グイン・サーガ 外伝 1 七人の魔道師
栗本薫
幾多の冒険をへた後、いまはケイロニア王となった豹頭のグイン。だが、数奇なる運命の糸に導かれる彼には、平穏な日々の訪れることはなかった。邪悪なるものの影は、まず恐るべき悪疫の姿をとって七つの丘なすケイロニアの都サイロンを襲った。そしてグインは、その危機を打開すべく魔道師イェライシャのもとを訪れたが――天空を駆ける幻の馬、夜空に浮かぶ巨大な顔、そして妖魔の結界での人知を越えた死闘――さしもの英雄グインも、凶々しい力の前に絶体絶命の危地に陥る! 全百巻に及ぶグイン・サーガ中の一エピソード、ここに登場!
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THE SEVEN SORCERERS
by
Kaoru Kurimoto
1981
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カバー/口絵/挿絵
加藤直之
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目 次
プロローグ………………………………… 九
第一話 サイロンの悪夢………………… 一五
第二話 ルールバの顔……………………一〇五
第三話 七人の魔道師……………………一七一
第四話 黒魔殿の死闘……………………二三五
エピローグ…………………………………三五九
解説/鏡 明……………………………三六三
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――黒竜戦役より三つ目の猫の年、七つ
の丘なすケイロニアの都サイロンに黒き
死が満ち、また巨大なる双頭があらわれ
てサイロンの覇を争った。しかしそれと
てもやがてサイロンに来たるべき災厄の、
最もささやかな予兆でしかなかった。
――〈ケイロンの書〉より
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七人の魔道師
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プロローグ
ケイロニアの都サイロン、すべての赤い街道のゆきつくところにして、黄金と黒曜石との幻影にも似た神聖なる都サイロンには、猫の年が訪れてこのかたというもの、季節《とき》のうつりかわりにもうつろうことのない、災厄の陰翳《かげ》がその不吉な翼を拡げていた。
七つの緑の丘と疎水とによって守られ、伝説のシレノスの再来ともささやかれる奇怪な半人半獣の王をいただき、その帝王の勇猛ゆえに、竜の年よりこのかた、虎視眈々たる近隣諸国の野望のツメがのばされることもなく、何奴のウマのヒヅメにふみにじられることもなかったサイロンの都に、鹿の年の盛大なる即位の宴以来はじめて迎える危機が、忍び寄って来ようとしているのである。
サイロンの人びとは、ようやく平和とやすらかな生活《くらし》とに馴れ、王の名をたたえ、その偉業を石柱にきざみ、その庇護がいつまでもつづくものと思いこみはじめていた。だがしかし、災厄は黒魔の風に乗り、まず黒死病をもたらすいまわしい塵となってサイロンに忍び入った。
疾病はあたかもそのもくろみの巧妙さを誇るかのように、はじめのうち、つねの年の風疹か、黒疹病ででもあるようなさりげなさでもってサイロンをおとずれた。抵抗力というものを持たぬ生まれたての赤児と、子ども、老人、それにもともとの病人ばかりがその流行り病いにおそわれ、ひとびとはドールを呪い、医薬の神カシスに供物を捧げるため、先を争って列を作った。
しかしカシスの神殿に立ちのぼる、供物をやく煙がたえもしないうちに、その煙は、他のもっとずっと巨大で数多い煙にとってかわられた。――死者を焼き、泣く泣くその塵を土に埋める、七つの丘をいっぱいにしてしまうほど長い行列の、その葬送の煙に。
呪詛と悲嘆の声はサイロンに満ち、人びとは日夜新たに死んでゆくものの黒くふくれあがったくちびるが発するうめきに耳をふさぎ、その身体からめくれ落ちる、カサカサとかわいた黒い古い皮膚があらたな犠牲者を増やすことをおそれた。
サイロンの七つの丘中最大の、|風 が 丘《ウインドワードヒル》なる黒曜宮にすまう、ケイロニアの支配者にして由緒正しき皇女シルウィアの夫たる新王は、あわただしく相次ぐ布令を出し、サイロンの四都の最も汚染された地区を閉鎖することとし、更に町々と下水とを勇敢な挺身隊をつのって消毒させた。さらには、魔道の術師たちがきよめた清浄な食物と水、それに薬品とを、ふんだんに支給させるよう気を配った。皇女シルウィアとの新婚の夢も、ようやくさめかける頃であったが、彼にケイロニアの王座をもたらすことになった豪胆さと惜しみない行動力とは、わずかさえも曇らされてはいなかったのである。
しかし、サイロンは、まるで何かにとりつかれているかのようだった。疾病の勢いは衰えず、貴族たちはとうとう風が丘ではまだ黒死病にぬりつぶされた市中から近すぎると考えはじめ、千竜将軍のドラックスや護民官のアウレリウスをはじめとするたくさんの高位高官がこっそりとその家族を車にのせて、七つの丘をこえたランゴバルドや、清らかな緑の都市サルデス、あるいはさらに遠いワルスタットへとひそかに難を避けさせていた。
はじめ、ドールを呪い、怨嗟の声をあげていたサイロンの人びとは、やがて災厄が地をおおいつくすに従い、ぞくぞくとドールの神殿へ供物をもって並びはじめた。ケイロニア王はそれを禁止する新たな布令をまわしたが、そればかりは何の効もなかった。サイロンは災厄の都として、死の相を呈しはじめていた。未だ市としての機能は、勇敢な護民軍の手で保たれつづけ、道々に屍がみちる、というような事態にこそいたらなかったものの、町町から活気と笑いをもたらすすべての子どもたち、少女の花のような姿は消え、親たちは恐れてもはやかれらを外に出さず、旅人も通商の群れも丘と丘のあいだの、市の大門で、迂回を勧告された。
店々はその戸をかたくとざし、空は昼でもなお、亡骸《なきがら》を焼く煙のために暗くかげった。町々は死滅したカナンの都ででもあるかのようにしんとしずまりかえり、そしてうろつきまわるのは、護民兵の群れと、そして生命知らずの強盗、ごろつき、それに貧者たちばかりだった。かれらにはもう、失って惜しいものは何もなかったのである。
風が丘の黒曜宮は、いまこの状態を他国につけ入られたら、ひとたまりもないことを日夜真剣に憂えていた。しかし、その悩みも、ほどもなくサイロンでひそひそとささやかれはじめたうわさが耳に入ったときの憂慮にくらべたら、何ほどでもなかった。そのうわさとは――
(この黒死病は通常の流行り病いとはちがうようだ)
(ふつう、黒死はひどく広い範囲へ、風にのって飛び火するはずなのに、まるである悪魔的な意志が七つの丘に目に見えぬ線をひきでもしたかのように、このたびの流行は、ひたすらサイロン市内に限られている)
(まるであるもの[#「もの」に傍点]がサイロンに目をつけ、ただサイロンから生きた住人の姿を一掃しようともくろみでもしたかのようだ)
(おまけにサイロンでは、口に云いあらわせぬほど奇怪なことがこっそりと横行しはじめている)
(予言をする白痴の少女が、黒蓮の葉にのった|アマガエル《ランダド》を見て、怪異はいよいよつのり、なおしばらくはつづくであろう、とそう予言をした)――
そのようなものであったのである。
ひとびとはサイロンを見すてることを、真剣に考えはじめていた。赤の月に入ると、黒死病は少しだけ下火になったが、こんどはさまざまな怪異がいっそう目に立ちはじめ、ケイロニア王は魔道士と星占士をつのって占わせ、悪魔祓いを行なったが甲斐はなかった。
黒曜宮の高官たちの顔には焦慮が濃く、赤の月の終わりには、ついに王妃にしてアキレウス大帝の皇女であるシルウィアが、盛大な供の列に守られて、サルデスの離宮へ出発していった。貴族の夫人たちも行を共にした。
黒曜宮に残っているのは、十人の護民官、十二人の将軍たち、そして選帝侯のうち風が丘に詰めている年番の三諸侯、ランゴバルド侯、アトキア侯、それにフリルギア侯、その各々の部下たちとどこへも逃れてゆけぬ宮女や下僕たちばかりとなった。さしも壮麗を誇るケイロニアの黒曜宮も、さざめく貴婦人たち、典雅な楽人たちのいろどりを失って、どこか閑散と、さむざむしく見える。
しかしサイロンの試練がそれで終わったわけですらなかった。ついに、風が丘から遠からぬ光が丘の小宮殿、|星 陵 宮《スターランドパレス》から、退隠して自適の日々を送っていた老皇帝アキレウス陛下の発病の悲報――そして、それに追いうちをかけるかのように、同盟によってしばしの平穏を保っていた、隣国ゴーラの野心的な国王が、ついにケイロニアに約をなげうって兵を進める決心をかためた、という、諜者からの緊急な知らせがとどいたのである。
ここにいたり、とうとうケイロニア王は行動を開始した。のちにケイロンの書において〈七人の魔道師の冒険〉として書きとどめられるにいたるそのおぞましい冒険行へ、ほんのわずかの腹心に云いふくめただけで天性の冒険児たるケイロニア王がのりだしていったのは、時に猫の年、青の月のはじめ、サイロンの七つの丘に凶々しいイリスの満月が血のように赤い光を投げかけているある夜のことであった。
そして――
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第一話 サイロンの悪夢
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1
「――おい!」
おしころした声で、突然うしろから呼びとめられて、その男はふりむいた。
思いもかけぬほどに敏捷で、そして殺気をはらんだしぐさだった。すっぽりとかむった分厚いフードの中で、険呑な光をたたえた目がきらりと輝き、呼びとめたほうは、その思いがけない光のつよさに気おされるように、ちょっとたじたじとしてあとずさりした。
「何か、用か」
フードの影の中から、重くにごった声が流れ出る。サイロンでも柄のわるいことで名の高い、タリッドの繁華街の、それももうはずれにちかい横町である。
もはや時刻はたそがれというよりは夜に近く、家々のあいだをぬって、濃い、いがらっぽい霧がうずまきはじめていた。しかし石づくりの家々の切り窓に、黄色くまたたくなつかしい灯りの数は、雨夜の星よりも少なく、そしてこの男が誰ひとり俳徊するようすもない町々を、巨大で不吉な黒い虎のように音もなく過ぎてくるあいだにも耳にするのは、家の中から流れてくるミロク教の信徒たちの単調な呪文の声、それとときたまどこからかもれてくる、胸をえぐられるような悲嘆にくれた泣き声ばかりだったのだ。
タリッドのこの界隈では、いつもが賑やかであるだけに、なおさらその死にたえたかのような空疎さはすさまじく、おぞましさを増して感じられた。いつもであればそこの大通りには、ついたばかりの隊商の群れがラクダをひき、水を汲む奴隷女が胸もあらわに噴水に壼をひたし、貴族や高貴な女性をのせる、奴隷たちのかつぐ輿には乞食のような子どもたちがむらがってびた銭をねだり、そして詩人はパピルスを手にして愁わしげに石段に腰をおろして施しを待っているだろう。
しかし、恐るべき疾病と怪異とがその猛威をほしいままにして、サイロンの最も新しい支配者となっているいま、噴水の水はとまり、店々はその品物をひっこめて戸にかんぬきをおろし、そして隊商たちもわざわざサイロンを迂回して東のランゴバルドか、西のフリルギアへ出るコースをとるのだった。
しかも、灯もおぼつかぬ灰と紫色のたそがれの中である。この薄暮の中をあえて徘徊しようなどという気をおこすのは、馬鹿か、狂人か、絶望した人間――そのどれでもないならば、あとはただ一種類の人間、すなわちよからぬたくらみを胸に抱きしめた悪人以外のものではありえない。
そして、タリッドのタリス通りのとばくちで、北国からでも来たような深いフードつきマントに身をつつんだ背のたかい男を、突然うしろから呼びとめたのが、さきの三種類のいずれでもない、ということは、土霊イグレックのように盲目な者にであっても、ひと目でわかることだったろう。
それはきっすいのサイロンっ子でないならば、たぶん南方のヴァラキアか、イフリキヤあたりの生まれで、その証拠に浅黒い皮膚をし、いくぶんちぢれた黒い髪をしていた。
その髪に汚れた革の紐をまいて耳の上でむすんで垂らし、もとは白ででもあったろうかという、煮しめたようなヴァンド麻の上衣の上に、胴をぴったりしめつける革製の胴着をきて紐でしめあげ、革のズボン、ふといベルト、かるい鋲打ちのサンダル、という、サイロンではごくあたりまえな服装。ただ、そのベルトの内側――あるいは何気ないふうにうしろにまわした右手に何をひそめているかまでは、受けあえたものではない。
その顔はというと、すれちがってものの十歩もゆけば、みごとに忘れ去って、ただ何やら狡猾そうな印象だけが残るであろう、といった感じ――いちばん何に似ているかといわれれば、それは塔にすむ|穴ネズミ《トルク》であるだろう。
細いあご、かけた汚い歯、きょときょとと落着きのない細い目、弱々しい口もと――それでいて、目にはゆだんも隙もならぬ刺すような光をうかべたまま、何とか親切で善良そうに見せかけようと、一生懸命歯をむいて笑いかけている。
こうしたことすべてを、フードの中から、鋭い一瞥で見てとった対手の男は皮肉な苦笑とともに結論を下したが、それは疑いもなく、声をかけざまに右手の武器で弱らせておき、懐中をあらためようと思ったところが、対手の案に相違した手ごわさの証拠に出あってうろたえ、とりつくろっているのに相違なかった。悪漢としても下司な方で、密告屋と女街と、それにこそどろ[#「こそどろ」に傍点]を半半、といったところだ。
「何か用か」
フードの男はゆったりとくりかえし、音もなく一歩そちらへ近よった。ねずみのような男は鼻白んで再びあとずさる。
「そ――そっちへ行ったらどこへ入っちまうか、知ってるのかね。ちょっと注意しといてやろうと思っただけさ」
「それは親切に」
フードの男は皮肉に云った。分厚いフードとマントとで、ほとんど姿かたちさえもさだかではないが、それでもそっ歯の小男に心配してもらうのがあまりにも場違いな、その体格のみごとさはマントをとおしてでもはっきりとわかる。
肩幅は、蛮族ラゴンの大競技会でさえめったに見かけぬほど立派で、それに見あうあつみもあったし、どう見ても戦士以外のものであろう筈がなかった。マントの左側が一箇処、大剣の鞘の形をうきださせていることからもそれは知れる。
そしてその雄渾な巨躯が、それほどの巨体にありがちな鈍重さや遅さをこれっぽっちも感じさせず、音もたてずに動くさまは、生命を得てうごめき出した闇、それとも超大型の剣歯トラのような肉食獣を思わせるのだ。
小男はいよいよ、自分がとんでもない獲物ちがいをしたことに気がついておどおどとしはじめた。フードの男のほうは小男の困惑を充分に知っていたが、トラがネズミをなぶるのを興じるように、自分から彼の立場を救ってやろうとはしなかった。
「タリッドの界隈にはもうこれで三年来足をふみいれておらぬので、或いは記憶がうすれているかもしれんし、タリス通りが模様がえをした、ということもあるかもしれん」
うなるようなひびきの低い声で彼は認めた。
「では折角だからきかせてもらうが、俺はこのまま進むとどこへとびこんでしまうところだったのかな」
「どこへっておめえ、そりゃあ――」
|ねずみ《トルク》は、あいてが田舎出の、右も左もわからぬ蛮人で、もしかしたら自分がうまく立ちまわれば、たくみに引きまわして望みどおりのものを手に入れられるかもしれない、というほのかな希望が急によみがえった。そっ歯をむき出し、うしろにかくした短剣をいよいよしっかりと握りしめながら、
「そりゃおめえ、口にするのもはばかられる、タリッドのまじない小路にきまってるじゃねえか」
「タリッドのまじない小路――」
「おおさ、おめえがどこからサイロンにいつ来たのだかは知らねえが、サイロンで、タリッドのまじない小路を知らねえ奴は、サイロンの黒曜宮の豹頭王の名を知らねえ阿呆と同様、もぐり[#「もぐり」に傍点]だあな。タリッドのまじない小路は、きくところによれば中原のパロスの、そこの住人がひとりのこらず魔道師だというおっそろしいクリスタル・パレスをただひとつ除いては、あとは中原じゅうでこれほど多ぜいの魔道士、魔術士、占い屋、星占士、魔女がひとつ所に集まっている場所は他にないという――
ワーッ!」
小男のしびれた手からポロリと短剣がおちた。
小男は驚愕と苦痛に顔をひきゆがめ、マントから出た巨大な手に手首を背中へねじりあげられたままがっくりと石畳に膝をついた。フードの客がすっかり彼の話に気をとられている、と見てとって、やにわに目的を果たそうと突きかかった、必殺の一撃が、あまりにもたやすくそらされた、と思った刹那に、ほとんど何が何だかわからぬまま彼の五体は電撃のような激痛におそわれたのだ。
フードの下から低いおもしろくもなさそうな笑い声がもれた。大男は、うしろにねじりあげた手首と首すじをつかんで高々とつりあげたねずみ男のからだを石畳に無造作におろすと、その背中にかるく膝をのりあげた。
彼にしてみればごく手加減していたのだが、あいては苦痛に絶叫し、
「骨、骨が折れる! 手首が砕けちまうよ!」
あわれな哀願の声をはりあげた。
「おい」
フードの男は平気なもので、
「お前、何という名だ」
「云います。だから手を、少しだけゆるめて下さいよ。悪気じゃねえんで――勘弁して下さいよ」
「何という名だ」
「アルスってんです。|穴ねずみ《トルク》のアルス」
「サイロンの者か?」
「あちこち。生まれはイフリキヤで、それから船にのって流れてきたんで。タリッドに巣をつくってこれで三年になりますよ。ここがいちばん住みごこちがよかったんで――これまではね」
「生業《なりわい》は切りとりか、今のように」
「違います。誓ってそんな――いててて!」
アルスは情けない声でわめいた。
「云いますよ! 云いますよ! きいて下さいよ。あっしだってこんなこと、したかないんだ。あっしの本業はむしろ、客引きといいところつつもたせ[#「つつもたせ」に傍点]――へへへ――なんでさ。あっしにゃティナという、すてきもないいい女の女神がついてるんでね。
仕様がなかったんですよ。その女神のティナがいまいましい黒死病にやられて、まっ白な、ランゴ牛の乳みたいな手足がミイラみたいに黒くなっちまったんだから」
「だから食うに困って追いはぎに鞍替えしたのか」
「違うよ! 違いますよ! だから、ティナを助けてえ一心だったんで。だってこのごろタリッドじゃあね、この黒死の病から助かる唯一つの方法は、健康な人間の新鮮な肉で身体をつつみ、新しいあたたかい人血に患部をひたして、その上で黒ヒルにわるい血をぜんぶ吸い出させるっていうから……」
「素人の民間療法があとをたたんのだな」
アルスにききとれぬほど低く、フードの男はつぶやいた。その声にはどうやら底深い憂慮のひびきさえ感じられた。
「無知なやからは、どのように云ってきかせても、人肉、ことに新鮮な生血は万病の薬であり、霊妙な作用をもつと信じるのをやめぬ。もとからその迷信のために何人の生命が無駄にされたことか」
「生血はほんとにきき[#「きき」に傍点]ますぜ」
アルスは強情に主張した。
「それも生きのいいやつほどね。だから、あっしは、こんなこと、したくはなかったんだが夜の近い通りへひょろひょろ出てって、綱を張ってたんです。運が悪かったな、旦那のようなおっそろしい人にぶつかるなんて。これでもうあっしの女神のティナは全身が黒くカサカサになって死ぬのを待つばかりですよ。もし旦那があっしを見のがして下さらねえなら、そのあわれなさいごを看とるものさえもなく」
アルスは鼻をすすりあげ、まんざら空泣きとも思えぬような悲痛な声をたてた。フードの男がのぞきこむと、しかし、彼は照れたように歯をむいてニヤリと笑い返してみせた。
「お前は女衒よりも道化役者の方が向いていそうだな」
フードの男は云い、その逞しい肩をすくめた。
「それはともかく――どうだ、お前のようなやつまでがそうして信じているからには、ずいぶんとその迷妄はひそかにサイロンにひろまってるのだろうな」
「人血で黒死の病が治るっていう? そうですよ。あっしのきいたところじゃ、貴族のでかい邸の中じゃあ、奴隷どもが主の病を治すために皮をはがれ、血をしぼられているのだと云いますよ。もっとひでえ話もきいたな、それもできねえ貧しい家では、兄の病気を治すんで妹が殺され、父親を治そうと子が殺されているとね。ブルルルル――! なんてひどい災厄が、黒と黄金のサイロンを襲ったのだろう」
「――だがそれももはやいましばしのことだ!」
フードの下から、歯をくいしばってでもいるような、苦しげな声が洩れた。そして彼はすっかりその小男に興味を失い、手をはなしてやると、もうふりむきもせずに行こうとしかけた。
|穴ネズミ《トルク》のアルスは痺れた手をさすりながらその広い背中を見守ったが、ふいに何におどろいたのか、とびあがると彼のあとを追った。
「待って下さいよ、待って!」
「まだ、用があるのか」
「用って――」
アルスはせきこんで、
「ねえ、旦那、ほんとに、それ以上行くと、朝でも昼でもうす暗い、いまわしいタリッドのまじない小路に入っちまいますぜ! 旦那はサイロンの人じゃないのでしょう?」
「たぶんな」
「だと思った。ねえ、こいつは親切がいに云うんですがね、まじない小路ってな、ほんとうに怖いとこなんだ。本当は、タリス通りとバイロス通りを結ぶ、わずか百タールたらずの横町でしかないはずなんです。それが、いつとはなしに、まじない、占い、呪い、魔術、そうしたなりわいをもつ人間がよりあつまってきて、奇妙な通りになっちまった。そこにはサイロンの護民兵さえ昼でも一人じゃ入るのをイヤがるし、そこのとざされた扉のうしろで、どんないかがわしい、いまわしいことがおこなわれてるのか、誰にもわかったもんじゃない。そればかりか、まじない小路で石の扉をあけたら、その向こうになんと北の氷山が見えたとか、酔っ払いがドールを冒涜してからまじない小路に入っていったら、たった百タールの通りがどれだけ歩いてもはずれにゆきつくことができず、ついにそいつは倒れてかけ疲れたウマのように死んでしまった、とかね。いずれにせよあそこはほんとにけんのんなとこなんだ。ましてこんな死臭が町々をおおっているようなとき、あんなとこに近づくのは、旦那、発狂しにいくようなもんですよ」
「忠告を感謝しよう」
フードの男はおおように云って、マントの下をまさぐり、何かをさし出した。アルスはびくっととびすさったが、それがアキレウス大帝の横顔を刻みこんだ一ラン金貨であるのを見ると、目をまん丸くし、それから疑わしげに金貨の端をかんだ。
「ほんものだ」
おどろいたように呟いて、目を丸くして巨大な影を見上げる。
「まじない小路に行くのは、おやめになるんでしょ?」
彼なりに、礼をせねば、という気になったらしく、ヴァシャの匂いのする息を吐きながら、かさねて忠告した。フードの男は低く笑った。
「俺も、できればそうしたいところだが、しかし行かねばならんのだ、アルス」
「なんでです。なんであんな恐しいところへ――」
フードの男は答えなかった。そのまま大股に、別にまじない小路の看板をかかげているわけでも、家並がよそと異るわけではないけれども、妙にそこでだけ煙ももやもひときわ色濃く、妙に見るものの心胆を寒くさせるような不安をたたえた、路地の入口へと歩み寄ってゆく。
アルスはつづけて問いかけようとした。そのとき、まるでまじない小路というひとつの細長い生きものが、フードの男に対して陰謀をたくらんだとでもいうように、路地の中から突然、まえぶれもなしに一陣の突風が吹きつけるなり、彼のふかぶかとかぶった厚いフードをうしろへはねのけてしまった。
見るなりアルスは声もたてずにへたへたと石畳へのめりこむ。おどろきと、見てはなるまじきものを見たおそれとに、目はとびだしそうに見ひらかれ、腰をぬかしたとでもいったようにうしろへへたりこんだまま、ぽかんと口をあいてそのフードからあらわれたもの[#「もの」に傍点]を見つめる。
それは、人[#「人」に傍点]ではなかった。
否――世のつねの妖魅でさえない。
「あ――あ……あ」
アルスはどもった。フードをまじない小路の生あるかのような風にひきさらわれた男は苦が笑いしてそれを見おろす。マントを無造作にはねのけた、その首から下には、べつだんどこも尋常ならざるところはない。
ただ、おどろくばかりにたくましく、見事な、この時代でさえまれに見るほどに発達し、充実した筋肉によろわれた、軍神ルアーの像が生をえて立ちあらわれたかと思わせるような、たぐいまれな戦士のすがたであるというだけで――その、少しでも戦士を見きわめる目のあるものなら、息をのんでほれぼれと見ずにはいられぬような体躯は、いっそうそれをひきたてる、豪奢で立派な装具におおわれている。
いたずらに装飾的でこそないが、充分に美しい、漆黒の鍛えあげた戦士の鎧。それは、正式の戦さ用のものではなく、むしろ身軽に動けるよう、きわめて簡略化された軽装用の胴丸である。それの四つにわかれた垂れが護るひきしまった腰には、ふつうの人間の力ではもちあるくことも重荷なような、みごとな柄に象嵌をした大剣。黒革でぴったりと太腿に吸いついている足通し、膝の下までをしっかりと守っている、かるくて丈夫な、鋲をうったブーツ、そして鎖編みの小手当て。ベルトには必要なものを入れた、やわらかな皮袋がぶらさがっている。
どの装具も、ごく上質な、高価な品であることがただちに察せられた。しかし、アルスを驚愕させたのは、マントの下からあらわれた、それらすべてのものでさえなかった。
アルスの目は、ただひたすら男のフードからあらわれた顔に吸いつけられ、目をそらそうと思ってもそらすことのできぬセトーの呪いにでもかかったようにまばたきもできない。彼は呆然としてその異様なといってはとうてい足りぬ、あり得べからざる驚異に見とれていた。
それは――
フードの下からあらわれた戦士の顔は――
巨大な生ける豹のそれだったのである。
それは豹を模した仮面でもなければ、かりそめにとりつけられた剥製の類でもない。そのことは、丸い耳の下、らんらんと輝いて、野獣にしかありえない凄壮な黄色い光を放ち、見るものを凍りつかせるその双眸をみれば一目瞭然である。
それは半人半獣の奇怪な生物だった。その神話の中から立ちあらわれたかのような、異様で威厳にみちた、ふしぎなほどにいとわしさを感じさせぬ異形に、茫然と見とれていたアルスの口から、ようやくのことで、かすれた、おののくような声が洩れた。
「あ――あなたは……あなた様は……」
黄色い目がアルスを見おろす。その豹の目は、たそがれのスミレ色の闇の中で燐光のように燃えていた。アルスは恐怖と畏敬にしびれた声をふりしぼった。
「ケイロニアの豹頭王!」
豹頭王は答えようとしなかった。どのみちどんなに物を知らぬ人間にさえ、ひと目でそれと知られる異相を、見られた以上、いまさら隠すのも云いつくろうのもまったく無駄なことと知っていたからである。
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2
サイロンの下町、タリッドのタリス通り、そして神秘的なまじない小路――死者の霧のなかにたゆたっているその夜は、無言のままじっと息さえもひそめて、そこに無造作に立っている自らの支配老の前にうなだれるかのようだった。
|穴ネズミ《トルク》のアルスの丸い目は、夜の町で偶々行きあったその大男が何ものであるのかを知ったときから、ただひたすらその異相というもおろかな異形の上をはなれない。
サイロンに巣くう|穴ネズミ《トルク》であったら、ケイロニアの豹頭王グインの名を、耳にすることのない日は一日とてもあるまい。一国の支配者にも、ありとあらゆるすがたかたちがあるけれども、その文字どおりのすがたかたちの異様な神秘的な特性といい、そのケイロニアの王座にいたるまでの人に知られたいきさつの、キタラ弾きの語る伝説めいて数奇であることといい、そしてその信じがたいばかりの勇猛と智略のうわさといい、グインほどにも、王となったその日から生ける神話そのままに畏敬された支配者は他にはいないのだった。
わずか十年たらず前にケイロニアの都サイロンにただひとりあらわれ、サイロンの黒竜将軍ダルシウスの傭兵としてケイロニアの正史に登場するまで、この異形の男がいったいどこでどのような運命をたどっていたものか、誰ひとりとして知るものはない。
それどころか、傭兵としてケイロニアの鎧をつけた最初のいくさで早くも十竜長となり、次のいくさで百竜長に任ぜられるにいたった、このたぐいまれな戦士は、その出生、その奇怪な外見のいわれ、すべての記憶を失っており、その失われた自分自身を探し求めてついにケイロニアへ流れついたのだという。しかし彼は、少なくともそれを見出すことはできなかった――二度にわたる凄絶な国境攻防戦、苛烈をきわめたユラニア遠征、そして誘拐された皇女シルウィアを求めての長く困難な冒険行のあいだに、黒曜宮の黒竜将軍に任ぜられてダルシウスにとってかわり、さらに将軍たちのなかの指揮官として、ケイロニアの豹頭将軍の名を中原全土に鳴りひびかせ、ついには皇女シルウィアを得てアキレウス大帝の女婿となり、ケイロニア王の玉座につくにいたる、長いおどろくべき運命の変遷のあいだにも、それほどまでにさがし求めている彼自身の謎だけは。
しかしそれひとつを除いては、いまや彼はすべてを得たのである。出生が知られぬゆえに、彼の真の年齢を知るものもまたないのだが、十年近い歳月の中でもいっこうにおとろえぬそのやわらかく鋼そのままな、若者の活力と回復力とを秘めた巨躯から、サイロンでは、彼が不死の身であるといううわささえもささやかれている。サイロンは彼の前にひざまづき、彼の異形とその出生さえもさだかでないことに、黒曜宮はその玉座に妖怪をいただいているのか、とひそかな敵意をもつものもないとはいえなかったけれど、それよりも彼ゆえに保たれているサイロンの平和と、ケイロニアの繁栄に感謝し、彼をケイロニアの守り神とあがめるものの数のほうがはるかに多く、豹頭王グインは生きながらすでに半ば以上神格化され、伝説と化していた。
それらのことは、へたりこんだままの|穴ネズミ《トルク》のアルスの頭の中に、脈絡もなくいちどに思いうかんだのである。生ける伝説その人とこれほど近く、他に人もない夜闇の中で向きあっていることは、云いようもなく畏怖をあおりたてる、恐ろしい体験に思われた。
豹頭王はアルスの恐怖を見てとっていた。その異形と威厳ゆえに、ひとを怖れさせ畏れさせることは、王にとって、あまりにも日常茶飯のことだったのだ。べつだん、話しかけてその小女衒の感情をなだめてやろうともせずに、王はフードをゆっくりとかぶり直し、マントの裾を直すと、あらためてまじない小路へ入ろうと歩き出しはじめた。
そのときになってようやくアルスの呪縛はとけた。それと同時に、忠実なサイロン市民にふさわしいおもんぱかりの念が、その胸にこみあげてきて、彼は思わずとびあがっていた。
「お待ち下さい」
一国の国王に対して、どんなことばづかいで話しかけたらよいものかもわからぬままに、最大限の敬意を払ってうやうやしく云う。
「お待ち下さい。豹頭――ええと、国王陛下には、まさか、これほど申しあげても、まじない小路へ行かれるおつもりでは……」
「行かねばならんのだよ、アルス」
グインはたまたまゆきちがっただけのその小悪党に、こみいった事情を説明する気もなかったが、かんたんに答えた。アルスは身をふるわせた。
「あそこはあなた様のようなお方が一人でお入りになるところじゃありやせん」
「案ずるな。お前は俺をケイロニアの豹頭王としか知らぬ。だが俺は諸国をただひとり経めぐり、ドールその人の神殿でさえたたかったこともあるのだ」
「そりゃあ、そうでしょうが、しかしいま、あなた様が何かあったら、ケイロニアはそれで完全にお手上げじゃありませんか、陛下」
「大丈夫だ。俺はサイロンを黒死のはやり病いから救うためにこそ、まじない小路のさる魔術師に会いにゆくのだ。以前にもそやつには会ったことがある、心配はいらぬ」
「あっしは心配ですよ」
強情にアルスは云いはった。もともと心が正しいわけでもなく、さして強い気性も持ちあわせぬ賤業の男で、だからこそ|穴ネズミ《トルク》とも仇名されているのだろうが、それにもかかわらず、このサイロンの死の夜の中で神話さながらの豹頭王とゆきあったことは、彼につよい感銘をあたえ、それとまぎれもない豹頭王の威厳と力とはアルスの弱い心にさえ伝わってきて、王のために何か忠誠のあかしを見せずにはいられぬような気持にさせていたのである。
グイン自身ははたして気づいているのかどうかわからなかったけれども、彼がまだふらりと記憶を失って辺境にあらわれた、一介の風来坊にしかすぎなかった、はるかな昔から、こうした彼の何とはない人を動かす特質、単なるゆきずりの者にでも、彼のために力をかし与えねばならぬという気にさせるふしぎな作用こそは、何よりもよく彼が生まれながらの王者にほかならぬいわれであるところのものだったのである。
「王さま、こう云っちゃ何だが、もしあっしにできることがあれば――もし、黒曜宮のどなたかを呼んで来ればというなら、そう云って下さりゃあ……」
「有難う、アルス」
豹頭王は重々しく云った。
「だが、必要ないのだ。留守をあずかるランゴバルド侯のハゾスには、すべて云いふくめてあるし、それにこれは俺ひとりでせねばならぬことなのだ。案ずるな、俺がこのサイロンをつつむ黒死の霧のいわれをつきとめ、その根をたつことができれば、サイロンの夜は明け、死の風は吹き払われ、おまえの愛しい女神のティナもすこやかな笑顔を再び見せることができよう。ケイロニア王として、そのことをサイロン市民たるお前に約束しよう」
「と、とんでもねえ、勿体ない、あっしのことなんて!」
アルスは吃って叫び、ぶるぶると首をふった。
「じゃどうしてもお行きなさるんで」
「ああ、黒曜宮の魔道士どもは役に立たぬ。俺は何年か前にドールを裏切った魔道士であるところのイェライシャという男に占いを乞い、よい結果を得たことがある。万策つきた今、思い出したのはその折伏された黒魔術師のことなのだが、この男はドールの信徒の手がのびてくることを病的なまでにおそれ、決して常人の前には姿をあらわさぬし、そちらからわしの乞いに応じて出むいてくることもない。どうあっても、俺が単身まじない小路の、イェライシャの家へ出むいてゆくほかはないのだ」
「イェライシャ!」
アルスはがたがたふるえながら叫び、ヤヌスの印をあわてて切ることで、彼がまんざら情報通としていっぱしでなくもないことを示してしまった。
「そ、それじゃ王さまの行きなさるのは、〈ドールに追われる男〉イェライシャのところで! そ、そりゃとんでもねえ、ますますもってこのまますまされない話だ」
「案ずるなというのに。俺がドール如きを恐れると思うか」
豹頭王は吠えるような声で笑い、するとまるでその不逞なことばを当の地獄の王がききつけた、とでもいうかのように、またもやどこからともなく一陣の突風がふきつけて、王のかぶり直したフードをまくりあげ、その豹の顔をあらわにしてしまった。あたかも、七つの地獄と黄泉の王者にして、ヤヌスの背いた子、すべての罪と背徳の支配者なるドールが、よくよく記憶にきざみつけるためにその異相を眺めようと欲したとでもいうかのように。
「ひえっ」
アルスはうめいて、頭をかくし、すぐにでも石づくりの家々のあいだへ逃げこもうかとためらうようだったが、ふとふりかえって、妙にうっとりとした、惚れぼれとしたまなざしで、何度みても畏怖と驚嘆をさそう、雄々しい豹頭を見上げた。
(なるほど、噂にはきいてたが、この豹頭王ならば、ドールその人とだって一騎打ちできるのかもしれねえな)
低くつぶやき、そしてふいにぽんとうなづく。
「よござんす。じゃもうお止めはいたしませんよ。さ、行きましょう」
「なに?」
こんどは豹頭王がおどろいた。めったに物に動ぜぬはずの王のそのおどろきを見て、アルスはいい気持だった。
「さ、イェライシャの家にお出でになるんでございましょう? ご案内いたしますよ。こうお出でなさいまし」
「おい――」
王は何か云いかけた。アルスはかんでいたヴァシャ果をペッと石畳に吐きだして、
「|穴ネズミ《トルク》のアルスと云や、まじない小路じゃちょっとした顔なんですぜ。それにかわいい女神のティナを救うためだ。さ、あっしがいなきゃあなたはぶじにまじない小路をとおりぬけられやしませんよ、王さま。その目立つずうたいと、そのお姿じゃあ、一歩といかねえうちに汚い連中にまつわりつかれて立往生だ。あっしはティナと一緒になるまえには、まじない小路で、ジプシー女のカード占いの客引きをやっていたんです。そのとき、いくつかの呪文も見よう見まねで覚えたし、ちゃんとあなた様をイェライシャの家までつれてって、またタリス通りのはずれまでつれもどってさしあげますよ」
グインはなおも何か云おうとしたが、小悪党のニッと笑ったそっ歯をみると、黙ってフードをかぶり直した。
「さ、参りましょう」
アルスのうながすままに歩き出す。しかし、彼は油断なく、その小男が物入れから、そっとぬきとった祈り紐を二の腕に奇妙な結びかたでまきつけるのを目にとめていた。まじない小路へ入るための呪いよけ、厄よけともとれるけれども、わるくすればひそかな仲間のしるし、暗号、そうもとれるのだ。
フードを深くかたむけた豹頭の戦士と、そっ歯の小男とは、肩を並べ、ひそやかな足音を石畳に吸わせて、タリッドにその名もたかい、恐るべきまじない小路に足を踏み入れたのだった。
ふたりが、一見して、他のいくつもの同じような横町とどこもかわったことのないかに見えるその小路の入口をくぐりぬけたとたんである。
ふたりはふたりながら、どこか遠くの方で、ハイエナのようなぶきみな笑い声がひびくのをきいて顔を見あわせた。
それはまるで、獲物が網にその羽根を最初のひと触れで、うかうかとからめとられてしまったことに快哉を叫ぶ、巨大で陰気な蜘蛛のあげた笑い声のようにひびいた。地の底からとも、頭上からとも、どこかの家の奥からとも、何とでもとれるような笑いである。
「ドールめ、再び俺が奴の手の中に入って来たと信じて、それで喜んで笑うのだな」
アルスの恐怖をあおらぬよう、低い声で豹頭王は呟いた。
しかしアルスのほうは、
「ねえ、王さま」
おそるおそるそのマントに身をすりよせ、きょろきょろ周囲を見まわしながらささやくのである。
「ご存じだとは思いますが、このごろサイロンのあちこちで、よく笑い声がきこえるんでさ」
「笑い声? 今のような?」
「まったくあれとおんなじで。まるで死人をくって肥るハイエナかなんかみたいに、夜なかといわず、昼日中といわず、遠くから風にのってとも、いま立ってるこの足の下からともいえぬ感じで、おかしくってたまらんようにゲラゲラ笑うやつがいますんでね。まるでサイロンの不幸がそいつにはうまくてたまらぬ果実酒ででもあるように。サイロンはドールに魅入られたんだ、ってうわさが流れ出したのは、そのせいですよ」
「サイロンに怪異が横行するとはきいていたが――」
豹頭王は沈んだ声でつぶやいた。アルスはいっそうあたりを見まわしながら、
「怪異? 怪異なんてもんじゃありませんよ。まったく最近のサイロンときたら、とち狂っちまったかのようで、まっ昼間から赤ん坊は行方不明になるやら、小っぽけなガラスのビンが、でかい顔をして人のあとを踊りはねながらついてくるやら、ウマの群れがとなりの通りをかけぬけてゆくから、護民兵かと思って出てみると、何もいなくって、ヒヅメの音は、いつでもひとつだけとなりの通りを――ワッ!」
ふいに云いやめてアルスはとびあがった。いっそう濃くなりまさるだけでなく、妙にねっとりとまつわりついてきはじめた霧の流れる石畳の上を、かれらの足もと近くをいきなりかけぬけてせまい路地を横断した、何かの生きものがあったからである。
それは火のように燃える目でふたりをバカにしたように眺めてたちまち向かいの扉の下から消えていったが、それはトルクでもネコでもなく、そればかりか地上のいかなる小動物とも思われなかった。しいていうならば、トカゲのからだつきと、トルクの毛皮とをあわせもってでもいるようだ。しかしアルスをぞっとさせたのは、その黒い、毛のはえた生きものの、火のように燃える目が、明瞭な思考と知性とを宿してかれらを眺めていったことにほかならなかった。
「うえっ、何だろう、ありゃ」
「使い魔か、合成された生きもののたぐいだろう。まじない小路では珍しくもないことだ」
グインはおちついて答える。
「いやになっちゃうな、まったく」
まがりなりにもこの怪奇な伏魔の領域の案内人《ガイド》を気取っているアルスはうちしおれて口の中でつぶやいたが、すぐに他のことに心をうばわれた。
「ねえ、王さま」
「ああ」
「どうもあっしゃさっきから、ここん中に入ってきたときからどっかで赤んぼの泣き声がしてる気がしてしかたないんですが、こりゃあっしの空耳ですかね」
「ここでは扉の奥で、長いあいだに何万何千の生贄が屠られたかもしれんのだ。そういうことがあってもふしぎはないな」
「それにどうも、こん中は、ついそこのタリス通りにくらべて、妙にむし暑くって、空気がねばねばして、まるでゼリーかなんかの中にいるようで――ええい、畜生! ヤヌスの神よ守りたまえ、ここはとんでもないところですよ、王さま」
それはアルスにいわれるまでもなく、一歩まじない小路に足をふみ入れたとたんから、グインのするどい感覚にひしひしと感じられていることだった。
見かけはサイロンの下町にごくごくありふれた、石づくりの屋根の低いしもたやが、いくつもくっつきあうようにして並んでいるだけである。
中には手ひどく崩壊している家や、軒下に妙な枯れしなびた草の類をびっしりとはびこらせている家、そこにあるのが妙に不似合いなほど古く見える家、などがあるが、総じてかわったつくりのそれはない。
そしてかなりの家々が、石や樫の扉の上にそっとルーン文字を彫ったり象嵌し、あるいはもっと堂々と軒下に占いの看板をつるしているのだけが、この小路の住人たちのなりわいを明かしている。
ジプシー占いの古ぼけた黒い絵のとなりに星占術のちかちか光る看板があり、そのとなりに、三つの銅の球をつるしてそれと知られるミロク教の道士の家、そのさきにはかわききった骸骨をはりつけた呪術師が店をかまえ、そしておかしな説明のつかぬ話だが、入口から見るとわずかに百タール、通常ならばものの五分も歩いてつきぬけてしまうちっぽけな路地のくせに、いざ入ってみると、そうした店々はたぶん二タッドも、あるいはもっと延々つづいているように見え、あまつさえその向こうはゆがんで霧の中に消えている始末で、ひょっとしたらはてしなくつづいているのではないかとさえ、足をふみ入れたものに思わせるのだった。
家々の中からは、ひそやかな忍び声がいつまでもつづいているようでもあり、中で薬でもせんじているのか、奇妙な胸のわるくなるような匂いの流れてくる家もあり、また別の家の中からは人ともけものともつかぬ目がいくつも緑色に光っておもてをうかがい――
奇妙なことには、もう夜だったし、霧は深くなりまさり、そしてまじない小路には外をてらすべき街灯などただの一本もなかったのにもかかわらず、そして明るいというのではなくてあたりはまったくの夜闇の色であるのだが、豹頭王とその供が行くさきざきで、家々とその看板は、別に光を放ってではなくじつにはっきりとかれらの目にそのすがたをあらわし、しかも妙にそれは遠くもあれば近くもあるといったつかみがたい見かけをもっているのである。
それはちょうど、深い夢のなかにさまよいこんで、目ざめることができずにいる、そんなさまに似ていた。アルスが目をあげると、前をおそれげもなく歩いてゆく豹頭王の頭から、いつかフードはすっかりとりのけられ、その姿がまたいっそう、悪夢の中の思いをつよめる。
誰ひとり他に通るものもなく、それでいてときどき足音がひびいた。何ひとつ、目に立つ怪異はそれ以上かれらをおそっては来ず、それでいて、これ以上近くにいることはできぬというほど、怪異と変化《へんげ》の領域に近づいてしまった、という野深い不安と恐怖とが、人をとらえてやまないのである。
ここでは時間も外の世界とは異る流れかたをし、善悪も、生死もまた外とはまるでちがう意味とすがたとをあらわしていた。アルスはそれを悟り、思わず腕の祈り紐をまさぐり、ヤススの慈悲深い名を呟いた。
その刹那!
きくものの心臓を凍りつかせる絶叫が、まじない小路のねばつく夜闇をひきさいてひびきわたった!
王とアルスがぎょっとなって身構える暇もなかった。無人ではないかとさえ思われた、静まりかえっていた右手の家の扉があき、ひとつの人影がまろび出てきた。
驚愕に見ひらかれた目で二人の侵入者は、それがほとんど裸もどうぜんな、肌の浅黒いひとりの若い娘であることを見た。娘の目は血走り、その長い髪はとけ、その顔は恐怖にひきつっていた。彼女はそこに立ちつくす二人を見――そしていきなり、アルスには目もくれずにグインの腰にしがみついてしゃくりあげた。
「助けて! 皮を剥ぐ気よ! ああ、神さま!」
彼女はすすり泣きながら叫んだ。
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アルスは瞬間、驚きのあまり口をきけなくなった。
タリッドのまじない小路といえば、ただでさえ、怪異の日常に横行するところだ。そこへ突然とび出してきた裸の娘が、彼の目に、血肉をそなえた人間というよりは、そう見せかけたけしからぬ幻魔、それとも何かかれらをまきぞえにしようという奥深いたくらみの一手とアルスの目に映じたのも無理はない。
しかし、悲鳴もろともにとび出してきた浅黒い肌の娘のほうは、なぜそこにその二人がいるのかということにも、その一人が首から上は人間でない、ひと目見れば誰もが驚倒する豹頭の半獣半人であることにも、いっこうにとんちゃくするようすはなかった。
彼女の目は恐怖に見ひらかれて、逃れてきた戸口の方を見つめている。その口から弱々しい泣き声がもれ、彼女は、
「ああ、お願い! わたしを助けてちょうだい!」
グインの肩にとりすがって戸口とじぶんのあいだに彼を盾におしやろうとしながらわめいた。
「王さま、だまされちゃいけませんよ。このあまが何の化けたもんだか――」
知れたもんじゃない、とアルスが云いもはてぬうちに、いままさに彼女がかけ出てきたばかりの戸の奥の、ぶきみなほどに濃い闇の中から、耳をおおいたくなるような悽惨な呻き声がきこえ、そしてそれはひと声限りで、あたかも生ある闇に圧しつぶされたかのようにふっつりととだえてしまった。
「ああッ!」
娘は両手を耳にあてがってきくまいとし、身もだえをした。彼女のむきだしの、なめらかなあたたかい肌が国王のからだにすりつけられた。
「ドゥエラはやられたんだわ」
彼女は絶望の声をあげた。
「あいつ――アラクネー――は云うもおぞましい闇の生命のいまわしい食欲をみたすために、あんなによくつかえてきたあたしたちを犠牲にしたのよ。あああ――! 助けて、あれ[#「あれ」に傍点]はあたしを追ってくるわ。あたしを助けられないんなら、いっそあれ[#「あれ」に傍点]の手にとらえられてあれ[#「あれ」に傍点]の口に運ばれるより先にあたしを殺してよ!」
「アラクネーがどのようないまわしい生物を飼っているものかは知らないが、生きているうちからそうむざむざと希望をすてることもなかろう」
豹頭王は云いきかせるように云った。
アルスはとびあがって、
「たぶらかされちゃいけませんよ! その女《あま》っちょが、ほんとに自分でそう見せかけてるとおりの姿をしてるかどうか、わかったもんじゃありませんや。ここはまじない小路ですからね!」
「大丈夫だ。俺はドールの版図へただひとりおりていったこともあるので、ことに妖魅の類には鼻がきく。この娘の肌からは、健康な人間の匂いしかせぬ」
「へえー」
充分な不信の念をこめてアルスは云った。しかしすぐに、
「わあ! なにか出てくる!」
おぞましげな叫びをあげて、そのいまわしい戸口からとびのいた。
「あれ[#「あれ」に傍点]だわ!」
娘の目が恐怖のあまり白く見ひらかれている。彼女は王の腰に夢中でしがみつき、恐怖のあまり、自分が何ひとつ身につけておらぬことさえ忘れていた。
「わあッ、ありゃあ何だ!」
アルスが叫び、あわてふためいてグインのうしろへまわる。グインはふたりの怯えた男女に盾にされたまま、油断なく目をこらし、腰の剣をいつでもぬきはなてるよう身がまえた。
その咽喉から、低い、豹そのままな唸り声がもれる。
「妖怪の匂いだ」
彼は毛をさかだてんばかりにつぶやいた。
「アラクネーはとんでもないものを飼っているようだな」
「助けて! 助けて!」
狂気のようになって娘は叫び、その暗黒の戸口からあらわれるものを見まいとしてうしろをむき、そのままばたばたと走り出そうとした。
グインのすばやい手が、いきなりその長いもつれた髪をひっとらえてひきとめた。
「イヤ!」
「ここにいろ。ここ――俺のうしろ――が一番安全だ。ここでだめなら、もう安全なところなぞどこにもありはせん」
「なんて自信かしら!」
娘は怯えきってはいたけれども、ほんとうは決して内気でも、おとなしくもない性分であると見えた。
ふとその王のおちついたことばに、本来の性格がもどったとみえて、
「そんなに妖怪たちを恐ろしくないという、あんたは一体だーれ」
からかうように云ったが、またやにわに置かれた状況を思い出し、手を口につめこむ。
「出てくる!」
暗黒の戸口の内からは、ゆるやかに、とてもたくさんの木の葉か枯れ草がすりあいでもしているようなサワサワという音がきこえ、それはしだいに近づきつつあった。
そして、奇妙な、なんともいえず不快なにおい、地獄におちたものの魂のうめきとも、断末魔の苦痛にあえぐものの呪いとも形容のしようのないいたいたしい呻き声も。
サワサワ――という、奇怪な幻想をさそう音はしだいにはっきりと、いまやもうその本体がアラクネーの戸口からその全身をあらわすばかりである。
グインは二人をうしろに庇い、剣をひきぬいてそちらをにらみすえた、
はじめに目に入ったのは世にも奇怪なものだった――
闇の中に、宙にういている、髪をふり乱し、口をつりあげて血まみれな笑いをうかべているかのような、みにくい女の首。
奇妙に重量感のある暗黒を背景にして、その首には、肩から下がなく、そして赤茶けた髪はみごとに逆立ちして、さながらそれは髪の尾をひく、女の首のかたちのホーキ星ででもあるかのようだ。
意外さに息をのむ三人の前で、もっと異様なことが起こった。
女の首の上で、闇がカッと目を見ひらいたのである!
