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勉強ができなくても恥ずかしくない(2)
やっちまえ!の巻
橋本 治
目 次
はじめてクラスの友達と話をしたケンタくん
はじめて学校の友達の家へ遊びに行ったケンタくん
友達とは、一緒に勉強するよりも、一緒に遊びたいと思ったケンタくん
近所の子供達と遊ぶケンタくん
「すこしぐらい悪いことをしないと、元気な子にはなれない」と思ったケンタくん
ビー玉がうまくなったケンタくん
五年生になったケンタくん
六年生になって、クラスの友達と|模擬試験《もぎしけん》を受けに行くようになったケンタくん
友達のお母さんの「秘密」を知ってしまったケンタくん
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はじめてクラスの友達と話をしたケンタくん
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ケンタくんには、まだ学校で友達がひとりもできませんでした。体育の時間も苦手です。国語の時間に「この字を読める人」と言われた時以外は、教室で手を挙げることもできません。でもケンタくんは、そういうことをあまり気にしなくなっていました。学校が楽しいところだとは、まだ思えません。でも、「学校に行くのはいやだ」とは思わなくなっていました。
家にいる時にすることがいろいろあるように、学校でも、勉強や遊びのほかに、することはいろいろありました。給食当番や|掃除《そうじ》当番や、日直の仕事です。そういうことをいやがる子もいましたが、ケンタくんはいやがりませんでした。学校に来て、なにをしたらいいのかわからなくてじっとしているより、なにかすることがあるほうが、うれしいのです。だからケンタくんは、朝になって学校に行く時、「今日は、なにかすることがあったらいいな。なにかいいことがあったらいいな」と思うようになっていたのです。
クラスの元気な男の子達は、昼休みになると、待ちかねたように外へ飛び出して行きます。放課後になった時も同じです。男の子だけではありません。女の子だって同じです。みんな、なにかすることがあるのです。だから、雨が降って外へ出られない時には、教室の中が|大騒《おおさわ》ぎになります。もちろん、ケンタくんはそんな中へ入っていけません。でもケンタくんは、そんな自分を、もう「だめな子」だとは思わなくなっていました。
学校には友達がいなくても、家に帰れば、ケンタくんにも友達がいます。四年生になったケンタくんは、近所の子供達と|一緒《いつしよ》になって遊ぶようになっていたので、「自分はだれとも遊べないだめな子なのだ」と思う必要がなくなっていたのです。
学校ではまだうまくいきません。でも、掃除当番や給食当番は、だれにでも回ってきます。「今日は給食当番だ」とか「掃除当番だ」と思うと、ケンタくんは、それだけでうれしくなるのです。
ケンタくんのクラスでは、教室のほかに、校舎の裏の|花壇《かだん》の掃除も担当になっていました。男の子はたいてい、花壇の草むしりをいやがります。でもケンタくんは、教室の掃除よりも、花壇の掃除のほうが好きでした。やっぱり、天気のいい日は外にいるほうが気持ちがいいのです。
ケンタくんは、花も好きでした。ケンタくんの家にも庭はありましたが、それより、近所に住んでいた花好きのおじさんが、ケンタくんにいろいろと教えてくれていたので、ケンタくんは花壇の世話がすごく好きになっていたのです。
そのおじさんは、私立の学校に行ってしまったタカシくんの家の|隣《となり》に住んでいました。ケンタくんが「読みたい」と思う本をいっぱい持っていたお兄さんの、お父さんです。そのおじさんの家の庭には花がいっぱい植えてあって、おじさんは花をたいせつに育てていたのです。どの花もすごくきれいで、おじさんは、見とれているケンタくんに、小さな花の|苗《なえ》をくれて、花の育てかたを教えてくれたりもしました。
仕事がお休みの日のおじさんは、いつも庭の花壇の手入れをしています。どういうふうにすればきれいな花が|咲《さ》くのかも、ケンタくんに教えてくれます。おじさんときれいな花がだい好きなケンタくんは、そのおじさんの手伝いをしたいと思うのですが、おじさんは、広い花壇の中にケンタくんをぜったい入れてくれません。
おじさんがたいせつにしている花壇の土はふわふわで、うっかり入ると転びそうになります。そこにおじさんは、新しい花の種をまいたり、球根を植えたりしています。ケンタくんが転んだり、花の芽を|踏《ふ》んづけたりするとたいへんなことになるので、それで、「いけない」と言っていたのです。
でも、学校の花壇はちがいます。花壇の掃除当番になったケンタくんは、喜んで草むしりをしました。咲きかけの花のつぼみを見つけた時は、「この花、咲く!」と、みんなに聞こえるように言いました。花壇の掃除をした次の日の昼休みには、一人で花壇のようすを見に行って、花壇がきれいなままになっているかどうかを、確かめたりもしました。
ある日のことです。教室の掃除当番になったケンタくんは、同じクラスの谷川くんと一緒に、ゴミを捨てに行くことになりました。花壇の先には|焼却炉《しようきやくろ》があって、そこまで教室のゴミを捨てに行くのです。
大きな木のゴミ箱を持って、谷川くんと一緒に焼却炉まで運んで行ったケンタくんは、その帰り道、からになったゴミ箱を持って歩きながら、花壇のようすを見ていました。すると、谷川くんが、「ケンタくんも、マンガって見る?」と言ったのです。
その|頃《ころ》、ケンタくんのクラスの男の子達のあいだでは、マンガがブームになっていて、休み時間にはみんなで、「どのマンガがおもしろい」とか、「どのマンガがカッコいい」とかを話して、すごくもりあがっていたのです。
もちろん、ケンタくんもマンガがだい好きです。だから、みんなの話に入りたいと思うのです。でも、ケンタくんがいちばん好きなマンガは、みんなが好きなマンガとは、ちょっと|違《ちが》うみたいです。みんなが「カッコいい」と言うマンガのなかに、ケンタくんの好きなマンガの名前は出てこないのです。それで、ケンタくんは|黙《だま》っていました。みんなに、「そんなの好きなやついねーよ」と言われたらどうしようとか、そんなふうに思っていたのです。
だから、谷川くんに「ケンタくんは、マンガって見るの?」と言われた時も、「うん」としか言えませんでした。
谷川くんは、おとなしいけど勉強のできる子で、友達もいます。ケンタくんは、「谷川くんもマンガなんか見るのかな?」と思いました。
ケンタくんの学校では、マンガの本を持って来ることが禁止でした。それは、どの学校でも同じでした。それだけではなくて、「マンガはくだらないから、マンガばかり読んでいるとバカになる」とさえ言われました。だからケンタくんも、毎月お母さんからお金をもらって、マンガののっている少年雑誌を買っているくせに、お母さんのいる前で、それを見ることができませんでした。「また、そんなくだらないものばっかり見て!」と|怒《おこ》られるかもしれないと思ったのです。
それで、ケンタくんは思いきって、「谷川くんもマンガって見るの?」と、谷川くんに話しかけてみました。それはケンタくんにとって、学校の友達に自分から話しかけた、最初の体験でした。
谷川くんは「うん」と言って、ケンタくんが買っているのと同じ少年雑誌を、自分も毎月買って見ているんだと、言いました。
「ぼくもそれ買ってる」と、ケンタくんは思わず言いました。
谷川くんは、「ほんと?」と言ってから目を|輝《かがや》かせて、「なんのマンガが好き?」と、ケンタくんに聞きました。
ケンタくんはちょっと迷いましたが、思いきって自分の好きなマンガの名前を言ってしまいました。すると谷川くんは、「ぼくも!」と言うのです。
一緒にゴミ箱を運んでいた二人の足が、そこで止まってしまいました。
「あれって、すごくカッコいいよねッ!」と、谷川くんは言います。
「すっごくおもしろいよねッ!」と、ケンタくんも言います。
二人は、そんなにおもしろいマンガを、クラスの男の子達がちっとも話題にしないでいることが、すごく不満でした。ケンタくんだけではなくて、おとなしい谷川くんも同じように不満で、それで、ケンタくんと|意気投合《いきとうごう》してしまったのです。
いつのまにか二人は、重いゴミ箱を地面の上において、自分達の好きなマンガがどんなにおもしろいかを、夢中になって話しはじめていました。
谷川くんは、「先月号はこんなにすごかった」と言います。「うん、うん」とうなずいて、ケンタくんは、「今月号の見た?」と言いました。
谷川くんは、「見た! 見た!」と言って、二人は、「あそこがすごかった」「ここがすごかった」と興奮して、好きなマンガの話を続けました。
花壇の前は土の道です。そんなところにゴミ箱をおいたら、|泥《どろ》がついて先生に注意をされます。いつもの二人なら、そういうことを気にしたでしょう。でも、その日の二人は、そんなことをまったく気にしませんでした。
いつもはまじめでおとなしい谷川くんが、その日は別人みたいです。「すごいよねェ! すごいよねェ!」と言って、今にもとび上がりそうにして話しています。ケンタくんも同じです。小学校に入ってからその時まで、こんなに興奮したことはありません。「すごいよねェ! すごいよねェ!」と言いながら、ケンタくんは、まるで自分がカッコいいマンガの主人公になったみたいな気がしてしまいました。
ケンタくんは、「マンガが好きでもいいんだ」と思いました。「みんなはわかんないかもしれないけど、自分の好きなマンガは、すごくカッコよくて、いちばんおもしろいんだ」と思いました。谷川くんと話をしたケンタくんは、そのことがうれしくて、いつもみたいにめんどくさいことを考えず、自分に|素直《すなお》な自信を持ってしまったのです。
掃除当番が終わって校門を出る時、ケンタくんは谷川くんに、大きな声で「さよなら!」と言いました。そんなに元気よく友達にあいさつをしたのは、小学校に入ってからはじめてです。谷川くんも、ケンタくんに「さよなら!」と言って、元気よく帰って行きました。
でも、それでケンタくんと谷川くんが、仲のいい友達になったというわけではありません。もちろん、「ケンカをした」というわけでもありません。ケンタくんの家は、谷川くんの家とは、帰る方向が反対なのです。
谷川くんの家がどこにあるのか、ケンタくんは知りません。でも、谷川くんの家の近くには、同じクラスの友達が何人か住んでいるらしくて、学校から帰る谷川くんは、だいたいその友達と一緒です。「ぼくの家が谷川くんの家の近くだったら、谷川くんといつも一緒に帰れるし、一緒に遊ぶこともできるのになァ」と、ケンタくんは思いました。
でも、そんなことを考えてもどうにもなりません。谷川くんと別れたケンタくんは、「ぼくだって学校の友達と、話そうと思えば話せるんだから、元気を出して学校に行こう」と、思ったのです。
そうしてケンタくんは、少しずつ変わっていったのです。
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はじめて学校の友達の家へ遊びに行ったケンタくん
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三学期になって、ケンタくんは図書委員になりました。二学期の選挙では一票しかなかったのに、三学期になったら、五人のクラスメートが、ケンタくんに投票してくれたのです。五票でも、当選でした。
ケンタくんは、自分のことを知ってくれている子が、クラスに五人もいるなんて、信じられませんでした。とくべつに仲のいい子が一人もいないのに、どうしてそんなことになるのかが、よくわかりませんでした。でも、ケンタくんは、学級文庫の管理をする図書委員になったのです。
「ぼくにそんなことができるのかな?」と、ケンタくんは少し不安になりました。でも、選ばれた以上、ちゃんとやらなければいけません。ドキドキしながらも、ケンタくんは、「がんばろう」と決心をしたのです。
もうケンタくんは、クラスの友達と話ができていました。そして、図書委員になってしまったのですから、学級文庫を利用する友達とは、だれとでも話をしなければなりません。慣れていないので、時々は小さな声にもなりますが、ケンタくんはちゃんと、クラスの友達と話をします。前みたいに、だれとも口がきけないような子ではなくなったのです。帰り道も、|途中《とちゆう》まで一緒の子に、「一緒に帰ろう」と言ったり、言われたりするようになりました。友達に「一緒に帰ろう」と言って、「うん」と言われると、すごくうれしくなるのです。
|吉原《よしはら》くんは、そんな友達の一人でした。吉原くんの家がどこにあるのかも、やっぱりケンタくんは知りませんでした。校門を出てしばらく行ったところに|文房具屋《ぶんぼうぐや》さんがあって、その先は十字路になっています。そこまで行って、ケンタくんと吉原くんは、「さよなら」と言って別れるのです。
どうして吉原くんと仲よくなれたのかは、ケンタくんにもよくわかりません。ある日、校門を出て歩いていると、横に吉原くんがいて、「一緒に帰ろう」と言うので、一緒に帰るようになったのです。吉原くんは、ケンタくんや谷川くんとは違って、みんなと一緒に元気よく遊ぶ、ふつうの男の子でした。
その日も、ケンタくんと吉原くんは、帰り道が一緒でした。文房具屋さんの前まで来て、「もうすぐさよなら≠言うんだな」と思って少しさびしくなった時に、吉原くんが言いました。
「ぼくの家に遊びに来ない?」
ケンタくんはびっくりしました。そんなことははじめてです。学校の友達の家に遊びに行ったことなど、ケンタくんは一度もありません。「ぼくなんかが、吉原くんの家に遊びに行ってもいいのかな?」と思いました。
