栗本 薫
真夜中の天使1
[#表紙(表紙1.jpg、横180×縦261)]
──この本の最初の読者であるOとIに
黒いベンツがすべりこんできて、RVCテレビ局の入口にぴたりと横づけになると、例によってわあっと少女たちがむらがってきた。
「良ちゃん」
「ジョニー」
黄色い声をあげる少女たちの年齢は、十五、六から七、八というところか。苛々して彼女たちをかきわけて近寄りながら滝はふと、どうしてスターに熱狂してむらがり、テレビ局の前で辛抱づよく待ちぶせているような娘たちは例外なく不器量なんだろうと考えた。
だが少女たちを三人の付人が押しのけて、道をあけろと声をからしているあいだにベンツのドアをあけた滝の顔は、もう職業的な懸念と叱責のほかに何の表情も示してはいなかった。サングラスの下で、目が鋭い光をおびている。ベンツからおりて、すんなりした姿をあらわした良は、少女たちの悲鳴のような嬌声と殺到には馴れっこで機械的な愛想笑いをむけたが、滝の苛立ちと叱責の目は無視して、遅刻の詫びごとひとつ云うでもなかった。
「先生」
甘えるように呼ぶ。運転席からとびおりてまわってきたのは、作曲家の結城修二である。長身に、黒の三つ揃をダンディに着こなした、口|髭《ひげ》のよく似合う男だ。滝に微笑をみせて、バック・シートからとった毛皮のコートをふわりと良の肩にまわしてやるバタくさいしぐさが、ひどく板についていた。車はAライセンス・クラス、趣味はヨット、ジャズ・ピアノの名手としても知られ、渋い美貌でなまじっかな歌手より人気のあるといわれるヒットソング・メーカーだ。いまヒットチャートのトップを独走中の『ラヴ・シャッフル』を含めて、これで三曲、良の歌をつくり、そのいずれもヒットしていた。彼の精悍な笑顔を見た瞬間に、滝の目の中に何か異様な光がかすめたが、すぐに愛想よく結城に送って貰った礼を云った。良にむき直る。
「ジョニー、急いで。5スタだよ、リハの時間なくなっちまうぜ。ぶっつけでいいんならかまわんけど」
「わかってるよ」
良は素晴しい銀色の毛皮のコートを、袖をとおさずにほっそりした手で衿を押さえながらそっけなく云いかえし、何か内緒の冗談でも楽しむように結城を見上げた。結城がつつみこむようなまなざしをかえす。いかにも傍若無人な、この一対のふりこぼす何かがふいに滝の目をそらさせた。滝ですら、良の肩をなにげないようすで押さえている、良より頭ひとつ高いダンディな作曲家と、その守護神によりそわれて自らの美しさを誇っているような美少年との絵のような立ち姿の中に、傲慢《ごうまん》で挑戦的な禁色の恋人たちを見ぬわけにはいかない。良は、羽織ったコートの下は白いシルクのブラウスとジーンズだけだった。白い手に幅の広い彫金のと、重たそうな緑色の石のと、ふたつの指輪がはまっている。額やきゃしゃな首筋にきれいな渦を巻いている、褐色の髪のあいだから、右耳にだけしているピアスがちかりときらめく。まるで化粧をしたように、唇が紅く、頬になまめいた血の色がさし、まぶたが濡れたように青みがかっていたが、化粧のせいなどでないことは、滝にはわかっていた。
(いままで一緒にいたんだろう)
彼の顔は身についたマネージャー族の、したたかで底の知れぬ無表情をしか示してはいない。しかし、彼の目はともすれば彼を裏切り、おさえた心のうちを暴露してしまおうとする。それゆえに彼はサングラスをかけているのだとも云えた。
ファンの少女たち、付人たち、そして結城もまた、いつものことだが良がそこにあらわれた瞬間の戦慄に似た讃仰をあらわにして、良だけを見つめている。どこにいようと、そこをかれの聖域、かれの足もとにひざまずく崇拝者たちの祭壇と化させずにはおかない、良の魔性ともいうべき磁力の効果はいつもながら滝にわくわくするほどスリリングな、そして同時に鋭いいたみに似た気持を味わわせた。少女たちは口を半開きにし、宗教的なまでの恍惚の表情で、大理石の少年像のような、若いアイドル・スターを見つめていた。そして、結城の目には、さながら良のほっそりした、優美な容姿を、呑みこみ、つつみこんでしまいたいような、いつくしみ、灼きつくし、愛撫する表情がある。
「ジョニー、急いでよ」
滝の声は自然にけわしくなっていた。付人たちが、黄色い声と一緒につきだされる、サインブックや贈り物から護衛して、良をスタジオに入らせる。結城はベンツの傍に立って、それを見送った。
「車おいたら、ちょっとのぞきにいくよ」
背中に声をかける。良がふりかえって、ちらりと笑ってみせる。結城はベンツに乗りこみ、ファンの人垣はくずれて、わあっとスタジオへ入りこもうと再び無駄な突進をしたが、はばまれると未練たらたらで散った。このまま、このあたりにうろついて、こんどは良の出てくるときを待とうというのだ。何十人と限って入れるスタジオに入る恩恵を、少し遅く来たりしてつかみそこねた連中である。寒さも、夜のふけることも、むなしい時間も、逢瀬と呼ぶすらはかないその報酬も、彼女らにとっては、良の夢見るような一瞥、そのほっそりした美しい姿をまぢかく見られるかもしれぬこと、特別に運がよくてそのコートの端にふれることだってできるかもしれないという希望の前では苦にもならないのだった。
ああいう娘たちが一番幸せなのかもしれない、と滝は考えていた。結城と別れると、いっぺんに良は不機嫌に、つまらなそうになった。それをせきたててスタジオへ押しこみ、あたふたとスタッフに詫びごとをいい、もう時間がないから、すぐメークしてくれ、とどやされて急いで楽屋へ連れていく。コートをぬがせ、もう一度こんな遅刻をしたらこれまでどおりおれが朝から晩までくっついてまわるからな、とどうせきき流しを承知でがみがみ云った。
「四六時中見張られてるなんてまっぴらだ、ちょっとは自由にさせてくれって云ったのはお前なんだぜ。それならそれでちゃんと責任ある行動をしてくれなくちゃ困るじゃないか」
「わかってるったら、うるさいなあ、台本頭に入りゃしないじゃない」
「先生とどこにいたんだ、良」
滝は付人にきこえぬよう、低めた声で、しかし鋭く云った。もとより返事を期待してはいない。鏡の中で、良の目が冷やかになった。
あんたに何の関係があるのか、と云っている目だ。結城はこの淋しがりで甘えたがりの少年に、ただやさしくしてやって、遊びに連れていったり、慰めてやったりしていればいいのだから、何の苦労もあるまい。しかし滝はマネージャーとして、がみがみ怒鳴りたて、いやなことをさせ、追いまくって練習だ、巡業だ、時間だとわめきたてる立場なのだ。おれは割をくっているんだと滝は唇をかんだ。
鏡の前で台本とアレンジ譜を見比べている良の顔に、メーク係がうすくドーランをのばしてゆく。うすく頬紅をはき、口紅をつけ、そしてまぶたに少し銀粉のまぜてあるシャドウをさしてゆくと、大きな鏡の中にうつった顔は、みるみる少女のようななまめかしさを増してゆく。きれいだ、と滝は、口惜しくともいつもの苦しいほどの感嘆に胸をしめつけられぬわけにはいかない。
あまりたちのよくない性格だと思っていても、この我儘な、残酷な、いい気な小僧めと心中憤怒することがあっても、良の美しさ、という厳然たる呪縛の前で、滝は時にどんなに憎まれ役の自分の立場を呪い、恨み、やさしくただもう甘やかしてやりたい気持をおさえつけねばならぬかわからない。神話のナルシスを思わせる美貌への讃美はすでに云いつくされたことだが、それでもまだまだ充分ではない、と滝は思っていた。
細おもての女顔はぬけるように白く、幼児のようになめらかな頬をしている。挑戦的な弓形を描いて、きれいな顔に一抹の皮肉そうな翳を与えている眉、茶色の冷たい、どこか夢見ているような甘さをかくした目、きわだった二重瞼で、何も塗らなくてもその瞼はいつも青みがかってみえる。
うっとうしいほど長い睫毛、細い鼻梁、くっきりと上唇がくぼみをつくり、下唇はひどく色っぽくしゃくれてふくらんでいる拗ねたような口もとに至るまで、すべてが繊細な線でつくられたアラバスターの彫刻のようだった。
それに生命をあたえているのは、そのととのった顔をひらめくように変えてみせる、独特な表情の鮮烈さだ。良のどの表情も、誰に教えられたわけでもない生来の強烈なあざやかさを持っている。とりわけ、眉と瞼と睫毛が自在にこちらの胸を苦しくさせるような色っぽい表情を描き出してみせた。
だがいま、それは不機嫌そうにしかめられ、とげとげしい苛立ちを示している。付人が手をかそうとするのを癇性に首をふって立ちあがり、するりとシルクのブラウスをぬぎすてて、苛立たしそうに、さしだされる、持ってきたぶんのステージ衣裳をみな気にくわぬようすでかぶりをふりつづけた。
衣装のこのみにはとりわけて気むずかしく、どの付人もまずこれでたっぷり泣かされるのだ。裸の胸はなめらかに薄くて、ほの紅い双つの乳首と三角形を描く位置に細い金鎖でつるした何かの牙のペンダントが下がっていた。
付人の隆はまだ新しい。なんとなく、どぎまぎしているようである。同性の裸身で目のやり場に困る、などというのは、良でなかったらありえないだろう。しかし良のからだには、なにか、ごく未発達なのにひどくエロティックなものを感じさせる美少女の裸身のようなものが漂っていた。
興福寺の阿修羅だね、と結城が云っていたことがある。いたいたしいくらい、ほっそりときゃしゃな、ほとんど体毛のない裸身だが、骨ぼそでなめらかな肉におおわれ、しなやかなからだつきなので、痩せすぎという感じはしなかった。ひきしまって、野生の美しい鹿かなにかのようだ。
「あのあっちの黒いの持ってきといてって云ったのに。十月につくったやつ」
苛々と良は云った。滝はしなやかな裸身をにらむように見つめながら、覚えず、このからだが先刻まで、あの結城の逞しい裸形の下に組みしかれてのたうっていたのだ、と妖しい思いにとらわれていた。着痩せするたちの結城が、スポーツマンらしいみごとな筋肉質のからだを誇っていることを、前に誘われて良についていった彼のヨットでの水着姿を見て、滝は知っている。目の前の若者の少女のような肢体との組みあわせは、滝の頭をかっと熱くさせる、サディスティックな構図を秘めていた。どんな表情で良は結城に抱かれるのか、どんな愛撫の手順がふたりの秘密の時間に決まっているのか、と考える。それは、身肉に食いいってくる嫉妬でもあった。なぜなら、滝は──男に組みしかれ、唇をかみしめて、顔を汗に濡らしながら苦痛に耐える良の表情を、──抱きよせられるとき、哀願するように、弱々しくあいての胸を押しのけようとする、あいてを逆上させるような可憐なしぐさを、彼自身の腕の中でかつて知っていたからである。だが、それはあくまで、かつて、にすぎなかった。いまの彼を競争者とは、結城も思わぬし、第一滝自身が考えることができない。それはなにも彼が望んで良をはなれたのではない。もしできるなら、いますぐにでも結城にとってかわりたいと激しく願うだろう。
だが彼はスター、今西良のマネージャーなのだ。たとえ、時として目の前に挑発するようにさらされている良の魅力や美しさに拷問されるような苦しさを感じたとしても、彼がみがきあげ、売っている良のすべての魅力は、彼自身のためのものではない。
「早くしろよ。風邪をひくぞ」
胸苦しさにたえかねて、彼は口を出した。
「こっちの黒でいいじゃないか。つくったばっかりだろ」
「だって──云ったじゃない。これ気にいらないって。これだと首が太く見えるんだもの」
「こんな細い首がか?」
滝は笑った。
「いいからこれ着てみろよ。松チャンから黒着ろって、ご指定なんだから」
不承不承、良は付人のわたす衣裳にすべりこんでいる。それは黒の張りのある生地をジャンプ・スーツ型に仕立て、一面にスパンコールがぬいつけてあった。胸はウエストまでV型にあいていて、そこを黒の編み紐でしめ、ウイング・カラーにかこまれた咽喉に金のネックレスをまきつけ、七分袖から出た細い手首には重たい金のブレスレットをつけた。指輪にピアス。なめらかな真白い胸が、紐にしめつけられて、ぞくりとするほどエロティックなものを感じさせる。
「ジョニー、このペンダント、とらなきゃダメだよ」
「あ、これ、いいんだ」
「ダメだよ、このネックレスするんだから。はずしてやるよ」
うしろにまわり、ペンダントをはずしてやりながらのぞきこむ、鏡の中から、妖しい美しい生き物が見つめかえしている。昏《くら》い目だ。冷たく、無感動な表情が、黒いしなやかな猫を思わせる。
黒いドレス、アイ・シャドウ、ありったけの装身具、かれでなかったら男どころかどんな女でさえ着こなすことはできまい、ファンキーなまぶしい装いにつつまれて、良はこの世にふたりとはいない、男でも女でもない、ふしぎな美の化身ともうつる。昏いかがやかしい生物。
サロメだ、といつも滝は思うのだ。それとも、バビロンの、マスカラで顔をくまどった大淫婦、月の女神アシュタルテー、金の冠とかずら、細い少女のようなからだを金で飾ったトゥト・アンク・アモン、或は頽唐期ローマの太陽皇帝、プリアポスの神殿でおどり、すいかずらをからだにまきつけ、十八歳で叛乱軍の刃にかかったヘリオガヴァルス、そうした、≪見られるため≫にあり、ひとびとの驚嘆と讃美によっていよいよ美しく光をはなち磨かれてゆく、傲岸で可憐ななかば狂った、日常の時間の耐え得ぬようなふてぶてしい白い生き物。その美に目をひかれるものすべてに、ありえぬような禁断の妖美な世界の夢を見させる魔法使い、錬金術師。日本でどのアイドル・スターよりも増して気狂いじみたグルーピーを持っている、≪ジョニー≫今西良。
なんという奴だろう、と滝は思い、鏡台に、外したペンダントをおこうとすると、金のブレスレットにまるでいましめられているような、ほっそりした手がのびて素早くそれをひったくった。
「お大事なんだな。先生のプレゼントかい」
滝はことばを呑みこもうとしたが、それはたまりかねたように勝手に口から出た。付人の隆が目をそらす。
良はじろりと滝を鏡の中で見上げ、返事もせずに、ブレスレットの上からその細い鎖を手首にまきつけ、おちないようにとめると、支度をおえて立ちあがった。
「これでいい?」
「いいよ」
「首太くなんて見えませんよ。とっても細いですよ」
付人の隆が保証した。きゃしゃな首が、黒いシャツ・カラーと長いカールした髪、ハリウッドの女優のような重たい金のネックレスにつつまれている。良は眉をよせて鏡の中を見つめ、首をかしげ、ほほえみかけてみた。
「やっぱり何だか気にいらないよ、これ」
「きれいだよ」
「ねえ、こんど黒でね、ビニール・レザーかなんかでもうひとつつくってくれないかな。また北川のママに頼んどいてよ──ジャンプ・スーツで、赤いネッカチーフをまくようなのがいい」
「それまだ二、三回っか着てないじゃないか。それに、また、黒?」
「いちばん、似合うでしょう、黒が」
こいつめ、と滝は思った。心理や感情の特性にかなり驕慢な美少女のそれのようなものが混りこんでいる良は、ぬけるように白い肌を、黒い衣装につつんだときの効果をよく知っているし、それに、滝が黒を着た良をいちばん好きなのもよく心得ているのだ。
「考えとくよ。さあ、急いで」
「今西さん、お願いします」
本番を告げにきたアシスタント・ディレクターが、はっとしたように、ふりかえる良を見つめ、まぶしそうな表情になり、それからあわててひっこんだ。良の口もとにほのかな、得意の微笑がほころびた。
「さあ、行った行った」
「待って、台本みるから」
良の目がちらちらと入口の方を見ている。結城を待っているのが滝にはわかる。ちくりと再び滝の心の最も深いところで疼くものがある。タイミングよくそこへ結城が入ってきた。ほかの出演者が次々に挨拶してステージの方へ出てゆくのには目もくれず、良を見、その目が瞬間に灼くような光を出した。
「きれいだね、ジョニー」
咽喉の奥で唸るように結城が云う。その目で、このきらびやかなきらめく闇を身にまとうたジョニーと、それをひきはがし、その白いからだを押し伏せ、苦痛と、やがて快楽とに呻き声を立てさせるときのかれひとりのものである良とをひきくらべているのだろうかと滝は勘ぐった。良の方はそれで満足したのだろう。目に勝利の誇らしさが輝き、結城の讃美を当然のことと受けとめた。
「急いで急いで」
時計を見て滝は怒鳴った。ADがまた顔を出した。
「今西さん」
「はい、済みません」
良は結城に微笑をみせて、あわただしくステージへ出ていった。むろん滝の方など目もくれない。滝は隆たちが楽屋のあと片付けをはじめるのへ指図しておいて、結城のあとにつづいてスタジオにすべりこみ、良を一番よく見られる場所をさがした。まんなかに、オケをバックに階段式のステージをしつらえ、両側にヒナ段を組んでファンを並べてある、このごろはやりの形式だ。
あたりが暗くなり、ON・AIRのランプがつき、しきりにチューニングを気にしていたギターもようやく静まって、オープニングだ。
バンマスがおもむろに手をふりあげる。耳馴れたヒット曲の前奏がはじまるとカメラがパンして、階段式ステージの上にぱっとライトがついた。
四方から照らし出された光の中心に、良はこころもち首を垂れて立っていた。前奏のおわると同時にゆっくりマイクのコードをさばいて歌い出しながら階段をおりてきて、そのほほえみをうかべた顔を3カメがクローズ・アップでとらえる。
甘い、いくぶんかすれた、よく伸びる声が静まりかえったスタジオを埋めつくしていった。独特の、すぐれて間のいい、舞うような美しささえ感じさせる、ハンド・アクション。
すぐに、世界は良のものだった。耳にその声を追いもとめ、目は良だけを見ている。光の中で、良は美しく、不吉なほどの魔力をはらんで急にそのきゃしゃなからだがひとまわり大きくなったようだった。
と、いって、滝は、決して良をはじめから受けつけない層というのがあって、しかも相当に根強いことを忘れはしない。それはむしろ自然なことともいえた。それはちょうど高価なフォアグラやキャヴィアを賞味しうる人々ばかりではないのと同じことだ。
滝は夢にも、正木きよしのような、「赤ちゃんからお婆ちゃんまで」式の健全路線を良のために望んでなどいなかった。それは良の持味と魅力を失わせるのにひとしい。
そしてあのきちがいみたいな奴だの女みたいな奴だのと良を嫌う層のたしかにある一方で、ジョニー? わるくないとか、なかなかいいとか、そのていどの関心でとどまってしまう人々があまりいないというのもたしかなのだ。
受けつけることのできる人々にとっては、良は異常に強烈な麻薬である。それは良のポートレートを抱いて自殺した少女や、リサイタルで失神したファン、などという良を取巻く神話が証明している。
良には、無関心でいることができない。おだやかなご家庭の団欒には良はふさわしくない。グルーピーと化すか、激しく反撥するか、どちらかだけだ。こいつを愛してしまったら致命的なのだ、という思いをこんなにまざまざと実感させる存在もないだろうと滝は思った。なにかというと、ミック・ジャガーにたとえられる良である。
一曲歌いおわるや、スタジオを埋めたファンたちが拍手と嬌声をあびせた。
「ジョニー」
「ジョニー」
司会者がにこやかにあらわれて、何やら歯のうくようなお世辞を云いはじめる。良はつまらなそうに、口もとだけの笑いをみせて、生ま返事をする。マイクをもちかえて、右手を髪につっこむと、ちかりといくつもさした指輪が光る。そしてオーケストラがまたはじまり、また、歌。
──それは滝にとっても手馴れた、夜ごとの神話、馴染んだ祭祀にほかならない。良はくつろいで、自信にみち、きれいだった。世界を魅了し掌握するために、光の中に立ち、そしてそうしているものの確信。
滝はとなりで結城修二が低い無意識の嘆息を洩らすのをきいた。彼の顔は緊張し、その目は良を、ひたすら良の一挙手一投足を追っている。それは呪縛され、魂をこの魔性の天使に奪われたものの覚えず洩らした心中の苦悶、灼けつくような、同時に戦慄するような陶酔にみちた苦悶の声であるともいえた。
滝は歌う良から目をはなし、鋭い目で結城をうかがい見た。結城から気づかれていないと安心している一瞬、サングラスと闇にまぎれた彼の顔から、有能で人あたりのよいマネージャーの穏和な仮面は、あとかたもなく剥げおち、彼の顔はおさえきれぬ激情に、殺気にも似たはりつめた炎を放っていた。
それはまぎれもない、流行歌手ジョニーの敏腕なマネージャー──滝チャン──ではない、かつて新人発掘の神様といわれ、その辣腕と冷酷非情とで、伝説にまで高まった、一種かんばしい悪名につつまれていた滝俊介のほんとうの顔である。
芸能界の最大勢力、タレント王国といわれ膨大な版図を誇る尾崎プロダクションの、デューク尾崎の右腕といわれた男だ。
花村ミミ、中山ルナ、桜木曜子らのスターを育て、その目のたしかさと売りのうまさが尾崎プロをここまで発展させたといわれた。一見やさ男のように見えるが、鋼のきらめきをかくした目と、どうかした拍子の怖いほどのすごみをみせる表情が、この男の並大抵でないしたたかさを教える。
滝にさからって葬られたタレントやプロデューサーもまた三、四人ではきかない。その気になれば明日からでも独立して自分のプロダクションを持てる、いや、その手がけたスターたちが全員滝についたとしたら、さしもの尾崎プロをつぶすことだってできると云われた。
その滝俊介が、以後一切のプロデュース活動をやめて、今西良の専属マネージャーになると云いだしたとき、幕うちの誰もが耳を疑った。マネージャーといえば要するに雑用屋であり、付人のまとめ役、四方八方にぺこぺこする役、下手をしたら楽屋掃除にスキャンダルのしりぬぐいと、これまでの滝の地位とはくらべものにならぬ待遇だったからだ。
良はデビュー曲『裏切りのテーマ』が大賞を受けるというはじめから栄光と伝説につつまれたスタートをきって、またたくまにスターダムにのしあがったとは云いながら、そのときはまだ、最初がよすぎたという危惧で、どこまでつづくかと一発屋視するものも多かった。デューク社長の親友だとはいえ、いったんマネージャーまでさがってから、良がうまくゆかなかったときそれではと、おいそれとプロデューサーに戻るというのもできない相談である。
「わかってるのかい、滝チャン、お前さん、自分の云ってること」
「わかってますよ、社長」
「お前さんの、どこのプロからもうらやましがられてる地盤だっていっぺん手ばなしたらアウチなんだぜ」
「ちゃんと、適当なの──赤木か村田にでもわけてやる手筈にしてますよ。よそにゃわたしゃしませんよ」
「それにしたって、何も全面的に手をひかなくたって──兼業でいいじゃないの。さもなきゃ、こりゃ、おれとお前さんだから馬鹿を承知で云うんだが、もう前からいわれてるんだ、独立して事務所を持ったらどうなの。ジョニーひとりだって、ちゃんと商売になるじゃないか」
「冗談いっちゃ困る。あんたが、良を手放すと思うかね、デューク」
「そりゃまあ──しかし滝チャンならいくらだって……」
「もう、いいんですよ」
滝はおだやかな微笑をみせた。
「もう決めたことだ。あんたは笑うかもしれないけれどね、デューク、おれは良にとことん賭けてみますよ。フロックだなんていってる奴ら──もう二年したら、見ててごらん、良は押しも押されもしないトップ・スターにしてみせるから。むろん、ただのマネージのつもりはない、いわば音楽からコスチュームから、売り方、仕事の選び方、ショーの構成まで、これまであんまり例のないかたちだが、総合マネージメントってつもりでやらして貰いますよ。まあ見てて下さいよ。おれが変るわけじゃない──名前が変ろうと、対象をひとりにしぼろうと、おれの流儀は変らない。男は、一生にいっぺん、生命を賭けて作品として完成させてみたい素材にぶつかるんじゃないですかね」
「そこまで、ジョニーに惚れたのか」
「惚れましたね」
デュークは声もなく唸り、そして折れた。そして、これまでに例のない──せいぜいブライアン・エプスタインぐらいの──徹底的なマネージメントを滝がひとりでひきうけることを認めてくれた。デュークはそれで済んだが、事情通や週刊誌すずめには、どこへいっても、いぶかしそうな顔で、なんでまたふいに、ときかれた。
その口調には、何を好きこのんで雑用屋になりさがるのか、というほのめかしがこもっていたが、滝は例の心底を一切のぞかせないおだやかな微笑をうかべて、すべての疑惑やかんぐりや驚きをやりすごした。