女の頭のすぐ上に、じっとこちらを見すえているその女の目のグロテスクな拡大とでもいったようすで、赤くつりあがった、ちろちろと陰火のような炎を秘めた二つの目が見ひらかれ、陰険にこちらを見つめた。
アルスは気分がわるくなった。そのときにはすでに、さっきからの異臭が耐えがたいまでにつよまっていることもあったけれども、それよりもさえ、その陰惨なまなざしの中にひそむ、非人間的で地上の生物にはとうてい理解することも、対抗することもできぬようないとわしい敵意と冷やかさ、いやらしい怪物じみた欲望に、小悪党の弱い心は本能的に耐えることができなくなったのだ。
「ア――ああ……」
娘のあげるよわよわしい、驚愕と嫌悪のうめきがききとれた。
「あ、あれは――アラクネーの首よ!」
娘は悲鳴をあげて、片手でグインにしがみついてその背中に顔をかくしながら、片手をあげてその赤く光る闇の目の下の、宙にうかぶ女の首を指さした。
「なんてことを! 自分で呼び出した妖怪に、アラクネーはじぶんじしんも食われてしまったんだ!」
「見るな。俺のマントをしっかり握っていろ」
グインは云い、そして、たくましい腕にしっかりと大剣を握り直した。
その彼を赤い凶々しい目に見すえたまま、ゆるやかに、闇が動いた。
あの、枯れ草のこすれあうような音はいよいよ耳ざわりに高まり、サワサワサワサワ、と闇が戸口からにじみ出て来ようとする。その赤い目の下に、そこにはりついた女の首もともに近づいてくる。
と思ったとき――
「アラクネーの蜘蛛!」
娘のあげる、甲高い恐怖の悲鳴のなかで、その怪物はついに街路にすっかりその悪夢のすがたをあらわしたのだった。
それは――何ともいえぬくらいおぞましい、全身に黒い剛毛の密生した巨大な円形の生物で、いやらしく丸くふくれあがった胴のまん中に赤く光る目と長いくちばしのある、蜘蛛の顔がおさまり、そのくちばしがしっかりと、血のしたたるアラクネーの生首をくわえていたので、女の顔をもった怪物ででもあるかのように見えたのである。
黒いふくれた胴の真横から、上へもちあがった長い足が、片側に六本づつのびており、そのたくさんの足をすばやく動かして移動するときに、カサカサというあの枯葉のすれあうような音をたてるのだった。
アラクネーの蜘蛛と娘がいうように、その形態がもっとも似かよっているものはいとわしいタカアシグモの姿であり、それだけでも魔神ドールの支配下にある生物として、人間の本能的な嫌悪と反感をかきたてるには充分すぎるくらいであったのに、さらにそれは、気の狂った詩人の悪夢にも望むべくもないほどに巨大であるために、それのいとわしさは数倍にもなっていた。その厭らしいのろくさしたしぐさでくちばしをなめずる音をたててみせるようすには、男のアルスでさえも、嘔吐と悲鳴を誘われずにはいられなかった。
「アラクネーはあたしとドゥエラにも秘密にして、地下の深い石牢に、どうやってか黄泉からよびだしたあのイヤな化物を飼っていたのよ。アラクネーの糸占いはよくあたると評判だったし、アラクネーに金をつむと、呪われたものが必ずおそろしい死に方をすると評判が高かったの。それはアラクネーが、あれ[#「あれ」に傍点]に夜こっそりそのあいてをおそわせていたんだわ。
それがこの数月というもの、この黒死の災厄で、人を呪いにかけることを頼みにくる客もいなくなってしまったの。だって呪いよりもずっと確実な死が、町に朝夕満ちているのだもの。
だからあれ[#「あれ」に傍点]は死ぬほど腹をへらしていたんだわ。そしてアラクネーは、あれほどつくしてやったあたしとドゥエラをだまして石牢におろし、あれ[#「あれ」に傍点]の餌にさせようとしたんだ」
ふるえをおびた早口で娘はささやいた。
「でもあれ[#「あれ」に傍点]はアラクネーまで反対にえじきにしてしまった。ああ神さま! ――なんていう恐しい運命なんだろう!」
「そう思ったら、よくもおれたちを巻きこめたもんだな!」
胸のむかつきをおさえようとしながら、アルスが叫んだが、そのとたん、
「うしろへさがっていろ!」
グインは叫んで二人を見もせずにおしやった。巨大な蜘蛛はそのくちばしから女呪術師の名残りをはなし、うらみをのんだ首が石畳をころがるのにもかまわず、新しい生き生きとした獲物にむかって前触れもなしにおそいかかってきた。
「キャーッ!」
娘の悲鳴、アルスの絶叫の中で、グインは大剣をかまえ、思いきり力をこめて横にないだ。充分な手応えがあり、自慢の剣はイヤらしくふくらんだ毛だらけの胴をまっぷたつにした、と思ったが、妖怪は異様なすばしこさで身をひるがえし、豹人の剣はただ、オオタカアシグモのその足の二本を切り払ったにとどまる。
クモは苦痛を感じないのかもしれなかった。ただ、その赤い目が、傷つけられていっそう狂おしい原初的な憤怒に燃えあがり、それはひるむどころかくちばしをあけて、怪鳥のような高い鳴き声をたてた。いっぽう、石畳の上には、グインの切りおとした、二本の毛だらけの脚が、それ自体ひとつの生あるものででもあるかのように激しくのたくりまわり、いっこうにそのもがきはやむ気配がない。
さすがのグインもいとわしさに、鼻にしわをよせ、毛をさかだてて唸り声をたてた。
その鼻さきへ、激しく切りおとされた足がはね上ったので、鼻白んであとへさがる。押されるようにして娘とアルスもあとずさりした。
「こんなイヤなもの、切ったら剣の汚れだ。逃げましょう、王さま! それが一番だ」
アルスがヤヌスの印を切りながらわめく。
「ダメよ!」
娘が絶望的に叫んだ。
「何にも知らないのね! ここはまじない小路よ、ここではその扉のひとつひとつが、独立した結界のようなものなのよ。そこのあるじが欲さない限り扉はひらかないし、だから、このクモもかれらにとっては何の脅威でもありはしないのよ!」
「それじゃおれたちだけがお前さんのまきぞえをくらってここであれにくわれるしかねえってのか」
アルスは頭に来て怒鳴る。娘はきいてさえいなかった。
「ああ、ダメよ!」
両手をもみしぼって絶望の悲鳴をあげる。大グモは再びとびかかろうと、その足をちぢめ、くちばしをひらいたりとじたりしてかれらを威嚇した。
「ドゥエラがあたしを守ってナイフでさそうとしたのだけど、あの胴には刃さえ通らないの。ああドール! あれ[#「あれ」に傍点]は不死身にちがいないわ!」
「そうかどうかは、息の根をとめてみなくてはわかるものか」
わめくなりグインは豹そのままにとびあがり、大グモの次の襲撃を待ってさえいなかった。
剣をふりあげざま、クモの赤く光る目をねらって鋭くくり出す。狙いはあやまたず、剣はクモの片目をグサリとつきさした。
剣をひきぬきざまグインはとびすさり、次のひと突きで、残る目をつき通す。大グモは甲高い鳴き声をあげた。
二本まで足を切り払われてもこたえたようすもなかった妖怪だったが、さすがに両目の視力を奪われたのは恐しい打撃であったとみえて、みるみる気狂いのように足をばたつかせてもがきはじめる。
人間の知るこの世界のものではない、暗くいまわしい闇の生命の、傷つけられた憤怒と苦痛が目には見えぬ波になって、激しくかれらを打ち、あとずさりさせた。だが、目を失っても大グモは弱るようすを見せない。
むしろ、いっそうたけり狂って文字どおりの盲滅法にあばれまわる。狂ったその動きにかえって抗しかねて、グインと二人の連れはその生贄を求めてのびてくる足から必死に身をかわした。その黒い毛の密生した足にからめとられたがさいご、否応なしにひきよせられ、そのぱくぱくとひらいたりとじたりしている吸血のくちばしへとひきずりこまれて、そこにころがっているクモ使いの生首と同じ運命をたどるだけだろう。
「えい、ドールの化物め!」
グインはおめいて、娘とアルスをうしろにつきのけると同時に捨て身の覚悟でとびあがる。
本能的な嫌悪をこらえてそのあばれまわる大グモの上から思いきり剣をつきたてようとした彼の口から、短いおどろきの声がもれた。
剣がとおらないのだ!
黒くふくれたキチン質の胴体ははがねででも出来ているかのように、渾身の力をこめたグインの剣をはねかえし、それがもしきたえぬかれた名剣でなかったら、あわや剣のほうが折れとんでいるところだった。
「えい、くそ!」
グインはやにわに剣をベルトにもどすなり、こうなった上はその無類の腕力でと両手をひろげる。が、
「だめよーッ! そ、それにさわっちゃだめ! その毛のさきには毒があるのよ!」
娘がわめくのをきいてあなや[#底本「あなや」あわや?ママ]というところでとびすさる。
「お手上げってわけか!」
「逃げるほかありませんや!」
アルスがグインの手をひっぱった。
「どうもそのようだな」
グインは地獄の生きものの荒れ狂う動きから目をはなさぬまま、じりじりとあとずさったが、
「ひとまず逃げるんだ。まじない小路の結界がこやつを不死身にしているのだから、外の正常な世界へ出れば――」
云いもはてぬうちに三人は夢中で走りはじめていた。
アルスも娘も足が早い。恐怖がかれらを敏捷にし、あともふりむかずに走ったが、アルスがふりむくなり、
「わあ、追っかけてくる!」
「ダメよ、この先には行けないのよ!」
娘の甲高い悲鳴もひびいた。かれらの足はまるでさきに陰険な笑い声をたてたドールのたくらみにひっかかったとでもいうように、まじない小路の家々のあいだを走るときは何の支障も感じないのに、いざ生命と安全を保証する小路の外へ走り出ようとするとなにものかにひきとめられ、タリッドの大通りはすぐそこにあたりまえに見えているくせにどうしても、そこへたどりつくことができないのである。
「ドールの呪いだ」
アルスが泣き声をあげた。
「ああ、追いつかれる!」
グインは再び剣をぬき、刃がたたぬまでもとにかくその戦闘力をそいでやろうとふりかえって身構える。クモはシューシューと怒りの声らしいものをたてながら、追いつめられたかれらにせまってこようとしている。
そのイヤらしい黒い足がふりあげられ、目が見えぬのにどうやって所在を知るものか、毛むくじゃらの巨体がグインにおどりかかった刹那!
「こっちへ!」
いきなりドールの結界を破ってうしろから黒いしなやかな手がのびるなり、グインの腕をつかんだ。
あれほど鋭敏で俊捷なグインが、つかまれるまで何ひとつ気配さえ感じとれなかったのだ。おどろきにうたれた豹人のふりあげた剣に、もう一方の手がからみついて、耳もとであつい声があわただしく、
「だめよ、そのクモは人間の剣では死にはしないのよ。さあ早くこっちへ!」
「待て、連れがいる」
「そんなもの……」
かすれ声の主は舌打ちしたが、いよいよ迫ってくる盲いたクモの前で、グインがてこでも動こうとせぬのをみると、
「しかたない、お入りよ、二|秒《タル》だけあたしの扉をあけるから!」
グインをうしろへつよくひっぱると同時に、かれらの追いつめられていた石壁にふいにぽかりと黒い穴があいたのである。
それとともに、悲鳴をあげつづけていたアルスと娘は、どこからともなくのびてきた手につよくひっぱられ、声をたてるいとまもなくその突然開いた異次元の入り口へ吸いこまれた。
それを見とどけてグインもその手の誘導に従った。もっとも、これもまた何かあらてのたくらみではないかという恐れは忘れず、手にはがっしりと大剣を握ったままだ。黒いその間に三人が吸いこまれたのは真にきわどい刹那だった。同時にクモの足先きがかれらの肌をかすめ、アルスの手に火ぶくれをのこしたが、かれらの耳には獲物をとりにがしたと知って妖怪のあげる、声にならぬ声がきこえ、その憤怒が波になってかれらのからだをゆさぶり、そのなかでまるで瞳が絞りこまれるようにして、闇は小さくなっていき、ついにその穴を消してしまった。あとにはただ何ひとつひらいたことも、そんな入り口もないような、ただの長いくずれかけた石壁がひろがっているばかりである。
いっぽう、その穴の中へ吸いこまれたグインたち三人をおそったのは、奇妙で不愉快な落下の感触だった。
「落ちるぅ!」
娘が金切り声をあげ、
「ああヤヌス! クモから逃れて、生きている壁にのまれちまった」
アルスのあげる悲嘆の声が耳にきこえ、下におちてゆくとも上におちてゆくともつかぬ、はてしなく思われた不安な時間のあとで、ふいにかれら三人のからだはどさりと底についた。
墜落のショックは、見えぬ手というよりはあたりの空気に生命があってかれらをうけとめ、そっとおろしたとでもいうように、ほとんど感じられなかった。しかし、あたりは鼻をつままれてもわからぬ真の濃闇で、しかも何ひとつ、生あるものの気配さえもないことが、いっそさっきのクモ同様に目がつぶれたかのような不安とおののきをかきたてる。
「――おい、無事か!」
グインはわめいた。距離も何もまったくつかめない、すべての感官に黒いワタをつめられでもしたかのようだ。
そのとき、二人がよわよわしく答えるよりも早く、
「心配いらないよ。いま、あかりをつけたげようね」
親切そうな、ききおぼえのある咽喉声が、まるで闇そのものが口をきいたとでもいったあんばいにわきあがった。
「わあ!」
アルスがあげる怯えた声と、娘のすすり泣く声が、ふたりの無事を教えるのだが、それすらも、近いのか、遠いのかさえ判然としない。
三人がそれぞれの不安にかられて闇の中で身を固くして待つうちに、
「えい、畜生、このローソクったらドールの尻からでも生まれてきたのかい。いつまでたってもつきやしない」
再びさっきの得体のしれぬ声が、口汚くののしるのがきこえて、
「面倒くさいったらありゃしない。強情なローソクめ、おまえはこのタミヤの呪いよりもおまえの主人のドールのほうが怖しいっていうんだね? よーし見てるがいい、タミヤの呪いを見てるがいい。それとも――そうとも、そうやっておとなしく、云うことをききゃあいいんだよ」
声がおわらぬうちに、闇の一点にぽかりと青白い幽鬼めいた光がともり、見る見るうちにそれが大きくなった。だがその光には少しのまぶしさも熱もなく、ただ幽界の導き手さながらに四方がぼうと青白くうかびあがるばかりなのである。
三人はあいつぐ怪異に息をのんで身をよせあっていた。
「よし、よし、これで見えるだろう。もう大丈夫だよ、このタミヤの家の中では、タミヤがただひとりの主人なのだからね。あんなアラクネーの呼び出した使い魔なんか、決して入っちゃ来られないんだから」
いくぶんしゃがれた声が云い、そして声の主がおもむろにその姿を、青白い光の中にあらわした。そうして、かれらはすでに黒き魔女タミヤの客である自らを知ったのである。
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4
そこに、腰に手をあて、するどい目でじろじろと三人を見くらべながら立っていたのは、三人がその声からどのような妖婆を連想していたにせよ、まるきりそれとは似ても似つかない姿だった。
青白い幽界の灯りが照らし出したのは、ひとりの豊満な、陽気な、そしてコクタンのように黒い肌をしたランダーギアの黒人女である。
彼女の背景をなしている闇よりもさらに黒いその肌ほどに漆黒なものはなく、そのニッとむきだした歯より白く輝くものはなく――そして彼女のまとっている衣装ほどに煽情的なものはまたとなかった。
油をぬったようにつややかに光る黒いからだに、魔女のタミヤがまとっているのは、あやしげな錦のサッシュと、すけるスカート、それにふたつの盛りあがった乳房をとりかこんでいる宝玉をちりばめた胸かざり、ただそれだけである。それと、つややかに結いあげた髪にも、手首にも、足首にも――さらにはその形のよいへそ[#「へそ」に傍点]にも額のまんなかにまで、めったやたらにはめこんだり、まきつけたりしている宝石のかざり、そのおかげで彼女は、まるで夜空の一部を切りとってつくった女のように見えるのだった。
彼女が動くと、かたく砲弾のようにつきだした乳房がおどすようにふるえ、彼女がものを見るとそのむっちりした腰が黒い波のようにうねった。彼女の顔もまた、南方も最南端のランダーギアかフリアンティアにしか見られない、きわめて純粋な黒人種の顔だった。
白く輝く目は大きくよく動き、表情たっぷりだ。大きなぶあついくちびる、あぐらをかいた鼻――だが、造作からいうとランダーギア産の木彫の人形だの、カイアの草原のカエルだの、そんなものを思わせるけれども、タミヤが醜いというのではなかった。
むしろそれなりに美しく、そしてとにかく圧倒的なつややかさと豊満さ、それに混じりあった奇妙に陽気な残酷さの感じが、彼女こそ豊穣の女神にして、女の中の女でさえあるかのような感じを男たちにおこさせる。
アルスの目は彼女に吸いよせられ、タミヤはそれをこころえて、アルスの目が見つめる箇所をそのたびに巧妙にうねらせてみせた。ばかにしたような笑いがそのあついくちびるにうかぶ。魔女タミヤの前で、とびだしてきたときにはなかなか美しく、均斉がとれているとみえていた、アラクネーの奴隷娘は、みるみるやせっぽちの小娘のように魅力のない、個性のない存在にみえはじめてしまった。
長い髪のほかにはそのひきしまったからだに何ひとつつけていない彼女よりも、いろいろとかざりものをまとい、うすぎぬのスカートもつけたタミヤのほうがもっとはだかに見えるのである。彼女のタミヤを見つめる目には、ひそかな敵意がこもっていた。
タミヤはそれに気づいたのかどうか、腰に手をあて、円錐形の黒い乳房をいっそうつきだしたまま、
「まあとにかくあんたたちは今夜のタミヤのお客ってわけだ。まあお座り――いま、のみものとたべものが、ここへやってくるところだよ。座って、そしてとにかくあんたらの自己紹介をしとくれ――黒き魔女のタミヤの家では、名まえのないものは、籐編みのあたしの椅子にすわれないんだよ。
あ、いや――」
白い歯があらわれ、ニッと笑った。
「あんたはいいんだよ、豹頭のグイン。あんたはこの世にただひとりしかいない男、あんたを見まちがえたりしようはずもない。そっちのちびさん、あんただよ!」
「あっしは、アルス――|穴ネズミ《トルク》のアルスってんでさ」
アルスはタミヤの胸にみとれながらぼんやりといった。
「あたしはヴァルーサ。アラクネーの踊り子だわ」
いくぶん怒ったように娘がいう。他の三人の沈黙には、何かしら意味深長なものがあったし、タミヤの醜くて、しかも異様に美しい顔には、もっとはっきりした嘲弄の色があった。まじない小路で踊り子というのは、どんなことか、かれらはいずれもよくわきまえていたのである。
ヴァルーサはその沈黙に気づいて、浅黒い頬に血をのぼらせた。だがわるびれたようすもなく、すっかり裸ではあったが、絹のドレスにでも身をつつんでいるかのように頭をもたげて椅子にすわっていた。
「そのアラクネーもどうやら死んじまい、こんどこそ自分が何人ものお得意さんを送りこんだドールの地獄のご厄介になってるよ!」
タミヤがしゃがれ声で笑った。この豊満な黒人女に、ただひとつ似つかわしくない、何万年を経た妖婆のような声である。
「もともとたいした魔女でも呪術師でもないくせに、闇の生きものなんぞ呼び出して、いいように使ってるのをみて、あたしらは、いまにあんなことになると云ってたものさ。ホッホッホ――クモ使いのアラクネーも、首だけになっちまっちゃあお終いだ。おや、飲み物が来た」
タミヤは掌のぽってりと白い、黒人女の手をあげて奇妙なしぐさをした。
三人の客は目をむいた。タミヤの両手が、テーブルの上をさししめすと、何もなかった空間に、突然銀杯と、銀の柄つきのつぼ、そして奇怪なかたちの果実を満載したかごがあらわれ出て、いかにもはじめからそこにあったかのような大きな顔をしてテーブルの上をしめたからである。
タミヤが指をぱちりと鳴らすと、銀のつぼはとびあがり、その中身をうやうやしく三つの銀杯に注いでまわり、再びもとの位置におさまった。つづいて銀杯が、満たされた赤い色の酒をこぼさぬよう、慎重に、しかしなれなれしい、早くとって飲んでくれといいたげなそぶりで三人のそれぞれの手もとにすりよってきた。
「ウワッ」
この怪異を目のあたりにして、アルスがもうおどろく力も失せでもしたかのようにぼんやりと云った。
「この杯は、生きてやがる」
「タミヤの家ではタミヤだけがあるじなのさ。タミヤのもちものはしつけがいいんだからね」
自慢そうに魔女がいう。アルスは、すりよってくる銀杯から手を気味わるそうにひっこめ、
「ねえ、王さま、生きているつぼから、生きている銀杯に注がれた酒ってのは、ちゃんと飲めるもんでしょうかね。あっしゃどうも、あっしの口にゃあ合わないような気がする」
「だが酒にはちがいあるまい、たとえ、太古の王の墓からもってきた、その王の葬儀の折にそなえられた黄泉の酒でもな」
おどろくようすもなくグインは云い、杯をとりあげて飲んだ。アルスもこわごわそうした。すぐに銀のつぼがとんできて杯を満たす。赤い酒は香料入りで芳醇だったが、何かしらかびくさいような臭気もまた鼻をつき、するどく舌をさすあと味を残した。ヴァルーサは手をつけなかった。
「ああ、飲んだ、飲んだ」
注意深くグインを見守っていたタミヤは、はしゃいだようすで両の手をうちあわせた。
「タミヤのもてなしをうけてくれて、嬉しいねえ。腹がへっていないのかい。焼いて香料をつめた羊の脚はどう。それとも練り粉のパンは。疲れているなら、足をあらい、疲れをいやす香油をぬってあげるよ」
「いや――」
豹頭王はかぶりをふり、
「腹はへっておらん」
重々しく云いながら周囲を見まわした。
「タミヤのすまいを見たいのかい。じゃ、見せてあげよう。
ローソクよ!」
タミヤが手をあげると、ひとつだけだった青白い幽界のあかりと同じ、恨めしげなそれがぽかりと四隅にうかび出、魔女の住居を照らした。
アルスもヴァルーサもきょろきょろして眺めた。それは、同じまじない小路とはとても信じかねる眺めだった。なぜなら、まじない小路の家々はタリッドの下町の、石をつみかさね、窓を切ってつくる、たけの低いケイロニアふうのものでしかないのに、そのなかときたら、なんと深山の洞窟の中をえぐって作りあげでもしたかのように、ひどく天井が高く、そしてケイロニア地方のものでない、黒くてざらざらした巨大な岩の岩肌があらわれていたからである。
魔女はうすく透けるスカートの下ではずかしげもなく脚を組んですわり、半限に見ひらいた目でかれらを眺めていた。魔女がかけているのは南方ふうの籐編みの台であり、それと同じものが客たちにも供されていた。
洞窟の四囲は青白いあかりにも、妙にかすんでその輪郭を明らかにしない。天井からは妙なものがいっぱいつるさがり、それは大半は、つんでかわかしている薬草や、ほした動物の死骸、あるいは祈り紐やヘビの皮なぞのようだったが、そのあいまあいまにどうにも説明のつかないものがぶらさがっていた。
すなわち、その先にしなやかな女の腕がはえている蔓草だの、巨大なひげ根か何かのような白い触手で、それは注意深くみていると、風もないのにくねくねと動いて上へまきあがっていったり、となりの薬草の束にからみついたり、またおりてきたりしていることがわかるのだった。
そうしたものが頭上にある、というのはあまり楽しいことではなく、アルスは首をちぢめて祈り紐をまさぐった。四囲の壁には、祈り車やまじない盤、それに髑髏だのいろいろとわけのわからぬものがごたごたと並べてあるようだった。
ふいにアルスはぎょっとして足をちぢめた。というのは、青白い光が照らし出すにつれて、足もとの岩が見かけどおりのものではなく、その中をちょろちょろと水が流れていて、その中にまた奇形のカエルや白子の魚といったぶきみなしろものが無数にうごめきまわっているのが見えたからである。
アルスとヴァルーサがすっかりこのうす気味のわるい住居の怪に気をとられ、きょろきょろしているうちに、豹頭王は二杯めのワインをのみほし、魔女に話しかけていた。
「お前のおかげで救われたが、アラクネーという呪術つかいの女はあのクモをまじない小路にときはなってしまったな。難儀なことだ」
「なんの、難儀なことなんかありゃしませんよ、王さま」
タミヤはしゃがれ声で笑って、
「あいつはアラクネーの次元を永遠にほっつき歩き、運がよけりゃあ出られもするでしょうが、たいていは腹をへらして死ぬだけですよ。ああいった闇の生きものにはね、何の知恵も考えもありゃしませんのです」
「アラクネーの次元といったな」
「そうですよ。王さまがたが小路に入っておいでたときと、そこの娘さんがアラクネーの封界を破ったときが、たまたま日暮れから夜になるときで一致していたもんだから、あんたがたはアラクネーの結界に入っちまったんです。タリッドへ出ることができなかったし、それにいつだって大勢がうろついてるはずのまじない小路に、人っ子ひとりいなかったでしょう」
「われわれのいたまじない小路とは別のまじない小路が、あるというのか?」
「まじない小路ってのはね、王さま、一種の大通りなんです。誰でもが通れるけれど、誰のものでもない。さいしょにあそこへ集まってきた何人かの魔道士が、互いに封土をおかすことなく行き来できるよう、この通りを共通の結界に決め、その上で、そこへ自分の結界をかさねあわせた[#「そこへ自分の結界をかさねあわせた」に傍点]んですよう」
「奇怪な話をきくものだな」
豹頭王は云い、顎へ手をやった。
「ではこの小路は、いわばあらゆる次元への扉のようなものだというのか」
「と、いうよりゃね――魔道士の数だけまじない小路があるんでさあね」
タミヤは艶然と笑って王を見た。
「その中にもちろん魔女のタミヤのもあるってことで」
「その他に現実[#「現実」に傍点]のまじない小路もあるというわけだ」
「現実? 何もかもが、現実なんですよ!」
タミヤは笑った。
「あんたはさっき闇の酒をお飲みだし、そうしてタミヤの籐椅子にかけてるからおわかりだろうけど、あたしらの魔術は、目くらましとか幻覚、催眠術なんてものじゃない。空中からとりだした酒はのどをやくし、空中が生んだ焼き肉は腹をみたしますよ。これでも、その中のどれかひとつが現実で、あとは夢まぼろしだ、とお云いですかえ?」
タミヤはなにかしぐさをした。とたんに、タミヤの姿が四人にふえた。
それはたちまち、ひとりはグインの膝にもたれかかってしきりとその手を自分のつややかな胸にあてさせようとし、ひとりは香油の匂いをたてながらアルスの肩にしなだれかかってアルスの目をとびださせ、そしてもうひとりは、みだらがましくヴァルーサの肩を抱きよせてその胸をいじりだして、ヴァルーサにかんだかい悲鳴をあげさせた。
そしてのこるひとりは冷然と笑みをたたえて、このさまを見つめているのである。
「どれもあたしですよ。幻影でも何でもない」
そのタミヤは云った。
「ここにこうしてるあたしがほんもので、あとのが分身というんじゃないんで。欲しけりゃあヤマネコみたいな決楽を、それぞれにあんたたちにあげられますよ」
「わかったからこの女たちを帰らせてくれ」
辟易してグインは云った。するとたちまちタミヤはもとのひとりきりになった。
「ね? タミヤがここにいて、しかもあんたたちのところにいられるように、まじない小路もひとつで、そして無数なんです」
「なるほどな」
仏頂面でグインが云った。アルスは目をあいたままタミヤを見つめ、ヴァルーサはよほど恐しい思いをしたとみえて両腕で肩を抱いてぶるぶる震えていた。
「よくわかった。ところで――」
豹頭王は、タミヤを黄色っぽい目でにらんで、
「そのお前のもてなしはじゅうじゅう感謝するとして、俺たちは先を急いでいる。思わぬ奇禍にひっかかって、そうでなくても手間どってしまった。その、共通の結界たるまじない小路への行きかたを教えてはもらえまいか」
「止めやしませんよ。どうぞ、お行きなさいまし」
意地わるそうにタミヤは云い、流し目で王を見た。
「何もあたしからお頼みしてお出でいただいたというわけでもなし、どうぞ、ご遠慮はいりませんよ」
「おい、タミヤ」
グインは肩をすくめる。タミヤはそのようすを見た。グインはマントをうしろにはねのけ、たくましく見事な体嘔はあざやかに、青白いあかりにうかびあがっている。
岩壁にうつしだされる影は神話の半獣半神のそれである。豹頭のたいらな額には、王のしるしたる細い銀冠がはめこまれ、その身につけている装具も彼の彫像のようなからだつきをかくすよりはいっそうひきたてているのにすぎない。
それは世の常識と表面上の相に目をふさがれたあわれな人間には、異形の怪物とも醜悪な化物とも見えるだろうが、しかしそれでいながら、ふしぎなほどに幻想的な、そして力と誇りとを秘めたすがただった。魔女の目が細くなり、そのほそめた目の中に、熱っぽい輝きが生まれ、彼女はまるで目でたんねんになめまわすような目つきをして、グインのなかば豹の毛皮にかくれた太い首、銀の腕当てをはめた、筋肉の盛りあがっている腕、肩のあつみ、ひきしまった腰、長く力にあふれた下肢、を見まわした。
「そうですねえ――」
のどにからんだような声で彼女は呟いた。
「あたしがお頼みしてお出でいただいたわけじゃない――けどね、あたしの方は、いっこうにかまやしませんよ。王さまのようなおかたならいつでも、いつまででも――ねえ、王さま、もう一杯あたしの酒をのんで、それからもうおやすみになってはいかがですね? お連れの方はみんなおねむのようじゃありませんかね」
そして彼女はのどにからんだ笑い声をたてた。
グインはさっとそちらをふりかえった。おどろいたことには、とうていそんなようすさえも見えていなかったはずなのに、タミヤがそう云ったとたんに、アルスもヴァルーサも、自分の椅子の上で頭を胸につけるようにして眠りこけているのだった。
「下らぬ手妻をつかったな、魔女め」
グインは低い声でつぶやく。タミヤの、かれらと豹頭王を見くらべる目がずるそうにまたたき、彼女は立ちあがると、砲弾のようにつき出した乳房をぷりぷりと揺らせてグインに近寄った。
が、足をとめた。グインの手に、いつ抜いたものか、長剣がにぎられて、そのきっさきが、まっすぐ乳首のあいだを狙っていることに気づいたのである。
「ミロク教徒のまねなんかおしでないよ、豹頭のグイン」
魔女はしわがれ声で怒ったように云った。
「あんたは勇者、勇者には女が似合うもの。ねえ、グイン、あんたは一介の風来坊からはじめて、とうとうケイロニアの王座にのぼったけれども、気の毒なことにはあんなに床のなかで冷たく凍った女をしか、手に入れられなかったのじゃないか。――それどころか、あんたの女房は、あんたを生まれぞくないの化けものと呼んでののしり、婚礼の新床にさえ入れちゃくれなかったじゃないかね。タミヤはちゃんと知ってるんだよ。――
だから、豹頭のグイン、ケイロニアを統治するのなどやめて、あたしと一緒に、このタミヤの封土の王におなりよ。あたしとお前が手を組めば、何もかも――この中原をわが手にすることさえ夢ではない。
ねえ、豹頭のグイン、あんたは豹――この世でいちばん強い男。タミヤはね、あんたのような男を待ってひとり身でいたんだよ。ねえ、だから――」
タミヤは指ひとつそのためにあげはしなかったが、タミヤの着ていたうすものは、その着手《きて》の意をむかえるようにふわりとサッシュの下からぬけだすと、床の上へするりとおちていった。錦織りのサッシュも突然するするとほどけると、あらわになった魔女のつやつやした太腿から脚をつたって這いおり、地面におりた。
グインはぴくりともしなかったが、そのサッシュが床におりたとたん、一匹の奇怪でいやらしい、ぬるぬるとした極彩色の蛇になって闇の中へ這いこむのをみて、さすがにおぞましさに身をかたくした。
タミヤは、宝石類を身につけただけの、夜のようなはだかになってそこに立ち、豹頭王に手をさしだしていた。白い目がぬれたように輝き、ピンク色の舌があらわれてぶあついくちびるをなめずる。彼女は王を誘うように、王の目をのぞきこんだまま悩ましくうねうねと、裸身をくねらせた。ゆたかな、油をぬったように光る黒いからだが青白いあかりをうけてみだらに、なまめかしくうねった。
「つまらぬまねはよすがいい、闇の魔女よ」
豹頭王の声は冷やかだった。タミヤはいっそう身をくねらせ、なみの男ならば頭に血がのぼってすべての見さかいをなくしてしまうような、みだらなしぐさをしてみせて、足音もたてずに王に身をすりよせようとした。が、再び、彼がすっともちあげた剣さきにはばまれて足をとめた。
「あたしに恥をかかせやしないだろうね、グイン」
タミヤの声は半ば洞喝と――そして、いっそう訴えかけるような媚が入りまじっていた。
「生憎だったな」
王は云い、剣を鞘におさめるなり、マントをひるがえして立ちあがった。
「お前はこの俺にこのけちくさい洞窟を治めて時を過ごせとでもいうのか、蛇の魔女よ。いや、それもよいかもしれないが、俺はケイロニアの王としてサイロンを災厄より救い、そしてまた一日も早くこの俺がなぜこのような姿とさだめを与えられたのかという謎をときたい。無駄なことはよせ、魔女よ。
ふたりの眠りをさまさせ、そして俺たちを出してくれ。いずれこの礼はしよう」
「……」
タミヤは恐しい形相になっていた。
一瞬、何か痛烈なことばを叩きつけてやろうか、と考えに沈む。しかし、ふいにまた彼女は気をかえた。
「そのことば、嘘ではないだろうね、豹頭のグイン」
「助けてくれた礼は必ずするとも」
「あんたは嘘をつかぬ男だものね。じゃ信じるよ――後悔しないだろうね、そのことばを」
グインは肩をすくめて答えなかった。
タミヤは裸のまま胸に腕をくんでアルスたちの方をふりかえった。
「いつまで寝こんでいるんだい、ひとのうちで――!」
タンと鋭い舌打ちの音をさせていう。とたんにヴァルーサもアルスも目をさまし、きょろきょろとあたりを見まわした。
「おかしいな、眠っちまうつもりなんかなかったんだけど」
アルスがつぶやく。タミヤは肩をすくめ、
「さあさっさと出ておいきよ。タミヤには、長い夜のあいだにまだたくさん、しておかねばならぬことがあるんだよ」
そのけんまくにあわてて立ちあがった一人があたふたと見まわすのへ、
「出口はそっちだよ。えい、なんてバカな連中だろう。入ってきたようにして出ればいいじゃないかね」
口汚く云っててのひらの異様にピンク色をした、ぽってりした手をあげる。とたんに三人は岩の壁がさきのように黒くうつろになるのを見た。
グインがすたすたとその中へ歩み入るのをみて、アルスとヴァルーサもこわごわとあとにつづく。からだがそのぽかりとあいた闇にふれると、再びさっきの、おちてゆくとものぼるともわからない不快な眩暈がおそった。
「いいかい、イェライシャの家は、タミヤの家から左へ五つめのドアだよ! そして気をつけるんだよ、イェライシャはいつもドールに追われているからね」
はてしない遠くからのような、タミヤのしわがれ声がかれらを追ってきた。
「豹頭のグイン! あたしは近いうちにお前に会うけど、そのときは、あたしの親切と――そしてさっき云ったことを忘れちゃいけないよ。いいね、グイン――タミヤは必ず、お前にまた会って……そしてお前を手に入れるよ」
さいごの方ははてしない遠くからでもあるかのようにかすかだった。落下感覚がやんだとき、ふいにあたりが明るくなり――
そして、かれらは、自分たちがまじない小路の、ごくあたりまえな石壁の前に立っていることを知ったのだった。
「あ――クモは!」
ヴァルーサが叫ぶ。しかしそれはどこにも見えなかった。三人はもう誰にもさまたげられずに〈ドールに追われる男〉イェライシャの家とタミヤに教えられた家へたどりついた。ヴァルーサも、二人からどうしてもはなれる気にならぬようにずっとついてきたのである。
ごくありふれた一枚岩の扉にはルーン文字がきざまれ、押すとそれは不用心にそのままひらいた。
「〈ドールに追われる男〉ともあろうものが、案外に迂闊だな」
呟きながらグインは無造作にその暗がりへふみこむ。おそるおそる二人もつづく。中は暗かった。アルスが、火打石をすってあかりをつける。
とたんに三人は悲鳴をあげてとびのいた。
粗末なテーブルの上に、年老いた白髪、ひげの男の首がのっている。イェライシャだ。
その生首が目を開き、三人をにらんだ。
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「ワーッ!」
「しまった! 遅かったか」
アルスの悲鳴――ヴァルーサの嫌悪の声、そして豹頭王の痛恨の叫び――が、石づくりの暗い家の内にこだました。
タリッドのまじない小路に〈ドールに追われる男〉として知られる、魔道師イェライシャの家である。
一歩かれらが、暗がりにふみこんだとたん、どこまでもつづいているかのような暗闇のなかに、恐しいものが置かれているのに気づいたのだった。
イェライシャの生首!
かぎりなく年経てでもいるような、長い白髪と白髯のその首は、圧倒的な力でその胴体からひきぬかれたといったようすで、上りはなにおいてあるそまつな木のテーブルの上に放り出されていた。
さながらドールが、その背教者に世にも恐るべき見せしめを与えたとでもいうように、そのひきちぎられた首の切れめに、白い骨や赤い肉、そして神経の繊維までがはっきりと見てとれるのである。
と思ったとき――もっと恐しいことがおこった。
その生首が起きあがり、ゆっくりと目をひらいて、来訪者たちを火のようににらみすえたのである。
「イェライシャ!」
ヴァルーサのカン高い悲鳴のなかで、豹頭王は怒鳴った。
「お前は、まさか――」
とたんに、ヴァルーサはまた金切り声をあげ、アルスをおしのけるなり王のたくましい腕にしがみついた。目をひらき、ぎろりと三人を見た、魔道師の首が、白く血の気のないくちびるをひらき、そこから重々しい低い声が流れ出たからである。
「驚くまい。騒ぎたてるまい、地上の子らよ」
テーブルの上におかれた、老いた魔道師の首ははっきりとそうきこえる音をたてた。
「イェライシャ、一別以来だがその姿は、ついにドールの手が逃れ通していたお前の身にのびたのか」
王はおちついてたずねる。〈ドールに追われる男〉のかわいたくちびるから、カサカサした笑い声がもれた。
「そう思うのも無理のないことではある。しかし豹の男よ、そうではないのだ。理由はいま説明しよう。
さて、と――
すまぬがわしを持ちあげてはくれぬか。いま鬼火に案内させる。ここではろくろく話もできぬのでな」
「王さま――王さま! こりゃあ一体……」
|穴ネズミ《トルク》のアルスがふるえ声を出し、ヴァルーサはいっそうきつくしがみついた。ケイロニアの国王はそのふたりに、安心させるようにうなづきかけると、抱きついてくる踊り子をかるく押しやり、恐れげもなくテーブルに歩みよって、両手にぶきみな生首をそっとかかえあげた。
アルスはぶるっとからだをふるわせた。とたんに、闇の中に、ぽーッとひとつのあかりが浮かび出、それがついてこいというように点滅した。
「心配することはない。イェライシャはもともとドールの黒魔術師ではあったけれどもヤヌスにその魂をあずけて、いまはドールをこそ敵としている。イェライシャの家ではわれわれは何ひとつ、恐れることはない」
グインは云いきかせて、アルスとヴァルーサについてくるよう合図した。そして生首をささげるように持ったまま歩き出す。ふたりの男女もおっかなびっくりで続いた。恐しいし、気味がわるくてたまらなかったが、その場にとりのこされるよりはまだ、豹頭王にくっついていた方が心安く思えた。
国王のほうは、この異様な状況にもべつだん、おどろいてもいなければ、心を動かしているとも見えない。それは奇怪な光景だった。
入ったとき、そこは、外から見たとおりの石づくりの粗末な小屋で、ただ妙に闇の奥行きが深いように見えているだけだった。
しかし、案内顔の鬼火に導かれるままに進んでゆくと、闇はどこまでいっても、いっこうに壁につきあたる気配がなく、それもまたさきほどの黒い魔女タミヤの封土どうよう、奇妙な魔道の術によって単に地上ともうひとつの次元とを結んでいる通路のひとつにすぎなかったのかとわかるのだ。
左右の闇は闇でありながらうつろではなく、それがあるじにゆるされて通るものであるのかどうかをいちいちたしかめてから、ようやく客のために道をひらくようである。鬼火は心得顔に、進んだりとまったりしながら客たちを待ちうけ、そのうしろには、白髪の生首をささげ持った豹頭の戦士、そしてそのあとに、タリッドの小女衒と、裸の踊り子がおどおどと続く。
この幻想的な小行列がゆく闇はさながら他の星へとつづいている宇宙の海ででもあるかのようにどこまでもはてしなく、その中では時すらも止まっているようだった。かれらの足はたしかにかたいものを踏みしめてはいるが、それが何であるのかは、どうしても感じとることができない。そして一度はかれらの顔のすぐそばを、たしかにこれは空のかなりな高みにしか吹かぬという、冷たく希薄な風が吹きすぎていった。
生首はそれきり口をひらかず、客たちもまた黙りこくっていた。ヴァルキューレたちにみちびかれた死者の列にも似たその道程がついにおわったことを告げたのは、道案内役の鬼火だった。それは急にぐるぐるとまわり、左へ折れるよううながしたかと思うと、ついたときと同様ふいと消えうせた。
グインが左へ曲がると、そこは明るい室になっていた。
明るいといっても、そこへつくまでの永劫の闇と比べてのことだ。それは奇妙な場所だった。
タミヤの洞窟よりもずっとせまい、掘立小屋の内部のような、しかし小ざっぱりとした室である。隅には木の寝台がおかれ、人がねているように白い布がかかっている。そのそばに木のテーブルとイスがいくつか。テーブルの上に素焼きのつぼがあり、室の隅にぐるりと、まるで魔法陣ででもあるかのように、析り車を置きめぐらしてあるほかには、それがこの簡素なすまいの家具のぜんぶだった。
室の空気は清浄で、ほした薬草のあまい香りがどこからか漂ってくる。さわやかな夜気が顔をうったが、おもてをあげた三人はぎょっとした。斜めに切った屋根に、大きな天窓がついており、そこから星の降るような夜空がのぞけるのだが、その星の配置がどうみても、かれらの夜毎馴れしたしんでいるそれとはまるきり違っている。
「豹人よ、豹頭王よ、そこの寝台の掛布をとってくれ」
生首が云った。グインは云われたとおりにした。
そして、呆れたようにあらわれたものを眺めた。それは両手をまっすぐにのばしてからだの側につけた、古ぼけた道衣をつけた胴体で、ただ、その首のあるべき場所には何もない。
「さて、と――わしをその枕の上においてはくれぬか」
イェライシャの首が云った。グインは云われたとおりにして、あとへさがった。それから魔道師の胴体がひどくのろのろしたしぐさでベッドの上に起き直り、見る目がないものでのろくさと手でさぐって枕の位置をたしかめ、首をさぐりあてると、おもむろにもちあげてもとどおりの位置にくっつけるのを、呆れ顔で眺めていた。
魔道師のほうはアルスの呆れ顔にも、踊り子のヴァルーサの気味悪げなようすにも、なにもとんちゃくせずに、白髪首を二、三回左右にふってみてしっかりついたことをたしかめた。それから彼はかるくのびをして、足をそろえて寝台からおりると、客たちに木のイスを指さした。
「お前のやって来ることは星辰の位置により、わかっていたがな、王よ。迎えにゆこうとして、地上におりたところが、例によって下っ端の使い魔どもが、手柄をたてようと待ちかまえておったもので、つまらぬところを見せてしまった」
いまは首も胴体も揃った魔道師イェライシャは云った。彼ははかりしれぬほど年老いた男で、しかし、長身の、ツルのようにやせたからだは体液が涸れつくして別のものになりでもしたかのようにかろやかに、なめらかに動いた。
白髪の額に銅製の、「魔道師の輪」をはめ、もとは白かったらしいかるい道衣をきて、胸に巨大な祈り紐と奇妙なかたちのメダルをさげている。その皺ふかい顔はやせて鋭く、しかし静かで、威圧と安心とを同時に感じさせるような賢者の容貌をもっていた。
「魔法使いどもはいつでも、それはわかっていたの、星をよむことができたのとぬかしおる」
豹頭王はうなるような声をたてた。
「そのくせしていつもきゃつらがそう云うのは、ことが起こり、あるいは終わってからのことだ。わかっていたことならなぜ、さっさとそう云ってそれを防ぐようにせぬ。いや――何もこれはおぬしのことではないがな、イェライシャ」
「かれらを責めるでない、王よ」
イェライシャはおかしそうに云った。
「魔道には魔道の法則というものがあってな。大宇宙の運行にはさまざまな黄金律というべきものがあるが、それを知る力は、それを変えたり、干渉したりせぬという『魔道師の誓い』に従ってはじめて得られるものなのだ。おぬしはあるおどろくべき力の持主であるが、それは主としておぬしが、自らが何者であり何に動かされているのかをまったく知らぬというところからきている。
ところで、王よ――」
イェライシャは、ひとりだけ立ったままのグインに、細長い指をさしつけた。
「おぬしのおとずれをわしが知ったのは、おぬしの象徴であるところの、北の赤い星、豹の星が、星座の中でひときわ急な動きをみせて東南へ動いたからだが、ところがおぬしはおとずれるはずの時刻におとずれては来なかった。
わしは封界を開かねばならぬと思い、まじない小路へあらわれたところが、そこにひそんでわしを待ちうけていたのは下等な使い魔で、きゃつらはわしをつかまえて首をひきぬいた。わしの本体はその前にここに戻っておったものの、そんなことで大魔神である彼[#「彼」に傍点]の目こそあざむけると思いはしなかったが、使い魔の報告をきけば彼[#「彼」に傍点]が改めてわしのぶじをたしかめ、次の刺客を送りこむまではわしを放っておくものと考えたのでするにまかせた。
きゃつらは見せしめと称してわしの首を放置して去ったが――これも王よ、そなたの来訪がとどこおったことに原因がある。
豹頭王よ、なにかあったのかな?」
「なに――大したことではないさ」
国王はうなるように云い、まじない小路でヴァルーサをアラクネーの大グモから助け、かれ自身が黒い魔女に助けられたいきさつをかんたんに説明した。
「タミヤか!」
イェライシャは低く唸って、
「あの淫らな黒人女め、それがめったにないよい機会であると知ってとびついたのだな。これというのもわしが使い魔をあいてに時間をつぶしていたからで――そうでなければ、わしがわけなくそのような下等な闇の生物を消滅させただろう。
そうと知れば、王よ、わしはおぬしに詫びねばならぬ――王は黒い魔女に言質をとられた。これがのちのち、悔いをのこさねばよいのだが」
「あれは、ドールの魔女か」
「では、ない。そうではないがしかし、あれはランダーギア女だ。いわばまことの異教徒なのだ。ランダーギア、フリアンティアの神は巨大な蛙の面をもつ太古の神々の生きのこりで、邪悪は邪悪だがあまりにも昔のことなのでふだんは新しい神々の前にその力をひそめている。たしか、ラン=テゴスとかいったと思う。
タミヤはその太古も太古の神のごく下等な使い女だが、それでもおぬしのひそめているある力が重要だ、ということはわかるのだな。まことにすまぬことをした――正直に云おう、わしは、油断してたしかめもせずにタリッドの家にあらわれたのだ。このでイェライシャ、〈ドールに追われる男〉ともあろうものがな!」
「つまらんことを――おぬしが何をそうくだくだと気にかけているのか、俺にはわからぬ」
豹頭王は面倒くさそうに手をふった。
「そんなことより、イェライシャ――俺が来ることがわかっていたものならば、俺の用むきもわかっていよう」
「わかっている。それゆえわしは一昨日より星を読み、まじない板と占い盤を並べ、見きわめのついたところで闇の道を通ってサイロンへ戻ったのだ」
イェライシャは云った。グインはききとがめた。
「妙なことを云う。ここはサイロンでないとでも云うのか」
「むろんだ」
イェライシャは手をふり、すると四方の壁が消え失せて、見たこともない光景があらわれた。ヴァルーサが悲鳴をあげた。
それは、どう考えても、北方の氷雪の地方から極南の沙漠までをふみこえ、レントの海、コーセマの海、遠くはこの世の果てのカリンクトウムまで訪れた豹頭王にさえ知られぬ、この世のものでない世界であった。
あたりは一面の赤い沙漠である。何ひとつ、木も、岩も、家々も、街の影さえもない、世にも荒涼としたその砂の波のつらなりのはるか向こうに、赤いおぼろげな影のような巨大なものが、ゆっくり、ゆっくりといくつも行きかっていた。
「ここは、どこだ」
グインは仏頂面できいた。魔道師は手をふって、すると木の壁が再びあらわれた。
「云っても信じまいし、わかりはすまい。ただこれだけは云っておくと、ここはおぬしら――そしてわしのうつし身――のすまいしているたそがれの惑星の上のいかなる地方でもないし、その星の経てきたいかなる時代のなかでもない。と、いうのも、かつてドールの位の高い祭司であり、それから光の神ヤヌスの恩寵によって救われた、背教者であるところのこのイェライシャは、つねにドールの手によって裏切者として追い求められており、その手にとらわれれば待つのは云うもはばかられる破滅にほかならない。
だがしかし、ドールにせよあるひとつの時空連続体のうちにしろしめす神にすぎぬのである以上、その力が及ぶのはその時空連続体の中に限られ、まったく異る次元まではわしを追ってくることができぬ。そこで、この、ついに現世の人間の知らぬ時空間に、祈り車の結界をしいて身をよこたえているあいだは、わしイェライシャは決して彼[#「彼」に傍点]の手にはおちぬというわけだ」
「ふうむ、奇怪な話をきくものだな」
グインは云ったが、もともとその心はのびやかで、理解できぬものをしいて理解しようという狂おしい欲望のためにさいなまれるようなこととは無縁だったので、彼は豹頭をひとつ振ると興味を失ってつづけた。
「まあ、よい。ここがどこであれそのようなことは、ここにこうして俺が存在しているということにくらべればどうでもいいことにすぎん。それよりもイェライシャ、俺は急いでいる。こうしている間にもサイロンでは、黒死の病におそわれて、俺の臣民どもが苦しみもがいて死んでいるだろう。それを俺はどうしてやることもできぬ。俺はケイロニア王なのだ。それだのに、俺の国民どもは、病を恐れるのあまり、親は子の、夫は妻の、あるじは奴隷の血を絞り、その血に身をひたしその肉をくらう狂態を演じている、それだのに王たる俺はどうしてやることもできぬのだ。
教えてくれ、イェライシャ。いったいどのようなさだめがあって、それでわがサイロンは、こんな不慮の災厄に見舞われねばならぬのだ? ――一体、誰がいかなる罪過を犯して、そのためにサイロンが報いをうけねばならんのだ?」
「まあ待つがいい、王よ」
イェライシャはなだめるように手をふり、つめよろうとした王を座らせ、彼自身も木の寝台をはなれて床にじかにあぐらをかいた。
「さて、これは、見かけほどなまやさしいことではなさそうだ」
呟くように云って、屋根に切ったななめの天窓からのぞく星々へ顔をむける。
「何がだ、イェライシャ。――おぬしが魔道師として、ドールの黒魔術、ヤヌスの白魔術の双方をかねそなえ、ためにかつてない魔力をもつにいたっていることは、俺はよく承知している。そのおぬしの力で救われたことをいまも忘れてはおらぬからこそ、こうしてやってきたのだぞ」
「わしとても無限の力をもつわけではない。魔道といえども途方もない手妻や無制限の超能力が可能なのではないのだからな。大体魔道なるものは世人の思うようなあやかしめいたものではなく、ただ世上の法則とは次元を異にする運行の法則によって成立している力の体系であるのにすぎない。
そしてことさらこの場合にはそうなのだ、ケイロニア王よ――というのは、そなたの求めているような解答は、この場合たぶん存在しないはずだからだ。
サイロンを襲っているのは、さだめではない。――ということはまた、誰にどのような罪過があってこのような事態を招いたのでもないということだ」
「……」
グインは鋭い目で魔道師をにらんだ。
イェライシャはツメののびた茶褐色の指で胸にかけた祈り紐をまさぐっていた。
「――サイロンが見える。頭《かしら》に王冠をいただく一匹の豹に統治された、誇りたかき黄金と黒の都が見える」
イェライシャはつぶやいた。その目がなかば閉ざされ、声の色もかわってきていた。王とその連れとは、魔道師が催眠《トランス》状態におちたことを知り、息をひそめて見守った
「おお、豹頭王よ――死んでゆく人びとが見える。黒き死の仮面がときはなたれたのだ! ――幼な子が、女たちが、老人が、そしてさいごに壮丁が黒色に変じた皮膚をかきむしって倒れてゆく。見るがいい!
