OUT(下)
桐野夏生
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)邦子《くにこ》はミスターミニッツで
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十文字|彬《あきら》といいますが、
本文中の《》は〈〉で代用した。
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第五章 報酬
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金がない。財布の中には小銭と数枚の千円札のみ。家中、どこをどう引っ繰り返しても金はなかった。
邦子《くにこ》はミスターミニッツで貰ったカードサイズのカレンダーをさっきからずっと眺めている。何度見ても同じだった。十文字のところの支払日が迫ってきていた。
あの日、「ミリオン消費者センター」で、雅子《まさこ》はほかの街金から借りても返させるなどと大口を叩いたくせに、自分の困った状況などもうすっかり忘れているらしい。弥生《やよい》だって、今に金を払うと約束しながらまだ一銭も払ってくれてない。二人ともあんなひどいことを自分に手伝わせ、犯罪者に仕立てておいて、その場しのぎの出まかせだったとはずいぶんではないか。
腹の立った邦子は、テーブルの上に積んであった分厚い女性誌を乱暴《らんぼう》に薙払《なぎはら》った。雑誌はニース特集のグラビアページを曝《さら》け出しながら、カーペットの上に音を立てて落ちた。邦子は足の指でページをめくった。夢のようなブランド品の広告が邦子を消費に誘っている。シャネル、グッチ、プラダ。バッグや靴や初秋の服、アクセサリー。
この雑誌も、ゴミ置き場に捨ててあった物を拾ってきたのだった。ドリンクの染みがあちこちについていたが、そんなことに構ってはいられない。何しろ無料《ただ》なのだから。
新聞も止めたし、ガソリンがもったいないから、このところ車にも乗っていない。テレビのワイドショーかドラマを見るぐらいしか楽しみのない邦子には、雑誌が捨ててあることだってありがたい。哲也の居所はどこに連絡しても教えてくれないし、八月は工場をかなりさぼったから収入だって減っているし、貯金はゼロ。ないないづくしの惨めさに耐えられなくなった邦子は、うおおーっと獣のような声を張り上げた。
地道に昼間の仕事に就こうかと就職情報誌を眺めてもみたが、どの仕事も邦子の借金を払いきれるほどの収入は望めないことがわかった。収入の多い風俗嬢になってしまえばいいのかもしれないが、それには抜きがたい容貌への引け目が邪魔をしていた。ならば、あのまま弁当工場にいて、勤務時間の短い夜勤をしていたほうがまだましというものだ。邦子の内部には、金を持ち、派手な格好をして目立ちたいという強い願望と、人目につかない暗がりで蹲《うずくま》っていたいという劣等感とが、コインの裏表のように存在している。
いっそのこと、自己破産宣告でもしてしまおうか。一瞬、そうも考えたが、そんなことをしたら、一生カードが使えなくなるかもしれない。あるだけの金でつましく暮らしていくなんて、それだけはご免だった。欲望を先延ばしにできない邦子には耐えられない。どの方策も、弥生から大金が入ることを当て込んでいる今の邦子には、考えるだけでも無駄なことなのだった。
邦子は、思い切って弥生に電話をしてみた。これまでしたくても、警察がいるのではないかと怖くてできなかったのだが、そんな猶予《ゆうよ》はもうない。
「もしもし、城之内《じょうのうち》だけど」
「あら」弥生は困った様子だった。挨拶も何もしないことから、自分の電話を歓迎していないことが窺える。邦子は頭に来て、いきなり言ってやった。
「こないだ新聞読んだけどさ。あんた助かったみたいだね」
「何のこと」
弥生はとぼけている。電話からはテレビのアニメ番組のやかましい音と、子供たちの騒いでいる声が聞こえて来る。父親があんな死に方をしたというのに、いい気なもんだ。邦子の怒りは罪のない幼児にまで向けられた。
「とぼけちゃってさ。カジノの経営者とかいうおっさんがあんたの代わりにパクられたって書いてあったわよ」
「そうみたいね」
「そうみたいね、じゃないよ。あんたって運がいいよ」
「それはあなたも同じでしょう。助けてもらってこんなこと言うのは何だけど、あなたがあそこに捨てたから大騒ぎになったんじゃないの。雅子さん怒ってたわよ」
意外にも、おとなしいと思っていた弥生が反撃してきた。そうなると、威勢だけいい邦子は対応に困る。悔しまぎれに言い放った。
「ふん、よく言うわよ。人殺しの癖に」
「どうしたの。何かあったの」
弥生は、慌てて受話器を押さえる気配を見せた。
「どうもこうもないよ。あたしはただお金が欲しいだけ。ね、あんたがくれるっていうお金、いつ払ってくれるの。せめて時期だけでも約束してくれないかしら」
「ああ、そのことね。ごめんなさい。まだはっきり言えないんだけど、九月になったら大丈夫」
「九月」邦子は絶句した。「それって親に貰うんでしょう。だったら、今欲しいって言えばいいじゃない。たかだかあと十日のことだもの」
「そうだけど」
弥生は明言しない。
「ね、ほんとに五十万くれるんでしょうね」
「ええ。そのつもりです」
「よかった」とりあえずほっとする。「でもさ。あたし、ほんとに困ってるのよ。五万でもいいから先にくれない?」
「そう。ね、もうちょっと待って、そしたら」
「そしたら何よ。保険金でも下りるっていうんじゃないでしょうね」
「まさか」弥生は慌てて言った。「そんなのに入ってなかったのよ」
「じゃ、あんたどうやって食べてくつもり。それじゃあたしと同じじゃん。ダンナがいなくなって、パートだけってことでしょう」
「そうなの。実はね、これからのことまだ考えてないのよ。でも、子供のこともあるから、当分はここで頑張ろうと思ってね。母もそのほうがいいだろうって言ってくれたし」
弥生は真面目に答えたが、弥生の将来などどうでもいい邦子は苛立った。
「あんたの親はお金くれる気ないの?」
「頼めば少しはくれると思う。でもね、うちの親もサラリーマンだからそうそう無理も言えないのよ」
「雅子さんの話と全然違うじゃない」
「すみません」
「ね、だけどサラリーマンならいいじゃない。定期収入があるもの」
何としても弥生から金を引き出したい邦子は必死に食い下がった。が、弥生は困ったように、もう少し待ってくれ、と繰り返すだけでどうにも埒《らち》があかない。電話代すらもったいないと思った邦子は、とうとう受話器を置いた。
次は雅子のところだった。雅子とは毎日工場で顔を合わせているが、余計な話は一切していない。十文字《じゅうもんじ》と雅子が知り合いだとわかった時点から、邦子は雅子のことを漠然と恐れていた。邦子は、経済生活が破綻《はたん》しているくせに、自分は女性誌に出ているような上品な暮らしをしていると信じていた。だから、雅子が十文字のような裏通りの闇と繋がっていると思うと、不気味だ。
しかし、支払日は迫っていた。犯罪に近いことをしても、何とかしなくてはならなかった。かつて、これと同じ追い詰められた気持ちになって、弥生の事件に引きずり込まれたことも忘れ、邦子は雅子の電話番号をプッシュしていた。
「はい、香取《かとり》です」
雅子は家にいた。弥生の家と違い、受話器の向こうからは何も聞こえなかった。邦子は、雅子があの片付いた家で一人、何をしているのだろうと訝《いぶか》った。あの風呂場での凄惨《せいさん》な光景を思い出し、背筋に寒気が走った。肉片や血が飛び散ったタイルの上で体を洗い、バラバラ死体を載せた風呂桶に浸《つ》かるなんて、いったいどういう神経をしているのかと思う。するとまた、雅子が空恐ろしくなってくるのだった。邦子は言い渋った。
「城之内ですけど、あの」
「あんた、そろそろ支払日だね」雅子のほうから切り出した。やはり覚えていたらしい。
「そのことなんですけど、あたしどうしたらいいですか」
「あたしに聞かないでよ。あんたの問題でしょうが」
「でも、あの時、街金から借りても返させるって言ってくれたじゃないですか」
裏切られた思いで、邦子は叫んでいた。
「だから、借りればいいじゃない」雅子はにべもなかった。「また別のところに行けばいい。きっと貸してくれるよ。その金でミリオンに返して、また次のところから借りてそこには返しておけばいいじゃない」
「それじゃいつまで経ったって堂々巡りで同じことじゃないですか」
「すでにそういう生活してるんだから、今さらどうってことないでしょう」
「そんな言い方しないで、どうしたらいいか教えてくださいよ」
「教えるも何もあんたが欲しいのは金でしょう」
雅子は嘲《あざけ》った。邦子は悔しさに歯噛みする。
「だったら、お金貸してくださいよ。弥生さんたら、まだくれないんですよ」
「あんたに貸す金はないよ。山ちゃんは落ち着いたら絶対払うっていってんだから、それまでどこかでしのぎなよ」
「どうやって」
「若いんだから、自分で考えれば」
雅子は冷たかった。邦子は受話器を叩きつけた。雅子に復讐して、赦《ゆる》して、と言わせてやりたいものだ。しかし、今の自分は雅子にかなうものは何ひとつとてなかった。あの女め、どうしてやろうか。邦子は地団駄《じだんだ》を踏む。
突然、インターホンが鳴った。邦子はどきっとして身を屈《かが》めた。今日だけは世間のあらゆる追及から身を隠していたい。できるなら泥亀《どろがめ》のように灰色の泥の中にこの身を隠してしまいたい。邦子ははあはあと荒い息を吐きながら頭を抱えている。
二度目の音が鳴った。一番考えられるのは刑事の訪問だった。三週間ほど前にやってきた今井というねちっこい目つきの刑事ならお断りだ。まずいことは喋ってないと思うが、刑事の観察する目は実に不愉快だった。K公園でグリーンのゴルフを見たという証言が出た、などと言われたらどう対応したらいいのだろう。もう二度と会いたくない。
このまま居留守を使っていようと決心して、邦子はテレビの音量をそっと絞った。今度はドアが直接叩かれた。
「城之内さん、ミリオン消費者センターの十文字ですが。いらっしゃいますか」
驚いた邦子はインターホンを取り、おずおずと言った。
「あのう、例のあれ、まだでしょう?」
邦子がいることにほっとしたらしい十文字が答える。
「いや、別のご相談ですから」
「何のこと」
「損はさせませんから、ちょっとだけ」
いったい何の話があるというのか。半信半疑でドアを開けると、十文字がケーキの箱を持って立っていた。サングラスに、極楽鳥の描かれた黒地の派手なアロハ、チノパンという、いつもと違うくだけた服装をしている。
「どうしたんですか」
邦子はショートパンツから太い足が出ているのを気にして後ずさった。
「すみませんね、突然お邪魔して。ちょっとご相談したいことがありましてね」
十文字はケーキの箱を邦子に押しつけた。邦子は警戒しながらも、十文字の明るい笑顔にとろけそうになっている。
「じゃ、どうぞ」
初めて邦子の部屋に入った十文字は無遠慮に周りを見まわし、勝手にダイニングテーブルの前に座った。邦子は床に落ちている雑誌を慌てて拾い上げた。
「ケーキ、食べませんか」
「はあ」
邦子は皿とフォークを取り出し、冷蔵庫に入っている最後のウーロン茶のペットボトルをテーブルの上に置いた。そして嘘をついた。
「相談って何ですか。明後日《あさって》の支払いはきちんとするつもりだけど」
「実はそのことじゃないんですよ。僕、すごく気になったことがありましてね」
十文字はポケットから煙草を取り出して、邦子に勧めた。煙草も買えなくなっている邦子は飛びついた。十文字は邦子が自分のライターで火をつけ、旨《うま》そうに一服するのをじっと見ている。
「よかったら、その煙草どうぞ」
「どうもすみません」邦子は煙草の箱を自身の手元に置いた。
「お困りの様子ですね」
「ええ、まあ。主人が見つからないからね」
もう見栄を張ることもできずに、邦子は溜息とともにぼやく。
「今日は工場いらっしゃるんでしょう。だから、ご出勤前にと思って慌てて駆けつけました。実は、ご相談というのはですね。この間、保証人の判をいただいた山本さんのことなんですがね」
邦子ははっとして、十文字の顔を見た。十文字は下がり眉を開き、困り果てた善人のような顔で邦子を見つめた。
「山本さんて、あのバラバラ事件の被害者の奥さんでしょう。僕、次の日、朝刊読んでびっくりしましたよ。でね、どうして城之内さんは山本さんの判子を貰ってきたんだろうと思って、ずっと気になってましてね」
十文字は淀《よど》みなく喋っている。
「工場で仲がいいから頼んだんですよ」
「それなら香取さんもいるでしょう。しかも、あの人は信金に二十年も勤めていたんだから、そういうことは詳しいはずですよ」
「信金か」
あっけなく雅子の前歴の謎が解け、邦子はふうんと頷いた。そう言われてみれば、いかにも信金の奥で、パソコンの端末を叩いていそうな風貌《ふうぼう》ではある。
「それでね、僕が知りたいのは、なぜあなたが保証人に山本さんを選んだのかってことなんですよ」
「なんでそんなことが知りたいの」
邦子は当然の疑問を口にした。十文字はへへっと笑って、茶色に染めた柔らかな髪を両手でかき上げた。
「ただの好奇心です」
「山本さんがいい人だからよ。香取さんはいい人じゃない。それだけ」
「山本さんのご主人が失踪中なのに、頼みに行ったんですか」
「そんなの知らなかったもの」
「山本さんもよく判を押しましたよね」
「いい人だからね」
「そうですか。じゃ、どうして香取さんがそれを取り返しに来たんですか」
「さあ」邦子はとぼけた。ただの好奇心で、十文字がこんなことを聞いてくるはずがない。厄介事《やっかいごと》に巻き込まれる予感がして、邦子は早くも怖《お》じ気《け》づいていた。
「香取さんは知ってたんでしょう。山本さんのご主人が失踪中だから、トラブルになるってことを」
「違いますよ。香取さんは私がドジだから心配して、それで来たんです」
「そうかなあ。よくわからないなあ」
十文字はまるで推理ごっこを楽しんでいるかのように両手を頭の後ろに組み、邦子の部屋の天井の辺りを見上げている。邦子は十文字とこうしているのが段々楽しくなってきている。
「あたしケーキいただきます」
「あ、どうぞ。ここの美味《おい》しいですよ。女子高生に聞いたから間違いないと思うけど」
「女子高生なんかと付き合ってるの」
フォークを取り上げた邦子は媚《こ》びを含めて十文字の少し茶色がかった目を見た。十文字はいやあ、と照れて両手で頬を擦った。
「そういう訳じゃないすけど」
「十文字さんはもてそうだから、遊んでるんでしょう」
「いやいや、そんなことないすよ」
邦子は十文字の目的が何なのか探ることなどとっくに面倒臭くなり、ケーキを食べることに専念した。十文字が腕時計の日付を覗いた。
「城之内さんの支払いって、あと何回残ってましたっけ」
邦子はうろたえて、フォークを皿に置いた。
「八回ですね」
「八回。八回で、四十四万ちょっとですかね。それ棒引きにしますから、これまでのこと話してくれませんか」
「棒引きって?」
「払わなくていいということですよ」
十文字がどういうつもりで言っているのか判断がつきかねて、邦子は考え込む。ケーキの生クリームが唇についているのに気付き、それを舌で舐《な》め取った。
「話すって何を」
「あなたたちが何をやったのか、それをですよ」
「何もしてないけど」
邦子はフォークを手にしたが、頭の中では思いがけない申し出に、あらゆることに収支を考えるいつもの秤《はかり》がパニックを起こしている。
「いやあ、そんなことないでしょう。僕、いろいろ調べさせてもらいましたよ。あなたと山本さんの奥さんと、香取さんと、もう一人ですか。その四人て工場で仲がいいそうですね。山本さんの窮状《きゅうじょう》に同情して、みんなで協力したんじゃないんですか」
「きゅーじょー?」
「そう。困った事態」
「何もしませんよ、何も。協力ってどういうこと」
ケーキを食べる手を止める。十文字はにやにやした。
「城之内さんは、近々、金が入るあてがあるって僕に言ったでしょう。あれって、このことに関連してるんじゃないですか」
「このことって?」
「とぼけちゃって嫌だなあ」さっき邦子が弥生に言ったのと同じ言葉を十文字は放った。「例のバラバラ事件ですよ」
「だって、あれはカジノの人が捕まったって聞いてるけど」
「はあ。新聞にそう書いてはありましたよね。でも、僕は何か変なものを感じるんですよ」
「変なものって何」
「助け合っている女たちっていうんですかね」
「あたしたち、助け合ってなんかいないわよ」
「じゃ、山本さんはどうして保証人になってくれたの、こんな時に。保証人って、連帯ほどじゃないけど、結構、皆渋るんですよ。ね、話してくださいよ。借金棒引きですよ」
「それを聞いてどうするの」
邦子は思わず、そう訊ねていた。十文字の目に、成功を収めたことに満足する光が浮かんですぐに消えた。
「別に何もしませんよ。ただ、好奇心が満足するだけですね」
「もし、あたしが何も喋らなかったら?」
「別に。これまでと同じように支払っていただくだけですね。二日後でしたっけ。五万五千二百円の八回払い。大丈夫ですよね」
邦子は金がまったくないことを思い出し、また唇を舐めた。しかし、もう生クリームはついていない。
「棒引きにするって証拠は?」
「ありますよ、ちゃんと」
十文字は膝の上に置いていたポーチから、畳んだ書類を取り出した。邦子の借用証書だった。
「これをあなたの目の前で破いてあげますから」
たちまち邦子の秤はぴんと音をたてて、借金を棒引きするほうに振れた。十文字に支払わなくていいのなら、いずれ弥生から入る五十万はすべて自分のものになる。それを考えると邦子が屈服するのは早かった。
「わかった。言うわ」
「そうですか。嬉しいな」十文字は笑ったが、声音は真剣だった。
その後は簡単だった。邦子はいかにして自分がはめられたかを滔々《とうとう》と喋りながら、雅子と弥生に復讐を果たした気分になって満足だった。後のことは後のこと。快楽を先延ばしにできない邦子は、苦悩だけは先延ばしにできる。
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十文字は団地の前に作られた小さな児童公園のベンチに座っていた。
煙草をくわえ、チノパンのポケットからライターを取り出すと手が細かく震えているのに気付いた。苦笑いしてしっかり持ち直し、火をつける。ひと吸いして団地を見上げると、邦子の部屋のベランダが見えた。エアコンの室外機のほかに、黒いビニール袋に入ったゴミらしき物がだらしなく幾つも置いてある。
〈燃えるゴミか〉
公園では、男女合わせて十人近い子供たちが夕暮れの広場で鬼ごっこをしていた。小学校低学年くらいの年格好の子供たちは、帰宅時間が迫っているのを焦ってか、夏休みがもうじき終わってしまうのを惜しんでか、あるいはやがて塾や習い事に駆り出される運命を感じているのか、血相を変えて走りまわっていた。砂埃《すなぼこり》が舞い上がり、鋭い叫び声が耳の奥に響く。その幼いエネルギーに当てられたように、十文字はベンチにへたりこんでいる。そして、そのまましばらく動けなかった。
今聞いたばかりの邦子の話に興奮していた。まさかと思ったことが、紛れもなく事実だったという驚きだけではない。その中心に香取雅子がいることに、十文字は衝撃を受けているのだ。悪党ぶっている自分も、いざ死体の始末となれば腰が引けるだろう。それもバラバラにするとは。それをやり通した雅子に十文字は畏《おそ》れすら抱いた。あの痩せたババアにそんな度胸があるとは。馬鹿なことに首を突っ込んだとはまったく思わなかった。
「すげえ、かっこいいじゃねえか」
煙草は右手の指を焦がさんばかりに燃え尽きようとしている。十文字はそれが自身に迫る運命の火に思えた。自分も一緒にやばくてかっこいいことをしたい。そして、儲けたい。つるむのは嫌いだが、雅子とならいい。なぜなら、信用しているからだ。
何年か前、昼休み時に入った信金そばの喫茶店で、偶然雅子を見かけたことがあった。店内は混んでいて満席の状態だった。客のほとんどは信金の社員で、さして親しくない者同士が相席を余儀《よぎ》なくされていたのだが、雅子だけは窓際の四人がけの席に一人で座っていた。どうして誰も雅子のテーブルにつこうとはしないのだろう、と十文字は妙に思った。後で雅子がいじめを受けていると聞いて得心したのだが。
その時の雅子は露骨な村八分を気にする様子も見せず、一人悠然とコーヒーを啜《すす》り、男のように経済新聞を大きく広げて読み耽《ふけ》っていた。窮屈に腰かけている周りが滑稽《こっけい》に見えたほどだ。
十文字はにやっと笑い、快哉《かいさい》の手を打った。公園で走りまわる子供たちが立ち止まり、薄気味悪そうに十文字を見たが気にしなかった。どういう訳か、成熟した女には性欲を感じない十文字だが、逆に仕事面では男よりも成熟した女を頼る傾向がある。それは若い頃、雅子に出会ったからではないかと考えることさえある。
十文字はポーチから手帳と携帯電話を取り出し、住所録を見ながらかけた。ひとつ、あてがあった。相手はすぐに出た。
「豊住会《とよすみかい》です」
「十文字|彬《あきら》といいますが、曽我《そが》さんいらっしゃいますか」
しばらくお待ちいただけますか、と若い男が慣れない口調で言いにくそうに答え、暴力団に似合わない電子音のラバーズコンチェルトが流れた。
「アキラか。十文字なんて言うから誰かと思った。山田明って言えよ、この野郎」
にやにや笑いが見えるような平べったい声音が出た。
「名刺渡したじゃないすか」
「字面見るのと、聞くのとは違うんだぞ」
曽我は外見に似合わず、時々インテリ臭い物言いをした。
「実はちょっとご相談があるんですがね。近々会えませんか」
「近々なんて言わねえでこれから来いよ。飲もうぜ。上野辺りじゃどうだ?」
曽我は気軽に言った。十文字は腕時計を眺め、そうすることにした。多少、せっかちにも思えたが、四十四万もの金を棒引きにして得た情報だ。次の仕事は早いほうがいいに決まっていた。
待ち合わせ場所は、上野に昔からある渋いバーだった。蔦《つた》の絡まった平屋木造の店の前に十文字が着くと、入口の小さな看板の横に、先日|武蔵村山《むさしむらやま》のファミリーレストランで見かけた若い衆が二人、直立不動で立っていた。見るからに頭の鈍そうな金髪の少年が、十文字を見て挨拶をした。
「ご苦労さんです」
用心棒がわりに立たせているらしい。暴走族時代から曽我が親分風を吹かすのを好んでいたことを十文字は思い出した。だからといって、曽我は威張るのが好きな甘い男ではない。十文字は気を引き締めながら扉を開けた。
「こっちこっち」
奥の暗がりで曽我が煙草を持った手を振った。店は薄暗い照明でワックスの匂う板張り。カウンターの中では蝶タイ姿の老人が一人、ポーカーフェイスでシェイカーを振っていた。ほかに客の姿は見あたらず、曽我は奥にたったひとつある、けばだった緑のベルベットの椅子席に大きく足を広げて座っていた。
「先日はどうも。曽我さん、お呼び立てしてすんません」
「いいよ。おまえとはどうせ一回飲むつもりだったからさ。何飲む」
「じゃ、ビール」
「ここはカクテルの老舗《しにせ》だぜ。バーテン待ってるからさ、何か頼んでやれよ」
「はあ。じゃ、ジントニック」
適当に知っている酒の名を注文し、十文字は曽我の目を見つめた。曽我は淡いグリーンの夏のスーツを着て、中に黒の開襟《かいきん》シャツを合わせている。
「かっこいいですね」
「これか」曽我は嬉しそうに笑いながら、ジャケットをめくってブランド名を見せた。「これ、イタリアの名もないブランドなんだけどな。いいだろ。オヤジたちはエルメスだのなんだのって言うけどな。ほんとの洒落者《しゃれもの》ってのはこういうの選ぶんだよな」
「似合いますよ」
曽我は上機嫌だった。
「おまえのアロハもなかなかいいじゃねえか。ビンテージか?」
「いや、その辺のジーパン屋ですよ」
「おまえはジャニーズ顔だからなあ。何着たって女にもてるだろう」曽我はからかった。
「参ったすね」
十文字は曽我のペースにはめられたまま用件を言い出しかねている。曽我は唐突に話題を変えた。
「アキラ、おまえ村上龍の『ラブ&ポップ』ての読んだか」
「いや」と意表を衝かれた十文字は首を振った。「何すか、それ。そんなの読んでないすよ」
「そうか。読めよ。あいつってさ、女好きだよな」
曽我は煙草を潰し、ピンクのグラデーションになったカクテルを一口飲んだ。
「そうすかね。そういうのってわかるもんですかね」
「わかるさ。あいつは女子高生のこと好きだよな」
「へえ、そういう話なんですか」
「そういう話なんだよ」
曽我は細い指で唇を叩いている。
「俺も読んでみようかな。俺も女子高生好きだから」
「馬鹿。そういう好きと違うんだよ。同じ地平にいるっていうかさ。立場を違うようにしてないっていうかな」
訳のわからないことを曽我が言い出したので、十文字は困り果ててうつむいた。曽我が読書家だったことを忘れていたのだ。
「そういうもんですかね」
助け船を出すように、ジントニックが運ばれてきた。十文字は半月形に切ったライムをコースターの上に除けてから、首を突き出して冷たい液体を啜った。
「そうなんだよ。俺はさ、本読む時の基準てもんがあんだよ」
「はあ」
「つまりよう、俺の商売に似てるか似てねえか。それで小説の価値が決まるんだよな」
「てことは」
喉が渇いていた十文字は、ジントニックをあっという間に飲み干した。曽我は呆れて見遣《みや》りながら続けた。
「合格。俺らの商売もこれに似てるんだよ」
「何とですか」
「村上龍とか女子高生だ。あいつら、オヤジを憎んでるんだよな。俺らの仕事もオヤジていうか、日本のオヤジを憎んでいるところから始まってるようなもんじゃねえか。つまり、社会のはぐれ者だろ。な、そう思わねえか」
「そうですかね」
「はぐれてるさあ」と曽我は大きな声を出した。「おめえ、足立《あだち》の中学出てゾク入って、それだけではぐれてんじゃねえか。今、おめえは街金なんかやってる。俺はヤクザだ。はぐれっぱなしじゃねえか。ていうより、もうオヤジたちからスポイルされきってんのよ。でもな、そういうはぐれた奴は村上龍とか女子高生と同じなんだよ。かっこいいんだよ。わかるか、これ」
十文字は店の暗い照明で、さらに沈んで見える曽我の青く黄色い顔を見た。このままよくわからない曽我の話を我慢して聞かなくてはならないらしい。曽我の上機嫌は嬉しいが、果たして自分の考えついた仕事に現実味があるのかどうか自信がなくなってきた。十文字は計画を曽我に話すことを躊躇《ちゅうちょ》しはじめた。それどころか、計画そのものに怖じ気づいた。
「アキラ、おまえ、何の話で来たんだよ」
突然、曽我が切り込んできた。曽我は十文字の気後れを敏感に察した様子だった。十文字が逃げる前に、まわり込まれた感があった。
「実は、変な話なんですけどね」と渋々話しだす。
「金儲けか」
「はあ、できれば。ていうか、そう望んでるだけなんですけどね。だけど、どうなるかわかりませんけどね」
「はっきり言えよ。俺は口は堅いからさ」
曽我はシャツの胸元から片手を入れて、自分の胸を触る仕草をした。曽我が真面目になった時の癖だった。十文字は口にする決意を固めた。
「実はですね。曽我さん。死体を処理する仕事をしたいんですけど」
「どういうこったよ、そりゃあ」
曽我は素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。バーテンは素知らぬ顔で、レモンを薄くスライスすることに命を懸けているかのように熱中している。十文字は、ごくごく抑えた音量で古いリズム・アンド・ブルースが店内に流れているのにようやく気付いた。やはり緊張していたのか、と額の汗を拭う。
「つまりですね。やばい死体とかがあれば始末する仕事をしたいってことです」
「おまえがやるのか」
「はあ」
「どうやって。足のつかない、いい方法があるってか」
曽我の黄色みを帯びた目が輝いた。
「俺が考えたのはですね。埋めるのはやばいし、海に沈めても後で浚《さら》えば出てきますよね。だから、バラバラにしてゴミにして捨てちまうってことなんですよ」
「おまえ、簡単に言うけどな。こないだのK公園の事件知ってるだろう」
曽我は声を低めた。ファッションや小説の話をしていた時に見せた若さが消え去り、痩せた顔に狷介《けんかい》な表情が現れた。
「勿論、知ってますよ」
「あんな風にな、バラバラにしたところで今度は捨てるのが厄介なんだよ。それにな、おまえ簡単に人間を解体するって言うけどな、大変なんだぜ。わかってんだろうな。おまえ、指一本落とすんだって、すげえ力が要るんだぜ」
「わかってますよ。ただね、俺が思ったのはですね。バラバラにさえすれば、確実に捨てられてうまい具合に見つからない、それどころか、完璧に抹殺できる方法があるんですよ」
「どうすんだよ」
曽我はカクテルを飲むことも忘れて身を乗り出してきた。
「俺の父親の田舎って福岡なんですけどね。そこに巨大なゴミ捨て場がありましてね。といっても夢の島みたいなんじゃないんですよ。大きな焼却炉があって、いつも火が燃えてる。ゴミを出し忘れた奴は、勝手にそこに車で運んで行ってぽんぽん投げ捨ててきていいんですよ。それだったら、完全に証拠を抹殺できますよ」
「どうやって福岡まで持ってくんだよ」
「それなんですけどね。細かく解体して宅配便にすればいいんですよ。うちは父親が死んで婆ちゃんが一人ボロ屋に住んでますからね。福岡に先まわりしてて荷物受け取ってそれを捨てればいいんだから」
「ふうむ。手間はかかるけどな」
曽我は考え込んでつぶやいた。
「でも、手間はバラバラにするだけ。それもオーケーですから」
「どういうこったよ」
「信頼できる相手がいるってことです」
「信頼? 仲間か」
「はあ。女ですけどね」
「おまえの女か」
「違うけど、大丈夫です」
十文字は安請け合いした。話の途中から曽我が乗ってきたので、実現の可能性があることに期待を馳《は》せている。
「そういう話はないこともないんだよ、実は」曽我は胸元に突っ込んでいた手を出し、カクテルのグラスを握った。「始末屋がいてさ、頼むと高いという噂は聞いたことがあるよ。かといって、そういう羽目になったら、あいつらアホには任せきれないしな」と外に向けて顎をしゃくる。
「その始末屋というのは幾らくらいですかね」
「モノと状況によるな。だけど、やばい仕事だから一本はいくだろうな。おまえ、それやるとしたら幾らで受けるよ」
「そうですね。俺も一本といきたいすけどね」
「まあ、最初からそう欲をかくなよ」
曽我は後輩の十文字を睨《ね》めつけた。十文字は照れ笑いする。
「じゃ、九百くらいですかね」
「これも価格競争だからな、八百にしろや」
「はあ。しょうがないすね」
「俺が話を持ってきたら半分はくれるだろうな」
「ちょっと高いんじゃないすか」
眉根を寄せた十文字を見て、曽我は薄笑いを浮かべた。
「確かに高いかもな。じゃな、三百てのはどうだ」
「わかりました」
曽我は満足そうに頷いた。十文字は胸算用する。残り五百のうち、自分が三百、雅子が二百。邦子のような女は危険だから絶対に入れないようにして、雅子とヨシエという女に死体の処理を任せる。雅子の取り分の二百は、どう分けようと雅子の勝手だ。
「わかった。ないでもないから、話が来たら俺が営業しちゃる。その代わり、絶対にドジしないだろうな。それって俺の顔潰すことになるんだぜ」
「やってみないとわかりませんけどね。たぶん大丈夫です」
「アキラ、おまえ、まさかK公園の仕事がそうだって言うんじゃないだろうな」
「いえいえ」
十文字は曽我の鋭さに辟易《へきえき》としながらも首を振り続けた。とりあえず種は蒔《ま》いた。後は雅子をどう説得するかだった。
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ピンク色のハム。白い筋の入った赤い牛肩肉。薄い桃色の豚もも肉。赤とピンクと白、細かい粒の合い挽き肉。黄色の脂肪をつけた赤黒い鶏もつ。
雅子はショッピングカートを押しながらスーパーの精肉売場を歩いていた。何を選んでいいのか決まらず、考えがまとまらなかった。果てはなぜ、自分がこの場所にいるのかさえわからなくなった。雅子は立ち止まり、ショッピングカートを眺めた。ステンレス製のカートにブルーのプラスチックの籠《かご》が載っている。中は空っぽだった。夕食の材料を揃えに寄ったのだが、最近は献立を考え、食事を作るのが億劫《おっくう》になっている。
夕食が支度されていることが家の存在証明だ。たとえなくても、共働きの長い良樹《よしき》は文句を言わないだろう。しかし、どうして用意されてないのか、その理由を雅子に訊ねるだろう。理由がなければ雅子が怠慢だと感じることだろう。伸樹《のぶき》は、刑事の前で生意気に口出して以来、また貝のように口を閉ざしているが、食事だけは家でとる。
男たちは自分の時間を勝手|気儘《きまま》に使い、あたかもそこが定点のように、夕食だけはあることを信じて家路につく。雅子には男たちの無邪気な信頼が不思議だ。自分一人なら何を食べても構わないのに、常に誰が何を欲しているか、心を配る癖がついている。だから彼ら好みの夕食を作る。が、相手はそれを何とも思っていない。互いの結びつきがすでに希薄になっているのに、役割だけが重くのしかかっている。まるで、底に穴の空いた壺で水を汲み続けているような徒労感を雅子は感じているのに。これまでにこぼれ落ちた水の量はどのくらいなのか。今まで当たり前に過ごしてきたことが、そうではなくなってきていた。
肉売場のケースから、毒ガスのような白い冷気が流れ出していた。その前だけが異常に寒い。雅子は自分を宥《なだ》めるために鳥肌の立った腕を擦り、牛切り落とし肉の入ったパッケージを取り上げた。健司《けんじ》の筋肉の色だと連想し、そっとケースに戻す。それから、健司の腱《けん》の色は、骨の色は、脂肪の色は、と探している自分に気付き、嘔吐しそうになった。こんな気分は初めてだった。そろそろ張った気が緩みだしたのか。雅子は自身に落胆し、もう食事の支度をするのはやめにした。何も食べずにそのまま出勤してしまおうと決心している。空腹でも、それが罰だった。何のための罰なのか、それもわからない。
台風が来る前の凪《な》いだ生温い空気が重苦しかった。今度の台風はかなりの大型らしい。夏が完全に終わる。雅子は空を見上げ、ごうごうと上空で微《かす》かに鳴っている風の音に耳を澄ませた。
駐車場に停めてある赤いカローラの前に戻ると、見覚えのある古い自転車が広大なアスファルトの敷地を横切り、こちらに向かって来るのが見えた。
「師匠」
雅子はヨシエに手を上げた。
「買い物じゃないのかい」
ヨシエはカローラの横で自転車を止め、雅子の手ぶらの姿を一瞥《いちべつ》し怪訝《けげん》な顔をした。
「やめたよ」
「何で」
「気が進まない」
ヨシエは急に白髪が目立つようになった頭を振った。
「ご飯作らなくていいの。どうして」
「別に。何となくだよ。あたしも疲れたみたいだ」
「あんたはそれでいいからいいよ。あたしがそんなことしたら、婆さんもイッセイも死んじゃうからね」
「まだお孫さんいるの?」
「だって、娘は行方知れずだもの。婆さんは死にそうもないし、子供はいつもびいびい泣くし。あたしってそういう苦労を背負い込むようにできてんのかしらね」
雅子はそれに答えずにカローラに寄りかかり、台風の到来を予感させる不安な色の空を見上げた。ヨシエの果てしない繰り言を聞いていると、出口の見えないトンネルに閉じ込められた気分になる。そんなことはもうどうでもよかった。自由になりたい。あらゆることから自由になりたかった。それができない人間は繰り言の日常に埋没するしかない。今の自分がそうであるように。
「もうじき夏が終わるね」
「何言ってんの。もう九月じゃないか。とっくに終わったんだよ」
「わかってる」
「あんた、今日工場来るでしょう」
ヨシエが心配そうに訊ねた。雅子は思わずヨシエを見た。今の言葉で工場を辞めるという発想が湧いたのだった。
「行くつもりだけど」
「そう、よかった。何だかぼんやりしてるからさ。あたしらを見捨てるのかと思って」
「見捨てる? 見捨てるってどういうこと」
雅子はショルダーバッグから煙草を取り出しながらヨシエの顔を見た。折から吹いてきた風に、ヨシエは脂気のない髪を両手で押さえた。
「だって、あんたは信用金庫に勤めていたんだろう。邦子から聞いたよ。あんな肉体労働に向いてないんだろう」
「邦子が?」
そう言えば、邦子の借金の返済日はとっくに過ぎていた。収入のない邦子がどうやって返済したのだろうと気になった。自分の前歴を知ったのなら、十文字から入った情報としか考えられない。追い詰められたら何でもする邦子を、長く放って置きすぎたらしい。雅子の胸に反省と疑惑が生じる。
「行くよ、必ず。それにあたしは辞めないから」
「よかった」
ヨシエは顔を綻《ほころ》ばせた。
「ね、師匠」雅子はヨシエの緩んだ顔を見た。「師匠さ、例のことをしてから、何か変化ない?」
「変化ってどういうこと」
ヨシエはうろたえて周囲を横目で窺《うかが》った。
「違う。警察は何とかしのいだ。そうじゃなくて、もっと心の変化だよ」
ヨシエは少し考えてから申し訳ないという顔をする。
「ないね。どうしてかっていうと、あたしは手伝ってやったという感じしかないからなんだと思うけど」
「お姑《しゅうとめ》さんの世話とか孫の世話と一緒?」
「いや、違うよ」ヨシエは口を尖らせた。「一緒にしないでよ。あんなことと」
「そうかな」
「あたり前じゃない。でも、誰もやらないからやるって意味では同じなのかなあ」
ヨシエは考え込んで細い地蔵眉を寄せる。薄く白い皮膚が皺んで、実際の年齢よりはるか上に見えた。
「なるほど。わかったよ」雅子は話を切り上げ、吸いさしを捨てて踏み潰した。「じゃ、工場で会おう」
「あんたはどうなの」
ヨシエは逆に問うてきた。真剣な眼差しだった。
「別に。何も変わりはないよ」
雅子は嘘をつき、車のドアを開けた。ヨシエは自転車を引いて後ずさった。
「じゃ、夜に」
雅子は運転席に入ってフロントガラス越しにヨシエに手を振った。ヨシエは微笑み、体つきの割には身軽にひょいと自転車にまたがって、スーパーに向かって漕いで行った。見送りながら、雅子は考えている。まだ気持ちに変化がなくても、弥生から幾ばくかの金が入れば、化学反応を起こすようにいつしかヨシエは変わっていくだろう。微塵《みじん》の意地悪さもなく、雅子は冷静にそう思っている。
家に帰って来ると、電話が鳴っていた。雅子は玄関の靴箱にバッグを置いて駆け込んだ。そろそろ弥生から連絡が入ってもいい頃だった。このところ一週間ほど連絡が途絶えている。
「はい、香取です」
「香取さんですか。私は十文字と申しますが。以前、山田という名前でお仕事をご一緒にしてました」
「ああ、あんたか」
意外な人物からだった。雅子は椅子を引いて腰かけた。急いで受話器を取ったので全身から汗が噴き出た。
「ご無沙汰してます」
「こないだ会ったばっかりじゃない」
「はあ、まあ偶然の出会いって奴ですか」
十文字は茶化すように言った。
「何の用」煙草に火をつけようとしてから、バッグを玄関に置いてきたことを思い出した。「長くなりそうなら、ちょっと待って」
「待ちます」
打てば響くように十文字は答える。雅子は玄関に戻ってドアにチェーンをかけた。こうしておけば、家族が帰ってきても時間が稼げる。ある予感がした。バッグを持ってリビングルームに戻った。
「お待たせしました。何のことかしら」
「電話じゃ言いにくいんで、よかったらお会いしませんか」
「何で電話じゃ言いにくいの」
邦子の借金にまつわる要請かと雅子は考えている。しかし、街金の十文字はたいしたことはできないだろうと高をくくる。
「複雑な話なんです。要するにビジネスをやらないかというお誘いですから」
「待って、その前に聞きたいことがあるんだ。邦子は返済どうしたの」
「はあ。ちゃんと返していただきましたよ」
「どうやって」
「情報で」
事もなげに十文字は言い放ち、雅子は自分の予想が正しかったことを知った。
「どんな情報」
「そのことがありますのでお会いしたいのですよ」
「わかった。どこで会う」
「夜はご出勤ですよね。だったら、その前にファミレスかどっかでお食事でもしながらどうですか」
雅子は九時に、工場にほど近いロイヤルホストを指定した。
とうとう破綻した。さっきのヨシエとの会話から予想はしていたものの、自分のミスのように感じられて、雅子の気持ちは重くなる。
玄関のドアがいったん開いてチェーンにがつんと引っかかる音がした。誰かが帰ってきたらしい。苛立ってインターホンが鳴らされる。雅子は直接玄関に向かった。チェーンを外してドアを大きく開けると、伸樹がふてくされて横を向いたまま立っていた。蒸し暑いのに、目元までを黒のニットキャップで覆い、褪《あ》せた黒のTシャツ、腰骨に引っかけた大きめのパンツにナイキのシューズを履いている。
「お帰り」
何も答えずに息子は家の内側に滑り込んでくる。堅く見える若いごつい体が意外なしなやかさを持っていることに雅子は驚く。伸樹が口を利く子供なら、開口一番、チェーンかけるなよ、と文句を言うことだろう。伸樹は目を合わせることもせずに、自室に駆け登って行った。
「今日、ご飯適当に食べて」
雅子は二階に向けて怒鳴ったが、その声は虚《うつ》ろな家の中に大きく響いた。雅子はそれが二階だけではなく、家全体に告げたメッセージだと思った。
約束の時間ぴったりにロイヤルホストに行くと、十文字はすでに来ていて奥の目立たぬ席で立ち上がった。手に皺になった夕刊紙を持っている。
「どうも、わざわざ」
雅子は目を合わせただけで、十文字の前に座った。十文字は白のポロシャツにジャケットという軽装だった。雅子はいつもと同じ、伸樹の着古したTシャツにジーンズという構わない身なりだ。
「いらっしゃいませ」
黒服を着た支配人らしい男がメニューを渡し、雅子と十文字をどういう組み合わせだろうと考えている思惑を漂わせたまま去って行く。
「食事済みましたか」
十文字はアイスコーヒーを飲んでいた。雅子は一瞬考えてから首を横に振った。
「いえ、まだ」
「じゃ、どうぞ。僕も食べますから」
雅子はスパゲティを選んだ。十文字が先ほどの黒服に同じ物を注文し、コーヒーを食後に持ってくるように勝手に頼んでいる。
「いやあ、久しぶりですよね。こないだ偶然会ったとはいっても、一瞬だし。T信時代はお世話になりました」
十文字は雅子の顔を怖れるように眺め、おもねる口調で言った。雅子は十文字がどうして自分を怖れるのだろうと考えている。
「話って何」
「いきなり来ましたね」と十文字は首をすくめる。
「あなたが電話じゃちょっと、と言ったからよ」
「香取さんて、信金時代もそういう人でしたかね」
「そういうって?」
雅子は水を一口飲んだ。冷たかった。
「合理的っていうんですか」
「そうよ。早くあんたも地を出してよ。どうせ知ってるんだから」
雅子は取り立て業務の下請けに使われていた頃の十文字を知っている。今は格好も物言いも、巧妙に好感の持てる様子に変えているが、その当時は眉に剃《そ》りを入れてパンチパーマをかけ、暴力団風に装ったちんぴらだった。足立辺りの暴走族だったという噂も聞いたことがある。
「地ですか」十文字は頭をかいた。「香取さんにゃ、かなわねえな」
注文したスパゲティが運ばれてきた。雅子はフォークを手に取り、食べ始めた。結局、こんな思いがけない形で夕食をとっている。雅子は一人笑った。
「何がおかしいんですか」
「何でもない」
空腹が罰だと思ったのはほかならぬ自分だが、こうして食べている。罰というのは、自由になりたい気持ちを抑えていたがゆえの罰だと気付く。食べ終わると、雅子は紙ナプキンで口を拭いた。食事の済んだ十文字は、雅子の許しも得ずに煙草をくゆらせていた。
「それで何、ビジネスって」
「はあ。その前にですね。おめでとうございます」
「何が」
「いや、かっこいいなと思って」
十文字はにやにやした。しかし、揶揄《やゆ》している様子はなかった。
「何がおめでとうよ。何がかっこいいのよ」
「バラバラ」と十文字は低い声でつぶやいた。雅子は凍りついて十文字の顔を見た。
「知ってるのね」
「はい」
「全部?」
「たぶん」
「邦子が喋ったのね。たった五十万の借金のために」
「まあ、あの人責めないでください」
「責めてなんかいない。あんたのほうが頭いいのよ」
「頭いいっていうか、悪いっていうか」
雅子は十文字のひねり潰した吸い殻でいっぱいの灰皿で、乱暴に煙草を消した。負けたと思った。
「それでビジネスって何なのよ」
「死体処理の仕事しませんかね」十文字は身を乗り出して声を潜めた。「内緒で始末したい死体って結構出るらしいんですよ。それの処理」
雅子は唖然とした。十文字が強請《ゆすり》に出るのではないかと案じていたのだが、意外なことを言いだしたからだった。しかし考えてみれば、貧乏な主婦たちの犯罪なのだから、強請りようがないはずだった。勿論保険金のことを知らなければ、だが。
「どうすかね」
十文字は卑屈にも見える目で雅子の顔色を窺っている。
「どうやってやるつもりなの」
「俺が仕事取ってきます。闇から闇の仕事だから、香取さんに迷惑はかけませんよ。それで、ブツが来たら香取さんにバラしてもらって俺がある場所に捨てにいきます。でっかい焼却炉なんですよ。だからばれない」
「最初から焼却炉に入れればいいじゃない」
「いや、それはまずい。だって、人間一人入ってりゃ、どんなに構わないところだってばれますよ。バラバラにして、普通のゴミみたくすればわからないでしょう。そこは福岡なんですけどね」
「宅配便にでもしろという訳?」
雅子は呆れ気味で十文字の顔を見た。十文字は真剣だった。
「その通りです。一個五キロとして十数個ですか。そしたら俺が現地で受け取って捨てに行きます。完璧です」
「じゃ、あたしは解体するだけでいいの?」
「そうです。嫌ですか」
運ばれてきたコーヒーを十文字は音を立てて啜《すす》った。必死に雅子の表情を読もうと顔を見つめ続けている。十文字の丸い目に、知的ともいえる光が宿った。
「何でそんなことを考えついたの」
「香取さんと組んで仕事したくて」