そしてやがて滝の神話も忘れ去られてもう二年になろうとしている。そのあいだに滝の敏腕はいよいよ深く静かに発揮されて、デビュー後三年にしてすでにトップ・スター今西良の人気は不動のものになっていたし、それがますます増してゆくばかりだろうということを疑うものはもう誰もいなかった。
大賞曲『裏切りのテーマ』の五カ月連続ベストテン内、三カ月連続ベストワン独走、三曲つづけてのミリオン・セラー、プレミアのついたポスター、東京プラザ・リサイタルで三万人動員の大記録、などと、すでに輝かしい神話にことかかない、良のめくるめくような、神秘的な、スキャンダルにもまたことかかない華麗な栄光のうしろに、ぶきみな、滝俊介健在のあかしをみてとるものも、おそらくあったことだろう。
滝はスキャンダルを、全部はもみ消そうとはしなかった。あるときはこちらから仲のいい芸能記者にネタを提供してセンセーショナルに書かせた。利用できるものならば、犯罪ですら滝は利用しただろう。
そして、彼の思いどおり、スキャンダルもまた、ただ≪ジョニー≫という甘い名前のひびきに、妖しい神秘的な輝きを添えたにすぎなかった。
おれの野望は、日本にほんもののスーパースターをこの手で生み出すことだよ、ノムさん、と滝は、「今西良の暗い過去──そして今、訣別の涙を昨日に!」といういいかげんなタイコ叩きをして貰った、元『週刊トップス』の記者で今はフリーの野々村に云ったことがある。それは何のことはない、良がジャズ喫茶にごろごろしているようなちょっとぐれた少年だった、というだけの記事なのだが、それで『週刊トップス』の売りあげは百五十万台まではねあがったのだ。
「滝さんは、アラン・ドロンにお熱だったっけね」
野々村は笑いながら云った。
「たしかに、似たところがあるな、良ちゃんは、ドロンとさ」
「まだまだ、だな」
しかし、そのへんにごろごろしている並のスターでない、≪スーパースター≫へ、そしてやがては世界へ、という滝の野望は、たしかに一歩一歩じり押しに進んでいる。
美しい悪魔、魔性の天使、どんなスキャンダルや乱行、それどころか、殺人事件の黒い影にすらそこなわれぬ、いや、そのような暗いかげりすらもそのあやしい魅力に変えてしまい、女だけでなく男たちをも恍惚とした麻薬の陶酔境、この世ならぬ白日夢にさそいこんでやまない、そんな存在、スーパースター良になら、できる、と滝は思っているし、そのためにすべてを賭けて悔いはない。
そして、そうであるかぎり──彼だけがその夢を実現させうると知っているあいだは、良は彼を憎みながらもはなれ去ることは決してあるまい。
(良は、おれを憎んでいる)
それもまた滝は知っていた。それどころか、
(あるいはそうしむけたのはおれ自身かもしれない)
滝はそう考えている。結城とのことがあってから、それは表面化している。
結城──滝は、暗い火をひそめた目を結城の端正な横顔にむけた。
良が結城と親しくなったのは、五枚目のシングル盤『明日なき恋』の作曲がすったもんだの末山下国夫から結城にかわり、そしてそれがミリオン・セラーになって次の『甘い関係』そしていまヒット中の『ラブ・シャッフル』と、三曲結城修二─中村滋コンビがつづいたからである。
次の曲も結城が書くのがすでに予定されている。まだ当分つづくだろう、と滝は思っていた。まして、すでに幕うちなら誰でも知っているほどに、彼が良に首ったけにのぼせきっているのであってみれば。
(これで半年か? もうそんなになるかな──良としては、つづく方だな)
滝は良に関するかぎりすべてを知っている、という自負がある。その気になれば一夜かぎりの関係を含めて良の数多い情人を、男も女もすべて数えあげることもできるだろう。
その中の何人かは公然のスキャンダルとして書きたてられた。結城のことも、何もことごとしく書きたてられるのを待たずとも、よほどの盲目か鈍感でないかぎり、どこへゆくにも一緒の、守るようによりそって立つ彼と良とを見ればひと目でわかるのだ。
だがそれは良を傷つけはしない。良は年上の頼もしい立派な男に、兄か、父のように守られ、その愛を我儘にむさぼっているのがいちばんふさわしい。
或は美しい、いくぶん倦怠の皺がその美貌に忍びこむようになったぐらいの年上の女性か──年相応の初心な少女は最も良に似つかわしくないし、ふしぎと一度も、そうした噂されてもおかしくないようなあいてとは、良はスキャンダルになったことがない。
(公然になったのは大女優の高見沢慶子と、白井みゆきと──あれは二十一上だったな──それに映画スターの、佐伯真一と──)
決して良は傷つかないのだ、と滝は思った。どんなに素行が荒れても、良の美しい顔はふしぎなくらい、手をふれがたい純潔な透明さを失わない。若さのため、とばかり云うことはできないだろう。
仮に現在の恋人である、その美男の瀟洒な作曲家を良と並べ、一対として眺めてみても、それはただローマの少年皇帝と寵臣との一対を見るような、美しい憧憬と驚嘆をしか呼びさまさない。
魔物め、と滝は光の中に、すべての息づかいさえひそめた人々の陶酔の目に支えられて歌う良を見やりながら思った。美しい、許しがたい、ジョニー、おれの作品、と考える。この美しいけしからぬ不道徳な生き物を見出し、磨きあげ、つくり出したのはおれだ。だから、ジョニーはおれのものなのだ。
誰がどのように良を恋し、愛し、そのからだを通りすぎようとも、決してその絆だけはおれから奪うこともできない。光の中の良、彼を憎んでいる、まばゆく、なまめかしく、恋の歌と別れとをうたう、少しかすれた声、セクシーなアクション、リズムにからだの中からふり動かされているようなその動き。
おれがつくったのだ、と滝は思い、そして疼くような誇らしさと胸にくいこむいたみでもって、三年前を、良との出会いを思った。
*  *
(あの日から、すべてがはじまったのだ)
ひとの生には、そうした、あとでふりかえってひそかに宿命《フエイト》の見えざる手に驚嘆するような瞬間がいくつかは用意されているものかもしれない。
おれと会った日のことを、良は覚えているだろうか、思い出すことはあるのだろうか、と滝は時にいぶかしむことがある。
ほとんど家に帰らず──良の家庭は複雑で、早くに父と死に別れ、病気の妹や二度目の父親がごたごたばかり起していた。良がスターになってまもなく母が死んでしまってからは、事実上良は家庭というものを知らぬ身の上になっている。しかしもともと肉親の情のうすいたちでもあったのだろう。親の方も心配するでもない、というぐれぬ方が不思議な育ちで、喫茶店にたむろしては学校をさぼり、喫茶店がスナックになり、音楽喫茶にかわり、高校もただ籍をおいただけで朝から晩まで音楽喫茶でいわゆる「ごろまき」連中に妙に可愛がられて、ギターをおそわったりしていたのだ。
やがて当然のなりゆきとしてアルバイトでコーヒーを運んだりするようになり、そのままいったら結局いいところで三流のバンドにでももぐりこむか、わるければ本格的にぐれてやくざな道に踏みこむしかないところだった。
滝は十七になりかけの良とはじめてあった前後のことを細かい点まではっきりと覚えている。
『アン』というその音楽喫茶の外装まで目にうかぶ。それは全然、滝が問題にするにもあたらないような、下町のささやかな店にすぎなかったのだが、偶然そこへ入っていったのではなく、ライヴ・スポットというのもおこがましいその店に、かつて彼が手がけ、そして見すてた沢緋沙子が出て歌っている、ときいて、たぶん嗜虐と、そして憐憫とから、見に出かけたのだ。
もっとも今でも、滝は、もし緋沙子に見こみがあれば、或はあの日良に会いさえしなければ、彼女を拾いあげカムバックさせてやったはずだったと考えている。
緋沙子はかつて彼がロック・コンサートで目をつけ、ポップス路線で『夏の誘惑』を五十万枚売った女だが、きれいなだけで歌唱力がないのだからと滝がおさえておいたにもかかわらず、ちょっと日本的な容姿にだまされた若い赤木がどうしてもと頼んできて彼にプロデュースをゆずり、赤木の狙った演歌色がみごとにはずれて消えてしまった。
自分が売ったら、といまでも思っているのと、はじめてきくようなそんな小さな店でピアノの弾き語りをしているというみじめさが、悪趣味は承知で滝を『アン』にむかわせたのだ。
彼が行ったとき、ちょうど緋沙子はいなかった。時間制だという。待つつもりでウイスキー・サワーを頼み、それを運んできたのが良だった。
いまでも彼はその瞬間の驚きを覚えている。
そして、おれがいなかったら良はただの、小ぎれいなぐれた弱々しい若者でおわっていたのだ、と、未加工の原石の中に輝かしいダイヤモンドを見出し得た自らの眼力をひそかに誇らしく思うのだ。
そのとき良は、はやりのリーゼント・スタイルにして、野暮ったいセーターを着、小生意気な反抗的な目つきの痩せた少年にすぎなかった。
もっとも、不良仲間からは、雰囲気がジェムズ・ディーンに似ているというので、キャル≠ネどとも仇名されていたらしいが、いまの滝にとっては完璧な美貌を誇っている良でも、オール・バックにかきあげた似合わないヘア・スタイルと不良少年の暗さがだいぶん、もともとの素材のよさを割引いていたのだ。
だが、──滝をどきりとさせたのは、その痩せこけた少年の、無表情に彼を見かえしていた目の、ふしぎな美しさだった。
拗《す》ねたような口もとがいっそうそれをつよめる、不幸と投げやりさとわけもない不満の中でだまされ、虜囚にされた小動物のような表情──それはこうしたぐれかけた少年たちには珍しくもないものだったが──をみせている顔のなかで、切れの長いふたつの目だけが、妖しく美しかった。
それはいまの良のそれとまったくかわっていない、外の世界など何ひとつ見てはいない、自らの美しさの中でまどろむナルシスを思わせる、冷たい、そのくせ夢見るような目だ。滝をつきぬけて自分自身の内部に戻ってゆくような目。
滝はどきりとし、ついでその原因を考え、考えあてた。彼は、それと同じ目を知っていた。それが、冷たい青灰色の、アラン・ドロンの目、彼が長いあいだ恋にひとしい気持を抱き、壁にそのパネルをかけていたフランスの美貌の俳優の目であり、さらに、その目を評してだれやらが、麻薬中毒患者と同じ目だと云ったのだ。
この子は麻薬中毒かな、と滝は思ったが、肘までまくりあげた袖の下の、ほっそりした手にも別にそれを証拠だてる注射針のあともないし、他の徴候も見わけられなかった。
滝はぶえんりょなくらい長すぎた凝視をそらし、注文品を受け取ったが、そのとき良はゆっくりとまばたいて、冷たくはっきりとした侮蔑のまなざしで滝を見た。
それはあたかも夢見るようにぼやけていた風景が突然ピントがあった、というようで、しかも、かれはわけもなくじろじろと自分を見つめた得体のしれぬ客である滝に、するどい拒絶をかえしてきたのである。
その瞬間におれは恋してしまったのだ、と滝は思っている。
白熱する拒否の殻をまといつけた純潔なウェスタの巫女、その良の冷やかな拒絶と敵意にあった瞬間に、滝はこの少年を征服し、屈服させたい、という無意識の激しい渇望のとりこになっていたのである。彼は鋭い目で、良の動きまわるさまを追いもとめた。そのときの滝には、どうしてそんなにこの少年に興味をひかれたのか、まったくわかってはいなかった。
ぐれた少年は鋭敏で、だんだんその滝の目に苛立ちはじめたらしく、それが表情の動きで手にとるようにわかるのだ。
良の表情の鮮烈さが、なお滝の心をひいた。見つめつづけると、良は、からみついてくる滝の視線をたちきろうともがくように激しいしぐさで立ちあがったり、席を移動したりした。滝はいよいよ興味をそそられ、同時にいくぶん意地になって良を追いつづけた。
あとで良は滝に、それまでも二、三回そんな誘いにあっていたので、てっきりまたホモにコナをかけられたのだと思い、しかしその一方でいつもの連中とちがってひどくあんたがこわくなったんだと云った。
「だって、ずいぶんやくざっぽく見えたしね。あのとき、コールテンのジャケット着てたでしょう。かたぎに見えなかったんだ──ヤー公のそっちのやつはこわいって、いつも話できいてたからね」
あれが自分と良の、長い、戦いとも執着とも愛とも、奇妙にその混淆したものだともいえる関係の最初の火花だったのだと滝は思う。
良はなんとかその重圧をはねかえそうとしているようだった。いつのまにか、顔がこわばり、激しい表情になっている。蜘蛛の糸を逃れようと悶える蝶のように、少年は叩きつけるように背中をみせ、しかしまた奇妙な気がかりさからふりかえってみずにはいられず、滝の目とぶつかってははっとして目をそらした。
滝は奇妙な嗜虐的な気持がうごめき出すのをこのゲームのうちに感じはじめていた。疑いもなく少年は気味わるがり、不安になりかけていた。
良はいまでも無意識のときやっているが、そのときは滝にひどくこの少年の可憐さを思わせた当惑したときの癖で、壁に背をもたせたまま、左手の親指を赤児のように口にもってゆき、神経的に指をかみながら睫毛をあげて、滝をあきらめて見つめかえした。
ぼくを苛めてどうする気なの? と哀願しているような表情がうかんでいた。その思いがけぬ可憐さに、ふたたび滝はどきりとした。
何がなし、これはたいへんなもんだぞ、という胸騒ぎがしはじめたのだ。いつのまにか、沢緋沙子のことを彼は忘れていた。自分の(これはモノになる!)という第六感を滝は信じている。それは理屈ぬきの直感だが、それこそが滝を新人発掘の神様といわれるようにさせ、喫茶店のウエイトレスだった中山ルナ、映画を見た帰りだった花村ミミ、を見出させたものだ。
おれは予知能力者なんだよ、とよく冗談を云ったが、心の中では滝は案外それをすべて冗談とも思っていなかった。滝は目をそらさず少年の哀願するような目をうけとめ、すると良は目を伏せて、とうとう控室と札のかかっているドアの向うに逃げこんだ。
滝は立ちあがり、そのドアを押した。鍵はかかっていなかった。滝がせまいその更衣室に入ってゆくと、良はほんとうに恐怖にかられ出した小動物の、追いつめられた目で彼を見た。自ら罠にとびこんでしまったと悟った表情だ。滝はゆっくりと少年を眺めた。少年が怯えているのはわかっていたが、それは彼に奇妙な、これまで味わったことのないひそかなサディスティックな快さを感じさせていた。
滝は故意に何もいわず、じっと少年を検分していた。大柄な方ではない。痩せているので、なお小さく見える。
「あんた」
最初に緊張した対峙に耐えきれなくなったのは良の方だった。かれは怯えをはねかえすように、むりに反抗の火をかきたて、ふてぶてしく云った。
「何か用なのかよ」
滝ははじめて良の声をきいた。それは彼の心にかなった。歌ではかわるかもしれないけれども、甘くてかすれた、男にしては高めの、快い声だ。
(どうせ、近ごろのジャリタレなんざ、音痴だろうが、関まさみみたいなイヤな声だろうが、ルックスさえよきゃキャーキャー云われるんだ)
「そんなしゃべり方はよすんだね。きみには似合わないよ」
いささか気障《きざ》に滝はいい、びっくりしている良に近づいて手をのばし、びくりとする少年の髪をいきなりばさりと額におろした。うしろにかきあげてパーマをかけていても、ポマードはつけていない、性のいい髪がさらりと指に快く流れる。額に髪を垂らした少年の顔は、驚くほど変った。顔の欠点が目立たなくなり、少女めいた顔になった。
「これでいい。この方がずっと似合う。頭、のばしなさいよ。きれいになるよ、きっと」
良は目を瞠り、滝を見上げたままだった。驚きのあまりとっさに反抗的な態度さえ忘れてしまったのだ。
「あんた──何なの?」
やがて良はおずおずときいた。滝の取りだした名刺の肩書を見た良の目はいっそう丸くなった。
「尾崎プロダクション?」
「知ってるだろう」
もう、この子はおれの手中にした、と滝は思ったのを覚えている。いつにない胸のたかぶりとともに、彼は細いたよりない首筋と、またその息吹を感じさせるにとどまっている美しい目の不良少年の中にいまのジョニーを見た。
良の目の中には、不信と疑惑、警戒と驚嘆、さまざまなものがせめぎあっては消えた。反抗、冷淡さ、激しさ、可憐さ、甘え、淋しさ、もろさ──良はそのすべてを持っていた。
この子は、ほんとうは、物凄くきれいなのだ、と滝は感じた。逃してはいけない、という理屈ぬきの思い、そして、しかしもうおれのものだ、という猟師のこみあげる歓喜。
「きみの名前は?」
「今西良」
「良くんか」
滝はとっておきの、人を信頼させる微笑をうかべて良の頭に手をおいた。良がびくりとする。
「いい名だ。きみは、歌、好きかい」
「……うん」
「一回、きかせてほしいな」
それが、良との出会いだった、と滝は光の中、歌う良を見ながら思いかえす。そう云いながらすでに滝の心の中ではさまざまな段取りがかけまわりはじめていた。
今西良──良、美しい名だ。簡潔で、印象強く、どことなく甘いひびきがあり、いかにもこの少年にふさわしい。芸名を考える必要はないだろう。
どうせルックス次第だ、ジャズ喫茶にうろうろしている少年なら、根っからの音痴ということもなかろう、その程度で充分だ。それよりは、どことなく少年の純粋さと美しさをうっとりと感じさせる、冷たい瞳、長い睫毛、清潔な微笑、が肝心なのだ。声に魅力があれば云うことはない。
(少し、小柄だが、均整はとれているし)
曲は、この感じからして、高柳昭あたりか、バタくさいちょっとセンチな女の子受けのするものを書く山下国夫へんか、と中堅どころを早くも算段してみる。そして滝がちょっと妙な微笑をうかべたのは、山下国夫のあるくせ≠思ってのことだった。
滝が良の歌をきいたのは、翌日の夜、『アン』で、客のあまりたてこまぬときだった。良はギターを弾いて、流行のフォーク・ロックを歌ったが、すっかり堅くなっていたし、お世辞にもうまいとはいえぬ、素人の発声だったが、そんなことは承知の上の滝は大体いけると踏んだ。
何よりも、甘い、きれいな声をしているのがいい。音痴ではないし、弾きながら足で拍子をとっているのをみるとリズム感もたしかなようだ。
良が真赤になりながらギターを持ってステージをおりてくると、もう良が尾崎プロのスカウトに声をかけられた、というニュースはごろまき仲間に知れわたっていてわっと滝と良をとりかこんだ。
「いいじゃないか」
滝は満足して良の肩を叩いた。
「いけるよ、きみは」
「な、すげえや、な」
「おれ前から思ってたんだ、良ってやれるってさ」
「カッコイイ」
「うん、ジョニーうまいもんな」
「ジョニー?」
滝はききとがめた。
「仇名なんです」
良はなお赤くなっている。
「その──何となく」
「ジョニーか」
それもいける、と滝はふと思い、そのことを心の隅にしまいこんだ。良の目をのぞきこんで彼は云った。
「ぼくは、花村ミミと中山ルナと竜崎光彦を見つけた人間だ。そのぼくが云うんだからまちがいない、きみは、やれるよ。どうだい、ためしに、ぼくに──そうだな、二年間でいい、まかせてみないかね。きみを誓って、スターにしてみせる。ぼくは自分の直感を信じてるんだ。きみは、まかりまちがっても竜崎光彦ぐらいにはいくよ。どうだ、やってみないか──どうせ、高校、行ってないんだろ?」
「うん──だけど……」
「ぼくが責任をもってきみを預かるよ。お家の方には……」
滝はふいに、仲間の少年が妙な顔をしたり、わっと笑ったのをいぶかしんだ。良は目をあげて滝をにらむように見た。昏い火がかれの稚い顔をあざやかにいろどった。
「家なんかあるもんか」
「きみ……」
「おれは、おれひとりでやってきたんだ。自分のことは、自分できめるよ。もう、決めたよ。あんたにまかせるよ」
「今西くん?」
滝はふいに激しくなった良の表情を鮮烈に見ながら、同時に何か暗いものの翳を見てとった。だがそれはむしろ滝にとっては恰好な材料だった。
「やってみるかい」
「好きにしたらいいよ」
良は滝をまっすぐに、挑むように眉をつりあげて見かえした。滝ははっとした。捨てばち、というのではない。良にとってもそれは夢のような──複雑な家族と不良仲間とわけもなく喫茶店にたむろするような日々に突然おとずれた夢のようなチャンスだったのだ。
しかし、滝を見かえした良の目の中に、彼はなにかふしぎな、彼の心を激しく燃え立たせるようなものを見た。挑戦、といってはそぐわない。良は彼にまかせようと云うのだから、しかし彼にとってやはりそれはある種の挑戦だった。
突然おとずれてかれを別世界にいざなってゆこうとする見知らぬ男への、こいつがおれを変えるならば、どんなふうに変るものなのか、とことん見とどけてやろう、という醒めた目。
身をゆだねると云いながら、それは従順と微妙に色調を異にしていた。それは滝の知っているどの彼の掘り出したタレントにも彼が見たことのない奇妙な冷たさだった。
ルナもミミも、香澄マリも竜崎光彦も、はじめは信じかね、それから有頂天になり、滝の前にひざまずかんばかりになった。彼は原則として自分のプロデュースする歌手にはとことん惚れこまねばならぬと考えている。作る側が惚れることができなくては、ファンを熱狂させることなどできはしない。その原則に従って、彼は手がけた歌手のほとんどと二、三回は必ずベッドまでいっているが、大抵の場合はほのめかしもせぬうちに向うの方から誘ってきた。感謝もあり、からだでしっかりと滝を味方にしておこうという打算もあるだろう。
ルナのように、ほんとうに滝に恋してしまった女もいる。美少年歌手の竜崎光彦もまた、滝が車をホテルに乗り入れたとき、わかっていたという媚を含んだ目で見上げ、滝の愛撫に身を任せた。香澄マリもためらいなく滝のものになった。かれらの愛はたやすくつみとれる果実だった。そしてかれらの心も──滝は従順と、むしろ自ら進んでの屈服、全面降伏に馴れていた。
その彼に、良の冷たい目が思いがけず新鮮だった。同時に、少し不可解で、また、気にさわった。たかが小生意気な小僧じゃないか、という心がある。そんな、妙な目をしたって、どうせおれが右といえば右、左といえば左をむく、おれが舐めろといえば尻尾を振っておれの足でも舐める人形になるのだ。つまらぬ意地をいつまでも張れるか見てやる──そんな、むしろ彼の方が嗜虐的な意地に捕えられているのに、彼は気づかなかった。
だからはじめから、滝と、良との関係は、滝のすべての思いにもかかわらず、微妙な意地と反撥、屈服させようとするものと、その手をすりぬけて涼やかな拒否をかえすものとのひそかな緊張をはらんでいたのだ。
そもそもの二人の出会いから──あえて云うならば、良の従順の中にひそんだ冷淡さと、何をしてもこの心にふれることはできまいとひとり鎧っている透明なガラスの殻に守られたような拒否、それこそが、滝をして良に目をつけさせ、すべてを良に賭け、プロデュースをなげうって良の専属マネとなるまでに良に惚れこませたのだといえる。この少年を彼に完全に屈服させたい、と彼は希った。
そして、彼自身は意識せぬ心の奥ではそれと同じ激しさで、良だけは彼にたやすかったマリや光彦と同じでないことを、すなわち彼に屈服してこぬことを願ってもいたのだ。彼にまかせると云いながら静かに透明に彼を見かえした良の目に見入り、いつかこの小柄な少年を抱いてやろうと滝は考えていた。それは欲望というよりは嗜虐的な、白雪を踏みにじりたい子供の怒りに似た思いだったのを、滝は覚えている。
良はそのときふと目を伏せた。或いは彼の目の中に良はじぶんをねじふせ、汚すことを望んでいる黒いものを予感したのかもしれない。
だがそれは滝の思いすごしかもしれなかった。彼が、早速ついて来るかときいたとき、良は黙って素直にうなずき、当座の荷物をまとめるために喫茶店のロッカーへいったからである。
良を、その夜、滝は連れて帰って自分のマンションに泊めたが、まだ良を逃してはならぬという懸念から、良に手をふれはしなかった。
『アン』を、おそらくもうおとずれることもあるまい小さな喫茶店を、良を連れて出ようとしたとき、滝は、ふと視線を感じてふりかえり、そして沢緋沙子の青ざめ、こわばった顔を見た。かつて彼に見出され、売れずに消えていき、そしていま奇怪な運命の手によって滝と良をひきあわせ、彼女自身はついにもしかしたら再浮上のチャンスになったかもしれぬ滝のおとずれを失ったのである。緋沙子の目は暗い炎に燃えていた。