災厄のうしろにかかっている黒い雲を! ――黒雲が晴れてゆく、顔がみえる、巨大な顔が黒雲をかぎわける! ――おお、なんということだ――
ヤンダル・ゾッグ!」
イェライシャの声はふいに絶叫にまでたかまった。三人は固唾をのんだ。
「イェライシャ! イェライシャ!」
グインの胸にふと不安がきざし、彼はいきなりとびついて魔道師の肩をつかもうとする。
「だめだ、だめですよ、王さま!」
アルスが呪縛されたような驚愕から突然にさめて叫び、王にかけよってその手をおさえた。
「なぜだ、止めるな、|ねずみ《トルク》!」
「あっしゃ前に、ジプシーの予言女の客引きをしてたって云ったじゃありませんか!」
アルスは口早やに、
「こういう憑依状態になった占い者をね、急に正気づかせると、そいつは気が変になるか、死んじまいますよ!」
「イェライシャはそのへんの占い師とはわけが違うのだ。あの顔を見ろ!」
グインは怒鳴り、アルスをつきのけた。小男はひっくりかえり、恨めしげに腰をさする。見向きもせずに王は老魔道師の肩をつかんで激しくゆさぶった。
イェライシャのしわふかい手がじりじりとあがってゆく。その心の内で非常なかっとうが行なわれている、とでもいうかのように、その年経た顔は土くれの色に変じ、とざしたままの目は何も見ず、そしてその顔はひきゆがんでふるえていた。彼のその手があるじにそむいて、自らののどをじりじりとしめあげにかかっているのだ、と知った刹那に、グインはその手首をつかみとった。
「ヤンダル――ヤンダル・ゾッグ! おあう、助けてくれ――ヤンダル・ゾッグがわしを……」
イェライシャのかわいた口から苦しげなかすれ声がもれる。彼はやせこけて骨と皮ばかりだというのに、その悪魔にのりうつられた両手はすさまじいばかりの力がこもっていて、さしも強力《ごうりき》の豹頭王が彼が自らを扼殺するのをふせぐためには、その大木の根のような太い腕にナワのように筋肉をもりあがらせて、ありったけの力をふりしぼらねばならなかった。
「イェライシャ! 正気をとりもどせ!」
グインは吠えた。
「お前はイェライシャ、〈ドールに追われる男〉ではないか! 目をさますのだ!」
イェライシャのからだが硬直した。
次の瞬間グインの手の中で、老いしなびたからだがくたくたとくずおれる。
「イェライシャ――!」
グインはゆさぶった。魔道師の目がひらき、――そして、トランス状態に陥ったときと同様に、まったく前触れもなしに彼は完全に正気をとりもどしていた。
「おお――なんということだ」
魔道師は云い、ひどく意味深長な忍び笑いを洩らした。
「カリバンよ、そのへんにいるならわしにモーア産のエールをひとつぼ、もってきてくれ」
王の手を払って身をおこすと、彼はどこへともなく云った。言下にテーブルの上に、素焼きのつぼがあらわれ、見えない巨大な手がそれを扱っているかのようにそれがうかびあがって、銅杯に麦がらの多い酒が注ぎこまれる。
「イェライシャともあろうものが、永劫の中の一日に、二回もふいをつかれるとはな」
その麦がらをうかべた酒を注意深くすすったイェライシャは苦笑して云った。
「やつ[#「やつ」に傍点]め、隅におけぬ。まったくな。
――だが、おかげで、わかった。星が明らかにしなかったことまでもすべてわかった。
豹頭王よ――そなたの国ケイロニア、その黄金と黒曜石の都なるサイロンは、どうやら……とんでもない厄病神に見込まれたようだぞ」
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6
しばらくのあいだ、誰ひとりとして、口をきくものはなかった。
ややあって、豹頭王がゆっくりと、いまのさわぎで乱れた椅子をもとの位置におしやり、腰をおろすと、瞑想的な声音で呟いた。
「厄病神といったな――?」
「まさしくさよう」
イェライシャはうなづき、銅杯をおいて、
「それははじめから知れていた。というのは、わしの眺めていた星辰の中に、突然いくつかの暗黒星があらわれ、それがよりあつまって星雲となり、さながら月《イリス》のおもてがむら雲におおわれるように獅子宮の上を通過してその光を消してしまったからだ。
獅子宮はすなわち豹の星をいただき、ケイロニアの象徴――ケイロニアを災厄がおそい、しかもそれがヤーンの糸車の織る模様だの、やむにやまれぬ因果律のゆくえのためだのではないことははじめからわかっておった。
これを一言で云うに、すなわちケイロニアは|闇の力《ダーク・パワー》の狙うところとなったのだ。闇の力とはすなわちヤーンの因果律からはみ出してしまった因子、つまりドールにくみしたところのもの。|闇の力《ダーク・パワー》はケイロニアの豊穣と平和にその食指をそれぞれに動かし、それへまた暗黒の星辰が時を告げたがために、それらがいっせいにサイロンへと集結し、それらの中のひとつが勝ちを急ぐのあまりに黒死の風を吹かせるという禁じられた暴挙に出たのだろう、とわしは読んでいた。
これは事実そのとおりであろう。そしてもしそれだけであれば、わしが力をかし、黒死の風をサイロンから吹き払う呪法を教えてやればそれでこと足りたのだが――
しかし……」
「しかし、何なのだ」
じれったがって王は叫んだ。魔道師はゆっくりと首をふった。
「それは云えぬ」
「なんと!」
ケイロニア王は膝を叩いた。もどかしさのあまり、もういちど拳で自らの膝を叩きつけて身をのりだした。
「そこまで云っておいて、まだ勿体をつける気なのか! ホオ! これだからまったく、魔道師だの、予言者だのというやつばら[#底本「やつばら」ママ]はかなわん!」
「王よ――」
「やつらときたら、いつでも妙に思わせぶりで、しかも決して云いぬけのきかぬ言質をとられるような言を吐かぬ。いつも、どうとでもとれるような、ぬらり、くらりとしたことを云い、そしてあとになってこちらのうけとりかたが正しくなかったのだなぞと云う! イェライシャ、いったいサイロンをおそった災厄のみなもととは何なのだ。ヤンダル・ゾッグとは、いったい何ものだ!」
「ヤンダル・ゾッグ――」
イェライシャはつぶやいた。急に、その顔がひきしまり、目をするどくして豹頭王を見つめた。
「王よ、わしがそのような名を口にしたのか」
「口にしたも何も――」
「ヤンダル・ゾッグ――ヤンダル……そうか。それで、すべてわかった」
「それは何者だ、イェライシャ」
グインはたたみこんだ。
「わしには云えぬ」
というのが魔道師の返事だった。
「イェライシャ!」
「責めないでくれ。わしにもわからぬのだ。それが何ものであるか、近い将来、わしはそなたに告げることができると思う。そのことばはひどく耳なれており、同時にきわめていまわしい、汚《けが》れた不吉なひびきをわしの心に伝える。
しかしまた、いまこのわしがそれを知っておらぬということも確実なのだ。ということは、それこそがすべてをとくカギであり、それが明らかになったとき、わしはサイロンをおそったダーク・パワーをぬぐい去ることができよう。
王よ――豹頭王よ、そなたにならわかると思うが、魔道というのは奇妙なものでな。それにたずさわるもの必ずしも、自らが何をわきまえており、何をするべきなのかをつねに知っているというわけではないのだ。知っていながらいまだ知らぬこともあり、知らぬ方が正しいので知らずにおくこともあり、そして、知らぬけれどもやがて知ることを知っていることもある――
ケイロニア王よ、わしに云えるのはこれだけしかない。しかしわしの占いが役に立たぬといっていきどおるにはあたらぬ。そなたが王になるまえ、まだサイロンの豹頭将軍と呼ばれていたころに、わしはそなたにきわめて有益な助言と助力を与えてやり、そしてそなたはその助言の有益さと正しさに、すべてが終わるまで気づかなかった。まだ覚えていることと思う。――
王よ、それゆえ、いまわしに知らぬことを話させたり、またそれ以上のことをひきだそうとするのはやめてほしい。わしにはケイロニアをおおっている災厄の色が見える。そしてそれがなぜもたらされたかも知っている。これだけは云っておくならばそれは、ほかならぬ王よ、そなた自身のためなのだ――」
「この俺が! この俺が俺の国に、黒死の病をもたらしただと!」
グインはおめいた。その声のすさまじさにヴァルーサは耳をおおい、アルスまでもふるえあがった。しかしイェライシャは動じなかった。
「何も、そなたの手が死の門をひらき、黒死の風をもたらしたというのではない。
そうではなく、豹頭王よ――そなたの存在、そのたぐいまれな魂、そのものが、凶運にせよ吉運にせよ、とかく尋常ならざるものを身辺に招きよせてしまうように生まれついているのだ。それはなにもそなたのとがではないし、それゆえにこそそなたはなにごとかをなすべく生を享けたのであろうから、そのことで自らを責めるにはあたらぬが――
しかしそれにしても、ある種の野望や昏い心には、そなたのその生命力、豹とひととの気高い結合であり、しかもそのどちらでもないようなそのある力《パワー》、それはまるで虫を吸いよせる炎のように抗しがたいものなのだ。これは王には云ってもわかるまいが――おぬしはどんな遠くからでもひと目でどこにいると知れるのだよ、グイン。たとえ時空のどこにおろうと、このわしのように他の時空連続体にすまっていてさえ、おぬしのその、あまりにも強すぎる生命エネルギーが、どこのどのような場所でその白熱した光を発しているか、たえず気づかずにはおられんのだ。このまえも云ったと思うが、お前の魂は豹のかたちをしている、グイン、そして炎だ――
この世にたぐいまれな、自ら光を放ち、そしてしかもその光が決して涸渇することのない豹のかたちの恒星、それがお前だ。
もしそうでなかったならおぬしはごくやすらかな、波乱がありはしても結局は明君と呼ばれ、国もまたおぬしを得てやすらう一生を送ることができただろう。だがおぬしの内に秘められている白熱した光は強烈にすぎる。それは蜜にむらがるアリのようにいっそう濃い闇から生まれ出るものども、闇に狎れたものどもをひきつけてやまぬ。
いいかグイン、これはイェライシャからの友達がいの忠告だ。心してきくがいい。おぬしがすべてのみなもとなのだ――サイロンの大凶運も大吉運もともにな。だが、自分を責めるのではなくこうきいておくがいい。すなわち、おぬしがみなもとであるからには、その闇を払い、光を呼びもどし得るのもまた唯一おぬしだけであるのだ――とな」
魔導師は口をつぐんだ。
長いこと、誰も口をひらかなかった。ヴァルーサがおちつかなげに足をくみかえようとしたが、またぎこちなくうずくまる。
グインはその豹の目をとざし、頭を胸にたれて、まるで眠りこんでしまったかのように見えた。
窓の外には、赤い巨大な、地球上のいかなる国から見えるのでもない衛星がゆるやかに空を横切ってゆこうとしている。
祈り車のまわりつづけるカタリカタリという、小さな音さえもが、はっとするほど大きく耳についた。
やがて――ついにグインは顔をあげた。
その黄色い、豹の目が、物騒な強烈な輝きを放っている。彼は感情をおしころした声で云った。
「では――俺がケイロニアの王座をすて、ただひとり野に下れば災厄は――それがどのようなものであるのかは知らぬが――俺を犬のように追いかけてくるので、黒死の病もそのダーク・パワーとやらもサイロンから過ぎ去る……おぬしの云いたいのは、そういうことか、イェライシャ」
「そうではない」
イェライシャは苛立ったようすで祈り紐を指ではじいた。
「だから云っておるじゃろう、闇をひきつけるのもおぬしであれば、光を呼びもどすのも王よ、おぬしをおいてはない、と――サイロンに、すでに怪異はあらわれておろうが。いまとなっておぬしが王位をなげうったところで、それはただ、サイロンをねらう闇の者どもに、サイロンを手に入れるすべをたやすくしてやるばかり――きゃつらが不浄の闇の底からむらがり出てきた以上、おぬしが戦うしかないのだ、豹頭王よ」
「戦ってすむことならいくらでも戦う、それは俺の仕事だ」
グインは怒ったような声を出した。
「だがしかし、俺は戦士だ。黒魔の流行り病いに剣でどのようにして立ちむかえというのだ」
「その心配は無用。どのみち、おぬしがタリッドへ出むいてきたことできゃつらはしおどきを悟った。おぬしがこのイェライシャの家を出るじぶんには、西からの涼風が黒死の風を吹き払い、サイロンの人びとはひと息ついてカシスやドールに感謝の供物をささげはじめているだろう。もっとも、かれらはただちに、意を安んじるいとまもなく、きゃつらの真のたくらみにさらされねばなるまいが、な」
「黒死病は去るか。そして、少なくともおぬしがそう云うからは、そのあとひきつづいてサイロンをおそう災厄とは、俺がこの剣で立ちむかうことのできるものなのだな」
グインは喜ばしげに云った。
「それをきいてほっとしたぞ。俺はわるい王ではないつもりだが、流行り病いを剣で切ることはできぬ。
――それにしても、きゃつら――きゃつら[#「きゃつら」に傍点]とは、何ものなのだ、イェライシャ?」
「闇によって生かされていながら、自らが闇に生命を与えておるものと錯覚しているばか者だ。闇に魂をやすく売りわたしながら、自らは闇を高価に買いとったつもりでいる愚か者だ」
というのが、イェライシャの答えだった。
「王よ、豹は闇にも目のきくもの、きゃつらを恐れるいわれはおぬしには何ひとつない。必要とあればわしも手助けしようし――何しろわしは〈ドールに追われる男〉、サイロンが闇の力の結界となることは、直接にわしの利害にひびくのだ――それにまたきゃつらのうち大都分は、その通り名のうちに期せずして、自らの致命的な弱点をさらけ出してしまうほどの愚か者にすぎぬからな。名は体をあらわすもの――グイン、おぬしは、この昔ながらの真理を思い出せばよい。
それゆえ、おぬしがほんとうに気をつけねばならぬのはふたり――それともふたつのもの――だけだ。すなわちおぬしがかつて何かしら与えたことのあるものと、そして……わしがまだ見ることのできぬものと。昏い強力な暗黒星雲があって、すべての光をさえぎり、はねつけている。恐しく強力な悪意であり、敵だ。戦士よ、心するがいい。
――わしに云えるのは、いまはこれだけだ。ケイロニア王よ」
こんどこそ、魔道師はほんとうに語りおえたのだった。
それと知って、グインは黙ってふかくうなづいた。その黄色な目の中にはもう物騒な光はなく、何かしら澄んだ理解の色があった。
「――よかろう」
彼はきざみつけるようにくりかえした。
「俺がかつて何かを与えたものと、おぬしがまだ見ることのできぬもの、その二つを注意すればよいのだな」
「そのとおりだ。ところで――」
イェライシャは気分をかえた。
「客人たちはそろそろ空腹ではないかな」
「そういえば――」
グインは太い声で笑った。
「ふるまいにあずかれるのか」
「ふむ、いつぞや、豹頭将軍なるおぬしがアキレウス王の息女のゆくえを占ってもらいにタリッドを訪れたとき、わしは地上のものでない焼肉と酒をふるまったな。あれからわしはすまいを他の星にうつした。何もできぬが、珍しいこの星の産物を馳走して進ぜよう。
――カリバンよ!」
イェライシャがぱちりと指を鳴らすと、木のテーブルが見えない手によりイスのあいだへ運んでこられ、その上に、まるで見えない戸棚から見えない手がとりだした、とでもいったぐあいに、たちまちいくつもの皿やかごが並んだ。
いい匂いがたちこめ、三人はにわかに自分たちの空腹と渇きに気づいたように目を見かわした。そこにあらわれたのは、奇妙なとげだらけのサボテンの実だの、えたいのしれないふわふわしたかたまり、それに巨大な赤い実や、一見してただの葉っぱとしか思えぬもの、チーズようのかたまり、などだった。
「その棘のある果実は皮をむいて食すと焼肉にほかならぬ。その白いふわふわしたものはことのほか滋養のあるこの世界の蜜だ。そしてこの赤いミルの木の実は皮をむき、その皮を食すと身心がさっぱりする。もっともこの世界の食物をあまり多量にとりつづけると、さきに見たあの巨大な影のようにすきとおってしまうが」
イェライシャはカサカサした笑い声をたてた。
「これで足りなければ、第三惑星の雷魚、アンタレスの第五星の双頭の鳥の肉などもとりよせて進ぜよう」
「いや、断わろう」
グインはうなり、おっかなびっくりでサボテンの皮をむいて口に入れ――そして、汁けたっぷりの、きわめてたんねんに腕のいい料理人がローストした香料入り焼肉のような味わいに仰天し――そしてやにわにむさぼるようにたべはじめた。それを見てヴァルーサもおずおずとたべた。しかしアルスは、
「どうもね――! すいませんが、あっしゃ、昔かたぎだもので」
ぶつぶつ云いわけのように云いながら、気味わるそうに、そのえたいのしれぬ食物を見つめるばかりで手を出さなかった。
豹頭王の方は平気なもので、王になってもいっこうにあらたまらない豹式のマナーで食欲をみたしながら、
「魔道だな! ――ウム、確かに魔道だ!」
感じ入ったようにつぶやいた。
「イェライシャ、どうせきいてもムダなこととは知っているが、このような、肉の味の果実や、パンの味の木の葉を産するここは一体どこなのだ。なぜ、ここにこうしていて、他の星のものを自在にとってくることが可能なのだ?」
「それはかつて何も知らぬ者に魔法と呼ばれ、また一時期には超科学などとも呼ばれもした」
イェライシャは答えた。
「しかし王よ、魔道とは、そなたたちの考えるようなあやかしの術とはまったくちがった部分も持っているのだ。しいてそなたにもわかるように云うなら、われら――わしやその使い魔たるカリバン――は、次元の重複をたくみに利用して、時空のゆがみを通ってあれこれの用をしているのだ、と云おうか。まあむろん、それだげではないのだが――ところで豹頭王よ、おぬしには特別にこの酒を供そう。飲んでくれ、少し味はきついが、やがておぬしのために役に立つ酒だ。その間に、わしはおぬしの連れたちの運勢でも、占って進ぜるかな」
イェライシャの目が細くなって見つめると、アルスもヴァルーサも、妙におちつかぬここちにおそわれて身をよじった。
魂の底に誰でもが秘めている、うしろぐらい秘密や、もってはならぬ感情を、そのするどく、すべてを見とおす目が容赦なくあばいてしまうような、そんなおそれとおののきとにとらわれたのである。イェライシャの目はいまは柔和な老いた笑いを含んではいたが、それでもそれは見るものに電流にふれたような衝撃を与えずにはおかなかった。その目の前で平然としていられるのはただ、グインだけだったかもしれない。
「これは、めずらしいものを見るものだ」
イェライシャはゆっくりと云い、ツメののびた指でヴァルーサをさした。踊り子はびくんとして身をちぢめる。
「おまえは自分で、自分のもっているさだめに気づいておらなんだのだな。イリスの神殿が見える――そしておまえが売られたテッソスの奴隷市場も。おまえはその名が示すとおりのもの、すなわち黄金の盾なのだ。後宮の絹よりも、おまえには子をくるむ産衣が似つかわしい、クムの娘よ。
そして、おまえだ――」
イェライシャの指がアルスへうつった。アルスはぴくりとした。
「おまえ――おまえの魂が、暗いところでもがいているのがわかる。それは出たがって叫んでいる。もとより人を売り買いする、ほかの罪もかさねてはいるが、おまえの心は決して昏くはない――
いずれにせよおまえ――とヴァルーサを向き――とおまえ――とアルスを向いて――の星めぐりは、豹の星にひきつけられて変わったのだ。自らの心が信じ、自らの思いが望むほうへまっすぐに行くがよい。それが唯一の正しい道だ。
豹の星の輝きは氷をとかし、炎をかきたて、潮を満ちさせる。このめぐりあわせを大切に思うがよい。豹の星もまた黄金の盾を必要とするときがきっと来よう。
――豹頭王よ、イシュタルの酒の味はいかがかな」
「ああ」
グインはぴくっとして答えた。
「何か、からだの内で、古い血と新しい澄んだ血が争闘をでもくりひろげているようだ。その味は舌をさし、胃の腑を灼いたが、それはふしぎなほどこころよくもあった。
――これは何の真似だ、イェライシャ?」
「わしがこれまで、おぬしの為によくない仕打ちをしたことがあったかな、国王よ」
というのが、魔道師の気のない答えだった。
「いや――」
グインは考えてみて、
「いや、ないようだ」
「それもその筈だ。わしは〈ドールに追われる男〉だ。わしは、ドールにさえ立ち向かうことのできる光としておぬしの星にわしもまた賭けていることを知っている。それはともかく、王よ、おぬしがここにいるべき時刻《とき》はどうやら過ぎ去ったようだ。ハゾス侯の手の者が君主《きみ》の身を案じている。黒き死の風もどうやら吹き払われた。
行くがいい、王よ、次元の道はおぬしのために一刻だけ開いている。そして――」
イェライシャは祈り紐をとりあげた。まさぐりながらグインに近づき、もう一方の手でその固い腕をつかむ。口早やに、
「クム生まれの踊り子の感じとったことを大切にするがいい。そしてまた、イフリキヤの盗賊をおろそかにせぬがいい。よいな」
グインはイェライシャを見つめた。魔道師はうなづき、その血の気のないまぶたがすーっとそのガラス玉のような目の上におりてきて、すべての表情をかくしてしまった。
帰途はかんたんだった。もうかれらは次元の闇をとおりぬけるあの奇怪な体験に馴れはじめていたし、魔道師が案内役につけてくれた鬼火もあった。
イェライシャは別れを告げなかったし、グインもまた、〈ドールに追われる男〉に月並な挨拶を口にしようともしなかった。かれらは互いに星辰のみちびきによって再び会い、あるいはまたとは会わぬことを知っていたのである。今夜ひとばん、アラクネーの闇のクモにはじまり、ランダーギアの黒い魔女タミヤ、そして魔道師のイェライシャ、とだいぶん異様な経験をさせられた、踊り子のヴァルーサと|穴ネズミ《トルク》のアルスのほうはいささかしょげかえっていて、何がなんでもとにかくこの奇怪きわまりない異次元から、かれらのつねの世界へもどることができるのが、嬉しくてたまらぬふうだった。
かれらは鬼火に案内され、やがて見覚えのある、だが最初に見たときにはその上にイェライシャの生首が置かれてあった木のテーブルのある室へ出た。
その室へ入るやいなや、鬼火はふっと消えてしまった。
「魔道か――!」
再び、グインは考えに沈むようにつぶやく。かれらのうしろで闇はぴったりととじて、そこにはただの木の壁があるだけであり、もうあの赤い沙漠、影のような巨大なもの[#「もの」に傍点]がゆっくりと徘徊し、星辰はついぞ地球上では見られぬすがたをしているあの異次元の家へゆくべき道は見出すこともできない。
「ブルルルル――! なんてえおっそろしい経験だったろう!」
アルスが叫び、ヤヌスの印を切って、腕に結んだままだったまじない紐をまさぐった。それから彼はなかばそこに新しい奇怪事が待ちうけていると確信しているかのように、おそるおそるイェライシャの扉を押し――
そしておどろきの声をあげた。
「ありゃ、ここはタリス通りだ」
空は白みはじめていた。
石づくりの街々はそのおぼろなすがすがしい紺青のなかで、どうやら重病の峠をこして生命へと呼び戻された人、とでもいったような、何がなしすこやかでうっとりとした眠りの中に漂っているかに見える。
街並もその人通りのなさもかれらがタリッドの夜の中でめぐりあったときにかわってはいないのだが、なぜか空気は甘く、そして風ももはや、死のねっとりとした穢れを失っていることが、ほのかに感じられた。どこかで、鳥が鳴いた。
「どうしてまじない小路へ入ったのに出たときはタ――」
アルスが云いかけたときだ。
「あッ!」
「あの老人が云ったとおりだ!」
ふいに低い切迫した声がおこり、そして角をまがって姿をあらわした、竜騎兵の一隊がかれらめがけてかけ寄ってきた。黒に竜の形のかぶとをつけ、胸にも竜をうちだしたよろいのかれらの先頭に、すらりとした貴族的な男が涙をうかべんばかりにして、国王の前にくずおれるようにひざまづき、
「陛下、このようなところに――よくまあご無事で……」
「ハゾス、心配は無用と云った筈だ」
豹頭王は股肱の臣であり、十二選帝侯のひとりでもあるランゴバルド侯の端正な顔にうなづきかけた。
「陛下のご命令ではありましたが、しかし火急にご報告したい、よき知らせがあり……」
「わかっている。黒死病が峠を越したのだ」
「え――」
ランゴバルド侯は王を見つめた。
「ご存じで? ――では大帝陛下のご病状が奇蹟的にもち直されたことも……」
「そうか」
ケイロニア王はうなづき、十竜長のさしだす駿馬に巨体と思えぬ敏捷さでうち跨った。
「ところでお前たち――」
今夜の、ひょんなことから連れとなった二人に声をかけようとしてふと気づく。そこにいるのはヴァルーサだけだった。王は笑って、
「アルスは逃げたか、よかろう。ところでヴァルーサ、お前も行くところとてあるまい。よければついて来るがいい。黒曜宮にはお前ひとりの室などいくらでもある」
ヴァルーサは口に手をあてて王を見つめ、たちまちその目に涙がもりあがってきた。
「アルスも逃げることもないものを――まあよい、イェライシャによれば、われら三人はどうもいずれまたひとつところに寄るめぐりあわせであるらしいからな」
晴ればれと豹頭王は云い、帰投の合図をした。そのとき、さしもの豹頭王も、自らのことばがどれほどの真実であるか――しかもそれが思うよりもどれほど早急に実現することになるのかには、少しも気づいていなかった。
サイロンの黒い霧は晴れたかに見えた。しかしそれは、そのうしろにひそめた、より巨大な災厄をただあらわにするためだったのだ。真の恐怖はまさしくこれから始まろうとしていたのである。
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第二話 ルールバの顔
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サイロンを襲った黒死の霧はそうしてひとまず晴れた。しかし豹頭王の統治する黄金と黒曜石の都は、ほんとうに安らかな日々をとりもどしたわけでは、まだなかった。黒死病は短いあいだに、あまりにも大きな傷痕を石の都に残していたのだ。
護民兵たちは疾病に倒れた人びとの死体をとりかたづける作業に忙殺され、七つの丘ではひっきりなしに、しかしもうそれ以上は増えることがないのだという希望に励まされて死者をやく煙が立ちのぼった。ぶじに難をのがれた人々は医薬の神カシス、生命の神ヤヌスに礼の供物を捧げるために神殿のまわりに長蛇の列をつくり、避難していた貴族たちも、アキレウス大帝の予後につきそっているケイロニア王妃シルウィア皇女とその側近をのぞいては、つぎつぎと七つの丘の都へ帰ってきはじめた。
サイロンは、どうにかいたでから立ち直ろうとしているかに見えた。
だが――
*
「陛下! 国王陛下! ――陛下!」
どこかで、まだ若い声がしつこく呼び求める叫びがつづいていた。グインは顔をあげ、まるで獣がイヤな匂いをかぎわけようとでもするときのようにその発達した顎をもちあげた。額の宝冠が、庭園のかがり火をうけてきらめく。
サイロンの|風 が 丘《ウインドワードヒル》なる黒曜宮では、ようやく、サイロンの都が黒死の病の災厄から逃れたことをヤヌスに感謝する、盛大な宴がひらかれているところだった。楽士がすべて集められ、蔵がひらかれ、少しでも位階のあるもの、名のあるもの、はすべてきそって風が丘へつめかけた。
なめらかなのどごしの、はちみつ酒と火酒がひっきりなしにタルから注ぎ出され、焼肉とパイをのせた銀盆をかかえた給仕がひっきりなしに廊下をかけてゆく。
だがその宴のあるじたる豹頭王は、宴たけなわとなったじぶんを見はからって、客たちに気づかれぬよう、ひそやかにひきとっていた。もとより酒は底なしの彼のことで、酔ったり、疲れたりしたわけではないが、ただ、魔道師イェライシャの予言――真の災厄はこれからという――があったことでもあり、涼風に吹かれて少しおちついて彼の都の運命について考えてみたかったのである。
(サイロンをねらうものどもが、かくも不浄の闇の底からむらがり出てきた以上、おぬしが戦うしかないのだ、豹頭王よ)
あの日異次元のふしぎな星の上できいた、盟友イェライシャのことばが、それ以来彼の脳裏をはなれないでいる。
(そう云われてみれば、サイロンのこの平和、つかれはてたのちのやすらぎにも似たこの一刻は妙に不安の底流をひそめている。俺は護民兵の一群を市街にはなって怪異の有無をさぐらせ、その多くはたわいもないものだったが、それともそれは俺にイェライシャのような目がないために、見てとることができない、明らかな予兆にほかならなかったのだろうか。
それとも)
月は妙に赤っぽく、そして吹きすぎる風とむら雲にたえず怯やかされてでもいるかのようだった。
夜は香料入りの没薬《もつやく》のような胸苦しい匂いにみち、宴のざわめき、楽師の音曲もかすかに風にとばされ、丘のずっと下の方にひろがるサイロンの市街は黒々と寝しずまり――
「誰だ!」
国王は鋭い声をあびせた。
豹の眼が、暗闇にらんらんと燃えた。たくましい手を腰の剣にあてたまま、豹頭王は、赤と白の花をぽかりと闇に浮かせている、ルノリアの茂みをにらんだ。
「出て来い。それとも刺客か」
かさねていう。かすかな応《いら》えがあって、ルノリアの茂みががさがさ揺れ、そして、夜目にもほっそりとしたすがたがあらわれ出た。
女だ。王はまだすっかりは心をゆるさぬまま、手を大剣の柄からそろそろとはなす。女はまだ若かった。
髪をつややかに、塔のようにゆいあげ、その漆黒の、闇よりももっとつややかな髪の束の中に、星のような宝石のピンがくるめいている。ほっそりとしてはいるが、どこにもよわよわしさや、たおやかさのない、俊敏そうなからだには、ゆったりとした胸まで届くパンタレットと何巻きもして身体の中央にそって垂らした絹のサッシュ、そしてすきとおる短い上衣と、袖と足首をきゅっとしめている銅製の飾り輪、という後宮ふうの衣類をつけていた。
足に、ぬいとりのある布のクツをはき、額にも飾り輪をつけている。星のように、その額や耳やのどの宝王の輝きを圧して光る、きらきらした目がまともに豹頭王の異形を見た。紅くぬれて光るくちびるはぎゅっとひきしまり、クムかそのへんの出身といった卵なりの顔はきつくきっぱりとした気性をあらわしているようだ。
「よかった。あたい、運がいいわ、ここで王さまに会えるなんて」
彼女は云った。その光のつよい目は、一ときも豹頭王をはなれず、何かのしるしをさがし求めてでもいるかのようだ。
しかし王のいぶかしむような沈黙にあったとき、彼女の目に失望の涙がうかんだ。
「あたしをもう覚えていないの」
彼女は涙声になって云うと、王が止めるいとまもなく手をあげて、光るピンをぬき、さッと頭をふった。
たちまち黒々とした髪の毛が、闇の色の滝のように彼女の肩をおおう。彼女はピンをなげすてると、すきとおるボレロをぬいで放った。まるい、しっかりとした肩が髪の海の中の白い岩のようにうかびあがる。
国王は低く笑い出した。
「ヴァルーサか! すっかりなりをかえたので、見ちがえたぞ。なにしろタリッドでも、イェライシャの家でもおまえは、髪はざんばら、身につけているものといっては足首の鎖しかない姿だったのだからな。ホォ! とてもよく似合うぞ!
――どうだな。風が丘のくらしにはもう馴れたか」
「それよ」
アラクネーの踊り子は拗ねたように王を見上げながら云った。
と思うと、足をあげ、やわらかい布のクツをぬいで放り、はだしになってしまってとんとんと快げに丸石をしきつめた庭園の地をふんだ。
つづいて、くるくると、刺繍のあるサッシュをときはじめ、つぎにさやさやいうパンタレットをぱらりと下におろす。もう、あれこれの装身具をのぞいては、身につけているものとては紅玉をぬいこんだ乳当てだけだった。ヴァルーサは身をかがめ、かろやかにいったん投げたサッシュをひろいあげると、わるびれぬ動作で、下腹部にまきつけ、それから下からくぐらせてあまった分を前に垂らした。
「あーあ、すっとしたわ」
手で髪をかきあげて駄々っ子のように云う。
「王さま、せっかくアラクネーから助けた上に、ここにあたしをおいてくれたあんたにはとても悪いのだけど、あたし丘をおりてサイロン市内に行こうと思うの」
「ここはつまらんか」
「まあね。たしかに、テッソスで売られて以来はじめて、客はとらなくていい、蛇をまきつかせて踊ることもない、身につけるのは絹とサテン、たべもの飲みもの、やわらかい寝床も思いのままだけれど、でもあたし、しょうもない踊り子のヴァルーサなのよ。アラクネーの踊り子が、七つの丘の宮殿で、何をしてんのかといつも思っちまうわ」
「誰かに何か云われたのか」
「ううん、ここは好きよ」
クムの娘は一歩グインに近づき、そしてその大胆な、輝かしい黒い瞳で、おそれげもなく豹の眼をのぞきこんだ。
「でも、王さま――あんたがあたしにあのタリッドで、ついてこいと云ってくれたとき、あたしは思わず泣いたけど……王さまは、あたしの思ってたようにはあたしを扱ってくれやしないじゃないの、いつになってもさ」
「何か不足なのか」
すっかりおどろいて豹頭王はききかえした。彼はあの奇妙な冒険行でひろったこの踊り子の娘について、まるきりといってよいほど何も知ってはいなかったことに気づいて、面くらっていた。
ヴァルーサはたじろがなかった。その四肢にはふしぎな野性の猫のような、のびやかさと生命力とがそなわっており、そしてその目は豹頭人身のこの世に二人とない運命の男にからみつくとき火のような光を出した。彼女はたおやかな宮殿の貴婦人たちにはついに見出されることのない、男のようなきっぱりした魂をもっているかに見えた。
「ねえ、王さま」
踊り子はつまさき立ちになり、国王に手をさしのべるしぐさをして、
「どうしてなの――どうして、行き場をなくしたあたしをこの風が丘へつれて帰ってくれたの、竜騎兵さんのウマにのせてさ?」
「どうしてかな」
「ねえ、王さま――ヴァルーサの、クム一の踊り子の呪いの踊り、呪いよけの踊りを見てくれない?」
「うむ――」
「見るのはイヤなの」
ヴァルーサは問いつめた。豹頭王は困惑したようすだった。
「ヴァルーサ――」
「ねえ――」
ヴァルーサはつめよった。
「あたし、王さまに、ヴァルーサの踊りを見てほしいのよ」
「むろんそれは――」
グインは我にもあらずたじたじとしながら何か云いわけがましいことを云おうとした。
が、ふと口をつぐみ――そして、おどろきの目で踊り子を見つめた。
ヴァルーサの目が大きく見ひらかれている。その目は王を通りこして、そのまうしろの夜空を狂おしく凝視している。
何かしら信じがたい驚異に直面したかのように、その顔から血の気がひき、手を口にあて、いまにも叫びそうにその口が大きくあいた。
「ヴァルーサ――」
豹頭王はなだめるような、なかばいぶかしげな声でささやいた。
「ヴァルーサ――?」
ヴァルーサは、きいてさえいなかった。彼女は力なくかぶりをふったが、じぶんがそうしたことも気づかなかった。
国王の黄色っぽい光をおびた目が鋭く細められ、そののどから低い野獣のような唸りがもれた。
王は空気の流れを乱すことを恐れるかのようにそろそろと手をあげ、踊り子のむきだしの肩へとのばした。その手があたたかい肩をつかむと踊り子はびくりとしたが、その目は依然として王のまうしろを見すえつづけ、どうしてもはなれようとしない。
王は安心させるようにヴァルーサの肩を叩くと、静かにその手を腰の大剣の柄へ移動させた。ヴァルーサをおどろかせ、これほどに凍りつかせたのがどのような危険であれ、即時に対応できるように、筋肉をひきしめ、同時にできうる限りなめらかに――急激な動きで自ら破滅をまねくことのないように――身を沈めてゆく。
左手はそろそろと踊り子の胴にまきつけられ、王は踊り子のからだを安全な廊下の中へ放り投げざまふりむくために、一瞬後の爆発にそなえて身をひきしめた。
が――
そのとき!
「陛下! 陛下ァーッ!」
回廊の向こうから絶叫――そしてあわただしくかけてきた何人かの近習、それに側近が、王を見つけた。
「陛下――た、大変で――」
「陛下! お出で下さい! 非常事、いや、異変であります」
「サイロンからの使いが――」
「サイロンがどうしたと!」
ケイロニア王は吠えた。
びりびりとあたりをふるわせるような凄まじい音声だった。同時に王の手がじゃまなトーガをむしりすてる。かけよってきた側近たちのひきつった、ただごとならぬ顔つきに気づいたのだ
「ハゾス! マローン! おちついて話せ、サイロンがどうしたのだ。イシュトヴァーンの奇襲か!」
「い――いえ……」
ランゴバルド侯とアトキア侯は顔を見あわせた。ランゴバルド侯があえぐように目をひらいた。
「サ――サイロンを怪異がおおっております。護民官たちがみな今宵の祝宴のために風が丘へつめたすきを狙ったか――陛下、あれをおきき下さい」
ハゾスは手をあげ、サイロンの方角を指さした。
グインはぴくりとして耳をそばだて、そして唸った。
「何やら只ならぬ声がきこえる。途方もなくたくさんの者が狂ったように叫んでいる」
「サイロンが助けを求めているのです」
若いアトキア侯がわめいた。
「陛下! 護民兵を三百、ただちにサイロンへつかわしました。護民宮のアサスが指揮をしておりますが、わたくしもこれより竜騎兵をひきいて丘を下るがよかろうと考えますが」
「待て、マローン」
王に急激に落ちつきが戻ってきていた。サイロン市街には、ここから見わたす限り、別だん、火の手のあがっているようすもなく、そちらから夜風にのってひびきつづける叫喚にも、虐殺や戦いのそれとは微妙にちがう何かが感じられた。そして、ケイロニアの豹頭王をそれほど長くうろたえさせるような事態は、この世にまずないのである。
「とにかくおちつけ、そして話せ――ハゾス、怪異とは何だ。どのようなことがサイロンにおこっている、どのぐらい被害が出た、そして状況はどうなのだ。ただ怪異とだけでは何もわからん!」
「そ、それが――」
ランゴバルド侯は、豹頭王の右腕といわれるだけの、俊秀かつ勇敢な、明敏な貴族であるにもかかわらず、まるでそれを口にしたら笑われやしないか、とためらうかのように、おずおずと口ごもった。
「それが何とも信じがたいことで――なぜならこうして見ておりましても――
ああッ!」
突然ランゴバルド侯は絶叫し、さっきのヴァルーサと同じ信じがたいものをみた驚愕に顔をひきつらせて、黒曜宮の上にひろがる夜空を指さした。
「大変だ! 怪異がここにも!」
「なんと云う!」
王は吠えた。
ランゴバルド侯、アトキア侯、近習たち、それにヴァルーサ――かれらは一様に恐怖と不信の群れなす立像と化したかのように、空を見あげ、凍りついている。豹頭王はすさまじい勢いでふりかえった。
そして見た!
「おう――あれは何だ!」
豹のくいしばった顎のあいだから、不信にみちた呻くような声が洩れる。彼は部下たちやヴァルーサのようにその怪異をおそれてはいなかったし、驚愕にうちのめされもしなかったが、ただひたすら信じがたいものを目のあたりにしたおどろきにそのたくましいからだをこわばらせ、剣の柄を握りしめて立ちつくした。
(真の災厄がその全貌を明らかにするのはこれからだぞ、グイン)
予言者イェライシャのことばが耳によみがえる。彼は火をふくような目で、彼の領土と領空とをおぞましくもその権利もなしにおかそうとするそれ[#「それ」に傍点]をにらみすえ、高貴な王者の瞋恚と意志をみなぎらせて怪異にむかって立っていた。
それ[#「それ」に傍点]は――
巨大な――途方もなく巨大なみにくいひとつの顔であった。
さしわたしで十タールもあろうかというその顔が、星も消えうせた夜空いっぱいにひろがっている!
人々はわが目が信じられず、いったいなぜこんな怪異がおこったのかもわからず、茫然としてうろたえさわぐばかりであった。あちこちの室や翼《よく》から叫び声をきいてわらわらと宮殿の住人たちがかけ出してきた。
なかには楽器を手にしたままの楽士たちや、宴席に出ていたときの仮面をつけたままの貴婦人たち、羊の脚とつめもの用の香草を両手にもった料理番までもいたが、かれらもまたかけだしてきて空を見るなり、おどろきのあまり口をあいてそのおぞましい幻術から目がはなせなくなってしまった。
なんという巨大な――そしてなんといういやらしい、それは、顔であっただろう!
それはみにくくひきゆがんだ口、つぶれたようにはれあがったまぶた、ほとんどドクロのように穴だけのようにさえ見える鼻、をしていた。そのガマガエルのような顔は、そのせまいひたいからふくれた眉とまぶたの上へ、ちょろちょろともつれかかっている赤茶けた髪の毛のために、よけい見っともなく、そしておぞましく見えた。
それは目をとざしており、そのふくれあがったまぶたからひしゃげた耳までてんてんと汚らしいあばたが散っている。それは首から下でとけこむように闇に消えており、そのためにどう目をこすっても、何回見なおしても、やはりばかでかいいやらしい首だげの生物がゆるゆるとサイロンの上空をおおいつくしているように見えるのだった。
だが、ほんとうに最も恐怖と、そして嫌悪をそそるのは、そうしたことでさえなかった。
何が気味わるいといって、それは、侏儒の首にほかならなかったのである。
夜空のなかばをおおいつくすほどに巨大で、そのくちびるは七つの丘から丘へとどき、その額はサイロンの広場よりも大きいくせに、しかもそれのもつ全体のバランス、見た目の感じ、は、何度見てもやはり、てのひらに入ってしまいそうな発育不全の矮人特有の、ゆがんでひねこびた顔なのである。
このおぞましいできごとの中でもとりわけて恐しく、すさまじく感じられるのは、まさしくその事実、それ[#「それ」に傍点]がどんな空想力ゆたかなキタラ弾きの彫刻家にさえ考えつけないほどにグロテスクに拡大されたこびとの顔なのだ、というそのことにほかならなかった。
そして、王たちが何度それをただの幻影、何かの錯覚と云わないまでも何らかの詐術によってうつし出された単なる目のまやかし、と疑ってみても、それはおぞましくもまたぞっとするほどにありありとした、なまなましい質量感をともなって、さっきまで星のまたたいていたサイロンの夜空を占め、こちらへその盲いたみにくい顔をむけているのだった。
その怪異を見上げていることは、人びとに云い知れぬ不安と恐怖を呼びさました。それ[#「それ」に傍点]がただそこにそうしてこちらを見おろしており、べつだん地上を攻撃したり、何らかの害意をもっている、というようすでもないのが、かえって底知れぬ戦慄をひきだすのである。
ひとびとは怯えおののく目を見あわせ、なにかしらその不安から救ってくれそうなもの、この怪異、ただの人間には立ちむかうすべもない怪異に対して心の支えとなってくれそうなものを求めて周囲を見まわした。
そして――気づいたとき、かれらは、知らず知らずのうちにかれらの王のそばに少しでも近づこうと、回廊からルノリアの茂みの方へ、夢中で移動しはじめていたのである。
宮殿のたおやかな貴婦人たち、貴族たちから、下賤の使い走りにいたるまで、黒曜宮の人びとは、そのルノリアの茂みの前に、腰に手をあて、挑むようにその逞しい胸をそらし豹の顔を空のこびとへむけて雄々しく立っている神話の英雄めいたかれらの国王のすがたの中に、求めていた支えを見出し、いくぶんの安堵と、そして守られ、庇護されている、というなぐさめさえも覚えたのだった。
王がここにこうして、剣の柄に手をあて、完全に正気で、両の脚を大地にふみしめて立っているからには、たとえどのような怪異が襲おうとも、サイロンは――ケイロニアは大丈夫だ、とかれらは感じ、そして子どものように王に身をすりよせたのである。
豹頭王はその、不安にかられた彼の国民たちをそのたくましいからだで空の怪異から庇おうとするかのように、両手をひろげた。その目は闇の中でらんらんと光り、たとえそのぶきみな盲いた空の顔が何を企らもうとも、屈するものかという決意を示していた。
しばらくのあいだ、かれらはそうして、地上と空とでいわば対峙したきり、どちらもぴくりとも動かずにいた。空の顔は、巨大な眠れる月さながらに目をとじて、地上の人びとに自らが与えている脅威と、恐怖とにも、まるきり気づいてはいないかのようだった。
だが――
「ああっ!」
誰かが悲鳴をあげ、それはやがて人々すべての口からほとばしる恐怖の叫びになっていった。
ゆっくりと――ほんとうにゆっくりと、そのふくれあがったまぶたが開かれようとしている!
「キャーッ!」
貴婦人たちの何人かが気を失ってくずれおち、彼女らの騎士《ナイト》にあわててかかえあげられた。
「目が――!」
アトキア侯が絶叫した。そしてまるで自分の目がいたむとでもいうように両手で目をおさえてしまった。
それはあまりに恐ろしく、アトキア侯ならずとも気の弱いものは、そこに何があらわれるものかを見るにたえず、顔をそむけたり、目をふさいでしまったりした。
しかし、豹頭王はぴくりとも動かない。
その目はまっすぐにサイロンをおびやかす怪異にむけられ、彼は恐れげもなく、ゆるやかに見ひらかれようとしている侏儒の目を正面から見返しつづけた。
そしてそれはついに開いた!
いまやそれは、いかなる幻影ともいえず、まやかしとも思えなかった! 巨大なこびとのその目――ぶきみな、邪悪と残忍とねじけた心だけがのぞいているような、その二つの裂け目にも似た目をみれば、それが生きており、まぎれもない現実であり――しかもかつて見たこともないほどにその魂の中には邪悪さとむごい暗黒が波うっている、そんな存在であることを、疑うものはただのひとりもいなかっただろう。
それはいまやすでに盲いてはいなかった。それどころか、その、黒曜宮の端から端まで届きそうな白い目は陰険な悪意にみちた満足感と嘲弄をもって、じっと、王とそのうしろにつきしたがうサイロンの人びとを見おろしているのだった。
人びとの恐怖はもはや、豹頭王の威厳をもってさえとりしずめることができなかった。かれらの中に波のようにパニックがひろがり、再び何人かの官女が気を失って倒れ、こんどはあわてて支えとめる手もなく――
そして、
「助けてえ!」
誰かが金切り声をあげてやにわに宮殿の奥深く逃げこんでいったのをきっかけにして、人びとはまろびながら先を争ってそのいまわしい顔を見なくてすむところへかけこんだ。
「ドールの呪いだ!」
「ドールがサイロンを欲したのだ!」
「ああヤヌス様!」
一瞬にして、さきほどまでの凍りついた静寂は叫喚にかわり、さきにサイロンの方角からきいたのと同じ、気狂いの集団とでもいった金切り声やヒステリックな笑い声が黒曜宮の室という室、回廊という回廊にみちた。
空の巨大なこびとは、何ひとつ手を下さぬままに自らがひきおこした、そのパニックを舌なめずりをして味わいでもしているかのように、奇妙に満足げにおぞましい月のように中天にかかっているばかりだった。
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2
だが――
怯えためんどりのように、金切り声をあげて人びとが屋内へ逃げていったあとにもそこを動かなかった、勇敢で誠実な者もまた、いないわけではなかったのである。
そしてまた、むろんのこと豹頭王そのひとは、その騒擾のあいだにも、ぴくりとも動かずに空をにらみつけて立っていた。
とりあえずその巨大な顔が、いかにもおぞましくはあるけれども、目を開いたほかは何もしかけてくる気配がなさそうだ、と見きわめがつくと、国王はそっと剣の柄から手をはなし――そして彼の背後をふりかえった。
いまやそこに居残っているのは、二十人に足りない勇気ある貴族や将軍たちばかりだった。ランゴバルド侯、アトキア侯、竜騎兵をひきいる千竜将軍ゼノン、衛兵長官にして千犬将軍であるケルロンをはじめとする、十一騎十団のうち宮殿詰めの五将軍。側近のポーラン伯爵、護民長官たるグロス伯爵。そして――
豹頭王の目がふと、意外そうな微笑をおびた。ルノリアの茂みの蔭に、くちびるをかみしめ、両腕で裸の肩を抱きながらも立っている、ほっそりした女の姿をみつけたのである。
「ヴァルーサ」
王はそちらへ近より、空の顔などまるで存在したこともないかのように平然と、踊り子の肩に手をかけてやりながらささやいた。
「行かなかったのか。室に行っていろ、恐しいだろう」
「ううん――あんなもの、何でもないわ、王さま」
踊り子はいくぶんふるえる声でいった。王は低く笑い、ヴァルーサの胴に手をまわして安心させるように抱きしめた。
それから、忠臣たちを見まわして、
「誰か魔道師どもを呼べ。これは、地上の剣でさばくことのできる事態ではなさそうだ」
鋭く命じた。
「それから、グロス伯!」
「は!」
「護民兵を三百、サイロンへやったといったな。いま官廷にいるすべての護民官に、それぞれの兵をひきいて丘をおり、あたう限り早くサイロン市内へおもむき、民の不安をしずめ、かつ治安を守るよう伝えよ。サイロンであらわれた怪異というのも、あれ――と上を指さして――と同じものなのだな」
「さようでございます」
「いたずらに動揺することなく朝を待つように、そして流言蜚語を耳に入れぬよう、またそれを流したり、いつわりの情報で人心を動揺させる者はその場で舌を切りとると町々に触れて歩かせよ。こんな夜はたやすく騒擾がおころう、くれぐれも、厳戒の体制をくずさぬよう注意せよ」
「かしこまりました。では」
「行け!」
グロス護民長官がかけだしてゆく。宮殿の中からのさわぎはいくぶん下火になっていた。
「各騎士団に、ただちに出動できるように布令をまわせ」
「は」
「ケルロン、黒曜宮、及び星陵宮に戒厳令をしき、何びとも出入りできぬように、これはすべて、人の心をさわがせておいてその間にケイロニアの心臓部に攻め入ろうという、どこかの根深いたくらみかも知れん」
「は」
命ずる間にも、王の目は空に注がれ、その手があまりにきつく抱きよせているので娘が痛そうにその手をおさえていることにさえ気づかぬふうだった。しかしヴァルーサは、あえて王に手をゆるめるよう乞おうとはせず、ちょっと眉をしかめながらも嬉しげに、王の分厚い肩にその可愛い頭をそっとすりつけていた。
「それから、小姓はいるか」
「はッ!」
「酒だ」
王は踊り子を抱いていない方の手をのばし、あわてて出された銀杯を見もせずにうけとって口へもっていった。ゴクゴクとのどを鳴らして火酒をのみほし、杯を投げすてて口をふくところへ、ポーラン伯爵が宮殿詰めの御用占い師を三人ばかり引ったてて来た。
「なぜもっと早くに参らぬ」
王は占い師たちを鋭くとがめたが、すぐに手をふって、
「どうだ」
簡潔にたずねた。
「は――それが」
三人の占い者たちは顔を見あわせたが、年かさの一人が進み出て膝をついた。
「決して云いわけ致すのではございませぬが、あれなる隆異を見るなり、われらは占い部屋へひきこもり、怪異の正体をつきとめようとしておりましたゆえ、伺侯が遅く相なりました。そして占い盤、占い球、それぞれの方法で三様に占ったのでございますが――」
「能書きはよい、早く云え」
「暗黒が占い球をおおいつくしております」
占い師は怯えたように空を見上げ、あわてて目をそらした。
「恐れながら私どもの術ていどではそうとしか申しあげられませぬ。これも云い訳かもしれませぬが、昨日の昼正刻に、日例の星占いをいたしました折には、このような異変を予告する動きは何ひとつとしてあらわれてはおりませなんだ。しかも、星が示していたのは、黒死の風が去り、サイロンがようやく明るい光に照らされる予兆――
ということは……」
「ということは、何だ」
「この異変は、すべてをあらわしてしまう星辰の動きをさえ、自在にカモフラージできる、あの悪魔的な力によるもの、と――」
「ダーク[#「ダーク」に傍点]・パワー[#「パワー」に傍点]か!」
豹頭王の口から、思わずも、といったように、そのことばは飛び出していた。
占い師たちはびくっと身をふるわせた。再び顔を見あわせて、年長の一人が、
「恐れながら、これは私どもの呪文や呪いよけの秘法にては払うに払えぬほど巨大な力が介在するかと――これをごらん下さい」
とり出してみせたのは、まっぷたつに折れた祈り棒だった。
「邪悪な意志が私どもにはまるで途方もない熱気がサイロンをおおっているかのように感じられます。これほどの瘴気を払うためには、それをなりわいとする――そればかりでなく、その中でもとりわけて偉大な悪魔祓い師をお呼びいただくほかは――」
「もうよい!」
グインは怒鳴った。
「そんなことは云われんでもわかっている。えい、イェライシャめ、こうならこうと前もってもう少し教えておいてくれればよいものを! ポーラン、ポーラン!」
「は!」
「ウマをひけ、ウマを。最も速く最も賢い奴だ。俺はサイロンへゆく」
「なんと仰せられますか!」
ポーラン伯爵は仰天して叫んだ。
「悪魔祓いでは間にあわぬ。要は変異の理由をつきとめ、それをしかけている奴がいればそいつを叩き斬り、それが呪いならばその源を封じればよい。イェライシャめ、このことあるをちゃんと予測していたのだぞ――俺とどうせまたすぐに会うことになるとぬかした。イェライシャなら何をどうしたものかよい知恵をくれよう。よいか、まだ当分あれ[#「あれ」に傍点]が何もせぬようなら、あれ[#「あれ」に傍点]にむかって矢を射かけたりすることは決してせず、あれ[#「あれ」に傍点]のことは忘れてしまえ。多少見ばえの[#底本「見ばの」修正]わるい月が出ていると思えばよい。
ハゾス、あとを頼むぞ!」
「そ、それは心得ましたが、しかし陛下――」
ポーラン同様、ランゴバルド侯もまた心細そうな顔をした。豹頭王の怪奇な顔貌は、同時にまた、神話の守護神と共にある安堵をももたらすものだったのだ。
王はかまわず、さいごの一瞥を空のみにくい侏儒へくれて、さっさと回廊へ、ヴァルーサを抱いたまま歩み入った。腹心たちはあわててつづいた。
「ウマの用意は」
「ただいますぐ」
「役には立たなかろうが、いるだけの魔道師をあつめ、祈り車でも祈り棒でもかれらの求めるものは何でも与えて、魔よけの陣をはらせておけ。明け方までに俺が戻らぬようならタリッドへ迎えを出すがいい。えい、この猫の年ときたら、ケイロニアはじまって以来の語り草になるぞ――おお、何だ、ヴァルーサ?」
豹頭王は、じぶんがヴァルーサの胴をつかんでいることにやっと気づいたかのようだった。ヴァルーサはさっきからしきりと王の腕を叩いていたが、ようやく注意をむけさせたので、せきこんでしゃべり出した。
「王さま、ね、王さま、あたしも行くよ。タリッドへ一緒につれてってよ。ね、いいだろう?」
「何を云うか」
こんな際ではあったが、王は苦笑した。
「心配してくれるのは嬉しいが、いくらアラクネーの踊り子でも、この場合は邪魔なだけだ。もはやイェライシャの家への道もしれているし――それともここがイヤになり、タリッドに戻りたいなら、もう少しだけ辛抱しろ。俺が帰るまでにきっと、サイロンに平和をとりもどし、この怪異をたいらげてやるからな」
「違うのよ」
ヴァルーサは途方にくれたようにじれったげに云い、裸足の足でとんとんと床をふみ鳴らした。
「ちょっと耳をかしてよ、王さま」
「何だというのだ」
王は云ったが、しかたなさそうにヴァルーサの口もとへ耳を近づけた。ヴァルーサは緊張した顔で、
「あのね――違っていたらわるいと思っていたのだけど……何度も考えていたんだけど、あたし、あのこびとを知ってるよ!」
「何だと」
こんどは、王は吠えた。
ヴァルーサの肩をひっつかんでかかえあげるようにする。娘は痛みに悲鳴をあげた。
「それは本当か、ヴァルーサ」
「――だと思うんだ。ましてあたい、タリッドのまじない小路の住人でしょ。あんなあやかしをできるこびとなら、何かのときにまじない小路ですれちがっていたって、少しもふしぎはないと思うんだ」
「それも道理だな」
唸るように、グインは認めた。
「いつどこで見たのか、思い出せるか」
「いま、思い出してるとこ」
ヴァルーサは云い、
「でも時間がムダだから、あたいを王さまのウマにのせて、タリッドへ一緒につれていってよ。あたい、王さまの力になりたいし、それにいまの場合って、十人の兵隊より、あたしひとりをつれてく方が、よっぽど役にたつわよ!」
王は唸った。
が、すぐ、うなづいた。
「イェライシャが云っていたな。お前は『黄金の盾』であり、お前の感じたことを大切にするがいい、とな。よし、ついて来い――何だ、ハゾス? 何か不服か?」
「いえ――陛下のお考えは、つねに正しいのでございますから」
ランゴバルド侯は不信の目で踊り子を眺めやった。
ヴァルーサはかまわなかった。
「さあ行こうよ。それとあたしにも、短剣をくれない?」
「それはならん、お前は新参だ。陛下の身を狙わんとも限らぬではないか」
侯が云いかけたが、ケイロニア王は笑って衛兵長官のさしていた飾りつきの短剣をぬきとり、娘に投げてやった。娘は器用に空中でそれをうけとめると、サッシュにさした。
「フード付きのマントを。それと、ウマの用意はできたか」
「ととのいました」
近習に導かれ、王は歩きながら、厚いマントを肩のとめ金にとめ、フードをかぶり、前でとめ紐のボタンをかけた。この王に限っては、お忍びといえばそうして夏のさかりでもフードをかぶるしかなく、事実上どのような変装も不可能だったのだ。
一行はあわただしく宮殿の中を通りぬけ、人目に立たぬよう裏の通用口にまわっていった。黒曜宮は、何かしらざわざわと不安な忍び声やささやきでゆれうごいてでもいるようだった。
宴はむろん果て、人びとは自室や持ち場に戻っていたけれども、おそらく安らかな眠りについているものなど、黒曜宮はおろかサイロンじゅうにも、ほとんどいなかったにちがいない。
窓から見上げればそこにはみにくい巨大な顔がまっすぐにこちらを見おろしているのだったし、それは何もせぬとはいえ、いつ何かしかけてくるものか知れたものではない、そしてそれに対して頭上の脅威を、かれらにはどうすることもできないのだというその無防備な気持ちは、云い知れぬ不安とためらいを呼びさました。
それゆえに、女たちは互いに抱きあい、男たちもいたるところに集まって、かれらはひたすら不安げに、屋根を見上げ、またひそひそとささやきあっていた。その中には、流言は禁じられたにもかかわらず、まことしやかに、その空の侏儒はすなわちかれらの国王が、長い流浪の途上で殺した過去の亡霊で今こそ時をえて王に恨みを晴らしにあらわれたのだ、と云いふらすものだとか、あるいはもっと直截に、あれは豹頭人身の汚《けが》れた半獣半人が、聖なるケイロニアの玉座についたことからひきおこされた災厄なのだ、と断言するものさえもいたのである。
だが、王が側近たちと、アラクネーの踊り子とをひきつれて長い廊下を通ってゆくと、ひそひそ声はたちまちやみ、人びとはじっと王を見送った。名のとおり黒曜石ではりめぐらされ、白と黒の美しいモザイクになっている黒曜宮のなかには、よしんばそうしたデマを本気で信じていてさえ、それゆえにこそいっそう、その災厄を払ってくれるのがまた唯一人豹頭のその国王であることを疑うものはひとりもいなかった。
ウマには上等の鞍がのせられ、鞍の前に、ヴァルーサがまたがることのできるよう、毛織の敷物がかけられてあった。豹頭王は、つきしたがってきた側近にうなづきかけ、安心させるように手をふった。
「明け方までには戻るつもりだが、朝の光をあびればまあ、十中八まであれは消えうせるだろう。ああした怪異は元来夜のものだからな」
王は云い、巨体と思えぬ敏捷さでウマにとびのった。
「あとを頼んだぞ、ハゾス」
再びランゴバルド侯に声をかける。信任あつい側近は、うやうやしく左手を胸にあてた。
王は手をのばし、ヴァルーサの手をつかんで鞍の前へひっぱりあげた。ヴァルーサがおちついたのをたしかめて、
「よし、門を開け」
命じようとした途端である。
「陛下! 陛下!」
ころがるようにして誰かがかけこんできた。気に入りの小姓のランである。
「どうした!」
「陛下、あ、あれ[#「あれ」に傍点]が――」
「空のか! あれがどうした、消えうせたか」
「い、いえ……」
小姓はくちびるまで色を失っていた。王はウマをとびおり、小姓の手をひっぱるにまかせて、空の見える、窓のある部屋まで走った。側近たちもつづいた。
「あれを――あれを!」
ランは自制心を失いかけてでもいるかのようにみえた。狂おしく、窓の外を指さし、髪の毛をかきむしった。
ひと目見て、側近たちは立ちすくんだ。
そしてケイロニア王も――
「陛下――おう、陛下! サイロンは、……サイロンは狂ってしまったのでしょうか? 一体何が――一体、何ものが、サイロンにとりつき、このような――このような狂気の場所にして……」
かすれる、ふるえ声で小姓がささやくのを、人びとはほとんどきいてさえいなかった。
おお――サイロンの夜空とかれらとのあいだを、いまひとつの、異様な顔がさまたげている!
