橋本克彦
日本鉄道物語
目 次
序章
第一章 黎明期
「磨墨《するすみ》」が走る
ピンチ式ガス灯
駿速機「早風」
薬種のなかで
巌谷小波との出会い
幕末・明治初期の鉄道
工学士の悲哀
第二章 鉄路五〇〇〇マイル
ドイツへ
議会乱闘下の国有鉄道誕生
工作課長
五〇〇〇マイル達成祝賀会
広軌の守護神登場
第三章 近代化の見取図
国産標準機関車六七〇〇形
広軌改築案と秘密指令
広軌改築への第一手
政治的妥協
新鋭機関車
広狭の闘い
さらなる広狭の闘い
第四章 弾丸列車から新幹線へ
父子継承
機関車疾走
弾丸列車
混乱の中の予言
新幹線構想
終 章
あとがき
主要参考文献
文庫化にあたって
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序章
青白い閃光が幾条にも敷かれた鉄路のうえに輝く。アイボリーの車体がかすかにうねりながら速度をあげていく。
夕陽をあびた新幹線がモノレールの高架橋をくぐり抜け、鮮紅色の尾灯を淡く引いて西へ走り去っていった。
夕刻のラッシュがはじまり、東京・浜松町付近の線路上に列車の数が増えてきていた。
島秀雄は世界貿易センタービル二十二階、宇宙開発事業団顧問室の窓からその夕景を見下ろしていた。
鉄道に人生をささげ、いま、宇宙開発技術の方向を見すえる技術者のいつもの癖だった。一日に何度か眼下の鉄路を眺めるのである。厚い窓ガラスにさえぎられて、日本の大動脈を走り往き、走り来る車輪の音も、自分が生み育てた新幹線の警笛も、ここまでは届かない。ただ無数の列車が静かに眼下の鉄路を走行し、さまざまな人生を運んでいく。
島はこんなときゆったりと思考をめぐらしている。眼下のホームを眺め、
(あれをやっておいたほうがいいな、やはり)
とクローズド・プラットホームのことをイメージした。
これまでの常識として、プラットホームは高速で進入してくる列車に対し、何の防護柵もなくオープンになっている。しかし、考えてみれば危険な施設であった。ある確率で線路上に乗客が落ち、車輪に巻きこまれる死亡事故がくり返し起きていた。
「あれ」というのは、プラットホームに橋の欄干のような手すりをつけることだった。この考えをもう少し進めれば、プラットホームをひとつの部屋にしてしまうべきだった。防護柵よりも壁面で囲い、列車到着にあわせてエレベーターのドアのようにするすると乗降口が開閉する。列車停車位置の制御は、車載コンピューターの容量が増加すればいま以上に確実になろう。
プラットホームというよりは快適な部屋で乗客は列車を待ち、音もなく開くドアから列車へ乗り移ることになる。
それはごく自然に予測できる未来像から導かれたイメージだった。公的空間の冷暖房、快適さへの欲求はこれからのちいよいよ強まってくる。寒風吹きすさぶプラットホームも、炎熱のプラットホームもいずれは嫌われるに違いない。そしてそれ以上に、遠くない将来の、列車の無人化、駅施設の無人化、つまり集中完全コントロールの時代には、プラットホームは百パーセント安全な空間となっていなければならないはずだった。
そのための手当てはいまのうちに研究しておくべきである。その方向を推定し、それが実現する過程までの条件を検証して、対策を立てておく。
島の考え方はいつもこうであった。
宇宙開発事業団の自室で、島はゆっくりと宇宙開発に関するレポートや書類を整理し、帰り支度をはじめる。
ふと、手が止まり、思考がひとめぐりして過去をむいた。
プラットホームが、危険性をある程度黙認した装置であることを思い知らされた経験が、島秀雄自身の身辺にあった。かわいがっていた大学生の甥《おい》が混雑する神戸駅のプラットホームから人波に押されて落ち、両足を轢断《れきだん》して死亡したのは、昭和十四年、島が大阪鉄道局|鷹取《たかとり》工場勤務のころだった。
病室へ駆けつけた島に、出血多量で瀕死の状態にあった甥がいう。麻酔で痛みが消えているため、声は低いが、言葉はしっかりしていた。
「汽車は危ないから気をつけなさいよ」
汽車を相手にしている島への優しいひと言がそのまま、明るかった甥の遺言となった。
プラットホームが激流のうえの丸太橋のように危険な施設であり、改良すべきところがあると、そのときから考えてはいた。しかし、あの時代に防護柵を求めるのは、可能であったとしても非現実的だった。その方策が実現されるためには、社会の側が熟するのを待たなければならない。
島の思想の骨格がこれであった。いまやるべきことのなかに未来が繰り込まれてはいるが、理想だけを追うのではなく現在の課題はそのときの条件の最大限の効果で解決されなければならないのである。
島秀雄は昔から究極の交通体系を利用している乗客をはっきりととらえることができていた。
歩いてきてふと立ちどまり、音もなく開いたドアを通ってそれに乗り込む。静かでゆったりしたそれは、何のショックもなく動き、目的地ではまたするりと降りる。
いまのエレベーターのように何気なく使いやすい乗物。少しも大げさな感じを与えない交通手段のために、超高度な技術がひっそりと活用されているはずなのである。
その方向へ向かって交通における技術が発展していくはずであった。この技術の流れに往きどまりを作らないこと。技術が末広がりに率直にのびていくように方向づけること。
鉄道技術陣の中枢にあって島が保ってきた技術政策の基本はこうした明快な一本道なのである。
島秀雄には、次のようなエッセイがある。
「技術的課題に直面したとき、『出来ない』と断る方が一だんとむずかしい。『出来ます』と云う時は幾つかの手だてがある場合でも一つ見つければそれで返事が出来る。『出来ない』と断言するにはあらゆる筋道を皆読んで仕舞わなければそれが云えない道理である。『出来る』と云って出来ないと責任が重いと(恐れて)、何や彼やと受け渋るのに、同じく重要な『出来ません』と断ることは割にアッサリと云ってのけるのはどう云うことだろう」(『新幹線そして宇宙開発』)
万策をつくし、精魂を傾けて日本の鉄道技術を担ってきた島が、誰にもわかる言葉で語った技術者の思想そのものがここに表現されていた。
この思想を抱いた技術者人生を島秀雄は歩んだ。
意欲的な設計思想にもとづく三シリンダー蒸気機関車C53の設計をはじめ、最大製造機数を誇る日本鉄道の傑作機D51を設計し、狭軌《きようき》(鉄道のレールの幅=軌間は何種類もあり、標準軌間は一四三五ミリ。日本の在来線は一〇六七ミリで狭軌という)では極限の出力をもったC62までのすべての蒸気機関車の設計に関与している。
そして、新幹線の創出である。
島はこの新幹線構想の技術的検討を敗戦前の時点ですべて終えていた。それも着手から開発まで、どれくらい時間がかかるかというスケジュール計算のレベルで、具体的な見通しを得ていたという。
が、その実現を戦時下に望むのは非現実的であった。それを必要とする社会の側が条件を整えるまで待たなければならない。
島秀雄のこの理想と現実を架橋する柔軟で強靭な構想力は、父親から受け継いだものかも知れなかった。
島秀雄の父安次郎も鉄道技術陣の中枢を担って、大きな足跡を残した技術者であった。
島安次郎は、明治三十九年、鉄道国有法の公布以来、各私鉄から引き継いだおびただしい種類の機関車、違った形式の客貨車両の規格統一を進め、グループ化し、設計規格を定めて系列化する難事業にとり組んだ。
機関車保守修繕体制を整備し、蒸気機関車修繕スピードの世界記録を樹立するかと思えば、世界のどの鉄道も手こずり、難事業とされる自動連結器への切り換えを準備し、指導して、鉄道の営業をとめることなくなしとげ、世界の鉄道人を驚嘆させた。広軌《こうき》(標準軌)改築へむけては周到な実施過程を構想し、実現一歩手前までことを運んだ。
しかし、政党政治のめまぐるしい政策変更によって、広軌改築の夢は挫折する。
父安次郎の仕事も、現実にできる限り対応しながら技術の方向を率直で可能性豊かな一本道のうえに置こうとした思想によって裏打ちされていた。
島安次郎と秀雄の親子二代にわたる鉄道の仕事は、外来の技術を日本の条件のなかへ移植し、さらに発展させて独自の技術体系に組みかえる日本の近代技術史のうち、大きな成果を得た軌跡のひとつであると断言していいものである。
そして、父安次郎が構想しながら、日本近代史の波にくだかれて挫折した広軌改築案、いわゆる国際標準軌間鉄道の夢を、はるかのち、息子の秀雄が果たすことになる。
島秀雄が眺め下ろしている線路上の新幹線には、父安次郎の時代から、半世紀に及ぶ親子のドラマが刻まれていた。
この二代にわたるひと筋の道程は、わが国の鉄道史の技術政策を示す縦糸を描くことになった。日本近代史の基幹の技術政策を、この親子は両肩に担い、それぞれの時代の条件のなかで献身したのである。
島秀雄はいつも、夕刻五時前に宇宙開発事業団の自室を閉めて帰る。大柄な体躯がエレベーターホールで、ふと立ちどまる。
ドアが開く。交通機関の便利さ、手軽さのモデルとして示唆に富んだエレベーターが音もなく島秀雄を地上へ運ぶ――。
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第一章 黎明期
「磨墨《するすみ》」が走る
――明治三十三年秋――。
暮れかかる大和路を西へ、六両編成の列車が疾走していた。一両目は荷物車と制動装置を備えた緩急車(ブレーキ補助装置)の兼用車であった。その次に真新しい二軸ボギー車が四両続き、最後尾はやはり緩急車と荷物車の兼用車である。
機関車はずんぐりとしたタンク機関車だった。
イギリスのナスミス・ウイルソン社製A8系、明治三十年製造の最新鋭機だった。長い煙突から盛大に煙を吐き、黄金色に色づいた稲穂のうえに、煙は長い尾を引いて流れた。
よくみがきあげられた機関車は力をこめて荷を牽《ひ》く鉄の馬だった。二つの動輪を連結する鋼鉄の主連棒は、西へ傾いた陽の光をうけて、刀剣のように光った。
頭を低くかまえ、肩をいからせて二条のレールを蹴り、驀進《ばくしん》するタンク機関車は、郡山《こおりやま》の家並みをすぎ、生駒山《いこまやま》のふもと、法隆寺の緑が見えてくる平坦区間でぐんと速度をあげた。時速はおよそ二五マイル(一マイルは約一・六キロ)、官営の東海道線を走る列車をしのぐほどの速度である。
線路は生駒山の南へまわり込んでのびていた。名古屋から四日市を経て、柘植《つげ》、木津、奈良、そして大和川ぞいに柏原へ抜け、大阪へ北上し、天王寺から湊町《みなとまち》へ至る関西鉄道の幹線だった。つい四ヵ月前に大阪鉄道を買収したことによって、関西鉄道は、十分に採算のとれる二大都市間の幹線を保有し、官鉄東海道線との本格的な競争に入っていた。
関西鉄道の汽車課長島安次郎は、一両目の荷物車に乗り込んでいた。このとき三十歳である。
車内は暑かった。煤煙《ばいえん》が機関車の熱気とともに開け放った窓から窓へ吹き抜けていく。
そのうえうるさかった。秋の日にしては盆地の気温は高く、のびたレールの接目《つぎめ》はつまっているはずなのに、二軸の荷物車の車輪は、かしましく鳴り続けていた。線路の整備状態があまり良くないのである。そして、背中を見せている機関車からの音もなかなかにかしましかった。
島汽車課長は、仕立てのいい夏背広のボタンをはめ、進行方向をむいて端然と座っていた。もっとも、腰を下ろしているのは、名古屋からの荷札のついた菰被《こもかぶ》りの荷物である。荷物はほかに小物が数個、床の上に転がっている。
車内には彼しかいない。緩急車には制動要員が乗務して、停車のときにはギリギリとハンドルを巻きあげる仕事につく。しかし、関西鉄道では、二年前から最新の真空|制動装置《ブレーキ》が装備されていた。このブレーキは手動の巻きあげブレーキより何倍も性能がよい。そのうえ機関士の集中制御が可能になって、飛躍的に制動性能が向上したのだった。これは日本のどの鉄道にも用いられていない最先端技術であり、汽車課長島安次郎が誇っていい仕事のひとつだった。
汽車課長といえば、会社最上層の技術統括職である。いつもの社用であれば荷物車には乗らず、後ろの客車に乗る。
しかし、島安次郎は、このタンク機関車の走行状態を観察するためにあえて一両目に乗った。動輪を改良したのでその具合を見てみたかったのである。
島の整った面長の顔が厳しくひきしまってくる。
レールの接目を打つ動輪の音は、あまりかんばしくなかった。もう少し手を加えなければならないと、島はドアのむこう、ガラスごしに機関車の背中をみながら考えていた。
タンク機関車は走行距離の短い線区に多用される機関車だった。水も石炭も積み込んでいるため、その重量が動輪にかかり、体は小ぶりだったが牽引力が大きい。勾配《こうばい》線区では力持ちぶりを発揮する。
名古屋から湊町までの線区のうち、ナスミス・ウイルソン社製タンク機関車は、京都府木津からの峠越え線区と、大和川ぞいの勾配線区を引いていた。
軸配置は1―B―1、つまり、前に先従輪が一、ピストンの力で回る動輪が二、その後ろに従輪が一、という順番に車輪が並んでいた。
もっとも、この時代「1―B―1」という軸配置を示す表記法は一般的ではない。これを「二―四―二」というように車輪の数そのままに表記する場合が多い。
タンク機関車はその呼名をそのまま短躯《たんく》といい換えてもいいほどずんぐりとした形だった。
全長三二フィート五インチ四分の三(一フィートは三〇・四八センチメートル)、重量三五・二五トンである。
運転室《キャブ》の前面両側に楕円形の窓が開いていた。キャブの乗降口にはドアがなかった。機関士は吹きさらしで運転しなければならない。キャブの両側面は鍵穴の丸い部分を大きくしたような形状に、いわばがらんとくりぬかれていた。二つの動輪のうえに長方形の水タンクが横たわっていた。これが肩をいからせたような感じを与えるのだった。
煙突は背丈ののびすぎたシルクハットのように長かった。一〇フィート八インチの背丈のうち四分の一は煙突の分といってよかった。
そのうしろ、ボイラーの胴体の中央に蒸気だめドームがもっこりともりあがっていた。動輪直径は四フィート六インチ、ほかの新鋭機関車にくらべてやや小さい。動輪直径は機関車の歩幅と考えてよい。これが小さければ速度が出ない。そのかわり力が強いということになる。
この機関車は、イギリス本国、いや、鉄道の先進国ならどこでも、狭軌レール(日本の在来線軌間一〇六七ミリ)を走る工事線専用の小型機関車という役どころだった。しかし、日本では勾配線区の主力機の座をしばらくは担い得る性能を持っていた。
そのために、島はこの機関車の導入に賛成した。不満はあったが、このクラスの機関車を必要とする時代はまだ少し続くと判断したのである。
世界の水準からいえば、いま目の前でさかんに煙をあげているタンク機関車は、かわいらしいといってよい機関車だった。小柄で律義な力持ちだった。煙突の先端がとっくりの口のようについと広がっているあたりは、イギリス人の趣味までがにじんでいるかのようだった。
が、島安次郎の現場では、主力機として堂々の仕事をしなければならないし、汽車課長はこのつつましい機関車をよい状態で走らせるために手をつくさなければならないのである。日本の鉄道の現状、というよりも日本の社会の育ち具合にあわせ、それがすくすくと育つ方向へ鉄道そのものを運んでいくべきなのだった。維新後三十年とはいえ文明開化の底はまだ浅い。
たとえば、機関車そのものの呼び名である。
ナスミス・ウイルソン社という横文字にさえ目を白黒し、なんだかむずかしい事柄だと尻込みする気風は鉄道の現場に根強かった。そのため、機関車に日本名を与え、いくらかでもなじみやすいものにしようとすることは、それが少しばかり合理的思考のかたまりである機関車という機械にそぐわないにしても、認めるべき策なのだった。だから、関西鉄道が、機関車の形式名に日本名を与えている慣習を、島は変えるつもりはなかった。その方が機関車を相手にする現場の連中の気持ちにあっているのである。
その慣習によって命名されたナスミス・ウイルソン社製造のタンク機関車のニックネームは、なんとも古風に「磨墨《するすみ》」といった。つまり「磨墨型機関車」というわけである。関西鉄道にはなかなか趣味人が多い。ほかの形式名称は次のようになっている。
「池月」「雷」「駒月」「小鷹」「友鶴」「隼《はやぶさ》」「鵯《ひよどり》」「千早」「春日」「三笠」「飛龍」「鬼|鹿毛《かげ》」「雷光」「早風」「追風」。
日本人は猛々しく動くものを前にすると誰でも連想するイメージが似てくるらしく、のちの軍艦や戦闘機の名そのものである。
この名前をイギリス人が知ったら、どうだったろうか。
もちろんイギリス人もはじめのうち蒸気機関車にニックネームをつけた。一八二五年にはじめて実用化されたスチーブンソンの機関車は「ロケット号」だったし、「プラネット号」、「北極星号」、「イクサイオン号」、「アイアン・デューク号」などギリシャ神話や、英雄の名をつける時代があった。
それはしかし、十九世紀、蒸気機関車の登場が奇跡のような時代のころである。そしてそのころすでに、イギリスでは最高時速六〇マイル(約九六キロ)が記録されているのだった。一八四五年、グレイト・ウエスタン社の「イクサイオン号」の作った驚異の記録であった。日本に汽車が走りだす二十八年前のことである。
島安次郎のこの時代、イギリスの機関車工学と製造技術は成熟しきっていた。
わが「磨墨」を製造したナスミス・ウイルソン社の創立は一八三四年、日本でいえば天保年間、老中水野忠邦の時代である。ナスミス家はスコットランドの旧貴族で、会社は主に工作機械を手がけ、その合間に蒸気機関車を作った。所在地は産業革命の中心地のひとつマンチェスターである。
イギリスの機械工場には洗練された個性さえあった。そして、ときに職人気質的な傾きもあり、各社それぞれに微妙に走行の味わいの違う機関車が生みだされてくるのだった。だが走り味、あるいは走り癖のなかには再調整の必要なものがあった。
島汽車課長はそれを徹底してやった。一台の機関車をばらばらに分解し、あらゆる部品を計測して組み立てなおし、走り癖とでもいうべき傾きの原因を調査し、そのうえ、その癖をなおしてしまったという。
この日本鉄道史に残る仕事をなした科学技術者は、やった仕事の割には歴史のなかのたたずまいがひっそりとしている。
そのなかで、この機関車の完全分解と改良のようすを伝えるのは鉄道史で「運転の神様」といわれる結城|弘毅《こうき》である。明治十一年札幌市生まれ、東京帝国大学工科大学機械工学科を三十八年に卒業する。島安次郎の十一年後輩にあたる。山陽鉄道に入社し、山陽鉄道のもっとも華やかな時代に腕をふるい、国鉄時代には当時「超特急」といわれた「つばめ」を生んだ。
結城は同じ機械技師であった島を頼りにし、わからないことは常に島に尋ねた。
「解答の得られないことがなかった」
と結城は、後年、毎日新聞鉄道担当記者青木|槐三《かいぞう》に述懐したという。
島安次郎は微笑した。
優しい笑顔だった。疾駆するわが「磨墨」にはどこか愛嬌があった。この機関車の走りっぷりに陽なたを走りまわる小犬に似た可憐さを覚えてしまうのである。
(いや、せめて、馬だと思ってやらなければこいつに対して失敬かも知れぬ)
たしかに「磨墨」は、小犬というにはそぐわないほどの力強さで尻を振り、跳びはねるように駈けていた。
それはなかなかに頼もしい仕事ぶりで、健気さに胸を打たれる後ろ姿だった。
が、この癖馬を担当している汽車課長としては、かわいいなどと擬人化してながめていられるものではない。
(それにしても、動揺が激しい)
島は首をふり、ほんの少し怒りに似たような表情を浮かべて口を結んだ。
線路の保守状態によって動揺する部分は、原因がはっきりしているし、線路方《せんろがた》へむらなおしの指示をだせばある程度消える。
島がいま気にしているのは「磨墨」の製造番号二二番機の動揺のなかに前後動がふくまれていることだった。
また、わずかではあったがストロークごとに頭が下がり、尻があがる気配があった。ピストンや主連棒、動輪を結ぶ連結棒の前後動が、そのままそこに反映していた。
これらの走り装置は、機関車の両側について、激しく前後運動を続けており、常に重心を移動させていた。前が重くなり、後ろが重くなるという運動である。
そうしなければピストンの動きが動輪の回転運動に転換できない。これは蒸気機関車が走るうえで宿命的な問題でもある。
ストロークの幅の分だけ必ず重心が動き、それが振動を発生させる。
そのために動輪には円周の一部分に重りを与え、走り装置が後ろへくるときは、この重りは前へ、前にくれば後ろへというバランスをとっている。
動輪の円周を時計でいえば四時から八時を線で結び、この弦から下のところに重りをつける。その対称のところ、十二時と中心線のうえに主連棒(あるいは連結棒)を連結する。こうして、近似値的に重心の移動のバランスをとっているのが、機関車だった。
鉄道を象徴する機関車の動輪、あの円周上の重りを練り固めた弦の部分とは、直線上の往復運動を円運動に転換するために、宿命的にかかえ込んだ蒸気機関車の弱点をも象徴しているのである。
蒸気機関車は人類文明の奇跡のひとつではあったが、誕生のときから機械としては宿命的なこの弱点をかかえていた。そうしなければ動輪は回らず、動輪が回れば必ず重心が大きく移動してしまう走る機械なのである。
いま尻をはねあげて走る「磨墨」の動きのなかにもこのバランスの悪さがふくまれており、さらにさまざまな動揺が合成され、線路の悪さが、それを激しく増幅していた。
島安次郎は「磨墨」の動揺から、こうした揺れの構造解析のようなものを読みとり、手当てが不十分だったことに、いささか憮然としたのである。
列車は速度を落とし、大げさなブレーキ音をきしませながら、王寺駅で停車した。
島はいったんホームへ降り、すぐ後ろの二等車に移ると、乗降口近くのシートに細い長身をかがめて腰を下ろした。
ホームで子どもの声がしている。
「ほら、これは二等車、帯が青やろ」
小学生が母親にいっていた。
「ほな、一等車は?」
「白、次の箱やで、お母はん」
身なりのいい親子連れはホームを急ぎ、次の車両へ乗り込んだようである。
背にもたれたまま、島安次郎はかすかにうなずいた。
一等車は白、二等車は青、三等車は赤と、客車の窓の下に帯を塗りわけ、乗降客が混乱しないようにしたのは、島安次郎の考案である。
このころの車両は走行中に乗客がほかの車両に移動できず、乗り間違えると困ったことになる。色分けすれば、客はひとめで自分の乗る車両を識別できてなかなか評判がよかった。のち、この色帯による等級識別は鉄道の国有とともに国鉄に受け継がれ、やがて今日のグリーン車の名称に切り換えられるまで続いた。
島の発想は技術面だけでなく、サービス面でもこのようにきめが細かい。
やがて、駅員が大声で発車を告げ、かん高い汽笛が一声し、列車はするすると発車した。
二軸ボギー車はゆとりのある二連音、そして間があって四つの車輪音に重なり、レールの接目を鳴らしてホームを離れる。波長の長いゆったりとした揺れは、二軸の固定軸距の荷物車にくらべれば嘘のように乗心地がいい。
島は眼を閉じた。
(振動)
と胸のうちで想った。
この機械工学の永遠の命題について、想念が湧くままに考えをめぐらした。
島の大学卒論のテーマは、『バイブレーション・オブ・スチーム・ロコモーション』である。
現在、東京大学工学部機械工学科に保管されている島の卒業論文は、全文英文、性格を表わすように端正な、美しい文字で記述された五十ページを越える大作である。厚紙の表紙を用い、一冊の書物のように装丁されている。
彼は機械工学を生涯の仕事とするにあたり、「振動」をそのテーマに選んだ。それは単に蒸気機関車の機械的な「振れ」を考究したのではなかったのかも知れなかった。それはむしろ詩的なテーマといえた。
島安次郎は密かに「永遠」のロマンチシズムをこの「振動」のテーマに表現したのではなかったのか。
およそ、あらゆる機械は、動かせば必ず振動現象が発生する。機械という、人間にとってもっとも目的が明快な創造物は、その目的(仕事)を達成するとき、必ず影のように振動をともなうのである。
具体的に仕事をする機械、およそ回転をともなう機械には、どんなに精密度をあげていっても、ごく微小な振動が割りきれない影のようについている。経験則でそれを零と見なそうと見なすまいと、動く機械には振動がまといつく。
島は次のように卒論の主題を説き起こしている。
「蒸気機関車の場合、振動を除去するということは、他の蒸気機関利用の場合よりもはるかに重要事である。この主題に関しては従来より、多くの(機関車の)機関技師の関心が払われてきており、数多くの実験と数学的な追求の結果が、シリンダーや車輪の位置の選択、加重配分、稼動部位の平衡重量、(交叉構造等による)車体の強化等といった面で実施されている(中略)」
論は厳密に進められ、やがて、音の共鳴現象と同じく、さまざまな機械の回転とその機構が持つ共振現象(フラッター現象)の解析へ移り、転じて蒸気機関固有の問題へ論を引き寄せ、理論式が提示されては考究されていく。
そして、結論部として、
「以上論述してきたように、蒸気エンジンの振動は、与えられた力の共振および往復運動をしているパーツの慣性によって引き起こされるものであり、ジェームズ・ワットに発明されて以来の通常のスライダー・クランクの蒸気エンジンにあっては固有の属性であることがあきらかである」
ワットの蒸気機関はゆっくりと動いた。
その回転数は毎分二〇回から三〇回であった。
この技術の発展過程と振動については、
「(蒸気機関の)揺籃期にはまったく顕現しなかった問題」だったことが、機関の回転数があがるにつれて重要な問題となってきた。蒸気機関車が現実に世界中を走りだして以来、
「振動の問題はエンジニアたちの注意を喚起しはじめ」
島安次郎の時代である十九世紀末の、「今日においても蒸気エンジンのデザインには重要な要素の一つである」という。
さらに、「球形エンジンのような回転エンジンであっても理論的には無振動たり得ない」ことを証明する。
彼は、蒸気エンジンにつきものの(属性)振動を考究し、その克服の方向を、
「理論的にバランスのとれている唯一の蒸気エンジンは、スティーム・タービンである」
と指摘して卒論の結語とした。
論旨は、機械工学という学問の態度を守って、技術の現実的な発展方向を示している。
明治二十七年、帝国大学工科大学機械工学科を卒業した島にとって、「振動現象」を研究することは夢であったのかも知れない。この主題を扱っている限り科学者としては世界的普遍性をつかまえていることができるはずだった。
だが、一歩、大学の外に出れば日本の現実が横たわっていた。
若き機械工学者は、たち遅れてしまった日本で、先進技術をつらぬき、しかも、未来へ届くテーマとして「振動」を選び、科学技術の世界的な流れに参加しているというロマンチックで、ささやかな喜びをにぎりしめていたかったのかも知れない。
彼は、徹底的に合理的にものごとを考えるように自分を鍛えぬいたが、一方で、仕事に対しては激しいまでに情熱的だった。そして、鉄道が、大きな意味でサービス業であることをよく知っていた技師でもあった。
列車をスムーズに走らせること、旅を快適なものにすること。この人生の主題は他人を快適にすることだった。それを喜ぶ精神は、ずいふんまれにしか発生しない精神である。
彼はこのとき関西鉄道の現場に立って六年めである。
明治三十年前後まで、帝国大学工科大学を卒業した工学士は、宝石のような貴重な人材である。同期の機械工学科卒業生はたった七人だった。工学士の立場からいえば、どの方面へも進むことが可能だった。
日清戦争を経て、それを契機に日本産業は工学士を大量に求めはじめていた。日本自前の技術者の絶対数が不足していた時代である。
彼はこうした立場にありながら、やっと名古屋から草津へと路線をのばしたころの関西鉄道に就職する。
しかも、はじめのうち、島はまだ工科大学の大学院に在籍していた。
現場での実際的な研究のために、大学から京都の紡績工場へ出張を命じられたり、新橋の鉄道工場を学術的に見学したりしている。そうした現場研修の目的で関西鉄道に出むき、長居をし、そのまま請われて就職したらしいのだった。
彼はこの期間を徹底した実地研究の時期と決め、官営鉄道にくらべて、存分に研究のできる民営鉄道を選んだのかも知れなかった。
この若い時期の進路決定の事情は、誰の人生も偶然に左右されてしまいがちなように、島の場合も動機は明らかではない。
あるいは、島の本来の志望は、大学での研究生活かも知れなかった。
島といつも行動をともにし、島の生涯の友人だった斯波《しば》忠三郎は大学に残っている。そして、島自身も鉄道国有化後の明治四十二年から一年間、二十六年に創設された機械工学第二学科の教授を斯波忠三郎とともに務める時期がある。
それはめずらしい例で、国鉄の職員と大学教授の兼務だった。国鉄在籍中に東大教授を兼務したのは、島安次郎らのほかに一、二を数える例しかない。
優れた人材は、こんなふうに社会から使われると考えてもいい。また、島の学究的な資質が、大学から常に求められていたと考えることもできる。
いずれにせよ、客車の等級識別に色帯を考案するといった柔らかで、現実的な面が、鉄道事業の現場から請われ、ついにはこの力が一番強かったということになろう。
ピンチ式ガス灯
閉じていた島の瞼《まぶた》の裏が暗くなった。
快調に走る列車が生駒山の影に入ったのである。陽はいっそう傾き、大和川の川面は鉛色に変っていた。
鉄橋をひとつ渡った。知らぬうちに島安次郎は一両さきの「磨墨」の走行音に注意していた。しかし、橋全体がごうと反響して、動輪の打撃音を聞きわけることはできない。
大和川の谷へ列車が入り、車内がもっと暗くなった。
島は天井を見あげた。電球が弱々しく、はにかむように点いていた。
王寺駅出発が午後五時半すぎ、電灯はそのときから点いているはずだったが、眼を閉じていた島は気づかなかった。
(それにしても、やはり、暗いな。まだ、電灯は使えない)
と島安次郎は電灯を見あげた。
(だが、やっと解決できる)
胸が熱くなった。
島安次郎は真空ブレーキに続いて、またしても画期的な新技術を関西鉄道に導入しようとしていた。
「ピンチ式ガス灯」
これが導入される車載用ガス灯だった。
発案者の名のついたそのガス灯のガス発生装置が、大阪の湊町駅構内の工場に建設され、数日前、竣工の知らせが四日市の工場に届いたのである。
島汽車課長が常勤しているのは、機関車の保修整備を主な業務とする四日市工場である。
そこでいつもは機械油にまみれるようにして機関車を相手にしていた。
「ピンチ式ガス灯」は客車へ装備することになるので、湊町工場を設置場所に選んでいる。
その竣工を監査するために大阪への出張となり、ついでに「磨墨」二二号機の走行を確かめていたのである。
島は天井の明かりをにらみつける。
(仕様書どおりであれば、ガス灯で新聞が読める)
懐中時計をだして文字盤を開けた。
時刻を知ろうとしたのではなく、暮れかかるうす暗がりで文字を見た。すでにローマ数字が読みとれないぐらいに暗い。
(きっと目がさめるような明かるさになる)
島は時計をしまって窓外の景色に目をやった。
それにしても、日本は遅れていた。
「車載ガス灯」などは、欧米ではすでに十年前から常識となっている装置だった。
どうやら、日本の文化風土は、何か新しいものを導入してもそれっきりで、すぐに停滞してしまう病気を患っているようであった。
そのことを思うと島は胃のあたりが苦しくなってくる。
(技術が日々、刻々の発達であることをなぜ知ろうとしないか)
と日本の風土に憤りを覚えたが、それを自分で制した。
(いちいち腹を立てていたのでは体がもつまい)
島安次郎は頭をもちあげかけた憤怒をおさえ、再び目を閉じた。
日本に汽車が走りだして二十五年の歳月が流れてはいたが、その車内照明はいっこうに改善されずにきている。
それがこの一、二年でいくらかは進歩した、とはいっても、弱々しい電灯の明かりでは、新聞も読めない。
夜が暗かったというのは列車だけではない。日本全体がうす暗い灯の下で夜を過している。
新橋駅に電灯がともったのは明治二十四年だが、十分ではなく、その一方で、明治三十四年当時、鉄道ではまだまだランプが主力であったことを物語るように、新橋駅のランプ小屋が倍に増設されていた。
汽車のあらゆる夜間照明は明治三十年代前半まで石油ランプが主力であった。
首面ランプ(前照灯)、尾面ランプ(尾灯)、改札ランプ(駅改札口)、乗車ランプ、手提合図ランプ、駅もホームも機関車の前方も石油ランプで照らされていた。そして、一般の民家も多くは石油ランプだった。
最も先進地である新橋工場に発電機が設置されるのはようやく明治三十一年、それでも広大な工場に十燭光が三十七個、十六燭光六十八個だった。しかし、電灯の威力はすばらしく、線路のうえ以外では三十五年前後までに電灯は完全に普及し、三十年代末までには、工場電力の使用が普及した。
そのなかで、車内灯の電灯化はこれほどには進まず、とりわけ下等車、普通列車の明かりは石油ランプの改良型さえ登場して、明治末まで石油ランプの時代が続いた。
このように明治三十年代では、都市部で電灯が普及するにつれて、列車の方がむしろ暗いといっていい印象になっていた。
列車内が、世間一般の印象で暗いと感じられる時代に入ってようやく、サービスの問題として車内灯の改善が意識化されるわけだった。
世間が、列車内の暗さを嫌いはじめていることに、とりわけ島安次郎は敏感だった。
敏感であると同時に照明に関する技術の方向を見通す情報をよく集めていた。
電気の可能性については、大学時代から外国の文献によく目を通し、世界の水準に遅れることのない認識を持っている。
すでに世界は動力としても電気時代に入っており、日本では明治二十八年、京都で路面電車が走りはじめていた。
エジソンが炭素線電球に着眼し日本の竹の繊維を炭化して安定させたのは一八七九年(明治十二年、西南戦争の二年後)である。
この六年後には東京電灯株式会社が実験的に白熱灯をともしている。明治維新後の新発明には日本は素早い反応を見せていた。この敏感さが、さきにあげた電気の普及を可能にしていた。
ただし、車内灯について技術的にどの程度の発展が、どれぐらいのスピードで果たされるか、という見通しになると問題は別になってくる。
まして、それが日本の現状ではどのような様相を見せるかとなるとさらに将来の予測がむずかしくなる。
明治三十一年、いち早く島安次郎は車軸発電による電灯を投入してはいた。これも日本一の早さである。
だが、それはまだ暗かった。蓄電池の性能があがり、発電機の性能があがらない限り、明るく安定した電灯が客車の天井にともる可能性はなかった。
車内灯の技術的な隘路《あいろ》が突破《ブイレク・スルー》されるまで車載の照明装置は、電気を用いても、うすぼんやりとしたままなのである。
その一方で、東京、名古屋、京都、大阪での電灯はどんどん普及していくだろう。いよいよ、汽車だけが暗くなっていく。
いずれ、列車も電気で明るくなる。それは誤りのない見通しである。しかし、それまでの間うす暗がりのまま、待っていていいのか。
島安次郎はこの点を早くから考えていた。
日本を走りまわっているどの列車もうす暗い光を抱いて走っている。すでに東海道線、山陽線、東北線には夜行長距離列車が運行されており、暗さは、スリ、かっぱらいの恐さをも抱いていた。そろそろ乗客は列車の暗さに、耐えがたい苦痛さえ感じているはずだった。
島はこの点に考えを集中し、いずれ電気になるにしても、いま現在の技術で確実にパッと目を見張るように明るい車載照明装置の導入を決断した。
決断は前年のことで、その装置をイギリスに発注した。
鉄道に関するイギリスのジャーナリズムでは、車載照明装置として「ピンチ式ガス灯」が優れていると報じられていた。
いわばガス灯の汽車用技術への転用なのだった。
島安次郎の本来の考え方からいうと、電気と、石油ランプの間の過渡期にだけあてはまる技術はあまり好まない。
いいものができる見通しがあるのに、それを待つ間の、いわば間にあわせ技術は、その技術自体が袋小路となるものだった。
この車載ガス灯は、いずれ明らかに電気にとってかわられる運命にある。
ヨーロッパに驚くほど普及した一般照明のためのガス灯がまたたくまに電灯に駆逐されたように、この技術は必ずすたれる。したがって、客車を明かるくしたいと考えるなら、全力をあげて電気にとり組まなければならない。それがこの場合の本道である。
が、それにはまだしばらく時間がかかる。
それならば待つべきであった。しかし、このままのうす暗さはどうするのか。待つゆとりがあるならば待ったほうがいい。が、島は待てなかった。いや、関西鉄道汽車課長は、技術の流れを見通した予測のままに、待っているわけにはいかなかった。
(電気を待つべきなのだが)
と島は考えていた。
その島が前年「ピンチ式ガス灯」導入の決断を下したのは、関西鉄道経営陣の首脳が大阪鉄道を買収し、名古屋から湊町までの線区を保有するという方針を日程にあげたからである。遅くても一年か二年以内にそれを実現するという計画だった。
そうなれば、いよいよ官営東海道線と、名古屋―大阪間で激しい競争となる。
その状況下での最も効果的なサービス。目にもあざやかな明かるい光の帯となって走る夜汽車。
そのためには「ピンチ式ガス灯」が必要だった。
もちろん、それに加えて、この装置が十分に働く時間を予測する必要があった。この点も難問だった。導入しても、すぐに電気が追いついたのでは損失となる。
技術問題を考えるにしてはめずらしく島は不快な気分で考えたのだった。技術の本道から離れた、もとより間にあわせの技術を導入するという、自分の考えの性向にそぐわない決断を下すかと思えば、酸味が胸もとにのぼってくる。
島は知らぬ間にまたその判断について考えていることに気づき、胸苦しくなって、ハイカラーのボタンをひとつはずした。少し間を置いてから上着を脱いでわきへ置いた。
「磨墨」は快調に、相変わらず跳びはねるように驀走しているようだった。煙が車窓の近くへ寄ると鉛色に浮かび、遠ざかれば闇にかき消える。
(この決断は、考え抜いた、正しい)
自分に断言すると、口のなかのかすかな酸味が消える。
しかし、ふと考えがめぐりだすと口のなかに酸味が湧く。
(迷いは煙のようだ)
姿勢正しく座っていながら、官鉄という大きな相手と競争しなければならない技術統括者の胸のうちはわずかに騒がしかった。
列車は夜の大阪へ入り、速度を落とした。やがて天王寺駅に停車した。元大阪鉄道の保有していた城東線を利用して梅田へ出る客が何人か降りた。
城東線(のちの環状線)は、天満橋、北浜など商業地をさけるように大阪城の東側をまわり込んで梅田へ通じていた。
陽が落ちれば、大阪の街はまばらな人家が闇の底に沈み、家々の明かりは電灯を引いたのか、どれも明るい。大阪の街は大阪城から西の方向へのびていっていた。中之島に大阪府庁が建ち、さらに淀川河口の天保山へむかって、手をのばすように築港工事がたけなわだった。人の流れ、物の流れは江戸期よりも淀川沿いに賑わいつつあった。日本郵船会社は、荷分け所を富島、新堀に設けた。富島には税関があり、いずれそのあたりはいまよりもにぎやかになるだろう。そうした動向を考えてみても湊町駅は人、物の流れからはずれていた。
島安次郎は闇の底の灯火を見ながら、つい関西鉄道の条件の悪さについて考え込まざるを得ない。
十分後、列車は湊町駅構内に入った。
低い大きな瓦屋根が操車場の横に並んでいた。大阪鉄道から買収した湊町工場である。明治二十九年に建った真新しい工場だった。規模は関西鉄道の四日市工場より小さい。
やがて大きくブレーキシューの音をたてて列車は停車した。ホームにはわずかにランプがともされ、その暗がりへ島は降り立った。
機関車の横に工場主任が立ち、島に一礼して近づいた。ピンチガスの担当者である。
「具合はどうですか」
島は短く訊いた。
「上々です」
「それはよかった」
島安次郎はほの暗い光のなかで微笑む。
工場主任はカンテラをかざして島の先へ立って歩いた。列車の後部で線路に降り、工場のなかへ入る。
工場内の作業はすべて終っており、車庫は静まっていた。闇のなかに修理中の客車が浮かび出ている。壁際に片づけられたおびただしい工具類が、にぶく反射した。
鋼材の梁からは鎖が黒々とたれさがっていた。二人は工場の端、レールが闇のむこうに沈む庫口のあたりに立った。
工場主任が壁にカンテラをかけると、工作机のうえにピンチガスの車内灯が浮かんだ。
列車の天井を模した板の下にそれは装着されている。砲金《ほうきん》の台座がにぶく光っていた。板のうえへ銅の細いパイプがのびている。そのパイプは工作机の横の筒形のボンベに導かれていた。
ランプは贅沢な、凝った作りに装われていて、金色に光る台座は、西洋の燭台の趣きがあった。ワイングラスのような曲面を見せてガラスのランプシェードが下から灯芯をおおっている。
工場主任はボンベを操作して、
「点灯しますが、ランプを消しますか」
と尋ねた。
新式ガス灯をともすに当り、劇的な効果をだしてみようと思ったのだろう。
「いや、いいでしょう」
と汽車課長は腕組みをしてガス灯を見つめている。
工場主任が台座を操作し、マッチの火を近づけた。
ぱっと白い炎が輝き、シェードを閉じると、炎は小さく、しかも輝きを増してゆらめきをとめた。
「うん、いいね」
と島課長は目を細めた。
二人の影が工場の壁に大きく投影される。
庫口からもれる光は幾条ものレールを闇のなかに輝やかせた。
五歩、後ろへ下がった島安次郎は懐中時計をとりだし、文字盤を光へかざした。
「これはいいや、まだくっきり見えますね」
光をうけて、白髪が浮かんだ年配の工場主任が答える。
「まず三等車なら二灯で十分でしょう、日本で一番明るい列車になりましょうな」
「よく調整なさった。はじめてのものは苦労しますから」
島は年上の工場主任をひかえめにねぎらった。一年間の苦心のすえに、ガス灯がともっているのである。
「恐れ入ります」
工場主任の返事には帝大工学士への素直な尊敬がにじんでいた。
ガス発生装置は、横八メートル、奥行三〇メートルほどの建物に収まるいわば小さな工場《プラント》である。
高さ八メートルほどの耐火レンガ積みの煙突が一本のびていた。ガスを発生させる炉の煙突である。炉はそれほど大型のものではない。幅が二メートル四〇センチ、高さが三メートル、やはり耐火レンガ積みの堅牢な作りで、上下に二つののぞき窓のついた鉄の扉がはめ込まれている。
ピンチ式ガスは一種の混合ガスで、乾溜法でガスをとりだす。したがって、この炉は下から火を燃やして原料を蒸し焼きにする釜であった。
炉の背後からガスを導くパイプがのび、ガスをとりだしたあと、洗浄器へ、そこから直径二メートル五〇センチ、高さ一メートル八〇センチのタンクに貯蔵される。ガスタンクは乾溜炉から二〇メートルほど離してあり、パイプは床下を通っていた。
さらにガスはタンクから圧搾器《コンプレッサー》で与圧をかけられた状態となって大型の貯蔵用ボンベにたくわえられる。およそ十気圧ほどで、ガスを使用する場合はこの大型ボンベから車載用の小型ボンベへ注入し、そこからさらに客車灯へと導かれることになる。
レンガ積みは確かな作りであった。そして、炉から導かれたパイプの結節点、気密性の高いボンベも満足のいく仕上りだった。
島はこの点はさほど苦労なしにできると判断し、ピンチ式ガス灯のパテントを持つ会社からの、技術者派遣の申し入れを断わっていた。
マニュアルによって機械部分の部品を組みあげていけば、自分たちの技量で十分に建設できると判断したのが導入の条件のひとつでもある。それは当然で、関西鉄道には機関車を修繕し保守する技能職工が確実に育っている。パイプの加工をやらせてこれほど頼りになる連中はいないし、十気圧程度のボンベは機関車のボイラーを修繕する者にとって手に負えないものではない。
これは新装置、新技術を導入するには大事な観点で、せっかくいいものを取り入れてもこちらに応用できる技術がなければ運転、そして保守に手間がかかり無要の費用を食うことになる。
島汽車課長は、四日市工場から派遣したピンチ式ガス灯担当者五人が、緊張した表情で立っているのに気がねして、少し大げさに仕事ぶりをほめた。
「立派なものですよ、イギリスのものより、こちらのほうが仕あがりはいいかも知れない」
職工たちの表情がなごんだ。
昨夜の工場主任、記録ではかろうじて長井という名字《みようじ》しか残らなかった年配の男が晴れやかな笑顔でうなずいた。
島は(ほめすぎかな?)と内心では思った。機関車を扱っている人間がこの程度の小さなプラントを作るのに緊張したのでは、技術者としては可憐すぎた。しかし、英文のマニュアルをはじめて見たときには、誰もが一様に表情を硬くした。
この一連の装置が、日本ではじめてのものと知ると、さらに一大事と身構えるのである。技術の裾野が豊かに育っていない場合、このような緊張が生じ、それが新技術を実像より高く見たり、馬鹿げたからくりと低くみたり、視線が乱れる。ときに、機関車のボイラーのなかを走る煙管は扱えるが、ガス管は別だろうという倒錯さえ生まれかねない。技術の基本は何にでも通じる普遍性にあり、それが個別の用途に応じて変幻するといった抽象度の高い思考が逆立ちしてしまい、個別の差異にとらわれてしまう傾向がまだ根強いのである。
島はその点について、長井工場主任を懇々と説き、長井は不安をとりはらって、あとはほぼ独力で建設を進めたのだった。
「長井さん、さっそく客車へ載せてください。一列車でいい。これは驚くぞ、本邦初、明るい関西鉄道、客が押しかける」
職工たちが、車庫に引き込んである一等車へとりついた。
島は乾溜炉へ近づき、炉の背後、ガスの原料になる石脳油タンクを検分した。
ピンチ式ガス灯の原料は未精製の原油、あるいは重油を主にしていた。これに褐炭、油脂を加える。どのような成分であったのか、記録は残っていない。常温で気体《ガス》であったところを考えると、石油中に含まれる天然ガス成分なのかも知れない。
島が気にしているのは、この乾溜炉の安定性であった。
マニュアルによれば、この装置で十時間の運転で三〇〇〇立方フィートのガスを作る能力があるとされる。これが不安定では使えなかった。原料の石脳油は新潟産である。あるいはヨーロッパで使われている原料と違って規定の能力が出ない恐れもあった。
島の後についてまわる長井工場主任へ島は語りかける。
「まあ、ガスは発生したわけですから、あとは原価が安くなれば、とてもいいわけです」
原料タンクは地下埋設タンクであった。そこからポンプアップし、炉の火室を貫いている筒《レトルト》のなかで原油は蒸《む》される。
レトルトは鋳鉄でできていた。燃料はコークスを用いた。ガスをとりだす一方でタールも発生する。これはガスを冷却する過程で流下させ、とり除く。現在の時点から考えるとこの過程でナフサ、灯油、軽油といった石油精製の産物が出ているわけだが、それらはここでは不用物とされ、捨てるわけだ。こうしてとり出されたガスの正体は、あるいは、油田でただむなしく燃焼されている巨大な炎と同じ成分であったのかも知れない。
「火は入っていますね」
島汽車課長が炉の前へまわり込んで長井工場主任にいい、答えを持たずにのぞき窓から乾溜炉をのぞき込んだ。
コークスは白熱していた。その炎をあびてレトルトも赤く熱せられている。
のちに島が機械学会誌に発表した論文『ピンチ式客車|瓦斯《ガス》灯』によれば、レトルトは「白桜色」に熱せられていなければならない。
この温度を知るためにのぞき窓からレトルトをうかがうのである。
「はじめて下さい」
島がのぞき込んだままいった。
長井工場主任が石脳油のコックをひねる。レトルト内に酸素があれば一瞬にして引火爆発するが、もちろんその恐れはない。
島はレトルト内で発生したはずのガスをパイプにそって追った。
しばらくしてタール槽にタールが流下してきた。それより炉に近いパイプ結節点のコックをわずかにあけて、できたばかりのガスを確認する。ガスは褐色で、ひどい臭いだった。
パイプをさらにたどり、洗浄器を通過したところのコックをあけた。無色の気体《ガス》がかすかな音をたてて流れ出た。
「うん」
と島は気色ばむでもなくうなずく。
ガス洗浄器の触媒には石灰と過酸化鉄、さらに藁《わら》を混合して用いた。藁とはどうしたものだろう。これはたぶん触媒ではなく、ガスが洗浄器内を通過する際に、よく触媒に接触するように補助材として用いたものと思われる。触媒の付着した藁の間をかいくぐるうちにガスはきれいになる。現在ならば触媒や、活性炭を付着させたフィルターという役目である。
島安次郎はパイプを追い、一次貯蔵タンクからコンプレッサーのところへ着いた。コンプレッサーは小型ボイラーの蒸気機関で運転した。この時代、動く機械の主力は蒸気機関であった。コンプレッサーからのパイプは大型ボンベへ導かれている。
このボンベの試験は慎重に行われている。
島の論文によれば、
「毎平方|吋《インチ》二百|封度《ポンド》(およそ十気圧)の圧搾空気を使用し水中に於て其安全なること及漏洩の虞《おそれ》なきことを試験したるものにして……」
と万全を期した。
水中とはどこだろう。ボンベの大きさは長さが一八フィート、直径が四フィート少しある。長さ五メートル強、直径一メートル三〇センチもある鉄の筒だった。
湊町駅のすぐ近くを道頓堀が東西に横たわっていた。
ここへ人力で運び、水面下に没した部分を、もぐり込んで気泡が出ていないか調べたのであろうか。あるいは、鉄の筒の腹をつたって浮かび出てくる気泡のあるなしを、小舟に乗った職工たちや、島自身が、じっと息をのんで観察したのか。
この照明装置が汽車に載るかどうか、決め手はボンベであった。
この与圧貯蔵ボンベから十気圧のピンチ式ガスをさらに車載用の小さなボンベに移しかえることで、長時間の車内灯が可能なのである。現在ならばガスライターにすぎない。しかし、ガスが液化するほどの圧力は、この時代は技術的にむずかしかった。
若き工学士は、この親ボンベの出来具合を確信してはいても、爆発の恐れのある装置に対して、慎重なテストを行い、さらに、ガスの漏洩がないことを確認しなければならなかったのである。
島は拳《こぶし》で鉄の筒をたたいた。乾いた音で鉄の筒が鳴った。コンプレッサーから導かれたパイプとの結節点を検分し、
「完璧なり」
といいかけて語尾を呑んだ。
技術に関しては「完璧」とか「完全」という事態はあり得ない。それは常に目標である。
島は「完全」であると自足することを生涯にわたって自戒した技術者だった。
この場面でも、自分自身には「完全」とはいわなかった。
そのかわり、長井工場主任にはいった。
「さすがです。完璧ですね」
長井工場主任は、三度、四度、深々と礼をした。
だが、まだ仕事は山ほどある。
それを次々に指図した。
ひとつは車載ボンベとランプをとりつけた客車の走行試験である。
車載ボンベは直径五四センチメートル、長さ一メートル五〇センチ、これを床下に二個装着する。圧力は七気圧で、親ボンベよりは低い。これが客車の揺れに耐えるかどうか試験すべきだった。外国の例ではそれに十分耐えて実用化されている。しかし、自前で作ったものは、自前でテストするしかない。
さらにガスの運搬も手当てする必要がある。親ボンベを二軸車にそっくり載せて、綱島、四日市へ配送する。
残された図面によれば無蓋《むがい》貨車の側板をとり払って、ボンベを載せた姿は、現在のタンク車そっくりの姿になっている。あるいは結果的に、これが日本初の与圧タンク車といえるかも知れなかった。
これらの指示のあとで、島汽車課長は長井工場主任に尋ねた。
「それから、原価の調査をしたいのです。どれぐらいの原料費、運転費になるか。一燭光を一時間ともした単位あたり、いくらになるか知りたいのです。私の計算では、電灯より安くなるはずですが、調査しなければわからない。原料とガス発生量、乾溜炉の燃料費、圧搾器の運転費などすべて記録していただきたい。適任者に命じて下さい。細かい人がいい」
この時代ではめずらしい指示といえた。
原価を割りだして、明るさの値段を求めようとしていた。
長井工場主任はやや困惑した。石油ランプならば燃やした石油の量で判る。しかし、このガス発生装置全部を運転した費用となると、ことが細かすぎた。
(そら、ややこしい、かなわんな)
と思ったかも知れない。
が、島の示した項目どおり、若い者にその記録をとらせるように命じた。
作業は大急ぎで行われた。
そして、半年後の明治三十四年二月十四日、関西鉄道の最急行列車は煌々《こうこう》と明りをともしたのだった。
関西鉄道は、業界の機関紙ともいうべき『鉄道時報』(明治三十四年二月十五日付)に堂々の社告を打った。
浪速っ子の話題をさらう明るい夜汽車であった。
浪速っ子だけではなく、全鉄道界が、この明るい夜汽車に注目した。
この年五月に大阪で開かれた帝国鉄道協会総会では、鉄道家といわれる人々がこぞって湊町のガス工場を見学することになる。
ガス灯の点いた列車を見学した『鉄道時報』の記事が残っている。
「同客車は新式のものにして室の一隅にはビール、サンドウイチ、二三種の洋食等を販売するビヤホール的の構造あり。瓦斯ランプは装飾等中々立派にして、火口は一灯に二個を付し、全燭光とするも半燭光とするも或《あるい》は一方を点じ一方を消すも自由自在にして(略)」(句読点筆者)
またこの記者は亀山から奈良まで乗車したときのようすを次のようにルポした。
「燭光三個なりし、其光は極めて明るく、彼の電灯の如く列車の発着前後に薄暗くなる様なことなく、室内何んとなく賑やかにして新聞雑誌は無論困難なく読むことが出来、先づ大体に於て他のライチングに優る様覚えたり」
大成功であった。今度ばかりは完全に――島安次郎の嫌う言葉だが――官鉄の鼻をあかした。
「室内何んとなく賑やかにして」とはしかし、光の帯となって夜の闇を疾駆する光景を、大和川の谷や、伊勢と奈良の国境の村で眺めた人々にとっては、おさえすぎた表現であった。
大都会を離れた日本の夜の闇は深く、ピンチ式ガス灯を全車両にともして走り去る関西鉄道の夜汽車は、一条の雷光のように村人たちを驚かせたに違いない。
こと照明に関する限り、官鉄は手も足も出なかった。
しかし、官営鉄道は、官営というだけあって、やることが、やはり大きかった。
ちょうどこのころ、官鉄は明治三十年から建築中の二代目の大阪駅が、あたりを圧する堂々たる石造り二階建の姿を見せはじめていたのである。
正面の壮大な屋根の中央には破風《はふ》がのぞき、大時計がすえつけられることになっていたし、スレート葺《ふき》の屋根の四方には、プロイセン軍の竜騎兵がかぶる兜のような尖塔が、あたりを睥睨《へいげい》していた。
正面の車寄せは、要塞のように重々しい石造りで構えられ、その左右には石柱とアーチの回廊が続いていた。駅舎に接して改築された一番線のホームときたら、列車が三本は入れるほど長大で、駅員は馬に乗って働くと噂された。
それにくらべると関西鉄道の湊町駅は木造平屋で、低い軒が馬屋のように駅前の広場にせり出ている。
軒先に杉玉でもぶら下げれば、やや大きいが、それほどは繁盛していない造酒屋といった風情だった。
鉄道の競争といっても、やはり資本力がものをいう。それは仕方のないことであった。しかし、乏しい資本力の下で、どうすれば鉄道をもりたてられるかという頭の働かせ方では、関西鉄道の人々のほうが俄然優勢だった。
この会社は、そもそもの起りが、桑名、関、土山、草津と、江戸時代の旧東海道沿いに敷設された鉄道であり、近江、伊勢の筋金入りの商人たちが後押しした鉄道であった。果敢に線路を延ばしていった経営陣や株主たちのなかには、江戸期のメインストリートで商いした根性が息づいていたともいえるのである。
官営鉄道が関ケ原廻りとなって、幕府と同様に凋落してしまった旧東海道沿いの素封家たちは、あるいは暗に、官営鉄道をへこませてやりたいという切ない感情を、へそのあたりに抱いていたのかも知れないのである。東海道をとりもどせ! といった心情であろう。
この精神が生きている間、島汽車課長の意欲はよく経営側とかみあい、関西鉄道は官営鉄道との競争を進めていくのである。
そして彼が、本領を発揮したのは、ピンチ式ガス灯ではなかったのである。
ガス灯は、むしろ余技とさえいえた。
彼はこの新式車載照明装置にとりかかる以前から機関車の改造にとりかかり、この本来の専門分野でも、人に知られることなく日本記録を樹立しつつあった。
駿速機「早風」
関西鉄道最高速列車は、時刻表での平均速度(表定速度)が、時速三四キロのあたりに設定されている。しかし、亀山から鈴鹿《すずか》山脈を横断し、伊賀上野へ抜け、木津川沿いに西進して、三笠山へ連なる奈良盆地北部の急坂を越える勾配線を抱えているために、表定速度三四キロを生みだすためには、平坦線区でよほど速度を稼がなければならなかった。
旧東海道沿いの路線を官鉄がとらなかったのは鈴鹿越えを避けたためもあったのである。
もっとも速度がだせる線区は、名古屋から亀山までの区間三七・四マイル(約六〇キロメートル)である。
いわば、この区間で飛ばせるだけ飛ばして時間を稼ぎ、さらに奈良盆地でわずかに稼ぎ柏原から天王寺の平坦区でまたわずかに稼ぐという速度構成により、四時間五十九分の所要時間が生みだされるわけである。
鈴鹿越えは一〇〇〇分の二五(水平に一〇〇〇メートルに対し二五メートルあがる)の勾配が連続していた。
ここを登る機関車は歩くほうが早いと思われるほどに速度が落ちる。最悪の場合は時速三キロ、四キロまで落ちるのである。
明治末にこの鈴鹿越えの線区で、機関助手だった人物の記述によれば、亀山側から勾配にとりつき、一〇〇〇分の二五の連続勾配をあえぎ登ったのち、頂上部分の加太《かぶと》トンネルへ機関車が突っ込むあたりで蒸気を使いつくしてしまうという。
加太トンネルは九〇〇メートルあまりのトンネルである。そこへ、時速四、五キロの機関車が進入すると機関車は自分の吐いた煙から前へ出ることができない。
「空気の欠乏と通風力の不足で火室の火は赤黒くなって十分燃えない。十分燃えないから蒸気も騰《あが》らない。石油ランプが空気不足となって消えてしまってキャブ内が真暗となる。熱いのと苦しいのとで生きた心地もなかったが、気力の続く限り頑張っておった」(今村一郎著『機関車と共に』)
暗闇のなかで進んでいるのか、後退をはじめたのかわからなくなり、機関士は運転席から側壁に手をのばして、壁が後ろへ行くのを確認して、
「前へ進んでいるからもうすぐ出られる」
と励ます地獄なのだった。
これは関西鉄道が国有となってからの話で、ピンチ式ガス灯をつけたころから十年後の状態である。牽いていたのは貨物列車で、十年前の高速列車よりは条件が悪いとはいえ、すさまじいばかりの難所だった。機関車は国鉄形式で七八五〇形《けい》、関西鉄道から引き継いだ機関車である。関西鉄道時代は勇ましくも「雷光」と命名されていたイギリス・ダブス社製テンダー機関車だった。
島安次郎が汽車課長であった時代でも、条件はまったく同じである。
ただし、高速列車は荷を軽くし、これよりは余裕をもってこの勾配を登った。それでも、この急坂が、列車の表定速度を引き下げている。そして、馬力のささやかなこの時代の機関車では、勾配線区での速力アップは、多くを望めないのであった。
名古屋―湊町間を、五時間を一分切って走るダイヤを創りだすためには、名古屋―亀山間で、できるだけ速度をあげなければならず、そこに島安次郎は機関車改造の中心課題を設定したのである。
関西鉄道が保有していた高速機関車は、一八九八年(明治三十一年)アメリカ・ピッツバーグ社製のアメリカン系二Bテンダー機関車だった。
機関車重量三八・四二トン、炭水車重量二二・九トンである。
この時代の高速機関車形式は二B形とされ、九州鉄道、官営鉄道、関西鉄道、日本鉄道いずれも競って二Bテンダー機関車を輸入していた。
日本の鉄道がようやく速度をあげようとしはじめた時代でもあった。それまで、ダイヤ上の速度(表定速度)は時速三〇キロのなかばを越えることがなかった。
この表定速度をはじめて越えたのが明治三十四年の山陽鉄道最急行である。
明治維新後三十年、日清戦争を経て、文明開化はやっと本番を迎えつつあった。八幡製鉄が鉄を生産しはじめ、紡績を中心にどうにか軽工業の足場がかたまり、産業は重工業時代へと入りつつあった。
このころの世相の目安をあげれば『金色夜叉』であろうか。尾崎紅葉の大衆小説が、人気を博していたころであり、明治三十三年には「鉄道唱歌」が楽譜出版され、またたく間に二万部を売って津々浦々に流れていくころである。
鉄道は輝いていた。時代を牽引して驀進する鉄の馬であった。
電信、海運、鉱業、電力などへの投資や、企業熱が高まり、とりわけ鉄道への企業意欲はなお盛んだった時代である。
官営鉄道は明治三十一年にイギリス・ネルソン社製二Bテンダー機関車(国有化後の形式名六二〇〇形)を導入する。
日本鉄道はイギリス・ベイヤー・ピーコック社製二Bテンダー機関車(同五五〇〇形)を導入する。この高速機はピーコック社製テンダー機関車という意味で「ピーテン」とニックネームされて上野からみちのくの野を走った。
山陽鉄道はアメリカ・ボールドウィン社製二Bテンダー機関車(同五九〇〇形)である。牛よけの排障器こそはずしてあったが、アメリカ西部を走りまわればよく似合いそうな駿速機である。
ちなみにボールドウィン社は日本へもっとも多く機関車を納入した会社で、総数は六百九十両に及ぶとされる。ペリーが持ってきた機関車模型を作ったノリス社の工場を買収したりと、日本との縁は深い。
イギリスのネルソン社(正確にはニールソン、日本では読みまちがえかネルソンとなりそのまま通ってしまった)を持つ官営鉄道に対し、山陽のボールドウィン社、関西のピッツバーグ社が、それぞれに対抗しながら三つどもえの速度競争が展開されることになったのである。
二Bテンダー機関車が高速機といわれる点は、先従輪がボギー台車となって、レール走行時に柔軟にレールにそって走る性能が高かったこと、動輪にかかる重さはやや軽く、レールとの接点での摩擦力(鉄道ではこれを粘着力という)は低いが、動輪の直径(機関車の歩幅)を大きくしたので速度が出ること、などの利点によっていた。
そして、テンダー車を引くことで水と石炭を多量に積み込むことができ、それだけ走行距離が延びて、水と石炭の補給時間が不要となって表定速度をあげられるからでもあった。
整備の悪い線路を柔らかにトレースし、かつ無補給高速運転の可能な機関車として、アメリカなどでは早くから多用された二Bテンダー機関車が、およそ半世紀ほど遅れて日本の線路に登場してきたわけである。
動輪の直径が機関車の速度を決めるとは、ピストンの往復運動の回数がむやみにあがらないという事情によっていた。ということは動輪の回転数がむやみにはあがらず、この条件のもとで速度をあげようとすれば動輪を大きくするしかないのである。
初期の蒸気機関車のピストン往復運動の限度は、一分間に一七五回から二〇〇回となっていた。つまり、動輪は最大限に回転しても一分間に二〇〇回転以上はむずかしい時代が長かったのである。
これが改善されてようやく一分間に三五〇回転が可能になるのは、十九世紀半ば以降である。そのためには、石炭を燃やす火床の大きさ、蒸気をたくわえるボイラーの強さ、力に転換するシリンダーとピストン、円運動に転換する走り装置など、各部分で無数の改良が重ねられていた。
それらの積み重ねのうえで、一分間に最大値三五〇回転という標準値が定まり、そこから、動輪直径によって、最高速を推定する目安が定まることになる。
それによれば、五フィートの動輪直径の機関車は、時速およそ五〇マイルが最高速度だった。
つまり、動輪直径のフィート数に一〇を掛ければ時速を得ることができた。
さきにあげた二Bテンダー機関車は直径五フィートの動輪だった。ということは、石炭の質や、レール状態、牽引重量などの、細かな条件を考えなくても、およそ、時速五〇マイル(約八〇キロ)前後が最高速と考えられるわけである。すなわち、さきの機関車群は、官営鉄道を含めて、明治三十年代の日本の線路を、時速五〇マイル前後で疾走し、しのぎをけずることになる。
関西鉄道は、ピッツバーグ社製二Bテンダー機関車を「早風」と名づけていた。
しかし、この「早風」はくせ者だった。
蒸気の使用量を倹約する二シリンダー複式機関車だったのである。
複式機関車は、蒸気を二度使うと思えばいい。
本来の複式機関車はシリンダーを四つ持ち、高圧シリンダーを動かした蒸気が低圧シリンダーにまわり、もう一度仕事をする。
ところが、二シリンダー複式機関車は、高圧の蒸気をまず進行右側の高圧シリンダーに送り、その蒸気を左側の低圧シリンダーでもう一度使う構造だった。
いわば正式の複式機構を簡略化したものなのだった。そのかわり蒸気を無駄なく使い経済的だった。
だが、出発のときには常に高圧シリンダーの側から力をだすことになり、これが二シリンダー複式機関車のくせ者の原因で、欠点になる。
機関士は、高圧と低圧のふたつのシリンダーに同じ仕事をさせるため熟練をもって蒸気圧を加減しなければならず、その調節機構も複雑で保守に手間がかかった。
頻繁な発進や停止は苦手となり、坂道も不得手になる。
二シリンダー複式機関車の長所は平坦区での速力だった。高圧から低圧への蒸気圧の比が一定の場合は強い。
そういう線路が「早風」の独壇場である。
関西鉄道では名古屋から亀山までの五九・五キロが平担な線区である。
この区間でできるだけ速力を稼ぎたいのが島汽車課長のねらいである。
機種選定をした汽車課長島安次郎は、こうした条件を考え、扱いに難のある二シリンダー複式機関車を選んだわけである。
そのうえで、島はこの「早風」の動輪を大きく改造する。
規格では、「早風」の動輪は五フィートである。
それを五フィート二インチに、わずかにあげた。一五二四ミリから一五七五ミリに、である。
最高時速に換算して二マイル(三・二キロ)にすぎない。
だが、この二インチの差は大きく、そして、さまざまな思いが込められていたに違いなかった。動輪直径を日本で最大にすること。同じ条件で走れば「早風」は必ず勝ち、日本で最高遠の機関車として君臨すること。この意味はさまざまに大きい。
一時間走って二マイルの差は、並行して走った競争相手をけしつぶに見えるほど引き離す。そのイメージのもとに運行される最急行列車は、必ず官営鉄道をしのぐはずだった。
また、この「早風」は経済性を無視して速いのではなかった。燃費が安いのである。長期戦ではこの差が必ずものをいうはずだった。
鉄道技術者としては、それ以上に世界に通じる野心さえ汲みとることができる。
動輪直径をわずかでも大きくしようと苦心することは、機関車を扱うものの使命のようなものであった。
速度をあげたいと考えることが、機関車をここまで発展させてきた源泉なのだった。
速度をあげることはあらゆる改良を呼び起こさずにはすまない。
動輪のうえにボイラーを置く構造では、動輪が大きくなれば自然に重心があがり、速度があがれば高い重心のもとで動揺が激しくなり、動輪の軸も、動力伝達の結節点も激しい運動のために、摩擦で発熱する。蒸気をさかんにあげなければならないとなれば、石炭の燃やし方、石炭を燃やす火室の大きさ、ボイラーの強さと、すべての水準をあげていくことになる。そこへ、効率という課題を組みあわせれば、蒸気機関車を構成するすべての性能が問われることになるわけだった。
そのうえ、速度があがれば制動力が問われ、客車の構造が問われ、線路が問われ、信号の方式が問われ、鉄道事業の技術力のすべての水準が問われることになる。
社会的な波及効果はさらに大きく、安全に、速く、安く、目的地に達することが、社会をどんなに変えてしまうかは、歴史の示すところだった。
もちろん、産業社会を変容させるものに戦争は巨大な場を占めてはいた。が、その戦争の技術領域でも、速達性は主要な領域だった。
そして、この時代の日本で速度を担う機械はほかでもなく島安次郎が対面している蒸気機関車であった。
この時代、人間が生みだし得る最も速い乗り物は鉄路のうえを疾駆する蒸気機関車しかない。
イギリスのグレイト・ウエスタン鉄道では時速一六〇キロ以上を記録しているのである。
それにくらべれば日本の汽車はあまりに遅すぎた。
が、それでも、技術者としては速度に挑戦しなければ、鉄道の技術体系そのものが停滞のなかに尻もちをついてしまうのである。
島安次郎は、速度をあげるという営為の総合的な効果を知って、技術者の社会的役割、責任を果たそうとした。
その責務とは島にとっては目前の「早風」の動輪を二インチばかり大きく太らせることができるかどうか、という一点にかかっていることになる。
「早風」の動輪を日本一にする、ということは、一介の若き技術者にとって、社会を動かすいくつかの大きな要素のうちのひとつを握りしめた、という感慨を持つことに通じるといっていい過ぎではなかった。
それにむかって島安次郎は苦心し、「早風」の構造を大改造し、ボイラーを扛上《こうじよう》して生じた空間いっぱいに動輪を拡大した。動輪とボイラーの間のすき間を、ぎりぎりまで利用することで半径一インチを動輪に加えたのである。
島安次郎は、のちに国有鉄道の正式標準機一八九〇〇形《けい》(のちのC51形)を構想する際に一七五〇ミリの動輪を採用する。
これも最大動輪の記録であり、ついにこれ以上の動輪は日本の蒸気機関車では使われなかった。最大記録が破られなかった蒸気機関車の設計者は島安次郎一人である。
島はもうひとつ改良を加えている。
クロスバランシング方式を用いて、動輪のバランスウェイトをなめらかなものに改良している。
「磨墨」の走行のときにふれたように、蒸気機関車は、ピストン、主連棒、連結棒が、激しく前後運動して走行する。重心が前後に動く。このバランスをとるために、動輪には片方に重りをつける。
この重りは、近似値的に重心の前後動と上下動に対してバランスしているが、動輪の回転にともなって、上下に激しく重さを振りまわすことになる。
重いものをひもに結んで振りまわしているような状態になっているわけである。
これが激しくレールを打つのであった。
ハンマーブロウという、蒸気機関車の宿命的な欠点がこれであった。
ハンマーブロウは速度があがれば、いよいよ激しくレールを打つ。遠心力が働き、機関車を上下に揺さぶって走行するのである。
これに対して、島安次郎は、ドイツ系機関車工学で採られていたクロスバランシングの手当てを行った。
動輪のバランスウェイトを分散させ、四つの動輪に交叉するように配置して、打撃ポイントをなだらかにしたのであった。これも日本ではじめての改良なのである。
ハンマーブロウはレールを破壊する。同じ理由で、橋梁も激しく打って痛めつけた。少しでも打撃を緩和できれば、線路保守上の大きな利点だった。
この改良は保線屋を感動させた。
関西鉄道は名古屋駅からいくつもの長い鉄橋を渡った。庄内川、木曽川、揖斐《いび》川と渡って桑名に至る。
とりわけ木曽川橋梁は八六六メートル、揖斐川は九九四メートルの長い鉄橋だった。鉄橋を渡る際、機関車は轟音をたてるのが常である。
あらゆる車輪が音源ではあったが、そのなかに機関車のハンマーブロウが加わって轟音になるのだった。わざわざ足を強く打ち下ろして駈けぬけるのが機関車の走り方なのだから仕方がなかった。
が、クロスバランシングをほどこした「早風」はさほどうるさくなかった。いわばすり足で走る機関車だった。
古手の保線方は、最急行列車を待避しながら走行音を聞き、首をひねった。
「うちの汽車はめっぽう速いが、このごろは女子衆のように、内股で走りだした」
島汽車課長が高速運転のために行った手当ては、クロスバランシングの採用によって、考えられる最善の策がみな揃うことになったのである。
この名古屋―亀山間の表定速度は、時速三二・四キロから四〇・八キロへあがり、ダイヤは明治三十二年の一時間五十一分から、一時間二十八分に短縮した。短い区間での大きな成果である。
「早風」の容姿は野性的な強さと、スマートさが合成された機能美にあふれている。
動輪が二つの機関車は、ボイラーの下に、むこう側を見通せる空間が生まれ、腹のひきしまったサラブレッドのような印象を与えるのだった。
シリンダーが二つの先従輪の中間に位置し、動輪までに距離があった。それを連結する主連棒は細く見える。第一動輪と第二動輪の間にもゆとりがあり、その二つの動輪の間に火室が抱かれていた。
ボイラーものびやかに見えた。カンテラの前照灯、短い煙突、撒布用の砂のドーム、蒸気だめドームが、ボイラーの頂部にバランスよく並んでいた。走り装置があっさりした機構なので全体の印象がスマートでほっそり見えるのかも知れない。
キャブは側面に二枚のガラス戸が入り、後部は炭水車にむかって開いている。炭水車との連結部のうえには、野球帽を後ろむきに被ったように、キャブの屋根がのびている。
「早風」は、時速八〇キロ前後で疾走した。瞬間スピードは、すでに後年の蒸気機関車にそうひけをとるものではなかったのである。のち、関西線のダイヤは無理をせずに十分ほど遅くなるが、それでも、速く、しかも静かな「早風」は、関西鉄道の看板機関車の地位を守ったのであった。
では、島安次郎は会心の笑みで「早風」の疾駆ぶりを見守ったろうか。
官営鉄道に対しては会心の出来を誇ってよかった。
しかし、世界水準では、決して「早風」は誇れる機関車ではなかった。
すでに欧米ではこの時代、最高速は時速一〇〇マイル(約一六〇キロ)に達していた。
アメリカでは日常走る急行列車が、最高時速九〇マイルという運転を行っていたのである。
それを知る島安次郎は、不満であった。
世界標準軌間のレール(幅一四三五ミリ)のうえを倍の速さで列車が走っている。それらは特別の機関車ではなく、ごく標準性能で時速八〇マイルを出していたのである。
一〇六七ミリの日本の線路では、時速一二〇キロはおよそ夢のような速度だった。
関西鉄道四日市工場で、油にまみれて立つ島安次郎は憮然とするしかない。
線路の幅が狭ければ、石炭を燃やす火室を大きくすることができない。石炭をいちどきにどれだけ燃やせるかが、機関車の力なのである。
さらにボイラーが巨大で強ければ十分に蒸気をため、たっぷりと使える。車輪と車輪の間が広ければ重心をあげられる。そのあがった分だけ動輪直径を大きくすることができる。すなわち速度をあげることができる。
線路の幅は、蒸気機関車の出力にとって決定的な要素だった。輸送容量を考えればそれ以上に決定的だった。
が、日本の線路は狭かった。
時速八〇マイルの機関車を走らせることは、世界の水準からいって何でもないことではあったが、狭軌ではほとんど不可能なのだった。
列車の最高速度といえば、この半年後、島はドイツの電車が最高速一三一マイル、時速およそ二一〇キロを記録したことを知るはずである。アルゲマイネ社の試作機だった。シーメンス社も一二九マイルの記録をだし、平均速度で一〇〇マイルから一一三マイルという記録を示した。
時速五〇マイルの「早風」は日本ではすばらしい速度を示したが、残念なことに欧米の機関車に比べれば、大人と子どもであった。
「早風」を作ったアメリカ・ピッツバーグ社は、世界で一、二を争う機関車メーカーであった。年間三千台の製造機数を誇っている。ピッツバーグ社へ、注文を出すだけで世界水準の高性能機関車が届くはずなのである。日本の鉄道があと三六センチ八ミリだけ幅の広い線路を敷設していれば、いますぐにでも時速八〇マイルの列車を走らせることが可能であった。
「早風」のボイラーを強力にするというだけでも、新たに機関車をつくるほどの研究、苦心が必要だった。
その苦心は、しかし、狭軌の限界のうえでのことである。
島はこの「早風」改造の苦心のなかで、狭軌であることの悲哀をいやというほどに味わったはずである。
こののち、島安次郎は日本の鉄道の技術発展はもとより、頭脳をしぼりきるようにして広軌改築の実現にむけて働くことになる。
それはあくまでも合理的な精神、科学技術者の立場からの挑戦であった。
島の目の前に、技術の袋小路をあからさまにして狭軌の線路が延びていた。
それをひろびろとした構えにし、鉄道技術体系をのびのびと茂らせることを、「早風」の動輪を拡大するのと同様に彼は自分の責務と考えたかのようである。
鉄道のつくりをひろびろと構えることは、この国の産業の土台のひとつを強くすることであった。
それは明治のころ、この国の能力のある者が自分に課した使命を果たそうとした軌跡でもあった。
薬種のなかで
島安次郎は、明治三年、和歌山市の薬種問屋に生まれた。
四人兄妹の次男である。
屋号を「島喜」といい、安政年間の創業である。
当主は代々喜兵衛の名を継ぎ、島喜兵衛の名をとって屋号を島喜としていた。
『和歌山県薬業史』には、安次郎の父喜兵衛について短い記述がある。
「島喜兵衛、安政年間の開業、明治中期島喜兵衛に到り(薬舗免許)薬局となる。世事に通じ、よく業界に尽した人」
温厚な人格者だった。
島喜は城下の北、西本願寺|鷺森《さぎのもり》別院の門前に並ぶ商家の一角にあった。
このあたりを城下の人々は、
「御坊」
と呼んでいる。
店は間口が三間あまり、軒先には薬の看板がいくつもぶら下がっていた。
清良丹、ウルユス、今治水などのほかに、和歌山ではいまでも常用されている和歌の浦保命散の看板もあった。頭をめぐらすと、道を行く人の肩にあたりそうに吊された薬名の札には、千金丹、正粒丸などの名も見ることができた。
店の作りは、入って右手が奥に通じる一間の細長い土間、左手は畳が敷かれた八畳ほどもある店座敷、そこの中央に当主が座っている。右手の土間の奥には大きな石臼《いしうす》が並び、そこで薬種がくだかれている。
帳場の奥、当主の背中には無数の抽斗《ひきだし》がしつらえられている。それぞれに薬名が書かれていた。
その抽斗の前や、店の奥の板の間では、使用人たちが薬研《やげん》を使ってしきりに薬種をきざんでいた。
その横では、大きな貝殼のなかに黒くねっとりとした島薗|膏薬《こうやく》をつめている者もいる。
安次郎は薬種の匂いのなかで育ったわけである。
店の奥の蔵には、子ども心には、物怪《もののけ》と同じように不気味で恐ろしげな品々が、あるものは棚のうえにそのまま並んでいたり、ガラス瓶のなかに入っていたりした。
鬼の赤ん坊の首もあった。
目が落ちくぼんだ闇になっており、牙をむきだしたその黒焦げの頭はガラス瓶のなかでいつも虚空をにらんでいた。
その黒焦げの頭は、実は猿の頭だった。丁稚《でつち》の一人は、蔵をのぞきに来た安次郎に、
「ほうれえ、鬼や、鬼や」
とおどかしたりした。
黒焦げの虎の頭もあった。こちらは綿を敷いた鉄の箱のなかに入っていた。虎の頭はしかし、額の後ろが欠けていた。ときどき、番頭がその頭をとりだしてていねいな手つきで削りとるのだった。
棚のうえには巨大な灰白色の卵もにぶく光っていた。
竜の卵だった。
あと三百年すると、その卵から竜の子どもがかえると、丁稚はしたり顔でいっている。
「いまは、どないにしてるの?」
と安次郎が丁稚に尋ねると、
「いまは、こんなかで寝んねしてるんやで、静かな日の朝に、卵に耳をつけるといびきが聞こえよる、かっわいいもんや」
という。
「なんで朝や、朝は起きるやろ、竜も」
「ぼん、竜は朝眠って、夜、起きるんや」
蔵の戸が開いている朝、安次郎は忍び込んで竜の卵に耳をつけて、竜の子のいびきを聞いた。
なんだかさわさわいう潮騒の音のようないびきが聞こえた。
「三百年というたら、みんな死んではるわ。生まれてくるときは、ぼくも死んどるなあ」
安次郎は竜の卵にそっとふれてため息をついた。
竜の卵は駝鳥の卵だった。
蔵の棚には、古い和とじの本がたくさん並んでいた。漢方の書籍だった。その本には黒々としたむずかしい漢字がびっしりと並んでいた。
店の土間の奥、蔵に通じる納屋のなかには大きな瀬戸物の瓶《かめ》が置いてあり、油紙で封じられていた。その瓶のなかには、それこそ気味の悪いシマヒルが蠢《うごめ》いているのだった。
馬引きのじいさんが店に腰をかけ、半纏《はんてん》を脱いで、裸の肩のあたりにシマヒルを這わせることがあった。
「悪い血を、ヒルに吸うてもらうんやで」
馬引きのじいさんは、しげしげと見つめる安次郎にいう。
学校へ通う年齢になるころには、安次郎は「なに?」「なんで?」と使用人によくものを尋ねる子どもになっていた。
蔵へついていき、鬼の赤ん坊についても、
「ほんまに、鬼の赤ん坊? うそや」
としつこく尋ねるのだった。
とうとううるさくなった一人が、
「ほんとは猿の頭を焦がしたものや」
という。
かえってそれからが大変だった。
「何にきくん?」
と質問を重ねる。
家にあるものが、みな薬であることはいつのころからか知っていた。
「お腹の薬じゃ」
と答えるとさらに重ねて尋ねた。
「お腹のどこに」
いつの間にか、胃とか小腸といった言葉を知っていた。
「旦那さんに聞きなはれ」
と使用人はうるさい安次郎を追い払う。
安次郎は、ときどきたまらなくなって父親に質問することがあった。
「お猿の頭を焦がすと何に効くのですか」
客が誰もいないとき、喜兵衛は安次郎を近くまで呼び、正座させ、
「ここに胃がある。黒く焦げた猿の頭は、胃を丈夫にして、下痢をとめる」
と正式に教えてくれた。
そんなときの喜兵衛の表情はおごそかだった。安次郎は、薬について質問したとき、おごそかな表情になる父が大好きだった。ちゃんと質問すると一人前に扱ってくれることが嬉しかった。
「安次郎は偉いぞ」
というときもあった。
そんなときは鼻の穴をふくらませて安次郎はうなずき、父のおごそかな表情を真似て手をついて礼をした。
兄妹四人の名は、長男が当主の名を継いで喜兵衛、次いで安次郎、かね、樟之助だった。
安次郎が生まれた二年後、明治五年に学制が発布される。
和歌山県下で最初の学校は、島喜から歩いて十分ほどもない、本町に開かれた。明治六年、旧藩の茶封所の建物をあてがい、始成校といった。
明治初頭の学制は、六歳から下等四年間、十歳から上等四年間である。
島喜の子どもたちは、始成校へは進まず、当時の学制によって、第三大学区和歌山県管内第十九中学区第三十六番桶街小学校に通うことになった。
紀ノ川は、城下の北を流れ、ゆるく南へむきを変える。海と、ゆったりと流れる大河に照り映えて和歌山の城下はいつも明るい。
夏、子どもたちは紀ノ川で泳ぐ。川を下る材木の筏《いかだ》を眺める子どもたちは、はるかに上流の森や村を想像した。
鷺森《さぎのもり》から城のお堀にかけては、古くからの商業地であり、また、畳屋や大工や町鍛冶などの職人の町であった。第三十六番桶街小学校の生徒はこうした商家の子どもたちや、職人の子どもたちが多かった。
安次郎は成績がよかった。下等小学校を卒業するときには表彰されている。
下等第一級生島安次郎
学術勉励品行方正ニ付頭書通遣之候条猶勉励可致事
という表彰状がわずかに島家に残っている。
「頭書通遣之候」の賞品は唐紙《とうし》であった。
ちょうど同じころ、明治政府が矢つぎ早に発布する法令によって、医薬業には免許が必要になる。
薬種問屋島喜も、いずれは高等教育を受けた薬剤師でなければ家業を継げないことになる。
四人の兄妹のうち長男は薬剤師への道を進まなければならない。もし、男の兄弟のうち可能ならば医師の道へ進む者があればさらによかった。
父は成績のよい安次郎にそれを期待した。この父の期待によって安次郎は、はじめ地元に開校された和歌山医学校へ進んだ。
和歌山医学校は明治七年に開設された和歌山病院付属の医学校である。医科とともに産婆学科と薬舗学科を開いていた。生徒数は百名。島家には、明治十三年の夏学期授業料の納入票が残っている。一円五十銭である。
和歌山には華岡青洲を生んだ医術の伝統が残り、安次郎はそれに触れたのかも知れない。
明治初期、大急ぎで開かれた近代学制ではあったが、教師の多くは漢学の素養のある者だった。下等教育の内容のほとんどが、江戸期の寺子屋教育の流れそのもので、西洋の合理精神からはまだ距離があった。
のち、和歌山の医学校は、学制の改正で大阪、京都に医科大学が整い、明治二十年に閉じられることになる。
安次郎は、この和歌山医学校から、開設直後の和歌山中学へ転校することになった。
この時期に、本格的な医学への道へ進むことが決められたようである。
利発な薬種問屋の次男坊が、西洋の合理精神に出逢うためには、明るい城下からどこか大都市の学校へと進まなければならなかった。
しかし、島安次郎の精神の基層を形づくるものはこの少年期に育まれている。
それには市井の生活では、わりあい科学に近い薬種業の家で育ったことが大きい。
黒焦げの猿の頭に対して、それを、鬼の赤ん坊の首だと、いわば情緒のなかでとらえている幼児が、成長するにつれてその迷妄を疑いはじめるころに合理精神は芽をだしはじめる。
やがて、猿の頭を焦がしたり、虎の頭を焦がしたりすることの不思議さについて考えをめぐらすようになる。
なぜ焦がしてしまうのか?
