橋本克彦
欲望の迷宮 新宿歌舞伎町
目 次
序 章 歓楽街の自画像
第一章 夜の少数派たち
第二章 歓楽街の条件
第三章 路上の風
第四章 美の神々
第五章 バッカスの夜
第六章 文学バーの夜ごとの宴
第七章 過激な人生
第八章 女たちの輪舞《ロンド》
第九章 サービスする男たち
第十章 凶悪な欲望
終 章 迷宮への長い旅
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序 章 歓楽街の自画像
午後零時二十分すぎ、区役所裏の劇場では、はやくも歓楽の幕があがった。
ストリップ劇場の小さなステージに闇《やみ》が充たされ、かすかなノイズだけがスピーカーからもれる短い静寂ののち、昨夜の夢のような女が浮かび出る。
金色のスパンコールにつつまれたバストのふくらみが、たおやかに揺れながら青と赤のスポットライトに輝いた。妖《あや》しの微笑《ほほえ》みとともにダンサーが踊る。
曲は「WHO CAN IT BE NOW」、よく流行《はや》ったディスコナンバーが、ここでは男どもの渇望を耐えられないほどにかきたてる。
エリ子嬢と紹介された彼女は、パールピンクのつややかな唇、アイシャドウも銀白色の大きな瞳、のびやかなプロポーションで客を十分に魅了した。手ごわそうな、つんときれあがった腰がたわみ、ふくらはぎに力が入って、彼女はくるりとターンする。深いスリットの入ったドレスからのぞく脚は黒の網タイツ、膝の裏のやわらかい影がふるえ、まるっこい曲線がドレスの奥へ逃げ込んで交差する。
金ラメの長い手袋がひらひらと舞って栗色の髪をまさぐり、うるさそうにうなじの巻毛をはらう。挑発ぎみの妖しの視線が誰《だれ》かを見つめ、不敵に笑い、また誰かを見つめ、そうよ私よと、うなずいた。
湿った吐息で蒸れる客席。いましがたひと目で彼女を欲しいと思った男どもの切ない願いがまぶしい曲線にまといつく。
曲が変わった。これは彼女の選曲だろうか、はるかな昔、ルー・ドナルドソンが放ったヒット曲、「ALLIGATOR BOGALOO」が流れる。ご機嫌なエイトビートのジャズロックだ。官能的なアルトサックスの旋律にあわせてダンサーは身をくねらせる。いつの間にかドレスの後ろのジッパーがウエストまで開き、肩にスポットがあたり、白い乳房がほろりと浮かび出る。
照明がしぼられ、ミラーボールがまわりだして、ライトに浮かぶ胸は星屑のなかのおぼろな星座になった。淡くまたたく星とやわらかい肌。ドレスがぬけがらとなって落ち、香水とかすかな体臭がステージの底の風になった。
静まりかえったストリップ劇場をエリ子嬢の肉体が支配する。グラインドする腰の下へ、少しずつ、少しずつ、タイツがむかれていき、ピンスポットが体の線を描きだし、ハイヒールがころんと落ちて、妖しの微笑みが星屑の闇にこぼれた。
光のにじむ体にやわらかな影がもうひとつ浮かんだ。膝をかかえた腕の奥に、背のびをする両脚の交差点に、腹這いのお尻のくぼみに、霞んだような暗がりが、濡れて光る赤色矮星《せきしよくわいせい》をつつんでいた。
渇える者は愚か者か? 闇につややかなサーモンピンクの力に抗する問を、エリ子嬢は微笑みでとろかし、正直になっていいと、くねる体で語りかける。
「いらっしゃいな、欲しいものはこれでしょうに。助平でいいのよ。だってほんのひととき、この体をせいぜい愛《め》でるぐらいが楽しみだなんてつつましすぎていじらしいってものね。さあ、これが女ってものの、ちょっとお手軽な観賞法。傷つくのがこわくって手が出ない、いい女を頭のなかで思うさま抱いていけば?」
スローなバラードに曲が変わった。ダンサーの体の動きにつれて劇場の湿度があがり、見えがくれする赤色矮星が開かれていく。
「そうね、ほんとに欲しいものはつかまえられない。つかまえられないものが欲しいものだからよ。ほらこんなにもあなたをそそるこの私だって、踊っている間だけの幻だから」
やがて、女の体が明るすぎる照明のなかにあまりにもはっきりと放り出される。オナニーにふける女の演技がそらぞらしく、星屑の闇のなかで息づいていた幻影が命を失ってしぼみだす。男どもはふくらんだ欲望が逃げていくのを必死に追いかける。解剖学的な女体がそこにあるだけではうら寂しいのだ。
だからダンサーの恍惚の表情にすがりついて情念をかきたて、モノになりかかって死にそうな女の体と、自分との関係を紡ぎだそうとして物語を生む。
「いまこうして悶えている女が俺《おれ》の女だったとき、俺の腕のなかでじらしてやると、そうやって身をよじって、そうやって鼻を鳴らして、そうやってしがみついてきたものだったよ。そして、いつだっけか、お前が俺に抱かれるとき、お前はそんなふうに悶えて俺を求めるんだよ。そんなふうな表情で俺にしがみついたりして、どんなに俺を求めているかよくわかっているよ。そうだよ、そうやっているのは俺だ。そいつは俺の指さ、そこをいじくってやったときのお前ってなんてかわいいんだ? そんなふうに息をはずませて俺にしがみついて困らすんじゃない。わかってるだろう、俺とお前なんだよ、お前と俺がそんなふうだってことが俺をたまらなくさせるよ。息が苦しいのはお前だけじゃないんだ。お前がわかっているとおり俺ははじけそうなんだよ。いつだって俺とお前はそうだったよ。そんなふうに求め合って、そして、いつまでもそうしていたんだ」
エリ子嬢がステージのうえで身をのけぞらせ、客の数だけ生まれた物語が終わりのないまま閉じられたことが示される。
ストリップ劇場に生まれる物語は未完のまま次のステージヘ持ち越され、決着のつかない物語は、微熱となって男どもの体にためこまれる。
歓楽街が自画像を描くのはこんなときだ。
客席には客の数だけ物語が生まれかけるが誰もそれを語ったりはしない。物語は宙ぶらりんのままぼんやりした想念となってうずくまる。ストリップ嬢の刺激に疲れた脊髄や、ほてった股《また》ぐらのあたりや、照明を浴びせられた後頭部には物語の始めのシーンが明滅し、男が席を立って街へ出れば一緒にさまよい出てそこらに撒《ま》き散らされる。
区役所の裏、歌舞伎町の路地のそこかしこに、胸に抱かれたままの物語がこびりつき、誰もがそいつの匂《にお》いを嗅いで通りすぎる。歓楽街で逢《あ》ったいい女との傷つけあいの執着や、女にだまされた男の強がりや、つかの間のひどく刺激的な情事なども、豪勢に遊んだ昔のことや、喧嘩で打ちのめした下司野郎の行く末や、金持ちをつかまえたホステスの噂《うわさ》や、ビルを建てるつもりのバーテンの夢や、街で死んだボクサーの自尊心なども、完結しないエンドレスのイメージとなって歓楽街を彩ることになる。
ふくらんだ欲望が求めているのは、望みがかなうまでの物語である。充足された欲望は干からびた事実となって風に散っていく。
歌舞伎町の夜の数と人間の数とを掛けあわせるとたぶんそこに歓楽街の自画像が浮かびあがるはずだが、過去から未来へと続く時の流れにそってこの自画像はいつも変わっており、そして、刺激をあびてひりつく後頭部が求める歓楽のイメージはいつも自分勝手に翼をひろげるので、ただ無数の物語が、路地や、カウンターのむこうや、クラブの更衣室や、バンドスタンドのかたすみや、ホテルのバスタブに漂っているだけである。
そうした欲望充足との関係づけを求める物語の集積が歓楽街のイメージ、つまり自画像になり、この煙のようなイメージがさらに人々を呼び寄せることになる。
朝、歌舞伎町は自画像を失って貧相な姿をさらしている。アスファルトとコンクリートと、残飯とカラスの群れ、ただ不動産的な価値として建ち並ぶバービル、明かりが消えてしずんだ色のおびただしい看板。
それらは物そのものとなってそこにあるだけだ。昨夜なにかがあったのかなかったのか、そそくさと道を急ぐ化粧を落としたホステスもただの通行人であり、路地も、鍵をかけたバーも、のぞき部屋も、ソープランドも、ホステスも、ホストも、歓楽街が自画像を失えば、そえものにすぎなかったことを示すことになる。
日本一の歓楽街歌舞伎町といえども、白々とした白昼の光のなかでは都市の空虚な空間である。
ところがこのうつろな空間に欲望の夢が充《み》たされてくる夜ともなると、様相は一変する。
歓楽街はここにやって来る人々の願望や、かなえられない悦楽の悲哀や、ぬめった感触の記憶や、有頂天の快感で織りあげた物語を身にまとって生き返る。歓楽街の正体はこのまといつく色鮮やかな夢のようなものだ。
そこに発生する物語の糸はすべて検証不可能な曖昧《あいまい》さと、そうあって欲しい願いや祈りによって紡がれ、あまりに黒白のはっきりした事実は注意深く糸のなかから除かれている。この街にとって事実はうっとうしい。しかし、真実は必要である。この街にとっての真実はしかし、つかの間の欲望をつかまえるための嘘《うそ》のほうがふさわしかったりする。
歌舞伎町はそうして織りあげられた糸や布を裁断し縫い合わせ絢爛とした帳《とばり》を夜空にかかげる。
それは私たちが自画像を胸のなかに描きあげる手つきに似ている。自分が自分を想《おも》う場合、たいてい、いつだって、自分に好都合な姿を想いたがるものだし、嘘であってもかまわないけれども心地よくなければならない姿を描いているものだから。
歓楽街の織りあげる嘘を私たちが受け入れるのは、自分もそうした曖昧な物語を身にまとって生きるしかないからかも知れない。だから歓楽街の夢の帳は不死鳥のように夜ごと生き返り翼をひろげる。
無数の物語もあわあわとした曖昧さをふくみながら夜ごとに生まれることになる。
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第一章 夜の少数派たち
歌舞伎町は正真正銘の人工の歓楽街である。
歴史をたどれば、幕末期、このあたりは鴨《かも》の飛来する沼沢地で、現在、あたかも中心域を形成しているかのような劇場街の方形の中央広場のあたりが、沼の中心であったと地誌は述べている。
その湿地帯は、かつての淀橋浄水場建設の際の残土で埋め立てられ、府立第五高等女学校が建てられた。戦前、新宿駅から北方へ、靖国通りを渡って花の女学生たちが群れていたわけだが戦災で消失し、空き地となる。
戦後に入り、この地で佃煮屋《つくだにや》や仕出し屋を営んでいた鈴木喜兵衛が音頭をとり、一大娯楽街開発計画が着手される。この出発点から無数のドラマが演じられることになった。
「歌舞伎町」という風雅な響きの町名の由来は、昭和二十五年に半ば現在の町割りの姿を見せたこの娯楽街開発計画のなかにある。
劇場街の一画に、最新設備をそなえた歌舞伎劇場を建設するつもりだったのが、資金や歌舞伎興行界との折りあいがつかず、劇場建設案は流産し、その町名だけがいまに残ったのであった。
しかし、その日常性から浮き、遊び場としての風情をかもしだす絶妙のネーミングは、その後のこの街の運命をも呼び込んだかのようだ。
かぶく(傾く)という、普通でなく、傾斜の強い人間をさすこの言葉の、本来の意味をあててこれほどぴったりの歓楽街はないだろう。かぶいている人間たちの生棲《せいせい》する街。それが歌舞伎町なのである。
夕刻、歌舞伎町はうすい闇《やみ》の底できらめきだす。
路地に並んだ看板と電飾、ネオン、食い物と性の二大欲望がここで充足されようと身構える。
パチンコ店、のぞき部屋、ピンサロ、キャバクラ、フルーツ・パーラーと名のるゲーム賭博屋《とばくや》。あたりに負けないほどのけばけばしさで店を構える薬局までが、欲望をかきたて、ハレーションをまきあげて街を足もとから照らしあげる。
新宿駅の一日の乗降客はおよそ三百万人。その一割が、街へ流れるとして三十万人、いやおそらくはそれ以上の人間どもが、この街区で酒をくらい、性的欲望を充《み》たそうとし、なかにはうまくいって一月分のサラリーに近い金を手にすることのできるゲーム賭博機にコインを放《ほう》り込む。
五時を過ぎると江戸期の鴨沼のあたり、ミラノ座の前の小さな噴水のベンチで、つかの間のんびりしていた浮浪者が、うるさくてかなわないといった後ろ姿で居場所を移す。
同じころ、区役所通りの東、独得の雰囲気と、このところの地上げ屋の話題で全国に名を知られた酒場街「ゴールデン街」の看板にも灯が入る。
ゲイバー「みゆき」のみゆきちゃんが店に出るのは、六時少し前だ。
ここで十五年商売してきた彼女(?)はこのところ落ち着かない。
このあたりの店がポツリポツリと地上げ屋に買いとられ、二百三十軒といわれる店が細い路地に肩を寄せて並ぶそこかしこに、閉店するところが目につきだしたからである。
この一画はおよそ七千平方メートル(二千坪)、評価額は六百億円とも、いまとなっては一千億円という説すら通る今日このごろで、どうやらここで店を続けることはむずかしそうなのだ。
私は店の前に立ち、黒いドアを開ける。みゆきちゃんは、お化粧もせず、トレーナーにジーパン姿だ。
「あら、ごめんなさいね、これからなのよ」
三坪ほどの店内には、最新鋭のビデオカラオケ装置がある。五人も座ればいっぱいの小さなカウンター、その奥にボックスシートがひとつ。
かつてこのゴールデン街は非合法売春街であり、いわゆる「青線」といわれた街。路地に並ぶ店の造りも一風変わっていて、外から眺めれば二階建てで、なかは天井を低くした三階建てなどといった店が多い。さらに屋根に抜ける階段もあり、ハシゴ段のそのさきにネオンに照り映えたにぶい闇の夜空を眺められる店もある。青線のころ、その違法建築の中二階、天井裏のような三階の小部屋で秘めごとが演じられ、かすかな吐息も流れたのであった。
バー「みゆき」は一階にあり、秘密の二階の部屋は「文庫屋」という別の店が営業している。
みゆきちゃんは、やおらトレーナーを脱いで上半身だけ裸となった。
「これから顔をつくるのよ」
なんだかひどくなまめかしい裸身で、肩の線がそういってはあたり前すぎるけれども、女《ヽ》のように丸まっちい。
――あ、ひとまわりして来ようか?
と私はうろたえていった。
「ふふっ、色っぽい?」
背中を見せながらみゆきちゃんが笑う。
女としての恥じらいと、男同士の心優しい気安さで、こちらは錯乱ぎみにドキリとする。
女よりも女らしいゲイの妖《あや》しい微笑《ほほえ》みは、どうしてなかなかの吸引力があり、ふらふらと引き込まれかける。
――楽屋をのぞいてるみたいだから、あとで来るよ。
私はひとまず店を出た。
ゲイとジゴロと売春婦とポンビキとヤクザとミュージシャンと売れない文士と犯罪者と革命家と芸人と占師と似顔絵描きとテキ屋と蛇女ともぐり医者とホステスとバーテンとフーテン。新宿の人間たちの群像を想《おも》った。
私は自分の青春の残像と新宿を重ねあわせる。ルポルタージュの成立点のひとつに客観的な記述が求められている。ノンフィクション作家にとって対象に語らせず己を語りすぎることはよくない。このことに注意しながらこの仕事を続けるべきだ。
みゆきちゃんがスタンバイするまで、私は歌舞伎町を少しばかり離れ、紀伊國屋裏のジャズスポット「ピット・イン」の前へ無意識のうちに歩いた。
この時刻、「ピット・イン」では夜の部に出演するバンドの楽器が運び込まれる。歓楽街になくてはならない音楽、ミュージシャンたちの根城、ジャズのメッカ「ピット・イン」は、どうしたわけか歌舞伎町の街区からはずれて生まれた。
もちろん歌舞伎町のなかに「タロー」というジャズスポットがある。そちらについてもやがてふれることになるだろう。女と酒とブルースは歓楽街の中心軸なのだから。
「ピット・イン」の前に常連客のTがいた。
出演バンドのミュージシャンの名をじっくりと見ている。
この夜の出演者はテナーサックスの武田|和命《かずのり》を中心としたカルテットである。三年前まで山下洋輔トリオのメンバーだったテナーサックス奏者が、武田和命だ。
出演者名を眺めていた常連客のTは、私を見て挨拶《あいさつ》した。私と彼はいつ、どこで出逢《であ》ったのか判然としないまでも、いつのころからか顔見知りとなって久しい。
「なあ、武田和命とエルビン・ジョーンズのステージ、そっちは知っていたっけ?」
――急にまた、何で?
「いま想い出していたんだよ、なんとなく」
エルビン・ジョーンズは現在にいたるも有数のモダンジャズ・ドラマーだが、とりわけ一九六〇年代、ジョン・コルトレーンのバンドで活躍し、豪放でセンシブルで細やかな名ドラマーである。そのエルビンが一九六〇年代中ごろ新宿に滞在し、数多くの日本人ジャズメンとセッションを行っている。
「あのときの武田は吠《ほ》えまくったっけが」
とTはつぶやいた。
歌舞伎町を含む新宿にはさまざまな顔がある。
「戦後文化の醸造所」という声もあるほどだ。
焼け跡の安酒場に文士たちがたむろして怪気炎をあげ、その流れが「ゴールデン街」に流れ込み、ひところの「ゴールデン街」は作家と編集者たちの「場」となってにぎやかだった。
そして、一方で「ピット・イン」が中心軸となってのジャズマンたちの星雲も「ゴールデン街」を含んで大きくふくらんだのである。
「武田もよく頑張ってるわな」
とTはいう。
「いくつになっても、ドンバなんだよ、こいつは」と続けた。
人生にぶきっちょなバンドマンを愛するTの、ふともれた生き方への共感かも知れない。
この夕方、いつになくTはおしゃべりだった。路上での立ち話だというのに驚くようなことをいった。
「オレな、実はベーシストだったんだよ。というよりかは、ベース志望の半端者だったんだ」
Tの印象はかなりいいかげんな風来坊といったところだった。盛り場でなければ生きられないタイプの男である。
Tの年齢はわからない。四十五歳ぐらいのはずだった。ヒゲをのばし、少しやせすぎた貧相な体格、背をすぼめてふらふらと街を歩く。ときどきレストランの洗い場で働いたりするが、人から金を借りて食うのが本業のような人物である。
「オレ、東北の宮城県、古川市の出身でよ」
とTは人なつっこい笑顔ですり寄ってくる。
「どうしてもべースで食ってやろうと思ってよ、家出してきたわけよ。あのころは夜汽車で、上野にばかっ早く着いちまう夜行に乗ってここ、ピット・インを目ざしたわけよな。ジャズやりたくて家出しての夜汽車ってのはお前、胸に滲《し》みるぜ。窓に額をおっつけて口ずさんだ曲は何て曲だと思う? あのな、ふと気づいたらよ、オレがうなってたのは『人生劇場』よ。※[#歌記号]やあーるーと思えばどこまでやるさあーっての。してな、オレ、ジャズやるつもりで大決心しているわけな。それが知らぬ間に、村田英雄のド演歌をうなってるんだから、こら、センスねえんでないかって、家に帰りたくなったほどだった、ほんとに」
にまにまとTは笑い、「ちょっと金かせ、な」とたぶん話をはじめたときからそう思っていたらしいセリフをつけ加えた。
二千円渡すと、
「じゃ、明日ここで返すよ」
といって去る。
返すつもりなんかないのがTのいつもの手なのである。
しかし、新宿にはこういう男が棲《す》む空間が、まだ残っているということだ。
Tのような男がいる間、新宿はまだ大丈夫と少しばかり安心した。
七時をすぎて「ゴールデン街」は闇につつまれ、せまい路地が濃密な情緒で満ちてくる。
バー「みゆき」のドアをあけると、みごとに色っぽくなったみゆきちゃんが品よく迎えてくれた。
水割りを作りながらみゆきちゃんはいった。
「その後、地上げ屋の動きがなくてさ、いつまで商売できるんだか心配よ」
「ゴールデン街」の地権者、家主は全国に散らばっている。戦後の混乱期に青空マーケットからここに移った人々が、その後、店を貸したまま地方に移転し、そのあとさらに権利保有者がまた貸しをし、さらにまた貸しをするという状態で、権利が複雑になっているという。
「いまごろ地上げ屋は田舎をまわってるんじゃないの、やんなっちゃう」
しかし、みゆきちゃんはここで頑張りたいと胸を張って宣言した。
「だって移れないのよ、ほかも家賃が高くなって。ゲイ人生をかけてここで頑張るしかないんです」
彼女は年齢をいわない。その昔はゲイであることも伏せて店をやってきた。お客のなかにはみゆきちゃんが女だと信じ切って通ってくる常連もいたのであった。
「濃密サービス? それは求められればするわよ、だって私、男が好きなんだもの」
彼女は相模原市で生まれた。自分が好きなのは男であるという自覚を持ったのは中学生になってからだという。
「女っぽい遊びをしてた子どもじゃなかったのよね。遊ぶのも男の子と遊ぶほうが好きだったから。でもね、いま思うとさ、女の子として男の子と遊ぶのが好きだったのよね」
つけ睫毛《まつげ》で目もとがくっきりしている。
お化粧も濃くはないが、唇の線をふっくらと描いて、そそるような色気をたたえる。
「応援団の連中なんかとも仲よくして肩くんだりしてたんだけどさ、内心は女として体にさわったりしてるわけでしょ、どきどきして、こづきあったりしてるスキにさ、ぎゅって抱いたりして、ごまかしごまかしさわるのよね、大変だったし、ああ、こんなに男の子がいると思うと、急にボウーッとしてきたりで忙しい、まったくう」
やはり初体験というべきか、みゆきちゃんは相手にはそうとは悟られずに、十五の春に好きな男とそれを果たした。
「二人でいじりっこしただけよ」
はにかんで、そのあと彼女はグラスをあおり、続けた。
「こんな話、まともに話すもんじゃないのよ」
一度、機械関係の工場へ勤めたが一年で退職する。世間はまだゲイの存在をいまほどには知らない。
「新宿という街がなかったら」
といってみゆきちゃんは考え込み、短からぬ沈黙ののちいった。
「男を好きな男がどうやって生きていくかわからなくて途方にくれてたでしょう。この街に来て、ゲイバーを知って、あ、こうやって生きていけばいいんだって思ったわけ。やっぱり工場なんかでは、私のような人間ははじき飛ばされるのよ」
みゆきちゃんはこうして新宿の住人となった。新宿の夜であれば、彼女たちにも生きて行く空間がたっぷりとある。
「切ない恋よ、どんな恋も」
とみゆきちゃんの眼《め》が淡く悲しみをたたえた。
ゲイの身の恋は、男を求める心が純なだけいつも裏切られる。
「私を女だと思って通ってくれた男の一人は、本気で好きになってくれてさ」
とみゆきちゃんはカウンターのむこうで自分の手の指を見つめた。
ゲイの心は架空のなかでいつも揺れ続けなければならない。つのる気持ちの分だけ、いっそう女でありたいと願う女心。この世にあり得るはずもない夢の女へむかって自分を装い、その必死の願いが恋を悲しみの色に染めあげることになる。
「私も惚《ほ》れて、むこうも惚れて、そんな客が来てくれた夜はドアを閉め切って、二人だけになって飲んだもので、さ」
紅《あか》い小さな灯《あか》りの下で、みゆきちゃんは好きな男の求めを拒み、内心は求め、火のように燃えあがる。
「女としての私を好きになってくれているその男を、私は死ぬほど好きだし、死ぬほどうれしくて泣きそうなほどなわけ。でも、その男は私の正体を知ったら去っていくじゃないか。だから私には、恋の成就は不可能なわけ」
語りながら諦《あきら》めをにじませた笑みを浮かべる彼女は、
「はは」
と声にもならない吐息で笑ってみせ、
「逃げ帰っちゃうわよ、ひと言で」
とぶっきら棒にいって次の言葉を呑《の》み込んだ。
次の言葉とは〈私を好きだったら、私が男でもいい?〉といったきついひと言に違いない。
こんな言葉は間抜けなギャグ漫画家の使う安易な笑いのネタになる。ゲイのみゆきちゃんは、だからさきまわりして「はは」と笑ってみせたのだろう。
「心が女の男に、充たされる恋は万にひとつなのよ」
とため息をつく。
実はこの心の事情を理解するのはむずかしい。
ホモセクシュアリストとひとくくりにされる男たちの心理には、微妙ではあるが、しかし、くっきりとした違いがある。日本語の場合、心が男であって男が好きな者をホモ、心が女であって男が好きな男をゲイ、こうした倒錯を商売にしてしまう者をオカマというのだそうだ。
「かぐや姫は、月のお姫さまでさ」
と彼女は話題を変えた。
「彼女も自分の正体をかくし続けて泣いたでしょ」
みゆきちゃんの恋は、月の人と地上の人との、不可能性のなかに沈み込む運命だといっているらしい。自分の正体をかくす恋は、日本の伝統の説話のように切実に響く。竹取物語や夕鶴の説話に通じ、恋しくば訪ね来てみよと泣く女狐の嘆きにも通じよう。
「でも、男の前で泣きもできやしない。そこのボックスに座ってさ、男の腕が肩にかかって、胸にのびて、やがてもっとさきに手がのびてくる。だめよってふり払う私の気持ちはその男が欲しくて気が狂いそうなわけ。歌でも歌ってまぎらして、まるで商売上手な女みたいに男を追いだすわけ。男は怒っていうわけよね、『お高くとまりやがって』ってさあ」
どんなにひどい言葉をあびせられても、その恋を、女と男の恋としてつかまえようとするのなら、最後のひと言をいってはならないし、体をあずけるわけにはいかないのだ。
「ひどく疲れてたわねえ、若いころは。でも、女でありたいと思っていたから緊張してたわよ」
ゴールデン街に店を出したころの彼女には、不可能な恋にかける情熱があった。
遅い午後、たっぷりシャワーをあび、女でいられる夜にむかって雑念もなく化粧をこらす。街を歩けば信号待ちの交差点で男どもは必ず声をかけてきた。
「男の視線を受けながら街を歩くのは素敵なもんよ、そりゃあ。子どものときから好きなようにお化粧して、一日も早く街を自由に歩きたかったんだものね」
街の視線のなかには同じ倒錯の目もまじってはいたが、そんなものは無視して歩く。
「私が欲しいのは、ごく普通の男なのよ。私らの世界でいうノンケの男がお目当てなのよ」
〈ノンケ〉その気のない男の意味でノン気なのかも知れない。
「普通の男、安サラリーマンでもなんでもいい、気のいいごく普通の男が好きで」
といって、さらに、
「びっくりしないでよ、そしてさ、本当の夢はその男の子どもが欲しいのよ、信じる?」
――あんたは嘘《うそ》なんかいっちゃいないよ、その言葉信じられる。……しかし……。
「しかし、なあに?」
とみゆきちゃんは身を乗り出す。
――つまり、あまりといえば女なんだなあ。
「チンポコがあるだけ。そこが違うだけの私はお・ん・な」
――うーん、そいつは困ったもんだ。
酒もすすみ、ほんのり酔いもまわった時刻となって、みゆきちゃんがひとつだけ成就しそうだった恋を教えてくれた。
「若い男でね、四ヵ月|同棲《どうせい》したのよ。邪魔にならないように世話をして、好きなようにさせていたのよね。それでもぷいと逃げていっちゃった、ははは」
――どこで知りあったの?
「恋なんてものじゃなかったのよ、実はね。二丁目あたりでつかまえた女の好きなただの男のコよ。四ヵ月間、少しばかり同棲の真似《まね》をした。知ってたんだけどさ、お金が欲しいだけの冷たい奴《やつ》だってのは。それでもひとつ部屋で暮らしてみたかった。それだけの夢を買ってみただけだけど、いなくなったあとに淋《さび》しさとくやしさが倍になっちゃって困ったわ」
二丁目というのは新宿の二丁目。一帯にはひっそりとホモセクシュアリストたちが集まる店が並んでいる。
そこに若い男たちも闇《やみ》にまぎれてやってくる。二十歳から二十三、四歳どまりの男たちは、男の好きな男たちに若い体を売る。
手っとり早くお金を手にしたい年ごろなのだ。その男の子たちは、一時間ほど眼をつぶって我慢すれば、二万円、三万円という金を稼げるバイトがあることを耳にしてやってくる。夜の街を吹きぬける、金になる噂《うわさ》にひかれた若い彼らは、ときに酷薄な目で客を軽くあしらう。高校を出たばかりの工員や、六本木でおしゃれして遊びたい学生や、どこかの倉庫でほこりと格闘して、いつも小遣いに困っている連中にとって、新宿二丁目のそうした店での短い夜は、ほんの少し|ヤバめ《ヽヽヽ》の稼ぎ場にすぎない。
――何ていったっけ? 売り専の店だっけ?
「そうそう、ウリセンの男の子よ」
とつまらなそうにみゆきちゃんは答えた。
売り、つまり男の売春を専門にする店を「売り専」という。
といっても店が客を斡旋《あつせん》するわけではない。いってみれば、そうした店は彼らの待合室といった役どころだ。体を売りに来た男たちはカウンターにただ座っている。客はそこで男を誘い、店には二人分の飲み物の代金を支払って外に出る。宿に入ってつかの間の恋が営まれ、もっと稼ぎたい男の子はふたたびカウンターにもどる。
都内に三万人とも五万人ともいわれる、男の好きな男たちの、世間をはばかる夜の社交場は、エイズ禍の現在でも途切れることもない。それでも、東京圏内に住むホモセクシュアリストたちは地の利を得て、欲望を充足させることができる。地方の小さな町に息をひそめて暮らすホモセクシュアリストたちは大変だ。わざわざ東京へまでやってきてやっと相手を得ることになる。
私はかつて、そうした男たちが一夜を過ごす旅館を取材したことがあった。みゆきちゃんの場合と違って、その宿は男であって男が好きな男たちが暗い部屋で思いをとげる宿であった。思い返しても息のつまる取材ではあったけれども、求める相手の相対的な少なさのなかで、切実な欲望が交歓されていることだけは見とどけることができた。世間の多数派が形成してきた倫理規範からおのずとはずれてしまった人々にとって、その通称「ホモ宿」といわれる場所は、砂漠のオアシスに似ていよう。
そのオアシスではしかし、ひと部屋にびっしりと夜具が敷きつめられ、客はそこで思うさま、短い会話もあるかなしかの交歓をくりひろげ、相手を求めて飽くことがないのであった。抑圧を受ける性の発露が黒い炎となって燃えているかのような印象だったのである。
それだけに、万にひとつの可能性を求めて暮らした四ヵ月の果ての別れの切なさ、悲しさはみゆきちゃんの胸に手ひどい傷を負わせたに違いないと推測できた。
――それで、その後は?
「求めないことよ。全部を求めれば傷つくだけじゃない」
――消息はない? その男の。
「どこか、東京にいるんじゃないの、女と結婚して。女はいいわね、のんきにしてても旦那《だんな》がいて、奥さんをしていられるじゃない」
――きついかも知れないけど、その女になれないチンポコ、取っちまう気ない? そういう話あるじゃないか。
「だめみたいね。セックスでの満足が残念ながらやっぱり射精なのよ。それがなくなると変になるみたい。手術しちゃった人は、だんだん表情が暗くなっていくような気がする」
みゆきちゃんはゆっくり水割りを飲んだ。
――いい男が現れればいいね。
と私がつい気やすめをいうと、
「ま、なにいってるのよ。私のことわかるんなら」
といい、じっと見つめる。
けなげな女らしい表情ではあるが、しかしその目を自分の心のどこで受けとめるべきか、私は瞬間的に幻惑し、そのまま呆然《ぼうぜん》としたアホ面で見返すと、みゆきちゃんはくすりと笑うだけだった。
それから何日かして、歌舞伎町二丁目、新田裏の交差点に近いスナック「波」を訪れた。
そのビルの地下のフロアは、韓国系や台湾系の店が多い。ひところコーリアン・クラブといえば値段も高く、またフリーでは入りにくい店が多かったが、そのようすはここへきて大きく変化している。
新宿でならごく普通の値段の店で、経営者や、ママ、そして従業員たちが韓国人女性という店がポツリポツリと出現しはじめている。
特別に異国趣味を売る店ではなく、ありふれたスナックとして彼らは店を出しはじめているらしいのである。
新宿にはひと足さきに国際化の波がやってきているが、それは赤坂や六本木や、あるいはかつての基地の近くの繁華街などのような雰囲気とは違ったものだ。
インドシナ難民がもの慣れた手つきでビルを清掃していたり、台湾からの留学生が新聞配達をしていたり、日本人女性のバイトのホステスさんのように、何気なく酒場で働いている韓国人女性がいたりするのである。それは盛り場としての日常から浮いたりはしない、地に足のついた外国人の出現といえよう。
彼らはいまは少数派かも知れない。しかし、もしかすると彼らの方法で歌舞伎町に根を下ろし、この街の多様性をひとまわり豊かにする役割を担うかも知れない人々のはずだ。
そのスナック「波」は、十人も客が入ればいっぱいの小さな店だ。
ママは韓国のソウルから日本へ来て十年目。いまでは流暢《りゆうちよう》な日本語を話す。従業員は三人。アルバイトの女性もいて一人増えたりするが五人までは増えない。長野県出身の日本人ホステスさんに韓国人女性が二人のカラオケスナック。お通しに本場もののメンタイコやキムチが出る、ごく普通の雰囲気の店だ。
いまそこに、新宿にやってきて二週間めの韓国女性マーちゃんがいる。親類訪問で日本へやってきて、短い間、この店を手伝うことになった。
韓国では外貨事情もあり、海外旅行の許可はむずかしく、留学か商用か親類訪問か、しかるべき理由がないと出国できない。彼女が日本滞在の理由を「親類訪問」というのは、出国目的としても正当なものなのである。
マーちゃんはまだ日本語はカタコトだ。しかし、お客さんを相手にこぼれるような愛嬌《あいきよう》で人気は上昇中。ときに目にもあざやかなチマ・チョゴリを着て店をぱっと華やかにする。
彼女の眼に東京はどんなふうに見えているのか、そして歌舞伎町はどんな街に見えているのか、ママさんの通訳で訊《き》いてみた。
「夜の電気が明るくてびっくりしています。ソウルで育っているので盛り場そのものには驚かないけれど、どこもかしこも明るくてムダなほどに明るい」
――マーちゃんは外国ははじめて?
「はじめて」
――日本人のお酒の飲み方はどう?
「まだよくわからない。でも、韓国ではもう少しのんびりと、ゆったりとお酒を楽しんでいるように思います。韓国でこういう店を知らないので、家でお酒を飲んでいる韓国人男性しか知りませんけど」
私の質問をママが引きとってマーちゃんのかわりに答えてくれた。
「何ていうのかな、礼儀正しいといいますか、おたがいに気をつかいすぎて、ほんとに楽しんでいるのかどうか心配になることもある。だって、仕事が終わってほっとしにきているのに、おたがいにとても気をつかっているように思えるんです」
これは少なくとも私にとって意外な観察だった。私たちは酒場でもオフィシャルな姿勢を崩さずに上下、左右、気をつかいながらつつましすぎるほどの態度で飲んでいるというのだろうか。もちろんそういう酒を飲まざるを得ない席もあるが。
ママは何ごとかマーちゃんに尋ね、マーちゃんの言葉を通訳したママが私にいう。
「疲れているみたいって、彼女は日本人男性をそう感じるんですって」
滞在二週間目の韓国人女性が私たちの心の何事かをしっかりと見ぬき、そうした疲労を抱く人々の歓楽街歌舞伎町について、
「明るいけど、くたびれる街」
とさらにつけ加えたのだった。
たしかにこの世界最大級の歓楽街にはじめて踏み迷った人は、この街の路地から路地に塗り込められた消費を誘う欲望のカタログ、すべてに値段のついた商品のメニューにたじろぐに違いない。
私たち(高度に発展した消費社会に住む人)にとって、こうした消費欲をそそるための情報の洪水は、いつのまにか慣れさせられて「疲れる」という感覚でさえ摩滅して果て、ただ明るすぎる闇《やみ》のなかにいる。だが、ソウルの普通人、たぶん消費社会の入り口に立つ生活人の感覚のままこの街にやってきたマーちゃんにすれば、この私たちの世界は妖《あや》しの世界、ヌードの看板もけたたましい。
「びっくりして、自分の顔が真ッ赤になるのがわかりますよ。だから、そういう道を通るときは、足もとだけを見て歩きます。だから、歩いている人に二回ぶつかりました」
通訳のママを通してマーちゃんはこんなふうにいった。目をまん丸くあけ、驚いてみせてから首を振って「あきれた」といった顔をしてみせる。
私たちの歌舞伎町が、隣国の人から眺めれば、目をむいてあきれる場所だということはこの稿を進めるうえでの、ひとつの前提であることに、注意していなければなるまい。
ママがマーちゃんの反応を引きとって言葉を重ねてくれた。
「ソウルでも、たとえば武橋洞《ムギヨドン》のあたりは、それはにぎやかな盛り場ですけど、セックスが街のおもてに飛び出ている、ええと露出している?」
――はいはい、露出している……。
「ここのように露出しているなんてことはありませんよ」
――それはこの街が進んでいるからだと思いますか? それともおかしくなったから?
「考え方が違うのでしょうね、楽しむ方法が違う……」
――ははあ、文化が違う?
「あ、そうですね、文化が違う。韓国では、セックスのことはかげにかくす文化でしょう」
――かつて日本もそうだったんですがね。
「忘れたのですか? それとも西欧文化、アメリカの影響を受けすぎたのですか?」
――その理由をこれといってあげるのはむずかしいな。大急ぎで近代化してきて、置き忘れてきた文化はたくさんあると思うけど。
「韓国もいま急いでいますよ。オリンピックの開催国としても、二十年ぐらい遅れて日本を追いかけています。けれども……」
――けれども?
「はい、韓国は韓国の文化を忘れないと思います」
どうにもママの言葉が重く感じられる。いまとなっては日本人がこの千年来あたためてきたつつしみ深さは残り少ないという想《おも》いを、私も抱いている一人なのだ。
――そういう国へ行った日本人男性が、キーセンパーティーをやり、お金を出して韓国人女性と遊んでいますね、どう思いますか?
「いろんな人がいますから、そういう人はそういう人で仕方がないですね」
――でも、歌舞伎町のようにその日本人男性のやり方が韓国人の前に露出していたとしたらどうでしょうか?
「それは嫌われますよ、軽蔑《けいべつ》されると思います」
――なるほどね、ただ金で遊ぶから悪いだけでなくて、ぶざまなんだろうな。
「ぶざま? どういう意味ですか?」
――みっともない、恥ずかしい、だらしがない、見ていられないほど美しくない行動……。
ママは少し考え、小さくうなずいた。
私は四年ほど前、韓国旅行をし、ソウルのロッテホテルのロビーでつぶさに日本人男性の行状を見る機会があった。
仕立てのいいダークスーツに眼鏡、なかなかの紳士ぶりのわが同胞が、韓国人女性を連れて続々とホテルヘ帰ってくる。あたりをはばかる風情もなく、団体で、みなにやにや笑いをたたえ、声高に話しあいながらエレベーターヘ乗っていく。どうにもぶざまな遊びぶりであった。今夜もぶざまな日本男児がたいそうなお金を落としていくの図、であった。
念のため申しそえるが、私は決して清廉潔白な男子ではない。むしろだらしなく酔い、あらゆる欲望、面白いこと、気持ちのよいことには手もなく転ぶ男子である。したがってそのときわが同胞を見る私の目は、倫理の高みから見ているものではなくて、同類の男の一員としての視線である。だがしかし、男子ひとたび興おこらば千軍万馬の戦場へ乗り出してかまわないにしろ、あの姿はダサイよ、と思わざるを得ないのであった。
私はロッテホテルでの日本人男性の行状をママに伝え、私の感想をいい、そのことについてどう思うか尋ねた。
「はっきり見えるといやになることは、ほかにもたくさんあるでしょう」
彼女は軽蔑をかくしてこう答え、微笑《ほほえ》んだ。
会話がきまじめに流れ、しばらく飲んだ。
ママ自身について最小限のデータを得たのは酔いできまじめさがうすれてからだった。
彼女は歌手であった! 韓芝英《ハン・チ・ヨン》の名で十年前にデビュー。曲は「クイワ・ヨンウォンヒ」、日本語でいえば「あなたと永遠に」。激しい恋の別れの歌なそうな。
日本での歌手デビューを目的に来日したが自分の歌唱力が「まだだめ」と思い、考えることがあって、もう少し東京で頑張るのだそうである。
「疲れる街」のイメージをもう少し外から眺めてみたい。
スナック「波」を出てゴールデン街方面へ少しもどったところに「すず」というスナックがある。せまい階段をあがった二階の店だ。ここに台湾からの留学生ランさんがアルバイトで働いていた。某私立有名大学経営学部の二年生。台北市出身。仕送りを受けてアパート住まいだが、東京の物価が高く、これまでもさまざまなアルバイトをしている。アルバイト情報誌を読んでここの仕事を見つけた。
店はごく普通の、むしろ健全といっていいスナックで、カウンターに十人、後ろのボックスに十二、三人分の席。ほとんどが常連客の気さくな酒場。日本語がかなり上手なこともあって彼女はすぐにお客になじんだ。
丸顔で笑顔が明るい。お化粧もなし、服装も学生さん風、少しこみ入った会話でなければ外国人には見えない。というよりも、いまではまったく消えてしまった二十年前の日本の女子大生のような雰囲気でカウンターのなかに立っている。
――新宿はどうですか?
「面白いですね。たくさん人がいて、にぎやかで、少しこわくて。でも、自分が落ち着く街ではないです」
――どうして?
「新宿は女の子にとって、何だかこわい街だと思うんです。駅前のあたりだけ安全」
――台湾とくらべてどうですか?
「東京に来て驚いたことは、男の人が夜遅くまでほんとにお酒を飲むことですね。どうしてこんなによくお酒を飲むんだろう。台北ではみんなお家《うち》に帰って楽しむのに」
――早く家に帰ってくつろいだほうがいいのにと思いますか?
「はい。いつもこんなに夜遅くまでお酒を飲んでいて、日本の奥さんが怒らないのが不思議です」
――風俗ギャルという言葉を知っていますか?
「はい、週刊誌を読んで知っています」
――どう思う?
「信じられないですね。学生もやっているっていうのは本当でしょうか。驚くことが多かったですね。日本人はみんないやらしいのかと思ったときもあります。いまは、日本人の一部の人だということがわかりましたが」
彼女はその「驚く」ことのひとつとして、彼女の友人の台湾の一家四人が体験したことを話してくれた。
その家族は、娘が日本の大学に入学できたのでそれを機会に日本へやってきたという。
歌舞伎町をぐるぐる歩いて、呼び込みに誘われるまま、ある劇場に入った。あとで気がつくが、そこはストリップ劇場だったのである。しかし、両親と兄妹の四人は、ボードビルか、奇術か、歌謡ショーのようなことをやる劇場だと思ったそうだ。
なかはちょうど幕間《まくあい》で暗く、四人そろって席についた。そして、眼《め》の前で演じられたのが、大変なライブショーだったのである。
サラリーマン家庭の四人は、どうしたわけか席を立つことができなくなり、しばらく座り続け、母親がやっとわれにかえり、みんなをうながして劇場を逃げだした。話を聞いて推測するに、どうやら「本番マナ板ショー」という場面に一家は不運にも遭遇したらしいのである。
「ストリップだけだったら、理解できたかも知れませんけど、お客さんがステージのうえにあがって、なぜ平気なのか、その友人の家族はほんとに驚いて、会話がおかしくなっていまでも変なのだそうです」
とランさんは語る。
もちろん日本の家族であっても、そんな場面に出くわせば家族内の感情交流がこわれて失調状態になることは予測できる。その台湾の一家はおそらく手ひどい不意打ちをくらったことだろう。
「台湾でもそういう場所があるかも知れませんが、そういうことをする場所は、そういう雰囲気のところにあって、家族連れではいけないような街の雰囲気があって、わかると思いますよ。でも新宿はすぐそこにある」
いわれてみればそうだ。公的な場所、たとえば区役所の裏にストリップ劇場、さらにイージーセックス処理センターとでもいえばぴったりの「桜通り」がある配置は、街としてはどこか失調した状態かも知れない。逆にいえば、欲望の商品メニューが、時と場所の秩序を食い破って“露出”してしまっているのが歌舞伎町であり、その狂いざまが人をひどく疲れさせるのかも知れない。同じ東洋文化圏の人の口から「驚く」とか「疲れる」とか指摘される異界を形成している奇妙な配置の街。
あるいは、本来はべールのむこうにかくしておかなければならない欲望のあからさまな姿が、文化規範の網目をかいくぐって露出してしまっている街区が歌舞伎町なのかも知れないのである。
かつて日本には聖と賤《せん》が交換する領域があった。聖を表象する神社や仏閣のすぐ近くには乞食《こじき》の集まる場所、そして売春窟《ばいしゆんくつ》などが、たがいに必要な装飾、あるいは必須《ひつす》な装置ででもあるかのように隣りあって存在していたのである。
だが、この文化規範的な落ち着きのいい配置がこわれ、聖も賤もきわだった表象性をはぎとられて商品化されていく。たとえ盛り場であっても、あるべき場所にあるべき物がなければその形態は不安定となり、あやうさのなかに浮き、かくすべき物が露出して消費一般のなかに埋没してしまうしかない。
この変てこな街のたたずまいを、西洋文化圏の人々に尋ねてもあまり参考にならない。彼らはたぶん歌舞伎町をエキゾチシズム一般のなかでとらえるだろう。とにかくめずらしい電気じかけのオリエンタル、ハイテクの異教徒たちのドギツイ遊び場なのだと――。
しかし、東洋文化圏の人々は、私たちと同質の、よく似た村や根っこが同じ思想や宗教や規範をもっている。東洋圏の人々にこの街の印象を訊けば、あわせて私たちの社会がどこまで変化してしまったのかを知る手がかりも得られよう。
歌舞伎町の東洋の外人、じゃぱゆきさんたちや、留学生や、ほんの少しだが受け入れた難民や不法滞在者やストリッパーや、ハシシュの運び人たちの眼に映る歌舞伎町は、日本人にとってもあわせ鏡となる。脱亜入欧というそれ自体が、自己矛盾したスローガンを振りかざした日本史の、それこそほんとの「ここで会ったが百年め」という次第だ。
ルポライター野村進が、新宿・歌舞伎町について東洋圏の人々にきめ細かく取材しているので引用する。そのなかからフィリピン人留学生男女四人の歌舞伎町に対する印象をあげよう。
「ストリップ劇場のすぐそばに花屋やブティックがあるけど、客は入るんだろうか」
「街に子供がいないね。マニラには、新聞やタバコを売り歩く子供が大勢いる。こういう場所に子供がいないのは、いいことじゃないかな」
「何でも商品化してしまう所ね。とくにセックスが売り物になっているのは気になるわ。食べ物も売るし、服も売るし、女も売るという感じ」
「どの人が何をしている人なんだか、さっぱりわからないな。マニラなら、あれは水商売、あれはOLと、すぐ分かるんだけど……。それから、こんなに若い女性たちが盛り場にいるとは思わなかったね。いったいどこに行くんだろう」
「歩いている人の顔に、表情がないような気がするわ。道でケンカしている人の姿も見かけない。やっぱり日本人は規律正しいのね」
[#地付き](別冊宝島六十六号「盛り場の異人たち」より)
大都会のすごみからいえば東京などはマニラに遠く及ばないだろうが、右の引用中「なんでも商品化してしまう所ね」という言葉が私にとっては「やっぱり」という感じである。
欲望を商品化し、メニュー化し、記号化し、スケベ心をソープランドからピンサロ、キャバクラ、ラッキーホール、のぞき部屋、ファッションマッサージ、裏ビデオ個室、などなどまで際限もなく細分化して値段をつけまくっている街。その値段づけという了解の仕方は「はっきり見えてはいやになること」をあからさまな場所へ引きずり出していることを意味しているはずだ。いい換えれば、ここでは男性の射精反射という、それだけをとりだせば、くしゃみに似た反射へ至る道すじ、その機序の段階がそれぞれにお金に換算されていることになろう。セックスが商品化される以上、あたり前なことにそうなるしかない。
少なくともいま、脱亜入欧の夢かなえられたらしいわが国の、その欲望の姿かたちが露出する歌舞伎町の味わいのひとつは、スナック「波」のマーちゃんのいう「疲れて、顔が真ッ赤になる」あたりにある。
ああ、虚栄と歓楽の街歌舞伎町よ、あんたはアジアを脱《ぬ》けだしたらしいけれど、いったいどこへ入っちゃったのだ?
[#改ページ]
第二章 歓楽街の条件
とはいうものの、歌舞伎町がこれからさき、どこへむかって進もうとしているか、その予測は、実はむずかしい。
あらゆる欲望をカタログ化し、値段表をつけ、細分化してしまったその果てに歓楽街としてのゆとりの空間や、情緒を維持できるかどうか、未来像は欲望の濛気《もうき》のむこうに不確かにけむっている。
盛り場にも発生から終幕までの不可逆的な発展の法則があるとすれば、歌舞伎町は壮年期をすぎて老年期に入り、勢いを失いかけているのかも知れないのである。そのようなきざしは昭和五十九年の風俗営業法改正以後、じわじわと現れている。
向島、玉の井、浅草、新橋、神楽坂などひとしきり栄華を極めた遊興地が、多くはそこに集まる人々の遊びへの条件を担うことができなくなって頂点からすべり落ち、二度と盛り場としてカムバックできなかったように、歌舞伎町も二度と帰れない道を突っ走っているといえよう。
しかし、少なくともこの十年間の歌舞伎町は日本の各地で発明された性の商品化のアイデアを強大な磁石のように吸い寄せ続けた。
あらためてその広さをあげれば、〇・三四平方キロ、歌舞伎町と名のつく街区だけの広さは後楽園球場の八倍から九倍ぐらいの広さにすぎない。
そこに二千軒以上の飲食店がひしめき、一晩に三十万人とも四十万人ともいわれる客がやってくる。それは強力な磁場であろう。
そこに吸い寄せられたアイデアはまず、京都で誕生したノーパン喫茶が一番手とされる。この新商法を考えだしたのは不動産業の人物で決してその道の人間ではなかった。
しかし、特許権があるわけでもなく、歌舞伎町はすぐに真似《まね》をした。そのことによって全国の盛り場ヘアイデアが拡散する。歌舞伎町には、こうした新商法をオーソライズして商標化する機能を持つ一時代があった。
同じころ、それまで大人のおもちゃ屋だった店にビニールで包んだ写真集が登場し、またたく間にビニ本ブームに発展し、さらにウラ本から、現在のアダルトビデオブームに通じる商品の開発ルートが形成された。
個室マッサージ店は大阪のミナミで誕生した。この商売のミソは売春防止法にふれないスペシャルサービスにあり、料金も安く、歌舞伎町で認知されるや、ブーメラン効果のように全国に広まる。
東京・府中で誕生したとされるSMクラブも、昭和五十六年ごろから歌舞伎町周辺の雑居ビルに出現し、博多中洲や札幌すすきのへと散っていく。
逆に札幌で五十五年ごろに現れたマントル(マンションで“トルコ風呂《ぶろ》”と同じサービスをする)は半年後には新宿に出現する。その筋の経営者の話によれば、三百五十万円ほどの改造費で誰《だれ》でも店を持つことができ、サービスする女性を専門家に依頼すれば、この投下資本は一週間で回収されたという。
のぞき部屋も元祖は大阪だった。しかし、大阪ののぞき部屋の看板は「歌舞伎町直輸入」などと、この遊びがメジャーリーグで認知されたことをことさらに強調するのである。
以下、マンションヘルスは赤坂が発生地、デート喫茶は横浜というように、歌舞伎町のオリジナルは驚くほど少ない。純粋な歌舞伎町オリジナルは、素人ふうの女性が、にわか仕立てのショーのような演《だ》し物《もの》を演じるキャバクラぐらいかも知れない。
かくて、歌舞伎町は燃えさかった。
それは、欲望の対価表を埋めていくことと同じことを意味した。
たとえばその対価表は、ランダムに考えて次のように快楽をランクづけするのである。
女性の肉体をしげしげと眺める行為と、サウナ風呂ですっきり汗を流す=三千円ほどで同額。これはまた、ラッキーホールという奇妙な穴ぽこでの一回の射精の値段と同額。
ウイスキーをボトルキープしてカラオケで歌うのと、ファッションヘルスでのサービスは一万五千円ほどで同額。
中級クラブでの一時間半と、ソープランドでの八十分が三万円で同額だし、ぼったくりピンクキャバレーでの最低料金と、パチンコでスッテンテンに敗《ま》ける限度額が我慢の限界を定量化し、二万円で同額となる。
こうしたあやうい対価表のバランスのうえに立って、歓楽街としての歌舞伎町は成立しているのである。
さきに、歌舞伎町は盛りをすぎたといったが、それはこの快楽の値段のバランスがくずれだしたことを、別のいい方でいったにすぎない。この街区も地価の暴騰によって、風俗営業店の経営が苦しくなっている。地代は異常に高く、経営にひびいているのだ。
盛り場の遊びの情報を掲載していた男性週刊誌は「サンドイッチはいかが? オカマとトルコ嬢とのトリプルプレイ」とか「やりっ放し八時間四万五千円」などと歌舞伎町の快楽情報をはやし立てた。しかし、このところこうした記事は、その筋のお達しもあったのか、すっかり姿を消し、様変わりしたかのようだ。
歌舞伎町の地代の高さは、家主の横暴だけにあるのではない(もちろん不労所得としては十分にもうけてはいるが)。
むしろ、盛り場特有のまた貸しの風習が原因なのである。いや、風習などというよりは、リスクを避けた安全地帯に店の所有者が逃げ込んでいても、十分すぎるほどの家賃収入があがるシステムが、歌舞伎町ではできあがっているというべきだ。
たとえば、コマ劇場近くの不動産屋のウインドーには次のような物件がずらりと並んでいる。
「歌舞伎町〇丁目、〇〇ビル三階、十坪、リース、保証金千七百四十万円、賃貸料二十二万円」
この物件は、また貸しの物件である。それを示すのが「リース」という項目。第一次所有者から店を借りた人物が、さらに第三の人物に店を貸そうという物件である。
さきにゴールデン街で見てきたようなまた貸しのセオリーが、流通の場面で何の不思議もなく定着し、次々に保証金と家賃を上のせして、不動産屋の店頭に流れ、家賃は吊《つ》りあげられていくわけだ。
新たに店を出そうという者は、この金額に一千万円からの内装費をかけ、運転資金を準備しなければならない。さらに保証金は、一年で二割の償却が相場である。そして、契約期間内に貸借契約を解いても(つまり店がつぶれても)、その償却率はそっくり召しあげられる。ということは、この物件の場合、二年間借りて、家賃のほかに三百四十八万円が償却されるということを意味する。
このような事情で、歌舞伎町の商売のやりにくさが生みだされ、それは営業の方法をも決めてしまうことになる。
高い家賃を回収するためには、突撃的なピンクサービスで収益率をあげるか、もっと確信犯的にボッタクリの店をやることになる。
これが、快楽の対価表、バランスをくずしてしまった背景であった。
それでも、歌舞伎町で商売しようという人間は次々に現れる。腐っても歌舞伎町というべきか、ここでなら危険な商売でも、客が多いだけ可能性があるというわけなのだ。
だが、当の不動産屋が、ここでの商売のきわどさをいうのである。
「まあ、八割ぐらいの人は一年以内に撤退するっていうのがほんとのところじゃないすかね。いまの家賃は経営が成り立つか、成り立たないか、ぎりぎりのところに設定されているんですよ。だから、無理してやろうとはするけれど、続かない」(H不動産店頭員)
経営が苦しくなって、つい闇《やみ》の暴力団系の金融から短期、高利の資金を借り入れ、体まで担保にせざるを得ないクラブママもいる。
そのようなママは、クラブママから一転してソープランドで働き、借金を払っていくことになる。
現在、歌舞伎町のソープランドPには、そのような人生の賭《か》けに失敗して働く麗華さん(仮名)がいる。
北海道室蘭市出身の二十九歳。色白でほっそりした面立ちの女性だ。彼女が歌舞伎町のソープランドにそのまま働くのは、非常にめずらしいことといえた。店に失敗した女性は、仮にソープランドで働くとしても、必ず場所を変え、行方をかくすのが習性なのだが、麗華さんは開きなおって歌舞伎町に残った。
「やっぱり、この仕事でも歌舞伎町が一番回転率がいいみたいね。二千万円の借金を背負って、四年で返すつもりで、いろいろ考えたのね。そしたら、なんといっても歌舞伎町がいいという計算なのよ」
彼女が開きなおった理由はもうひとつあった。歌舞伎町で二十二歳からホステスをやり、スポンサーもついて、クラブを開くことができた自分の七年間の決着をこの場所でつけたいという女の一念、意地なのだという。
彼女に会ったのは、午前二時すぎ、靖国通りに面した喫茶店の二階である。いくぶん疲れぎみだが、表情は明るく応対ははきはきしている。
「それにね」
と彼女は虚勢もあるだろうが、背筋をのばしていう。
「私の七年来のお客さんに、来てもらおうと思って、歌舞伎町にしたわけです」
――それはやっぱり勇気があるというのかな。失礼かも知れませんが、あえて訊《き》きますけど、恥ずかしいんじゃない? お客さんに対して。
「それはね……体調が悪いときには気が狂いそうになるけど、仕方がない。ここはむしろ安全なのね。ある組織の金融のお金を借りて、その勢力範囲にいるほうが、結局は確実にお金を返せることになる」
――こういうことになる前に店をたたむわけにはいかなかった?
「それはだめねえ。あと少し、もう少しと思うものですよ。自分のお金が千百万円ぐらい、スポンサーの男性に直接五百万円出資してもらい、銀行から二千万円。この銀行の保証人にはその男性になってもらって、三千六百万円のお金を出してもらったわけ。はじめは好調だったし、八ヵ月めぐらいから苦しくなって、女の子にお金をかけだしてから回転しなくなったわけ。でも、やっと持った店だから、手放したくない。夢中になるのよ」
女の子に金をかけたというのは、一人に三百万円ほどの引き抜き料を払って三人もの腕のいい女性をそろえたことだという。三百万円とは、そのホステスさんたちがかかえていた売掛金である。それを支払っても客をつかんでいるホステスが欲しかったそうだ。
彼女の店は十二坪ほど、家賃は三十二万円。劇場街の裏手、新田裏へ抜ける花見通りに面したビルの四階。
スコッチのボトルキープが二万円、カラオケは入れずギターの弾き語りと、落ち着いた雰囲気、それに上品なお色気を漂わせた店だったという。
「自分では考えたとおりの店ができても、やっぱり不景気もあったのかな」
客は電気メーカーや、水産関係、医療機器関係のサラリーマンが主であった。客同士もおたがいに知りあって、一時は一日の水あげが百万円を超える日が続いたのだが、
「水商売はこわいわ。気がついたときにはいつの間にか店が死んだようになる」
話を聞きだして一時間後、彼女が必要以上に頑張ったもうひとつのわけをやっと話してくれた。
以前に勤めていたクラブで、彼女はスポンサーになってくれた男性を同僚のホステスととりあうような関係になった。ライバルはその店のナンバーワン。麗華さんはナンバースリーぐらい。話せば嫌になるような奪い合いの一幕もあって、店を持つことになった。そのいきさつがあったために、どうしても負けたくなかったのだという。
「変な意地を張って、相談した男が組織関係の闇金融を知っていて、あとは雪ダルマね。店を閉めて、スポンサーの男性、つまり私の恋人が保証人になった分だけが借金で残ったわけね」
――太っ腹な恋人ですね。二千万円を引き受けたの?
「いいえ、その分が怖い方面の借金になったわけよ。だって、怖いですからね」
この件について彼女はくわしくは答えない。
しかし、そんな場合、サラ金などと同じように彼らはお金をとれるところへはしつこく迫っていく。
――その男性はひどいめにあったんだろうな。会社まで行くとか、家に押しかけるとか、あるそうだけど――。
麗華さんは、かすかにうなずいたようだが、はっきりした答えはなかった。
――あなたがPで働いていることを知っている昔の常連はいるわけですか。
「いまだに私のファンだっていうお客さんがいる。ソープランドヘ来て、黙りこくってすませていく人と、無理して明るくふるまってできなかった人とかね。もう、かれこれ一年二ヵ月だから、うわさを聞いて来る人はひとめぐりしたみたい」
――女の意地とはいえ、すごいな。
「意地だけでもないんだ。きつい事情も重なってるわよ」
麗華さんは声の調子を変えてつぶやいた。
しばらく次の言葉を待ったけれど、黙ったまま数分がすぎた。
その間に私は、こうした場合の話を、ほかから聞いた情報と重ねあわせて、いろいろと妄想をたくましくした。闇金融の資金を借りた女が、その返済に困って、すんなりとソープランドに転進する例はまずない。八方手をつくし、わらにもすがるように金策に走る。
しかし、ドスの利いた脅しが迫るのである。
そうした場合、つい、他の組織の人間に返済のくり延べを頼むようなことになる。つまり「なんとか話をつけてくれないか」と頼むわけである。
だが、それはまずい方策なのだった。話をつけてやるといった男と、その筋の間で、さらに彼女の首を絞めるような話がつけられることになる。
「返済は待ってやるが、金を作ることができる証明をだせ」
つまり一般世間では返済計画にあたるものが、すなわちソープランドへの転進ということになるのである。
そうもあろうかと思って、私はあえてそれを訊《き》かず黙っていた。
彼女はまた背筋をのばしていった。
「でも入ってみたら、若い子が軽い気持ちでやってるのよね、この仕事。あきれたわ」
声はどうして元気なものであった。
ソープランドで稼ごうとする女性の意識はいまではすっかり変わってしまっている。
かつて貧困にあえぐ農村から、いわゆる苦界へ売られ、青春と精神と肉体をズタズタにされ、生命まで失う悲惨な運命を生きなければならなかった彼女らの社会的な立場《ポジシヨン》は変質したかのように見えている。
麗華さんはいう。
「だって、この世界でもアルバイトの女の子がいるのよ。はっきりアルバイトっていう二十歳前後の女の子が、気楽に働いているんですからね。さすがにエイズ騒動で数は減っちゃったけれど、でも、まだうちの店に三人いるから。それで、つい、お金稼いで何に使うの?って訊くと、車を買うとか、アメリカに留学するとか、世界旅行するとか理由をあげて、あっけらかんとしたものよ」
女の意地を張ってこの世界に転進せざるを得なかった麗華さんの目に、彼女たちアルバイトのソープランド嬢は、いうところの新人類であって、とても理解できるものではないのだそうだ。
「私の場合は、身柄を拘束されているようなものね。だけど彼女たちは、自分だけの都合で二ヵ月、三ヵ月働いて、さっとやめていくのよ」
――その世界に足を入れて、そんなに簡単にやめさせてくれるのかな。その世界につかまって深みに入ってしまうのではないのですか。
「それをしないのよ。さっとやめていく」
――しかし、彼女らにとって、ソープランド嬢の経歴の秘密を店の側に知られていることになりますね。それは弱みを握られたようなことではないのかな。
「店にいっておく住所も、電話も友人のものにしていたりね。もちろん、そういうところはしっかりしている」
――そのまま転落しない?
「そこがいまどきの子なわけなんでしょう。それにソープランドの店の側にも弱みはあるわけだから」
――法のたてまえでは売春をしてはいけないということになっているから――。
「そう、それから未成年者を使っていたりするとそれだけで営業停止処分になるでしょう。それが一番こわいわけね、店の側はね。女の子に変なことを仕掛けて、|ちっくり《ヽヽヽヽ》されるのをこわがっているわけだから」
――チックリ?
「刺す、つまり警察に通報すること」
――なるほど、営業停止を一ヵ月も食ったら大変だ。
「そうよ、それと、ある人数の女の子、それも若い子をそろえておくのが、いまどきのソープランドにとっては大変なわけ。個室が遊ぶようなことになる」
――店の側というか、ソープランドの業界にとって、若い女の子を恐れさせないように気をつけているわけだな。
「そりゃあそうよ。だって、アルバイトをする子たちっていうのは、友人たちに聞いてやってくるのが多いのね。誰それが三ヵ月働いていくらになったなんて話を聞いてやってくるわけだから。行方不明になった、なんて噂《うわさ》が流れているとしたら、こんなにちらほらアルバイトの子がいるわけがないでしょう」
――一ヵ月でどれぐらい稼ぐのですか。どんな計算になっているの。
「二百万円ぐらいかな、最高でね。まあ、百万円ぐらい手に残ればいいというあたり。だからさ、世界旅行も、高級車を買うのもできるでしょ」
――いま入浴料とサービス料で二万円から三万円ぐらいしているわけですね、相場で。どういう計算になります? しつこいかな。
「店の個室を、女の子が借りているような形式なわけです。入浴料は店の側がとって、なかのサービス料を女の子がとる」
――一人のお客さんを相手にして、いくらぐらい手にするわけですか。
「一万円ぐらいですよ。そりゃあ、二万円の子もいるだろうけれど」
――一日に何人ぐらい相手するわけ?
「時間で考えればいいじゃない」
麗華さんは、こちらの質問が税務調査のような具合になったので、むっとこわい顔をした。
ソープランドは、いま、昼の十二時ごろに開店して午前零時まで。こっそり深夜まで営業する店もあるが、営業時間は十二時間。一時間に一人の計算で、ひとつの個室の一日の最大キャパシティーは十二人である。だが、ソープランド嬢は毎日十二時間勤務ではない。二勤一休で、そのうち十二時間の通しは一日だけ。つまり、二日で十九時間が彼女たちの持ち時間となる。ということは一ヵ月でおよそ百九十時間。一人一万円の単価として、最大で百九十万円。この稼働率が五割であれば九十五万円、三割で五十七万円ということになる。いくら稼ぐといっても、この上限は超えられない。一日平均五人の客で一ヵ月百万円前後の収入が平均値なのかも知れない。
ざっと計算してから、私は愚問を発した。
――体、大丈夫ですか?
「大変よ。肩が凝るし、腰も痛いし、肌は荒れるし。でも生理休暇はあるけれどね」
――そんなときは商売にならないか、そりゃあそうだわな。
かすかに麗華さんは笑い、
「この仕事で生理中はせめてもの安息日。きっと大昔からね」
などとつぶやくのであった。
ふと、そのとき、美しげにいって男の快楽へむかっての自己放棄、彼女が知らぬ間に純化したらしい諦念《ていねん》などがオーロラのように彼女の頭上にゆらめきあがったような気がした。
「世間の風景が違っちゃって、まだなじめないでいる。こういうところで、こんな話をすると、そっちから、普通の風が吹いてきて、風邪ひきそうよ、寒くなる……」
――うまいな、普通の風で、風邪をひくなんて立派なコピーじゃないか。
「あなた、いくんでしょ、ソープヘ」
――うん、まあね。
「他人ごとみたいに聞かないのよ、男の生理もってるんだから、あなたもさ」
――うんうん。
「なあーにが、うんうんよ、トッちゃん坊やみたいな顔して」
形勢逆転。正直いってたじたじ。麗華さんがたばこをくわえたので火をつけてやる。いよいよ変てこなニュアンスで、私の居心地が悪くなる。彼女のほうが何だか偉そうになった。
「男ってのは、ほんとに仕方がないものね。こんなこといまさらいうことじゃないけど」
姿勢をゆったりと変え、なかなかに魅力のある風情で彼女はたばこの煙を吐いた。
――変な客もいるんだろうね。
「はっははは、おかしいのいるんだわ」
――変態?