先客なるこびとの顔が、サイロンの東、そのあごのさきが風が丘、そして額がちょうどサイロン市街の中心のあたりまでのびているとすれば、こんどの顔は、およそサイロンの西端から南いったい――水が丘から鳥が丘までもを占めつくしてひろがっている。
それはほとんど、先のこびとの顔に匹敵する大きさをもっていたが、しかし、こちらの方は明らかに、こびとでも、またそれに似通ったものでもなかった。
むしろ、顔そのものとしては、整っている、とさえ云ってよいくらいだ。しかし、人びとは、むしろこびとに対するよりも深刻な嫌悪と、そしておぞましさとをもってそれを見上げた。
それは青白い、まるで死人のように血のけのない壮年から老年のはじめくらいの男の顔で、それほど途方もなく拡大されていなければ、おそらくその男の生まれは東方の、ハイナムかキタイである、と見るものは云っただろう。それはほとんど貴族的とさえ云ってもよい、バランスのとれた顔で、その白いくちびるは長くうすく、鼻もまた長くて、そのあごは無気力と悪意とを示すようにだらりとしていた。
頭は、むかいあっているこびとのそれとちがって、黒々とした髪がきちんと切りそろえられて垂れている。その額には細い銅の輪がはまっており、その輪には奇妙な、人間界のものでない象形文字が彫りこんであるようだった。
だが、人びとは、そうした特徴に気をとられてはいなかった。なぜなら、かれらは、誰でもがその顔を見ればまず気づくであろう、それの最大の――そして世にもぶきみな特徴にすっかり心をうばわれ、どうしてもそれから目をはなすことができなくなっていたからである。
その化物顔には、目がなかった!
文字どおり、目がないのである。そのととのった貴族的な顔の、目のあるべき場所には、うつろな眼窩がふたつ、ぽっかりとなまなましい傷あとのように黒くひらいているばかりだ。
それはなまじととのった顔であるだけに、その持主をいっそうむごたらしく、ゆがんだものに見せる特徴だった。そしてそれだけではない――その二つの失われた目のかわり、とでもいうように、その暗い目の穴と穴のあいだ、うすい鼻梁がおわる眉間のあたりに、たての裂け目が走っている。
と思ったとき、それはふいに、さきにこびとの目がひらいたとき同様、ただしそれはたてなので、左右へ皮膚がひろがってゆく傷口のように、カッとひらいた!
王は息をのんだ。そこに、第三の、ひとみと眼球とをそなえ、ギロリとこちらを見すかすような目があらわれたほうが、まだしも、おどろきが少なかっただろう。
だがその、目のない顔の眉間にあらわれたのは、グロテスクにも――石に描いた義眼でしかなかった!
それは、無器用に彫られたひとみと虹彩の穴までもそなえた、何かの神像の目かなにかのようで、しかし目のない顔にただひとつはめこまれた義眼としては、これ以上ないくらいに用をなさぬものではないかと思われた。
しかし――人びとははッとして気づいたが、その目――その、石づくりのおもちゃめいた目は、明らかに、見かけとは異り、ちゃんと視力もそなえていれば、動くものを追いかけてうごくことさえもできるらしかった。
なぜなら、その新たな顔がおもむろに目をひらいたとき、さきに東の空にのさぼっていた、みにくいこびとの顔が何がなしはっとしたように表情をかえ、そしてすーっといくぶん東よりへ引きしりぞくかに見えた。そのとき、その石の目は、その顔を追って、きょろりと動いたのである。
それがこのいやらしい怪異に、さいごのひとはけをぬったのだった。石の目が動き、そしてそれまでひたすら下の、右往左往する人びとの姿をみて打ち興じていたかのようなこびとのはれあがったまぶたの下で、充血した目があわてたように動いて、その石の目をヘビのようににらみすえたとき、人びとの中にさいごの狂気がときはなたれた。
たちまち黒曜宮は狂気の悲鳴と、そしてうつろな笑い声、自分でもとめようもない金切り声にみたされた。髪をふり乱した貴婦人が室から走り出て来て高価な夜着をひきさき、人びとは空をあおぎ、地に身を投げ出し、空をくまなくおおってしまったその厭らしい二体の化物に手をさしのべて慈悲を乞うた。
「助けて! 助けて!」
「裁きだ。さいごの裁きが下るのだ」
「サイロンは破滅するんだ!」
狂おしい叫び声が口から口へ伝わり、衛兵たちの「静まれ! 静まれ!」という命令にもおさえることはできずにたちまち宮殿じゅうにひろがった。
かれらは手もなく恐慌におちいりつつあった。もしこのとき、誰かがグインなり他の誰かを指さして、「すべては奴のせいだ!」とひと声叫びさえすれば、たやすくそのパニックは暴動へと変じていただろう。
事実――そのとき、凍りついたようになった王とその側近のところへ、護民兵が汗みずくになってかけこんできたのだった。
「サイロンで暴動であります。この怪異はミロク教徒のしわざであるとするミゲルの信者たちが煽動したので、ざっと二千から三千の労働者や女たちがミロクの神殿に石を投げ、火をつけております」
彼は叫んだ。
王以下の者たちはいっせいにサイロン市街を見わたす窓へ走った。そしてかれらは見た。
サイロンが燃えている。
まだ大した火災にひろがってはおらぬけれども、しかし闇の中にあがった火の手はさながら彼の国民の悲鳴とも、悪魔の歓喜の舞いとも王の目にうつった。
「なんということだ!」
豹頭王は咆哮した。傷ついた獅子の憤怒が、みるみる黄色みを帯びた彼の目を青い白熱した怒りの火にかえた。
彼は鋭くふりかえった。東の空と西の空とにわかれてにらみあっている、化物のようなふたつの顔は、地上にかれらがひきおこしたそんなさわぎになど、何ひとついまは関心をもってさえおらぬように、ひたすら互いをにらみつけ、その目――一方はヘビのように陰火の燃える、一方は石に彫られた――にはおもても向けられぬような憎悪と敵愾心とだけがほとばしっているかのようだった。
グインはやにわにひと声吠えた。踊り子の腰をひっつかみ、ウマのうしろに投げあげるなり、踏台もつかわずに駿馬にうちまたがる。うろたえさわぐランゴバルド侯たちにふりむきもせず、彼はウマの横腹を激しく蹴った。
「開門! ――サイロン!」
王の咆哮が闇にひびきわたった!
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それは、豹頭王グインの長い、そして世にも稀な数奇な冒険つづきの物語の中でさえも、指を折って数えられるような、奇怪な――そしておどろくべき夜のひとつであったにちがいない。
夜は深く、そして道は風が丘からサイロンへと下っていた。日ごろ、護民兵の一隊や、宮殿にものを届ける御用達の商人たちのラバで夜おそくまで賑わう、黒曜宮からサイロン市内へいたる一本道も、このような怪異の夜のことであれば、人っ子ひとり通らない。
空には月も、星々もなく、見上げればそこには二つの巨大な異形な顔だけが、悪魔的な嘲笑にみちて見おろしているのにぶつかる。
それは悪夢のような光景だった。豹頭王と彼にしがみつくヴァルーサをのせた、葦毛の駿馬は、その巨大なこびとと石の目をもつ顔とに見守られつつひた走り、王のマントは風になびき、ヴァルーサの長い髪もまたうしろへ美しい流れのようにそよいだ。どこまでいっても巨大な顔はその位置をかえず、そのせいで、ウマが進んでも進んでも、のりてはいっこうに自分が進んでいないかのような錯覚におちいるのだった。
グインの手には狼皮のムチが握られ、彼はひっきりなしにウマの横腹を打った。ウマは恐しい勢いで走り通していたが、それでもまだまだ足りぬというようだった。かれとかれのうしろにしがみつく娘の耳もとで、風がヒューヒューとうなり、さながらかれらは雲に乗って足元に風をまいて進んでいるかのような、そんな気持をおこさせる。
それは少しでも手をゆるめたらとたんにふりおとされそうな疾駆だった。タリッドの舞姫はその裸の腕を、王の逞しい腰にしっかりとまきつけ、長い黒髪をうしろにたなびかせ、まるでスピードと、風との申し子のように頬をほてらせていたが、有頂天になってのびあがり、王の耳に口をつけて叫んだ。
「すごい! すごいわ! このウマはまるで風の神ダゴンの愛馬みたいだわ! もうあんなに宮殿の灯が遠い!」
「しっかりつかまっていろ、落ちても拾いに戻る時間はないぞ」
国王は怒ったように怒鳴りかえす。ヴァルーサは声をたてて笑い、いよいよしっかりと男の胴にしがみついて身をすりよせた。あたたかでなめらかな、しっかりとした肌の感触が、国王の陽灼けした背中に伝わったのかどうか、国王はふりむきもしなかった。
「ねえ――王さま!」
また、ヴァルーサが風にさからって声をはりあげる。
「あたしいま、王さまと一緒に凄い冒険に出かけるとこなのね!」
「何だ、何といった? きこえんぞ」
グインがどなる。ヴァルーサはうっとりとした目で、彼女のしがみついている、異形の戦士を見つめた。
「一緒にいられて最高だって云ったのよ!」
「なに?」
再びグインがききかえす。彼の丸い耳は風のためにぴったりと頭の肌にはりつき、その目は細められていた。ヴァルーサは咽喉声で笑い、王の背中に頬をすりつけた。
「何でもないわ」
彼女は豹頭王の背中にむかってささやいた。
そうするあいだに、ウマは丘を下る暗い道をかけとおし、サイロン市内へ入っていた。七つの丘の都を通称されるサイロンには、それぞれの丘の道をとおって市内へいたる、七つの大門がもうけられている。
かれらのウマは市へ入る門の手前でさっそく呼びとめられた。
「待て、どこへ行く!」
風の門を守る護民兵の隊がむらがって来てとがめる。
「今夜が明けるまで、何びとたりともサイロンへ入れるな、外へ出すな、という豹頭王のご命令だ。それとも、手形があるか」
「いや、ないが――」
王はフードをはねのけ、豹の顔をあらわにした。
「俺だ」
「あッ! こ、これは陛下!」
「この際だ、礼はいい。替えウマはいるか、このウマに水をやり、休ませてくれ」
「は――ただいま!」
「風の門を守る護民官は?」
「第四護民官のロパス子爵であります」
「どこにいる」
「ここに!」
武装し、手に剣をさげたままの護民官がとび出してきて膝をついた。それへ手をふって、
「市内の情勢は」
王はたずねた。護民官は悲痛な声を出して、「よくありません。ミロク神殿の火事は、護民兵が何とかとりしずめたものの、人心は動揺しきっており、これ以上の怪異がつづくならわれわれだけでは、とりみだしたかれらを鎮圧することができませぬ。現にサイロンは呪われたのだと叫んで着のみ着のまま、しゃにむに都をおちのびようとする老若男女が七つの門へおしよせ、すでに相当数が夜闇の中へ消えて行きました。もし陛下のご明察により、われらが到着して七つの門をとざすのがいま少し遅れましたら、サイロンは住むものとてない死の都になっていたことと存じます」
「七つの門はしっかりと守られているか」
「いまのところは。それにミロク神がことの原因だというデマがとんだため、人びとの関心がしばしそちらへそれましたので――しかしおそれながら陛下、再び人民が七つの門におしよせ、呪われた都を逃れようとしますならば、あまりに数少い上に七つの門にわかれております護民兵だけではとうていそれをふせぎとめることはかないますまい。この上は一刻も早く十二騎士団の出陣を願わしゅう――」
「ばかな!」
鋭い声で王は云った。
「ケイロニア最精鋭たる竜騎士団から、伝令たる燕騎士団にいたるまで、十二騎士団の六万精鋭はひたすら外敵からケイロニアを守るためのもの。その軍隊をケイロニア臣民に向けることなどできぬ」
「しかしこのままでは――」
「案ずるな」
王は強く云った。
「俺はこの怪異をとりはらい、人心をしずめ安んじるために夜をついてサイロンへ下ったのだ。――よし、行くぞ」
「ど、どちらへ」
「タリッド」
王はただひとこと答え、狼狽した護民官の、あのかいわいは最も危険だとか、責任をもてぬ、などといったくりごとをきき流した。
「ウマはきたか。よし」
新しいウマにとびのり、ヴァルーサをひっぱりあげる。フードをかぶり直し、
「よく守るようにな」
ひとことだけ、注意を与えておいて、再びウマにムチをあてた豹頭王とその連れは、たちまち石畳にひづめの音をひびかせて、街路の向こうへ消えてしまった。
市街のなかに入ると、頭上の怪異はいっそうありありときわだって見えてきていた。
「ねえ、王さま」
ヴァルーサが不安げに云う。
「あいつら――何だかさっきよりずいぶん、降りてきた[#「降りてきた」に傍点]みたいに見えるよ」
「目のせいだろう」
「そうじゃないの。見てよ!」
ヴァルーサにひっぱられて、王は見上げた。
そして低く咽喉の奥で唸る。たしかに、そのふたつの顔は、さきに黒曜宮の庭園で見上げたときにくらべて、いちだんと家々の屋根に近くおりてきたかに見え、いっそうぶきみに、大きく、ありありと首都の上にのしかかっていた。
いまやその悪意にみちた細い目やぶあついくちびる、物云わぬ石の目とひややかな顔とは、もうほんの少しでサイロン全体におおいかぶさり、その市街をのみこんでしまいそうだ。
「急がなくてはならん」
豹頭王はきっぱりと云った。
「どうするの、これから、あたしたち?」
「まじない小路へ行ってイェライシャを探す」
「ふうん」
娘は気に入らなげな声を出した。
「でもきっと見つけてるひまはないわよ」
「なんだと。何故だ」
「そんな気がするの」
「それは試みてみなくてはわからんさ。それよりヴァルーサ、まだあのこびとを、まじない小路のどこで見たのかは思い出せんか」
「思い出してみてはいるんだけど、まじない小路には、妙なものがいっぱい住んでるし、遠くから来るやつもひっきりなしだし――」
ヴァルーサは心もとなげに云った。
「あちらの石の目の顔のほうはどうだ」
「うーん……わかんない」
ふたりはウマを急がせた。
しだいに道はせまく、曲がりくねってきていた。かれらは、暴徒と化した怯えた市民たちにぶつかることをおそれ、なるべく広い通りを避けて、裏道から裏道へと通っていったからである。
まもなくタリッドの界隈へ入る、というところでかれらはついにウマをおり、手綱をとって歩くことにした。
サイロンはまるで死都と化したかに思われた。人びとはあるいは暴徒と化して邪教の神殿をおそい、あるいはこの都を逃れようと七つの門へつめかけ、そうでないものはただもう災厄をおそれ、そのぶきみな空の怪異を見るまいと、石づくりの地下室にでも逃げこんで、内がわからバリケードを築いたその暗がりで一家がよりそいあって神に祈ってでもいるのだろう。
市の中央部に近いこのあたりを通りかかる人影などまるでなく、それはその都が黒死病におそわれていたときよりももっと、すべての人間が死にたえたかのような荒涼を漂わせていた。そして空には化物の顔である。
「王さま」
ヴァルーサがぴくっとして足をとめていった。
「ねえ――なんか、きこえない?」
「いや――あの遠くのさわぎか。あれは七つの門をあけ、サイロンから出してくれと叫ぶ人びとを、護民兵たちがとりしずめているんだろう」
「ちがう、そうでなくよ」
ヴァルーサはいくぶん怯えはじめているように見えた。
国王はなだめようと口をひらきかけた――そのとき、それ[#「それ」に傍点]はきこえてきたのである。
(ルール……バ。ルー――ルール……バ!)
それは恐しく遠いところから、風にのってくる木霊のようにきこえた――だが、すぐに、もういちどその、木霊のような声がきこえ、こんどはもっとずっとはっきりと、近くにあるようにきこえ……
そしてそれはついに、かれらすべての頭上でもってひびきわたる、恐るべき〈声なき声〉となった!
「ルールバ! ルールバ! きこえぬのか、ルールバ!」
「王さま!」
ヴァルーサが金切り声をあげてグインにとびついた。そのしわがれた、声なき声は、さながら雷鳴のように、きこえてくるというよりは、空気の震動でもってかれらの耳をうつかに思われた。
「王さま! あ――あれはなあに?」
「うむ」
王は見まわし――そしてにわかに身をかたくして立ちつくした。
ヴァルーサは王の視線を追い、そして口に手をあてた。
空の顔――巨大にもみにくいこびとの顔は、よみがえっていた!
その、ガマのそれのような横にさけた口が再びひらき、そこからさきに呼んだのと同じ雷鳴のような声が流れ出て、サイロンをゆるがした。
「ルールバ――これ、ルールバ、キタイのめくら占い師、グラチウスの不出来な弟子なるルールバよ! きこえぬのか、それとも眠っておるのか!」
「われ――」
石の目をもつ顔、青白い東方系の顔も、口をひらいた。そのうすいくちびるからほとばしる声は、いんいんとして、まるで周囲が石づくりの壁であって広い夜空などではない、といったようにあたりへ反響してきこえた。
「われを呼ぶのは誰だ。われの名を呼ぶものは――
おお、見たぞ! エイラハだな。うす汚い台所ネズミ、ブダガヤの安呪術師! してエイラハ、お前はなぜ知りびと然とわれの名を呼ぶのだ?」
「エイラハ! ――エイラハ!」
ふいにヴァルーサが小さく叫び、そして緊張したようすで王の腕を握りしめた。
空に対峙する二つの顔は、そんな地上のできごとになど気もとめぬようすで、
「なんと! これルールバ、目なき者、石の目、鼻の先の蝶さえも見ることを得ぬ見者よ、お前はこのエイラハを安呪術師とののしるが、お前はまたなぜこんなところへ、その臆面もないにやけ面をつき出したのだ?」
「おお、エイラハ! 世が世なればきさまなど、その唯一のあるべき居場所は、呪われたフェラーラなる〈不具者の都〉キャナリスのどぶ泥の中、以外にはない。
しかるにその目ざわりな矮人エイラハ、きさまこそなにゆえに、このルールバの前に立ちはだかり、そのえせ[#「えせ」に傍点]魔術を用いようなどという潜越を企らんだのだ?」
「おう、ルールバ、ルールバ!」
矮人エイラハはたけり狂ったかに見えた。
もし手足があれば、彼はそれをふりまわしただろう。怒りのあまり歯ぎしりをしたこびとは、
「えせ[#「えせ」に傍点]魔術といったな! この蛆虫め、きさまなど、わしの魔力の前では火に培られるかなぶん[#「かなぶん」に傍点]ていどの者でしかないのだぞ!
えいルールバ、キタイの豚、〈闇の司祭〉グラチウスを失望させた無能ななめくじめ! わしが先に問うたのだぞ。本来はきさまのような下っ端に、このエイラハのような偉大な魔道師じきじきにことばをかけることはありえんのだが、この危急の際なればあえて目をつぶってくれよう、ありがたく思うがいい。
さて、いま一度たずねるぞ――ブダガヤの闇を統《す》べる者、ドールの最高祭司、七色の夜の支配者なるエイラハの下問だ。つつしんで答えるがいい、東方の虫けらめ――
きさまはなぜ、今宵を選んでこのようなところへあらわれたのだ?」
「答えるにも価いせぬ愚問だが――」
石の目のルールバはいった。声はいんいんと七つの丘へひびきわたった。
「そもそもきさまに目がありながら、白昼の光も見えず、キャナリスの三重苦皇帝さながらの、生まれついての大うつけだというのだからしかたがない、ぶさいくなエイラハ、ドブネズミと|土食らい《ミミズ》の帝王よ!
だがそれを答えてつかわす前にまずきこうか。きさま[#「きさま」に傍点]はなぜここにあらわれた?」
「ルールバ、ルールバ、ルールバ!」
エイラハは怒りのあまり顔をいっそうくしゃくしゃにゆがめて、
「この卑怯者め、わしの口からどうしても神聖な秘密をぬすみ出そうというのだな。さすがはキタイの泥棒都市ホータンで生まれ育っただけのことはあるな、こそ泥め、詐欺師め、破落戸め! 云えぬのだな、どうあっても云えぬというのだな。あたりまえだ、きさまなぞに月と星辰の神聖な秘密が読み解けよう筈もない。
きさまはただ、わしのおこぼれにありつこうと、ちょろちょろとあとをつけてきただけなのだ。恥を知らぬ堕落貴族、キタイの暗殺者、テッソスの犬め!」
「よく申した、口の耳まで裂けた化け物め、ブダガヤのペテン師めが」
ルールバはしめっぽい声で笑った。石の盲いた目がぎょろりと動いた。
「それほどにわれの口からひきだしたくば、何もかも承知の上でそのこざかしいたくらみに乗ってやろう。およそこの世にあって、魔道師を名乗るほどのもの、星辰の語る神秘なことばをわがものとしているほどのものであれば、猫の年、青の月なる今月のさいごの一日、それがどのような星まわりであるのか、知らぬうつけ者がおろうか――
いるとすればエイラハ、きさまのような、見れども見えぬあきめくらだけだ。われは心やさしく、そのようなきさまを憐れに思うゆえ、云ってきかせてやろう――この日、ほど遠からぬある一日に、北の七星と通称される七つの赤い星がある星の宮、すなわち獅子の宮に入る。それはすなわち六百年に一度の巨大なる『会[#「会」に傍点]』のあかし――そして獅子の宮はすなわち豹人におさめられるケイロニアの一国。どうだ、エイラハ、ここまで云えば、おこぼれにありつきに獅子の国を訪れた身の程知らずはわれか、きさまか、よい加減に思い知られようものだ!」
「ホオ! よく云った!」
エイラハは叫んだ。その叫び声には、どうやら、何か勝ち誇ったようなひびきさえもが感じられた。
「するときさまはわしの星図をぬすみ読みしたというわけだ。ホータンの盗賊よ! その会[#「会」に傍点]について知るほどのものは、世に魔道師多しといえども決して両手の指にあまるほどはおらぬはず――なぜなら、その七星の会[#「会」に傍点]は、通常の星図には決してあらわれぬ、もっと高度な動きを記録することにより、はじめて知られるものだからだ。
巨大な暗黒星雲が、いまや獅子の宮めざしてつどおうとしている七星と、地上の目とのあいだにひろがり、視野をさまたげている。
それゆえ、たいていの星占師、魔道師どもはそれなる暗黒星雲に目をふさがれ、そのうしろで行われようとしている会[#「会」に傍点]を見るあたわざる筈なのだ」
「たいてい[#「たいてい」に傍点]のやつばらはな[#底本「やつばらはな」ママ]!」
石の目のルールバは、非常な悪意と嘲弄をこめて叫んだ。
「だがわれはそのへんの大半の星占師、魔道師の類とはちがう。われは〈闇の司祭〉グラチウスの愛弟子にしてその唯一の正しき継承者なれば、暗黒星雲もわれにはもはや暗黒ではなく、星々のどのような動きの意味するところもわれにとってはたなごころを指すがごとくなのだ。
さればわれは、たちまちにして気づいた。この六百年にひとたびという星々の異変の、意味するところのものを――
それは、星々のもつ力がいまここに集まり、そしてその力を象徴するあるひとりの存在を見出すことによりそのものがその力を――」
ふいに、ルールバはハッとしたようにその口をとざし、それからやにわに憤慨して叫びたてた。
「えい、この不埒者め、いかさま呪術師め、けしからぬ根性曲がりの空巣狙いめ! ひとをたぶらかし、うまうまと喋らせて、労せずしてわれの手から〈パワー〉をかっ掠おうとたくらんだな! エイラハ、きさまのしゃっ面がそのようにひんまがっているからといって、きさまの性根までがそこまでねじくれているとは思わなかったぞ、このドールの鉄滓《かなくそ》め、闇の馬の垂れ流したまっ黒な糞めが!」
「なにをいうか、きさまだ、きさまがわしの星図をぬすみ読んだのだ!」
空の顔、ルールバとエイラハは互いにあいてを自らのプランを盗んだものとして、しばらく、口汚なく罵りあい、呪詛と攻撃のことばを投げつけあった。
地上の人びとはただ茫然として、そのかれらの頭上での奇怪ないさかいを見守るばかりであり、しばらくは暴徒も手にした俸や得物をふりあげるのを忘れ、怯えていた子どもたちも泣きわめくのをやめ、護民兵たちさえも、矢を射かけることさえ思いつかずに、ただその矮人エイラハと石の目のルールバ、二人の首だけの魔道師を見上げていた。それは地上の平利な民なるかれらの手も理解もとうてい及ばぬ、奇々怪々な世界であり、それらがたとえかれら自身の運命を、あたかもそれらこそがヤーンの『運命のサイ』であるかのように勝手に決めようとしていることがわかったところで、かれらにはどうするすべもなかった。
その、地上のサイロン市民たちの呆然たる困惑を知ってか知らずか、しばらくのあいだ口汚なくののしりあったあとで、二人の魔道師――というよりその首――は、突然、どちらからともなくののしりあいをやめたのである。
「えい、ルールバ、このような埒もないことを、いかに繰り返したところで所詮時間のムダだ。互いに互いの力量は知っての筈、そうであろうが」
ガマのような口をぱくぱくと動かしてエイラハが云う。
「われの始めたいさかいではないぞ! ――とはいうものの、それはいささか子供っぽい。エイラハ、ブダガヤのエイラハ、どうやらおぬしの云うことは正しいようだ」
「われらは一人ながら同じ星辰を読み、そして同じひとつの目的を抱いてそれぞれの棲家よりこの獅子の国へと飛来したのだ。そしてそうである上は、われらは二人とも、その七星の〈会〉をひきおこした、世にもまれなパワーなるものが、どのようなものであり、それを手に入れることがなぜこのサイロンよりはじめて中原そのもの、ひいてはこの世界すべてを手におさめることになるのか、そのへんのからくりはよくよくわきまえているのだ、そうではないかな」
「そうとも。しかしエイラハ、そのパワーは二人でわかち持つことなどはできぬし、また手はじめにこの汁けたっぷりの甘い果実なるサイロンをとって食うにしても、ひとつの闇にふたつの君主は要らぬぞ」
「ルールバよ、それはまたのちの話だ。とにかくいまのわれらにとって肝要なのは、このサイロンをわれらにふさわしい闇の都につくりかえること、そうではないのかな」
「おう、それには間違いない」
「ならばよし、グラックの闇の馬どもはああ見えてなかなかに乗りこなしにくいやからだ。ひとつわれらは力をあわせ、気をそろえてグラックの馬を呼びいだし、サイロンを手中におさめて、しかるがのちにその玉座にはだれがつくものかぞんぶんに戦おうではないか」
「フム! よかろう、どうせその最後の勝利者はわれと決まっておることであればな」
「云うわ、云うわ! だがまあいい、サイロンは途方もない甘い果実だ。それは熟れきって、いまにも摘んでくれといわぬばかりにここにある。のうルールバ、これを摘まぬという法はないな」
「まったくだ」
石の目のルールバは答えた。しかし、その額のまんなかに縦にさけたその石の目は、少しづつゆっくりととざされようとしており、その顔の輪郭もまたゆるやかに、雲のようなものにつつみかくされようとしていた。
それを見て、矮人エイラハのふくれあがったまぶたも少しづつおりて来はじめる。そのみにくい口がとじ、そのはれあがった目が、その下にあのいやらしい充血した眼球があるのかないのかわからぬまでにぴったりととざされてしまい、そしてどちらの首ももう語らなくなると――あたりには恐しいまでの静寂がたちこめた。
サイロンの人びとは、空のおぞましい悪霊によってこれほどはっきりと予告された、かれらの運命を信じることもできず――しかし目をあげると、ふたつのおそるべき顔は、あらわれそめたときと同じく、目をとじ、口もとじ、語り出したことなどなかったようにしてサイロンの東と西の空にかかっており、そのさまはさながら悪夢のようなあるはたらきによって青白いイリスなる月が、そんなぶきみなふくれあがった顔と変じてしまったかのようだった。
街々には死のような沈黙だけが支配者然とのしかかっていた。サイロンの人びとは、壮者も母親もおさな子も、ひとしなみに屠所の羊の目を見あわせ、少しでも信仰をもつものはふるえるくちびるでその信ずる神の名をとなえ、この災厄を払ってくれるようにと祈り、またドールを呪った。
二つの顔はまたふたたび口をひらこうとはせず、あたかも|黒 蓮《ブラック・ロータス》の睡りをむさぼって、きたるべき重労働にそなえるとでもいうように中空にぶよぶよと浮かび漂ってサイロンの眠りをおびやかしているのだった。
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4
「――王さま?」
アラクネーの踊り子ヴァルーサは、びっくりして叫んだ。
彼女の腕をつかんでいる、フードでふかぶかと顔をかくした、人並はずれて長身の逞しい連れの、太い指に恐しい力がこもり、その手が激しくふるえていることに、いまようやく気づいたのである。
「王さま――手が痛いわ」
「ああ――すまん」
ケイロニアの豹頭王は気づいて娘の細い腕から指をはなした。ヴァルーサの腕には、大きな指のあとがあざになっていた。
「どうしたのよ、王さま?」
娘は眉をひそめてフードの内をのぞきこむ。豹頭王は首をふったが、その声は正当にして運命にさだめられた王権の継承者だけがもつ、激しくて深い怒りにふるえていた。
「あのようないとわしい、木っ端のような使い魔どもに、この俺がある限り、ケイロニアの岩ひとつ、草いっぽんたりとも自由にさせるものか」
彼はむりに圧し殺した声で云ったが、フードの下からのぞくその目はぎらぎらと、野獣のように怒りに燃えていた。
「王さま――」
「ケイロニア王はここにおり、そしてサイロンを守り通すつもりだ、ということを、きゃつらに思い知らせてくれるわ。汚らわしい――闇の小魔どもめ!」
「王さま、王さま」
ヴァルーサはふるえ声で、
「もちろん王さまならあんなお化けなんかに敗けやしないわよね――でも……あの音はなに?」
「何だと?」
王は頭をあげ、よく聞くためにフードの中で頭を傾けた。
そして低くのどで唸った。
サイロンを、異様な音がつつんでいる。
その音は、どこかからきこえてくる――というよりは、地の底、空気の中、そして空に、はじめからひそんでいたものが、何やらこの世ならぬ邪悪な呪文によって呼び出され、そしてしだいにたかまってゆく、とでもいうようにきこえた。
それは――
何の音[#「何の音」に傍点]、ともさだかに云うことのできるような音ではない。
ただ、空気の中に、目にみえぬ恐しくたくさんのいろいろなもの、いまわしい生物だの生物でないのにかってに動きまわっているものだのがいて、それがてんでにたてる異形の音があつまり、ひとつになって、この世の何ものにもたてられぬ怪異な恐怖をさそうその音[#「音」に傍点]になっている――という、そんな感じなのである。
それはただきいているだに、何ともいえぬほど不安と、恐怖と、そしていたたまれぬような嫌悪をもよおさせる、そんな音だった。
その中には、何かブヨブヨした長いものが、ずるり、ずるり、と這いずってゆくような音がある。
と思うと、コンコン、コンコン、と長いとがったくちばしの先が朽ちた木に穴をうがっているような音、がちゃり、がちゃり、という、鎖をひきずって歩きまわるような音、ひどくやわらかい腐乱したものをひきずりまわすような音ともいえぬ音――
しきりと何かすすりあげるようなずるずるいう音、毛皮のすれあう音、何かハイエナのような獣がのどの奥でたてる含んだような音、
――それに混じって、風の音、翼の音、足音、などと一緒に、ひっきりなしの、ひどく悲しそうな呻き声、しくしくいう泣き声、しゃくりあげたり喘いだりする声、そして世にも恐しい絶叫、などがたえず神経をかきむしるのだった。
そして――そうした音が、ただそこできこえるだけであれば、まだいくらか救われもしただろうが、それらのおぞましい音は、さながら音の波とでもいったようすで、左へうちよせ、右へおしよせ、ひきしりぞくかと思えば襲いかかってくる、その変幻自在さそのもので、あたかもそれがそれ自体生あるものとして人びとを狙っているかのような怯えを人びとにかきたてた。
それゆえ、サイロンの人びとはたちまち、その音に追いたてられるようにして、算を乱して逃げようとしはじめ、たやすくさいごの理性さえも失ってしまっていた――護民兵たちでさえ、例外ではなかった。
かれらはてんでに絶叫と、助けを求める声をほとばしらせながら、通りから通りへ目に見えぬ妖怪たちのたてる音に追われて逃げまどった。何ひとつ、目に見えるはっきりとした脅威がないだけにかれらの恐怖はかえってあおられ、かれらは大通りを避けて小さな裏通りへ逃げこんでは、足元からまきおこる幽鬼の哄笑におびえてまたとび出し、家の中へ逃げこんだものもたちまちに悲鳴をあげてとび出してきた。サイロンはいまやまったく狂ってしまったかにみえた。一刻前まであれほど無人の、死の都のように見えていたサイロンだったが、いまやその通りという通り、家という家には、サイロンにこれほどたくさんの人間が住んでいたのかと目を疑うほどの数の老人、男女、母親、子どもたちが泣きわめきながらあらわれ、発狂したようにかけまわっていた。
なかにはころんで踏みつぶされ、再び起き上がれないものもあれば、恐怖のあまり狂ってしまってゲラゲラと笑いつづけているものもあった。それは世にもぶきみな、そしていたましい、流血なき破滅、敵もないカタストロフであるといえた。
「王さま――ああ、王さま!」
そのなかにあってケイロニア王はただひとり、小ゆるぎもせぬ姿勢でもって、さながらおしよせる敵軍を一身にうけとめる橋頭堡、とでもいったようすで立ちつくしていた。
その全身から、きびしく深い瞋恚がほとばしり、彼は白熱した電流にでもつつまれているかのようだった。
「王さま――王さまってば!」
ヴァルーサが泣き声をあげ、そこをどこうとうながして王の手をひっぱる。王は動こうとしなかった。
周囲からの、幽鬼たちの音、それに入りまじる彼の人民たちの悲鳴と絶叫、が彼を石像に化させてしまったとも見える。
「王さま、王さま――怖いよ!」
ヴァルーサは金切り声をあげた。王は踊り子をかかえよせ、そして手短かに、
「心配するな。|騒 霊《ポルターガイスト》だ、やつらには、何も実際の害はできん」
云いきかせた。ヴァルーサは豊かな黒髪を振りやり、
「そんなの、わかってるわ――だけど、怖いんだもん! そ、それにあの人たちがこっちへかけてくるから――」
「案ずるな」
再び強く王は云った。
その目はらんらんと光り、彼が彼の国をおそったかくも唐突で理不尽な悪夢に対し、かつてないほどの憤怒と激情を燃やしていることをかいま見せた。ヴァルーサはふと身をふるわせて、両の腕で自らを抱きしめた。ふいに、彼女は、周囲にみちているその阿鼻叫喚、ポルターガイストの恐怖、そして見上げればまだそこに動きもせずにある二つの巨大な顔よりもさえ、いま目の前に腕を組んで立っている、その半獣半人の英雄のほうが恐ろしい、という、そんな気持さえ覚えたのである。
「王さま――」
おずおずとその腕に手をかけようとしながらヴァルーサは云いかけた。だがそのとき、いきなり角を曲がってこの通りにかけこんできたひとつの人影があったので、びっくりしてことばをのみこんだ。
その男――男だった――はあまりに急いでいたので、道のまんなかに立っているふたりを見たときには止まることも、よけることもできずに頭からつっこんできた。が、王が直前にすっと身をかわしたので、闘牛士にうまうまとよけられた牡牛のように、石畳に顔からつっこんでしまい、たけり狂ってふりかえった。
「やいやいやい、何しやがるんだこの唐変木!」
彼はわめいた。
「この非常大変のときだってのに、何をうろちょろこんなとこに根ェ生やしてやがるん――あッ!」
「ほう」
王ののどから低い笑い声がもれた。そして王はゆっくりと腕組をとくと、宮殿の謁見室ででもあるかのように重々しく、まだしりもちをついたままの小悪党に近よった。
「これは偶然だな、|穴ネズミ《トルク》のアルス」
「王、王さま!」
アルスの目が、信じがたいものを見たおどろきに丸くなっていた。彼はきょときょとと、おびえた|ネズミ《トルク》そっくりに、王とヴァルーサとを見くらべた。
「なん――何だって、こんなところに、時もあろうにこのおっそろしい夜、たったひとりでうろついていなさるんで? おまけにアラクネーのとこの娘っ子まで――はあ、そうか!
いや、でもね王さま! いまここはあんたのいなさるにゃ、いちばん悪いところでさあ! おお、とにかくこっちへ、とにかくそのへんの家へ入っちまわなくちゃ。いま、あっしゃ気の狂ったやつらに踏みつぶされそうになって、ようようここへ逃げこんだんですからね。やつらみんな気がふれちまった。まるで象かなにかみたいに、目のまえにあるものはなんでもかまわず踏みつぶしながら、通りから通りへ、息を切らしてかけずりまわってるんですからね!」
アルスは王とヴァルーサをせきたてて、手近かにある一軒の家へとびこませた。
「なに、どうせこの家のやつだって、外へ出て、ヤヌスのお慈悲を叫びながら、かけずりまわってますさ――まったく、気狂いの国になっちまった、やつら、息は苦しいし、もうヘトヘトになって、いまにも倒れそうなのに、恐ろしさのあまり、どうしてもかけまわるのをやめることができねえんですからね! 放っときゃ、あのまんま、アワをふいて倒れて死ぬまで、ああして泣きわめきながら、見えねえ魔物におっかけられて走りまわっているこってしょうよ。
やれやれ疲れた! ――おや、いいもん。がある」
アルスは石の卓子の上においたままの、何人分かの食事の用意に目をつけた。それは冷えきっていたが、おそらくはこの家の住人たちが、いままさに夕食の用意をしてテーブルにつこうとしたところで、外で怪異の叫び声がおこり、あわててとび出しでもしたというわけだろう。
アルスはさっそく、素焼きのつぼをとりあげると、ビールをグッとひと息にあおり、袖で口をふいて、テーブルの上の冷めきった焼き肉に手をのばした。そこでヴァルーサの、とがめるような目つきに気がつく。
「どうせやつらにゃあムダになるし、すべての食いもんは豊穣と生命の神ヤヌスのお恵みなんだからな。ムダにしないのがみ心にかなうってわけさ」
云いわけがましく云って骨つき肉をとりあげ、ガツガツと食べはじめたが、そのようすではもう何日も何もたべていないと思われた。
「王さまも、どうです、おひとつ? けっこう、冷めたやつもいけますぜ!」
「いや、いい。――ティナはどうした? 女神のティナは、病い癒えたかな?」
フードをはずし、窓へよっていた王はたずねた。アルスは骨つき肉をもったまま急に泣き出した。
「勿体ない、覚えてて下すったんで――かあいそうに、乳より白い手足をした、あっしのたったひとりの女神のティナはね、あっしが帰りついたときにゃもう、カサカサの黒いむくろになっちまってました。あっしゃあ泣く泣くそのとむらいをすませたものの、金づるをなくしちゃあ、そうやすやすとあれほどの上玉のあとがまが見つけ出せるわけもなし、おまけにあの黒死の病の災厄のあとじゃ、そうそう女を買いたがる物好きもいやしません。ってわけで、あっしゃ、この二、三日、ろくな飯と床にありつけなかったわけでね」
アルスは勿体らしく洟をすすりあげ、しかしそのあいまにも、右手につかんだ骨つき肉と、左手にまるめとった|ねり粉《ガティ》のパンを交互に口に運ぶのに忙しかった。
ヴァルーサは呆れたようにそれを眺め、身をひるがえして王のそばへ近よった。王は、手を腰にあてて、窓からサイロンの街路を見やっていたが、その顎はきびしくひきしまっており、その目はするどかった。
「王さま、何を見てんの?」
ヴァルーサはその腕に手をかけながらきいた。
「空だ」
豹頭王は苦々しく、
「おかしいとは思わぬか。――俺は、朝の光が地上をてらせば、太陽神ルアーの恵みの前に、この狂気の一夜もおわるものと、実はひたすらそれを頼みにしていた。あたりを理性と正気の光が満たす朝ともなれば、サイロン市民の迷いもさめ、ポルターガイストどももそのすみかである闇を求めて退散し、とりあえずは――少なくともまた夜がくるまでは異変はおさまろう。すれば、その間を猶予にして、われわれは対策をたてることもできよう――と。
しかるに、俺が黒曜宮をたったのは、たしかに丑満つの鐘のあと――ということは、あれからどう少く見つもっても五ザンは過ぎていようから、青の月の短か夜は、たしかにもうとっくに明けていてよいはずだ。
ところが――」
王は漠然と手をのばし、あたりをさした。
「見るがいい。ヴァルーサ、そなたはどう思う?」
ヴァルーサは、髪の毛を口に入れた。絹糸のような長い髪のさきを、考え深げにかみながら、
「暗いわ」
ためらいがちにつぶやく。
「でもそれは、あの二つの化けもののせいではなくって?」
「いや、サイロン全都にわたって、消え去ろうとする夜を再び生ぜしめるほどの魔道師は、この世にそうたくさんはおらぬはずだ」
「でもあのふたり――ふたつ――エイラハとルールバ、何かたいそうな魔道師のようなことを云ってたわ」
ヴァルーサは云ったが、とたんに、すぐ耳の近くでカンだかい嘲り笑いの声がおこったので、火傷した猫のようにとびのき、きょろきょろした。
「|騒 霊《ポルターガイスト》だ」
王はなだめて、
「かもしれぬ。だがまたあれらはグラチウスの弟子だといっていた。
太陽を消し、ある一部の地方をすべて長い夜の内におくほどの大黒魔術《ブラックマジック》は、〈闇の司祭〉グラチウスそのひとならば、何の苦もなくやってのけようが、単なる弟子では――」
ふと思いついたように、
「ところでヴァルーサ、お前、あの矮人エイラハに心当たりがあったのではないか?」
「それだわ。忘れてた」
ヴァルーサはせきこんで、
「あのね、エイラハという名をきいたとたんに思い出したの。あたしがアラクネーのところに、ドゥエラと一緒にまじない小路にいたときね――」
云いかけた刹那である。
「わあ!」
アルスの絶叫がひびいた。二人はあわててふりかえった。
「どうした、アルス!」
「わあッ! 王さま! こ、こりゃ何です! 頭の上をおそろしい、たくさんのウマがかけてやがる! わあッ、踏みつぶされる、助けてくれえ!」
「何だと!」
王とヴァルーサは、頭をかかえてテーブルの下へ這いこんだアルスを茫然と見つめたが、しかし次の瞬間、かれらも思わず両腕で頭をかばい、床へつっぷしていた。
おお!
恐しい数の巨大なウマの大群が、サイロンの上空へむかってかけのぼってくるのだ!
そのヒヅメのとどろき、その足掻きの音、その荒い鼻息までがかれらの耳をつんぼにしそうな、雷のような轟音でもって、しだいしだいに近づいてくるのだ!
「王さまッ! あっしらは踏みつぶされちまいますよう!」
アルスが泣きわめく。王の目がみどり色に燃えあがり、やにわに王は窓から身をなかばのりだして空を見上げた。
その歯をくいしばった口から、低い、凄まじい唸り声が洩れる。サイロンの暗い空を、翼ある天馬の群がかけぬけてゆくところと思いのほか、そこには何ひとつ――まっ黒な雲が空をおおいつくしているほかは何ひとつ見えはしなかった。
ルールバとエイラハのいまわしい顔さえも、いかの墨より黒い雲にとけ去ったかのように、もはや見えはしないのだ。
そしてただ、そのまっ暗になったサイロンの空を、さながら野性馬《ブロンコ》の大群が疾走するにも似た無数の目にみえぬヒヅメだけが蹂躙してゆく。
「グラックの馬!」
ヴァルーサの絶叫をきいて王はふりかえった。娘はわなわなとふるえていた。
「アラクネーが云ってたわ! ヨミの国に住むグラックの馬たちは、ドールの髪であんだクサリによってかろうじてつなぎとめられている。でもひとたびときはなたれたら、それは地上にあるすべてのものを踏みつぶし、そこを焦土としてしまうまではドールそのひとにさえ止められないのだって!
ああ、あれがグラックの馬なら――ほんとうの、グラックの闇の馬の群なら、きょうがサイロンとそこに住むすべての人々にとってのさいごの日だわ!」
「ゾシークからきたって奴か。それはおれも、ジプシー女のところできいたことがあるぞ!」
アルスも叫んだ。
そのとき、雨がふりはじめた。
まるで、グラックの馬どもがのってきた黒雲が雨と、風と、いなづまと、そして嵐とを呼びよせた、とでもいうように、ぽつりぽつりとおちてきた大粒の雨は、たちまち篠つく土砂降りとなってサイロンを叩きつけはじめた。稲光がはためき、落雷のひきさくような轟音が七つの丘をゆるがし、人々の叫び声や悲鳴は地獄の鬼の哄笑に似た風の音にかきけされた。
「ああ! 見て!」
蒼白になったヴァルーサが王に必死でしがみつきながら窓の外を指さす。そこに、そのすさまじい雨のさなかで、何やら異形のものがいくつも踊り狂っている。
それは青白く洗われたような骸骨どもで、それらが稲光に瞬間的に照らし出されるたびに、それらは骨だけになった手をふりあげ、足をふみならしてさしまねき、その白いあごをカタカタいわせ、さながら大笑いしているかに見えた。
頭上では、あれくるう雷雨をぬって、雷と似た、しかしもっととどろく音をたててグラックの馬どもがなおも目には見えぬ乱舞を踊っている。
「王さまッ!」
アルスが金切り声をあげた。そのさす方をみて、さしもの剛毅な豹頭王もわめき声をあげた。
雨と闇とのさなかに何かおそろしく巨大なものが立っていた。それは人のようでもあり、人とは似ても似つかないようでもあったが、身の丈は豹頭王の二倍もある。そして青い閃光がてらしだしたその生きものは、赤くもえる巨大な一つ目と、けもののように牙のはえた口、そして毛むくじゃらの下肢とをもっているようだった。それが動くとサイロンの石畳にひづめの音がひびき、そしてそれは逃げまどうあわれな人びとを楽しげに追いつめては、その上へそのけものの足をおろして、あたりを血の海にした。
絶叫と酸鼻の悲鳴が豪雨と雷鳴に入りまじった。アルスはへたへたと床にくずおれ、髪をかきむしり、ドールを呪う叫びをあげた。
「ああヤヌス様! サイロン最後の日だ、あっしらはみんな死ぬんだ、あの悪鬼どもの手にかかって!」
グインは小悪党をふりかえった。その目に狂おしい赤い光があった。
「まだだ」
ケイロニア王は絶叫した。
「まだだ――!」
そしてそのまま、マントをひるがえして窓へとびのり、雨と稲妻と怪物どもの乱舞の中へかけ入ろうとする。アルスとヴァルーサは恐怖も忘れて走りよった。
「おいてっちゃイヤ!」
「王さま! どこへ行くんで!」
「イェライシャのところだ。俺がここにいて、サイロンをみすみす化け物に蹂躙させるものか」
「ムリだ! ――わあ、出た!」
アルスは、王の脚にしがみつこうとしていた手をはなし、そのはずみにひっくりかえってぺたんとすわりこんだ。腰がぬけたらしかった。
さっき街路で逃げまどう人びとを踏みつぶしていた獣のような怪物が、どこからあらわれたのか、王のまん前へ立ちはだかっている!
「危いッ!」
ヴァルーサは叫び、奇跡のように金縛りの状態がとけて王のところへかけよると抱きついた。だが王が制した。王の目は、自分よりはるかに高いところにある、赤くもえる怪物のひとつ目をにらみすえ、その手は恐れげなく腰の大剣の柄を握りしめている。
そして、鳥のそれを思わせる、赤く巨大な怪物の目もまた、王の上からはなれないのである。
「イ――グ……」
そしてその頭と覚しきあたりから、奇妙なきき苦しい音が流れと思ったとき、王と娘とは、頭の中ではっきりとひびきわたる何ものかの声をきいた。
「われはイグ=ソッグ――ひづめあるイグ=ソッグ……おまえを探していた、豹頭の戦士よ――
さあ、われと一緒に来てくれ!」
グインはうたれたように身をひいた。
そして疑惑にみちて、その異形の巨大なもの[#「もの」に傍点]を見上げ、口をひらこうとした――
が、そのとき!
「待て、グイン!」
雷鳴をつんざいていまひとつの声がひびきわたった!
「だまされるでない。それはお前を手に入れようというたくらみだ!」
それと同時にかれらの前で、闇がおもむろに寄り集まり、何やら形をなしはじめた。
そしてついにそれはその全貌をあらわしたのである!
