栗本 薫
翼あるもの4
目 次
U 身も心も(3より続く)
V それはスポット・ライトではない
ためらいもなく時は過ぎ
フールオンザヒル
あ と が き
文庫版のためのあとがき──あなたへの手紙
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U 身 も 心 も(3より続く)
6
(再起)
一日は、長かった。
巽は毎日、朝八時にひっそりと出かけてゆく。帰りは早くても九時をすぎる。掃除も洗濯もするわけではない透には、一日は巽の不在にみちて苦しいほどに長いのだ。
(再デビュー)
あれほど、野々村のふるまいに屈辱にふるえたことが、指のあいだから砂が流れおちるように、やけつく屈辱惑を失ってゆく。かわってのこるのは、再起──その、輝きにみちた誘惑である。
「透も一緒に来られれば、な」
巽は、気がかりそうに云う。
「俺がああだこうだ、リハだ本番だ、してるとき、お前がまたそうやって壁んとこにうずくまってるかと思うと、なんか──変になるよ、俺」
巽は、あまりサングラスをかけなくなった。透を見る巽の目は、目尻に笑い皺がよって、とけるようにやさしい。
「お前が、本当に猫かなんかならさ──俺、透のこと、でかい籠に入れて、車のうしろに放りこんでつれてって、休み時間ごとに抱いてやれるのにな」
巽は、くっくっと笑って、透の咽喉を太い指でくすぐった。
「猫に、なっちまえよ、透」
「なったら、できないんだよ、こんなこと」
透は巽の膝のあいだに頭を埋めて、棒飴を頬ばった子供のように不明瞭な声で云う。巽はまたくっくっ笑って、透の髪を撫で、その手で頭をつかんで股間からひきはがし、透を抱きあげた。
「そりゃあ困る」
澄んだ目で透を見て、大真面目に云う。透が唇を拭いながら巽を見る。目があって、巽はまた咽喉声で笑い出し、透もかすかに笑った。
「このごろ、よく笑うな、透」
うなずいて巽が云った。
「ほんとに、でも、俺が出かけちまってて、退屈してないか」
透は首をふる。
「ほんとにか。──どっか、遊びに行きたきゃ、行っていいんだよ」
「いい」
「飯だってさ──友達とかさ……」
「友達なんか──」
巽の、筋肉質の膝の上に、馬にまたがるようにして乗って、透は巽の逞しく屹立したからだをそっと、なるべく楽に体内に導き入れようと、あれこれと工夫してみる。
「あ」
巽が声をたてた。
「こら。痛いよ、よせ」
透は悪戯っ子のように、熱いそれをそりかえらせようとする。
「ばか、よせ。折れちまう」
「どうする、折れたら」
「困るよ」
巽は眉をしかめた。が、ふっと笑って、透の頬をはじいた。
「いいさ。透がよければ」
「折っていいの」
「いいよ」
「ほんとに?」
「ああ」
透は把んだ手に力を入れる。巽は、うん、と息をつめた声を洩らして、眉をしかめた。
透はまた力を入れる。熱い巽のいのちをその手の中におさめている意識が快い。巽は唇をへの字にして、痛みを怺えた。
「おい」
「痛い?」
「痛いよ」
そっと、手首をつかまえてひきはがし、ふうっと息をつく。
「折れちまったら、透が、つまらないだろう」
笑って、ゆっくりと侵入をはかる。
「駄々っ子め」
透は、巽の膝の上で、上体をそらし、巽の太い腕に抱きとめられて、耐えた。小さな声が洩れた。
「俺って、色気狂いだと思うか?」
心配そうに巽がきいた。
「ほしがりすぎるか? 透──」
透は、こっくりする。
「あ、こら」
「だってそうじゃない──」
「お前がわるいんだぞ。俺が、こうなるようにしちまうから」
「だってさ──」
巽は、並みはずれて逞しい体格と、雄渾な髭までも備えた男ざかりの男だ。透も、繊弱でほっそりしていたけれどもそろそろ二十五をすぎかかっている、二年以上もベル・ボーイの生活に沈潜していた青年だった。しかし、それらすべてにもかかわらず、かれらふたりが飽くことなく、愛撫に熱中している、ひるさがりのマンションの一室は、まるで、幼い子供ふたりが身をすりよせあい、夢中で遊んでいる日だまりのように見えた。
「あ──」
大きな波がおしよせてくると、巽は口をきかなくなり、眉をよせ、苦痛に耐えるように歯を食いしばって、からだを上下させる。透はそのがっしりとした首にしっかりとつかまり、われ知らずその激動から逃がれようと腰をうかせて、巽の手にひきもどされながら、白熱した頭の芯に、もっと、と思っている。もっと、もっと、巽が巨大であればいい。もっと、激しく動いて、透に何ひとつ、考える余裕を与えなければいい。仕事へも行かず、もうどこへも行かず死ぬまで透の中にいて、まだ殺しきれない、再デビューの未練をずたずたにつき滅ぼしてしまってほしい。
「透──ああ……」
巽が、透の細いからだを、汗にぬれたからだに抱きしめて大きな声をたてた。
「風呂、わかそうか」
「うん」
「ちょっと、はなしてよ」
「いいよ、まだ」
「もう、四時だよ」
「こうしてろよ。たまの休みだから」
やわらかな、春のたそがれが、部屋に忍びよっている。
「気持、よかったか」
「──ん」
「ほんとにか? 痛くなかったか? 大丈夫だった?」
「大丈夫だよ──だんだん、馴れるみたい」
「そうか」
巽が鼻先を透の頬にこすりつける。
「透」
「え?」
「──きれいだよ、とっても」
「何、云ってんの」
「いや……」
巽は、柄にないことを云った、というように、恥ずかしそうな笑いを見せた。
「ねえ」
「何だ?」
「いま、撮影どのへん?」
「仕事のことなんか、思い出さすなよ」
「どんな、筋?」
「ん──だからさ」
俺が、スナックのマスターで、と早口に巽は説明した。
「ジョニー──ジョニーが、ペイ中毒でさ。若い|でか《ヽヽ》をばらしちまって、追われるのを、庇ってやるわけさ」
「いま、どんなとこ」
「だから──だから、……つまらん、ところさ」
巽は眉をしかめてタバコの煙を吐き出し、その話題から逃げようとするようにつけ加えた。
「な、透──気がついてたか。お前、きのうも、おとといも、歌番組見るの忘れてたな」
「え──ああ、そうか」
「それで、いいんだ。ジョニーなんか、忘れちまえよ」
ジョニーを忘れる……そんなこと、できやしない。そう、透は習性のように呟いてみるが、それはもう、苦さをなかば以上失っている思いだった。透は自分で意識せずに微笑し、巽は哀しいほどやさしいまなざしで、そんな透を眺めている。
「風呂見てくるよ」
よろめくように、透はからだを起こした。
「いいから──」
巽の手がのびて、透をまた隣にひき倒す。
「そんなこと、俺がしてやるから、のんびり寝てりゃいい」
巽は上体を起こして、透のとがった顎を親指と人さし指でつかまえ、のぞきこんだ。
「な、透」
「ん」
「ジョニーのことは、忘れろ、な」
「………」
「な──いいじゃないか、ジョニーはジョニー、お前はお前──で」
「いま、どんなシーンとってる?」
「ジョニーがヤク切れて関ミチコひっぱたくところさ」
「ふーん」
「な……」
巽は逞しくみごとな上体をのしかかるようにして、ひどく真剣な目をした。
「お前、変わったよ。前ほど、ジョニーのこと云わなくなったし、よく笑うようになったし──あとはさ。もっと食って、太って、健康そうになってさ。それであいつのことなんか、どっかへやっちまえ。もういいじゃないか、あいつ」
「巽さん」
透はちかぢかと迫った巽の顔を見上げてけだるくほほえんだ。
「なあ──俺、お前が奴、忘れるためならどんなことでもしてやる。奴をずたぼろに強姦しちまっても、奴を殺しちまっても、とにかく気の済むようにしてやる、って云って、この仕事、受けたけどさ」
「………」
「ただの──ただのガキじゃないか、あいつは」
「そう思う?」
「思うって──別に、男も知っちゃいないし、無邪気な顔してさ──云われたとおり仕事するだけじゃないか。まだ、二十そこそこみたいな顔でさ……細っこくて、何も知らんで、きれいな歌うたって、さ」
「………」
「俺がやっちまったんじゃ、死なせちまうよ……可哀想じゃないか……」
(巽さん)
透はふいにびくりとして、巽をさぐるように見た。気づかずに、巽は云いつづけた。
「そりゃもちろん、透が、気が済まないってんならいいよ──しかし、だな、透もこのごろ、わりと元気になっただろ──俺はね、透、透さえよきゃいいんだよ、それで。な──うまく云えねえけど、ジョニーをやっちまったって結局傷つくのはお前だろうって気がするんだよ。それより──それより、俺は、いつまでもお前のことだけ考えてる、お前だけを見てるよ、だからさ──透にも、他のことを忘れて、俺のことだけでいてほしいみたいな──てめえ勝手だ、って云うかもしれん、けどさ」
いったん、かげった日が、また雲間からあらわれて、落日の前のさいごの輝かしさに、部屋の中をきらきらと光に満たした。巽は眩しげに手をかざしながら、小さく吐息を洩らした。
「なあ──わかってくれるか」
「わかるよ」
「ほんとにか。ほんとに、わかるか、俺の云うこと」
「ああ」
「うまく云えんけど」
巽は男らしい顔を翳らせ、首を傾けてのぞきこむ。どうしてよいかわからない、というように彼は透をすくいあげて、頬をすりつけた。
「巽さん」
「ああ」
「痛いよ、髭」
「ああ──剃らなかったからな、今日は」
黒く美しい口髭だけでなく、ざらつく硬い髭が頬や顎に一日でびっしりとのびている。
「透は薄いんだなあ」
ふしぎそうに、巽は云った。
「どうして、違うんだろうな、同じからだでな」
ふふんと、透が笑う。巽にとってはささいな違いとしか思えぬだろうその差が、透には、すべてを決めた運命の賽だった。白く、うすい肌、放っておいても髭ののびない顔、華奢でしなやかな四肢──それが、透を永遠に狩る側、追いたてる側にはまわれぬ生き物にしてしまった。
「腹、へったか」
「ん」
「何か、作ってやるか──それとも、どっか、出るか? ステーキ・ハウスでも行こうか」
「いいよ」
「どうして」
巽はすぐ、悲しげな顔をする。
「食わなきゃだめだって云ったばかりじゃないか」
「ん……」
ものを食べるのに倦んでいるわけでは、なかった。ただ、そのために動き、服をまとい、車をかって見知らぬひとびとのいっぱいな街へ出てゆくのが億劫だ。赤信号で止まり、改札で切符を見せ、透のことも巽のことも知らないし興味をもたないひとびとのガラス玉の目で眺められて店へ入ってゆくのがいやだ。
どうして、そんな難事業を、ひとびとがむしろ快事であるようにやすやすとやりこなして毎日を送っていけるのか、それが信じられないと透は思った。
それよりは、もっと、こうしていたいことがある。夕日は巨大な赤い球になって神宮の森の上にわだかまり、さまざまな色あいに染めわけられた雲が紺いろに降りてこようとする夜にあらがって漂っていた。季節は一年で一番美しいときにさしかかり、鳥が森の上を黒くとんでゆく。
隣に、さっきまでかれにおおいかぶさり、かれのなかにいた逞しいギリシャの雄神を思わせる裸身がうつぶせにのびて、何を考えるでもなくタバコの煙を影のこくなってきた窓の上まで吹き散らしている。空気には微かに青い匂いが混ざりあい、汗の冷えかかったからだは芯のほうでにぶく、しかしここちよくなくもない、なかば慢性化した痛みに疼いている。
空腹だし、咽喉もかわいていた。空気は冷えて来、からだに白くねばつく粘液がゆっくりとかたまってくるのを洗い流したい。不安な獣のようにふたり並んで、そうしたことをぼんやり考えながらそのどれをもしようとさえせず、じっと夕日の沈むのを眺めているのは、ひどくここちよく、うっとりとしたけだるさのなかに透を誘いこむ。
(このままでいて──このまま時間が止まるならもう再デビューもない、ジョニーもない。世界のなかに、あんたと、オレと、二人だけ、そのまま死んでしまったってかまわない)
「──透」
なにかをはばかるようにやさしく巽が云い、同時に髭の感触がかぶさって、接吻した。
「何かつくるよ。それと、風呂を入れるから──」
(そばにいて。そばにいて、はなさないで)
透の思いをやさしくうけとめるように、巽は透の頬を愛撫し、そのなめらかな触感にざらざらした頬をすりつけ、またそっとからだをおおいかぶせてきた。
「激しい、なあ」
声をたてずに笑って、恥かしそうにつけ加える。
「俺──色気狂いかねえ、透」
「いいよ」
(いいんだ。それでいいんだ)
あんたはそばにいる、いつもオレの望みどおりにしてくれる──透は呟いた。ぬくもりが冷えたからだを包む。日は、いよいよ巨大に沈みかかっている。
その日曜日を、透は、そのあと長いこと忘れなかった。
巽はかれのそばによりそい、そしてかれの中にいた。巽はかれのものであり、透は巽のものだった。相触れはしてもとけてひとつになることはできぬはずのふたつの心は、かりそめに夕日にとけてひとつの生物に化しえたかに見えた。この一日のためだけでも、透は千回でも、巽を赦しただろう。たとえ、それをさいごにして、彼がどのような怪物に変貌していったとしてもよかった。巽をうけとめ、呻きながら、かれはただ、その痛みが永遠にかれの中にあれとだけ、祈っていた。
7
季節が冬から春、そしてまたたくまに夏のきざしまでもひそめはじめてゆく三週間ほどが、やわらいだ平穏のうちに過ぎていた。
「裏切りの街路」の撮影は進んでいた。毎回、ジョニーがラスト・シーンで歌う、主題歌の「反逆のブルース」は大ヒットのきざしを見せかけている。その連続ドラマの第一回の放映を、透は、巽の隣にもたれて見た。
「見るなよ」
巽は、渋ったのだ。
「何でよ」
「恥かしいよ。俺が芝居してるとこなんか、お前は見るなよ」
それはこの男が持っている、本能的な含羞だったかもしれない。
しかし、また、巽としては、彼が今西良と共演し、しかも良に心をよせる役を演じるのを見ることで、せっかくこのところおちついている透がまた心をかきみだされるのをおそれているのかもしれなかった。彼にとって、透は、ようやく回復のきざしを見せはじめた、守らなくてはならない病人である。
「巽さんのドラマやってるの、見たいんだ」
「大根だからさ、俺は」
しかし、巽の性格としては、そうしたひそかな懸念をも、うまいことばの糖衣にくるんで透に納得させてしまうすべを知らぬようだった。それで、巽は困惑し、おちつかずにタバコを吸い、居心地わるそうにからだをゆすりながら彼自身がうつし出されるブラウン管を透と並んで眺めていた。
「凄い、タイトル・バックじゃない」
「そうかな」
ジョニー、と透はほとんどうっとりとして、唇を半開きにし、目を画面にくぎづけにしている。それはまるで長い不在のあとでやっと帰ってきた恋人をいくら見ても見飽きない、というようにだ。かれを打ち負かしたそのほっそりとしなやかな若者の、忘れうべくもない姿態を、透は陶酔に近い苦痛を胸にふくれあがらせてうっとりと見つめる。
(お前な──ジョニーに惚れてたんじゃないのか、本当は)
巽は、発作の再発をあやぶむ医師のように気がかりな目でそんな透を見守ったが、やさしい彼にはそのことばは口に出せなかった。それとも、少しは、その不安な目は、嫉妬をひそめていたのだろうか。
画面では、良が白い背景の前で鏡の中の自分に微笑みかけていた。
だんだん、こわいほど、きれいになる、と誰もが認める顔だ。もしかしたら顔立ちではトミーの方がずっといいんだけど、と皆の云った顔だ。
(しかし何てのか、ジョニーってさ。見てる内にだんだんこう、光を放ちだすんだよね)
(顔立ちっていうより、声、ね、表情、ね、身ぶり、服装、雰囲気──それが全部あわさるとさ、そう──この世に二人とない、って感じになるんだな)
道を歩いていても、食事をしていても──顔を知られている日本だけでなく、レックスの最初の海外遠征のとき、かれを≪レックスのジョニー≫の名のひびくアイドル・スターだ、などと夢にも知らぬただの外人が寄ってきて、あの少年は何者か、とたずねたり、滞在の印象はどうだ、と握手を求めていったりした。それもきれいな|なり《ヽヽ》をしているわけでさえなく、どちらかといえば身なりをふだんはかまいつけぬ良は、うす汚れたジーンズにありふれたシャツをきているだけだったのにだ。
(ジョニーは、≪気になるヤツ≫なんだ)
レックスのリーダー堀内弘の云いかたが、すべてを表現していた。
天性のスターの素質、と云えばあまりにこともなくきこえる。だが、と透は思う。それなら、オレは、その素質を欠いていたのがオレの罪だったのだ、と自ら愧じてかれの前から姿を消すしかなかったのか。
いつも、ジョニーには、何かが起こる。かれを見守るシンパがおり、思わぬ人物がかれを高くかっており、ファンだ、というおずおずした微笑ごと、無償でかれにさまざまなものを捧げに来た。
映画の主演もそうだ。ドキュメンタリー番組(それにコメントを、という申し入れを、透はコップの水をぶっかけて断わったのだった)、雑誌の特集。フランスでレコード発売、ラス・ヴェガスのショー。レックスのマネージャーの清田が売ろうと奔走してそれを手に入れたのではなく、それらはつねにむこうからジョニーを訪れる。
(オレには、そうした何かが欠けていた)
それを認めてしまえば、あまりにも決定的で救われようがなく、苦痛で、それだからこそそれだけを認めまいとむしろ自分自身を「評判のわるい」不良タレントの鋳型にはめていった。
(トミーもいいけど、ああ傲慢じゃね)
(声も顔も少しもひけをとらないのにさ)
(やっぱり心がけだね、問題は)
そうした非難の方がどんなにか、痛くなかった。
しかしいま、何とかして逃がれようとしてきたその思いを、案外に苦くもなく、ほとんど苦笑まじりに透は呟いてみていた。
(だから、ジョニーになれなかった。といってトミーのままで打ち勝つ──そんなことは不可能だった)
美しいピアノの旋律のなかで、良はものうくしなやかに動きまわり、やがて鏡をふりむき、ふたりの良がむかいあって、狂おしいナルシスの微笑みをかわした。カメラが近づく。すきとおるようにきれいな肌、上にひきつけた、微かに狂気をひそめた目、半開きにした、濡れた唇、が巨大に画面にひろがり、次の瞬間その中央にぴしりと弾丸が当って亀裂がひろがり、良の妖しいほどなまめかしい顔がこなごなに砕けおちていった。
「やけに|ザーキ《ヽヽヽ》に決めてるじゃない」
透はうす笑いして評する。CMのあとで、小さなボックスとカウンター、洋酒の瓶の並ぶせまいバーのセットが映る。ワイシャツのボタンをはずし、黒い上着を肩にひっかけ、カウンターにもたれる巽の姿が出る。
透が見やると、巽は難しい顔を作ってそっぽをむき、タバコをふかしていた。
レイ・バンをかけ、髭と、水割のグラス、黒背広を羽織った巽は画面の中でひどく老けて見え、インテリやくざの匂いがし、透はふと、隣でしきりに咳払いしているコールテンの膝のぬけたズボンとざくざくのセーター、それに笑い皺のあるやさしい、美しい形の目をした子供っぽい笑顔の男が本当にその画面の男と同一人物だということが信じられない。
(きっと、ジョニーのまわりのいろいろな崇拝者たちも、レックスの連中も、いまごろTVの前に集まり、ジョニーのはじめての主演連続ドラマの第一回に見入っているのだろう)
透が巽の足もとにうずくまっている部屋にはやかんをのせた石油ストーブが、冬から出し放しのまま埃をかぶっている。酔って帰ってきた巽がそのやかんをひっつかんで注ぎ口から、いつのだかわからない湯ざましを飲むのだ。
テーブルには、ウイスキーを注いだジョッキと、どんぶりに放りこんだピーナッツが堆《うずたか》くなった灰皿と一緒においてあり、やけくそのような顔で巽はピーナッツをかじって、指をなめ、生のバーボンを咽喉へ放りこんだ。
(子供みたいな恥かしがりかただね)
透はくすっと笑う。
「なんだよ」
巽は慌てて画面を見た。ジョニーが裏から入ってきて、巽に話しかけている。
「俺、何かおかしかったか」
「いや」
「何、笑ったんだ、こら」
「ねえ」
透はコールテンに包まれて固い、巽の膝に頭をこすりつけて云った。
「どう、共演者として、ジョニー」
「カンがいいやね」
巽はぶっきらぼうに答える。
「それに──とにかく、一生懸命だね、何やるにも。何回やり直させられても、気を抜かんね。役者としちゃ、とうしろだが、その割にゃよくやってるよ」
「そう」
「それと──ときどき、プロの役者がビビるような|いい《ヽヽ》顔をする」
「きれいでしょう」
「きれいってよりか──|いい《ヽヽ》顔さ。凄え表情が、できる子だよ。ガキのくせに、な」
透は、ふと、眉をひそめて巽を見あげた。
巽は、画面に見入っている。画面は、良のクローズ・アップ、小生意気に顎をつんと上げて、けだるげに巽に云いかえす。白いファーマー・カラーのブラウスと、ぼろぼろのジーパンに、黒と赤のサスペンダー、手でもてあそんでいるのはとぎすましたアイス・ピックだ。良は巽の店の若いバーテンである。
「やってんじゃねえだろうな」
画面で、眉間に条を刻んだ巽が低く云った。
「何をさ?」
良はききかえす。けだるさも、ものうさも、寂しさも、良のすべての表情はどこか炎のような生気を内にひそめてまぶしい。
「ヤクさ」
「あんたの、商売道具だろ、それは」
「おい」
レイ・バンの奥で巽の目がするどく細められる。
「あれだけは──手を出すなよ、圭」
あんたは、ジョニーを見ている──ふっと、透の心を波立つ不安の最初のざわめきがかすめる。
「巽さん」
「ああ?」
びっくりしたように、巽が透を見おろして、目で笑ってみせる。
「何だ?」
「何でもない」
「何だ、どうした」
画面の中で、巽はサングラスをむしりとり、麻薬におかされているのではないかと疑いはじめている良に、懸念とむりにひそめている愛情に切ない凝視をあてる。良はまるで、その目の束縛をひきちぎりたいと願っているように、激しく動きまわり、アイス・ピックを氷に打ちおろす。
巽は懸念というよりやさしさ、ひたすら包むような愛憐にみちて透を見た。
「消そうか」
「どうして?」
「透がイヤなら。見なくていい、こんなもの」
「だめ!」
スイッチをひねろうとのばした手を透はおさえた。
「透──」
「見たいんだよ。大丈夫──大丈夫、別に、変になったりしない」
「なら、いいけど──面白くねぇだろ、まださ」
「面白いよ、とっても」
透はむりに笑ってみせた。
「ジョニーうまいじゃないの」
「やっぱり──消そう」
巽が、ふいに身を起こした。ピーナッツの皮がちらばる。
「だめッ!」
「消すよ」
「見せてよ」
「イヤだよ、俺は」
「何が」
「透が、あの──」
「オレが、何なの」
「お──俺とさ、あの──あの子の共演するとこをじっと見てるのがさ……」
「見せてったら。楽しみにしてたんだから」
「いい。見るな」
巽の顔が別人のようにけわしくなっていた。スイッチにのばした手首を透は両手でおさえた。太く、がっしりした手は、透の細い華奢な手を、その気になればたやすくふり払えたが、彼は邪慳にはねのけるかわりに、あいた手で透の手首をつかみ、ひきよせると、無造作に膝の上にかかえあげた。
「何、するんだよ」
透は怒って云う。
「寝室へ行こう」
巽は腋と膝に腕をさし入れて、かるがると透を抱きあげてたちあがる。
「よせよ、見てるんだから」
「俺は、|したい《ヽヽヽ》んだよ」
「見てからにしてよ」
「いまでないとイヤだ」
「おろせよ、ばかやろう」
透は腹をたてた猫のようにもがいた。巽はかれを寝室に運びこみ、ベッドの上に投げおろした。
居間で、見ているもののいなくなったTVがコマーシャル・タイムの騒々しい音楽をまきちらしている。透が本気で怒って暴れるのを、苦もなく巽はおさえつけてブラウスをひきはいだ。
「何だって云うんだよ──ばか──気狂い!」
「ああ、俺は気狂いだ。わるいか」
巽は、まるで、何かに怯えているようだ、とふと透はけわしくなった顔をまぢかに見ながら感じとった。
それは、巽に、ふさわしくない。精悍で、大きくて、粗暴なやさしさにみちた古強者の狼のような巽が、|もの《ヽヽ》に怯えて神経質になることなど、まったく似つかわしくない。巽はひどく乱暴になっていた。荒々しく、透の抗う手足を下に敷きこみ噛みつくように唇を吸った。
「やめてよ」
喘ぎながら透は云う。
「そんなふうにするの、嫌いだ」
「うるさい。黙ってろ」
「痛いよ──」
巽と透は暗闇の中でしばらく揉みあっていた。
透の体力はすぐに尽きる。はあはあと、息を切らして動かなくなった透を、巽は乱暴にねじまげ、一気に貫き、そしていきなり滅茶苦茶につきあげてきた。ひいッと、透が悲鳴をあげた。
「静かにしろ」
巽が唸るように云う。居間で、番組に挿入されるヒット曲の「反逆のブルース」を歌うジョニーの声が、甘くひびきはじめたのを、まるで、ことさらに激しいしぐさでかきけしてしまいたいかのようだ。
(巽さん)
嵐のさなかのような勢いで弄ばれながら、透はまたも、まるで巽が怯えて母親にすがりつく幼児のようだと感じた。巽自身は、おそらくそんな自らの異変には気づいているまい。
「苦しい、巽さん、ゆるめて、お願いだから」
「うるさい!」
巽はまるで意地になっているようだった。とぎれとぎれに哀願する透の唇に、髭の感触と熱い唇がおおいかぶさって声をふさぐ。
(殺されるかもしれない)
おそろしさは、なかった。
おそれるためには、巽は、やさしすぎる。いっそ、このまま殺されてしまうのがいいと、透は思う。そうすれば、知らなくて済む。巽のその逞しいからだをひっつかんでいる、われ知らぬ不安のかぎろいのうしろに、あるたしかな予感を見なくても済む。
(殺してくれ。いっそ、もう──)
なかば本能的に巽の重いからだを押しのけようとつきあげた両手首を、巽は片手でいっぺんに握って押しのけ、透の腰をかかえてほとんど全身が宙にういてしまうほど、自らの腰にひきつけた。透は声をあげて巽の腰に脚をからみつかせ、かろうじて身を支えたが、その強いられた姿勢の苦しさに目の前が真赤になった。宙にういた腰に、これまで一度も知らぬほど深く巽の鋼鉄のようなからだが進入して、ほとんど透は巨大な狼に啖えこまれて下肢をふたつに裂かれる兎のようだった。透はかすれた声で、苦痛を訴えた。
「透……」
それには、耳もかさずに巽が叫ぶように云った。
「俺を信じてくれ。俺は──俺は、お前だけだ、いつだってお前だけなんだ」
それはむしろ哀訴とすらひびいた。透はかすむ目を開いて自らを狂ったようにむさぼっている男の顔を見、そしてふいに全身の血が冷えるのを感じた。
(巽さん)
巽の目は薄闇の中で爛々と光っている。何かにむなしく抗い、挑みかかろうとする、追いつめられた狼の、それは顔だ。
(巽は、良を見ていた)
透を愛している、と自分に云いきかせている巽。良と毎日共演し、その光り輝く表情にさらされる巽、画面の良を食い入るように見ている巽。
(違う。そうじゃない)
そうだ、そんな俺じゃない、と云いたげに、巽のからだは透を荒々しくつきあげていた。彼は目を閉じていた。
(気のせいだ。気のせいだ。気の……)
透は啜り泣くような息を引いて、巽にしがみついた。
8
(オレは、変わった)
そしてまた、巽のいない部屋。──巽を待ち、巽に埋められるまでは空白な不安な時間のなかで、透は毛布にくるまって考えている。
(オレは、変わっちまった。──巽が、変えた)
彼にすがり、彼を待つように、巽は、ほっつき歩きひとを信じない野良猫のようだった透を少しずつ、変えてしまった。凍えきった透のなかに巽がしみこむには、時間がかかったが、いったん入りこんでしまえば、それまでにそうした男を知らなかった分だけ、透は無防備に、さいげんなく、巽にもたれかかりはじめていた。
(巽さん)
くるまっている毛布に巽の体臭がしみつき、裸のからだには巽の狂おしい愛撫がのこした感触と傷口がある。
(巽さん──あんたがこんなにしちまったんだよ。オレ──オレ、気が変になっちまいそうだよ)
透は巽の体臭に包まれているのに耐えかねて、毛布をはねとばし、裸のまま部屋のなかを激しく行きもどりした。
巽をまねて、やかんをとりあげ、口をあてて飲んでみる。部屋が広い。
(四時)
巽は帰りが遅い。スタッフと食事したり、飲むのも付合いで仕事のうちだ。
(女じゃあるまいし)
そんなことは百も承知だ、と思っていた。しかし、昔、と云ってもほんの三、四ケ月前だが、巽が透を拾い、そしてこのマンションにつれてきたころには、巽はまるで病気の猫を見とるように、かたときもはなれようとはせず、包むような目でただ透を見ながら、いつも透のそばにいた。
そのときは、仕事もなかった。入って来た、連続ドラマの仕事を、それが今西良主演である、という理由で巽が受けたのは、透ゆえだ。透が、良に復讐してくれと望んだからだ。
(あいつ──やっちまってくれない?)