ケンタくんがだまっているので、吉原くんは、「いや?」と言いました。
ケンタくんは、自分のことしか考えていなかったのでわからなかったのですが、吉原くんだって、「友達が家に遊びに来てくれたらいいなァ」と考えている子だったのです。
もちろん、ケンタくんはいやじゃありません。「行ってもいいの?」と、吉原くんに言いました。
少し|緊張《きんちよう》していたみたいだった吉原くんの顔が、パッと明るくなって、「うん、おいでよ」と言いました。それでケンタくんは、今まで通ったことのない道を通って、吉原くんの家へ遊びに行ったのです。
吉原くんの家は、静かな住宅街の中にありました。ケンタくんが住んでいる家の近くとは、ようすがぜんぜん違います。ケンタくんの家は、お店をやっています。近くには、小さな|町工場《まちこうば》がいくつもあります。ケンタくんの家だって、アイスクリームが売れなくなる冬には、家族みんなでお|菓子《かし》を作る小さな工場になります。でも、吉原くんの家やその近くは、ぜんぜんようすが違うのです。
石の|塀《へい》に囲まれた門を入ると、|玄関《げんかん》があります。玄関を入った吉原くんが「ただいま」と言うと、お母さんが出てきて、ケンタくんにもスリッパを出してくれました。
友達の家に行って、スリッパを|履《は》くなんて、はじめてです。自分の家でも、スリッパなんか履いたことがありません。それよりも、「玄関から中へ入る」なんていうことを、特別なことでもないかぎり、ケンタくんはしたことがなかったのです。
マンションとか団地とか、そういうものがケンタくんの住んでいる町にはありませんでした。まだ、コンクリートの建物が、ふつうの町にはない時代です。みんな、庭のある木造の家に住んでいました。
「庭がある」といっても、そんなにすごい家ではありません。小さな家です。ドアチャイムとかインターホンもありません。門の外から、「こんにちは!」と声をかけるだけです。門から入っても玄関へは行かず、庭のほうへ行って、|縁側《えんがわ》から家の中に向かって、「ユキオちゃん、遊ぼう!」とか、声をかけるのです。玄関のない家だってありました。ケンタくんの家がそうでした。家の一部を改造してお菓子を作る作業場にしてしまったケンタくんの家からは、吉原くんの家のような玄関がなくなっていたのです。
吉原くんの家には、吉原くんのための勉強部屋もありました。ケンタくんには、自分の勉強部屋なんてありません。「自分の部屋」なんていうのは、中学生とか高校生とか、もっと大きくなってからのものだとばかり思っていたのに、吉原くんには「自分の部屋」があるのです。おまけに、吉原くんの部屋には、吉原くん専用のコタツだってあるのです。
吉原くんに「入りなよ」と言われて、ケンタくんはコタツの中に入りました。部屋の中にはいろいろなものがあって、それを吉原くんはケンタくんに見せてくれました。お父さんに買ってもらった|地球儀《ちきゆうぎ》とか、本とか、鉄道の模型とかです。ケンタくんは、「いいなァ」と思うより、「自分とはぜんぜん違う世界に住んでいる子もいるんだな」と、そう思いました。
しばらくすると、吉原くんのお母さんが、紅茶とカステラを持ってきてくれました。まるで、ちゃんとした「お客さん」みたいです。そんなふうにしてもらったのも、はじめてです。ケンタくんは、「もしも、ぼくの家にだれか友達が来ても、うちのお母さんはこういうふうにしてくれるのかな?」と思いました。
ケンタくんの家はお菓子屋でも、カステラは売っていません。カステラは、デパートに行って買うような、特別なお菓子だったのです。「きっとだめだ……」と思って、ケンタくんは絶望的になりました。自分の家と吉原くんの家とでは、ぜんぜん違うのです。
カステラを持ってきてくれたお母さんに向かって、吉原くんは言いました。
「お母さん、ケンタくんはね、すごく漢字がよく読めるんだよ」
ケンタくんは、自分がまさかそんなふうに|紹介《しようかい》されるとは、思っていませんでした。
ケンタくんが赤くなっていると、吉原くんのお母さんは、「まァ、そうなの」と言って、「これからも仲よくしてくださいね」と、ケンタくんに言いました。
吉原くんのお母さんは、すごくやさしいお母さんです。「漢字が読めたって、書けなかったらしようがないだろう!」なんてことは、ぜったいに言いそうもありませんでした。「これからも仲よくしてくださいね」と言われるケンタくんは、まるで「勉強のできる子」みたいです。
ケンタくんは、すごく緊張してしまいました。吉原くんの家は、映画やテレビのホームドラマに出てくる家みたいなのです。ケンタくんはボーッとして、なにがなんだかわからなくなってしまいました。
もう冬ですから、すぐにあたりは暗くなります。吉原くんの部屋でコタツに入ったケンタくんがぼんやりしていると、また吉原くんのお母さんが来て、「電気をつけなさい」と言いました。
ケンタくんは、「じゃ、帰らなくちゃいけない」と思いました。「晩ごはんの時間になるまで、よその家にいてはいけない」と言われていたことを、思い出したからです。
明るくなった部屋の中で、ケンタくんは、「もう帰るね」と言いました。
吉原くんは、「もう帰るの?」と言って、「じゃ、外まで送ってく」と言いました。吉原くんのお母さんも、玄関まで来て、家の外の明かりをつけてくれました。
それだって、ケンタくんのお母さんとはちがいます。夕方になっても、まだうす暗いうちに電気をつけようとすると、ケンタくんのお母さんは、「まだ明るい!」と怒るのです。
外の電気をつけてくれた吉原くんのお母さんは、ケンタくんに「またいらっしゃいね」と言ってくれました。ケンタくんは「はい」と言って、吉原くんと一緒に外へ出ました。生まれてはじめて「学校の友達の家へ行く」という経験をしたケンタくんは、少し緊張をしていたので、外に出るとほっとしました。
暗くなりかかった外は寒くて、遠くからは、晩ごはん用のおとうふを売ってまわっているとうふ屋さんの鳴らすラッパの音が、「プーッ」と聞こえてきます。とうふ屋さんの鳴らすラッパの音が聞こえたら、近所で遊んでいても、家に帰らなければいけません。遠くの吉原くんの家からだと、走って帰らなければなりません。ケンタくんには、「どこ行ってたんだよ!」と言うお母さんの声だって、聞こえてきそうな気がしました。
ケンタくんは、吉原くんに「さよなら」と言って、走り出しました。遅くなると、怒られるかもしれません。でも、ケンタくんは気にしませんでした。
吉原くんは、「またね」と言って手を|振《ふ》ります。ケンタくんもふりかえって、走りながら手を振りました。なんだかその日、ケンタくんは、生まれてはじめての|大冒険《だいぼうけん》をしたみたいな気分になっていたのです。
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友達とは、一緒に勉強するよりも、一緒に遊びたいと思ったケンタくん
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「ただいま」と言って帰って来たケンタくんに、台所で晩ごはんのしたくをしていたお母さんは、あんのじょう、「どこ行ってたんだよ!」と言いました。ケンタくんの家には、お父さんの仕事を手伝う若い男の人が二人も一緒に|住《す》み|込《こ》むようになっていて、家族がふえてしまったお母さんは、前よりも|忙《いそが》しくなっていたのです。
生まれてはじめて学校の友達の家に行ったケンタくんは、「学校の、吉原くんの家に行った」と言いました。そう言って、お母さんのそばでもじもじしていました。生まれてはじめての「大冒険」をしたケンタくんは、お母さんに、「よかったねェ」とか、そんなふうに言ってもらいたかったのです。
でもお母さんは、ケンタくんがもう「ふつうの男の子」になったと思っているのです。なにしろケンタくんは、近所の子供達とふつうに遊んでいるのです。ケンタくんにとって、吉原くんの家へ行ったのは「すごい大冒険」かもしれませんが、お母さんにとっては、べつにめずらしいことではありませんでした。
もじもじしているケンタくんに向かって、晩ごはんのしたくに忙しいお母さんは、「吉原くんて、どんな子なの?」とも聞かずに、「ちゃんとあいさつしたのかい」と言いました。
お母さんの言うことは、いつも同じです。「ちゃんとあいさつしたのかい」とか、そんなことしか言いません。そういうことに聞きあきているケンタくんは、「したよ」と言って、ランドセルを、部屋の外の|廊下《ろうか》のすみへおきに行きました。
ケンタくんには、「自分の部屋」どころか、「自分の机」もありません。勉強をする時には、おじいさんが|帳簿《ちようぼ》をつけるのに使う、低い日本式のすわり机を使います。|椅子《いす》ではなくて、机の前に正座をして、ドリルとかをやらされるのです。でもケンタくんは、「自分の机がほしい」とか、「自分の部屋がほしい」なんて、ぜんぜん思いませんでした。どうしてかというと、べつに「勉強したい」なんてことを、ケンタくんが考えなかったからです。
ケンタくんの家は、|貧乏《びんぼう》ではありません。家だって、吉原くんの家より広いのです。ただ、お父さんやお母さんの考えかたがちがっていて、ケンタくんに「専用の部屋」や「専用の机」を|与《あた》えるという、発想がなかったのです。ケンタくんも、自分の家がきらいではないので、そういうものを「ほしい」とは思わなかったのです。
でも、吉原くんの家は、ケンタくんの家とは、ぜんぜんようすがちがいます。「家は商売をしているし、作業場でお菓子も作っているし」と思うケンタくんは、「ちがっていてもふしぎはない」と思いますが、でも、なにかがうらやましいのです。
それは、「お母さんのこと」です。なにがちがうのかといって、ケンタくんの家と吉原くんの家とでは、お母さんのようすがぜんぜんちがうのです。「吉原くんはぜったいに、お母さんから怒られないんだろうな」と、ケンタくんは思いました。
自分の家だけではなくて、ケンタくんの家の近くでは、どの家のお母さんもすぐ「|鬼《おに》ババア」になります。どの男の子も、みんなお母さんにどなられて、ビクビクしています。近所の子と遊んでそういうことがよくわかったケンタくんは、「自分の住んでいるところと、吉原くんが住んでいるみたいな住宅街とでは、お母さんのようすがぜんぜんちがうんだな」と思いました。「だから、よその子は学校へ行っても勉強ができて、みんなと仲よくできるんだ」と、そんなふうにも思いました。でも、そんなふうに思うケンタくんは、よその家やよその家のお母さんのことを、まだぜんぜん知らなかったのです。
次の週になって、ケンタくんはまた吉原くんの家に行きました。算数の宿題が出て、吉原くんが「一緒にやろうよ」と言ったからです。
もちろんケンタくんは、「うん」と言いました。クラスでは、みんながよく「一緒に勉強しよう」とか言っています。「家が近いと、一緒に勉強だってできるんだなァ」と思って、ケンタくんは、それがずーっとうらやましかったのです。
ところが、吉原くんの家に行って、吉原くんの部屋のコタツでノートや教科書を広げて勉強をはじめると、すぐにケンタくんはあきてしまいました。ノートを広げて|鉛筆《えんぴつ》を持つまでは、「自分はすごいことをするんだ」と思ってドキドキしていたのですが、吉原くんが計算問題をときはじめて、それを見ているうちに、めんどうくさくなってしまったのです。
「どうして二人で一緒にいるのに、吉原くんは遊ぼう≠チて言わなくて、ひとりで勉強をしているんだろう?」と、ふしぎになったのです。
じつはケンタくんにも、「家で友達と一緒に勉強をする」という経験が、いちどだけありました。同じクラスの子とではなくて、裏の家に住んでいる、一学年上のユキオくんとです。夏休みに、ユキオくんの家に宿題の練習帳を持って行って、一緒に勉強をしようとしたのです。
ケンタくんは、四年生の練習帳です。ユキオくんは五年生の練習帳を出して、二人は勉強をはじめました。でも、すぐにユキオくんがふざけだして、勉強をしなくなりました。ケンタくんは、ちょっとだけ「いいのかなァ……」と思いましたが、でも、勉強より二人でふざけているほうがずっと楽しいので、すぐに勉強をやめてしまいました。「友達と一緒に勉強をした」という経験が、ケンタくんにはそれしかなかったのです。
「ユキオちゃんは近所の子で、学年もちがうから、それで一緒に勉強はできないんだ」と、ケンタくんは思っていました。でも、吉原くんの家で一緒に勉強をはじめたら、「一緒にいるのに、なんで遊ばないで、だまって勉強をしていなくちゃなんないんだろう?」と思ってしまいました。
勉強なら、ひとりでできます。そして、あんまりおもしろくありません。友達と一緒にいると楽しくなって、すぐに「なんかして遊ぼう」ということになってしまいます。ケンタくんは経験上、そういうものだと思っていたのです。
時間表を見ても、明日は算数の時間がありません。だったら、算数の宿題を今日やらなくてもいいのです――ケンタくんには、そうだとしか思えませんでした。でも、吉原くんはだまって、算数の宿題をやっています。
あきてしまったケンタくんは、部屋の中を見まわしました。部屋のすみには、マンガののっている少年雑誌がありました。それは、ケンタくんが毎月買っているのとは、ちがう少年雑誌です。じつは、一週間前に来た時にも、そこにその雑誌はあったのです。
吉原くんとは、マンガの話をしたことがありません。そこにマンガの雑誌があるのに、吉原くんがマンガの話をしないのは、「吉原くんがマンガを好きじゃないからかな?」と、ケンタくんは思いました。でも、そんなこととは関係がなくて、勉強にあきたケンタくんは、吉原くんがとっている雑誌にのっているマンガが、見たくて見たくてたまらなくなっていたのです。