「あたしと?」
「ええ。香取さん、かっこいいすよ」
「何を言ってんだかよくわからないよ」
「いいすよ、わかんなくて。俺だけの価値観なんだから」
十文字は両手で真ん中から分けた柔らかな髪を梳《す》いた。雅子は振り向いて、がらんとしたロイヤルホストの中の客席をひと渡り眺めた。顔見知りは一人もいない。レジではさっきの黒服が急に幼い顔に戻って、従業員の若い女と楽しそうにお喋りしていた。なかなか答えない雅子に、十文字は自信をなくしたかのようにぼやきはじめた。
「街金なんて、どうせ一、二年の命でしょう。来年はどうせ潰れるだろうし。ここで何かやばくてかっこいいことできたらって思ったりして。俺って軽薄すかね」
「それってそんなに金になりそうな仕事な訳?」
雅子が遮《さえぎ》ると、十文字は力を得て頷いた。
「そりゃ、せこい金貸しやるよっかましですよ」
「あんた、死体一個につき、幾らで受けるつもりなのよ」
雅子は商いをしている気になって訊ねた。十文字はやや薄めの形のよい唇をちろちろと舐め、雅子に喋っていいものかどうか考えている。
「言ってよ。そこまで言ったんだから正直にして。でないとやらないよ」
「わかりました。ほんとに正直に言いますよ。ある人から話が来て引き受けたとしたら、それが八百。その人に紹介料として三百払う予定です。残り五百を、俺が二百、香取さんが三百ならどうすか」
雅子は煙草に火をつけ、口早に言った。
「五百じゃなきゃやらないよ」
「えっ」十文字は声を上げた。「五百?」
「そう。あんたは簡単に考えているかもしれないけど、大変な作業なんだよ。汚れるし気持ち悪いし、悪い夢は見るし。自分でやってみりゃよくわかると思うけど。それに風呂場で解体するっていったって、うちでやるのはやだよ。普通の家なんだからリスクが大きすぎる。あんた、いったいどこでやるつもりなの」
「俺の予定ではですね。城之内さんが、香取さんの家の風呂場でやったって言ってたから、そうしてもらえればと思ってるんですがね」
十文字は遠慮がちに提案した。
「あんたの家は駄目なの? だって独身なんでしょう」
「俺の家はアパートだからユニットですもん」
「だけどさ、ほんとに大変なんだよ。まず家に誰もいない時を狙ってやらなくちゃいけない。運び込む時の近所の目を気にしなくてはならない。ブツっていってもやばいものたくさん身につけてるから、その始末も大変」雅子は言葉を切った。ふと、鍵を宮森カズオに拾われたことを思い出したのだった。十文字は息を詰めて雅子の言葉を待っている。「バラバラにするのだって一人じゃ到底無理。それから風呂場を掃除しなくちゃならない。これがまた難儀《なんぎ》。五百くれなきゃ、あたしの家でやるのはお断りだよ」
十文字は困惑した様子で空になったコーヒーカップに口をつけた。ないのに気付き合図をすると、黒服と喋っていたウェイトレスがしぶしぶやって来て、薄いコーヒーを満たしていく。
「俺がブツを運び込んで、服や何かを始末して、それから捨てに行くんでも駄目ですかね」
「そうね。ただ、最初の紹介料が三百ってのは多すぎると思うけど。八百で受けるといっても、その人は一千万と言って受けてきてるかもしれないよ。そこで二百取って、また三百取って、都合五百は取るつもりなんじゃないか。どうせあんたのことだから、馴染《なじ》みの暴力団か何かからの話でしょう」
「そうかあ。それはあり得るなあ」
十文字は唇に指を当てて考え込んだ。雅子は十文字が甘いとは言わなかった。
「だから、もう少しそっちを削るか、せめて一千万くらい取るか、どっちかじゃない」
「わかりました。でも俺が百五十で、香取さんが三百五十でも駄目ですかね」
「駄目」
雅子はそう言いながら腕時計を眺めた。午後十一時近い。そろそろ出勤時間だった。
「ちょっと待ってください」
十文字は先方に交渉するつもりなのか、こんな場所で携帯電話を取り出した。その隙に、雅子は席を立ってトイレに行った。化粧室の鏡で顔を見た。脂汗が浮いている。雅子は手拭き用のペーパータオルで顔を押さえた。自分はいったい何に足を突っ込もうとしているのだろう、という不安があった。いや、それ以上に興奮があった。ふと思い出して、バッグの底に転がっていた口紅を取り出してつけた。席に戻ると、十文字が雅子の顔を見てびっくりした表情を浮かべた。
「どうしたの」
「いや、何でもないです。今話つけましたから」
「早いわね」
「いや、最後は後輩だからって泣きつきました」と十文字は笑う。
雅子は十文字が債権回収作業でも、指示さえすれば機転がまわって優秀だったことを思い出した。
「それで、どういう風に話がついたの」
「無理無理ですが、八百はどうしても駄目だということなんです。というのも、実績がないから。でも、取り分ではあっちも飲みました。紹介料二百、俺が二百、香取さんが四百です。ただし、どんなことがあっても、あっちは知らん顔ですから」
「当たり前じゃない。だから、もっと高くしてって言ってるんじゃない」
雅子は収支を頭の中で計算した。ヨシエに手伝ってもらうとして、ヨシエに百万も渡せばいいだろう。邦子は絶対に外す。弥生はどうするか、様子を見て後で考えることにする。
「どうすか」
十文字は自信を深めた表情で再度、訊ねた。雅子は承知した。
「いい。やるよ」
「やりましょう」十文字は決心したように唾を飲んだ。
「ただね、頼みがあるんだよ」
「何ですか」
「運ぶのはあんたの車にして。それから、どっかの医療品の問屋にでも行って、外科用のメスのセットかなんか買ってきて。でないと切りにくいから」
雅子の言葉を聞いて十文字は頬を指でかいた。
「まるで肉だな」
「そう。肉と骨と湯気のたつ汚物だよ」きっぱりした雅子の言葉に、十文字は口を噤《つぐ》む。
「それからあんたに聞きたいことがあるのよ」
「はあ」
「このこと聞くのに、邦子には何て言って釣ったの」
「これまでの借金棒引きにするって」初めて十文字は愉快そうに笑った。「四十四万分の情報ですよ。だから、たくさん仕事しましょうよ」
「二百でいい訳ね?」と念を押す。
「いいです。数こなしゃいいんだから」
「そんなにうまくいくかしら」
「試しにやってみましょうや」
十文字の楽天ぶりは気に入った。雅子は頷き、自身の食事代を置いて席を立った。まだこの時点では、こんなことが商売になるのかと半信半疑だった。
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何かを告げるようにはるか上空で鳴っていた風はおさまっていた。
だが、髪がべったりと頬に張りつくほどの湿気に包まれた。大気が蒸れて熱を発している。台風の上陸が間近いのだろうと、雅子は明日の早朝の天気が心配になった。すぐカーラジオをつけて天気予報を流している局を探したが、見つけ出せないうちに工場の駐車場に着いてしまった。
片隅に小さなプレハブの番小屋のようなものが建設されている途中だった。雅子は目を遣ったが、すぐに心を塞《ふさ》いでいる別のことに気を奪われた。それは、十文字の持ってきた「ビジネス」のことだった。漠然と考えていたよりも早く、自分は別の世界に飛び込もうとしている。ことの善悪や成否などどうでもよく、興奮が、目に見えるいつもの風景を意識から追い出していることを楽しんでさえいた。
工場の玄関でスニーカーを脱いでいると、見知らぬ女が立った。
「雅子さん、おはよう」
よく知っている声に目を上げると、弥生だった。肩まであった髪をショートカットにして長いうなじを見せ、眉をはっきりと描いて濃い口紅を引き、驚くほどイメージが変わっていた。以前のいつも迷っている眠い柔らかさが消え、代わりに少年ぽい小気味のいい印象に変わっていた。
「驚いた。誰かわからなかった。変わったね」
「みんなに言われた」弥生ははにかんだ。その仕草は同じだったが、自信のようなものが弥生を違う女に見せていた。「でも、雅子さんも今日はお化粧しているじゃない」
「そうだっけ」
「口紅つけてる」
雅子はロイヤルホストの化粧室で紅を引いたことをすっかり忘れていた。指を唇に当てると、べとっと油性の赤いものが指についた。
「駄目よ、取っちゃ」弥生が雅子の指を押さえる。「綺麗だからそのままでいなくちゃ」
「今日から出勤するの?」
「ううん、今日は挨拶だけ。ご迷惑かけましたって、主任さんとか駒田《こまだ》さんたちに菓子折持って来たの」
「じゃ、帰るのね」
「だって、台風来るんでしょう。明け方に関東に上陸するっていうから、今日は帰ることにした。子供も待ってるし」
「そのほうがいいね」
「それから、二人には渡したから」
耳許で口早に囁《ささや》き、弥生は雅子の手にも厚ぼったい茶封筒を押し込んだ。
「これ何」
答えずに、弥生は頭を勢いよく下げた。
「明日から来るから、またよろしくお願いします」
そして、雅子と入れ替わりにさっさと外に出た。その態度も言葉もきびきびしていて、以前の弥生とは大きく違っていた。雅子は慌てて弥生を追いかけた。弥生は緑の人工芝を敷き詰めた外階段を、弾む足取りで降りて行く。
「待って」
弥生は明るい表情で振り向いた。
「これ何」
茶封筒を振ってみせると、弥生は指を二本出した。約束の二百万ということらしい。雅子は小さな声で聞いた。
「もう出たの。保険金」
「ううん、まだよ」弥生は首を振る。「借金を返すって言って親に借りたの。先に皆に払ってすっきりしたくて」
「早いんじゃない」
「いいよ。邦子さんからも催促《さいそく》されてたし、師匠にも悪いし。四十九日過ぎたら払わなくちゃと思ってた」
「わかるけど、早いよ」
「そうかな。でも、やっと解放されたって感じがするよ」
早いというのは、周囲の目に対する弥生の変身ぶりのこともあったのだが、何を言っても無駄だと雅子は悟った。自分が変わったように、弥生もそうしたいのだ。
「わかった。どうもありがとう」
弥生は、じゃあねと手を振り、階段を足早に降りて湿った闇に消えて行った。
雅子は弥生と別れると、衛生監視員のローラーチェックを受け、サロンを避けて真っ先にトイレに寄った。個室で茶封筒の中身を見る。約束通り、帯封のある百万円の束がふたつ入っていた。雅子はそれをバッグの奥深く入れた。この職場では、トイレの個室しかプライバシーはない。
何食わぬ顔でサロンに入って行く。畳の上に座ったヨシエと邦子が仲良く並んで茶を飲んでいた。二人ともすでに着替えを済ませていたが、戸惑ったような嬉しいような逆上《のぼ》せた表情を隠せない。
「山ちゃんに会ったかい」ヨシエが雅子を手招きして問うた。
「うん。今そこで」
「貰った?」とヨシエは囁く。雅子はとぼけた。
「お金のこと?」
「そう。あたしたち五十ずつ貰った」
邦子がヨシエの言葉に伏し目がちに同意する。その頬が嬉しさに紅潮していた。が、いずれ、そんな金など溶けてなくなるだろうと雅子は思っている。そうなれば、労せずして金を手に入れる蜜の味を知った邦子がどう出るかは要注意だった。
「山ちゃん、無理をしたんじゃないかな」
「だよね。まだいいって言ったんだけどね。どうしてもって聞かなくて」
そうは言っても、ヨシエも思いがけない収入に声を弾ませている。
「じゃ、貰っておけば」
「だけど、ほんとにあんたはいいの?」
ヨシエは心配そうに訊ねたが、雅子は笑って手を振った。自分が二人より多く貰ったところで、またそれを隠したところで、金は逃走や新しい仕事のための資金だという意識がある。仲間のために遣うこともあるだろう。ヨシエに嘘をついても何の呵責《かしゃく》も感じなかった。
「いいんだよ」
「すみませんね。雅子さん」
邦子が盗難を怖れてか、金の入ったバッグをしっかり押さえながら言った。雅子はちらと邦子を見遣り、内心の腹立ちを抑える。
「あんたもこれで借金返せるじゃない」
嫌味を言ったが、こたえていない邦子はただ曖昧《あいまい》に笑っている。雅子は手慣れた仕草でバレッタで髪をまとめながら聞いた。
「その金、どうするつもり」
「そうなんだよ。心配だから誰かロッカー持ってる人に入れてもらうことにしようかって」
ヨシエはその人物を物色するように、周囲を眺めた。ここでロッカーが貰えるのは勤続三年以上の準社員待遇か、個人意識の強いブラジル人従業員だけだった。が、準社員など数えるほどしかいない。
「宮森さんに頼んでみようか」
ヨシエは背後を振り返って言った。サロンの隅のブラジル人従業員の溜まり場に、カズオはいた。暗い目をして足を投げ出し、煙草を吸っている。決して雅子のほうを見ようとはしない。
「駒田さんにしたら」雅子は準社員の衛生監視員の名前を言い、それから大金を持っていることを不審がられても困ると思い直した。「いや、やっぱりまずいね」
「でしょう? 宮森さんなら口が堅そうだし、信用おけそうじゃない。ちょっと聞いてくる」
「日本語通じますかねえ」
邦子は不安げだったが、ヨシエはよっこらしょと細長いデコラ張りのテーブルに手をついて立ち上がった。カズオは自分に近寄って来るヨシエを見て、何事かという表情で反射的に雅子に目を向けた。雅子の遣いとでも思ったのか、その目に傷ついた色が浮かぶのを雅子は認めた。カズオとの厄介事を背負う気は二度とないし、二人が貰った金をどうしようと雅子の知ったことではなかった。
雅子は素知らぬ顔で着替えのために更衣室に入った。手早く白の作業衣に着替え、作業ズボンのポケットに先ほどの茶封筒を深く押し込む。作業中に飛び出さないようにしなくてはならない。並んだハンガーかけ越しに、カズオがちょうどヨシエの話を聞き終わり、畳から立ち上がるのが見えた。ヨシエと邦子がその背後についてサロンを出て行く。ブラジル人従業員のロッカーは、トイレの横に設《しつら》えられていた。
廊下にある手洗い場で、雅子が逆性石鹸で肘《ひじ》の上まで洗っているとヨシエと邦子が戻って来た。
「ああ、よかった。あの人、いい人だねえ」
ヨシエはのんびりと言い、雅子の使った小さなブラシで手を洗いだす。邦子は二人から離れたところで蛇口を捻《ひね》った。
「日本語喋れるの?」
「ああ。何とか通じた。あたしたちが大事な物を持ってるからロッカーに入れさせてほしいっていったら、ふたつ返事で、いいですって。帰りは少し遅くなるから待っててくださいって。礼儀正しいよ、あの人」
カズオが目の前を通っていった。厚い胸板の上に太い首が載り、明らかに日本人とは異なった、彫りの深い骨相の顔がまっすぐ前を向いている。南米の太陽の下にいるのが似合いそうな肉体と、白い作業衣を身につけ、青いつくつく帽子を被った深夜労働の姿とがあまりにもそぐわなかった。雅子は、カズオはまだあの鍵を持っているのだろうかと考えた。そして、どうしてカズオのような若い異国の男が自分に惹《ひ》かれたのか、不思議に思うのだった。
その日の作業は台風が来ているとのことで、早めに終わった。
下駄箱の上にある窓から外を眺めたパートタイマーたちが溜息をついている。一夜が明けた外の世界はすでに大荒れの天候だった。大粒の雨が横なぐりに吹きつけ、向かいの自動車工場の塀沿いに植えられた貧相なエンジュがちぎれそうに葉を揺らしている。アスファルトの道路の両端は、小川のように水が勢いよく流れていた。
「困ったよ」自転車で通勤しているヨシエが眉を寄せる。「これじゃ、自転車に乗れないよね」
「あたしの車に乗っていけば」
「いい? 送ってくれる? じゃ、お願い」
ヨシエがほっとして雅子の顔を見上げる。が、邦子は知らん顔でタイムカードを押している。
「じゃ、悪いけど宮森さんの仕事が終わるまで待っててくれるかい」
「いいよ」
「駐車場まで行くから」
「車を持ってきて下で待ってるよ」
「ありがと」
ヨシエは礼を言うと、自分には関係ないと言わんばかりに廊下を歩き出した邦子の広い背を睨みつけた。
さっさと着替えを終えた雅子は一足先に弁当工場を出た。前夜の重苦しい空がとうとう破裂したかのような勢いの雨と風は、むしろ爽快だった。雅子は役に立たない傘を思い切りよく畳み、駐車場までの道のりを風に逆らって走ることにした。大きな雨粒が当たり、あっという間に全身がびしょ濡れになった。髪を振り乱し、金の入ったバッグだけを前にしっかりと抱えて雅子は走って行く。廃工場の前にさしかかった。カズオが開けたコンクリートの暗渠《あんきょ》の蓋はそのままだった。そこからは、ごうごうと水の流れる音がしている。鍵以外の健司の持ち物はすべて流れ去ったことだろう。雅子は風に吹き飛ばされそうになりながら、その流れる様を思い、笑いを浮かべた。自由になるのだ。そう思い、そう思うことでさらに自由になった。
カローラにたどり着き、濡れた衣服のままシートに滑り込む。ダッシュボードの下に入れてあるウェスで腕だけを拭いた。濡れたジーンズが重く、両脚を締めつけている。雅子は激しい雨に抵抗を試みようとワイパーのスイッチを強に入れ、デフロスターをつけた。最初に出てきた冷気で濡れた皮膚に鳥肌が立つ。
ゆっくり車を出して今来た道を逆走し、工場の横につけると邦子が出てきた。花柄のスパッツに黒の大きめのTシャツという派手な格好の邦子はちらと雅子の車を見た。が、何も言わずにブルーの傘を差し、強風の中を行く。たちまち傘が飛ばされそうになった。雅子はその姿をバックミラーで追った。
工場で会えば一緒に作業もするが、もう二度と邦子に関わるつもりはなかった。そんな雅子の気持ちが届いたかのように、邦子は風に吹き飛ばされそうになりながら、すぐに視界から遠ざかった。
外階段をヨシエが降りて来るのが見えた。驚いたことに、背後からカズオがヨシエを守るように透明ビニールの傘を差し伸べている。カズオは見覚えのある黒のキャップを目深《まぶか》に被っていた。雅子の車に気付いたヨシエが激しい雨に目を細めながら運転席のガラス窓を叩いた。
「ねえ、悪いけどトランク開けてくれる?」
「どうして」
「この人が自転車入れてくれるって言ってるみたいなんだけど」
ヨシエはカズオを指さした。カズオと雅子の目が合った。子犬の目の純潔。雅子は何も言わずに運転席からトランクのボタンを押した。リアウインドウが、勢いよく開いたトランクの蓋で何も見えなくなった。トランクは折からの風に煽《あお》られ、不安定に揺れている。雅子はドアを開けて外に出た。拭いたばかりの腕に、大きな雨粒が突き刺さるように当たった。
「いいよ。あんた、濡れるから入っていなよ」
ヨシエが怒鳴っている。風雨が強くて声を張り上げないと伝わらなかった。
「どうせ濡れてるからいいよ」
「入って」
カズオが近づいてきて、強い力で雅子の肩を押した。有無を言わせぬ態度に負けて、雅子は車に入る。続いてヨシエが助手席に転がり込んでくる。
「ひどい天気だね」
裏の自転車置き場にまわったらしいカズオが、ヨシエの自転車を引いて戻ってきた。軽々と持ち上げてトランクに入れている。買い物用のヨシエの古い自転車はカズオがどう入れたのか、前輪を少し出しただけで何とかトランクに納まった。雅子は車外に出て様子を見に行く。トランクの蓋が少し浮いているが、走行に支障はないようだ。
「入って」
カズオが水泳をしてきたように濡れた顔を上げて雅子を見た。白のTシャツが胸にへばりつき、膚が透けて見えた。その裸の胸に鍵が下がっているのを雅子は見た。カズオはそれを手で覆い、雅子から目を背《そむ》ける。
「ありがとう」
「どういたしまして」
にこりともせずにカズオは答えた。風が唸《うな》り、どこからか小枝が飛んできて二人の間に落ちた。
「送っていくからあんたも乗って」
カズオは首を横に振った。そして、落ちていた自分のビニール傘を拾って開くと、廃工場のほうに向かって歩いて行く。
「何。あの人どうしたの」
ヨシエは振り向いてカズオの後ろ姿を眺めている。
「さあね」
雅子は車を出した。バックミラーでその姿を追ったりはしなかった。
「でも、助かったよ。あの人親切で。自転車がないと、あたしどうしようもないもの」
ヨシエがクレゾール臭いタオルで顔を拭きながらつぶやく。雅子は何も答えずに、激しく動くワイパー越しに前方を見つめ、運転に気持ちを集中した。ヘッドライトに点灯する。やがて、新青梅街道に出た。行き交う車も皆ヘッドライトをつけ、水しぶきを巻き上げて、のろのろと走っている。ヨシエはあくびを洩らしつつ、申し訳なさそうに雅子の顔を見た。
「遠まわりで悪いね。それにトランクの中、濡れちゃうね」
雅子はバックミラーを眺めた。自転車を入れたために、トランクの蓋が車の振動に合わせてゆさゆさと上下しているのが見える。雨が入るだろう。健司の死体を入れた場所が洗われるような気がした。
「いいよ。トランクは一度洗ったほうがいいんだ」
途端にヨシエは押し黙った。
「師匠」
雅子はヨシエを見ないで話しかける。
「あの仕事、もう一回やる気ない?」
「どういうこと」
ヨシエはびっくりして雅子に向き直った。
「仕事が来るかもしれないんだよ」
「仕事って、あれと同じことをするってことかい。どこから来るのよ」
ヨシエは驚愕《きょうがく》を隠せずに、紅の落ちた口をぽかんと開けた。
「邦子が喋ってね。それが転んでビジネスになりそうなの」
「あの人喋ったの? じゃ、脅迫か何かされたの」
ヨシエは泡食《あわく》った様子でダッシュボードに両手を突いて力を籠めた。まるで車が前に進むのを怖がっているかのようだ。
「違う。仕事になりそうなの。師匠は詳しく知る必要はないよ。あたしに任せて。ただ、そういう仕事が来たら手伝ってくれるかどうかを知りたいだけ。お金は払う」
「どのくらいなの」
声は震えているが、その底には好奇心が見え隠れしていた。
「百万」
ヨシエは百万と聞いて、溜息をついた。そして、しばらく黙った後、
「あれと同じことをするのかい」と訊ねた。
「捨てるのはしなくてもいいよ。あたしのうちで死体をバラバラにするだけ」
ヨシエが迷って唾を飲み込む音がした。雅子は黙って煙草に火をつける。閉め切って換気の悪い車内に煙が充満した。湿ったフロントガラスに煙が吸いついては消えていく。やがて、煙にむせたヨシエが咳とともに答えた。
「やってもいいよ」
「ほんとに?」
雅子はヨシエの表情を確かめた。顔色は蒼白で、唇が細かく震えている。
「あたしは喉から手が出るほど金が欲しいの。あんたとなら地獄まで行くよ」
行き着く果ては地獄なのか。雅子は曇ったフロントガラスに目を遣った。降りしきる雨の向こうには、先行車の尾灯がぼんやりと見える以外何も見えない。車すらもアスファルトを噛んでる感触がなく、ふわふわと宙に浮いているようだった。その現実感のなさに、今こうしてヨシエと話していることも夢の中の出来事に思えるのだった。
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大きな台風が過ぎ去った後、空を刷毛《はけ》ではいたように夏の輝きが失せ、彩度の落ちた秋空が出現した。
気温が下がるのに比例して、弥生の怨恨《えんこん》も後悔も恐怖も希望も、熱を帯びた感情はすべて、徐々に鎮まりつつあった。子供と三人で生きる。その日常が当たり前となり、新しい秩序を生み、その暮らしに慣れた。が、同情と好奇を持って弥生に接近してきた近隣が、きびきびした女戸主に変貌した弥生を、今は遠巻きに眺めている。弥生は工場に出勤する時と保育園の送り迎え以外は外出を控えている。妙な孤立感があった。
自分はそんなに変わったのだろうか。髪を切っただけではないか。健司がいなくなったから子供たちの父親代わりを務めようとしているだけではないか。健司という外側の枷《かせ》が外れ、また夫殺しという内側の枷を得て、自分が内面からゆっくりと変わっていることに弥生はまだ気が付いていない。
ゴミ置き場の掃除当番がまわってきた日の朝のことだった。
弥生は、箒《ほうき》とちりとりを持って家を出た。路地の塀を曲がった角の電柱の下に、この町内のゴミの集積場がある。健司を殺した翌朝、飼い猫のミルクが蹲《うずくま》っていた場所だ。
弥生はコンクリート塀の上を見た。いつもそこに近所の野良猫たちが生ゴミを狙って潜んでいるのだ。ミルクらしい薄汚れた白猫と大きな茶虎がいたが、弥生の姿に慌てて逃げていく。ミルクはそのまま野良となって、近所を徘徊《はいかい》していた。猫のことなどとっくに諦めた弥生は構わず作業を続けた。
ゴミ収集車が行った後の散乱した生ゴミや紙屑を箒で寄せ、ちりとりで取ってはビニール袋に詰める。すると、あちこちの窓から意地悪な目がこっそりと弥生の挙動を窺っているような気がして、弥生は訳もなくいらいらした。その時、弥生を救い出すかのように若い女の澄んだ声がした。
「あのう、すみません」
顔を上げると、女は、あら、というように弥生の顔に見入った。その目には、ただ純粋な賛嘆がある。自分のことを知らないのだろうか。弥生は女が町内の住人かどうか思い出そうとした。三十歳前後。髪をまっすぐに垂らしてOL風の化粧をしているが、どこか世慣れない遠慮が漂っている。弥生は一目見て好感を持った。
「新しい方ですか」
「はい。あのアパートに越してきたばっかりなんですけど」女は背後の古びたアパートを振り返った。「ここにゴミを出してもいいんですか」
「ええ。曜日はそこに書いてあります」
弥生は電柱に打ちつけられた金属板を指した。
「ああ、どうも」
女は几帳面《きちょうめん》にメモを取っている。これから出勤でもするのか外出支度をしていたが、白の長袖ブラウスに紺のスカートという質素な姿だった。弥生が掃除を終え、ビニール袋を手にして帰ろうとすると、女はそれを待っていたらしく聞いてきた。
「ここのお掃除は、いつもなさってるんですか」
「これは当番制なんですよ。あなたのところにも来ると思うけど、回覧がまわるからすぐわかると思うわ」
「そうですか。どうもありがとうございます」
「お勤めで大変なら代わってあげますよ」
「ええ、そんなあ」女はびっくりして礼を言った。「ありがとうございます。でも、私、勤めてるんじゃないんです」
「あらそう、奥様だったの。ごめんなさい」
「いえいえ独身です。もういい年だけど」女は笑った。笑うと目尻に優しい皺が寄って、もしかしたら自分と同年くらいかと弥生は思った。「私、会社辞めたばっかりなんです。失業してるんですよ」
「じゃ、大変ね」
「はあ。でも、贅沢《ぜいたく》なんですけど、今学校に通いだしたんです」
「大学院とか」
出すぎた質問かと思ったが、弥生は気軽に言った。近所で親しく話す相手もなく、工場での仲間もあれ以来神経を尖らせている。こうして見知らぬ他人と世間話をするのは楽しかった。
「いえ、そんなすごいところじゃなくて。昔からやりたかったことなんですけど、染色の勉強を始めたんです。将来はそれで食べて行こうと思って」
「じゃ、アルバイトなさって」
「いいえ。貯金で二年間頑張ろうと思って。その代わり、貧乏ですけどね」
女は笑いながら、また木造アパートを振り返った。アパートは老朽化《ろうきゅうか》のために、家賃が安いので有名だった。
「そうですか。うちは路地の奥の山本です。何かわからないことがあったら、どうぞご遠慮なく」
「ありがとうございます。私は森崎《もりさき》という者です。よろしくお願いします」
森崎は落ち着いた声音で挨拶した。弥生は、森崎が健司の事件のことを知ったら、どういう態度に出るだろうと内心案じていた。
翌日の午後遅く、仮眠から目覚めた弥生が夕飯の支度をしようかと台所に立ったところで、インターホンが鳴った。
「森崎です」という明るい声がした。
慌てて玄関に飛んで行くと、森崎が甲州ブドウのパックを持って立っていた。目立たぬ服装、控えめな化粧と態度。相変わらず、好感の持てる容姿だった。
「あら、いらっしゃい」
「改めてご挨拶にうかがいました」
「いいのに」弥生はブドウを受け取り、中に入るように言った。事件以来、夫の親戚、自分の両親親戚、健司の会社関係、邦子、そして刑事たち。それ以外の初めての他人を請《しょう》じ入れる。いつも神経を張り詰めていただけに、気のおけない客は嬉しかった。
「お子さん、いらっしゃるんですね」
森崎は珍しそうに、壁に貼られた子供のクレヨン画や、廊下に落ちているミニカーなどに目を遣りながら居間に入ってきた。
「ええ。男の子二人。今、保育園行ってるけど」
「いいですね。あたし、子供好きなんですよ。今度一緒に遊ばせてください」
「構わないけど、男の子だから乱暴よ。疲れるからやめたほうがいいわ」
弥生は笑って椅子を勧めた。森崎は悪びれずに腰かけ、弥生の顔を正面から眺めた。
「山本さん、お綺麗ですね。とてもお子さんが二人いるなんて見えない。若くてすごく素敵。ボーイッシュっていうのかしら」
「あら、ありがとう」
弥生は自分より若いと思われる女から誉められて素直に喜んだ。いそいそと紅茶をいれて、貰ったブドウと一緒に出した。森崎は砂糖をたっぷり入れてから何気なく訊ねた。
「ご主人はお勤めですか」
「主人、亡くなったの。ふた月前に」
弥生は寝室を指さした。そこには真新しい仏壇があり、健司の写真が飾ってあった。写真の健司は二年前の若々しい姿で、未来の運命も知らずに笑いかけている。森崎は青ざめた顔で弥生に謝った。
「すみません。私、何も知らなくて」
弥生は気の毒にすらなった。
「いいのよ。知らないのは当たり前なんだから」
「ご病気ですか」と恐る恐る聞いてくる。まだ、人が死ぬということに実感がない口振りだった。
「そうじゃないのよ。ご存じないの?」
思わず探るように弥生は森崎の顔を見た。森崎は目を丸くして、かぶりを振った。
「いえ、全然」
「うちの主人はね、事件に巻き込まれて死んだの。あのね、K公園バラバラ事件って聞いたことない?」
「ありますけど、まさか」
森崎の顔がみるみる曇った。弥生がその当事者とは思いも寄らなかったらしい。うつむき加減になり、目に涙が盛り上がるのを弥生は驚きをもって見ている。
「どうしたの。どうしてあなたが泣くの」
「いえ、お気の毒と思って」
「ありがとう」
初めて、他人の優しい心根に直接触れた気がして、弥生は感動した。事件を知っている人間は口では悔やみを言うが、心のどこかで弥生を疑っているのがわかる。健司の親戚は弥生を責めたし、親は帰ってしまった。雅子は頼りになるが、触れると切れる剃刀《かみそり》のようで怖かったし、ヨシエは古い尺度で物事を判断する。ろくでなしの邦子の顔は二度と見たくもなかった。最近、誰とも親しくなれないような気がしている弥生は、森崎の涙に感動していた。
「ほんとありがとう。あたし、ご近所でも何か胡散《うさん》臭く思われてるらしくて、すごく寂しいのよ」
「いいえ。ありがとうなんておっしゃらないでください。あたし、ほんとに世間知らずで、変なこと言うらしいんです。だから、誰かを傷つけたんじゃないかと思うと恐ろしくて口が利けなくなったことだってあるんです。それで会社を辞めたようなもので、染色だったら自分の世界で黙っていればいいからと思って」
「そうだったの」
弥生は、事件のあらましをぽつぽつと語った。最初は恐ろしそうにただ黙って聞いていた森崎も、次第に興味を感じたらしく幾つか質問をした。
「ご主人とは朝、別れたきりなんですね」
「そうなの」
いつしか、弥生にはそれが事実に思えてきていた。
「それはおつらいですね」
「ええ、そうね。悔しいわ。まさかこんなに早く別れが来るなんてね」
「じゃ、犯人はまだ捕まらないんですか」
「捕まらないどころか、誰が犯人なのかもわからないんだもの」
弥生は溜息をついた。嘘を言い続けていると、意識の中では自分が殺したことさえぼやけてきていた。森崎が憤激したように言った。
「バラバラなんて、そんなひどいことするなんて変質者かなんかじゃないんですか」
「ねえ、ひどいでしょう。想像もできないわね」
弥生は刑事に見せられた健司の掌《てのひら》の写真を思い出した。雅子に強い憎しみを持ったその瞬間を反芻《はんすう》する。ああまでバラバラにした雅子やヨシエに対する反感が再び蘇った。理不尽だとは知りながらも、事実を変えて話したり考えたりしているうちに、弥生の中の記憶すらも改変されてきていた。
電話が鳴った。当の雅子かもしれない。弥生は森崎という新しい友人を得て、初めて、何もかもを知悉《ちしつ》して指図する雅子と話すのを面倒に思った。取らずにしばらく、どうしようかと迷っている。
「どうぞ、私にお構いなく」と電話を取るように森崎が促《うなが》した。仕方なく弥生は電話に出る。
「もしもし。山本でございます」
「こちらは衣笠です」耳に馴染んだ刑事の声がした。衣笠と今井は毎週電話をかけてきて、様子を聞いてくる。
「あ、どうもお世話様です」
「奥さん、お変わりありませんか」
「はい。ありません」
「もう工場に行かれてるんですか」
「ええ。やはり友達もいるし、慣れてますから辞めたくなくて」
「わかりますよ」衣笠は猫なで声を出した。「で、お子さんはほっぽらかし?」
「ほっぽらかしだなんて」弥生はその言い方に無意識の悪意を感じて絶句した。
「ああ、どうもすみません。でも、どうしてるの。お子さん」
「寝入ってから出かけますから大丈夫と思います」
「火事とか地震とか心配だね。心配なことあったら派出所に電話入れてくださいよ」
「ありがとうございます」
「ところで、保険金出るそうですね」
衣笠はそのことを喜ぶように言ったが、底に小さな疑惑があるのを弥生は見抜いている。振り向くと、森崎は気を遣っているのか、立って小さな庭にある枯れた貧相な朝顔の鉢を眺めていた。それは保育園で子供たちが育てていたのを、持ち帰ったものだった。
「ええ、あの人が会社で保険かけていたことも知らなくて。驚きましたけど、正直言って助かりました。これから母子三人ですから」
「そうだね。ところでね、これはバッドニュース。あのカジノの経営者いなくなっちゃってね。もし何かあったら教えてくださいよ」
「どういうことですか」
初めて弥生は大きな声を出した。びっくりして森崎がこちらを見ている。
「どういうことも何も、突然失踪しちゃったんですよ。警察の失態といえば失態だけど、今必死に後追ってるから」
「失踪ということは、その人がやはり犯人なんですか」
その問いに衣笠は答えなかった。沈黙の後ろから、警察署らしい男たちの話し声や電話のコールが聞こえてくる。男臭さや部屋に籠もった煙草の煙までがこちらに漂ってくるような気がして、弥生は顔を顰《しか》めた。
「ま、そいつのことは探してますからご心配なく。何かあったら、あたしのところに電話してください」
衣笠はそう言って電話を切った。それは弥生にとっても、雅子たちにとっても朗報には違いなかった。カジノ経営者が証拠不十分で釈放になったと聞いた時は落胆したが、失踪したのなら自分が犯人だと言っているようなものではないか。これで安心した。弥生の頬が思わず緩んだ。受話器を置いて席に戻ると、こちらを見ている森崎の目と合った。
「何かいいことあったんですか」
森崎は弥生の笑い顔を見て微笑んだ。
「いえ、何でもないの」
慌てて真面目な顔になった弥生を見て、森崎が遠慮がちに言った。
「私、失礼しましょうか」
「いいのよ。もっといてちょうだい」
「何かあったんですか」
「容疑者という人が、いなくなったんですって」
「じゃ、今のは警察からの電話だったんですか」森崎は興奮したように問うた。
「そうなの。刑事さん」
「へえ、何かすごいですね。あ、すみません」
「いいわよ。そんな気を遣わなくても」弥生は笑ってみせた。「でも、うるさいのよ。何かあったかって始終電話してきてね」
「でも、犯人が見つかったほうがいいでしょう」
「そりゃそうよ。だって、このままじゃあんまり悔しいじゃない」
弥生は切ない顔をする。
「そうですよね。でも、その人、逃げたってことはやっぱり犯人なんですかね」
「そうだといいけど」弥生は口を滑らせかけた。慌てて口を噤んだが、森崎は気付かずに、そうですよねと何度も頷いている。
森崎と弥生が打ち解け、より親しくなるのは時間の問題だった。
弥生が仮眠から目覚めて、そろそろ保育園のお迎えと夕食の支度を、と考えている頃によく森崎はやって来た。学校帰りだと言って、値の張らない菓子や総菜などを抱えてくる。そして、弥生の子供たちともすぐ仲良くなった。幸広《ゆきひろ》が訴えたミルクの話を聞いて同情し、子供たちと一緒に探しに行って捕まえようとしてくれたりもした。
「弥生さん、あたしあなたが夜勤の間、こちらに泊まってあげましょうか」
森崎が提案した時、弥生は驚いた。知り合って間もない人間が、そこまで親切にしてくれることが信じられなかったのだ。
「でも、悪いわ」
「悪くないですよ。どうせ私も寝てしまいますから。だって夜中に幸広ちゃんが起きて、誰もいなかったら可哀相だもの。パパもいないし、ママもお勤めじゃ」
森崎は下の息子をよく可愛がってくれていた。幸広も森崎になついて側を離れなかった。他人の親切に飢えていた弥生は、その申し出を喜んで受けることにした。
「じゃ、あたしのところで夕食食べて。お金を払えないからそのくらいいいでしょ」
「ありがとうございます」
突然、森崎は涙ぐんだ。
「どうしたの」
弥生が聞くと、森崎は涙を拭きながら笑った。
「新しい家族ができたみたいで嬉しくて。こっちで一人が長かったから、何だかそういうのに飢えてて。あの部屋に帰ると、すごく寂しいのよ」
「あたしも寂しい。突然主人がいなくなってから、女一人で頑張ってても、皆に何を言われてるのかって思うと悔しくて。誰もわかってくれないもの」
「ほんとにお気の毒です」
「いいのよ」
二人は肩を抱き合って泣いた。貴志《たかし》と幸広が驚いたようにぽかんと眺めているのがおかしく、弥生も涙を拭いて噴き出した。
「このお姉ちゃんが夜一緒に寝てくれるって。よかったね」
森崎のことで、雅子と怒鳴り合いをする羽目になるとは思ってもいなかった。
「あんたのところに電話すると出てくる人は誰」と雅子に詰問されたのだ。
「森崎洋子っていう人。近所の人なんだけど、親切でね。子供たちを見ててくれるの」
「泊まってるってこと?」
「そう。泊まり込みで見てもらってるの」
雅子は怪訝な表情をした。
「一緒に暮らしているの」
「それほど親しいって訳じゃないわよ」弥生はむっとした。「その人は学校に行ってるから、夕方家に寄って食事して、それから夜にまた来てくれるの」
「一晩子供を見て、ただなの?」
「うん、食事代だけで」
「ずいぶん奇特な人じゃない。何か下心があるんじゃないの」
「ないわよ」弥生は抗議した。いくら雅子だって、そんな下劣な想像をすることだけは許せなかった。「ただ親切でしてるだけよ。失礼ね」
「失礼も何も、あのことがばれたら困るのはあんたでしょうが」
「そうだけど」弥生は口を尖らせてうつむいた。
「だけど、何」
弥生は雅子の厳しい追及にうんざりした。雅子という人間は、相手の答えが言葉で出されるまで、問い続けるのだ。
「どうしてそんなに突っかかるの」
「突っかかってなんかないよ。あんたこそ、なぜそんなに怒るの」
雅子は弥生の態度のほうが腑《ふ》に落ちないという様子だった。
「怒っている訳じゃないけど、あたしも言いたいことがある。最近あなたと師匠は、何をこそこそしてるの。邦子さんはどうして一人で帰るの。何かあったの」
雅子は眉間《みけん》に小さな縦皺を作った。邦子から十文字に犯行が知られたことも、それによって雅子が新しい「仕事」を始めようとしていることも、弥生には知らされていなかった。その原因が無防備で危なげな自分自身が、雅子の信用を失ったからだとは弥生は思ってもいない。
「何もないよ。それより、その人は保険金目当てとかそういうことはないの?」
弥生はとうとう怒りを爆発させた。
「森崎さんはそんな人じゃないわ。邦子とは違うんだから」
「わかった。保険金のことは忘れてちょうだい」
弥生の怒りを見て、潮が引くように雅子は黙った。弥生は雅子に助けられたことを思い出し、すぐに謝った。
「ごめんね、キレて。でも、大丈夫だよ。森崎さんは」
しかし、雅子はまだ納得しなかった。
「それだけ一緒にいるなら、子供が何か喋るんじゃない?」
雅子のしつこさを持てあましながら、弥生は答える。
「うちの子は、もうあの晩のことを忘れているわ。あれっきり二度と言わないもの」
雅子はしばらく唇を引き結び、宙を睨んでいた。そしてこう言った。
「二度と言わないのは、あなたが困ることを知ってるのかもしれないよ」
その言葉は弥生の心の芯に応えた。が、弥生は否定した。
「そんなことないわよ。子供のことは私が一番よく知ってるもの」
「それならいいんだよ」雅子は弥生の顔を確かめ、横を向いて言った。「でも、詰めが甘いとドジるよ」
「詰め? 詰めってどの段階のこと言うのかしら」弥生はすべて終わったような気がしていた。「だって、カジノの人は逃げたんだよ。あたしたち助かったんだよ」
「何言ってんの」と雅子は鼻先で笑った。「あんたの場合は、死ぬまで詰めが続くんだよ」
「ひどいこと言うのね」
ふと周りを見ると、いつの間にか雅子の後ろにヨシエが立っていた。ヨシエも弥生を責める目をして黙っている。明らかな二人の結託《けったく》が、自分を爪弾《つまはじ》きにしているようで、弥生には耐えられなかった。二人で私を非難している。礼金は払ったじゃないか、という思いが湧き上がった。
帰りは誰とも口を利かずにたった一人で工場を出た。夜明けが遅くなって、まだ薄暗いことも弥生を寂しくさせた。
弥生が家に帰って来ると、子供と森崎は寝室でまだ眠っていた。気配を感じたのか、森崎がパジャマ姿で起きてきた。
「お帰りなさい」
「ね、起こしたかしら」
「いいのいいの。今日は早く行くからもう起きなくちゃならないのよ」
そう言って伸びをした森崎は、弥生の心の異変に気付いたらしく眉を顰《ひそ》めた。
「弥生さん、何かあったの。顔色が悪いみたい」
「何でもない。工場でちょっと喧嘩したの」
弥生は森崎を庇《かば》ったからだとは、勿論口にしない。
「誰と」
「うちによく電話が来るでしょ。雅子さんて人」
「ああ、あのちょっとぶっきらぼうな人でしょう。どうして。何て言われたのよ」
森崎は自分が喧嘩したかのごとく興奮した。
「何でもない、くだらないことよ」
弥生はごまかし、朝食の支度をしようとエプロンをつけた。森崎は低い声で訊ねた。
「ねえ、あの人から電話があると、どうしてあなたはぺこぺこしてるの」
「えっ」弥生は驚いて振り向いた。「そんなことないわよ」
「何か弱みでも握られてるの」
森崎の目には探りを入れる粘りがあった。近所の目と同じだと弥生は思ったが、森崎に限ってそんなはずはないと打ち消した。
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テーブルの上に置いた札束に、秋の午後の日射しが柔らかく当たっていた。
手が切れそうなほど真新しい万札の束ふたつは、まるでふざけた文鎮《ぶんちん》のようで少しのリアルさもなかった。なのに、弁当工場での一年間の収入はこの額にも満たない。信用金庫時代の年収も、このたった二倍でしかなかった。雅子は弥生から受け取った二百万の金を前にして、これまでの労働と、これからの「ビジネス」について考え込んでいる。
やがて思案は隠し場所のことに移った。銀行預金にしたほうがいいのか。しかし、それでは自分に何かが起きた時にすぐ下ろせないし、証拠として残る。が、タンスにしまい込んだままでは家族に見つかるおそれがあった。
迷っていると、インターホンが鳴った。雅子は急いで流し台の引き出しに金を突っ込んだ。
「あのう、ちょっとすみません」
躊躇《ためら》いがちな女の声がした。
「何のご用でしょう」
「向かい側の土地を買おうと思っている者ですが」
仕方なく雅子は玄関に向かい、ドアを開けた。薄紫の野暮《やぼ》ったいスーツを着た中年女が恐縮して立っていた。顔はまだ雅子と同じくらいの年齢に思われたが、体型が崩れている。声も素っ頓狂で甲高く、律する訓練を必要としたことがない者らしい。
「すみません、突然お邪魔して」
「いえ、いいんですよ」
「あの、実はあそこの土地を買おうかと思ってるんですけど」
女は同じ言葉を繰り返した。五メートルほどの私道を挟んだ雅子の家の真向かいは、造成途中の剥《む》き出しの地面だった。何度か売れる話がまとまったり壊れたりして、今はほったらかしにされている。
「それで何か」
雅子の事務的な受け答えに、女は戸惑ったらしく絶句した。
「あの、つまりですね。どうしてあそこの土地だけが売れなかったのか不思議で、何かあるのかしらと思いまして」
「さあ、知りませんけど」
「トラブルとかありませんか。そういう曰《いわ》くつきだと後で嫌でしょう」
「なるほどね。でも、私は知りません。不動産屋さんに聞かれたら?」
「聞いたんですけど、教えてくれないから」
「じゃ、何もないんでしょう」
とりつく島のない雅子に、女は言い訳した。
「でも、主人が赤土だからよくないんじゃないかとか言いだしましてね」雅子は首を傾げる。そんな話は聞いたことがない。雅子の顔を見て、女は慌てて付け足した。「土台がよくないんじゃないかということらしいんですけど」
「うちも同じですけど」
「あ、すみません」
気の毒なくらい、女はうろたえている。雅子は話は終わったという素振りを見せる。
「大丈夫と思いますが」
「じゃ、水はけが悪いとかありませんか」
「ここは少し小高いから雨は溜まりませんよ」
「そうですね」女は雅子の家の奥をさっと眺め、ようやくお辞儀《じぎ》した。「わかりました。どうもすみませんでした」
ただそれだけのことだったが、雅子は嫌な気がした。というのも、数日前に近所の主婦に呼び止められたのだ。
「香取さん」
裏に住む初老の主婦で、雅子の家とその家は背中合わせに建っている。家で生け花を教えているというその主婦は話も要領よく、この近所では雅子と比較的仲が良かった。
「ちょっとね、こないだ変なことがあってね」主婦は雅子の袖を引いて声を潜めた。
「何ですか」
「あなたの会社の人が来てね。いろいろ聞いていったのよ」
「会社ですか」
雅子は咄嗟《とっさ》に自分のではなく、良樹の会社関係か銀行と思った。が、良樹は最早信用調査をされるようなことはない。伸樹もまだそんなことには縁がないはずだった。とすれば、やはり自分しかなかった。
「たしか、弁当工場の人とか言ってたわよ」不審そうに眉を顰めた。「でも、興信所かなんかかもしれないと思って、私も気をつけようと思ったんだけど、あなたのうちのことをいろいろ聞いてたの」
「どんなことを」
「家族構成とか、お宅の日常とか、近所の評判とか。勿論、あたしはそんなこと言わなかったわよ。でも、お隣はあれこれ喋ったかもしれない」