「変態っていうより、傷ついてるわけね。性についての心の傷が、ケロイドみたいに引きつったまんま大人になった人ね」
――心理学を勉強したんじゃないのか? どこかの大学で、そっちは。
「地方の私立大学」
――さっきいった経歴と違うんじゃないの?
「いいじゃない。二十二歳からの歌舞伎町しのぎは嘘《うそ》じゃないんだから」
――まあ、いいけどね。じゃあ、心のケロイドのケーススタディーでもやろうよ。
「鏡持ってくる人がいるのよ。小さな手鏡。名刺ぐらいの大きさのをね。それではじめから終わりまで、その鏡で自分の顔を見てるのよね。こっちを見ないの。何だと思う?」
――はあ、わからない。
「いろいろサービスしている間、鏡で自分の顔を見続けている」
――どんな男? 年齢は?
「五十歳ぐらいの、小柄な人。貧血症みたいな感じで痩《や》せていてね、午後の早い時間に月に一度ぐらい来る指名のお客さん。ほかの人には入らないのよね。仕事は八百屋さんみたいね」
――その人に気に入られて? だけど、自分の顔を見ているだけだからな、あなたでなくてもいいかも知れないのに。
「うつむいて入ってきて、それっきり鏡を見てる。何かあるな、と思ったから私は何も訊《き》かないで、順番《コース》どおりにサービスするわけ。で、私がうえになる。そのまんまで終わり」
――女に対面するのがこわいのかね。ナルシシズムの結晶化したの。オレにはわからない。
「私が黙ってるのがいいんだと思ってる」
――それは正しいよ。ふーん、鏡を見たままのセックスってのは一考察ものだ。
「変態でも、サドは嫌われるわけ、痛いから。でも、お客さんで踏んづけてもらいたがるマゾの相手をする子は結構いるのよ。お金倍ぐらいもらっていじめてやるわけね」
――マゾはごく普通の変態か――。
「よくある。でも、話をしろっていうお客さんがいる。会話じゃなくて、物語」
――物語? なにそれ。
「私のセックスの物語なのよ。その恋人とどんなふうに知りあって、どんなふうにセックスしたかをしゃべってあげないと、そのお客は発情しないのよね。だいたいインポに近い人なんですけれどね」
――イメージをかきたてるわけだな。
「セックスの描写を細かくいうなんてことではないのよね。私が誘われて、その気になるあたりの気持ちを聞きたがる」
――それはわかるな。男なら誰しも訊きたいところだし、エロチシズムは妄想だからそのあたりが一番のところだものね。
「月に二回来るのよ、その人。だけど、そんなに物語なんてないのよ、私に。ほとんど作り話になるわけ。下手な物語だとその人、ダメなの」
――世話のかかる奴《やつ》だな、若いの?
「四十三、四歳。暗い人なんだ。やっぱり私を正視しないもの。そんな人が指名のお客さんのなかにいて疲れるのよ。物語を即興で作りながら、体をあずけてるわけでしょ、私は」
――どんなふうにしゃべるの? あなたは。
「ぼそぼそって。優しいハンサムな男が、ひとりで酒飲んでる私を誘ってきて、その男の指がごつごつとたくましくて、いいなって思ったとか。そのうちにお客さんが、もりもりって元気になる」
――どこかこわれてるんだよ、その男。
「だからね、元気な学生さんなんかのときはほっとするのよ。この仕事にとって上客っていうのは、健康ですこやかな心と肉体だから」
歌舞伎町にやってくる客について、彼女は饒舌《じようぜつ》に語った。
日ごろの鬱憤《うつぷん》をはらすみたいに威張る男。親身になって心配して、早く足を洗えなどといいながらしっかり遊んでいく男。ご機嫌にはしゃぎ、彼女にむかって必死のサービスを試みる男。酒の力でやってきて、ばったり眠り、一時間をムダにする男。あっという間に終わる男。元をとろうと四回も挑み、それが可能な男。胸にむしゃぶりついて泣く男。
「くつろいでのんびり遊んでいく男のほうが少ないのよね」
ソープランドで愛想のいい優しい女であるためには、現代社会に病んだ男たちのためにカウンセリングに似た行為をなさなければならないのかも知れない。
しかし、それはほんの一面にすぎない。ヤクザのヒモに脅されながら、泣きの涙で働いているソープ嬢が、どの店にも、ある比率でいると聞いた。
約二時間、彼女は私に対して語った。彼女はその喫茶店でビールを四、五本は飲んだ。
どこか、落ち着ける店で飲もうかと誘ったが、彼女はそれを拒否した。深夜喫茶店の騒がしさのなかで取材に応じることが、何かを語る場合の彼女のシチュエーションの限界のようであった。喫茶店の明るさと、広い空間が、彼女のいう「普通の風」を受ける場所なのだろう。飲み屋でくつろぐ気にはなれなかったに違いない。
彼女の借金の返済計画は少しばかり延期されるとのことであった。むしゃくしゃしてつい浪費する癖がつきだしている。そういう金を使えることで、この業界から足を抜けなくなる女が多い。あるいはそこが再起するための正念場なのだ。
「あぶないとこよ」
と彼女はいい、眉間《みけん》にふたすじけわしいしわを寄せ、立ちあがり、一人でさきに店を出た。私に、帰る方向さえ知られたくなかったのか、席にいて、五分後に店を出ろと厳命したのである。
盛り場はまるで自然な生理のように、同心円を形成するという。中心域には女性や家族連れの人々が回遊するファッションの店やデパートがある。その周囲に娯楽街があり、それをとりまくように飲み屋街があり、重なりあって色街、そのエリアと接してホテル街がある(跡見女子大学教授、松澤光雄氏の説)。
この同心円に重ねあわせて、性的な欲望を果たそうとする男たちの足の運びを見れば、家族と一緒の場所から逃げるように歓楽街の奥へとやってくることになる。
歴史上、もっとも古くからある職業の売春婦、あるいは売春業は、これからのちもたぶん絶えないだろう。いま、昔のような悲惨な影はうすれたとはいえ、彼女たちは男どものストレスまでもあびせられて現代社会の底をのぞき込まざるを得ない。
彼女の語る千夜一夜物語も、星の数ほどの男どもの分だけ、彼女の胸のなかにたくわえられていくことになる。
繁華街の中心、家族連れがふさわしいエリアから、性の歓楽街までの距離は、さきにあげた松澤教授の実測によれば、およそ六百メートルである。これが歓楽街の条件のひとつである。
この六百メートルの道のりを歩んで、心にどんな傷を受けたものか、男どもは女を抱き、なかには、サマセット・モームの『雨』の牧師のように「足を洗え」などと娼婦《しようふ》に説教する倒錯をやらかすのである。
歌舞伎町の店舗の地代は現在でもじりじりとあがっている。麗華さんはその苛酷《かこく》な現実にのみこまれてしまった。彼女は歓楽街の呪縛《じゆばく》にもがき、いましばらく現代のやわらかな苦界《くがい》に身を置かなければならない。そして、いま、彼女の生き方を前にして、もっともらしい説教を吐ける人はきわめて少ないだろう。
プロスティチュート(売春婦)と公序良俗との境界線は、消費社会の先端のあたりではぼんやりとしはじめている。何でも売買してしまう街では倫理は後景に退く古いイメージであり、人生観も倫理観もそのなかに含まれ、遠ざかり行く位置にある。ここでは欲望こそが前面に立っている。
この稿の取材の間に以下のような場面に出逢《であ》って、私は幻惑されたことがあった。
場所は区役所の裏手のバービル二階、スナックの店内であった。カウンターでは、店の女の子とエキゾチックな感じのする女性客とが何やら深刻な表情で話し合っていた。
席をひとつあけて腰を下ろした私にも、会話の中身が聞こえてくる。つい、聞き耳をたてるようなことになった。話題は性的なテクニックについてであった。店の従業員がどうしたら男性を満足させられるか、いろいろと客に尋ねているところらしかった。
その女性客の年格好は二十三、四歳ぐらい。男の性心理をたくみにとらえ、また男の性感にも正確な知識で答えている。陽《ひ》に焼けて健康そうな彼女の印象は、テニスの指導員か、体育の教師に近いので会話の中身に似合わない。
「愛撫《あいぶ》するときのコツは、自分で相手の感じている状態をイメージするのよ。ここをこうしたらこんなふうに感じてるだろうとか、こうしてあげて、こんどはこんな感じにって想像するのよ。雑誌のセックス記事では、相手の感じてる状態へのイメージがないの。みんな形ばかりのテクニックなのね。機械的にこすったって男性は感じないのよ。そこは男も女も同じなんだけどな」
私は興味を示す顔をしていたに違いない。聞こえてくれば、男なら誰でも身を乗りだすような話だった。
店の女の子がちらと私を見て、
「興味ありますか?」
と訊いた。
――すごい話題だな、至言ですな。何だかセックスの先生みたいね。
「だって彼女プロだもの」
と従業員は答えた。
――プロ? セックスカウンセラーなの?
「ソープランドのプロ」
あっと私は声が出かかった。咄嗟《とつさ》には、どんな挨拶《あいさつ》を申し述べたものかわからない。
――はあ、それはそれは――。
とかなんとか語尾をごまかしてその場をとりつくろった。
「あわてちゃってる」
と二人の女は声をそろえて笑った。
そのプロフェッショナルな女性は、ハンドバッグから名刺をとりだして、私にくれた。
吉原のソープランドの名と、彼女の店での名前がその小さな名刺にあった。私も名刺をだして、その場はごく普通の初対面同士のやりとりのような光景になった。
「一度、いらしてください」
と彼女はいう。
――はあはあ、どうぞよろしく。
と挨拶はしたものの、こんな光景がスナックで起きていいものかと面くらった。このような場面では旧来の道徳観はたやすく吹っとんでしまう。
かろうじて、私が了解し得たことは、消費社会の役割としての彼女の存在であった。彼女の人生、その生き方や性格などによって対面している相手を理解し、同席している状態を了解するのではなく、むしろそうした人間の故事来歴からは切り離した、現代社会のひとつの役割として彼女が持っている記号を了解したのであった。その記号とは、小さな名刺に刷られた店の名前であり、彼女の店での名前「みどり」という記号である。
ここで、むやみに倫理で反応したり、ヒューマニズムで了解しようとしても「場」はこわれるだろう。倫理道徳をふりかざす者こそが、彼女から社会的存在としての役割を奪いとることになり、みどりさんを本質的に傷つけてしまうことになる。彼女を記号として一気に了解してしまえば、経済社会単位としての彼女の役割は、ほかの経済社会単位と同じであり、一人のプロフェッショナルとして私と対面したり、スナックでお酒を楽しんでいても違和感は生じない。
名刺の交換を通して、一瞬のうちに終えた観念のうえの手続きは、たぶん以上のようなことではなかったのか。
少なくとも職業に貴賤《きせん》はないといったうすっぺらな近代タイプのヒューマニズムを根拠にした相互了解ではなかった。
歓楽街が、いつの時代でも公序良俗の側から危険な場所と位置づけられるのは、以上のように、秩序を形成する規範を無意識のうちに食い破る力が醸成される場所だからであった。
みどりさんと、プロ野球の話などをしているといつの間にか、彼女がソープランド嬢であるかどうかなどはどうでもいいことになっていることに気づく。話題そのものが、さしあたってその人物の故事来歴を問わないごく普通の話題でもあるが、それ以上に、彼女の役割が了解されてしまった以上、ひとめぐりして、一人の人間としてのポジションがこの店のなかに用意されたということのほうが意味が重い。彼女は「場」のなかに認知されたわけだ。それも、同じ思想や、宗派を信じる者同士の特殊な間柄のポジションではなく、この高度な消費社会のなかの、ごくありふれた「場」に彼女はまじって呼吸している。
保守的な秩序規範の側から見て、この事態はどうだろう。もしもこのような「場」が、あっちにもこっちにも、無意識に誕生しはじめるとすれば困ったことになろう。社会はごく自然な成り行きとしてほころびていく。歓楽街の無意識の力《パワー》が、旧来の倫理規範の枠組みから逸脱する方向に働き続け、ついには思いもよらない天変地異の芽となって成長するはずなのだった。
そのような盛り場の生理とパワーから考えて、歌舞伎町のイージーセックス地帯は、この社会がおのずから逸脱していく果ての未来に通じるのぞき穴なのである。いい換えれば、歓楽街は欲望を短絡させては、つかの間、私たちの未来社会の骨組みを宙空に映しだしていることになる。
これを未来へぐいと引き延ばして考えてみれば、私たちのこれからのちのはるかな未来に、性的なプロフェッショナルによってさまざまなカウンセリングを受ける社会を想定することができるともいえる。もちろん、その性的なカウンセラーは男女ともに社会的に認知され、さらには同性愛者のためのカウンセラーも存在しているに違いない。
それまでにどれだけの政治社会体制の変換が起きるか、とうていイメージをとりまとめることはできないが、未来予測が一般に通用しているほどに有効ならば、歌舞伎町にちらほらと出現している欲望充足と、それによって派生している未来の萌芽《ほうが》は、貴重な予測データであるといわねばならない。
欲望を短絡《スパーク》させれば未来と、この現在の無意識の姿が浮かびあがる。そのような空間的機能が歓楽街がかくし持つ条件のひとつである。
では、ここで金を稼ごうとする男どもはその条件のもとで、どんな日々を過ごしているのだろうか。
路上に立つ風のような男たちに私は接近した。
彼らは一般にポン引きと称されているが、正確にいうと客引きは二種類に大別される。売春のために客を引くのがポン引きで、他のピンクキャバレーや、風俗営業店の客引きをキャッチという。両者ともに路上に立ち、道をやってくる男どもの、半分ふくらんだ欲望をつかまえ、商売にしているが、彼らは小動物が自然のうちに棲《す》みわけているように、路上で仕事を区別して生きている。
その夜十時すぎ、私は私自身がカモとなるべく、劇場街の裏手、大久保病院あたりから新田裏にかけて、もの欲しげにうろつきまわった。
しかし、この夜はカモになろうと身構えているのが路上のはしっこい諸君に見破られたのか、なかなか声がかからず、少しばかりあきれた。といっても、同じ場所を何度もうろつくのも具合が悪い。私は花見通りをはずれ、一度明治通りへ出て、角筈方面へ歩きかけた。
はたせるかな、明治通りの暗い歩道で、後ろから声がかかった。
「お兄さん、ちょっと頼みがあるんだが」
振り返ると、五十代半ばぐらいの年格好で、ひどく小柄な男がひたひたと私のあとについて歩いてきていた。
「一晩、遊んでやってくれないかな。素人じゃないよ。といって玄人でもない女なんだ。クラブのホステスで、アルバイトしてるんだよ。おとなしい子なんだ。あんたみたいな人でないと相手ができねえのよ。俺《おれ》も客引きは長いけどねえ、客を選ばなきゃならない子で困ってるんだ」
囁《ささや》くように、つぶやくように、私のややゆっくりした歩調にあわせて、そのポン引き氏は話しかける。街灯の下を通りすぎて顔つきがわかった。顔色がよくない。髪がうすく、額には何本もしわが走っている。二、三日陰干しにしたナスビのような、これまで見たこともないような貧相な男だった。
「時間は十二時からなんだよ。なにしろホステスやってるから、早い時間に客がとれないの。俺はさ、千葉から来てるから、彼女のために始発まで電車待たなきゃならない。いまのうちに話が決まれば、総武線で帰れるんだよ。この年で、新宿で夜明かしするのもきつくってね。喫茶店で待っててくれれば、彼女に会わせて俺は帰れるんだ。いや、その子が来るまで俺も待っててやるからさ。おとなしいくせに贅沢《ぜいたく》なんだろうな、金が欲しいんだって。遊んでやってくれないかね。二時間ばかしで、三枚ってとこ。そのあと、俺を間に入れなくても、彼女と直で遊べるよ。つきあいのキッカケだと思ってさ」
絶妙な話術だった。むこうから人が来るとふっと喋《しやべ》るのをやめ、ポン引きらしくなく、私から離れる。
そしてまた囁きかける。
「宿はこっちで決めさせてもらうよ。この商売、勝手にやると、うるさいのもいるからな。知ってるだろ? いい子だよ、ほらあんなふうな、こっちの黄色のセーターの子みたいな子。二十一だ。彼女の店がはねるまでに連絡したいんだがな」
横断歩道をむこうから歩いてくる二人連れの女性を、商品カタログのように借用して、ポン引きナスビ氏は語り続けた。
――そうしようかな。
と私ははじめて答えた。
「遅くなると困るんだ。三時までだよ。彼女、昼間もパートで働いてるんだから。お兄さんも仕事あるんだろ」
私はうなずく。
「いやあ、よかったよ、そういう人でないとだめなんだ。酔っぱらってないね、兄さん」
私はまたうなずく。
「酔っぱらいはトラブルのもと。こっちは安全第一でやってるんだ」
ポン引き氏は、伊勢丹の前の小さな喫茶店に私を連れ込み、時計を見て「ぎりぎりだよ、間にあってよかったな」といってから、店内のピンク電話にとりついた。
時刻は十一時十五分すぎ。席にもどってきたポン引きナスビ氏は、ひからびた笑いを浮かべて、
「早めに来るってさ。俺の終電車、気にしてやがるの」
私がポケットをさぐると、
「金、いきなり出さないでな。安全第一でやってるんだ。婦人警官の私服がこわい。面の通ってねえのがいたりするから」
この会話によって、私とポン引きナスビ氏との間には、共犯関係がみごとに成立したことが明らかにされたわけである。
コーヒーがきて、彼は行儀よく飲む。うつむくと、歓楽街で幾星霜、苦い水もたらふく飲んできたらしい苦労の跡が、うすくなった頭髪ににじんでいるかのようだ。この世界での苦労人といった風情の男なのだった。
そうこうするうちに、若い女性が急ぎ足で店に入ってきた。十一時三十分ごろか。ポン引きナスビ氏を見つけ、ついで私を見てごく普通に会釈し、腰を下ろしていった。
「四人連れのお客さんが来ちゃったの。ちょっと抜けられなくなっちゃって、一時ぐらいまで。ごめんなさーい」
とポン引きナスビ氏にいう。丸顔で八重歯がかわいい女性である。彼女は私に笑いかけ、残業が片づかず、デートに遅れるOLのような口調でいった。
「遅れるけれど、必ず行きますから、ごめーん」
――いいよ。新聞でも読んで待ってるよ。
と私がいうと、彼女は、文字どおりこぼれるような笑顔で笑う。ポン引きナスビ氏のいった年齢より老けていて、二十七、八歳の年ごろのように思われた。
彼女はそそくさと席を立っていった。あとに、芝居がかった笑顔の匂《にお》いが残った。色ぼけの客にちらりと見せた誘いの一幕かも知れない。どうやら私は、彼らの術中にはまり、いよいよムシられるのであろう。
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第三章 路上の風
ポン引きナスビ氏は、落ち着いた目をしていた。
「いい子だろ。あれで激しいとこあるんだよ。ひと言いっておくけど、情が移るってことあるからな、男と女の間で。だからな、兄さんもそこんとこさ、やりすごさないと、いい遊びはできないんだ」
――ええ? 私が彼女に本気になってのぼせるってことですか?
「いや、いいや、あと引くってこと。ほだされるっていうことが起きるから気をつけろっていうことだ。こういうことで会った女なんだから、その場限りの誠意で、すませておけってことだ」
――そりゃあ、そうでしょうな。
「わかってるんだね、兄さん。こうしてよく見ると、のぼせるほど若くはなさそうだ。そこで、段どりだけ決めさせてくれないか。終電で帰るからさ、久しぶりで帰れる」
――いいですよ。
「宿代は別なんだよ。そのさきのパークホテルっていうの知ってるかい」
――明治通りの、あれはビジネスホテルじゃないの?
「百人町のホテルでもいいよ。ただし、あそこらあたりなら、エル・スカイ、どっちでもいいけどね」
――エル・スカイ? ずっと前に、女の全裸殺人事件があったホテルだね。
「えっ? ああそうかい、いつごろ?」
――七、八年前。
「そいつは知らなかったな。ああ、それでかも知れないな」
――それでとは?
「いや、まあ、ま、いいか、いっておくか。お兄さんも新宿はくわしそうだよね。実はね、彼女には内緒だけどな、ふたまたかけてるの、ほんとは。宿へ送り込むと、そっちからも少し手数料が入るわけだ。そういう話になってるんだよ」
ポン引きナスビ氏は、目を細くして人なつっこく笑っている。ほとんど好々爺《こうこうや》のような笑顔を見せていた。こんな顔はなかなかできるものではない。あえていうと、精神の深いところがくつろいでいなければ、この手の笑顔は湧《わ》いてこないものなのだ。つまりは路上の風となって自分を捨てきれる者の強さから湧くくつろぎか。
「連れ込み宿ってのは終電までに二、三回客がめぐるわけだ。そこで、そのあとに客が入るかどうかが大きいの。そこへ客を持っていけば、むこうもにっこり、こちらもにっこりってわけなんだ」
かすかに話のずれが生まれている。さっき、私のあとにくっついて、喋《しやべ》りづめに喋っていたときの説明と違っていた。宿を決めるのは、たぶん組織関係のうるさい方面とのとり決めで、宿を決めざるを得ないという説明だったはずである。
――なるほどね、バックペイがあるからそちらが宿を決めるというわけなんだな。
「まあ、そんなとこ」
――パークホテルもそんなことしているのかな。
「いや、あそこは違う」
――違うって? どう違うの。
「あそこは、日によって送り込む」
――なんだかわけがわからないな。
「話のわかるのが、フロントにいるときは、あそこがいい。お客さんにちょっと料金をうわのせしてもらって、それをふたつに割ってね、わかるでしょう。むこうは小遣い稼ぎになるから。こっちは、あの子が安心して客と入っていけるし、こちらの懐にも色がつくことになるしで、いいわけよ」
――彼女も、どこへ連れていかれるか不安だろうしね。
「そう、そうそうそう、お兄さん事情がわかってるじゃないですか。いまどき、車でいきなり持っていかれたりしたら、こわいでしょ。このごろは素人さんがあぶないからね。ちょっと、一万四千円渡してくれる?」
金額を口にするとき、かすかに、ほんの少しだけポン引きナスビ氏の体のどこかに力が入ったような感じがする。
私は尻《しり》のポケットから札を出し、テーブルの下、自分の膝《ひざ》のうえで千円札を数え、手でかくすようにして渡した。「いきなり金を出すな」といわれているのが、私の振るまいを窮屈にしていた。
金を受けとった彼の表情が、うって変わって卑屈になった。それはこれまでの彼の人生の苦労が、そのまま標本になって転がり出たみたいな、突然で、うら哀《がな》しい変化だった。
「兄さん、悪いんだけど色つけてくんない? 千葉の赤ちょうちんで、一杯やりたいよ」
ロシア文学のあちこちにこんな卑屈が描かれていたっけと思いながら、私は五千円札をあわてて渡した。どうにもやりきれない目の前の卑屈さを消そうとして、そのくせ、いまいましさを感じる。そのあとで、思考がめぐる。卑屈よ去れ! などとうかつに思っていると、ここでなぜ、ポン引きナスビ氏に一万九千円ものお金を支払うのか見失ってしまう。
しかし、私は、ここでなんであんたにホテル代を支払うのか? という肝心|要《かなめ》のあたりについて問えずにいた。
彼とこうして座っていることで、テーブルのうえのあたりには、情緒の流れが生まれており、それをぶちこわせず、常識人的、亜インテリ的な気をつかっているのはむしろわがほうの陣営なのであった。
「前払いしちゃうよ。いつもは、遊びの終わるまでこっちが待ってて、彼女と会って精算するわけね。だけど、あんたも事情を知ってる人だからさ、さきに済ませて帰らせてもらうよ。ホテル、どっちにする?」
――どっちでも。
「じゃあ、パークホテル。行ってくるわ」
――電話でいいんじゃないの。
「顔見せなきゃ、お兄さん、安全第一だよ。行って顔見せるのが信用、電話じゃ金を払えないでしょうが。おっと遅れる。千葉行きの最終は御茶ノ水駅十二時二十七分なんだよ。じゃあ兄さん、フロントで彼女の後ろに立てばいいよ。それですっと入れるから」
立ちあがりながらいった口調は立派なテキ屋ふう。はっきりそれとはわからないが、有無をいわさないドスの利いた迫力が裏打ちされ、目だけが落ち着いて笑う。奇妙な表情だが、彼の風体からは暴力の脅威は、まったく感じなかった。
時刻は十二時十分前。はたして終電に間にあうのかどうか、つい心配になるのはこうした場面でのこちらの日常生活の条件反射、一種の慣性の法則であろう。
ところが彼は十二時三十分ごろ、この喫茶店に電話を入れてきたのだった。
ボーイが、私のテーブルへきて、
「青いブレザーの男の人って、お客さんですよね。奥の席だっていうから、電話へ出てみてください」
という。
受話器のむこうでポン引きナスビ氏はいった。
「乗り遅れたよ。津田沼までの電車はありますがね。彼女、まだなんだろ、教えとくよ。一時すぎて来なかったら、店に電話しな」
彼女の名はアカネちゃん、クラブの名はモコなんだという。
たしかに新宿の局番の番号だった。
私は、電話が切れたあと、そのままクラブモコヘ電話を入れた。八回コールしたが誰《だれ》も出ない。
なるほど、お見事にやられたわいという気持ちになって席へもどる。
さて、どうしたものか。午前一時の明治通りには、まだ人の影が多い。この喫茶店に入ってくる客もひっきりなしだ。ホステスと客、女同士、学生らしい若い男たち、注文をくり返して復唱するボーイとバーテン、新宿の夜はたけなわ。結論をだすためには、あと二十二分ほどここで待たなければならない。ポン引きのカモになるつもりでこうしているのに、ミイラ取りがミイラ、いつの間にか、腰のあたりの脊髄《せきずい》が充血して、女を待つ男の気分が湧いてくる。こういうシチュエーションになると、たやすく条件反射する男の埒《らち》もない慣性の法則、すなわち、郷に入らば必ず郷に入りすぎるわれとわが身の、何というか、頓馬《とんま》というか、かわいいというか、でたとこ勝負というか、嫌ったらしさというか、正直というか、堂々めぐりをする想念のさきっぽにアカネちゃんが見えた。
ドアを押して一直線、ベージュ色のコートを着て、さっきよりもかわいらしいアカネちゃんはなかなかの身のこなしでやってきたのだった。
ひと仕事終えたオフの雰囲気がたしかにあった。たぶん、店はさっき閉めたばかり、彼女がこちらにむかっているころに電話したわけだ。
「なに? どうしたの? 考えこんで」
――うん、来ないのじゃないかと思ってね。
「来ますよ、もう三分早くここへ来れたの。外からお客さんを観察してた。電話をかけに行ったみたいだからようす見て、それから入ってきたの」
――じゃあ、行こうか。
少し困った気持ちで、私は店を出た。このイージーラブが正真正銘の公正取引だとすると、いろいろと具合が悪い。ま、しかし、最終局面で気が変わったといって、三万円を支払ってしまえば、彼女との間の取引は完結するのだから、そこまでは確信犯的に行動すべきである。
私はゆっくり甲州街道方面へ歩く。パークホテルはその先にある。
「え? どこ?」
――パークホテル。
「あれ? そうか、じゃあ、着替え持ってきちゃおうかな」
――なに?
「パークホテルのときは泊まっちゃうの。あそこなら朝、出てくるのが何でもないでしょ。お客さんは帰るんでしょ。私は明日、そのまま会社へ行く。まわり道だけど、店へ寄って着替え持ってくるわ」
彼女の後について二丁目方向へ歩いた。
彼女は焼き肉屋長春館の前あたりで、私を振りむいていった。
「これ以上ついてくるのは困るんです。お店がわかっちゃう」
――知ってるよ、モコっていうんだろ。
「あ、高田さんいっちゃったの」
アカネちゃんは立ちすくむ。
ポン引きナスビ氏の名前は高田というわけだ。
「もう、ダメねえ」
ネオンと看板のあかりのなかで、彼女は困惑した。
――大丈夫だ、行かないよ、店には。
「仕方がないか、ちょっと来て、じゃあ」
そのまま歩き、バービルの前に立った。
「こうなったら仕方がないね。ついでだからちょっとお願い。最後になったお客さんツケていったの。私一人残ったからね、お会計がそのままなのね。私のお客さんだから私の売り掛けなの。それを店の金庫に入れてくる。これからの分、いま渡してくれる?」
きわどいところだ。しかし、私は三万円を渡した。
「そこで待ってて」
といって彼女はビルのなかへ消えた。
私は待った。ビルから離れ、ビルの壁面のうえから縦にずらりと並ぶ看板をひとつひとつ読んだ。当然なことにそのビルにクラブ「モコ」などというクラブはなかった。
私は待った。このビルを通り抜けたむこうのビルにクラブ「モコ」があるのかも知れなかった。一階の通路を通り抜けて次の通りへ行き、二、三軒のビルの二十数個の看板を読んだ。
そこにもクラブ「モコ」などという店はなかった。こうしている間に、さっきの場所にアカネちゃんが来て、すれ違いになるかも知れないので急いでもどった。
なるほど、彼女なんかは来やしない。それがわかっていながら、その場を立ち去りがたいのは、この取材の場合は、ことの成り行きを確認したいという動機のためだ。
三十分経過。ついに彼女は現れなかった。
お見事! 四万九千円、いや、深夜料金のコーヒー代金を入れて五万六百四十円の大空振り。
これが、ほんとのイージーラブ取引であったとしたら、男はかなり長い間彼女を待つはずである。
ずいぶん粗雑な組み立ての騙《だま》しの筋書きだが、こんなふうにもっていかれては、ふくらんだ欲望は前のめりにひっかかる。
酒で性的中枢を充血させ、夢のような女神と、ものの本や、映画や、テレビや、ポルノビデオにあるようなことを体験したいと幻視する男のイリュージョンは、あやうく粗雑に組み立てられているもので、この設定の粗さはそれに見合っていよう。
ポン引きナスビ氏が作者なのか、このぼったくり物語では、クラブの閉店時間、千葉行きの終電、ホテル代金の前払いがひとつのセット。そして、途中のアカネちゃんの顔見せからトンズラまでがもうひとつのセットになった二幕構成なのだった。
私は路上でタバコを二本吸った。
そして、さっき喫茶店でポン引きナスビ氏が見せたくつろぎの表情について、半ばあきれながら考えてみた。
そして路上の風のくつろぎの根拠に思い当たる。あの優しげな表情、落ち着きは、この私というカモが、すっかりカモとなってそこに座っていたからなのだ。
獲物を追いつめ、完全にものにできると確信できた獣は、優しい目つきになるという。それはそうだ。これからおいしい食事がはじまるのだもの。風のごとく路上に棲《す》み、獲物をとらえるポン引き稼業にとって、あの瞬間は充実のときに違いない。それを人生の、何かの表情だと解釈したがる私は頓馬である。
ところで、このような騙しまでを含めてのポン引きと、あからさまな性的商取引の店へ客を送り込むキャッチがどう違うのか。私はまたカモとなって観察しなければなるまい。
十一月、一の酉《とり》がすぎたころ、歌舞伎町を吹く風は冷たさを増す。
ビルの谷間、路上の夕暮れは早い。まだ西の空が淡い群青を残し、高層ビルの間がかすかな紅に染まっているころ、せまい路地はとっぷりと暮れて、ネオンと|電 飾《イルミネーション》の妖《あや》しい光を放ちだしている。
路上を稼ぎの場にする男たちが本腰を入れて眼《め》を光らせはじめるのは、この時刻、昼から夜への移りどきである。
背をすぼめた立ち姿、くたびれた服装だが決してみすぼらしくはなく、かといって、メンズファッションの先端のセンスなどには無関係な男どもが、あちらに三人、こちらに二人と現れだす。
逢魔《おうま》が時《とき》とはよくいったものだ。人の心理はこの夕暮れ、魔に魅せられたかのように少しばかり波立ち、日常の重さから逃れたいという願望に身を寄せていく。何か面白いことはないかと探す願いは切実だが、悦楽に身をゆだねれば人生を棒に振りかねないと、世間の掟《おきて》は教えているし、明日はまた現実の、あのオフィス、あの上役、同僚、部下の顔を見なければならない。家には口うるさくなった妻と、いうことをきかなくなった子どもたちが、ふたつとはないこの人生の証拠品のように鎮座している。いやではないがうっとうしいね。
少しばかり遊んでやろうか? 仕事や家庭のスキ間の分だけ。もちろん、わずかな小遣いを使いきって、給料日前の昼食代に困らない程度に。その安全圏内での何か面白いこと、何かないかよ、まったく――。
歓楽街へ足を運ぶ男どもの内心の、切ない計算は、さきに触れたとおり、歌舞伎町がしつらえた快楽の対価表にぴったりと重なりあう。
さて、少しばかり遊んでやろうかと、靖国通りを越えるときには、遊びと値段との対価表が細かく検討される。
ストリップ? ふん! 近ごろはいい娘が少なくなった。それに、女の股《また》ぐらを眺めたところでどうなるものじゃなし、カラオケバーで店の女の子を冷やかしながら、軽く飲んで五、六千円。タクシーで帰れば高くつくから早めに切りあげるか。いや、そんなつもりで飲みはじめて、結局は最後にソープランドヘ入って高くついたこともある。いっそ酒は飲まずに女だけ、ソープランドヘ直行するか? おっとエイズがこわいわな。そうだ、ピンクサロンで一発抜いちまうという手もあるな。なに、ワンセットで済ませてしまって、家の近くの焼き鳥屋で仕あげれば、安全だ。といってどこへ入る?
「旦那《だんな》さん、部長、いい子いますよ。面白いよ、パッと遊んで八千円、面白いったら」
と路上の男が声をかけるのはこんなときだ。
「面白い? じゃあ、入ってみようか」
こうして、細心の計算を経て、ささやかな遊びへ前のめりになった男どもは、路上を稼ぎ場にする男たちのカモとなる。
まったく、逢魔が時とはよくいったものだ。
男どもは人生のしがらみのスキ間の分だけふくらませた欲望をかかえて、路上の風、キャッチたちの懐へ飛び込む。飛んで火に入るなんとやら。
アフター・ダークのドラマはこのさきさまざまなバリエーションで無数の決着をつけられていく。
コマ劇場の裏手、細い路地に一本の飲み屋街があり、その中ほどに、
「裏ビデオ、無修整個室放映、二千円」
看板だけを見れば、もっともクールでお手軽なセックス業、いや、これでも興行か、とにかく、そういうイージーな遊びの看板があった。
その前で二十代前半の若い男が客引きをしていた。通りを流すキャッチではなく、張り付きのお兄さんだ。
「旦那さん、お気軽にのぞいていったらどうです! いいテープ入ってますよ。ヘタな映画より面白いよ、どうです?」
――ほんと? 無修整?
私はあえて訊《き》く。あえて、訊くまでもないが、あえて訊かなければ、なかへ入るキッカケがつかめない。まあ、黙って入ってもよさそうなものなのに、なぜ、このような場合、ひと言、ふた言、ものを申すかというと、男は誰でも照れるからだ。
「もう、ダイレクト、バッチリ、自分がやってるみたいなものだよ、本物ズバリ、最高ッスよ、納得もの」
――じゃあ、二千円ね。
「ここからむこうへ入るだけ、ダイレクト、バッチリ、納得もの、さあ、あ、お金はなかでね」
というわけでなかへ入った。細い通路の天井に灯《あか》りがぽつんと点《つ》いて真っ暗。左手にスポットライトに照らされたカウンターがある。
若い男が、
「はい二千円です、そちらの部屋へどうぞ」
と金を受けとっていう。
通路の右側をよく見れば、天井から床まで板で仕切られており、二メートルおきにドアが並んでいて、そいつが“個室”というわけらしい。
天井に円形の装飾が半分のぞいている。何か違う店を、安手な工事で細かく仕切った部屋らしいのはすぐわかった。
「どうぞ、どうぞ、なかへどうぞ」
と声に押されて個室に入った。
やはり真っ暗。椅子《いす》が二脚。テレビが一台。何か映っている。広さは二メートル四方ぐらい。椅子に腰を下ろしてブラウン管をのぞき込む。ちらちらしていてよく見えない。女の子が公園を散歩していた。ずうっと散歩している。まだお散歩。広い公園だな。と、いきなりセックスシーン。しかし、ただの、いまもっともよく出まわっているアダルトビデオのその部分のドット数を少なくした例のハコ形のぼやかし映像で、何がどうなっているか、ご想像くださいという映像であった。
何が無修整かとムッとする。明らかにぼったくり。酉の市の見せ物小屋だってもう少し客を納得させる演出と演《だ》し物《もの》を用意している。しかるにこれは何か。これはいけません。このような取引には応じられない。あと千円出せばストリップが観《み》られる値段だというに、かようなことをやっては歓楽街は退廃するだけである。と私は公憤にかられ、本気で怒っていたらば、
「いらっしゃいまーせ」
といきなり女の子が部屋へ入ってきたのであった。
髪を肩までのばし、ざっくりしたセーターに、ジーンズのスカートを着ていた。やや面長の、レストランのウェイトレスふうな雰囲気で、ちょこんともうひとつの椅子に腰を下ろして彼女はあっけらかんと、かつ事務的にいった。
「はい、おズボンは膝《ひざ》までお願いしますね」
何だ? と思わないわけにはいかぬ。ズボンを膝まで、どうしろというのだ? と公憤さめやらぬ気持ちで私は、訊き返した。
「あら、脱ぐんでしょ」
脱ぐんでしょ、ではないのである。脱ぐんでしょ、といわれて素直に脱いでいたのでは男子の面目がすたるではないか。まず、その前にこのビデオテープが裏でも何でもなくて、ただのありきたりのものであることについて、何ぞ申し開きがあってしかるべきではないのか。私はかように考えるものであって、脱ぐんでしょ、といわれて軽々に、はいさようかという、そのような生き方を過ごして今日を迎えておるのではない。そのむね、さらにいいたてれば、
「あら、お客さん、ここはそういうの。サービスしてあげて、一万五千円になってるんです。遊んでいって」
と私のズボンに手をのばすのである。
――いや、いらないんだよ。もう出るよ。
私は本気で声を荒げた。
「えーッ! 困りますッ、お客さん」
――そういわれても、表では二千円でビデオテープが見られると書いてあるじゃないか。だから、ちょっとのぞいていこうと思って入ったんだよ。君のサービスを目当てに入ったわけではないぞ。だいいち、そういうサービスはいらないんだよ。
私は立ちあがりかける。彼女は私の腰のあたりを押さえて座らせる。
「首になるんですッ、私が首になるんです」
彼女も表情がけわしい。
「このまま帰ったら、私、明日から店に出られなくなっちゃう。だから遊んでいって」
いい分が、なんだか古典的だった。客をとろうと必死になる、かつての玉の井あたりの娼婦《しようふ》のような、切実な感じがするのだ。もちろん、玉の井がどんな街であったのか、ものの本で知るしかない私の年齢ではあるが。
私はいった。
――どうなってるんだい? ここのやり方は。
「お客さん、知ってるでしょ! 個室なんだからこういうことするの」
――いや、知らない。だから入った。
「だって、歌舞伎町で個室ってあったら、スペシャルサービスするんです。ここでは、これが普通のことでしょ」
鼻の穴を大きくして、彼女なりに感情をおさえているらしいが、結構な見幕であった。
――そうか。では、お金は支払おう。仕方がない。君が首になるというのではこっちも後味が悪い。
「でも、遊んでいってください」
なおも食い下がって彼女はこちらのズボンに手をのばす。
――いらないんだよ。お金は払うんだってば。それで納得したんだからいいじゃないか!
「でも、あとで文句いわれたりするから」
――スペシャルサービスの押し売りすんなって! 文句いわないッ! ほら、これ、お金だからね、さ、これでいいでしょ。
「なんにもしないでお金もらえないもの」
――いいかげんにしろよ。いいか、そういう店だとは知らずに入ったこっちが悪い。だからお金を払って帰る。そのあと文句があってもなくても、君とは関係ない、違うか?
「そういうお客さん、外でいろいろいうから。遊んでいけば、おたがいに納得したことになるから。店長にも、ちゃんといえるから」
――わかったよ、その店長を呼べよ。オレは君のサービスがダメで、金だけ払って、怒って帰るわけじゃないって、ちゃんといってやるって。君は女としてダメな女じゃなくて、いい子だけど、オレの気がのらないから、なにもしないで帰るだけだっていってやるよ。
彼女はぷっとふくれたまま考え、ドアをあけて店長を呼んだ。
店長はカウンターにいた若い男だった。
私は「と、いうわけだ」と、申し述べた。
店長は苦笑して、だが、しっかり金を受けとった。それでも、彼女の表情はこわばったままである。いまどき、女へのお仕置きや折檻《せつかん》がないと思うのは甘い。しかし、それがあると証拠もなしにいうこともできない。だけれども彼女の表情のこわばりが気になる。
――よし、もうちょっと座ってくよ。
私は彼女の肩をたたいた。
それから十五分、二人して、ちらちらするビデオを見た。
「ねえ、せめてオッパイにさわってって」
と沈黙に耐えきれなくなったのか彼女がいう。
どうも、彼女としては職業的な自尊心か、女としての自尊心かの、ともあれ、誇りのようなものが傷ついてしまっていたらしいのだった。
――そうか、よし、どれどれ。
彼女はセーターをまくりあげて、フロントホックのブラジャーをはずした。
なるほど誇りにしていい胸であった。私は「立派で、重いぞよ、ほめてとらす」などといって、やっと彼女の笑顔を見ることができたのである。
さて、私は店を出て、さっきのキャッチの姿を探した。
呼び込みのセリフを威勢よく吐いた男と対面して、そのリアクションを確認しておきたかったのである。
「いいテープ入ってますよ」とは、ほざいたものである。「もう、ダイレクト、バッチリ、自分がやってるみたいなものだよ」とは、ほざいたものである。「納得もの」ともいいおってからに、そのあとで客と出くわしてどんな面をするのか、なかなかに興味はつきない。
と探したが、店の前の路地に奴《やつ》の姿は見えず、中年の別の男が客引きをしていた。
路地の入り口のあたりまで出ているかと思い、花見通りをしばらくうろついた。歩きながら客を引いた奴の言葉が嘘《うそ》ではなかったことに思い当たる。
ビデオの良《よ》し悪《あ》しは観る人の主観の問題だし、入場料の二千円にしても「ここからむこうへ入るだけ」とか何とかいったものの、なかでのサービスについては言及していない。さらに料金についても説明していない。「自分がやってるみたいなもの」なんていうあたり、彼女のフィンガーサービスを受けたとしたら、まったく正しい言葉の使いようなのだ。
呼び込みのセリフは、要所をはぶいてごまかしており、こちらの思い込みによって二重の意味にとれるような構造になっていた。
ビデオテープのディテールについて言及しているのか、店内のオプショナルなサービスについて言及しているのか、それがとにかく「納得もの」であるとだけいっているのであって、それにしたって客次第なのである。
どっちにしろ、この歓楽街の谷底で「話が違う」と抗議した場合、ただでさえ野暮なうえに、言葉尻《ことばじり》ひとつつかまえられないことになる。
そして、そのうえに暴力のおさえが利いていれば、奴をとっちめようとして、インネンをつけているのは私であり、喧嘩《けんか》の覚悟も必要となる。
その昔、まだ若いころ、ほんの少しは喧嘩もした。連戦連敗の経験のなかでやっとこ知り得た必勝の方法とは、一撃離脱、いきなりはじめてあとは逃げるの一手しかないということであった。街での遭遇戦では、足が速くなければ必敗の構造のなかへ追い込まれて袋だたきを食らう。
その覚悟で奴を探して、なお歩いた。
と、来やがったのである。奴と目が合った。目もとをにやにやさせて奴が近づき、いった。
「旦那、面白いよ、納得もの、バッチリ!」
私はあきれた。この人、さっき引いた客の顔なんか覚えてない。いや、ご立派!
色街の人通りは思いのほか少ない。
私はかつて、神戸の福原を歩いて、音に聞こえたその街の意外な静かさにとまどったものである。
色街にはじめて踏み迷った私は、しかし、心はおだやかでいられるわけもなく、静かさのなかにこもった濃密な色彩感に酩酊《めいてい》する思いだった。そうした行為を行う場所と定められた街の路地がたたえる異様な静かさは、そのままで庶民の“健全な”娯楽性とは一線を画する結界を形成しているかのように感じたのだった。
(この静かさはただならないな。男を誘う極彩色が見えてくるみたいだ)
といった気分で、私はぼんやりとした。
名古屋の中村も、もちろん吉原も、街は静かだった。
だが、男の本性を波立たせ、泡立たせる情緒は、かえってむせかえるほどに漂わせていた。
京都の五条楽園を歩けば、暗がりから歌うような節まわしで、
「お兄ちゃん、お遊びどうですか」
とおばあちゃんが囁《ささや》く。
ひそひそと誘う声は淋《さび》しげな路地の暗がりによく似合い、性的なイリュージョンはそのたたずまいの情緒にそって肥大していく。
たぶん、これが悪場所とされた空間の持つ磁力であり、そこへ踏み迷う男どもが引き継いできた文化というものであろう。
色街は盛り場の周辺に、あるいは盛り場の奥まったあたりに位置して、性的な情緒の網を闇《やみ》へ放っている。
しかし、さきにも触れたとおり、歌舞伎町はこの空間的配置がこわれている街である。
聖と賤《せん》(あるいは俗)の構図がとりはらわれ、街を歩けば歩くほど直接的でどぎつい刺激をあび、次の瞬間にはパチンコ店の騒音でかき消され、次の角をまがっていきなり裸の写真を突きつけられ、振りむけば焼き肉店の匂《にお》いにつつまれる街となって久しい。
街は明るすぎ、性的刺激はあふれかえって逆に拡散する。ひたひたとやってくる男の性的な情緒、その気分へむかう高まりは、この街では乱れる。高まったかと思えば、ざぶりと水をかけられ、焦点をしぼりきれず、ひどく苛立《いらだ》たせる。
(ええい、どうしてくれよう。面白そうだが、気が乗らないではないか)
性的欲望は落ち着かずにうろうろと明るすぎる路地をさまようしかない。
たぶん、こんなとき、歌舞伎町を歩く男の欲望は軽いインポテンツを病みはじめているはずだ。
あるいは性的刺激の即物性に耐えられる性的エネルギーがなければ、この街で欲望との親和感を抱くことはむずかしいはずである。
ということは、若い男の性の持ち主(実際の年齢とは別に)だけが、ここで性的なイリュージョンをとりまとめることができるということであろう。
イージーセックスの街区として、大きく翼を広げたようでいて、歌舞伎町のセックス産業は、客のターゲットをせまくしてしまっていた。もちろん、そんな変調した街にする気などなかったし、そんなことになるとは、誰も予想しなかっただろうが、歓楽のドン詰まりで、歌舞伎町は袋小路を生みだしてしまっている。
この構造のなかで、路上の風、キャッチたちが棲息《せいそく》する条件が整ってきたわけだ。
風営法改正前には、彼らはこの街の息の根をとめそうになるほどに増えた。表面上の理田はセックス産業といわれる店の過当競争である。そして、その背後にかくれた理由とは、性的刺激を拡散させずにはおかないこの街のたたずまいそのものということになる。
ほかの色街のキャッチたちとは異なり、この街の条件がキャッチたちを必要としているために、彼らは歌舞伎町が一番稼げると正直にいうのであった。
その男は、紺のブレザーにグレーのズボンを着た、ごく普通のサラリーマンのような男だった。もっというと、広告代理店の社員のような雰囲気で街角に立っていた。
このような取材でキャッチとコンタクトする場合、ファーストコンタクトがなかなかむずかしい。少々楽屋話めくが、しかるべき人の紹介でもないと、しゃべってはくれないことが多い。
もちろん、そのような取材もする。しかし、その男とのコンタクトは、いきなり路上で行った。
彼らのうちの誰かと、彼らの構える玄関口からコンタクトし、話を引きだしていくプロセスが、この場合の正統な手続きのような気がしたのである。
深夜一時すぎ、私は区役所通りの奥、職安通りに近いあたり、いまは閉店しているクラブ・リーの前で、ただぼんやりと立っていた。
なかなかの人通りで、店を終えたホステスや飲み足りない酔客が歩道をにぎやかに行きすぎ、タクシーがびっしりと並んでいた。
およそ五分に一回ほど、キャッチが声をかけてくる。
誘う言葉はさまざまで「女の子、どう?」「遊んだら? いい子いるよ」「一万円ぽっきり、ね、ねえ、ねえ、旦那《だんな》さん」「大丈夫、絶対いいよ、絶対だよ」「兄さん、抜いて帰れよ、軽く一発、すっきりしてよく眠れるぜ、えっへっへ」とまあ、それぞれに文句をひとひねりしている。
私の断り方はただひとこと「女を待ってるんだ」というだけである。
するとキャッチたちはすっと身を引く。
そんなやりとりをして三十分ほどその場に立っていた。
その男は、私に声をかけ、私の断りのセリフを聞いて、くすっと笑った。
「課長、うまくやったの? ほんと?」
――そうだよ、女が来るからさ、遊びはいいんだ。
「だといいね」
といって彼は軽い足どりで視界から消えた。
しかし、彼はこのあたりがテリトリーなのか、五十メートルの範囲で、しきりに声をかけている。
鳥類がせっせと餌《えさ》をついばんでいるみたいで、勤勉なキャッチだった。別のキャッチがまた私に声をかけてくるが「あ、こいつはだめだったな」という表情を見せて通りすぎる。
広告代理店ふう男は、私の前を二度通りすぎた。そのまま二十分ほど時間が流れた。
その男が三度目に私の前を通りすぎようとして、
「課長、まだ来ないの?」
と声をかけた。
――うん、まだだ。
と答える。
実際に私が長い間つっ立っているので、彼は私が女を待っていると信じているらしい。
さらに十分ほど過ぎた。
「来ないんじゃないの?」
と真顔で声をかけてくる。
「ほかで遊んだら、どう?」
まだ商売っ気を残して、彼はいう。
――いや、つきあいは長いんだよ。
と答えると彼はほんとに真顔でいう。
「煮つまってるのかよ、女はヤバイからなあ」
彼は苦笑し、また遠ざかって、鳥がついばむように一人歩きの男に声をかけてまわる。
さらに十分ほどすぎた。その男は、私の前まで来てタバコに火を点《つ》けていった。
「律義ですねえ、もういいかげん一時間じゃないの。来ないんじゃないスか?」
彼の口調からは、キャッチとしての商売っ気が消えていた。
――飲みなおすか。
と私はひとりごとのようにいった。
「仕様がねえなあ。ほんとは追っかけてて、軽くあしらわれてるんじゃないの? 俺《おれ》も、その女の顔見たかったけどさ、これじゃ、来ないもんね、まったくなあ」
人類学などのフィールドワークでは、未開集落の調査をする前の段階で、集落の近くにテントを張って、むこうが反応を示すまでしばらく待つという。まず子どもたちが好奇心を示し、仲よくなり、次に大人たちと仲よくなり、集落のなかに静かに入っていく。
なんだか、私がつっ立っていたのは、その手法に近いような気がした。
私に声をかけた十数人のキャッチたちのうち、待っている私の成り行きに興味を示したのは彼だけであった。
商売っ気を消して、私のシチュエーションに同情している彼の顔は、かなり若い。二十代のなかごろぐらいである。
――その辺で一杯やらないか、おごるから。
と私はいってみた。
「あっ、いいな、今夜はもうやめるよ」
まったくいまどきの若者らしく、軽いノリで彼は笑い、われわれは近くのすし屋へ入った。
奥の座席ですしをつまみながら、われわれは女の仕様のなさについて話し合い、二人で四、五本は酒をあけた。
彼の持論によれば、女というものは煮つまる前に捨てなければならない生物なのだった。
「終わったあとの気分なんだよ。ナニのあとで、女ってのはとろんとして、うじうじしたがるじゃない。ところが、こっちは、終わったらうるさいだけじゃない。あそこで決まるんじゃないのかな。女はしがみつくし、男は、ほら、ほかへ行きたくなるから」
――ずいぶん遊んでるみたいだな。いくつだって?
「二十六、女はざっと両手両足、これもんでね。金で遊んだの入れたら、二、三百かな」
――すごいな、もててるね。
「そうでもないよ。いまどき、女も半ぱじゃないから。友達と遊びに行っていい? っていうからいいよっていうと、部屋で|3P《スリーピー》でも平気だったりね、律義してたらたまんないんじゃないスか」
――スリーピーって、三人で?
「ああ、驚かないって、レコとはじめると手のばしてきて、はじめちゃうから。その気で来てるんだろな。それで、じゃあ、なんて帰ってくって。面白いから俺も元気でるんだけど」
かすかに言葉に訛《なまり》があった。
――国は東北?
「えっ、いや、島根、ひどい田舎」
――その商売いつからやってるの?
「二年め。四年前に半年ぐらいやってたけどね、またはじめた」
――景気いいのか。
「よくないスよ。ここだけの話」
酒好きらしく、すいすいとコップをあける。
――見てたけど、さっぱりだったみたいな。
「パンクっていうの。金持ってねえのは。今夜はパンクばっかし」
――パンクか。金持ってるのは?
「鉄板っていう。ま、いいじゃない」
――聞かせろよ。俺も新宿でバイトしてたことあるんだ。客引きはしなかったけどさ。昔はサンドイッチマンなんて仕事があって――。
私はふた昔前の新宿のようすを喋《しやべ》った。
若い連中は金がなく、当時はゴーゴークラブといったディスコで夜明かしをし、夏になれば、駅前の広場で寝て、フーテンなんてのもごろごろといて、葉っぱ、つまりマリファナなんてヤバイしろものが、ごく普通に出まわっていてと言葉をつないだ。
「青春じゃないの。だけど、金がないのはひどいスよ、よく平気でしたね」
――五百円あれば、朝まで踊っていられた。
「ひゃあ、それ、戦前の話じゃないの」
酔いがまわったらしく、この愛嬌《あいきよう》のある青年はかなりくつろぎだしていた。
――あんなにたくさん声かけるのか、大変だな。
「かまわないんだよ。ダメもとなんだから。むこうは、何かないかと思ってるわけだからさ。こっちは声かけてなんぼなんだから。だいたいわかるんスよ。遊びたい顔は。これだけいろんな遊びがあっても、何かないかってむこうが勝手にふくらんでくるんだから」
――俺はどうだった?
「あ、くすんでた。酔っぱらってないし。こっちかなって思うぐらい」
こっちというとき、額ににぎりこぶしをつける身振りをした。警察という意味である。
「ほかのが、声をかけても大丈夫だから、俺もひと声かけたの」
――そんなに見てるもの?
「結構見てますよ。さあっ!って見るの。何がくるかわからないからさ。カン狂って、こっちに声かけたら持っていかれるもん。かと思えば、四十万とか、あるから」
――四十万円? 何だいそれ。
「持ってるの。それだけ持って遊びに来てるんだって。そんなのいるから、やめられない」
――おごるの、いやになったぞ。いくら稼ぐんだ?
「たいしたことないスよ。課長さんぐらいスよ、三日で。エヘヘヘ」
――この! ほんとか!
「いいときはね。だけど、そんなのないな。やっぱり不景気。円高のなんとかっていうのあるんじゃない? 今夜もそうでしょ。二時まわったら、ぱったり人がいなくなる」
――月曜日だからじゃないのか?
「曜日じゃないな」
そこまでいって、彼はまた商売っ気をだした。
「行きません?」
――もう遅いよ。
「じゃあ、ポーカーやろうよ、もうけさせてやるって」
――本物の?
「いや、ゲーム機。最初だと、出してくれっからね」
この遊びのアイデアをめぐって、会話は押し問答のようになった。
時刻は午前四時に近い。
私の金で遊ぶつもりだったらしい彼は酔いもまわって、観念したか、サウナヘ誘った。
――こっちじゃないだろうな。
と私がホモの仕草をすると、彼は、
「違う、女が好きよ」
とやけにきっぱりというのだった。
私はその男とともにすし屋を出た。
男は私のさきに立って、路地伝いに大久保病院の方へ歩く。ここらで別れるべきであった。
なにしろ、サウナというのは、この街の“風”のホームランド、憩いの宿《ドヤ》、出撃拠点、情報交換もするたまり場なのである。この男に悪気がないことはよく承知できていたが、彼の仲間に出くわしたうえ、思わぬ盛りあがりで何か仕掛けられてはたまらない。
――もう遅い、帰るよ。これで明日は仕事なんだ。
私は、立ちどまって、五メートルほども前を歩いている男に、再びいった。
「何だ、つまんねえな」
子どもっぽい口調で男はいい、二、三歩引き返してきた。
――今度、あの辺で会ったら客になってやるよ。
「よしなって」
男は真面目《まじめ》になって答えた。
――客になればそっちの実入りにもなるんだろう? 何でだい。
「ばかいってるなって、五、六万円がところ、消えっちゃうよ!」
――あんたの店も、ボッタクリか。
「そうじゃないけど、店は店で金使わせるんだからさ」
――なんて店だ?
「課長、お兄さん、本庁のこっちじゃないの。ほんとは」
妙なものだ、と私は男の顔を見るしかなかった。さっきのすし屋では、何となく気の合った二人で酒が飲めたのに、路上に出たとたん、これまで二時間ばかりの間かよいあっていた感情が、風に吹き払われたように消えかかっている。
「ネタとるんだったら、客からにしてよ。すし屋で飲んでた相手が刑事さんだったりしたの知れわたったら、俺《おれ》、これだもん」
男は自分の首を右手の親指で横に切った。
――違うよ、まさか。
「まあ、いいけどね。じゃあ、またね、キャッチに引っかからないようにね」
人の好《よ》い男らしい。それはよくわかる。男は大げさに片目をつぶり、すたこら、という歩調でむこうへ消えた。
どうも、このあたりの出会いと別れが見事に風である。
私のほうが、内心かすかに警戒したために、あの男の路上の感性とやらを引きだしたのかも知れない。路上の感性などといってもしゃれたものではなく、路《みち》をやってくる人間との、つかず離れずの距離感、ほどのよいあたりで身を引くタイミングといったところが、すばやく作動したのだろう、彼はぱっ!と消えたのだった。テレビを消したような消えっぷりで、余韻は何も残らない。残ったのは、こちらが警戒してしまったことの後味の悪さだった。だからといって追いかけていって謝るほどのものではなく、ひと刷毛《はけ》、さっと淡い色がよぎった程度のものではあったけれども。
後日、私は取材であることを明かして、一人のキャッチの話を聞いた。出身地は静岡県焼津市で年齢は四十代の半ばごろ。それだけが彼の語る身上書である。彼の身上を時間にそって尋ねることは拒否されている。それはいつごろですか? という質問を封じられては取材もなにもあったものではないが、いっそのこと空間的に了解するしかない人物の例として考えてみるか、と苦しまぎれに条件を呑《の》んで話を聞いた。
場所は靖国通りの東京飯店で、この人物はフカヒレやら、カニやら、エビやら値の張る料理をやたらと注文したのだった。
夜の生活者らしく色は白い。紺地にグレイの大きなストライプの入ったジャケット、まっ白なワイシャツに細身の黒いタイ、べージュのベスト、杉綾《すぎあや》のダークグレイのズボン、なんとエナメル靴で、装いの品はどれも高そうであるが、どこかがちぐはぐであった。
眉《まゆ》が濃い。小さなひと重まぶたの目のうえで、この眉がよく動いた。眉に刺青《いれずみ》を入れているのかも知れない。テキ屋稼業のお兄さんにこれをやる人がいるが、刺青かどうかは聞きそびれた。
名は仮に横田さんとする。
厚い唇の間に禁煙パイポをくわえ、ときどき金のダンヒルで火を点《つ》ける真似《まね》をする。
思わず、
――あ、それに火を点けちゃあ!
と声が出たのをうれしそうに笑って、考え込むふりをしては、演《や》ってみせるのだった。どうやら、彼の周囲ではこの芸はウケているみたいで、何回もやるので閉口する。
「なんでも聞いてくれ、前科だってあるんだよ。いい話になるでしょ?」
こんな具合にインタビューがはじまったのだから、話は割り引いて聞くべきだろう。
「やっぱり新宿だよな。ほかでキャッチやっても、ここほど稼げないね。むこうから来る客が、途切れないですもんね。これから十二月の末、まあ、新年の、仕事始めからの四、五日で、二月いっぱい食えるぐらいね、稼げるからね」
――上客を鉄板、カスはパンクっていうそうですね。
「そうそう、まずいな、くわしいんだな」
と愛嬌《あいきよう》たっぷりの笑顔で質問を受けながら、酒もタバコも控えているといったわりには、たっぷり氷砂糖の入ったグラスで老酒《ラオチウ》を飲み、料理を食べる。
――どんな生活なんですか、毎日。
横田さんはくすっと笑った。
「生活っていったってあんた」
ぐっと考え込み、ダンヒルを点ける。
少しは笑わなければならず、こちらはくたびれる。
「匂《にお》いを嗅《か》ぎに午後三時すぎに出てみて、だめのようなら、パチンコとかね。だけど、たいがい夕方、六時ごろからだね、稼ぎになるのはね」
――それまで寝てる?
「サウナで寝てるよ」
――家には帰らない。
「家って? 家? そんなものは……」
――独身ですか。
「うん、離婚してね、博打《ばくち》、なんでもやってね、女房が逃げだしてね」
――特に何ですか。
「いろいろね、本引きですね」
――手本引きという、数を当てる、博打の神髄っていわれる……。
「神髄かどうか、こわいね。逃げてあたり前だよ。財産全部いかれてるから」
――それは、ええと、いつごろでしょう。
「それはほら、いいじゃないですか。いまよりは若いとき、ね」
――毎日、サウナで寝るんですか。
「そうそう、ほら、アパート借りるっていっても面倒でしょう。保証人とか、一応、あるから。朝、明け方入って、夕方、ひと風呂《ふろ》ゆっくりあびてから出てくるわけ、ね」
――じゃあ、二十四時間、歌舞伎町にいるわけか。そういう人が多いんですか。
「結構いるよ。千葉から通ってる人もいるけど」
――(ポン引きナスビ氏?)……疲れませんかね、歌舞伎町で二十四時間というと。
「疲れる? いやあ、かえってここのほうが楽というんですか。職住接近でいいんじゃないの」
――仮に、何ヵ月も歌舞伎町を出ないこともあるんですか。
「ここ、二、三ヵ月出てないな」
――一番最近で歌舞伎町を出たのは?
「九月にディズニーランドヘ行ったか。あと公園とかね、西口の。だから新宿は出なくていいんですね」
――ディズニーランド、どうしたんです?
「女の子連れていってみた。混《こ》んでたよ」
――お子さん?
「だから、女房が逃げてるわけだから。子どもじゃないですよ」
――恋人ですか。
「恋人? あんた恋人っていわれたら、違うでしょう。ほら、その辺で泊まって、金もあるし、退屈だし、もうちょっと何かするかってことで、ね」
横田さんの喋《しやべ》り方はこんな調子で、ぶっきらぼうのようだけれど、言葉と言葉の間に、よく動く眉が会話に参加しているため、その場ではぶっきらぼうな感じがまるでない。
いま、キャッチ稼業の路上の風たちは、じわじわ増えているという。しかし、正確な数は誰にもわからない。ざっと見て、二百人はいるかも知れないと彼はいった。そのうちのかなりの人がサウナ暮らしをしている。歌舞伎町から、大久保寄りの一帯に散在するサウナは彼らのもっとも普通の寝ぐらなのだ。
「いろんなのが泊まってるよ。二千円で泊まれて、ゆっくり風呂に入れるとなると、サウナが一番だな」
下着などは、サウナで買い、汚れたものは洗わずに捨てる。朝の定食もサウナで、朝風呂のあと、ビールも飲める。
――いくらぐらい稼ぎます?
「それは一晩で十万円、二十万円というときもあるし、できなくて、一万円にもならないときもあるよ」
――支払いはどういうシステムなんですか?
「一人入れて、いくらという店もありますよ。五千円とかね。それは店の従業員が外に立つ場合とかね。私がやっているのは歩合で、売り上げの二割五分から三割ですかね」
――それで二十万円になりますか! 大変な売り上げじゃないですか。総額百万円を超えますよ。
「そういう店、ね。一人十万円ね、使わせちゃうピンククラブ。そういう店は客が入ってなんぼでしょう。ほら、ボッタクリに近いような店」
色白の顔に酔いがまわり、お腹《なか》も満たされて、孤独な風来坊は、やっとリラックスしてきたのか、少しずつ言葉がなめらかに出てくるようになってきている。
――あなたが送り込んだ客が、その店でどれぐらい使ったか、計算はフェアなんですか。
「それはちゃんとやってる。そこをごまかしたら、キャッチはいなくなっちゃうよ。われわれが客を引かなかったら店が成り立たない。絶対必要なんだから。法律がやかましいから、この仕事、あぶないわな。それをやってるわけだから。それと、店も高い資金をつぎ込んでやって、客単価もあげてやってく商売だからね」
――客単価ねえ。
「こっちも、鉄板かどうか読んで声をかけてるからね。これは鉄板、絶対というのを店が使わせなかったら腹が立つでしょうが。せっかくの上客の懐の金の半分も使わずに帰すようじゃ話にならない」
――一人どれぐらいですか、最高で。
「そりゃあ、十万円、二十万円」
――すると一人引いて、二万円、四万円。
「そうそう、ほら、懐に三十万円とか、五十万円とか、あるんでねえ。それが歌舞伎町」
――そんな大金を持ってやってくる!
「面白いことを探しに来てるわけよ。桜通りを歩いてきて、花見通りへ出て、ぐるっと回ってる間に、股《また》ぐらも熱くなってるわけでしょうが。遊びたい客なんでしょう。考えてもみなさいよ、十万円、二十万円で赤坂の芸者と遊べますか? 野暮天を六本木のディスコが入れてくれますか? そりゃあソープランドはあるけれど、あれじゃあ雰囲気もないし。歌舞伎町のどこかで、面白おかしいところがあるとは聞いてるが、どこへ行っていいかわからない。そういう、私と同じぐらいの年の人ね。その気持ち、私はわかるよ。若い子を口説いたってダメ。かといって、お座敷遊びには手が出ない。銀座のクラブも気おくれしてダメとなったら、歌舞伎町しかない。ちょっと金のある中年男が遊ぶところってのは、実は日本にないのよ。ほら、温泉芸者ぐらいじゃ、つまらない。韓国、台湾へ行って遊びたいだけ遊ぶの、私はわかるよ」
中年男の切ない欲望を代弁して、横田さんはますます雄弁になっていく。
「世間はさ、俺よりも面白いことやってるんじゃないかっての、あるでしょうが。歌舞伎町は、そうだ、そうだ、いっぱい面白いことやってるよっていうとこなんだから。だったら声かけてやって、面白いとこありますよっていってあげて、ね? ほら、旦那《だんな》さんの気持ち、私はわかるよっていうわけだ」
――優しく。
「そうそう、私は中年なら、中年同士ね、ほら、気持ちわかってるからね、むこうの。子どもの遊びじゃないぐらいの金は持ってるわけだから。ここだよって、世間でやってるっていう面白いのは、ここだよって、仲間としていうわけだな」
――どういう顔をします? むこうは。
「ほっとするよ。やっぱりな、やってやがるんだな、という、ね。ほら、九レースに間にあったみたいな。好きな馬券これで買えるみたいな顔するよ」
――しかし、店は客単価でしょう?