そこにこの気味の悪い薬の秘密がありはしないかと考えているところへ、父からの解答が与えられる。
炭化物、黒焦げの物には、健胃剤としての効きめや、収斂剤としての効きめがあることを知ることになる。ここで思考をめぐらす頭脳は次のような推理を浮かべたかも知れない。
薬効の本質は炭化物で、猿の頭を焦がそうが、虎の頭を焦がそうが個別の違いは、本質ではない。この考えがこのころに育まれていれば、もはや科学だった。
紀州徳川家にとっての薬種には、他の地方にくらべて一種格別な重さがあった。八代将軍吉宗のころから、薬種については奨励策をとってきている。
足下の和歌山には薬種畑が開かれていた。
現在の砂山地区、旧貯木場の南の一帯には藩営の薬種畑があった。ここでは、わせ種の甘藷の栽培も行われて、地元の人は芋畑と呼んだころもある。
紀ノ川の対岸の一帯でも薬種がさかんに栽培されていた。そうした地場産業の一画に薬種業が成り立っていた。
長兄と次男の二人が、和歌山医学校に通うころ、薬種ひとつひとつについて薬効を学ぶ。
あるいはもっと子どものころに、薬種から有効成分を煎じだすことの意味を把え得ていたかも知れない。
畑に生え、葉を茂らす植物から抽出された成分が薬であること、そうした個別具体性から、薬効という抽象を引きだしていくこと、この営みも科学であった。
城下の西、紀ノ川の河口あたりまで遊びに出かければ旧藩ゆかりの薬種畑が広がっていた。
そこには、クコや、ハマゴボウ、和木香、浜防風などが、自生するか、栽培されていた。ありふれた浜防風にも薬効がたたえられていることを知り、その不思議を感得し、さらになぜ効くのか、と問いを重ねることができるとすればそれは科学の精神だった。
そして、薬種をさまざまに処方することの不思議に子どものころから接していた柔かで利発な精神を考えると、この時代には貴重な科学的な精神の発生の秘密をうかがうことができる。
咳をとめ、熱を下げ、食欲を促進させるさまざまな薬効の組みあわせが、煎じ薬の内容として構成されていること。その成分比が定められていることなどを、薬種問屋の毎日の生活のなかで知った子どもが、ひとつの現象がたくさんのものによって成り立っている道理を体得するのは、それほどむずかしいことではない。
いやむしろ、ひとつの現象は、必ずさまざまな要因(薬でいえば成分)によって構成されていることが、この世を貫徹している原理だと思うことのほうが自然なはずであった。
生まれた家の土間や、納戸や、帳場の奥できざまれ、調合されている薬がそのように仕立てられているのだった。
海と紀ノ川の明るさが照り映える城下で、科学的な思考を薬種の匂いとともに吸って育った少年は、こうして、合理的に思考する根を胸の内に抱いたであろう。
時代はまだ揺れ続けていた。はるか西南では、維新の英雄西郷隆盛が兵をあげ、ついに敗北した。御三家のひとつの城下では、それを仇でもとったように喜ぶ旧士族のものたちもいた。
江戸期の名ごりは中学にも色濃く残っていた。士族出身の者が町屋の生まれの者をごく平然と見くだしている。
学校の通知表の、名前の右肩には必ず、士族であるか平民であるかが黒々と明記されている時代だった。
安次郎の家督はまだ先代喜兵衛、つまり安次郎の祖父の下にあったために、安次郎の通知表には、
「平民喜兵衛二孫 島安次郎」
と記されている。
そのことはどうにも安次郎の気持ちをうっとうしくかげらせたりした。
島の生まれた明治三年が、ちょうど新橋から横浜への鉄道建設工事がはじめられた年である。
このこと自体は単に偶然にすぎない。しかし、鉄道を開設する精神はまだ幼稚な水準で、ただやみくもに鉄道敷設を決め、そのまま線路が延長されてしまい、欠点も山ほど撒き散らされた。
その大急ぎの鉄道建設の後始末をすることになるのが島安次郎である。その人物が、ちょうど、鉄道建設と同じ年に生まれている偶然については何がなし、感慨を感じるべきかも知れない。
安次郎が十五歳を迎える春、父喜兵衛は座敷に安次郎を座らせていった。
「兄は医学校薬舗科を修めれば、島喜を継ぐことになる。次男のお前は医者としたい。東京へ遊学させるがどうか」
願ってもない話だった。
封建の遺制が次第に解けはじめて、これからの世が身分よりは学問であることは自明となっている。
とりわけ地元の秀才は旧藩もこれを後押しして、東京遊学者には「南紀育英会」が設けられ、旧江戸屋敷の長屋に寄宿ができた。
この時代、医学はドイツという評価が常識となっていた。
いや、医学だけではなかった。欧州の近年の戦争で、オーストリアを破り(一八六六年)、さらに日本にとってはイギリスに並ぶ一大強国だったフランスを破った(一八七一年)、ドイツ帝国はもっとも手本とすべき帝国だった。
「お前を独逸学協会学校へやろうと思う」
と父親は遊学先をいった。
和歌山の薬種問屋の当主にとって、この決心は重大だった。
「そして、東京大学医学部へ進め」
この決心も大きい。
その力はあると考えたのは、本人よりも父親であったかも知れない。
これまでの学業で、安次郎は五番を下ったことがなかった。
父親は内心、
「この子はいずれ大成する」
と恐れるような気持ちで眺めている。
「あの性根がいい」
性格はまったく父親ゆずりで温厚であり、もの静かだが、小さいころからのものの尋ねぶりに無駄がなかった。
「はい、そうしたいと存じます」
安次郎が目だけを輝やかせ、高ぶる素振りもなく答えたことで、進路が決まった。
こうして、安次郎は東京へ出る。
巌谷小波との出会い
独逸学協会学校での成績はさらに目ざましい。
いずれも選ばれた秀才たちが集まる新進の、最も流行している独逸学の学校で、島安次郎は首席を争う位置を保った。
明治十八年から十九年までの何通かの成績表が残っている。
明治十八年十二月の試験の成績は一番であった。
訳読七十三点、文法七十点、書取七十八点、歴史九十五点、地理七十点、会話五十点、数学百点、和漢学八十点である。
十九年三月一番、四月三番、五月一番、さらに十月二番、十一月二番である。数学は常に高成績だった。
独逸学協会学校の創立は明治十六年十月、立憲君主政体の独逸学を修め、英学に対抗する政府与党的な立場をとった学校である。初等科と高等科、ともに修業年限は三年であった。
ドイツ風の木造二階建校舎が落成するのは明治十七年、この真新しい校舎で安次郎は学んだ。
十八年、安次郎が入学する年からさらに法律、政治の専修科を設ける。安次郎は普通科の高等課程に入学した。授業は和漢学のほかはすべてドイツ語で行われており、ドイツ人教師の数も多い。島安次郎が英語よりも独語が上手だったのは、この時期の学術勉励によっていた。
同じころ、東京大学予備門が廃止されて第一高等中学校に変わる。島安次郎はこれを受験して合格した。明治二十年一月である。
独逸学協会学校は大学予備門への階段のひとつと考えられてもいた。
この間、溜池の近くの「南紀育英会寄宿舎」にいた安次郎は、この寄宿舎の雰囲気を嫌って麹町《こうじまち》区下二番町に引越しをする。下宿先は玉井謙三宅であった。
そして、この学術勉励の時代、独逸学協会学校から第一高等中学校へのいつのころからか、島安次郎は生涯の進路を変えることになる。
しかし、医学から機械工学への志望の変化について物語る材料は何ひとつ残されていない。
島安次郎の鉄道の仕事を継承した子息の秀雄にも、ついに進路変更についてひと言も語り残してはいないのだった。
律義さを色濃く持っている島安次郎は、医師になれと勧めた父親の期待に応えなかったことを、人知れず気にしていたのかも知れない。鉄道では、大きな仕事を残していながら、父親の意向に反したことを、胸の奥の罪のように抱き、郷里の空を想うたびに、かすかな痛みを感じていたと解釈すると、この人物の後半生に、もうひとつの淡い人情味が加わるようである。
日本の鉄道にとって、島安次郎のような緻密で周到な頭脳が機械工学を選び、蒸気機関車を選び、鉄道の現場を選んだことははかり知れないほどの利益となったが、その当の本人が父親の意志に反したことを、密かな痛みとしていたらしいことは、人の生涯を想う際にかえって豊かな情味を感じさせるといえよう。
多感なころ、人は思わぬきっかけで進路を変える。
まして、このころの日本は近代社会への入口のあたりで、どの分野でも若い志を待ち受けていた。進路を変えたそれぞれの分野に可能性が開かれている。選ばれた俊秀にとってどの道へ進む場合でも積極的な転進であった。
独逸学協会学校当時、島安次郎は親友を得ている。その一人が巌谷小波《いわやさざなみ》である。この巌谷も独逸学協会学校時代に志望を医学から文学に変えていた。
巌谷小波は本名|季雄《すえお》、生年は島と同年の明治三年、家は近江|水口《みなくち》藩の藩医である。父巌谷修は維新後に政府に出仕してのち、行政官の業績を重ね貴族院議員に勅選された。
藩医の家であったが、長男は工科大学へ進み、次兄が他家に養子に出て、三男の季雄が医業を継ぐことになっていた。
家の命によって医学へ進まなければならない点では安次郎と似た境遇といえた。
独逸学協会学校は、神田小川町にある。
二人はこの新しい学問を教える学校でともに机を並べて将来を語り合ったに違いない。
安次郎にとって、旧藩士の子弟が多い南紀育英会の重しをのせたような空気をのがれて独逸学協会学校近くへ下宿を変え、そして、明るく屈託のない巌谷季雄と交流を重ねたときが、身心ともに将来が開かれる新時代の幕があがったときといえるのかも知れなかった。
巌谷の性格には、鬱屈した暗さが少なかった。文学をやるうえでは、欠点ともなりかねない明るさだったが、才気が性格のまま輝いているような個性に出会ったことは、安次郎の人生の出発の時期に大きな影響を与えたに違いない。
巌谷は、新しい時代を屈託なく迎え、自分の可能性を明るく未来へ投げだすことのできる精神の見本のような存在だった。
もの静かな安次郎の胸のうちに燃えている将来への希望を、巌谷はこともなげに、率直なものの言い方でかきたててしまう。
「ぼくは医者には向いていないぜ。なにしろ、本来なら長兄が藩医の家を継ぐはずだのに、ぼくにめぐってきただけのことだからね。家を継がなくちゃならんなんて、そんな世の中じゃあないよ、君。それじゃあ旧弊どおりのことだからね。ぼくは文学をやりたいんだ。文学をやることで、日本の文明開化を本物にしたい。人はその長所をもって国につくすべきである」
神田小川町に新設された独逸学協会学校の校舎は、いかにもハイカラな洋風の校舎だった。
二階建の校舎の壁は真っ白で、教室の外には柱が並ぶテラスが広々と開いていた。
こうした目にも鮮やかに新しい校舎で、巌谷のような個性の持主から将来の希望や、人生の意味や、文学について身近に語りかけられた安次郎の胸に、
「自分もそんなふうに、自分なりの希望をかなえる生き方をしたいものだ」
という考えが頭をもたげるのは容易に想像できる。
巌谷の才質はすでに芽をだしていた。
古典や和歌の教養は、京都御所に仕えたこともある祖母から受け、漢詩については父から学び、俳句の素養は、巌谷家に寄宿している書生から受けたとされる巌谷は、のちに児童文学で名をなす才質をきらめかせた少年だった。
すでに新聞に投稿するなどの早熟ぶりである。
巌谷は進路について、すでに志を立ててしまっており、医学に進むことには頑強に抵抗した。
そのありさまを島安次郎は、いちいち目撃する立場にあった。
巌谷の長兄立太郎が、この少年の血気、文学への情熱をなだめる役をするが、自分が工科へ進んでいるので、どこか気おくれがする。
「それならば法科へ行け、文学では食えぬ」
と妥協案を出して説得したりしている。
巌谷季雄はそれさえも拒み、十七歳の正月(明治二十年)には、このころ名をとどろかせつつあった硯友社の同人になってしまう。
少年期、友は友を呼ぶ。巌谷季雄は独逸学協会学校から杉浦重剛の称好塾に移った際に大町桂月と知りあい、島安次郎も大町桂月の友人となる。
島安次郎の周囲に、この時期、文学の風がしきりに吹いていることになる。
あるいは、この巌谷季雄の志望をめぐる劇中に登場する巌谷立太郎が、医学をめざすことになっていた島安次郎の志望を工科の方へまげる作用を生んだのかも知れない。
「人はその長所をもって国につくすべきである」
といった明治期の若々しい人生像を、利発な少年が自分に引きつけて考えたとすれば、
「それなら、ぼくは機械工学だ」
という結論を得ても不思議ではない。
巌谷立太郎はこのころドイツ留学から帰ってきた気鋭の工学士だった。
そもそも、その留学中に、オットーのメルヘン集を送ったことが、季雄の「文事」の才を刺激してしまっている。
ドイツ帰りの若き工学士を前にした少年二人が、自分の将来について相談し、そうした会話を重ねながらはるかヨーロッパのようすを聞き、才気が噴きこぼれているような季雄は文学にあこがれ、数学が得手な安次郎がドイツ工学にあこがれたとしても不自然ではなかった。
島安次郎の目の前で、巌谷季雄はどんどんわが道を進んでいった。それを見ている少年が、もし、内心、父が命じた医学への道に疑問を抱いていたとすれば、大きな刺激を受けざるを得ない。
が、安次郎は決して学業はおろそかにはしなかった。
巌谷季雄は、明治二十年には「我楽多文庫」に『真如の月』を発表して、もうはや不退転の決意、それどころかすでに文才を発揮しているのである。
それを見ながら安次郎は第一高等中学校の学術勉励を続けることになる。
そして、明治二十四年七月八日、卒業式を迎える。
すでに志望は工科となっており、島安次郎は工科志望者のうち首席の卒業であった。
明治二十四年七月十三日付官報によれば、工科志望者は三十三名である。ちなみに英法科十七名、政治科二十八名、文科十一名、法科九名、仏法科九名、理科十二名、医科二十九名。
校長木下広次の式辞に、
「諸子カ多年勉励刻苦ノ結果トシテ得タル中学高等ノ学力智識及ヒ其学識ニ伴ウテ……」
というとおり、この時代の俊秀らは、それぞれに志望を定めて帝国大学へ進学し、さらに、そのなかから専攻を選び、世に送りだされた。
島安次郎の帝国大学時代はちょうど夏目漱石の在学期に重なっている。
夏目漱石は第一高等中学校の一級先輩にあたる。
島安次郎の青春は、夏目漱石の描く作品世界と同じ背景のなかですごされたわけである。
漱石も第一高等中学校時代、志望を建築から文科へあっさり変更している。もともと、人生のこの時期の進路変更について、ことさらに要因を探ることは意味がないともいえるし、胸の底に温められていた志が、青春の血流でにわかに眼を覚ましたと解釈しても大きい誤りとはいえないだろう。
幕末・明治初期の鉄道
島安次郎が青年期への成長のドラマを克己心とともに歩んでいる間に、日本の鉄道の条件は、日本的な事情のなかで成立してきていた。
安次郎の生涯の側からこの光景を眺めるとややもの悲しいものに見えてしまう。
島安次郎が鉄道の現場へ立つまでの時間に、島が解決しなければならない仕事が山のように積みあげられていくことになった。
その最初の誤りが、三フィート六インチ、一〇六七ミリの線路の幅であった。
この狭軌鉄道の決定については、俗説が流れている。
日本にイギリス植民地型規格の鉄道を押しつけたイギリス人技師の考えによる、という。
一方では財政難の日本政府が、二割ほど工事費が安くなる狭軌を選んだことが原因という説もある。
こうしたことは、軌間決定についての日本の当時の事情、世界史的には、遅れに遅れてしまった体制から出発したむずかしさを物語り、かつ、狭軌とせざるを得なかった判断の責任を弁解しようとする説のようなニュアンスがこめられている。
が、実情はもうすこし悲しい錯覚、あるいは鉄道についての、悲しき無知とでもいうべきものが作用したのだった。
明治政府内で、もっとも雄弁に鉄道建設を主張したのは、大隈重信だが、鉄道建設の意義を伊藤博文とともに体を張って主張し、ついに財政危機下にあった明治政府をして鉄道建設に踏み切らせた大隈自身が、軌間、すなわち線路の幅について、どんな意味があるのか理解していなかったのだった。
このことを大隈はもちろん公にはしていない。
が、たった一度だけ、
「ゲージが何の意味なのか知らなかった」
と口にしたことがあった。
時代ははるかに下り、大正元年、大正天皇即位の御大典が京都で行われるに際し、このとき首相だった大隈侯は列車で西下した。
顕官、要人が列車に乗る場合、当時は鉄道のしかるべき職のものが同行する慣行がある。
たまたま、当時、新橋の運輸事務所長だった金子六蔵という人物が、大隈首相の車中にいわば伺候《しこう》して同乗していた。
このとき、即位の御大典のための西行で大隈侯はすこぶる上機嫌のうちに、昔語りなどのお喋りをしていたという。
話題が鉄道のことに及んだ。鉄道の建設に大功があったとされるのが大隈重信であり、鉄道についてはわがことのような想いが大隈にはある。
「いよいよ鉄道建設ときまったときに、英国人たちが大隈大輔(当時大隈は大蔵大輔)に、ゲージはどのくらいにされるおつもりですか、と訊ねたが、大隈侯はゲージの何物であるかを知らなかった。そこでゲージとは何かと訊くのも残念と思い、ヨーロッパではどうなっているかと訊くと、広いのには四|呎《フイート》八|吋《インチ》半もあり、三呎六吋もあり、三呎もあるといったので、はじめてレールの幅のことと気がつかれたのです。しかし当時、大隈侯は、わが国は土地も広くないから狭いので沢山だ。そして鉄道は二、三千|哩《マイル》もあれば十分だと思っていたので、狭軌の三呎六吋でよいと定めてしまったといわれました」
これは金子六蔵が『日本鉄道創設史話』の著者石井満に語った内容である。
金子はこのことを胸のうちにしまって人にはいわず、昭和二十八年にやっと石井に語っている。
この大隈侯の放言を知っているのは、この車中に同席していた同じ鉄道職員、新橋保線事務所長と金子の二人だけだったという。
金子六蔵の話によれば、大隈侯は、
「狭軌にしたのは吾輩の一世一代の失策であったよ」
といい、また、
「その時分には智恵者がなかった。ただ一つ豪胆という腹でやったのだ」
とも語ったという。
明治のはじめ、鉄道を敷くなどということは、財政の常識からいってまったく不可能といっていい状態であった。
何しろ金がない。
北越、奥羽戦争当時、会計局判事が、大統督府参謀に出した窮状を示す文書に、そのことを物語るものがある。
「御用金の儀は方今の御一大事に御座候え共、かねがね申上候通り当局の会計は名目ばかりにて空局同様の儀、全く借入金のみの目当に御座候間、局中の日用をも弁兼候次第に御座候」
太政官札発行直前の窮状である。
廃藩置県前の明治政府は、いつ倒壊しても不思議ではない所帯をかかえ、歳入はおよそ二百万両、石高で百万石である。二百数十もの各藩は二千二百万石分を持ち、とりあえず維新の旗の下で呼吸していた。
この財政下で、明治政府は、大隈重信、伊藤博文らの鉄道開設案に胸ぐらをつかまえられて引き倒されるように鉄道建設に踏み切った。
しかし、この重大決定の持っている意味あいも、国家百年の大計を樹てるというものとはかなり違っている。
この大英断の色あいについては大隈重信はさきにあげた帝国鉄道協会総会において次のように語っている。大隈は帝国鉄道協会の名誉会員でもあった。
「当時ノ先輩ニ向ツテ此封建ヲ廃スルコトガ必要デアル、郡県ノ下ニ全国ヲ統一スルコトガ必要デアルト云フ議論ヲイタシテ居ル時デ、之ヲ廃シテ全国ノ人心ヲ統一スルニハ此運輸交通ノ斯ノ如キ不便ヲ打砕クコトガ必要デアルカラ之ニ向ツテ何カ良イ工夫ガナイカト云フ考ノ起ツテ居ル時ニ此鉄道ノ議論ヲ聞キ、是等ガ動機トナツテ何ンデモ鉄道ガ一番良イト云フコトニナツテ夫カラ鉄道ヲ起スト云フコトヲ企テマシタノデゴザイマス」
大隈は鉄道建設の旗をうるさく振り続け、明治政府首脳のほとんどが反対であったところをくつがえしたのではあったが、その眼目は鉄道開設による政治効果にあった。
もちろん、第一義が「何ンデモ鉄道ガ一番良イ」といった政治効果にあったにしても、やがては経済社会的な効果を巨大にまきおこすのが、鉄道である。陸上交通も、船も、幕藩体制によってひどく封じ込められている日本社会では、たしかに「一番良イ」西洋近代の果実のひとつが鉄道だった。
しかし、このとき、そもそも鉄道が近代社会のなかでどのように成立している装置なのかという、鉄道と社会の構造を、日本人は文化の水準として誰ひとりつかまえられずにいる。
「何ンデモ鉄道ガ一番良イ」
という鉄道の素晴らしさは誰でも知ってはいたが、近代社会の交通、市場、技術などの、あらゆる基本条件がどのようなかねあいで鉄道となって出現しているか、いかなる維新の英雄といえども、理解することは不可能だった。
これが、大隈がふいと口走ったように、
「ゲージ? それは何だ?」
といった日本的な、あるいはもっと広げれば非西洋的な地域に避けられない錯誤となってこぼれ落ちる。
そして、この瞬間に、鉄道にまつわる政治効果の悪因が生まれ落ちることになった。
日本社会は、社会発展の法則から見て、放っておいてもいずれ日本独自の時間の流れのなかで、西洋資本主義的な社会へと変容したであろうという説はあり得る。
が、エジプト、ギリシャ、ローマから蓄積され世界のどこへ持っていっても公理となる数学、あるいは科学、それによる技術が自生することまでを含めれば、何年待っても、近代技術の爆発的な発達、産業革命が出現したかどうかは疑わしい。
そうした高速回転をはじめた社会が自生させてくるもののひとつが鉄道であり、そのことを数百年がかりで文化として育てているヨーロッパ社会では、鉄道がどのような社会構造のなかに浮かんでいるか、常識となっている。
社会が回転を早めることは交通が発達することと相互に作用しあう営みであった。
しかし、それが乏しい社会での鉄道には、
「何ンデモ鉄道ガ一番良イ」
ということの意味が十重二十重に鉄道にかぶせられていく。
結果論として、明治二年から三年にかけて鉄道建設がイの一番の政策として「豪胆」に決定されたことは、そこに明治維新のあらゆる効果を目にもの見せてしまおうという意図があったわけだった。
ここが出発点であったことは、鉄道についての日本人のそれとは知らぬ勘違いの色合いを決定づけてしまった。
鉄道は、単なる交通の一様態である。その装置自体は、御一新や、文明開化や、封建割拠打破や、天皇や、軍事や、政治や、殖産興業や、自由民権や、要するにありとあらゆる面での明治国家の改革の中枢をどれほど担ったものであっても、単なる鉄道であるにすぎない。
こうしたあらゆる面の役割をあびせられながら、鉄道は、しかし、鉄道の成立条件が食いつくされてしまえば枯れる装置なのである。
が、交通システムとしての役割のうえに、御一新の成果の全部を背負わせようという思惑の下で鉄道建設が着手された。
そして、島安次郎ら、鉄道の専門家たちがこののち否が応にも腕をふるわなければならなかった領域は、鉄道がごく健全な鉄道であるための条件の確保、向上であった。
もっというと、ベタベタと張りつけられたさまざまな効果のために鉄道が息を詰まらせないように、必死の手当てを行うことになる。
いったい日本社会は、鉄道を、社会のなかの単なる交通装置として理解できたのだろうか。
ついには理解できず、大隈や伊藤や、そののち、鉄道を交通以外の効果として便利遣いにこづきまわした政治(左右を問わず)を含めて、いまだに理解できないでいるのではないかと筆者は首をひねっている。
少なくとも、島安次郎は鉄道の技師として、こうした日本的な鉄道の作用と反作用に打たれ続け、無念の涙を呑み続ける運命にあった。
「そうか、自分の長所をもって国につくすとは、ぼくにすれば機械工学だ」
と若い胸をふくらませて蒸気機関車にとり組んだ男にしては、無残な場面に立たされることがしばしばだった。
ごく率直に、具合のいい鉄道が、効率よく快適に走ること。そのためには、日本の条件のなかで何をなすべきか、それを一心に考えている人物を、とりわけ政治が張りつけてくる交通以外の効能が苦しめた。
さらには、合理的に投下されるべき資金があらぬ曲げられかたをしては、島安次郎をときに呆然とさせることになった。
その日本的な鉄道の基本構造が、実は、帝国大学工科大学で、島安次郎が蒸気機関について学んでいる間に練りあげられている。
しばらく、この東洋の列島にやってきた鉄道の、日本的な受けとめ方について考えてみたい。
たとえば大隈重信が、生まれてはじめて鉄道を眺めるのは、佐賀藩がなんとか作りあげて走らせた模型の汽車であった。
大隈は十八歳、藩校の弘道館に通っていたとき、安政二年(一八五五年)である。
嘉永六年(一八五三年)七月、ロシア艦隊が長崎に寄港する。プチャーチン使節の率いる四艘の軍艦であった。
ペリーの浦賀寄港より半年ほど早く、この艦隊が汽車の模型を積み込んでいた。
プチャーチン来航の目的は開港とロシア人の上陸許可、北辺の国境設定などである。
幕府はこれをゆるゆると追い返す。
が、その交渉の折に、蒸気船の内部を見学させ、持ってきていた汽車の模型を走らせて見せた。
幕府交渉役の一人川路左衛門尉|聖謨《としあきら》が、はじめて見る汽車に驚いて日記にこれを書いている。
「蒸気車、これはよき焼酎をもやして、夫にて回《まわる》くるま也。ムスコウよりペトル(ペテルスブルグ)日本道二百八十里を、人五百人をのせ、数艘の車を引て一日に行と申也。くるまをシッホク台の上にて回しみせたり、五寸ばかりもあるべし、飛ぶがごとくに回るなり」
アルコールを燃やす汽車の模型だった。
この情報が幕府に伝えられる。もっとも蒸気車がヨーロッパで走りだしていることは、長崎の「風説書」によって幕閣中枢にはすでに届いている。
川路左衛門尉が驚いたのは、それを目のあたりに見た驚きだった。
この同じ模型を佐賀藩精錬方中村|奇輔《きすけ》がつぶさに見、藩主鍋島|斉正《なりまさ》の許しを得て、オランダ語の設計図から製作する。
それを十八歳の、八太郎といっていた大隈重信も見た。
佐賀藩ではこのとき蒸気船の模型も製作している。
佐賀藩はロシア軍艦に乗り込んだ際に見た汽車の模型について、川路よりはよく原理をとらえた観察をしている。
「蒸気車の雛型は、之に熱湯を注入し、アルコホル器に点火し、その沸騰の音起りて、煙突より煙を生ずるに及びて、前に施せる螺旋を捻れば、車両忽ち転じて艦上を回り、而して押へ捻金を捻れば、忽ち止む装置なりき」
この機械そのものへの驚きは、未開人が驚くのと違いはない。
さらにペリー艦隊が二度めに来た嘉永七年一月(一八五四)のときには、汽車の模型を持ってきている。
この模型は大きい。軌間は一尺八寸一分四厘(五五〇ミリ)、機関車の長さ八尺(二四二四ミリ)、横(幅か)五尺(一五一五ミリ)、客車の長さ一丈一尺五寸(三四八五ミリ)、高さ一丈(三〇三〇ミリ)の、立派なものだった。
これを横浜応接所裏の庭に敷設して円を描くレール上を走らせた。
これに日本人の武士が馬乗りに乗ってしまう。
応接掛林大学頭についてきた河田八之助興という人物で、
「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く」
と喜んだ。
そのようすをアメリカ側も記録していた。
「その客車は非常に小さいので、六歳の子供をやつと運び得るだけであつた。けれども日本人は、それに乗らないと承知できなかつた。そして、車のなかに入ることができないので、屋根の上に乗つた。(中略)彼は烈しい好奇心で歯をむいて笑ひながら屋根の端に必死にしがみついてゐたし、汽車が急速力で円周の上を突進するときには、屋根にしがみついてゐる彼の身体が一種の臆病笑ひで、痙攣的に震へるので、汽車の運動するのは何だか、極めて易々と動き突進する小さい機関車の力によると云ふよりも、寧ろ不安げな役人の巨大な動きによつて起るもののやうに想はれたのである」(『日本国有鉄道百年史』「ペルリ提督日本遠征記」)
幕府役人たちは蒸気機関車にはよほど驚いたらしく、汽車を見るために皆さまざまな理由をもうけては、横浜の応接所の裏庭に集まったという。
ペリーの来航は、日本を激しく揺さぶり、こののち、幕末の巨大なうねりが生まれて、西洋列強の文明の力におののきながら、国の構えを大急ぎで近代国家へ変えていくことになる。
しかし、政治の場面では、あれほどに西洋技術文明と、それによって生みだされた西洋の帝国主義を恐れてはいたが、技術そのものに対しては食いつくほどの好奇心を発揮しているのが日本人だった。
ペリー来航によって、日本人のほとんどが腰をぬかすほどに驚いていた一方では、西洋の文物へ目を輝かせている日本人の精神があった。
プチャーチンや、ペリーの来航でただならぬ風雲の到来を予感しながらも、すぐさま蒸気機関車の模型を作ろうとし、作りあげてしまったのは、佐賀藩だけではなかった。薩摩藩、加賀藩、福岡藩がこれを試み、ことごとく完成させてしまっている。
すでに蒸気機関車を読解し、模型を作るまでの知的な集積は、各藩とも、選ばれた一部の人材においては可能だったのである。しかし、その技術は森のように育ったものではなく、鉢植の盆栽のような特殊な技芸の類である。工業力ということでいえばまったく問題にならないし、それが成立している社会で、鉄道事業がどのような交通機能を満たしているかという点になると当時の日本人の想像力はとうてい届きはしなかった。
鉄道事業が産業社会のなかに成立していること、その技術が真似ごとなどでは追いつかない長い歴史のなかで醸成されてきたこと、産業社会の総合力として鉄道が出現し、しかも、経済原則によって運営されていること、そして、そこに容赦ない市場原理が貫徹されており、競争と独占とのあざとい歴史が鉄道のうえを覆っていることなども、封建二百数十年の社会にあっては、理解の及ぶものではなかった。
大隈重信はたしかに、西洋の機械の想像を絶する巧みさ、精密さ、利便さに驚き、しかしながら、日本人がたやすくそれぐらいの機械は作れることを、わずかに誇り得たであろう。
「火を燃やし、蒸気の力で走る」
ということは素早く理解したが、そののち鉄道についての理解が深まったにせよ、イギリスで、一八四四年に起きたゲージ戦争の、鉄道事業における重大な意味をイメージできるようになるのは、さらに歳月を必要としていた。
すでにふれてきたが、レールの幅は、列車の容量を決定する。とりわけ、機関車の容量を決定する。構造上、細長く、うなぎの寝床のような火室を設けられない以上、機関車の車体の幅が火室の容量を決定した。さらには底辺の長さが、重心位置を決定し、このことで、機関車、列車の高さが規定される。
幅が広ければ車体の丈も高くできて容量が増え、機関車の出力が増大し、さらに動輪を大きくすることで速力があがった。
ただし、ゲージを決定する要因は、社会の側からも導かれる。広ければ広いほどいいわけではない。いたずらに軌間が広ければ線路構造物の建設費が高くつく。高くつくがその目安は投下資本の利まわりとしてとらえられる。高価な建設費であっても、利がうわまわれば基本的には問題ではない。
機関車の構造、出力、貨物(旅客)の需要、速達性、安全性、乗心地、あらゆる要素が総合されて、必要にして十分なレールの幅が決められる。
そして、統一の問題がこれに加わる。どの会社も好き勝手に、思い思いのレール幅で汽車を走らせたのでは、互換性がなくなり、社会の統一した輸送装置としては、ロスが大きい。一貫輸送システムとして成立することが鉄道の生命であった。
イギリスの場合、一八四〇年代に軌間の統一をめぐる争いが発生していた。
さきに大隈は、日本に鉄道を敷くに際して、イギリス人技師に軌間の種類を訊き、四フィート八インチ二分の一、三フィート六インチ、三フィートと三種類の軌間を知ったと語ったことをあげたが、これらは、それぞれ、一四三五ミリの標準軌、一〇六七ミリの日本の在来線狭軌、それより狭い工事線、あるいは植民地タイプの軌間である。
が、イギリスで起きたゲージ戦争の場合は、グレイト・ウエスタン鉄道の七フィート四分の一インチ(二一三〇ミリ)という広大な軌間と、標準軌間との間で争われたものだった。
この鉄道は、スチーブンソンの標準軌間鉄道を追う後発の鉄道であった。
議会にはこのころ、標準軌間を規定しようという動きがあったため、建設認可の条項から軌間寸法をはずして認可をとった。
技師長は、イギリスの鉄道黄金時代に異彩を放つイザムード・キングダム・ブルネルである。
ブルネルは、テームズ川の下にトンネルを掘る難工事に挑んだり、凝結式のガス・エンジンの開発を試みたり、大胆な構想による吊り橋の設計、完成を果たすなど、天才肌の技師である。
ブルネルは鉄道という輸送システムを圧倒的な優位に導こうとして、日本の在来線にくらべれば二倍もあるレールを敷き、それへ巨大な機関車を載せ、高速で走らせた。
これが冒頭にふれたイクサイオン号などの広軌鉄道機関車だった。動輪は七フィートもあり、巨人が足を踏んばるように構えて疾走して、一八四五年には最高時速六〇マイル(約九六キロ)を記録した。これに対する四フィート八インチ二分の一、標準軌間の機関車は五三マイルをわずかに越える速度が限界で、機関車性能からいえば、二メートルの幅の広い線路は、完全に有利だった。
ブルネルの軌間の設定は、この当時の機関車構造から考えて、他の輸送手段や、先発鉄道に絶対勝てるという計算から割りだされたものだった。
一方のスチーブンソンの軌間は、経験から引継がれた自然発生的な寸法である。まずはじめに、いつのころからか使われだしたイギリスの荷車の車幅があった。それは誰が決めたわけでもなく使いよさから四フィート八インチ二分の一と定まってきたものであった。
その荷車が産業革命期には炭鉱のなかでも使われ、炭鉱では、荷車を動かすために地面に木の枠を敷いたり、木のレールを敷いたりし、それを人が引き、馬が引き、強いものにするために木のレールのかわりに鋳物の鉄が敷かれていく。この時代がいつともいえないほどに長い。やがてすえつけ型の蒸気機関がロープで炭車を引いたりと、必要に応じてさまざまに工夫が重ねられ、スチーブンソンの蒸気機関車がとうとう鉄のレールのうえを走りだして、実用化の地平線上に登場する。
このとき、ひとりスチーブンソンだけが孤立した天才を発揮したわけではない。むしろあらゆる鉱山や工場や、波止場で、もっと具合のいい輸送手段はできないかと考えられている。スチーブンソンがいなくても、必ず蒸気機関車は実用の地平線上に登場してくるものだった。
こうして、技術が爆発的な発展期を迎え、発展の流れのなかで、レール幅も定まり、スチーブンソン式の鉄道が競争を制して距離を延ばし、鉄道の軌間の、いわば多数派を形成し、こうした大きな流れが標準≠ナあることを認知していき、法が整えられようとする。
したがって、この全過程を対象にして、それに勝つという計算を立て、軌間を設定すれば必ず勝つ。こうした歴史と、それに対する純度を高めた思考によって、二一三〇ミリの広い軌間は悠々とスチーブンソンの鉄道システムを圧した。理の当然だった。
だが、自然な流れのなかで定められてきた慣習的な事柄には、計算では消しきれない現実の重さが、必ずついている。
鉄道の場合でいうと、すでにイギリス中に敷設された線路の幅が一四三五ミリだった。アイルランドでは、同じような過程で五フィート三インチ(一六〇〇ミリ)の鉄道が距離を延ばしていた。
イギリス本土では、標準軌間の延べ距離が一九〇一マイル(三〇五九キロ)、後進の広軌は二七四マイル(四四一キロ)にすぎない(一八四六年現在)。
どちらに合わせるか、という問題意識を政治的に処理しようとすれば、純理論は常に分が悪く、慣習法が必ず現実味をもってたちあらわれる。改築を必要とする線路の距離を比較すれば、短い方を改築して調整することになるのが常識となる。ただし、これに将来性という問題意識を加えると、必ずしも慣習がいいということにはならない。
が、政治的知恵は現状追認が無難であり、形成された秩序になじむように発揮されるのが常であるため、鉄道の場合でも、ブルネルの広軌鉄道は、高い性能でありながら特殊例扱いとなった。
こうして、イギリスでは一八四六年八月に軌間は四フィート八インチ二分の一、アイルランドは同じくすでに敷かれている五フィート三インチと定められることになる。
同時に、ブルネルの広軌鉄道も存続を認められ、また、議会が認めれば標準軌でない鉄道でも敷設できるという含みも残された。
さらに、広軌の線路には、標準軌の車両が乗り入れられるように、もう一本、内側にレールを敷くことが定められる。三線式といい、片方のレールを共有する。軌間の違う鉄道が接続していても、これで相互に乗り入れることができる。
だが、三線を用いるのは、広軌側だけだった。多数派の標準軌の外側にもう一本レールを敷く三線式は用いられない。これは広軌側にとって分が悪かった。自分の線路には標準軌列車が乗り入れるが、相手側へ乗り入れることができないわけである。
こうして、バトル・オブ・ザ・ゲージの法的な決着がついた。どのような分野でも、標準規格を法的に設定する場合には、現状論と純理論が以上のようにせめぎあう。その過程には、その社会の風土性のようなものが色濃く影を落とすのである。
高性能な広軌鉄道は、こののちも、次々に成果をあげた。むしろ、この法決定以後も続けられた競争のほうがバトル・オブ・ザ・ゲージであった。
八フィートの大動輪を有するアイアン・デューク号が、時速七〇マイル近い速度を誇り、グレイト・ウエスタン鉄道はイギリス人の誇りであった。十九世紀の鉄道技術の成果ということができる鉄道だったのである。
この高性能鉄道が、広軌の有利さの技術的な立証にもかかわらず、規格統一の場面で敗れた理由には、経済が大きく作用している。第一にはさきにあげた改築費の問題であり、もうひとつは荷主たちの事情である。
イギリスの場合、荷主の多くは自前の貨車を保有するのが常だった。この貨車の改造を荷主たちが嫌ったことも大きい。
なぜ荷主たちが貨車を保有していたか、ということでは、やはり歴史が横たわっている。
鉄道時代の前に、イギリスでは内陸へ通じる運河の時代がある。運河を開くことが可能な地勢の場所ではどこでもよく発達していた。場合によっては、谷を渡る高架の運河も作られている。地主、多くは貴族たちは、自分の地所に運河を開き、通行料をとった。荷主たちの船は自前であった。この交通慣習の方式が初期の鉄道にもち込まれ、鉄道が有料道路のように使用された時期があった。
荷主は列車を自前で持ち、鉄道会社に線路の使用料を払った。これから列車運転の信託が発生し、さらに運転管理が発生して、鉄道事業の骨格が改められ、統一された運転管理システムができあがってくる。
その過程で貨車を荷主側が自前で保有する慣習が残った。これはやがて、イギリス鉄道の病根として残ってしまう。貨車に金をかけることを荷主たちが本能的に嫌って、真空ブレーキも、空気ブレーキも、自動連結器の装着も行われず、イギリスの貨物列車の技術的発達を遅らせたのであった。イギリスの貨物列車は、何よりも制動装置の開発が遅れたために速度があがらず、一九四八年の国有化のころまで時速五〇キロを出なかった。
華々しく産業革命を遂行しているイギリスにおいても、その発展過程のなかから、負の財産が生み落とされ、社会の動きをにぶくする残渣《ざんさ》のようなものがあちこちにこびりつくのであった。
科学技術が革新的に変容しようとする作用が風土と化学反応して、負の反応物が残渣となるかのようである。社会が革新を遂げようとするときには、この反応物も大量に生みだされるのが、常なのであろう。
さて、日本では――、
「ゲージとは何ぞや?」
と口に出すこともできずに、後発国の会計担当官大蔵大輔であった大隈重信が、その意味をからめ手からうかがったとき、鉄道にとってのゲージの意味の重さを計りかねたのは無理もなかった。
西洋先進諸国の産業社会の懐の深さ、歴史の長さ、知の体系の壮大な伽藍をつぶさに見通すことができた者は、この時代、ほとんどいないといっていい。西洋技術文明の土台の深さ、基礎的な原理をたゆまず発見して積みあげ、宇宙を貫く公理に精錬していく科学的方法の偉大さを、骨身にしみて感得した日本の知性はごくごくわずかだった。
しかも、その文明は、同時に日本を呑み込みかねない構えを見せてたちあらわれていた。
鉄道もその脅威のなかにあった。
西洋産業社会の奥行の深さについて想像力が届かないにしろ、日本人はそれを目撃し、さまざまに反応した。
鉄道に対面した驚きが詩となることもあった。
山落|纔《わず》かに過ぐれば倏《たちま》ち水村
火輪宛転して黒烟を噴く
人間の快事擬するに堪ふる無し
百里の長程転瞬に奔《はし》る
山落纔過倏水村
火輪宛転黒烟噴
人間快事無堪擬
百里長程転瞬奔
福井藩士橋本左内の作である。
「人間快事無堪擬」
(この汽車というものを、自然物の何に擬せようか、これはまったく人間のみの為しおおせ得る快事じゃないのかね)
「百里長程転瞬奔」
(だって、百里だろうが二百里だろうが、この汽車ってものは、あっという間に走ってしまうのだぜ、いや、驚き入った代物だ)
橋本左内は右の詩を安政のころに詠んだ。
西洋の脅威を知りながら、西洋の創りだしたものを讃えている。
この率直な驚き、感動は技術発達を前へ進める力に通じるもの、いや源泉であろう。
人類が火を知ってからの、気の遠くなる歳月の果てに、ついに火の熱エネルギーを運動に転化し得た知恵への感動、こうした人類の到達点への率直な感動を、西洋文明の果実に感得し、その感動を力として率直に、謙虚に学ばうとする精神が豊かであればあるほど、西洋が生みだした合理精神は日本へ、よく滲みこむことになる。
先に進んでいる思考、そこから生まれた文物を率直に讃えられる精神は強い。
が、ときに人はそれができない。
他人のなし得た成果がしゃくにさわり、ケチをつけたくなるのも人間の性である。
西洋と対面した日本人のなかにも、この心理的な反応が起きた。
ロシア使節プチャーチンの来航の翌年、薩摩藩は、医師、蘭学者の川本幸民の口述訳になる、
『遠西奇器術』
を出版している。
内容は、写真機、電信機、蒸気機関、蒸気船、汽車などについての紹介である。
編者の田中綱紀は、これらを利便だと認めながら、
「奇技淫巧」
と評した。
あやしげなたくらみだというのである。
「便利さは認めるが、この技術を生んでいる精神、志はうさんくさく、人倫に照らせばこしゃくで品位の高いものとは申せまい」
といった批判がこの「奇技淫巧」の四文字にこめられていよう。
奇には本道からはずれた意味があり、漢籍には「奇技淫巧を以て婦人を悦ばす」という成語がある。女や子どもをたぶらかし、悦ばせるからくりのたぐいをさす。
「利便を追うは、労を厭う横着に通じる。精緻な技巧とはいえ、志は低い。範とすべからず」
とこうした批判が転がればもはや一つの思想となるものだった。そして、新奇なる試みが長い間封じ込められ、刑死をあびるほどの悪であった世の中の底には、こうした心情がたっぷりとたたえられてしまうことになる。
そして、開国か攘夷かと大揺れに揺れ、激動した幕末史を経て明治維新を迎え、文明開化が進んでいく。
西洋技術文明を、
「人間快事」
とするか、
「奇技淫巧」
とするかのふたつの態度は、
「和魂洋才」
というスローガンで、ひとつにとけあったかに見えた。
しかし、少なくとも鉄道史では、そううまくは解消されなかった。
島安次郎や、鉄道技術者たちが、線路の幅を広げようとするたびに、地底から湧き立つように、
「奇技淫巧なり」
という声があがり、技術の発達をおさえ込む心情的な根拠になったかのように見える。
この声は、時代がめぐるたびに、そのときどきの人々の姿をとってあらわれるらしい。
工学士の悲哀
島は官営鉄道に対抗する手段を着々と整備しつつあった。
このころの関西鉄道の給与について記録は定かではないが、官営鉄道の課長職は年棒千円を越える高給を得ていた。
これから推測して、民営鉄道の技術統括職は、これと同等か、やや下まわる給与であったろう。
労賃が一日、三十銭から五十銭のころ、帝国大学工科大学出身の学士は手厚く遇されていた。
関西鉄道は明治二十一年、前島密を創業社長に招いて創立されている。
したがって、現場従事員の経験年数は、「早風」を改造したこのころでも、およそ十二年である。
どうにか汽車というものが身についたころだった。
ところが汽車課長は、普通に走っている車両に対して、
「これをなおす」
ということが多かった。
四日市工場の職工たちは首をひねる。
(ちゃんと走っとるがなも、仕事がふえるでよ)
内心そう思う。
汽車課長は二軸固定軸距の客車を工場内に押して運ばせていった。
「この車両は、弾機《ばね》の強さがまちまちです。走行中に変な動きをするはずですので、ばね、すなわちスプリングの強さを調整する必要があります」
職工のなかに、ははあんという顔もあった。
(汽車に酔うたり、酔わなんだりするのは弾機のせいかも知れん)
酔うだけではなかった。
弾機の強度がばらついていたのでは、高速走行が不可能であり、そのまま片荷のように車両が傾き、脱線の原因にもなる。
弾機を調べていくと、どの車両も多かれ少なかればらついている。
これではいくら線路を整備しても揺れが起きるはずであった。揺れの原因はできるだけとりのぞく。
島汽車課長は、こうして不断の改良を重ねていく。
事故もよく起きる。
関西鉄道がピンチ式ガス灯を装備して、東海道線との競争を有利に進めようとした矢先、衝突事故が起きてしまった。
ピンチ式ガス灯が輝いた二ヵ月後の四月である。
「去る六日、午後四時十五分関西鉄道亀山発奈良行の列車(客車二両、貨車四両連結)が加茂駅を発して奈良へ向ひ進行の途中字梅谷の山腹(山城大和の国境附近)勾配急(四十分の一=一〇〇〇分の二五・筆者注)なる所へ差掛りたりしに汽鑵不良のため俄かに運転止まりしに……」(『鉄道時報』明治三十四年四月十三日付)
そのまま立往生したところを見ると水を使いきったか、走り装置の発熱で焼きついたか。
亀山から救援の機関車が出発した。ところがこの機関車が、救援どころか、勢いあまって立往生の列車に追突してしまった。
「曲り角にて充分前途の見えざりし為にや、技手誤まつて進み過ぎ、アワヤといふ間に前方に停止せる列車の後部を衝きしかば、何かは以て堪るべき、貨車一両は微塵となつて飛散り……」
(同前)
最新式の真空ブレーキであっても、そして、機関車一両で制動が効くような場合でも、このころの汽車はいまよりもいっそうすぐには停止できなかった。
小さな事故はよく起きていた。この衝突事故の一ヵ月前には、湊町駅構内で発車したばかりの名古屋行普通列車がポイントで脱線し、客車二両が転覆し、乗客二名が負傷している。
鉄道の現場技術はまだ不安定だった。機械を扱う文化、民度のようなものが、汽車課長を悩ませている。
鉄のかたまりである蒸気機関車がどんなものであるか、二本のレールのうえを走行する場合に、どのような運動を描くのか、三〇トンもの重量の機械が走行したときの力がどれほど巨大なものか、生理感覚としての目分量がばらついて、初歩的な事故を生む恐れが現場に埋もれていた。
鉄道の現場に働く者に私語が多かった。というよりも、何かを叫びあいながら客を扱い、荷物を積み込み、連結作業を行って、活気があるというか、駅そのものがにぎやかで祭りのように人々は声を発して仕事をする。
欧米の鉄道事業を視察した人物がそのことを逆にあぶりだす感想をのべている。
「第一感心したのは(欧米では)仕事の時間中日本人のやうに八釜敷《やかましく》発声する様などは一切ない。其静かなること実に驚く計りである。ツマリ言ふ必要が無いのである。其自分が当然為すべき仕事をチヤンと心得て居るのであるから」
日本人は組織のなかでの身振りがまだなじまずに混乱しているのかも知れなかった。町内の会合や、魚市場の声のかけ合いのような身振り、気の使い方を、駅員たちがやりあい、しきりに気をもみ、同じことをいいあい、どこか必死で、劇的な雰囲気を毎回生みだしたのち、汽車が発車していく。
鉄道従事員も、乗客も、あるいは経営者も、胸の奥深いところでは、汽車の出現そのものにまだ驚いているか、その余韻のなかにいた。
汽車課長は、事故発生のたびに、その原因を調査してはそれをとりのぞかねばならない。
四日市工場は、国有化後に国鉄名古屋工場となるが、まだこのころ、工作機械も十分ではなく、さらにそこに働く人々の職業教育のことまで考えなければならず、考えだせばきりのない仕事にとりかこまれている。
しかも、前にもふれたように関西鉄道はつい先年までは、保有する線がすべて競争下にあった。
それが島汽車課長の職務を厳しいものにしていた。
明治政府は鉄道の並行線を認可しない方針であった。だが、この政府方針をかいくぐり、関西鉄道は、既設鉄道を買収することで線路をのばし、名古屋と大阪を結びつけることに成功しためずらしい会社だった。
関西鉄道汽車課長の立場を知るために、この過程をざっと眺めてみる。
官営東海道線の全通は明治二十二年である。
関西鉄道の創業時の線区は、草津―三雲間で、開業は同じく明治二十二年。それから翌二十三年に四日市まで、二十八年名古屋へと線路が延長され、このときに官営鉄道と競争下に入る。
さらに、柘植から大阪をめざして線路をのばし、加茂へ至るのが明治三十年である。翌三十一年、浪速鉄道を買収して、大阪市片町から四条畷《しじようなわて》までの線区を確保。次に四条畷から奈良県木津までの敷設免許をもっていた城河鉄道を買収して工事をはじめ、ついに生駒山の北回りルートで片町までの線区を手中にする。
関西鉄道は片町駅が狭いので、綱島を大阪市内の起点駅とするが、これは市街から遠すぎて成績がよくなかった。その起点駅のまま、そのころ生駒山の南回りルートで奈良までの線区を営業していた大阪鉄道と競争し、かなり苦しむ。
名古屋から草津、名古屋から大阪と並行し、そのうえ、大阪から奈良へも競争線がある鉄道は四方に敵を受けたようなものだった。
それを脱するために明治三十三年五月、関西鉄道は大阪鉄道を買収する。
この競争下での技術統括職が、関西鉄道の汽車課長なのだった。
はじめから競争を意識して取組む汽車課長は日本では島安次郎だけだったかも知れない。
ちなみに、山陽鉄道は瀬戸内海航路と競争し、馬関(下関)へ線路が開通するまでは前のめりになってサービス向上につとめた。
山陽鉄道は次々に新しい手を打っていく。
明治二十一年に兵庫と明石を結んで開業した山陽鉄道は、馬関へのびる明治三十四年まで日本で最も意欲的な鉄道会社とさえいえた。
明治二十七年に広島まで開通すると、日清戦争下ではあったが急行を走らせた。本邦初の長距離急行である。しかも、瀬戸内海汽船との対抗上急行料金をとらなかった。
山陽鉄道株式会社は資金不足に悩み続け、馬関までなかなか線路が延びない。その間三十一年には車内灯を電化し、三十二年に急行列車に日本初の食堂車を連結する。
三十三年に一等寝台車を投入し、三十四年にようやく馬関へ達すると「最急行」列車を走らせ、表定速度四一・八キロで官鉄の三六キロの急行を抜き去った。
この間に乗心地のいい三軸ボギー車を投入したり、アメリカ製機関車を投入したりと、そのサービス向上志向は語り草ではあるが、資金不足から来る線路の悪さが背景にあって、線路が悪くてもタフに走行するアメリカ機関車や、同じく、荒れた線路でも乗心地をやわらげる三軸ボギー車を使ったのだった。
いわば表面は華やかなサービスだが、かなり苦肉の策という面もあった。自慢の最急行などは大揺れに揺れ、客はみな青ざめ、機関士はさらし木綿を腹に巻いて乗務していた。
このころ、九州鉄道社長だった仙石貢《せんごくみつぐ》(のちの鉄道院総裁、満鉄総裁、貴族院議員)などは、脱線を恐れて山陽鉄道には乗らず船を使ったという。
山陽鉄道の場合は、線路が馬関まで延びれば汽船との勝負はその日で決着がつく。それははっきりしていた。だが、資金難で悪戦を強いられ、やがて勝つ競争の途中で、予想外の苦戦となったものだった。
事実、明治三十六年、西は馬関、東は神戸から大阪の官鉄東海道線に接続するダイヤ改正をした時点で、鉄道は完全に船に勝ち、激しい競争は終幕となった。
それにくらべて関西鉄道と官営東海道線との競争は、これからもいよいよ本格化し、いつ終るかわからないのである。無限に続く競争の下での汽車課長は、やはり、日本では島安次郎たった一人であったろう。
島汽車課長がピンチ式ガス灯の装備に本格的にとり組むため、湊町駅へむかうひと月ほど前、関西鉄道は次のような社告を打って官営東海道線へ果し状をつきつけている。
関西鉄道 大阪名古屋間近道
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○九月一日全線時刻変更と同時に湊町(大坂《ママ》)名古屋間を本線とし加茂綱島間を支線と定む
○本線には日々双方より五回宛の直行列車を発し列車付「ボーイ」及行商人(弁当、すし、和洋酒類、烟草、菓子等を鬻《ひさ》ぐ)を乗込ましむ
○右の内双方より各一回宛の準急行列車を発し急行列車は僅々五時間以内にして達す
○当社線大坂名古屋間双方よりの賃金は片道及往復共官線に比して余程低廉なり往復は切手通用十日間にて平常三割引
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日本鉄道史でただひとつ運賃値引競争の泥沼となる、民鉄と官鉄の戦争はこのとき、すでにくすぶっていたのだった。
島汽車課長は、値引き競争には反対だった。
並行線の競争は、設備、安全、速度、サービスで行われるべきであり、値引き競争に落ち込んだ場合、悲惨な結末になるのは、どこの国の鉄道史も教えるところである。
機会があるたびに島安次郎は経営者、株主たちに、そのことを話してきた。
明治三十一年から三十三年まで社長だった田《でん》健治郎は、よくそのことを理解し、無謀な値引き競争をしていない。
田健治郎は安政二年(一八五五)丹後の生まれで、漢学、英語を学び、等外三等出仕という身分から官職につき、めきめき頭角を現わして、愛知、高知、神奈川各県の警務部長を務めた人物であった。転じて逓信省書記官、さらに日清戦争では軍事輸送を担当し、逓信次官兼鉄道局長を経ている。
大学での教育こそ受けていないが、自分でとらえた合理精神は島も内心舌を巻くほどであり、胆力も自然にあふれ、大阪鉄道の買収をまとめあげたのは、田健治郎の胆力だといわれていた。
こののち田健治郎は、日露戦争時に逓信次官を再びつとめ、貴族院議員、台湾総督、農商務大臣兼司法大臣、男爵、枢密顧問官と栄進する。
関西鉄道社長に就任したのは、第三次伊藤内閣が総辞職し、憲政党を中心とする大隈重信内閣が成立したためである。
下野した田健治郎は、|雨宿り《ヽヽヽ》として関西鉄道社長に就任していた。
明治三十三年の師走もおしせまったころ、島は四日市の関西鉄道本社社長室で田と会っている。
田が四日市の本社に来るのはめずらしい。
その機会に、ピンチ式ガス灯導入の見通しを報告しておくつもりだった。
田はこのとき四十六歳である。
社長室の田は、西日を背に受けて執務机についていた。
石炭ストーブが赤熱するほどに焚かれており、田は上着を脱いでいた。体つきは、筋肉質である。膂力《りよりよく》の強そうな、武人のような姿勢だった。髭がよく似あう顔である。
島は侍の残り香を漂わせる人物が、やや苦手だった。田にはそれが強い。警務部長の経歴を重ねたので、かすかに威圧的なきつい視線も見せる。
若い島は緊張していった。
「おかげさまで、車載ガス灯は順調に進んでおります」
「そうですか、島君の仕事は、周到だから」
田健次郎は、島に対してはっきりした敬意を示した。
田は関西鉄道にやって来ると島の才質をすぐに見てとった。
この汽車課長の考える計画は、木が枝をのばしていくように組み立てられており、いまなすべき仕事の成果が、次々に将来の見通しを確実にし、それが無理なく流れるように並んで、無駄がなかった。小さな仕事の芽が、五年後には結実し、その成果を使えばさらに仕事がやりやすくなり、鉄道は見ちがえるばかりに脱皮して立派になっていくことがよくわかった。
ガス灯導入の計画では、石油ランプよりも安い経費が精密に計算され、そこで生まれた利益を積み立てておけば、その資金だけで、電気への切りかえができるのである。
逓信省の行政官の経験でいうと、エンジニール(エンジニア)にはめずらしく、経済の観念が、あらゆる技術的改良策に裏打ちされていた。いままでのところそういう工学士は少なかった。
(この才質、邦家に欲しい)
この時代の高級官吏らしく、田は島安次郎を国家に有用なる人材と見た。
鉄道局長に就任して半年で退官せざるを得なかった田は、島のような人材と出逢うと、鉄道事業を進めたいという欲をおさえがたくなる。
ドアをノックして給仕が茶を運んできた。
「いや、失敬、島君そこへ」
と田は自分も応接セットへ移った。
給仕が田の次男、誠が訪ねてきていることを告げた。
「待つように」
といった田は、
「いや、ここへ呼んで来なさい」
といいなおした。
帽子を手にして入ってきた誠はいがぐり頭をていねいに下げ、
「失礼いたします。誠と申します」
と島に挨拶した。
まだ小学生の少年である。
田があらたまった口調でいった。
「このおじさんはね、島さんとおっしゃる偉い技師さんだよ」
もう一度、誠はていねいに礼をした。
「さ、行って、待っていなさい」
親子のやりとりの間で「島です」と返礼した言葉が変な具合に部屋に浮かんだままであった。
誠はもう一度頭を下げ、まわれ右をして、社長室を出ていった。
島を前に、元警務部長はわずかに照れていた。息子を前にした父親の困った顔でもない。
(そうか、私をほめたのか)
と島はこのやりとりの真意を知り、笑みをかみ殺した。
「私は、やめますよ」
表情から微妙な照れが消えると田はいった。
二人は無言のまま茶をすすっている。
大阪鉄道の買収によって株主の構成が変化し、間もなく総会が開かれることになっている。新たに参加してきた株主たちは田健治郎ではない社長を戴きたいらしい。
「君も、やめませんか」
と田は静かにいう。
島は、話題の急変に驚き、黙っていた。
「鉄道は国有で統一されなければなりません。そして、いまのうちに広軌に改築しなければなりません。陸軍参謀部の大沢界雄君が、外遊より帰朝したところ、御意見を変え、狭軌でよいとの御説を吹聴しているらしい。明治二十五年には、広軌改築の声もあがったが、もうひとつ腰がすわらない。これは、国家の一大事です。君は、ここの鉄道ではすでになすべき事をなした。次は、ひとつ、邦家にその力をつくすべきではありませんか、そうしたまえ」
島は、「早風」を想った。あの静かな駿速機関車がかわいい。不意にやめよといわれれば関西鉄道の機関車に未練を感じる。
田は、姿勢を正すと、誠意をこめ、
「君が才質は帝国の財なり」
といった。
このことだけをいって、逓信省に送り込もうとしたのは、田の耳に、島についてつまらぬ声が届いているからである。
もともと故障でもない機関車をいじって金を食いすぎるという株主がいた。
「高い買物や、いじらんと、そうっと使うとったらええのとちがいますか。どこの鉄道でもそうしとりますがな」
という声があり、ピンチ式ガス灯についても、
「ランプでよろしいがな」
とさえいう声が流れているらしい。
そこからさらに、運転や建築の技術職の給与についても算盤を入れなおすべきだという声がちらつきだしていた。
(いいかげん慣れて鉄道を覚えたのだから、そろそろ若いものでやらしたらいい)
という考えが起きだしていた。
田はそうした声を島が聞く前に、逓信省への転進を勧めたのだった。
島も、株主たちの気配を知らぬわけではなかった。
が、このときは、
「もうしばらく、時間をください、考えます」
と答えて社長室を辞した。
その半年後、明治三十四年五月、つまり、ピンチ式ガス灯の技術問題がすべて解決した時点で、島は関西鉄道会社を退職し、逓信省技師となった。
このときすでに田健治郎は社長をやめている。
明治三十四年三月、株主総会で鶴原定吉が社長に就任した。このとき、関西鉄道の株主は大幅に入れかわった。
この経営陣によって、やがて関西鉄道は無茶苦茶な値引き競争をはじめることになる。
島安次郎が退社する際に、関西鉄道の技術職がそろって退社した。
運転課長西岡恒之進、運輸課調査係主任信沢泉三郎、建築課建築物係主任浜田友五郎、建築課事務係主任天笠義作ら五名を数えている。
この大量の技術職の退社については明治三十五年九月の『鉄道時報』に南清の名で事情を推測する談話が載っていた。
南清は、工学博士、鉄道草創期の英雄的技師の一人で、東海道線、高崎線、碓氷線などの建設に従事し、山陽鉄道の技師長を経て、この時期には、大阪に鉄道工務所を興していた。
現代のいい方でいうと鉄道に関する総合コンサルタントを業務とする会社だった。
島の退職の事情は、その仕事に心血を注いだ汽車課長にしては悲しい色あいをたたえている。
南清の談話は、関鉄と官鉄の第一次値引競争直後のものである。
南清は鉄道の値引競争を、
「野蛮時代のやり方」
と嗤《わら》い、それをやる関西鉄道の体質について、
「関西となると、トテモ我々には批評の仕やうもない。自分たちが金をだして拵《こしら》へた鉄道だから黒人《くろうと》(玄人・筆者注)を入れるのは無用だと云ふので、常務者(社員・筆者注)の給料を倹約したり、ネギツタリする方針だからネ、何千万といふ資本の鉄道がサー、何にもせよ素人でも自分で遣《や》ると云ふ親切家が寄つて居るのだから我々には何とも、批評も、想像も及ばないと云ふの外《ほか》無いサ、言語道断? 兎《と》に角、マー手品師や、芸人|抔《など》を入れたりするのが適当なんだらうハハハ」
島安次郎の仕事は経営者たちに評価されてはいないらしい。
が、島はこの立場にあって限界まで自分の職責を果たしたのである。
島が去った一年後、関西鉄道は、まず明治三十五年八月に値引き競争を開始する。
名古屋から大阪までの官営鉄道の運賃は、往復割引で一等六円八十六銭、二等四円、三等二円三十銭である。
これに対して関西鉄道は、奈良鉄道、近江鉄道と連合して、名古屋から湊町まで一等四円、二等三円、三等二円とした。
その六日後、官営鉄道が応戦して、一等五円、二等三円、三等一円五十銭に値引く。利用客の多い三等運賃を関西鉄道より安くした。
二日後、関西はならじと、一等をすえおき、二等二円五十銭、三等一円五十銭とした。
このまま九月末まで両者やせがまんをするが、ついに九月二十五日から関西鉄道は交渉に動きだし、複雑な計算ののち、十一月、官営鉄道は名古屋―大阪間を三等一円七十七銭にし、関西鉄道は名古屋―天王寺間を同額の一円七十七銭にそろえて手打ちになる。一等、二等運賃は、官営側は現行の五円、三円にすえおく。関西鉄道側は、二等を三等の五割増し、すなわち二円六十五銭五厘、一等を三等の二倍、すなわち三円五十四銭とした。