主婦は雅子の家の隣家を指さした。そこは老夫婦二人の住まいで、伸樹が中学生の頃にステレオの音がうるさいと何度も怒鳴り込まれたことがあった。快く思っていなければ、これ幸いと喋り散らすこともあるだろう。
「そんなにあちこち行ったのかしら」
雅子は不安を感じた。
「そうみたい。見ていたら、あなたの家のほうを窺って、隣のベルも押していたから。ね、気持ち悪いでしょう」
「何のために聞くって言ってましたか」
「ええ、それがおかしいのよ。あなたが正社員になるための調査だって」
「まさか」
パートタイマーが昇格するとしたら、準社員である。それも最低勤続三年は必要だった。明らかに嘘だった。
「でしょう。私もそんな話は聞いたことないもの」
「どんな人でしたか」
「若い男の人。きちんと背広着て」
一瞬、十文字かと思ったが、十文字は自分を何年も前から知っている。それはあり得ない。警察の可能性も考えたが、刑事がそのような内偵の仕方をするとは思えなかった。
誰かが探っている。
雅子は事件以来、初めて「他者」の存在を意識した。それも警察ではなく、姿の見えない謎の「他者」。もしかすると、突然、弥生のところに現れたという森崎という女もその仲間ではないだろうかと思い至る。不自然な話なのに、弥生がそのことを何も疑っていないこと自体が変だ。それだけ巧妙に仕組まれているのではないだろうか。警察が凝った囮《おとり》捜査をするわけはなかった。
若い男、森崎、今の中年女。彼らが皆そうだとすると、その「他者」はチームのようなものを組んでいると思われる。いったいどこの誰が、何のために、自分たちを探っているのだろうか。雅子は急激に得体の知れない恐怖を感じて寒気がした。ヨシエや弥生にこのことを告げたほうがいいのだろうか。まだ確信がない、止めたほうがいい、と雅子は心に決めた。
工場に出勤すると、いつの間にか駐車場に番小屋らしきプレハブが完成していた。まだ無人で、ガラス窓のある、ほんの半畳ほどの空間は真っ暗だった。
雅子はカローラから降り立ち、ドアを開けたまま小屋を眺めていた。すると、邦子のゴルフカブリオレが、小石を撥《は》ね上げながらけたたましく入ってきた。轢《ひ》かれるはずはなかったが、悪意を匂わす乱暴さに思わず雅子は後ずさった。
邦子は左右にぶれる下手くそなバックで自分の駐車スペースに入れ、きゅっと激しい音を立ててサイドブレーキを引いた。キャンバストップを撥ね上げた運転席から雅子に挨拶して寄越す。
「おはようございます」
相変わらず慇懃無礼《いんぎんぶれい》な丁重さだった。真新しい赤い革のジャンパーを着ている。大方あの金で買ったのだろう。
「おはよう」
ここで邦子に出会ったのは久しぶりだった。待ち合わせをやめてから、どういう訳か擦れ違いで滅多に出会わない。巧妙に邦子が避けているのだろうと雅子は思っていた。それが証拠に、邦子はしまったという顔をしている。
「今日は早いじゃないですか」
「そうだね」雅子は腕時計を闇に透かして眺めた。確かに定刻より十分ほど早かった。
「あれ何だか知ってます?」
邦子は車から降りてキャンバストップを閉める操作をしながら、番小屋のほうを顎でしゃくった。
「ガードマンでも来るんでしょう」
「ただのガードマンじゃないですよ。痴漢が出るって警察に知れたんで、会社がそこに誰かを立たせることにしたらしいですよ」
無駄なことをするものだと思ったが、誰でも入れる駐車場は最近違法駐車も多い。その対策も考えてのことに違いなかった。
「じゃ、あんた、痴漢に会えなくてつまんないじゃない」
「何を言ってんですか」
邦子はあからさまな雅子の嫌味に、頬をすぼめ、赤く塗った唇を尖らせた。まるで都心に買い物にでも出るような完璧な化粧を施している。そんな邦子の虚飾を、雅子は逆に欠落を見せつけられている気分で冷たく眺めた。
「ところでさ」雅子はぴかぴかに磨かれたゴルフを見た。「あんた、まだ車乗ってるの。チャリにしたら金かからないよ」
「お先に」
邦子はむっとした様子で、先に行った。一瞥《いちべつ》にも値しないと雅子は向き直り、鳥肌の立った腕を撫でさすった。今夜は十月初頭にしては少々冷える。大気が冷たく乾いていると、空気中に漂う様々な匂いがはっきりわかる。揚げ物の匂い、排気ガスの匂い、金木犀《きんもくせい》と冷えた草の匂い。どこかで遠慮がちに、この夏最後の虫が鳴いていた。
雅子は車の後部座席からトレーナーを取り出してTシャツの上に着た。習慣になっている煙草に火をつけ、邦子の赤い後ろ姿が完全に闇に消えるのを待った。
低いエンジン音を轟《とどろ》かせて、一台の大型オートバイが駐車場内に入って来るのが見えた。ダートに入って後輪が滑る音が聞こえ、敷地のわずかなアップダウンに跳ねてヘッドライトが上下している。誰だろう。工場にバイクで来るパートタイマーはいないはずだ。雅子は驚いて運転者を眺めた。
「香取さん」
フルフェイスのヘルメットのシールドを上に開け、若い男が怒鳴った。十文字だった。
「あんたか。びっくりしたわ」
「よかったなあ。間に合って」
十文字はエンジンを切った。途端に、駐車場は静寂に包まれた。耳慣れないエンジン音に怖れをなしたのか、虫の音はぷっつりとやんだ。十文字は、慣れた仕草でバイクのスタンドを蹴り出して降り立った。
「どうしたの」
「仕事です」
ついに来た。バイクが入って来た時から、尋常ではないものの到来を予感していたのだが、それが例の仕事だったとは。雅子は早くなった動悸を抑えるために、両腕で自分の胸を押さえた。半年ぶりに着たトレーナーから、嗅ぎ慣れた自分の家の洗剤とタンスの匂いがした。これでとうとう、その安寧《あんねい》からも離れてしまうのだという思いが込み上げ、雅子は自分をしっかりと抱いた。
「仕事って例の?」
「そうなんですよ。さっき突然電話があって、死体が一個出たから完璧に始末してくれって。焦りましたよ。もう香取さんと連絡取れないかと思って。ここで捕まえようと思ったけど、俺の車、城之内さんも知ってるでしょ。見られたらやばいと思って」
十文字の声は興奮で微《かす》かに震えていた。
「それでバイクで来たのね」
「最近乗ってないから、エンジンかからなくて参ったすよ」
十文字はカツラを脱ぐ役者のように、くるりとヘルメットを取ると、乱れた髪を撫でつけた。
「こっちはどうしたらいい」
「はあ。これから俺が車出してブツを受け取りに行きますから。そしたら搬入します。工場終わるの何時ですか」
「五時半ね。ここに来るのは六時近い」雅子は地面をとんと踏んだ。
「家に帰るのは?」
「六時過ぎ。でも、家族がいるから運び込むとしたら九時過ぎにして。それまでに衣服剥ぎ取ったり、あんた一人でできる?」
「できるも何も、やるっきゃないでしょう」
十文字はさすがに憂鬱そうに答えた。
「一人で運べる?」
「やってみますよ。それからメスセットは買ったから一緒に持っていきます」
「お願い」と頼み、雅子は言うことはないかと爪を噛みながら必死に頭を巡らせた。だが、急なことで頭がうまく働かない。やっと、ひとつ思い出した。「宅配便の段ボール用意してよ」
「大きいのですかね」
「うん。なるべく八百屋さんの段ボールとか目立たないものがいいな。で、頑丈なやつ」
「どっかで明日の午前中までに手に入れます」
「そうして」
「袋ありますか」
「買ってある」そう答えてから、大事なことを思い出す。「明日の朝になって、都合が悪くなったらどうしたらいい」
良樹が会社に行かないかもしれない。伸樹がアルバイトをずる休みするかもしれない。不安は果てしなかった。
「都合ってたとえば?」
十文字は慌てて問いかえす。
「たとえば家族が家にいるとか。そういうことだよ」
「あ、そうか。じゃ、携帯に電話入れてください」
十文字はジーンズのポケットから、一枚の名刺を雅子に手渡した。それには携帯の番号が刷られていた。
「わかった。何かあったら八時半までに連絡入れるから」
「はい。よろしく」
十文字は突然手を差し伸べて雅子に握手を求めた。雅子も握り返す。素手で風を受けてきた、ささくれだった冷たい手だった。
「じゃ、行きますから」
十文字はイグニッションキーをまわしてエンジンをかけた。重低音に似た力強いエンジン音が、四方を暗闇に溶け込ませた広い駐車場に響いた。雅子は慌てて十文字を制した。
「ちょっと待って」
「何すか」と、十文字は再びヘルメットのシールドを開けた。
「あたしのところに変な興信所みたいなのが来たんだけど」
「えっ」十文字は驚いた様子だった。「何ですか、それ」
「全然わからない」
「警察じゃないか。やべえな」
十文字の言葉に雅子はうろたえた。今度の仕事はやめにしようかという言葉が出かかった。が、すでに遅かった。雅子は唾を飲み込み、十文字に言った。
「でも、やろう」
「ここまで来たら引き下がれないすよね。顔潰れる人いますからね」
十文字は器用にバイクを方向転換させると、土くれを撥ね上げ駐車場を出て行った。
残された雅子は、一人暗い夜道を歩きながら手順を考えていた。首を落として手足を切り、胴体を開く。この間の鬼畜《きちく》のような作業が思い出された。死体がどんな状況で来るのかを考えると恐ろしくもある。あたかも体がそれらを拒否しているかのように膝が震えだした。そのうち、震えが止まらなくなり、歩くこともできなくなった。雅子は夜道で立ち止まった。
だが、震えの震源は雅子の心の底にあった。それは、姿のわからない「他者」のおぼろげな存在だった。
サロンに入って行くと邦子がこれ見よがしに横を向き、入れ違いで出て行った。雅子は子供っぽい邦子などに構わず、まずヨシエの姿を探した。ヨシエは弥生と一緒に更衣室で着替えている最中だった。
「ちょっと」
作業衣を着てジッパーを上まで引き上げたヨシエの肩を叩く。横にいる弥生のほうが何事かと振り向いた。
弥生は邪気のない明るい顔で雅子の強張《こわば》った目を見た。今回は弥生を抜かすつもりだったが、このすべてを忘れた顔をしている弥生にもあの膝の震える経験を味わわせてやりたいという暴力的な衝動に、雅子は突然駆られた。歯を食いしばってそれに耐える。
「何かあったの」
すぐに変事を悟ったらしいヨシエが怯えた顔をした。
「仕事が入ったんだよ」
とだけ雅子は言った。ヨシエは唇を引き締め、押し黙った。雅子は、ヨシエにだけは例の「他者」のことは言うまいと思っている。そうしないと、ヨシエの意気が萎《な》えるのはわかっていた。解体は一人ではできない。
「二人で何を話してるの」
弥生が、雅子とヨシエの間に割り込んできた。
「知りたいの?」
雅子は弥生の顔を正面から見据えた。そして、弥生の手首の華奢《きゃしゃ》な骨を掴む。
「何よ、どうしたの」
弥生の顔に怖じけた色が走る。雅子は構わず手首を離すと、今度は肘を掴んだ。
「ここを切るんだよ。そういう仕事」
弥生は腕を掴まれたまま腰だけ引いた。ヨシエは周囲の目を気にして、雅子に目配せして注意を促した。だが、誰も雅子たちのことなど気にも留めず、これからの辛い作業を思ってか不機嫌な顔で黙々と着替えているのだった。
「嘘でしょ?」
弥生は子供の溜息のような小さな声でつぶやいた。
「ほんとよ。あんたやる気ある? あるならあたしの家に来て」
雅子は掴んでいた弥生の腕を離した。弥生は呆然としたまま、だらりと腕を垂らした。弥生のつくつく帽子が床に落ちる。
「その前に言うことがあった」雅子は言った。
「あんたの家にいる森崎って女を追い出してから来て」
弥生は無言でしばらく睨んでいたが、大仰に雅子から視線を外し、更衣室を出て行った。怒りが背中に表れていた。
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死体は、六十歳くらいの小さな痩せた男だった。
禿げていて歯は全部あり、胸の中央と右腹に手術痕がある。胸部の大きな手術痕に比べ、腹のは小さく、一目で盲腸と知れた。両手で首を絞められたらしく、顔は紫色に鬱血《うっけつ》し、首に指の痕がついている。その時に争ったのか、頬と二の腕に擦過傷《さっかしょう》が幾つもあった。
この男がどんな職業に就き、どこでなぜ、誰に殺されたのかは知らない。衣服が剥ぎ取られ、ただの死体となったものは、生前の姿やその生活をまったく想像させなかった。また、その必要さえなかった。雅子とヨシエは解体して袋に詰め、段ボール箱に梱包すればよいだけだった。恐怖心さえ麻痺させれば、それは弁当工場での作業に似ていなくもなかった。
ヨシエはジャージの裾を太股までまくり上げ、雅子はショートパンツにTシャツを着て、二人とも工場でくすねたエプロンをつけ、ビニール手袋をしている。裸足では骨片を踏む危険性があるため、雅子は良樹の、ヨシエは雅子のゴム長を履いていた。その格好も工場での作業姿に似ていなくもなかった。
「このメスよく切れるね」
ヨシエは感に堪《た》えない様子で言った。十文字の買ってきたメスセットは実に役に立った。刺身包丁を使って健司の肉を切り裂いた時とは違い、新しい布地によく切れる鋏《はさみ》を入れた時のような爽快感がある。おかげで考えていたより、作業が早く進む。
骨はヨシエと手分けして鋸《のこぎり》で切った。だが、十文字が用意した電動鋸は残念ながら使えないことがわかった。骨片と肉片と血とが細かい霧となって飛ぶため、目に入るからだ。電動鋸を有効に使うためには、ゴーグルが必要だった。解体が進むにつれ、辺り一面が血だらけとなり、内臓が嫌な臭いをさせて散らばるのも前回と同じ眺めではあったが、気分は作業と同様、段違いに楽だった。
「この手術、心臓のじゃないかね。可哀相だね。せっかく心臓の手術して生き抜いたのに殺されちゃうなんてさ」
ヨシエは寝不足の目元を赤くし、男の薄紫のみみずのような手術痕をビニール手袋の先でなぞった。勝手に物語を作っている。雅子は黙って男の手足をさらに細かくしていた。壮年の健司の足と違って、皮膚は艶《つや》がなくてしぼみ、脂肪がほとんどない。気のせいか、鋸で挽《ひ》く感触もす[#「す」に傍点]が入っているようなぼそぼそしたものだった。
「脂肪が鋸に巻かないから楽だ。健司さんの時と違って、袋も軽い」
手を動かしながら、ヨシエが独り言を言う。
「体重、五十キロもないからね」
「うん。でも、この人きっと金持ちだよ」
確信に満ちてヨシエが断言した。
「どうしてわかるの」
「だって、指がこんなにへこんでる。ここにおっきな指輪してたんだよ。かまぼこみたいな金の指輪。ダイヤとかごっついのはまってるやつ。取られちまっただろうね」
「また話を作ってる」
雅子は苦笑した。
これは夢ではないだろうか。朝から雅子は何度も思った。
予定通り、午前九時過ぎに蒼白な顔をした十文字がやってきて、毛布に包まれた死体を風呂場に運び入れた。ヨシエはまだ到着していなかった。
「怖かったなあ」十文字は極北の地を旅してきたかのように凍った頬を擦り上げた。十月にしては暖かい日だったのにもかかわらず、である。
「何が」
雅子は風呂場のタイルに、前にも使用した青のレジャーシートを敷き詰めた。
「何がって香取さん。俺、死体見るの初めてなんすよ。なのに、ここに来るまで時間があるでしょう。仕方ないから、これトランクに入れて深夜営業のデニーズ行って時間潰して、それから六本木ぐるぐるまわっていたんだから」
「検問でもやってたら危ないじゃない」
「それも頭じゃわかっていたけど、どうしても人のいるほう、いるほうに行っちゃうんですよ。俺の積んでるものって、見てはいけない暗い塊《かたまり》みたいなもんで、俺だって死ねばこうなるってわかってるんだけど見たくないし、重力に引っ張られるみたいで背中が重苦しいんだよね。服脱がせたり何だり、することいろいろあるだろって思うんだけど、一人じゃできないんですよ。それに明るくなるまで見ることもできないんですよ。結構、俺って情けねえなって思ったりして」
わからないでもなかった。雅子は普段より青白く見える十文字の顔を見つめた。それは寝不足のせいばかりではなさそうだった。死体にはどうしても、生きている者の目を背《そむ》けさせるものがある。これが自然のものと考えられるようになるには、いったいどのくらいの時間がかかるのだろう。
「あんた、どこに取りに行ったの」
雅子は死体となった男の曲がった指先に触れてみた。かなり硬直して冷たかった。
「それは聞かないほうがいいと思います」十文字はきっぱり言った。「何かあったらやばいから」
「何かって何」雅子は立ち上がった。
「わからないけど、何かやばいこと」
十文字は恐そうに毛布のめくれたところから覗いている死体の顔を眺めている。
「やばいことって、警察とか」
「それだけじゃないかもしれないすよ」
「たとえば」
「復讐とか」
雅子は得体の知れない「他者」のことを指して言っていた。だが、十文字は死体の引きずる現世的な利害関係のことを言っているらしい。
「どういう理由で殺されたのかしら」
「たぶん、失踪したことにして金を奪うとか、そんなことでしょう。死体を完全に始末するっていうんだから」
とすれば、この死体には数億の金がかかっているのかもしれない。雅子は艶の失せた男の禿頭《とくとう》を眺めた。
利害関係さえなければ、死体の後始末を引き受けるのはゴミを上手に捨てるのと変わりなかった。生活の中でゴミは絶対に生じる。誰が何を捨てようと、知ったことではないのだった。それは勿論、この自分もまた、捨てられる時はゴミと同じなのだという覚悟が必要だった。雅子は冷静に十文字に言った。
「服脱がせるの手伝って」
「はい」
雅子が鋏で死体のスーツを切り裂き、器用に脱がせ始めた。十文字はそれをこわごわ袋に詰めた。
「財布とかは?」
「ああ、そんなのないですよ。あいつら取れるもんは全部取ってますから。ここにあるのはその残り」
「ほんとのゴミってことね」
自分に言い聞かせるために雅子はつぶやく。その言葉に十文字は衝撃を受けたようだった。
「そうも言えるか」
「そう。ゴミ処理と思えばいい」
「なるほど」
「報酬はどうなるの」
「持ってます」
十文字は菓子パンでも入っていそうな小さな茶色の紙袋を、チノパンの尻ポケットから引っ張り出した。
「きっかり六百入ってます。現金先払いしないと駄目って言ってありますもん」
「それはよかった。でも、万が一、この死体発見されたらどうするの」
「金を返すことになってます。でも、顔が潰れるっていう人もいるから、こっちも落とし前つけなくちゃならないかも」初めて、十文字はことの重大さに気付いたかのように声を震わせた。「だから、慎重にやりましょうよ」
「わかってる」
服を脱がせ終わり、丸裸の死体を風呂場に転がすと、十文字は紙袋の中から帯封のある百万の束を四つ雅子の前に置いた。
「先に渡しておきますから」
その金は弥生がくれたような新券ではなかった。皺だらけの薄汚れた札がゴムで止めてある。信金に集まる金とそっくりだった。ダーティ・ビジネス。雅子の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
雅子は脱衣場の洗濯機の上に置いた目覚まし時計を見た。もうじき昼だった。そろそろ段ボール箱を手に、十文字が戻って来るだろう。作業はほぼ終わっていた。健司の時は気が張っていたのか気付かなかったが、中腰で力を入れる仕事を長く続けていたため、肩と腰が重かった。工場から帰って来て一睡もしていないこともあって、早く終わらせて横になりたかった。ヨシエが曲がった腰を伸ばし、その腰を叩こうとして躊躇《ためら》っている。
「叩こうにも手に血がついてる」
「新しい手袋使ったら」
「もったいないじゃない」
「何言ってるの」雅子は工場からくすねた手袋の束を顎でしゃくった。「使いなよ。幾らでもあるんだから」
「ね、山ちゃん、とうとう来なかったね」
ヨシエは血糊《ちのり》のついた手袋を指から引き剥がしながら言った。
「うん。一度現場を見せてやろうと思ったんだけどね」
「自分のほうが罪が軽いと思ってるんだよ。亭主殺したくせにさ」ヨシエが憎々しげに言った。「あたしたちが金目当てでこんなことしてると思って、内心軽蔑してるんだよ。あたしたちのほうがましに決まってるさ」
インターホンが鳴った。ヨシエが驚いて叫んだ。
「誰か帰って来たよ。息子さんじゃない?」
雅子は首を振る。伸樹はこんな時間に帰って来たことなど滅多にない。
「たぶん十文字よ」
「そう」とヨシエは安堵する。
念のため玄関の覗き穴から見ると、十文字が畳んだ段ボール箱を持ちにくそうにして立っていた。雅子も手伝ってそれを運び入れる。十文字がヨシエに報告している。
「行って来ました」
「どうもご苦労さんね」ヨシエが工場の若い従業員を労《ねぎら》うように言う。
「段ボール組み立てますけど、何個にしますか」
雅子は八と指で示した。小さな男なので、思ったより袋は小さかった。それに足のつく首と服だけは十文字が慎重に自身で運んだほうがよさそうだ。
「八か」十文字は驚いたらしい。「案外少ないもんだな」
「あんた、誰にも見られなかったでしょうね」
ヨシエが心配そうに念を押した。
「大丈夫です」
「誰かあんたのこと見張ってなかった」
雅子は真剣な顔で十文字を見た。例の「他者」にこの作業のことを知られてはならなかった。
「そんなことなかったと思いますよ。ただ」
「ただ、何」
「お宅の家の前の空き地に女の人が立ってたけど、すぐ帰ったみたいです」
「どんな女」
「太った中年のおばさん」
土地を買うと言って、雅子の家に来た女に違いなかった。
「この家を見ていたみたいだった?」
「いや、何か土を調べてるみたいでした。あとは、近所の人が買い物に行ったり、誰も気付いてないと思いますけど」
十文字のシーマを使ったのはまずかったかもしれない。やはり、次回はカローラのほうが目立たないだろうと雅子は考えた。
段ボール箱を車に積んで十文字が行ってしまうと、ヨシエがいみじくも言った。
「まるで中山ができあがった弁当運んでいくみたいだね」
二人は爆笑した。それから雅子とヨシエは交代でシャワーを使った。ついでに風呂場を掃除する。ヨシエは時間が気になるのかそわそわしている。雅子は分けておいた金を差し出した。
「はい、報酬」
ヨシエはそれを汚い物であるかのように指で摘むと、ビニールのバッグの底に入れた。しかし、ほっとしたらしくこう言った。
「ありがたいよ」
「その金、どうするつもり」
「美紀を短大に行かせようかと思って」
ヨシエはほつれた髪を撫でつけながら答えた。
「あんたは?」
「さあ」
雅子は首を傾げた。これで五百万。自分はいったいこの金を何に遣おうとしているのだろう。
「ねえ、こんなこと言って気を悪くしないでくれるかい」
おずおずとヨシエが口にする。
「何」
「あんたも百万なの?」
「そうだよ」
雅子はたじろがずヨシエの顔を見る。ヨシエは申し訳なさそうにバッグから先ほどの札束を取り出した。
「じゃ、返しておかなくちゃ。例の八万」
美紀の修学旅行の費用を立て替えていたことらしい。ヨシエは皺んだ札束から万札を八枚抜くと、頭を下げながら雅子に渡した。
「あと三千円ね。細かいのないから工場でいい?」
「いいよ」
借金は借金だ。雅子はまけるとは言わなかった。その言葉を期待してか、ヨシエはしばらく雅子の顔を見ていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
「じゃ、夜に会おう」
「うん、夜に」
夜勤の仲間は夜に会う。だから、昼の仕事はどこか胡散臭《うさんくさ》かった。
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第六章 四一二号室
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夕方起きると、気分が塞ぐ。特に初冬の日没は早く、佇《わ》びしかった。雅子はベッドに横たわったまま、夕陽が落ちて部屋が段々と暗くなっていくのを眺めている。
夜勤をしていて気が滅入るのはこういう瞬間だった。このことが原因でノイローゼになったパート仲間がいたが、よくわかる。すぐ暗くなるから憂鬱になるのではなく、人々の真っ当な活動から外れているという後ろめたさを感じるせいだ。
幾多《いくた》の慌ただしい朝を過ごしてきたことだろう。一番早く起きて朝食を作り、弁当を詰め、洗濯物を干し、身繕《みづくろ》いをし、不機嫌な子供をなだめすかして保育園に送って行く。いつも壁の時計を眺め、腕時計を覗き込み、あくせくと走りまわる生活。朝刊を読む暇も本を選ぶゆとりもなく、眠る時は常に睡眠時間を逆算し、たまの休みは山のような洗濯物と掃除に追われる日々。侘びしさや後ろめたさとは無縁の、強く正しい日々。
戻りたくはない。だから、これでいいのだと雅子は思う。日向《ひなた》の暖まった小石をひっくり返すと湿った冷たい土が現れる。今の自分はじっくりとその暗さを味わっている。土に温もりはなくても、懐かしく安らかだ。まるで丸まった虫だ。そうだ、自分は虫になっているのだ。雅子はもう一度目を閉じた。浅く短い睡眠を不規則にとるせいか、疲労は回復せず、体が重かった。重力に引きずりこまれるように、眠気がやって来る。やがて、夢を見た。
雅子は、内側に薄緑色のパネルを張ったT信金の古いエレベーターでゆっくりと下降していく。パネルのあちこちに傷があるのは、現金輸送の台車が乱暴にぶつかった跡だ。このエレベーターから、小銭の詰まった重い袋を苦労して引き出したことも数知れなくあった。二階でエレベーターが停まる。雅子のいた融資の部屋だ。目を瞑《つむ》ったまま歩けるほど熟知した自分の仕事場。しかし、もうそこに用はないはずだ。扉が開き、雅子は無人の暗いオフィスを眺めながら「閉」のボタンを押す。閉まる寸前に男がひらりと乗り込んで来た。
死んだ健司だった。雅子は息が止まりそうになる。健司は白いシャツを着て地味なタイを締め、灰色のズボンをはいている。あの時の姿と同じだった。健司は律儀《りちぎ》に雅子に軽く会釈し、背を向けたままエレベーターのドアを眺めている。雅子は、伸びた髪が少しかかったうなじを見つめながら後ずさる。そこに自分が切り落とした傷がないかと思わず探しているからだった。
いやにゆっくりとエレベーターが一階に到着する。ドアが開き、健司は接客カウンターがあるはずの暗闇に消えていく。一人エレベーターの函《はこ》の中に取り残された雅子は冷たい汗をかき、自分もそこに足を踏み出したものか迷っている。
思い切ってエレベーターから出ると、暗闇から何者かが飛び出してくる気配がする。逃げる間もなく、何者かが背後から雅子を抱きすくめる。長い腕が体に巻きつき、動くこともできない。助けて、と叫ぼうとするのだが言葉にならない。男は雅子の首を絞めようとしている。雅子は身を捩《よじ》って逃れようとするが、手足の自由が利かない。もどかしさが恐怖を倍増し、雅子は夢の中で夥《おびただ》しい汗をかく。やがて、男の指が首に絡みついた。雅子は恐怖で硬直する。しかし、絞めつける指の温かさが、首筋にかかる男の荒い息が、次第に雅子を暗い衝動に突き動かしていく。そのまま強い力に身を委ね、縊《くび》り殺されてしまいたいという衝動に。その瞬間、雅子の恐怖が無重力状態に入ったかのようにかき消えた。代わりに、信じ難い恍惚《こうこつ》が雅子を襲い、雅子は驚きと愉悦《ゆえつ》の声を漏らした。
雅子は目を覚ました。仰向けになり、心臓を押さえてみる。まだ動悸が激しかった。これまでも何度か艶夢を見たことはあった。しかし、恐怖と背中合わせの恍惚は初めてだった。雅子は闇の中で夢を反芻し、これが自分の心の底に横たわっている光景なのかと発見した思いでしばらくは動けなかった。
夢の中の男はいったい誰なのだろう。雅子は体に巻きついた腕の感触を思い出しながら検証している。健司ではない。健司は雅子を恐怖へ誘《いざな》う幽霊として現れたのだから。良樹でもない。良樹は雅子に乱暴な行為をしたことなど一度もなかった。カズオの腕の感触でもない。だとしたら、今、不安を感じている見えない「他者」の存在がこんな形で出現したのかもしれなかった。あまりの恐怖が性的愉悦と結びつくとは。雅子は長い間忘れていた感覚が強烈なことに、沈み込みさえした。
雅子は起きて寝室の照明をつけた。カーテンを引いて鏡台の前に座る。鏡を覗き込むと、蛍光灯のせいで顔色の悪い自分がこちらを睨んでいた。健司の死体を解体して以来、顔が変わっていた。自分ではっきりとわかる。眉間の小さな皺が深くなり、目がさらに鋭くなった。老いたといってもいい。しかし、唇だけは半分開いたままで、誰かの名前を呼びたがっていた。こんな時に、いったいどうしたというのだろう。雅子は手で口元を隠した。だが、目の輝きだけは隠せなかった。
気が付くと、物音がしている。良樹か伸樹が帰ってきているのだろう。枕元の時計を見ると、午後八時近い。雅子は髪だけとかすとカーディガンを羽織って部屋を出た。風呂場から洗濯機のまわる音がしている。良樹が自分のものを洗濯しているらしい。ここ数年、良樹は自分の下着類は自分で洗濯していた。
雅子は良樹の部屋をノックした。返事がないので勝手に開ける。良樹がワイシャツ姿でベッドに腰かけ、ヘッドホンでCDを聴いていた。四畳半の空間にツインベッドの片側を運び入れたため、狭く見える。良樹はそこに本棚や机を置き、学生下宿のごとくに暮らしていた。雅子は後ろから良樹の肩を叩いた。良樹は驚いて振り向き、ヘッドホンを外した。雅子のパジャマ姿を見て訊ねる。
「気分でも悪いのか」
「ううん、寝過ごしただけ」
寝起きの雅子は肌寒さを覚えて、羽織っているカーディガンのボタンを留めた。
「寝過ごすと夜の八時か」良樹はぽつんと言う。「何か変だな」
良樹は「日向」からものを言っている。雅子は北側の窓に寄りかかった。
「確かに変ね」
ベッドの上に置かれたヘッドホンからクラシック音楽が洩れた。雅子の知らない曲だった。
「最近、飯作らなくなったな」
良樹は雅子の目を見ない。
「うん」
「何で」
「そう決めたの」
良樹はまだ理由は聞かなかった。
「別にいいけどさ。じゃ、きみは何を食べてるんだ」
「あるものを適当に食べてる」
「家族はどうでもいいのか」と良樹は苦笑する。
「そう」正直に答える。「悪いけど、それぞれ好きにしてほしい」
「どうして」
「あたし虫になったのよ。何もしないで地面にいるの」
「虫でいられるならいいよ」
「女はいいってこと?」
「そうだな、そうかもしれない」
「あなたもそうすればいい」
「そうはいかないよ」良樹は呆れたように雅子の顔を見た。「きみがそんなことを言うとはな」
「あなただって要塞《ようさい》の中に入っているじゃない。会社に行って、ここに帰ってきて、好きなことしてるだけ。それなら下宿してるみたいなものじゃない」
雅子は良樹の部屋を手で指し示した。その話になると、良樹は面倒臭そうに話を切り上げようとした。
「まあ、いいよ」ヘッドホンを取り上げる。
雅子は目の前の良樹を眺める。知り合った頃と比べ、髪が薄くなり白髪が増えた。体重も落ちて、その肉体はいつもアルコールの蒸発しきった残滓《ざんし》の匂いがするようになった。しかし、外見の変化よりも、良樹の魂がますますその純度を高めているのが気になる。
結婚した頃の良樹は、誰よりも自由でいたい、いつも精神を緊張させて生きていきたいと考える人間だった。会社に肉体を取られても、一人になれば心は豊かで温かな男だった。まだ未熟な雅子を愛してくれていた。雅子もそんな良樹が好きで信頼していた。
だが今は、会社から解放されると、家族からも解放されたがっている。良樹の周囲は確かに汚濁《おだく》にまみれている。会社は勿論のこと、共働きの雅子も良樹を自由にはしなかった。伸樹は思いがけない方向に向かい、道の途中で立ち止まっている。良樹の精神が高潔な分、ほかの者がついていかないことを諦める気持ちは強いのだろう。しかし、すべてから逃げるのなら、あらゆる関係を断ち切って世捨て人になるしかない。雅子は世捨て人と暮らす気はなかった。その思いは、先ほど見た夢の中の恍惚に通じていた。あれが自分のバイパスなのだろうか。
雅子はヘッドホンを耳につけた良樹に思い切って訊ねた。
「どうしてあたしと寝なくなったの」
「えっ」と良樹はヘッドホンを外した。
「なぜ、ここに一人でいるの」
「さあ。一人になりたいからだな」
良樹は、本棚にきちんと並べられた小説の背表紙を眺めながら答えた。
「誰でも一人になりたいんじゃないの」
「そうだろうな」
「あたしとどうして寝なくなったの」
「そういうことは自然になるんだよ」良樹はたじろいだ顔を隠せずに目を背ける。「きみも疲れているみたいだったし」
「そうね」
雅子は寝室を別にした四、五年前の出来事を思い出そうとしている。だが、取るに足らないことばかりで、細部は忘れてしまっていた。細部の積み重ねこそが、今、こうして二人を崩してきたのだという思いがあった。
「セックスばかりが夫婦の結びつきじゃないよ」
「わかっているけど、あなたはそれ以外のことも全部拒否しているように思える。あたしや伸樹と関わることも嫌がっているみたい」
雅子がつぶやくと、良樹は意外そうな声を上げた。
「でも、夜勤にしたいといったのは、きみのほうだよ」
「再就職先がなくて、仕方がなかったのよ」
「嘘だろう」良樹は今度はまっすぐに雅子を見た。「経理の仕事なら、どんな小さな会社だってあったはずだよ。きみは傷ついたんだよ。二度と同じことをしたくなかったんだろう」
敏感な良樹がそのことに気付かないはずはなかった。それどころか、一緒に傷ついてさえいたこともわかっていた。
「あたしが夜勤を選んだから崩れはじめたというの?」
「いや、そうは言わない。でも、互いに一人になりたいんだなと思ったことは確かだよ」
雅子は、自分が別の扉を開けたと同様、良樹も違う扉を開けていたのだと悟った。悲しくはなかったが、寂しかった。二人は沈黙した。
「あたしが出て行ったら驚く?」
「突然なら驚くかもしれないね。そして心配するだろう」
「でも、探さない?」
しばらく考えてから良樹は頷いた。
「おそらく」
良樹は話が終了したと思ったのか、ヘッドホンに戻った。雅子は良樹の横顔をしばらく眺めていた。いつかこの家を出ようと決心している。その決心を促すものは、さっきまで雅子が横たわっていたベッドの真下、寝具を入れたケースの中にあった。五百万の現金。
静かにドアを開けて良樹の部屋を出ると、廊下の暗がりに伸樹がいた。急に出てきた雅子を見て慌てた顔をしたが、金縛りにあったように伸樹は突っ立ったままだ。雅子はドアを後ろ手に閉めた。
「今の聞こえた?」
伸樹は答えなかった。困惑して目を伏せている。
「嫌なことがあっても、そうやって口を利かないで済むと思ってるんでしょう。だけど、そうはいかないよ」
伸樹は黙りこくっている。雅子は自分より背の高い息子を眺め上げた。今や、自分の腹から生まれたとは信じがたいほどの体格を持つ息子。見守り、そしてもうじき、雅子のほうから離れようとしている息子。
「私はここを出ていくかもしれない。だけど、あんたはもう大人だと思ってるからね。勝手にやりなさい。学校に戻りたいのならそうすればいいし、ここから出ていきたいのならそれでもいい。全部あんたが決めて、意思表示しなさい」
雅子はしばらく息子の削げた頬を眺めていたが、伸樹は唇を震わせるだけで何も答えなかった。雅子が踵《きびす》を返すと、背中に声変わりした息子の罵声《ばせい》が浴びせられた。
「甘えんなよ、ババア」
伸樹の声を聞くのは今年に入って二度目だった。さらに大人の男の声に近づいている。雅子は振り向いて息子の顔を見た。目に涙が溜まっている。話しかけようとしたが、伸樹は肩を怒らせ、二階に駆け登って行った。胸が痛んだ。しかし、雅子は戻る道を見つけたくない。
雅子は出勤途中に寄ろうと、久しぶりに弥生の家に向かった。
フロントガラスに、飛んできた枯れ葉が当たってぴしっと小気味いい音がした。少し冷たい風が出てきていた。寒さを感じて窓を閉めようとすると、どこからか頼りない羽虫が飛び込んできて車内の暗がりに紛れてしまった。それは、あの晩、弥生の窮地を聞き、助けたものかどうか迷いながら車を運転していた時のことを思い起こさせた。開いた窓からクチナシの香りが入ってきて、すぐ消えていったのだった。夏のことなのに、もう何年も前のような気がする。
真っ暗な後部座席で何か物音がした。それはたぶん、乗せっぱなしの地図帖が座席から滑り落ちた音だと知りながらも、雅子は健司が一緒に乗って弥生を見に行こうとしているような気がしてならなかった。
「一緒に行こうか」
すでに健司と夢で馴染んでいる雅子は闇に話しかけた。これから雅子は、夜勤の弥生と入れ替わりに留守居に来る森崎洋子という女を確かめに行こうとしている。
死体を運び出した時のように、弥生の家の前の路地に車を乗り入れ、雅子はインターホンを押した。カーテンが引かれたリビングに安らかな黄色い明かりがついている。脅えを感じさせる声で弥生が出てきた。
「香取です。夜にごめんね」
弥生は驚いた様子だった。すぐに、廊下をこちらに向かってくる足音がした。
「どうしたの。こんな時間に」
ドアを開けてくれた弥生は、風呂上がりらしく濡れた髪を額に垂らしていた。
「入っていい?」
雅子はドアを後ろで閉めて狭い三和土《たたき》に入ると、反射的に上がり框《がまち》に目を遣った。健司の死んだ場所。弥生もその意味を知っている。慌てて目を伏せた。
「あたし、まだ行く時間じゃないけど」
「わかってる。まだ十時だもんね。ちょっと話があるのよ」
雅子がそう言うと、弥生は工場での言い争いを思い出したのか、身構える顔をした。
「話って何」
「森崎さんて、何時に来るの」
雅子は奥のリビングの物音に耳を澄ませた。子供たちは寝んだのか、ニュース番組の音がする以外、何の音も聞こえない。
「それがね」弥生は眉を曇らせた。「もう来ないことになったの」
「どうして」
雅子の胸中に言いしれぬ不安が広がった。
「急に田舎に帰ることになったって一週間くらい前に言い出してね。びっくりして引き留めたんだけど、どうしても駄目だって。子供もがっかりしたし、本人も泣きそうだったけど」
「田舎どこなの」
「はっきり言わないのよ」弥生は傷ついた顔を隠さない。「あんなに仲良くなったと思ったんだけどね。また連絡しますからって言うばっかりなの」
「山ちゃん、その人、どういう事情で来ることになったの」
雅子の質問に、弥生は詰まりながらこれまでの経緯を話しだした。雅子は森崎が調査のために入り込んで来たのだろうという確信を深める。黙ったまま考え込んでいると、弥生が不思議そうに訊ねた。
「雅子さん。どうしてそのことが気になるの。あたしはあなたが考えすぎだと思うけど」
「まだよくわからないんだけど、誰かがあたしたちのこと探ってるんじゃないかと思う。あんた気を付けたほうがいいよ」
雅子はとうとう口に出した。
「それどういうこと。誰が探るの。何のために」弥生は驚いた様子で叫んだ。髪から幾筋も水が垂れて、顔はどんどん濡れていくが気にもならないらしい。「ね、それって警察なの」
「違うと思う」
「じゃ、誰」
「わかんないよ」雅子は首を振った。「わかんないから気持ち悪いんだよ」
「じゃ、その一派だっていうの? 森崎さんが」
「もしかしたらね」
すでにアパートも引き払っているだろうから、住まいを調べたところで無駄なことだろう。しかし、アパートを借りてまで弥生の周辺を探ろうというのだから、金がかかっていた。金をかけるということだけでも、雅子には不気味でならない。
「保険金の調査かしら」
「だって、お金が出ることは決まってるんでしょ」
「うん。来週出るって」
「そのこと知ってるのかな」
雅子は首を傾げた。弥生は寒そうに両腕を擦った。
「あたし狙われてるんだ。どうしよう」
「あんたはマスコミに出て有名だからね。もう工場にも来ないほうがいいと思う。ひっそり暮らしていたほうがいい」
「そう? ほんとにそう思う?」弥生は上目|遣《づか》いに雅子を見た。そしてほっとしたのか、口を滑らせた。「あたしが行かなくなると、お金が入ったとかみんな思わない」
ヨシエと邦子に勘づかれることを怖れて今までと同様に振る舞ってきたのか。雅子は舌を巻く思いで弥生を眺めた。健司を殺してから、弥生には今までと違う計算高い面が現れてきていた。
「あの人たちはほっときなよ。怖がるほどじやない」
「そうだね」
弥生は、頷きながらも疑いの目で雅子を見た。では、果たしておまえは信用できるのか、という顔だった。雅子は先まわりして言った。
「あたしは何も喋らないよ」
「そうよね。二百万払ったしね」
弥生はさばけた口振りで言った。雅子は、弥生がこの間の工場での論争を根に持っていると感じる。
「そう。あんたの亭主を解体するには十分な報酬だったよ」用の済んだ雅子は手を挙げた。「じゃ、行くから」
「わざわざどうも」
外に出て車に乗り込みドアを閉めた途端、弥生が追いかけてきた。雅子は助手席のドアを開けてやった。
「聞き忘れたわ」
弥生は外の空気に触れて冷たいのか、まだ濡れた髪を両手で撫でつけて乗り込んでくる。若い娘のようなリンスの匂いが車内に満ちた。
「何なの」
「この間、工場で言ってた仕事って何。またバラバラにしたっていうの」
「あんたには言わないことにするよ」
雅子はエンジンをかけた。静かな住宅街に音が響き渡る。
「どうして」
弥生は屈辱に身を震わせ、形のいい唇を噛んだ。雅子を見ずにフロントガラスを睨んでいる。ぴたっと納まりきれないワイパーに枯れ葉が数枚挟まっていた。
「言いたくないもの」
「何で。それどういうこと」
「あんたみたいな無防備な女に言うと、碌《ろく》なことないもん」
弥生は何も言わずに車のドアを開け外に出た。雅子は弥生のほうを見ないでバックギアに入れ、車を路地から出した。怒りを表す激しいドアの音をさせて、弥生が家に入った。
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邦子は午後遅く起き出し、まずテレビをつけた。そして、近くのコンビニで買ってきた自分たちの工場で製造された弁当を食べた。
おそらく隣のラインが作ったであろうカルビ弁当。この肉の均《なら》し方は新人に違いない、と邦子は喜んだ。新人はコンベアの速度に追いつかないから肉を広げる間がない。従って、よじれた牛肉が普通の量よりたくさん入っているという訳だ。
こんな弁当に当たっただけでも、今日は幸せと思うべきだ。邦子は浮き浮きしながら肉の枚数を数えた。十一枚も入っている。中山がよく文句を言わなかったものだ、とせせら笑う。師匠が均した日には、きれいに広げきったカルビ六枚で白飯を埋めてしまう。
そこから邦子はヨシエのことを考えはじめる。最近、ヨシエの景気がいいのが気にかかっていた。娘を進学させると急に言いだしたし、アパートを物色しているとも言う。弥生から貰った五十万でそれだけのことができるはずがない。五十万と言ったら、せいぜい引っ越せる程度の金ではないか。
貯金があったのだろうか。いや、それは絶対にあり得ないと邦子はかぶりを振る。ヨシエが困窮《こんきゅう》していたことは知っている。あんな貧乏暮らしをするくらいなら死んだほうがましだ、と内心|蔑《さげす》んでいるほどなのだから。どこかおかしい。金に関してだけは異常に勘が冴える邦子は首を傾げる。
想像は邪推に発展した。もしかすると、自分に内緒で弥生がヨシエにだけは五十万以上払ったのではないか。一度そう思いつくと、止まらない。根本的に他人の幸せが気に入らない邦子は自分だけが損をするような気がして、それがまた妄想に拍車をかける。今日工場で会ったら、ヨシエを、いや弥生を問いつめてみようと決心する。邦子は用の済んだ割り箸を力任せにへし折って、弁当殻に突っ込んだ。
自分の金はまだ十八万ほど残っている。邦子はそれを思い出してにんまりした。あの金で種々のローンの利子を支払い、赤い革のジャンパー、黒のスカート、紫色のセーターを買った。ブーツも欲しかったが、それはさすがに我慢して代わりに化粧品を何点か買った。それでもまだ十八万も残っているのだ。これほどの幸せはない。十文字の支払いがなくなったのも儲けものだった。
邦子は十文字があの秘密をどうして知りたがったのか、そしてそれをどう使ったのか、関心も興味もなかった。火の粉《こ》が自分にさえ降りかからなければいいのだ。あの秘密が公になれば、自分も逮捕されるのでは、と不安に感じたこともあったが、刑事がまったく来なくなった今、どうでもよくなっていた。
邦子の内部では、健司を解体したことなどとっくに過去の出来事になっている。ただ、そのことを利用できるのなら、徹底的に利用してやりたい。脅迫でも強請《ゆすり》でも何でもござれ。それしか頭にない。
邦子は弁当殻をゴミ箱に捨てると、工場に行くために顔を洗い、鏡の前で化粧を始めた。買ったばかりの口紅を包装から取り出してつけてみる。秋の新色の茶色だ。店員に勧められて買ってみたが、色白で太った邦子には顔が暗く見えて似合わなかった。唇が飛び出て見える。店で試した時に「よくお似合いです」なんて店員におだてられ、その気になったのがまずかった。四千五百円もしたのに。
邦子は買ったことを後悔する。この色ならスーパーで売ってる八百円のもので充分だった。悔しくてたまらない。だが、ファンデーションを変えれば似合うようになるかもしれないと思いつくと、邦子はそのアイデアに夢中になった。女性誌のメイク特集を慌てて開き、そのページに見入った。新しいファンデーションと、ついでに新しいブーツを買うことに決める。
欲望を満足させるために商品を買い、その商品のためにまた新たな物欲が生まれる。次第にエスカレートしていく。きりのない追いかけっこをしているのが、邦子の生き甲斐《がい》だった。というより、邦子自身だった。
化粧を終えた邦子は、新しい紫色のセーターに袖を通し、黒のスカートを合わせた。下に黒のタイツをはくと、いつもよりスマートに見えることを発見する。邦子は鏡の前で思いっきり科《しな》を作ってみた。すると、体の奥底で何かがずきんと疼《うず》いた。
男だ。男が欲しい。最後にセックスをしたのはいつだっただろう。邦子は慌ててミスターミニッツのミニカレンダーを手に取った。哲也が出ていったのが、七月の終わり。それ以来だから、三ヵ月以上はご無沙汰ということになる。あんな馬鹿な男でも、一緒にいる価値はあったのだ。邦子は急に遣る瀬なくなり、服でごたついたベッドの上に身を投げ出した。
こんなに綺麗にお洒落をしたのだから、誰かに素敵だと言われたい。抱き締められたい。もちろん、貧相な哲也なんかと違う、逞《たくま》しい男に。痴漢でも何でもいい。その辺の行きずりの男でも構わない。邦子の欲望は急速に倍加し、切迫していった。
物欲がひと渡り満足すると、今度は別の欲望が刺激される。止まらない想像がどんどん邪推を生むように、ひとつの商品が別の商品への物欲を刺激するように、邦子は性欲すらも発展させ膨らませていく。
邦子の脳裏に宮森カズオのことが浮かんだ。年下らしいが、ハーフでハンサムなカズオのことは前から気に入っていた。体もいい。この間、ヨシエと金の入った封筒を預けた時も、気軽で親切だったではないか。寮にルームメイトと住んでいるのなら、絶対に女日照りに違いない。勝手に確信した邦子は、工場に行ったら話しかけてみようと決心した。そうだ、そうしよう。懐に金があると元気になる邦子は、張り切って起き上がった。
邦子は車のドアを開けた。赤いジャンパーは、紫色のセーターを目立たせるように手に持っている。せっかくセットした髪が乱れないように、今日はキャンバストップを上げないで行くつもりだ。
ただひとつ心配なのは、雅子と駐車場でかち合うことだけ。最近は、雅子の顔を見るのもうんざりで、同じラインにも入らないように気を配っているくらいなのだから。それを避けるには少しでも早く着くしかない。邦子は団地の駐車場からゴルフを勢いよく発進させた。
駐車場に着くと、番小屋の横に警備員が立っていた。
紺色の制服に警棒をぶら下げ、胸には大きな懐中電灯。警備員がいるのでは、雅子の言った通り痴漢と遭遇する訳もなく、少しがっかりした思いで邦子は車から降り立った。ドアを閉め、警備員のほうを睨む。
「ご苦労さんです」
警備員が敬礼しながら一礼した。その丁重さが気に入り、邦子は男をよく見た。工場の夜間警備員は退職した初老の男だったが、ここの警備員は工場の男と比べるとはるかに若い。体格ががっちりしていて、制服が殊《こと》のほか似合う。顔は駐車場が暗いためよくわからなかったが、どことなく自分好みの予感がした。邦子は弾んだ声で挨拶を返した。
「おはようございます」
警備員はその挨拶に慣れていないのか、一瞬戸惑った表情をした。
「工場に行かれるんですね」
「そうよ」
「じゃ、送りますから」
警備員は気軽に言って、邦子に近づいてきた。声は低く柔らかい。邦子は媚びを含んだ甲高い声で訊ねた。
「え、いいんですか」
「はい。途中までお送りすることになりましたから」
「一人一人送ってくれるの」
「途中までですみませんけどね。あの工場の跡さえ越えれば明るいということですので」
番小屋の照明が、こちらを向いた警備員の横顔を照らし出した。平凡な顔つきにも見えたが、厚めの唇を引き結んでいるところが頼りになりそうでもあり、邦子の出会ったことのない種類の男に見えた。が、それがどういう種類なのかは、邦子の頭では分類できかねた。
「すみません」
邦子は、新しい服を着てきてよかったと思った。それに今日の自分は、いつもより念入りに化粧したのだから綺麗に見えるはずだ。何かが起きるような予感を感じながら、駐車場の出口で待っていると、警備員が胸から外した懐中電灯を手にして足下を照らした。行く先々に、小石の散らばる地面が丸く現れる。まるで二人で探検に出かけるみたいだ、と邦子はわくわくしながら警備員と並んで夜道を歩きだした。
「あれ、あなたの車ですか」
邦子の気分に同化してか、警備員が明るい声で話しかけてきた。
「そうです」
「かっこいいですね」
彼は感心した口調になった。
「どうも」邦子はまだ車のローンが三年も残っていることも忘れ、自慢げに笑った。
「何年くらい乗ってるの」
若い男と会話しているようで邦子は楽しくなる。
「三年目。でも、お金かかるんですよ。あれ、何ていったかしら。ガソリンの」
「燃費ですか」
「そう。それそれ」邦子は何気なく警備員の腕を掴んだ。男の腕の筋肉が手に感じられ、胸が疼《うず》く。
「リッターどのくらいですかね」
「さあ。わからないけど、ガソリンスタンドの人があまりよくないって言ってました」
「そうですか。それにあの車はハンドル重いでしょう、けっこう」
「そうなの。詳しいですね」久しぶりに物欲を満足させたため、満ち足りた気持ちが邦子を幸福にしている。にこにこして言った。「前に乗ってたことある?」
「まさか。外車なんて」
苦笑した男は廃工場の前で歩を停めた。左手の廃工場はいつもは気味が悪いが、今日はテーマパークの作られた廃墟《はいきょ》のように、邦子を冒険に誘っている。
「はい、着きました」
邦子はこれで終わりかとがっかりした。警備員は敬礼しながら、
「気をつけていきなさいよ。仕事頑張って」と言ってくれた。
「はーい」
甘えた声で答えた邦子は、新しい喜びを発見した思いで嬉しくなる。こういう出来事があれば、さらに自分の欲望は刺激されるだろう。そうなればすべての意欲が湧いてくるのだ。邦子はブーツと合う新しいスーツも買おうと心に決めた。色は細く見える黒に決まっている。工場に着いてもその弾んだ気分が続いていて、宮森カズオの姿を見ても、心はちっともざわめかなかった。
鼻歌を歌いながら、そろそろ洗濯の必要になった汚れた作業衣に着替える。ヨシエが出勤してきた。ヨシエはくたびれたジャージに黒のセーターをきているが、胸に新しい銀のブローチをつけていた。邦子はめざとく見つけて値踏みする。五千円はしそうな代物。ヨシエには贅沢すぎる。
「早いね」
ヨシエは邦子を見た途端に嫌な顔をした。邦子はむかっ腹が立ったが、表向きは先輩を立てることを忘れない。
「おはようございます」
丁寧に挨拶し、さっそく、世辞《せじ》を言う。
「師匠、そのブローチ素敵ですね」
「ああ、これ」ヨシエは相好《そうごう》を崩した。「思い切って買っちゃったよ。前からこんなの欲しいって思ってたんだけど、買えなかったじゃない? パーマかけるのとどっちにしようと思ったけど、こっちにしちゃった。あたしも女だって思ったよ」
「あのお金で?」と邦子は声を潜めて訊ねる。
ヨシエは顔を赤らめた。
「そうだけど。悪い?」
「いえいえ、悪くなんかないですよ」
邦子は素知らぬ顔で着替え終わった。そろそろ雅子が来る頃だった。その前にあのことを聞いておこう。
「師匠、山本さんからの謝礼の件ですけど」
ヨシエは周りを気にして小声になり、邦子の大きな顔に自分の顔を寄せた。「何よ」
「あの、あれ、ほんとに私と同じ額ですか」
「それ、どういう意味だよ」
ヨシエはむっとして問い返した。邦子は慌てずに言い訳する。
「そういう意味じゃなくて。たいして働いてないのに、こんなに貰っちゃっていいのかなと思って。だって師匠と同じだなんて申し訳ないですよ。雅子さんは最初、十万て言ってたじゃないですか」
「いいんだよ」ヨシエは邦子の厚い肩を叩いた。「みんな同じ思いしたんだから」
「じゃ、ほんとに五十?」
「ほんとに五十だよ」
ヨシエは頷いたが、邦子の目を見ようとしなかった。嘘をついている。邦子は追及する。
「あたしと同じなんですね。それなのに、どうして贅沢できるの」
「贅沢なんてしてないよお。何言ってんの」
ヨシエは憮然《ぶぜん》とした。
「そうかなあ。何かもっと入ったみたいに見える」
「たとえそうだとしても、あんたに関係ないじゃない」
「関係ないかな」意地悪く邦子はヨシエのブローチを無遠慮に眺めた。
ヨシエが助けを求めるように、更衣室からサロンを見渡す。その顔に安堵の色が浮かんだ。ちょうど雅子が入って来たのだった。雅子にしては珍しく、からだにぴったりした黒のセーターに黒のパンツという装いをしている。
「へえ。あの人、女物も持ってるんだ」
邦子は聞こえよがしに大声で言ったが、雅子には届かないらしい。雅子は二人に気付かずに、自販機の灰皿の前で煙草に火をつけている。憂鬱そうに顔を顰め、標語だらけの壁を凝視して、一本の煙草をじっくり味わっていた。邦子は雅子を睨みつける。その服は見たことがなかった。雅子が金を貰っていないというのも嘘なのではないか。二人してこの自分を騙《だま》しているのではないか。しかし、やはり雅子は苦手だった。
「じゃ、お先に」
邦子はつくつく帽子を手に、早々に更衣室から出た。雅子が壁際を向いているうちに、気付かれないように背後を擦り抜け廊下に出る。次は弥生だった。弥生を問いつめ、白状させなくては気が済まない。
ところが、いくら待っても弥生は来なかった。タイムカードを押す場所で、なおも玄関を見張っていると後ろで気配がした。
「山ちゃんはもう来ないよ」
作業衣に着替えた雅子が立っていた。
「あ、どうも」
「どうもじやないよ」
雅子は邦子を払いのけ、自分のカードを取り上げて押した。
「あの、山本さん、もう来ないってどういうことですか。二度と来ないってことですか」
邦子は、雅子に対していつも感じる気後れを何とかしようと焦りながら問う。
「そうだよ」
「どうしてですか」
「さあ。あんたに脅迫されるのが嫌なんだろう」
雅子はさっさと靴箱からくたびれたスタン・スミスを取り出している。それは、床の油や天丼のべたべたしたたれ[#「たれ」に傍点]で茶色く汚れきっていた。
「そんな人聞きが悪い。あたしはただ」
「いい加減にしなよ。邦子」
振り向いた雅子は怒鳴った。触れると切れる刃のように目の光が増している。邦子は怖ろしくなって立ちすくんだ。
「いい加減ってどういうこと?」
「山ちゃんに五十貰って、十文字に借金ちゃらにしてもらって、これ以上何が欲しいのよ」
十文字に喋ったことを知っていたのか。邦子はぽかんと口を開けた。
「何で知ってるの」
「十文字が喋ったもの。あんたは馬鹿でぐうたらで、ほんとのろくでなしだよ」
前にも雅子に同じ言葉で罵《ののし》られた気がする。邦子はぷっと頬を膨《ふく》らませた。
「失礼ね……」
「失礼はそっちだよ」雅子は邦子の肩の辺りを肘でどんと突いた。雅子の尖《とが》った肘の骨が鎖骨に当たって邦子はよろめく。
「何すんのよお」
「あんたが喋ったことで皆地獄に行くのさ。馬鹿だね、ほんとに。自分の首絞めて」
雅子は言い捨てると、工場へ向かう階段へと歩いて行った。雅子の背筋の伸びた後ろ姿が角を曲がって消える。置いていかれた邦子はその時初めて、自分はとんでもないことをしでかしたのだろうかと戦《おのの》いた。
しかし、例によって反省は長続きしなかった。邦子はここにいられないのなら、ほかの職場を探さなくては、と考えた。せっかくあの警備員とも仲良くなろうとしていた矢先なのが残念だったが、やばいのなら一刻も早く雅子たちから離れたほうがいいだろう。
邦子はパートタイマーのタイムカードが差し込まれた壁の木製ラックを眺めた。ここには二年近く勤めた。慣れたけれども、別の職場を探さなくてはならない。もっと収入のいい楽な仕事、こんな嫌な同僚のいない素敵な職場。いい男が待っている場所。どこかにあるに違いなかった。今度は風俗でも構わないと、今日のところは自分に自信のある邦子は思う。そうだ、探してみよう。いつもの欲望の追いかけっこが始まった。それは面倒からの逃避でもある。
早朝、勤務を終え、くたびれて帰ってきた邦子に歓迎すべきことが待っていた。
団地の駐車場に車を停め、郵便受けの並んだ貧相なエントランスに入って行く。邦子の足音に男が振り向いた。男は顔を綻ばせた。
「あれ、奇遇ですね」
邦子はしばらく男が誰かわからなかった。
「ほら、ゆうべ駐車場で会ったでしょう」
「ああ、わからなかったあ」邦子は嬌声《きょうせい》を上げた。「いやだあ」
男は駐車場の警備員だった。制服姿ではなく、紺のジャンパーに灰色の作業ズボンという私服に着替えていたし、あの時は暗がりで顔もよく見えなかったからだ。
男は前の住人の子供が貼ったステッカーやシールでいっぱいの薄汚れた木製の郵便受けの扉をぱたんと閉じて、邦子のほうに向き直った。正面から見ると、男の顔は悪くなかった。色黒でどことなく得体の知れない危うい感じがする。邦子の心が騒いだ。カルビ弁当のつきはまだ消えてない。
「お帰りはいつもこの時間なんですか」邦子の思惑になど気付かない様子で、男は腕時計を眺めた。安物のデジタル時計だった。「いやあ、大変なお仕事ですねえ」
「そうよ。でも、あなたもそうでしょう」
「はあ。でも始めたばっかりでねえ。大変なのかどうかよくわからないですね」男は首を傾げ、ジャンパーのポケットから煙草を取り出しながら眠そうな顔で外を眺めた。十一月に入って日の出が遅くなり、ようやく太陽が昇ったところだった。「冬は暗いから、女の人は大変ですよね」
邦子は、もう辞めるのだから、とは言えなかった。
「でも、慣れたし」
「あ、申し遅れました。私、佐藤といいます」
男は煙草を持つ手を下ろし、丁寧に挨拶した。邦子も慌ててお辞儀をする。
「あたしは城之内邦子。五階に住んでるの」
「そうですか。いやあ、よろしくお願いしますよ」
佐藤は嬉しさを隠さずに、頑丈な白い歯を覗かせて笑った。
「こちらこそ。あの、ご家族で住んでらっしやるんですか」
「あ、いや」佐藤は口籠《くちご》もった。「実は離婚しましてね。一人で住んでます」
離婚だって。貪欲な邦子の目に光が宿った。が、佐藤は私生活を話したためか、恥ずかしそうに横を向く。
「そうでしたか。でも、嬉しいわ。あたしもそうなんだから」
佐藤が意外な顔をして邦子を見た。その目に喜びがなかったか。その目に欲望がなかったか。邦子は心が弾んで、今日はブーツとスーツと、金のネックレスを買いに行こうと思った。そして、佐藤の脇から、佐藤がさっき閉めた郵便受けの部屋番号を確認した。四一二号室だった。
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何かが引っかかっていた。風呂場を掃除している雅子は、そのことをずっと考えている。しかし、答えはなかなか出ない。
雅子は浴槽の湯垢《ゆあか》をスポンジで落とし、泡が完全に消えるまでシャワーで洗い流した。仕事に身が入らないせいか手が滑り、シャワーを取り落とした。シャワーはノズルから水を噴き出させながら風呂桶の縁で跳ねて、タイルの上にごつんと落ちた。雅子の顔や体に冷たい水が浴びせられる。雅子は水圧で蛇のようにのたうちまわるシャワーを押さえた。濡れた手から足から、寒気が背筋まで走った。
午後から雨になった。気温も急速に下がり、十二月下旬並という寒い日だ。雅子はトレーナーの袖で濡れた顔を拭い、開け放してあった窓を閉めた。そこから、雨の音と冷気が入ってきていた。雅子はびしょ濡れの衣服を見下ろし、底冷えのする風呂場のタイルの上でぼんやりと考え込んでいる。
こぼれた水が乾いたタイルの上に細い筋となって排水溝に流れていく。健司の血や体液、そしてこの間の老人のそれも、この家の真下を流れる下水からすでに大海に流れ込んでいっただろうか。十文字が棄てに行った老人の肉体のかけらは灰になって、南の海に流れていっただろうか。雅子は、少し遠くなった雨の音を窓越しに聞きながら、台風の時の暗渠の川の音を思い出している。あの暗渠の堰《せき》に引っかかった幾多の種類のゴミのように雅子の意識に引っかかり、流れていかないものはいったい何か。雅子は、昨夜の記憶を辿った。
昨夜は弥生のところに寄ってから出勤したので普段より遅くなった。
遅刻はしたくなかったが、雅子の心は、弥生の家から姿を消した森崎洋子という女のことに大きく占められていた。女は弥生の保険金目当てで近づいてきたのか、別の目的があるのか。このことを十文字に相談したものだろうか。それとも十文字が絡んでいやしないか。誰も信用できない。雅子は、夜の海を単身で航海しているかのごとくに怖れ、迷っていた。
駐車場の番小屋に明かりが灯っているのが見えた。警備員の姿はなかったが、これまで街灯の光さえ届かなかった薄暗い駐車場にあって、あたかも暗い海を照らす灯台のようにも見える。ほっとした気分で、雅子は自分のスペースの前で車をバックさせた。すでに邦子のゴルフはある。
制服の警備員が暗い夜道から戻って来た。警備員は番小屋の前で大きな懐中電灯をいったん消し、それから雅子の車に気付いて再び点灯した。そして、カローラのナンバープレートを照らし出した。工場側に従業員の車のナンバーは登録してあった。違法駐車のチェックが仕事ならそれも致し方ない。が、不必要に長かった気がする。
雅子は車を停めて、警備員が砂利を踏んで近づいてくるのを待っていた。上背があってがっちりした中年男だった。
「ご苦労さんです。工場に行かれるんですか」
声は低く柔らかく、耳に心地よく響いた。こんな声の持ち主がどうして警備のような孤独な仕事を選んだのかと訝《いぶか》るほどだった。
「そうです」
答えた雅子の顔に懐中電灯が当てられた。その時間も長かったような気がする。相手の顔が見えない分、不快だった。眩《まぶ》しさに雅子が腕で顔を覆うと、警備員は謝った。
「すみません」
雅子はドアをロックして歩きだした。警備員は少し後ろからついて来る。不審に思って振り返った。
「お送りしますから」と言う。
「どうしてですか」
「痴漢騒ぎで、一応そういうことになったんです」
雅子はきっぱり言った。
「大丈夫です。一人で行きますから」
「でも、何かあるとこっちが困りますから」
「もう遅いから走りますので」
断ったのにもかかわらず、警備員はまだ去らない。雅子の行く先数メートルを懐中電灯で照らしながら後を追ってくる。鬱陶《うっとう》しくなって、雅子はいきなり立ち止まると振り向いた。警備員と暗闇で目が合った。ずっと雅子の背を見つめていたのだろうかと思えるほど、正面で顔が相対した。瞬間、以前どこかで会ったのでは、という懐かしい気がした。警備員も雅子を見つめている。
「前に」言いかけたが、すぐにまったくの初対面だとわかった。「いえ、何でもないです」
やや小さな目が、目深に被った制帽の下で凪《な》いだように穏やかだった。反対に口が大きく厚めの唇が貪欲そうに見える。不思議な顔だ、と雅子は目を背けた。
「暗いからそこまで行きますよ」
「いえ、一人で行きますからほっといてください」
「わかりました」
警備員は根負けした風に苦笑した。穏やかに見えた目に、一瞬、獣めいた原始的な怒りが現れたように思えた。直截《ちょくせつ》にものを言うと腹を立てる人間がいる。この男もそうなのか、と雅子は考えたのだった。
翌朝、勤務を終えて駐車場に戻ってくると、すでにその警備員はいなかった。ただそれだけの出来事だった。
にわかに、身辺に新たな気になる人物が現れすぎている。ごたついているのが何より気に入らなかった。寝室に戻って濡れた服を脱いでいると、折り悪しく居間で電話が鳴った。雅子は下着姿のまま電話を取った。
「もしもし」
「あたし。ヨシエだけど」
「師匠か。どうしたの」
ヨシエは泣きだしそうな声を出した。
「ねえ。どうしよう」
「どうしたのよ」
「ちょっと来てくれない? 困ったことが起きてさ」
寒さで、剥き出しの腕に鳥肌が立った。雅子の家はまだ暖房を入れていない。しかし、鳥肌は寒さのせいばかりではなかった。用件を早く知りたい焦れる思いと、いったい何が起きたのかという心配とが一気に溢れる。
「だから、どうしたっていうの」
「ここじゃ言えないし、今出られないんだよ」ヨシエは寝たきりの病人の耳を意識してか、小声で囁いた。
「わかった。すぐ行くよ」
雅子はジーンズをはき、最近買った黒いセーターを被った。勤めている頃のように、自分好みの服を揃えはじめていた。理由はわかっていた。一度捨てた自分を、再び拾い集めているのだ。しかし、拾い集めて完成したところで、毀《こわ》れた人形を縫い合わせるのと同様、以前とまったく同じ姿になる訳はない。
急いで車を出し、ヨシエの家の側の路地に停めたのは二十分後だった。
黒い傘を差して雨水の溜まった穴ぼこだらけの舗装路を注意深く歩き、ヨシエの貧相な家の前に着く。ヨシエが足踏みするように雅子を待っていた。灰色のジャージの上下の上に、毛玉がたくさんついた芥子色《からしいろ》のカーディガンを羽織っている。顔色が蒼白で、十歳以上も老けて見えた。ヨシエは軒に立てかけてあった傘を差して道まで出てきた。
「ここでいいかい」ヨシエは溜息混じりの白い息を吐いた。
「いいよ」雅子も黒い傘の中から答える。
「わざわざ悪いね」
「どうしたのよ」
「金がなくなったんだよお」ヨシエははらはらと涙をこぼした。「台所の床下に隠して置いたんだけどなくなったんだよ」
雅子は驚いて問い返した。
「百五十万全部?」
「いや。少し遣ったし、あんたに借金返したりしたから百四十万。それ全部」
「誰が盗《と》ったのかわかってるの」
「うん」とヨシエは頷き、躊躇《ためら》いがちに言った。「たぶん和恵《かずえ》」
「上の娘さん?」
「そう。さっき買い物に行って戻って来たら、孫がいないんだよ。どっか遊びに行ったのかと思ってたんだけど、この雨だから、そんなはずない。おかしいと思ってあちこち見たら、孫の服が全部なくなってるんだ。それで婆さんに問いつめたら、和恵が来て子供を連れてったっていうからさ。急いで台所見たの。そしたら、見事になくなってた」
ヨシエは悄然《しょうぜん》としている。
「前にもそういうことあった?」
「和恵にはそういう癖があるんだよ」恥ずかしそうに答える。「銀行に入れときゃよかったんだけど、うちは役所にばれるとまずいしさ」
「師匠、金のこと誰かに喋った」
「うん。喋ったってほどでもないけど、美紀《みき》に金が入るあてができたとは言った」
「短大のこと?」
「そうだよ。だから短大くらい行ってもいいって言ったら喜んでさ」ヨシエはまた泣き出した。「ああ、妹の進学の金を盗るなんて、ほんと情けない。情けない子だ」
「美紀ちゃんが盗ったんじゃないのね」
「違う。だって自分の金だし、イッセイがいなくなってるもの。きっと和恵から電話がかかってきた時、美紀が自慢したんだと思うよ。あたし、イッセイのことも可愛がってたんだよね、実は。それなのに」
「和恵さんに間違いないんだね。他人が入り込んだんじゃないんだね」
孫のことを思い出してまた涙ぐんでいるヨシエを、雅子は遮《さえぎ》り、しつこいほど念を押した。その理由はまだヨシエに伝えていない。
「間違いないよ。和恵なら、あの隠し場所のこと子供の時から知ってるもの」
それなら仕方あるまい。どうしようもない。雅子は言葉を失って、雨に濡れたダウンジャケットの艶の失せた生地を眺める。内心は、あの得体の知れない「他者」の犯行ではないことに胸を撫で下ろしていた。
「ねえ、どうしようか。あたし、どうしたらいい」
ヨシエはいつもの繰り言を述べる口調になった。
「どうしようと言われても、どうしようもないよ」
「ねえ、雅子さん」ヨシエは急にへりくだった。
「何」
「あんた、金貸してくれない?」
雅子はヨシエの顔を見た。ヨシエは必死に傘の中から縋《すが》りつくような目で雅子を見上げている。
「幾ら」
「百。いや、七十でいいよ」
「困ったね」雅子は首を横に振った。
「頼むよ。引っ越しを控えてるんだよ」
ヨシエは傘を抱えて手を合わせる。
「師匠は返すあてがないでしょう。そういう人には貸しにくいな」
「何、銀行みたいなこと言っちゃって。あんたのとこは亭主もいるしさ、あの金はまるまる眠ってるだろ」
「余計なお世話だよ」
雅子はきつい口調になった。ヨシエは雅子の言葉に殴られたように、口を噤《つぐ》んだ。ヨシエはこわごわ雅子の目を覗き込む。
「あんた、そういう人だっけ」
「そうやってやってきた」
「修学旅行の費用は貸してくれたじゃない」
「あれはあれ。でも、師匠はドジだよ。娘に盗られるなんて」
「そうだねえ」
ヨシエは急速にうなだれた。雅子は黙ったまま、傘を持つ手の凍える指先を動かした。二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
「貸さないけど、あげるよ」
雅子の言葉に、ヨシエは明るい表情になった。
「えっ。どういうことだい」
「師匠にあげるよ。百万」
「でも、困るんじゃないの」
「いや、いいよ。師匠よくやってくれたからさ。今度渡す」
百万くらいくれてやってもいいだろうと雅子は思った。
「ありがとう。ほんと恩に着るよ」ヨシエは雨の中、深々と頭を垂れた。「あのさ、それでね」
「何?」
「あの仕事、また入る予定ない?」
雅子は黒い傘の中にあるため、余計小さく見えるヨシエの顔を眺める。
「今のとこないね」
「入ったらあたしに声かけてよ。絶対だよ」
「やりたい訳ね」
雅子は沈んだ声を出す。しかし、「他者」のことなど知らないヨシエは、力を込めて頷いた。
「そう。もっと金が欲しいんだよ。稼げるのはあんな仕事しかないんだ。一番情けないのは娘どころか、このあたしかもね」
ヨシエは雅子に背を向けると、屋根も板壁も一度も手を入れたことのない薄汚れた家に入って行った。破れた樋から雨水が勢いよくこぼれ落ちて地面を穿《うが》っている。ジーンズの裾が雨の跳ね返りでかなり上のほうまで濡れていた。寒さで震えが止まらない。風邪を引きそうな予感を感じた時と同じく、あらゆる物事が雅子に注意を呼びかけている。
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ベランダの戸が大きく開け放されている。
摂氏五度。明け方の凍える風が吹き込み、部屋の中を外気温とほぼ同じにしていた。
佐竹は紺色のジャンパーのジッパーを喉元まで上げ、昼間と同じ灰色の作業ズボン姿でベッドに横たわっていた。この冷たい風が部屋中を通り抜けるようすべての窓を開け放したいが、北側の開放廊下側だけは堅く閉じてある。
四一二号室。南北に細長い団地サイズのせせこましい2DK。西新宿にあった自分のアパートと同様、仕切りを全部取り払い、家具は何もない。ベッドだけが武蔵野の空が見える位置に置いてあった。
夜明けの星が見える。だが、佐竹は寒さに震えながら歯を食いしばり、目を閉じている。少しも眠くはなかった。目を開けていたくもない。ひたすら目を閉じ、香取雅子の顔と声を正確に蘇らせるため、印象の断片を繋ぎ合わせ、もう一度分解し、何度もそれを繰り返している。
駐車場の闇の中、懐中電灯の光に照らし出された雅子の顔を思い浮かべる。少しの油断もない目つきと、現世の快楽を諦めた薄い唇、緩まない頬。その禁欲の匂いのする容貌に不安の影が浮かんだのを思い出し、佐竹は微笑む。
「一人で行きますから、ほっといてください」
他人を拒絶する低い声が佐竹の耳元で何度も響く。未舗装の暗い夜道を歩き出した雅子の後ろ姿。その数歩後を追った佐竹は、別の女の幻を見ている。振り向き、再び光の中に顔を露《あら》わにした雅子の眉間に、苛立ちを表す小さな縦皺が刻まれたのを見た時は、嬉しさのあまり鳥肌が立った。雅子は、佐竹がかつてなぶり殺しにした女によく似ていた。顔も声も眉間の皺も、すべて。
あの女は、当時の佐竹より確か十歳は年上だった。あの女が死んだというのは間違いで、本当はこの平べったく埃っぽい街で、こっそり生きていたのではないだろうか。香取雅子という名で。佐竹の顔を見つめながら、雅子も「前に」と言いかけた。自分によって、雅子の禁欲が破れかけた瞬間を見たと佐竹は思った。運命だ、と佐竹はつぶやく。
十七年前の真夏、あの女と初めて新宿の路上で会った時のことを思い出す。
佐竹の会の抱える娼婦たちは腕利きの口入れ屋によってごっそり引き抜かれていた。噂では、口入れ屋は娼婦上がりで、三十過ぎの遣り手だという。生意気な女だ、と若い佐竹は怒った。その女をはめるために、佐竹は時間をかけて巧妙に罠を仕組み、何人も囮《おとり》を放った。やがて女は罠にかかった。囮の一人と会うため、指定の喫茶店まで出てきたのだ。夕立が来そうな蒸し暑い夕方だった。
佐竹は逸《はや》る気持ちを抑え、物陰から女を見た。服装は派手で下品だった。ノースリーブの青のミニドレスはてろんとした化学繊維で、細い体に張りついて見るからに暑苦しく、白のサンダルを履いた素足のペディキュアは剥げかかっていた。髪は短く、ドレスの袖ぐりから黒いブラが覗けるほど痩せていた。が、性根の据わった目だけは本物だった。女はその目でいち早く佐竹の姿を発見し、店には入らずに身を翻《ひるがえ》して逃げた。
佐竹を認めた瞬間の女の表情だけは何年経っても忘れられない。してやられた悔しさが一瞬浮かんだ後、女は逃げおおせてやろうという決意を漲《みなぎ》らせて佐竹を睨みつけたのだった。窮地にいるくせに、佐竹を馬鹿にしたような目つき。その目が佐竹の身内にある何かに火をつけた。とことん追ってやる。捕まえて死ぬまでいたぶってやる。最初から殺す気など毛頭なく、ただ捕らえて脅す程度にしか考えていなかったのに、女の目が佐竹のそれまで意識しなかったものを引き出したのだとしか思えなかった。
舗道を必死に走って逃げる女を追いながら、佐竹は段々興奮する自分に驚いていた。本気で走れば女はすぐに捕まる。それではつまらない。もっと泳がせて安心させ、最後に捕らえる。さぞかし女は悔しがるだろう。そのほうが面白い。凪いだ蒸し暑い夕暮れ時、通行人を右に左に突き飛ばしながら走っているうち、佐竹は次第に荒ぶっていった。後ろから女の髪を掴んで引き倒す感触まで、その手に覚えたほどだった。
女は死に物狂いで赤信号を突っ切って靖国《やすくに》通りを渡ると、伊勢丹《いせたん》側から地下街に駆け下りて行った。歌舞伎町にいれば佐竹の仲間が大勢張っていると読んだのだろう。佐竹にとって新宿は庭のようなものだ。佐竹は女を逃した振りをして地下駐車場に入り、全速力で青梅街道の下をくぐり抜け、反対側の地下街に出た。そして、佐竹をまいたと安心した女が隠れ場所のトイレから出てきたところを、背後から腕を掴んだのだ。真夏の路上を走った後で、女の剥き出しの腕は汗で湿っていた。その感触まではっきり覚えている。油断していた女は驚愕し、再び激しい悔しさを露わにした。
「ゲス野郎。はめやがって」
女の声は、佐竹の怒りに油を注いだ。低く掠《かす》れた耳障りな声。
「てめえ、無事に帰れると思うなよ」
「何でもやってみな」
「思い知らせてやる」
佐竹は憎しみを募らせる女の脇腹にドスを突きつけ、このまま刺したいという欲望と闘っていた。刃物の切っ先でドレスの布地を切られた女は観念したようにそれきり黙り、佐竹の部屋に連れて来られる間も命乞いひとつしなかった。逃がすまいと佐竹がしっかり掴んだ腕は、骨組みがわかるほど痩せていた。顔の肉も薄く、鋭い目だけが野生の動物のように底から光を放っている。この女を好きにできる。激しく抵抗されることを思うと、楽しさすら覚えた。それまで女に対してそんな感情を持ったことがなかった佐竹は自分が不思議でならなかった。女は快楽の道具にすぎなかった。だからこそ美しく従順な女が好みだと思っていたのだ。
佐竹は自分のマンションに女を引きずり込み、すぐにクーラーを「強」にした。部屋は蒸し風呂だった。カーテンを引き、照明をつける。まだ部屋が冷えないうちに、女の顔を殴りつけた。早くそうしてみたくてたまらなかった。女は許しを乞うどころかますます暴れ、目を怒らせた。憎しみが美しさを倍加するのかと佐竹は思い、殴ることを止められなかった。無惨に顔が腫《は》れた女を佐竹はベッドに縛りつけた。そして、クーラーの唸《うな》りしか聞こえない部屋で、どのくらい時間が経ったのかわからないほど何度も犯した。
汗と血が混じり合い、革ベルトできつく縛られた女の手首が切れて新たな血を流しはじめた。女の腫れ上がった唇を吸うと血が口に入った。血の匂いは金属の匂いに似ている。佐竹は地下街で女の脇腹に突きつけたドスをいつの間にか手元に引き寄せていた。
唇を合わせながら交わるうちに、女は急に声を上げた。いつの間にか女の目から憎しみが消え、女は佐竹を受け入れている。佐竹は、もっとこの女の中に入り込みたいと切なくもどかしく思った。気が付くと、手近にあったドスで女の脇腹を刺していた。女が悲鳴とともに昇りつめたのを知り、佐竹は恍惚の中で果てた。
地獄だった。佐竹は女の体のあちこちを刺し、指を入れ、それでも女の中に入りきれないことを知り、狂い、焦りながら抱いた。もっと肉と肉を溶け合わせたい。女の中に潜り込みたい。そして、この女は可愛い、愛おしいとつぶやき続けた。佐竹と女との血塗《ちまみ》れの性交は天国になった。二人にしかわからない地獄と天国。それが誰に裁けようか。
この事件で佐竹はそれまでの自分のすべてを失った。が、同時に新しい自分も得たのだった。佐竹|光義《みつよし》という男の境界を分けた運命の女。その女に生きて巡り会えるとは思わなかった。これこそ自分では思い通りにいかないこと、つまり自分の運命そのものなのだと佐竹は思う。ひんやりした手で佐竹の背中によじ登っていた黒い幻が、今、滑り落ちていく。代わって、香取雅子が、佐竹を地獄に天国にと誘っていた。
星の出ているこの時間も、まだ弁当工場で立ち働く雅子の姿が想像できる。あの孤独を張りつかせた顔で冷たいコンクリートの上を歩きまわっているのだろう、何事もなかったかのように。捜査の目が逸《そ》れてよかったとほくそ笑んでいることだろう。あの殺した女も男を出し抜いて嗤《わら》う遣り手だった。
だが、そうはいかない。自分が捕らえたら、雅子の油断のない目にも激しい後悔が浮かぶだろう。殴りつけたら、肉の薄い頬は裂けて血が噴き出すに違いない。懐中電灯に照らされ、眩しそうに細めた雅子の目が再び佐竹の脳裏に蘇った。佐竹はねっとりした砥石《といし》で刃物を研《と》ぐように、殺意を、欲望を研ぎ澄ました。
雅子が弥生を助け、仲間を動員して死体の始末をしたことは想像がついた。弥生にそんな度胸も知恵もないことはわかっているからだ。雅子を見て以来、佐竹は弥生に対する興味を急速に失っていた。保険金を掠《かす》め取るくらいしか、あの女の価値はない。どだい、あんなつまらない男の妻なのだ。痴話《ちわ》喧嘩の果てに殺しをしようと、どう改悛《かいしゅん》しようと自分の知ったことではない。佐竹は山本を、そして弥生を軽蔑している。佐竹にとって、軽蔑ほどあらゆる行動を萎えさせる感情はなかった。
雅子を見た今、自分が何のために復讐を果たそうとしていたのか、そんなことなどどうでもよくなっていた。
佐竹は両手を伸ばして簡素な鉄製のヘッドボードに触れた。そこは外気のせいで、凍りつくほど冷たい。握っていると、掌の感覚がなくなりそうだ。裸に剥いてここに縛りつけてやろう。猿ぐつわをかませ、窓を開け放したまま思い切りいたぶってやる。寒さできっと鳥肌が立つに違いない。その粟《あわ》のような粒をナイフでこそぎ取れるだろうか。暴れたら腹を抉《えぐ》ってやろうか。恐怖のあまり慈悲を乞い、苦しんでのたうちまわっても許さない。そのくらいは耐える女だ。
最後には、あの殺した女のように「びょういん」と自分の耳元で囁くだろうか。屈服と執念の言葉。死なせたくはないが、死をともに味わいたいという引き裂かれた思い。あの時ほど、あの女が愛おしいと思ったことはなかった。死をともに味わった歓びと哀しみの経験はいまだかつてない感動をもたらした。佐竹はその声音を思い出し、震えた。出所以来初めて勃起《ぼっき》していた。佐竹はズボンのジッパーを下げ陰茎《いんけい》を掴み出し、白い息を吐きながら自慰《じい》を始めた。
しらじらと夜が明けてきた。
佐竹は起き上がって、紫色の山並みの輪郭が白く光り、その上に茜色《あかねいろ》の雲を引き連れて太陽が昇るのを目を細めて眺めた。富士山の山影がひときわ大きくはっきりと、山並みの上に聳《そび》え立っている。そろそろ雅子が寝不足の目を腫らして家路につく時間だった。佐竹には、雅子の不機嫌な顔も、煙草を吸う仕草も、駐車場の土を蹴る重い足どりも、すべて手に取るようにわかる。自分が雅子を追いつめた時、どんな表情をするかもわかっていた。悔しさと敵意とで、あの目を凄ませる。あの女と同じように。
眠れ。いずれ、おまえは俺に殺される。それまで安らかに眠れ。佐竹は優しさと言っても間違いではない感情を募らせ、雅子の住む家の方角に向かって念じた。
佐竹は昇るごとに力を増す朝陽を遮るためにベランダの戸を閉め、黒い遮光カーテンを引いた。部屋はたちまち夜の世界に変わった。
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外から拡声器で何かの販売を告げる割れた声がする。
佐竹は目を覚まし、腕にはめたままの時計を見た。午後三時。寝転がったまま煙草を吸い、天井のパネルを眺める。茶色の染みがぼんやりと広がっているのが、カーテンの隙間から漏れる光でも見えた。
佐竹は、カーテンはそのままに枕元のスタンドをつけると、床の上に置いてある書類の山のほうを見遣った。前の住人が残した、食べこぼしの跡がついたカーペットの上に、白い表紙の調査報告書がきちんと角を揃えて積まれていた。佐竹がある探偵事務所に事前調査を命じたものだ。弥生、ヨシエ、邦子、そして雅子。邦子と雅子のルートから、最近は十文字の分まで増えている。これらの調査に、佐竹はすでに一千万近くの金を投じていた。
佐竹は二本目の煙草に火をつけ、暗記するほど読んだ報告書をもう一度拾い読みした。最初は、弥生の家にまんまと潜り込んだ森崎洋子からの報告だ。
「山本家の長男(5)の話。
当夜(健司の失踪日)、父親が帰ってきた物音を聞いた。母親が玄関まで迎えに出て何か話していたような気がする。でも、翌朝、母親から夢でも見たのだろうと言われ、真実かどうか自信がなくなった。しかし、前の晩、二人は喧嘩し、母親は父親に殴られていた。ショックと恐怖で眠れなかったから間違いない。母親のおなかにその時の傷があるのを、お風呂に入る時に見たことがある。
次男(3)の話
父親と母親はよく喧嘩をしていたようだ。寝ていたのでわからないが、父親が帰ってくると、よく大きな声で怒鳴り合っていた。そのたびに怖くて布団を被り、寝た振りをしていた。当夜(健司の失踪日)のことは覚えていない。でも、可愛がっていたミルクという猫が突然家出をしてしまった。そして、いくら呼んでも家に入って来なくなった。どうしてかわからない。
近所の主婦(46)の話
奥さんは美人だし、夜勤をしていると聞いていたから、男でもいるのだろうと思っていた。事実、夜中や早朝によく怒鳴り合いの大喧嘩をしているのを聞いたことがある。最近、奥さんが前よりも綺麗になったので、近所では怪しいと噂している。
近所の主婦(37)の話
変な噂を聞いた。逃げた猫は子供たちには寄っていくが、奥さんには決して寄りつかないらしい。顔を見ると怖がって逃げていくのだそうだ。あの晩から家に入らなくなったと聞いたから、猫が何かを見たのに違いないと皆言っている。あの家でバラバラにして、血や内臓を下水に流したんじゃないかと思うと、気持ちが悪い。
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山本弥生の評判は芳《かんば》しくない。その原因は、事件後の弥生の変貌によるものが大きい。悲しむ様子もあまりなく、むしろ解放感に溢れて美しくなったとの評判が疑惑を生んでいる。事実、家に住み込んで観察した結果も、夫が死んだことを喜んでいるふしは多々見受けられた。
また警察から電話があって、カジノ経営者が逃亡したという話を聞いた瞬間を目撃したが、明らかに喜んでいたように見受けられた。警察がカジノ経営者の見込み捜査に没頭しているためか、本人は余裕で、事件のことも忘れたかのように振る舞うことがある。
長男から聞き出した腹の傷のこともさり気なく訊いたら、夫に腹を殴られたことがあると一言だけ言った。ただし、その時期も理由も語らない。
近々、保険金が入ることが確定し、経済面での心配を免《まぬが》れたせいか、工場も辞めたがっている。だが、工場の友人たち、特に香取雅子からの電話には卑屈な態度をとることが多い。そして、なぜか接触を怖がっている。
男関係の噂も事実もなし。
なお、保険金支払いは十一月終わり。山本弥生の口座に満額五千万円振り込まれる。」
「香取雅子の報告書
近所の主婦(68)の話
建設会社に勤めているご主人との仲は普通。だけど、連れだって出かけたことなど一度も見たことがない。長男(17)が口を利かなくなったという噂がある。以前はステレオの音がうるさくて迷惑したが、最近はおとなしい。だが、道で会っても挨拶しない暗い子供。雅子本人は愛想はよくないが、きちんと挨拶する。ただし、あまり身なりに構わない変わった人という印象がある。
斜め向かいの女子受験生(18)の話
いつも夜中に車に乗って出かけ、朝方帰って来るからすごく目立つ。自分の勉強部屋から香取家が見えるので、日がな一日机から眺めることがある。その日(健司の失踪翌日)の朝は、朝から二人ほど女性の客人があったようだ。一人は自転車で、もう一人は緑の車に乗って来た。帰った時間は午後と思う。
近所の地主(75)の話
あの日(健司の失踪翌日)の午後、雅子の家から出て来た若い女が、手にしたゴミをここのゴミ置き場に捨てようとしたので注意した。ずっしりと重い生ゴミのようなもので、優に十キロ以上はあった。叱ったら素直に持って帰った。雅子自身のゴミの出し方はきちんとしている。
工場主任(31)の話
二年間勤務している。態度は真面目で作業も間違いがない。以前は経理畑という噂を聞いたので、いずれ準社員に抜擢《ばってき》したいと考えている。ラインではもったいないリーダーシップを発揮できる人。熟練工の吾妻《あづま》ヨシエと山本弥生と城之内邦子と仲がよく、いつもチームで行動している。だが、山本さんの事件以来、チームが崩れ、今常勤なのは香取さんと吾妻さんだけだ。
T信金の元同僚(35)の話
香取さんは仕事ができたが反抗的で、上司の信頼も部下の人望もなかったように思う。辞めた後のことは知らない。
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香取雅子の近所及び現在の会社の評判はまあまあ。しかし、何を考えているのかわからない人という声が多々あった。男関係などは一切聞かれず、生活面はきちんとしている。だが、生協など一切加入せず、近所との付き合いは悪い。
夫の女関係もなし。ただし協調性がなく、営業センスがないといわれている。そのせいか、M不動産建設会社では出世コースを外れている。
息子は都立高校を一年で退学処分。現在は左官アルバイト。家ではまったく口を利かないという噂。
事件後、香取家に吾妻ヨシエと『ミリオン消費者センター』の十文字彬(山田明)が集まった日がある。十文字が紺のシーマで何か大きな荷物を運び入れ、三時間後に八個の宅配便を積み込んで去った。中味は不明。送り先も不明(十文字についてはシーマのナンバーから追った)。」
「十文字彬(山田明)の報告書
ミリオン消費者センター元社員(25)の話
社長は以前、足立の『覇羅醍栖』という暴走族だったと自慢していた。そのカシラは、今『豊住会』の若頭をしていると吹いていた。何かあると、すぐその話を持ち出して威張るので、皆怖がっていた。自分もそれで辞めたくらい。いくら街金でも、バックに暴力団がついてるみたいなことを言うのは嫌だ。
近所のゲームセンター従業員(26)の話
あの人はロリコンだから、ここに来ていつも女子高生をナンパしていた。ゲーセンでナンパじゃせこいじゃないかと冗談を言ったことがある。だけど、あの顔だから結構もてて、よく若い子を連れては、肩で風切って歩いていた。景気はいいようなこと言ってるけど、かつかつだったと思う。名前を変えてることからもわかるように、変な見栄を張る奴。
アパートそばのスナックの女(30前後)の話
この間、臨時収入があったと言って店で大騒ぎしていた。何か大きな仕事をしたらしいが、金貸しをやっていると聞いていたから、話半分に聞いている。いい客だけど、気の弱い小悪党といったイメージがある。」
膨大な量の報告書からは、雅子とその仲間の見事な仕事振りが見えた。しかも、最近は十文字というちんぴらと組んで、死体処理のバイトまで始めたらしい。やるじゃねえか。佐竹はまた薄笑いを浮かべる。
読むのに飽きて、佐竹はそれらを隅に押しやった。カーテンの隙間からはまだ拡声器の怒鳴る声が響いていた。佐竹はほんの少しカーテンを開けた。初冬の薄い色の太陽がその日最後の光を送ってきて、部屋の埃を浮き立たせている。陽は完全に落ちていない。佐竹は焦れる思いで埃の筋を眺めた。午後七時までの出勤までは相当時間があった。
インターホンが鳴った。佐竹は急いで起き上がり、報告書を紙袋に突っ込むとベッドの下に放り投げた。
インターホンの向こうからは木枯らしの音と、邦子のわざとらしい声が聞こえてきた。
「佐藤さん。五階の城之内ですけど」
引っかかった。佐竹はにんまり笑うと、咳払いをした。
「今開けます。すみませんが、ちょっと待っていただけますか」
カーテンを開け、ベランダの戸を開けて籠もった空気を入れ替える。ベッドを整えながら、調査報告書の入った袋の位置を確かめた。
「すみません、お待たせして」
ドアを開けると、唸る音とともに、強い北風が部屋に吹き込んできた。団地の北側はいつも冷たい風が吹き荒れている。一瞬、邦子のつけている濃厚な香水が鼻孔を突いた。シャネルの「ココ」だ、と佐竹は思い出した。安娜が客に貰ってつけていたので、強すぎると注意したことがあった。強い香水は客の家にまで運ばれ、無用のトラブルを生むからだった。
「ごめんなさい。突然に」
邦子は髪を乱しながら、きゃーと叫んでスカートを押さえた。
「いいですよ。どうぞ、中に入ってください」
佐竹は愛想よく言った。
「どうも」邦子は嬉しそうに三和土《たたき》に入ってきた。横幅の大きな邦子が立ちつくしているため、狭い玄関の容積がいっぱいになる。邦子は黒のスーツに金の大ぶりのネックレス、真新しいブーツ姿で外出支度をしていた。佐竹は癖で、瞬時にその総額を推計する。邦子の装いはすべて、有名ブランド風に作られたフェイクだった。
邦子は「上がって」という言葉を期待するように佐竹の顔を眺め、それから奥を無遠慮に覗いた。
「あら、すごくすっきりしてる」
「いやあ、家具みんな持ってかれちゃいましてね。恥ずかしいけど、あれだけです」
佐竹は窓際のベッドを指さした。邦子は見遣ってから、慌てて目を伏せた。その仕草は卑猥《ひわい》だった。しかし、佐竹がそのベッドで何を考えていたかを知ったら逃げ出したに違いない。
「起こしちゃいました? でも、ゆうべは来てなかったわね」
「昨日は非番だったんです」
「そう。実はね、あたし佐藤さんにお別れを言いにきたの」
「どういうことですか」
佐竹はぎくりとして問うた。逃げるのか。折角、捕らえたのに。
「あたし、弁当工場辞めちゃうんですよ」
「それは残念ですね」気落ちしたような柔らかな声で言うと、邦子は嬉しそうに声に勢いを漲《みなぎ》らせた。
「でも、ここは移りませんから、ご近所付き合いはよろしくね」
「そうでしたか。ほっとしましたよ。こちらこそよろしく」佐竹は抜け目なく挨拶し、誘った。「殺風景ですが、よかったら上がりませんか」
思惑通りという様子で、邦子はふくらはぎに食い込んだハーフブーツのジッパーをもどかしそうに下ろした。
「ベッドの上にでも腰かけてください」
邦子は何も答えずにまっすぐベッドに向かった。その後ろ姿を眺めながら、佐竹はこれからの算段を考えている。予想外に早い。だが、願ってもないチャンスだった。ここに連れ込む手間が省けたし、明日から出勤しないのでは、突然失踪しても怪しまれることはない。
「テーブルもなくて恥ずかしいです」
「あたしのところは物が多いから羨ましいな」ベッドに腰を下ろした邦子は、佐竹の部屋のあまりの家具のなさに不審の目をあちこちに向けた。「まるで事務所みたい。洋服なんかどこにしまうんですか」
「私、何も持ってないから」
佐竹は昨夜から着っぱなしの作業ズボンとジャンパーを示した。そのまま寝たために皺ができている。邦子は佐竹の肉体を眩しそうに眺めた。
「男の人はそれで済むからいいですよ」
邦子はシャネル風のゴールドチェーンのついたバッグから煙草を取り出した。佐竹は綺麗に洗った灰皿をベッドの上に置いてやった。
「ね、近所にいい飲み屋があるのよ。行きませんか」
邦子はライターで火をつけ、遠慮がちに佐竹を誘う。
「実は、飲めないんですよ」
佐竹が答えると、邦子は落胆した様子だった。すぐに立ち直った。
「じゃ、食事だけでも。いかが」
「わかりました。すぐ支度するから待っててください」
佐竹は洗面所に入って歯を磨き、洗顔をした。鏡を見ると、短髪が中途半端な長さになり、髭《ひげ》が伸びていた。虚飾に満ちた歌舞伎町の暮らしをすっかり忘れ、中年の警備員となった男の顔が映っている。しかし、佐竹の目の沼に潜んだ生物はとうに蠢《うごめ》きだしていた。
タオルで顔を拭き、洗面所のドアを開けた。がらんとした部屋で手持ちぶさたにしている邦子に声をかける。
「城之内さん、よかったらここで何か取りませんか」
「え、たとえば」
「寿司とか」
「嬉しい」
邦子は満面に笑みを浮かべた。邦子がこの四一二号室に来ていることが誰かに知られては困るのだから、佐竹にはもとよりそんなつもりなどない。
「コーヒーでも飲みますか」
嘘を言って佐竹は薬缶《やかん》に水を入れ、ガス台に置いて栓を捻った。この部屋には嗜好品《しこうひん》など一切ない。佐竹は何も入っていない戸棚を開け、一応、何にするか考えている振りをした。背後に気配を感じて振り向くと、邦子が真後ろに立っていた。空っぽの戸棚の中味を見たらしい。
「何もないじゃない」と笑う。
「何がですか」
佐竹の険しい顔を見て、邦子は山道で蛇と出会ったような顔をして立ちすくんだ。
「あたし手伝おうかと思って」
言い訳しながら後ずさり、邦子は逃げ出そうとくるりとベッドのほうを向いた。その瞬間を捕らえ、佐竹は素早く邦子の首の下に左腕を入れ、右手で口を押さえて、かい込んだ。掌が邦子の塗りたくった口紅でべたべたした。構わず力を入れて重い体を持ち上げる。邦子は足をばたつかせていたが、やがて自身の重みであっけなく失神した。邦子を床に転がしてから、佐竹は不要になったガスのつまみをゆっくりと戻した。
丸太のように力が抜けた邦子を転がして、服を手際よく脱がせはじめる。全裸にして、今朝がた想像した通りに邦子の四肢を仰向けにベッドに縛りつけた。すべて雅子のための予行演習だった。だが、邦子は巨大な動物を連想させ、佐竹の欲望は、意匠を凝らした殺意は、萎えていく。途端に面倒臭くなり、佐竹は邦子の開いた口の中に、脱がした下着を丸めて乱暴に押し込んだ。
突然、邦子が気が付いた。目を大きく見開き、何が起きたのか必死に知ろうとして、辺りをきょろきょろと見まわしている。
「騒ぐんじゃねえぞ」
低い声で脅す。邦子は必死に頷いた。佐竹は唾液《だえき》の糸を引く下着を口から引っぱり出す。
「助けて。何でもするから。助けて」
邦子は消え入りそうな声で哀願した。佐竹は耳を貸そうともせず、ゴミ用の一番大きなビニール袋を数枚、邦子の腰の下に敷いた。失禁や脱糞でもされると、寝るのに困るからだった。
「何するの」
邦子は慌てて腰を捩《よじ》って逃げようとした。
「何でもねえよ。じっとしてな」
「助けてください。ね、お願い」
邦子の小さな目に涙が浮かんだ。佐竹は質問する。
「弥生が亭主を殺したんだろう」
邦子は何度も頷いた。「そうです、そうです」
「その死体を、雅子とおまえとヨシエというババアとでバラバラにしたんだろう」
「そうです」
「雅子がリーダーだろ」
「勿論」
「弥生から幾ら貰った」
「五十万ずつ」
佐竹はあまりにみみっちい主婦の犯罪に笑った。こんなせこいことのために、自分は過去を知られ、築き上げた店を失ったのだ。
「雅子も五十か」
「いえ、あの人は取ってない」
「どうして」
「気どってるから」邦子は言葉を選ばずに答えた。気どってるからか、と邦子の洒落《しゃれ》た返答に佐竹は薄く笑った。
「雅子と十文字が知り合ったのはどうしてだよ」
邦子はしばらく躊躇《ためら》っている。どうして佐竹がそんなことを知ってるのか、信じられない様子だった。
「前からの知り合いみたいです」
「だから、おまえが金借りたのか」
「違う。偶然」
「話がうますぎるな」邦子は新たに涙を流している。佐竹はそれが悔恨《かいこん》の涙だろうと軽蔑した。「今頃泣いたって遅いんだよ」
「お願い、助けてください」
「待て。何で十文字はこのこと知ったんだよ」
「あたしが喋ったからです」
「ほかに喋ってねえか」
「はい」
「今、あいつらが同じことしてるの知ってるか」佐竹は作業ズボンから太い革のベルトを抜いた。邦子の目がそれを追いながら、必死に首を横に振る。恐怖で顔が白くなっている。
「知ってるのか、知らねえのか」佐竹が答えを促すと、
「知らないです!」邦子は叫んだ。
「つまりさ、おまえは信用がねえんだよ。要らねえんだよ」
佐竹は邦子の首にベルトを巻きつけた。ひいーっと邦子が声にならない叫びを上げた。猿ぐつわが必要だと佐竹は思いつき、床に落ちた下着を拾い上げて喉の奥に押し込んだ。息ができなくなった邦子が目を白黒させているところを、佐竹はベルトを交叉させ、思いっきり絞め上げた。生涯二度目の殺人は実につまらなかった。
いましめを解いた死体をベッドから下ろしていったん床に置き、毛布でくるんでベランダに転がした。ほかの部屋から覗けない死角になる位置に注意深く死体を寄せる。目を上げると、今朝眺めた山並みにちょうど夕陽が沈むところだった。山は黒く闇に溶け込もうとしている。
佐竹はベランダの戸を閉めてから、邦子のバッグの中味を調べた。財布の中にある数枚の万札を取り、自宅のものらしい鍵とゴルフの鍵を奪い、服と下着と靴を袋に詰める。自分の部屋の鍵と財布をポケットに入れると、袋を持って廊下に出た。
外はすでに真っ暗で、夕方よりも冷たい風が出ていた。が、それほど強くはないし、寒さ自体は緩んでいる。佐竹は建物の端にある非常階段を一階上がり、五階の開放廊下をひと渡り眺めた。幸い、誰も歩いていなかった。通路に出しっぱなしの三輪車や鉢植えなどを避けながら、足早に邦子の部屋の前に行き、鍵で開ける。
部屋の中は、買ったばかりらしい洋服やさまざまな物の包装紙や袋でごたついていた。その中に、さきほどの服や下着やバッグをぶちまけ、佐竹は部屋を出た。辺りを見まわして人影がないことを確認し、何食わぬ顔で施錠《せじょう》する。そして、そのままエレベーターホールに向かった。
一階のゴミ捨て場で邦子の部屋の鍵を捨てる。それから裏の自転車置き場で自分の自転車を探し出すと、弁当工場の警備員になるため団地を後にした。
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十文字は有頂天だった。
横にいる女子高生は、有名女子高の制服を着た上玉だった。肌理《きめ》の細かい真っ白な頬に茶に染めた髪がかかり、ピンクの唇はいつも半分開いている。細い眉は綺麗な弧を描いて大きな目を際だたせ、短いスカートから覗く足は細く長く、モデルのような容姿だ。十文字は喉から飛び出しそうな欲望と闘いながら猫撫で声を出す。
「これから何したい」
「何でもいいよ。あなたのしたいこと」
囁く声は掠れて甘く、全身から十文字の知らない香水の匂いがする。持ち物はすべてブランド品だった。こんな可愛い生物が棲息《せいそく》している土地はいったいどこだ。どんな男がこいつを育てているんだ。十文字は、奇跡としか思えないほど愛くるしく、育ちのよさを漂わせる女子高生をうっとりと眺めている。三多摩の煤《すす》けたファミレスで時間を潰している、安リンスの匂いをぷんぷんさせた女子高生とはすべてが違っていた。いい女とホテルにしけこむことができるのも、あの金のおかげなのだ。女子高生の要求通り、十万払ったところで惜しくはない。
「じゃ、ホテル行こうか」
「いいよ」
「いい? やらせてくれる?」
うん、と恥ずかしそうに高校生は頷いた。十文字は女の気が変わらないうちに移動しようと、急いであちこちのホテルを頭の中で物色しはじめた。その時、尻ポケットに入れた携帯電話が鳴った。
「ちょっとごめんね」と断る。街金の仕事のほうは、ベテランの女子社員に任せて遊んでばかりいる今日この頃だった。その連絡かもしれないと不機嫌な声で出る。「はい、十文字です」
「アキラ、おまえ、どこにいんだよ」特徴のある抑揚《よくよう》のない声が聞こえてきた。
「曽我さんですか。先日はどうもありがとうございました」
急に卑屈になった十文字を見て、女子高生はしらけてそっぽを向いた。十文字は逃げられるのを恐れ、慌てて高校生の肘を掴んだ。
「いや、あれはいいけどさ。おまえ、渋谷かなんかにいんだろ」
街の雑踏を聞き分け、曽我は遠慮なく突っ込んでくる。十文字はタイミングの悪さに眉を顰める。
「はあ、まあ。そんなとこですけど」
「なあに気どってやがんだ。渋谷だと? 玉虫色のボンタンはいて粋がってたくせによ」
「はあ」十文字は頭をかく。女子高生は肘を掴まれたまま、移り気を隠さずにあちこちを眺めている。渋谷センター街には、十文字と同様、若い女目当ての男たちがたむろしていた。早速、十文字の脱落を予期した男たちが周りをじわじわと囲みはじめたのに気付き、十文字は焦った。
「おまえ、竹槍《たけやり》マフラーのローレルどうした」
曽我はますます調子に乗って十文字をからかった。
「何すか、用事って」
「さては女と一緒だな。このロリコン野郎が。ばーか」
「すんません、その通りです。勘弁してください」
「ところができねえんだよ」曽我はにわかに真面目な口調になった。「仕事だ」
「え、例の?」
十文字は驚いて女子高生の肘を放した。途端に女は「じゃあね」と行ってしまった。二人、三人と十文字にそっくりな男たちが高校生の後を追う。畜生。十文字は、去っていく女子高生の可愛い尻の上で揺れる短いスカートを名残《なごり》惜しく眺めた。しかし、仕事なら仕方がなかった。ここで金が入れば、あんな女の十人は軽く手に入る。十文字は気をとり直して曽我に謝った。
「すみません。取り込んでて」
「どうせ振られたんだろ。頭しゃっきりさせてくれや。やばいシノギなんだからよ」
曽我は恫喝した。十文字は曽我の剣呑《けんのん》な目を思い出し、脇の下に冷や汗をかいた。
「申し訳ありません」
「ま、この間のはうまくいったから評価してるけどよ」
「はあ」
雑音が入る。十文字は人混みを避けて、ビルの軒下に移動した。
「今回もしっかりやってくれよ。先方は今夜にでも渡したいって言ってるんだ」
「今夜ですか」
と答えながら、十文字は雅子にどう連絡をつけようかと頭の中で算段する。腕時計を見ると午後八時。この時間ならまだ家で捕まりそうだとほっとする。
「生《なま》もんだからよ。ぐずぐずできねえんだよ」
「なるほど」
「場所はK公園裏門。時間は午前四時だそうだ」
「わかりました」
頭の中に叩き込む。曽我が珍しく低く沈んだ声を出した。
「今回はよ、ちょっと違うルートで来てるんだ。それが気になってよ、俺も顔を出せたら出すわ」
「どういうことですかね」
携帯電話で深刻な話をしていると目立つのだろうか。眉を寄せて声を潜めた十文字を通行人が怪訝《けげん》な顔で眺めていく。
「ある信頼できるルートがあってよ、こないだのジジイはその筋だったんだ。だけど、今度は飛び込みで来たんだよ」
「飛び込みですか。営業マンじゃあるまいし」
「だろ?」曽我は同意を求めた。「そいつはある筋から聞いたから、の一点張りで俺を指名してきやがったんだ。だから、警戒してよ、一本てふっかけたら構わないって言いやがった」
曽我は正直に言った。十文字はそれを聞いて浮き足立った。
「ということは、曽我さんが百万プラスですかね」
「おまえもそうだ」
曽我は気前のいいところを見せた。十文字は先ほどの女子高生のことも忘れ、再び上機嫌になった。ここで雅子に内緒のマージンを取れば三百万の儲けになる。
「曽我さん、ありがとうございます」
「でもな、用心に越したことはねえぞ。俺も若い衆連れてくから。おまえも木刀担いで、タンスから特攻服出してこいや」
「馬鹿言わないでください」
冗談とも言えない曽我の口振りが気になったが、十文字は金が入るという喜びで舞い上がっていた。すぐさま手帳を取り出し、雅子の家に電話をする。ここで都合がつかなければ、自分は気味の悪い死体をトランクに入れて丸一日|彷徨《さまよ》わなくてはならない。
雅子自身が出た。風邪を引いているのか鼻声だった。
「実は、例の仕事また入ったんですよ。大丈夫ですかね」
雅子は呆れたらしく、やや声を大きくした。
「ずいぶん早いじゃない」
「はあ、手際がいいのを評価されたんじゃないすか」
十文字の調子のよさに雅子は黙りこくる。不安を感じているのだと思ったが、ここは何としても押し切らねばならなかった。
「やるでしょう。香取さん」
「今回はやめにしない?」
「どうして」
「嫌な予感がする」
「二回目で嫌な予感ですか。それはなしですよ」十文字は食い下がった。「俺の顔潰れますもん」
「顔が潰れるより悪いことがあるんじゃないかと思って」
雅子は謎めいたことを言った。
「どういうことですか」
雅子ははっきりと答えない。
「何かさ、まずい気がするんだよ。今は」
「香取さん、具合悪いのかもしれませんけど、それ、仕事に対する態度じゃないすよ」十文字は必死に説得した。「俺だって、九州くんだりまで捨てに行ったんですよ。自分だけがやばいことしてるんじゃないんだから。わかってるでしょう」
「それはわかってるよ」
雅子は低い声で答える。十文字は苛立った。
「だったら抜けますかね。それなら俺、師匠に頼みますよ。でなければ邦子さん。金のためなら、あのデブ何でもしますからね」
「それは無理だよ。ドジされたら、みんながやばくなるから」
「でしょう」十文字は懇願する。「こないだと同じようにしますんで。よろしくお願いしますよ」
「わかった」観念したように雅子は言った。「じゃ、ゴーグル手に入らない?」
いったん決めると、いつものようにてきぱきとしていた。十文字は安心する。
「俺のバイク用持って行きますから。いいように使ってください」
「うん。何かあったら電話する」
やれやれ、と商談をうまくまとめた気分で携帯電話をしまい、十文字は時計を眺めた。午前四時までには十分すぎるほど時間があった。どこかにさっきのような上玉はいねえか。どうせ金が入るんだ。幾らでも払ってやる。気が大きくなった十文字は、どの女をこまそうかと攻撃的な気分になって、若い女が行き交う渋谷の雑踏を眺めた。香取雅子がどうしてあまり乗り気ではないのか。そんなことまで考えるゆとりはなかった。
午前四時前。十文字は約束のK公園の裏門前にシーマを停めた。
ガードレールが続く道の片側が鬱蒼《うっそう》とした公園。広い道路の反対側は雨戸を閉め切った住宅が眠り込んで、しんと静まり返っていた。辺りには街灯がひとつもなく、真っ暗な道は生き物の気配がない。黒々とした森のような公園の木々が、風でごうごうとざわめく音が気味悪く、十文字はそちらを見ないように顔を背けた。そういえばここで、邦子が例の物を捨てたのだと思い出し、その偶然が少し気にかかる。
寒い。十文字は鼻水をすすりながら、ジャケットの前を重ね合わせようとして、ボタンがひとつなくなっていることに気付いた。さっきまで一緒にいた女のせいだ、と腹が立つ。てっきり現役女子高生かと思った女は、実は二十一歳だった。十文字が風呂に入っている隙に、ジャケットの中を探っていたのだ。怒って引ったくった時にボタンが取れたに違いない。
〈ついてねえ〉
その言葉が脳裏に浮かび、十文字は慌てて否定した。これから三百万の現金が入るのだ。ついてない訳がない。楽天的に考えようと努力していると、道の右手から車の音がしてヘッドライトがシーマの尾灯を照らし出した。
「ご苦労さん」
黒のグロリアから曽我が出てきて、十文字に手を挙げた。夜明け前だというのに、きちんとキャメルのカシミヤコートを羽織り、中に黒いスーツを着ている。運転しているのは金髪の少年で、もう一人の坊主頭が数歩後からついてきて眠そうな顔で十文字に頭を下げた。
「どうも、わざわざすんません」
「気になるからよ、俺もちょっとそいつのツラ見ておこうかと思ってよ」
曽我は寒さに震えてコートの襟を立てると、ポケットに両手を入れた。
「どんな奴が、どんなブツ持ってくんですかね」
「さあな」曽我は不安げにつぶやく。「一本出すって言うんだから、かなりやべえんだろうよ」
「そうすね」
「おまえ、あそこにブツ入れんのかよ」曽我がシーマを指さした。
「はあ」
「うへー、気持ち悪いなあ」
曽我は顔を歪めた。前回は、この金髪男と坊主頭が現金と一緒に死体を運んで来たので、曽我自身は電話で指図しただけだった。たったそれだけで二百万も取るのだ。十文字は少し気を悪くする。
「仕事ですからね」
「ま、そう気悪くすんなよ」敏感に察した曽我は労《ねぎら》うように十文字の肩をぽんと叩いた。
その時、道の反対側からライトをハイビームにしたワゴンが来るのが見えた。ぎらぎらとした光が段々とこちらに近づいてくる。十文字は一瞬、怪物が向かって来るように思えた。
「あいつだ」
曽我がくわえていた煙草をガードレールで揉み消すと、その吸い殻を緊張した様子の金髪に渡した。
「これ、どうすんですか」と金髪は両手で受け取る。
「馬鹿、あとで何かあったらやべえだろ。食え」
「食うんですか」
「馬鹿、好きにしろや」
金髪は慌ててそれをジャンパーのポケットに突っ込んだ。十文字は唾を飲み込む。すでに寒さは感じなかった。
ワゴンが十文字たちの前で停まった。依然、ヘッドライトは皓々《こうこう》とつけたままだ。その眩しさでナンバーがよく見えない。運転席のドアが開き、男が一人出てきた。上背があってがっちりした体躯《たいく》だった。作業ズボンにジャンパーという目立たぬ格好をしている。キャップを被っているため、顔はわからなかった。しかし、男を見た時、十文字の全身に鳥肌が立った。それがどうしてなのかはわからなかった。
「どうも。豊住会の曽我です」
曽我が挨拶をする。男はくぐもった低い声で言った。
「何だよ、大仰《おおぎょう》じゃねえか」
「はあ、すみません。実は、いつものルートじゃねえんで気になりまして。このこと、どちらでお聞きになりましたか」
「どうだっていいだろ」
「そうはいきませんので」
「うるせえな」
男はいきなりジャンパーのポケットから紙袋を出して投げて寄越した。曽我が受け取り、中味を確認している。十文字が覗くと、帯封のある万札の束がきっかり十個入っていた。金を確認した曽我は頷いて、十文字に顎をしゃくった。
「もうええわ。早くやれよ」
男が音をさせてワゴン車の扉を引く。薄暗い車内に、毛布にくるまれた人型をした物体が入っているのが見えた。こんもりとして長さが短い。女なのか、と十文字は立ちすくんだ。まさか女の死体が来るとは思ってもいなかった。
「びびんじゃねえよ」
男は鋭く十文字を一喝し、ワゴン車の中から死体を引きずり出す。慌てて金髪と坊主頭が駆け寄って手助けした。死体がどすんとアスファルトの上に落ちると、男はドアを閉めた。後ろも見ずに運転席に入り、そのままバックで来た道を戻って行く。車をバックギアに入れた時独特の高く唸るエンジン音が真っ暗な道に響き渡った。そして、そのまま小さくなり、闇の中に消えていった。あっという間の出来事だった。
「何か怖かったすね」
十文字が言うと、曽我は馬鹿、と小さく吐いた。
「殺《バラ》した奴は格が違うんだよ」
この女をあいつが殺したのか。十文字は毛布にぐるぐる巻きにされ、縄《なわ》を幾重にもかけられた短い人型を恐ろしげに眺めた。
「どうしてバックしたんですかね」
「馬鹿。ナンバー見られたくねえし、後を追われないように確認してんだ」
十文字はがたがた震えだした。今、自分がとんでもないことに加担しているという実感がようやく湧いたからだった。さっきの鳥肌はその前兆だった。
「ほら、持ってけや」
曽我が紙袋の中から三個の束を掴み取り、残りを十文字の胸に叩きつけた。
「はあ」十文字はそれをポケットに捩《ね》じ込んだ。
シーマのトランクに苦労して金髪と坊主頭が死体を入れていた。曽我は苦い物でも噛んだように無言だった。
「あれ、女ですよね」
「みたいだな」曽我は振り向いた。笑っていない。「女子高生だったりしてな」
「嫌だな」
急に寒さを感じたのは、夜明けの冷気だけではなかった。大きな音をさせて、トランクの蓋が閉まる。二人の男が、汚い物にでも触れたように手を払ったり、臭いを嗅ぐ仕草を繰り返している。曽我は十文字の肩をまた軽く叩いた。
「じゃ、行くぞ。ま、頑張れや」
「曽我さん」
十文字は取り残されるのを怖れ、曽我の目を見た。曽我は舌先でちろちろと唇を舐めた。
「何だ。びびったんか」
「違います」
「おまえ、ドジるなよ。これ、やべえぞ」
曽我はドアを開けて待っている坊主頭に出発の合図を送った。曽我が乗り込むと、グロリアも逃げるように来た方向に走り去った。急に道が真っ暗になる。一人っきりになった十文字は、このまま車ごと置いて逃げ出したい欲望と闘いながらエンジンをかけた。生まれて初めて怖いと思った。走り出してしばらくしてから、トランクに積んだ死体が怖いのではなく、さっきの男が怖いのだとやっと気付いた。
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一週間ぶりに風邪が抜け、久しぶりに気分がいい。
鏡を見ると、少しやつれ気味だが頬がすっきりして目元が軽くなっている。これから例の仕事をするのに、と皮肉な思いで雅子は鏡の中の自分を見つめる。
幸いなことに良樹は定刻に出勤し、伸樹も朝早くからアルバイトに出かけた。あの夜の話し合い以来、良樹はますます自室に籠もることが多くなった。雅子が出て行くかもしれないと口にしたため、傷つかないように要塞を堅固にしているのだろう。同じ家にいても離れていることと同様だと雅子は思い、切なさは拭えなかった。しかし、伸樹はぽつぽつと口を開くようになった。それがたとえ「飯は?」程度でも、雅子には嬉しい。
雅子は作業のために、石鹸やシャンプーを片付け、風呂場のタイルにビニールシートを敷き詰めた。大きく窓を開け、前夜の湿気を追い出す。小春|日和《びより》の暖かい日だった。自分の体調も、天気も、すべて状況は万全なのに、胸の底には大きな不安が横たわっている。調子に乗る十文字やヨシエにそのことをどう説明すればいいのだろうか。「他者」とは何者なのか。
実は、雅子にはその人物のあてがある。思い付いたのは、風邪で寝込んでいるベッドの中だった。だが、確証は勿論ない。
雅子は風呂場の窓を閉めて鍵をかけると、玄関に向かった。届く物が待ちきれない。期待ではなく、不安で待ちきれない。最早、物体というよりも新たな展開とでもいうべきものになっているからだった。自分がどこに向かっているのかわからずに、ただ突き進むだけという危うさが、雅子をいても立ってもいられない気分にさせている。
雅子は伸樹の大きなビーチサンダルを突っかけて三和土《たたき》に降り立った。家の中に入り込んで待つこともできず、外に出て十文字を迎えることもできず、いかにも中途半端な玄関の三和土に立ちすくんでいる。訳のわからない恐怖を押さえ込むために堅く腕を組みながら。
「畜生」
雅子はわざと汚い言葉を吐いた。何もかもが気に入らなかった。準備も整わないうちに状況に押し流されている自分が何より気に入らない。そのことも「他者」の意図なのではないかとすら思える。
短時間とはいえ、紺のシーマが家の前に停まっているだけでも目立つ。次回からは自分の車にしようと考えていたのに、実際はそんな時間などなかった。前回はうまくいったが、今度はどうなるかわからない。馬鹿なことに首を突っ込んでしまったという後悔と、どこかに抜かりのあるような大きな不安の影がどうしても拭えない。玄関という狭い空間であれこれ考えていると、惑う気持ちが膨れた風船のように爆発しそうになる。その惑いに押し出されて、とうとう雅子はドアを開けて外に出た。
曖かな朝だった。近所はいつも通り平穏に見えた。遠くの畑では枯れ葉か何かを燃やしている煙が一筋立っていた。穏やかな青い空のどこかでプロペラ機がのんびりと飛び、食器を洗う音が近所の家から微かにしている。ありふれた郊外の朝の光景だ。雅子は向かい側の赤土の空き地に目を遣った。あの土地を買いたいという中年女はあれきり姿を見せない。これといった変化は何も見えないのに、なぜか不気味に思える。
自転車のブレーキが軋む音がした。
「来たよ」
ヨシエは灰色のジャージの上下に、美紀のおさがりらしい古い黒のウィンドブレーカーを羽織っている。雅子はヨシエの目を見つめた。徹夜明けの眩しさを堪《こら》える赤い目。自分も夜勤をしていれば同じような顔をしていることだろう。
「師匠、平気?」
「うん、平気だよ。だって、やりたかったんだもの。誘ってくれって頼んでたじゃないか」
ヨシエの目には今までなかった決意が現れていた。金を得るという堅い決意が。
「早く入って」
雅子は自転車を脇に寄せるヨシエを促した。ヨシエは素早く玄関の中に入って、児童の上履きのようなズックを脱ぎ、雅子の顔を心配そうに見た。
「あんた、風邪どう」
雨の日にヨシエの家を訪ねて以来、雅子は質《たち》の悪い風邪を引き、工場も休んでいた。
「よくなったよ」
「それはよかった。でも、あれは水仕事だからよくないかもね」
勿論、死体の解体のことを言っているのだ。水を流しながらやると効率がいいことに前回気付いていた。
「工場のほうは変わりない?」
「それがさ」ヨシエは声を低くした。「邦子が辞めたんだよ」
「へえ、邦子が?」
「そうなんだよ。三日前に突然辞表出してさ。一応、主任が慰留《いりゅう》したらしいけど、ま、あの子なんてどうでもいいもんね。そのまま来なくなったよ」
ヨシエはウィンドブレーカーを脱いで丁寧に畳みながら言った。白いネルの裏地が擦り切れて、ところどころ薄くなっているのを雅子は見るともなく眺めている。
「山ちゃんも全然来ないし、あんたは風邪で休んでいるし。あたし一人っきり。淋しかったからコンベアの速度18に上げてやった。そしたらみんな焦ってさ。たちどころに文句ばっかり。下手くそが、呆れるよ」
「そうだろうね」
「そしたらね、ゆうべ、あのブラジルさんがあんたのこと聞いてきたよ」
「ブラジルさん?」
「宮森何とかって若い男」
「何て」
「マサコさん辞めたんですかって。あの子、あんたに気があるんじゃないの」
雅子はからかうようなヨシエの言葉にも乗らず、ただ黙って聞いている。夏の道で戸惑うように立っていたカズオの傷ついた顔が脳裏に浮かんだ。しかし、今は遠い出来事だった。ヨシエはしばらく言葉を切って雅子の反応を待っていたが、雅子が何も言わないので続けた。
「あの子、すごく日本語うまくなってさ。驚いたよ。若いせいなのかねえ」
これからの作業を思って興奮しているのか、今朝のヨシエは冗舌《じょうぜつ》だった。雅子はヨシエの言葉の雨を浴びながら、自分の不安を話しておいたほうがいいものかどうかと、まるで軒下で雨の切れ間を窺うように迷っている。玄関のほうで車の音がした。
「来た」ヨシエが腰を浮かせた。
「待って」
雅子は玄関に向かい、念を入れて覗き穴から外を見る。十文字のシーマが横づけされていた。時間ぴったりだった。
玄関のドアを細く開けると、すでに運転席から出てきた十文字が雅子に囁く。顔に徹夜明けの脂が浮いていた。
「香取さん。今度のブツ、嫌ですよ」
「どうして」
「女なんですよ」小さな声で言う。
雅子は舌打ちした。いずれ、無惨なものも見るだろうと覚悟はしていたが、同性の肉体を切り刻むことを躊躇するのは不思議だった。十文字は周囲の様子を抜け目ない顔で窺った後、キーを使ってトランクをそっと開けた。雅子は芋虫のような毛布の塊《かたまり》を見て思わず数歩後ずさった。老人の時も細く小さかったが、この塊は平べったくなく胸の辺りで豊かに盛り上がっている。
「どうしたのよ」
いつの間にかヨシエが来ていて背後から覗き込み、きゃっと小さな悲鳴を上げた。縄でぐるぐる巻きに梱包された人型は、健司や、老人の毛布でくるまれただけの死体よりも、念が入ってる分だけ恐ろしく思えた。
「ともかく運びましょうや」
十文字がさも触れるのが嫌という風に顔を背けて腕を伸ばす。雅子も手伝った。硬直が緩んでぐったりと曲がり、持ち上げると重かった。全員で風呂場のビニールシートの上に死体を転がし、どうしたものかと顔を見合わせる。
「俺、怖かったすよ。これを受け取りに行った時、すげえ怖い男が来てて縮み上がっちゃって」
「どうして」
「だって、そいつが殺したに決まってるもの」
「どうしてわかるんだよ。ただ運んできただけかもしれないじゃないか」ヨシエが動悸を抑えるためか胸を触って言った。
「それが不思議とわかるもんなんですよ」
十文字は抗議するようにヨシエに大きな声を上げた。目が血走っている。そうかもしれない、と雅子は口には出さず内心で思っている。弥生の時もそうだった。あの晩の弥生には何か特別のものが備わっていた。
「あんた、男だろう。早く縄切ってよ」
言い負かされたのが悔しいのか、ヨシエが料理用鋏を邪険《じゃけん》に十文字に押しつけた。
「俺がやるんすか」
「当たり前だろ。男なんだから。男は率先してやらなきゃ」
虐《いじ》める道具としてヨシエが「男」を連発する。十文字はヨシエに背中を押され、いやいや鋏を取り上げた。まず毛布を堅く縛っているロープを次々に切った。そして毛布の端を握って引く。いきなり脚部が現れた。足首のくびれがない白く太い足。裏に紫斑が浮き出ている。ぎゃっとヨシエが叫び、雅子の背後に隠れた。次に、どこにも傷のないぶよぶよの胴体が現れた。脂肪ばかりの乳房が左右に垂れている。太ってはいても、まだ女盛りの肉体だった。
しかし、くるまれた毛布に未練があるかのように、頭部はなかなか出てこない。雅子は十文字を手伝って毛布を取り除き、思わず手を止めた。そこだけ黒のビニール袋で覆われていたのだった。首の部分に紐を巻きつけ、容易に取れなくしてある。
「何、これ。気持ち悪いよ」
ヨシエは腰を抜かし、脱衣場まで這って行く。十文字は吐きそうな顔をしている。
「顔潰れてるんじゃないすか。嫌だな」
「ちょっと待ってよ。これ、どうしてこんなもの被ってるんだよ」
雅子はある予感に捉われ、急いで鋏を取ると黒ビニールを切り裂いた。それはいとも簡単に現れた。
「やっぱり邦子だ」
舌を突き出した間抜けた顔。狡《ずる》そうな目も貪欲そうな口もすべて緩み、半目を開けたまま絶命している邦子の顔。これまではただの死体を解体する場所でしかなかった風呂場が、よく見知った女の死体が横たわっているだけで葬儀場のような意味を持った。急に静まり返る。ヨシエが弾けたように嗚咽《おえつ》しはじめた。十文字は恐怖に痺《しび》れて突っ立っている。
「どんな奴だったのよ」雅子は十文字に詰め寄った。「どんな男だったのよ」
「か、顔はよくわからないです」十文字は声を上擦らせた。「あの、上背があってがっちりしてて、声は低い」
「そんなのどこにだっているじゃない」
雅子は激昂《げっこう》した。
「そんなこと言われたって、俺だってわかんないすよ」
十文字は困り果てて横を向いた。ヨシエは脱衣場に腰を下ろして泣いている。その繰り言のようなつぶやきが聞こえた。
「やっぱり罰《ばち》が当たったんだよ。だからこんなことしちゃいけないんだよ」
「うるさい」雅子は脱衣場に駆け上がり、ヨシエの胸ぐらを掴んだ。「そんなこと言ってる場合じゃないんだよ。みんな狙われてんだよ」
呆然とヨシエが雅子を見た。雅子が何を言ってるのかさっぱりわからないという表情だった。
「どういう意味よ」
「邦子があたしたちに送りつけられたんだよ。あきらかでしょうが」
「偶然かもしれないじゃないか」とヨシエ。
「何言ってんのよ」
興奮のあまり金切り声になる自分を抑えられない。雅子は自分を取り戻そうと爪を噛んだ。十文字が口を挟む。
「そう言えば、死体の受け渡し場所がK公園の裏門だったんですよね。で、何か嫌な予感がしたんですよ」
「それほんと?」
雅子の全身が総毛立つ。やはり知ってるんだ。そいつは、何もかも知ってるんだ。知ってるから邦子を殺して自分たちを脅しているのだ。いったい何のために。雅子は横たわった邦子の弛緩《しかん》した顔に怒鳴っていた。
「この馬鹿、何が起きたのか教えてよ」
十文字が雅子の腕を掴んだ。
「香取さん、大丈夫ですか」
ヨシエがぽかんと口を開けた。
「どうしたの、あんた」
「狂わずにおれないよ」雅子は吐き捨てるように言った。
「何で」
「いい。はっきり言うよ」雅子は二人に向き直った。「あたしたちは誰かに狙われてるんだよ。そいつは山ちゃんの家に入り込んでいろんなことを探ったし、うちにも探りを入れた。それで邦子に近づいて殺して、あたしたちに始末させようと計画したんだ」
「どうしてそんなことするんだよ。邦子を殺したのなら何もそんなことしなくたっていいじゃないか。偶然に決まってるよ」
ヨシエは半分泣きべそをかいている。
「違う。自分はすべて知ってるってことを、あたしたちに知らせたいんだよ」
「だから、どうして」
「復讐だよ」
その言葉を口にした途端、謎が解けたような気がする。そうだ。あいつは復讐をしているのだ。念入りに時間をかけて調べ上げ、復讐しているのだ。最初は保険金目当てかと思ったがそうではない。邦子の始末に惜しげもなく大金をかけているではないか。恐ろしい。雅子は泣きだしたい気分と必死に闘っている。十文字が眉を寄せた。
「誰ですか、そいつは」
「たぶん、カジノの経営者。それしか思いつかない」
十文字とヨシエが顔を見合わせている。
「名前は」
「佐竹光義。四十三歳」雅子は古新聞を見て、その名前を確認していた。「そいつは証拠不十分で釈放はされたけど失踪したんだよ」
「四十三くらいだったかい」ヨシエが十文字に訊いた。
「わかんないす。暗かったし、帽子被ってたし。でも声はそんなもんだったかな。じゃ、そいつの姿を見たのは俺だけってことですかね」十文字は何かを思い出したのか、顔を歪める。「二度と会いたくねえな」
「どうしたらいいんだろう。ねえ、あたしはどうしたらいいのよう」
十文字の怯えを見て、ヨシエがまた嗚咽《おえつ》した。雅子はまだ爪を噛んでいる。
「金持って逃げるんだね」
「でも、あたしは逃げることなんかできないよ」
「じゃ、せいぜい用心してな」
雅子は邦子の死体に向き直った。これをどう始末するか。それが今の一番の問題だった。解体するか。しかし、そんな手間は必要としていない。依頼人の目的は単なる脅しなのだから。が、捨てるにしてもやばすぎる。
「邦子をどうしよう」
「警察に話そうよ」ヨシエが疲れて洗濯機の陰に腰を降ろし力なく提案する。「どうしてこんな馬鹿なことしなくちゃなんないのよ。邦子みたいに殺されるの待つなんて嫌だよ」
「それじゃみんな捕まるよ。それでもいいの?」
「困るねえ」とヨシエ。「じゃ、どうしたらいいんだろうね」
「捨てましょうや」考え込んでいた十文字が邦子の大きな乳房を眺めて言った。
「どこに」
「どっかに。そして知らんぷりする」
「それはいい。だけど、あたしは佐竹に責任を取らせたいよ」
「どうやって」十文字が非難を込めて雅子の顔を見た。
「わかんないけど、あたしがただびびってるだけじゃないって見せたい」
「どうしてそんなことすんのよ」ヨシエは信じられないという顔で叫んだ。「あんた、頭おかしいんじゃないのかい」
「そのほうが、そいつは困るからだよ。このまんまじゃ闇から闇で、あたしたち全滅だよ」
「だけど、どうやってやるんすか。香取さん」
十文字が一晩で伸びた髭を擦りながら目を細めた。
「邦子の死体をそいつの家に帰してやるわけにはいかないかな」
「どこに住んでんのよ」疲れ果てた様子でヨシエが両手で目元を押さえた。「わかんないじゃないか」
「そうなんだよね」雅子は考え込む。
「ちょっと待って」十文字が手で二人を押さえるような仕草をした。「落ち着いて考えましょうや。ここは大事なところですから」
邦子の口の中に黒い布が入っているのが見えた。雅子は急いでビニール手袋をはめ、それを引きずり出した。丸めた下着が出てきた。そっと広げるとレースのついた豪華な下着だった。邦子のことだから、それを脱ぐ場面を想定してつけてきたのだろう。工場の更衣室では、いつも安物の下着をつけていたことを思い出す。
「これを口に押し込んで首を絞めたんだな」
十文字が邦子の首にできた太い索条痕《さくじょうこん》を見て、哀れだという顔をした。雅子は下着を手にしたまま問う。
「ねえ、十文字さん。そいつ、いい男風だった?」
「ああ、顔はよくわかんないけど、体は悪くないすよ」
色仕掛けだ。雅子は邦子の周辺にそんな男がいなかったかと思いを巡らす。しかし、最近決裂した邦子の交友関係などわかりようもなかった。諦めて肩を落とす。
「やっぱりバラすしかないかね、今のところは」
「えー、やりたくないよ。あたしは」とヨシエがつぶやく。「やだよ。邦子バラバラにするなんて。夢見が悪い」
「じゃ、師匠は金要らないんだね。例の百万もあげないし、あたし一人でやるからあんたの分、全部貰う」
雅子が言うと、ヨシエは慌てて腰を上げた。
「それじゃ困る。引っ越せなくなる」
「そうだよね。あんたんち、火をつけられたらおしまいだもんね」
雅子の意地悪な言葉にヨシエはうつむいた。十文字は二人のやりとりに挟まれてどうしたものかと迷っている。
「段ボール貰ってきてよ。それでこの間と同じように、あんた、九州に捨てに行って」
「やりますか」
「うん、仕方がないよ」
雅子は唾を飲み込もうとした。しかし、それは喉につかえてなかなか入っていかない。まるで認めたくない現実のようだった。
「じゃ、段ボール貰いに行ってきますから」
十文字がこの場から立ち去るのを喜んで身を起こした。十文字の心がすでにこの厄介事から逃げたがって、腰が引けているのを雅子は見て取り、念を押した。
「逃げるのはこれが終わってからだよ。いいね」
「わかってますよ」
「まだ仕事は終わらないんだからね」
「へえ」
十文字は雅子の執拗《しつよう》さにうんざりして頷いた。
「師匠はどうする」
雅子は、へたりこんだまま邦子の死体を眺めているヨシエのほうを向いた。
「やるよ。やって、金貰ったらあたしはすぐ引っ越すことにする」
「好きにしてよ」
「あんたはどこに逃げるの」
「当分、いつもと同じようにしてる」
「どうして」ヨシエが驚いて声を上げた。雅子は答えなかった。というより、ほとんどヨシエの言ったことを聞いてなかった。さっき十文字が言った言葉を繰り返し考えているからだった。
『じゃ、見たのは俺だけってことですか』
佐竹という男と、自分もどこかで会っているのではないだろうか。その考えが頭をついて離れないのだった。
「じゃ、行って来ますから。すぐ戻ります」
十文字が出て行くと、雅子はいつものビニールエプロンをつけた。そして、まだへたりこんでいるヨシエに言った。
「師匠、コンベアの速度18にしてよ」
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ぎしぎし音をさせながら、カズオはアパートの鉄製階段を駆け登っていく。
ここが寮という名の、弁当工場の用意してくれたブラジル人従業員のための住まいだった。二階建てのプレハブアパート。夫婦者は一部屋貰えるが、カズオのような若い独身男は二人で一部屋。六畳間に、キッチンとバス・トイレがついているだけの狭い空間だ。便利なことはただひとつ。工場から歩いて二分という近さだけ。
カズオは階段を登りきると立ち止まって、周囲を見渡した。すぐ前の農家の庭先に、取り込み忘れた洗濯物が寒そうに風に吹かれていた。アパート前の細い道には青白い街灯がついて、茶色く立ち枯れたままの野菊を照らし出している。暮れなずむ初冬の風景は、ただただ侘びしかった。
サンパウロはもうじき夏だ。カズオの胸が切なく痛んだ。
懐かしく思い出す夏の夕暮れ。街角に流れるショーロ、フェジョアーダの煮える匂いや花の香り、白い夏服を着た綺麗な女たち、路地裏で遊ぶ子供、サントスを応援するサッカースタジアムの熱狂。すべてから遠く離れて、自分はここで何をしているのだろうか。
これが父の国? カズオはもう一度周囲を眺めた。だんだんと薄暗くなっていく景色から見えるものは、見知らぬ人が住む家の灯りばかりだった。少し遠くに、窓に蛍光灯の青白い光を瞬《またた》かせて弁当工場が見えた。あそこにしか居場所がないとは。
急に涙が溢れてきた。カズオはアパートの廊下の黒い鉄製の手すりに頬杖を突き、両手に顔を埋《うず》めた。部屋ではルームメイトが帰って来ていてテレビを見ていることだろう。このアパートの廊下と、二段ベッドの上段にしか、カズオのプライバシーはなかった。
試練と考えたふたつのこと。正確には三つだった。二年間、この工場で働き、車を買うための金を貯めること。マサコに完全な許しを得ること。そのために日本語に習熟すること。この中で唯一ものになりそうなのは、最後の日本語の習熟だけだった。言葉は何とかなる。が、その言葉を使って許しを得たい人物は、あの朝以来、自分と話そうともしてくれない。もう一度試すどころか、そのチャンスすらも与えてはくれないのだ。
そうではない。完全な許しというのは、絶対に得られないものなのだ。マサコが自分を愛してくれない限りは。そうなると、一番最初の目的だった、二年間ここで働くと自分に課した試練までが揺らぎはじめた。
結局、マサコとのことが自分にとっては一番難しい試練だった。いや、試練でも何でもない。自分の意思ではどうにもならないことだったのだ。むしろ、意思でどうにもならないことに耐えること自体が試練だったのだ。そのことに気付いたカズオの涙は止まらなかった。
帰ろう。その考えが突然浮かんだ。もういい、クリスマスにはサンパウロに帰ろう。車が買えなくてもいいではないか。どうせ日本にいても口に合わない弁当を作るだけだ。コンピューターの勉強ならブラジルでもできる。ここにいるのは辛すぎる。
帰国することを決心した途端、カズオに重くのしかかっていた雲がにわかに晴れていった。試練と感じたことどもが、今静かに消滅していく。その代わり、自分との闘いに敗れた情けない男がたった一人で立っていた。カズオはもう一度、薄闇の中に浮き上がる弁当工場を、敵意といってもいい目で眺めた。
その時、道から、低い聞き逃しそうな女の声が聞こえてきた。
「宮森さん?」
空耳かと思いながら下を見ると、マサコが立っていた。ジーンズに、破れ目にガムテープを張った男物のダウンジャケットを羽織っている。カズオはちょうど今考えていたばかりのマサコがいるのに驚き、何かの間違いではないかと、狭い廊下を見まわした。夢でも見ているのかと思ったのだ。
「宮森さん」マサコはもう一度はっきり呼んだ。
「はい」
カズオは階段を揺らしながら駆け降りた。マサコは一階の住人の目を避けるようにして、街灯の灯が届かない暗がりに歩いて行く。
カズオはついて行っていいものかと迷いながらその後を追う。何をしに来たんだ。また傷つけられるのか。一度諦めたマサコがまた姿を現したことによって、カズオの内部で、あの試練が、薪《まき》を足された炎のごとく再び燃え上がった。その炎を持て余し、マサコに追いついたカズオは困惑して立ち止まる。
「お願いがあるんだけど」
マサコはカズオを正面から見つめた。そうだ、いつも真っ向から見るのだ、この人は。間近で見るマサコの顔はやつれ、どうしてもほぐれない糸の塊のように複雑なものを抱えているかに見えた。しかし、美しく思えた。久しぶりに相対したカズオは、真冬の日光が当たるのを待つ凍えた人と同様に、マサコの言葉を今か今かと待っている。
「これをあなたのロッカーに入れて預かってくれないだろうか」
マサコは見慣れた黒いショルダーバッグの中から、紙袋を取り出した。書類でも入っているのか、平べったく重そうに見えた。カズオは受け取らずにそれを眺めている。手を出したものかどうか、迷っていた。
「どうしてですか」
「あなたしかロッカー持ってる人、知らないから」
マサコの言葉にカズオは失望する。違うことを言ってほしかった。
「いつまで」
その質問にマサコは考えている。
「そうね。私が必要になるまで。わかる、日本語?」
「だいたい」
答えながらも、カズオは訝《いぶか》しんでいる。どうして自分で持っていないのか。家に置けばいい。ロッカーが欲しいのなら、駅にもあるのに。
「どうしてかと思ってるのね」と、マサコは頬を緩めた。「あたしの家には置けないものなの。でも、工場でも盗まれると困るし、車の中も盗まれるかもしれないから駄目なの」
カズオはその包みを手に取った。想像した通り、重い。思い切って訊ねた。
「中味、何。責任ありますから」
「金とパスポート」
マサコは率直に言うと、ダウンジャケットのポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。カズオは「金」という紙袋の重さに驚いている。それが本当だとしたら、大金に違いなかった。どうして自分にこんなものを預けようというのだろうか。
「幾ら」
「七百万」
弁当の仕様書をコンベアで降ろして数量を伝える時のように、マサコははっきりと金額を口にした。カズオは震える声で聞いた。
「銀行は」
「駄目なの」
「どうして駄目なのか、聞いてもいい?」
「いけない」
マサコはきっぱり断り、煙を吐き出して横を向いた。カズオは考えている。
「それでは、あなたが必要なった時、私がいなかったらどうしますか」
「連絡が取れるまで待つ」
「どうやって」
「ここに来るから」
「わかりました。私の部屋は二〇一です。そしたら工場に取りに行く」
「ありがとう」
自分はクリスマスには帰国するつもりだ。それを伝えるべきだろうか。カズオは迷ったが、言わなかった。それより、マサコに何か困ったことが起きているのだろうか。そのことが気になった。
「しばらく休みでしたね」思い切って聞いてみる。
「ええ。風邪引いてたの」
「辞めたのかと思ってました」
「あたしは辞めないよ」
マサコは道路のその先の暗がりを振り返った。このアパートの前の道をずっと行けば、廃工場と工場の中間点に出るのだった。マサコの目に珍しい不安の影が差している。絶対に何か悪いことが起きているのだ。それは、マサコが暗渠に捨てたあの鍵と関係があるのではないだろうか、とカズオは感じ取っている。敏感な感受性がカズオの武器となることもあり、弱点となることもある。今は武器にするべきだった。
「問題何かある」
思い切って訊ねると、マサコはカズオを見返した。
「わかるの」
「はい」カズオはマサコの不安の色を自身の目にも移して頷く。
「困ったことが起きてるの。あんたに助けてもらうことはないけど、さっきの包みだけは預かって」
「どんなことですか」
だが、マサコは唇を結び、答えなかった。カズオは出すぎた真似をした、と暗闇の中で顔を赤らめた。
「すみません」
「いいの。こっちこそ悪いわね」
「いえ、わかりました」
カズオは、マサコから預かった紙袋をそっと黒いジャンパーの内ポケットに入れ、ジッパーを上げた。マサコは車をどこかに停めているらしく、ポケットから音をさせて鍵束を取り出した。
「じゃ、よろしく」
「あの、マサコさん」カズオはとうとう口にした。
「何」
「あのこと許してくれますか」
「勿論」
「完全に?」
「ええ」
マサコは簡潔に答えて目を伏せた。いとも簡単に、しかもあっけなく、難しいと思われた試練を乗り越えたカズオは一瞬、何が起きたのかわからなかった。しかし、同時にそれが最も安易な試練だということにも気が付いた。その芯とでもいうべきものは、マサコの心を得ることだという真実を思い出したからだった。心を得なければ、そんな許しなど何の意味も持たないのだった。
カズオはうなだれ、素肌に下げた鍵にジャンパーの上から手で触れ、そして内ポケットにあるマサコから預かった紙袋にも触れた。それはかさばって重い。
「でも」とカズオは小さくつぶやいた。マサコは聞き耳を立てるように顔を伏せたまま首を傾げた。「あなたは、どうして私に大事なもの預けるのです」
それこそがカズオの一番聞きたいことだった。マサコは短くなった吸い差しを地面に落としてスニーカーで潰し、きっと顔を上げた。
「私にもわからない。ただ、こんなことを頼める人が誰もいないから」
カズオは驚いてマサコの口許にある小さな皺を見た。初めて、マサコの孤独を見せつけられた思いがした。家族も友人もいるはずなのに、よく知りもしない外国人である自分に大事な物を預けるとは。マサコはカズオの視線から逃れるように目を逸らし、小石をスニーカーの先で蹴った。石ころは乾いた音を立ててカズオの後ろに転がっていった。カズオは唾を呑み込み、その日本語を繰り返した。
「誰も? 誰もいない?」
「そう」マサコは頷く。「誰もいないし、あたしには安心して隠せる場所もないの」
「それは誰も信用してないこと?」
「ええ」今度はまっすぐにカズオの目を見た。
「じゃ、僕は信用してる?」
カズオはその質問を投げかけてから、息を潜めてマサコを見つめた。マサコは視線をそのまま預けて答えた。
「信用してる」
そして、静かに身を翻し、すっかり暮れた道を工場の方向に歩いて行った。
「……ありがとう」
カズオは頭を下げて、右手で左胸を押さえた。そこに紙袋があるからではなく、心臓があるからだった。
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第七章 出口
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弥生は不思議なものを見るように、薬指にはまった結婚指輪を眺めている。それは、ごくありふれたデザインのプラチナの指輪だ。
買った日のことを思い出す。早春の曖かな日曜日、健司と二人でデパートに選びに行った。健司はショーケースをひと渡り眺めた後、一生ものだからと一番高い指輪を選んだのだった。その時の晴れがましさと面映《おもは》ゆさは、いまだ覚えている。あの感情はどこで見失ったのだろう。輝かしい二人はいつ消滅したのだろう。
健司を殺した。突然、弥生は声にならない悲鳴を心の中で上げた。しでかしたことの重大さに、今ようやく気付いた。
弥生は居間の椅子から勢いよく立ち上がり、寝室に駆け込んでいった。姿見の前に立ち、セーターをたくし上げて裸の腹を見る。自分に殺意を抱かせた原因がここにあったことを確かめるために。しかし、憎しみの刻印として鳩尾《みぞおち》にくっきりあった青痣《あおあざ》は段々黄色くなって薄くなり、今はその跡形もなかった。
なのに、自分はこのために健司を殺してしまった。一生ものだからと言って、わざわざ高いほうの指輪を選んでくれた男を殺してしまった。その咎《とが》めすら受けていない。これでいいのだろうか。弥生は畳にへたりこんだ。
しばらく経って目を上げると、仏壇の正面に置かれた健司の写真がこちらを見ていた。子供たちがいつもあげている線香の匂いが染みついた写真。弥生は、夏のキャンプ場で撮った健司の笑い顔を見ているうちに腹が立ってきた。
何が気に入らないのか、あたしに当たってばかりいたくせに。本当のあなたは、そういう弱い者いじめをする人間だったくせに。子供の面倒だって見たことがなかったくせに。弥生は目尻の涙を拭きながらつぶやいた。いつもの激情がまた津波のように盛り上がり、岸壁に押し寄せ、ほんの少し芽生《めば》えた悔恨をあっという間に海に押し流していった。
殺したのは悪いとは思うけど、あたしはあなたをまだ許しはしない。弥生は自分に言い聞かせ、何度も繰り返す。まだ許してない。殺したからって許した訳じゃない。一生、絶対に許さない。変節したあなたが悪いのだから。あたしはまったく変わっていないのに、裏切ったあなたが悪いのだから。結婚指輪を選んだ時の輝く二人を消滅させたのは、ほかならぬあなた自身なのだから。
弥生は居間に戻ると、庭に面したベランダの戸を乱暴に引き開けた。三輪車や幼児用のブランコが所狭しと置かれ、隣家とは黒ずんだブロック塀で仕切られた小さな庭だ。弥生は結婚指輪を引き抜き、思いっきり遠くに投げた。いっそ隣の庭に入ってしまえばいいと思ったのに、それはブロック塀に当たって思いがけない方角に跳ね、庭の隅に落ちた。指輪の行く先を見失った途端、弥生は取り返しのつかないことをしたという気分に駆られた。なくなればいいと思っているにもかかわらず、自分がそれに積極的に関わると胃がむず痒《がゆ》くなるような後悔を感じる。
弥生は、十一月の、白さを感じさせる真昼の太陽の光で、すっきりしてしまった左手の薬指を眺めた。八年間、一度も外したことのない指輪の痕《あと》が薬指に白く残っているのを切ない想いでじっと見入る。欠落感があった。しかし解放もされていた。とうとう、あらゆることが終わりを告げた。
そう思った矢先だった、インターホンが鳴ったのは。
今の出来事を見られたのではないだろうか。弥生は裸足のまま庭に降り立つと、背伸びして玄関のほうを窺《うかが》った。上背のあるスーツ姿の男が畏《かしこ》まって立っている。幸い、弥生が庭先から覗いていることには気付いていない様子だった。
弥生は急いで部屋に戻り、インターホンを取った。湿った黒い庭土がストッキングをはいた足裏についていて、床を点々と黒く染めたがどうでもよかった。
「はい、どちら様」
「新宿の佐藤と申しますが。ご主人様と知り合いの者です」
「はあ」
「近くまで来ましたので、お線香でもあげさせていただければと」
「そうですか」
面倒に思ったが弔問《ちょうもん》とあれば断る訳にもいかない。弥生は仏間となっている寝室や居間を主婦の目で点検した。これならいいだろうと玄関に向かう。ドアを開けると、短髪でごつい体つきの男が深々と礼をした。
「突然お邪魔して申し訳ありません。このたびはご愁傷《しゅうしょう》さまです」
声音《こわね》は低く心地よかった。反射的に礼を返しながら、弥生は瞬間、妙な気がする。健司が死んだのは七月の終わり。すでに四ヵ月も前のことだった。だが、今でも事件を知らなかったと言って驚きの電話をかけてくる友人もいるのだから、と気を取り直す。
「わざわざ恐れ入ります」
佐藤は弥生の顔を目を鼻を口を、時間をかけて眺めている。目つきは嫌味ではないが、いかにも弥生をあらかじめ知っていて実物と情報とを照らし合わせているような不快感があった。
弥生もまた佐藤の顔を見て、健司とこの男がどういう知り合いだったのかと訝《いぶか》った。佐藤は健司の周りの人間関係、つまり会社員たちとまったく違う匂いを放っているからだった。彼らがどこか暢気《のんき》で正直なのに対し、佐藤は容易に正体を掴ませない、ぬらりとした膜のかかった印象がある。なのに、灰色の地味な安物のスーツとタイをつけた勤め人風なのだ。
弥生の違和感を敏感に察してか、
「お参りさせていただいてもよろしいですか」
佐藤はこなれた柔らかい物言いで意思表示した。
「どうぞ」
やんわりと押された形で弥生は佐藤を家に上げた。先に立って短い廊下を歩きながら、佐藤は後ろからどんな顔でついてくるのだろうというぼんやりとした不安を感じた。弥生は男を迂闊《うかつ》に入れたことを後悔しはじめていた。
「こちらです。どうぞ参ってやってください」
弥生は仏壇のある寝室に案内した。佐藤は膝をついて仏壇の前ににじり寄り、手を合わせた。弥生は台所で茶の用意をしながら寝室のほうを見遣り、佐藤が香典の袋も何も持っていないのを怪しんだ。何も香典が欲しいのではない。家まで訪ねてきたのなら、香典か見舞いを携えてくるのが常識ではないだろうか。
「どうもありがとうございます。こちらにどうぞ」
弥生は、リビングのテーブルに煎茶《せんちゃ》を出した。佐藤は遠慮もせずにその前に座り、弥生を正面から見た。その目に、健司への弔意も、弥生に対する同情も、また事件に対する好奇心も何も現れていないのを、弥生は不気味に思った。
礼を言いつつも佐藤は茶に手もつけない。灰皿を出しても煙草ひとつ吸わない。手も膝の上に置いて、テーブルに出そうともしなかった。まるでここに来た証拠を残したくないから、どこにも触りたくないかのようだ。弥生は、次第に怖くなってきていた。雅子に『気を付けろ』と以前から言われていたことが、今ようやく切実さを持った。
「主人とはどちらで知り合われましたんでしょうか」
弥生は震える声を押さえ、何気なさを装って訊《たず》ねてみた。
「新宿なんですよ」
「新宿のどちらで」
「歌舞伎町ってとこですよ」
弥生は不安を感じて、顔を上げた。佐藤は弥生の怯えを見て、優しい顔で微笑んだ。が、それは厚めの唇を笑う形に広げただけで、目にはやはり何の感情も表れなかった。
「歌舞伎町と言いますと?」
「奥さん、とぼけないで」
弥生は仰天《ぎょうてん》した。以前、衣笠《きぬがさ》が電話をしてきて、カジノ経営者が失踪したと告げたことが脳裏に蘇ったからだった。しかしまだ、まさかという思いが残っていた。
「どういうことですか」
「あんたのダンナとちょっとやり合ったんだよ。あの晩な……」佐藤は弥生の反応を確かめるようにいったん言葉を切った。弥生の呼吸が瞬間止まった。「その後のことはあんたが知ってるだろうけど。こっちはえらい迷惑|蒙《こうむ》ってな。店は潰れちまったし、商売は滅茶苦茶《めちゃくちゃ》になった。あんたにゃ想像もできねえだろうけどな。こんな、田舎のちまちました家で子供育てて暮らしてりゃ」
「何言ってるんですか。帰ってください」
弥生は立ち上がろうと腰を浮かしかけた。
「座れよ」
佐藤に静かに脅《おど》され、弥生は困って中腰のままだ。
「警察呼ぶわよ」
「呼んだら困るの、あんたのほうじゃねえか」
「どういうことよ」弥生は椅子に尻を落とした。「それ、どういうこと」
弥生の脳はすでにパニックを起こしている。思考することもできずに、一刻も早く、この不気味な男が家から出て行ってくれることだけを願っている。
「知ってるんだよ。あんたがダンナを殺したこと」
「嘘です。何言ってんのよ、あなたは」弥生はヒステリックに叫んだ。「いい加減なこと言わないでよ」
「奥さん、近所に聞こえるよ。この辺、庭が狭いんだから。それ、やましさからくる過剰反応っていうんだよ」
「何を言ってるのか、さっぱりわかんないわ」
弥生は震える両手をこめかみに当てた。すると激しい手の震えが、小さな頭までを揺り動かした。弥生は手を外す。どうしていいのかわからなかった。
しかし、佐藤の言葉は弥生をとりあえず静かにさせた。今度の事件では、ほとほと近所の反応に悩まされた。被害妄想とわかっているが、今でも近隣が自分のことを何と噂しているのか考えると怖い。
「俺がどこまで知ってるのか不安なんだろ。奥さん」佐藤は笑った。今度は本物の笑いだった。嘲笑《ちょうしょう》。「でも、全部知ってるよ」
「何をですか。変なこと言わないでください」
弥生は恐る恐る、テーブルの向こう側にいる佐藤を見た。危険で、誰からも自由で、おそらくは自分の想像し得ない恐怖や快楽をたくさん味わってきた男だということは世間知らずな弥生にも見当がついた。道で擦《す》れ違うこともなかっただろう。同じ言語を喋っていることすら不思議なくらい違う世界にいる男だった。健司はこんな相手と喧嘩したのか、と弥生は殺した夫を誉めたいとさえ思った。
「何、ぼーっとしてんだよ」
佐藤は弥生の放心を見て薄く笑った。
「あんまり変なこというから」
弥生は同じ言葉を繰り返す。佐藤は何を言おうかと考えるように顎に手を当てた。その指が長く繊細なのを見て、弥生は気味が悪くなった。
「あの晩、俺と喧嘩したダンナが帰ってきた。それで、あんたがこっそりダンナをこの家の玄関先で絞め殺した。子供にそのこと聞かれたけど叱りつけて黙らせたんだろ。上の子供、何てったっけな。そうだ、貴志だ」
「貴志のこと、どうして知ってるの!」弥生は脅えた。
「人が好《い》いなあ。聞いた通りだ」佐藤は弥生の顔を、さも可愛いという表情で見ている。「あんた年増《としま》だけど、生活の垢《あか》さえ落とせば、充分店でやれるよ。可愛いもん」
「やめてよ」
泥まみれの手で頬を撫でられた気がする。弥生は声を高くした。この男の店のホステスに健司は魂を奪われたのだ。そのことを思い出すと、憤怒《ふんど》で顔が紅潮した。
「何だ」佐藤は弥生の変化を眺めている。「何か思い出したのか」
「あんたの店で、うちの人は酷《ひど》い目に遭ったのよ」
「やれやれ」佐藤はつぶやく。「あんたの亭主が外で何をしてたか知らねえんだろ。自分の亭主が外でどう見られてるかなんて考えたこともねえんだろ。知らねえのが罪なことだなんて考えたこともねえんだろ。いいよな、主婦は」
「やめて」
弥生は耳を塞ぐ。佐藤の口からはとめどなく毒が溢れ出てくる。自分のまったく知らない種類の味。世間という名の毒汁。
「何度も言うけど、怒鳴ると外に聞こえるよ。ただでさえ、あんたの家は注目の的なんだからね。子供の将来もあるんじゃねえのか」
「どうして貴志の名前まで知ってるの」
子供のことを出され、何とか声を低めた弥生は縋《すが》るように訊ねた。効き目の遅い毒が頭の先から爪先《つまさき》まで、今ようやく染み渡ったところだ。
「まだわかんないのか」と佐藤は哀れむ顔になる。
「もしかして、森崎さんが喋ったの?」弥生は思いついて聞き、それから無言の佐藤を見て涙をこぼした。「あたし裏切られたわ」
「裏切る?」佐藤は呆れた。「仕事なんだから、はなっからそんな気はねえよ」
仕事。じゃ、あれは全部演技だったというのか。雅子は森崎洋子を嫌い、信用しなかった。ほんとに自分は人が好すぎる。自分が情けなくなって弥生は静かに涙を流した。
「今さら泣いたってしょうがねえ」
佐藤は低い声で言った。
「でも」
「でも、じゃねえよ」いきなり怒鳴られ、弥生はひきつった顔を上げた。「あんたが友達に頼んでダンナをバラバラにしてもらったことまで知ってるんだ」
弥生は無言で左手の薬指を見つめている。指輪を捨てて、すべて終わったと思ったのは甘かった。今、本当の終わりがやってきている。破滅だ。
「しょげてんな」佐藤はせせら笑った。「あんた、俺が死刑になればいいと願っただろう。残念だったな」
「早く警察呼んで。自首するから」
「ほんとに甘い女だな。てめえのことしか考えてねえ」
そう言い捨て、佐藤はスーツと同色の地味なタイの結び目を器用な指先で緩めた。灰色の地に茶の筋が入った柄、まるでトカゲの背中のような模様を見て、弥生はあのネクタイで絞め殺されるのかと漠然と思った。自分も健司のように涎《よだれ》を垂らして死ぬのだ。耐えられず目を瞑《つむ》って震える。
「奥さん」
佐藤がテーブルをまわってきて横に立った。弥生は体を縮め、答えることもできない。
「奥さん」と再び佐藤が呼ぶ。
「何ですか?」
こわごわ顔を上げると、佐藤がデジタルの腕時計を眺めた。
「早くしないと銀行しまるから」
「どうして」と佐藤のほうを向き直り、やっと弥生はその意図を知り絶句した。「まさか。あのお金を?」
「そういうことだよ」
「それはできないですよ! だって、これからのうちの生活費なんだから」
「俺に払う金なんだよ」
「いやよ!」
「何言ってやがる。この首へし折られたいのか」
佐藤は柔らかい声で言って、弥生の細い首を後ろから強い力で掴んだ。長い指が背後からまわって頸動脈《けいどうみゃく》まで押さえた。弥生は首を摘んで持ち上げられた子猫のようにまったく動けない。泣きながら哀願する。
「お願い、やめて。助けて」
「首折られたいか、金を払うか」
「は、払います」
毒はすでに神経の痺れまでもたらした。弥生は恐怖に痺れたまま何度も頷いていた。失禁さえしていた。
「銀行に電話してこう言え。田舎の父親が急死したので例の金を全額持って帰る、兄と一緒に行くから用意してほしいってな」
「は、はい」
弥生がつかえながら電話する間も、佐藤はその指を離さなかった。
「じゃ、着替えろ」
電話を置くと佐藤はようやく弥生の首を離してくれた。弥生は痛みに呻《うめ》いて、聞き返す。
「着替えるって?」
「馬鹿。おまえのその格好じゃ銀行も信用しねえぞ」佐藤は弥生の毛玉だらけのセーターと引きずるような古いスカートを軽蔑するように一瞥した。「借金に来たと思われるだけだ」
佐藤は弥生の腕を掴み、椅子から引き上げた。
「どうするんですか」
弥生はがたがたと震えている。スカートの尻の部分に小便を漏らした染みがついているのに気付くと、見栄もプライドも恐怖さえも消え去り、ただ機械のように動き始めた。
「洋服ダンスを開けろ」
弥生は寝室に連れて行かれ、言われるままに貧相なベニヤ合板の洋服ダンスを開けた。
「選べ」
「どんな服ですか」
「スーツかドレス。改まってりゃいい」
「持ってないです。あたし、そんないい服ないんです、すみません」
弥生は泣きながら謝った。突然入り込んできた恐ろしい男に恫喝《どうかつ》されたうえに、洋服ダンスの中を見られ、服を持っていないことまで謝罪しなければならないとは。その惨めさに涙が止まらない。
「貧乏してんな」佐藤は馬鹿にして、ほとんど健司のスーツとコートしか入っていない洋服ダンスをうんざり眺めている。「おう、喪服《もふく》があるじゃねえか」
「喪服着るんですか」
弥生はクリーニングの袋のかかった夏用の喪服を取り出した。それは、健司の通夜の時に着た黒のスーツだった。何も持っていないので、見かねた母親が買ってくれたものだった。本葬は貸衣装の和服だったのだ。
「ちょうどいいじゃねえか。喪服ならあっちも同情こそすれ、嫌がらねえよ」
「でも、夏用です」
「そんなこた、どうだっていい」
佐藤に一喝されて弥生は縮み上がった。
三十分後、薄い夏の喪服を着た弥生は、佐藤とともに立川駅前にある都市銀行の特別室に通されていた。
「本当に五千万、全額下ろされるのですか」
支店長までが出て来て、何とか翻意《ほんい》させようと必死だ。弥生は押し黙り、床に敷き詰められたカーペットを見つめたまま何度も首を縦に振った。佐藤から、黙って頷け、と指示されていた。
「突然の不幸だもので、こっちもあれですから」
兄と名乗った佐藤が傲然《ごうぜん》と言い張った。銀行側も嫌とは言えない。方策を探ろうと目を見合わせている。
「危険ですから金融機関に振り込みますが」
「いいですよ。そのために兄の私が出てきたんだから」
「そうですか」
諦めて支店長が溜息混じりに弥生を見た。弥生はあまりの出来事にただ呆然と、硬直して椅子の上に座っているだけだった。情けない。絶望の深い呻きを洩らすと、それが突然肉親を失った悲嘆に見えるのか、行員たちは気の毒そうに目を伏せるのだった。やがて、行員によって、応接室のテーブルに現金五千万が運ばれて来た。
「確かに」
佐藤は銀行の用意した紙袋に札束を無造作に詰め、持ってきた黒いナイロンバッグにそれを入れた。「じゃ、どうも」と弥生の腕を掴んで立ち上がる。弥生はロボットのように言いなりだった。力が入らず体がぐにゃりと曲がるのを、佐藤が背後からがっちりと支えている。
「弥生。何だ、おまえしっかりしろ。これから通夜なんだぞ」
堂々たる演技だった。弥生は佐藤に腕を取られたまま引きずられるようにしてついて行く。やっとのことで銀行から出る。佐藤は弥生を突き飛ばした。弥生はよろめいて歩道のガードレールに手を突いた。佐藤は構わずタクシーを拾い、乗り込む寸前に弥生のほうを振り向いた。
「おう、わかってんだろうな」
「はい」
弥生は素直に頷いた。佐藤を乗せたタクシーが去って行くのを放心して眺めている。五千万が去って行く。健司からの思いもかけないプレゼント。束《つか》の間《ま》の夢。これからの生活資金。それらが消えてゆく。
しかし、金を失ったこともさることながら、佐藤という恐ろしい男に自分が繋《つな》がってしまったことが弥生には衝撃だった。一方では、よくも殺されなかったものだと安堵《あんど》の念が湧き上がる。首を押さえられた時は、絶対に殺されると覚悟した。
舐《な》めていたのだ、男たちを。やはり、女には恐ろしい生き物なのだ。
弥生はすべての力を奪い取られ、もう何の余力もないと感じながら、駅前の時計をぼんやり見上げた。午後二時半だった。コートも着ないで出て来たので寒かった。薄い夏用喪服の両腕を自分で抱き締めながら、弥生はこのことは雅子には告げるまいと決心している。それが、喧嘩別れ同然の雅子に対する、せめてもの意地だった。
しかし、金をなくし、仕事も辞め、雅子たちとも袂《たもと》を分かって、生活の指針を失った弥生はこれからどこでどうしたらいいのか見当もつかなかった。弥生は何の目的もなく立川の駅前をふらふらと歩きまわった。
そのうちに、健司こそが自分たちの生活の指針そのものだったのだということに気が付いた。夫の健康、夫の機嫌、夫の稼ぐ金。それらに一喜一憂する生活をしてきたのだ。弥生は笑いそうになった。自分が夫を殺したのだから。
夕方、陽が落ちるまで外で遊んでいた貴志が家に帰ってきて、元気のない弥生に何かを差し出した。
「お母さん、これ落ちてたよ」
「あら」
投げ捨てた結婚指輪だった。少し傷がついていたが、歪んではいない。
「大事なものだから、僕が拾ってよかったね」
「そうだね」
弥生は指輪を左手の薬指にはめた。それは指のくぼみにぴたっとはまる。
『あんたの場合は、死ぬまで詰めが続くんだよ』
雅子の言葉が脳裏に蘇った。そうだ、まだ終わっていないのだ。一生終わらないのだ。弥生の目に涙が浮かんだのを見て、貴志が嬉しそうに、また得意げに弥生の顔を見上げた。
「よかったね、指輪出てきて。よかったね、僕拾ってあげて」
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雅子は凍りついて動けなかった。
いや、うまく働かないのは雅子の意識だけだった。運動機能は正常で、カローラを運転し、いつもの駐車スペースの前で斜めに停めてバックで入れるという作業を滞《とどこお》りなく果たしている。むしろ普段より滑らかだった。だが、雅子は車を完全に停止させてサイドブレーキを引いた後、下を向いたまま呼吸を整えなければならなかった。決して横は見ずに。なぜなら、隣のスペースに、邦子のグリーンのゴルフが停まっているからだ。
邦子が死んだことは、工場では自分とヨシエしか知らないはずだ。しかし、駐車場には、定刻に出勤してきたかのように、邦子の車が停まっている。邦子のスペースにきちんと。この数日間はなかったのだから、佐竹か、あるいは邦子の死に関わる人物が乗って来たのだとしか考えられなかった。その目的はただひとつ。ヨシエは自転車通勤でここには来ないのだから、雅子を怖がらせるためでしかない。
佐竹がすぐ近くまで来ている。このまますぐ逃げたほうがよくはないか。雅子は心臓が締めつけられる不安と焦燥《しょうそう》を感じながら、安全な車内から暗い駐車場に踏み出すことをしばらく躊躇《ちゅうちょ》している。
この夜、駐車場はにぎやかだった。弁当をコンビニに運ぶ白い大型トラックが二台、駐車場の入口に停まっていた。白い帽子に白い作業着、マスクという、雅子たち従業員とそっくりの衛生服を着た運転手が二人、番小屋の前であの警備員と煙草をくゆらしながら談笑している。男たちの時折立てる陽気な笑い声が、雅子のいる場所にまで聞こえてきた。
雅子は勇気を得て車から出ると、邦子のゴルフの周囲をまわってみた。邦子の駐車の仕方にそっくりだ。少し右に曲がる癖や、前輪を戻さないまま停める杜撰《ずさん》さまで。まるで邦子が生きていて、工場のサロンで雅子を待っているかのような錯覚さえ起きた。この手で邦子の首を落としたのに。雅子は両手に視線を落として、それが紛れもない現実だったことを確認し、自分の弱さを恥じて目を上げた。
これほどまでに邦子を観察していたのか。ならば、こうしている自分の姿もどこかで見られているかもしれない。佐竹という男の神経の細かさと執念の強さを感じると、腹がじんわり冷えていく。今度は運動機能のほうが恐怖で固まり、動けなくなった。足が思うように運ばない。雅子は自分の不甲斐なさに歯噛みした。
その時、警備員が男たちの輪からふっと頭を抜け出し、雅子を見てにこやかに敬礼した。雅子が以前、「送る」という警備員を突っぱねたのを覚えていて、からかっているとも取れる仕草だった。
「ご苦労さん」
その言葉を潤滑油としたように、足が動きだした。雅子は男たちの輪に近寄り、警備員に思い切って訊ねた。
「あの車、誰が乗ってきたか知りませんか」
「どれですか」
警備員はのんびり答える。
「あのグリーンのゴルフ」雅子の声が掠《かす》れる。
「さあね」警備員は番小屋の中からナンバー登録をしてある台帳を取り出し、懐中電灯の光で調べている。
「城之内邦子とありますよ。ええと早朝部だから」
わかり切った情報に苛立った雅子は警備員の言葉を遮《さえぎ》る。
「彼女、辞めたって書いてませんか」
「ああ、ほんとだ。退職とありますね。六日前か、変だな」警備員は目を細め、その箇所を確認した。それから手庇《てびさし》をして、ゴルフのほうを見遣った。「変ですね。停まってますね。用事でもあって来たのかな」
「あれは何時頃から停まってます」
「さあ」警備員はトラックの運転手らと顔を見合わせた。「気が付かなかったですね。私は午後七時からの勤務だけど」
「ゆうべからあったんじゃないの」
トラックの運転手が煙草を吸うために顎までずり下ろしたマスクを手で押さえて言った。
「なかったですよ」
「そうかい。なら、そうなんだろうよ」雅子の即座の否定に運転手が気を悪くした。
「すみません」
邦子を解体して、まだ三日しかたっていない。指先にできた深い逆剥《さかむ》けのように神経がささくれ、空気に触れただけでも痛む。雅子は体が揺れるほどの恐怖を抑え込み、今起きている現実を何とか認めようとしていた。しかし、出来事の凄まじさが頭の芯を砕き、夢との区別をつかなくしている。急に静かになった雅子に、別の運転手が訊いた。
「何でそんなこと気になるの」
雅子は我に返った。
「彼女、辞めたはずなのにどうしてかなと思って。どんな人が乗って来たか見ませんでしたか」
「いや。何しろ、いつから停まっているのか知らないくらいだからわかりませんね」
警備員は台帳をぱらぱらとめくりながら面倒臭そうに答える。
「そうですか。どうも」
雅子は礼を言い、暗闇の道に足を踏み出した。肩に手がかけられた。大きな温かな手だった。
「今夜は送らなくていいですか」
警備員が後ろに立っていた。名札を見ると、「佐藤」とある。
「あ」
「顔色悪いですよ」
雅子は迷っていて言葉が出てこない。正直、この男に送ってもらいたくもあり、一人で考えながら歩きたくもあった。警備員は笑った。
「こないだ、一人で行くからいいって断ったよね。余計なこと言ったかな」
「いえ。じゃ、途中までお願いします」
警備員は胸に下げていた懐中電灯をはずして点灯し、雅子を先導して歩きだした。雅子は駐車場を振り返り、邦子のゴルフがそのままなのを確認してから後を追う。警備員は早い足取りで数メートル先を行く。
「今日は何だか具合悪そうですね。大丈夫ですか」
右手の住宅が切れる辺りが一番暗い。道もその周囲の建物も闇に溶けていた。空には弱い光を放つ星がふたつ浮かんでいるだけだった。警備員が立ち止まった。足下を照らす黄色く丸い光の輪に警備員の黒い頑丈な靴が浮かぶ。
「ええ」
雅子も足を止めかけた。警備員の顔を見ようとしたが帽子を目深《まぶか》に被っているためよくわからなかった。
「あのゴルフに乗ってた人は友達?」
「そうだけど」
「彼女、どうして辞めたのかな」
声は低く心地よい。雅子は答えずに警備員の横を擦《す》り抜けた。邦子の話などしたくなかった。真横を通った時、警備員が雅子を見つめているのがわかった。そこだけ空気が淀んで濃い感情の磁場がある。雅子の動悸が激しくなった。訳もわからず、息苦しい。
「もういいですから。一人で行けます。大丈夫ですから」
溜まった息を吐いて一気に喋り、雅子は駆けだした。警備員は黙ってそこに立ったままだ。佐藤と佐竹、似てないか。自分の肩にかけた手に力が籠もりすぎていなかったか。なぜ邦子のことを訊ねるのか。雅子は混乱していた。自分のいる闇の濃さを測りかねていた。何を信頼し、何を疑えばいいのか見当がつかなかった。雅子は微かな違和感を、手元にたぐり寄せることもできずに道端に捨てて走った。
走りづめで工場に辿《たど》り着くと、雅子はすぐさま更衣室に入ってヨシエの姿を探した。ヨシエは来ていない。邦子の死体解体以来、一度も工場では会っていなかった。邦子の始末をした代償で引っ越してしまったのだろうか。それとも、ヨシエに何かあった?
サロンの長いデコラ張りの机の端に一人座り、ネットからはみ出す髪を乱暴につくつく帽子の中に入れながら、雅子はどうしたものかと考え込んでいる。
煙草に火をつけ、佐竹が工場の中に潜り込んでいないとも限らないと思いつく。雅子は男の従業員の溜まり場を何気ない素振りで眺めた。新人も外部の者も見当たらない。いつになく落ち着かず、焦っているのを感じる。
雅子はテレホンカードと手帳を取り出し、サロンの公衆電話から十文字の携帯に電話を入れた。
「ああ、香取さんか」ほっとしている。
「どうしたの」
「いや、変な電話入るんで。もう取るのやめようかと思ったんすよ」
十文字は気の弱さを匂わせた。
「どんな電話」
「奴だと思うんですけどね。電話に出ると、男が一言、こう言うんですよ。『次はてめえだ』って。脅しだってことはわかってるけど、あいつの現物見てるでしょう。まいりますよね」
「どうしてあんたの番号わかったの」
「名刺配って歩いてますからね。そんなの簡単ですよ」
「ほかに何か聞こえない?」
「いや、何も。携帯だから仕方ないけど、行く先々にかかってくると、めげますよ。四六時中、見張られてるような気分になって。俺、ずらかりますから。香取さん、お元気で」
「ちょっと待って。頼みがあるんだけど」
雅子は慌てて止めた。
「何ですか」
「今、駐車場に邦子のゴルフがあるのよ」
「えーっ」十文字が怖《お》じたのが伝わってくる。「どうして」
「さあ。邦子が乗ってくる訳がないんだから、佐竹としか思えない」
雅子は声を潜めた。
「香取さん、それ、かなりやばいすよ。早く逃げたほうがいいですよ」
「わかってる。だけど、これから駐車場に行ってどんな奴が乗ってきたのか見張っててくれるとありがたいんだけど」
「あいつに決まってますよ」
「どこに帰るのか見てくれない」
「それだけは勘弁してください」
すでに腰の引けた十文字は、自分の安全しか考えられないらしい。雅子はとりあえず十文字を宥《なだ》めて、朝の六時過ぎに終夜営業のデニーズで待ち合わせをすることにした。
電話をかけていたため、作業に遅れた。雅子は急いでタイムカードを押して、一階の工場に駆け降りた。すでに百人近い早朝部のパート従業員たちが、十二時の始業を扉の前で並んで待っていた。雅子はその列の最後に並んだ。ヨシエと弥生と邦子とチームを組み、他人を出し抜いて少しでも楽な仕事を得ようと列の先頭でほかのグループとせめぎ合っていたことなど遠い昔の出来事のようだった。
扉が開いた。従業員がなだれ込み、入口に設置されている手洗い場に並ぶ。しばらく待って、やっと雅子の順番が来た。コックを肘で開け、手を洗い出す。すると、この数日間、張りついて取れない糸屑《いとくず》みたいに悩まされているある妄想が、雅子の心に絡みついてきた。
黄色味を帯びた白い脂肪が両の掌《てのひら》にねっとりとついて取れない。爪の間に奥深く潜り込み、指の股はぬるぬると滑る。両手を擦《す》り合わせて石鹸でいくら洗っても、水を弾いて容易には落ちない邦子の脂肪。
雅子は狂ったように石鹸をつけ、たわしで赤くなるほど掌を擦《こす》った。
「あんた、手が切れると作業できないよ」
いつの間にか衛生監視員の駒田が後ろから眺めていて雅子に注意した。ほんの少しの傷があっても食品に触ることは許されないのだった。雅子の手や腕は真っ赤になっている。
「そうだったね」
「あんた、どうしたのよ。今日はいったい」
「すみません」
手を消毒液に浸し、消毒ガーゼで拭き取り、ビニールエプロンもすべて拭き清める。エプロンを見ると、やはり邦子の赤黒い血がこびりついてなかなか落ちなかったことを思い出した。その妄想も払い落とそうと、雅子は強く頭を振る。
「マサコさん」
横にカズオが来た。白飯を載せた台車を押している。
「大丈夫ですか」
「うん」
雅子はどのラインにつくかと考える振りをしながら、カズオに答える。
「あれ、ロッカーに入れました」
「ありがとう」
カズオは辺りに目を配って、まだ誰にも見咎《みとが》められないことがわかると、雅子に囁いた。
「マサコさん。今日、殺気だってますね」
どこでそんな言葉を覚えたのだろうか。雅子はカズオの横顔を見上げる。今夜のカズオは堂々と落ち着いていた。子犬が成長して、成犬になったような頼もしさがあった。今夜ばかりは、カズオの落ち着きとその体躯が欲しいと心底思う。
工場主任の中山が、立ち止まっている二人をめざとく見つけて近づいて来る。
「何してんだ。ラインつけよ!」
雅子はおとなしくコンベアに向かった。工場の労働は、どこか刑務所に似ていた。私語も立ち話も生理的欲求もすべて禁止され、工員は黙々とノルマを果たさなければならない。
「頑張ってください」
カズオの励ましが雅子の背中に暖かな膜のように被さった。しかし、弥生もヨシエも来なくなり、十文字は逃げる。そして、邦子は死んだ。雅子はたった一人で佐竹と闘わなくてはならなかった。これも佐竹の陰謀なのだろうか。佐竹が自分一人を追い詰めようとしている気配を感じた雅子は、その理由を考えている。
朝五時半、労働から解放された雅子は手早く着替えると、工場を出た。外は明けていない。冬の夜勤が辛いのは、夜に閉じ込められるからだ。真っ暗な中で労働が始まって、明けないうちに終わる。
雅子は暗い道を小走りに駐車場に向かった。すでにゴルフはない。いつ、誰が乗って帰ったのだろう。雅子はまだ暗い駐車場の中で立ちすくんだ。おそらく、佐竹は雅子のカローラの前に立ち、ドアに触れ、中を覗き込み、雅子の怯えを空気の震えとして感じ、笑ったことだろう。それを想像すると、雅子の身内に怒りが湧いてくるのだった。舐められたくない。邦子みたいに殺されたくない。
雅子はやっとのことで苦い薬のように恐怖を味わわずに丸飲みし、どうしても喉に引っかかって体内に入っていかなかった邦子の死や佐竹の存在などの現実をともに飲みくだした。そして、ドアを開けて冷えた車内に入り、エンジンをかけた。東の空は今ようやく白んできたところだった。
雅子は寝不足の疲れた顔でコーヒーカップの底に残った黒い滓《かす》を眺めている。
もうほかにすることがなかった。煙草を吸いすぎ、コーヒーを飲みすぎていた。ウェイトレスもうんざりした顔をして、コーヒーしか注文していない雅子のテーブルには寄りつかない。
雅子は、デニーズで十文字を待っていた。七時を過ぎ、朝食をとる勤め人で店は混んでいた。ハムエッグやホットケーキの匂いが立ち込め、せわしないながらも朝の活気に満ちている。約束の時間を一時間以上も遅れていた。
十文字は逃げたのかもしれない。雅子がそう思いはじめた時だった。
「すんません、遅れて」
十文字が現れた。黒いセーターの上に薄汚れたベージュのスウェードジャケットを着ている。ジャケットの煤《すす》けた様が十文字の精神状態を表しているようだった。
「心配したよ」
「眠れないもんだから寝坊しちゃって」
雅子は十文字の、自分と同様にやつれた顔を見上げた。
「工場の駐車場には行ってないんでしょう」
「俺、怖くて行けなかったすよ」
十文字は正直に謝るとジャケットのポケットから出した煙草をくわえ、不安な顔をする。
「あたしも怖いよ」
雅子はつぶやいたが、十文字には聞こえなかったらしい。黙り込んでいる。穏やかな初冬の一日が始まろうとしていた。二人して言葉もなく、大きな填《は》め殺しのガラス窓から外を眺めている。周囲にぐるりと植えられた頼りなく細い白樺《しらかば》が、朝日に照らされて輝いていた。
「すんません、役に立たなくて」
十文字は何度目かの謝罪を口にし、唇《くちびる》を歪めた。アイドルのような、年の割には幼い顔が、急激に苦渋《くじゅう》に満ちた醜い顔に変わった。
「いいよ。なるようになるんだから」
「でも、殺されるの嫌だなあ。畜生」
十文字はぼやき、携帯電話を忌《い》むべきもののようにテーブルの端にことんと置いた。
「あの電話がかかってくると、あいつだってわかってるのに怖いんですよ。顔知ってるだけにすげえ気持ち悪くって」
「あんたが自分を知ってるからかけてくるんだよ。脅しだけなんだよ」
「そうですかねえ」
「どんな顔してるんだろうか」
雅子は独りごちた。十文字の見た、あるいは邦子が死ぬ前に見た男の像が、自分の網膜にも焼きつけられたらいいのに、と思う。
「どんな顔っていうか」十文字はいないことを確認するためか周辺を見まわした。店内は朝刊を読むサラリーマンで一杯だった。「口じゃ言えないすよね」
工場に来て首実検《くびじっけん》してくれ、と雅子は言いたかったが、十文字はそのことを一番怖れているらしく、横を向いている。
「ともかく、ブツは始末してきましたから」
十文字は芯からくたびれたという様子でビニールソファに深くはまり込んでいる。ウェイトレスが大きなメニューを置いていってもすぐに見ようともしない。
「しかし、あれですね。さすがにデブは重いわ」十文字はその重みを思い出したように肩の凝りをほぐした。「前のジジイは軽かったけど、あの倍あるんじゃないすか」
邦子の宅配便は十三個もあったのだ。現地に先まわりしてそれらをすべて受け取り、車に積んで捨てに行くのは確かに骨が折れることだろう。雅子は返事をする代わりに眉根を寄せ、レストランの駐車場を見るともなく見た。つい、グリーンのゴルフが停まっていないかと探す目になっている。
「香取さん、逃げないんすか。まだ工場に行ってるんですか」
十文字は雅子を見た。
「うん、まだ」
「辞めたらどうですか」十文字は呆れた目をする。「香取さん、八百万貯まったんでしょう。七百ですか。もういいじゃないですか。言っちゃ悪いけど、あのパートの五年分くらいじゃないすかね」
雅子は答えずに水を飲んだ。どこへ逃げたところで佐竹が追ってくるのはわかっている。
「俺、今日中には逃げますから」
十文字が注文を取りに来たウェイトレスにハンバーグ定食を頼んだ。
「どの辺りに行くつもり」
「できりゃあ、曽我さんのとこに潜り込みたいすけど、あの人もシビアだし」十文字は雅子の知らない名前を口にした。「ま、渋谷とか女がたくさんいるとこがいいすね。だけど、一年もすりゃ、あっちもどうでもよくなるんじゃないすかね。だいたい俺の場合は山本さんの件に関係ないしね」
十文字は本音を洩らした。雅子は十文字の楽天ぶりに若さを感じている。雅子が決断した諸々《もろもろ》のことは、最早戻れないことばかりだった。また戻りたくはなかった。
「そろそろ行くね」
雅子は代金を払ってから、邪魔者のようにぽつんと置かれた十文字の携帯電話を指さした。
「これどうするの」
「もう要らないすよ。番号変えなきゃなんないし」
「じゃ、あたしにくれない?」
「いいすけど。いつまでも使えませんよ」
「わかってる。そいつの声を聞くだけ」
「それならどうぞ」
十文字は携帯電話を雅子に手渡した。雅子はそれをバッグに入れた。
「じゃ、これで」
「香取さん、気を付けてください」
「ありがとう。あんたもね」
「互いに無事なら、またいつか仕事しましょうや」
十文字は水の入ったグラスを上げて乾杯の仕草をしたが、すぐ真顔に戻った。
家にはもう誰もいなかった。
良樹が飲み残したコーヒーがカップの縁に筋をつけて残っていた。雅子はそれを流しに捨て、アクをタワシで落とした。いつの間にかカップに、傷がつくほど擦り上げている。こうやって、いつまでこの家で暮らしていけばいいのだろうか。雅子は水を止め、肩を落とした。もう少しで自分だけの出口が見えそうだったのに、佐竹という男に奈落に引きずり込まれようとしている。
台風の朝、ヨシエに十文字との仕事をやらないかと誘った時、ヨシエがしばし迷った後、「あんたとなら地獄まで行くよ」と雅子に言ったことがある。やはり、行き着く果ては地獄だったのか。雅子はソファにもたれかかった。疲労というより、徒労感が雅子を挫《くじ》けさせている。
突然、十文字の携帯が鳴りだした。雅子はしばらくそれを眺め、迷っていたが決意して出た。相手は少しの間無言だった。雅子が静かに聞き耳を立てていると、やがてこう言った。
「次はてめえだぞ」
雅子は低い声で応えた。
「もしもし」
相手は一瞬驚いたらしい。沈黙した。
「佐竹」と思い切って呼びかける。
「香取雅子か」
佐竹が押し殺した声で答えた。そこには喜びといっていい明るい響きがあった。やっと巡り会えたかのような。
「そうよ」
「バラバラにした気分はどうだった」
「どうしてあたしたちを追うの」
「おまえを追ってるんだ」
「なぜ」
「生意気な女だからな。俺が世の中からはみ出す覚悟を教えてやる」
「余計なお世話だわ」
佐竹は笑った。
「次はおまえだ。十文字に一番ずれたと言ってやれ」
この声は聞き覚えがある。雅子が急いで記憶の壺を探りだした途端、電話は切れた。
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声がまだ耳に残っていた。すぐそばで、しかもごく最近、聞いた。雅子は慌てて立ち上がった。ソファの上に置いてあったダウンジャケットを引っ掴み、バッグを肩にかけると走って家を出る。車のエンジンはまだ曖かった。
自分はすでに何度も佐竹に会っている。確信はあるが、確証がないのでそれを確かめに行く。まだ、あの男が眠っているうちに。
警備員の佐藤。あの男が佐竹だとすると、すべての辻褄《つじつま》が合う。邦子が出会ったのも当然だし、送る途中に話もできる。それに、自分を見張るにはちょうどいい仕事だ。
最初に駐車場で、佐藤に懐中電灯の光を長く顔に当てられたこと。あれは自分の顔を確認していたのだ。道で振り向きざまに正面から見合った時、佐藤の目に現れた敵意。昨夜、強く肩を掴まれた感触。それらはすべて、雅子に違和感を感じさせていた。
間違いない。しかし、この確信こそは、雅子の意思が揺らいでしまえば容易に恐怖にとって代わりそうだった。そうなれば雅子の腰は砕け、這《は》い蹲《つくば》って逃げる羽目となるだろう。雅子の意思とは、佐竹を殺して無事に逃げおおせることだった。だが、自分にそんな大それたことができるだろうか。できない、人殺しなどできそうもない。しかし、邦子のように縊《くび》り殺されるのはご免だ。不安が爆発しそうになってアクセルを踏む足に力が入り、雅子は前を塞ぐトラックの尻に追突するところだった。
警備員の佐藤が佐竹。雅子は佐藤の暗い目を思い出した。数週間前に見た悪夢が蘇る。何者かに背後から首を絞められて恍惚とする夢。あれは予感だったと納得すると、雅子の心の片隅に、佐竹になら殺されてもいいと思う感情があるのは不思議だった。昨夜、暗い路上でほんの一瞬生じた、二人だけの磁場。自分は無意識に佐藤が佐竹だと感じ取っていたのかもしれない。
雅子は朝の渋滞が始まった道路をのろのろと進みながら、想念を過去へ未来へと行き来させ考え込んでいる。追っているのか、追われているのか。殺すのか、殺されるのか。「生意気な女だからな」という佐竹の言葉。このままでは済ませないという怒りが強く湧いてくる。間違いなく、今、佐竹と一対一で闘っているという実感があった。
通い慣れた道を通って工場に戻る。駐車場は、午前の部のパートタイマーの車で満杯に近かった。時計を見ると、午前八時半。始業は九時だから、出勤してくる車はこれからもまだあるに違いない。雅子は廃工場に向かう道の路肩に車を寄せて停め、番小屋まで歩いて戻った。すでに、老眼鏡をかけた初老の男に交替していた。男は半畳もない小屋で、朝刊を小さく折り畳み、舐めるように読んでいる最中だった。
「おはようございます」
雅子は警備員の耳元で挨拶した。警備員は答えずに、老眼鏡越しに雅子の寝不足で充血した目や、血の気の失せた青い顔を眺めた。
「早朝部で働いているんだけど、ここに午後七時から来ている佐藤さんの住所を教えてくれませんか」
雅子は率直に用件を言った。
「ああ、夜勤の佐藤さん。私は六時までだから会ったことないな。会社に聞いてくれない?」
「人材派遣の方でしょう。総務に行けばわかるかしら」
「いや、うちは別個だから。ここに電話して」
男は無警戒に広告用の名刺を差し出した。「やまと警備保障」とある。雅子はそれをジーンズのポケットに入れた。
「どうもありがとう」
「どうして佐藤さんの住所知りたいの」
初老の男はにやにやして訊く。雅子は真面目に答える。
「デートしたいから」
男はほうと唸り、雅子をしげしげと見た。自分の顔に何か逼迫《ひっぱく》したものが溢れていて、それが甘い出来事とは到底結びつかないのだろうと雅子は思う。しかし、男にはそれが恋の表情と映ったのかもしれない。
「いいねえ。若い人はやるねえ」
「若い」という言葉に雅子は苦笑し、
「会社の人、教えてくれるかしら」と念を押した。
「そう言えばいいんじゃない」男はまた朝刊に戻った。
雅子は車の中から、十文字に貰い受けた携帯で電話をかけてみた。
「もしもし、やまと警備保障ですか」
「はい、そうですが」のんびりした年寄りの声が返ってきた。
「ミヨシフーズの弁当工場で働いている城之内邦子といいます。駐車場の夜勤の佐藤さんが落とし物を拾ってくれたので、お礼を送りたいのですが」
「ほう。そうですか」
「ご住所とフルネーム教えてくれませんか」
「ここですか。自宅ですか」
「できれば自宅のほうを」
「ちょっと待って」
退職老人の多い暇な職場らしく、信金に出入りしていた現金輸送サービスのセキュリティなら考えられないような態度だった。
「佐藤|義男《よしお》。小平市T団地四一二号室ですね」
「どうも」
雅子は電話を切るとすぐさまヒーターを強めた。寒気がしたからだった。佐竹が邦子と同じ団地に住んでいるとは思いも寄らなかった。巧妙に、しかも時間をかけて仕組まれた罠だった。雅子は佐竹の用意周到さに愕然としている。全員があらかじめ追い込まれた魚のように、いつの間にか佐竹の網にかかっているのだった。邦子の次は自分だ。ヒーターの熱気で雅子の額に汗が浮いてきた。が、手で触れるとそれは驚くほど冷たかった。
数週間前に喧嘩同然で別れたままの弥生が気になった。何か隠しているのではないだろうか。雅子は弥生の番号を押した。
「山本でございます」
少し気どった声で弥生が出てきた。
「あたしだけど」
「ああ、雅子さん。お久しぶり」
「何か変わったことない?」
「ううん、別に。子供たちは保育園行ってるし。こっちは悠々自適っていうの? のんびりしてる」切迫した雅子とは対照的に、弥生は暢気な口調だった。「どうして」
「それならいいよ」
「でもね、今年中に田舎に帰ることにした」
「そのほうがいいよ」
「みなさん、元気? 師匠は?」
「最近来てないよ」
「へえ。珍しいわね。邦子さんは?」
「死んだ」
弥生は小さな悲鳴を上げ、しばらく絶句した。雅子は弥生が口を開くまで待っている。やがて、弥生がその言葉を口にした。
「殺されたの?」
「どうして、そう思うの」
「わかんないわ。何となくそう思ったの」
とぼけている。弥生に何か起きた、と雅子は感じる。
「ともかく邦子は死んだんだよ」
「いつ」
「わからない」
「何で死んだの」
「わからない。あたしが見たのは死体だけ」
雅子は邦子の首に無惨についていた太い索条痕のことは言わなかった。
「死体見たのね」弥生は絶望した様子だった。
「見た」
「ねえ、雅子さん。これって、どういうことなんだろう」弥生はパニックを起こしたように慌てている。「ねえ、何で」
「あたしたちが、とんでもない怪物を起こしちゃったんだよ」
「その人に殺されたの?」
弥生はまたしてもその言葉を口にする。怪物と言ったらすぐにピンときた様子に、弥生はすでに佐竹と会っている、と雅子は確信を深める。
「その人って、あんた知ってるの?」
弥生は沈黙した。弥生の背後から、ワイドショーの音がうるさく聞こえてきた。
「何かあったら言いなよ。みんな命さらしてんだからさ。わからないの」
雅子は苛立ち、車内で大きな声を張り上げた。弥生がさらに押し黙っている間、吸い殻で溢れそうになっている灰皿を荒《すさ》んだ気持ちで眺める。ようやく弥生が答えた。
「何もないわよ」
「なら、いいよ。自分のことは自分で守って」
「雅子さん」弥生は雅子の言葉に被せるように息せききって訊ねた。「それってあたしのせいだと思ってる?」
「思ってないよ」
「ほんとに?」
「うん」
雅子はそう答えて、電話を切った。弥生が原因だと考えたことは一度もなかった。自分のせいかもしれないとは思っていた。しかし、そのことを仲間に謝罪する気も、自身が後悔する気もまったくなかった。見えていた出口が塞がりかけていることだけを考えている。今はそこを突破するしかない。たとえその決心を仲間に話したところで、誰もついて来ないことはわかっていた。雅子も仲間を求めてはいない。
雅子は筋張った自分の両手をじっと眺め、やがてそれが唯一の温もりに思えてきて顔を覆った。自分しか信じない。自分だけ。かつて、夏の山に健司の首を埋めた場所を見に行った時の決意と淋しさが蘇る。そのうち車内の空気が重く、暖かくなってきた。急激に眠気がやってきた。雅子はエンジンをかけたまま、目を閉じた。
三十分ほど経って雅子は目を覚ました。辺りは何も変わらず、弁当工場に続く寂しい道があるだけだった。朝晩降りるようになった霜のせいで、道の両脇の草が黄色く枯れはじめている。この場所からも、カズオの開けた暗渠《あんきょ》の蓋がまるで石棺を開けたようにずれているのが見えた。そして、あと十時間もすれば、何食わぬ顔をして制服を着た佐竹がこの道を通るのだった。
東大和の駅前は相変わらずがらんとして、雑草の生えた開発予定地に風が砂埃を巻き上げていた。
何か催しでもあるのか、スケートセンターの前に色とりどりの服装をした大量の小学生が列をなしているのが見える。雅子は駅裏の目立たぬ隅に路上駐車すると、小学生の列をかき分け、急いで道路を渡った。繁華街の裏通りに入って行く。小さな飲み屋の並ぶ路地は生ゴミの臭気が漂い、閑散として寒々しかった。間に合わないかもしれない。自然、駆け足になる。
閉店の知らせが壁に貼りつけてある寿司屋の横から、二階にある「ミリオン消費者センター」への階段を駆け上がる。ぎしぎしと安い建材が唸った。突き当たりのベニヤ合板の薄いドアからは何の物音もしない。しばらくそこで耳を澄ませていると、人がいてひっそりと動いている気配がした。
「十文字さん、開けて。香取だけど」
今朝別れた時の格好をした十文字が驚いた顔をした。汗をかいている。夜逃げの準備でもしていたらしく、たったひとつしかないファイリングキャビネットや、机の引き出しが開けっ放しになっている。十文字のことだから金になりそうな書類を漁って、従業員は捨て置いて逃げるつもりらしかった。
「香取さんか」
「脅かした?」
十文字は答えずに照れ笑いをした。従業員は誰も来ていなかった。
「皆辞めたの?」
「午後から留守番一人来ます。びっくりすんだろうけど」十文字は小狡《こずる》い笑みを浮かべ、雅子を請《しょう》じ入れた。「どうしたんですか。別れたばっかなのに」
「間に合ってよかった。実は邦子のローンの状況を知りたいと思って。あんたのとこで、金貸す時に聞き取りしてるでしょう」
「ええ、してますけど。どうしてですか」
雅子は十文字の、すでに余裕のなくなった顔を眺める。
「佐竹が誰かわかったのよ」
「誰」十文字は眉を開く。
「駐車場にいる佐藤っていう警備員」
「すっげえ」十文字は警備員になりすました佐竹のことなのか、それを突き止めた雅子のことなのか、ただただ感嘆したように叫んだ。「マジですか、それ」
「しかも、邦子の団地に住んでるんだよ」
「俺、足立でゾクやってた時も相当なワル見ましたけど、そこまで徹底してる奴いなかったですよ。格が違うってほんとだよな」
十文字は感心した様子でつぶやき、やがて邦子の死体を受け取りに行った時のことでも思い出したのだろう、苦い顔をして唇の両脇を擦った。そこに何か振り落としたいものでもついているかのようだった。
雅子は十文字の会社の中を見渡した。仕事が少ないらしく、がらんとしてうらぶれて見える。
「不景気そうだね」
「不景気も何も、もうじき潰れますから」さばさばと言い、十文字は指さした。「邦子さんのファイルならその辺にありますから、適当に見てください。だけど、どうすんですか」
雅子はファイルキャビネットから「シ」の項を探しだした。想像した通り顧客数は少なく、「シ」にあるのはたった三人だった。雅子は十文字の汚い字がのたくっている邦子のローンの聞き取り報告を引き出した。さっと目を走らせ、なるべく未払いのトラブルになっていそうなものを探す。
「ね、香取さん。それ、どうするんですか」
十文字が再度訊ねる。興味を感じたらしく、襟と肘が黒くなったスウェードのジャケットを脱ぎ、黒のタートルネックのセーター姿になった。
「使えるのを探す」
「だから、何に使うんすか」
「佐竹に嫌がらせしてやるつもり」
雅子が答えると、十文字は沈んだ声を出した。
「そんなことできないすよ。早く逃げましょうや」
雅子は、邦子の免許証のコピーを眺めている。邦子が精一杯の化粧を施して写っていた。薄ら寒い暗い顔だった。
「十文字さん」
「何すか」
「自己破産の申告はどうすればいいんだっけ」
「簡単なんですよ。ただ、地裁に出頭するんです」
「顔を出すんだったね。じゃ、邦子になりすますのはやっぱり無理だ」
雅子は免許証のコピーを指で弾く。弥生に頼んだところで容貌が違うし、時間がかかりすぎる。
「香取さん、何考えてんですか」
十文字は驚いて雅子の顔を見た。
「佐竹を連帯保証人にして、自己破産宣告してやろうかと思って」
「なるほどねえ」十文字はひきつったように笑いだした。「だったら、香取さん。破産宣告は無理にしても、失踪させちゃえばいい。それで、あいつを連帯保証人にすることはできますよ。今は電話で承知したって引き受けたことになるんですから。何なら、知り合いのヤミ金に頼んだっていい。金になるなら何でもする奴も知ってますから」
「邦子が金を借りて、佐竹を連帯保証人にさせることできる?」
「できます。連帯保証契約なんて、どうせいらないんでしょう? だったら簡単だ。完璧な嫌がらせができます。その代わり、返済義務はないけど」
「そんなものいいわよ。とにかく、佐竹を困らせてやるだけでいいんだから。それで邦子が失踪したことにしてよ」
「いいすね。ついでにその情報をサービスに流してやりましょう」
「三文判持ってるでしょう。とりあえず、偽の借用証を作って連帯保証人の欄に判を押してやろうよ」
たちまち十文字は悪戯《いたずら》を仕掛ける子供のような顔になり、開けっ放しの引き出しの底からクッキーの空き缶を取り出した。三文判が大量に入っていた。
「佐藤なんてありふれた名前にした報いですよね」
佐藤という三文判がたちどころに三個は現れた。
「逃げるのは、この仕事してからにしてよ」
「こんなの半日ですから」急に元気になった十文字はうそぶいた。
「あいつをねぐらから追い出してやるわ」
雅子は何も知らずに眠っている佐竹を想像し、小さな笑いを浮かべた。
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怯えているだけでは面白くない。
佐竹は駅前のスーパーマーケットの屋上にいる。曇りがちで底冷えのする天気のせいか、あるいは大型店に客を奪い取られた寂れのためか、そこには幼児を連れた親子と、人目を避けて頬を寄せ合った高校生のカップルがいるだけで閑散としていた。
佐竹は先ほどからゲームセンターの横にある仮設の貧相なペットショップを眺めている。掃除の行き届かない檻《おり》が五個、外に出されていた。その中には育ちすぎたアメリカン・ショートヘアや、薄汚れたチンチラ、眠ってばかりいる柴犬など、珍しくもない子猫や子犬が入れられていた。煙草を片手に覗き込む佐竹に動物たちは一様に怯えた目をし、檻の奥に縮こまっている。
安娜が、自分はペットショップで売られている犬と同じだったのか、と泣いたことを思い出した。佐竹は安娜の滑らかな膚や完璧な顔の記憶を懐かしく蘇らせた。自分が育てた「美香」のナンバーワン。ペットショップのナンバーワン。
安娜自身がその真実に気付いてしまったからには、もうどんなに努力してもナンバーワンにはなれないこともわかっていた。そういうものなのだ。安娜があれだけ絶大な人気を誇っていたのは、安娜がそのことに無自覚だったからだ。気が付いたが最後、安娜には死ぬまで消えない翳《かげ》りが生まれるだろう。女を心から愛そうとする男には不可欠なものだが、ただ女を買いたい男たちには嫌われる。客は何も知らない神様の贈り物みたいな素《す》の女を求める。それがどんなに稀有《けう》な存在か知っているからだ。だからこそ自分は安娜をちやほやと可愛がり、気付かせないようにしてきたというのに。安娜が大人になる契機が、自分に対する恋心だったとは不憫《ふびん》だ。
「魔都」で安娜が隆盛を誇ることができるのも、あと半年か。佐竹は安娜を哀れに思った。だがそれは、今ここにいる犬猫に対する気持ちとたいして変わりはなかった。佐竹は檻の隙間から長い指を差し入れた。柴犬は後ずさり、佐竹の目を見て震えだした。
「怯えるなよ」佐竹は犬に言った。
怯えを媚びる演技に変えれば、つまらない動物になるしかない。が、怯えを知らなければ、馬鹿だということだ。要は、飼われて媚びるものはつまらなく馬鹿だということだった。佐竹は急に興醒《きょうざ》めしてペットショップから離れた。隣にある、安っぽい電光を放っている空っぽのゲーセンを覗き、それから狭い屋上をぶらぶら歩いた。
屋上から外を見ると、平べったい灰色の街が締まりなく多摩丘陵《たまきゅうりょう》に向かって広がっている。薄汚ねえ街だ。佐竹はうんざりし、人工芝を敷き詰めた床に唾を吐いた。ふと目を上げると、親子連れやカップルがこわごわと佐竹を眺めている。
香取雅子が工場に来なくなって四日経っていた。駐車場で邦子のゴルフを見せつけて以来のことだ。もう辞めてしまったのだろうか。
つまらない。肝の据わった女だと楽しみにしていたのに、あの程度のことでびびるとは。所詮《しょせん》、雅子も俺に怯えていただけか。暗い道で、俺の焦がれる気配を敏感に察していたと思ったのは考えすぎだったか。
佐竹はペットショップを振り返った。犬や猫が哀れな目を佐竹に向ける。気分が萎えていくのを感じ、佐竹は屋上の隅の階段を駆け降りた。足をせわしなく動かしているうちに動悸が激しくなる。夏の夕暮れ、あの女を追った時の昂《たか》ぶりを身内に取り戻す。女の目つき。たまらなかった。俺を興奮させてくれよ。佐竹は雅子に失望し、腹を立てていた。あのデブの女のように、ただ縊《くび》り殺す真似だけはさせてくれるなよ。
香取雅子に出会ったことが自分の避けられない運命だと思ったのは間違いだったのだろうか。佐竹はジャンパーのポケットに入れた両の拳を握り締めている。
駅前でパチンコをすると三回確変を引いた。それ以上は店が引かせない。佐竹は台を蹴って店を出た。店員が追いかけてきた。
「お客さん」
「何だ」
佐竹は向き直った。その凄んだ目を見て店員は立ち止まった。ほら、と佐竹はポケットから出した万札を三枚路上に捨ててやった。ちぇっ、と大きな舌打ちをして金を拾った店員を、蔑むように見てから歩きだす。弥生から奪った金が捨てるほどある。金が欲しくてパチンコをするのではない。
佐竹は荒《すさ》んでいる。人を殺しても、さらに「荒む」という感情があるのが不思議だった。抑えても溢れ出る衝動が、正当な受け皿から外れ、奔流《ほんりゅう》となって地面を穿《うが》っているようなもどかしさと荒々しさを持て余している。これがもっと過剰になれば狂気に繋がるのだろうと、冷静に考える自分もいるのに。
真新しい建物は薄っぺらで作り物めいていてどれも同じだ。古びた建物は暗く汚く不景気だ。商店街はすべてがその組み合わせでしかなかった。佐竹は寂れかけたアーケードを不機嫌に背を丸めて歩いた。空腹を感じても何も食う気がしない。今夜も工場の駐車場に邦子のゴルフを停め、香取雅子を待つしかなかった。
ペットショップのあるスーパーマーケットの駐車場に戻り、佐竹はグリーンのゴルフのドアを開けた。乱雑に置かれたカセットテープや靴など、邦子の物はすべてそのままになっていた。佐竹は助手席の床に転がっている形の潰れたフラットシューズが邦子に思え、憎しみを籠めて眺めた。しかし、灰皿の中の吸い殻だけは佐竹の吸う銘柄にとって代わり、しかもそれはこまめに捨てられていた。
こうやって乗りまわしていれば、いつか街で雅子に出会うかもしれない。その時の顔をまた見たい。工場に来ないのなら、こうして流すしかない。その一心で危険な綱渡りをしている。
カローラで工場の駐車場に入って来て、邦子のゴルフを見た時の雅子の表情を脳裏に思い浮かべる。顔が凍りつき、それから何事もないかのように無表情になった。だが、引き締められた唇が恐怖で歪んでいた。その一瞬の変化を、佐竹は番小屋から見逃さなかった。雅子は車を降りると、ゴルフの周りを歩いた。邦子の停め方にそっくりなので、もっと驚いたはずだ。それが証拠に、自分に訊ねてきた時は抑えられずに声が震えていたではないか。いい気味だ。佐竹はその声音を思い出し、声を出さずに笑った。だが、怯えることだけはするな。怖がってもいいが、怯えて媚びるな。佐竹はペットショップの柴犬を、そして無様に命乞いをした邦子を連想した。途端に不愉快になり、車の窓から邦子の靴を投げ捨てた。それはべたつく染みだらけのコンクリートの床に、左右別れ別れに転がっていった。
邦子の駐車スペースに車を入れ、鍵をかけていると、佐竹を待ち構えていたらしく若い女が走り寄ってきた。見覚えはないが、エプロンをしてサンダルを突っかけているところを見ると団地の住人らしい。化粧気がないのに、ソバージュパーマをかけて濡れたムースをつけた髪だけがカツラのように浮いている。佐竹はそのアンバランスさを憎んだ。
「これに乗っている城之内さん、知りません?」
「勿論知ってますよ。車をお借りしてるんですから」
佐竹はとぼけた言い方をした。団地で乗りまわしていれば、いずれこういう質問を受けることは百も承知だった。
「あの、そういうことではなくてですね」女は二人の関係を勝手に想像したのか顔を赤らめた。「彼女が最近いないみたいなので、どうしたのかと思って」
「さあ、私も行く先までは知りませんが」
「でも、車を借りたんでしょう」
変じゃない? とでも言いたそうに女は佐竹の顔を見る。
「ええ、私、弁当工場の警備やってましてね。偶然、住まいが一緒だってわかったら、出かけるから使ってくれって、あちらからおっしゃったもんですから」
佐竹はぶらぶらと女の目の前でキーを振ってみせた。Kという頭文字のついたキーホルダーについている。
「それならいいんですけど。城之内さん、どうしたんでしょう」
「出かけてるんでしょう。心配することないですよ」
「だって、夜もお帰りになってないし、ゴミ当番なのに連絡もないし。電話してもいつもお留守だし。ご主人だってしばらく見てないし」
「工場のほうは辞めましたよ。田舎にでも帰ってるんじゃないですかね」
「その間、勝手に乗るんですか」
女は首を捻《ひね》って疑わしげに佐竹を見た。
「料金は払うんですから」
「あらそう」
金の話になった途端に、女は冷淡になった。亭主の稼ぐ金で暮らしているくせに、生活に金の貸借が入り込むことを嫌悪しているのか。佐竹は心の中で嗤《わら》う。
「じゃ、急ぎますので」
佐竹は女を押しのけた。工場に行く以外に邦子の車を使うのは程々にしようと反省しかけたところだ。入口の郵便受けのところに真新しいレインコートを着た中年男が一人ぽつねんと立っていた。サツかもしれない。佐竹は見ない振りをして歩きながら、それとなく男の様子を窺う。だが、男の目つきはサツのそれではなかった。セールスマンなのか、じっと郵便受けを眺めている。しかし、四一二号の辺りにその視線が停まっているように思え、佐竹は急いでエレベーターに乗った。
四階に着き、扉が開く。佐竹はエレベーターが一階に戻って行かないのを確認した。悠々と開放廊下を歩きだす。相変わらず北風が冷たく唸っていた。佐竹は端にある自分の部屋に向かい、作業ズボンから鍵を取り出した。
部屋の前に男が立っているのが見えた。白くてかったダウンジャケットに紫のパンツ。髪を派手な茶色に染めた若い男だ。佐竹の顔を見て、携帯電話らしさものをポケットにちょうどしまったところだった。嫌な予感がした。
「佐藤さんですかね」
男がよく知っている目つきで佐竹を見た。サツではなく、ヤクザの拗《す》ねる目だった。佐竹はレインコートの男と、今ここにいる男がどういう関係かと考えながら、わざと何も答えずにドアを開けようとした。ドアノブに何か黒い布が引っかけられているのに気付いた。ヤクザらしき男が笑いを堪《こら》えて黙って見ている。
「何だ」
「よく見たらどうだ」と男が言う。
佐竹は、一瞬、頭に血が昇るのを感じた。邦子の下着だった。殺す時に丸めて口に突っ込んでやった黒の下着。
「てめえか」
佐竹は男のダウンジャケットの襟首を両手で掴んだ。男は場慣れしていた。ダウンジャケットのポケットに手を入れ、佐竹に襟首を掴まれたまま顎を突き出しせせら笑っている。
「ちげえよ。俺が来た時からかかってたぜ」
「畜生」
雅子だ。雅子がやったに違いない。佐竹は男から手を離すと、下着をドアノブからむしり取ってポケットに突っ込んだ。北風に散々なぶられたのか、ナイロンの部分がひんやりと冷たかった。
「俺じゃねえよ」男はもう一度言うと、脅すようにポケットに入れたままの肘で佐竹の腹の辺りを突いた。「てめえ。いきなり何しやがんだ」
佐竹は太い腕で男の胸を押し返した。
「おめえこそ何だ」
「これだよ」
男はポケットからいきなり紙をひらりと突きつけた。「金銭貸借契約書」とある。佐竹はその紙をひったくった。「城之内邦子」の名で二百万とある。貸し出し先は「ミドリ」という名の街金だった。
「何だよ、これは」
「てめえが連帯保証人になってる女がずらかったんだとよ」
「何も知りませんよ」
佐竹はとぼける。内心やられた、と思っている。街金が邦子に二百万も貸す訳がないから仕組まれたことは明白だった。しかし、こいつら頭の悪いちんぴらどもは面白がって追い込んでくるだろう。毎日押しかけられれば目立つ。まずいことになったと佐竹は悔しがった。
「何も知らないだと?」男が大声を出した。一軒置いた隣の家から主婦が出て来て、恐ろしげにこちらを眺めている。それが男の目的だった。「じゃ、これは何だよ」
男がもう一度紙を指で示す。連帯保証人の欄に「佐藤義男」の名で署名捺印してあった。佐竹は笑いだした。
「俺じゃねえよ」
「じゃ、誰だよ」
「知らねえよ」
エレベーターが停まり、先ほど郵便受けのところに立っていたレインコート姿の中年男がこちらに向かって来た。明らかにダウンジャケットのちんぴらと連携していた。
「すみません。私はイーストクレジットの宮田と言います。城之内さんのお車のローンが滞っているんですが、城之内さんが失踪したと聞きまして」
「そっちも保証人か」
「はあ、判をいただいたばかりのようで恐縮ですが」
佐竹は舌打ちした。これでは何人来るかわからなかった。十文字と雅子が知り合いのヤミ金と結託して証書を作り、佐藤の名で連帯保証人の登録をしたのだろう。そして邦子が失踪したと各クレジット会社に情報を流して、追い込みをさせているのだ。
「わかりました。こうなれば仕方がない。払えるものは払いますから、書類を置いていってください」
態度を変えた佐竹に安心したらしく、男たちは書類のコピーを差し出した。
「いつ払ってくれますかね」
居丈高《いたけだか》に若いほうが言う。
「一週間後に必ず振り込みますから」
「もし約束違ったら、もっと連れてくっからな。てめえ、ここでまともな市民生活送れないようになるぞ」
最初から、恫喝する追い込みも珍しい。十文字が、知り合いの中でも、特に柄の悪い奴を送り込んできているに違いなかった。佐竹は頭を下げた。
「わかってます。すみません」
いつの間にか、団地の住人が数人、遠巻きにこちらを見ているからだった。その姿を確認すると、男たちは佐竹に恥をかかせればそれで済んだという表情になった。
「必ずお願いします」
宮田の声に適当に頷きながら、佐竹はドアの鍵を開けて中に滑り込んだ。若いほうが無遠慮に覗き込むのを防いで、照明をつける前にドアをぴしゃっと閉める。照明をつけて覗き穴から見ると、男たちはいなくなっていた。佐竹はポケットから出した邦子の下着を床に投げ捨てた。床の上で、それはゴミのように見える。畜生、と佐竹はそれを蹴る。
しばらくあいつらに監視されるだろう。それでは身動きもできない。しかも、団地内でも目立ってしまった。さっきの主婦も、男たちから聞かれて不安になり、わざわざお節介をしにきたに違いない。たかが数百万なら払っても惜しくはなかったが、目立ってしまえばここにいることはできなかった。一週間経って振り込みがなければ、いずれ佐竹の職場である工場にも押しかけてくることは明白だ。それでは一番の目的だった雅子を脅せなくなる。
佐竹は押入れを開け、新宿の部屋を出る時にぶら提げてきたナイロン製の黒いバッグを取り出した。そして、金の包みと大量の調査報告書を入れた。思いついて邦子の下着も入れる。佐竹はがらんとした部屋を見まわした。窓際に置いたベッドが目に入った。あそこに雅子を縛りつけて、いたぶることを夢見ていたのに。それはもうできない。
しかし、気が付くと佐竹は笑っていた。雅子を初めて見かけた時の喜びがまた戻ってきていた。前よりも強く。殺した女を新宿の路上で初めて見た時よりもずっと大きな喜びだった。あの女より殺しがいがあるかもしれない。それが何よりも嬉しかった。
佐竹は照明をつけたまま、ナイロンバッグを手に開放廊下に出た。誰もいないことを確認して非常階段を忍び足で降りる。一階に降りて辺りを窺うと、白いダウンジャケットの男が佐竹の部屋の窓を眺め上げていた。灯りがついているので安心しているのだろう。貧乏揺すりをしながら、帰宅するOLにちらちらと視線を送っている。
佐竹は隙を見て、裏のゴミ捨て場から植え込みを通って道路に走り出た。とりあえず、駅前のビジネスホテルにでも投宿しようと思っている。佐竹が逃げたことを知った男たちが工場に押しかけてくるまでの猶予がどのくらいかはわからなかった。
その夜、佐竹はレンタカーのマーチで出勤した。
雅子は絶対来る、という確信があった。自分を陥れた結果は雅子にも届いているだろうから、雅子もまた自分の顔を見に来るはずだった。そういう女だ。俺と同じなのだ。どんな顔をして現れるか。佐竹は駐車場の番小屋に入り、のんびり煙草を吸って赤いカローラが見えるのを待った。
十一時半少し前、定刻通り雅子がやって来た。佐竹は顔を上げて、ヘッドライトの照り返しでわずかに見える雅子の顔を凝視していた。雅子は知らん顔をして、佐竹のいる警備の番小屋の前を通り過ぎる。佐竹を一瞥もしなかった。気どりやがって。俺をうまくはめたと思っているんだろう。腹の中が煮えくり返る。憎しみと、そこまで自分を憎ませる雅子を誉めたい気分と、それが一緒くたに佐竹の内部に湧き上がる。その強い感情が佐竹を酔わせる。
バタンとドアを閉める音がして、雅子が暗い駐車場の地面を踏みしめながらこちらに歩いて来た。佐竹は小屋から出ると、雅子の前に立ちはだかった。
「ご苦労さん」
「どうも」
雅子は真っ正面から佐竹を見た。肩までの髪を破れたダウンジャケットの上に無造作に垂らし、削げた頬に笑みを浮かべている。佐竹の正体を掴み、部屋から追い出した勝利と自信に満ちている。佐竹は怒りを抑え、静かに言った。
「送りましょうか」
「結構ですから」
「暗いから危ないよ」
雅子はほんの少し躊躇してから、嘲《あざけ》るように返した。
「危ないのはあんたでしょう」
「何を言ってるのかよくわからないですね」
「とぼけないでよ、佐竹」
新宿の路上を追いかけた時のような激しい動悸と昂ぶりではなく、静かな抑えた興奮が佐竹の体の中を、出口を求めて駆けまわっていた。それを、今に爆発させてやるから待て、と宥《なだ》める喜びはかつて味わったことのない愉悦でもあった。
「いい度胸してるな。本気か」
雅子は佐竹に構わず歩きだす。本当にいいのか、行くのか。佐竹は断られたにもかかわらず、雅子の数メートル後を追った。おそらく、雅子の心臓は恐怖で今にも破裂しそうなほど激しく打っているに違いなかった。緊張で肩が強《こわ》ばっているのがわかる。だが、それを微塵《みじん》も見せずに暗い道に足を踏み出している。佐竹は懐中電灯をつけて雅子の数歩先を照らした。
「いいって言ってるじゃない」雅子が厳しい表情で振り向いた。「こんなところであんたに殺されたくないもの」
雅子の生きのよさに佐竹は思わず喜ぶ。憎しみが噴き出す。可愛い安娜には決して感じ得なかった激しく熱い感情。どこか自己の破滅に繋がる危うさが、雅子に対する強い憎しみと甘い焦がれに通じている。このまま背後から首を絞め上げて気絶させ、廃工場で殺してやろうか。一瞬、その考えが頭を過《よ》ぎったが、それではつまらないと佐竹は思い直した。まるで佐竹の感情の動きを読んだように雅子が言った。
「どうせ、ここじゃ嫌なんでしょう。あたしを苦しめて殺す気なんでしょう。どうしてあんたが」
雅子が続けようとした時、背後から自転車の音がした。佐竹も雅子も同時に振り返った。
「おはよう」
ヨシエだった。ヨシエが佐竹の存在にぎょっとして見遣りながら、自転車を停めて雅子に並ぶ。
「師匠、どうしたの」雅子が言った。
「あんたに会いたいから、今日はこっちから来たんだよ。追いついてよかった」
佐竹はヨシエの顔を懐中電灯で照らし出した。ヨシエが不快そうに光の中で顔を顰めた。光の輪の外で、雅子が笑っているのがちらっと見えた。
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助かった。雅子はヨシエの顔を見て小さな息を吐いた。
暗い道で、後ろから羽交《はが》い締めにされるかもしれないという恐怖を感じて呼吸が止まりそうになった。それを露わにすれば佐竹が襲ってくるのもわかっていた。子供の頃、野犬から目を逸らせると必ず追いかけられた経験に似ていなくもない。危うかった、と雅子は呼吸を鎮《しず》める。
しかし、いずれあの男の中の憎しみが沸騰点に達すれば、それは容易に爆発することだろう。佐竹はそこに向かうまでの道程を楽しんでいる。雅子は佐竹の目に、状況を面白がり、自分をなぶるような色があったことを瞬時に見て取っていた。佐竹は毀《こわ》れている。毀れた箇所を自分の存在が刺激し、爆発を誘っていることは間違いない。そして、自分の中にも佐竹に誘発されるものがあった。佐竹になら殺されてもいい、と密かに思っている部分が。
健司の死体を解体したことから始まって、こういう運命が待っているとは想像もしなかった。雅子は行く手に見える黒々と広がる廃工場を眺めた。あの空虚な建物は自分の闇を象徴しているように感じていたが、それが自分の毀れた箇所なのだろうか。それを知るために四十三年間生きてきたのか。雅子は廃工場から目を逸《そ》らせることができない。
「何だよ、あの人」
重そうに自転車を引きずり、地面に空いた穴を器用に避けながらヨシエが気味悪そうに駐車場を振り向いた。
「警備」
雅子は簡単に答えた。佐竹は灯台のように暗闇にぽつんと灯る警備小屋の横に立ち、雅子を凝視している。自分が戻って来るのをあそこで待っているのだ。
「気味が悪いね」
「どこが」
雅子はヨシエのさらに小さくなった白い顔を眺めた。
「何となくさ」
ヨシエは説明するのが面倒になったのか、それ以上何も言わなかった。押しているために、自転車のライトが弱々しい光で二人の数歩先を照らしている。
「師匠、どうしてたの」
雅子は邦子の解体以来、一週間ぶりに会うヨシエに訊ねる。
「ああ、ごめん。いろいろあってね」
ヨシエはくたびれたように重く息を吐いた。冬になるといつも着ているウィンドブレーカーを今夜も着ていた。雅子はそのネルの裏地が薄く、破れそうになっていたのを思い出した。ヨシエもいつか擦り切れるのではないだろうか。
「どんなこと」
佐竹はヨシエには何も仕掛けてはいないはずだった。佐竹の興味が自分にしか向かっていないことはわかっている。
「実は、美紀が家出しちゃってさ。金が入ったその日にいなくなっちゃったんだよ。うちは悪い見本があるから心配はしてたんだけど、まさかあの子まで出ていくとは思わなかった。もう寂しくてねえ。やりきれないよ」
雅子は黙ったまま聞いている。ヨシエは出口から出られない。
「二百万も入ったのにそれも知らないで、自分はもう進学できないと思い込んでさ。馬鹿だよね。ほんと、人生うまくいかないよ」
「戻って来るよ、きっと」
「来ないよ。上のと同じだよ。どうせ碌でもない男に引っかかってるんだ。ほんと、馬鹿な娘だ。だから仕方がないんだよ。仕方ない」
歩く道すがら、ヨシエはそれを繰り返していた。言い訳めいて聞こえたが、その理由が何かはわからなかった。
廃工場を越え、その隣の営業していないボウリング場と民家の横を通り、二人は自動車工場の長い塀が続く広い道に突き当たった。そこを左に曲がれば、すぐに弁当工場だった。
「やれやれ」ヨシエは腰を叩きながら伸ばした。しゃんとしていた腰が少し曲がり加減になり、老婆に見えた。「これで最後かな」
「何が」
「弁当づくり」
「辞めるの」
「うん。どうもここで働く気がしなくなってさ」
雅子は自分もそうだとは言わなかった。雅子も今夜で最後のつもりだった。その手続きをし、カズオに預けた金とパスポートを受け取る。今夜が何とか無事なら、佐竹から逃げおおせるかもしれない。
「だから、あんたと長く話がしたくてさ。わざわざこっちから来たんだよ」
それならば、帰りにサロンでゆっくり話ができるはずなのに。なぜ、そんなことを言うのだろう。雅子はヨシエの真意がわからず、ヨシエが自転車を置きに行く間、外階段で待っていた。星のまったく見えない、頭上に雪が厚く垂れ込めているような夜だった。しかし、雲の存在もまた見えない。押しつぶされるような重苦しさを感じて、雅子は頭上にのしかかる弁当工場の建物を見上げた。
「香取さん」
二階にある入口の扉が開いて声がした。衛生監視員の駒田が立っていた。
「何ですか」
「吾妻さん、今日来てますか。知らない?」
「今、自転車置きに行ってます」
それを聞いて、駒田が階段を駆け降りてきた。手に粘着テープのローラーを持ったままだった。駒田が下に到着したのと、ヨシエが戻って来たのが一緒だった。
「吾妻さん!」と切迫した声で言う。「大変、すぐ戻って」
「どうしたんだよ」ヨシエが問う。
「お家が火事なんですって。今、電話があった」
「わかりました」
ヨシエの顔が見る見る血の気を失っていく。駒田は気の毒そうに、目を伏せている。
「ともかく早く帰ってあげてよ」
「どうせ、もう間に合わないんでしょう」
ヨシエがさばさば言った。
「そんなことないわよ。早く早く」
駒田は急《せ》かしたが、ヨシエは反対にのろのろと自転車置き場に戻って行く。ほかのパート従業員が数人出勤してきたため、仕事のある駒田は階段を登り始めた。
「駒田さん」雅子はその背中に問いかけた。「お姑さんは?」
「わかんないよ。でも、全焼ですって」
駒田は嫌なことを言ってしまったと後悔を表して、それを振り捨てるようにすぐさま工場に取って返した。雅子は一人、外でヨシエを待っていた。これから対峙《たいじ》する現実に身構えていたのか、いやに時間をかけてヨシエが自転車を引いて戻って来た。雅子はヨシエの疲れた顔を見つめた。
「悪いけど、後始末一緒に行かないよ」
「わかってる。あんたならそうだと思ってたから、お別れ言いに来たんだよ」
「火災保険は」
「少しだけど入ってる」
「じゃ、元気で」
「うん。お世話様でした」
ヨシエはそう言って一礼すると、来た道と逆の方向に走りだした。ヨシエの自転車の仄《ほの》かなライトが遠のいていく。雅子はその後ろ姿を見送り、それから自動車工場の彼方を眺めた。遠い首都圏の賑わいがうっすらと夜空をピンクに染めていた。その遥か上に、めらめらと火の粉を上げて燃え盛るヨシエの古い家が浮かんでいる。ヨシエの出口はあった。娘さえ家にいなければ、絶望したヨシエに躊躇《ためら》いはなかっただろう。その背中を押したのはほかならぬ自分ではないだろうか。佐竹の復讐を当てこすった時にその示唆《しさ》を与えていたことに気付いた雅子は、その幻影からしばらく目が離せなかった。
やがて、雅子は外階段を登って工場の玄関に入って行った。駒田が雅子の姿を見て驚いている。
「香取さん、あんた一緒に行ってあげないの」
「ええ」
あんなに仲が良かったのに信じられないという顔で、駒田が不機嫌にローラーで背中を乱暴に擦り上げた。
始業時間が近づいていた。雅子はサロンに入り、カズオの姿を探した。ブラジル人従業員の溜まりにも、更衣室にもその姿はなかった。タイムカードを見ると、今夜は非番らしい。雅子は駒田の制止も無視して、そのまま靴を履いて外に走り出た。
突然、何もかも変わる日がやってくる。今夜こそが、その日かもしれない。雅子はカズオの寮に向かって夜道を歩きだした。
この先に佐竹が待っている。雅子は魔物が潜む闇を警戒するように見据えながら、道路を左に折れた。農家や民家がぽつぽつと並んだ先にカズオたちの住むアパートがあった。見上げると、カズオのいる二階の端の部屋だけに照明がついている。雅子は鉄製の階段を音をさせないよう、注意して登って行った。ノックすると、ポルトガル語で返事が返ってきた。ドアが開けられ、Tシャツにジーンズという格好のカズオが驚いた顔をした。テレビの受像機がちらちらと像を映している。
「マサコさん」
「一人?」
「はい」
カズオは雅子を部屋に入れてくれた。部屋は正体のわからない異国のスパイスの匂いが染みついていた。窓際に二段ベッドがあり、押入れが開け放したままのクローゼットになっている。畳の上に、デコラ張りの小さな四角いテーブルが置いてあった。カズオはサッカーの試合の映像を止め、雅子に向き直った。
「金ですか」
「悪いけど、今夜取りに行ってくれるかしら。非番だと知らなくて」
「わかりました」
雅子の顔を、カズオは心配そうに見た。その視線を避け、雅子は煙草を取り出して灰皿を探す。カズオは自身も煙草をくわえ、コカコーラのロゴの入ったブリキの灰皿をテーブルの上に置いた。
「すぐに行きます。ここで待ってて」
「すみません」
雅子はこの狭い部屋が唯一の安全な場所に感じられて見まわした。ルームメイトは夜勤に出ているらしく、下段のベッドはきちんと片付いている。
「どうしました? よかったら話して」
カズオは急《せ》くと雅子が逃げ去るのを怖れてか、控えめに訊ねてきた。
「ある男から逃げてるのよ」雅子は室温で緩やかに溶ける氷のようにゆっくりと話した。「その訳は言えない。だから、あの金でどこかの国に逃げるつもり」
カズオはしばらく考え込んだ。うつむきながら煙を吐き出し、浅黒い顔を上げる。
「どの国ですか。どこも甘くないです」
「そうでしょうね。どこでもいい。ここから脱出できれば」
カズオは額に手を当てた。命がかかっていることは説明しなくても雅子の様子を見ればわかる、と言いたげだった。
「家族は?」
「夫は一人で生きていくって。社会から隠居するみたいに。それがあの人のやり方なのよ。誰も入ることができないの。息子は大きいから、もう大丈夫」
どうして、カズオにこんなことまで喋っているのだろう。誰にも告げたことがなかった。日本語があまり通じないかもしれないという気楽さが、雅子の心を溶かしている。口にすると、思いがけず涙が溢れてきた。雅子は手の甲で涙を拭った。
「一人きりですね」
「そうね。昔は三人家族で仲良しだったんだけどね。誰が悪いって訳でもなくて、いつの間にか崩れてきたの。だけど、本当に毀したのは私だと思う」
「なぜ」
「一人で出て行ってしまうから。自由になりたいから」
カズオは目に涙を溜めた。畳にぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「一人になることが自由になることですか」
「今はそう思ってる」
脱出。何から脱出して、どこに行こうとしているのか。わからなかった。カズオはつぶやいた。
「寂しすぎます。可哀相」
「でも」雅子は首を振り、膝を抱えた。「私は可哀相じゃない。私は自由になりたかったから。これでいい」
「そうですか」
「たとえ死んでも、これでいい。あたしは絶望してたから」
カズオの顔がさっと曇った。
「何に」
「生きることに」
カズオはまた泣きだした。雅子は自分の言葉に涙を流してくれる若い異国の男を見守っている。カズオの嗚咽《おえつ》はなかなか止まらなかった。
「どうしてあんたが泣くの」
「僕にそんな大事な話、してくれたから。あなたは遠い存在だった」
雅子は微笑んだ。カズオは沈黙し、太い腕で涙を拭っている。雅子はカーテン代わりに窓に張られた緑と黄色のブラジル国旗を眺めた。
「ね、どの国がいいかしら。あたし外国行ったことないの」
カズオは目を上げた。大きな漆黒《しっこく》の目が涙で赤くなっている。
「ブラジル行きますか。今、夏です」
「どんなところなの」
カズオははにかんで笑った。
「うまく言えないです。すごくいいです。すごくいい」
夏。雅子は夢見るように目を閉じた。今年の夏は運命を変えた夏だった。クチナシの匂い。駐車場の夏草の茂み。暗渠を流れる水の一瞬の輝き。ふと気配を感じて目を上げると、カズオが出かける支度をしているところだった。Tシャツの上から黒のジャンパーを羽織り、キャップを被っている。
「行ってきます」
「宮森さん、このまま三時までいさせて」
カズオは構わないと何度も頷いた。あと三時間。そうすれば佐竹が帰って行く。雅子はテーブルに肘をつき、そのまま目を閉じた。束の間の休息を得ている気がした。
カズオが戻ってきた音で目が覚めた。時間を潰してきたらしく、すでに午前二時だった。全身から冷たい外気の匂いをさせたカズオが、ジャンパーの内ポケットから例の封筒を取り出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
雅子はカズオから封筒を受け取った。封筒はカズオの体温で温かい。中を覗いた。新しいパスポートに帯封のある百万の束が七つ。これで出口に向かう。雅子は封筒から出した札束をひとつ、テーブルの上に置いた。
「これは預かってもらったお礼。受け取って」
カズオは顔色を変えた。
「いらないです。あなたの役に立てて嬉しいです」
「だって、後一年以上もあそこにいるんでしょう」
カズオはジャンパーを脱いで、唇を噛んだ。
「クリスマス前に帰ります」
「そう」
「はい。ここにいても仕方ないから」
胡座《あぐら》をかいたカズオは狭い部屋をちらと眺め、それから窓の国旗を見遣った。その目に懐かしさと安寧《あんねい》があるのを認めて、雅子は羨ましく思う。
「あなたを助けたかった。トラブル、これと関係ありますか」
カズオはTシャツの中からぶら下げた鍵を引き出した。
「ある」と頷く。
「返さなくてもいい?」
「ええ」
カズオは安心して笑った。健司の家の鍵。雅子はその鍵が事件の始まりに思え、しばらくカズオの手の中の鍵を見つめている。しかし、すべての端緒《たんしょ》は雅子自身にあったのだ。絶望と自由への憧れ。その思いがここまで自分を連れてきた。
雅子は紙袋をショルダーバッグに入れて立ち上がった。カズオがテーブルの上に置いたままの札束を返そうとする。
「いいよ。それ、お礼だから」
「でも、多すぎます」
カズオは札束を雅子のバッグに押し込もうとした。
「遣ってよ。どうせ、そういう種類の金だから」
カズオは雅子の言葉を聞いて手を止め、顔を歪めた。カズオの潔癖な正義感が汚い金を遣うことを許さないのだろう。
「返さないで。あんた、散々、あの工場で働いたんだから貰っておきなよ。金に綺麗も汚いもないでしょう」
カズオはそれを聞いて大きな溜息をついた。諦めて札束をテーブルに置く。そうしないと雅子に失礼だと思ったのだろう。
「ありがとう。じゃ、行くね」
カズオにやんわりと抱き締められた。男の体に掬《すく》い取られるのは、廃工場の前でカズオに抱かれて以来だった。この数年絶えてなかった感触。懐かしく、優しく、心の中のほぐれなかった芯が少しずつ解けていく気がした。雅子はしばらくカズオの胸に身を委《ゆだ》ねていた。また涙が浮かんだが、今度は流れはしなかった。
「行くから」体を離すと、カズオがポケットから小さな紙片を出して手渡した。
「何」
「サンパウロのアドレス」
「ありがとう」
雅子はそれを丁寧に畳んでジーンズのポケットに入れた。
「絶対に、ここに来て。クリスマスに来て。僕待ってますから。約束して」
「約束する」
雅子は潰れたスニーカーを履いた。ドアの隙間から冷たい風が吹き込んでくる。カズオは唇を噛んでうなだれていた。雅子はドアを開けてカズオに告げた。
「さようなら」
「さよなら」カズオはそれが大層悲しい言葉のように口にした。
雅子は上って来た時と同様、音を立てずにアパートの階段を下りた。辺りはしんと静まり返り、家々は雨戸をぴたっと閉じている。間隔の離れた街灯以外に明かりはない。
雅子はダウンジャケットのジッパーを引き上げると、ひたひたと自分の足音が地面に響く音だけを聞きながら、駐車場に向かって歩いて行った。ひどく孤独だった。途中、廃工場の暗渠の蓋のところで、しばらく迷っていたが、カズオに貰ったアドレスを細かく引きちぎって捨てた。
うまく逃げおおせればそれでいいが、死ぬかもしれないと覚悟していた。カズオの好意は、少しの間、雅子を暖めてくれた。だが、自分の開けた扉はもっと苛酷《かこく》な運命を用意して待っている。
駐車場に近づいて行く。番小屋の照明は消されていた。午前三時から六時まで、警備は無人となるはずだった。もし佐竹が自分を終業まで待っていたとしても、朝は夜より断然人目が多い。佐竹もそこまで大胆なことはすまい。雅子は、駐車場に入る前に佐竹の姿を探した。誰もいない。安心して堅い土の上にところどころ蒔《ま》かれた砂利を踏んだ。カローラの右のドアミラーに何かがぶら下がっているのが見えた。雅子は手に取り、小さな悲鳴を上げた。邦子の黒い下着だった。佐竹の部屋のドアノブに引っかけてきたので、佐竹が意趣返しをしたのだろう。ひどく汚いものに感じられ、雅子は地面に投げ捨てた。
その時、背後から雅子の首に長い腕が巻きつけられたのを感じたが、声を出す間はなかった。逃れようともがく。が、佐竹の腕は鋼鉄のように雅子を捕らえて離さない。温かな指が顎を押さえ、首の下に警備員の制服を着た腕が差し入れられた。息が詰まる。が、雅子は恐怖を感じなかった。夢のような恍惚もなかった。ただ、戻る場所に戻ってきたという安堵があるのは不思議だった。
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夜に飲み込まれたい。佐竹は車の窓を開け放し、夜気が完全に自分を包むのを待っていた。そうすれば安心していられる。刑務所でできなくて辛かった唯一のこと。それは大気を実感することだった。
寒気にさらされていると手足が冷たさに痺れ、胴までが震えだす。真夏のように血が沸騰することもなく、意識は鮮明でいられる。闇にくるまれれば空気さえも、昼間にはわからなかった厚みや重みをこの手に感じさせてくれる。佐竹は運転席から長い腕を伸ばし、大気をかいた。ゆったりと冷たい空気が動く。
警備員の制服を着たまま、佐竹は車の中で雅子を待っている。佐竹の車は雅子のスペースの前に停めてあった。駐車場の奥まった右側の暗がり。佐竹はそこで午前六時まで待つつもりだ。勤務を終え、くたびれた雅子が自分の車に返された邦子の下着を見てどう反応するか。それをぜひとも見たかった。雅子の目の下の隈を、ほつれた髪を見たかった。
煙草に火をつけようとした時、駐車場の砂利を踏みしめる音がした。軽い女の足音だ。佐竹は慌てて煙草をポケットに入れ、息を潜めた。何と雅子が帰って来た。雅子は辺りを窺い、佐竹の姿が見えないので安心して自分の車に近づいて行く。その足取りはまったく警戒を欠いていた。佐竹は音を立てずにドアを開け、外に忍び出た。
雅子が佐竹の悪戯《いたずら》を見て小さな悲鳴を上げた。完璧な隙ができたのを認めた瞬間、佐竹は衝動的に背後から襲いかかっていた。首に腕を巻きつけた時、雅子の本能的な恐怖が佐竹の全身に電磁波のように伝わり、佐竹は雅子を愛しいと思った。
「じっとしてろ」
しかし、雅子は必死に暴れた。佐竹は雅子の痩せた首を腕でかい込み、右手で腕を押さえた。が、化繊の制服の生地を突き通さんばかりに、雅子の爪が腕に食い込み、蹴り上げる足が佐竹の股《また》の辺りまで届いた。佐竹は全身を使って雅子の肉体をがんじがらめにし、乱暴に雅子を気絶させねばならなかった。
ついに捕まえた。佐竹はぐったりした雅子を肩に担ぎ上げ、車に戻るとロープと黒いバッグを取り出した。四一二号室が使えなくなった今、どこに連れ込んで殺すか。場所がない。また、探している時間もなかった。佐竹は廃工場に向かって歩きだした。
雅子を担いだまま暗渠を越えようとする。ところどころ蓋がずれているのに気付き、佐竹は懐中電灯で足下を照らした。黒い水が闇に光る。コンクリートの蓋は不安定で、二人分の体重に揺れて、佐竹を脅かす。佐竹は苦労して暗渠を渡り、枯れた草の上に雅子を投げ出した。錆びついたシャッターを調べる。下から力任せに持ち上げると、シャッターは耳障りな軋《きし》み音を発しながら上がっていった。その時、雅子が苦しそうに唸るのを聞いて、佐竹は慌てた。屈《かが》んで入れる程度にシャッターを開け、雅子を急いで中に押し込んだ。
内部は真っ暗で冷え切り、湿った黴《かび》の臭いがした。佐竹は懐中電灯であちこちを照らして眺めた。まるで大きなコンクリートでできた空っぽの棺桶だ。しかし、上部に明かり取りの窓が幾つも開いているのが見える。陽が昇れば、明るくなるだろう。
かつては弁当工場だったらしく、ベルトコンベアのためのステンレスの台や、トラック搬入口のカウンターが残っていた。あのステンレスの台に雅子を縛りつけたらさぞかし冷たがるだろう。佐竹はそれを想像し、薄笑いを浮かべる。
雅子はまだ気を失っている。佐竹は、ほんの少し口を開けた雅子を、かつてベルトが通っていた跡の残る長い台の上に載せた。雅子は、手術前の麻酔を嗅《か》がされた患者のように無防備に横たわっている。
佐竹は、雅子のダウンジャケットを脱がし、トレーナーを剥ぎ取った。スニーカーを下に捨て、靴下とジーンズを脱がしたところで、膚に直接触れる台の冷たさで雅子が気付いた。だが、自分がどこにいて何をされているのかわからないらしく、仰向けに寝たまま不思議そうに周りを見まわしている。
「香取雅子」
佐竹は名前を呼んだ。光を顔に当ててやる。雅子は眩しさに目を背け、光の輪の外にいる佐竹を探す素振りをした。
「畜生」
「違う。『ゲス野郎、はめやがったな』って言うんだ。言ってみろ」
佐竹はまだ動きの緩慢な雅子の両腕を台に押さえつけた。暴れる雅子が一瞬動きを止め、怪訝な顔をした。
「なぜ」
「いいから言えよ」
雅子はいきなり素足で佐竹の腹を蹴った。油断していた佐竹の下腹部に踵《かかと》がうまく食い込み、佐竹は苦しさに呻《うめ》く。その隙にひらりと身を翻して雅子が台から飛び降りた。中年女にしては機敏だった。捕らえようとする佐竹の腕をかいくぐり、雅子は工場の隅の闇に駆け込んで行く。
「逃げられると思うなよ」
佐竹は懐中電灯の光で雅子を追ったが、空間の広さに比して光量は非力すぎた。どこを照らしても、雅子の姿は見えない。佐竹は入口のシャッターの前に仁王立ちになった。入口さえ塞げば、雅子は袋の鼠《ねずみ》だ。この事態をどこか面白がっている自分がいる。そうだ、こうやってもっと興奮させてくれ。佐竹は雅子というしぶとい獲物に感心し、そして同じ分だけ憎しみを増量していた。
「雅子。諦めろ」
佐竹の声が虚ろな工場内に響いた。しばらくして雅子の返事がした。遠くの隅にいるらしい。
「諦めない。あんたはどうしてあたしに復讐しようとするのか教えて」
「落とし前だな」
「それなら山本弥生につければいいじゃない」
「あいつにはつけた」
「どうやって」
寒さか、恐怖か、雅子の声が震えている。雅子はTシャツ姿で裸足だった。さぞかし、凍えていることだろう。佐竹は雅子に気付かれないように、擦り足でコンベア台まで進み、雅子が服を取り返しに来ないよう、ひとまとめにして隅に置いた。闇の奥から雅子が喋っている。
「保険金を盗ったのね。それだけじゃ済まないのは、なぜ。あんたはどうしてあたしだけが憎いの」
「さあ、どうしてかな」佐竹は雅子の潜む方向につぶやいた。「俺にもわからない」
「あんたの商売を駄目にしたから?」
「それもある」
自分は本当の佐竹光義という男を知ったことがある。長い間、注意深くしまってきた。その表皮をおまえが無理矢理剥がしたからだ。
「でも、それだけじゃない」雅子の冷静な声がした。「あんたはあたしに興味がある」
佐竹は答えずに雅子のいる方角に向かってじりじり進んでいる。
「おかしいよ。あたしは四十三で、男が声をかける年じゃないし、そんな女じゃない。何か理由があるはずだ」
頑丈な安全靴を履いた佐竹の足がアルミ缶に当たり、派手な音を立てた。それ以降、雅子の声はしなくなった。逃げだしたな。佐竹は耳を澄ました。
背後で微かな物音がした。佐竹は動物のような敏捷さでそちらを窺う。トラックの搬入口のシャッターをこじ開けて雅子が脱出を試みていた。もう少しで逃げられてしまうところだった。佐竹は駆けつけ、すでに上体を外に出した雅子を捕らえた。
足を掴んで手前に引きずり込み、平手で思いっきり顔を殴った。雅子はもんどりうってゴミだらけのコンクリートの床に倒れる。その表情を見るために懐中電灯で照らす。雅子は髪を振り乱し、佐竹を睨みつけている。同じだ、あの時と同じだ。佐竹は雅子の髪を掴んで顔を上げさせた。
「あんたはほんとのゲス野郎だ」
雅子が吐き捨てた。
「そうだ」
佐竹は雅子の悲痛な顔を覗き込む。
「でも、会いたかったぜ」
雅子は冷水を浴びせられたような表情をした。声音がしっかりしてきた。
「あんたは夢を見ている」
「見てないよ」
佐竹は雅子の顔を観察している。尖《とが》った切っ先のようなあの女の面影はまったくなかった。敵意を燃やして佐竹を睨みつけているのは、まさしく香取雅子だった。造作《ぞうさく》は似ていなかった。あの女より禁欲的な薄い唇をしている。だが、目つきはそっくりだった。佐竹の心が潮が満ちるように喜びと期待に染まっていく。雅子はどれほどの愉悦を与えてくれる? 十七年間、心の奥底に隠してきた快楽は、再び自分に訪れるだろうか。あの経験はいったい何だったのか教えてくれるだろうか。
佐竹は雅子のTシャツを乱暴に剥ぎ取った。簡素な白いブラと下着姿になった雅子は、まだ佐竹を見据えている。
「やめてよ。このままで殺してよ」
佐竹は耳を貸さずに、下着をむしり取った。全裸にされた途端、雅子は暴れだした。佐竹は両腕を押さえてステンレスの台に載せると、体重をかけて静かにさせた。雅子が佐竹の重みで喘《あえ》いでいる。呼吸が止まる前に、力の失《う》せた雅子の両腕を頭の上で縛った。そのロープを台に固定する。
「冷たい」
氷のような台の上で雅子が叫んで身を捩《よじ》った。佐竹は懐中電灯に照らし出された雅子の体をしばらく眺めていた。乾いたように痩せていて、胸も薄い。佐竹はゆっくり自分の衣服を脱いだ。
「叫んでもいいぞ。誰も来ねえ」
「あんたが知らないだけだよ。すぐ隣で取り壊ししてるんだから」
「いい加減なこと言いやがって」
雅子の頬をもう一度平手で打った。今度は加減したつもりだったが、雅子の首ががくっと横に折れた。あんまりやりすぎると、早く死んでしまう。意識を失ってはつまらない。佐竹は雅子が気絶したかと心配になった。だが、雅子は唇から血を一筋流して平然と佐竹を見返した。
「早く殺しなよ」
あの時も、女は打たれながら一歩も引き下がらず、「早く殺せ」と佐竹に叫んでいたのだった。雅子とあの女と、現《うつつ》と夢とを、高速エレベーターで運ばれるように行き来しながら佐竹は興奮していく。佐竹は雅子の上に覆い被さると、いきなり血の流れている唇を噛んだ。雅子が食いしばった歯の間から呪詛《じゅそ》を吐くのを聞き、乱暴に雅子の足を開いた。
「濡れてねえな」
「馬鹿」
雅子が精一杯の抵抗を示して足を閉じようとばたつかせる。その足を強引に開いて、佐竹は中に入った。驚くほど熱かった。潤《うるお》いが足りないせいか、雅子が痛いと叫んでいる。その慣れない表情を見て、佐竹は雅子の経験が意外に少ないことを実感した。ゆっくり動く。生身の女と交わるのは、あれ以来だった。黒い幻。佐竹の心の底に蹲《うずくま》っていたものが今立ち上がって現実となり、佐竹をこれからどこかに連れていくはずだった。地獄へ、そして天国へ。その落差を埋めるものは雅子と自分の交わりの果てにあると佐竹は信じている。このために生まれてきたのだ。そして、このために死んでいく。だが、思いがけないほどあっけなく、最初の交わりは終わった。
「この変態」
雅子が血の混じった唾を、荒い息をついている佐竹に吐きかけた。佐竹は顔にかかった唾を手に取り、雅子の顔にこすりつけた。罰に乳首を激しく噛んでやる。雅子が何か怒鳴ったが言葉にならない。寒さで歯ががちがちと鳴っている。うっすらと夜が明けてきていた。
朝日が昇ると工場内に光が射し込んできて、急に明るくなった。
工場の細部が露わになっていく。壁のパネルはすべて落ちて、打ちっ放しのコンクリートがそのままになっていた。かつてのトイレや厨房だった場所は壁が壊され、便器や蛇口だけが残っていた。コンクリートの床には、石油缶やポリバケツなどがあちこちに転がっていて、入口付近にはドリンクの瓶や缶が大量に捨てられている。荒涼たるコンクリート製の棺桶だった。小さな物音がするので振り返ると、野良猫が入ってきて佐竹の姿を見て逃げていく。鼠がいるに違いない。
佐竹は床の上に胡座《あぐら》を組み、煙草に火をつけた。そして、ステンレスの台に縛りつけられた雅子が寒さで全身をがくがくと震わせながら、体を捩り続けているのを眺めている。あと一時間もすれば、この台にも朝日が当たるだろう。そうすれば、雅子の顔をじっくり見ながら犯せる。佐竹はそれを待っているのだった。
「寒いか」
「あたりまえじゃない」
「まあ待ってろ」
「何を」
「陽が昇る」
「待てない。寒い」雅子は怒りを絞り出した。
歯の根は合わず、言葉さえ明瞭ではない。打たれた頬が腫れて、唇も下側だけが膨れていた。全身に鳥肌が立っているのが離れたところからも見えた。佐竹はナイフでその粟のような粒をこそぎ落とそうと考えていたことを思い出した。しかし、刃物はまだだ。最後の最後だ。
佐竹は薄く鋭い刃先が雅子の脇腹をえぐる瞬間を想像した。十七年前と同じようにあの快楽を味わえるだろうか。それは、あの女と会ってからこれまでの佐竹光義という男を検証することでもあった。早く昔の自分と出会いたい。佐竹はバッグから黒革の鞘《さや》に入ったドスを取り出し、床の上にそっと置いた。
ようやく雅子の体に朝の光が射した。寒さで青白くなった皮膚が、光に照らされた部分からほんの少しずつ、解凍されるように生気を取り戻していくのがわかる。雅子の緊張が緩んでいく。佐竹は近づいていった。
「弁当作る時はこの台でやるんだろう」
雅子は睨みつけたまま口を開かない。佐竹は雅子の顎を乱暴に掴んだ。
「え、どうなんだ」
「それがどうしたの」
雅子が寒さでまわらない口で、しかし怒りを露わにして言った。
「自分が縛りつけられるとは思わなかっただろう」
雅子は横を向いた。
「おい、どうやって死体をばらしたんだ」
こうか、と雅子の首を押さえて指で切る真似をし、首から一直線に恥骨まで筋をつけた。佐竹の力を入れた指が冷たくなった膚に薄い紫色の痕をつけた。
「どうしてばらそうなんて考えついたんだ。気分はどうだった」
「どうだっていいでしょう」
「おまえは俺とそっくりだ。おまえも戻れない道を進んでるんだ」
雅子が佐竹の目を見る。
「あんたは何があったの」
「足を開けよ」佐竹は答えずに命じた。
「いやだ」
雅子は頑《かたく》なに足を閉じた。こじ開けようとする佐竹の顔を蹴る。まだ抵抗できるのか、と佐竹は喜んだ。再びのしかかって雅子を犯した。雅子の顔の上で冬の朝日が輝いている。佐竹はその瞼《まぶた》が堅く閉じられ、歯を食いしばっているのを見ると、指でこじ開けようとした。
「俺を見ろ」
「いやだ」
「潰すぞ」
佐竹は雅子の両目に親指を強く当てた。
「あんたを見るくらいなら、そのほうがいい」
佐竹が指を外すと、雅子はわざと細目を開けた。怒りで燃えている。
「もっと俺を睨みつけろ」
「どうして」
雅子はふっと我に返り、問い返した。
「憎いんだろう。俺も憎い」
「なぜ憎むの」
「おまえが女だからだ」
「だったら、殺してよ」
雅子が悔しそうに叫ぶ。まだわかっていないのか。あの女は理解してくれたのに。佐竹は苛立ち、雅子の顔を数回平手で殴った。
「あんたは毀れてる」雅子はまた叫んだ。
「そうだよ。おまえも毀れてるんだ。俺は最初見た時からわかってた」
佐竹は優しく雅子の髪を撫でた。雅子は黙った。今度は本物の憎しみを込めて佐竹を睨んでいる。佐竹は雅子の唇を初めて吸った。塩辛い血の味がした。縛ったロープが手首に食い込み、切れて血が滲んでいる。あの時と同じだった。
佐竹は台の下に置いてあったドスを腕を伸ばして拾い上げる。片手で鞘を払い、雅子の頭の横に置く。刃物の冷たさと危うさを、顔の横に感じたらしい雅子が悲鳴を上げた。
「怖いか」
雅子は何も言わずに瞼《まぶた》を閉じた。佐竹は指でこじ開ける。そこに恐怖がないか、それを乗り越える憎しみがないか。佐竹は、必死に雅子の中の何かを探しながら抱いている。自分でも何を探しているのかわからなかった。あの女か、雅子か。それとも自分自身なのか。それは幻なのか、現《うつつ》なのか。時間さえもわからず、果ては自分と交わるこの女の肉体も、自分の肉体のような気がしてくる。女の快楽は自分のものになり、自分の快楽も女のものになる。そうすれば自分は消滅する。この世にいなくてもいい。最初から折り合わなかった。
佐竹は雅子ともっと肉を溶け合わせたいと願い、たまらなくなった。激しく唇を吸うと、雅子が同じように佐竹を見つめているのに気がついた。佐竹は切なくなり、雅子に優しく訊ねた。
「気持ちいいか」
雅子は答えずに大きく喘《あえ》いだ。二人は本物の性交をしている。雅子の昇りつめそうな気配を感じ取り、佐竹はゆっくりとかたわらにあるドスを手に取った。雅子の中にさらに入る。腸をかき混ぜ、その温かみを全身で感じる。そして、二人して本当の恍惚へと向かうのだ。
「お願い」雅子が囁いた。
「何だ」
「ロープ切って」
「駄目だ」
「そうしないと、いけないんだもの。あんたといきたい」
雅子が掠《かす》れた声で懇願する。どうせ刺してやるんだ。佐竹はドスで雅子の手首を縛っていたロープを切った。自由になった腕で、雅子が佐竹の肩に強くしがみついた。佐竹は雅子の背中から腕をまわして首を支えた。初めてのやり方だった。雅子の爪が佐竹の背に食い込み、体はひとつになった。佐竹は果てそうになった。声が出る。とうとう憎しみを越えた気がする。佐竹は手探りでドスを探した。
一瞬、佐竹の背中で刃物が陽光に閃《ひらめ》くのが見えた。いつの間にか、雅子の顔の横に置いたドスを雅子が掴んで佐竹に振り下ろそうとしている。佐竹は雅子の腕を力任せに押さえて刃物を床に落とし、拳《こぶし》で激しく顔を殴りつけた。
雅子は顔を押さえたまましばらく横を向いている。佐竹は体を離すと、荒い息を吐きながら怒りにまかせて怒鳴った。
「馬鹿、やり直しじゃねえか」
雅子に殺されそうになったことよりも、折角、到達しかけた境地を台無しにされた怒りのほうが強かった。それ以上に、雅子が自分と同じ気持ちにならなかったことが切なかった。
雅子は気絶している。佐竹は、雅子の頬の殴ったところに指で触れた。雅子が可哀相になり、相手の女を殺さないと恍惚が得られない自分が哀しかった。確かに自分は「毀れている」。初めての感情に、佐竹は頭を抱えた。
「トイレ行かせて」
しばらく経って、目を開けた雅子がぐったりと顔を背《そむ》けたまま言った。大きく震えている。殴りすぎた。このまま消耗させると、愉悦を味わう前に死んでしまうかもしれない。
「行け」佐竹は許した。
「寒い」
雅子がよろめきながらコンクリートの床に降り立ち、落ちていたダウンジャケットをのろのろと裸の上に羽織る。佐竹は、雅子が工場の隅のトイレに行くのを後ろからついていった。
壁も柱もなく、ただ床から生えているかのような洋式便器が三つあった。水が出るのかどうかもわからず、便器は灰色に薄汚れている。が、雅子は、何も考えることができないといった様子で、手前の便器に腰を下ろした。雅子は佐竹が見ているのに、意にも介さず小便をした。
「早くしろ」
緩慢《かんまん》な動作で雅子が立ち上がり、こちらに戻ってくる。足下がふらついて、石油缶に蹴躓《けつまず》き、両手を床に突いた。佐竹は駆け寄り、ダウンジャケットの襟を掴んで引き起こした。雅子はポケットに手を入れ、ぼんやりしている。
「早く来い」
もう一度殴ろうと手を振り上げた時、何か冷たいものがひやっと佐竹の頬に触れた。まるで女の冷たい指で撫でられたかのようだった。あの女の指か。佐竹は幽霊に触られた気がして虚空《こくう》を眺め、それから頬に手をやった。左の頬の肉がぱっくりと割れ、大量の血が噴き出していた。
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雅子は寒さを感じながら横たわっている。
朝の目覚めと違い、体はすでに覚醒《かくせい》しきっているのに、意識が重く、いつまでもぐずぐずと訳のわからない世界に留まっていたいのはなぜだろう。
思い切って瞼を開けると、広い空間を感じさせる闇に取り囲まれているのに気が付いた。冷たく暗い穴の中にいる。上のほうがほんのりと明るい。空だ。小さな窓から夜空が見える。雅子は昨夜、星の見えない空を眺めたことを思い出した。
臭覚が戻ってきた。よく知っている臭いがする。冷たいコンクリートと、始終それを洗い流すための水の臭い。そして、その両者が腐って黴《かび》を生《は》やした臭い。自分が横たわっているのがあの廃工場の中だとわかるのには、さらにもう少し時間がかかった。
どうして足が剥き出しになっているのか。雅子はTシャツと下着だけの自身の体に手で触れた。膚は自分のものとは思えないほど、石のように冷たく乾いている。ひどく寒い。強い光が顔に当てられた。眩しさに目を顰め、手で顔を覆う。
「香取雅子」佐竹の声がした。
捕らわれていた。つい先ほど、駐車場で背後から首を絞められたことを思い出し、雅子は絶望の大きな嘆息をついた。これから佐竹に玩具《おもちゃ》にされて殺される。その恐怖が、自分を迷妄《めいもう》の世界に留めていたのだ。せっかく出口が見えたところだったのに。自分の一瞬の油断が口惜《くちお》しく、雅子は光源に向かって怒鳴った。
「畜生」
すると、佐竹が妙なことを命じた。『ゲス野郎、はめやがったな』と言え、と。
雅子は、佐竹が過去にあった何かに捕らわれ、その再現を今図っているのだと気が付いた。健司の事件よりも、過去の出来事のほうがはるかに佐竹の心を縛り、自分への執拗な復讐を生んでいるのだと思い至ると、ひたすら恐ろしかった。弥生に告げたように、自分たちは「怪物を起こした」。
佐竹の腹を蹴り上げ、その腕をかいくぐって闇の中に逃げ込み、このまま空気に溶けて、永遠に隠れていられたらどんなにいいだろうと思った。佐竹の存在は、日暮れになると夜を怖れて泣く赤ん坊のように、根源的な恐怖を呼び起こす。だが、夜は人智を超えた不思議な力をも呼び覚ます。雅子の中に横たわっていた無自覚なものもまた、佐竹によって醒《さ》まされつつある。雅子が逃げようとしているのは、佐竹と、もう一人の知らない自分からだった。
裸足の足裏にさまざまなものが突き刺さり絡まった。コンクリートの欠片から、鉄屑、ビニール袋、踏むとぐにゃりとする得体の知れないゴミまで。しかし、そんなことには構っていられなかった。雅子は懐中電灯の届かない闇から闇へと駆け込みながら、必死に出口を探している。
「雅子、諦めろ」
佐竹の声が入口のほうから聞こえる。雅子は「諦めない」と返した。
佐竹は容易には答えないが、それが単なる復讐ではないことを雅子はすでに悟っている。佐竹を突き動かしているものの正体が知りたかった。闇の中、佐竹の声が湿った空気を震わせて届くたびに、雅子はその隠された表情を想像した。
佐竹が移動してくる気配がする。雅子の声を目当てに忍びやかに近づいてくる。雅子は佐竹に気取られないように、トラックの搬入口に向かって這い進んだ。そこにも錆びたシャッターがある。何とかこじ開けられないだろうか。その間、佐竹は口を噤んだまま、雅子がどれだけやれるか試して楽しんででもいるかのように、懐中電灯の光をあちこちに当てている。
ようやく搬入口のカウンターに辿り着いた。八十センチほどの高さがあるコンクリート製の大きな台座によじ登り、小さなシャッターをこじ開ける。引き上げる時に音がしたが構わなかった。ほんの数十センチで外に出られるのだ。間に合えばいい。雅子は無理矢理こじ開けて、胸まで外に這い出た。一瞬だけ嗅いだ外の空気は、暗渠の汚泥の臭いがしたがたまらなく甘かった。
佐竹によって闇に引きずり込まれ、殴られ、倒されても、肉体の痛みなどどうということはなかった。自由がすぐそこにあるのに、自分にはもう二度と手に入れられないかもしれない。ここまでやって来たというのに。その悔しさが激しい精神の痛みとなって、雅子を打ちのめしている。佐竹がどうして自分だけを標的にしているのか見当がつかないことも、雅子を不安に陥れている。
雅子は氷のように冷たいステンレスの台に縛りつけられている。金属の表面が自分の肉体で暖まっても、端から内側から、すぐさま体温が奪われた。経験したことのない寒さだった。だが、雅子はこのまま体が凍ってしまえばいいとは思わなかった。まだ諦められない。命がある限りは永久に、自分の体がステンレスの台と戦っていてほしい。雅子は身を捩り、運動によって体が熱を放射するようにしている。でないと、台と肉体が同化してしまいそうだった。
佐竹が再び雅子の顔を殴った。痛みに呻きながら、雅子は佐竹の目の中に狂気を探そうと必死に見る。狂気なら諦めもしよう。だが、佐竹に狂気はない。これは遊びでも、いたぶりでもなかった。佐竹は、殴れば雅子に憎しみがこんこんと湧き出るかどうか試しているのだった。自分に激しく憎まれたいのだ、と雅子は気付いた。だから憎しみの沸騰点まで火を燃やし続け、その最中で殺そうとしている。
佐竹が体に入ってきた時、雅子の心は屈辱感で一杯になった。何年かぶりの性交が強姦だとは。若くない自分が男の意のままにされているとは。さっきカズオに抱き締められた時は癒やされた思いがしたのに、佐竹には激しい憎しみを感じる。佐竹が女の自分を憎んでいるように、この瞬間に雅子も男の佐竹を憎んだ。確かに性交は憎しみの源泉だった。
佐竹は夢の中にいる、と犯されながら雅子は思った。佐竹にしかわからない涯《は》てない夢の中にいて、自分は生身の道具にされているだけだと感じる。他人の夢の中からどうしたら逃れられるか、と考えるのはやめにしたほうがいい。それより、佐竹を理解することだ。そして先を読むことしか残された道はなかった。でなければ、無用に苦しめられる。佐竹が拘泥《こうでい》している過去の出来事が知りたかった。雅子はのしかかる佐竹の重みに耐え、虚空を眺めている。男の背中のすぐ上には自由があった。
終わった後、悔しさから思わず「変態」と佐竹を罵った。が、そうではないと知っていた。佐竹は変態でも狂人でもない。ただ、何かを激しく求めて彷徨《さまよ》っている。自分にそれがあるというのなら、いくらでも呈示しようと雅子は妥協する。そうすれば生きられるかもしれないからだ。
雅子は、この廃工場に陽が射して、少しでも温度が上がるのを焦がれて待っている。この寒さにはもう耐えられそうもなかった。寒気が激しい痛みを伴うとは知らなかった。いくら暖めようと運動しようにも、最早、体のほうが勝手に震えだし、まるで痙攣《けいれん》しているかのように止まらなくなっている。
だが、太陽が真上に来るまで、廃工場の冷えきった空気はけして温まりはしないだろう。それまで体力が保《も》たない。諦めたくはなかったが、このままでは凍え死ぬことはわかっていた。雅子は小刻みに襲ってくる痙攣に耐えながら、建物の内部を見まわした。工場の残骸《ざんがい》。まるでコンクリートの棺《ひつぎ》だ。同じような場所で、二年間も夜通し働いてきたことを考えると、ここで死ぬのも運命かと思えなくもなかった。扉を開けた自分を待っていた苛酷な運命とは、これだったのか。助けて、と雅子は心の中でつぶやいた。助けてもらいたい相手は良樹でもカズオでもない。今、自分を苦しめている佐竹だった。
そっと顔を巡らせ、佐竹を探す。佐竹は雅子の横たわる台から少し離れたところで胡座《あぐら》をかき、雅子が震える様を眺めていた。雅子の苦しみを面白がるという風ではなく、何かを待っている様子だった。
何を待っているのだろう。雅子は闇を透かして佐竹の顔を見た。佐竹は時々、窓を眺め上げる。陽の出を待っているらしい。佐竹も寒さに震えているが、何も身につけていないところを見ると、寒気が耐えられない訳ではないらしい。
雅子の視線を感じた佐竹がこちらを見た。薄闇の中で目が合うのがわかる。佐竹は苛立ったようにライターをつけ、雅子のほうを一瞬照らしてから煙草に火をつけた。雅子の様子を探っている。雅子は佐竹が何かを激しく追い求めていることに思い至った。佐竹は早く明るくなるのを待っているのだ。明るくなり、自分の探すものを充分眺められるのをじっと待っている。それが見つかった時、自分は殺されるだろう。雅子は瞼を閉じた。
空気の動きを感じて目を開けると、佐竹が立ち上がってバッグの中から何かを取り出しているのが見えた。黒い鞘。おそらく刃物だ。あれで体を切り刻まれるのか。自身の背中が触れている金属の冷たさが、さらに鋭く体内に差し込まれ、内臓をえぐる恐ろしい想像が寒気を加速させる。雅子の痙攣が恐怖で激しさを増した。が、佐竹には寒気のためだけだと思わせたかった。気取《けど》られまいと雅子は顔を背けた。
ようやく陽が射し込んできた。
寒さで乾ききって毛穴をしっかりと閉じた皮膚がほっと緩むのがわかる。雅子はそれを皮膚の呼吸から感じ取った。もう少し暖かく感じられるようになったら、眠らなくてはならない。そう考えてから、佐竹の取り出した刃物のことを思い出し、雅子は自嘲を込めて笑った。駄目だ。どうせ殺されるのだ。
いつもなら、朝陽の昇る今頃は工場から戻り、朝食の支度をしたり洗濯機をまわしていた。陽が高くなれば、眠らなくてはいけない時間だった。良樹や伸樹は、もう二度と帰らない雅子を何と思うだろう。しかし、たとえここで殺されようと、脱出できようと、彼らからはすでに離れすぎていた。良樹は「探さない」と言ったはずだ。これでよかったのだと雅子は小さく安心する。遠いところに来たという実感があった。
工場内は充分明るくなってきた。佐竹が近づいて来る。
「弁当作る時はこの台でやるんだろう」
面白がっていた。まるで雅子がベルトコンベアに載せられた食物のように。雅子は緊張を隠そうとする。佐竹の言う通り、確かに自分が縛りつけられるとは思わなかった。工場のコンベア。コンベアの速度を決定するヨシエの出口。自分の出口は今、この男に塞がれようとしている。
「おい、どうやって死体をばらしたんだ」
佐竹は繊細な指先で雅子の首の周りに線をつけた。そして、顎の下から恥骨までを架空《かくう》の解剖をするように指で印をつけた。寒気ですでにぴりぴりと痛む皮膚が、さらなる痛みに悲鳴を上げている。
「どうしてばらそうなんて考えついたんだ。気分はどうだった」
雅子は、佐竹が雅子の憎しみを駆り立てようとする気配を感じる。
「おまえは俺とそっくりだ。おまえも戻れない道を進んでいるんだ」
確かに雅子の道は戻れなかった。後ろで閉まるドアの音を何度も聞いた。健司をバラバラにしたその日、最初のドアが閉まった。しかし、佐竹には何が起きたのだろうか。雅子は佐竹に訊ねたが、佐竹は答えない。雅子は薄明かりの中で佐竹の目を見た。大きな沼、いや虚空があるように思えた。
佐竹が突然、雅子の足の間に冷たい指を入れたので、雅子は悲鳴を上げた。自分の中に佐竹が再び入って来た時、雅子の体は佐竹の暖かさに驚いていた。冷え切っていた体が、太陽の熱よりも手っ取り早く暖かさを得たことで素直に喜んでいる。熱く堅《かた》いものが腹の中から雅子を溶かしはじめた。おそらく、この空間のどこよりも、二人の繋がっている部分が熱いはずだった。いとも簡単に快楽が得られそうで、雅子は戸惑う。佐竹を自分の肉体が歓迎していることを、誰よりも佐竹に知られたくなかった。見られまいと瞼を閉じる。佐竹はそれを拒否だと考えたようだ。
「目を開けろ」と佐竹が言った。
拒んでいると両目を親指で潰そうとした。それでもいいと雅子は思った。歓迎しているのを知られるくらいなら潰れてもいいではないか。佐竹が憎い、と心から思っている。だが、今だけはその感情が目に現れないだろう。そのことが悔しいのだった。
佐竹は「雅子が女だから憎い」と言う。そんなに憎いのなら、抱かないで殺せばいいのに。佐竹は憎しみをかき立てるために雅子を殴る。憎まなければ愉悦が得られない佐竹を雅子は憐れんだ。佐竹の過去が朧気《おぼろげ》に見える。
「あんたは毀れている」
「そうだよ。おまえも毀れてるんだ。俺は最初見た時からわかってた」
自分の毀れは、そんな佐竹に惹かれていることだ。それも会った日から。雅子は佐竹と自分の結びつきの不思議さを思い、自分の中で動く佐竹にもっと強い意志的な憎しみを抱いた。佐竹が唇を吸う。込められた情熱に、雅子は佐竹も自分に焦がれていることを知る。佐竹はすらりとドスの鞘を払い、雅子の顔の横に置いた。
顔のすぐ横で、刃物は冷たさを伝え、雅子を脅かす。本能的に恐怖し、堅く瞼を閉じると、佐竹がこじ開けて覗き込んだ。雅子は佐竹を見返す。何とかこの男をこの刃で貫いてやりたい。今、男が自分を貫いているように。
廃工場の隅々にまで光が射してきた。同時に、佐竹の目の沼にも不思議な光が現れた。雅子を認め、慈《いつく》しもうとしている。だが、何かを生み出そうとしているのではなかった。佐竹になら殺されてもいいと思った自分と同様、佐竹もまた、自分に滅ぼされたがっている。雅子は突然、佐竹を理解した。愛しい。
雅子がそう思った途端、佐竹を縛っていた夢が溶けだして、佐竹が現実に移動してきたのを感じた。二人は目を見合わせ、一体となった。佐竹の目には自分だけが映っている。信じられない恍惚の波が雅子を飲み込もうとしていた。このまま死んでもいい。その刹那《せつな》、顔の横でキラッと刃物が陽光を反射した。雅子は現実に押し戻された。
雅子は佐竹に拳で殴られ気絶した。
しばらくして、口が開かないほどの顎の痛みで気が付いた。吐き気がする。佐竹が苛立った様子でこちらを見ている。もう少しのところで佐竹の願う場所に到達できたのに、雅子がそれを台無しにしたことを怒っている。雅子はトイレに行きたいと訴えた。
佐竹の許しを得て床に降りる。腕のロープを解かれ、歩くのは何時間ぶりだろう。足で床に立つと、たちまち血が通い始めた。寒さが痛みとなって全身を駆け巡る。雅子はあまりの痛さに思わず叫んだ。
雅子は落ちていたダウンジャケットを羽織った。寒気に晒《さら》されていた膚が冷たいナイロンと馴染んでいくのを雅子は目を閉じて味わった。佐竹はそれを見ても何も言わない。
工場の隅に便器がある。雅子はそちらに向かった。足がよろけてうまく歩けなかった。尖ったものを踏み、足裏から血が流れているが痛みはまだ感じない。薄汚れた便座に座り、小便をする。佐竹が見ているのを知っていたが、何とも思わなかった。雅子は小便を両手にかけてみた。冷え切り、かじかんだ手が、突然かけられた熱い液体にひどく痛んだ。雅子はその呻きを押し殺す。どうせ水など出ないだろうとそのまま立ち上がり、ポケットに手を入れながら、佐竹のところに戻って行く。
「早くしろ」
石油缶に躓《つまず》いて転んだ。体は平衡《へいこう》感覚を失い、うまく立てない。佐竹が駆け寄ってきて、猫の子にでもするようにダウンジャケットの襟首を邪険に掴んで引き起こした。早く続きをやりたいとその目が焦っている。雅子は両手をまたポケットに突っ込んで温《ぬく》もりを取った。まだ指は思うように動かない。
「早く来い」
雅子はポケットの中で指を擦っている。佐竹が動きの鈍い雅子を脅すように右手を挙げた時、雅子はポケットに入れてあった手術用のメスで佐竹の顔を切った。佐竹は一瞬、何が起きたのかわからない様子でぽかんと中空を眺め、それから頬に触れた。雅子は息を飲み、その様子を見つめている。佐竹が信じられないという顔で、自身の頬から噴き出す血を手で受け止めている。メスは骨に到達するほど鋭く深く、佐竹の左頬の肉を抉《えぐ》っていた。目の端から顎の下まで。
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佐竹は床に尻餅をついた。頬を押さえた指の間から鮮血が溢れ出た。
それを見た時、雅子は思わず大きな声で叫んでいた。何と叫んだのかわからない。取り返しのつかないことをしたという喪失感が、雅子を立ちすくませ、声を上げさせている。
「やりやがったな」
佐竹が早くも口の中に溜まった血を吐き出しながらつぶやいた。
「あんたも殺そうとした」
「ああ」
佐竹は左手を離し、掌にべっとりとついた自身の血を眺めた。
「喉を狙ったけど。手がかじかんでたからはずれた」
雅子は冷静さを失っていた。自身が何を口走っているのかさえわからない。まだ右手にメスを掴んでいるのに気付き、床に投げ捨てる。それはコンクリートの床の上で、乾いた音を立てて跳ね飛んだ。家を出る時に、ワインのコルクに刺してポケットに入れてきたのだった。
「おまえはたいした女だ」
佐竹がむしろ喜んでいるのに気付き、雅子は後ずさった。
「さっきおまえに殺されていたほうがよかったな。そうすれば気持ちがよかったのに」
口の中まで切れて空気が洩れ出るらしい。佐竹はまわらぬ口で喋りにくそうに言う。
「あたしを殺したかった?」
「わからねえな……」佐竹は首を振り、天井を見上げた。
今や、廃工場の窓という窓から朝陽が射し込んできて眩しいほどだった。埃の筋が劇場の照明のように、四角い窓と汚いコンクリートの床とを結んでいる。雅子も震えながら、佐竹に釣られて窓を見上げた。震えは寒さから来るものではなかった。自分のしたことによって、佐竹を永久に失うかもしれないという予感に怯えていたからだった。薄く青い空が広がっている。昨夜の修羅《しゅら》が嘘に思えるほど、変わりなく穏やかな冬の一日が始まろうとしていた。佐竹は噴き出す血が床に溜まっていくのを見据えて答える。
「殺したくはなかった。でも、おまえが死ぬのを見たかったんだろうな」
「どうして」
「そういうおまえを愛しいと心から思えるからだろう」
「そうしないと思えないのね」
佐竹は雅子の目を見た。
「そうかもしれない」
「死なないでよ」
雅子は静かに言った。呻いていた佐竹が驚いた様子で雅子を見た。頬から流れる血が、佐竹の全身を赤く染めはじめた。
「俺は邦子を殺した。前にも一人|殺《や》ってる。あんたにそっくりの女だった。その時、一回死んだんだと思う。あんたを見た時、もう一度死んでみようと思った」
「あたしは生きてる。だから死なないで」
雅子は肌に直接触れるダウンジャケットを脱ぎ捨てた。佐竹を抱き寄せるのに邪魔だったからだ。殴られた顔が腫れて重かった。鏡で見ればびっくりするほど面相が変わっているに違いない。しかし、そんなことはどうでもよかった。
「俺はもう駄目だろう」
佐竹はさばさばしていた。寒気がするらしく震えている。雅子は佐竹に近寄って、顔の傷を調べた。鋭く深く抉れていた。雅子は止血しようと両手の指で傷を合わせ、上からしっかりと押さえた。
「やめな、無駄だよ。動脈切れてるだろう?」
雅子はやめなかった。佐竹は死につつある。この瞬間を共有するためにこの男と出会ったのかと思い、雅子は廃工場の内部を改めて見まわした。ここは二人が出会い、わかり合い、別れるために用意された巨大な棺だった。
「煙草くれないか」
佐竹はうまくまわらぬ口で雅子に頼んだ。雅子は我に返った。佐竹の脱ぎ捨てたズボンのポケットから煙草を取り出し、火をつけてくわえさせる。それは、瞬く間に吸い口から血にまみれていった。構わず、佐竹は細い煙を吐き出した。雅子は佐竹の前に跪《ひざまず》き、正面から佐竹の顔を見つめた。
「ね、病院に行こうよ」
「びょういん」佐竹は笑ったらしい。腱が切れているのか、その笑いは血塗られていない片側の頬を緩ませただけだった。「俺の殺した女もそう言って死んでったよ。同じように死んでいくのか。これも運命だな……」
佐竹はぽとりと煙草を落とした。まだ長い煙草は血溜まりに落ちて消えた。諦めたように佐竹は瞼を閉じた。
「でも、行こうよ」
「行けば、俺もあんたもぱくられる」
雅子も佐竹も、この姿で廃工場を出て行けば、社会に罰せられるのは必至だった。雅子は震えだした佐竹の肩を掴んだ。佐竹が懐《ふところ》に雅子を抱き寄せる。肌が合わさると、佐竹の皮膚のほうがすでに冷たかった。二人の体が佐竹の鮮血にまみれていく。
「それでも生きていてほしい」
「どうして」佐竹が低い声で訊ねた。「あんたを酷い目に合わせたのに」
「あんたが死んだら自分が死んだと同じだから。そんな哀しい思いで生きていくなんてできない」
「そうしてきたけどな」
佐竹は瞼を閉じた。そして、しばらく黙り込んだ。
「大丈夫。死なせないから」
佐竹の傷を何とか閉じよう、血を止めようと、雅子は必死になった。しかし、佐竹の意識は段々遠のいていくらしい。佐竹は薄目を開けて雅子の顔を見、もう一度訊いた。
「どうして俺に生きていてほしい」
「今、あんたがわかったから。あんたと同類だもの。だから、一緒に生きていこうよ」
佐竹の唇に口づけしようにも、血だらけだった。ただ、沈んだ目だけがいつの間にか輝いて、雅子を見つめていた。
「初めてだな、そんなこと思ったの。そうだな、五千万もあるしな。成田まで行けば、何とかなるかな」
佐竹は希望が自分には似合わないとでもいうように、途切れ途切れに口にした。
「ブラジルがいいって」
「連れてってくれよ」
「いいよ。あたしも戻れないから」
「互いに戻れないし進めないか」
どうにもならない。雅子は血に染まった指を眺める。
「自由になろうぜ」
佐竹がつぶやいた。
「うん」
佐竹が腕を伸ばし、雅子の頬にそっと触れた。その指の先は冷たかった。
「血が止まってきたよ」
それが嘘と知っているのか、佐竹は微かに頷くだけだった。
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雅子は新宿駅の通路を歩いていた。歩いているという意識はなく、左右の足をただ交互に踏み出しているだけだった。通路は自然に人の流れができている。雅子はその流れに巻き込まれ、いつしか新宿駅の外側に向かって運ばれていった。
改札を出た。雅子は人混みをかき分け、地下街を歩きだす。靴屋の鏡に自分の姿が映った。サングラスをかけて目の腫れを隠し、心の震えが漏れ出るのを怖れて、ダウンジャケットの前をしっかりかき合わせた自分が映っている。雅子は立ち止まり、サングラスをはずして顔を見た。佐竹に殴られた頬はまだ少し腫れているが、目立つというほどではなかった。しかし、目の腫れは如何ともしがたい。激しく泣いたからだった。
雅子はサングラスをかけ直した。目の前に駅ビルのエレベーターがある。躊躇せずに乗り込んで最上階のボタンを押した。行くあてはどこにもなかった。
最上階はレストラン街だった。ここなら、しばらくは人目につかず座っていられそうだ。雅子は壁際のベンチに腰を下ろし、黒のナイロンバッグを膝に抱えた。中には佐竹の五千万の現金と、自分の金六百万が入っている。
雅子は煙草を取り出してくわえた。最期の一服をした佐竹の様を思い出し、雅子はサングラスの下の目を寂しく泳がせる。急に吸う気が失せて、雅子は火のついた煙草を目の前のステンレス製の灰皿に投げ入れた。中に張った水に落ちた吸い殻はじゅっと音を立てて消えた。それは、佐竹が口から落とした煙草が血溜まりで消えた音に少し似ていた。
いたたまれなくなった雅子はナイロンバッグを持って立ち上がった。大きなガラス窓から新宿の街を眺める。靖国通りの向こう側に歌舞伎町が広がっていた。雅子は窓に片手をついて、歌舞伎町を一心に見つめた。冬の午後の弱まった陽射しに照らされ、まだ点灯されないネオンやけばけばしい看板が色褪せて見える。これから目覚める獣のように、今はだらしなく緩んでいるが、目覚めれば獰猛《どうもう》さを隠さず獲物をつけ狙う街。あれは佐竹の街だ。猥雑で、欲望に満ちた卑《いや》しい街。弁当工場の夜勤を選んだことから開けた雅子の扉は、これまで滅多に足を踏み入れたこともない、佐竹の街に通じていたのだ。
歌舞伎町にこれから行って、かつて佐竹のカジノがあった場所を見てみようと雅子は思いついた。その思いつきは雅子のあらゆる感情を沸騰させた。二日間、何も口にせずにビジネスホテルのベッドに横たわり、のたうちまわりながら耐えた虚しさや、やる瀬ない哀しみをにわかに蘇らせた。そして、もう二度と会えない佐竹の感触を体の奥底で感じ取り、雅子は喘ぎに似た小さな悲鳴を上げた。佐竹という男にもう一度会いたかった。
あの街で、佐竹の吸った空気を吸い、佐竹の見た景色を見よう。そして佐竹に似た男を探し、佐竹の夢を追おう。雅子の中に、見失っていた希望が生まれかけた。
雅子はいきなり踵《きびす》を返し、駆けだそうとした。ワックスをかけ、丹念に磨かれたタイル張りの床に、場違いで年不相応な雅子のスニーカーが耳障りな摩擦音《まさつおん》を大きく響かせた。音に驚き、雅子は立ち止まった。窓のほうを振り返る。一瞬、廃工場の闇が外に見えた気がした。
やめておこう。雅子は思った。
佐竹が過去の夢に捕らわれていたように、自分も佐竹の囚人になって生きるのはやめにしよう。それはたぶん、佐竹のような稀有な男だけが持ち続けられる思いなのだ。戻ることも進むこともできない佐竹は、自分の心を掘り進むしかなかった。女と自分を過去に封じ込めて、そこに魂の自由を見る男の夢。
それなら、これまでの自分はどうなるのだ。雅子は深爪に近いほど短く切られた自身の指の爪を眺めた。弁当工場の仕事のために、二年間一度も長く伸ばしたことはない。青白い手は、過剰な殺菌消毒ですっかり荒れている。信金で二十年間働いてきたこと。子供を産み、家事をして、家族と暮らしてきたこと。あの日々は何だったのだろうか。体に染みついたこれらの痕跡《こんせき》は、紛れもなく雅子自身にほかならなかった。佐竹は虚ろな夢に生き、雅子は現実を隅から隅まで舐めて生きる。雅子は、自分の欲しかった自由は、佐竹の希求《ききゅう》していたそれとは少し違っていたことに気が付いた。
雅子はエレベーターのボタンを、力を籠めて押した。これから航空券を買うつもりだった。佐竹とも、ヨシエや弥生とも違う、自分だけの自由がどこかに絶対あるはずだった。背中でドアが閉まったのなら、新しいドアを見つけて開けるしかない。風の唸りにも似たエレベーターの昇って来る音が、すぐ側でしている。
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単行本 一九九七年七月 講談社刊
底本
講談社文庫
二〇〇二年六月一五日 第一刷