ケンタくんは、のそのそとコタツから出て、少年雑誌のおいてあるほうへ行きました。そして吉原くんに、「見ていい?」と聞きました。
吉原くんは、「うん」と言いました。でも、宿題をやめようとはしませんでした。自分がマンガを見はじめたら、吉原くんもそばによって来て、「一緒に見よう」と言うかもしれないと思っていたケンタくんは、あてがはずれてしまいました。
その雑誌は、新しい号です。まだ見ていないマンガがいっぱいのっています。ケンタくんは、見たくて見たくてたまりません。でも、吉原くんはマンガには関心がなくて、宿題をやっているのです。おいてある少年雑誌の表紙をめくって中を見たケンタくんも、「勉強がきらいな子だ」と思われたくなくて、ただページをめくるだけで、「どんなマンガがのっているのか知りたいだけ」というようなふりをしました。
ほんとを言えば、夢中になってマンガを読みたいのです。読みたくて読みたくて、たまらないのです。でもケンタくんは、パラパラとページをめくって、あんまりマンガに関心がないふりをしました。ぜんぜんおもしろくありません。すると、吉原くんが「できた!」と言いました。吉原くんは、さっさと算数の宿題をやってしまったのです。
「もう終わっちゃったの?」とケンタくんが言うと、吉原くんは、「うん」と言いました。そして、やり終わった宿題の答を、点検しています。いつもお母さんに、「やり終わったら、ちゃんと答の点検をしろ!」と言われているケンタくんには、まねのできないことです。ケンタくんは、「吉原くんは、ちゃんとした勉強のできる子なんだ」と思いました。
吉原くんは、べつにマンガを見たくないようです。答の点検が終わった吉原くんは、「できた」と言って、うれしそうにケンタくんのほうを見ています。それでケンタくんも、しかたなしにマンガをおいて、自分のノートが広げてあるコタツのところへもどらなければなりませんでした。なにしろケンタくんは、「一緒に宿題をしよう」と言われて、吉原くんの家に来たのですから。
ケンタくんの宿題は、ほとんどできていません。「これを、自分ひとりで、今ここでやるのかなァ」と思ったら、ケンタくんは死にそうなくらいめんどくさくなりました。問題を見ても、なんだかよくわかりません。少しだけやったケンタくんは、「もういいや、あとは家に帰って、明日やろう」と思って、吉原くんに、「もう帰る」と言いました。
「もう帰るの?」と言う吉原くんに、「うん、もう暗くなるから」と言って、ケンタくんは、「自分はあんまり勉強ができないから、学校の友達とは一緒に勉強ができないのかもしれないな」と思ってしまいました。
ケンタくんが、「勉強のできない子」かどうかはわかりません。ケンタくんは、自分で「勉強ができないんだ」と決めてしまいましたが、ケンタくんは、「勉強があまり好きではない子」でしかなかったのです。
それからもケンタくんは、学校の帰りに吉原くんの家へ行きました。「こんどこそはだいじょうぶだ」と思って、一緒に勉強をしようとしましたが、やっぱりだめでした。すぐに、あきてしまうのです。
そんなケンタくんのようすがわかった吉原くんは、「一緒に勉強しよう」とは言わなくなって、「一緒に自転車乗らない?」とか、「キャッチボールしない?」とか言うようになりました。ケンタくんは「うん」と言いましたが、そのうちやっぱり、「なんかへんだな」と思うようになってしまいました。
近所の子と遊ぶ時、ケンタくんは、だれかと二人きりでは遊びません。ケンタくんだけではなくて、近所の子はみんなそうです。どうしてかというと、二人だけだと、遊んでいてもおもしろくないからです。
家の中でトランプやゲームをしても、二人きりだとおもしろくありません。外で遊ぶ時は、なおさらそうです。
かくれんぼや鬼ごっこや、|缶《かん》けりを二人でやってもしかたがありません。ビー玉やメンコをやる時でも同じです。三|塁《るい》がなくて、一塁と二塁だけで、ボールをゴロで投げる「三角ベース」の野球だって、二人ではできません。だから、近所で遊ぶ時にはだれだって、「もっと仲間がいないかなァ」と思って、一緒に遊ぶメンバーの子をさがすのです。二人以外のほかのメンバーが見つからない時は、小さな弟や妹でも、むりに仲間に入れてしまいます。小さな子は、遊びのルールがめんどくさいとすぐ|逃《に》げてしまいますが、それでも、二人だけでいるよりもずっといいのです。
でも、吉原くんは、そんなふうに考えていないみたいです。吉原くんの家のまわりには家がいっぱい建っていて、子供だって住んでいるはずなのですが、吉原くんは、近所の家の子のところに、「遊ぼう」と言いには行かないのです。
近所の子と二人きりになった時、ケンタくん達が言うことは決まっています。「つまんないねェ、だれかいないかなァ」と言って、ほかの子供達をさがしに行きます。でも、吉原くんはそんなことを言わないのです。だからケンタくんは、「つまんないなァ」と、こっそり思うようになってしまったのです。
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近所の子供達と遊ぶケンタくん
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もう、四年生の三学期も終わりに近づいていました。夕方になってもそんなに暗くならないので、学校の帰りに吉原くんの家へ行った時でも、ケンタくんはすぐに家に帰って来て、それからもういちど近所の子供達と遊ぶようになっていました。
まだ、自動車がいっぱい通る時代ではないので、ケンタくんの家の横の道が、近所の子供達の遊ぶ場所になっていて、みんなはそこを「|横町《よこちよう》」と言っていました。
家に帰ったケンタくんが横町へ行ってみると、男の子がおおぜい集まって、ビー玉をしています。ケンタくんは、あわてて家にもどって自分のビー玉を取ってくると、「入れて!」と言って、男の子達の中に入っていきました。ケンタくんは、ビー玉がだい好きだったのです。
みんなが、自分の持っている大きなビー玉を一コずつ出して、それをだれかが集めて、地面の上に落とします。地面に落ちたビー玉は、それぞれいろんな方向へころがって行って止まります。その止まったところが、ビー玉の持ちぬしの「場所」です。ビー玉の止まったところに立って、ビー玉を、|離《はな》れたところにあるほかの子のビー玉にぶつけるのです。
当てたら、勝ちです。当てられたら負けで、大きなビー玉のかわりに小さなビー玉を一コ、勝った子にわたして、ゲームから退場します。もしも、負けた子が小さなビー玉を一コも持っていなかったら、かわりに大きなビー玉を取られてしまいます。とても、シビアなルールなのです。
当てられずに、最後までのこった子が優勝ですが、優勝できなくても、ほかの子のビー玉にいくつも当てることができたら、その子は、小さなビー玉をふやすことができます。だから、ビー玉はおおぜいでやったほうが、ぜったいに楽しいのです。
四年生になる前のケンタくんは、ビー玉がとくいじゃありませんでした。それどころか、みんながやっているビー玉のルールが、ぜんぜんわかりませんでした。ビー玉のやりかたがわからなくて、ビー玉のできない子に、だれもビー玉のやりかたを教えてはくれません。それでケンタくんは、長いあいだ、みんながビー玉をやっているのを、だまってひとりで見ていました。見ているうちにやりたくなって、家の|叔母《おば》さんにたのんで、ビー玉を買うお金をもらったのです。
大きなビー玉は一コ十円で、小さなビー玉は、五コ十円です。まだ三年生だったケンタくんは、叔母さんに、「二十円ちょうだい」と言いました。「お母さんに言ってもだめだろうな」と思ったのです。
叔母さんはやさしくて、「なににするの?」と言いました。ケンタくんが、「ビー玉がやりたい」と言うと、なんと、五十円もくれました。「こんなにいらない」と思ったケンタくんは、そう言ったのですが、叔母さんは、「いいからあげる」と言いました。
ビー玉を五十円も買ったら、両手で持ちきれないくらいになります。ケンタくんは、そんなぜいたくをするのがおそろしくなって、大きなビー玉を一コと、小さなビー玉を十コ買いました。そして、ビー玉をやっている子のところへ行って「入れて」と言って、すぐにぜんぶ負けてしまったのです。
小さなビー玉をぜんぶ取られたケンタくんに残っているのは、大きなビー玉一コだけです。それではビー玉ができません。こまったケンタくんは、叔母さんからもらってあまっていた二十円を持って、またビー玉を買いに行きました。そして、それもまた、すぐに負けてしまったのです。
次の日ケンタくんは、また叔母さんに、「お金ちょうだい」と言いました。叔母さんは事情がわかったらしくて、「昨日あげたの、もうぜんぶ負けちゃったの?」と言いました。ケンタくんはコクンとうなずいて、自分のなさけなさを自覚しました。もう叔母さんは、五十円をくれません。「だらしないなァ」と言って、二十円をくれました。叔母さんは大人なのに、ケンタくんよりビー玉が上手だったのです。
二十円をもらって、小さなビー玉を十コ買って、でもケンタくんは、それもまた負けて、二日でぜんぶなくしてしまいました。裏のユキオくんに小さなビー玉を三コ借りて、それもまた、すぐに負けてしまいました。「これじゃだめだ」と思ったケンタくんは、小さなビー玉なしで勝負に出て、ついには大きなビー玉さえも取られてしまったのです。
だらしないケンタくんは、また、みんながビー玉をやっているのを、だまって見ていることになったのです。
ビー玉は、おもちゃ屋さんでも売っています。でも、おもちゃ屋さんのビー玉は、きれいで、ちょっと高くて、横町の子供達はあまり使いません。横町の子供達が勝負に使うビー玉は、|駄菓子屋《だがしや》さんで売っているビー玉です。だから、ケンタくんは困るのです。
お菓子屋の子のケンタくんは、駄菓子屋に行く必要がありません。自分の家に、いくらでもお菓子があるからです。だったらいいじゃないか、と思うかもしれませんが、そのかわりにケンタくんは、おこづかいをもらえないのです。家がお菓子屋じゃない近所の子供達は、毎日五円とか十円とか二十円をもらって、お菓子を買いに行くのです。だから、駄菓子屋へも行けます。駄菓子屋には、メンコとかビー玉とかのオモチャも売っていて、クジだって引けます。でも、ただのお菓子屋のケンタくんの家には、そういうものがないのです。
おとなしくて、あまり近所の子とは遊べなかった頃には、ケンタくんもそんなことに気がつきませんでした。でも、横町の子と遊ぶようになってからは、毎日お金をもらえる横町の子供達が、とてもうらやましくなったのです。
横町には、|紙芝居《かみしばい》も来ます。ケンタくんは、紙芝居もだい好きです。すごく興奮してしまいます。でも、紙芝居を見るためには、紙芝居屋のおじさんから、お菓子を買わなければなりません。お菓子を買わない子は、「ただ見」といって、ずっと離れたところに行って、黙って見ているしかないのです。
紙芝居のおじさんは、やって来ると、|拍子木《ひようしぎ》を「コーン、コーン」といい音で鳴らします。その音を聞いて、子供達もやって来ます。ケンタくんだって、|猛《もう》ダッシュです。でも、紙芝居のおじさんのそばには近づけません。おじさんのそばには、お菓子を買う子供達が集まっていて、お金を持っていないケンタくんは、それを離れたところから、黙って見ているだけなのです。
おじさんが売っているのは、水あめとかソースせんべいとか梅ジャムとか、ケンタくんの家では売っていないものばかりです。ケンタくんは、「どんな味がするんだろう?」と思いました。ソースせんべいを食べている子に「おいしい?」と聞くと、「うん」と答えます。短く切った二本のワリバシの先に水あめをつけてもらったのを、くちゅくちゅと練って、白くおいしそうな水あめにしている子もいます。|透明《とうめい》の水あめが、くちゅくちゅ練られると、ワリバシの先で白くやわらかくなっていくのです。ケンタくんは、やりたくてたまりません。
ケンタくんのまわりの子は、みんななにかのお菓子を買って、持っているのです。一年上のユキオくんだって、梅ジャムをなめたり、ソースせんべいを食べたりしています。みんながお菓子を持って、おじさんのまわりに集まっていて、ケンタくんだって、そこにいるのです。でも、いざ紙芝居をはじめようとすると、おじさんは、「はい、ただ見は下がって」と、かならず言うのです。その日、たまたまお母さんが家にいなくてお金をもらえなかった子と一緒になって、ケンタくんも、みんなのいる紙芝居の前から離れるのです。ケンタくんは、悲しくてつらくてさびしくて、とてもたまりませんでした。
家に帰って、お店番をしているおばあさんに、「おばあちゃん、これちょうだい」と言えば、やさしいおばあさんは、ケンタくんにおせんべいでもキャラメルでもビスケットでも、なんでもくれます。だから、ケンタくんはつらいのです。「うちにあるのに、なんでよそのお菓子がほしいんだい?」と、おばあさんに言われたらどうなるでしょう? 「おばあちゃんの売ってるのなんかいらない」なんて言ってるみたいになってしまいます。ケンタくんは、とてもそんなことが言えませんでした。
だから、紙芝居は「ただ見」です。ビー玉だって買えません。横町に遊びに行っても、ただ見ているだけでした。そんなケンタくんをかわいそうに思って、ビー玉を「貸してやる」と言ってくれる、大きなお兄さんもいました。大きなビー玉を一コと、小さなビー玉を二コ貸してくれます。でも、ビー玉がへたなケンタくんは、せっかく貸してもらった小さなビー玉をすぐ取られて、大きなビー玉をお兄さんに返さなければならなくなるのです。
ケンタくんは、「ビー玉がうまくなりたい」と思いました。紙芝居だって、そばで見たいと思いました。水あめだってこねてみたいし、ソースせんべいだって食べてみたいのです。どうしたらいいのでしょう?