関西鉄道側が安値を得て、妥結したことになる。
ただし、この協定は三十日前に予告すれば解約できる。
こうして第一次値引き戦争は幕となった。
翌三十六年に、大阪市天王寺で第五回内国勧業博覧会が開かれる。
関西鉄道側は、この博覧会で、お客がたくさん来るというのに、値引き競争で利を逃がすのは損と踏んで、いったん停戦したのだった。
三十六年七月に博覧会は閉会となる。
その三ヵ月後の十月十九日、関西鉄道はまたまた値引き戦争をしかけた。
関西鉄道側は理屈をこねた。
「三等一円七十七銭の料金を、官鉄線の里程で計算すると、一マイルあたり一銭四厘五毛となる。関西鉄道線路は、名古屋―湊町間は官鉄より短い。右の一マイルあたり運賃で計算すれば、一円五十六銭になる。したがって、里程運賃どおりの一円五十六銭とするのは、協定を破るものではないので、あしからず」
が、官営鉄道はこのいい分を認めず、あとは泥沼となっていった。
おたがいにバナナの安売りのように値を下げていって、翌三十七年一月に関西鉄道は、一等二円、二等一円五十銭、三等一円十銭とした。
もっとすごいのは往復割引きで、往復だというのに一等二円五十銭、二等一円八十銭、三等一円二十銭、十日間通用とした。しかも、弁当つき。
国家を相手に私営鉄道がどのような勝算を考えたのか、あまりにもの哀しい安売り合戦は、にわかに戦雲急を告げだす日露戦争直前まで続き、やっと止むのである。
この間、駿速機「早風」も、ピンチ式ガス灯も無謀な値引き競争の道具におとしめられる。
島は逓信省技師となり、この間、日本各地の私営鉄道を監察し、指導する仕事についていた。
島は苦笑して、わが青春の古巣の悲喜劇を眺めていたのだろうか。
いや、島安次郎はこのときも自分のなすべきことを続けていた。
明治三十五年十二月号の『機械学会誌』に、ピンチ式ガス灯についての論文を発表している。
「車内の明かりなど、ランプでええがな」
という声に対する渾身の返答であった。
いや、ただ単に、欲ぼけした株主や、経営者への反論ではなかった。
技術改良とはどのようなものかを示す論文である。
論文は先進列国での車載ガス灯の普及率をあげ、ヨーロッパ地域で六割八分二厘という数字を示した。
ガス灯の明るさを、さまざまな壁の色彩の反射率を調べたうえで、
「五十人乗三等客車に、八燭光ランプ二個」
で光量は十分とする。
次にコスト計算。この装置に一万五千円の総経費がかかり、ガス一立方フィートあたり五円とはじきだす。
これを国際比較し、まずまずの成績であることを証明する。
さらにランプ一灯についての経費が算出され、一灯一時間あたり一銭三厘の計算過程を示して石油ランプと比較する。
しかもそれは直接費との比較である。
「石油ランプの照明費一灯一時間あたり一銭三厘五毛」
これが現行照明装置で一番安い。
それにくらべてピンチ式ガス灯は五毛安いわけである。
しかも、
「三倍以上の光力を発揮する」
と慎重な考察ののちに証明する。
島安次郎は、結論として、列車の照明に電灯がもっとも将来性があるとは認めつつ、
「未だ満足なるものの発明せられたるなきを遺憾とす」
と現時点での限界を指摘し、さきにふれたように、いまピンチ式ガス灯を使い、節約した費用を積み立てれば、将来、確実にやってくる電灯への転換費を生みだせると主張した。
結語は次のように述べられている。
「今や運輸の増加に伴ひ各般の設備は日々に改良せらるるに当り、客車の灯光のみ独り現今の如き不十分なるもののみを以て満足し得べきに非ず。世論が其不足を訴ふるに至るの日|蓋《けだ》し遠きに非ざる可し。若し漫《みだ》りに将来に望みを嘱《しよく》するの極反《きわみかえつ》て現今を思はざるに至りては事の軽重を誤ること甚しきものと謂うべし」
言及していることは車内照明である。
しかし、技術発展の連続性、過去、現在、未来の三時制の流れに対する技術者の思想がみごとに表明されていた。
このピンチ式ガス灯の論文は、そのまま島安次郎の人生を貫く思想の記述であった。
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第二章 鉄路五〇〇〇マイル
ドイツへ
お台場が黒くかすんでいる。
梅雨のころには大気が湿り気を帯びて、沖のささやかな海上要塞をぼんやりした影にしてしまう。
西へ視線をめぐらしていくと、鉄道の築堤が、海上はるかにのびていた。
このふたつの、幕末から明治のはじめにかけての構築物は、日本人の混乱を物語っていた。
黒船を打ち払おうとしていながら、砲撃を受ければひとたまりもない海上に鉄道を敷設するという不思議な混乱だった。
それは島安次郎の父の時代の足あとだった。
日本ではじめての鉄道を建設するにあたり、当然、陸上に線路を敷設しようとした。
だが、海軍用地が続き、海軍は鉄道のための用地提供を拒み、線路は海のうえを行くことになったのである。
逓信省技師となった島安次郎は、この海を眺めて暮らすことになった。
新居は芝新網町、のちに海岸に近い金杉新浜町に転居する。
このあたりは三井の不動産部が開発した新興住宅地だった。三井の貸家村といわれたところで、埋立地に真新しい家が並んでいた。
が、島はゆっくりと新しい生活を築いてはいられなかった。
この時期の島安次郎は、しきりに出張を命じられている。
「逓信省技師である島安次郎氏は左記の鉄道線路に出張を命ぜられたり」
島安次郎の動向を示す二行ほどの記事が『鉄道時報』に、わずかな間を置いて載っている。鉄道人の動向を報じる「消息」の欄に、島安次郎の名は、ほかの鉄道人の名前に並んで忙がしさを示していた。
左記の鉄道線とは甲武鉄道、日本鉄道、九州鉄道と、ほぼ全国に及んでいる。
少しは落ち着きたかったに違いない。
芝浦の海に近い新居には、妻と長男の秀雄が待っていた。
島安次郎は明治三十三年に結婚した。
妻は順、日本郵船大阪支店長原田金之祐の次女である。
長男の秀雄は、安次郎が関西鉄道を退社することを決心したころ、明治三十四年五月二十日に、大阪の順の実家で生まれた。
ゆっくりと長男の顔を見る時間もなく、島は駈け歩いている。
仕事の内容は、鉄道の国有化を予定した調査だった。そのために田《でん》健治郎は島を逓信《ていしん》省に入れたのだから、忙がしいのは仕方がなかった。
このころ、官営鉄道は逓信省の管轄で、逓信省鉄道局は、新橋駅に隣設した構内、つまり現在の汐留にあった。
このあたりには鉄道の施設が並び、鉄道官舎も多かった。鉄道村と土地の人は呼んだ。
久しぶりの休日、若い夫婦は海の見える道を散歩しただろう。長男の秀雄を抱いて歩く逓信省技師一家を想像すると、忙がしかったこの人物のわずかなくつろぎの光景になる。
埋め立てた土地だったが、芝離宮、浜離宮の緑が水面に映え、浅い海は澄みきっていた。
沖のお台場は過去であった。そして、海上にのびる線路は現在であり、妻に抱かれて眠るわが子は未来だった。
(この子の時代、鉄道はどうだろうか)
島安次郎は考える。
(はたして鉄道はすこやかに育っているか)
島の胸は、決しておだやかなものではなかったはずである。
鉄道にはなさなければならないことが山積していた。
それを考えすぎると胸苦しく、焦りを覚える。
各地の鉄道を査察している島の前に、乱脈な、といっていい鉄道の現実が見えているのだった。
連結器を見ただけでも、鉄道統一後の仕事が容易ではないことが露わになっていた。
各社まちまちの形式の連結器が用いられていた。
もちろん、フックで連結し、緩衝器で受ける方式は同じで、異なる形式でも連結は可能だった。だが、厳密にいうと、連結器の形式の違いは列車走行と安全に影響し、さらに修理の際の部品がばらつき、大きな不経済のもとになる。
(なぜ規格化しなかったのか)
と思う。
が、それが歴史であった。
(規格統一はこれからやるしかない)
と島は思う。
のち、島は鉄道国有化後の山のような仕事のうちで、連結器に対しても徹底的に調査し、統計をとり、改造計画をたて、規格を統一し、自ら標準連結器を設計している。
この仕事は『帝国鉄道協会誌』に論文として発表された。
(さらに機関車)
と考えると、胸苦しさは怒りに変ろうとする。
この時代、私営鉄道は三十八社、その各社がそれぞれに機関車を購入していた。
(百二、三十機種をこえていよう、混乱の極《きわみ》)
と思うと足がとまってしまうのだった。
妻が声をかけた。
「秀雄が目を覚ましました」
のぞき込むと、むずかりもしないで、くるりくるりと瞳をめぐらしていた。
「汽車がうつります」
と妻が笑顔でいった。
「うつる?」
「また、汽車のことをお考えでしたでしょう。だから、この子にうつってしまいます」
島は微笑した。
「そうか、うつるか」
とつぶやき、
「親子二代なら、なんとかなるかも知れない」
と真顔でいった。
遠く汽笛が鳴った。
築堤を列車が驀進してくる。
「ほら、ほら、ほら」
と若い母親は、子に汽車を見せた。
安次郎は秀雄を抱きとり、やってくる汽車を見せていった。
「さあ、汽車をやりなさい。大きくなったら日本の鉄道を世界一にせよ」
声が大きく、秀雄は泣きだした。
「いやですって」
と順が笑った。
「そうか、いやなら」
と安次郎はくるりと振りむいて海を見せ、
「船をやるか」
といった。
秀雄はいっそう激しく泣いた。
子を母親に返しながら、父親はうろたえていった。
「いや、いい、己れの志が立つのなら、何をしてもいい」
順はたまらなくなって声をあげて笑った。
三井の貸家村は、やがて芝浦製作所の拡張でとりこわされ、高輪《たかなわ》南町に転居し、この家で生涯の大半を過すことになる。
逓信省技師となってからの二年間は、出張査察で費やされている。島はこの期間で、日本の鉄道の実状を正確にとらえたわけである。
この間、鉄道国有策は、それほど進展しなかった。
鉄道を国有化して統一するという説は、軍部はもとより、常にいわれているものだったがその契機がつかめずにのびのびになっているのである。
鉄道の国有化へむけて働いているものの有力な人物の一人が田健治郎である。
明治三十三年には、折からの不況もあって、九州鉄道、山陽鉄道、甲武鉄道、自分が社長となっている関西鉄道、北海道炭礦鉄道などの経営陣をまとめて第十回帝国議会に「鉄道国有法案」を提出している。
しかし、可決されなかった。
田健治郎は明治二十九年、ハンガリーで開催された万国電信会議に代表として出席した際に欧州各国を視察し、プロイセン国有鉄道の整然とした運営を知って、鉄道国有の自説をいよいよ確信することになった。
国有の成功例をドイツ国有鉄道で見届け、失敗例をイタリアに見たのだった。
ことは急ぐべきであった。
ロシアが南下を続け、にわかに情勢はけわしくなりつつある。
明治三十五年一月、シベリア鉄道が開通し、日本は大英帝国と同盟した。
ロシアは満州からの第二次撤兵をしない。
日露戦は目前に迫りつつある。
このころ、田健治郎は、近江鉄道相談役に就いてはいたが、上京し、長州系の人脈のなかで戦時体制を整える根まわしをはじめていた。
もしかすると、日露戦を前提として、鉄道国有か、あるいは日本を縦貫する統一的輸送体制が敷かれるかも知れず、そうなれば、統一規格、あるいは管理システムを整備する必要が生じてくるかも知れなかった。
「島君にドイツ国有鉄道を調査させておかなければならない」
田健治郎はそう思った。そう思うと同時に、もしも、日露開戦となれば、軍事輸送の統括者が必要であった。
その適任者はほかの誰でもなく田健治郎自身だった。日清戦争の軍事輸送を担当したのが田であり、その手腕は陸軍からも信任を得ていた。
にわかに田健治郎が出番を迎えようとしていた。そして、日露開戦前に、できれば鉄道国有を果たしてしまいたいのである。
明治三十六年四月、山県有朋、桂太郎、伊藤博文、小村寿太郎らは京都で会談し、日露戦を覚悟する。
このことを田は内々に知らされ、逓信次官に就くことを了承する。
島安次郎もドイツ国有鉄道視察を決意する。
しかし、逓信省の外国遊学の枠は、このときなかった。
ドイツへの遊学は自費で行くしかない。身分は文官分限令による一時休職とし、渡航費用は実家を頼ることになった。もちろん、田がなにがしかの援助をしたことは考えられるが、それを示す記録はいまのところ見あたらない。
島がドイツへ向うのは明治三十六年六月であった。
「逓信技師たる島安次郎氏は今度、其職を辞し、私費を以て欧米を漫遊するはずなり」
と『鉄道時報』の消息欄は報じている。
薬局となった「島喜」の本家すじにはこのときの渡航費用の話がかすかに伝えられていた。
島家の兄妹は父親ゆずりで、みな心優しく、長兄の喜兵衛は、町内の世話などもして人望家だった。しかしこのときの遊学費の捻出は、さすがにきつかったらしい。
それが、どれほどの額だったのか長兄喜兵衛は家人にも告げなかったが、ほのぼのとした口調で、
「あれは、大変だった」
とのちのちまで細い吐息をもらしたという。
帰国は、すでに日露の戦端が開かれた三十七年六月六日だった。
この世界漫遊途上、ドイツで島安次郎は、いままさに研究に着手されたシーメンス社製造の電気機関車を目撃する。
走行テストの記録は時速二一〇キロ、一三一マイルだった。前後するがこの報道は明治三十四年に日本へ届いており、島はそれをドイツで確認したわけである。
島安次郎は素人のようには驚かない。理論的にそれが可能であることはよく理解していた。
しかし、つい五年ほど前、関西鉄道で「早風」の動輪をわずかに大きくするために苦心した鉄道技師島安次郎にとって二一〇キロの速度は驚異的なものだった。わたし達はこの島安次郎の時代に、実験であるにせよ、現在の新幹線の速度が出現していることに激しく驚くべきであろう。
と同時に、島安次郎がこの時点で電力の可能性を見通したことは確実な推測となる。
島安次郎は、帰国した四ヵ月後『鉄道時報』のインタビューを受けた。
このころ、海外旅行の帰朝者から、その見聞を訊くのは、新聞の重要な役割で、視察旅行からの帰朝者は、必ず取材され、紙上にインタビュー記事が途切れなく載っている。
日露戦のさなかではあるが『鉄道時報』は終始冷静な紙面づくりを続けており、のちのような戦意高揚の気配がまったくうかがえない紙上に、島の肉声が記録されていた。
「あの独逸で研究してゐる急行列車の事ですか、夫は事実で現に自分も其列車を見物しましたが、今尚引続き、研究をやつてをります」
研究体制は、民間資本の出資による研究会社を設け、線路施設は国が手厚く補助する、半官半民のプロジェクトだった。
「その研究の結果はつまり二一〇キロメートルの速度を以て列車を運転するといふことは証明しましたが、何分其の設備に大金を要し且つ抵抗が大(き)いから大なる動力を要し、経済上引合ぬ為め今日の所では先づ実用になると云ふ事は覚束ないとの話であります」(『鉄道時報』明治三十七年十月十五日付)
が、このとき、将来は電化にあると島安次郎は胆に銘じた。島が電力による高速鉄道の可能性を常に意識していたことは、のちになってはっきりしてくる。
それでも島は、ドイツの電気鉄道の技術水準をもう一歩だと観測した。
この二一〇キロの超高速電気鉄道は、世界の鉄道界の耳目を集める驚異のニュースであり、島はまずその見聞を語り、次にドイツ国有鉄道の経営のようすに話を変えた。
島がつぶさに見なければならなかったのはドイツの、国有化され、統一された鉄道事業体であった。
日本のためにあつらえたような見本が、ドイツ国有鉄道なのである。
ドイツ帝国の政体はこの時期、プロイセンを中核とした連邦国家であった。その下に、ヘッセン、バイエルン、ザクセン、ウュルテンベルクなどの公国が加盟し、また、ひとつの市が、共和政体をもって連邦に加わるブレーメンや、ハンブルクのような例もあった。
その各国が官営鉄道を持ち、運営している。各国の鉄道には私設されたものが多く、プロイセン国有鉄道もはじめ私営鉄道として出発し、ビスマルクによって国有化された。
この時点でのプロイセン国有鉄道はおよそ三万一〇〇〇キロ、ドイツ帝国全体で五万三〇〇〇キロ、総延長キロではイギリス(二万二〇〇〇マイル)をすでに抜き、世界有数の鉄道普及率となっていた。
ドイツは、イギリスに十年遅れて鉄道時代を迎えているが、鉄道事業のある面では十九世紀末の時点でイギリスをしのいでいるといってよかった。
とりわけ、連邦下の各国有鉄道の連携運転、列車の直通運転、車両の相互使用などの面では、イギリス、アメリカの鉄道経営の水準を越え、この時代では最も合理的に運営されている広域鉄道網ということができた。
島安次郎が見届けなければならなかったのも、このドイツ国有鉄道網が達成していた一貫鉄道の管理システムだった。
『鉄道時報』のインタビューに答え、島安次郎は語っている。
「先づ第一に『プロイセン』官有鉄道は二十の管理区域に分かれて居りまして、各管理区域には一つ宛《ずつ》管理局が置いてあります」(同前)
そのほかに、プロイセン鉄道と、ヘッセン大公国とにまたがる区域に共同管理局を置きプロイセン国有鉄道の管理局はあわせて二十一局で管理運営されていた。
その管理システムは、総合的な管理をプロイセン工部大臣が担当し、その下に各鉄道局に鉄道監査委員が置かれ、ここに長官一名、高等官数名が配置されて、官営、私営鉄道を監督すると、述べている。
各鉄道局の高等官を島は「理事」と訳している。
理事は専門職で、土木、器械(機械)、事務、主計に分かれ、業務を分担して任にあたっていると報告する。
そして、この任務の分掌については、長官が実状にあわせて自由に裁量し得る、いわば組織のやわらかさを強調した。
このドイツ式管理システムのやわらかさに我意を得たのか、島は次のように述べた。
この島の言葉は、鉄道運営に関する島安次郎の思想が、問わず語りに表現されたと見ていいだろう。
「一体鉄道の内を分けて、建設とか、営業とか、保線とか、運輸とか、汽車とか、経理とか云ひますけれども、畢竟単独では何の役にも立たぬ、互に相ひ俟《ま》つて働きをなすものであるから、出来得ることなれば一人でやることが一番宜しいのであるが、人力限りがあるから分担せねばならぬことになる(中略)。分担は便宜でするのである。便宜でするのであるとすれば、其の分け方は事情が異なるに随《したが》つて異ならざるを得ない、又勝手に出来るのである」(同前)
島がいいたいことは、各鉄道管理局長官の柔軟な管理運営の幅についてであり、また、責任区域を分けることは、あくまでも仕事に対応して分けられており、そのまま官僚組織のセクショナリズムを意味しているのではないという点にあった。
ドイツ国有鉄道管理システムは工部大臣から各局長官へ、さらに運転、駅務、汽車、保線、建設などの監督者へと管理系統が完備されて整然とし、それぞれに職務規定が確立されていたが、
「色々の規則を読んで見ますと、出来る限り弾性を持たして仕事の活動を妨げないやうにしようといふ精神の跡は明かに見えて居ります」(同前)
と島は見た。
さらに、ともすれば硬直しがちな官営鉄道経営の弱点を避ける手当てとして、ドイツでは中央鉄道評議会、地方鉄道評議会が設けられ、利用者側から国有鉄道へ注文がつけられる制度があると報告する。もっとも、この評議会は、理想のようには機能していない。
それについて島は、
「元来一局部の経済上利益あること、必ずしも全局の利益になるものではありませんから」(同前)
と述べ、利用者の利を計り、鉄道の利を計り、総合して国の発展を計ることのむずかしさに留意しながらも、
「此種の機関を置いて利益を得る場合は決して少ないものではなからう」(同前)
という。
島安次郎は、このインタビューの場を借りて、わが日本の鉄道の一貫システムに至る問題点をすべて指摘していた。もちろん、ドイツの鉄道の規定にも古びてしまったものが残っており、それらの欠点をあげながら、なお、ドイツ国有鉄道から学ぶべきことは多いとした。
島の言葉の背後にはもうひとつの事情があった。
日露戦を目前にして、実は民有統一が生まれかけたことがあった。
日露開戦の三ヵ月前、半官半民の帝国鉄道株式会社案が急浮上し、閣議を通過するのである。
私営鉄道へ出資している資本の利害がこの案によって折衷《せつちゆう》されることになる。
あまりに鉄道の現場を知らない折衷案であった。国運をかけての戦時輸送を、にわかに寄せ集めた新会社が担えるわけがなかった。
もともと、国有に反対する勢力は、経営の安定した鉄道会社とそれへ資本参加している側であり、国有に賛成する側は経営不振の鉄道とそれの株主という当たり前すぎる図式があった。
この意見が反映して閣議が利害をそのままに分裂し、折衷案をとった。愚かというしかない。
日露戦を目前にして、信じ難い愚策をこねあげてしまった内閣に、田健治郎は飛びあがるほど驚き、
「この一事で日本は敗ける」
と焦躁した。
この時期の官鉄は二五六二キロ、私鉄は五二三一キロ。この勢力のまま半官半民の統一会社を設立しようとすれば、目を覆うほどの混乱となる。しかも、一貫輸送の経験は私鉄の側には扱い量の三パーセントほどもない状態なのである。
兵隊と軍事物資が、中継駅にだんごになってたまる情景を想像すれば、田でなくても青ざめるはずであった。
だが、鉄道を理解できていない、いわば日本人の民度の低さは、こうした場面で、いっそう際立って表現されるのかも知れなかった。
それはまた、これからはじまる近代戦争の軍事輸送が、どれほどの規模になるかを、政府中枢の人々が、よくとらえ得ていないということを証していることにもなる。
田健治郎は、参謀本部次長となって台湾から上京してきた児玉源太郎を私邸に訪ね、帝国鉄道株式会社案が、愚策中の愚策であることを説いた。
この点に関しては英傑児玉源太郎も感度が鈍かった。
児玉自身の持論は国有論であった。
しかし、
「閣議が民営統一で決ったのなら、それでもやむを得ない」
というのが児玉の考えだったのである。
このとき、田健治郎は、説きに説いた。
帝国鉄道株式会社案が、鉄道運営の合理策として考えられたものでなく、単に利害の折衷案であること。各社経営陣が常にわが利を追い、会社によってさまざまな色あいで経営姿勢が違うこと。それらを調整して、よくまわる機械のような統一体にまとめあげるだけで、巨大な政治力が蕩尽されることなど、あげればきりがないことになる。
「民営統一の到底行はるべからざるを断言し」
と『田健治郎伝』は伝えている。
さらに田は児玉に迫って、
「猛省を促し」
太い釘を打っておいて逓信省にもどり、大浦兼武逓信大臣を説き、ついに同意させた。
大浦逓信大臣は桂首相を説き、意見をひるがえした児玉も帝国鉄道株式会社案の撤回を求める。
こうして危ういところで、民営統一案は撤回されるのである。すでに日露戦は迫っていた。
田健治郎は格からいえば逓信大臣であっても不思議ではない。しかし、進んで次官に就いた。
『田健治郎伝』では、その理由を、
「児玉中将が其の身大臣総督の地位に居りながら進んで参謀本部の次長となりたる如く」
田健治郎も、その格からいって大臣であるべきを問わず逓信次官に就いて「強露を膺懲《ようちよう》したいといふ念慮」を抱いたとしている。
田健治郎は一人で流れを元にもどし、戦時輸送体制は、日露開戦の半月ほど前に公布された、「鉄道軍事供用令」(勅令第一二号)によって運営されることになる。
その半年後に、島はドイツから帰り、『鉄道時報』のインタビューの場で、ドイツ国有鉄道の統一管理システムについて報告しているわけだった。
島の意見には、田が演じた大きな政治劇の意味がにじんでいると見るべきだろう。
ドイツ国有鉄道の現状を報告していながら、島安次郎は、日本の鉄道の統一について以上のような、田逓信次官の政府中枢での動きに、響きあう意見を述べていた。
「私の考へでは日本全国の鉄道全体を一括して、官有にするなれば格別のことであるけれども、左もなければ之を統一して、旅客及び荷主の側から見て恰《あたか》も一つの『システム』であるかのやうにするのは到底政府の力のみでは行くものではない、必ず一方に此種の自治機関があつて夫れと相俟つて、始めて其目的を達することが出来得るだらうと思ひます」(同前)
右の文中で「自治機関」というのは、鉄道会社による組合を意味しているようだ。
島安次郎が日本を出発するころ、第一次桂内閣では、半官半民の帝国鉄道株式会社案が急浮上しており、その政策の揺れを視野のなかに置きながら、島安次郎はドイツの国有鉄道を見なければならなかった。島のドイツ鉄道事業視察の関心は、国の方針がどちらに傾いても根底になければならない統一後の事業体の、運営における現実的なさまざまな問題であったと推測していいだろう。
かつて、独逸学協会学校に過し、ドイツ語で数学や物理を学び、ドイツ合理精神の香りをあびた島安次郎にとって、ドイツはあこがれの地といっていいはずだった。
あるいは機械工学へ、自らの進路を変えたいくつかの契機のなかに、ドイツの機械工学そのものの魅力がふくまれていたのかも知れなかった。
インタビューでは、二一〇キロの電気機関車について、冷静な技術判断を語るだけにとどめている島であったが、その心のうちは少年期の夢を重ねて、躍っていたに違いない。
のちに東京大学で教授となる純理論家としての島の資質を考えると、世界第一級のシーメンス社の鉄道工場は、そこに立つだけで心地よい戦慄を覚えさせるもの、理論が風土にまみれず、澄んだまま実現している世界であったろう。
島は夢想したかも知れない。
できれば、その夢の工場に没入して、機械工学を思うさま学び、実践して、そこに働く研究者たちと互角の研鑽を積みたいものだと。
が、それは許されていない。
祖国は強大なロシアと闘っており、旅順は陥ちず、日本兵の血を吸い続けていた。ロシアの艦隊は無傷であり、しかも、ヨーロッパから遠征の途にあるバルチック艦隊は、アフリカ沖を南下していく。日本は危機にあった。
この時代の日本人の国を想う心情を重ねあわせて見ると、島の気持ちは、じっくり視察するには、あまりにも波立ち騒いでいた。
せっかくのドイツ漫遊であるはずなのに、島はそれにひたるわけにはいかない。
自分が担当している日本の鉄道は、小さな機関車が、精いっばい長く連結した小さい貨車を牽いて息を切らし、戦時輸送に耐えている。
そのうえ、日本の鉄道政策を決める人々や、私営鉄道の株主たちは、目前の利を追っていつも鉄道の足を引っぱっているのだった。
それを想うと漫遊どころの話ではなかった。
ドイツ国有鉄道の管理システムの根底にある、足もとから積みあげた合理精神を見れば見るほど、わが日本の現状の切なさが波立つ心境のなかに泡となって際限もなく湧いてくる。
しかし、その思いさえも率直に表明することは、日本では避けるべきだった。
日本の鉄道が鉄道先進国にくらべれば、運営システムにしても、機関車の性能にしても、線路規格にしても遅れに遅れてしまっていることを、声高に放言してしまうのは、我身を打つようなことであり、さらには、日本人の胸の底にうずくまっている残渣――西洋かぶれ、といった反感――が思わぬ姿をとって襲ってくるかも知れないのである。
こうした島自身の心情と、戦時下の日本人の心情のなかで、島安次郎はインタビューに答えており、その言葉遣いは、冷静というよりはむしろ、慎重すぎるほどに慎重なものいいだった。
鉄道統一に関して、島がこのインタビューで語った技術問題は、わずかに次のような事柄だった。
「例へば私共の専門の方では車両を連絡駅で受渡をする時に如何なる破損あれば其直通を拒絶すると云ふことを定めるとか、或は連結機(器)の標準寸法を定めるとか」(同前)
さらに、車両部品の統一規格と統一価格、整備工場の統一などを、統一にともなう技術問題の例としてあげている。
言葉を見るだけでは、この統一にともなう技術面の仕事量はよくわからない。が、こわれた車両を中継駅でどう統一的に扱うか、といった問題は、これだけで実際面では気の重くなる問題だった。
「こんな貨車をうちの線路に入れて脱線でもしたらたまらない。そっちで責任をもつか」
「いや、この車両は大丈夫だ」
「いや危険だ」
「その判断は貴社のものである。この貨車を列車編成よりはずして、荷主の損害をそちらが引き受けるか」
こうしたもめごとが実際に起きれば、その都度列車が停止してしまうのである。
また、島はあっさりと連結器の標準規格にふれているが、この一事だけでも膨大な仕事量が横たわっていた。
仮に民営のまま規格を統一すると、どれをどう変えるか。調査と作業量とコスト計算と、それぞれの幹線の輸送量などをすべて掛けあわせて調整しなければならず、そこに各社の利害がからみあっているとすれば、この一事だけで、統一計画が御破算になりかねないほどの重要問題である。
右のようなことを、政策決定の立場の者たちは知らず、また資本家、株主たちも知らなかった。そのうえで、経済情勢のまにまに、あるいは利害のまにまに、日本の鉄道をこうしろ、ああしろといい、技術者を走らせるわけだった。
日露戦争は大量の兵員損耗を重ねながらどうにか勝利の形をとり、明治三十八年一月旅順陥落、三月奉天会戦、五月日本海海戦、バルチック艦隊は全滅した。
戦時輸送はどうにか、遂行された。しかし、輸送力はぎりぎりだった。
東海道線は十六往復のダイヤのうち、民間用は二往復、民間の貨物は一往復だけである。
ここまで民間の輸送を圧縮してどうにかしのいだのである。
国内の戦時輸送は、捕虜や、戦病者、負傷者をふくめて八十八万六千人を運び、馬を二十万四千頭、貨物を五十二万七千トン運んだ。
凱旋兵の輸送は三十九万人である。
野戦鉄道提理部が編成され、陸軍工兵もこれに加わり、このなかの人材が南満州鉄道へと流れ込むことになる。
議会乱闘下の国有鉄道誕生
島安次郎は、日本の機関車と客車、貨車を見つめている。
なにしろ、百花繚乱といっていいほどの多種多様な機関車が日本の線路のうえを走っている。
ざっと製造会社名だけをあげても、ダブス、ナスミス、バルカン、シャープ、ピーコック、ニールソン、エスリンゲン、スチーブンソン、エーボンサイド、マニングス、キッツオン、ボールドウィン、マニング・ワードル、キットソン、バグナル、カー・スチュアート、バークレイ、ポーター、ホーソン、ローカ、ビードル、ロジャーズ、ブルックス、クック、ピッツバーグ、ディクソン、リマ、ダベンポート、クラウス、ホーエンツォレルン、マツファイ、などといった大小の機関車が、それぞれ個性豊かに音色の違う気笛を吹鳴し、ドラフト音を響かせて日本の山野を走りまわっている。
イギリス、アメリカ、ドイツの機関車群である。
官営鉄道もふくめて、各鉄道会社が、これまで、その都度輸入してきた機関車は、カタログをそのまま日本の線路へぶちまけたようなことになっていた。
そういう機関車が百花繚乱と煙をあげて走りまわっている光景は、こと保修整備の仕事量では、絶望的な状態といってよかった。つまり、各社それぞれの個性に応じて保修整備をしなければならない。部品の数を考えただけでも容易にその惨状は想像がつく。そのうえ熟練した職工の手配や、運転業務の配車の面でも、機関車の百花繚乱は害はあっても利はまったくないといってよかった。
のちに調査の結果、明らかになる機種は百九十種だった。国有化によって千百十八両の機関車が国有≠ニなった。これから計算して一機種あたり平均で六両ということになるが、実際は一機種一両のものも多い。
機関車に関しては統一規格を考えようにもどうにもならないのである。
島に与えられた仕事は、やがて国有となって統一された場合、これらの機関車、客貨車を無駄なく使いながら、次第に機種を少なくしていって、標準機関車の設計までこぎつけるという仕事である。
要するに、明治三年の鉄道建設以来、ということはつまり島がこの世に生まれてから現在までに、この国の鉄道史が撒き散らした乱雑な、しかし、それぞれに後発国としては避けがたい事情のついている多機種少量の保有機関車のあと始末をつけることである。
国有化が決定された直後に、この整理の仕事が、鉄道の車両担当の技師を待ち受けているのである。
そのうえ客車、貨車となれば、およそ途方もない仕事量になる。一気に廃車して、規格化された車両を入れられるのなら楽なのだがそんなことは許されるはずもない。
さらに各会社の工場の力量もとらえなければならない。
こうして島安次郎の諸国行脚は、日露戦争後もしばらく続く。
その間に鉄道国有化の足どりを眺めておく。
島安次郎の仕事の舞台は、なんとも日本の民度をよく示す政治によって生み落とされる。
鉄道国有化案は、日露戦の戦時輸送、一貫運転体制を契機にしてはじまり、明治三十八年九月五日の日露講和を間に、戦後経営のための鉄道統一へと眼目が変りながら進行した。
日本帝国は、満州と朝鮮で得た権益を前にして、国内産業の基盤である鉄道の安定を必要とする。
この大きな情勢の変化が、第一次桂内閣でまとまった国有化案を、第一次西園寺内閣で成立させることになった。
知られるとおり、裏面では、憲政本党と政友会との政権授受の密約が交わされており、この密約が、何度も議会にかけられては流産してきた鉄道国有を可能にしたのであった。
西園寺の下で実際の政務を執っていたのは内相原敬である。
原敬にとっては、鉄道国有化は「行き掛り」なのだった。それでも明治三十九年一月十七日、同法案は首相官邸で閣議にかけられた。行政からは仲小路逓信次官以下、鉄道局長、作業局長官ら専門家が説明しにやってきていた。
このとき逓信大臣は山県伊三郎である。長州閥、山県有朋の養子である。山県ら軍部国有論者らの意を体して「国有の速行」を主張したとされている。
しかし、この閣議が延々十七時間に及んだ。
重大懸案であるだけに閣議が紛糾したかというとそうではない。鉄道専門家の説明を、居並ぶ各大臣がわからなかったのである。
途中、日本銀行副総裁であった高橋是清が出席し日露戦費の公債の支払いがあるうえに巨額の資金を要する鉄道国有化を断行するのは、時期が悪いという財政論的反対論を述べている。
山県|逓相《ていしよう》の速行論と、高橋日銀副総裁の財政論的反対のほかには、旗幟のはっきりした意見はなかった。
大汗を浮かべて説明する平井晴二郎鉄道作業局長官などはほとほと疲労した。安政三年金沢生まれの長官は、閣議列席の大臣らと同年配である。
しかし、平井は、金沢藩立英学校、大学南校から、アメリカ、ニューヨーク州レンスラー大学へ留学し、土木工学を修め北海道で幌内鉄道の建設にあたり、北海道鉄道事務所長、大阪鉄道会社技師長、北海道炭礦鉄道技術長などを経て逓信省鉄道技師に就任していた。国有化後は帝国鉄道庁総裁となる。
こうした一級の鉄道の専門家の説明を受け十七時間もかけてなお、閣議は結論をだせずに次回に持ち越された。
『鉄道時報』は次のように報じる。
「閣議が長時間を費して尚ほ決定に至らざりしは」
高橋日銀副総裁の財政論によって長引いたのではなく、
「要するに今の大臣なる者は孰《いず》れも鉄道問題には素人のみなれば、折角議案は閣議に上りたるにも拘《かかわ》らず充分に咀嚼《そしやく》し能はざるにより、次回には尚ほ一層素人に判り易き様製表して提供せよ」
ということであった。
『鉄道時報』記者もさすがにあきれ、
「此の滑稽」
と苦笑していた。
このような認識のもとでなお原敬は、鉄道国有化によって「地方のボロ鉄道」まで買収すれば党に利ありと踏み、そのように法案を書き換える。はじめ十七私鉄の買収案だったのが三十二社にふくらんだのだった。
このとき、平井鉄道作業局長官、高橋日銀副総裁ともども、原敬の政略的思考の酸味に口もとをゆがめたに違いない。この買収案では財政論的反対はもとより国有化推進も、ともに意味がこわれてしまうのである。
が、原敬は党利によってその判断を下す。
延々十七時間にも及ぶ、鉄道作業局長官らの説明を聞いて、なお鉄道事業の統一運営について、よくわからないまでも、党利をのせることについては目ざとく得失を考えた原敬の買収案は、貴族院で十七社買収案になって衆議院にもどされてくる。
あまりもめると政権維持がむずかしくなると判断した原は十七私鉄でよしと考えた。
第一次西園寺内閣は、強行突破の腹を決めて第二十二回議会最終日に臨んだ。
明治三十九年三月二十七日である。
『鉄道時報』は、この日について、
「最後の決定を見るの日也、見ざるべからざるの日也」
と詳述した。
以下、記事に即して進める。
午前十時十五分、日比谷の帝国議会議事堂、貴族院の開会を知らせる鐘が鳴らされた。
「鈴一振 楼上廊下に響き渡るや――」
すでに議員は議場に入り、着席している。
この日、議員の欠席はほとんどない。
「議場殆んど空席なくして、傍聴席既に満員を告ぐ」
国民の関心は高く、さらに、反対にまわった新聞社は、この議案が対決案であることを書きたてていた。傍聴席には院外団も含めて多数の聴衆が詰めかけていた。
鉄道国有法案は、この日の第八日程、つまり八番めの議案である。七番めまでの議案には対決案はなかった。議事は整然と進んだ。
そして、貴族院鉄道国有化委員会侯爵黒田長成が立ち、委員会審議の経過を説明した。
政府の意向は原案維持、委員会は買収会社を十五除外して、十七社線としたことを述べ、本会議にかけるむね報告した。
十五社線の除外についても、その利害を同じくする議員は存在する。
一人、議場より立って、
「国有なら三十二社全部を買収すべきではないか。十五鉄道を除外して国有の実を挙げ得たりと信ずるか」
と予定外の、ヤジともいえる不意の質問をする議員がいた。
村田保と記録にある。
あるいは、噂のように議員買収の手が入り、鉄道国有法案への反対の姿勢を天下に明らかにして、買収に応じた義理を果たそうとしたのかも知れなかった。
黒田侯は、壇上からこの非難めいた質問に答えた。
「委員会はいささかも国有の実を失わないと信ずる」
第七日程までの議案処理を経て、ここまでで午前中の二時間が費やされ、午前十一時五十分すぎ休憩となった。
午後一時に再び貴族院本会議が再開されて討議は本格的に応酬される。
反対演説の一番手は、鳥取県多額納税議員桑田熊蔵である。
桑田は鉄道の国有化について、基本的にはよしとしながらこの時期、外債、公債の山積するなかでは賛成するわけにはいかないと論陣を張った。
「すでに日本の現在の公債、その額十八億、これに鉄道国有化のために四億を加えれば、必ず経済に影響を及ぼす」
財政論的反対は、さきにふれた通り、日本銀行副総裁高橋是清ら、そして、政府内の財政当局からも出ている意見である。
さらに桑田は、論を進め、
「私営鉄道に法的な制約ありといえども、強制的に買収するは人権|蹂躙《じゆうりん》なり」
という。
ただし、この時代、人権は、
「もちろん国家法律の前には人権なし、法律によって与えられたるものを法律によりて奪わるるは已むを得ざる事なれども」
といった程度の概念であるにすぎない。しかし、法律によって私営鉄道を強制的に買収するのは人権蹂躙であるという。
「強制的に買収せんとす、これを立憲的というべきか、また文明国のなすべき事なるか」
桑田熊蔵は法学博士であった。加えて、ドイツの事情にもくわしい。
鉄道国有化を政治的に処理して、好成績をあげている例は、ドイツ国有鉄道である。
鉄道国有化について、ドイツの例を徹底的に研究してきたのが、逓信省鉄道作業局であり、ドイツにならって、鉄道作業局は国有化後の移行期の仕事を進めようとしていた。
桑田熊蔵はこの例を引いて、語調を強めた。
「ドイツにビスマルクあり、ドイツにならうは、政府自らが己れをビスマルクに擬するか。かの英雄、鉄血宰相ビスマルク以上の手腕をもって、ことをなすつもりか」
ほとんど冷笑である。
さらに桑田は、鉄道国有法案とは社会主義なりと断ずる。
論旨はかなり荒っぽい。
「いわゆる社会主義なるものは、総てのものを官業にしてこれを社会平等に分配するというにあり、政府はこの主義を嫌悪しながら、自ら民業を奪って官業を盛んにし」
と言葉を進め、ついに叫《おら》びあげた。
「社会主義を実行せんと欲するは、何ぞ!」
財政論以外の主張は、強引な難くせといっていい論旨であった。
ドイツの例を引く場合、ビスマルクを不可欠の要件とし、「ドイツを手本にやりたいといえども、日本にビスマルクなし」という論法も、このころよく使用され、伊藤博文もこの論法で「自分をビスマルクに擬するか」といった揶揄をあびている。また、社会主義に曲解して結びつけ、非難する論法は、このころから登場し、のち、アカへ結びつけて論難する論法は、この国の政治史を暗黒に導いた。
鉄道国有法案をめぐる議論は、このような水準であった。
反対論で立った尾崎三郎男爵の演説は一時間に及ぶものだが、聞くべき中味がない。
一時間もの間、計画の杜撰さを突き、人権論をいい、延々と反対の演説をしたが、反対の根拠が、とっかえひっかえ出てくるだけである。
仲小路逓信次官との間で質疑のような一幕を演じ難くせをつける押問答のようなものとなった。
『鉄道時報』は、
「一時間余の演説を成《な》せり。然れども要領を得ずして終り」
と書いている。
この、ただ時間稼ぎを目的としたような反対演説ののちに少しは論旨明快な反対論者が立った。
午前中に、議場から立って質問した村田保であった。
村田はまず、商慣習を例に引き、
「売買は双方の合意を以《もつて》行わるべきものなり」
と切りだした。
そして、
「本法案(鉄道国有法案)のように強制を以てするものは売買にあらずして取上げなり、しかも、その取上げも政府の都合で取上げるのであって、公益のためではない」
という。
この論法も無茶であった。
法的には、この時期の私営鉄道は、その認可の際に年限を定め、政府が買収する場合のあることが一条、付記されているものであった。各私鉄は大正五年前後に、認可期限が切れるのである。
私営鉄道の認可に際して政府があらかじめ国有化への道をつけておいたわけだった。
したがって、この時点での十七私鉄の買収とは、厳密にいえば、国有化の時期を一律に早めるということであった。
とすれば、村田保が、商業規範的に売買の原則をあげて、一方的な取上げだと難詰するのは、難くせであろう。
村田はおかまいなしに論を進め、
「憲法に定められた所有権を犯すものである。貴族院は憲法を遵守する精神でかかる国有法案に反対すべし」
というのであった。
さらに、
「日露大戦において私営鉄道はよくその責を果たして軍事運輸上著しく功をあげ」
といった私営鉄道擁護論を述べ、返す刀で官鉄の運賃は高く、評判はよくない、と国有の弊をあげて、全幹線の国有化は鉄道事業の劣化となると主張するのだった。
こうした、強引な反対論に対して、次に登壇したのは、鉄道国有化に執念を燃やす、田健治郎であった。
今回の国有法案の、事実上の生みの親が田健治郎であることは、政界のよく知るところである。田は貴族院に勅選されて議場にいる。
これまでも鉄道国有化を果たそうとして果たせず、さらに、この機会をのがせば鉄道事業をめぐるさまざまな利害のなかで、鉄道の国有化が不可能になることをよく知る田は、今度こそ一気にことを進めようとしていた。
そして、政府の腹も決まり、今日、法案は可決されるはずである。
このときの田健治郎は、念願成就の日を迎えるゆとりのある心境だった。
逓信次官として日露戦争の軍事輸送を担当し、その功によって、翌年の明治四十年には男爵を授けられる。
勅選貴族院議員にはこの年一月に任ぜられていて、まだ、議員としての日は浅く新参議員だったが、堂々の貫禄である。
田健治郎は、次のような主旨の賛成演説を行った。
「賛成の理由は、総合的に種々あり。しかし、ここでは鉄道経営面における利益をあげて本法案の賛成理由としたい。現今、鉄道経営の進歩せざるは、一に割拠の弊あるためであります。私営鉄道間の貨物の延滞はその例としてよく知られるところ。そもそも鉄道は、大なればなる程、また経営や技術が進歩すればするほど運賃の低落するは明らかなり。反対論者は、官営鉄道の運賃が高いという、しかし、この論は比較規準が正しくない」
田は実際に数字をあげて、規準を平準化し、運賃を比較し、さらにコスト計算の数値をあげて、国有化の有利であることを証明していった。
まさしく独壇場である。反対論者にはこの数値的な裏付けがなかった。そのために反対論の多くは大げさで、憲法論や、人権論まで引きあいにだすことになった。
それに対する田健治郎の演説は、より実際的で明快であった。
あるいはこの時代、議員のなかで、計数に明るい人物のほうが少数派であったのかも知れない。
貴族院本会議の討議は、この田健治郎の発言によって終結となる予定であった。
が、田の演説を聞いて、にわかに子爵谷|干城《たてき》将軍が立った。
この西南戦争からの将軍は、田の演説に触発されたらしく、これまでの反対論とは別の根拠から鉄道国有法案に反対したのである。
谷干城子爵は、討議終結の声を手で制して登壇した。
「余は、明治二十五年か六年ごろからすでに鉄道は広軌にして国有にせよと主張しておる」
鉄道政策に関する当然の正論だった。
広軌にし、かつ国有とすること。
この時期の鉄道政策の根本は右のように単純なものでしかない。
谷干城の意見は、国有にかかる金をそっくり私鉄に与え、広軌化してしまえという主旨である。
谷は朗々と演説し終った。
貴族院の討議は、谷の発言ののち、すぐさま討論終結動議が出され、採決となる。
投票総数二百六十七、うち賛成二百五票、反対六十二票、予定どおり、鉄道国有法案は衆議院にまわされる。衆議院の開会は午後六時四十分であった。
西園寺首相は、貴族院修正案を是とするむねの演説を行い、衆議院での賛成を要請する。
しかし、会期最終日であり、しかも、夕刻六時四十分すぎ、十分な審議が行われる道理はない。強行突破で通過させるつもりであることはすでに周知のことである。
首相の提案演説のうちからすでに議場はわめき声で満たされていた。
演説終了と同時に、すかさず政友会議員の緊急動議が出された。
「会期まさにつきんとす、討議を用いずしてただちに採決あらんことを希望す」
議長はこの動議をすぐさま採決した。議場騒然とするうちに、
「ただいまの動議について賛成多数と認めます」
と宣したからたまらなかった。この声ですら騒然とした怒号のなかでとぎれるようにしか聞こえない。
議長席にむかって反対派が殺到した。
「さなきだに先刻より喧騒を極めたる議場は殺気満々」
となり、反対派の江藤新作、加藤政之助、藤井三郎、西前円次郎ら十数名は、
「かかる採決は暴なり」
「壟《ろう》なり」
「違憲なり」
と議長席をとり囲んで、口々に絶叫する。
これを見た政府党の議員も自分の席から猛然と演壇へ走った。
「その形勢非なりと見たる」面々は荒川五郎、武藤金吾、立川雲平ら十数名。
両派演壇上にて、
「怒号叫喚」
してなぐり合い、コップがあらぬ方へ飛び、木札が舞い、
「演壇上一大修羅場を演出し」
やがて反対派の退場となって、賛成二百十四対反対零の票で採択されるのである。
『鉄道時報』は、
「国家百年の大計たる鉄道国有化はかくの如くにして成立せり」
と短く記している。
これが日本国有鉄道の誕生劇であった。
『鉄道時報』が書き残したように、かくの如き政治の水準に、これからも日本の鉄道は翻弄されていく。
まさに、そのことをあからさまに示す光景だった。
鉄道国有法案が閣議を通るときには、外相加藤高明が、
「国の買収だけをあてに経営されてきたボロ鉄道まで買う気か」
と原敬に腹を立てて閣外に去った。
また、山陽鉄道と九州鉄道に投資している三菱も国有法案に反対し、議員買収をしたという噂もあった。加藤高明が三菱系議員であることも周知のことであった。
島安次郎ら、鉄道の技師たちはこの政治の水準をどう眺めたのだろうか。
「食えぬ」
とでも思って沈黙するしかないだろう。
工作課長
この年、島安次郎は、車両の全般を担当する逓信省鉄道作業局工作課長となる。
あわせて臨時鉄道国有準備局技師の兼務となった。
国有鉄道は三〇〇四マイル、日本の鉄道の幹線をほとんど保有することになった。
さきにあげたとおり、機関車は千百十八両、客車は三千六十七両、貨車二万八百八十四両、これらは新旧、大小とりまぜておもちゃ箱をひっくりかえしたように工作課長の前に放りだされた。
この雑多な車両を分類し、老朽と新鋭とを並べ、無駄がないように使いながら順を追って廃車へ導く道すじをつけるのである。
統一した形式名称を与えては整理していくまでに三年の歳月が費やされ、機関車形式が制定されるのは明治四十二年である。
年式を古い順に、一から四九九九形までをタンク機関車、五〇〇〇から九九九九までをテンダー機関車として統一した(機関車の形式名称は昭和三年にもう一度改正され、動輪数をAからE、10形から49形までをタンク車、50から99までをテンダー車とする)。
同じように客車、貨車も整理された。
グループにわけ、耐用年数を決め、もっとも経済的で効果的な方法で新旧を交代させていく計画が策定された。
その作業は、鉄道車両についてその状態をよく見きわめなければならない緻密な作業であった。
いい方を変えれば、私営鉄道から国有鉄道に所属のかわった機関車、客車、貨車のすべての車両の台帳を作ることであり、その性能を見きわめて、どれをどれだけ使い込むかを決めていくのである。
すべての車両の形式概念図が描かれていく。
島安次郎の机のうえに形式図がうずたかく積まれてくる。
それに目を通し、製造年を見る。いずれ、どの機関車も、完全に減価償却したのちに、無駄なく廃車となるまでの見通しのなかに位置を定められていくことになる。
作業は、新たに加わった各私営鉄道の機関車工場の職員が行い、その台帳が工作課に送られてくるのである。
ただし、むやみな配置換えはかえって混乱を醸成する。各私営鉄道の整備士、機関士、火夫らの多くは、よそものの機関車には不慣れである。このころの機関車はそれぞれに走り癖を持っており、整備も運転も、その癖をよく知っている人間があたるべきであった。
いわば各私営鉄道の職工たちの技倆には、それぞれ、自分の場所だけに通じる特殊な領域がかなり色濃く残っているのであった。
本来ならば、どの整備工場でも共通した技術体系が整えられているべきであり、そこにむかって、新たに発足した国有鉄道の車両工学、整備技術が統一され、水準をあげるべきであったが、いまはまだそれは果たされてはいない。
「いずれ、整備技術も、もっと普遍的な、具合のいい方式に組みかえなければならない」
と島は思う。
どの私鉄のどの整備工場にも、職工たちのなかに、すでに名人たちが育っていた。たたきあげの名工たちである。
しかし、彼らは、どんな機種の、どの機関車のボイラーでも、すぐさまそれに対して腕を発揮するかというと、やはり弱点を持っていた。
島はこれまで、いくつもの機関車工場の名人たちの仕事ぶりを見てきている。
島は名人の仕事ぶりを観察するのが好きであった。
名人芸のなかには、必ず合理性がかくれている。名人芸をもしも数値的に解析できるとすれば、それは確かな科学になり得るものである。
島は、静かな執務室で、機関車の図表(設計図を簡略化したもの)をにらんでいた。目の前の機関車群はどれもいずれ高性能車に交替されなければならない。
いま、島安次郎の目の前にある図表のすべてが、飽和蒸気式の機関車であった。
このときすでに世界の蒸気機関車は過熱式へと移行しようとしていた。
この方式の秘密は高圧の蒸気を再び炎にくぐらせるパイプにあった。とりわけ炎のなかでUの字に屈曲する部分の工法が技術の中心であり、すでに国際的に特許が認められていた。
すでに各国で試みられ、もっともよくこの方式を完成させたのはドイツのウィルヘルム・シュミットという。一九〇三年のことだった。
機関車の炎は細い煙管のなかを通って水を沸騰させる。シュミットは、そこで発生した蒸気をさらに細い管に導き、煙管のなかをもう一度通したのであった。蒸気はこの過程で二度、三度と炎にあぶられて圧力をあげるのである。気化膨張に、気体の熱膨張が加わり、缶圧があがり、沸点があがり、その熱源が同じであるため効率がいい。
島安次郎が、さきのドイツ旅行中、プロイセン国有鉄道で見た機関車は、すべて過熱式であった。
この方式が今後主流となるのは当然であったが、日本には過熱煙管を作る技術がなかった。
先進国の技術はまさに日進月歩だった。
よく茂った森のようにあらゆる局面で技術は速度をあげて前へ進んでいた。日本が、新鋭機関車を輸入し、それが日本になじんで走り、それを研究して模倣的にその機関車を作りあげるころ、先進国ははるかな先に進んでいるのである。
その蒸気機関車の技術の趨勢を見通せば、各社色とりどりに、個性豊かに勢ぞろいしているわが日本の蒸気機関車は、ただの一台も残らずに旧式なのであった。輸入したての新鋭機もすべて、旧式なのである。そこにどれほど感情移入して、旧来の機関車をいつくしんでも、こののち旧式機関車は鉄道事業の主役の座につくことはできない。飽和式でよいとしてしまえば、その瞬間から鉄道そのものが停滞してしまう。島安次郎がこれからやることは、これら飽和蒸気式機関車を、巧みに使い切って、順序よく退場させていくことになる。
一枚の図表が、島の目に飛び込んできた。
ずんぐりしたタンク機関車、長い煙突と、イギリスの趣味性に貫かれ、しかも力強い姿である。関西鉄道のその機関車――。
「磨墨《するすみ》」
と島安次郎は名を呼んだ。
一八九七年から一九〇二年にかけて作られた新鋭機で、まだ十年も使い込んではいない。
しかし、同じころ、ドイツでは過熱式蒸気機関車の過熱煙管が研究されていた。
「磨墨」にも国有鉄道となって八七〇形《けい》の形式名称が与えられることになるだろう。
これからは「磨墨」という名称では、公式には呼ばれないのである。
関西鉄道汽車課長であったころ、このずんぐりしたタンク機関車を整備して、同乗し、奈艮の山々をめぐった。
さらに「早風」を想った。
ピッツバーグ社製二Bテンダー車の国有形式名称はどのあたりに並ぶか。
関西鉄道は、今年になって、さらに二機の「早風型」機関車を購入しているという。
経営者たちの無謀な競争ではあったが、島が改良した「早風」は、官営鉄道の機関車を制して堂々の疾駆ぶりであった。
のち「早風」は六五〇〇形とされた。
島はほんの短い間、感慨にふけった。しかし、油にまみれ、「早風」の改良にとり組んだころの追憶にひたっているわけにはいかない。
仕事は山のようにあった。
あと始末と同時に将来の手当てが必要だった。
ドイツ国有鉄道の調査研究によって、機関車の修繕、整備を内部に設け、製造を外部の民間会社にするという方針は確定してあった。
これからのちは民間の各汽車製造会社の技術水準をあげていく大きな目標を設定して、国有鉄道が発注していく。日本の機械工業を育てる有力な注文主のひとつが国有鉄道となるだろう。
そして、電化である。はるか信越線|碓氷峠《うすいとうげ》越えのアプト式の線区は、アプト式蒸気機関車が苦闘していた。一〇〇〇分の六六・七の勾配と、トンネルの線区では、煙にまかれて機関士が悲鳴をあげんばかりの職務に耐えている。
碓氷線については電化案がすでに鉄道作業局内部に温められていた。しかし、アプト式電気機関車の技術はまだ日本にはない。発電所をふくめてこの技術をものにしなければならない。
そして、日露講和ののちには、南満州鉄道を経てはるかにロシアの国土を通ってヨーロッパに至る鉄道運輸計画が予定されていた。
東京発ベルリン行き、あるいはパリ行きの国際列車の構想が、いずれは日程にのぼってくるに違いない。となれば日本列島縦貫列車の水準をあげていかなければならない。
そのためにはもっと力の強い機関車が必要であった。
そして、もちろん、その強力な機関車が牽引する客車も国際級のゆったりと、豪華なものであるべきだった。島は腕を組み、考えた。
このところ、島は鼻の下にひとすじ髭をたくわえている。
軽く鼻下の髭に手をやり、首を左に傾ける。思考が本質に近づくと、かすかにこの癖が出た。
島の頭脳のなかに、
「広軌改築」
が浮かぶ。
望み得るならば広軌改築を果たすべきであった。
鉄道網を統一すること。これは国有化によって成った。もうひとつの方針は、広軌、つまり、世界の標準軌間と同じ鉄道にすることである。
この二つの方針は、鉄道輸送における基本であった。説明の不要な常識にすぎない。
しかし、現実の条件に出逢うと、この常識の実現が、信じ難いほどの困難な事業になるのである。
そのことを島は考える。そして、そのまま人間について考えることになる。
いいとわかっていることが、たやすくはできない人間の不思議さについて考え込む。
人間は前に進みたいと願うのと同じほどの情熱で退行してしまおうとする生きものなのかも知れない。
島の考えは、技術について原理的だった。
原理的というまでもない明快な方向を技術は示している。与えられた条件のなかで、もっとも効率がよい方向へ進み、質は必ず高い方向へ進む。機械工学でいえば、よいものを生みだす方向へしか、思考は進まない。劣るものを作ろうとして人は決して苦心し、努力などしない。これが明快な原理だった。
ただし、人間の社会の側が、この明快な原理のうえに価値観を与える。ときに人は悪いものをさえよいという価値観を抱き得るらしいのである。この人間の不合理さはどうしたものか。
島は机のうえのマッチ箱のような無蓋貨車の図表を一枚とりだした。それは鉄の車輪をつけただけの粗末な荷車だった。この荷車であっても、幅を広げた国際標準軌のうえを走るものは三割ほども積載量が大きいのである。
この差は使用回数が増えれば、つまり、時間がたてばたつほどいよいよ巨大な差となっていく。
そのことはわかり切っている。しかし、いま、大阪に汽車製造会社を設立している日本鉄道の父、鉄道頭《てつどうのかみ》井上勝であっても、狭軌でよいと判断していた。
「日本では狭軌でよろしい」
と井上はいう。
しかし、この発想が不思議であった。
鉄道という機械装置にとっては、地域的な特殊条件は決して本質論ではなかった。この技術の本質は、そして、西洋の技術文明がついに到達してしまったことのすごさは、どんな国へもっていっても、おかまいなしに汽車が走ってしまうことであった。それが技術の普遍性だった。
しかし、「日本では」という場合、第一には明治政府の財政力、つまりは国力の乏しさがその正体であり、産業社会の未発達、技術の遅れ、教育や社会全般の遅れが折り重なり、さらに山と川の入り組んだ複雑な地形などが、
「日本では」
という特殊な条件となっている。
しかし、こうした個別の条件をどれほど積みあげていっても、本質的に狭軌鉄道のほうが優れているという結論は得られない。
「日本では次善の選択として狭軌がよい」
という選択的な解答である。
だが、次善の策として選択したにすぎない一〇六七ミリの線路の幅について、ともすれば、それが、
「一番よい」
という微妙な調子のいいかえによる絶対視が行われていく。
しかし、その後、日本の社会そのものが激変して近代化への道を走りだしていた。一度この過程に入ってしまえば、自動回転装置のように社会は進歩していく。近代化がはじまってしまえば、鉄道は政治効果だけを発揮する機械装置ではなく、産業社会の根幹を担う装置となる。
事実、明治二十年代中期以降、鉄道はそれを担い、社会が発展するにつれて、
「狭軌でよい」
とする選択の条件、つまり「日本では」という日本そのものが激しく発展して、はじめの選択の条件を変えてしまっていた。産業社会としての日本が変貌してしまっているうえは、「次善の選択」の条件が消えているのであった。
となればもはや、
「日本では狭軌がよろしい」
という説は無効となっている。
にもかかわらず、陸軍参謀本部などは、日本の産業がどうにか離陸の兆を見せはじめたころになって、
「狭軌でよい」
と説を変えていた。
日本の産業の足腰が強くなければ、富国も強兵も成らないという、どう考えても常識に属する見識が、陸軍にはないらしい。
「まだ近代産業社会そのものに慣れていないのだ」
と島は思う。
少なくとも、欧米の社会を見れば、産業は、連鎖的に、あらゆる局面で発展している。産業革命以降のヨーロッパ社会は、次々に、発展を邪魔する壁や、隘路を越えてきていた。その歴史は、無数の創造の積み重ねであり、試行錯誤の連続であり、挑戦の連続であった。こうした精神のうねりのなかでは、自ら限界を設定して、自足しても意味がなかった。
「ここでよい」
という限界の設定は、必ず新たな創造と挑戦によって陳腐化してしまうのである。
ふと思考が停止した。
「孝子かも知れない」
とも思うのだった。
「孝子」というのは、狭軌鉄道でよいと判断する精神のことである。
「国は貧しいのだ。贅沢はいわず、ひとまわり小さな鉄道でよしとしなければなるまい」
このような精神には江戸期に醸成された日本人の人生観のようなものが感じられる。
「どこか、つつましい孝行息子のような情緒がまといついている」
という思考が、淡い色調を帯びると島の胸の内はしめりだし、やがて切なさで充たされた。
「贅沢をいわず……、小さな鉄道で……」
と日本的な情緒に誘われて、小さな島国の日本を想う感情が湧きあがると、しかし島の表情はかえって厳しくひきしまった。
「それが結局は大きな無駄を生む」
と断じ、島はふたたび機関車形式図の綴りに没頭した。
五〇〇〇マイル達成祝賀会
鉄道国有法案成立の二ヵ月後、明治三十九年五月十九日、帝国鉄道協会第三回総会が名古屋で開催された。
帝国鉄道協会は、鉄道に関わる高級技術者、経営者、軍人、政治家らの団体である。
この年、日本の鉄道は官営、私営の両者を合わせて、総延長距離五〇〇〇マイルに達していた。
帝国鉄道協会総会は、同時に大祝賀行事を企画する。私営、官営の共催による鉄道祭だった。
それはまた、国有化が決定したことにより、日本の鉄道史での私営鉄道の幹線時代が終焉したことを示す、最後の祭典でもあった。
会場は名古屋の商工会議所である。日本の鉄道事業の中枢を担う人々は六百名に及んだ。
この日は、総会ののちに、講話会、夜には御園座に会場を移しての余興などが盛大に行なわれたのである。
この行事のなかに、島安次郎が登場する。
総会は十時三十分からはじめられ、公式の総会を終え、午後一時から鉄道講話会となった。
鉄道講話会は、総会の恒例で、専門的な内容の講演である。テーマは、車両、運転、土木など、世界的な動向、あるいは研究成果などが選ばれるのが常であった。いわば鉄道工学の学術講演であり、その演壇に登る者はすなわち、気鋭の人か、第一人者なのである。
三十六歳の島安次郎は、講演者に選ばれた。このときから、鉄道車両工学において鉄道界の認める若き技師として頭角をあらわすのである。
会場には、日本鉄道界の中枢六百人が静かに島の講演を待った。
「四輪及び六輪車の長さに就《つい》て」
これがこの日の島のテーマだった。
島がこれまで研究してきたテーマであり、さらにこののち、世界が注目する長い車体の客車を設計して実現することになるテーマである。