おれを憎んでいるんだろうな、無理もないが、と緋沙子の目をうけとめて滝は思った。彼女とも、滝は寝ている。しかし別に心のいたみや、感傷を感じるようなことはなかった。そんなことをしていてはこの商売はできない。
一年に三百人ものタレントの卵が仕立てあげられては消えてゆく。しかも幸運にもデビューできたかれらは他の一万人はくだるまい志望者にとっては憧れの的なのだ。本当に売り出してスターの座をつかんでゆくのは一体かれらの何百人にひとりか、いや、何万にひとりか。
だが良はそのひとりなのだ、おれがいるからには、と滝は思った。立ちどまった彼をいぶかしむように良が見上げる。滝は良に微笑をみせ、歩き出した。緋沙子の憎しみと怨みの目が、かれらのこのステージの光の中につづいている、良と彼との道への、唯一の見送りだった。
そのあとは、良にとっても、夢の中のように過ぎためまぐるしい画面だったにちがいない、と滝は思う。まず髪型を変え、プロの歌手たちのデザイナーを一手にひきうけている北川のママ≠ニいう女傑にさんざん相談した。北川のママはひと目で良の美しさを見抜いた。
「凄い子、さがしたわね、滝チャン。これは、いけるわよ」
「だろう、ママ?」
「もちろん、前髪をわけて、それでもっとのばさなくっちゃね。王子さまスタイルにするのよ、うしろを段カットにして、ゆるいカールして、少うしだけ脱色してやわらかい感じ出して。そうね──とても繊細な顔だから、どんなにでも効果的に手をかけられるわよ。かなり女の子っぽいコスチュームでいいんじゃないかな? チュニックにパンタロン──そんなとこね、まず」
良は、髪をいじりまわされ、顔をドーランをためしたり、化粧してみたりとかまわれ、いろいろな服を試着させられるのが、奇妙なことに、明らかにかなり快かったようだった。ぬけるように白い頬に血の色があざやかにさし、目がうるんだ輝きをおびて来、素直になされるままになりながら、うっとりと鏡の中を見つめていた。それはふしぎに滝をどきりとさせた。
ふと彼は良の中にひそむ少女の心理、あるいはむしろそれは美少年特有のものかもしれないが、それを見たと思った。やはりこの子は売れる、と彼はそうして目をうるませ、頬をほてらせた良の驚くほどなまめかしく見えるのに、目を瞠って考えた。
それは北川のママも同じ思いだった。女のコみたいね、あんた、と笑ってからかいながら、その目はまぎれもない驚嘆をみせていた。そして、プロダクションの上層部に見せ、歌をきかせ、その結果も上々だった。
良は、まるで当然のこと、前から知っていたことのようにすべてを受け入れた、と滝は思い出して考える。良にはなんの野心も気負いもないようだった。従って良には不安も、ものおじたところもなかった。
いや、たしかにそれはあったはずだが、それはごく上っつらだけの表情で、あのガラスの中の良、ほんとうの良の心の深いところは、変ってゆく、流されてゆく自分を、あの滝を見かえしたのと同じ冷たい興味深そうな目でじっと眺めていたのだ、という気がしてならない。
良は、どこにいようと、どうしていようと、良なのだ。決して変らぬ、ふれえぬ、ダイヤモンドのような核が良の中にある。こんなやつは他にいはしない、と滝はひたすら良を見つめながら思った。その思いはいまもなお変らない。
彼のとなりで、結城修二が身じろぎして、彼の物思いをさました。CMフィルムに切りかわったのだ。
「いいね、ジョニー」
「お蔭様で、『ラヴ・シャッフル』も二十日すぎにはミリオンを出すと思います」
「そしたらひとつお祝いのパーティーといくかな」
結城の目は笑っている。この男は、おれと良のことを知っているのだろうか、良が結城に告げただろうか、と滝はふと思った。そうだとしたら、結城は彼を憎むはずである。だが、やはり告げてはいまい、と思いかえす。それは良にとっては、思い出すのもいやな酷い記憶だったはずである。良が結城を愛しているならなおさら云い得ないだろう。
だがほんとうはどうなのだろう、と滝は思った。良は結城を愛しているのか。誰かを愛している良、は滝には考えられない。良にひとを愛せるとは思えない。良が結城に愛されるのは耐えられる。だが良が、あの冷たい純潔なジョニーがひとを愛する──そんなことはあり得ない、あってはならない。だがもし──
滝はふと戦慄して結城を見た。結城の穏やかな物腰には、何の非も読みとることはできない。だが心底では? 滝は疑う。ひそかな緊張の底流をはらみ、彼らは黙って並んで立ち、光の中で再び良の歌声がはじまるのを待っていた。
[#改ページ]
滝の、良との最初の夜の記憶は、残酷なものだった。最初に考えたようには、滝は良を抱かなかった。むしろ、そうし得なかったのである。発声練習、曲を頼んだ先生がたへのひきあわせ、衣裳の仮縫、とあわただしい日々の中で、避けがたく良は滝を頼り、いくぶんなついて来るようすをみせた。
もともと、彼の思ったとおり、その冷たい目にもかかわらず──或はそれとぴったり表裏をなしてというべきか、良は淋しがりで、すぐひとにもたれかかるようなところがある。複雑な家庭で、人の愛、わけても父親に餓えているのだが、そのためにかえって愛憎がむらになっている。
この少年をなつかせるにはただやたらと甘えさせてやればいいのだし、ところがそれでこっちが見かえりを期待したら失敗するのだ、ということを滝はすぐに呑みこんだ。
(まるで──猫だ。猫にそっくりだ)
そんな勝手で冷淡な、小面にくい思いを何度させられても、それすらも魅力になってしまうような、たまらない可愛らしさを良は持っている。まったく、猫そのものである。
何を考えているのか、まるきり見えすくところと妙に不可解なところが混淆して、そのどちらも、いつ、どうしたらあらわれるのか、知ることができない。良にはなつかれているからといって油断はできない。
「あのコ、打ちとけないコだね、滝さん」
滝に良の売り出しをまかされることになったマルス・レコードの販売部長の喜多はそう云った。しかし、デザイナーの北川夫人はいまから良の大成功を予言し、ファン第一号だと公言して、良も彼女になついているらしい。
気にいらぬやつには、良は、ぴしゃりと心の扉を立ててしまって一歩もよせつけないのだ、と滝は感じた。
(だが、いまにそれでは済まなくなる)
良には、奇妙な投げやりなところがあって、別に気にかけるでもなく云われるままにレッスンに行き、発声や踊りを習い、滝の云うとおりに動いて毎日をすごしている。前にあの目を見ていなかったら、滝でさえそれを単なる従順と思っただろう。
(何を考えているんだろう、あいつは)
良は、滝には、多少謎だった。レッスンに送りむかえする車の中で、毎日、きびしいだろ、ときけばふわっと微笑をみせて、かぶりをふる。
「おもしろいよ」
「レッスンか」
「うん」
「やれそうな気、してきたか」
「わからない」
いつまでも同居さすわけにいかないので、滝のマンションのすぐ近くに一部屋かりてやって寝とまりさせたが、一回も、家へ帰るでもない、それだけでなく、別に昔の友人と会いたがりもしない。これほど、自分の生活を未練なく変えられる少年を見たのは滝ははじめてだった。
「たまには、どこか、行きたいんじゃないのか。小づかいをやるから、友達と会ったら?」
そうきいても、
「そんなもの──いないよ」
というふわっとした返事がかえってくる。どんな生活をしていたのだろう、と滝は考える。わからないこともない。ありふれた、ぐれかけた少年の生活、喫茶店、タバコ、仲間とバイクで遠乗り、おもしろいこともなく、喧嘩をするほどの度胸はなくて──だが、その中で良が何を考え、どう感じていたのか。それがわからない。
(おかしな子だ)
おれは、良をかいかぶっているんだろう、おれの考えすぎだ、と滝は思った。良自身は何を考えてそうするわけでもないはずだ。きっと、中身は年相応のただの子供にすぎない。ただ、良には天性の冷淡さと可愛らしさが共に同居していて、良の反応を何となく類を見ない、心をひくものにしている。
「とてもいい子じゃないか。また、滝チャンの伝説がふえそうだな」
尾崎プロの社長でもとジャズ・ベーシスト、滝とは古くからの親友のデューク尾崎も良をこの上半期売り出しの新人の中では本命になるだろうと見ているし、あれこれ論議をかさねて決まった、作詞の松浦亮、作曲の山下国夫もだいぶ乗っている。
ことに山下先生だ、と中堅どころの作曲家の顔を思い出して滝はひとり笑った。山下は自ら進んで、良に発声のレッスンをつけてやると云ってきた。山下の美少年好みは業界衆知の事実である。
「ねえ、デューク、良ですがね、なんだか毎日見るたんびにきれいになっていくみたいな気がしませんか」
「それなんだよ、滝チャン。おれもどうも──ありゃふしぎなコだねえ。どの表情も、おや、こんなとこははじめてみたなっていうような──何てのかな、つまりすごく目をひくんだな。見飽きないんだね。それに山下さんが云ってたよ、あれはうまくなるとさ。素質は実にいいって」
「あまりうまくならんうちに出した方がいいんですよ。このごろのファンはね、いつだって、あのコもこのごろだんだん上手になってきて、って云いたがってるんだから。もっともこのごろあの子何だか声の出し方まであかぬけてきたから、そうヘタには思えませんね」
「むろんレコードはあれこれ効果をかけるしね。そろそろ、マルスの喜多さんや佐野ディレクターと、売り出しの順序をつける段階に入ってくれよ」
「曲ができしだいわっといきますからね。だんどりはもうちゃんとしてありますよ。テレビへのデビューもVVCの三田さんと話がつけてあるし」
「出来レースかい」
「なに、良なら大丈夫ですよ」
むりにこちらで恰好をつけてやらなくても、すじみちをつけてやるだけで伸びる玉だ、と滝は云った。それだけに、デビュー曲は気をつけてやらねばならない。
「山下先生はイメージぴったりの曲ができそうだからっていってましたがね」
たぶん、いい曲を貰うのとひきかえに、当然のごとく、良を抱かせねばならないだろう。きらびやかな芸能界に一歩踏みこめば、そこは汚水の溝である。欲望と打算、すべての醜いものがうずまいている。
その中で良がどうなるのか、見たい、と滝は思う。その思いには嗜虐的なものがある。この透明な少年、いくぶんなついて、甘えてくるのを眺めているうちに、妙におかしがたいものを感じはじめてしまった滝には、いまだになんとなく手をのばしづらいこの少年が、汚れに頭までつかったとき、どのように、なまめかしくなるか、その拒否に鎧われた純潔な表情を守りとおすことができるか。
滝の気持にはかなり複雑なものがあった。心のどこかでは、良の潔らかさをおしむ気持、それを最初に汚すのが自分でないだろうという見通しへの、嬉しいような、口惜しいような思い、もある。
「あの子、まだまだきれいになりますよ。あれは、ちょっと手をかければその分敏感にうけとめて光を増してくれるんで、とてもやりがいがある」
「ジョニーって云ってたか。あの仇名で定着すりゃ、しめたもんなんだがな。愛称のつく歌手はもう一丁前だよ」
「B面にジョニーって入れようって云ってましたよ、佐野チャンが。海から来たジョニーとか、ジョニーの子守唄とか──もっと考えるっていってたけど、そういう感じで、その呼び名印象づけたらどうかって」
ポスター、特約店との話合い、広告、滝は滝でやることは山のように溜まっている。いきおい、音楽的なことは山下やレコード会社の佐野などにまかせ、従って良をかれらに預けて走りまわる日がつづいた。
山下からは、こちらの予想よりだいぶ早く、曲があがったがどうかと云ってきた。良は気にいられているらしい、と滝はふんだ。それはよい。
気に入られるか、そうでないかで、曲の出来も気のいれかたもちがってくる。山下国夫はまあ作曲家としてはいいところ中堅といったクラスだが、その実力は滝はかなりかっている。昔、芽の出ないときに花村ミミのデビュー曲を書かせて売り出してやったのは滝なので、山下は滝には義理がある。
それで、中堅とはいえ名の売れている山下が、どこかの新人賞というバックもない新人の良の曲をやることになったのだ。もし良が彼の心にそぐわなかったら、どうしても、義理でつきあわされた不満がのこって曲にひびくはずである。だが、
「良ちゃん、ちょっとバタくさい感じだからね。ちょいとソウル風のをつくってみたよ。B面をきれいなロマンチックなの書いたけど、ま、ためしてみてこっちだと思ったら入れかえてよ」
早々と滝に譜面を届けにきた山下は妙にうきうきした顔をしていた。
「アレンジもしといたからね。バラしはそっちでしてちょうだい」
「そりゃもう」
「あの子ものすごくリズム感がいいね。なんての──からだ中からわきあがるみたいに踊るよ。つまり──いや、ちょっとおととい、ディスコに連れてったんだけどさ。そりゃもうすごいの。見ものだったね。どっから拾ってきたか知らないけど、ありゃ、拾い物をしたよあなた。いいアクションつけてやるとアピールすると思うな。そのつもりで、ギターのアドリブ間奏にしてあるからね」
「乗ってますね」
滝がにやりと片目をつぶると、山下も共犯めいた笑いをうかべた。
「いろいろ、面倒みて貰って、幸せなやつですよ」
「きついね、皮肉?」
「いやいや」
「しかし──お宅だからあけすけに云っちまうけど、──まだねんねなんだな。滝さんとしては──遅いんじゃないの」
「とんでもない。そこはまあ──まあ、何とでも」
「何とでも──していいわけ、おれが?」
「お手柔かにお願いしますがね。おっしゃるとおり、ねんねですからね」
「いや、いい子だよほんと」
おれは、良をどこにつれてゆこうというのだろう、と滝は思っていた。彼はその目のきれいな少年のメフィストフェレスだ。こうして早くもこの世界の汚濁を良に教えようとする自分、美しい人肉の取引きをして良を山下に──手はじめに──売り渡す相談をして微笑をうかべる自分は、やはり良を裏切っているというべきだろうか。
(だが、良は、おれにまかせると云ったのだからな。子供といってもそろそろ十七なら、わかっているはずだ)
竜崎光彦が、いかにたやすく彼に身をまかせ、彼の命ずるままに後援しようという某会社の社長に抱かれ、云うなりになったかを思い出す。少女のような美貌を誇っていたその少年は、滝の手を待つまでもなく、すでにあるていど、経験があったにちがいない、と滝は思っていた。
(良は、どうなのだろう)
ぐれた少年たちの仲間になって、喫茶店にたむろしていたような少年である。まんざら、ねんねといえもすまいと思う、滝の気持は、妙に不快だった。
良をこれから山下をはじめとしておそらく何人、何十人もの男女に切り売りするであろう、当のおれが、と自分をおかしく思う。自分でもわからぬ、奇妙な胸のざわめきを隠して、滝は相変らず山のような雑務をかかえてかけずりまわり、忙しい日のなかでふいに思い出したように、良はすでに山下のものになったのかな、と考えていた。
日々はとぶようにすぎてゆくが、一日に一回、二日に一回、顔をあわせても、良には何も変ったところが感じられない。山下は、ゆっくりと良を料理するつもりなのだろう、と妙な安堵と失望のなかで滝は感じる。なぜとなく、男に抱かれることで良が激しく変ることを滝は確信していた。
「どうだい」
「うん、まあまあ」
「曲、馴れたか」
「うん。好きだよ、あれ、二つとも」
「『裏切りのテーマ』がA面でやっぱりおちつきそうだな。むろん、まだテスト盤吹きこんでからじゃなきゃわからんけど、『哀しみの朝』はきれいすぎるよ」
「ふーん」
良は実務的なこと一切には興味をもっていないようだった。
「あさって、本番だぞ。わかってるな」
「うん」
「大丈夫か」
「大丈夫だよ」
「かぜなんぞひくなよ」
「うん」
良の笑顔には、翳がない。山下は、気をつけてこの子を取り扱っているな、と滝は思った。山下には山下の打算がある。
滝がことのほか大切にしている素材である。そのからだは当然の代償と見做してはいても、下手をしてデビュー前にことを起こすことになっては、義理も権勢もある滝に対してたいへんな負い目になる。
「ずっと、レッスンばっかりで、飽きたろ」
「ううん。歌ってると、楽しいよ」
「先生とも、うまくいってるのか」
「うん。やさしいよ、山下先生」
滝のさぐりに、屈託なく、甘えるように良は答えた。多くの新人を扱ってきたが、滝は、良のようにいつも自然な表情を失わぬ新人を見たことがない。投げやりのようでもあり、ぼんやりのようでもあり、冷淡とも、ふわっとしているとも、ものおじしないとも云えるがそのどれとも微妙にちがうようでもある。
デビューの成否をかける試聴盤の吹きこみが二日後なのだ、もう少し緊張したり、堅くなったり、おどおどしたりしてもよさそうなものだと滝は考えた。
(何だか、面白がって、どうでもいい気持で自分を眺めているようだ)
試聴盤でGOのサインが出れば、それからは目のまわるような忙しさになる。編集し、効果を手をかけ、原盤をプレスにまわす一方、ジャケットとブロマイドの写真をとり、宣伝部に連れられて挨拶まわり、有線と特約店まわり、新人歌手の合同の宣伝用サイン会、テレビで一カ月の新人コーナーをデビューにするのは滝とプロダクションの力ですでに決まっているが、あと、どんな金の卵でもせねばならぬ、ドサまわりの仕事に有名歌手の前座、そしてレコード発売後の反応に応じて手を打ってゆく──地方キャンペーン、ポスターづくり。
「あさってが済んだら、忙しくなるからな」
滝はぽつりと云った。
良のテスト盤の吹きこみが行なわれたのはその二日後だった。スタジオ・ミュージシャンと呼ばれる、そうした吹きこみ用の時間いくらのバンドを借りてきて、まずカラオケを入れて、それをバックに流す。
山下がやってきて調整室の滝と並んで、暗くしたスタジオにひとり吹きこみの試練をうける良のようすを見守っていた。新人には破格の好意である。
カラオケに支えられた良のデビュー曲になるべき『裏切りのテーマ』のイントロがおわり、さいしょの一節がおわらぬうちにしかし滝はにやりと笑って山下を見た。山下がこれもにやりと意味ありげな笑いをかえす。山下の性格は知っている。
なるほど、良に興味があることもあるが、ここまで仕込んでやったと自分の手柄にし、同時にこれから良はぐんぐんのびると踏んで、かかわりをつけておきたいのだなと悟った。
良は堅くもなっていなければ、あがってもいなかった。なんともいえないものうげな歌い方である。ソウル風の激しいメロディーが、思わぬ哀愁すらおびて滝の胸にしみた。
まだうまいとまではいえない。しかし、ところどころ妙に稚くブレスの音の入るのまでが、きくものを魅了する長所にきこえる。
録音はわずか三回で済んだ。スタジオが明るくなるなり、ヘッドフォンをつけたままのマルス・レコードの佐野ディレクターが頬をほてらせて滝の肩を叩いた。
「いいよ」
それしか云わない。しかし佐野を知っている滝はまたにやりと笑った。男として、生き甲斐を覚える一瞬だ。
「よくあそこまで育てて下さって」
滝は山下に期待をかなえてやった。
「ね? いいだろ。おれいいっていってたろ? 良ちゃん、いけるぜ。もう、じきトップ・スターだぜ。わかってるんだ。まだまだ、うまくなるよ」
つづけてB面に予定している『哀しみの朝』──同じコンビのメロディアスなバラードだ。良はその曲もすっかり自分のものにしていた。
マイクの前で、歌いはじめに息を吸いこむ音がはっきりきこえる。それが、妙に胸をしめつける哀しさとなまめかしさを感じさせる。これも五回でOKが出た。
「ね、佐野さん、ここぐっと来ちゃったな」
ミクサーの吉田がテープをちょっと巻き戻してみせた。
「さいごのとき──これわざとじゃないと思うんだけど、きみの愛がなければってとこ、愛っていうときすごい声がかすれたのね。これ、しびれるよ、絶対」
「色っぽいね、こりゃ。わざとじゃないね。そこまではまだ……」
「これ使うといいですよ」
「あとはまあ、編集はおれたちでやりますから」
滝は山下に礼を云った。
「じゃ、おれは良ちゃんにご褒美のステーキでも奢ってやろうかな」
山下もひどく機嫌がいい。滝はちらっと山下を見た。山下は口笛を吹きながら、ミクサー室を出ていった。
「しかし、なんというか──いい度胸してるねえ、ベテランなみの余裕だよ。もしかすると、これは稀代の大物かもね」
「そりゃそうですよ、このあたしが太鼓判押したんだ」
「やりがいがあるねえ」
「そう云って貰うとおれもね」
佐野ディレクターとことばをかわしながら、滝は頭の半分で今夜だな、と考えていた。
試聴盤は発売に先立って各方面に無料で配られる。何回かの録音をききくらべ、最上の部分をピック・アップしてつなぎあわせ、エコーをかけたり、調整を加えて決定盤をつくる。近頃の歌手は基本もなってないのが多いから、それでなんとかきけるものに仕上げるわけだ。
「大体3テイクでいけるでしょう。いちばん声がのびてるし」
佐野や吉田たちの会社のスタッフたちと、慎重に討議し、その夜滝がマルス・レコードのスタジオを出たときはもう十時をまわっていた。
緊張のためか、ぐったりと疲れていて、一杯やらないかという佐野の誘いも断わり、マンションに帰ってやれやれとなったとたんに電話が鳴った。
「はい、滝ですが」
「滝さん? おれ山下」
山下の声はうわずっていた。滝ははっとした。
「そっち──あの子行ってる?」
「良? いいえ」
滝はその先を直感した。眉をよせて問いかえした。
「一緒だったんでしょ?」
「それがさ──あんた、あの子に何も云ってなかったの」
山下はひどく歯切れがわるい。
「はじめはさ──つまり、わかってると思ったんだよ。先生、先生ってさ、その──おれが……どうも云いにくいなあ」
「いいですよ、はっきり云って下さい」
「つまりさ」
山下の声にはふてくされと機嫌をとろうとするような心配と居直りが微妙に混ざっている
「おれに可愛がられるの、いやじゃない、ようだったんだよ。こっちもいつもより手間かけてなつかせたと思ったしさ──そしたら、今夜、酒のましておれんとこへ連れてきたらさ──ねえ、滝ちゃん、あんたおれのいいようにしていいって云ったろ」
山下はこっちの出ようを見ていた。ばかが、と滝はしだいに苛々してきた。そっけなく云う。
「何か失礼をしましたかね」
「おれをつきとばして、とびだしちゃったんだよ。そっちに戻ってるかと思ったんだけど」
滝の声の中にとがったものを感じとってだろう。たちまち山下はふてくされたようすをひっこめた。
「ねえ、おれ、困ったよ──しかしさ、まさか、そんなねんねだと思わないじゃないの。──怒ってる?」
「まあ、そんなことより──いつです、それ」
滝は山下の言外にひそんでいる打算やこちらがしたでに出れば居直り、こちらが怒ればあやまろうと見えすいているその手に承知の上で乗るのがふいにたまらなくいやになった。
ほんとうはここで適当に済まなそうにしながら一点貸しておくところだが、そうしたときの山下の当然の報酬をとりそこねたといういやみをほのめかされるのが予想がつく。
「ついさっき──」
「こっちには、来てませんよ。あの子のアパートは」
「知ってるから、電話してみたけどいないんだ」
「わかりました。こちらで何とかしますよ。ばかな奴だ」
とうとう言質を与えぬまま電話を切りながら、曲を山下にしておいてよかったと皮肉に滝は考えていた。これが彼だからこのていどであしらえる、ばかりか、これで良が失踪ということにでもなったら、山下の責任というわけでへこませもできるが、もしこれが結城修二、杉森省一クラスの売れっ子の、超一流のランクの先生がただったら、プロデューサーのこちらが反対に冷汗をかいてぺこぺことあやまり、良を叱りとばして連れ戻しますからとひらぐものようになるところだ。
仕方のない奴だとぬいだばかりのコートにあわただしく袖をとおしながら、ふしぎと滝はあまり驚いていない、怒ってもいない自分に気づいた。むしろ妙に、良の行動が心にかなうのである。それが起こったとたんに、こうなることはわかっていたはずだ、という気持になった。
もし反対に、良が他のすべての歌手の卵たちのように唯々諾々と媚を売り、山下の云うことをきいて、彼を満足させていたとしたら、妙に自分の胸がおさまらなかっただろう、という気がする。
しかし、それと、ビジネスはまったく別問題だ。スケジュールはつまっている。滝はエレベーターでおり、愛車のエンジンをかけたところで、さて、良はどこへ行ったのか、とふいに眉をひそめた。
(考えてみれば──こんなとき、やつは、どこへ行くのか?)