方法は、一つしかありませんでした。
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「すこしぐらい悪いことをしないと、元気な子にはなれない」と思ったケンタくん
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四年生になったある日、紙芝居のおじさんの拍子木の音が聞こえました。ケンタくんは外に出ようとして、台所のほうに行きました。玄関のないケンタくんの家は、そこから出入りをします。
台所には、だれもいませんでした。そして、台所の|棚《たな》のところには、お母さんの|財布《さいふ》がおいてありました。ケンタくんは、それを手に取って開けてしまいました。「今日もまた、ただ見なんだ」と思って、その仲間はずれがいやだったからです。
財布の中には、五円玉や十円玉や、百円玉がいくつも入っていました。いくら入っているかわかりません。それでケンタくんは、「一つくらいなくなってもわからないだろう」と思って、五円玉を一つ|盗《ぬす》んでしまいました。それ以外に、ケンタくんには「紙芝居を見る方法」がわからなかったのです。
盗んだ五円玉で、ケンタくんは生まれてはじめて、ソースせんべいを買いました。ドキドキしました。みんなと一緒になって、おじさんの目の前に立って紙芝居を見ました。生まれてはじめて食べたソースせんべいはすごくおいしくて、ケンタくんは幸福でした。
紙芝居が終わったあとも近所の子と遊んでいて、それからケンタくんは、家へ帰りました。もちろん、ケンタくんは、お母さんの財布からお金を盗んだなんてことを、だれにも言いませんでした。そして、ケンタくんが五円玉を盗んだことに、お母さんは気がつかなかったのです。
それからもケンタくんは、お母さんの財布からお金を盗みました。もちろん、ケンタくんは、自分のしていることが「悪いこと」だと知っていました。だから、お母さんの財布を開けて、そこに「百円玉が一コと五円玉が一コ」というような時には、お金を取りませんでした。そんなことをしたら、お金がなくなっているのが、すぐにバレてしまうと思いました。五円玉や十円玉よりも百円玉がいっぱいある時でも、百円玉は盗めませんでした。そんな「大金」を盗むだけの|度胸《どきよう》がなかったのです。
百円は、「大金」でした。「十円や二十円ならだいじょうぶだけど、百円なんか取ったら、ぜったいに怒られる」と思いました。「そこまで悪い子にはなれない」と思いました。ケンタくんはただ、紙芝居でただ見がしたくなかったのです。それと、ビー玉を買うお金がほしかったのです。
お金を盗んで紙芝居を見るのは、三回でやめました。「紙芝居のおじさんの売っているお菓子を、ぜんぶ買って食べたい」とは思いませんでした。横町の子だって、そんなぜいたくはしていません。横町の子は、紙芝居のおじさんの売っているお菓子を買って食べたら、それでおやつはおしまいですが、ケンタくんは、食べようと思えば、家に帰って、いくらでもお菓子が食べられるのです。「おじさんのお菓子も買って、家のお菓子も食べるなんて、そんなぜいたくなことをしてはいけない」と、ケンタくんは思いました。
ソースせんべいを食べて、それから、ソースのかわりにソースせんべいに梅ジャムをつけたのを買って食べて、そのあとで水あめを買ってくちゅくちゅとこねて、それでケンタくんは、紙芝居にお金を使わなくなりました。ほんとはもっと、紙芝居にお金を使いたかったのですが、がまんして、また「ただ見」をするようになりました。「自分は、ほかの子がするみたいないろんなことができないんだ」と思いつづけて、みんながすることをぼんやり見ているだけだったケンタくんは、そうしているあいだに、「がまんをする」ということになれてしまっていたのです。
紙芝居のおじさんの売っているお菓子がどういうものかわかったケンタくんは、「ただ見」でも、がまんができるようになりました。でも、ビー玉だけはべつです。こっそりお母さんのお金を盗んでビー玉を買っても、すぐに負けて取られてしまうからです。いくらビー玉を買ってもすぐに取られてしまうので、がまんのしようがないのです。すぐに負けてビー玉を取られてしまうケンタくんは、お母さんの財布からお金を盗むのを、やめられなくなっていました。しかもケンタくんは、いつのまにか、それを「悪いことだ」とも思わなくなっていたのです。
その頃のケンタくんは、まだ「|矛盾《むじゆん》」という言葉を知りませんでした。でも、その言葉を知っていたら、きっと、「お母さんの言うことは矛盾している」と思ったでしょう。
お母さんは、「男の子らしく元気になれ」と言います。「外へ行って友達と遊べ」と言います。それから、「勉強をしろ」とも言います。でも、吉原くんの家に行くまで、ケンタくんに友達は、横町の子しかいませんでした。横町の男の子は、勉強なんかしません。だから、裏のユキオくんと一緒に勉強をしていても、すぐにあきてしまったのです。
勉強なんかしない横町の子は、元気です。元気で乱暴で、平気で悪いことをします。クラスの男の子だっておんなじです。元気な男の子はすぐに乱暴なことをして、先生に注意されています。ケンタくんの知るかぎり、「元気な男の子」は、「勉強のできるいい子」ではないのです。
横町の大きな男の子達は、自分のことを「オレ」と言います。小さな子が「ぼく」と言うと、「ぼく≠セってよー」といじめます。学校には、自分のことを「オレ」なんて言う男の子が、ほとんどいません。でも、横町で自分のことを「ぼく」なんて言っていたら、大きな子にいじめられてしまいます。
「元気な男の子は、自分のことをオレって言うんだ」と思ったケンタくんは、練習をしようと思って、叔母さんの前で、「オレ」と言いました。すると、いつもすごくやさしい叔母さんが、「そんな言葉使うんじゃないの!」と、怒るのです。
「もしかしたらそうかもしれない」とケンタくんも思っていましたが、「オレ」というのは、「悪い言葉」らしいのです。学校でも、「悪い言葉を使ってはいけません」という決まりです。でも、いつまでも自分のことを「ぼく」と言っていたら、ケンタくんは横町の子とは遊べなくなります。だからケンタくんは、家の人にはないしょで、自分のことを「オレ」と言う練習をはじめてしまいました。
横町の子は乱暴で、平気で小さな子をいじめて泣かします。ケンタくんの裏の家のユキオくんなんか、もう五年生なのに、六年生の男の子にいつもいじめられています。横町をはさんだユキオくんの家の前には、ケンタくんと同じ学年のユウジくんという子の家があって、その家の六年生のお兄さんが、すごくこわいのです。
ユウジくんとケンタくんは、学校で同じクラスになったことがありません。でも、|幼稚園《ようちえん》が一緒だったので、二人は仲よしです。ユウジくんはすごくすばしっこくて、体育の成績もすごくいいのです。だから、ケンタくんはユウジくんともっと仲よくなりたいのですが、お兄さんがこわくて近よれないのです。ユウジくんがひとりならいいのですが、ユウジくんはお兄さんが好きらしくて、いつもお兄さんのあとにくっついているのです。
ユウジくんのお兄さんは、平気で暴力をふるって、しかもナイフまで持っていて、それで小さい子をおどかしたりするのです。小さい子がビー玉で勝って自分が負けたりすると、「貸せ」と言って、勝った子からむりやりビー玉を取りあげたりします。もちろん、ケンタくんは、そんなにこわいお兄さんみたいになりたくはありません。でも、横町にいる男の子達は、ちょっとの「悪いこと」くらいは平気なのです。だから、お母さんの財布から十円玉を盗むようになってしまったケンタくんは、「ちょっとくらい悪いことができなかったら、元気のいい男の子にはなれない」と思うようになっていたのです。
ケンタくんは、ビー玉を買っては負けて、すぐにまたお母さんの財布からお金を盗むということを、くりかえすようになっていました。そして、そういうことをしているうちに、もっと大切なことに気がついたのです。
四年生の二学期が半分過ぎた、秋の頃です。その日もケンタくんは、新しく買ったばかりのビー玉を、ぜんぶとられてしまいました。負けて取られるケンタくんのビー玉は、いつも新品なので、すごくきれいです。新品できれいなビー玉を取った六年生の男の子が、そのビー玉を見て、「もうけ」と言っていました。傷だらけのビー玉より、新品できれいなビー玉を取ったほうがいいに決まっています。そして、その男の子の手の中には、ケンタくんから取った新品のビー玉が、いくつもあったのです。
いつもだったら、ビー玉をぜんぶ取られても、ケンタくんは、そのあとのみんなの勝負を見ています。でも、その日のケンタくんはちがいました。ケンタくんから取ったきれいな新品のビー玉を見ている男の子の顔を見ていて、ケンタくんは、自分のことを「バカみたいだ」と思ったのです。
ケンタくんは、ビー玉がへたです。それなのに、いつも新しいビー玉を買ってきて、取られてばかりいます。まるで、自分はなんにもできないのに、お金だけもらえて、なんでも買ってもらえる、バカな金持ちの子みたいです。
横町の子供達は、そういう金持ちの子を、バカだと思っていました。ケンタくんも同じです。「自分はぜったいに、そういうバカな金持ちの子ではない」と思っていました。でも、いつもお母さんの財布からお金を盗みだしてビー玉を買っているケンタくんは、ほとんどその「バカな金持ちの子」と同じだったのです。ケンタくんは、そのことに気がつきました。みんながビー玉をやっているところに、「入れて」と言ってやって来るケンタくんのことを、ほかのみんなは、「いいカモが来た」としか思っていなかったのです。
ケンタくんは、自分のみっともなさに気がついて、家に帰りました。そして、どうしたらいいのかを考えました。ケンタくんの考えることはひとつです。「どうすれば、ビー玉がうまくなれるか」です。ケンタくんは、いつも「ビー玉がやりたい」とだけ思っていて、「ビー玉がうまくなりたい」とは、思っていなかったのです。
ビー玉がへたなケンタくんのやり方は、ほかの子とはちがいます。ほかの子は、立って、ねらいをつけて、それから、ビー玉を投げて[#「投げて」に傍点]当てるのです。ところがケンタくんは、「自分はそういうことができないから、ビー玉をころがして当てよう」と思っていたのです。
相手のビー玉をねらう時、ほかの子はみんな、立ってねらいをつけます。自分の居場所に立って、大きく体を乗りだして、ほかの子のビー玉をねらいます。でも、「自分にはそういうことができない」と自分で決めてしまったケンタくんは、立たないのです。すわったまま、てきとうにビー玉をころがして、相手のビー玉に当てようとするのです。横町の道路は、まだちゃんと|舗装《ほそう》されていません。表面はでこぼこの土で、あちこちに小石だって|隠《かく》れています。そこにビー玉をころがしたって、ねらいどおり、まっすぐになんか進まないのです。
そういうことを、ケンタくんはわかっていました。でも、「自分は才能がないから、ほかの子みたいにビー玉を投げて当てるなんてできないんだ」と思っていたのです。そして、ぜんぶ負けて、取られていたのです。
ケンタくんは、「やっぱりそれじゃだめなんだ」と思いました。「自分は才能がなくて、できないかもしれないけど、でも、そういうことができなくちゃいけないんだ」と思いました。そして、「ビー玉を投げて、当てる練習をしよう」と思ったのです。
どんなことでも、自分から「練習をしよう」と思って練習をしなければ、うまくなりません。それは、学校の勉強だけではありません。「学校の勉強なんかどうでもいい」と思っていたケンタくんは、「ビー玉だけはうまくなりたい」と思って、ついに自分から、「練習をしよう」と決心したのです。
でも、ケンタくんの手の中には、大きなビー玉が一コあるだけでした。ほかにはなんにもありません。ケンタくんは、庭にある小石にビー玉をぶつける練習をはじめました。
まだ自信がないので、すわったまま、ねらいをつけました。もちろん、当たりません。それでケンタくんは、横町の子がやっているみたいに立って、ねらいをつけて当てる練習をしました。もちろん、そういうことをテキトーにしてみただけなので、ケンタくんのビー玉は、石に当たりません。なんどやってもだめです。そこでケンタくんは、「ねらうのが石だからだめなんだ」と、かってな結論を出しました。そして、「もう一コ大きなビー玉を買わないと、うまくなる練習はできない」と思ったのです。
そのためには、やっぱりまたお母さんの財布から、お金を盗まなければなりません。それでケンタくんは、「これがさいごだから」と思って、お母さんの財布からお金を盗みました。どうして「これがさいごだから」と思ったのかというと、ケンタくんは、自分のしていることが、とても|恥《は》ずかしいことだとわかったからです。
それは、「元気な子になるためには、ちょっとくらい悪いことができたほうがいい」ということよりも、ずっとずっと大切なことでした。
まだ四年生のケンタくんは、「ちゃんとした考えかた」がわかりません。だから時々、めちゃくちゃなことを考えてしまいます。でも、その時のケンタくんは、「自分がやるべきことをやらないで、甘えてずるをするのは、とても恥ずかしいことだ」ということに気がついていたのです。
お母さんの財布からこっそりお金を盗むのは、ずるです。「自分はビー玉がへたなんだから」と思って、ケンタくんは平気でお母さんの財布からお金を盗んでいましたが、そういうことをしているケンタくんは、ビー玉がうまくなることをぜんぜん考えていなかったのです。
ビー玉がうまくなれば、ビー玉を取られることもありません。そうすれば、お母さんの財布からお金を盗む必要もありません。ところがケンタくんは、ビー玉がうまくなるための練習をしないで、そのかわりに、お母さんの財布からお金を取ることばかりを考えていたのです。ケンタくんは、それがとっても恥ずかしいことだとわかったのです。だから、「これがさいごだから」と思って、大きなビー玉を買うためのお金を、お母さんの財布から盗んだのです。