島はハイカラーに蝶ネクタイをしめ、音吐朗々と、しかし、落ち着いた調子で論を進めた。
「現今本邦鉄道に於て使用せらるる客車は、其大部分を挙げて殆んど皆四輪車にしてボギー式のものは総数の内約一割七分を占むるに過ぎず」
逓信省技師となって、日本の鉄道の現状をつぶさに監査し、調査してきた内容の一端がこれであった。
日本中を走りまわっている車両がどのような状態であるか、どんな車両がどこを走っているか、島の頭のなかには各種の客貨車が、克明な設計図とともにそっくり入ってしまっていた。
「又六輪客車に至りては一《ひとつ》も使用せらるるものなきなり。而して斯の如く多数なる四輪客車は皆短小のものにして車体の長さは約二十四|呎《フイート》、輪軸距は約十二呎六|吋《インチ》を以て普通とし、未だ車体の長さにして三十呎以上に及び、輪軸距にして十五呎を超えたるものなし」
この時代、日本の鉄道車両について、実際の数字をもってこれほど明快に現状を掌握している者はいなかった。
島がここであげる数値は、ひとり逓信省鉄道技師のセクションにのみ集まる情報であり、その責にある島安次郎が、官営鉄道、私営鉄道を問わず、総合的な現状を正確に知ろうとし、鉄道統一の準備をしたことによってとらえた現状認識だった。
報告の骨格は「ピンチ式ガス灯」ですでに明らかだったように、数値が克明に積みあげられている。
右の講演中、六輪客車とは、車体の中央にもう一対の車輪を設けたもので、四輪車からボギー車に移行する過渡的な形式である。輪軸距とは、ホイールベースのことである。四輪車は、二対の車輪がつき、この車軸と車軸の間の距離を軸距という。車両が曲線を走る場合は、軸距の長さによって曲線の半径が定まる。逆にいうと、曲線の半径が小さい場合は軸距が短くなければ車両は通過できない。
四輪車は車軸が固定してあるため、曲線に接する直線の関係でむやみに長くすることができない。
この欠点を解決したのがボギー車である。軸距の短い二軸台車を車体の両端に設け、この台車が自在に首を振るため、車体が長くても曲線上を走行できる。台車に三軸を用いる場合もある。いずれも、台車が自在に方向を変えるので車体を長くすることができる。
島は日本の現状を述べたあと、
「然るに海外鉄道の例を見るに米国にては、客貨車は皆ボギー式なるが故に其長大なること敢て論を俟たず」
とし、さらにヨーロッパでは四輪客車であっても、アルザス・ローレインドイツ国有鉄道三六・六二フィート、フランス・オルレアン鉄道三五・七六フィート、プロイセン国有鉄道二七・五九フィート、イギリス・グレイト・イースタン鉄道二六・八七フィートと、各先進国との比較をし、平均三一・九七フィートであることを示した。
六輪車についても数値をあげ、平均三六・四〇フィートであるとする。
わが国の大半の四輪客車の平均は、二四フィートである。いかに矮小《わいしよう》な客車であるか。
さらに、論は進む。
客車の動揺は、要するに支点間距離の長さによる。これは四輪固定軸距においてもそうであるし、ボギー車が長い車体であって、しかも動揺が少く、高速運転に耐えるのも、支点間距離の長さにある。
できるならば、全部の車両をボギー式に変換すべきではあるが、理想を追いながら、ふたたび、コストの問題を指摘するのだった。
加えて、産業界の動向などの、政策決定に関与する諸元をあげる。
客車はボギー式への変換を目標とすることができても、貨車については長大車体が必ずしも使い勝手がよく、コスト軽減に有利であるかどうか。ボギー式車両は五割ほどコストが高い。
だが、ここに、輪軸距が長い四輪車でも、「自在転向軸装置」という新技術を用いれば固定軸距でありながら、車軸に転向の幅が与えられ、軸距を延ばすことが可能であるという。この装置は軸受部分の弾機《ばね》の機構に工夫がなされていて、車軸に遊間(遊びの幅)を設けておくものだった。
「『自在転向軸装置』を用いれば、これまで日本で使用している『固定軸装置』に比して、軸距の延長を可とすることを得る。前輪に於ては、外輪が前方に、内輪が後方に、又後輪によりては外輪は後方に、内輪は前方に、いずれも自動的にラジヤルに位置を採るものとす」
つまり、車軸がそれぞれ、円の中心線に重なる方向を向こうとする。直線走行時には平行である前輪と後輪の車軸が、曲線に進入すると自動的に扇のように開き、曲線にそって回転する。
「自在転向軸装置」の軸の変化については、すでにドイツ鉄道連合会がその観測と調査を厳密に行い、この技術は実用性、安定性を確認されていた。
この技術によって、ヨーロッパの車両は、四輪車であっても、日本の車両より長大となっていた。
島は論を進め、
「されば将来に於て商工業との関係上|差支《さしつかえ》なき限りに於て成るべく長大なる貨車を製作すること甚だ必要なるべく而して此の場合に於ても亦《また》自在転向軸装置を用うるを得べし」
と結論した。
これまでも、鉄道協会総会においては、技術論的な講演が数多くなされてきていた。
多くは、海外の技術動向についての報告であり、その講演は、この時代のもっとも中心的な技術である鉄道の専門家たちの祭典に華をそえる儀礼的なものだった。
しかし、島安次郎の講演は、ただ儀礼的な、名誉の講演ではなかった。どこまでも生真面目な島は、このような場での講演であっても、自らの研究の持続的な裏付けのない内容を述べるべきではないと考えたのであろう。
あるいは、このような場での講演は、実践の裏付けをともなうべきだと自らを戒めていたのかも知れない。
のち島安次郎は日本の車両の長大化に着手し、狭軌鉄道において、広軌鉄道に遜色ないボギー車を設計し、実現するのである。この過程で果した車両工学上の成果は世界の注目するものになった。
日本の鉄道が、五〇〇〇マイルに達した記念すべき式典において名誉の講演を仰せつかった島は、儀礼的な域を超えて、このとき、車両の改良について、自ら行うべき目標を宣言していたことになる。このときすでに、構想としてそれが可能であるという見通しを抱き、密かに自ら頼むところがあったと推測して、それほど離れるものではない。
島が狭軌鉄道でも、長尺車の開発に力を入れたのは、
「徒らに将来(広軌)を嘱望して、現状の改革を怠る」
という愚かさを知っていたからだった。
将来の計画はもちろんである。しかし、現状のなかでもできる改良はしなければならない。
ところが、この率直な思想によって達成された島安次郎の狭軌鉄道での限界への挑戦は、のち、
「狭軌でも大きい車両が走れるではないか」
と、狭軌存続の有力な根拠のひとつとなるのである。典型的な曲解である。
その事情は、のちにくわしくふれる。
この時点の島は、そうした宿命にあることをむろん知るすべもない。
島があわせていっていることは短小な四輪車を長くする場合、高価なボギー台車を用いないでもそれが可能であるという中間域の技術の存在についてであった。
この領域の技術への注意は島が常に思想として抱いているところだった。
このように、さまざまな水準に応じた技術設計が組み立てられていることを、島の講演から理解して、技術の様相が想像できれば、この講演のよい聴き手の資格を持つ。
が、会場は浮きたっていた。それも仕方がなかった。この夜の宴会は盛大なものらしく、みなそれに期待して、腰がふわふわしていた。夕刻からは御園座に場所をかえて、当時としては考えられる限りの豪勢な大宴会が待っていたのだった。
御園座は、この夜、数千の白色灯によって煌々と照らされた。桟敷《さじき》席の木枠をとり払い、巨大な大広間を出現させ、紅白の提灯《ちようちん》がとりつけられ、華麗にも岐阜提灯のなかへ白色灯がともされて、夕刻七時にこれらの電灯や提灯がともったときには、その明るさに千二百人の来場者から、どよもすような歓声があがった。
この日の祝賀会には沿道に名古屋の市民たちも見物に出た。
この祝賀会に出席する児玉源太郎将軍を見物したかったのが、駅前から御園座への沿道に集まった見物衆なのだった。
日露戦争で大功をあげた将軍は、明治三十七年から帝国鉄道協会の会長に就任していた。帝国鉄道協会側が、いずれ日本を背負って立つことになる傑物に注目して、国家政策との関係上、児玉を会長にすえようとし、児玉もまた国家の基幹である鉄道事業の重要さを考えて会長についた。帝国鉄道協会の会長は名誉職であり、いまや参謀総長である児玉源太郎は多分にこの名誉を楽しんでいる。
児玉ら賓客一行は、新橋発午前八時半の臨時列車に乗り、午後六時すぎ、名古屋に着いた。
駅前から御園座までの沿道にはとぎれることなく見物人が立った。
この祝賀会のために名古屋市では日の丸をかかげ、提灯をともし杉葉の歓迎門を作り、準備は大々的だった。
近郊から見物に来る人々に商店は安売の幟をあげた。さらに、この当時から広く流行しはじめた広告隊が出現した。いわゆるチンドン屋がラッパを吹き鳴らして、大通りを練り歩き、街々をいっそうお祭り気分にした。
このときならぬ人のために名古屋市内の旅館はみな満員となり、四日市、桑名の宿も使われ、関西鉄道がそれらの宿泊客のために臨時列車を仕立てた。
こうして名古屋市の人々は顕官、将軍、財界の雄、貴族らの到着を待ち、そこに新橋からの列車が到着する。
一行は馬車に乗り換え、名古屋市内を移動した。見物衆はその馬車を黒山の人だかりで迎えたが、しかし万歳の声があがったわけではない。東京でなら児玉将軍が通ることがあらかじめ知らされていれば、日露戦後一年のこのころ、誰がいうでもなく、沿道からは万歳の声があがる。
しかし、名古屋の人々はそうした歓迎の仕方に不慣れだったのか、あるいは偉大な将軍を恐れたのか、馬車を連ねていく顕官らのなかに児玉の姿を認めても、静かに、息をのんで見送っていた。
御園座のなかは広大な宴会場である。この時代、こうした祝賀会での行事についても、御座敷の宴会の形式から抜けきれず、千二百人がすわり、料理の匂いが充満し、煙草の煙がたなびき、名古屋市のすべての芸者がうち揃って酒を運び、お酌をしてまわるのである。
児玉源太郎ら高官は正面の高座敷に陣どっている。このとき逓信大臣は山県伊三郎である。山県は児玉に最上座を譲り、それでも脂ぎった下ぶくれの顔を上機嫌に紅潮させていた。
児玉に陪席する高官らは、石本逓信次官、松永中将、山根少将らの官吏と軍人、そして、そのまわりに芸妓がはべっていた。
「芸妓給姉に囲繞《いによう》せられ」
と『鉄道時報』はそのようすを報じている。
御園座内には、臨時の郵便局も開設された。また模擬店も出店して、そこではビールはもとより、ラムネ、ジンジャーなども売られている。
場内はざわめき、酔う者の声高な笑い声があちこちにあがり、鉄道五〇〇〇マイル達成祝賀会は、日露戦捷後の時代のはしゃぎ様をも示して巨大な宴会を出現させていた。
するうちに余興の幕があがった。
舞台の演目は「式三番叟」であった。
舞うは名古屋芸妓の名花玉田屋小玉、相生玉枝、新旭小染、鍛えぬかれた舞に場内は大喝采だった。
続いて、今様男舞に演目がかわった。
舞う白拍子《しらびようし》は金波楼の金吾、寿美屋鹿子《すみやかのこ》の二名である。白拍子がまだあでやかに舞う時代であった。この壮大な華やかさ、これがそのままこの時代の鉄道の輝きだった。
大宴会の一隅に逓信省技師たちの席があった。そこの座もはや酒宴となっている。
島安次郎はほとんど酒を飲まない。わずかにワインをなめる程度である。
島の杯に酒を注ぐ者は困った顔をする。
「そうか、君はだめか」
と誰もがそれ以上はすすめない。
といって島は不機嫌な顔をしているわけではなかった。
ただ、島の周囲にだけ、ひどく落ち着いた風がただよっており、浮きたつような宴のなかでは、そこだけが静かだった。
昼間の講演についての格別な反響もなかった。帝国鉄道協会で講演をした者とは、この世界で力量識見を認められたことを示していた。しかし、島は誇るでもなく、ごく端然と席につき、先刻の乾杯のときに飲んだ酒で、頬をかすかに赤くしているだけであった。
島は想うともなく、ドイツのことを想っていた。
訪れたドイツ国有鉄道では歓迎レセプションが何度か設けられている。盛装してそのレセプション、パーティーに出て、ドイツ的な宴会を経験していた。彼らは威厳をもって列席していた。
どうしても、そうした光景と、いましがた喝采をあびた白拍子の舞とを比較しているのである。
ドイツと日本との優劣を問うているのではなかった。強いていえば比較文化的に、この五〇〇〇マイル達成祝賀大宴会を眺めることになる。
五〇〇〇マイルといえば、アメリカの鉄道会社ひとつ分のレール総延長距離程度であった。
しかし、日本では慶賀していい距離である。
(祝うことはいい)
と島も心は弾んでいた。
(だがこの芸を育てた文化が、つらい)
とも思うのである。
この会場に沸き立っている心情のなかには、やっかいな領域があった。
舞台で演じられた華麗な舞いは、みごとに江戸時代が育くんだ芸能であった。
(舞は美しい)
しかし、その文化には欠落した領域があった。合理精神がうまい具合に茂らずに、時が流れ、文明開化を迎えてしまっているのである。
「…………」
とこのあたりを受け持ったらしい芸妓が銚子を持ち、丁寧に頭を下げた。
美しい身のこなしであった。漆黒の髪に藤の花の簪《かんざし》が揺れていた。若く、躾のゆきとどいた芸妓が、つつましくほほ笑んでいた。
つい、島は杯を持ち、受けた。
杯が満たされていくわずかな間に、
「つらい」
とひとり言を吐いた。
「はい?」
と芸妓は杯を見たまま答える。
「いや」
と口のなかでつぶやき、島は杯を一口に干した。
誰か同僚の声がした。
「なんだ、芸者の酌なら、島課長は飲みますなあ」
笑い声があがった。
むっと困った顔をした島を見て、芸妓は消え入りそうに身を縮めた。
「気にしないでいい、むこうへ酌をしなさい」
声がやや苛立ち、その声に芸妓はさらに恐縮して、
「すみません」
と謝った。
気立てのいい妓のようだった。
「木石にあらず、です」
と島が返事をしたので、場にふたたび笑い声があがった。
もう一人が酔った声でいった。
「お姐さん、この方は杯をだしながら、つ、ら、い、といっておったろう。そういう人に無理に酌をしたのでは、安芸者の作法となる。人を見るが肝腎だ」
芸者はうつむいて、体を硬くしてしまった。
「いや」
と島は答えた。
「こう上手に、お酌をされたのでは、つい飲んでしまい、困るということだ。つまり、この妓《こ》のお酌が上手だという意味で、それ以上の意味はない。気にしないでいい」
祝賀の宴にしては、理にかちすぎる返答に、何がなし、座があらたまりかけた。
「では、もう一杯」
と島は杯をだし、それをまた一口に飲んだ。
かすかな笑いとともに座はなごんだ。
酌をした芸妓はまだ恐縮していた。
「まったく別の意味で、つらいといいました。あなたは気にしないで、むこうに酌を」
と島は重ねていった。
芸妓は一礼し、島の前を去った。
それ以上、工作課長をひやかす者はいない。島の周囲はまた静かになった。
舞台では余興が続いた。
名物知多万歳、そして、わざわざ東京から呼んだ芸妓が登場し、名調子の木遣、手古舞、そして獅子を舞った。
『鉄道時報』は次のように描いている。
「いよいよ、新作『国の光』となる。五十余名の芸妓の手踊り、美々しく派出やかさ云はむ方なく」
こうして、延々夜の十一時すぎに宴は果てたのだった。
広軌の守護神登場
島は忙がしい。
鉄道五〇〇〇マイル達成祝賀会が終ってからおよそ一ヵ月後の六月十九日には朝鮮に渡った。
鉄道国有法案と同時に可決した京釜鉄道の買収を実施するために渡韓している。
以後、しばらく島安次郎は臨時鉄道国有準備局技師としての業務についた。
島が、追い使われるように仕事に没頭しているころ、国有化後の鉄道に大きな足跡を残す人物が、満州の地にあって、同じく鉄道事業にとり組んでいた。
のちに特異なキャラクターと仕事ぶりで、大風呂敷ともいわれた傑物後藤新平が、南満州鉄道の総裁になっていた。
島安次郎を語るにしても、日本の鉄道史を語るにしても後藤の存在は大きかった。
しばらく後藤について述べざるを得ない。
国鉄に鉄道家族主義という精神を注入したのも後藤であり、士気を高めるために海軍士官とみまがうような制服を仕立て、職員には信愛主義を説き、自分は赤革ゲートルをつけ、幻灯機を用意して遊説にまわり、内部教育制度の創設、鉄道病院の創設、東海道では丹那トンネルに挑み、関門トンネルを手がけ、東京駅を構想し、東海道線の電化を構想するなど桁はずれの仕事を残した。
とりわけ、後藤新平は広軌改築に並々ならぬ情熱を示した。
後藤新平の存在は、島が心中密かに期していた「広軌改築構想」にとって、百万の味方を得ることを意味した。
かつて、田健治郎が島の構想の実現者として演じたところを、次の国有化の時代、こんどは後藤新平が担うことになるのである。
後藤新平は五十歳、五尺四寸というから身長は一六〇センチをわずかに越える。一度肺患をやっていて、四十代半ばごろまでは、「痩躯蒼顔」であったが、このところ太り、二〇貫、七五キロほど、血色もよく、精気があふれている。
頭は短く刈りそろえ、いわゆる角刈りである。この時代、さすがに誰も使わなくなった鼻眼鏡をかけ、鼻下と顎に髯をたくわえていた。頭髪と髯には白いものがまじり、鋭い眼光とともにあたりをはらう威厳をたたえはじめている。
男爵後藤新平は、このころ、めきめきと売出し中の行政官であったが、人は、
「蛮爵」
と呼んだ。
フロックコートに威を正し、あたりを睥睨《へいげい》しつつ、口を開くと伊達《だて》の訛《なま》りが飛びだすのであった。
これが何ともいえぬ愛嬌となって、
「蛮爵」
というかげ口を明るい印象に変えているのかも知れなかった。
後藤新平は安政四年(一八五七)岩手県水沢に生まれる。
後藤家は、伊達一門の留守《るす》家の家士であった。留守家から高野長英ら英傑が多く輩出している。
後藤は藩学立生館で皇漢学を学び、明治二年、水沢に岩手県庁がおかれたとき書生として採用された。このとき十三歳である。すぐに県庁の大参事安場保和が後藤新平の才を認め、
「このまま育てば」
と可愛がられる。
明治四年、志を立てて上京、ひるがえって六年に福島県立須賀川病院医学所に移り、医学を学ぶ。
この医学所は、和歌山で島安次郎が通いかけた医学校と同じものである。
明治九年、愛知県病院三等医となり、十三年には愛知医学校校長兼愛知県立病院長に就く。異例の出世であった。
明治十五年後藤は岐阜で爆弾を投げつけられて負傷した板垣退助を治療する偶然に遭う。手当した後藤はこの年二十六歳だった。
この事件で後藤の名は知られたとされるが、その実務能力が買われたのは、日清戦争後、その帰還兵の防疫を見事になしおおせたことによる。
板垣の治療ののち、後藤は内務省に引き抜かれ、衛生局第二部長に就任して、衛生行政を担当、ドイツへ三年間留学し、日清戦争時、臨時陸軍検疫部事務長官に就いた。
このときの検疫部長が若き児玉源太郎だった。
戦争で外地へ出た兵士の防疫はこの時代、ヨーロッパ先進国にとっても難事業だった。
このとき、児玉、後藤のコンビはこの仕事を完遂し、それを知ったドイツ皇帝ウィルヘルム二世は後進国日本の、実務処理能力の高さを讃嘆したといわれる。
児玉は後藤の仕事ぶりを高く評価し、台湾総督に就任すると、民政長官に後藤新平を抜擢して就任させる。
日清戦争によって得た新領土台湾の統治は難航していた。
ここでも泥縄的に植民地経営が模索され、抵抗する台湾人の血が無用に流される。
それでもこのむずかしい仕事をどうにか後藤新平は軌道に乗せた。もちろん強大な武力がその背景にある。
そして日露戦の勝利を迎える。
軍首脳というよりも、日露戦勝利の大功で明治国家中枢に躍り出た児玉源太郎によって後藤新平は南満州鉄道総裁に引き抜かれる。
南満州鉄道は、東インド会社の先例にならい、民間の機関として創出し、その実、権益地の統治機関の権能を持つ会社として構想される。
ここで後藤は手腕を発揮した。
後藤新平が鉄道事業を経験するのは、台湾時代がはじめてであった。
台湾には、清国政府が敷設した基隆―新竹間(六二マイル)の鉄道があった。ドイツ人技師ベッケルが設計し、建設師長を兼ね、イギリス人マディソンが技師長に就いている。
この台湾鉄道を基礎にして後藤は、延長工事と改良工事を進める。後藤は民政長官と鉄道部長を兼ねて、この仕事を続け、後藤が満州に去ったのちの明治四十一年(一九〇八)、台湾の縦貫鉄道が開通することになった。
前後するが、後藤新平の南満州鉄道総裁の就任は、鉄道五〇〇〇マイル達成祝賀会が盛大に行われた半年後、明治三十九年十一月である。
やがて、広軌改築案をとりあげ、国有鉄道の広軌改築に執念をもやすことになる後藤新平は、この祝賀会のころ、児玉源太郎を委員長とする「南満州鉄道設立委員会」の委員として、児玉と呼吸をあわせて表面は民営として、実質的には植民地統治の経営機関とする南満州鉄道の性格づけと組織原理とを練りあげていたのだった。
のちに、満州、そして中国の地に対する日本帝国の野心が、ついに未整理なまま拡大してこの国を敗亡へと導くことになるが、日露戦に勝ったばかりの児玉は、子どもの抱く夢のように新領土の発展を夢想し、後藤新平もまた、満州の人々にとってはやっかいなことにはりきっていた。
鉄道について、後藤は改良を受け持つ星の下に生まれたようなめぐりあわせだった。
年格好からいって、彼は先駆者から二番目の世代だった。
鉄道開設期のロマンは後藤の世代にはない。そして、この時代の鉄道専門家たちの経歴にくらべれば、後藤の鉄道の経験は素人の域を大きく出るものではなかった。
しかし、後藤の前には、改良すべき鉄道があった。
台湾の鉄道は、清朝政府の資金によって建設されたが、資金不足によって大規模な土木工事が不可能で、路線はトンネルを避け、急曲線、急勾配の多い鉄道だった。
後藤の前には、台湾縦貫鉄道の建設を大方針としていながら、一方で、この難所の多い鉄道の改良もまた、ぜひともなさなければならないものとして立ち現われていた。
南満州鉄道にも問題はあった。
ロシアの権益下にあったとき、この鉄道はロシア広軌(五フィート)の軌間だった。
この広軌に対して、日本軍が北上するにつれて、日本の狭軌の機関車と車両を通すために、戦争中に日本と同じ軌間に改築した。
このことで狭軌のB6機関車が走り、日本軍を輸送することが可能になった。
しかし、いざ本格的に南満州鉄道を経営するとなると狭軌は不都合であった。他の中国の鉄道は国際標準軌間であり、釜山から延びる京釜鉄道も広軌だった。
南満州鉄道は、国際標準軌間に改築すべきなのである。
この南満州鉄道の国際標準軌への改築は、明治三十九年八月の時点での基本方針として定められた。
台湾と同様に、後藤にとってはまたしても改良すべきものとして鉄道が立ち現われたのである。
創立時の計画では、南満州鉄道の広軌改築は三年間の工期を予定していた。
しかし、大連の本社の、総裁室に坐った後藤新平は、
「広軌改築は一年以内にやれ!」
と命じる。
しかも、工事期間中、列車の運転はこれを休止しない、という方針である。
そして、この強引な広軌改築は一年以内に完成してしまう。
後藤は鉄道の素人だった。そのためにこの強引な工期短縮を考え、現場に命じることができた。ときに素人の構想が専門家の構想を越えてしまう好例かも知れない。
だが、命ぜられた側は短期間の広軌改築に大変な苦労を重ねることになる。
「苦心惨憺ノ結果、在来ノ狭軌ノ外側ニ尚一本或ハ二本ノ軌条ヲ加ヘタル三線式、四線式狭広軌併用運転法ヲ採用スルコトトセリ。就中最モ苦心シタルハ、其軌道|分岐点《ポイント》ニシテ」(『南満州鉄道十年史』)
三線式のポイント、四線式のポイントを造ったがその種類は五十六種類にも及んだという。
しかも、工事は強行につぐ強行だった。
「一度材料ノ到着スルヤ、昼夜兼行以テ速ニ之ヲ完了シ」
このときの南満州鉄道の総延長六七七マイル七七チェーン。
たしかに延長距離は短いが、職員の刻苦がなければ一年間での広軌への改築は不可能である。
このころ、日本人は驚くほど勤勉で、しかも命令に従順だった。現場労働者が血の汗を流しながらの突貫工事であったろう。
こうして明治四十一年五月三十日、全線が広軌に改築されたのである。
このときの成果は、世界の鉄道界も目をむくほどの鮮やかなものだった。
ただし、狭軌から広軌への改築の工法そのものは日本人技師の独創ではない。軌間の違う鉄道の相互乗り入れ、及び改築の経験はいずれも、イギリスのバトル・オブ・ザ・ゲージの時代に考案されていた。
日本人が誇り得るのは、世界的に見れば無謀なほどの短期集中的な工事の期間であり、その手ぎわにあった。もちろん重労働に耐えに耐える現場の労働者の存在も、世界に誇っていいものであった。
こうして、日本の鉄道は、植民地の鉄道において、広軌改築の貴重な経験を持つことになる。
後藤新平は、自信を持った。資材の購入先を短期に揃えられるアメリカ一辺倒にしたり、工場が不備なところへ工事を強行したためにあちこちに現場の混乱が生まれ、それらの混乱を克服したのは後藤新平の策ではなく、現場労働者の捨身の献身ではあったが、後藤新平はここでも大功を建てる。
「寒威凛烈ニシテ吹雪屡至リ、職工ハ一時間暖ヲ採リテ、僅ニ十五分間ノ作業ニ堪ユルノ状態ニシテ、其困難ハ実見セザル者ノ到底想像シ得ザル所ナリ」(同前)
これは組立能力を越えた工場に、アメリカからの輸入機関車が続々と陸上げされ、ひたすら職工を責めあげるようにして組み立てなければならなかった大連工場の惨状である。
それでも、この経験と実績は、日本の国内においても、広軌改築が可能であることを証明する。
島安次郎は、この南満州鉄道の広軌改築の成功に意を強くする。
少なくとも、列車を止めることなく広軌への改築が可能であることが証明されたことは、百万の大軍よりも力強い味方を得たことになった。
「南満州鉄道の広軌改築成る」
この事実が国有鉄道内部の広軌改築派を勇躍させたことは明らかであった。
いずれ国内の鉄道も、朝鮮、満州、さらにユーラシア大陸を通ってヨーロッパへ連絡することになるだろう。そうであれば、国内の鉄道の広軌改築も日程にのぼるようになるだろう。
鉄道技師のなかには広軌改築の実現を構想する者が次第に多くなる。
といっても、国有鉄道の内部は多忙を極めた。
十七社の私営鉄道が人員ごと一緒になったのだから、その寄合所帯をひとつにまとめるのは大変な仕事だった。
組織はまず、国有鉄道準備局を母体とし、あらためて、各私営鉄道の資産を調べ、買収価格を決め、国有への買収期を策定するなど、目のまわるような忙しさである。
そして、この過程で私営鉄道各社の線路建設ラッシュ騒ぎが起きる。
買収価格の算定方式には、未営業分の路線であっても、将来予測される営業収入を繰り込んで計算するという一項があった。
ということは、買収直前に少しでも予定線の延長距離を延ばしておけば、高く売ることができることになる。
いわゆる駈け込み工事がどの私鉄各社でも着工され、ときならぬ建設ラッシュとなってくるのである。
これらはしかし、国有鉄道誕生にともなって誘発された経済効果のほんの氷山の一角にすぎない。
それよりも巨大な経済効果が波及した。
そのもっとも巨大なうねりは、財閥、産業資本が、私鉄から手を引いていいということからわきあがったものである。
十七私鉄の買収価格をくわしく述べると、総建設費二億三千八百九十万円のおよそ二倍の四億七千五十四万円となる。これに貯蔵資材、兼業業態分を加え、ここから各私鉄の借入金を控除した実際の価格は四億五千六百二十万円となり、払い込み資本総額の、実に二・一倍の巨額なものだった。
当時、日本の工業・鉱業、運輸業の資本総額は六億二千二百万円とされる(『日本の鉄道――成立と展開』原田勝正他編)。
したがって、鉄道の国家買収によって四億五千六百二十万円もの巨額な資本が鉄道から離れるわけで、この効果ははかり知れない。
ここで浮いた資本が、日露戦後の重工業へ、そして、あらたに得た大陸の権益へと投資されていく。
日露戦後、日本の近代産業資本は、鉄道を売却して得た資本によってさらに飛躍することになったわけである。
日露戦争は、日本人にとって、黒船来航以来の外敵の脅威が現実に南下してきたロシアの姿で表現され、それをかろうじて打ち破ったことによって幕末からの大命題を達成したと見ることができようが、このとき黒船とともに到来したさまざまな技術のうち、鉄道技術も、日露戦争を契機に飛躍しようとしていた。
後藤新平はこうした舞台に登場した千両役者であった。
明治四十一年、西園寺内閣は、与党政友会の多数の下で、財政問題を中心に政権を投げ出すように退陣し、第二次桂内閣が成立する。
このとき、南満州鉄道総裁から後藤新平は逓信大臣として入閣した。同時に、帝国鉄道庁が鉄道院に改組される。
後藤新平は鉄道院総裁を兼務した。
桂首相にとって、後藤新平の登用の眼目は、内閣人事に新味を与えたいところと『後藤新平』の筆者鶴見祐輔は記している。
が、後藤新平本人は、鉄道国有後、その仕事の始末をつけるのは自分しかなく、そのために自分はその任に就くと解釈し、自任していた。
後藤新平には、自慢癖がある。大言壮語癖は明治人に共通な傾向でもあり、たがいに豪放磊落を競い合うため、そこで脚色された逸話は平均点を割引くようにして眺めるべきだが、そのなかでも後藤の自尊心はかなり大ぶりだった。
後藤新平は入閣するについて、その気持ちを自ら記した『入閣記』に残すが、それによれば、鉄道国有の策を第一次桂内閣に授けたのは後藤自身なのだった。
「且ツ思フニ日露開戦ノ年、前次桂内閣ノ時ニ際《あた》リ、財政策上鉄道国有断行ノ説ヲ進メシハ予ナリ」
もともと第一次桂内閣に鉄道国有策を勧めたのは自分なのだから、その後始末をするのは自分の仕事である、といった自己解釈だった。
あるいは桂の入閣の話が右のように後藤の心をくすぐるようなものであったかも知れない。何しろ、桂のニコポンは有名で、人心の収攬術は芸術の域であったといわれる。
にこにこと笑い、人をほめ、ポンと肩をたたいて、
「ひとつ、君の力によってこの難局を打開せられんことを乞い願う」
といった手で、たいがいの人間がころりと桂についたといわれる。
鉄道国有化を唱えるものは、元来、ある比率で存在しており、特に後藤新平の独創ではないし、事実、国有化を実際に日程にあげるには田健治郎の力が大きかった。
しかし、桂は、後藤新平も国有化策をいっていたことを材料にし、
「君の策によって国有化は成った。その結着をつけるのは君の責である」
といったおだてのニコポンを用いたのかも知れなかった。
南満州鉄道の仕事はまだ基本設計が出来あがったばかりの時点で、二年ばかりしか総裁職にない後藤が、後事を中村|是公《ぜこう》に託して勇躍日本国内の鉄道経営に乗りだすことになった事情には、幾分かこの桂式人心収攬の効果を加味したほうがよいのかも知れない。
後藤の意気はこの仕事、国有化後の鉄道事業に対して軒昂である。
「予ヲシテ之カ整理ノ責ニ処《あた》ラシメント擬セラルルハ、理ニ於テ辞シ難キニ似タリ」
桂が理詰めに説いたのかどうか。しかし、この文中の「理ニ於テ辞シ難キ」という行動の動機づけは、やはりどこか通常の日本人の感覚からは距離があるといえるかも知れない。
後藤には、自慢癖を上まわって合理性があった。この時代にはめずらしく行動の軸を合理精神に置き、ひとたび、その軸が建てば機関車のように驀進する。
国有鉄道に関しても、方策の軸を定め、のち、断固としてこれを遂行しようとした。
第二次桂内閣の親任式のとき、後藤は病を得て参内していない。
その病の床で鉄道に関する方策を練りあげてしまう。六十条をこえる方策であったといわれる。この方策が、当時、帝国鉄道庁総裁であった平井晴二郎のもとへ届き、平井のもとでその骨格が残ることになった。
鉄道の専門家平井晴二郎は、藩閥官僚にも、政友会の政治家にもともに、鉄道事業へ対する大ざっばさにあきれていた。閣議で十七時間の説明を行っても、よくわからないと返答されるような経験がつもっている。この後藤の病中六十策を手にして、はたして後藤自身の策かどうか、にわかには信じかねたが、内容が妥当で驚くほどくわしい。
鉄道庁総裁平井晴二郎は、後藤の策を読み、
「誰か、鉄道の専門家が入れ知恵をしたのだろう」
と左右に語ったといわれる。
それほどに後藤の思考は圧縮され、しかも国有後の鉄道の実状をうがち、その対策にぬかりのないものだった。
後藤新平の発想は、まず、断片的なメモからはじまるのが常であったという。あたかも閃光が発するようにひらめく。後藤はこうして得た断片をそこらにある紙片に書きつけ、さらに断片を並べなおして組み立てていく。
アイデアが明滅して、次から次に湧き出してくるととどまらず興奮状態になる。さらにその熱気の去ったのちに現状とそれらを照らしあわせ、優先順位が定まる。目的が一点に定まり、断片が再構成されると目前の問題点がえぐられて露出する。それを突破するために手段がさらに考えられて、策が定まる。
となればもはや、この当面の策の成否が、全局面を制していることは明白であり、
「断固として成すべし」
と不動の中心点を貫く命令が発せられる。
作戦指揮をするような頭脳といえるかも知れなかった。
こうした生理を持つ頭脳が、確率的に少数であることは、よくいわれるところである。
もちろん、行政組織の整合性にもときにぶつかってしまい、もうすでに牢固として自生してしまっている明治政府機構内の先例主義にも摩擦熱を生みだす発想といえよう。
とりわけ、明治期の官僚組織は、胸もとまで江戸期の精神にひたっている。後藤新平が官庁の弊を指摘するとき、わずか三十年ばかりの官僚主義、それも藩閥官僚が新たに生んだものだけではなく、その前の時代の牢固とした役人根性までをも撃つような趣きがどこかに流れていた。
後藤のメモに次のようなことが書かれていた。庶務取扱は簡易の法をとること。現在庶務取扱に従事している俊秀の材は現場に出して実戦力とすること。俊材は運輸、汽車、工務の現業部門、つまり前線で指揮をとれという。
さらに現状論の分析で、十七私鉄の買収によって寄合所帯である国有鉄道では、人材の評価がいまだに曖昧であるという。これは後藤の推理である。台湾から満州へ渡った後藤は、まだ、逓信省はもとより、帝国鉄道庁へも対面してはいない。つぶさに肉眼で見とどけたわけではないが、しかし、後藤はたやすく寄合所帯の弊を読み、
「其間主要ナル職員ノ技能不明ナル者多ク、為メニ其技量其職ニ相応ゼザル者モアレバ、又有為ノ材ヲ懐キナガラ、未ダソノ技能ヲ発揮スルノ地位ヲ得ザル者多シ」
と断じた。
このあたりが帝国鉄道庁総裁平井晴二郎をして、誰かの入知恵ではないかと怪しませた件《くだり》かも知れなかった。
すなわち、後藤新平は、寄合所帯の人材を洗いなおしてよく見きわめ、適材適所を貫くのが、とりかかる策のひとつと定めたわけであった。そのうえは給与の公平であり、まだよく定まらない官制の整備、その官制を固定する考えよりも柔軟な配材と運営が重要であり、これが人事の基本方針となり、上下の意思の疏通には、上から下へ幕僚を構成し得るように人事権を移行せしむること。この際、私的人間関係の排除に気をつけることなど、策は縦横に躍動する。やがて、この構想が鉄道院官制へと姿をかえることになった。
後藤が第二次桂内閣へ提出した国有鉄道事業体の編成は、以下のとおりであった。
鉄道事業体は、独立の鉄道院とし、内閣に直結し、親任官を以て総裁とする。鉄道員は特別任用とする。
中央に総裁、副総裁を置き、官房のほかに六部、一所を設ける。
六部は、総務部、監督部(のちに廃止)、運輸部、計理部、倉庫部、建設部、一所とは鉄道調査所である。
さらに全国に五つの管理局を置く。本州に三、ほかに北海道、九州の五管理局体制を敷いた。
各私鉄会社が持っている工場はそれぞれ各管理局に分属とし、製作工場は鉄道院内に置かない。会計は特別会計とする。
この体制について、その考え方を後藤は、第一次の鉄道院総裁を退任するにあたって、引継書に記している。
要は、
「業務縦断ノ制ヲ横断ノ制ニ改メタルコト」
が基本であり、
「課長ヲシテ総裁ニ直結セシメ」
重要事項を審議するために理事会議を置いて、
「随時集議シ」
業務事項の研究、調査には、
「業務調査会議ヲ設ケ、各分科ヲ置キ、定時又ハ臨時ニ分科会又ハ総会ヲ開キ各自調査ノ結果ヲ審議スルコトトス」
など、内務省などの行政組織に見られる縦型組織を、管理局の権限を互角に引きあげた横断型にした点を強調している。
この考え方は、さきにあげた島安次郎の『鉄道時報』のインタビューに呼応していよう。
とりわけ、鉄道院内に製作工場部門を置かないとした方針に注目すべきである。
この方針は島のインタビューを通して、はるかにドイツ国有鉄道方式を踏襲していることを示している。管理局制や、理事の自由裁量と合議制も、島がすでにふれているところに重なっていた。したがって原型は後藤新平のオリジナルというより、ドイツ国有鉄道というべきであった。
ドイツ国有鉄道の組織編成と運営の方式が、鉄道院の姿となって日本に移入されていたのである。
これより少しさきになるが、帝国鉄道協会は、ドイツ国有鉄道について徹底した調査報告をまとめていた。
ありとあらゆる面を調査した二百ページほどの克明な報告である。
この報告書には報告者の名がなく、ただ、帝国鉄道協会編とある(東大明治文庫所収)。
そこにはドイツ国有鉄道の実態が細かく報告され、内容は島のインタビューに重なっていた。
このような調査を行い得るのは、官営鉄道のみであり、また、この報告書がまとめられる直前にドイツへ派遣された鉄道技師は、島安次郎を含めた逓信省技師たちであった。
この情報がむしろ、逓信省鉄道作業局、さらに帝国鉄道庁、そして鉄道院へと流れて具体化したと考えて不自然ではない。
鉄道院の骨格の原流はドイツ国有鉄道であろう。
しかし、報告者名を伏せ、さらには逓信省の技師であることも発行者が官であることもあえて伏せてしまったこの報告書の位置について考えると興味はつきない。
そのころ、鉄道国有化案に対して賛否は渦をまき、ドイツを手本とする方針を、逓信省が既定方針のように表明することは騒ぎにわざわざ石を投げるようなことでもあった。
そのために、ドイツ国有鉄道の調査報告書は、あえて名なしの権兵衛とし、漠然と帝国鉄道協会編としたのかも知れなかった。帝国鉄道協会とはすなわち、日本の鉄道のすべてであり、日本の鉄道の名においてドイツ国有鉄道を調査し、報告する以上、誰も異を唱えることはできないのである。誰か知恵者がいて、法案通過前に既定方針を提出する危うさを避けたのかも知れない。
そして、さらに興味深いことに、この報告書にはまちがいなく島安次郎の視察領域も含まれている点である。その一端はすでに見てきたとおり、わずかに『鉄道時報』インタビューにあらわれていた。
日本の国有鉄道をあるべき姿に整えようとした鉄道技師の一群の人々が、手分けしてドイツ国有鉄道を調査し、国有化後の基本方針を考究しつくし、議会のなり行きを見つめていたわけである。しかも、島は自費の外遊である。
島の鉄道へかける情熱がどれほどのものかこの点からも推察できよう。
鉄道技師たちは自分たちの方針を実現すべき人物は誰か、注意深く政治を見ていたに違いない。山県の長州系藩閥官僚か、あるいはどの政党の、誰か。彼ら鉄道技師は、自分たちの方針を維持して、その地点から政治を眺めたわけであった。
おそらく内心には苛立ちがかくされている。
政治の側の勢力は、どうにも鉄道について大ざっばにしか考えず、目前の利によって判断する癖を持っていた。鉄道の周辺に発生する利にはさとく、さらに困ったことには、その利のためには鉄道政策の根幹をあっさりと曲げてしまおうとする。
その政策決定の任にあたる鉄道院総裁こそは重要であった。
新設の鉄道院総裁職については『日本鉄道史』が、次のように記している。
「(鉄道院は)省ニ属スル一庁ノ規模ヲ以テ足レリトセズ。且省大臣ノ更迭スル毎ニ鉄道統裁者ノ更迭スルハ、此目的ノ為ニ利アリトセズ。依テ之ヲ省外独立官衙ト為シ」
鉄道が国有となってのち、鉄道の周辺は膨大な工事発注量を生みだし、したがって膨大な利権が生みだされることになる。このとき、鉄道院総裁が、利をめぐる動きに連動して更迭が相次いだのでは、政策が利によってふらつき、一定しない。
その点を右の「独立官衙」という文字にこめたわけだが、現実の政治史では、みごとにこれが裏切られ、鉄道院総裁は内閣が代るたびにめまぐるしく交替して、鉄道政策もまためまぐるしく揺れることになった。
島安次郎ら鉄道専門官僚は、このころ、独自に一貫した政策を作り、それを実現する鉄道院総裁を持った。
その意味でも後藤新平は、信ずるに足る千両役者であった。
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第三章 近代化の見取図
国産標準機関車六七〇〇形
国有化統一後、帝国鉄道庁を経て、明治四十一年の鉄道院創設により、島安次郎の周囲の人材は多士済々となった。
鉄道院は、やがて呉服橋に仮庁舎が建つが、この時期はまだ新橋駅構内にとどまっていた。
各私営鉄道会社の本社は鉄道院地方局へ移管となり、鉄道院官制、分掌規定、そのほかの標準規定が整うのは明治四十三年ごろだった。それまでの間、鉄道院は、寄りあい所帯ながら、統一へのさまざまな仕事に取り組んでいく。
さきにもふれたように島工作課長の仕事は車両に関するもろもろの標準の制定だった。
日本に汽車が走りはじめて三十六年、鉄道建設の時代、もっとも華々しく活躍したのは土木系技師たちである。やがて、その時代は去り、線路の建設が一段落するころ、機関車、車両の機械工学系技師たちが活躍して、技術が国産化へとむかうのである。
鉄道院には、文字どおり全国の機械工学系技師がやってきた。鉄道院の官制改正によって彼らは、新しい部署についていく。
官営鉄道神戸工場からは、日本ではじめて機関車を作った森彦三が新橋工場長に赴任してきた。
森は慶応三年(一八六七)岡山の生まれ。明治二十四年帝国大学工科大学を卒業して神戸工場に配属される。
神戸工場にはお雇い外国人の一人、イギリス人技師リチャード・トレビシックが、汽車監察方に就任していた。
リチャードは一八四五年の生まれ。同名の祖父グレイト・トレビシックは鉄道史に名を残す蒸気機関車の発明者である。
トレビシックと蒸気機関車について少しふれておく。
蒸気機関車の発明者は、ふつうスチーブンソンとされるが、彼の名誉を厳密にいえば、
「スチーブンソン式蒸気機関車」
の開発に成功したということになる。
さきにもふれたように、蒸気機関車の開発にしのぎをけずっていた技師は多かった。
しかし、もっとも早く、煙を吐きながらレールのうえを動く機械を発明したのは、トレビシックだった。
一八〇四年二月二十一日、イギリスの南ウエールズ、ペニダランでトレビシックの蒸気機関車は人類史上はじめて一〇トンの重さの貨車数両を牽いて走った。
日本でいえば文化元年、歌麿や鶴屋南北の時代、幕府はしきりに倹約令をだしていたころである。
トレビシックの機関車は大きなはずみ車をまわし、歯車で車輪がまわる方式だった。
ここから世界の蒸気機関車史は、膨大なアイデアを集積し、試行と失敗と成功を積みあげて島安次郎たちの時代へと流れていく。
蒸気機関車の最初の走行からスチーブンソンの実用までの歴史は、そのままイギリスの産業革命の時代であり、その技術の海でも膨大なアイデアが注ぎ込まれ、技術が技術を生む連鎖が、気の遠くなるほど発生していた。
その社会のなかで、具合のいい交通機関が求められ、この社会の営みが技術者を刺激し続け、力を補給し続けていた。
機関車を生みだす最大の刺激を与えたのはナポレオンだ、というと機関車発達史が面白く見えるかも知れない。
イギリスはナポレオン軍に対抗するために軍を大陸へ送り、軍馬も送りだし、荷役馬の不足がいっそう陸上輸送を逼迫させ、スチーブンソンの野心を刺激し続け、ついに鉄の馬がいななくことになったという因果律である。
とはいっても、技術発達の原因はさまざまな要素によって構成されているので、原因をただひとつにしぼることは意味がない。
発明者の名誉を、一個人に帰してしまうのさえ、厳密にいえば不当かも知れない。
ワットの蒸気機関は一七六五年、その四年後には、フランス人キュニョーが、蒸気力で動くものを作ったらどうかと考え、それを作ってしまった。キュニョーの自走蒸気機関は路上をのろのろと走ったが、自重を運ぶのが精いっばいで、馬に勝てなかった。世間はキュニョーを嗤《わら》ったけれども、新しい技術が嘲笑で迎えられることは多い。感度のいい先行者や、思索者は、世間の現状的価値観から眺めると滑稽に見えるのがしばしばであり、この精神も常に滔々と社会に流れている。
わたしたちが日本のお雇い外国人の一人であるトレビシックを眺める場合は、こうした十九世紀のヨーロッパ中がむらがり起って技術を開発した、その孫の時代がまさにわが日本の明治時代だと思えばいいということになろう。
トレビシックの孫は二人、日本に来ている。
先に記した神戸工場のリチャード・トレビシックは兄。明治十四年から明治三十七年まで在職した。
弟はヘンリー・トレビシック。明治九年に来日し、明治三十年、兄より早く日本を去った。新橋工場で汽車監督に就いている。
日本の機関車技術の血統はトレビシック系で、いわば宗家すじであるといえるかも知れないが、創案者のグレイト・トレビシックは、その後蒸気機関車を継続して研究することをしていない。土木工事などにも手をだし、テームズ川の河底を掘る工事などで先導坑を掘るなど着想には天才的なひらめきを示したが晩年は金鉱探しに没頭して不遇であったといわれる。
その後の時代ともなれば、すでにイギリスの鉄道技術は豊かに茂り、技術にとって宗家すじも本家すじも意味を失っている時代である。
日本ではじめて蒸気機関車をつくった森彦三は、こういう外国人技師について学んだ。
日本にやってきたお雇い外国人技師たちが、建築師長エドモンド・モレルのような人格者だけだったかというとそうでもなく、『鉄道時報』に見る回顧談には、彼らの横柄な態度に閉口した例がわりあい多い。修理の部位を足で示して、ふんぞりかえる外国人職工長もはじめはいたようである。
森彦三は、明治二十六年、1―B―1の二シリンダー複式タンク機関車二二一号機をつくった。
新造といっても設計に新しいものはなかった。いわばお手本つきの習作だった。
それまで、日本の技術者、職工たちは整備修繕で腕をきたえ、この難事業にとり組んだのである。
やはり苦心惨憺だった。
台枠(自動車のシャーシーに当る)の鋼板は日本で作れずイギリスに注文し、部品の多くは、解体したものからのスクラップを用いた。ピストン棒は用材のなかから用い、主連棒なども丸棒鋼から削製した。火室底、焚口などはスクラップからの転用である。
鋳物製の部位は自製し、ボイラーはベスト・ヨークシャー鉄板から張りあげていく。
輸入した用材からこつこつと手づくりで作りあげ、完成までに八ヵ月を要した。
日本にはまだ製鉄工場は整っていない。
その条件を除いた領域では国産≠ニいってよく、指導したトレビシックは、
「仕あげも、細部も、輸入機関車と比較して遜色なし。しかも、神戸工場には職長の任にあたる外国人は存在しない。すべて日本人の手によるところに、二二一号機の意義は大きい」
と最大級の賛辞を惜しまなかった。
この仕事をなしとげた森彦三は文字通りのはえぬきといっていい。
森とともに二二一号機を製造した太田吉松も新橋工場に移ってきていた。
太田は兵庫県出身、神戸工場に職工として入所してからの教育で機関車工学を学んだ。数学などの基礎的な学問は森からの直伝とされる。のち、大正五年から川崎造船所車両設計部長となる。努力のうえに努力した、たたきあげ技師だった。
山陽鉄道からは汽車課長職にあった岩崎彦松がやってきていた。
岩崎彦松はこの時代、車両工学では第一人者といってよかった。
安政六年(一八五九)福知山藩士の子として江戸藩邸に生まれた。京都に移り、私塾から大阪英語学校に学ぶ。明治十年、工部大学校へ進み、機械科を優等で卒業する。はじめは海軍省主船局へ入ったが、のち北海道炭礦鉄道に転じてから鉄道技師の道を歩むことになる。
やがて北海道庁技師から鉄道事務所汽車課長へ、明治二十一年に山陽鉄道へ汽車課長として招かれる。
岩崎も山陽鉄道時代の明治二十八年に国産機関車を設計し製造している。同二十九年に欧米視察へ出て帰国してからは山陽鉄道の車両の新機軸を次々に打ちだしていく。
前にふれた山陽鉄道のボギー客車、食堂車、寝台車、車載電灯の採用など、意欲的な姿勢は岩崎彦松の働きだった。
島安次郎にとって岩崎は関西鉄道時代にはライバルであり、鉄道院では管理者としても尊敬すべき先輩であった。
鉄道院の創設時には、後藤新平総裁の精鋭前線主義の人事で西部鉄道管理局長に転じた。
古巣の山陽鉄道の人々を管理する立場にあって岩崎は人員整理をせざるを得ず、
「一枚の辞令よく何人をも尊貴ならしむ」
と情理を説いた。
明治四十四年に肺炎で歿す。五十一歳である。
人望厚く会葬者は三千を超えたとされる。
日本鉄道からは大宮工場長にあった斯波《しば》権太郎が鉄道院に参入してきた。慶応三年(一八六七)石川県生まれ。明治二十四年帝国大学工科大学機械科卒業、島安次郎の三期先輩、森彦三と同期にあたる。
鉄道作業局技師となり、同二十八年、領有直後の台湾へ、機関士、職工ら百人を率いて渡台、台湾鉄道事業の運転、整備を担当した。一年後に帰国して逓信技師兼鉄道技師となり、官営鉄道、私営鉄道の指導、監督にあたった。
島安次郎が関西鉄道から逓信省技師に転じたときには、ちょうど入れかわりに日本鉄道の大宮工場長へ転出し、島の自費洋行のときには日本鉄道技師として同行している。
日本鉄道からは高洲清二、秋山正八、山口金太郎らが同じく技師として合流してきた。
九州鉄道から汽車課長の作間綱太郎、関西鉄道からは四日市工場長玉橋市三らが、車両部門の技術者として鉄道院に合流した。
島安次郎はこれらの技術者たちのなかで次第に頭角を現わしていく。あるいは人事面での軋轢《あつれき》も生じていたかも知れない。が、その痕跡は鉄道史のなかにうもれて、今日では、川面の朝霧のようにかき消えている。
こうした車両技術陣は、一方で整備、修繕体制を整え、一方で古い機関車をふわけし、そして新しい機関車を構想する仕事を担当することになった。
国産の機関車を構想するについても、目前の手当てと、中期の手当て、そして、未来への手当てがひろびろと構えられるべきであった。
島安次郎ら技術者たちに新たに求められることになったのは、こののち、技術的な構想力、イメージであった。
この構想のなかに、日本の鉄道の将来の見通しも含まれるわけで、機関車の設計思想には、設計者の現状認識や、日本の技術力の将釆予測などがさまざまに表現されていることになる。
少しこみ入るが、そのような考えが、機関車構造のどこによく現われているのか、最初の国産標準機について眺めてみる。
島の思想はこの場面でもよくとらえられるからである。
鉄道作業局以来、長距離旅客用機関車は、二Bテンダー車と定められていた。
すでにこの形式は完成の域に達しており、国産標準機として妥当だった。
当時、世界の機関車は過熱式へ移行しつつあったが、シュミット式過熱煙管は特許がからんで使うことができないし、独自の技術開発の見通しもたたなかった。
そのために日本初の国産標準機は、すでに旧式であることはわかっていたが、飽和式とせざるを得なかった。
設計担当は官鉄出身、新橋工場長森彦三である。
日本初の国産標準機設計を担当することになった森は、やはり、このとき第一人者とされ、人事として妥当だったのだろう。
森は、この機関車を二B一の軸配置に構想した(『機関車の系譜図』臼井茂信、交友社)。
以下、機関車構造と軸配置、ボイラーの高さと動輪、火室の広さなどが、どのような関係にあるのか、見ていく。
森が考えた二B一の軸配置とは、前に先従輪が二軸、動輪が二軸、そのうしろに従輪が一軸という意味である。
なぜ、後ろにもう一軸の従輪を設けようとしたかというと、火室を大きくしようとしたためだった。
この時代、機関車の重心はできるだけ低くおさえ、横転の恐れを小さくしようと考えられていた。
そのため、火室は動輪の間にはさみこまれる位置にある。日本の狭軌では、この位置に火室がある場合、動輪の内側の幅より大きくできない。そこで、火室を後ろに下げ、動輪の間からだして広い火室をつくることになる。その重さを従輪でささえるので、二B一の軸配置になるわけだった。
つまり、森彦三は火室を大きくして馬力をあげようと考えたわけである。
だが、従輪をつければ、動輪にかかる重さ(軸重)がどうしても軽くなり、粘着力が失われることになる。
火は盛大に燃やせるが、牽引力が弱くなるという矛盾なのである。つまり燃費が悪い。
従輪をひとつつけるかどうか、これは経済性を考えると大きな差となってくる。
機関車は耐用年数が長い。この機関車が、これからのち、どのような使われ方をするか、その構想の下で、判断されることになる。
森彦三は、二B一とし、火室(火格子)を大きくしておいて動輪直径を五フィート六インチ(一六七六ミリ)の大きなものにした。
これはこのとき最大動輪記録をまだ維持していた島安次郎改造「早風」の動輪五フィート二インチ(一五七五ミリ)をもうわまわる日本記録である。
森彦三は意欲的にとり組み、経済性にやや劣るにしても、速度をあげようと構想したわけである。
いったいこの決断の背景は何だろう。
日露戦後、ロシア勢力の後退によって列強は満州の門戸開放を求める動きを露わにしつつあり、日本はそれに対抗してロシアと協約し、その条文のなかには、ロシア経由の連携運輸が盛り込まれていた。
それによれば、東京から下関へ、さらに朝鮮経由、大連経由の列車が構想され、国際水準の急行列車を運転することになる。
それに対応する機関車を構想するならば、あえて不経済だが速度の出る「二B一、大動輪機関車」がよいと森彦三は考えたと思われる。
が、この案に島安次郎が反対した。
島によればこの標準機は当面の役割を担う機種であった。まず飽和式機関車は、将来必ずすたれるのである。過熱式への過渡期の機種であり、速度向上のための主力機たり得ない。
このとき、鉄道院の中枢テクノクラートは後藤新平の広軌改築が、不動の方針であることを知っていた。その調査命令はすでに出ていた。広軌となれば大型機が出現するし、この標準機も軌間拡大にともない火室の幅を広げられることになる。つまり、従輪を置いて、牽引力の下まわる機関車は、将来もっと不経済になる。
すなわち、過渡期の機種であることを認め、「二B」とすべきである。
というのが、従輪をひとつ置くか置かないかをめぐって起きてくる論点なのだった。
このとき、機関車製作の主導権をめぐって、工場長が担当するのか、工作課長が担当するのか、あわせて焦点となっていたかに思われる。
森彦三はあらゆる意味で島の先輩だった。
両者ともに油にまみれ、鉄道にかける情熱は互角だった。
その人間関係のうえで、森は折れた。
内心、屈辱を味わったかも知れない。
日本初の標準機はこうして、「二Bテンダー」とされ、森はその設計からも手を引く。
島と森の考えの差は、将来をくみ込んだ場合の差となって出ていた。
森彦三は、その点を率直に認め、からりと自分の構想を引き下げたのかも知れない。両者ともに、この時代にあっては、日本で最高水準の論理的思考のできる俊英であった。
この決着ののちに、設計主任者は、森とともに歩んだたたきあげの実力派太田吉松が担当することになった。
トレビシックの一番弟子森彦三は以後、設計に足跡を示さず、新橋工場長時代に大著『機関車工学』三巻を著わす。本稿もこの著作によるところが大きい。
のち、森彦三は南満州鉄道に転じ、短い期間で日本へもどり、昭和三十三年、九十一歳で長逝した。
国産第一号機関車を製作した男の晩年は、うららかな陽光につつまれていたかのようである。
国産標準機は形式名称を六七〇〇形とし、太田吉松の設計により、トレビシックを経由したイギリス系の風格を残す姿となっている。動輪直径は二B形式としながらも一六〇〇ミリ、このとき、島が関西鉄道時代に作った「早風」の動輪直径記録はあっさり塗りかえられている。
明治四十四年に十六両が竣工し、大正元年に三十両が作られ、東海道線、山陽線に配属され、活躍した。
そして、この六七〇〇形はのち、島が新しいアイデアをこめて構想した八六二〇形の母型にあたるものとなった。
広軌改築案と秘密指令
島安次郎は依然として忙がしい。
工作課長の職にありながら懇望されて東京帝国大学工科大学機械工学の教授に就くのは、買収した十七私営鉄道の機関車、客貨車を整理する作業が山場を越えた明治四十二年四月である。
島は一年間母校の教授となり、熱機関の講座を持った。これはしかし、忙がしい毎日のなかでわずかなひととき、島が本来の学究的な資質をなぐさめる時間を得たことを意味した。
本郷の構内を歩く島はひそかにこの時間を楽しんだ。
週に二日ほどの講義の日、早めに大学へ出、聴講できる教室を探して教室に着席するのであった。
とりわけ哲学の講義をよく聴講した。
それもカントであった。
島の資質のなかには純粋理論への渇望がうずくまっている。
厳密な論理によって組みあげられ、ひとつの飛躍もないカントの体系に、澄んだ美しさを感じただろう。
島がこの三年間つきあってきたのは、中古の鉄道車両の膨大な群だった。本来ならば数学によって記述され、物理法則につらぬかれて動く明快な機械のはずだが、後発国の日本の土壌にそれを置くと、にわかに湿り気をおびはじめ、日本的な心情にまみれてにごっていくらしい。
そして、本来なら具合よく無駄なく汽車を走らせるための鉄道の改築が、どうかすれば人間の欲得ずくの掛け引きの材料となって、明快なはずの機械が人間のもつ曖昧《あいまい》な心情にまみれてしまうらしい。
機械そのものの澄んだ理論の周辺にまといつく、人間の匂い、何やら有機質な感触は、島の精神をときに疲れさせた。
島工作課長の心労に、カントの論理的思考は音楽的な響きでしみ込んだのではないだろうか。
そして、わずかにまどろんでいる島工作課長の頭のなかは、やはり、日本の鉄道で占められており、その重さに耐えて思考を続けさせている力は、この時代、能のある者は現場を歩き、大学で教えたり、その才能を惜しげもなく費やして果たす使命感なのである。
このとき、島には後藤新平から課題があたえられていた。
「電化」である。
後藤鉄道院総裁は、自らいうごとく課長職に俊秀を抜擢し、よく話を聞いていた。
鉄道院内では「読書会」という勉強会が設けられるようになった。鉄道作業局時代から購入している外国の文献が、よく研究されずに放置されており、それをとりあげ、読んだ者がその内容を報告し、質疑を重ねて討議し、内容を共有のものにしようというものだった。
この席に時間があれば後藤新平も顔をだし、世界の技術動向、運営面の新機軸などには旺盛な研究心を示していた。
その席上で、島安次郎も喋ったことがあった。
ドイツで行われている最高速の電気鉄道について語り、さらにニューヨーク・セントラル鉄道などの電化鉄道のようすも講じている。
後藤新平は新技術についてのみ込みが早い。
「電化」には並々ならぬ興味を示し、かつ、それをものにしようとした。
後藤が鉄道院総裁に就任してかかげた目標のひとつが「電化」なのである。
さきにふれたようにこのころ日本の鉄道には、一ヵ所、鉄道事業としては致命的な難所があった。
信越線の横川―軽井沢間である。一〇〇〇分の六六・七という急勾配線があり、そこを歯車で登るアプト式蒸気機関車が息も絶えだえに列車を牽いていた。
明治政府の体質がこのような難所をつくりあげているといってよかった。
鉄道開通のころ、東西を結ぶ幹線が、当然のように計画された。本来なら東海道が東西幹線ルートに設定されるべきであり、のち、そうなる。
しかし、明治十年代の政府には、抜き難く外敵の姿がちらつき、陸軍中枢、とりわけ山県有朋の胸中には外国の軍艦がペリーの艦隊のように大砲を撃ちかけてくるという恐怖心がすみついていた。
当初、陸軍は鉄道が海から砲撃されることを本気で恐れ、できるなら幹線は内陸部を通すべしという考えを主張する。
その考えのために東西幹線ルートは中山道を通るという案がもちあがる。
あわせて、海岸部の輸送は船舶によって可能であり、むしろ、交通の難所である中山道に鉄道を敷設すれば、沿線の経済開発効果も期待できるという説もあって、中山道の東西幹線案が決定される。
こうして、明治十八年までに碓氷峠の下、横川まで線路は延びた。しかし、碓氷峠は聞きしにまさる難所であった。
急勾配をさけて山を巻いていけば工事量も大きくなる。
そこで、アプト式による直登ルートを決め、一〇〇〇分の六六・七の線路が建設されるのである。
鉄道の線路の規格を定めた規定によれば、一〇〇〇分の二五が勾配の限度である。それを直登の急勾配とし、アプト式を用いれば支障なしと判断した根底にあるのは、予算不足であった。
こうして明治二十六年にアプト式での碓氷峠直登ルートは開通するが、アプト式蒸気機関車は馬力不足でどうにもならなかった。
とりわけ盛大に煙を吐いてあえぎ登るアプト式蒸気機関車の乗務員は、煙にまかれ、命がけの運転を強いられている。
この線区の改良を、「電化」によって行うと後藤は明言していた。
そして、その仕事が工作課長島安次郎に託された。さらにそれだけではなく、後藤はそのほかの幹線も電化してしまおうと考えており、それも島に命じていた。
島安次郎は、一年間の東大教授ののち、明治四十三年、ベルンで開催された「万国鉄道会議」に出張を命じられ、あわせて二年間のドイツ留学を命じられる。
島にとっては二度めのドイツ留学であったが、実はこのとき、後藤からひとつの密命を受けていた。
幹線の電化についての技術的検討と、さらに海外からの融資についての調査であったらしい。
あったらしい、というのは、電化計画について、後藤がどの程度具体的な腹案を持っていたかについて確認できないからである。
が、前出の『後藤新平』には、電化について島が働いた確実な傍証があげられている。
後藤新平のもとに、電化計画についての外国電が残っていた。
発信者はドイツ、アルゲマイネ電気会社の社長ラーテナウであった。
ラーテナウは第一次大戦後の外相に就任、暗殺された。この時点では枢密顧問官である。
電信文が一通、それに対する後藤からの返信が一通、そして、ラーテナウからの書翰が一通後藤の手もとに残されている。
ラーテナウ側からの電信の日付は一九一一年二月二十四日、午後七時三十二分に着信した。
逓信省後藤男爵閣下
「鉄道電化計画に関し、金融方、二月十六日付を以て、閣下に書面呈上せり」