家出した、継父と仲のわるい母と病気の妹の家庭へ戻るはずがない。半年ぐらい良が夜中にもどって早朝忍び出たり、一週間も帰らない生活をつづけていても一度も心配したことがないという家庭だ。二、三回捕導されたりして、停学になってからはおおっぴらに、邪魔扱いしていたということをあまり家のことを語りたがらぬ良が何かのはずみにちらりと暗い光を目にきらめかせて洩らしたことがある。家に帰るはずはあるまい。
だが、滝が世話をしはじめて二カ月たらずだが、その間に、昔の友達と会いたがるでもなく、良をおとずれてくるものもなかった。滝は、ふいに胸に沁みるように良の孤独を感じた。こんなとき、誰が良を受けとめてくれるのだろう。それともおれの知らぬ良の生活はまだあるのだろうか、と思う。
さしあたっての心当たりといえば、良と出会った音楽喫茶『アン』しかなかった。そうした不良仲間のつきあいなどというものは、たえず入れかわっており、去ってしまえばもう友達とも思わない程度のものだ、と滝は知っていたが、しかし考えてみても他にひとつも良の行きそうなところを知らないのだ。滝は『アン』に車を向けた。
小さなライヴ・スポットは、相変らず不良がかったリーゼント・スタイルの少年少女でいっぱいだった。となりのガソリン・スタンドに車をおいて入っていったその店に、良はいなかった。
二カ月前には良もそのひとりだった、安っぽい皮ジャンパーにリーゼント・ヘアーの高校生の少年がいぶかしそうに、全然見かけないと云った。
「だって、あんたが歌手にするって連れてったじゃない。それっきりだからさ、みんなあいつ冷てえなって云ってんだけど、どしたの、逃げちゃったの?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
滝はことばをにごし、あきらめて出ようとしたときに、レモン色のトレーナーに赤いタイト・スラックスという目ざましいなりの痩せた少女が滝の腕をつついた。
「おじさんさ、岸壁いってみた? あそこにいるかもよ。よく、あそこで坐ってたもん」
「岸壁?」
「この通り一本向うのところに、もう海が見えんのよ。荒川の河口。そこに倉庫が並んでるからさ、そこ入ってくと倉庫と川のあいだが堤防になってるからね」
「有難う」
「あのコ来ないなと思ってさがすと、たいていその堤防のアスファルトに腰かけて川の流れるのじっと見てたわよ」
滝は礼を云って店を出た。少女に何か飲ませようとしたが、少女は肩をすくめただけだった。滝は教えられたとおりに横道に入って通りを一本よこぎり、さらに狭い道へ入っていくと、倉庫の黒々と立ち並ぶ通りに出た。
道はそのあいだをぬって土手へつづいている。ここか、と滝は思い、堤防にそって立ち並ぶ倉庫の裏を歩いていった。十一時をまわっている。一メートルほどの高さでつづいている堤防は、そのまま斜面になって川の方へおり、汚い水が黒くうちよせている岸までつづいていた。
いくらもいかぬうちから、滝の素早い目は水ぎわに膝をかかえるようにしてうずくまっている黒い人影を見ていた。小さく、ひどく淋しそうな姿が夜の底で動かない。滝は堤防をまたぎこえ、気をつけて下りていった。
「良」
驚かさぬように声をかける。寒いさかりに、良はコートも着ていなかった。白いブラウスにセーター、ジーンズ、レコーディングのときのままの恰好だ。ゆっくりと首をねじって滝を見上げた顔が、白く闇の中にうかんでいた。
驚いたようすも、見つかって当惑しているようすもない。おれが来るまで、ここでひとりでじっと坐って水を見ていたのだろうか、と滝は思った。
「お前──寒くないのか。風邪をひくぞ」
滝は良の肩に手をかけた。ほっそりしたからだは冷えていた。良は滝の手をはぐらかすように立ちあがり、それが彼にしなやかにのびをする猫のしぐさを思わせた。やにわに滝はこみあげてくる怒りを感じ、良の頬を平手で撲った。
良はよろめき、川に落ちそうになった。滝の手がその腕をつかみとめる。良は打たれた顔をおさえ、滝を見上げていた。いったい、この子は、何を考えているのだろう、という当惑に似た思いが滝をかすめた。叱責も慰撫も共に良の心の外がわをすべり落ちていってしまいそうだ。
「戻るんだろう、良」
やがて滝はふっと目をそらして云った。良は滝に腕をつかまれたまま黙っていた。
「デモ・テープいい出来だぞ。二週間ぐらいでプレスがあがるぞ」
良は黙っている。滝は声をつよめた。
「おれと戻るな」
良はためらっているようだった。が、少しして、良はこっくりとうなずいた。滝の手から逃れてどこに行き場があるでもないのだ。滝は、良の表情に頼りない捨子のような哀れさを見た。
ふいに、滝につきあげるように衝動が押しよせてきた。良は決してうちとけない扱いにくい少年などではない、淋しい境遇でひとを容易には信じなくなっているけれども、むしろそれゆえに、いっそう拒否の殻の中では孤独な、甘えたがりな魂が凍えているのだ。
いま、やさしくしてやりさえすれば──良は戻らぬつもりはないのだから、もし、いま、山下のことはいいようにしてやる、もうそんな厭な思いはさせないからと云いさえすれば、この少年の心は滝に傾いてくるのは確実だ、という理解である。
やさしくしてやりたい、とこみあげるように滝は望んだ。覚えず、いとしさの衝動に敗けて、彼は良のほっそりした肩に腕をまわした。
滝が良にこうした愛情を示すしぐさをしたのははじめてだった。もともと、ひとにべたべたするのが嫌いである。しかし、そのしぐさは驚くほどの反応がかえってきた。良は長い睫毛をあげて、ひどく可憐な表情で滝を見上げ、頼りなげな微笑をうかべた。
いつもの、どこかガラスをへだてているような感じはすっかり消え失せてはいなかったが、滝は何かの手応えを感じ、胸をしめつけられた。この子は、欲望や金ずくということぬきで、人に愛されることに、餓えているのだ、と知った。
良の全身には、やどなしの疑り深くなっている猫が、おずおずと身をよせて来、まだ半ばは警戒しながらも甘えかかろうとしてくるような表情がある。滝は失敗だ、と思わず歯を食いしばった。
(なんてこった。冗談じゃない──おれは、良を、売るために──汚い欲望と打算の世界に連れ戻しに来た、≪人買い≫じゃないか。おれが、良を守ってやるだって? おれが──なんてこった)
自分で抱く気にならないような玉はプロデュースできないと、発掘した新人にはそこまで惚れこむのが秘訣だと称している滝だが、それとこれはまったくちがう。むしろ正反対なのだ。
切り売りする人間の美味をたしかめるために彼はかれらを抱く。かれらを人間とは一度も思いはしない。滝に処女を与えた中山ルナが、彼を愛していると打ちあけたとき、彼は冷やかにつきはなし、それではもうプロデュースはしかねると宣言して同僚の竜村にゆずってしまった。
そして売られるかれらの方でも、そうした例外を除いては、愛の恋のと勘ちがいをすることもなく滝を利用し、滝を踏み台にしてのぼってゆくことしか考えてはいなかった。
ここは≪人買い≫と、買われ、売られる華やかな奴隷たちの市場なのである。
(それを──やさしくしてやりたいだって? 情が移っちまったのか? 滝俊介ともあろう者が……)
滝は覚えず喘ぐような吐息を洩らして、目をそらし、腕をはずした。
(冗談じゃない──おれは良を知ってる、この子に惚れちまおうもんなら──お終いだ。おれにはわかる、この子はひと恋しい、甘えたがりのたちでも、決してひとを愛したりしない子だ。やさしくしてくれれば、誰でもいいのだ。山下にだって、やさしくしてくれているあいだは──ひとつ気にくわなければ、ぴしゃりと扉を立ててよせつけもしなくなる。猫なんだ。おれは──おれはこんな子供に溺れこんで身も世もなくなって自滅するのはごめんだ)
滝は、猫気狂いだった。猫というものを知りつくしてもいる。数年前に、十五年生きた老猫が死んで以来、他のを貰う気にもならない。その彼には、驚くほど猫の可愛らしさと魔性を持っているこの少年の危険さがはっきりわかる。良は猫だ、というひとことの中に、彼のすべての錯綜した思いは云いつくされていた。
(駄目だ。おれは──おれは良におれを好きにならせるわけにはいかない)
父親か、兄のように、やさしくしてさえやれば、良はすぐにからだごともたれかかって甘え、底なしに愛情を欲しがってくるだろう。そんな良を狂おしく愛さずにはいられぬことは滝にはわかっている。
だが彼はプロデューサーだった。良を山下に提供し、これからさきも何十人の男女に或は金、或は利害のために売りわたすのが彼の仕事の一部だ。彼はゆっくりと堤防をあがり、良を車に乗せ、自分のマンションに向って走らせた。
良は何も口をきかず、安心した猫のように静かにとなりに坐っている。着くまでだ、と滝は考えた。
なすべきことはわかっている。そして──おれは、そうするだろう。だがそれまで──その瞬間まで、この短い時間──良がおれをまだ憎まない時間をおれはそっと覚えておく、そのぐらいは許されるはずだ。お前が可愛い、と滝は思った。そんなことはしたくない。お前に憎まれたくない。
おれは酷いことをしようとしている、と滝は思った。山下の手からつきとばして逃れ去った良が、おとなしく彼の迎えに従って帰ろうというのは、彼への信頼のあかしにほかならない。それを裏切ろうとしている自分。
それは、良をスターに育てようと思ったときから決まっていたことだと滝は思った。車がマンションの駐車場にとまったとき、滝はゆっくりと目をとじ、目を開いた。
決心がついた。
良の信頼と、良との心のふれあいへの可能性に、平手打をくわせる覚悟ができた。同時に、彼はまた否定できぬ、ひそかな残忍な快さを舌の奥に感じていた。
(おれが──良に教えてやる。ここがどういうところか、そこで生きていくためにどういう人間にならなければいけないか)
「下りろよ」
「うん」
お説教か、と良は思ったようだ。ちらりと笑ってみせて、車を下りた。滝が三階の彼の住いの鍵をあけ、先に入れとうながすと、自分の室のような気やすさでハーフ・ブーツをぬいで上った。
「寒くって──ストーブつけていい」
「ああ」
滝は掌に鍵を鳴らしていたが、やがて、ガス・ストーブに点火しにかがみこんだ良の方を昏い目で見つめて、ゆっくりと鍵をポケットに落し、ドアをロックした。ドア・チェーンをかける音をきいて、良が顔をあげた。目が鋭くなっていた。
「どうして、鍵かけるの」
怯やかされつづけて、臆病になった小鳥のように、敏感に、良は云った。いまなら遅くない、と滝は思い、そう思った自らを心中罵ってコートをぬいで放った。
「お前、腹減ってないのか」
「ううん──だけど……」
良は滝の表情から何かを読みとろうとするように見つめていた。しかし、この少年がそれめあてで近づいてくる汚ならしい連中の目や顔に見馴れていた、血走った欲望やあからさまな表情は、滝の顔にはなかったにちがいない。滝はむしろ、ことさらに自らの嗜虐をかき立てようとこころみながら、悲哀に似たものすら感じていたからだ。
(これきりだ。今夜限りで、この子はおれを憎む──)
「ぼく今夜滝さんとここに泊まっていいの?」
良は自分で滝の行動を納得したらしく云った。ちょっと意地わるそうに笑ってつけくわえる。
「そんな心配しなくたって、もう逃げやしないよ。見張りつけなくたって……」
「良」
滝は低い声で云った。良が見上げる。
「ここへ来い」
「何?」
滝の顔がきびしくなったのを鋭敏に見てとって、良の顔が曇った。室の中央に立っている滝の前に近づいて、半ば済まなさそうな、半ばふてくされたような表情で滝の目を受けとめる。
「おれは、くどくは云わない──ひとつだけ、きくが、お前、本気で歌をやってゆく決心はついてるのか?」
「どうして、いまごろそんなこと──」
「もう、テストラベルも製作にかかってる。万一、お前がふらふらと我儘を起して、デビュー・レコードが発売になってから今日みたいなまねをしたら──わかってるのか、スケジュールに穴をあけるような歌手はやっていけんぞ。プロの面子も丸つぶれになる。いや、わかってるよ──お前、山下さんにいやなことをされてかっとしてとび出しただけで、そんな失踪だの、歌手になるのがいやだのってつもりはなかったんだろう。だが、そこなんだよ、問題は」
「滝さん」
良が何か云いかけた。滝はその両肩に手をおいてつづけた。
「いいからきけ。おれは、戻るな、ときいた。お前には、わかってなかったかもしれないが──戻るってことは……わかるか、この世界でやってくって覚悟を決めるってことは──山下の云うなりになるってことだぞ」
「滝さん!」
良の頬がさっとこわばった。目が激しい感情に燃えあがる。
良ははっきりと、最初の出会いのとき、滝を不可解な嗜虐と執着に誘ったあの拒否と反逆の炎を見せていた。良を、この上なく美しく、そして許しがたいものにする青白い反逆の火がうしろからこの少年を抱きしめていた。
「そんなこと──」
「いやだって云うのか」
滝は、かき立てようとしていたむごたらしい嗜虐の欲望がゆっくりと彼を浸してくるのを待った。なまぬるい血の味が舌の奥にのぼってくる。
良はもう、甘えた表情や、愛に餓えた子供の片鱗も見えなかった。ふてぶてしいといってよい、激しい拒否で、滝の目を受けとめる。青い火花が散るように、かれらは向きあったまま立ちつくしていた。
「甘く見るなよ──この世界は、そういうところだ。一年に、拾われて、デビュー盤の吹きこみまでいける運のいいヒヨコはまずざっと二百人は下らん。ヒットをとばすのはその中で十人もいない。そのあともつづけてヒットを出して、安定したスターの座につける奴はな、良、千人にひとりいるかいないかなんだ。みんな、必死なんだぞ。その二百人全員が、自分こそそのたったひとりになるためなら、何でもする覚悟でいる。きれいごとじゃない──曲をヒットさせるためなら、悪魔とだって寝る、何百人にだっておもちゃにされる、そのつもりでいるんだ。いまの世の中、どこにシンデレラの、魔法使いがいると思う。万事、金、コネ、汚ない手──からだだって大事な手管のうちだ、使えるったけ、使うんだ。これまでお前は恵まれすぎてきた。おれも、デュークも、お前を見こんでいればこそ、つぶしたくなかったからだ。しかし、そうそういつまでも甘い気持でいられちゃ、こちらが困るんだよ、良。もうそろそろお客様扱いもしてられないんだ」
「そんな──」
良は滝の手をふり払おうとした。滝は指に力を入れてはなさなかった。良の目が瞋恚《しんい》に燃えた。
「そんなの、真平だ。そんなことしなくちゃスターになれないっていうんなら、そんなもの糞くらえだよ、滝さん。そんなもの、ならなくたっていい──あっ!」
滝の手が良の頬にとんだ。今度は手加減ぬきだった。良は吹っとんでソファにくずれるように落ちたが、体勢を立てなおす前に滝はとびかかるようにその衿をつかんでひきおこし、二度、三度、撲った。
「生意気を云うな」
滝は目を細めた。つきあげてくる残忍な欲望が彼を押し流した。彼は指をつっこんでネクタイをむしりとり、上衣をぬぎすてた。
「自分を何様だと思ってる。ここまできて、そんなことを云えると思ってるのか。もう、お前をデビューさすのに百万という金が動いてるんだ。我儘は許さん──こっちへ来い、おれがその性根を叩き直してやる」
「何するんだ!」
良が声をあげた。滝ののばした手から荒々しくとびのいて、壁に背がつきあたると、壁にはりついたまま目を爛々と光らせて滝をにらみつける。怯やかされた猫の嚇怒《かくど》が燃えて、滝を灼いた。
かまわずに滝は大股に近づき、追いつめられた獲物のからだをひきずりよせようとかかった。
良が激しく暴れるのをいさいかまわず衿をとらえてひきよせ、ちょっとのあいだその怒りに燃えた顔を見おろしていたが、やにわに拳をかためるなり、良のみぞおちへ叩きこむ。
呻き声をあげて良がうずくまるのをひきおこし、存分に体重を乗せてもう一発くらわす。良は呼吸がとまり、胸をしぼるように両手でつかんで倒れた。
からだをくの字なりに、苦しむ少年の腹部を滝は激しく蹴った。苦痛に抵抗する力を失った少年をひきずりあげて、隣のベッドルームへかかえこむ。広いベッドの上に放り出し、馴れた素速さでひきはぐように服をむしりとる。
「やめて──滝さん、やめて」
良は喘ぎながらかすれ声をふりしぼった。滝はその細首を両手につかみ、猛烈にゆさぶった。声も出ないのを、ベッドにつき倒し、ブラウスの残骸をひきはがす。
白いほっそりしたからだがむき出され、良はおおいかぶさってくる滝のからだをはねかえそうと弱々しくもがいた。
怯えた目で、のしかかってくる男の凄まじい顔を見上げる。どうしてそんな酷いことをするの? と云いかけてくるような目だった。
ふいに滝は逆上した。
許せない。透明な拒否の殻に守られ、傲慢なまでの反逆に鎧われ、そのくせそれを力ずくで侵そうとすれば哀切な苛められた幼児の表情で憐れみをかき立て、逃れ去ろうとするこの少年を逃すわけにはいかない。
良は毒だった。良のなかには、狂おしいまでに、滝のなかの残虐さを、たけだけしい征服と蹂躙の欲望をひきだし、かき立ててやまぬものがある。
お前がわるいんだ、と滝は心で絶叫した。お前がおれを狂わせる。悪魔にしてしまう。魔物め、と彼は激しく思った。
滝は、必死になって彼の胸に手をつっぱり、そのからだを押しかえそうと身悶えする、少年の腹部にまた残忍に拳を叩きこんだ。
こんどこそ、良は海老のように身を折りまげたまま、抗う力も失った。呼吸をふきかえそうと激しく、顔を蒼白にして喘ぐ。
滝がひきおこしてみるとその顔は苦痛の涙に汚れ、唇のはたが切れて血が流れていた。滝はその頸をかかえよせ、狂ったようにその血を唇に吸いとり、唇をかさねた。少年は夢中でその顔を押しのけようとする。
その手を押さえつけ、滝はジーンズをひきおろした。膝を乗りあげて砕けんばかりにその脚を押しつけ、無理矢理に、受け入れる姿勢をとらせようとする。少年の呼吸が恐怖に早まり、滝の酷い乱暴に抵抗の力をしぼりつくされていたが、なおもいたいたしく身をもがき、逃れようとした。かすれた声で、許しを乞い、かみつくように唇をもとめてくる滝の顔から、顔を左右にそむけて逃げまわる。その細い首をつかんだ手に力を入れ、滝は指をやわらかい肉に食いこませて、握り砕くかのような勢いで咽喉をしめあげた。力を加えながら、顔を伏せ、少年の唇をおおい、激しく吸う。良の手が、咽喉をつかむ手をゆるめようとよわよわしく滝の指にかかったが、ふいに力を失って、滝の下で、少年はぐったりとなった。もう、かきたてた反抗の気力さえ尽きている。滝が指をはなすと、苦しくむせて咳こんだ。そのすんなりした両脚のあいだに膝を割りこませ、滝は、徐ろに貫こうとした。
恐怖と苦痛が、生贄《いけにえ》に、さいごの力を与えた。良は「やめて!」と絶叫して、滝をはねのけて起きなおろうと、ほっそりしたからだを激しくそりかえらせた。滝はその肩を力をこめて押さえつけ、力まかせに押し入った。
少年の咽喉から、うっ、という声にならない呻きが洩れた。驚くほど狭い感触が滝を阻んでいた。もともと、きゃしゃな、ほっそりしたつくりである。むりに身を進めようとすれば、傷つけずに済みそうもなかった。滝の唇が、無意識に、悪魔の嗜虐にゆがんでいた。容赦なく、滝は逞しいからだを埋没させようとした。少年がむせぶような苦痛の声をあげる。とうてい耐えがたい激痛に、必死に身をずりあがらせて、滝のからだから逃れようとする少年の肩を、すさまじい力で滝は握りしめ、圧しつけ、ふかぶかと身を埋めた。世界は停止していた。時も、ひとも、すべてがなかった。ただ、二匹の獣と化した、暴行者とその生贄だけが、夜の底でもつれあっていた。良が、せぐりあげるような、苦痛にこらえきれぬ啜り泣く声を洩らす。滝のからだの下で、その彫《きざ》んだように美しい少年の顔は唇まで血の気を失い、きつく眉をよせ、目をつぶって、殉教の苦悩に耐える人のようにいたいたしく見えた。所有のしるしを深く打ちこんだまま、じっとその良の顔に見入っていた滝は、ゆっくりと頭をさげて、良の耳に唇を近よせた。その動きで、体の中を激痛が貫いたのだろう。良は悲鳴をあげた。
「いたいのか──」
滝はその柔らかな耳朶を唇ではさみこむようにして、囁いた。
「どうだ──苦しいか」
良は答えない。とじた瞼から、涙があふれだして、こめかみをつたわって落ちた。滝はその涙を唇に吸いとった。
「忘れるなよ──お前は、男に、やられたんだぞ──もう、お前は、逃げられない──お前は、売春婦と同じなんだ。お前は、もう淫売なんだよ──良」
滝の囁きは、ほとんどやさしいといっていいひびきをおびていた。囁きつづけながら、ゆっくりと滝はからだを動かしはじめた。みるみる、良のからだが、引き裂かれる激痛にすくみあがるのがわかる。いたいたしく、少年は喘ぐような声を洩らした。滝の囁きが、耳に入ったかどうかもさだかではない。かまわずに、滝はつづけた。
「お前は淫売なんだ──二度と、そのことを忘れるなよ、良、おれが、お前のからだに刻みこんでやることをな。お前のからだで、覚えさしてやるよ、良──もし、山下がお前を抱きたいというんなら、云うことをきくんだ。おれが、どこかの社長が金を出すかわりにお前をやりたがってるといったら、そいつと寝るんだ。ひと晩に何十人とだって、おれがやれといったら、やるんだ。お前は、おれの人形なんだ。おれの操るとおりにだけ動け──自分は、人間だなんぞと思うな。お前はもう人間なんかじゃない、ただの淫売なんだ。おれが舐めろと云ったらおれの足の裏を舐めろ──おれが笑えといったら笑え。もし、逃げ出そうなんぞという気を起こしたら──そんな気を起こしたら、このいたさを思い出せ」
滝は残酷に、からだに力をこめた。良のからだが弓なりにそりかえる。もう、逃れようともがく力もない。ひたすら、男の蹂躙のままに、苦痛に呻いていた。そのいたいたしい表情を見おろし、滝は、もはやとめどなく、限度をこしてふくれあがる自らの嗜虐を自ら制し得なくなっていた。荒々しさを増してゆく彼の動きの下で、少年の首ががくりとのけぞり、呻き声は途絶えた。滝はのぞきこんだ。良は、なかば失神していた。滝が気づいて砕けよと握りしめていた手をゆるめると、肉の薄い少年らしい両肩には、鬱血に似たあざになって、鮮かに指の食いこんでいたあとがしるされている。
滝は細めた目のなかに、狂おしいものを燃やして、じっと自らの屠った生贄の苦悶を見つめた。それは、さながらこのきゃしゃな少年に自らの加えた酷たらしい苦痛と苦悩をはかり、たしかめる悪魔の目とも見える。彼の動きを止めたからだを深く受け入れさせられたまま、少年のからだは、おそらく無意識に、痛みにすくみあがる機械的な反応のように、痙攣していた。滝はこみあげてくる激潮をこらえようと歯を食いしばった。
再び、彼はゆるやかに、次第に激しく、少年をさいなむ行為をおりかえしはじめた。酷すぎる、と彼のなかでひそかに彼を責めたてるものがあったが、まるでその疼きを払いのけるように、彼はもうぐったりとのけぞったまま、なかば気を失って弱々しく彼の拷問にさらされているほっそりしたからだをひきよせ、固く抱きすくめた。
「良──」
数時間が経っていた。滝はゆっくりと上体を起こし、死んだように動かない少年を見下ろした。良の目は開いていた。しかしほとんどその目はぼんやりと瞠られたきり、何もうつしていないようにみえる。良からはなれた滝のからだには、彼が傷つけた鮮血がまみれていた。
良はひどくいためつけられ、衰弱しきっているようだった。滝がかけてやった毛布にわずかに裸身をおおったまま、ぐったりとよこたわっている。ときどきふいに疼痛に耐えかねたようにそのからだが痙攣したが、良の表情は動かなかった。まったく血の気を失った顔に、眉根が青んでわずかによせられている。
「苦しいか──いたむのか?」
滝はきいた。良は答えなかった。滝は手をのばし、額にもつれた髪をかきあげてやり、毛布を肩までひきあげた。彼の手にふれたからだは、氷のように冷えきっていた。滝はそのからだをひきよせ、あたためてやろうとよりそった。良の眉が寄り、かすかな呻きが洩れる。
「いたいのか。ひどく?」
良の頭がわずかに動いた。同時に、そのあるじと無関係な生あるもののように、透明な、感動のない、涙の粒が見開かれた目に盛りあがってきて、こぼれ、こめかみをつたって落ちた。良はまばたきもしなかった。滝は指さきでそれをぬぐった。
「あとで、手当てしてやる。──おれを憎んでいるか、良」
滝の顔からも、狂おしい昂ぶりは去っていた。すさまじい欲望に身をまかせて、灼きつくしたあとのあの空虚さが彼を浸していた。良は黙って、しかしこんどははっきりとうなずいた。
「それでいい」
滝は云った。彼はなるべく楽なように、自分の胸に良の頭をもたせかけてやり、腕をまわしてひきよせた。良はなされるままになっている。毛布がずれて、彼は犯した少年の、なめらかな、いたいたしいほど美しい胸と、少女のようにほの紅く隆起している二つの乳頭を見た。ほっそりした腕は力なく投げ出され、その肩には、彼のつけた指のあとがまだくっきりと捺されている。
滝はふいにぎくりとした。その肌は、おそろしいほど、色情的な何かをはっきりと示していた。きのうまでの、自足した猫のような人狎れぬ少年の潔らかな裸身では、それは、なかった。男たちの頭を狂わせる、衝撃的なまでに妖しい、なまめかしい生物がすでにその血の通った彫刻のような肌の奥に生まれかかっている。
思ったとおりだった、と滝は思い、われ知らず戦慄に近いものを感じて、うろたえ気味に毛布を良のからだの上にひきあげた。
(おれが良を変えたのだ)
ほのかな、満足と、愛惜に似た思いが混ざりあう。
「おれを憎むなら、憎めよ、良」
滝は低い声で云った。良の表情は動かなかった。
「おれも──お前に憎まれるために、こうした。わかるか、良──これは、おれと、お前の、闘いのはじまりなんだよ」
良は何も云わない。しかし長い睫毛の翳を落す目が、無表情に、滝を見上げていた。滝は静かにつづけた。
「おれを憎め。おれは、お前をむりやり犯した──こんなことをした、おれにだけは敗けるものか──そう思えよ、良──もしここで、尻尾を巻いて逃げ出すならお前の敗けだ。こんなことをされて、泣き声をあげて逃げ出すようなら──まあ、おれの眼鏡ちがいだったんだ。しかし、良、いまさら逃げ出したって、お前は、おれにやられたことを消しはできない、いっぺん男に抱かれたお前みたいな子は、こんどは周りが許してくれない。まあ、行きつく先はゲイバーかなんかがいいところさ。だが、もしお前がおれを見かえしたら──お前が大スターに、百万ドル・スターになってみろ。お前は、金も人気も得るだけじゃない、権勢だって得る。お前をそこらの淫売みたいに買おうとしたえらい先生だって、プロのおえらがただって、局のディレクターだって、こんどはお前にぺこぺこして機嫌をとるのさ。そうしたら、お前の勝ちだ。お前は、おれを追い払ったって、おれのプロデューサーとしての生命をぶっつぶしたって、反対におれにそれこそ靴をみがかせたりお車のドアをあけてさしあげたりするようにも──つまりは、どんなにでも腹の癒えるように扱えるんだ。それまでに、どんなことをしなくちゃならなくても。──おれも、お前とけりがつくまで、他のやつを拾ってくるのもやめる、何があっても仕事をすてるようなことはせずに、お前にとことんつきまとってやるさ。お前が憎むなら憎むがいい。おれはお前に賭けるよ。おれの云いたいことは、それだけさ、良、わかったか? どうする──もう一度だけきくが──おれと、戻るか、ええ?」
良は真青になっていた。からだをさいなんでいる、激しい疼痛に耐えているようだ。滝を見かえした目は凍りついたように、無感動だった。呻き声をこらえるように唇をかみしめ、黙ってうなずく。
「おれと一緒にやって行くのか」
再び、良はうなずいた。
「おれと来るなら──明日の晩、いや、もう今日の夜か、山下先生と寝るんだぞ。あの男の云うとおりの格好をさせられて、あの男を満足させるまでは、何をされても云うことをきいて──あいつは、好みがあくどいので有名なんだ。こんどはつきとばして逃げるわけにはいかないんだぞ。そうすると云ってからもう一度逃げたりしたら、おれは──お前が死んだ方がましだと思うような目にあわせてやるつもりだからな。そのことも、わかってるのか」
「ああ」
良ははじめて口をきいた。声はかすれていたが、はっきりとしていた。
「おれが、今夜はお前を誰に売ったからなと云ったら、そいつと寝るんだ。どうしてなんて、きくことは許さん。おれがすべて心得てる。金を出して貰うやつ、スキャンダルをもみけして貰うため、ご挨拶がわり──わかってるか」
「わかってるよ」
良はかすかな声で云った。ゆっくりと、青みがかかった瞼が無表情な目をかくした。身を起こそうとした──或はそれは、滝から身を遠ざけようとしたのかもしれないが、ぴくりと眉がひきつって、低い呻き声を洩らし、起きることができなかった。滝はその頬に掌をさしのべて、ほとんど愛しむようなしぐさでなめらかな冷えた頬を撫でた。
「二、三日、遊んでいていい」
滝は云い、時計を見た。夜が明けかかっている。
「テストラベルができたらもう息をぬかずにいくからな。それまでは写真撮影と二、三の挨拶まわりだけでいい。お前は、おれもデュークも特に力を入れてる尾崎プロの本命だ。そう他の新人ほどはぺこぺこせんですむはずだ。ゆっくり、からだを休めておけよ」
「山下先生は」
目をつぶったまま、かわいた声で良は云った。滝は黙って身を起こした。
「傷を見せてみろ」
毛布をはぎとり、自らの与えたいたでの程度を調べる滝の手の下で、良は身を固くして動かなかった。かなり出血がひどい。
「からだがよくなってからでいい。おれからちゃんと云っておくよ。お前のからだは商品だ。おれも、大事に扱うさ。もう、こんなひどいことはしない」
滝は起き出して、手当をしてやった。それが済むと、ブランデーをグラスに注いできて、鎮静剤をそえて、口もとにあてがった。
「飲めよ。楽になる」
良は素直に飲み、少しむせた。その頭を枕において、髪をかきあげ、肩まで毛布をひきあげてやり、布団をかけてやると、滝は服を身につけはじめた。良はそれをぼんやりと目で追っている。
「眠った方がいいぞ」
滝は云った。
「おれは少し、きのう片づけられなかった仕事をしなくちゃならない」
良は滝を見て、それから眠ろうとするように目をとざした。滝はキチンへ入り、コーヒーをわかし、しばらくスケジュール調整ののこりをやった。ベッドルームは静かだった。
仕事の途中で滝は顔をあげた。ふと、良が気になる。
(眠ったのか? 良──)
少しためらってから、彼は立ちあがり、のびをして、足音を忍ばせてベッドルームにつづいているドアに近寄った。五センチほどあけてのぞきこむ。薄明かりの中で、大きな枕になかば埋もれるようにして、良は目をとじていた。鎮静剤が効いたのだろう。
ちいさな寝息をきいてから、滝は室に入り、うしろ手にドアをしめ、ベッドに近寄った。注意深い目で、その寝顔を見おろす。わずかに眉根がよせられて、小さく唇がひらき、白い歯がのぞいていた。青白く、ひどく弱々しく見えるその顔の美しさが、滝の口の中を何かこれまで味わったことのない苦いものでいっぱいにしていた。
自分のしたことがいかに酷い、殺人にひとしいことであるか、滝にはわかっていた。なんという、可憐な顔をしているのだろうと思う。ブラインドをおろした室の薄暗い光の中で、その打ちのめされた顔はデス・マスクのようにも見えた。
(いまにも、消えてしまいそうだ)
滝の顔に、一度も自らに許したことのない、はからずも見せてしまったというような表情がうかんでいた。
良がもしいまの滝を見たら、それが鬼の目で必死に逃れようとする良をとらえ、完膚なきまでに弄び蹂躙した獣と同じ人間なのかと疑ったにちがいない。滝の顔は、悲痛なまでに、いとおしさとやさしさ、そして胸のいたむような、妄執のとりこになった自らを憐れむような表情にみちていた。
(いまになって──)
もう、滝は、良に憎まれ、恐れられ、人買いの役を自らひきうけて、良をかり立ててゆくほかないことをよく知っている。
それははじめから彼が知っての上で選んだことであり、そしてそのとおりになったのだった。良は決して滝を許すことはないだろう。
まるで石ころか何かの無機物を眺めるように自分を見た、傷ついた良のかわいた目を滝ははっきりと目に灼きつけていた。とりかえしのつかぬ行為というものがあるのだ。
(それを──何てことだ──おれは、良に惚れてしまったとでも云うつもりか? あんな酷いことをしてから? いまになって──)
滝は歯をくいしばった。山下の手から逃れて夜の川べりにうずくまっていたのが、滝の云うままに戻ろうとしたときの良に、彼の感じた、いまならまだ遅くない、良の心を得たいという圧倒的な衝動よりも、もうすべてはとりかえしがつかなくなってしまったことのあきらかないまになって彼におそいかかってきた、どうしようもないいとおしさの奔流は、さらに圧倒的だった。自らが情容赦もなく踏みにじり、傷つけた少年が、反対に、彼の心を呪縛し、とりこにしてしまっていた。
滝は茫然として、良を見おろしていた。
彼をおそった感情はあまりにつよく、唐突であったので、彼はほとんどそれがはじめて良と出会い、その冷たい美しい目をのぞきこんだ瞬間から彼の内に巣食い、むりにひそめられ、いつかはこうして彼を押し流してしまうはずだったものなのだということが信じられなかった。彼は良の呪詛《じゆそ》が彼を罰しているような気さえしていたのだ。
彼はかつて一度も、自らの扱っている美しい商品たちを人間としてその存在を見直してみたことすらなかった。だが──滝はこみあげる苦しさに胸が灼かれるように思い、覚えずかがみこみ、良の冷たい掌に入るような顔を両掌にかこまずにいられなかった。ほんとうは、その額、頬、唇に唇をおしあて、頬を撫でさすり、ほおずりし、そのほっそりしたからだを抱きすくめて、自分のしたことの許しを乞いたかった。
良が許してくれぬというのなら、その足下にひざまずき、顔を踏みにじられてもいい。彼が汚しはずかしめた途端に、彼のなかで良は何ものにも涜され得ぬ彼の美神に変容してしまっていた。
だが彼はひざまずかなかった。それはあまりにも彼にとっては信じがたい、むしろ信じるのがおそろしい情念だったのだ。
彼はやにわに身を震わせ、それが何か高熱を発するものでもあるのを知ったように戦慄して良の顔から手をはなした。身をもぎはなすような奇妙な苦悶を感じながら良のベッドからあとずさった。
彼はおそろしかったのだ。彼はおそれていた。──良を愛してしまうこと、良の、おそらくは彼自身が生みつけ開花させてしまったのかもしれぬ魔性の生物の毒にむしばまれ、とりかえしがつかぬまで良に心を縛りつけられてその奴隷と化してしまうことを彼はおそれた。
なぜなら──すでに、彼はその魔力を自らのうちに感じはじめていたからだ。自らを攻撃型の、多分にサディスティックな人間であると知っている彼は、支配し征服したいという欲望こそ感ずれ、夢にも、自らのしたことの許しを乞いたい、自らのさいなんだあいての足下にひざまずきたいなどと自分が思おうとは考えてもいなかった。
(ばかな──おれは、良に惚れてやしない。おれは、きっと疲れてるんだ。それに──この子が──あまりきゃしゃで弱々しいから、気がとがめているんだろう。済まないことをしただって? ばかな──何を云ってるんだ、いまさら……)
彼でなくても、いつかは誰かがこの世界にいるかぎり、遅かれ早かれこの美しい少年を変えねばならなかったはずだ。これは手荒な洗礼なのだ。滝は、自らにそう云いきかせ、いつもの非情で辣腕な滝俊介、したたかなプロデューサーに戻ろうと、心を立て直そうとした。しかし、彼の眉は曇り、唇が苦しさに小さく開き、彼はぼんやりとした苦悩の生まれようとしているのを自らの内に感じながら少年を見つめていた。やがて彼は深い吐息を洩らして荒々しく寝室を出、ドアをしめた。
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それが、滝と、良との日々のほんとうのはじまりだった。誰も知らぬであろう、この鬼と呼ばれる敏腕のプロデューサーと、小柄な、少女のような少年の、ひそかなはりつめた戦いの時間だ。
良のデビュー曲『裏切りのテーマ』は発売後ぐんぐんのびて、関係者に予想どおりと笑みを洩らさせたが、もともと無感動だといわれた良にとって、そのことすらたいした関心はないようだった。
冷たいうっとりした目を見開いて、降伏した生血のしたたる無数の心臓を足に踏みにじって立つ、妖しいサロメの芽生えはすでに良の中にあったのだ。発売記念のいろいろな行事、レコード店まわり、他の新人と合同のサイン会やテレビ局の新人コーナーの仕事を良は滝に命じられるとおりにきれいな微笑をうかべ、美しく装い、愛想よく応対し、スケジュールをそつなくこなしつづけたが、おそらく滝のほかに、そうして機械的に動きつづけている有望株の新人のなかの、少し退屈し、おもしろそうに冷やかな目を周囲にかえしている金色の目の猫を見得るものはいなかったろう。そんなことは、かれらの世界の常識からはありえないことだった。
「今月の新人コーナーは、先週につづいて今西良くんです」
と調子のいい司会者が云う。
「『裏切りのテーマ』はだいぶのびて来ているようですねえ。どうですか、自信はありますか」
「いえ……」
良ははにかんだように笑う。十分、初々しさと、可愛らしさと、意志とが見える表情だ。目が笑ってない、と滝だけがモニター・テレビを見つめながら思う。
「がんばって下さいね」
「はい。がんばります」
紋切型の応答。だがそれも良の長い睫毛と夢見ているようなまなざし、快い声によって発せられると、霊妙な魔法を発揮して、ごくシンプルな白のチュニックとジーンズという衣装の良は、すでに何か世界を従えているもののような香気を身につけていた。
滝の目はサングラスの下で鋭くなり、すでに覚えこんでいるオーケストラの前奏を耳で追いながら、画面の中の良を容赦ない目で見さだめようとする。
(アクション──歌──微笑)
それは、与えられたものではなく、早くも、良の中から自然に湧いてきたもののように歌われ、演じられ、うつしだされている。
しかし、滝の目が良の映像の上に読みとろうとしているのは、もっと正確には、それではなかった。彼は、彼の捺した|しるし《ヽヽヽ》を良の上にさがしているのだ。
滝の思いのなかで、彼に犯された良は、激しく変容していた。そうして彼に抱かれ、彼を受け入れることで、良はちがう生き物に、世界にとって対象であり、生贄であり、聖なる巫女であり──つまりは魅入られたものであるというあかしが、良の肌も、目も、口も、すべてを変え、刻印していなければならない。
滝はそれをおそれ、同時に期待していた。良を変えたのはおれだ、とそのしるしを見出し、奇怪な戦慄の内に誇ることを予期していたのだ。だが滝は裏切られた。
良が変容していないというのではなかった。現に、滝との一夜のあと、二日ばかり休ませてから、マルス・レコードへ雑務のために連れていったが、ひと目見るなりディレクターの佐野の目が鋭くなり、傍へ滝をひっぱっていって囁いた。
「きれいになったじゃない」
「ですかね」
滝はむっつり云った。佐野はわかっているというように滝の脇腹をつついたものだ。
「おそろしく、色っぺえじゃないの。山下センセの手柄? それともお宅?」
お互いこの世界の住人だ。内実のところは大体知れている。滝は素知らぬふりで押しとおしたが、山下を出しぬいてやったような、よい気持だった。
それが耳に入ったし、良が三日ぶりでレッスンに来たので、事情を悟ったらしい山下から、あわてふためいたような電話がかかって来、滝は、山下のいやみまじりのさぐりに我慢して、さいごにどうぞ好きなようになすって下さい、云ってありますから、と云いすてて電話を切った。
その夜良は帰って来なかった。良がおちつくまで、しばらくのあいだアパートをひき払って滝のマンションにおくことにしたのである。
それは奇妙な胸苦しい夜だった。滝は山下に抱かれている良の表情や姿態を思いうかべながらマンションの床を歩きまわり、布団にもぐりこみ、急にとびおきて用を思い出して片付けたりした。
嫉妬しているとは思いたくなかったし、するはずもなかったが、苦しいほどの昂ぶりと憤怒にすら似た激動が押しよせ、揺すぶって、良は酷い目にあわされているだろうか、と考え、もう一度でいい、抱きたい、とこれまでの彼の自ら決めていた鉄則に反してうずくように欲した。別にわるいこともないじゃないか、と思う。
昼近くなって良は帰ってきたらしいが、それとは入れちがいで滝は打合せに出かけ、その夜も良は山下がレッスンをおえるとそのまま連れ出したらしく明方の三時ごろ帰ってきた。
それまでには滝の狂おしい昂ぶりもおさまっていて、少し山下に苦情を云ってやろうと思いながら良を迎え入れ、だいぶ酒を飲んでいたようだったのを介抱して寝かしつけた。
ひどく青い顔をしている、と滝は思ったが、良は何も云わず、滝の目を避けているようなようすがあった。山下だって、ほんとうは、おれが山下の手に良を売りわたし、抱かせたのだから、おれがやったといったってちがいはないのだ、と滝は思った。良も、そう思っているだろう。
これからの良は、自分を通りすぎる男女をいちいち恨んだり憎んだりしている余裕はない。
良の心が無感動に、死んでゆく分だけ、良の経るだろうすべての凌辱や屈辱はそこへかれをひきずりこんだ張本人である滝に還元されてゆくはずだ。自分に打ちこまれる数え切れぬ欲望を、良はそのうしろに滝の顔を見、滝の意志を見て受け入れるだろう。
(そう考えれば、ほんとうは山下が良と寝たとき、ほんとうに良を抱いていたのはおれなのだ)
それは奇妙なゆがんだ心の動きだったかもしれないが、滝にはそれだけが実に正当なことのような気がした。少なくとも、心の奥底に、かつて知らぬうずきが生まれ出るのを感じていながら、そのくせ滝は良に加えられるどんな嗜虐も、どんな汚辱も、自分以外から与えられたと思いたくはなかった。
(おれが良を変えたのだ)
激しいアクションと、よくのびる声で、歌いつづける良の眉がよせられると、滝は自分のからだの下の良の、苦悶の表情をそこにさがし、ほっそりしたからだが荒々しい振付でよじれると、月桂樹になったダフネを抱きとめるようにそのからだを抱きしめる自分を思った。
だが、現にモニター・テレビの画面の中に、美しくなり、ひどくなまめいたものを漂わせ、明らかにはじめて滝の会ったときの痩せっぽちの少年とは比べ得べくもない香気につつまれた良を見ていながら、滝の眉はしだいにけわしく寄せられ、目が光りはじめていた。
(良は変った。だのに、変っていない)
おれは、このからだに、酷たらしくおれの欲望を打ちこんだのだ、と滝は思った。それはたしかに良を変えた。
滝に抱かれ、山下に弄ばれて、十七の少年の中に、すでに昏い秘密を知った生き物が生まれている。良を見るものの目が変って来るような、それは変容である。
だが滝の期待したのは、それではなかった。滝は、良の上に、彼自身の所有のあかしを見たかった。
(良は──まるで、ガラスのようだ)
自分を憎んでかまわない。憎むほど、良は彼につながれる、そう思っていたのだ。だが、テレビの中で、良の冷たい目が透明に見開かれていた。誰もうつしていない目だ、と滝は感じた。
彼はふいに戦慄を感じた。この目は、たしかに、滝がそれを見て何かを感じとり、良をこの世界に連れ去るきっかけになった、同じ目だ。
しかし、それはかつて、痩せた、ちょっとぐれかけた音楽喫茶の少年の顔の中では、妙に、とりこにされた鳥のように、とじこめられた印象を与えた。
だがいま、その目は、解きはなたれていた。すきとおるような顔にも、かすかに笑っている口もとにも、その目と同質な何かが、ほんとうは残酷な匂いすらする冷たくて夢見るようなものがひそんでいた。
滝はようやく悟った。
(おれは──良の中の、この悪魔に似たものを呼びさましちまったのか? それとも──それは、いずれはこうなるはずだったのか?)
彼は、自らの呪文でしばって奉仕させるつもりで悪魔を呼び出し、そこにあらわれたのが眷族ならぬ大魔王であるのを見て戦慄する魔術師のようだった。
(ばかな。おれの思いすごしだ──おれはどうして、良のこととなると、こうむきになるんだろう)
良が歌いおわるとさかんな拍手がわいた。お座なりな、義理の拍手ではなかった。滝はモニターの前からはなれた。新人の出番は短い。
「のびてるようだね」
やはりモニターを見ていた、この歌番組のディレクターの三田が云った。
「じわじわ、行きますよ」
滝は答えて、良を迎えにいった。
「どう?」
茶色がかった瞳が滝をのぞきこむ。口もとがかすかにほころびて、目は少しも笑っていない、何か挑むような表情だ。
「よかったよ」
なぜか滝は、良がステージなりTVの生番組なりでむざんな失敗を演じることなど一度も心配しなくなっていた。
良がすでにあらわれるさきざきで勝利をおさめるのは、決まりきったことのようだった。良は、何の情熱も欲望もなく機械的に歌い、話し、ほおえんだからである。
野心も感動も、滝や佐野がプログラムして与えたものだった。そして若い野暮ったい歌手志望たちをつまずかせるのが、かれら自身の野望や真摯であることは、実はたしかなのだ。
ファンたちはそうした気負いや鼻息の荒さを愛さない。そうしたものは白鳥の水面下の水かきのついた足と同様、人前に出すべからざるものなのだ。
良の静かな表情と魂のない微笑が、いつも、どこでも良のまわりだけを冷やかに守っていた。レコード店まわりで、田舎のおっさんのような店主に頭をさげても、誰もきいていないデパートの屋上で他の新人にまじって歌っていても、良は無感動で美しかった。滝は良に少しも気恥かしさや場ちがいさをおそれる必要がなかった。
「あのコいいね」
最初のTV出演のとき、三田がいきなり云ったのだ。
「なんてのかな──まわりを、涼しい風が吹いてるみたいじゃないの」
そのとおりだった。そして、デパートの屋上の合同発表会でも、有線放送まわりでも、良は勝利をおさめた。
ひと目、良を見たものは、きっとおやという顔で見直した。とりたてた恰好をしているわけではないのに、セーターにジーンズだけでも、良はその涼風のおかげできわだってあかぬけて見えるのだった。
良はすでに未来を約束されたようなものだった。ただそのためには予定された坂を一歩一歩のぼっていきさえすればいいのだ。
「夜、予定あるのか」
滝は舞台衣装を着がえる良から気よわく目をそらしながらきいた。録画中のスタジオの外の控室である。静かでひとけもないのが、馴れない新人には、新人の悲哀を味わわせたりする。かれの出番は一瞬でおわり、あとは用がない。
なみいる人気歌手たちはスタジオの、まばゆい光とオーケストラと熱狂するファンたちの中だ。しかし、良は小さくあくびをしてセーターに袖をとおしながら、云われたことがわからぬように滝をふりかえった。
「え?」
無表情な目だ。両腕をとおしたセーターをかぶろうとしながら滝を見る。滝はなめらかな胸の、右の腋下に近いところに、白い肌にひどく目立つ赤いあざをみつけた。山下だ、と気づいて、我にもあらず彼はうろたえた。
「山下先生は、今夜は会わないのか?」
「さあ、ここんとこレッスンないから」
知らない、と興味なさそうに云い、ざっくりしたセーターをかぶる。山下には何の関心も持っていないようだった。滝はそれが嬉しいと感じて少し驚いた。
良の肌には、あとをしるすことができても、良の魂は透明に、拒否と無感動に鎧われているのだ。
「じゃ、直接帰っても何もないから、今日はおれが飯くわしてやるよ。曲が十日で二万、まずまずの伸びだから、褒美だ」
「へえ、珍しい」
良の口もとだけが笑った。ダッフル・コートを着せかけてやると素直に袖をとおし、舞台衣装をたたんで持ち運び用のバッグに入れる。
「ヒットひとつ出しゃ、付人もつくし、スターさまで、ご苦労様、お疲れさま、だからな」
「ふん」
バッグを滝の車に入れ、二人は先にテレビ局を出た。
「ぼくが帰ろうとしたら、きこえるような声で厭味云ってた奴がいたよ」
「なんて」
「もう上がりか、楽でいいなあ、近頃の新人はって。おれたちなんか、デビューのころはいつだって出番すんでも全部見て勉強したもんだけど、滝俊介がついているともなるとお高くとまってやがる──そう云ってたよ」
「誰がだい」
「ブラッドの誰かだと思った」
「あいつらか」
滝は舌打ちした。竜新吾&ブラッドは二年前に『ミッドナイト・ブギ』の爆発的ヒットで一躍人気者になったバンドだが、もともとテレビでこそ知られていないがロック・シーンでは注目されていた連中だ。「暴力的サウンド」が売り物で、歌も演奏もそこらの人気歌手では及びもつかぬ迫力があるかわりに、テカテカのリーゼント・ヘアーに背中に自分の名を金文字で抜いた黒の皮ジャンパーの胸は裸、黒皮のズボンに黒いブーツ、黒いドラムセット、サングラス、というスタイルがトレード・マークで、そのたちのわるいことも無類である。女遊び、喧嘩沙汰、それでも人気があるのは実力もさりながら滝の尾崎プロの最大のライヴァルである、マカベプロモーションという大物がついているからだった。マカベプロは暴力団の北辰連合との関係も囁かれ、ブラッドの後援会長が大友組の組長という噂もあるが、もっともそれを云うなら尾崎プロは立川組との関係をあばかれねばならない。よかれあしかれそれが芸能プロの体質であり、それも含めて尾崎プロとマカベプロは大袈裟に云えば不倶戴天の仇敵どうしといってもいいくらいだった。むろん、それにからんでのいやがらせだろう。
「気にするこたあないよ」
「気にしてやしないけど」
良の唇がつき出していた。嘲けるように、窓の外を見やる。
「ブラッドって好きだったんだけどな」
「サウンドはなあ──ただ、たちがわるいよ」
「だろうな。ああして近くで見ると、ほんとのやくざだね、やつら」
「ああ。多かれ少なかれ、この世界なんざ、かたぎたあ云えないさ」
ふふん──と、良が笑った。あんたもね、と云いたそうな表情だ。
「何が食いたい。何でもいえよ。ステーキか、和食か。洋食がいいだろうな」
「何でもいいよ」
「じゃ、おれが勝手に決めるぞ」
「うん」
滝は、青山の、よく行くレストランに車をつけた。キャンドル・サービスが自慢の、高級店だ。良にヒレ・ステーキを、自分にタルタルステーキを頼む。ダッフル・コートを傍の椅子におき、ふかふかしたじゅうたんを踏んで、良はくつろいだ表情でろうそくを眺めていた。
どこにいても、良は態度が変らない。十六、七で、そんないい暮しも、そんなひどい暮しもして来たわけはないのだから、これは天性だろう。歌手の卵で、レコード店まわりをして卑屈にならず、高級レストランでくつろげる少年は、滝は良がはじめてだった。だが、ブラッドの一件は少し気になった。
「なあ、良」
前菜に頼んだソフト・スモークの鮭を口に運びながら滝は云った。
「なに」
「おれはそう思ってもみなかったから、気がつかなかったが、たしかにお高くとまってるように見えるかもしれないな」
「ぼくが?」
「おれはそう思わなかったし、お前は誰かの──特に今日の顔ぶれなんか、見ていっても、歌でもアクションでも、勉強になるとは思えんがね。しかしそういうことでなく、滝俊介のバックアップがあるからなんてことで反感をもたれるのは損だからな」
「別に、いいよ、ぼくは、さいごまで見てたって」
「それだけじゃなくさ」
滝は小びんのワインを飲み、良に顎をしゃくった。
「食べろよ。──飲むか、これ?」
「少し貰おうかな──わるくないね」
「山下先生は、ずいぶんお前に飲ますみたいだな」
滝は思わずすべり出たことばに自分で驚いた。
「そうでもないけど、ぼくが弱いから」
「当り前だ。お前は、未成年だろ」
「そんなの──」
良はふいに何かしんからおかしかったように声を立てて笑った。向うのテーブルで連れを待っているらしい男がこちらをふりむいた。
「もしお前、迷惑ならおれから山下に云ってやろうか」
「なんて?」
「あまり夜遊びを教えるなってさ」
良は肩をすくめた。充分な冷やかさがこもった身ぶりだった。
「どうでもいい」
料理が運ばれてくる。かれらは黙って食べた。良がちらりと壁ぎわのテーブルを気にした。
「どうした」
「あそこの奴さっきから見てるんだ」
「お前がきれいだと思ったんだろ」
「ふん」
良はまた激しく肩をすくめた。良は滝に自分の保護者めいた心づかいや、心ならずも洩らしてしまう自分への讃美や愛情を見せられると、激しく反撥したくなるらしかった。それに反してビジネスライクに対しているときには、良はほとんど滝にさからわなかった。
「それはともかくだな」
「うん」
「さっきのことだが」
「ああ」
「お高いって云われるのは、そうでないにしたって、よくないよ。それにこれから上半期に入ると、地方巡業とか、ショーの前座でやる仕事がふえるはずだ。そういうとき、いい感じをもたれないと、いびられるからな。もっとひどいこともされる」
「ひどいことって?」
「だまして置いてきぼりをくわせたり、バンドの打合せをかえさせて恥をかかしたり、さ。芸能人なんて奴らは、根性のわるいのが多いんだ。それに有望な新人がのびてくるのは古手の脅威だからね──ま、それでつぶされるようなら、そこまでの奴なんだと云われたってしょうがないがね」
「そんなことあるの」
「ひどいもんさ。この世界は、金メッキは表だけ、裏は下水管──」
「やあ、滝さん」
声をかけて近づいてきた男を見て、滝は口をつぐんだ。さっき良が見ているとぼやいていた男だ。その、ちょっとフランス人めいた美貌と、センスのいい服を着こなした、大柄で均斉のとれたからだつきははっと人目をひいた。滝はサングラスをとり、ナイフとフォークをおいて立ちあがり、良にも立たせた。
「先生ですか。どうも、気がつかなかったな」
良の目が滝とその客を見くらべている。滝は愛想よく頭をさげた。
「結城先生だよ、良ちゃん。結城修二先生だ。この子、なんですがね」
「今西良君だろう」
有名な作曲家は笑い皺のできた目もとをくしゃっと和ませた。充分に翳も知っている上で陽光のようにあたたかみの放射してくる、ひどく魅力的な表情だった。
「『裏切りのテーマ』ね、山下君の。きいてるよ。まだまだのびそうだね」
「どうも先生にそう云っていただくと──恐縮しますな」
「あんたが」
結城は短い笑い声を立てたが、そのあいだも彼の目は良からはなれなかった。良はいくぶん鼻白んだようだった、良にしても結城修二の名前ぐらいはきいていたのだ。
「上位に食いこむといいね」
結城のダンディぶりや美貌、自分の才能や有名さをよくこころえている自信たっぷりな物腰は、もし彼でなかったら、たまらなくいやみで気障に思われかねないものだったが、この作曲家にはなんとはない風格とあたたかみがあり、それがいかにも彼を男惚れさせるような魅力的な男にしていた。
しぶとさとしたたかさで滝俊介の名を売っている滝ですら、結城の前では、妙に自分がせせこましい気取屋だ、という萎縮をひそかに覚えるのだ。
滝は良を見、良が澄んだ目で結城を見かえしているのが嬉しかった。
「これもご縁ですから──よろしくお願いしますよ」
「ああ、だいぶ、肩入れしてるってね」
結城は皮肉にきこえぬよう気をつけているようすで笑った。
「滝さんほどの人がこんどはこれまでになく入れあげてるっていうんで、いっぺん会いたいと思っていたんだが──こんなきれいな坊やだと思わなかったよ。まあ、がんばれよ、今西くん」
「はい、よろしくお願いします」
良は優等生の答えをした。目が猫のように光っていた。癪にさわったらしい。結城が少し雑談をして、颯爽と出ていってしまうと、いきなり椅子に腰を落しながら口をとがらせた。
「ちぇ、坊やだなんて云いやがった」
「そうにちがいないさ」
滝は笑った。滝はいつでも、良がその無感動から首を出すのが好きだった。そうしたときの良はなんということはなく年相応に子供っぽい、ただの少年なのだが、それが可愛らしい。
「彼、すてきだろう」
「ふん」
「お前もそのうち彼に書いて貰うようになりゃ、本物だぜ」
「ふうん」
急に、良は何とはなしに反感を感じていたらしい結城のことより、他のことに気をとられたようだった。無感動な目が青い光を放って滝を見すえる。滝は眉をよせて見つめた。
「なあんだ、おれってばかだな」
良ははっきりした声で云った。ウエイターが皿をさげ、コーヒーを運んでくる。
「何が」
「甘ちゃんだな。あなたがどういう人なのか、まだ知らなかったなんて。あなたのすることって、絶対に無駄はないんだ。わかってよさそうなもんだったな」
「何のことだ、良」
「ぼくのこと、結城修二に見せようと思って連れてきたんでしょう」
「おい、良」
滝は意表をつかれて良を見かえした。良の、かすかに微笑をうかべた顔の中で、光っている目だけが良の感情をのぞかせている。
「それは、誤解だ」
「偶然だっていうの? あの人ボーイに笑いながら話していたよ。常連だって、ひと目でわかった。あなたなら、知ってるはずだよ、あのぐらい有名な人、どこにいけばいるか」
それは、知っていた。それに滝は個人的に結城修二というすべてに恵まれた美丈夫がひどく好きだったので、このレストランを利用するようになった動機の一半にはそれもあったくらいだ。しかし、今夜は、ぼんやりして、というよりごく素直な気持で行きつけの店を選んだので、良の思うようなことは、頭にうかばなかったのだ。だが、ほんとうにそうだったか、と考えだすと滝には自信がなかった。たしかに、別の場合には彼はそのように行動する人間だったからである。
「別にいまさら驚きはしないけど」
良はコーヒーをやたらとかきまわしていた。
「あなたが仕事のことっきり考えてないことぐらい、知ってるよ。あなたのすることに、何ひとつ、あとで効果のないような無駄はないんだから」
「おい、良」
「いいよ。あの人は、すてきだよ──山下先生より、人間はだいぶ格が上みたいだしね。あの先生には、いいかげんうんざりしているんだ。あの人にぼくをプレゼントしようって──それで何かにしようってんなら、そう云ってよ、ぼくは嬉しいよ」
何かが、珍しく、良の逆鱗にふれたのだった。こんなに多弁な、こんなに感情をさらけ出した良を滝は見たことがなかった。無感動な良、冷やかな目をしている良に狎れかけていた滝は息を呑む思いだった。
良のなかには、猫の冷淡さと同時に猫の激しい愛憎もまたひそんでいるのを忘れかけていたのだ。どうかしたとき、激情にとらわれると、良は、白熱した炎を発散するように見える。滝はうろたえ、激しい感動に似た思いで良の炎に灼かれるにまかせていた。
「かくすことはない──もう、何もかくすことなんかないでしょう。滝さんは、もうきっと十年さきまでぼくの予定を立ててくれてるはずだし、いつ誰にぼくを売るか、それだって考えてるはずだ。あなたは山下先生のことすごくばかにしてるものね──ぼくがヒット出したら、それっきり、もう次の作曲家に変えるつもりじゃないかと思ってたんだ。それが結城修二なら、ぼくはかまわないよ。もう、ぼくは、何も感じないし、何にも驚いたりしないつもりだ。あなたがぼくを子供でなくしてくれたんだから──だのに、ぼくはばかだな。底なしの甘ちゃんなんだよ。あなたがどういう人か知ってるのに、まだあなたが──ときどき、ぼくのことを可愛いと思って、それだけで何かしてくれるみたいな錯覚をおこすんだから」
滝は、目を青く燃やし、口もとを優雅に微笑したまま滝にだけきこえる声で云いつづける良の息を呑む美しさに完全に魅せられていた。そのために、彼は、良の云ったことの重大さに、不覚にも気がつかなかった。
「そうだよ──まったくばかみたい。でももう忘れやしない。あなたのこと、人間だなんて二度と思わないよ。あなたが仕事以外のことを考えることなんかないんだ。よくわかってるよ。だのに、あなたが、まるで山下先生に嫉いてるみたいな顔をするから──」
さいごの方は良の独白のように唇のなかに消えてしまい、またしても滝はそれをきき逃した。
「どうしたんだ、良」
ほとんどおろおろし、少し腹立たしくなって、滝は云った。
「とんでもないお天気屋だな」
「どうもしない。何でもない」
良は目をとじた。ゆっくりと、睫毛をあげたときは、すでにいつもの冷たい無感動な目の良になっていた。細い指に、優雅にデミタス・カップを支え、生まれながらの王族のようなしぐさで、良はコーヒーを飲んだ。しらけた空気が良と滝のあいだにわだかまっていた。
「──出ようか」
煙草を灰皿にひねりつぶして、滝は呟いた。彼は、あまりに、商品とバイヤーとの関係の中でだけ生きてきたし、自らをよりいっそうしぶとく、したたかに、ぬけめなく鍛えつづけてきた。
ビジネスライクに接すると従順に動き、人間らしい好意を示そうとするとぱっと反撥する良の感情の動きに、錯綜してはいるが明らかな真実の底流を見てとるためには、彼はそんなものに馴れていなかったのだ。
彼は良を力ずくで犯し、二日間も起きあがれぬほどの怪我をさせたときの良の目を覚えていた。彼は良に憎まれているし、嗜虐と自虐の入りまじった苛立たしい快感で、もっともっと憎まれたっていい、そうひたすら思いこんでいたのだ。
彼は実際には、ほとんど良というこの一筋繩ではゆかぬ少年を知ってはいないことに気づいていなかった。ほんとうは、何となく気分がのびやかになってい、『裏切りのテーマ』の成績もいいし、妙に良にやさしくしてやりたい気持をおさえかねたので、うまいものを食わせたらどこか面白いところへ連れていこうか、ジャズの生演奏でもきかせてやろうか、などと考えていたのが、妙に気まずくなっては、それどころではなかった。
彼のスカイラインGTに乗りこみながら、二人ともむっつりしていたが、最初に沈黙を破ったのは滝だった。
「お前──山下先生の相手をするの、いやか。たまらなくいやか?」
「なんでそんなこときくの」
良の目には再び氷が張っていた。
「もしそんなにいやなら、うまいとこ断ってもかまわん、なんなら、おれから云ってもいいからさ。もちろん、下手にやると恨んでこじれるだろうが、どっちみち、この曲があたっても、二曲目は山下にゃ書かさないつもりなんだ」
「そうじゃないかと思ってたよ。でもどうして」
「結城修二は新人の二曲目じゃちと辛いが、杉森省一ぐらいならな──正直云って、山下に頼むんじゃなかったと思ってる。あいつは、あんまりプラスにならないからな」
「ふん」
良は鼻で笑った。
「あいつはどういうものか人に好かれない。才能はあるんだがね。まあ、あそこどまりだろうな。お前は、早いとこ、もっと格が上の作曲家についた方がいいと思うんだ。だから、あんまり、山下にいい気にならせたかないし──それに、あけすけに云って、あの男は、相当あくどいって話はほんとうなんだろ?」
「そうなの?」
良は興味なげに云った。
「竜崎光彦を奴に頼んだんだ。光彦は、ざっくばらんなたちでね。それにおれになついてたんで、正直に云ってくれたんだが──」
「それ、皮肉?」
「そうじゃないさ。困った子だな、今度は、からみたいのか?」
「別に」
良は顎を生意気そうにつきあげた。
「ききたきゃ、何だって云ってやるよ。何をききたいの──山下先生がしつこいかっていうの? だって、比べようがないもの──あの人は、長いことぼくのからだじゅういじりまわしたり、舐めまわしたりするよ。ぼくにもさせようとして、ぼくがいやがるとすごい形相になるし、でかいのを頭を押さえつけて咽喉まで押しこんでくるから、ぼくは吐きそうになって涙が出るけど、でも──」
「やめろ、良」
滝は叫んだ。異様なものがつきあげてきた。
「どうしてよ、ききたいんでしょう。嫉いてるわけはないしね」
良の声はほとんどあからさまな嘲弄をおびていた。
「あなたがそうしろっていうんなら、それもビジネスだもの。一回ごとにあなたにちくいち報告したっていいよ。それともいっそあなたが立会人になって、ぼくの仕事ぶりをチェックしたら?」
滝の手がハンドルからうき、いやと云うほど良の頬へ平手打を見舞った。それで車が激しくスリップし、あわてて滝は運転に精神を集中しようとつとめた。
良はがくりと首を背もたれにのけぞらせ、右手で頬を押さえたまま、神経的な低い笑いを洩らした。滝の手は熱病にかかったように震えだし、どうしても止まらず、どうやら無事にマンションの一階のガレージにスカGがすべりこんだときぐらいほっとしたことはなかった。
滝は何も考えまいとつとめながら、三階の室に入った。何か考えはじめたら、頭が変になりそうな気がした。
良は黙りこんでコートをかけ、舞台衣装をきちんとしまい、ストーブに火をつけ、やかんをのせ、そうしたこまごました用を一心に片付けていた。セーターとジーンズにつつまれたしなやかな姿が、いかにものびのびと室の中を動きまわる。
ふいに、このほっそりした生意気な、わるいきれいな小悪魔は、おれのものなのだ、おれが征服し、従えてしかるべき、おれの妻なのだ、という異様な観念が滝をひっつかんだ。
滝は圧倒され、何も考えられず、呪縛されたように立ちすくんでいた。
目が良の一挙一動にからみついてはなれない。滝はその彼を当惑させ、手のとどかぬところにささった棘のように苛立たせる少年を思いきり殴りつけるか、髪をつかんでひきずりまわすか、ひどく残忍に踏みにじりたい欲望に目がくらんだ。
なんとか目をそらして見まいとしていたものをやにわに真正面からつきつけられたように、彼の想像ははっきりと、残酷なくらいあからさまに、山下の部屋にいる良を、からみあっている肉を彼に見せた。
良のほっそりした裸身がのけぞり、山下の太い腕に頭を押さえつけられ、髪をつかんで、彼の下腹部に押しつけられている。良のきつくとざした目から苦痛と嫌悪の涙がつたわり、呼吸をもとめて喘ぎながら、男の強い力から逃れることができない。滝はゆっくりと目の前が昏くなってゆくのを感じていた。
それは、不貞《ヽヽ》だった。
そこへ良を売りわたし、強制したのが彼自身である以上、それは彼自身が良を汚したのと同じことなのだという思いと、自らが征服し自らに結びつくことで彼自身が結びつけられている妻の不貞に憤怒する男の激情とは、ふしぎに矛盾していなかった。
滝の異様な視線にすでに良は気づいていた。動きをとめ、ほのかな苛立ちを滲ませてふりかえった表情は、滝の血走った目にあって、急にけわしくなった。
眉がよせられ、白い歯がぐいと下唇をかみしめ、顎をつきあげるようにして、滝の目をはねかえす。だがそのはっきりした拒否の中には、良自身も認めたくないかすかな恐怖がかくれていて、それが滝を刺激した。
「良」
滝はかすれた声を出した。
「ここへ来い」
「いやだよ」
良の反応はあまりに早く、激しかった。それはかえって、良の内心の怯えをのぞかせた。
「ここへ来いというんだ」
滝は一歩踏み出した。良は素早くさがった。寝室に逃げこもうとする心算が見えすいた。
「おれの云うことがきけないのか」
滝の声はますます咽喉にからんでかすれた。
「あんたなんか嫌いだ」
良は滝の目から目をはなさずにわめいた。滝の脳をくわっと熱いものがつきあげ、彼はわずかにのこっていた自制心すら失った。
良は彼のものなのであり、彼が拾いあげて、売り出そうとしてやっている、彼の創《つく》ったものだった。良には彼にさからう権利などない、生意気な目で彼を見かえす権利などないのだ。
云うことをきかぬその少年を罰し、こらしめてやるのだ、という考えが、ふしぎなくらい滝を逆上させていた。
理不尽な憤怒に彼は身をゆだねた。いったいなにが彼の逆鱗にふれるのか、山下が良を汚したことか、良の口答えか、それとも良の存在そのものなのか、もう滝は混乱して、何がどうでもよくなっていた。
ただ、良を罰さなければならない、わるい、許せぬその彼の所有物を手ひどくいためつけ、許してくれと泣き声をあげさせ、もうしないからと哀願させるのは、彼の正当な権利だ、ということだけはたしかだった。
「あっちへ行け!」
良は叫んだ。追いつめられた猫の表情がまたその光る目にあらわれていた。
良はじりじりと後ずさりし、いきなり横っとびにベッドルームにとびこんで、ドアをしめようとしたが、滝の方が早かった。彼の拳が良の顎をとらえ、良ははねとんだ。とざされかけたドアをからだで押しあけて、滝は良におどりかかった。
「いやだったら! そんなこともうしないって云ったくせに! あんたなんか嫌いだ! 大嫌いだ! はなせったら!」
良はわめいた。恐怖か──或は何かもっと別のものが、良のからだから力を奪っていた。良はふいに静かになり、哀れな、涙をためた目で滝を見上げた。
「お願いだから──もうやめて──あなたの云うとおりにしてるじゃないか──山下先生のところも行ったし──これ以上どうしろって云うの……ぼくを殺すつもりなの? そんなに、ぼくが憎らしいの?」
滝は物もいわずにその頬を思いきり叩いた。良の哀願はなお彼を昂ぶらせた。ずるい、わるい小僧め、と滝の中の激昂したものが叫んでいた。
可愛らしい顔をしてみせて、おれの憐れみを乞おうとして──その手に乗るものか。おれにはお前の性根ぐらい、ちゃんとわかっているんだからな。
滝は良の胸に馬乗りになり、小さな顎と唇をつかんだ。狂ったような昂奮に彼は我を忘れていた。彼はかすれた声で囁いた。
「どうなんだ──山下はこうしたのか……こうしたのか?」
「あ……」
良が呻いた。しっかりと顎をおさえつけられたまま、喘ぎながら滝を見上げた、白く見開かれた目のなかに、何か異様な表情があった。滝は憎しみにかられて、小さな咽喉へ張り裂けんばかりに押し入った。
良は呼吸ができず、明らかに苦しがって、頭をそらそうとし、きつく目をとじた。苦痛の涙があふれ出した。滝は逃すまいと良の頭を押さえつけた。山下がこうやったのだ、と思うことが、彼を狂おしくさせた。良は夢中で滝のからだを押しのけ、激しく呼吸しながら顔をふった。
「苦しい。やめて──もうやめて」
「お前はおれの云うとおりにしていればいいんだ」
滝は喘ぎながら云った。
「ぬげよ」
「お願いだから──」
「おれにさからうな!」
滝は大声を出した。猿臂をのばして、がむしゃらに良のセーターをひきむしろうとした。良のからだから、また力がぬけていくようだった。弱々しく滝の手を押しのけようとしながら、すくみあがった少年は泣きわめいた。
「頼むから──やめて、お願い──死んじまうよ! それだけはやめて──」
「山下だって、──こうしたんだろう……」
滝は震えている少年のからだに押し入ろうと苦労しながら云った。良は激しくかぶりをふった。
「いたいから──いやだって云ったの──だから許してよ──ほんとうだよ……」
良の目に涙があふれていた。ふいにつきあげるような歓喜が滝をとらえた。良のからだを知っているのはおれひとりだ、この良はおれのものだ、という激動だった。だがそれはかえって良を激しく欲させた。
滝は再び良のなかにいた。良はかすかな悲鳴をあげて拒んだが、それきり苦痛に眉をひきつらせ、蒼白になった顔をのけぞらせて、滝の下で抵抗をやめた。少しでも、滝にさからってその激情をあおりたてるのをおそれ、ひたすら苦痛が早くおわってほしい、いたいたしい表情だった。良の手が滝の腕にかかり、溺れかけたもののように必死で握りしめた。
滝はその可憐なしぐさに、ふいにこれまでとはちがった昂ぶりがこみあげるのを感じた。それは、熱いいとおしさだった。その狂ったような嗜虐と、どうしようもないいとおしさとは、これから、彼の良への気持のうちに、たえず入りまじり、表裏をなし、時に溶けてひとつものとなり、彼を呪縛し、良に結びつけるだろうと、滝はふしぎな恍惚と戦慄との混りあった予感の中で知った。
彼のからだは良のからだをひき裂き、耐えがたい苦痛を与え、いためつけていて、彼もそれを望んでいるのに、彼の内の別なものはその少年の傷の上に涙を注ぎ、苦痛をいやし、ひざまずいていとおしさに撫でさすってやりたい、その思いだけで夢中になっているのだ。
滝は激しく良のほっそりしたからだを抱きしめ、そののけぞらした咽喉や山下の接吻の痕をのこした胸に唇をあてた。良が呻き声をあげた。滝の手がその髪をまさぐり、彼は苦痛の涙に濡れた頬に頬をすりつけた。
滝自身にも、すでに自分の気持がわからなかったし、そんなことはどうでもよかった。彼は自らの揺れ動く激情にひきずられ、ひきまわされていた。
生まれてはじめてひとが彼の心に入りこみ、常に自らの主人であった彼を行方も知らない盲目な欲望と愛情の交錯にひきこんでいた。この激烈な没我の陶酔にくらべれば、彼のこれまでに味わってきた快楽や欲望など、ただの生理的な機械のような反応にすぎなかった。時間のなくなった時間がすぎ、死んだようになった良から身をはなしたとき、滝もまた彼の全存在をしぼりつくしたかのように、泥のような疲労におちこんでいた。
「良……」
良のかたわらに身をよこたえて、彼は手をのばし、そっと良の髪を撫でた。額にねばりつく髪をかきあげ、掌で汗をぬぐってやり、その青ざめた顔に見入った。
「辛かったか?」
良は弱々しく目を開き、滝を見た。滝は、自分が、まだ良に見せたことのない、だがはじめて良を犯し、その傷ついた姿の上に覚えずも知りそめた、あの魂の底の秘密をさらけ出してしまうような目をしていることに気づかず、つつみこむような、目で愛撫するようないとおしさで見つめていた。
良の目は滝の目を見上げていた。まだ苦痛の涙が睫毛にうかんでいたが、いま、良は、滝を憎んでいなかった。唇が小さく開き、可憐な表情をしていた。
滝は手をのばしさえすれば良の心に手のとどくところにいるのだった。良はやさしさに餓えた見すてられた猫だった。滝の与える苦痛も、凌辱も、愛からなされたと信ずることさえできたら、良は甘受するのだった。
山下に嫉妬する滝、良の苦痛を気づかう滝のなかに、滝のほんとうの気持がのぞいていて、鋭敏に良はそれに反応しようと待っていた。
いま、滝のほんのひとこと、ただひとつのしぐさだけでも、滝は良を得ることができただろう。ちがう日々がすぐ見えるところまで来ていたのだ。そうすることをさまたげるものは何ひとつなく、滝が自分は良に恋しているのだ──愛しているのだ、これまでの商品たちなど比べ得べくもなく、かけがえのないものとして、その夢見るような目と、猫の心と、欲望や卑しさにはとことん反撥するくせに、やさしさには嘘のように脆《もろ》い淋しがりの魂を持った少年を愛しているのだと認めさえすれば、すぐにでも良は彼の胸にくずれこんで来、彼のものになるはずだった。
滝は漠然と、わけはわからず、はっきり理解したわけではなしに、それを感じ、ふいに彼をおそったとろけるような甘さ、眩暈《めまい》のするような誘惑の甘美さに愕然とした。
彼はそんな感情に馴れておらず、予想もしていなかった。昔、彼が婚約し、妻に迎える日をひたすら待ち望んでいた少女が結婚を二月後にひかえて突然わけもいわずに彼の親友と駈落ちして以来、彼は人を愛する気になったこともなく、欲望の対象を人間だと思ったこともなかった。
彼に思い出せる唯一の原因は、明子の彼を捨てる二日前にした口喧嘩だった。
あなたって、どこか、片輪よ、と明子は云ったのだ。頼りになって、しっかりしていて、男らしくて、才能があって、外見だってとてもあかぬけてすてきだわ。仕事第一だって男なら当然よ。でもそんなことでなくあなたは何か欠けてるのよ。あなたは、私を見たことがあるの? ほんとうに見たこと、よ。じゃ、あなた、私が一番大切に思ってるもの、何だか、知っている?