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第三話 七人の魔道師
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1
「タミヤ!」
おどろきにうたれたグインの咆哮が闇をつんざいた。
「黒き魔女のタミヤ!」
「そう、あたしさ!」
闇が叫んだ。そして、それと同時に、ようやくその人のかたちに凝固しかけていた闇はすべてそのすがたをあらわし――
そこには、文字どおり夜が凝ってひととなったかのようにどこからどこまで漆黒のからだに、目と歯だけがあざやかに白く輝く、豊満なランダーギア女が立っていた。
裸のゆたかな胸に黒い腕を組み、そのぶあつい蛙を思わせるくちびるには、あざけりめいた笑いがうかんでいる。
「あれ以来だねえ、豹頭のグイン! 元気そうでなによりだ」
しわがれた声でランダーギアの魔女は云って、いまそこから自分が湧き出てきた、何もない空中をあとにして、ゆっくりとグインのほうへ歩みよった。
「お前も変わりはないようだな、タミヤ」
「おかげでね。――えい、この雨と雷鳴のうるさいことったら、ろくろく話もできやしない。
――お黙り!」
タミヤは両手をとくと天へむかって威赫するようにふりあげ、とたんに豪雨の音も、雷鳴も、人々の叫び声も、まだ雨はふり、雷ははためいているままで、ただ音というものがいっさいこの世界からかき消されたように消えてしまった。
「よし、これでいい。ねえグイン、あのとき、あたしが云っただろう。お前ときっとまた会う、そしてお前をあたしのものにするよ――ってさ。まさか、忘れてはいないだろうね」
「忘れてはおらぬ」
仏頂面でグインは答え、怯えてとりすがってくるヴァルーサをうしろに庇ったまま、魔女の方へ一歩踏み出した。
「だがそれを承知したと云った覚えもない、忘れてはおらんだろうが」
「忘れちゃあいないさ」
魔女タミヤはからかうように云い返した。その白い目が邪悪な笑いにみちて輝いた。
「ねえグイン、つれなくしないどくれよ。あたしは本当にお前に惚れていて、だからこそ黒き魔女のタミヤともあろうものがこんなところまで、お前に注意してやるためにわざわざ出てきたんだ、ねえ、だまされてはいけないよ、グイン――あいつは[#「あいつは」に傍点]、お前をたぶらかそうとしてるんだよ」
魔女はふくよかな黒い腕をあげると、まっすぐにひづめあるイグ=ソッグの、篠つく雨になかばかすんだぶきみな姿を指さした。その腕や結いあげた頭はその同じ豪雨の中にありながら、なぜか雨も彼女だけはよけて降るかのようで、これっぽちも濡れてさえいなかった。
グインは黙っていた。その目はするどく油断なく光り、なかば雨と闇とに消されているもののその異形は明らかな、赤い目とひづめのついた足をもつぶきみなもの[#「もの」に傍点]を見つめていた。
「あれ[#「あれ」に傍点]はね、見てのとおりの、生まれもつかぬ化けものだが」
タミヤはばかにしたようにぶあついくちびるをゆがめて叫んだ。
「元はといやあ大魔道師アグリッパの、実験室のフラスコの中から生まれ出てきた、いやしい合成生物なのさ。それがたまたま虫けらのような知性をもっていたためにアグリッパの使い魔となり、幾星霜を経るうちに、七星の会[#「会」に傍点]を見るほどのこざかしい知恵までつけたんだね。
ねえグイン、だまされてはいけないよ。その化け物はお前をつれ去り、自らの結界に封じこめ、そして七星が獅子の宮につどうその会[#「会」に傍点]を待って闇の力を解放する気なのだ」
「黙れ、女!」
ふいにそこにいるものすべての頭の中で、再びあの声なき声がひびきわたり、アルスとヴァルーサはまた怯えて王にとりすがった。
頭の中の声は妙に感情を欠いたひびきでつづいた。
「そのいやしい口をとざすのだ、奴隷女よ! ――われはひづめあるイグ=ソッグ、すべての魔道師の王である。お前のような低級な魔女には知るすべもあるまいが、今宵われがケイロニアに君臨する一頭の豹と出会うことは、星辰によってさだめられたことであり、そしてわれはその豹なる男を得て正統なるこの世界の光と闇の支配者となる。そのためにはこの豹頭の王と力をあわせ、かれは地上の、われは目に見えぬものどもの、それぞれ征服者たるの誓いをたてねばならぬのだ」
「うそつきめ、うそつきめ、うそつきめ!」
タミヤは叫びたてた。
「このいまわしいけだものめ、おまえの魂胆など知れているんだよ。恥ずかしいとは思わないのかい。――お前が必要なのはグインの心臓なんだ、生きたままのこの豹の胸からとりだされた、赤い血のしたたる心臓なんだ、そうじゃないか!」
「それはお前とて同じことではないか、魔女よ」
イグ=ソッグは指摘した。その途方もなく高いところにある赤いひとつ目は、凶々しくきらめき、さながら雨夜をみちびく不吉な灯台のようだった。
「お前とて豹人の生血とその特別な心臓とを、その得意とするいまわしい太古の黒魔術《ブラックマジック》の儀式のために必要としているのではないか」
「何をいうか、その牛の口をとじるがいい!」
ランダーギアの魔女は激怒してその足をふみ鳴らし、するとあたかもそれに呼応するように空に稲妻が青白くはためいて、化物じみた角のあるイグ=ソッグと、それにむかいあって立つ黒人女をくっきりと照らし出した。
「グイン、あの生まれぞくないの云うことなんか、ひとことたりとも信じちゃいけないよ!」
タミヤは豹頭王に向き直って、
「そりゃああたしだってあんたがそのネズミ男と、その踊り子とをつれてまじない小路で難儀してたとき、助けてやったときには、このまんまあんたをとじこめてしまやああたしはと、思わないでもなかった。だけどね、グイン、あんたを見てるうちにだんだん気がかわってきた。グイン――あんたは世界でただひとりのほんとうの男だ。
あんたを見たあとでは、インキュバスの抱擁でさえ物足りず、ラン=テゴスの愛撫でさえもあまりに力ないように思われる。おおグイン――
あたしは木気だよ。お前の心臓が、七星のひきあう力を一箇所にあつめ、触媒となってそれを地上に解放する、すごい秘密であることぐらいとっくに知っている。だけどねグイン、あたしはいまとなっては生きているお前をこそあたしのかたわらに欲しい――
おお――グイン、あたしの――ランダーギアの黒き魔女タミヤのくちづけと抱擁をうけておくれ。タミヤの寝台とタミヤの玉座と、そしてタミヤの王国を、タミヤと共に治めておくれ。あたしはお前がそのもっともみだらな夢でさえ想像したこともないような、すばらしい快楽をお前にあげられるんだよ。ああグイン、こっちへ来て、あたしの手をとっておくれ、さあ!」
そして魔女はすばやくそのつけていたうすものをひきちぎり、砲弾のような黒いつややかな乳房を悩ましく突き出しながら、むっちりとした両手を下にむかってさしのべた。ピンク色のあつい舌が歯を割ってあらわれて、さながらそれ自体独立した生きもの、ピンク色をした軟体動物ででもあるかのように、魔女のぶあつい黒人女のくちびるをなめまわした。
ヴァルーサのかわいい顔に、たちまち険悪な危険な表情がうかんでいた。アラクネーの踊り子は、鼻にしわをよせ、くちびるをゆがめ、何かののしろうとしたが、気配を知った国王にすばやく手首をつかんでひきとめられると、あえて口をひらこうとはせずに、そのかわりに王のたくましい胸にうしろから手をまわしてしっかりとしがみつき、まるで自分の想いでもって王をひきとめるイカリになろうとでもするようだった。
三たび、イグ=ソッグのテレパシーが、こんどは大きな悪意にみちた嘲笑をかれらの頭の中の空洞にひびきわたらせた。
「うまいこと、口説き寄るものだな、タミヤ! しかし見るがいい、豹頭の戦士は、どうやら迷惑なようだぞ。見ろ、あの豹の赤く燃える目を――星々の運行をさだめるヤーンがあの男を唯一人の〈その人〉に選び出したのも無理はない。あの男はもうちゃんと、お前のそのみだらがましい口説《くせつ》のうちにひそむ毒蛇を見抜いておるのさ。結局はどのように云いくるめようとも、お前もまたかの豹を手ごめにしようとたくらんでいるのはわれと少しも違いのないこと――
さあ、豹よ、時間は貴重だ。会[#「会」に傍点]までは何刻もないというのに、このようなさまたげが入ってはどんどんその貴重な時間が流れ去ってゆく。
さあ、われの目を見るがいいそしてわれとともに来るのだ、炎の目の豹よ!」
そしてイグ=ソッグのひづめのある、山羊のそれのように曲がって長い毛の生えた脚があがり、怪物はおもむろに豹頭王とその連れたちのほうへ歩み出した。赤い巨大な目がぎらぎら輝き、それ[#「それ」に傍点]はこちらへむかってぐいと手をのばしたが、その手は異常に長く、節まで長い毛におおわれ、それはまだしもその三本指は猛禽のそれのように、こまかなウロコと、そして長いカギヅメとがついているのだった。
ヴァルーサが悲鳴をあげた。それをかきけすようにして、
「お黙りったらお黙り! この、フラスコ生まれの化けものめ!」
魔女が金切声をあげた。
「あたしのグインにさわれるものなら、そのいまわしいカギヅメ一本でもさわって見るがいい! おまえはそのとたんに、ヨブ=ハゴスでさえ恐れをなすほどのおそるべき死によってむくわれることになるのだ、汚ならしい実験室の臭い泥め! ええい、お下がりったら、タミヤの火で焼かれるよ!」
「不浄な太占の神をあがめる、邪教の奴隷女めが」
イグ=ソッグは答えた。いなづまがはためき、その一つ目の、しかし耳や鼻や口はウシか、それとも一本の角のヤギに酷似しているみにくい顔を照らし出した。怪物はずらりととがった牙の生えている、耳まで裂けた口をひらいて、声のない笑いをひびかせた。
「そこをどけ。われのひづめに踏みつぶされたくなければな」
「インガ・レグ・ルーアー!」
というのが、魔女の応《いら》えだった。魔女は顔をのけぞらせ、両手でピンをひきぬいて結いあげた黒い髪を背中へおとし、そして再びひとにはその音を発音もできず、意味もわからぬような太古のおぞましい呪文を呼ばわった。
とたんに、世界に、すべての音が戻ってきた。
それも、さながらこれまでせきとめられていたところへ、ひといきに水がなだれこむようなすさまじさで。
豪雨の音、雷鳴、グラックの馬の規則正しくかけまわるひづめのとどろき、そしてそれにいりまじる|騒 霊《ポルターガイスト》どもの笑ったりののしったり、そして誰か人間でないものの哄笑と、遠くかすかにそれらの音のいたましい低音部をなしている、サイロンの人びとのさけんだり泣きわめいたりする声。
「おのれ!」
ケイロニア王のなかにおさえがたい嚇怒がつきあげてきた。王はヴァルーサをおしやって踏み出すなり咆哮した。
「おのれ! 汚らわしい魔道使いども、俺のこのサイロンに何のうらみあって! わが人民に何をしたのだ。サイロンから去れ、出て行け、俺はきさまらなどに利用はされぬ!」
イグ=ソッグは赤い目で王を見、そしてまた声なく笑った。そのカギヅメのはえた手が上から、つかみかかろうとするかのように王の上へおりてきた。
王は腰の大剣をひきぬこうとした。が、怪物の手が王のからだにかかろうとした刹那、それは黒いムチのようなものにビシッと払いのけられ、あおりをくらってイグ=ソッグはよろめいてひづめのすさまじい音をたてた。
タミヤが爆発するように笑った。と思ったとたん、再び黒い巨大なムチがするするとイグ=ソッグをおそった。それはなんとタミヤの頭から直接生えていた。そのムチは、魔女の髪の毛だったのだ。
ケーッ、というような奇怪な叫びがイグ=ソッグの口から洩れた。それはひづめをあげて、魔女を蹴り倒そうとねらった。タミヤはとびすさり、太いからすへびのようにその髪もまたくねりながら退いた。
「危い!」
アルスが激しく腕をひっぱっていることに王は気づいた。小悪党はくちびるまで白くしてふるえながら王にとりすがっていた。
「いまのうちです。逃げましょう、王さま」
王は激しくふりかえった。雨中に対峙する二者を見、それらがこちらへの注意を忘れて、互いにすっかり気をとられているのをたしかめてうなづき、いきなりヴァルーサの腰をひっかついだ。
「王さま!」
「アルス、来い!」
稲光のさなかでイグ=ソッグのからだがしだいに浮揚してゆく。上空からまっしぐらに黒い魔女へ、キックの一撃を加えようというもくろみなのだ。
と見たときタミヤも目にみえぬ鳥にのっているかのようにするすると空中へ舞いあがった。そして彼女は手をのばすと、いなづまをひっつかみ、それをイグ=ソッグめがけて投げつけた。
イグ=ソッグはあえてよけようともしなかった。たちまち怪物の巨大なからだが、パチパチとはぜる電撃につつまれる。その火花の中に身をまかせて、イグ=ソッグは勝ち誇ったように口をあいて笑った。
「わあ!」
思わず足をとめていたアルスが絶叫し、目をこする。
「あの化けものが大きくなった!」
いくど目をこすってもやはりそれは事実なのだった。まるで雷のエネルギーを吸収でもしたかのように、中空でイグ=ソッグの奇怪なすがたは見ているうちにぐんぐんふくれあがりはじめていた。
「小癪な!」
ランダーギアの魔女が絶叫した。
「岩よ、石よ!」
魔女が手をあげると、地面から、がらがらと物凄い音をたてて巨大な岩がもちあがり、ひとりでに高く舞いあがってぶんぶんとイグ=ソッグへおそいかかった!
イグ=ソッグはものともせずにはねかえした。目にみえぬバリヤーがあるように、巨大な岩はイグ=ソッグの身体にふれる直前でふっとんでばらばらになり、タミヤを怒りに歯ぎしりさせた。
「逃げましょう!」
アルスが再び促した。三人の地上の人間は、いなづまにおびえ、中空で展開される魔道の者どうしの凄まじい死闘に肝を抜かれながら、こそこそとその場を逃れ去ろうとした。
そのとき!
タミヤがそれに気づいた。
「お待ち、グイン!」
魔女はわめいた。
「お前はどこにも行かさないよ」
彼女の黒い手が何やら奇怪なしぐさをして地上を指さした。
と思ったとたん、
「キャアー!」
「わあっ! な、何だこれは!」
ヴァルーサとアルスののどから同時に魂切る悲鳴がほとばしる。何か[#「何か」に傍点]がやにわにシュッと音をたてて、闇の中からかれらの前をよこぎったのだ。
王はやにわに腰の剣をひきぬいた。
「後へさがれ!」
ひと声吠えて二人をつきとばし、そのあらての化け物に向かいあう。
それはぞっとするようなしろものだった。全長はおよそ一タールというところだろうか、全身がくまなく黒いいやらしい毛におおわれ、それがすれあうたびにぞっとするようなシューシューいう音をたてるのだ。それには手も足もなかった。
しいていえばそれは毛の生えたへびとでもいったところだ。だがその首から先は、山犬かコヨーテのたぐいの、いまわしい貪欲な獣のそれであり、それはその肉食の口をひらいてシャッとおそいかかってきては、またすばやくひきしりぞいた。
「犬頭蛇《けんとうじゃ》よ、その男を殺しちゃいけないよ、ただ戦ったり、どこへも逃げたりできぬようにするんだよ!」
いまや雷雲の中にイグ=ソッグを追ってかくれようとしている魔女のわめき声が上からふってきた。
犬頭蛇の口がガッとひらいた。それ[#「それ」に傍点]は長い舌をだらりとたらし、だらだらとくさいよだれをたらしながら、山犬のあのいとわしい貧焚な光る目でもって、陰険そうに豹頭王をにらみつけた。
次の瞬間、それは再び宙をとんでおそいかかってきた!
グインは嫌悪のうなりと共に大剣をくりだした。狙いはあやまたずとぎすました剣は、犬頭蛇身の怪獣のくねくねする胴を切断し、まっぷたつにした。
が!
「うわああ! 化物が二つになったあ!」
アルスが悲痛な声をふりしぼる。まさしく地獄の生きものは、王の剣に切断された瞬間に、一匹に増えてもとどおりにのびた。いまや豹人は左右からシューシューいいながらそののどもとにとびこむ隙を窺う、二匹の怪物を相手にせねばならないのだ。
「化けものめ!」
グインは吠えた。犬頭蛇がまるでその二つにわかれたからだを動かしているのは依然として同じひとつの生命だとでもいうように、同時にはねあがり、シャーッと音をたてながら襲いかかってきた。
「危ねえ、王さま!」
アルスが叫び、同時にその手が革のクツの内側へすべりこみ、出てきたときそれは細身の投げナイフを握っていた。
イフリキヤふうにそのナイフを人さし指と中指のあいだにはさんで、彼は挙動でそれを投げつけた。狙いはたがわず、それは一匹のへびの光る目をつきさし、同時に王はとびすさってもう一匹を切りすてる、が――
ムダだった。
「いかん。こやつは、切れば切った分だけふえるようだ」
王は呻いた。化物はいまや四匹にふえ、シャッシャッといやな音をたててかれらをとりまいている。
「なんて化物だ! ヤヌスよ!」
アルスが絶望の声をあげた。上空からはあいかわらず激烈な雷鳴がとどろき、それはもはや、グラックの馬とも、さきの二人の魔道師のたたかいとも、さだかには聞きわけられない。
「あッ!」
ヴァルーサの口から、短い悲鳴がもれた。四匹にふえた地獄の生物を、左右に切るかわりに鞘をひきぬいてそれで払いとばした王が、四匹すべてのそれぞれのいなづまのような動きをさすがにさばききれず、ついにそのなかの一匹が王の胸もとへ、剣をかいくぐってとびついたのである。
王の食いしばった歯のあいだから、ウオッ、という短いうなりが一度だけほとばしった。王はその太い首にナワのような筋肉をもりあがらせ、剣を放り出して、その怪物のするどい牙をふせぎ、両手でそのいやらしい毛むくじゃらの首をつかまえるとへし折ろうとすさまじい力をこめた。たちまち、その胸がふくれあがり、さしも頑丈な鎧のあわせめをさえその力でひきちぎるかに見え――しかし犬頭蛇はしぶとかった。
というよりは、その下等な生き物には、痛覚や脅威を感じるだけの知性すらもそなわっていないのかもしれない。そのずらりと並んだ牙をむき出した口からは、熱く臭い獣の息とよだれが王にはきかけられ、その牙は太い首をいまにも折れんばかりにうしろへそりかえらされていてさえ、餌食を求めるように、執拗にガチガチと噛みあわされている。
だがそれも王の腕にいよいよナワをよりあわせたような固い筋肉がもりあがり、その右手が化物の上あごを、左手が下あごをとらえて、力まかせにひきさくまでのことだった。
ついに、さしもの怪物の生命力に豹頭王の怪力が打ち勝った。
めりめりとおそろしい音をたてて怪物の顎がきしむ。王はかまわずに力をこめて怪物の口をひきさいた。
絶叫ともつかぬ異様な波動があたりをゆるがした。王は怪物のどろどろした灰色の体液に両手をまみれさせながら、なかば以上まっぷたつにひき裂かれてしまった怪物を雨の中に放り出した。
「やったあ!」
アルスがヴァルーサの手をつかんでおどりあがる。
「あと三匹!」
「こやつは――」
豹頭王はゆっくりと息をととのえる時間を稼ぐように、地べたを這いながらこっちをうかがう犬頭蛇をにらみつけて、
「剣で切るとさいげんなく増えるが、素手には案外ともろいようだな。そうと知ったからは――」
「あ――!」
ヴァルーサが突然ひくい驚きの声をたて、いま王が片づけて投げすてた怪物のあったはずの地面を指さした。
雨にうたれ、水たまりのできている石畳には、いやな匂いをはなつ灰色のしみがあるばかりで、あとは、そこに投げ出されたおぞましい死骸の痕跡を示すものさえも何ひとつのこってはいなかったのだ。
王はゆだんなく他の三匹に目をくばり、身を低くして、いつとびかかられてもよいように構えながら、怒鳴った。
「こ奴らは結局真に生きているわけではないのだ、闇の生命というやつはな。ことさら地上の領域ではこやつらは擬似生命というのにすぎず、だからこそいろいろこざかしいしぶとさを見せもするがさして恐れることはいらんのだ――おう!」
やにわに、恐しく敏捷な一匹が、王の防ごうとふりあげた手をかいくぐってその小手あてと肩のあいだの、むきだしの腕にがっぷりと牙を食いこませたのだ!
「キャーッ!」
ヴァルーサが悲鳴をあげて走りよろうとする。アルスがひきとめようと手をのばしたが遅かった。
王に気をとられていた怪物ののこりの一匹がふたりに気づき、向きをかえたのだ。
「危ねえ!」
アルスは短剣をひきぬいて身構えた。犬頭蛇は口をあき、彼を威嚇した。
そのいまわしくにぶく光る目がアルスを見つめると、アルスはふいにふらふらとひきこまれるような表情になった。その手から力がぬけ、だらりと短剣が地面へおちかけた。
ヴァルーサは叫び声をあげてそれへとびつき、短剣をつかみとった。
王は連れの苦境をたちまち見てとっていた。だが、王は王で、腕にがしッと食いついたままはなれぬ奴の首をもう一方の腕だげでへし折ろうとしながら、もう一匹の魔術的な目に対抗しようとしていたのだから、いかな彼とはいえ、そちらへ加勢に行ってやる余力はなかった。
「アッ!」
ヴァルーサが剣をつかみ、無鉄砲にも進み出たとみて犬頭蛇は彼女に注意をうつし、そのためにアルスにかかっていた催眠力がよわまった。アルスはがくんとよろめきかけて気づき、叫び声をあげた。
「だめだ、剣は! 切るとふえるんだぞ、こいつらは!」
ヴァルーサは短剣を放り出した。どうしてよいかわからずに口に手をあて、立ちすくんで悲鳴をあげる。シャーッと凄まじい音もろとも怪物は娘のやわらかな胸めがけておそいかかろうとした。
と見るや王は彼にまきついているもう一匹とその足もとで機会をうかがっているやつにはかまいもせずに、そちらめがけて突進しようとする。
だが巨大な怪物はますます王の腕に汚ならしい牙をくいこませ――
王の口から傷ついた豹の恐しい咆哮がひびきわたった!
それは絶望ではなくすさまじいまでの闘志、追いこまれれば追いこまれただけおもてもむけられず燃えあがる野性の闘争心がはからずもほとばしらせた、野獣の憤怒と挑戦の咆哮にほかならなかった。それは雨と雷鳴をついてあたりの空気をびりびりとふるわせた。
途端!
まるでその王の傷ついた咆哮が呼びよせでもしたかのように、雨中に奇怪なもの[#「もの」に傍点]がおぼろげにあらわれたのである。
そのすがたは水中にあるようにゆらめいていたがやがてゆらゆらとかたちをととのえ、そしてついにすっかりあらわれでた。
とたんに、王と――そしてふたりの人間たちは、地獄の怪物におそいかかられてあなやという、自らの苦境さえも失念して、思わずおどろきの声をほとばしらせていたのである。
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2
「ワッ!」
アルスの口から頓狂な叫びがもれた。
「な、な、なんだ、ありゃあ!」
それは――
人、と呼んでいいものならば一応人のかたちをしているのにちがいはなかった。
しかし――
それをしも[#底本「しも」ママ]人間と云い得るならば、ひづめある合成人間イグ=ソッグも、首だけのエイラハやルールバもまた、まぎれもない人間のうちにふくめざるを得なかったにちがいない。
それほどにそれ[#「それ」に傍点]は奇怪な――そしてひどくゆがんだすがたとかたちとを持っていた。
それはどうやら滑稽でさえある。もっとも、その、悪夢のなかから直接に歩み出てでもきたような奇形なすがたは、なまじ滑稽な感じのために、かえっていっそうそのぶきみさとおぞましさとを強調されているようでさえあった。
それはまるであまりにも長いこと座りこんでいたために、手足が退化でもしてしまったかのように、恐しくどっしりとした大きな胴体に、つけたしのように細いポキポキした感じの手と足がついているだけで、おまけにその足はほとんどその、ふくれあがった胴を支える役割を果たし得てはいないようだった。
首もまたないにひとしい。というよりも、その巨大な奇怪な、岩を刻んでつくったような顔は、すっぽりと肩の中にめりこんでおり、その肩ときたら耳のあたりまでも肉瘤のようにもりあがっているのだ。そしてその全身をおおっている、まるで体毛か毛皮のマントでもあるかのようなおびただしいコケ類。
肩から胴、首、頭にまで、長いコケやキノコの類がはびこってびっしりとついていた。それは見るものの皮膚をまでなんとなくむずむずさせ、まだじぶんの肌にはあんなものが生え出してはいないかと思わずまさぐりたい気分にさせるのである。そして、コケにおおわれていない頬や額、またコケ類のあいだからのぞく地肌は、あまりに長いこと太陽にさらされた粘土のようにすっかりひからび、かわききって、細かくひびわれていた。
人と呼んでもよいものかどうか思わずためらわせるその土のう[#「土のう」に傍点]のような怪人は、コケとタールの山が動き出すようにしてわさわさと動き出したかと思うと、ひとことも発しないままにその枯枝のような、胴体にそぐわない手をさしのべた。
「アルガンガスよ、地獄の犬ガルムと闇の妖蛇クロウラーとの不浄の子よ、こちらへ来い。ここへ来るのじゃ」
そのひびわれた口がうごいたと思うと、ぞっと神経をさかなでするようなきしり声がもれた。
その刹那!
王はその左上膊部にくいこんでいた、いまわしい犬頭蛇の牙が突然はなれてゆくのを感じ、そしてヴァルーサとアルスを狙っていまにもとびかかろうとしていた奴、王のまわりをシューシュー威嚇しながらまわっていた奴と、二匹ながらかれらのまわりからあわただしくひきしりぞいてゆくのを見た。
まるでそれは唯一絶対の神とあがめる飼主に命じられた忠犬とでもいったようすで、いまにもありもせぬふさふさした尾をふりたてんばかりに、毛のはえた犬頭の蛇はするするとその新来の怪人のもとへしさり寄っていくのである。
「よし、よし、可愛い奴だ」
コケと泥の山が動き出したような怪人は、ポキポキとした手でなでてやろうかとするようにそちらを招いたが、と思ったとき、その手をくるりと、宙にあるなにかを握りしめてから投げすてるようなしぐさをした。
とたんに、三匹の犬頭蛇は、かれらこそがまるで投げすてられた紙くずであった、とでもいったあんばいに消えてしまった。
文字どおりかき消えてしまったのである。驚きあきれた三人が顔を見あわせるのをみて、怪人はホッ、ホッというような耳ざわりな笑い声をたてた。
「さぞお困りのごようすと見たので少しばかり手をお貸ししたのだが、よぶんなことであったかな」
限りなく年経たカシの精かなにかを思わせるきしみ声でそやつは喋った。
ヴァルーサの目はまん丸くなっていた。彼女は上にとりすがり、
「イグレック――?」
なかばおびえ、なかば畏れおののく声でささやいた。
怪人はそれをききつけた。
「土霊たるイグレックと思ってもらえるのは光栄至極と云うべきかもしれぬが、あいにくとわしはイグレックのように盲目な地霊ではない」
ヴァルーサと王とを半々に、まぶたにまでびっしりとひびわれの走っている気味のわるい目で見やりながら、それ[#「それ」に傍点]は、
「わしはババヤガ――通称は長舌のババヤガというもので魔道をなりわいとしているものだ」
おちつき払って名乗りをあげた。
「あのいまわしい怪物どもを呼びもどしてくれたについては礼を云おうが、そのババヤガ、長舌のババヤガが何の用だ」
「そのことだ、豹頭王よ」
ババヤガは脱に入ったように、
「実はわしは日の暮れがたに、わが封界を通ってサイロンに入り、それからずっと求めるものを探していたのだ。そして――ついに見出した。
それは、おぬしだった、とそういうわけなのだな、豹頭王よ」
「こやつもか!」
グインは思わず拳で膝を叩いてののしった。
「こやつもわがサイロンとこの俺の心臓とをつけ狙う化け物どもの一匹か!」
「まあそう云うたものでもない」
いよいよ満足げにババヤガは云い、舌を出してぺろりとかわいたくちびるをなめた。すると、なぜ彼が「長舌の」ババヤガと仇名されているのかがふいに明らかになった。
ババヤガの舌は、カメレオンのそれのように恐しく長く、そしてねばついているようだったのだ。
ババヤガはその舌をすぐにはひっこめず、わざとのようにヒラヒラさせていたが、またもとどおりにして、
「いまやサイロンは百鬼夜行の死都よ。きこえるか、あの叫喚が」
おもしろそうに云い、その枯枝のような手をふった。
再び雨音が消えた。とたんにかれらの耳に、絶望と狂気の騒擾がなだれこんできた。
「化け物ども――!」
グインの目が怒りに燃えた。
ババヤガはそれをなだめ顔に、
「そうむげに云うものではない。なに、これらはもとはといえば豹よ、おぬしが招きよせた災厄ではないかな」
「なんという! わがサイロンに、俺がきさまらおぞましい、生まれもつかぬ化け物めらにつどってくれと頼みでもしたというのか!」
「まあ似たようなものだな。たとえて云わばこのババヤガなどは、わが永遠《とわ》の棲家なる荒涼たるノスフェラスの岩屋の中で眠りをむさぼっていたのだが、ふと心づいたところ、空に異様の気配がある。
そこで何世紀ぶりかで物見の塔にのぼり、星々を読んだところ、恐しく巨大な、白熱した光をはなつ豹の星がひとつあり、それが何やら、かわいたものがオアシスにひきよせられ、愛人があいびきのテラスにひきよせられるようにわしをいざなってやまなんだ。
そこでついにいぶかしみながらもやって来たところがこのケイロニアの都たるサイロン――
そしてわしはグラックの馬どもが破局を予告するようにかけずりまわるこのサイロンをあてどなく歩きまわっていたところが、潮流がしぜんに木の葉を運び、火がおのづから虫をひきよせるようにおぬしのもとへひきつけられたというわけなのだ、グイン」
ババヤガはきしむような笑い声をまたたてた。
「ということはわしがここでおぬし――豹の星――を手に入れるこそは星辰のめぐりあわせ、ヤーンのさだめ、ということは、六百年にひとたびの七星の会[#「会」に傍点]のエネルギーは、わしの術を得て地上に解放され、そこにわしババヤガの王国をうちたてるのに相違あるまい。
このババヤガは隠者として、おぬしらの想像もつかぬほどの長い年月をあけくれ、その間地上の王国のことなど、夢想にさえのぞんだことはなかったが、なにがさて不思議なものだ――のぞんだものの手には入らぬものが、さだめられたものの手には自らとびこんでくる、ということがな。
どれ、グイン、生けるエネルギーの象徴にして神々と地上とに橋をかけるものよ、こちらに来い」
「断わる!」
グインは吠えた。
「誰が誰の手の内に自らとびこんだと? 俺はきさまなどの手中にとびこんだ覚えはないぞ! 長舌か長耳だか知らんが、黙ってきいておればよくも勝手な熱を吹くものだ。俺がここにこうしているかぎり、俺とこの俺の王国、俺の人民たちを、きさまのような化け物にその一片たりとも自由にさせるものか!
えい、下がれ、見苦しい化け物め! これはケイロニア王の命令だ!」
云い放った瞬間、頭上で雷がはためいた。
まるでグインのその豹の額に天の冠をのせるかのように――
アルスとヴァルーサとははっとして頭を垂れてしまった。青白い光に照らし出され、雄々しくマントをひるがえし、両脚を彼の王国の大地にしっかりと踏んばって立った、その半人半獣の王からほとばしる、恐しいまでの威嚇と、そしてきびしくすさまじい意志とがかれらを電流のようにうちのめし、このような場合でなかったら、かれらまでも覚えずそこに平伏していたかもしれない。
頭上をかけぬけてゆく地獄の生物、目にみえぬ、グラックの闇の馬のひづめの音が雲の上にとどろきわたった。こころなしか、はじめは空のはるかなたかみをかけぬけ、またかけもどってくるだけだったその馬どもの足音は、ずいぶんと屋根屋根にちかくおりてきているようにきこえ、いよいよ雷鳴そのままになりわたった。
「ホォ!」
だが、長舌のババヤガは、グインのその怒りにみちた命令をあざけるように、長いこけむした舌をつき出すと、からかうようにくちびるをなめまわし、ついでに自分の額までなめてみせて、くりかえした。
「ホォ! 云うわ、云うわ! 化け物じゃと? 下がれじゃと?
ホォ、ホォ! お前のほうがよっぽど化け物じゃわい! 豹頭の男よ、気づかぬのか?
お前のすがたを、つねづね宮殿の目ざめのたびに注意ぶかくお前が小姓のさしだす鏡から目をそむけて見まいとしている――ついでにお前の妃のシルウィアもおぞましそうに目をそむける――そのお前のすがたを、もっとよくそのけだものの目で見てみたらどうじゃな!」
ババヤガの舌がくちびると、長くたれた鼻と、あごまでもなめまわし、ババヤガはそのやせほそった手をふりあげ、きしむような声で奇怪なこの世ならぬ呪文をよばわった。
途端!
グインの口から呻くような叫び声がもれた。
かれらの周囲にふりそそぎ、かれらを冷たくうちのめし、いっこうにやむ気配さえもなかった雨――
その雨がふいに姿をかえた。
その足元の水たまりも――ふりつづく豪雨も、すべての水という水が、ふいによりあつまり、すきとおり――水鏡と化し――
その水鏡が、いまやグインの周囲をくまなくおおいつくし、その前にも、ななめにも、横にも、うしろにも、足下にも、頭上にも――
ありとあらゆる角度に、百も千もの豹頭王のすがたがうつし出され、そのすべてがさながらそれ自体の邪悪な意図と生命とをもつにいたった、伝説の中のあの影の話のように、まっすぐに、あざけるように、赤くもえる目でグインを見つめ、指さし、その豹の口をひらいて声にならぬ哄笑をひびかせたのである!
「やめろ!」
グインは叫んだ。その声には何かしら不安が――それとも、信じがたいことだが恐怖に似たものさえも――混ざりこんでいるかのようだった。影どもがいっせいにそのあるじの声に反応してゆれうごき、それぞれ少しづつことなるひびきで〈ヤメロ!〉と木霊をひびかせた。
「何だ、これは!」
再びグインはわめき、足下の剣をひろいあげようとかがみこんだ。足元にも一頭のみならぬ何頭もの豹がとじこめられていた。その赤い目が虜囚のかなしみをたたえて彼に出してくれとうったえるかのように鏡のおもてへ手をさしのべてきた。
「やめろ、しれものめ!」
グインは吠えるなり鏡を叩き割ろうと剣をふりあげた。だが、
「待て、グイン!」
ババヤガの声がひびきわたった。
「鏡とはおのれをうつすもの、うつったおのれを殺すなら、おのれの本体もまた死ぬほかはない。いや、その鏡を割ればお前の魂もまたその幾千のかけらの中に永遠にとじこめられ、わしの呪文のつづくかぎりはその鏡界[#「鏡界」に傍点]をさまよう、本体を失った影とならねばならんのだぞ!
わしがいつわりたばかりを云うと思うならその鏡を割ってみるがいい、王よ!
それとも、もっとよく、お前が見まいとしつづけてきたものを見る方がよいか?」
ババヤガの耳ざわりな哄笑がひびく。グインは次の瞬間よろめいて膝をついてしまった。
美しい、ほっそりと白い――だがいかにも驕慢な侮蔑にみちた、黄金色の髪をたかだかと結いあげた女の、卵型の顔が、豹頭王の顔にかさなりあうようにしてその何百何千もの鏡のおもてにうかびあがり――
やがて、それは豹のそのまがまがしい顔にかわってすべての鏡面を埋めつくした!
その赤くぬったくちびるに、ひきつるような嫌悪とさげすみの微笑が漂い、その塔のように、ひとすじの乱れもなくゆいあげた髪には紅玉や緑玉の高価なかざりがきらめき、その細くなよやかな手足をつつむのはなめらかでうすい貴族の白絹と羽毛飾りである。
その人形のようにととのった顔がグインを認め、そのくちびるの両端がいっそういとわしげにつりあがり、そしてその幻影はその小さなくちびるをひらいた――
「ケイロニア王――! ケイロニアの[#「ケイロニアの」に傍点]国王ですって?
まあなんて立派な王ですこと! 人間[#「人間」に傍点]とさえ云えない獣人のケイロニア王! 偉大なるアキレウス大帝のひとり娘、皇女シルウィアの愛する夫!
いやです、わたくしにさわらないで――そんな化け物にさわられるくらいなら、わたくしは舌をかんで死にますからね。あなたを良人と認めるのは父上のおろかしい約束に皇女としての名誉のゆえ従うまでのこと――
わたくしは認めませぬ。どこで生まれどのようにして育ったのかもわからぬ半獣人の生まれそこないなど! そのようなおぞましいものの血を由緒あるケイロニア王室の血に混ぜることは認めません。よろしいですか――あなたはケイロニアの王座がめあてだったのだからこれで何も不足はないはず――
人前ではあなたのような片輪の化け物ですけれども、王として、わたくしの良人として立ててさしあげます。そのかわり、わたくしにさわらないで! なるべくわたくしの前にその姿をあらわすのもやめて下さいな。見たくもないのです。まるでけだものを宮殿のなかに飼っているような気がしますわ――おお、いや! 誰かいるの? けものくさいわ。香をたいておくれ!」
そして哄笑――長い、狂おしい、しだいにヒステリックなひびきをおびてくる、悪意にみちた嘲笑。
「やめてくれ!」
ケイロニア王はしぼるような叫び声をあげた。
そのたくましい手から剣がおち、その手が、豹のすがたをしたおのれの頭にのびた。
かきむしるように頭をつかみ、ひどい頭痛におそわれでもしたかのようにゆさぶる。その目の前で、白く驕慢な女の顔はかさなりあってしだいにひとつの巨大な顔へと合体してゆき、そのたびに狂気じみた哄笑は大きくなり、ついには、いまにも王をおしつぶさんばかりにひびきわたった。
「やめてくれ。シルウィアを俺の前から消してくれ!」
もういちどふりしぼるようにグインは叫びたて、そしてがっくりと顔を覆ってしまった。
「王さま! どうしたんです、王さま!」
|穴ネズミ《トルク》のアルスの驚愕した叫び声も、その丸い耳にとどいたようでもない。
「王さまッ! まやかしですよ! ただの目くらましですよ。しっかりして下さいよう、王さまってば!」
「王さま! あんたのまわりには何にもないのよ! あいつがあるように見せてるだけよ」
ヴァルーサもわめいた。その目には、涙がいっぱいになり、彼女は両手をもみしぼった。
そして彼女はやにわに王にかけよってしがみついた。
「王さま、ああ、王さま! あんなイヤな化け物にまどわされないでよ! どうしたっていうの! あんたはそりゃ強くてたくましくって、あたしがこれまで一度だってクムでも、アルセイスの都でも、タリッドにきてからさえ見たこともないような男の中の男じゃないの! ああ、王さま、あたしを見て、ヴァルーサを見てよ! あたし、ずっと、王さまがあたしを後宮にたずねてきてくれるのを心待ちにしてたのよ!」
そしていきなり彼女はその赤いくちびるを、グインの豹頭の、野獣のすがたをした口におしつけた。
グインの目がふいにはッとしたように動いた。彼は悪い夢からでもさめたかのように、周囲を見まわした。
「ええ、小娘め、よけいなことをするでないというのに!」
その耳に、ババヤガのあげる怒りの叫びがきこえ、そしてあげた目の前から、たったいままで彼の頭をつきさしつづけていた、心いたむ幻影も、そして彼じしんの異形のすがたを容赦なくうつし出す水鏡の妖術も、嘘のように消え去っているのを見た。
まわりはただ、はじめにかわらぬサイロンの裏通りだった――そしてひたすらすべてを叩きつけ、おし流そうとするかのようにふりしきる豪雨、だいぶ間遠にはなったものの、なおもはためく稲妻が照らし出す不吉な黒雲しか見えぬ空。
「いまわずかで豹人の心はわしの手取りだったものを! たかがいやしい踊り子のぶんざいで、よくもわしの術をさえぎり、わしの野望への道をさまたげようなどという不遜な考えをおこしたな!」
怒り狂ってババヤガがわめきたて、その指がまっしぐらに怯えたヴァルーサをさした。
と思ったとき、
「ああーッ!」
ヴァルーサのひときわ高い悲鳴がひびき、ヴァルーサのからだはいきなり、目にみえぬ巨大な手にわしづかみにされたように宙へつりあげられたのだ!
「助けてえ!」
金切り声をあげて、ヴァルーサは身をもがいた。
「ヴァルーサ!」
国王、それにアルスがそれへかけより、娘のからだをひきもどそうとするが、とたんにヴァルーサのからだは上昇の速度を増して、まるでかれらをからかうかのように手のとどかぬところへ舞いあがってしまった。
もう、彼女はサイロンの屋恨屋根よりも高い中空につるされるとも漂うともつかずに放りあげられ、
「王さま! 王さまあ!」
その泣き声だけが雨をぬって洩れてくる。
「ババヤガ! ヴァルーサをおろせ!」
激怒してグインは咆哮した。長舌の怪物は大声で笑った。
「いや、ならぬ。このまま雲の上のたかみへ放りあげれば、小娘め、空気がうすくなってじわじわと窒息する。だがそれよりもさきに、あの上空を嬉々としてかけまわっている、いまわしいグラックの馬どものひづめが、娘のやわらかな胸や腹をふみにじり、血へどを吐かせ、見わけもつかぬ血まみれの肉のかたまりにかえてくれるだろう。
それとも王よ、豹頭よ、お前がわしに従い、わしの野望に従うか?」
「卑怯な!」
グインはわめいた。が、ためらわず、
「わかった、俺の心臓がほしければとるがいい。とにかく娘をおろせ!」
「よし、なかなか物わかりが――」
悦にいってババヤガが手をのばそうとした、その刹那だった!
「お待ち、ババヤガ! ぬけがけは許さないよ!」
わめくなり、上空からやにわに地上へ舞いおりてきた黒い影があった。
タミヤだ!
それにつづいて、カギヅメの手には失神したヴァルーサをつかみ、ひづめをとどろかせたイグ=ソッグ!
かれらは炎を噴かんばかりの目で互いをにらみつけあった。はためく稲妻とこの世の終わりのような雷雨のなか、三人の魔道師は、息さえもひそめて対峙していた!
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だが――
息づまるようなそのはりつめた対峙がつづいたのは、ほとんど一瞬にすぎなかった。
「長舌のババヤガ!」
まず、ランダーギアの黒い魔女タミヤが、白く輝く目を苔むした怪物にすえ、黒く長い指をつきつけ、するどい怒りにみちた声で、その沈黙を破ったのである。
「まあお前のようなものまでこんなところへやって来ているなんて、およそ思いもしなかった。ババヤガといやあカナンが帝国であり、中原のなかばが海であったというほどの古いむかしに隠者としてカラクダイを去っていったきり、もう俗世に戻ってくることなどはない――と、そうあたしはきいていたのだけれどねえ!」
「ランダーギアの黒人女よ、アグリッパに合成された獣なるイグ=ソッグよ」
おちつきはらってババヤガが答えた。
「われもまた、このサイロンにお前たちのようなものまでが集《つど》うているとは思わなんだ。
太古に大魔道師アグリッパのフラスコの内に生まれいでたイグ=ソッグなどはともかくとして、魔女よ、お前のような下等なものまでがやってくるとは、六百年にひとたびの七星の会は、それほど強固な力で邪悪なる魂をひきつけるのかな? それも結局はわが手にすべてが帰すようさだめられてのことにちがいはあるまいが!」
「ババヤガ、ほんとうにお前さんの長舌ったら、ミズガルンの大蛇にだって敗けっこないよ! そればかりでなく、その長舌は、きっと一枚だけじゃないんだろう」
タミヤは叫んだ。その足はまだ大地におりきっておらず、彼女の頭はグインとほとんどかわらぬぐらいの高みにあってババヤガを見おろしていた。
「だがお前はノスフェラスの岩で、苔どもにかこまれて眠りこけているあいだに、ちっとばかり耄碌したか、それともその厭なコケが、脳の中まで生え、はびこってしまったのにちがいない。
ババヤガ! お前ったら、まったくどこまで馬鹿なのかしら。豹にあやかしを見せて、その魂を手取りにしようなんて!」
ババヤガは何か云い返そうとした。だがそのとき、かれらの頭の中に、イグ=ソッグのあの声なき声がひびきわたった。
「ランダーギア女の云うとおりだ! カラクダイのババヤガ、長舌の隠者よ、お前は知らぬのか、それとも忘れたかは知らんが、サイロンを統べる豹なるこの魂がわれらをひきつけてやまぬのは、その尋常ならざる生命力と底知れぬエネルギーのためだ。それを、彼のトラウマをつくることで攻撃すれば、たしかに彼の心の隙につけ入り、並ではとうてい催眠術の術中におち入らせることもかなわぬ、彼の魂をまんまと手中にすることはできようが、しかしそれはなぜかといえば彼の心が弱められ、その貴重な生命のエネルギーがむなしく流れ出してしまうからこそなのだ。
えい、愚かだぞ、ババヤガ! お前らしくもない、功を焦るのあまり、肝腎かなめの生ける宝石を木っ端みじんにしてしまおうとは!」
「わしは、そんなことを知らぬほど未熟ではない」
怒ってババヤガが答えた。彼がからだをゆさぶると、あたりへ苔の胞子がもやのように舞い散った。
「それどころか、わしはお前たちのように目の前にある明白なものしか見ることのできぬ下等術者とはちがうのだ。
わしは、見えぬものを見ることもでき、さらには見ることのできぬものさえも、心の目で見ることができる――
これは、長年荒野にあって知恵をたくわえ、星辰のことばをわがことばとし、〈闇の司祭〉たるグラチウス、永劫の時を生きる大魔道師アグリッパ、さらには〈見者〉ロカンドラス、この三人にはかなわぬまでも、他のどのような魔道師にも肩を並べさせぬほどの術を身につけた――」
ふいにババヤガはことばをきった。
タミヤも、イグ=ソッグも――そして息をつめて立ちつくす三人の生身の人間たちも、ふと、何がなし冷気のようなものがあたりをつつむのを感じてぎくりとまわりを見まわした。
それは、声なき嘲笑とでもいいたいほのかな気配だった。だが、いくら見ても、誰かそのぞっとさせる冷気の主がいるのかどうか、三人の魔道師も見てとることができなかった。
「どのような魔道師も――」
気をとりなおして長舌のババヤガはまた口をひらいた。
「どのような魔道師にも肩を並べ得ぬほどの術を身につけたわしなればこその深謀遠慮であるのだ。
お前たち、あわれな馬車ウマ、目の前にあって火のように明らかな事象をしか見るあたわざる者どもは、わしの術がこれなる豹のたぐいまれな心をよわめるゆえに、わしを愚かだと非難する。
お前たちは知らんのだ! お前たちは見ることができぬのだ、この豹のまことの心、まことの魂のかたちをな!
それは酒をくみだせばからっぽになる酒がめ、中のものをとりだせば再び役をなさなくなってしまうような、ちゃち[#「ちゃち」に傍点]な容器ではない――
それどころか、豹の心と生命のエネルギーとは、お前たちのような下級者がふれれば火傷をし、はては一命をさえおとしかねまじいほどの、まことの火だ、尽きることのない、恒星の無限の炎だ!
それがどこかよりの光をうけて輝く惑星のそれであったら、世の中にいくらもためしのあること、それがどのようなものであれ、こうまでわれらをひきつけることはあるまい。
しかるにこの豹は恒星なのだ! 自らの力で光り、熱を放ち、そして運命を動かす。
この豹の星だけがヤーンのさだめた星辰における、いまださだまらざる星、可変の因子であり、だからこそわしらは次々に、この星を自由にするものが星辰の運命線をにぎるのだと知り、このサイロンへとひきつけられたのではなかったか!
いや、あさはかなる奴隷女、フラスコより生まれ出でたいやしい獣よ、わしが正しい。わしこそが正しいのだ。この豹の魂はあれしきのことでくじかれはせぬ。ただよわめられ、いっとき光をひかえるだけのことだ。いずれまた、よわめられた分だけいよいよさかんにあかあかとそれは燃えあがるだろう。
それはもはやお前たちなど、おもてを向けるさえあたわぬほどにだ!
それゆえ下がるがよい、いやしき者どもよ! 星辰の秘密はお前らの手にあまり、その黄金律はお前らが動かすにはあまりに危険だ。
ここはお前らていどのしろものが来るところではない。行くがいい!」
そしてババヤガは、恐しいほどにさげすんだそぶりで、枯枝さながらの手を横一文字に振りやった。
イグ=ソッグの赤い目が噴激のあまり燃えあがり、タミヤの唇がひとりでにめくれあがって歯がむきだされた。
「ご立派なことだ、なんてご立派なことだ、汚ならしい苔だらけの土|嚢《のう》め、生きぐされの肥土《こえつち》め!」
タミヤはわめき、足をふみ鳴らし、怒りのあまり宙に漂うのも忘れて石畳にとびおりてしまった。
「親切にもあたしたちに忠告してくれようって云うんだね? ええ、まったく、黙ってきいてれば、なんていう云いぐさなんだい、この土左衛門め、タールづけのごみ袋め!
星辰の秘密があたしの手にあまるだって? あたしをお前やそのイグ=ソッグのようなけだものと一緒にしないどくれ! あたしはタミヤ、ランダーギアのタミヤだよ! あたしの仕えるラン=テゴスはね、お前などがこの世にまだ生まれ出てさえいない前はおろか、この世界がいまのような姿になるその前の、その前の、そのまた前の――およそ人間なるものがいまだ姿さえも見せておらぬ、この星がどろどろと煮えたぎる熔岩のかたまりにしかすぎなかったころから地球に飛来し、君臨した、ク・ス=ルーの神々のひとりにしてその最も力あるものなんだよ。いまや誰ひとりとしてその偶像をあがめるものもない忘れられた古すぎる神々だが、かれらがこの星辰の力をかりてその眠りをよびさまされ、再びこの地上にあらわれるときには、世界は鳴動し、そしてお前たちなどは鉄をとかす超高熱のまんなかのあわれなネズミのようにとけてしまうだろう――
あたしはどうあっても、その神を再び地上に呼び返さねばならぬのだ。お前たちはドールというが、ドールとてあたしのあがめる古きものたちに比べれば赤児のようなもの――
ましてこのあたしの使命の前で、たかだかおのれひとりのせせこましい支配欲をみたそうという、そのお前たちの野望など――」
云いかけて、ふいにタミヤはやめ、上を仰いだ。
つられて皆も仰ぎ――そして息をのんだ。
黒雲が狂ったようにけちらされている!
そのかれらの頭上に、いまやとどろくひづめの何千という音は、サイロンの高い塔のてっぺんにふれんばかりに低くなり――
「えい、どこまでばかなの、お前は、この長舌じじい!」
タミヤがわめいた。
「お前だろう、あのいやったらしいグラックの馬どもを、ノルンの闇から呼び出したりしでかしたのは! グインの心に攻撃をかけ、あわやその炎を消しかけただけではおさまらず、こんな余分なことをしてさ! あのグラックの馬といやあ、けっこうとり扱いやなにかが厄介なんだよ、えい、この生兵法が!」
「何をいうか、蛙をあがめる奴隷女が」
怒ってババヤガが叫び、舌をつきだしたりひっこめたりしたので、まるでカメレオンそっくりに見えた。
「生兵法とは誰のことだ。わしは闇の生きもののことは知りつくしている。だが、グラックの馬をよびよせた覚えなどないぞ。わしの望みは手つかずのこのサイロンという果実であって、踏みにじられ、汁も出ぬぬけがらではないからな」
「ではお前かい、イグ=ソッグ、けだものめ」
タミヤは顔を向けた。身長二メートル半、下半身はヤギで上半身はゴリラ、手は猛禽で顔は一本角と一つ目のウシ、という合成獣人は、ひづめのある曲がった脚をふみ鳴らして、
「われは知らぬ」
怒ったテレパシーを発した。タミヤはちょっと考えて、
「そう云やあそうだ。お前はアグリッパの使い魔であってドールの契約者ではない。アグリッパはあまりに長くを生きたゆえにすでに善悪の観念を超えているというが、それでももともとはドールに帰依したものではないからね。とすれば、お前がああした闇の怪物をあやつれるわけがない。
じゃあ一体誰だろう? ――えい、この雲と雨がいけない。どこかへ行っておしまい!」
タミヤの黒い、てのひらだけがピンク色をした手が印を結ぶと、とたんにあれほどふりしきっていた雨がふっつりとやんでしまった。
つぎに墨を流したような黒雲がふき払われたように消える。
「あれをごらんよ!」
タミヤは雲のうしろからあらわれたものを指さしてわめいた。
東にルールバ、西にエイラハ、二つの巨大な顔!
「おう、生意気なことを」
ババヤガが叫んだ。
「わしは見知っているぞ。あれは矮人エイラハと、キタイの石の目なるルールバという木っぱ魔道師だ」
「そのエイラハとルールバとやらがわけ知り顔にあんなところからあたしたちを見下しているってのは、一体どういうわけなのさ!」
タミヤがわめいた。
「そんなやつらの名などきいたこともない。その木っぱ術師が図々しくも、おこぼれにあずかろうと思ってやってきたというわけなのかい!」
「ラン=テゴスの魔女よ、その問いにはわれ自らが答えてやろう!」
こんどの声は空からふってきた。
動いたのは石のルールバの口だった。そして、つづいて盲いた顔の中でたったひとつの、その見えるとも思われぬ石の目がゆるやかにひらき――西をみると、エイラハもふくれたまぶたをあげて、細い目であざけるようにかれらを見おろしていた。
「お前はわれを知らぬというが、われの方ではお前をよく知っているのだぞ、南方のいやしい蛇喰いどもの巫女、蛙をあがめる土人女よ! お前ではなかったかな、ランダーギアの廃都コダイにおいて、飢えのあまり自らの生みおとした嬰児をむさぼりくらい、その非道をもってラン=テゴスに使い女たるの資格を認められたのは? サーリスベリの泥濘のなかで、石づくりの神々とまじわり、世にもいとわしい不浄の儀式を行なったゆえに、口にするもはばかられる醜名を冠せられるに至った、ヨブの神殿の売笑婦は? また――」
「お黙り!」
タミヤはわめいた。ルールバはやめなかった。そのうすいくちびるはさげすみきったような笑いにゆがんでいた。
「またお前のことも知っているぞ、ひづめあるイグ=ソッグ! お前がアグリッパのフラスコとビーカーの中で、どのような臭いタールと汚ならしい泥にいかがわしい賢者の石を混入することにより誕生したのか知っているぞ。下等なけだものめ! ましてババヤガ、われ――とエイラハ、これは彼に関しては至言と云えようが――を木っぱ魔道師とは、たいそうな広言だな。お前の舌はお前が岩山にこもり、野ネズミやイモリ、ナメクジだけをあいてに修業しておるうちに、長くなりすぎたとみえるな」
「何を云うか、お前などたかだかグラチウスの弟子にすぎぬではないか」
ババヤガは怒って身をふるわせ、胞子をあたりに舞いあがらせた。
「このつけあがった飛びあがり者が、身のほど知らずめが。お前などサイロンの下水でもあさっておればよいのだ。わしはババヤガ、お前などまだルーン文字の存在さえも知らぬ赤児にすぎなかったときにすでにもうその名を古代帝国カナンにとどろかせていたのだぞ」
「それはいにしえの栄光にすぎぬ」
エイラハがいやな笑い声をたてて口出しした。
「お前の名はいかにもカナンの石板にしるされていたこともあったろうが、そもそもそれこそがババヤガの時代の過ぎたことを物語っておるのさ。お前の術はもう、そのお前のすがた同様に苔むし、ひびわれ、役立たずと化しおおせているのだ。
いかにも、グラックの馬どもを呼び出したのはこのエイラハだ。だがこのエイラハは、お前たちいたずらに年々を重ねたことをのみ誇り、その実闇の力をいかに利用するかをさえわきまえぬ無能な老いぼれとはわけがちがう。われはグラックの馬どもを御することができる。
だから、われが中原の覇者となるのだ!」
「エイラハ、この裏切り者、二股膏薬の、かさっかきの犬め!」
ルールバが叫び、そちらへ石の目を向けようと巨大な頭をぐらぐらさせた。
「グラックの馬を呼び出し、自在に御してサイロンをおびやかしているのが、誰だ[#「誰だ」に傍点]と? グラックの馬どもを御することができるだと?