アルゲマイネ・エレクトリチテート会社社長 枢密顧問官ラーテナウ
この電文への返信。
明治四十四年(一九一一)二月二十七日
伯林《ベルリン》、エレクトロン枢密顧問官ラーテナウ
「昨日の貴電に対し深謝す。二月十六日付の貴翰間もなく入手を希望す」
[#地付き]後藤男爵
続いてラーテナウから長文の書翰が届いた。
以下は英文書翰の翻訳である。
「鉄道院総裁男爵後藤新平閣下
閣下ノ管掌セラルル鉄道院ニ於テハ、東京下ノ関間幹線ノ軌幅ヲ拡ムルノ御計画、並ニ東京横浜間、及恐ラクハ横浜国府津間ヲ始トシ、該線路中ノ或区間ヲ電気化スルノ御考案中ニ有之候由拝承奉リ候」
右の書翰のなかで、ラーテナウが「拝承」した日本人が島安次郎だったのである。
書翰は次のように続く。
「而シテ弊社ハ閣下ノ部下タル大道、島ノ二氏ノ伯林滞在中、此計画ノ技術的及財政的見込ニ関シ、二氏ト論議スルノ栄ヲ得申候」
さらに、
「島氏ノ御助力ヲ仰ギ、当地ノ鉄道専門家ハ線路ノ電気化ニ関スル、準備的報告ヲ作製中ニ有之」
ドイツのアルゲマイネ社の技術陣と、鉄道の技術領域の検討をしているのは、このとき四十一歳の島工作課長である。
同行している大道という人物は、総裁秘書官兼官房保健課長だった。島より九歳若い。名は良太。京大法科在学中に高等文官試験に合格し、明治三十六年内務省に入省、大臣秘書官を経て、同三十九年逓信大臣秘書官、鉄道院開設(明治四十一年)と同時に参事として入院した。
この時点では、まだ鉄道電化の方策は公表されていない。
それよりもまず広軌改築が一大方針として打ち出されている。しかも、政友会はこれに反対の色あいを示し、広軌改築の実行はそのまま政友会との対決を予測させていた。
こうした情勢のなかで、そのうえ電化準備に着手していることが明らかになれば、さらに反発を呼ぶ恐れがあった。
この時点での電化準備は表むき研究の段階であることが強調されている。
島工作課長と大道総裁秘書官の二人は、公式にはスイスのベルンで開催された万国鉄道会議へ出席のための洋行だった。
このときの日本側代表は前鉄道庁総裁平井晴二郎である。平井は鉄道院開設と同時に副総裁に就任している。
そして、万国鉄道会議の帰り道、ドイツ留学の島に付いて大道はアルゲマイネ社を訪れているのである。
いかにも密命であろうと推測できるのは、このラーテナウ書翰が、外資導入の可能性に具体的に触れている点である。このことが公表されれば、それだけで大問題となるはずであった。
「蓋シ外国資本ヲ得ルニ適当ノ形式ヲ以テセバ、閣下ノ企画御遂行ヲ易カラシムルモノト予想致候」
アルゲマイネ社は国際融資のシンジケートをオルガナイズしていた。この国際|融資団《シンジケート》の資金をもって、
「世界諸国ノ電気事業ノ遂行ニ当リ居候次第ニ有之候」
と書翰は続く。
鉄道院の計画について必要な資金はアルゲマイネ社がシンジケートと共同して調達し、日本政府は年賦返済すればよろしい。これがもっとも安い資金の調達法であり、
「之ガ為ニ特殊ノ公債ヲ起スヲ避ケ得ベク」
とし、
「日本帝国政府ガ此点ノ交渉ヲ進ムルコトヲ御認許アランコトヲ希望致候」
この融資について話を詰めているのが総裁秘書官大道良太である。
最重要案件を担当するにふさわしい官職ではなかった。むしろ隠密的事前交渉である。
アルゲマイネ社は国際金融シンジケートを形成する各社を具体的にあげている。
フランス商工興業会社、パリ国民割引銀行、フランス商工銀行、パリ連合銀行、チューリッヒ電気事業銀行、ベルリン電気事業会社、ブリュッセルの航海及び工業金融会社などである。
これらの会社をパリの電気工業中央会社が統括していた。
大道はパリでこの電気工業中央会社の取締役ハムスボーンに会い、さらにシンジケートの統括者シャルル・ローランに会い、国際融資団との予備的な交渉にあたっている。
島工作課長と大道秘書官は、日本の鉄道政策の根幹を左右する準備交渉にあたっていたのである。
もし、これが成功すれば、広軌改築、あるいは電化の計画は一気に前進する可能性があった。
この時点では広軌改築に関する予算措置がそのまま政友会との政治対決となろうとしている。
その紛糾の過程で、右のような国際融資の可能性が提案され、機を見て承認されれば、政友会との政治的対立の頭上を越えて広軌改築も電化計画も実現し得るのである。いわば政治の渦を抜け出る秘策、かくし球がこの融資計画であると見るべきであろう。
大道は鉄道院に移ってまだ日は浅い。この場面で日本の鉄道の総合的青写真を描き、技術動向を判断し、あわせて将来予測を持っているのは島安次郎だった。
島は広軌改築、電化計画、つまりは日本の鉄道の近代的改良に向けて、それを妨げる日本的政治事情を一挙にくつがえす方策をベルリンの空の下で練りあげ、ラーテナウ及びアルゲマイネ社幹部と協議していたのだった。
ラーテナウの書翰はいう。
「電化事業中ニ広軌改築ヲ包含セシムルニ在ルカ、将又《はたまた》電化ハ全ク独立ノ事業ナルカ、弊社ノ聞知セザル所ニ御座候」
この日本の鉄道近代化の方針の総合的な見取図を与えているのは他ならぬ島安次郎である。
が、欧米の場合の見積額によれば、その予算はおよそ、三五〇〇万ポンド、これを五十二回の年賦にし、年利四分五厘、年賦料五厘、手数料そのほかフランス政府への公納料金を五厘、あわせて、年利五分五厘を金利とすると計算している。
「日本帝国政府ニシテ、右様ノ方法ニテ年賦償還ノ取引方御一考相成候ハバ、弊社ハ貴院ノ御委任ヲ得テ、右事業ニツキ充分ノ調査ヲ試ミタル上、(中略)此提案ノ遂行ニツキテハ充分弊社ノ責任ヲ以テ保証致スベク候」
アルゲマイネ社は、当時すでに国際|融資団《シンジケート》の融資をともなって、ドイツ、フランス、イギリス各国の鉄道電化建設を広く請負っていた。
もしも、この策がとられれば、書翰中にあるように広軌改築の可能性も、さらには電化の可能性も十分に考えられるものだった。
しかし、後藤新平はこの秘策を胸中深く抱きながらついに発動しなかった。
また『後藤新平』は、ここで密かに進められた国際融資と電化計画が、政策実施過程のどこに関わるか明らかにしていない。
島安次郎もこの交渉について何も語らず、国際融資の秘策は歴史の水面下に没し、ついには陽の目を見ることはなかった。
広軌改築への第一手
鼻眼鏡の後藤新平は、島安次郎がドイツで学び、かつ、新鋭機関車の製造を監督している間、精力的に広軌改築への手を打ちつつあった。
後藤は赤革のゲートルをつけ、鉄道家族主義の講演を続けていた。
国有鉄道の広軌改築案は、すでに世間に大きな反響を呼びおこしていた。
入閣時の後藤新平の覚書きには次のような覚悟が明解であり、新聞はこの考えにそって広軌改築案をはやしたてるように報じはじめている。
「此軌道ノ改良ヲ断行セサルトキハ、軍事上経済上共ニ鉄道ヲ国有トナセル真価ナシト謂フヘシ。只財政整理ノ為ニ文装的武備ヲ怠ラハ、天下ノ事休スノミ」
後藤新平の思想によれば、文装的武備の意味は重く、広く、深い。文装的武備とは、軍事力の正面装備ではなく、いわば国力の総体が文装的武備なのである。
公衆衛生も、鉄道も、科学技術も、生産設備も文装的ではあるが武備の一領域であって、可及的速やかに、よりよいものへつくりあげなければ、
「天下ノ事休スノミ」
なのだった。
島安次郎への外資導入の密命の萌芽も、この覚書きには頭をのぞかせている。
「故ニ這般《しやはん》ノ改良ハ財政上ノ信用回復シ、若干ノ外資ヲ入レ」
アルゲマイネ社への融資の打診はかすかにこの文中に示されているが、すでにふれたようにこの策は闇に埋もれている。
後藤新平が、広軌改築への第一手を考え、練りあげるのは、鉄道院職員たちへの誠心誠意主義、家族的信愛主義を説く、講演旅行中であった。
後藤新平が動けば記事になった。そのために新聞記者が旅行の先々で後藤を取材する。
明治四十三年十月十三日の午後、都城の旅館摂護寺で後藤は新聞記者を相手に放談した。
話題は、「跣足《はだし》」についてである。
伊達訛りの後藤は、「はだす」と発音する。
「君ね、はだすは文明の遅れではないのだね、いっそ文明のものだね。世間の医者は衛生に悪いというが、はだすは万病を防ぐ大きな効果がある。鹿児島の学生にはだすが多いのは」
と眼をぎょろつかせ、
「むすろ、すんすの気性」
といった。
むしろ進取的気性に富んでいるというわけである。
後藤は浴衣を着て、早めに敷かせた蒲団のうえにあぐらをかいて放談している。
話はよく脱線する。講演もそうである。
ひとつの話題を話している間に、五つも六つもひらめき、それをひらめいたとおりに言語にしてしまいたい衝動を覚えるらしい。
しかし、その展開に速度があるので、聞いている者は魅せられてしまい、つい先刻までの話題を忘れて、後藤のひらめきに従って次の話題に引き込まれ、講演が終ればとどのつまり、頑張らねばならぬという自覚とともに拍手を送ることになる。
記者は、「はだすの進《ママ》め」に感動して納得し、いい記事が書けると思って退室した。
後藤はめしを食い、風呂へ入った。
先刻から頭脳がうずいていた。こういう場合は、かねて腹中に温めておいた考えが、出口を求めて頭脳の表面に躍り出る予兆である。
ゆっくりと湯舟につかり、身体をほぐして身心ともにやわらかにした。
自室に帰り、蒲団のうえで目を閉じ、形をもとめている考えがはっきりした姿をとりはじめていくのにまかせた。
旅館は寝静まっていた。
すでに深夜である。かっと眼を開くと卓にむかい、筆をとった。
このメモには日付がある。
十月十三日、都城摂護寺に於て――。
まず大きな情勢から書く。
一、清国と早晩大戦争を免かれ難き形勢に相成たる事。此形勢を可成《なるべく》巧に遂くるには武装以外文装的優勢を頼むに若かす。即経済的優勢によるへき事。
一、清国と開戦能力は虚勢にては不可なり。実力によるへき事。
且全世界との戦争を覚悟し、列国間合従の有様に照らし、常に優勢を伴はせさるへからさる事。
一、清国は大陸的にして広軌鉄道なるに、我は島国的にして狭軌なるも可なるや。
彼は前日の日清日露戦争時代と同一にあらすして、頗る成長し居るに拘らす、我は守株捕兎の顰《ひそみ》に倣《な》らはは、其勝敗知るへきなり。是内外輸送上一致の為、広軌の急施、可成経済的に経営するの止むへからさる所以なる事。
一、帝国運輸の状態、将来狭軌にて経済的競争に堪ゆるものと信するは、正に帝国衰亡を意味することを断言するを憚からす。
狭軌の不経済は愈々帝国衰亡の原をなすや疑を容れさる処なり。是経済眼よりしたる広軌急施の必要なる事。
一種の叫び声かも知れなかった。
明治期の鋭敏な感性が抱く危機のイメージがここにも露出していた。
中国の清朝は断末魔の姿をさらけだしており、清、すなわち中国を舞台にした大乱の予感はひしひしと後藤の感覚に迫っている。
この大乱を勝ち抜く方策を建てなければ、帝国は衰亡する。
時代は帝国主義の第二章の幕があがって間もない。
もちろん、児玉源太郎と台湾時代以来話しあってきた日本帝国の存亡の方策は、すでに後藤の頭のなかに刻印されていた。
わが帝国は大陸を制しなければ存立し得ないというこの時代の日本中枢の暗黙の野心、その野心と同じほどの危機感が、広軌改築案の冒頭に躍り出るのである。
広軌改築は、帝国の存亡のわかれめに位置する国家の大計であった。
以下、覚え書きは一気に具体的になる。
鉄道官僚、技術官は、
「建設改良運輸の大計大略を定むる能力に乏しく」
と批判し、政治家は、これら鉄道官僚を指導して計画をいかに前進させるべきかを、
「講究大成する力なき事、否余力なき事」
を知るべきであるという。
財政家は、こうした大計を前にしても、いつもながら、
「姑息の成功」
を考えたがるがこれを捨てなければならず、
「近視眼者の人望」
をとりたがる弊からも脱け出なければならない。
また軍人も、正面装備のみで軍事力を計っていたのでは、
「武装的文弱」
に陥いる。
「文装的武備を大主眼」
とする大見識を開かなければならない。
さらに産業界については、
「民間金融緩慢なりといふ説は、実業家企業力の乏しき為に生ずる一現象なる嫌なき能はず」
という。
日露戦争後、景気は停滞していたが、後藤新平によれば、やる気の問題になるらしい。
が、民間にも、新技術である電力を用いて鉄道を構想するものが現れだしていた。
「而して広軌並びに電力によらんとするもの漸く多く」
とその動向を指摘する後藤は、自身も将来の電化を視野におさめて広軌改築の秋《とき》きたるとした。
この決意が、思いつきではなく、後藤の年来の構想のなかにあったことはすでにふれてきた。
後藤はこの決断の前、鉄道院に新設した鉄道調査所に四十二年から広軌改築に関する研究を命じていた。
これに参加した鉄道院の人員は山口準之助鉄道調査所長以下、技師理学博士田中正平、技師塚本小四郎、杉文三、於保庫一等らである。
山口準之助所長は文久元年(一八六一)の生まれ、明治十六年五月、工部大学校を卒業、いったん内務省に出仕するが、転じて工科大学助教授、ついで山陽鉄道に入社する。
山陽鉄道では船坂|隧道《ずいどう》工事監督を経て、保線事務所主任、建築課長を歴任した人物である。技師長格の仕事をなしたとされる山陽鉄道創設期の逸材だった。大正五年、病気を理由に退官。昭和二十年、八十四歳で歿。
この時期は帝国鉄道庁工務部長を経て鉄道院鉄道調査所長に就任していた。
山陽鉄道にその人ありとされた山口準之助は、草創期以来の日本の鉄道人を代表して広軌改築の是非を問う大任をおおせつかることになった。
調査の主題は、広軌改築をするにあたっての総合的な検討、将来予測と費用対効果である。
一、東京下関ニ於ケル広軌鉄道並ニ之ト同等ノ運輸力ヲ有スル狭軌鉄道ノ建設費及ヒ営業費。
広軌改築に費用をかける場合と、狭軌のままの改良とを比較して、どちらが有利であるかを知ろうとする。
問題を構成する項目が次のように立てられた。
イ、一部広軌敷設ノ利害。
ロ、全線広軌改築予算額。
ハ、現在鉄道ノ発展余地如何。
ニ、狭軌鉄道ノ最高輸送力。
ホ、客貨ノ発達趨勢。
構えは純理論的である。
項目の組み立てはやや順序が逆転している。
ならびかえれば、まず将来予測として「客貨ノ発達趨勢」、つまり輸送量を推定し、これに対応する現状の鉄道の「発展余地如何」が問われ、かつ、狭軌のままでの最高輸送力が検証される。
この輸送力に余裕があれば改築の必要はない。
その検討のうえで広軌改築との比較がなされる。一部広軌とした場合の利点が問われ、全線広軌の場合との比較がなされる。
こうした一連の調査研究によって、広軌改築の必要が導かれれば、国家事業として妥当なものになるだろう。
およそ半年後、明治四十二年七月二十二日、山口所長らの報告は成った。
が、結論をさきに述べれば「広軌改築の要なし」。
狭軌の在来線を改良して強化すれば、輸送の需要に対応できるというのが、報告の主旨だった。狭軌を強化するという意味で強度狭軌といい、この改良された「強度狭軌」をもって上策とした。
意外な結論だった。
後藤新平は、内心舌打ちする。
純理論的に追究すればおのずと広軌改築の利点が導かれるはずであると考えていたところへ、足下から否定の報告があがってきたわけである。
(愚かものが)
と後藤は憤然とする思いだったろう。
この時代、指導者、上長者はよく人を叱り、それも、牛馬を扱うように怒鳴りあげた。
百雷が落ちるように、
「この大馬鹿野郎っ」
と怒声をあげ、縮みあがらせておいて、のち、何ごともなかったように面倒を見るという管理術が、どこの職場でも横行し、どの職場にも雷親父的な管理職がいた。みな、雷を落としたのちには、なにごともなかったように慈父のような笑みを浮かべる、ことになっている。江戸期に醸され、明治期に方法となった統率術、上と下のやりとりの文化的規範かも知れないが、下の人間はその都度ふるえあがらなければならない。
後藤新平もこの手を使う。
報告や計画案に疎漏があれば、百雷が鳴るように叱責し、叱られているものは床に這いつくばりたいような衝動を覚えたという。
山口準之助所長にも雷が落ちたのだろうか。
そうはいかなかったようである。
報告に疎漏なところはなく、よくまとまっており、無難な判断であった。
しかし、無難であること自体が、広軌改築計画のような主題の答案としては及ばない。
現状から無難な糸を紡ぎだしたのでは、何本の糸を束ねても無難な布を織ることしかできないのである。
後藤や、島安次郎ら鉄道の専門家にとっては、総合的な将来予測、つまり国際標準軌間鉄道が持っている総合的な有利さによって広軌に改めるべきだと判断していた。
それへ転換するためには、現状をいったん切断しなければならない。切断するためには資金が必要である。その投資の価値は、現状論の延長線上には存在せず、その糸をいったん切断し、飛躍し、窓を開け、その視野のなかにはじめてとらえられる価値が、つまりは有利さだった。
やがて日本の社会は、あらゆる産業がむらがり起って回転しはじめ、近代産業社会がいやが応にも発展していくはずであった。近代産業には拡大して止まない増殖本能がうずくまっており、走りはじめた以上は、燃えるものがある限り燃え続ける炎のように発展していく。
とりわけ日本では、火を燃えあがらせなければならない時代だった。その炎が果てもなく燃えあがる本能を持っている以上、鉄道はその果てもない果てまでを含めて動いていなければならない装置なのである。
こうした壮大な構想力を抱いたその場所からひるがえって日本の鉄道の現状を見れば、狭軌では間にあわないことが歴然としている。
だがその限界は総合的な構想力のあるものにしか見えていない。
とりあえず、ものの見えないものにとっても欧米諸国がその見本であった。だが、欧米社会をただ見物しただけでは近代産業の本能まではとらえられないのかも知れなかった。その深部にうずくまる増殖本能を見抜くということは、ヨーロッパに発生して盛りを迎えている近代産業社会の本質を見抜くことを意味していた。
後藤新平はその本質を見抜き、近代産業社会のすごみをよくとらえていた。ただし、類推的にその姿をイメージしていたのだった。
後藤新平は社会有機体説に近い考えで近代産業社会を眺めていたのであり、そのアナロジカルな水準で、欧米近代社会の本質を大づかみにつかまえている。
近代産業社会で繰りひろげられている営為は、無数の細胞が分裂し、寄り集まり、体液をめぐらして組織を形成するように、あるいは、植物が種子から萌え育って根を張り枝をのばして葉を茂らせ、増え、地表を覆いつくさんとするように、社会は各個体の創意が縦横に交叉し、火花を散らして大きくなろうとする。そこでは連鎖状の反応が無限にまき起っており、その反応速度についていけない存在は枯れ、それは効率のよいものに食われ、弱肉強食のドラマを演じながら休みなく前へ前へと進んでいく。そしてこの群落のごときものが国家である。
日本もまたその有機体のなかに参入した以上はこの法則の下で走り行く一個の国家なのだった。
故に、国家機関たる鉄道事業に停滞は許されず、狭軌のままであることは許されない。
後藤新平の考えの骨格を描けば以上のような構えになる。
したがって、事業計画の無難さ≠ネどはこの構えに立ち入る余地さえなかった。
これに対して、山口準之助所長がとりまとめた「強度狭軌」の構想は、あくまでも、いま現在の鉄道施設を前提にし、補強し、間断なく改良的な手当てを重ねていこうという現実主義が根底に横たわっている。あるいは、この年八月、ロンドンで客死した日本鉄道の父、井上勝が狭軌をもってよしとした判断が遥かに影響しているのかも知れなかった。
線路の幅をかえるということは、鉄道施設のすべてを大きくすることだった。
隧道も橋梁も、駅も、機関庫も、あらゆる装置を大ぶりに変え、強度をあげてしまう大工事を、輸送を止めずに行うとすればどのような事態が出現してくるか、その作業量を見つもることができ、現場を想像できるものなら誰でも二の足を踏むはずであり、ひどい混乱を予測するのが常識というものであった。現状を切断し、飛躍することで生起する危険を恐れる心理は、こうした場合、現場をよく知悉するもののほうが抱きやすかった。
改革には現状論から導かれた反対勢力が発生するのが常であり、広軌改築案もいわば法則どおり山口らによって純理論的に批判された。
これ以後、広軌改築案をめぐって発生した対立は、そもそも鉄道院内部にさえ反対意見が存在することでいっそう複雑な様相を見せることになる。
ここで山口準之助以下の専門家がまとめた報告について、ややくわしく述べる。
そこで検討された設問は、はるか後、昭和三十九年に開通した新幹線計画の際の問題意識へ架橋されるものである。
広軌の要件は次のように措定された。
「広軌鉄道ハ東京中央停車場ニ起リ下関ニ至ルモノニシテ、既成鉄道ニ沿ヒ別ニ複線ヲ設クルモノナルモ、線路ノ位置ノ如キハ必スシモ現在ニ依ラス、土地ノ情況其ノ他ヲ参酌シ、之ヲ撰定スルモノトス」
以下、意訳すると、軌間は国際標準軌四フィート八インチ半(一四三五ミリ)、機関車は四軸連結(動輪数が四、D形)テンダーとした。区間の急勾配線区はすべて一〇〇〇分の一〇に改築する。駅は東京と下関の間に横浜、大船、国府津、沼津、静岡、豊橋、名古屋、米原、馬場、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、広島、柳井津、徳山、三田尻、小郡とし、これ以外の中間停車場は設置しない。
そして、
「現在既成鉄道ハ其ノ儘《まま》之ヲ存置スルモノトス」
とした。
新幹線の原形がここに出現しているわけである。
この構想が新幹線より半世紀も早く描かれていることに必要以上に驚くことはない。
地勢と都市の配置が同じであれば、そこに建設されようとする鉄道が必ず相似形を持つのは当然であった。
この広軌別線の建設費総額は約二億二百八十万円である。
これに対して、これと同等の輸送力を持つ狭軌鉄道複線を新たに別線として建設すると総額は一億八千九百万円となる。この鉄道は強度化された狭軌鉄道である。
別案として、この強度化された狭軌鉄道を、既設線の弱点部、もしくは輸送量の多い区間へ補強するように新設し、さらに既設線を強化し、単線を複線化するなどの手当てを行った場合の工事費総額は一億三千七百万円であった。
その内容は、強度狭軌新線を東京から沼津、大垣から関ケ原、馬場から明石、八本松から広島の区間だけ新設して補強し、その他の区間で単線のところを複線化する。これはつぎたし補強案だが、これで五倍の輸送力増が見込まれるとした。そして、広軌新線とこの補強改良線の営業費をほぼ同額と見つもっている。
これで三つの案が出揃うことになった。
すなわち、一、広軌新線、二、強度狭軌新線、三、一部を新線で補強し、既設線を改良する。ただし、一の広軌新線案も、二の強度狭軌新線案もともに既設線はこれを残して併用することになる。
そして、このなかの狭軌鉄道を走る機関車の最高速を六〇マイル時と考え、その機関車と改良された車両を使用すれば、
「普国《プロイセン》官有広軌鉄道ト略《ほ》ホ同等ノ速度ニ達シ得ヘキモノトス」
と想定している。
以上の検討によって、予算も安く、これまでの線路を十分に使いこなしていく強度狭軌補強案が有利とされたのである。
ただし、この案のなかには、南満州鉄道で行われたような、三本レールの線路を用いながら広軌へ改築していく方法は検討されていない。いま現在、国家の動脈として機能している東海道線、山陽線ではとても満州のようなわけにはいくまいと判断されている。
山口準之助らの報告が無難でもっとも実現性が高いのは、論を待つまい。時々刻々と動いていなければならない鉄道事業、さらに継続的に行われるべき改良工事が国家予算の立て方(単年度主義)などにも無理なくなじむものとして構想されているのである。
大改造案に対する小なおしの積みあげ案は、後者の側に、当座の現実味が色濃く反映しているので、改革案の大胆さとくらべた場合やっかいな対立を演じる。無難な現状論に根を張る小なおし案は、場当りの対症療法に陥る危険をはらみ、一方の大改造案は空を飛ぶようで、当座の現実昧がうすく、失速の恐れがつきまとうのであった。
後藤新平はうめくように山口の復申書(調査報告)を読み、ただちにこの復申書に対する批判を鉄道院技師石川|石代《いしよ》に命じた。
石川石代は日露戦争の際には臨時軍用鉄道監部技師長に就任して、京義鉄道三〇〇マイルを一年で開通させるなどの豪腕技師であった。もちろん、石川は広軌改築派である。
鉄道院内部の広軌派は、この臨時軍用鉄道監部、そして、南満州鉄道の経歴のある者に多い。広軌鉄道の威力を南満州鉄道広軌改築後に知った者は、内地に帰り狭軌の線路をひと目見ただけで貧弱さに胸苦しくなるというほどであった。
石川技師は、明治元年、三重県亀山に生まれ、明治二十三年帝国大学工科大学土木科卒、島安次郎の四期先輩で、山口準之助らの次の世代にあたる。
このとき四十二歳、ちょうど前年に欧米各国の鉄道を視察して帰国したところだった。
山口の復申書が成るころは洋行中であり、ちょうどその一年後の四十三年七月に石川の復申書が書きあげられた。
結論は広軌改築の推進である。
石川は広軌を国際標準軌間と呼び、略して「準軌」と記している。
以下はその「緒説」からの引用。ここには広軌改築を必要とする考え方の基本が述べられていた。
「準狭何レニ拠《よ》ル可キヤハ、主トシテ将来経済状態ノ発展ノ程度カ永久ニ狭軌ヲ以テ之ニ応シ得ヘキヤ否ヤノ推定ニ依リ決ス可キモノニシテ、建設費ノ問題ノ如キハ寧ロ従タラサル可カラス」
明快な断言であった。
この断言の前に、すでに国際標準軌間鉄道の優越は「異論ナキ所」としている。その証明は欧米の鉄道を見るだけでいい。
要するに、日本の鉄道の現状を繰り込んでの広、狭の比較は「従」つまり、本質的な比較検討を意味するものではないという。
なぜか?
「生産ニ対シ不適当ナル設備ハ、終《つい》ニハ国家経済ノ大欠陥タル可キ者ナレハナリ」
石川の言は、後藤新平の装飾の多い決意にくらべて、よほど明晰である。
石川の報告を続ける。
まず、山口報告と同様、改良方法を次のようにあげた。
一、準軌道複線新設費、二億三百万円。二、強度狭軌道複線新設費、一億九千万円。三、強度狭軌道複線改築費、一億三千八百万円。
山口準之助のものと見積予算額に大差はなかった。
だが石川は、広軌新線、強度狭軌新線案の両案をともに「大胆粗慢」のものとして退けた。
比較するといいつつも、いきなり巨大な計画を想定し、これでは金がかかりすぎるから現状の補強的改良が妥当であるというのではくらべたことにならない。
石川は、比較の範囲をより実際的に設定しなおした。
すなわち、山口報告のなかの補強的な改良策である「強度狭軌複線、一部を狭軌新線で補強」する案を認め、これに対して既設線を広軌に改築する案の二案こそを比較検討すべきだというのであった。
石川の計算によれば、既設線を広軌に改築するに要する予算は一億五千二百万円である。
にわかに広軌改築案が現実昧をもってくる数字が浮上した。
石川の論は、頭ごなしに山口の案を否定するものではない。むしろ、常識的に考えて、山口らが検討し結論づけたように、既設線を土台にしてそこから改良を組み立てていくべきであり、
「本幹線現状ヲ考察シテ改築ヲ企図センニハ、必スヤ此ノ方法ニ拠ラサル可カラサルモノトス」
と評価していた。
そこから石川は比較を進めていく。
この考え方こそが、改良に関する基本となるものであった。
石川は考える。
すでに現状のままでも、増大する輸送需要に応えられず鉄道の強化、あるいは複線化は行われなければならない。その工事がそのまま「強度狭軌化、複線化」のはずである。
ことさらに「強度狭軌化」というまでもなく、輸送需要に対応する経常的改良費が、山口準之助のはじきだした「強度狭軌化案」の一億三千八百万円なのであった。
この経常的改良費、すなわち、今後、当然のように、国有鉄道がその機能を維持するために出費を運命づけられている費用に対して、既設線の広軌改築に必要な費用が一億五千二百万円なのである。
いい換えれば、経常的改良費におよそ一割を加算すると広軌改築ができることになろう。
「我邦百年ノ計ヲ立ツ上ニ於テ、狭軌トシテ本幹線ノ改良ヲ図ランニハ、橋梁ノ強度軌道ノ結構|固《もと》ヨリ斯クアラサル可カラサル所ノモノニシテ、敢テ異数ノ経費ヲ狭軌ニ投スルモノト認ム可カラス」
すなわち、鉄道の改良は、
「斯クアラサル可カラサル所ノモノ」
として予測され、自明とされなければならない。
狭軌鉄道の線路上を走る機関車は、最高速度六〇マイル時の機関車を想定していた。
その機関車を投入し、一日に百二十回、昼夜を通して、一時間に五往復の列車を走らせると想定して、最大輸送量は、旅客で二倍、貨物で五倍まで増大させることが可能であった。
しかし、この数字はあくまでも狭軌鉄道の理想である。
このような、極限的狭軌鉄道、すなわち、
「如是理想的改良ノ線路上ニ理想的極度ノ運転ヲ間断ナク持続スルモノトスルモ、尚且《なおかつ》三十年後ニハ直《すぐ》ニ其不足ヲ訴ヘサル可カラサル」
ことは将来予測においてこれも自明である。
狭軌鉄道の極限的な運用をあげて、十分とするのでは射程が短い。
さらに、営業費を検討すれば、何度もふれてきたように広軌鉄道は列車単位が大きくなることから輸送単位当たりの営業費の比率が低くなる。
広軌鉄道にした場合、一年間に、
「其節約額五拾余万円」
と石川は試算した。
強度狭軌化と広軌改築化の差額は千四百万円ほどである。五分の利子で計算すると年に七十万円ばかりになり、営業費の節約額ではその利子の支払いに、当座は不足になる。
「未《いま》タ以《もつて》営業費ノ減少ハ此差額ノ利子ヲ支払フニ足ラスト雖《いえども》、輸送発達シ営業費ノ増加之レニ三割三分ヲ加フルニ至リ、則チ千三百三拾万円ヲ要スルノ時期ニハ、営業費ノ減少ハ此建設費差額ノ利子ヲ仕払フニ足ルヘシ」
将来、営業費の差額がものをいう時期に至ったのちは、広軌への改築費は相殺され、利益に転じることになる。
「此時期ハ蓋シ遠キ将来ニアラサルヲ知ルヘシ」
と石川は断言を重ねた。
さらに、石川は雑件であると自らただし書きをして軍事上の利点をあげた。
「満韓ト同一ノ軌間ヲ本邦ニ有スル事ハ、車両、器具、器械、其他ノ流用ニ於テ幾多ノ利便アリ。況《いわ》ンヤ軍事ニ最必要トスル敏速確実ナル輸送、狭軌ノ遂ニ準軌(国際標準軌間)ニ及ハサルコト明ナルヲヤ」
広軌改築計画にこの時代の帝国主義的な国家意志を読む考えもあり得るだろう。が、鉄道技師に関する限り筆者はこれをとらない。
ここで鉄道技師の石川が述べる軍事的な価値は、この時代の思潮のなかで、広軌鉄道の有利さを補強するものとして援用されたものであろう。
論旨のなかで中心となるものは、将来予測にもとづく鉄道の合理的な運用であり、そこで考えれば、いまのうちに広軌改築をなしたほうが近代産業国家の基幹装置として有利であり、当座は改築費が高くつくが、長い眼で見れば絶対に得であるという合理的な判断であった。
石川は結論として、ひとまず東京から下関までの幹線七〇〇マイルについては広軌改築を断行したほうが有利と判断しながらも、
「而《しか》レトモ我邦既設ノ線路五千哩以上ニ達シ、本区間ハ僅ニ其七分ノ一ニモ足ラス。軌間ノ統一ハ最モ必要ナル事項ナレハ、残余四千三百有哩ノ幹支線ヲ悉ク準軌ニ改築ス可キヤ否ヤヲ決定シタル後、始メテ実行ヲ図ル可キナリ」
と、より大きな判断を求めて論を閉じた。
後藤新平はこの石川復申書を得てのち、猛進を開始する。
まず大蔵省と談判し、これを押しまくって桂内閣が日露戦後の財政整理をあげ、非募債主義をかかげた旗をくつがえすことに成功する。
大蔵省への後藤のものいいは、ときにえげつなかった。
「鉄道公債ノ追テ発行セラルヘキ事ハ、内外人既ニ之ヲ察知セリ。然ルニ之ヲ発行セサルトキハ、一時的即姑息的方法ニヨル事ヲ推知セラルルカ故ニ、公債発行ヲ見合セ居ルヲ以テ、我財政ノ強健ナル事ヲ内外ニ了知セシムル好方便ト云フ事ヲ得ス」
いい換えれば、公債を発行したほうが、健全財政の証明となるという強弁である。
以下あらゆる理由をあげて大蔵省を攻めたてた。
公債を発行せずにやりくり算段で鉄道事業を縮小したのでは二十世紀にそぐわない鉄道で列強との経済競争を闘うことになるであろう。そんな政策では姑息である。広軌改築が必要であることをいわないのは鉄道院総裁の職にあって、忠でないことになるではないか、と職責論でさえ、どこか強圧的であった。
すでに後藤の構想のもとに明治四十二年帝国鉄道会計法が成立していた。
その第二条では公債発行が許されている。
「第二条 帝国鉄道ノ建設及改良ニ要スル経費ハ鉄道益金ヲ以テ之ニ充ツ但シ鉄道益金不足ノ場合ニ於テ政府ハ本会計ノ負担ニ於テ公債ヲ発行シ又ハ他ノ特別会計其ノ他ヨリ借入金ヲ為スコト得」
これが後藤の根拠である。
だが、このとき鉄道会計の実状は借金が山となっていた。
明治四十二年度で新旧公債額は六億円をこえ、平均五パーセントの利子で計算して三千万円である。これは鉄道会計の収益勘定歳出八千三百万円の三六パーセントにものぼっていた。
実際上では、公債発行はきつい。
しかし、後藤はいう。
「今ニ到リテ強テ一般会計ノ累ヲ引証シテ将来ノ公債発行若クハ借入レヲ困難ナリトシテ鉄道完成ヲ制限縮小セハ、特別会計ヲ設置セラレタル当時ノ理由ヲシテ死滅ニ帰セシムルノ嫌ナキカ」
さらに、一般会計の非募債主義と、特別会計からの公債発行は別枠のものとも主張した。
のち、この公債発行案は金融市場にその力がなく、大蔵省預金部から借入となる。
大蔵省は後藤の主張にたじたじであった。
それまで鉄道院の投資額は毎年四千万円ほどが予定されていた。それが広軌改築を前提とする場合、二千万円ほどがうわのせされるというのである。
この後藤の根まわし、事前交渉について大蔵省は、広軌改築計画そのものを、
「財政当局ノ全ク予期セサル所ナリシ」
とあえて返答している。
そして、鉄道公債としての毎年の発行限度額は二千五百万円程度、それも短期債券であること。さらに大蔵省預金部から千五百万円、これに鉄道益金一千万円も加えることが可能であることなどが返答された。
ただし、広軌改築計画について財政当局として反対はしないけれども、計画が公表されれば鉄道普及の要望にも答えざるを得なくなる恐れがあることが懸念され、指摘された。
懸念どころか、全国津々浦々が鉄道を待ち望んでおり、この声を無視できずに、
「年々ノ支出額ヲ前記金額以上ニ増加セントセラルル如キアルモ、財政当局ハ之ニ対シ責任ヲ分ツコト能ハス」
と釘をさした。
大蔵省幹部は政友会の動きを見ていた。
後藤新平鉄道院総裁が鉄道の抜本的改良策を進めようとしている一方で、政友会はこの年の三月、すでに「全国鉄道速成に関する建議」を議会に提出していたのである。
いずれ総花的に、広軌改築も、新線建設も行うというように投資額が水ぶくれにふくらむかも知れない。そうなったときの財政的責任は持てない、と大蔵省はいっているのであった。
政治的妥協
明治四十三年十二月十二日、広軌改築案は閣議に附議された。
計画は東京から下関までの幹線に接続する港湾連絡線などを含んでふくらみ、総予算額は二億三千万円、明治四十四年度から準備に入り、十三年間の継続事業とする大計画案に成長していた。
幹線のほかに広軌に改築される接続線は、横浜税関線、横須賀線、平塚線、蛇松線、武豊線、熱田線、大津線、小野浜線、和田崎線、宇野線、呉線、宇品線、大嶺線である。
この閣議で後藤新平は、二十項目もの提案理由を述べる。
まず世界の鉄道の軌間で標準軌間を採用している国々をあげ列強がすべて広軌であることを示した。狭軌の諸国もあげたのはそれが植民地や、後進国に多いことを示すためだった。
そこから日本の現状を説き、国有後のいまこそが広軌改築の好機であると述べ、日本における広軌、狭軌の比較をし、幹線から着手してやがては全線を広軌化する構想を述べていった。
最後に満韓との軌間統一による軍事的な利点をあげたのは石川技師の論の進め方と同じである。
鉄道技師らの主張する広軌鉄道の利点とは純理論的なものであったが、後藤新平にとっては、軍事力、それを支える文装的武備、すなわち国力の増強がもとより主眼である。
閣議でまず賛成したのは寺内正毅朝鮮総督であった。寺内もまた軍事上の必要によって、東海道線、山陽線の広軌改築を構想していたのである。
このころ世間には広軌案の主謀者が寺内であると見るものがいた。
報知新聞などは、後藤新平が功を焦って広軌案を推進しようとするのを寺内が陰で煽《あお》り、自分の腹案を実現させようとしたと報じた。
寺内は明治二十六年から鉄道会議議員として陸軍の鉄道政策を担当、同三十三年から三十五年まで鉄道会議議長を務めている。また児玉源太郎亡きあと南満州鉄道設立準備委員長の経歴も重ねていた。鉄道政策には強い発言力を持ち、こののち、明治四十四年からは鉄道協会会長に就任する。
寺内がことさら後藤を煽らずとも、広軌改築は両者の共通の腹案だった。はるか以前からの了解であったはずである。
閣議を経て、十二月十七日、広軌改築計画は鉄道会議で可決される。
広軌改築案は、明治四十四年度の予算案として上程されることになった。
後藤新平は、明治四十三年九月に仮庁舎として竣工した呉服橋の鉄道院総裁室で鼻眼鏡を光らせた。
鉄道院仮庁舎は、中央停車場の正面付近にいずれ壮大な建物を建てるという意味で仮庁舎と呼ばれることになったが、白壁にヨーロッパ風の尖塔をいただく華麗な姿を川面に映しだしている。
それは日露戦後、世界の列強に伍したと自任した帝国の国家輸送を担う機関にふさわしい鉄道院の雄姿でもあった。はるかに新橋から中央停車場に接続する高架線がつい半年前の六月に竣工し、電車が走りはじめていた。
中央停車場の工事は明治四十一年、この時点の二年前に着工され、本屋の鉄骨がようやく姿を現しかけていた。この工費だけで二百八十万円の予算が費やされるはずだった。
いたるところで工事が進められていた。
中央線は翌年中に開通する予定だったし、房総線は前年から着工され、成東から東金にかけて路盤が盛られ、あるいは開かれつつあった。
山陰線は米子から西へ延び、福知山から延びる福知山線では高さ四一メートルの余部鉄橋が基礎を打ちおえ、壮大な鉄の橋桁がやがて背をのばすはずだった。木曽川では日本で一番長い径間の鉄橋が架けられようとしており、鹿児島線の人吉と吉松の間には、日本で最初の山を巻くループ線の工事が進められていた。
日本が偉大になりつつあることを雄弁に物語るもののひとつが鉄道であり、鉄橋や、駅舎や、トンネルなのだった。
後藤総裁はこれらの工事がすべて狭軌鉄道として建設されつつあることを無駄と断じ、十月には早手まわしに、広軌改築を予定する線区の新たな設計はすべて、広軌用の寸法をもって設計するように通達をだした。これによって複線区間では線路の幅を広げ、天竜川などの橋梁も強度と広さにゆとりのある広軌用の仕様となったのである。改良工事案書類にはすべて「広軌準備」の印が捺されだす。
このとき、広軌改築は、どうやら実現するかのような勢いだった。
後藤はまた政友会本部へまで出かけ鉄道港湾調査会で、熱弁をふるい広軌改築案への協力を要請している。
が、その説明を聞いて、政友会内部にはかえってこれを否定する反応も生まれていたのである。
後藤は勢いに乗り、
「今回は京関(東京―下関)のみの広軌改築計画であるが、将来は無論全国の重要幹線は尽く広軌に改築する。その予定経費は四億五千万円である」
といってのけた。
これは政友会に対して刺激的にすぎる発言であった。
(将来にわたってそれほどの予算を食うとなれば、地方線の建設は遅延されるだろう)
と思うのが政友会なのである。
とりわけ原敬はその腹を決めることになる。
原敬の考えはあざといほどに新線建設王義である。
「広軌のことは、遠き将来に於ては必要ならんも、余の見る所にては、日本の鉄道は欧米に於けるが如く、長距離の間に貨物を運搬するの必要なし、故に鉄道に伴うて要所々々の港湾を修築せば各勢力範囲に於ける貨物を集散し得るものなるに因り、俄に広軌に改良するの必要なし。且つ広軌には非常の改良費を要するに因り、寧ろ各地に延長するに若かず」(『原敬日記』)
原敬は鉄道に対してこれ以外の政策は持ちあわせていない。
(鉄道未通地域に新線を引け、その政治効果によって票を得、藩閥官僚勢力へ対峙し、凌駕せん。わが陣営の強化のために鉄道を利用するに若かず)
この戦略のようなものを前に、
「我邦百年の大計」
を合理的に建てようとする者がいるとすれば、思考は完全にすれ違う。
山口準之助も、石川石代もともに、純理論的に考究しようとし、そのために計算尺や算盤で指を痛めるほどに苦心したが、両者ともにその努力は原敬の前では馬鹿々々しくも虚仮《こけ》となり果てるのである。
だが、原敬が立っている場所は、そこが後発国の厳然とした現実であるだけに強固であった。
満州と朝鮮半島に勢力を拡大し、それをもって列強と対峙し、帝国主義の世界へ打って出ようとする野心の足もとには、原敬の見すえている草深い後進性が息づいていた。
いかに天馬のごとき後藤が構想力を駆使して、日本帝国の可能性を引き出そうとあがいても、原敬の現実主義の前では空想に等しいほどに色褪せてしまう。
「何ンデモ鉄道ガ一番良イ」
と鉄道開闢の瞬間に、伊藤博文や大隈重信が大胆に考えた同じ政治効果が、日本の鉄道未通地域に眠っていた。
その遅れた地域の息づかい、心情の色あいをよく知る者こそ、鉄道といえば、
「延長するに若かず」
と考えるはずだった。
そうした心情を共有する者たち、政友会の鉄道港湾調査会の代議士たちを前にして後藤新平はなおも国家百年の大計を説いた。
「昨今の鉄道の負債は概算八億三千万円と云うことになって居るが」
と後藤新平自身、いっこうに訛りの抜けない東北弁で続ける。
話しぶりは、鉄道院の配下たち、現場の職員を相手にして親愛主義を説くよりは慎重であった。
しかし、どうにも脱線するのは後藤につきものの病である。
いわなくてもいいことを後藤はいう。
「元利償却のことを推算して見ると、明治百五年になれば元利を償却しまして五千二百万円余の純益が得られる。其の翌年から即ち明治百六年からは八千八百万円の純益が得られるようになる」
居並ぶ政友会代議士らは、誰も無言であった。聞いているふりをしていた。
皆同じように無表情のまま、ただたがいに目を見合わせた。わずかに口もとをゆがめる者もいた。
(こやつ、馬鹿じゃな)
と思われても不思議はなかった。
後藤は真剣に、言葉を続ける。
「それから仮に広軌改築を計画しないものと計算しまして、元利の償却を計りますと明治九十一年に元利償却を致しまして七千万円余の純益が挙《あが》る」
これを比較するとおよそ十五年の差だと後藤はいいたいのである。
「そうして吾々の子孫に極く熟したるところの運輸の効果に浴せしむようにせねばならぬと云うことも考えまして、(鉄道)特別会計にどれだけの能力があるかと云う事を推算するものを拵《こしら》えて見たのであります」
政友会の代議士らは静かに話を聞き、二、三質問するものもあった。
後藤の返答は同じことのくり返しになるがていねいな口調は変らない。
その後の歴史を知るものがこの場面を嗤うのは見当違いである。明治百六年が一九七三年であり、そのときの歴史的現実が、後藤や政友会代議士の想像力の及ばないものであることのほうが、私たちのその後の歴史の様相を浮きぼりにしていることになる。
後藤は、政友会はもとより、あらゆる代議士が自分の地盤に鉄道を敷設するか、道をつけるか、橋を架けたがっていることをよく知っていた。
そのなかの鉄道に関しては、軽便鉄道建設が用意されていて、その安あがりの鉄道によって、未通地域に鉄道をもたらし、そのことで交通運輸が発展することもあわせて説き、政友会への説明を終えた。
明治四十四年一月二十一日、第二十七帝国議会に、広軌改築案は上程された。
議会の最大勢力は政友会百八十七名である。定員が三百七十九名で、わずかに過半数へとどかないにしても多数派への工作はどうにでもなる。
政友会と藩閥官僚系内閣、つまり、第二次桂内閣とは、さきにふれたように政権授受密約がまだ継続中だった。
これに対して、立憲国民党九十二名は野党的立場にあった。前年以来、憲政本党、又新会、旧戊申倶楽部の一部などが合同して結成されたのが立憲国民党である。ほかに中央倶楽部五十名があり、互いににらみあっていた。
桂と西園寺の間の密約はこのとき「情意投合」といわれる絶頂期を迎え、明治四十四年度予算案に対しては、賛成、通過の話がついていた。
したがって、後藤新平はこの密約のもとで、気をつかいながら政友会への説明を行い、政友会に予算承認の内意がある以上、
「広軌改築案は継続事業として議会を通る」
という見通しを持つのは当然だったわけである。
ただし、政友会総務原敬は、密約とはいいながら、おさえをかけておかなければ山県系官僚勢力が、政友会の足もとをさらいかねないことをよく知り、警戒している。
貴族院では昨年来、官僚派が多数派形成をしきりに続け、貴族院の政友会系議員が切り崩しを受けていた。
その動きを、「官僚派の毒手」という言葉でとらえているのが原敬なのだった。
原敬は決して桂を信じてはいない。妙な動きがあればいつでも圧力をかけるつもりで、しきりに政権授受の詰めをしあげようとしていた。
あらかじめ第二次桂内閣の花道まで用意し、そこへ桂を追い込む段どりに余念がなかった。
総辞職の時期は、幕末に締結された不平等条約(関税自主権など)の改正をみて断行すること、それまでに、立憲国民党など政友会以外の勢力とは手を結ばないこと、原敬は網を注意深くたぐりよせつつある。
このときの予算案で大きな案件は、海軍拡張、治水事業、そして、鉄道の広軌改築案である。
桂はこの議会の前(明治四十三年十二月)には、これを最後に二度と再び内閣を組織しない、とまでいって政友会の支持をとりつけていた。
両者ともに、なかなか食えぬ相手と密約しているので、その密約をしきりに補強しあっている。
これ以前も、こののちも日本の政治は泥仕合を重ね、国家政策でさえ、妥協の材料であれば継続し、対立の材料であれば、あえなく消しとんでしまう場面はいくらでも数えることができる。「広軌改築案」もその政治のなかに投じられたわけだった。
歴史に仮定を与えて考えるのは愚かななぐさめではあるけれども、この最初の上程のときに「広軌改築案」が妥協の材料として使われ、成立していれば、以後の国鉄史はまったく違う歴史を歩んだであろう。
大正のなかごろには東京―大阪を六時間ほどで結ぶ特急列車が登場していた可能性は十分にあった。
その意味では、この第二十七帝国議会は、日本の鉄道にとって天下分けめ、関ケ原のような岐路だったといっても、決して大げさではなかった。
議会の審議は、はじめ、ゆるゆると進んだ。
海軍拡張案と、治水事業は争点にならず、立憲国民党の質問は次第に、「広軌改築案」にしぼりこまれてきた。
一月二十五日までの質疑では、政府が楽観していたように予算案は承認されるかのような気配を示していたが、やがて二十六日、質問の風むきが変化しはじめる。
「鉄道院内部では、議会の承認を待たずに、広軌準備なる工事が行われているではないか」
これが立憲国民党のつかんだ大問題である。
後藤新平が早手まわしに指示した「広軌準備」の仕様による工事の進行が、ここで議会の争点となる。
『後藤新平』の著者によれば、後藤はこの時期より、風を食らって疾走することになっているが、その速さが、議会の問題となったわけだった。
鉄道の専門技術者として答弁していた鉄道院副総裁古川阪次郎は、
「いま行われている工事は、広軌計画で行われているのではなく、世の中の進歩によって列車も自然に大きくなる、それにあわせて施設そのほかを大きめのものにしている」
と苦しい説明を重ねた。
政友会との密約、それによる政府支持を信じての早手まわしの広軌改築への着手は、軽率だった。
立憲国民党が天下に明らかにした、「正規の手続きなしの広軌準備」を前にして、政友会も態度をにわかに変えはじめるのである。
原敬は、議会の質疑が、そちらへ転がるのを待っていたふしがある。
まず、野田卯太郎議員が、立憲国民党の問題にしたところと同じく「広軌準備の措置」についてねちねちと質問し、さらに元田肇議員も、同じ問題をゆるゆる、のろのろと質問し、さらに、広軌改築の予算の根拠であるとか、新線建設との関係であるとか、物価騰貴をどの程度織り込んだのか、といった細かな質問をじわじわと重ねていくのである。
政友会地方勢力はすでに、「鉄道速成」を既定方針として、票と金をだしていた。
政友会のなかでも、広軌改築によって金を使われ、「我田引鉄」がかなわないとなることに反対する代議士は多い。
議会の情勢は、にわかに対立色を強めていく。
後藤新平は、政友会本部で説明した同じ内容の答弁をていねいにくりかえすが、立憲国民党は態度を硬化させて、一月二十六日以降、真正面から反対の立場をとった。
そこへ、朝鮮関係予算の憲法問題ももちあがる。
立憲国民党が、広軌改築へ、はっきり反対するとなった以上、政友会もこれまでの党方針の立場上、反対をとなえざるを得ない。
政府攻撃の先鋒を立憲国民党が演じて突撃し、それに引っぱられて政友会も反対せざるを得ないという絵柄ができあがる。
ついに、予算審議の見通しが立たず、政府は立往生となった。
この構図ができあがるのを読み、あるいはことをそこへ運ぶ手を打ったのは、このとき予算委員長であった原敬であったろう。
桂首相は、国会打開のために、西園寺政友会総裁に会った。原敬、そして同じく政友会総務松田正久も同席した。
あらためて、政友会の支持と引きかえに、政権授受の約束が確認された。
そして、この妥協の材料に、継続事業の一年延期が決定するのである。
二月九日、予算分科会で政友会野田卯太郎は、
「広軌改築は、財政経済上、重大の関係を有するが故に(中略)さらに慎重の調査を加うるの必要あれば、宜しく本案中より削除すべし」
との動議をだし、採択された。
これに対して、政府は、「調査機関の設置」を言明する。
予算委員長原敬は、これを受けて本会議におもむろに報告し、二月十四日、予算案は成立した。
同時に、広軌改築計画は、こののち、いいように転がされ、翻弄され、議場を漂う紙風船のような運命となるのである。
政友会中枢、とりわけ原敬は、「これでよし」とわが政治手腕を誇ったであろう。
密約をこわさずに、広軌改築案を葬るには、「調査」をやりなおして、政策継続の体裁をつくろい、「決定」をのばして、ゆっくりと時間を稼ぎ、密約によって得た政友会政権のもとで、とどめを刺せばいいわけだった。
原敬には、このような悪辣《あくらつ》な政治手法をとり得る思想と覚悟があったようである。
原敬には、明治維新で働いただけの藩閥官僚は、その後の国家保全においてはもともと使いものにならず、またその資格もないという断定があった。
もうすでに旧体制打破の時代は終り、国家保全のために働くべきであり、権力奪取をした藩閥勢力はよろしく去り、帝室のもとに新しい理念を抱く勢力が結集してこの国を運営すべきなのである。
「帝室を擁護せんと欲し、而して之を擁護するに自由民権を以てするを知らずんば、其自由民権を誤用する者と何ぞ択ばんや」
明治十年代、報知新聞記者当時の原の文章である。
維新大業の威を借り、低劣な人士を郡長などにつけて勢力を温存する山県系官僚派には、天皇のもとの自由民権などが理解できるわけもなく、また、口に自由民権を唱えながら、権勢を求め、利権に走る壮士どもも、まるで話にならないという原敬の苦い現状認識がある。
原敬は安政三年(一八五六)南部藩平士の最上の家格である本番組の子として生まれた。それも代々新田を開発し、こつこつと蓄財して、宝暦の大飢饉(一七五五年)のときに、藩へ一千両を献金し、三百十二石の大身を買いとった家だった。
もともと、五人扶持の足軽格から、ここまでの立身をなしたのは原敬の祖父の代であり、家風は厳格だった。
爵位がないため、のちに平民宰相といわれるが、維新大業の一枚看板で栄達している明治初期の顕官たちよりはよほど家格がうえの出自なのである。
原敬の藩閥官僚撃つべし、の思いは烈しく、そのためには、ときに奸計のようなかけ引きも辞さない、という思想の根底には、やはり、賊軍のくやしさがあったのかも知れない。
「藩閥官僚どもよりも天皇を想う心は篤く、自由民権のごろつき壮士よりも理念は高く」
と自分の立場を高みに置こうとし、それが新時代の本道であると考え、一身を投げだす覚悟を練りあげた思考の膂力は並のものではなかった。
そして、その同志として、原敬は地方素封家を頼みとし、その勢力をもって藩閥官僚と旧来の自由民権壮士を駆逐しようという戦略を立てている。
それをなし得る手段が、すなわち鉄道であり、港湾の整備、政友会の積極策なのである。
原敬にとって、「新線建設」は戦略の中心軸を担う政策なのだった。
だから、この件については絶対に退くことはなかった。
これに対する後藤新平の布石は、やや粗慢か、拙速にすぎたといわざるを得まい。
この第一手から密約の実を握り、片方で理づめに原敬を追い込み、政権授受と引きかえに広軌改築計画を通すほどの段どりと計略がなければ、この文装的武備の根幹を担う計画は実現しないのである。
詰将棋のように追い込んでおいて、喉《のど》に押し込まなければ、原敬は「広軌改築」を呑みはしなかったろう。
また、原敬を屈伏させる理屈も、鉄道事業の将来の見通しや、運輸交通政策の純理論では用をなさなかったに違いない。
「広軌改築」のさきに、政友会にとっての利を設定し得なければならないはずであった。鉄道政策としてはねじれてしまうような理屈であっても、政友会に利があるような鉄道政策のなかに広軌改築を埋設しなければ、原敬はうんといわない。
原敬にとって鉄道の技術発達は、さしあたって興味の外にあった。
その彼に対して、明治百五年の未来を語るのは正直すぎる説得だった。
原敬の政治戦略では、世の中が発達する前に、藩閥官僚勢力を駆逐してしまわなければならないはずである。まず、その決着をつけようと奮闘している人間にとって、鉄道は、一マイルでも延長すればよく、そこに生まれる政治効果こそが、鉄道の価値なのである。
後藤新平の文装的武備としての鉄道、つまり国家主義的な鉄道政策に対する原敬の鉄道は、奇妙な角度でつきささるような関係にあった。
後藤新平の想い描く近代国家像は、一種独特で、山県系藩閥官僚らの国家像とは必ずしも同じ色あいをしているものではないけれども、それでも、明治国家の土台のひとつにすぐれた運輸交通装置を設けようとするものに違いはなかった。
しかし、原敬にとっての鉄道は、藩閥官僚勢力を解体する有力な武器のひとつだった。
国家装置である鉄道を用いて、国家の中枢のあたりを撃とうとしているわけで、これほどやっかいな鉄道の使い方はないといえよう。
政友会の鉄道政策はこののち、
「建主改従策」
と呼ばれることになるが、少くとも原敬の思想の核心に近づけば、
「藩閥勢力包囲策」
という意味になってくる。
一方、これに対して、のちの憲政会を含めて、藩閥勢力によって担われた鉄道政策は、
「改主建従策」
と呼ばれることになる。
だが、こちらには、あわせて政友会勢力を撃つ戦略は、それほどふくまれていなかった。
このふたつの鉄道政策を並べてみると、政友会の建主改従策のほうに人間臭い執着心がこめられていたようである。鉄道で政敵を包囲しようと思う分だけ、何が何でも鉄道を引こうとすることになる。
一方、改主建従策には、国家のためという大義がこめられていた。この時代の国家主義には、わずかに公共という観念がふくまれていた。天下のため、社会のために、改主建従策をとろうとした。両者を比較すれば政敵を倒そうとする政友会の動機や感情のほうが泥くさく、また強い。以後の鉄道史は、そのことを示すような場面を描きながら流れるのである。
第二十七帝国議会の妥協で「広軌改築計画」は、さしあたり一年延期され、その間に調査機関が設けられることになった。
明治四十四年四月五日、勅令第八十六号によって、「広軌鉄道改築準備委員会官制」が公布される。
内閣総理大臣が直轄する委員会である。
会長は桂太郎、副会長後藤新平。
以下四十六名、逓信次官仲小路廉、海軍中将藤井較一、大蔵省国債局長山崎四男六、工学博士仙石貢、大蔵次官若槻礼次郎、陸軍次官石本新六、海軍次官財部彪、政府側の要職、そして、議員が続く。貴族院からは田健治郎の名もある。
これに、鉄道院技師らが臨時委員として名をつらねていた。のちに技監となる岡田竹五郎は、新橋からの高架線の担当技師で、東京駅の建設も担当していた。ちなみに、岡田竹五郎の孫にあたる岡田宏は、国鉄最後の技師長である。
この委員会のなかには、島安次郎とともにドイツで国際融資団との秘密交渉にあたった大道良太も、帰朝してすぐに加わっていた。
委員会の仕事は、
「東京下ノ関広軌改築工事ハ明治四十五年度以降十二個年間ノ継続事業トシ、其予算ヲ金二億二千五百五十五万一千円トス」
この計画に関するあらゆる問題の調査検討であった。
このとき行われた調査資料は厖大で、緻密なものになった。
鉄道院上級職の総力をあげた調査が行われ、その調査内容は、そのまま、明治末の物流統計であり、明治政府のもっとも科学的な報告といっていいものになった。
すなわち、鉄道調査所で行われた調査研究が完璧に整理され、確度をあげて「委員会」に提出されたのである。
四月から討議が重ねられ八月七日、全会一致で報告書を可決する。
鉄道院計画原案のうち予算が二百三十万円ほど増え、
「総額二億二千七百八十九万六千円」
とした以外は原案のままの可決である。
建議は六項になった。
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一、東京下関間広軌改築期間ヲ繰上ケ継テ他ノ本州線ニ及ホス件
二、本州線以外ノ鉄道ニ対シテモ広軌改築ノ調査ヲナス件
三、鉄道需要ニ応スル為内地工業ノ発展ヲ図ル件
四、産業発達ノ目的ノ為鉄道ヲ活用シ並重要輸出品ニ対スル運賃其他ヲ塩梅シ輸出ヲ奨励スルノ政策ヲ確立スル件
五、港湾ニ対シ関係各官庁間ニ円満ナル連絡ヲ得ルノ目的ヲ以テ行政ノ統一整理ヲ行フ件
六、港湾修築ノ計画ハ広軌鉄道改築トノ歩調ヲ一ニシ水陸運輸連絡ノ完全ヲ期スル件(報告文省略)
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建議六項目は、総合的な運輸交通政策の骨格を持つものであり、明治三年に鉄道が建設されて四十一年めにはじめて、日本は総合的に組み立てられた運輸政策を得たことを意味している。
のち、この調査報告書は「広軌鉄道改築準備委員会調査始末一斑」として刊行され、昭和五十九年、日本経済評論社の『大正期鉄道史資料集』に完全復刻されている。厚さ五センチもの巨大な調査報告書で、十一章にわかれ、輸送力、物流予測、想定ダイヤ、工事量、経費計算、各物資の生産量増加傾向、繭、茶、米、石炭そのほかの統計表、諸外国比較、海陸連絡構想、およそ関連するすべての項目がそこにまとめられている。
みごととしかいいようのない内容である。
桂首相はこの報告書と建議を、明治天皇に奏上した。
「広軌改築計画」は必要なすべての手続きを終え、翌年の着工を待つだけとなったわけである。
こうして、政権授受の密約の条件も整い、明治四十四年八月二十五日、第二次桂内閣は総辞職する。
大命は西園寺公望に降下。原敬は内相に就任し、鉄道院総裁を兼務した。
後藤は、第二次西園寺内閣が、鉄道国有法案のように、政権授受にともなって広軌改築を引き継ぐものと思っていたようである。
『後藤新平』には次のような後藤新平の新聞談話が収録されている。
「ナニ鉄道院の方カネ……鉄道の広軌計画の如きは広軌調査会成つて著々と精確なる調査を了し、従来空論的理想的にのみ唱へられし広軌計画を実際的、数理的に組立てたぢやないか。チヤーンと出来上るべき土台を拵らへたぢや無いか、帝国の鉄道政策は最良の基礎を据ゑられたと信ずる」(八月二十六日、二六新報)
だが、そうはならなかった。
この年の暮から翌明治四十五年一月にかけての第二十八帝国議会は、小選挙区制導入で揺れることになる。
政友会の実質的な総裁である原敬は、行財政整理を打ちだし、桂内閣時代の継続的事業を一切延期とする。
とりわけ「広軌改築」は、「財源見込み立たず」の一太刀で中止にしてしまった。
かえす刀で原内相は、明治四十五年五月の任期満了選挙を迎えるために、小選挙区制法案を提出した。
折しも大逆事件の判決が、前年一月に確定しており、社会主義の波が騒いでいた。原内相は官僚派の弾圧に反対しており、社会主義的風潮は小選挙区制によって融和化するという考えである。しかし、より強い真意は、藩閥系勢力の駆逐である。
小選挙区制法案は衆院通過、貴族院で否決、両院協議会では衆院案が通過、しかし、貴族院で否決される。
原は第一次西園寺内閣で郡制廃止法案を提出し、こんどは小選挙区制法案を提出し、藩閥官僚への挑戦を続けている。
そのなかで「広軌改築案」は、原の思惑どおりの手順で葬られたわけである。
どれほど精密な計画を建てても、原の前では意味をなさない。
このとき、鉄道院の技師らは政友会の頑迷さに腹を立て、あるものは捲土重来を期し、あるものはひそかに政友会に近づき、出世を考えはじめる。
新鋭機関車
島安次郎は明治四十三年以来ベルリンにいた。
日本ではいよいよ「広軌改築」が日程にのばり、鉄道がやっと世界と同じ水準のものになるはずだった。
(予算措置で紛糾した場合、アルゲマイネ社による、国際|融資団《シンジケート》からの融資斡旋がものをいうだろう)
機関車メーカーのボルジッヒ社の工場内で、島安次郎はこう思い、立ちつくすことがたびたびだった。
(国際融資)
と思う頻度が高くなり、苦笑することさえあった。
(まるで呪文のようだ)
と島は思った。
そう思うのも当然だった。
この資金を入れ、鉄道特別会計内で返済が可能ならば、すべての資金を注いでの新線建設を望む政友会をかわすことができるのである。
(できることなら、改良も新線建設も同時にやってしまえばいい。しかし、日本の国力ではそれができない。それならば、もっとも無駄の少い事業計画を構成し、改良と建設の構成比を崩さずに、ひた押しに押す。はじめはゆっくりとしか進むまい。しかし、日本の産業が回転を速めれば、それに連動して鉄道事業も発展の速度をあげるだろう。国際融資はその事業構成を決定する最初の杭になる)
この思いが、
(国際融資)
の呪文となるのだった。
この時期、鉄道車両の技術政策の根幹はベルリンにあるといってよかった。
島の任務は留学というよりは、より具体的に機関車製造の視察、研究、監督であった。
ベルリンには、鉄道院の機関車製作監督事務所が設けられていた。