あんたがそれでさっぱりするのなら、いまをときめくスターの≪ジョニー≫を、おびき出して強姦したって、殺してやったっていい、と巽は云った。
(俺はあんたに惚れてる──だからさ)
透をマンションに待たせておいて、毎日録画どりのスタジオで顔をあわせるジョニーは、何も知らず、彼がかつてのライヴァルにたぶらかされて、どのような残酷なたくらみを抱いているかさえ知らずに、あの心をいつわるすべを知らないようすで巽にも笑いかけるだろう。
「巽さんて何考えてるのかわかんないね、いつも」
「巽さんの車、自分でチューン・アップしたの? 今度、乗ってみたいな」
「巽さん──」
「巽さん、無口なのね」
その、生まれたままのような、と誰もが云う気まぐれな笑顔と、痩せて長身の透より、何センチか低い、そのかわり豹のようなしなやかな生気にみちた華奢なからだつきを、ちかぢかと眺めて、もともと人の痛みを深く感じとるように生まれついてきた巽は、彼の雄渾なからだに侵されたときの、良の苦痛と恐怖を、ひそかにおそれはしなかっただろうか。
巽の粗暴ささえも、もっと深いところではやさしさの同義語にほかならぬようなものだった。だからこそ、巽は彼自身を熱い盲目なサテュロスのように思いこみながら、ひっそりと、透のなかに口を開いている黒い餓えをいやしてくれる。
(あと、七時間か、八時間か、九時間か)
巽が帰ってくるまでの長さは、そらおそろしいほどにうつろにひろがっている。透は突然、呻き声をあげて、毛布の上に倒れこみ、巽の匂いに顔を埋めた。
(気が──狂っちまいそうだ。巽さん──巽さん)
まるで、いまのオレは、女だな、と透は自分を笑い、そしてふり払うようにして毛布を捨て、タバコをさがした。これまでのボニータは補給することもないまま忘れ去られ、透は巽の吸う両切りタバコに馴れてきはじめていた。
うずくまり、ぼんやりタバコを吸いながら、巽のことを考える。これまでは、考えることといえばいつでも、ジョニーのこと、かれを追い出したレックスの仲間のこと、かれを選ばなかった何万のファンのこと、でしかなかった。
いまの透には、すべての世界とかれのあいだに巽がたちはだかって視野をふさいでいる。いつからこんなになってしまったのか、と思う。それをどんなにかおそれたからこそ、巽の包みこむぬくもりに抗いつづけたのだ。こんなふうに、人を待ち、失うことをおそれたくなかったからこそ。
(しくじっちまったよ、今度ばかしは)
透はじゅうたんの床に仰向けになって煙を吹きあげた。
巽は、ジョニーにひかれかけている。
(わかってたさ──わかってたのに、はじめから)
ふしぎなほど、巽を憎い、と思う気持はわいてこない。巽を思っただけで、身内の奥からふわりと太陽の光に包まれてしまうような、この思いをどうしようすべもない。
(わかってたのに──あのひとのせいじゃない)
はじめから、そう云ったんだから、と透は呟く。
(ジョニーに近づけば、あんたは奴に惚れちまうよ。あいつを好きにならずにいることなんか、できる奴はいないんだ)
それまで予期しながら、心をとかされてしまった。わるいのは、オレだ、と思う透の頬に、風の吹きぬけるような寂しい微笑がうかんだ。
(だったら、はじめから、心を開いてしまわなければ──あとで痛い思いもしないで済んだのに)
苦しい、と透は小さな吐息を洩らした。そうしながら、こんなふうに、あつい熔岩がからだの中につまっているような苦しさを、他の人間のために感じたことが、これまで一度でもあっただろうか、と思っていた。
(みんな──からだが、名声が、何かしら目当てがあって、何かしら欲得ずくで近づいてきた。オレの方でも、そうに決まっていると思ってた。──あんたみたいな人はどこにもいやしなかった。巽さん──巽さん)
透は、まるで、もう失うと決まった愛児を見つめるような哀惜で、かれが待っている男を思ってみていることに気づいていない。
青空は、静かに、元の雲に領土をうばいかえされていった。日はかげり、そしてこんど訪れてくるとすれば、それはもうかりそめの雲ではなくて、長い孤独な本当の夜闇にほかならないのかもしれない。
(巽さん──巽さん)
愛している、とか、好きだ、とかいったことばをかえしてみようとは、一度も思いあたったことがなかった。それはまるで、|おし《ヽヽ》の母親をもった子供がことばの存在を知らぬように、しかしことばにできない心のなかで、透は巽の名を、ありたけの切ない思いをかけて呼んでいた。そう呼んでいなければ、からだがとけて消えてしまう、とでもいうような、必死の、すべての存在をかけた切なさで、彼のことを思っていた。かつてのライヴァルに心を移そうと、どうしようとかまわない。ただ、もう一度だけ、いつももう一度だけ、かれの部屋にもどってきてくれて、そして抱いてほしいだけだ。あのときだけだ、と透は思った。オレが、本当に生きていると云えるのは、巽の熱い逞しい肉をからだの奥深く感じ、巽でみたされ、巽の胸にいるときだけなのだ。
(巽さん──あんただけは、ジョニーにわたしたくないのに)
巽のほかにもう何ひとつない、と思った。スターもデビューも、何もかもどうでもいい。巽さえいればいい。
あわれなトミー、と透は思った。
(すっかり、魂抜かれちまってさ)
かれは物思いの中にひたりこんでいた。それで、電話が鳴り出したとき、ほとんど息が止まるほど驚いてとびあがった。巽以外に、かけてくる者のない部屋である。
「巽さん? 巽さんなの?」
せきこんで、自分で気づかぬふるえるほどの憧れをこめて、透は受話器にしがみついた。
「もしもし」
答えは、ない。沈黙のままで、がちゃりと切れる音がひびいた。いたずらか、と透は思った。仕事の電話はすべて彼の所属するプロである「アクターズ・ステュディオ」を通す。この番号を知っている人間は限られているはずだ。
間違いだろうと透はきめた。そんなことはどうでもよい。日はかげり、沈みかけている。五月の夕暮れの美しさも、いまの透の目にはむなしかった。
(あんたは、オレを、ジャンキーだと思ってたね)
透は、ゆるやかにまた床にすべりおち、はじめて巽に出会ったころの追想にひたりはじめた。幸せな微笑がうかび、かれは内側から輝いているように見える。その記憶は、悲しいほどぬくもりにみちている。
(あなたの一片の抱擁のためだけでも、ぼくは千回でもあなたを赦すだろう)
透は、巽の帰らぬ部屋の夕日の中で、やさしく微笑みつづけていた。
巽が帰ってきたのは、いつものように、十一時をまわっていた。髭がのび、憔悴し、疲れていたが、部屋に入ったとたんに、彼は目を丸くした。
「な、何だい、これ」
「掃除したんだよ」
透は、照れたように、雑誌から目をあげて云う。髪を洗い、きれいなシルクのブラウスとパンタロンをきちんと着て、透の頬がちょっと火照っていた。
「酒の用意したのか」
乱雑な部屋の中で、乱れたままでベッドに裸で眠っている透に馴染んだ巽は、眩しそうに目をぱちぱちさせた。
「風呂入ったら。わいてるよ」
「な、何か変な気分だな」
「どうしてよ」
「か──かみさんがいる、みたいでさ」
「よしてよ」
透は、たっていって、巽のぬぎすてるシャツをうけとった。巽は困ったような顔で、指を透の濡れて輝く栗色の髪にさし入れて、額をこつんとぶつけた。
「頭、変になったのか」
「そんなにおかしい?」
透は幸福そうに笑った。巽はふいにはっとしたようすで、そんな透を眺め、眉をよせた。
透の微笑が、まるで澄明な風のような淋しい表情に見えたのだ。巽の男らしい顔がゆがんだ。
「ね。飯は」
「白状するとな、まだだ。ちょっと、プログラム狂っちまってな。突貫でとってて」
「じゃ一緒に食べようよ。肉買ってある」
「透──」
巽は透を見つめた。透が見つめかえし、目で微笑《わら》うと、巽はふと目をそらした。
「風呂に入ってて。焼いとくから」
「おい──」
「ワインもあるよ。高いの。金、ずいぶんぱあッて使っちまったよ、オレ」
「あったか、そんなに」
「あったよ。おろした」
「こいつ」
巽は透の頭を小突いた。ふいに、いとおしさにつきあげられたように、巽は透を抱きしめ、しばらく透が息がとまるほどつよく抱きすくめていた。
「風呂入るよ」
「ああ」
透は、巽が戸惑ったように服をぬぎすてながらバス・ルームへ入ってゆくのを見送り、そしてまたすきとおったような微笑をうかべた。まめまめしく、巽の服を始末して、パジャマと新しい下着を出してから、台所に入り、じゅうじゅうと脂の焼ける音をさせはじめる。
肉を焼きながら、もう十二時ちかい、寝しずまった建物にはばかることもなく、透は小さな声で歌をうたった。バスの水音は巽の耳から、その歌声をさえぎっているだろう。「恋はゲーム」──ジョニー&ザ・レックスのポップス大賞歌唱賞受賞のヒット・ナンバーだった。
(恋はゲーム 嘘をかさねるゲーム
恋はゲーム 思い出かさねるゲーム
思い出の積木細工こわしては積むゲーム
はじめからわかっていたよ
だけどあなたを愛したよ
恋はゲーム だのになぜ心が痛い)
「ねえ」
巽は、無口だった。目をあげて、驚いたように透を見る。
「ああ。──うまかったよ。透に、料理できるの、知らなかった」
「ねえ、巽さん」
「ああ」
「何があったの?」
「え?」
巽は、びくりとした。
彼は、パジャマのズボンだけ湯あがりのからだにはいて、黙りこんで肉を平らげた。タバコを横ぐわえにして、椅子の背にもたれた彼の顔はげっそりと憔悴していた。
「何って何が」
「何か、変だよ」
「ばか、何もないさ」
「嘘だよ」
透は巽の目をのぞきこんだ。逞しいからだつき、がっしり太い首、黒く精悍な髭に、いっそ似つかわしくないほどに、睫毛が長く、切れ長で、子供のように澄んだ美しい目なのだ。巽はしかし、まばたきして、ほとんどおどおどと、透の目を避けようとした。
「何もないよ。ちょっと、疲れた」
「嘘だ」
透は笑おうとした。ふいに、その目から涙がもりあがっておちた。巽は仰天した。
「どうした」
透は首をふった。巽はあわてた。
「何だ。どうした、ばかだな──俺は何も……云うよ、心配させたくなかったんだよ」
「………」
「ジョニーをな」
「………」
「怪我さしちまってな、俺」
「怪我? 顔?」
知らず知らずとび出したことばだった。巽は首をふった。
「左手。今日とったとこで、こうやっこさんが指のあいだ、アイス・ピックで刺す遊びしてさ」
ひろげた指の間を行きもどりしてみせる。
「それを、俺が、やめろ! って怒鳴って、とりあげる筈だったのに──手がすべった。あいつの手の甲、どまんなかにアイス・ピックぶち込んで、テーブルに縫っちまったよ」
「そう……」
ずきんと、ピックに貫かれたのが自分の手であるような衝撃がからだをつきぬけた。苦痛にしかめた良の顔を見たかった、と思う。どんなに、美しかっただろう。
「ディレクターにゃ怒鳴られるし、レックスのみんなは凄え目でにらむし、な。可哀想なこと、しちまったよ、ギターひく手をな……変わった子だな。あッとも云わんで、俺を見たよ。ピックで刺されたまんまさ。──おちついてたな──ヘンだけど、俺、立っちまったんだよ、そのとき……あの子の手がまた、こう真白で細くってさ。つーッと、真赤な血が盛りあがってきて……物凄くきれいに見えたんだ、その血が──なんか、こぼすの勿体ねえ、みんな吸っちまいたいみたいに──俺、気狂いだな」
また一歩、と透は思う。また一歩、あんたは、あいつにひきこまれてゆくのか。自らの気持を語るのに不馴れな巽は、そうした嗜虐の味のする衝撃が、慈悲や憐愍と本当はまったく似もつかぬ兄弟である焼けるような渇望、恋慕への扉をあけることに、気づいていないのだろうか。
「いい気分じゃなかった。──左手、三角巾でつっちまってさ。だもんで、スケジュールは狂うし……真青な顔してさ」
「そう」
巽の単純明快さを少し、透は恨みたい気持になっていた。そうした巽だから、錯綜しはてた透の思いを包むこともできた。が、また、そうした彼でなかったら、せめて良に磁極のように吸いよせられてゆく思いを透の目から隠そうとするくらいの卑劣さは、示せたのに違いない。
まるで、きめられた日課のように、片付けようとする透をベッドに抱いていって、巽はかれを抱いた。血の匂いにたかぶる獣のように、彼は激しかった。
彼が眠ってしまってから、透はひとり寝つかれずに彼の隣で目を瞠いていた。巽は、小さく口を開き、しきりに眉をしかめて寝がえりをうつ。夢の中で彼は良の白い顔、苦痛にゆがんだ表情、華奢な手を濡らしてしたたりおちる鮮血につきまとわれているのかもしれない。
透は上体を起こし、肘をついてその寝顔をのぞきこんだ。子供のように、口髭を噛みしめて巽がむにゃむにゃ云った。
(あんたが明日ぼくを棄てていっても、ぼくは赦すだろう。あなたが千回ぼくを裏切っても、ぼくはあんたを愛するだろう)
巽は、まだ、ここにいる、と透は思った。ありえない奇蹟にぬかずくように、かれはおそるおそる顔をよせて、巽の唇に接吻しようとしたが眠りをさまたげまいとやめた。巽は幼児のような寝顔をしている。
(神様──ああ、神様──神様!)
えぐるような慟哭が透の口から洩れた。巽を失いたくない。透は、枕に顔を埋め、声を殺して泣いた。
9
巽は、苦しんでいた。
それは、透には、水底の魚のもがきのように、はっきりと見てとることができる。
おそらく、それも、自分では、なぜ、何を苦しんでいるのか、明白に意識してはいなかっただろう。巽にとって苦悩はあまり馴染み深くはない感情だ。腹が減れば狩をし、狩った獲物を食いつくし、孤独にも矛盾にも、たいして気をとめずに巨大な湿った鼻づらの狼のようにうろつきまわっていた彼にとって、世の中は単純で明快な、そしてわからぬことはわからぬまま放っておけばいいところだった。
いまの状態が、何か違う、と巽が感じるのは、ひたすら、そうした獣ののびやかさと凶暴さを秘めた彼が、同時に獣の、強いられたものでない天性の倫理と誠実をもつほどに、真の狼の魂を持っていたからだろう。狼は一夫一妻を守る、きわめて倫理的な獣である。「獣のよう」にいやしく低劣なのは、実は人間だけだ。のびやかな本能的な倫理感から、巽は自分を無意識に責めていた。
(惚れたからさ)──そう、明快にきめてしまって、済ませていたけれども、巽が透によせてくれたのは恋情よりもむしろ神聖な崇高な感情だった。透がみじめで、寒く、傷ついていたから、巽は透をつれてきて、ぬくめてやろうと夢中になった。それをあっさりと「惚れた」と自分に名付けたあとで、巽は、良に心を奪われた。
一夫一婦制を守る獣の、二度とできぬ、嵐のような、抑制のきかぬ恋をしてしまったのだ。それをまだ自分で気づいていない──むしろ、気づくことをおそれているので、巽は苦しいのだった。
透に惚れているのだから、透だけを見ていなくてはいけない、と自らを叱咤して、目をねじむけようとする。そうするほどに、仕事で共にいなければならぬ良の輝かしい微笑、気まぐれな表情、ほっそりした、まだ誰の支配も知らぬ肢体、への渇望に灼かれる。
わけがわからぬまま不安にかられ、いよいよ透にやさしさの限りをつくそうとしている巽を見ているのは、つらかった。透は、巽にだけは、そんな愚かな苦しみを味わわせたくなかったのだ。
(苦しまないで、巽さん)
もし、云うことでもっと巽が追いつめられることがわかっていなかったら、云ってやりたかった。
(いいんだから。──ぼくは、あんたが苦しむよりは、自分が死んだ方がいいんだから。あんたが何をしても、たとえジョニーを愛していても、ぼくはいいから)
ツー・クール、二十六週ぶんの撮影は長く、夏の末にはロック・ツアーに出るジョニーのために、毎日つめこみの録画どりが行なわれていた。「反逆のブルース」は、ちかぢかミリオン・セラーにとどくだろう、と云う。
何も知らず、巽の心を奪い、彼を苦しめている良が、透は憎かった。巽の頬に内から病気に食い荒される獣のような途方にくれた翳が生まれ、それがしみこんでゆくのに従って、彼が夢中で透にやさしくしようとするのを見ているのは、拷問にひとしかった。
(わかっていたのに──はじめから、わかっていたのに)
巽のいない長い昼と、巽の苦しげな顔に微笑みかけなくてはならぬ長い夜を、ともに透はおそれた。
(このままで長つづきは、しないさ)
何かが、何かを、変えてしまうだろう。自分からは、変えたくない。苦しくても、巽のそばにいて、巽を待っている時間を、一分でもちぢめることはできない。
(巽さん──ぼくがどんなにあんたを赦しているか、少しでもわかってくれたら)
長い日々はのろのろと、五月の緑の風の中を這いすすんでいった。透には、待つだけの日々だった。
そして、|それ《ヽヽ》が来たとき、ほとんど、透は長い拷問台の回転がようやくとまる、解放の思いしか、感じてはいなかったのである。
電話が鳴った。
「はい」
いつものひるさがり、とぼんやりベッドに身をのばしたまま透は思う。めったにない電話のベルは、その無為に捺された小さなブレス記号だ。
(この前の、いたずら電話──何日前だっけ)
「もしもし」
しゃがれた声が云った。
「はい」
「巽さんのお宅ですか?」
「はい」
「巽竜二──俳優の巽竜二さんの?」
「そうですが」
「巽さんはおいでですか」
「いま出かけておりますが」
巽はただの一度も、電話に出るな、とか、ふたりの関係を隠したり、カモフラージュするようなそぶりを見せたことがない。そんなことははじめから、彼の頭にはうかびもせぬようだった。しかも、マンションにかかってくる電話や客もまったくありはしなかった。巽は、私生活をさらすのをスターの義務と考えるタイプの男ではなかった。
「もしもし」
「………」
「もしもし」
覚えず透は苛立った声になっていた。そのとき、
「森田くんだね。覚えていないかな、この声」
笑いを含んだ声が云った。
「………」
「野々村ですよ、『マスコミ事務所』の。その節はどうも。もしもし、トミー、きいてるの?」
「あ──ああ」
透は声を押し出すようにいやいや答えた。嫌悪とも、羞恥ともつかぬ熱さで、頭がぐらぐらした。気配を察して、すばやく、
「切るなよ、トミー。切ったら、困るの、あんたの方だからね」
フリーの芸能ライターは云った。
「ずいぶん、さがしちまったよ。なんのこたあ、ないね。ずっと、巽竜二んとこに囲われてたとはね。おっと、切っちゃダメだ。否定もきかんよ、この電話、テープにとってるからね。あんたが巽は出かけておりますと云うの、ちゃんと入ってるから」
「何の用。デビューなら、断わった筈だけど」
「話がある。会いたいんだがね、トミー」
「オレは、会いたくないね」
「冷たいね、あいかわらず。いいのかい、こんなうまい話きかんで切ったら、一生後悔するよ」
「お宅らのうまい話はきらいなんだ」
「吉蔵《ヽヽ》さんの宝物になって、『海の挽歌』のあの立派な大砲をひとりで独占してる方がよくなったってわけかね」
「切るよ、もう」
「可哀想にな、トミー」
くっくっと野々村は笑った。
「あばよ、爺さん」
「せっかくそんなに義理立てしたって、どうせまたジョニーにとられる男じゃないか」
「何だと」
透は声を荒げた。
「おお、でかい声、出しなさんな。知らなかったのかい。下界じゃものすごい評判だぜ。巽竜二が共演しているジョニーにぞっこん惚れて、ジョニーのパトロンを自称する作曲家の風間俊介と、一触即発の三角関係だっていうの」
「………」
「三人が三人ともネーム・ヴァリュー凄いからね。それに、巽の旦那は、あんたって宝物は|ないない《ヽヽヽヽ》しといて、平気の平左でジョニーに憧れの目むけて追っかけまわしてんじゃないの。ま、そこまでは芸能界じゅうの人間が知っててさ。ジョニーを最初にヤルのどっちだ、やられたらジョニーはダメになるかよくなるか、賭けてるしまつだけどさ。その陰でひっそりと、かつてのレックスの二大スターが再び、巽竜二をめぐってひそかなダブル・トライアングルってのはさ──まだ俺しかつかんでねえってわけ」
「書く気。男同士、女同士はめったに書かねえっての、お宅らの不文律じゃなかったのかい。おかげで、オレだってずいぶん助かってんだけどね」
「それは、レックスのトミー、元レックスのトミーって、商品価値あるあいだはね」
冷酷な笑い声をたてた。
「いまのあんたはみじめな男娼だ。ジョニー・サイド、風間俊介サイドはやばくって書けねえけど、あんたをいくらなぶったって、誰も|根まわし《ヽヽヽヽ》かけてくれる人はいねえんだよ。まあはっきり云って巽竜二も、バックに有力なプロダクションや劇団があるでなし、本番俳優の悪名とって、叩くにゃもってこいなわけ。『レックスを追われていま再びジョニーのために──トミー(森田透)の転落の構図にみる芸能界の体質』てなレポートはどう? まあ巽竜二はジョニーをやっちゃいねえってことは確かだからさ。むしろジョニーにとっちゃ、ちょいとした迷惑料で株あがるとあの清田マネなら読むだろう。ま、あんたはこれ以上落ちるとこはないし、ホモだって云われて干されんの、巽ひとりなんだから、あんたもまたしてもジョニーに見かえられた腹いせになっていいってわけさ。巽のヤー公に叩き出されてから、ゆっくり俺の話をしよう。あれ、まだ生きてんだよ、ほれ、島津さんの話さ」
「それが──狙いなのか」
透は静かな声で云った。
「ど汚ねえ、ハイエナ野郎」
「あんたが受けてくれないからって、あんたの再起のためにこれほど苦心して、そんなこと云われちゃあわんな」
野々村は云った。
「みんな、あんたのためなんだぜ」
「ヘッ」
「なあ、トミー。大人になれよ。どうしたって云うんだい? あんたが、再起したくねえなんたって、通りゃしないぜ。値、つりあげるのもほどほどにしないと、二度とお声もかかりゃしない。第一だよ。お前さんのそのゴネ得ねらいのためにさ、巽竜二みたいないい役者が、かわいい男の子囲って、アイドル・スター追っかけまわす倒錯者だったってスキャンダルで長い一生棒にふって、あんた、胸痛まねえのかい。竜さんはいまいくつだい、三十いって五、六だろ。これからが役者ざかりじゃないか。いい役者だよ──『海の挽歌』の次回作、日仏合同でトルっての本ぎまりだってじゃないか。気の毒に、竜さんもさ、あんな気持のいい男が、あんたなんかにひっかかったばかりにさ」
「書く気なのか」
「そりゃ、そうさ。いま風間俊介は日の出の勢いだ。あっちからは手、出せねえしさ。といってジョニーのジョの字でも書いてありゃ、いまやどんな記事でもわーッと出るんだからな」
「恥ってものがないんだな、あんたらにはさ」
「あってたまるかね。自分にゃあるようなことを云うんじゃないよ、トミー」
「トミーって呼ぶのやめてくれよ。もうその名前はたくさんなんだ」
「ジョニーがジョニーであるかぎり、お宅はジョニーと並び称せられるトミーなのよ」
「巽さんとオレのこと、書くのか」
「書くよ。こんな泣かせるネタ書かなかったら、俺は引退した方がいいってもんだ」
「さっさと引退しちまえよ、じたばたせずにさ」
「あんたの、そういうところが、こたえられなくてさ、トミー。記事楽しみに待つかね。あんたの独占手記にさしてもらうぜ。あんたがジョニーにめんめんと恨みのべるわけさ。竜さん、読んだら、どう思うだろうな」
「きさまらのど汚ねえでっちあげだって云や、信じるさ」
「どうだかね。奴は、ジョニーにいかれてんだぜ。きれいな目のまわりにあざつくって追い出されてもいいよう、せいぜいくすねとくんだな」
「やってみろ、爺い。きさまらの思い通りになって、へいへい云って降参しに行くと思ってんのか」
「そうさ」
野々村は平然と云った。
「あんたが竜さんに叩き出されたら、あとがまのパトロンに名乗り出てやろうと思って待ってるんだぜ。ただし例の島津天皇と共有ってことになるがね」
「吐気がするよ、くそ爺い」
「独占スクープ、衝撃の告白を楽しみにしてるんだな。ヤクザの旦那によろしくな」
くっくっと笑って、野々村は電話を切った。
透は、しばらく、ぼんやりと受話器をもったままでいたが、やがてそれを叩きつけた。ちッと舌打ちして、ベッドにもどり、考えこむ。
(本当にやる気だろうか──まさか)
(いくら何でも巽さんほどのスターをそんなふうにつぶしたりできないだろう)
(だけどもし──本当にやりやがったら)
透はベッドの横の壁に思いきり額をぶつけ、拳を握りしめた。
(どう出るか。向うの出かたを待つか)
巽に彼のリングと戦いかたがあるように、透もまた弱い獣なりのリングと戦いを知っていた。かれには、ジョニーのように、庇ってくれる有力な崇拝者もめったになかったし、支えてくれる仲間もいなかった。ときにはかれが戦わねばならぬのは、まさにかれのプロデューサーであるレコード会社のスタッフであったりした。
麻薬で留置されて新聞ダネになったこともある。年上の大女優のつばめであることをばらされたこともある。かれの道は醜聞に飾りたてられていた。いまさら、泥水をかぶるのはこわくない、いまさら汚れる部分もない。
(だけど──巽さんは……)
監督に命ぜられたとおり撮影中に本番《ヽヽ》をした、というのは伝説で済んだ。しかし、放映中の「裏切りの街路」の役柄がそうであるだけに、こんどのスキャンダルは巽にもろにかぶさってくるだろう。
(俺は、どう云われたってかまわないよ──云いたい奴にゃ、云わせとくよ)
巽はそう云うばかりだろうが、しかし巽には、自分がまっすぐで健やかである分だけ、泥水でねじまげられる厭らしさ、人の目のおぞましさ、の予想がつかないだろう。
(巽さん。オレ、あんたにとっちゃ厄病神だったみたいだね)
ジョニーに巽をちかづけたのも、もとはと云えばかれだ。
(勘忍してよ。──迷惑かけちまったみたいだ、オレ)
透は、ずるずると背なかをこすりつけるようにして、ベッドからすべりおち、床にうずくまって、腕に顔をうずめた。
そのまま、どのくらい動かずにいたのだか、わからない。
部屋は暗くなり、灯もつけぬ天井に舞いこんできた蛾がばたばた羽音をさせた。何も考えず、動きかたを忘れてしまったように透はうずくまり、窓の下で、自動車のバックファイア、ちり紙交換の声、遠い国電の駅の喧騒、などがきこえては消えてゆく中にいた。
いっぺんだけ、何時だろうと時計を見あげたが、文字盤は見えなかった。
(このまま──このまま、そこの窓からとんじまうのが正解かな)
ぼんやりと、そんな考えが頭を行き来する。しかし、そのためにからだを窓まで動かす方法さえ、忘れてしまったようだった。
空腹も感じなかった。苦しいとも、ほとんど何の感情もわいてこなかった。巽が少しずつ、力強く注ぎこんでくれて、よみがえらせてしまった柔らかな部分、痛みを痛いと感じ、裏切りや卑劣さに傷をうけるような部分が、うずくまって動かないでいるあいだに、少しずつ、生命が抜け出して、もとの凍てついた冬にもどってゆくような気がするのだ。何も考えることなどない。何も感じることなどない。
あたりは静かになっていた。夜になったのだろう。下の部屋から、何かを煮る美味しそうな匂いが流れこんできた。上の階で、水を流す音がした。
極端にチューン・アップしてあるような車のするどいエンジン音がひびいて来、急ブレーキのきしむ音をひびかせた。ドアがパタンとしまり、乱れた荒々しい足音が建物にかけこんだ。
一階でエレベーターのドアがひらくチンという音がした。しばらくして、足音が近づき、重いドアがあき、叩きつけられた。
「透」
息を切らせた、呻くような、なつかしい声が云った。
「透──透」
巽は暗がりの中に目をこらしたらしい。手さぐりでつけた電灯に照らし出されて、急に室内は白熱の明るさに包まれた。
透は目をしょぼつかせながら、ものうく首をもたげた。その目が光に馴れる前に、透は、巽の表情が目に入り、反射的に身を起こした。
「透」
しぼり出すような声で、巽は云った。精悍な顔が、ひきつったようにゆがみ、目は血走っていた。彼はいきなり、透の前に、まるで身を床に叩きつけるようにしてつっ伏した。
「透」
そう呼んでいなくては、溺れてしまう瀬戸際のように、彼は泣くように叫んでいた。
「透──透──」
(巽さん……)
透は、ぼんやりと、両腕でからだを抱くようにして、足もとにつっ伏して見あげている巽を見おろした。彼が口を開く前から、彼のことばは透にはわかっていた。
「透──俺は良に惚れちまったよ」
まるで、救いを求める子供のようにして、巽は云った。
「惚れちまったんだよ──本気で」
10
巽の男らしい、誠実な顔が、苦悩にひきゆがんでいた。彼は、赦しを乞おうとはしなかった。
「そんなつもりじゃなかった。だが、気がついたら、参っちまってたんだ」
彼は喚くように云った。
「透──俺は、どうしたらいい」
「巽さん──」
とうとうだ、とふしぎなほど冷静に、透は思っていた。わかっていた。本当にしては、あんまり倖せすぎた。わかっていたのだ。遅いか、早いか、だけだった。
「透」
巽は手をのばして、透のはだしの足を両掌に包みこむようにした。
「俺を殴ってくれ。──殺しちまったっていい」
「巽さん」
なだめるように透は云った。
「そんなこと、したくないよ」
「赦してくれなんて云わない。わかってる、自分のしたことぐらい。でも──どうしようもねえんだ。良が、かわいい。ほしいんだ。良のためなら、八つ裂きにされたっていい。あいつを、つかまえて、俺のものにして、はなさないようにできるなら、この世の中ぜんぶ敵にまわしたっていい」
巽の唇は激しくふるえていた。これが、そうなのか、と透は思っていた。やさしい巽。いつも透を包みいつくしむ巽。こんなふうに、欲望と所有の渇仰に火をつけられ、理性を失い、一匹の巨大な狼そのままに火に包まれた巽を、一度でも、かいま見たことすら、なかった。かれに巽はいつもひたすらやさしかった。
「ほしいんだ。気狂いだと云われてもいい。あいつを風間俊介にわたすくらいなら俺の手で殺してやりたい」
「わかってるよ」
きいているのは、つらかった。透はほとんど巽とかれとが逆転したかのように、やさしい声で云い、膝まずいて、かれの足もとにひれふしている巨大な狼の頭を撫でた。
「透──俺は、どう云って詫びたらいい」
「いいんだ、もう」
「よくない。俺はわかってる。俺は──ひでえ、ひどすぎることをしちまった。あんたを拾って、生かしてからまた殺すみたいな──あんた、やっとよく笑うようになったのに──俺に飯つくってくれるようになったのに──透、俺、どうしたらいい」
「巽さん──起きてよ」
「何でもする。云ってくれ」
巽は火を吹くような目で、透をにらみすえた。こんなふうに、と透は思っていた。一度でも、こんなに、うけとめかねるほど激しく、切なく、愛してくれる人がいたら。だが、と何かが絶望的な自嘲にみちて叫びかえした。オレにはその権利はないのだ。
(あんたはみじめな男娼だ)
「透──」
巽はふるえる手で、透の顔を包みこみ、わななくほど悲しい声で云った。
「あんたに惚れてたんだ。本当なんだよ。あんたを傷つけるくらいなら、腕一本切られた方がいいと思った。嘘じゃない」
「信じるよ」
巽の手のふるえが伝わってくる。透は、笑おうとした。
「信──じる……よ」
「だのに──傷つけちまった」
「いいんだ」
「何もいいことなんかない。俺は、クズだ。な? クズのクズだ」
思わず、透は、笑い出さずにはいられなかった。ほとんど泣き出しそうにかれを見つめている巽は、駄々っ子のように見えた。
「あんたを裏切った」
「いいんだ」
透はくりかえした。
「オレも──オレもあんたを裏切ったよ」
透は、バーで会った修の顔を思いうかべた。
(巽竜二に気をつけなよ)
(あいつ──女嫌いなんだ。サドなんだよ──良に、気をつけてやるんだな)
「あんたと違う」
巽はきびしく云った。
「違わないさ」
「違う。たとえ透が何したって──俺は、透を守ってやると云ったんだから──」
「巽さん、良は──」
「えっ?」
「良は知ってるの、それ」
「わからない」
巽の顔がまたゆがんだ。
「俺は──自分で考えて、あいつに参っちまってたことに気がついただけだ。俺──あんまり、話したことねえんだよ、あの連中といたって。見て──見てるだけで」
見てるだけで。いつも、見つめているだけで、ひとびとは、良にひきつけられていった。良は、そこにいるだけで、すべての他のひとびとの影をうすくし、ただかれをうっとりと見つめ憧れるだけの存在にしてしまった。良のいるところがいつも世界の中心だった。
その傍らで、透を見つめようと群れてくる少女たちでさえ、良の動きをわれ知らず目で追い、良にひきつけられるのを、透は見ていた。透は、いつも、見ていた。そして良は透から、何もかもかちとってしまった。レックスの主役、リード・ヴォーカル、スターの座、仲間の愛──そして巽も。良が、透の宿命だった。
「透!」
巽が、激しくかれをゆさぶった。
「え──あ」
「頼む透、そんな──そんな顔しないでくれよ。俺、どうしていいかわからんよ──何でもする。云ってくれ、どうしてほしい」
あんたは一体、どうしてほしいんだ、と巽は前、口癖のように云っていたものだった。何でもしてやれるのに、何故何も望もうとしないのか、と。いま、巽は、透が絶望的に望んでいるたったひとつのことを与えられぬゆえに、かわりに何でもさしだそうと膝まずくのだ。
透は微笑した。
「何も──何も」
「そんなことは、ねえだろう。俺を──俺をひっぱたいてくれよ。俺──何されても、いいんだからさ。殴り倒して、踏んづけても、けとばしても──このうちん中のものみんなやる。車も、家も、俺は何も要らねえんだからさ──だから」
だから、赦してくれ──そう、云いえずに口ごもる巽に、透は云いたかった。
(あんたがたとえどんなひどい仕打ちをしても、ぼくはあんたのくれたどの一日のためにだけでも、千回でもあんたを赦すだろう)
「透──何とか云ってくれよ。透……」
巽の目に、涙が盛りあがってきた。ゆがんだ顔の中で、やはり切れの長い目だけはいつもと少しも変わらぬ美しい巽のものだった。
「いつか──」
透は目をそらして呟いた。
「いつかこうなると知ってたんだ」
「違う。透、違う、それは、違う」
(巽さん)
あなたを赦している、あなたを愛している──何と云おうと、それは、ただ傷ついた狼のような巽の心をなおさら鞭打つことにしかならなかっただろう。きのうまで、あれほどの赦しといつくしみにみちていた巽に、透はかれ自身の赦しも愛も何の役にもたてることができないのだった。透は、黙って手をのばし、巽の頭を撫で、背の高い彼をまるでがんぜない子供のようにいたわっていることを少しも滑稽だとは思わなかった。巽の傷ついた顔の中には、泣き顔をした子供のほかのものはいはしなかったからだ。
「透」
巽の逞しい手が、その透の手をとらえ、胸のところへもってきて、何度も唇をおしあてた。
「透──そうだ、透」
ふいに狂おしい希望にかられて彼は云った。
「二人でどっかへ行こう。日本なんか棄てちまってさ──誰もいない、グリーンランドとか、どっかの島へ行ってさ──二人っきりで暮そう。そうしよう、な、透、そうすれば──」
巽の目が輝いた。
透は笑って首をふった。巽の目から、吹き消されたように輝きが消える。その髭の下の噛みしめた唇に唇をおしつけたい気持をこらえて、透は巽の手をおしのけた。
「どうしたんだ」
不安げに巽がきく。彼は透の手をさぐった。透はたちあがって、巽からはなれ、上着をとった。
「透──どこ行くんだ」
不安にかられて、巽はたちあがり、透の肩に手をかけようとする。敏捷にかわした。
「透! 透──俺から、はなれる気か? はなれたらだめだって──そんなつもりじゃない。俺だって男だ。筋は通す、お前をまたあんな生活にもどらせやしない」
「巽さん」
透は云いきかせるように云い、巽の手を外そうとした。巽の手に、痛いほどの力がこもった。
「はなしてくれよ」
「いやだ」
「大丈夫だよ、やけになってるんでも、あてつけをしてるんでもないんだから」
「嘘だ」
「困った人だな」
透は陽気に云った。
「こうなったら云っちまうけど──オレ、再デビューしないかって云ってくれる人がいるんだよ」
「再──?」
疑わしそうに、巽は眉をよせた。
「そう。オレ本当云って、巽さんにわるいと思ってたから──だからかえって、万事オッケー、ね、わかる? 万事、いいんだよ、これで」
「透!」
いきなり、巽の大きな手が、透の頬で音をたて、透はよろめいてドアにもたれた。
「あ……」
巽は息をのみ、それからうろたえたように透をドアからひきはなそうと手をのばした。
「巽さん、頼みがあるんだけど」
「何?」
「オレのこと──オレと巽さんのことさ、ジョニーとジョニーのまわりの人に誰にも云わないでおいてくれる?」
「透、どこへも行かせないぞ」
巽は激しくかぶりをふって、透に近寄った。
「俺は──俺はそんなこと云ってるんじゃない。わかんないのか? 俺は、透を、良に見かえようなんて云ってるんじゃないんだ! 透は、透だ、俺の大事な透だよ! 透が逃げたら、俺はまた追っかけてつれもどしに行くよ、だから──」
「巽さん」
透は笑った。
「無理するなよ。──それに、迷惑かけて済まないと思ってるよ。これでいいんだからさ──じゃ、ね!」
巽が手をのばす。一瞬早く扉の外へ身をひるがえしてとびだした。巽が、扉を力まかせに拳で叩き、つづいてとびだしたときには、静かにエレベーターのドアが閉じていた。
[#1字下げ](今日からお前は自由さ
[#2字下げ]遠慮するなよ)
通りに出るまで、透は鼻歌を歌っていた。指さきにひっかけて肩に羽織った黒い上着をふりまわし、電光時計を見あげる。まだ、十二時だ。
(もとのもくあみ──ハハ、のんきだねと来た)
透は別に目的もなく歩きつづけながら、けだるく誘いかける微笑をそっとうかべてみた。
タクシーで、成城の名刺の住所まで、深夜料金で四千円ばかりかかった。閑静な高級住宅地のなかに、ひっそりと、平家の、庭の広い日本ふうの家があった。
「あ、そこそこ──とめてよ」
「だいぶ、いいご機嫌ですねえ」
タクシーの運転手が呆れ顔をする。渋谷でちょっとひっかけ、ひろったタクシーの中で、酒の匂いをさせながら、ずっと歌をうたいつづけたのだ。「危険な関係」「反逆のブルース」「恋はゲーム」「ガラスの愛」──ジョニー&ザ・レックスの歌ばかりを。
車寄せのある門をわが物顔に入っていって、玄関のチャイムを鳴らした。五、六回めに中に灯がついて、玄関が用心深げにあき、同時にいきなり犬の吠え声がした。
「何ですか──あ、トミーじゃないか。何だい、夜中に」
「へんぴなとこに住んでるねえ、ぐるぐるまわっちまった」
透は云った。和服に、あわててまきつけた兵古帯姿の野々村が眉をひそめた。
「何だ、酔ってるのか」
「まあね。ねえ、野々村さん、そこにタクシー待たせてんだ。どっか、飲みに行こうよ」
「何を云ってる。夜中だぞ」
「つまんねえおっさんだな、じゃいいや。ちょっと早く四千円、頼むよ。オレ、すかんぴんになっちゃった、ちょいと豪遊しただけでさ。早くったら、たてかえといてくれりゃいいんだから。レコード、ヒットしたら四千万円にしてかえしてやるよ。早く早く」
野々村は眉をよせたまま、透と門の方を見くらべた。
「わかったよ。──まあ、大声、出しなさんな。この辺は、あんたの出入りするところと違って閑静な住宅街なんだからさ」
「ヘッ、閑静かね、これで」
野々村は奥から金をもってきて、タクシーに払っていた。その間に透は中にあがりこんで、あれこれいじりまわしていた。日本ふうの、金のかかった造りだ。玄関に、しゃれた花活けがあって、つつじが活けてある。
「ちょっとした料亭じゃないの。儲かるんだろうね、トップ屋ってさ。ゆすりたかりは習おうより──ってさ」
「おい、トミー坊や」
野々村が戸閉まりをしながらけわしくとがめた。
「大概にしとけよ。俺は、酔っ払って虚勢はる奴は嫌いでね」
「偽善者も嫌いだったよね」
透は、皮肉った。
「嫌いなもんがたくさんあって、しょっちゅうむかついてるから、そんなしかめっつらになっちまうんだよ」
「そうか、そうだったな」
野々村は急に、思い出し笑いをした。
「あんたのは、酔って虚勢てんじゃないんだったな。シラフでも虚勢ばかしだったんだ。弱い犬ほどよく吠えるって、誰かに云われたこと、あるだろう」
「おおきにお世話様だよ、くそ爺い」
「あんたは、降参するのもそういうふうにしかできないってわけだな」
野々村は、まだ眠っていたわけではないらしかった。透の通された部屋は八畳の和室で、壁いちめん本棚になっており、畳に毛皮をしいてソファセットをおき、どことなく明治の文士の部屋めいていた。ガラスのテーブルの上に三台の電話と留守番電話があるのだけが、わずかにジャーナリストらしさを見せていた。
「降参しに来たんじゃないぜ、断わっとくけど」
「よしよし、わかったよ、トミー坊や」
「うまい話ってのを、とにかくきいてやろうと思ったってことさ」
「わかってるよ」
「云っとくけどな、オレは再起なんか、もうどうだっていいんだ。そろそろ、かたぎになろうと考えていたくらいだからさ」
「わかったよ」
「だからさ──だから」
透は上着を放りすて、苦しそうな息をして、ブラウスのボタンをはずした。
「暑いね、この部屋」
衿をひろげ、白い咽喉と胸もとまであらわにしながら云う。野々村は肩をすくめ、その肌に光の強い目をあてた。
「やっぱり、あんたは、話ができる人だよ、そうだろ?」
苦笑まじりに云う。透は、咽喉声で笑って、ボニータに火をつけた。
「何だっていいけどさ。今日は話やめといてくれよ。いまきいたって忘れちまうし」
「よし、よし。泊まってくんだろ」
「これからずっとね」
「なら、まあ、今夜は焦ってどうって必要はないわけだ」
野々村は云い、たちあがって透の隣にうつり、透の顎に指をかけて、唇をあわせた。ほのかに、トニックが匂った。
「だからさ」
透は含み声で云った。
「だから、書くのやめてくれるでしょ、独占手記ってやつさ」
「ああ。考えとく」
「巽さんはそっとしといてやれよな」
「まあね」
野々村は眉をよせ、目をつぶった透の顔を見つめてちょっと苦笑した。その手がゆっくりと下腹部にさがってくる。透は彼の胸に顔を伏せて低く喘ぎはじめた。
(B.G.M.by Down Town Boogie Woogie Band)
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V それはスポット・ライトではない
「ジョニー人気は、たぶんいまが頂点だろう」
ガスにかけたコーヒーが、香しい匂いを漂わせていた。いかにも長年のひとり暮らしに馴れた手早さで、野々村正造はコーヒー・カップをあたためた。
「だから、タイミングとしちゃいまを外すわけにゃ、いかないってわけさ」
透は、野々村のワイシャツをかりてだらしなく羽織り、ダイニング・キッチンの椅子に背もたれにむかってかけて、朝食の支度をする野々村を眺めていた。
もうずっと前からこうやって父親と同い年のその芸能ライターと暮らしてきた、とでもいった、無造作なようすで、椅子の背に組んだ腕の上に細い顎をのせたかれの目の下に、紫色の隈が奇妙ななまめかしさではっきりとついている。
「あんたの相手するの、しんどいなあ」
ものうげにコーヒーの匂いをかぎながら云う。
「|こと《ヽヽ》の前後が、やったら長いんだもん。おまけにこんな朝早く起きてさ。やっぱ、トシだね」
「まあ、待ってな」
コーヒーを注ぎわけながら野々村が満足そうに云った。
「島津の旦那に会わしてやるからさ。真青になるのは、それからさ」
「はん」
透は砂糖をことわり、濃い色の液体をかきまわした。
「でさ──この前、ちらりと云ったろう、『アイドル誕生』で十週勝ちぬき、てのさ。あれは、マジだぜ。もうちゃんと了解とってある企画なんだ」
「ちぇ──オレの了解が、いっとう最後か。ばかにしやがって」
「あっちだっていろいろ事情があるからね」
と云うのが、野々村の答だった。
「それでだな──こいつは、まだ非公式だが、島津さんはさ、もっと派手に花火あげる、って云ってるのさ」
「アイ誕≠ノ挑戦のもとアイドル・スターってだけじゃまだ足りずに、かい」
「島さんはだね──なんと、九十分の特別ドキュメント番組ぶつけてくれるって云うんだぜ」
「ドキュメント?」
「『トミー──ある青春の軌跡』ってのさ。ジョニーと並び称せられたアイドル歌手、レックスのトミーが、レックスを追われ、レコード・ソロのデビューにも、ミュージカル『ファイアー』にも失敗した。その足どりと、あんたの日常とモノローグ、バンバン入れて構成し、あいだにアイ誕≠フ勝ちぬきの録画入れる。ジョニーやマネージャーや星野さんのコメントもとる。クライマックスが十週勝ちぬきの再デビュー決定だ。絵になるぜ、こいつ──それをいまからとってって、年末へぶつける。つまり、このままのびりゃ、二百万、いや、百八十万でとまったとこで『反逆のブルース』は今年のポップス大賞の最右翼だからね。タイミングとしちゃ、まるで絵に描いたような、絶好ってわけよ。そいつが話題になりゃ、ジョニー・サイドもけっこうな宣伝になる。ジョニーがらみだから、ファンもひきつけて、KTVも視聴率いいとこを見こめる。島津正彦も話題集めて次の企画の布石になる。そして俺は同情と話題で花火あげて再起のレールにのれる」
透は鼻で笑った。
「いいことずくめじゃないの。一石四鳥、八方円満だな──案外それ、ジョニーのプロのスタッフも噛んでんじゃないの?」
「それは、どうでもいいことだろう」
「そりゃ、そうだ」
透はブラック・コーヒーをがぶりと飲んで、顔をしかめた。
「いいだろう、この話。絵になるだろう」
「なるなる。ばっちり」
「お宅が一番いい目するんだしさ」
「ちょっと恥さらして、ヤラセすればいいんだからね。夜の公園、コートの衿たてて歩いてみたり、バーテン募集に訪ねてって追ん出されたりしてさ。バックにレックスの曲かぶせて、うわあ、カッコいい」
「おおせのとおりさ」
「汚ねえんだよな」
透は冷やかに笑って云った。
「何にも文句つけようがないよ。ステキな企画じゃん──たださ、なんてのか、云いようもなく、浅ましいんだよ。せこいんだよ。イヤったらしいや。何もかもいいことずくめ、三方一両得、もちろんもういっぺんスターの座ちらつかされて、オレだって何ひとつスカ云わずにとびついて尻尾ふってどんなシーンでもとらすだろうって、あんたらのその心根がさ。オレはその三方一両得のためのぴったしの人形でさ、云うこときかなけりゃちょいと脅しかけて素直にさして、有難くお受けしろってのがさ──やだね、やだ、やだ。見え見えのヤラセで、かっこつけて、何てんだろうね、たまらねえや。いまさら、驚きゃしねえけどさ、こうして来てる以上はさ」
「よく、口がまわるじゃないか、トミー坊や」
たまらなく、おかしそうに、野々村は受けて、トーストをかじりつづけた。
「あんたの気の毒なとこは、あんたが何てんだい、誇り高き娼婦≠セってとこだな。居直って、つよく逞しくもなりきれず、といっておいしい話にゃ未練出さずにいられない。あんたは、半端なんだよ。そいつが、あんたのおっこちた原因だ」
「おおいに、参考にさしてもらうよ」
「その方がいい。まあ、どうせ島さんと俺が、あんたを暴力的にスターに押しもどしちまうってプロジェクト組んだ以上は、もうそれもおさらばだがね。島さんなら、あんたの性根も叩き直してくれるよ、徹底的にな。あの人は凄い人でね、きっすいのテレビ人種さ。ちょいと壮絶なサドでね」
「楽しみにしてるよ」
透は肩をすくめた。
「テレビ人間の悪趣味に、いちいち驚くほどうぶじゃねえさ」
「どうだかね」
野々村は、次のトーストに手を出した。
「食わんのかい、どうでもいいけど」
「こんな早くから、食う気になれないね」
「かたぎはとっくに電車乗って会社ついてひと仕事すましてる時間だぜ。まあ、好きにするさ」
「オレももう五ではあるしさ」
透はコーヒーをすすった。
「あんたらスッぽかして、団地入って、どっかの事務所でもつとめて、ハイミスのOLかなんかと所帯もってさ、毎朝八時にご出勤あそばしてみたくなってきたよ」
「勤め先、紹介してやろうか。──あんたが、腕に黒いサックつけて帳簿つけてさ。女の子どもにさわがれて、一週間で係長と大喧嘩してお茶ぶっかけてとび出すところ、ぜひちくいちフィルムにとっときたいね」
「カメラにお茶ぶっかけてやるよ」
透は、うわついた陽気な声で笑った。
「だけどさ」
「ああ?」
「オレ、まだ本当に、女の子にさわがれるかな」
「そりゃ、そうさ」
「あと五年たちゃ、三十だぜ。まだ、少しは見られんのかな」
「きれいだよ。だんだん、あやしき美貌が増してきたよ」
野々村はくすくす笑った。
「心配しなさんな、この前も云ったろう。レックスのトミーだったころよか、よっぽど人間に見えるようになったよ。翳ができてさ。再デビュー曲は、ホステス層ねらって、ニュー演歌ふうに、キャンペーンは有線中心てことだな」
「あんたがオレのプロデュースしてくれるわけ」
「と、いうことになるだろう。島津さんは表面にゃ出られねえからな」
「まあ、どうだっていいけど」
透は怠惰に伸びをした。ひさしぶりに口癖が出たものだ。
(オレがどうでもいいと云うたびにあの人はむきになって怒った。何がどうでもいいと云うんだ──どうでもいいことなんかない、そう云って顔を真赤にして怒った)
いま巽は、誰もいない部屋にカギをかけて、RVCのスタジオに入るころだろうか。あわてて、その思いをふり払う。何も考えることなどないのだ。
「これからどうするんだい」
「きまってるだろう。事務所へ出勤だ。俺は、野々村マスコミ事務所の社長なんでね」
「あんたが何しようと勝手だけどさ。オレどうなるの──また寝てていいのかい」
「連れてこいと云われてるんでね、島津さんに」
野々村は云った。
「ま、それは夜だからいいが、寝たけりゃ、自分のマンションにもどって寝な。そのうち、島さんと共同でマンションをひと部屋、近くに借りてやるよ」
「この家にいちゃダメなの」
「俺は、プライヴァシーを大切にする方でね」
「わかったよ。どうだっていいよ、そんなこと」
「とにかく今夜、あんたの再起プロジェクトを、御大将と三人でもう少しくわしく検討してみるからね。それまでは、おとなしくしててくれ。頼むから、また消えちまって面倒かけんでくれよ。マルス時代からあんたのその我儘と妙な気まぐれにスタッフがどんなに泣かされたか、ちゃんと知ってるからな。──いいか、一時間おきに電話入れるからな」
「わかってるさ。行くとこなんか、ありゃしねえよ」
「こっちはあんたのためのプログラムでかけずりまわってるんだってこと、ちっとは考えてくれよ」
「わかってるったら」
「それとさ──こいつはいっぺんきいてみたいと思ってたんだが」
「何をよ」
「巽とは、はっきり切れてるのか、もう」
むっとして、透は顔をそむけた。
「おい、きいてるんだぜ」
「うるせえな。どうだっていいだろ」
「切れたのか、切れてないのか、どっちだ」
「切れたよ」
「あとくされはないのか」
「ないよ」
「ドンパチやらかして追ん出たのか、ゆうべ」
「あんたのせいだぜ」
「よく云うよ」
くっくっと笑って、
「パトロンとデビューを秤にかけりゃ、デビューが重たいスターの世界、ってだけの話だろ」
「放っとけよ。あんたとあの人との話するのは、まっぴらだ」
「何故だ、ご挨拶だな」
「あの人は、テレビ人間やマスコミ人種とは、人種が違うんだぜ」
「あの深刻ぶった、|えせ《ヽヽ》ヤクザの飲んべえがね」
「黙れよ」
「こりゃ、たまげた」
野々村は低く口笛をふいた。
「トミー坊や純情の図かね。まさか、マジで巽竜二に惚れてた、ってわけじゃないんだろ」
「よしてくれよ、コケるような冗談は」
「だろうなあ」
「いいじゃないの、あの人とはもう一切関係ないことなんだからさ」
「まあ、な」
巽さん、とふと透は思う。巽竜二は、本当に実在していたのだろうか。きのうの夜まで、巽のマンションで暮らしていた、この冬と春の何ケ月は、本当にあったことなのだろうか。
(透──俺はいつもそばにいるよ)
「ジョニーが、二十五日に東京プラザ・ホールでリサイタルをする」
野々村がタバコに火をつけながら云った。
「よかったら、ききに行かないか」
「いいね」
「いま、乗りまくってるとこさ、やっこさんは」
「いつだって、そうだったじゃないの」
「まあね。もっとも、内実は、けっこうガタガタしてるようだがね」
「どうガタガタしてるって」
「だから、風間俊介と巽がビリビリやってるさやあてとかさ。田端修の内ゲバとかさ」
「サムちゃん?」
鋭く透はきいた。
「サムが、どうしたの?」
「知らなかったのか。奴、突然レックス脱退するって云い出して、大さわぎがあったんだぜ。二十五日をさいごに脱けるようだ」
「ウソだよ、ばかばかしい」
「俺は情報屋が本職だぜ」
むっとして、野々村が云う。透は肩をすくめた。
「おてんと様が西からあがって、海の水が砂糖水んなって、オレがバージンちゃんと大純愛におちたって──サムがジョニーからはなれることなんて考えられないよ。あいつは、ジョニーの親がわりナンバー1のつもりでいるんだから」
「だが、こいつはホンネタだよ。もうきまったことだ。次のベースも目星がついてるようだ」
「そんなばかなこと──」
「案外それも巽竜二あたりに原因があるのかもしれないぜ。田端だって結局はジョニーに惚れてたんだろうから」
「そんなことありっこないよ。サムに限って、ジョニーを裏切るなんて」
激しく透は云いはった。
「サムがぬけるなんてったって、ジョニーが承知するわけ、ないじゃない──第一ジョニーがショックで参っちゃうよ。あいつ──あいつはいつだってまるっきり無防備に人を信じてるんだから──」
「まるでジョニーが心配みたいな云いぐさだな」
野々村は笑い、タバコをひねり消してたちあがった。
「あんな目にあわされても、あんたもあいつに惚れこんでた、ってわけじゃないんだろう」
「よしてくれよ」
透は苛立って、タバコを放りすてた。
「つまんないことばかし云うんだな、あんた」
「今夜、島津さんのマンションに行くからな」
もう、透の相手にはならずに、野々村が云った。
「八時にケンジントンパーク≠ノ来なよ。遅れなさんな、島さん、こわいからね。それと、あの人にゃ、俺にみたいな口、きかん方がいいぜ。だてに天皇って云われてるんじゃないからね──まあ、あんただっていくらゴネたとこで、わかってるんだろう、これが正真正銘のさいごのチャンスだっていうことは、さ」
「ああ」
透は云った。
「わかってる。行くよ、ちゃんと」
「せいぜい、めかしこんで来るんだな」
「化粧でもしてほしいのか」
「それもいいな。ジョニー、こないだの大阪のリサイタルでは紫のマニキュアに、銀粉のシャドーつけてたぜ。なかなか、いかしてたよ。やっぱり、今西良ってのは、スーパースターなんだな。百年に一度のな」
仕度をしてくる、といって野々村がひっこむ。透はにがく、胸の中で云いかえしている。
(ああ、そうさ。良はまれに見るスーパースターだよ──そしてオレは、スターになりそこねた、いやもっとわるい──スターからおっこちた流れ星なんだからさ──百も承知だよ、百も──ジョニー人気に便乗して寄生虫みたいに、被害者づらをさらしものにして受けようってんだからさ。オレは──オレは、もう何がどうだってかまやしないんだ。しろってんならどんな田舎芝居だってやってやる。オレは──ジョニーに敗けたトミー、なんだ)
やけになってるのか、お前、と、頭の中で憔悴した巽がきれいな目をしばたたいて、悲しそうにとがめた。
違うよ、巽さん、と透はやさしく笑いかえす。わかってほしい。オレ、本当にもうなるようになるだけでいいと思ってるんだ。やけじゃない。
再起してもう一度スターになるならそれもよし。なりそこねたっていま以上におちることもないだろうし──本当なんだ。本当に、どうだっていいんだ。あんた、怒るかもしれないけど。
ジョニーになれなかった以上、何になろうって云ったって、ただの田舎芝居さ。
(ジョニーはジョニー──お前は、お前、なんだよ。わかるか、透)
あんただけだよ、そう云ってくれたの。オレ、ちっともあんたのこと、怒ってないよ。好きだよ、巽さん。オレ、ほんとにあんたが好きなんだ。たとえ、罠にとびこむ狼みたいにジョニーにむかってつっ走っていこうとしてるあんたでも。
そこまで乗せてってやる、と云う野々村のBMWに便乗して、渋谷まで出た。十一時の街角は人にあふれ、しらじらとまぶしくて、透を眩惑した。神谷町のマンションに帰ろうと思ったが、気がかわった。
野々村の車をおりて、赤電話をさがした。ひとびとをかきわけて歩き、電話に十円入れ、番号をまわす、というだけの行為が、ひどく骨の折れる、気を使う大仕事に思えた。呼出音が十回つづき、次に出なかったら切ろう、と思ったとき、つながった。
「はい。もしもし」
眠そうな声だ。
「もしもし。わかる、オレ」
「トミーか? いま、どこや?」
受話器の声がせきこんだ。透は笑った。
「ちょっと会えない? 話、したいんだ、サムちゃん」
* *
「きいたんか」
修は、やつれた顔をしていた。
ひるさがりの喫茶店はすいている。埃っぽい、明るさの中に、透の陰花めいた青白さは、奇妙なほど、そぐわない。
「ああ。やめるって本当《ほんま》?」
「ホンマや」
「ふーん」
別に、その原因をききほじろう、というのではなかったのだ。ただふっと、修に会いたかった。
レックスの仲間たちとのにがい思い出の中で、まだしも、修はかれに心をよせていてくれた。レックスの中でも修が一番、良の古くからの友人で、深く心をよせる保護者格だ、ということは、それはそれでよかった。
コーヒーが運ばれてきて、ふたりは黙りこんで座っている。修のぬーぼーとした、人のよさそうな顔は、漠然とした悲哀をまとわりつかせているようだ。
レックスで最年長だから、そろそろ二十八、九、下手をしたらすぐ三十を越すくらいだろう。かたぎにつとめていれば結婚して、子供のふたりもいたっておかしくない。
(ここにも、ジョニーが運命だった奴がいる)
ジョニーの周囲には、ふしぎなほど、結婚して、幸福に暮らしている、という人種が少ない。
レックスのメンバーで、結婚しているのはキーボードの光夫だけだ。三十に手のとどく修も、弘も、その噂さえなかった。風間俊介も、巽竜二も、GS時代からよく仕事をする作曲家の加田康彦も、女流作詞家の村井いずみも、美容室のママである北川圭子も、もちろんマネージャーの清田正男も、みな結婚など考えていなかったり、しても離婚してしまったりした。
偶然だ、などといって自分をごまかすこともないだろう。前に、レックスの若いドラムの昭司が話のとぎれたとき、ふいに溜息をつくようにして呟いたのを、透はきいたことがあった。
(だけどさ──ジョニーみたいな魅力ある奴、ずっと目の前で見ててさ──オレ、本当に結婚できるのかなって思うことあるよ)
座はふっとしらけたが、それはきっと、皆が改めて、良に呪縛され、良に魅入られ、他に何もない、自分の生を思い、ふと魅せられた自分をあわれんでみた沈黙だったのだ。
良は、猫みたいに気まぐれな、輝くような魅力でもって、忠実な崇拝者の群れの上に君臨していた。男とか、女とかいった別をどうでもよくしてしまう。それは良という存在そのものの絶対的な吸引力であり、その前にひとたび拝跪してしまったら、どんなささいなものであれ他の存在へ心をかけることは背信だった。
良には、限度というものがない、と誰もが云う。
(あいつは、ほんとに、自分の歌で奇蹟を起こせるとマジで信じてるところがあるよ)
(自分がたって一緒に歌おうって云えば、みんなほんとに歌ってくれる、みたいにね。もしそうでなかったら、たかが歌、たかが一人の歌手にそんなことできやしないんだと思うかわりに、あいつは自分の力が足りなかったんだと思って傷ついちまう)
(それがわかるからつい──そんなの何になるんだ、と思いながらでも、みんな奴と一緒に手拍子したり、歌ったり、しちまう)
(あいつにだけは、もう奇蹟なんて起こりゃしないんだって知ってしまってほしくない──そんな気を起こさせるところがあるんだよね、奴には)
人の心も同じだ。良は、ひとびとの純粋な愛と好意を、いつも無垢に信じて疑わない。自分にすりよってくるものがあれば、いつでもあっさりと良はその好意を信じ、こたえようと懸命になった。
何年ぐらい前だったろう、と透は思う。レックスの皆がグループ・サウンズで女の子にさわがれ、その分おとな族のやっかみと冷笑にとりかこまれていたときだ。ドラム≠ナのプレイが終わってから、たまたまゆきつけでないスナックに入ってしまった。
ピアノをおいてあるそのスナックの客はみな酔ったサラリーマンや近くの商店の若主人などで、およそGSに理解を示す種族ではなく、ボックスをしめた長髪の若者たちがいまをときめくレックスのメンバーだと知ると、よってたかってひやかしはじめた。
歌ってくれよ、と云うのである。いま仕事をしてきて疲れている、と世たけた弘や修が云いわけをしたが、
「へえ、仕事! あんたらのあれ仕事かよ」
「あまっ子にキャーキャー云われて、毎晩音楽ごっこすんのが仕事で、いいご身分だねえ」
「じゃこれも仕事にしなよ。ギャラ出してやってもいいからよ」
酔客はしつこかった。そのうちのひとりが、ジョニー、トミー、とかれらでさえよく知っている花形ヴォーカルの顔を見て、透の手をつかんで、ピアノのところへひっぱり出そうとしはじめた。
「歌ってくれよ、トミーさん」
「キャーキャー云うのいなくて張合いがなけりゃ、おれらが云ってやっからよ」
「キャー、トミー」
「かわいいッ」
透の顔色が変わり、男の手をはねのけた。その手が男の顔にあたった。
「何しやがる」
スナックの中は、たちまち険悪な空気がはりつめた。
そのとき、良がにこにこして、歌いはじめたのだ。なにもプロの歌手がこんなところで、と弘がそっと袖をひっぱったが、
「いいじゃない、オレたちの歌をききたいって云ってくれる人が一人でもいれば、歌うのが当り前だよ」
伴奏ないと調子出ないな、と一人ごとを云って、しまっておいたギターをまたひっぱり出した。
良の甘いゆたかな声がひびきわたり、急に店の中はなごやかになった。
光夫がやがてピアノの前にすわり、昭司がテーブルを叩いて拍子をとった。良は何歌おうか、と客にきいた。
「チャンチキおけさ」
意地わるく客が答える。それいいね、と良はくすくす笑って云い、陽気な声をはりあげた。
(知らぬどうしが小皿叩いてチャンチキおけさあ)
「一緒に歌おうよ」
客が歌いはじめた。
明け方近く、店を出るとき、客たちはすっかり良が好きになっていた。握手を求めに来、肩をどやしつけ、あんなアメ公みたいなんでなく、演歌うたってくれよ、と云った。
「そしたら俺も買えっからさ──あんた、いい声だよ。演歌いいよ、きっと」
「いつかきっと歌うよ」
良は約束し、握手した。
あのときも、と透は思う。あのときも、結局、世界は良のもとに膝まずいてしまった。良の一人舞台だった。オレだったら──オレしかレックスにヴォーカルがいなかったら、レックスのメンバー、スナックで乱闘事件、と新聞ダネになっていたろう。
透は陽気にさわぎはじめた客のあいだで、ひとり身をかたくして壁ぎわで黙りこんで耐えていた。
お高くとまっている、とあとで云われた。
だが、間違っていた、とはいまでも思っていない。透にとっては、そうふるまうしかないようにふるまっただけだ。よしんば透が屈して歌いはじめたところで、それはたぶん客たちのもっと悪質ないやがらせを誘発するだけの、後味のわるい見せ物にしかならなかっただろう。お前ったら、ナチの将校の前で裸にされたユダヤ人の女の子みたいに顔ひきつらせちまうんだもの、とあとで修が心やすだてにひやかした。
良がそんなふうに生まれつき、そして透がこんなふうに生まれついた──ということ。それは、変えられない。
(オレがもがけばもがくほど、いろんなことは、まずい方、まずい方、行っちまう。良は何もかもがいい目、いい目と出た)
自分の中に、何か、人を反発させたり、必要以上に敵意をもたせたりするものがあるのを知っている。だが、持って生まれた性格を、どう変えろというのだろう。良のように?
(良)
どこまでいっても、良が、かれの前に立ちはだかっていた。
「オレなあ」
コーヒーが、黙りこんだ時間の中で、白茶けて冷えていく。
「うん」
「オレなあ、苦しかったんや」
「いいんだよ」
透はかるく手をふった。
「別に、むりにききほじろうと思って呼び出したんじゃないから」
「そやなあ。オレ、いずれトミーにはきいてほしい、思ってたんや。考えてみると、レックスであれだけやってきて、仲間いうて、いざやめちまうと、何でも話せるの、お前だけみたいなんや」
修はちょっと悲しげに笑った。
「それでなあ──オレはじめて、お前に済まんことした思ったよ。な──お前、レックスやめて、やっぱり何云う相手もおらんと、つらかったやろな。オレ何もわかっとらなんだ」
「そんなの……」
「オレら、ひどかったやろな、お前に──やめよう思うて、一人になって、やっとわかったよ。出て行く奴はひとり、のこる奴らは仲間──それだけで、出て行く奴の方が、どんな事情あっても、間違ってなくても、わるもんなんやなあ。裏切者やな──まして、お前、ああいういきさつあったし──」
「………」
「勘忍したってくれな、トミー」
「いまさら──」
透は苛立って首をふった。
「そんな昔のこと──いつまでも覚えちゃいないよ」
「良には、罪なくてもさ、人があつまると──やっぱし、な──」
「良──」
ふしぎな感情に突き動かされて透はきいた。
「何て云ってた、サムちゃんやめるの」
「泣かれちまってな」
彼は眉をしかめた。
「あいつ──まるきり赤んぼやから。納得さすのえらい骨やったわ。お前を嫌いになったから、なんかまずいことあったから出てくんやないってな」
「そう──」
ふいに、透は目を細めた。
(良は──泣いてた)
何回、あのころを思いうかべてみても、修の、弘の、光夫のことばや顔は思い出せても、肝心の良の反応が、思い出せなかった。
(裏切者──)
(自分さえよけりゃいいのかい──ジョニー、トミー、とあんだけ云われてさ。ジョニーがとうとうトミーをいびり出した、みたいに云わせて、それでお前平気かい)
(ジョニー可哀想だと思わんのか。あのコは、不満あるなら何でも直す、ぼくがリード・ヴォーカルとりすぎると云うんならもっと少なくていい、っていつも云ってるじゃないか)
(自分さえスターになれりゃ、あとはどうでもいいって云うのかよ!)
さいごにレックスをとび出したときも、とふっと透は目の前によみがえらせた。
良の表情だけが記憶にのぼらず、あのときはいなかったのか、と思っていた、その良の顔が、セピア色の写真の一部分のようにくっきりと、見えた。
夏だった。もう呆れはてた、何を云ってもムダだ、勝手にするがいい、という冷やかな顔で、そのころ合宿していたホテルで荷物をまとめる透を、黙りこんだメンバーが見守っていた。茫洋として、悲しげな修の顔、けわしくひきしまった弘の顔、侮蔑と嫌悪にみちた光夫、そして怒りをひそめて、トランクをしめる手もとをにらんでいた昭司、その、群像にまるで壁をへだてられたようにして、良の頭がのぞいていた。良はメンバーの中で一番小柄だったので、そのほっそりした顔は、まるで「嘆きの壁」にとりすがる少女のように、修の長身と弘の顔のあいだに遠く見えた。
弓なりのいたずらっぽい眉はひそめられ、下唇がちょっと厚く、上唇のしゃくれた口もとは、叱られた子供のように悲しげに開いている。白い顔は繊細なロウ細工のように見え、そして茶色の生きいきとよく動く瞳は、透を見つめて動かない。
そしてその茶色の、ガラスのようにきれいな目に、透明な涙がふくれあがって来た。
どうして、思い出せなかったのだろう、と透は思う。あれほど、あのとき当の敵の目にうかんだ涙は、かれを激昂させた。
セミの鳴き声がきこえる乃木坂をトランクひとつひきずっておりながら、かれはやるせない憤懣にかられていたのだ。いやらしい、わざとらしい。こんなふうに決裂した相手のために涙をうかべてみせたりして、そんな田舎芝居でオレが感動して、別れてなおジョニーの人間性を認めるとでも思ってるのか。
(いい子ぶりやがって、いつでもオレが悪者なんだ)
あのとき、ジョニーが二十一、透もやっと二十二になったばかりだった。
デビューしてまる四年、ずっとやってきた仲間との別離が、赤ん坊のようにただ悲しくて涙をうかべた、良。
(いやらしい──いい子ぶりやがって)
そう、罵りながら、暑い舗道を歩いた透。
二十四の、押しも押されもせぬ歌謡大賞歌手に育って、十年来の親友で一緒に京都から出てきた修にそむかれたとき、良はまた、ただ悲しくて泣いたのだ。
修は、それを「ぶっている」とは思わなかっただろう。修ほどこまやかな情愛で良をつつんでいる存在はレックスの中にもいない。泣かせてはいけない、そう、思っただろう。いや、むしろ、良に涙を流されれば、深く傷つくのは修の方でしかないだろう。
(お前は──そんなことさえも知らずに、いつも皆の愛に包まれて、のびやかに泣いたり笑ったり、その激しい気分の振幅を少しもかくさずぶつけてくるだけだった)
オレは良が憎いのだろうか、と透は思った。オレが裏切って自分からはなれると云って、涙をうかべた良。
そのお前をはなれて、オレは巽に会い、巽を失い、そしていま、お前の人気に便乗した再起の企画にすがりついている。
「オレ、見てるのがイヤだったんや」
修が苦しい息で呟いた。
「あいつのまわりに──いろんな、立派な男がいて、それがあいつをとりあって争うんなんか、なんでオレが見んならんのや、思うた。──いま、滅茶苦茶なんや、あいつのまわり──こないだ話した風間|先生《センセ》とな、俳優の巽竜二な、それが、一触即発いう感じで──良はああいう奴で、何も知らんとけっこう面白がっとるんや。オレ気ィ狂うてしまう思うた。このまんま見てて、良がどっちのものになっても、オレ、誰かを殺さずにいられん、いう気がした。風間先生も巽さんも立派な男なんや。へんな気持やないのもわかってる──でも」
(巽さん)
透は耳をふさいで叫び出したい衝動をやっと耐えた。
「オレかて良を見てるんや──それももう十年、あいつが中学の後輩やったじぶんから──それがなんでいまごろ巽竜二なんかに良をわたさんならん。なんでオレがここにいて、いつでも良を守ってた、いつでも一緒やった、いうことに気ィついてもらえへんのや──わかってるんや。オレがレックスのベースだからや。バック・バンドは、奴にとっちゃそこにあるのが当り前のからだの一部分で、そやから良は気ィつけへんのや。オレ、毎日、風間|先生《センセ》や巽さん見てて、わめき出しそうやったよ。気ィついてくれ、オレかているんや、オレここにいるんや、そんな方見んといて、オレがどれだけ長いことお前だけ見てたのか気ィついてくれえって。このまんまじゃ、気ィ狂てしまう。良は気がつかへん──あのコは、なんも見てへん、気がつかん、それをオレはどうしようもない。──お前が云うてくれたやろ、巽さんに気ィつけて。そやからオレ、気ィつけてたけど、気ィつけたかて何になるんや。良は何ひとつ、気がついてくれへん。オレの気も知らんと、先生や巽さんになついてる。いい人だよ、なんて云うてる。そやからやめたんや。もういてられへん、思たんや。オレ、バック・バンドのサムちゃんでいてるの、もう我慢できんのや。それでもこんなことどうやって、ヒロや光夫にわかってもらえばいいか、良にわかってもらえるか──オレ、いっそ巽さんと刺しちがえて死んでもたろか、思ったよ」
「サムちゃん、そんなこと──」
修は、泣いているのか、と透は思った。
巽を、良に近づけたのは、もとはといえば透だ。何も知らぬ良を巽に犯させようともくろんだ。ミイラとりがミイラになってしまい、巽は良を愛し、透は巽を失い、そして修はレックスを出た。
(自業自得だよ、トミー)
透は、静かに、苦く笑いはじめた。
(B.G.M.by Maki Asakawa)
ためらいもなく時は過ぎ
1
「何を飲む?」
男が、きいた。
「何でもあるよ、森田くん」
「もらい物だがね」
野々村が口をはさむ。男は苦笑した。
「バーボンを、あったら」
透が云う。
「水?」
「ストレートで」
「その分だと、つよいね、だいぶ」
透は、豪壮な部屋の、革張りの長椅子にかけて、前に並んだふたりの男を眺めていた。
レジデンス外苑前、とかいうらしい、同じ鉄筋でも、殺風景な巽のマンションとは似もつかない。
この階の全室をかりている、と男はこともなげに云った。二十畳ばかりありそうな広い室内は、ホーム・バーつきの、さながら外国映画を思わせるペントハウスふうにしつらえられている。
鉄の蔓唐草模様の、バルコンの手すり。その前には、趣味だという、サボテンの鉢が並び、大理石の脚にガラスの板をのせたテーブルには、銀の氷セットがおいてある。
革のソファ、マントルピース型の暖房器、ペルシャじゅうたん、ぎっしり壁を埋めた全集ものの本。
その美しい部屋のなかに、ゆったりくつろいでいる男も、この背景にふさわしかった。
四十代後半、というところだろう。男盛り、だ。顔立ちはむしろほっそりして知的だ。ことに、ギリシャ貴族を思わせる細い鼻筋が上品で美しい。
唇がうすくひきしまり、目は何か見る人をはっとさせる精気にみちていた。一重瞼の、切れの長い目だ。まっすぐに人を見るのが、異常なほどつよく烈しい意志と果断さをすぐ思わせる。
酷薄で、自信家で、敵にまわしてはならぬ男だ、ということがすぐに感じられた。おそろしいほど有能で仕事を愛してもいるだろう。敵も多いがそれを勲章のように思う男だ。仕事だけでなく生活の細部にまで自分の好みをもち、それをくつがえされることを病的なくらいに嫌う男。一見、やわらかな微笑をうかべたり、人あたりよくふるまってみても、たちまちもって生まれたもので周囲に一目おかれ、おそれられてしまうような男。
悪にも、善にもつよい男だ。もちろん、野心家、というよりは野望をもやすタイプの権力者だが、それをおもてに決してあらわさぬようにつとめるのは、生まれついて育ちがいいからだ。いわくありげな名字は、伊達ではなく、本当に旧大名家の最も大きな傍流の末裔なのだ、と、KTVのプロデューサー、島津正彦を紹介するとき、野々村はつけ加えてにやりとしたのだった。
「たしか殿様の従兄か何かでね──殿様に何かあればすぐ養子に迎えられてお家をつぐっていう家柄なんだ」
「いまの世に殿様もへったくれもないよ、野々村さん」
島津は笑ったが、青白い顔には微かな誇りがかいま見えた。手がけた番組はさいごには二〇パーセントをこさなかったことはただの一度もなく、視聴率の島津、と呼ばれ、陰では島津天皇、という仇名を奉られている男だ。
この男が、透をふたたび世に出してくれようと云うのだった。
「なるほどね」
仔細に検分する目をすみずみまでむけた揚句、天皇はゆっくりと云った。
「あんたの云うとおりだね、ムラさん」
「よくなったろう、前より」
「だな」
島津と並ぶと、野々村は、年老いた、魔王の眷族のようにくすんで皺深く見えた。
しかし、するどく光る目が、その冴えない印象をひとところで裏切っている。野々村は「日東スポーツ」のデスクを二十年つとめ、揚句芸能界じゅうに蜘蛛の巣のように目と耳をひろげておいて引退し、「野々村正造マスコミ事務所」なる何をしているのかよくわからない会社をつくっておさまっている、食わせ者だ。
(オレは、誰に魂を売ったのだろう)
ほっそりした貴族らしい手を顎にあて、しげしげと透を見ている島津と、何やら満足そうな野々村を見くらべて透は考えた。
天皇と呼ばれるトップ・プロデューサーと、芸能界のまんなかにうずくまっている蜘蛛に似た、古かぶの芸能ライター──かれらが代表するのは芸能ジャーナリズムという(大人)の暗い部分で、そこにはジャリ歌手の考えていることも、ジャリタレに喚声をあげる豚娘のことも、≪人間≫というあらゆる矛盾した存在のすべてが将棋の駒になっておさまっているのだろう。
「二十五というんで、ちょっと、ぎょっとしたんだけどさ、はじめ」
島津は透から目をはなさずに云った。
「大人むけでもとうの立ちきった年だろ。でも、まあまあだな、そのルックスなら」
「ただの二十五と違うからね」
野々村はまめまめしく立っていき、ホーム・バーのバーテンをつとめて酒を注いでいる。
「とにかくもとレックスのトミーなんだってことを、忘れてもらっちゃ困る」
「もちろん、そうでなけりゃ、はなっから手出ししようとは、思いませんさ」
「とにかくそいつは巨大なメリットなんだからさ。これから何もぽっと出のジャリを売り出す相談してんじゃないんだ。こないだ、この話の下準備と思って、ちょいとしたアンケートしたのよ。そしたら、知名度、八〇パーセントだったぜ」
「無作為抽出で?」
「もちろん。低いと思ったくらいだ。俺としちゃ、あれだけGSで一世風靡したんだ、当然百人が百人、知ってると思ってたよ。いまリバイバルで、CRBがGSナンバー歌ったやつなんか、けっこうハケてるしさ。ファンて奴は、忘れっぽいと、いまさら知らされましたよ」
「いまさらね」
「まあしかし、いけるんじゃないですかね、八〇パーセントならね」
「いけると思わなけりゃ、GOサインは出さねえよ」
島津は伝法に云って、ソーダで割ったスコッチを啜った。
「やりなさいよ、トミー」
「はい」
「いつ、六になるの」
「十一月です」
「さそり座か、あんた」
何かおかしかったように野々村と顔を見あわせて、くっくっと笑った。
「年くって見られなくなるって面《メン》とちがうしさ、まさみみたいにさ」
「まさみのことは云いなさんな。あれは、あれで、売れてんだからさ」
「そう、島さんはご贔屓でしたな」
「いいコよ、一生懸命で」
「そりゃ、『怪物ロック』であれだけ稼がせてもらった島さんとしちゃね」
「そいつは、云いっこなし」
「ガキで商売して、道楽で趣味とおす。うまいこと、やってるよ、あんた」
「道楽仕事のつもりはないよ。ちゃんと、稼がせてもらいますさ、視聴率も、おあしの方もね」
「お殿さんがイキがっておあしなんて云いなさんな。あんたにゃ、似合わない」
「とにかく、まんざらホステスに狙いしぼることはないかもしれない。勿体ないよ。若いコも狙えるかもしれん」
「いやあ、あんまり欲かくとろくなことがないよ」
「やさしいお兄さんてタイプじゃないが、かえってジャリタレよりウケるんじゃないかな。この手のキャラクター、いまいねえだろ。ジョニーはあれか、永遠の美少年か。正木きよしがそこらのやさしい兄さんで、あとは──」
「牟礼光二がカッコいい兄き、かね。たしかに、ねえよな、いま二十四、五で、こういう影のあるタイプは」
「ましていっぺん挫折して、その影せおって売り出すわけだから」
「かっこいいよ、そいつは」
「ジョニーの翳をひきずって生きる──か。トミー、あんた役者は興味ないの? ドラマむけだよ、ほら、ちょっと田島高和に似てるしさ」
「昔、レックスの映画とったことはあるけど」
「ああ、あれね。なるほど」
眉をつりあげて笑い、透のコップに酒を注ぎ足した。
「飲んでよ。今日は、あんたの再起、返り咲きの内祝いだ」
「この人、変わってんだよ」
くっくっ笑って野々村が云った。
「再起なんか、したくねえってさ」
「へえ。そいつは、ご奇特に。じゃどうしたいって」
「──ってさ。天皇のご下問だよ。ご直答申しあげな」
「別に──」
透はこわばった微笑をうかべた。
「どうだっていいですよ、オレは」
「巽竜二と同棲してたって云ってたね、ムラさん」
「そうそう」
「あいつがそんなに話せる奴だったかね。阿部聖子と『海の挽歌』でほんとにやったって話だし、これまで男相手の噂なんて、一度もきかなかったけど、ここに来て、凄いじゃない。ジョニーとトミー、名うての美少年を両手に花でさ」
「その話すると、イヤがるんだよ、このひと」
「へええ、なんでまた」
「そいつが、こっちも知りてえのさ。まあ、宿命のライヴァルにのりかえられたとあっちゃ、腹立てんのもムリないけど、そうでもないらしい。何となく、まだ未練ありげな口ぶりなのさ。あの人はいい人だ、とか云ってさ。な、トミー」
「へえ、惚れてたの?」
島津がほっそりした顔に奇妙な微笑を漂わせた。
透はうす笑いをして、黙っている。役者、ではあっても所詮芸能界人種になりきれぬ、あの狼の目をしたやさしい男のことを、きっすいの芸能界人種であるかれらに話す気はない。
「まさか、なあ──レックスのトミーっていや、デビュー当時から、凄腕美少年で通ってたよ。あのころ十七だか八だかでもう、ジャズ・ピアノの倉橋英夫と同棲していたし、タフガイ・スターの広瀬明がさんざん追っかけてさ。ね、ムラさん、俺はあのころからあっためていたネタがあってさ」
「何です」
「歌舞伎の、『白縫譚』ってあるだろ。ほら、わるい美少年といい美少年が出てくる奴。あの、秋作照忠って方をジョニーにふりあて、悪魔みたいに殿様たらしこむ青柳春之助をトミーにやらしてさ。むろん、話、現代にもってきてね。バカ殿は、沢村英二郎にでもやってもらって、映画とってみたいんだ。陽と陰、白と黒、ね。このくらい、対照の妙、構成の妙、感じさせるカップルってないね。昔っからレックスのステージ見るたびに思ったよ。あ、うまくいってやがるな、ってさ」
「何も沢英なんか使わんで、巽竜二使やいいんじゃない」
「あ、そうか。いや、ダメだ、イメージが違う。あいつじゃ物騒な大男で、われらのトミーが骨ぬきにする感じじゃない」
「作ってみたいねえ」
「だろ? もう一つあるんだぜ──ワイルドだ、ワイルド。『ドリアン・グレイ』と『サロメ』を抱きあわせでやりたい。ドリアンをトミー、サロメをジョニーにふって」
「そいつあ逆じゃねえのかな。サロメがトミーだろ」
「違うね。サロメってのは、陰じゃない、陽だよ、『ヨカナーンの首を』ってさ、熱いんだよ、ホットなんだ。で、ヘロデの兵の楯で圧し殺されてさ、激しいわけよ。あのジョニーの、しなやかでエロなヌードにぴったしさ。一方ドリアン・グレイってのは、ロンドンだぜ。霧の世紀末、石畳にガス灯、その中で殺人してまわる美少年なのよ。トミーのその、ちょっと冷やかで、けだるいとこにぴったし。こいつは、ミュージカル仕立てで──うーん、とりたいねえ」
「そのためにはトミーがジョニーに|つっかう《ヽヽヽヽ》スターにもどらんとね」
「まあね」
「そのためのプロジェクトなんだからさ」
「畜生、巽竜二のやつ、うめえこと、してやがんな。しかしどうして結局トミーに見かえてジョニーにしたのかね。俺にはわからんよ、奴の気持」
「そうかね。わかるような気がするじゃない。巽って男はあれだけ野蛮な生命力みたいなもの感じさせるからね。トミーの感じじゃ受けとめられねえんだよ」
「かねえ。だがあいつ、かなりサドっぽいじゃない。吉蔵なんか見てるとさ、やせた阿部聖子、ぐわーんッてつかみあげて、舟へ運んじまったりしてさ」
「そう、それに物凄い、いいからだしてる、あいつ」
「それ、それ、あの映画みたら憂鬱になって、当分風呂でてめえのからだ見る気もしなかったよ」
「胸なんかこう筋肉が三角に盛りあがっててさ。ボディ・ビル風じゃなくて、腰も胴もひとかかえある感じなんだ。また脚ががしっと長くて、剛毛が密生してる感じでさ。首も太い」
「トミーが抱かれてるとこ、一回見てみたかったねえ」
かれらはまるで、透の不快を楽しむように、巽の話題からはなれようとしない。野々村の細めた目にちらりと、濡れたような光が見えた。
「だからね」
島津のグラスを干すペースは相当に早くなっている。
「巽竜二がモノホンのサドなら、ジョニーとトミー並べて、すぐジョニーって答出るかと思うわけよ。トミーの方がさ。絶対に、何ての──素材としてマゾなのよ」
「おい、おい、えらいことになって来たな」
「このひと見てるとあれだ、『愛の嵐』のシャーロット・ランブリングを思い出すよ。ナチの捕虜収容所でさ、軍服ぶかぶかの着せられて、いやいや歌ったり踊ったりさせられてさ。ジョニーほど、何てんだい、|しッこし《ヽヽヽヽ》がないのよね。ナイフつきつけてやらせろって云われたら、ジョニーはナイフで刺されて死ぬ方選ぶさ。トミーは屈辱にふるえながら云うとおりになる。で実際にどっちがプライド高いかっていや、トミーなのよ。ジョニーってコは、男どもの礼拝の手ん中で艶然と笑ってる女王さまってとこだろ。トミーは、山ん中で雲助に輪姦されるお姫さまなのよ。だからもし、もしだよ、トミーがいまレックスのスターで、ジョニーが『トミーに追われて二年』っていう企画に乗ったんだとするだろ──こいつは、成立しねえんだ」
「ジョニーは、大体、絶対追われやしないからね」
「それもあるし──トミーだから、絵になるんだよ。そいつもすごいサド趣味の絵にさ。ジョニーじゃ──まぶしい光ん中でキラキラさわがれてるのは絵になっても、うらぶれたジョニーは絵になんない。生まれながらのスターだな──いたぶるんなら、トミーの方だ」
「そいつは、あんたの好みだろ」
「おや、ムラさんの好みじゃあないってわけ?」
「いや、まあ、まあ──しかし、そいつは、もうちょっとあとのお楽しみってことにしよう」
野々村はくすくす笑い、意味ありげに透を見てから、話をひきもどした。
「でさ──島さんがドキュメントで追っかけ出すのは、もうじきにかかれるんでしょ? で、その前にさ、一発タイミング見て『週刊ライト』で花火上げようと思ってるんだがね」
「花火ね」
「『ジョニーに背いて二年! もとアイドル・スター森田透が辿った、数奇な人生航路!!』って奴さ」
「本誌独占、追跡調査──」
「それそれ。で、ね、そのタイミングなんだけどさ──あまり花火早くあげちまうとポップス大賞前にちょっととぎれちまうわけだし、といってあんまり放映まぎわじゃ見るからヤラセだ。で、そこんとこのバランスがすべてだと思うんだけどさ」
「そいつは、ムラさんの役だ。完全に任せるよ。もちろんこっちの進行は逐一検算してもらう。俺としちゃあ、アイ誕≠フ十週抜きとデビュー盤発売に微妙にかぶるようなかぶらんようなタイミングでそっちが打ちあげ、そいつを合図にこっちがパーンと出たい」
「あ、そうか。アイ誕≠フタイミングもあるわけだ」
「そうさ。よくよくうまくプロジェクト、組まないとな。──とにかく同時進行じゃ、ヤラセ見え見えなんだよ。あくまでアイ誕¥oました、それ見てオヤって感じで追っかけなきゃ」
「そうか! 花火、アイ誕≠ノ登場と同時にあげとく手もあるぞ。あとは十週でもうちょいと大きくし、デビューをグラビアで扱ってつなげばいいんだ」
「少し早かないか? 遅くても六月第一週の放映分にゃ、登場してもらうんだぜ」
「大丈夫だよ」
「ポップス大賞のノミネート発表は十一月よ」
「アイ誕≠ナ十週抜きまでにひい、ふう、みい──と、九月末か十月にかかるわけだからさ」
「なるほど、ギリ線だな。ただねえ」
「何だい」
「『反逆のブルース』がホントにポップス大賞にのこれるかどうかだ。上半期で伸びとまって、新曲が伸び悩んでくれたりしたら、もとも子もないぜ、こちとらは」
「バカだねえ! いまやジョニーの時代ですよ。ジョニー、天下とってんだよ」
「しかしさ」
「第一あれでしょ。そのときこそ島津天皇の奥の手出すときでしょ。浅井美奈子に新人賞放りこんだみたいにさ」
「冗談じゃねえよ。トミー売るためにジョニーにポップス大賞とらしてやるのかい」
「なに、ジョニー・サイドも乗るにきまってるよ」
「そりゃ、きまってるけどさ」
「いつものことじゃない」
「よして下さいよ。俺はそんな悪党じゃないよ」
彼らは、透がそこに座っていることなど、忘れてしまったように見えた。
島津の青白い頬に酔いの赤みがのぼって来、野々村の目はいっそうぬめった光をうかべはじめている。二匹の大蛇がとぐろをまきあっているような気が、透にはする。
「しかし、そうだな、それも手かもしれん」
「そうでしょうが」
「いや、俺が云うのはさ。ちょっと強引だけど、トミーに新人賞やっちゃう。新人賞ムリなら、特別賞か、大衆賞か──」
「歌唱賞」
「そいつは、ムリだ。堀純一が『北の岬』で当ててるもん。くそ、グラミー賞みたいに、カムバック賞、というの、あればな」
「でジョニーが大賞とってさ。さいごにブチあげるわけだ。『いったん終止符が打たれたかにみえた、ジョニーとトミー──この宿命のライヴァルの永遠の戦いは、こうしていま再びふたりが同じスポットライトの中にステージを踏むことではじめられた。ジョニーの手に輝く大賞のトロフィー──そのジョニーに握手を求めるトミーの左手には特別賞が。だがこれは挑戦の握手だ。いつかはきっときみに追いついてみせる! 数々の挫折からよみがえった不死鳥トミーこと森田透は、いまようやく力強い羽ばたきで、ジョニーにむかって飛びはじめようとしているのだ!』──」
「よくもまあ、そうペラペラと」
呆れ顔で島津が評した。
「あんたの頭ん中は、キャッチフレーズで出来あがってんだね」
「あんたの頭ん中が企画書でできてるようにね」
「まあ、いい」
島津は急に首をふり、何かを払いのけるような手ぶりをした。
「そいつは、だいぶ先の話だ。それまでそもそも俺の首がつながってるかどうかもわからんし」
「よく云うよ、今上陛下」
「とにかく、そういうことで、乾杯! と行こうや。な、トミーだって退屈してるだろうし」
「あんまりお待たせしちゃわるい、ですかね」
野々村は三つのグラスをいっぱいにした。
「ともかく森田透の再起を祝って、乾杯」
「乾杯」
「トミー、そんなとこにいないで、こっちにおいでよ。俺とムラさんのあいだにさ」
やれやれ、と透は自分に呟いた。やっと、あんたの仕事《ヽヽ》ができたとさ。
素直に、席をつめる野々村と島津のあいだに腰をおろした。島津の手が、すいと肩にまわった。
「さっきの話だけどさ」
いくぶん、酔いに血走って、靄がかかったようになった目が透を見つめる。
「ええ」
「巽竜二の話だけど」
「………」
「へえ、ほんとに、こわい顔になるね」
「でしょ? まさかと思うがね、惚れてたのかもしれないぜ」
「そうなの、トミー?」
透は黙ってかぶりをふった。その肩を島津は自分の方へひきつけるようにした。野々村は興ありげに見つめている。
「大体、いま考えるとさ──もうカムバックしたくない、みたいなこと、云ってたんだよ。そいつがさ──巽とジョニーの三角関係書くって、ひとこと脅したらさ──」
「やったの、また。わるい癖だよ」
「その晩だぜ。その晩、この誇り高き姫君が自首とおいでなすった。だいぶ、酔っ払ってさ」
「へえ」
島津の目も、少しずつ、ぬめるような輝きを帯びはじめている。
「じゃ、あれじゃない。美談だよ。そいつは。名うての不良少年がさ、生まれてはじめて惚れた男の名誉を守るために、悪人どもに人身御供になりに来たんじゃない」
「そうさ、ふたりのサディストどもの巣窟にさ」
「バージンみたいに、身を固くして、うつむいてさ」
島津はくっくっと笑い出した。
「こいつは、いい」
「あんたの趣味だからね、青髭ごっこはさ」
「たまらんよ。どうして、こんなチャーミングな坊やが受けないで、あんないい子ちゃんのガキがやたら受けるんだろう」
「世の中、あんたみたいな救いがたいサドばっかしじゃないからね。あの無邪気な、汚れなきエロチズムにひざまずいて、あの足で踏んづけられたい、って男もいっぱいいるのさ。ことに女の子がね」
「俺は、トミーを買うね。そうだろう、トミー」
島津の両手がまるで愛撫するようにやさしく、透のブラウスの衿にすすんでいった。
つよい指がゆったりした衿をとらえたとたん、彼は思いきり力をこめて、布をひきさき、ひきおろした。
反射的に顔を仰むけて、透は声もたてなかった。ひきおろされたブラウスの残骸にいましめられたかたちになった。むき出された肩と胸は、日に当らぬ青白いなめらかさで、島津と野々村の急に光を増した凝視にさらされていた。
「痩せてるんだな。鎖骨が、出てるじゃないか」
島津がおちついた声で云い、手をのばし、腕に隠される境めの皮膚を布地でもためすようにひっぱった。
「巽竜二に惚れてたのかい」
「つまらないこと、どうでもいいだろう」
顎をつきあげるようにして、透が云う。ここで腹をたてるほど、二人のしたたかものを面白がらせるとわかっていても、たまりかねた。
その顎を、島津は指でおさえて、揺すぶった。
「よりによってジョニーにとられてさ──憎いと思わなかったのか」
「あんたの知ったことじゃない」
透は、正面から島津の目をにらみすえた。
「オレだって、口で何云ったって、そりゃ、スターにもどれるなら、もどりたいさ。それだけだよ。ガキじゃあるまいし、あんたらがどんな悪趣味か知らないけど、そのつもりもできてるよ。だから来たんだぜ──ただ、さっさとしてくれよ。つまんないこと、うだうだ、さぐり入れられてんの、頭に来るんだよ──早いとこ、どっちからでも、寝りゃいいじゃないか」
島津は悪戯っぽく眉をつりあげた。ふいに、そうすると彼の秀麗な顔にどこか巽のおもかげが生まれた。透は思わず眉をよせて見つめた。彼はにやりと満足げな笑いをうかべ、もう次の瞬間には巽と似ても似つかぬ、残酷な欲望がゆっくりとうごめき出すのを味わってみる暴君の顔になっていた。
「すてきだね、きみは」
彼はゆっくりうなずき、しめつけていた指をはなした。
「本当に巽に惚れてたのかどうか、白状させてやろうじゃないか、ムラさん」
「面白いね」
透はつんとして顎をそらせる。島津は咽喉にからんだ声で笑った。
「とにかく、こっちへおいで」
彼は、奥の寝室に通じるドアをあけた。
「ここじゃ、話もできない」
透の目が、隠されていた寝室の内部に釘づけになった。透は鋭く喘いで息を引いた。
「おいで」
やさしい声で島津が云った。
* *
「ね……」
かすれた声で透は呟いた。
参ったというところを見せるのはイヤだった。しかし、知らぬうちに、哀訴する声になっている。
「少し──少しだけゆるめてよ。苦しいよ……」
「え?」
島津が、ゆっくりとふりかえる。部屋着だけを羽織り、意外に筋肉質の逞しい胸に腕を組んで、野々村と酒を汲みかわしていたのだ。彼は酔うと、青白くなってくる|たち《ヽヽ》であるようだった。
「もう、降参か。そんなにつよく縛っちゃいないぜ」
野々村が笑いながら云う。透は唇を噛んで、少しでも手首に食い入る痛みをやわらげようと寝がえりを打とうとしたが、海老のようにそりかえるかたちでくくりあげられたからだは、思うにまかせない。
腕も、足も、痺れて感覚がなくなりかけていた。胸にも麻繩が食いこんでいる。広い寝室は薄暗く、島津がかけたジャズ・トリオのレコードがひどく甘いメロディを漂わせている。それは一種異様な感じの内装の部屋だった。
壁一面に、巨大な鏡がはめこまれている。ベッドは広く、鉄の柵のような頭板がついている。大きなたんすから島津がゆっくりととりだして並べてみせた道具が、透の頬から血の気を失わせた。
「別に、そんな怯えるようなことはせんさ」
青ざめて立ちすくんだ透を見て、島津が微笑する。
「こっちも、商売にさしつかえるほど、品物に傷をつけたりいためたりってことは、できないんだ、残念ながらね」
「まあ、それに近いことはやるが」
野々村が含み笑いで注を加える。ブラウスの残骸をはぎとられ、素裸にされた透を彼らはしげしげと眺め、それからどういうポーズをとらせるべきかについてしさいに検討しはじめた。透は息をつめてたちつくしている。野々村の生温かい手が手首をつかみ背なかへねじあげ、そのままつきとばすようにして膝まずかせた。
「屈辱にふるえるお姫さまかね」
面白そうに島津が云う。
「いまさら、おぼこぶったってはじまらねえだろ。ずっとからだ売って飯食っててさ」
野々村は透の背に足をかけ、ねじあげた手首をきつく縛ってから胸に繩をまわし、さらに足首を縛った。
「巽はどんなポーズがお好みだったの」
透は黙っている。島津の手がのびて、いきなり頬にスナップのきいた平手打ちがとんだ。
「どうやってたんだ──こういうラーゲか? バックからか?」
ベッドの上に、投げ出された。荒々しくからだをさらけ出されて透は目をつぶったが、ふいに小さな機械の音をきいてはっとなり、起き直ろうと身悶えた。
「何しやがるんだ!」
思わず、悲鳴のような声をたてる。野々村が、小型カメラのレンズをむけていた。
「そんな約束してないじゃないかよ! 畜生!」
島津がたちあがってステレオにレコードをのせた。ビートのきいたドラムが、透の叫び声を消した。
「気にするな。こいつであんた脅迫したり、悪用するつもりはないよ」
野々村がくすくす笑う。透は蒼白になり、何とかそのカメラのレンズから身を隠そうとした。島津がおちついて、ひらかれた足を固定するようおさえつけた。
「遊びだよ、ちょっとしたお遊びだ」
「ばかやろう! 云うとおりにするって云ったからって、そんなこと、承知した覚えはねえよ! 畜生! 下司野郎!」
「悪用はしないさ」
くりかえして云い、島津が気障《きざ》なしぐさで手をあげた。
「誓うよ」
「ほどけよ! 繩、ほどけよ。こんなことして──」
「ただまあ、こっちも並みより好みがうるさいんで」
島津は笑った。
「うっかり、警察にかけこんだりされないようにって保険と──まあ、この部屋のお客様には必ずしていただく、宿帳みたいなもんだからさ。いずれ見せてあげるよ、われわれの芸術写真のコレクション」
「気狂い。きさまらなんか──」
透は唾を吐きかけようとした。すばやくよけた島津に正確なボディ・ブローを乱打され、呻き声をあげてのけぞってしまう。野々村は馴れた手つきでまきもどし、フィルムをつめかえて、更にひと巻きシャッターを押しつづけた。そのまま、透の口にタオルを押しこんで、ベッドの上に放置したまま、勝手にウイスキーを飲みはじめたのだ。
「頼むから……」
ようやく、吐き出したタオルは唾を吸ってどろどろになっていた。
「水……」
「咽喉がかわいたか」
島津がたってきて、透の顎をつよい指でおさえて見おろし、微笑した。この男は不能者かもしれない、と透は思った。
「そいつは、済まなかった。ほら、飲めよ」
顎をおさえつけ、開かせた唇に、やにわにスコッチの瓶をさかさに押しこむようにする。つよい酒がいきなり咽喉にあふれた。透は激しくむせて、悲鳴をあげた。酒が頬から顎、胸にまでこぼれ出た。
≪島津天皇≫の正体は、不能者なのではないか、と咳きこみながらまた思う。彼の顔は青白く、欲望をあおりたてられたというきざしも見せない。おちつきはらって透の苦悶の表情を見守る細めた瞳が、透のなかにいっそう憤怒にみちた屈辱感をかきたてた。
不能で、自分には得られぬ快楽に苛立つあまりに、若い生贄をことさら残忍にいたぶり、精神的に屈服させるような行為に走っているのだとすれば、と透は喘ぎあえぎ、島津の下腹部へ目を走らせる。そうだとすれば、気の毒なものだ、嘲笑ってやるのはこちらだ。
「違うね」
透の視線の意味をすばやく読みとって、島津が声をたてて笑った。
「俺が不能だと思ったんだろう? わかるよ。縛ってそのままにしておくと、みんな大体一時間ぐらいでそう疑いはじめる。だが、生憎だが、そうじゃない。証拠を見せてもいいが」
「あんたは不能者だよ、島さん、精神的にはさ」
野々村がたってきて、透を濡れた目でながめおろしながら云った。
「欲情するってのがどういうことだか、わかんなくなっちまってるのさ。インテリの宿命で」
「まあね。十年もTVの現場にいて、歌手志望だのスターどもの百鬼夜行の群れとだけ顔つきあわせててみろ。何がほんとで何がウソで、もうそんなこと何もわからんようになるぜ。もっとわるいさ。何がほんとで何がウソでもどうでもよくなるんだ」
島津は部屋着を放り、ゆっくりとズボンをひきおろした。透は小さな叫び声をあげ、不自由なからだをもがいて、島津から身を遠ざけようと焦った。
「そうなると、人間もうお終いさ。信じられるのは──こいつはたしかにヤラセじゃない、本当の反応だってのは、てめえが人に与える──さよう苦痛、だけになっちまうんだな」
島津が、ゆっくりと透に近よる。野々村が透の上にのしかかるようにして、逃げられぬようおさえた。透が低い呻き声をあげてなおも身もだえる。
「苦痛、だけにね」
島津が云った。彼はゆっくりと透の上に身を沈めた。
2
「どうだい。気分は」
朝の十一時の光の中では、その部屋は、少しもおそろしくは見えなかった。
ちょっとバロックふうの調度で統一された、広くて趣味のいいマンションのベッド・ルームだった。島津のかけているらしいストリングス入りのジャズのひびきが、さわやかな陽光と入りまじる。透はむっつりと、むりに目をあけて、のぞきこんでいる野々村の顔を眺めた。
「あんまり、よくなさそうだな」
「あ──」
咽喉がひりつくように乾いていた。
「当り前だろう。おれは、とうてい、あんたらのお相手楽しむ気にゃ、なれないね」
眩しくて、目をしばたたいた。ドアがあき、ワイシャツとふだん着のズボンをはいた島津正彦が入ってきた。
「目、さめたの。シャワーあびるといいよ」
午前の光の中で、髭もそり、シャツの袖をきちんと折ってまくりあげた旧華族のプロデューサーは、いかにも|やりて《ヽヽヽ》らしい、ひきしまった鋭い顔をしていた。
何を乙に気どってやがるんだ、とこっそり透は罵った。口の中に、なまぐさい匂いがこびりついている。うがいしても、唾を吐いてもなかなかとれぬ、濃い精液の匂いだ。からだじゅうに、ねばねばした液がこびりついてかたまっているようなぐったりした気持だったし、あちこちがひどく痛かった。
よろめきながら毛布をはいでたちあがると、島津の輝きのつよい目がすばやく裸身を検分した。
「うん」
満足そうに云う。
「大丈夫だ。のこりそうな傷は、ひとつもないよ」
「見えないとこがね」
たまりかねて透は怒鳴った。
「痛くって、立ってらんないよ。あんなひどいこと、するから、あんた──冗談じゃないよ、あんなもの使って。ひきあわないよ、デビューだかカムバックだか知らないけどさ」
「よし、よし、いいからシャワーあびなさいよ。コーヒーができてるよ」
おかしそうに島津が云う。
「きれいな顔して、ムリに汚ないこと云うのはやめなさいよ。あんたは、自分で思ってるほど、ワルでもしたたかでもないよ」
「大きなお世話だよ」
「似合わない突っ張りは見ててはらはらするからね」
「そういうこと、トミーはいい子だよ」
野々村も笑って口をはさむ。透は二人のしれっとした顔をにらみつけておいて、憤然とバス・ルームへとびこんだ。
(蛙の面に小便なんだから、くそサド野郎)
激しく、唾を吐きすてたが、その匂いはやはり咽喉にこびりついていた。
(ひどく縛りやがって)
湯気でくもった鏡をふいて、しさいにからだの損傷を調べてみる。島津が云ったように、あとまでのこるような傷こそないが、手首にはくっきりと繩のあとがのこり、胸では擦過傷になっていた。足首も、背なかも、すり傷と濡れタオルを鞭がわりに打たれたあとで腫れている。
(あんなもの──使いやがって)
ちょっと、ぶるっとからだをふるわせた。鏡をのぞきこむ。もともと、両手で包みこめるような細おもての小さな顔が、よけい頬がそげ、目の下が黒ずみ、目が濁っている。鬼相、とでも云ってみたいくらいだった。
いろいろなパトロン、ときにはパトロネスのベッドに守られているのには馴れていたけれども、カムバックの代償がこの二人の奇怪な男の、共有物になってこんなSMプレイの生贄にされることだったら、本当に、スターにもどろうが何だろうがひきあわない──そう、思う。
たくさんの保護者の中には、そうした性向をもちあわせている男もいた。マルス・レコードのディレクターの星野などもそうだった。すでに五十すぎて、からだがきかなくなりかけている星野は、自らに昂奮をかきたてるために、縛らせてくれ、と頼んだり、反対に、踏んづけて唾を吐きかけてくれ、と云ったりした。透は、必死に自分をあおりたてようとする男の努力のぶざまさに薄笑いを噛みころしながら、云うがままに身を投げ出していた。
そうした行為は透の冷笑と侮蔑をよびさますだけで、少しもかれを動揺させなかったが、島津と野々村は、透をひそかな認めたくない恐慌にひきずりこむ。島津と野々村には、透がどう抗っても、もがいても、ただいっそう興味深げに見守るような、非人間的な冷酷さがある。
ことさら、島津はそうだ。島津の、さまざまな嗜虐的な道具を透の上に使う的確な手さばきには、外科手術に似た醒めた目がひそんでいた。
それが透を、与えられる肉体の痛みの何十倍も激しい、身もだえするような憤怒と恐怖に追いこむ。島津が欲望にかられて残酷になるならまだいい。しかし、透のからだに、奇怪な棘を植えこんだぶきみな器具を装置したからだを現実におしすすめて、欲望のままにふるまっている瞬間でさえ、島津の一重瞼の目は冷たく知的な光に澄んで、透の苦悶と懊悩を静かに観察している。
(まるで──まるで、人間のふりをして人間の反応をレポートしてる宇宙人みたいな、それとも、ガラス台の上にピンで展翅した美しい無力な標本の蝶をいじりまわす採集家のような目で)
透には、無感覚を装ってみても、あばずれのふりをしても、太刀打のできない、それはからだの痛みよりずっと耐えがたい憤怒だった。
(いまに見ていろ)
カムバックなど、望みさえしなければ、そんなふうにかれらに扱われる覚えなどないのだ。鮮やかにすっぽかして、奴らに地団駄を踏ませてやる、とひそかに透はきめた。
熱いシャワーが、傷口にしみるのに眉をしかめながら、癇性にからだを洗う。逃げちまってやる、と心をきめると、ふしぎなくらい、胸がすうっとして、からだの痛みさえもやわらぐような気がした。
(奴らの計画に、どたんばで大穴あけてやるからな)
あんたのわるいとこは、すぐに投げやりになるから、とマルス・レコードの井村に云われたことがある。少しでも、うまくいかないと、すぐに、ああもう歌手なんてやめだ、とかスターなんかならなくたっていいんだ、とか云い出すからさ、と彼は怒って云った。
(そんなゴネられてスタッフだって気持よくやっていけるわけないだろ。俺たちは誰のために苦労してんだ、って気にも、なるよ。そのでんでステージすっぽかす、せっかくのファンを邪魔扱いする、レコーディングにまで遅刻ってんだからさ──あんた、どう思ってっか知らないけど、そんなふうにゴネてみたとこで、誰もあんたのこと、人格高潔だなんて思やしないよ)
(少しはさ──一度でいいから、ここ一番に生命かける、みたいなとこ、見せてみたらどうだい。ちっとは、自分で、執念もってるとこアピールしたら。でないとスタッフだって、そりゃだんだんやる気なくしちまうよ)
ヘッ、とシャワーの雨の中で肩をすくめてやる。どうせ、ジョニーみたいにスタッフみんなに愛される、一生懸命ないい子ちゃんじゃありませんさ。
(からだ売ったって食っていけるさ)
年寄りの、金持の外人でもひっかけて、ニースあたりの別荘で、そのじじいに可愛がられてひっそり暮らしてみるか、と思った。うまくいけば、そのじじいが身寄りがなくて、遺産ぐらいのこしてくれないものでもない。
(そうしたら、元町あたりにほんの小さなスナックでも出してのんびりやったっていい──その方がオレにあってるさ。ドキュメンタリーもアイ誕¥\週勝ちぬきももうまっぴらだ)
疲れてしまった──改めて、そう思いながら、ていねいに全身を洗い終え、ブラウスとズボンをつけて、バス・ルームを出た。
「長かったな」
島津が新聞を読みながら一人で居間にいた。
「野々村さんは?」
「帰ったよ。事務所に行った。あとで電話入れるから、居場所、教えといてほしいってさ」
「布がからだにすれると痛いや」
透はソファに気をつけて腰をおろしながらとげとげしく云った。
「これじゃ、遊びにも行けやしない」
「遊びになんか、行くこたあないさ」
島津はゆっくりと、新聞から目をあげて、透を見つめた。蛇のような目だ、とひそかに透は考える。いつも、曇ることも、陶酔に閉ざされることも知らぬ、冷静ではりつめた目。透はコーヒーを自分で注いだ。食欲はまったくない。
「タバコ、ちょうだい」
「何も食わないの? それ以上痩せられると、カメラ映りがまずいな」
笑いを含んでつけ加える。
「あんまり、惨めったらしい絵とると、それだけでヤラセ然としてくるからね」
「そんな話、野々村さんとすればいいだろ」
透はコーヒーをやけのように啜った。
「あんたの、身のふり方、相談しておいたよ」
「誰も頼んでねえだろ、そんなこと」
「いちいちそうつっ張らかるなよ、うるさいから」
島津の冷静な顔に苛立ちの影がさした。≪天皇≫と僭称されるトップ・プロデューサーの顔がのぞいた。
「まず、云っとくと、寝泊りは、俺のマンションでしてもらうことにした。本当は、ムラさんのところでしてもらいたいんだが、あの人はいろいろ秘密のある人でさ。あんたみたいな好奇心の強い猫をひとりで閉めこんでおくのは困る、っていうわけさ、ムラさんが。それにあの人は何日も帰って来ないことがあるから──その点、こっちはただのサラリーマンで、時間は不規則でも、必ず毎晩帰って来るからね。──いや、とにかくききなさいよ。俺だって、神経質じゃない方じゃないんで、本当はあんまり自分の城に人を泊めたりしたくない。が、この際だから、しかたない。ここには四つ部屋があるから、奥のひと部屋を献上するよ──それから、昼間はそこにいてほしいが、とにかくアイ誕≠フビデオどりがはじまるまでだ。夜遊びは一切禁止。あんたのスケジュールその他は決まりしだいしらせる。あんたがここに寝泊りしてるというのがバレりゃ、すべてはヤラセだとあっさり見えちまう。なるべくなら、これから二ケ月、一歩も外へ出てほしくない」
「冗談じゃないよ」
透は怒鳴った。
「イヤだよ。冗談じゃない」
「俺は冗談を解せんことで有名な男だ」
冷やかに島津が云う。
「これでも、人を見る目には、少々自信があるんだよ。伊達や酔狂で云ってるわけじゃない、こっちだって本当はそんな手のかかること、冗談じゃない。ひとが同じ部屋にいるのがイヤだから、結婚もしてないんだからさ。あんたがもっと素直で可愛げのある奴なら、こんな手間かけずに済むのに、こっちだって頭に来てるんだ。──どうせ、悪名高いスッポカシのトミー≠フこった、ひどいめにあって腹たつし、なんか面倒くさくなったから、いまに見てろ、逃げちまえ、そのあとでほえづらかくな、くらいのこと、たくらんでるだろう。違うか?」
透は息をつめた。
「図星か」
島津はにやりと笑った。
「あんたの考えてることぐらい、たちまちわかるさ。あんたみたいなタイプは知ってるんだから──行きあたりばったりで投げやりで、ナルシストで、プライドが高いくせに自分じゃ何もできなくて。人を踏みつけにしても平気で、いい加減で、我儘で、うぬぼれてて、そのくせ一時のかんしゃくでスターの座なんかどうでもいいみたいに投げ出しちまって、あとで泣きわめいてさ」
透はむっつりと座りこんでいた。島津は冷やかにそんな透を見た。
「あんたがもっと恥を知ってりゃ、きのうの写真をネタにしてつないどける。だがあれを出しゃ、あんたは、これ以上おちるとこはないんだから、売り出しでも雑誌に公開でも、何でもするがいいってわめきたてるだろ。といって、云いきかせてわかるあんたじゃない。だから、面倒でも、こっちが首根っ子をつかんでボストンに放りこみ、カギかけてなきゃならない。厄介なタマさ、あんたは」
「じゃ放り出しゃいいだろ、そんなら」
「うるさいな」
また、島津は癇をたてたように眉をよせた。
「少しは、人が誰のために仕事のあいまをぬって、こんな苦労してるのか考えろ」
「オレのこと、そんなによくわかってんなら、そんなお為ごかしもよしたらどう」
透は口をとがらせて云った。
「オレだって、あんたらがオレのためにこのプロジェクトたてたなんて信じないし、そんな顔さえされなきゃ、けっこういい話だと思ってんだからさ、お互いにつまんない手間はよしとけば。あんたたちだって、視聴率とゼニのために動いてんだ。それで、お互いっこじゃないの」
「………」
島津は、目をほそめて、透を見つめた。ふと、その目の中に、なにか満足げな光がほの見えた。もし、透がもっと注意深かったら、それはほとんど、共感に似た表情だった、と悟ったに違いない。その光は一瞬で消えた。
「まあ、そうだ」
島津は考えこみながら云った。
「お互いそういうふうにわかってれば、仕事がやりやすくっていい」
「感謝してんだぜ、一応は。オレやっぱし、もういっぺん歌ってみたいもの」
透はなめらかな口調で云った。
「そんな、とんずらかこうなんて思うわけないじゃない。もうこんなチャンスないことくらい、オレだってわかってるもの」
「………」
「だからさ」
いよいよ、なめらかに笑いかけてみせた。
「とにかく、一回だけ、神谷町まで行ってきていいだろ。疑うんなら一緒に来たっていいから」
「あんたのマンションか」
「そう。服だの、下着だの、いろいろとりに行かなくちゃしようがないじゃない」
そんなもの買ってやる、と云われるかと思った。透は睫毛をまばたいて、媚びるように、島津の眉をしかめた顔をのぞきこんだ。
島津はしばらく、返事をしなかった。細い指のあいだで、ケントが|たっ《ヽヽ》てゆく。この男は、何を考えているのだろう、とふっと透は思う。広い豪奢な部屋に、栗材の置時計の音が耳についた。島津はおもむろにタバコをひねり消して、透を正面から見た。
「よかろう」
はっきりした声で云う。
「一緒に来る?」
「いや」
「逃げるかもしれないぜ」
「わかってる。そうなれば、このプロジェクトは、中止するさ」
「オレを、ためす気」
「まあ、一度くらいは、ためしてみた方がいいかもしれん。もう、これであんたも、われわれの手の内は、全部見たわけだからね」
「繩と鞭のこと」
「まあね」
透はソファの上で、片膝を胸にかかえ、意地の悪い猫のような目つきで島津を見ながら云った。
「あんた、あれしか楽しみないのかい」
島津は苦笑して答えない。
「関まさみに、あれやったの? 雨木真美や浅井美奈子にも?」
「ご想像に任せるよ」
「あんたと野々村の爺さんは、あのてのパーティ仲間ってわけ」
「まあね」
「あんた、それ、口ぐせだね」
「まあね」
「ねえ」
透は、ゆっくりたちあがり、島津のかけている椅子のうしろにまわり、島津の肩に手をすべらせた。
「オレ、あんた一人のものになるんなら、ちっともイヤじゃないんだけどな」
島津が見あげる。目が細くなった。
「あんな爺さん、いなくたって済むんだろ?──あんた一人なら何でも云うこときくから、さ?」
透の瞳に、ずるそうな濡れた輝きが宿る。島津は呆れたように透を見つめた。が、急にくっくっと笑いだした。彼は、しばらく、笑いがとまらぬように、咽喉声で笑いつづけた。
* *
街は、夏の顔をまといはじめていた。
ひとびとの服装が、夏のそれになっている。街路樹の葉が青い。
長いこと、季節のうつりかわりさえも忘れていたものだ、と透は思っていた。用もなげなゆっくりした足どりで、道を歩きながら、すべてが何かひどくもの珍しく、周囲を見まわしてみる。
サングラスもかけずに外に出たのも久しぶりのような気がする。誰も、ふりむかなかった。それだけ、痩せておもがわりしたのか、と思う。それとも、ことさらにサングラスをかける必要など、はじめからなかったのだろうか。かれは、すでに二年もまえに忘れ去られた歌手だった。誰も覚えていない、ふりむいてくれない、というその事実を認めるのが、イヤだったからこそ、サングラスに顔をかくし、派手なコートの衿をたて、ことさら人目を避けるそぶりをして人目をひこうとしていたのかもしれない。
(あら、トミーよ)
(いま、何してるのかしら)
いったん禁断の果実を味わってしまったら、そんな質のわるいまぜもののアヘンさえ求めずにいられぬものなのか、と透は自らをあわれんだ。
時間は、そろそろ夕方の買物で市場が混みあいはじめるころだ。だんだん細くなってゆく道をすれちがうひとびとは、買物籠をさげた主婦や、自転車のベルを苛立って鳴らしている少年や、かばんをさげた学生たちである。
自分ひとりが侵入者である、という気が透にはした。そこはかれのいるべきところでもなく、かれが馴染んだ世界でもなかった。
(オレと同い年くらいの男なら、毎日ネクタイしめて会社に行って、OLをお茶に誘って、早い奴ならもう女房子供が家で待ってるだろう)
うすぐらいクラブ、肩におかれた皺ぶかい手、精液の匂い、酒、ジャズのレコード、あわただしく数える紙幣──それだけが、かれの馴染んだ、かれにふさわしい世界になって、二年がすぎている。
(太陽はオレには眩しすぎる──なんて、ださいセリフじゃない)
うしろから、うじゃうじゃ群がっている善良なひとびとのあまりの多さに気が狂った、でかいダンプカーか何かが盲滅法に突進してきて、オレをひき殺し、ぐしゃぐしゃにつぶしてしまってくれないだろうか、と思う。これから先、カムバックの線路に乗せられて、またいろいろな男や女といろいろな理由で寝たり、リハーサル、本番、「お疲れさま」、パーティに後援会、レコード店まわり、ヒット・チャートを気にし、美容に気をくばり、そんな日々がもしかしたら来るかもしれないと考えただけでぐったりしそうだ。
(面倒くさい。何もかも面倒くさい)
だからといって、蒸発して、どこかの町へもぐりこみ、そこで妙なせんさくだの、新しい人間関係だのにとりまかれると考えるのもイヤだ。
(あんたって、誰かに似てるのね)
(ね、昔何してたひと? 若いんでしょ。若いのに、恋人いないの?)
(あんた、レックスにいたトミーじゃないの?)
(どうだい、おれとひと晩──)
(アパートひと部屋かりてやってもいいんだけどねえ)
面倒くさい、と透は夢遊病者のような足どりで歩きつづけながら思った。
(何がどうだっていい。ただ面倒くさいのだけはもうほんとにまっぴらだ。何もかも面倒くさい。疲れた。ほんとに疲れた。もう、何もかも終わっちまえばいい)
スターにもどれたところで何になるのだ。このどうしようもない面倒くささが倍にも、百倍にもなるだけだ。透はふと、負けおしみでもなく、まぶしい光の中のあの気狂いじみたハリウッドを思った。サインを求める手、肥った少女たちの絶叫、本番のキュー、大賞争い、ドレスの仮縫い、ディレクターに指図された規則正しい拍手の雨。
(よくやるよ、奴らは)
「私には歌しかないですから」
「何もかもファンの皆さまのおかげです」
アイ・ドロップで目を輝かせ、ドーランで肌をなめらかに光らせ、トゥース・エナメルで歯を真白にみがきあげた男、女、少年、少女の同業者の群れの、おそるべきタフさと執念とを、透はつくづく感嘆する思いで心にうかべた。何がほしくてそう走りつづけるのか。何にあおられてそうまで走りつづけられるのか。
そう、考えはじめたことで、きっとすでにかれはスターの資格を失っていたのだろう。
(何になるんだ──面倒くさい)
疲れて、走るのに倦んだものから、脱落してゆく、まるで集団マラソンの世界だった。それとも、かごの中のはつかねずみの群れか。
(ジョニー)
口をついて出た。どうして、良は、良だけは、そのはつかねずみの季節の中で、あんなふうにいつも輝いて、いつも自然で、歌の力を信じたり、自分は歌をうたうために生を享けたのだと大真面目で云ったりしていられたのだろう。
ふいにびくりとして、透は足をとめ、それからどうしてびくりとしたのか悟った。ちょうど通りかかったパチンコ屋の中から、「反逆のブルース」のハードな間奏が流れていたのだ。
(ジョニー)
この声だった──そう、思った。ゆたかで、少し高音部がかすれる、甘くセクシーな声。
(この声が、オレを打ちたおし、叩きのめした)
ただきいているだけで快く、ある世界をかいま見せてくれる声。生まれながらのシンガーだけがもつ、セイレーンの声。
きいているのは、いまだに、苦しかった。胸がつぶれるような痛みをいまでさえひきおこした。
(イヤだ)
ふいに透はきっとなって、パチンコ屋の前を走りぬけた。どんどん、足を早め、大股に歩いた。それでも、その声はかれを追ってきた。
やっぱり、どこかへ消えちまおう、と透は決心した。
(日本じゃダメだ。外国へ──さもなきゃ北海道、いや、だめだ。北海道にだってTVもレコードもある。アメリカへでも行こう)
金はない。しかたがない。またどこかで何人か客をとって、片道ぶんの切符を買えるだけ働けばいい。
(イヤだ。誰が何と云ってもいい、オレのことをどんなにばかにしたっていい。どうせ、男娼なんだ──ただもういっぺんデビューして、良と同じ土俵にあがるのは、イヤだ。良の人気におぶさって、ドキュメンタリーをとらせるのも、『アイドル誕生』に勝ちぬいて良と握手するのもイヤだ。同じ番組に出て、あいつのきれいな顔を見てあいつの歌をきいてあいつの歌うところを見て──イヤだ、ジョニーと戦うのはイヤだ、戦いたくない、戦えない、もう同じリングにだけはあがりたくない)
島津も島津の計画も知ったことか、と思った。
(マンションにもどって、家財道具洋服のこらず売っちまおう。いくらかでも足しになれば、一回買われるのが少なくて済む)
(ニューヨークか──いっそスペインかイタリアか、そんなところへ行っちまおう。ことばなんかわかんなくてもいい。ニューヨークで強盗にでも殺してもらえりゃ、本望なんだ)
(でかいクロどもにやってやってやりまくられて、野垂れ死ににくたばっちまやいいんだ)
透は、まるで、あたたかい団欒が待つ家路をいそぐ人のように、足を早め、どんどん早めた。
何ケ月か前まではいつもその夜の客と一緒に曲がった、喫茶店の角を左に曲がった。
とたんに、透の心臓は咽喉までとびあがった。信じられぬものを見た衝撃に、その場にくずおれそうになった。
(た──巽さん!)
かれのマンションとむかいあって、電信柱に背をもたせかけ、アーミー・ジャケットのポケットに両手をつっこみ、レイ・バンのサングラスに目をかくした顔をうつむけて、たっていたのは、まぎれもない、巽竜二だったのだ。
(そんな、ばかな、いまの時間は毎日必ず「裏切りの街路」のビデオどりで満杯のはずなのに──準主役の巽さんが)
幽霊を見る目で、透はたちすくんだ。
その目がなぜ、急にぼやけてかすんできたのだろう、と透は疑った。思いながら、喫茶店の陰まで、そっとあともどりした。
(巽さん──巽さん──巽さん!)
巽は、憔悴した顔をしていた。うなだれているからかもしれない。髭がのびて、頬がそげ、逞しいからだがジャケットの中で妙にひよわそうに見える。彼は、迷子の子供のように、寂しげにひとりで透を待ちつづけていた。
巽は、ふっと首をもたげて、透の部屋の窓の方を見あげた。それからまた肩をおとして、タバコの袋をつまみ出し、一本くわえ、両手でかこうようにして火をつけた。
いちど冷たくなったからだが、ふいに、芯の方からあたたかく、それから熱く火照ってきはじめた。巽の快い体臭がそこまで感じられるような気がし、巽のかたく充実した欲望がすでに荒々しく、ひきしまった肉をつらぬいてつきあげてくるような疼きが身内に生まれた。巽の髭に頬をこすられる感触、巽の筋ばった腕に抱きすくめられるぬくもり、に透の全身は飢えてふるえ、透のからだは痛いほどそのあるじの期待に反応してきはじめていた。
(巽さん。巽さん、巽さん、巽さん)
その名を口にすることはなんと快く、そして巽はなんとうちひしがれて見えるのだろう。彼は、森から狩り出され、檻にとじこめられ、月を仰いで咆哮することさえ禁じられた、不幸な狼王のように見えた。彼の味わっているだろう苦痛と自責が、巽という男のすみずみまでを知っていた透には、自分の内の感情と同様にはっきりと感じられた。
肩をすぼめ、喪家の犬のようにうろつく巽など、見たくはなかった。
いや、嘘だ。見ていたいのだ。巽を見ているだけでさえ、それは透に気が狂うほど快く、気が狂うほど苦痛だった。巽の、不釣合いなほど高く細い美しい鼻梁、しっかりと張った顎、髭の下でかみしめられた唇、歯並びのわるい口もと、黒く太い眉、レイ・バンに隠されたあのやさしく美しい目、を透はこのまま見ながら息絶えたいと望んだ。
そして、その望みとはうらはらに、かれの足は、気づかれぬようそっとゆっくりと、一歩ずつそこをあとずさり、もう見られない、というところまでもどるや、身をひるがえして、まるで伝染病から逃げるように走り出した。
大通りで、最初に来たタクシーをつかまえ、息を切らして乗りこんだ。行きさきをつげる透の声は、うわずっていた。
車が走り出し、そしてマンションから遠ざかってゆく。何も考えまいと透は両手で耳をおさえつけ、座席にうずくまる。からだの深い芯のほうに小さなふるえが生まれ、それはおさえてもおさえてもとまらない。
「ラジオをつけてよ」
透は頼んだ。カー・ラジオから、神経を苛立たせるような甲高い、女のディスク・ジョッキーの声が流れ出した。
「じゃあ次のおたよりです。えーと次は、と、これかな。えーと北海道美幌郡──ミホロって読むのかな。すっごいきれいな名前ねえ。けいこに子供生まれたら、ミホロって名前つけちゃおうかなあ。そうすっとすぐ、男いないのに子供生まれるか、なんてみんなして云うんだよね。でもいいんだからもう──えーと、北海道の、佐藤アイイチロウ君ですね。アイイチロウのアイは、愛、ラブの愛。ラブ君ね、ステキな名前じゃん。アイちゃん、って呼んでんのかな。そのラブ君から、けーこお姉たんへ。えーと、読んでみます……」
窓の外を、駅へいそぐ人の群れが流れてゆく。透はひとびとのこちらへむけられもせぬ目から身を守るように座席に深く身を沈め、くっくっと声を掌で殺して笑いつづけた。それは咽喉にあつくはねかえり、かれにつきささる。かれは、自分が悲しいのか、恋しいのか、泣いているのか、笑っているのかさえもわからぬままで、ただ、しゃくりあげるような息をもらしてうずくまりつづけていた。
島津はエレベーターを使わずに、階段をゆっくりとあがってきた。鍵をさしこみ、手応えに眉をしかめる。逃げられたなら、そのときのことだ、と決めたように、鍵をあけ、中に入り、電気をつける。無人の広い部屋がうかびあがった。時計は二時をさしている。
上着をぬぎ、ネクタイをゆるめ、バスをみたしておいてから、氷と酒の瓶を出し、マル・ウォルドロンのピアノ・ソロのレコードを低くかけ、カーテンを半分開き、部屋着をとりに、ベッド・ルームへ入っていって電気をつけた。
そして、わずかに目を細めた。
「──あまり、驚かさんでくれよ」
微笑して云う。布団のなかで、透は眩しげに目をしばたたいた。
(賭けに勝ったな)
島津は再び笑い、ネクタイをワイシャツからひっぱりぬく。透は、布団をはねのけた。
「何だい」
島津は眉をよせた。
「素裸で寝るのが趣味なのか」
「違う」
透はベッドからとびおりた。部屋着をとろうとしている島津の胸に、いきなり、からだを投げかけ、そのまま足もとにうずくまってしまう。
「抱いてよ」
泣き疲れた子供のような声で、透は云った。
「何の真似だ? つまらん手間はお互い省くと約束しただろう」
「抱いてよ。お願いだから──何でもするから。あんたがしてくれないんなら、ガイ専のバーへ、なるべくでかそうな奴さがしに行っちまうよ。頼むから──縛ってもいい。叩いてもいい、どんなひどいことしてもいいから──してよ。頼むから──オレをずたぼろにしちまってくれよ」
「おい、おい、穏やかじゃないな」
「ひとりじゃイヤなら、野々村さん呼んだらいい。頼むよ──お願いだ」
透は、島津の脚にそっと手を這わせ、ジッパーにたどりついた。びくりとして、島津がふり払った。
「泣いてんのか。あんた、ラリってんのか?」
呆れたように冷やかに島津が云う。透は首をふった。
「ラリ公の云うなりになんかなってやれないね。俺は、自分でしゃんとできない奴は嫌いだ。我慢できん」
島津は手をふりあげ、透の頬を張った。透はぐたりとなって身を丸め、頬を涙で汚して動かずにいた。
ふと、島津はその透の力ない青ざめた顔を見すえた。何か、ぞくりと快さをゆさぶられたように、目を細めた。
「おい」
かがみこみ、透の顎をつかんでささやく。
「何をしてもいい、と云ったな」
「うん」
「縛ってもいい──どんなひどいことをしても?」
「──うん」
「後悔するよ」
透は眉をよせ、目をつぶったまま、かぶりをふった。
「そうか」
島津はやさしい声で云った。
「何をしてもいいのか」
何か、残忍な、満足げな光が、細めた目の中にくるめいた。後は、そっと透の頬を撫でた。
「そんなら、そいつは、見逃がせないチャンスってわけだな──実は、前から、一度ためしてみたかった縛り方があってさ──さすがに、みんな泣いていやがるんで、できないでいたんだ」
「………」
「考えてみると、あと一、二週間はあんた、外に出ないから、少しぐらいあとをつけてもかまわんわけだし」
透は目を瞠き、そしてちょっと息をつめて、島津の、何か凄まじい嘲笑に似た光をかくして細くなった切れ長の目を見つめた。
「何をしてもいいと本人が云ってるんだしね」
島津はますます声をやさしく低めた。透は、われ知らず、すくみあがって、あとずさりした。島津が、やさしく笑いながら、ゆっくりたちあがる。
透は島津の目から目をはなせずにいた。小さく開いた唇から、笛のような息が洩れる。ふいに透は絶望的な悲鳴を洩らして両腕に顔をうずめた。
3
「島津さんてさ」
開場を待つ時間は長かった。透の前で、コーヒーがなまぬるくひえていた。
「気狂いだな、あいつ」
「そうかね」
野々村は、そわそわしている。カメラマンがまだやってこないのだ。
東京プラザ会館の二階の、ガラスをはりめぐらしたティー・ルームだった。総ガラスの窓ぎわからは、入口前にぎっしりと並んだ、興奮した少女たちの黒い頭が見おろせる。
「たいそうな人出じゃないか。立見でもおさまりきらんだろう」
「いまや天下のレックスだからね」
気のない調子で、透は答え、話をひきもどした。
「あの人って、ほんとに欲情感じたり、企画とか、視聴率とかからまないでもの見たりすることあるの」
「島さんは、あれでいい男だ。頭は、こわいほど切れるし、TVってものと、大衆心理の操作を、それも理論じゃなく肌身で知りつくしてる」
「そうだろうけどさ。オレが云ってるの、あんな、ウソでかためた人珍しいってことさ。あの人オレとやりながらでも、こいつもヤラセだ、ヤラセだって叫んでるみたいだ」
「ひどいことを云う。それにもっと声小さくしろ。誰がきいてるかわからんのだから」
「TV人種って、マスコミ人種とまた違った、ウソ人間だよな」
「まあね」
野々村は島津の口ぐせがうつったようだ。
「来ないな。わからんのかな、会場が」
「女の子にさえぎられて入れないのさ。いいじゃんか、まだ時間あるから」
「もう一回打ちあわせをしときたいんだ」
「いいよそんなの、それよりさ──あんたあの人と古いの、もう?」
「ああ。あの人が芸能班の若いディレクターでまわってきて以来だ。あっちから、積極的でね。あのころから、活字の効用も知りぬいてて、活字と映像ジャーナリズムは相互利用しないとまずいって理論、もってたな」
「しかし、あのぐらい、わるい人≠チて万人に認められてる人も珍しいよね。まるで悪徳プロデューサーの代名詞じゃない」
「実績がすべての世の中だよ」
「しかし立派のひとことだよね。とにかく、雨木真美、浅井美奈子、岸加代子、例の『歌謡ドラマ劇場』のシンデレラ・ガール、みんなムリやりにスターにしたて、あれ、作詞はやっこさんがペンネームでして、作曲、無名の若いのにやらせてんだってね。で、それ自分の番組のテーマ・ソングにしてヒットさして、それ全部自分のふところに入るじゃない。全然頼みにいかなかった歌手がオーディションうかったら、苦労したんだよってひとこと云ってにやりと笑って、何十万せしめたとかさ、『日本音楽祭』の銀賞、審査員の投票用紙すりかえて、沢村浩二にとらせちゃったとかさ。まあ、そのぐらい余分な収入がなけりゃ、民放のプロデューサーの月給であんなマンションに住んであんな酒飲んでられないと思うけどさ」
「あれはあれで、気の毒なとこもあるのさ」
野々村は肩をすくめた。
「あの人は別に悪党じゃない。むしろ凄えインテリで、ニーチェなんかバンバン原書で読んでるんだ。おまけに都会人だ。有能でもある。あっちから見りゃ、人間すべてが、ばかでうすみっともなくて阿呆な虫けらに見えて当り前だよな」
「ヘッ、お高くとまってるわけ」
「そうじゃない。あの人は、苛々してるだけさ。あの人にはこんなよく見えることが、なぜ人にゃわからんのだろうってさ。あのくらい、インテリで都会人で能力があってけっこうハンサムで仕事ができて、なんていう人間は、こいつは、人と友情感じたり、まして女に惚れたりなんざできっこない。そう思わんかね」
「思うよ、あの人、女を死ぬほどばかにしてる。男のジャリタレもね。歌謡ドラマ<Vリーズで、美奈子や真美ちゃんやまさみの使いかた見ると、一発でわかっちまう。人間扱いしていないじゃない。とにかく女なんかアホで頭空っぽで、とにかくかわいけりゃその辺にいてもたまにゃ生存認めてやる、って感じでさ。オレ、あいつらがなんで怒らんのかふしぎなくらいだ」
「真美ちゃんやまさみは喜んでるさ、売り出してもらって。島津先生、先生って何でもする。鼻声でしっぽふってくる。それ見て島さん、ますますうんざりする、ますます人をばかにする、ばかにされた方はいよいよあの人を尊敬する、ってわけさ」
「サドに走るわけかね、それで」
「まさに、そうさ。あの人が精神的にインポだ、ってのは、俺にゃわかってる。女も男もない、欲情できないのさ、相手がばかに見えすぎて。だからしかたなく、ありあまる支配欲、権力欲を性欲だと信じこんで、むりに自分を|立たせ《ヽヽヽ》てるってわけ。気の毒なもんだ、縛ったり殴ったり、すればするほどあの人醒めてひえびえとしちまうんだから。ほかがまず文句ないし、しかもスタイリストだから、男として性に弱い方だ、なんてことは我慢できねえんだな。本当は、あの人は、潔癖症で、人ん中にからだを挿入するなんてことは、イヤでたまらないんじゃないかと、俺は思ってるんだ。まして、女は汚ないと思ってるよ、あの人は。真美ちゃんをどう扱ったか、見せたかったね、まったく」
野々村はまわりを見まわして声をひそめた。
「自慰をさせて、器具使わせて、さいごはコーラの瓶でさ──さいごまで、自分じゃさわろうともしなかった。あのコ、トルコ嬢だったしね。彼にしてみりゃ、病気がうつるってなもんさ。アルコールで消毒しかねんよ。まったく、アマキストの男の子供が見たら、どう云うだろうってさ──俺、そのあと番組であの娘見るたびに反射的に、コーラの瓶だのキュウリだのバナナが服きて歌ってるような気がしてさ」
野々村は笑った。
「そういう、あんたはどうなんだい。彼のパーティ仲間のくせに」
「俺は、違うさ。俺はただ一点を除いて完全にまともだ。すなわち、相手が女じゃ困る、ということを除いてさ。あの人の趣味にゃ、つきあってるだけさ。あの人は観客がほしいんだから──要するにTV屋だな、あれは」
「へえ、じゃ真美や美奈子、なんのことはない、宝のもちぐされじゃないの」
「まあそういうことだな。しかし、とにかくあの人についてりゃ絶対まちがう心配はないからね」
「ねえ」
透は訴えるように云った。
「オレはあの人の云う通りしてたら、いまにきっと殺されちまうよ──ねえ、野々村さんが、オレの直接のプロデュース担当なんでしょう。別のところに、こっそり、オレとあなただけの場所作りたいとは思わない?」
声もなく、野々村が唸った。
「オレ、マゾっけ皆無なんだ。あの人の相手はさ、いたしかねるよ。こないだなんて滅茶苦茶なこと、するんだから──三日間、起きあがりもできなかったの、知ってるでしょう」
「か──考えとくよ」
野々村はちょっと弱々しい声で云った。が、ふと笑ってつけ加える。
「しかし、あんたが、ぶってえ、縛ってえなんて鼻声出す人種なら、島さん、辟易して手出さんさ。島さんとしちゃ、かなり、あんたが気に入ってんだ。あの人はおそろしく洗練されてるからさ、好みが。とにかく、自分はしゃんとしててプライドもあり、ばかでもなく、見ばえもよく、縛られるのなんかまっぴら、って相手をむりやりいためつけなくっちゃ感じない、って云ってるからね」
「ふん、とんだいかもの食いの天皇さんだよ」
「だがあんたも相当な玉だ。きいてんだぜ、ちゃんと──島さんにゃ、俺を放り出して島さんひとりのものにしろって口説いたっていうじゃないか。たいしたもんだよ。あっぱれで、呆れる気にもならん、むしろ惚れ直すね、ええ」
「ふん」
透はわるびれもせずににやりと笑って肩をすくめた。
「つつぬけじゃしようがねえや」
「いい玉だよ──おや、やっと来た」
大きなカメラ・バッグをさげた皮ジャンパーの若者が近づいてきた。
「もう、入場はじまってますよ。すげえ人だ。そいつも女ばっかし。いまからキャーキャー云ってんですよ。もうこわいのなんのって」
「ぜんぶ席におさまったとこで行くからな」
「いいよ、いつでも」
(衝撃! ジョニー初のロング・リサイタル会場に、あのトミーの姿が! 本誌記者が目撃。失意か、憎悪か──はたしてその胸中は?)
透は、どうせそんなところになるのだろう記事の見出しを思いうかべた。
(ヤラセさ。何もかもヤラセだ)
何だってしてやるさ、どんなことだって、と自分に呟いた。
(もうオレには恥なんてありゃしないんだ)
「そろそろ、行くか」
カメラマンと打ちあわせていた野々村が云った。
「いいかね。こっちは、あくまで隠しどりってことにするからね。あんたは、あんたの思ったようにふるまってくれさえすりゃいいんだ。われわれがどこにいるかなんて、気にかける必要はないよ。シャッター・チャンスを少しでもこさえるよう、ときどきたちどまったり、ポーズきめたりしてくれればいい」
「わかってるよ」
「途中でとび出そうと楽屋口まで行こうとご勝手」
「ああ」
「ただし、もめごとは困るよ」
「わかってるったら」
「じゃあ、先行って、いい場所おさえとくからね」
「オーケイ」
透は気のない調子で云い、髪をかきあげた。
(面倒くさい、面倒くさい。何もかも面倒くさい)
野々村とカメラマンが勘定を済ませてそそくさとたってゆく。見送って、また、
(このまんますっぽかしてやるか)
投げやりな誘惑にかられる。
(追跡調査! ジョニーに背いて四年、いまあのトミーは何を?)
(『反逆のブルース』ミリオンヒット、ジョニーの栄光のかげで──かつてのアイドルスター、その愛と悲しみの軌跡)
(本誌独占! トミーが再起にかけてアイ誕¥\週勝ち抜き挑戦へ!!)
(もとスターのプライドもトミーの名も捨てて──いま森田透の新しい試練がはじまる──アイ誕¥\週抜きに挑むトミーに密着取材)
敷かれたレール。長い失意とあせりのはてに、ようやく一本のレールが敷かれ、それはうしろに島津正彦と、マスコミに陰然たる勢力を誇る野々村正造のコンビがついているかぎり、十中八まで間違いなく、あの輝かしいスター・ライトの中へまっしぐらに通じてゆくレールであるだろう。
(面倒くさい)
本当にスターにもどりたいと望んだことなど、一度でもあったのだろうか、と透は思ってみる。
(いや、そうじゃなかった。オレにとって、スターも拍手も女どもも──みんな、ニセ物だったのだから。本物の栄光はいつも良にあった。世界は良のためにあった。オレは、ジョニーとトミー、とこう語呂よく並べて云われるためだけに──良の本物の輝きにいっそう値打をそえるニセ物のみすぼらしさをさらすためだけに、ライトの中におしあげられたようなものだ)
(オレはスターになりたかったんじゃない──オレは、良になりたかった。ジョニーになりたかった。──それができないならば、オレが何になろうと、どんな方法で奴に匹敵する存在にのしあがろうと、オレは、無だ。何をしたって、何にもならない、世界はオレのための場所じゃないのだから)
(ジョニーは、いつも、一度だって疑ったことはないだろう)
歌の力がわかりかけたいまだから、と自分で訳した歌をうたう良。いろんな歌をみんなと歌い、そして一緒に行きたい──「アイ・ビリーヴ・イン・ミュージック」という、いつもかれがコンサートのアンコールに使う歌のタイトルくらいに、ジョニーをよくあらわしているものはなかっただろう。
(アイ・ビリーヴ・イン・ミュージック
[#2字下げ]アイ・ビリーヴ・イン・ラヴ)
(幸せなジョニー)
そして、何ひとつ信じようとはしなかったオレ──そう、透は思う。音楽も光も拍手もすべてが、少しでも良に似たものであるふりをしようとする手段でしかなかったオレ。だが、誰が、自らそんなみじめな凍えた存在であることを望もうなどと思うだろう。
かたく身をちぢめ、不信で身を鎧い、男たちの手の中をわたり歩き──そうしながら、透は、たえず、心の一番深い底では、その不信の氷の中からかれをひっぱりあげてよみがえらせてくれるナイトを待ち望んでいたのではなかったか。
(信ジタイ。信ジタイ)
つっぱるなよ、とひとびとは云い、どうしようもない奴だ、と云い、すさんだ奴だな、と云った。誰も、その透の、痩せた肩をつきあげるように張り、細い顎をそびやかした喧嘩腰の態度の奥底に隠されている、弱々しくふるえている心を見はしなかった。そんなものがあると見てとれない人もいたし、そんなものにいちいちかまっている暇はない人もいたのだ。
(ふれさせるもんか。|ただ《ヽヽ》で、ふれさせるものか、このすぐに血のふきだす血友病の心に──いくら、からだを買ったからって。──買わない奴は、もっとわるい。自分は一滴の血も流さず、何の犠牲も払わずにオレの心をのぞこうなどという、そんな──そんなあつかましさを、赦すものか)
そう叫びつづけて、さしのべられる気まぐれな手をふり払い、どんどん自らを深みへ追いやってゆきながら、透は、本当は、その棘だらけの垣根をむりやり乗りこえてずかずかと踏みこんで来てくれる心を──自らも血をふきだすことをものともしないで、かれの傷にいやす手をつっこんでくれる心を、待ちこがれていたのかもしれない。
(ジョニーは、ジョニーなんだ。お前はお前──ジョニーが何だ。もう、あんな奴、忘れちまえ)
(お前には俺がいる。俺がいつもそばにいて、お前を見ているよ)
(巽さん──!)
透は、激しく、目を閉じた。巽だけは、皆のようでなかった。彼はたまたま拾ったにすぎない野良猫が、ただ助けを必要としていた、というだけの理由で、彼のもっている何もかもを何の見かえりも求めずに注ぎこんでくれた。
(あんたがジョニーをやっちまってくれ、と云うんなら──それで、あんたの気が晴れるなら、俺は、あんたの云う通りにしてやるよ)
(どんなことでも?)
(どんなことでも)
(わるいことも?)
(わるいことも)
(どうして? ──どうして?)
(つまらんことをきくな)
巽は笑ったものだが、
(あんたに惚れてる──だからさ)
巽自身がそう信じこんでいたにせよ、それは正しくはなかった。巽のようなタイプの男には、愛憐は何よりも重い感情なのだ。透が望むから、彼は何のかかわりも恨みもない良を殺してもいいと思ったのだ。透が望んだからだ。
(巽さん。あんた──ばかだよ)
ひどくやさしく、まるでとけるようなやさしさをこめて透は思った。大きな、強い男、無器用で、やさしい笑いと、子供っぽい荒々しい魂をもった、湿った鼻づらの大きな狼。
(オレなんか──そんな値打ないのに)
巽だけは良にやりたくなかった、と透は自分で驚くほど苦さも痛みもなく思った。巽だけは、巽だけは──せめて、良を愛してしまった彼に裏切りの痛みを植えつけてしまったりしたくなかった。良を彼が愛してしまったことを責める気には、まったくなれない。
(でも──せめて巽さんぐらいは、オレにくれてもよかったのに──せめて……)
いつも、あらゆるあたたかい愛、熱い愛にとりかこまれている良。その良が、かれから、さいごのひとかけらのあたたかみさえも奪い、そしていまこの大きな東京プラザ・ホールを満員にして、光をあびて、得意の絶頂にたっている。
(そして巽さんをなくしてしまったというのに、こんなところで、恥知らず──と笑われてでも、お前のおこぼれで、何とかカムバックしようとしているオレ)
あとで、その記事を見て、レックスの仲間たち(|もと《ヽヽ》仲間たちだ)の云うことがいまからきこえるようだ。
(イヤだね──不愉快だよ)
(恥を知らないんだよ)
(こうまでして、話題んなってカムバックしたいかと思うと、あわれだね。おちるとこまでおちたって感じだな)
(この記事見て、ジョニーがどんな思いするかなんて、考えもしないのかな。ジョニーが可哀想じゃない)
(もとから、感心するぐらい、エゴイスティックな奴だったよ!)
何とでも、云うがいい。どのみち、はじめから、ジョニーの足もとにひざまずく偶像崇拝者であるかれらが、おこがましくももう一つの太陽としてかれらの神と競おうとするかれを、赦すはずもなかったのだ。天に二つの太陽は、ましてその一つが人工のみじめな光でなく、何百年に一度の真のまばゆい、おもてもむけられぬ恒星であるならば、赦そうはずもない。
見おろしたガラス越しに、下の広場を埋めていた、少女たちの群れはひとりもいなくなっていた。新聞社の旗をたてた車が何台かとまっていた。
(行かなくちゃ)
ぼんやりと透は考えた。たちあがり、歩き出し、店を出て階段をおり、一階のホールへ入ってゆかなくてはならない。
かれにふりあてられたおぞましい道化芝居を、さいごまでやりとおすために。かれがジョニーでなくトミー、森田透に生まれてきた、という悲哀にみちた杯を底の|おり《ヽヽ》までも飲みほすために。
(たたなくちゃ)
野々村とカメラマンは下で苛々しながら待っているだろう。もうとっくにジョニーのリサイタルははじまっている。それが終わってしまっては、意味ないのだ。からだのなかに、まるで石か鉛がつまっているような気がした。たちあがって、動き出す気力がどうしてもふるい起こせない。動かずに、このままぼんやりしていたい、という疼くようなけだるい希望にとりかこまれ、何もかもが、どうでもよくなってゆく。
(どうして、あんた、自分でどうかしようって思わねえのかな)
巽の声が思い出された。
(こうしてほしい──ってんでもいいや。とにかく、なんか、あるんだろう? こうしたい──ああしたいってのが……ないとすりゃ、病気だよ、そいつは)
(透は、病気なんだからさ)
透の胸に悲哀ともいっそ快感ともつかないなまぬるく甘ずっぱいものがこみあげる。巽はかれのマンションの前でかれを待っていた。
夜はきっと、かれとはじめて会った六本木のクラブ、逃げ出したかれを追いかけてつれもどしに行った原宿のバー、などへも行っているに違いない。透の失踪をわが身の罪と信じて、巽は手負いの狼のように凶暴に、あてもなくうろついているのだろう。
(もう、充分だよ。充分なんだ──あんた、主役じゃないか。主役がそんなにして録画サボったりして、ダメだよ、ほされちまうぞ)
透は泣き笑いのような表情をした。それから、ようやく、行かねば、と必死に自分に云いきかせる。
下のホールの音響が、かすかに底ごもる基音になって、二階までひびいてくる。良があそこで歌っている、と思うことが、なおさらかれのからだを、重く、ままならぬ石にする。
(行かなくちゃ)
再び、透は思った。夢からさめなければいけない、と夢のなかで云いきかせ、さあ、さめた、と感じ、次にそのさめたという思いもまた夢だったとぼんやり気がつく人のようにだ。
(行かなくちゃ)
(誰ももう、オレを助けてくれる人はいやしない)
(自分で立って、出ていかなくちゃならないのだ。自分で──道化芝居のステージへ)
(あまりごちゃごちゃ手間どると、野々村が怒って云いつけて、また今夜が──今夜がひどいからな)
(あいつらったら──まるで、オレがどれだけのひどい扱いに耐えられるか、人体実験してるみたいなんだから)
(きのうみたいなこと、つづけてたら、オレはほんとにそのうち死んじまう)
(だから──行かなくちゃ。行かなくちゃ……行かなくちゃ……)
むしろ、悪夢からさめようとする人のように、もがきながら、しかしやはり透はけだるく座ったまま、動けずにいるのだった。
* *
ようやく、透が、いったん外に出、ぶっきらぼうに札を放り出して当日券を、「立見ですよ」と念を押されて買い、ゆっくりとした足どりで入口を通りすぎたときには、すでにショーのなかば以上が終わろうとしていた。
ロビーは閑散として、とっくに、少女たちはホールの中へ吸いこまれ、良とレックスの仲間たちがくりひろげるショーにうつつをぬかしている。
透はティー・ルームを出がけにかけたサングラスをゆっくりとはずし、黒いロシア貴族ふう上着の衿をたて、無造作に細い指をつっこんで、栗色の前髪をかき乱した。
誰もいない売店に、ジュースやサンドイッチの箱と並べて、即売用のポスターとパンフレットがつみあげてある。同じポスターが見本として、うしろの壁にはりつけられている。
透は目を細めてそれを見あげた。
「今西良・反逆のブルース」
とだけクレジット・タイトルを下に流して、黒を基調の、そのポスターの良の顔が、透の目をしばらくその上から外せなくさせた。
息づまるほどに、それは、美しい、なまめかしい横顔だった。画面半分に、鉄格子を匂わせた、黒っぽい棒を等間隔でおろし、うしろは都会の夜の遠景。そのイルミネーションを、まるでうずまくゆたかな髪にちりばめた飾りピンのようにして、良は、鉄の棒にてのひらをこちらにむけた腕を水平にあて、唇を半開きに、白い歯をのぞかせ、挑むような、遠くを見るような、あやしい表情で瞳を上瞼にひきつけていた。
素肌にじかに黒革の、やたらにチャックの多いジャンパーと、太い鋲打ちベルトをまきつけた色あせたジーンズ。なめらかな裸の胸には、金鎖にサメの牙のペンダントがちかりとさがっている。まるで美貌の不良少女のように、挑発的で、けしからぬほどに、心をそそった。
よう、ジョニー、と透は笑いかけた。ひさしぶりじゃないか。きれいだね、相変らず。
顔立ちなら、透の方が美しい、と誰もが云ったにもかかわらず、まわりにいるどんな美男、どんな美女の影もうすくしてしまう、内からくるめく光を放っているような、天性の生命の輝きが、そのかれのライヴァルにはそなわっていた。
そして、まるでどんな歌をも、きく人ひとりひとりへささやきかける恋歌のように切なくしてしまうふるえるような声と。
その声が、いま、歌っている。一曲終わったのだろう、閉じた扉のむこうから潮騒のようなざわめきがきこえてくる。
(開演中の正面扉よりのお出入りはご遠慮下さい)
人けのないロビーでの分は、もうたっぷりとカメラにおさめるチャンスをやった筈だった。透は、おもむろに、張紙のしてある扉をおして、暗い会場に入った。
いきなり、少女たちの悲鳴のような声と、そして音の嵐がかれをうった。
(……自由な鳥のように)
反射的に、びくんとした。レックスのヒット曲、かれがハモってあわせていた曲が演奏されている。
舞台はストロボ・ライトにめまぐるしくうつしだされ、赤と黄と青が瞬間的にかけまわった。
(音の波。オレを包む、オレをとりのこしてあふれ去ってゆく、音の風)
いま、透は、良とむかいあって、暗い客席をへだててたっていた。かれに背き、ソロ・デビューのためにレックスをとびだしてから四年めの夏に。
(良)
透の手が、ゆっくりと、ポケットにすべりこんだ。
(良の衣装)
いつも、良は、|すご《ヽヽ》いなりをする。かれの、というよりはスタッフの好みだ。良はどんな恰好をしてもそれなりに魅力にしてしまったから、スタッフにとってはそれはエスカレートする着せかえ人形遊びだった。透と決定的に違っていたのは、良がいつも自分で、自分がどうなるのか、面白がっていたことだ。
今夜、ジョニーは、ぎょっとするようなステージ衣装を着ていた。まぶしいストロボのせいで、色はわからない。しかし、スパンコールのひもを四段ぐらいにぴかぴか縫いさげた網シャツは、ほとんど、なめらかな汗にぬれた胸に申しわけ程度にはりついているだけだった。そしてシルクの幅びろのサッシュで思いきり、細いひと握りにできそうなウエストをしめあげ、それにミック・ジャガーふうのだぶだぶズボン。
華奢な手首に重そうなブレスレットを手当りしだいにつけ、ふりかざした手に光の中では真黒にしか見えない濃い色のマニキュアがあった。ライトの中で、髪も、手首も、耳も、シャツも、全身がたえず光をはねかえしてきらめいた。まばゆい巫女。おもてもむけられぬ、くるめく炎の乱舞。
[#1字下げ](立ちあがろう ぼくと
[#2字下げ]歩き出そう ぼくたちと
[#2字下げ]いまきみも嵐の空へ
[#2字下げ]自由な鳥のように)
マイクを握りしめて口にあて、まるで飲みこみそうに口をちかづけて、シャウト唱法でハードなロックのテーマを歌っていた。
良──透は、耳を聾するスピーカーで増幅されたサウンドと、それにまけぬ少女たちの絶叫に酔ったように、声に出して呼んだ。かれは、野々村のこともカメラマンのことも忘れた。かれは、一番うしろの柱に身をもたせ、のりだすようにしてききいった。
誰も≪トミー≫に気づくものはいなかった。かれらすべての目は一瞬もはなれずひたすらステージと、ステージせましと踊り、のけぞり、マイクを放りあげるジョニーの上にくぎづけになっていた。ステージはまさに最高潮を迎えていた。
この客席のどこかに、巽もいるかもしれない──そう、透は思った。巽は、良を、見ているだろうか。
コートのポケットにつっこんでいた手を、そっとぬき出してゆく。その指が、かたい、冷たいなにかを握りしめている。
そら、と透は思った。こいつは、オレにこんな芝居を演じさせようという、野々村のコンテにもなかったはずだ。オレの独創──オレのユニークな役づくり。
それは、銀色に光る、登山ナイフの柄だった。
殺意はいつもオレのどこかにわだかまっていた──ふと、その、暗闇の中でにぶい光をはなつ刃を見つめながら、透は考える。その光は、ステージの上で良のあびている光のまぶしさ、華麗さにくらべれば、あまりににぶく冷たい。
それでも、オレは来がけにこれを買ったから、やっとこの芝居を演じる気になったのだ──そう、思った。遠足にいく用意のリュックにさわってみる子供のように、賑やかな光と音の中で、そっとその分厚い刃にさわってみる。
オレはお前を殺せるよ、良、──と、透は胸の中で呟いた。
広い東京プラザ・ホールを立見まで満席にして、良は歌っている。ギターがハードな間奏をかなで、光夫のキーボードがやわらかなコードをかさね、良はしなやかなからだを揺らして踊る。サロメの動きのたびに前の方に陣どった少女たちが悲鳴のような嬌声をあげる。
ここから、と透は思った。ここから、ひとびとをかきわけて、舞台まで、三分フラット。目だたぬよう歩いていき、いきなりステージへかけあがる。輝く衣装につつまれて両手をひろげ、熱唱するジョニーのあのなめらかな胸をひとつき。
顔に傷をつける、などという汚ないまねはしない。なぜならオレはこれで──オレはこれで、たしかにお前が好きなのだから。いや──むしろ、愛している、とさえ、云っていいくらいだ。
そうだとも──そうでなくて、どうして、お前を憎もう。オレは、愛してるよ。愛してるんだよ、ジョニー、オレがお前であれなかった、そのお前だけを。愛とか、憎しみ、とか云うよりも、ずっとずっと大きく深く──オレには、お前しかなかった。
そう──お前しかない。憎むにせよねたむにせよ、お前はあまりに巨大で強力で、オレの前にたちはだかり──オレはいつだって、お前しか見てはこなかったのじゃないか。
巽さん──巽さんを奪い、足もとに膝まずかせているお前。修を苦しめ、そむかせ、ひとり泣いたお前。どこまでいっても、オレにはお前、お前がすべてだった──本当は。
お前が、オレの宿命であり、呪いであり、オレと世界、オレと愛、オレと生との前にすべて立ちはだかって、オレにそれらを手がとどかなくした。
だから──だから本当に、このナイフででもなければ、オレはお前から、逃がれることはできないのかもしれない。お前はまわりにいるすべての人間を、恋か、信仰か、狂信か、妄執か──よくて熱烈な友情に、必ずおとし入れてしまった。
オレだってむろん──オレだけが例外でお前に対して冷血であれたわけもない。だが、オレはもう、男たちの欲望を知ってしまっていた。
からだに、かれらをうけいれ、かれらの対象であることを知っていたのだ。そんなオレには、お前を憎み、お前の無邪気な好意をはねつける、というかたちでしか、お前への恋をあらわすことが赦されてなかった。だから、いたたまれなくなって、オレはお前から逃げていった。オレが修のような、巽のような、立派な一人前の男だったら──
そうしたら、絶対、お前を誰の手にもわたしはしないのに。
だが、わかるかい、ジョニー──このナイフが、オレの欲望──お前につきたてられるオレの男根になって、かわりにお前の血を流させてくれるかもしれない、ということ。ナイフを胸に刺されて、信じられず、驚愕の表情で、なぜそうされたのかもわからずに、何年も前にお前から逃げていったオレを見つめるお前はきっと凄いくらい、きれいだろう、エロティックだろう、たまらなく可哀想だろう。
わかるか──良、わかるか、お前には。お前を愛してるのは──さわぎたてるファンの豚娘どもよりも、レックスの仲間よりも、巽よりも、風間俊介よりも、誰よりも本当にお前を愛しているのは、このオレ、トミーこと森田透、かもしれないよ。
知らず知らず、ナイフを握りしめる指に力がこもり、関節が白くなった。透は、小さく唇を開き、喘ぎながら、遠い高いステージ、その上で小さく見える良にむけて、一歩踏み出そうとした。
その肩が、激しくつかまれた。
「おい」
かすれた声が云い、ふりむくと野々村の顔が、暗がりでもわかるほど青ざめてそこにあった。
「何をする気だ、ばか」
「はなせよ」
「そんなことまでヤラセしろと、云ってやしないぞ」
「はなせったら」
シーッ、シーッ、と怒った少女たちがふりむいて怒鳴った。野々村は透の腕を握りしめ、なかばひきずるようにして明るいロビーへ出た。
「それは、何のまねだ。どこで手に入れた、そんな物騒なもの」
「放っといてくれよ」
夢見るように透は云った。この夢からさめたくない。もう二度と、さめたくはない。
「オレ──あいつを殺すんだから。そのためにこのナイフ買ったんだから。どいてよ──あいつを殺すんだから」
透の目は野々村を通りこして、壁のむこうの光の巫女を見ていた。野々村は戦慄した。
彼は手をふりあげて透の頬を打ち、ねじあげるようにしてナイフをとりあげた。透は壁にもたれた。
「ばか」
野々村が云い、もう一度強烈な平手打ちを見舞った。
透は頬をおさえもせずに、くっくっと笑い出した。本当に発狂してしまったかのように、かれは身を折って笑いつづけた。
(B.G.M.by D.T.B.W.B.)
フールオンザヒル
(良を愛している)
そのことばが、透のなかに、まるで、柔らかな肉につきささった棘のように食いこんでいた。
「何だってんだ──ずっと、ぼやーっとしちまって」
野々村が、気がかりそうに、帰る車の中でとがめたが、それにも上の空の応対をしただけだ。
(そうだ──オレは、良を愛していた)
憎しみのかたちをしかかりられない愛であったにせよ。決して、愛しても何をも生まない、まるで乾季の河のような愛であったにせよ。
(これがオレの唯一つの愛だった)
知りたくなかった──そう、思った。良なしで生きてきたことはなかったなどと。──良から遁げたという、そのこと自体が、かれのなかでの良という存在の重さを物語るものだった、などと。
(ああ──オレはここにいるよ。ここにいて、お前のことを考えているんだよ──良!)
巽も、こんなふうにして、良のことを考えたのだろうか、と透は思った。修も、他の誰かれも。
良を愛してしまった──それがすべてのはじまりだったのだと、透は思った。
(愛していた──憎しみの顔で、呪詛のことばで……雨の日には雨の日のように、晴れた日には晴れた日のように、お前のことを考えない日など、ただの一日もなかった)
お前は人を信じてないんだな、と、かつて光夫はかれを非難したものだ。
「お前──それで、淋しくないの。誰も愛さないで、欲望だけ信じて、それで、生きていけるの、お前」
透は答えなかった。ひきむすんだうすい唇のなかでは、叫んでいた。何もかも嘘っぱちだからね──欲望は、少なくとも男の欲望だけは真実だ。抱きたいと思わなけりゃ、立ちやしない。これよりたしかなつながりあいが他にあるわけないじゃない。
しかし、そうではなかった、と思う。この思い──どこから行っても必ず良につきあたり、良にむかっていってしまう思い、良が巨大な壁のようにかれのすべてをおおいつくしているということ。
それは、欲望よりもたしかだった。かれはえものであって猟師ではなく、それゆえに良を手中に摘みとれるという可能性もなく、だからこそかれは良を憎み反発しつづけてきた。
(しかしそれは、オレが良なしで生きてきたことなどないという、何よりのあかしではなかったろうか)
良につながれ、プロメテュースのように、その思いの不毛さに息をとめられかけては、あらためてつながれなおさなければならない自らの運命を、ひそかに透はあわれんだ。
(オレはどうやって生きてきたのだろう)
「おい、トミー」
島津が、いぶかしげに云う。
「どうしたのよ──この二、三日、あんた、まるで、生ける屍だね」
そんなふうだと、縛ってみる気もなくなっちまう、とつけ加えて、肩をすくめた。
「ひさびさにライヴァルのステージ見て、圧倒されて、やる気なくしちまったのかい」
「だったらどうするんだ」
ぼんやり透は云う。
「きまってる。プロジェクトは中止するさ。別に、人形に活入れてなんとか生きた人間に見せかけてまでやる価値のある計画じゃない。皆が見たいのは、ビッグスター、ジョニーへの執念にもえて屈辱に耐えてるあんたのSMふう見せ物なんだ。そんなトローンとした目じゃ、いくらナレーションがわめいてみたって、執念の人間ドラマにゃ、なりゃしないからな」
「そう?」
やはりぼんやりして、透は云った。島津は眉をひそめ、そんな透を見つめた。
ふかい麻痺状態とでもいったものが、反動のように透をとらえていた。
他のことなど一切どうでもいい。なるようになれとさえ、思わなかった。ただ、良のこと、良を愛していたのだ、ということ、それらをまといつかせて、ぼんやりと思いにふけっていたい。もう巽のことも思わない。何をどうしようという気持もない。
食べ物も要らず、眠りたくもなかった。もともと人よりはうすく生まれついたらしいさまざまな欲望が、
(良を愛している)
という、大きなおどろきの前に、まったくその要求を忘れ去ってしまったかのようだ。
良を憎み、ソロ歌手として良と良を選んだ仲間たちを見かえしてやろうとすることで、のちには巽の逞しい生命力にすがりつくことで、ようやく少しは生き、生活することに目的を見出していたのかもしれなかった。
透の放心状態を、島津は、それ以上せんさくすることもなしに眺めていた。彼にもまた本当は、性欲も愛欲もあまりに遠い感情なのかもしれない。島津は透の状態を黙って眺め、分析することにむしろ、自らをかりたてて透のからだをむさぼるよりもずっと陰気で底深い快楽を味わっているようだった。
「なあ、トミー」
彼は、壁ぎわに膝をかかえてぼんやりしている透を眺めながら呟くように云う。
「ムラさんが、さわいで大変だよ。こんなとこで手間どってられないから、こういうときこそ、吊してでも、鞭で背中血だらけにしてでも正気にかえせばいいだろうってさ」
「………」
「だが、俺は、多少わかるんだ。あんたの気持とか──あんたが考えてること」
「………」
「なあ、トミー──あんたとこれで一ケ月ばかり、一緒に暮らしてびっくりしたんだけどさ。あんたって、驚くほど、そうだな──体臭が薄いんだね」
「………」
「放っといても、そう髭ものびない。動きまわらない、しゃべらない、食わない──ふつう一日でも若い男が部屋にいりゃ、何もしなくたってその体臭、生活反応ってものが少しはつくものなんだが、あんたは──俺は、ときどき、あんたが俺の城へ入りこんで一緒に住んでるってことを忘れちまう。──人の匂いがイヤで、俺は結婚も同棲もできないんだが──あんたは、気にならない。まるで、ひと鉢、サボテンの鉢がふえただけみたいでさ」
島津は鋭く透を見つめ、そしてふっと奇妙な微笑をうかべた。
「どうして、人の匂いが気になるかって云うとね──俺も……自分が、あまり匂いがないからなんだ。匂いがないと云うよりは──たぶん、何が本当なのか、何がつくりごとなのか、もう全然わからなくなっちまってるからさ。俺みたいなウソ人間には、ナマの生活の匂いなんてやつは、何によらず耐えがたくクサいのさ。俺にとって一番現実感があるのは、安っぽい、ライトに照らされたつくりものめいたスタジオ・セット──俺が一番愛してるのはいつも、台本どおりに生きて動いて死んでゆくにせの生の中の人間ども……ってわけでね。俺は、いつも、どんな悲惨な人間でも、どんななまなましいと称される現実を見ても、フィクションよりもっとウソにしか見えない。畜生、ここでソフト・フォーカスかければな──この野郎イモな演技しやがって──ぶさいくな台詞だなって具合でさ。俺にとって真実はつくりごとの、TV画面にしかない。ムラさんは、病気だよ、と云うが──そうだろうと思うさ」
「………」
「わかるかい、トミー──俺は、あんたがわかるというの、そういう意味でなんだ。あんたも──あんたも、別の意味で、この現実がウソにしか見えない人間なんだ、という気がする。何が真実だろうと、道徳だの、倫理だの、思想だの──世の中の人間が考え出して、そいつが大切なんだってことにきめて、そして大切にしてるものがどうしても重要に思えない、そもそも生きたり、死んだりってことにそんな重い意味があるとも思えない種類の人間に見える。と云うことはさ──われわれは、もしかしたら、同じような片輪者──似たもの同士ってことかもしれんさ。こいつは、あんたには、どうでもいいことだろうけれどね」
透は、きいていなかった。島津は苦笑してつづけた。
「あんたがどういう生き方をしてきて、まわりからどういう扱いをうけてきたか──と云うよりは、あんたの存在そのものの軌跡みたいなものがさ。俺にはなんとなく、わかる気がするんだよ。あんたは、いつも、まわりの人間とうまくいかなかったんじゃないか? ──同じことをでも、あんたがすると何となく敵意をかっちまったりしてさ。──あんたはそれに対して身を守ろうとする。そうするほどまわりはあんたにわるい感情をもつ。なかには直接、性的な暴行といった態度に出る奴もいる。あんたの態度というやつが──何と云うか、たいしてそのけのない奴にまで、サディスティックにならせちまう。この野郎いためつけて、いたぶって、めちゃめちゃに踏みにじってやるという気持を起こさせる。前に、あんたは雲助にさらわれてまわされるお姫様だと云っただろ? あんたがそうやって、生活欲もなくぼーっとして、おまけに自分で自分の身を守ることもできない、みたいなところを見せてると──まるで、襲ってくれ、って札さげてるみたいなもんさ。あんたが傷ついて悲鳴あげて泣きわめくほど、相手は見さかいなく興奮しちまう。あんたの抵抗もあんたの無抵抗も相手をよけい刺激する。そうして、残酷にさせられた、ということで、なまじサドっけのない人間はあとで必ずあんたを憎む。みんなあんたのせいだと、わるくわるく思いはじめる」
「………」
「なぜこんなことが云えるかというとさ──あんたは、俺がなるまいとして、そう自分をつくりかえていく前の俺の、正確な同類だったからさ。俺も昔、それに気がつく前は必ずやられる方の子供だったよ」
「そう?」
わけもわからず、ぼんやり透は云う。
「だが俺はそれが我慢できなかった。あんたはスターになることでそれから逃がれようとしたが、俺は自分を徹底的に積極型で攻撃的で支配型の人間にすることにした。つまり、連中の行為というのは、こっちの反応がひきだすんだよ。あんたが非力だと、奴らは襲いかかってくる。俺のように嘘にでもムチをふるって見せると奴らは鼻声でムチをねだりだす。つまり、あんたと俺は正確なネガとポジ──同じ盾の裏おもて、なんだってわけさ──どっちにしても、われわれが、人間と、生きていること、そのすべてをどうもあまり好きにもなれないし、いいもんだとも思えずにいる人種なんだ、ってことには違いないがね」
島津の長広舌はほとんどがただ透の耳を素通りした。島津もまたそのことを気にかけるようでもなかった。
すべてにおいて、好きにするがいい、というのが島津の基本的な態度だった。彼は自分の生活をつづけており、別に透に食事を強いるでもなく、プロジェクトの進み具合を知らせるでもなく、放っておいた。
それをよいことに、透は無感覚と無為の中に沈みこんでいた。そのままにしておけば、心の底にまでしみこみ、かれをほんものの狂気にみちびいていったのかもしれぬ無感覚だった。島津がそこからかれをひきずり出したのだが、それもまた彼にとってはべつに意識しての行動ではなかったのだ。
「なあ、トミー」
東京プラザのリサイタルから、二週間ほどが経っていた。季節は夏に移ってゆこうとしている。夜おそくに疲れて帰ってきた島津は、入るなり、ワイシャツからネクタイを息苦しそうにひきぬきながら云った。
「明日から活動開始だ。アイ誕≠フスケジュールがきまったからね。あした、チーフ・プロデューサーの酒井って男に会わせるから。俺の後輩で、切れる奴だよ」
彼のつねで、それもまた決定事項として告げる。もし透がそれが気にくわないのならば、それはそれで勝手にするがいい、というわけだ。島津の言動にはつねにそうした非人間的なほどの無感動さがそなわっていた。
「──そう」
透もまた、まったくどうでもいいことのように答えた。
「──それから、今日ちょいとRVCの久野に会って、『裏切りの街路』の話とかいろいろきいたんだけど」
「──街路=H」
「そう。あれ結構大変らしいぜ、巽竜二が、前、ジョニーにけがさしただろ。こんどはどうやら風間俊介ともめごと起こしそうで、風間がまた、ジョニーめあてで用もないのにスタジオに日参して、ババッと火花が散ってるってとこらしい。惜しいね──チンケなドラマより、そっちをばっちり撮ればいいのに──しかし、巽って男も、畳の上じゃ死ねないよね。いまどき珍しい無頼派だ。『海の挽歌』んときも撮影中に肩の骨折ったり、で、あとでワイセツ裁判だろ。平穏無事じゃ済まない星の下に生まれてるんだろうな──しかも今西良じゃ──よりによって、えらいのに惚れたもんだよ、あんたにせよ、巽竜二にせよさ」
透はこの数日の無感覚からわずかにうかびあがって鱗を見せる魚のように、きらりと青く光る目をむけた。しかしまたすぐに目を伏せて、ぼんやりと微笑する。
島津がふと、苛立ったようにかれをにらんだ。
* *
「とにかくさ」
野々村が云った。彼の横で、透はぼんやり走り去る景色へ目をあてている。
「誰が何ごちゃごちゃ云ったって、十週抜き、チャンピオン、てのはもう、決定してるんだから──そのつもりで、楽にね──もっとも、これはあんたには、必要ないセリフだろうけど」
「そう、必要ない、この人には」
島津が後部座席で笑ってうける。
「俺はやっぱりまずいから、一緒には行かない。あとで偶然ひま作ってのぞいたって形で行ってみるからね。また、あとで」
「わかってる。ちゃんと、こころえてるよ」
「まかせたよ、ムラさん」
野々村の運転するBMWは、KTVのスタジオ前にすべりこんだ。
「ばかに、女の子が出てるな」
ふっと、眉をひそめて野々村が云った。
「トミーの再起の噂、きいて集まってんじゃないの」
「ばかな。いや、失礼──だが、それなら苦労せんさ」
野々村は苛立ってクラクションを鳴らした。
「おい、トミー、わるいけどこれじゃ前までつけられないよ。ちょっとおりて先に行っててくれ。俺は地下ガレージへ車をおいて、島さんをおろして、すぐ行く」
「ああ」
「入ってまっすぐ、つきあたり右の二番目のエレベーター。ああ、あんたにゃ、わかってんだっけ」
透は黙って門のところで助手席からおり、たむろしている少女たちの群れを迂回して内玄関へ入っていった。
「何、考えてんだろうな、あいつは」
野々村がそのほっそりしたうしろ姿を見送り、またやけのようにクラクションを鳴らす。
「なんだってこんなファンが──誰が来るって……」
「ムラさん、ちょいと、この辺にとめといてくれ」
「何だって?」
「何時だ?」
「え──五時二十分。島さん、あんた何……」
「もう、来るな」
島津は笑いを含んだ声で云った。
「島さん──?」
「今日、3スタで、ジョニーが、『スターと十五分』のゲストなんだ」
「え?」
野々村がふりかえった。
島津のほっそりした顔は、はかりしれぬ仮面のようだった。
「ジョニーが? スタ十五≠ネらオンエア七時四十五分だろ。リハ入れて、ジャスト、スタジオ入りのころじゃないの」
「そう」
「ぶつかるよ、トミーと」
「ああ」
「島さん」
野々村の目が細くなった。
「あんたそれを知ってて今日──」
「見たかったのさ」
冷静に島津は云った。
「よし。あれだ、タイミングばっちりだ。あの黒いベンツ、風間俊介の車だろう」
「島さん、そいつはいくらヤラセでも──」
「何だい」
「トミーが可哀想だよ。いきなり、じゃ」
「あんたらしくもないことを云うね」
「こう急じゃカメラの用意もできやしない」
「何だ。本音はそれか」
島津は笑った。
「見たかったのさ、ちょっと──トミーがじかに四年ぶりでジョニーとすれちがうとこをね。どんな具合にスパークするか。──ドキュメントの絵柄をおさえるのにどうしても一回、ブチあてときたかった」
「ひどい人だ」
「どうしてさ。──ちょっと車よせてくれ。豚娘のかげになって、肝心のトミーの顔が見えない」
野々村は黙って島津を見て、少し鼻白んだていで車を動かした。透は、娘たちがどっと動いたために玄関でさえぎられて、足をとめている。
黒光りするベンツがゆっくりとすべりこんできてとまると、少女たちはいっせいに「ジョニー」「良ちゃーん」と歓声をあげながら、そちらへむかってなだれをうった。
* *
透は、すべりこんできた黒いベンツを見ていた。
知らぬまに、足がとまった。まわりにたむろして、がやがやしていた少女たちが急にわあっと声をあげてそちらへ動いた。門衛があわててとびだしてくる。
「ジョニー」
「良ちゃーん」
「こっち、むいて」
「ジョニー」
はっきりと、その歓声が透の耳を刺した。透のからだをつきぬけた衝撃はむしろ、歓喜のおののきに似ていたかもしれない。
(良)
少女たちは透をふりむきもしなかった。彼女たちの目も、心も、ジョニーに集中していたのだ。
それを、しかし、この四年間ではじめて、透は、まったく気がつきもしなかった。忘れられ、見捨てられたタレントである自分に、胸の奥が疼きもしなかった。かれの目と思いもまた、黒いベンツの後部の座席へ、──まるで、そのひろい玄関先を埋めたファンの少女たちのひとりででもあるかのようにいちずに、ひたすら吸いよせられていたからだ。
(良)
良は、このあいだのリサイタルにオレが来ていたことも、ましてやオレの手からもぎとられたナイフのことも知ってはいないだろう、と思う。
巽とかれ自身のこともむろん知るまい。巽はそんなことをみだりに云ってまわる男ではない。そして修──長年の親友である修が、どうしていまになって突然レックスを去っていったのかについても、修の本当の気持──(先生《センセ》と巽さんが良をめぐってびりびりするところなんか二度と見とうないんや。見てられへんのや)──をもまた知っている筈もない。
何も知らないジョニー、と透は思った。無感覚に冷えた手脚に血のめぐりがもどってくるように、ゆるやかにぬるい愛情がかれの憎むのに慣れた心にさしてくる。
いつも、お前は何も知らず、何も疑いさえせずにみんなに守られ、大切にされてるんだね。幸せなジョニー、みんなに愛されて。
オレもだ──そう、透は思う。お前を愛していたんだよ。愛しているよ、こんなにも。お前の死をこの手でこさせようと望んでしまうほどにも。
黒いベンツはほとんど少女たちをひき倒さんばかりにしてとまり、その左前部ドアがあいた。
「ジョニー」
「ジョニー、サイン」
押しかける少女たちを押しのけるようにして、運転席からおりたった男は、背が高かった。
薄色のレイ・バンのサングラスをかけて、何となく外国人めいて見える男だ。鼻の下にたくわえた見事な髭のせいかもしれない。グレイの三つ揃に身をかためて、押しよせる少女たちへちょっとユーモラスな閉口のそぶりをすると、ぐるりとまわって、助手席のドアをあけてやった。
「ちょっと、道をあけて下さい。ちょっと、ね、急いでるんだから」
とびだしてきた門衛と、うしろの座席からとびおりたマネージャーの清田、それに透の知らない、付き人かバンド・ボーイらしい男の子が、ファンをかきわけようと声をからした。
「ジョニー」
「良ちゃん」
少女たちは少しでも前へ出ようと押しつづける。風間俊介は眉をひそめて、作曲家などにしておくのは惜しいような、広い逞しい肩で彼女たちと良とのあいだに割りこむようにして、車からおりるかれを庇った。
(ジョニー)
透の顔がゆがんだ。
良は、そこに立っていた。ちょっと当惑したように、眉をひそめ、しかしなかば仕方なさそうに、風間を見あげて何か云う。良は、Tシャツとジーンズに、野球用のジャンパー、というごくくだけたなりをしていた。かれをステージでとりまいている華麗なライトもなく、かれをひきたてる銀粉や薄化粧やあらゆる奇抜な衣装もない。どちらかといえば小柄で華奢な良は、まるで、ジャンパーのポケットに手をつっこんで口笛を吹き吹き歩く、いたずらっ子の少年、といったようすで、大きな庇護者の胸のかげに立っていた。
そして、それにもかかわらず──むとんちゃくな装いや、日灼けして、特に美しいわけでもない顔立ちにもかかわらず、かれが車からおりたったとたんに、すべての目は、かれに吸いつけられていた。
たぶんかれが≪ジョニー≫だから、高名な歌手だから、でさえなく。──なんの意識も、大げさな媚びもなくて、かれはどんなところでもひとびとをひきつけることができただろう。
それは、良、というこの少年めいた若者がほっそりしたからだ全体に漂わせている、ある種ののびやかさ、無邪気さ、といったものによってなのだった。華奢なからだつきは、いかにも弱々しげだったが、それでいてすみずみまで、しなやかで炎のような生命力にみたされていた。巽が巨大な狼であるなら、良は岩をかける若鹿か、この世で最も危険で美しい獣なのだという黄色い目のオオヤマネコだっただろう。
かれを見ていることは、喜びだった。かれのすべてのしぐさ、すべての鮮烈な表情が、(ぼくは好きだ)(生きていることが好きだ)(歌うのが好きだ)そう、歌っているように見えた。ひとたび、そのあふれる泉から飲んでしまったならば、どんな冷血漢であろうとも、かれのそのためらいなくさしのべる手にこたえぬこと、かれの輝く目に不信と悲哀の表情をうかばせ、知らず知らずあふれてくるその歌をたやしてしまうことくらい罪深いことはないのだと思わずにはいられなかったに違いない。
(良)
愛している──そう、たちすくんでライヴァルを見つめる透は思った。輝かしいミューズの器、子供のように喜び子供のように悲しむお前、オレから巽竜二と未来とを、すべて奪い去り、そのことの意味さえ知らないお前。
ああ──ジョニーである、ということは、どんななのだろう? 誰もかれのように歌えず、踊れず、感じられない。それゆえに、誰も、ひとりとして、ジョニーに似てるものはない。お前である、というこの運命は、お前であることができない、というオレ自身の運命にもまして重いだろう。誰にも肩がわりしてもらえぬだろう。
レックスの仲間が、どんなに愛し、一緒に行こうと思ったところで、光の中にいるのはかれひとり、歌い、観客を熱狂させねばならぬのもかれひとり。いくら愛し、そばにいたいと望み、助けてやろうとしたところで、究極にはジョニーはひとりだった。それは、なんという孤独の重さだろう。かれに取ってかわれるものは誰ひとりいない、かれに少しでも似かよったものさえもまたいないのだ。
ジョニーである、というこれほど重い運命を、その細いからだ、少年のような華奢な肩にひきうけて、お前はただ、さだめられたままに走り、翔びつづけようとする。ポップス大賞、歌唱大賞受賞。「裏切りの街路」出演、「反逆のブルース」ミリオン・ヒット。ポップス大賞二年連続最有力候補、初のロング・リサイタルに五万人動員。最新LPがベスト・セリングをつづけ、来春にはパリ、オランピア劇場のコンサートも決まっている。
お前のような奴はひとりとして、いはしなかった。どこまでゆくつもりなのだ、とそっとささやいてやりたい。つらくはないのか。自分をはてしなく高みへ運んでゆくその翼が実はイカルスの作りもののそれではないのかと恐怖にかられることはないのか。だが何も語らず、自然に、喜びにみちて、お前は飛びつづける。どうして──どうして、そんなお前をはなれることができただろう。どうして、お前とかりにもきそえあえた、というこの重さに、無力な凡人であるこのトミー、森田透、オレが耐えることができただろう。
胸に、あらゆる思いがあふれ、それはすべてジョニーへむかっていた。もう、ナイフはない。だが、それをとりあげられたいまほど、お前に近くあると感じたこともない。
作曲家とマネージャーに両側から守られるようにして、良は、苦労しながら少女たちをかきわけ玄関の方へやってきた。華奢な肩に、庇うように作曲家が腕をまわし、そのようすは幼子を見守る三博士のようないつくしみとやさしさにあふれていた。良は、さしだされるサイン帳をうけとりかけたが、あわててマネージャーに阻止されると、済まなさそうに、よくふとったその少女ににっこりと笑いかけた。清田はがむしゃらにおしよせる少女をふせぐのにやっきになっていた。
良は手をあげ、髪をかきあげ、そして作曲家を見あげてちょっと笑って何か云った。作曲家がうなずく。なかまで来てね? とでも云ったのだろう。かれらはようようのことで玄関にたどりつき、思わず安堵の吐息をついた。
清田が、玄関の柱にすがるようにして立っている透を見た。ふいに、マネージャーの顔がこわばり、けわしくなった。
良が、うっとりとした目を、透にむけた。
世界から、すべての音と生命がやんだ。良はいま、透が手をのばせばふれられるところに──互いの息づかいが感じられるほどの距離に立っていた。
(──良!)
透は胸の中で絶叫した。
良が、ふと、微笑んだ。
いぶかしげな微笑みだった。無邪気な、罪のない──カクテル・パーティで、たえずくりかえされる、あいまいなクエスチョン・マーク。
(どこかでお会いしましたね?)
(お名前をちょっと思い出せないのですが……)
透は、驚愕に、凍りついた。
良が、ゆるやかに、眉をひそめて目を細めた。
ふいに、その顔に、はっとした表情があらわれ、それはみるみる確信に──透がはじめもちろん期待していた錯綜した激情に変わっていった。自分を見捨てていった友達への、入りまじり錯綜した困惑。
良が何か云おうと一歩踏み出しかけたとき、
「ジョニー」
するどい、清田の声が沈黙を破った。
「遅いんだ。行くよ、ほら」
清田は有無を云わさず、かかえこむようにして良をひきずり、歩き出した。ちらりと透をふりかえった目が、けわしいとがめるものをひそめていた。清田は、透に激しくなじられたことを忘れてはいなかった。
迎えに来ていたスタッフに手をとられるようにして、良は建物の奥へ消えていった。少女たちがわっと追いかけてなだれこもうとし、門衛にどなりつけられて追い払われる。むらがったその頭が、透と良とのあいだを深淵のようにへだてた。
オレは、遠く、まるで外側にもうひとつの心があってリモート・コントロールで思考している、とでもいうように思って見ていたオレは、誰なんだ。
いや、誰だった──のだろう。ジョニー、トミー、GSレックスの二大スター。ジョニーにそむいてとびだし、ジョニーに呪われ、ジョニーにしばりつけられ、ジョニーにすがりついて再びかえり咲こうとしている。
あれはすべて夢だったのだろうか。トミー、などという人間は、気狂いじみたグループ・サウンズの日々は、激しい仲間との口論にあけくれた末期症状の暗い日々は、──あれは本当にありなどしなかったのだろうか。
(オレは──)
ここにたち、ここに生きて息をしているこのオレは、一体何ものだったのだろう、と透は思った。
世界の──一瞬前まで世界を信じていたものの廃墟に透は立っていた。
(良はオレを覚えていなかった)
そのあと四年の月日が流れ、かれは髪をのばし、栗色に染め、男娼の生活ですさみはて、十キロちかく痩せ、おもがわりし──だが、そんなことは、問題ではない。
(オレは、良しか──良しか見てはこなかった。オレの前にはいつも良しかなかった)
「──おい、トミー」
野々村と島津の少し心配そうな顔を、透はそれが誰であったかも忘れてしまったように見た。
「おい、何か、云われたのか。そうなのか、透?」
島津がいくぶん気がかりらしく透の肩をゆさぶる。透は、ぽかんとして首をふった。急に、小さな笑いがかれのなかにこみあげてきた。それは、かれの胸の中でふるえ、はじけ、そしてゆっくりとかれの咽喉からとびだした。
「透、どうした──?」
「気が狂ったのか、お前」
透は、くすくす、やがて声をたてて笑い出した。まるで、生まれてはじめて笑ったとでもいうような、何か明るい、透らしくない笑い声だった。
「おい──」
(オレは、ばかだ)
涙をため、あまり急激なたてつづけの笑いの発作に咳きこみながら、透は笑いつづけた。
(オレは、ばかだ)
良──かれと世界のあいだに立ちはだかり、かれと巽、かれと愛、かれと生、かれと光のあいだをつねに巨大な出口なしの壁でさえぎっていた良。
(オレは、ばかだ。一人芝居のピエロ。一人芝居の──一人相撲の……)
熱い、こらえきれない涙がこみあげてきた。
だが、その涙は、にがくはなかった。むしろ何かしら快かった。彼は笑いながら涙を流し、涙を流しながら笑った。
風が──そう、透は思った。
「え?──何か云ったか?」
野々村が不安そうにかれを見ながら云う。
「風が吹いてるんだ」
透は云った。
「感じるよ──風だ」
風──空──ひとびと。夜の街、そして木の匂い。オレはいまはじめて世界をオレの目で見ている、と透は思った。大地に接吻したい。世界を、オレを追い、オレに冷たかった世界を抱きしめてやりたい。かれは、自由だった。
良が、かれの前からゆっくりと包囲をといた。透はひとりだった。かつて知らなかったほど、ひとりで、冷たい風にさらされ、そしてふきぬける風に身をまかせていた。
(ちっぽけなオレ。ちっぽけなみじめなオレ。ひとりで道化芝居を演じているオレ。あわれな虫けら)
だがそれもいい。島津を、まるでいまはじめて見るようにして透は眺め、そして目をふきながらくすりと笑ってみせた。照れたような笑いだった。島津が眉を吊りあげて、首をふってみせる。島津には、はじめからすべてがわかっていたのだと透は思った。
(あんたと俺は似たもの同士なのさ)
島津のことばが、ききめのおそい毒薬のように、かれのなかによみがえってくる。
オレはなぜ知らなかったのだろう、と透は思った。
「気分はどうだい、透」
島津が云った。おちついた声だった。
「うん──まあまあだな。何だか──何だか」
「何だ」
「歌がうたいたいみたいな気分だよ。妙だな」
「妙なこたあないさ、何も。あんたは歌手なんだ」
「そうだね」
透は肩をすくめた。それをこれまで本当に知っていたのだろうか、と思う。
かれのなかにいつもわだかまっていた殺意──良への殺意は、春の雪のように溶け去っていた。
「行こうか。アイ誕≠フディレクター、かっかしてるだろう」
透は云った。島津がにやりと笑う。かれらは誰もいなくなった玄関をゆっくりと入っていった。
(B.G.M.by Beatles)
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あ と が き
まえがきにも書いたように、この小説は、私のこれまで書いた十いくつかの作品のうち、系統的には「真夜中の天使」につぐもの(実際は、この小説の前編の方がそれよりも先に書かれているが)となる。
この小説の構成や、それの成立の由来などについては、まえがきにふれてあるのでここではくりかえさない。それよりも、このあとがきで、少し、この小説や前のそれを読んだ読者があるいは持ったかもしれない疑問にたいして答えておきたいと思う。
いまの私にとってはとりたてて書きたくはないセリフであるが、この小説──及び「真夜中の天使」は、いくぶん、特異な──というか特殊なテーマと世界とをもっている。すなわち、美少年愛、といったようなことばで呼ばれるようなことだ。
当今、少女マンガの何人かの作者がそうした傾向の作品で多くのファンを得て、それは少女マンガの中に確たる市民権を得た──ように見える。それまでの出版物には考えられなかったような、男が少年を愛し、肉体的にも関係をもつ、といったテーマは、竹宮恵子、木原敏江、萩尾望都などのすぐれた少女マンガ家がすすんでとりあげたことで、少年愛ものといったジャンルで定着したかに見えた。
これは世の常識的な人びとにかなり奇異な目で見られ、竹宮恵子が「風と木の詩」を世に問うについても、相当の紆余曲折を経なければならなかったと聞いている。むろん、すべての少女マンガの読者がそれを支持したわけではないし、まったくそうした感情の入りこむ余地のない、「正常な」少女マンガの方が、むろんのこと──いまでも当然──多数派であったのだから。
しかしそれらの作品をかいた、つまり少年愛をテーマにした作家たちが、幸い、きわめて真摯に、才能と、誠実さと、はっきりとした自己主張をもってその仕事をつづけていった人びとであったので、それらの作品は、つよい支持を得るようになり、そうしたテーマをメインに取り扱う雑誌「|JUNE《ジユネ》」の創刊などもあって、一時は、少年愛ブームだというような云い方もきかれ、また全国紙や代表的な婦人雑誌などでもその「ブーム」がとりあげられたりもした。
しかし、ほとんどすべてのブームがそうであるように、この「ブーム」もまた、実際には、理解よりも誤解、共鳴よりも好奇とひやかしをしか与えてくれぬものだった。むしろ人びとは、ことさらに、作家がこれ以上ないくらい平易にはっきりと主張していることをさえ、見ないようにふるまい、もっとも皮相なひやかしと、理解しがたいという嘆息をあびせかけることで、自分自身に安心を得ようとしていたとすら思う。
そうした誤解のなかへ、私自身もまた、「真夜中の天使」という作品を発表することで入っていったわけだが、ここでくりかえしておかねばならぬことは、私がそれを活字にする決心がついたのこそ、この先輩たちの存在のおかげであったとはいえ、私がそれ──やこの作品──をじっさいに書き、またそうした少年愛に関心をよせていたのは、そうした「ブーム」が人びとの口にのぼるよりも、十年以上も前からであったのだ、ということである。
そして、そうした関心のひとつのきっかけとなったのが、中学生のとき読んだ(いまだにそうした少女たちすべてにとってのバイブルであるところの)森茉莉女史のいくつかの小説であった、ことを考えると、そうした関心は、昨今突然変異的に生まれたものでもなければ、世紀末的な傾向の中からあらわれてきた徒花《あだばな》でもないことがわかると思う。森女史の作品は、最初のものは二十年ほども昔に書かれているのだから。
だが、それならば一体なぜ、私たち──という云い方をしてよければ──は、そうした世界を書くのだろうか、というのが、やみくもにひやかして、それで事足れりとして行ってしまうよりはいささか真率な人が次に抱く、当然の疑問であると思う。
なぜ、男と女の恋物語ではなく、少年どうしでなければならないのか。なぜ、「美少年」というものに、そんな大きな意味が与えられるのか。それは単に、宝塚や玉三郎にも通じるような|とりかへばや《ヽヽヽヽヽヽ》、あるいは女の代用物にすぎないのか。
むろん、これは、他の人たちのケースについてまではわからない。しかし、純粋に私個人のケースに限っていうならば、私は、十六、七歳から、およそ二十四歳までのあいだ、いっさいの私の書く小説に、ヒロインを登場させることができなかった。はじめは、単なる女の登場人物をさえ書けなかった。それは、書かなかったというのではなく、明らかに、書けなかったのである。私はそれがどうしてなのかを分析するよりも、自分の心に叶うタイプの小説を書く方に気をとられていた。そして、私が書いていた小説が、どのようなものになっていたかは、すでにお読みになった(あるいはこれからお読みになられる)とおりである。
どうして、女性を描くことができなかったのか。私は、じっさいには、女子校の出身ではあったが、そのころには大学生になって、周囲には男女が同数ぐらいにいたし、また、現実の恋愛を経験してもいた。ここで、あるいは何らかのポイントになるかもしれないのは、私が、そのころ、恋愛をしていたあいての少年(なかなかの美少年だった)を、自分の小説のモデルにし、そして、その小説は、その少年(私の恋人であるところの)と、その少年を愛する上級生の青年の話ばかりだった、ということである。
これはそもそもどのような情動だったと見ればよいのだろうか。私は、蜜月というべき幸福な交際期間にも、その後喧嘩別れしていたしばらくのあいだにも、同じようにその少年のギリシャ的恋愛の短編を書きつづけていた。たぶん私にとって現実のボーイフレンドであるところのその少年と、私の小説の中の少年とはまったく重ならないものだったのだろう。
その少年について書くのをやめたあと、私は、沢田研二という歌手のことをモデルにした小説を、ほぼ登場人物が同じパターンで、ただ名前と設定だけをちがえて出て来るようにして、長編を実に四本、書きかけのものを含めればほとんど十本近くも考えたり書いたりした。この本も、前作も、その同じモチーフをもっているのである。といってむろん、それは、沢田研二という現実の存在について書いたのではないのだ。彼をモチーフにしても、何もうかんで来なくなるまで書きちらしてしまったあとで、私は皮肉なことに現実のそのスターを主人公にしたTVドラマのシナリオを書くようなチャンスにも恵まれたが、やはり、私が興味をもっていたのは、あらゆる現実の存在それ自体ではなかったのだと思う。
私は一体なぜ、男と少年、のちには男と青年、といった組みあわせを書かなければならなかったのか。現在の私が考えてみて、たぶんこういうことであろうと思えるのは、結局私はある〈超越的な力〉にひかれてやまなかったのだろう、ということである。
ある〈超越的な力〉──すなわち、ひと組の人間の結びつきを、世のつねのそれとはまるで違うほど巨大な力と破滅とを内包したものとするような。──私にとっては、愛──恋愛もそうでないのも──もまたその一部にすぎないような、あらゆる|変形された情熱《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、真に興味を抱きうる唯一のものである。そして、その|変形された情熱《ヽヽヽヽヽヽヽ》の強さを示すために私は、おそらく最も抵抗のある設定をさがし出す必要があったのであろうと思う。なぜロミオとジュリエットではなく、ハムレットとホレーシオでなければならないかといえば、ロミオとジュリエットにはおそらく、根本的な〈負〉の関係の畏怖が欠けているからだ。モンタギュー家とキャピュレット家が仲直りをしさえすれば、そのふたりは心中をするかわりに似合いの花婿花嫁としてうけいれられ、祝福されたであろう。しかし、ホレーシオがハムレットを追いかけたところで、当のハムレットが最も嫌悪を示すであろう。
最も無償で、意味のない、しかも最も激しく執着される情念、私が必要としていたのはたぶんそれである。稚児草紙の心ばえうるわしい稚児は老僧の執心をあわれに思って叶えさせてやってその心意気をめでられたが、現代の稚児草紙は、最もすげない拒否と反発が、その忠実な求愛者の得られる最もおだやかなものであるだろう。しかし人間がもし全身全霊をかけて何か(何でもよい)を手に入れようと欲するとしたら、その人間は、そのあいての人格をはたして認めるだろうか。
そのころ、少しでも少年愛の匂いのするものばかりをさがしあさって読んでいた私が、森茉莉の作品と同じほど心をひかれたものの中に、谷崎の「痴人の愛」、ハドリイ・チェイスの「ミス・ブランディッシの蘭」、そしてコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」があり、「仮面の告白」にはいかなる意味でも興味をひかれなかった、といえば、わかりやすいだろうか。──つまるところ、私が求めていたのは、ひとが世界とかかわるときのそのかかわりかたであり、ひとが孤独から脱出しようとする情念それ自体であったのだ、と云えはしないだろうか。
むろん、それだけでもなかったが、しかし結局のところ、少女たちは、未熟で、とるに足らず、受身で、しかもこれからさきも受身でありつづけるであろう自分自身を嫌悪するのである。そして、世界──自分を無視し、かろんじつづける世界の方が自らにかかわろうと求めて来、そして自分の前にひざまずくことを望む。少年たちもむろんそう思うが、しかしかれらには、〈大人になれば〉という保留が与えられているのである。少女たちはおそらく、自分の内に、世界たりうる可能性の与えられてないことを知り、それゆえに少年に化身する。他の作家は知らず、私が恋人の少年を書き、若い歌手を書いていたとき、私はたしかに、≪彼でありたい≫と望んでいた。断じて女性の代用ではなく、むしろ、私にとっては、それが本然の姿であって、少女であることが、何かの欠落それ自体を意味していたのである。私はその恋人の少年を愛したいと思ったのだが、その方法を知らぬゆえに、少年を愛する青年に自分をなぞらえ、のちには自分自身を愛されることへのしりごみから、男に愛される少年に仮装していたのだった。それはたぶん、私にとって、女であることを含めての「自分自身である」ことからの逃走、自己防衛だったのである。ギリシャ的恋愛の中には、私自身の居場所はなく、それゆえに私はその世界そのものを内包することができたのだから。
現在の私は、そのように分析し、また、そのときの自分の精神状態を客観的にみることができる。私がはじめて少年愛の要素の混入しない「ふつう」の小説を書き、それが活字となり、プロ作家として書きはじめたとき、「絃の聖域」の冒頭にあるようにまだ少年愛のかくし味なしでは私は興味をもって書きつづけることができなかった。しかし、そののち、書きついでゆくにつれて、私は、人びとの生、死、愛、情念、生活、といったものに、ほんとうの興味をもつことができるようになっていった。また、それなしでは、小説は結局書けないのである。私には、ほんとうの意味で趣味的な作家になることはできなかった──私の資質は、じっさいには、物語り、また物語ることの中にある。私の中にある語り手は、しだいに、そうした特殊性、精神のゆがみといったものを、物語ることに邪魔になるとして、自ら排除しはじめたのだろう。端的にいうならば、私は、世界にかかわられたいとねがいつつ殻にとじこもっているさなぎであることをやめ、私こそが世界へかかわってゆく主体でありうるのだと発見しはじめたのである。
私にとって、主人公が少年のすがたをとること、特殊な世界と人びとであること、はもはや必要でないものとなっていたのだ。小説そのものを書く面白さが、そうした契機を必要としなくなっていたこともある。だからといって私は、少年愛をそしり、ひやかす側にまわろうというのではむろんない。むしろ、それによって自己を防御する必要がなくなったいまの方が、それのシンボライズしているものをずっとよく理解することができると思う。少年愛を扱う作家に一人の例外もなく共通していることがある。それは、かれらの書く少年、少年を愛する男たち、その双方に、家族がいないか、あるいは敵となっている、ということである。いるにしても、遠くはなれていたり、一方が死別していたりする。ドラマの設定上の必要というより以上の意味を、私はその一点に認める(私の二つの小説の主人公もまた、家族をもってはいなかった)。
無償の愛、ゆるし、情熱──それは根本的には父のものである。年長の男に、妻の役でなく、少年として愛されたい、とねがう少女は、結局父──あるいはより大きい、天なる父──に身をあずけ、その関心を得たいのであろうと思う。妻はやがて母として、父と並立する保護者のかたわれとなってゆかねばならない。しかし、男と少年の組みあわせには、父と子、神とその子、造物主とそれにそむくものの影はあれ、いかなる意味でも、平等の位相は見つけられないのである。
くりかえすけれどもそれは、私ひとりの考えであり、他の作家には必ず適用されるとは限らない。しかし、私は、少なくとも私が人に読まれ、活字になる小説を書きはじめると同時に、少年愛を書かなくなっていったことを、世界とのかかわりあいが私自身のものとなった、ということでじゅうぶんに説明できると思う。
これはとりあげて論ずるに足る問題である。しかし今はその場ではないし、紙数もつきようとしている。さいごにこれだけつけ加えておくと、たぶん私はもう、こうした特殊な長編を(昔書いたものを公表するほかには)改めて書きおろすチャンスはもたないだろう。私は、自分の泡にうつるそれでなく、現実の世界にすっかり心をとらわれるようになったからである。しかし、自分の持ったこうした一時期とそれが生んだものは、私にとって、きわめて大切であり、またいとしい。はじめから読まれることを予期して書いたものよりももっとずっといとしい気がするのである。人がどのような感想をもってこれを読み、無縁だと思うにせよ何かの共鳴しうるものを見出してくれるにせよ、それを書いた人間が、ある時、これを書くことによってどうやら精神のバランスを保つことができたのだと知っておいて頂けるならば幸甚である。
なお、まえがきで説明したようにこの小説は、五年〜三年前に書かれたものであるので、中に出てくるファッション、音楽の情況、ヒット曲や、その他いろいろと古いところがある。しかし、これを書いたときにはそれを選ぶ必然の上に選ばれたものであるので、一、二箇所のほかは、あえてそれを訂正することはしなかった。五年前の私の決定は、現在の私には、動かしたくないものであったからである。この作品の書かれた時期を了承しつつ読んでいただきたい。
末筆になりましたが前作及びこの小説を世に出して下さった文藝春秋出版部の箱根裕泰氏と、彼女の代表作「風と木の詩」のイラストを装幀につかうことを快諾下さった≪アクエリアス・コミューン≫の竹宮恵子氏に心から感謝いたします。
五十六年六月
[#地付き]栗本 薫
文庫版のためのあとがき──あなたへの手紙
これは、一九八一年に刊行された、「翼あるもの」上下巻の文庫化です。この作品は「生きながらブルースに葬られ」を上巻とし、下巻は上巻の主人公・今西良のライヴァルであり、良に敗れて落ちぶれていった森田透を主人公とした連作の体裁をとっています。また、この作品に出てくる「今西良」は、前作「真夜中の天使」の主人公である「今西良」とまったくの同姓同名ですが、同一人物と考える必要はなく、といってそう考えたければそう考えて頂いても構いません。(要するにそんなことは私には、どうでもいいことなのです。私にとって重要なのは、主人公が「今西良」という名をもつことなのですから)
そういった、この作品の特殊さとか、特殊な構造、あるいはテーマや世界の特殊さについては、ハードカバー版のあとがきと前書きにかなり意を尽して説明したつもりでおります。あるいはまた「真夜中の天使」文庫版のあとがきにもかなりいろいろなことを説明してあります。そのへんの事情を知りたい方はそれを見て頂けばよろしく、ここでそれらをくりかえし書き、かいつまんで説明するという気持にはなれません。正直のところ、こうした「特殊」な作品を発表しているうちに、さしもの私にも、何も説明しなくても作品を読んで頂いてわかる人にはそれだけでわかるし、そうでない人には、いくら説明してもわからない、あるいはよしんばわかったところで生理的な抵抗があって受けつけないのだ、ということがイヤというほどわかって来ましたので、むなしくなった、というわけでもありませんがくりかえし同じことを説明する気には、なれなくなったのです。思えばハードカバー版のあとがきには、ずいぶんと気負った、かたくななことを書きつらねたもので、つねによき理解者でいて下さる大島渚さんには、あんなにも突っ張らない方がいいのに、と忠告していただきました。しかしあの時点では、そうして身をよろうことなしに、私の心の最大の弱点というべきそういう作品を、不特定多数の人にみせることはとてもできぬ気がしたのです。
この「真夜中の天使」と「翼あるもの」は、私にとって、自分の心のいちばん奥底の、いちばん柔らかい部分を、無防備にさらけ出すような小説です。たいていの作家、ことに私小説を書く人たちは、すべての小説をそうして書いているのかどうか、本当のことはわかりませんが、私に関していうと、一人で長いこと、「人に見せられない」こういう小説を、こつこつといくつも書きためてきたあと、私が人前に出すようにと書きはじめたのは、はじめは「評論」であり、次に「ぼくらの時代」でした。よく、「いつから小説を書いていたか」「いつから作家になろうと思ったか」ときかれるのですが、この質問はまことに私を当惑させるものであり、かつ赤面させるものなのです。なぜなら私は、これらを「小説」と呼ぶのさえイヤでした。小説というには私自身と密着しすぎていました。むろんこれらを書いていたときも、ことに「殺意」は「中島梓」としてデビューしてから書いていたものなので、外側にいろいろな生活は他の人々と同じくあったわけですが、主観的には私はこれらがあったから、生きて来たし、これらとだけ、生きていたのでした。「殺意」を書いたのは群像新人賞をもらい、一日に何件もインタビューやエッセイの〆切りがあり、一週間に何十人もの人に会うような慌《あわただ》しく実りない日々の中で、私は月々二十本から三十本の小間切れ仕事をやっつけつつ、〆切もなく頼まれたわけでも出版のあてもない六百枚の小説を一人で延々と書きつづけながら、すべては偽りで、これが私の真の生活であると思い、そうできる自分は立派に正気である、と考えました。突然有名になり、たくさんの仕事やインタビューが入ってきたことを喜んでいるようなひまはなかったのです。私はいよいよ強く、自分がインタビューやエッセイやマスコミの「便利屋」の売れっ子になることに何の喜びももてないのだから、ただひたすら「書きたいものを書く」ことに生きてゆくべき人間であると感じていました。「殺意」は私には、そういう狂った生活の中の錨《いかり》のようなものでした。
そして私は「ぼくらの時代」というまったくの「小説」で作家としてデビューしたのですが、今考えてこれはとても正しい方法でした。はじめから「真夜中の天使」を出版していたら、私はたぶん傷つき、ゆがみ、奇妙な変格の作家としてしか受入れられなかったでしょうから。それは正しいことでした。しかし、私はきわめてメジャー指向の、「グイン・サーガ」のような小説をたくさんの人に読んでほしい一方で、これらの私の中のゆがみや変格を愛してもいるのです。私の中には、健全と頽廃、剣と魔法、西洋崇拝と日本回帰、つねに二律背反があります。SFを愛し、一方で谷崎と森茉莉を愛し──パール・バックに憧れ、同時に竹久夢二とサドにひかれる。作家としての私の特性というのはすなわち、この光と闇に同時にひかれるところ、「すべての」感受性のチャンネルに共振するところ、二律背反、「矛盾」の瞬間に立ちつくすことのできるところではないか、とこのごろ私は考えはじめています。ですから私は、巨大な読者をもつ物語作家であり、同時に倒錯・変格の「内面小説」というべきものを書くマイナー作家で、ありつづけようと思います。初版十万をかるくこえる巨大なシリーズ二つを書きつづけながら、一方で誰にも知られず出版のあてもない根暗《ネクラ》小説をこつこつと書きつづけることは、私の正気の証《あか》しでもあり、私の美学からは、まことにカッコイイことなのです。
それゆえ、これらの小説は一切、読者のために書いてもいなければ、読者と妥協もしていない(他のでもあまりしない方ですが)し、これからもしないでしょう。評論も読者の反応も何も関係ない私だけの世界に私はとじこもってこれらを書いたのです。それで、これらの作品に共鳴して下さる人がいると、その共鳴は相当に凄まじいものとなります。「真夜中の天使」をよんでショックで三日三晩ぼーっとして何も手につかなかった、という人、一晩泣きつづけた、という人からの手紙ももらいました。また、「小説JUNE」という雑誌に拒食症の少女からの手紙がのっていたのですが、その人は「真夜中の天使」と「翼あるもの」を読んで劇烈な影響をうけ、「良でありたい」と思うようになったのが、長年にわたる拒食症のはじまりであった、ということでした。私も、かなり長いこと、軽度の拒食症で、ようやくここ何年かになってそのさいごの影響も脱しつつあるところです。たぶんこれらの小説は私の「病気」が書かせた部分もあるので、それが多かれ少なかれ少女たちの「病気」に共振するのでは、と考えているほどです。(この拒食症については、ずっといろいろ考えてきたので、そのうち本にしたいと思っています)
とにかくこれらの小説しか書いていなかったときに、「小説《ヽヽ》を書く」などと知られたら、私はその場で自殺したいと思ったでしょう。「ぼくらの時代」という、あまりにも「まとも」なミステリーによって、「まともな」作家として受け入れられたのをたしかめてから、はじめて私は私の「ほんとうの小説」、あるいは私の「病気」をも、人々がどう考えるのかを知りたいと、思うようになったのでした。
「真夜中の天使」をはじめて人にみせたのは十年来の唯一の親友の小夜子さんでしたが、その次に、仲よくなって、よく電話で長々と話をしていた一人の編集者に、何故かふっと、よませたくなりました。私ははじめてハダカになるような気持でしたがそれでも見せたかった。それをよみおわって、彼はとつぜん私のことを「オマエ」と呼び、「オマエは凄い小説を書いたんだねえ」と吐息《といき》のように呟《つぶや》きました。私は彼に「翼あるもの」を見せることにし──御想像のとおり、私は五年後に、彼と結婚したのでした。もしあのとき、彼に「真夜中の天使」をみせようと思わなかったら──今でも、私と彼は仲のいい友達で、そして私は拒食症と健康願望の間をいったり来たりしつつ、「病気」のいよいよ深まってゆく小説を書いていたのではないでしょうか。現在、私には、暗い結末の多い私の小説の中で、良は知らず、森田透の物語だけは、目一杯ハッピーエンドになるはずだ、という気がするのです。
さよう、この物語もまた例によって完結していません。当然のことです、森田透も今西良も風間俊介もみんな|じっさいに《ヽヽヽヽヽ》生きているのですから。完結したのは死者の、巽竜二の人生だけなのです。
それにしても、私は──どんなに深く深く、自分でもどうしてこんなにと思うくらい深く「かれら」を、私が生み、生命を与え、彼ら自身の人生の中に送り出したキャラたちを愛していることか。透、良、風間先生、巽さん、滝さん、結城先生、修──こんなにも自分の小説を愛せる私は幸せです。そしてかれらを愛してくれる皆さんがいる私は幸せです。
拒食症の少女さん。早くよくなって下さい。大人になるのを怖がらないで下さい。私も昔、まったく同じように考えていました。しかし、いま、私はやせて棒のようなからだよりゆたかな成熟した体を美しいと思います。大人にならなくては愛することはできない。そして愛されるよりも、愛する方がやっぱりはるかに幸せな人なのです。私からの、あなたへのメッセージです。早くその暗い夜から出て、このゆたかな「生」の中に入って来て下さい。人の生は限りあるのです。時を止めようとして時を浪費してはいけない。|いま《ヽヽ》は、透にさえそれはわかったのです。
もう何も云いません。読み、そしてお好きなように感じて下さい。私は黙って、ただ書きつづけてゆこうと思います。私のために、愛するものたちのために、そしてかつての私と似ている、あなたのために。
再見
二月八日
[#地付き]栗本 薫
単行本 昭和五十六年九月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十年五月二十五日刊
底本は「翼あるもの(上) 生きながらブルースに葬られ」と「翼あるもの(下) 殺意」です。電子書籍化に伴い分冊しました。上巻は電子書籍版1・2巻、下巻は3・4巻が対応します。