何をいうか、きさまは忘れたのだな。さきほどから力をあわせてこのおそるべき闇の馬どもに雷をおこさせ、雨をふらせていたものの、その主たる力はわれの呪文より発しているのだぞ。うぬぼれるのもたいがいにしろ、この根性曲がりのこびとめが」
「こりゃあ面白い。仲間割れだそうな」
怒り心頭に発したエイラハがルールバに云い返そうとするより早く、タミヤが手を打って喜んで叫んだ。
「そうれ、遠慮はいらないよ。もっとおやり、おやり! だが、それにしてもお前たちも、そんなところで気取っていないでここへおりてきたらどんなもんだい。その姿をとっているだけでもけっこうエネルギーがいるはず――むろんあたしの知ったことではないが、それにしてもそんなところで見おろされたら、話をしようにも、首がこってできやしない。それともまさかお前たちは大昔に処刑されて、胴体などありもしないってわけじゃあるまいね?」
「お前の云うことも道理だな、魔女よ」
ルールバが云った。
「どうだ、エイラハ。われらがたまたま二人ながらこの姿でかちあったのは、ともにサイロンを上空から見おろして目当ての男をさがしてのけようという魂胆あってのこと――それもそこにそうして逃げるに逃げられぬようになっているからは、どうでもこれは地上にいったんおりねばなるまい」
「よかろう」
エイラハは答えた。
と思ったとたん、最前からあれほどサイロンをおびやかし、人びとを恐怖におとし入れていたふたつの化物じみた顔は、ふいとかき消え、あとにはただいつにかわらぬ夜空がひろがっているのだ。
が――
「おや、おかしい」
タミヤがつぶやき、何か口の中でとなえてまた空を見上げ、そして首をひねった。
「どうした、魔女よ」
ババヤガがたずねる。
「お前たちったら、まったく救いようのない間抜けなんだねえ」
タミヤは云って、
「あれを見ても、何も気がつきもしないんだね? あの空を見てごらんよ、いま一体何刻だと思っているのさ?」
「フム――なるほど」
たいして苦にしたようすもなく、イグ=ソッグが云った。
「もうそろそろ、朝もなかばはまわっているころあいだな」
「なるほどだって? とんちきめ」
タミヤはいきりたって、
「ころあいの段じゃないよ! この世のなか、何が大魔術といって、星々の運行にかかわり、時間の流れを思いのままにとどこおらせたりはやめたりするほど困難なことはない、当然のことだけどね。それにくらべれば、空間をあやつることは子どもにでもできるくらいだ。
あたしは、サイロンに朝が訪れてよいはずなのにいっこうに訪れないのは、てっきりあの雲――とそのうしろにあったあの二人のあやかしが、ただ太陽の光をさえぎってのこととばかり思っていた。だが、だとすれば、あれらがああして結界をといた以上、光はもう届いてもいいはずだ。
だのにあの空の暗さ、しかもそれが未だにそこに夜がとどまり、ただ朝のおとずれがさまたげられているというだけのことなら、そこには星々もなくてはならぬ、少なくとも、世のつねの目に見えなくても、魔道の師たるあたしたちの目にはそれと知られるつねの夜空がなければならぬ――」
タミヤは両手をあげ、むきだしの肩を抱くようにして、ちょっと身をふるわせた。
「だのに、見るがいい、あの空を――どうだい、ババヤガ、イグ=ソッグ?」
「ふむ、云われてみればたしかに、巨大なる暗黒とでもいったものが、この空全域をつつみこんでいるようでもある」
ババヤガもしぶしぶ認めた。
「だがまあ案ずることはない、魔女よ。なにせあのばか者どもはグラックの馬を呼び出した。グラックの馬が、その棲家なるノルンの闇をともに連れてきたかもしれぬし、あるいはこれもまた単にエイラハとルールバなる奴輩の手の内かもしれない。
それにタミヤよ、実のところ、われわれもそれぞれにあがめる神、先達は異れども、結局は同じダーク・パワーの内なるものであれば、これはわれらすべてにとってかっこうの事態ではないのかな? それとも黒き魔女よ、お前は、闇よりも光、夜よりも朝、ドールよりもヤヌスの長子なる太陽神ルアーに心をよせるというのか?」
「そりゃあそうだが――」
タミヤはまだ納得したとも見えなかった。
だがそのとき、ふいにかれらのすぐ鼻さきの空気がゆらゆらとよりあつまってきたかと思うと、そこらの闇だけが他の箇所よりも数段濃く、重くなりまさり――
そして、それが凝りかたまったとき、そこにひとりの長身の男のすがたが生まれ出ていた。
二メートルに近い、非常な長身である。しかし横はタミヤよりも痩せているその男は、黒いフードつきの長いマントをすっぽりとかむり、そのマントの裾も、フードの蔭の顔も、どこからがまことの闇でありどこからが影であるのかを見きわめがたいほどに暗く不吉な妖気の内にとざされていた。
音もなく、ババヤガ、イグ=ソッグ、それにタミヤの前にあらわれ出たその新来の魔道師はやせほそった手をマントの中からあらわしてフードをずらし、するとそこにあらわれたのは、うすいくちびると貴族的な鼻、ぽっかりと盲いた目と額にうつろにひらいている石の一つ目――まぎれもなく、ついさきまでかれらの頭上に、その数百倍もの巨大さでひろがっていたその同じ顔にちがいなかった。キタイ生まれの魔道師、グラチウスの弟子、石の目なるルールバである。
「あんなところから人を見下して楽しもうなんて、お前さんもまだまだ甘ちゃんだねえ、え、ルールバ」
懸念も忘れたようにタミヤが云ってそちらへむきなおった。
そのとき、剣の柄に手をかけたなり、この怪物どもの集会をじっと見守っていたグインがするどい唸り声をあげ、嫌悪に首のうしろの毛をさかだててとびのいた。何の気配もなかった彼の足元に、ふいに化け物グモのようなおぞましい生きものが、忽然と出現し、彼の足首をぐいとつかもうとしたのである。
「エイラハ!」
見ているものか、そうでないのかまるきりわからない石の目をむけてルールバが叱咤した。
「よけいなことをするでない、そうでなくてもここでこれだけの同業に会うとは予測せざる偶然、それだけでももう充分、貴重な時間がついやされているのだからな」
エイラハはいやらしいケッケッという、小馬鹿にしたような笑い声をたてた。彼は通称を矮人のエイラハというのだが、なぜそのように云われているのかは、顔だけでなく、彼の全身をじっさいに目のあたりにしたとたんに、誰の目にも明らかになるのだった。
なぜなら彼は人間というよりはもっとよく、巨大なクモか、地虫か、それとも蛙の類に似ていて――その背中にもりあがっている固い肉瘤を勘定に入れてさえ、彼は地面から正確に一メートルに足らぬくらいしかたけ[#「たけ」に傍点]がなかった。
そのつぶれたような顔のついている頭は、ひどい猪首のために両肩よりもふかくめりこんでおり、その矮小な手足はひねこびて曲がっていて、彼はまるで踏みつぶされた人間の残骸、とでもいったようすに見えた。
しかし、そうした彼の不具、みにくさ、おそろしさ、のすべてでさえ、実のところは、ものの数ではなかったのだ。――矮人エイラハが、彼を見るものに、女や子どもならずとも思わず悲鳴をあげさせ、ぞっとする嫌悪の情に顔をゆがめさせるのは、なにも彼がそのような生まれもつかぬ不具だからではなく、むしろその全身から彼がただよわせている、まがまがしい、狂おしい、云うにいわれぬ邪悪さとねじまがった魂の発する臭気のゆえにほかならなかった。魔道に長け、悪魔なるそのあるじドールに魂を売りわたしていなくてさえ、彼は怪物であったろうし、世界に害悪と呪いだけを投げかける、いまわしい存在であったことだろう。
だがまた、そうしていまやエイラハが加わって五名となった、サイロンに跳梁する悪鬼ども――かれらのどのひとりをみたところで、外見はどうあれ、その魂の暗黒や邪悪でエイラハにまさりおとりのあるものとてなく、その少しづつ距離をおいて立ちつくしている外見そのものにしたところで、エイラハと同じほどにおぞましく、醜怪でないものもまたありはしなかったのだ。
それはまさしく、不幸なサイロンを前ぶれもなく襲い、むらがってきた五匹の悪鬼、闇を這いずり、墓場の腐肉を食らう屍喰らいの悪霊のうつし身にほかならなかった。グインの豹の目が赤く燃えて、彼はのどをついて出ようとする嫌悪を深刻な憤怒の咆哮をかみこらえながらゆっくりと見まわした。
悪鬼どもはいつのまにやら、彼――とつきしたがうアルス、少しはなれたところに気を失ったままよこたわっているヴァルーサ――を魔法陣さながらの五稜形に包囲するかたちをとってしまっている。
その限りなく年経た顔はひびわれ、髪と髭はシダとかわり、さながら動きだした苔と泥の山のようなババヤガ。――その左手に、身長は二メートルをはるかにこえ、額には一本のツノ、足は巨大なヤギのそれであり、赤くもえる一つ目がまがまがしい、太古に大魔道師アグリッパにより生命を与えられたというひづめある合成人間、イグ=ソッグ。
それへさげすむ目をむけて、豊かなむきだしの胸に腕をくみ、グインを見るときその目の中にいまわしいねっとりとした陰火がともる黒き魔女のタミヤ。――彼女はヤヌス神よりも古いという太古の神、ラン=テゴスの巫女であり、グインを手中にすることによって、自らの情炎とともに、彼女の神をいまの世にもういちど復活させようという野望をも満たそうとしている。
石の目のルールバ、キタイの堕落貴族にして〈闇の司祭〉グラチウスの弟子であるという。このなかで、タミヤをのぞけば、彼がもっとも人がましい姿をしているといってよいのだろうが、しかしむしろそれゆえにこそ、その顔にぽっかりとひらいた三つめの目、石の、たてに裂けた目のぶきみさは云いようもない。
そして矮人エイラハ――サイロンのかはたれ刻《どき》に巨大な顔となってその上空にあらわれ、サイロン、そして黒曜宮のすべての人の心を死ぬほどおののかせたその登場が、この狂気の異変のそもそもの前奏であり、かつ幕あきとなったのである。
ダーク・パワー、ということばで彼に危険を予告した魔道師イェライシャの忠告を、豹頭のケイロニア国王はいまや、この上もない苦渋にみちて思いかえしていた。
サイロンはいまやこの五匹の悪鬼の、毒のしたたる長いツメのあいだにがっぷりとつかまれてしまったのだ!
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「この――」
五匹のその、それぞれ異った悪夢の中から這い出してきた闇の生き物――そのおぞましい姿に、激しい嫌悪と反感の目をむけていた豹頭の戦士の口から、低い、怒った野獣の険悪な唸りが洩れた。
「この汚らしい畜生どもめ――この見るもいまわしい化物どもめ……生きながら魂を闇に売りわたした、不浄のけだものどもめ――!」
これまで、おさえにおさえてきた歯がみするような憤怒がつきあげてきた。グインは天をあおぎ、鼻に恐しいしわをよせて、あたりの建物がふるえるようなビンとひびく声で吠えた。
「サイロンから出てゆけ! ケイロニアから去れ! きさまらのような汚らわしい奴輩にサイロンはわたさぬ。わたすものか。
行かぬというなら――
――この剣にかけて追い払うまでだ!」
グインの豹頭におおわれた肩から下の、あらわれている膚は激情のあまり真赤にそまり、彼は愛剣をひっつかんでめちゃくちゃに四方へふりまわした。
が、それは逆上し、自制を失ったかにみせかけて、彼の真の動きを眩惑するためのフェイントにすぎなかった。めちゃくちゃに剣をふりまわしている、とみえた次の一瞬、彼の巨躯は雷光のように彼をおしつつむ五稜形《ペンタクル》の一方へ踏み出し、やにわに潭身の一撃がそこにたまたまいあわせた魔道師の胴を真横にないだ!
「ウワッ!」
あがった悲鳴は、石の目のルールバの声だった。ふいをつかれ、ルールバは身を守るあやしげな術をつかう間も、とびのく間もあらばこそ、あわてて身を沈めたが沈めきらずにかえって王の大剣の前にまともにその細首をさしのべてしまった。
鉄が骨を叩き切る恐しい音とともにルールバの盲いた首が宙たかく舞いあがる!
「ルールバ!」
「見ろ! ケイロニアを守るのは俺だ!」
グインの勝ち誇った大声がひびく!
「俺はかって賢者ロカンドラスをその山の住居にたずね、星を見た。〈闇の司祭〉グラチウスその人とさえも、じっさいにめぐりあったことがあるのだ――」
豹頭王は大声で笑った。彼はもはや恐れても戸惑ってもいなかった。ひとたび戦いに足をふみいれたとき、この巨豹を止めうるものはもはや何一つとしてなかった。
「木っ端のような下級術師などをこの俺が恐れると思うか、痴れ物め!」
叫びざまもうひとつの首を叩きおとしてくれんと、彼はエイラハめがけて突進した。
だがこんどは魔道師たちもこころえていた。王の大剣がなぎ払ったとたん彼の前から矮人の姿がすいと消えうせた。はっと剣をひく彼の目にうつったのは、短い両手をひろげ、足をふんばった醜い小人が、ケラケラと笑い声をひいてまっ暗な空へ舞い上がってゆく姿だった。
「おのれ! 化け物!」
グインは吠え、たけりたってババヤガに突進した。
「ホォ! わしは云わなんだかな、お前のほうがよっぽど化け物だ、とな!」
ババヤガの甲高い嘲笑!
その細い枯れた手があがったと見たとたん、王はにわかにパッと舞いあがった胞子の煙のような目くらましに顔をおそわれ、わめき声とくしゃみと呪詛とを同時にまきちらしながら左手で鼻をおおってとびすさった。盲滅法に剣をふったがむろん当たろうはずもない。
「小癪な手妻を!」
ごほんごほんと咳きこみながらわめいて、いよいよ怒りにかられた王はなかば胞子に盲いたまま他の方向へ突進した。ゆくさきにいたのは魔女タミヤである。
タミヤは身をよけようとさえしなかった。王の大剣はまともにその、あらわな腹をつきとおした。タミヤはよろめいて倒れかかる。
――と思いのほか、その黒い手はツタのように王にからみつき、その目はみだらにかがやき、腹から背にまでぬける串ざしにされたまま、その口がにんまりと淫蕩に笑みくずれて、
「つれないねえ、豹頭のグイン! そんな大剣なんかより、もっと別の剣《つるぎ》をどんなにあたしが待ちこがれてるものか、お前は知ってだろうに」
グインはウォッと怒りにみちた呻き声をあげて剣を黒人女のからだからひきぬいた。その剣には血さえついてなく、タミヤの腹には鵜の毛でつついたほどの傷さえなかった!
いまや彼は手負いの豹だった! 彼は狂おしく見まわし、巨大なイグ=ソッグへむかってつきすすみ、剣をふりまわした。
イグ=ソッグのからだは、まるで煙がそのかたちをたまたまとってはいるものの、切られても切られても手ごたえないとでもいったように、必殺の剣をうけながした。
グインの口から我知らぬ悲痛な呻きがもれる。彼は呆然としてまわりを見まわし、そのとき、さきに首を切りとばされてころがっていたルールバが、四つんばいになり、それから立ちあがった。
その手がしきりと切りかぶのようになって血もふきださぬ首の切りあとをまさぐっている。
「これはしたり、どうしたというのだ――われの首がないぞ」
テレパシーか、それとも別に発声の器官でもついているのか、首のないルールバが叫ぶのが皆の耳に入った。
「首はそこだよ、ルールバ。ほうら」
タミヤが派手に笑って、キャベツでもけとばすように、おちていた魔法使いの首をけとばした。それも耳に入らないで、ルールバの胴体は、
「首がない――ウム、首がないぞ。われの首はどこだ」
うろうろと手さぐりでさがし求める。
グインの頭の短い毛は嫌悪にさかだち、そののどから思わず野獣の咆哮がほとばしった。彼は、この戦いが彼に分のないこと――彼の剣では、この奇怪な生物どもを切りふせるもかなわぬことを、絶望のうちに悟ったのである。
「おのれ――おのれ!」
グインの絶叫は悲壮だった。
「おや、豹が吠えるよ」
タミヤが指さして叫び、馬鹿笑いをした。
が、急にしなしなとした目つきにかわり、
「ねえ、豹頭のグイン、いいかげんにあきらめて、あたしの腕にとびこんだらどうなのさ――あたしの魔道とあんたの剣がくめば、どんな力も思いのまま――ねえ、あたしがサイロンを守ってあげるよ。そしてあんたも――ねえ、いますぐあたしを選ぶと云っとくれ。あたしは木当にお前に恋しちまったよ、強い、アルカンドロスの剣のようにたくましい、豹頭のグイン!」
「えい、黙れ、魔女よ」ババヤガが叫んだ。
「恥知らずの淫売め、口うまく抜けがけしようとてそうはゆかぬ。この豹はわしのものだ、わしのものだ!」
「何をいうか、われの――」
「いや、われこそ――」
「黙れ、黙れ、黙れ!」
グインは絶叫した。
「俺は誰のものでもないわ!」
おめきながら、無駄と知りつつ、再び剣をふりあげた刹那!
ふいに青白い爆発が彼をつつみこんだ!
すさまじい大音響が耳をつんざき、豹頭の戦士のからだは、あたかもその手にかざした剣から目にみえぬエネルギーがあふれ出たとでもいうように剣を中心にきりきりとまわり、そしてどさりと倒れた。
――それなり動かない。
「まあ、グイン!」
タミヤが金切り声をあげる。
「誰だ、よくも! あたしの男を殺《や》っちまったね! 豹が死んじまったら元も子もないじゃないか、こ、このくされカボチャ!」
「死んではおらんわ」
ケラケラと笑いながらエイラハが空からとびおりてきた。その矮躯は、全身から放電でもしているように光っていた。
「こんなところで時をくっては、儀式に必要な時間がなくなってしまう。口で云い争ってもらちがあかぬゆえ、えものの口をふさぐ面倒をはぶいてやったのだ。どれ、グラックの馬よおりてこい。豹人を運ぶのだ。
グラックの馬よ!」
「お黙り、痴れ者!」
タミヤがわめいた。
「つれていかせるものか」
「そうだ、みすみすこの好機を逃してなるものか」
イグ=ソッグが云い、ずいと不吉な夢魔のようにふみだした。
折りから頭上ではエイラハの声にこたえるように、目にみえぬ馬どもの足音がいちだんととどろきわたりながら近づいて来――
「首を返せ。われの首を返せ」
ふいにババヤガが女のような悲鳴をあげた。さっきから首をさがしてうろうろしていたルールバの首のない胴体が、ババヤガの枯枝のような手をさぐりあて、ぎゅっとしがみついてきたのである。
「なにをするか。ホォ! 邪魔するな、ばかもの!」
ババヤガは叫んで胞子をふきかけたが、顔のないルールバはいっこうに痛痒を覚えぬようすでいよいよしがみつく。
「はなせ、はなさんか!」
ババヤガは度を失って叫び、そのたびにめったやたらに舞いあがる胞子は白黄色い煙になって、ついにはあたりいちめんをおおいつくし、タミヤとエイラハがごほごほとせきこみはじめた。そのとき、ふいに――
「エイラハ、この馬鹿者、お前はグラックの馬を呼んだね!」
タミヤの絶叫は、大地の鳴動する、これまでとは比較にならぬ大音響にかき消えた。
「ああ! グラックの馬が!」
「首を返せ。われの首はどこだ」
「イグ=ソッグ! イグ=ソッグ!」
目にみえぬありとある悪魔がいまやとき放たれたかのようだった!
何も目にみえるものはないのに上空はとどろくひづめでいっぱいになり、そして雲はけちらされ、塔はふみにじられた!
なにかは知らず、無数のその見えないもの[#「見えないもの」に傍点]がかけぬけてゆくとき、塔のレンガにはやきごてでおされたようにひづめの――巨大なひづめのあとがおされ、そしてそれはつぎからつぎへとかさなりあって前のひづめのあとを消した!
やがてさしも固い石屋根に、ピッと亀裂が走り、みるみるそれが屋根全体にひろがってゆき――
そして奇妙なくらいゆっくりとした崩壊の過程をそのままに、サイロンの誇るいくつもの塔はガラガラと町々の街路の上へくずれおちてゆく!
「助けてえ! 助けてえ!」
「アアーッ!」
「ヤヌス! ヤヌス! お慈悲を!」
たちまちに、絶叫と悲鳴、そしてさながら死にたえた無人の都と化したのかと思われていた屋根屋根の下にこれほどたくさんの人びとが息を殺していたのかと目をうたがうような、たくさんの人間たちの死の乱舞がはじまった!
「エイラハーッ! ばかもの、グラックの馬をよびもどせ! こ、このままではサイロンがふみつぶされてしまうわ!」
「エイラハ!」
魔道師たちの絶叫!
それにまじって、
「見たか、見たか、見たか、見たか!」
ケラケラとはてもなく笑うエイラハの声がサイロンじゅうにひびきわたった!
「わしが強い、わしがきさまらのなかで最も強く魔道にたけ、豹と星々の力とこの世界と、すべてを手に入れる力があるのだ。見たか、見たか!
それ、馬どもよ、早くグインをひろいあげ、その闇の背にのせてわがアジトまでつれてゆけ!」
「そんなこと、させるもんかね!」
もはやふりそそぐがれきの滝、くずれおちる鉄骨、そしてとどろきわたる雷鳴とはためく稲光の中で、それが誰の声とも、どのような姿でどのようなポジションをしめしているともわかちがたくなっていた。
ただ勝ち誇ったエイラハのみにくい顔だけがさきにも増してブヨブヨとゆがみ、ふくれあがりながら上空へ上空へ舞いあがり、いまやその巨大な顔だけが、サイロン全市の夜空をおおってそれをのみこもうとするかのように笑って笑っている!
そのカタストロフの光景のなかで、小さいからだをいよいよ小さくちぢめて、倒れてきた建物の下にヴァルーサの失神したからだをやっとひきずりこんだアルスは、ガタガタふるえ、耳をふさぎ、目をおおい、またおそるおそるのぞいては、その、この世のものとも思えぬ戦いを見守っていた。
「ヴァルーサ、しっかりしてくれ――ヴァルーサ――ああ、ああ、王さま、王さま! 助けて下さいよう、この世のおわりだ、この世のおわりだ! サイロンのさいごだ!
ウワーッ!」
稲妻に目をくらまされ、立ちのぼる煙にせきこみながら、それでもなおかつこの小悪党は健気なところを見せて、悪霊どもがその異常な戦いに気をとられているうちに、グインの倒れたままのからだをこの物かげへひきこもうと狙っていた。
半泣きになりながら、王の側へかけより、その重いからだをひっぱるのだが、そのたびに爆風と雷鳴にあおられて悲鳴をあげて隠れ場へとびのいてしまう。
「クソッ、死なねえぞ、おらあ死なねえ――王さまがやつらにやられなすったらサイロンはおしまいだ、うわさにきく悪魔帝国セムみたいに、ドールの領土にされちまうんだ――王さまを助けなきゃ! 王さまを――……」
泣き顔を煙と泥とほこりとでまっ黒にして、再びアルスがグインにかけよろうとかまえたときだ。
「わああッ!」
彼は絶叫してつっぷした。ふいに何か知れぬ目にみえない、しかしそこにいることがありありと感じられる巨大な生きものが、グインの巨躯を動かした!
おお! それ[#「それ」に傍点]が動くたびに石畳に、ジュッと煙をあげる、信じられぬほど巨大なひづめがいくつもおされる!
それがまぎれもなくウマであるとしても、グラックの闇の馬は八本よりもっと多い脚と、そしておそらく手までもそなえているのにちがいなかった。それ――そのもの――はグインの巨躯をかるがるともちあげ、まるで目にみえぬ生きものの背にのせられたように失神したケイロニア王のからだは腹でくの字なりに折れて左右へもたれかかった。
そのまま、王のからだはすさまじい勢いで中空たかく上ってゆくのだ。
「わあーッ! 王さまあ!」
アルスは叫び、とび出してその王をひきとめようとした。だが上からふってくるスレートれんがに頭をうたれ、悲鳴をあげて横転してしまう。
頭に血を流しながら倒れたアルスは、もはや、茫然と手をこまねいて[#底本「こまぬいて」修正]、信じがたいほどの高さへまで上ってゆく王を見上げるほかはなかった。
と――
突然中空へあらわれた醜怪な化けもの――イグ=ソッグの奇怪なすがたが、カギヅメのある手をのばして、その王をひったくろうとした!
「ガーッ!」
その背景にひろがっていたエイラハの数キロメートルもある口がひらいて、そのイグ=ソッグにむかっていきなり巨大な白い息を吐きかける。その息は空中でライオンのかたちになってイグ=ソッグにつかみかかり、イグ=ソッグはそれと戦うためにあわてて体勢を立て直さなければならなかった。
「グラックの馬よ、このすきに、早く豹を運ぶのだ」
エイラハがいなづまよりもひびきわたる声で叫ぶ。
「お待ち! やらないよ!」
どこからともなくタミヤの大音声がきこえたと思ったとき、地上からふいに一匹の犬頭蛇身の化けもの――タミヤの使い魔たる犬頭蛇があらわれて、飛ぶ杖のようにまっしぐらにエイラハの巨大な目めがけてかみつきにかかった。
得たりとエイラハの口がまたひらき、それからもう一匹のライオンがとび出して、空中でいまひとつの死闘をくりひろげる――が、
「ウワーッ!」
ふいにエイラハの巨大な顔がゆがんだ。その額のまんなかにまるで針のように小さくみえるものがつき立っていた――ババヤガの杖!
ババヤガはいつのまにやら塔のてっぺんにふくろ[#「ふくろ」に傍点]のようにとまり、あいかわらずしがみついてくるルールバの胴体をあいてに手古ずりながら、その杖をエイラハの眉間めがけて投げつけたのである。
「ウワーッ!」
もういちどエイラハが吠えた。
「グラックの馬が!」
一瞬、動揺と痛みでエイラハがその闇の馬の制御を失った刹那だった!
何物にも決して馴れるということのない闇の馬は、ふいに、さながら宙でさお立ちになりでもしたかのようだった。
なぜならグインの宙にもたれていたからだがやにわにずるずるとずりおちるように見えたかと思うと、こんどは巨大な石のように、何キロもの上空から落下しはじめたからである。
「王さまァーッ!」
アルスの恐怖にみちた叫び!
「あ、あ、あ、グラックの馬が行ってしまう、行ってしまう! 待ってくれ、戻ってこい、戻るのだ!」
エイラハの絶叫!
その中を、目にみえぬ悍馬は、それを縛る魔力から自由になれたことが嬉しくてたまらぬ、とでもいうように、軽快ないくつものだく足のひづめの音を虚空にひびかせ、はためく雷鳴のあいまをぬって、みるみる、おそらくはるか北の空かその地の底、その生まれきたった終わりなき闇の世界へと遠ざかっていってしまった。
「えい、生兵法の小わっぱめ、グラックの馬さえいなけりゃアこっちのものだ」
ババヤガが叫び、面倒なとばかりルールバに抱きつかれたまま空中高く舞いあがる。
「王さまが――王さまが!」
アルスは恐怖にみちて叫びつづけ、やにわにその地面に激突する寸前を抱きとめようと、その落下地点を目測してかけだした。
「豹を殺しては!」
イグ=ソッグが気づいて中空から舞いおりてくるが、そのかぎヅメは二回、三回、落下するグインをつかみそこねる。
墜落のスピードが速すぎるのだ。重い巨大なからだに加速がついて、そのままでゆけばグインのからだは、石畳に叩きつけられ、とびちるのをまぬがれない。
「おしまいだ! おしまいだ!」
とうていその落下地点へまで間にあうようにはゆきつけないし、ゆきつけたところで小男の彼に二倍もあるような王の身体をうけとめられっこない、と悟ったアルスはがくりと石畳にひざをつき、両手で髪をかきむしって泣き声をあげた。
「グイン!」
タミヤの悲鳴のような声!
そのなかを国王の巨躯は岩のようにおちてゆき――
いまや石畳に激突しようというところで、まるで足首をむすびつけた糸が張りきった、とでもいうように、ぴたりと止まった!
「ああっ……」
アルスは息が止まったようにおどろきにうたれて見守る。いや――
アルスだけではなかった。
ふいにうたれたような驚愕が魔道師たちのあいだにひろがり、つぎつぎにかれらはその動きをとめて凍りついたように空をふりあおいだ。タミヤの口から、低い、驚愕と不信にみちたかすかな呟きがもれる。
「あ――あれは一体……?」
そして、魔女はふいに非常な恐怖に襲われでもしたかのように金切り声を上げはじめた。
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第四話 黒魔殿の死闘
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1
「いったい、何――」
誰よりもおどろいたのはあるいは、合成人間のイグ=ソッグだったかもしれない。
かれはおちてゆくグインのからだをひきとめようとしてかがみこんでいたので、そのかれのうしろ上方をあおぎ見た魔道師たちの顔に一様に浮かんだ、信じられないような驚愕と当惑の理由を、まったく見ることができなかったのだ。
山羊の脚と牛頭、それにいまわしく赤いひとつ目をもつ合成人間は、さもいぶかしいといったようすでふりかえり――
そして、見た。
その赤いひとつ目がはりさけんばかりに見開かれ、その顎がだらりと垂れさがる。
「あ――」
イグ=ソッグの呆れたようなテレパシーがひびいた。
「あれは一体何[#「何」に傍点]だ」
「あたしが知るもんか!」
ようやく、タミヤは、最初の驚愕から回復しかかっていた。
「おおかたおまえのしわざだろう、ババヤガ! 違うというのかい」
「わしは知らぬ」
ババヤガはふるえをおびた声で云いながら、あっけにとられてそれ[#「それ」に傍点]を見守る。
「それにしても、何だ、あれは、一体」
「エイラハは――どうなっちまったの。空いちめん、あんなにひろがっていたのに、どっかへ行っちまった」
タミヤがつぶやく。その間も白い見開かれた目はどうしても空の一点をはなれようとしない。
「あれは……」
その悪鬼のようないずれ劣らぬ黒魔術つかいたち、長舌の隠者ババヤガ、アグリッパの合成怪物イグ=ソッグ、ラン=テゴスの魔女タミヤ、そしてグラチウスの首のない弟子ルールバ――かれらを、それほどまでに動揺させ、恐慌におとし入れさえした、空の怪異とは――
それは、わずか一瞬前までたしかに何もなかった――グラックの馬どもが破壊と闇とをともにかれらの本来の棲家なる地の底へといざない去ったあとは、ただくずれおち、陽ついた塔と建物の残骸だけが、嵐のあとの疲労困憊のなかでしずまりかえっていたはずのサイロン市の、その中心部に――
一瞬前まではエイラハのみにくい顔でおおいつくされていたはずの空を圧して突如そびえ立った、闇よりもさらに黒く、さながら暗黒星雲をそこに結集させて黒き魔殿となしたとでもいいたいような、ま四角な奇怪な建造物だったのである。
おどろくほど巨大なモノリス、それとも墓石かとみえるそれには窓も入口も何ひとつなく、それどころか、その足もとはサイロンの家々をふまえてはいたものの、それはこの世からではなく、もっと異なる怪奇な次元をそのまま土台としてにょっきりと生え出てきた暗黒の墓石、あるいはむしろ宇宙空間の真空そのものが、そこに切りとられて姿をあらわしたかとさえ見られ――
その足もとはかすむような、遠ざかるような、奇妙な印象でむしろその天辺よりも遠くにあるようにみえ、そしてそれは、そこにありながらそこにはなく、そこにありえないくせにまぎれもなく他の存在にかさなりあうようにしてそこに存在している、といった、何やら幽霊じみた不吉さをただよわせて、石よりもっとかたいようでもあれば、ゼリーよりももっと実体がはかないようでもあり、見るものの心になんともいえない、うつろな、さむざむしい、幽冥界に手をふれてしまったとでもいうような戦慄をよびさまさずにはおかないのだった。
それはさながらその墓石そのものが生あるもの――奇怪な知性体の一種でさえあるようにぶるぶるとのびちぢみし、ふるえ、あたかも何やらさしまねくように見えたが――
と思ったとき、地上の四、五メートル上の空中に、見えぬ糸でさかづりにされでもしたように、ぴたりと止まって浮いていた、ケイロニア王のたくましいからだが、ふいにスーッともちあがった。
雷にうたれて手に大剣を、それだけはたとい無意識の中でも放すまいというように握りしめたまま気を失っているそのからだが空中でふわりと一回転してあおむけに浮かび、そのまま真上に浮きあがっていったが、その高さが、サイロン上空に突如そびえ立った巨大なモノリスのちょうどまんなかぐらいにまで達したと見えたとたんにそれはすいと向きをかえてスピードを増し、すごい勢いで一直線に黒い謎の建造物へ吸いよせられはじめた。
それはまさしく、吸いよせられる、とでもいうほかには形容もできぬ速度だった。おどろきのあまり目と口をあきっぱなしにして、なすすべも知らぬ一同の見守る前で、王のからだはその豹なる頭からモノリスへまっしぐらに突っ込んでいった。
誰かが悲鳴をあげる――が、まるでそのモノリスはゼリーがフォークのさきをうけいれるように、――というよりは、さながらその待ちかねた客人をあわてて招し入れようとするあるじででもあるかのように、ほとんどうやうやしいといってよいやさしさで左右にひらいてグインのからだをうけいれた。
そして一瞬にしてまたもとのとおりにぴったりととざしてしまう。そこには出口も入り口もまったくあるとは見えぬ、奇怪な生ある暗黒、黒い一枚板が宙にうかんでいるばかりである。
「――ああ!」
ようやく、誰かののどから、驚愕のあまりかすれた叫び声がほとばしったのは、ややあってのちだった。
「豹人が――!」
「こ、こんな、ばかな!」
「な――なんだ、あれは一体、なんだ……」
ようよう我に返ったかのようにかれらが口々に叫び立てはじめたときには、もはや豹頭王の姿も――そしてさっきまでは空いちめんにのさばっていたエイラハのみにくい顔さえもどこにもなく、ただ闇を背景にした闇の中の闇が、ほのかにふるえながら宙に浮いていた。
「エ――エイラハのしわざかい、これは?」
信じかねたようにタミヤが叫ぶ。が、
「いや、そんな、ばかな――あいつはそんな大物じゃあない。これほどの術をあいつが使うなら、なにも、あいつはとっくにあたしたちぜんぶを片手でかたづけられたはず――グラックの馬なんかもちださなくったってね!
だが――それならいったい、誰が……」
たずねるように、解答を見出そうとでもするかのようにふりかえり、残る三人の魔道師たちを見まわす。
だがどれを見ても、魔女以上に肝を抜かれた顔、驚きから立ち直れぬ顔、うつろな顔を見出したばかりである。タミヤの膝ががっくりとくだけかかった。
が、ふいにその邪悪な神の力が彼女に援軍として注ぎこまれた、とでもいうようにとびあがった。
「な――何だってんだ、ありゃあ! 横あいから出てきてあたしたちのこれほど苦労して見つけたえものをあっさりとかっ掠おうってこんたんだね! えい、ババヤガ、イグ=ソッグ、首なしルールバめ、なんとかお云いよ、阿呆のように口をあいていないでさ! 腹が立ちゃあしないのかい、あんな化け物墓石なんぞにひょいとグインをかっぱらわれて!
何ものが使ってる使い魔の化けたもんかは知らないが、あれだってどうせ、目当ては同じと、相場は決まっているんじゃないかね!」
「お――おう! おまえの云うとおりだ、タミヤ!」
うろたえたようにババヤガが叫んだ。
「一体、あれは何なのだ。何者の入れ知恵で――」
「そのせんさくもあとだよ、のろまの爺いめ」
タミヤは口ぎたなく、
「とにかくいまは一刻も早くグインをとりかえさなくちゃ――問題の会[#「会」に傍点]は今夜竜の刻、もうあと半日しかありゃしないんだ。さあ、お前さんたちは好きにするがいい――あたしは、ラン=テゴスよ助けたまえ! だ、あたしはグインをとりもどさなくちゃ、あたしの可愛い男をね!」
「だがあれが一体何ものの結界か、それを知らぬうちはうかつには――」
イグ=ソッグが考えこむように云いかけたが、ランダーギアの魔女はもうあいてにしていなかった。
「犬頭蛇よ!」
しわがれ声で呼ばわって彼女の奇怪な使い魔を呼びたてる。どこからともなくあらわれた毛皮ある怪物を、二匹従え、のこる一匹の首にうちまたがって、
「行くんだよ!」
叱咤するなり空のモノリスめがけて浮揚しようとした。
「待て! それならわれも――」
イグ=ソッグ、それにババヤガがあわてて追おうとした折も折り!
ふいにモノリスが、奇怪な光につつまれたかにみえた。
それはたとえて云わば、闇が闇であるままで光りだしたらこうもあろうかという、昏く、不浄な、いまわしい輝きであり――黒い太陽のコロナ、死者の生命、そういったことがらを思いうかばせたのだが――
その光をあびたとたん、魔道師たちのからだが、電気にふれたようになるのを、恐怖に凍りついて見つめていたアルスは見た。
もうタミヤは口をひらかなかった。イグ=ソッグも、そしてババヤガも――
首を求めて這いずりまわっていたルールバでさえ。
そのかれらの邪悪な顔は、ふいにかぎりなくうつろになり、ひどく遠いところからの圧制的で強力無比な命令にでも耳をかたむける死者といった、そんな具合いに見えはじめた。
と見えたとき――
かれらは動きはじめたのである。
それは、歩き出した、といえばよいのか、すべりだした、といえばよいのか、そんなふうに見えた。
それはちょうど、さきにグインのからだがもちあげられて、モノリスに吸いこまれていったときと似てはいるようだがしかしたしかに異って、むしろかれら自身が、かれらの意志で、この世ならぬ力をつかって空中を浮揚し、モノリスに近づいてゆくかにみえた――ただ、そのかれら自身の意志、それを感じる心そのものが、どうするすべもない強力な力によってのっとられてしまい、何ひとつ感じることも、あらがうことさえも、一時的に封じられてしまった――という、そんな異様さがあるのである。
かれら――ダーク・パワーのいずれ劣らぬ強力な魔道師たちのすがたは次つぎに宙高く舞いあがり、ガラスの見えない橋をひかれて歩むかのように歩んでモノリスへむかってひきよせられていった。
アルスは、もはやおどろくことさえも忘れて、ぼんやりとそのようすを見つめていた――だが、もし彼にちかぢかとかれらを見ることができたなら、彼は、生き人形のようになったタミヤ、イグ=ソッグ、ババヤガのガラス玉の目のなかに、なにやら魂も凍り、ドールその人でさえおののくような深甚な恐怖と、そしてなすすべなく云うなりにさせられる苦痛とを見出して、さらに戦慄したことだろう。
疑いもなくモノリスの強烈な力がかれらをしばりつけてしまい、かれらは互いのようすを見さだめることも、叫ぶことも、悲鳴をあげることさえもできずにいるのだった。
そうするうちに、かれらのからだは空中をすべって、モノリスにふれるところまで近づき――というよりもむしろ、モノリスの方もまたかれらめざしてほのかにふるえながら近づいてきたかに見える。
と思ったとき、先頭にいたタミヤのからだは、ふいに、モノリスが彼女をつつみこんだとも、タミヤがそれの中へとびこんでいったともわかちがたいようすで、ふっとその暗黒のゼリーにのみこまれ、消えてしまった!
つづいてイグ=ソッグ――それからババヤガ。
さいごにルールバの首のない胴体が、手足をもがきながらつっこんでいったあとへルールバ自身の目のない首が、ひろいあげられたボールのようにとびこんでゆき、それをさかいにしてぴたりとモノリスは発光するのをやめてしまった。
それどころか、その、闇と闇よりも濃いモノリスの本体とをわかっていたかすかな光さえもしだいにうすれはじめ――
ついには、どこからが夜闇であり、どこからがモノリスと見わけるすべもないくらいに、それらはぴったりととけあってしまったのである。
それでいながら、それは、どこへであれ去ったのではなく、むしろ見えなくなった分、いよいよたしかにそこに存在していることが、いっそうはっきりと感じられるのである。
その中にのみこまれていったグイン、そして五人の魔道師たちがいったいどうなってしまったのかを知らせるよすがとなるものはそこには何ひとつとしてなく、しかも、それはたしかに存在していた。
アルスは、しばらくのあいだ、あまりにもあいつぎすぎた異変にもはやおどろきも恐怖も通りこしてしまった虚脱状態で、ぼんやりとそのまっ黒な空を見上げて石畳にすわっていた。
彼の周囲におちているがれきの山にも、どこかからきこえる負傷者の微かなうめき声にも、何の注意も払うようでもない。――が、突然、何かの呼び声でもきこえてきて我に返った、とでもいうようにはねあがった。
「おお――大変だ!」
ふいにまわりをきょろきょろと見まわして、叫び声をあげる。
彼の仇名の由来であるところの、|穴ネズミ《トルク》そっくりの細い鼻と丸い目とは、死人のように青ざめた顔の中で激しくまばたいたりふるえたりし、そして彼は石と石のあいだのくぼみにぐったりとよこたわったなり、傷ひとつおわずにいたヴァルーサの重いからだをひきずり出すなり、それをゆさぶりはじめた。
「ヴァルーサ――ヴァルーサ! 大変だ、王さまがやつらと一緒に連れていかれちまった! ヴァルーサ、起きてくれよ、ヴァルーサよう!」
はじめのうち、アラクネーの踊り子は、アルスがいくらゆさぶってもいっこうに意識をとりもどすきざしをみせなかった。
アルスはいよいよやっきになり、ヴァルーサのほおを二度、三度と叩き、その首を左右に動かし、なおも気づかぬとみて、どこかに気つけぐすり、せめて水か酒のつぼはないものかとあたりを見まわす。
あろうはずもなかった――あたりはもはや栄光あるケイロニアの首都というよりは、たんなる廃墟の悲惨さで、ただいちめんのがれきとこわれた家々、折れた柱、がつづいている。
「どうしよう、早くしないと――ヴァルーサ、よう!」
アルスがうろうろと両手をもみしぼったとき、ふいにヴァルーサの胸が二、三回大きく上下したかと思うと、彼女はぼんやりと目をひらいた。
彼女のもうろうとした記憶にのこっているさいごの場面がいきなり、彼女の心にうかびあがってきたのにちがいない――それは、ババヤガの魔術で空中高くつりあげられ、おとされかかり――そこへ、イグ=ソッグのカギヅメがふいに虚空からあらわれ出てがっしりと彼女の胴をつかんだ、恐しい情景だった。彼女は上体をおこし、甲高い悲鳴をあげた。
が、すぐに、こんどこそはっきりと周囲に気づいた目で見まわして、いつのまにかあたりのようすがまるでかわってしまっているのに気がついた。
その目がアルスの上におちて、また口をあいて金切り声をあげようとしたが、それをすぐにアルスであると気づいて、何やらいぶかしげな、腑におちぬ表情でまじない小路の冒険を共にした小盗賊を見た。
「ああ――アルス。王……王さまは?」
その口から、ようやくかすれた声がもれる。アルスはヴァルーサのむきだしの肩をつかみ、おろおろ声で、彼女の気を失っていたあいだにおこったことを何とか説明しようとこころみた。
「王さまを――連れてっちまった? ――誰が? 魔道師たちは?」
ヴァルーサはのみこめないようすで頭をふる。もどかしさのあまり泣きそうな顔でアルスはヴァルーサをゆさぶった。
「そんなことを云ってるまに――王さまがやつらにやられちまう! どうしよう、とにかく、黒曜宮に知らせて――」
「ばかね! 宮廷の兵士なんかに知らせてどうなるっていうの」
ようやく少しづつ事態をのみこみはじめたヴァルーサはきびしく決めつけた。
「王さまでさえ立ち向かうことのできないそんな魔道の力に、たといケイロニアの最も勇敢な騎士が一万いたところで――」
「だけどそんなら――」
「王さまが奴等に! ――どうしよう、どうしたら――」
ヴァルーサはやっとことの重大さを悟ったように、両手をねじりあわせて苦悶の叫びをあげた。
「第一宮廷まで戻ったりしていては間にあわないし、あの頭の固い延臣どもが、あたしやあんたのようないやしいものの云うことをすぐに信じてくれるとも思えないし――ああ、どうしたらいいのかしら! 王さまが死んじゃう」
そしてまた彼女は苦悩のあまり両手をしぼるように空へつきあげて頭をふった。
が――長いことそうしてはいなかった。
ふいに、まるでまわりの空気の中にその考えが漂っており、それがひょいと彼女の呼吸に混じって彼女の内に入ってきた、とでもいったようすで、目を大きく見ひらき、アルスをのぞきこんだ。
「そうだわ! イェライシャだわ! イェライシャよ!」
ねじりあわせていた手をほどき、手のひらを激しくうちあわせて叫ぶ。
「え――」
「まあ、わかんないの? 焦れったいわね! 王さまがなんで、この大さわぎのなかを供もつれずにサイロン市内へおいでになったと思うの。王さまはこの敵が通常の手段ではとうてい追い払えない、とすぐわかって、イェライシャの助けをかりよう、と考えたのよ。
イェライシャはあんなふしぎなところに住み、このことあるを予言することもできた、偉大な白魔術の魔道師だわ。きっと、あいつらをやっつけ、王さまを助けるのに力をかしてくれるにちがいないわ。
行こう、アルス! 宮殿なんかに行っていては間にあわない。あたしとあんたとで、イェライシャにこの窮状を訴え、そして正さまを助けてもらうのよ!」
「しかし……」
アルスが何か云おうとした。
だがしまいまで云いおえることはできなかった。
「わざわざ来るには及ばぬ、娘よ」
突然、なにひとつなかったはずの街路の上で、虚空から声がし、そしてまるで水の中に影がわき出るように、おぼろげな姿が生まれはじめ――
そしてそれは、白髪と白髯の、フード付きのマントをしっかりとまといつけた魔道師のかたちになったからである。
「ヒャッ!」
アルスは叫んで、火傷をしたとでもいうようにそこからとびしさった。
ヴァルーサも口に手をあてて悲鳴をあげかけたが辛うじて思いとどまった。
「わあ! ――わあ、おどろいた! あんまりたまげさせないで下さいよ!」
アルスがとびのいた場所から、胸に手をあてながら不平がましい声を出す。イェライシャは笑った。
「驚かせるつもりはなかった。だが、ことはちと急を要するのでな。
いや、いや、説明には及ばぬ。わしはわが異次元の境界なる棲家から、心の眼によってはじめから一部始終を見届けておった。いや――」
「ならなぜもっと早く――」
怒ってまくしたてようとしたヴァルーサをとどめるように、てのひらを外にしてその老いた手をあげてみせた魔道師は、
「わしとてありとあるこの世の事象のすべてを認識しているというわけではないし、すべてを自由にできるというわけでもないのだ。わしは星辰をはかり、その正しい運行をさまたげている要因をつきとめ、そしてまたサイロンをはからずもつつみこんでいる異様な瘴気の性質をしらべる必要があった。
だがいまやっとそれらをすべて終え、かつどうやらそのかつて知らぬまでに巨大な瘴気を断つために必要な武器のあれこれをも手に入れた。
それでただちに次元の扉をひらき、こうしてやってきたのだ――娘よ。
ことはかなり重大になっている。下手をすれば――ということはケイロニアの豹のエネルギーをきゃつらが悪用することに成功すれば、悪い因子が正しい因子を駆逐し、このあたりいったいは光のかわりに闇、黄金律のかわりにドールの意志がすべてをしろしめす、恐るべき版図となってしまうかもしれんのだ」
「それじゃなぜこんなとこでぐずぐずしてるの!」
ヴァルーサは叫び、とびおきて空――何もないかにみえて暗い、しかしつねの夜空ではなくぶきみにブヨブヨした感じの、星ひとつ、雲ひとつない――を指さした。
「というのは、娘よ、わしは、お前の助力を乞わねばならぬからだ」
イェライシャは答えた。
「それゆえにわしは直接わしの次元からあの闇のモノリスの次元へゆくことをやめ、ここへ立ちよったのだ。さきにわしはあれこれの武器があるといったが、そのうちのひとつ――最も巨大な危険に立ち向かうためというのではないが――は、ほかならぬお前なのだよ、娘よ。
どうだな――お前は、かの豹を助けたいか?」
「あたりまえだわ!」
ヴァルーサはせきこんで答え、胸を大きくふくらませた。
「王さまのためなら死んだっていいわ。だってあたし――あたしは、王さまが……」
云いかけてやめ、浅黒い頬をうすく染める。イェライシャはうなづいた。
「わしと一緒に来るというのだな。あのぶきみな異る次元のなかまでも」
「こんなところでぐずぐず云ってないでよ!」
というのがヴァルーサの返事だった。彼女はあたりを見まわしたが、石畳の上に、誰かの剣のさやからすべりおちたとおぼしい短剣のきらめきを見出すとすぐ、とびついてそれをひろいあげ、腰のサッシュにさした。
イェライシャはこんどは無言で、お前はどうするのかとたずねるようにアルスを眺めやった。
アルスは目を丸くした。そしてブルブルと身をふるわせたが、
「も――もちろんあっしも行きますよ! あっしだって王さまを助けたいんだから――どうしてあっしが行きたくないなんて思うんです?」
空元気をふるいおこして叫ぶ。イェライシャはフードの下で、苦笑するように微かに唇をゆがめてうなづいた。
「よし、では行こう」
ふたりに云う。
「でも――どうやって? 空をとぶの?」
空を見あげ、さきにババヤガに空中高くつりあげられたことを急に思い出したようすで怖ろしそうに胸に手を握りしめてヴァルーサが云った。
イェライシャは小さく笑った。
「まことの魔道はな、そのような大仰な仕掛けなど必要とせんのだよ」
云いきかせるように、
「ここにきて、わしの両わきに立ち、目をつぶりなさい――慣れておらぬとめまいをおこすからな。移動は一瞬ですむ。では――行くぞ!」
アルスとヴァルーサは目を見あわせ、それからおずおずとイェライシャの両わきによりそった。魔道師のひからびた手が胸にかけた祈り紐をまさぐり、そのくちびるが何やら呪文をとなえはじめる。
そうして、かれらは、いまだかつて生身の人間が遭遇したこともない、奇怪で異様な冒険へと、足をふみ入れたのだった。
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2
とざしたまぶたの裏に暗黒がひろがり、それはふいにからだの浮きあがるような感じと同時にほのかな赤らみに変わった。
全身が恐しい速さで一回どろどろにとけくずれて、そののちにまたたちまちもとどおりに合成された、とでもいった、異様な、眩暈をさそう感覚があり、時間と空間とはその正常な運行を失い――
「よかろう、もう目をあいてよいぞ」
イェライシャのおちついた声がきこえてきたのは、わずか一瞬とも、それとも数千年ともつかぬ、何がしかの時が流れたあとだった。
「――!」
おずおずと目をひらき、まわりを見わたしたアルスとヴァルーサのふたりは、おどろきに息を引き、声にならぬ叫びをのみこむ。
それは一瞬前までたしかにかれらのいたはずの、グラックの馬のために見るかげもなく破壊されたサイロンの街路とは、似ても似つかない場所だった。
それどころか、それは、かれらの知るかぎりの、ありとあるこの世の辺境、文明圏の、どのような場所とも、これっぽっちも似ているとは思われない。
「こ、ここは……」
アルスはとても信じられぬといったようすでまわりを見まわし直した。
「ここはどこなんです、いったい」
「モノリス――とそうさっきお前は呼んでおったようだな。あの黒い巨大な建造物は、実は建造物というようなものではないのだが、ここは、それの中だ」
「あの墓石の中! じゃあおいらたちはいま、空中にブル下がってるっていうんですか?」
アルスは気味わるそうに下を見おろしたが、何ひとつ見えはしなかった。
ヴァルーサはもっと実際的だった。どこであれ来てしまった以上しかたない、といったようすで、ひとしきり驚異の念にうたれたあとは、息をつめて一心にまわりのようすをたしかめている。
それは、何とも云いようのないくらいぶきみで、そして奇怪きわまりない光景だった。
あたりはいちめんに、頭上はるかのところにあるとおぼしい天井から周囲の壁にいたるまで、同じ妙になまなましい闇の色合いである。その闇は、ところどころで影が濃くなりまさったり、その向こうにあるものがすけてくるかのようにほの白さを帯びたりしてはいるものの、すべて同じゼリーか海のクラゲようのものでできているようであり、そしてこの奇怪な世界は、さながら巨大な鐘乳洞の中であるとでもいうように、途方もなく広かった。
広くて高い。かれらはその、巨大な黒曜宮の謁見の間でさえその十分の一もないほどにひろびろとして天井の高いその洞窟の一番底に、謁見の間にさまよいこんだネズミのように、三人よりそって立って上を見上げているのだった。
その四方の壁はたいらになっているのではなく、気の狂った彫刻家がこねまわして放棄した粘土のかたまりのように、深いくぼみができている箇所があるかと思うと、ずっと下から上の方まで気味のわるいウロコのような凸凹がつづいている箇所もある。そのへんも、ちょうど鐘乳洞の奥ふかくわけ入ったさまを思わせるのだが、ただ違うのは、そのどこの壁もぶるぶるとゼラチン質のようにふるえをおびて、たえずゆれうごいているかに見えて中にいるものに眩暈をおこさせることだ。
かれらの立っている左手の方は何層かのバルコニーといったように張りだして段がついており、右手のほうは、少しづつのぼり坂になって、そのさきがぽかりと、大きくひらいた口のように暗くなっている通路へと通じているのが、どこから来るのかわからない奇妙な昏い明るさのなかで見てとられた。
そのほかの場所もおぼろげながらそれぞれに怪奇なオブジェめいたすがたを、その暗い空間にさらしている。そして、少しでも正常な生あるものの気配はかれら三人をのぞいてはまったくなく、あたりは異様なまでに――およそこの世界には通常の音も光も、生命さえも存在しないのか、と疑わせるくらいにしんと重苦しく静まりかえっていた。
「暑い」
ヴァルーサは鼻にしわをよせてつぶやき、額をそっとぬぐった。
「なんだか――それに変なにおいがするわ」
クンクンと鼻をうごかしてまたつぶやく。実際、そのあたりの空気には、じっとしていてもむうッとおしよせてくるような温《うん》気があり、またヴァルーサのいうように奇妙な不快な臭気がたちこめているようだった。
そのほのかだが執拗な匂いは、魔物の領域に特有のかびくさいしめった匂いとも、といってドールの神殿にはつきものの邪悪な香をたきこめる甘い匂いともちがい、鼻孔になまあたたかくまつわりついてくるようなその匂いには、何とも形容のしようのない気味のわるいなまぐささが忍びこんでいた。それは云うなれば、生きぐされの病や、熟れすぎた果実の甘ずっぱい悪臭に、血の匂いがまじりあって生じたといった、ほのかだがカンにさわる、馴れることのできぬ臭気だったのである。
それらはかれらを不安にさせ、おちつきなく、びくびくさせた。ヴァルーサもアルスもいよいよ魔道師に近く身をすりよせ、こうなった上はひたすらこの〈ドールに追われる男〉だけが頼みの綱だ、というようにそのマントをつかんでいた。
「と――とても広いのね。ここは一体何なの?」
それでもようよう少しづつそこにいることに馴染んできたヴァルーサがいう。声は、そのように高い天井であるから、いんいんと反響しても当然と思われたが、そうはならず、さながらそれらの壁に高度の防音の効果があるように吸いとられてたちまちにもとの重苦しい沈黙が戻ってくる。
「それを云うたところでお前は信じまいし、また云うてみたところで何にもなるまい」
イェライシャは答えた。
「こ――この中のどっかに、ほんとに王さまがいなさるんですか?」
アルスもきいた。イェライシャはうなづく。
「間違いなくな」
「そう、じゃ、出かけましょうよ」
ヴァルーサはようやく、かれらの焦眉の任務に気づいたように、
「ねえ、あたし、ここにいるのイヤだわ。何だか背中がむずむずしてきて、なにかがとても危険みたいな気がする。何だかわからないものが、どこからかあたしたちをずーっと見つめて、どうしようかと考えてるような――ねえ」
「そりゃあふしぎだ。実をいうとおれもいま、おんなじようなことを考えて、云おうとしてたんだ」
アルスは叫び、ふたりは目を見あわせて、ひそかなぶきみな戦慄をわかちあった。イェライシャは何やら心あたりがあるかのように何度もうなづいたが、それについては何も云わず、
「とりあえず国王を探すことが第一と思うが、それにはまず、国王の居場所を知らねばなるまいな」
云って、皺ぶかい両手をマントの袖から出し、何やらしきりにこみいった印を結びはじめた。
細長いツメののびた指がすばやく空中にルーン文字を描く。やがてさいごに魔道師がうちぶところから小さな水晶の祈り球をとり出し、自らの指で宙に描いたばかりの結界のなかへスーッとおとすと、それは見えぬ糸につなぎとめられているかのように、魔道師の両手のあいだでぴたりと静止した。
イェライシャがその上で再び手のこんだルーン模様を描く。ヴァルーサとアルスが息を殺して見守るなかで、水晶球は突然、ぼうっとした白い光を発しはじめ、さながらそこに小さな白熱した太陽が生まれ出たかのように奇怪な異次元の洞窟の中を照らし出した。
「行け!」
イェライシャがおどすように指をふってみせると、その球は光を発したまますいと空中高く舞いあがり、しばらくゆくえをさがすように空中をフラフラしたあと、犬がその嗅覚でもって求める臭跡をさぐりあてた、とでもいったように、何やら嬉しげに一方へむかって進みはじめる。
イェライシャは二人の連れをふりかえった。
「よかろう。あとはあれなる祈り球についてゆけば、あれがおのづから国王の居場所をさぐりあててくれる」
「へえ!」
イェライシャに促されるままにおそるおそる、球の先導する方向へ足を踏み出しながら、ヴァルーサとアルスはまた顔を見あわせた。
ヴァルーサはまじない小路のあやしげな女呪術師につかえる踊り子だった娘であり、アルスとてもそのさまざまな遍歴のあいだにジプシー女の占い師の客引きもして、決してこの魔道の世界にからきし無縁というわけではない。
この世というものが必ずしも唯一絶対のものではなく、この世は別のものの影にすぎないとも云えるし、また、この世の影もまた確実に他の世界へおちているとも云える、ということも知っている。
魔道といい、黒魔術《ブラックマジック》、白魔術《ホワイトマジック》というのも決してお伽噺のそれではなく、それらはただ物理学的なあれこれの法則をタテ軸とすれば、横軸とも云っていい異る法則の系列を知り、それを利用する知恵の蓄積にほかならない、ということも、じゅうぶんにわきまえているのである。
しかし、そのかれらにして、この状況の異様さと、そして魔道師たちのこともなげにあやつる数々の手妻の前には、威圧され、呑まれ、そして畏怖にかられるほかはなかった。
これはまことに、人智とかこざかしい科学とかいったものの及ぶべくもない領域なのであり、そこにゆきわたる法則や黄金律もまた、それらでははかり知ることも不可能なものだった。そのことは、この領域により深くわけ入ってゆけばゆくほど生身の人間の心にくい入り、圧倒し、その口を封じ、その目をただ驚異と当惑と戦慄だけで満たすのである。
「――話してきかせたところで詮ないことだが」
道案内に立った水晶球のあとにつづいて、こころもち速く足を運びながら、二人のようすをみたイェライシャは静かに説明した。
「あれなる祈り球にわしは呪いをかけ、犬の嗅覚とハトの恋う心、それに加えて豹頭王のパーソナリティーのパターンを封じこんでおいた。
それゆえにあの球はたとい豹頭王がどこにいようと執拗に追い求め、それを見出すまであの炎は決して消えることがない。これはごく初歩の魔道にすぎぬが同時にわしにとってひとつの実験でもあったのだ」
「実験――?」
「さよう、この次元はおそらくはわしの宿敵によって人為的に封土とされた結界にほかならぬだろうでな。わしには、この結界のさなかでわしの用いる術がはたして、わしの封界やそとの一般界と同じ効力を保っておるものかどうか、早く調べる必要があったのだ」
「で――?」
おそるおそるヴァルーサはたずねた。イェライシャは答えず、あごで前をゆく光の球をさし示してみせた。
もう、しばらくのあいだ誰も口をきくものはなくなった。かれらは黙々として、球におくれずについてゆくことに専念した。
それはかれらにとって決して忘れ得ない、異様にも奇怪きわまりない道中となったのである。
球は迷いもためらいもみせず、どこか遠くにある母船にひた吸いよせられてゆく搭載艇のようにまっすぐに進み、はじめはまっすぐ上に舞いあがってからかれらの右手ののぼり坂の上を一定の高さを保って進んでいったのだが、やがて例の、怪物の口とでもいったようにぽっかりとひらいている暗い穴の前につくと、そこで、まるで考えこみでもするようにしばらくとまり、それからふいに速度をあげてその中へとびこんだ。
そのぶきみな横穴へ入ってゆくことを、よしんば三人のうち誰かが、あまり歓迎すべきでないと考えていたところで、誰もそう口に出して云おうとはしなかった。かれらは一様に黙りこんだままその横穴へ足をふみ入れた。
なまぬるい、いっそう例の臭気のつよくなった空気がかれらの顔に気味わるくねばりついてきた。それは嘔吐をもよおさせるほどみだらな、そして邪悪な感じさえした。ここがどこであれ、それは正しく清らかな心がつくりだした結界でないのはたしかだわ、とヴァルーサは考え、それをそっと口に出してみた。
アルスはヤヌスの印を切っただけで返事をしなかったが、イェライシャはうなづき、
「そのとおりだ、娘よ」
重々しく云う。
「まるで――ここは何かのけだもののお腹のなかみたいだわ」
またヴァルーサは云い、
「そのとおりだ」
またイェライシャが短かく答えた。
実際それは広間の地底を歩いていたときよりも、数層倍不快な場所に入りこんだといってよかった。道はせまく、ようよう長身の男が身をかがめて立って歩けるぐらいで、両手をのばせばもう両側の壁につかえてしまいそうだった。壁はさきのゼラチン質よりもいくぶんかための物質でできているようだったが、妙にかれらの肌を粟立たせるような規則正しい波状に起伏しており、それは天井も、床も同じで、かれらは足もとを気をつけておらぬと、何歩かゆくごとにそこにある出っぱりにつまづきそうになるのだった。
またその横穴の内側は天井といわず壁といわずなまあたたかくじとじととしとっており、ときどきポタリポタリとにじみ出るようにしてねばりつく水が垂れてきた。それもむろんいい気分のものとは云えなかったが、しかしひと足ごとに踏みしめた足もとからジュクジュクとしみ出してくる同じ液体にくらべれば、まだましだった。
蛇の体内を歩いているようだ、とヴァルーサはこっそり考えた。それがどれほどあたっているかを彼女は夢にも知らなかった。温《うん》気と暗さ、それに臭気もだったけれども、それよりもいつその妙に生きものめいた気味わるさのある横穴が、前後にぴたりととじてしまってかれらを封じこめてしまうか、という、閉ざされたせまい場所への人間の本能的な恐怖のほうがさらにずっと耐えがたく、そのはてしないかに思われた通路がふいに切れて再び広いところに出たとき、思わずヴァルーサとアルスは低い歓声をあげた。
が――すぐにイェライシャの手が、叱りつけるようにその腕をひいてたしなめる。
だがその必要もなかった。ようやく頭の上に高い空間のひろがっているところに出た、と勇躍してとびだしたとたんに、かれらの足はとまり、声は舌の上で凍りつき、そして目ははりさけんばかりに見開かれた。
案内役の球は明らかに異常なまでのよろこびにあふれていた。その光はまぶしいほど強くなり、それはもはやかれら三人を待ってさえおらずにスーッとたかみへ舞いあがり、非常な速度で進んでゆく。
その進んでゆくさきに――
探し求める、豹頭王のすがたがあった!
四囲はいちばんさきにかれらが意識をとりもどしたのときわめて似かよった、鐘乳洞の広間とでもいいたい場所である。
下のほうにはまがりくねる坂と何本ものえたいのしれぬ柱、そして底知れぬ暗黒とが、かれらののぼってきた道を示している。
広間はしかし、かれらが立ちつくす横穴の出口よりもさらに高く高くひろがっていた。
このへんの、周囲の壁は下のそれよりはるかに固く闇の色をして、そこに何がひそむとも、どのような起伏がかくされているとも見わけがつかない。
ことさら頭上は、あやめもわかぬ暗黒であり、それでかれらは上と下の暗黒を見上げて、かれら自身があの黒いモノリスのちょうどまんなかあたりにいるのだろう、とは考えられても、上と下に、それではその闇がどれほどのびているのか、ということになると、想像してみることさえできなかった。下がノルンの地底の闇とも、上が宇宙空間の深淵とも――いや、そもそも、この世界でなお上が上であり、下が下なのであると云いきれるものがはたしてあろうか。
そして――
そのかれらの畏怖にうたれて見上げる目のはるかな高みの暗黒の、まさにまんなかあたりに――
グインは静かによこたわっていた。
とはいえ、彼が、はたしてどのような状況でよこたえられているのか、というのもまたさだかには云いがたかった。というのも、サイロンの街路から見えぬ手によってもちあげられ、運ばれ、モノリスの中へと吸いこまれたときのままに彼は仰向けによこたわり、その目はとじ、どうやら正気はないらしいのだが、そのからだは、漆黒の台によこたえられているのか、それともよりあつまった濃い闇に浮かんでいるのか、どうにも判別しかねたからである。
そして奇怪なものが、その彼のぴくりとも動かぬからだの胸の上、ちょうど心臓のあたりにひっそりとうかんでいた。
あかあかと燃える宝石のような、ひどく輝かしい真紅の光の球。
大きさはちょうど例の祈り球ほどだが、それは静かに点滅している――さながら、豹頭の勇士の心臓の鼓動をそのままうつすように。
見るなり、イェライシャの口から低い声がもれた。
「おおッ! やつめ、王の胸からその豹の魂を摘出したぞ! そこまでしてのけていようとは思わなんだ。急がねばならぬ、王が危い!」
「王さまが――王さま!」
ヴァルーサはこれまで辛うじてつなぎとめてきた忍耐を、恋しい国王のすがたを見たとたんに失ってしまったかのように、やにわにそのグインめがけてかけよろうとした。
「待て!」
その腕を、間一髪つかんでイェライシャがひきとめる。
「なぜとめるのよ――王さまを助けなくちゃ!」
「待つのだ。待てというのに」
イェライシャは叱りつけるように、
「見るがいい!」
すばやい身ぶりで腕をあげ、あたりを漠然とさし示した。
「――!」
ヴァルーサはイェライシャの細い強い指にひきすえられたまま息をのむ。
「ああ――これは……」
アルスのよわよわしい驚きの声がきこえた。
ふいに――あたりの暗黒は、ほのかな薄暮の明るみをおびていた。
そのなかに照らし出されたのは――
タミヤ、ババヤガ、イグ=ソッグ……首なしのルールバとそのすぐかたわらにある彼の首、そしてもとの大きさにもどったエイラハ――
さきに消えた五人の魔道師たちのすがたにほかならぬ。
だが、かれらはあたかもロウ人形かなにかと化したかのようだった。
というよりは――それぞれに、半透明のねっとりとしたゼリーにとじこめられて、しばしのあいだ、生ある者であることをとどめられている、とでも云おうか。
かれらはまるで何ものかそれらを収集した気むずかしいあるじの手で厳密に配置された装飾品ででもあるかのように、あるいは空中のたかみに、あるいは壁のすぐ近くに、凍りついたようにおかれていた。
その目はうつろでどんよりとし、何ひとつ見ているとも、きこえているとも思われない。そして――
「だ……誰かが見ているわ――イェライシャ!」
ふいにヴァルーサはふるえ声でささやいた。
「ど――どこからかじーッとあたしたちのことを……見ている」
イェライシャがなだめるようにそのあたたかい、むきだしの肩に手をおき、見ろ、というようにあごをしゃくる。
その間に例の祈り球のほうは、じっと待っていたわけではなかった。
それはその広いところにとび出すなり、いよいよ自分じしんが求めるあるじに近づいたことを、その奇怪な知性に感知したとみえる。
いよいよ甚しい歓喜にうちふるえてあかあかと燃えあがったそれはさながらグインの胸の上の赤くもえる球の双生かとみえ、それはまっしぐらに、たかみによこたわるグインの豹頭人身のすがためがけて、青白い彗星のように舞いあがり、舞いおりていった。
そして――それがいまや、グインのからだにふれようとした刹那!
ふいにすさまじい衝撃がみていた三人までもその場に叩きつけた!
それはまるで直接に目の前の地面に落雷したとでもいうような、物凄まじい打撃だった。そしてその電撃のようなショックのあいだをぬうようにして、パリーン! という金属性の音が耳をつんざいた。
ようやく体勢をたてなおしたかれらが見上げたとき――
光る祈り球は、あとかたもなく砕け散っていたのである。
グインのからだの上にはりめぐらされた、目にみえぬバリヤーが、それを木っぱ微塵に粉砕したのだった。
「ああ!」
激しい畏怖と、そして衝撃にうたれてヴァルーサが叫ぶ――しかしたちまちに、それは金切り声の悲鳴にかわった。
「やつらが目をさましたわ!」
「シッ、静かに!」
というのが、イェライシャの鋭い叱咤だった。
「見るのだ――娘、身を伏せよ!」
「王さまが! ――王さまが!」
のどのさけるような声でヴァルーサは叫んだ。そのとき――
かれらが恐怖と、そしておどろきにうたれて見まもる前で、泥人形に生命が吹きこまれたように、五人の邪悪な魔道師たちは目をひらき、胸をゆるやかに上下させ、まわりを見まわし――
そして、互いを見つけ出したのである!
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「ああ――!」
ヴァルーサは激しい恐怖と絶望にかられたように、双の目をとじてしまった。
このモノリスをあやしい黒魔の結界とし、そのなかにグイン、そして五人の魔道師どもをひきさらって封じこめたもの[#「もの」に傍点]が何であれ、どのような意図をもっているのであれ、それが邪悪であり――限りなく邪悪である、ということだけは疑うべくもない。
もしもそれすらも、その封界の主なるもの[#「もの」に傍点]の意志がそこにはたらいているのであるとしたら、まぎれもなくその意志がその拉致した五人の魔道師たちを仮死状態からさまさせるために選んだのは、最もわるい、最も不幸な一瞬にほかならなかったからだ。
そこに死んだようによこたわったなりで、このさわぎにもぴくりとも動かぬケイロニア王を、救い出せぬ、という恐怖にヴァルーサは我を忘れ、腰のサッシュから短剣をひきぬいた。
「娘! じっと伏せているのだ!」
イェライシャの、彼女の腕をつかむ指にぐいと力が入る。
「イヤよ、わたし王さまを助けなくちゃ」
ヴァルーサは叫び返したが、魔道師のフードのかげからのぞく冷たい青い目に出あったとたん、のどがつまったようになって口をとざしてしまった。
イェライシャが目をそらすと、ようようまた呼吸ができるようになったが、しかし、火傷した獣が火に対して抱く本能的な敬意とでもいったもので、もうあえて叫びたてる気はなくしていた。
だが、それであきらめるような娘ではない。叫びたてるかわりに、
「どうしてなの、イェライシャ――あいつら、あのダーク・パワーの魔道師どもが王さまに気がついて、そのなかの誰かがあそこへむかっていったら、王さまは気を失っていて戦えないのよ――みすみすやつらの手に王さまをわたしてしまうわ。さいわいやつら、いま我に返ったようにぼんやりして動きもぎこちない。王さまにも気がついてないようだから、いまのうちにあたしがあそこへ上っていって王さまを助けなくては――」
声は低めたものの非常な早さでまくしたてた。
イェライシャは首をふった。
「そなたが戦いの武器として必要だというのは、いま現在そうするためではない。娘よ、ここがこのような異形の世界であるとはいえ、それもまた何らかの法則からまったく自由であることは決してできぬ。たとえば星辰の運行だ――
である限り、ものごとは、時を待ち、必然の因子のみちるのを待ってなされなくては、結局何もはたすことはできぬ。待つのだ。
――えい、わからぬ女子だな。見るがいい、上を!」
イェライシャの声がふいにきつい叱責の調子を帯び、それにねじふせられたようにしておとなしくなったヴァルーサとアルスは上を見上げた。
そして息をつめて、世にも奇怪な魔道の版図を見守る。一瞬、まるで、そこにはさきと同じロウ人形のような魔法つかいどもが凍りついているばかりで、何ひとつものの動き出す気配はないかとも見えた。
が――次の刹那!
かれらのガラス玉のような目が互いをとらえ、そのなかば喪神したような顔に無言のおそるべき敵意――というよりも殺意が、やにわに稲妻のようにひらめいたのである。
「い――一体どうしたのかしら、イェライシャ! 何だか、ようすがおかしいわ」
ふるえ声でヴァルーサが叫ぶ。
「シッ――見るのだ」
イェライシャはささやき、そして緊張した表情で何かの印をきった。
五人の魔道師たちが互いを見出してから、なおもわずかの間があった。――それから、やにわにかれらは互いをめがけて突進した。
イグ=ソッグの耳までさけた口がひらいて、怪鳥のような叫び声をあげた。その叫びに答えるようにババヤガが杖をふりあげた。その動きでババヤガのからだじゅうに生えた苔類の胞子がぱあッと雲のように舞いあがる。
「イグ=ソッグ! イグ=ソッグ!」
再び合成人間は身の毛もよだつような雄叫びをあげた。
首なしのルールバは彼の首を小わきにかかえこみ、誰よりも狂おしい噴怒にかられているかにみえた。彼は首を両手にもち直してたかだかとさしあげた。
額のまんなかにたてにひらいている、石づくりの一つ目がくわっと開いた!
「カーッ!」
その口から、異様な叫び声がほとばしった、と思ったとき、その石の口がふいに赤くすきとおり、らんらんと光を増し――そこから一条の光線がほとばしり出て盲滅法に他の四人を狙った。
黒き魔女のタミヤがその線上にいた。彼女は敏捷なしぐさでとびのいたが、とたんにルールバはくるりと向きをかえた。
「ギャッ!」
金切り声をあげたのはエイラハだった。その石の目からほとばしる光線にうたれた矮人はうしろざまにひっくり返ったが、たちまち起き直ると、めちゃくちゃな怒りにかられたように両手をひろげ、スルスルと宙に這いのぼるなり下をむいて口をあいた。その口から、白いねばつく糸が吐き出されたかと思うとその糸はたちまちまっしぐらにのびていき、ルールバにまきついた。
ルールバは怒ってからだを振った。だがエイラハのはきだした糸には強い粘着力があるとみえて、ルールバがもがけばもがくほど、それはぺったりとまきつき、ルールバをまきこんでしまう。
ルールバはなおも糸から自由になろうと激しくもがいた。しかしどうしてもはずれぬと知ると狂気の怒りにとらわれて、石の目のある生首をふりまわし、めったやたらに、ところかまわず光線を向けはじめる。
その中の一条がたまたま、イグ=ソッグとにらみあっていたババヤガの背中にあたった。
たちまち、ババヤガの岩山のような背中から、おびただしい苔やシダや泥がふっとび、同時に濃い黄色い煙がそこから立ちのぼった。
ババヤガはふりむき、細くしなびた手でかれらを指さした。するとたちまちその煙は生あるもののように舞いあがり、三すじにわかれて、タミヤ、エイラハ、エイラハの糸にまきつかれたルールバ、におそいかかった。
「犬頭蛇よ!」
タミヤの絶叫がきこえ、宙から生まれ出たいまわしい使い魔が勇躍してババヤガの毒煙をむかえうつためにとびあがる。
「イェライシャ――ああ、イェライシャ!」
この一部始終を前にして、ヴァルーサはガタガタふるえ、イェライシャのマントをじぶんが破れんばかりに握りしめていることさえ気づいてはいなかった。
「どうしたの――ああ、どうしたというの! かれらは、――変だわ、かれらは、まるで――まるで気が狂ってしまったみたい! どうなってしまったの、かれらに何が起こったというの!」
「おまえのいうとおり気が狂っているのだ、娘よ」
イェライシャがその冷静さにも似合わぬ、ほのかなかくしきれぬ昂奮を、その声ににじませて、じっと闇の者たちの死闘を見守りながらささやき返した。
「よく見るがいい。きゃつらは持てる術のすべてをぶつけあって戦いあい、どうしても他の連中を全員やっつけるのだという狂おしい怒りにかられてはいるものの、その怒りがなにゆえなのかということには、少しも気づいておらぬ。きゃつらはただ、たぶらかされ、眠らされ、そして心をのっとられたままに、戦うでく人形と化しておるのだ」
「そ――そんな……」
ヴァルーサは口に手をあて、まさにそのときルールバのもってふりまわす首が下をむいて、かれらにむけてあの殺人光線がほとばしりきたったので悲鳴をあげた。
「大丈夫だ」
イェライシャはいきなり細長い指で円を描くようにし、するとかれらのからだのかなり手前で、突然その光線は何ものかに吸収されてしまった、とでもいうように消えうせてしまった。
「この円から出るでない。そこにわしがバリヤーを張ってあるからな。この中にいる限りは、きゃつらの魔術ではどうしようもないのだ」
イェライシャは説明し、いま彼の長い指が円を描いたあたりを指さした。
「わしは〈ドールに追われる男〉、そしてきゃつらはドールを頭にいただくダーク・パワーのやからだからな。ドールその人に対してさえ、大悪魔サビーヌに対してさえ持ちこたえたこのバリヤーがその配下ばらに破られようもない」
「魔道だな――!」
感じいったようにアルスがつぶやく。ヴァルーサもイェライシャも正直にいってこの小盗賊のことを忘れてしまっていたので、少しおどろいて見やった。
「でもあんな――あんな力のある魔道師たちを、こんなに――こんなふうにしてしまい、戦うでく人形にしてしまうなんて、一体、誰が――誰が!」
ヴァルーサがささやくようにいう。イェライシャのいわゆるバリヤーを信用しないというのではないが、あまりにもすべてが異常なだけに、どのへんまで生ま身たる彼女やアルスの衝撃に耐えられるものか、もうひとつ安心しきれないのだ。
「――ヤンダル・ゾッグ」
イェライシャの答えは短かく、そして何かは知らず、恐しいひびきをそめていた。
「ヤンダル――ゾッグ……?」
ヴァルーサとアルスは目を丸くしてイェライシャをのぞきこむ。イェライシャはうなづいた。
「ヤンダル・ゾッグだ。わしがかねがね、このことでわしの最大の敵になるであろうと予感しておったやつだよ」
「やっぱり――魔道師なの?」
ヴァルーサはイェライシャの口調に何かを感じとり、恐るおそるたずねた。
「魔道師といえば――たしかにそうとも云えよう」
イェライシャはちぎれてふっとんだタミヤの犬頭蛇の首がまっすぐにおちてきて、バリヤーにあたってはねかえるのを見守りながら、
「しかし、人間がどこから人間になり、どこから人間でないものになってゆくのか、誰が知っていようかな、神々のほかに? ――もちろん、そのイグ=ソッグのような獣は別として、だが」
ババヤガの杖にうたれておちてきたイグ=ソッグが、空中でかろうじて体勢を立てなおすのをたしかめて、
「たとえばかの高名な〈闇の司祭〉グラチウスは、はたして魔道師と呼んでよいものかな? むろん魔道師にまぎれもあるまいが。たとえば二万年生きたという伝説の大導士アグリッパは? かれらはもはや人間にして魔道にたずさわるもの、というわれわれの魔道師の概念をはるかにこえる力を身につけていはすまいか?」
あたかもそこが五人の悪鬼たちの相うつ修羅地獄ではなく、バラの茶を前にした典雅なサロンででもあるかのような口調で話をつづけた。
「〈闇の司祭〉グラチウス! アグリッパ!」
アルスが叫んだ。その小さな愛嬌のある目はまん丸くなっていた。
「そのヤンダル――ってやつは、そんな伝説の大魔道師と同じくらい、すげえんですかい!」
「2の無限乗と3の無限乗に、おまえならどのぐらいな差があると思うかな、アルス」
イェライシャはバリヤーにピシャリとはねかかってきた誰かの血しぶきを、指をピンとはねあげただけでぬぐい去りながら云った。
「おお――エイラハが手傷を負ったぞ」
ヴァルーサとアルスはあわてて見上げる。ルールバの石の目が発射する光線は、ついにエイラハのくりだすクモの糸をたちきって、ルールバのからだを自由にすることに成功した。同時に行き場を失ったエイラハの糸がババヤガをめがけてスルスルとのびていったので、あわてたババヤガがその杖を投げつけた。
エイラハは杖を払いのけたが払いきれず、肩を一撃されて、吹き出る血をおさえようとしながらうしろざまにころがったのである。
「2の無限乗が無限に近づき、3の無限乗が無限に近づくほどに、お前たちの目にはそれらはひとしなみに『無限』大としてうつるにすぎなくなるだろう。だがそれらを正確な概念として把握しうる目には、それらが無限に大きくなってゆくほどにそれらのあいだの差もまた無限に大きくひらいてゆくことが明らかに見てとられるのだ。わかるかな」
「そ――それとこれと、どんなかかわりがあるんですか?」
アルスは目を丸くしてきいたが、イェライシャはそれ以上説明を加えようとはせず、見るようにと促した。
「エイラハがやられるぞ!」
そのとおり、手傷をおった矮人は大きくよろめき、必死に身を立て直そうとしたが、ババヤガの手をはなれた杖はここぞとばかりに宙に舞いあがっては再びエイラハにおそいかかる。
エイラハは力をふりしぼり、口をあくなりカッと何筋もの糸を吐き出した。糸はするするとのびてあやういところでピシリと杖にまきついてそれをからめとる。と見て、ババヤガはふりむき、何やら投げつけるようなしぐさをすると、その枯れ枝のような手のさきから出た白っぽい球は宙に舞いあがってパッと割れ、その中から毒煙が雲のようにもやもやとたなびいて、糸の先に杖をとらえたままのエイラハにおそいかかった。
その間にひづめあるイグ=ソッグはタミヤの呼び出した三匹の犬頭蛇をすべてかたづけていた。その怪物どもはあるいは首をひきちぎられ、あるいはイグ=ソッグのひづめにかけられてぼろぎれのようになり、あるいはずたずたにちぎれて、毛皮と血漿とをまきちらしたが、ややもするとその残骸は黒ずんでゆき、それから砂が風にくずれ去るようにくずれ去って消えてしまうのである。
タミヤはいよいよたけりたって両手をふりあげ、怒りの形相もすさまじく、黒い肌のハーピイのようにイグ=ソッグにつかみかかった。
イグ=ソッグはひらりと身をかわし、カッと口をひらくと、その口からひとすじの炎が吐き出されて魔女におそいかかる。
魔女のからだがその炎につつまれて燃えあがった――と見えた刹那、タミヤの両手が奇妙なかたちに組みあわされ、とたんに水をあびせかけられたように火勢が弱まる。
タミヤの手がさらに動くと、いきなりその炎は逆流してイグ=ソッグ自身におそいかかってきた。
イグ=ソッグがたじろぐ。得たりとタミヤがいよいよ炎をあおりたてるように手をふりあげたとたんに、突然かれらのまんなかを割るように一条の光線がほとばしった。
ルールバである!
タミヤ、それにイグ=ソッグははっと不意をつかれてよろめく。そこへ、バランスを失ったエイラハのからだが上からおちてきてタミヤにぶつかった。
体勢のくずれた折からであっただけに、タミヤはあわてて身を入れかえようとしたが間にあわなかった。
「アアアーッ!」
絶叫とともに、タミヤはバランスをくずして、まともにルールバの目からやたらと四方へ放射される光線を顔面にあびてしまったのだ!
「ギャーッ!」
タミヤの叫び声がねっとりとした闇をひきさいた。
タミヤの黒い手が顔をおさえ、彼女は宙に、たたらをふむようにして二、三秒のあいだとどまっていたが、そのまま、射ちおとされた鳥のように下へむかっておちてゆく。
たちまちねっとりと濃い暗黒が魔女のからだをのみこんでしまった。
「タミヤがやられたわ!」
ヴァルーサは叫んで口に手をあてる。
「なんの、古きランダーギアの魔女があれしきで参るものか」
イェライシャが云う。その声にはほのかに、あざわらうようなひびきがある。
「エイラハは――おう、奴も、まだそうたやすくはくたばらんつもりだぞ!」
いったん落下しかけた矮人は、タミヤのあとを追うようにして下の真闇にのみこまれようとした最後の刹那に、口からはきだした糸で何とか身を支え、立ち直った。
その肩はババヤガの杖の一撃に傷ついて血を流し、そのみにくいゆがんだ顔はまっさおにひきつっていたけれども、彼はその顔を横に向け、肩の傷にむかってカッと口から何か白いものを吐きだして、それを応急の処置がわりにすると、たちまちにまた空中へスルスルととびあがり、戦いに再び加わった。
「奴め、さぞかしグラックの馬どもの力をかりたいところだろう。ハッ! 奴の魔道は自らにそなわったというよりは、他に存在する力をかりて行なわれるたぐいのものであるだけ、奴も苦しいところだわ」
イェライシャが評を加える。
「……」
ヴァルーサはかたく胸の前で両拳をにぎりしめた。
「そ――その何とかって化けもの魔道師がやつらの気を狂わせて、互いに殺しっこをやらせて――」
アルスはイェライシャを見つめて、
「そ、それでそいつは一体どうしようっていうんです?」
「むろん、他のやつらと魂胆は同じことだ」
イェライシャは重々しい口調で、
「豹頭王を手におさめ、その野望をおびやかすかもしれぬ者たちをすべて自らの結界にひきさらって相戦わせ、あわよくばその血の犠牲によってやすやすと漁夫の利をしめるという肚でいるだろうよ、奴め」
「自らの結界――?」
ふいにヴァルーサがぎょっとなって叫んだ。
「そ、それじゃわたしたち……」
「そうだ」
イェライシャは肩をすくめた。
「わしらはいま、ヤンダル・ゾッグの結界のなかにいるのだよ。どこだと思っていたのかな、お前たちは?」
「そ、それじゃあのモノリスが――?」
「そうだ」
魔道師は手短かに答えた。
ヴァルーサとアルスは怯えた顔を見あわせた。
「それで――わたしたち、ぶじにこの中から出られるの――?」
ふるえ声できいたのはヴァルーサである。
ほのかにマントの下で肩をすくめたのが、イェライシャの唯一の解答だった。
ヴァルーサはおののきながら周囲を見まわした。
それは、そうと知らされてみればいよいよこの世のものとも思われない信じがたい奇怪さを帯びてかれらの目にうつってくる光景である。
暗い、星もみえぬ、何か巨大なものの胎内ででもあるかのようなそのゼラチン質の鐘乳洞。――そのたかみに、世上にはいまだ知られておらぬ巨大な暗黒神へのいけにえ、とでもいったようによこたえられ、あいかわらず、このさわぎのすべてなどまったく耳にもとどかぬようすで目をとざしたままの逞しい豹頭の戦士と、その鎧の胸の上に、さだめを導くひとすじのあかりのように輝く、赤い光の球。
そして、その神聖な供物をめぐって相うつ死闘をくりひろげている、ダーク・パワーの魔物たち。
それはむろん、そのよってきたるところはおろか、そのなりゆきも、その全貌でさえも、人智の領域にとどまる死すべきものどもには理解のほかの世界であり、住民であった。
ヴァルーサのくちびるは紙のように白く血の気をなくし、彼女はそのくちびるを小さく動かして声なく主神ヤヌスの名と、そして知るかぎりの祈りをとなえつづけた。このような世界にまぎれこんでしまって、はたしてその、彼女の馴れ親しんできた正しい運命の神々の手が、よくそこへとどくものであるかどうかは、疑わずにはいられなかったが、しかし、その名をとなえることは、それが象徴している正常な事象の運行とバランス、そして秩序への、再び必ずそこへ戻りたいというやけつくような願いを思い出させ、そしていくらかでも彼女の心に正気の光を注ぎこんでくれる、そんな気がしたのである。
ヴァルーサがそっと横目で見やると、タリッドの小悪党もまた紙のようにくちびるまで白くし、ガタガタと胴ぶるいをしながら、しきりと何かの御名をとなえつつ彫刻のある短剣の柄をまさぐっているのだった。
その間も上空の血で血を洗う死闘はつづいている。むしろ、それは時がたてばたつほど血みどろに、悽惨の度合いを加えてゆく。
すべてがすべての敵であり、目標であるこのおぞましい戦いのなかで、なかば正気を失ったままに何ものかにあやつられて戦いつづけているその五人の生ける悪霊たちはいまや、そのほとんどがどこかしらから傷ついた血を流していた。
ババヤガの杖はイグ=ソッグの歯でへし折られ、そのカギヅメにつかまれて、老いた魔道師の背中と胸は大きくひきさけている。彼はそれでもなお毒煙を投げつけ、炎を虚空から生み出して合成人間にむかってゆくが、すでにそのかぎりなく年老いた顔にはぐったりとした疲労の色が濃い。
だが、そのイグ=ソッグもまた、タミヤの火に焼かれて毛皮はやけこげ、ルールバの光線でウロコはずたずたになり、かなり弱りはじめている。その赤い巨大なひとつ目だけはいよいよ凶々しい狂憤をはらんで燃えあがり、そのヒヅメをあげていくどとなくババヤガめがけて飛び蹴りをくわせるのだが、それがまともにあたれば石にも、鋼鉄にさえ灼熱のあとをつけずにはおかない必殺のヒヅメもさしもの勢いを失っており、ババヤガはよわよわしくかわしつづけ、おまけにやにわに横合いから出てきたルールバの胴体がめくらめっぽうにその脚にしがみついたのだ。
「イグ=ソッグ! イグ=ソッグ!」
合成人間はけだものじみた怒声をはりあげる。が、ルールバの首のない胴体はやもりのようにはりついている。
ルールバはいつのまにか、手にしっかりと抱きかかえていたその生ま首を、エイラハの糸で奪いとられ、放り投げられてしまったのである。首を失ったキタイ人は、暗黒な憤怒にかられていた。二度とはなすものかといわぬばかりにイグ=ソッグに抱きついたその手がしだいに上へ、首を求めて這いのぼってゆく。
「イギャーッ!」
イグ=ソッグがわめき声をあげてその強力な脚をようよう上げるなりそのルールバの胴のまんなかを膝でけりはなし、とたんにルールバのからだはまりのようにへこんで宙をとんだ。
「キャーッ!」
思わずヴァルーサが口に手をあてて金切り声をあげる。ルールバの胸のところに、あざやかな、ひづめのあとが、およそ十センチもあろうかという深さで焼印のようにやきついているのだ。
それにも致命的な打撃をうけたというようでもなく、吹っとんだルールバのからだは、まともにエイラハの上におちた。エイラハがわめいておしのけようとする。もろに傷ついた肩を直撃されたのだ。タミヤはさきにおちていったなり、機会をうかがっているのか、それとも気を失ってでもいるのか、姿が消えている。
「ああ!」
ヴァルーサのさしも気丈な心も、はてしもなくつづく魔道師どうしの死闘のあまりのむごたらしさにくらくらとなった。ほとんどかれらの心の中から、そこがどことも、誰をあいてに戦うとも、そんな理性は失われてしまっているのが感じとれる。
ただひたすらかれらは巨大な力ある戦い蟻と化して噛みあい、火を吐きかけられれば水で切りかえし、毒を注ぎかけられれば毒蛇を虚空より生み出し、持てる秘術のすべてを動員して、さながらおのが鏡中の影とたたかう狂人のように血と泥にまみれて戦いつづけた。
「見るがいい――」
イェライシャの声も嫌悪とも戦慄ともつかぬたかぶりで小さくふるえている。
「見るがいい。それはわしには当初よりわかっていたことなのだが、かれら五人は、その力、その術、そのスケール、ともにまったくといってよいほどに等しいのだ。かれらの力は伯仲しており、さきのようにグラックの馬やなにかの力をかりぬかぎり、たとい何千年戦いつづけようと、かれらの中の誰かひとりが他の四人すべてをたいらげる可能性はゼロにひとしい。かれらはただ、一人がそれぞれ四人を相手にするかぎり、それぞれの力を少しづつ――それすらも同じ大きさのタルから同じ大きさの穴をとおって同じ分量の酒がこぼれ出るように、ほとんど同じぐらいによわめながら決してさいごの勝利を手にすることなく戦いつづけるばかりなのだ。
術も精神力もすべて伯仲しておる以上、いくらかでものこるのはもっとも原始的な――どうせ術は術で相殺され、毒は毒、傷は傷で相殺されるのだからな――力と力、手と手、拳と拳、歯と歯の争いだけなのだが――それすらも……」
「ああッ! エイラハが!」
アルスが金切り声をあげた。
エイラハは、ダニのようにしがみついたルールバの首なし胴体を何とかふりきろうと、秘術の限りをつくしていたのだが、なにしろ矮人の彼にはルールバの長身をどうしてもふりきることができない。いっぽうルールバの手は失った首を求めてしきりとエイラハのからだをなでまわしていたがついにその肩にめりこんだ首をさぐりあてた。
と思うや、その手に異様な力がこもり、ルールバはじわじわと、素手で矮人の首をねじ切り、ひき抜きにかかったのである!
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4
「ギャアアーッ!」
エイラハのすさまじい絶叫が耳をつんざいた!
「キャーッ!」
ヴァルーサが悲鳴をあげて、手で顔をおおい、ついにそこにかがみこんでしまう。
アルスも顔面蒼白になってこみあげてくる吐きけをこらえる。
ルールバのつよい両手はしっかりとエイラハの首をとらえ、少しづつ、少しづつ、そのめりこんでいる肩からそれをひっぱり抜こうとしているのである。
「イェライシャ!」
アルスが胸のわるくなったような声をふりしぼる。
「さわぐでない!」
というのが〈ドールに追われる男〉の答えだった。
「魔道師たるものはもはや百パーセント、人間とは云えぬのだ。現にルールバも首なしのままで生きて動きまわっておるではないか。きゃつらがああしてかりそめにでも人のすがたを保っておるのは、そうするのが魔道の不文律だからというにすぎん――
おう! ついにエイラハの首がち切れたわ!」
さしものイェライシャも眉をひそめて目をそらせる。エイラハの口から異様な、二度と耳をはなれそうもないようなうめきがもれ、同時にその口からごぼごぼと血泡がもれはじめる。
そして、ルールバの手はついに、こびとの首をずぼりと、その肩からひきぬいてしまったのである!
ちぎれた首の端から、血と赤いどろどろした生ま肉に混じって、骨髄の白い液や、細い黄色みをおびた神経の糸が尾をひいているのがみえた。ルールバの首なし胴体はいっこうにそんなことにはおかまいなしで、ようやく手に入れた首をこれみよがしにたかだかともちあげ、嬉々としてふりまわしていたが、やおらそれを自分の切れた首のつけねにのせようとしながら、こんどは首をとりかえそうと怒り狂ってとびかかってきたエイラハの胴体から敏捷にとびしさった。
そしてえいとばかり矮人の首を肩の上にはめこもうとしたのだが、エイラハの首がふいにくわッと目をひらくなり、たけりたってルールバの手首にがぶりと噛みついた。
痛みにうろたえたルールバはエイラハの首を放り出す。そしてまた首を失ってたたらをふむとたんに、皮肉にも、彼自身の放り出されていた首が誰かれの見さかいなくあびせかけていた、石の目からほとばしる殺人光線の射線上へ、正面からとびこんでしまったのである!
「ギャーッ!」
こんどは、ルールバの首のない胴体から、世にも恐しい金切り声がひびきわたった。
防御のいとまもなくまともにあびせかけられたそれは、自分自身にも同じように効力があるとみえ、ルールバの首なし胴体はごろごろと宙でとんぼ返りをしてそのまま肩からずぶっとゼラチンの壁へつきささってしまった!
そのまま、二、三回足をばたばたさせたなり動かない。
いっぽうエイラハは、というよりもエイラハのひきちぎられた首と胴体はたがいに相手を求めてぐるぐると、気の狂った虫のようにまわっていたが、ルールバの胴体に放り出された首のほうがさきにおのが胴体をみつけ、いったん上へ舞いあがってからあわてて舞いおりてこようとする。
それが肩の上におさまろうとする一瞬に、
「これでも喰らえ!」
ババヤガの手からほとばしった濃い黄色な膿のようなものがべたりとちぎれた首のあとのつけ根にはりついた。
エイラハの首は方向転換するいとまもなく、そのままその黄色いものがふさいだ首のつけ根へ着陸したが、そのとたん、
「ヒーッ!」
けたたましい声とともに、こびとは短い手をあげて首のつけねを狂おしくひっかきむしり、死の舞踏を踊りはじめたのである。
ババヤガの左手はイグ=ソッグのヒヅメの一撃でつけねから折れてぶらぶらになっている。動き出したぼろの山のような老いぼれは、狂ったようにのたうちまわる矮人をみて長いこけむした舌を出すなり、べろりと悦に入ったように口のはたをなめまわしたが、
「おう――こうしてはおられぬ」
のたうちまわりながら、宙に身を支えておく力さえも失ったようにしだいに下へ沈んでゆくエイラハにはもう目もくれず、やにわに深い水を手で漕いでゆくようなしぐさをしながら、これは少しづつ上へ昇ってゆこうとする。
その目的は明らかによこたわるグインであるとみてヴァルーサがはっととび出そうとし、ぐいとイェライシャにひきとめられたとき、
「イグ――ソッグ! イギァーッ!」
けものじみた叫び声と共に、突然テレポートしてあらわれた合成人間の巨大なからだが、体当たりでババヤガにぶつかった。
そのヒヅメがまともに背中をけやぶったからたまらない。ババヤガの口から長い緑色の舌が吐き出され、ババヤガは背中からけむりをあげながらきりきりと断崖のふちでまわるコマのように二、三回まわり、それからそのまま、まっさかさまに下へおちてゆく。
「イグ――イグ=ソッグ!」
怪物の叫びは明瞭な勝ちほこったひびきをひそめていた。背にはえたうろこのようなとさかも、長い牛のような尾もずたずたになり、毛皮はなかばやけこげ、かたいうろこも何ヵ所かやぶれてそこから白っぽい肉がみえているイグ=ソッグは、歓喜に顔をのけぞらせ、胸を叩いて再び雄たけびをあげ、それからカギヅメをまっすぐのばし、ヒヅメから、灼鉄が出すような白い煙をひきながらすさまじい勢いでグインにむかって舞い上がる。二つの巨大なカギヅメがまさに戦士をひっつかんでそのまま飛び去ろうとするように下へむかってひらき、イグ=ソッグはまたその口をひらいてケーッというような、人間の耳にはよくききとれぬ叫びをあげた。
「うそつき、うそつき!」
ヴァルーサが金切り声をあげる。
「五人共倒れだなんて! 王さまが化けものにやられちゃうじゃないの! うそつき!」
そしてもはやこれ以上、上と下にはなれて愛する王の運命をあなたまかせに見守ることには耐えられなくなって、やにわに魔道師の手をふりきるなりかけ出そうとする。
が――わずか五、六歩行ったところで目にみえぬ壁が彼女をひきとめ、怒りに息をはずませながら倒れて、口惜しさにありたけの罵声と呪詛をイェライシャにむかってあびせかけた。そのうしろから、
「待てというのに、気みじかな娘じゃ! もう何ほどの時間でもないぞ、われらが出番までは!
――見るのだ!」
ふいにイェライシャの声が、恐しいほどに凛とした威厳をおび、ハッとして娘も黙る。
そして叫び声をあげた!
「イグ=ソッグが!」
もはやイェライシャをののしることさえも忘れて見守る。
いまやそこによこたわるグインのからだにその凶々しいカギヅメでわしづかみにつかみかかろうというところまで舞いおりてきたアグリッパの合成人間、ひづめあるイグ=ソッグの巨躯は、しかし、まさにえものにふれんとした瞬間――
「ギェーッ!」
いきなりはじかれたようにうしろへはねとんだのだ!
「あ――あの水晶球と同じだわ!」
ヴァルーサがわめいた。
「そうだ。ヤンダル・ゾッグはたぶん、大切なえものを守るべく強固なバリヤーをはりめぐらしているが、それはおそらくイグ=ソッグづれには破り得まいと見たのだが――それはどうやら正しかったようだ。見ろ!」
イェライシャは指さした。ヴァルーサとアルスは見やり、そして息をのむ。
イグ=ソッグがのたうちまわっている!
その前面いちめん、すなわちグインにつかみかかろうとしてまともにバリヤーの衝撃波をあびた部分が顔面から山羊のように折れまがった脚にいたるまで、見るもむごたらしくまっかにどろどろとやけくずれ、皮がはがれてぼろきれのようにたれさがり、肉はとけて骨があらわれているのだ。
その赤く凶々しいひとつ目ももはやめちゃめちゃにつぶれ、イグ=ソッグは狂おしく、なかばとけくずれた手でその顔をかきむしりながら洞窟じゅうをのたうちまわって壁のそこここに打ちあたる。そのたびにその壁がまっかにぴしゃりとうれすぎたトマトをぶつけたようになるのを、かれらはぞっとして見つめた。
そのときである!
「今だ!」
イェライシャがとどろくような声で怒鳴った!
「星辰計は今をさしている。来い、ヴァルーサ、アルス!」
「ど、どこ――どこへ!」
「決まっておる、ばかもの! きゃつらはすべてこれでしばらくは戦闘力を失っている。この隙に国王を救い出すのだ」
「だって――だってバリヤーが!」
アルスは叫んだ。おじけついた目がころげまわり、奇怪な悲鳴をあげつづけているイグ=ソッグを見上げる。
「大事ない。わしになら、かのバリヤーは破れる――なぜならきゃつらはいずれにせよダーク・パワーのものどもであり、さればこそダーク・パワーの内なる力の序列をつき破ることができぬのだが、わしは〈ドールに追われる男〉――ドールを棄てた人間である以上、わしの用いる術はきゃつらのそれとは序列を異にしておるからだ」
じれったげにイェライシャが説明する。
「なんだかわかんないけど、王さまを助けるんでしょ! じゃ早く早く!」
ヴァルーサが地団駄ふんでわめいた。
「よし、わしのマントをつかめ。しっかりとつかむのだ」
イェライシャは、かくしから重たげな祈り紐をふた巻きとり出すと、手にかけて、
「よいか、このマントさえつかんでおれば安全だ――だが手をはなしておちたがさいご、さきのイグ=ソッグ、水晶球どうよう、煮え油におちたハエのように一瞬でとけてしまうのだぞ」
きびしく言いきかせ、祈り紐をまさぐる。
ここぞと必死にマントにすがりついたヴァルーサとアルスが待つほどもなく、たちまち、かれらのからだは、ちょうどシャボン玉の泡にとじこめられたように宙へかるがると舞いあがり、まっしぐらにグインのもとへ飛び立った。
シャボン玉、というのは必ずしも比喩ではなかった。なぜなら、かれらがいよいよグインのいるすぐ近くへきたとたん、例によってすさまじい音と火花がとびちり、その青白い火花がおぼろげにかれらのまわりをつつんでいるその見えぬ球を照らし出したからだ。
「ヒッ!」
「キャア!」
ヴァルーサとアルスは首をちぢめてイェライシャのマントのかげに小さく身をひそめようとしたが、しかしなにがしかの衝撃はむろんあったものの、イグ=ソッグのようにどこにもいたでをおうことはなく、
「よかろう、バリヤーをとくぞ!」
イェライシャの叫び声がその衝撃をぬうようにしてかれらの耳に届いた。
「ここは少しばかり危険だが――なに、案ずることはない。敵のバリヤーとわしのバリヤーをどうしても両方いっぺんに、いったん解除せねばならぬのでな――ウム……」
魔道師のしわがれた声が何やら奇怪なルーン文字を長々しくとなえ、そのくちびるが、人間には不可能なようなかたちにねじれ――そして、その手のまさぐる祈り紐がたちまちすさまじい勢いで一方へねじれたり、持ちあがったりしはじめた。
と思ったとき――
「よし、解除したぞ」
イェライシャが云った。その顔にいっぱい汗の玉がうかんでおり、彼は用をはたして使いものにならなくなった祈り紐を上へ投げあげた。
そして、ヴァルーサとアルスをともなったまま、ひらりとグインのよこたわる棚のよこへ着地する。
こんどは火花も散らず、衝撃もつたわってこなかった。まわりはしずまりかえっており、魔道師たちも力つきたのか戦いの気配さえもない。
「王さまァ!」
ヴァルーサは恋する半獣半人の王の姿をすぐ目のまえにしたとたんに、これまでの発狂するような恐怖も、異変のあれこれも忘れはてたかに見えた。
「王さま、王さま――王さまってば!」
すでに半泣きの声で叫びながらまろび寄り、一瞬、宙にうかんでいる赤い球へ気味のわるそうな目をやったあと、たちまちに豹頭王の胸にすがりつき、その豹の頭をやわらかな手でなでさすろうとした。
「王さまッ!」
反対側から、おっかなびっくりのアルスもかけよる。
「イェライシャ、どうしたの! 魔法がとけたというのに、王さまは、目をあかないじゃないの!」
ヴァルーサはとがめるように叫び、呼びさますためにゆさぶろうとその、細いが強い手をのばす。
「待て!」
鋭くイェライシャが制止した。彼女はハッと手をひっこめる。
「わしのといたのはきゃつのバリヤーであり、しかしそれもそう長くは保たん。ましてそのバリヤーをとくためにわしら自身のバリヤーもいったんとかねばならなかったのだからな。それにさすがにやつ[#「やつ」に傍点]の精神エネルギーは、実に途方もなく巨大なもので、いまもなおわしに激しく立ちむかってくるのでことは一刻を争う。
これからが、お前たちに頼みたいのだ、ヴァルーサ、アルス――国王は、いったん魂をぬきとられている。わしの術をつかえば戻すのはいとやすいことなのだが、急激なそれは王じしんを傷つけるおそれがある。そこで、お前たちのエネルギーをかりたい――よいか、急ぐぞ」
「ど――どうするんで?」
アルスがふるえ声を出した。
「なに、恐れることはない」
イェライシャは言って、
「ただ、この対バリヤーの魔術がきゃつ[#「きゃつ」に傍点]の介入を拒んでいるうちに行なわねばならぬので、少々厄介だ。が、まず――それ!」
彼は指をぱちりと鳴らした。
それと同時だった――鎧を透して、その上にうかんでいた赤い光の球が、静かに王の体内へ沈んでゆきはじめたのである、
「こ、これは――」
アルスが目を見はって手をのばそうとする。
「さわってはならん。よいか、これでとりあえず魂は戻した。お前たちの、王を思う気持でもって、ノルンの闇へさまよい出た王を呼び返し、その肉体にもとどおりしばりつけ、馴染ませるのだ。そのためにはまず――さよう、とにかく王の名を呼びながら手足をマッサージしてやるがいい」
「こ――こうで?」
アルスはおっかなびっくりで王のからだに手をのばした。
「ウワッ、冷たい――! 死人みたいだ!」
「当然だ。王はここしばらく、お前たちのことばのような意味では生きておらなんだのだ」
「こうで――これでよろしいんで?」
おそるおそる、アルスは王のたくましく発達した脚をさすりはじめる。が、ふと気づいて、
「ヴァルーサ」
不平そうな声をあげた。
「何してるんだよう――王さまを早く助けなくちゃ――」
「何か……」
ヴァルーサはアルスのことばなど、耳に入れてさえいなかった。
その黒い目は大きく、はりさけんばかりに見ひらかれ、そのくちびるは色を失い、その顔に何ともいえない奇妙な表情がうかんでいる。
もしも彼女がネコだったら、その体中の毛はすべてさかだっていたことだろう。
「ヴァルーサ、どう……」
アルスが云いかけた。
それをやにわにおしかぶせるようにして、
「何かが――見てるわ」
アラクネーの踊り子はかすれた声でささやいた。
「さっきからずっとあたしたちのそばにいたものが――ずっとあたしたちを見てたものが、とても……とても近くに来て、赤い光る目であたしたちのことをじーっと見つめているわ……」
「ヴァルーサ、おい、おどかしっこなしだよ!」
アルスは女のような怯え声をあげてまわりをきょろきょろ見まわした。
「なにも――そうだ、なんにもいやしないよ」
「いや――」
イェライシャがゆるやかに手をあげたので二人はふりむいた。
「わしも感じる――やつ[#「やつ」に傍点]だ」
「ヤンダル――ゾッグ?」
その声は、自らの耳できくのが恐しい、というようにふるえをおびて、アルスの口をとび出した。
「ウム――だとすれば、だが……」
「ど、どこに――一体、どこに?」
「それを、たやすく知らせるほどのあいてなら恐れるいわれもないわ!」
イェライシャはきびしくきめつけて、
「ましてやここはきゃつ自身の封界――きゃつがすでにあらわれているとすると――解せぬ、いったいなぜまた、きゃつはあえて戦うこともせずに、ただ残留思念のバリヤーだけをのこし、それをまたわれらにとかせるにまかせたのか――
おかしい。何かあるぞ。何か、きゃつの汚らわしい魂胆が……ヴァルーサ、たしかに感じるのだな?」
「え――ええ! さっき、たしかに……」
「なら、ヤンダル・ゾッグはこのどこかにひそんで隙をうかがっているのだ。ヴァルーサにはふしぎな霊感能力がある。それゆえにこそわしはお前をともなってきたのだからな。
だが――」
「こ――怖い!」
ヴァルーサは何か叫ぼうとした。しかし、
「アッ! 見ろ!」
アルスがわめいたのでハッとふりかえる。
そして、
「王さまッ! 気がついたのね」
歓喜の声をあげてかけより――その足がはたと凍りついた。
「王さま――?」
いぶかしげに見つめる。豹頭王の目はひらき、そのあつい胸はゆるやかに親則正しく上下をはじめており――
しかしその目は何ひとつ見てはいなかった。
「王さま――あたいよ! ヴァルーサよ! しっかりして、王さま!」
「王さま! アルスでさ! 王さま――王さま?」
ふたりに両側からゆさぶられながら、しかし、グインの、つねにあれほど激しくつよい生命力にもえている輝かしい豹の目は、ガラスのようにうつろである。
「王さま!」
「待て。そんなはずはないのだが、やはり蘇生がうまくゆかなかったのかもしれん。それとも、ヤンダル・ゾッグ――きゃつが……」
イェライシャは王の方へかがみこみ、迂闊にもすっかりそちらへ気をとられていた。
やにわにそのからだが激しい衝撃ではじきとばされた!
「おおッ――」
王のからだをのりこえるようにしてやっと身をたて直した彼の口から叫びがもれる。
「タ――タミヤ!」
「そうさ! 生きているさね、ご生憎様」
空中からふいに涌き出た黒い魔女は大声に笑って、勝ち誇って指をつきつけたのだ。
「ありがとうよ、爺いさん! バリヤーをといてくれた上に、ヤンダルの注意までひいてくれて! おかげでタミヤは正気をとりもどしたよ。さあてと! ――こうなればこっちのもんだ。グインと星辰の秘密はすべて、このタミヤのものと決まったよ!」
みだらにもしわがれた笑い声!
王を中に、三人は凍りついたように立ちつくした。
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5
「タミヤ――きさま生きていたのか!」
イェライシャの顔がゆがんだ。魔道師は荒々しく、タミヤにむかって指をつきつけた。
「生命冥加な奴め、その大言は何のつもりだ」
「グインはあたしのもの――そしてサイロンも、中原も、そしてこの世界すべてがあたしひとりのものになるってことさ!」
タミヤは声をたてて笑った。しわがれた、カラスのような笑い声だ。
「ねえ、グイン、あたしの男、そうだよねえ? さあ、そんなところにいつまで寝ていないで、こちらへおいでな!」
タミヤのうすものの衣服も激しい戦いでずたずたに破れ、黒くつややかな乳や、たくましくのびた脚のほうぼうがまる見えになっている、その胸にぐいと腕をくみ、けたたましくまた魔女は笑い声をひびかせた。
「無駄なことだぞ。お前の仲間どもは、すべてあのとおりのざまだ。星々の秘密はお前らのものではない。下がれ、魔女よ」
イェライシャが仮に不意をつかれてどんなに動揺していたにせよ、彼はたちまちのうちに体勢をたてなおし、自信たっぷりな態度を表面だけでも取り戻すことに成功していた。彼は腹立たしげに手をあげ、退れという激しい身振りをした。
だがそれは、ランダーギアの魔女にききめがあったとも思われなかった。怯えあがってひっこむかわりに彼女は胸をそらせていっそう笑った。
「あたしはお前みたいな老いぼれあいてに云い返したりなんかしないよ、〈ドールに追われる男〉」
これ見よがしにそのつややかな胸を張りながら、
「お前さんなんか、だらしなくも白魔術に屈して、さっさとドールにとっ捕まって食われちまえばよかったんだよ。さあ、あたしの大事の邪魔をするでない。とっとと消えてなくなっておしまい」
「大口を叩くものだな、蛙をあがめるラン=テゴスの売女よ」
イェライシャは別にかッとなるようすもなく答えた。
「お前は知らぬのだ。ここに集められたかの五人の魔道師どもの中で、かようにお前ひとりが正気をとりもどし、そのような大口を叩き得ているというのも、べつだんお前の術が他の四人を圧してすぐれているというのではなく、ただたまたまお前が古き神ラン=テゴスをあがめているので、このドールの結界の影響下におかれるべき力が人よりもよわめられていたというにすぎない。
ましてや、星辰のエネルギーなど、とうていお前の手にはあまること、せっかく冥加にながらえたものを粗末にせず、生命あっての物種と古巣の結界へ逃げ帰るがよい!」
「ハッ!」
タミヤは激しく両手をうちあわせ、嘲りの声をたてた。
「ハッ――云ってくれるじゃあないのさ。生命あっての物種だって? 逃げて帰れだって? ハッ!」
再び顔をそらして笑ったが、ぐいと頭をたて直したとき、その顔から、嘲笑めいた表情は消えていた。
「おっとっと――忘れるところだった。もう、星々の会[#「会」に傍点]まではいくらもない。こんなところでこんなことでひまつぶしをしてやいられないんだ」
口のなかでつぶやくと、改めて、その白く光る目をねっとりと輝かせて国王に向き直った。
「さあグイン、目をおさまし、魔道師どもはかたがついた、あとはあたしとあんただけこちらにお出で、待ちこがれた花嫁に、あんたの強い酒みたいにきく口づけをしておくれな」
「汚らわしい!」
それまで黙っていたヴァルーサだが、これをきいては何条もって引きさがっておられようか。
「王さまはお前みたいな汚らしい黒人女の花婿じゃないわ!」
イェライシャがひきとめるいとまもなくとび出して、王のまだ半ば目ざめぬようすの肩にしがみつきながら叫んだ。
「おや、この小すずめは、こんなところにとまってたんだよ」
タミヤは露骨にあざけって、
「さあ――グイン、あたしの男、とても強いあたしの勇士、目をさましてこちらへお出で――タミヤが抱いてあげるよ、この黒き魔女のタミヤが、ふたつのお乳でお前の豹頭をかこんで、そのぬれた鼻づらにキスしてあげるよ」
「王さまはだまされやしないわ! 王さま!」
ヴァルーサはやっきになって、タミヤのさしまねくようにのばした手から、王を自らのからだで隠そうとする。
だが、ふいに、そのからだがうしろからのびてきた太い腕につきのけられた。
はっとして、ヴァルーサが立ちすくんだ。
グインが、起きあがっている。
その無表情な豹頭に、奇妙なうつろな、夢遊病めいたようすがあった。――思わずヴァルーサが手をのばしてその腕をつかんでひきとめようとするいとまもなく、豹頭王の巨躯はすーっと立ち上り、巨大なゴーレムのように、歩き出したのである――タミヤの方へ!
「王さまッ!」
ヴァルーサが金切声をたてた。
「王さま――王さま、気がついたんですかい? あっしですよ、アルスがここにいますよ」
アルスも叫ぶ。イェライシャの目が細くなった。
タミヤは得意満面で、
「そうとも――さあ、ここへおいで、あたしをその強い手で抱いとくれ、豹さん――ああ、あんたを、あたしの右にすわらせて、あたしの王にしてあげるからねえ――そうとも、世界は、お前とあたしふたりきりのものさ……」
「グイン!」
ふいにイェライシャが、ピーンと張った声で怒鳴った。
それは何やら、魔道のまじないめいたひびきをひそめていた。
「グイン、目覚めよ! 目覚めるのだ!」
だが――国王は、タミヤにむかって手をのばし、ひどくのろのろとした、なかば喪心したようなしぐさでそちらへ近づこうとしつづけている。
「ムダだよ、およし、爺いさん」
タミヤは甲高く嘲った。イェライシャは手をあげ、招くようなしぐさをしたが、効かない、と見るやヴァルーサの肩をぐいとつかんでひきよせ、
「おかしい――こんな筈はないのだが」
小声で早口にささやいた。
「わが術はドールより出でてドールをふせぐもの、ドールとその配下のすべてを敵としながらこれまでこうしてわしが生きながらえてきたからには、いかにラン=テゴスの巫女とはいえあのような魔女ふぜいの念力《ねんりょく》に、わしの念力が敗けるはずはない。
思い出してくれ、ヴァルーサ――グインは、前にタミヤに会ったといったな。そのとき、何があった――? グインは、あの魔女にその身につけるもの、爪や髪、あるいは誓いのことばか何かを与えでもしたか? ――甚だ思いもよらぬことながら、わしのこの念力をもってして、王を目覚めさせることができぬ。強固なブロックがわしのコントロールをふせいでいる」
「……」
ヴァルーサは懸命に考えに沈んだ。
だが、彼女が思いつくより早く、
「ホッホッホ! わからなけりゃあ教えてやろう!」
タミヤの笑い声がひびきわたった。その黒い手はさしのばされ、今にもグインの逞しい手にふれんばかりに近づいていた。
「グインはあたしのものさ! まァ、日ごろ善根は積んでおくものだ。あたしはグインと、そこの二人のちんぴらを、アラクネーの蜘蛛より助けた。その折に、グインは豹頭王の名にかけて誓ったのだよ。いずれ何であれ、この礼をしよう、とさ! ホッホッホ!」
「あっ!」
アルスがわめいた。
「そ――そうだ。そういやあ、王さまは、あのランダーギアの魔女の結界で、魔女の酒をのみ、いずれこの礼をする、と神聖な約束をたてておいででしたよ!」
「ラン=テゴスの酒をのんだと!」
イェライシャの口から覚えず痛恨の呻きがもれた。
「おう――ばかな! ラン=テゴスの魔女の古き酒をのんだと!」
「そうだともね。そして、グインは約束を果たさなければいけないのさ――グインはあたしの騎士《ナイト》なんだよ!」
いまやタミヤの声は、りょうりょうと鳴りわたる進軍ラッパのように、たけだけしい勝利にみちていた。
「グイン、目をさませ。目をさますのだ」
再び、無駄と知りつつイェライシャは、王にかけられた術の呪縛をとこうとこころみた。しかし、
「――後催眠だ。これをさますことができるのは……」
口惜しげにいって祈り紐を握りしめる。タミヤは肉づきのいい両手にグインの頭をとらえ、抱きしめてみだらがましく頬ずりをし、これ見よがしにヴァルーサをよこ目で見たが、
「さあ――お遊びはこれまでだ。グイン、あたしの騎士、あたしの頼みだ。ここにいるこの三人をさっさとひねりつぶしてしまっておくれ」
「なんだって! 魔女め!」
アルスは激怒して短剣をひきぬいた。ヴァルーサはあえぐようにグインを見つめた。
「王さま――ああ、王さま! あたしを見てよ、まさか王さまは、あたしやイェライシャやアルスにその剣をむけたりしないわね? 王さま、王さま――ヴァルーサよ、ヴァルーサなのよ!」
「ホホホホ!」
タミヤが、唇をすぼめて笑った。
「ハハハハハ!」
その、いくつもの指環や腕輪に飾られた腕があがり、まっすぐにイニライシャの胸をさす。――と、グインのからだは重々しく向きをかえ、奇妙にぎくしゃくとした機械人形のように、白髪の魔道師にむかって進みはじめたのである!
その逞しい両手は前につきだされ、その手でひきさくえものを求めるかのように指はかぎのように折れまがり――その、眠れる獅子の全身から、夢うつつの凶暴な殺気と、鬼神でさえおそれてさがるような、黒く凶々しい意志とが漂ってくる。
「イヤよ、イヤよ、何とかして、イェライシャ! 王さまの術をといて、あんな魔女のいうままにさせたりしないで!」
ヴァルーサがイェライシャにしがみついて金切り声をあげた。イェライシャはグインのじりじりと迫ってくる動きから目をはなさず、少しづつあとずさりしながら、うめくように答えた。
「それができればとうにしている。娘よ、わしの力はすべて、ヤンダル・ゾッグのバリヤーをとき、より高次のバリヤーをはるために使ってしまっている。いまのいまでさえ、わしはわしの封界に激しくぶつかってくる、怪物じみた精神波を感じ、もちこたえるために戦っておるのだよ。それをとけば、タミヤごときの術を破るのはたやすいのだが、しかしグインが誓いの言質をとられているかぎり――」
「それじゃあたしたち、王さまに殺されちまうっていうの!」
ヴァルーサはわめき、恐怖にかられて、迫ってこようとするグインの巨大な手からとびのいた。
「そうだわ――あたしにはわかるわ。これは、王さまじゃない、王さまじゃない、何か別のわるいものが王さまの中に入りこんでるんだ!」
「ガーッ!」
グインが吠えた。イェライシャとヴァルーサは両側にとびのき、その必殺の手につかまるのをまぬかれた。グインの巨躯は前のめりになり、それからよろよろと立ち直る。つねの、巨体と思えぬ敏捷さは影もなく、彼は借り物のからだのようにのろのろと、しかし正確に動いてイェライシャをつかまえようとした。
「グイン――グイン! 目をさませ!」
「そうれ、早くその老いぼれをとらまえて、四つにひきさいておしまい」
イェライシャの叫びと、タミヤのわめき声がかさなる。グインはヴァルーサには目もくれずに、老魔道師だけを追いまわしてつきすすんだ。イェライシャはまた、あなやというところでその強力な手をのがれてとびすさったが、その顔はゆがみ、その額には焦慮の汗がにじみ出はじめていた。
「王さま、お願いよ! 王さまはあやつられているのよ! あたいたちは、味方なのよ」
ヴァルーサが両手をもみしぼり、泣き叫んだ。
「目をさまして! いやな魔女の命令なんかきかないで!」
「早くやっておしまい、グイン、時間がない――あと会[#「会」に傍点]までは一ザンもありゃしない」
しかし、タミヤ自身もまた、いくらか焦っているようにみえた。その手の印をしきりと組みかえ、グインをあやつる魔道の術をいっそう強めようと意識を集中する。
そこに、隙があった――
「これでもくらえ!」
ふいに、タミヤの口からすさまじいわめき声があがり、よろよろとよろめいてふりかえる。
「こ、この、この――」
魔女は横腹をおさえて激怒にのどをつまらせた。グインとイェライシャとの争いに、かれらがすっかり気をとられている間に、そろそろとうしろからまわりこんだアルスが、やにわにタミヤの背におどりかかり、短剣をつきたてたのだ。
「この小ネズミが――」
魔女の髪がさかだち、その顔がたちまち羅刹女の形相にかわった。その口がカッとひらいたかと思うと、魔女はアルスめがけてひとすじの炎を吐きかけた。
「わあ!」
アルスが絶叫してころがる。その炎はアルスにまきつくなり巨大な毒蛇と変じてアルスにおそいかかったのだ。
「助けてくれ!」
ヴァルーサは勇敢にも剣をふりあげ、アルスを助けようとかけよった。
「ふたりとも毒蛇にかまれ、全身ふくれあがって悶え死にするがいい! 人間のぶんざいでこのタミヤの邪魔をしようとは!」
タミヤはわめいた――が、そのとき!
「グイン!」
イェライシャの歓喜の叫びにはッとなってふりかえる。
「グイン、気がついたか――わしがわかるか!」
グインの動きは止まっていた。
その黄色い目に、いつものケイロニア国王の――何ものにもおかすことのできぬ意志と生命の激甚な炎が、あかあかと燃えあがっている!
「ム……」
その口がうごき、ゆっくりとした苦しげな声がもれた。
「――わかる」
「このイェライシャがわかるか。きこえるか?」
「ウム――」
深い深い――数千年もの宇宙的規模のねむりから、いまようやくめざめた王イムホテップででもあるかのように、ケイロニア王はゆっくり、ゆっくりと肩を――それから腕を動かした。
その全身に、急激に、生命のあふれる輝き、彼をそれほど他の生命とかけはなれた存在たらしめているあの、野性の精霊さながらの絶えることなきエネルギーが戻ってきている。
「――!」
タミヤの顔は憤怒にひきつり、魔女はめちゃくちゃな勢いで精神集中の呪いことばをとなえ、呼ばわり、印を結んで投げつけて、再び王を自らの支配下におこうとやっきになった。
だが――
「おう――ヴァルーサ……アルス!」
グインの目はそちらにむけられ、と思うととびつくようにしてアルスにまきついてそののどを狙っていた蛇をひきはがした。まるで毒もない小蛇をでもあつかうようにたやすくひきちぎって放り出してしまう。その王へ、
「ああ――王さま! 王さま!」
「王さま!」
両側からヴァルーサとアルスがとびついて抱きついた。
「サイロンが――サイロンが!」
「わかっている」
というのが、王の意外な答えだった。
「俺はからだはまるで死人のようによこたわりながら、俺の魂――か何か知らぬが――はそのからだからひきはなされて中空に漂い、途中から何もかもを水底のような遠い感じながら見届けていた」
「それならばいっそ話が早い」
イェライシャは祈り紐をすばやく結び直しながら、
「ここはわしが引き受けよう。王よ、六百年に一度の星々の会[#「会」に傍点]はいよいよ迫っている。王のからだは早くもその影響をうけはじめているのだ。とにかくまれな出来事ゆえ、それが王にどのような効果を及ぼすものかわしにもすべてはとうていはかりがたい。ここはわしに任せて、とにかくここを出てくれぬか――ここにいては危いかもしれぬ」
「何をいう、やるものか!」
タミヤが地団駄ふんで叫び、グインに向き直る。
「グイン、おまえは覚えていようね? お前はあたしにかたく約束したよ、何であれ、いずれ必ず礼をする、とね――いまその約束を果たしておくれ。ケイロニア国王、豹頭の戦士ともあろうものは、ひとたび口に出したからは守らずにおかないとも――ねえ」
「王さまは礼をするといったけれど、何であれなんて云わないわよ!」
ヴァルーサが叫んだ。タミヤは目を燃やしてそちらをにらみつけた。
「えい、よけいなことをいうでないよ、小むすめが! お前なんか、アラクネーの大グモに頭からくわれちまえばよかったのさ」
「グイン――時間がないのだ!」
イェライシャが叫んだ。その顔には焦慮の色が濃くなりまさり、その目は苛立たしさのあまり炎のように燃えあがっていた。
「さあ、行ってくれ。この魔女にはわしが相手だ。おぬしらさえ、このバリヤーの影響圏外へ逃れ出てくれれば、わしもわしの持てるありとある力をこの蛙の巫女めにむけることができる。さあ、グイン――これについてゆくのだ。道はおのずとひらける!」
イェライシャは虚空から何かをつかみとるなりパッと高く投げあげた。その何かは空中で青い鬼火に変じて、チカチカとあやしくまたたいたと思うとたちまちに、ついて来いといわぬばかりに進みはじめる。
「さあ、行け! この売女をかたづけしだい、わしも追ってゆく。おぬしらが次元の扉へまでゆきつくころあいにはまちがいなく追いつくことができよう。とにかく会[#「会」に傍点]のさなかにここにいてはいかん。急げ!」
「お待ち、グイン!」
タミヤは狂ったようになって手をのばし、グインをひきとめようと呪文を呼ばわる。しかし、
「ムダだ。魔女よ、おまえのこと[#「こと」に傍点]が破れたのにまだ気づかぬか!」
イェライシャの大声がひびきわたった。
「お前は仕損じたのだ。もはやグインはお前の呪縛にしばられることはないし、ヴァルーサの王を思う気持が強力なバリヤーになって王を守っている。それに魔女よ、お前ではどのみち、これなるヤンダル・ゾッグの結界を破ってぬけ出す力はもちあわせぬぞ!
さあ、ランダーギアのタミヤ、〈ドールに追われる男〉イェライシャが相手だ!」
「老いぼれめ――お前だって、入ったはよいが出られるとは決まったものか」
グインがヴァルーサとアルスをひったて、その鬼火のあとにつづいて走るようにしてそこを立ち去ろうとするのを見送り、あとを追うにも立ちはだかるイェライシャにさまたげられて追うこともできぬ――そう、知覚した刹那に、タミヤのようすがかわった。
もはやその顔は悩ましいとも、つややかとも見えぬ。その歯はむきだされ、目は憎悪と口惜しさに白い炎と化し、その黒くぬめぬめと輝く全身からほとばしるむざんなまでの邪悪、凶猛、暗黒、の瘴気は、彼女を一匹の羅刹とも、黒いハーピイとも――なんとも形容しがたいおぞましい化物の本性をすべてさらけ出させていた。
タミヤの結いあげた髪がスルスルとほどけ、その黒いつややかな長い髪はみているうちにうねうねとうごめきはじめた。見ればそれはことごとく、牙から毒液をしたたらせてぶきみに舌をチロチロさせるおぞましい毒蛇と化していたのである。タミヤは首をうつむけ、と見た刹那、それらの蛇どもはシャーッと牙をむいてイェライシャにおそいかかった。
イェライシャはあわてず手をさしのべ、するとその手のさきにぽかりと光り輝く杖がうかび出た。イェライシャはその杖をふるってピシリピシリとあやまたず毒蛇どもを払いのける。
その杖にさえぎられてどうしても毒ある牙がとどかぬ、とみて、
「犬頭蛇よ――アムルゴスよ、ゴネリルよ!」
タミヤが呼ばわる。
空中から生まれ出て炎の舌をひらめかせながらイェライシャにおそいかかった使い魔は、それまでにタミヤの呼び出したそれらのたしかに数倍はあるほどの化け物だった。が、
「ムダなまねはよすがいい」
イェライシャは冷やかにあざ笑って、両手をマントからつきのばしてさしのべ、その指さきからふいに白熱したいなづまがほとばしった、と見たとたんに、いまやまさに魔道師の肩に牙をたてようとしていた犬頭蛇身の怪物はボッと音たてて炎につつまれてしまった。
一瞬にして燃えつきてしまう。タミヤはくやしさにくちびるをふるわせた。
「どうした――それだけか、奴隷女よ!」
イェライシャは容赦なく声をはりあげて、
「それしきの術でよくまたこのたびの陰謀にひと口のろうなぞという、あつかましい心根をおこせたものだな――さあ、もはや茶番は終わりだ。わしの前にはより巨大な敵が待っている。お前の這いまわるにふさわしい、地底のくさいどぶ泥の中へ戻るがいい蛙め!」
祈り紐をとりあげて大音声にルーン文字をとなえはじめる。同時に恐れげもなくタミヤにつかつかと近づいてゆく。
タミヤの黒い顔は、怒りから屈辱へ、屈辱から痛恨へ、痛恨からついに恐怖へ――さながら雲が風にもてあそばれるようにその表情をかえた。が、とうとう、あいての力が自らでは敵すべくもないまでに巨大であると知り、その目ははりさけんばかりに見ひらかれ、そのぶあついくちびるがわなわなとふるえはじめる。
「それ――せめて望みの地獄へ送ってやろう、云うがいい、火で焼かれたいか、それとも泥に埋もれたいか?」
なおも祈り紐をつきつけたままイェライシャがつめよってゆく。タミヤの顔についに、追いつめられたよわよわしい怯えがのぞき、魔女はがくりと膝をつき、助けを乞おうとするかのように両手をさしあげた。
だが――助けを乞うのではなかった。
「おお――あなたのしもべが新しき神のよこしまな術の前にねじふせられます!」
魔女は何ものかにむかって声高に叫びたてはじめたのである。
「お力をおかし下さい――暗黒をこの世の光となし、古き神々につかえんとするこのしもべのためにお姿をお見せ下さい――ラン=テゴス! ラン=テゴス!」
そして魔女は、頭をそらせ、世にも恐しい人間のくちびるからは出ようもない八つの呪文――何千万年の昔に封じこめられた、その禁じられたおそるべきことばをたかだかと呼ばわったのである!
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いっぽう――
グイン、ヴァルーサ、それにアルスの三人は、イェライシャの放った鬼火にみちびかれ、背後でくりひろげられているイェライシャとタミヤの戦いに心をのこしつつも足をはやめて、あわただしくそこをはなれようとしていたのだった。
魔道師の鬼火はひどく確信ありげなようすでかれらの先に立ってすすみ、さきにイェライシャたち三人がぬけ出てきた、あのせまい横穴の通路へ入ってゆく。
「ここへ入るのか?」
グインはうなり、嫌悪に鼻にしわをよせ、歯をむきだした。
「大丈夫よ、すぐ抜けるから」
ヴァルーサはなだめ顔に王の太い腕に手をからませてひきたてる、彼女の顔はてりはえるように輝いていた。まだむろん危地を脱したというにはほど遠い状態ではあったけれども、彼女の愛する、タリッドの冒険行をも共にした豹頭の戦士がいまはしゃんと意識をとりもどして彼女の前にいる、というだけで、もはや何ひとつおそれるものもなく、怖いものもない、という気持にとらわれているのである。
そのヴァルーサを、グインは少し感心したように見守った。
服は破れ、髪も乱れ、異常な体験つづきにその顔もげっそりとこけてはいるけれども、世のつねの女ならばとくに正気を失ってしまうような径奇な異次元のさなかで、そのほっそりとひきしまった顔は恐怖にとり乱しているようでもなく、そのくちびるはきっぱりとひきしまり、その目は自らが王を守ろうとする意志にきらきらと輝いて、手は短剣を握りしめたままである。
「おまえは勇敢な娘だな」
グインは思わず讃辞を呈した。
「なかなかにどこの姫だの、アマゾネスであれそうはゆくまい。お前をみていると、遠い昔、共に数々の冒険を戦いぬいたパロの王女のことを思い出すぞ。彼女ほどにも生き生きとして、誇りたかく屈しない魂をもつ女性を、その後見たことがなかった。彼女は高貴な王国の姫であり、お前はクムの小さな踊り子にすぎないが、どうやらお前と彼女とはよくも似た魂を持っているようだ――そういえば、何か、まだあらわれておらぬものを感じとる能力をそなえている、ということも、な」
そしてグインは荒っぽい賞讃をこめてヴァルーサのひきしまった腰をかるく叩いた。
ヴァルーサは嬉しさに頬をそめた。
「あたしたち、タリッドのまじない小路のときと同じだね!」
王にしがみつくようにしながらいう。
「あたしと、アルスと――王さまと」
「まったくな。ただ、まわりはあのときにくらべて、ことさらによい状況だとも、居心地がよいとも云ってはやれんが」
グインは重々しくつぶやき、そして嫌悪にたじろぎながら周囲を見まわした。
「これは一体また、何という世界なのだ?」
ヴァルーサとアルスには、それはさきにぬけてきたとおりの、ゴム・ホースの内側のようにじゅくじゅくとして気味のよくない横穴である。しかし、まっすぐに立って歩くことができずに、こころもち腰をまげ、頭をさげて歩いている国王の目には、はじめて見るそのぶつぶつと隆起した壁や一歩ごとに気味のわるい液体のしみ出してくる地面がなんともおぞましいものに感じられたらしく、王は鼻にしわをよせ、あたりの空気をかいでは、ときおり険悪に唸り声をたてた。
「それにしても、何という匂いだ! ――それにたいそう暑いな。汗がしたたりおちるようだ――どうも、この中は好かぬ。よくない予感がする。これはまだ当分つづくのか、この道は、え、ヴァルーサ、アルス?」
「たしか、まえに通ったときは――もう少しぐらいで広いところへ出たはずなんだけど――でも……」
ヴァルーサはためらいがちに、考えこむようにあたりを見まわす。
それは、彼女とアルスがイェライシャにつれられ、祈り球にみちびかれて通りぬけていった同じ横穴にまぎれもないのだが、しかし、何かしら、云うにいわれぬ微妙なちがいを、ヴァルーサの鋭くとぎすまされた感覚は、たしかに感じとっていた。
と、いって――どこがどうと、さだかには指摘しかねる。ただ、さきに通りすぎたときのそこが蛇の体内を連想させたとすれば、いまは、同じように蛇の体内を思わせるその数歩ごとの隆起や、気味のわるい凸凹に何のかわりもないのだけれどもそれでいて、云ってみればそれはまどろむ蛇であったものがいまや目ざめかけている――とでもいった、云いしれぬぶきみな息吹きを感じさせるのだ。
「王さま……」
ヴァルーサはその、内心のおぼろな懸念を何とかして王に伝えようとくちびるをうごかしかけた。
だが、何と云えばよいものか、わからぬままに、そのままくちびるをしめして、また黙りこんでしまう。
(ここが木当に怪物の胎内だとでもいうならばいざ知らず、これほど大きなものがひとつの、生命のある存在の一部で――それが突然生きかえって動き出す、なんていうことが、ほんとにあるものかしら!)
考えれば考えるほどにばかばかしい錯覚にすぎぬような気がしてきて、ヴァルーサは頭をぐいとふりやり、王の腕にからみつく右手に力をこめた。
たとえ、どのような危険な、そして恐しいところにかれらがいるとしても、それは、ついさっきまでにくらべてまるっきり、絶望とも恐怖とも、危険とさえも云えぬような気がする。
なぜなら、さっきまでは彼女たちはこの世にもありえない世界の、孤独で、しかも頼りもはかない放浪者だった――しかしいまは、彼女のとなりには、逞しく頼もしいケイロニア王が、力強く歩を運んでいる。
そう思っただけでも、ヴァルーサは限りなくなぐさめられる心地になった。グインはべつだん、ヴァルーサの歩みに気を配ってくれるわけでも、やさしいことばひとつかけるわけでさえない。しかし、彼がとなりにおり、そしてその、彼の心も魂ももはやすっかりめざめて彼の肉体《からだ》と共にある、と思うと、ヴァルーサは、もう何ひとつ怖れるべきものはない、という気持になり――その豹頭の王の、彼女とふれあっている固く太い腕から彼女の皮膚を通して、体内へまで力強い彼の鼓動とつきることを知らぬエネルギーの一部がそのまま流れ入ってくるように思うのだった。
「イェライシャは――」
ふいに彼女は気づき、何がなしぎくりとして口をひらいた。
「イェライシャはどうしたかしら――タミヤは?」
口に出したあとで、いっそうヴァルーサはどきりとした。
ずっと通りぬけてきた横穴の中は、うしろも、前も、動くものの気配とてなく、何の物音もなく、ただジュクジュクと水――それともそう見える何かの液体――をにじませてしんと静まりかえっている。その非人間的な静けさのなかで、いかにも彼女の声が唐突に、いんいんとしてきこえたのに、ほのかに怯えの心がきざしたのである。
「ム――いや、大丈夫だろう。――俺は、イェライシャという男を知っている。あれは、なまなかなことでは、どうして古き神をあがめる魔女ごときに敗ける奴ではない。何しろ、〈ドールに追われる男〉だからな」
「……」
「悪魔中の大悪魔、なべて世の闇と死とを支配するものであるところのドールと戦ってさえ生きのびられる魔道師に、タミヤのような一介の魔女が敵すべくもないさ」
「――だと、いいんですけれど」
「どうした――ヴァルーサ」
いぶかしげにグインがいった。
「さっきからなぜとなく、不安そうだな。どうした、何が気にかかるのだ?」
「いいえ――ただ……」
ヴァルーサは考え、そして答えた。
「別に何がというんじゃないけれど、いろんなことがひどく不安で――」
「イェライシャの身が危いという感じがしでもするのか」
グインは少し気がかりらしく見えた。
「俺はイェライシャの忠告を覚えているぞ。彼は俺に、クムの踊り子の直感を大切にするように、そしてアルス、お前を忘れぬようにという忠告をくれた。そしてたしかに、さきほどタミヤの呪縛から俺がのがれることができたのはアルスの働きだった。
と、なれば、もうひとつの忠告も正しいのかもしれん」
「イェライシャが危いとか、そんなふうにはっきり感じられたらいいんだけど――」
ヴァルーサはじれったげに、
「ただ、ひどく近くに危険が――何か、とても恐ろしいものがせまっているような、――危険にすっかりとりかこまれてしまったような気がして……」
唇をふるわせて云うと、ひしとグインの腕にすがりついた。
「どうした」
「こ――こうしているときだけなの、いくらかでも、安全だ、という気になれるのは――ああ、王さま! 王さまがぶじでほんとによかった」
そしてヴァルーサはネコのような可憐なしぐさで、王の肩に頭をこすりつけた。
それをみて、アルスは憤慨した声で、
「ケッ! ――見ちゃいられねえや。そんな濡れ場は、少なくともこのイヤな横穴を何事もなくぬけてから、サイロンの王宮ででもやってもらいたいね! ――けど、何だって……危険がせまっている? ヴァルーサ、あんた、さっきもそんなことを云ってたじゃないか。何かが近くにいて、じーっと見ている、ってさ」
急にこわごわとまわりを見まわした。
「別に――おいらには、何があるようにも感じられないけど」
「ウム――だがヴァルーサがそう云うからには、それはたしかに危険なのだ」
王はなだめるようにヴァルーサの肩を叩きながら、
「それに俺もたしかに、この中はどうも好かぬ。ここでは何かあってもうまく戦うには狭すぎ、足場がわるすぎる――それより何より、どうもこの中はヴァルーサが怯えるのも無理のないところがある。
とにかく一刻も早くこの中をぬけてしまおう。それまでには、イェライシャも追いついてくるだろう」
じれったげに宙にとどまってかれらを待ち顔の鬼火を見上げて、重々しく云った。
そこで、かれらは口をつぐみ、いっそう足をはやめ、何ものか目にみえぬ追跡者におびやかされるようにひたすら先を急ぐことに専念した。
かれらが話しあうのをやめると、再びそこには、ねっとりとして妙になまなましい沈黙がはりつくようにして訪れてくる。いっそのこと、何もかもが死にたえたあとの、死そのものよりもうつろな、荒れはてた沈黙であったならば、それはこれほどにかれらの恐怖と――そしてひそかな恐慌をかきたててやまぬこともなかったかもしれない。
だが――
ヴァルーサは、連れの心をかきみだすことを心配して、もう口に出しはしなかったが、そうするかわりにいよいよつよく王の頼もしいぬくもりに身をよせ、そっと胸の中でつぶやいた――やっぱり、まちがいないわ。この闇……この沈黙は、生きているわ[#「生きているわ」に傍点]。
錯覚ではなかった。かれらのまわりで、その固いゼラチン様の、蛇腹のように波うつ横穴はいつのまにか生きかえり、そのけがらわしい闇の生命をとりもどし、そしてゆっくりと、きわめてゆっくりと、その不浄の脈動を開始しつつあったのだ。
もはやかれらのぬけてゆくその通路はただの通路ではなく、それ自体おぞましい、信じがたいような生命と原初の意識とを保って、じっとかれらを見つめ、見守っていた。その波うつ蛇腹はかれらの足がふんでゆくたびに、なまなましくいとわしい体液をにじみ出させ、それはさながら生肉をふむにも似た何ともいえぬおぞましさをヴァルーサの足のうらから脳天にまでつきあげてきた。
こころなしか、そのゼラチン質までもさきに通りぬけていったときとはちがい、奇妙な弾力と、生命あるものだけのもつ抵抗感とを、もちはじめているような気がする。
そしてかれらをとりかこむ、ねっとりと昏く、なま甘い腐臭をふくんだ静寂の底では、どくん、どくん、と規則正しく重たい太鼓のひびきにも似た沈黙の鼓動が、ゆるやかにうちつづけているかのように感じられるのだ。
「……」
ヴァルーサは右手で王の腕を、左手にサッシュからいつでもぬけるようかまえた短剣の柄をぎゅっと握りしめて生つばをのみこんだ。なんど、そんなことはないのだと自らに云いきかせてみても、いまにもその周囲の壁そのものが突然にあきらかな敵意を示してかれらにおそいかかり、ぴったりと両側からねりこんでしまう、という恐怖が消えない。それ以上ものの十分もその状態がつづいていたら、彼女はパニックにおちいり、ついにはただそうして黙りこんでその沈黙の音なき鼓動、生なき生命を感じていたくないためだけにでもあたりの壁へナイフでもって切りかかり、ヒステリーをおこしてわめきたてずにはいられなかったかもしれない。
が――これで限界だと彼女がその考えをしか頭にうかべることができなくなりはじめたとき……
あたかも、その思いをなにものかが見てとりでもしたかのように横穴の行く手に丸くぽかりと出口がひらいているのが見えてきたのである。
アルスまでが歓声をあげた。
鬼火もまた嬉しげにスピードをあげてほのかに涼しい風の吹き入ってくるその出口のほうへ飛んでゆく。
この道は、行きに通ったときには、こんなに長々とつづいてもいなかったし、それにその曲がりくねりかたが、逆から通ってきたということを勘定に入れても、どうも記憶とちがうような気がする、という微かだが執拗な疑惑が再びヴァルーサをとらえたが、ヴァルーサは頭をふりやり、それはどうでもよいことにした。どのみちもうこれでこの横穴とはおさらばであるわけだし、それに鐘乳洞か何か知らないが、いかに奇怪な世界だとはいえ、洞窟がそんなふうにして、とけくずれたゼリーかなにかのようにたやすくすがたをかえてしまう、などというあるべからざることが、そうそう信じられるはずもない。
「やれやれ――! 終わったぞ!」
アルスがはしゃいで鬼火のあとを追って先に穴をとび出した。つづいて王とヴァルーサ。
だが――
そのまま、かれらの足は、そこでぴたりと――何ものかの手でいきなりひきすえられたようにとまってしまったのである。
そこは――
行きどまりだった。
かれらの記憶にある、広くはてしない天井の高い、この洞窟世界の底部とは、そこは似ても似つかない。いや、というよりも、まるでかれらをみちびき、よろこんで足をはやめさせたあの出口の明るさが、それすらもすでに何かのおぞましいトリックにすぎないかのように、かれらはそこを出たとたんに、ほんの十メートルばかりさきでおわっている断崖――そしてその下にひろがる、底知れぬ暗黒……そしてそのまた何メートルかさきに、とりつくしまもなくまっすぐにかれらのゆくてをさえぎっている、どこまでのびているのか、上も、下も、はかり知ることさえできない絶壁に直面していることに気づいたのである。
三人は呆然として立ちつくした――
その少し前である。
「ラン=テゴス! ラン=テゴス!」
タミヤの、やっきになった絶叫がひびきわたっていた。
「どうした――蛙の魔女よ」
老魔道師ははじめ、杖をかまえて身がまえたが、ただちにおちつきをとりもどして、
「お前のそのご大層な神は、そのしもべが追いつめられておるというのに、姿さえもあらわそうとはせんではないか」
声をたてて笑う。
「ラン――テゴス!」
タミヤの声はもはや悲鳴のひびきを帯びていた。
「教えてやろう」
イェライシャはいっそうおちつきはらって、
「これはお前が終始、見ることさえもできなかったことだが――ここが何ものの結界であるか、お前は今となってさえ気づいてはおらなんだのだな。未熟者が――よいか、ここはヤンダル・ゾッグの結界――彼がつくり出し、彼が存在せしめている世界なのだぞ」
「ヤ――ヤンダル・ゾッグ!」
タミヤの口から悲鳴のような叫びがもれた。
「あの――キタイの王にして呪われたドールの祭司ヤンダル・ゾッグ!」
「そうだ」
イェライシャは指をルーン文字のかたちに動かして護符をまさぐり、
「わしがこうしてここに無事にいられるのも、わしの用いるサイコ・バリヤーが少なくともお前たちのそれよりは強力で、ヤンダル・ゾッグの影響をまぬかれることができればこそ――だが、ラン=テゴスといえば太古に地球へ飛来したという古きものたちの一人にして、われらがあがめるすべての神々とはその系統を異にするもの――すなわち異類の神だ。なぜヤンダル・ゾッグほどの魔道師が、正面きっての対決であればいざ知らず、その結界の中に異類を入りこませるものか」
「そんな――そ、そんな!」
タミヤはわめいた。その蛇の頭髪はすべてさかだち、その顔は絶望のあまりひきゆがんでいた。
「ラン=テゴスがあたしを見すてるなんて! ラン=テゴス!」
「むだだというのがわからんか。蛙神がお前を見すてるのではない、お前が、その神の手のとどかぬ次元へ入りこんでしまったのだ」
イェライシャの手の杖がたかだかと上がる。
「恨むならば自らの力で魔道をきわめたのでなく、何ものかの力をかりて勢いを誇っていた自らの不明を恨むがいい」
イェライシャは杖を投げつけた。杖は光の矢となってまっしぐらにタミヤにむかってとんだ。タミヤは逃げようととびあがったが、あたかも魅入られたようにそのからだは持主のおもわくとは逆に杖の正面へむかって突進し――そしてそれはまともに魔女の二つの乳房のあいだをつきとおして背中へつきぬけた!
「ギャアーッ!」
タミヤの絶叫があたりをゆるがした。魔女は黒い両手で自らをつきさしたその灼熱の矢をつかみ、空中にほんのわずかのあいだふらふらと止まっていた。その顔に、信じられぬ表情と、そしてみにくい恐怖がしみのようにひろがってゆく。
「イェ――イェライシャ……」
そのくちびるがうごいた。
「殺したね――このタミヤを殺したね。
覚えているがいい。ラン――テゴスは決――してその……しもべを見すてない。
おまえはドールだけじゃなく、――ク・ス=ルーの古きものたちにも追われ……」
だが云いおえることはできなかった。その黒い顔にみるみる灰色の死の翳がひろがり、光の筋をうちこまれた体の中心から四肢へむけてけいれんと共に灰色の炭化作用がはじまり――
そしてみるみるうちに、ラン=テゴスの魔女は、固いやけこげた棒と化し、さらにはその端の方からぽろぽろとくずれ去ってゆき――ついには一陣の風が、かつてランダーギアのタミヤであったものの名残りをあとかたもなく吹きちらしてしまった。
〈ドールに追われる男〉はそれを憐れみとも嫌悪ともつかぬ無表情でじっと見守っていた。そのくちびるから低いつぶやきがもれる。
「ク・ス=ルーの古き者たちか――追うならば追ったがいい。どのみちわしを追っている百八の悪魔がもう少し増えたところで、わしの死ぬのは一回限りなのだからな」
それから、彼はふいに我に返ったようにあたりを見まわした。
「こうしてはおられぬ。――いよいよ時は近づき、ということはわしとヤンダル・ゾッグとの、さいごの死闘のときもまた近づいてきた。当のあいての結界のさなかで戦わざるを得ぬというのもむろん不利なら、あいてがヤンダル・ゾッグとあってはわしとてもタミヤや、他の木っ端どもをあしらうようなわけにはいかん。
――ハッ! 或いは、皮肉なことだがわしを追うドールやク・ス=ルーのものたちすべてから逃げのびたわしの最期はヤンダル・ゾッグとの戦い、ということになるやもしれんわ――」
ひくく笑ったイェライシャの姿がふいにとけはじめそしてついとかき消えた。
あとにはただ、戦いの名残りの塵が漂っているばかりである。
「こ――これは……」
グインはわめいた。
「イェライシャは嘘を教えたのか? これでは、通りぬけるはおろか、先へ進むことさえできん」
「いえ――たしかにさっきはこんなものはなかっ……」
云いかけたヴァルーサが、ふいにするどく息をのんだ。
「どうした! また予感か!」
グインがいきなり大剣に手をやって怒鳴る。
ヴァルーサのようすがかわっていた。
「ちがう――ちがう――ちがう[#「ちがう」に傍点]!」
「どうした――ヴァルーサ!」
「そんなはずは――でも……」
グインはヴァルーサの肩をつかみ、ゆさぶった。ヴァルーサは激しく身をもがいた。
その目が大きく見開かれている。これまでとは比較にならぬ恐怖と戦慄にみちた目だ。
その唇が白くなり、わなわなとふるえ、何か云おうとするがうまくことばにならない。
「危険――殺そうとしてる――」
「どうした!」
グインはどなった。
「ヴァルーサ! 頼むから[#「頼むから」に傍点]わかるように云ってくれ! 危険はどこにある?」
ヴァルーサの手がふるえながらあがり、ま上を指さし、それから絶壁をぐるりとさししめした。
それからその手がおどおどと、不信と当惑と、恐怖とにふるえながら動き――
そしてそれはぴたりと止まったのである。
アルスの胸で[#「アルスの胸で」に傍点]!
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7
「え――?」
瞬間、タリッドの小盗賊は、なんのことかまるきりわからない、という無邪気なきょとんとした顔になった。
きょとんとしたのは、国王とて同じである。
「危険――何をいってるのだ、ヴァルーサ。それはアルスだぞ、|穴ネズミ《トルク》のアルス、まじない小路の冒険を共にしたわれらの仲間の――」
「どうかしてるぜ、ヴァルーサ!」
アルスは怒ったように叫んだ。
「このおいらがわからないなんて、お前こそ魔法にかけられたんだ。ねえ王さま――そうだ! ヴァルーサは魔法でそう思いこまされているんですよ――さっきの魔道師どもみたいに!」
「そうかもしれぬ。ヴァルーサ、アルスはさきにタミヤを捨身でやっつけ、俺を救ってくれたのだぞ。もしアルスが敵であればどうしてそんなことを――」
「ヴァルーサ、ともかくおちついて……」
云いながらアルスがなだめ顔に手をさしのべて、ヴァルーサに近づき、ヴァルーサがびくんと身をかたくあとずさるのにもかまわずそのむきだしの肩をつかもうとした――
刹那だった!
「動くな!」
すさまじい気合いもろとも、豹頭王の大剣がうなりをあげて、アルスの上にふりおろされたのである!
電光の速さでふりおろされたその剣を、たとえアルスが地上最強と呼ばれる剣の達人であったところでうけとめるのはおろか、肉眼では見ることさえもかなわなかったかもしれない。
だが、刹那、アルスのからだはうしろへ倒れこんだ。何かにつまづいたかのように。
「な――何……何をするんです、王さま!」
うしろざまにひっくり返ったまま起き直ろうともせずにアルスは絶叫した。そのやせた愛嬌のある顔に、目ばかりがぎらぎらと光って凍りついたように王を見あげた。
「あっしが何をしたっていうんです! 王さままで――王さままでやつらの魔法にかけられちまったんですか!」
「黙れ!」
グインは吠えた。
愛剣をひっさげ、彼はヴァルーサをうしろに庇い、巨大な怒りにみちた神のようにアルスの前に立ちはだかっていた。その豹の目は爛々と燃えあがり、彼は恐しいほどの殺気と緊張につつまれていた。
「王さま――!」
「俺は狂ってはおらぬ、ヴァルーサが狂ってなどいないようにな。
――俺にわからぬと思っていたのか!」
「な、何が――何のことです……」
アルスの声はよわよわしく恐怖にかすれている。それをさげすむように見おろして、
「俺にはヴァルーサのような霊感力はない」
豹頭王は冷ややかに云った。
「だがそのかわりに、それに匹敵するといってもよいほど、実戦の経験をつみ、しかも生きのびてきた。よい戦士とは、『背中にも第三の目』がなくてはならぬのだ、アルス――
きさまさきにあの横穴を、俺とヴァルーサのあとにつづいて通りぬけるとき、二度ならず三度までも俺にむかって殺意を抱いたな。それもひとかたならず、異様なまでに強烈な邪悪の気配をな。知らぬとは云わせぬ――
あれほど強烈な気配を、この俺がまるで気づかぬほどのあきめくらだとでも思ったのか!」
王の声は大きくなり、気のよわいものならばその場に腰をぬかすほどのすさまじいひびきをはらんだ。
「どうだ――さあ、どうなのだ、アルス!」
「そ、そんな、王さま、あっしは……」
「しらばっくれるな!」
グインは大喝し、やにわに再び大剣をふりおろす。風にあおられる木の葉のように、アルスの小躯はうしろへとんだ。
「きさまがただのタリッドの小悪党、イフリキヤの女衒であったら、俺のこの剣をかわすことなどできるものか。きさま――何ものだ!」
豹頭王の目は爛々と燃え、その全身におもても向けられぬ凶猛な殺気がほとばしった。アルスはぺたんと座りこんだまま女のような悲鳴をあげた。
「云え!」
グインは追いつめる。容赦なくその首を叩き切る気合をこめて、愛剣が三たびふりあげられる。アルスはひきつった顔に目ばかり光らせて何か叫ぼうとするように口をひらいた。
が――
そのとき――
「気をつけろ、王よ! そいつがヤンダル・ゾッグだ!」
虚空から、ふいに大音声がふってきたのである!
「なんだと!」
王はいきなり剣をひいてとびすさり、少しはなれた空中に忽然とあらわれた、黒いマントの姿を見やった。
「イェライシャ! それはまことか!」
「まことだ」
というのが、かれらのほとんど頭と同じ高さにうかんだまま、手に祈り棒をにぎりしめてアルスをにらみつけている魔道師の答えであった。
「このイェライシャの習いおぼえたありとある術にかけて間違いはない。そやつがヤンダル・ゾッグ、敵の本体なのだ!」
云うあいだもその火と燃える目はタリッドの小盗賊をにらみすえたきりかたときもその上からはなれようとはしない。
「イ――イェライシャ、あんたまで! ――」
よわよわしくアルスが抗議をこころみるのなど耳もかそうとはせず、
「よくも化けたものよ、アルス――|穴ネズミ《トルク》のアルスとはな。だがヤンダル・ゾッグよ。上手の手から水が洩れるたとえ、そのお前の化けかたの完璧さこそがきさまの正体をすでにのぞかせているようなものだ。なぜなら、霊能力あるヴァルーサ、並はずれて五感のするどく発達したグイン、そしてこのわしイェライシャ――この三人と、あれほど長くともにあり、あれこれの冒険を共にさえしながら、その間を通じてついに一度も気《け》どられることなくただのタリッドの小悪党に化けおおせる――そんなことの可能な魔道のつかい手といえば、きさまのほかにはいるまいからな。
さあ、かくなる上はもはやその尻尾を出したらどうだ。とりつくろったところで無駄なことだぞ――ヤンダル・ゾッグ!」
しだいにイェライシャの声は朗々たるひびきを帯びて大きくなり、ヤンダル・ゾッグの名を呼ぶと同時にやにわにその手をあげてまっすぐにあいてに指をつけたとき、イェライシャのやせたからだ全体が、あたかも数倍にふくれあがるかと見えた。
その全身から息をのむ威厳とそして峻烈の気合がほとばしり――つきつけた指からは白熱の光があいての胸をつらぬくとも見える。
「ハ……」
その指をつきつけられたとき、アルス――それともこれまでそう呼ばれていたもの――のからだはびくんと痙攣したようにみえた。
そのままうちのめされたように深ぶかとうなだれてうずくまり、ぴくりとも動かない。
恐しいばかりの静寂と緊張とがあたりを支配した。息づまる沈黙はそれ自体生あるもののようにかれらにおそいかかり、ちょっとでも動いたり、音をたてたがさいご、破れめとなってたちどころに圧しつぶされてしまわんばかりである。
アルスは動かず、それに指をつきつけて神人のうつし身さながらに空中に立ちつくすイェライシャもまた微動だにしなかった。
アルスと向かいあい、手には大剣をひっさげ、うしろにはやはり凍りついたようなヴァルーサを庇って立つ豹頭の戦士もまた、奇怪な伝説の神像そのままにぴくりとも動かず、ただその豹頭のなかで油断なく青みがかった光を放つ双の目だけが、その彫像ならぬ生命ある存在であることを教えている。
永遠とも思われた対峙の時間が流れた――
そして……
「ハ――」
はじめは、それはあまりにも緩すぎる動きであったために、誰もそれを気づいてさえいないかに見えたほどである。
「ハ――ハッ!」
アルス――それともアルスとしてかれらが知っていたところのもの――かれは、ゆっくりと、きわめてゆっくりと顔をあげはじめた。
「ハ……」
そのようすに、何か異常な――ひどく異常なものを感じてヴァルーサは息をつめて王にすがりつく。王と魔道師の目は四つの炎のように、まばたきもせずにアルスであったはずのものを見守っている。
そして――
それ[#「それ」に傍点]はついに顔をあげた!
「おお……」
ヴァルーサは、だれかがかすかなおののくようなうめきを洩らすのをきいた。それが自分の、恐怖と緊張のあまりに洩らしたうめきである、ということさえ気づかない。
(こ――これがアルス……あのアルスだなんて――そんな……)
再び、彼女の口からほのかな無意識の呻きがもれる。いま彼女らの目の前にいるのは――
それは――
彼女がずっとタリッドとこの結界の冒険を共にした小心で愛嬌のある小盗賊とは、似ても似つかないもの[#「もの」に傍点]だった。
それはさながら、ウサギの皮をかぶっていた毒蛇がゆっくりとその赤い口をひらきはじめたかのように――また石に化けていたサソリが、ゆるやかにその緩慢で恐怖にみちた死をもたらす尻尾をもたげて戦慄の舞踏をくりひろげはじめたかのように――
それは云いしれぬ恐怖と、そして嫌悪をさそう変貌だった。
「――仕方もあるまい」
そのくちびるから、重々しい、それもアルスの声とはまるで似ても似つかないひびきの声がもれて来たとき、三人ははっと身をかたくした。
神秘の魔道師――そしてサイロンと豹頭王とをつけねらうダーク・パワーのさいごにして最大の一人なるヤンダル・ゾッグが、ついにその正体をあらわそうとしているのだ!
「もはや、隠すにもあたるまい。ことさら、最後の時も近づいている上からはな。
いかにも、われがヤンダル・ゾッグだ。よくぞ見破った、イェライシャ――
いっそ見破ることもできぬ程度の木っ端術師であった方が幸せであったようだな。そうであれば、何も知らぬうちに、やすらかに死にたえることもできたであろうに――」
アルス――いや、ヤンダル・ゾッグの声は冷やかな、そして云うにいわれぬ嘲笑のひびきをはらんでいた。そのおちつき払った声でさえ、すでに、かれらの目の前にいるそれ[#「それ」に傍点]が、これまでかれらが戦ってきた五人のダーク・パワーなるものたちとは、桁のちがう邪悪にして冷酷――しかも強大な力をほこる存在であることを感じさせた。
「ヤンダル・ゾッグ、キタイの王、邪悪なるドールに魂を売りわたした東方最大の魔道師よ」
イェライシャは、しかし、気圧されたとも見えなかった。彼はその指を、さきにタミヤにしたと同じように、ヤンダル・ゾッグの胸にまっすぐにつきつけた。
「おぬしはすでに闇の力を手中におさめ、暗黒の王と呼ばれてもおかしくない存在だ。されば、いまさらながらたかがケイロニア国にかくも執着するにはあたるまい。
サイロンから手をひけ、自らしろしめす黄泉へ戻れ。さればわしもおぬしと戦わずにすむ。正直にいうがおぬしとは戦いたくないのだ――ヤンダル・ゾッグよ」
「ばかに、弱気になったものだな、〈ドールに追われる男〉よ」
ヤンダル・ゾッグは同じ冷ややかなおちついた声で答えた。
ヴァルーサは音をたてて息を吸いこんだ。それはどうにも気味のわるい眺めだった――目の前にいる、見なれた気弱で臆病そうなネズミのような肉体のそのなかに、まったく別の人格があり、それがいわばアルスと呼ばれていたものの声帯や口を自在に扱ってかれらにしゃべりかけてくる、というのは。――とがった顎や、やせた頬、たよりなげに下がった眉、といった道具立ての中で、双の目だけがまるきり違うものの蛇のような光と威圧をおびているのは、ひどくぶきみで慣れることのできぬ光景だった。
「お前はひとたびはドールの祭司として、われに等しい黒魔術の奥義をおさめながら、しかもあえてドールにそむき、生涯を闇に追われて暮らすことを選んだほどの男ではないか。いまとなって生命乞いは甘かろうぞ、イェライシャ!」
「生命乞いではない」
イェライシャは怒ったように答える。
「わしはただ、おぬしに翻心させられぬものかとこころみてみたかっただけだ。不必要な争いで互いに手ひどいいたでをうけるにも及ぶまいに――わしとおぬしが相戦えば、どちらかがどちらかを斃すにしたところでそこにいたるまでにどちらもきわめて大きな代価を支払わねばならぬことは目にみえているのだからな」
「老いたな、〈ドールに追われる男〉!」
ヤンダル・ゾッグは嘲笑った。
と見たとき、ヴァルーサとグインはふいに叫び声をあげてとびのく。突然、前触れもなしに、目のまえでヤンダル・ゾッグのアルスのからだがどろどろととけくずれはじめたからである。
その顔の肉はさながら高熱にさらされた鉛人形ででもあるかのようにどろどろになって下へこぼれおちはじめていた。
ヴァルーサは嫌悪の悲鳴をあげて顔をおおってしまう。グインはその肩をぐいと左手で抱きよせ、彼女の顔を胸にうずめさせた。イェライシャは祈り杖をかまえて油断なく見守る。
その注視の中で、もはやそれを支えきれなくなった眼窩からどろどろととけこぼれた双つの眼球が地面にころげおち、にやりとウィンクでもしたそうにかれらを見返した。
顔だけではない。たちまちのうちに、トルクのアルスであったもの[#「もの」に傍点]は、人間の原型をさえとどめぬ、とけくずれた粘土の山と化してゆきつつあった。服も、手にしたものもひとしなみにとけてゆき、それでもなお細長い小山のようにゆらゆらと立っていたが、やがてゆらりと揺れたかと思うとそのままとけたアイスクリームのようにくずれおちてしまう。
「こ――これは……」
さしも物に動ぜぬケイロニア王の声も、さすがにうわずって、王は説明を求めるようにイェライシャへ目を走らせた。
〈ドールに追われる男〉は目を血走らせて敵のさまを凝視していた。王の目に気づき、はッと我を取り戻して、何か云おうとするように口をひらきかける。
だが、何も云うひまはなかった。
ふいに、上から、途方もなく大きい、そして恐しく悪魔的なひびきをはらんだ笑い声が、あたりの壁をゆるがせたからである!
「ヤンダル――ゾッグ!」
イェライシャは高く呼ばわった。
「おお――きさま!」
「われはここだ、イェライシャそしてグイン!」
ヤンダル・ゾッグの声は、想像を絶する高みからでも降ってくるようにきこえた。三人はうろたえて見まわした。だが、目の前にひろがるのはかれらの行手をはばむ絶壁ばかり――足もとにはアルスの肉体であった汚らわしいどろどろしたかたまりがあるばかりで、どこにも、ヤンダル・ゾッグその人の姿はない。
「どこだ、ヤンダル!」
「出て来い、卑怯者!」
イェライシャの叫びと、剣を構え直した王の咆哮が交錯する。降ってくる笑い声はいっそう高くなった。
「まだ気づかