栗本 薫
真夜中の天使2
[#表紙(表紙2.jpg、横180×縦261)]
自分が良を愛している──それは、滝には、いささかショックだった。見まいとして、むりに目をそらしてきたことを、突然目の前につきつけられたようだ。滝はそれでもなお強情をはって、自分の感情に名を与えまいとした。恋、などと思うのはおそろしかった。自分がどうなってしまうのか、わからなくなりそうだ。
彼は翌日また花村ミミと会い、彼女の部屋へ行き、この関係はまた──ミミが新しい恋におちるまでつづくだろうと予感した。
ミミと滝はお互いに役に立った。ミミと寝ることで、滝はどうやら自分を取り戻したと思えるのだった。ミミに良への恋を指摘された夜、滝がマンションに帰ったのは三時すぎだったが、良はまだ帰っていなかった。
仕様のない奴だ、と舌打ちしたが、同時に何か彼はほっとした気分だった。わけもなく、良の顔をまともに見られぬような気持がわだかまっていたのだ。
考えてみれば、良にかかりきりだったこの数カ月のあいだ、良との二度のできごと以外には、滝は誰とも寝ていなかった。もともと欲望に悩まされたことがあまりないのを、滝は自分の、本能をも思うままに制御できる意志の強さだとひそかに誇っていたのだが、ミミに性に興味がないのだといわれてみると、いささか心外なところはあるが、そのくせ妙に目を開かれたような気がする。
おれはピューリタンとは思わなかった。と滝は自らの感じているうしろめたさを笑い、もういちど風呂に入ってからベッドにもぐりこんだ。良は四時ごろ帰ってきたらしい。
「仕事は十時だぞ、わかってるのか」
半ば眠ったふりをしながら滝はとがった声をかけた。良は素直に、ごめん、と云って自分のベッドに入り、云いわけも、ひそかに滝がおそれていたように、あんたはどこにいたんだともきかないですぐ眠ってしまった。滝は拍子ぬけした。
(やっぱり、ミミの思いすごしだ)
だが朝になって、寝ざめのわるい良を叩きおこし、寝不足ないくらか青白い顔をした良がものうげに動きまわっているのを見るうちに、やはりそうなのかもしれない、と思った。
目が、無意識に、良をもとめている。その一挙一動にからみつき、となりのへやにいてもいたいように良の存在を感じている。
「飯、食わないのか」
「食べたくない」
「飲んだな、また」
「少しだって」
「仕様がないな、何か飲むだけでも飲んどけよ。コーヒーは駄目だぞ。ミルク?」
「いやだあ、むかむかする」
「紅茶か?」
「うん」
「今日は十時に本社だ。そのあと二時から小ホールでファン・クラブ結成──おれは十一時から企画会議でそのあとちょっと外まわりだから、別だな」
「ファン・クラブなんて……」
良はくっくっと笑った。照れた顔で滝を見る。
「何だか、はずかしい」
「にこにこしてろよ。お前、恵まれてるんだぞ、ふつうなら尾崎プロ友の会でいっしょくたでおしまいなのを、その水谷さんてひとがわざわざ音頭とってくれたんだから。このまえの記念パーティーで挨拶したろ」
「うん、婆さん」
「ばか、社長夫人だぞ──女ばっかりだぞ、覚悟しとけよ。ほら、レモン」
「サンキュ──何着よう」
「佐野さんの用が済んだら着がえろよ。一番派手なのでいい。黒のベルベットのパンタロンにチュニックだな。イヤリングしろよ」
「うん、片っ方ね」
「なんで、両方しないんだ?」
「両方すると女の子になっちまうんだってさ。片方だけつけるもんなんだって、山下先生が」
「何を柄にもないこと──」
「店できいてきたらしいよ。得意になってた。ねえ」
良はカップをつかみながら、滝をのぞきこんだ。髪がくしゃくしゃにもつれ、目の下に少し隈のできた寝不足の顔が妙に色っぽい。
「何だ」
「あのレースの胸にねえ、真珠の首飾りしたら似合うと思わない? 三連か四連の」
「いいね。また山下か?」
「そう。買わしてやろうかな、腕によりをかけて」
「呆れた奴だな」
「よろこんでんだもの、向うが。ねえ、ぼくって会社思いでしょう、経費節約に」
「ばか」
滝は手をのばして、良の頭を小突いた。
「ほどほどにしとけよ。あんまり入れあげさせてからぽいといくと、恨んで騒ぐぜ」
「うまくやるって。大丈夫だよ」
「お前は、どこでそんなことを覚えたんだろうな」
「さあ、気がついたら知ってたみたい」
「呆れた奴だな」
滝はまた云った。時計を見、皿を押しやって立ちあがる。
「さあ、遅れるぞ。支度しろよ」
髭を剃りに、浴室へ行こうとして、ふと彼はこみあげてくるものに敗けて良の椅子のところに足をとめ、髪から耳、頬へと手をすべらせ、頸を自分の方へもちあげさせた。
不必要に接触するのが嫌いな滝は、「あなたってあたしが手を握るとびくっとするのね。まるでいやがってるみたいだわ」とミミに云われたほどだから、一緒に暮らしていても、良にそういう愛情のしぐさを示したのは数えるほどしかなかったが、そうするとかならずはっきりした反応がかえってくることには気づいていた。
良は、滝と反対に、愛撫されるのが何によらずひどく好きなのだ。
良は甘えるような上目で、睫毛をまばたいて滝を見上げた。おれは、良を愛している、と滝は思ってみた。とたんに、世にも甘美な苦痛が彼の胸にこみあげてきた。
小さく開いた唇に、唇をおしつけたい、と滝は思ったが、そうはせず、うろたえて手をほどき、浴室に逃げこんだ。いったい、良はおれを嫌っていないのだろうか、どうなのだろうか、とふと思ってみる。
考えてみると、彼は良の気持をほとんど知ってはいないのである。単純に、ひどいことをしているのだから憎んでいるはずだ、と思い、またそんなときの良の目はたしかにそれの証拠を見たと思っているので、彼の方でひとりでおじけづいているようなところがあり、良に思いがけない甘えがのぞくたびに彼は驚き、むしろおそれるような気持になってしまうのだった。
滝の好悪の感情はつねに理由があり、安定していて、あまり変化しない。良の彼への感情も、また良への彼自身の動揺してやまぬ感情も、滝にとっては不可解きわまる、勝手を知らぬものなのだ。
滝はいくらか怯えたような、自分に自信を失うような気持になり、次の夜もミミと寝ることでなんとかいつもの冷静でしぶとい彼自身を取り戻そうとした。またね、と云ったきりで、いつとも云わなかったが、ミミは男を拒むということのない女だった。
「あなたは可哀そうね」
ミミはなだめるように呟く。ミミの乳房の間に顔を埋めていると、滝はすべてうまくいっているし、何ひとつ苦しむことなどない、という気持になった。
「愛して、どうなるっていうの」
「わかってるよ」
「あたしたちって、そんな相手しか愛せないたちなのね」
「そうかな」
「良ちゃんと寝ちゃだめよ」
「なぜ?」
「女のカンね。あなた、破滅するわよ。知ってるわよ、山下国夫が、メロメロなんだってね」
「誰から」
「マネ」
「石黒の奴、ぺらぺらと」
「あら。プロのみんな知ってるわよ。十七ですごい腕だって曜子がね」
「おい」
滝は真剣な顔になった。
「それ、ほんとうか、みんな知ってるのか」
「ばかね、山下さんどこへでもくっついてまわって、尻尾ふる犬みたいななさけない顔であの子を見てるじゃないの。知らない人にだってわかるわ。あなた、良ちゃんのことだとめくらになるのね」
「ミーコ、どのくらい知ってる」
「どのくらいもなにも──みんな、山下さんのことばかにしてたいへんよ。曜子なんか、──ごめんなさい、あなたのことだからって──つまりあなたがあの子を使って……」
「山下をしぼらせてるっての? ばからしい」
「出来レースとばしてるっていうのよ」
「良の人気はあがってるぞ。出来レースで新人賞とらなきゃならん玉かいあれが」
「あたしはそう思わないけど、なにしろあなたがプロデュースよ。滝俊介のすご腕は知れてるわ──気にする? みんなの云ってること、教えといた方がいいと思ったの。あなたがあの子に参ってるって、知ってるのあたしひとりだものね。あたし、あなたが山下さんと三角関係でもめるところなんか、見たくないんですもの」
「そうか」
滝は声もなく唸り、考えこんだ。
帰ると、またも山下と一緒だったらしい良が意味ありげな微笑をみせて、滝を招いた。
「何だ」
「これ」
青い細縞の厚地のシャツ・ブラウスのボタンをはずして、胸を見せる。なめらかな胸に、鈍い光沢を放って、三連の真珠のネックレスがかかっていた。滝の目が光った。
「いくらなんだ」
「十五万」
「おい、良」
「いいじゃないの。ねだり倒しゃしなかったよ。してみたいなあって云ったら、買ってやるよって」
「お前、イヤリング二組買わせたのきのうじゃないか」
「似合うよって、すごくよろこんでた」
「ひとこと云うだけで、買ってくれちまうのか」
「金、あるんだろ」
「礼を云ったのか」
「やさしくしてやったよ。いいんだってば、これで、むしろこっちが貰ってやってるようなものなんだから」
良はいくらか、滝が怒りはせぬかと怖れているようだった。尖った舌が唇を舐め、睫毛の蔭から煙るような目が滝をうかがった。
滝は再び唸り、翌日山下に電話をして、高価すぎると苦情を云った。
「これはいただかせるわけにはいきません。分不相応ですから、おかえしさせます」
「滝さん」
山下は媚びるような声を出した。
「いいんだよ。あれは、おれの道楽なんだから。別にそれで良をどうこう、思っちゃいないよ。良がよろこんでくれれば──第一あの子はどんなものだって似合うんだ。おれは、まだあんな安物で済まないと思ってるくらいだよ。ね、滝さん、見逃してくれよ──おれは、女房もないし、親はちゃんとやってるし、こう云ったら何だけど、金の使いどころがないんだよ。死に金なら一文にもならんけど、良がよろこんでくれるなら、十万や二十万──ね、今度だけ。第一すごく似合っただろう?」
「そうですか」
いくらか茫然として滝は云った。彼には考えもできぬことだった。
「済まないけど、あの子いる? かわってくれるかい?」
「いえ──いま、オフィスからでして」
滝は云った。
「今日は佐野さんとフロア・ショーのマエコマで出てます」
「ああ、そうだったね」
「今夜は──」
「また、迎えにいかなくちゃ」
山下はいそいそと声をはずませて云った。
「じゃ滝さんプロにいるの? そんなら、車がなきゃ、困るものね、帰り。えーと、八時って云ってたな、きのう」
電話を切ってからも、滝は何かおそろしいような気持でしばらく考えこんでいた。それから決心してデューク尾崎の室へ行った。
「『裏切りのテーマ』のびてるよ」
デュークが誤解してグラフをさし出して笑った。
「十八位だ」
「そりゃ──ねえ、デューク」
「ああ? どうしたの、怖い顔だね」
「ねえ、デューク、そろそろ、良ですがね、巡業の仕事をとってかまわんでしょう」
「決めるのは滝チャンと企画の連中だよ」
デュークは眉をよせた。
「しかし、ついこの前の企画会議じゃなかったかね。滝チャン、あの子は前座でドサをまわらしても意味がないから、中央に置いて一本で声がかかるようになってからドサへやりたいって、強硬に主張したんじゃなかった」
「情勢が変りましてね」
滝は手短かに山下のことを話した。
「そりゃ少し異常ですよ。あそこまでいかれるとは思わなかったんでねえ──山下氏、いつだって羽目ははずさなかったでしょう」
「十五万!」
デュークの眉もくもったが、目の中には、おもしろがっているような光もあった。むろん、かれらの動静の輪郭ぐらいは耳に入っていたのだろう。
「中年男の執念とは、気の毒なようでもあり、おかしくもありで──笑うに笑えんな、こりゃ」
「毎晩車で迎えに来ましてね。花村ミミが石黒君からきいたそうですから、相当評判になってるんでしょう」
「それだけジョニーの魅力ってことか」
「でまあ、あまり条件がわるくさえなかったら、ちょっとひきはなして、ほとぼりをさましませんとね」
「なるほどねえ、オーケー、わかったよ」
デュークは太った肩をゆすった。
「じゃ、君のいいようにしてくれ。一応、するとスケジュールのさしかえも必要になってくるな。まあ、滝チャンなら万事わかってるから──いまからだと、そうそう好条件てわけにもいかないが、一週間ぐらいだろ?」
「それに、ドサへいっとくんなら、上半期の新人賞候補のノミネートが六月ですから、それには十分余裕をみたいんで、ちょうど頃合いですよ」
「まかせるよ。しかし、話はちがうけどさ」
「ええ?」
「最近、ミミちゃんと戻ったんだってな」
「てほどでもないですよ」
石黒だな、と苦笑して滝は云った。
「まあ、滝ちゃんは自分のすることはあれだしさ、万事そつがないからいい。正直いって、ほっとしてるんだよ、檜山健二と別れてくれてねえ。女房持ちは困る、『芸能女性』の水木の奴が書きたがってて、押さえるのにずいぶん物入りだったよ。まったく、苦労がたえない稼業だからねえ」
「私はへまはしませんよ」
笑って滝は云い、社長室を出た。予定外のことで、またスケジュール調整に忙しい思いをせねばならないが、まだ人気歌手というわけでもなし、そうひどいことにもならないだろうと、頭の中で早くもあれこれ考えてみる。予定外のどうしても逃せない仕事が入るようなときが実は腕の見せどころなので滝は好きなくらいだった。
一時爆発的に竜崎光彦の人気が出ていたとき、≪歌謡界の女王≫お名指しのショーのナカコマがかかって来、大変な名誉でハクもつくというので、ぺこぺこして受けるだろうとばかり非常識にも、四日後に当日を控えて持ちこんできたのを二日徹夜で調整して、揚句すさまじいトンボがえりでこなさせたことがある。
十日に福岡で歌合戦番組の生録に出、竜崎光彦のご当地なのでその夜に後援会のパーティーに顔を出す前に主だったレコード店をまわって挨拶、そのまま十時五十分の夜行で東京へ戻って三時からのショーに出演、六時にハネて羽田へ直行して大阪から夜行で鳥取、というすさまじさだった。
(あれはしかし面白かった)
こんどは巡業だから、生の仕事をほんの二、三回さしかえるか、ビデオに話をつければ済む。
(ただちょうどいいのがあるかどうかだな。あまり先じゃ意味がないし──あまり近くで、先生が車でくっついてくるようなところじゃ困る)
ほんとうは一週間では短かすぎる。火に油を注ぐ結果になっては困るのだから、都合さえつくなら、一カ月ぐらいはまわらせたいところだ。なんなら、ほとぼりをさますあいだに、持ち駒を見て、(かわりのお相手)を都合してやってもいい、と滝は考えていた。
(良にそういうところがあることは知ってたが、こんなに急激に発展するとはちっと予想がはずれたんだ)
良の中の、天性の妖婦の素質を、滝は彼自身には向けられないだけに、つい甘く見ていたのだ、と思う。そうした要素は、男の方が賢く制御しないかぎり、いくらでもはびこるものなのだ。山下のように云いなりになっていては、良に自信をもたせ、男──或は保護者──を甘く見させるばかりだ。山下はばかだと滝は思った。
(わるい奴だ、良は)
可愛くてたまらぬように滝は苦笑し、それには気づかなかった。それから数日は折衝や企画部との大騒ぎの内にすぎたが、どうも滝の心にかなうような仕事はない。しかたないとはいえ、誰もきいていない前座のようなみじめな思いを良にさせたくない。
苦労し、下積みで人間が修業になるものと、マイナスにしかならぬものがいる。良のような性格と個性の持ち主は、ほめたり、おだてたり、適当にぎゅっと手綱をひきしめたりしながら輝きを増すようにみがいてやりたい。けちくさいみじめさだけは絶対に味わわせたくない。
滝の気は決まらなかったが、彼にとっては常に幸運のマスコットのように思える花村ミミから助けが出た。
「あたし二十五日から九州よ」
「巡業か?」
「そうなの、チャリティ・コンサートツアーだって、二週間よ。福岡からはじまって長崎、人吉、宮崎。きついわ、二週間も会えないなんて」
「また無理して」
「いやな人、ほんとよ。淋しいわよ」
「ミーコは男なしじゃいられん女だからね」
「いやな云い方しないでよ。ねえ、あなたも来ればいいのに」
「何だって」
「良ちゃんがコンサートに加われば来られるじゃないの。そしたら、ずっと一緒にいられるのに──なんか、良ちゃんの巡業の仕事さがしてるそうじゃないの」
滝は興味をそそられてよくきいてみた。珍しくも、マカベプロと合同のツアーで、竜新吾&ブラッドとミミが芯になり、マカベプロの新鋭の、去年の新人賞候補の児玉マリと尾崎プロの新人の藤次郎が組んであるという。
「次郎ちゃんとさしかえればいいじゃないの。赤木マネだから、滝さんの子分じゃないの、そのぐらいきくでしょう」
「しかし」
前座はごめんだ、と滝は云った。ミミは笑った。
「しかたないわよ。新人じゃないの──それに、云いたかないけど、あたしとブラッドのショーよ。チャリティ・ロック・コンサートって銘うつのよ。お客は耳の肥えた人ばっかりだし、条件はいいわ、ナカコマのツナギになるわ。それに石チャンがね、児玉マリにあてるには藤クンじゃちょっときついなって悩んでたのよ」
「いいかもしれんな」
滝はきくうちにどうやら乗り気になってきた。さっそく石黒マネや赤木マネに企画部を通してあたってみると、ミミの石黒マネの方はむしろ喜んでOKしたし、赤木もさしかえの仕事しだいで文句はないという。
赤木はこれまでスカウトをしていて、滝の部下のような立場だったし、恩もあって、いやな顔もできないのだ。それはわかっていたから、滝は顔をきかして例の一カ月連続の新人コーナーをまわさせてやると約束した。
ドサまわりの前座の仕事の二週間よりは、全国に放映されるテレビ番組の方がはるかに名を売るにはいい。それならよろこんでと赤木は云った。
二週間なら、良の方もなんとかつなげる。児玉マリは二年目で、去年の実績もある。良は新人だが現在ベスト二十以内のヒット中ということで、つりあいがとれる。
「九州?」
良にはいやも応もなかったが、云ってみると、妙に嬉しそうな顔をした。
「ぼく行ったことない」
「観光旅行とちがうぞ、わかってるか」
「わかってるよ。でも気分がかわっていいや」
「山下先生だがね」
滝が用心しながら云い出すと、とたんに良は小悪魔めいた笑いを洩らした。
「追っかけてきそうだったら、ひとつはっきり云うよ」
「そりゃ駄目だ、波風をたてちゃ駄目だ」
滝は眉をしかめて云った。
「まあ、おれにまかせとけよ。おもしろい手があるんだ。おれの子分みたいなもんで、村田ってのがいる。それに持ち札から出さしてさ、きれいな男の子を先生に曲を書かしてデビューさすことに持っていく。先生仕事にゃ欲がある、追っかけてくるわけにもいかなくなるさ。それでその子が気に入ってくれればなお幸いだ」
「でも、つまんないな」
「何を云ってんだ。──ただ、まあ、向うはすっかりお前の二曲目をやるつもりで張切ってるのに、そこにまたもやデビュー曲なんて話をもっていくと、馬鹿にされたと思ってごてだすかもしれんがね。まあそこはおれにまかせろ」
「別にいま袖にする必要ないと思うんだけどな。まだ、利用価値あるでしょ」
「駄目だ、良」
滝は良の肩をつかまえ、鋭くのぞきこんでぴしりと云った。
「個人的に先生方に気に入られて可愛がって貰うのはいいことだ、いい曲が貰えるし顔やコネで便利なこともある。だが、お前にすれっからしのホステスみたいな真似はさせないぞ、良、おれはお前を男をしぼってものをねだりとる娼婦になんぞ育てた覚えはないんだ。お前は少し増長してる。お前なんかまだ歌手としては卵から首を出したぐらいなものなんだ。ホストクラブのいやらしい男娼じゃあるまいし、つまらんまねをして大の男に恥をかかしておもしろがるなんざもってのほかだ」
滝のきびしい語気に、良は驚いたようだった。急に、大きく目を見開き、しょげた表情になった。
「ごめんなさい」
ひどく子供っぽく良は云った。
「ぼくもほんとう云うと、ちょっとこわかったんだ。──あんな高いもの持ったことないもの。あの真珠やっぱりかえすね」
「ああ。イヤリングやブラウスなら知れてる、好意のあらわれで済むが、あれは困るよ、良」
「うん。かえすよ、ほんとうに」
「そうしろよ」
滝は、その天性のヴァンプぶりが山下の鼻の下の長さにつけこんで、彼を不安にさすほど急激に発展をみせたとはいっても、まだ良は良だ、根は素直で、どんないやしさとも、野心とも関係ない高貴な猫だ、と思い、よろこびがこみあげてきた。
「ぼく、考えなしだったかな」
「いいさ、山下がわるい、ばかみたいににやにやして、金でお前を釣れると思ってるんだからな。だが、あれは似合ったよ、良」
滝は良の髪を撫でた。べたべたとさわるのが嫌いなはずの滝なのに、良の反応が快いせいか、彼自身の気持のせいか、このごろ彼は妙に良にたえず手をふれていたいのだった。
「お前も欲しがってるんだし──どうだい、こうしよう。いいか、『裏切りのテーマ』はいまヒットリサーチで十八位だ。有線のリクエスト順位では二十三位だが、これももうじき二十位内に入るだろう。ベストテンに顔を出したら、褒美に、おれが真珠のネックレスを買ってやるよ。ただし、だいぶ安くなるがね」
「ほんとう?」
良は嬉しそうに目を光らせた。
「ねえ、もしベストスリーに入ったら?」
「ベストテンで一連」
滝は笑って良の髪をくしゃくしゃにした。
「ベストスリーで二連」
「ベストツウで?」
「三連」
「もし──もしだよ、トップ、とったら?」
「云うね。──トップを一日でもいい、とったら、四連の、十五万のを買ってやる。どうだ、わるくない取引きだろ」
「うん。山下センセのなんか、見るたんびにこれはどうやってせびったんだなんて思ってかけてるより、ずっといいね」
「よし、決まった」
良にはまだ充分に素直な、無邪気なところがのこっている、正しく扱いさえすればこの子は可愛い、いい子なのだ、と滝は思い、良の頭を小突いた。
スケジュール調整、打合せ、九州にいっているあいだの分のビデオどり、話がきまるとしばらくは天手古舞の日がつづく。良も自然に山下とひきはなされたかたちになった。
その月のあいだに『裏切りのテーマ』はよくのびて十四位まで追いあげ、有線のリクエスト順位ではB面の『哀しみの朝』が三十八位に顔をみせたがこれはあまりのびなかった。
良がほとんどはじめての──それまでにも、一泊、二泊ぐらいの仕事はあったが、まとまったコンサートツアーというようなのははじめてだった──巡業に出たのが、もう四月も末の、一年でいちばん美しい季節がはじまろうとしている頃である。
山下は滝が婉曲に彼を良からとおざけようとしていることを悟ったらしい。滝が足どめの仕事を用意しておいたので、さすがに九州まで追いかけても来られないが、あてつけのように良が出発する前の数日は滝がなんと云おうと良からはなれようとせず、仕事先までついてまわり、例によって夕食に連れて出ようとするのを滝が知らぬふりをしてつきまとっていると、目に見えて苛々してきたあげく、膨れかえって退却したが、旅行の当日にはちゃんと東京駅へやってきて滝をぎょっとさせて埋合せをつけた。
「気をつけるんだよ。風邪ひかんようにね」
「先生、南にいくのに風邪でもないでしょ」
「とにかくよく寝るように気をつけてね。ああ、二週間もおれの目のとどかんところへやりたくないよ、良」
柱の蔭でぼそぼそと愁嘆場を演じているのを、ミミがにやにやと滝に電波を送って来、滝も顔を手ひどくひんまげてみせながらもマカベプロの一行の目を気にしていた。かなり出発は早かったが、それでも熱心にひと目見にきたファン──主としてブラッドとミミの──に見送られて、総勢三十人にもなるスタッフは東京駅を出た。
「良ちゃんグリーンじゃないだろ」
「そりゃ当然ですよ」
「ねえ、おれのポケットマネーでグリーンに乗せてもかまわないだろう」
「いえ、せっかくですが分《ぶん》というものがありますから」
「宿屋も、向うでの待遇もさ──帰ってくるまで、おれは、気になって眠れんよ。なにせブラッドって名にしおうワルどもだろ。滝さん、あんた気をつけて、良ちゃんにバンドボーイのまねなんかさせんでやってくれよ」
「新人がお手伝いするのは当然ですから」
発車の時刻を控えてくだくだと念を押されるのにうんざりしながら滝はあしらっていたが、真打のスターたちがグリーンに乗りこみ、児玉マリのスタッフや、ブラッドの付人たちと普通車にブラッドの楽器やアンプやトランクや所狭しとつみあげられた荷物にうずまるように腰かけて、走り出した「ひかり」の窓からホームに立っている山下の立ち去りがたい姿が小さくなるのを見ていたとき、妙に憐れさがこみあげてくるように思った。
山下は山下なりに、良を愛しているのだ。もともと、手にかけた新人歌手には必ずといっていいほどちょっかいを出して、あれは将来のコネをつけるつもりなんだと業界で苦笑まじりに誹謗されているたちのよくない作曲家である。
打算と欲望の見えすいている、そんな男だと知っていて良を彼に弄ばせることを黙認したのだって、滝の打算にちがいない。山下の打算を責める資格などはないのだが、滝は山下と良を、良のためにならぬからとひきはなそうとしたのが、はたして滝の打算だったのか、どうか、といかにも旅馴れたようすで手帳をのぞいてスケジュールをたしかめるふりをしながら考えていた。
もともと山下は超一流の大物ではないことぐらいわかっていたのだし、それでいずれ良が|のし《ヽヽ》てくればもっと格が上のスタッフにとりかえもしやすい上に新人のデビューには上等の部類だという考えで山下を選んだ。
それが急に良から遠ざけねばならないと思いこんだのは、おれの、もしかして、嫉妬ではなかったか、と思うのだ。
案に相違して山下が良にほんとうに惚れこんでしまい、厄介をおこしそうなくらい、のぼせてしまった、それはまずいのはたしかだが、そのぐらいのスキャンダルをおさえるのはかんたんだし、二曲目、三曲目、ぐらいまで山下──松浦でつづける気なら、むしろ結構なことである。スキャンダルだろうと、何だろうと、利用できるものはしろ、というのが滝の方針だった。
(山下はばかなやつだが、才能はあるし、それにたしかに良にはつねになく真剣みたいだ。はじめはもちろん、例の如く当然の報酬のつもりでいたろうが──十七の餓鬼に、まがりなりにも山下先生で看板を出している男が、ああまで──十五万の真珠か。打算や色好みだけでそうまでできるものか。おれにはわかるような気もするな──たしかに、良のやつには、それだけの魅力はあるんだ。おれは、良がいいように山下をひきずりまわすのを見てこわくなった──良のために、と思っていたが、ほんとうにそれだけだったか……)
良は、おとなしく滝のとなりに座り、熱心に車窓から景色を眺めていた。何かに気をすっかりとられているときの良は、年相応の少年に見える。
おれは嫉妬したんだろうな、と滝は思った。山下に対して、急につのってきた嫌悪は、或は自分の影を見るいとわしさだったのかもしれない。
(おれは、良を支配したい、征服したい、おれのものにしたい──そう思ってた。おれは、良にも、おれだけの良でいてほしい、もし良の小悪魔が男をひきずりまわし、苦しめ、夢中にさしちまうのなら、その男とはおれひとりであってほしい──そう望んでいるのかもしれんな)
山下が良が大スターの素質を持っているとふんで、打算で良をはなそうとせぬだけだったら、おれはこうまで山下からとおざけようとやきもきはしなかったろう、と改めて考えてみて、思わず苦笑いする。
自分が嫉妬している、女のような独占欲にかられている、というのが何かぴんとこない。それは滝にとっては不慣れな情念なのだ。
自分で、分析して滑稽に思えるあいだはまだ大丈夫だろう、と滝はいくぶん安堵すら覚えた。
新幹線で岡山までゆき、岡山から乗りかえる。福岡着は夜だった。乗りかえのたびに、バンドボーイからマネージャーまで、大わらわで荷物を運びだす。ブラッドはロック・バンドなので、楽器の移動が余分な手間になる。これは貨物で送ることはできぬので、ドラム・セットの膨大な容器の山や、二人がかりでなければ動かせない特殊なアンプのあいだを、一行の男たちは汗だくになってかけまわらねばならない。滝は、良に云い含めて手伝わせた。相手がマカベプロだから不必要な摩擦は避けたい。
「いいですよ、滝さん」
マカベのマネージャーが恐縮らしく声をかけた。
「お互い様ですよ。それにむりを云ってさしかえて貰ったんだから」
「いえ、とんでもない、強力メンバーをお借りして」
花村ミミはポップスのトップスターだが、ロック・ショーということだし、興行主の関係から、尾崎側が客演のかたちになる。ブラッドがトリで、児玉マリは抱きあわせの新曲PRというところだ。ブラッドのメンバーたちは、皮のジャンパーだの太いバギー・パンツだのを着こみ、ポマードで頭を光らせた目をひく恰好で、ゆくさきざきでファンにかこまれてサインや握手をもとめられていたが、大体において良など無視し、声をかけるでもなかった。
その夜は博多駅近いホテル泊、翌日に打合せとリハーサルがあって、その次の日が第一回の本番の段取りである。リハの済んだあと、ブラッドの連中は福岡のファン・クラブ主催のパーティーへ、良や児玉マリはレコード店や放送局の挨拶まわりへ、それぞれの宣伝活動が待っていた。
「やだな、うんざりだわ、カッペの相手よ」
着換えに戻ったホテルの廊下の隅で、ミミが滝の腕をつかんで世間話のような顔をしながら云った。ミミは石黒マネと九州の興行主の酒席に出る。向うは女性歌手ならホステスも同様に心得て、ミミのファンの地元の有力者などを集めて座持ちをさせるだろう。
「仕事仕事」
「ああ、いやんなっちゃうな」
周囲をうかがって、きこえてもいいような話をしながら、素早くミミの手が滝の手をさぐってきた。冷たい金属の感触が落ちる。
「あとで、埋合せ、して。慰めてよ、うんと」
ミミは唇をうごかさずに囁き、色っぽい目で滝を見上げると、もう素知らぬ顔でそこをはなれた。滝はわたされた彼女の部屋の鍵をポケットに落しこんだ。目をあげて、ぎくりとする。着替えをおわって出てきたところらしい良の、煙るような目が、滝を観察していた。滝は不愉快にもどぎまぎした自分に驚いた。
その夜滝がミミの部屋から戻ったときは、二時をまわっていて、ツインの部屋は暗く、良の静かな寝息だけがきこえていた。それがどこか注意深く装われたもののように思われ、布団の下で、青く光る瞳がじっとこちらをうかがっているような気持にとらえられたのは、おそらく滝自身のひそかなうしろめたさのせいだったのだろう。
そういうことになると、良は何も云おうとせぬ少年だったし、良の心の動きは滝にはわからなかった。
(良はそんなことには、興味がないだろう)
強いてそう自分に云いきかせ、明日は早いからとベッドにもぐりこんだが、欲望の満たされたあとのおだやかな満ち足りたものになるはずだった滝の眠りの中には、一抹の妙に不安なときめきが混りこんでいた。
目をさましたとき、どんな夢を見たのかは覚えておらぬまま、ただあやしい昂ぶりと酩酊が頭の中の芯を浸していた。
*  *
楽屋入りは三時だった。ブラッドの五人が少し遅れるので、のこりのスタッフで、早ばやと会場へ乗りつけた一行は、開演は六時半というのに、早くもぎっしりと楽屋口で待ちかまえている百人近いファンに驚かされた。男はミミとマリのファンだろうが、七三で少女が多い。
「ききしにまさるもんですね、ブラッドは」
滝はマイクロバスの窓から少女たちの辛抱づよい人だかりを眺めて、マカベのマネージャーに空世辞を云った。マネージャー族の狐と狸のかけひきが彼は好きである。
「いやあ、少ない方ですよ」
ブラッド担当の吉本はにやりとして云った。
「竜くんでしょう、目当ては」
「あとドラムの大木ですね。大体二人で人気を二分してます」
リード・ヴォーカルの竜新吾が、おそろしくやくざっぽい長身の青年だが、大変な才能はあるので、ゆくゆくはマカベ系の歌手の音楽面の指導者と期待されている、という話をきいている。
楽器と荷物は先乗りで運びこまれていた。マイクロバスを楽屋口に乗り入れ、スタッフを先頭に、派手なパンタロン・スーツのミミ、ワンピースからすんなりした脚を出したマリ、セーターにジーンズのラフななりをした良、と次々にバスをおりてゆくと、わあっとファンたちが押しよせた。
異変がおこったのはそのときである。滝は、良のうしろについておりながら、悲鳴のような声で良の名が呼ばれるのをきいた。
「良ちゃん」
「良ちゃん、こっち向いて」
「ジョニー」
少女たちはいまや雪崩をうって良に近づこうとしながら、金切り声で叫び立てていた。良の宣伝用にとらせた『裏切りのテーマ』のポスターを両手でさしあげてふり立てるのがいる。「ジョニー」と書きなぐった白い紙をふりまわす少女がいる。良の頬がさっと紅潮した。つきつけられるサインブックや贈り物の箱、しがみつこうとしてくる手によろめいて滝に支えられる。少女たちはブラッドをではなく、良を、待っていたのだ。
「WELCOME・JONNIE」と書いた巨大なのぼりがさっとひろげられた。下に、今西良ファン・クラブ、福岡支部、という文字が読める。これは予想もしていないことだった。滝はちらりとふりかえり、吉本マネージャーの顔色が変っているのを見た。
「待ってたのよ」
「大好きよ、ジョニー」
「絶対応援してるのよ。クラスのコみんなそうよ。絶対、一位になって」
そして、ジョニー、ジョニー、良、という絶叫。なにごとかと通行人たちがふりかえる。良の頬に見るもあざやかな血の色がさし、目が輝きを増し、ふいに良が怖いように美しさを増すのを滝はまざまざと見た。あとで考えてみて、あれがほんとうに大スター、ジョニーがこの世に生まれ出た一瞬だったのだ、と滝は悟ったのだ。
見られ、愛され、憧れられることの意味を、まだほんとうには良は知っていなかった。少女たちにかこまれ、初々しく頬を燃やしてていねいに握手したりサインしたりしている良を、いま、自らの運命にとらえられたものだけの知っている、肌の下から光がさし出ているような、ふしぎなオーラがつつみはじめていた。人気スターの一堂に会する東京で、クールな東京のファンたちに、人気が出てきたと云われても、レコードの売上げが何十万だときかされても、ベストテンの順位があがっていっても、どこか風の吹きぬけるような手ごたえのなさがあり、良はおそらくまだほんとうには、歌手だ、という実感はなかったろう。有閑夫人が結成してくれたファン・クラブだって、応援してやる、という上からのものだ。待たれている、愛されている、という手ごたえが潮のように良のほっそりした姿の中に満ちてくるのを、滝は目に見る思いだった。常日頃の、無感動で卑俗な情念をそばによせつけない高貴な猫のような良ではない。はてしもなくさし出されるサインブックに、放っておけば何時間でも応じていそうな良の表情は、妖しいようになまめいて滝の目にうつった。