この事務所の仕事は、世界の最高水準にある、ドイツの機関車工場へ、日本がこれから手本とする機関車を発注し、その製作過程をつぶさに学びとろうということにあった。
また、アルゲマイネ社へは、碓氷峠のアプト線電化のために電気機関車を発注していた。このアプト式電気機関車の製作過程もつぶさに視察して学びとらなければならなかった。
さきに国産標準機六七〇〇形の設計についてふれたが、この中継的機種を手当てしてすぐ、鉄道院工作課は、次期主力機の構想に着手している。
その機関車は、最新技術である過熱式煙管を持つ大型機であった。
これを発注し、工場へはりついて徹底的に技術を学び、機関車国産を軌道に載せてしまわなければならないのである。
基本構想、つまり、新鋭輸入機関車の統一仕様をつくったのは島安次郎である。
この統一仕様による外国メーカーへの発注という一事でさえこれまで厳密に行われたことがなく、日本の線路のうえは、色とりどりの機関車が走りまわっているのである。
その愚をくり返してはならなかった。
同じ仕様で各国の機関車メーカーに発注し、完成したものを分析、比較し、学ぶべきを学んで、これからのちは、機関車をすべて国産にするというのが、鉄道院中枢の方針だった。
ベルリンの機関車製作監督事務所は、この大きな戦略を担い、俊英が工場にはりついていた。
アルゲマイネ社のエスリンゲン工場には、島がその才質を認め、次の時代をまかせられると判断した逸材佐野清風がはりついていた。
佐野は明治十年岡山生まれ、三十六年東京帝国大学工科大学機械科を卒業、四十年からアメリカ、イギリスに留学し、ベルリンで島らと合流して、日本初の電気機関車でもある一〇〇〇〇形、のちにEC40形になるアプト式電気機関車の設計、製作を徹底的に学んでいた。
後藤新平が大づかみにとらえ、島工作課長が構想する日本の鉄道電化の根幹となる技術は、この三十歳をわずかに過ぎたばかりの佐野清風が担い、この頭脳が日本の鉄道電化の将来の源泉のひとつになるはずだった。
また、この監督事務所には、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したばかりの朝倉希一が、少年のように瞳を輝かせて赴任していた。
朝倉希一は明治十六年生まれ、四十三年の卒業のときには恩賜の銀時計を拝受している。
島安次郎が教授を兼務していたときの首席学生だった。
島は朝倉希一が鉄道院に来たことを喜んだ。
この逸材を育てあげれば、佐野から次の世代の人材へと架橋できるのである。
朝倉希一はよく島の期待にこたえ、やがて大正期の傑作機九六〇〇形、八六二〇形の設計に重要な役割を担う。このふたつの機関車こそ、島安次郎が構想し、新機軸を考究した世界に誇り得る高性能機であり、真の意味の標準国産機だった。
朝倉はその設計実務を担当して島の構想を描きあげるのである。
ベルリンに短い間開設された製作監督事務所について『日本国有鉄道百年史』には記述が見当らない。
しかし、このとき、この事務所に着任していた島安次郎、佐野清風、朝倉希一の三世代の頭脳は、そのまま日本鉄道史の技術政策を担うことになり、この時期、ベルリンの空の下に日本鉄道の車両工学的政策の根幹がそのまま息づいていたことになる。
島はベルリンで「国際融資」の発動命令が届くのを待った。
しかし、後藤からの命令はついに届かなかった。
そのころの後藤は原敬の引きのばし策に是非もなくからめとられ、「広軌改築準備委員会」の調査と報告の進展ぶりに、この大計画の成否をゆだねていた。外資導入策はこうして発動されることはなかった。
しかし一方で島工作課長は、狭軌鉄道での能力を引きだす手当てを進めるために精力を注いでいる。
「漫《みだり》に将来を嘱望して、眼前の手当てを怠らず」
という考えは終生貫かれた。
新鋭大型国産標準機の手本となる機関車の諸元を、島安次郎は次のように定めた。
まず軌間は狭軌一〇六七ミリメートルである。軸配置を二Cとした。
この機関車は三軸ボギー客車七、ないし八両編成の列車を牽引することになる。列車重量は三〇〇トンが想定された。
最高速は六〇マイル時(約九六キロ)である。一〇〇マイルを無補給で走行できること。もちろんシュミット式過熱煙管を装備することが明記された。
正式発注が明治四十四年初頭であるところから考えて、島はこの仕様書を、ベルリンの製作監督事務所で仕あげ、日本へ送り、日本から各国へ発注されたようである。
注文に応じたメーカーは、イギリスのノース・ブリティッシュ社、ドイツのベルリーナ社、同じくボルジッヒ社、アメリカのアメリカン・ロコモチーブ社である。
同じ仕様書での各国主要メーカーの競作である。
島安次郎と、朝倉希一は、ベルリーナ社、ボルジッヒ社の工場にはりついて、ドイツ人技師と討議し、製作過程を監督し、学んだ。
島はそのあい間をぬって、佐野清風がはりついているアルゲマイネ社エスリンゲン工場へも足を運び、アプト式電気機関車の製作過程も視察しなければならなかった。どこにいても島安次郎の忙がしさに変化はなかった。だが、この新鋭機輸入計画の根幹に、日本で修正が加えられてしまうのである。
仕様書にもとづく受注にもかかわらず、イギリスのノース・ブリティッシュ社では、なんとシュミット式の過熱装置を採用しなかった。
過熱器の技術的信頼度がまだ安定しないことが、ノース・ブリティッシュ社の仕様変更の理由だったという。
このメーカー側の変更要請を許したのは、島が不在の間、工作課長にあった斯波権太郎であった。
ノース・ブリティッシュ社はシュミットの特許使用権を取得していないために、あえて、過熱器の採用を問題としたかのようである。
ドイツでこれを知った島安次郎はめずらしく怒った。
電文にて、発注をとりやめるよう連絡したが、すでに遅く、十二両の契約が終了していた。
過熱器の性能のよさは、もはや明白だった。
それに対して、
「なお不安定」
というメーカーの言い分を聞き、契約してしまうとは愚かであった。
島はドイツの空の下で歯ぎしりをする。
さらに島が激怒することになるのは、アメリカン・ロコモチーブ社が軸配置を二C一にすると変更を申し入れ、それを斯波権太郎工作課長が許し、二十四両も発注してしまったことを知ったときであった。
仕様の統一はこのことであっけなく崩れてしまった。
なんとも不可解な変更であり、斯波工作課長は、今回の、最後の輸入機関車の眼目を見失ったかのようであった。
これまでも、こうしたメーカー側のイニシアチブによって機関車の形式はあちこちと変えられ、形式が水ぶくれに増えてきているのである。
この不可解さについて『機関車の系譜図』の著者は、かつて工作課OBになぜかと質問したという。
この問に対して、そのOBは、
「政治、さらには輸入商社の働きかけですか」
と答えたという。
もちろん、この件についての記録は残されていない。
が、イギリスのノース・ブリティッシュ社は威信にかけて受注しようと、さまざまに政治的な手腕を発揮し、飽和式での受注に成功してしまった。
さらにはアメリカン・ロコモチーブ社の二C一の軸配置変更に対して、島安次郎は問題外として一蹴したとされる。
さきにもふれたとおり、従輪を一つ置いて火格子面積を広くしようというのがアメリカン・ロコモチーブ社の主張であった。
それに対して島は、六七〇〇形と同様、やがて広軌となれば、二Cのまま火格子面積を拡大できるので、変更をやめよと鉄道院へ電報を打ったという。
が、これも通じなかった。
二C一のアメリカン・ロコモチーブ社の輸入商社は三井物産であった。かなり強力な働きかけを行ったような形跡である。
その発注量も二十四両と今回の六十両の輸入総数に対して大きなものであった。
島安次郎は、ベルリンの天を仰ぎ嘆息をつくことになった。
蒸気機関車の性能仕様は、単に一台の機関車の良し悪しや、これまでの商取引のつきあいなどで決められるべきものではなかった。
まず、土台に、鉄道全体のひろびろと大きく健全な方針があり、その方針が、日本の経済の将来予測に密接に関連されて描かれている必要があった。
その土台のうえで、技術政策の個別の見通しが描かれ、それぞれに未来の光景が構想され、その構想を吸い込んで機関車性能が決められるべきであった。
だが、現実では、理想のようにはことが進まない。理想の計画は現実に生起している無限のダイナミズムに洗われて屈折し、生身の人間がとらわれざるを得ない利害によってさらに屈折する。どのような地勢風土のうえに、どのような社会が日々の営みを続けているか、どのような歴史によって、その社会が独特の性格を保有しているか。こうした無限といっていい要素が理想の絵を屈折させ、現実の色調を決定してしまう。
島安次郎は、決して西洋の尺度を仰ぎ見て日本を見下ろす精神の持ち主ではなかった。
それどころか、日本のためにもっともいい手順を常に探り続け、熟考に熟考を重ねて、最善の策を建てていた。
その策こそが、島の愛国心を証明するものだった。
だが、商社の駆け引きや、売り込みで島の最善策がたやすく崩れるとなれば、
「日本よ!」
とばかりに激怒するほかはなかったであろう。
島の仕様書には、日本の機械工業の技術水準をじりじりとあげていこうという構えまでが、組み込まれていた。
「外国から買ってしまえばいいではないか」
と考えるのなら、話は簡単だった。
これまでのように、メーカーや商社に主導権を握られたまま、漫然と機関車を輸入していても、汽車はしかし立派に走るだろう。だがそれだけのことである。
それをしないために、ベルリンの三人は工場にはりついている。
島や佐野や、まだ若い朝倉にとってそこはいま見ることのできる理想の工場に近い。
朝倉希一には、島からの課題がさらに与えられている。
朝倉がそこでものにしなければならない技術問題は、関連工業までをふくむ新技術の連鎖の実情を学ぶことだった。工場の運営管理、材料の準備(いわゆるソフトウエア)までを学んで日本へ帰るのが若き俊英の任務だったのである。とすれば、仕様書変更の損失はよほど大きいものになる。
日本を振りかえれば、まだ、技術の欠落があちらこちらに残っている。たとえば板ガラスでさえ、満足に国産されてはいない。
機械工業では、素材の供給でさえ、国内の一貫体制ができていなかった。
機関車でいえば、まず鋼の一枚板が作れずに足ぶみをしていた。厚さ一〇センチばかり、長さ一五メートルほど、幅一メートルの一枚板の鋼板を作れれば、それをくりぬき、あるいは切り抜いてつぎ目なしの機関車台枠を得ることができる。これは具合のいい台枠で、しなやかにたわむ(撓性)こともできるし、軸をとりつける軸箱はもちろん、シリンダーをとりつける部分も自由に切り込みをつけることができた。
しかし、この時点では、この巨大な一枚板を日本の製鋼技術では作れずにいたのである。
それを作るためには需要がなければならなかった。注文もなしに材料を作る者はいるはずもない。潜在的には生産能力があっても注文(需要)がなければ、その物は永遠に誕生しない。
そして、その注文をする側にあるのが鉄道院であり、工作課長であり、その職にある者は育って間もない日本産業の技術的現状を見きわめて、注文項目にさえ順番を決め、次々に、技術がすくすくと育つ方向へ導く注文をだし、その注文の水準を高めに設定することで生産技術の水準を引っぱりあげ続ける役目を担う責任さえあった。
欧米の鉄道会社の汽車課長、あるいは機関車設計技師にくらべれば、無用の動機がつきまとうのが日本の鉄道院の工作課長の役割なのだった。
そうした職責に立ったうえで、今回の輸入蒸気機関車の仕様書が記述されていた。
まったく同一の諸元を持った機関車をそののち長い期間運用すれば、そのまま実用テストのデータを示し続けるはずであった。
だから諸元をいじって変更してしまえば比較の意味そのものがかき消えてしまうのである。
仕様書に盛り込まれていた性能は、一過性のものではなく、日本の個別の特殊条件を組み込み、さらに将来へ架橋する構想そのものの、注文書の形式を用いた表現といっていいものだったのである。
さらにいえば、この時点での島安次郎の思想がそこに表現されていたといってよい。
軸配置二C一のアメリカン・ロコモチーブ社の仕様書変更は、そのことで火格子面積が仕様書より〇・六七平方メートル広くなってはいたが、当面の技術的な課題のうえをうわすべりにすべって広くしたにすぎないとさえいえるのである。
島安次郎は憮然とするしかない。
さらに思えば、森彦三のことである。
森が選択した「二B一」の軸配置を断固として否定したのは、島に将来に渉《わた》る構想があったからだった。単体としての設計としては有利さを認め得るとしても総合的な見地からこれを採らないという信念のもとに、日本では指折りの機関車技師の名誉を傷つけるような場面で、その断を下した。
個人的心情でいえばつらい。が、そののち一貫して保たれる技術政策によって森の名誉も救い得るはずだった。
設計の当否を政策的一貫性に求めたということが明快であれば、技術者の名誉は傷つかない。設計者の能力を基準としたものではないことは明らかであり、求めるものが違ったにすぎないからである。もちろん、技術政策の方向をも含めて、島工作課長と森新橋工場長とが争ったのであれば、この心情の様相はまったく別のものになる。
そして、六七〇〇形でならなかった火格子面積の拡大、というモチーフが、アメリカン・ロコモチーブ社の設計により、再浮上し、それに何らかの形で森の設計思想が反映したとなると、ますますこの段の様相は一変するがそれを示す資料はいまのところ不明である。
少し余談だが、島安次郎は何がなんでも、従輪の数を少くしようとだけ考えていたのではなかった。のちに一八九〇〇形(二度めの形式名称変更ではC51)ではむしろ二C一の採用を妥当としている。が、そのときは大正八年、「広軌改築」が完全に息の根をとめられてからの判断だった。
軌間が永遠に広がらない以上、出力をあげるためには従輪を置いて火格子面積を広くすべきであると島は判断している。
統一仕様書にもとづいて発注された新鋭輸入機関車群は、それぞれ次のように命名されることになった。
イギリスのノース・ブリティッシュ社の製作した飽和蒸気式機関車は八七〇〇形、ドイツのベルリーナ社製は八八〇〇形、同じくボルジッヒ社製は八八五〇形、アメリカン・ロコモチーブ社製は八九〇〇形とした。
このうち、八八〇〇形と八八五〇形はドイツ滞在中の島安次郎が工場につきっきりで監督したものである。朝倉希一もよくこの任務に耐えた。
八八〇〇形は島の仕様書にもっとも忠実な仕あがりであった。細部の設計にはドイツ国有鉄道が蓄積した技術が注ぎ込まれた。設計の随所に、シュミット式過熱器を実用化するなど、ドイツ機関車の優れた設計者ローベルト・ガルベの影響が見られるとされる。日本での試運転では客車二六〇トンを牽いて最高一〇二キロ時を記録した。
このシリーズのなかで、もっとも意欲的な設計となったのは八八五〇形であった。
この設計変更はしかし、仕様書の条件を守り、そのうえで新機軸を盛り込んだものであった。
まず、主台枠を圧延鋼板からの切り抜きにした。
さきにふれたつぎ目なしの主台枠は、アメリカでは鋳製が主であった。しかし、ドイツでは厚さ一〇〇ミリの圧延鋼を用いた。これで鋳製の際の欠点――鋳製では均質性に欠点がまま生じる――を解決した。
さらにこの台枠上に火室が載る構造になった。そのために缶《ボイラー》の中心線があがった。仕様書での缶中心線は地上から二二八六ミリである。これに対して八八五〇形は二四三八ミリまでにあがった。
重心が高い機関車に対する懸念は多分に経験則的であったが、製作したボルジッヒ社は機関車重心については入念な実験をくり返して、計算値、実験値ともに安全であるという確信を得ていたのであった。
この証明を島安次郎は知り、のち、その許容範囲について独自の見通しをもって機関車を構想することになる。八八五〇形は、島の重心|扛上《こうじよう》の構想に重要な理論的根拠を与えるものとなった。
さらに大きな特長は主動輪をシリンダーに一番近い第一動輪としたことである。
これは意欲的な考え方だった。ピストンからの力は鉄の棒で動輪に連結される。この重い主連棒は、直線上を前後運動するだけではなく、円運動に変換されるので、常に円の頂点と下点の間を円周にそって上下に振りまわされる。
ピストンは直線上の運動である。この力が主連棒につながり、動輪のピンにつたわる。
ピンは円運動をするため、ピストンの力はあるときは斜め上に、また斜め下の方向へ、押し、引くわけで、力は常に二方向に分散してしか作用しない。いわゆる力の平行四辺形の公理どおりに、ピストンの力は二方向に分かれた力《ベクトル》となってピンに伝えられているわけである。これはロスを意味している。
八八五〇形が、第一動輪を主動輪として、主連棒を短くしたという場合は、ピストンの力が分裂するロスには目をつぶり、主連棒が引き起こす振動や、重心移動のマイナス面を小さくしようという考えが表明されているわけだった。
機関車は首を振って走る。円運動へ変換される力が波を打つのである。そのうえ、主連棒と各動輪を結ぶ連結棒が、動輪の回転でいうと左右で九十度の差で動く。重心が連結棒の動きにともない、上下に動き、かつ、水平にぐるぐる回りに動くしかない機械なのである。
その動きによって、機関車は首を振ってしか走れない。
この八八五〇形の意欲的な設計では、缶の中心を扛上したことで重心が高くなったことから、動揺を小さくおさえようと主連棒を短くし、第一動輪へ結びつけたという考えが読みとれる。
八八五〇形はあくまでもボルジッヒ社による設計であるが、圧延鋼板の切り抜きによる主台枠(棒台枠)の成形はボルジッヒ社でも新しい試みだった。
ここから、台枠上の火室が構想され、重心の高さに対する安全度が計算され、なお、重心が高くなる分の懸念に対しては、主連棒を短くしておさえとした。そのことから八八五〇形は固定軸距を短くすることも考えられた。
八八〇〇形の固定軸距が四一九一ミリに対し、八八五〇形は三六五八ミリである。第一動輪に主連棒を結節して、第二、第三動輪の間をつめるだけつめたのである。
これが、よくレールの曲線に追随する走行性能を生んだ。
筆者は、この八八五〇形完成後の諸元のなかに、島安次郎のアイデアが密《ひそ》んでいるように思えて仕方がない。が、この点もいまのところそれを示す記録はない。
八八五〇形の新機軸は設計変更においてよく仕様書の規準を守ったものであった。
その条件のもとでぎりぎりのところまで性能を引きだすこと、これが技術者に求められる力量だった。八八五〇形は東海道線の東京―沼津間に配属され、箱根越えの難所でその性能を発揮することになる。
これらの機関車は大急ぎで建造されたものだった。
明治四十四年七月十七日に関税が改正されるので、それまでに日本領海内に運び入れる必要があった。
八八〇〇形は工期二ヵ月半、八八五〇形は二ヵ月で竣工した。
そして皮肉なことに、ベルリンの空の下で島や、朝倉が、睡眠時間を削って関税改正に間にあわせたその期日は、第二次桂内閣が、政友会との密約で総辞職する花道の期日だった。
「広軌改築」を前提にし、脳漿をしぼりきるように構想した島の思考は、そうして生まれた八八〇〇形、八八五〇形の誕生日の日付のあたりで、その根拠の大きな領域が失われていたのである。
広狭の闘い
信越線横川駅は、碓氷《うすい》峠のふもとにつくられた鉄道の基地である。
碓氷峠五輪山の稜線が、五月の空に浮かんでいた。
荒々しい山だった。天にむかって打ち立てた大地の刃が、天の力で刃こぼれしたような山容だった。それはここが中山道の難所であることをそのままに示す険しい姿だった。
横川駅構内は、明治四十四年四月、電化施設が完成した。
霧積川の近くに巨大な二本の煙突が立ち、出力三〇〇〇キロワットの発電所が壮大な姿を見せている。
鉄道院の幹線電化計画のうち、急勾配線の改良で、最初に着手したのがこの碓氷線であることはすでにふれてきている。
ドイツのアルゲマイネ社エスリンゲン工場で完成した一〇〇〇〇形アプト式電気機関車(のちにEC40形と改称)は、大宮工場で十一両が組立てられ、軽井沢で一両組立てられた。
島安次郎よりひと足さきに帰国した佐野清風は、横川機関庫に住みついて整備にかかっていた。
島安次郎は、明治四十五年春帰国し仕事に忙殺されるなか、五月に予定されている電気機関車と蒸気機関車の併用運転のために横川を訪れた。
ホームに降り立った島安次郎の横に、少年が一人立っていた。長男の秀雄である。今月の二十日でちょうど十一歳になる。
島が、
「日本ではじめての電気機関車を見せてやろう」
と連れてきたのである。
秀雄は、二年間の不在の間にみちがえるほど成長していた。
忙しさのあまり、父親らしいことをしてやれないことに、島の胸は少しばかり痛み、連れて行く気になったのだろう。
秀雄は、近所の子どもたちを率いてよく遊ぶ子らしい。
妻からはやんちゃ坊主であることを聞いているが、父親の前では神妙にしている。
眼を輝かせて車窓の景色に見入っていたが、横川のホームに降りたち、職員が立ち並んで迎えるのを見ると、いよいよ神妙に、静かになった。
子どもながら、公的な立場にある父を理解し、礼を守ろうとするわが子の心ばえがいじらしかった。
一〇〇〇〇形電気機関車は、側線に灰色の車体をにぶく光らせていた。
アルゲマイネ社のカール・クレリング技師が、迎えの人の列から一歩前に出て島安次郎を案内した。
ドイツ語で島に何ごとか話しかけ、島はうなずき、二人は笑い声をあげた。
島は秀雄に通訳してやった。
「こんなに美しい風景を走る電気機関車なのだから、アルプスの羊飼の角笛《つのぶえ》のような音色の警笛にしたとおっしゃったのだよ」
それはどんな音色だろう。
父が送ってくれた絵葉書に、アルプスの写真があったような気がする。
あの深い谷にこだまする角笛。
一〇〇〇〇形が吹鳴した。
それは大きな力強い音で、秀雄は肝をつぶし、角笛は遠くで聞いたほうがいいのだな、と思ったりした。
側線を一〇〇〇〇形電気機関車がゆっくり動いた。
うなるモーターの音は、秀雄が知っているどの電車の音よりも重々しく、洗練されているように感じた。
運転席の縦長の丸い窓、その下に突きでた大きな鼻。特異な顔の最新鋭機は、ポールをたてて架線から電気をとっていた。
一〇〇〇〇形はのちにパンタグラフに改造されるが配属当時はポール式だった。
父は、秀雄を連れて構内を出、変電所の前まで歩いた。
変電所の前から、線路の構造が変り、ラックレール(歯軌条)がレールの間に設置され、このアプト式電気機関車は、内部に持った歯車で歯軌条をとらえ、一〇〇〇分の六六・七の急勾配をよじ登るのである。
電気機関車はゆるゆると進み来て、レール中央の歯軌条のところで、またうなり声を変えて走行していく。
秀雄の頭のうえでむずかしそうな技術用語が交わされていた。
それは、この進入部位《エントランス》が、運転技術でとくにむずかしくデリケートなところだったからである。
歯車があわず、進入部位をこわす事故が、日常的に発生していた。アプト式は、手間のかかる方式だった。
レールだけでなく歯軌条も厳密に整備しなければならない。電化後の運転技術も名人芸が求められた。
横川から軽井沢まではたった一一・二キロだったが、急勾配に加え、二十六ものトンネルが続く。トンネル内の集電方式は第三軌条式(地下鉄に多い)で、この方式がさらに整備の手間を増やした。
はるかのち、この十一歳の少年は、昭和三十八年、国鉄技師長時代に碓氷線の粘着運転への改良を果たす。ここを登るEF62、EF63形電気機関車の構想に深く関与して、歯車を使わずに急勾配を登り降りする高性能機を出現させるのである。
もちろん、このときの秀雄は、いま、頭上で交わされている技術問題を自分が解決することになることを知らない。無心に最新鋭機に見とれている少年だった。
だが、この親子が担った仕事を考えると、この場面もまた象徴的である。
父安次郎は、明治初期に撒き散らされた鉄道の欠点を、渾身の努力で改良しつつあった。
この困難な、アプト式による直登ルートを決定したのは、明治二十二年、当時四等技師だった仙石貢、六等技師の吉川三次郎だったとされる。
欧州出張中の仙石らは、ドイツのハルツ山鉄道でアプト式の威力を知り、鉄道庁長官井上勝に報告する。井上はこれを採用したが、実はほかにいくつものルート案があった。そのルート案は、山を巻いて登るため、いずれも距離が長く、工事量も多くなり、金もかかる。
直登ルートがもっとも安あがりだった。
それらのルート案のなかで、この地域を測量した技師本間英一郎は、
「あと二百万円、政府が金をだせば、こんなに苦労な線路はできなかったよ」
と後年よく語ったという。
こうして生まれてしまった難所を父が電化し、ついに歯軌条《ラツクレール》をとりはらうことになるのがその子である。
安次郎は、子にそれを託したのだろうか。
「父は進路を決めるようなことをひとこともいわなかった」
と島秀雄は書いている。
わが長男を碓氷線に連れていったとき、父親もまた、この子が、やがて碓氷線の難関を解決することになるとは、考えてもいない。
だが、親が子へ伝える精神の芯のようなものは、このようなときにみごとに受け渡されたようである。
島安次郎は子どもたちを連れて所沢の飛行場へ行くこともあった。
このころ、飛行機は、将来どのような発達の経路をたどるのか、もっとも注目される乗物であり技術だった。
わが国の初飛行は明治四十三年十二月十四日、日野熊蔵大尉が代々木練兵場で二メートルの高度を飛んだ。以後、徳川好敏大尉も飛び、民間では見物料をとる興行になった。
所沢の陸軍飛行場には、気球や、ドイツ製グラーデ単葉機、フランス製ファルマン複葉機などが並んでいた。
子ども心を刺激せずにおかない夢が空を駈けはじめる時代だった。
またある日は、日本でまだ数台とない自動車に、子どもたちを乗せてやることがあった。
この時代では貴重な体験である。
たぶん島安次郎自身が、強い興味、探究心でこれらの新技術を見聞していたに違いない。飛行機も自動車も、ドイツは世界に伍して開発にしのぎをけずり、先進技術国であった。ベルリンの空を飛行機が往く日もあっただろう。機械工学の専門書には、これら新体系の技術報告が途切れなく載っていた。
父親の情熱は子どもに率直に滲み入っていく。
そして、家にいるときの安次郎は、いつも机にむかっているのである。
父はいつも、「お勉強」をしていた。
汽車も、電気機関車も、飛行機も自動車も、それを作ろうとすれば、父のように、「お勉強」をするものらしいのである。
そのことを手にとるように理解できる後ろ姿が、島安次郎の教育の方法であった。
その後ろ姿には切迫した気配さえあったかも知れない。それを感じる子ども心は切ない。
父の仕事を継ごうという受身の継承ではなく、父を助けたいと子ども心に思ったとすれば、秀雄が抱く志の方向はおのずと定まろう。
事実、島安次郎は必死の思いで鉄道をよくしようと奮闘していた。
鉄道への政治介入は、次第に露骨になり、政権が交代すると、党派人事も行われだしていた。
内務省ではいっそうひどかった。老朽淘汰、気鋭抜擢の大義名分のもとに、党派人事が横行している。
とりわけ鉄道では、建主改従、改主建従の策が政友会、非政友会によって百八十度転換してしまうのである。社会基盤を形づくるべき政策が、こんなに分裂しているのでは、あらゆる職場の鉄道技術者が政治の風を気にして仕事をしなければならない。
家で机にむかう島安次郎の背中に、ある種の切迫した感情、日本の政治の水準に対する怒りがかすかに漂っていても不思議ではなかった。
父の背中が、何ごとかに耐えていることを子どもはよく感じとる。
ぼくにできることで、「お手伝い」してあげたいという感情が、成長の過程で子どもの胸の底に沈み、やがて無意識のうちに、志望を決めるときの心の何割かを支配したとしても不自然ではないはずである。
やはり電化の威力はめざましかった。
それまで、イギリス・ピーコック社製のアプト式蒸気機関車三九二〇形と、三九五〇形が一時間十五分かかったところを、電気機関車は、四十九分に短縮し、しかも牽引重量も増大し、何よりも乗務員の煙の苦しさが消え、乗客も楽しみながら峠を越えることができるようになった。
この電化の力を認め、また鉄道改良の必要を考える人物の一人がこのとき、近衛歩兵第一連隊にいた。
鉄道院創設のときに、総裁の後藤新平と面談して、志望を鉄道に決めた十河《そごう》信二である。
明治四十五年のこのとき二十八歳、一年志願兵として兵役についていた。
十河信二は東京帝国大学法科大学政治学科を明治四十二年に卒業し、鉄道院書記に任じてから鉄道人生を歩むことになった。明治十七年生まれ。愛媛県新居郡中萩村(現新居浜市)出身である。
大学二年生のときには、農商務省に就職が内定していたが、十河の同郷人で後見人的な存在だった松木幹一郎が鉄道院理事にあり、
「後藤総裁は偉大な方だ、就職を決める前に一度会ってみろ」
と紹介してくれたのである。
後藤は人材を求めている。一に人、二に人、三に人、が後藤の口癖でもあった。人材が時と場を得て輝きだすところを風景のように眺めて楽しむのが趣味とさえいえた。
後藤は十河信二の面会を許した。
このころすでに十河は妻帯して大人びており、顔中に鍾馗《しようき》のような髭をはやしていた。
後藤は、
(このもの、髭などはやしおって)
と内心では苦笑した。
が、人間に関心の強い後藤は、精いっぱい背のびをしている十河に好感を持ち、
「鉄道事業ほど国民大衆のために働く役所はない。農商務省よりももっと国民に近いが、鉄道院へ来るか」
といった。
十河は志望の変更はできると答えた。
「成績はどうか」
と後藤は訊いた。
十河はなかごろの成績である。点取り虫を軽蔑し、全科目の勉強はしていなかったという。後藤には正直にそう答えた。
「悪いじゃないか」
と後藤が本気で若者を挑発する。
十河も負けずに、
「良いつもりでおります」
と打ち返した。
明治のころの男どうしのやりあいの作法にかなった問答であろう。
「なかごろでいいとは生意気なものだ。もっと良くなれるか」
じゃれあっているような雰囲気である。
が、十河はもちろん精いっばいの虚勢で応答していた。
「いまでも良いと存じておりますが、どれほどになればよろしいのでしょうか」
成績など、どうにでもなるといってしまった。
後藤は若者を相手に遊んでいる。
「五番以内なら、良いというのではないかな」
「なれます」
この瞬間、はるかのちに新幹線を生みだす国鉄総裁の因果が生まれたわけである。
鉄道院総裁室を出た十河は青くなった。
「金井先生の経済通論をやらねばならんのか」
と思うと気が滅入った。
このころの十河は民法に打ち込んでいたという。金井延教授の経済通論は、打っちゃっていた科目で、そのほかにも苦手の科目がかなりある。
しかも、当時の東大の成績は各学年末と、卒業試験との総合平均で順位が評価される。
卒業試験の成績がよほどよくなければ五番以内の席次がとれない。青ざめながら猛勉強を続け、卒業成績はかろうじて五番となった。
大威張りで後藤新平を訪ね、
「御注文によりまして、五番になりました」
というと、
「ウソをつくか」
と後藤は怒ったという。
十河は胸を張り、事実であることを述べた。
やっと後藤は喜び、大いに称賛した。
そして、
「お前、総裁の髭はわずかに鼻下にあり、顎にある。しかるに、お前の髭は顔面に繁茂して紅顔を覆う。生意気ではないか。出仕のときには整えよ」
と真顔でさとした。
十河の髭は、客気からのものではないという説がある。不器用で髭が剃れない。剃れば必ず傷をつくった。そのために鍾馗面になり、このうえは、これで押し通そうと構えていた。
だから、髭剃令には少なからず抵抗したが、後藤は新人の髭に本気で、
「駄目である」
と命じ、後日、じろりと十河の顔を検分し、剃ってあるのを確認したという。
が、後藤は十河の気質を買った。
新人の十河はよく後藤の考えを体得した。
鉄道事業に政党の介入を許さざること、経営に経済合理性を貫くこと、新技術の投入に躊躇せざること、などなど、若い十河の骨身に後藤の考えが注ぎ込まれることになる。
とりわけ「広軌改築」は、十河が鉄道院に入って以来のもっとも大きな方針であり、改築の必要性は毛穴から滲み込むように十河に注ぎ込まれることになった。
はじめのうち、十河は、高文合格まで仕事を免じられ、計理部庶務課勤務、総裁官房勤務、会計課勤務の間、仕事をさせてもらえなかった。
「いいから新聞でも読んでいたまえ」
と上司はいう。
このころ、鉄道院は寄り合い所帯である。鉄道院に十七の瘤《こぶ》があるといわれた時代だった。買収した会社がその人脈のまま、派閥をつくりだしていた。
そこに入った高文合格の新人は、いずれ出世を約束されているので、旧私鉄系の人々に快く迎えられてはいなかった。
十河の後藤新平への傾倒はこうした背景もかすかに加味して考えるべきかも知れない。職場から孤立し、総裁との人間関係がもっとも温かい新人時代を十河は過している。
十河は終生、後藤新平を、「わが師」と仰ぎ、尊敬した。
鉄道院の最初の三年間は、師というよりは父親だったともいえる。後見人の松木幹一郎は秘書課長だった。松木は兄貴格であり、
「あせるな、本を読め」
と洋書名をあげて勧めた。
このとき、十河はロンドン大学アックウォース教授の『レールウェイ・エコノミックス』を知り、これを同期の笠間呆雄という人物とともに訳出している。
この時期に十河信二は鉄道経営の全体像を把握するのである。
後藤新平の撒《ま》いた種は十河信二のような人材によって育ちつつあった。そして、後藤が推進しようとした広軌改築案は、鉄道院内部に「広軌派」という人脈、あるいはこの時代の見方でいえば派閥を形成していく。広軌派は、鉄道院総裁となる仙石貢、副総裁となる古川|阪次郎《さかじろう》、島安次郎、石川石代、白石直治、政界に後藤新平、田健治郎、仲小路廉、大隈重信らがいて、それらは、立憲同志会を経て大正五年に結成される憲政会の政治家たちへと連なっていた。
これに対する狭軌派は、政友会の総帥原敬を筆頭に床次《とこなみ》竹二郎、のちに原敬内閣で鉄道院副総裁となる石丸重美、のちの建設局長大村鏑太郎、陸軍には参謀本部の広軌論をくつがえしてしまった大沢界雄がいた。そして、その周囲には、鉄道が延びてくるのを待つ地方勢力がすそ野を広げているのである。
十河信二は後藤新平の訓育と、自分で研究した鉄道論から広軌改築の必要を認め、はるかに島安次郎ら広軌派の人々を仰ぎ見ながら、自分も広軌派であると心を決めて、毎日の仕事にとり組んでいる。
十河は後藤の、
「人のいやがるところをやれ」
という命令によってこの間、計理畑を歩みつつあった。
第二次西園寺内閣の間、広軌改築は、まったく息をひそめていた。
明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御。改元により大正元年となった十二月、二個師団増設問題をめぐって西園寺内閣が総辞職する。
すると、二度と組閣しないと密約していた桂太郎が大命を受け、組閣をはじめた。後藤新平は逓相兼鉄道院総裁に就任する。
広軌改築は息を吹きかえすかと思われたが、桂は政府与党(立憲同志会)結成に手をだし、これが護憲運動を刺激し、反発され、世にいわれる大正政変に発展する。第三次桂内閣は五十日あまりの短命で終り、後藤は仕事ができなかった。
かわって山本|権兵衛《ごんのひようえ》内閣・鉄道院総裁は床次竹一郎である。
床次が乗り込んできたその本心は、この総裁のやったことから明らかだった。
「今度こそは広軌改築の息の根をとめる」
と彼は後藤新平の残り香をすべて消しにかかるのである。
しきりに組織を改変し、官制を変えた。南満州鉄道への影響力を行使するために、その監督権を鉄道院に移し、政友会は、自陣営の野村竜太郎、伊藤大八の二名を送り込む。野村は総裁、伊藤は副総裁であった。
このとき、満鉄はすでに独目の人事構造を持っていたために、政友会の満鉄乗っとり策と受けとった従業員の反撃をあびて半年で野村らは引き下がる。
野村竜太郎は安政六年(一八五九)岐阜の生まれ。東京大学理学部土木工学科を卒業し、奥羽線の建設など、大きな業績を残し、鉄道院の技術統括職である技監を経て、鉄道院副総裁兼運輸局長の経歴から満鉄総裁へ転じたのであったが、その足跡にはいつのころからか党派色がまといついていた。その党派色が反発を呼び、それを排するために党派人事が行われ、さらに反発を呼び、あるいは迎合を呼び込む悪循環が官僚組織を覆いはじめていた。
五月には鉄道院事務分掌規定が変わり、課長職が主任となった。
そして六月、法手続き上は、「延期」だった広軌改築準備の計画をすべて中止する。
鉄道院創設当時の面影はこのとき、かなり消えていた。
が、もちろん、床次竹二郎も鉄道にとってあるべき政策にもとづく手当ては続けている。職員表彰規定を設け、家族慰安会を設け、教習所規定を変えて充実させ、工場職工賃請仕事規程を定めるなど、なすべきことはやっている。
しかし、もはや、政策のすべてに党派色がまといつき、何をやってもそのように見る心理が鉄道院内部に育ってしまっていた。
その山本権兵衛内閣は、海軍の一大収賄事件、シーメンス事件で大正三年三月二十四日、倒れる。
四月、立憲同志会を与党勢力とする第二次大隈内閣が成立した。
鉄道院総裁には広軌派の仙石貢が就任した。
こうして床次竹二郎が地底深く埋葬したはずの「広軌改築案」が生き返るのである。
仙石貢について、何度かふれてきたが、整理しておくと、経歴は次のとおりである。
安政四年(一八五七)、土佐士族の家に生まれる。明治十一年七月、東京大学理学部土木学科卒。同十八年鉄道権少技長、日本鉄道に転じて中田から宇都宮、白河から福島までの建設工事を担当する。逓信省鉄道技監を経て九州鉄道社長、高知県から衆議院に当選、大正三年のこの時点では福島県猪苗代水力電気会社の社長から転じて鉄道院総裁に就いた。
性格は豪毅、雷親父の典型のような人物だった。仙石のいるところ陽気流動するという。
東北線工事中、慰労のため、土地の芸者を総あげして遊んだ夜があった。
誰もが芸をだして宴たけなわとなるや、
「俺は芸なしだが、ひとつある」
と尻をからげ放屁一発。
が、この夜、仙石の腹具合が悪く、黄金色の霧のごときものがほとばしった。
翌朝、給料をはたいて芸者の衣裳代を支払った仙石はめずらしく平謝りに謝ったという。
仙石は鉄道院総裁に就いて三ヵ月後には、広軌改築計画を復活させ、副総裁のこれまた広軌派の大物古川阪次郎を委員長とする「広軌改築取調委員会」を設置した。
古川は安政五年(一八五八)四国松山の生まれ。明治十七年東京大学工科大学土木科を卒業。工部省技手を経て日本鉄道へ転じ、山手線建設工事に従事する。さらに碓氷線の工事を担当、日清戦争では陸軍輸送を担当した。
のち、八王子から甲府への難工事では、当時、日本で最長の笹子トンネルを電力を用いた近代工法で成功させる。鉄道院創設では精鋭前線主義で中部鉄道管理局長、大正二年鉄道院技監を経て、副総裁に就任した。
古川阪次郎もまた、その気骨では仙石に負けぬほどの人物だった。
人は、
「蛮次郎」
と呼んだ。
どうしたわけかこのとき、総裁も副総裁も国鉄史上屈指の雷親父が並んだのである。
古川はこののち東海道線丹那トンネルの工事の立案に深く関与し、十六年間の難工事を見守り続け、昭和八年、最後の発破では、その現場に立った。七十五歳である。
ついに貫通したとき、蛮次郎は男泣きに泣き、仮設電話をとってときの鉄道大臣へ貫通の報告をした。
「これで死ねる」
の想いであった。
鉄道の初期には、こうした英雄的な経歴を持つ人々が活躍し、大正時代ともなれば、それらの人々が、大物となり鉄道院の中枢にあった時代だった。
時は容赦なく流れていく。
広軌改築をかかげ、後藤新平を起用し続けていた藩閥官僚の政治担当者桂太郎は大正二年に歿した。
天保九年(一八三八)生まれの山県有朋はこの大正三年には七十六歳、ひところの力が時とともに失われていく悲哀を噛みしめている。
一九一四年(大正三)七月二十八日、欧州で第一次世界大戦が勃発した。八月二十三日、日本帝国は対独宣戦を布告した。
歴史の分かれめが露わになりつつあった。
島安次郎は、広軌改築が休眠してしまった時期も、国産標準機関車の開発にむけて全精力を注いでいる。
この時期から、鉄道院工作課の機関車設計技術は、狭軌の条件ではあったが、世界水準を維持する土台をつくりあげ、ついに世界水準に達することになる。
島が期待する人材は佐野清風を筆頭に、着々と実力をつけていた。
佐野は、蒸気機関車の鉄鋼材標準規格を制定する。ドイツの規格をもとに、わが国はじめての鋼材規格化である。
一方、島は新鋭標準機の第一号機を貨物用機関車と定めて考えぬく。もちろん過熱式で、軸配置は一Dとした。火室を広くするために台枠上に火室をあげることにする。
さきにふれたようにドイツ・ボルジッヒ社製の八八五〇形が、この方式をとっている。八八五〇形はそのために缶中心線が高かったが、屈曲の多い日本の線路を走行する性能は申し分なかった。
島は缶中心線をあげた場合の安全性を確信していた。従輪を置かないとした以上は、狭軌で出力を得るためには、缶中心線をこのころ想定できるぎりぎりの水準まであげ、台枠のうえに広い火室を置くしかない。
どこまで缶をあげられるか。この見通しが、厖大な計算で求められる。機関車を構想するのは、イメージの数学的な描出、表現だった。その頭脳の働かせ方は、いま考えている機関車が、どのように仕事をするか、想像力を躍動させながらの精密な作業であった。
動輪直径は貨物用機関車であるため、小さくてよかった。小さい動輪を設定することで缶中心線が高い分を相殺し、重心は下るだろう。
しかし、そのことでどの程度重心を低くおさえ込めるか。これは機関車構造のすべてに関係する。
この一機種の構想は決して単独のものではなかった。さきに決定した六七〇〇形を一般旅客用二B機関車として、この貨物用機関車と、次に構想する急行用一C機関車との使いわけが、前提にあった。島は朝倉希一らに試算を命じ、構想《デツサン》がまとまると太田吉松を主任設計者に指名した。
こうして、狭軌鉄道ではこの当時世界で一番高い缶中心線を持つ九六〇〇形機関車が誕生する。
動輪直径を一二五〇ミリにしたため、缶中心線が二五九四ミリではあったが、重心の高さは八八五〇形と同じ一五二四ミリにおさえることができた。
性能はみごとなものだった。九六〇〇形は大正期の貨物用標準機関車として七百七十両も製造される。
次に島工作課長は、急行用旅客機八六二〇形の構想にとりかかった。六七〇〇形を基本に、過熱式に改良した六七五〇形が実験的に六両つくられていた。この段階を踏んだのち、島は意欲的な構想で八六二〇形の構想にとりかかる。この機関車は軸配置を一Cとした。ただし、一Cの内容が新機軸だった。
六七〇〇形の二Bの軸配置のうち、二にあたる先従輪の後ろの車軸を、動輪と同じ直径にして、動輪の働きをさせてしまうのである。
どういうことかというと、本来なら二Bである先従輪のボギー台車を、改良変形し、台車の後ろの車輪を大きくして動輪に組み入れたのである。
もう少し説明する。
八六二〇形は、一Cの軸配置でありながら、機構としては、二軸のボギー台車がひとつ、動輪が二つとも考えていい巧妙な車輪配置を構成していた。
こうして生まれた第一動輪(機構では先従輪を拡大したもの)に横に動く幅(横動)をもたせ、連結し、曲線走行性能の高い一C機関車を生みだしたのであった。
この先従輪と第一動輪のボギー台車機構は、「島式ボギー」と命名された。
この考え方の例は、オーストラリアにクラウス式、イタリアにツアラ式があった。
島はこれを改良して独特のものにした。
さらに缶の容積に対して加熱面積を大きくした。同じ水の量に対し、火にあぶられる面積を拡大したのである。これで性能が向上した。八六二〇形は六百二十両も製造される。
九六〇〇形も、八六二〇形も、大正期を代表する傑作機となった。
島の生涯にとって、このふたつの国産標準機の創出は、いわば関西鉄道以来の仕事の仕あげにあたるものだった。
標準機の大量製造により、汽車製造会社、新たに参入してシュミット式過熱装置の特許を取得した川崎造船などの力量は日を追ってあがり、さらに規格化された部品体系による整備工場の合理化、工場管理体系の整備などの波及効果が生じることになった。
日本の鉄道にとって、九六〇〇形、八六二〇形の誕生は、画期的であった。
ふたつの機関車は全国津々浦々を走り、鉄道員に愛された。
いま、もっとも古い世代の機関士のなかで、もっとも愛しい機関車に、「|九六〇〇《キユウロク》形」や「|八六二〇《ハチロク》形」をあげる人は多い。
「よくなじみ、たくましく、可愛い」
といい、のちに新鋭機が続々と登場した時代でも、長く愛される名機となった。
九六〇〇形と八六二〇形は、しかし、厳密な技術政策でいうと、広軌改築の際に改造される中継機の位置にある機種である。
すでにこのとき、島の頭のなかには、広軌改築の問題を解決し得る方法が、はっきりとまとまっている。
これは、島安次郎の驚くべき力量を示す構想だった。
広軌改築といえば、誰もが厖大な予算を食う一大国家事業だと考えている。
線路の幅をかえ、橋を強くし、トンネルを広げ、駅のホームを改造し、機関車も車両もつくりなおすことになる。
したがって、広軌改築の第一案のころで二億円をこえる予算が計上された。
だが、島安次郎は、独自に広軌改築の方法を考えぬいていた。
「工期十年を越えず、予算およそ六千万円」
というあっけないほどの名案≠セった。
仙石貢が鉄道院総裁となったのち、島安次郎は工作局長となった。
島安次郎は、独自の広軌改築方式を組み立て、大げさに考えなくていい「私案」をまとめ、これを総裁に提出した。
大正三年の、この最初の「広軌改築私案」は、どうやら「私案」であるために見すごされてしまったらしい。
このいきさつはわずかに『後藤新平』に記述がある。著者の鶴見祐輔は、同書のために取材を重ね、島安次郎も証言者の一人として同書に登場する。
島の肉声をうかがえる数少い記録のなかで、島工作局長は、このときの「私案」について、
「どうも握りつぶされたようだ」
と語っている。
握りつぶされた理由は、この「私案」が評価されなかったからではなく、公式に「広軌改築取調委員会」が発足しているので、そこで改築案を一本化しておく必要があったためと推測される。
島は自分の「私案」を二十部ほど印刷し、関係者に配付した。
それは、広軌改築計画が、厖大な予算を必要とする、という理由で反対してきた狭軌派の「根拠」を一気にくつがえしてしまう妙案だった。
島安次郎が果たした鉄道への貢献は、どれも巨大なものではあったが、技術の構造のなかに埋設されるような施策であり、大きな技術政策の流れのなかに島安次郎の足跡がかき消えていくようなものといえた。
どこに手を入れれば、技術がすこやかに発育するか、という施策は、そののち、その施策によって技術が繁茂するにつれて、痕跡を消していく。
巧みな手術が跡を残さない例によく似ている。
技術発達の流れそのものをデザインした者の名誉は、足跡を残さないことでいっそう輝いていよう。島安次郎の仕事の本質はむしろ、そうした領域のものであった。技術史のなかには、こうした消える方向への功績を果たし、静かなたたずまいを見せる人生が無数に存在し、島の存在も、その仕事の本質を示して淡い影絵のような印象さえある。
が、この「島私案」は、輝いている。
以下「私案」のうち、どこをどうすれば広軌改築がやさしく可能なのかをあげた「広軌改築ノ範囲及其利益」をあげる。
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一、軌間ヲ四呎八吋二分一ニ拡大ス
二、軌条及附属品、轍叉《ポイント》、尖端軌条ハ在来ノモノトス
三、枕木ヲ八呎ノモノニ取換ユ
四、砂利撒布面ヲ拡大ス
五、築堤切取ノ幅ハ在来ノ儘トス
六、線路中心間隔ハ在来ノ儘トス
七、隧道ハ在来ノ儘トス
八、橋桁中心間隔五呎未満ノモノヲ五呎ニ拡大ス
九、軌道中心ヨリ乗降場擁壁面迄ノ距離六吋ヲ拡大ス
十、前記以外ノ建造物ハ在来ノ儘トス
十一、在来ノ機関車相対車輪ノ間隔、台枠ノ間隔、台枠ノ間隔並ニ火室ノ幅ヲ拡大ス
十二、在来ノ四輪客車ハ其相対車輪ノ間隔及主台框ノ間隔ヲ拡大ス
十三、在来ノ「ボギー」客貨車ハ其相対車輪ノ間隔及「ボギー」台枠間隔ヲ拡大ス
十四、将来新造ノ各種機関車ハ近年増備シツツアル同種ノモノニ比シ動輪直径ニ於テ六吋乃至十五吋、重量及汽缶能力ニ於テ二割乃至五割ヲ増シタルモノトス
十五、将来新造ノ客貨車ハ近年増備ノモノニ比シ其幅ニ於テ約八吋迄(車両ノ長サニヨリ差違アリ)高サニ於テ約十二吋迄ヲ増シタルモノトス
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この十五策を見れば、基本施設のほとんどがそのままでいいことになる。
枕木を長いものにし、したがって道床の幅が広がる。橋梁は幅のせまいものをなおす、ホームと線路の間も広げる。トンネルはそのままでいい。
要するに、現在の車両をそのまま用い、軌間拡大によって足まわりの幅だけを広げようというものだった。
機関車は台枠ごと幅を広げ、したがって火室も広くなる。
そうしておいて、これからの機関車は、足もとが広くなる分、重心もあげられるから動輪も大きいものになる。車両も幅を拡大できる。
この発想は、島が練りあげてきた思想の、広軌改築計画に対する解答だった。
鉄道という装置はもともと、輸送量の増大にともなって、設備水準をあげ続けて対応していくものであり、改良は広軌も狭軌もなく常に恒常的に行われていくものだった。
それならば、現時点では、軌間だけを広げ、車輪の幅を広げただけの現行の車両を使っていき、恒常的な設備改良の範囲のなかで、輸送需要に応じて大型の車両へと転換していけばいいのである。その過程に応じて、トンネルや、橋梁の仕様も水準をあげ、幅を広げていけば、一時に巨大な投資を必要としない。
ただし、この過渡期に、軌間が二つ併存することになる。
すでに見てきたとおり、軌間の不統一は、鉄道の能力を著しく損う。
そのため、三本レール、四本レールを敷設しての相互乗り入れの方法が用意されており、さらに、もうひとつ、技術的な方法がある。「台車交換(輪軸交換)」であった。
この技術の見通しを得たことによって「島私案」は、完璧となった。
軌間の違う線区へ乗り入れるときには、車体をもちあげておいて、下の台車だけをつけかえてしまう。
ボギー台車は、台車の芯《へそ》で車体と結接されており、元来、とりはずしが可能であり、整備修繕の場合も、とりはずして行う。
この工程を、線路のうえでやってしまう。
仮に狭軌から広軌に入っていくとして、線路の接続点へ台車交換装置を設ける。
そこを通りすぎるときに、狭軌の台車を下に落とし、車体だけ進めて広軌の台車のうえに載せる。単純化していうとこれだけである。
もちろん機関車はそうはいかないが、機関車の交替は日常的に行われているので、このための作業量は増えない。
この「台車交換(輪軸交換)装置」は、軌間の違う二国間の連続運転で実際に使われていた。「ブライトスプレッヒャー式」という。
ロシアの五フィート軌間とオーストリアの標準軌間や、フランスの四フィート一一インチ(一五〇〇ミリ)とスペインの五フィート六インチ(一六七四ミリ)の間で現在でも使われている。
(筆者はフランス―スペイン間でこの装置を体験している。パリからバルセロナへの列車に乗っていて、いつ交換したのかわからないほどだった)
大正六年に大井工場内で行われた実験では、貨車五両の輪軸交換を六分で完了している。
島の「私案」は、外形は「応急的広軌改築」のように見えている。
しかし、むしろ、この筋道が鉄道改良の本道であった。いま可能な投資資本量の範囲内で土台を大きく構えておけば、その後の歴史過程が鉄道自体を成長させてしまうのである。
もちろん資本があり余るほどであれば、大きく壮大に改築してかまわない。利回り計算で五十年後に有利となる長期計画が赦されるのならば、それをやってもかまわない。
が、現実には、壮大な長期計画はそれだけで絵空事になりかねない。
まして、国家財政にゆとりのあったためしのない日本では、「島私案」こそが的を射抜き得るものであった。
しかし、この時点ですでに形を整えていた島の構想は、仙石貢総裁のもとで進行していた「広軌改築取調委員会」ではまだ、検討されなかった。しかし、島はこの「私案」によって「委員会」に途中から参加することになった。
委員長古川阪次郎、理事森本邦次郎、大園栄三郎、名倉竹次郎、技師田中富士太、杉浦栄三郎、木下淑夫の委員会は、「現行狭軌」「強度狭軌」「普通広軌」「強度広軌」を徹底的に比較検討し「強度広軌」を有利とする。またしても厖大な調査資料が積みあげられ、あくまでも理詰めにデータを解析して、広軌改築計画に二十五年、費用総額二億三千二百十二万円とした。
このとき、広軌改築と改良、さらに新線建設を合計すると、計画期間中の予算は十四億八千万円という巨大な数字がはじきだされていた。
この間に、政府は対中国政策で揺れていた。
後世、悪名高い「対華二十一ヵ条要求」により、日本は世界の非難を受けつつあった。
このころ、後藤新平は「対華二十一ヵ条要求」に反対し、対中国政策の変更を求めて、しきりに運動を続けている。
後藤新平もまたこの時代の国家主義者の一人ではあったが、中国大陸大乱の予感がまさに現実となり、後藤新平なりの戦略からいって「対華二十一ヵ条」に反対していたのである。この時期の後藤についてはのちに述べる。
日本の鉄道は、九六〇〇形、八六二〇形、これに加えて、さきに輸入した新鋭機関車群が幹線を驀進して、この大正二年から三年にかけて近代鉄道にみごとに脱皮していた。
大正三年十二月二十日、東京駅が開業した。
帝都東京の玄関は壮大な建造物によって成った。
正式開業の二日前、十二月十八日、東京駅開業と同時に横浜(当時は高島町)―東京間の電車運転がはじめられた。
この日、青島《チンタオ》攻囲軍司令官神尾光臣中将が一号電車で凱旋する。
折り返しの電車には両院議員、各界名士、新聞記者が乗り、東京駅と、さらに横浜までの電車運転の御披露目を楽しむことになっていた。
ところが、この帰りの電車が名士を満載したまま、品川付近で動かなくなり、何とか動かしても鶴見付近でストップ、パンタグラフが火を吹いて折れ、二時間三分もかかってやっと横浜へ着いたが、名士たちを東京へ帰すためには蒸気機関車の牽く臨時列車を仕立てなければならなくなった。
仙石貢総裁の面目丸つぶれとなり、仙石の百雷が轟いた。
「石丸は首じゃあっ」
首が飛んだのは、このとき最高技術統括職であった技監石丸重美である。
東京駅開業、神尾中将凱旋に間にあわせようとあまりに工事を急がせ、試運転も不足だった。事故は急いだためだった。が、雷は落ちた。
副総裁古川阪次郎は減俸処分。もうひとり首になったのは電気課長玉木弁太郎である。
石丸技監を引責退職させるために、一年の時間をおき、技監職そのものを廃止するという策が用いられた。
この人事を石丸は恨みとした。
石丸はこののち、一民間企業東京鋼材の社長につき、鉄道院の後輩を訪ねては注文をとり、ときに後輩の前で、
「いまに復帰する」
と語ったという。
その手はあった。政友会への接近である。
毎朝六時、用がなくても原敬の家に伺候し、政党による鉄道院復帰を策するのである。
石丸は元治元年(一八六四)、大分県の生まれ。明治二十三年、帝国大学工科大学土木工学科を卒業、内務技師試補、秋田県五等技師を経て逓信省技師、鉄道作業局米子出張所長などを経て技監となった。
この人物が、仙石の処分を恨みとし、さらに政友会へ接近したことが、少なからず鉄道史に影響をあたえることになるが、それはもう少しあとのことになる。
大正五年十月五日、大隈内閣退陣。大命は寺内正毅に降下、この内閣に後藤新平は内務大臣兼鉄道院総裁として入閣する。政府与党は憲政会となる。
「広軌改築」は、この間、調査継続のうちに停頓していた。
予算額が巨大にすぎ、それを前にして広軌改築を進めようとしても、その責を負おうとする者も二の足を踏んでいる情勢だった。
後藤は総裁就任早々、「広軌改築」をすぐさまかかげ、大号令を発する。
この時点から以後、島安次郎は「広軌改築」をもっとも現実性の高い計画へ練りあげる中心的役割を担うのである。
後藤新平は、総裁室に島を呼んだ。
「どうかね、広軌案は、その後、元気がないではないか。あの予算も途方もない。あれでは議会を通らん。君に別案があるそうだが、聞かせてくれんか」
島は自分の構想を語り、この間に、仙石貢の後を襲って鉄道院総裁に就いていた添田寿一へ提出しておいた「島私案」の報告書を見せた。
島は、このときまで「私案」は紛糾のもとという考えから、自分の考えを主張していなかった。
後藤は島の構想を聞き、これが妙案であることを瞬時に理解した。
「これも見方なり」
といい、くわしい調査を命じた。
「公式に、でしょうか」
その調査が「公式」でなければ、組織が動かない。
「よろしい、公式に、である」
島私案はこのような経路を経て、鉄道院の基本方針へと浮上したのだった。
さらなる広狭の闘い
後藤新平の了解を得たのち、島工作局長はこの計画立案のために文字どおり心血を注ぐことになる。もちろん、島の同僚、工作課員、工場の職工に至るまで、一丸となって邁進した。
このとき、鉄道院には力がみなぎっていた。
寺内内閣には逓相に田健治郎が就任していた。貴族院へ去った仙石貢はもちろん広軌改築推進の旗を下ろしていない。
副総裁をやめた古川阪次郎はそのまま鉄道院顧問に就任してにらみをきかせていた。
古川阪次郎のあとに副総裁に就いたのは、南満州鉄道総裁を政友会人事によって退いた中村是公だった。中村是公は台湾総督府、南満州鉄道以来の後藤新平直系の弟子だった。
帝国大学法科大学英法科を明治二十六年に卒業。夏目漱石と同期、親友である。大蔵省に入り、台湾総督府で後藤に認められる。後藤新平が騒がしく、かつ大胆に施策をかかげて突進したのち、後事を託すのはいつも中村是公だった。
広軌改築派にとって、いや、鉄道事業の合理的運営のために、いまや強力な布陣が形成された。
広軌改築の基本方針は、さきにあげた島私案の十五項目がそのまま鉄道院の正式な方針になった。
のちに「国有鉄道軌間変更案」となってまとめられるものである。
車両については島工作局長が担当する。
そして、線路については杉浦宗三郎工務局長が担当することになった。工務局は、線路施設全般の担当局である。
杉浦宗三郎は島と同年の明治三年、東京の生まれ。明治二十七年帝国大学工科大学土木科卒。日本鉄道に入社し、鉄道国有化によって鉄道院に合流した。冷静沈着な人望家で、のちに、帝国鉄道協会会長に就く。
もう一人、この時代にめざましい手腕を発揮していたのは運輸局長木下|淑夫《よしお》だった。
国有鉄道の営業が面目を一新していったのは、その中枢で木下淑夫が、次々に新施策を打ちだしていたからだった。
木下については、島安次郎のように一書が必要なほどの功績がある。国有鉄道の近代経営理念は、この時代の木下が源流といえた。
国有後の統一運賃体系の整備、旅客サービスのためのさまざまな企画、臨時列車の創設、高飛車でお役所ふうだった掲示文の文体を口語体にかえ、サービスの国際化を見通して、早くから車掌職の英語教育をはじめ、ジャパン・ツーリスト・ビューローを発案し、利用客誘致に斬新な方策を次々に打ちだして、この時代を迎えていた。木下は、アイデアだけではなく、近代社会における交通輸送の構造を正確にとらえ得た最初の日本人とさえいえた。彼には『本邦鉄道の社会及経済に及ぼせる影響』という三巻、図表一巻の大著があり、交通運輸の古典的名著とされる。明治七年京都府熊野郡の生まれ。明治三十一年東京帝国大学工科大学土木工学科卒。大学院では法律、経済を修めた。明治三十二年、鉄道作業局工務部主計課から鉄道人生を歩みはじめ、欧米視察、留学を重ね、アメリカ、ペンシルベニア大学では、エモリー・R・ジョンソン教授から交通政策論、鉄道運輸論などを学んだ。このころ、交通政策という、近代社会のソフトウエアを考える体系は、日本にはないといっていい。
木下の仕事は、島安次郎の仕事と位置関係が酷似していた。
貨物輸送でも、大貨物運賃の引き下げのほか、運賃体系の整備、速達貨物列車の創設、冷蔵車、通風車など生鮮食料品のための貨車設備の充実など、
「何ンデモ鉄道ガ一番良イ」
としかとらえ得なかった日本人が、大急ぎに鉄道を敷設したそのあと始末と、未来への架橋を担当していたのである。
木下はまた、アメリカの自動車時代の予兆を、敏感にとらえていた。彼が見ていたのは、社会と運輸交通の仕組みだった。したがって、国有鉄道の運営とは、自動車や、船舶をふくめた総合的な交通政策の問題であり、道路網を整備し、自動車、汽車、船が、それぞれに長所をもって構成する運輸交通システムの創出が、木下の考えの核心であった。
この政策こそが、
「鉄道は延長するに若かず」
と念仏のようにとなえている「建主改従策」をまっこうから批判し、的を射ぬき得るものであった。
大正五年のいま、島安次郎や木下淑夫らを中核とした鉄道院中枢の人々によって、鉄道事業が社会基盤を担う装置として、本来必要だった方策が整えられつつあったのである。
後藤新平は、文装的武備の一環として鉄道をとらえ、それを強化しようと考えていた。
しかし、島安次郎や木下淑夫にとっては、実はそのような枕言葉さえ無用のものだった。
どのような国家、社会であっても、鉄道という装置、あるいは運輸交通システムは、安く、具合よく動いているべきであり、それにむかって挺身することが、この仕事の普遍的価値なのだった。
国家理念でさえ、その価値のまわりに付いたいくつかの価値のひとつとさえいってしまってよく、それらのなかには、政治効果や、利権や、土木建設業や、売店の権利まで付着しているわけである。
このように鉄道テクノクラートの最良の鉄道観と、後藤新平の鉄道観は、はじめから倒立した位置関係で一致していたといえる。
この倒立した蜜月関係は、やがて後藤新平の哀しき離反によって破れることになる。それは鉄道観の位置づけの違い、位相の違いが原因だったが、その悲劇はまもなく起きることになる。
しかし、いまは蜜月にあった。
島安次郎は、自分の構想を実現するためにどのようにことを進めるべきか、しきりに考えた。
(広軌改築案は、議会に上程されてからすでに十年の歳月が流れている。論争までふくめれば、三十年。予断が横行し、論じたところで聞く耳を持たぬ人が多い。どうするか)
島はこのとき、四十七歳。
広軌改築が自分の肩に載ったことで、もの静かな男にめずらしく闘志が眉間のあたりに現われている。
二階建ての鉄道院庁舎は、廊下が長く、そこを島は歩き、立ちどまった。