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ビー玉がうまくなったケンタくん
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もちろん、話はそんなにつごうよく進みません。ケンタくんはすぐにビー玉がうまくなったわけでもなくて、お母さんの財布からお金を盗むのが「それでさいご」になったわけでもありません。立ったまま大きく体を乗りだして、そうして地面においてあるビー玉にねらいをつけて当てるのは、そんなにかんたんなことじゃなかったからです。
はじめのうちは、いくらやっても当たりませんでした。ケンタくんは、「自分はなにをやってもできないんだから、練習なんかしてもうまくならないのかもしれない」と思いました。でも、横町に行ってもすぐにビー玉を取られてしまうのに決まっているので、家で一人で練習をしているしかありません。たまにはユキオくんが遊びに来てくれて、二人で、ビー玉を取ったり取られたりしない「練習のビー玉」もしました。
ユキオくんは、ケンタくんのことを「へただ」とは言いません。当たらないと「あーあ」と言って残念がってくれて、もうちょっとで当たりそうになったのがはずれてしまうと、「おしい!」と言ってくれました。ユキオくんは、ケンタくんよりもビー玉が上手でしたが、でも、そんなに上手だというわけではありません。それでケンタくんは、「自分ひとりが特別にへたなわけではなくて、ほかの子と同じくらい、ふつうにへたなだけ[#「ふつうにへたなだけ」に傍点]なのだ」ということもわかったのです。
そういう練習をいっぱいしたケンタくんは、百発百中というわけではありませんが、地面においてあるビー玉に、時々当てることができるようになりました。そしてついに、みんながビー玉をしている横町へ、すごい|覚悟《かくご》をして、ビー玉をやりに行ったのです。
いつもはすわってビー玉をころがしていただけのケンタくんが、ビー玉を持って、立ったままねらいをつけて投げようとした時、ほかの男の子達のあいだから、「おッ……」という声が聞こえました。そして、ケンタくんの投げたビー玉が当たらなくて、はずれた時には、「おしい」と言ってくれる子がいました。
今まで、自分の番になってただビー玉をころがしていただけの時には、だれもそんなふうに|反応《はんのう》をしてくれませんでした。でも、みんながやるように、立ってねらいをつけて投げると、みんなはケンタくんのすることに反応してくれるのです。ケンタくんはその時、「やっとぼくも、みんなのビー玉の仲間に入ることができたんだ」と思いました。
もちろん、そんなケンタくんは、やっぱりビー玉で負けてしまいました。「もう一回だけ」と思って、お母さんの財布からお金を盗みました。そんなことをしながらケンタくんは、でも、「自分のやったことはまちがってなかったんだ」と、はっきりと思ったのです――「練習をすればできるようになる」と。
みんなと一緒にちゃんとしたビー玉[#「ちゃんとしたビー玉」に傍点]をやるようになって、ケンタくんはビー玉がどんどんうまくなっていきました。冬休みの頃にはあまり負けなくなっていて、ビー玉を買うために、お母さんの財布からお金を盗むこともなくなりました。そしてビー玉をやりながら、ケンタくんは、もう一つ大切なことがわかったのです。
ビー玉には、大きなビー玉をぶつけ合うのとはちがう、もう一つべつのやりかたがあります。それは、はじめにみんなが小さなビー玉を二コか三コずつ出しあっておいて、それを、自分の大きなビー玉を使って、当てて取っていくやりかたです。
みんなが出しあったビー玉は、地面の上に一カ所にまとめておいて、そのまわりをグルッと線でかこみます。それが、小さなビー玉の「基地」になります。大きな自分のビー玉を持った子供達は、そこから離れたところに行って、もう一本べつの線を長く引きます。それが、小さなビー玉の基地を|攻《せ》めるための、スタートラインです。みんながスタートラインに立ったら、じゃんけんをします。勝った子は、自分の持っている大きなビー玉を、小さなビー玉のおいてある基地の中に投げます。投げたビー玉がうまく当たると、基地の中のビー玉は、線の外にパッと飛びだします。スタートラインにいる子は、その飛びだした小さなビー玉を、自分の持っている大きなビー玉で、ひとつずつ当てていくのです。当てれば勝ちです。当てた小さなビー玉は、自分のものになります。うまく当てた子は、自分の投げたビー玉がはずれるまで、小さなビー玉を取り続けることができます。
ケンタくんは、大きなビー玉同士の当てっこより、こっちの小さなビー玉をいっぱいころがして当てるやりかたのほうが、好きでした。目の前に小さなビー玉がいくつもちらばっているのです。いくらへたでも、自分のころがしたビー玉は、どこかに当たるんじゃないかと思っていたからです。
もちろん、それはケンタくんの|錯覚《さつかく》です。立ってねらいをつけてビー玉を投げるようになったら、すぐにわかりました。ねらう目標が小さかったら、当てるのはずっとむずかしいからです。そういうことも知らず、すわってビー玉をころがしていただけのケンタくんは、たまにまぐれでビー玉が当たっていただけなのです。負けるのはとうぜんでした。
そのことに気がついたケンタくんは、小さなビー玉を目標にして当てる練習をしました。もうビー玉の投げかたがわかっているケンタくんには、そんなにむずかしい練習ではありませんでした。ねらって、注意して全身を集中させれば、小さなビー玉にでも当てることができるのです。
ところが、そういう練習をしたケンタくんは、またしてもふしぎな体験をします。それは、じっさいの勝負になると、小さいビー玉に当てるよりも、大きなビー玉に当てるほうが、やっぱりむずかしいのだということです。
「目標のビー玉が大きいのに、どうして当たらないのだろう?」と、ケンタくんは思いました。大きなビー玉で一対一の勝負になると、ケンタくんは、やっぱりすぐに負けてしまうのです。相手が、大きくて強い六年生の子だったりすると、とくに。
それは、いくら練習をしてもだめでした。みんなで大きなビー玉のぶつけっこ勝負をして、ケンタくんが決勝や準決勝くらいまで勝っても、さいごにビー玉の強い六年生の子と対決すると、負けてしまうのです。ケンタくんは、「どうしてだろう?」と思いました。そして、ある時、六年生の子と一対一のさいごの勝負になった時、とつぜんどうしてなのかがわかりました。
ケンタくんは、そのビー玉の持ちぬしの子が、こわかったのです。「六年生だったら、勝てるはずがないし」とか、「もし、六年生の子に勝って、いじめられたらどうしよう」とか、自分がそんなことを考えていて、自分の持っている力をちゃんと発揮できないでいたことが、六年生の子のビー玉に当てられなかった原因だったんじゃないのかと、思ったのです。
ケンタくんがねらいをつけているビー玉の向こうには、その六年生の子が、ケンタくんのほうをじっと見ていました。もしもここでケンタくんがはずしてしまったら、次はその男の子の番で、ビー玉がじょうずなその子は、ケンタくんのビー玉に当ててしまうでしょう。
そう思って、ケンタくんは緊張しました。「自分は六年生の子に勝てるんだろうか?」と、思いました。でも、おちついて見たら、ケンタくんの目の前にあるのは「ただのビー玉」なのです。体の大きい六年生の子にぶつかって行って、ケンカをするわけではないのです。「ただのビー玉」に当てることなら、もうケンタくんにはできるはずなのです。
そう思ってケンタくんは、「逃げない!」と思いました。六年生の男の子をこわがるのをやめました。そして、おちついて集中して、自分のビー玉を投げました。するとそのビー玉は、みごとに六年生の男の子のビー玉に当たったのです。ケンタくんは勝ったのです。それは、吉原くんの家に遊びに行くようになった、四年生の三学期のできごとでした。
はじめてビー玉で優勝して、六年生の男の子に勝って、ケンタくんはすごく大切なことがわかりました。今までの自分の人生の中で、いちばん大切なことです。それは、自分に自信がないと、おどおどしてしまって、自分のまわりにあるものがなんにも見えなくなってしまうということです。できるようになって、自分に自信が持てたら、自分の目の前にあるものがはっきり見えて、こわいものはなくなってしまうということです。
その時からケンタくんは、横町の六年生の男の子達を、そんなに「こわい」と思わなくなりました。もちろん、ケンカをしたって勝てるわけではありません。勝負に勝ったケンタくんに、六年生の男の子が、「おい、ケンタ、ちょっと貸せよ」と言って、ビー玉を横取りしてしまうこともあります。そんなことになったら、前は泣いて家に帰ったのですが、もう泣かなくなりました。ただ「ずるいな」と思って、「はい」と平気で自分のビー玉をわたすようにしました。そして、「自分はぜったい、あんなふうにいばる子にはならない」と思いました。
吉原くんの家から帰ったケンタくんが自分のビー玉を持って、「入れて!」と、横町の男の子達の中に入って行った日のことに、話はもういちどもどります。
五年生のユキオくんが、ほかのみんなとははなれたところに、ポツンとひとりで立っていました。気がついたケンタくんは、ユキオくんのいるほうに走って行って、「どうしたの?」と聞きました。
「負けちゃったの? ビー玉、貸してあげようか?」と言っても、ユキオくんは、だまって首を振っています。
ケンタくんは、「もしかしたらユキオちゃんは、またユウジくんのお兄さんにいじめられたのかな?」と思いました。それで、ケンタくんはもういちど、「どうしたの?」と、ユキオくんに聞きました。
ユキオくんは、なにがあったのかを言わないで、とても意外なことを、ケンタくんに言ったのです。
ユキオくんはくやしそうな顔をして、「もうすぐあいつら、中学生になるから、ここで遊ばなくなるからいいんだ」と言ったのです。
やっぱりユキオくんは、六年生の男の子達にいじめられて、ビー玉を取られていたのですが、ユキオくんの言うことを聞いたケンタくんは、「え?」と思いました。
三学期になれば、六年生は卒業して、中学生になります。中学は、小学校よりもっと遠いところにあります。でも、中学生になったからといって、大きい子達がみんな|引《ひ》っ|越《こ》してしまうわけでもありません。中学生になっても、ここに住んでいることに変わりはありません。それなのにユキオくんは、「六年生の子が中学生になったら、もうこの横町で遊ばない」と言うのです。ケンタくんは、「そんなルールでもあるのかな?」と思いました。
そんな話は、聞いたことがありません。「ほんとかな?」と思って聞こうとしたら、ユキオくんはそのまんま、家に帰ってしまいました。よっぽどくやしかったのでしょう。でもユキオくんは、くわしいことをなにも言いませんでした。ユキオくんがどういうくやしい思いをしたのか知らないまま、ケンタくんは、みんなと一緒にビー玉をはじめました。でもケンタくんは、ユキオくんの言ったことが、気になってしかたがありませんでした。
たしかに、横町で遊んでいる子供達の中に、中学生はいません。でも、前にはいました。いつのまにか、いなくなっていたのです。今の六年生にも、ユウジくんのお兄さんみたいにこわい子はいますが、ケンタくんが三年生の時には、もっとこわい六年生がいました。それで、お母さんに「外へ行って遊んでこい」と言われても、なかなか横町には来れなかったのです。でも、ユウジくんのお兄さんやほかの六年生の子が中学生になって、もう横町で遊ばなくなったら、横町には乱暴な男の子がいなくなってしまいます。もうビクビクする必要はありません。
「ほんとにそんなことになるのかな?」とケンタくんは思いました。「そんなに、なんでもつごうよくいくはずがないよな」と思って、それからケンタくんは、べつのことを考えました。
三学期が終われば、ケンタくんも五年生です。中学生まで、あと二年間しかありません。「中学生になったらもう横町では遊ばない」というルールがあるのだとしたら、ケンタくんはもうここで、あと二年間しか遊べなくなるのです。そのことを考えて、ケンタくんはもういちど、「ほんとにそんなことってあるのかな?」と思ったのです。
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五年生になったケンタくん
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四年生の三学期が終わって、春休みになりました。春休みになったさいしょの日、ケンタくんは横町に行ってみました。「中学生になった子は、もう横町で遊ばない」と言ったユキオくんの言葉が、ほんとかどうか確かめたかったのです。
道の角からちょっと首をのばして見ると、横町には、人の姿がありません。春休みになったばかりですから、もちろん、まだ中学校もはじまってはいません。「中学生になったら遊ばないって言うけど、まだ春休みだから、大きな男の子はいるよな」と思って、ケンタくんは、こっそりユキオくんの家へ行きました。
門を開けて、顔だけつっこんで、「ユキオちゃん、遊ぼう」と言うと、ユキオくんが出てきました。二人とも、「いじめっ子がいなくなったらいいな」とは思っていたのですが、「もしかしたらそうはならないかもしれない」とも思っていたので、そのことにはだまっていました。そして、二人が「なにしようか?」と、横町で相談をしていると、ケンタくんと同じ学年のタミコちゃんが、弟のヒトシくんを連れてやって来ました。ヒトシくんは、こんど三年生です。メンバーが四人になったので、ケンタくんは、「缶けりしよう」と言いました。
四人で缶けりをしていると、そこにユキオくんの弟のトシオくんも、家から出て来ました。トシオくんは、こんど四年生です。「入れて」と言うトシオくんも仲間に入れて缶けりをしていると、こんどはユウジくんがやって来て、「入れろよ」と言いました。ケンタくんとユキオくんはちょっと顔を見合わせて、「いいよ」と言ってから、すごく気になっていることを聞きました。
「お兄さん、どうしたの?」
ユウジくんの答は、「どっか行った」でした。二人は安心して、そのまま缶けりを続けました。
けっきょく、その日はユウジくんのお兄さんだけではなくて、新しく中学生になる男の子が、ひとりも横町に現れませんでした。その日だけではなくて、春休みになってからはずっと、大きな男の子達がやって来ませんでした。通りかかっても、「入れろ」とは言わずに、すぐにどっかへ行ってしまいました。ユウジくんが、そのお兄さんのあとをついて行こうとしても、ユウジくんのお兄さんは、「来んなよ」と言って、ユウジくんを仲間に入れようとはしませんでした。どうしてだかわかりませんが、中学生になると、今までとは変わるらしいのです。
ケンタくんは、ユキオくんの言っていた「中学生になったら、もう横町では遊ばない」ということが、本当だとわかりました。だから、ケンタくんが五年生になった時、横町は、平和な子供の天国になっていたのです。
みんな仲よしで、いじめられて泣く子はひとりもいません。新しく引っ越してきた子もふえて、そこは、すごく楽しいところになってしまいました。
家に帰って来ると、横町のみんなと遊べて楽しいので、ケンタくんは、学校に行くことも、なにかとくべつのことのようには考えなくなりました。五年生になって、せっかく友達になった吉原くんとはべつべつのクラスになってしまいましたが、それでもケンタくんは、さびしいとは思いませんでした。
人は、だんだん大人になっていくのです。大人になって、いろいろと新しい経験をしていきます。それをいやがっていて、いつまでも「前のほうがよかった」と思っていてもどうにもならないということを、ケンタくんは、もう知っていたのです。
「がんばろう」と思って努力をすれば、「なんにもできない子」ではなくなるのです。そうして、幸福な五年生になりました。中学生になったら、自分だって横町を卒業します。「小学校だってあと二年しかないのだから、元気を出して、新しいクラスのみんなと仲よくなろう。横町の子とだって、みんなすごく仲よくなれたんだから」と、そう思ったのです。
五年生の夏休みは、横町の子達と一緒になって、毎日遊びました。ケンタくんにとって、そんなに楽しい夏休みははじめてでした。リーダーは、六年生になったユキオくんです。ユキオくんは、だれもいじめないので、みんなユキオくんがだい好きです。そして、夏休みが終わる頃になって、ケンタくんは、「来年はもうユキオちゃんも中学に行って、いないんだな」と思いました。なんだかすごくさびしくて、心細くなりました。
ユキオくんがいなくなったら、そのかわりに、自分とユウジくんがリーダーになって、みんなを引っぱって行かなければなりません。「そんなことができるのかな?」と、ケンタくんは少し思いました。
でも、そんな夏休みが終わって、二学期が始まります。
横町の子と元気に遊びまわっていても、ケンタくんはまだ、学校の体育の成績がよくないままでした。勉強だって、べつに「できる子」というわけではありません。夏休みに元気だったケンタくんは、学校が始まるとまたおとなしくなって、そして、「どうしたら学校で、クラスのみんなともっと仲よくなれるんだろう?」と思いました。五年生になったクラスで、ケンタくんにはやっぱり、「仲のいいクラスの友達」というのはいなかったのです。
クラスの友達の多くは、ケンタくんの家とは反対側にある、学校の向こう側に住んでいます。そして、友達の多くは、学校の近くにある「どんぶり学園」というへんな名前の|学習塾《がくしゆうじゆく》に通っていました。学校の休み時間でも、どんぶり学園のテストの結果の話とかをしています。放課後も、塾に行く子は、みんなで一緒に帰ります。「塾に行ってまで勉強なんかしたくない」と、ケンタくんは思っていました。でも、「みんなと一緒に塾へ行けば、それだけ仲よくなれるかもしれない」とも思いました。
どんぶり学園には、四年生の時に一緒のクラスだった谷川くんも通っています。どんぶり学園は学校の向こう側にあって、そこに行けば、ケンタくんの家とは帰る方向が反対のところに住んでいる子とだって仲よくなれるんじゃないかと、ケンタくんは思ったのです。
そんなケンタくんは、学校の帰りにこっそり遠回りをして、どんぶり学園のようすを見に行きました。
学校と同じような教室が二つあって、中には生徒がすごくいっぱいいて、外から見ていると、みんな楽しそうにしていました。ケンタくんは、「塾ってこういうところなんだ」と、まるで紙芝居のただ見をする時みたいな気分になって思いました。「ぼくもきたいな」と思うのです。
でも、そこは|月謝《げつしや》が何百円もかかるのです。そんなお金を、お母さんが出してくれるかどうか、わかりません。それに、どんぶり学園に行っている友達に聞いたら、「学期の途中からは、どんぶり学園の生徒になれない」と言うのです。三学期にならないと、新しい生徒は|募集《ぼしゆう》しなくて、それまでは、入りたくても入れないのです。ケンタくんはがっかりして、二学期の終わりまで待たなければなりませんでした。
二学期の終わり近くになると、学校の外では、どんぶり学園の入園案内をくばりはじめました。ケンタくんも、その紙をもらって「みんなが行ってる塾に行きたい」と、お母さんに言いました。
でも、お母さんの答は、「だめ」です。「あんなところは、勉強のできない子が行くところだから、行く必要はない」と言うのです。
まだその頃は、「塾というのは、学校の勉強ができない子が行くところだ」と、多くの人が考えていました。じつは、ケンタくんもそう思っていました。だから、なかなか「塾に行きたい」とは言えませんでした。それを言うことは、「ぼくは勉強ができません」と|白状《はくじよう》することと同じだったからです。
あいかわらずケンタくんは、勉強ができる子なのか、できない子なのかが、わからないままでした。通知表には、5から2までぜんぶあります。「5が多い」というわけでもありません。自分では、「べつに学校の勉強でこまっているわけではないから、塾なんかに行かされる必要はないのだ」と思っていました。しないですむ勉強なら、したくないと思っていたのです。
ところが、どんぶり学園に通っているのは、勉強のできない子だけではありません。授業中に手を挙げられる子だって、何人も行っているのです。だから、「どんぶり学園になら、行ってもだいじょうぶなのかもしれない」と思ったのです。
ところがお母さんは、「行かなくていい」と言います。「行かなくていい」と言うお母さんは、「おまえは勉強のできない子じゃない」と言っているのです。
ケンタくんは、お母さんにそんなふうに言われたことがありません。ケンタくんは、びっくりしました。「ぼくは、勉強のできない子じゃないんだ」と思いました。そして、「なんだ、じゃ、勉強はしなくてもいいんだ」と思いました。塾に行けないのはさびしいけど、勉強をしなくていいんだったら、すごく楽です。それでケンタくんは、「じゃ、いいや」と思ってしまったのです。
ところが、その話をお父さんが聞いていました。そして、「そんなに塾に行きたいんだったら、おまえは商人の子なんだから、ソロバン塾へ行け」と言いだしたのです。お母さんも、「そうだね」と賛成してしまいました。
ケンタくんの家のそばには、ソロバン塾がありました。知らない子達がいっぱい通っていて、前を通ると、中から「ゴーメ!」という、わけのわからない|叫《さけ》び|声《ごえ》が聞こえてきました。もちろんケンタくんは、ソロバン塾になんか、ぜんぜん行きたくありません。でも、「それがいい、それがいい」と思ったお母さんは、さっさと近所のソロバン塾へ行って、入る手続きをしてしまったのです。
はじめてソロバン塾の中に入ったケンタくんは、「なんでこんなところに来なくちゃいけないんだろう」と思いました。
ケンタくんが入れられたのは初級のクラスで、ソロバンを使ってかんたんなたし算をします。さいしょのうちは問題集をわたされて、ひとりでそれをしていました。みんなが先生の声に合わせてソロバンの計算をしている教室の|隅《すみ》で、とちゅうから入ったケンタくんは、そうしてソロバンの使いかたをまず勉強させられたのです。そしてソロバンに慣れると、みんなと一緒に、先生が口で言うたし算の問題を、ソロバンでするようになりました。
先生が言う問題を聞いて、生徒達はソロバンで計算をします。先生が問題を言い終わったら、すぐに「はい!」と手を挙げるのです。できた人は、全員手を挙げなければいけません。そして、問題もそんなにむずかしくはないので、ほとんど全員ができるのです。
「はい!」と、みんなが大声で手を挙げます。先生がその中のひとりをさします。その子の言う計算の答が合っていると、生徒達は全員で、声を|揃《そろ》えて「ゴーメ!」というのです。「ゴーメ」というのは、「ご|名算《めいさん》」ということで、「答がちゃんと合っている」ということです。「ごめいさん」がちぢまって、「ゴーメ!」と言うのです。
はじめ、ケンタくんはとまどいました。みんながなにをやっているのか、ぜんぜんわかんなかったからです。先生も、「わかったら手を挙げて、人の言う答が合っていたらゴーメ≠ニ言いなさい」なんて教えてくれません。「どうすればいいんだろう?」と思っていて、そのうちケンタくんも、ほかのみんながやっているとおりにするようになりました。慣れたら、べつにどうということもありませんでした。
そのことがどういう意味を持つことになるのか、ケンタくんにはまだわかりません。クラスでソロバン塾に行っている子がいるのか、いないのかも、知りませんでした。ソロバン塾に行っていることがバレて、クラスの友達にからかわれたらいやなので、行っていることもだまっていました。ところが、五年生の三学期が終わり頃になると、学校の算数の時間でも、ソロバンの練習をするようになったのです。
先生は、「もう昔みたいにソロバンを|一生懸命《いつしようけんめい》やる必要はないので、ちょっとだけやります」と言いました。ケンタくんは、「そうなのか」と思いました。「自分は商人の子だからソロバン塾に行っているけど、みんなはそうじゃないんだ」と思いました。|普通《ふつう》の家の子のみんなは、自分のソロバンを持ってくる必要もなくて、新しいソロバンを買う必要もなくて、「学校にある古いソロバンを借りて練習をすればいい」ということでした。「学校の友達はみんなソロバンをしなくて、だから、自分ひとりがソロバン塾に行っていることも、友達には言いたくなかったんだな」ということが、ケンタくんにははっきりわかったのです。
ソロバン塾に通っているケンタくんは、もう自分のソロバンを持っています。塾で習っているからソロバンにも慣れているケンタくんは、ソロバンの授業がある日、なんの心配もせずに、学校へ行きました。学校で新しいことを習いそうな日には、いつも「わかるかなァ、だいじょうぶかなァ」と思っていたのに、その日はぜんぜんそんなことがなかったのです。
学校の授業は、ソロバン塾でやったこととおんなじで、ソロバン塾よりかんたんでした。先生が、塾で出すよりかんたんなたし算の問題を、塾の先生よりもずっとゆっくり、口で言うのです。問題を読み上げたあとで「はいッ!」と声を出して手を挙げることも、塾と同じです。そういうことに慣れていたケンタくんは、「はいッ!」と大声を出して手を挙げました。学校の授業でそんなに元気よく手を挙げて声を出したのは、その時がさいしょでした。
四年生の時、「この漢字が読める人?」と先生に言われて手を挙げたケンタくんは、読めても自信がなさそうで、「はい」という声も小さい声でした。でも、ソロバン塾に行っていたケンタくんは、まるでみんなで大声を出す競争をしていた子みたいで、すごく元気よく手が挙げられました。つまり、ソロバン塾に行っていたおかげで、ケンタくんは、学校の授業の時間がこわくなくなっていたというわけなのです。
ソロバン塾に行っていたおかげで、五年生の終わりのケンタくんは、学校でも「元気な子」になってしまいました。手を挙げるんなら、小さな声を出して手を挙げるより、元気な声で大きく手を挙げるほうが、ずっと生きている気がして、楽しいとわかったからです。六年生になったケンタくんは、もう学校が楽しくなっていました。それで、六年生になったケンタくんは、お父さんに、「もうソロバンはできるから、ソロバン塾に行かなくてもいいでしょう?」と言ってしまいました。横町の子と遊んで、クラスの子とも遊ぶようになったケンタくんは、すごく忙しくなって、学校が終わったあとでソロバン塾に行っているひまがなくなっていたのです。
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六年生になって、クラスの友達と|模擬試験《もぎしけん》を受けに行くようになったケンタくん
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六年生になってすぐの頃、ケンタくんは教室で、同じクラスの山下さんに声をかけられました。
山下さんは、五年生の三学期になって転校してきた、お医者さんの|娘《むすめ》です。きれいでかわいくて勉強もできて、ピアノもひけます。名前は「ルミ」で、まるでマンガから出て来た「いい家のお|嬢《じよう》さん」です。だから、転校して来てすぐ、クラスの人気者になりました。そんな山下さんに「ねェ、ケンタくん」と言われたのですから、それだけで、ケンタくんはうれしくなってしまいました。
「なァに?」とケンタくんが言うと、山下さんは、「こんどの日曜日、みんなで模擬試験を受けに行くんだけど、ケンタくんも一緒に行かない?」と言ったのです。