「うん」
――ボッタクリに近いみたいな店でしょう。横田さんが優しくても、お金を払った分、遊べてるのかなあ。
「そうそう」
――ひどいめに遭う……。
「そう、そこな、うんうん」
――横田さん、うんうんて、その人ボッタクラれちゃうよ。
「まあ、しかし、ほら、遊びでしょうが。車買って走らないってのと、金が違うからね」
――三十万円でも?
「遊びに来たんだよ、行くのがいいんだよ」
――怒るでしょう?
「遊びの金で怒ってちゃあ、仕様がない」
――ははあ、哲学だなあ。
「なに?」
――いやいや、じゃあ、横田さんは年配の人に声をかけてるわけですか。
「同じぐらいの年格好のね。上でも、下でもあんまりうまくいかないねえ。あの、中学ぐらいで、悪さするときに声かけるときと、同じ気持ち。その気持ちのときは十万円」
横田さんの考えが、途方もなく横へ跳ね飛んでも、情感は乱れない。宙に浮ききった人生はやわな理屈を解体するものなのか、ああ。
――客に声をかけるとき、金額はどのぐらいだというんですか。
「それは、ほら、姿格好を見て、この人なら一万円といっていいとか、二、三万円といっても驚かないだろうとか、読むわけだ」
――しかし、店では十万円、二十万円使わせようという魂胆なわけだから。
「それは、遊んだうえの話でしょうが。それは気持ちのうえのことだから、ほら、そのうちに気が大きくなって、ぱっと使っちゃうのは、よくあることで、ね」
――嘘《うそ》ついて、二万円で遊べるよといって、実は十万円となると、横田さんが、中年男の気持ちを酌んでやって、親身になっても、結局は何ていうのかな、騙《だま》すといったら言葉が強いかも知れませんけれど。
「そりゃあ、ね? 騙す。騙すんだけれど、金貸してくれ、必ず返すからっていって返さないっていう騙してるのとは、ほら、別。これだけ儲《もう》かるよといって、ひっかけるのとは違う、ですよね。遊びのときのお金っていうのは、花びらみたいな、木っ端みたいな、風船みたいだろ? 何ていう? 気のものだよ」
――遊びに使う金は、花びらですか、風流だなあ。
「そうそう、風流な、普通の金と違うの」
――だけど、歌舞伎町へ花びら散らしに来るのはいいけど、そのお金はあくせく稼いだ金なんですよね。上に嫌みいわれたり、下から突きあげられたり、ちょっとボーナスのうち、七、八万円は遊ぼうかなっていう……。
「誰でもそうだよ、稼ぐのは骨だが、使うのはあっという間だね、まったく」
どうにも、横田さんの思考は途中で、ぽんと、レコードの針が飛ぶみたいに、まったく別のラインヘ飛んで、そこでの結論にストンと着地するのである。
しかし、私はお金の正体を横田さんがいい当てているようで、しばし、妙ちきりんな気分になってもいたのである。
彼が、お金というものを、徹頭徹尾、虚構のものだと見ぬいているとしたら、大変である。
そう、お札ほど絶対の現実であって、同時にただの紙きれにすぎないという面妖《めんよう》なしろものはない。その価値となると約束ごとのなかに属している。貨幣の価値は等価交換という思い込みの連鎖的な動き、回転のなかに現実としてとらえられるにすぎないのだから、別の側面から見て、花びらだといい切ってしまって、いっこうにさしつかえないし、そちらの側からは真実を衝《つ》いていることになる。
うーむと、私は考えたりした。お金が花びらであるというときの、いやにリアルな横田さんの言葉よ。貨幣が虚構として振るまう場面を考えた。インフレ、ドルの乱高下、株の暴落、土地の暴騰、リクルート、そして横田さんの周辺では、お金は風雅な花びらと変幻するのである。
――お金、何に使います?
「私? そうね、楽しみに馬券買ってみたり、ピンクに行って遊んだりね、酒飲んだりで、そこらの人と一緒、ほら、遊ぶ金だから」
――預金したりしない、でしょうねえ。
「ああ、しないしない、預金なんかできるんだったら、こんな、ね? ほら、何はしないんだ、ね」
――つかぬことですが、老後についてどう思ってますか?
「老後? さあ、どうかなあー」
横田さんは、自嘲《じちよう》ぎみに笑った。
――野となれ山となれですか。
「こわいこと、いうなって。どっかに行ってるんだろう」
――どっか?
「うん、ほら、消える? 何ていうか、ね? ここでこのまんまじゃなくて」
――ひと山あてて、どこかでのんびりしてるのかな。
「なにいってる。どこかへさ、消えればいいんだよ。いなきゃ、いいんじゃないかと思ってるからね。ここでも、どんどん人が入れかわってるよ。ほら、わからないからね、そのさきは」
――あ、いまからのつながりで考えない。
「え?」
――つまり、老後っていうよりも、これからさきは、行方不明だと思っていればいい。
「え?」
――いや、いいです。ちょっと考えすぎたみたい。
「わからないこと、考えたって仕様がないじゃないですか」
――はあ、はあ。
「老後なんか、わからないんだから」
――そうですね。どうなっているかわからないことは考えなくていい問題なんですね。
「うん、まあ、そういうこと」
そういう考え方も、たしかにあっていい。
場所を変えれば、因果律の枠から出られると考えてもいいわけだ。
そう思い定め、不安なときには、ここから消えると念じていれば、老後の、人間関係から生まれる悲劇性からは逃れられるわけだ。
それまでの人生をご破算にするには、場所を移るという方法があった。夜逃げである。
横田さんにとって、老後の問題は夜逃げできるかどうかの、すこぶる躍動的なイメージらしい。
これまでも、そうだったのかも知れない。
――いろんな盛り場を知ってるんでしょ?
「そうそう、名古屋の栄町のあたりとか、大阪のミナミね。大阪では天下茶屋のあたりに住んでた。面白いねえ、ほら、大阪っていうのはね、暮らしやすいよ」
――天下茶屋っていうと、南海電鉄の、あれは西成の近く。
「そうそう」
――いつごろ? って聞いてもだめですか? やっぱり。
「ああ、人を一人殺してるから」
ぎょっとさせることを、横田さんはいって、片手でおがんだ。
――人を?
いくらなんでも、びっくりして次の言葉が出なくなった。
「車で轢《ひ》いちゃってね」
私は吐息と一緒にいう。
――交通事故でしたか。それは仕方がない。
「いや、殺したの、ほら、わざといきなりバックして、ね」
片手でおがんだのは、手をのばして、私のタバコから一本抜きとるための挨拶《あいさつ》だったのかも知れない。横田さんはゆっくりタバコを抜きとり、私の百円ライターで火を点《つ》けた。
――さっき、前科があるっていったのは……それ……でしょうか。
「あ、あれは違うの。あれは、働いていた瓶詰工場から、マムシドリンクをバッタ屋に流した話で、ね、浦和のころだ」
――どうなったんですか、いえいえ、その車をバックさせた話ですけど。
「事故扱い。過失致死で軽くて、書類送検」
――じゃあ、やっぱり事故なんでしょう。別にそういう話を取材してるわけではないですから、人を殺したなんて、驚かさないでください。
「狙ってたんだよ。紙屋のフォークリフトのケツで、ブロック塀に押しつけた」
――どこで?
「大阪、ね」
――ほんとですか。
「そうそう、女、盗《と》られたもんでね」
よく動いていた眉《まゆ》がとまり、眉間《みけん》にしわが寄った。
――それ、喋っちゃっていいんですか?
「何が」
不機嫌な目で、私を見つめた。どうも、まだ女を寝盗った男を憎んでいるようで、その目はすさまじくすわっている。
――私はルポライターという職業でしてね。
「どこか、雑誌に載せるんでしょう。私はこうした、ああしたっていう話」
――いいや、そういう取材ではないんです。
「何か、はずみがあったら、足ぐらい折るようなこと仕掛けてやろうと思ってたんですね。そうしたら、あんた、腰の骨、ほら、こうなって」
横田さんは、椅子《いす》のうえで思いきり体をねじる。
――いや、いいです、いいです。
「腕でリフトを押し返そうとしたって、こっちは二トンもあるんだから」
目がすわっているのは酔いのせいかも知れない。横田さんはすでに老酒一本の八分めぐらいを一人であけており、この話のあと、いきなり沈没した。立ちあがろうとして、皿を落とし、椅子を倒し、私はかかえて店を出た。
彼はこのまま寝るという。彼のねぐらはサウナAK会館だった。
そこまで送る間、横田さんはぶつくさぶつくさ、世間に対する呪《のろ》いを吐き続けた。気の滅入《めい》る、社会に対する無茶苦茶ないちゃもんで、最後は、短く「馬鹿野郎《ばかやろう》」を連発した。
取材される立場に立つと、過剰にサービスしようというタイプの人がいる。
日常会話ではない、取材というどこか不自然な会話の流れになじむことができず、かといって尋ねられていることが、自分のごく日常的なことに限定されているので被取材者は苛立《いらだ》ち、面白い話のほうへ出ていきたくなる。それは、取材者の心構えとしてわきまえているつもりである。
そんなときは、相手の人が気の毒になってこちらも不要な気をつかい、そのことが相手に伝わり、さらにこちらに伝わり、取材の場が悲惨な空まわりに終止する。
横田さんは、くつろいでいるように見えて、だいぶ困惑していたらしいのであった。
もちろん、他者に対して告白衝動にかられて、堰《せき》を切ったように喋《しやべ》りだす場合もある。
取材の場が、取材される人にとってカウンセリングのような役割になって、心のうちを吐きだすのである。だから、横田さんも、私に何ごとか、胸のうちを吐露しようとしたのかも知れなかった。
だが、右のことはすべてこちらの思い違いということもある。取材の基本は一期一会。その人とそのときと、場所と精神状態との微妙な差異で結果の色あいは千変万化する。
私は横田さんと別れたのち、横田さんが語りかけた「人殺し物語」が、過剰サービスの作り話なのか、心に秘めていた重さを吐露しようとしたのか、いずれにせよ、聞かねばならなかったなと後悔して、げんなりした。
こちらはそれが何であっても聞くべきである。その原則に照らして、先刻は中途半端に横田さんを制してしまい、後味が悪かった。
そのうえ、横田さんの呪いを聞いて私自身が不機嫌になっていた。彼の魂が私に乗り移ったのかも知れない。
新宿区役所の前で、かわいい女性が私に声をかけた。
「一杯飲んでいかない?」
私はあっさり「いいねえ」と答えた。
長身の、髪の長いその女性は私を区役所裏の、とあるピンクキャバレーヘ連れていって、中に放《ほう》り込《こ》んだ。
すさまじい音量のディスコサウンドが店内の暗がりに炸裂《さくれつ》していた。
(飲んでやろうじゃないの)
すでに気分はそちら側に転がっている。
むこうむきに並ぶ背の高い椅子。二人がけの席に、何だか顔のつくりがよくわからない、やたらに長いつけ睫毛《まつげ》の、若いんだかそうでないんだか皆目わからない、それでいて、深く考えなければ、どうして、なかなかに魅力的であるといえなくもなさそうな女性が座った。
まずビールが三本、しかるのちにまたしても三本、何にも注文していないのに並んだ。
続いて彼女は、
――ねえ、前の席に移りません。
といった。
――なんで、ここでいいじゃないか。
といったつもりだが、聞こえるわけがない。音楽が大きい。
「ねえ、前の席だったら、もっといいことできるのよ」
――いいこと? にひひひ、いいこととは何レスカ?
「いろいろなのよ」
(行ってやろうじゃないの)
とまたしても、気分はそちらに転がった。
「ボトル、キープして」
こりゃあ大変だ、ボッタクラれる。背中が寒くなって、急ブレーキがかかった。
――いや、ウググ、ボトルはいらない。ここで飲みましょうね。わ、今夜は楽しいなあ。
「じゃあ、ここでね」
――そうそうここでいい、うんといい、この席は好きだな。
といってる間に、テーブルにボトルが天下った。ホワイトホースであった。
――こ、ここここ、これはなんだ?
「ここで飲むんでしょ」
彼女は耳に唇をつけて囁《ささや》く。囁きながら耳を噛《か》む。
――ここで、ビールを飲むといったのだ!
「え? なに? あ、フルーツね」
リンゴとバナナとよくわからないパパイアみたいのが盛りつけられた皿が天下ってきた。
ビールが二本、宙に舞いあがっていった。
――あ、それ、まだひと口も飲んでないっ!
といっても闇《やみ》と音楽のなかに、私の悲痛な叫び声は消えていくだけであった。
私は怒り、どうせボッタクラれるのならと、彼女の胸に手をのばした。すると、耳もとで彼女は優しく、しかし、日赤病院の婦長さんのような厳粛な声でいった。
「ここではだめです。だから前の席に行こうっていいました」
私は短くいった「馬鹿野郎」と、そして、〈歌舞伎町を歩くのに道を選んではいけない〉などとも思ったのだった。
ディスコサウンドの暴風のなかで、私の意識の半分は覚醒《かくせい》してしまっていた。その意識の側で考えたこととは、このような店が果たしている純粋な消費の役割についてである。
栓を抜いてしまったビールは捨てられるのだろう。
なにしろ、暗闇《くらやみ》のなかからのびてくるボーイの手は見ている前でポンポンとビールの栓を抜いた。
メッセージは次のようなことになろう。
(いいか、見てのとおり、栓を抜いちまったからな。もうあとには引けないのだからな)
ビールはこの瞬間、流通の最終関門を通過して、ひとの体内を経由しようが、ダイレクトに捨てられようが、おかまいなしに消費されたことになる。ビール工場から下水へ直結される消費経路とは、資本にとってひどく効率のいいシステムに違いない。で、カモとなった私めは、その流量を眺めつつ、ただひたすら金を支払う。なんとも効率的な消費空間ではないか。
うむ、この消費社会の窮極の消費とは、本来は使用されるべき“物”の使用価値を捨象しつくして、見るだけの“物”に転化してしまって終わるのではあるまいか。
ビールいかが? おお、じゃんじゃんもらおう。はい、はい。ジャージャーザブザブとビールが流れて下水へ落ちていく。いやあ、立派なビールだなあ、見事だなあ。いくらですか? 三万円。はい三万円。てなわけで、窮極の消費が行われる。くそ。限りなくボッタクリに近いピンクサロンで行われている消費とは、これである。スコッチいかが? ロックにしてくれ。はい、はい。ジャージャーザブザブ。いやあ、いいウイスキーだなあ、これならボトル一本すぐに空いちまうなあ、ひゃあ、琥珀《こはく》色ですなあ。いくら? 五万円。どうも、ありがとう。電光石火の消費である。そして、消費社会の本質が露《あら》わになるこのような場所の装飾として女性の濃密サービスがあるわけだ。こいつは消費社会の未来のさきどり。ぱっぱっと金を使わせようというモチーフで、ボッタクリ店がたぐり寄せてしまい、短絡《スパーク》させているのは、金もうけの本音、もうひとつの欲望の露出である。要するに、等価交換などの手続きは見せかけの形式であって、本音はいきなりお金が欲しいのだが、やむなく等価交換の形式を踏む。どうにも露骨。
などと、馬鹿《ばか》なことを考えてる間に、隣に座っていなければならないはずのホステス嬢が消えており、ほったらかしとなった。
残り半分の意識がついに覚醒した。私は席を立ち、レジで料金を訊《き》いた。
「六万四千二百円」
――うむ。
文句をいう気にもなれずいわれたままに支払う。
――こんなことでは歌舞伎町は死んでしまうぜ。もうすぐ終わりがくるよ、アホどもめ。
といったけれども、店内は音の暴風、もちろんむこうには聞こえない。聞こえるようならこんなことはいわない。レジの男はなかなかスゴみのある面相で、おっかないのであったから。
私には横田さんの退廃、虚無、社会への恨みなどの混然となった心情が乗り移っている。少なくとも横田さんの、どうともなれ、やけくそ、浮きっぱなし人生のすさんだ気分は、磁力のようなものを私に放射していた。おかげで私の財布の中身は花びらとなって歌舞伎町の闇に舞ったわけであった。つかの間、私自身もやけくそとなって、虚空にむかって金を撒《ま》き散らしたくなったのである。といっても、たった六万円ほどのやけくそでは、横田さんの足もとにも及ばないだろうけれども。
気楽に、風のように生きているキャッチたちだが、彼らの心は底ぬけにすさんでいる。
彼らはどんなキッカケで、このような生活に入ってくるのか。
私の会ったキャッチのうちで、某私立大学にまだ籍のある二十四歳のAさんの場合は、ピンクキャバレーのボーイのアルバイトをして、このような金の稼ぎ方があることを知った。
差しさわりがあるので、経歴をくわしくはいえないが、長野県木曽福島市の出身。大学一年の春、歌舞伎町へ遊びに来て、時給五百七十円の従業員募集の貼《は》り紙《がみ》を見る。この給料はほかのアルバイトにくらべて三割から四割は高い。一日、十時間、あるいは十二時間働いて月収は十八万円から二十万円になる。
「それまでの月の小遣いが四、五万円でしょ、まあ、面白くて、金にもなるので、バイトをはじめたわけ」
十九歳の少年が、これだけ稼げるアルバイトは、そうざらにあるわけはなかった。
その店は、ボッタクリの店ではなく、濃密なピンクサービスと、料金の安さで知られたキャバレーであった。
しかし、店内の秩序は厳しい。
店長、マネージャー、主任、ナンバー長、ナンバー、ボーイ長、ボーイというように、従業員の位は細かく分けられていて、見ようによっては軍隊よりも厳しい身分制度が敷かれているという。
「これが絶対なんです。一日でも早く店に入った者がうえなんですね。運動部などのやり方に似ています。ちょっとトッポイ人間が多いから、身分をきっちり決めないともたないんじゃないんですか」
Aさんは、ボーイ、つまり一番下ッ端で働きだすが、人の出入りが激しく、半年ほどでボーイ長になった。古参がやめていくので自動的に出世するわけである。
しかし、マネージャーになるのは大変だという。
「水商売でのしていこうという腰のすわった人でないと、あそこまではいけないんですね。そりゃあ、おっかないし、フロアの掃除なんかもキッチリやらないと本気で叱られる」
従業員の平均年齢は二十五歳ぐらい。三十代は店長とマネージャーだけだったという。
「店の女のコとできちゃう奴《やつ》もいます。まあ、店内恋愛は禁止されてるけれど、ぱっとやめればいいから、たまにボーイとホステスが二人で消えることもあります。それでも、店のサービスがえげつないですから、それを見ていて、ホステスに本気で惚《ほ》れる男はかなり少ないんですよ」
はじめは面白くて、夢中で働くが上役と感情的なシコリが生じた。
「こんなバイトしていて、人間関係で悩むなんていうのは、馬鹿馬鹿しいから、すぐにやめた。そのときはもうキャッチのほうが気楽でいいと思ってたから」
業界の常識として、組織関係と風俗店の間で交わされている相互の安全保障契約についても知識を得ていた。キャッチたちは、店が組織と契約したことによって守られているのである。
「それではじめたけれども、はじめはなかなかうまくいかない。そのうちに慣れてくる。なんていうか、深く考えないほうがいいみたいですね。とにかく歩いている人に歩調をあわせて、おっくうがらずに声をかける。一番気をつけるのは、私服の刑事ね。新風営法だと、店の前から離れて客引きをするだけで逮捕されるから、仲間同士で合図しあって刑事だということを教えあうんです」
刑事は、いかにも客らしく、ゆったりゆったりとやってくるのだという。ほかのキャッチに聞いたことだが、調子に乗っているときによく刑事に声をかけることになるという。
それから、一人も引けなくって焦っているときもあぶないのだそうだ。路地を合図が走り、その男が刑事であると皆が知っているというのに、うっかり者が近づいていって「社長、お遊びは?」とやりそうになることもある。
そんな場合は、そのうっかり者に喧嘩《けんか》をふっかける真似《まね》までして、刑事から引き離すこともあるのだそうである。これで、なかなか気骨の折れる商売なのだ。
「それでもだんだん普通の感覚が消えていきますよ。大きい日銭が入るものだから、金遣いが荒くなっちゃいますよ。早いうちに十万、二十万円も入った日なんかは、そのままキャンパスクラブで遊んじゃう(笑)。金使っても、また客を引けばいいと思うでしょ。ポケットに二、三千円残しておけば、次の日、また金が入ってくるわけだから」
キャッチで稼いだ金をまた歌舞伎町の店で使うとは、明快すぎる資金の還流である。
お客にしてみればたまらないが、キャッチたちへ渡ってからさきの金の回り方は、いわば花見酒の回転となるわけだ。
まだ若いAさんでさえ、一ヵ月に百万円を超える金をそのまま遊びに使っているという。
「あとはポーカーゲーム機かな」
この非合法でイージーな賭博《とばく》は、いまどこの盛り場でも相当な数に増えてしまった。
「店の側が微妙に調節できるんですよ。はじめての客には、エサを撒くみたいに出してやるんです。だから、とぼけて入って、初心者みたいな顔で遊んで、エサだけいただくわけです。でも、結局やられちゃうけれどね」
ポーカーゲーム機を置く店は、ひっそりとフルーツ・パーラーの看板を出している場合が多い。一説では、歌舞伎町近辺で五百軒以上もあるという。経営にはもちろん組織の息がかかっている。賭け金は十円と、百円とがあり、五百円で、最大二十五万円の配当となる。
あやうい稼ぎで得た金が、ボッタクリではない少しはマシな風俗店へ流れ、もう一方では、ポーカーゲーム屋を経由して組織へ吸い込まれていく。その資金のうちのある部分は高利の闇金融へ流れて、経営の苦しいクラブママヘ貸し付けられる。その流れのなかには、さきに述べた麗華さんのような転変のドラマが演じられることになる。
こうして歌舞伎町の夜をあざむく繁栄が続き、キャッチたちは、歌舞伎町へ流れ込む資金の先端を、軽いステップでたぐり寄せているわけだ。
「もうぼくはやめて、まともな会社に就職しますよ。飽きたな。遊ぶだけ遊んだし。歌舞伎町で、まるまる五年間、宴会してたことになりますね。酒も女も、普通のサラリーマンの一生分ぐらいやっちゃったんじゃないかな。今年の夏、実家で畑仕事やったら、ものすごく気持ちよかった。まともな生活が呼んでいるって感じ」
Aさんはこう語ったが、足を洗えるかどうかは保証の限りではない。別のキャッチは、足を洗うというハンドルの切り方をせせら笑うのである。
ある中年のキャッチは次のように語っていた。
「ここで、こうやって半年めしを食ったら、だめだよ。抜けられねえよ。楽するのを体で知ってるんだから。必ずもどってくる」
歌舞伎町の風となった若いAさんが、これから支払う人生の代価はかなり高くつく。
たしかに、私もそんな印象を得た。
足を洗えない、と苦い表情でいった人物は、いま、ゲーム屋の逮捕要員をしている。大阪、博多、名古屋、新宿、上野とめぐってまた新宿にもどってきたときには、キャッチをやるパワーも失《う》せていたという。
「もう面倒になってね。誘いもあって、ゲーム屋の名義人になった。何もしなくていい。ほんとに何もしなくていいっていうのは、これは楽だよ」
元地方公務員、高卒で千葉県のある市役所に勤めたが、目の前にいる三十年後の自分の姿にうんざりした。机を並べている係長である。つまらない思いで勤めていたが、ギターの腕前はセミプロ級である。
はじめは、地元のスナックで弾き語りのアルバイト。そのうち、大阪の繊維問屋に就職した同級生に呼ばれて転職する。すぐに繊維不況に出くわす。訪米しての佐藤・ニクソン会談のころだという。
人員整理で、自分から退職してやったと本人は語る。
そのあとで、本格的に弾き語りをやろうとした。大阪・ミナミのスナックに入ったが、むこうが求めていたのは、バーテン兼、弾き語りの役どころだった。カウンターのなかで洗いものをしながら三十分おきに弾き語りもやっていたが、やがてママと喧嘩となる。給料に弾き語りの分が上のせされていなかったためだった。それで店をやめ、その筋に話をつけてもらって、スナック三軒をかけ持ちする本格的な弾き語り稼業となる。そのころ、大阪は昼サロの全盛時代。昼間遊んでいるのもムダだと思って、店の前での呼び込みをはじめ、やがて、キャッチへと商売を変える。
その間に、話をつけてくれたその筋のお兄さんに博打《ばくち》に誘われ、面白さを知るようにもなっていた。やがて、大阪を離れるのは、博打の借金から逃れるためである。
この人物の人相風体を、くわしく述べるわけにはいかない。彼は神経質に念を押していうのである。
「追っかけまわされてるんだ。サラ金より恐《こわ》いよ」
どうやら、行く先々で不始末をしでかしているらしい。
「弾き語りにもどろうとも思ったけれど、そのうちにカラオケブームで仕事がないようになってるしでね」
世の中の変化が、この人の場合、具合の悪いほうに作用しているともいえよう。
それにしても、逮捕要員というのは心安らかな日々とはいえまい。
「大丈夫じゃないのか。これだけ増えてれば、全部の店に手入れなんかできないよ。どこかがあげられたら、しばらく店をたたんで、またやればいい。運のない名義人があげられるわけだ」
彼は不健康にドス黒い顔で笑う。
そして、いった。
「カスミ食っているようなものだよ、キャッチは。そのうちにくたびれるわ。そうは続かないよ。気の強いのは組に足入れたりで散っていく。キャッチで家を建てた奴なんか聞いたことないね。そういう奴はここに居つかないのかも知れんけど。それで、行き場のなくなったキャッチで、ゲーム屋の名義貸しやってるの、俺《おれ》が知ってるだけで十人以上もいる」
路上の風が、力を失えばどこかに澱《よど》むことになる。地上に降りたところとは、これまでよりも刑務所に近い地点なのだった。
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第四章 美の神々
キャッチ稼業の連中にとって、かつて、もっとも客を引けた場所は、コマ劇場前にポッカリと開いた空間、映画館に囲まれた広場のあたりだったという。
快楽を求めて盛り場を回遊する男どもの頭には、映画が唯一の娯楽だった時代の記憶がしみ込んでいるのかも知れない。その記憶がコマ劇場の前まで男どもを連れてくることになり、風営法改正前、キャッチたちはそのカモを求めて口先の芸を競い合うことになった。
こうして、劇場に囲まれた方形の広場は、快楽の闇市《やみいち》となった。劇場は盛り場の神殿のような位置を占め、その境内で、キャッチたちは蠅《はえ》のように、メフィストのように、そしてまた歓楽の使徒のように、神殿の前の市場を制したのである。
しかし、法は蠅を追い払った。
すると神殿前の広場は、ひどく淋《さび》しく、歓楽の幻影ではちきれそうだった方形の市場は、乾ききってガランドウになった。
コマ劇場の屋上、ひさしのように広場に張りだしたテラスから広場を眺め下ろすと、この壮大な空間が、思いのほか静まりかえっていることに驚く。
うらぶれて、どこかに浅草六区のような気配さえ漂っている。
新宿コマ・スタジアム総務課長藤村憲生と並んで広場をぼんやりと眺めたことがある。「人の流れがここへ来てはっきり変わったようですね。どうもいけない」
コマ劇場のドーム形の屋根の周囲に、一番街から広場までぐるりと眺められる細いテラスが設けられており、そこをひとめぐりした。「靖国通りからこちらへむかう人波が絶えず流れ込んでいたものでしたが、近ごろは回流してこないようになってしまったようで」
ニシンを待つ番屋の漁師のような目をして藤村は呟《つぶや》き、遠くを見る。
テラスのうえでは、一人のアルトサックス奏者が、同じフレーズをくり返し練習していた。
夕陽《ゆうひ》が山手線のむこう、高層ビルの間に傾き、盛り場の灯が今夜も輝く。アルトサックスの旋律が劇場街の上空へ流れていった。
サックス吹きのシルエット。ビルのスカイライン。夕陽ににぶく光る楽器。動く指。力の入った肩。どこかへ置き忘れてきたような都会の典型的な情景にうっとりした。
新宿コマ劇場の楽屋をあらためて訪ねたのはそれからかなりのちのことだった。
十二月二十五日までのコマ劇場には、恒例のコマ喜劇がかけられていた。
「歌と喜劇の年忘れ特別公演」の出演者たちはいずれも一世を風靡《ふうび》した喜劇人たちである。
小さな楽屋入り口の、入って右手の壁に名札掛けがあった。そこには楽屋入りしている者の黒札と、小屋を出た者の赤札の名札が並んでいた。
石井均、大村崑、東てる美、谷幹一、正司花江、由利徹。
横から手がのびて芥川隆行の名札がひょいと赤札に返る。本人がマネージャーとともに急ぎ足で楽屋口を出ていった。かすかに聞こえる客席のどよめき。壁のモニタースピーカーから聞こえてくる谷幹一の声、それを受けている大村崑、せまい階段を腰元姿の女優さんがかけ登ってくる。
演劇部次長|安食《あじき》吉朗は、楽屋入り口から入った突き当たり、舞台事務所の奥まった机についていた。この道三十年。途中系列会社のコマプロダクションヘ籍を移したが、新宿で三十有余年、コマ劇場とともに歩んできている。
「お茶でも飲みながら話しましょうか」
温厚そうな目を細めて安食はいった。
外へ出る。その喫茶店は、およそコマ劇場に関係した者なら知らない人はいない喫茶店「もん」である。コマ劇場の裏手に昭和二十五年に開店している。歴史は昭和三十二年設立のコマ劇場よりも古い。
奥の席で安食は語った。
「ここに就職したころ、さっぱり客が入らなくて、円形ステージも宝の持ちぐされでしたな。新国劇を呼んでどうにか客が入っていたわけなんだ」
――私は演劇学科を中退した者なんです。コマ劇場の円形ステージは、使いようによって大変に効果を発揮すると「劇場論」という講義で習ってましてね。一度ステージを観《み》たいと思って入った覚えがあります。
「ははっ、舞台そのものを見にきた?」
――何か歌謡ショーでしたよ。舟木一夫だったっけ。
「舞台機構の見学ですか。中身を観に来たんじゃない?」
――申しわけありません。演《だ》し物《もの》のほうは何とも私の場合、なじめませんで。
「そうだろうなあ。コマ劇場が客を呼べるようになったのは、昭和三十年代の後期、菊田一夫の作・演出で江利チエミさんの『スター誕生』からでしてね。もとから学生さんには縁のうすい演目だったでしょう」
――好きでこの道に進んで、面白い話もたくさんご存じでしょう?
「そりゃあ、エノケン、ロッパの時代、浅草と重なるころから、いままでね。しかし、大看板さんの楽屋の話は、そうおいそれとは語れないよ。百人町のホテルから、誰《だれ》と誰が開演間際に駈《か》け込《こ》んできて、舞台がはねたら、また別の組み合わせで百人町方面へ消えていったなんてことは、うふ、立場上話せるものではないな」
――こちらはまた、東京で最後までダンシングチームが残っていた劇場でしたね。SKD、NDTと解散して、コマダンシングチームだけが頑張っていたと思ったら……
「去年、うちのチームも解散せざるを得なくなった。淋しいですな」
安食は目をしょぼつかせた。
昭和三十六年、就職してすぐ安食はダンシングチームの担当となった。
彼の給料が八千円ほどのころ、東宝芸能学校を出た若い男性ダンサーの給料は一万二千円。トップクラスのダンサーは十万円の高給とり。
それから時は流れて幾星霜、客の好みも変化して、ついにダンシングチームは東京にはゼロ。そのなかで、男女混合のダンシングチームでは独得のダイナミックスさを特色としていたコマダンシングチームも時流には勝てなかったのである。
「勝つ方法はあったのだけどね。私は制作側の人間だから責任を感じていましてね。厳しく考えなければならないところで、やはり甘いところがあったと反省はしてるんだ。何よりも、昔はあれだけやる気いっぱいの若い連中の情熱、あれを空まわりさせたようで、反省してるわけですな」
安食はうつむきかげんにいう。
コマは長い間、一人の歌手を立てる「歌手公演」を中心に回転してきた。自前のダンシングチームは、その背景を演じることが多いし、時代物では大部屋俳優のように短いセリフの芝居までこなしてきている。
ダンシングチームの独自の魅力をアピールする機会がともすれば少なかったのである。
歌舞伎町に定着するかも知れなかったダンシングチームとしては残念なことであった。
いま、コマ劇場の屋上の稽古場《けいこば》でひっそりとダンスを教えている人物がいる。
モダンダンスとタップダンスを教える児島日出夫は、コマ劇場の円形ステージを縦横に踊ったトップダンサーの一人である。
その日、児島は三人の生徒を前にレッスンをつけていた。ダンサー独得の細身の体、プロポーション、ときに手本を示す踊りは現役のものである。
コマ・ダンススタジオは、屋上のテラスの一画にある。幅十五メートル、奥行き三十メートルほどのスタジオは、コマダンシングチームの稽古場でもあった。ここでダンスヘ賭けた青春の汗と涙が流されたのである。
児島は昭和五年生まれ。岡山県から大阪へ移って終戦を迎え、通産省の役人生活を経験している。
「ちょうど大阪の通産局にいたころに、フレッド・アステアの映画に魅せられちゃいましてね。もう夢中になったんだな。なにしろあなた、勤務中に机の下でタップを踏んでたんでよく上司ににらまれてね」
好きこそものの上手なれでタップの上達は早く、三十二年に大阪梅田コマに入るころには知る人ぞ知る存在となる。次いで三十三年新宿コマができて、ダンサー兼振付で新宿へ来て以来のコマ劇場生活。
「アステアの映画を観たおかげで、ダンスに人生を賭けることになったわけ」
稽古の休み時間に児島は快闊《かいかつ》に笑う。
「気がついたら、いまのこれという人生ね。もうあっという間。そりゃあ目まぐるしいようで、熱中していて、それでまあ、ステージでスポットライトがあたる、ステップを踏む、全身に戦慄《せんりつ》が走る、快感ね、生きているという実感、こいつのために人生を賭けてよかったよ」
そういう男たちが当時二十人、女が三十人、これが歌舞伎町唯一の、そして東京に最後まで残った男女混合のダンシングチーム全員に一脈通じる人生観なのである。
児島が新宿コマに来たころ、コマは不入りで立体映画などで公演をつなぐ状態である。
やがて一ヵ月がわりの「歌手公演」になるが、そのころの日常生活は、コマにはじまりコマに終わる毎日となる。
「一ヵ月のうち、息がつけたのは初日からの十日間ぐらいでしょうね。あっという間に次の公演の仕込みに入る。毎日、昼、夜の二回公演で、夜の部がはねてから新しい『景』の振付、稽古に入るから、うっかりすると終電がなくなることになるわけ。それじゃあ、始発が出るまで少し飲むかとなるんだが、なあに、始発が出るころでも、飲みはじめが遅いからまだ不足というわけで飲み続けて、朝の八時なんてことはざらだった」
――それじゃあ、昼の部の開演のときはまだ酔っぱらっているじゃないですか。
「そう、あはは、べろべろ。楽屋で仮眠するといったって、一、二時間かな。開演のベルが鳴っても、酔っぱらっていたのが、何人かはいたろうね」
――それで、大丈夫なんですかね。
「それが大丈夫なんだ。舞台のうえの自分は酔っぱらっている自分とは別ものかも知れないね。一景、また一景と踊っていくうちに汗が流れて、体が舞台の空間にぴたりとね、あれはどういうのかなあ、一種の親和感だろうね。何にもたとえられない。役者さんや、歌手の快感とも違うだろうが、ダンサーだけが知っている快感のなかに入るんだな。ぴったりだという感じが生まれているんだよ。自分と肉体とイメージがぴったりという、三位一体の充実があるわけです。わかるかな?」
わかるわけがない。届くかどうかともあれ、この自己像の統一感というのは(何にもたとえられないというお言葉ではあるが)、あえて類推すると自意識と身体との合一、そしてイメージとモーションの合一という、すこぶる哲学的な至福感ではあるまいか。
私はたった一度だけ大真面目《おおまじめ》になって舞台に立ったことがある。演劇学科の学生として演《や》ったのだから、こと舞台表現については真剣なとり組みのつもり、おちゃらかしではない。
舞台に立つと、どうだろう、自分の腕が邪魔なのであった。足が他人であった。それを四ヵ月もの稽古量でからくもごまかして、なんとか演りきった。自意識と、身体と、そのうえ、演技のイメージとがすべてバラバラでどうにもならず、五回の公演中、幕が下りるたびにうんざりし、自分をこの下手くそと呪わないわけにはいかなかった。たぶん、自分を解放できなかったので、三日やったらやめられないという役者の醍醐味《だいごみ》を味わいそこなったのである。
――私はたぶん、児島さんの対極の最悪の経験を舞台でしているんだと思います。
「よく見せようとすると、そんなこともあるよ。で、その後、芝居を続けたの?」
――演劇がいやになったら、いきなり左翼になってしまったので、やめました。左翼もいきなりやめたけど。
ちょうどこの日、レッスンに通っていたアケちゃんという女性は、児島の弟子で、数年前まではコマダンシングチームのメンバーだった人だ。児島さんとアケちゃんと一緒に「もん」でコーヒーを飲んだ。
アケちゃんはいまは結婚して、少し太めになり、シェイプアップの必要と、ダンスの勘をキープするためにレッスンを続けている。
そのアケちゃんにとって児島が恐《こわ》い先生なのはもちろんである。
「怒鳴ったりする恐さではないんですよ。先生の恐さは、横を向いちゃう恐さ。新しい振りをもらって、それが覚えられないと平気でよそを向いて、ちっとも怒らない。そのかわりその景に出られなくなっちゃう。出番がなくなるのが一番恐いですよ。ステージで踊りたくて入ったのに。だからみな必死で覚えた」
児島の考えは徹底していた。マスゲームのような手足の揃《そろ》え方をむしろ嫌ったのである。
児島はいう。
「合わせるだけの踊りは、つまらないですね。リズムが要所で合っていれば、その途中は流れるように自分のものになっていなければならない。誰かの踊りに合わせる、真似をするというのはダイナミズムを殺すわけです。だから、振りを自分のものにして欲しいとだけは厳しく注文した」
しかし、私たち観客は、一糸乱れないダンスを群舞だと信じる癖があり、ラインダンスなどで、足がぴたりと合うと拍手する。ラインダンスにはそのような美しさがあるけれども、揃うだけのダンスを好むのでは、そこに踊り手の個性を見ようとしないことに通じよう。
そういう固定観念がありはしないかと訊《き》いた。
「レビュウなどではながい間、そういう見方だったかも知れない。ウエスト・サイド物語の映画でやっと日本人のダンスの見方が変わったのですからね」
ここにも一人、時代を早めに走ってしまった男がいる。朝方まで飲まずにいられなかった心情には、客のセンスの遅れへの怒りもあったのではないか――。
歌舞伎町の町名の由来は、この稿の冒頭で少しふれたように、劇場街の一画に、築地の歌舞伎座に負けない新しい歌舞伎座を建てようとしたことにあった。
その構想を独自に考えたのはこの地で仕出し屋や佃煮屋《つくだにや》を営んでいた鈴木喜兵衛である。喜兵衛は当時の町内会長で、東京が一望焼け野原となった戦後の、さらに一望して、伊勢丹デパートぐらいしか残らなかった新宿の焼け野原を前に、イメージをふくらませた。
喜兵衛の頭に浮かんだ歌舞伎町の光景は、歌舞伎劇場、映画館四、演芸場二、ダンスホール一、これら大衆娯楽の施設を中心に飲食店が軒を連ねる、どこか浅草の六区を手本にしたような構想だったように思える。
そのなかで歌舞伎座はついに実現せず、映画以外の生きた興行の劇場は、コマ劇場の出現まで待つことになる。
生の舞台がなければ、大衆娯楽街の中心軸は定まらないものである。コマ劇場は、歌舞伎座こそ逃したものの、そのかわりになり得る質をこの歓楽街に与える役割を持ったことになる。
昭和二十五年、鈴木喜兵衛はさきの劇場街構想をベースに歌舞伎町で博覧会を企画し、攻勢をかける。しかし、失敗した。戦後すぐの時期、どの町も博覧会を催して人寄せを考えており、この企画そのものにオリジナリティーは乏しい。この博覧会のために焼け跡を区画整理した町割りが現在の歌舞伎町の姿の原形となる。
コマ劇場が小林一三の構想で、大阪梅田のコマと呼応して歌舞伎町へ進出してくるのは、歌舞伎町の博覧会が一敗地にまみれてから七年後のことになった。この七年間の時差《タイムラグ》とは、朝鮮戦争をはさんだ戦後復興の波の時差と一致しているはずである。
歌舞伎町の開祖鈴木喜兵衛は、少しばかり早すぎた攻撃をかけてしまったといえるのかも知れない。
さきにふれたが、歌舞伎町一帯は江戸時代まで鴨《かも》の飛来する低湿地、沼地だった。はるか西方の台地に、玉川上水が流れている。あたりは大小の小川が流れる畑地で、花園神社の北をうねって大久保村へ流れる小川へ、鴨沼から流れ出た小川が合流していた。
この低湿地帯へ土砂が運び込まれて埋め立てられる。土砂は玉川上水を導水とした明治期の淀橋浄水場建設の残土であった。明治三十二年十二月、淀橋浄水場は落成し、帝都東京の水の手当ては一応できあがった。と同時に歌舞伎町の土地もまた生まれ出ていた。当時、鴨沼から戸塚、高田馬場方面は武蔵野そのものの雑木林、埋め立てられた鴨沼のあたりは、いわば放置された殺風景な都市郊外の造成地のような風景である。のち、この草っ原に府立第五高等女学校が建つが戦災で焼失。
鈴木喜兵衛が、一大娯楽街を構想したその場所とは、女学校の残骸《ざんがい》と何もない校庭、ただ茫々《ぼうぼう》としたとりとめもない広っぱのむこうに点々と住宅が見えがくれしている風景なのだった。
では、なぜ鈴木喜兵衛は早すぎた攻撃をかける気になったのか。
そのひとつは都電の移動だったように思える。
万世橋行き都電の始発は、ながく角筈一丁目、新宿東口にあった。これが昭和二十四年に一|区画《ブロツク》北の靖国通りに移動したのである。
当時、新宿駅前は焼け跡|闇市《やみいち》、バクダン、カストリ、進駐軍、残飯雑炊、メチルアルコール、パンパン、戦後文学、ハモニカ飲み屋街、特攻隊くずれの鶴田浩二が歩いていたりする大修羅場的にぎわいである。
その人の流れが茫々広っぱの側へ近づく可能性は、都電始発駅が一番街の入り口に来たのだから十分に高いと踏んでいい。これからはこちらが主戦場だと思い込んでの決断であったのかも知れない。
これに加えて西武新宿線の高田馬場からの延長も構想されていた。しかし、こちらの計画は鈴木喜兵衛にとっては、ことを急ぐ材料になる。
たしかに西武線が延長されて、現在地を駅とする計画はあった。だがそれはとりあえずの話で、計画案そのものは、国鉄新宿駅の東側へ連絡することになっていたのである。
ということは、いつまでもあると思うな西武新宿駅、ということになる。いまのうちに娯楽街を形成しておかないと、こちらへ回りだした人の流れが、いずれ東口へもどっていく。都電の移動はいいが、西武新宿駅への期待は時限つきである。それならちょっと早いがいまのうちに、ということになろう。
ちなみに、西武新宿駅の開設は昭和二十七年である。国鉄新宿駅へ連絡するつもりだったのが駅構内の限度を超える混雑が予想され、ホームを新設する空間もなく、いつしか西武線は現在地へとどまることになった。
歓楽街の盛衰は、あたかも自然界が織りなす流れ、森林の形成過程や、湖沼の誕生から草原への転生などの法則性に通じるものがあるように思えてならない。
歌舞伎町も、東京の都市構造が変化するにつれて誕生し、繁栄し、いずれは衰滅過程を迎えることになるだろう。その一連の動きの一幕、一幕にさまざまな登場人物が動きまわり、人生が描きだされていく。そうした流転の絵巻物のなかに、コマ劇場が登場してくるわけだが、どうしたことか、大衆芸能、あるいは演劇を生むことがなかったのが歌舞伎町であったとは、いえないだろうか。少なくとも新宿の芝居小屋を拠点にした芸人の群像は、かつての大衆娯楽街のメッカ浅草のようには、豊かに生まれはしなかったのだった。
コマ劇場が歌舞伎町に誕生したころとは、また同時に映画産業が爆発的に躍進しはじめたころでもある。大衆的娯楽といえば映画であった。したがって劇場街といえば映画館街のことである。客を集めるだけならば、手間と金がかかる生の舞台を避けたほうが効率はいい。
事実、浅草で育った芸人たち、とりわけ喜劇人たちは続々と映画へ流れ込んでいく。
ところが、映画が猛スピードで発展しているころ、コマ劇場の興行の柱は喜劇だったのである。
コマ劇場喜劇人祭りとタイトルされたバラエティーステージショーの大看板は、榎本健一、古川緑波、柳家金語楼らで、一年に九ヵ月間も喜劇を打ち続けた時代もある。
しかし、これが定着しきれずに、大看板を江利チエミ、美空ひばりらのスター歌手へ切り換え、歌謡ショーがコマ劇場の本流となって定着する。
小屋から芸人が育つにはあまりにも短い時間であった。コマ劇場の興行を支えたのは歌舞伎町の外で発生した芸能、そして、歌手の人気なのであり、円形ステージはそれらの成果を消化する空間となっていたのである。
よそで生まれたものを消費するという意味では、風俗産業で見てきたとおり、この歓楽街はすこぶる効率がいい。
もちろん、江戸時代の全過程と、戦前までにたまりにたまり、たっぷり醸成された浅草の文化的、芸能的な多産性と、わずか十年あまり、広っぱに新造された界隈《かいわい》とを単純に比較するのはおろかなことである。
しかし、どのような歓楽街も、何ごとかを噴きださずにはいられない。雰囲気、匂《にお》い、煙、もや、正体不明のざわざわしたおののきや、ぬめぬめした悦《よろこ》びが排泄《はいせつ》され、その空間に沈澱《ちんでん》していくのである。それがやがて文化となるはずのもの、芸能を発生させる土壌となるものにほかならない。いわば芸能が生まれる池では、なにかに転生する微生物が生まれ、池を豊かにし、ある日、どこからか流れきた卵がかえり、ふとみると魚は群れをなして泳ぐことになる。その魚たちとは芸人であり、作家や詩人や音楽家であり、つまりは才能なのである。
コマ劇場や暗いステージ横、楽屋、屋上の稽古場《けいこば》に生息しはじめた無名の若い情熱家たちは、歌舞伎町という新しい池で泳ぎはじめた元気のいい魚の群れであった。
この一群の人々の情熱は歌舞伎町が、こののち生み落とすかも知れなかった文化にとって必須《ひつす》のエネルギーのひとつだったといえよう。
話を鈴木喜兵衛へもどす。
戦後すぐのころ、新宿の人の流れは、まず駅前の焼け跡に出現した闇市、飲み屋街であり、新宿通りから二丁目の売春街へと流れて、またもどってくる本流がきわだっていた。いわゆる角筈、宿場として発生した内藤新宿時代からの本通りにそって人々は動いた。
一方、北へ、まだせまい靖国通りを渡り、第五高等女学校の跡地を越えてさらに大久保方面へむかう獣道のような細い流れがあった。
こちらの流れは原色の色あい強く、あざといばかりのなまめかしさと、民族的|哀《かな》しみが漂っていた。
米兵相手の女たちが、駅前でキャッチした客を連れて宿へむかう道なのである。
まだ登場しない劇場街の裏手、花見通りのむこう側に、戦後にわかに出現し数を増やしてきたのが、そのようなホテルともつかぬ曖昧宿《あいまいやど》であった。
このあたり、戦前は住宅地である。というよりも、いまのアルタの裏のあたりにもごく普通の住宅が並んでいた。そのような家並みが残るあたりをぬけての獣道であった。
その名ごりを残しているのが、劇場地区の裏、大久保病院近くにいまでも営業しているラブホテル「いい島」、「紫園」などである。
駅前から歩いて十分以内で、繁華街のあかるいにぎやかさから離れていること、これがホテル街の立地条件、米兵と話がついて連れていく女たちが、それまでの間を保つことができる、ぎりぎりのところにホテルが建ち並んでいる。このホテルは、被災者たちの宿泊施設として建てられたものも含まれており、やがては大久保までの線路ぎわにいくつか残り、労務者むけの超安値宿、いわゆるドヤとなる(そのうちのいくつかは、いまでは円高で困惑している外国人旅行者を迎えているけれども)。
歌舞伎町の昭和二十年代の光景のなかで、鈴木喜兵衛が構想した健全な大衆的娯楽街への思い入れは、敗戦の現実を否応《いやおう》なくつきつける獣道、そこをいく勝者と敗者のシルエットだったのかも知れない。
そのあたりは色街の新宿二丁目とは、まったく違った、ごく普通の住宅地だった。そんなところに逢引宿《あいびきやど》、もっとあからさまにいえばパンパン宿が出現することは耐えがたい。
昔からの色街ならいいが、そうでない一画にいかがわしいものが登場すると猛然と反発するといった、都市には強固な空間識別意識が働き、排除のリアクションが生まれる。
鈴木喜兵衛ならずとも、色街になってしまうよりは何かほかのものへの転生が、空間識別的に望まれても不思議ではなかった。
以上のような空間的な条件に、昭和三十ニ年の売春防止法の施行がかぶってくる。
二丁目の売春業者たちは争ってラブホテルへの転業をはかり、職安通りの大久保側に転進する。こうして形成されたのが大久保のホテル街であり、劇場街のすぐ裏手のホテル街とは発生の契機が違っている。だが、劇場街の裏手からホテル伝いに悦楽の触手をのばす獣道が、さらに先にのびることになった。
歓楽街の祭殿の機能を担う劇場、参道の茶店の機能を持つ飲食店、さらに悪場所としてのラブホテル街と歌舞伎町中心域の絵柄はほぼ整いつつあった。
いい換えれば、歌舞伎町繁栄の空間的配置は、鈴木喜兵衛の初期的な構想を超え、およそ無意識的な都市構造の変容のなかで成立していくのである。
くり返すがコマ劇場の設立は昭和三十二年である。
異能経営者小林一三の下意識を刺激したのは、都市が期せずして配置していく空間的な磁力ではなかったのか。
コマ劇場は、この祝祭空間の本殿、中心を担わなければならなかった。だが喜劇はついに定着しない。
浅草の生んだ日本近代有数のトリックスター榎本健一に往年の力を求めるのは酷のようでもある。
しかし、スター歌手を大看板にうち立ててはじめて成功する事情には、もうひとつ表層ではとらえきれない秘密があったように思えてならない。
浅草にあって歌舞伎町にない存在をスター歌手が担ったときはじめて、祝祭の本殿が空間的な力を発揮したのではないのかという仮説を想定させるのである。
それは観音様である。
中心域の本殿に鎮座していなければならない御本尊様。その位置に大歌手が立ったときにはじめて、この街は空間的な力を得たのかも知れないのである。
時代を表象し得る巨大なスター歌手は、表面では、その人気の動員力で劇場を満員にしているかに見える。
だが、下層では、この街が迎えるべき御本尊、神の位置を占めることによって人々を呼び込むのである。神が占めるべき場所が空洞であった場合、情念は拡散し、とりとめもなくなり、視点はぼやけ、人は落ち着かなくなる。するとそこはつかの間、消費行為に満たされるだけの器となりはてることになる。
不在の神に対するトリックスターのエネルギーはあてもなく拡散し、さしものパワーの持ち主であった喜劇人たちも徒労のうちに幕を下ろさざるを得ず、本殿は神が鎮座するまで不振に苦しんだのかも知れなかった。
ともあれ、以上のような歌舞伎町成立の秩序のなかへ、元通産省役人のダンサー児島日出夫は大阪から赴任してきた。
「歌舞伎町は恐《こわ》さと面白さが入りまじったスリルのある街だったな。まだほとんどの人が食えない時代でしょう、生の舞台は、ほかもそうでしょうけれど、現実との差が際立った夢そのもの。私自身も夢を追いかけていたのだからね。劇場のなかで二十四時間過ごしていると、夢の空間が日常になる」
児島は、本殿に神が不在の分だけ、惜しみなく情熱を注ぎ、汗を流したともいえるのだった。
コマ劇場裏の喫茶店「もん」は、やがて児島たちや俳優、若き情熱家、芸術家志望者たちのたまり場になった。
「もん」の主人中沢廣正は、歌舞伎町変遷史の目撃者の一人となる。
「昭和二十五年ごろといえば、歌舞伎町の道路がまだ泥んこ道でしてね、雨が降ったとなると、床の泥を掃きだすのがひと苦労でした。客の誰もが腹を空かしていた。コーヒー一杯六十円、そのコーヒーの金がなくて、一番安い四十円のトーストで三時間も四時間もねばるのもいましたね」
時代は戦後のまっただなかである。
泳げば必ず世界新記録を出す古橋広之進、日本人初のノーベル賞受賞の湯川秀樹、下山事件、松川事件、そして、昭和二十五年六月には朝鮮戦争が勃発《ぼつぱつ》し、北九州には空襲警報が出る。
米軍の運んできたものは、チューインガムやチョコレートや民主主義だけではなく、戦後の気分に決定的な色づけをしたのがジャズであった。
ベニー・グッドマンやグレン・ミラーの音楽が巷《ちまた》に流れた。
「むしろ正確にいうと、歌舞伎町の大久保よりの旅館街にGIが来るようになるのは、朝鮮戦争からではなかったのかな。あのあたりは閑静な住宅地で、戦前は陸軍の将校の家などが多かったのですよ。ゴールデン街は青線地帯でしたが、それが米兵を相手にしたほうがいいというので、ブロークン・イングリッシュのポン引きを使って米兵を引き、店ではさばけないので、歌舞伎町の裏のホテルに送り込むことになる。そのころ、この劇場街といったって、板べいで囲まれたままの敷地のなかにポツンと地球座があるだけで淋《さび》しいものだったのです」
中沢はもともとは画家志望、戦前は石井柏亭の太平洋美術学校に通う美学生で、パンの耳を噛《かじ》ってでもパリヘ留学しようと思っていたのに戦争でそれどころではなく、技術系の専門学校に入りなおして、戦争中は富士航空計機で爆撃照準器を作っていた。工場は小海線の中込にあり、そこで終戦を迎え、小諸の実家に帰り、混乱の新宿に出る。
「あの混乱ですから、売れるものは何でも売った。麻袋、メリヤス生地、羽毛、主に糸ヘンを扱ったのですが、銀座と新宿のマーケットを行ったりきたりの、まあ、あれもやっぱり闇屋《やみや》稼業に入るでしょうな」
郷里の母親を呼び、他の店からホステスを引き抜いて、三越裏でバー「スウイング」を経営したこともあった。
「それから、何か新宿で確実な商売はないかと考えて友人に相談したころ、あの当時、新宿に旅館が五十二軒しかなかったのです。客があふれるような状態ですよ。そこで私もこの『もん』の通りの奥に郷里の名をとって旅館『浅間』を経営するんです」
このころ「いい島」や「紫園」などのホテルヘGIを連れていく街の女たちは、さぞや宿不足で困ったことだろう。
「歌舞伎町は戦後しかない町ですからね。この通りも、うちと、新宿通りから移転してきた料亭の『宝亭』、むね割りの飲み屋街がひとすじ、花見通りの角に銭湯の『歌舞伎湯』があるだけでした」
靖国通りへ通じるいまの一番街では、東京都第三建設事務所が線引きした区画に、店舗敷地の分譲が行われてポツリポツリと店が建ちはじめているだけである。
一番にぎやかだったのは洋品店や、服飾品店などが並ぶ桜通りであった。
町内会長鈴木喜兵衛の構想した歌舞伎町博覧会は無惨な失敗となったが、板べいで囲まれた空き地には、恐竜のハリボテが雨ざらしになっていたのだった。
中沢廣正は絵心があったと同時に、軍需工場時代に設計の基本も学んでいた。それを知る友人、知人が店の外装、内装を頼んでくることがあった。
「私が設計した喫茶店が、どうしたわけかよく流行《はや》るんですね。一番街にあった『イイワン』、そして『蘭』などが私の設計でしたが評判がいい。馬喰町の『美林』、渋谷百軒店の『リンデン』などもよく客が入る。それなら自分でも喫茶店をやろうという気になって、横に土地を買って『もん』を始めたわけです」
コマ劇場に出入りする人々のたまり場はこうして誕生することになった。
初代の「もん」は、レンガを積み、白壁と木組みを基調にしたヨーロッパふうロッジのたたずまいである。
二階建てで、二階の窓の下にテラスが張りだし、斜め格子の窓、一階の窓の外に植え込みがしつらえられ、出入り口には中沢自身が彫った看板に「もん」とひらがなが浮き出ていた。
戦後の喫茶店の意匠はめまぐるしく変転するが、中沢はインテリアデザイナーの戦後第一世代であり、のちに、キッチュすれすれの異様な発展を見せる名曲喫茶店のデザイン的な先がけとなるもののひとつが「もん」であったといえよう。
そして、「もん」が演劇人たちのたまり場となるにはもうひとつ中沢自身の心情も加味されてくる。
「私もあのころはまだ三十三歳ですからね。親類には築地小劇場に出入りしていた俳優もいた。その人に連れられて小学六年生のときにはメーデーに連れていかれたことなんかもあるんですよ。それに画家志望が、戦争で断念させられているわけですから、芸術家の卵たちにはどうしても肩入れしたくなる。それと、私自身も互角に芸術論を闘わしていた」
昭和四十年代中期まで、新宿にはそういう店がいくつも残っていた。新宿が戦後文化のゆりかごであったことを示すもののひとつが、「もん」の誕生なのである。
コマ劇場が落成する前から、すでに「もん」は演劇人たちのたまり場となり、逆にコマ劇場の登場を待っていたような形勢であった。
当時、目のさめるような美男子であった山村聡がむっつりとコーヒーをすすっているかと思うと、山田五十鈴と離婚したか、しないかのころの加藤|嘉《よし》がのっそりと入ってくる。
その横では、くりくりと瞳《ひとみ》を輝かせて西村晃が隣の仲間と何ごとか相談しているという、のちの時代から眺めれば、信じられないような、可能性に満ちた若い雰囲気が発生したのだった。
やがて、コマ劇場が落成し、裏方衆のほとんどがコーヒーを飲みにやってきた。その人々の群れにまじって、コメディアンたちが顔を見せはじめる。
いずれ、きら星のような才能たちであった。のちに交通事故で惜しまれながら早世する八波むと志、八波らと脱線トリオを結成して、破壊的なギャグを連発し、人気を手中にする由利徹、南利明、浅草が生んだ名バイプレイヤー森川信、コマ劇場に出るときは必ず回り舞台のはじっこに片足をのせ、足を漕《こ》ぐように動かしては笑いを奪っていた平凡太郎などなど、「もん」はメッカのような存在になっていくのである。
「コマ劇場ができるまでの間、営業的には何とか食える状態できたのが、コマが始まって売り上げが三割は増えた。ちょうどそのころから、歌舞伎町自体が人を呼びはじめることになるわけです」
「もん」はいっそうにぎやかになった。『ガード下の靴みがき』でデビューした宮城まり子は、昭和三十年代になっても元気で、サービス精神|旺盛《おうせい》、静かな店内にひときわあふれかえる声量も惜しまず、歌を歌いだすのである。
居合わせた客は、はじめは驚き、次に誰が歌っているのかのびあがって眺め、それが正真正銘の、本物の宮城まり子であることを発見するや、やんやの拍手を送った。
このころ大衆娯楽は百花繚乱《ひやつかりようらん》と咲きほこっている。
昭和二十九年だけを眺めてみても、『ゴジラ』が大ヒットし、菊池章子の『岸壁の母』が大ヒットし、野球では川上が打ち続け、青田、大下、別所、金田らの大選手が盛りを迎えていた。
それにもうひとつ、プロレスに転じた力道山は国民的英雄であった。シャープ兄弟との死闘を中継する街頭テレビは黒山の人だかりとなって交通整理の警察官をあわてさせていた。
子どもたちのアイドルは、鉄腕アトム、イガグリ君、赤胴鈴之助、矢車剣之助、ポスト君、少年ケニヤと、戦後文化の基調を形成するものがほとんど出揃《でそろ》っている。
映画の大衆娯楽の王座は、黒沢明が『羅生門』でベニス国際映画祭のグランプリを受賞(昭和二十六年)して以来、質の面でもいよいよ揺るぎないものとなっていく。
そして、昭和三十年、石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞する。
戦後の混乱期は終わり、戦争の記憶を振り払って大衆は人生を楽しもうと、ようやく一歩を踏みだしかけたころなのだった。
芸術家に心優しいマスター中沢の人柄もあって「もん」は繁盛する。
しばらくの間、コマ劇場は世界最新鋭の舞台設備を持った、東京でも屈指の大劇場として脚光をあびていた。
海外の有名アーチストの東京公演にコマ劇場が使われることが多かった。
バイオリニストのレオニード・コーガン、ダビッド・オイストラフも来演した。
ボリショイバレエ団、ニューヨーク・シティ・バレエ団も来演している。
コマ劇場ひとつで、歌舞伎町は東京の文化的中心軸を形成しつつあるかのようであった。
しかし、東京の各地に大キャパシティーで音響効果のいい大劇場が続々と建設されるようになると、外国人一流アーチストの公演はコマ劇場から遠のくようになった。
中沢廣正は、往時のおぼろな記憶のなかで、ひとつの光景を想《おも》いだすことがあった。
「もん」のすみの席で赤ちゃんをあやしている芥川也寸志の姿を、である。
芥川也寸志と再会するのは、カラオケに関する音楽著作権協会と、飲食店経営者との交渉の場でのことだった。その間、茫々《ぼうぼう》三十年以上もの歳月が流れている。
芥川也寸志は音楽著作権協会理事長となっており、中沢廣正は新宿酒場同業組合理事長となっている。
この両者は、カラオケ演奏での著作権料の支払いを求める側と、著作権料の支払いに難色を示す側とに分かれ、この三年来の交渉を続ける立場にあった。
中沢自身は著作権についてよく理解している。しかし、酒場を経営する側の多数は、これまで無料だったカラオケ演奏に、使用料を支払うことを避けたがっていた。
心ならず利害の対立する立場となり、交渉のテーブルにつくことになった中沢は、その昔「もん」の店内で、慣れない手つきで赤ちゃんをあやしていた芥川也寸志の姿を、ときおり想いだしながら、地味でやっかいな交渉ごとをまとめあげたのだった。
先日、酒場同業組合の主だったメンバーと音楽著作権協会側とは、昨年から軌道に乗った著作権料支払いに関する交渉ごとの終結を迎えて会合をもった。
それまで「もん」の主人であることを伏せていた中沢は、芥川にそのことを話した。
「芥川さんは当時の『もん』をやっぱり憶《おぼ》えていましたね。コマの裏の『もん』ですといったら、『ああ、何度か行ったことがあります』とおっしゃってました。私の胸にあったかいものが流れましたよ。ひとつの店をやり続けるというのは、そういう面白さがある」
歌舞伎町の目撃者は、四十年の歳月を振り返って目を細めた。
だが、歌舞伎町の現状についての、中沢の意見は厳しい。
「いま、古くからの歌舞伎町の人間は、みんなこのままではだめだと心配はしているんですよ。昔の原っぱから今日まで、たしかに盛り場としては、あっという間に発展していますよ。それも昭和三十年代に入ってから十五年で日本一の盛り場になっている。だが、桜通りのようなことになったのでは、まずいんですね。なんとか、あのピンクの店とキャッチのない盛り場を考えているんだが、むずかしい」
昭和三十年当時で、喫茶店はたったの七軒しかなかったという。これが土台になるものである。はじめのうち、桜通りにはこの業界でいう「物販店」、つまり物を売る店が並んでいた。しかし、ほとんどがつぶれていく。
「歌舞伎町は、物販店が定着しない街なんですね。飲食店の街なのです。たしかに劇場は人を呼ぶけれども、ほとんどは夜のお客さんですね。ということは、夕方の六時まで、この街の店は遊んでいるということです。不夜城といっても、営業時間は短い。レストランなども五時間ぐらいが実質的な営業時間ですから。土地代などの高さを考えるとどうしても苦しくなります。物を売る店がないので商業地区としても、バランスを欠いた街になっているんです。昭和四十年代になって、土地を持っている人は銀行から借財してビルを建てた。その金利がテナント料にかぶっている。また相場の勢いもあって、歌舞伎町の家賃は高いのです。それならとボッタクリの店が出てくることになる。歌舞伎町での成功のパターンというのがあるんですな。ここに土地を持っていた人は、ビルを建てると管理を不動産会社に一切まかせて、郊外に家を建て、歌舞伎町から脱出する。いたしかたないが、これがもっともすっきりした成功例なんだ」
いわば歌舞伎町の地主たちは、歌舞伎町の当事者の立場を捨てたわけであった。
あとにやってきた経営者たちは、店舗面積あたりの収益率をにらみ、客単価をあげ、回転率をあげようとするのである。
その結果は?