「驚いたな、裕樹なみじゃないですか」
吉本が感情をおさえた、なめらかな声で云った。
「滝さん、あいかわらず、人がわるいなあ。こんなこと、ひとことも云ってくれないで」
「こっちもびっくりしてるんですよ」
滝はとぼけた声を出した。
「こんな話予想もしてなかった」
「でもないでしょう。すごい人気じゃないですか──やっぱり、ヒットってのは大きいですねえ。こりゃ、≪ポスト新ご三家≫レースはもうお宅に抜かれたな」
「とんでもない」
「いや、いや、駄目ですよ、うちなんか」
ことばの裏に棘があった。まさに同じ年頃、同じ系統の、『ハニーにさよなら』でデビューの星光を大マカベの命運をかけて売り出し中のマカベプロである。星光が容姿も歌唱力も、良に比べればだいぶ落ちることはいかにひいき目に見ても明らかなのだ。タレント帝国の威容を誇るマカベとして面白かろうわけはない。面白くないというのは、同じプロのミミでも同じことだった。
入口で予定外の時間をくって、ようやく楽屋入りしてから、児玉マリも、ミミも、何となく口数が少なくなり、機嫌のよくない顔になっている。そこは自分第一のタレントの習い性で、男だろうと、女だろうと、直接に自分にマイナスになることでなくても、自分以外のスターにむらがるファンの熱狂ぶりを見せつけられるのは不愉快なのだ。
若いうちからちやほやされ、一人の例外もなく人間的にはきわめて偏頗《へんぱ》な、極端に云えば片輪な人間にされてしまっている。ミミのような利口な女でもそれはまぬがれないのだ。
滝はブラッドのメンバーが後入りでよかったと思った。平静ではいられないだろうし、その意趣がえしが新人いじめになって出ないともかぎらない。そういう世界である。滝はまだ紅潮をのこしている良の顔を眺め、髪を撫でてやりながら微笑みかけた。
「あがるなよ」
血の色との対照で、すきとおるような白い肌が、はっとするほどきわだって見える。唇も紅く、目が濡れたようなきらめきをおびて滝を見かえした。滝は感嘆を口に出さずにはいられなかった。
「きれいだぞ、お前、とってもきれいだよ、良」
良の頬にまた濃い薔薇色が戻ってきた。甘えるように、滝の手に頭をこすりつける。
「ぼく、どっち着ようか」
「白の方でいいさ。腹、へってないか?」
「平気」
「本番前に食べとけよ。あんまり直前だと歌いづらいからな。いいか」
「うん」
滝は良の顔から目がはなせなかった。忙しいから、もう行かなくては、と思っても、吸いよせられるように、内側に火の燃えている雪花石膏のような、彫《きざ》みあげたように美しい顔に目がいってしまう。
その、快い滑らかな頬にふれてみたい、激しい欲望をおさえかねて、彼は良の髪のあいだから手をすべらせるようにして頬を撫で、顎を掌につつみこむようにした。
良は、滝の目から目をはなさずに、おとなしくされるままになっている。ほのかに、心地よく咽喉を鳴らして愛撫されている仔猫を思わせるものがあった。
誇らしさといとおしさがこみあげてきて、何かやさしいことを、滝は云おうとしたが、そのとき乱暴にドアをあけて、どやどやと長髪の青年たちが入ってきた。
「きったねえ、楽屋だなあ」
「あけてくれよ、場所さ、そんなとこでいちゃついてねえでよう」
「へえっ、凄《すげ》えな、プレゼントか」
良の方の鏡の前に、さっき受け取ったリボンをかけた箱や花束がいくつもつんであったのだ。もともと横浜のジャズ・クラブを根城に番を切っていた連中だという、ブラッドの青年たちの態度には、敵意がちらついていた。良がいくらか赤くなって滝の手を逃れ出た。きっと、すでに吉本や児玉マリのマネから、先刻の騒ぎは耳にしているのだろう。
「態度、でかいなあ。挨拶ぐらいしろよ、ええ、可愛こちゃん」
リーダーの竜が下唇をつきだして云う。滝は人をそらさぬ笑いをうかべて、青年にうなずきかけた。
「おちついてからと思ったもんでね──良、ご挨拶だ」
「よろしくお願いします」
良は云った。また冷やかな顔になっていた。ブラッドたちは敵意を含んで良をじろじろ眺めている。滝は用にかこつけて良を楽屋から連れ出した。
「いいか、あいつらには、さからわないどけよ。名うてのワルどもだ。怖いからな」
低く、囁く。
「あいつらはなあ、ほんとうのやくざだからな。北辰連合の、大友組の組長の、甥だか従兄の子だかが中にいて、それでハマで番切ってたのを、組長肝入りでマカベに売りこんだんだそうだ。たしかに実力はあるんだが、とにかくほかのワルとはワルがちがう。喧嘩沙汰は朝飯前だってことだ。ま、新人だしな。おとなしくして、やつらの挑発にのるなよ、良」
「そんなことしないよ」
良は笑った。
「ヤー公は嫌いだ」
「まあ歌で勝負だよ、良──やつらのステージは、きいて、勉強しろよ」
五時半にはバンドのセッティングも済み、音合せも済み、舞台衣裳に着がえる。まず良と児玉マリが一曲ずつ前座をつとめたあと、花村ミミが三十分、歌いまくり、それからマリ、良で二十分、それからブラッドの登場になり一時間、その中でミミとのセッションや、いろいろと趣向がこらしてあるというプログラムだ。背中にシンボル・マークの巨大な髑髏を描いた、揃いの漆黒のビニール・レザーのジャンプ・スーツに、リーダーの竜新吾はぎらぎら光るサングラス、というめざましいステージ・コスチュームにすべりこみながら、ブラッドたちは遠慮会釈もなくじろじろと着がえる良を検分していた。
良は例の白のブラウスと白のパンタロンで、ゆったりした袖が翼のように腕にまつわりつく。金のイヤリングを右にだけつけ、北川のママのくれた金のペンダントをブラウスの胸あきに出した。
「これでいい?」
「オーケーだ」
「変じゃない?」
「きれいだよ」
鏡を見ながら、気にしている良をしげしげと眺めていたドラムスの大木健一が、ポマードで光らせたリーゼント・ヘアに櫛を入れながら
「まるで男か女かわかんねえな」
と大声を出した。
「軟派だな、お前」
「え?」
良は驚いたように見上げる。
「えらく、人気あるんだってなあ」
何かあったらからんで来ようという声音である。≪暴力ロック≫を名乗るだけあって、すごみのある目の光も、粗暴な、或はそれを装った荒っぽい動作も、危険なくらい凶暴なものを漂わせる若者たちである。有産階級には敬遠されているが、大学に行けぬような、或は中卒で地方から働きに出ねばならないような階層の若者たちに、熱狂的な支持を受けていて、ロック・シーンでは特異な位置を保っている。
生演奏と、LPで根強い支持をつかんだので、出来あいの、テレビで売り出した自分の持歌も満足に歌えない歌手≠ニはわけがちがうという深い矜持を持っていた。一世を風靡した『ミッドナイト・ブギ』で異色の存在を知られたが、それは別に本意ではないんだから、気にくわなきゃいつだってコンサート活動だけでやっていけるんだと豪語してファンの少女に手を出すやら、ディレクターを殴るやら、暴走族を子分にしてオートバイ百台をつらねて会場に乗りこむやら、したい放題のむちゃくちゃをしているのだという。
そんな連中ではあったが、さいごの音合せに、軽くいこうぜとわめきながらかれらが持歌をはじめたとき、やはり滝は頭をがんとやられるような気がした。泥くさい、ストレートなロックンロールの迫力が開場前のホールじゅうをゆるがすようだ。竜新吾のねばりつくようなヴォーカルも若者を熱狂させるだけのことはある。
「すごいなあ」
じっときいていた良が囁いた。
「パワーがある。ただのやくざバンドじゃないね」
「ああ。お前、位負けするなよ」
「だって人数ちがうじゃないの──昔、『アン』にいたころね、よく踊ったよ、『狼、飛べ』とか『宇宙船』なんかで」
「それといまじゃ共演してるんだぞ。しっかりしろよ──負けないつもりで歌え。さっきのこと、忘れるなよ。お前を、ききにきてくれるファンもいるんだってことさ」
「うん」
良の頬が燃えた。六時開場、六時半開演のベルが鳴るころには、ホールは満員だった。立見までぎっしりだとスタッフが教えにきた。
幕明きが良の『哀しみの朝』だ。ブラッドの演奏をきいていくらか不安になった滝は、開演のベルをききながら客席にまわり、胸をどきつかせて待った。幕の向うからイントロがきこえ出し、幕があがると同時に左右からのライトが、純白な衣裳につつまれたほっそりした少年を照らし出した。
とたんに、あらかじめ仕組んであったらしく、数本のテープがとび、「良ちゃん」「ジョニー」という金切り声がおこった。「今西良後援会」「裏切りのテーマ」と書いた二本の垂れ幕が白く二階席の手すりにひろがった。
声援に促されたようにおこった拍手が、良の歌い出すのにあわせたように静まる。最初のワン・フレーズで、滝は安堵の息をついた。
(大丈夫だ。やれる)
良の声は、美しく哀調をおびてひろがっていった。いつもより、ずっと感情をこめて、良は美しいラブ・バラードを歌った。歌いおえると、場内がわいた。
「良ちゃーん」
「すてき」
「かわいいー」
「ジョニー」
良が袖に入ってもやまぬファンの声に、つづいて出た児玉マリはあきらかに意識し、固くなっていた。出でとちり、みるみる上気して、声がのびを欠いた。
滝はいそいで楽屋に戻り、良をつかまえた。『裏切りのテーマ』のラストで、両手を大きくひろげて仰向けと指図するためである。翼のような白い袖は、夢幻的なドラマティックな効果を出すだろう。
滝はすでに良がショーを食ってしまったことがわかっていた。それは、ブラッドはやっきになってパワフルな演奏《プレイ》を展開するだろうが、今度のツアーの芯であり、キャリアもあり、しかも五人組のバンドであれば、それで当り前なのだ。かれらが登場する前に場内をこれだけ沸かせれば、良が勝ったようなものだといっていい。しかもまだヒット中の曲は歌っていないのだ。
花村ミミも、調子がいいとは云えなかった。声がういており、微笑も固かった。滝は心配し、ミミがひっこんで再び良の出場になったときほっとしたぐらいだった。
聴衆は、完全に良のもとにひざまずいていた。少女たちの熱狂が乗らないミミの歌に沈みかけた他の客まで巻きこみ、良の中にある何かがかれらをひきつけたのだ。
ロック・ナンバーを二曲良は選んでいたが、熱のこもった歌と滝が前から気づいていた、からだの中からリズムがわきあがってくるようなアクションが客を酔わせはじめていた。ヒット中の『裏切りのテーマ』の前奏がはじまると、熱狂はいっそうひどくなり、客は手拍子でアップ・テンポのそのソウル・ロック・ナンバーにあわせ、さいごに良の両腕をまっすぐさしのべて立ちつくした純白な姿をのみこんで幕がいったんおりたときには、良の名とアンコールを求める拍手がホールをゆるがしていた。
ぐったり疲れて、精魂を出しつくした、という表情で戻ってきた良の肩を抱いて、滝は荒っぽく頭を小突いた。口に出しては、
「めいっぱい歌ったな、お前」
と云っただけだった。
五分の休憩のあいだに、あわただしくブラッドがセッティングを急ぐ。
バラエティ・ショーはすでに大成功だった。客を乗らせたのは良だ。良が、わずか四曲で、ブラッドを食った、という話はすぐ東京に伝わるだろう。うまくすれば、このあとのツアーのステージで、もっと良の出場をふやすように話をつけられるかもしれない。
滝はあれこれ思いめぐらしながら、ふといよいよ配置につくために出ようとするロックンローラーたちの、良と彼をぬすみ見る刺すような目に気づいた。見てろ、というように、かれらは出ていった。
しかしすぐに滝はにやりとした。再び幕があき、ブラッドのステージがはじまろうとしたとき、はっきりと、
「ジョニー」
「良ちゃん」
の声がきこえてきたのである。
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「くやしい」
ミミがつっかかるような微笑をうかべて云った。
「あたし、くやしいのよ。きいてんの?」
「きいてるよ。からむなよ」
かれらの一行は、長崎に移動していた。福岡で二日、一日移動日をとって、リハーサル、本番、の繰りかえしだ。福岡のショーは二日とも大成功だった。まず、良のためだ、と云っていい。
案の定長崎の分から、良の持ち時間をふやしてはどうかという話が興行主の方からきていた。場所をかりる時間は動かせないから、他の出演者の時間をけずることになる。児玉マリはけずるも何も二曲しかないのだから、けずられるのは、ミミとブラッドだった。
「あたし、こんな侮辱うけたことないわよ」
「おい、ミーコ、怒るなよ」
「そりゃ良ちゃんあたしが思ってたよか、何倍もやるけどさ──でも……」
「ミーコだってそうやってのしてきたんだぞ。並いるスター連を食わんようじゃ、スターになれないよ」
「わかってるわよ。あたしが調子がわるいのもわかってるわよ。でもさ──」
「怒るなよ、埋合せはつけるからさ」
「しょうがないな、滝さんじゃね。大体あたしが云い出したんだものね」
良の持ち時間をふやし、全部で六曲歌わせることになったので、曲数はミミと同じになり、前座二人、真打二組のショーのはずが、ほんもののバラエティ・ショーの形式になってしまっていた。興行主の意向しだいだから怒るわけにもいかない。
「でも憎まれるわよジョニー。ブラッドさんたち何て云ってたと思う。チェッ、テレビって奴は強《つえ》えよって、まるで吐きすてるみたいに云ってたわよ」
「負けおしみだな。憎まれるようでなきゃ小物だ。ブラッドともあろうものに負けおしみを云わせりゃ本物ってもんさ」
真のスーパースターはデビューからして神話が生まれる。レッド・ツェッペリンの前座で出て、わずか三人で三万の観衆を熱狂させてしまい、ジミー・ペイジをしてただちにプレイを中止させろと申し入れさせたという、グランド・ファンク・レイルロード。数の内だとロック・フェスティバルに加えて貰い、BST、サンタナはじめ世界的なスター・バンドたちをよせつけない迫力でデビューを飾ったチェイス。
福岡の少女たちは二晩ともつめかけ、移動のときにはホームへ入って良の名を声をからして呼びながら見送った。いままさに新しいアイドルが生まれようとしているときにだけ見出すことのできる、無私で無償な熱狂、滝のようなしたたかなプロデューサーをも感動させる、若々しい情熱が良を取り巻き、見守っていた。
もしかしたら何か連絡があったのかもしれない、と滝は思った。かれらが長崎についたとき、こんどは長崎支部を名のる少女たちが、ホームでじっと待ちかまえていたからだ。これはブラッドにも、ミミやマリにも、著しく面白くない情況になってきたのにちがいなかった。
「ねえ、埋合せって、どうやってつけてくれるのよ」
「女王さまのおぼしめしどおりに」
滝は苦笑して云った。
「何でもする?」
「お望みとあれば一晩中でも──」
「いやな人、きこえるじゃないの」
「何か買ってやろうか。それとも──」
「ようし、じゃうんと我儘云ってやるわ。そのくらい、当然よね。これで良ちゃん一段格が上るんだものね。じゃ、まず──そうね、今夜どっか連れてって」
「どこがいい」
「お食事、ナイトクラブ、それから──」
「あまり遅くなると明日にさしつかえるよ」
「だめよ、ねえ、俊介さん」
ミミは周囲を見まわして誰にもきこえぬのをたしかめると、いくぶん淫らな含み声になった。
「ね、どこか知らない──ゆっくり、くつろげるところ。だって、ホテルだと、石チャンだの、リエや松子さんがすぐとなりだし、ひょっとして用でも思い出してノックしやしないかと思うから、何だか──」
「安心して声も出せないし」
「いや、エッチ」
「エッチはどっちだ、ミーコの魔女め」
ミミの乳房が滝の胸に押しつけられていた。その乳首が、すでに固く隆起しているのを、そっとつまんでやると、ミミは低い声をあげた。
「今夜の予定は」
「挨拶まわりが二箇所だけ──やめてよ、どうにかなっちゃうわ」
「じゃわれわれの方が早いな、きっと。帰ってきたら、ルームサービスにことづけろよ。すぐおりるから」
「そうする──でも、手付け」
「やれやれ」
滝はミミをひきよせ、長いこと唇をあわせた。
「良ちゃん……」
「何?」
「良ちゃん、いいの? 嫉くんじゃない?」
「あの子は、人を嫉いたりする子じゃないよ。可哀そうに、おれは、嫉いて貰えるどころじゃない」
「嫉いてほしいのにね。可哀そうに──何よ」
「いや、ミーコってすごいセックスマシンだな、って云ったのさ」
「いやなひと──あ、リエだわ。今夜ね」
付人のさがしている声をきいて、うろたえたようにミミは滝をはなれた。目がうるんで、欲望にあやしい表情になっている。
おれとミミはいつでもお互いに欲しあっているし、いつでもうまがあう、と滝は苦笑して昂ぶりをもてあつかいながら考えた。ミミは恋愛とまったく別問題として男なしでは二晩といられぬような女だ。ミミの際限のない欲求にこたえ、ミミを全面降伏させてやるのは、滝にとって自尊心をかきたて、男としての自信を快くくすぐってくれる快楽である。
おれとミミは、お互いにとって理想的な組みあわせなのだ、と滝は考えた。それでいておれもミミも別の人間を愛している。ミミが二年間の狂おしい恋をついにあきらめたといっても、いまだに、妻子ある俳優の檜山健二を愛していることを滝は知っている。
男の目からみてまったくどこがいいのかと思うようなくだらぬ男で、甘たるい美貌だがおよそ才能も覇気もしっかりしたところもなく、ミミが決して結婚を迫らぬのをいいことに家庭ではよいパパ、よい夫の顔ですましつづけた。
夫人が賢い女でよく耐えてみっともないさわぎも起こさなかったのがまだしもだったが、檜山の無責任と意志薄弱は二人の女をどん底まで苦しめ、いったいどうして美枝子夫人にせよミミにせよなみ以上に聡明でしっかりして、美しくもあり才能もある女が、どこがよくてこんな男のためにこうも悩むのかと知るものすべてに歯がゆがらせたものである。あたしはそういう恋しかできないのだとミミは云っていた。
「だから滝さんは安心ね。あなたみたいにしぶとくて、ぬけめなくて、ずるくて、男らしい人って、あたしがいなくてもちゃんとやっていくどころか、あたしをものの数に入れもしない人よ。あたしもそうだわ、きっとあたしとあなたってとてもよく似てるのね」
きっとそうなのだろう、と滝は考えていた。滝もまた快楽と愛とをともすればまったく切りはなして考える種類の人間である。
ミミからの呼び出しを待ちながら、ふりかえると、良は明日からふやすことになった二曲の楽譜を真剣な表情で見つめて、ギターでコードをいれながらこまかなところをさらうのに余念がない。
ファンたちの熱狂にふれ、客を自分の声ひとつでわきたたせることを味わってから、早くも真の歌手への欲と自覚が出てきたようだ、と滝は満足して考えた。
ミミからの電話は九時すぎに鳴った。
「良」
「ん?」
「ちょっと、おれは──用ができた。出てくるから、さきに寝てろよ」
「うん。遅くなるの?」
「わからん」
奇妙なうしろめたさと鋭い悔いを我ながら腹立たしく感じながら、滝は上着をハンガーからひったくった。
「ゆっくり休んで、明日にそなえとけよ。明日からは、一応、前座という扱いじゃなくなるんだからな。これでこのツアーで成功すれば、お前、これからは芯で巡業がとれる。うまくすれば初リサイタルなんて話にも持ちこめるかもしれない。明日は大事だぞ──いちばん大事な勝負どきだ、そのつもりでいろよ」
「うん。わかってる」
「お前なら絶対やれるんだから──じゃ、わるいけど、ちょっと行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
良には、他人に対する好奇心というものがほとんどない、あるいはほとんどそれを表面に出してみせることがない、ということは、滝ももう前から気づいていたことだ。それが美少年特有のナルシズムで自分にしか興味がないためなのか、本来の性格が冷たいのか、それはわからないが、滝とミミとのことなど、これだけ一緒にいて知らぬわけもないし、何も感じないはずもないと思うのだが、ついぞひとこともそれについて云わない。いまでも、勘ぐっているのかどうかすら良のきまじめな顔からは読みとることができなかった。
滝は良の頭を小突いておいて、妙なうしろめたさをいぶかしみながら室を出た。良の目は澄んでいて、何ひとつ彼を疑っているという証拠ひとつあるわけではなかったが、滝は腹立たしくも、これからミミと過そうとする快楽の時間が、良に対する、ささやかではあってもれっきとした裏切りであるような気がしてならないのだった。
あとで思いかえして、よく、滝は、そのとき感じたふしぎなためらいと良の側をはなれがたい思い、ミミと夜を過し、そのからだをむさぼるよりも、ほんとうは良と、良のとなりで静かに仕事でもして、良の寝息をききながら眠る方がいい、という心の最も深いところで執拗に囁きかけていた思いを、彼と良の内には何か目にみえぬつよい絆がある、そのための虫の知らせ、わるい予感の囁きではなかったかと考えたものだ。
むろん、滝に、良をおとしいれた罠を予知するすべもなかったが、それでも彼は何かを感じたのだった。だが、あとで考えてつねにまちがったことのない、自分の潜在意識を信じなかった、耳をかさなかった、ということで、滝は長いこと自分が罰されたのだと思ったのだ。
滝はかなりあとになってから、ようやくそのむごたらしい事件の詳細を知ったのだった。
*  *
滝が出かけてしまうと、良はまだ寝るには早い時間だったので、しばらくひとりのレッスンをつづけていた。ホテルは防音の設備もきいているのだろうが静かで、福岡ではスタッフの麻雀をする物音が遅くまできこえていたりしたが、それもきこえなかった。
みんな夜の町にでも出かけてしまったのだろうか、と良は思ったきりだった。もっと余裕ができてくれば、はじめておとずれた長崎の夜景を楽しみたいとか、同行の人びとと親しみを深めてみたいような気にもなるのかもしれないが、良は明日のステージで頭がいっぱいだったし、それに一行の中の誰ともたいして知りあってはいなかった。
(あの児玉マリも、面はいいけど、あんまり可愛くないな、お天気屋だし)
自分の大受けで、ひとりだけ前座扱いということになってしまった少女歌手の、列車の中でマネージャーにみせたヒステリックな言動がすっかり良を辟易させていた。楽屋で不機嫌そのものの顔でいて、ステージに出るととたんに世にも可憐な笑顔をつくるのも、狐の尻尾を見せられたようで興醒めがする。
スターなんてあんなものなのかと良は思っていた。トップ・スターの部類でも花村ミミは十も年上だと良にはひどく年増のような気がして興味がない。
時計が十時半をまわるのを見、静かな四囲に気がねして歌はやめたが、なんとなく眺めつづけていた楽譜をまとめて、そろそろ寝てしまおうかとのびをしながら鏡台に歩みよった。旅行セットをとり、ふと鏡を開いて、自分の顔に見入った。
大きな鏡にうつしだされたきれいな顔に小さくほほえみかけて見、額をひんやりしたガラスに押しあてて上目づかいにのぞきこむ。そのとき、ドアがノックされた。
(滝さんだ)
良の敏捷なしぐさの中に、良自身も気づかない、とびたつような嬉しさがひそんでいた。
「早かったね、もっとかかるのかと思った──」
小さく声をはずませて云いかけた良が、ことばを呑みこんだ。滝が鍵を持っていった扉の向うに立っていたのは、ブラッドの竜新吾だった。
「滝さんでなくてわるいね」
ブラッドのリーダーは、太い声で云った。
「ちょっと入れてくれないか」
「何ですか。何かご用でしたら、ぼくの方からうかがいましたのに」
教えられたように礼儀正しく良は云いながら、なんとなく迷って半分頭を出した。竜は肩で押すようにして強引に室に入ってきた。黒いウェスタンシャツに黒いスリムのジーンズ、というなりに、あいかわらずかけっぱなしのサングラスがやくざっぽい。大柄な彼に圧迫されるようにうしろにさがった良が、つづいてどやどやと踏みこんできたブラッドのメンバーたちを見、急に目を光らせた。何かを感じたというのではない。ただ、ふといやなものに襲われたのだった。
「あの──何でしょうか」
良はブラッドたちを見まわした。みんな、良よりは頭はんぶんは大きい連中である。さいごに入ってきたドラムスの大木が、ゆっくりとドアをしめ、がちゃりと鍵をかけるのを見たとき、ふいに良の顔から血の気がひいた。かれらは酔っていた。何か、殺気じみた凶暴なものが、名うての乱暴者だという半やくざのロックンローラーたちの表情の中にあった。
「ちっと、話をつけたいことがあってな」
竜が呟くような声で云った。良は心ならずもあとずさりした。
「なあ、お前、少しのぼせていると思わねえか」
「な……何……」
良はしだいに重苦しく咽喉にこみあげてくる恐怖をはねかえそうとした。
「お前、新人なんだろう。少しばかり、態度がでかいんじゃないか、ええ?」
「あの悪党の滝の奴が、つまんねえ小細工をたくらみやがってさ」
別の奴が云う。かれらは今では、壁ぎわまで追いつめられた良をすっかり包囲したかたちになっていた。
「よりによって、おれたちの仕事《ゴトシ》にケチをつけて、恥かかせようってな、どういうことだい」
「滝──滝さんは小細工なんかしてません」
良は怒って云った。
「ぼくは──」
「へえっ、じゃ何か、おれたちが落目《おちめ》だから坊やがカバーに入ってくれたってわけかい、え?」
「ふざけないでほしいね、まったく。契約違反じゃねえか。尾崎さんじゃどういうしつけをしてるんだか知らねえが、うちじゃ、ひとのゴトシに割りこむようなワルはよ、こうやって落し前をつけるんだよ」
竜はゆっくりサングラスをとり、ポケットにしまった。細くて切れの長いひとえの目が、蛇のようなぶきみな光をおびていた。ポケットから彼の手が出てきたとき、そこに細いスイッチ・ナイフがひらめくのを見て、良の目が見開かれた。
いきなり両側から二人に腕をつかまれた。凍りついたようになっている、良の腕をつかみ、竜新吾はゆっくりとナイフを良のブラウスに刺すなり、あざやかな手なみをみせて衿もとまで布地を切り裂いた。千切られた布に手をかけて、思いきりよくひきはがす。
「何するんだ!」
良は悲鳴をあげた。しっかりと押さえつけられた両腕をふりはなそうとし、だめだと知ると、膝を曲げて竜の股間を狙う。
「この野郎」
スナップのよくきいた、音のせぬくせに恐ろしくこたえる平手打が頬にとんできた。相手はまぎれもない、暴力のプロだった。≪暴力ロック≫を名乗るのは伊達ではない。良は苦痛の涙を目ににじませて、抵抗する気力を失った。
「この野郎、こんな顔しやがって、思ったよりワルだな」
あからさまな嘲弄の声でひとりが云った。同時に竜の指がぐいと良の小さな顎をつかみ、砕くほどの力をこめて押さえつけた。
「坊や、あきらめな。お前みたいなぽっと出のガキにそうほいほいと恥はかかされるわ、売り出されるわじゃ、おれらもうちのプロもかなわねえんだよ。恨むんなら、滝を恨みな。あんな仁義にはずれた真似をやらかしといて、玉から目をはなしてりゃ、こうなるにきまってら」
ねばっこく囁きながら、竜は服をぬぎすてていた。見かけによらず、逞しい筋肉質のからだが、既に凄じい昂ぶりを示していた。良は再びむなしく、ベッドに押したおそうとする強い腕にあらがいながら声をあげた。
「助けて──滝さん! 滝さん──」
「誰にもきこえやしねえよ」
ブラッドたちは嘲った。
「ホテルは防音だし──それによ、いまこの階は、おれたちとお前しかいねえんだぜ。ちょいとした手でな」
「みんな、おれらのスタッフが誘って、飲みに行ってんだよ。それにお前のやり手のマネさんは、あいにくと今夜は帰って来やしねえ」
「あの好き者の花村ミミのあまと寝てんだよ。いまごろは、お大事の坊やがこんなことになってんのも知らねえで、どっかのモテルでフンコラフンコラやってるよ」
ふいに、良が抵抗をやめた。驚きに呪縛されたようになって、大きく目を見開いた。激しく喘ぐ、ふいごのような呼吸の音だけがした。
急に良は狂ったように身をもがきはじめた。声も立てず、死にものぐるいで、残酷なリンチから逃れようと暴れまわる。まるで獲物の抵抗を楽しんでいるように、ブラッドたちは少年のすんなりしたからだを押さえつけては手をゆるめ、また押さえこんだ。
「この小僧、おとなしくなるようにヤッパでちょいと撫でてやったるか」
げらげら笑いながらひとりがスイッチ・ナイフをふりまわす。
「よしな、そいつをやると面倒になるから」
「観念しろってのに、お前だってまんざらうぶくもねえんだろ。作曲家の山下国夫をたらしこんでデビュー曲をヒットさしたっていうじゃねえか!」
「やめて──やめてえ!」
良は絶叫した。ブラッドたちは生殺しに少年を弄ぶのを飽きたらしく、やにわに襲いかかるようにして両手と両脚をしっかりと押さえこみ、男を受け入れる姿勢をとらせた。明らかに彼らは凶行に馴れきっていた。
「ち、なんて細っこいんだこのガキ」
「大丈夫かな新吾、殺しちまやしねえか」
「なあに、こいつだって──」
「ああ!」
良は悲鳴をあげた。ありたけの力で、ずりあがり、貫こうとする竜のからだから逃れようとする。容赦ない手が、きつく良をとらえた。竜新吾は苦労しながら貫こうとこころみたが、眉をよせて良の恐怖にひきつった顔を見おろした。
「全然、駄目だぜ」
残忍な快感にゆすぶられるように云う。
「ひょっとすると、開通式かな──だとすると、こいつは、ちっとばかり、可哀そうなことになるな」
「こんな顔して、そんなことあるかよ」
誰かの指が良の頬を押さえてゆすぶった。
「おい、云えよ、お前これまで男にやられたことあるんだろ」
良は必死に激しくかぶりをふった。憐愍を期待できる相手ではなかったが、少しでも苦痛を逃れたい一心で、夢中に哀願する。
「勘忍して──お願いだから──助けて……」
「可愛想に、お前、死んじまうぞ」
嗜虐の残酷な欲望をここちよく生贄のいたいたしさにかき立てられたように、どっとかれらは笑った。
「しっかり、開いてろよ」
竜が囁いた。両側から、無理やりに押し開いても、良のからだは男を受け入れるには狭すぎた。かまわずに、顔を真赤にして力をこめる。良が激しい悲鳴をあげてのけぞったとき、それはたけだけしく押し破るようにしてつき入れられた。あ、あっ、と良が声にならぬ悲鳴をふりしぼった。激痛のあまり涙があふれ出した。
「いたい──いたい……助けて」
「新吾、どうだよ、使い心地は」
竜は汗にべっとり濡れた顔をあげて、かわききった唇を舌で舐めまわした。ベッドの端に押さえつけられた少年に、立ったままのしかかる彼は、祭壇に捧げられた生贅をむさぼり食う、巨大な悪魔のように見えた。
「すごいぜ」
もう一度唇を舐めて囁きかえす。目がぎらぎらと光っている。
「こんなの、はじめてだ──すごいぜ、このコ──すごくいい」
「可哀そうに、いてえだろうな──気絶しそうだぜ」
「こんな狭いの、はじめてだぜ──おい、俺、もう一回やるぜ……」
「何云ってんだ──早く交替しろよ」
良のからだはあまりの苦痛に弓なりにのけぞっていた。竜による、かなり間をおいた二回の経験は、良のからだを馴らすよりむしろ傷つけて、良に深い恐怖と嫌悪を植えつける役にしかたたなかった。良はひどく稚い啜り泣きの声を洩らしながら、いたいたしく痙攣するように苦痛にすくみあがっていた。その無意識な動きがいっそう刺激になって暴行者をむごたらしくさせることなどわからない。
「やめて──滝さん──滝さん……」
自分が何を云っているのか、誰の名を、なぜ、呼んでいるのかも、おそらく良には意識されていなかっただろう。ようやく竜が身をおこすと、鮮血がしたたりおちた。待ちかねて次の奴がのしかかって来ながら、低く口笛を吹いた。
「凄《すげ》え、バージンの女《スケ》やるよか迫力あるな」
「ほんとに殺しちまったらどうする」
「大丈夫だよオ、せいぜいしばらくふつうに歩けねえぐらいだろ」
「でもこのコ細いからな……」
もう、良の耳には何も入っていなかった。良の呻き声は、再び傷ついた部分を貫かれる瞬間、するどい悲鳴にかわったが、やがてしだいに絶え絶えになった。五人にかわるがわる犯されたあと、あらためてかれらはむごたらしく弄びはじめたが、もう、ほとんど、何をされているかという意識もなかった。ただ、貫いている苦痛に反応し、さいなまれるだけの、人間ではない獣にすぎなかった。もう滝の名も食い破るほどかみしばった唇にのぼらない。自分がめちゃめちゃに傷つけられてしまったことがぼんやりと感じられ、ひどく出血していたが、何もかも理解できなくなっていた。
いつまでその凄惨な拷問がつづいたのか、いつ許されたのか、何もかもわからない。目の前がひきこまれるように暗くなってゆき、生まれてはじめて、苦痛のために良は意識を失った。良がすべての記憶の闇に沈む直前に、さいごに見たのは、まっかに血走ってもはや抑制のしようもなくふくれあがってゆく狂った欲情にすさまじく燃えるように光っている、凌辱者の誰かの鬼の眼だった。
*  *
「おい、どうしたんだ、お前」
滝は何となくうしろめたい声を出した。よく晴れた日である。どこか異国の感じのする、長崎の市街が窓の下にひろがっている。
滝が戻ってきたのは、明方の四時半だった。良はよく眠っているように見えた。滝は何も気づかず部屋に忍びこみ、何時に帰ったか知らぬだろうとあてにしながら眠りこんで、何も予定がなかったのをさいわい、スタッフからの電話で起こされるまで、昼すぎまで目がさめなかった。
スタッフが打合せを求めてきて、あわてて着がえてとびだすときも、良はまだベッドにいた。滝がいなくなると、良は力をふりしぼって身を起こし、くずおれそうな身体のいたみに歯を食いしばりながら服を着がえ、血でひどく汚れているシーツをそっとまるめてベッドの下に押しこんで隠し、ひき裂かれたブラウスをスーツケースの一番奥に押しこんだ。滝に何があったのか絶対に知られたくなかったのだ。
気の遠くなりそうなのをこらえて顔を洗いにいくと、鏡の中に、まったく血の気のない、目にも光のない弱々しい顔がうつっていた。良は呻いて鏡に手をついて身を支えた。
(お前──死んじゃうぞ。今日一日──保《も》つ?)
喘ぎながら鏡の中に囁きかけた。保たせなければならないのだ。頬をそっとさすったり叩いたりして、血色をよくしようとしたが、何の効果もなかった。からだじゅうの力が、激しい疼痛をつきさしてくる部分からぬけだしてゆくようだ。まだ出血が止まっていなかった。
滝はそんなことは知らない。戻ってくると、良は、へやを片づけて、窓ぎわの椅子にもたれて外を見ていた。背中が、滝を拒んでいるように──拗ねているように見えた。
実際には、良は気をふりしぼって、何でもないように見せかけようとしていただけだったが、快楽に満ち足りて、気のとがめている滝は、鼻白んで忙しいようなふりをした。トランクをかきまわしながら、返事をせぬ良へうろたえ気味に云う。
「見物でもして来たかったら、行ってきていいよ。おれは、ちょっとまだ打合せがのこってる。人吉の宿屋が何かごたごた云ってるんだとさ。四時に楽屋入りだから、三時半までに戻ってくりゃいいから、大浦天主堂でも見てきたらどうだ。一人で何だったら、児玉マリでも誘ってみろよ。喜ぶぜきっと」
「滝さんは──」
良は声がかすれぬように注意しながら云いかえした。
「滝さんはきのうどこを見物してきたの?」
「おい、良──」
滝はぎくりとした。やっぱり、朝帰りを知ってふくれてるのかな、と頭の芯が冷える。不愉快な狼狽に腹を立てながら、むやみとスーツケースをあけたてした。
「滝さん」
ドアがノックされて、吉本マネージャーが滝をあわただしく呼んだ。
「待って下さい、いまいきますから」
「滝さん、どうも誰か向うに先乗りさせないと話がつきそうもないなあ」
「まったく、厭になっちまうな」
良のかたくなに動かない背中にちらりと一瞥をくれて、いそいで滝は室を出た。何もおれがミミと寝ようが、寝まいが、良に何の関係もないじゃないか、と腹が立つ。
しかし滝の中に、(裏切り)ということばはしっかりととりついていて、良の怒りが正当なのだと告げる何かがあり、滝がほんとうに腹立たしいのは実はそのことなのだった。
(まるで浮気した亭主みたいじゃないか)
ミミの放恣な姿態、柔軟な肉、熱い喘ぎ、が滝の脳裏によみがえってくる。
「いやだねえ、滝さん、思い出し笑いなんかして」
きのう総勢十五、六人で飲みにいって、けっこうよろしくやっていたらしい吉本がにやにやと滝の背中を叩いた。
「からかっちゃいけない、吉本さん」
「色男はいいねえ」
「よして下さいよ」
滝は苦笑した。ミミはタフで、朝帰りは同じなのにいったい寝たのかどうか、朝から付人たちとミミのファンだという土地の有力者の案内で見物まわりに消えていたが、三時には戻ってきて、ロビーで鳩首会議中のかれらをみて、吉本たちの肩ごしに滝に色っぽいウインクをよこした。満ち足りた、艶めいた笑顔である。
三時半に、チャーターしたマイクロバスがつき、すぐに積みこみ、宿の清算、と目がまわるほど忙しくなった。人吉の宿泊地が、どうまちがえてか全然人数や室の手配が予定とちがっているというので、大至急スタッフを二人先にやることになったのだ。それで滝はかけまわっていて、さいごにバスにとびこんだ。良のとなりにかけようとして、滝は眉をよせた。
「なんだ、お前、緊張してるのか。顔色わるいぞ」
「何でもないよ」
良は鋭く反撥するように囁きかえした。滝はほんとうに腹が立ってきた。
「お前、今朝から一体──怒ってるのか、え?」
「別に」
当のミミも相乗りでちらちらこっちを見ているし、マカベプロのスタッフもいるから、それ以上何も云えぬままに、バスが会場についた。相変らず、熱心な少女たちはじっと良を待っていた。JONNIEと書きつけた、揃いのセルロイドの底のぬけた帽子を、何十人もの少女がかぶっていた。後援会であることを知って貰おうと、いそいで拵えたものらしい。
「お前、幸せ者だぞ。ちっとは、愛想のいい顔をしろよ」
滝は仏頂面で云った。良は青白い顔でほほえもうと努力したが、頭の芯が暗く、ふっと意識が薄れてくるのを耐えるだけでせいいっぱいだった。滝に(あのこと)を知られたら死んでしまう、という激しい思いだけが良を耐えさせていたのだ。ブラッドの連中の顔を見ることを良はおそれたが、幸いにいつも勝手に行動することに決めているかれらは、セッティングをバンドのボーヤたちに任せきりにして、どこかで遊びまわっているらしかった。
「今日が正念場だぞ──だけど、お前なら、やれるに決まってるんだ、あんまり意識するな。リラックスして、ていねいに歌うんだぞ」
「わかってるったら」
良は喘ぐように云った。良の奴、少し甘やかすとたちまち増長するな、けしからん、と滝はきのうからのうしろめたい腹立たしさを良への憤りにすりかえて思った。
あんまりたちのいい子ではないな、小生意気で我儘で、自己中心的で強情で、まったく、わるい奴なのだ、と心中悪態を並べる。
何だか、ばかに顔色がわるく、それに表情にいつもの生彩がない、それに彼の目をなんとなく避けている、とどこかに気がかりなものを感じたが、腹立ちまぎれにその懸念を追い払った。
楽屋入りしてからは、また照明だの、ミクサーだのと打合せである。滝の場合はプロデュースとマネージメントをいまのところ兼任の形になっているからなおさら忙しい。ブラッドが楽屋入りしたのは三十分も予定より遅れていた。
良は、なんとかして誰にも変をけどられまいと、さいごのリハーサルをありったけの力をしぼって無事におえた。声が乱れないようにするのが限度で、とうていアクションをつけるどころではなかったが、リハのときは誰もがいいかげんにセーブしているので、あちこちとびまわっている滝に怒られもせずにすんだ。
楽屋に戻るなり良は崩れるように隅の椅子に倒れこんだ。ブラッドの連中がいるのに気づいて、はっと顔から血の気がひく。
「へえ、よく起きられたじゃねえの」
「見かけより、タフなんだな。もっと念入りにまわしてやるんだったかな」
「見ろよ、真青な顔してら──無埋すんなよ、死んじまうぜ」
「お前のぬけた分ちゃんとおれらが埋めてやるからさ」
ブラッドたちはさすがに声を低めながら、良をからかった。竜新吾が良のびくりとすくみあがるのをつかまえて、顎をつかんでのぞきこむ。
「怯えてんだな、このコ」
くっくっと悦にいった笑いを洩らした。
「怖がるなよ。こんなとこで、何もするわけねえだろ」
良は小さく震えていた。ブラッドのリーダーはにやりと唇を舐めた。
「可愛いぜ、この子、おれ気に入ったよ」
「見かけによらず根性あるけどさ、これでまだわかんないなら、また今夜やってやろうか」
「お前、あの悪党の滝の奴に見はなされたらうちへ来いよ」
竜が歯をむいて笑った。
「バンドのボーヤに使ってやるよ。おれは、お前みたいなコ好きなんだぜ。おれんとこにくりゃ、苛めやしねえよ、弟分にしてたっぷり可愛がってやるよ」
「どうせ、あいつ駄目だとなったら冷たいもんな」
大木が云う。
「ぽいだぜ。そういう奴だよ、滝俊介ってのは。おれらのワルなんざ、正直なもんさ。おれらはしたいことをするだけだけど、あいつは、汚ねえもんな。ウラ金だとか、カツアゲとか、タマを抱かせてごちゃごちゃやったりよ。まえっから、頭に来てたのよ」
「いいか、覚えとけよな。親切で云ってんだからな──あいつを、信用するんじゃねえぞ。ああいう、ちょっとやさ男でいつもにこにこしてるような奴が怖いんだぞ。きのうのことだって、あいつのせいだと思いな。あいつがあんなやり手でなきゃ、おれらだって、お前をつぶさねえとこっちが危《やば》いなんて思やしねえんだ」
「おい、来るぞ」
ブラッドたちは、たちまち良をはなれて、知らぬ顔で例のジャンプ・スーツに着がえはじめた。黒いビニール・レザー、背中にあざやかな銀と赤でぶきみな髑髏がそれぞれのデザインで描かれ、猥褻な金のジッパーで胸まであけたスーツの左胸には、それぞれのイニシャルの金文字が踊っている。
良は恐怖と嫌悪に魅せられたような目で、そのまがまがしい黒い悪霊たちを見つめていた。
べっとりとポマードでかためて光らせた頭に、特製の漆黒のエレキ・ギター、ベース・ギター、ドラム・セットも黒だ。野卑でたけだけしい若い獣の熱気が凶暴な敵意をはらんでかれらの周囲から発散していた。
その前で、疼痛に喘ぎながら椅子につかまって身を支えている良は、いかにもかよわく、きゃしゃな、脆い精巧な細工の贅沢品のように見えた。良の目は白く光りはじめていた。
(殺してやる)
唇まで血の気を失いながら良は呟き、覚えず自分の思いにびくりとした。
(殺してやる──殺してやる。つぶされたりするもんか……こんなことで──こんな……)
どうやって、それまでの時間を辛うじて気をしっかり保ち、何でもないふりをしていられたのか、良は覚えていなかった。頭の芯が燃えるように熱く、ひっきりなしに疼いてくる苦痛は錐をもみこむように脳までつきあげてきて、時々きつく唇をかんで正気づけねば、鋭い悲鳴が口をついて出そうだった。
なんとかして、無事に今日一晩終えれば、とだけ良は思いつめていた。このステージだけはしくじるわけにはいかない。それを知っているから、ブラッドの悪魔どももこんなことをしたのだ。
このステージで好評を得れば、良は一気に前座歌手ではなくれっきとした一方の芯になれる歌い手と認められるのだった。契約を重要視する興行主が、しかもマカベプロ系の公演で、マカベの体面をつぶす危険にもかかわらず、良にウエートを増やすことを要求してきたのだ。それは興行主にとってもさき取りの賭にちがいない。
(滝さん! ──滝さん……助けて、ぼく死んじまうよ──苦しいの──滝さん……今日一日……)
良は無意識に呻いた。目をつぶり、ぐったりと壁に頭をもたせかけてしまう。そんなつもりはなかったのに、そのままふうっと前後不覚におちいってしまったらしかった。気づくと滝に激しく揺り起こされていた。
「おい、開演だぞ」
滝は半分腹を立て、半分おかしいようなゆがんだ顔で良をのぞきこんだ。良は顔をそむけた。
「いい度胸してるなあ、大したもんだ。よくまあ今日、居眠りができるもんだよ」
「眠ってやしないよ。ちょっと考えごとしてただけだよ」
良は抗議した。滝は笑った。
「まあまあの入りだぞ。マリちゃんが出るからな。早く袖へ行ってろ。わかってるな、曲の順序は」
「『哀しみの朝』で出で、『朝日のあたる家』でしょ」
「イントロをおちついてな。出をまちがうなよ。おちついて、ていねいに歌うんだよ」
「うん──」
「おれがついてるからな」
滝は良の頬を撫で、ふっと眉をよせた。
「お前、ばかに青いな」
「そう?」
「あがってるか? ちょっと手をかせ」
ほっそりした手を掌に握ってみる。
「熱いな」
滝は云った。
「顔は冷たいんだけど──大丈夫だな。こんなステージでびびるお前じゃないものな」
小さく笑ってつけ加える。
「居眠りできるんだからな」
良は、歯を食いしばって立ちあがり、ずきりとつらぬいてくるいたみに耐えた。何かさがしているようなふりをして、滝が行ってしまうのを待つ。腰をねじるようにしなくては階段をおりられないのを、滝に見られたくなかったのだ。だんだん苦痛がひどくなってくるような気がする。
(あと三時間──)
白いチュニックと、黒のベルベットのパンタロンにつつまれた、ほっそりとした姿は、弱々しく舞台の袖の重いびろうどの幕の蔭にかくれた。
ライトの中で、児玉マリが歌いおわってお辞儀をするところだ。良は激しく唇をかみしめ、夢遊病者のように舞台の光の中へ出ていった。
キャーッという歓声がおこる。
「ジョニー」
「良ちゃん」
良はすでに馴れた持歌のイントロをききながらかろうじて頭をさげた。ふと、舞台の袖で滝が眉をひそめた。良はマイクに手をのばし、コードをさばきながらよろめいたが、なんとか立ち直って、歌いだした。
つもり、だったのだ。声は出ていなかった。頭の芯が暗くなり、ライトがぐるぐるとまわりだし、良はかすかに呻き声を洩らして、失神してステージの上にゆるやかに倒れこんだ。情容赦なく照らし出すライトの中で、こわれて投げ出された人形のように、良は弱々しい表情で瞼をとじたまま、動かなかった。
客席から、激しいざわめきが起こっていた。良のファンが悲鳴をあげて、舞台にむかって押しよせようとした。場内は騒然となった。
「幕! 幕をおろして」
滝は声を殺しながら係に怒鳴り、それだけでなく自分でとびつくようにして幕をおろした。
「滝さん!」
「ミーコ頼む、出てくれ──一分であける、バンドにはおれが──出られる?」
「出られるわ」
ミミはおちついていた。赤いロングドレスの裾をひいて、いそいで舞台へ出る。滝はバンド・マスターのところへ走り、それからすでにスタッフに袖へ抱きあげて運びこまれていた良のところへ走った。
「貧血、みたいだね、滝さん」
吉本がすでに真青な良の顔をのぞきこんだままで、おちついた声でいう。舞台に穴があくくらいの不始末はこの世界にないし、幕の向うで、ファンが良を呼び、声をからして、「お席にお戻り下さい」という係員の制止とあいまって場内の騒ぎがきこえてくるのだが、天晴れなおちつきようだった。
ふいに、この野郎、ざまあ見ろと思っていやがる、と滝は悟り、それをひそかに胸の底に刻みつけた。
「いまミミが出ますから、アナウンス、一曲済んでからにしましょう。プログラムの一部変更だけでいいでしょう。貧血なんて、みっともない、だらしなくて、お客様に云えやしませんよ」
滝は我ながら冷静な態度で吉本に云い、アナウンス嬢に伝達し、幕が再びあがって騒然とした中でベテランの貫禄充分にミミが歌い出すのをきいてはじめて良のもとにひざまづいた。
良はどうやら意識を取り戻し、ミミの付人がもってきてくれた水をいれたコップをつかんだまま、石黒の腕に支えられてぐったりとしていた。
吉本や、ブラッドの連中が冷やかに、面白そうに見おろすのを滝は見、いきなり良の衿をつかんで引き起こすと、思いきりその頬を叩いた。がくりと良の首がのけぞる。ひき起こして、二度、三度、殴った。
「何のざまだ、これは」
「滝さん、滝さん」
あわてて石黒がとめ、吉本も気を呑まれたように一歩さがった。
「良ちゃんのせいじゃないよ。貧血じゃしょうがないじゃないの」
再び滝が殴ろうとするのを、吉本が腕を押さえる。滝がおちついた、冷たい表情で手をあげるのが、激昂よりもぶきみなものを漂わせて、ブラッドの連中すら鼻白んで滝を見つめた。
滝は目をあげてぐるりとかれらを見まわした。うろたえたようにみな目をそむけたり、伏せたりして、なにか寒々とした表情になっていた。
「おい、良」
滝は良の細い肩をつかまえて揺すぶった。無抵抗に良の頭が揺れる。
「できるのか、このあと」
「むりだよ、滝さん、この青い顔見なさいよ。きつい人だねえ」
「吉本さん、そんなことじゃ済みませんよ」
滝はほのかな微笑を目もとにみせて穏やかに云った。
「良──おい、いい加減にしろ」
「滝さん、ほんとに、わるいこといわないから、休ませてやりなさいよ。大丈夫だって、うちの連中でつなげるから。バンドは急場じゃあれだから──おい、新吾、あるね、ナンバー」
「オーケイ」
竜は闇の色の衣装に身をつつんで傲岸に腕を組みながら云った。
「おい、みんな、『宇宙船』のあと、『ブルース in |Gm《ゲイマイナー》』と、『イーストウエスト』はさむぞ。あれなら何時間でもつづくもんな、吉さん、おれ加減するからキュー出して下さい」
「あ、いいよ。助かったなほんと、お前らで」
吉本は云った。
「ふつうの歌手だったら──もしあれなら、あのとりやめたミミちゃんのセッションしてもいいな」
「お詫びは改めてしますがね」
滝は静かに云った。
「この責任はとりますよ。失礼して、今夜はじゃあこれであがらせて貰います」
「大丈夫ですよ、あとは任しといて下さい。それより、良ちゃんお大事にね──そういえば、見るからにきゃしゃだからね、そう思ってたんだ。強行軍で無理だったのとちがいますか。不馴れなのに、途中変更じゃね」
吉本の口はちくりと棘をひそめる。黙って滝は良を抱きおこし、楽屋へ運んだ。コートを上からきせただけで、楽屋口からタクシーをつかまえて、ホテルに戻った。
良はまだなかば意識が戻っていないようで、滝もひとことも口をきかず、ただ良の頭を肩にもたれさせたまま、サングラスの奥で苦しい考えに沈みこんでいた。
誰も帰っていない、静まりかえった廊下を、良を腕に抱いて室へ連れ帰ると、黙りこんだまま、ベッドにおろし、コートをぬがせた。自分用のポケット・ウイスキーを注いで、押しつける。
「──ごめんなさい……」
良はかすかな声を出した。
「だめだ、ぼく……」
ふいに良のとじた睫毛のあいだから煮えるような涙があふれてきた。良は声を出さずにしゃくりあげた。それをみて、わずかに滝は心がほぐれたが、顔は相変らずきびしく無表情だった。
「どうしたって云うんだ」
滝は低い声で云った。
「お前──緊張しすぎたとでもいうのか? お前が貧血症だとは思わなかったがね」
滝の声の、おさえきれぬ苦々しさをきいて、良は弱々しく目を開いた。涙でいっぱいになった目が、叱られた子供のいたいたしい哀しさを滾していたが、滝は憐れだと思いたがる心をおさえた。
「もういいから休め。まだ先がある──衣装くしゃくしゃじゃないか、お前──まだひどく青いな。医者、いくか? 注射一本して貰えば──」
「いやだ!」
良はかすれた悲鳴のような声を出して、突然滝にしがみついた。滝はその手をつかんでひきはがした。黙りこんで、服をぬがせ、パジャマに着替えさせようとすると良はよわよわしく抵抗した。
「何だ、お前──何もしやしないよ、寝巻にかえて、もう寝ろというんだ──どうしたんだ」
ふいに滝の目が光った。
「どうも何かと思ってたが──変だぞ、お前」
良は夢中でかぶりをふる。滝の目はしだいに激しい光をおびてきた。少年の細い手首をつかまえて、近々とのぞきこむ。
「何かあったのか。ええ? 何かあったんだな。そうなのか、良?」
「何も──」
良は喘いで、滝の手を逃れようとする。
「何もない──」
「じゃ、何で──」
滝は良の手を押さえ、抵抗を封じておいて、服をぬがせた。ふいに滝の目が動かなくなった。掌をふしぎなほどの鮮かさで汚した真紅に目をおとしたまま、息を呑む。良のずたずたになるほど傷つけられたからだを見たとき、滝は自分も打ち倒されたような激動を覚えた。彼はすべてを悟った。
「ブラッドの奴らか、良」
つとめておさえた声が震えた。良は滝の目から逃れようと弱々しく身をよじった。
「許して……」
「何を──云ってるんだ」
滝は喘いだ。やにわに、彼はとびかかるようにして良をすくいあげ、両腕に抱きすくめた。良がかすかな呻きを洩らす。
「良──」
「ごめんなさい──ぼくを怒ってるでしょ──」
「馬鹿!」
滝は呻いた。自分のからだがいたいような気持が彼に押しよせてきた。彼は良の頭をつかみ、いたましく見つめた。
「おれがわるかったんだ」
滝の胸に、はてしない苦いどす黒いものがこみあげてくるのだ。ミミとの情事、鏡の部屋、はてしない愛撫──彼は罰されたと感じた。罰を受けたことを知った。彼の裏切りに対する、それは罰だった。
「滝さん……」
「許してくれ──良、許してくれよ、おれのせいだ──おれがわるいんだ……奴らのことは知ってたのに、──おれは、お前から目をはなして……」
そしてミミと寝たのだ。滝は知った。この世に、良ぐらい、いとしいものはいなかった。
そして、彼自身に加えられるどんな最悪の苦痛でも、屈辱でも、これほどいとしく思っているものが苦しみ傷ついているのをどうしてやることもできない、癒し、やわらげてやることさえできないというこの魂の深奥に食い入ってくる苦悩にくらべれば苦痛とすら云えなかった。
滝は目の前が暗くなり、身を切られる苦悩に呻いて、辛いのか、良のからだを抱きしめた。
「おれは、どうしたらいい──どうしたらいいんだ、良……辛いのか? 良? おれは──おれは……」
良は、傷ついた、衰弱したからだを激しく痙攣するような滝の腕に砕けるほど抱きすくめられながら、ふしぎな安らぎの表情で、おとなしくなっていた。
ほっそりした手はぐったりと投げ出されていたが、いまはおずおずと滝の胴にまわっていた。肩で喘ぎながら、良は目をとじ、じっとしていた。
「良──苦しいのか……」
良は弱々しくかぶりをふる。なめらかな頬が滝の頬に触れている。
「滝さん──」
良は喘ぎながら囁いた。
「ぼくをはなれないで──ぼくをはなさないで。ぼくを──見すてないで……」
「誰がそんな──」
滝はせきこんだ。
「そんなこと、できると思うのか。良を見すてるなんて──良をはなすもんか……お前がいやだっていったって、はなしゃしないよ──決まってるじゃないか。何を考えてるんだ。誰がそんなこと云ったんだ。ええ? 誰がそんな下らんことをお前にふきこんだんだ。ブラッドか? あの畜生どもか?」
滝は、良のからだに怯えた震えが走りぬけるのを感じ、かれらのこの少年にのこした傷の重大さを知った。滝は瞋恚に目の前が真赤になる思いにとらわれて囁いた。
「こわくない、こわくないよ、良、おれがいる──おれがここにいるじゃないか。もう目をはなしゃしない──大丈夫だ。大丈夫だよ……」
「滝さん──」
良は滝の胸に顔を埋めた。
「何も心配しなくったっていいんだ──あいつら、あのやくざどもは、誓っておれが始末してやる──この世からほうむってやる、お前にしたことのつけはとってやるよ、良──おれには、そのぐらいの力はあるんだ。いいんだよ、良、何も心配しなくていい。おれがついてる。おれはいつもここにいるよ。いつでもお前のことだけを考えているよ。もう二度とお前を辛い目にあわしゃしないよ。可愛いよ──お前を見すてるなんて──二度とそんなこと考えるんじゃない」
「滝さん──」
「何も云うな。何も云わなくていい、おれはお前だけだ──お前しかないんだよ、良──何もかもいいようにしてやる。おれを信じてくれ。おれを憎んでないか? 少しは、おれのことを好きか? 良──」
滝は、良の頭が小さく、しかしはっきりとうなずくのを見た。彼の胸にしぼるようないとおしさがこみあげて来た。憤怒からとりかえしのつかぬ苦悩へ、瞋恚へ、そして狂おしい熱情へ、滝の心は激動にまかせて揺すぶられていた。彼の目が涙に濡れた。それが一体何年ぶり、何十年ぶりのことなのか、滝にはわからなかった。
「ほんとにか? ほんとに少しでもいい、好きか? おれがあんなことをしたのに──お前にひどいことばかりしてるのにか?」
「滝さん──」
滝は激しく良を抱きよせ、唇をかさねた。早く手当し、楽にしてやらねば、という懸念も、白熱した歓喜の前には吹きとんだ。
彼ははじめて、自分がどれほどこの猫の魂をもった小柄な少年を愛し、いとしく思い、崇拝すらしているか、知ったのである。
良はおれを嫌っていない、と滝は歓喜に狂おしくなった脳に痺れるようにその信じられぬことばを繰りかえしていた。彼は、良には彼しかいないのだということを、失念していたのだった。
良には何もなかった。家庭をすて、友人たちをすて、人を愛したこともなく、何ものでもなかったからこそ、その淋しがりやの少年は突然自分をおとずれ、さらってゆこうとするちがう世界の使者に黙ってついてきたのだ。
良はあまりに長いあいだ、関心をもたれ、必要とされ、大切にされ、愛され、甘やかされることに餓えていた。滝が良の運命を変え、そして良は何も持たなかったから、滝こそが、良の運命にほかならなかったのだ。
この良は、滝のつくった、滝のものだった。滝がつくり出すことで、滝をまたそれに呪縛してしまった。彼のものだった。憎もうと憎むまいと、かれらは、かれらこそが、お互いにつながれていた。
(おれはこんなに良を愛している!)
良のために死んでいい。良の一滴の涙を流させぬためなら、或は別な日には狂おしい憎悪にかられて彼自身が踏みにじろうと望むにしても、彼は良を掌の中に守るためならどんなことでもするだろうと思った。
彼は良の苦痛をわけあい、かわりに苦しんでやれるものならばと望んだ。彼の苦痛も、彼の歓喜も良だけがもたらすのであり、彼は良にとってもそうした存在でありたいのだ。
かれらは二人きりだった。世界の底には、ただ、滝と、良と、ただ二人しか存在しなかった。
いっそ、このまま時も止まってしまうがいい、世界もすべて滅びてしまうがいい、そう望みながら、ひたすらほっそりしたからだを抱きしめ、唇をかさねて、すべての思いを彼は忘れていた。
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これで四日、滝の奔走がつづいていた。失点を糊塗しようとする、むなしい苦労である。
良は、舞台で倒れた夜の夜半になって、ショックと衰弱のためだろう、高熱を出して、起き上がれなくなった。一日、無理をしたのがわるかったのははっきりしていた。一行は良とつきそいの滝をのこして次の巡業地へ発ってゆき、人吉、熊本、宮崎、とツアーをつづけたが、のこりの公演をすべて良がキャンセルせねばならぬのは明らかだった。
「無理して、重大なことになったらどうするんです。とにかく、一応熱がひいてから、東京へ戻るべきですよ。話はぜんぶそれからということにしましょう」
吉本は親切らしく云ったが、滝は腹の中で吉本を罵倒していた。吉本は、さあらぬ態をよそおって、プログラムの穴埋めはご心配なく、さいわいうちの星光があいてますから、タイプもキャリアも似てることだし、代役で興行を打たせましょう、と云ったのである。
滝ははっきりと、良を襲った残酷な罠は、そこまで念を入れての策略で、ブラッドの連中の突発的な凶行などではなく吉本の──ひいてはマカベプロのライヴァルつぶしの作戦だったことを知った。
別に驚倒はしない、もっと汚い──清純派タレントの妊娠中絶をネタに脅迫まがいのことをしてライヴァルを蹴おとしたことだってある滝である。油断をしていた自分がわるいのだ。
新人歌手にとって、舞台に穴をあけるだけでさえ致命的なのに、契約の半分以上をキャンセルとなれば、業界からしめだしをくっても仕方がなかった。
違約金を払い、下手をしたら損害賠償を請求され、プロにもはかりしれぬ損害が及ぶのだ。いまに、と滝は口辺の笑みをこわばらせもせずに吉本たちを見送りながら、心中に云いつづけていた。
(このことは忘れんぞ。決して忘れん。ブラッドと、吉本と、マカベプロだ──きっと、このことはきさまらの頭の上に何倍かにして返してやる──いまにな──おれが滝俊介だということを忘れるなよ)
四十度以上の高熱では、すぐに長旅をさせるわけにもいかない。その思いは思いとして、滝は良をみとってやらねばならなかった。
良はひどくうなされ、たえず黒い悪鬼どもの悪夢に怯えた。滝は稚い子供を腕の中に守っているような気がした。はじめ、さすがに心配になって、医者にかけようとしたが、良は泣くようにして拒んだ。そのくらいなら死んでしまうと身悶える。
滝はあきらめ、病状しだいではと見守っていたが、つくりはきゃしゃでも、若いからだで、熱がひくと回復は早かった。
その、良の枕もと、そして回復期の二日間はそろそろからだをならしにと少し出歩いたりした、その一週間たらずのことを、滝は決して忘れられぬ美しい日々として記憶にとどめている。それは、滝のひそかな思いの中で、良との至福の蜜月になった。かれらは二人きりで、すべての世の中の動きとも、かれらが身をおいている厳しい汚れた華やかな世界の激甚な生存競争とも切りはなされた美しい南の都市にいた。滝は、少なくともここにいるあいだだけは、彼のすべての生活も、自ら選んできた道からも無縁なのだと思うことに、かつて知らぬ安らぎを見出していた。
彼は、いまだけでも、しぶといプロデューサーでもなければ、〈タレント王国〉のデューク社長の右腕でもない、たくさんの人がそう呼び、彼自身はむしろ讃辞と見做していたように、悪党の人非人でもなかった。彼はただ滝俊介で、この石畳の町では、そうきいて、ああと膝を打つ人もなく、ひそかな恨みを抱きつづける者もなかった。
滝は手ばなしたことのない薄色のサングラスをはずし、終日カーテンをしめた室のほのぐらい中に、良の枕もとにかけてあれこれと世話をやき、そのあいだにはこの事態の収拾策に頭を悩ましたが、それを考えていてもいまは少なくとも心に苦さもなく、恨みも悔いもどこかに一時預け──一時預けにはちがいなかったが──になっていた。
「何か、飲みたくないか?──果物、買ってきてやろうか。苦しいか?──少しはいいか?」
滝は自分がこまごまとした気働きをする、どちらかといえば神経質な人間であることをありがたく思っていた。病人の看護は苦にならなかった。
そればかりか、彼は理想的な看護人であることを知って驚くくらいだった。小まめに汗をぬぐってやり、布団を直し、悪夢にうなされればその手をしっかり握りしめていつまでも安心させるように囁きかけていた。果物を自分でしぼって新鮮なジュースをつくってやりまでした。
夜は遅くまでようすをみていたが、眠っても、眠りはあさく、神経がどこかではりつめて良につながれ、何度も目をさましてようすを見てやった。それらすべての心づかいを、彼は何の代償ものぞむことなく、それ自体が快いこととしてしたのだった。
彼は、頼もしい父親と、やさしい母親を兼ねているようだった。そのあいまには、東京に長距離電話をかけたり──電話では細かな事情を話しようもなく、デュークは珍しく激怒していた。良の失態が、「『裏切りのテーマ』の今西良が、長崎で、舞台で失神! 日程をすべてキャンセル、なぜ?」という女性週刊誌の記事で出てしまったのだという。
「いいじゃないですか。何か悲劇的な病気の疑いだとか、そういうふうに書かせりゃ、いい宣伝だ」
「何を云ってるんだ。問題はキャンセルの方だよ! 南州興行の依田のやつがおそろしく腹をたててこっちへ出てきて話をつけると云ってる。何かで、うちが故意に恥をかかすつもりじゃないのかなんてことを思いこんでるようだぞ。以後絶対に今西良は使わないし、うちのほかのタレントも考えさして貰うなんて云ってやがる」
「とにかく、いまさらどうにもなりゃしませんよ。二、三日うちに帰京しますから、すべてそれからってことで」
いいかげんに電話を打ち切って──実際それ以外に何をしようもなかったのだ──苛立ちながら上へあがっていっても、良の顔を見ると、それがそもそもの騒動の張本人だというのに、奇妙にすーっと気持が和んで、何も苦になることはないような気分になった。
「ぼく──もう駄目なの? もう、仕事も貰えないのかな」
「何を云ってる。つまらんことを気にするなと云ったろう。おれが、万事いいようにしてやるよ。お前は、おれにまかせていさえすりゃいいんだ」
良と滝はあまり話をするでもなかったが、ぽつりぽつりとかわすことばのあいだに、激情よりもずっと深い、互いの信頼と愛情をたしかめあえるように滝は感じていた。
良がひどくうなされるようなときには、滝はベッドに入って良を抱きしめてやり、そうすると安心して眠る良をたまらなくいとおしいものに思ったが、そうしてふれあっていても、なにくれと世話をやいたり、愛撫したりしていても、何の具体的な欲望もきざしてこないのは、我ながらおかしいくらいだった。
少しでも良を傷つけたくない、守ってやりたい、という熱いいとおしさだけが滝を浸していて、良が、どこにいてもたえず滝を目で追っているのが、胸がいたむほど可愛いのである。
動揺や激情は滝をしばらくのあいだでも見はなしていた。嫉妬も反撥も、一切の夾雑物がかれらのあいだに入りこむ余地はなかった。
良が起きられるようになると、いためつけられて弱った体力を回復させるために、少しずつ足ならしの散歩をかねて市内を見て歩いたが、長崎の美しい風物と、一日ごとに戻ってくる良の瞳の輝きと猫の生き生きした表情とが、かれらの幸福なしばしの陽だまりの中で溶けあい、滝は常に世界に音楽がひそんでいることを感じた。
良が少しでも疲れたようだと、きれいな珈琲店などをさがして休んだ。良をときどき見知っているファンがおり、わっととりまきはせず、事情を知っている静かさでそっと近づいてきた。
「病気やってね」
「気をつけんと」
「良ちゃんきゃしゃじゃけん」
「早うよくなって、また来て歌ってね」
「心配してるよ、応援してるよ、みんな」
良は青白い顔にほのかな曙光のようにあからみをみせて、少女たちに心配をかけたわびを云い、ほっそりした手をさし出した。少女たちは熱烈にその手をにぎりしめ、もううち手洗わんわ、とか、何があっても応援するけん、と夢中になって約束し、小さなプレゼントを良の手に押しこんだりした。
長崎は良にとって──そしておれにもちがった意味で、生涯忘れがたい町になるだろう、と滝は青ざめて、かなりやつれて、かえって艶めかしさを増したような、いかにも繊細な良の横顔に見とれながら考えた。
だが、そんな陽だまりの神話は、決して長つづきせぬこともまた滝はわかっていた。良が起きられるようになれば、ほんとうは気持としてもう一日二日休ませてやりたくても、紛糾のまちかまえている東京へ少し無理をしてでも帰らねばならない。
その二人の旅は、二人のふしぎな静かな時間のおわりへ走る旅だった。
*  *
東京へ戻ってみても、しかし、仕事はなかった。二週間の巡業でスケジュールを整理してしまったのだ。ぽかりと時間があいている。
そして良を念のためにとまだ休養させながら滝の方は、戻ったその日からもう四方をかけまわり、汗だくになって頭をさげとおさねばならなかった。病気じゃあ仕様がないと云ってくれる世界ではない。とってかわりたいものは何百人も隙をうかがっているのだ。
滝はデュークにだけは真実を話さざるを得なかったが、どうしても、良がかれらに何をされたのかだけは云うに忍びなかった。
「私の責任です──私が目をはなしていたあいだに、奴らにつかまっちまって」
滝は故意にあいまいな云い方をした。デュークは眉をしかめ、やたらと灰を落していた煙草をひねり消した。
「汚ねえことをしやがるな」
マカベがからんで来れば、怒りはそちらへ向く。長年のライバルどうしだ。
「それだって、立川さんにでもお耳に入ってみろ、すぐに大喧嘩《でいり》のひとつやふたつのネタにぐらいなるぜ」
立川組の組長の立川主水は、尾崎プロに資本を出しており、デューク尾崎のきっぷが気にいったということで、むしろそれは北辰連合とかかわりのあるマカベプロへの対抗意識だろう。
どのみち組織暴力と芸能界は切ってもきれぬ関係にあり、こんどのコンサートツアーの興行主の南州興行は北辰連合がからんでいるのだった。
「あたしゃ、正直、そんなことは知ったこっちゃありませんがね」
滝は眉をひそめて云った。
「しかし南州は九州の仕事の五割は噛んでくる大手ですから──それがそう強硬だとなると、こっちも肚を決めなけりゃ」
「わかってるよ、ひたすら低姿勢でとりつくろうか、居直るかだ。滝チャンの気持としちゃ、居直りたかろうね。こっちこそ被害者だと」
「ですがね──良ひとりの問題じゃないし」
「違約金はしかたないがね、依田の奴とほうもなくふっかけて来るからな」
「口惜しいですがね、どうも、何とかならんかな」
「関口の御大にでも頼む手もあるが、なお金がかかるしな」
デュークは芸能界の黒幕と云われる「調停屋」の名を云った。滝は肩をすくめた。
「良が賞でもとりゃ、一時は何云ってたって、あんな興行屋は、ゼニで動きますからね、中央においてとにかく育てちまうって手もあるんだが、彼の駒への影響の方が心配だし」
「それに、あんた」
デュークはけわしい顔をした。
「あとの仕事順調にとれてるのかい」
「ああ、落ちてますよ、デューク、あんたの思ったとおりだ」
滝は呟いた。
「おれの読みもおんなじですよ。マカベの奴、手をまわしてやがる」
「とにかく良の地盤をあのまずいつらのガキにひったくらせようってんだからな」
「あんなもの、一発挽回すりゃ、めじゃないんだが」
新人には、ことに好不調の波が微妙にひびくので、良が地方に出ているあいだに、東京のヒットリサーチの順位は十四位から十五位におちて、足踏みしている。そのかわり九州でぐっとのびると見こんでいたが、これでどうかわってきたのか予測できない。
「かえってプラスに持っていけるケースもあるんだが」
「そりゃ、あとのことだよ」
デュークは云った。
「とにかくいまはまず南州興行とのごたごただよ。マカベのこともあとまわしだ」
「たぶん、最終的にはどうせこっちがした手に出ることになるでしょうよ」
滝は苦々しく云った。とにかくこちらの方が立場は弱いのだ。『裏切りのテーマ』がヒットチャートを上昇するにつれてふえていた、ベストテン番組の仕事も入らなくなっていた。
滝は席をあたためるひまもなく走りまわったが、
「もう、来月まで予定組みましたしねえ」
「どうも、生番組ですからね、途中で倒れられたりしちゃ困るしさ」
「いっぺん、精密検査受けさした方がいいんじゃないの」
どこか手のひらをかえしたように冷やかな反応ばかりがかえってきた。
滝をむかむかさせたのは、その後の予定を無事につとめてミミたちが帰京してから、急に星光が売れ出して、あちらの番組、こちらの歌謡ショーと派手に動きはじめたことである。
むろん、裏に相当の金が動いているだろう。それにしても毎日どこかでその名を見るようになれば、大衆は何となくそちらへ顔をむけるし、一方が光を増せば、ライバルは何となく色褪せて見えはじめるに決まっている。
マカベプロは徹底的に追い討をかける気らしく、一部では良は精神病の血統があって、倒れたのは癲癇の発作らしいとか、そんなばかげた噂までとんでいた。
だが尾崎プロが参ったのは、そんなイメージ・ダウンのためのデマよりも、興行主の方から流れたらしい、あれは尾崎のいやがらせだ、という噂である。
プロモーターは企画を立てる立場なのだから、大抵はタレントを出すプロダクションよりも強気でいる。仕事を与えてやる、という腹があるわけだ。
芸能プロが、売り出しの新人の不利になるようなそんなことをするわけがないことは、誰にでもわかるのだが、興行主の依田は執拗に、尾崎がうちに恥をかかそうとしたのだ、と、ほんとうにそう思いこんでいるのかそう困らせてごてているだけなのか、誰彼かまわず憤慨してみせているらしかった。
「場合によっちゃ、おれも九州くんだりまで飛ばんといかん」
デュークはぼやいたが、大手の南州との紛糾はタレントとしてのイメージ・ダウンよりももっと直接のいたでになった。組織暴力のからんでいるもめごとの渦中にあるようなタレントを使って、どちらかに巻きこまれるのを、ことさら業界は警戒するからだ。
レコードの売上げが目に見えて落ちてはいないのがせめてもの頼みの綱だったが、それとても、ものの一カ月も良のような新人がテレビに顔を出さず、とりたてた活動もしないとなったら、大衆は薄情なのだ。一部の熱狂的なファンは別として、たちまちその存在を忘れてしまうのだった。
全然うまくない歌でも、おざなりな曲でも、毎日毎日見せられて、きかされて、押しつけられていれば、何となく心にひっかかってくるのとちょうど反対のケースだ。
このぐらいの窮地を、窮地と思うおれでもないさ、と自らせせら笑ってみたものの、思うように運ばない失地回復の工作に、滝の顔は日ましに苦渋の翳が落ちた。
結城修二からの電話がかかってきたのは、そんな苦境のさなかにいるときだった。
「たいへんなんだってね」
「どうも、みっともないざまになりましてね」
「そういえばいかにもきゃしゃな子だったしね──ちょっと、気になったんだけど──ところで、滝さん、ちょっと話があるんだがな。いまちょうどV社のスタジオまできたんでね──よかったら、来てみないかね。いや、ぼくはいつでもかまわんけど」
何の用件かは云わぬまま、妙に意味ありげな結城の云い方に何かを感じて、滝はその足で大手のレコード会社のビルへ出むいた。
作曲家は、白井みゆきの新曲のレッスンにつきあっているのだと教えられた。≪歌うスター≫、豊満な美貌と、もと進駐軍キャンプで歌っていたという素晴しい歌唱力で、リサイタルを開けば必ず大ホールを立見までぎっしりにするというポップス界最大のスターのひとりである。
小スタジオのしめきった扉から、耳馴れた、ゆたかな歌声が洩れていた。呼びつけておいて人を待たせる傲慢な態度も、妙に当然のこととして受け入れられた。スタジオの前には付人たちがじっと待機していて、歌声がおわり、扉が開くと、あわただしく女王の御用をつとめにかかるのだった。
尾崎プロあたりの扱うようなタレントとはタレントの格がちがうのを、目のあたりに見せつけられる思いである。彼女ひとりのためにひとつの会社が──白井みゆき音楽事務所と名のるプロダクションがつくられているのだ。
結城修二はみゆきに何か気やすいことばを投げて、笑いながら道をあけさせて廊下に出てきた。何ともいえぬ深みのある茶のスーツが長身をぴったりとつつんでいる。おそらく途方もない高価なものなのだろう。細かい水玉のネクタイに真珠が鈍く光っている。
滝を認めると、微笑して美しい口髭に手をやった。滝は、結城と会うと必ずそうなるように、彼らしくもなくけおされて頭を下げた。
「わるかったね、呼びつけて。うまいコーヒーを飲ませる店があるから、そっちで話そう」
結城は深みのある声で云い、返事もきかずに先に立って歩き出した。自分のヨットを持ち、スポーツなら何でもという彼の長身は均斉がとれていて、みごとな体格なのに動作が優雅ですらあり、あふれるような自信を感じさせる。人はその自信に巻きこまれ、威圧されてしまうが、それでいて反感をかわないのは、根はあたたかで太陽のようにぬくもりを放射してくる男らしい人柄のためだった。
滝は、自分が何となくこの著名な作曲家に弱いのは、おそらく自分がばからしいほど、美しいもの、すぐれたもの、一流のもの、つまりは本物に好みを持っているからなのだろうと思った。
結城の彫りの深い美貌と逞しい体躯はギリシャの雄神の像を思わせる。結城の前でひけめを感じないで済む男はそうはいまいが、滝もまた別に自分の容貌や体格が人に劣るなどと苦にしたことはないにもかかわらず彼の前に出ると、薄い色のサングラスのやくざっぽさや茶色のデニムのサファリ・ジャケットの安っぽさがひどく見すぼらしく、忸怩たるものを感じるのである。
「白井先生は新曲ですか」
滝は訊ねた。結城はケントの箱から一本ぬきとりながら悠然とかまえていた。
「そう、彼女このごろロックに興味を示してきてね、それで僕にご指名がきたわけだけどね。どうなることかと思ったね、はじめは、白井みゆきのロックとはね。やっぱり勘がいいんだな、ちゃんとさまになってきたから、大したもんさ」
結城は鷹揚な云いかたをした。カウンターのところにかたまって、ウエイトレスたちがひそひそつっつきあいながら彼のみごとな横顔にみとれるまなざしを注いでいることなど、完全に無視している。
「それで女史たいそうご機嫌がいいんだよ。こんなこと、滝さんならかまわんだろうけど、これともうまくいってるんでね」
親指をちらりと立ててみせた。三十八歳の彼女はその派手な恋愛遍歴でも知られているが、目下のところのお相手は、二十五歳の二枚目スター佐伯真一である。
「一部では僕をどうこう思ってる人もいるみたいだが、まあ思いたい奴には勝手に思わせとくが、僕はああいう女性には興味がない」
呼びつけて話があると云ったくせに、結城は人をそらさぬ微笑をうかべてのんびりと白井みゆきの話題をはなれない。滝は苛立ちを押えて興味ありげにうなずいていた。
「でも、見ていて思うのは、あれだけの女《ひと》でしょう。もっと、どっしりと構えている──と思っていたんだが、感心したのは、彼女実に可愛いんだね。可愛い女っていう奴だ──マリリン・モンローだよ、タイプ的に、もう惚れっぽくて、いちずで、ね。少しも天下の大・白井みゆきだなんて気はないんだ。だって彼女なぜロック、ロックってさわぎ出したかっていうと、これすなわち真ちゃんのためなんだからね。かれ、ほら、よくディスコに出没するわけさ。それでたちまちみゆき女史、亭主の好きなで長年のフォー・ビートにこだわるのをやめて、レパートリーをふやす気になってさ」
英国の煙草の深い香りが滝の鼻孔をくすぐった。結城は人なつこく目もとに笑い皺をよせて滝を見た。
「こんな話つまらんだろう」
「いえいえ」
滝は笑った。
「うかがってますよ。あたしも、白井先生は昔っからの憧れの女性です」
「へえ」
結城は笑った。いくぶん、皮肉なかげがある。滝の苛立ちを知っていて、面白がっているようでもある。
「で、まあ、つくってみたんだけど、──これが、自分でいうのもおかしいけど、ストーリー・ソングでいいモノなんだよ。もちろんいきなりロックなんて云ったってムリだから、まあイージー・リスニング・ロック調で──ギリシャ神話みたいな零囲気なんだよ、『セレーネの嘆き』っていうタイトルにしようかと思ってるんだが──そう、エンデュミオンの話ね」
「佐伯さんにぴったりですな」
「馬鹿いっちゃいけないよ」
結城は笑った。こんどははっきりと侮蔑のひそんだ笑い声で、佐伯真一というスターを頭から問題外にしていることがはっきり感じられるのだ。滝は自分が佐伯だったら床の下に沈んでしまいたくなるだろうと思った。自信にみちてきっぱりとした結城の判断は権威があった。
「云いたかないけど、真ちゃんにそんな魅力あるかね。女ってのは美ってものがわからないんじゃないかと思うね。つまんない薄っぺらな顔じゃないの。輝きってものが全然ない──役者のくせに、肉体の存在感てものが感じられないよ。もっとも、みゆきは、自分をひきずる心配のない男が好きなんだね。ひき立て役といっちゃあれだけど、自分が面倒見てやるってかたちだとかわいそうなくらい溺れこんじまうんだ。僕なんか、よく面とむかって食ってかかられるね、でかい面してるとさ」
また声をあげて結城は笑い、かまわずにつづけた。
「それに、どのみち真ちゃんじゃ、さ──歌なんだからね。音痴なんだよ、そりゃひでえもんさ。何とかって頼むから、ま、みゆき女史じゃしょうがない、二、三回レッスンつけてみたけど、どうにも仕込みようがないんだね。まあ演技は地で済むにせよさ──とにかく、おそれいったよ」
滝は、しだいに目を光らせて、全神経を集中しはじめていた。結城は無駄話をしているのではない、ということが、だんだん悟られてきたのだ。話の行方を故意にぼかしているようだが、これはひょっとすると、と思い、一方では時期が時期だけにそれでは話がうますぎる、とも思った。
「みゆきもせっかく乗ってたんだが、それにまあ、いい趣味とは云えないものね自分の燕を公開するなんざ──スキャンダラスで宣伝にはなるだろうけど、天下の白井みゆきのすることじゃない。でそれはとりやめたんだけど、みゆきとしちゃ、せっかくのアイデアを勿体ないというんだな──彼女、ほら、恒例の六月リサイタルがあるだろう。あれもいささかマンネリだからね。まあ彼女なら客は来るけど。で、何か新機軸ってことで、中幕にロック・ミュージカルってったら大袈裟だけど、まあそのエンデュミオン、月の女神に愛される美少年エンデュミオンの話をだねえ、ミニ・ミュージカル仕立てでやったら──彼女の好きそうな話だものね。夢幻的な雰囲気も出るだろうし──となると、問題は相手じゃないの。とにかくミュージカルで、そのひとの方にも歌って貰わなきゃならないし、なにしろ天下の白井みゆきの相手じゃあ、半端な歌手じゃそっちが可哀そうだ。しかし、それがお偉方じゃあ、みばがわるいや。ねえ、美少年なんだもの。例の、チュニックっていうの? 純白の長いのを着て、革の編みあげのサンダルはいて、ドライアイスの煙の中で月の女神とラブ・シーンしようってんだ、田夫野人だの毛むくじゃらの猿みたいのが出てこられちゃあぶちこわしだよ。ねえ、滝さん」
「先生、あの……」
滝がせきこんで云いかけたのを、結城はかるく制した。
「おっと──僕は何も云ってないよ。自分の勝手な話ばっかりして済まなかったね。滝さんなんか顔がひろいから、心当たりでもあったら教えて貰おうかと思ったんだが、考えてみたら、それどころじゃなかったんだね、忙しくて。本当にとんだことじゃないの。びっくりしたよ──で、良くんもうすっかりいいの」
「おかげさまで──ただ、もうみそつけましてねえ」
「そんなこともないだろう。あんな、素質のある子なら、まわりが放っときゃしない」
「いえ、もう、さんざんです。まあ当然ですがね」
「そんなことはないさ。でもあの子、最初に見たときから、これはあんまりきれいすぎると思ったもんだ。こう肌が真白で、目が冴えざえとしてて、ね──薄倖の相がある、というか、佳人薄命みたいなところがあってね。倒れたってきいて驚いたよ。大事にしてやらなくちゃ──あんな、いい素質している子だものね」
結城はのらりくらりとしている。滝はあきらめて、完全に彼のペースにまかせる気になった。
「でも、まあ──いろいろ耳に入ってくることも──こういうこと、しているとね……何かと、たいへんなようだが、大体片づいたの」
「まああとは時間の問題ですね。ただ──」
「いろいろと苦労があるんだろうな」
結城は突然話をかえた。
「ここんとこ、僕もちょっと急の仕事がたてこんじまってね──知ってるだろう、明ちゃんが、次の曲はぜひって膝づめでご指名してきてさ」
「立花明ですか」
滝は目を光らせ、ようやく事情をすべて了解した。結城は立花明、瞳ナナなどのマカベプロのトップクラスの曲をよく書く。彼の立場としては尾崎、マカベの争いなどにはまきこまれたくないし、そんな必然性もないが、一方良のことはひとかたならず認めていてくれるので、苦境におちいった良を助けてやろう、ただし一切自分は知らぬということでというわけなのだ。
「まあ彼もこのへんでもうひとつ脱皮してもいいときだからね」
結城は穏やかに滝の目を受けとめながら云った。
「しかし、良くんも、辛いねえ。このへんで、ぱっと派手なことをやって挽回したいだろうな」
「あんな醜態をみせちゃ、拾ってくれる神もなしでして」
「でね」
また結城は話をかえた。
「みゆきは少しぐらいあれだ、冒険になっても、自分がいいと思や、いいと思うんだ。ただねえ、彼女、ほら、石田のママって人がついてるだろう」
白井みゆき音楽事務所を切りまわしている女傑で、みゆきの義理の姉にあたる女性だ。
「あのママは格式だの、義理だのにうるさいんだねえ──僕もどうもあの人にが手なんだけど、あの人の方は、新人でもいい、柄や素質があってりゃいいとしても、それでもせめてヒットの一、二曲は持ってる人、せめて一回でもリサイタル──とまでいかなくとも、まあそのコが看板になってショーを打たなきゃ──いかに将来有望でもかたちがただの前座じゃってことに──ま、無理ないと思うけどね」
「先生、実はですねえ──」
「まあまあ──それで、話はちがうんだが、どうだろうね、良くんだってヒットしてるんだし、あの子があんなことにならなきゃ、九州でずっと花村ミミやブラッドを食っちまってたって話きいたんだが、滝さんなんか、まだかれに一本でショーを打たす気はないの」
「有難いですが、あんなことになってちゃ、よりによっていま、あれを看板でまわらせてやろうなんて云ってくれるプロモーターはありゃしませんよ」
「ないこともないと思うがなあ。誤解しないでくれよ、僕が知ってるってんじゃない、僕は何も云わないよ。ただねえ──」
「先生ですから、ぶちまけてお話しますが、南州さんが、ご存じでしょう、すっかり怒ってましてね。以後九州にゃ来させないってけんまくで」
「そりゃおかしいよ。しようがないだろうに、病気じゃ」
「そう云って下さる方ばかりじゃありませんのでね」
「みんな、さきが見えないってことだな」
結城は謎めいたことを云って、にやりと笑った。
「僕は何も知らないが──まあ、失地回復に焦りすぎて、くだらないことにとびついて、せっかくの大器の格を下げん方がいいと思うね。ひょっとしたら、何かいい話が、来るかもしれないよ、思いがけんところから──たとえば、東海から中部にかけて、二枚看板でまわってみないかとか、それとも日東劇場で一週間ばかり、ショーを打ってみないかとかね──まあこれもすぐに一枚看板てのはムリだが、僕は、良くんの虚像《ヽヽ》でない、実動員力ってのは、案外なくらいあるんじゃないかと思うな。この際だから、買いたたかれることは覚悟しなきゃいかんが、なに、それで実績をのこしさえすりゃ見とおしは一気に変るものね──それに問題はとにかくまがりなりにも、二枚看板であろうと、看板歌手って名前なんだから」
「先生」
滝は思わず深く頭をさげた。
「ありがとうございます」
「おいおい、滝さん、誤解しちゃ困るよ。ぼくは何も云ってないよ」
結城はさらりとかわして立ちあがった。滝はあわててレシートをひったくった。
「なんだか、呼びつけたのに、こっちばかりつまらん話をして、わるかったね」
結城は微笑して云った。
「まあ、またおちついたら──良くんに云っといて下さい。ぼくは応援してるよってね。まあ僕も忙しいし、たいしたことをしてあげられるわけじゃないが、かれには注目してるよ。いい子だし、いい歌い手になるよ。そう人生いつもいつもアップ・ビートに調子よくはいかないが、またそうそうわるいことはつづかないと思うね。じゃ、また」
結城は惚れぼれするような──自分でもそう思っているにちがいなかった──笑顔をみせて、軽くうなずき、そのまま店を出ていった。人目をひく長身が通りをよこぎって音楽会社のスタジオに戻ってゆくのをガラスごしに滝は見送り、金を払って外に出た。
あとで考えれば、滝が、良の、未来のスーパースターへの展望をゆらぐことなく確信するに至ったのは、第六感やそうしてやるという決意だけでなく、それこそが良の本来与えられた運命だと信じるようになったのは、このときだったといってもいい。
それは良の運のつよさだとか、幸運な星の下に生まれているとかいうことではなかった。そこでつぶれてしまうか、しまわないかという瀬戸際に、こういう援助の手がさしのべられる、それも何も滝が画策したものでもなく、そんなことをするいわれもない結城修二のような人間から、純粋の好意からこれほどの話がもたらされる、というのは、良が特別だということだ、激動と波乱と、そしてやがては栄光とにみちた特別な運命が良をとらえているということだ、と滝は思ったのだ。
良は、自分では何ひとつ働きかけないのに、運命の方がよかれあしかれ良を巻きこんでゆくような宿命を持っていた。
滝自身との出会いもそうだ。山下の恋情もそうだ。──山下は、すでに良が戻っていると知るやうるさく電話をよこし、結局巡業がこの問題解決にはかえってマイナスだったことすら思わせたが、とにかく静養中ということで滝は言を左右にしていた。──九州で、良を待っていた少女たちも、ブラッドの不良どもの凶行もそうだった。
良には、常に、何かが起こるのだ。それはよかれあしかれ良をはてしないところまで否応なしに運び去ってゆこうとする。もしもほんとうに白井みゆきの相手役として共演をつかめたら、もう新人扱いはされなくなるだろうし、二度と前座の口などかけられもせぬだろう。
何をしても、どんな裏工作をしてもつかまねばならない、と滝は沈んだ気持から一転して胸をときめかせながら決意した。この、わくわくするような感じ、獲物を知ったハンターのスリルを感じはじめたら、自分の打つ手、打つ手がひとつひとつずばりと適中することを滝は知っていた。
結城修二はいいかげんなことを云ったのではなかった。彼と会ってから三日目に、プロの方へ、誰か女の中堅どころと抱きあわせで良にショーを打たないかという話がもちこまれたのだ。デュークは目を丸くしたが、滝は結城のことは云わずににやにやしていた。
「あんたって人は、時々、おれでもぶきみになるよ」
デュークは滝を見つめて呟いたものだ。
「これ、滝チャンの工作だね。どうやったの、いま、よりによってこんな話が来るとはさ──いいよ、あんたのことだ、信じてるよ、万事まかせてるよ──たださ、まさか、やばいことはしてねえだろうな、ええ?」
「まさか」
滝はあいまいに笑っていたが、興行主が安土芸能興行だときいたときは、ははんと思った。これまでにほとんど仕事をしたことのない相手である。つまり立川組系ではないのだが、北辰系でもない。結城は自分の顔のきく範囲から、注意して、いま良を巻きこんでいる紛糾とは関係のないところを選んでくれたわけだ。結城に、かなりの借りができた、と滝は考えた。好意にもつけのつく世界である。
「桜木曜子が出ますか。そりゃいい」
安土芸能の企画部の名刺を出した田村は、顔をほころばせた。曜子はかなりのランクの高いタレントだが、滝が育てた歌手だから、少しなら無理がきく。
「なら、決まりですな。いや、正直いってねえ、最初はだいぶん迷ったんですがね、こう云っちゃ失礼だけど、冒険だし──ただ、話を持ちこんだ人が人だから」
「ご損はおかけしませんよ」
滝はいくぶん鋭く云った。
「そう思ってますよ。共演がヨーコちゃんなら入るでしょう。で細かいプランはお宅と打合せることにして、うちの腹案としてはですね、熊谷、深谷、本庄、高崎と、場所はかわるかもしれませんがね、大体三、四日、まあマチネを一回入れてもいいですが、打ってまわることにしたいですね。各二時間てことで──先生はあれでしたけど、どうしたって、ヨーコちゃんがトリになりますよ」
「仕方ありませんな」
滝はうなずいた。安土芸能は関東北部を本拠にしている興行会社で、あまり一流とはいえない。しかしいま良を使って、それも合同コンサートというかたちにしてくれるならしかたがない。買いたたき覚悟で、とにかく看板の資格をとっておけといった結城のことばを考えて、滝はすべてのプライドはすてようと思った。田村のもちだした条件は案の定かなりひどいものだった。滝はおとなしくのんだが、さいごに田村はかすかに口辺に笑いをうかべながらつけ加えた。
「まあ、まさかもうそんなことにはならないでしょうが、また倒れられたりすると困りますんでねえ。いや、うちは、ご存じかもしれませんが、コンツェルンてほどのしろものじゃありませんがね、安土建設の資本なんです。ご存じですか、うちの会長」
「ああ、安土隆作氏でしょう、お名前はうかがってますよ」
「爺さんですがね、昔は仲仕だったとかで、つまりは立志伝中の人物なんでね、いまだに完全なるワンマンなんですよ。うちの川原社長なんか、お飾りみたいなもんです。万事、決めるのは爺さんなんで、彼がうんといやあれだし、いやと云えばああもすうもない。でまあ、その爺さんがですねえ、おかしな話ですが、今西くんのファンなんですよ。それで、正直云って社長以下の反対を押しきってやろうってことになったんですが、また九州みたいなことになるとね──だもんで、爺さん、ひとつGOサインを出す前に、おん自ら今西くんに会ってみたいっていうんですがねえ」
「それは」
滝はサングラスをはずした。鋼鉄のような表情のない目で田村の目を受けとめる。
「むろん、ご自宅の方へということでしょうな」
「まあ、そうです」
田村は顔を赤らめもせずに云った。
「ねえ、滝さん、弱みにつけこむなんて思わないで下さいよ──爺さん、何しろ思いこんだらきかないんです。それに、彼の気に入られて損はないと思いますがねえ。こういっちゃ何だけど、いま、今西くんを使おうってのは、うちぐらいなもんじゃないんですか?」
「それは当然ご挨拶させるのが仁義ってものでしょうな」
滝はゆっくりとことばを選びながら云った。
「しかし──つまり、それからじゃあ、気に入らんから考え直すなんておっしゃられましてもね──」
「いや、いや、それじゃこっちもある人に申しわけがたちませんよ」
「ですが──」
「そのご心配はなしにしましょう。何なら契約書を作ってからで結構です。いえね、私どもは、ただお互い仕事をやりやすくしたいと思ってるだけですから」
田村と別れたあと、滝の顔はいくぶんこわばっていた。驚いてはいなかったし、別に腹を立てているわけではなかった。ただ、何か得体の知れぬものが嘔吐感のように重苦しく、胸の底にわだかまっているのだ。
彼のそんなささいな気持のひっかかりなど、この仕事を成功させること、ひいては白井みゆきリサイタルの共演をつかむことにくらべれば、問題にもならぬことはわかっている。向うも当然のこととして持ち出してきたし、滝もためらう表情ひとつ見せずに話をつづけた。
それは自明の理で、ただそれをいかに自分に有利に使うかだけが問題だった。興行主がよしんばそのことだけのために話をひきうけたのであろうと、機会を逃さぬことの方が重大だった。
にもかかわらず、滝の口の中に、苦い、たまらなく苦いいやな味のするものがひろがっている。
(おれは、また、良を売った)
それをこれまで滝は彼の仕事の正当な一部にしていたのであり、山下のところへ良をいかせたときにも、心の底にひそかな嫉妬は覚えこそすれ、こんな苦渋にみちたものを感じたことはなかった。
それは裏切りの味がした。沖仲仕からたたきあげたという老興行主は、どんなふうに良を抱くのか。女衒まがいのことをして、それでひとりのスターの華麗な虚像をつくりあげる彼を、ひとは汚ない奴だといい、悪党といい、辣腕と称するが、自分で自分を唾棄すべき奴だと思ったことはなかった。
彼は正当なことをしているのであり、勝てば官軍の世界なら、勝つだけのことだと考えてきた。そして事実勝ってもきたのだ。それがすべてなので、敗けた奴が何と罵ろうと、苦にしたことはなかった。
(なぜだ──おれはなぜこのごろこんなに弱気になるんだ。この世界、ほとけ心がついたらしまいじゃないか)
彼は奴隷商人なのだ。長崎での日々は、あれだけのこと、あのときかぎりの思い出、贈り物のような夢の時間だ。彼が良をスターにしようという念願をすてないかぎり、彼には良を愛したりする資格はない。
わかりきっていたこれらすべてのことを、彼はあらためて強く自らに云いきかせねばならなかった。彼は、話が本決まりになるぎりぎりまで、良にそれを告げるのをひきのばした。彼にできるのはそのぐらいのことしかなかった。
田村からは婉曲な催促が来る。細かなスケジュールが決まり、ことはすでに運びはじめている。滝は肚をすえた。
良はこのところ、おおやけには病気療養中と称して、滝のマンションにずっととじこもっていた。内実は、仕事が激減しているので、それを知られぬための体面上である。
キャバレーで前座の、ジャズ喫茶でつなぎの、というような仕事は滝の方で断った。良には、自分がどうなるかというような不安は驚くほど少ないらしい。滝を信頼して、まかせきっている、とも思える。
もともと社交的なたちではなく、外に出たいというような欲も少ないらしくて、終日退屈もせずに、レコードをきいたり、ひとりでギターをいじっていたりして淋しくもないらしかった。ひとり奔走している滝のために、案外器用に夕食をこしらえてあったりする。滝は何となくくすぐったい。
「お前──何だか、妙だな。おれは奥さんを貰ったみたいな気がするじゃないか」
「やだなあ、滝さんたら」
屈託なく良は笑う。滝が帰ってくるのが嬉しいらしく、チャイムを鳴らすととびたつようにして迎えて出てくる良のはずんだしぐさの中に、滝はひそかにおさえようのない可愛さを感じ、これまでに知らない、ひととわけあう生涯への憧れを覚えて驚いたりした。
それは奇妙な熱っぽい、たしかに甘美な恋の時間だったのだが、それももうおわりだ。おわりだということは、滝にはわかっていた。
(おれは、愚かな夢をみていただけだ。わかってるさ)
その日、帰ったとき、何の疑念もなく、上着を受け取ってかけたり、まめまめしく室を片付けにかかったりしている良を、滝はじっと見つめた。
水色のシャツにジーンズをはいて、とても若々しく、美しく見える。もうすっかりいいようだ。少なくとも、滝がそばにいるあいだは、瞳からも翳りは消えているし、態度にも一時の怯えた表情はなくなって、猫のしなやかさがかえっていた。
良の魂の中に、ふしぎな、見かけによらぬ強靱な反撥力がひそんでいることは、滝にとってしばしば戸惑わされる事実である。しかし、時々、夜中にうなされるようなのも滝は知っていたが、朝になるともう良は生き生きとしていて、滝の気づかわしい思いをよせつけない。むしろふれられたくないようなので、早く忘れればと思ってそっとしておいた。
むろん、彼自身のひそかな決意はあるが、良には、忘れられればいちばんよいことだ。
それにしても、気のせいかもしれないが、なんだか少しおとなびたようだ、と見入る滝の目に気づいて、ふと良が照れた表情をした。
滝のはてしない苦いいたみにも似た思いは、サングラスの奥に隠れていた。これを切り出すには、サングラスをかけたままでなければ無理そうだ、と考えたのだ。
「何、そんなに見て」
可愛らしい生意気な表情をして口をとがらせて良は云った。頬にうすく血の色がのぼっている。
「何でもない──もうすっかりよさそうだなと思ったんだよ。──お茶をくれないかな」
良のきがるに立ってゆく背中へ、ソファに腰を落し、ネクタイをゆるめてひきぬき、サングラスの下に右手の親指と人さし指をいれて目頭を押さえながら滝は云った。
「もう、そろそろレッスンをはじめないと、だいぶなまっているだろう」
「平気だよ毎日うちで歌ってるもの──FMでカラオケとってね、それにあわせて──だいぶレパートリーふえたくらいだよ」
「それはいいな」
滝は云った。
「すぐに、そいつが要り用になってくるからな。──ひさしぶりで、いい仕事がとれたよ」
「ほんと?」
「嬉しいか」
「うん、ほんと云うと、何だか、歌いたくって」
良は茶をさしだしながら嬉しそうな笑顔をみせた。
「じゃまたレッスン──山下先生?」
いくらか意味ありげな顔になる。滝は苦笑いしてうなずいた。
「テレビの仕事じゃないんだよ。例のテレコみたいにヒットソング繰りかえして済むって話じゃない」
「何よ」
「コンサートだ。桜木曜子と二枚看板で、四日間、まあ北関東だが、大袈裟にいえば初リサイタルっていってもいい。ジョイント・リサイタルって奴だね。──一気挽回のチャンスだ。がんばれよ、お前」
「すごいな」
良はさらさらと云った。この少年は、どこかに、自分には常に向うから運命がひらけてくることを知っているところがあって、大抵のことは興奮もせずに受け入れる。それが良に、いつもそのまわりに涼風が漂っているような感じを与えている。
「いつから」
「二十日から四日間だ。ミュージカル・ディレクターは石川さんに頼もう」
「ぼくは、滝さんの云うとおりにするだけだもの」
良はすんなりと云った。
「思ってたよ、いいようにしてくれるって。だから──あんまり、心配しなかったよ」
「良」
滝は、もっと前だったら、この単純な信頼のことばをきいて、思わず抱きよせたいくらい、この少年を可愛く思っただろう。
いまの彼には、それは、この上ない苦さで身肉に食い入ってくることばだった。滝は目をそらしてむやみに煙草の煙を吐いた。
「良──」
「なに?」
「話がある」
「何よ」
「明日──」
滝は唾を呑みこんだ。呼吸をととのえて一気に云う。
「興行主の安土芸能の会長の家へ、挨拶に行ってこい」
「行ってこいって──滝さん一緒じゃないの」
良はききかえした。滝はすべての感情をおし殺した。
「ああ──前まで車で送ってやる。それから──」
「……」
「会長が──何を云っても、そのとおりにするんだ。いいね」
「滝さん」
滝は目を伏せていた。サングラスが、光を反射する。もっと濃い色のだったらよかったと彼は思った。
「わかったか、良」
「──わかった」
良は静かに云った。滝はほとんどうかがうように目をあげた。良の目が正面から滝を凝視しており、我にもあらず彼はどきりとした。
「そうやって、そんな仕事をとったのか」
良は呟いた。興奮のない、妙に疲れたような声音だった。良は手をのばして、手当りしだいにテーブルの上のりんごをつかみとり、それを剥きはじめた。それきり何も云わない。天辺からはじめて、ぐるぐると細くむいてゆくりんごの皮を、どこまで切らないでつづけられるか、それだけに全精神を集中しているように見える。長い睫毛がかぶさってその感情を隠していた。
滝は胸に何かが、泥のような汚れたものがべっとりと詰まっているような思いを抱いて、それを見ていた。
時計の音がむやみと耳につく。彼は良の沈黙がしだいに苦痛になってきた。
自分で、こよなく美しい、たぐいまれなものと認めている、この少年の中にある澄明なガラスに守られた生き生きとした炎を吹き消した思いがたまらないのだ。
この不自然な冷やかな、ひところの良をいつもつつんでいた氷にとざされたような拒否よりは、おもてもむけられずに吹きつけてくる激しく燃えさかる炎の方がまだ耐えやすい。それは理不尽であることは知っていたが、しかし滝は、すでに良の信頼を、良が真にひとに心を開いてみせるというのがどういうことなのかを、知ってしまっているのだった。
何よりも苦痛なのは、それを、その許しがたく甘美な味わいを知ってしまってから、それを失わねばならぬということだった。あの長崎での美しい日々、そしてひそかに彼が享受していたこの数日間の甘やかな時間のあとで、再び良が冷やかに心をとざしてしまうというのは、ほとんど耐えがたかった。
それは彼自身がもたらしたことであったが、にもかかわらず彼は理不尽な憤怒を、渇えて死にそうな人間が不当にも甘露の水を口から奪いとられたような怒りを覚えた。
「良!」
彼はむりに平静を装った声を出した。
「まだ、何かあるの」
良はきいた。相変らず、目をあげようとしない。
「いいよ、あなたの云うとおりにするよ。約束したものね──覚えてるよ。まだ、その上に、何かぼくにさせたいことがあるの。何をきいても、驚きゃしないよ。云ってよ」
「良──そんな云い方をしないでくれ」
滝は懸命に自分をおさえながら云った。たまらなくなって、サングラスをむしりとり、テーブルごしに良の腕をつかんだ。
「はなせよ」
良は咽喉の奥で云った。
「はなせってば。さわらないでよ」
「良!」
良は激怒をこらえているようだった。冷やかで恐しい平静の下に、はりつめたぶあつい氷が燃えさかる熾烈な炎をちらつかせているように、ちらちらとふきこぼれそうな瞋恚がひそんでいる。
こいつはきれいだ、と滝は胸苦しく思った。このけしからぬ、許しがたい小僧は、なぜまたこんなに──おれがいちばん冷静でなければならぬときに、こうまで、さからいようもないくらいすさまじく美しいのだろう。
良よりも美しい少年はいくらでもいたし、良よりも魅力のある少年もおそらくいたろう。しかし、良のこの炎とこの氷の乱舞、あえてそう云い得るならこのどうしようもない、思うようにならなさ、予測もつかぬ激しさで彼をひきずりまわす魔力──それこそはたぐいない、比べようもない良の生命だった。
憎んだっていいのだ、おれを憎め、良、と滝は狂おしく思った。おれを憎むお前も美しいし、おれは、お前を売り、お前を守り、お前をはずかしめ、いたぶり、お前を傷つけるものを呪いお前の足もとに拝跪《はいき》するおれは、そうであるかぎり、おれの生命のすべて、ありったけでお前を愛するだろう。
「はなせよ!」
良が叩きつけるように叫んだ。業火《ごうか》はついに燃えひろがり、氷河はその中へくずれおちていった。それはいまや野火のようにごうごうと燃えさかって滝におもても向けられぬ白熱した炎をあびせた。
良の目が青く燃えていた。果物ナイフを握りしめ、良はそれを滝の咽喉にぴったりとおしあてていた。震える手に強く押しつけられて、ナイフの先端が皮膚に食いこむ。
「二度と──おれにさわるな。あんたなんか、殺してやる。本気だぞ。──本気で刺すからな──ほんとうだよ……」
「刺せよ」
滝は怒鳴った。
「殺してみろ」
「畜生!」
良は憤怒に青ざめた。ナイフを握りしめた指の関節は白くなっていた。滝の咽喉に赤い条がついている。
「馬鹿野郎! 畜生、卑怯者!」
良はわめいた。
「あんたなんか、大嫌いだ。嫌いだ! 嫌いだよ!」
「刺せよ。刺してみろ──できないのか」
滝はナイフを払いとばした。手が刃に当たり、どこか切ったらしく、さっといたみが走ったが、それはむしろ快かった。激しく荒々しい歓喜に似たものがつきあげてくる。彼は良を愛していた。自暴自棄な喜びに身をまかせて、彼は山猫のようにもがく少年の首をかかえよせ、かみつくように接吻した。
おれから逃げてみろ、と彼は思った。おれは決してお前を逃がしはしない。狂おしい熱情に灼かれて、彼は永遠につづくかと思われる接吻に身を埋めていた。
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アンコールに二度答えて、こんどこそ幕がおりてからも、潮騒のような拍手と嬌声がつづいていた。高崎の市民会館を埋めた、少女たちの熱気が建物をつつんでいる。
ジョイント・リサイタルは大成功だった。客席は八分どおり少女たちで埋まり、「ジョニー」「良ちゃん」という金切り声がひっきりなしに湧いた。
「あいつら歌なんてきいてやしないよ。ばかにしてやがる」
良は文句を云ったが、まんざらでもなさそうで、目がきらきら輝き、きれいだった。「今西良ファン・クラブ」と書いた紙をもって、少女たちは何時間でも良の楽屋入りを待ち、済んだあとは出てくるのを待って立ち去らなかった。
滝は黙ってにやにやしていた。福岡で、大体こうなるだろうという予想はついていたのだ。良の中にはアイドルに敏感な少女たちを熱狂させるような何か、磁力のようなものがある。舞台に登場した瞬間にホールを征服してしまうような、小柄でしなやかな全身から光がさし出るような何かだ。良が出て来ただけで少女たちは熱狂する。興行会社の方は肝を抜かれているようだった。
最初に会場へついて滝の目に入ったのは、でかでかと張られたポスター、「桜木曜子きたる!」だった。その下に小さく、「大ヒット、『裏切りのテーマ』で登場の大型新人、今西良とジョイント・リサイタル」だ。滝は何も云わなかった。話がちがうとも云わなかった。すぐわかるさと胸の中で呟いたきりだ。そしてかれらにもすぐわかったのだった。
少女たちは最初から最後まで良の愛称を絶叫しつづけていた。熊谷から深谷、本庄と移動したとき、滝は、会場の外に立てた大きな看板がいそいで書きかえたらしい、「ジョイント・リサイタル」の文字の下に「桜木曜子、今西良」と同じ大きさに書かれているのを見てにやりとした。
最後の公演地の高崎で、市民会館の壁に『裏切りのテーマ』の大ポスターがやたらとはりつけられているのを見たときはもっとおかしかった。
「驚きましたな、表でつかまえてきいてみましたらね、家は深谷だけど、本庄にもいって、今日もきて、三回目だけど熊谷のに行けなくてくやしいって云ってるんですよ。ええ、ファン・クラブって帽子に書いた女の子でしたけどね」
安土芸能の田村がおそれいって報告にきた。
「ほかにもずいぶんいるらしいんですよそういうのが──で高崎で待ちかまえてたのがいるでしょう。整理券出したんですがね──こんなこと、久しぶりですよ」
興行会社の関係者は、えびす顔になっていた。当り前だ。ほとんどただ働きといっていいんだからな、と滝は考えた。冒険だの、前例がないの、いま拾ってやるのはうちだけだの、とさんざん恩にきせて、ふつうなら尾崎プロほどの大手がとうていうけつけないくらい安く買い叩いたのだ。大入袋の出る丸もうけでは、いっぺんに拝まんばかりにならぬ方がおかしい。
滝はそんなことはかまわなかった。彼には彼の目的がある。芸能記者に手をまわしたので、この大成功のことはさらに尾ひれをつけて写真入りで三つぐらいの芸能誌に出るはずだ。良の名の上につくキャッチ・フレーズも、「ひさびさの大型新人」というあまり冴えない常套句から、「新アイドル誕生!」という派手なのにかわるはずだ。
少女たちの熱狂が快く滝の耳をくすぐり、ざわめきのやまぬ会場に四日間の公演の最後の幕がおりると、スタッフが口々に成功を祝いあった。
「すごいじゃない、良くん」
「これで新人賞確定だな、ジョニー」
「たいへんなもんだねえ。さすが滝俊介の秘蔵っ子だ」
良は楽屋に戻ってきて、いくぶん頬をほてらせながらだれかれなしに笑顔をむけている。すでにスターの風格のようなものがその態度の中にあるのに滝は微笑した。良のいるまわりだけ、華やいだ明るい光がこぼれているように思われる。
「滝さん、山下先生がいらしてますよ」
スタッフがしらせてくれた。滝は楽屋の入口まできた山下にあいそよく挨拶した。
「こんなところまでいらしていただいて」
「なあに──すごいねえ、女の子がむらがってて通れやしなかった」
「良、山下先生が来て下さったよ」
滝は良を呼んだ。良はふりむき、そして夢見るように微笑した。
「よかったよ。とってもよかったよ」
山下はせきこんで良の肩を叩く。その目が良をむさぼるように見つめている。公演で使う曲のレッスンはみな山下がつけた関係もあって、心配だとか、良ならやれるとか、月並なことばをまきちらしながらうろうろと熊谷についてきたが、ショーの盛況をみて安心したらしく、そのあとは東京に戻っていた。
きょうは千秋楽だというので張りこんだらしく、桜木曜子とふたりに上等な大きな花束をもって楽屋を見舞い、そのまま見ていたのだ。
「ちゃんと歌えてた? 全然、きこえなかったでしょう、あの騒ぎで」
「なに、ちゃんときこえたよ。よかったよほんとに」
「何もかも先生のおかげで、無事に打上げさしていただきました」
滝は山下に嬉しがらせを云った。内心は、ここのところまた急に山下と良の接近しているのがはなはだ面白くなく、その前には良と口論していたのである。
「大体、お前がいい加減なんだ」
ことの起こりは、前に山下のくれた高価な真珠のネックレスを、すぐかえすと云いながら、実は良がかえしていなかったことを滝が知ったからだった。良はかえしたような顔をしてたんすの引出しにかくしておいたのである。
すぐ見つかるに決まっていることも考えないで、ただそれをはなす気になれなかったらしい良の気持はおちついてから考えれば、滝に妙に、稚い狡智《こうち》の可愛らしさを感じさせて彼はひとり苦笑したが、そのときは、やはりこの子はずるい、たちのわるい性格なのだと目がくらむほど腹がたって怒鳴りつけた。
「お前が山下先生を好いてるなら、おれだって何も云うことはないさ、それとも好きじゃないけどおれが命じるから、義理だからしようがないってんなら何も──だのに、お前は、淫売みたいに、いろんなものをねだりとるために、山下を好いてもいないのにいい顔をしてみせるんだ。少しは恥ずかしいとは思わんのか、レッスンがはじまってから、お前は必要もないのにあいそよくしたり、媚を売ったりするもんで、奴は有頂天になって一刻もお前の側をはなれたがらんじゃないか」
「滝さんは嫉いてるの」
良は目を光らせて、傲慢な猫のように手におえない表情で云いかえした。
「大体ぼくに山下先生とつきあえと云ったのは、あなたじゃないの。忘れないでほしいな──ぼくは、あなたの指図どおりにしてるだけだよ、安土芸能の会長とも寝たし、山下先生とだってつきあってるじゃない。ぼくは、あなたの云うとおりにしたんだよ。そしたら相手があなたの予定とちがってぼくに夢中になっちゃったって──そんなの、ぼくの知ったことじゃないよ。そこまでいっちゃまずいというなら、あなたが勝手に引導でもわたせばいい。ぼくは何がどうだってかまやしないんだもの」
「お前は、よくそう云うな、どうだってかまやしないの、どうだっていいのと云うが、それじゃ一体お前は自分の意志だの、節操だのってものはないのか。おれにかえすといっておいて、これをとっといたのも、何がどうだっていいからなのか」
「だってそれが滝さんの望んだことでしょう」
良は生意気に顎をつきあげた。
「ぼくが何も感じない、何も自分からはしようとしないでく人形になるのがさ──あなたは、いつだったか、ぼくに、お前は淫売なんだと教えてくれたじゃないの。ぼくは、あなたの作品だよ。うまく仕込めなかったら、あなたの責任だ、ぼくに怒ることなんかないや」
「それでお前はおれに約束したじゃないか。あれはどうなるんだ──お前がトップをとったらおれが真珠を買ってやるといったのは。口さきばかりの嘘か、あれも?」
「トップなんてなると決まってやしないよ」
良は滝が乱暴しはせぬかといくぶん警戒ぎみにうかがいながら云った。
「万が一トップとって、滝さんがほんとうに同じくらいいいやつ、買ってくれたら、これかえそうと思ってたよ。その方が、理屈にあってるじゃないか」
「おれはお前をそんな風に育てた覚えはないぞ!」
滝は一種の絶望感にとらわれた。
彼は、良が、こちらがうわ手に、制圧しよう、屈服させようと出ると決して云うことをきかぬ、それこそ力ずくででも、叩きのめしでもせぬかぎり降参しない──仮に鞭をふるってそうしたところで、それは良が肉体的に屈服するのにすぎず、良の心の方にはほんとうに手のつけようもないのだったが──ということに、とっくに気づいてはいた。
良が素直になるのは、こちらが心からいとおしく思い、やさしく抱きとめるようにして、心ゆくまで甘やかし、可愛がろうとしてやるときだけである。
ところが不幸にも、滝はまた良が反撥すればするほどねじふせ、屈服させ、思いどおりにしようと躍起な怒りにかられずにいられないのだった。相性がわるいのかもしれないと滝はこっそり弱音を吐いた。
「じゃ、どうあってもそれはかえさないっていうんだな。勝手にしろ。そのかわり、お前が山下とどういう面倒をひきおこしてもおれに何とかして貰おうなんぞと思わんでほしいね」
ついに滝は敗北を認めて苦々しく吐きすてた。良は拗ねたように下唇をつきだして、高価な美しいネックレスをいじくっている。
滝は敗けを認めたくなかったが、これ以上良を降参させようと意地をつのらせていったら、さいごにはまた暴力になってしまうことはわかっていた。
「だからトップとって滝さん買ってくれたら、すぐかえすって云ってるじゃない」
「もういい、勝手にしろ」
「そんなの、卑怯だよ」
「何だと」
「だって──」
良はひるんだ。意地になって目を光らせている表情の中に、ほのかな恨めしそうなものが忍びこんだ。
「ほんとうに約束守ってくれたらかえすもの」
良は云いわけするように云った。
「それに面倒なことになんかなりゃしないよ。だって、山下先生ぼくのいうことなら何だってきくもの。あの人なんて、ぼくの機嫌ばっかりとって、おどおどしてるよ」
「大人をそうやってなめてろ。いいだけばかにしていろ、いまに思い知るさ」
「そんなことあるもんか」
嬉しくてたまらぬように良から目をはなさず、その一顰一笑をうかがっている山下を見ながら滝は、そう云って半分滝をおそれ、半分虚勢を張るように鼻さきで笑った良の不埒な表情を思い出していた。
大体山下が良をわるくするのだ、そこまで大の男が、たかが十七の少年にばかにさせておいてよく何も感じないで高崎くんだりまでついてこられるものだ、と心中山下のぼってりした顔に悪態をつく。
結城修二ならそうはさせまい、とふと思った。滝は美しいもの、いいもの、すぐれたもの、ひいでたもの、が何によらず好きな分だけ、さまにならぬもの、見ていて気恥かしく思わせるもの、みっともないもの、に強い侮蔑と嫌悪を抱いている。
かねてから山下のことをあかぬけたところはないが、才能はあるのだから惜しいものだと見做していたが、良ごときに手玉にとられるようではその才能もたいしたことはない、鈍重で人のよい、野心も打算もすっきりしたところのない田舎者だとあいそをつかしてしまっていた。
(やっぱり、おれの理想の男というと、結城修二かな)
良は山下が何かしきりに話しかけるのに生返事をしながら、気にして髪をかきあげたり、衿をひっぱったりしている。咲いたばかりの白薔薇のように、ほっそりして華やかで、きれいに見えた。
滝は心中に彼の憧れている美貌の作曲家と良とを並べてみ、まばゆいほどの一対だろうと思い、信長と蘭丸のようだろうと考え、そして内心結城には良を抱かせたくないものだと思った。それはあまりにもしっくりとしすぎていた。
山下ならいい、嫉妬しようと、怒ろうと、彼は何も苦しまなくていいのだ。山下はいかなる意味でも良に値しない。一夜かぎりの、興行主の老会長の相手などは一瞬後には忘れ去られて何の痕跡も良のからだにも、心にも、とどめないが、山下もまたついに良にとっては多少の差こそあれそのていどのものでしかありえないだろうからだ。
(おかしなことだ)
今夜も良は山下に連れられてどこかへ行くのだろうと滝は思い、その思いが何のいたみもともなわぬのにむしろ驚いていた。
「たいへんですよ楽屋の外で女の子が待ってて。車、動かせやしませんよ」
スタッフが報告に来る。耳をすますと、良の名を呼んでじっと待つ少女たちの喧騒がきこえてきた。彼女たちに、この山下に生意気な表情で、しかしまたとなく可愛らしい鼻であしらうような態度をしているけしからぬ良を見せてやりたいものだと滝は考えていた。
ジョイント・リサイタル大成功の情報は、すぐに業界にひろがった。翌週の女性週刊誌は白い衣装で歌う良と、むらがって喚声をあげるファンの写真入りで、このニュースを報じたし、なかには、気早く「ポスト・新ご三家へ名乗り! GSブーム以来の熱狂の中で、ニュー・アイドル、ジョニー(今西良)の初リサイタル」などと太鼓を叩いたところもある。
取材がにわかにふえ、その前に手のひらをかえしたように、激減していたテレビの仕事が激増した。滝はまのわるい顔もせずもちこまれる話を、これも何ごともなかったようにまず九分どおりオーケーした。レコードの売上げもまた上昇を再開した。
「滝さん、ついにベストテン入りだ」
「やりましたか」
「今日付で十位に顔を出しますよ」
「まだまだ」
滝は、いよいよ殺人的な忙しさの中へ良を投げこもうとしていた。結城から話があったのは、『裏切りのテーマ』が二週連続の上昇をみせて、八位まで上ったときである。
「やったね、滝さん」
結城は電話をかけてきて、あたたかみのある笑い声を立てた。
「よかったな──きいたよ、高崎の話」
「おかげさまで──もう、先生のお宅の方へ足を向けて寝られませんよ」
「ばか云っちゃいけない。良くんの実力だよ──僕は前から思ってた。まさみと裕樹はともかく、二郎なんか、要するに名が売れてるってのと固定したファン層がどこにでもいるってだけだろう。二郎の人気なんかまず七割がた馴れあいの虚像だ、ほんとうの、実際の動員力、ファンを熱狂さす力はひょっとしたらすでに良くんの方が上だってね」
「とんでもない。こわくなっちまいますよ、先生」
「それはともかくとして──良くんを、白井みゆきに会わせてみる気はないかね? いや、まだ彼女が気に入るかどうかって段階だけど、良くんなら問題ないだろう。どうだね」
「かさねがさね、何とお礼の申しあげようもありません」
滝はおそるおそるさぐりを入れてみた。
「ご恩がえしなどとうていできるようなあれじゃありませんが──もし、できることがあれば、何でもおっしゃって下さい──いずれ改めてお礼にあがらせますが」
「いやだなあ、僕はそんなつもりでしたんじゃないよ」
勝てば官軍の世界で、リサイタルが成功したとなると南州興行とのごたごたも間に入ってやろうという人物が出るやら、依田の方も少しおとなしくなって、どうやら解決のはこびになっていた。そうと見れば、結城は自分の口ききで話を運んでやったことをもう隠さなくなったばかりか、むしろ貸しがあるぞと匂わせているようでもある。
「それにまだそう安心して貰っちゃ困るんでね。──日時は僕からみゆき女史に打合せて連絡するが、とにかく御意にかなうかかなわんかまでは、僕の権限じゃないから」
「それはもう」
「やたらにうまい話をきかせておいて、がっかりさせちゃわるいと思ったんでね。そのぐらいの心づもりでいてくれた方がいい。まあオーディションなんて大袈裟なもんじゃないけど、良くん歌唱力はあるんだから、とにかくまず会って貰ってね」
「先生、よろしくお願いします」
あとでデュークにそう云って、何か趣味のいい、高価で小さいもの──結城に似合いそうな骨董のカフス・ボタンでも送らせようと滝は思った。さらに、結城は、実弾なら、金が欲しいだろうか、それとも良を家に来させてみようと思うだろうか、と少し迷う。
ためらったが、おそるおそるよろしければと伺いをたててみると、結城の声にはいくぶん皮肉なそっけなさが加わった。
「僕は、そんな目当てがあって何かするような人間じゃないよ。山下君とはちがうんでね──いずれ、日がきまったら連絡する。じゃあ失礼」
あっさり切られて、滝は鼻白んだ。どうも結城にかかると卑屈に、品性下劣に自分が感じられて、何となく具合がわるい。
なに、結城だってそんな清廉の士でこの世界がつとまるわけはなし、ただうわべをきれいに、気取ってみせているだけだと思ってみても、結城の風格の前では、そんなのがそもそも下司のかんぐりのように思われてくる。
結城から指定があって、万難を排して時間をとり、白井みゆきの「御殿」と称するすばらしい邸宅へ出むいたのは、一週間のちだった。みゆきの意見で、くつろいで貰ったほうが気持を決めやすいからということだからという。
何事にも冷淡で自分以外にあまり興味のない良が、気おくれするとか、うろたえるという心配を滝はあまり感じなかったが、御殿へお召しになって女王様がお品定め、という手筈に良の片意地と強情が頭をもちあげはせぬかとひそかにおそれた。生意気が出たら手のつけられない良である。
しかし、白井みゆきときいて、いくぶんおとなしくなった良は滝のやかましく与える注意をきき、何着ようかぼく、とそれを気にしたばかりだった。
「もちろん、舞台衣装じゃ困るが──なにせ、こりゃきれいだと思わせないといけないんだからな」
デザイナーの北川女史が、良ちゃん何つくってもはえるからつくり甲斐があるわ、と云って、よく新しいデザインをくれるので、良の服はかなりふえていたが、それをありったけベッドの上にひろげて、ああでもない、こうでもないと首をひねる良はいかにも楽しげで、瞳がうるんで輝きだし、滝にあらためてこの美しい少年のなかにひそんでいる少女の心理を思わせる。結局、ごてごてしないなりの方がかえってすっきりと良の容姿をひきたてるだろう、ということになって、前に山下が買ってくれた白いシルクのブラウスと、濃色のパンタロンにきめたが、良は不服らしくあれこれいじりまわして首をかしげていた。
「お前って、全然、スーツにネクタイなんてなりが似合わないんだよ」
「そうかなあ」
「女顔だし、肩幅がないだろう。むりに男っぽいかっこうをすると、それこそ宝塚の男役みたいになって、さまにならないよ」
「ちぇ、ひでえな」
「そのかわり、ドレッシーなのも、ジーパン・スタイルもいいからいいじゃないか。きっと、良は、少しぐらいぎょっとさすようななりで素敵なくらいだぜ。こんど、ほんとのすごいピンクのラメのドレスでもつくってみるか」
「いやだあそんなの」
「ミンクのコートもきっといいぜ。ジャンプ・スーツとか、チャイナ・ルックとか──デビッド・ボーイのファッションなんか、参考にするといい」
「ギンギラギンか」
「良ならおかしくないさ。きれいに化粧してね」
「ね、イヤリングつけてかない方がいい?」
「よした方がいいな。きょうは女だからね」
結局あっさりした清楚なかっこうになったが、車でみゆき邸に向うにつれて良は興奮しているらしく、すきとおった肌にあざやかな血の色がさして来、目が輝き、化粧をしたかと思うほど、匂い立つようになまめいて美しくなってきた。馴れている滝でもどぎまぎするほどの妖しい美しさだ。
かれらが「みゆき御殿」の広大な門の前に車をとめ、案内を乞うと、出てきたのは思いもかけず結城だったが、いきなり息を呑んで鋭く良を見つめたのは、ふしぎではなかった。
結城は食い入るように良を見つめ、さっとその鋭い目で全身を検分し、かすかに微笑してうなずいた。
「滝さんもたしか白井さんに正式にひきあわされたことはなかったろう。僕がいた方がよかろうと思ってね。しかし、これなら、心配はいらんね」
結城は滝の挨拶をうわのそらできき流し、呟くように云った。
「失礼だけど、化粧してるの? してない? そう──じゃ地なんだな。これは参った」
良の方は結城にたいして興味はないらしく、家内の華麗な装飾にすっかり気をとられている。廊下にじゅうたんをしきつめ、お伽の国のようないい香りと色彩にあふれた屋内はまさに御殿だった。
滝は利己的な気持から、ひそかに良が結城の美貌やひとをひきつける態度に注意を払わぬことをよろこんだ。考えてみれば、自分の美しさ、自分の光の中でまどろむナルシスに、アポロンの美と力を目にとめるいわれはありそうにない。
「これなら、まとまるよ。まさにエンデュミオンじゃないの」
二人を奥へ案内しながらもときおり鋭いまなざしを良に注いでいた結城が滝に囁いた。
「実は、奥に石田のママと彼女のほかに、真ちゃんが来てるんだ」
「佐伯さんが?」
「そう、まあひと月の半分はここで暮してるようなもんだからねえ──珍しかないんだが、なぜだと思う。彼呆れたことに嫉いてるのさ。当然自分の役どころなのに、ま、歌が歌えないもの仕様がないんだが、じゃその適任て新人を検分して、けちをつけてくれようって肚でね。ジョニーって口下手な方かね?」
「さあ、気がむくとよくしゃべりますが──どうも、我儘でしてね」
良はきこえないふりをしたが、結城のうしろから滝にいやな顔をし、ちらりと尖った舌をのぞかせた。結城が声をかけると、「どうぞ」という返事があって、三人は、みゆきの居間へ足を踏み入れた。
滝の腹の底に、この儀礼的手続きの仰々しさをとんだ茶番だと嘲笑う気持があったにしろ、それを少なくともちらりとでもほのめかしたいような感情は、この室に入ったとたんに吹き消されてしまった。
みゆきの居間は、ベルサイユ宮殿のようである。天井が思いきり高く、寄木細工のピアノにゴブラン織めいた布を張ったソファ、足が鈍い金の光沢をはなつ白いテーブル、毛足の長いじゅうたん、周囲の棚に彼女の貰ったトロフィーや楯の類がぎっしりと並び、壁にはゴールデン・レコードをはじめ賞状の額がかけてある。
年代もののビクトローラにコーヒー・セット、そうした骨董にかこまれて、白井みゆき、マネージャーを兼ねている義姉だという「石田のママ」、それに毛並のいい愛玩動物のようにつるりとした美男の映画俳優がどっしりとかまえているという寸法だ。
この仰々しさにはしかしそれの中心に白井みゆきという人間がいることで、たしかにある種の風格が与えられているのを滝は認めた。
大歌手は小柄だったがよく肉がついていて、豊満な容姿はとりかえしのつかない肥満のぎりぎり一歩手前でとまっている。ずっしりと持ち重りのしそうなそのからだつきが彼女を実際よりずっと大きく感じさせ、堂々たる貫禄すら発散させる。
派手な部屋着に身をつつんで悠然と足を組み、贅沢なコーヒー・カップを手にした≪女王≫は美しいというよりはある種の蘭を思わせる絢爛な、押しつけがましいほどくっきりと印象的な目鼻立ちを持っていた。
かれらが入ってゆくと三人の目は一斉にかれらにむけられた。みゆきの横に立ってその椅子の背に手をかけている佐伯真一は、水玉もようのネッカチーフを首に巻いて、白いシャツに派手なブレザー、というブロマイドででも見たようななりだったが、ひと目見て滝は興味を失った。その卵型のきれいな顔と弱々しい口、生気のないととのった目鼻立ちにある種の洋犬にそっくりな黒目がちの目は滝には価値のないものだった。滝は佐伯を一言のもとに切りすてた結城の口調を思い出した。
石田女史というのはぎすぎすした、目の鋭い狷介そうな中年女性である。結城は双方を知っている仲介者として、はぎれよくかれらをひきあわせた。どことなく、自分からひきうけた狂言まわしの役どころを面白がっているような皮肉なものがひそんでいる。
白井みゆきは挨拶は滝と石田女史にまかせておいた。鷹揚にほほえんだきり、あとは食い入るように良を見つめた目をそらさない。
滝はちらりと見て、大歌手の凝視をおとなしげな表情で受けとめた良の顔にまた濃い薔薇色がさしてくるのを見てとった。結城が、笑い皺のある目もとをほうというようにほころばせる。佐伯真一の目は、犬の目がふつうあらわしている程度の表情しかうかべていなかったが、少女のような口もとが微妙に動いて内心のおそらく複雑な思いを暴露している。
その中で、良はいくぶん赤くなりはしたが、そのためにいっそう輝きを増して、臆したようすもなく黙って見られるままになっていた。自然で生き生きして若々しく見えた。
結城が目もとで笑いながら滝を見る。滝はこの無言劇をおおいに楽しみながら作曲家にちらり、と微笑をかえした。
「どうです。僕の云ったとおりでしょう」
結城がまず口を切って、無言劇を破った。
「ほんとだわ先生」
みゆきが口を開いた。誰でもよく知っているあの豊かで女としてはいくぶん低い張りのある声だ。
「ほんとにきれいな坊やだわねえ」
滝は冷やりとして良を見た。良は滝の方を文句ありげにまばたきしながら見かえしたが、何も云わなかった。
「あら、いやだ、みなさん、どうぞ椅子お召しになって下さいな。それから、みなさんおコーヒーでよろしいのかしら」
「お若いかたは紅茶の方がいいんじゃないかしら」
「どちらでも──」
良は云った。いくぶん、興味を失ったようだった。石田夫人が家人を呼んで紅茶を云いつけた。かれらはソファに腰をおろした。結城は前からそこを占領していたらしい、寄木細工の小さなグランド・ピアノの前にいってすらりと丸椅子にかけ、長い脚を組み、片肘をついて良の方を見つめた。
「お歌がたいそうヒットなすってるそうで……」
石田夫人が何となくぎこちない雰囲気を救うように口を出した。
「かれは、歌唱力もたしかなもんだ。新人とは思えないくらいにね」
「先生がそう云うんならたしかだわねえ。どちらが、ご指導なすってるんですの?」
「山下国夫先生にお願いしてますが」
滝は云った。
「ああ、山下さん」
「前から、ひとつぜひとお願いしてるんですが、なかなかどうも、結城先生には見てやっていただけません」
「おいおい、滝さん、あなたにはかなわないなあ」
結城はピアノの椅子をぐるりとまわしてこちらにからだをむけ、煙草に火をつけた。こんなところでみゆきあたりをねたにして言質をとられてはたまらないという表情である。
「ママも気をつけてよね、このひとは、そりゃもう尾崎プロの今日あるのはこのひとのおかげというおっそろしいやり手なんだから。一見やさ男だからってぽーっとしてちゃ駄目だな」
「何をおっしゃいますか、困りますな」
滝はうろたえたようすをしてみせた。みゆきが派手な声をあげて吹き出し、つられて石田女史も笑い出した。室の雰囲気はどうやらくつろいで来、それでどうやら話はオーケイということに決まったと考えていいようだ。みゆきは機嫌がよくなっていた。
「こないだはリサイタルでたいへんでしたってね、大成功で」
良が、すでに何十回もリサイタルを成功させているような云い方をみゆきはした。
「おかげさまで何とか、皆さんに助けていただいて無事に済みました」
「おい滝さん、みゆきちゃんは良ちゃんの声がきいてみたいってさ」
結城が腕を組んで煙草を唇にくわえたまま指にはさんだ、いささか気障にきめたポーズでにやにやと声をかけた。
「こりゃ、どうも──しかし、あまり口の軽いって方じゃあありませんもので」
滝は笑いながら良をふりかえった。良はいくぶん冷たい微笑をうかべてじっと座っていた。
「良」
「ジョニーって愛称なんだってきいたけど、素敵なお名前ね」
みゆきはあでやかに笑いかけた。良は笑いをひっこめ、いくぶん緊張したように、頬に血をのぼらせ、初々しい表情ではにかんだ。
ふいに、これがもし良のやつお芝居だとしたらたいへんなワルだぞ、という奇妙な思いが滝の心をかすめた。なぜなら、滝は良のほぼあらゆる表情をもう知りつくしたつもりでいたが、良がたとえどんなスターの前であろうとのぼせたり気おくれしたりするところをついぞ見たことがないし、その上に最初に白井みゆきのことをつげたついでにきいてみたら、良は唇をつきだして、婆さんじゃん、興味ねえなあ、とにやにやして云っただけだったからである。
「何か云って頂戴な、あたし、あなたの声まだきいたことないじゃないの」
その良の態度に明らかによい感じをもったらしく、みゆきは目を細めて見つめながらたたみこんだ。良はもじもじし、つと右手の親指を薔薇色にすきとおった唇のあいだにもっていって困ったようにかんだ。甘えた子供っぽいしぐさだった。
「あの……僕」
良は、滝が思わず良の方を見たくらい、少しかすれた甘い声で口ごもった。
「何云っていいか……」
滝はまたふいにその声の調子を、良が山下に云うことをきかせようと思ったときに使った、甘えるような、油断のならない声と同じだと気がついて参ってしまった。良の方がおれよりうわ手のワルだぞ、と思う。
この小僧、うんと首根っ子をつかまえて、ひとつぐうの音も出ないくらいとっちめてやりたいものだな、と彼は考えていた。
「何照れてるの。あたし怖くなんかないでしょう」
滝にそんな我慢ならぬ腹立たしさを感じさせた良の態度は、しかしみゆきにはひどく可愛らしく心に訴えたようである。
「お幾つ?」
「十──七です」
「若いのね。なんて若いんでしょう──いいわねえ」
みゆきは一言も発せずに彼女の椅子のうしろに立っていた、若い情人をふりかえって微笑した。佐伯はいくぶん陰にこもった目でさっきから良を眺めつづけていたが、あわてたように彼女に目をうつし、にっこりした。尻尾がぱたぱたするのが見えるようだと意地わるく滝は思った。
「真ちゃんもそのぐらいだったでしょう、『やさしい関係』に出たの」
「十八だよ」
佐伯の声は見かけとはそぐわぬ太い、かなり低いバリトンだった。
「ほんとに子供だね。──でもいまがいちばんいいときだろう。肌もきれいだし、髭もはえないし」
「良くんはもともとなんじゃないの」
結城が口をはさんだ。良は品評会に出された馬のようにすましこんで知らぬふりをしていたが、こんどは耳朶まで赤くなった。
「先生、あたし嬉しいわ。こんな可愛い坊やと共演できるなんて。お礼云わなくちゃ」
「それじゃ決まりだな」
結城が滝にウインクする。
「適役だよ。適材適所が僕の趣味でね」
「でもそんな話あとにしましょうよ。紅茶さめるわよ──ええと、何てお呼びすればいいのかな、今西くん? 良くんってのも──」
「良って呼びすてで結構です」
と滝。
「あらそんなの──でもすてきなお名前ね。ちょっとなれなれしいけど、良ちゃん──うん、そういう感じだな。ねえ、紅茶あがってよ。それに、もっと楽にしてほしいわ。これから一緒にお仕事することになるんですものね──あたし、早くあなたにうちとけてほしいのよ」
「あの……」
また良がはにかんだ。
「すっかり照れちゃって、可愛いね、きみは」
さかなにする調子で佐伯が笑う。
「むりもないけどさ。白井みゆきなんてったら──それこそ雲の上の人だもんね」
「よしてよ、真ちゃん」
「ひょっとしたら、かれの若き日のアイドルだったかもしれないし」
「いやだ、それじゃ私たいへんなお婆ちゃんみたいじゃないの」
「でも、そうなんです」
良がいくぶんせきこんで云った。
「ぼく歌をうたいたいと思ったの、『夏の夜のブルース』とか『愛してるわ』なんかからなんです。ぼく──」
良の大きな目が生真面目な一途な輝きを湛えて、憧れるようにみゆきを見上げた。この野郎、とまた滝は思った。そんな話をきいたこともないぞ。お前はディスコに入りびたってゴーゴーばかり踊ってた不良少年で、歌謡曲なんか何の興味もなかったじゃないか。しかし、そんなことばに馴れているみゆきは快くそれを受け入れて鷹揚にあしらった。佐伯が意地わるく口を出す。
「じゃまさかこんなに早く夢がかなうと思わなかったねえ。おねえさん、サイン入りのパネルでもあげたら?」
「真ちゃんおよしなさいよ」
うわあ、おねえさんか、と滝は辟易《へきえき》した。二人きりのときは、「お姉さま」か「お姉ちゃま」ぐらいになるのかもしれない。良はまた当惑したように親指をかんだ。すっかりはにかんでしまったように長い睫毛を伏せる。
みゆきがやさしい表情でその可愛らしいようすを見つめた。たくみな世辞やものなれた態度よりもはるかにそのはにかんだ、不器用なようすが心に媚びたようである。
「でもさ、いまの若い歌手なんて、十人中八人まではそうなんじゃないのかなァ」
佐伯はなんとなく、その少年の不器用な初心さを苛めてみたいらしかった。敵愾心というほどはっきりしてはいなさそうだが、自分の優位を意識しているようである。
「誰でも白井先生の歌に憧れてって云うもんね。おねえさんて、わりと無難なんじゃないの? そういうとき、手頃だっていうかさあ、みんな納得するから」
「まあひどい、覚えてらっしゃい」
「ぼく──でもぼくそんなんじゃありません」
良はむきになった声を出し、それからたちまち真赤になった。
「ぼくは……」
「おーやおや、真赤になって」
「およしなさいったら、真ちゃん、そんな苛めたりして、可哀そうじゃないの」
良は恥じ入っているようすで顔を伏せていた。滝はちらりとそんな良を見、素早い目を結城にむけ、そしてはっとした。
結城の顔に、奇妙な表情がうかんでいる。口もとはゆったりと微笑していて、目も細められているが、その目のなかには、何かひやりとさせるものが漂っていた。
あいかわらず良を見ているが、もう先刻のただその美しさにみとれて、感嘆するまなざしではない。いくぶん面白がっているような、かなり皮肉な、前に佐伯のことを云ったときと少し似たもののあるまなざしである。
彼は、良のたくみに計算された演技、滝と彼以外には単に可愛らしい初心な可憐さとうつったであろう媚を見抜いていた。佐伯の嘲弄やみゆきの反応が結城には滑稽なものとうつっただろう。
滝の視線に気がつくと結城はおもむろに良から目をそらし、滝の目をまともに受けとめ、ふざけたように眉をあげてみせた。そうすると奇妙なくらい、イギリス人の肩をすくめて腕をひろげるしぐさを思いおこさせるバタくさい顔つきになった。
結城はケントを灰皿に押しつぶし、いくぶん冷やりとした滝から視線をはずして良を見た。
滝は彼の視線を追い、そして良がいまの無言のバイ・プレイに気づいていたことを知った。良の目は大きくなり、挑むようにかれらを見つめている。
結城はまた顔をほころばせた。すると、こんどは本物の、良の頭の火照りが滝につたわってくるような紅潮がさっと良の頬にひろがり、消えなかった。
傍では、何も気づかずに、大歌手とその|みば《ヽヽ》のいい若い情人とが、笑いながら互いをやっつけあっていた。
かれらが「みゆき御殿」を出たときには、予定より少し遅れていた。しかし話はまとまり、良がすっかりみゆきに気に入られたことがわかったので、滝は満足していた。これで共演が好評をとれば、良の将来は決まったようなものである。
結城は送って出て、何か親切なことを云い、滝の三拝九拝をあしらって、また女王様のご座所へ戻っていった。
黙りがちになっていた良は車に乗り、滝が発車させるかさせないかに、激しく頬にもつれかかる前髪をふりやり、吐きすてるように云った。
「嫌いだ、あいつ」
「結城先生か?」
滝は横目で良を見た。良の目が戦闘的に光っている。頬の赤みが消えていず、良は毛をさかだてて爪を立てた猫のようだった。
「なんだ、すかしやがって──いい男ぶってやがる」
「だって、ほんとうにいい男だものね。日本人ばなれしてるじゃないか。脚も長いし」
「滝さん好きなのあの人?」
「ああ、魅力のある男だね。頭も切れるし好みもいいし──やっぱり一流といわれる人はちがったもんさ」
「なんだいあんなきざな奴」
「気に入らんのか」
「嫌いだな。畜生、あいつ、殺してやったら、胸がすーっとするだろうな。あの鼻叩きつぶしたら──洋モクなんか、ダンヒルのライターで火つけやがって」
「細かく見てたもんだ」
「どうせ車はロールスの、コートはバーバリのって決まってんだ。あんなの──」
「かれは有名なカーキチなんだ。三台持ってて、それが全部左ハンドルだとさ。今日どれに乗ってきたかは知らんが、ベンツに、モーガンに、ジャガーのEタイプだとさ」
「ふん」
良は下唇をつきだした。猫め、と滝は思った。しかし、妙に、快い気持である。これが本来の良だ、と思う。我儘で、激しくて、勝手で、生意気だ。冷淡で、無愛想で、残酷で、高慢だ。そしてそのどれもが、ぞっと戦慄するほど、鮮烈に美しいのだ。
滝は、丸くなって撫でられていた猫がぐいと身をのばし、身震いし、しなやかに動き出す刹那の、野性の魔物のかぎろいを見るような気がした。
「あいつ、誘惑してやろうかしら」
「誰をだ?」
「結城修二」
「ぶっそうなことを云いなさんな」
「どうしてよ。あのすかし屋、山下センセみたいにメロメロにして云うことをきかしてやったら、きっとすーっとするだろうな。あいつ金あるんだろ。百万ぐらいの、毛皮のコートでも買わして、メルセデス・ベンツで迎えにこさして──」
「お前の手におえる相手じゃないよ。あれは、超一流の男だぜ。作曲家としても、男としても、人間としても」
「ふん、あなたみたいな悪人でも、ひとに憧れたりするの。ばかにべた惚れだね」
「この野郎。──おれは一流のものが好きなんだ」
「自分がそうじゃないからでしょう」
良は痛烈なことを云った。滝はかっとしたが何も云わなかった。良はちらりと滝をうかがった。心配になったようだ。ほとんど云いわけするようにことばをついだ。
「でもそれはあなたが好きで選んだことだよ。表通りで看板守ってやっていくよか、裏方として実際の力をもつ方が趣味と実益の原則にかなうと思ったんなら、しかたがないよ」
「勝手なことをほざいてろ」
「あなたってときどき自分が悪党なの後悔するんだな。よくないよ」
「きいたふうなことを云うな」
「それがなけりゃ、一流の悪党なのにね」
「ばか野郎。お前に何がわかる。おれは別にそんなワルじゃないぞ」
良は笑い出した。滝は怒って良をにらみつけた。
「白井みゆきのところにはいかなくていいの?」
「佐伯真一が嫉くからな」
「あの人」
良はまだくっくっと笑っている。
「おねえさまか、あの人見てると、マルチーズかプードル、思い出さない?」
滝は思わず笑ってしまった。
「わるい奴はお前じゃないか」
「とんでもない」
「大人をからかいやがって」
「だっておもしろかったでしょう」
ふいに良は途中でやめ、黙りこんだ。良が何を感じたか、はっきりと滝にはわかった。
やがて、低い声で良は、
「畜生」
と呟いた。
「いつか、おかえししてやるからな」
滝は肩をすくめた。それきり、どちらも口を開かず、それぞれの思いに沈みこんでいたが、良もまた自分と同じ男のことを考えていたのだということは、滝は賭けてもいいくらいだった。
白井みゆきの恒例のリサイタルに、良が抜擢されて相手役をつとめる、と発表されるや、良のギャラは中堅クラスの格へはねあがった。記者会見が行われ、真紅のドレスに豊満なからだをつつんだみゆきはカメラマンの要請で良の肩に手をまわしながら妖艶にほほえんで、素敵でしょう、あたしとってもジョニーってのびるひとだと思うのよ、と云っていた。
滝はこっそり佐伯真一を呼び出し、若干の小づかいを与えて、まだこのくらいならご用立てできますよ、と云った。
「これはほんの──何といいますか、私の心持でしてね。でも、ほんとは、どんなことがあっても白井先生は佐伯さんにしか、お目を向けられませんね、そのことはもうよくわかってますよ」
「いいですよ、ぼくは、正直いっていささか持てあましぎみなんでね」
滝が二枚目スターと謎めいた会話をかわした直後、女性週刊誌はいっせいにみゆきの腕の下ではにかんでいる良の写真をのせ、「白井みゆきの新しい≪意中の人≫?」「早くもいいムードいっぱい──リサイタルで抜擢のシンデレラ・ボーイは『裏切りのテーマ』大ヒット中のジョニー(今西良)」「ジョニーってとってもすてき──白井みゆきの寵をうけて」などと書きたてた。
『アイドル』誌は良の十ページの特集をした。「白井みゆきに選ばれた美少年・ジョニーの素顔」といったしろものだ。そこまでは滝のヤラセだったにせよ、そうなればあとは頼まなくても太鼓を叩いてくれるのが芸能ジャーナリズムというものである。
次の週には談話入りで、「本誌独占! 白井みゆきがまっ青! 脅迫状、脅迫電話が殺到」「あたしのジョニーにさわらないで! 少女ファンがワラ人形を」となった。
「『リサイタルの話はきいてたけど、まさかこんなにすごい人気だとは思わなかったわ。あたし、なんだかこわくなっちゃって』そう語る白井みゆきの表情は、いつもの笑いもこわばりがち。しかし、本誌記者が出した、ファンの少女たちにひとこと、という頼みにはこころよくこたえ、最後にはやさしい笑顔をみせた。そのひとことは、『私はジョニーにくらべれば二十もお婆さんなんだし、お母さんみたいなものですもの。どうか私を憎んだりせず、良ちゃんを広い気持で応援してあげて下さいね』。芸能生活二十五年という彼女にとっては今西良は異性というよりは可愛い後輩。ゆとりのある態度は、これならきっとリサイタルも大成功まちがいなしという不敵な自信ともうけとれた」
「やってくれるね、滝チャン」
デュークがその記事を見ながら派手にげらげら笑った。
「よく真ちゃんのこと書かないもんだ」
「なあに、それはこの次のネタですからね。当分、食いつなげるネタですよ、ありったけひきのばして使わせてやりますよ。スチール写真ができてくるとまたひとさわぎだ。たぶんラブシーンまでいかずとも、抱きよせてうるんだ目を見かわすってことになりますからね」
「みゆき女史じゃ、良ちゃんの倍は体重ありそうだな」
「だから女のコも安心するわけですよ」
「そうでもないね。事務所あてに、ホントに抗議の手紙こーんなに来てるんだぜ。あんな豚にジョニーを好きだなんて云わさないでとか、良ちゃんがかわいそうとかさ」
「ファン・クラブの連中ですな」
「たいした景気だよ」
「これだけ毎週今西良って名前を書き立ててくれるんなら、宣伝費ゼロで済むってもんだ」
「ねえ、滝チャン、あんたそろそろ考えなきゃいけないんじゃないの」
「何を」
「このところ、てんてこまいじゃないの。もうこれだけ売り出してきちゃ、プロデュース・マネージ兼務は無理だよ。サブマネをつけるか、専属マネを使ってあんたは本来のプロデュースに専念するかしなさいよ。何もかもあんたひとりじゃ、むりだよ。こんどジョニーの付人も決めたし、佐野さんもアシスタント使うっていうから、さ」
「良のデビューから、何から何まで私ひとりでやってるんですよ」
滝は云った。
「私以上にあの子を知ってる、あの子に最上のプロデュースとマネージのできる者なんかいやしませんよ」
「だってここんとこ、あんた、かけまわってて、ほとんどジョニーとも別行動だろう」
「杉田君が非公式にサブマネでついてますがね。なら、彼を正式にそうしましょう。私は、良をいいかげんな奴にまかすのはいやですよ」
「惚れてるねえ」
デュークはため息をついて了承した。『裏切りのテーマ』はベストテンの四位にかけあがっていた。
「これまで、アンチ歌謡曲であのじめじめした日本的なところがイヤだっていうような連中が、何の抵抗もなく買っていくようなんですねえ」
マルス・レコードの販売部の山岡が云った。
「女の子からはじまったのはあれだけど、どんどんファンの層がのびてるみたいですよ。この調子で出れば実売数でもしかしたらミリオンいくかもしれませんよ」
「いってほしいもんですな」
滝は充分な自信をみせて微笑した。
「いったら、記念パーティーといきましょう」
「いま、七十五万枚ですからね」
「なんだ、もう八十いったかと思った」
「じわじわとのびてるし、関西地区はほぼこれからといっていいから、まだまだ期待できるって」
「こうなったら、いけるとこまでいっちまうだけだからねえ」
テレビ、ラジオの出演も、かけもちでない日の方が少ないぐらいにたてこんできていた。どこへいっても少女たちが待ちかまえており、名を絶叫し、サインを求め、ちょっとでいいからさわりたがって押しよせて来て、一人に予定した付人もすぐに二人にふやした。
良はボディガード兼任のこのお付きがひどく嬉しいらしかった。家来を貰ったように心得ているのだろう。だが、実状を知ったらまたかんかんに怒るだろう、と滝は考えていた。
二人の付人のうち年長の渡辺は、滝が選んだ、もとバンドボーイのしっかりした青年である。この男に滝は云い含め、このごろますます別行動が多くなっている、良の動静をちくいち報告させることにした。つまり、スパイだ。
良は滝がひもをゆるめたと思って、どうせたちまち本性を出して羽根をのばしたがるだろう。現にまた寵を回復したらしい山下国夫に毎晩のように遊びに連れていって貰っているし──放っておけば何日でも出たがりもせぬくせに、誘えば決していやと云わない良である──その帰りにはかならず何か買わせているらしく、二、三日放っておくと見覚えのないブラウスを着ていたり、アクセサリーをつけていたりした。
(ところがどっこい、紐は長くなっただけなんだからな。おれを舐めるなよ、おれはお前が山下と何回やつの家にいって、何時間出てこなかったとか、そこまでぜんぶスコアをつけといてやるからな)
渡辺は運転手兼任なのでつごうがいい。良にはいくらかもの知らずなところがあって、最初はともかく馴れてしまうとすぐに、付人のことは人間と見做さなくなったようである。
良のそういうところが滝には気がかりだった。放っておいたらどんどん野火のように発展してしまいそうな気がする。そういう、人を人とも思わぬような、大のおとなを舐めきってたかをくくったようなところを見るたびに、滝は思いきり良をとっ捕まえてこらしめてやりたくてたまらなくなる。
いやというほどとっちめて、泣かせて、おとなを、一人前の男を、そんなふうに扱えばどんなことになるかを思い知るまでいたぶってやりたくなるのだ。
そう考えるだけでからだが熱くほてるような気がし、気が昂ぶってくる。滝の中に深くひそんでいるサディスティックなものを、良の存在は最大限にかき立て、刺激する。
ところが、その実、良の方は滝に対してだけはほとんどいやな態度を見せないのである。むろん、我儘にふるまったり、生意気を云ったりするのは、誰に対してよりもいっそう著しいが、しかし山下や、付人たちに示すような、人間以下のものというあしらいだけは絶対に見せない。そればかりか、良がいくらか畏れているのは滝だけのように見える。
それで、とっちめてやりたい欲望はいつも巧妙にはぐらかされた形になってしまい、滝は切歯扼腕するのである。山下はいまや完全に良の云いなりのようだし、渡辺たちは苦労人だし滝の云いつけもあるので良の云うことにさからわない。
そればかりでなく渡辺も、良がキヨちゃんと呼びはじめた若い清も、少したつと妙に良が可愛くてならなくなったようだった。
「やっぱり、可愛いですねえ、我儘で手焼くけど、あの顔でにこにこっと見上げて、ねえ、渡辺さんってやられると、何だか何でもしてやりたいような気になっちまって」
「おい、だからってあのコに寝返っちゃダメだよ。ナベちゃんはおれのスパイだってこと忘れなさんなよ」
「情が移らんようにはしますがね。こりゃ、清にゃムリですよ、おれだっていったいどんな顔して山下先生になんて考えると妙に興奮しますもん」
「ダメだよ、いかれちゃっては」
「気をつけますよ」
渡辺は自信なげだった。良ももうそろそろ自分のマンションでも持たせて、付人と生活させたら、という意見もあったのを、滝がつぶしたのは、そんな懸念も予防にしかずと思ったからである。
良はきれいすぎる。可愛らしすぎるし、毒薬なみに危険すぎる。やはり、いくらかでも良の我儘を制御する力のある滝が手もとからはなさぬ方がいいのだ。ふしぎに良の方も滝との同居は気に入っているらしくて、何日もすれちがいがつづくと妙に滝を気にして、甘えかかるそぶりをみせたりする。
滝は相変らず、週に一、二回は花村ミミとの時間を持っていたが、それを知ってか知らずか、きょうは早く帰るから滝さんも早く帰ってよ、などと云ったりする。
滝といるときは、滝のことだけは一応一目おいているというようすにもかかわらず、くつろいで、安心しきっているようなところがある。この子からどうしてはなれられるものか、手ばなしてたまるものか、と滝は奇妙ないとおしさと憤懣の入りまじった思いの中に激しく感じるのである。良とはなれていても、良の仕事で、良のために走りまわっていると考えると、いつも良といるような気がする。
滝の魂の最も柔かい部分に食いこんだ良は、しだいに深く、どうしようもなく、滝のすべての存在をとらえてしまっていた。
しだいに美しさを増し、ファンの嘆声、山下たちの崇拝、まばゆいライトや「ジョニー」「ジョニー」という歓声の中で磨かれてゆく良を、いやが上にも、栄光に、輝かしいスターの座にと心を砕きながら、滝は良と、ただ良とだけ、良のためにだけ、良のことだけ考えて生きているようなものだった。
どんな記録的な成功も、神話的ともいうべき成長も、目もくらむ華やかな発展ぶりも、まだまだ良の秘めているはずの運命にくらべれば満足すべきものとすら思われない。
滝は良のために全世界をすら望んでいた。そしてそれはたしかに手のとどくところにあると思われた。『裏切りのテーマ』がついにヒットチャートのトップになったのは、六月に入ってまもなくのことだった。
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「良」
スタジオを出ようとしたときだった。低く声をかけられてふりむいた良の顔が、山下国夫の肥った顔を見つけて、いくぶんそっけなくなった。
「来てたの」
「舞台稽古だっていうからさあ、疲れただろうと思って」
「もうぼくナベちゃんの車あるからいいのに」
「そんなこというなよ、何か食べたいものあったら食わしてやるよ」
良の顔に、ばかにした、たちのよくない表情がうかんでいた。付人の清──松村清といって、尾崎プロ関係のバンドボーイをやっていたちょっと精悍な感じの若者である──がとんできて、タオルで顔を拭いてやり、台本を受けとる。
「うーん、あんまり腹へってないしさ」
良は清には気もとめずに猫のようにのびをした。清がちらりと山下の方を見る。
「じゃ飲みにいこうか。──まあいいから着がえろよ。しかしすごいなあ」
白井みゆきリサイタルの、中幕にはさむ『セレーネの嘆き』というミュージカルの舞台稽古がすすんで、今日は衣装あわせがあったので、良は白いチュールに、ギリシャ風の純白の上着を腰に編んだ革のベルトでとめ、左肩はむき出しで、すんなりした脚に編みあげのサンダル、という恰好をしていた。右肩のところを大きなブローチでとめ、あらわな咽喉から左の肩と胸の上部が、いかにもなめらかで冷んやりした感じを与える。
「これ涼しくっていいの」
「よく似合うよ、王子様みたいだ」
「ちぇ、つまんないことを云ってらあ」
良たちは良の専用にあてられた一方の楽屋に入っていった。サブマネの杉田が出迎える。
「お疲れさん」
「きょうこのあとはもうないんだろ」
山下がきく。
「ないない、そうかけもちじゃ死んじゃうよ。きのうなんて朝がモーニングショーで午後稽古で夜から『ヤングプラザ』なんだもの」
「まだ序の口ですねえ」
杉田が笑った。年長の付人の渡辺が良の足もとに膝をついて、革のサンダルのひもをといてやる。
「疲れただろ」
「平気平気」
清は右肩のブローチをはずし、衣装をとってやる。赤児のように良はされるままにほっそりした裸身をゆだねていた。衣装係が受け取って持ってゆく。
「待って待って、着る前に汗ふいたげよう」
地の厚い木綿のシャツを受け取ろうとする良を制して、清がタオルをつかんだ。大切そうに、しなやかな上体を拭いてやると良は大袈裟にくすぐったがって笑い出す。
どちらかというと甘えたがりの良は、ひとに面倒を見て貰うのが何によらず好きだし、清たちも良を可愛いからつい甘やかす。
滝は仕事でいなかったが、このようすを見たらまた冷やかしたろう。山下は冷やかそうなどと思ってもみないようだった。じっと、いくらか影のある目で良を見つめる。
ざっくりした縞のシャツと、大好きな色あせたジーンズに着がえ、良は鋲をうった太い皮のベルトを腰に巻いた。ステージでは少女と見まがう派手なコスチュームばかりだから、その反動なのか、外ではいつもそんなラフなものばかり着る良だが、そうしたものも良が着ると妙にドレス・アップしているように見えた。
良のファッションのひとつの特徴は、どんななりをしていようと、それ以外の服を着た良、またはその服を良以外の人間が着たところを見たものが考えられない、というところにある。
「じゃもうあがっていいんだろ」
「そう云ったじゃないの」
「良ちゃん、白井先生は?」
杉田が云った。
「晩飯なんて云ってたんじゃない」
「ううん、断った」
「どうしてまた──いいの、女史をふったりして」
「いいさそんなの、なあ」
と山下。良は肩をすくめた。
「だってさ──疲れちゃうんだもの。今日は早く帰ろうと思ったんだよ」
「車まわして来る」
渡辺が出ていった。清は楽屋を片付けている。
「なあ、いいじゃないか、帰ったってろくな飯食えないだろう」
「だけどさ……」
「ああ、忘れてた」
杉田は手帳をのぞいた。
「滝さんから電話で、今夜遅くなるんだそうですよ。劇場に寄るつもりだったけど、寄れないから、良ちゃん先帰っててくれって」
「ふーん」
良の目が、急に輝きをなくしたようだった。
「何なの用って」
「さあ何ともきいてなかったけど──また打合せじゃないの」
「ミミちゃんじゃないの」
山下はずるそうに云った。良はじろりと山下を見た。
「彼も艶福家だものねえ。──だとしたら、今日は帰ってきやしないよ。な、良、うまいシナ料理があるぜ」
「そんな風に云わないでよ」
良は怒ったらしい。
「わかんないじゃないか──第一、さっきまでそこに『週刊レディ』の人がいたのに、きこえたら──」
「彼がそんなことで困るわけあないね」
山下は負けていなかった。
「あのマスコミ利用の専門家がさ。やってくるライターなんざひとりのこらず手なずけ済みさ」
「山下先生って滝さんのことをずいぶん悪意持ってるのね」
「とんでもない。おれはほんとうのことを云ってるだけさ。なあ、杉ちゃん」
「ま、どうですかね」
「第一おれはむしろほめたつもりなんだぜ。彼、悪人て云われると、得意なんだから」
「どうだっていいやそんなこと。──杉田さん、センセに挨拶して、帰っていいんでしょう」
「ああ、じゃおれも行くよ」
一行はどやどやと大道具を片付けているステージの裏を横切ってみゆきの楽屋の方へ行った。五日間のリサイタルはあと二日ではじまる。町じゅうに、「恒例・白井みゆきリサイタル、ゲスト、今西良」と、その下に張っても張っても持っていかれるが、ファンが悲鳴をあげたとかと新聞種になったいわくつきの写真をあしらったポスターが張られていた。
それは、例の衣装で、青白い光に照らされて美しい死の彫像のようによこたわる良の頭を右手に支え、白井みゆきが接吻しようと唇を近づけている、という図柄である。
前評判は大変で、『裏切りのテーマ』が順調にトップを保っていることもあって前売券はほとんど二、三日で売り切れた。もっとも白井みゆきのリサイタルといえばいつも必ず立見まで売り切れときまってはいるのだ。みゆきは機嫌がよかった。
「あら、山下先生もいらしてたんですの? 秘蔵弟子の出来を見に? 秘蔵っ子を、あたしみたいなおバアちゃんが苛めてやしないかって監視にいらしたんでしょう。いやーねえ」
「とんでもない、みゆきちゃんが山下は何のレッスンしてたんだろうってがっかりしてないかと思いましてね」
「あら、そんなこと──良ちゃんに失礼よオ、あたしすっかりもう惚れこんでるのよ。ねえ、先生、良ちゃんて素晴しい素質あるわね。断然光ってるわ」
「そう云っていただくと」
山下は顔をほころばせた。
「いよいよあと二日ですなあ」
「何年やっても、どきどきするわあ。でも良ちゃんてとても舞台度胸があるのね、ふだんははにかんでばかりのくせに、ステージに立つと実に堂々たるもんよ」
みゆきがいつくしむように云うと、良は困ったようにほほえんだ。こちらではみゆきのマネージャーをつとめる石田女史と杉田が打合せをぼそぼそやっている。
「おねえさん」
佐伯が傍若無人に首を出した。
「何してんの、待ってるのに──あ、良ちゃん、山下先生もか」
「真ちゃんと素敵なブルガリア・レストランあるから行こうって約束したのよね」
みゆきは顔をほころばせた。
「ねえ山下先生、良ちゃんて少し過保護なのよ。滝さんがいないと早くおうちに帰ることばっかり。一緒にいらっしゃいって云ったら、だってとかでもとかってもじもじしてさ──ねえ、取って食うなんて云いやしまいし。ところでよろしかったら先生も、どうお? 良ちゃんだって先生がご一緒なら──ほらあの困った顔。どうでしょうねえ」
「このコ人見知りがぬけないんですよ」
杉田が笑った。
「滝さんが何でもやってくれちまうもんでねえ」
「まあいいじゃないの、苛めなさんなよ」
佐伯がみゆきの肩を愛撫するように叩いた。
「未成年に夜遊びすすめちゃいけないもんね。なあ、良ちゃん」
にやにやとすれっからしな態度で、良の方に近づいて、手をのばすと、良がびくりとした。からかうようにその頬を撫でる。良が憤慨して真赤になり、山下がひそかにおもしろくない目をむける。
「このコうぶだもんね──ねえ、おれこの坊や好きさ、可愛くって」
「真ちゃんてば」
みゆきが派手に笑った。
「あんたったら良ちゃん可愛がってるの。どっちよ。可哀そうに、困ってるじゃないの」
みゆきがふわりと立ちあがると、まわりをかこんでいる、石田女史から付人たち、化粧係に衣装係にアシスタントにデザイナーにと、まだ良が全部の顔も覚えきっていない一連隊があわてて動いた。
「ねえ、じゃ無理にと云わないけど、また滝さんがいるときにね。そんならいいんですものね、良ちゃん」
良が赤くなりながらこっくりする。いかにも、みゆきが嫌いなのではなくて恥ずかしくてたまらぬだけなのだと、見ているものにはっきり伝わるような表情をつくっていた。
みゆきはさも可愛いように良を見たが、佐伯にうながされると、小さなバッグだけとって歩き出した。良たちの方もひきあげにかかる。
「お疲れさん」
「おさきに」
「じゃまた明日十二時半」
「どうも、お疲れ様」
「よろしくね」
裏方たち、楽器を片付けてやはり帰るところのバンドの連中──みゆきはさる有名なフルバンドのバン・マスと仲がよくて、リサイタルは必ずそのバンドがバックにつくのだった──から、ホールの管理人にまで、鷹揚に挨拶に応えてことばを投げてゆくみゆきの小柄なからだは実に女王の貫禄充分に見える。熱心なファンが少し待っていたのへも愛想よくほほえみかける。
「女王様ご還御の図だな」
杉田があきれたように呟いた。渡辺が手をふって良たちに合図する。
「どうするの、ジョニー」
杉田がきいた。山下が哀願するような目つきをする。
「うん」
良は指の節を無意識にかみながらちょっと迷った。良を、良のことばを待っている、そのとおりにするだろう人びとがかこんでいる。
みゆきにくらべればまだスケールがちがうにせよ、小さな帝国はすでに姿をあらわしていた。このごろの良はいつでも、良を崇拝し、良のために働いている、良を甘やかす人びとに取り巻かれているのだ。
そして、それは、良の性質には決してふさわしくないものではなかったにもかかわらず、時として良はそのことがひどくつまらないような、面倒なような表情になるのだった。時として──つまりは、滝が良の近くにいないときである。
滝が良のための仕事でとはいえ良とはなれていると、それがあまり長くつづくと、しばしば良は目に見えて物足りなさそうになった。そんなときの良は山下や渡辺や清、おとなしい杉田サブマネやそのほかのスタッフが煩わしいばかりのものに思えるらしい。
「うん──じゃつきあうよ」
良はようやく云って、肩をすくめた。
「でもあんまり遅くまではイヤだよ」
「わかってるって」
「じゃ僕らは帰るよ、良ちゃん」
杉田が山下のたちまち輝きだした顔から目をそらしながら云った。
「あんまり夜ふかししちゃ駄目だよ、僕たちが滝さんに叱られるから」
「大丈夫だって、おれがちゃんと気をつけてるから」
「じゃお疲れさん」
「じゃ、車ガレージにまわしとくからね」
と渡辺が云った。
「明日また時間に行くから」
「うん、じゃ、ね」
良は山下の車に乗りこみ、杉田たちは何となく肩をすくめて、走り去る車を見送り、それぞれの行動にかかった。清と渡辺が妙にすっきりしない顔でちらちらと目を見かわす。暗い、劇場の駐車場から一台、一台車が減っていった。
「やっと、二人きりになれた」
山下は嘆息して云った。良は肩をすくめている。
「だんだん、スタッフがふえてさ──このごろじゃ、二人きりになるのに大苦労なんだからいやになっちまうよ」
「じゃ二人きりになんなきゃいいよ」
「おい、苛めるなよ、わかってるくせに」
それでも人前では、山下も良もいくらかは、作曲家とその手がけた歌手、というだけの態度や礼儀を保っていたが、二人きりになるなり、まったく対等、というよりはむしろ良の方が優位にかわっている。良は高慢な表情で山下を見た。
「どこ行くのよ」
「何でも──良のいいようでいいよ。そうだ、忘れてた、良、ちょっとおれのポケットをさがしてごらん」
「何よ」
良は面倒くさそうに山下の上着のポケットに手を入れた。小さな平たい箱をひっぱり出して、ちらりと山下を見る。
細い指が敏捷に動いて、急いで紙を破き、緑色の箱をあけると、美しいペンダントが出てきた。金の細い鎖の先に、金の花弁に包まれたピンクがかった真珠がついている。良の目が輝いた。
「気に入ったかい」
「うん」
良の声が弾んでいる。山下はひどく嬉しそうだった。
「してごらん」
車はちょうど外苑のまわりをまわって、原宿の方へ出ようとするところである。静かな道路わきに車をとめ、山下はペンダントをとって、良のうなじの柔らかく渦巻いた髪をかきわけ、それをとめてやった。ついでにその首筋にそっと唇をつける。
「くすぐったいよ」
良は頭をふって怒ったように云った。
「よしてよ、こんなところで」
「似合うよ、良、見てごらん」
手を上にのばして、ミラーの位置をかえ、車内のランプをつけてやると、良は熱心に、それが咽喉のくぼみにまといついている具合を見た。
「もうひとつのボタン外した方がいいかな」
細い指で、シャツのボタンをいじりまわしている。
「よせよ──良の胸は、挑発的でいけないよ」
「どうしてよ。──これじゃ見えないでしょう」
「ちゃんと見えるよ。鎖がちらっと光るぐらいでいいんだよ」
「ふーん、これ、きれいだね。気に入ったよ」
「よかったよ、気に入ってくれて」
山下は恨めしそうに云った。
「でなかったら、またこないだのブレスレットみたいに、取りかえにいかなきゃならんとこだ」
「またかくしとかなくちゃ」
良は動き出した車の中で、しきりにペンダントを気にしながら云った。
「こないだのブレスレットのこと云ったばっかりだから、また怒られちゃう」
「滝のことなんか気にすることないじゃないか」
「だって」
「あいつ、ずいぶん良に威張ってるんだな。あいつと一緒に住むことなんかないだろうに──いつも云ってるじゃないか、おれが素敵なマンションさがしてやるって」
「ぼくあのうち好きなんだもの」
「あんなうるさ型の、がみがみ屋の、わるい奴──」
「そんなふうに云わないでよ」
「なあ、良は義理を立てなくちゃいかんと思ってるのかもしれないけど」
山下は云った。
「そりゃさ、あいつは切れ者なのは認めるよ。たいへんなやり手だし、目はたしかなもんだ。だけどさ、良、良なら仮に滝でなくたってスターになれるに決まってるんだし、それに反対に、あいつが切れ者だからこそマイナスってこともあるんだよ。滝俊介ってきいただけでみんなはほんとにやにやしてさ。いくら爆発的ヒットでも、ああ、なるほど滝さんですなってぐらいなもんで──せっかく白井みゆきに抜擢されても、野郎いったいどのぐらい実弾を積みやがったかなってだけで、誰も良の実力だと思ってくれないんだ」
「それで?」
「それでって──だから何も、そうそう滝に忠実に恩を感じてなくってもいいじゃないかってことさ」
「そんなのぼくどうだっていいんだもの」
良は眉をよせた。
「どこ行くのよ」
「おれのうちだよ──かまわんだろ、腹へってないって云ってたろ?」
「まあね」
「あとで、何でも好きなもん食いにつれてくからさ。それで送ってやるから」
山下は吐息して話を戻した。
「おれには、わからんよ。なあ、良って野心とか、うまくやろうとかって気持全然ないんだものな」
「ぼくはほんとに、どうだっていいんだよ」
良は面倒くさそうに云った。
「滝さんがきっといいようにしてくれるから」
「な、良──そんなに、あいつのこと好きなのか」
「また」
うるさそうに舌打ちする。
「またそのこと──ねえ、先生、好きも嫌いも関係ないじゃない。ぼくは滝さんの作品なんだよ。作品に、作った人を好きも嫌いもないよ。第一、知りたきゃいうけど、ぼくあの人と寝てなんかないよ」
「それは、わかってるさ」
山下は当惑したように云った。
「あいつはミミちゃんとずっとつづいてるっていうものな──正直云って、おれも、滝のこととなると、何て云っていいのか、よくわからないのさ。あいつ──わからんね、変ってるよ」
「ねえ、ほんとに、花村ミミとそんなにしょっちゅう会ってるの──前云ってたね、帰って来ないのは三分の一はそれだって」
「そんなに会議があるもんかって話だろ。ほんとうだっていうのに──これは知りあいのルポ・ライターが云ってたんで、おれじゃないぜ」
山下は念を押した。
「あいつ、滝って、すごいんだってな」
「何よ」
良の眉が曇る。
「あっちがさ──花村ミミってのが、評判のプレイガールで、ちょいと並の男じゃ太刀打できないセックス・マシンなんだとさ──別れた檜山健二が云ってたんだっていうからたしかだろ。それを、滝俊介だけだとさ、降伏して、音《ね》をあげさすのは。ちょっと目には、やさ男のくせにな」
「いやなこと、云うんだな」
良はいまわしそうにひどく顔をしかめた。
「それにいやな奴だな、別れた女のことさかなにするなんて、いやらしい男だ」
「あいつは、くだらん男だよ、檜山健二はね」
山下はあわてたように同意した。
「だから──良とあいつは、何にもないだろうってのは、わかるんだけどね──そんな、すごいおひとの相手が、良みたいなきゃしゃな子につとまるわけがないし」
「いやらしいこと云わないでよ」
良は怒って耳まで赤くなった。
「そういうところが、いやだよ、ぼくは、先生が」
「おい、良」
山下はなさけない声を出した。
「そんなこと云うなよ」
「だって……」
良の目が光っていた。うろたえぎみに山下は口をつぐみ、まもなく車が彼の家のガレージにすべりこむまで、それ以上この物騒な話題を避けた。
「良──まだ怒ってるのか」
うしろ手に玄関をしめるかしめないかに、ほっそりしたからだをひきよせて囁く。
「またそんなこと、怒ってなんかいないじゃないか。すぐそんなふうに云うんだね」
「わるかったよ。だって、おれは、どうしていいかわかんないからだよ──なあ、良」
唇をおおってくる、あつい唇を、良はいくぶん眉をよせて耐え、ペンダントの代償だ、とちらりと考えた。
ちょっと意地になってぐっと唇を結び、割ってくる舌を拒もうとしたが、再びぐいと眉をひそめて目をとじ、なすにまかせる。
山下の呼吸が激しく荒くなっていた。手をのばして、シャツのボタンをはずしながら、奥の寝室へかかえこむ。
「怒らないでくれよ。おれは、良にそんなふうに云われると、どうしていいのかわからなくなるんだよ。なんでも、してやってるじゃないか──なんだって、云うことをきいてるじゃないか──良──苛めるなよ」
良は激しく苛立ったが、何も云わずに、ベッドの上に押し倒されるままになった。山下の手がその肩と、細い手首をつかんで、良の上体をはりつけにする。少女のような、ほの紅い乳首がはっとするほどなまめかしい、肉の薄い美しい胸に、熱い目がくぎづけになった。息を呑んで見つめた男のからだが、激しくそのままおおいかぶさって、その胸に唇を這わせる。
「可愛いよ──可愛くて可愛くて、どうしていいかわからない──綺麗だ。すごくきれいだよ」
もどかしく服をぬぎすてて、山下は良のからだを下に敷きこんだ。良は目をとじて、山下の顔を見まいとした。かすかに眉根が寄っている。男の執拗な愛撫がからだじゅうをむさぼりまわる長い時間を、良はほとんど身じろぎもせずに耐えた。山下は、熱い呼吸で、惑溺のことばを囁きつづける。良が美しいが凍った人形のように、山下の愛撫の下に冷たいからだをよこたえていればいるほど、山下は躍起になり、夢中になってゆくようだった。
「良──ああ、良──」
良はそっと薄目を開いて、山下のようすをうかがい、そしてびくりとして身をひいた。山下の手がしつこく追い求めて来、良の腰にまわる。山下は良に受け入れる姿勢をとらせようとしていた。
「いやだよ」
良はするどく叫んだ。
「そんなことしないで」
「お願いだ、良──いいだろ、ひどくしないから……な、なんでも買ってやるから──」
「いやだったら、やめてよ」
良は激しく身をもがいて、山下を押しのけようとした。
「そんなことしないって約束したじゃないか──ぼくいやだ、いたいのは」
「そっとやるから──」
「云うこときいてくれないんなら、もう先生のうちなんか、来ないから──」
「苛めるなよ」
弱々しく山下は云い、降参して、良を抱きしめた。
「わかったよ──そんなことはしないから──良がいなくちゃ、おれは──知ってるくせに、そんな残酷なことを云うなよ──」
山下は呻くように云った。
「畜生──わるい奴だ。悪魔みたいな奴だぞ、良は──おれをこんなにしちまって、どうしろって云うんだ? 一体、どうしておれはこんなに、良がいなけりゃ生きていけないみたいにされちまったんだ──」
激しく、少年の髪をまさぐり、髪をつかんで、その頭を下へ押しつける。
「なら、いやなことはしないから──な?」
良の眉がきつく寄っていた。固く目をつぶり、吐気をこらえた。やがて、山下の呼吸が耐えがたいように荒くなり、夢中で少年の頭を抱きしめた。
「良──可愛いよ……」
いとしそうに、唇をもとめる。良はなかば目を伏せて、かすかに喘ぎながら抱きよせられた。
「誰にもやりたくない──誰にも、さわらせたくないんだよ、良──おれの宝物だよ……」
可愛くてならないように男の手が髪をまさぐり、頬を撫でさすり、なめらかな背中にまわる。いくらかおちついて、山下はしみじみと少年の掌につつみこめるような、彫《きざ》んだように美しい目鼻立ちを見入っていた。どれだけ見ても充分ではないかのようだ。
「あの婆あ」
山下は低く云った。
「白井みゆきの婆あさ──良に、色目を使いやがって」
「そんな」
良はむせた。
「そんなことないでしょう」
「おれにはわかるんだ。あの婆あ、もう良に目をつけてやがる。ゆっくりとって食おうって腹なんだ」
「興味、ない、ぼくあんな年寄り」
「当り前だ、良が勿体なさすぎるよ」
「第一あのひと佐伯さんがいるもの」
「あいつか」
山下の目が暗く翳った。
「あいつも、気をつけなくちゃ駄目だよ、良」
「なんでよ」
今度は良はくすっと笑いだした。
「あいつの目つきも怪しいもんだ──お前の頬にさわったりしやがって、馴れ馴れしい奴だ」
「あのひと誰にでも馴れ馴れしいんだよ」
「これはまじめな話だけどさ」
「何よ」
「あのキヨちゃんて付人さ──松村か、あいつ、取りかえるわけにいかんのか」
「こんどは、どうして」
「あの目つきが気に入らないよ。陰にこもってる。良のこと、世話を焼くときの目が──参ってる目だよ。ああいう粘液質みたいな奴は嫌いだよ」
「先生ったら、誰かれかまわず嫉くんだね」
良は声を立てて笑った。
「それじゃぼくの近くにいる人みんなぼくを狙ってるみたいじゃないか」
「良はきれいすぎるんだよ」
山下は大真面目だった。
「そうに決まってる──おれにはわかるんだよ、じっと見てるだけで、へんになってきちまうんだから──欲しくて欲しくて、たまらなくなっちまうんだから。ああ、良──できたら、おれは、もうお前をこのうちに、この戸棚の中かなんかにかくしちまって、もう誰にも見せてやりたくない、わけてやりたくない、おれだけのものにして、誰の目でも良を見たりして汚せないようにしちまいたいよ。いっそ、殺して、そこの金庫にしまっておこうか」
山下の指が本気半分というようすで、良のほっそりした首にからみつく。ぐっと力を加えると、良は怒って払いのけようとした。
「殺すよ……」
山下は指をはなさない。良は喘いで激しく押しのけた。
「やめてよ。いやだよ。そんな冗談、嫌いだ」
「良……」
「よくない冗談だよ。ぼくすごくいやなんだ、そんなの我慢できないよ」
「もうしないよ、良」
「そんな、力ずくでひとを自由にしたり、誰にもやりたくないから殺しちまうなんて──そんなの、大嫌いだ。エゴイズムだよ。やられる方は、たまんないよ」
「わるかったってば」
「先生だって誰だって、もし本気出してぼくにひどいことをしようとしても、ぼくは敵わないんだもの。やられちゃうほかないんだ──そんなの、我慢できないよ」
「何にも、しなかったじゃないか。おれは、いつだって良の云いなりだよ──知ってるくせに」
「先生は、ね。ぼく、だから先生好きだよ」
からかうように良は云った。
「やさしいから」
「な、良──誰かお前を苛める奴がいるんなら、いつでも云うんだよ。おれが、守ってやるよ、何もひどいことなんかさせないよ。いつだって、何だって云うとおりにしてやるよ」
「人、殺せって云ったら?」
「殺すさ」
「死ねっていったら?」
「良のためなら、いつ死んだってかまやしないさ」
(口ばっかり……)
良の目がからかうように大きくなって、そう云っていた。
(そんなのに、乗るもんか……)
「良──なんて可愛いんだ。おれは──もう駄目だ、お前のことっきり考えられないよ。仕事してても、どこにいても──良のことを考えると……ああ、いつもそばにいたいよ。誰も、苛めないように、見ていてやりたい──どうして、お前はこんなにおれを狂わしちまったんだ……わるい奴だ……」
また山下の手が良のからだをひきよせ、重いからだが乗りかかってくる。
「何時」
突然良が苛立って云った。山下は壁の時計を見た。
「まだ九時すぎだよ、良」
(滝さん帰って来てるかもしれない──)
良は遠くを見るような目つきをした。花村ミミの都会的な美貌や、細いがよく発達した肢体が滝の、見かけよりずっと逞しい筋肉質のからだにからみついている光景が目にうかび、ふいにひどく眉をしかめる。
母親の情事をいとわしく思う子供のような表情になっていた。肩から咽喉へ、胸へ、執拗に這いまわる山下の唇など、意識もしていなかった。
良は不快そうに唇をかんだ。
(ちぇっ、知るもんか)
良は心中に呟き、いい加減に山下の太い胴に冷んやりした手をまわして、目をとじた。珍しい良の反応に有頂天になって山下は砕けよと抱きすくめてくる。しだいにまた荒い息づかいが大きくなる寝室の中で、良は目をつぶって、ふたたび長い時間を耐えようとしていた。
*  *
「遅かったな」
滝の声はとがっていた。
「ごめん」
「何時だと思ってる。一時半だぞ」
「ごめんってば」
「おれが目をはなすと、すぐそれだ」
滝は付人の渡辺から、良が山下の家に行ったときいていた。毎日、彼は良の行動をのこらず報告するのだ。
「まあ、いいさ」
滝は、急にしょげてしまった良を見て、舌打ちした。
「また、山下か」
「うん」
「仕様がないな、まったく」
肩をすくめて、放免する。
「早く風呂入って来い。わかしてあるよ──もういいから早く寝ろ。明日早いんだろう」
「うん」
「まったく、いくら若いからって、いい気になって夜ふかしばかりしてたら、肌は荒れるし目はにごるし、ろくなことにならんのだぞ。わかってるのか」
「わかってる」
「おれから山下に文句を云っとくよ」
「どうぞ」
その方がありがたいとばかり良は舌を出し、そしてベルトをひきぬきながら風呂の方へ行った。
良が帰ってくるまで、ヘッドフォンでミンガスをききながらスケジュール調整をたしかめていた滝は、プレーヤーを切り、ヘッドフォンを取り、パジャマ姿で立ちあがった。
良が乱雑にぬぎすてたものを片づけてやろうと、手をのばして、ふいに眉をよせる。何かのきらめきが目を射た。木綿のシャツをふると、掌に美しい真珠のペンダントが落ちた。
(またか)
たびたびのことで、もう注意するのも面倒になっているが、しかしこんなことがろくな結果を生むはずがない、とは確信していた。
「おい、良」
声を荒らげまいと自分をおさえながら、風呂の戸をあけると、むっと湯気が立ちのぼる中で、やけのようにからだじゅうを泡だらけにしてこすっていた良が急にうろたえて胸を押さえた。山下の接吻がいくつも痕をつけていたのだ。
(あの野郎、覚えてろ)
あわてて湯舟に沈みながら良は山下を罵った。
「何よ」
「何だこれは」
「──山下先生」
「それはわかってるよ。ちゃんと報告しろ、怒りゃしないから、とにかくおれに云えと云ったろう」
「だって今日貰ったばっかりでさ──云うひまないじゃないの。云おうと思ってたよ」
嘘つきめ、と滝の目が云っているのを、良はちゃんと知っていた。滝も、良が知っているのは承知の上だ。
「仕様がないな、ほんとにおれからきつく云うぞ」
「そうしてよ。ぼくだって、くれないからって困るわけじゃないもん」
「よし──リハはどうだった?」
「うん、まあまあ。滝さん何時ごろ帰ったの」
「何時でもいいだろう──十時半だよ」
「何してたのよ」
「仕事だよ──おい、良」
滝は怒ったような声を出したが、自制した。
「いいかげんに上らないのか。のぼせやしないか」
「だって……」
ふいに良は耳まで赤くなった。
「そんなとこで見てるんだもの」
「ばか」
滝はにわかに自分の頬もかっとなるのを覚えた。もう、鋭い目でとっくに良の逡巡の原因が、どきりとするくらいエロティックにその胸にしるされた接吻のあとであるのには気づいていたが、急に羞恥のほてりを感じ、うろたえて足音荒く寝室へ戻った。
良の奴、だんだん手におえなくなる、とベッドに大の字になってふいに湧いた羞恥と欲情のいりまじった昂ぶりをごまかそうとする。少ししてパジャマをきて出てきたときには、もう良の方はけろりとしていた。
「寝るとき電気消せよ」
「うん」
「風呂、元栓しめてきたか」
「しめたよ」
「明日は八時起きだぞ」
「わかってる」
布団にもぐりこみながら、急に良は甘えた声を出した。
「あしたは滝さん一緒でしょ」
「たぶんな──何でだ、杉がみんなこころえてるからいいじゃないか」
「だってさ……」
「おれは忙しいんだよ。いま、いろいろと話がかかっててさ。なあ、良、そのうちに、こんどの出来しだいだが、LPが出せるかもしらんぞ」
「ほんと!」
「それに佐野チャンはそろそろ次を心配しないとって云ってるし──それからな、良」
滝の声の調子がふいに変った。良はスイッチをひねろうとした手をとめて滝を見た。
「電気消せよ」
良はスイッチをひねり、布団をひきあげた。暗がりの中で、滝はゆっくり云った。
「お前に約束したの覚えてるだろう」
「何よ、真珠?」
良は急に弾んだ声になった。
「トップをとったら買ってくれるって──もうこれで一カ月近くトップじゃないか。ぼくもうちゃんと山下先生の真珠かえしたよ」
「そうか、思ったより素直なんだな」
滝は笑った。
「よし、こんどの休みに連れてっていいのを選ばしてやるよ。トップのご褒美だし──マルスのスタッフが、ミリオン出したら記念パーティーだって云ってるから、そのときつけるといい──だが、それじゃなく……ブラッドのことだよ、良」
良はびっくりした。忘れかけていた悪夢のような記憶がふいにつきつけられたのだ。
「滝さん──」
良の声がかすれた。
「おれが、お前にしてくれたことのつけはとってやるって云ったろう。──もうすぐ、落し前をつけられるから、もうお前は何もこわがらんでいいぞ」
「落し前って──」
「あいつらを芸能界から追ってやるのさ。あいつらは、お前にだけでなく、瞳ナナだの美村由美だの、葉月次郎を殴って片目失明寸前にしてるし、ヤクまでやるって話で、その気でほじくればいくらでも出てくるのさ。ただこれまではマカベがもみけしてたし、北辰連合もついてるんで泣き寝入りがほとんどだったが──フリーのルポライターの竹内に話をつけたから、派手にやられるぞ。警察沙汰にもなる。やっと、ファンの姦《や》られたコを説得して告訴に踏みきらせる段取りになったからな。いくら奴らでも、もう駄目だ。──良、もう心配しなくていいぞ」
良は息を呑んだ。しばらく黙りこんでいたが、やがて低い声で云った。
「──あなたって、こわいんだね」
「いずれ誰かがやったさ」
滝は闇の中に、低い笑い声を立てた。
「お前だって、仕返ししたいだろう。連中をつぶせばマカベにも痛手だ。帳尻はあわせるさ。おれがついてるかぎり、お前に指一本ささせんてところを見せてやるよ」
良は黙っていた。低い息づかいがきこえている。
「良──眠ったのか」
「──滝さんはぼくをはなれないね」
良の声はかすかに震えていた。
「何を云いだすんだ、いきなり」
「約束してよ。──ぼくを嫌いにならないで」
「何を云ってるんだ」
滝は暗いままベッドからすべりおりて、良の布団をさぐり、その手をつかみとった。
「また駄々をこねる気か」
「ぼくこわいんだ──滝さんがこわい。ぼくがどうなっちゃうのかこわい。滝さんがいてくれれば──だけど……」
「どうしたんだ、良、何かあったのか」
「何もない」
良は身を起こして、いきなり滝の胸にしがみついた。滝は激しい思いでほっそりしたからだを抱きとめた。
「ぼくの敵にならないで。ぼくにひどいこと、しないでね」
「しやしないよ、良……」
滝は、頼りない濡れそぼった仔猫を抱きしめているような気がした。良をつかんでいる不可解な不安な昂ぶりが、何となく、抱いている良のからだから伝わってくるように感じられる。
良の見ているものを滝も見た。それは、滝が良を連れ去り、海の近い下町のスナックからはてしなくいざなってきて投げこんだ、まっくらな、さまざまなおそろしい怪しいものに満ちたどろどろした深淵だった。
百鬼夜行の、そのぶきみな場所を、おのれの棲家とし、そこを楽々と泳ぎまわり、そこですら滝俊介の名を囁かれる彼であってみれば、彼もまたこの良を恐怖させる気味のわるい生物のひとつにほかならなかったが、それでも良は滝を信じ、滝だけにすがっているほかはないのだった。
ふいに滝は自分ではっとするほどの激しさで、良は子供なのだ、生意気でも、小悪魔のようでも、まだほんの少年にすぎないのだ、と感じ、良を抱く手に力をこめた。
この子には庇護者が要るのだ。ほんとうならまだ友達と学校で勉強したり、野球でもして、親の愛をうけてまどろんでいるはずなのに、良は大人──それも芸能界というくらい沼地にうごめいているような大人の男たち、女たちの中に投げこまれ、その欲望にさらされ、その打算に動かされ、華やかな生き人形としていじりまわされているのだ。
そして、良をそこへ連れこんだのは滝で、それゆえ良は滝を恨んですらいいはずだったのに、そうはせずただひたすら、自分を売り、自分を人形に仕立てあげた当の滝に頼り、よりすがっていようとするのである。
滝の胸に、つきあげるようないとおしさがあふれてきた。どうしてでも、良を見すてはしない、はなしはしない、それどころか、良のためにならどんなことでもするのだと、だからこそたぶん人がきけば再び彼を悪党と、非情な鬼と罵るような汚ない手を使って──実のところ、滝はブラッドのメンバーと寝たズベ公を、買収して強姦されたと告訴させるよう暗躍したのだった──良を傷つけた青年たちをおとしいれようと画策していたのだ。それを良に告げたかった。
だが、滝は何も云わなかった。いや、云えなかったのだ。滝は、すでに良を知りつくしたと思っていた。良を怯えさせたのが、ことさら滝の力や手口というよりは、むしろ人がひとに向ける力、そのものであることがわかっていたのだ。
「もう──寝ろよ。明日八時だぞ」
いとしさをこらえて、滝は囁き、良の髪を撫でた。そっと身をひこうとすると、良はしがみついてきた。
「こわくないよ。何もこわくない──おれは、いつもお前を守ってるじゃないか──もうおやすみ、わかったよ、こうしててやるから」
滝は囁いて、良のベッドにすべりこみ、がんぜない子供にするように肩を抱きよせた。そうしてやるほかに、彼の感じているいたいほどの、胸のつぶれるようないとおしさ、可愛さをどう伝えようすべもなかった。
滝は、ブラッドのやくざどもに良が手ひどく傷つけられて長崎のホテルにのこされたとき、熱にうかされて、たえまなしに襲いかかってくる黒い悪魔の幻影にうなされるたびに、こうして抱きしめてやるといくらか安心して眠ったこと、そうしていてやるほかにどうするすべもない無力な苦悩をかみしめながらも、ふしぎな安らかな、甘い悲しみに似た静謐にとらえられていた彼自身の心を思い出した。
明日は良を誰かいやらしい実力者か、雌豚にでも、売るかもしれない彼だ。だがそうしながらも彼は良のためになら死ねるのだった。
安心したらしくやがて眠った良を抱いたまま、ひとの心のふしぎさと、これほどひとを求め愛していることのかなしさに打たれて、滝は長いあいだ暗がりにひとり目を見開いていた。そんな思いの長くはつづかぬことを、所詮そんな思いもまたひとときの小休止に似た瞬間にすぎぬことを、また滝はよく知ってはいたのだったが。
*  *
明けて二日後には、良の試金石となるべき、白井みゆきリサイタルの本番が幕明けだった。開演の何時間も前から、みゆきのファン、良のファンがぎっしりと会場の日東劇場のまわりを取り巻いて長蛇の列をつくり、新聞雑誌からテレビ局の芸能関係のレポーターまでが楽屋や客席に押しかけた。
これで七年恒例になっているみゆきのリサイタルは、みゆきの強い主張でファンの熱望にもかかわらず、それ以上だとだれてくるというので一週間しかやらぬこともあって、切符は早くから売り切れ、プレミアムがつくという、上半期のさいごを飾る芸能界のビッグ・イベントになっている。
「今年はジョニーの話題もあるから、えらい騒ぎだ」
素晴しいタキシード姿で花を衿につけ、客席のようすを見ては報告にきていた結城が云っていった。良の出るのは第二部と、第三部に少しである。
みゆきがその何百年に一度と絶讃された声で、よく知られたジャズのナンバーをメドレーで歌っているのが、凄いボリュームでひびいてくる楽屋で、良の取巻連は出の支度にてんやわんやだった。三つ揃を着こんで巨大な花束をかかえてきた山下がうろうろとかけまわっている。
「あがってる、良くん?──大丈夫そうだな、いい目をしてる」
結城が長身をかしげるようにして、冷やかに見かえした良をのぞきこんで微笑した。
良は化粧し、純白の衣装で、息がとまるほど美しかった。良のまわりだけがまばゆく光って見えるのだ。
滝は良の出来はちっとも心配していなかった。彼は良の星を信じている。良には、人をひきこみ、陶酔させる魔力が生来備わっているようで、それがみゆきにくらべればいかにひいき目に見てもうまいとは云えなくても、そんなことは苦にならぬように思わせて客をひきつけてしまうのだった。
それは、リハーサルを見た、目の肥えたうるさがた達が、結城も含めて、一様に認めたことである。おちついているようだ、これなら大丈夫だ、と滝は思った。
ひっきりなしに人の出入りするざわざわとあわただしい楽屋の中で、良はもう百回もリサイタルをやったという顔ですまして鏡をのぞいている。付人やスタッフの方が緊張しているようですらあった。
「さあ、『ミスティー』がはじまったから、次で幕だぜ。ジョニーの出番だよ」
結城が力づけるように云った。結城に反感をもっている良は大きなお世話だとばかりそっぽをむいて清にドーランがはげていないかと騒ぎたて、滝をひやひやさせたが、結城は大人らしく笑っていた。
「きれいだよ、良ちゃん」
「じゃ幕ですぐ大道具入りますから、そろそろ袖へ行って待機してて下さい」
「さあ、出だぞ」
「がんばれよ、良」
山下が昂奮して云った。
「何でも、好きなもの買ったげよう、よくできたらご褒美にさ」
「おや、いいねえ」
結城がにやりとし、滝が山下に苦い顔をし、良は怒ったように結城をにらんだ。
「じゃしっかりな」
渡辺が良の額をガーゼでふいてやり、さいごの出来ばえをあらためて見た。
「うん、すごくきれいだ」
「さあ、行った行った」
「おわるぞ、『ミスティー』」
と滝が注意した。
良はくどくどと激励をつづける山下を無視して、滝を見た。滝はやさしくうなずいて見せた。
「ていねいに歌うんだよ。おちついて、心をこめてね」
滝はいつも必ず云うことばを云った。彼はそれが歌のすべてといっていいのだと信じている。
滝のその云い方には何か心をおちつかせるものがあるらしく、滝の手がけた歌手はみなそれを嬉しがる。良も、滝がそう云うとそんな気になるのだといって、それをきかないと立ちあがらない。
目で笑って、ゆっくりと良は楽屋を出た。あとは、もう、ひとりだ。滝にも力は貸してやれない。ひとりでやるしかない舞台の上である。
滝たちの目が良のほっそりした姿を追う。第一部のさいごのナンバーがおわったらしく、さかんな拍手が潮のようにひびいてきた。
「あと頼むよ杉」
「オーケイ」
「じゃ、私はちょっと客席からきいて具合をみてみましょう」
滝は結城にとも、山下にともつかず云った。結城はもうすらりとした長身をひるがえして、楽屋を出るところだった。
「僕も行こう」
山下があわててついて来る。結城が誰か知りあいらしい女につかまって挨拶しているのをよけて楽屋わきのドアから出、ざわついている客席に入り、灯がついたばかりでぎっしりの、熱気のむんむんするホールを見わたした。
良の後援会の有閑夫人連が滝に声をかけるのへ頭をさげ、こちらの芸能記者に笑いかけ、しきりに気をつかっている彼を山下は感心したように眺めた。
「たいへんだねえ、滝さんも」
「いえ、もう馴れてますから──ああ、先生、そういえば、あれですな、先日は、また良に分不相応ないただき物をしまして」
「あ、あんなもの」
山下は手をふった。
「気にしないでよ。ほんの安物だし──おれが、押しつけたんだ。リサイタルの前祝もあるし、ねえ、ほんの気持だよ」
「いつもいつも、どうも──どうぞもう、あまり甘やかさんでやって下さい、あれはまだ子供で、あんな結構なものがふさわしい年じゃありませんし」
「そんなこたあないって、あんたは、良ちゃんにきびしすぎるよ。あんなにきれいで何しても似合うんだし──」
「先生、こうおききしたってのは、良には云わんでおいていただきたいのですが」
滝は鋭い目で山下を見ながら云った。
「良の奴、いつかいただいた真珠のネックレス、おかえししましたかね」
「いや、どうして?」
山下は眉をよせて滝を見かえした。
「別に何も──あれは良にあげたんだよ。かえされたりしたら、おれだって気持がわるいよ」
「おかえしする──と云いもしませんでしたか」
「別に──どうかしたの」
「いや、どうってことじゃないんですがね、ちょっとお訊ねしただけで」
そんなことはわかっていたさ、と滝は苦笑した。最前列にいた顔見知りの芸能記者に手をふって、そちらへ行こうとしたとき、ベルが鳴った。
第二部の開幕である。
場内が暗くなり、照明なしで幕があがり、クラシック音楽を思わせる静かなイントロの奏される中で細いライトがさっとのびて、舞台の中央にうずくまる純白なものを照らし出したとたんに、狂ったような「良ちゃーん」「ジョニーっ」の絶叫と喚声が湧いた。ライトが左からもついて、交錯しながら、ゆっくりと身を起こす良の姿がうかびあがらせる。
一羽の白鳥のように、良は暗い舞台の底にいくぶん手をひろげるようにして立っていた。背景は抽象化された岩山と白いギリシャ式円柱、そのあいだにうかぶ銀色の月──歓声が嘘のようにしずまり、歌いはじめた良の甘いかすれ声のバラードがホールを満した。
滝は山下の存在を忘れた。世界すら忘れた。光の中の良、純白な良、歌う良、良だけだ。まだ稚い、しかし確実に何かをひそめた声と、光の精のような姿が、あらわれた瞬間からしっかりと客をとらえていた。
滝の唇に無意識にかすかな勝利の微笑がうかんできた。良の成功は、もう決まっていた。
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「滝さん」
マルス・レコードの、完成したばかりの本社の新しいビルだった。滝はふりむき、そして山下国夫を見た。
「やあ、どうも」
「いま佐野君のところへ行ってきたんだが」
山下は機嫌がよい。
「いいのができたよ」
良の、二曲目のシングルである。滝は山下と良をなんとかひきはなそうと、しきりに陰で手をまわしていたし、企画会議でも強硬に主張したが、社長のデューク、良を手がけているマルス・レコードのディレクターの佐野たちが揃って反対した。
『裏切りのテーマ』は現在ヒット・チャートのトップをこれで三カ月独走中で、公称百八十万枚の大ヒットになっている。わけもなく山下を取りかえたらマスコミの疑惑を招くし、そのいわれもない、と云うのである。それに大ヒットすれば、ファンはそのイメージを期待する。冒険をするべきときではない、というのがデュークの意見だった。
「まあ、滝チャンの心配はわかるんだけどねえ。それはそれで、われわれが手を打っとけば済むことだよ」
山下の惑溺は、すでに事情通にはことごとく知れわたっていて、物笑いになっていた。
これが男女の仲ならたちどころにとびついて苛めにかかるジャーナリズムだが、この方面のことは、へたにほじくると収拾のできぬ大火事にまで発展するおそれもあるし、よほどのことがない限り目こぼしにあずかるのが、不文律のようになっている。でなかったらもっとスタッフも真剣に何とかすることを考えただろう。
もう不惑もこえた、れっきとした中堅どころの作曲家の、そこまで外聞も体面も忘れた執着には何かしらひとの正視をはばからせるものがあり、デュークも佐野も妙にそのことにはふれたくない、ひたすら騒ぎにだけしたくない、ようなのだった。
「それは、何も私が先生を特に評価してないなんて思われちゃ、困りますがね」
滝は押し切られたかたちになった。良が、いまや何十年にひとりの美少年だの、純白のアイドルだのというキャッチ・フレーズでもてはやされて、誰の目にもその少女のような美貌を認められてきたいま、ひとりで山下の執着の危険性を云々するのは、いかにも嫉妬をむきだしにしているととられそうで癪である。
商品として以外に、良にあまりに心をよせすぎていると見られたくないのは、内心で良へのいとしさと崇拝に近い感情がつのってゆくのに反比例して、滝の矜持になった。滝が山下にことさら見るにたえぬ不快を感じるのは、おそらくこの自尊心をあっさりうっちゃってしまった山下に、自らの隠しとおそうとしているほんとうの姿を見る気がするからなのだろう。
「それはどうも、まだ伺ってませんが、楽しみですな」
もっとも、物柔かな微笑をうかべて山下に愛想を云った滝の、薄色のサングラスの奥で目が笑い、いくぶん疲れたように頬のへんがそげたようにひきしまった顔には、そんな感情は露ほどもうかがい見ることもできなかった。
「もう、レッスンの方は」
「つけてるよ、少し前から。あの線でって佐野君から云われたから、またソウル・ロックで少しバラードっぽくしてみたけどね。ギターのバッキングがきいていて、いいアレンジついてるよ。東田君だけど」
「それはそれは」
白井みゆきリサイタルでの好評、『裏切りのテーマ』の大ヒット、によって、いよいよ良の仕事はふえ、それにつれて滝としてもプロデュースは一切音楽関係のスタッフ任せにし、もっぱらマネージメントに徹さなければさばききれなくなっていた。
「いま三浦に振付けを頼んでる」
「だそうで」
「あの子は、アクションがはえるからねえ。思いきった派手なのって云ってたよ、コスチュームもね」
「いっぺん、顔を出しますよ。このところすっかりもう、渉外専門で」
「すれちがいか。良が、淋しがるだろう」
滝は、嫉いてるのだろうか、といぶかしむように山下を見た。山下はほかのことを考えているようだった。
「口うるさいのがいないと、せいせいしていいでしょう。あまり羽根をのばさせないで下さいよ」
「そんなことはないよ」
山下は眉をしかめた。
「あんたには、よくなついているようだねえ。おかしなもんだね」
「まったくですよ」
滝は時計を見た。山下と無駄話をつきあう時間はない。
「ねえ、滝さん、実は、いいところで会ったと思ってんだ──時間、ないの?」
そのしぐさをちらりと見て、山下が云った。
「いや、特にってことはないですが──山岡さんと、キャンペーンの打合せですが、いま行ったらちょっと出てるっていうんで」
「ちょっと話、したいんだがねえ」
「良のことですか?」
「うん、まあ」
「三十分ぐらいでしたら」
滝は云った。山下はうなずいた。
「特に今日って話じゃないけど、早い方がいいと思ってたんだ。──人の耳のないところはないかな」
「向いに『モナリザ』っていう喫茶店がありますからそこへ行きましょう」
「わるいね、忙しいのに」
「とんでもない」
山下は恐縮しているようだった。太ったからだが、いくぶん、影が薄く見える。すいている喫茶店の、隅の一画をしめて、少しためらってから山下は書類袋から一冊の週刊誌を取り出した。とたんに滝は、ははあと勘づいていくらかうんざりした。
「これさ」
山下は滝の方に向けてそれを開いてみせた。見開き起こしに太い活字が踊っている。
「ジョニー・ファンに大ショック! 本誌独占、二十歳年上の白井みゆきとの愛の進行?」
その下に小見出しで、
「歌謡界の女王お気に入りの相手役から、本当の恋に発展か? 深夜のスナックでの愛の光景を本誌記者が目撃、若い恋人、佐伯真一の胸中は?」
「お読みになったんでしょう」
滝はにやりとしながら云った。
「例によって例の如しですよ。この深夜《ヽヽ》てのが十時ちょっと過ぎで、スナックってのは、佐伯さんの親友のやってる店で、そこに佐伯さんご本人もいたんですよ。最後まで読むと、ちょろりとそこに佐伯さんもいたってのが出てきましてね、それが白井先生が佐伯さんを見ないであの子ばかりに話しかけてた、っていうのがいわれなんです。記事のしめくくりなんてこうですからね。記者の目にまちがいがなければ、みゆきのジョニーを見る目はやさしく、あたたかい光にみちていた。インタビューで、『初恋もまだなんです』とはにかみながら語っていたジョニー。まだ汚れも知らぬ少年、ジョニーによせる愛はやはり異性というよりは姉の、やさしく見守る年上の女《ひと》のものがふさわしい。そして、そんなジョニーへの愛ならば、きっと佐伯真一もほほえんで公認することだろう」
「だってさ、この見出ししか読まん人も多いし、そこまで読んだにしたって見出しの印象は消えやしないよ」
山下はぱらぱらと雑誌のページをめくって見ている滝を、苛立った目で見つめた。
「あの子には、イメージ・ダウンだよ」
「そうでしょうか?」
「そうでしょうかって──あのきれいな顔のことを考えてみろよ。天使のほほえみだ、澄んだ目だ、汚れを知らぬ少年だって──あの顔で、白井みゆきを手玉にとるのかなんて思われたらどんなマイナスになるか……」
「そうですかね」
「ジョニーのファンはハイ・ティーンの女の子だぜ。たちまちおじけをふるっちまう。また抗議の手紙なんか、殺到しやしないの?」
「これは昨日発売ですのでね、まだこれについては来ませんが、どうせ来るんでしょうな。ファンの方ってのは、ありがたいですよ」
「滝さん、まじめに考えて貰いたいね」
山下はむっとした声を出した。
「おれは、真剣に心配してんだよ」
「私はまじめですよ」
滝は雑誌の最初のところを開いて、じっと目を注いでいた。二ページのグラビアだ。右の一ページは、物思いにふけっているような良の横顔のアップで、白いウイング・カラーのシルクのブラウスの咽喉に真珠のペンダントが光る。睫毛をこころもち伏せて、小さく唇を開き、少女の憂愁のような表情をしている。その右上のタイトルと、下の段のコメントを滝は読んだ。
「天使の憂愁──いつも、どこか淋しげなジョニー。恋を夢見る少年のそんな甘い翳が女性ファンのハートをとらえてしまうのだろう」
左は、上が白井みゆきリサイタルのデュエットのシーン、下が『裏切りのテーマ』ミリオン・セラー記念パーティのスナップで、やはりファンの喜ぶようなコメントがついている。
「私は、まじめですよ」
滝はもう一度云った。この記事が、滝が何時にここにいくと三人が来るけど、ネタになんないかね、と知りあいの記者に耳打ちしたものだとは、山下はご存じない。
この次とその次の週に、いわば続報で、「独占告白! 十七歳の美少年、ジョニーに白井みゆきの寵を奪われようとする佐伯真一の苦悩!」「私とジョニーは姉弟よ──白井みゆきが週刊『J』誌に厳重抗議」となるのまで予定済だとは、なおさら想像もつかなかろう。これで新曲の前景気をあおってやっているなどとは疑ってもみまい。
「私は、良の奴を、清純派の可愛こちゃん、アイドルにするつもりはないんです。私としちゃ、もっとやれって位なもんですよ。清純派くらい、スキャンダルにもろいものはありませんからねえ。スキャンダルおおいに結構。私の理想のスターはアラン・ドロンでしてね。スキャンダルを肥料にして花開くようでなきゃスターじゃない、アイドルとは云えないと思ってます」
「そりゃ、危ない考えだよ」
山下は憤慨したらしかった。
「そんな賭をして──ファンに見はなされちまったら、どうするんだ」
「ファンが見はなすなら、私の敗けですよ。良の魅力が足りなかったってことですから」
滝は雑誌にもう一度目をとおした。きれいなやさしい顔だが、物憂い翳の中に、よく見れば何か冷たい透明な殻の感じられる顔だ。
「ただ私の持論ですがね、ファンが見はなすのは、いつだって、スキャンダルの渦中に巻きこまれたときじゃないんです。それをもみ消そう、イメージ・ダウンを逃れようとして、ぶざまにあがいたとたんですよ、ファンがスターを見限るのは。取りつくろったらアウトなんです。反省してます、以後身をつつしみます、清廉潔白にしますから見すてないで下さいなんて云っちゃ──ファンは、反省して欲しくない、身をつつしんでなんか欲しくないんですよ。そのぐらいならはじめからしなきゃいいと思うんです。そのいい例が、離婚騒動でしおたれちまった中村ひろしですよ。クールで薄情なプレイボーイ面なら、そのまんま傲然とかまえて、ぬかみそ臭い女は嫌いだから追っ払ったがどうした、とこう云ってりゃよかったんです。反対に、例の認知騒ぎの牟礼光二なんか、女がどう騒いでも、非難しても、何ひとつコメントも出さんでひきこもってたでしょう。そしたら、結局ありゃあ喜多ゆうこの未練だってことになって、同情を集めて、大賞をとっちまったじゃないですか。アラン・ドロンだってそうだ、マルコビッチ殺しも離婚も同棲も、一切書くだけ書かしといてノー・コメントです。私はあれがほんとうだと思いますんでね。お気づきかもしれませんが、良には一切発言さしてません。白井みゆきや佐伯真一が騒ぎたてるほど、良には黙らせてただきれいな顔で笑わしときます。そうすりゃ、何もかも、大人どもが勝手に汚れを知らぬ少年をめぐってじたばたしてるってことになりますよ。私は良をファンがどんなふうにでも想像できるきれいな人形だと思ってます。人形が物を云っちゃ、いけませんよ」
滝は雑誌を叩いた。
「そして、どんなスキャンダルだって欲望だって、人形なら汚したりできませんよ。ただいよいよ神秘さを増して、良を美しく輝いてみせるだけです」
「滝さん」
山下は閉口したようだった。
「あんたと議論はしないよ。あんたくらい口の達者な人はいないんだから。たださ、滝さんの方針はわかったけど──おれはね、おれとして、気分がよくないんだよ。ファンが何考えるか知らんけどさ、おれは、いやなんだよ、あんな婆あさんと良みたいな子が並べて考えられるのがさ」
先生嫉いてるな、と滝は思った。じきに愁嘆場になりそうだぞと内心辟易する。案の定山下は憐れっぽい口調になってつづけた。
「おれは──そうだよ、まるで、良がべったりと泥をぬりたくられたみたいな、汚されちまったような気がするよ。あの子はそんな子じゃない、それはわかってるのにたまらなくいやなんだよ。何だか胸がいたいような気がしてさ──こんな、三十八にもなった婆あなんかと噂にされて、可哀そうに、あの子、どんなにいやな気持かと思うんだよ。癇性でデリケートな子だものね。あの子は、こんな世界で生きるには、雪みたいにきれいすぎる。デリケートすぎる子だよ。誰かが守ってやらなくちゃ、大事に気をつけて庇ってやらなくちゃ、すぐこわれちまうんだ。やさしい、いい子なんだからね──それなのに、まわりの人間はみんな、あの子をえじきにしようと狙ってるだけでさ──誰もあの子の気持を考えてやらないじゃないか。可哀そうで、見てられないよ」
山下のことばは直接にはみゆきのことを非難していながら、その奥ではまっすぐに滝に敵愾心を燃やしているのが感じとれた。滝が良を人形にすぎないと云ったのが、むかっと来たらしい。滝はおとなしくうけたまわっていた。実のところ彼は良が白井みゆきとのスキャンダルでいやな思いをするほど潔癖だとは思っていない。良が山下の云うような、「やさしい、いい子」だとも思わない。我儘でむら気で高慢で、ずるくて残酷で手におえない強情者の、わるい奴だと思っている。ただ、その良がどうしようもなく可愛いからこそ、困るのである。
(どうせ、奴のことだ、白井女史にも色目ぐらいくれているんだ)
「ぼく、なぜ山下先生とつきあうか知ってる?」
滝が相手だと安心しきっている良が、滝を怒らせようとして上目づかいで云ったことがある。
「ものを買ってくれるからだろ」
「それもある。でもね──ぼく、いろいろ勉強してるのさ、いろいろ」
もう滝にも良の気まぐれで投げやりな心の動きが七分どおりわかっているから、その手に乗らずに放っておいて、そうか、と笑って済ませたが、良がついに自分の中にあるぶきみな魔力に気づいて、それを意識的に使いこなしてやろうと思いはじめた、と知ったときのそのひそかな戦慄を滝は覚えている。
ほんのしばらく前には、結城修二に見破られるくらいだった、媚態や、あいての心にかなうものに自分を見せかけ、演ずる手管を、良は山下を思うままにひっぱりまわすうちにしだいに自信を持って楽しみはじめたらしい。
滝にはすべてを見ぬかれていると思っているらしく、いわば滝は共犯者、良のつもりでは面白くてスリルと実益のあるゲームと考えているらしいこの魔力の訓練の片棒をかついでいるものとして特別扱いだが、そうして見ていて、みるみるうちに良が美しさと魅力を増してくるのを、時に憎く滝は感じた。
我儘と傲慢のたちのわるい態度と、それを相手に受け入れさせるためのときたまの可愛らしい媚と甘えの使いわけに、良はみるみる習熟していた。
「滝さん、おれは、あの子を束縛するつもりはないから──良もいやがるしさ、あの子に口やかましくする権利なんてないから、何も知らんのだけど」
いくらかしょげたように山下は云った。良につっけんどんにうるさがられるのがこたえるのだろう。
「まさか、そんなこと、ないんだろうね──良が、白井みゆきと特につきあってるなんてことは」
「さあ、ないでしょう」
滝は苦笑をこらえて云った。彼は山下ほど正直ではないから、良の付人の渡辺から良の動静をのこらず報告させて、何も知らぬ顔をしている。だから彼には、良がよく嘘をつくこと、むしろ滝にがみがみやられるのが煩わしいというよりは嘘をつくのが面白いためにけろりとして見えすいた嘘をつくらしいことも承知の上だ。
リサイタル以来良はよくみゆきに呼び出されて、五日にいっぺん、十日にいっぺん、食事だのスナックだのと相手をしている。もっともたいてい佐伯も石田女史も、良の付人も一緒で、別にあやしげなムードでもないらしいが、それを滝には、うん、山下先生だよ、ううん、何もねだったりしなかったよ、滝さん怒るもん、というように云う。それでいてみゆきに別に興味も好意も持っているわけではないのだ。
そんな良の稚い悪魔を、滝は可愛さと憎さの微妙に入りまじった目で見守っていた。いまにみろ、その見えすいた浅知恵のおかげでこっぴどい目にあって、おれに泣きついてくるんだ、ほんとうに仕様のない奴だ、という思いと、そうしたらちゃんと自分が何もかもいいようにしてやれる、ちゃんとおれは見ていて、いわば掌の上で良に勝手をさしておくのだ、という思いが溶けあっている。
おれと良はちょっと特別なのだ、と彼は考えていた。山下やみゆきなどとはわけがちがう、さまざまなことのあった時間が二人をつつんで、二人だけのひそかな世界を形づくっている、思いがある。
「まあ、おれだって何も良がそんな、仮にあの婆あが手を出してきたってさ、乗るような子だとは思っちゃいないけどね。あの子は、まだ子供だもの。あの子は、まだまだ女なんかに興味はないし、あったってあんなタイプじゃないよ」
「母親でおかしくない年ですからねえ」
「そうだよ、そう思うだろ、ねえ」
山下は勢いこんで云った。
「まったく、図々しいっちゃないよ。良と並んだら、あっちの方が男じゃないの。ぶよぶよ太ってるわ、小皺はあるわ、趣味はわるいわ──まあ、良より魅力のある女なんて、ちょっと思いつけないけどさ」
山下は何となく自分で安心したようだった。
「色目使ったって、良の方で相手にしないだろう。──ねえ、滝さん、話はちがうんだけどね」
「何でしょう」
「あの松村って付人ね」
「はあ?」
「キヨちゃんキヨちゃんって云ってるようだけど──身元、たしかなんだろうね」
「ええ、何か中学出て上京した歌手志望だったってことですが」
滝は微笑しながら云った。山下は気づかない。
「お定まりのケースで、職を転々として、うちの関係のバンドにくっついてまわるようになったって子でしょう。東北なんだそうで、口は重いですが朴訥でいい奴ですよ」
「ナベちゃんの方は」
「あれは、峰亮太郎についてた男です。ちょっとペットいじってたのが胸やって──苦労人ですし、実をいうと私と、ちょっと昔手伝ってくれてたことがあって、気心が知れてますよ」
「おれも、あっちはいいんだけどね」
山下は自分が自制心を失いかけていることに、気づいてもいないようだった。
「あの清ってコが気になるんだよ。目つきが鋭くて、ねばっこいよ」
「何か、ありましたか」
「あってからじゃ遅いじゃないか」
山下は憤慨した。
「あんた、良の親がわりなんだからねえ。もっと気をつけてやってくれよ。あんなコだからね──良にもずいぶん前にちょっと云ったんだけど、あのコは全然人を疑うってことを知らないから──ずいぶん、どうしようかと思ったんだけど、心配でねえ──あいつ、取りかえられないの」
「別に落度があったでもないし、良もなついてるようですし──良のことを、よく可愛がってくれますんでねえ」
「それが、気になるんだよ」
山下は早口で云った。
「あいつ、良に惚れてるよ」
「まさか」
「おれにはわかるんだ。あいつの目──見てみたらいい。いつも──」
山下は唾を飲んで、少し赤くなった。
「いつもあいつが良のからだを拭いてやったり、服着せてやったりするときの目だよ。食いつくみたいに、いやらしいぐらい一心な目で、あの子のからだを見てるんだ。気になってたまらなかったんだよ。あいつ、やたらと良にさわっていたいらしいんだ」
「よくしてくれるし、誠実な奴だと思うんですがねえ」
「あんたには、わからないんだよ」
山下は怒ったように気負って云った。
「あんたは、冷たい人だね。時として、まるで良を憎んでるみたいに辛くあたるね、前から、気がついてたよ。あの子はからだが決して丈夫な方じゃないのに、むちゃくちゃにとるったけ仕事取ってかけもちさせるし、叱ってばかりいるしさ。良が可愛くないみたいだ。おれ、きいたんだよ。あんた、いつか良が長崎で倒れたとき、ステージの袖で、半分気を失って真青な顔してるあの子を、大丈夫かともいわずいきなり何回も殴りつけたんだってね」
「殴りゃしません」
滝はこんどはこっちから苦笑いしながら弁明した。
「気つけに、軽くひっぱたいただけです」
「あの子は、あんたの半分も頑丈じゃないのにさ。しかも病気で──それで回復が遅れたんじゃないかとおれは思ったよ」
「あの子が、何か云いましたか」
「云いやしないよ。あの子は、あんたのこと、こわがっているようだもの。──こんなこと云ったからって……」
「伺ってますよ、良をあとでとっちめたりしやしません」
滝は笑った。
「耳のいたいお話ばかりで」
「何も──いや、おれはあんたにはあんたのやり方があるのは認めるよ。あの子も滝さんになついてるようだしさ」
山下はあわててひきさがったが、まだそれでおわりではなかった。
「ただ、滝さんが忙しくて目がとどかないところで、おれが気がついてることもあるんじゃないかと思ってさ。この際だから全部ぶちまけようと思って」
「ぜひきかせて下さい」
滝はおだやかに云った。
「このところ、私は良とはほとんど別ですし、あれはあれでおしゃべりって方じゃありませんのでね」
「そう」
山下はぐっと身を乗り出した。
「おれを、女みたいな金棒ひきだなんて思わないでくれよ──あんた、佐伯真一をどう思う」
「どう、と云いますと?」
「やたらに馴れ馴れしい奴だね。若いくせに変に世馴れててさ、どうせ女王様のペットになって機嫌をとってるような奴で知れてるが──あれは、陰険なんじゃないか、そう思わないかね」
「良と白井先生のことで何かいやなことをしやしないかということですか?」
「それもあるけどさ──だからやっぱりおれは白井みゆきをあんまり良に近づけない方がいいと思うけど──だけじゃないだろ、知ってるだろう、あれは城戸洋典のペットでデビューした奴だぜ」
「ああ、そうでしたね。でもあれはたしかだいぶ前に……」
「そうさ」
山下はますます声を落していた。城戸洋典は日本最大の名監督であると同時に、還暦をこしていまだに一回も娶ったことがなく、常に美少年たちを身辺にはべらせてそれを主役として売り出す女嫌いでも有名だ。
「佐伯はあのファッション・モデルと、二十一んときに婚約したもんでご勘気をこうむったんだ」
「それきり映画からしめだされかかったもんで、あわてて女を棄てたけれど、もう駄目だったんですな」
一回有力者に可愛がられ、愛を亨けながら売り出して貰える味をしめた美貌の若者にとって、その挫折の味は手痛く、それきり自らの力で運命を切り開こうとはせずに再び有力な後楯をさがしてさまよった彼のゆきついたところは、歌謡界の女王と呼ばれる年上のパトロネスのぺットだった。滝は口の中にいやな味を感じた。
「で?」
「で──って、そういう経歴の奴なら……城戸洋典の教育を受けてんだぜ──わかるだろう」
「しかし」
それなら能動型の男性を求めるだろう、と滝は云った。云いながら、妙に汚れにふれたような気がした。山下はひくく笑った。顔に、卑しいものが出ていた。
「あんた、知らないの」
山下もまた女嫌いが評判の男である。よくゲイ・バーなどに顔を出しているというから、そこでそういう、いわば同類の噂が囁かれるのだろう。
「城戸洋典の美少年のハレムは、彼の回春剤なんだよ」
つまり、彼が受身なのだ、という意味のことを、山下は云って、ちらりと唇を舐めた。再び滝はいやな気がした。
「ああいうことは、やみつきになるもんだ──その前へ、良みたいな子を置いといたらさ──パトロネスをとられたくないって腹から、こいつ、つぶしてやれって思うにせよ、もっと、つまりあの子に気をそそられてにせよ──よく仕込まれてる手を使うだろう」
滝は眉をひそめた。高潔ぶっているつもりは微塵もないが、なぜか山下の心の働き方が彼は妙にいとわしく思えてしかたがない。考えてみて、それは山下がまったく自尊心を失ってしまっているからだろう、と結論した。
「しかし、そうおっしゃられましても、別に、まだこれということが起こっているわけでもなし……」
「そうやってたかをくくってるのがいけないんだ」
山下は滝の表情に気づかぬか、そのふりをした。
「大体、あんたは、そういう方面に鼻がきかないのかどうか知らないが、良の魅力──というか、危険性を、少し過小評価してるね。おれの知りあいにきいてみたんだが、そいつは全然そんな嗅覚のない奴だったのに、あの子はいい、あの子なら抱いてみたい、あの顔や身ぶりをじっと見てるとだんだんどきどきしてくるって云ってたぜ。良は、危険なんだよ」
「そりゃ、わかってますよ」
「わかってないよ。あの清って子だって、渡辺君の方だって、そのチャンスがあればと思ってるんだ。おれにはわかるよ──それにあの結城修二──」
「結城先生が?」
「あいつだってリサイタルのとき、ばかに馴れ馴れしくしやがってさ……それにあの大道具のアルバイト学生がやたらに親切にして、あの子ばかり見てたの知ってるのか。それに……」
滝は呆れかえって合の手も入れられなくなった。山下は正気なのか、と疑って見つめる。
しかし、山下の真剣さは見誤るべくもなかった。彼には、ひとことでも良と口をきいたら、その人間は男にせよ女にせよ、良を恋し、狙っているのだと思えるらしかった。そうでなく単なる好意や親しみから良に親切にしたり近づこうとするものがあるなどとは、想像もできないらしい。
「おれは、気がもめてたまらないんだよ。おれが守ってやらなくちゃ、一体あの子はどうなっちまうんだろうと思って」
さんざん並べたてたあげくに、山下は深い吐息をついてそう洩らした。
それは山下の正直な述懐だろうとは、滝は思ったが、気の毒に思う気にはなれなかった。実のところ、彼はしだいに、空恐ろしいような気持にすらなりはじめていたのだ。
山下は、これだけ気狂いじみた、妄想に近い──と彼は思った──嫉妬をまき散らしながら、自分では自分が常軌を逸しているなどとは、夢にすら思ってはいないらしい。
他人に弱みをさらけだしたり、付け入られる隙を見せるのが何より嫌いで、自分のどんな感情の動きをも決して人に悟らせないようにしている滝には、大の男が、ここまで自分を失って妄執を燃やせるとは考えたこともないことだった。それも、はじめは、例によって例の如くのただの人身御供の味を見る以上の気ではなかったのだ。良のなかには、魔物がいるのだ、と滝は思った。
はじめから山下の中にあまりよくないものを見、ろくなことにならないぞと思い、山下を良からひきはなそうと策動しつづけた彼の直感はたしかだったので、決して山下と同類項の嫉妬沙汰ではなかったはずだ、とあらためて考える。
ただ滝はあまりに自尊心が高かった。万が一でも、山下と同次元と見做されては、たまらない、と思う。良の危険さにせよ、彼の方がずっと早くから、ずっとよく知っていたことだが、彼はそれを良にも、誰にも、悟らせまい、として来たのだ。まだ、冷たい奴、憎んでいるようだ、と云われる方が、彼の心にはかなった。
結局きいてやって、気をつけますと云うほかに何と挨拶のしようもなく山下と別れたが、滝にとりついた、ひそかな戦慄は彼をおちつかない心地にさせた。そんなとき、彼が冷静さと自信とを取り戻そうとする方法はひとつしかない。彼は仕事のあとでミミと会うことにした。
「しばらく、音沙汰なしね、悪者」
ミミはいつもクールで安定していた。
「しばらくったって五日ばかりじゃないか」
「浮気?」
「おれは生憎ピューリタンでね。いっぺんに三人も四人もあやつる根気もなけりゃ、まめでもない」
ミミと滝の関係は、いつもミミの新しい恋で途絶えては、ミミが失恋するか、させるかするとふっと戻って、これでもう六年越し、つまりはデビュー当時からずっとということになる。
もうその手筈も安定していた。朝、ミミから連絡があったり、滝から電話で呼び出したりする。互いのスケジュールを繰りあわせて、都合がつけば滝がミミのマンションへゆく。ミミは仕事でないかぎり、拒絶したためしがないし、滝もいっぺんも悪追いしたことがない。大人どうしのつきあいと承知している。
「どうしたのよ。くさくさしてるみたいね」
「ああ、ちょっとね」
「珍しいわね。ママにみんな打明けなさいよ、それとも、そうはいかないこと?」
「お喋りでない女でしかも喋り方を心得てる女ってのは、ミーコしか知らないな」
滝は云った。
「いま、話すよ。だけど、その前に──」
「やめて! くすぐったい」
ミミは大袈裟に身をよじり、部屋着をすべり落す滝の手に協力した。裸身を押しつけて来ながら、くすくす笑う。
「あたしあなたのかかりつけの医者かカウンセラーみたいね」
「じゃおれはミーコのご愛用の……」
「いや、エッチ!」
「毒気にあてられたんだろう、嫉妬妄想狂の」
滝はミミの胸に顔を埋めながら云った。
「あとで話すが──参ったよ」
豊かな乳房に唇を這わせてゆくと、ミミは小さな声を立てて滝の頭をかかえ、押しつけた。ぐっとひきしまっている胴に腕を巻いてベッドに押し倒しながら、おかしなものだ、と滝は思っていた。
おれはミミを愛していないし、正直のところミミの与えてくれる快楽を、たとえば他の女と比べて特に好んでいるわけでも、嫌いなわけでもない。おれはいつもこの程度だろうと思い、そしてその程度の快楽を得る。
ミミと一緒に楽しみ、あまり寂寞におそわれず、男としてなかなか優秀な方らしいと自尊心を満足して帰り支度をする。ミミのからだは柔かく、熱く、まといついて来、男をも自分をもよく知っていて、いつでもたいてい受け入れる準備ができている。
それも、特に望んでいなくても、もう大体手順が決まっている。接吻と、愛撫とのあいだにちゃんとスタンバイして、ミミとの時間に没入し、あとはさっぱりできるような体勢になる。つまりは、おれにとってミミとは食わねばならぬという煩わしさのない、いつでも用意されているなかなか美味な三度の食事のようなものだ。
それに対して、良はどうなのか。おれは良を愛している、ほんとうは、山下や、おれを非情な人非人だと信じている連中が知ったら、びっくりするか、げらげら笑い出すくらいうすみっともなく、べたべたの、メロメロの、めちゃめちゃに、愛している、惚れこんでいる、わるい奴だ、けしからん奴だ、小悪魔だと承知しながら、ほんとうは山下よりおれの方がずっと良にいかれてしまっているくらいだ。
そしておれは別に片輪ではないし、気狂いじみたピューリタンでもないから、これほど可愛いと思っている良に対して、むろん欲望があるし、時にはそれをおさえようと自分で努力せねばならないくらいだ。しかもおれは良をこの一年間に合計二度だが、抱いているから、それがおれにとってどんなにすさまじい快楽か、気の狂うほどの激しい快楽か、よく知っている。
それでいて、おれは、それっきり良にふれていない、ふれられない、ふれることができないのだ。それは何も、良が激しい苦痛なしにはおれを受け入れることができないからというだけではない。
正直云っておれは時たまそのためだけに──あの小憎らしい、けしからん可愛らしい顔をいたみにゆがませ、苦痛の悲鳴をあげさせ、手ひどく傷つけてやるためだけにからだが震えるほど良を犯したく思うことがある。奴が、あの生意気な顔で見えすいた嘘をついているときなど──だがおれはできない。何故か? おれは、怖いのだ。
そうだ、と滝は思った。からだの下で、快楽に耐えぬように身をくねらせ、彼の背に爪を立て、むせぶような声を立てている女の、いまにも最後の波にさらわれてしまいそうにひきゆがんだ汗に濡れた顔を見つめながら、機械的に快楽をむさぼっていながら、滝はほとんどミミのことを忘れていた。
おれは、こわいのだ、と思考をつづける。おれはこわい。良がおれをどこに連れていってしまうかが──山下のように奴隷にさせられ、良にふれる風、良をつつむ衣類、唇にふれるコップにすら嫉妬し、苦しみ、良を手に入れようとしてむなしくあがいたあげく狂ったようにされてしまうのがこわい。
良のからだ、白くひんやりして、余分な肉のまったくないひきしまってほっそりしたからだの中には、何かおそろしい生物がいる。人をもとめること、欲することを知らないあの傲慢な美の中には、それを見たら死なねばならないおそるべき深淵がある。
良は、いくら弄ばれ、欲望にさらされ、売られていても、少しも汚され得ない、それはむしろ哀しみを感じさせるくらいに、良は厚いガラスで世界から切りはなされてしまっている。
そしてそうであればあるほどおれのような人間は躍起になって良を欲し、もとめる。ほんとうはそれは汚したい、こわしてしまいたい欲望かもしれない。汚し得れば、壊し得れば、おれは良をすててしまいかえりみないのかもしれない。
だが良はいよいよしっかりと拒否の鎧を身にまとい、おれはそんな良に理性を失ってしまいそうな恐怖を感じざるを得ない。良はいまだに男と寝ることに嫌悪を抱いている。頭を撫でられたり、甘やかして可愛がられることは何より好きなくせに、セックスに関したことすべてに漠然としたいとわしさを持っている。これはたぶん女と寝ても変らないだろう。そうでなかったら、何となく、良、というこのイメージにそぐわない。
良はつねに世界にとっての対象なのだ。むりやりに受身にさせられているという感じがする。良に快楽は似合わない。白井みゆきと寝ていても、きっと良は(仕事のうちだから我慢しよう)という義務的な表情で女の手に耐え、時のすぎるのを待つだけだろう、という気がする。そして男には──おれに二度、力ずくで犯され、ブラッドの五人のやくざどもに手ひどいめにあわされて以来、良が、自分のからだがその苦痛にどうしても馴れることができないのを知り、心の深いところに刻みこまれてしまった本能的な恐怖からどうしても逃れられないのを、おれは知っている。いまですらふいに夜中に悪夢にうなされる良なのだ。
おれはそんな良が可哀そうで、いたいたしくて、可愛くてならないと同時に、そんな良に気が狂うほど欲望をあおられる。
良は毒だ。良はいつでもおれに思いきりいたぶって、踏みにじり、息も絶え絶えになるまで責めてやりたいおそろしいサディスティックな欲望と、自分でそうしていためつけたそのからだをたちまち後悔して掌につつんであたうかぎりいつくしみ、崇拝し、何があっても守ってやると誓いたい愛憐を同時にいたたまれぬくらいかき立てる。
おれはこの気持に身をまかせたらさいご、おれがどうなってしまうか、その狂わされたおれが良をどうしてしまうかがこわいのだ。だが同時にそうなってしまいたい、たまらなく、この毒の杯を底の底まで飲みほしてしまいたい妖しい誘惑をも感じる。もしおれが──だがそれを思ってしまったらおれは破滅してしまう。
滝はふいに戦慄した。これまでに築きあげてきた自分の人生、滝俊介という、おそらく悪辣で残酷な、しかししたたかに自分の力と信条とをわきまえて使いこなすまでにしたひとりの男としての矜持も原則も、すべてを打ちすてて良に殉じ、良という蠱惑の毒をむさぼりつくし、たぶんそのために滅び、良をもまた自らの火で焼きつくしてしまう──その悪魔のいざないを、滝は自らの内に感じた。
(良を見出し、良を育て、磨きあげ、売りに出し──良を、つまりは、創りあげようとすることに生命を賭けているおれが、良を滅ぼし、おれも滅びてしまう誘惑を感じるとは──)
もちろん、それがあやしい夢幻境の妄想にすぎないことはよくわかっていた。一瞬後には彼は理性を取り戻し、ふだんの冷静でしぶとい野心家になり、こんな妄想をあざわらうだろう。
滝には大それた野望──良を日本にかつてなかった華麗なスーパースターに育てあげること──があったし、その野望はまだようやく、いま最初の一歩を踏み出したばかりなのだ。
だがそれにしても、悪夢のような陶酔境のなかでその野望すらむなしくなる一刻を滝は味わった。彼は自分の山下への嫌悪と反感が、実はするどくとぎすまされたねたましさにほかならぬことをひしひしと感じた。
「──ひどい人ね」
絶頂をきわめた瞬間にからだを弓なりにのけぞらせて、狂ったように滝をしめつけ、叫び声を立てて彼を現実にひき戻したミミが、快楽の余韻に漂いながら呟いた。
「せめてあたしのベッドの中では、良ちゃんのこと考えないわけにいかないの。忘れろなんていわないから──追い出しちゃうぞ」
「なぜわかるんだ」
滝は少し驚いてきいた。ミミは下半身をくねらせた。
「あたしだって女よ。わかるわよ──でも、くやしいけど、あなた──すごいわ……」
「満腹したか?」
「いやなひと──いっぺんでいいから、あなたにあたしを愛しちゃったって告白させてみたいと思うことがあるわ」
「ミーコが、好きだよ。わかってるじゃないか……」
「そんなんじゃなくよ──ああ、だめ、そんなにしちゃ」
ミミの目はまだなかば快楽の海に漂い、充足したからだがゆるやかに滝を受けとめて快楽の名残に収斂していた。
滝は快い自信と満足感がみちてくるのを覚えた。おれは男だ、と彼は思った。強くて、有能で、自分のなすべきことをこころえており、おれのすべての能力も欲望も感情も、しっかりと理性が把握し、コントロールしている。おれは、これでも自分がそう出来のわるい男だと思っていないし、まだなかなかどうしてそれを手ばなすのが惜しいのだ。
大丈夫だ、と彼は安堵とのこり惜しさをともども感じながら考えた。まだ、大丈夫だ。良の魔性がおれを誘惑しても、おれはまだ参るものか。平静さが戻ってきた。山下など羨ましいものかと滝は自分を嗤《わら》った。彼は衝動的にミミを抱きしめた。
「ミーコは大好きだ。きみはおれの守り神だ。きみがいてくれるから、おれは嬉しいよ」
「それで、我慢しなくちゃだめね」
ミミは呟いた。
「今日は、ばかにあたしらしくないと思ってるでしょうね。こんな日もあるのよ──あたしは、恋をしてないと、淋しくてたまらなくなるんだもの」
「ご挨拶だね」
「だめ、動かないでってば──そうしていてよ。ああ、そう……そんなことないわよ、だからあなたにこうしてほしいんだわ」
「ミーコだっておれと恋におちやしないじゃないか」
「そりゃ、そうよ。あなたはつよくてちゃんとした男だもの。あたしはいつでも、あたしがいなけりゃだめになっちゃうような人が好きなの」
「こんどは、いつまでつづくのかな、おれとミーコは」
「なんだか、長いかもしれないって気がするわ。健二さんのことからぬけだすには、ずいぶんかかりそうだわ──ねえ、あたし、来月で三十よ。たまらないわ」
「女は三十からさ。男は四十からだ」
「婆あだわ」
「ミーコは五十になったって婆あにはならんさ。疲れた顔はやさしいよ。おれは、好きだな」
「あなたってやさしいわ。愛してない人には、あなたはいつもやさしいのね」
「かもしれんな」
「でもそういうもんよね。だからあたしもあなたにとって、とてもいい女でしょ。何でも受けとめてあげて、何にも要求しないで、いつでも歓迎するしあとを追ったりもしないわ。あたしは、あなたの最高のアドヴァイザーになれるわ」
「ふしぎだね。おれもさっきそんなことを考えていたよ。おれとミーコは、心が通じてるのかな」
「きっと、どこかの前世で、ひとりの人間だったか、双子の兄妹だったんじゃないかしらね」
ミミはやわらかく咽喉で笑い声を立て、ゆっくりと滝から身をはなして横向けにからだをのばした。汗にぬれた乳房が豊かに揺れた。
「ひさしぶりで、とっても──おいしかったわ」
ミミは色っぽく滝をにらむようにして云い、くすくす笑った。
「さあ、もういいんでしょ──こんどはあたしができることをしてあげる。いちばん適切な助言をしてあげるわ──あなたの悩んでることをおっしゃいな」
*  *
結局、滝がマンションに帰ったのは、十一時過ぎだった。
何となく、心身がさっぱりと、厄落としをしたような気分になっている。要するにたいしたことではない、山下には勝手に嫉かせておけ、と考えたが、室のノブをつかんで、鍵の手応えに良がまだ帰っていない、と知るとまた少し苛立たしさが戻ってきた。
どうせ渡辺たちがいるだろうが、それにしてもこれ以上良を発展させるのは彼もありがたくない。不必要な摩擦は避けるにこしたことはない。上着をぬぎすて、眼鏡をとり、ステレオに好きなジャズのレコードを選んでのせ、ヴォリュームをしぼると、ウィスキーをグラスに注いだ。
ピアノと錆びたようなけだるいアルト・サックスのデュオの流れ出す中で、分厚い手帳をひろげてスケジュールをたしかめる。
(『ポップス・ベストテン』、『サンデー・ワイド』の録画、『ヤング・アルバム』からラジオ日本のゲスト、マルス・スタジオで新曲のレッスン、『ライト』誌のインタビューと撮影、たてこんでるな)
ミリオン・セラーを出せば押しも押されもせぬ大ヒットの業界で、どうやら二百万、それも実売数で二百万枚を出しそうな見こみが立ってきたのだ。
これまでにないような、日本風ソウル・ロックというラインの新鮮さが当たって、歌謡曲としても、ロック・ナンバーとしても受けている強味がある。いちばん大きいのは、ディスコでリクエストが多いことだった。アップ・テンポのマイナーな曲で、ちょっと『ペインテット・ブラック』を思わせる。
これまで、踊れてしかもきいてもいいポップス、というのが日本製にはあまりなかったから、いろいろな層のファンがとびついたのだ。
勢いをかってLPを出す話も起きているし、有名な某写真家が良に惚れこんで、撮ってみたい、という企画も持ちこまれていた。二曲目は予定では九月末の発売になるが、それの出来いかんで、初のソロ・リサイタルの声もある。
だが、滝の狙いはもっとさきにあった。暮に恒例の、ポップス大賞各賞の選考は、十月半ばからはじまる。
「もう、ことしの新人賞はお宅に決まりだな」
「ちょっと誰が出ても無理でしょうからね。いいですね、もう、安心で」
やっかみまじりにライヴァルのプロの連中に云われるたびに滝はとぼけた微笑をうかべて、いいえ、いいえ、とんでもない、暮までにゃ、何がおこるか知れたもんじゃありませんよ、と答えている。誰も、尾崎プロの連中ですら、良の新人賞をすでに決まったこととして考えているが、滝の穏やかな微笑の奥にかくされているものを知るどころか、推量すらしうるものはいなかっただろう。
(いずれ、あッと云わしてやるさ)
ようやく極暑はすぎて、しのぎやすくなってきたと云いながら、まだ蒸すこともある時分である。滝は窓をあけはなってカーテンだけしめ、あれこれ考えをめぐらし、時々手帳に書きこみをしたりグラスの酒を啜ったりしながら、床にじかに座っていた。
良は十二時をまわっても帰って来ない。デュオのレコードも両面をききおえ、近所に気兼してプレーヤーの電源を切った。
(仕様のない奴だな、いい気になって遊び呆けて)
いつかも、その前にも、こんなことが、ひとりあれこれと思いをめぐらし、さまざまな感情を抱きながら、夜がふけていき、なかなか帰ってこない良を待っていたことが、ずいぶん何度もあったような気がする。
滝は人を待つのなど嫌いで、時間にいいかげんな人間など、屑だ、と固く信じている。しかし、おれはそう信じながらも結局また良を待っている、さっさとさきに寝てしまいもせずに、と滝は思った。
(これが、おれと良の関係の真相なのか)
良は、ひとを──滝をでも、待つだろうか、とふと彼はふしぎに思った。ようやく、自動車が近づいてきて、マンションの前でとまる音がしたとき、滝は時計を見た。十二時二十分だ。
(山下はおれと別れてから良を迎えにいったのかな。そうか、あのまんま、スタジオに戻っていったが、あのあとレッスンに来たはずだ)
良はレッスンのあと、杉田が連れて某デパートのチャリティー・サイン会にいったはずだが、それからどうしたろう、山下の家へ行ったのか、山下に抱かれていたのだろうか、と考えながら、そっとカーテンに身をかくして、通りを見おろした、滝の目が、ふいに細く、鋭く光った。
カーマニアなら目の色をかえそうな車がそこにとまっていた。リンカーンだ。運転席にいる人間はよく見えなかったが、それは気にもとめなかった。後部座席からおりた良につづいており立ったのは、白井みゆきだったからである。はっとしている滝の耳に、ほがらかな傍若無人な声がとどいた。
「ああ、今夜は、楽しかったわ。やっぱり若い人たちといると気持が若がえるわね」
良が≪女王≫を見上げて何か云う。長い睫毛が音を立てるような感じでまばたくのが見えるような気がした。早く乗ってくれとでも云ったらしい。みゆきの声は、特に大きくしなくても素晴しくひびきがよかった。
「あら、だめよ。保護者の責任ですからね。ちゃんと坊やがおうちに帰りつくまでみとどけなくっちゃあ──真ちゃん、真ちゃん、何してるのよ。良ちゃんを上まで送ってあげてよ」
リンカーンの、右の前部のドアから出たのは、派手なジャケットを着こんだ佐伯真一だった。してみると、専属の運転手がいるのだろう。黒いお仕着せを着てるにちがいない、と滝はいささか不公平に勘ぐった。佐伯が何か云い、大丈夫だと云っているらしい良と押問答をした。
「いけません、お姉さんの云うことをおききなさい。わかった?──ああ、いい子ね。良ちゃんは、素直ね」
みゆきの声は実にはっきりときこえる。滝が眉をひそめたほど、その声は甘ったるい、赤ん坊に話しかける母親じみた調子をおびていた。街灯にてらされて、彼女の顔も甘い笑いにほころんでいる。
「じゃ、又遊びに来るのよ。こんどは、真ちゃんの知ってるお店に行ってもいいし──」
「坊や、お休みのキスは?」
佐伯の声も大きかった。滝は思わず人の耳をおそれた。
良の何か答える声だけがよくききとれないが、とたんに佐伯のわざとらしいくらい大きな笑い声がひびいた。
「ほんとに可愛いねこの子──じゃ、代理で」
佐伯がみゆきの肩をつかまえ、頬に唇をあて、それからふりかえって良の肩に手をまわした。また良が何か云い、みゆきがゆったりとうなずいて、身をこごめてリンカーンに乗りこんだ。佐伯と良の姿は建物に入ったとみえて視野から消えた。
滝は急にわけのわからぬ怒りにみちた衝動にかられ、大急ぎで窓をしめ、ワイシャツとズボンをぬぎすて、寝室にとびこんだ。あかりを消し、ベッドにもぐりこむと、パンツ一つのからだにシーツの冷たさが快い。
良を待っていたことを、滝は自分に腹を立てていた。滝が仕事で遅くなるようなとき、このごろは、いつも良はさきに寝ている。一時間も忠実な犬のように待って床にうずくまっていたことを、良に知らせるものかと滝は思い、息をととのえて寝たふりをした。
だが、良はなかなか入って来なかった。奇妙な疑念がきざしてきた。エレベーターのあく音はたしかにきこえたようだ。滝の一画は、エレベーターと最も近いところに位置しているから、まちがいようもないはずである。
滝の妙に鋭くとぎすまされた耳は、ふいに、ドアの外で、おしひそめた声で囁きあうのをきいた、と思った。そんな気配がしただけかもしれない。
滝は暗がりで息をひそめ、耳を立てる獣のようだった。やがて、滝の感じでは十分も二十分もたったと思えるころに、ひそやかにキーのまわる音がし、エレベーターがおりていった。
良は居間の電灯のスイッチをひねったらしい。着替えている物音がし、それから寝室の戸があいた。とじた滝の目にも、まぶたをすかして、あいたドアから入ってくる光が感じられた。
「滝さん──滝さん?……寝てるの?」
良は囁いた。滝は気をつけて薄目を開こうとしながら、良が音も立てずに滝のベッドに近づいてのぞきこむ気配にあわてて寝息をたてた。良の目がえたいの知れぬ無表情に光りながら、滝をうかがうところが見えるようだ。
ふいに、甘いつよい香りが滝の鼻孔を刺激した。動物性の香水のようだ。それはどこかしつこくて絢爛な、いかにも白井みゆきを思わせるあくの強い香りだった。滝はぎくりとした。
そのとき、下で、エンジンの音がきこえた。よほど弱まってはいるが、はっきりと耳にひびいてきた。良の気配は急にとおざかるようである。
滝は開きたくてたまらなかった薄目をあけ、良から見られる心配がないと知ってもう少し目をあいて良を見つめた。
良は、寝室の入口に、居間の光源を背にして立っていた。片手がドアにかかり、パジャマにつつまれて、首をねじまげるようにして窓の外を見ようとしている。
逆光になってうかびあがっている顔は、ひどくきれいで、ひどく冷たい、何かの女神の像のような横顔である。無感動な、いくぶん物に倦きたような翳がその目から口もとのあたりに漂っている。
と、思って見ていたときだ。遠ざかるエンジンの音をききながら、ふいに良は微笑した。目は少しも笑っていない。口もとだけの、残忍な、淫蕩なものすら感じられる、あやしい微笑だ。それは、滝がはじめて目にするような表情だった。ませた、たちのわるい嘲弄する表情なのだ。滝は愕然とした。良が見知らぬ人間のような気がした。彼は、戦慄した。
[#地付き](3につづく)
〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年七月二十五日刊