それは滝には云いがかりとしか思えなかった。いまでも彼は──そう思っていた。
そして彼は常に自分自身の主人であり、自分の能力を知りつくして見事な機械のように使いこなす、他人に対しては、欲しいものはとり、おれに任せるならよいようにしてやろうと云う、攻撃型で意志のつよい、いくぶん残酷な人間であることをいよいよきびしくしてきたのだ。
彼は自分を唐突に襲った誘惑のめくるめく甘さに恐れをなし、心を立て直そうとしながら良を見つめた。良をいとしいと思う彼の心には嘘はなく、それを示したいと思ったのも自然な心の動きだった。もはや、彼の内に生まれたいとおしさは、かくしようもなく彼を占めていたのだったから。
彼はおずおずと良の髪を撫で、囁いた。
「済まなかった──もう、こんなことはしない、誓うよ」
滝は、間違いを犯したのに気づかなかった。ふいにかき消されたように良の目から光が消え、良は目をとじた。良のひそかに望んでいたことばは、後悔などではなかった。滝は何も気づかず、不器用にことばをついだ。
「前に、もうこんなひどいことはしないと云ったのに──お前を傷つけるつもりはなかったんだ。おれは──お前が相手だと、どうしてこう|むき《ヽヽ》になるのかわからん。お前に、こわがらせるつもりなんかないんだよ、良……」
「もう、いいよ」
良は冷えた声で云った。ゆっくりと、細い手が、滝の髪をまさぐる手を押しのけた。
「こないだほどは、ひどくなかったもの」
「そうか」
「心配しなくてもいい──明日の仕事──ポスターの撮影だっけ──仕事にさしつかえなんかさせないから……死にやしないよ。それでいいんでしょう──あなたの心配してるのは、そのことだけでしょ」
「どうして」
滝は声を荒げた。
「どうしてお前はそんな風にしかとれないんだ。おれのすることを、わるくわるく解釈するんだな。お前──そんなふうにひねくれてしか、考えられないのか」
滝は滝なりに、良がいとしく、それを示したかったのだ。彼は重苦しい悲哀にとざされ、それを封じこめて平静な彼に戻ろうと努力しながら云った。
「おれはお前のことを心配してるんだぞ。おれがわるかったと思ってるから──」
「心配なんかしなくていいって云うんだ。ぼくがばかなんだから──遠慮なく、レッスンを進めたらいい。ぼく、覚えがわるいけれど、あなたなら、理想的な商品につくりあげるでしょう。ぼくだって──いまさら、どうこうなんて思っちゃいない、いちいちぼくにあやまることなんてないじゃないの」
「良──」
「ぼくはね──あやまって貰ったり、親切ごかしにいたわられるより、どんな恥かしい目にあわされても、ひどいことをされても、あなたがむりやりこんなことをするんだ、いやがるぼくに力ずくでこんなことをするんだ、ほかの奴に売りわたしたり、ぼくを人形にしてあやつっているんだ、そう思う方が、ずっと気持が楽だよ。それならあなただってぼくが憎もうと、さげすもうと、放っとけば済むでしょう。ぼくなんかただのガキで、何の力もないんだからね。あなたは、それとも、前にああ云ったくせに、ぼくに、あなたを憎むことも許さないつもり? どんな目にあわせても、そうしながら、お前のためだぞ、良、お前のためを思ってしてるんだぞなんて云いたいの? あなたは、ぼくのこと、一体何だと思ってるの──ぼくが人間として、さいごのプライドもなくした泥人形になるのがあなたの目的なの? そうなんだろうな、きっと」
「生意気なことを云うな」
滝は怒鳴り、腹立ちまぎれに良の頬を打った。
「ほら──その方があなたらしい。その方がずっと、好きだよ、ぼくは」
良はくっくっと笑った。それでからだにいたみがひびいたらしく、ひどく眉をしかめた。
「でもね──ほんとう云って、もう、ごめんだな。あなたが誓うのなんか、あてにならないけど、もう、ぼくは、あなたにこんなこと、されたくない」
良は手をのばし、服をさがした。滝はパジャマをとってきてやり、着せかけながら、妙に苦しい怒りを胸に沈めていた。煙草に火をつける。
「あなただってわかってるはずだ。こないだよりはひどくなかったけど──でも、もういやだ。山下先生は、あなたよりずっとやさしいよ。あの人のすることなんか、ぼくは、何とも思わないけど、あなたの云うとおりにしていたら、きっと殺されちまう。あなただってぼくをなくすのはいやでしょう。協定を結んだ方がいいと思わない?」
「協定?」
「ぼくは、誰に売られたって、文句は云わないよ。そいつがぼくをあまりひどくいためつけさえしなきゃ、おとなしく売られるよ。だから、あなたとだけは、もう二度と──」
良の目が、暗鬱な表情で、寝室のくしゃくしゃになったシーツの上を見つめていた。なまなましい薔薇色の血がシーツを汚している。良は唇をかんだ。
「こんどこんな目にあわしたら、ぼくは、あなたのこと、殺すよ。正当防衛だ、あなたになぶり殺しにされる前に」
滝はかっとして、良の肩をつかんだ。
「生意気を云うなと云っただろう。お前はおれの云うとおりにしていればいいんだ。おれがお前をどうするか決める。お前が欲しければ何度でもやるさ。お前にさしずなんかされない。わかったか──わからないというんなら、いますぐ、もう一度やってやる。お前を殺したって、別にわるいことはないんだからな。お前程度の玉の替えはいくらでもあるんだ」
おれは、女衒みたいな卑しい口をきいてるな、と滝は思い、それはむしろ、とことん卑劣に、とことん残酷に、べったりと泥にまみれてしまいたい気持を彼に呼びさました。
女衒にちがいないじゃないか、そのどこがわるいんだ、と滝は思った。彼をあれほど占めていた、良へのいとしさも、ひそかな甘さも、いまとなってはかえって彼を嘲い、屈辱と怒りで焼くようだった。
この小僧は、おれを憎んでいるのだ、二度と忘れるな、と彼は自分に云いきかせた。飼いならすには、鞭で叩きのめすしかない山猫なのだ。そうしてやろうじゃないか、と思い、彼は良の上におおいかぶさった。
良は信じられぬように彼を見上げ、苦しさに身悶えた。
「あんたは、ぼくが憎いんだ」
良は呻いた。
「ぼくを殺したいんだ──畜生!」
「そんな口がきけないようにしてやるんだよ」
滝は憎しみをこめて云った。もうこんなことはせぬと誓った口の下から、彼は良にのしかかり、そのまだ彼の与えた傷の血のかわきもせぬからだに押し入ろうとするのだ。
こいつがおれを嘘つきにするのだ、と滝は思った。こいつがおれを悪魔にし、残忍な獣にし、下司な畜生にする。こいつがわるいのだ。何もかも、こいつがわるい、こいつのせいで、おれは狂うのだ。
滝の目の前が赤くなっていた。苦痛のあまり声も出ない、なかば気を失った良のからだに、滝はみたび身を埋めた。残酷な時間の底で、彼はただ、良のいたいたしくひきつった顔だけを見つめていた。
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「やあ、ご苦労さん」
人気のベストテン番組「ヤングポップス」の、ベストテン順位の報告をやっているアナウンサーの平井が、通りすがりに良と滝を見つけ、わざわざ廊下をひきかえしてきて笑顔をみせた。
「早いね」
「いえもう、新人ですから」
滝は人あたりのよい笑いをかえす。平井アナは人のよさそうな笑顔のまま、一番にスタジオ入りした良を見つめた。
「良くん、いいね。ぐんぐんのびてるよ。もう会社の方からきいてるだろうけど、うちの調査では、今週になってから『裏切りのテーマ』ベスト二十に食いこんでるよ。先週はじめが三十八位だからえらい勢いだ」
手にした書類をちらりとのぞいた。
「ひょっとすると、一位狙えんじゃないの」
「冷やかしちゃ困りますよ。高望みはしませんよ」
「何云ってんの、滝俊介ともあろう人が」
笑い声をたてて、調整室の方へ行く。見送って、滝は良をふりかえった。
「NENで二十位か。『スターダム』誌のヒットリサーチで二十三位だから上ってるな。いいぞ、お前」
良は、白いセーターに焦茶の別珍のジーンズをはき、四月に入ってから滝の買ってやったベージュのトレンチ・コートを無造作に羽織っていた。滝を見上げて、別に嬉しくもなさそうに笑ってみせる。楽屋はがらんとして、まだ誰もきていなかった。
「ヤングポップスのあがりが九時。そのあと、どうするんだ、お前」
「さあ、山下先生がどっかでご馳走してくれたがるんじゃないかな」
「またか?」
良は肩をすくめた。いくらか、痩せたかな、と滝は気がかりにそんな良を見ていた。手をのばし、髪をすくいあげてみる。
「髪、のびたな。あさって、北川のママのところだ」
「何時」
「あとで調べとく。明日が朝十時にマルス本社だからな、今夜はあまり遅くなるなよ」
「わかってるよ」
良はコートをぬぎながら面倒くさそうに答えた。ものうげに滝を見るなかばとざした目に、濡れたような艶があった。
このごろ急に身についてきた、おとなびた表情だ。
「山下先生なら、平気。あのひとぼくの云うなりだもの」
くっくっと良は笑った。ばかにしたような笑いだった。
「正直云って、もううんざりしてるんだけどさ」
「奴さんにかい?」
「云ってもいいでしょ」
良は誰もいないのをたしかめて、肩をすくめた。
「もう、飽きちゃったよ、山下先生にも、あの歌にも」
「困った子だな。云ったろう、まだまだのびが止まらんあいだは、これ一本で押すって。予定じゃ、あれののびかたしだいで、四月には新曲、第二弾ってつもりだったんだが、どうもまだじっくり売れそうだからなあ。まだ、地方から火がついてきたってとこだから──」
『裏切りのテーマ』は十万枚を出し、二十万枚を出し、ベスト三十内にはじめて入ったときにはデューク社長が良にやれと褒美の金一封を滝にあずけたくらいで、そこまででも五万なら成功といわれる新人のデビュー曲としては立派な成績といってよかったのだ。
しかし、まだのびは止まっていなかった。マルス・レコードも力を注いで、良の大型ポスターを、いいカメラマンをさがしてきてつくらせ、有線やラジオで一日に五回は必ず『裏切りのテーマ』がかかるようにし、サイン入りポスター・プレゼントだの、チャリティー・サイン会だのと新手を考え出して売りまくっている。このポスターが、素晴しい出来だった。
「おれでも、ちょっと欲しくなるくらいだよ」
アート・ディレクターの星野が自慢たらたらで見せたそれは、光をかけてぼかした中にカメオの浮彫のように良の横顔がうかびあがり、細い首は白いレースにつつまれ、完璧などこか淋しそうなうつむきかげんの顔をみせた良は遠くを見ているようなまなざしに睫毛が淡く光って、かるく開いた唇のあいだに、赤児のように右手の親指をかんでいるのが妙に胸にしみた。
逆光でぼやけている背景は、どこかの光明るい窓際で、窓の下に花と木の椅子のある白木づくりの部屋だ、とわかる。そこに光につつまれた良が窓の外とも、どこか遠くを見ているともつかぬ表情で、純白なレースのゆるい打合せのブラウスに、色あせたジーンズをはいて立っているのだ。
レースは良の美しい肌をなかば透かして、ひどくエロティックに見せ、ローマの貴族のトーガのように、ひだになって白い房紐で結んだ腰まで流れるような線をつくっていた。良は光の精のようにも、妖しいほど美しい少女のようにも見えた。
「こりゃすごい」
気難かしやの佐野も唸ったし、それがレコード店に配られて張り出されると、反響は予想以上だった。ファンレターも急にふえた。滝の意見で、そのポスターには、曲名と良の名は小さめに左下からレタリングし、良の耳のあたりから英語でJONNIEと流したが、それもあたったらしく、≪ジョニー≫という良の愛称もファンにアピールしているようだった。
スタッフは当然第二弾の準備をととのえて待っていたが、思いのほかなヒットのきざしにあわてていったん予定を戻し、『裏切りのテーマ』を売れるだけ売ってやれと方針を決めていた。
「思ったより、つまんないね、三回も歌ったら、もうなんだかどうでもよくなっちゃった。みんな、よくやるな、牟礼光二なんか『バラの香り』半年も持ってるんだってね、いやになんないのかしら」
「あれはお前、ロングセラーで大賞狙いの本命だぞ。いやも何もないさ」
良の気まぐれにだいぶ滝も馴れていた。それに口では何を云っても、音楽がはじまれば自動的に曲のための顔になることがもうわかっているから、かるくあしらうこつを覚えている。
「あの子の中には、何ていうのかな、天性の歌手がいるみたいだね」
何かの用で結城修二に会ったとき、美男の作曲家はそう評したものだ。
「うん、興味があって、ずっと見てるけどね。そりゃまだ、とりたててうまいってわけじゃないが、しかしいい歌だ。のびる歌だし、ムードとルックスはもう群をぬいてるよ。さすが滝さんの切札だと思ってね──そうねえ、何ていったらいいのかな。ぱっとチャンネルが切りかわるというか──歌い出すと、その歌になってるね、あの子は。竜崎光彦以来、ああいう歌い手はちょっと出てないんじゃないかな。歌が、生きてるよ」
結城修二にそれだけ絶賛されれば、まず上半期の新人のトップは決まったようなものだし、このままで行って、『裏切りのテーマ』が息切れしても、第二弾がスムーズにひきつげれば、今年の新人賞は確定といったってよかった。デュークも、マルス・レコードのスタッフも、当然それを良のために狙っているのである。
「売れるあいだは売りまくるんだよ。それがわれわれの原則ってもんだ」
「そんなに売れてるのかしら。何だか、実感がないね。十万枚とか、二十万枚とか云われても」
「そのうちにわかるさ。第一、お前、四月に入ってからみるみるベストテン番組の仕事がふえてるだろう」
「うん」
かけもちをする日も一週間一回は入るようになってきた。はじめほとんど記入のなかった、滝の一週間ごとに書きかえるスケジュール表も、いまでは大体三、四日は埋まるようになっている。
むろん、尾崎プロの看板スターの前座だの、ショーのナカコマのつなぎだのが主だが、それはやむを得ない。とにかくまず数、こなして、顔と名を売ることなのだ。滝はどんな仕事でも取った。
「きゃしゃな子じゃないの。大丈夫なのかね、こう休みなしで」
デュークが心配するくらい、ありたけのコネと顔をきかせて滝は仕事をかきあつめたが、滝の方は笑って
「十七ですよ。見かけは細くたって、タフなもんです。とにかく、ひと晩寝りゃ疲れののこらない年齢なんだから」
あっさり片付けながら、良のためだ──自分自身にもそう納得させていた。それにたしかに、ほっそりした外見によらず、良は不平も云わずにスタジオからサイン会から挨拶まわりとかけまわり、滝の云うなりになる人形のように歌い、動き、そつなく何でもこなした。
その上に山下とつきあう時間だってあるんだからな、と滝はしかめ面で考える。
山下はいよいよ良が手ばなせないと、色と欲両面で判断して、良をいいように甘やかし、毎晩のように晩飯だ、息抜きだと車で迎えに来る。
山下は敏感に、ヒットにもかかわらず二曲目で滝が山下より格が上の作曲家に良を頼もうという情勢をかぎあてていた。不振だったならともかく、ベスト入りするくらいヒットして、なおかつはずされては、作曲家としての体面にかかわる。
山下もいいかげんに、中堅どころ──ていよく云えばそうなるが、つまり二流だ──から結城修二や杉森省一クラスの仲間入りがしたいのだ。滝に恩があるから新人の曲を書いてやったつもりだったが、これで良が、新人賞、二曲目と順当に売り出して、それにくっついていければ、山下の手柄ということにもなる。
山下は、滝が、山下が良を抱こうとしてごたごたを起して以来彼に対して悪感情を持ちだしたことをちゃんと知っていて、良をはなすまいと必死なのだ。
(将を射んと欲すれば、か。おれが良に参ってるとふんでるわけだ、やっこさんは)
三月ごろから、良は、ときどき上等のブラウスだの、靴だのを持って帰るようになった。どうしたときくと、山下が買ってくれるのだという。
良には少女のようなところがあって、着るものや装身具がとても気になるらしい。滝はばかなことだと放っておいたが、物でつろうという山下が哀れにも思えた。
それで良の方は、あの先生には飽きた、うんざりだ、とそっけなく云っているのだ。滝は結城修二にデュークを通しておそるおそる、良の二曲目を打診してみたが、駄目だった。
「山下君が手をかけて、レッスンをしてやってるってきいてるよ。ぼくが出ちゃ、筋ちがいなんじゃないの」
やんわりやられた。どんな大型新人でも、何もまだ実績のない新人のデビュー二曲めを書く結城ではない。結城が新人の曲をやったのは、彼自身が売りこんだ高木マヤだけで、そのとき異例のことだというのでそれがキャッチフレーズになったぐらいなのだ。
しかたなく、滝は杉森省一に小当たりに当ってみていたが、そちらも山下にわるいのどうのとごねていた。内心は、新人賞でもとったらというところだろう。とにかく実績だけがものを云う世界である。
「あ、お早うございます」
「お早うございます。早いね」
朝でも夜でもお早うが挨拶である。リハーサルの時間が近くなって、しだいに出演の歌手たちが顔をそろえてきた。
「早いのね、ずいぶん」
妖艶な顔が毛皮の衿にうずまって、滝の前にきて花のように笑いかけた。滝は笑った。花村ミミだ。六年前に滝が手がけて売り出した、ポップス系のトップ・スターである。
「出るのか、今日」
「あら、ご挨拶ね、同じプロでしょ。あたしのスケジュールくらいわかるでしょうに」
滝は商品の隅々まで自信をもつという原則に従って、この都会的なクールな美しさを持つ女とも寝ている。既に処女ではなかったし、割りきった大人っぽい考えと、情事のあとさっと帰ってしまうような聡明さが気にいって、ミミとの関係はずいぶん長く、安定してつづいたものだ。
「石黒チャンが云ってたわよ。滝さんこんどは生命がけだよって。どうお、良ちゃん、調子は」
「どうも」
良はあいまいな、困ったような挨拶をした。同じプロのスターで、けっこう顔をあわせるのだが、向うは新人など歯牙にもかけぬふうをしていて、こんなに馴れ馴れしく声をかけてくるのははじめてだ。「今月の新人コーナー」に出して貰うときと、れっきとしたベストテン番組の出演者で呼ばれるときでは、まわりの態度もちがう。
「あんたは、八日っから日劇だろ。知ってるさ、ちゃんと」
「覚えててくれた?」
ミミはそれきり良には目をくれないで、色っぽい目つきで滝を見上げた。暗褐色に、少し脱色した髪を、豊かに肩にかからせ、付人に毛皮の衿のついたコートをわたすと下は地味なワンピースにブーツだった。
「ミーコもいいじゃないのこんどの」
「『忘れないわ』でしょ。好きよ、あの曲」
忘れないわ、あなたのこと、三年ぶりで会ったのに、とミミはくちずさみながら意味ありげに滝を流し目で見た。あたしの指が覚えてるのあなたの顔、あなたのくちづけ、捨てたはずの愛なのに、とつづけてみせる。滝は苦笑した。
「ミーコ、メークさんがお呼びだよ」
「あら」
身をひるがえそうとして、ミミは良を半眼で見た。
「滝さんがついてるんなら──もうじきにスターね」
ちょっと皮肉そうに笑ってみせて、メーク室へ姿を消す。良は興なげにぼんやりしていた。
「そろそろ、したくするか、良」
「うん」
良がつまらなそうに立ちあがろうとしたときだった。
「おい、こんなとこにいたら入れないじゃないか」
入ってくるなり尖った声で怒鳴って良の背をつきとばすように叩いたものがある。美しい顔だちだが神経質そうな、付人にかこまれた二十五、六の男は、去年の歌唱賞の立花明だった。マカベプロの人気スターである。
「え」
良はふりかえった。冷やかな無感動な目で人気歌手を見上げる。
「ちょっとあけてくれませんか。済みませんね」
付人が滝に云った。滝はむっとしたが黙って良の荷物をずらしてやった。楽屋は五分どおり顔をそろえているが、何もここにこなくても、まだ充分あきはあるのだ。
立花明の一行はその一角全部を占領すると、外にいたらしい新人とマネージャーを呼び入れて、見せつけるように親切にした。良と同じくらいの年かっこうの少年だ。
「誰あれ」
「星光だ」
滝はうんざりして別に声を低めずに云った。
「マカベプロさんのいま力を入れてる──『今月の新人コーナー』だろう。何て歌だったけな」
「ちょいとヒットしてきたと思って、威張ってやがる」
立花明の付人か、マネージャーか、本人か、はっきりわからなかったが、誰かが十分きこえるひそひそ声で云った。楽屋の中はちょっと静かになった。
「『今月の新人コーナー』がわるいってのかね。先々月にはご当人も拝み倒して出して貰ってた癖にさ」
「静かにしなさいよ、|えらいひと《ヽヽヽヽヽ》がついてんだから」
「ほっとけよ、良」
滝は良にだけきこえるように云った。良は見事にすました顔で、着替えにかかろうとしていた。
別々の楽屋をくれるような劇場などとちがって、狭いスタジオだ。尾崎プロの良や花村ミミ、マカベプロの立花、モリプロの≪新ご三家≫関まさみ、田口二郎、と呉越同舟は避けられない。
モリプロはまだ若い森社長の才腕で最近急激にのびてきたプロダクションで、合理的運営をモットーにしている。暴力団の確執のバックにあるマカベと尾崎に巻きこまれる愚をさけて、関まさみや田口二郎のマネージャーも、黙々と自分の歌手の面倒に専念していた。
滝たちがあいてにならないので、マカベプロの一行も何かきこえよがしに云いながらも、アシスタント・ディレクターが打合せに入って来るまで、それ以上いやがらせはしなかった。
気まずい雰囲気が漂った。良がけろりとしているのが、滝にはありがたいと同時にいささか拍子ぬけだった。気にするようなら、説明してやろう、と思っていたのだ。
≪新ご三家≫の大当たりで、新興モリプロに水をあけられて以来、かつての御三家はオジサンと化してしまい、若い層への切札をなくした大手は挽回に必死である。
女性の歌手はマカベにせよ尾崎にせよ手駒があるが、いまやティーンの女の子は関まさみ、田口二郎、北条裕樹でなければ見むきもしない。どちらかといえば演歌系の多いマカベプロは社長がもとジャズマンだけにポップスの多い尾崎プロよりさらに苦しいのである。
立花明、堀純一はトップスターとはいえ、演歌で、「おとなの歌を歌う」といえば体裁は良いが若い女の子をひきつけない。モリプロの成功で出てきた群小プロも、水をあけられた大手も、狙いは唯一、≪新ご三家≫の路線を受けるアイドル・スターなので、良が尾崎プロの切り札なら、マカベプロがこんど押したてて強力に推進するつもりらしい星光もマカベプロの名誉がかかっている。
いまのところポスト新ご三家争いは良が一歩先行したわけだが、それだけにマカベのいやがらせは含みがあった。別に滝は驚きもしない。滝がマカベプロの人間なら、ライヴァルつぶしにどんな手でも使うだろう。
警戒され、反撥されるのは力のある、やがて脅威になると思われている証拠だと考えている。
滝は良を見た。なにごともないように、北川デザイナーにつくって貰ったばかりの衣装を着ている。北川のママが当分白のイメージで売ろうというので、白いフリルつきのブラウスに白のパンタロンというなりだ。腰に金鎖の細いベルトを三重に巻きつける。
はっと目をひく、白鳥のような姿だった。マカベプロの新人を滝は値踏みの目で眺め、問題にならぬ、とあらためて満足した。
ADがリハーサルを知らせに来る。楽屋は急に静かになった。
滝が良のスーツケースを隅に押しやり、リハをのぞこうかと楽屋を出ようとしたときに、向いの女性用の楽屋から、ミミが出てきた。まだ着替えていない。
「リハかい」
「ううん、もう少ししたらね。あたしトリだから」
ちらりと得意げにミミは云って、滝のそばによってきた。
「みんな、行っちゃったの」
「たぶんな」
「なんだか、久しぶりね。あたし忙しかったし」
「同じプロなのにね」
「そうよ、あたしっていう歌手は、あなたがつくったものなのに」
「ミーコはスターだよ」
滝は微笑した。
「もう、おれのつくったなんていえないさ。ひとり歩きの、うちの看板だ。ちゃんと、石黒マネというひともついてるし、もう、おれのものじゃない」
「そんなこと云わないでよ。あたしは、いつだって、あなたのことばっかりよ」
「壁に耳があるよ」
「ばかね」
ミミはふいに滝の手をつかんだ。
「あたしふられちゃった」
「檜山さんに?」
「知ってたの」
「そりゃ、舐めて貰っちゃ困る」
「おとといよ」
「その方がいい。あいつは面《つら》ばっかりの大根だ。ミーコが勿体ないよ」
「でも、淋しいもんよ、わかってても」
「女房持ちに惚れるからさ」
「結婚しようて云わない人じゃなきゃ、あたしいやなんだもの。独身で、あたしと寝て、さいごには結婚の、愛してるのってついに云い出さない人って、俊介さんだけだったわ」
「ミーコって男の保護欲をそそるのさ。おれがいなきゃ、この女はって気がするんだな。誰も、ミーコの真実を知らないね」
「そうよ、あたしって悪女だもの」
ミミは屈託なく笑い、急に色っぽい目で滝の目をのぞきこんだ。
「あたし、淋しくって、しようがないの」
「やれやれ」
「ご飯たべないかって誘ってくれる人もないのよ」
「別れて三日で何云ってるの」
「ね、滝さん」
「忙しいんだよ」
「嘘つき、良ちゃん今夜これであがりじゃないの」
「仕方がない、ミーコだからな」
「あの歌、歌うたんびに、誰のこと考えてると思ってるのよ。ひとでなし」
「さあ、檜山さんの前はどなたでしたっけね」
「許さないから。苛めちゃうわよ」
「九時にあがったら、『アガサ』で待っといで」
滝は云った。
「『アガサ』ね、なつかしいわ」
「あの子はたぶん山下先生が連れていくと思うからね」
「そうですってね」
ミミは意味ありげな笑い方をした。
「きれいな子ね、良ちゃんて」
「さあいいから、行っといで。ていねいに歌うんだよ」
「云い方まであのころと同じ。良ちゃんにも、そう云ってる?」
「ああ」
「行ってくるわ。きいててね」
「ミーコもいつもそう云ったね」
「チャオ」
ミミは笑って身をひるがえした。滝はひさびさに遊ぶのも、気が晴れるだろうと思いながらリハ中のスタジオにしのびこんだ。
ちょうど星光が出てきたところだった。少しきいて、滝は肩をすくめた。
(いやな声だ。訛りがぬけてないな。南雲先生だっけ──面もいただけない)
「滝さん」
滝はふりかえり、山下国夫を見た。
「いらしてたんですか」
「はじめてベスト二十入りだっていうからね──それに晩飯約束したし」
「だいぶん、お早くから」
滝は冷やかした。
「いや──ちょっとついでがあったから寄っただけだよ」
山下は足もとを見られまいとしているようだ。星光がリハをおえると、かわって良がはじめた。
「うまくなったね」
「歌いこんで来ましたからね」
「そろそろ、次を考えてもいいんじゃないの?」
来たな、と滝は思った。人当たりのいい笑みをたやさずに、なめらかに云う。
「いえ、まだ当分これがのびると思いますしね。まあ売れるだけは売るというのがデュークの方針ですしね」
「でもこれ一曲じゃ上半期だろうし」
「まあそのうちにご相談しますが」
滝はさらりとかわした。
「頼むよ。いい曲つくる自信はあるんだよ。良ちゃんのイメージぴったりのさ」
良のリハーサルが済んだ。良は立花明に何かとげのあることをすりぬけざまに云われたがきこえぬ顔で、滝と山下の方へやってきた。
「あ、先生」
「見てたよ。ずいぶんうまくなったって話してたとこだ」
「そう」
良は嬉しそうな顔もしない。それにくらべて、山下のようすは滝が哀れをもよおすくらいだった。目が吸いついたように白ずくめの良からはなれない。欲望と奴隷の卑屈さのないまぜになった顔だ。
「あいつ何云ってたんだ、良」
滝は気にしてきいた。良は冷笑をうかべた。
「尾崎プロの切り札ともなると態度がでかいな、マイクを直すぐらいのエチケットは覚えときなって」
「つまらんことを云いやがる」
「立花明かい?」
山下は具合のわるそうな顔をした。山下は立花明の曲を書いたことがある。あまりヒットしなかったらしい。
「良ちゃん、これ」
山下はそそくさと背広の内ポケットから平たいつつみを出した。
「なんだっけ」
「忘れたの、ピアスはほかのができなくなるからいやだけど、あのぐらい小さいイヤリングしてみたいって云ってたじゃないか。ずいぶんさがして、きょうつけられるように、本番にまにあうように持ってきてやったんじゃないか」
「あ、そうだっけ」
良はつつみをとって器用に破き、白い箱を取りだした。紙は山下に押しつける。箱をあけると、紫色のビロードに、直径二、三ミリの美しい銀のイヤリングが輝いていた。きわめて精巧に何かの花を模してあるが、線描きで、目に近づけてみなければただの銀の玉にしか見えない、凝ったものだ。かなり高価であることがすぐわかった。
「先生」
良はそれを見つめ、山下へ目をあげた。よろこんでいる声ではなかった。山下がぎくりとした。
「気に入らなかった?」
「金のがいいって云ったじゃない」
「そ、そうだったかな」
「ぼく金のアクセサリーつけることが多いからって──ぼくの云うこと、うわの空できいてるの?」
「そうじゃないけど──銀の方が似合うと思ってさ」
「これ、要らない」
良は驕慢な目つきで、箱を山下の手に押しつけた。山下がちらりと滝を見る。滝は知らぬふりをした。山下がかっと身内を滝に対する恥かしさでほてらしているのが、感じられるような気がするのである。
「そんなこといわずに、さ、今度金のを買ったげるから、これはこれでいいじゃないか」
「だって今日つけるって云ったじゃないの。ぼく金のベルトして銀のイヤリングなんて、いやだよ」
「ためしにしてごらんよ。きれいだよ」
「いやだよ」
「変なことないって。髪の毛にかくれるし」
「いやだったら」
滝は山下が気の毒になって背をむけたが、山下の声はやはりきこえるのだった。それは哀願の調子をおびていた。
「そんなこと云わずにさ。せっかく買ったんだから」
「恩着せがましくするんなら、ぼく欲しくないよそんなの」
「そんなことしやしないってば。じゃ、ね、こうしよう。良、これならいいだろう。これはとっといて、これから急いで行って金のを買ってくるからさ」
「だって」
良は気をひかれたようだった。声になめらかに甘えが忍びこんだ。
「間にあわないでしょ」
「局のすぐ近くに星野って店があるから。そのかわり、こっちより安くなるぞ」
「いいよ、金なら」
「じゃすぐ行ってくるから。滝さん、失礼」
滝の目をぬすむようにして、からだを丸めて出てゆく山下のうしろ姿を、思わず滝は眉をよせて見送った。良が滝の手をひっぱった。
「ねえ、やってよ」
良の掌に、銀のイヤリングがころがっている。滝はつまみあげ、器用な手つきで桜色の耳朶にねじをとめてやりながら、まずいものでも食べたような気持だった。
「いつも、ああなのか」
「何が?」
「山下は」
「うん。ぼくは、苛々するんだ、あの人を見てると」
「高そうだな、これは」
「しょっちゅう、やたらと何か買ってくれたがるの。ほかにどうしたらいいのかわかんないからね。ほんとに、前、滝さん云ってたけど、大物じゃないね、あの人」
滝は目を細めて良を見つめた。かすかな驚きがこみあげてくる。
「いいのかい、あんなに雑に扱ってさ」
滝は自分をおさえて笑いながら云った。良は肩をすくめた。
「いいんだ、あの人ぼくの云うことなら何でもきいてくれるんだから」
「驚いたね。いつの間に」
「さあ──あ、いたい」
「あ、済まん」
滝の指は無意識にねじをきつくとめすぎていたのだ。調節してやり、少しはなれて、彼は、暗褐色の髪に埋もれたほのかに色づいた白い耳朶と、そのなかにちかりときらめく銀のしずくの効果を検分した。
「どう?」
「いいね。きれいだ。良なら、おかしくない。お前は、アクセサリーが似合うよ」
「そう?」
良は嬉しそうに笑った。山下に云われるより、滝にほめられる方が、ずっと心にかなうらしい。滝の目を信頼しているわけだろう。
「少し、がんばってぴかぴかものをつけるかな」
「山下を手玉にとって、買わせるかね」
「気にいらないの?」
「いや。それは、良の自由だよ」
「そう云うと思った。どっちにしても損になることじゃないものね。ぼく、滝さんに習おうと思っているんだ」
「何を」
「何でも、利用できるものは利用することさ」
滝は肩をすくめた。良が口にすると、それはふしぎと卑しさがなかったが、そのかわり何となく冷酷なひびきをおびていて良にはふさわしくなかった。
それとも、ただ、滝のイメージの中の、野心も欲望も知らぬと思いこんでいた良の像にふさわしくないだけかもしれない。
「別に、シャカリキになってるわけじゃないけど」
良は滝の沈黙を読んでうすく笑って云った。顎をつきあげるようにした表情を、なまめかしいと滝は見ていた。
「ぼくだって気晴しは必要だものね」
「良の気晴しは気の毒な、お前に参ってる先生を手玉にとることか?」
「まあね」
良は小さい笑い声を立ててイヤリングをはずし、箱におさめた。
「ぼくは、何でも云うことをきいてくれる人が好きなんだ。ぼくの方はいつでもあなたの云うことをきかなくちゃならないものね」
良は可愛らしい笑いをうかべ、無邪気な話をしているように滝と並んで立ちながら、滝にだけきこえる声で云った。
「それがいやなのか」
「別に。もう馴れたし、いつだってさからったことないでしょう」
「ああ」
「ぼくが何を考えてるか、あなたは知りたいと思うことなんかないのかな」
「何だい」
「ぼくは、あの人には我慢がならないけど、あの人はぼくに必要なんだ」
良はふと見とれる目をむけた。人気グループ「マリーズ」のひとりの混血の少女に夢見るような微笑をかえしながら囁いた。
「時々、考えるよ。ぼくがあなたに何でも云うことをきかせられたら、いい気持だろうって──怒る?」
「いや」
滝は良を横目で見た。結城修二とレストランであった夜に、激情にまかせて良を抱いて以来、もうふた月近いが、むしろそれ以来滝と良のあいだは一見平静になり、滝も理性を取り戻して考えれば良は大切に扱うべき商品なのであり、それきり良にふれてはいなかったし、滝が事務的に扱えば良もいたって素直に、冷やかな親しみともいうべき態度で応ずるのだった。
その良がふいに本来の激しさをかいまみせても、どうやら滝はまごつかぬばかりか、ふしぎなスリルを感じるようになっていた。
「先生本番に間にあいそうもないぜ」
「いいよ。そうしたらあとで苛めてやるから」
「銀のでいいからつけたらどうだ。どうせライトの反射でちかちかっとするときはクローズアップだし、ロングならそんなところまで見えやしないよ」
「でも変でしょう」
「なあに」
「でも、いいよ、この次で」
「預かっとこうか」
「うん」
「そろそろ行っといで。先生が来たら呼んでやるから」
「うん」
良は滝に、一度も、先刻山下に対して見せたような態度を見せたことがない。冷やかな従順にしろ、ときおり気持が激したときの反撥や怒りにしろ、滝の知っている良はつねに、透明でどこか高貴な感情の動きを見せる少年である。
山下に対するような、驕慢で我儘な、残酷ですらある良を滝ははじめて見たのだったが、予想はついてもよかった、と滝は考えていた。
我儘な、ひとを弄ぶ、小悪魔の良もわるくない。あいてが嫌いな山下であるせいか、良はむしろ小気味いいくらいに滝には美しく見えた。
(もっとも、万が一、おれにあんな態度をしてみろ。ひっぱたいて、いやという目にあわしてやるが)
良が、滝には従順で、率直なことを、滝は深く考えてはいなかった。考えてみれば、良を生意気だとか、お高くとまっているとか、態度が大きいとかいう先輩歌手の一部の連中は、バックのプロ間の確執というようなことは別としても、案外に良の中の何かを直感的に感じとっているのかもしれないのだ。
滝は実のところ認めているよりずっと良に惚れこんでいたし、猫を思わせる良の性格に魅せられているから、知らず知らず割引いたり、美化していたがほんとうは、猫くらい我儘な、たちのわるい、始末におえない動物はないのだった。ふいに滝は、良のやつ、本心は知れたものではないぞ、と考えた。
(おれに、山下を小指の先であしらうところを、見せつけてやろうって気ぐらい、あったかもしれないな)
これはおれの自惚れでもあるまい、と滝は思った。良が山下を員数外と見做しているのもたしかなのだ。山下と良のベッドが見えるようだと滝は思った。山下は呼吸を荒らげ、顔に血をのぼらせ、夢中になってほっそりした良のからだを舐めまわす。良のほうは、まあ仕方ない、仕事のうちだし、そのうちに何か買わせてうめあわせをつけよう、イヤリングをもうひとつ、それとも張りこんで、コートでも、などと考えながら、うんざりしたように目をとじ、冷んやりと横たわって、されるにまかせている。
むら気な激情の発作にとらえられないかぎり、いつも、どこにいて何をしていても、どこか涼風が周囲にまつわりついているような清冽さを失わない良である。困った奴だ、自分の力を覚えて来てしまうと厄介だ、と滝は漠然と考えた。
「気晴しだよ」
笑いを含んで囁いた良の、青白いダイヤを思わせる瞳が滝の目にやきついている。良が自分の美しさや、自分の魅力をわきまえて、それを意識的に使うようになったら、こわい。すでにそのきざしはあった。山下をばかにし、ひどく扱っているくせに、良は山下をそそのかすときだけ甘えるような媚を滲ませた。
(おれに、あれをやる気になって欲しくないもんだ)
自分は抵抗できないだろうと考える。ひどく、そっけなく、人間でないようなあしらいをしておいて、時々自分のつけたなまなましい傷へ世にも甘美な蜜をしたたらせる。良はそんなところまで猫だった。猫は天性の妖婦である。
(時々、考えるよ。ぼくはあなたに何でも云うことをきかせられたら、いい気持だろうって)
滝はふいに甘美な毒に魂を灼きただらされる思いに慄然とした。はじめて、この子はおそろしく危険な存在かもしれない、という考えが彼をとらえた。
「どう思う、あの子」
その夜、花村ミミと食事をして、当然のなりゆきで、ミミのベッドということになったが、三年ぶりの抱擁のあとで、ふと女の見る目をたしかめたい気持になったのだ。良の方は、山下が素晴しい金のイヤリングを買ってきたので、機嫌を直して、番組が九時におわると、山下の車でどこかへ行ってしまった。
「そうね」
ミミは寝がえりを打って滝の髪をさぐりながら云った。相変らず、クールで聡明な女だった。
「とにかく、はっとするくらいきれいだわね」
「ああ」
「はじめて見たときぎょっとしたわよ。こりゃのびる! そう思って。あたしかけちがって、最初に会ったの、もうデビューしてひと月くらいだったけどね。なんだか、だんだん、きれいになるみたいで」
「そうだろう」
「自分の手柄みたいに云うのね、いやな人、あたしのベッドで仕事の話なんかして」
「まあ、昔馴染のよしみで、我儘をさしてくれよ。ちょっと気になることがあってさ──ききたいんだよ。目のある女の人の意見を」
「また、また」
ミミは笑って滝のタバコに火をつけた。
「ただね、何が気になるのかわかんないけど、わかるような気もするわ。あの子は、決して、誰にでも適当に好かれる、ってタイプじゃないわ」
「そう」
「関まさみみたいに徹底的に女の子にだけ受けて、男はおじけをふるうって型じゃないけど──あの子を好きになるタイプってわかるみたいね。男なら──何て云ったらいいのかな、詩人か悪人」
「詩人か悪人?」
「そうね、ほんとにあたりまえのサラリーマンで、よき父で、よき夫で、平凡な幸福に満足しててなんて人は、きっとあの子に拒否反応を示すわね」
「だろうな。きれいすぎる」
「あの子には、女は、そうね、六割がたの女は抵抗できないんじゃないかしら。ああいう子って、女がいつも夢見てるような子よ。男じゃない、だけどもちろん女でもない──レズみたいにっていうかな──ちょっとちがうわね、セックスのないみたいな──すきとおってて、きれいで、天使の目? もちろん、いつかは女は卒業していかなきゃならないような、でも、それだけ、いつまでも心のどこかにしまいこんである宝石になるような──男装の麗人のもっと理想的なかたちね。男の人のことはわからないけど、女の子は気狂いみたいになると思うわ。|安心だから《ヽヽヽヽヽ》っていったらことばがわるいけど──」
「わかるな」
滝は云った。
「良は尻尾を出す心配がないわけだ。汚いにきびざかりのつらや、油ぎった欲望と縁がない──」
「可愛い、っていうとまさみや二郎と同じになるけど──良ちゃんはそれだけじゃないわね。あの子たち、良ちゃんより上でしょ、年? だのに──あっけらかんとしてるわね。良ちゃんには、透明な中に翳があるわね。なんだか、妖しいところ──だから男の人も、さっき云ったでしょ、詩人肌の人や……しぶとい、──怒らないでよ。下司な人とかサディスティックな人とか、わりと男っぽい人は──」
「おいなぜそこで怒らないでと出るの?」
滝はにやにやして、女の乳房をつついた。
「そりゃ、しぶとくて、下司で、サディスティックな悪党だってことは知ってるが」
「いやね、もう」
ミミは笑って滝の胸に身をすりよせてきた。
「そんなつもりじゃ──わかってるくせに」
「わからんな」
「嘘よ。あたしたち、昔っから、お互いに、とてもよくわかってたじゃないの、お互いのこと」
「ああ。ミーコはおれと最初からうまくいった」
「ごく自然にこうなって、一回も泣かずに別れて──別れたことなんか、なかったみたいね」
「ミーコは利口な女だよ。ミーコのいうことはいつでも正しい──ずいぶん、参考になった。いろいろ、迷ってたとこだったのさ」
「何で?」
「良が──危険な子だって気がしてきてね」
「それはほんとね。あの子は危険だわ。あの子を愛したらきっと致命的よ。もちろん、ファンみたいに、切り売りの、水でうすめた分ならそれも魅力だけど。そうね、それだわ──でも、もうよしましょう」
「どうして」
「嫉けるのよ」
「ばかを云っちゃいけない」
「ううん、ほんと。あなたが良ちゃんのことを話す口ぶりよ──いつもとちがうわ」
「そんなことはないよ。おれはおれだ」
「あたしにわからないと思うの?」
ミミは口惜しそうにほほえんだ。
「どうしてもそんなことないっていうなら、じゃ、ベッドで仕事の話なんかやめてってことにするわ。野暮はだめ」
「じゃ、もうよすさ」
「三年ぶりだっていうのに、そんな話ばっかり──いけ好かないわ」
「おれは野暮天でね」
ミミは赤く染めた爪で、ぎゅっと滝を抓った。
「こいつめ」
滝のからだがミミを敷きこみ、目があい、同時にくっくっと笑い出してしまう。滝はミミの胴に手をまわしたまま横にすべりおち、ミミをひきよせた。
「おれときみはいつでも仲よしだな」
天井をむいて滝は呟いた。
「三年ぶりでも、何をしてきても。おれときみはキスして別れたし──別れたというのはおかしいか──口喧嘩ひとつしなかった。きみとだと、いつでもうまくいく。おれはとても気が休まる。おれときみは、いっぺんもお互いを苦しめたことがない。こういうひとがひとりいるのは嬉しいよ」
「いま、苦しんでるの?」
「まあね──いや──わからん」
「良ちゃん」
「きみにかくすことはないな。おれはあの子にかかると、わけがわからなくなって、むやみと残酷になったり、へまばかりやらかすみたいだ。自分に全然自信がもてなくなる。あの子の危険さという奴かな──別に、おれは、あの子の恋人というわけでさえないのにね」
滝は良の表情や姿態を思いうかべ、自分の思いにひたりこんでいたので、ミミが突然滝の胸に顔をつけたままくすくす笑いだしたのに驚き、少し気をわるくした。
「おばかさん」
ミミはおかしくてたまらぬように云った。笑いやめて、真剣な顔になる。
「あたしと結婚しない? あたしとあなたって、きっと、理想的な夫婦になるわね。束縛せず、干渉せず、思いやりがあって、自由で」
ぎょっとした滝を見るなりまたミミは声を立てて笑った。滝も哄笑にひきこまれながら、ふいに驚くほどのなまなましさで、良と山下の情事を想像してこいつは俺の妻だ、俺以外の男に抱かれるのは不貞だ、という異常な憤怒にとらえられたことを思い出していた。
「ばかねえ──ああおかしい、あなたったら、ほんとうにぎょっとした顔してさ──あなたってほんとに好きよ。なんて可愛いのかしら。あら、怒ることないわ。ほんとよ」
「ミーコにはかなわんよ」
「ばかね、滝さんは」
ミミは呟くように云った。
「あたしとあなたはいつもうまくいく。あたしが淋しいとあなたが慰めてくれる。あなたが何か困っていればあたしは何でもする。あたしはいっぺんもあなたのために辛い思いをさせられたことはないし、あなただってあたしのことでいっぺんだって苦しまない。つまり、あたしとあなたは、絶対に愛しあわないのよ。だから、あたしたちは、いつまでもうまくいくのよ。理解しあってるのよ」
「そうだろうね」
「うまくいって当然よ。あたしたちは、お互いに、お互いのことを、人間だと思ってやしないわ。こんなこといったって、あなた、気にさわりゃしないわよね。あたしね、滝さん、健二さんと、会うたびに喧嘩よ。必ず二回に一回は大泣きに泣いて、顔も見たくない──でも会わなくちゃ死んじゃう──いまガスの栓あけたのよ。愛してるのよなんて電話したわ。ほんとに死ぬ気だったの。奥さんを刺してあたしも死のうとか、あのひとを殺そうとか──いっぺんだって、苦しい以外の思いなんかなかったわ。あのひとと出会ったことを神様に呪ったり、泣き叫びながらあのひとに抱きついていたり──何もかも出しつくしたわ。あたしもきっと──いまのあたしには、あなたとの一刻は、まるで、天のくれた休憩時間みたいにありがたいわ。ほんとに、こういうひとがひとりいるのはお互いにいいことね。泣きもせずに別れた──別れてやしないのよ。だって、あたしとあなた、別れるためには結ばれなきゃならないけど、いちどだって結ばれることなんて考えもしなかったものね。あたしとあなたは仲よしのお友達よ。きっと、あたしが四十になっても、お互い年よりになってセックスぬきになっても、全然かわらずにうまくいくはずよ。そうしたいと思ってるわ」
「ああ」
滝はミミの髪を撫でた。
「それでいいんだね」
「それでいいのよ。ああ、あたし、あなたが大好きよ。頼りになって、安定してて、わるい人だわ」
「おれは」
滝は眉をよせて、ミミの胸をさぐりながら呟いた。
「おれはわからないんだよ──おれは、良に惚れてるんだろうか」
「わからないの? あのきれいな坊やのために、苦しんだり、わけがわからなくなったり、夢中になったりしてるくせに。あなたの、あの子のこと話す口ぶり、録音してきかせてあげたかったわよ。目が輝いて、あたしだからいいけど、ほかの女の子だったらベッドから追い出すわ」
「おい、ミーコだって檜山さんのことを……」
「あたしはいいのよ」
「そんなのはないよ」
「だってあたしは恋多き女なんだもの。誰だって知ってることよ──だけど、あたし、滝さんがそんなになるの見たの、はじめてだもの。想像もしてなかった。あなたは絶対に変らないって、心のどこかで思いこんで安心しきってたのね。あなたがルナちゃんを、彼女が真剣にあなたに恋しちゃったら、まるで怖がってるみたいに手ばなしたってきいたし、あなたの活躍ぶりをきくたんびに、ああ、滝さんは滝さんだって考えてたもんよ。だのにさ──ああ、あたし、ちょっぴり嫉けるわ。あたしやルナや光彦やヨーコの魅力、そうがかりにしても、あの猫みたいな目をした痩せっぽちの坊やにかなわなかったってことだものね」
「そうだろう?」
滝は叫んだ。
「良って、猫に似てると思うだろう」
「もう、いやな人ったら」
ミミはふきだし、滝に冷えた裸身を押しつけてきた。
「それでよくも、わからないなんて云えるわね。首ったけじゃないの。まるで初恋した中学生だわ。そうね──気がついてもよかったのね。あなたみたいに、セックスに興味のないひとは、恋するなら、どうしようもないプラトニック・ラブしかできないのね」
「セックスに興味がないって?」
さっき、自分の下で、と滝はいささか露骨な表現で思い出させようとした。
「ばか」
ミミはくっくっと笑って滝の下腹部にやわらかな手をのばしてきた。滝はどうだとばかりその手をつかんで押しつけた。
「でもやっぱりあなたは、根本的には、セックスに興味がないのよ」
ミミはあつくとけはじめた声で呟いた。
「きっと、情緒と精神面とからだと、それぞれの発育がアンバランスなのよ。からだも精神面も年よりずっと成熟してるくせに、初恋もしたことがないのね。ほんとに愛しぬいて、惚れきってるひとと寝るってどういうことか、知らないんでしょう。セックスなんか、ただのきっかけにすぎないのよ。自分もあいてもない、ひとつに溶けてしまいたい、もう二度とはなれたくない、それだわ」
滝はふたたび良を思った。そんな思いを、我を失った激流の中で、ちらりとかいまみたことがあるような気がする。しかしたちまち良の心は滝の手をすりぬけてゆき、あとにはただ、ねじふせ従わせようとする狂おしい憤りと嗜虐、そして良のめくるめく反逆と拒否だけがはてしもなくもつれあい、滝は自分の見たものが何であるかさえ知ってはいなかった。
(おれは──おれは良を愛してやしない。おれは良を山下に売ったし、あんな酷いめにもあわせた。第一良はおれを憎んでるんじゃないか)
滝はうろたえぎみに思い、その思いを口に出した。ミミは滝を愛撫しながら咽喉の奥で笑った。そして何も答えようとしなかった。
「意地悪な子だ」
滝は囁き、再びミミにおおいかぶさっていった。ミミはやさしく動いて滝を受け入れ、熱くつつみこむ。
「ミーコ──おれはね……」
「だめ、もう──何も云っちゃ、だめ……」
良を愛して何になるというのだろう、と滝は思っていた。女なら、どうしようもある、だが、良は、少年なのだ。仮におれが良に惚れているというのがほんとうでも、いくら愛しても、いくら可愛いと思っても、何にもなりはしない。おれの愛は良をてひどく苦しめ、傷つけてしまうのだし、たとえ良をトップ・スターにすることに生命を賭けたところで、何になる。
良が押しも押されもせぬスターになり、まばゆいライトにつつまれ、そして──そしてどうなるのか、おれはひとりあの良をつくったのはおれだ、と心に誇りつつ、次の掘出物をさがしに出てゆくのか?
そんなことはいやだ。そんなことは無意味だ、おれは良が欲しいのだ、と滝は思った。思いもかけなかった激しさで。
彼は良のすべてが欲しかったのだ。良のその冷たい可愛らしい魂も、美しい肉も、滝は自分のものにしたかった。だが、いったい、どうすればそれは彼のものになるのか。ひとが、ひとを得る、ほんとうに得るなどということが一体できるのか。
(おれは、心中でもするほかないみたいじゃないか)
滝は自分を嘲笑ってみた。それはついぞ知らぬ激情であり、しかも彼は現に彼の馴染んだ女体の、熱いやわらかなからだにつつまれ、彼の馴れた、彼をすっきりさせ自信をよみがえらせる、少しの苦悩も混りこまない単純な快楽の中にいるのだ。
女は、また会いましょうね、と彼に接吻して、シャワーをあび身づくろいした彼を送り出すだろう。彼は一瞬後には女のことをすっかり忘れて自由だろう。
それが彼のやりかた、選んで馴れてきたやりかただった。それなのに、いま、女と寝ていながら彼の全ての魂は、良、ただひたすら良のことしか考えられず、良をかたときもはなれないのだ。
滝は心中信じられなさに呻いた。
(愛している、おれが──そんなことがあるのか)
しかも、彼は良の危険性を云々したばかりだった。滝は戦慄した。
[#地付き](2につづく)
〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年七月二十五日刊