残念なことに、コーヒー一杯で三時間も四時間もねばれるたまり場が、この街から消えるということになった。
昭和四十年代中期から、喫茶店の照明は明るすぎるほどになり、音楽もきつめのものが流れ、三十分以上長居すると、われ知らず居心地が悪くなる喫茶店が増えた。それはニューファッションであったと同時に、たまり場を拒否するデザインなのである。若き才能の卵はたまり場を失うのであった。
さきにもふれたように、歌舞伎町が現在のような高効率の歓楽街になるのは昭和四十年代の後期からである。
この全過程はそのまま高度成長と石油ショックによる減速の時期にぴったりと重なりあっている。
高度成長期に出現した歓楽街が無意識のうちに“生産性”の高い商業地域としての性格づけを行ってしまったのは避けられないところかも知れなかった。
ただし、効率のよい歓楽などというものはわびしい限りであって、本物の悦楽とは似て非なるものであることは自明のこと。本来ならのんびりゆったり、くつろぎ遊ぶべきところへ効率という何の面白味もない価値観を密輸入したのだから、この面でも歌舞伎町は歓楽街の自意識そのものがゆがみ、下意識もちぐはぐな失調状態になるほかはない。
高度成長がこの国全体をゆがんだ姿へ引きずり、座標軸が四次元構造的にひんまがりだし、断末魔的な思わぬ決着を迎えようとしていたころ、つまり、昭和四十年代の入り口あたりまで、まだこの街には、古典的な意味でいってボヘミアンや、フーテンがたむろしてもかまわない遊興的な空間が残っていた。
価値観を経営者の側に振り切っていうと、回転率が低く、生産性の低い店がごろごろと残っていたのである。
その代表例が、名曲喫茶やジャズ喫茶などの音楽とコーヒーをセットにしたサービス業であった。
このうち、私の場合、ジャズ喫茶の、どんよりと、のったりとした店内が想《おも》いだされる。
モダン・ジャズはまさに隆盛を誇っていた。
すでにビートルズは出現していたが、ロック・ミュージックをひねもすのんびりと聞かせる店はごくわずかである。たぶん、喫茶店という営業形態とロック・ミュージックとが接続できずにいたのである。のち、この激烈な音楽はゴーゴー・クラブ、ディスコという形態を得て日本の盛り場へしっかりと根を下ろすことになる。
しかし、それ以前、ジャズは喫茶店、たまり場という営業形態と蜜月《みつげつ》関係にあって繁盛していた。
ちょうどこのころ、私は昭和四十年に仙台市から上京し、ジャズが好きだったためにすぐさま、この格好のたまり場、ジャズ喫茶を転々としはじめる。私はすごくこのジャズ喫茶の回廊になじんだ。
ジャズには天才がひしめいていた。音楽的な表現の可能性が湧《わ》きたち、火花を散らして前へ進んでいる時代である。
このジャズのぶ厚いパワーを反映して、新宿・歌舞伎町にはモダンジャズ喫茶店が何軒も存在していた。コーヒー一杯で、八時間ねばろうが、十二時間ねばろうがおかまいなしであった。
現在から考えれば、想像を絶するゆとりの空間、倦怠《けんたい》にくるまれた可能性、青白い野心と、標的のない殺意、発情した淋《さび》しさなどが東洋的・輪廻《りんね》的な店のなかの時間に浮かび、店は優しさとほったらかしと、悦楽の本質であるみがかれた趣味性に貫かれて楽ちんな空間となっていたのである。そこはごく限られた範囲内の人造楽園だった。
古い時期の「キーヨ」はもちろん、「びざーる」「DIG」「木馬」「ヴィレッジ・ゲイト」「チェック」「樽小屋」、ライブハウスの「タロー」、そして現在でもジャズの日本のメッカの位置を他へ譲らない「ピット・イン」などなど、いずれもたまり場といえる空間である。
もっとも、ジャズ喫茶に集まる客の多くは、ソニー・ロリンズやアート・ブレイキーやオスカー・ピーターソンなどの、一九五〇年代にすでに大衆的な人気ミュージシャンだったアメリカ製ジャズを好んで聞いており、ライブハウスで日本人ジャズメンの演奏を聞く人口はまだまだごく少数である。
当時は、ジャズ評論家相倉久人が、銀座松坂屋裏の地下にあった「ジャズ・ギャラリー8」に張りつき、日本人ジャズメンの演奏を必死にキープしているころ。
その相倉久人が、現場からの視線で推計して、日本人ジャズメンの演奏をよく聞いている人口は、東京におよそ五百人という時代である。
日本のジャズファンは、オーディオ装置がままならず、住宅事情もままならず、大音響でジャズを聞くために、ジャズ喫茶へ通っていたのだった。
日本ジャズ界の雄、というより世界屈指のジャズメンであるアルトサックス奏者渡辺貞夫が、米国留学から帰国するのが、昭和四十年十一月であった。
この時期を前後にして、日本のジャズ・シーンは燃えあがっていく。
が、そのまったく同じころ、ジャズ・ライブハウス「タロー」で私の経験していた夜は、むしろ湖底のような静けさに満たされているといえた。
ある夜などは、なんと客席に私が一人、ステージのうえに四人といった具合なのである。
暗く魔的なパワーを秘める天才ドラマー富樫雅彦、超絶的なテクニックとあったかい包容力のベーシスト稲葉国光、厳格な音楽性と情熱とがぶつかりあうピアニスト大野雄二、それに名は失念したが若くエモーショナルな演奏をしたテナーサックス奏者の四人が、ステージに立ち、聞くのは私一人というつらい一夜。この三人のジャズメンは、知る人ぞ知るビッグネームであったけれども、ライブハウス「タロー」の夜が更けていっても、ついに客は数人を数えるだけで、そのまま終わったのである。
ミューズの神への献身のみで「タロー」を経営していた主人《マスター》の通称タローさんは、生演奏を終え、引き続き深夜喫茶店へと店を続ける午前零時すぎ、ジャズにひたってほてった心をもてあましながら、まだぼんやりと客席に座っている私にいった。
「ひとりで四人分のエネルギーをあびて、のぼせたか?」
私はおずおずとうなずく。
「帰らずに夜明かしするかい?」
すでに電車のない私は、またうなずく。
すると、そうした心情、帰りそびれて盛り場に残っている、何だか反抗的な気分の若者の胸のなかをよくわかるタローさんは、濃い渋茶を出してくれて、
「朝まで好きなレコード聞いていいよ。ただし寝るなよ、マッポがうるさいからな」
といってくれるのだった。
のちに、新宿に誕生したジャズメンたちの交流についてくわしくふれるつもりだが、そのひとつの舞台になった「タロー」であっても、白熱した演奏ののち、その店の空間はたまり場として、宿なしの大都会の半ぱな若者に解放されていたのである。
私自身を若き才能などとはどう転んでも考えられないが、歌舞伎町に点在したたまり場での、妙になごんだ無為の時間と空間、そこで演じられた無数のドラマは、また同時に盛り場を支えるパワーの源泉のひとつにほかならない。
歌舞伎町が爆発的に歓楽街になっていくのは、昭和三十年から四十五年ごろまでのたった十五年間だという中沢廣正の“目撃談”の背景について、もう少しふれておく。
この時期に、東京そのものが激変しているのである。
まず東京都の人口が、昭和二十五年の三百二十二万人から、二十九年には七百七十五万人に急膨張している。
地下鉄丸ノ内線の新宿―四谷見附間の着工が昭和三十二年、次いで三十六年には新中野まで開通。
オリンピックの年にむけて、高速道路の工事が進み、三十九年には新宿民衆駅、いまの「マイシティ」が完成し、東西線が高田馬場―九段下間で営業を開始した。
そのあくる年には新宿西口に、湖水のような水をたたえていた浄水場が東村山へ移転する。四十一年には西口広場が完成、四十三年には西口公園、正式には新宿中央公園が完成し、ビル用地が準備される。
そして、高層ビル群一番手の京王プラザホテルが四十六年に完成する。
こうして眺めてみると、たった十五年とはいえ、新宿の現在の骨格は、この間に驚くほどの速度でできあがっている。
この過程はそのまま歌舞伎町のオーナー経営者たちが、競いあって雑居ビルを建てていく時期に重なる。まさに高度成長の時代。
歌舞伎町の古手の酒場経営者には、バービルが乱立して、爆発的に飲み屋が増え、落ち着いた経営ができなくなったという人が多い。
たとえば、酒場「ジャックの豆の木」の経営者柏原テルさんも、
「何だか、あっちこっちにビルが建つでしょ、スーパーマーケットの売り場がどんどん広くなるのと同じで、お客さんが散っていくのがよくわかった」
と回想している。
「ジャックの豆の木」という店は変転めまぐるしく、のち、赤塚不二夫、山下洋輔トリオ、筒井康隆、長谷邦夫、奥成達、タモリ、高信太郎、岡崎英生、ほか多士済々のはしゃぎの魔窟《まくつ》と化し、恐れを知らぬ芸と冗談と才気と馬鹿騒《ばかさわ》ぎと、いきなりストリップと逆立ちと這《は》いずりまわりとで天才たちのたまり場になる店である。
中期「ジャックの豆の木」に至るこの酒場の変遷史は、店に出入りした映画人や、俳優や、作家や、ミュージシャンなど、モンマルトルの安酒場、ラパン・アジルに匹敵するほどの多彩さを見せる。それについてはのちにたっぷりと記述することにして、ここでは再び、歌舞伎町の祭殿、コマ劇場に関するたまり場について、いましばらく述べなければならない。
児島日出夫らが、本公演と次の公演の仕込みとで、フル回転状態になるのは、月の半ばごろからだった。
「一種の興奮状態になってるんだろうね。本番の緊張、それと振付というクリエイティブなエネルギーと、自分自身の稽古《けいこ》とが錯綜《さくそう》してくるから頭と体が熱をもってくる」
そんな連中がたまり場にしていた店がゴールデン街のスナック「みにぼん」だった。
ゴールデン街のいちばんはずれの通り、ホテル「石川」の横に「みにぼん」はいまでも健在である。
いま、ホテル「石川」は地上げ屋に買いとられて営業を停止し、あたりはとりこわしの空地さえ見えるほどで、ゴールデン街はいよいよ終末に近づきつつあるような光景になってきたが「みにぼん」は、なお小さな灯《あか》りをともしていた。
ドアをあけると、丸形のカウンター、広さは三坪ほど、マスターの山口勝は音を小さくしたテレビをぽつねんと見ていた。
いきなりのぞいた私に、山口はやわらかい笑顔を見せていった。
「あの、申しわけありません。こちらは会員制と申しますか、そのどなたかのお友達とかの方でないと……」
要するにフリーの客にはご遠慮願っているということを気をつかいながらいっていた。
ほんとに仲間うちだけの安心な店なのだろう。私は児島日出夫に店のことを聞いたむね告げた。
にわかに山口の顔に笑みが浮かんだ。
「ああ、懐かしいな、児島さんね、どうぞどうぞ」
と席を勧めてくれる。
壁に太地喜和子のポスターがある。他に役者の名の色紙、芝居のポスターも壁にあり、芝居関係者たちのたまり場らしい小さな店であった。
「え? コマの連中? ああ、よく来ましたよ。店のなかがはちきれそうな夜もあった。若くて無鉄砲で、自分の元気をもてあましているような人たちね」
山口勝は、上品な紳士といった雰囲気の人物である。いわゆる商売っ気のまったくない人物で、酒場のマスターにどこかふさわしくない。
――ここにコマの人たちが集まるようになるキッカケは何だったのでしょうか。誰か水先案内人がいたのでしょうか。
山口は笑みを浮かべていった。
「強いていえば、私自身が水先案内人なんでしょうね。私も俳優なんですよ。いろいろ劇団に入って、松竹からコマへも入って、しばらくは『ひばり劇団』にもおりましてね」
何のことはない「みにぼん」はマスター本人が演劇人、つまりは、演劇人による演劇人のためだけの、演劇人の酒場なのである。
「歌舞伎町がいい時代だったころだねえ。そうそうここでお正月をするような時代もしばらく続いたなあ」
山口勝は目を細める。盛り場が自然に形成する共同体の懐かしい追憶が、ぽつりぽつりと語りだすうちに、山口の前に浮かび出てくるらしく、顔がいっそう柔和になっていく。
「十二月三十一日まで、コマの芝居が続いているわけね。で、芝居がはねて、ぽつりぽつりと連中がやってくる。そのうちに満員となって、わいわいがやがや除夜の鐘のころには最高潮になる。こっちも心得ているから、つごもりそばを用意しておいて、全員で食べるんですよ。それからみんなは明治神宮へ行くわけだ。店の私は、そこの花園神社にお参りして、急いで雑煮の用意ね。できあがったころになって、またどっとみんなが帰ってくる。そこで、明けましておめでとう、本年もよろしくというわけね。あったかい雑煮を食べて、さて帰ろうかってときには正月元日の朝の八時ごろ。コマに出ている連中は二日から公演が変わりめの初日なんですね。だから、仕込みやら何やらでへとへとで、お正月気分といっても、帰ってぐっすり眠らなきゃならない。ここでの短い元日の朝だけが正月なんだな」
歌舞伎町の元日の朝に散っていく演劇人たちの後ろ姿はきっと輝いていたに違いない。
そして、この店の主人の人生もまた、大衆演劇の軌跡と戦後史を一身に体現する滋味たっぷりのものであり、歌舞伎町の演劇史にも重なるのである。
山口勝は、コマーシャルでときおりお茶の間に顔をのぞかせるが、いわゆる板についた本格的な、江戸庶民の役などを演じさせれば立ち居振るまいに江戸情緒が匂《にお》う舞台俳優である。山口の芸歴と生涯をたどるだけで、ひとつの演劇史が浮かびあがるような人物だった。
山口はスケジュールのあい間に店のなかへ立つこともあったが「みにぼん」をきりまわしていたのは奥さんだった。
その奥さんは戦後一時期、妖艶《ようえん》な肉体で人気のあったダンサー藤アリサである。
「踊り子が好きでしてね、その踊り子と結婚できて、幸福でしたな」
山口は目を細めるが、奥さんを先年亡くしている。追憶にはまだ哀《かな》しみの色が残っていた。
舞台俳優としての山口の経歴は、戦後の演劇界が、それまでの不自由さをはねかえそうと沸騰した軌跡を示して波乱に満ちたものとなった。
昭和十年生まれ。東京児童劇団を振り出しに、新児童劇団、文学座、池袋に本拠のあった劇団アバンギャルド、石井均らとの「家庭劇」、渋谷天外の「松竹新喜劇」、さらに東映へと転じるが「地べたで芝居するのは性にあわない」と東宝舞台劇へ、さらにコマ劇場へ、そして美空ひばりの舞台公演では主軸となる「ひばり劇団」へと舞台ひとすじに生きてきている。
新宿では、現在の松竹ピカデリーの場所にあった「第一劇場」とコマ劇場が、文字どおりの活躍の舞台となった。
新宿には、これだけの繁華街でありながら生の本舞台の劇場は二つを超えたことがなかった。
昭和四年設立の第一劇場、昭和六年設立で一時代を画したムーランルージュの二つである。
ムーランルージュは戦後の一時期、いまのミラノ座の右手に移転してきていたが、不振ですぐに閉じられている。
「どうも歌舞伎町には、芸人が育つ土壌が少なかったんでしょうね。土壌というのは、売れない役者にも優しく、そして、食べていける人間的なつながりのある町内そのものなんですが、それがどんどん削られて、バーとキャバレーだけの空間になってしまったんですからね。人間が住まない街なのだから、才能が生まれるわけもない」
そんな歌舞伎町に「みにぼん」はかろうじて演劇人たちの店として生き残ってきたのであった。
「こういう店がなければ、舞台がはねたあとどこか寂しいものなんですよ。舞台のあと、役者がばらばらに散ってしまったんじゃあ、芸があったまる余韻もありませんやね」
舞台は集団の表現であり、集団が熱を帯びていなければ個人の芸も成立しがたい。この店で汲《く》みかわされた酒は、ひとつのまとまった集団が回転していくための必須《ひつす》のエネルギーであったろう。
山口勝の舞台における情熱はいまだに枯れてはいない。私は取材のなかの話のつぎ穂に三好十郎作の「獅子《しし》」について語った。
この作品は終幕がなかなか泣かせる仕立てになっている。設定は戦後すぐの農村である。
家同士が決めた縁談が進行中だが、娘には秘《ひそ》かに愛する男がいる。気の弱い父親だけが娘の胸中を知ってはいたが、娘のために進行中の縁談をご破算にするだけの勇気も発言力もなく、いよいよ婚礼の日となる。娘は胸に秘めた愛を封じ込めて泣く泣く嫁ごうとする。
そのとき、父親が娘にいうのである。
「お前の人生だ、あとのことは父さんがなんとかするから、お前は逃げて、想う人とそいとげろ」
小心な父親の一世一代の決断であった。娘はその父親に励まされ、婚礼直前の家から飛びだして汽車に乗る。花嫁が消えた婚礼直前の家は親類どもが大騒ぎとなるが、娘の乗った汽車はすでに駅を出た。線路は家から眺められるところを通っていた。家中が花嫁捜しに大騒ぎのなか、娘の乗った汽車を、娘への万感の愛情をこめ、しかし、黙然と見送っていた父親が、やおら押し入れから獅子舞の獅子をとりだし庭先で舞うのであった。
「何もしてやれなかっただらしのない父親だが、これが俺《おれ》の、お前の人生の門出へむけた贈りものだ」
汽車は娘を乗せて走る。父親は一世一代の獅子舞を舞う。娘よ、好きな男といい人生を生きろ。テケテン、テンツクツ、テケテケテン。そこへ機関車の驀進音《ばくしんおん》が重なる。テケテン、テンツクツ、シュポッポッポ、シュポッポ。愛に生きろ。人生は一度きり。家の重さにつぶされるな。そんな人生は俺一人でたくさんだ。獅子舞は入魂の舞となって幕。
「ああ、いい芝居だ、本を読んでみたいな。その父親の役、いいねえ」
山口勝は芸への野心をぎらつかせるほどに、ぐいと身を乗りだすのであった。
一月末の日曜日、森進一歌謡ショーのかかったコマ劇場の屋上の稽古場《けいこば》では、児島日出夫が生徒を前にして、タップダンスを教えていた。
この日の稽古は心なしか厳しい。いまは優しくなったつもりでも、ときにかつての厳しさが表れることがあるのだろう。
「そうじゃない、こう」
手本を示しながら、流れるような三連符を踏んだ。腕のいいドラマーがレガートをきざむようなメリハリの効いた三連符であった。
稽古が終わり、楽屋口で児島は知った顔と出会った。
児島が声をかけた。
「やあ、どうですかね、調子は」
「相変わらず、ぱっとしませんな」
軽く笑って児島は外へ出た。すれ違った人は役者らしかった。しかし、どこか乾いた感じの挨拶《あいさつ》だった。
再び「もん」で児島日出夫を取材する。私には疑問が残っていた。
――コマダンシングチームのメンバーの皆さんは、あれほどの情熱がありながら、なぜもうひと押し、自分たちのやりたいステージにむかって力を出すというか、ねばるということをしなかったのでしょうか。
ひと仕事を終え、さっきまでの厳しさの消えた児島は、複雑なニュアンスの笑みを浮かべて答えた。
「やる気はもちろんあったんだろうがね、どうしてもね、日本的な気分に流れたんだろうな。まあ、過ぎたことだけど、コマ劇場が歌手の看板スターをもってきて、ダンシングチームの景が、歌手のためのダンスに役どころを変えるようになってきて、情熱が自然にうすれていくってこともあったでしょう」
――ちょっと冗談ですけれど、集団で制作サイドに圧力をかけるなんてことをしてもよかったのではないかと。それだってやる気の表現ですから、おつきあいでだらだら踊るよりは前むきの話だと思うんですけれども。
「きついね、だらだら踊ってたわけじゃない」
――失礼しました。
「しかし、ユニオンという発想は、ここでも何度か出たことはあったんだよ。まあ、組合というよりも、アメリカのユニオンね」
アメリカにはアーチストたちのユニオンがあり、ミュージシャンも、アクターも、ダンサーも必ず加盟する。ユニオンに加盟していなければ仕事ができず、ユニオンはそのアーチストのライセンスを与えている。
映画『ベニー・グッドマン物語』にも、そのシーンがある。はじめて仕事をしようとしたベニー・グッドマンは、ユニオンに加盟してからでないと雇えないと告げられる。
「それはね、理想はアメリカタイプのユニオンだよね。ユニオンはテクニックのランクづけまでして、厳しい面とアーチストの権利を守る面、ギャランティー保障までするわけだな。だが、日本のショービジネスでは、どうしたわけか、この厳しさと権利保障という考えがいまだに定着しないんだ。芸術の世界は実力主義なんだが、どうしたわけか妙なところに年功みたいなシッポがついてまわっている」
――NHKのギャラ決定がその一方の柱みたいなものですね。はじめに出演するときはあっと驚くほど安くて、それを起点にして、何度か出演回数を重ねるとあがっていく。途中しばらく出ないでいると振り出しにもどるということさえあって、あのシステムでの実力評価、人気の評価というのはどういう合理性なのか、よくわからない。
「日本のショービジネス全体が、それと似たところがあるんです。その一方で、日本ではプロデューサーシステムというのが定着していないわけでね。制作サイドは会社のサラリーマン。命がけで企画を練り、舞台を創《つく》るというシステムもプロデューサーも、実は乏しいわけなんだ。企画を練るというのは命がけなわけよ。全人生をかけるぐらいの熱意と覚悟がなければ舞台は創れない。のるかそるかというのが前提で、それだけに確実にいい作品を創るための手が打たれていく。そうでなければブロードウェーなんてものはあり得ないんだ」
――コマ劇場もやはり、日本的な舞台創りのなかでしのいできた?
「それは、ここだけが厳しくやろうといったって日本の風土のなかにあるわけだから。ダンサーも給料で一年契約の保障があったし、そのかわりといったら変だが、情熱とテクニックのない者が一つの興行のたびに淘汰《とうた》されるということもなかったわけ。際立った芸を無条件で求められることがないかわりに、一種の人情ふうに、よほどダメでなければ翌年の契約を切られるということもなかったわけですね。だから自然とぬるま湯的になっていく。そういう、ほどほどのあたりで踊っていればいいというダンサーが、やっぱりいるわけだな」
――それは才能のある人にとっては生殺しの状況ですね。あるいは情熱のある、やる気の人にとってはためにならないというか。
「何とか前むきにやっていこうと入ってきたのが、このなかのぬるま湯的な空気に流され、染まっていくことに、やはりなったわけだろうね、残念なことですけれどね」
児島は眉間《みけん》をくもらせていう。
――あとはお客さんですかね。やる気と才能を見いだして応援し育てていくという客がいなければ。
「チームの固定ファンというのは確実に存在していた。ワンステージ数十人、きっちり読んで四十人はいたでしょう」
――わりあい大きい数字じゃないですか。一ヵ月興行、一日二回のステージとするとざっと二千人の固定ファンです。
「それが、だけど二千三百人のコマ劇場のキャパシティでは、座席の横一列にすぎないわけね。この固定ファンを相手に大劇場の企画を考えるわけにはいかないでしょう」
――しかし、固定層としては、何かを生む核にはなったのじゃないですかね。そこへむけて、ダンシングチームが結束して、火の出るようなステージ、ダンスをぶつけていく。
「チーム独自の表現をやろうと制作にかけあうような動きもあったけれどもね。だけどその中心メンバーにスポットのあたる役、ソロのダンスなんかが当てられると、その意欲も結束も、何となくしぼんじゃうんですよ。みんなでガツンと制作にいって、ステージもガツンといいものを出してと考えてはいるが、個人にスポットがあたると、その人はまあこれでいいか、なんて思うんだな、仕方のないところがあるからね」
――ファンというのはどんな人たちでしたか。
「これが歌舞伎町らしい。やっぱり地元のホステスさんが中心でしたよ」
――すごいな、二千人のホステスがコマダンシングチームを支えていた。それが大きなうねりとなれば独得の雰囲気が発生したのかな、児島さんのところへは、やはり差し入れとか花束とか届きました?
「それはありました。いいときにはいいといってくれて、自分のお店のお客さんを連れて観《み》に来てくれていましたよ」
――それに加えて歌舞伎町の旦那衆《だんなしゆう》ですかね。ぽんと御祝儀をはずんでくれるスポンサーの存在があれば活気づくし――。
私はひとしきり、コマ劇場の美の神々を支える構造を勝手に想像していた。
しかし、それははかない夢であると、いわなければならないのである。この過程のなかで、歌舞伎町の旦那衆になるべき層の人々は、雑居ビルを建て、管理を不動産会社にまかせて自分たちは郊外へ脱出してしまっていたのである。
コマ劇場自体の演《だ》しものも、円形ステージの機能を使い切るコマ劇場ならではの舞台を創造するというよりは、歌手のワンマンショーへと軸を移していたわけだった。
そして、歓楽街歌舞伎町自身も、イージーセックス産業の街へ変質し、優雅な長いドレスを着て客の相手をするキャバレーのホステスも相対的には数が少なくなっていく。
コマダンシングチームは次第に悪戦苦闘を強いられて解散への道をたどることになっていくのである。
――女性のダンサー、踊り子たちは、きっと熱い恋なんかもしていたんでしょうね。
「うん、あったよ。だけど、舞台がはねたあとメイクを落として劇場を出るのは夜の十時ごろだから、世間の人と生活時間が違うのね。水商売の人ともまた違う。肉体の仕事で、午前十一時にはしゃきっとして楽屋へ入らなければならないわけで、時間のゆとりはなかったのです。たしかに、人に見られる仕事だから一見派手なように見えるし、おしゃれもしているけれど、身持ちのかたいのが多かったね。なかには、前夜激しいことのあったような女の子もいたよ。ホテルから直行してきたようなね。しかし、私はそれで踊りが乱れてもそうは叱《しか》らなかったな。ゆっくり逢《あ》う時間がなくて恋も大変なんだものね」
歓楽街の祭殿コマ劇場の、もっともあでやかで華やかなステージに生きた人々は、ついにこの街から散っていき、おそらく、二度と円形ステージにはもどらないのである。
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第五章 バッカスの夜
歌舞伎町に生きる人々の時間は、渦を巻いたり、ぶつかりあったり、てんでんばらばらに速度を違えて流れているようだ。
生身の人間にとって、胸のなかの時間は歴史年表のように順序よく流れたりはせず、いま、という観念のなかに、二十年前のいまと、たったいまのいまとが、矛盾もなく同時に腰を落ちつけている。
おまけに、遊び、楽しみ、快楽にとって大事な時とは、いま、なのだから、歓楽街では実のところ歴史がとどまろうが、進もうが、退こうが、たいした問題ではないとさえいえる。
酔っぱらいの時間感覚は、このあたりで心地よく歓楽街がかくし持つ時の乱れに同調し、とどのつまり明日などどうでもよくなり、永遠のいまにむかって泳ぎだすことになる。つまり、生きていることの本音が酒精《アルコール》によってふるえ出てきて、永遠とタイトルされたつかの間の大乱心、ステキに夜は深まる。
このしっぺがえしをあくる日、私たちはしたたかに食らうしかない。生産的、社会的、歴史年表的な秩序をあびせられ吐き気をもよおし、勤勉という価値観に跪《ひざまず》いて、白昼うんざりもののストレスの海を泳ぐわけである。だからいよいよ歓楽はなくては済まされない。
そして、歓楽街には悦楽の迷路、時の乱れをつかみとらせてくれる路地と酒場とが用意されていなければならず、秩序の中心軸とは別次元の、乱れる「時の殿堂」がなくてはならないが、歌舞伎町にその曼陀羅《まんだら》はちょっぴりしか描かれなかった。昭和三十年代の高度成長期にこの街の曼陀羅ができあがってしまったので、浅はかにも遊びにはまったく無用の理屈である“生産性理論”までを引き入れてしまったかのようである。
したがって、この街で三十年以上も同じ酒場が続くことは至難のことといえた。
消えたものはいくらでもある。
酒も飲まず、小さな歌詞の本を配り、指揮までとって善良すぎる歌を歌っていた「歌声喫茶」が消えた。コーヒー一杯分の、あれもイージーな連帯感の商品化だったのかも知れない。「灯」はいまやハンバーグ屋である。
初期のロック・ミュージックからグループサウンズの時代まで隆盛を極めたライブステージの「ジャズ喫茶」も消えた。曲目はロックとアメリカンポップスが中心なのに、どうしたわけか通称は「ジャズ喫茶」だった。
はるかな記憶をたどると、私の場合でさえ、「ラ・セーヌ」のステージのうえの、整形まえの弘田三枝子の熱唱の記憶がある。バンドはシャープス・アンド・フラッツであった。ひところコニー・フランシスのフィーリングで「ボーイ・ハント」などを歌っていた弘田だが、どうして、この時分のジャズの力量は後年がそうであるのと別の味わいで出色であったように思う。
次いで隆盛を極めたのがディスコ。当時の呼び名で「ゴーゴー・クラブ」も昭和四十年代の中期にはあとかたもなく消えた。ディスコの主軸は六本木に去ったのである。
花見通りに何軒も並び、新宿全体で十軒以上もあった店は経営者もかわり、およそほとんどがぼったくり風俗店となり、なかにはとろろ飯屋に化けた場所もある。
そのうちの「ヤング・メイト」のチョビヒゲのマスターは健在であろうか。朝まで踊り、カップルを組めた者はホテルヘ消え、そうでないものは、さらにモダンジャズの「ジャズビレッジ」へ流れて、陽《ひ》の光を眺めながらアニタ・オデイを聴く日々よ。そいつは大都会に固有のけだるく輝かしい朝ではあったが、経営者が博打《ばくち》で店をとられたとかで、この店もあっけなく閉店する。
のちに天才たちが底ぬけの夜を過ごす「ジャックの豆の木」はこのような歌舞伎町の時代に開店されていた。
場所は、歌舞伎町のはずれ、いまは「四季の道」などとしゃれたふうな名のついた、都電の線路が新田裏へ抜けるあたり、当時三十歳そこそこの柏原テルは、ガレージだった安い場所へ、
「えい」
と意を決して店を出すことにした。
柏原テルの胸のうちに流れる時間も、過去、現在、未来の整合性から離脱して、面白い側へ勝手次第にゆがんでいるが、それは迷路のなかの個人の時間なのだから、他人がとやかくいえるものではないのである。
いま、「ジャックの豆の木」は、桜通りをまっすぐに、歌舞伎町をつっきってさらに大久保方面へ進んだすぐのあたりのバービルの二階にある。
昭和四十年にこの名前で店を出して二十四年目、経営者も名前もそのままに続いためずらしい酒場といえよう。
若いころはさぞやと思われる面立ちで、ママは健在であった。
「まあ、とにかくあのころのお客さんはよくまあ、お酒を飲みましたねえ。トリスから白にかわるころの時代でした。Sさんなんて人は、飲めばしたたかに酔っぱらうまで飲み続けて、店を出てから歌舞伎町の道ばたに寝ちゃう。心配で気をつけて見送っていましたけれど、そのうちにドブだか側溝だかに落っこちて丸山外科に入院騒ぎ。それでも、退院してから同じペースで飲んでいました」
ママは岩手県出身。南部藩士の末流のお嬢さんであったが、早く夫を亡くして親類のいる東京へ。昭和三十五年、大久保駅近くに喫茶店「まろん」を開店したのが水商売のはじめになる。
「たしか六〇年安保のころですよ。そのうちにお客さんが夜になって、お酒も飲みたいというし、そのひとつめの店が自然に喫茶バーになっていく」
しかし、さきにふれたような天才たちの酒場になるにはまだ、曲折がある。
「あの時代、水商売というのは特殊な業界だと思うのが常識ですから。実家は反対するしで、すんなりバーをやるという気持ちにもなれないでいたんですね。そこで、三十九年ぐらいにはレストランをやって、夜だけお酒も出すという店だった」
場所はまだ大久保。店の名前を変えて「ココ」。昼間はトンカツ屋さんで夜はバーというスタイルだったが、トンカツ屋さんもよく繁盛して、近くの同業者が閉店した。
「そのころのお客さんに映画関係の人が何人かいたのです。カメラマンの武田順一郎さん(現在シネ・サイエンス)も常連でした。演劇関係では文化座の人たちがいらしてた」
急に飲めない酒を飲みだして体をこわしたりしたが、店の常連客たちが「いっそ歌舞伎町でやったら」と勧めもする。そこで「えい」と決断しての歌舞伎町進出となったわけだ。
「このまま大久保でやっているのもいいけれど、水商売をやるのなら、きちんと決めてやったほうがいいとは思いましたね。あとは夢中ですよ。何とか、それまでの常連さんを中心にやっていけばやれるのではないか、と思うぐらい。それでも新宿、歌舞伎町は雑然とした魅力でお客さんを集めていたことも事実でした。それがあっという間ににぎやかな店になっちゃった」
――実は、私は昭和四十一年ごろ、何度か、そのはじめての「ジャックの豆の木」に行ってるんですよ。学生でしたけれど。ところがあのころ、お金を払った記憶がないんですよ。いったいあれは誰《だれ》が払っていたのか。
「そうなんですよ。ぞろぞろと団体になって年配の人も若い学生さんもやってくる。四十代から二十代までが十人とか、十五人とかでやってきて、金のない人の分を面倒みていたのね。おじさんたちが若いもんの面倒を見ながら、酒の飲み方と、人生を教えていたんでしょうね」
――そのころ、私はアングラ御三家といわれていた「状況劇場」「天井桟敷」「発見の会」のうちの「発見の会」のもぐり研究生でしてね。勝手に打ちあげにもぐり込んで、いつのまにか一緒に酒を飲んでいるという手あいでありました。ところが、そういう手あいがやはり何人かいまして、劇団の中心メンバーである瓜生良介さんや、牧口元美さん、当時まだTBSの、才能あるディレクターだった今野勉さん(現テレビマンユニオン)なんかとは別のテーブルでわいわいと勝手にはしゃいでいるわけです。
「その『ジャックの豆の木』、うちで?」
――はい。
「ほかのお客のボトルも飲んでたんじゃないのかしら(笑)」
――たぶんそうでしょう。隣あわせのおじさんが「ほら」なんていってボトルをまわしてくれる。それをドボドボと目いっぱいついで。しかし、あのころ、私たち金魚のウンコどもの師匠たちは三十歳を越えたかどうかの年齢でしたからね。あのころちゃんと収入のあったのは今野さんぐらいと、勝手に推測すると、お金の出どころは今野さんかな。
「それでよかったんですよ。そのころで一人千円ぐらいの値段じゃなかったかしら。金のない若い人に、酒場全体が優しかったはず」
店内はいまの感覚からいうとやや広い。テーブルが十卓ほど。ガラスのドアで通りからなかがのぞける。店内のフロアに段差があってひと晩に何人かが、けつまずいて転ぶ。
歌をがなる者は少ない。いやほとんどいなかった。九分どおり大真面目《おおまじめ》な議論でどのテーブルもにぎやかだった。
「はじめのうち岩波映画社が店を占領していたけれど、あとはもう、大島渚の創造社の連中なんかも、どっとくり込んできて大議論になることもありましたねえ。あのころ映画人は活気があった。すごい勢いで酒も飲んだし、そのうち白のボトルが店のなかを飛び交うの。あっちとこっちで喧嘩《けんか》になって、そりゃあもう大変な夜もある」
――そういう記憶があるなあ。われわれ金魚のウンコ組は、じっと静かに息を殺していて、床に転がって、不思議に割れないボトルをかすめて、そいつで酒盛りをして、喧嘩が終わるころ返すんだけれど、中身はないという。
午前零時すぎ、クラブやキャバレーがはねるころになると、ホステスも客を連れてくり込んできた。仕事ではなく自前で飲むにはノリのいい店であった。
気っぷのいいホステスの常連がいた。彼女の得意技というか、「ジャックの豆の木」へくり込んでくる決まり手というのがチンチロリンであった。
男性を二、三人引き連れ、道ヘサイコロを転がし、しゃがみ込んでは勝負を見とどけ、しばらく歩き、またサイコロを転がしながら「ジャックの豆の木」のドアをあけるのであった。
柏原テルを取材していたこの夜、なんとその当人が店へ入ってきた。
「あのころ? 二十歳かそこら」
というから私と同じ世代の彼女は第一期の「ジャックの豆の木」からの律義な常連客ということになる。
「あのころの『ジャック』は、何が面白かったのかな。とにかくわいわいと元気があったから通い続けたんでしょう。何かが起きる場所でもあったようよ。犬が噛《か》みつくとか、犬に噛みつくとか」
映画監督の今井正の足もとを、ペキニーズの白い犬がうろついていたりする。常連の一人Aさんという、遊び人といったほうが真実に近い人物の愛犬であった。名はキャスパーといった。キャスパー自身が、自分はレッキとした常連であると確信していた。したがって店内では堂々としていた。
店にはアルバイトの女の子がいつも五人から六人はいて働いており、キャスパーには一目も二目もおいて応対していた。キャスパーは雄であり、店の女の子にはいっぱしの雄として、優しさをもって接していた。
しかし、その女の子がキャスパーの主人Aさんに不用意に触れたりすると大変で、いきなり古女房面となり、ヤキモチをやいて噛みつくのである。
「なついて大丈夫かなと思ってAさんの横に座ったりしてると、そのうちガブッなんだもん」
だからAさんは一人で飲む夜が多く、キャスパーは常連として店の女の子の礼儀に目を光らせている。
ママはふと懐かしい目をした。
「アルバイトの女の子たちが愉快なキャラクターだったわねえ。私の世代にもいないし、その後も出て来ないみたいね。あのころの若い女の子は自然に一人で自立しちゃってたんじゃないの」
鳥取出身の三人娘がそろい、期せずして県人会支部ができたような時期もあったという。
「色違いのダリアが三つ咲いていたような子たち、人気でしたよ」
かと思うと、男をむこうにまわして、議論で論破してしまう画家志望の女の子もいた。
しかし、店中の男どもがひれ伏したのはミミというなかなかに迫力のある子だった。
酒場の雰囲気が一種いいようもなく一体化した頂点で、ミミははらりとブラウスを脱ぎ、はらはらりとブラジャーをはずすのであった。
なんと豪気なサービス精神!
「あれはサービスとか、目立ちたがりでもないんだな。彼女も酔ってはいるんでしょうけど、何かを与えたくなるらしいのね。懸命に生きている男たちを応援してたのかねえ。あららと思っている間に、まっ白い胸を見せてニマッて笑ってるの」
ママはかつての従業員をいくぶんかかばっているのかも知れない。
だが、この話に、当時流行していたハイミナールという錠剤をひとつぶ加えて考えてみると、ミミちゃんのオッパイの謎《なぞ》を解くことができそうだ。
ハイミナールは、いまでも通の間で傑作とされる睡眠薬だった。市販されていて、当時は服用しても罪ではなかった。
私も飲んだことがある。睡眠薬というよりは催眠効果に優れ、ストンと眠くなる時期をすぎると、浅い眠けのなかで、底なしにくつろいだ気分にひたれるのだった。規範の強制力から解放されて自由になったような、心優しくなれたような楽な気分になる。ミミちゃんが飲んでいたとはいわないが、飲めばあり得る行為であり、そういう時代なのである。
ハイミナールは、夢うつつを得るための手ごろな錠剤ではあった。
しかし、それが、ただ予定調和的な、覇気に乏しい安穏だけを求めるものであったとはいい切れないようである。
たしかに、そのような、現実からの逃避のためにこの錠剤を使う者はいた。
私が高校時代までを過ごした地方都市仙台の、私が通っていた公立高校でも、ぐうたらな生徒が、さらにぐうたらをむさぼろうとハイミナールを飲むことはあった。精神のダイナミズムを欠いたまま、この手の薬剤を常用すると、いよいよ奈落《ならく》に落ちることになる。この薬も慣れるうちに効かなくなり、量が増えていき、バリバリと噛《か》み砕いて何錠も飲むようになっていく。そこからさき、こうした薬物から手を切るのが、前にも増して苦痛となるのは当然のことであった。
だが、元気があふれている状態で、これを用いると、いつもならやろうと思わないことがすんなりとできてしまうことがある。
私の場合、絶望的な成績であった数学の授業の前にハイミナールを飲んだところ、突如として数学史を揺るがすような大命題を発見することができた。いまだかつていかなる天才も見過ごしてきたその大命題とは、イコールという概念についての根底的な疑義であった。左の数式と、右の数式を結ぶ|〈=〉(イコール)という記号そのものの根拠は、はたして、いかなる証明によっているのか。左辺を解いて右辺に置きかえる精神活動の定量までを|〈=〉(イコール)によって等しいと見なすとは、まったくもって等しくないのではないのか。イコールの正体とは何ぞや。
「先生、ぼくはいま、なぜぼくが数学ができないか、その原因をつきとめました。ぼくはイコールの概念が、とことん不明であるということを発見してしまいましたが、イコールとはどういうことなのですか? イコール自体を独立した項として証明していただかなければ、今後の数学の授業にはつきあいかねるので、よろしくお答え下さい」
私は多少ろれつのまわらない舌で、しかし、ちゃんと手をあげて質問したのだった。
先生は、じっと私を見すえ、すぐさま、
「おまえ、ばーかか?」
と答えた。
のち、フッサールの精神現象学を読んだときに、初期フッサールが数学の精神現象学をやろうとして果たせず、精神活動一般に関わる現象学へと思考を進めたことを知り、さっぱりわからない精神現象学ではあったが、フッサールその人には親近感を持つことができた。フッサールもきっと|〈=〉(イコール)の意味に悩んだのであろう。そして、きっと、ハイミナールをやってテーマを発見したのだと。
一方、新宿・歌舞伎町の、にぎやかで元気な連中のなかにハイミナールがかなり浸透しつつあったことは事実だった。ジャズメンたちはこれを「ミナハイ」とさかさまにして呼んでいたけれども、当時の雰囲気を伝えるものとして、次のような会話が記録されている。
山下洋輔トリオと筒井康隆の座談での一節である。
「山下 それで何を持ってきたのかね、君。……この薬を持ってきました。この薬は、一粒飲むとラリリ、二粒飲むとラリリラリ、三粒飲むとラリリラリラリ(笑)、四粒飲むと……。
中村 ラリリラリラリ、ハッチャベコ……。
森山 違う。一粒飲むとラリリ、二粒飲むとラリリラリ、三粒飲むとラリリラリラリ、四粒飲むと、リロリ、ラリリラ、トベリビッチョレ、コチャハベラダカンジョレノー(笑)」(山下洋輔著『風雲ジャズ帖』)
中村誠一のテナー、森山|威男《たけお》のドラムで、山下トリオが爆発につぐ爆発を続けていた時代がこの「ジャックの豆の木」の第一次騒乱期に重なるのである。
高度成長期とは、日本中がものにつかれたように浮きたち、一種の民族的|躁病《そうびよう》にかかっていた時代ということができるのかも知れない。その時代に突入していこうというとき、日本人のほとんどは、それが異常な心理状態にあることなど気づきはしなかった。
テレビ受像機は昭和三十一年に三十万台しか生産されていないのに、五年後には十二倍の三百六十万台になっている。洗濯機、電気冷蔵庫も同じようなスピードで普及していく、自動車もまた同様であった。
てんやわんや的な成長期、歌舞伎町はいつでも午前四時すぎまで客が歩いていた。その日が給料日だろうとそうでなかろうと、月曜日だろうと土曜日だろうと、まったく、おかまいなしであった。
そのころのことを年配のタクシー運転手に訊《き》けば、異口同音にいう。
「たまげた時代だった。メーターも安かったけどさ、逗子、葉山、川越、所沢、どこへでもじゃんじゃん車で帰ってく。それも指二本だして、メーターの二倍の料金でオーケーって客が靖国通りにずらあっと並んでやがった。わしらは、そのチップだけで暮らせたもんだったよ。それが常識だったんだから、すごい時代よ」
常連客として、夜ごとに「ジャックの豆の木」へやってきたホステスの一人に、高級クラブ「ママ」の若手ホステスがいる。
彼女が当時を想いだしていった。
「それはよく金を使う客がいたのよ。うちのクラブは、かなり高い料金だった、黙って座って十万円という超高級クラブ。そこへ毎晩来て、毎晩十万円、二十万円と使ってく客がいたんだから。うちへ使うだけで一ヵ月に二百万円、三百万円って人がぞろぞろいたのよね。お金がすごいスピードでまわってたんじゃないの? いま思えば嘘《うそ》みたいな時代ね」
交際費が潤沢な時代である。超高級クラブ「ママ」には、カバンにキャッシュで五百万円ほどもつっ込んで、使いようもなくホステスにチップをバラ撒《ま》く躁病も極まったような銀行員がいた。
「あれ、大丈夫? 銀行の金でも使い込んでるんじゃないの? なんてかげで私たちは噂《うわさ》していたの。そしたら、半年ぐらいでぱったり顔見せなくなって、やっぱり横領かなんかしてたのがバレて会社をやめたらしかった」
かと思えば、五十年配のロマンスグレイ、服装もバリッと決め、女扱いも金払いも、会話も酒の飲みっぷりも洗練を極めたいい男がいた。渋いハンサムできれいに遊ぶところから、ホステスには人気だったが、
「ある日、新聞を見たら、女を殺したって記事が載ってるのよ、その男が犯人で」
何でも、手広く商売していたさる女社長とぞっこんの仲で、女社長は惜しげもなくその男に貢いでいた関係。ところが、男は女社長を見限って別れ話をもちかける。うんとはいわない女社長が、意地と面子《メンツ》と未練とでつきまとうのを、ついに男が殺《や》ってしまったという事件なのであった。
昭和|元禄《げんろく》花吹雪、歌舞伎町のいたるところの飲み屋で、酔っぱらいは色だ恋だ、乱痴気騒ぎの酒盛りを続けていた。「ジャックの豆の木」の騒がしい夜も、料金は安くつつましかったが、時代の躁病的気分なら、どこにも負けないほどに濃密だったのである。
そのころ、友人の紹介で「ジャックの豆の木」にアルバイトで働いていた男が想《おも》い出《で》を語ってくれた。
この人物、いまではとある店のマネージャーをしていて、業界ではいろいろはばかるところもあり、名は仮名、水島敬悟としておく。
当時は某私立大学の一年生だった。
これまであげてきた店の常連客とは別に水島の記憶で有名人をあげてみると次のとおり。
深作欣二、羽仁進、浅川マキ、三上寛、大信田礼子、ツノ・ヒロオ、赤塚不二夫、渡辺貞夫、三笑亭夢楽、増尾好秋、のちに一本立ちして映画監督になる助監連中もわんさか来ていたが、そのなかには川島透の顔もあった。
「映画論で大激論になることもあったな。ママが議論に割って入って、いつの間にか一方をやっつけたりした。山下トリオの中村誠一さんが何を思ったかパンツ一枚で逆立ちをはじめて、ひっくりかえったり、三上寛がギターをかきならして絶叫したり。何がすごいって、なかに入れない客が、外の道へはみだして飲んでるの、地べたでね。そこへ水割りの氷を持っていくんだから、すごい店だったね」
水島自身もその渦のなかに、あっという間に巻き込まれた。なにしろ、長崎出身の水島にとって、夜ごとの客が信じられないほどの有名人たち。雑誌のグラビアやテレビで名前を知るだけの人物が、あっちのテーブルこっちのテーブルでクダを巻いているのであった。
水島は厚生年金会館の裏のあたりにマンションを借りていたが、いつしか帰りそびれた酔客や、年齢の近い連中が、いつも四、五人はそこにトグロを巻くようにもなった。
「そういう部屋が、いくつもあったんじゃないのかな。朝、目を覚ますと、まったく知らない顔の奴《やつ》が『おお、お早《は》ようさん』なんていってるの。仕送りが二万円の学生だったんだけど、何か、わけのわからない仕事が映画や、テレビのプロダクションのほうから転がり込んできて、いつも何だか金があった」
水島のやった仕事は、いわばエキストラの仕出し屋のようなことになるだろう。
たとえば、アシベ会館のフロアを使って、ディスコのシーンを撮影することになる。「ジャックの豆の木」に来ている助監督が、ひと集めを水島に頼む。水島は友人のネットワークを使って若いのを集めて撮影現場に送り込む。
「三十人も集めるとピンハネで三万円ぐらいは手にすることができたね」
撮影そのものに自分の部屋を貸すこともあった。まだアダルトビデオはこの世に出現していない。独立プロの一群のなかには若松孝二など、精鋭といっていい猛者《もさ》がぞろりといて、さかんに意欲的な作品を、ピンク映画のチャンネルで送りだしていた。
「ピンク映画の撮影に部屋を貸しちゃうとね、一日で一万五千円になった。お客さんで来ている人が注文するから、一ヵ月に五、六回はあった。ね、これで、家賃の三万円は軽く出ちゃうの。普通のアパートが、六、七千円のころに三万円の部屋といえば豪勢だけど、苦しかった記憶はない。こうやって、ピンクに貸したお金で、みんなの宿泊所をキープしていたようなことになる」
盛り場が、わいわい騒いでいる連中の二十四時間のたまり場となっていたのは、そこへも、世間のわけのわからない金が巡ってきていたからだった。
「わいわい騒いでいたけど、自分で使っていたお金は一ヵ月に給料の四万円だけなのよ」
というのは、ホステスも同じなのだった。
「ジャックの豆の木」の常連のAさん、前出のヤキモチ雄犬のキャスパーの飼い主も、どこでどうお金を稼ぐのか、いつでも懐中に二、三十万円のキャッシュを持っている人物だった。その当時で年齢は五十歳ぐらい。
Aさんはまた超高級クラブ「ママ」の常連でもあって、彼女を可愛《かわ》いがっていたが、午後には、とある麻雀《マージヤン》クラブに顔を出す。
その卓上では十万円、二十万円という金が乱れ飛んでいるのである。
「何時ごろどこにいるかって知っているので、そこへ顔を出してみると、必ずAさんがいた。しばらく眺めていると、勝った分の半分を私にくれて『何かうまいもんでも食ってきな』っていってくれるの。そのお金をずいぶん貰《もら》ったけど、だからといって旦那面《だんなづら》するわけでもなかった。遊び人で、こういう粋《いき》な気っぷの男はもう全滅していなくなっちゃったけど、あのころはずいぶんいたように思うのよね」
たしかに金のない若い者には、優しい歓楽街だった。
超のつく貧乏学生の私でさえ、このころは新宿へ出てくればめしにありつけた。午後早い時間に、タローに顔を出す。昼の部の店員にたしかナリちゃんといった若い男がいた。
「寿司《すし》食わせてやるよ、知った店があるんだよ」
おごってくれるとは渡りに舟と、そこらの店へ入る。出口に近いカウンターで、ナリちゃんはどんどん注文する。負けずにどんどん久しく食わない寿司を食う。
めいっぱい食ったあたりでナリちゃんが私にささやく。
「あいつ、ダチ公なんだ。いいかい、むこうの合図があったら、すうっと落ち着いて店を出るんだぜ、金、払わなくていいんだから」
お茶を飲んで一呼吸するうちに、職人さんの一人が、
「はあい、まいどありィ」
と大声を出す。
「さ、行こうか」
なんていいながら、ナリちゃんが席を立つのにならって外へ出る。それでいいのであった。
「たまにうちへ来たら、こっちがタダにしてやるんだ、気にすんなよ」
という従業員同士の相互扶助システム、経営者には内緒の地下コンミューンのようなネットワークが成立していたのであった。
友人がバーテンで入っているスナックでは、私のボトルはなかなか空っぽにはならなかった。こんこんと湧《わ》く泉のようなボトルであった。どの店でも、お金は金のある客からとっていたのではなかったのか。
ディスコ(当時はゴーゴー・クラブといったことは前にふれた)の料金も一晩遊んで五百円だった。その金でさえ、なかに誰《だれ》か知った顔がいれば、一枚百円のチケットをもらい、ビールの小びんを飲んで一夜を過ごすことができたのである。
若者にとってこれほど安く過ごせる歓楽街はなかったように思う。一杯のチューハイをあおり、走りまわって酔いをかきたて、仕あげに二粒のミナハイをかぽりと放《ほう》り込めば、ラリリラリ、朝までいていいダンモの店でコルトレーンを聴く。そうするうちに何ごとぞ、この世の制圧に対抗するパワーがじんわりと身にあふれ出てくるのである。
「ジャックの豆の木」は大人たちの優しさあふれるただ酒のふるまいと、細かいことはまるで気にしないママの寛容さで、さながら人生と酒と恋の、若者にとっては道場のようになっていたのかも知れない。
柏原テルはいう。
「三十代からうえの大人たちは若い人を、そうとは考えずに鍛えていたのよ。あれで店のなかは、秩序があったもの。何ひとつ規則なんてなかったけれど、酔っぱらうその酔いっぷりで、次の世代を育てていたわけよね。いまの若い人は飲まなくなったけど、楽に飲ませる大人もいなくなったんじゃないの」
そんな酒場で育ち、いい年になった私たちにとって、これは耳の痛いセリフであった。
このころの歌舞伎町は、日本人がはじめて経験する大衆消費時代のまっただなか、理性のかき根がよほど低くなってしまったのか、自前のやり方でだれもかれもが朝まで遊んでいた。
私のような金のない学生でも、友人の輪のなかの誰かに、親の車を持ち出すことが可能な奴《やつ》が一人や二人は必ずひっかかってきたのだった。
退屈した夜、そのなかのだれかと歌舞伎町で出くわす。話が転がり、横浜の本牧へ車で遠征するようなことになる。
お目当ては、米海軍の若いセーラーが踊る新しいダンスステップだった。
新しいゴーゴー・ダンスの流れは米軍兵士が運んできていた。はるかベトナムでは戦争がいよいよ激しさを増している。横須賀からは戦争の匂《にお》いのする兵士が、ドラッグとマリファナとニューステップと、血しぶきと欲望とを運び込んで、本牧あたりにぶちまけていた。
本牧を根拠にした、ゴールデン・カップスというGSグループはすでにコマーシャル・ポップスシーンに登場している。舌たらずの和製ポップスがガキどもの人気を獲得していた。学生たちは日本史上はじめて、大量にガット・ギターや、エレキ・ギターを手にすることができるだけのお金を得て、どの大学のキャンパスでも、やたらとかき鳴らす学生がたくさん発生していた。
まだ、本牧ではゴーゴー・クラブの「ゴールデン・カップ」が営業していた。市電の走っていたどこかしんと静かな本牧の夜のなかで、ドアを押すとそこだけが異様な熱気だった。いがらっぽいマリファナの匂いと汗の匂いが溶け込むその店内にまぎれ込み、
「イモ……」
なんて、馬鹿《ばか》にされるのを恐れながら、ロイクと呼ぶ黒人兵士たちのダンスをよく観察しては盗むのである。
オーティス・レディングや、ジェームス・ブラウンのシャウトに身をのせて、連中は見事に踊っていた。たしかに、ビートルズはすでにいやというほど流行していたけれども、どうにもリズムがアングロサクソンで、黒人のノリで踊るには軽く、しかもベタつき、生理が同調しないのだった。
私たちはフロアのすみで、踊りを真似《まね》て練習した。モノにできると歌舞伎町へ凱旋《がいせん》し、いつもの店で仕込んだばかりのニュー・ステップを踊ってみせた。一団となってそれをやると、それはあたりの連中をいっぺんに流行遅れに追いこむ作用を生んだ。
その優越感は、すぐに傷ついてしまう青い自尊心にとって、こたえられない喜びとなるのである。
考えてみればこのころ、音楽シーンはそれぞれのジャンルでにぎやかに主張がぶつかりあっている。
反戦の願いを語りかけるジョーン・バエズの細い声が、ひそやかに流れているうえに、リズム・アンド・ブルースがにぎやかにかけめぐり、ハードロックは頑固に自分のポジションを占めていた。モダンジャズは米本国の黒人たちがおっぱじめた体制批判の激烈な主張に根っこを洗われかけてはいたが、フリーへの熱意がいよいよ高まりつつあった。
ビートルズに見事に食われているのはヒットチャートの主流を占めていた幼く明るいアメリカン・ポップスだった。
ビートルズに劇的に吹きとばされたシンガーは、ガス・バッカス、そして、そのころアメリカのヒットチャートに登場していた坂本九「スキヤキソング」、つまり「上をむいて歩こう」だったのかも知れない。
ボサ・ノバで引っぱりだされたラテン音楽、とりわけブラジル系の音楽も少数ながら根強いファンをつかんでいた。
こうした音楽のなかに漂いながら、歌舞伎町をうろつく若者たちが生み落とした風俗がフーテン族である。
このうす汚れて、物質文明を否定した生活スタイルは、ヒッピーやビートニクスの日本的一亜種であった。はじめて日本史に出現した消費時代に、少しばかりはっきりしない不満を抱き、ジーンズと、米軍払い下げのジャンパーと、安いバックスキンのスリッポンの靴と、長い髪とで自己主張をしていた彼らは、猛烈に働く連中には徹底した怠惰で抵抗しているつもりだったのである。
彼らは昭和四十一年の秋に新宿の深夜喫茶で発生し、翌年の夏には数を増やして歌舞伎町の路地を歩きはじめた。
朝までどこかにもぐり込んで過ごしたあとに、当時は広場だった新宿駅東口前のグリーンベルトで、気持ちのいい風に吹かれながら眠るのである。のちにこの青空宿泊所をグリーンハウスなどと呼んだが、人が意味もなく集まったり、新宿騒乱事件のように集会に使われる恐れのある広場を、病的に嫌う官憲によっていまでは植え込みに作りかえられてしまった。
私も歌舞伎町で夜明かしして、下宿へ帰るのがめんどうになり、そこで眠ったことが何度もある。
ときには部屋へ来ないかと、見知った顔が声をかけてくる。
だれでもかまわない。一人で部屋へ帰るよりはだれかがいてくれたほうがいい。
「ミナハイ、あるよ」
と心細げにいうときもあった。
むくりと起きあがる何人かのなかに、知った顔がひとつでも確認できれは淋《さび》しさはまぎれる。
この時代、あれほどまでに浮かれていながら、私たちはひどく淋しく、寄りそうようにして朝を迎えていた。
高度経済成長期とは、猛スピードで物を獲得していながら、心の領域の何かを毎日失っていくような、奇妙な貧血感がつきまとうような時代でもあった。産業社会の表面はバラ色の未来に向かっているようで、足もとにはいつもヘドロがまといつき、大気には有毒ガスがまじり、鳥は数を減らし、海はいつでも汚れていた。
戦後の経済復興の流れ、何はともあれ貧乏からの脱出、その曖昧《あいまい》なままの目標が何の整理もされないままに水ぶくれして実現しかかっていることに、私たちは浮かれながらも不信の念を抱いていたに違いない。かつて、つい二十年ほど前に敗れた戦争の原因と結果が整理もされず、この国は豊かさの幻影のなかへ猛スピードで逃げ込もうとしているかのようであった。過去の亡霊どもが追いつけないところまで、この国はトンズラする! 曖昧なままに次のステージヘ突き進む。猛スピードのなかの苛立《いらだ》ち。このとき酒を飲んでいたものたちの落ち着きのない気分は、ゆがんで通りすぎる過去と、急接近する未来にはさまれた不安だったように思える。