ケンタくんには、「模擬試験」というのがなんだかよくわかりません。でも、「みんなで一緒に日曜日にどっかへ行くんだ」と思って、「みんなって、だァれ?」と言ってしまったのです。
山下さんは、うしろを振りかえって、名前を言いました。
「|遠藤《えんどう》くんと、|稲垣《いながき》くんと、|岡村《おかむら》くんと、矢野くんと、それから、私と河口さんと、中島さん」
山下さんのうしろの少し離れたところに、名前を呼ばれた男の子や女の子がかたまっていました。そして、その中の岡村くんが、ケンタくんに向かって、「行こうよ」と言ったのです。ケンタくんは、びっくりしてしまいました。
そこにいたのは、勉強もできてスポーツもできて、いつもクラスの学級委員に選ばれている、スターのような男の子や女の子ばかりなのです。「模擬試験」というのがなんだかわからないまんま、ケンタくんは、「行く!」と言ってしまいました。そう言ってから、「ぼくなんかが仲間に入ってもいいのかな?」と思って、「お母さんに言って、いい≠チて言ったら行く」と言いなおしました。
「模擬試験」というのは、国立や私立の有名中学を受験する子のための、会場テストです。大きな進学塾が|主催《しゆさい》していて、ケンタくんの学校にもそういう知らせが来たのです。ケンタくんの担任の先生は、勉強のできる子だけに、「行ってみるかい?」と教えてくれたのです。ケンタくんは、そんな話を先生に教えてもらいませんでした。それにケンタくんは、そういう特別な中学に行くのは、特別に勉強のできる子や、私立の学校に行った隣のタカシくんやマユミちゃんみたいな子だけで、自分とは関係のないことだと思っていました。小学校を卒業したら、全員が公立の中学へ行けるのですから、そんなことを考える必要はぜんぜんないと思っていたのです。だから、山下さんに「模擬試験」と言われても、なんのことだかさっぱりわからなかったのです。
ケンタくんの気分は、お城の|舞踏会《ぶとうかい》に招かれたシンデレラみたいなもんでした。模擬試験の会場は、電車の駅で二つ行ったところにあるといいます。日曜日に、クラスのスターのみんなと一緒に、電車に乗って、どこかへ行くのです。みんなと一緒に行くのが、どうして「模擬試験」なのかはよくわかりませんが、ケンタくんにとってそれは、みんなで行くピクニックにさそわれたのと同じでした。
家に帰ってお母さんに話すと、お母さんは「だめ」とは言わずに、「いいよ」と言いました。べつに、うれしそうでもありませんでした。「模擬試験」がどういうものなのかということを、ケンタくんに話してもくれませんでした。それで、ケンタくんは、ただ「うれしい、うれしい」とだけ思っていたのです。
よその家では、日曜日になるとお父さんが休みですから、家族みんなでどこかへ行きます。でも、お店を開いているケンタくんの家では、日曜も土曜も関係ありません。お父さんは、日曜日でもアイスクリームの配達に行きます。だからケンタくんは、「日曜日にどこかに行く」ということに、ずっとあこがれていたのです。しかも、一緒に行くのは、クラスのスターなのです。五年生の時にいちども口をきいたことのない子だっています。そんなすごい子達と一緒にどこか[#「どこか」に傍点]に行くのですから、その気分は、ほとんど、お城によばれたシンデレラと同じでした。
模擬試験に行く前の日、試験に行く子供達は、職員室に呼ばれました。そして、担任の先生から、「学校の勉強とは関係がないから、おちついて試験を受けなさい」と言われました。
ハイキングかピクニックに行くみたいに思っていたケンタくんは、みんなと一緒に職員室へ呼ばれたので、びっくりしました。「職員室に呼ばれる」なんていうのは、ただごとではないからです。でも先生は、「学校の勉強とは関係がない」と言いました。テストの成績がよくても悪くても、通知表とは関係がないということです。「だったらいいや」と思って、ケンタくんは、すっかり安心してしまいました。
次の日、ケンタくんはお弁当を作ってもらって、みんなと一緒に模擬試験へ行きました。試験は四科目で、午前中で終わりなのですが、「みんなと一緒に行くのだから、お弁当はいる」と思ったのです。やっぱりケンタくんは、ピクニックかなにかと、模擬試験を一緒にしていたのです。
試験が終わって、みんなは「むずかしいねェ」と言っていました。ケンタくんには、むずかしかったかどうかがわかりません。勉強やテストに関するケンタくんの考えは、昔から変わっていません。「わかるものはわかるけど、わからないものはわからない。習ったことならわかるけど、習ってないことはわからない」です。わかったところはわかったけど、わからないところはわからないので、テストが終わるとすぐ忘れてしまいます。だから、「何番がむずかしかった」とか言われても、それがどういう問題だったのかを、ケンタくんはぜんぜん覚えていないのです。
みんなは「何番がむずかしかった」とか言いますが、ケンタくんには、むずかしかったのかどうかも、ぜんぜんわかりません。ただ、みんなと一緒に試験会場からの帰り道を歩いていると、それだけでうきうきしてすごく楽しいのです。「できなくても、学校の勉強とは関係ないんだから、心配しなくてもいいんだ」と思うと、心配する気にもなりません。「どんぶり学園には行けなかったけど、みんなと一緒に、こうやって試験に来れたんだからいいや」と思うだけです。
駅の近くまで来たら、小さな|鯛焼《たいや》き屋さんがありました。中にはすわって食べられる席があって、ミルクやジュースも売っていました。岡村くんが「ここに入ろうよ」と言って、みんなが賛成したので、ケンタくんも入りました。でも、お弁当を持っているケンタくんは、電車代以外のお金を持っていませんでした。
ケンタくんがなにもたのまないでいるので、岡村くんは、「ケンタくんはいらないの?」と言いました。ケンタくんが正直に、「お弁当は持ってるけど、お金は持ってないからいらない」と言うと、岡村くんは、「お金貸してあげるから、鯛焼き食べなよ」と言って、ケンタくんのぶんも注文してくれました。ケンタくんは、「いいよ、いいよ」と言ったのですが、岡村くんが親切にしてくれるのがうれしくて、鯛焼き代の十五円を借りました。すごく幸福でした。ケンタくんは、試験のことよりも、みんなで一緒に鯛焼き屋さんに入って、仲よくワイワイ話していることのほうが、ずっとうれしかったのです。
その日、ケンタくんは家に帰って、部屋でひとりでお弁当を食べました。
五年生になった時、ケンタくんは「自分の机」を買ってもらいました。六年生になる少し前に、ケンタくんの家はまた改造をして、二階建てになりました。そこに妹と一緒の子供部屋ができて、それまで廊下のすみに置いていた机も、日当たりのいい二階の子供部屋に移してもらいました。その日の当たる自分の部屋の窓のそばで、ケンタくんはお弁当を開けました。
お弁当はのり巻きでした。まるで遠足の時みたいなので、ケンタくんは、「とくした」と思いました。なんだか、すごく幸福でした。
お弁当を食べ終わって、ケンタくんは、「もう六年生なんだから、少年雑誌を買うお金のほかに、おこづかいを、毎月百円か二百円ほしい」と、お母さんに言いました。みんなと一緒に鯛焼き屋さんに行って、ケンタくんは、今までとはちがう、「大人」になったみたいな気がしたのです。
お母さんは、「じゃ毎月三百円あげる」と言って、その月の分のおこづかいをくれました。それで次の日、ケンタくんは「どうもありがとう」と言って、岡村くんに十五円を返したのです。そして、「よかった」と思いました。おこづかいをもらえるようになったケンタくんは、「来月はお弁当を持って行かなくて、みんなで鯛焼き屋に行って、鯛焼きも買えるし、ジュースだって飲める」と思ったからです。
模擬試験の結果は、ひとりひとりの家にではなくて、学校に送られてくることになっていました。二週間くらいして、先生が、送られて来たテストを返してくれました。テスト用紙と一緒に、成績の順位表もくれました。ケンタくんが、そんなのを見たのははじめてです。名前が成績順に書いてあって、それが二百番くらいまで続いています。あらためてケンタくんは、会場にすごく多くの子供達がいたことを思いだしました。あんなにいっぱいの子供達が、同じ教室にいたのを見たことがありません。教室は、まるで体育館ぐらいの広さだったのです。
そういう教室がひとつではなくて、ほかにもいろんな場所でテストをやっていたのだといいます。「そんなに模擬試験を受けた子がいっぱいいるのなら、順位表の中に自分の名前なんか入っているわけない」と思って、ケンタくんは、岡村くんや矢野くんや遠藤くんの名前を探しました。でも、だれの名前もありません。
先生は、試験を受けたみんなに、「もうちょっとがんばってみなさい」と言いました。ケンタくんは、「ぼくはみんなについてっただけだから、がんばらなくてもいいんだ」と思って、先生の言うことに「はい」と言っているみんなのことを、少しだけ同情しました。「勉強ができる子は、勉強ができるぶんだけ、たいへんなんだな」と思ったのです。
それからもケンタくんは、みんなと一緒に、毎月一回の模擬試験を受けに行きました。
次の月の順位表には、女の河口さんが、百十八番に入っていました。河口さんはずっと学級委員で、勉強もすごくできます。ケンタくんは、「河口さんは、すごく頭がいいんだな」と思いました。
河口さんは、その次の月の順位表にものりました。河口さんと一緒に、山下さんものりました。「ルミちゃんものってる」と思って、ケンタくんは、「学校じゃわからないけど、女の子のほうが勉強ができるのかな?」と思いました。
びっくりしたのは、そのまた次の月の順位表です。なんと、ケンタくんの名前がのっているのです。しかも、七十八番です。ケンタくんはびっくりして、「こないだのテストはやさしかったのかな?」と思いました。そして、「自分が七十八番なら、河口さんやルミちゃんやほかの子は、もっと順位が上なんだろう」と思って、順位表をよく見ました。でも、ケンタくんのクラスでは、ケンタくんの成績がいちばんよかったのです。ケンタくんはびっくりして、信じられなくて、でも、すごくうれしくなりました。
先生は、ケンタくんになにも言ってくれませんでした。でも、休み時間になったら、一緒にテストに行っている友達が、「すごいね」とか、「おめでとう」とか言ってくれました。ケンタくんが勉強でほめられたのは、その時がはじめてです。
ケンタくんは、家に帰って、その順位表をお母さんに見せました。お母さんはそれをじっと見ていて、「でも、学校の成績とは関係がないんだろ?」と言いました。
言われてみればそうです。そうかもしれないけど、でも、そんないい成績を取ったのは、生まれてはじめてなのです。ケンタくんは、「もしかしたら、自分は勉強ができる子なのかもしれない」と思いました。そして、自分の机のひきだしに、その順位表を大切にしまいました。机のひきだしを開けると、すぐその順位表が見えるようにして、大切に大切にしまいました。そして、「もしかしたら、学校の成績だってよくなるかもしれない」と思いました。
それからしばらくして、一学期が終わりました。通知表の成績は、そんなによくありませんでした。体育は2のまんまで、4は一つふえましたが、かわりに5は一つへっていました。それを見てケンタくんは、「やっぱり、学校の成績と模擬試験は関係ないんだ」と思いましたが、あまり気にしませんでした。成績はちょっと下がったかもしれないけど、机のひきだしの中には、自分が「七十八番」になっている順位表もあったので、それでよかったのです。
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友達のお母さんの「秘密」を知ってしまったケンタくん
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夏休みのあいだ、ケンタくんは横町の子とずーっと一緒に遊んでいました。遊ぶだけじゃなくて、夏休みの前の日に、「夏休みになったら、毎朝みんなで横町の掃除をしよう」と決めて、ほんとに毎朝、子供達だけで掃除をしました。
夏休みは、ほんとに毎日が楽しくて、六年生から一年生までの子が、いつも十人くらい一緒になって遊んでいました。だれかが家の人と一緒に海水浴に行ったりすると、みんなはちょっとさびしくて、うらやましくて、でも、海水浴に行った子は、帰って来るとすぐに横町にやって来て、「やっぱりみんなと一緒のほうがいい」と言って、一緒になって遊びました。
そんな夏休みが過ぎて行って、来週から学校が始まるという時になって、ケンタくんは、「もうこの夏休みが終わったら、横町でみんなと遊べないんだな」と思いました。なんだか、そんなふうに思いました。それくらい、その年の夏休みは幸福だったのです。
みんなが遊んでいる時、中学生になったユキオくんが通りがかったことがあります。ユキオくんは、「入れて」とは言いませんでした。男の子達が集まって、ユキオくんの家の前でビー玉をやっていた時があります。家の中にいたユキオくんが、出て来て、みんながやるのを見ていました。「ユキオちゃん、やる?」と言っても、ユキオくんは「ううん」と言って首を振って、やりませんでした。
「中学生になったら、横町の子とは遊ばない」というのは、本当でした。「ううん」と言ったユキオくんは、そのまま家に入ってしまいました。ケンタくんは、「もうユキオちゃん≠ト言っちゃいけないのかな?」と思いました。中学生になったら、「ユキオくん」と呼ばなくちゃいけないのかもしれないと思いましたが、でもそのあと、横町でユキオくんの姿を見かけることは、ほとんどなくなってしまいました。
夏休みが終わる日、ケンタくんは、暗くなっても、まだ遊んでいました。小さい子が家に帰っても、家の人が「ごはんだよ」と呼びに来るまで、暗い横町で缶けりをしていました。最後まで一緒だったのは、同じ学年のタミコちゃんと、ユキオくんの弟のトシオくんのふたりです。
ユキオくんの家の門が開いて、暗い中から、中学生になったユキオくんが、「トシオ、ごはんだよ!」と呼びました。トシオくんが帰って、ケンタくんは、タミコちゃんに、「もう帰る?」と言いました。街灯のついていない横町では、もう缶がどこにあるのかも、わからなくなっていたからです。タミコちゃんは「うん」と言って、ケンタくんも、「じゃあね」と言いました。そして、「さよなら!」と大きな声で言って、家に帰りました。ほんとは「さよなら」と言いたくなくて、「もう少し夏休みが続いていればいいな」と思いました。
そうして夏休みが終わって、ケンタくんは「横町の子から卒業した」と思いました。「来年は中学生だから、もっと違うことをしなくちゃいけないんだ」と思いました。もうケンタくんは、「中学生になる不安」を感じてはいませんでした。でも、その夜のケンタくんはやっぱりさびしくて、「もう一年、横町で遊びたかったな」と思いました。幸福な日が幸福なまんまで終わってしまうということが、ケンタくんにとっては、はじめての経験だったのです。
でも、ケンタくんにはまだ、クラスの友達と一緒に過ごす、幸福な学校の二学期が待っていたのです。
二学期になって学校へ行ったケンタくんは、すごく元気でした。昼休みになると、体育の成績が2だなんていうのがうそみたいに、元気よく、ドッジボールや長ナワ|跳《と》びを、クラスのみんなと一緒にしていました。今ではだれも、ケンタくんが学校に来て口がきけなくて、友達がひとりもいなかったなんてことを、信じてはくれません。そんなことを言ったら、「うそだァ!」と笑われてしまいます。それでケンタくんは、「どっちの自分が本当なのかな?」と考えるようにもなりました。
学校に行くのが楽しいので、ケンタくんはいつも元気です。特別に仲のいい友達というのはいませんが、一緒に模擬試験に行く友達とはすごく仲よくなって、二学期になってからは、家にも遊びに行くようになりました。稲垣くんとは部活でも一緒になって、家に行った時には、稲垣くんのお母さんから、「ケンタくんは勉強ができるんですってねェ」と言われたりもしました。
そんなことは、はじめてです。ケンタくんのお母さんは、いつのまにかそんなに怒らなくなりましたが、ケンタくんは、「だらしがない!」とか「勉強ができない!」とか「どうして友達がいないんだ!」とか言われていたことを、今でもよく覚えています。だから、「今のぼくは本当のぼくじゃなくて、ぼくはみんなの前でうそをついているのかな」と思ったりもしてしまうのです。
ケンタくんは、だれにもうそなんかついていません。人間は、だれでも成長して変わっていくものなのです。でも、だれもケンタくんに、そんなことを言ってくれません。だれかが、「ケンタくんは変わったねェ」と言ってくれたら、ケンタくんだって、「自分は成長したんだ」と思うかもしれません。でも、だれもそんなふうには言ってくれないので、ケンタくんは、「自分はすごい努力をして変わったんだ」と思えないのです。
毎月行く模擬試験の成績は、二学期になっても変わりません。ケンタくんの成績は、一緒に行くクラスの子のなかで、いちばんいいのです。でもケンタくんは、はじめに先生から言われた、「模擬試験の成績は学校の勉強と関係がない」ということをよく覚えています。本当にそのとおりで、模擬試験の成績はよくても、ケンタくんの学校のふだんのテストの成績は、そんなによくないのです。
ケンタくんは、どこかよその中学を受験したいとは思いません。このまんま、みんなと一緒に、同じ公立の中学校に行きたいと思います。お母さんだって、ケンタくんに「よそのいい中学を受験しろ」とは言いません。一緒に模擬試験へ行く友達のなかには、そういうふうに言われている子もいるみたいですが、ケンタくんはちがいます。だから、ほんとはケンタくんには、模擬試験に行く理由なんてないんです。ケンタくんが「行きたい」と思うのは、試験のあとで、みんなが一緒に鯛焼き屋さんに行くからなのです。
模擬試験には、テストの|範囲《はんい》が決まっていません。だから、前もって勉強をする必要がありません――ケンタくんはそう思っていたので、「テストの勉強をしない模擬試験のほうが楽だ」と思っていたのです。模擬試験でケンタくんの成績がよかったのはそのためで、クラスのほかの子みたいに、ケンタくんは、模擬試験でぜんぜん緊張していなかったのです。
学校のふだんのテストでは、出る問題の範囲が決まっています。だからみんな、一生懸命勉強をします。ケンタくんも、「みんなみたいに勉強して、勉強のできる子になろう」とは思うのですが、すぐにあきてしまいます。ケンタくんにとって大切なのは、勉強のできる子になることではなくて、みんなと仲よくすることなので、ひとりになるとすぐ、「なんかおもしろいことないかなァ」と思って、横町へ遊びに行ってしまうのです。夏休みが終わっても、横町から子供達がいなくなったわけではありません。ケンタくんだって、まだ小学生です。ケンタくんにとって、横町の子と遊ぶのはあたりまえのことです。ケンタくんは、「横町の夏休み[#「夏休み」に傍点]は卒業したけど」と思って、前と同じように、横町の子供達と一緒に遊んでいました。
二学期になって、クラスの友達の家へ遊びに行くようになってから、ケンタくんは、今ではべつのクラスになってしまった吉原くんのことを、時々思いだすようになっていました。「もしかして、いちばんさいしょの図書委員の選挙の時、ぼくに一票を入れてくれたのは、吉原くんだったんじゃないのか?」とか、そんな気がしたのです。
学校に行っても、いるんだかいないんだかわからないような状態だったケンタくんのことに、吉原くんが気がついていてくれたのなら、うれしいなと思うのです。でも、そう考えながら、ケンタくんはべつのことも思います。「もしかして吉原くんは、ぼくのことを勉強のできる子≠ニかんちがいして、それで、家に来ない?≠チて言ったのかな」と。
吉原くんがケンタくんのことを、「ケンタくんはすごく漢字が読めるんだよ」とお母さんに言って、吉原くんのお母さんが、「これからも仲よくしてくださいね」と言ってくれた時のことを、ケンタくんはよく覚えています。
吉原くんのお母さんは、とってもやさしい人でした。それは、稲垣くんのお母さんも同じです。でも、吉原くんのお母さんや稲垣くんのお母さんみたいな言いかたをして、ぜんぜん感じのちがっているお母さんを、ケンタくんは、もうひとり知っていたのです。それは、岡村くんのお母さんです。
ケンタくんに鯛焼きを買うお金を貸してくれた岡村くんは、クラスのリーダーの一人です。なんでもよくできます。学級委員の選挙になると、いつも一番か二番です。家もお金持ちです。岡村くんは、ケンタくんと仲よくしたがっているみたいで、「一緒に勉強しようよ」と言いました。勉強のできる岡村くんにそんなことを言われるのがうれしくて、模擬試験のない日曜日に、ケンタくんは岡村くんの家へ行きました。
門の前で「岡村くーん!」と言って、「あ、ここは横町の子の家じゃないんだ」と気がついたケンタくんは、門の横の|呼《よ》び|鈴《りん》を|押《お》しました。
すぐに岡村くんと岡村くんのお母さんが出てきて、岡村くんのお母さんは、いきなり「ケンタくんは、勉強ができるんですってねェ」と言いました。それは、稲垣くんのお母さんに言われたあとの、二回目の体験です。
稲垣くんは、美少年です。稲垣くんのお母さんもすごい美人で、とてもやさしい人でした。だから、ケンタくんもすごくうれしかったのですが、同じことを言っても、岡村くんのお母さんは、稲垣くんのお母さんとは、感じがすごくちがうのです。ケンタくんは、なんか、おとぎ話の|魔女《まじよ》の家に来たみたいな感じがしてしまいました。大きく赤い口紅をつけた岡村くんのお母さんは、なんだか「もしもあんたが勉強のできない子だったら、あんたはこの家に来ちゃいけないんだよ」と言っているような気がしたのです。
もちろん、岡村くんのお母さんは、そんなことを言いません。でも、明るくて陽気な岡村くんのお母さんは、ケンタくんと岡村くんのそばで、学校のことや勉強のことばかりをしゃべりつづけているのです。
岡村くんは、そんなことを気にしません。岡村くんも、明るくて元気です。でも、そんな岡村くんを見ているうちに、ケンタくんは、稲垣くんのことを思いだしました。前に稲垣くんは、とても気になることを言っていたからです。
稲垣くんの家に行った次の日のことです。稲垣くんとは、途中まで帰り道が一緒なので、帰りに歩きながら、ケンタくんは稲垣くんに言いました。
「稲垣くんのお母さんて、すごくきれいだよね」
すると稲垣くんはうつむいて、とても意外なことを言ったのです。
「でも、お母さん、こわいんだ」
ケンタくんはびっくりしました。「どうして?」と言うと、稲垣くんは、「勉強ができないと、怒るんだ」と言うのです。ケンタくんは、もっとびっくりしました。だって稲垣くんは、「勉強のできる子」のはずだからです。そんなことは、クラスのだれだって知っています。
ケンタくんは、「だって、稲垣くんは勉強ができるじゃない」と言いました。
すると稲垣くんは、「テストで点数が悪いと、すごく怒るんだ」と言うのです。
ケンタくんは、「だったらさァー」と言いかけて、だまってしまいました。ケンタくんが言いかけたのは、「テストで点数が悪かったら、お母さんに見せなきゃいいじゃない」です。いつのまにかケンタくんは、そういうふうにしていたのです。
ケンタくんは、もうお母さんに怒られることにうんざりしていました。自分はみんなと遊んでいるし、学校に行っても元気です。「だったらいいじゃないか」と、ケンタくんは思ったのです。
さすがのお母さんも、最近ではあんまり|暴発《ぼうはつ》をしません。「だったらいいや」と思って、ケンタくんは、テストですごくいい成績を取った時しか、お母さんに見せなくなっていたのです。
学校でいつテストがあるのかなんて、お母さんは知りません。時々思いついたように、「テストを見してみろ!」と言うだけなので、ケンタくんは、「めんどくさいことなんか知らない」と思っていたのです。
でも、そんなケンタくんでも、「成績の悪いテストはお母さんに見せない」というのは、秘密です。そんな悪いことをうっかりバラして、勉強のできる稲垣くんにめいわくをかけてはいけないと思いました。
稲垣くんは、ため息をつくだけです。ケンタくんは、稲垣くんに同情して、「そうなの」と言いました。稲垣くんは「うん」と言いましたが、でもケンタくんには、やさしくてきれいな稲垣くんのお母さんが、自分のお母さんとおんなじように稲垣くんのことを怒るなんて、どうしても信じられなかったのです。
ケンタくんにとって、「勉強のできる子」はあこがれです。「勉強のできる子」になれば、みんなにほめられて、勉強をしなくてもすむと思っていたのです。だから、勉強のできる稲垣くんが、お母さんに怒られることがあるというのは、どうしても信じられませんでした。でも、岡村くんのお母さんを見ていると、「もしかしたら、そういうこともあるのかな」と思えてしまうのです。岡村くんのお母さんは、自分が勉強をするわけでもないのに、「成績、成績」と、やたらとそのことばかり言うからです。
ケンタくんがいいのは、模擬試験の成績だけです。学校の勉強は、いいのかどうか、よくわかりません。学校の成績がよかったら、学級委員に選ばれるはずです――ケンタくんは、そう思っていました。でも、二学期になって、ケンタくんは学級委員どころか、なんの委員にも選ばれませんでした。ケンタくんは、それでがっかりなんかしません。「ウチのクラスは頭のいい子がいっぱいそろっているから、楽だ」と思いました。委員にならずにすんでいるケンタくんは、そういう頭のいい子と遊んでいるだけでよかったからです。
ケンタくんのお母さんは、ケンタくんが稲垣くんや岡村くん達と一緒に模擬試験に行くようになってから、あまりケンタくんを怒らなくなりました。もちろんケンタくんは、稲垣くんや岡村くんや、一緒に模擬試験を受けに行く友達がだい好きです。みんなと一緒だと、自分も頭がよくなったみたいで、少しとくいです。でもケンタくんは、「勉強のできる子」だけが、特別に好きなのではありません。一緒に模擬試験を受けに行く子は、明るくて元気で、一緒に遊べるから好きなのです。その|証拠《しようこ》に、一緒に遊んでいた横町の子と、勉強の話をしたことなんて、いちどもありません。
勉強ができないとどういうことになるのか、ケンタくんはよく知っています。お母さんにひっぱたかれるのです。でも、六年生になったケンタくんは、「勉強ができたってできなくたって、そんなことどうでもいいじゃないか」と思っていたのです。だって、テストで悪い成績を取ったって、ケンタくんは幸福で、そんなことをまったく気にしなくなっていたからです。
[#地付き]つづく
橋本治(はしもと・おさむ)
一九四八年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒業。在学中の一九六八年に駒場祭ポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへいく」でイラストレーターとして注目される。『桃尻娘』で講談社小説現代新人賞佳作。以後、小説、戯曲、舞台演出、評論、エッセイ、古典の現代語訳など、その仕事はひとつのジャンルに収まらない。一九九六年『宗教なんかこわくない!』で「新潮学芸賞」、二〇〇二年『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で「小林秀雄賞」を受賞。小説に『桃尻娘シリーズ』『つばめの来る日』『蝶のゆくえ』他、エッセイに『これも男の生きる道』『戦争のある世界――ああでもなくこうでもなく4』他、評論に『いま私たちが考えるべきこと』『上司は思いつきでものを言う』『ひらがな日本美術史』『人はなぜ「美しい」がわかるのか』他、古典の現代語訳に『桃尻語訳 枕草子』『絵本徒然草』『窯変 源氏物語』『双調平家物語』他、著書多数。
本作品は二〇〇五年四月、ちくまプリマ―新書の一冊として刊行された。