(やはり、眼前に出す。見せるしかない)
くるりと振り返ると、足早に歩き、そのまま総裁の秘書官室に入った。
「総裁はご在室か」
後藤はいた。が、誰か来客中であった。
秘書官が、島が来たことを告げた。
「人が来たら、すぐに告げよ」
と後藤は日ごろから命じていた。
「なにか」
とドアのむこうで後藤の声があった。
部屋へ入るなり用件をいうのを、後藤は好んだ。
その間、来客は放っておかれる。
島は一礼してすぐに本題に入った。
「広軌改築は、なるほど大きな仕事ですが」
「うむ」
後藤はうなずく。
「仕事の性質としては単純なものです。試みに実験をしてみたいものです」
後藤は顎を引き、口もとを引きしめ、ほんの短い間考え、
「うん、それはよかろう」
と答えた。
島の目が輝いた。それを後藤は目を細めて見つめた。後藤が本心から楽しむのはこのような顔を見る瞬間だった。
島はその足で技監室を訪ねた。
このとき、鉄道院技監は長谷川|謹介《きんすけ》だった。
安政二年(一八五五)周防、山口県の生まれ。鉄道史をそのまま歩いてきた巨人であった。明治四年、大阪英語学校に学び、十年、鉄道工技生養成所の開所と同時に一回生となる。十一年、京都―大津間の深草、逢坂山間の工事に、井上勝によって抜擢登用され、十三年、当時空前の長大トンネルだった敦賀線の柳ケ瀬隧道を担当する。以下、天竜川橋梁、日本鉄道に転じて常磐線、台湾縦貫鉄道の建設。鉄道院の創設で合流し、地方鉄道局長で前線にあり、中部鉄道局長から技監に就いたところだった。性格は重厚で、長谷川の工事そのものも質素堅牢であった。
長谷川は自分の周囲にある虚飾を極端に嫌った。常に現場にあって工事を進め、のち、鉄道院副総裁になっても、巡視中、釘など自分で拾ってしまい、左右をあわてさせた。
「いいでしょう、存分にやりなさい」
長谷川技監は島の提案にうなずいた。
「機関車もレールも、古いものでやります」
島がいうと、長谷川が微笑した。苦笑のようでもある。
わしゃそれほどしみったれちゃおらんが、といった笑みかも知れなかったが、この技監ほど無駄口に縁のない人物もいない。かすかに残る笑みのなかで、ただうなずいた。
これからおよそ半年後、大正六年五月二十三日、横浜線の原町田から橋本の間で、広軌改築実験が開始された。
杉浦工務局長の指揮のもとで、三線式、四線式のレールが敷設され、島工作局長の指揮のもとで二一二〇形タンク機関車が広軌に改造された。同じころに「ブライトスプレッヒャー式輪軸交換」実験が行われたのは、すでにふれたところである。
この実験は、同時に広軌改築実現へのデモンストレーションだった。
(眼の前で見せてやる)
と考えた島の策は成功した。
八月五日までにくり返し行われた実験には、両院議員や、各界の名士が見物にきたし、新聞も書きたてた。
「わが輩も行く」
と後藤新平も現場にきて、この方式の改築に自信を得た。
広軌に改造した二一二〇形タンク機関車の出力試験は入念にくり返され、一〇〇〇分の一〇の勾配を時速二五キロで登るとき、狭軌用機関車が二五〇トンで限界だったところを広軌改造機は三五〇トンを牽いた。
三線式、四線式のポイントの走行も問題はなかった。当然なのである。
この方式が安定した技術であることは、日本でこそ知られていないが世界の常識だった。
しかし、とんでもない難くせをつけて批判する者もいた。また、ほんとうに理解できない両院議員もいたし、鉄道院のなかにさえ、
「こんな計画ができるのか」
という者は存在していた。
だから、こうしてやって見せなければならないのである。
後藤新平はこの実験結果を受けて大正七年末、翌年の予算案に盛り込もうとした。
それまでには「国有鉄道軌間変更案」が杉浦のもとで作成され、車両改造の工程と連動させて、播但線から着手し、支線で経験を積みながら山陰線、山陽線、東海道線と東進し、本州の最終改築線を房総線とする、またしても緻密な計画案がたてられていった。
広軌改築計画は常に厖大な資料とデータによって裏付けられ、立案されるのである。もはや、科学的に構築されたこの計画は、予算の面でも、車両技術の面でも、また、この間の運転方法の面でも、欠点を探しだすのは困難な完璧な妙案≠ニなった。
が、どうしたわけか閣議の反応はにぶい。正式の閣議決定は下りず、内諾であった。
これより前、後藤新平は「広軌改築」に関して、実は、政治的な力を喪失していたのである。
後藤は大隈内閣の対華二十一ヵ条に反対した。さらに大隈内閣が、反袁世凱の露骨な干渉方針をとることに反対して、倒閣運動に全力をあげた。後藤の考えでは、中国の安定した政権を援助し、その政権との提携によって、わが権益を発展させようとするものだった。
後藤は暴露パンフレット、怪文書まで撒いて大隈内閣を追いつめ、憲政会と、長州陸軍閥を攻撃し、ついに追いつめ、寺内内閣を樹立するのに大いに働いている。
そして、大正六年四月の選挙では、内務大臣として憲政会を追撃し、第一党から追い落とした。
したがって、大正六年暮のこのときの議会勢力は、政友会百六十五、憲政会百二十一、国民党三十五、中立六十となっていた。
この政治劇のなかで、当然にも憲政会は反政府となり、後藤内相はにくむべき敵となったのである。
その憲政会の鉄道政策が「広軌改築」、つまり「改主建従」なのである。
後藤新平は、対中国政策によって、少しばかりアクの強い倒閣運動を行いすぎ、さらに憲政会追撃を続ける間に、自らの鉄道政策を進める政治的な場所を失っていたのである。
そして、さらに、政権維持のために政友会へ接近せざるを得ない場所に立っていたのである。
この政策のねじれ現象によって、せっかくの島安次郎の計画は、閣議ではぼんやりした内諾のままに置かれていた。
「政友会がうんといわなければ、これは閣議にできん」
これが寺内内閣、後藤新平内相の本音だった。
島工作局長は待った。
待つしかないのである。
(なんという政治か)
と思いながらも、待つしかない。
この時代の日本の政党政治は、政権抗争と基本政策を使いわけるほど成熟してはいなかった。
反政府となれば、かつて、わが党の推進した同じ政策を政府が提出しても、反対なのである。
島工作局長は待つしかない。この政治劇の流れを読めない島ではなかった。
(あるいは、この予算であれば、政友会の鉄道政策が、広軌改築へ変換されるかも知れない)
この島の広軌改築計画は、泥くさくいい換えると、次のようにもいえた。
「なに、六千万円で、線路の幅だけ広げておきますから、あとは政友会さんも、存分に新線を引けばいいじゃあないですか。ここは、次の政権もあることだし、ひとつ、これで広軌の手当てだけしておいて、よろしくやりましょうよ」
この政治取引をやらなければならないのは後藤新平であろう。
後藤内相はそれをやろうとした。
待ち続ける島工作局長の電話が鳴った。
「四、五日うちに床次君と食事をする。君も列席してくれ。日時は、おって連絡」
五日後、夕刻、島は内相官邸での午餐に招待された。
すでに邸内に床次がいた。別件の話が終ったところらしい。
島は同じテーブルに着いた。料理が運ばれた。このころ、内相官邸は帝国ホテルの横にあり、どうやら、運ばれるディナーは帝国ホテルのものだった。
が、島の舌のうえの料理に味はなかった。
(この頭に、もう少し理の通る道があれば)
と床次を見ざるを得ない。
後藤がいった。
「この、島君は、君も総裁として知るとおり立派な技師だ。こんな案を考えた。君の意見を聞かせてほしい」
床次はゆっくりと軌間変更案を読んだ。
「これは」
といって口を動かし、
「妙案だなあ」
と嚥下《えんか》した。
しかし、それっきりである。
この場面を島は鶴見祐輔に、
「頗る気のない返事で、余り質問もせず、極めて気乗薄の態度を示された」
と語り残している。
(理の通り道が、やはり、ないのか)
島がこのあと、どんな思いで食事を続けたか思ってあまりある光景である。
それからすぐ、政友会は「広軌改築」に対してわざわざ、
「反対」
の党議決定をしてしまった。
島の現実的な軌間変更案の影響力が強く、ぐずぐずしていると、理論負けするとでも思ったのかも知れなかった。
鉄道を待ちわびている地方勢力に対して、すでに政友会が、政策変更を説明するゆとりがなかったという説もある。
「広軌にすれば、線路が来ない」
と単純にあおりすぎており、さらには、
「当選の暁には線路を引き」
とも手形を乱発してきているのが政友会なのだった。
政友会の「広軌反対」の党議を受けて、後藤の態度も激変した。
自分から鉄道院の理事、各局長にいったという。
「広軌案は中止する!」
この声を聞いて中村是公副総裁が、もっとも強く諫めた。
島も、この案をかかげて継続すべきであると主張した。各局長こぞって後藤の決断に変更をもとめた。
が、後藤はこの断をくつがえさない。
すでに後藤にとっての国家一大事は外交問題になっていた。
一九一七年(大正六)十一月、ロシアに革命が起きた。
寺内内閣の外交は一定の成功を収め、大隈内閣時に悪化した日米関係も修復し、いわゆる石井・ランシング協定がまとまった直後である。
このころ、寺内首相は病気である。年を越えて大正七年、後藤は寺内に替って、議会工作にあたり、政友会との連携に全精力を注がなければならなかった。その延長上に外交問題が発生しており、その視野のなかで、鉄道政策は急激に小さくなっていったのである。
かつて、都城の宿で、後藤が広軌改築の秋《とき》きたると方策を書きなぐったとき、中国の情勢から説き起こしたことを想いだせば、彼の、
「広軌改築中止」
の判断はよく理解できよう。
国家一大事が、後藤のもっとも重い課題であり、それがこのとき巨大にふくらみ、広軌改築への情熱を消してしまったか、捨てさせてしまったわけである。
政友会との連携を工作しながら、一方で対決法案を維持する政治的立場は、このとき後藤には許されていない。
寺内内閣は、広軌改築について、またしても延期の決定を下す。
大正七年四月、後藤内相は外相に転じた。
中村是公が鉄道院総裁に就任し、またまた後事を託された。
島安次郎は技監になった。
広軌改築は宙ぶらりんのままであったが、島技監は、日本の鉄道の水準を引きあげるために、手を休めてはいない。
宙に浮いたままの広軌改築の尻尾を握り、一方で、
「自動連結器」
「貫通制動、空気ブレーキ」
の導入を決定する。
大正七年八月、後藤外相のもとで、日本はアメリカとともにシベリア出兵に踏み切った。
後藤はもはや、鉄道から急激に離れていく。
そして米騒動が発生した。
寺内内閣はついに持ちこたえられず、政権を投げだし、大命は政友会総裁原敬に下る。
この瞬間、島安次郎が精魂を傾けた「広軌改築」は死んだのである。
終幕はいっそう醜悪な様相で鉄道院を訪れることになった。
内相兼務で床次竹二郎が鉄道院総裁に就任し、副総裁に石丸重美が返り咲いた。
政友会への執念の接近により、石丸は自分でいったように
「帰ってきた」
のである。
石丸が帰ってきただけなら、醜悪とはいえなかった。
が、石丸副総裁は、政友会に支えられて報復人事を行うことになる。
九月三十日、古川阪次郎の顧問職を解いた。
半月後、営業で新機軸を担っていた運輸局長木下淑夫が中部鉄道局長に左遷された。
これにともない老朽淘汰、新進抜擢の党派人事が行われた。
島技監は、かろうじて現職にとどまっていた。
翌、大正八年二月、床次竹二郎は第四十一議会において、広軌改築の不要を断言する。
「今日鉄道網ノ完成ヲ必要トスル時代ニ於テ一旦軌間改築ニ着手シ忽チ財政上ノ混乱ヲ惹起スル如キハ採ラズ、国防上ニ於テモ狭軌ニシテ支障ナキコト我陸軍ニ於テモ之ヲ認メ敢テ異議ヲ挟マザル所ナリ」
この四ヵ月後、だめを押すように、島技監のもとに書類がまわってくる。
「我国の鉄道は狭軌にて可なり」
という院議に署名捺印せよという。
書類には、総裁、副総裁の名と捺印があった。技監、各局長と署名欄が空白だった。
しばらく、島安次郎はその書類を机上においた。
妙に室内が静かだった。
外は雨であった。もう四日ほども降り続いているだろうか。
窓の外を眺めた。あじさいの花らしい色がぼんやりと浮かんでいる。
手帳をだし、めくった。別に何を見ようとしたわけではない。
(六月七日)
と日付を確認すると、机にむかい、さらさらと辞表を書いた。
(わが国の鉄道は狭軌にては不可なり)
とも、頭のなかに言葉が浮かぶ。
「狭軌にては不可なり」
と口にだしていってみてから、技監室を出た。
(道はぬかるみか)
と思いながら階段を降りた。
第四章 弾丸列車から新幹線へ
父子継承
大正十四年七月十七日、未明――。
大阪の街は朝霧のなかに眠っていた。
淀川や道頓堀、そして無数の堀割からたちのばる霧が、かすかに明けはじめた闇の底を流れていた。
かつて、若き島安次郎が、ピンチ式ガス灯のガス発生装置を建設した湊町駅構内も霧につつまれていた。
が、その闇の底にはただならない人の気配が感じられた。闇と霧のむこうから、機敏に駆けまわる人々の足音が重く響いてくる。
点呼のような声が交わされてすぐ、一条の光が霧を浮かびあがらせた。光が、次々に増えていく。
夜間作業用の大型アセチレンランプが点火されたのである。
側線の横に、作業現場用の大型テントがいくつも張られていた。
中央のテントの横には、
「自動連結器取替湊町駅作業団本部」
と大書した看板が立っていた。
午前四時、空は濃い群青にかわり、霧がうすれてきた。
青黒い作業服、帽子の顎ひもをかけ、足もとをゲートルでかためた作業員が、各班ごとの点呼を終え、作業団本部前に整列した。
その数、およそ百二十名。
団長が、おごそかな声でいった。
「皇居遥拝」
はるか東方にむかって深々と最敬礼する。
続いて鉄道大臣の訓示が、暁闇のなかで読みあげられた。
「自動連結器ノ取替作業ヲ行フニ際シ従事員諸子ニ告グ」
この間、めまぐるしく内閣がかわり、大正九年、鉄道院は鉄道省に格上げされていた。大正十三年六月、憲政会加藤高明内閣となり、鉄道大臣には仙石貢《せんごくみつぐ》が返り咲いていた。
「本作業ハ過去数年ニ亘リ準備シ来リタルモノニシテ其ノ計画今ヤ予定ノ如クニ進行シ愈々本日ヲ以之ヲ施行セントス」
島安次郎がこの施策をあげてから十年、正式決定から六年の歳月が費やされていた。
自動連結器への切り換えは、「建主改従策」によって国有鉄道を追われた島安次郎の置きみやげだった。
鉄道院はこの仕事にとり組み、統計資料を解析し、もっとも貨物扱い量の少い七月十七日に日時を決めた。貨車一両分の作業工程から作業人員を定め、配車、運転とその実施の準備を積みあげていった。この実施計画の基本を考究したのが島安次郎であった。
そして、この仕事は、島が後事を託した佐野清風に引き継がれたが、佐野は大正十一年に自殺してしまう。
原因は不明であった。が、日本の近代はときに合理的思考者をおしつぶしてしまうことがあり、文学者にもそのような質をおびた自殺が見られる。車両の切れ者といわれた佐野の自殺にも日本的な近代の亀裂が走っていたのかも知れない――。
訓示は次のように続いた。
「顧《おも》フニ本作業ハ数万ノ車両ニ対シ而モ一回ヲ限リ之ヲ遂行スルモノナルニヨリ諸子ノ異常ナル努力ニ俟《ま》ツコト大ナルモノアリ」
貨車の総数は四万一千六百六十一両である。この日に本州の交換を終え、七月二十日には九州で作業が行われることになっていた。
それは同時に、全世界の注目する日でもあった。各国の鉄道界の人々がこの大事業を見学しに来て、いまこの時刻に、東京、名古屋、広島の各地で現場に立っているはずだった。
鉄道省は、工具や作業方法を広く懸賞募集しており、国民の目も、この日一日は線路に釘づけになっていた。
世界のどの国も、自動連結器への交換を望みながらその実施の困難を前にして二の足を踏んでいた。ひとりアメリカだけが後発の立場から自動連結器を装備し、イギリスをはじめ鉄道先進国ほどこの件に関しては決断できずにいたのであった。
が、日本の鉄道はこれを断行しようとしてこの日を迎えている。
それの可能な現場従事員の技量があり、この事業を遂行する中堅職の厚い層が形成され、上下ともにその士気は高く、さらに高級職に先見の明があり、断が下されていた。
この同じ構造のなかに広軌改築案もあったはずだが、島技監の建策は、広軌改築案だけが党略のために消されていた。
「諸子能ク其責務ノ重キヲ自覚シ炎暑甚ダシキノ候ニ屈セズ奮励努力細心ノ注意ヲ加ヘテ其ノコトニ当リ以テコノ鉄道界空前ノ大事業ヲ違算ナク完了セシメンコトヲ望ム」
側線には黒々と貨車が並んでいた。およそ五百両である。それらは一両、また一両と等間隔に置かれていた。
四人一組の作業班が側線に散った。空が白み、アセチレンガス灯が消された。作業開始の笛が鳴った。にわかに金属音が構内に満ち、掛け声があふれた。古い連結器がとりはずされ、貨車の台枠の下にかかえ込まれていた自動連結器がてんびんの原理を応用した工具で引きだされ、吊られ、取りつけられていく。
いま全国でおよそ三千人に及ぶ人員がこれにとりかかっていた。
そして、取りはずされた古いフックと緩衝器の連結器もまた、明治三十九年の国有化の時点で島安次郎の設計したものであった。
島安次郎は技監を退官したのち、満鉄理事に転じた。
政友会は満鉄への支配を強めようとしていた。この時期に悪名高い塔連炭鉱買収事件、内田汽船買収事件が起きている。もともと二万五千円の炭鉱を満鉄が二百二十万円で買い、二、三十万円の船を二百七十万円で満鉄が買う。この金が政友会に還流したという。
この時代、政友会から満鉄に送り込まれていたのは野村竜太郎社長、中西清一副社長らである。
やがて、憲政会はこの件を議会で暴露、追及するが、内田汽船の内田信也社長は憲政会総裁加藤高明にも五万円を贈っており、不正買収と贈賄の泥仕合となる。
満鉄のなかからは、不正追及に立ちあがる者もいた。
それらの人の動きもあって大正十一年一月、中西清一副社長と、直接塔連炭鉱の買収に当った庶務課長が起訴されたが、翌十二年十二月、証拠不十分で二人は無罪となる。
この間、島安次郎は沈黙のなかで理事職にあった。七代社長早川千吉郎が病歿したのち、八代社長川村竹治が就任するまでの十日間、社長代理となっている(『南満州鉄道株式会社二十年略史』による正式の役職名は社長事務取扱)。
そして、この自動連続器取替の十四年当時は、「汽車製造会社」へ転じ、のち会長に就任する。
満鉄に転じてすぐ、自分を追った政友会の性懲りもない欲心を目のあたりにして、島安次郎の心中いかばかりかとも思うが、この時期の島安次郎の心の内を示す資料はいまのところない。もともと、技術問題以外で島が何かを発言することは皆無といっていいのである。
満鉄理事から「汽車製造会社」までの短い時期に島は東京帝国大学工学部講師を務めていた。すでに政党の欲心に関わる気持ちはなかったとも推測できる。
鉄道省の総力をあげて行った自動連結器への交換は客車も、機関車も、見事に行われた。
この成功は日本国有鉄道の組織的力量、技術力を世界に示すことになった。
広軌改築こそ成らなかったが、大正十年代までに、近代鉄道の土台がほぼできあがり、自動連結器の切り換えはその仕上げともいえた。
もちろん、政党の介入は続いている。
とりわけ「建主改従策」は政友会のもとでいよいよ本性を露わにした。
大正十一年の第四十五回帝国議会で可決された「改正鉄道敷設法」では、予算措置と計画年次の条文が削除されていた。
この意味は、「いつでも勝手に引ける鉄道」ということだった。
建設予定線は地図のうえに線を引けばよかった。
長野県方面から飛騨高山へまっすぐ抜ける線なども予定されていた。中央アルプス、北アルプスをどのように横断するのか、誰が乗るのか、そんなことは知ったことではなかったのである。
大正十年十一月四日、原敬は東京駅頭で中岡艮一に刺殺される。
原敬は死して、地方赤字線を残したのだった。
わが国の交通政策で、もっとも総合的な交通政策を持ち、かつ「建主改従策」へのもっとも正攻法的な批判者であり、見事な交通体系を生みだしたはずの元鉄道院運輸局長木下淑夫は、大正十二年九月八日、関東大震災の直後、肺結核で病歿していた。
広軌案はただ葬られただけでなく、鉄道省内部ではタブーのような色合いをおびていく。
そして、もうひとつ、たび重なる党派人事の横行により、鉄道政策の合理性によって問題を考え、それを主張すること自体が、何やら嫌われるようになった。泣く子と政党には勝てぬといった雰囲気が一方で生まれ、また迎合して出世を考える風潮が次第に優勢となる。
この風潮は、日本の近代の流れがもうひとつ流れを変えれば、さらに泣く子と軍部には勝てぬという時代になる。
泥仕合を続ける政党政治家の側には、軍部の足音が聞こえていた。しかし、その軍部もまた党利党略によって提携すべき相手のひとつだった。
広軌改築の総帥後藤新平は、あれ以来二度と鉄道に関与していない。
こののち、拓殖大学総長、日露協会会頭、東京市長、関東大震災直後の第二次山本権兵衛内閣で内相兼帝都復興院総裁になる。帝都改造で大ぶろしきぶりを発揮するが、後藤の計画は東京の企業や地主階層に反対され縮小し、矮小化する。政党に距離を保ち、超然とした後藤は、桂太郎のような後ろ楯がなければ仕事の場そのものを得られなかったのだった。
鉄道史は、大正十年代に舞台が大きくかわった。草創期に英雄的に活躍した世代は鉄道の現場を去っていった。
以後、国有鉄道は、好むと好まざるとにかかわらず、「狭軌鉄道」の限界への挑戦という枠組のなかで運営されることになる。
そして、その限界条件という枠でさえ、しばらくは意識の底に沈んだかのようであった。
国民の多くは、日本の鉄道が狭い線路のうえを走る一クラス下の汽車であるとは思わなかったし、島安次郎が残したもうひとつの置きみやげ、「長軸車両、限界までの大きさの車両」は、鉄道省高級幹部でさえかえって狭軌でよいという根拠にするのである。
そしてこの大正十四年、自動連結器への一斉交換の年、安次郎の長男秀雄は東京帝国大学工学部機械工学科を首席で卒業し鉄道省に入るのである。
父親そっくりの長身であった。骨格は父親よりもがっしりし、堂々とした体格に育った。
東京、芝の育ちである。芝の増上寺の門前にある麻布共立幼稚園から、鉄道官舎の子どもたちと一緒に東京市立桜川小学校に入学する。学区改正で三年生のときから芝小学校に転じ、ここを卒業し、市谷加賀町の府立第四中学校へ入学した。
ひたひたと迫りくる軍国主義を先どりしたような校風で、のびのび育ってきた秀雄は面くらった。
何しろ、雨の日にはゲートルをつけて登校する。これを五回忘れると操行が丙になる。
芝高輪南町の自宅からは市電で市谷まで小一時間はかかる。
校門を入るまでゲートルはつけたくない。ゲートルをカバンの底にいつも突っ込んでおいたり、学校近くのクラスメートの家にあずけておいたりした。
大正の時代、東京では市民生活にようやくゆとりが出てきていた。
たとえば明治末年から「新劇」が帝国劇場へ登場し、松井須磨子が『人形の家』のノラを演じ、世のなかが変りつつあることを雄弁に主張しはじめていた。
いわゆる大正デモクラシーの時代だった。
何よりも父安次郎には軍国主義的な雰囲気がひとかけらもなく、家では相変らず机にむかっており、どうかすると秀雄より勉強していた。
安次郎が蓄音機を回すときがあった。
大正七年にアメリカへ視察旅行へ行ったときに買ってきたフォスターの歌曲が流れた。
秀雄の中学生のころ、女学生や、大学生たちが口ずさんでいたのは『カチューシャの唄』だった。
もちろん、府立第四中学校でこんな歌を口ずさんでいるのを教官に見つかったりすればそれだけで操行は丙、もしかするともっと重い罰が与えられたかも知れない。
なにしろ、漢学の深井鑑一郎校長は、このころ流行しはじめた「野球」さえ禁じていたのだった。
ひたひたと社会主義思想も影響力を強めていた。同級生のなかには、第一次大戦後、目の前にさらけだされた社会的矛盾に苦悩し、社会主義思想に共鳴して、いつのまにかクラスから消えていく優秀な生徒も何人かいた。
クラスメートに正田建次郎という気のあった友人がいた。正田はのちに大阪大学の学長に就任する。
正田と二人して成績を競いあった。好きな教科は数学、とりわけ幾何が大好きで、問題を解くだけではなく、解けた場合は少しでもスマートに整理しようと苦心するのである。
中学五年のとき、学制が改正され、中学四年での高等学校受験が許された。
慌てたのはこのときの中学五年生たちで、一気に倍の競争率になる。
大正八年、志望の第一高等学校へは合格したが席次はずいぶん下のほうだった。
第一高等学校では理科乙類のクラスである。
理科乙類はドイツ語クラスであったが、このクラスは医学志望者か、理学志望者のクラスだという。
秀雄はすでに工学部への志望を抱いていたが、工学部では、よほど成績が良くないと乙類の生徒は採らないという方針なのだった。
「大変なことになった」
と秀雄は青ざめた。
英語を学んできて、ここでドイツ語も学び、あわせてドイツのことも知ろうとして乙類を選んだのだったが、とんだ間違いだったわけである。
このために島秀雄は、自分に猛勉強を課すことになる。
工学部志望は考えぬいた選択だった。
(何か、世の中のためになることを)
という中学生らしい考えをもとにし、さらに自分の仕事が後世に残るようなものであればいいと考えをめぐらした。紡績のようなことも考えた。一時は建築に志望を決めかけたこともあった。しかし、そう決めようと思うと、飛行機や、船や、汽車や、ダイナミックに動きまわり、人間の社会活動を躍動させるものに魅かれるのである。
「このあたり、やはり父の影響か」
と秀雄自身はのちに書いている。
子どものころ、碓氷《うすい》線や、所沢飛行場へ連れていってもらった記憶の古層が秀雄を導いていたのかも知れないし、汽車の近くにたたずんでいる夫の姿を想いながら秀雄を生んだ母親の胎教かも知れなかった。
そのどれかが働いたらしく、島秀雄は工学部へ進路を決めていた。そうであるならば、乙類では一番か、二番の成績を維持しなければならない。一高入学と同時に息つく間もなく島秀雄は猛勉強を続けるのである。
しかし、秀雄は都会っ子のダンディズムを身につけている。父親の時代のように学術勉励であることにてらいを感じないですむほどには質朴ではなかった。「潜航艇型猛勉」というスタイルで秀雄は勉強する。
父は、
「いずれ人の前で何か発表するようなこともある。人前で人おじしないようにコーラスぐらいはやっておけ」
とめずらしくいった。
では、とコーラス部にも入り、陸上部にも入り、冬は当時のスタイルだった一本づえのスキーもやりと、人の前では余裕を見せながら、家に帰ると猛然と勉強を続ける。
一高のドイツ語の教師は、岩元禎で、夏目漱石の『吾輩は猫である』では、偉大なる暗闇と評される人物のモデルになった教師である。
やがて、あっという間に二年間の高校生活が終り、猛勉が実って東京帝国大学工学部へ合格する。どうしたわけか、秀雄は、入試の答案をすべて英語で書いたという。
もうひとつ、一高時代に猛勉せざるを得なかったのは、教授のなかに父安次郎の友人、知人が多かったためもあったという。
この立場は大学でも同じだった。父が教授だった以上、父に恥をかかせるような成績では相済まぬ、と思い、やはり、スポーツや、音楽を楽しみながらの潜航艇型猛勉を続けることになる。
工学部機械工学科在学中、島秀雄は、昔の銀時計にあたるウエスト賞を二度受賞することになる。
これは学年の成績最優秀者への賞である。原則として在学中に一度しかもらえないが、秀雄は一年生のときの賞金を関東大震災のために全額寄附してしまい、大学側はもう一度、受賞資格ありとして、翌年も秀雄へウエスト賞を贈った。
このころの勉強について、「かわいそうなほど」と自分の学術勉励を表現している。
大正十四年四月、震災の影響で変則講義もあったが、東京大学工学部機械工学科を卒業する。
船舶、飛行機、汽車と志望を考えながら、やはり、「公共」のためにと鉄道省工作局を志望する。
この年、東大からは三人が鉄道省へ入った。そのうちの一人は、はるかのちに忘れ得ぬ名前となる下山定則である。下山は終戦後国鉄総裁の職にあって謎の死をとげる。下山は入省時、運転を志望して、二人は別々の鉄道人生を歩む。
この当時、大学卒の幹部候補生は入省と同時に、およそ二年間の実習期間を経なければならなかった。
島秀雄は大宮工場で、実習生になった。
実習は工作局にかかわるすべての仕事を体験していく。機械工作のすべての工程をめぐり、やがて機関車の缶焚きまでこなさなければならない。
そして、島秀雄は、父安次郎が構想した九六〇〇形機関車を運転することになった。
運転席に着いた島秀雄は、最終過程で加減弁を握りしめた。
そのころ、この機関車にどれほど父が関与しているかくわしくは知らない。
島の運転する貨物列車は、品川から田端へとむかった。
彼は語る。
「どんなに重いものでも、教えられた通りに操作すれば、そうできているように動くものです」
が、自然に胸が躍った。
九六〇〇形は、島の操作により、軽快に走った。
加減弁を握る右手の感触が、そのまま島のこれからの仕事の手ざわりだった。実習を終えた島は、鉄道省工作局車両課動務から本格的な仕事に就いた。
父安次郎の仕事を継いだことをそれほどに意識してはいなかったという。
機関車疾走
島秀雄が配属されたころの工作局車両課には錚々たる機械工学の俊英が仕事を続けていた。
工作局長秋山正八は、島安次郎と同じく私費で欧米に留学し、日本鉄道から合流した人物だった。
明治人の国家的事業への献身、精勤には、この国の哀しき現状が基調音のように流れているかのようである。力のある者、この国の技術の立ち後れの実状を正確に知る者は、私費を投じてでも研鑽を積み、自分の担った領域で黙々と前へ進み、その精勤が、結果として高い職業倫理を生み、次の世代に継承される。
この当時、安次郎とともにドイツの工場にはりついていた朝倉希一が車両課長である。
さきにふれたように佐野清風は鉄道事業への献身のうちに倒れている。次を担う者は朝倉希一だった。
掛長に紀伊寿次、補佐は伊藤三枝がいた。島秀雄の兄貴分的先輩には多賀祐重がいた。
島秀雄は、ほぼ二年間の現場研修を終えて機関車掛として配属されている。体にはまだ現場の匂いが残っていた。
大宮工場では、このころ、徒弟制のような教育がまだ色濃く残っており、修繕のために入ってくる機関車の解体、洗浄、検査の実習は、養成工よりも厳しいものだった。
「機関車というものは解体修繕のしやすいように作らなければならない。それにも増して傷まないようなものにしなければ」
とつくづく思い知らされていた。
配属後すぐ、島秀雄は「三気筒蒸気機関車」の設計に参画するようにと伊藤補佐から命ぜられた。
島秀雄が最初に参加する機関車がこうして決った。日本の機関車のなかで独特の位置を占める三シリンダー高速機C53形である。
伊藤三枝は、前後して、ドイツからの賠償で得たDC10、DC11のディーゼルエンジンを研究する。が、この俊英ものちに病を得て早世した。
工作課は研究所のような雰囲気だといっていいし、事実、研究領域を担っていた。ここでの基礎検討を経て、設計構想がまとまり、それぞれ機関車|製造会社《メーカー》へ基本設計が送られ、各会社の設計スタッフが合流して実作過程の検討が加わって製作図が描かれ、機関車が生まれることになる。このラインが、日本国有鉄道新造機関車の製造ラインであり、各会社は製造技術を競い、その余力がない場合には国有鉄道が自製するという仕組みが、このころには完成していた。
車両課は静かだった。伝統的に雷親父的な人物がいなかった。
雷親父が発生するのは、土木系といえるかも知れなかった。土木系には現場指揮の領域があり、そこでは、明治以来、緊張感を維持するために、しばしば大声の叱咤激励が必要だった。
また、土木工事の成否が、しばしば現場の人間の士気に左右されるため、怒鳴りあげながら督励することになる。請負会社との関係も密でなければならず、受注調整という政治力も仕事のなかにふくまれざるを得ない。土木事業のなかに政治が否応なく滲み込んでくるところから、土木系技師には人間臭い性格が伝統的に醸されたようである。
一方、同じ技術職でありながら工学系の人々はもの静かな人柄が多かった。走らない機関車を怒鳴ったところで、走りだすわけはなく、すべては理論的な検討からはじまり、その過程が数値的にとらえられていなければならないとすれば、人は自然に静かになるのだろう。
このころ鉄道省では、誰いうとなく、島安次郎元技監を、
「車両の神さま」
というようになっており、この神さまはもの静かな人柄の代表でもあり、このときの秋山工作局長も、朝なぎの海のようにおだやかな人柄だった。
島秀雄の直接の上司伊藤三枝も、神さまをしのぐほど静かで優しく、しかし、三気筒機関車の基礎的研究の計算式を作っては、新人の島に与えた。
このころ、伊藤はすでに病を得ている体だった。
が、三気筒機関車の運動解析にとり組んでいて、家に帰ってからも思考を休めることなく、自分の課題を考える一方で、島への課題を用意してむずかしい計算式をたて、翌朝には優しい声で、
「これを、検討して、発展しておくように」
と命ずる。
島秀雄は、この宿題を、連日連夜考え、解くだけでなくさらに発展させなければならない。
このとき、国鉄の機関車設計陣は世界水準に達していた。
狭軌鉄道では世界一の動輪直径(一七五〇ミリ)をもつ一八九〇〇形(のちのC51形)が、大正八年に登場し、特急列車を牽引していた。C51形の登場によって、ようやく特急の表定速度が五一・二キロに達していた。軸配置は二C一である。ここで、明治末に輸入した八九〇〇形の機構が参考になった。従輪を加え、火室を動輪の間から後ろに下げて広くしたわけである。
この従輪とはすなわち、「広軌改築」の断念を意味するものと読むことができる。
貨物機では大正十二年D50形が登場していた。
D50形も従輸をもつ一D一とした。缶は拡大され、九六〇〇形より二五パーセント大きくなり、夢だった圧延鋼による棒台枠がはじめて可能になった。登り一〇〇〇分の一〇の勾配で、D50形は一〇〇〇トンを牽引した。九六〇〇形の八〇〇トンをはるかにしのぐ幹線貨物機であった。
広軌改築にこだわりすぎているかも知れないが、鉄道院開闢当時の計画どおりにことが進んでいれば、このC51形とD50形の時点で、日本の鉄道は欧米先進国に追いつき、それほどの時間を経ずに追い抜いていただろう。
明治三年の鉄道建設工事のはじめから、大正十二年のD50形の登場まで五十三年間の短い時間での達成である。
このころ、海軍の建艦技術も世界水準に達し、戦艦長門は大正八年の進水である。鉄道に狭軌という壁を設けなければ、日本の技術の達成度として、鉄道もまた驚異的な発達を果たした分野であったことが、明らかである。
伊藤補佐がとり組んでいた、三気筒蒸気機関車の運動解析というテーマは、次の機関車の構想の基礎に位置づけられたものである。
「三気筒」とは文字どおり、三つのシリンダーということである。生まれる力を三つのピストンで三等分して動輪に伝えれば、回転がなめらかになるわけだった。
二気筒機関車は、左右の動輪で九〇度ずらした角度にピン(動輪の支点)が設けられており、回転の力が波動を描く。往復運動を円運動に変換する際の宿命だった。九〇度に設定されているのは、死点を避けるためである。自転車のペダルのように一八〇度の位置にピンを設けると、二つのピストンがデッド・エンドに入った場合、にっちもさっちもいかなくなる。そのために九〇度に設置されていた。しかし、力の加わり方は、ドドン、ドドンといったような波動を描かざるを得ない。
「機関車はレールを蹴って走る」
といわれるのは、このドドン、ドドンといった力の加わり方をいっていた。
だが、三気筒にすれば支点が等間隔に位置する。左右のシリンダーの中央にもうひとつシリンダーを設け、カム機構の車軸を三番めの支点《ピン》にすれば、一二〇度の差で次々に動輪に力が加わることになる。
つまり、ドドン、で一回転だったところが、ド、ド、ド、と等間隔に力が加えられることになる。この機構が完成されれば足の運びのなめらかな機関車が誕生するわけだった。
この利点があるために、世界の蒸気機関車工学ではこの時代「三気筒機関車」の研究がさかんだった。
これまでにもふれてきたように、ひとつの新構想が導かれる場合は、その長所、短所を検討するのは厳密なものでなければならない。
たとえば、機関車の台車の先端にはシリンダーをふたつかかえる「シリンダー・ブロック」があり、そこにもうひとつシリンダーを設けることになると、それだけで大変な構造解析が必要となった。
C53形がC51形の後継機である以上、性能はC51形を越えなければならない。そのために「三気筒式」が検討され、高出力のための強大な缶が構想され、C51形と同じ巨大な動輪をもつ高速機が構想されていた。
新人の島秀雄は、このとき重要な役割を担うことになった。
この新鋭機のために島がやるべき仕事は、
「三気筒であるが故に特に必要となる機構全般を検討せよ」
というものである。
島が大宮工場で油まみれになって実習を受けていた大正十五年二月に、アメリカン・ロコモチーブ社に発注してあった、「三気筒機関車C52形」が六両、日本に到着し、浜松工場で組立てられていた。
これの「三気筒」らしいところを総ざらいに検討しろ、という指令とは、つまり、次期国産機の中心課題はお前にまかせるということにほかならない。
島秀雄は実戦配備についていきなり大きな仕事をまかせられたことになる。
ひとつは島の若さが期待された。
車両課には錚々たる実力者が揃っており、みな「二気筒機関車」の経験を持ち、C51形やD50形にたずさわっている。
この経験は同時にある種の先入主を意味していた。したがって、
「新人の純白な頭を使って、比較検討させてみよう」
ということらしい。
古手では、安定している「二気筒式」の点が甘くなり、新しい「三気筒式」――それだけ機構が複雑な――機関車に点が辛くなるかも知れなかった。
「若手の理屈」がこのような場合、有効であることが多い。
島はシリンダー・ブロックに取り組み、さらに缶にとりかかり、伝熱面積と火格子の比率にとり組み、と難問に挑戦した。
アメリカ製のC52形機関車は、どうも作りが大ざっぱだった。
火室の懐も深く、日本で使う燃料や、燃やし方(焚火法)では不都合だった。
若い眼で見て、とりわけ走り装置の「バランシング」はどうにも荒っぽい。
機関車掛のスタッフに相談し、検討しつつ、
「このバランシングでいいと思ってるのかな」
と首をかしげるほどに荒っぽい。
その一方、シリンダーの作りは見事だった。
総合してみると、日本の蒸気機関車設計技術は、日本的な条件のもとで、すでにかなりの水準に達しており、とりわけ、「バランシング」は欧米の水準を越えたと思ってよい確信を得た。
この仕事に没頭しておよそ三年後、昭和三年にC53形は完成し実用配備された。
手本となったアメリカ製C52形は、C53形設計構想のなかで、完全に批判、検討、解体され、日本の独自の成果が盛り込まれることになった。
つまり、D50形に等しい缶と、C51形の優れた走行性能と動輪直径を持ち、C52形を発展改良したシリンダー・ブロックを装備した駿速機が誕生したわけだった。
C53形は、昭和六年までに九十七両製造され、特急列車を牽いた。
とりわけ、「超特急つばめ」を牽き、東海道を疾駆した。
が、この大きな仕事を通じて、島秀雄は考える。
「はたして三気筒方式は、それほどに有利なのだろうか」
と思うのである。
構造は複雑で、修繕に手間を食う。構造が複雑であれば、ただ動くだけでいろいろに抵抗が発生する(機関抵抗)。二気筒式より確かに力に波は起きない(引張力の波動)が、高速走行になると、二気筒式でも波動は消される方向にむかうので、三気筒の利点にはどうしても疑問がわいた。
「次は……」
とC53形の完成のころには考えていたという。
「もう少し具合のよいものを作れるはずだ」
と考えれば、自動的に次期機関車の構想がイメージされるわけだった。
島秀雄が鉄道省に入ってからしばらくの間、国有鉄道は、鉄道史で「黄金期」といわれる安定発展期を迎えている。
高速列車の例でいえば、昭和五年に登場した「超特急つばめ」が高速時代の到来を告げたのである。
表定速度はそれまでの五三・三キロから一気に六八・二キロにあがった。が、狭軌鉄道の蒸気機関車牽引で、もっとも線路規格の高い東海道線を走ったにしても、すでに、この六八・二キロが限界だったのである。
昭和九年に丹那トンネルが開通し、評定速度はさらに一・四キロあがった。そして、これが、わが国の高速旅客列車の最高速となり、ついにそれ以上の速度は、ビジネス電車特急「こだま」(昭和三十三年)を待つまで実現しない。
あまりに早く訪れた速度の限界なのだった。
そして、そのように限界が訪れることは、明治末に予測されていた。予測というよりは、確実に迎える結果だった。
島安次郎や、鉄道という装置をよく知り、考えた者なら、誰にとってもこの速度の限界は、当然の帰結だった。
ここでは、狭軌鉄道の限界を実用速度をもの差しにして考えている。つまり、発揮される輸送力を「速度」を目安にして考えているが、少し説明すれば、これは鉄道の容量にそのまま置き換えられる目安である。早い列車が走ることができる線路とは、速度を重量に転換すれば、長大な列車が走り得るということであり、長大な列車がさらに速度をあげ得るならば、輸送容量がそのままあがるということになる。
すなわち、実用最高速度の限界とは、そこが袋小路の行き止まりを意味するのである。
残念なことに、広軌改築がもっとも声高に叫ばれた明治四十年代から、昭和初年代の二十年でその限界は到来していた。
狭軌の限界について、
「思うに遠き将来にあらず」
と唱えた広軌派の予言はここに出現していた。
が、その限界のなかで鉄道従事員は生まじめな伝統を守り、あらゆる職場で名人芸を発揮していた。
線路の狂いをミリ単位で見抜き、気の遠くなるほどの手間を重ねている線路工手や、性能に差があり、走り癖の強い機関車を熟練の術で操る名人機関士や、ダイヤを編成させれば神わざとしか思えないスジ屋や、客扱いに神経を使う名物駅長らが、世界一正確な鉄道を担って精励を積みあげていた。
この時代、戦争までのつかの間、日本の国有鉄道はこうしたたくさんの、そして無名の名人たちに支えられ、黄金時代を過ごしていた。
それぞれの用途に応じて、機関車も次々に生みだされていった。
支線や、短距離用のC11形、C12形、C53形の流線形、同じく流線形のC55形が話題を呼んだ。通常型のC55形は、C51形の後継機としてC53形とともに構想された。
もっとも美しいと評されるC57形は、C55形の改良機と考えてよかった。
C58形は、規格をやや下げ、支線や、貨客両用の小型機として登場している。
島秀雄はこれらすべての機関車の設計構想に参加して縦横に腕を振るった。
こうして、島秀雄は、世界水準に達した機関車設計陣のなかでついに中心的役割を担う位置を占めることになった。
日本の蒸気機関車で、最高傑作機といわれ、また最大製造機数を誇る、D51形機関車の主任設計者に島が指名されることになるのは、昭和十年のことである。
新しい主力機関車の構想を導く大きな要素のひとつが、経済社会の動きである。
前世代の主力貨物機D50形の登場をうながした経済的背景は、第一次大戦による、日本経済の天佑的な好況だった。
しかし、D50形が実用配備された大正十二年とは、第一次大戦後の反動不況を直撃した関東大震災の年であり、昭和二年の金融恐慌、満州事変、さらにウォール街からの世界恐慌が、日本を襲う昭和五年へかけての長い不況の時代が到来する。
三百八十両製造されたD50形は、世界恐慌のもとで昭和六年に製造中止となった。
この間に、鉄道の貨物輸送量は一一五億トンキロの水準で停滞していたのである。この輸送量は、昭和初年からの輸送量平均一三〇億トンキロから一四〇億トンキロの水準を下まわっており、次期貨物主力機の需要は、日本経済のなかにはしばらくなかった。
また、D50形が強力《ごうりき》ぶりを発揮していた時代とは、軍部がこの国を戦争の方向へ導きつつあった時代だった。政党は経済運営にいきづまり、指導力を失い、昭和のナショナリズムがさまざまに奇矯な波紋を起こしてこの国を揺さぶっていた。五・一五事件が起き、言論弾圧の嵐も吹き荒れていく。満州国を作り、国際連盟を脱退し、京大教授滝川幸辰が大学を追われ、思想取締が閣議で決定され、松岡洋右は政党の解散を叫び、天皇機関説が排撃され、国体|明徴《めいちよう》の声が政府から出される。
D50形からD51形へ、主力貨物機が交替する時代とは、この国が軍国主義へ大きく踏みだしていく時代であり、翼賛体制と戦時型経済への移行によって、経済がもちなおしていく時代だった。
この国は大きく方向を変えつつあり、そのことで、どうにか経済は活況を呈しはじめるのだが、国の方向がどっちをむいているにしても、国有鉄道車両設計陣は、増大に転じた輸送需要のもとで、十二年ぶりに主力貨物機の設計に取り組むことになった。
この機関車は、すべて鉄道省工作局のスタッフによって設計されることになった。
これまで新造機関車は、基本構想を鉄道省がまとめ、そこに各メーカーの設計スタッフが参加する共同設計だった。そうすることによって機械工業の水準が引きあげられ、各メーカーは力をつけてきたのである。
しかし、今度の設計には、もうひとつ大きな意味がこめられた。
設計主任島秀雄がここで取り組んだのは、機関車の設計から製造、保修までの整然としたシステムの完成だった。
各部門、各部品の標準化はもちろん、設計管理も系統的に整えられていく。島秀雄がここで成しとげたことは、のちにシステム工学といわれる分野となって一般化されることになるが、すでに国鉄の車両設計陣は、この方法的な思想を共有していたのである。
この仕事も、父安次郎が雑多な機関車群を整理していたときに、将来なすべきこととしたものだった。その息子は着実に父がやり残した仕事を実現していたことになる。
民間会社の汽車会社にいる父は、決して息子に指示をだしていたわけではない。むしろ、それをしないようにしていたといえる。発注者の立場にある息子に、受注者の立場の父が指図するのは、つつしむべきことであった。
この二人の科学技術者は、親子であることによって仕事を継承しているのではないといえそうである。一人の優れた科学技術者が先行し、そのあとに次の世代の優れた科学技術者が続き、その二人がたまたま親子だったと見たほうがよさそうである。
D51形設計着手時、工作局長は朝倉希一、車両課長徳永晋作、機関車掛多賀祐重、北畠顕正らであった。こうした俊英の下に、若い技手や、経験を積んだ名人級の人びとが机を並べていた。
D51形の設計着手までに積みあげられた技術蓄積は、狭軌の蒸気機関車の効率をじわじわとあげ続けてきたことを意味していた。
大正期の標準機関車について、かつて、朝倉希一は、
「維新を経たり」
と形容している。
そして昭和期に入り、日本の蒸気機関車は、ついに、狭軌の限界条件での傑作機を生みだそうとしていた。軸配置は一D一と定められた。火室は最大級の三・二七平方メートルになった。この大きさは、しかし、可能な限り拡大したものではなかった。大きすぎると判断された三シリンダー輸入機C52形よりは小さく、D50形の三・二五平方メートルをわずかにうわまわる。缶圧もあがった。といってもD50形の一三キロ毎平方センチを一キロうわまわった一四キロ毎平方センチである。D51形のあとに登場するC57形の一六キロ毎平方センチよりは低い。この間に缶の溶接技術が向上し、重量を増加させずに缶を強くすることができるようになる。蒸気機関車の性能向上は、重量をけずりながら強度をあげていくという矛盾相克そのものである。
各部品の規格化は徹底して追求され、保修整備のときにはユニットごとの点検や交換を可能にするのが、D51形の設計の目標にふくまれている。
機関車は煙突の近くや、前のデッキのうえに、枕のような円筒形の「給水|温《あたた》め器」を持っている。あらかじめ水を温めておく装置で、この装置によって燃料が一割も節約される。D51形の場合、この「給水温め器」を煙突の後部へ長手方向に置いた。蒸気ドーム、砂箱もここにまとめ、ひとつのカバーでおおった。これが外見上のD51形の特徴である「なめくじ」のような形のカバーになった。カバーは煙突から続いて後方にのび、首から肩についた力こぶのような印象になった。このカバーは、さらに後方にのばされて、運転室まで続くバリエーション設計機もある。これを機関庫の庫内手や、機関士たちは「大なめくじ」と命名している。
走り装置、とりわけバランシングは、D51形が理想形であるとされた。動輪の形も一新された。これまで荷車の車輪のようだった動輪のスポークが、中空構造のボックス輪芯となった。これで重量が軽くなり、構造も強化された。動輪は蓮根《れんこん》の輪切りのような形になった。煙突の前方、つまり缶の最前部は島秀雄の美意識なのかやわらかな曲面でまとめられ、貨物機ながらD51形の初期型は表情が優しい。
D50形は、動輪が四輪並んでいるため、はじめのうちポイントで脱線することがままあった。その経験からD51形は第四動輪のフランジ(レールの内側に入る爪の部分)を削り込み、曲線走行性能をあげている。
こうして機関車重量七七・七〇トン、炭水車重量四七・四〇トンの、「真の日本的蒸気機関車」(島秀雄『C53からC59へそしてC62へ』)が誕生する。
D51形は、設計主任島秀雄がいうとおり、日本の鉄道を代表する名機であり、昭和二十年までに千百十五両もの製造機数を誇ることになる。
D51形は、狭軌の容量にたいして、まだゆとりを持ち、均整のとれた貨物機であり、島秀雄自身が「快心の作」という機関車である。
のちに、D52形、C62形の限界ぎりぎりの大型機関車が登場するが、均整という意味ではD51形が完成品であった。
が、昭和十二年、D51形が誕生した翌年には日中事変が起きている。D51形は、これからの戦争の時代を走り抜く運命にあった。
D51形を生んだ島設計主任は、この名機が自分一人の力で生まれたものではないことをよく知っていた。もちろん、設計作業は、各部分を手分けして、集団で行われることからそのことは明らかである。しかし、それ以上に、それまでのあらゆる蒸気機関車の成果が、新しい機関車の母体なのであり、単にチーム・ワークの産物というよりは、これまでの歴史の継承という意味で、一人だけの力ではあり得なかった。
蒸気機関車の設計は、白紙からはじめられるものではなく、それまでに考えつくされ、描かれた一本の線についてさらに考え、その線を消し、新しいもう一本の線を描き加える作業である。推敲《すいこう》に推敲を重ねる添削作業だった。
いい換えれば、それまでの設計図を前にしての分析と統合が積みあげられ、構想がまとまり、新しい機関車が誕生するわけである。
この場合の分析と統合の領域は鉄道の外部へも広々と開かれている。機械工業の技術全般については世界の動向がふくまれ、一方で、日本の技術水準も見極められていなければならない。このように広い視野の、扇の要《かなめ》のところに蒸気機関車が位置していた。
鉄道省の内部からは整備工場、保線現場、運転士などから情報がもたらされ、これらの評価や注文も分析され統合されて設計構想に注ぎ込まれる。また運輸部門からの要請もこれに合流する。運輸部門の回路は、日本の社会へ通じており、経済活動の求める機関車性能が、ここからも導かれる。
鉄道が陸上交通の主役である時代の蒸気機関車の設計とは、こうした多方面から導かれる情報の中心軸に立って、分析と統合を続け、ひとつの機関車に結晶化する仕事だといえた。
そして設計主任という仕事は、この社会的任務を渾身の思考で担うことを意味していた。この仕事に精励する者は、分析と統合を導く技術思想にひずみを抱いていては任に耐えられるものではなかった。
島自身がいうように、新しい機関車の性能は、システム工学的に構想され、設計作業が分担され、そのさきは民間の車両メーカーへ引き継がれる。この全ての過程がシステムとして機能することが理想であり、それはほぼ実現した。
これが国有鉄道車両設計陣が抱いた技術思想だった。国有鉄道工作局が育てたこの技術思想は真の意味で誇っていい伝統だった。
この伝統が、やがて「新幹線」の技術開発へと継承されることになる。そうでなければ、航空技術そのほかから参入した異系列の技術が、鉄道車両工学のうえに溶けあい開花して、短い時間のうちに新幹線システムが誕生するはずがなかったろう。
D51形の設計当時に醸成されたシステム工学的な技術思想は、はっきりした姿を見せてはいないが、未来を約束する強固な土台を形成したことになる。
島秀雄はこの技術思想の確立の面でこそ中心的な役割を担ったのである。
彼はこのとき三十四歳ながら、C53形からの蒸気機関車群のすべての設計に深く関与して、日本の車両工学史ではすでに屈指の経歴を持つ技師となっていた。気鋭というには堂々たる実績で、父の思想を継いでいた。
風貌も父安次郎に似てきている。二代目車両の神様は、このころから屈折のない思考ぶりを直角垂直などとあだ名されるようになる。このあだ名はそのまま性格にもあてはまっていたようである。
昭和三年に結婚し、家庭生活も円満だった。妻豊子は、鉄道省建設局長中村謙一の長女である。豊子は女子学習院を卒業したなかなかにハイカラな女性で、見合いから半年間の交際期間中には直角垂直男をすっかり魅了した。
島秀雄は堅物であることを自任していたが、豊子との家庭生活でほんの少しやわらかくなった。
父安次郎はこのころ汽車会社の会長である。
秀雄は豊子と新居を設け、よく父親を訪ねては自分がどんな仕事をしているか、親子の会話のなかで伝えた。
「父は笑って話を聞くだけで、蒸気機関車については特に何かいうことはなかった」
と秀雄は回想している。
話のなかで秀雄の率直な技術思想を知り、また息子の生みだした蒸気機関車を見れば、もはやいうこともなく、
(わが息子なれどできる、もはや免許皆伝)
と微笑していたのかも知れない。
しかし、安次郎は一度だけ身を乗りだして息子の仕事に並々ならぬ興味を示したことがあった。
昭和五年、商工省の方針で「国産標準自動車」の設計と生産が計画される。「自動車工業振興法」にもとづく、いまでいえば官民一体のプロジェクトであった。このプロジェクトに鉄道省の技術陣が投入され、汐留駅構内に試作工場が建てられた。参加した民間会社はアメリカ系のトラックを製造していた東京瓦斯電気工業、イギリス・ワズレー社のライセンスでトラックと乗用車を製造していた石川島自動車製作所(この二社はのちに合併していすゞ自動車になる)、これにダット自動車(現日産自動車)の三社である。
鉄道技術陣の中心は島秀雄であり、同時に官の立場を代表し、民間各社のスタッフとの共同研究によって、トラックとバスが設計された。このトラックが日本車の標準形式となる。島秀雄はその試乗テストも買って出て、東京から名古屋へ、木曽谷を抜けて諏訪、松本、上田、碓氷峠、高崎、東京と大自動車旅行を行っている。
このとき、アメリカ製トラックが徹底的に解剖され、その内容を安次郎は身を乗りだして秀雄から訊いたという。安次郎は大正七年にアメリカ視察旅行をして自動車時代の到来を見通しており、その後の技術発達に強い興味を抱いたのであろう。交通輸送手段の技術に、飽くことのない探求心を安次郎は維持していた。
弾丸列車
蒸気機関車は時を牽《ひ》く鉄の馬のように驀進し続けている。
昭和十年代、この国は戦争にむかって大きく針路を変えようとしていた。それがはたして、維新以来の日本が望んだ針路なのか、そのことを肌で知る人々は、時の流れに従い、次々と舞台から去っていった。
鉄道院初代総裁後藤新平は、燃えるような情熱を注いだ広軌鉄道を見ることなく、昭和四年、講演旅行中に倒れ、京都で歿した。
若き島安次郎の才質を見抜き、存分に仕事をさせた田《でん》健治郎は、何度か首相待望の声を聞きながら、昭和五年、枢密顧問官として生涯を閉じた。
後藤に負けないほどの情熱で広軌改築に邁進し、ときに雷を落とした仙石貢も、昭和六年、南満州鉄道総裁在任中に病を得、卒然として逝った。
広軌改築案にとどめを刺した政友会|床次《とこなみ》竹二郎は、政友会を離れて政友本党を率い、また政友会へもどりと縦横に策をめぐらして政権をうかがうが、昭和十年、岡田啓介内閣の逓信大臣任期中に逝った。
岡田啓介内閣時代、陸海軍は「国防の本義と其強化の提唱」をかかげ、国内政治機構の改革を求める。軍部は国家を改造しようとし、政治関与を公然と主張しはじめた。
政党は凋落しつつあった。替って軍部が国家方針の舵を握ろうとしていた。が、その軍部、とりわけ陸軍の内部が野心と危機感のまにまに揺れ、分裂し、そのいずれの振幅でもこの国をじりじりと無謀な戦争へ追い込んでいく。
昭和十一年、二・二六事件。昭和十二年六月、近衛文麿に大命降下、その直後の七月七日、日中戦争が開始された。戦火は一気に拡大し、近衛内閣は戦争に追いたてられるように国民精神総動員、国家総動員体制へと歩を進めることになる。
この戦争体制のなかで新たな鉄道幹線計画が浮上するのである。
第一次近衛内閣の鉄道大臣は中島飛行機の創立者中島|知久平《ちくへい》であった。当時の呼び方でいえば「日支事変」勃発の直後、中島は鉄道省局長会議において、後藤新平なら、何をいまさらと吹きだすような壮大な演説を行った。
「諸君、島国根性的な鉄道観はこの際捨てていただきたい。いまや、大陸との連絡交通の完成が鉄道省の使命となった。よろしく揚子江の岸をめざすべし」
海軍から飛行機製作のために民間に転進し、その資力によって政友会に勢力をふるった中島知久平は、広大な大陸の深部にむかって進まざるを得ない日本軍の、危機をはらんだ進撃を勝利と見ていたに違いない。が、この発言が「大陸との連絡運輸」の本格的な検討をうながすことになった。
これよりさき、鉄道省内部の土木系技師のなかには、昭和八年の丹那トンネル竣工、昭和九年の清水トンネル竣工からしばらく大工事が途切れ、腕を撫すような空気があった。そのなかでもうひとつの幹線案が、夢のように語られていたという。彼らは中島鉄相の檄を受けて幹線案の構想を描きだす。
第一次近衛内閣は近衛の個人的人気でしばらく安定する。が、この間、近衛を党首にしようとする挙国一致的新党の動きに苦悶し、三国同盟へむかう陸軍の強引さにも気を腐らせ、近衛は逃げるように政権を放りだす。
もはやその後をおさめる人材はなく、猫の目のように内閣が替った。平沼内閣が七ヵ月、阿部内閣が四ヵ月、米内内閣が六ヵ月である。
かつて鉄道政策は、政権の交替のたびに変更されたが、皮肉なことに軍部に導かれた戦時体制が「幹線構想」を持続させることになった。
平沼騏一郎内閣は、独ソ不可侵条約の激震で総辞職する。続いて陸軍大将阿部信行に大命降下。この間に「幹線案」は練りあげられていった。
そして、この短命内閣が続くなかで、国有鉄道発足以来、なさんとしてなし得なかった「広軌鉄道」の建設が決定される。この歴史のめぐりあわせに広軌鉄道を考えた人々はどのような感想を抱いたであろう。
「もとより基本政策、平時に決め得ざりしは愚」
とでもいいたいところか――。
昭和十四年七月十一日、鉄道省直轄の「幹線調査会」が設置された。
この委員長に島安次郎が選任される。
安次郎はこのとき六十九歳、眼光なお炯々《けいけい》、泰然としてその任に就いた。
委員会は法制局長官唐沢俊樹以下、各省庁次官ほかの政府委員に学識経験者で構成された。海軍次官が山本五十六、陸軍次官が阿南惟幾の時代であった。
父の大任を、秀雄は大阪鉄道局鷹取工場の勤務先で聞いた。新しい幹線がどのような構想になるか、秀雄は固唾を呑んで見守った。
学識経験者には、広軌派の頭目古川阪次郎がいた。木下淑夫元運輸局長の直系の弟子大蔵公望も名を連ねていた。大蔵は木下とともにかつて左遷された広軌派だった。秀雄の義父中村謙一も加わっている。中村は橋梁の大家である。民間からは小林一三の名も見ることができる。
このときの審議ではっきりと「新幹線」の呼び名が使われるのである。「弾丸列車」は俗称であり、この時点から「新幹線」の正式名称が生まれ、いまでは「シンカンセン」という世界共通語が流通している。
学識経験者にぞろりと「広軌派」の重鎮が並んでいるところを見ると、すでに人選のときから「広軌鉄道」を予定したふくみがあったように思われるが、その背景を示す資料はいまのところ見いだせない。
この「幹線調査会」は審議中「秘」の扱いであり、終戦時に関係書類を焼却したこともあって細部は不明のところが多い。青木槐三の『人物国鉄百年』がわずかに討議のようすを伝えている。
そのなかで鉄道経営にさまざまな手法を見せた小林一三は、はじめから「新幹線」そのものに反対の立場だったとされている。小林には独自の「高速幹線案」があって、それに競合する案には賛成したくなかったのかも知れない。
島安次郎はこの任に耐えている。
耐えるしかなかった。思えば遠い青春のころ「磨墨《するすみ》」の腹の下にもぐり込み、「早風」の動輪を拡大し、尾張から伊勢、奈良から大阪へと蒸気機関車を走らせていたころから、「広軌鉄道」の有利さは自明の理であった。
しかし、委員会の討議はまたしてもゼロからの出発なのである。
阿南陸軍次官は陸軍を代表して「狭軌」を主張していた。さらに「電化」にも反対なのである。理由も明治以来の同じもので、狭軌鉄道が普及している以上、軌間不統一は混乱のもとであり、電化は砲撃、爆撃に弱い、という。
(頑迷な)
と思っても審議を続け、理論的に理解してもらうしかなかった。そうでなければ方針が変る恐れがあった。誰かの強弁を政治的にまとめたものではなく、理論的に検討された決定であることが明らかであれば、政治的なまきかえしや、利に走っての方針変更を防ぐことができよう。
審議は「狭軌案」「広軌案A(普通広軌)」「広軌案B(強度広軌)」と比較検討されていく。これもまた後藤新平のころからの審議の進め方だが、そのたびにわからず屋が登場するので仕方がなかった。
古川阪次郎なども、
(何度くり返したことか)
と思ったに違いない。
審議資料も、またまた膨大な統計を積みあげて作られた。この仕事は鉄道省大臣官房付幹線課のスタッフが担当した。このなかに戦後の新幹線の工事を担当し、初代新幹線総局長となる大石重成がいる。
学識経験者を中心に討議は活発だった。純理論的に比較検討が進む限り、おのずと結論が導かれる。
今度の計画ははじめから「新幹線」、つまり別線の建設をめざしているため、島安次郎の「広軌改築私案」は検討外である。
島安次郎は慎重に対応していた。審議開始から細かなメモをとった。島家に残されている安次郎のメモは、この人物がどれほど慎重にこの仕事を進めようとしたかを示している。
おそらく安次郎は、日本で広軌鉄道が建設されるのは、
(これが最後かも知れない)
と思っていたのではないか。
あるときは汽車会社の社名のついた便箋に細かい文字で書き、またあるときは、そこらにある紙片に書き、理詰め、理詰めに審議を進めるために、六十九歳の頭脳をしぼりきっている。
安次郎は委員会で自分が発言すべき意見をあらかじめメモにし、さらに草稿を書き、練りあげて会議に臨んでいた。
「大体ニ於テ当局ノ推定ニヨツテ適当ナリト認メタノデアリマス」
ここに見るようにメモ類はほとんど口語体である。
「第三ニ輸送力|行詰《ゆきづま》リ時期ノ推測ニ関スル問題デアリマスガ」「我国人口一人当リ鉄道旅客貨物一ケ年ノ輸送量ハ欧米一等国ノ例ニ比ベマシテ……」
このメモの通りに安次郎は発言していたに違いない。
安次郎は、この最後の機会に臨んでも合理主義者であった。この温厚でもの静かな鉄道技術者は、自分の見果てぬ夢を追って「広軌鉄道」を提案しているのではないことを委員会の冒頭で次のように示す。
「自分ハ今後ノ心得ノタメニ本委員会ニ対スル期待ニ関シテ伺《うかがつ》テ置キタイト思フ。諮問事項ニ東海道線、山陽線ニ於ケル輸送力拡充方策如何ト言フノデアルガ、申ス迄モ無ク詳細ノ調査ヲ為シ、具体的ノ計画、方策ヲ立案スルコトハ我々局外者ニハ不可能デアリ、(中略)抽象的ノ所見ヲ申上ル外ニ無イト思フ。ソレニシテモ之ガ調査研究ニハ相当額ノ費用ヲカケテ然ルベキデアル。(中略)仮ニ建設費ニ五億(円)ヲ要スルトシテ其百分ノ一、即チ五百万円ヲカケテモ十分ニ其効果ガアルト信ズルノデアル」
右の文はメモであり、発言の速記ではない。安次郎はこれを草稿にして同じ主旨を発言したのであろう。
建設費の一パーセントをかけて徹底的に調査せよ、そのデータこそを判断の根拠としたいという。このことは、自分の夢のごとき構想を予断にしないということを意味していよう(引用文中の「局外者」とは鉄道省当局の外にある立場をいう)。
かつて「広軌改築」に脳漿をしぼり切った人物は、昔もそうだったように合理精神を貫いたのだった。こうして昭和十四年十一月六日、「幹線調査会」は鉄道大臣永井柳太郎へ委員会決議を提出した。
以下は、島安次郎が手もとに残した決議文草案である。安次郎はこれに推敲を加えており、推敲に従って引用する。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
一、増設線路ハ現在線ニ並行スルコトヲ要セザルコト。
二、増設線路ハ之ヲ複線トスルコト。
三、増設線路ニ於テハ長距離高速度ノ列車ヲ集中運転スルコトトシ、貨物列車運転ノタメ高速度運転ヲ阻碍セザルコト。
四、増設線路ノ軌幅ハ一四三五|粍《ミリ》トスルコト。
五、前二号ニ関スル工事中ノ過渡的措置ニ就テハ随時具体的ノ調査研究ヲ要スヲ以テ之ヲ当局ノ善処ニ俟タントス。
六、増設線路及ビ建造物ノ規格ハ之ヲ鮮満ノ幹線鉄道ト同等若ハ夫レ以上ノモノトスルコト。
要望
一、増設線路ニ於テハ東京大阪間四時間半、東京下関間九時間運転ヲ目標トセラレムコトヲ望ム。
二、本計画ハ物資及労務動員計画ニ重大ナル関係アリト思料スルヲ以テ此ノ点ニ付キ充分ナル考慮ヲ払ヒ且速カニ之ガ実現ヲ期セラレムコトヲ望ム。
[#ここで字下げ終わり]
この決議はそのまま、現在の新幹線構想である。
とりわけ、「三項」の意味は大きい。
遅い貨物列車を走らせて、高速旅客列車の邪魔をしないように、という提言は、単に貨物列車が線路をふさぐということではなく、線路の曲線部分について条件づけをしていた。線路は曲線部分で車両に働く遠心力を消すために、外周側のレールを高くつくる(カント=「高度」という字をあてる)。自転車競技場のバンクのように外側を高くしておくわけである。
この高さは速度に比例して高くつくられる。逆にいえば、カントのついている曲線は、その高さに合った速度で走行すればつりあいがとれる。高ければ速く、低ければ遅く、したがって、速度に差のある列車が同じカントの曲線を走るのは不都合だった。
従来は、列車の平均速度にあわせてカントをつけているが、これでは超高速列車はカント不足となり、曲線では速度を下げなければならない。つまり、遅い貨物列車を走らせようとすると、この場合の主題である「超高速鉄道」の条件を失うのである。どの列車も高速走行でなければならない。この点も現在の「新幹線」と同じだった。
つまり、島安次郎委員長の下で策定された東京―大阪四時間半の超高速鉄道とは、名称もそのままに現在の「新幹線」なのである。
安次郎はまたしても巨大な置きみやげをわたしたちに贈ったことになる。
この間に内閣は交替し、昭和十五年三月二十五日、米内光政内閣の第七十五帝国議会において計画案は承認され、通過した。総予算五億二千万円、十五年の工期であった。このとき、総予算はもっと大きく見積られたが、議会対策上、大幅に小さくして上程したとされる。
「新幹線」の建設が決定される二ヵ月前、十五年一月、秀雄は鷹取工場から大臣官房幹線課に転勤する。父安次郎がとりまとめた構想のもとで機関車を設計するのが、秀雄の仕事となった。
秀雄に与えられた条件こそは、日本の鉄道が「この程度でよい」と自ら捨ててきた可能性だった。
「最高速度二〇〇キロ、平均一二〇キロから一三〇キロの機関車を設計せよ」
この仕事に国有鉄道工作局は高揚する。設計主任となった島秀雄は、いくつもの超高速機関車を想い浮かべた。
線路規格は理想的だった。全線立体交叉、最小曲線半径二五〇〇メートル、最大|勾配《こうばい》一〇〇〇分の一。駅間距離も長大である。予定駅は、東京、横浜、沼津、浜松、豊橋、名古屋、大垣(岐阜)、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、広島、小郡、下関である。
この線路が明治以来の「広軌別線案」に重なり、現在の新幹線そのものとなるのは、さきにふれたように地勢と都市の配置によって路線が決ってくるためで当然のことだった。
国際標準軌間を走る高性能蒸気機関車の技術経験はすでに日本にあった。満州の野を疾走している「あじあ号」のパシナ形機関車である。パシナという形式名は、パシフィック型(軸配置二C一機関車のアメリカ式形式名称)の、満鉄での七番めの機関車という意味である。パシフィック型の七番めで、パシナである。
パシナ形は最高時速一五〇キロを想定した機関車だった。昭和八年の暮から構想され、試運転は昭和九年の八月である。設計は満鉄工作課と川崎車両、製造は満鉄の大連工場と川崎車両神戸工場だった。すでに日本の蒸気機関車技術は、「あじあ号」を牽くパシナ形であっても、設計着手から八ヵ月ほどで生みだせるほどになっていた。
パシナ形の動輪直径は二〇〇〇ミリ、缶圧一五・五キロ毎平方センチ、重量二〇〇トンである。満鉄の線路規格は最小半径六〇〇メートル、標準勾配一〇〇〇分の一〇である。
「新幹線」の線路規格はこれより格段によい。要するに平均速度で一二〇キロを越える列車を走らせるために路線や線路規格を決定しているわけで、そのように作ればそのように走るといえた。単純な速度比較で性能をとらえるよりは、総合的なシステムとして鉄道の力量を計るべきなのである。
このころ、世界の特急は八〇マイル(約一二六キロ)時代に入っていた。ドイツの「コルナア号」、アメリカの「シティ・オブ・デンバー号」などがそれであり、七〇マイルから八〇マイルが高速特急の実用速度である。
そうであれば、わが「新幹線」の計画が議会上程とともに公表されたとき「弾丸列車」と騒ぎたてた日本人は、少しばかり世間を知らなすぎるといえた。時速七〇キロに及ばない「つばめ」を超特急だと思い込んでいるのは、狭軌鉄道を鉄道だと信じざるを得なかった歴史的倒錯なのである。
島秀雄は、線路建設の進行に歩を合わせながらわが国ではじめての超高速機を構想する。急ぐ必要はない。設計から試運転まで、パシナ形の例から考えて一年を見れば十分である。新丹那トンネルの貫通だけでも相当時間がかかるはずであり、その間、日進月歩の世界の技術動向を見極めて、いいものはどしどしとり入れればよかった。が、基本はおのずと定まる。東京―沼津間は電化と決定したために、一方で高速電気機関車も構想される。D51形の設計のころ、車両課では電気機関車のチームがあり、基礎研究は進行中だったのである。
蒸気機関車は三シリンダーとした。C53形では狭軌のためにシリンダー・ブロックにゆとりがなかったが、広軌なら、もう一度三シリンダーの利点を追求できそうであった。軸配置二D二形式、これを仮にHD53形とした。動輪直径は二三〇〇ミリ。このころ世界一速い蒸気機関車であるドイツの〇五形に並ぶ世界最大級である。〇五形は最高時速一七五キロを誇っていた。HD53形は重量一八〇トン。パシナ形より軽量化されてしかも速い機関車となるはずであった。外形は流線形でテンダーまで覆われ、運転室は密閉式、パシナ形と同じく自動給炭装置ほかの最新機構を数多く装備する予定になっていた。ほかに三シリンダーで軸配置二C二、動輪直径同じく二三〇〇ミリのHC51形、貨物機を想定したHD60形の二種が構想されている。
電気機関車は最高時速一七〇キロを想定したHEF50形、同じく九五キロ程度の貨物機HEF10形が構想された。
いずれも幻の超高速機関車群であった。
少なくとも東京―大阪を四時間半で結ぶ超特急列車の実用速度一二〇キロから一三〇キロの機関車はいま、このままの技術水準ですぐにも作りだせた。
(国際標準軌間の鉄道なら、当然のことなのだ)
と秀雄は胸のうちでつぶやく。
(すでにD51形で技術水準は証明している)
とも思い、さらにこの時点で、
(いずれは電車がいい)
と考えていたという。
機関車で長く連結した車両を引っぱるのは、汽車が出現して以来の方法だったが、機関車は常に重すぎた。できるだけ軽くしたいが、機関車を構成する装置を置けば重くなる。そのうえ、長大な車両をたった三軸や四軸の動輪で引っぱるために重量をかけなければならない(軸重)。どんなに軽くしても、最終的には牽引力に必要なだけの重さが必要なのである。
その一方で、線路の構造はたった一種類の異常に重い車両、つまり機関車のために強度が設定されていた。
機関車一台で十両も二十両も、貨物ならそれ以上の車両を引っぱるからこんなことになっている。要するに、あらゆる車両がみな自走して、機関車が不要であればこれほどに頑丈で、それだけに金のかかる線路構造物はいらない。
電車方式ならそれができるのである。
島秀雄は日本鉄道史上最強の蒸気機関車を構想する一方で、蒸気機関車から電気機関車へ、さらに高速電車へと列車の走行方式そのものを変換してしまう手段を考えている。
これも当然だった。蒸気機関車と電気機関車を比較する場合、熱効率などというむずかしい理屈を持ちださなくても、どちらが具合がいいかはっきりしている。
蒸気機関車は火力発電所そのものが走りまわっていることになるのである。おまけに水も燃料も背負っている。
電気機関車は、燃料も水も、ボイラーも地上に置き、駆動力を生むシリンダーとピストンの部分だけを積んだ機関車だった。力はパイプを通る熱い蒸気ではなく、電線を通る電気で伝えられ、往復運動のシリンダーではなくモーターで円運動に変換されているわけである。この方式のほうが身軽で具合がいいのは理の当然だった。
要するに機関車とは力の変換装置なのである。できるなら、機関車一ヵ所に集約されている変換装置を、すべての車軸に分散してしまえばもっといい。つまり、全軸駆動の電車がそれである。
これを蒸気機関車の方向から見ると、すべての機構が解体され、分散され、電車の車軸に駆動装置だけが残った姿になる。
(商売なら薄利多売だ)
といい換えて島秀雄は笑う。
各車軸で少しずつ力を出して、全体で大きな力になれば、結果としてその列車は超高速で走るだろう。
そのとき、蒸気機関車は解体され分散して霧のように線路から消えている。
秀雄は蒸気機関車がこうして退場していく光景をイメージし、美しいと思った。ひとつの技術の枠がはらりとはずれ、次元を変え、姿を変え、新しい技術となって生きていく。技術の場面での輪廻転生がそこにあった。
(これほど見事な転換はない)
と技術発達のダイナミズムに、秀雄本人が感じ入ってしまうのは、蒸気機関車がよく使命を果たし、粛々と退場していく情景がはっきり見えているからである。
(蒸気機関車は滅びるのではない。見事に生きて、高速電車に転生する)
とまで秀雄はイメージをふくらませ、ふと苦笑した。
そこまで思い入れる自分は、
(蒸気機関車が、大好きなのだな)
とあらためて思い知ったのである。
しかし、そう思っても、当面の仕事は「新幹線」を走る最強の蒸気機関車の創出である。
昭和十五年中、島秀雄は線路担当技師との熱のこもった討論を重ね、高速鉄道の技術問題の基本について考究した。
「この議論は、後の東海道新幹線建設にあたって非常な参考になった」
と島は書いている。
用地買収も進んだ。このまま何事もなくすべてが進行すれば、HD53形は富士山の麓を三シリンダーのドラフト音を響かせて疾走するはずであった。
しかし、昭和十六年十二月八日、日本軍は真珠湾を奇襲、ついに連合国との全面戦争となり「新幹線」は工事を縮小し、やがて十九年六月中止となった。
「新幹線」どころではなかった。空襲が連続する。戦時下の鉄道員は、必死で持ち場を守らなければならなかった。
国有鉄道は日米開戦以来、まったく様相を変えることになった。「鉄道は兵器なり」と叫ばれ、特急は消え、速度は落ち、船を失った日本の輸送を、国有鉄道は全力をあげて担っていた。屈強な線路工手は次々に出征し、機関士は、機関車とともに海を渡っていった。
島秀雄は浜松工場長に転出したのち、昭和十七年、工作局車両部第二課長に就き、戦時形強力貨物機D52形の設計を指導する。
D52形は軸配置一D一、戦時規格を適用した機関車である。島はこの機関車をはじめから狭軌の限界に迫る機関車として構想した。使用圧力一六キロ毎平方センチ、缶は許容限度いっばいに拡大され、缶中心線はD51形の二五〇〇ミリから二五五〇ミリにあげられた。もう、これ以上の缶は考えようがなかった。均整のとれた名機D51形の走り装置のうえに巨大な缶が積まれ、牽引力はD51形を二〇パーセントもうわまわった。これが日本の蒸気機関車では最大の缶容量となる。
のちに登場する最強最高速機関車C62形は、このD52形の缶をC59形の走り装置のうえに乗せ、さらに軸配置を二C二としたものである。C59形は、C53形の三シリンダー式の欠点を二シリンダーに改善した高速機である。昭和十六年の実用配備で、島は、「新幹線」のHD53形を構想する一方で、C59形を構想し指導していた。父安次郎と同じく秀雄もまた忙がしかった。
D52形は、昭和二十一年にかけて二百八十五両製造された。しかし、戦時下の粗製乱造で、缶爆発が続出する悲劇の機関車となる。
安次郎は日米開戦ののち、車両統制会の会長に就任する。車両統制会を中心に機関車が一機設計された。それは昭和二十年、資材不足のなかで求められた豆機関車B20形だった。二〇・三トン、缶圧一三キロ、しかも飽和蒸気式である。
もちろん安次郎は設計してはいない。が、このB20形の出現は、戦争という災厄が、営々と築いてきた技術をいともたやすく退行させてしまう証明と見ることができよう。このB20形は限定された使用目的の下で間にあわせに十五両つくられたが、安次郎が生涯で出逢ったもっとも低劣な機関車といえた。
つい六年ほど前「広軌高速鉄道」の基本構想をまとめあげたというのに、いまや、この国は敗亡の淵にあった。
秀雄は「新幹線」の実現が遠ざかり行く十九年ごろ、父安次郎から感慨を聞いている。
安次郎は言った。
「高速鉄道もいいが、現在線の改良を怠ったのではいかん。将来は将来、いまの問題はいま解決しなければならん」
ついに終生、車両の神様はこの考えを貫いたのだった。
「将来を嘱望するのあまり、現状の改良を怠ることなかれ」
ピンチ式ガス灯のときより、この態度は不変だった。
安次郎は神奈川県辻堂の知人の別荘に疎開して戦火を避け、終戦を迎えた。秀雄は仕事に忙殺され、父安次郎に卵を食べさせるにも苦労した。
昭和二十一年二月十七日、寒い朝、安次郎は逝った。七十六歳である。老齢でもあったが、終戦直後の食糧事情がその死を急がせたのではなかったか。
静かな臨終であったという。
混乱の中の予言
昭和二十年、国有鉄道は大日本帝国の足腰を死にもの狂いで支えていた。空襲は必ず鉄道を狙い、機関車はあえぎ、汽笛は悲鳴のように哀しく響いた。
空襲を避け、島秀雄ら工作局の車両技師は設計資料を分散して保管することになった。
このときの島秀雄の肩書きを記すと、運輸通信省鉄道総局資材局動力車課長となる。昭和十八年、鉄道省は改組されていた。位置関係は明治二十年代の逓信省鉄道作業局のように本家帰りをしたかのようである。
動力車課の技師は、東京の西、中野坂上の宝仙寺へ引越した。ここにあった宝仙女学校の校舎が疎開で空いていた。鉄筋の校舎で、焼野が原にぽつんと残っていた。
島らは、設計原図を鉄筋コンクリートの倉庫に入れ、焼けないように懸命に守った。というよりは、ほかになすべき仕事がなかった。
二十年五月、運輸通信省は再び改組されて運輸省になった。もっとも、翌月には肩書きがまた変り鉄道義勇戦闘隊となった。動力車課は動力車隊となってしまったのである。本土決戦ともなれば、この人員がそのまま戦闘単位になるらしい。
戦争に勝てるとは思えなかった。しかし、勝ちはしないにせよ、戦争は必ず終るはずだった。
(やることがないと士気が落ちる。そうだ、高速電車の夢を全員で共有すればいい)
島は考え、隊員へ電車の研究テーマを与えた。いつか戦争が終れば、鉄道は電化され、電車の時代が来る。それならば、高速電車の基礎研究にとりかかっておくべきだった。
高速電車のための台車、パンタグラフ、ブレーキ、基礎テーマはどれも手つかずに残っている。島は将来の見通しとして、高速電車を早い時期に予測していたが、この時期の基礎研究の着手が組織的取り組みのはじまりだった。
弾丸列車の可能性は戦争のなかで捨てざるを得なかったし、超高速電車の現在の新幹線は想像力の外にあった。
しかし、この研究がやがて効果を発揮する。
「人から『新幹線の研究はいつごろから始めたのか』と聞かれると、この戦時中の疎開先での研究を思いだすのである」(『私の履歴書』)と島は書く。
この稿のための取材には、
「この時点で、何をどう運べば、どのぐらいの研究と作業量で高速電車が実現するか、手がかりはつかんでいた」
と答えている。
技術的先見性とはこんなにも先行するものかと、ただ驚くしかない。
現実への対応と、将来の見通しとの配分が父安次郎とまさにそっくりである。が、似ている、親子であるというだけでは、たぶん当ってはいないだろう。技術発展の方向の見極め方が正確で、現状の把握が正確である場合、導かれる予測は必ずこのような形で浮かんでくるものらしいのである。科学の新発見などが、世界のあちこちで同時多発的に生まれる秘密と、この親子の類似性は同じ性質のものだと考えたほうが正解かも知れなかった。
焦土のなかで島秀雄は高速電車を想像する。それは軽やかな走行音とともに疾走した。
(薄利多売)とつぶやき、めっきり骨ばってしまった頬をなぜた。高速電車を想像すればわずかに空腹がいやされるようである。
(腹が減れば頭がさえる。しかし、もう限界だな)
焼跡に植えたかぼちゃの緑が目にしみた。
(日本はどうなる?)と考えるとかぼちゃの葉がぼんやりとかすみだす。
軽やかに疾走する高速電車のイメージだけが優れた頭脳集団、実績を誇っていい国有鉄道工作局の技師を支えていたのである。
こうして八月十五日、彼らは終戦を迎えた。
われにかえって見れば惨憺たる鉄道が残っていた。駅は焼け、橋は落ち、枕木は腐り、機関車はときに爆発し、脱線はどの線区でも頻発した。鉄道員は、誰もがこの修羅場に耐え、列車を走らせていた。
工作局長には島の兄貴格である多賀祐重が就任し、呆然自失する時間もなく復興の策を立てていった。工場を建て直し、立往生している民間の工場へも機関車や車両の修理を発注していった。この混乱のなかで、多賀は技術者の散逸を心配した。とりわけ、旧陸海軍の技術者が散ってしまわないように矢継早やの策をたてた。旧陸海軍の技術者たちを国有鉄道に吸収してしまおうというのである。
技術者は一朝一夕で育つものではなかった。この混乱のなかで彼らが散ってしまい、永年の研鑽によって得た技術が枯れてしまう損失は大きかった。
国鉄には、明治の鉄道調査所を源流とする「鉄道技術研究所」があり、鉄道技術の基礎部門の研究を続けていた。終戦時の所長は中原寿一郎であった。ここに四百人の技術職がいて現場で発生した問題を研究し、現場へもどし、また持続的に基礎研究を続けていた。
中原は運輸省とも連絡をとり、積極的に旧陸海軍関係の技術者を国鉄に招いた。一時期、こうして国鉄に参入した旧陸海軍の各工廠技術者は千五百人を数えたとされる。
この技術者のなかに後年「新幹線」の技術を担う人材がふくまれていたのであった。
島はこうした人材に与える当面の技術課題をはっきりとらえていた。それは高速電車実現のための第一関門である「台車の振動」の解決だった。
昭和二十年十月、海軍航空技術廠が正式に解散となった。技術者たちは混乱の世間に放りだされる。そのなかに「零戦」の振動問題を扱った松平精がいた。松平は航空工学の第一人者小川太一郎東大教授の紹介で鉄道技術研究所第一部長(車両担当)池田正二を訪ね、池田は松平に、動力車課長島秀雄に面会するように勧めた。
松平はこのときはじめて島に会っている。
島は松平の名を知っていた。
「これからの鉄道は電車の時代になります」
まず島は静かな声で鉄道の将来予測を示し、
「電車はいま振動がひどい。あなたが零戦で研究した振動理論を、これからは車両振動の解決に用いていただきたい。零戦は、これからの時代、車両工学技術のなかに生きることになる」
松平精は昭和九年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業していた。はじめに船、そして飛行機、そして鉄道車両、何やら乗り物好きの俊英が次々に研究対象を変えていくようなめずらしい人生の軌跡がこのとき、描かれることになった。
松平は何よりも、この混乱のなかで冷静に将来予測を語る島秀雄の見識に驚いた。この面会で松平は戦後の生き方を決めたのだった。
父安次郎を送った秀雄は国鉄の戦後復旧に忙殺されるなかで、高速電車実現へむけて手を打っていく。この時期の島秀雄は文字どおり仕事の鬼である。
(まずはじめに道をつけ、問題意識を共有できれば、研究は自ずと動きだす)
昭和二十一年十二月に、民間車両メーカーの技術者をふくむ「高速台車振動研究会」を呼びかけるのである。参加した民間企業は、川崎車両、汽車製造会社、日本車両、三菱重工三原車両工場、住友金属、日立製作所である。
この時点で島秀雄が構想している電車は、のちに横須賀線や、湘南電車となるものであった。そうした中距離電車の開発の先に、もっと高性能な電車の姿がイメージされている。
それはまだはっきりしないが、小田急のロマンスカーや、ビジネス特急「こだま」へと結実していくイメージだった。
最初の「高速台車振動研究会」は川崎車両が幹事会社になり、有馬温泉で開かれた。そしてこのとき各社を代表して参加した技術者たちのなかに、海軍航空技術廠からの転出者が何人もいたのである。陸上攻撃機を担当していた疋田徹郎、「零戦」の主任設計者堀越二郎の直系の部下である曽根喜年ほかの人々である。
これ以降の電車には、国鉄、民間メーカーともにかつての航空技術者が大きな力となった。
島は快哉《かいさい》を叫んでよかった。が、手放しで喜ぶには敗戦の痛手がまだ技術者たちの胸に残っていた。彼ら俊英がいまここに並び、ともに高速台車の研究をしようとしていること、それは敗戦によっていた。軍事技術の壁が敗戦でとりはらわれ、こぞって車両工学に参加している光景は壮観でさえあったが、大日本帝国が敗亡しなければ、このように一級の頭脳がこぞって車両を研究することなどは起きはしないのである。この瞬間、国破れて鉄路ありといって過言ではなかった。
(これでよい、電車はひとりでに育つ。誰もが自分のテーマとして電車を研究する)
活発な討論のなかで島は思った。
昭和二十四年、法的に公社と位置づけられた日本国有鉄道が発足した。島はそのまま工作局長に就任し、あわせて理事となった。日本国有鉄道初代総裁は下山定則である。
この年、労働情勢は厳しい。戦争を通じて国鉄職員は五十一万八千人に増加していた。戦時輸送を人手でしのいだ結果だった。さらに外地から鉄道従事員が帰り、二十一年には五十七万三千人にふくらむ。第三次吉田内閣は「国家機関定員法」によって戦時体制の敗戦処理を強引に進めた。このとき国鉄職員は九万五千人もの解雇者を出したのである。
下山総裁は東大時代から島の同期だった。が、七月五日、下山は謎の死をとげる。解雇に反対する争議のなかでの謎の死である。続いて無人の電車が暴走する三鷹事件、何者かによる列車妨害によって松川事件が起きた(筆者はこれらの事件についてそれぞれに推測的な考えを持つがここでは触れない)。
国鉄の人心はこうした強引な敗戦処理と不可解な事件によって荒廃した。工作局長に昇進した島はこの嵐のなかで、客車を鋼製車両へ改造し、C62形を誕生させ、湘南電車を走らせ、進駐軍民間鉄道部門《CTS》と交渉しながら鉄道の鬼となって奮闘していた。
が、昭和二十六年四月、京浜東北線桜木町駅構内で電車が発火炎上し多数の死者をだす事故がおきた。
島工作局長はこの責任をとって辞職した。
直接の責任があったかどうか。が、それ以上に島を疲れさせたのは、この事件をめぐり、国鉄内部で演じられた責任回避の泥仕合であった。急激に島は国鉄への情熱を失ったのである。この年、島は五十歳である。これほどに仕事に打ち込んでいる人物の前で、責任回避をしようとする厚顔さは、見ようによってはもっとも残酷な行為といえよう。
島は語る。
「何だかひどく嫌になってね」
島は生まれてはじめて浪人になった。
新幹線構想
時はもうひとめぐりした。
昭和三十年五月二十日、十河《そごう》信二が国鉄総裁になって国鉄に帰ってきた。十河は七十一歳になっていた。
前年九月に青函連絡船洞爺丸が沈没し千六百九十八人もの死者、行方不明者をだす大事故が発生している。続いてこの年の五月十一日には宇高連絡船紫雲丸が貨物船と衝突し、修学旅行の生徒らに百六十八人の死者をだす事故が発生した。
この責任をとって長崎惣之助総裁が辞職し、十河が総裁に就任したのである。政権は第二次鳩山内閣、与党民主党はこのとき少数党である。
ここに登場するまでの十河の人生は曲折に富んでいる。島安次郎が辞職した大正八年、十河は鉄道院計理局購買第一課長として腕をふるい、続いて会計課長と、後藤新平から命じられた計理畑を邁進していた。が、関東大震災は十河を思わぬ波乱の人生へ導いた。
帝都復興院総裁となった後藤は十河を呼ぶ。十河は鉄道院職員との兼任である。が、この経歴のときの、区画整理用地買収に関する収賄容疑などで、大正十五年一月二十六日に逮捕される。このとき、十河は鉄道省計理局長だった。しかしまったくの冤罪で、昭和四年四月、無罪が確定する。無罪確定まで十河は浪人生活を続け、昭和六年満鉄理事につく。仙石貢が十河信二を招いたのである。
以後、任期満了の昭和九年まで満鉄理事を務め、昭和十年、転じて中国との友好を目的とし、産業振興をめざす興中公司を政府出資で設立し、社長に就任する。十河は軍部と対立しながら日中友好のために粉骨砕身するが、昭和十三年政府の方針転換に反対して社長を辞任する。またしても浪人である。十河は鉄道院時代から政治への志望を温めており、政友会森恪との親交があった。冤罪事件は、この親交によっているとされている。
のち、中国への武力侵攻に反対を続け、昭和十三年以降は帝国鉄道協会理事、学生義勇軍会長など名誉職に就くぐらいで、いよいよ敗色迫る昭和二十年七月には郷里の愛媛県西条市に帰ってしまった。西条市では市長に任ぜられ、米の増産などを手がけるが、昭和二十一年鉄道弘済会会長に就任して上京する。鉄道弘済会を昭和二十三年に辞職したのち、肩書きは帝国鉄道協会を改称した日本交通協会理事と、日本経済復興協会会長などである。
青雲の志を抱いて鉄道院に入って以後、浪々の身分のときが多かった。しかし、不正を嫌い、稚気あふれ、人を信じきる性格に人望は常に篤く、十河信二は一種独得の影響力を持ち、周囲もそれを認める存在となっている。
交通協会理事として戦後の国有鉄道を見ている十河は歯がゆくてならない。国鉄の戦後復興は遅々として進まず、職場は労働運動で揺れ続けていた。そのうちに東海道線はついに輸送容量の限界を示しはじめる。幹線複線化も遅れ、電化も進んでいない。昭和三十年当時の国鉄は、戦後応急的に行われた復旧のままで、次第にいき詰まりつつあったのである。
十河信二は交通協会で、国鉄退職者を相手に鉄道の現状を憂え、衷心から悲憤慷慨の毎日を過していた。
その十河が国鉄総裁に就任することになるのは、洞爺丸や宇高連絡船紫雲丸の沈没事故以後、国鉄総裁のなり手がなかったからであった。
十河は国鉄退職者の一人として、政府へ政策提言に出かけた。注文をつけに行ったわけだが、逆に説得され、国鉄総裁を引受ける。
鳩山首相がかつて森恪を通じて十河信二をよく知っていたこともあった。
こうして、七十一歳の熱血総裁が登場するのである。
十河総裁は大胆に国鉄近代化策をかかげた。在任中新線建設へ予算をつけず、電化と幹線複線化に全力を投入すると宣言するのである。
長い波乱の人生のなかで、十河総裁は、いまや雷親父となっていた。後藤新平と仙石貢という二大雷神によって訓育されたために、十河自身も大雷神に変貌したらしいのである。
髭は、いまだに自分では剃れなかった。短躯で、やや太り、眼に人を魅了する愛嬌があった。笑えば糸のように細くなる眼が、怒れば三角に変じて人を圧するのであった。
十河総裁の近くに勤めた者は、
「怒号の人」
と書いて人柄を偲んでいる。
また、秘書の一人はひとたび怒りを発したときの十河について、
「百獣の王が吼えるという具合に怒る」
と書いている。
国鉄総裁に就任したときの十河信二は、愛してやまない国鉄がこれほどに落ちぶれてしまっていることに、いてもたってもいられないほどの哀しみを抱き、胸が赤熱するほどの焦燥を抱いていたと見るべきである。
「こうならないために、先人がどれほど粉骨砕身したか。現場の人間がどれほどの刻苦献身をもって国鉄を支えているか。国鉄中枢の高級職は、そのことを恐れて、血の汗を流してでも現状を改善すべきである」
といった思いが、錯綜して怒髪天を衝《つ》くらしいのである。
この十河信二が、胸に抱いていたのが「広軌新幹線」だった。
昭和三十一年に東海道線はどうにか全線電化されていた。しかし、折しも活況を見せはじめた神武景気によって、輸送量はすぐにもいっぱいになってくる。戦後復興は力強く、これまでの歴史で常に予測された狭軌鉄道の限界が、電化のあとを追いかけ、追いついてくる。昭和三十一年の経済白書は「もはや戦後ではない」と主張していた。
十河総裁は、就任の時に内心深く「広軌新幹線」を決意していたらしい。
まず就任のときに前年にまとめられた総額五千九百八十六億円の「国鉄第一次五ヵ年計画」を実行に移し、各種委員会や、審議会を設置して足場を固めた。
それに並行して秋ごろには総裁室審議室に「広軌新幹線」の検討を命じたと推定される。
十河のもとの副総裁は天坊裕彦、技師長に藤井松太郎が配されていた。藤井技師長は「広軌新幹線」に首をひねっており、それを察した十河は、島秀雄の投入を決意する。
十河は藤井技師長に対して、
「君、技師長にはもう少し視野の広い人を頼みたいから、替わってくれ」
と率直にいったという。
藤井も淡泊に受け、
「おれもそう思う、替えてくれ」
と答えた。
このころ島秀雄は住友金属の取締役に就任していた。十河は島を口説いた。が、島はすでに「決意して辞職した立場」であることを理由に固辞する。十河は住友金属社長広田寿一に了解をとり、さらに島を口説いた。
十河は説きに説いた。
「君の親父は広軌にしようと苦労しながら、実現できず、恨みを呑んで死んだのではないか? 君は子として親の遺業を完成する義務がある。孝心を奮い立たせて『広軌新幹線』を実現すべきではないか」
が、この言葉を島はやわらかく否定している。
十河の説得はなおも続いた。島は国鉄内部のようすを見つめていた。十河は奮闘しているが、わずかに空まわりのようすが露わになりつつある。
むしろそのことが島の胸を打った。老先輩が国鉄のためを考えて繰りだす施策が受けとめられていない。
(行くか)
十河は礼をつくし言葉をつくして島の胸を敲《う》ち続けていた。
(行けば容易なことではない、しかし、十河さんには現場との間を誰か助ける人間が必要だ)
と考えがめぐっているということは、すでに心が動いたことと同じだった。
島は住友金属の広田社長に了解を求めた。
「また帰ってきてくれるなら」
広田社長のこの声で島秀雄は再び国鉄へ、十河のもとに駈けつけるのである。
しかし、島が「容易ではない」と考えたのは「広軌新幹線」の実現だけがむずかしいというのではなく、国有鉄道の再建そのものが難事業だったのである。
昭和二十四年に発足した、公共企業体としての「日本国有鉄道」には、自力で事業を進めていく決定権がほとんどなかった。信じ難いことに、この巨大な公社は、頭を切り落とされたような姿になっていた。事業計画、運賃、給与の決定権が国鉄側に与えられていないのである。これらはすべて国会で決められてしまう。たしかに、鉄道院のころから新線建設は法で定められ、給与は官吏制度で決められてきている。
しかし、運賃は鉄道大臣の裁可だった。どの鉄道大臣も運賃値上げには慎重だったが、戦時体制以前は、収支にもとづいて運賃が決定されている。また、鉄道大臣が民営鉄道の運賃の認可権を握っていたところから、総合的な運賃政策もとり得ていた。鉄道大臣はさすがに「赤字でもいいから運賃をおさえよ」とは当事者として主張できない。大臣の権能放棄であり、直接に責任問題となる。
しかし、これが国会によって認可されるとなると責任の所在がぼんやりし、世論を気にすればずるずると運賃がおさえられ、赤字が膨張する恐れがあった。
これが島や、この時点で国鉄を憂うる人々の心配の種だった。公共企業体にしたことがそのまま失策ではなく、公共企業体になると同時に、確実に握らなければならなかった国鉄の主体性、当事者としての権能を手放してしまったことが失策だったのである。
国有鉄道の組織改変は占領政策のひとつであった。占領軍中枢はアメリカなどで実際に機能している公共企業体をもとにして国鉄を組織替えした。アメリカの公共企業体は、経営委員が全責任を負い、事業計画も、運賃も、給与も自分で決める。それを手本にして国有鉄道にすべての経営権を与えればよかったのだが、それができていない。アメリカ式公共企業体とは似て非なる「難物」にしてしまった。
そうしてしまったのは、日本側であり、政治家もそうだが、運輸省と鉄道総局の高級官僚だった。長く続いた日本的官僚の思考癖、もっといえば思想が、自立した企業体へ踏みだす決心をにぶらせた。占領政策の圧力を受けてむしろ国家へしがみつき、公共企業体でありながら、国家管理の下にある形をとろうとし、その途中のどこかで、当事者能力の最後の拠りどころである運賃の決定権を国家へ渡すか、召しあげられるかして、失ってしまったのである。
この頭のない公共企業体はまた、これまでの長い弾圧ののちに、にわかに起ちあがった労働運動の波状攻撃にさらされていた。何の決定権もない国鉄の経営中枢はサンドバッグのように打たれるしかない立場だった。場所がそうなのである。自分では経営戦略などの根幹は決められない。それがなければ労務管理に将来の展望を組み込めない。ただその場の対応となり打たれ続ける。そのくせ国有鉄道はほぼ絶対に倒産せず、そうであれば労働側は倒産の限界点を気にせずにいくらでもストライキが打てる。しかも、国鉄の労働運動は戦後民主主義の風を受けて滅法強かった。
このようすを見て、島が、「容易ではない」とつぶやくのは当然だったし、十河が灼熱の焦燥を抱き、こもごも感情がこみあげ、獅子のように吼えあげるのは、少しも異常ではなかった。
さらに、国鉄の高級官僚たちは、いく度もくり返されてきた政党人事に傷ついて、重大な方針決定を前にすると一様に旗幟《きし》をぼかすようになっていた。官僚主義の習い性のうえに、えげつない党派人事の傷痕が残っていた。不用意に考えを鮮明にすると、政治勢力が変化したとき、とんでもない災難となって左遷を食らう先例が、国鉄史のなかにごろごろしている。こういう先例を前にすれば、態度をぼんやりさせて政治のとばっちりを避けるしか処世の方法はなく、この知恵がいつの間にやら伝統のものとなったかのような空気が澱んでいる。
これも十河の焦燥や、怒りや、哀しみをかきたてた。
(鉄道人の気概を忘れたか。ああ、わが師後藤よ、あなたが排除しようとしたことが、いますべて眼前にある)
という思いであろう。
そのうえ民間の動きも危うい。このころ、国鉄組織はさまざまに議論され、公共企業体から分割民営へという意見もすでに出ていた。
小林一三や、五島慶太らがしきりにそれをいっている。
たとえば五島慶太は、昭和三十三年に「国鉄を七つの経営体に分割し、民営にする」と主張し公表するが、これにしても、鉄道史をよく知る十河には、その腹がよく見えていた。民間、あるいは財界は、鉄道史はじまって以来、鉄道経営が苦しければ国家買収を画策し、うま味が見えれば民間への払い下げを望むのであった。
とりわけ五島の「分割民営」はしゃらくさい。利をめぐって打つ手があざといのを十河はよく知っていた。五島は十河より二歳年上ながら東大で同期だった。ともに鉄道院に就職し、五島は大正九年に退官して、東急の前身である武蔵電気鉄道に転じた。
十河が国鉄総裁に就くと五島は早速訪ね、旧知であることから、
「鉄道敷設法では、伊東から下田が建設予定線になっている。すぐにでも下田まで鉄道を敷いてくれまいか。伊豆の開発は東急でやるつもりだ」
というから十河は烈火のごとく怒った。
「国鉄の犠牲で東急が儲ける気か」
と怒鳴りあげたという。
財界人がいくらしたり顔で「分割民営」をいっても、十河にとってはその「志」においてとても信じるわけにはいかなかったろう。
この十河の怒りは的を射ていた。五島慶太は「新幹線」にも強い関心を持ち、官民共同の経営体を作って参加しようとした。これを政治の舞台で受け持ったのが河野一郎であり、その画策で十河はあやうく国鉄総裁を追われそうになる。
このような情景のなかで熱血総裁十河信二は鉄道のために身命を賭けようとしていた。十河の視線で周囲を見れば、硝煙たなびく戦場で敵中突破をしているようなものであり、怒号し、獅子吼して進撃することになる。
島秀雄が十河と行動をともにする気になったのは、この小柄で一徹な老人が、日本鉄道史の悲哀を一身に背負って慟哭していたからに違いない。
かくて島秀雄は起った。
昭和三十年十二月一日、国鉄技師長に就任する。このとき五十四歳。技師長とはかつての技監である。父安次郎は広軌改築の夢破れて、この職を最後に鉄道を去った。秀雄は父安次郎が果たそうとして果たし得なかった広軌鉄道の建設へむけて一歩を踏みだす。
「何ンデモ鉄道ガ一番良イ」
と一〇六七ミリの線路を敷いてしまってから、たった三六センチ八ミリほど線路を広げようとした果てもなく長い旅の、最後の旅人が歩きだした。
国鉄では広軌改築の痕跡がうそのようにかき消えている。安次郎がまとめた「新幹線計画」の存在を知る者でさえわずかだった。
またしてもゼロからの出発であった。
(憤重に、理詰に)と島は肝に銘じる。
三十一年五月、国鉄本社内に「東海道線増強調査会」を設置する。すでに現在の東海道線は限界にあり、何らかの増強策が必要なのは誰の目にも明らかであった。さまざまに改良案が現れつつあった。あらゆる時代を通じて、それはよく似た考えだった。現在線への張りつけ増線案、狭軌別線案、広軌別線案。それを語る者は、これらが明治四十三年にすでに検討されていたことを知らないか、昔の発想に興味を持たないかのどちらかだった。
いつもそうだったようにまずデータが集められる。将来輸送量予測、車両、動力、線路規格、速度、安全、波及効果。東名高速道路との相互影響をどう判断するか。高速自動車時代の鉄道とは? 理事や局長のなかには現状追認の考えが多い。
秀雄の手もとには父安次郎の残したメモがあった。それが少なからず秀雄を支えた。
十河総裁の「広軌鉄道」の原形が「南満州鉄道」であることがはっきりする。特急「あじあ号」が生きている。島はゆっくりとそれを変える。「電車」を十河は理解する。
討議は理論的に進められた。が、理論的であるための主導権を島は断固として掌握していた。
旗幟をぼかす精神風土は根強い。狭軌併設、狭軌別線、広軌十駅、広軌二十三駅、広軌電鉄の五案が横並びとなる。島は論理によって「広軌電鉄」へ行き着くことを読み切っていた。それが一番有利であった。戦後すぐに種を撒いた高速台車、高速電車の基礎研究は鉄道技術研究所で着々と進み成果はあがっていた。反対者は静かで頑固だ。財政論的退行、巨大計画の危険性。二〇〇キロは速すぎないか。事務系幹部はいう、「技術屋の玩具よ」と。当然のように大人びた折衷案、「はじめ狭軌で、のちに広軌を」なども出てくる。すべては歴史をくり返していた。
三十二年二月「東海道線増強調査会」は討議を打ち切った。結論は出ない。が、説得の自信はある。彼らは職責によって動けない。先に決める者にはならないが、二番めや、三番めに賛成することならやぶさかではない。一番めを打ちだすべきだ。職責の自由な者たちにそれを受け持たせる。
三十二年五月三十日、鉄道技術研究所創立五十周年記念講演会が、銀座山葉ホールで開かれた。
「東京―大阪三時間可能」、「夢の超特急」の見出しが新聞に躍った。
島技師長は理事や技師と個別に話した。理解者が増えた。風が吹きはじめたのだ。だが、(慎重に、慎重に)。このような計画では、いつでも現状論が津波になって押し寄せるのである。
三十二年七月二日、十河総裁は運輸大臣に申請する。「東海道本線の増強について適切な配慮を願いたい」。十河は政治家の根まわしに全精力を注いでいた。
一方で国鉄本社内に幹線調査室を設置する。以後、ここが策源地となる。室長には札幌支社長になったばかりの大石重成を呼ぶ。堂々たる格下げ人事だった。大石は受けた。「弾丸列車」のころ、大石は大臣官房幹線課で一緒に頭をしぼった同志だった。ここに人材が必要だった。
十河もまた執念を見せていた。政治家の自宅へ、夜討ち朝駈けを続けた。朝は起きるまで待ち、夜は帰るまで待った。鳩山一郎、岸信介、藤山愛一郎、砂田重政、一万田尚登、佐藤栄作、宮沢胤男、中村三之丞、そして河野一郎。
河野一郎は、朝、起きるまで待っていた十河の横を通りすぎる。
「すまんな、用事があるのでね」
十河は耐える。そして、また待つ。
鳩山内閣から石橋内閣を経て三十二年一月三十一日に岸内閣へ(臨時首相代理、組閣は二月二十五日)。前々年に保守合同が成って、政権とともに政策が変化する懸念はなくなっていた。時代はわずかに前進したらしい。
三十二年八月三十日、運輸省に「日本国有鉄道幹線調査会」が設置された。
この調査会委員長に木下淑夫の弟子、広軌派の老雄大蔵公望が就任した。このとき七十六歳。大蔵は安次郎の役割を引き受けたのである。大蔵は九月十七日の第一回委員会の冒頭、眼をむいて中村三之丞運輸大臣に詰問した。
「この会議の決議を大臣はどこまで実現する気があるのか、はっきり決意をうかがいたい」
低いが裂帛の気合であった。
「意見をうかがうだけでなく、必ず実行いたしたい」
中村運輸相はすでに腹を決めていた。十河の説得であり、保守合同の目玉がこのとき求められており、それは「新幹線」を生む条件のひとつとなっていた。
三十二年十一月二十二日、幹線調査会は運輸大臣に「東海道に新規路線を緊急に建設する必要がある」と答申した。十一月二十五日、幹線調査会は、第一分科会(技術問題)、第二分科会(財政問題)に分かれ、討議に入った。
討議はかなり長びいた。鉄道斜陽論が優勢だった。しかし、国鉄本社幹線調査室が正確に分析する将来予測では、アメリカなどの例は日本の交通運輸動向と必ずしも一致してはいなかった。
三十三年三月二十七日、第一分科会は「広軌別線案」を妥当とした。技術問題はこのとき事実上突破されたのである。
続いて四月二日、第二分科会は所要資金千七百二十五億円、年七分の利子を含めて千九百四十八億円として、将来の収支は十分に立つことを認め、国鉄案を妥当とした。
ついに門は開かれたのである。
島はこの答申が成ったことを知り、立ちつくす。
(これは事実なのだな)
なぜか、この決定が春の雪のように淡々《あわあわ》と消えてしまうような気がする。
(落度なしだった、大丈夫だ)
この計画にたずさわった者が全員気づかなかった失策により、決定がくつがえりそうな懸念が、ほんの一瞬、胸をよぎった。
そして島は愕然とする。
(ついには理詰めではなかったのだ)
と思うのである。
国鉄本社幹線調査室で試算した建設資金は三千億円を越えていた。それが正真正銘の予算だった。
その数字を見た十河は、
「これでは国会は通らない。これほど大きい金なら狭軌でやれなどどいう声も出る」
といい、気色ばむでもなく、
「半分にして出す、いいね」
といったのだった。
「いや、それでは」
と島がいいかけると、
「いい。政治だ。あとの不足は政治で出す」
と十河は答えた。
すでに十河は「広軌新幹線」と心中する覚悟だったのだろう。
三十三年十二月十二日、交通関係閣僚協議会は「東海道新幹線の早期着工」を決定した。
この日、夕刻、十河は秘書一人を連れて青山墓地にいた。
後藤新平の墓へ献花し、仙石貢の墓へも参った。帰りかけて、何かつぶやき、森恪の墓へも線香をあげた。
昭和三十四年四月二十日、弾丸鉄道のときに一キロほど掘ってあった新丹那トンネル熱海口で「新幹線」の起工式が行われた。工期は五年が予定され、東京オリンピックまでの完成が目標となった。
起工式はどこか質素だった。とどこおりなく式は進み、鍬入れとなった。十河は紅潮した顔で、鍬を振りあげ、
「えいっ」
と気合をこめて砂の小山に鍬を打ち込んだ。
三度め、金色に縁どりをした檜の鍬がぽきりと折れた。十河は頓着せず上機嫌だった。
島秀雄は、常務理事になった大石重成と並んでそれを見ていた。祭壇のむこうにトンネルの入口がぽっかりとあいている。
「君は前のとき」
と大石が島に小声で訊いた。
「起工式に出ていますか」
島は父安次郎のことを想いだしていたが、質問に答えた。
「さて、機関車を考えたあと、すぐに浜松工場長だった。起工式には出ていない」
記憶をたどってみた。
(父は起工式に出たろうか)
われながらどうかしていると思ったが、父と「新幹線」について語ったことは「新幹線」だけがよいのではだめだ、ということだった。どうもそれだけが頭に残っている。
(それはやっているよ)
と島は吐息をついた。国鉄技師長に就いてから、電化、ディーゼル化、貨車の改良、コンテナ輸送、あらゆる面で近代化を進めてきている。「新幹線」ができたのち、長距離高速の超特急と、短距離で高密度の在来線とが補完しあって、均整のとれた鉄道が生まれるはずだった。このふたつが揃って完成とするのが島技師長の「新幹線構想」だったのである。
(そのシステムが完成するまで、職にとどまれるだろうか)
にわかに島の表情は厳しくなった。「新幹線構想」はまだ足もとにもろさがあった。自由民主党であっても、内閣が替れば工事中止の決定があるかも知れないのである。
この変更を許さないためにとられた手段が、世界銀行からの借款《しやつかん》だった。
起工式ののち、昭和三十四年秋からの予備折衝を経て、翌三十五年一月十五日、島は経理担当常務理事とともにワシントンの世界銀行本部に向った。交渉がまとまり、正式に八〇〇〇万ドルの貸付契約が調印されるのは、翌三十六年四月二十四日であった。
これでついに「新幹線」の計画は不動のものになった。世界銀行との契約によって、日本政府はこの計画を途中で打ち切ることができなくなったのである。
島技師長が行った世界銀行との国際借款交渉は、かつて父安次郎が、ドイツのアルゲマイネ社と行った国際|融資団《シンジケート》との交渉に酷似していた。
この親子ほど相似的な軌跡を描く人生はめずらしかった。
終章
東京―新大阪間五五〇キロ、東海道新幹線の工事は、国鉄に蓄積された経験と技術のすべてをかけて行われていった。明治以来、それぞれの時代に、さまざまな人間ドラマとともに構想され、中断し、再生し、継承されてきた国際標準軌間鉄道は、鉄道史の流れの果てに実現しようとしていた。
島技師長が、戦火のなかで考えた高速電車の技術課題は鉄道技術研究所で着々と解決されていった。この研究システムは同時に、日本で誕生したはじめてのシステム工学だった。
島は鉄道技術研究所のスタッフを誇りとした。この技術開発に参加した全員が、
(新幹線は俺が作った)
と確信できるように、彼は態勢を整え、励まし続けた。
用地買収は、現場の即断即決で進んだ。十河《そごう》総裁は権限のすべてを現場に下ろした。その職をかけて現場を信頼し、決裁にかかる時間を惜しんだ。技術問題が解決され、建設規準が確定されるのは昭和三十六年初頭とされる。重い機関車の牽引ではなく、電車であったことが、工費と工期を大きく圧縮した。
そのうえ建設費はぎりぎりまで節約された。
「爪に火をともすように切りつめた」
とのちに島は書いている。
どの工区も突貫工事で進められた。五年という短い工期を設定せざるを得なかった理由は東京オリンピックだけではなかった。ことが長びくのは不利だった。この計画は常に批判にさらされており、実際に走らなければその威力を理解できない人々が、政界や、財界や、言論界にいて何かと口うるさく、一刻も早く現物を見せる必要があったのである。
工事が山を越した昭和三十八年三月、はじめ千九百七十二億円とした建設費が、二千九百二十六億円に加算修正され、国会は承認した。しかし、国鉄内部の試算では、あと八百七十四億円もかかるはずだった。十河総裁は覚悟していたとおり、窮地に立たされる。十河を総裁職から追おうとする声があがりはじめた。これまで十河は、およそ九十億円の地方新線建設費のうち、半分を削って近代化計画へつぎこんでいた。
それを不満とする政治家がいる。十河によっておさえ込まれた新線建設を復活させようとする動きが頭を持ちあげてきた。鉄道と票と建設業の三位一体が、十河の首を求めるのである。
「鉄道はできるだけ延長するに若かず」
どこかで原敬や床次《とこなみ》竹二郎が合唱していた。
遠距離の飛行機と、都市間大量高速輸送の鉄道と、自由自在に走る自動車とが、それぞれに持ち味を発揮する総合交通政策が必要な時代に、なお鉄道を求める国民と政治と業界がこの国には根強かった。
アイボリーにブルーのライン、突き出た長い鼻、翼のない飛行機のような新幹線車両がついにその姿を見せた。
昭和三十九年三月三十日、目にも鮮やかな高速電車は、二五六キロの最高速度を記録し、日本の鉄道技術が世界一の水準にあることを証明した。何よりもこのシステムが、二重三重の安全機構を備え、高速運転を実現したことに世界は目をむいた。
十河信二は試運転電車に何度も乗り、車体をながめ、椅子をなぜて眼を細めた。
開業は十月一日に予定された。が、この一徹な老人は、開業式のテープをついに自分の手で切ることができなかった。加算修正した建設費の、そのうえの不足が責任問題となり、任期途中の、昭和三十八年五月十九日、国鉄総裁を辞任する。七十九歳になっていた。
この無粋な人事について、あと半年やらせてやればいいものをと、松下幸之助がいったという。松下は当時、日本国有鉄道諮問委員の一人で、
「国鉄総裁は、忠臣蔵の大石良雄でんな。宿願はたしたらたちまち切腹や」
と憤慨した。
ときの池田内閣は、次期総裁に石田礼助を配した。池田勇人首相は、自由民主党内の政敵佐藤栄作が鉄道省出身であることから、その勢力を牽制しようとし、十河を追って財界からの次期総裁起用を望んだ。この候補には松下幸之助や、王子製紙会長の中島慶次らがあがったが、政界の事情を知る者は、言下に断ったとされる。池田首相は親友でもある石田礼助に頼み、石田はこれを受けた。石田はこのとき七十七歳である。三井物産に三十五年間在職したうち、実に二十八年間を海外に勤務し、欧米流の合理主義を身につけているとされている。
しかし、鉄道事業における構想力では、十河や、島に及ぶものではなかった。この領域に関しては、過去にどのような勢力が、広々とのびやかに構えられるべき鉄道政策をねじまげたか、その裏面までよく知り、厳しく見極められていなければならなかったし、その一方では、島秀雄が渾身の持続力で維持してきたように技術の将来を見すえ、それへ結びつく現状の手当てが構想されていなければならないのである。
この過去と現在と未来にわたる構想力を持っていたという意味で、十河信二と島秀雄の二人が手を結んだ時期は、国有鉄道史を通じて奇跡といっていい布陣だった。
十河信二が総裁を辞任したことによって、島技師長も辞職を決めた。残務整理中に、高松宮、三笠官、秩父宮妃が新幹線に試乗したことがあった。
島は宮家一行を案内して東京駅ホームへむかった。ホームでは石田新総裁が迎えた。
石田総裁は島にむかい、かつ、宮家にも聞こえるようにいった。
「ぼくはだいたい新幹線は嫌いなんだ。こういう危いものを預けられて迷惑しているんだ。試運転だというのに、高貴なお方を御乗せするなんて、とうとうこんなことになってしまった」
さすがに島の顔色が変ったという。
その場は高松宮が、
「じゃあ、生前の高松という写真でも撮ろう」
と冗談にまぎらして、気まずさを救い、笑いのうちに宮家一行は乗車した。
石田は新幹線について、速いものを走らせたがる技術者の、
「道楽」
ととらえていたようである。
「これからどんなに悩まされるか」
と本気で心配し、新幹線の技術についてはまったく評価しなかった。
はるかな昔、西洋奇器術を前にしたとき以来、日本人は新技術に関して、このような偏見を持つ。欧米流合理精神の体得者とされる人物のなかにさえ、新技術を前にすると、
「奇技淫巧」
と考えてしまう古い形質が残っており、技術について考えに考え、よりよいものを生みだそうとする精神を傷つけるのだった。
島安次郎と秀雄の親子が二代にわたって悩まされたのは、とどのつまり、日本鉄道史が醸成してしまったこの古い形質ということができそうである。
昭和三十九年十月一日、華々しい開業式によって新幹線は営業をはじめた。
島秀雄はこの日、自宅にいた。開業式に出る気がしなかったのである。開業式はテレビで観た。よく晴れた日で、富士山を背景に走る新幹線は美しかった。
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あとがき
日本の鉄道史で、車両の神様といわれる島安次郎と、その長男秀雄の軌跡をたどるということは、そのまま鉄道技術の発展を追うことであった。さらに島秀雄の仕事は宇宙開発事業団理事長へと移行して、この親子の軌跡は明治維新の出発から、宇宙時代へと継続されることになった。新幹線からロケットへ、どのように架橋されたかについてはさらに一書が必要だろう。
本稿の取材ではほかでもない島秀雄ご本人にもっともお世話になった。本稿の取材というよりは技術をどのように考えるべきなのか、常に優しく語られた。そのたびに筆者は何という好運に恵まれたかと茫然とし、恐懼した。
父安次郎からその子秀雄に受け継がれた精神は、そのまま日本近代の生んだ最良の精神の中心軸を担っている。
それを筆者が描き得るか、と思うと身が震えた。至らなければ死ぬまでこの主題を追求すると思い定めたのち、どうにか筆が進んだ。
取材過程で多くの方々にお世話になった。
日本交通協会森谷次夫氏、同図書室長上田豊氏のお力添えがなければこの書は成らなかった。編集の林雄造氏にもご迷惑をおかけした。記して謝意を表する。
和歌山市の島安次郎の生家の周辺を案内していただいたのは島家当代の島欣一氏だった。いま、鷺森のあたりに当時の面影はなかった。区画整理で広い道路が開かれ、安次郎が遊んだ路地も消えている。
和歌山城近くの公園にC57形が展示されていた。安次郎の故郷である紀勢線を走った蒸気機関車で、その子秀雄の作である。日本の鉄道史を担った親子二代を記念するものは公園に休む一台の機関車だけのようだった。
一九八九年九月
[#地付き]橋本克彦
主要参考文献
『田健治郎伝』(田健治郎刊行会)
『後藤新平』(鶴見祐輔著・勁草書房復刻)
『十河信二』(十河信二伝刊行会)
『機関車工学』上・中・下(森彦三・松野千勝共著・大倉書店)
『日本鉄道創設史話』(石井満著・法政大学出版局)
『日本鉄道史』上・中・下(日本国有鉄道刊)
『鉄道―明治創業回顧談』(沢和哉著・築地書館)
『明治期鉄道史資料集』第二集第一巻〜八巻、日本鉄道沿革史、紀和鉄道沿革史、山陽鉄道会社創立史。鉄道家伝として南清、今村清之助、長谷川謹介など(日本経済評論社復刻)。
『大正期鉄道史資料集』第二集四巻、広軌鉄道改築準備委員会調査始末一斑(日本経済評論社復刻)
『日本機械学会誌』各巻
『帝国鉄道協会会報』各巻
『鉄道時報』(明治大正期)
『関西鉄道略史』(鉄道史資料保存会)
『イギリス鉄道経営史』(湯沢威著・日本経済評論社)
『機関車の系譜図』(臼井茂信著・交友社)
『日本国有鉄道百年史』全巻(日本国有鉄道刊)
『私の蒸気機関車史』(川上幸義著・交友社)
『機関車と共に』(今村一郎著・ヘッドライト社)
『都市近郊鉄道の史的展開』(武市京三著・日本経済評論社)
『鉄道先人録』(日本交通協会鉄道先人録編集部・日本停車場株式会社出版事業部)
『人物国鉄百年』(青木槐三著・中央宣興株式会社出版局)
『源流を求めて―鉄道技術戦後の歩み』(森垣常夫編・交通協力会出版部)
『鉄道旅行の歴史』(W・シベルブシュ著、加藤二郎訳・法政大学出版局)
『匠の時代』第三巻(内橋克人著・講談社文庫)
『日本の鉄道―成立と展開―』(野田正穂・原田勝正、青木栄一、老川慶喜編・日本経済評論社)
『日本政党史論』全七巻(升味準之輔著・東京大学出版会)
『大久保利謙歴史著作集・明治維新の人物像』(大久保利謙著・吉川弘文館)
『英雄時代の鉄道技師たち』(菅建彦著・山海堂)
『高速鉄道の研究』(鉄道技術研究所監修・研友社)
『最新鉄道車両工学』(五十嵐修蔵著・工業調査会)
『電気機関車展望』一、二(久保敏・日高冬比古共著・交友社)
『南満州鉄道建設秘話』(満鉄社員会発行)
『南満州鉄道株式会社二十年略史』(南満州鉄道株式会社)
『後藤新平』(北岡信一著・中公新書)
『明治の政治家たち』上・下(服部之総著・岩波新書)
『新幹線そして宇宙開発』(島秀雄著・レールウェー・システム・リサーチ)
『私の履歴書』(島秀雄著・日本経済新聞社)
『和歌山県薬業史』(和歌山県)
『粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯―』(城山三郎著・文藝春秋)
文庫化にあたって
日本の近代史には、奇妙な不合理性が宿命のようにまといついている。ヨーロッパ系の科学技術を日本に取り入れようとして、そのほとんどを学び得たことは事実だが、その科学技術の根底には、文化と深く関わる近代合理主義の広大な思想の領域があることを、ときに学び損ね、科学的な認識を勝手に解釈しては判断を誤り、禍根を残すといった歴史も、日本の近代化の過程では数多く演じられた。
そのもっともよい例が鉄道史にある。
日本の線路の幅は、国際的な規格からいえば一級下の狭いものであった。これを決定したのは大隈重信や伊藤博文らの明治の英雄であったけれども、彼らは線路の幅の広さが輸送力の限界を規定する決定的な要因であることを理解できなかった。
さらに交通輸送システムは、基本的には社会の発展とともに、合理的に配置されていくべきであるという、誰の目にもあきらかな思想が、わが国で、そのまま率直に実現されることは少なかった。
鉄道史に刻まれた技術導入の歴史とは、この国に深く息づいている非科学的な日本的精神との闘いの歴史とも解釈できるのである。
明治のはじめに、鉄道を生涯の仕事とした技師島安次郎が闘った相手は、途上国日本の宿命としての不明さだった。狭い線路の限界に挑んだ高性能の機関車を設計し、さらには明治の元勲たちが犯した判断の誤りを正そうと、線路(在来線)の幅を現在の新幹線規格(国際基準規格)にするため、日本の現状から考えて必ずできる道筋を読みきり、現実までの構想を見事に描いたが、この計画を日本近代政治史では一流と評価される政治家たちが、無残にも踏み潰《つぶ》すのである。わが国の鉄道史に刻まれた政治の後進性は、この国の病根の姿を示す、もっともよい歴史資料といえよう。
世界ではあたり前の常識が日本ではよじれてしまい、それを正すためにどれほどの苦闘が強いられたかは、安次郎の子、秀雄の時代になっても同様であった。
のちに新幹線を実現して鉄道技術者というよりも、もっと大きな意味の科学技術者として認められる秀雄の仕事もまた、ただひたすら科学技術の中心軸を、鉄道において実現しようとした軌跡であったが、この世界一級の技術者の思想も、多くは利権に目のくらんだ鉄道外の勢力によって、ときにねじまげられる。
島安次郎と秀雄の親子は、日本の蒸気機関車のほとんどを設計した鉄道の親子鷹であるけれども、それ以上にわが国の近代化のためにはたした役割は大きい。この親子がいなければ、日本の鉄道は、ねじれたままの姿をいまにさらしている恐れが十分にあり、技術を社会化することの意味を取り違えた誤りが、いま以上に残ったかもしれない。
いまや先進国となった日本ではあるけれども、途上国時代の不明を原因とする病根は、いまなお無数に残っており、島安次郎と秀雄の担った闘いの意味を問うことは、今後いよいよ大きくなる課題となるはずである。
一九九三年三月
[#地付き]橋本克彦
本書(単行本)は一九八九年十月小社より刊行。
本書講談社文庫版は一九九三年三月刊。
電子文庫版では、親本収載の写真・図版は割愛しました。ご了承ください。なお、本書に登場する蒸気機関車の写真は、
http://www.mtm.or.jp/uslm/
(梅小路蒸気機関車館)
で見ることができます。