リーという女の子がいた。都立の商業高校を中退して髪を染めたその子は、クスリですっかり胃を傷めて、いつも青白い顔をしていた。
固形の食べものを受けつけなくなったらしいその子は、牛乳を陽《ひ》なたであたためては、ゆっくりと飲む習慣をもっていた。
痩《や》せてはいたが、胸は豊かだった。
ジャズ喫茶の暗がりで見かけたり、グリーンハウスで青空を見あげていたり、ゴーゴー・クラブの騒音のなかで眠っていたりした。
その姿がぱったりと見えなくなってから、しばらくして、死んだという噂《うわさ》を聞いた。
ミナハイと酒をガブ飲みして、ふらふらと歩きまわり、夜明け近く猛スピードで走る車にはねられたという。
すぐには信じかねるが、リーについての死後の噂が、このころの私たちの気持ちの傾向や色彩をある程度推測する材料にはなるのかも知れない。
リーの父親が死んだのは、彼女が中学二年のときだった。担当の教師は、リーの面倒をよく見ていたが、家庭訪問をしているうちにリーの母親と恋におちいったという。
「リーの母親と、その先公とはめでたく結婚することになったんだそうだ」
「へえ、ロマンだね」
「そうじゃねえよ。だってリーはずっと前からその先公が好きだったんだ」
「母親に男をとられちまったかわいそうな少女ってわけ?」
「少女? その年じゃ気分は女さ」
「その先公、リーをいただいてたんじゃないだろうな。きたねえ先公だ、先公ってのはよ」
「そいつはなしさ。母親の再婚はリーが十五の春だった。まだまだねんねよ」
「その年なら体は女、あったんじゃねえの?」
「ところがリーは貧弱な体の少女だった」
「胸は立派なもんだったぜ」
「そいつさ。あの胸は手術したんだ。その先公にこっちを向かせようって、ヤクザな医者に頼みこんで、胸だけムッチリな痩せた女になっちまったんだと」
「おっと、ひでえな、ビッグ・バスト・リー」
「ビッグ・バスト・リーはひどく叱《しか》られ、おろおろ家出、歌舞伎町の夜は七色ってわけ」
「親父《おやじ》も、お袋も、惚《ほ》れた男も、いっぺんに失《な》くしちゃ、ミナハイが効いてたろうな」
「揺れるバストは哀《かな》しみの重さよ」
「そいつをふたつもぶらさげて、ラリって歩くビッグ・バスト・リーか。しまった、もう少し優しくしてやるんだった」
「くたばっちゃあ、あとのまつり」
「いつでも、そうだ、あははは」
「悲しい女だったよ、そういやあ、あははは」
こんな物語をあとに残して、リーというフーテンが歌舞伎町の底に沈んだのである。
「いまに新宿、原になる」
と予言のようなセリフを撒《ま》き散らす唐十郎の紅テント「状況劇場」が、花園神社に現れていたころであった。
新宿文化劇場の映画がはねたあとの演劇公演が開始され、宇野重吉と米倉斉加年とで「ゴドーを待ちながら」が演じられ、ちょうどこのころに劇団天井桟敷の「毛皮のマリー」が、美輪明宏の主演で演じられている。
ハプニングと称されたパフォーマンスもあちこちで演じられた。「ピット・イン」では日本人ジャズメンの火の出るようなセッションが開始されていた。「ジャズ・ギャラリー8」の時代から見れば驚くほど客が増えていた。
どこか嘘《うそ》っぽい繁栄のなかで、こうした芸術の風がまきあがっていた。
新宿は物騒で、けばけばしく、実存主義と、戦後民主主義から生まれ落ちた新左翼の潮流と、新劇から離れて走りだしたアングラ演劇の疾走と、ピンク映画のネットワークに発生した独立プロの映画と、詩とジャズと、悲しい少女の物語や、ベトナム戦争の匂いや、横領した金を撒き散らす酔っぱらいや、議論ずきのママや、俳優や女優やその卵たちや、詩人や作家やその卵たちとでごったがえしであった。
こうした雰囲気、活気のあふれる人の渦のなかにいくつもの酒場が点在していた。
酒場「ジャックの豆の木」にも、命がけの物語が生み落とされている。
そのころ店でアルバイトをしていた女の子が客の一人とねんごろになった。
その子は肌が浅黒く、大きな黒い瞳《ひとみ》とすらりとした脚と、細い指と、小ぶりだが十分に豊かな胸と、青い感じのする会話とで人気があった。リラちゃんといった。
その子を射とめたのは、遊びっぷりがどこかぎこちない若い不動産会社の男だった。
だが、男は気の多い奴で、少しばかりつきあったあと、リラちゃんを捨てた。
みるみるリラちゃんは精神のバランスをくずしていった。無断欠勤をしたり、店に出ればストレートでぐいぐい酒をあおり、ひっくりかえったりした。
そのうちにとうとう睡眠薬を山ほど飲んでしまったのである。
自殺者の心理にはかすかな生への未練が潜んでいる。救われたいという信号が、いつもの素振りや、言葉のなかにかすかに含まれているといわれる。
意識不明のリラちゃんを発見したのは、どこかその夜ピンと感じた友人の女の子だった。
「さよなら」と別れたときのニュアンスがただならない気配だったという。
リラちゃんは死にたくはなかった。だがもてあそばれて捨てられた悲しさと悔しさは、自殺でもして見せなければ晴れないぐらい深かった。そこで、友人の前で念入りに「さよなら」をしてみせたあと、死なない程度のブロバリンを、しかし、死ぬと思えるぐらいはたくさん飲んだ。だが、だれかが心配して来たりするかも知れないので、ドアの鍵《かぎ》はかけなかった。
以上のことは、本人がそうとは思わずに示した救われたいための信号だった。もちろんリラちゃんの表面の心理では、自殺は決して狂言だとは考えられていない。
事実、救急車で運ばれたとき、彼女は重体だった。
「ジャックの豆の木」のママは激怒した。
回復したリラちゃんから妊娠を知らされたのである。
古い常連客の記憶によれば、当時烈火のごとく怒ったママが、手の早い若い男をこてんぱんにとっちめたという噂がしきりにささやかれたものだという。噂によると、土下座して謝るその男を赦《ゆる》さず、ひとつのほころびもない論理で追いつめ、男は土下座したまま失禁したという具合だった。
古い常連客は真顔でいう。
「いやね、ママはそういうことでは厳しいんだよ。従業員の女の子を親からあずかっているっていう意識があるんだよ。そういうママもたしかに多かったからね昔は。それにしても、恐怖のあまりの座りしょんべんてのは聞いたことがあるけれど、土下座しょんべんってのは、ママが横にいない席でのたいした話題だったね。その男の顔は、二度と見たことはないんだよ」
リラちゃんは無事退院し、体力がもどってから、明治通りの畑中産婦人科で中絶の手術をして、きっぱりこの恋を精算したという。
そして、その後も、けろっとしてしばらく店に出ていたけれど、自分に何があったか、客のほとんどが知っていることに気づいてからは店をやめた。
「ジャックの豆の木」に勤めてからやめるまでわずか四ヵ月。ひどく傷つくにはあまりに短い時間だった。
「ジャックの豆の木」はこうして、夜ごとにエピソードを生み落としていったが、ママは少しばかり体をこわした。
酔っぱらいというものは、百万年以上もの歳月、まだ猿だったころから、これからのちどこかの異星人と酒をくみかわす百万年後まで、一貫して我《わ》がままであり、それに対応する側の人間を疲れさせるものである。
やれやけ酒だ、お祝いだ、春だ、秋だ、天気だ、雨だといっては酒を飲み、かと思えばやけ酒ではない、お祝いでも、春でも、秋でも、天気でも、雨でもないといって酒を飲む人間に律義につきあえば、だれでもくたびれるのは宇宙を貫く真理であろう。
「ジャックの豆の木」のママも、少しばかり律義につきあいすぎたのかも知れなかった。
そして、それが転機でもあった。「ジャックの豆の木」は場所を移してほかのスタッフが引き受けることになる。
常連たちが「小さなジャック」と呼ぶ、第二次の「ジャックの豆の木」は昭和四十七年夏に開店する。場所はコマ劇場の裏。かつて喫茶店「もん」の主人が持っていた地所のあたりの路地だった。よく客の入った店名を残して名前はそのままだが、広さはおよそ三分の一になり、カウンターにこぢんまりとしたボックス席の店内は客と客とが接近する濃密な空間になった。
一方、ママ本人は御徒町方面の昭和通りに面したところへ喫茶店を開店する。酔っぱらいの我がままからしばらく避難するような位置であった。
ところで、このコマ劇場裏の第二次「ジャックの豆の木」がこれまた百万年の酔っぱらい全史のなかでもかなりの光芒《こうぼう》を放つ店となるのである。
中心となったのは山下洋輔トリオである。
新宿「ピット・イン」に山下トリオが出演する夜、それを聞きにくる人々がそのまま第二次「ジャックの豆の木」に流れることが起きた。
すでに山下トリオの疾走は音速を超えており、その評判を聞いて詩人や、作家や、そのほかに日ごろはジャズを聞かない人種も「ピット・イン」に来るようになっていた。
山下トリオの記念碑的なセッション、語り草的演奏については、平岡正明、奥成達、清水俊彦らの文筆活動にくわしく論じられ描かれている。また山下洋輔自身も書いているので、くわしく知りたい人はそれらの書物を読まれるように。
と、まあそんなわけで「ジャックの豆の木」は気の合った、しかし、有名、無名を問わずに才気あふれる人々が、ごく自然に遊び、盛りあがる店となるのである。
以下は酒場的な時間、印象の強い場面は昨日のように近い現在、アルコールによって幻のように脚色された場面は予言された未来、忘れ去りたいひどい場面ははるかな過去といった時間軸で記述する。したがって、正確かどうかさえ不明な記憶の断片のなかのごくごくわずかな紹介である。
「ジャックの豆の木」に現れる人々はいずれも順不同である。
今は昔は今、アントニオ猪木とモハメド・アリが試合をしたころのことであった。その試合は、ゴングが鳴ると同時にリングのうえに仰向《あおむ》けにねころんだ猪木が、しきりにアリを挑発して、ただそれだけで終わってしまうという試合だった。見ようによっては、いやがっている男を、女がベッドに誘って、ついにだめだったような凡戦だった。
その試合があったとき、山下トリオはヨーロッパヘ演奏旅行に出ていて試合を見ることも、新聞を読むこともできなかった。とある夜、酒場の話題が「アントニオ猪木vsモハメド・アリ戦」に及んだとき、皆は山下へつまらなかった試合の内容を教えてあげた。しかし、話ではもうひとつようすがわからない。
「では」
と漫画家の高信太郎が上半身裸になり、アントニオ猪木の真似《まね》をした。アゴを強調した顔の真似がまたそっくりなのである。高信太郎は床に転がって、アントニオ猪木の動きそっくりに再現した。
それを見ていた山下洋輔は、
「なんだあ、ひどい試合だな、つまらんなあ、うーん、ひどいなあ、何がボクシング対レスリングだ、王者決定戦だ。あ、うわっ、何てひどい試合だ」
とフンガイした。
今は昔、それがどんな店かわからない五、六人の若い男の子が入ってきて、大声でわめきあって飲みだした。他人が飲んでいることを理解できない年ごろの連中だった。
あまりにひどい騒ぎ方だったので、常連客はカウンターのなかと、短く合図しあった。
そうしておいて、常連客の一人が席を立つ。
「さて帰るか、オレ、ビール二本、いくら?」
若いバーテンは、
「ええと、六千円です」
とすまし顔でいう。
「あっ、そう」
と騒いでいる連中の目の前でそれを払う。
次にもう一人が、
「オレ、いくら?」
「ボトルが入って三万二千円です」
「あっ、そう」
「オレも帰るよ、いくら?」
「一万七千円」
「オレも」
「三万七千円」
とまあ、店のようすから見れば、信じがたいほどの高い料金が次々に払われていく。
騒いでいた連中がしんと静まりかえり、青ざめ、飲みかけていたグラスをテーブルに置いてうつむく者もいる。金がたりないことを知ったのである。
一人が小声でいう。
「オ、オレたちも、帰ろうか、な、な」
額を集めて相談しあい、おそるおそる一人が訊《き》いた。
「あ、あの、おいくらでしょうか」
「お金、大丈夫?」
バーテンがすこし脅かす。
「え、あ、は、はあ」
「特別に、一人二千円」
「あ、よ、よかった、じゃあ、こ、これでね、ひひひひっ」
正規の料金を払って、うるさい連中はあたふたと帰っていった。
ひとまわりしてきた常連客が、さっきの金を返してもらったのはもちろんである。
物真似もよく流行した。
高信太郎は、春日一幸、田中角栄、ホンコンのバスガイドの王《ワン》さんなどを得意技にしていた。
三上寛は、店の客が誰一人として知らない警察学校の「岬先生(三崎かも知れない)」の物真似をした。
「そ、諸君は警察官と|す《ヽ》て、事件の現場《げんじよう》に到着|す《ヽ》た場合には、まんず、それをそのままに保つ、という責任がありますから、まつがえても現場がかわって|す《ヽ》まうような行動をとってはならないわけで|す《ヽ》て」
青森県の警察学校の先生であるから津軽弁である。
それはだれ一人知らない先生だが、そこにいた客はだれもが、「そっくり!」であることを確信できるものだった。
のちに、中村誠一にかわって山下トリオヘ参加した天才アルトサックス奏者坂田明も、田中角栄の真似をした。
かなりあとになって、私も坂田明の田中角栄を目撃している。
「ジャックの豆の木」が閉店し、そこの客の大半が四谷四丁目のバー「ホワイト」へ流れてからのことである。
酒場の雰囲気のままダジャレや、おかしいやりとりが交差するなかで、それは突然はじまる。
「まあ、かような次第で、このー、私も一億二千万日本国民の、平和と繁栄のために本日まで、及ばずながらこの努力をしてまいったものでありますが、皆さん、まあ、このー、日中の国交回復には、国民の皆さまの忌憚《きたん》のない御意見をいただきまして、今日まで、まあこのー、努力をしてまいったが、皆さん、中国がいいというわけではない。中国に日本のような中小企業がありますか? そうでしょ?」
かつて声帯模写といった、こうした芸が酒場で飛びだし、それが水準をはるかに抜くほどに際立っていることは奇跡のような現象である。
他の客から注文がつき、共産党委員長に就任した田中角栄も坂田明は演じる。
「まあ、このわが党は平和と民主主義の党として今日まで、闘ってまいったわけですが、新潟の同志をはじめ、人民の皆さまの御支持に対して、心から御礼申し上げます。まあ、しかし、このー、自民党はいまのような状態では、そのうちに独占資本主義からも、見離されますよ、そうでしょ?」
思考パターンまで核心を突く物真似はまことにスリルだった。
三上寛が演じる寺山修司の真似は思想までもとらえて放《ほう》り出す。
「ひとつの物がここにあるとしてね、この物自体へ、いわば密《ひそ》かに運びこまれた情念それ自体が物と対立しあいながら、物の投影であることを拒否しはじめるときに、はたして物が物であることの信じがたさが新たに物へ反射する情念の地平そのものにゆがみを生み落とし、情念が情念であることを拒否するきわどさがいま問題なのじゃないのか……」
客は笑い転げる。深夜の遊びが磁場のようなものを生みだして、朝までのフリーセッションが続くことになる。
第二次「ジャックの豆の木」のセッションに参加しているのは、上村一夫、『同棲時代』の原作者岡崎英生、高橋肇、赤塚不二夫、長谷邦夫、奥成達、山松勇吉、柏原卓、坂田明、小山彰太、森山威男、相倉久人、筒井康隆、筧悟、奥成繁、そのほかその友人たちおよそ百四、五十人であったろうか。
突然発生し、育っていく言葉遊びも出た。
ハナモゲラ語の発生は昭和五十一年二月、作家の河野典生宅の新築祝いのパーティーの席上であった。この日、集まったのは山下洋輔、小山彰太、坂田明、ジェラルド・大下、奥成達、平岡正明などの面々であったという。しばらく遊び、河野典生と坂田明がチェイスをはじめた。河野典生はカラスの鳴き声そっくりの笛を吹き、坂田は竹笛を吹き、盛りあがった。
その頂点で、
「アカサタコメハラソ! マカサネヤカモケラ!」
などと坂田明がわめきだしたのである。
坂田明の魂の叫びはとまらず、小田急線に乗って新宿に着いても、階段で、地下道で、路上で続いたという。ドラムの小山彰太も、山下洋輔も笑い転げ、実存を感じるほどに腹の皮がよじれたと伝えられる。
以上のようなパワーとのびのびしたデタラメさと、才気と面白いことに素直な人の輪のなかに異才タモリが存在していたのだった。
もちろん博多で喫茶店のマスターをしていたタモリが上京するのは、ハナモゲラ発生より数年早い。
昭和四十七年、博多での演奏が終わり、ホテルの部屋で遊んでいた、山下、森山、中村の宴会に、ほかの用事でホテルへきていた森田一義という人物が「こいつらは何て俺《おれ》と同じように遊ぶんだろう」と思って乱入してからのことであった。
中村誠一が韓国語で、
「オマエハだれダ?」
と訊いた。
もちろんデタラメの韓国語であった。
するとその乱入者は、中村以上に見事なデタラメの韓国語で自己紹介した。類は友を呼ぶ。その感覚がぴしゃりと一致してしまったのである。
バンドマンは何でもさかさまにして口にする。
森田は「タモリ」と呼ばれた。あとで真面目《まじめ》に自己紹介したところによれば、早大のモダンジャズ研究会にいたことのある人間だったのである。
タモリは、韓国語をはじめ、タイ語、フィリピンのタガログ語、中国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語と、何でもデタラメにしゃべってしまう。音声の特徴をすぐさまつかまえてしまうのである。
その夜、四人は子どもがいきなりうちとけてしまうように遊び、タモリといきなり親友になってしまったのである。次の演奏地は別府だった。タモリはそれに同行して遊んだ。天才が天才を瞬時に知ったというようにも見えるし、ただ単にもっと遊んでいたかったのかも知れない。
そののち、山下洋輔は東京の友人たちにタモリを紹介したくなって新幹線の旅費を送って招待する。
「ジャックの豆の木」にたむろする面白いことには敏感な面々がこの天才を歓迎したのはもちろんである。山下洋輔はタモリをプロモートしようとして、マネージャー役まで買って出た。
設立されたプロダクションはオフィス「ゴスミダ」だった。韓国語の音感そのものの名前である。高信太郎が才能に驚き、赤塚不二夫がすっかり心酔した。赤塚不二夫はタモリを自分の家に引きとった。
こうして夕刻七時すぎ、タモリは「ジャックの豆の木」に現れて遊び仲間を待つことになる。
外国語の物真似に笑いながら、友人たちは注文を出す。
「その外国人たちがマージャンをやったら?」
タモリは練習でそれをものにするのではなく、その場のインスピレーションで演じる。それがドンピシャリにおかしい。友人たちはぶっとんで笑い、次々にアイデアを出した。
中国人のターザンは? 国連総会での中国代表と、台湾代表の交代のシーン、NHKのアナウンサーの真似、浮気を弁解する大学教授、ガラパゴス島のイグアナ、もっと強烈な毒をもった注文も出た。とてもここには書けない危険な設定のほうが多かった。
たとえばLPにも収録された「四ヵ国マージャン」では、喧嘩《けんか》になったマージャン卓の仲裁に登場する人物は寺山修司だが「ジャックの豆の木」でのオリジナルは天皇がおもむろに仲裁してくださるのであった。初期のタモリは危険な密室芸の天才だったのである。
タモリはおつにすました権威や、たてまえだけのヒューマニズムをこてんぱんにカルカチュアした。
とりわけ、人権にまつわるタブーを痛烈なまでにこきおろすのだった。
くり返すが、その例証をあげれば、それだけで記述者も危険を冒すことになるので、ここにあげるわけにはいかない。
タモリの一枚目のLPは、そのおかげで、レコ倫にひっかかって発禁となり、手なおしをしてやっと日の目を見るありさまだった。
批判精神に裏打ちされた面白さは、仲間うちの旅行などでもごく自然に発揮された。
貸し切りバスに乗れば、マイクをにぎり、観光ガイドの型どおりの、例のアナウンスが餌食《えじき》になった。
「むこうに見える湖は寛元三年、関東一帯を襲った大地震により一夜にして生まれた湖で、遠く、三所攻《みどころぜめ》山から流れる三つの川、白糸、銀明、姫衣《ひめごろも》をあわせて、その水をたたえ、大津の宮五条院別当、のちの右大臣源頼長の詠める、
あわせ技、姫の衣の車掛け、三所攻めに花ぞ散るらむ
の歌にあるとおり、風光明媚《ふうこうめいび》にして、しかもめくり簓《ささら》、横断三百里、うどん編み次の間つきの湖として広く知られるところでございます」
などとやるのだった。
右のような観光案内がすべて、その場の即興、デタラメなのだから、それはむしろジャズだといってさしつかえなかった。
「ジャックの豆の木」には、インプロビゼーション、あるいは人格的セッションのたくみな連中がたむろして、タモリを受け入れる遊びが用意されており、そうした人々と出逢《であ》ったことで、タモリはいよいよもって帆立貝(山下洋輔トリオの慣用語、意味は不明)となっていったのである。
以下にあげる言葉遊びの例は必ずしも「ジャックの豆の木」でのものではないし、発生した時期も前後している。しかし、「ジャックの豆の木」に集まっていた人々の輪のなかで、意図するところなく自然に交わされた言葉である。
坂田明はテーブルのうえの醤油差《しようゆさ》しを怒るのだった。
「ん? なんだ? そこにそうしておって、いかにもそうしていていいという、自分についての何の疑問も抱かないで、そうしておる! それがもう通用せんということをいつになったらわかるんだ? またそのような少しばかりの、なさけない自尊心にこだわってそうしておる! 何の進歩もない、昨日もそうしていたくせにまた今日もそうしているということに、どんな意味があるか! こうすればたしかに醤油が出る、だからといって自覚もなしにいつまでもそこに在っていいのか悪いのか! おろかものめ!」
ひところ、「一寸の虫にも五分の利息」とか「湯島通れば道理引っ込む」といった、出典があるのかないのか、ことわざも流行した。
山下洋輔は、ある年の十二月、いまは地上から消えた浅草国際劇場で五時間も浪曲を聞き、ふらふらになって劇場を出たあと、不意に、
「年の瀬を集めて早し最上川」
などという一句を詠んでしまったりした。
またレコーディングのために缶詰になっていたあと、酒場に現れた山下洋輔は、ビールを注文するときに、
「ベーレをいただこう」
といった。
江戸っ子が「鯛《たい》」を「てえ」というようにビールを「ベーレ」といったのである。
山下の分析によれば、江戸っ子が鯛を「てえ」という場合、下意識には江戸文化を多分に意識した気取りがあるのである。
したがって、
「べーレ」
というのには|おつ《ヽヽ》に気取った気分が乗っているわけだった。
すぐに、
「塩メメをくんねえ」
と気取った奴《やつ》が出てきた。
「ゼレセベがくいてえ」
というのはザルソバである。
「ネレネケのゼレセベはほとんどエエメレのメレセベでえ」
と気取りに気取った講釈を翻訳すると、
「ノリ抜きのザルソバはほとんど大盛りのモリソバである」
というスコラ哲学的思弁なのだった。
常連の一人、詩人奥成達の人物観察によれば、日常生活で細かなことにうるさい人はスケベという公式が成り立つという。帳簿にいちいち細かくうるさい人物、格式にうるさい人物、礼儀作法にうるさい人物、味にうるさい、好みにうるさい、そうした性格の傾きのある人物はスケベなのである。
真理を突いていると皆がうなずいた。
すなわち、うるさいということはスケベなのである。したがって、うるさいとスケベは同じ意味となった。
「そういえば、いまわが家の隣がスケベなんだよ改築中で」
「うちの隣は親子喧嘩がスケベで困る」
「新宿駅のアナウンスがスケベで、ありゃあなんとかならないのかね」
「ああいうものはスケベでないとわからない人もいるんですよ」
「ここのママもスケベだよ。ツケが一万円超えたらもうスケベで、スケベで話にならんぜ」
「え? 帰るの? 奥さんがスケベ?」
「ここんとこスケベ、一日おきぐらいにスケベだ」
「女房のスケベだけはどうにもならんな」
「できたら次の女房はスケベなのはやめるよ」
「あっちがスケベなら、こっちもスケベしてやればいいじゃないか」
「スケベの持続力が違うもんね。こっちが負けるよ。あ、ほんとにスケベがこわくなったから帰るよ」
知らずに聞いていたら、ずいぶんな会話だが、何かひとつの遊びが生まれれば、それだけで笑いが笑いを呼んで渦をまくのである。
妙に深刻に追求される夜もある。
「ゲイにも名器はあるんだろうか」
「名器って?」
「バックのさ、カズノコ肛門《こうもん》とか」
「うひゃあ!」
「ギョウ虫千匹とか」
「きゃひー」
「サナダ虫締めとか」
「たははは」
人の名前が形容詞的に使われることもあった。
気取りやで、傲慢《ごうまん》で、金に汚く、評判ばかり気にして、酒ぐせが悪く、約束を守らず、どこでもだれでも口説き、寝れば必ず妊娠させるようなどうにもならない男がいるとする。仮にそいつの名前を筵旗《むしろばた》だとすると、
「いったいあいつは、とどのつまりどういう男なんだ?」
と定義しようとして、詐欺師とも、酒乱とも、我《わ》がまま男とも、女狂いとも、ひと言でいうことができなくなり、
「とどのつまりあいつは|筵旗な《ヽヽヽ》男なんだよね」と、定義されるのである。
「ああいうこと全部が|筵旗な《ヽヽヽ》現象なんだよ」
「そうそう、|筵旗な《ヽヽヽ》男だといえばぴったりだよな。|筵旗な《ヽヽヽ》ひどさといっていいね」
「そういえばさ、先日東名高速でタイヤが筵旗しちゃってさ」
「そりゃあひどいなあ、スケジュール全部筵旗になったの?」
「最悪の筵旗で、ギャラは筵旗だわ、ホテルに待たせといたナオンは|筵旗な《ヽヽヽ》ゲルニ(逃げる)するわ、頭に来て家に帰ってからカミさんとはじめるわでひどい|筵旗な《ヽヽヽ》一日」
「あれっ! このコップ汚れてて筵旗だな」
「灰皿も筵旗になってるからかえて」
こんな会話がはじまったら、ヤバイ、ヒドイ、汚い、気分が悪い、頭に来る、落ち込む、こわれる、など、悪い意味の形容が全部|筵旗な《ヽヽヽ》、という言葉ひとつで済まされるのだった。
筵旗本人には悪いが、汚れた灰皿、などというよりも、|筵旗な《ヽヽヽ》灰皿、といったほうが何倍も事柄が新鮮で生き生きしてくるように感じておかしくなるのだから、いいあいながら笑い転げることになる。
こうした遊びの夜がタモリ上京の前から毎夜営まれていた。タモリはそのなかで自分自身も楽しみ、はじめは高信太郎のやっていたオールナイトニッポンにゲストで出演し、放送作家高平哲郎らがバックアップして、せんだみつお、和田アキ子、デストロイヤーなどで人気抜群だったテレビ番組「うわさのチャンネル」にレギュラー出演する。
あとはもう、御案内のとおり、「ジャックの豆の木」の夜から発生したギャグの天才が一気に天翔《あまか》けていく。
詩人奥成達も言語感覚に新鮮な毒をもった天才である。
ひところ流行語だった、
「ほとんど病気」
というイデオム(?)の発生源は奥成達という説が周辺では公認されている。
何かへの執着、極端に傾いた性癖、非常識な行動パターンなどを称して、
「あ、あれはほとんど病気」
というのである。
一人のジャズメンへののめり込み、無茶苦茶な女出入り、どうしようもないだらしなさ、しかし、その性癖や行動パターンに、何かしらのっぴきならない切実さが宿っているような場合、優しさと皮肉と、つまりは照れずにいえる愛情をこめて、
「あの人も、ほとんど病気だねえ」
といって奥成は笑う。
筵旗のように救いようのない嫌味な男にはこのような言葉は使われない。傾きを持つ人間同士のつきあいが素敵なのだという思想さえも奥成の「ほとんど病気」にはこめられていた。
しかし、このように現実の人間関係に裏打ちされた響きのいい語感は、巷《ちまた》をめぐり、回流し、テレビに登場したときには、すっかり干からびて、ただ単に「変なこと」一般に対応する言葉となって流れ行き死んでしまったのである。
また、「根が暗い」という流行語も発生源は奥成達であるといえる。
それは私たちの日常をさっとめくり、暗さをうちに秘めてしか明るく振るまえない深層を示す語感で使われていたのである。
「根が暗い」とは、だれにでもあてはまるフランクな人間理解を、観念が固着しない方向へ軽く放《ほう》りだした言葉だった。
奥成達が感動した才能のいくたりか、たとえば浅川マキや三上寛が握りしめて放さない輝く闇《やみ》の表象に対して「根が暗い」というのは「桜」を桜だというほどに無意味である。
いわば「根が暗い」とは時代の表層をひとめくりしながら、それをたいそうな観念だとする作意さえも嫌う感性が、鮮やかにとらえた状況の本質なのだった。
「ジャックの豆の木」の周辺では、口には出さねど、こうした言葉の構造は理解されていた。だが、この言葉も巷に流れ、ひからび、単に人格評価の言葉になって流行すると、本来がだれの深層にでもあてはまる意味を持っていたがために、脅迫めいた力を帯びてくる。あたかも内申書のかなり上位の評価項目のように流布したのは、それだけ私たちだれもが、胸のうちに暗部を持っているというごくあたり前の法則のせいであったが、「根が暗い」人間はダメという無原則強迫心理によって、こんどは必死に明るく振るまうという切実な明るさ競争心理が二項対立のように発生したのである。
この大衆心理の浮き具合はどうしたものであろう。
「ほとんど病気」といい「根が暗い」といい、いずれにしろ生身の人間が人格的に相互乗り入れをし、生身のつきあいのなかで変化していく契機を得て、さらに生きていくというごくあたり前の人間づきあいの場で流通していれば、何の強迫心理も呼ぶことはない言葉なのである。
しかるに「暗い」か「明るい」かは、この人間づきあいの乏しい感性の海で、馬鹿《ばか》げた二項対立の価値観のように装って人を脅かすことになった。
くり返すが、酒場とはそのつきあいの“場”そのものである。男は生身の女へむかって必死で口説かなければならず、そんなところでは生身の自分を豊かにしていくしかないのである。女もまたよく自分を鍛え、男どものあの手この手のなかに表現されている一抹の真理をつかみ、ぐいと本性をたぐりだして男を把握するのが、人づきあいの“場”のルールとなる。
男同士も、女同士もとどのつまりは同様なのだ。
だが、カラオケバーでは拡声された声が虚《うつ》ろに会話を封じる。客単価と回転率に追われている酒場には、酔いがたゆとうゆとりが乏しくなって久しい。
黄金のバッカスの夜を夜ごと生みだしていた第二次「ジャックの豆の木」もスタッフの事情で閉店することになる。
昭和五十二年六月のことである。酒場もまた天、地、人の理のなかで成立し、消える運命にある、と知るしかないのだった。
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第六章 文学バーの夜ごとの宴
その後、この「ジャックの豆の木」という名前は、歓楽街の地下水脈に沈んだ。経営者の柏原テルは、職安通り近くで「レモン」、柳街で「らくみ」、ヤシオ会館で「花冠《はなかんむり》」、その同じビルの一階に「ごや」、さらに第二次「れもん」をジャストビルに開店する。
歌舞伎町の人の流れ、気分の変化を追って変幻する酒場群の移ろいは、そのままでひとつの歴史を編むことになり、やがて第三次「ジャックの豆の木」が開店されて今日に至る。
この間に、いったいどれほどのエピソードが生み落とされたのか。酒場のマダム一人を追っただけで曲折に富む人生劇場が演じられていることにいまさらながら驚くけれども、歓楽の巷《ちまた》では、おそらく、この惑星に生命が発生したころに負けないほどのエピソード、脈絡のない出逢《であ》い、終わりのない欲望、勝手な思い込みが生まれ、異種交配がくり返されており、その巨大なエネルギーにこそ、私たちはもっと驚くべきなのかも知れない。
誰《だれ》もが、何も意図することなく、酒場で夜ごとのありふれた「夜」を過ごすことの豊饒《ほうじよう》さは、たぶん私たちの「心」のありようを示して曼陀羅《まんだら》を描きだし、文化そのものの構造をも示しているはずだが、この豊饒さそれ自体は、生命発生以前の混沌《こんとん》のスープと同様、容易に手づかみにするわけにはいかず、そのなかで生み落とされたものの発生の機序を追うことさえ困難である。人はあらゆる理由で酒を飲み、また何の理由もなく酒を飲むのだから、酒場にうっかり因果律を持ち込んだところで原因と結果がむやみとまぜこぜなスープに対面するしかないことになるのだった。
そのなかで、うっすらと見えてくるのは、星雲状の星の輝きのなかで超新星の爆発のように一瞬、光芒《こうぼう》を放つ酒場が出現するという結果的な認識だけかも知れないのである。
そのひとつが「カヌー」だった。
いったいどんな人々が夜ごとそこにたむろしたのか、いまランダムにあげてみよう。
田村隆一、長部日出雄、埴谷雄高、塩田丸男、矢牧一宏、北原武夫、矢内原伊作、安岡章太郎、野坂昭如、田辺茂一、浦山桐郎、中村真一郎、栗田勇、野村万之丞、白井健三郎、篠田一士、松山俊太郎、大島渚、種村季弘、小松方正、石堂淑朗、渡辺文雄、林寿郎、佐藤慶、岡本潤、戸浦六宏、佐藤重臣、渡辺武信、黒木和雄、関根弘、粟津則雄、秋山駿、三島由紀夫、後藤明生、綱淵謙錠、梶山季之、松田政男、色川武大、澁澤龍彦、丸尾長顕、平野謙、深沢七郎、野間宏、久里洋二、大岡昇平、井上光晴、高橋和巳、黒川紀章、武田泰淳、そのほか有名無名、老若男女、編集者やルポライターや役者や、革命家や、ついに正体不明の人物もこの小さなバーに顔を出していたのだという。
文学バーというよりも結果的にいえばひとつの時代、文化そのものがここに登場していた。
この人々のあとからやってきた私などの世代から見れば、どの一人にしてもおっかない連中、名前を聞いただけで、心なしひるんでしまうような天才たちの群れが「カヌー」を中心に夜の新宿を回遊していたのである。
「カヌー」の開店は昭和三十四年で、閉店が昭和四十年。たった六年間のにぎやかな夜、酔っぱらいたちの熱い視線を受けとめていたのは、開店時二十六歳の若きマダム関根庸子だった。
その関根自身が森泉笙子の名で『新宿の夜はキャラ色』を書いている。これは「カヌー」で起きたことを記述していながら、カウンターの内側にいる人間から眺めたさまざまな人間模様の本質をめぐる「小説」としても自立した作品である。
その関根庸子に会うことができた。
会ったところは新宿三丁目のバー「カプリコン」。その店を経営している人物は、もとカヌーのバーテン、『新宿の夜はキャラ色』の作中では謙ちゃんとされ、野坂昭如の自伝的酒場放浪編『新宿海溝』では「健ちゃん」と記されている関根の古くからの親友なのだった。
私は愚直な質問からインタビューをはじめた。
――当時二十六歳の女性でバーをやるとなると、とてもいまのような軽い決断ではないと思うのですけれど。
「うん、そうねえ、でも、やはり私たちの世代には、親の生活をしっかり見てやらなければならないという思いが強かったのね。私は五人兄弟の末っ子で長女、兄四人がみな若くして亡くなっていて、長女で末っ子の私が親の老後を見るんだと、中学のときから考えていたのよ。その一念で一度しっかり働いて、親を安心させ、そのうえで自分の結婚を考えようとしていたんです。だからバーをやるということの本音は、とても素直な、健気《けなげ》な動機だったといえるかも知れない」
髪を短めに、うすい化粧、うるみがちな黒い瞳《ひとみ》がこちらを見つめる。
彼女について埴谷雄高は『新宿の夜はキャラ色』の跋文《ばつぶん》で次のように書いている。
「たまに寄るだけの客であった私が、『よく通う客』ヘ転化したのは、何気なく述べた彼女の少女時代の想い出を聞いている裡に、不意とナスターシャ・フィリッポヴナの遠い肖像を私が連想したからである。後年、その私の連想を聞いた彼女は、それは埴谷さんだけの大げさで勝手な思い込みで、私とは大違い、ときっぱりいったが、私自身の暗い頭蓋の隅には、十九世紀の遠いナスターシャ・フィリッポヴナの肖像が彼女の上に重なったのである」
この跋文をあらかじめ読んでいた私は、ドストエフスキーの『白痴』のヒロイン、ムイシュキンの無垢の精神と、ラゴージンの肉体のあいだを揺れながら引き裂かれ、ついには自死するナスターシャ・フィリッポヴナの愛の平行四辺形的女性像を胸に描いて実物の関根庸子と対面していた。
それについて埴谷雄高の文章をさらに引用する。
「ナスターシャ・フィリッポヴナは、その家が焼失して、父も妹も死亡し、『物心』ついたかつかぬ十六歳で地主トーツキィの『妾』にされ、その後のナスターシャの私が感おくあたわざる真実の『自覚史』は、ムイシュキンの魂とラゴージンの肉体のあいだを、『それらのともに満たされず』、絶えざる往復運動を繰返すことによって、数段、また、数段とひたすら悲劇の深淵へ向って『向上』し、『成長』しつづけたことである」
そのようなドストエフスキーの作中の女性像と重なるバーのマダム。すでにして、この一文によって、彼女と彼女を見るかつての天才たちの視線と、酒場の暗がりの色あいがわかるようなバー「カヌー」に青春の後半を費やして微笑《ほほえ》んでいた一人の女。
インタビュアーの先入主というものは、このような人物を前にした場合、途方もなくふくらむことがあって、私はその埴谷雄高の描く肖像画としての彼女をしばらく眺めていたい気持ちになっていた。
超新星の光芒のような輝きを、たった六年間放った酒場へ至る経路とはどのようなドラマだろうか。人はどんな人生を歩んでもいい可能性のなかに放《ほう》りだされているけれども、リアリズムでいえば人間が現実のなかで選択できる幅は、無限の可能性にしてはいやに小さく、細かなしがらみの網目をたどるようにしか生きられないことも一面の真理なのだ。
関根庸子は、バー「カヌー」を経営する前は日劇ミュージックホールのトップダンサーだった。さらにその前は、朱里エイコの母親朱里みさをが率いる旅の舞踊団の座員であった。
現実のストーリーもどうして「感おくあたわざる」の展開を示し、彼女のインタビューが続いた。
「東京の上中里に生まれたのよ。もう、年齢も本名も明らかになっているからかまいませんよ。昭和八年十一月九日生まれ。お話ししたように、北区の武蔵野高等女学校に入学したころから、なんとか稼がなければいけないと考えていた少女だったわけ」
学校とはいっても、空襲をあびて、校舎の形だけが残る女学校であった。コンクリートの残骸《ざんがい》の残る校舎で、はじめは跡片づけから関根庸子の思春期、女学校時代がはじまる。
価値観が崩壊してしまった敗戦後の混乱のなかで、しかし、一家を養わなければ、という責任がひたひたと彼女をせきたてていた。
「でも、子どもでしょ? どうして稼ぐかといってもそんなに方法はないわよね。ダンスを習っていたので踊り子になろうと思ったのは、それがわかりよかったからじゃないのかな」
で、浅草の公園劇場のオーディションを受けたところ、いきなりその場で舞台に出るようなことになる。
「私のほうが驚いたけれど、もう一種の夢中なんでしょうね。そこから編成された舞踊団に入って巡業してまわることになったわけ」
その舞台はちょっとしたドラマ仕立ての構成だった。なんとその舞台の作・構成・演出をしているのが宮城まり子の弟の宮城秀雄、当時は宮城まり子の兄として紹介されていた人物である。振付は朱里みさをがやっていた。
「胸を出すダンサーではなかったの。胸を出すお姉さんはほかにいて、それも一枚一枚脱いでいくストリップティーズのような舞台ではなかった。ミュージカル仕立ての舞台」
これを振り出しにし、転じて日劇ダンシングチームヘ入る。さらにそこで十人ほどの特別チーム「ビューティーズ」が編成され、そのメンバーとして五階にあった日劇ミュージックホールヘ出演する。
レビュー華やかなりしころ。深沢七郎の『千秋楽』に描かれている時代の楽屋生活。
「あのステージの丸く出たセンターで、ソロをとって踊ったものよ」
若者たちに人気になっているトニー谷がブロークンイングリッシュで人気を勝ち得たのち、ビンボー・ダナオがソロシンガーで歌っており、日劇ミュージックホールは、一躍脚光をあびていた。
「裸」がいま以上に光り輝いていたころの日劇ミュージックホールは、戦後文化のいくつかの光源のなかでもとりわけミラーボール状に光を発射しており、日劇や浅草国際がレビューの本山だとすれば奥の院のような位置にあったころである。
その時代に、さらに関根庸子は「踊り子の告白」をする。
「私は宿命に唾をかけたい」という連載を『女性自身』誌上でやってのけたのである。
ライトをあびた踊り子は、ドガやロートレックを持ち出すまでもなく、男の性的イリュージョンにとって、イリュージョンはもとより健全なイメージにとって、トルソー的解剖学的知的欲求にとって、人さらい的曲馬団的幻想物語モデルとして、アルカイックな微笑の心理分析の対象としても、これほど幻妙で美しい存在はない。
その現代の巫女《みこ》が、そのうえ赤裸々な告白をしたのだから、男どもは単行本になったとき争って買い『私は宿命に唾をかけたい』はたちまちベストセラーになった。
「あれは、当時、王さまのようにミュージックホールに君臨していた丸尾長顕さんがいろいろと段どりをして、お話もかなり脚色したものだったんですね。その印税がカヌーの開店資金になった、というわけなんです」
カヌーでは彼女は芸名の「関根庸子」で通している。本名は別だがそれは永遠の秘密としておこう。
どんな店であったかは、野坂昭如が『新宿海溝』に書いている。
「右に厚生年金会館の建物、左に成覚寺がある。寺のさきの、道を入ればすなわち仲之町と以前、街灯にしるされていた特飲街の中央道、この通りに面して、吉原のような大籬《おおまがき》はなく、娼家よりもふつうの店屋の方が目立っていたように思える。角に黄色っぽい壁の、喫茶店があり、モダンジャズを専ら聴かせるキーヨ、道に入って、すぐ左の小路の左側に『カヌー』がある。(中略)新宿にはもう珍しくなったバラック建て、入口こそ戸障子ではなくドアだが、まず和田組の飲み屋に毛の生えた構えなのだ。秋のさなかであった、陽が落ちてすぐカヌーヘ足を踏み入れた。赤いタイツをはいた大柄な女が、カウンターに沿ってならべられた椅子に乗り、天井の切れた電球をとり替えていた」
よほど印象深いのであろう、野坂は、主人公保坂の視線で書き「庸子」の容貌《ようぼう》については、
「たしかに色が白く、上瞼やや腫れぼったいが、眼そのものは大きい、声は少し鼻にかかったアルト」
と書いている。
インタビューがそのあたりにさしかかり、本人のマダムの口から客たちの酔っぱらいぶりに話が移ろうとしていたところへ、何とさきほど引用した埴谷雄高が、私たちのテーブルに出現した。
ところで、さて、私にとっての埴谷雄高とは、江古田の学生のころ、何の先入観もなく無知そのままに『幻視のなかの政治』を読んでしまって以来、魂がひっとらえられるとはこのことかと思いつつ、さらには埴谷式思考の底のない無限軌道から降りようとして降りられず、物書きのはしくれのはしくれに加わった今日までの大尊敬の作家なのであり、このような場面では、かけだしの物書きならはるかな巨峰を目のあたりにして誰もがするように「あ、は、は、埴谷さん」とだけ声をだして悶絶《もんぜつ》しかけたのだった。したがって、こののちインタビューには埴谷雄高の声もわずかながら加わることになる。
その夜のカプリコンは静かだった。
私たちのほかには、二組の客、五、六人が奥のボックス席についているだけで、おさえた音量のボサ・ノバが、酒場のほの暗さととけあい、それよりなおひそやかな会話がかすかな気配で流れていた。
店のなかはあたたかな闇《やみ》につつまれていた。テーブルのロウソクが揺らめき、店の底にうずくまる闇に、 灯《ともしび》の数の分だけ光の波紋が浮かんでいる。
そのたゆとう闇のなかに、不意と埴谷雄高が立ち現れたわけである。
日本の精神史のなかで、まったく先行者を持たず、自らの思考に導かれるままに孤絶した世界を形成し、その観念の重量をこの宇宙的全存在、宇宙創成のビッグバンから果てなき未来の全重量へと拮抗《きつこう》させる強靱《きようじん》な作家意志の持続者は、おだやかに、何気なく、ふわりと腰を下ろした。
「あ、は、は、埴谷さん」
と私は背骨が順番に鳴る速度にあわせてすっとんきょうな声を発し、起立、礼!のように頭を下げたのだった。
ただ、私のへどもどの原因とは、埴谷雄高の作品を読み続けた江古田の学生のころの青春と重なりあう、多分に甘ずっぱい味のするうろたえだった。
この夜、埴谷雄高がカプリコンに現れたわけは、関根庸子が私の取材のアポイントメントを受けたのち、電話で「ちょっと相談」したためで、「では、顔を出してみようか」と出かけてきたからなのだそうだ。
埴谷雄高はカヌーのマダムの古くからの相談相手なのだった。
「この『新宿の夜はキャラ色』で描かれているごとく、バー時代、しばしば、私は彼女の同行者であるが、バーをやめたあとも、男の子と女の子の教育、夫君の店の拡張、父と母の入院、そしてまた、彼女の執筆に及ぶすべての相談役をつづけ、そして、ここに、こうした跋文《ばつぶん》を書くことにもなったのである」
と埴谷自身が書くとおり、この夜は相談役として登場し、かつ、久しぶりに新宿の夜を過ごしたいと考えたのかも知れなかった。
この二十年、埴谷宇宙の中心域を形成する大作『死霊』の執筆に、再び全精力を注いでいる埴谷雄高を前にして、私は少しばかり自分のポジションを忘れ、己を語ってしまった。私が『死霊』のほんのはじまりの何章かを読んでいた時期が、カヌーの時代と重なっているのであった。あとからこの世に登場する者にとって、前の時代があこがれの時代に映ることはしばしばである。
そのあこがれそのものはたわいもない。たとえば、埴谷雄高の対談を数多く読んでいて、そんな口癖がないことを知っていながら、「あの人は日常の会話でも、きっと『ぷふい』というに違いない」といった水準のファン心理である。
野球でいえば、長嶋茂雄にあこがれた少年が、しきりに長嶋のバットスイングを真似《まね》するように、つたないまでも文体を似せようとして支離滅裂になったこともある。文体だけなら軽症で、苛酷《かこく》な昭和史のなかに生き、埴谷雄高がついに存在の革命をも夢想するところまで想念を引きのばしにのばして自己をつなぎとめた営みの意味を把握できずに、埴谷の精神の素振りだけを真似れば、ヘタをすると自滅する恐れがあった。
たわいもないファン心理ではあるが、その対象に選べば危険な作家が、私たちにとっての埴谷雄高なのだった。
私があわてぎみに以上のようなことを脈絡もなく申し述べると、横でカヌーのマダムが、
「まあ、埴谷さんの愛読者なんですね」
と微笑《ほほえ》み、埴谷はビールのグラスにひと口つけてから優しい眼《め》でいった。
「それじゃあ、あなたはなかなか売れる作家にはなりにくいでしょうね」
――はあ、まったく困った、いやいや、そんなことで物を書いていくつもりはありませんですが、あ、違います。売れたほうがよいのですが、埴谷さんをたくさん読んだ以上、困ったことに、いえ、当然のことに、しかし、埴谷文学とノンフィクションなんて、どんな脈絡でそうなったのかな、いえ、あの、ほんとにお会いできて光栄です。
まったく、私は十分に甘えつつ、しどろもどろとなっていた。
こんな場合、埴谷雄高は優しい。
「これからはあまり(私を)読まなければいいんです」
とにこにこしている。
私は気をとりなおして、本稿の主題に添う質問へもどった。
――芸術家バー、文学バーというのはいったいどうしたわけで発生するのでしょうか。あとから眺める世代にとって、一ヵ所に期せずして才能が集結するというのは不思議に思えます。すでに一家をなした人々がサロンふうに集まるというのならわかりますが、のちに世に出る人々が期せずしてわいわい集まってくる――。
「偶然に集まっていたら、そのなかのほとんどの才能がのちに世に出ることになった、その場に次の時代の精神が未分化のまま吸い寄せられてしまったという理解でもいいのでしょうが、現実には、各出版社の編集者が担当している作家を連れて行くのですね。それをきっかけにして、作家は友人や他の編集者を連れて飲みに行くことになり、わりあいごく自然な人のつながりで一ヵ所に集まりだす。僕の場合は当時河出書房の坂本一亀君が連れて行ったのがはじまり。編集者は仕事としてさまざまな才能とつきあいがありますから、そのうち酒場の水にあう人が常連になる。すると、あそこへ行けば『誰《だれ》か』に会えるだろうというので、また人が集まってくる。だいたいどこでもそんなふうでしたね」
『新宿の夜はキャラ色』によれば、初期のカヌーに埴谷を連れてきた“功労者”の一人が坂本一亀ということになる。河出書房にあって、戦後文学史に多大な功績を残す名編集者である。
開店のころ、カヌーがすぐに客ではちきれるように繁盛したわけではなかった。客が一人も来ない夜が月に何度かあった。坂本一亀がたった一人でカウンターについて、たぶんそんな場合の一人の客は、帰るに帰れず、彼も誰かやって来ないものかと思って飲んでいたのかも知れない。
そのころ、東京オリンピックの開催にそなえて、酒場は変テコな法律にしばられていた。カウンターでは、客の隣にホステスが腰をかけてサービスしてはならないというのである。外国人がたくさんやってくるので、急に風紀を気にした法律(あるいは都条例か)であった。考えてみれば滑稽《こつけい》な条文である。ホステスが客の隣に座るといけないことをすると決めつけるあたり、底意はどうにも下品。
その夜、ごく自然にカヌーのマダムとホステスのカコとの二人は、坂本一亀の両隣に座って、とりとめのない酒場の会話を交わしていた。すると新しい客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
と振りむけば、警察官。
かくてマダムは四谷署に連行されたという。
ちなみに、このとき一人で飲んでいた坂本一亀の息子がいまをときめくミュージシャンの坂本龍一である。
夜九時を過ぎてカプリコンが混《こ》んできた。
私はふと、いつも行くゴールデン街のスタンドバー「銀河系」に映画評論家松田政男がいるのではないかと思った。カヌーの時代からのはるかな歳月のなかで、当時カヌーに顔を見せていた人々のうち、いまこのときにその時代を共有している人を、新宿のどこかで探そうとすれば、私の乏しい行動半径では、まず「銀河系」の松田政男であった。
――行ってみましょうか。松田さんが飲んでいるかも知れません。いや、きっと今夜あたり「銀河系」です。
「そうですね。移動しましょうか」
私たちはタクシーで移動した。何がなし私には感慨が浮かぶ。きっとあのころ、あれだけの作家や、音楽家や、美術家や、能役者や売れないルポライターや、映画監督や、俳優や、興が乗ればはらりと胸を見せるホステスや、評論家や、革命家や、詩人や、画家や、デザイナーや、歌手や、指揮者たちの群れは、夜ごとの行動をこんなふうにしたのであろう。あそこに、あの人が、いるとは思わないか? それなら行ってみようか。回遊路のなかに点滅するいくつかの酒場の灯。
埴谷は書く。
「嘗て、その多くが鎌倉乃至湘南に住んでいた旧『文學界』組、小林秀雄から大岡昇平にいたるまでは、銀座の酒場や飲屋で『成長』したのであるが、第一次戦後派と総称されるひとびとにはじまる戦後文学者達は、銀座より『品格』が劣ってしかも混沌《こんとん》鬱勃《うつぼつ》雑然《ざつぜん》たるエネルギーを内包した新宿で『成長』することになったのである」
タクシーは新田裏から花見通り方面へまわり込み、四季の道の出口のあたりにとまった。
歌舞伎町の灯は混沌鬱勃雑然ふうに、いやそれ以上に明るく輝いてはいた。しかし、いよいよ、人間同士の人格的交流はカラオケのがなり声にさえぎられて、よほどうすめられていやしないか。
ちらりとそんなことを想《おも》いながら、ゴールデン街の路地のひとつをまがり「銀河系」のドアをあける。
超満員。わいわいがやがや、いっひっひっの声がドアからあふれ出てくる。
混沌鬱勃雑然がとぐろを巻き、そのカウンターの一番奥に松田政男、さらに右手から知った顔がこちらに手を振っている。あ、喜安さん(「ジャックの豆の木」のころからの酒場街常連の年上の友人)なんていってる間に、埴谷は松田政男を見つけて、奥行き十メートルもない店の奥へ進む。
誰かが席をあけてくれた。私たちはカウンターにぞろりと並んだのである。
「彼は今夜、なかなかカンがよくて、ここに松田君がいるはずだというのでね」
と埴谷がいう。
松田政男、埴谷雄高、私、関根庸子と並んだうちで、私をのぞけば、その一画はかつてのカヌーの夜のあり得る光景のひとつということになる。
「どうもしばらくです」
と松田政男が答えるうちに、二人の間にはすでに、ごく自然に、しかし、かなり落ち着いた混沌鬱勃雑然の気配が漂いだすのである。
「埴谷さんはほんとに変わらないのね」
と関根庸子が水割りのグラスを口に運びながらいい、続けた。
「相談相手にしちゃって、ちょっと申しわけないと思うんですけど……」
――でも、ほかのお客さんは、みんなマダムを口説いたそうですね。
カヌーのマダムは困ったようにかすかに笑う。
「そうなんです。もう皆さん一度はそういうことをおっしゃった。みんな口説いたわ」
――うーむ。才能が才能を呼び、酒場が文化の震源地となるなんてばかりいっていたんじゃあ、まるでねんねなレポートになりますな。当然といえば当然のことですけれど、いえ、自分の所業で考えればわかりすぎるほどにわかりますけれど。
酔いがまわりはじめた。この稿のために夜の取材が続いている。いつものとおりに過ごせばいいと思いながらも、ひとたび通いなれた街を対象にすると、酒精が泡立つように体内を巡ることになる。私は決してしっかりした酔っぱらいではない。ある限度を超えると日ごろの鬱屈が露出し、困ったことに、その限度はいまや週単位で低下しつつあって、大丈夫と思っている間に、宇宙のかなたへ飛んでいることが多くなった。混沌鬱屈雑然。その夜もそろそろ退散すべきときを迎えていたのである。
しばらくして、私をのぞき、かつてのカヌーの気配を濃密に漂わせた三人は「銀河系」を出た。
再び関根庸子のインタビューを行ったのは、それから一週間後、うららかな日差しの午後であった。
麻布のガーデンヒルズ内の喫茶店に、かつて客のだれもが口説いたというバーのマダムが、くつろいだ表情でコーヒーを飲んでいた。
いまは二人の子どもも成長して、下の娘は女子大生である。
関根庸子は首をかしげて、問わず語りにいう。
「酒場でマダムを続けていると、会話に落ち着きがなくなるみたいで困るのよ。酒場の会話は才気で縦横に飛びはねるでしょ? こういわれれば、その逆を答える。それは楽しい会話だけれど、いつの間にか咄嗟《とつさ》のまぜっかえし、話題をジャンプさせたり、ひねってみたりの変化球の癖がついてしまうのね。だから、店をやめて家庭に帰ってからも、もとにもどれなくて主人によく注意されたっけ。娘に私の癖がうつっちゃったみたいで、今度はそれが気になるの。たくさんの個性と出逢《であ》って、たくさんの人の才気を相手にした酒場のマダムの習い性が、ふと気がつくと娘にうつっているって、変な気持ちになるものよ」
喫茶店の大きなガラスのむこうに、日本の街の風景とは思えないガーデンヒルズの高層住宅の窓が並んで見えていた。すぐ目の前のシャレた街路に、明るいブルーのワンピースを着た外国人女性が立っていた。ブロンドの髪とブルーの瞳《ひとみ》、その美しい外国人女性を撮影しようというクルーが四人ほど、カメラマンを中心にのんびりと動きまわっていた。
かつてこの丘の一帯は、日本赤十字病院のくすんだ灰白色の病棟が立ち並んでいたところである。
昭和三十年代からの日本は、たぶん、ほかのどんな国も経験したことのない激変、平和時では世界史でもまれな様変わりを経ていた。
たしかに、かつての新宿の夜、そこに集まった才能たちでさえ予測できなかった消費社会のなかへ日本は突き進み、このガーデンヒルズのような光景がそこかしこに出現している。
豊かになることをだれがとがめられよう。しかし、失ったものも多い。貧しく、無名であることが、次の時代の才能たちの条件であるとすると、いまは貧しさの水準がかさあげされ、鬱屈《うつくつ》とともに飲む酒の量も減っているのではあるまいか。名をなすこと、財を得ること、才能たちの俗物への転落を押しとどめていたのも酒場の夜のはずであった。
新宿の伽羅色《きやらいろ》の夜とはあまりに遠い豊かさの表象、それがガーデンヒルズなどと銘打たれた丘のうえのたたずまいに露出している。
伽羅色、たしか梵語《ぼんご》で、輝く褐色。けむるような黒人女の肌、水平線を見つめる島の娘の瞳、闇《やみ》に潜む情熱の輝き、権威や、権力や、俗物どもの規範を揺さぶる無頼どもの酩酊《めいてい》、自由でなければならぬはずの精神の雄叫《おたけ》び、伽羅色の意味とはこのような混沌をさしていよう。
そのような酔いも、つかの間の繁栄のなかに落っことし、失ったもののひとつのはずだった。しかし、再び、私たちがそのような酒をあおる日が来ることを予測するのは、それほどむずかしい判じものではない。いつでも思わぬところで次の時代が準備されている。
かつて、まだ少女のころの関根庸子も、新宿の夜のひとつを出現させることになるとは思ってもいないままに、それを準備する人生を、生きていたのである。
――「カヌー」に至る前のことを、少しくわしくうかがいたいのです。ご本人自身もそんな人生模様になるとは思わずに、その日を十分に生きている。そのあたりが人生の妙味といえるのだろうと思います。最初の作品『私は宿命に唾をかけたい』には、青春前期のことをお書きになっているのでしょう?
「もちろん脚色しているんですよ。でも、私の生きていた場面、光景、シチュエーションはそのままですね。それを土台にした“告白小説”でした」
思春期のころを語るとき、だれしも淡く気恥ずかしさを浮かべる。マダムの頬《ほお》にも青春の色あいが浮かんだ。小鳥が一瞬よぎったぐらいの短い時間、追憶の影が表情に浮かび、彼女は少女のようにうつむく。
その物語は、高校二年の少女が、米軍キャンプ近くのランドリーで働く場面からはじまる。
「朝霞のキャンプ・ドレイクの近くのランドリーで、その主人公の少女は米兵を相手に働いているわけね。少女の家は貧しくて一生懸命に働くわけ。でも、はじめて大人の男たちのなかへ放りだされて、男を意識するようになる。汗くさい米兵の洗濯もの。ランドリーに働く日本人の男たち。その男の一人、日本人の男に恋心を抱いたりするわけ。でも、その男は、ランドリーの場所を利用して、米軍の横流しの品物を扱う闇屋商売をしていたりする。ある日、少女は仲間たちと一泊旅行に出かける。女二人、男二人のグループで楽しく一夜を過ごすのだけれど、その男の一人は少女が思いを寄せている男性だったわけ。深夜に、二人は眼を覚ますの。もちろん少女は胸が高鳴って眠れなかったのよ。心に秘めた恋なんだけれど、二人は月光のなかで、手を光にかざしあったまま何ごともなく朝を迎える。そんなふうに思いを寄せた男との恋は熟さずにすぎていく。その一方で、少女は、自分の存在、自分の肉体に男たちが魅かれていることを自覚していくのね。自分の肉体は、男たちにとって価値があるということを知りはじめる。少女は赤い靴が欲しかった。貧乏なのでとてもそんな高価な靴は買えなかったのね。そのころ、いい寄ってくる米兵がいた。少女は計算するわけ。この米兵の誘いに応じて一日つきあえば、あの靴を買ってもらえるかも知れない。うまくいけば、自分の肉体の価値を取引材料にして、靴を買わせてしまえるのじゃないかって。米兵と一緒に銀座を歩いて、お目当ての靴屋の前に連れていったりする。そんなふうに、少女は自分の女としての価値に気づいていって、最後は、若い肉体にかつえている一人の老人に処女を与えてしまう。自分の肉体から一番遠いところにいる老人へ体を与えることによって、自分の価値が、もっとも高いものになることを本能的に計算したわけなんでしょうね。涙を流して喜び、自分をむさぼる老人を見ながら、少女は大人の世界へ踏み込んでいくことになる。私の書いた物語は、こんなストーリーだった」
――その物語を、日劇ミュージックホールのスターダンサーの、ほんとの物語だと世間は受けとったわけですね。
「そう、でも、女の内面には海のような優しさと、キツネのような計算高さが同居しているものよね。恋の駆け引きはそこから生まれるわけだから。その心理はだれにもあるように私にもあったわ。だからその心理はきっと真実のものだった」
――女性が本能的な打算に自覚的であることは、さらに真実の人間性へと踏み込んでいくステップたり得るという。なるほどなあ、男どもは、モノにしたい女への欲望をあからさまにはするけれど、女の打算の影にかくれて揺れている女心、ほんとの愛を求めてあえいでいる少女の心のあたりは、あんまりのぞかないですからね。モノにしたいの一念で口説きはするけれど、そのさきに踏み込めば、男もとらわれてしまうので、こちらはこちらで本能的に計算するんでしょうね。どうも、酒場「カヌー」で夜ごとにくり広げられた攻防戦とはいえ、マダムはすでにそのやりとりのころあいをとうの昔から見切っていたということなのでしょうか。
「さあ、それほどの計算ずくじゃ、酒場は成り立たないものよ」
関根庸子は、視線を窓の外に移して、コーヒーを飲んだ。
彼女の自著『新宿の夜はキャラ色』にはこんな一節がある。
「バーの女を口説くいちばん近道は『送る』ことからはじまり、『送る』ことに終わる。このバー修業の入門から極意に通ずるまでにはまことに奥深く、さまざまな内容の違った趣きが各人それぞれの発見を待っている」
誘われた側の言葉ではあるが、なんとおびただしく男どもは「送ってあげるよ」のひと言を歓楽街の底に撒《ま》き散らしていることか。
その道の達人とされる紀伊國屋書店社長の田辺茂一も彼女を誘った。田辺茂一がカヌーに現れて三回めには食事に誘ったという。なるほど素早い。関根庸子は「それ、おいでなすった」と内心思う。この世界で田辺茂一の素早さは有名であった。
その夜、たまたま常連で、カヌーの従業員たちの友人でもある順子という女性がその場にいたので、彼女は順子も一緒に食事に行くよう提案した。
このあたりのやりとりは両者ともに一合、二合の打ちあいで間合いをとる試合のような展開である。
こんな場合、どんな下心があっても食事に誘った側は、お目当ての女性のほかの同行者を拒めない。
田辺茂一はおどけたふりでいったという。
「順子が途中から席をはずさないとなれば、茂一はママと順子を両手に花。だが、お目当てのママひとりでないのは、当てはずれ。持てたい持てたいの一心太助。持てない男のつらさかな、っとー」
田辺茂一がふざけたふりをしながら、その夜の展開をどんなふうにイメージしたかはのちに判明する。
一軒まわったその先で「もう一軒行こう」とタクシーに乗り込んだ田辺茂一は、女性二人を連れたまま旅館へむかう。ところがその日は土曜日の夜で旅館は満員だった。すると彼は、自宅へ二人を連れていった。さすがにマダムと同行者の順子は、田辺家には寄らずに帰ったが。ところで、さて、旅館といい、自宅といい、女性二人を相手に、田辺茂一はいかなるイメージを抱いたのか、どうしてなかなかに興味はつきない。
たぶん、引っ込みがつかなくなったというあたりが真実だろうけれども、この展開では万が一の可能性として『両手に花』の場合が残されている。男たるもの、万が一の可能性があれば追究せずんば止《や》まじ、の精神なのかも知れない。
「カヌー」の内部は、入り口から見てやや横に広い。正面にカウンター、入り口を背にした壁には小さなテーブルが三つ並んでいた。
マダム本人の描写では次のような雰囲気の店内だった。
「正面にすぐ見えるカウンター。その向うの酒棚に大きなビール樽を一つ乗せた四輪馬車の金色の車輪が、誰の目にもすぐ映るほど際だって、酔っぱらいの天国へ運ぶ車のように輝いていたっけ。黒いカウンターを照らして天井からシェードつきランプの灯。矩形の部屋の四方の壁が丸太を一本一本横に積み上げた素朴な、古い、山小屋ふうといった四坪の店――。」
値段は決して高くはない。ボトルキープの習慣はまだこんなにも普及してはいないが、あえてあげれば角瓶一本、千二百五十円。水割り一杯が百円であった。
そこに、さきに引用した野坂昭如も現れる。酒場の記憶は揺ら揺らしていておたがいに定かではない。
『新宿海溝』では、開店間際に野坂が一人で「カヌー」に入ったことになっているが、関根庸子の記憶では、サングラスをかけ、チェックのバーミューダパンツ、ゴム草履スタイルの野坂昭如は、中央公論の岩渕鉄太郎とともに現れている。
やがて、マダムが野坂のサングラスごしの視線に慣れたころ、野坂もマダムを誘った。
「ちょっと変わったところへ行きませんか」
というのが彼の誘いの言葉であった。
時刻は午前二時すぎ、野坂が案内した「変わったところ」は、普通の家のような構えの店であった。その家の応接間、ホームバーがそのまま酒場として営業していたのである。
そこで野坂は、シャンペングラスを一段、一段と積みあげ、その頂点のグラスにシャンペンを注ぐという芸当を演じた。実際にグラスを積み、シャンペンを注いだのはその店のバーテンである。
次のような光景になる。
「(中略)七個目のグラスの頂上部へ瓶の口を傾けつぎはじめる。静かにゆっくりと、塔のてっぺんから溢れだした液体がつぎの器へ、そして、最下部の器がいっぱいになるまで。たちまち泡の消える液体が、下へ下へ、移行しながらついに七個全部になみなみとつぎ終る」
そのとき、野坂は静かな口調でいったという。
「つのる心の思いを重ね、重ねて、さらにつみ重ね――。これは、奈良の五重の塔じゃありませんよ。ずばりいって、僕の心……」
このときばかりは、関根庸子も、なかなかなダンディズムであると感服したらしい。
しかし、野坂のつのる心は彼女には通じなかったのだった。
このとき、すでに彼女は秘《ひそ》かに結婚しており妊娠していたのである。
作品中の言葉での、彼女の当時の心境は、「野坂に限らず、誰の誘惑も受け入れられなかったのだ」
ということになる。
それでも、大柄な彼女の妊娠は、客にはなかなか気づかれず「送っていこうか」というお客はある比率で必ず出現したのだという。
ああ、歓楽の巷《ちまた》に恋の花は咲きこぼれ、情熱は怒濤《どとう》のごとく岸辺を洗い、夜ごとにカヌーは揺れるのであった――。
その「カヌー」が、モダンジャズの店では老舗中の老舗の「キーヨ」の横に移転するのは、昭和三十七年で、関根庸子が臨月を迎えたころである。
こんどは十坪ほどの奥行きのある広い店になる。入り口を入って右手にずらりと椅子《いす》の並ぶカウンター、左手には四人が席につけるテーブルが二つ、さらにその奥にはスタンドピアノがあり、ピアニストも常に出演する何とも新しいピアノバーに変貌《へんぼう》する。
マダムの魅力はもちろんではあったが、この時代に、ピアノが演奏され、しかも、親しみやすく、決して銀座や赤坂のように気取ってもいない店の出現は新しい。
文学バー、芸術家バーの「カヌー」ではあったけれども、酒場の雰囲気としても、酒場の空間としても新鮮な店が「カヌー」なのだった。
こうして、「カヌー」はそれからも、夜ごとのエピソードを生んでいくのである。
第一次「カヌー」から第二次「カヌー」まで、昭和三十四年から三十七年、この時代の文学史年表をのぞいてみると、次のような動きとなる(増補改訂版『戦後日本文学史年表』講談社、松原新一、磯田光一、秋山駿編より)。
そこには、私のはるかな記憶と重なる作品が並んでいる。私の思春期まっさかりのころに読んだ作品や、そののちに出逢《であ》った作品などもある。いわば「カヌー」に集まった有名無名の作家たちの時代がそこにあった。
昭和三十四年一月、井上靖の『敦煌』の連載が『群像』誌上ではじまり、五月に完結。二月に吉本隆明『芸術的抵抗と挫折』(未来社)、四月に永井荷風が死んだ。
永井荷風の死にはかすかな記憶があった。たしか、一人で生活していた荷風に、当時では巨額の、三千万円ほどの貯金があって、新聞の社会面で報じられていたはずであった。
六月、澁澤龍彦訳『悪徳の栄え』が現代思潮社から出版される。この作品はマルキ・ド・サドのサディズムの原典。翌年ワイセツ罪に問われ、話題を呼ぶ。
どんなにいやらしい本だろうかと当時手にしたけれども、そして、すごそうなシーンはあったけれども、さらに、十四歳の少年の私にはサディズムなるものは、なかなかに興味はつきなかったけれども、当時まだ発刊されていたいやらしい雑誌『夫婦生活』ほどにいやらしくは興奮できなかった。『夫婦生活』が合法で、『悪徳の栄え』がいけないとは、なぜだろうかと不思議な裁判であった。
八月、『文學界』に石原慎太郎が『ファンキー・ジャンプ』を発表していた。これは読んだ。すごく感動した。ジャズミュージシャンの物語であった。ディテールはほとんど忘れたが、そのころ、アート・ブレイキー率いるジャズメッセンジャーズのレコードはくり返し聴いており、モダンジャズは、どうしたわけか、いきなりポップスなみに流行し、その黒い雄叫びのジャズに「ファンキー」なる贈り名がついていたのだった。
モダンジャズの曲がこれほどまでに流行したことをジャズ評論家のだれかが「そば屋の出前までがモーニンのフレーズを口笛で吹きながら街を自転車で走った」と驚いて書いていた。石原慎太郎運輸大臣の言葉など、いまでは国会答弁で聞くしかないほどに落ちぶれてしまったが『ファンキー・ジャンプ』は、素敵な作品であった。
九月、三島由紀夫『鏡子の家』(新潮社)、これは大学に入ってから読んでいる。同級生のひどくコケットリィな女が「私は鏡子よ」などとうそぶくため、その女にまいっていた私は必読文献として読まざるを得なかった。読後、いよいよその女がわからなくなり、ますますまいることになった。
この年は、六〇年安保の前年にあたっている。やがて「カヌー」に顔をだすことになる全学連委員長唐牛健太郎が、十一月、安保阻止第八次統一行動で走りまわり、二万人が国会構内に入り込んで集会をもつという“事件”も起きている。
大江健三郎や、開高健が新しい旗手として活躍しはじめた時代でもあった。大江健三郎はとりわけ私たちをとらえた。
もっとも、いったいどうしたわけか、昭和三十三年に『飼育』で芥川賞をとり、続いて発表した『芽むしり仔撃《こう》ち』を、私は長い間『芋《いも》むしり仔撃ち』だと頭から信じており、のち、学生ホールで同級の女の子と(さきの女の子とは別人)大江健三郎論を闘わせようとして、二分後に、
「しかし、|イモ《ヽヽ》むしり仔撃ちにおいてはさ」
と口走ってしまい、
「馬鹿ねえ、|メ《ヽ》むしり仔撃ちよ」
とたしなめられて死にたいほど落ち込むことになった。
昭和三十五年、一月、倉橋由美子『パルタイ』、この作品は何ごとかがわかりはじめた大学一年の秋に単行本で読んでいる。柴田翔の『されどわれらが日々――』との違いのあたりを実感したのだった。
この月、カミュが交通事故で死んだ。サルトルやカミュ、つまり実存主義の時代でもあったのである。
「カヌー」でもさぞかし「実存」がせめぎあったことだろう。
三月、北杜夫『どくとるマンボウ航海記』(中央公論社)。なんて面白い旅行記だったろうか。しばらく斎藤茂吉の息子であることを知らず、変なお医者さんで、躁鬱病《そううつびよう》持ち、立派な純文学を書く作家であるとも知らず、中学三年生の私は笑い転げて喜んだ。
ところが、この年五月『夜と霧の隅で』で北杜夫は芥川賞をとった。もっと面白く、おかしい作品だと思って読んだらば、さっぱり笑うところがない。そのうえ、ナチズムのなかの、優生学の問題をめぐる作品であった。おかしい人だと思っていた私は、はぐらかされると同時に感服し、さらに北杜夫のエッセーからトーマス・マンの世界へ導かれることになった。
その北杜夫ものちに「カヌー」に顔を出している。関根庸子の視線には「育ちがよさそうに、いつも静かに飲んでいる」ととらえられていた。
九月、島尾敏雄『死の棘』を『群像』に発表。のちに書き継がれて、先年定本となる。すでにこのころからの持続であることをあらためて知ると、死んだ島尾敏雄への名状しがたい感慨が浮かぶ。
もちろん島尾敏雄は「カヌー」には現れてはいない。しかし「カヌー」の時代とは、このような時代であった。
くり返すが、昭和三十五年とは一九六〇年安保条約の年である。六月十五日には、国会構内で東大生樺美智子さんが死んだ。
さまざまに、あらゆる面で日本社会は歴史の瞬間のなかにあった時代でもあった。
昭和三十年代中期から四十年代はじめの時期に発生したさまざまな因果は、歴史の基底でいまを牛耳っているかのようである。
この年の十月、浅沼稲次郎社会党委員長が日比谷公会堂で右翼テロに倒れる。さらに十二月、深沢七郎の『風流夢譚』が『中央公論』に発表され、翌年一月には、中央公論社社長宅を右翼少年が襲った。
昭和三十六年、二月、小田実『何でも見てやろう』(河出書房新社)がベストセラーになる。三月、水上勉『雁の寺』(『別冊文藝春秋』)。七月、宇能鴻一郎『鯨神』を『文學界』に発表、芥川賞を受賞した。知られるとおり、いまの大ポルノ作家である。十一月、吉行淳之介『闇のなかの祝祭』(『群像』)。文豪谷崎潤一郎は『瘋癲老人日記』(中央公論社)を発表する。
『瘋癲老人日記』は大映で映画化された。そうだった。この時代はまた、映画が絶頂を極めたのち長期の凋落《ちようらく》をはじめた時代でもある。
いま、ざっと文芸年表を引用しているのは、「カヌー」の時代の雰囲気を知るためである。
ここで文学史をやるつもりも、力量も私にはない。だが、こうして眺めているだけで、この時代とは、文学が時代と四つに組んで熱気を帯びていた時代であり、あとからきた私などにとっては、ここに並ぶ作品のひとつひとつが光を放っていることに驚くのである。
共産党系の文学運動体である新日本文学会は、たぶんいまよりも大きな影響力をもっており、そのような状況のなかに「政治と文学」の論争も行われている。
政治といい、文学といい、どっちをやるにしてもとどのつまりは個人が個人の責任と恣意《しい》で選択することだが、知識人の良心性や、政治的プロパガンダや、文学者の政治的責任やら、それぞれに歴史過程を含む概念を引きずるため、この時代は大論争となった。
政治的行動の価値(有効性)と、作品的価値はまったく別次元のものであり、そのあいだに“運動”やら“方針”やら“個人的好み”やら“文体”やらを持ってきて交配しても、両者の思うような“それぞれのいい子”など生まれないという大原則が、この論争の結果あらためて明らかになる。
だが、この論争は、結論が大原則に導かれるまで、読書家や作家志望者や、文学青年的学生活動家たちに刺激的な問題となり、たぶん「カヌー」や、そのほかの若い世代のたむろする酒場では酒の量を増大させる“材料”となっていたようである。
客はときに激論を闘わせ、文学的な、思想的な論争がひとたび湧《わ》きあがると、舞台のうえの論争者たちからはるかに離れた酒場でも、ほんの一瞬、認識は深められ、酒はさらにその認識を躍動させ、言霊が飛び交い、さらに酔いが深まり、いつもどおりへろへろべえと酔っぱらって夜は深まる。
原則的な論争であっても、生々しい現実のなかで闘われていた時代、新日本文学会系の論客と、奥野健男、さらに吉本隆明らの論争は、“それぞれのいい子”の正体であるどっちつかずの曖昧《あいまい》派の存在理由を奪うことになる。「カヌー」の夜ごとの対話の背景には、論争を含めて、そのような“文学的状況”があったのだった。
もう少し、文芸年表を眺めてみよう。
昭和三十七年、一月、島尾敏雄は『文學界』に『島へ』を発表。北杜夫は大作『楡家の人びと』第一部を『新潮』に連載開始。ファンの私は、これを毎月楽しみにした。三月、雑誌、『文芸』(河出書房新社)が復刊される。この文芸雑誌ほど判型を変え、編集方針を変えながら続いた雑誌もめずらしい。
高橋和巳の『堕落』を私はこの誌上で読んでいる。そのころ『文芸』は長編書き下ろし一挙掲載の編集方針だった。六月、安部公房『砂の女』(新潮社)。八月、柳田国男死去。九月、吉川英治死去。十月、東京地裁『続・悪徳の栄え』に無罪判決。十一月、高橋和巳『悲の器』で第一回文芸賞を受賞。十二月、花田清輝『爆裂弾記』(『群像』)。
この間、論争は続いていた。そして、もっと大きな状況としては、六〇年安保を間にはさんだ三年間で、これが第一次「カヌー」の三年間だったのである。
関根庸子が記憶し、書きとめたそのころについて次のような場面がある。
ある夜、松田政男が埴谷雄高と関根庸子を、早稲田大学へ連れて行った。「カヌー」が終わったあと、深夜二時すぎである。
学生たちが大学校舎の一教室を占拠し、そこで自分たちが選んだ講師に「講義」を受けており、埴谷と関根はそこへ入り込んだ。
松田は、深夜の授業をいぶかる関根に、
「これが“自治”というものですよ。早稲田はいま、“学生”が、自分たちで、学業も運用してるんです。この真夜中すぎの“授業”に来ているのは、“講師”なのですから、だれがきて話してもいいのですよ」
と説明したという。
のちの全共闘時代にさかんに行われた“自主講座”が、すでに一九六〇年の早稲田大学の一画で行われていたわけである。学生数は「百人近い」ほどで、その講師とは革マル派のイデオローグ黒田寛一であった。内ゲバで姿をくらましたこの「思想家」が、姿をさらしていた時代でもあったのである。
このエピソードの件《くだり》を『新宿の夜はキャラ色』で読んでいると、先日の夜、ゴールデン街の「銀河系」で夜の闇《やみ》へ消えていった、埴谷雄高、松田政男、関根庸子三人連れの後ろ姿と二重にダブッてくる。
その一方で『続・悪徳の栄え』の裁判も続いている。裁判のあった夜は仏文学者の白井健三郎、現代思潮社の石井恭二、特別弁護人を引き受けていた埴谷雄高がそろって「カヌー」に現れるのである。
埴谷自身が書くように「たまに寄るだけの客であった私が、『よく通う客』へ転化」した時期は、「サド裁判」の時期と重なっていることになる。
もちろん、酒場で文学論や、政治論だけが飛び交うはずもない。
関根庸子は、クリスマスイブのサービスと余興をかねて、舞台|衣裳《いしよう》を着て登場したこともあった。
「踊り子時代にソロで使った朱《あか》い総リリヤンが動き加減によって、なまめかしく大小さまざまに波状に揺れ動くマンボズボンとついのブラジャー」
で踊ってみせたのは第一次「カヌー」のころである。客のなかの何パーセントかは、彼女がヌードダンサーであったと信じ込んでおり、このサービスはかなり店を華やかにし、何ほどかのリビドーを高からしめたに違いない。
関根庸子は、私のインタビューに対して、
「新しい『カヌー』に移ってから、私はよくお客さんの間を動きまわって、雰囲気が拡散しないように気を配ったわ。お客さんの視線をあびることは、ダンサーの時代からやはり慣れていたと思いますね。一人のお客さんに着かず、一人のお客さんを放ったままにせず、そう、あれはきっと舞台を下りたあとの私のステージ、人生の華やかなステージのひとつでもあった」
と語る。しかし、さらに、その一方では、彼女は間断なく口説かれ続けてもいる。表現の自由の裁判やら、安保闘争やら、平気でつけをためる客やら、論争の余波やら、まだ何も表現していない者の鬱屈やら、あれやこれやの酔っぱらいの総エネルギーをあびる「カヌー」のマダムは、男どもの情念の暴風雨にさらされている樹木のような具合に店のなかに立っていた。
男どもも、千万分の一の可能性があれば敢闘せずんば止《や》まじ、であって、タクシーにどんどん乗り込み、ホテルヘ横づけにする。
部屋まで入って、男が風呂《ふろ》へ入っているすきに逃げだすようなことにもなる。
なんとも大変な007シリーズのような、余儀ない夜もあったのだった。
しかし、マダムを送っていこうと思って看板近くまでねばる複数の男どもの心境やいかん。私もこれはしっかり覚えのあるシチュエーションである。
虫の好かない嫌な男と二人、ママを狙って時のたつのを待つことしばし。(こんの野郎いつまでぐだぐだ飲んでやがるんだ? いいかげんに帰っちまえ、今夜はワシが送るんだぞ)と腹で思いつつ、プロ野球の話題なんかで、まず三十分。息詰まるような沈黙に耐えきれず、つい文学論などを口走って二十分。するうちに相手がグラスに酒をつぐので負けずにこちらももう一杯。
閉店近い「カヌー」でも、どうにかしてマダムを送っていこうと、色にはださねど、何はなしの深いところでの突っぱりっこがあったに違いない。もちろん、それさえない酒ならば、飲んでうまいはずもないけれども。
かくて、バー「カヌー」の、深夜二時前後に残った二、三人の客の水面下の突っぱりっこまでを含めて、酔いっぷりは時代の風に吹かれていた。
私たちの本音は、夜の歓楽においてもっとも正直に露呈されており、その大海原のような感情の波動のうち、ほんのちょっぴりが昼間の時間に表現され「時代意識」なんていう、本来ならば、誰《だれ》にも客観的につかめない時代の色彩がフレームアップされる。
自分の人生が当事者の自分にとって、もっともわかりにくい現象であるのと同じく、時代という主格にとって、いま、という時は、当事者の迷妄《めいもう》と同じく、本来的に判読不可能なことがらである。そこで時代はいつでも虚構の「時代意識」を打ち立てて前に進む。
そんな嘘《うそ》っぱちは息苦しい。そこで本音に身を沈め、滔々《とうとう》とした闇《やみ》の流れで泳ぐことになる。歓楽の大河はいつでも優しく迎えてくれる。その流れにおぼれ、水底に横たわる死者たちでさえ微笑しているかのようだ。
バー「カヌー」は、動きだした高度成長の時代の流れとはまったく流れを別にする、歓楽の大河へ注ぐひとすじの煌《きら》めく流れのごとく、しばらく華やいだ夜を続けるのだった。
ピアノの弾き語りが「カヌー」をいっそうにぎやかにした。
のちにヘンリー・ミラーの愛を得るホキ・徳田が特異な個性でジャズ・スタンダードを弾き、歌った。
またフランス人の世界放浪のギタリスト、ロイがシャンソンを弾き、歌った。
ある晩などは、名をあげだしたばかりの小沢征爾がピアノを弾き続け、演奏時間のきたロイと殴りあわんばかりの争いとなったこともあった。
店に働く女の子たちも客を魅《ひ》きつける。マダムに惚《ほ》れた客と、女の子に惚れた客と、ひたすらうさをはらしに来る客と、当然なことに、何の理由もなく日が暮れればやってくる客とで店はにぎわう。
シャンソンはいまよりもたくさん聞かれている。エディット・ピアフ、ダミア、ジュリエット・グレコ、イブ・モンタン、イベット・ジロー、シャルル・アズナブール、酒場から国境をとりはらい、時の流れを渦巻き状のさきもあともない混沌《こんとん》へ運ぶ音楽。『枯葉』や、『パリ祭』や、『サクランボの実るころ』も歌われたことだろう。その曲が流れている間、はるかなフランス革命や、パリ・コミューンに想《おも》いをはせる酔っぱらいもいたに違いない。
この時代は、大日本帝国が敗れてまだ十五年、戦後の風はまだ巷《ちまた》に吹き、パリヘ通じる想念の架橋も、渡れるかのようにはっきり見えていたころでもあった。
しかし、すでにベトナム戦争が炎を噴きだしていた。一時は五百万人もの人々が街頭デモを行った戦後の民衆は、所得倍増に励みだし、オリンピックが感動的に閉会式を迎えると、虚構のはずの「時代意識」が、ぐわらり!と動く。
そして、言葉の本来の意味で輝く星座のような芸術家バー「カヌー」も閉幕となる。
関根庸子は昭和四十年八月、次のような案内状を発送した。
「このたび、『カヌー』が八月二十四日をもちまして閉店いたすことになりました。就きましては翌、二十五日、カヌーを育て、愛して下さった六十一人の殿方に集まって頂き、ささやかなパーティーを催したく思います。
午後八時から午前二時まで、ご都合の良き時間にお越し下さい。
会場 カヌー 新宿二丁目四九
会費 二千円
(出来たら何か記念品をご持参下さい)」
あらためて、この閉店の発起人の名をあげておく。
亡くなった方、こののち世に出る人々、ここに記されている人名そのものがひとつの時代のモニュメントなのだった。
「岩渕鉄太郎、押川俊夫、小林達夫、石郷岡敬佳、尾畑雅美、坂本一亀、石堂淑朗、川畑文憲、佐藤重臣、石井恭二、唐島英三、佐藤宙史、伊賀弘三良、北原武夫、佐野美津男、浦山桐郎、久里洋二、白井浩司、大坪昌夫、栗田勇、志田京一郎、長部日出雄、楠原義一、白井健三郎、岡本潤、久保田芳太郎、鈴木創、小川徹、小林大治郎、鈴木勇、杉村友一、中原佑介、丸谷才一、関根弘、新沼杏二、松田政男、田中健五、野村万之丞、松本孝、竹内修司、林寿郎、水城顕、田辺茂一、埴谷雄高、山下辰己、田村泰次郎、八鳥冶満、山岸一平、綱淵謙錠、半藤一利、山口守、堤堯、藤川清、矢牧一宏、寺沢正、福富太郎、雪正一、戸浦六宏、丸尾長顕、吉川潤、横塚繁」
これでも、この人名をピックアップするときの関根庸子の気持ちは「思い浮かぶままの客の名前を六十一人という端数」にしたというもので、ほかに何人も発起人になるべき人々がいたのである。そして発起人のすべては事後承諾であった。
閉店パーティーの宴もたけなわとなり、記念品のクジが引かれる。
「僕は籤《くじ》をつくるんなら、この店を閉じるに当たっての今宵《こよい》最大の特等品目を、この店のマダムである“庸子さん”ってことにするんだがなあ」
グラフィックデザイナーの楠原義一がいったという。
クジは次々に当選者を引きあて、店は笑いの輪のなかにくつろいでいく。そして、押川俊夫に特等賞があたった。
マダムは当選者の頬《ほお》に軽いキスをした。
マダムは、自分の生身のかわりにギリシャの女神像を渡したのであった。ついに「カヌー」のマダムは最後まで客の誰のものともならず六年間の「キャラ色」の酒場を閉じたのである。
この夜、宴もはねて岡本潤、埴谷雄高、杏《あん》ぬ、関根庸子、バーテンのごっちゃんが残った。
こんな会話が交わされた。
マダムがふという。
「これから、どうなるのかしら」
埴谷雄高が答える。
「まず、子どもを育てること、それから……」
「それから……、それから、は、どうなるんですの?」
「それからは、自分を育てること――」
「へえ、そんなことができるかなあ……」
「できなければ、今日、このいま、この酒場をやめた意味はない……」
この夜、マダムは足もとがふらつくほどに酔っていた。これまで店でどれほど飲んでも酔いを殺してきた酒場のマダムの、最初にして最後の酔いである。
五人は静かに「カヌー」の終幕を味わって飲んだ。
いつしか夜が明けてくる。朝陽《あさひ》が店に差してくるころ、店を出た。
「その暁方は、最後までのこった老詩人の岡本潤と埴谷雄高とともに乗ったタクシーで、ただ太陽の光へ向かって進んだのだった」
池袋で岡本潤が降り、滝野川で関根庸子が降りた。
関根庸子は、後部座席の窓から振る埴谷雄高の手に応《こた》えて手を振った。
「これで、一つの何かが終わり、そして、一つの新しい何かがはじまるのだ」
と思って――。
芸術家バー「カヌー」の終わりによって、星座は飛び散り、またほかの酒場へと渦の中心を求めて人々は回遊路を少しばかり変えていった。
このころから新宿は空前のにぎやかさになり、文字どおり不夜城となっていくのである。
その浮き立つような新宿のにぎわいに別れた関根庸子は家庭に帰った。
長い旅をしてきたような気持ちのする関根庸子のインタビューであった。
ガーデンヒルズの窓に夕日が反射しはじめるころ、関根庸子は微笑《ほほえ》み、さらに歳月を経たこのいまの感想を語った。
「あれは……人生の一番華やいだとき。毎晩が刺激的で、ステキな日々だったわ。お客さん、いいえ、人間がステキだったのね。あんなお店になるなんて思ってもみずにはじめて、あんなお店に育って……」
彼女にとって、「カヌー」という酒場が醸しだした雰囲気そのものが追憶らしい。人々の胸に残る酒場の、もっとも本質的な追憶は、言葉ではとうてい定着できない人間同士の関係、そこにあやうく咲いた幻の花なのだろう。
「もう、よろしい? では」
関根庸子は、晩《おそ》い午後の光、オレンジ色の陽光のなか、丘をくだって歩き去った。
(さらば、黄金の「カヌー」のころよ)
私もまた、こちら側へ丘を降りた。
昭和四十年八月末、私はどんな青春のなかにいただろうか。そいつは、ひどく感傷を呼ぶ問いであった。人はそのような追憶が胸にあふれたとき多くを語るものではない。「では、また」とでもいって感傷を持ち去るべきなのだった。
たしかに、次の舞台の幕はすでにあがっている。「カヌー」からは従業員たちがそれぞれに別れて店を開く。
「ユニコーン」「カプリコン」「らいぶら」「商船テナシティ」、さらに、はるかな後年、弾き語りのホキ・徳田は六本木に「北回帰線」を開店する。八犬伝の八つの玉のように、あるいは水滸伝の百八つの星のようにバー「カヌー」は歓楽街に姿を変えて次のステージを形成することになった。
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第七章 過激な人生
「カヌー」が閉店となる前年の昭和三十九年、やがて新宿のもうひとつの才能の溜《たま》り場《ば》となるゴールデン街の「まえだ」が開店している。
歌舞伎町から、才能たちの群れを追って新宿二丁目まで出かけ、さらに時間を逆まわしに昭和三十年代の後半をさまよったけれども、その間に「まえだ」の時代が準備され、舞台はめぐって再びゴールデン街となる。
「まえだ」も一回だけ店が移動している。はじめの場所は、区役所通りから入って左へまがる小路にあった。裏が都電の線路になっている路《みち》であった。
そのころ、「まえだ」のママは肺結核の療養を終えたところだった。
このゴッド・マザー的、おっかない的、客呼び捨て的、実はまるで女性的、かつ、照れ屋的な個性のママが、結核が癒《い》えたのちに、
「まあ、飲み屋でもやるか」
とゴールデン街にやってきたころの「花園街」「ゴールデン街」は、まだ非合法の売春が行われている街区である。
私の世代では赤線街も、特飲街も、青線地区の風情も、とうてい描出できるものではない。
昭和四十年当時のゴールデン街ではほんのりと紅灯がともり、ドアのむこうにあっと驚くほどの美人(に見える)女が立っていたことを記憶しているけれども、とうてい客になれる度胸はなかった。玉の井や、鳩の街の風情はからくも吉行淳之介の作品でうかがうぐらいの世代である。
ともあれ、まだ階段をあがった秘密の二階部屋で客をとっていた時代に「まえだ」は開店し、一年後に現在の五番街へ場所を移す。
「そのころな」
と「まえだ」のママは語る。
このところ滅法優しくなった目をなごませてママが語るゴールデン街には、
「朝から、遊ぶつもりの男がうろついてたんだよ。私しゃ、これでも午前中に起きだして前の道路を掃除したりする、いまでもね。で、開店したてのころ、やけに体格のいい、坊主頭の男がね、掃除しているこっちを、何ともいえない目つきで見ていやがるんだ」
ということがまだあったのだった。
いくらなんでもその男の視線はぶしつけであった。
男はおずおずとママにいった。
「あの、少し早い時間ですが、あがってもいいですか?」
もちろんママは「馬鹿野郎《ばかやろう》っ!」とはいわない。店の客に対してなら、「ばかっ!」とよくいうけれども、そのときママはていねいに説明した。
「わが店は、そのような店にあらず。しかれども、このごーるでんがいには、貴殿の期待に十分に応えられる店が、いくつか、いやいくつもあると聞く。したがって貴殿は、そのような店を、しかるべき時刻に訪ねよ、さればその願い、かなえられむ」
時間が均質に流れるというのは真っ赤な嘘である。戦後の青空マーケット、いわゆる和田組マーケットが米軍の移転命令で追われ、そこから分かれてゴールデン街が営まれておよそ二十年近い歳月が流れていたけれども、ここにはまだかすかに、ほんの少し、戦後の風と、売春防止法直後の風が吹いていたのである。
「まえだ」のママのインタビューは、この稿を書きはじめる前、昭和六十二年の九月であった。
およそ絶対にインタビューなどということを受け付けない人物に、大昔から世話になっている私がさらに、インタビューを申し込むというのは、大変に困ったことであった。
しかし、うかがってみた。
「そうよなあ、橋本よ、考えてみたら、お前らの世代以降、ここになつく若いもんがほとんどいないわなあ。お前、いくつになった?」
私は昭和二十年生まれであることをいった。
「そうか、野坂も、田中も、長部も、あのころ来ていた連中は、みな、いまのお前より若いんだものなあ、ははは」
野坂昭如、田中小実昌、長部日出雄、のことである。
ここに「カヌー」の客が二人も登場する。もちろん「まえだ」の客はこんなものではなく、まったくもって「カヌー」に勝るとも劣らない才能たちの溜り場となって、「まえだ」の時代がはじまるのであった。
このたったいまの現在も「まえだ」は、スリルに満ちたエピソードを生み続けており、「まえだ」は作家たちの「事件」の場としてにぎやかだ。
しかし、ママは客の酔いっぷりについては多くを語らないのである。それはここが安心できる場所であることを保証するママの態度であった。
酒場での出来事は、常に現在形の時の渦のなかに生まれる泡のようなものだ。かつ消えかつ結び、浮かんでは消えるその場だけのドラマ、ふつふつと沸くお湯、終わりのない交響詩、というのが気取りすぎなら、果てもない無駄を吐き出してもすべてをのみこむゴミため、だから酒場にはいつでも永遠の風が吹いているといってもかまわない。
いわば時制のパラドックス、そこに無限の現在が流れていることによって、酒場には前も後もない宇宙的時制が貫かれていることになる。
ところが、酒場での出来事が克明に記録され、刻々と公開されるなどということであれば客はたまったものではなかろう。
もしも、酒場での行状のすべてを憶《おぼ》えていなければならないなら、十人中、九・九人までが悶絶《もんぜつ》することになる。少なくとも私などは、あの夜この夜の記憶に襲撃されて、ぎゃっとばかりにトン死する。
そこが秘密クラブであろうとなかろうと酒場は、そこに集まる人々の閉じられた空間、おたがいに共犯的で、セッション的で、現在を共有する者たちだけが場の形成を担い、醸しだす何ごとかの責を負い、またそのすべてを勝手に根こそぎぶちこわすこともできるおぼろな掟《おきて》で組み立てられた観念の城塞《じようさい》だともいえよう。
だから「まえだ」のママは、
「ふふん、まあみんな元気だよ」
というだけで、ここに集まる客たちの挙動を語ろうとはしないのだった。
この態度について、酒場を営む人の「倫理」であるということもできる。
誰《だれ》と誰が一緒に飲んでいるか、そこで何が語られていたか、誰についてどのような悪口が、あるいはほめ言葉が吐かれたか、そのすべてはなかなかに興味のつきない“情報”であり、ゴシップであり、心の深部にぐさりと突き刺さる言説であり、物語であり、教義であり、ときに人生の指針、騙《だま》しのテクニック、口説きの手管、陰謀の段取り、水虫の治療法、はかない発情であるかも知れず、またそのどれでもなくても、カウンターのむこうに位置するママは、酔いどれたちの姿を映しだす鏡のようなもので、ママとのやりとりのなかに酔いどれたちはそれぞれに自分がどんな泡つぶであるかをぼんやりと知ってまた酒をあおることになる。
その一切についてママが「自他を語らず」とすれば、そのことを職業倫理と考えることもできるというものだが、そんないい草でさえ、
「しゃらくさい」
と感じているらしいママの思いは、語らずともこちらに伝わってくるママの言外のメッセージなのだった。
客の挙動を語らず、という態度そのものを、ことさらな、たいそうな、ある特別な、商売上の掟、あるいは秘訣《ひけつ》などとして表明すること自体が生理的になじまないという表情を、いつも彼女はかすかに浮かべて酒のグラスを客の前に運ぶ。
思えば、伝統的な酒の世界、看板やのれんを誇る界隈《かいわい》で客の秘密を守る、いわば「口の堅さ」をことさらに強調することが多い。祇園やら、赤坂やら、そのほか銀座のクラブやらの日本的なお座敷の業界では、誰と誰とが密会し、どんなことが語られたか、そのことを秘密にすることを商いの要諦《ようてい》としている。だが、そんなことはあまりに現実的な理由にすぎない。
政治家と経済人とが密会して、何ごとか利にまつわる謀議を計り、それがもれては世間の手前いろいろと具合が悪く、だからお座敷を提供する側が「口を堅く」して、また御《ご》贔屓《ひいき》にあずかろうという魂胆を、ことさらに飾りあげて「のれん」にしているだけのことである。
だが「まえだ」のママの口の堅さは違う。
客たちが共有している現在時制を彼女も一緒に共有しているために語るべきポジションが不明なのだ。さらにいえば、ママ自身が酔っぱらっており、これからも酔っぱらっていたいとなれば、あえて「自他を語る」動機など消えてしまうというわけなのである。
私が「まえだ」に行ったのは、自分でも驚くほど早い時期になる。大学の一年のころ、昭和四十年の秋ということになる。
どなたに連れていってもらったのか、もはやおぼろとなってしまったが、ママと記憶の照合をしてみたら、どうやらそのころの私はカウンターのはじっこに座っていた。
「橋本がいたとはな。そのころ、瓜生良介たちが『舞芸座』から別れて活動をはじめたころだな。劇団の若手がよく来ていたから、その連中にまじっていたのかね」
――いや、大学の一年のころはまだ発見の会に近づいてはいません。そのころ、発見の会はシアター25シリーズというのをやっていたはずで、たしか『俺《おれ》たちはベトナムのことを話しているんだ』とかいう作品を観ているぐらい。
「私は戯曲座というところの女優だったんだよ。だから、この店ははじめ劇団の連中が来て、やがて何だかよく飲む連中が来はじめた」
――とにかく、ママは俺のことを欠食児童だとみなしたらしくて、よその客が手をつけなかったお通しやら、食べ残したおでんやらを俺の皿のうえにまわして盛りなおして『ほら食っておけ』なんていうんです。で、金魚のウンコであった俺は、素直にそれをいただいて、酔っぱらうよりも腹がいっぱいになって大満足した憶えがある。
「こっちにしてみれば、大学生が中学生ぐらいにしか見えなかったんだ。きっと橋本はみてられないぐらいに痩《や》せこけていたんだろうな。芝居をやろうなんて奴《やつ》が食えてたためしはなかったから」
――まったくそのとおり。
私は昭和四十年の秋のころを鮮やかに想《おも》いだす。世の中はオリンピックを終えて、空前の高度成長経済となっていた。しかし、その好景気などまったく何の関係もなく、私や友人たちは腹を空かせていた。二万円の仕送りのうち、七、八千円をアパート代にまわすと生活費は一日五百円。古本を買ったり、入場料八百円から千二百円の芝居を週に一本ほど観《み》て、焼酎《しようちゆう》をひっかければ、およそ金は消えた。その理由が青春のデタラメと情熱とロマンチシズムにあったとはいえ、腹が空いてどうにもならず、高校時代、家でたらふく食い六十五キロあった体重が夏休みで帰るときには五十八キロ、夏中、肥育牛のように食い、東京で欠食児童となって冬休みに家に帰れば、さらに五十二キロなんてこともあったのである。
――あのころ、めし代をけずって芝居を観ていた。田舎もんが東京の“文化”みたいなものにあてられて夢中になっちゃったんでしょう。
「その気持ち、腹が減るっていうのは、私らの世代はいわずともわかるんだ。何しろ、私らは戦後の空腹を体験しているからね。私らの世代が誰でもよくいう例の時代だ。酒だってお前、チューハイ一杯で酔っぱらいたいときには、きゅっとひっかけて、全速力で走ってつかの間の酔いを味わうなんてものよ」
その昔、ママが女優だったことを知らずに話題が歌舞伎のことになり、役者の批評の的確なことにびっくりした夜もあった。めずらしくママは雄弁となり、とりわけ当代の団十郎の口跡(アーチクレーション、セリフまわし)のことについて、見事に一説を述べたことは私の記憶に残っている。
「そのうちに化けるかも知れないが、先代だって、ぶきっちょな系列の名役者だったんだ、まあ、しばらくは見ていて、化けるのを待つしかないだろうな」
この団十郎が新之助のころ、私は江古田の大学の同級生なのだった。教室で言葉少なく静かにしていた新之助をふと想いだしたりする。
「まえだ」に関しては、私はいまでも客の一人である。したがって私自身の記述も、現在を共有している法則性によって、不確定性原理のように、私が介在したことによって変化している酒場の現在を描くことになる。
ある夜、田中小実昌がいた。「まえだ」に入ってくるなりいきなりズボンを脱ぎ、バッグに持ってきたもも引きをはいて、ズボンをはきなおし、
「うふふふ、ゴールデン街で飲むときは腰から下が寒いから、いつもこうしてるの」
というからこれは冬の記憶であった。
畑山博がいた。私が週刊誌記者のころであった。
「歌を歌おうよ、ね、じゃあ、まず僕が歌うから」
カウンターの椅子《いす》の後ろの一畳ほどの座敷に座った畑山博はスプーンをマイクのように構え、何か歌った。上手ではなかった。しかし、スプーンのマイクによくその声が通ってなんともくつろいだ酒盛りとなった。私も何かを歌った。作家の前で私は無用に、わずかばかり緊張した。
「酔ってないんだね、まだ」
こちらは飲みはじめだった。
「ねえ、ママ、この人にうんと濃いのを一杯あげてよ」
そのグラスをぐいと飲むと、しばらくして酔いがまわり、無用の緊張が溶けた。
――畑山さん、都はるみの何か歌ってよ。
「うん、うん」
ほろほろと酔って畑山博の細い目がますます細くなる。
歌い終わって作家がいう。
「ねえ、きみ、あなた、女の子とホテルヘ行きなさい。行けないかなあ、僕はその隣の部屋へ入って、あなたの熱戦を、うふ、聞くっていうのはどうかな、うふ」
――そんな、そんなことより自分で直接行けばいいじゃないスか。
「当事者になると眺められない、これが永遠のこの、むずかしさね、うふ」
中上健次がまだ早い時間に、静かに飲んでいた。私たち週刊誌記者は「記者会」を組んでおり、そのころは年に一回「群論」という催し物をしていた。作家に何か喋《しやべ》ってもらったり、歌手に歌ってもらったりする、記者のアピールのための催し物だった。それに出演してもらった中上健次は、私の顔を見て、
「どうだい?」
と現状を訊《き》いた。
――ええ、記者の立場は相変わらず。
「ふうん、まあ、頑張ってよ。次の『群論』も出るからね」
かと思うと、とある出版社の編集者ともめたこともある。
「なんだと? その人がそういったんだな、よし、そこを動くな、いま電話して聞いてやる」
私がその出版社の企画について、著者が疑問を持っているようだと告げたのがいけなかった。時刻は午前四時、その編集者は、執筆を依頼している「その人」の家へ電話を入れて、私の話の真偽を確認した。
私が「その人」の名をかたって、企画にケチをつけたのだと思ったらしく、深夜の質問が続く。
しかし、「その人」の疑問は事実であった。とはいっても、午前四時の電話の無礼のもとを作ったのは私であった。私は「その人」にこんなことになったことを受話器を奪ってわびた。そのうちに、電話をかけた編集者を許せなくなった。
――何だってんだ! 何て電話をしやがる。
「お前さんが、たいそうなもののいい方だからだ」
――おお、こんの野郎、上等じゃないか、だが、人をまき込むな。
「名前をだしたのはそっちだろう」
――下司《げす》め! 何時だと思ってるんだ。
「なんだと、てめえみたいな口のきき方も知らん奴は、つぶしてやる、でかい口をたたくな」
いやはや、下品な泥仕合となり、表へ出ろの、まともな喧嘩《けんか》の相手とは認めない、などのだらしのない口説のやりあいとなる展開になり、その編集者は「お前をつぶす」と再び捨てゼリフを吐いて店を出た。
この当時、私は一介の週刊誌記者であった。吹けば飛ぶようなという点ではいまでも同じだが、つくづく、しみじみとくやしくなり、涙がぽろぽろとこぼれた。「お前をつぶす」というセリフをあびせられて、一瞬ひるんだ自分がどこかにあったのである。そいつがくやしい。
ママが声をかけてくれた。
「気にするなよ、あれはここのところ、会社で浮いてて荒れてるんだ。気にするな、そして、ああいう酒は飲むな」
店は午前四時だというのに、まだにぎやかで、私たちのいざこざはほかの客には知られていなかった。
三十歳そこそこのころだったろう。私はこんな場面を演じているため「まえだ」という酒場に関しては、客観的にはなれるはずもない。
先日、私は久しぶりに「まえだ」に行った。
私の隣には、さきほどインド洋を帆走できるカヌーで横断した冒険家が静かに飲んでいた。
――あ、あなた、あの新聞に出ていた人?
「うん」
――ふうん、あの、九十キロの体重で出発して二十キロも痩せて横断に成功したって。
「うん、そう、ここで飲むと帰ってきたなって思えるから」
そのうちに、北海道の勝手連・田村正敏がひょっこり顔を出す。元日大全共闘書記長である。
――ありゃ、田村、どうも。
「おやおや、こりゃあ久しぶり」
私も日大全共闘のメンバーだった。なんとも「まえだ」の出逢《であ》いは変幻めまぐるしい。
――また太ったね。
「そっちも、ずいぶん白髪が増えたよ」
過去やら現在やらごちゃまぜに現在進行中の酒場の夜は更けていく。まさしくこのいまの店の生態なのだった。
――どうも、いきなり出くわすと、ちょっと面くらうよ。
「ああ」
――で北海道の仕事どうなの?
「それがむずかしくてね……」
元日大全共闘書記長はいろいろと語ろうとし、ふと沈黙する。
――いろいろと聞いてはいるんだ、そっちがやろうとしている学校のことはさ。といい、私が共通の友人の名前をあげる。
「ああ、いろいろとあるんだが話せば長くなるのさ。話せば長いことが多いじゃないか」
――たしかに、話せば長くなりそうだし、俺《おれ》は余計なことをいいそうになるよ。
田村正敏は札幌市長選に立候補したり、専門学校を設立したりと話題にこと欠かない男だが、なぜ話題にこと欠かない動きになるかを話しはじめれば、さまざまに、いろいろと、いくつもの事情と思考が重なって、話が長くなるはずなのだった。彼の学校の計画には、私の友人が一人加わろうとし、「やーめた」と計画から降りたりしていた。だから、田村の学校の話題は遠いものではなかった。
「そっちの、あれ、どうなの?」
と、田村は私に訊《き》いた。
私の「あれ」とは、全共闘運動に関する「68―69を記録する会」のことであった。日大闘争と東大闘争の六八年と六九年について、ごく素直に資料を整理し、残しておこうとして何人かが作業にとりかかっている。動機はあきれるほど単純なものだと自らもあきれていたらば、呼びかけたさきから、なかなかに、いろいろと話せば長くなる応答が出てきていた。
――まあ、頑張っておりますと、そして、お金が不足しておりますとね、いろいろと話せば長くなるんだな、これも。
私と田村は、長くなる話の入り口のあたりをわずかにごにょごにょと話し、「まえだ」で久しぶりに腰を落ち着かせたいらしい田村を残して、私だけが店を出た。酒場では、過去というのもそらぞらしい時間が、ある輝かしき色彩の濃淡に置き換えられて、出現したり消えたりする。
しかし、ここは注意が必要なのだ。酒場の時制のままにこみ入った話に立ち入れば、話が錯綜《さくそう》し、いつもよくやる混沌《こんとん》へ迷い込むことになる。それをやる相手としては、田村とは距離がありすぎるし、やらずにスタンダードのフォーマットで酒を飲むには近すぎる。酒場の距離感、空間認識、人間遠近法、関係性の黄金分割、酒量と記憶容量などなど、私の後頭部には、新しい公理がいくつか明滅し、つまり酔っぱらい、新宿の夜の底が波打ち、おぼろな自我とともに、この夜はあっさりゴールデン街を出た。
かくて、時空をワープして「まえだ」開店のころの新宿に記述をもどす。
そのころ、すなわち昭和四十年の新宿は、戦後のハモニカ横丁的、和田組マーケット的、そこを歩くベレー帽姿の「まえだ」のママの青春のころから、はっきりと雰囲気を変えつつ、新たなにぎやかさを見せはじめたころといってよさそうである。
前にふれたように、このころは第一次「ジャックの豆の木」が開店したころに重なる。
さらには、のちに日本のジャズのメッカになる「ピット・イン」が十二月に開店する。
その一ヵ月前にアメリカ留学から渡辺貞夫が帰国している。ナベサダは、はじめ銀座の「ギャラリー8」に出演し、さらに「ピット・イン」へ出演し、ホットなジャズの中心軸が新宿へ移った時期でもあった。
ちょうど「カヌー」の閉店の時期に重なり、さらに、状況劇場の旗上げ、天井桟敷、発見の会などのアングラ劇場がアングラならぬ新宿、渋谷、信濃町の地上に出現した時期でもある。映画では独立プロが走りはじめているし、ベトナム戦争がエスカレートして北爆が開始され、アメリカの黒人運動のリーダー、マルコムXが殺されて、ゲバラは「さらには無数のベトナムを創出してアメリカ帝国主義を打倒せよ」と叫び、明治近代の帝都の浄水場であった淀橋浄水場が閉鎖され、ミニスカートが流行し、マスコミや官憲の知らないところ、あるいはベトナム戦争とのかねあいもあって黙認してしまったのか、米兵の持ち込むハッシッシュや、LSDなどの薬物が歓楽街の路上を通りすぎたりした時代であり、かの偉大なビートルズが世界を征服し、日韓条約が調印され、中国では文化大革命がおっぱじまったころでもある。
「ギャラリー8」で日本人ジャズメンの生演奏の場を死守していた相倉久人が、歌舞伎町の乗合馬車というビルの四階に「ジャズ・コーナー」を開いていた酒井五郎から新しいジャズ喫茶の開店計画を示される。それが「ピット・イン」である。
相倉久人はその開店の目玉にナベサダを呼ぶことに成功し、この花火がのち連続的な白熱の夜を予言するのである。
つまり、要するに、新宿は音楽と演劇と映画と文学と詩と薬物と女と男とむきだしの欲望と兵隊と、はるかな戦争と革命と九十円の天ぷら定食とサバ煮定食とでわきかえりはじめる時代となる。
それらのひとつひとつの側面のいくつかはすでに書いた。
この昭和四十年から四十五年、すなわち一九六〇年代の後半は、ひどくにぎやかな、かつ二十世紀の後半史のなかでも興味のつきない時期であるとは、すでに誰《だれ》もがいっていることだが、その分析や価値づけについてはいまだに定説をあげにくい。もう少し熟してくれば歴史記述的な決定打が出るかも知れず、少なくとも私は、どんな結論も出す気はないので、ひどくにぎやかな時代とくり返すにとどめる。
ただ、ジャズドラマーの巨人エルビン・ジョーンズは「ピット・イン」について次のような言葉を送っている。
「ピット・インは、若いミュージシャンの家のようなところで、みんなここで何かを学びとるのです。ニューヨークやベルリンやパリのクラブとくらべてみても、私はここが本当にすばらしい場所だと思い続けているのです。私の経験から言うと、ニューヨークの『ヴィレッジ・ヴァンガード』とピット・インがずばぬけてクオリティの高い、甲乙つけ難いクラブだと思いますね」(『新宿ピットイン』ピットイン20年史編纂委員会編・晶文社)
大麻所持の容疑をかけられ、不本意ながら日本に滞在せざるを得なかったエルビン・ジョーンズは、「ピット・イン」で日本のジャズメンを相手に真剣なセッションをくり広げた。そのエモーションとテクニックを日本人ジャズメンも、客も必死に受けとめ、エルビンをしてしばしば歯をむきだしの、大汗だくだくのプレイをなさしめたのであった。一級品のエルビン・ジョーンズの表現と人格を含めて、新宿、とりわけ「ピット・イン」に吹いていた風は世界の風であった。
さらに、青春をそのままワープした特異なキャラクターとして、芸術家バー「カヌー」の弾き語りから、ハリウッドヘ飛び火したホキ・徳田をあげなければならない。
この時代、ダイレクトにハリウッドの裏側へまで踏み入った人物は、たぶん彼女以外には存在しないだろう。
時代の風がどのようなキャラクターに宿るのか?という設問は、人間と社会を考えていく場合のごくオーソドックスなポイントであり、新宿からニューヨークヘ至る道すじがエルビン・ジョーンズだったとやや強引に措定したとすると、新宿からハリウッドへの道すじは、短い間の新宿滞在、つまり「カヌー」のピアノを弾いていたホキ・徳田によって通じていたことになるのである。
ホキ・徳田が新宿二丁目の「カヌー」にいたのはごく短い時期で、八ヵ月ほどだった。
そのあとすぐに、ホキ・徳田はマスコミから「プレイガール」などという名称をおくられている。
そのころのことを麻布の喫茶店で、ホキ・徳田は苦笑まじりにいった。
「あれは、某テレビ局のイージーな企画のためにつけられた“タイトル”のせいなのよ。私にテレビで野坂昭如さんと対談しないかという企画が持ち込まれたわけ。まさかね、プレイガールなんていうタイトルがつけられるなんて知らずにテレビ局に行ったのよ。そしたら当時の野坂昭如って『プレイボーイ』なんていうまるで似合わないタイトルで売り出し中だったから、それに対する『プレイガール』としていきなり私をぶつけたのね。私? プレイガールなんてとんでもない。ごくまともな恋愛観を持っている女よ。野坂昭如さんだって、アメリカでいうプレイボーイなんてすごい男じゃないでしょ? アメリカでプレイボーイなんていったら、お金も、力も、才覚も超一流のすごい男。女も、プレイガールといったら立派に自立している女性のことなわけ。それにその対談では、何を焦ったのか野坂さん、一方的に、あの早口で喋《しやべ》りまくっちゃって、私に何も喋らせないで、終わってみたら私は『プレイガール』にされていたわけ」
ホキ・徳田は「カヌー」のあと、六本木の「ガスライト」や「キャンティ」、そして若き中曽根康弘や石原慎太郎、浅利慶太などが集まる「易俗化」などでも弾き語りをしている。
昭和四十年、「カヌー」が終わり、「まえだ」の時代がはじまり、「ピット・イン」の時代が幕をあけたころ、ホキ・徳田という特異な、弾むような感性の女性は、あまりに日本的なプレイガール(イージーガールというほどの意味)の名称に苦笑し、アメリカ西海岸へ飛ぶことになる。そして、ヘンリー・ミラーと出会うことになる。
――あのころ、ホキ・徳田さんは日本でヘンリー・ミラーを読んでいたのですか?
「とんでもない。まったく一行も読んでないのよ。変なおじいさんで、すごい作家だというでしょ? それで日本でも翻訳されていると聞いて送ってもらって読むのね」
麻布の喫茶店の奥で、年齢不詳の彼女は明るく笑う。まったく屈託のない笑顔だ。
ヘンリー・ミラーの作品がはじめて大衆的に公開されるのは昭和四十年。集英社版『世界文学全集』で『ネクサス』が発売されるや、長く手にすることが困難だったこの作家と作品は書評新聞や文学雑誌でとりあげられる。新潮社が『ヘンリー・ミラー全集』を刊行するのも同年の三月であった。
ホキ・徳田をヘンリー・ミラーに紹介したのは、ハリウッドの大プロデューサー、ジャック・カミングスであった。『略奪された七人の花嫁』『カンカン』『八月十五夜の茶屋』などの作品を手がけている。
ジャック・カミングスは、サンセット・ストリップ(路《みち》の名前)の「インペリアル・ガーデン」で弾き語りをしていたホキ・徳田にいった。彼は東京でホキ・徳田を知っていた。
「やあ、ホキ、お願いがあるんだ、ピンポンができるかい?」
ホキ・徳田はカナダ留学で英語はペラペラであり、そのうえピンポンの選手だった。
そして、その対戦相手がヘンリー・ミラーだったのである。
場所は20世紀フォックス社のお抱え医師リー・シーゲルの邸宅である。
ヘンリー・ミラーはピンポンが滅法強い。このときの第一戦から、ヘンリー・ミラーは、東洋の妖精《ようせい》としてホキ・徳田を愛するようになる。
文豪はハリウッドのパーティーにホキ・徳田を連れて歩く。
いずれも、若いホキ・徳田にとって驚くだけではすまないほどのスターのいるパーティーである。
あれーっロック・ハドソン、ひやぁーっトニー・カーチス、よよーっフランク・シナトラ、たははっジョージ・ハミルトン、へれほれっミア・ファロー、むむっナタリー・ウッド、ローレン・バコール、メリナ・メルクーリ、文字どおりキラ星のごとくスターがぞろぞろといるパーティーなのである。
ホキ・徳田が体験したハリウッドとは、おそらく世界水準のすごさであったろう。
日本という特殊アジア的な歴史を引きずる国の首都の、銀座も、赤坂も、六本木も、歓楽の水準としてはお話にならない。東京の虚飾も欲望も、すべてみな質素に見えるポイント、そこに至る新宿二丁目からの道すじがホキ・徳田という人格を媒介にして成立したのだった。
さて、話を新宿歌舞伎町にもどさなければならない。にぎやかな一九六〇年代のもっとも騒がしい瞬間は「ピット・イン」が開店した年の三年後にやってくる。一九六八年十月二十一日、国際反戦デーの夜、新宿駅は二万人とも三万人ともいわれる学生や若者たちで騒然とする。駅舎は燃え車両も燃えた。
歌舞伎町はいつものように夜をあざむくにぎやかさだったが、駅に集まって、米軍用の燃料タンク車を立ち往生させた群衆のなかには、日ごろの憤懣《ふんまん》を爆発させるために飲み屋から出撃し、石ころなどを気が済むまで投げ、また飲み屋へ帰ってきて、運動のあとのビールを飲むようにうまい酒をあおった連中も多かったのだった。
歓楽街が権力に抗する市民たちの出撃拠点となる歴史的なエピソードは、パリ・コンミューンの例などに認められるが、この瞬間、歌舞伎町は民衆が、日ごろのウサをはらしにくる気分そのままに、機動隊にむかって石を投げ、ウサをはらしたのだった。この夜、騒乱罪が発動され、群衆のうち、土地カンのある者は飲み屋街に逃げた。酒と女と反権力の気配でひどく盛りあがった店が多かったといわれる。
歌舞伎町をめぐりながらひとつの時代に長くとどまりすぎたようである。それらはいまだに現在を規定する過去だけれども、やはり、歓楽街の現在は、そうした過去を未来へ投げ出し続けているという意味でスリルに満ちている。
ゴールデン街から区役所裏のあたりに、私はさまよい出る。このあたりのバービルの看板も入れかわりが激しく、昨夜まであった店が、今朝はつぶれ、また別の店が花輪の数も誇らしげに開店される。
一ヵ月ほど前に自分の店を手放した男に会うことができた。区役所裏の路地に面したバービルの二階、ごく普通の、値段も決して高くないバー「D」を経営していた男である。
年齢は三十七歳、山形県出身で大学一年のころからバーテンのアルバイトをやり、三十二歳で広さ十五坪ほどのスナックを持つことができた男である。名前を仮に岩田慎悟としておく。気さくな人柄で客にも好かれ、店も繁盛していたという。しかし、運命はどう転がるかわからない。
――博打《ばくち》に手を出したか何かして、店を放《ほう》りだしたわけ?
「ははっ、仕方がないんですよ、店を持ったのも兄貴のおかげ、店をなくしたのも兄貴のおかげなんだから」
岩田慎悟は苦笑まじりに語った。区役所裏の喫茶店ルノアールで、彼に会っている。彼のスナックはむかいのビルの二階にあった。
――兄貴っていうのは組関係の兄貴のこと?
「ほんとの兄なんだけれども、その兄がヤクザに足を入れていたもんだから、まあ、二重の意味で兄貴分なのかな。いや、俺《おれ》はヤクザじゃないですけどね。兄はかなりうえのほうで、組長クラスの人の兄弟分でした。一度足を洗ってたんだけど」
岩田の家は山形の農家である。サクランボ園と田をやって暮らしは中の上ぐらいの生活だったが、岩田の八歳年上の兄は高校で関西のベアリングの会社に就職する。
「ちんまり会社員なんかやってられない性格で、大阪でヤクザの組に入るんですよね」
山口組系、大阪のミナミを縄張りとする組織だった。しかし、五年ほどで足を洗い東京へきて、タクシーの運転手となって働く。
「そのうちに、乗せた客が中学時代の悪ガキ仲間の親友だったわけね。当時で三十五歳ぐらいのときかな。ところが、その友人がヤクザの幹部に出世していたわけ」
この関係で岩田の兄は組へ引っぱられる。格は幹部の兄弟分、いわば元ヤクザがあっさりと再就職してしまったわけだった。
「やっぱり才覚っていうのがあったのかなあ。兄はルーレットのハウスをまかせられて、これが稼ぐんですよ。そのうちに、博打のカタに店をひとつまきあげたんです。その店をまあ俺にやらせた。俺はそのころ、クラブの支配人してましてね。いきなり店を持てたんですから、ちょっと夢のようでしたよ。それが五年前か。そのときに、前の店の持ち主は泣いてるはずですけれど、この水商売の世界で、バーテンあがりの男が店を持つなんて、ほとんど夢ですからね。泣きをみてる奴《やつ》のことなんか考えてるゆとりなんかないんですね。それで、兄貴さまさまで店をやったわけです。かたい商売の店ですよ。ボトルが八千円ですから。店もよく客がついて、あのまんまいってたら安定できたでしょう」
組員となった兄は店へは一度も顔を出していない。表むき岩田の店はごく普通の健全な店として繁盛していた。
ところが、昨年の二月、岩田の兄は突然行方不明となる。そして、岩田のところへは組関係から五千万円の借金の取り立てがやってくるのである。
「こっちは何が何だかわからないですよ。兄貴はとにかく組の金を踏み倒してトンズラしたというらしいんです。聞いてみたら杉並あたりの不動産取引に手を出していて、組の金や、俺の店を担保にした五千万円の金もつぎ込んで、大きくもうけようとしていたらしいんですね。それがしくじっちゃって、兄貴自身がにっちもさっちもいかなくなって、トンズラしたわけですよ」
岩田慎悟は腹を決めて、取り立て屋に応対した。およそ八ヵ月間、兄貴の借金だから知らないの一点張りで、どうにか撃退した。
「歌舞伎町の金っていうのは現実的じゃない」
というのは、店を持ち、失った男のいま現在の感慨であった。
私たちはサラ金の取り立てがかなりしつっこく、かつあこぎなものであることを知っているけれども、この世界のこげつき貸付金の取り立てはそれよりも数段しつっこく嫌ったらしく、しかも暴力的だ。
兄の不始末で発生した五千万円の借金のうち、直接に組から借りた資金は二千万円である。
「それがね、笑っちゃうんだけれど、組に三千万円もうけさせるといって二千万円借りてたらしいんですね。だから合わせて五千万円だというわけ。その約束が果たせないので全部ひっくるめて借金にすると兄貴は実印を押したらしいんですね」
岩田慎悟は細面の端整な顔をゆがめるようにしてかすかに笑った。
――どうも計算がすごいね。整理してみますか。だって、あなたの兄貴自身は、自分のお金を動かしていないじゃないですか。全部が借金だ。弟のあなたの店を担保にしたお金と、組からのお金ですからね。いったいお兄さんはどんなことをしようとしたのか。
「私もいろいろと想像しましたよ。とにかく私の店を担保にして信用金庫から二千五百万円借りている。これはオフィシャルだから確かです。それに大家から五百万円、そして組から二千万円の金を引きだした。このときははじめから借用書を入れたのじゃなくて、いわば組の金を運用しただけのことです。つまり兄貴は五千万円を投資して、一億円ぐらいは手にするつもりだったんでしょう」
――その二千万円は業務として運用したわけだな、つまりヤクザの業務としてね。
「笑っちゃいますけどね。それがトンズラする半年前ぐらいだから、すぐにでももうけるつもりだったようですよ。その三ヵ月後に信金から金を借りてるわけです」
――君の店の登記書とか、どうしたわけ?
「これが弟をあざむく手口。写しをとるからちょっと貸せといって、半日ほど持っていったわけね。そのときにコピーとすりかえてるの。それから三日後に私のいない夜に女房のところへあがり込んで、実印がどうなってるかなんてとりださせて『ちゃんと大事にしまっておけ』なんていっていながらスリかえてた。ひどいのなんのって、まったく詐欺かヤクザのやることですよ」
たまらなくなったらしく弟は大笑いした。
――そういうことが平気でできる兄貴?
「いや、違う。弟の口からいったって信用できないかも知れないけれど、まともな男ですよ。絶対人を裏切らないですから」
――ふーん、失礼ですけど、お話の限りではとてもそんなふうには……。
「だからさ、弟の立場でいうと、今回だけはよほどつまったみたいなんですね。ヤクザ稼業をやっていて、自分の名義で財産を持ってても、いつパーになるかわからないから、お前の名義で(財産を)ためるからな、といっていたんですからね」
――そうか、そういうこともあって、あなたに店をやらせていたわけね。
「登記なんかも自分でね、博打でとっても自分でちゃんとしたんですよ」
――はいはい、だから、お兄さんが登記書を見せろというと、弟のあなたはすぐに手渡したりしたわけですな。
「はい、そして封筒のなかも確認しなかったんですね。それが結果的にまずかったんですけれど」
――それで、どういう不動産取引だったのかわかりましたか?
「よくわかりませんね。事故物件か何かをつかまされて、引きまわされたのじゃないのかな。つまりね、担保になっている物件の担保を抜かないと売買できないような物件を持ち込まれて、脅しでケリつけて、そのうえでもうける手口のつもりが、むこうに完全にはめられたんじゃないのかしら」
――相手のほうもヤクザ絡みの。
「そうかも知れないですよね。四、五千万円のお金を動かして、すぐに三千万円はもうかるっていう話の物件だったらしいもの」
値上がりが激しい場合の土地取引では、土地を担保にとっている債権者が、土地そのものを手に入れようとして、さまざまな権謀術数をくり広げ、なかなかに食えない狐《きつね》と狸《たぬき》のだまし合いのようなドラマを演じる。また、担保を抜けばすぐにも売れるという物件では、担保の肩がわりを買い手が引き受けるけれども、そのような取引の場面で、さらに担保額が引きあげられたりする。債権者と登記者がぐるになると、新たに登場した買い手は引きまわされることになる。
「なにしろ土地が暴騰しているころだから、慣れない不動産取引で、兄貴はしくじったわけですよ」
――で、借金の取り立ては、やっぱりすごいのでしょうね。
「それはすごい。いろいろな組員がローテーションみたいに来たけれど、いよいよだめとなったら、最後には、兄貴から連絡があるんじゃないかって、若い者が一人私のアパートに完全に入り込んでましたよね。私もシカトしてとぼけてね、留守番がいるみたいなもんだなんて。その若い者は前から知ってるから、四つの子ども、男の子ですけど、それの面倒見させて女房も夜の仕事にだしちゃった。そのあと、山形の実家へも借金とりが行ってますよ」
――組に残した借用書の保証人とかは?
「これがどこか真面目《まじめ》じゃないとしか思えないけれど、その組の幹部たちなんですよね」
――結局はひとつの組の身内の話か。
「やっぱり、ああいう世界にはそういうところありますよね。金が取れそうならよそから取ってくるんだけれども、どうにもならなくて、それが不可能だということになると組のなかでチャラになるらしいです」
――指をツメたりしないのですかね、いまは。
「お金になりませんから。お金プラス小指一本ではじめてケリがつく。指だけツメたってだめなんですよ、この御時世ともなると」
どうも取材のやりとりのなかで、よくわからないところが、あちこちに見えるけれど、なにかもうひとつ、背後にある事情をこの人物は伏せて喋《しやべ》っているのかも知れなかった。
――山形の実家まで行った人というのは?
「取り立て屋なんですね。“斬《き》り取《と》りの正”っていう人なんですよね。コゲついた借金を専門にやっている」
――その昔、サルベージ屋なんていっていた恐《こわ》もての連中か。
「山形でも泊まり込みですよ。何しろはじめは五千万円を丸ごと取り立てるつもりだったわけです。母の前でだいぶ凄《すご》んで、そのうちに組のほうがやっぱり身内のことだというんで引きさがっちゃって、拍子ぬけしたらしいですけれどね。母は勘当した息子のことは知らない、の一点張りでとうとう一ヵ月で追い払った。うちでめしを食った分だけが斬り取りの正って人の収益だったことになる」
――お母さんも気丈な方ですね。
「親父《おやじ》が死んで、まだ若い一番下の弟夫婦とで百姓していますからね。母が応対したのがよかったんでしょうね」
――ということは、結局あなたのお兄さんが作った借金のうち、店を失っただけで、ほかは肩がわりしないで済んだことになる?
「大家さんからの借金の保証人が、兄貴が勝手にハンコ押したものにしても、私ですから、五百万円だけは残ったけれど、これは組の、兄貴の兄弟分の人に話をつけてもらって、月額五万円ずつ払うということにしたわけです」
――百ヵ月の月払い! 八年とちょっとかかる。
「この話で、動きは全部終わったわけ。でもね、私は知ってるわけね。組の、兄貴の可愛がってた若い者が教えてくれたけど、斬り取りの正って人が動いたときに、兄貴の兄弟分が承知していたってことね。その兄弟分も、取れるんなら、取り立て屋使ってでも実家を揺さぶって金を取ろうとしてるんですよね。結構しっかり欲張ってるんですよ、あの世界は」
――どうも、浪曲に出てくる悪玉のヤクザの親分のようで。
「身内でも取れるものならやってみるんですよ。やっぱり組のほうもお金を回してるからそれはシンドイですからね。会社に損させても、サラリーマンは首になるだけだけど、あの世界は身寄りの者からでも取れるものならいただくという」(苦笑)
――いまごろ、お兄さんはどうしてますかね。
「嫁さんと一緒だから、女房をソープランドか、温泉芸者にでもだして、どこかで食ってるんじゃないのかな。北海道か九州で」
降って湧《わ》いたような狂騒劇ではあったが、歌舞伎町でいい顔をしていた男が一人消えて、ことは結着したらしいのだった。
とどのつまり岩田慎悟の兄がしたことは、もともと博打《ばくち》で得たあぶくのような金で弟に店を一軒与え、もうひともうけ、あぶくのような金を得ようとしてしくじり、自分自身をあぶくのようにかき消してしまったということにつきるのかも知れない。
岩田の兄の扱う金には、虚構に近い賭博の金や、これもやはり取引の手つきや、利益までフィクションめいてしまった「土地」の金が介在しているため、行動それ自体があぶくのように実在感に乏しくなっているようである。
本来、ヤクザ渡世とは肉体を張って生きるとされており、ドスを振りまわしてのデイリ、抗争ともなれば血しぶきも飛び、命のひとつやふたつあっさりとかき消える。そのあたりが、生業という土台を持たず、宙に浮いた彼らが血や肉体を根拠につかんでいるリアリティである。
少し理屈めくが、ヤクザの凄《すご》みの源泉とは、肉体や命をメタファ(そのものではなくたとえられたイメージ)のように扱い、
「腕の一本や二本なくなっても、刺し違えで命をやりとりしてもかまわねえぜ」
などというところに発生している。
まさしく「はったり」である。つまり、はったりのカタに肉体と命のイメージを撒《ま》き散らすわけである。一般人にとってこれほどやっかいなことはない。常識では取引材料にはならない人生の原資のようなものがぬっとつきつけられるからだ。かなわないと思う一般人の側は、彼らのメタファ的な脅しに屈することになる。こうしてヤクザは社会に居場所を確保し、はったりとしてのメタファを幾重にも装飾して、仁義やら任侠道《にんきようどう》やらを練りあげ、補強してきたわけだった。
そしてそのあげく、追いつめられてくると、メタファに逆襲され、現実に肉体を傷つけ、命を失う場面に立ちいたらざるを得なくなり、本当に命を失うことも起きてくる。
このことを、
「いつもいっていたとおり、命をかけて死んだから偉い」
と見るのは彼らの術中にはまった見方である。むしろ、生きるうえで「はったり」などに使ってはならないものを用いたあげくの、無惨な死が、彼らの死の実相である。
彼らの生き方とは、肉体や命の消滅をメタファとして撒き散らし、現実とメタファの間を巧妙に往来して使い分け、彼らなりに出世していくことにある。この渡世のコツとは、この往《い》ったり来《き》たりのバランス感覚、はったりと現実との往来の術《わざ》にある。くたばってしまった者とは、メタファの扱いがヘタクソだった頓馬《とんま》にすぎない。自分の実人生をメタファに使い、しくじったヤクザだけが、生身をメタファにささげるはめになる。
「ヤクザ渡世の修業」
とはよくいったものだ。
脅しのメタファを自在に操作するためには、ほかの稽古事《けいこごと》と同様に、いわくいいがたい修業の年期が必要なはずなのである。その修業に命がけの根性や度胸が必要なのも、ほかの稽古事と同様である。それをやりおおせた者がいっぱしの親分となる。それが証拠に、どの広域暴力団の親分衆も見事に生き抜き、しくじったヤクザは「偉い」などと賞賛されるものの、もはやこの世にはいないのであった。
彼らの集団、組織同士の争いごとは、以上のようなヤクザセオリーを織り込みながら展開されるが、要するに勢力争いであり、政界や、経済界のシェア争い、宗派間の争いなどと本質的に変わらないのは当然である。
こうしたヤクザ世界のなかで岩田の兄は、
「ヤクザ渡世なんて、もう知らん」
とばかりにトンズラした。
どうもヤクザで生きていく本質を見抜いた身の振り方のように思えてならない。ヤクザのアイデンティティがメタファであると見抜けるのなら、現実の自分をかき消して、空虚《うつろ》となればいいとの知恵も働こう。メタファとうつろをいくらかけ算しても零かける零は零。組に作った五千万円の借金もチャラとなる。しくじったヤクザ者が生身をメタファにささげるという馬鹿《ばか》な役まわりからさっさと降りたわけで、どこか、さきにふれたキャッチ諸兄の人生の方法と重なっているように思える。
しかし、キャッチ稼業と違う点は、ヤクザ世界の追っ手はしつっこく厳しく、闇《やみ》のネットワークが張りめぐらされ、不始末をしでかした者はどんなに逃げても早晩その網にとらえられるところだ。
岩田の実家に財産がある限り、組織は彼を追い続けるのではないのか。
岩田慎悟の話がもうひとつ明快でないのは、金に関する限り、いじきたなく執拗《しつよう》なヤクザ世界の生理を知っている者が、それを恐れて無意識のうちに言葉をにごしているためかも知れなかった。
歌舞伎町にはいま現在、およそ三千人の暴力団関係者が棲息《せいそく》しているといわれる。その生態についてはのちにふれるつもりである。
彼らもまた欲望の街の重要な群れだからだ。
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第八章 女たちの輪舞《ロンド》
歓楽街へ流れ込みいずこかへ消えていく男ども同様に、この街区にはおびただしい女どもが流れてくる。
彼女たちの演じる人生も、起伏に富み予断を許さず、波乱万丈、男に出逢《であ》いまた別れ、傷つき傷つけ、巨大なエネルギーを放射する星雲を生み落としているのだった。
すでに水商売に働く女性が、特異な業界の従事者であるという社会規範は消えている。キャバレーや、バーやクラブやスナックやパブや、そのほかありとあらゆる場所に、ありとあらゆる経歴の女性が流入しているのは、どちらさまも御承知のとおりである。
そして、彼女たちのサービスを受ける客の立場として彼女たちの身の上話を聞いたところで、どこまでが真実でどこまでが嘘《うそ》なのか判然としないことが多いのも、誰《だれ》しも経験していることだと思う。
そこにはあまりにありふれた物語が、しかしながらひとつひとつ微妙な差異を露《あら》わにしながら生み落とされていくのである。
彼女たちは自分についての物語を、時とともに変え、話す相手によってアレンジしなおし、自己像を微調整しては明日にむかって生きていく。はしっこく、せこく、と思いきやあきれるほど正直に、あるいは大胆に、彼女たちは計算式をたて、設計図を引き、あっさりと愛に身をささげ、いつかは家庭におさまり、あるいは玉の輿《こし》に乗り、かと思うとすべてにしくじり、歌舞伎町にとどまるにしろどこかへ消えるにしろ、自分の人生を切実に生きていくというわけである。
こうした物語をあらためて“取材”することの一種のおろかさを自覚しつつ、私は取材の立場で一人のホステスに対面した。
したがって、客として耳にはさんだ物語ではなく、以下の物語は、彼女が取材者にむかってアレンジした物語である。
あらためて歓楽街に働く女性に身の上話を聞くことの奇妙な新鮮さにとまどいつつ、このインタビューは進んだ。
その女性は色の白い、小柄な、髪をボーイッシュに短くした、大昔ならヘップバーンカット、いまなら刈り上げふうヘアスタイルにダイヤの小さなイヤリングを光らせて私の前に現れた。
新宿西口の住友ビル、はるかに高いフロアにあるそのレストランに遅い午後の光が差し込み、彼女のイヤリングの小さなダイヤはよく輝いた。歌舞伎町暮らし二十年、年齢どおり落ち着いた身のこなしで席についた彼女はベージュのカーディガンをひらりと肩からはずして頭を下げた。息がはずんでいる。十分ほど予定時間に遅れた彼女は、このビルまで小走りに来たらしい。白いブラウスの胸をはずませていた。
「三島弘子という名前を考えてきたんです」
とはずむ息のままいった。
電話での会話で本名を伏せること、仮名で取材に応じるという条件が確認されている。その仮名を彼女は私に告げたのである。
彼女はよく名前を変える。もちろん店に出ている名前だが、実際の人生でも三度結婚して姓が変わっているという。ただし、一度めの結婚は出身地の鹿児島でのこと。歌舞伎町での結婚は二回、したがっていまは三度めの歌舞伎町ホステス暮らしとなる。この結婚回数が彼女をとりあげる理由ともいえるが、それよりも、タフに生きてきた彼女の物語が一例考察、ケーススタディとなると思い、そのことは取材交渉のときに本人にも伝えてあった。歌舞伎町暮らし二十年とはいえ、彼女は出たり入ったりしていることになるので、
「結構古いですけど、途中が抜けてますから実際は十年ほどしかホステスはやっていないんですよね。あのマスターが、ずっと新宿で働いているので、結婚に失敗するたびに、あの方の紹介で舞いもどってるわけです」
――そのたびに名前を変えて店に出て、まるで小林旭の歌のようですね。
「あのマスターも転々としてますからね。古いお客さんも何人かついていますけれど、気分も変わっちゃってるから、名前も変えたほうがいいみたいですよ」
会話に出てくる「あのマスター」とは五十歳代の人物で、彼女を紹介してくれた歌舞伎町の|ぬし《ヽヽ》のような人物である。
「どこからお話ししましょうか」
運ばれてきたビールのジョッキを前にして三島弘子は首をかしげた。
――身上調査のようで申しわけないですけど少女時代からうかがいたいですね。あのマスターのお話ではずいぶん若いころに結婚なさっているそうですから。
「三十九年だから十八歳のときね。そう、私昭和二十一年生まれの戌年生まれ。もう年齢わかっちゃっても仕方ないですよね。順を追って話すのだったら、そのうちにわかっちゃうものねえ」
ビールをぐいと飲み、額の髪を手ではらうと彼女は元気な笑い声をあげた。少しハスキーな声なのは、やはり酒で荒れたせいかも知れない。
三島弘子は鹿児島市内に生まれた。西鹿児島駅近くにいまも地所を持っている昔からの材木商の次女だが、
「あんまりくわしくいうと誰だかわかっちゃうじゃない」
というわけでそれ以上は話してくれない。
中学、高校と成績は悪くはなかった。しかし、行儀よくしていられる性格でもなく、なにしろ一刻も早く大人の社会に入りたい女の子だった。
「といっても、おませで恋愛にあこがれるっていうのでもないのよ。もう学校なんか退屈だから実社会に入りたかったわけね」
叔父が魚市場の仲買商をしていたので、学校へ出る前によく店を手伝った。
「高校一年のときから四時起きしていたの。まったく貧乏な家じゃないのよ。魚市場での取引が面白かった。だってキロ三百円で仕入れた魚が三百五十円で売れていくわけだから。当時百円札よね、それの束をいくつも作って品物を動かして二割、三割のもうけで売れていくんですから、活気もあるし真剣勝負だし、雑用しながら眺めているだけで胸が躍ってきちゃうじゃない」
かわいらしい小柄な美少女は男の子たちに人気でラブレターをもらったりするが、
「こちらが大人のつもりだから完全に無視。まったく高校生なんか相手にしないの。ニキビ面の高校生なんか、まったく冗談じゃない。早寝早起きのいい子なんだけれど、いいつけ守ってるんじゃなくて、相場が面白くて早寝早起きしてる、そっちのほうで早熟の少女だったんでしょうね」
と目を輝かせていうのである。
――しかし、それは大人の男性を恋愛の相手に求めるというタイプの女の子の心理にも通じるんじゃないですか。そういう子はいますよね。子どもで世間がせまいから教師にあこがれて初恋の相手が先生になるといったタイプの子だ。
「それが常識よね。だけど魚市場の若い衆といっても、当時は親父《おやじ》さんに頭があがらないわけでしょ? そんなにステキには見えないのね。セリに立ってる親父さんのほうがすごいと思うわけ。プロにあこがれてたのじゃないのかなあ」
叔父の家には子どもがいなかった。弘子が高校三年生の春、叔父の妻の親類筋から大学を卒業したばかりの男が迎えられた。弘子とは血のつながりのない、またいとこにあたる。しかし、養子ではなく叔父の店に就職しただけだった。
「自然に私と結婚させて跡取りにしようという魂胆だったんでしょうけれど、私はまるでそんなふうに頭がまわらない」
この男が小型三輪車に魚を積んで鹿児島市近郊の村を廻《まわ》る移動販売を命じられる。保冷車もなく、まだ道路も悪く、鮮魚の流通はいまのようには動いていない時代であった。叔父の着想はうまいところを突いていた。
「だけどその人、さっぱり売れないの。魚の商売ってのは勢いで売るものなのに、まあ、気が弱いところがあって、もじもじしてたのね、きっと」
そこで、高校三年生になる春休み、商売に興味津々でいた弘子が助手席に乗り込んで村々を売って廻ることになった。自分から志願してはじめたというから、元気いっぱいの少女であった。そして、それが売れに売れた。
「村に入っていって、鐘を鳴らして、ほら昔のカランカランていうの。小学校の鐘みたいのね。いらっしゃい、大安売り!って、活《い》きのいい魚の大安売りと、やったわけ」
村をふたつまわって午前中で売り切れ、もう一回仕入れて午後には完売という売れ行きだったという。
――魚をさばいたりして、大変じゃないのかね、包丁の扱い方なんかできたのですか。
「そのころは切り身を仕立ててやるなんてなかったのよ。家で誰でもさばけてたから。新聞紙にくるむ、鍋《なべ》を持ってきてるからそれに入れてやる、そんなんでいいから、声だして元気していればいい」
一日の売り上げが四万円、五万円という。大学卒の初任給が一万三千八百円というころのことである。
十七歳の元気少女はこの仕事に目の色を変えて熱中する。体が熱くなり、夢中になって、以後、この感覚を求め続けることになるのだった。
「それはすごかったんですよ。私が同乗して火がついたように魚が売れた。お客さんのほうも私たちの車を待つようになったんですね。そのうちに、呼び込みのセリフも『鹿児島市中央市場からの直送販売』なんていうようになったわけ。ちょっと聞くと市場が直接販売しているみたいないい方でしょ?」
いわゆる“行商”の常識を破った三輪車での移動販売は、一週間ほどの元気少女の実績で、かなり脈があることを証明したのであった。
鮮魚を満載した三輪車は砂利道の悪路を進んだ。中古の三輪車であった。
「ひどいポンコツなのよ。ガソリンタンクに穴があいたのも知らずに二、三日走りまわって、すぐガス欠になったりしたのよね。荷台に氷を積んでるので、タンクからガソリンがもれているの、水なのかガソリンなのかすぐにはわからない。あんまりすぐにガソリンがなくなるんで、下からのぞき込んだら、ポツンポツンポツン、ガソリンがもれてた。それでも引き返すのがもったいないの。なにしろ行けば必ず売れるんですもの。それで、石けんをその穴につっ込んで走ったこともあった」
叔父も目の色を変えた。こんなに売れるのであれば、三輪車の台数を増やすべきである。
そのころ登場しはじめた超小型三輪車、ダイハツの“ミゼット”の中古車が新たに投入される。そのうちに、三輪車の移動販売が当たっていることが市場の仲買商の若い連中の間で評判になる。
「俺《おれ》もやってみたいっていってくるわけね。それで、台数を増やしていくわけ。のぼりをつけて、五台、六台とトラック部隊が出撃していくことになったわけ。私はもう有頂天よ。国道を走っていって、分かれ道のところであっちの村へ入れ、こっちの村へ行けなんて命令を出して」
仕入れは叔父が担当している。三島弘子らのトラック部隊は、倍々ゲームで売り上げをのばしていく。
「一台分の売り上げが、五万円から六万円でしょ? 当時は千円札、五百円札、百円札の時代、だから夕刻に全部の売り上げを計算するのが大変だった。八台ぐらいの小型三輪車が走りまわっていたから、四、五十万円分のお札を数えなきゃならない。しわくちゃのお札をアイロンをかけてのばすのね。これがすごく興奮するのよねえ。一枚一枚、アイロンでのばして、十枚ずつ束ねて」
いつの間にか、学校どころではなくなってしまった。三月の春休みにはじまった移動販売が五月ごろには大当たりとなり、弘子は学校を休んで熱中する。
「どうしても家業を手伝わなければならないなんてさあ、学校に泣きを入れてね。あのころ家の仕事で学校を休むっていうと、大目に見てくれたものね」
鮮魚の流通がこのころを画期に様変わりする時代。そして、いまから想《おも》えば、あまりにもささやかで小さな三輪車を突破口にして、モータリーゼーションの旋風が日本の津々浦々にまき起こりはじめた時代だった。
そのころ、やはり家庭に行きわたりつつあった白黒テレビでは、関西キー局から流れるダイハツの提供番組が爆発的な人気を得ていた。
大村昆はずり落ちる眼鏡の奥の目を大げさに白黒させて、
「みなさまのミゼット、愛されるミゼット、走るミゼット、何でもミゼット、誰《だれ》でもミゼット、ミゼットのミゼット」
と小型三輪車を連呼していた、あのころのことである。
道路という道路が砂利道のデコボコ道であったころ、自動車が貴重品であったころ、山間の村々にとって鮮魚は手に入りにくい食べ物だった。
三島らの小型トラック部隊は薩摩半島の南部のシラス台地を、火山灰をまきあげて走りまわった。主戦場は川辺郡の山間地であった。国道二二五号線を南進し、知覧、川辺、高田、永山、東別府、新牧、農家が目に入ればトラックを止め、
「中央市場からの直送販売でぇす」
と大声で叫んだ。
といって、山間部を突きぬけて、開聞岳が見える南岸まで行ってしまえば、魚は売れない。海辺の村では前の海で獲《と》れる活《い》きのいい魚を食べている。商売できるのは、あくまでも山間地なのだった。
「半年ほども好調だったかしら。学校もそんなに休めないので、トラックに乗ったり降りたり、お金の計算をしたり。そのうちに地元の魚屋さんともめごとが起きちゃった。それはあたり前よね、わずかでしたが、ちゃんと魚屋さんが営業していましたからね。そこへトラック部隊が行くんですもの、これまでの商売をしていた地元の魚屋さんはたまらないわけですよ」
そのころになると、鮮魚の移動販売がいい商いになるのは誰が見てもはっきりした事実となっていた。トラック一台分の資金と最初の仕入れ代を持てば、誰でも参入できるこの降って湧《わ》いたような流通の新市場に続々と新手が登場し、山間の村々へ進撃していくようになる。
とりわけ、川辺郡では衝突が激しくなっていく。
「感情的にも熱くなっちゃって、地元の魚屋さんとやりあうことになっちゃった。よそものの魚を買うな、なんていう地元の魚屋さんと、品物と値段で勝負しようっていう移動販売のグループとがぶつかり合って、新聞なんかも書きたてるの。私たちのトラック部隊だけで、村の魚屋さん五、六軒はつぶしちゃってるわけだからね。この話、地元の新聞を調べたら、私が誰だかわかっちゃうわよね」
その秋には、弘子は、大学卒の親類筋の若者と早々に結婚しており、ずいぶんと若い鮮魚商の女将として新聞に登場しているのだという。
新聞は川辺郡の魚戦争と、この一件を大々的に書きたてていた。若い旦那《だんな》さんも、あまりの業績の好調さでそれまで気乗りしなかったこの商売に打ち込んでおり、商売のスリルを味わって目の色を変え、弘子にとってはなかなかたくましい男に見えたのである。
「波に乗って前へ進んでいる男っていうのはやっぱり輝いて見えるから、私は文句なく結婚しちゃった」
だが、移動販売のほうは、弘子が結婚したころを頂点に下り坂となっていく。まるで経済法則をそっくり表現したように過当競争の状態になるのである。業界にとっても、仲買商の大人たちにとっても、それまでの顧客であった小売店とトラックの移動販売との争いは見過ごすわけにはいかない問題になった。
「早かったですよ。一年半ぐらいで、鹿児島県にトラック販売の車が増えて、地元小売店との競合よりも、トラックどうしの競合でうま味がなくなっちゃったんですよね」
売れ残りが出はじめる。エンジンをうならせて峠を越え、やっとこさたどりついた戸数十戸ほどの集落に着いてみれば、さきにほかのトラックが来ていて、引き返すところ、がっくりとして次の集落へ行けば、そこでもまたほかのトラックとはちあわせということになる。
「あっけなかったですね。移動販売といっても、結局五年も続かなかったみたいね。トラック一台にひとつの集落というように落ち着いちゃって、お札をアイロンでのばすなんてことは二度と起きなかったわけ。うちの場合も小型三輪車を十五台まで増やして、あとは八台、五台、三台と減らすことになる」
結局は移動販売の適正規模が、市場メカニズムから確定されて、ブームは去ったのである。
弘子は二十二歳になり、子どもが一人生まれていた。
この間に叔父の家を継ぐことになっており、養子夫婦の弘子たちは、鮮魚仲買商としての人生を歩むはずだった。
「だけど、それができないの、私はね。なんだかそれまでは気にならなかった夫の気の弱さとかさ、商売でも手堅すぎるっていうか、トラック商売が好調なときには、すごくはつらつとしていた男が、あんまり冒険しなくなって落ち着いちゃって、安心一番のお父さんみたいにこぢんまりしちゃうんだもの。あのころスーパーかなんかに進出して、またね、商売の緊張感が生まれていれば、私もおさまっていたんだろうけれど、退屈しちゃって死にそうになるのね」
やはり気性なのである。鉄火場のようなきわどい熱気、日常の平穏に退屈し、毎日が祭りのように沸騰していないと飯もまずくなってしまう一種の魅せられた魂が三島弘子の胸中にうずくまっていたのであった。あるいは、小型三輪車の運んでくる魚くさくしわくちゃの札の山を前にして、育ってしまった魔性、小市民の人生にとってはときに危険な波乱を起こす元気の根っこのようなものが若い母親をつき動かす。
ときは昭和四十一年、流通業界が近代化され、スーパーマーケットが出現しはじめ、保冷車も数を増やしはじめて、鮮魚という商品の流通圏が飛躍的に広がる時代の入り口のあたりであった。
魅せられた魂はこのときに何を予感したのか。子を捨て、家業を捨て、東京へむかう夜行列車に飛び乗ってしまうのである。
「きちんと結着はつけたのよ。ひどいお母さんになっちゃったけどね。トラック商売に熱中して、そのまま気がついたら叔父さんの家のお嫁さんになっちゃってたわけでしょ。どうも叔父のほうが何枚も人生の達人で、トラック商売のさきも読み抜いていたような気がするのね。だって有頂天になっていた自分が、子どもを抱きながら考えてみたら、叔父さんが描いていた設計図どおりの家になってるんだものね。私たちに新しい商売させて、それも過当競争でいずれ下火になる。そうしたら仲買商の跡取り夫婦でおさまることになるだろうという読みよね。すごい大人の善意なんですよ。そして着実な計算ね。その手のひらから飛びだしたい。もっと自分の才覚で勝負してみたい。あの熱気が欲しいっていう気持ち。それとあのころ、集団就職というのがあって、中学の同級生とか、高校の同級生なんかも、就職先に東京へ行くというのが多かった。地元で大人を負かすような商売したつもりで、落ち着いてみると、東京へ行った人たちがはでにやってるように思えてくる」
メリーさんの小羊かも知れなかった。しかし、鹿児島を出た。夫は呆然《ぼうぜん》と妻を見送った。二歳の女の子は何も知らず夫の腕のなかでにこにこと笑っていた。
列車の窓で三島弘子は泣いた。が、胸の底にうずくまる魂は泣いている弘子を元気づける。
「試してごらん、あんたはそういう女よ。きっと退屈しない人生が待っているわ」
東京でたよりになるのは、同級生たちの住所録だけであった。
まず板橋区大山の知人宅へ転げ込む。
「でも、やっぱりすぐに行動力って湧いてこないのね。やっぱりずいぶん無理に決断して家と別れてるから、ふと気がつくと落ち込んでるのよ。頭では元気のつもり、でも、胸のあたりがしょんぼりしてて、それとは別に情熱みたいなのがとぐろを巻いているわけ」
彼女の自己分析は彼女の言葉なりに正確である。このときたぶん一種の感情失調状態にあったのかも知れない。家庭のなかに自然に培われた感情をすっぱり断ち切ったつもりでも、悲しさや淋《さび》しさはそれほど機械的に切断できるものではない。うつうつとしてしばらくはぼんやり寄食していた。環境の激変でさすがの元気少女、いやすでに子までなした女のかげりある休息の日々であったろう。
やがて、高円寺のアパートを借りて転居。
「荷物は旅行カバンひとつの衣類だけだものね。お金もなし、知人の知人の知人みたいにたどって仕事を探すんだけれど、商売は知っているつもりになっているから伝票整理の事務員はいや、店員もいやなんて考えてて、アルバイトのつもりで歌舞伎町のクラブヘ出ることになるのよ」
かくて、鹿児島のトラック部隊から歌舞伎町への道が通じたことになった。生活構造から遊離した魂の多くは、こんなふうに盛り場へ、歓楽の巷《ちまた》へ吸い寄せられてくるのであろう。
三島弘子の持ち前の元気は歌舞伎町の高級クラブでいかんなく発揮される。客扱いがとりわけうまいわけではない。
「ただなんていうのか、お客さんとの呼吸はわかるのよね。色気を売るのも、魚を売るのもまあ一種の気合いかしら」
歌舞伎町は高度成長期のまっさかり。このあたりの時代については、これまで書いてきたさまざまな人生の舞台と同様である。コマ劇場ダンシングチームを支えるホステスたちの群れ、第一次「ジャックの豆の木」を湧かしていた芸術家群像、カヌーから飛散した才能たち、横領した金を撒《ま》く銀行員や、高度成長期でにわかに遊びだしたサラリーマン、ちょろちょろと動きだしたまだ健全な客引きたち、燃えはじめたジャズのライブハウス、そうした無数の光源がまばゆく煌《きら》めく歌舞伎町で三島弘子は泳ぎはじめる。
「お客さんがついて、給料もあがっていった。半年で十万円ぐらいにあがったかな。あとはチップで生活できた。すぐに大久保にアパートを借りて、お金をためてね。それはラブアフェアもあったわよ。とにかく、自由な、しっかり者のお姉さんになってるわけね。お金が目当てじゃなくて、あっさりした情事もいくつかあったわけです。少なくともそっちの方面で、自分の責任で恋をするってことも、鹿児島ではできなかったこと」
その生活のなかで、一年に百万円の貯金をしてしまう。二十八歳の年には七百万円ほどになり、その貯金残高を提示し、客の一人から三百万円の借金をして、寿司屋《すしや》さんを開店してしまうのである。
昭和四十九年、大久保病院の裏手、職安通りに近いあたりに「駒寿司」ののれんをあげたのだった。鹿児島時代の経験とわずかに重なるのは鮮魚を扱うという点だった。ネタの良《よ》し悪《あ》しなら自分の眼《め》でわかるのであった。
離婚、そして、子を置いての上京、ホステスを経て一軒の店を持つ。
ここまでの人生の変転は、どこの盛り場にも現れる、いわばありふれたホステスの物語といえるのかも知れない。
自立しようとする女性たちがさまざまに自分の人生を開拓しつつある現在だが、学歴やライセンスもなく、自己資金も、特殊な才能もこれといってない女たちにとって、一人で生きていくのは楽ではない。日本社会にはいまだに、百年前の封建遺制とでもいうしかない古色を帯びた規範がかなり残っており、その有形無形の規範のなかで、超先進資本主義社会の効率原則にそうものは、わずかに色あいや意味をずらしながらも頑固に生き残り未来へ持ち込まれていく。いま、女性たちはそうした古く、そして新しげに装いを変えた規範、つまり自由に生きるにはやっかいな障害との闘いを通して人生を切《き》り拓《ひら》いているわけである。
三島弘子のありふれたホステス物語は、この規範、男であったら別に不思議とも、めずらしいとも思われない人生の法則《ルール》のあたりをめぐって発生してくるかのようだった。
「家庭に落ち着いて、子どもを育てて、それで納得できるんだったらいいんだけど、それができないのね。役割が……男と女で決められているわけでしょ? 女は家に居ることって。それが不思議でならないの。どう考えてもやっぱり不思議」
それはそうだ。規範の根拠というものは、厳密に問いつめていけば、実はない。そう思い込んでいるだけの、いわば観念である。ただし、そう思い込んでいる社会があり、歴史過程があり、現在時制で横に切れば大多数の人々がそう思い込んでいるという現実となって現れてくる。多数の者が「女は家庭で子どもを育てよ」と思い、そのように人生を過ごすものだと思い込んでいるとなると、それが納得できない者は、大多数の人々が演じる人生からはじき飛ばされ、そのような多数の人々の人生を前提にしている人間関係からも疎外される。
したがって、三島弘子は、鹿児島を出るときからすこぶる本質的な孤独を病むことになる。
「そう思っちゃってるわけだから、歌舞伎町でホステスやって、仕事の当然の方向として店を持ったわけ」
――ちょっと確認したいのですけれども。一人で生きていくっていうのは、やっぱり大変なわけでしょ? で、お店を持つというのは自己防衛策というか、ちゃんと安定できる拠点というか、自分の陣地を作るというか、そういう気持ちでやったわけですか? つまりたよりになるのは自分一人の力量だけだというわけでですね――。
「さあ、どうかな。ちょっと違うんですよね。自分を守ろうっていうより、事業としてごくあたり前に考えたのよね。つまり、あのころ、元手をつくろうと思って、せいいっぱいお客さんにサービスして、ある程度できたでしょ? 六、七百万円できて、さて、何をしようかと思ったわけです。あのころ、歌舞伎町のはずれぐらいだったら、一千万円ぐらいあれば十坪ぐらいのお店を借りられた。物件を調べてみたら、通りに面した一階の店舗が手ごろな値段で出ていたのね。そこで、昼間にそこの店の前にいって、通りを歩いて、人通りを見たり、ほかの店屋さんの配置を眺めたりして、焼き肉屋さん、ラーメン屋さん、喫茶店、バー、スナックとか、そうやって眺めていて、お寿司屋さんならいけそうだという判断ができたわけです。わりと冷静な判断で成功する見通しをたてただけです」
――はじめから計算をたてたわけですか。なんかこぢんまりと食べていければいいという防衛策じゃないんですね。
「それはそうよ」
と三島弘子は、やや気色ばみ、語気を強くした。
――ははあ、かなりはっきりした事業欲?
「それが面白いんじゃない。お金もうけの面白さっていうの、いろいろ組み立てて、計画を実現させて、決めていくところが面白いんでしょ。男ならみんなやってることですよ」
――なるほど、鹿児島ではそれをやってたんだものね。
「そ、そうなのよ。移動販売がだめになるとしても、次へ展開していくべきなのよね。あのときでも、当時のお金で二千万円ぐらいの資金があったんだから。チェーンストアのような展開をしていこうと思って着手していればいけたと思うのね。私はそう思ってたけれど子どもがいたしね、夫はすっかり落ち着きはらっちゃってて、いばっちゃって、鹿児島のお父さんなんだ。女房が仕事に口だすのを嫌いだしてさ、そのお金で立派な家なんか建てちゃうんだからねえ。お金を殺しちゃったのよ」
――お金を殺す?
「お金ってぐるぐる回っててはじめて生きてるものでしょ。家なんか建てたら、それでどんづまり、何も生まないじゃないですか」
――つまり投資して利を生むサイクルのなかにおかないとお金は死ぬわけですね。
「そういうこと。利まわりが一パーセントでも二パーセントでも増えることで、お金が動いていくわけじゃないですか」
――しかし、家を建てれば、それは単なる消費だと。
「利まわりゼロということでしょ」
――でも、そのかわり家庭の快適さというか、いわゆる幸福のですね、家庭の幸福、あたたかさがそこに生まれるわけで、お金はそんなふうに使われて生きるというふうに、世間では考えてるわけですな。
「だって考えものよ。利益の二〇パーセントとか、一〇パーセントとかのうちで消費を考えてけばいいじゃない。防衛費だって、総生産の一パーセントあたりがいいっていうぐらいの線があるんだもの」
――は? 防衛費ね、あ、つまり、バランスということですか。なるほどなあ。
「だいたい四十代で家だ、ローンだなんていってるの馬鹿みたいじゃない。ほんとは、家なんて、人生の盛りをすぎたあたりで考えればいいことよね。そこは世の中しみったれちゃってる」
――三十代からやらないと家を買えないからですよ、日本では。いや、首都圏では、二十代からローンを組んで、家と引きかえに人生は縄でしばられちゃうことになったけれど。
「そうやって、家庭をやる人はやればいいじゃない。でも、私はそれはいやなわけ。動いていないと退屈で死にそうになるっていうか、自分が、自分をいじめはじめるというか」
――そこで寿司屋をはじめたのは、魚ならよくわかるというだけじゃなかったんですね。
「もうすこしね。立地条件を考えて、何をやればいいかを考えたのよね」
――寿司はにぎれるんですか?
「自分じゃやらないのよ。あとは職人さんと、仕入れ先を決めて、私は経営だけを見たわけですけれどね」
仕事の進め具合になると三島弘子は、いきいきと喋《しやべ》りはじめる。
職人探しは少し手間どった。そして、その人選には神経を使った。寿司屋の生命が職人にかかっていることを知っている彼女は、二十人もの職人と面談した。しかし、歌舞伎町で仕事をしている職人はだめだった。
「イキがりすぎてるの。天下の歌舞伎町で向こう板(カウンターの意か)を張ってるつもりでね、要するに寿司職人の生意気なところだけは一丁前でだめ」
そのうちに、駈《か》け落《お》ちしてきたというわけありの夫婦ものを知人から紹介される。夫婦で雇うことにした。物腰がやわらかい常識人らしい性格を買った。妻のほうも、洗い場や店内係にすぐに使えた。二人は静岡の寿司屋で働いていて、逃げてきたという。
こうして「駒寿司」は開店した。
これが当たった。
「職安通りには一般の会社もあって、いわゆる昼間人口がある程度あったわけです。ですから、午前十一時半から三時まで営業して、午後五時からまたはじめて、夜は午前三時まで。この昼の部が結構いけたんです」
その一方で三島弘子はクラブホステスを続け、せっせと客や同僚を店に連れていく。
東京での自立の第一歩は、三島弘子の独特の“才覚”を証明して成功したわけだった。
人件費、家賃、借金の返済などの諸経費を引いたいわゆる経常利益が一年で六百万円というからたいしたものである。一ヵ月五十万円からの純益である。
それが三島弘子の精神のたがをゆるめさせる。緊張のなかではじめた彼女なりの「事業」が成功し、安定したとたんに興味を失うという悪い癖が出る。
「店が順調にいって、もう大丈夫となって女遊びをはじめる男とおんなじ心理よね」
というわけで、彼女はひとつの恋にのめり込んだ。身を焦がす何ごとか。お金もうけも恋も、はらはらドキドキの胸の高まりが欲しくてののめり込みとなる。
恋の相手は、そのころ靖国通りに開店したゲーム店のルーレットのディーラーだった。お金を実際に賭けるわけでもない、この奇妙な日本的なごまかしのカジノで、その男は手つきもあざやかにルーレットをまわし、チップをさばいていた。年齢は二十七歳、なんでもポルトガルはリスボンの公営カジノで働いたことがあるという。リスボンにはたしかにカジノがある。しかし、ディーラーに日本人がなれるはずはない。つまり、その男もこの町の人々の自分史、装飾した物語を身にまとった人物の一人であった。
が、三島弘子は惚《ほ》れた。
「その男に野心があったのよね。まだ何をしていいかわからないエネルギーみたいなのがあったの」
彼女はそれまでに歌舞伎町で出逢《であ》った男と何度か情事もしていた。だから、男について決して素人ではなかった。
が、恋は素人のやるように進展した。相手が若かったのである。彼女は男の情熱に押しまくられる。一途《いちず》に、必死に、懇願し、哀訴し、献身した。
「なかなかのハンサムだった」
ポツリと三島弘子はいう。
「これだけ望まれ、想《おも》われるんだったら結婚して、そして、自分がやりたいことをやっても、この人は協力してくれるんじゃないかと思ったのね。つまり女房をもらうつもりでその男と結婚する気になったの。半ば冗談だけれど『嫁さんもらうの』なんていってたっけ、クラブの同僚にね」
さあ、どうだろうか。人は自分で考えているほど規範から自由にはなれない。男と女の役割分担が、そう思い込んでいる文化的な規範にすぎないと、どうにか対象化してとらえられたにしても、その本人は規範のなかで育ち、日本の文化の海でしか人間として自我を形成し得ないという事情がある。ひとつの文化規範のなかで生きてきた人間は、いきなり別種の人間にはなれないのである。
だから彼女が、意識の表層で「女房をもらう」と確認しても、深いところでは結婚をいったん文化規範的な「女」として了解し、受け入れ、そのうえで男のする結婚に近づけようと必死につくろっていたというあたりがほんとうのところではなかったか。
「それで、結婚したんだけど、私もやっぱり女よ。その男も、ごく普通の男だった」
二度めの亭主は、子が欲しいといい、産めといい、そのあげく家にいろというのだった。
といってる間に、妊娠、男の子を産んだ。
「あの痛み、お前は女だというダメ押しみたいに骨がきしむ。出産がくやしいだなんて」
高層ビルのレストランで彼女はほんの少し酔い、少しばかり詩的な言葉を吐き、明るく光りだした新宿の夜景をぼんやりと眺めやる。
細く切りとられた高層ビルの間の夜景。その底の大ガードを電車がせわしなくすれ違い、渋滞した車の縦列が続き、闇《やみ》が濃くなっていく。
「子ども、嫌いじゃないんですよ」
ふいとつけたすように彼女はいった。
胸に抱いて乳をふくませればじわりと喜びがわく。いったん彼女は家庭の主婦、お母さんになった。夫はそこそこ繁盛している寿司屋の旦那《だんな》となり生活は安定した。三年め、夫は寿司屋の店舗を土地ごと買った。これで立派なオーナーである。
そのときが限度であった。夫はいそいそと出勤し、決まった時間に帰ってくる。弘子は育児と掃除、洗濯、炊事の日々。そこから飛びだすために行動に出た。
「荒療治しちゃった。私が浮気したの」
立ち入った解釈ながら、この物語の順序は逆だろう。はじめに浮気ありき。しかるのちに理由づけ。私は家庭におさまっていられる女ではない、したがって(荒療治のために浮気をしたのだわ)。
「夜、子どもを寝かせたあとで、店に出てみたり、前に働いていたクラブに遊びにいったりしてたわけ。で、ずっと前から私に気のあったお客とホテルヘ行っちゃったの。ラブホテルの窓をあけたら、亭主が働いてる私の店が見えたのよ」
人は無意識のうちに行動の位置関係を象徴的に配置するという。このとき彼女はいわば下意識の選択で、そのようなホテルを選んだのかも知れない。自分を束縛する生活の条件を見下ろす高みでの情事。亭主がまだ働いている午前零時ごろ、眼下には自分が計画した寿司屋がにぎわっている。ひどく刺激的な情事の光景だ。
この情事はすぐにバレた。あたり前である。クラブのホステスたちの前で、この手のかくし事は、すぐに噂《うわさ》となる。彼女たちは、夫に囁《ささや》く。気をつけたほうがいいわよ、あんたの奥方ご発展なんだから。
親切心であって、やっかみであって、善意であって、同時に悪意でもある心情で彼女たちは告げ口した。
「では、別れましょうよ。お店も、子どももみんなあげる。そのかわり自由にして」
三島弘子の物語が、こらえ性のない人間の哀れな身の上話にならないのは、離婚のときにすべてを捨てるいさぎよさのためであろう。
――しかし、子どもについてはどうなのかな。
三島弘子はもう一度、高層ビルの空を眺め、視線をめぐらせる。表情がかげった。微笑《ほほえ》もうとしてわずかに笑いがこわばり、テーブルのうえに置いた両手をゆっくり組みなおした。
「弁解はしないわ。置いてきちゃってるもの。世間じゃ、これが一番非難されちゃうのよ。子どもを置いて出てきちゃった女は、ずいぶん値を下げるのよね。別れるといったら、二人の元夫《もとおつと》とも、暴力、殴られた」
――鹿児島の旦那《だんな》さんも、そのお寿司屋の旦那さんも、子育てをやってるんでしょうね。クレイマー・クレイマーか。
「それをやりなさいって、いってるわけじゃないんだけれどね。でも、そういう人生をしろと、私にはいうわけだから」
――“そういう”というと、え? なに? 子どもを育てることですか。
「ええとね、とにかく家庭は大事だから、子どもを育てて、家庭をあったかくしろというわけね。それを私にやれというわけ。だから、私は、それは御自分でどうぞおやり下さいっていうわけ。つまり、それがそんなに大事なことで、そんなに一生懸命ならば、そういうことを全部自分でやればいいでしょうというわけです」
――うん、それが人生のテーマだとしたらというわけですね。女房にむかって、人生の大事なことなんだと夫はいう。それに対して、それほど大事なことだと思っているのなら、自分でやればいいじゃないかとあなたはいう。しかし、きついなあ。それ、ちょっと、私も了解できないなあ。家庭を持って、子を育てるというのは、たぶん大多数の人が、人生の基本だというように、それについてはいちいち考えないということになっているから。
「念を押してるんですけどね、結婚の前に。私は家に居るような女じゃなくって、いっつも何かしていないといらいらするからっていってるんだけれど。そのときはうんといってても、あんまり真剣に受けとってないんだな。それでだめになって、ほら、いったとおりでしょってことになる」
――そりゃあ、夫はまさかって思う。ええっほんとうだったのと、思うでしょうな。
「こんなふうにしてなきゃあ、わかるのかも知れないのね。ほかの世界だったら」
――ほかっていうと?
「芸術家みたいな。女優とか、デザイナーとか、ひと目で一般人と違うというのがはっきりわかるみたいなことね」
それは、そのとおりだ。私たちは、変幻自在なはずの人生についても、類型的に、あらかじめ了解のふ分けを用意している。俳優たちは芸のために恋をし、恋によって自分の才質のある領域を成長させるとか、詩人は情熱的で世間一般の常識からはずれた生き方をしても当然であるとか、科学者は世間知らずでいいとか、英雄色を好むとか、特殊例外的な人生のタイプをふ分けして、そのような人生があることを認容する。
しかし、そうした人々と認めがたい人物が普通の人生から逸脱すると、失格者と判定され、(特殊人でもないくせに)人にあるまじき行為として否定される。
これはまた人間関係の距離感としても感知されたりする。
日常生活から遠く離れ、域外に存在する者、異邦人や、芸能人や歌舞伎の世界、芸術家たちがこの社会で棲《す》み分《わ》けているとされるコロニイや、それぞれの特殊領域=別世界に棲息《せいそく》する人々の生き方ならば認容できる事柄とされる。しかし、その逸脱が日常生活内で生起することは許されない。
「こともあろうに、ごく健全であるべき、わが身内にはみだし者が発生するとは!」
といった心情で逸脱者は拒絶される。
拒絶されるどころか、そういった傾きの激しい者はそれだけで圧《お》しつぶされてしまうことさえある。
つまり、三島弘子の言葉でいえば、子を持つ母の道からはずれ、場合によっては激怒をかって打ちのめされる。
――子を生まなければよかったとは思わないの?
三島弘子はすぐには答えなかった。そんなことは百も承知よ、といった沈黙だった。
「妊娠するからといって、そんなときに拒絶したら、それだけで関係がこわれちゃうっていうこわさもあるじゃない」
――なんだか、揺れてるんですね。うんと古風な日本女性の心と、自立して生きたいっていう考えとの間でゆらゆらしているというか。
「いろいろと解説していただいて、勉強になるわ」
いきなり彼女は、ホステスがよくする、冗談のなかで客のいい気なおせっかいをやり込める口調でいった。
男は女と会話していて、この手のわかったふりをする癖から容易には抜けだせない。「君って女はさあ」「君は自分で気づいていないけどさあ」、馬鹿な男ほど、女の性格とやらをいい当てようとし、いい当てれば相手の歓心を得られるのではないかなどと、わけのわからぬちょっかいをだす。そいつを私はやりかけて、馬鹿にされた。当然である。くそ。が、立ちなおって訊《き》く。
――しかし、離婚の場合、女性は生活の問題があって……だが子どもの養育費というのは子どもを引きとった母親の場合か。
「ぜんぶ捨てて、悪い母親として消えてしまうのね。財産も何も要求しないで」
――とはいっても、夫の側にすれば寝耳に水だろうな。逃げた女房に未練はないが、浪曲子守り歌になってしまうね。
「私の場合は、たまたま、むこうのお母さんが子どもの面倒を見るのはわかっていたし。それと財産といったって、私の作ったものですからね」
――荒療治の相手との情事は続いたのですか。
「あ、あれはほんのちょっとした盛りあがりですぐに終わった」
――そういう関係のほうがよさそうなのにな。なんで結婚までいってしまうのか。
「恋の経験不足もあるんじゃないかしら。これだけ愛し合ってるんだから、これはもう結婚だと、ついね」
――それは、あなたがイメージしているような結婚生活ができそうだという意味の結婚でしょう?
「二度めのはね。はじめのはまだ自覚が足りなかったのよね。まるで少女でしたからね」
――お寿司屋さんの元の夫と歌舞伎町で会うなんてことはない?
「お店を人に貸して、ゆったり暮らしてるんじゃないのかな」
その後、歌舞伎町の商売の様相が大きく変わり、店を持つ者は直接自分で商売するよりは人に貸したほうがリスクも少なく、収入が安定する事情はすでに書いた。別れた夫はその流れに乗って優雅な暮らしをつかまえたのであろう。
そして、三島弘子はホステスにもどる。本人は家庭の束縛から解放されたと確信していた。安定した生活と将来のイメージが固定しかかるとむずむずしはじめるお祭り体質が彼女の背中を押し、支えていたはずだった。
それほどひりつく人生が好きだというこの女性は、どんな生涯をイメージしているのだろうか。
「男だったら相場師かな、相場師でもないな、いや、実業家かな。戦国武将みたいに毎日を過ごしていたいのかも知れないのよ」
戦乱の時代、才覚と度胸で泳ぎ抜かなければならない状況であれば、気もはればれとし、眼光するどく頭角を現す魂が、奇妙なことに、このきっちりと秩序だった現代社会に生まれた一人の女の胸に宿っているらしい。
いい換えれば彼女はいまの社会の管理構造に苛立《いらだ》っているのである。その意味では、この社会の表層に装われている仮構の「自由」、建前や、コマーシャルイメージなどで嘘《うそ》っぽく水ぶくれしている「自由」に苛立っていることになる。このような文脈で考えれば、彼女の魂とは敏感な感性で成り立っているわけだ。
そして、このはしっこく敏感な感性が、商売の勘に発揮されればもっと前へ進ませ、平穏無事な家庭にたえられなくさせているといった構図を作りあげているらしいのである。
戦国時代では傾《かぶ》き者《もの》、どこかバランスをくずした傾きの強い性向は、それだけで好ましい人間像であった。よく整った、管理されやすい性格では、いざ修羅場となると使いものにならない。そして、修羅場が日常の時代である。
彼女が「戦国武将のように生きられたらよいものを」と考えるのは、それほど極端なアナロジイではないといえよう。
彼女の胸に宿っている精神は江戸時代より前の古質かも知れないし、これからさきの未来のいつかに適合する精神なのかも知れないのである。
いずれにしろ、いまこのときの社会の女としては少しばかり寸法があわない。
「男だったらな」
と思いつつ、ホステスの日常を重ねていく。
そこへ第三の男が現れたのだった。
「その人、冬だというのに夏のスーツを着ていたのね。四人の席について、はじめは気がつかなかった。ふと見るとペラペラの生地のスーツなのね。あれ?と思って、聞くともなく話を聞いていると、その夏服の男をほかの三人が励ましている。夏服の男はなんと借金が一億円だっていうんですよ。でも、眼《め》の光は消えていないのね」
年のころ三十代半ば、男は痩《や》せて、背がひょろひょろと高く、膝《ひざ》のぬけたペラペラのズボンの足をテーブルの下に投げだし、憮然《ぶぜん》とした表情で酒を飲んでいた。
彼女はぴんと感じる。この男、何やら獣の匂《にお》いがする。しかし、何かに失敗して、三人の男たちに合計一億円の借金をしているらしい。
その後、店に男は何度も現れた。連れてくるのは、いつも初めて彼女が席についたときの三人のなかの誰《だれ》か。獣の匂いのする男はいつも夏服で、言葉少なにブランデーを飲み、支払いは入れかわり立ちかわり夏服の男を連れてくる三人の男たちであった。そのうちに三島弘子は夏服の男の素性を知る。バッタ屋。流通業界の獣道に棲む男。衣類を扱って年商が四億円、二日間で一千万円ももうけるほどの勘のさえを見せるほどだったが、医療機器に手をだして、すっからかん、逆に一億円を超える借金で、店舗から在庫品から、ベンツから一切合切を売り払い、夏から着たきりすずめの背広一着、大久保の木賃アパートに住んでいるという男だったのである。
夏服の男をとり囲み、励ましているように見えたのはまちがいで、夏服の男に金を貸している同業の債権者たちが、男を責めていたのだった。
しかし、どうも会話のニュアンスが違う。
「いろいろと責めたててはいるけれど、結局は再起を勧めてるのよ。夏服の男の度胸と手腕をかって、もう一度、チャンスをやるから金を稼いで借金を返せといっている。そのための金も貸そうというようなことね。酒席でストレートにこうはいわないけれど、夏服の男がくすぶっているのはもったいない。商売に復帰して稼げといっているわけ」
三島弘子はそこまで知ると、内心(この男買いだ)と思った。
連れの債権者がトイレに立ったすきに夏服の男に耳うちする。
「私、あなたに投資するわ」
ギョロッと夏服の男がホステスをにらむ。
それっきり、夏服の男は店に現れない。二ヵ月後、男はやってくるなり、四十万円の借金を申し込む。一週間後、二割の利子をつけて男は金を返す。一ヵ月後、百万円の借金を申し込み、三週間後、百三十万円にして返す。
「この手口、だましのテクニックなのよね。わずかずつ金額をあげていって、信用させて、最後にごっそり引きだして逃げるわけ。だから、にらみ合いみたいに金を渡す」
すでに初夏である。男は二年めの夏服。金を渡すのはコマ劇場裏の喫茶店「蘭」。五百万円の借金の申し込み。三島弘子は定期預金、財形、わずかばかりの転換社債などを現金にして渡す。借用書なし。夏服の男はふくらんだ茶封筒を持って喫茶店を出る。
「こいつとの勝負、信用した私が馬鹿ならそれだけのこと」
と腹を決めていたというから、彼女の根性も、並のものではない。
一ヵ月後、男は店に現れた。小ざっぱりとした明るいブルーの背広であった。レミーマルタンを注文し、額面七百万円の小切手を彼女に渡すと、新しい夏服の男はいった。
「あんたも、えらい女だな。実はグッチのにせものでもうけた。この手は二度とやらない」
「まあ、その瞬間の素敵だったこと」
二人は当然のことに盛りあがり、赤坂から六本木、さらに横浜までくりだし、丘のうえのホテルで結ばれる。さぞやすばらしき一夜であったろう。
「ゼロの状態が居心地がいいっていう男なのね。蓄財していくっていう商売の方法じゃないのね。タイトロープよ。綱渡りしていることが面白いっていう。その帳尻《ちようじり》がゼロになればそれでいいっていう考えなのよ。なんかおかしいけれど、ゼロで人生を出発して、ゼロで幕になれば大成功、そのかわり、その途中はめいっぱいやるのがいいというわけ。いまのところは、そういってる。それがいつまでもつのか、ちょっとした見ものよ」
夏服の男は、その後、元麻布に会社を設け、グッチのまがいもので手に入れた三千万円の資金を、いきなり日用雑貨品の取引に投ずる。もうけた商品は、なんと雑巾《ぞうきん》である。目の粗い布でゆすぎに便利、銀行などの景品にも使われるあれである。
かと思うと、まだ流行の気配も遠かったテレビゲームを、捨て値で買い、半年後に十倍の値で売り払うなどの戦果をあげる。
三島弘子は、自分を上まわる男とやっと巡《めぐ》り逢《あ》ったのだった。
そして、彼女はホステスをやめた。
「バッタ屋の商売を私も勉強しようと思ったのね。はじめは電話番をやって、物の扱いを覚えようとしたのだけれど」
彼女の表情がかげった。
「とてもかなわないのね。商品を扱う場合に、自分でこれはさばけると思って倉庫代を払っても積んでおく物と、あらかじめ買い手を持っていて、瞬間のうちに売買を成立させて、利まわりをとる物との両方ができなければならないわけなんだけれど、どこかで私の勘は、はずれてしまうのよね。女性ものの衣類を扱ってね、これは女の私だから大丈夫と思っても売れないこともある」
――もう自分で商売しなくても、好きな男がひりつくように商売しているのだから、いいのじゃないんですかね。
「それもあるかも知れない。横で彼がばりばりやるものだから、気持ちが押されてて自分の勘が働かないのかも知れない」
――その夏服の男と結婚してるんじゃないんですか。
「うん? ええ、まあ」
意外なことに彼女は言葉をにごした。私は彼女が三度めの離婚をしていると、紹介されていた。どうも違うらしい。しかし、それを不思議なこととは思うまい。これまで彼女が物語ったストーリーそのものが、パラレルワールドのように相似形を描いて、話す相手それぞれに少しずつ違っていたほうがむしろ変幻常ならない歓楽街の人生が生み落とす物語にふさわしいと思ったほうが正しいのだ。
話し込んで三時間がすぎていた。闇《やみ》がこの高層ビルのレストランをつつみ込んでいた。
私の質問は結婚のところでストップしている。気まずいのかタバコをくわえかけた彼女が逆に質問した。
「物の値段て、どう思います?」
――どうっていうと?
「信じられますか、私はもうバッタ屋さんをのぞいてから、信じられなくなっちゃってね。強壮ドリンク剤が、バッタ屋で一本五円とか、台湾製のジョギングシューズが二百円なんて世界なのよ。それが四百円とか、三千二百円なんていう特別割引の値段がついて、店頭に並ぶわけね。おかしくって仕方がなくなる」
――東京の物価は世界一高い。土地も高いけれど、食べ物も何もかも世界一だっていう。
「そういう意味じゃないわ。値段が嘘《うそ》だとしたらちょっと、お金が嘘みたいじゃない」
――その感覚は、なんだかわかりますね。ひと世代古くなったステレオが正価の三割とかいう場合がある。ワープロや、パソコンなどはひと世代古くなったらそのままクズ物と同然だから。
「ね、それだと思うのよ、以前のようにお金もうけにぴったりした実感がわかないのは。だから、私、取引でしくじるんだと思ってる。だって、半値以下、十分の一ぐらいの旧型のラジカセを買いにまわるとしてさ、それじゃあ、二、三ヵ月前までの値段は何なのよって考えちゃうじゃない」
――魚をトラックで売ったころのような実感がない?
「そうそう」
――あなたのようなお祭り体質の人にとって物の値段がフィクションに感じるって、ひどいざらついた感じかも知れませんね。ひりつく根拠がうすくなっている。物の値段じゃなくて、問題なのはもうけの額だって思ったらどうですか。
「うんと、うすっぺらなゲームみたいなもので、もうけたとしてもつまらないのよ」
たしかな感性だと私は思う。やはり、この人は勘がいいのだ。超資本主義経済では、どこか目に見えない境界線を越えると貨幣が、経済的な価値の実感から遊離して、ふわふわになっていくように見える。円とドルの為替でも、ふらふらと価値がゆらめいている。といって、この運動を止めるわけにはいかない。感覚のいい者は、そして、かつてのようなお金の力強さを実感している鋭敏な感性は、きっとふらふらゆらめいている貨幣のおぼろな輪郭に、病み疲れてしまうのかも知れない。
貨幣の感覚が次第に麻痺《まひ》していく為替のディーラー、賭場《とば》で無造作に何百万円もかけていく客、何百億もの借入金で土地を買う不動産屋、贈賄を受ける無表情な官僚、土地を持っているだけの長者、邪魔な、軽いアルミ貨、そのいちいちに感性的に反応していたのではいずれは感性そのものが疲れてアパシー、無感動の海に沈むほかはない。
「横で商売に熱中している、あの人が不思議に見えるときが、ときどきあるのよね」
話を聞く限界はとうに越えたと思った。ふと、荒淫《こういん》か過食かスピードか、感覚のリアリティだけを求めてこの女性が突っ走るのではないかと危惧《きぐ》の念を私は抱いた。白昼の荒淫、深夜の牛丼《ぎゆうどん》、夜明けのドーナツで死んだおデブのプレスリーなどの幻影を観《み》たのは、少しずつ飲んだスコッチでも、三時間でかなり酔ったからに違いない。
彼女も酔ったようであった。
「そのサマー・ジャケットいくら?」
とうちとけて尋ねる。
――中野ブロードウェイのバーゲンで四千八百円。
「ふん、七、八百円よ、私たちなら」
私は少しばかりむっとし、礼をいい、この女性のインタビューを終えた。
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第九章 サービスする男たち
その男の身長は百七十五センチぐらい。色白で眉《まゆ》が濃く、少し古風な顔立ちの、いい男だった。
手の甲にうっすらと黒い毛がはえている。白のサマージャケットの下に着たショッキングピンクのTシャツの襟もとにも、胸毛らしい毛がのぞいていた。毛深いらしい。胸が厚く、骨格はがっしりしているが、顔立ちの印象からいうとやさ男に入れていいタイプであった。
男は三十七歳、秋田県大館市の出身だという。
何の香りか、オーデコロンか、ヘアトニックか、男が席についたときにきつい香りが漂ってきた。髪は長からず頭の中央から分けて、額にかかる前髪がゆるくカールしている。
爪がきれいであった。顔の肌もどこか湿り気を帯びたようにしっとりしている。ちょっと見たのでは、カジュアルな服装に着がえた一流企業のサラリーマンのようでもあるが、どこから感じるのか、倦怠《けんたい》の雰囲気が流れ出てくるのであった。
挨拶《あいさつ》ののち、短い間黙ってしまった私の胸の内を察したのか、彼はすずやかな微笑とともにいった。
「そう品定めみたいに見られたら、かなわないよ、ただの男、あんたと変わらない。ただし、サービス業だから人の顔色はその辺の鈍感な野郎よりよく読める。それも女の顔色は読めるようになった、と思うけど、わからんね、女だけは」
男はホスト、女性客むけのクラブの、これもやはり夜の華なのである。
名前はやはり仮名でなければならない。二人でしばらく考え、いっそ、歌舞伎太郎とするか、などと冗談になった。しかし、それでは、仮託する人格の記号としてリアリティがなくなる。
このインタビューの日、ちょうど石原裕次郎の命日であった。男は石原裕|太《ヽ》郎という名を自分の名としてあげ、私はそれを了承した。
「これで名前は四つになったな。女のホステスと同じでね、店を変えるときには、名前を変えるんだ。それとさ、譲二とか、建とか、二郎とか、テキトウに名前をつけて店に出てね、で、本名だといってまた変名を使うからときどき混乱しちまうんだ。ほんとの本名はしっかりしまっておいて、嘘《うそ》の本名を使う。その嘘の本名が、顧客それぞれに一つずつ。俺《おれ》はまあ、そこまで自分てものをガードしてこの商売やってるわけよ」
――何でかな、そいつはやっぱりもめたときの手当てとしてやってるわけか。
「のぼせたときの女って、そりゃあひどいじゃないか。住民票をたどって実家まで押しかけるなんて話、冗談じゃなくわりあいあるんだよ。ガードしておかなかったら刃傷沙汰《にんじようざた》の追っかけで、どこまで行くかわからない」
――名前が四つといったのは、嘘の本名を三つ持っているってわけか。
「そうそう、いま俺に入れあげてる客が三人いるわけね」
――ひとつの店で三人の常連客か、ホステスにくらべると少ないようだが。
「半ぱじゃない客が三人なんだよ」
――それ、できてるってこと?
「あんた、言葉が古いなあ、わざわざいわないんだよ、そういうことは。まあ、要するにちゃんとつきあってる恋人が三人いるっていうことでいいんじゃないか」
石原裕太郎と名づけたこの男が醸《かも》しだす退廃感の根拠が、しばらく話していてやっとつきとめることができた。唇が濡《ぬ》れて赤く光っている。その唇が女へのサービスでどのような機能を発揮するのか、思わず想像力がかきたてられ、こちらの胸のうちに果実が熟れすぎていくような匂《にお》いや、やわらかなものをつかんだような感触を浮かばせているのかも知れない。
――毎日、どんな生活なのか、時間割ふうにあげてくれないか。はじめにデータだけはおさえておきたい。
「めんどうだね、午後一時ごろ起床、酒が残っていればそのまま入浴、あるいはサウナ。腹が空いていれば軽くめし、俺、中野だからさ、うなぎ食ったり、定食屋で納豆食ったり、寿司《すし》食ったり、そば食ったり、そのあと喫茶店でスポーツ紙読んで、四時から五時すぎに部屋へ帰って、スーツに着換えて、その間に客へ電話入れてみたりね、なんだかんだして、七時に出社、じゃねえか店に出る。あ、寝るのは午前三時か四時かねえ、必ず部屋へ帰って寝るよ」
――月収は?
「店で三十かな、あといろいろ、ね」
――あとの、いろいろというのはチップ?
「まあ、そうなんだろうけど、チップっていうより小遣いだね」
――で、合計して?
「税務署だなまるで、そんなに稼いでないよ俺は。七、八十ってとこじゃないの」
――税務署っていえば、君の場合なんか申告するのかね。
「するんだよ、申告して税金納めてるの。いきなり所得は二百万円とかさ、必要経費五割ぐらいでざっと計算してね。だから年収四、五百万円ていうところにしている。店は給与だしね。それプラス、コンサルタントの収入としてね。この商売に入ってしばらくの間、パチンコで食ってます、なんていってごまかしてきたけどね、納税証明書とか必要じゃないか、やっぱり。横浜の公団アパートに当たったときに所得不足ではねられたりしてね、あと借金とか、税金を納めてないと損することが多いからね」
――コンサルタントというのは?
「水商売のコンサルタント、とか、美容のコンサルタントとか。あ、俺、もともと美容師なわけよ。この商売する前は」
石原裕太郎は、問わず語りにざっと経歴を語った。
大館の農林高校を卒業して、日本大学文理学部へ進み、在学中に山野愛子美容学校へ入学。大学を中退して美容師の資格をとる。
「都内じゃむずかしいっていうんで、水戸まで行って試験受けたんだ、一発だったよ」
はじめは一流のヘアデザイナーをめざして野心満々だったけれども、麻布のさる有名な店に勤めているときに、
「客のおばさんに引っかけられた。俺、奥手でね、ソープランドしか知らなかったのよね女は。相手はインク会社かなんかの重役の奥さんだったよ。ペイント、塗料かなんか作ってる会社だったかな。こっちはさ、うまいこと年増のおばさんをひっかけて小遣いもらってるつもりだったのよ。二十二、三歳だものね。むこうは四十四、五歳。俺だけ知らないでいたけど、その女《ひと》、評判の遊び女。若い男が店へ入ると誘ったりしてたらしいね。俺で三人めとか」
というわけで、野心満々が変調しはじめる。
「ひどいんだわ。小遣いを二十万近くもらうから、なんとなく仕事がテキトウになるじゃないか。またドライブとか、横浜中華街とか、昼間にむこうは誘うだろう、ほいほいついていってる間に、仕事、出勤率がガクンと落ちるわな。そこ、結構、働きたいっていう若いの来るからさ、俺、あっさり首でさ、滅入《めい》ったんだよな、あのとき」
石原裕太郎は、当然なことに、奥さんにまといついたという。で、こちらもあっさりお払い箱にされる。
それまでの期間に重役の奥さんは、夜、ホストクラブヘ裕太郎を連れていくこともあった。
「若いの、俺をね、連れていって、ホスト連中に見せたかったんだろうなあ、俺はそれでこの世界をのぞくわけだ」
――どんな女性なのかね、その奥さん、そっちのほうが興味津々だよ。
「体はよかったよ。手入れしてるし。年齢より十歳は若かったんじゃないかね。俺の練習台としてはちょうどよかった。いろいろ、ね、あのころはいくつもできたしね。途中休めばいいんだから。セックス・マシーン。ジェームス・ブラウンのシャウトの曲、知ってる?」
――よく知ってるよ、あれは。で、その奥さん、家庭は大丈夫だったのかな。
「そうね、あれは半ば黙認だったんじゃないのかな、旦那《だんな》さんは。子どもいないんだよ。夜も十二時ぐらいまで帰ってけばいいって感じだからね。セックスは濃厚。むこうも、疲れを知らぬタフネスぶりだった。相当な水準だったよ、あれは」
――それ、いま考えればだろ?
「そう……ね。当時の俺はこんなもんか、大人のセックスてのは、すごいよ、ぐらいに思ってたけど」
――で? それからは?
「うん、ちょっとくさってね、下北沢の美容院に勤めたりしたけど、インターンの給料って、平気で三万、四万なんて時代だからね。こんどは意識的に、ひとつ、そんなにひどくないおばさんを何とかして、小遣いもらおうかなんて気にもなるんだ。だけど下北沢じゃあ、ダメでさ。いろいろアクションかけてもそりゃあ、経営者が嫌うよね。すぐ首。いよいよくさってさ。それと美容師志望の男たちっていうのは、ちょっと半端者が多いんだよ。落ちこぼれが、これならやれそうだなんてのも多いからさ。くさってるからきっと感じ悪いんだろうな、あのころの俺は、ふてっているからね。で、業界ごとやめた」
――何年やったわけ。
「二年かな。黙ってやってれば、いまごろ大館で、東京ふうの美容院やってたな。やってられないか。美容師の才能ってのは、お追従を高級に、ソフィスティケイトしてやれる才能だからなあ。女ってのは、自分のこと決め込んでるよね。絶対似合わないヘアでも、勝手に思い込んでる。だから、こっちに権威がない場合ね、むこうのイメージを読んで、それにさえあわせていけば客は気に入るわけだ。だめだと思っても、客がイメージしてる形へもってっちゃえばいいんだよ。すると、あの人はいいと指名されるわけ。それが俺にはできない」
――よく見てるじゃないか。それがわかれば有能な美容師なのじゃないのか。
「いまわかってるんだよ。二十四、五までにこれをわかってないとだめなんです」
――ああなるほど、ホストをやってわかったわけね。
「それもさ、女の自尊心の強いのとつきあって、この五、六年でわかったんだ。ひどいよ、女も。わがままなのが年を経て化け物になってるんだから」
――それですぐにホストの世界へ入ったわけですか。
「いや、商事会社に勤めてた。輸出用の食器を中心に扱ってる、両国の問屋さん。五年は勤めたかな。それが円高で具合が悪くなって若いからやめろなんていわれて、ちょっとバイトするか、なんてつもりで歌舞伎町へ来ちゃったわけです」
――じゃあ、この世界で十年ぐらいか。
「そうね、もうすぐ九年になるところかな」
――それでさ……。
「わかってるよ、相手にした女のことだろう?」
――いや、ホスト稼業の大事なね、本質のあたり、コツのようなところを聞きたいわけ。
「女のことだよ、それは」
石原裕太郎は、やや下品に苦笑する。
――ああ、そういうわけね。
「それはね、我慢なんだよ。いったじゃないか。わがままな女が、年を経て化け物になってるって」
――サービスってのは、一般的に我慢なんじゃないのか? 客を心地よくさせるってのは、こっちの我を引っ込めて、むこうにデカイ面させてやるわけだろう? ホストでなくてもそうなんだと思うけどな。
「当たり。だけどな、ホストクラブにできあがってる場な、雰囲気、女が威張っていいっていう店のなかのルールな、これがくるりと逆転するんだよ。いいか、女のお客は威張っていいルールを承知しておいて、そのうえで男に甘えてくるわけ。つまり、わがままに甘えてくるわけよ。甘えてるんだけれど傲慢《ごうまん》なわけよな。これをあびせられるわけだ。そういうやっかいな女いるだろう? 泣いたりすねたりして見せるけれど、結局は強引に我を通す女ってのが」
――ああ、いるいる、ひっぱたいたほうがいい性格の。可愛《かわい》げなふりしてる図々《ずうずう》しい女がいるわな。ちょっと待て、そりゃあ、女ってもんだよ。そいつが女の本質だ。
「あははは」「いひひひ」
われわれはしばらく馬鹿笑《ばかわら》いをした。
場所は新宿駅マイシティの八階のレストランである。午後三時すぎ、静かな店内には、客がちらほらとしかいない。女の悪口であることを察知したか、ウェイトレスが無愛想な表情でこちらを見ていた。
――ということは、ホストクラブのフロアには、女の本質があふれてるってわけか。
「あふれてるなんてものじゃないよ、ボコボコ沸騰してるんだよ。それもさ、四十年がかりで熟成したの。女の本質の発酵したの。もうすぐ酸になりそうな本仕込み、可愛げな図々しさの、年を経たの、しかも、スケベ、自尊心じゃぶじゃぶ」
――お疲れのようだね、怨念《おんねん》だなまるで。どんどんいいなさい、聞いてあげるから。もうこうなったら。
「でもあれだな、どこか好きだな、女のそういうとこ」
――なあーにをいってやがる。
「いや、そうなんだよ。太った女の本質を抱いててやるとさ、なんともいえない慈悲心が湧《わ》いてきてさ、いいよ、いいよ、そうか、そうか、これっきゃないんだな、ほれほれ、納得するまで感じなさいという……」
――そりゃあ、立派な境地だ。仏心っていうもんだ。解脱した境地だ。悟りだな、人間の性《さが》の悲しみ、しみじみとしみいるお言葉じゃないのでしょうか、くふふふ。
「こうやって生きてるんだから、わがままな女の本質も許してやるしかないなあと、思ったりするんだな」
石原裕太郎は半分冗談のように、半分は深遠な真理を語る真剣さで語り、困ったような顔でしばらく微笑していたのだった。
石原裕太郎はどうやら詩人か、思索者の類に入る人物らしい。
女について抱く観念は、日ごろからよく考えられてきたもののようで、言葉に澱《よど》みがなかった。話題はかなりどぎついものなのに諧謔《かいぎやく》の趣味がほどよく、聞いていると男と女の関係のおかしみ、万古不易の情緒がにじみ出てくる。いつの世でも色事の事情に通じた者の、どこか達観した“思想”さえこの男が持っているように思えてくる。
――やはり女好きなんだろうね、どちらかといったら、あなたなんか。
「人間好きだっていってほしいな。何かこうね、人間というのは響きあいで違った音色で鳴るでしょう?」
――はいはい、人格どうしがおたがいに共鳴しているわけですね。
「そうなんだけれど、それがこの世の中の絶対の秘密でね」
――え? 何が秘密なの?
「その鳴り方っていうか、相手のなかでどんなふうに鳴っているかは、こちらにはわからないわけだ。そして、いま自分と対面している人間が、ほかの誰《だれ》かと対面しているときに、今度はどんな音色で鳴っているか、こちらにはわからないわけだよね」
――うん、人間てのは、人それぞれに対していろいろな表情で接しているからね。そのトータルな全体像っていうのは、実は誰にもわからない。ぼくらはかなり大雑把に、性格だなんていっているけれど、相手によって受けとり方が少しずつ違うんだものね。つまり、厳密にいうと、私という性格とは、その相手の性格が受けとった私という性格で、これが十人の相手がいれば、十人それぞれに少しずつ違っているわけだよね。その違いは、結局はわからないんだろうな。
「そう、相手によって俺《おれ》っていうのが違うんだよ」
――ははあん、何をいいたいかわかったぞ。相手をした女が、みんな違う反応をするってことかい。
「そうなんだけどさ、こっちの人柄についても違うんだな。『あなたってこういう人ね』と女が決めつけるだろう? そいつが少しずつみんなずれているんだよ。数が少ないうちは、あ、俺にはそういうところがあるんだなって、女から指摘されてさ、自分の違う面を発見した、なんて思ってたらね、数が増えてくると、発見なんて感動してる場合じゃないっていうことがわかってくるのよ。どうも、これは無限にずれるらしいよ。百人の女が、それぞれ違う俺を見ている。つまりね、それぞれの女のなかに百の俺がいるってことになるんだ」
――あの、君がそういうことをいうと、百の君っていうのが、いちいちセックスの場面と重なって息苦しいんだよ、まったく。
「少しはわかるだろ、一穴主義なら絶対にわからないけど」
――うーむ、私の多からぬ経験でも、わかるような気がする。
「たしかに相手の鳴り方の違いで、こっちの接し方も違ってくるけれどな。優しい場合が一番いい相手なら、そうなっちゃうし、力強い場合なら、こちらもそうなってしまうんだ。だから自然に変化してしまうけれど」
――どうも、なまめかしいね、くそ。
「これ、テクニックじゃないんだぜ」
――はいはいはいはい、心の問題ね、テクニックでやっているような底の浅いものじゃないというわけね、くそ。相手のお好みに応じたやり方でしているわけじゃないと、くそ。
「あなた、卑屈だな」
――いや、よくわからないんだ。つまり、きっとね、あなたのいうような気持ちを理解するためには、最低で何十人かの女性を相手にして、はじめて何ごとかがわかるのだろうと思ってね。人間のすることのなかには経験でしかわからない領域が、何をするのでも必ずある。そういう鉄則について、あらためて思いをいたしておると、そういう意味で、くそ、と思っておる今日このごろである。
「そうねえ、恐ろしいことなんだよ、俺のようなものの考え方が社会一般の常識になるのはね。俺はときどき考えるんだ。つまり、百人の女がいるとするだろう、まずね。するとさ、その相手と組んで結婚し、子を生んでということがあり得たら、百の人生、百の家庭が可能性としてあるわけだ。だからね、ああ、こいつと所帯もったらきっとこんなふうな家庭だろうな、こいつとだったら、こんなふうなインテリアで、こんなふうな食卓で、というようにうっすらと見えてくる。ひとつの家庭の固定したイメージなんて、重くもなんともないのよ。実はね、相手を変えたらぱっと変わる。テレビのチャンネルを変えるみたいにね。ポンとさ、スイッチを入れる、切るぐらいのことでぱっと変わるってことがさ、常識となったら、社会秩序はどうなるか」
――話がデカイな。しかし、そうだろうな。そして、ここまでラブアフェアが普通になってくると、あなたと同じ感覚の若い連中が増えているはずだよ。
「あいつらはダメなんだ。いろいろ恋愛しているけれど、よりましな相手を選ぼうという計算から出られない。それは秩序を作る考えだよ。たくさん恋愛しても、一夫一婦制の社会の本質をさ、この社会の秘密を見抜くなんて境地にはなれないはずだ。たくさんのなかからひとつを選ぼうと思っている限りダメなんだよ。たくさんの異性を、たくさんのままに見ると、この社会の秘密がぱっとすけて見えてくる。ほんとなんだよ。何のことはないんだよ。いいかい、俺に百人の女、その百人の女がそれぞれに百人の男を、そのままに受け入れてるとしてみなさいよ、これはもう、すごい社会だよ。自由っていうのは、そういう社会なんじゃないのか。子どもがほしい奴《やつ》は子どもを育ててさ、複線的ないくつもの男女の関係が認められている社会ってのが、あるとしたら、ソープランドも、ホストクラブもいらないんだよ。性の風俗で、いいとか悪いとかもないんだよ。あるのは個人の自由、どんな生き方をしてもいいわけ。責任を持ってね、百人の女のなかの、それぞれの俺として責任持てばいい、きついかどうかわからないが、すごく大人の社会じゃないかな」
――ずいぶん考えてるんだな。
「うん、暇なんだよ、とくに午後のいまごろの時間にね。世間の男たちが馬車馬みたいに働いている時間に、俺はぐうたらぐうたら考えるようになっちゃった」
――あなたの仮説、わかるんだよ。仮説としてわりあいいわれてるのよね。未来社会がユートピアとしたら、そんなふうになる可能性があるってふうにね。この社会なんて、めまぐるしく変わってきたあげくの|いま《ヽヽ》なんだからね。今後もこれまでと同じく変わっていくはずだから、どんな奴だって君のその未来社会のイメージを否定できないってわけだ。何だかこのインタビュー、ひどく考え深いものになってきたぞ、まあ、いいか。
「考えない奴が多いんだよ。あああ、嫌なイモばっかしだからね」
――何でそんなに考えるんだ?
「わからないよ。俺のやってることから考えてる。だって、女が店に来る。遊んではいるけど、客の女たちって、何か傷ついてるんだよ。はみだした気分でやってくるの。金はあるけれどしっくりした関係がさ、男とのね、それがない女たちなんだよ。なんで?って思うよ、金もあって、ビルのオーナーだったりしてて、じっとしてさ、趣味とかさ、ほかにやることあるだろうって思うのにね、金ばらまいてやがんだ。おかげで、俺、ぐうたらしてるわけだけど、だったらさ、社会ごともっと楽に生きられるようになればいいんじゃないかと思うよね」
――あなた自身もはみだしてるっていう、感じあるのかい?
「ある、あるよ。皆さまが忙しい午後に俺はぼわっと考えてるものね」
石原裕太郎は眉間《みけん》に一本、思考の痕跡のような皺《しわ》をつくっていた。
ぐうたらな生活をしている男だが、傷ついているのは石原本人ということができる。そうでなければ、自分のポジションから考えを立てて、未来社会までたどっていく思考を誰がするだろうか。
このいまのつらさは、いずれ、やがて、社会が変われば消えているはずだという思考は、この現在に傷ついている者のすることである。
私たちは、この現在がつらい場合、いつかは楽になるだろうと考えて生きている。自分の人生の未来において、十年後には収入も増え、二十年後にはましな家に住み、三十年後には安楽な人生の果実を手にしていると考える。いわば向上心だ。
だが、世の中には、そうした個人的な未来予測がむずかしい立場に立ってしまう者もいる。十年後? さあわからない。二十年後? きっといまよりは年をとっているだけのことだ。三十年後? 考えようとしても手懸かりがないじゃないか!
しかし、いま現在の悩みはつきない。自分が変化し得ず、しくしくと胸が痛むならば、社会の変化のなかに、せめて自分の悩みを解消しようと、思考の矢を飛ばしてみる。その思考の矢が、多数を獲得し得れば、それは立派な思想として認知されるわけだ。
したがって、石原裕太郎の胸には、思想の芽が育っているといってしまっていい。
――考えられるっていうのは、一種の才能なんだけれどね。
「あ、俺? さあ、そんなものなの?」
――でね、あなたは疲れてるんだよ。なんかへとへとみたいな印象を受けるよ。あ、悪いこといったかな。
「それそれ、あんたが、あんたのなかで受けとめた俺っていうイメージが、いま、あんたのいったことなんだ」
――うーん、その原理っていうのは、実は、人物インタビューで感じることとそっくりなんだよ。人に会って取材する。いかにもね、この人物はこういう人ですって、会った印象をもとにルポルタージュする。だけど、その印象そのものは無限に相対的で、ひとつも確定的なものなんてないんだよ。違うライターが書けばまた違う印象になるはずだ。だから決定的な人物ルポなんて、厳密にはこの世にあり得ない。そのうえで、こういう取材をやっているんだよ。それを承知のうえで訊《き》いてるわけなんだ。
「へえ、似たようなことってあるんだな、そりゃあそうだな、あんたの仕事も客扱いみたいなもんだ。嫌な人間だとひどいんだろ?」
――うん、似てる。ダメな人と出くわしたら書くのが死ぬほどつらくなる。
「うふふふ、それ、こっちにもある。しかし、ダメな相手だと、正直にあれが立たないから死ぬほど苦しむ必要はないんだ。すみませんって、体がいってるから」
――ダメっていうのは、波長が合わないって意味だけどね。自分にとって、まったく関係がないってことだけが、インタビューでわかっちゃうことがあるんだ。しかし、仕事だし、締め切りがあるし、書かなければならない。そんなときが地獄になっちまう。インタビューするまでそれがわからないから、あとで目の前がまっ暗になる。
「ふうん」
石原はあきらかに同情して私を見た。
そして、そのなんともいえぬ優しい視線に見つめられて、私がいつの間にか、己を語りすぎていたことに気がついた。この関係だけは不思議なもので、ある性格のものにとって、ある性格は話しやすく、しばらく会話するうちに自然に話す役と、訊く役が決まってくることがある。取材者としての私が心掛けている唯一の職業意識があるとすれば、意識的な心理操作(自分自身の)で、訊き役の場所へ自分を置こうとすることである。
それが石原裕太郎を前にして、つい、語り役になってしまうことに、私は気づいた。彼には何かそういう資質があるのかも知れない。もちろん、私にとってということだが。
――別れがあるじゃないか、百人の女といったって、時系列では十年ぐらい、それ以上の年月があって、百人なんでしょう?
「ああ、別れね。よくいわれてるような別れのテクニックなんていうのはないんだよ。女にもてて、とっかえ、ひっかえしてる男っているだろう? あれ、イチモツのせいじゃないかと思ってる。よく別れるイチモツってあるんじゃないか?」
――別れやすいチンポコがあるってのか?
「うん」
――上手下手とは関係なく?
「そう」
――へえ、粗チンとは別に?
「下手くそ、手ぬき、粗チンとは別に、なじむのと、なじまないのとがあるような気がするんだよ。この仕事で先輩なんか見てるとね、きつい修羅場なんかしなくても、あっさり別れてる人がいるわけね。そのかわり、しばらくは女も夢中になってるのに、別れがすうっとできる人がいるんだ。テクでもなんでもないんじゃないのかな。ペニスが女をなじませない」
――はあはあ、ふーん、しかし、何だ? それは形状であろうか。
「いや、何かこう女の下意識がなじんでしまうモノで、はっきりわからないが、女性が身内意識を感じる形状がね、大きさやセックスの仕方とは別にね、何か人類史のなかで培われてきているあり方がある。つまり、これとは生涯親しみたい、いつもそばにありたいという雰囲気のものがある。一方では、いいんだけれども、どこかそらぞらしいというペニスがある。で、そらぞらしいというモノを持っている男は、家庭は不幸、女はついに寄りつかず、悲しいドンファンとして生きなければならない」
――冗談だろ、馬鹿馬鹿しい。
「いや、あると思う」
――男は男について実は情報不足だ。わからないんだよ、男は男について。
「いや、ソープランドの女性にいわれた。親しみのわくモノがあって、どこかそらぞらしいモノがある」
石原の話はどこまでが本気なのか、わからない。このような話でも、眉間には厳しい思考の痕跡が刻まれてはいるのだが。
「縁遠い男っているでしょう? といってまったく女っ気のない男ではなくってね。結構な恋愛をしているけれど、縁遠いの。独身主義者かというとそうではないけれど縁遠い奴《やつ》」
石原裕太郎は、この男性のシンボルについての形態論的考察にこだわり、くり返す。
「結婚したがっているけれども、まとまりかけてはこわれちゃう男。容姿も経歴も、これといった欠点がないのに、結婚できないの」
――うーん、たしかにいるね。ああ、私の周辺にもいるいる。「今度結婚する」という女性を紹介して、その後どうしたかなと思っていると「あれ、ダメになった」なんて、まとまらない友人。それでいてもてないわけじゃない男。とっかえひっかえ女を変えてるんで昔はうらやましいなんて思ったけれど。
「そういうタイプの男だよ、それそれ。そいつのモノってきっとどこか女がなじめない雰囲気がたたえられておるのだと思う」
――その話、立証するのむずかしいなやっぱり。君にはそのイメージあるの? どんなモノか。
「うん、そこが疎外性男性生殖器説の欠点なんだけれどね。だって、縁遠いというキャラクターから、いろいろなファクターをひとつひとつ注意深く削り落としていかないとモノそれ自体の特異性にたどりつかないからね」
――ファクターねえ、学術的仮説か、うーむ。
「女の側の要求度というのも一定水準に置いておかないと客観性がないしな」
――女の側の要求水準ねえ、それを一定に置いた場合なんてことは、人間の世界にはあり得ないなあ、ほとんど不可能な問題の立てかただなそりゃあ。
「いま、俺《おれ》のことを馬鹿にしたな」
――そうじゃないよ、人間同士の、しかも関係性の問題ってのは、およそ観念の問題でさ、即物的な形、肉体の個別性に踏み込もうにもむずかしいんだぜ。とりわけ誰《だれ》が誰を選ぶかなんてことは、相対的でさ、リアリズムでいうとわれわれ人類はだな、歴史はじまって以来、時空の偶然の一致にもとづいて、いろいろ選んだり、政略結婚だなんだといったって、往《い》きあたりばったりで生殖を重ねてきたといっていいのであると。
「あんた、すげえ理屈っぽいんだな。だけど世の中違うぜ。結婚相談所の話、知ってる? 女が相手の男に条件づけする。身長一七〇センチ以上、年収六百万円以上、なんてね、あそこから女の結婚についての要求度の一定水準を引きだせるじゃないか」
――あんなもの、政府がデッチあげている標準家庭なんてものよりもイイカゲンで、虫のいい条件だよ。結婚が、いろいろと粉飾された取引であることを彼女たちはあそこで白状している。人間の持っているファクターってのはカタログ化できない。しかし、カタログを見るように結婚相手の情報を得ようとする。恋愛ってのは、すばらしき愛の物語であると同時に、傷つけあいの物語なんだが、その現場のしんどさを消して考えれば結婚相談所の“希望する相手像”というフィクションになるわけだ。商売のうえでさえ、いまや、フィットネスの時代なんてお題目が唱えられてるというのに、なんという横着!
「若い子に怨《うら》みでもあるのか? もしも、彼女たちが、その馬鹿馬鹿しい恋愛をさんざんやりあげて、結局はみんな同じだから、カタログふうに一応決めてしまおうとしてるんだったら、横着じゃないよ」
――だとするといっそう苦々しい。さんざんにやったあげくだとしたら、そのさんざんのほうにまぜて欲しい。どんどんさんざんでよろしい。さんざざさんざざ、さんざんざんとやってよろしい。まぜてくれるなら。
「取材って、そんなにそっちが喋《しやべ》るものなのか」
――あえていっておるのです。もう一年近くこの取材を続けてきているんですよ。一方的に聞いてきているのですぞ。腹ふくるる思いというのもあるのです。
「話をもどすぜ、いいかい?」
――どうぞ、はい、はじめ。
「つまりだな、結婚相談所ふう条件をすべて具備していてだな、何の欠点もない男で、しかも結婚をしたいと思っていながら、ふっと女が離れていってしまうような男、そういう男がつまりホストにむいている潜在能力の持ち主だということをいいたいわけだ」
――は、はあ、なるほど。
「な、しみじみとなついちゃうモノの持ち主はこの商売できないんだよ。家庭生活むきの優しげな、フィットネス度の高いモノを持ってる奴は、女がぴたりとくっついちまうの」
――それ、大小、硬軟、上手下手抜きの話だったよね。
「もちろん」
このとき、石原裕太郎がなぜこの珍説にこだわるのか、私はうっすらと理解したような気がしたのだった。彼は彼なりに、自分の人生のアイデンティティを設定しようとしているらしかった。
彼は続けた。
「だからね、ドンファンていうのは、そういうモノを運命的に持っている男のことなんだよ」
――ドンファンの公式理解は、理想の女を求める流浪の男、次はどんなかなあというモチーフで女から女へ果てのない旅をするってことじゃないか?
「相手がいることだろ? 角力《すもう》と同じで、四つに組んでいる状態が男と女の色事だよ。こっちだけ組み手を離そうとしたって、離れられないんだよ。男だけが理想の女を求めて、はい、さようならなんてできない。それなのに、それができる男っていうのは、むこうの、相手の女がふっと手を離すからできるんだ」
――つまり、ドンファンは、さきに捨てられてるわけか。
「そうなんだよ。どんなにはじめは燃えても、あるところまでくると、女がふっと横をむいちゃって、女のほうから冷えていくんだよ。そうなったら、もう、男はほかへ行くしかない」
――だけど、色事の通、その奥義っていうのは相手に振らせる、むこうに愛想づかしをさせるってことになってるぜ。別れ上手ってのが色事師の重要な条件だろう?
「そんなさ、男と女のことにテクニックなんかないんだよ。上手に別れる方法ってのは、後天的に獲得できないんだよ。モノによって宿命づけられてる。俺はそう思うよ」
――本当のところ、どうなの? あなた自身も、その宿命的なモノの持ち主なのか?
「……どうも、そうなんじゃないのかな」
――女が横をむいちゃう?
「俺は結構優しいしね。女を馬鹿にしないしさ、場合によっちゃあ、しっかりと……」
色白ないい男が一瞬、なんともいえない淋《さび》しそうな表情をした。いや、もっと強い印象だ。寂寥《せきりよう》感が眉間《みけん》のあたりにとどまり、しばらく消えなかった。
――しっかりと?
「口でいっちゃうと嘘《うそ》のようだけれど、しっかりとしたいわけよね」
――ああ、真面目《まじめ》に?
「そう……なんだけどさ、あんたは信じるかなあ」
――そりゃあ信じられるよ。あなたにそういう気持ちがあることは信じられるさ。誰にだってあるからな、もっとちゃんとしなくっちゃあっていう願いは。
「そういう一般論じゃなくって」
――ええと、できるかどうかってこと?
「そう」
――悪いけど、それほどあなたを知らないよ。
「正直だなあ、気休めぐらいいえよ」
――弱ったなあ、しっかりするって、ホストをやめて、どっか勤めるとかしたいの?
「できると思うか?」
――できるだろう、会社員で、だらだら生きてる奴のほうが多いよ。
「人生の大通りを歩きたいんだよ」
――なるほど、わかったよ。
「できると思うか?」
――できるよ。大多数の人間が、わんさかわんさかと大通りを歩いているのは、その道が安全で確実で、しかも楽だから、その道が大通りになるんだよ。誰でも歩ける大通りだからあなたにもできる。何のこともない。
「そういっても、この商売はもっとラクチンだよ」
――ちょっといいかい? 結婚しようとした女でもいたんじゃないのか?
「いたよ、こいつとならってのが」
――で、その女はふっと横むいた?
「あは、それなんだよな」
――ふーむ。
私は次の言葉を呑《の》み込《こ》み、タバコに火をつけた。ホスト稼業の悲しき理論構築が、彼のいう「疎外性男性生殖器説」らしい。
――あのね、女がふっと横をむくっていうの、モノのせいだと思ってるっての、それ運命論の変形みたいね。結婚したい女が横むいちゃうのは、モノのせいじゃないよ。
「いうなって。わかってるんだよ」
石原裕太郎は気色ばんだ。どうしたわけかこの男の自己分析は深く、正確だ。
「俺ね、飽き飽きしてるんだよ」
――ホスト稼業に?
「いや、なんていうのかな、いまの世の中にさ。たまらんのよ。すきっとしたいのよ」
――じゃあ、人生のスタイル変えたら?
「それも意味がないじゃないか。真面目になれないんだよ。サラリーマン生活で、あのスタイルになじみきれなかったしね。根っこがそうなんだから、いくら転職したってだめだしな。とにかくどこに行ったってスタイルが決まってるからね。ヘアデザイナーふう、あんたらの記者ふう、作家ふう、ニュースキャスターふう、プロ野球選手ふう、ヤクザふう、ホストふう、国会議員ふう、有能サラリーマンふうと、スタイル決まってるものな。そうでないふうっていうスタイルまで決まってるじゃないか。うんざりなんだよ」
――たしかに。
「俺は俺ふうにやりたい」
――それ、もうやってるんじゃない?
「やってるよ。そいつに飽き飽きしてるの」
――ちょっといいかい。もう俺もさ、きついこといっちゃうけどさ。ホストやるってのは、歌舞伎町っていう歓楽街があるからの話だね、その飽き飽きした大多数の人間がせめて、数時間でも飽きずに「何かないかな」と思ってやってくる。あなたはその飽き飽きした気持ちの水位の高さでめしを食ってるわけだろう? つまり世間の人々が飽き飽きしていることを知りぬいている確信犯だろう? お説教するとさ、もっと徹底的に飽き飽きしないとまずいんじゃないか? すっきりしたいなんて、きっと中途半端なんだよ。
「変な説教だな。真人間になれっていうのかと思ったよ」
――それいったら終わりなんだよ。歌舞伎町で真人間になるなんて、ひどい冗談かも知れないよ。それはさ、あなただからいうんだよ。ホストに逃げ込んでるわけでしょ? 女がふっと横むくっていうの、俺はわかるな。だって、女のほうがあらかじめホストだと思ってつきあうんだからさ。遊んでいたい相手なんだからさ。その男が、すっきりしたいなんていいだしたらギョッとするよ。女がふっと横むくってのをさ。チンポコのフィットネスのためだっていう仮説はすごく理解できるけどさ、客の女にマジで惚《ほ》れて、その女が横をむくのをチンポコの宿命的形態論にすりかえるとなると、ホストとしてはどうも立派じゃないんだよね。飽き飽きした気分の先頭を走ってきたわりには、失速ぎみじゃないかと、心配になる。俺もね、いまの日本社会の根っこのあたり、本当はあぶないぐらいにみんな飽き飽きしてるんだと思うよ。でね、歓楽街がそれの表現をしてるんだよね。歌舞伎町がやっぱり大きな放出口のひとつでさ。そこで生きている人間が、すごくストレートに気分を代表してるから、あなたのような人生に出逢《であ》うと、正直な心情を見るようでね、ちょっと感動するの。世間でいう尊敬とは違うけれど、なかなかすごいと認めるわけ。
「あのね、逃げてホストやってるんじゃないんだ。どういったらいいかな。そのまんまの気分なのね。世間見渡してさ、こりゃあ、もうたくさんだよ、たまらんよ、やってらんないよっていう気持ちで、とりあえずホストしてるわけよ。いったとおりの事情で流れついた商売だけれどね。それが正直だっつうわけかな」
――人間て、退屈だ、つまんねえ、なんて感覚でも、よっく見ないでその日その日をごまかせるから。
「ニヒリズムじゃないんだよね」
――もっと感覚的だよ。思想なんてもったいぶった手間のかかる回路じゃなくて、ぱっと感じるだけの退屈。野球場で、ワアワアやってたりすると、そのときだけはまぎれて、ぱっと消えてるけど、試合が終わるとぱっと前と同じ退屈のランプがつく。
「俺の場合、その間にセックスの、あのちょっとはその場しのぎになる快感が横たわる。せっかくの快感だけどさ。そのあとの白け具合の底が浅いの。また白けてるって感じだけど、別にどうってことないんだよ、あんなものは」
――落ち込みにさえ、マジにつきあえないわけだな。
「口でいうと違うからな。何ていったっけ、家庭の主婦の無感動のこと」
――主婦アパシィか。でも、あのアパシィは子どもを勉強させるという口実で、他者に強圧的なプレッシャーかけて解消してるみたいな。本人としては元気に家庭してるつもり。でも、根っこは無感動で、そのまわりに消費文化の情報がくっついて、テニスをしよう、あれを買おうと忙しい。
「俺はそうはなってないな。もっとその場その場の一番ラクチンなスタイルとってる。腹減ったらめし、ひとふろあびて、女抱いて。で、ふうっと一切合切、全部ひっくるめて御破算にしたくなる。自殺なんかしないけど」
ふっと最後の言葉が気になった。
御破算にしたい、生まれかわりたい? そこにぼんやりした自殺のイメージ。
快楽と死が裏と表にはりついたデカダンスのコインをこの男はもてあそんでいる。
男はものうげに時計を見た。ついで左の肩をゆっくりとあげ、だるそうに首をまわしたりした。かすかに笑い、はにかんだようにうつむく。芝居がかったポーズだった。ホスト稼業で身についた一連の仕草のようでもあった。いささか古風な二枚目ぶり。
かつて、日本映画の俳優たちはこの風情をやたらと演じたものだった。
けだるく波止場に立ち、煙草《たばこ》をくわえて照れたように笑う。すると相手役の女優は、ひたむきな愛と、幼い愛とを完全にとり違えた演技で、ひた、などと純情そうな瞳《ひとみ》で男を見つめたりする。二枚目は困ったような、照れたような眼《め》で女を見、視線をゆっくりめぐらせて、海を見る。ほどよく霧笛が鳴れば別れのシーンはできあがりである。
私は、そんなことを考えながら、ぶしつけに長い間、石原裕太郎を見つめていたのかも知れない。私は気をとりなおして尋ねた。
――自殺なんて考えるのか?
男はけだるそうにうなずいた。
「うん、ちらちらしてるよ、結構」
――ちらちらか……。
「本気じゃないと思うんだろ」
――そういう気持ち、わからないでもないがな。
「わかるって?」
石原裕太郎がすっとんきょうな大声をだした。
――いや、わからないな、自殺の心理は。
「そうでもないんじゃないか」
男は妙に自信あり気にいい、私をのぞき込んでいう。
「どうもね、あんたには変な暗いとこ、あるね。甘ちゃんみたいな表情と、どうも変な暗いところがあるね。話がはずんでるときはいいけれど、黙っちゃうとどうでもいいみたいな雰囲気が伝わってくるね。ホストにはあんたみたいなの、割といるよ」
――へえ、そいつは困ったな。いま、ちょっと二枚目のことを考えてたんだよ。インタビューの途中でふわっと、まったく別次元のことを考えたりするんだ。
私はこの男に関する限り、バランスのとれた取材者の立場を放棄していた。だから逆につっ込まれてしまう。それを押し返す。
――俺《おれ》がホストむきだっていうのか?
「そうじゃないよ。ただそのね、どこかにどうでもいいっていう気分があるっていうことだよ」
――それはさ、ヘタすると、いまの日本人の大人は、どこか、何となくどうでもいいような気持ちでいてさ、楽しいことをいっぱいしていながら、だるい気持ちでいるんだよ。だから、俺もその気分のはしくれみたいな顔をしたりするし、あなたも疲れた表情を見せたりするんだ。でもな、疲れた顔なんてあんまり見せるとクサイ芝居みたいなもんだろ?
「自殺未遂の経験あるんじゃないの」
――ああ、一度な、二十三歳のとき、ひどいもんでした。
「うん、それよ、それというわけじゃないんだけど、そんな感じの雰囲気っての? なんかな」
――だけどごく一般的な馬鹿《ばか》みたいな自殺未遂だよ。
私はそのときの記憶が浮かんでくるのに閉口しながら答える。
「一般的な自殺未遂なんてあるかよ」
――あなたの、自殺ってのはどういうの?
「めんどくさいってのが高じるんだよ。誰《だれ》かをぶち殺したくなって、苛々《いらいら》して、危ねえってときに女を抱くから消えてるだけだけど。ほら、試験勉強のときに苛々して、オナニーするのと同じだよ、ガキみたいなの」
――ははん、そのサイクルだな?
「何が?」
――うんと真面目《まじめ》になって、おとなしく人生を過ごそうって思うのはその次じゃないのか?
「そうそう。そのくり返しだな。おたくもそうなの?」
――そうじゃないけれどね。それ、三角形にぐるぐるまわるのが普通じゃないのかな。何もかもぶちこわしたい、命ととり違えてもいいってぐらいに思ったら、次のサイクルで快楽をむさぼりたい、と思っていると、次に、海の底の貝みたいに静かに生きて死のうとぐるぐる考える。ところが息苦しさのあまりまた何もかもぶちこわしてやろうと思いたち、また次には快楽だ、いや、静かに生きて、なんてふうに考えるサイクル。
「ああ、そうか、なるほどな、俺もそんなふうに回ってるな。いや、近ごろはそれが長続きしないんだ。ぶちこわしながらオナニーしてるし、真面目に生きてたりしてるような気がしてならない。病気かな」
――そんなこと訊《き》かれても答えようがないよ。
「どんな自殺未遂だった?」
――そういう話はしないほうがいいんだ。必ず滑稽《こつけい》なものだからさ。
「そうかな、そうかも知れないが」
男はうつむき、黙りこくった。
この男にわが自殺未遂について語ってもかまわない。そのころ、私は、自分には何もないと確信し、その私の部屋にやってくる恋人を抱き、途方にくれていた。そのうちに薬を飲んだが、三日三晩眠り続けただけで眼が覚めた。もちろん死なない程度の量を飲んだだけのことだった。蒲団《ふとん》をわが汚物で汚したのが、そののちの大反省点であった。みなの集まる喫茶店へ出かけたところ、誰も私のことなど心配していなかった。四日前と同じ日常に何くわぬ顔で加わると変な気持ちがした。
男は時計を見た。次第に時計を見る頻度が高くなってきている。
――用事があるんだったら、もうやめにしようか? とっくに取材だか何だかわからなくなっているしね。
「そうじゃない。時計を見るのは癖なんだよ。気にしないでよ。滑稽だ、なんて思えないから、考えてるんだよ」
――自殺のことか? やめとけよ。
「なあに、でも、それ本当かな、滑稽だっての」
――そのものじゃなくてさ、喋《しやべ》るってことが滑稽なことだっていってるんだよ。
「俺はちらちらしてしようがないんだよ。何かのはずみで思いつくとしばらく考えるんだが、ちらちら、ちらちらしてしようがないんだよ」
妙な切実さのあるいい方だった。頬《ほお》づえをついて考え、首をひねる。死を思いつく? たしかに、自殺について考えるというのは、理づめでじんわりと考えていく場合は少ない。ふと、思いついたかのようにそれについて考えていることが多かったように思える。
――あのね、ここで死にたいなんていわないでよ。
「いわないけれどね。ま、どうでもいいんだけれどさ。死にたいような気分なんだってことは確かなんだな」
――真冬に、窓をあけ放って、酒をたらふく飲んで、睡眠薬を飲んで、裸で寝ると、自分の部屋でそのまま凍死できるってさ。
「そいつはだめだ。絶対に蒲団を引っぱりだしてかぶるに決まってる。そんなんじゃ死ねないね」
――あなたと上手な自殺の方法を考えるつもりはないんだがな。
「うん、もう、いいんだろ? もうやめるよ」
男はまた時計を見ると立ちあがった。
「俺はサウナにでも行くわ」
軽い身のこなしの石原裕太郎は、店の出口で振り返ると、にやりと笑い、気取った後ろ姿で視界から消えた。
あれで意外に、本気で死にたがっているのかも知れない。女を相手にしている稼業のメランコリー、肉欲に惑溺《わくでき》した果ての自殺。あるいはこの社会から疎外された男の終着点。日常でのバランスを、頭のなかの死のイメージを出し入れしてとっているとすると、何かのはずみで死の側ヘストンと落ちるような気がしないでもない。自殺の原因は、のっぺりと頑固に仕組まれたこの日常そのもの。公序良俗を形づくる多数派の息づかい。日常生活の健全な営みが刺《とげ》となってあの男の胸を突き、秋田県出身の色男が死ぬ。多数派はそのような男の自殺の原因について理解することは少ない。一人のはぐれ者が、身から出た錆《さび》で滅んだという具合に解釈するだけである。
何度かホストクラブそのものに潜入しようとしたが、ことごとく入店を断られた。
歌舞伎町にホストクラブは二十軒から三十軒といわれる。あの厖大《ぼうだい》なバービルの、ぎっしりと詰まったスナックや、バーや、クラブのなかにまじって、この業界は昭和四十年代からそう増えもせずに、しかし、確実に存在する需要に応《こた》えてきている。
酒を飲む女性は増えた。だが、その増加に比例してホストクラブが増えなかったのは、女たちがごく普通の店に行きだしたからである。
ホストクラブの料金はやはり高い。ボトルキープして三万円から五万円、高価な酒を入れて十万円以上というクラブもある。そのうえホストに特別な関係を要求すれば、ホストへのお手当もピンとはねあがる。
この世界にも達人、商売上手が存在し、きわどい手管を使う。
変名を客に告げるだけではなく、二人の客にマンションを買わせたホストがいるという。もちろん、東京の地価が高騰する前のことである。
その四十代のすご腕ホストは、まず一人の客にマンションを買わせ、冷蔵庫、ベッド、洗濯機、ナベ、カマからバスルームの洗剤まで買ってもらった。いわば囲われたのだった。
客は東京西郊で、ガソリンスタンドを四つ五つ経営する人物の奥さんである。五十代後半のその夫人は、大手石油会社の系列下のそのガソリンスタンドを経営する有限会社の副社長だった。同族経営で経理をまかせられていたが、旦那《だんな》さんは愛人ができて家に寄りつかず、それなら私もと歌舞伎町のホストクラブヘ通いだす。
ところが、そのすご腕ホストはもう一人の客にもマンションを買ってもらった。同じく所帯道具を買いそろえてもらう。こちらの客も五十代半ば、秋葉原のビルのオーナー夫人である。この夫人は喫茶店も経営していてなかなかのお金持ち。
すご腕ホストはこの二人を手玉にとって、ふたつのマンションを交互に使う。秋葉原の奥さんは夜の十一時には帰っていく。一方、ガソリンスタンド夫人のほうは、外泊をとがめる者はいない。
そこで時間差を用いてマンションを住み分け、貢がせるだけ貢がせたという。いま、そのすご腕ホストは、二人のおばさんを半ば暴力で脅して追っぱらい、マンションを売って、東名高速御殿場インターにモーテルを経営しているという。
女の客たちは、いかに客として遊びに来ていても、どうしても女の性《さが》を脱《ぬ》けでることができずに男であるホストにかしずき、お金をつぎ込むらしいのである。
ひいきの客の分だけ財布を持っているホストもいるという。Aの客が店に来たときにはAの財布をポケットに入れて席に着く。中身は二、三万円。それへ客の女性がポンと十万円ほどチップを入れる。Bの客が来たときにはBの財布をポケットに入れて席に着く。テーブルの下でさっとチップが入る。
AとBの客が同時に店にやってきた場合は、Aの財布を上着の内ポケットヘ、Bの財布はズボンの尻《しり》のポケットヘ。そこへCの客が現れた場合は? 上着を脱いでAの客の席に置き、Cの財布はCの客の膝《ひざ》のうえに置くのだという。そして、三つのテーブルを順にめぐり、座をもたせていく。
悋気《りんき》は女のもの。競りあわされた御婦人方は我《われ》を忘れて熱くなり、いよいよ財布ヘチップを放《ほう》り込むことになるそうな。そんなときでも、三人が三人、いつもの財布ヘチップを与え入れていると思い、むこうのテーブルで同じことが行われていると思う人は少ないと聞いた。
ホストクラブの客は、セックスに飢えているのか? 決してそうではないらしい。彼女たちももちろん、めくるめく歓《よろこ》びを求めてはいる。しかし、それ以上に、めぐまれなかった恋との出逢《であ》いを求めているという。だが、そのために残された若さと時間は乏しいのだった。そこには渇望が渦巻き、人間の性が切なく息をはずませている。その欲求そのものはまったく自然の発露である。しかし、その欲求に身をまかせることは傷つくことである。ホストクラブの客は深く傷つきながら歓楽に前のめりになり、男が遊ぶようには都合よくできていない、ひどく不便な歓楽街の成り立ちを呪《のろ》いながら、つかの間、ときめいた胸を抱いて家に帰っていく。
しかし、ホストクラブのホストたちにも新しい波が打ち寄せだした。若い男の子たちがアルバイトでやってくるようになった。これまで、あまりに若すぎる男にはホストという苛酷《かこく》なサービス業はできないといわれていた業界に、二十歳そこそこの屈託のない若者たちが出入りすることになった。
これがまた、ひとまわり若くなった客にうけがよく、ホステスたちも仕事のあとでひやかしに寄るようになる。
これまで、ホストクラブの主な客だったお金持ちの年配婦人たちの波が、ここへ来て勢いを失い、また、ソープランド嬢もエイズで客が減ってホストクラブでの意気はあがらず、主要な客層として、ホステスをターゲットにする店も出はじめているというのである。
歓楽街の主戦闘員であるホステスを慰めるホストという役まわりがはっきりしてくるとなると、ホストクラブは、薬と副作用、その副作用を治す薬といった関係で存在理由を獲得していくのかも知れないのである。
歓楽を求めれば傷つく覚悟が必要である。だが、若者たちには、子ども時代から経験で学ばなければならない遊びのルールが、まだしかとは身についてはいない。
三つの財布を操る座もたせの術《わざ》もなく、百戦錬磨、サービス業の主戦闘員を手玉にとる真似《まね》などしようとすれば、少年たちの運命はあやういといわねばならない。
あるいはこの歓楽街のすみっこあたりから、愛玩《あいがん》用の専門種の男たちが、未来を先どりして誕生したか? 少年たちのちょっとしたアルバイトという欲望がさらに歓楽街をスパークさせるとなると興味はつきぬ。
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第十章 凶悪な欲望
歌舞伎町の底を、自殺願望とたわむれるホストが歩いていく。ポン引きがすれ違う。クラブヘ出る前のホステスがポーカーゲーム機屋の「フルーツ・パーラー」から出てくる。地回りふうパンチパーマの男が白いスーツで肩をいからせる。歓楽街は八月の旧盆の時期、わずかばかり人影が減るが、すぐまたにぎやかになり、欲望の濛気《もうき》を噴きあげて夜の巷《ちまた》の闇《やみ》を満たす。
一人のヤクザ者がぐちをこぼす。
「近ごろの若い者《もん》は辛抱ってことを知らん。ちょっと締めると姿を見せなくなる」
新大久保に近いマンションにポーカーハウスを持つ組員の話だ。
その若い者は、ポーカーハウスでボーイをやっていた。夕方七時に出勤?して、部屋を掃除し、飲み物やつまみの類をそろえ、“勝負”がはじまれば何かと客の世話をする下働きが仕事だった。だが時間にルーズな坊やで、ときどき出勤時間に遅れる。そこで組員は坊やを叱《しか》りつけた。すると翌日からぱったり姿をくらました。
ところが、坊やは、
「しばらくしたらよその組の息のかかった店でキャッチしてやがるんだよ。こっちで叱られたら、ほかの組へ転職しやがる。義理もスジも考えねえんだね、近ごろのガキは」
というヤクザ予備軍なのだった。
世に組織暴力団といわれる人口はざっと十万人といわれている。少年ヤクザ候補生がこの下に一万人ほど。ひところ話題になったその女房たちや女たちがこの周辺に十五万人、組織暴力団系の店やその従業員たち、準構成員などを含めると五十万人ほどが息のかかった総人口だという説があるが、いずれにせよ水面下のこととて実態はわからない。
そして、その経済活動は一説で一兆円産業などという見方もある。ただし、こちらの産業規模の実態も、実はよくわからない。
さきに、この稿では歌舞伎町にそのスジの人間が二千人から三千人という数字をあげた。街の名刺屋さんの主人から聞いた数字である。
また一方で、この方面の消息通によれば、歌舞伎町で代紋をあげている組織は十七団体であるとされる。これらの組織は博徒系の関東二十日会と、テキヤ(露天商)系の関東神農同士会とにそれぞれ分かれて稼業に精を出しているといわれる。
さて、歌舞伎町は世界最大級の歓楽街である。この巨大なショバを縄張りとすれば組織のあがりは大きい。
しかし、意外に組織同士の抗争事件は少ない。
東京圏内では、よそ者の組織は看板、代紋をあげないという取り決めが守られているというのである。
そのかわり、歌舞伎町には全国の有力組織が出張所をもうけているという。マンションにひと部屋を借り、山中商事、川中企画、凸凹総業、山外物産、川外興業、KK山中、川中開発などといったそれとはわからない看板で彼らはこの歓楽街に常駐し、何かにつけての情報を集める。その数百八十とも。
こうなってくると歌舞伎町の組織暴力団の勢力地図は複雑に入り組んだうえ、そのなかに縄張りを求めずにうごめく無数の点を描き込まなければならないことになる。
彼らが得ようとする情報とは、いずれも地下水脈のなかで金になる情報である。
たとえば公共事業である。東京で工事の概略をつかむ。それがその組織の地元の話であれば、土建会社をオルガナイズして談合を決め、その何割かをピンハネする。
地上げ話の情報も金になる。大企業がどこの場所に買いに入ったか。そのためにどの下請け会社が動いているか。末端のダミーはどの組織系が引き受けたか。トラックで突っ込む兵隊はどこの者を使うか。その情報の各水準に頭をつっ込んで、うまくいったらもうけ話にありつこうというわけだ。
とりわけ談合では、動けばすぐにバレる地方で話をつけず、業者を東京に集めて話をつけてしまう場合が多いといわれる。はるか田舎の下水工事の談合が、東京のどこぞのホテルの一室で取り決められているらしい。
こげついた債権も金になる。俗にサルベージといわれる仕事で、パクッた手形をネタに強引な取り立てをやって金にしてしまう手口だ。
なんでも歌舞伎町のどこかには、事故物件の手形や不動産だけを扱う情報交換のクラブがあって、詐取した手形などが取引材料になっているそうな。
「この二億円の手形は、裏書きが〇〇建設だ。まともにあげて、一億はいける。こっちは手がたりねえ、三千万円で譲るがどうだ」
「二千万ならこっちが受けるが」
「仕方がねえな、二千万、そのかわり即金だ」
「よし、受けた」
なんていう会話が、歌舞伎町のどこぞのうす暗がりで交わされているのかも知れないのである。
元来、歌舞伎町の組織の稼ぎ方は、競馬のノミ行為、同じく競輪、競艇のノミ屋、覚醒剤《かくせいざい》の販売、バーやクラブのつけ料金の回収、売春、エロ図画・エロビデオの販売など。
これらは、いわば祭りの場である歓楽街の直接営業の項目といえよう。
桜通りにある大人のおもちゃ屋さんでのやりとりで見ると次のような具合だ。
ぶらりと入る。店員が二人いる。
「裏ビデオどうですか、二万円ですよ」
「下さいな」
といっても店内にはそんな現物はない。
「五分待ってください」
という。
一人の店員が、どこかに電話をしてビデオのタイトルを告げると、通りすがりの客のふりをした営業員(?)がテープを届けに現れるのであった。
こうした地元の営業とは別に、全国からやってきた駐在員たちが、縄張りにふれない範囲で暗躍していることになるという次第。
この構図が、これまでの歌舞伎町の安定的なヤクザ世界である。
ある消息通は、
「歌舞伎町というパイ全体が大きいので、対立抗争を激しくしなくても、まあ稼げているんですよ。土地で地権者をだまし、一億手にしただの。逆に地上げの不動産屋をだまして五億ものにしただのという臨時のもうけ話が地価高騰の一昨年、昨年ごろにはかなりあったようだ。しかし、地面でのもうけ話はもうありませんね」
と語る。
水面下でのもうけ話の情報は右のような場面の接合点でさぞやまぶしく火花を散らしたに違いない。
最上恒産や、第一相銀など土地の一発屋たちが舞台から退いたのちに、もうひとつの新たな動きが歌舞伎町に目立つようになった。
本書の冒頭でふれた外国人たちの動きがそれである。
情報シンジケートの触手がはるか国境を越えてフィリピン、韓国、台湾などへのび、“ジャパゆきさん”の斡旋《あつせん》をする組員が増えはじめている。業態はエージェント業務にすぎないが、入管法の網目をかいくぐる非合法領域は彼らの稼業そのものである。
現地の非合法エージェントから歌舞伎町の非合法エージェントヘ“ジャパゆきさん”を斡旋すると一人三十万円から六、七十万円の斡旋料が入るといわれる。
あぶないサービスをして収益率をあげようともくろむピンクサロンや、ピンククラブが、
「女の子五人」
と歌舞伎町のエージェントに注文する。そこからマニラならマニラの組織へ注文が出され、二、三週間後に彼女たちは歌舞伎町へやってくる。
斡旋料だけでもうけるのはまだしも紳士的な手口。かつての置き屋のように彼女たち一人から給料の六割、七割をピンハネし、月収三百万円、などという悪質な有能ぶりを発揮する組員も現れだしている。
そして、さらにこの数年来じわじわと台湾勢の進出が目立つようになってきた。
昭和六十三年一月には、台湾系組織内部の仲間割れと見られる射殺事件が発生した。
彼らははじめ、台湾からの“ジャパゆきさん”のヒモ的護衛要員として日本へ上陸し、そのまま定住しはじめた。
西新宿、青梅街道沿いの新中野、代々木、落合、高田馬場など新宿周辺のマンションを借りて合宿のような生活をはじめ、やがて、マージャンの簡易カジノを開設するなどして歌舞伎町に根を下ろしていく。
はじめは小さな橋頭堡《きようとうほ》のように、あるいはひっそりと咲く帰化植物のように彼らは根づき、それはやがて立派な、といえば語弊があるかも知れないが、秘密アジトまでに成長する。
まず女でもうけ、次に短銃の密売をはじめ、覚醒剤、さらにはコカインやモルヒネなどの麻薬へ手をのばしていく。
そして、歌舞伎町に定着していた台湾系非合法組織の顔つきがはっきり見えてきたのが、昭和六十一年一月、四谷警察署に逮捕された恐喝未遂容疑者の台湾人二名の身元が割れたときだった。
その二人の台湾人は、台湾最大の組織「竹聯幇《ちくれんぱん》」の幹部であった。なんとこの二人、台湾の銀行強盗事件で十五人を射殺しているという凶悪犯でもあった。
さらに台湾ではやはり勢力の強い「四海幇《しかいぱん》」の構成員も歌舞伎町に根を下ろしているというのである。
さる新聞の報道によれば、六十二年十二月の銃撃事件(二名死亡)も、この両組織の抗争であるというのだ。
消息通はいう。
「歌舞伎町の暴力団というのは、これまで安定した稼ぎ場所として歌舞伎町では共存体制をとってきているわけ。水面下の縄張り争いでこのところ噂《うわさ》されていたのは、極東系と住吉連合系が新宿西口の京王デパート向かいの飲食店街あたりで縄張り争いをしているぐらいのものだった。そこへ台湾勢が入ってきて、かなり強引な商売をはじめているわけです。どこかから外部勢力が入ってきて、まがりなりにも安定構造をつくっていた旧来の勢力図がこわれるとなると、これからはちょっと戦国時代になるかも知れないんです」
台湾の組織暴力団が根を張ることができたのは、ひとつにはもとから台湾系の飲食店経営者らが歌舞伎町に一定の地歩を獲得していたからである。これに加えて、歌舞伎町には、北朝鮮系、韓国系のビルオーナー、飲食店経営者、風俗営業者などの勢力も存在している。
後背地のラブホテル経営者にもそうした人々は多い。
その意味では歌舞伎町は東アジアの国際歓楽街という横顔がある。そのなかの台湾チャンネルに乗って強力な連中が加入してきていることになる。
消息通は語る。
「もとから在日韓国人、朝鮮人の所有の雑居ビルは多いのですよ。戦後すぐのころ、歌舞伎町の土地を買う日本人はむしろ少ないぐらいだった。彼らはそのときに土地を買い、いまは成功して郊外に去っていった。いま、歌舞伎町で実際に飲食店や風俗営業をしている人々はその次の世代の人々です。経営基盤の弱い人々もいる。台湾系の組織はそういう店の用心棒に入り込んだり、脅して食い込んでいったようです。閉鎖性の強い世界で、そのようすは日本人の視野になかなか入らない。気がついたらかなり浸透していたというのが実情じゃないのか」
さらにこの消息通の話を再構成すると、台湾のヤクザのほうが、「飢えた野犬」のような凶悪さと、力を持っているというのである。
「どうも台湾での官憲の取り締まりが厳しく、彼らは追いつめられ、必死の思いで歌舞伎町に活路を求めているようですね。それにくらべると日本の組織はやっぱり豊かになって、命を張ってまでの抗争となると二の足を踏む。命を張ってまでの|しのぎ《ヽヽヽ》よりも、むしろ頭を使っての|しのぎ《ヽヽヽ》のほうに流れる傾向にある。すぐにピストルをぶっぱなして命のやりとりをする時代は昭和二十年代以降うすれていますから、台湾系の組織にかなり押されているのが実情ではないのか」
台湾を追われた「竹聯幇」と「四海幇」の勢力と日本の旧来系の組織は、はじめのうち動物生態学的な棲《す》み分けを計ったのであろうか。
もう一人の消息通によれば、
「歌舞伎町にはもともと国際シンジケート組織のような体質を持った組織もあるんですね。日本社会から疎外された在日韓国人、朝鮮人を構成員としている日本の組織です。そこには同じく台湾系の人間も一緒に入っている。そこへ竹聯幇とか四海幇の連中が、はじめ腰を低くして、縄張りは荒らさないといった挨拶《あいさつ》を通して入ってきた場合、なんとなく黙認するということもあったかも知れない。それに台湾には、地下印刷所を持っている組織もある。短銃の密売でも、水面下で商談を結んだ日本の組織もあったようです。彼らが入り込む条件は歌舞伎町の側にあったように思う」
にわかに国際歓楽街の表情を見せはじめたのが歌舞伎町のいまの姿らしいのである。
これに対していま、警視庁は本腰を入れて取り締まりにあたりだしている。
六十三年七月末、警視庁は「新宿地区暴力団犯罪取締本部」を新宿署に設置した。
その態勢は新宿署三百二十五人、本庁捜査四課、防犯部から五十人の大々的な作戦とされた。
消息通は語る。
「旧来の組織は、それでなくても都庁の新宿移転で、取り締まりがきつくなることを読んで警戒していたんですよ。都庁のすぐの膝元《ひざもと》で派手な動きをやると、警察にかなりきつく締めあげられるというので、鳴りをひそめる動きもあった。しかし、台湾系の連中はじっとしていたのでは干あがるんで、チャカ(短銃)をぶっぱなす。おかげでこれからやりにくいという組員もいるよ」
変転めまぐるしい歓楽街の、必要悪的な、そして必須《ひつす》の要素である非合法組織暴力団は、いま、明らかに“新時代”を迎えようとしているのである。
だが、組織暴力団の世界で紡ぎだされたらしいこの風説は、歓楽街を主格にすえて考えると、この主人公は人の胸に育つ街の姿《イメージ》をもって、自意識としているといっていい。
歌舞伎町がおしゃべりをする。
「あたし? 歌舞伎町という、戦後生まれのほんの駈《か》けだしの若僧ですよ。歌舞伎町ってえ盛り場は、フランス語風の女性名詞、男性名詞でいうと、女でしょうか、それとも男でしょうか。それとも両性具有、あるいはヤヌス、それとも頭のないトルソー、総身に知恵のまわりかねた恐竜、情報だけが通りすぎる電話局の交換システム、乗客がごちゃごちゃと乗り換えながら、にぎやかだなと思っているうちにぱったりと誰《だれ》もいなくなるプラットホームかも知れませんよ。よっく見たら、ただの空間、いろんな人間がいろんな芝居をしては消えていく舞台。からからの、砂漠というほどの広がりもない、そこらの砂場みたいな“ひからびた場所”なのかも知れないけれど、ここじゃあ、人間たちはとどのつまり正直になっちまう。ストリップ小屋のかたすみで眼鏡をずりあげる年配のお父さんの眼《め》つきなんか、高校生のころと少しも変わっていない。その眼鏡の奥にぽちっと光ってるのが、あたし、歌舞伎町の正体なんですがね」
ここで働いたり、ここで酔っぱらったり、ここで遊ぶ人それぞれが「わが街、歌舞伎町」について語る。そのひとつひとつはすべて少しずつ違う。その違いが主人公である歌舞伎町の姿をくっきりと浮きあがらせていくことになる。
このレポートは、そうしたイメージのずれをめぐる長い旅であった。
歓楽街の必須の人影、非合法の領域に発生し、欲望の周辺で甘い汁を吸い、暴力をちらつかせて凄《すご》んでは見せても、とどのつまりは怠惰で手前勝手な組織暴力団についても、どうやら視線のずれは発生している。
それもまた歌舞伎町の自画像を描きだす一本の線、筆の動きであることは認めざるを得ない。
その方面について私に語った消息通の一人は一部の新聞報道の情報を、歌舞伎町の自画像のなかへ描き加えていたらしいのだった。
台湾の組織暴力団「竹聯幇《ちくれんぱん》」と「四海幇《しかいぱん》」の凶悪な連中がじわりと歌舞伎町の夜の底にしみ込みはじめたという情報は、刺激的な情報ではあったが、六十三年七月二十日から歌舞伎町浄化作戦に取り組んでいる新宿警察署の特捜本部の線上には影も尻尾《しりお》も現れてはいない。
どういうことだろう? さては「竹聯幇」も「四海幇」も、よりいっそう歌舞伎町の最深部へしみ込み、かくれきったのだろうか?
新宿警察署の幹部の一人は苦笑しながらいう。
「どうも、かなり独自な取材により書かれた記事のようですな。捜査線上にそんな連中がいる気配はない。断言しておきます」
だが、何かわけもなく混沌《こんとん》とし、おどろおどろしく、いわくあり気《げ》で、どこかに怖さがにじみ、暗闇《くらやみ》には死体が横たわっていてほしいと想《おも》うのは、歓楽街を前にした人の心の奥のあたりの幻影でもある。
まったく勝手な幻影で、実際にごろごろと死体が転がっていれば悲鳴をあげるが、その一方で、快楽の横によりそう恐怖の味を、人は求めたりするものだ。
かつての上海のように、七〇年代のニューヨークのように、マニラのように、カサブランカのように、イスタンブールのように、モンマルトルの十九世紀のように、歓楽街には悪の影がさし、何やら魔界のようであってほしいという、心の奥の願望が、実はそこを訪れる客の胸のうちには潜んでいる。
その願望が太るのは、あまりに管理され、白々とした、効率を何よりも上位に置く、白昼の社会の息苦しい合理性、それを支えるために日々補強されて止《や》まない、このいまの日本の価値観の太り具合によっている。
世界第一級の歓楽街に、異界から魔物が忍びよる。歌舞伎町は国際的な魔界の様相を見せはじめているのではないのか? そうだ、国際化の時代だという。海のむこうから魔物がやってくる時代だぞ! 肌の色の違う、考え方も違う、何だか血に飢えた異人が街にうろつきはじめだしたぞ。フィリピンや、タイや、台湾や、もっと違ったどこか正体不明の奴《やつ》らが歌舞伎町で何かを仕掛けてやしないか?
こんな心理の持ち主には「竹聯幇」も「四海幇」も、義和団も、国際共産主義者も、フリーメイソンも、ユダヤ資本も、ネオナチも、マフィアも、ユネスコも、アムネスティも、東アジアマントル連合も、猫の手団も、革命的革命主義同盟革命派革命推進本部も、スーパーマンも、ドラキュラも、半魚人も、円盤も、ときによってはそこに、眼前に見えてくる。
あやうくひ弱な精神には、いつでも天は落っこちてくる寸前である。
死霊も悪霊も地縛霊も背後霊も、たおやかに白いストリッパーの乳房の谷間の闇にさえうかがえるに違いない。死霊の棲《す》みついた乳房なんて、埋もれたいほど魅力的だが。
新宿警察署防犯課長代理・笹島紀雄は、陽焼《ひや》けした顔をひきしめていった。
「たしかに、歌舞伎町には、じわじわとアジアの各地から働きに来る人々が増えてはいます。そういう意味では新時代を迎えているとはいえる。しかし、取り締まりの方針は不変ですからね。どちらの国の人でも、罪を犯せば捜査し、逮捕する。あれだけの人がやってくる歌舞伎町ですからね。安心して酒が飲めなければ話にならんでしょ」
いま、歌舞伎町には、風俗営業店が約三千七百店。これは上野、赤坂、渋谷を合計した数をうわまわる。新宿署の防犯課は三千七百のうす暗がりをむこうにまわして、たぶん日本一忙しい部署なのだ。
そこにジャパゆきさんが逮捕されてくる。
取り調べは警視庁委託通訳を間に進められる。十年前ではごくまれであった外国人売春婦の取り調べでは、日本語的会話の常識では進まない場面も出てくる。
取り調べの刑事が、こうした事件で被疑者にいう言葉を、いつものようにいう。
「真面目《まじめ》にやらないかんよ、真面目に」
すると通訳された言葉を聞いてタイ人の売春婦がにこっと笑う。
通訳が刑事にいう。
「真面目にやれというと、真面目に売春をやれといわれたと思って、うなずくようですな。これはどうも、まずいです」
刑事が困惑する。
「つまり、真面目に生きろと、そういう意味でいって下さい」
通訳しなおした言葉を聞いて彼女がまたしてもこくんこくんと明るくうなずく。
通訳も困り、推測する。
「どうも、真面目に生きることと、売春することは矛盾しないと考えてるようですね。つまり、彼女は真面目に売春をして生きているという考えなんだな」
「うーむ、そうらしいが、しかし、困ったなこれは……」
この場面は、百パーセント私の想像だが、この想像を導く話を笹島警部は次のように語る。
「文化の違いらしいのですね。それとタイでの彼女たちの社会的背景、生活の細かなようすがやはりわからないので、こちらが驚くことがあります。彼女たちには私たち日本人には理解しにくい明るさがある。表情は明るい。しかし、その明るさのニュアンスがどんなものか、よくわからないのですね。防犯課のベテランが考え込むこともありますよ」
タイからやってきたリンダという女性がいた。いつのころからか歌舞伎町の街に立ち、たった一人で仕事をはじめた。バンコク、パッポンのストリートでしていたことをごく自然にはじめただけのことかも知れなかった。
パッポンはバンコクの歓楽街だが、街のようすが、場所によっては歌舞伎町に似ていた。似ているもなにも、日本語の看板が並ぶ一角がある。「波止場」「白いバラ」「百合子」などの看板の下、日本語を話すポン引きが街を歩く。
「チョット、チョット、イイ娘イルヨ、カワイイ、安イ、見ルダケ、タダ、タダ」(蔵前仁一著『ゴーゴー・アジア』)
リンダにとって、歌舞伎町の街頭で片言の日本語をあやつり、客をつかまえることに、それほどの飛躍を感じないのかも知れなかった。
リンダが歌舞伎町を途方もなく稼げる街であると判断したことは、その後の行動でわかる。
彼女はタイから女性を呼び、歌舞伎町二丁目に「クラブ」を持つ。女性を呼ぶブローカーに話をつけ、呼んだ女性は二十人。彼女たちは三十万円から四十万円をブローカーに借りて日本にやってきた(身柄を買われたのと意味は同じ)。
リンダの店の値段は日本の相場である。
客は基本料金一万円を支払い、店のなかの女性から気に入った女性を選ぶ。ショート四万円。十時以降、および泊まりは五万円。客はこのほかにホテル代を払う。
代金四万円のうち、二万円はブローカーに、クラブのママであるリンダに六千円、本人の手どりは一万四千円である。しかし、彼女たちはリンダママには別口で部屋代を払わなければならなかった。大久保のたった二間のマンションに二十人が寝起きし、その家賃が一人五万円、食費三万円、洗濯代一万五千円、合わせて九万五千円である。
なんという苛酷《かこく》なピンハネだろう。しかし、これはパッポンシステムそのものである。
パッポンでの彼女たちの値段は四百円から二千円。ピンハネされて彼女の手もとに残るのは二百円ほど。そのなかから貯金をし、彼女たちは故郷の家へ仕送りする。タイに売春婦は五十万人といわれる(総人口は五千万人)。東北部の農村から彼女たちはバンコクにやってきて、日本語の看板のちらほらするストリートで生きる(『ゴーゴー・アジア』より)。
彼女たちにとって歌舞伎町は、ひとケタ違いに稼げる黄金の街であろう。
リンダこと、ソムシー・テイアピサヌパイサンが逮捕されたとき彼女は二十九歳。二十人の女性たちのうち、十六人がビザぎれであった。逮捕されたのは女だけで、ブローカーであるチャイパット・タングタナセーツ(五四歳)、ソムサック・チャンシーケーソーン(三四歳)は逃亡中である。
ストリートの女からはじめて「クラブ」を経営するまでに成功した彼女は、真面目に(?)頑張った女性といえるかも知れない。
だが、この事件では歌舞伎町の組織暴力団の存在がかくされている。この街でこういう商売がそう易々と誰にでも店開きできるわけがない。リンダことソムシーと、この一件の本当の首謀者チャイパットらは、九割九分九厘、組織にショバ代を払っていたに違いないのである。
笹島警部の表情は、いよいよけわしい。
「この件ではどうしても、日本側の背景を立件できなかった。彼女たちはたしかに明るい。しかし、置かれた境遇はひどいものでしょう。タイ人ブローカーも悪質だが、そこからピンハネしている日本の側の組織があるわけでしてね。何もしないでぬけぬけと歌舞伎町で食っている連中、ここをたたかなければならんですよ」
ヤクザどもよ、せめてリスクを負え、などというのはもちろん転倒した理屈でまるごと撤回するけれども、歌舞伎町に巣食う組織暴力団とは、構造化した利権のうえで甘い汁をむさぼるだけの存在である、映画や小説の場合では、ときに任侠道《にんきようどう》などと、男気がきらめきやすく、日常では成立し得ない劇的シチュエーションが、ヤクザ世界を借りて設定されるが、そんな美学はもとよりない。貧しい国からやってきた女性たちからピンハネするさらにそのうえをピンハネする男どもがここには相変わらずぞろぞろといるわけである。
新宿署で把握している彼らの総人口はおよそ三千人から四千人。この数は取り締まりを強めていくと統計上加算されて増加しているような姿を見せるが、実態は増えもせず減りもせず、一定の人口となっているらしい。
歓楽街に非合法の領域は必須の条件である。もしも、歌舞伎町が完全に消毒されて病院のロビーのような匂《にお》いをたたえだしたとしたらそのときは歓楽街が死んだ、ということにほかならない。そのとき、この社会のもっとも巨大なエネルギー源のひとつが封じ込められたことを意味する。歓楽街には昼間の側の公式的法則は通用しない。夜には夜の法則がある。夜の掟《おきて》は無意識(下意識)の、宇宙もかくやというほどの深く広い海に浮かぶごく微細な波紋のように浮かんでいる。
非合法の領域に発生する想定や現実は、ほかでもなく、私たち人間の営みが昼の世界で認知された法則からはみでるほどに幅が広く深いということを示していることになる。
組織暴力団が生存できるのは、この領域もまた人間の肉体的現実として海のうえに浮かび出ることを証明しているが、そこでも生存の対価は支払われなければならない。そこにかろうじて任侠の美学が生まれるわけだが、そんなものは払いたくないとは虫のいい話である。歌舞伎町に不労所得をむさぼるだけの組織暴力団が存在すれば、歓楽もまたつまらなくなるに違いないはずだ。
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終章 迷宮への長い旅
たしかに歌舞伎町での組織暴力団の抗争事件は、このところまったく消えた。ここにやってくる客は、彼らの縄張り争いにまきこまれずに楽しみのひとときをすごすことができる。
だがこの安全は、彼ら組織暴力団の自制から生じているものでは決してない。歌舞伎町の組織暴力団が、江戸期の町奴《まちやつこ》、侠客《きようかく》の精神や美意識のようなものから、素人衆に手をださぬ戒律を守っているわけではないことを、私たちは知るべきである。
彼らがなぜ歌舞伎町で比較的おとなしく振るまっているか。この点について新宿警察署の幹部は自負をこめていった。
「それは、自画自賛ではないけれど、警察が押さえ込んでいるからですよ。あれだけの客がやってくる盛り場ですからね、組織暴力団だって、一手に甘い汁を吸えるとなればいつでも動きだす。彼らに自制心なんてものは期待できませんよ。取り締まりの目が光っているから、悪さができない。法に触れる動きをキャッチすれば徹底的に追いつめている。私どもは、新宿の安全は、日本の安全のバロメーターだというぐらいに考えて取り組んでいるんです」
巷間《こうかん》、すなわち歌舞伎町での夜のプロたちの間では、組織暴力団同士が不戦条約を結んでいるという噂《うわさ》が一定程度流れてはいる。仮に彼らの間に不戦条約があるにしても、それは侠客の自制心から発生したものではなかった。それはむしろ、彼らの対官憲防衛条約のようなものにすぎない。
彼らにとって歌舞伎町は情報空間であり、全国の組織が歌舞伎町|界隈《かいわい》に出張所や、事務所を構えてはいる。新宿警察署が把握しているこうした彼らの根拠地、アジトは、さきにもふれたように若衆部屋(予備軍のたむろするマンション)までを含めておよそ百八十ヵ所だという。いわば彼らの所在はかなりの確度で新宿警察署にとらえられており、荒っぽい動きをはじめれば、彼らこそ身の破滅となるわけである。
それでも、なかには、この世界でいうところの粋がりもあってか、あるいは甘い汁を前に取り締まりの厳しさを軽く見つもってか、覚醒剤《かくせいざい》の密売や少年を相手にしたトルエンの密売に手をだす組織も現れる。
そうした荒っぽい動きをした組織のひとつ極東関口一家真誠会二代目桜成会極新会宮本組、という長い看板を持つ組織が解散まで追いつめられている。およそ十数人の構成員、末端の売人《ばいにん》まで含めて三十八人が根こそぎ法の網にからめ捕られ破滅した。
歌舞伎町で、ほかの盛り場にくらべればひっそりしているかに見える彼らは、警察に押さえられ、情報を相手にするバイヤーのような動きしかできなくなっているのが実情である。彼らが地面を囲うような縄張りをできなくなってからすでに久しいといわれる。
たとえばひとつの売春クラブが、彼らなりの法を犯す勇気《ヽヽ》と、彼らなりの算盤《ヽヽ》によって開店するとしよう。組織暴力団のセオリーとしては、問題はその場所である。つまり、そこが誰《だれ》の縄張りかで、ショバ代、用心棒代などの“不労所得”のあがりの行方が決まってくる。場所はめしのたねにほかならない。
その店が甘い汁の供給源である場合、本来ならそこを縄張りの内部に囲い込んであがりを得ようとする。供給源をめぐってAとBの組織が争えば、縄張り争いの抗争に発展する。
しかし、事件となれば警察が必ず動きだす。縄張り争いにいい気になっていると警察によって組織ごと、AもBもなく解散に追い込まれる。
そこで歌舞伎町の組織暴力団の間では奇妙なルールが形成されることになった。なんと、先着順のルールだという。
「どうも、のぞき部屋であるとか、ぼったくり風俗営業店であるとか、非合法の商売の店からショバ代をせしめる場合、縄張りで決めるのではなく、各組織のツバをつける先着順で決めているようなフシがあるんですな。その店が違法すれすれの商売をやっているとすると、それに目をつけた組織の勝ちらしいのですよ。仮にAの組が目をつけて、ショバ代をとる。あとからBの組の者がいっても引き下がる。昔ならば、すぐ実力の争いだが、それをやると警察に引っぱられるので、先着順となったもののようです。だから連中も、街をくまなく流して、新規開店の店をつかまえるのに必死らしいのですな」(新宿警察署防犯課長代理・笹島紀雄)
歌舞伎町の組織暴力団勢力図がモザイク状に形成されてしまったのは、彼ら同士が暴力で決着をつけられなくなった結果なのであった。
とすると、彼らの存在証明とは何であろうか。その名前さえ形容矛盾の様相となっていることになる。つまり、組織暴力団の“暴力”の部分が宙に浮き、ただひたすら、そして文字どおり歓楽街に寄生する“団”となっているわけだった。
いい方を変えれば警察の不断の取り締まりによって、彼らは擬制に変質した“暴力”の看板で甘い汁を吸っていることになった、ということになろうか。
だが、パイは大きい。それでもなお彼らはこの町に四千人も棲《す》みつき、ベンツを乗りまわし、デカイ面をし続けている。
百歩、いや千歩ほども譲って、かつての浅草の親分衆のように芸人を育て、庶民文化の水面下のあたりに根を下ろして何ごとか、歓楽街を形成する領域を担えばまだしも、歌舞伎町のヤクザ者には、そのようなわずかな侠気もすでに枯れているのであった。
と考えれば、彼らに寄生された女たちの肉体はいよいよ哀れである。
それでも、つかの間の、そしてささやかな欲望を腰だめにして客は歌舞伎町へやってくる。
どの店にもカラオケが入り、ミュージシャンを育てるはずのバンドスタンドの数は激減し、ハイテクの機器がのさばる。店のなかに生まれるはずの会話はがなり声にかき消され、会話を続ければのどが嗄《か》れるほどだ。
土地代がかさみ、水割り一杯の代金のうち、八割以上が不在地主に入る仕組み。プロのホステスからアルバイト、主婦、OLなど、客に気をつかわせて平然としている従業員も増え続けている。
それでも、つかの間の、そしてささやかな楽しみを求めて、客は歌舞伎町へやってくる。
もしかしたら、ちょっぴり悪の匂《にお》いのする快楽に出くわさないかと、胸の内ポケットにかくし持ってきた数万円は、言葉たくみなキャッチのお兄さんにひっかかり、ぼったくり店の闇《やみ》に吸いとられ、サービスだか脅迫だか判然としない接客の手くだにまみれる。
それでも客は歌舞伎町にやってくる。何でもキャンパスクラブというところでは、日ごろ接触の機会の皆無な女子大生とやらがごっちゃりといるらしい。街角にそれらしい女の子が立ち、店へ誘う。入れば女子大生という仮面をつけ、悪ずれた年若い女が、ひとかどの中年おじさんをあしらっているばかりだ。
それでも客は歌舞伎町へやってくる。肌の色の違う異国の女が春を売るという。わずかばかり良心が痛むが、年度末調整金や、浮かして帰ってきた出張旅費や、競馬のもうけや、ボーナスの何分の一かが、つかの間のセックスの対価に消えてしまえば、良心の呵責《かしやく》も消えてしまい、腹が立つほどだ。
それでも客は歌舞伎町へやってくる。風林会館の前ですれ違った美人が、どこかの店にいるかも知れないし、もしかしたら気だてのいい子が微笑《ほほえ》んでくれるかも知れない。雑誌のグラビアでしかお目にかかれない、あの、輝くような肉体をかき抱き、夢のような悦楽を経験できるかも知れない。
うまい酒とよき友と、優しき妻と、かわいい子どもと、仕事に充実した日常と、たぶん予定調和的な結末の範囲におさまる人生の日々ではあるけれども、なぜ、それだけで満足することができず、ときに歓楽の領域にさまよい出て、したたかに酔い、悪さとスリルと見果てぬロマンとに身をあずけたくなるのか。
それは逸脱によってしか、次のイメージを獲得できない私たち人類の宿命のようなものだ。自足すること自体が、己をあざむく擬態であるからこそ、人はふらふらと、歓楽の交換の現場へ、祝祭の場へ、日常ならぬ何ごとかが起こるかも知れない場所へ出かけていく。
そこではあたかも、予定されていた鉄壁の法則のように、期待はことごとく裏切られる。
(いいではないか、ほんの少しは胸がときめいたのだ)
なんぞとつぶやきながら終電に乗れば、どこぞのクラブのホステスが、彼女らの何の変てつもない日常を終えて乗り込んでいる。
長い旅であった。
国木田独歩が武蔵野を歩いたように、私は歌舞伎町を歩けただろうか。
と、とんでもない!
せっかくの歓楽街を歩くのに、あんな態度では馬鹿《ばか》というものだ。
私は新宿警察署の防犯課のように網を張ったろうか。
そんなことはできません。
あるいはいかがわしい店を見つけてはツバをつけてまわるチンピラのように、新アイデアの店をめぐったろうか。
それもしてやしない。
このルポルタージュは、いつしか歩きなれた私自身の歓楽街の道をまずたどり、人から人へ鎖をたどって、見たこともない歌舞伎町のどこかへ踏み迷った過程のすべてである。
では、私はわずかでもつかの間のロマンを経験しただろうか。いつもと同じように、口説いてはならぬ女性を口説き、酔い、くたばり、せっかくトイレで書き込んだメモ帳をなくし、重要な会話の後半部分は酔いをとおしたわが下意識のどこぞに落っことしている。
では、私は客観的な立場を守り続けたろうか。
これについてはひとつの覚悟があった。
ルポルタージュの条件である客観性をはじめから捨てるという覚悟であった。
その分、わずかばかり自分を書くことになった。その自己像が、一番あやしげなものであるとは知りつつもである。
では、何ごともなくこの世界第一級の歓楽街を、丸々一年間も歩き続けられたか。
信じようと信じまいと、この取材期間、わが愛する歌舞伎町は、たった一度だけ、口説きはじめてたった十五分で横に座っていたうら若き女性の応諾の信号を得る場面を与えてくれたのであった。
その女性は、いったい何があったというのか、そのときやぶれかぶれのようで、触れなば落ちんという風情であった、らしいのであった。
よくわからないのは、その女性の信号を酔っぱらっていた私が見落としていたからである。
で、私はそれも知らずにそのまましきりに口説いた。やがて、やぶれかぶれふう、もうこうなったら誰でもいいから、さしあたって横にいるお前はどうか、というニュアンスで私と会話していたその三十前後の女性はむっとして店を出ていったのである。
私と彼女とのやりとりを観察していたバーテンが、私にいった。
「あんた、彼女がさっきからオーケーだしているってのに、やめずに口説いてるんだからな。そりゃあないよ、怒って帰るわな」
「え? オーケーだったの?」
「オーケーもなにも、あんたの最初の軽い誘い。あれ、結構いい雰囲気だったよ。軽くって、ふわっと誘って。オレさ、あ、できる! なんて思ってたの。だから彼女も軽くオーケーだしたわけ。そしたらそのあと、ぐだぐだぐだぐだ口説いちゃって、だんだん重くなっちゃって、人生の一大決心みたいな雰囲気になってね、彼女あきれて帰ったわけですよ」
「そうか、場合によると、十五分でいけるんだな」
「イモだね、なあーにをいってるんだ?」
かくて私は、歌舞伎町が誰にむかっても開いている可能性をとり逃がした。くそ。
しかし、可能性があることは確信できた。それがなくて何の歓楽街ぞ。
私は十九歳の春から歌舞伎町に通っている。この街で青春の大半を過ごしたといっていい。
戦後からいままで、ここを通過したあらゆる世代がそうしたように、悪い遊び、良い遊びのほとんどをここで経験している。
はじめてトルコ風呂《ぶろ》、いまのソープランドへあがったときは逆上して扇風機を蹴倒《けたお》し、何もできずお姉さんに同情され、励まされ、潮たれて帰った。
暴力バーに引きずり込まれ、有り金ぜんぶをまきあげられて、練馬まで歩いて帰ったり、中学生の悪ガキ七、八人に囲まれて仕方なく金を渡したりしたこともある。したがって、もとから、この街に対して客観的な態度などとれやしないのである。
そうした過去から現在まで、はたして歓楽街を流れる時間が、歴史年表の横軸のようにまっすぐに流れているのか、迷宮をめぐってきただけに、時間が、はじめも終わりもなく渦をまいているように思えて仕方がない。
最後に、この半年のデータをひとつあげておこう。
新宿警察署によれば、風俗営業法違反で十七の店が行政処分、つまり営業停止となり、四十四人が逮捕されている。
売春では客引きを含めて五十九人が逮捕され、ストリップ劇場そのほかのワイセツ罪で十一人が逮捕されている。ポーカーゲーム機店では十五人の逮捕であった。
時は渦をまき、街頭で風となっていたお兄さん方もかなり逮捕されている。この数字のなかには、私の会った人々も加わっているかも知れない。
季節がひとめぐりし、歌舞伎町の風は秋の気配をかすかに感じさせている。
この街はもともと、鴨《かも》の飛来する湿地帯であり夏の盛りには下水道から濛気のような正体不明のしめり気がたちのぼる。
と再び記述していけば、エンドレスの物語は、第一章の冒頭に、そっくりつながるはずである。
本書(単行本)は一九八九年三月時事通信社刊。
本書講談社文庫版は一九九二年一〇月刊。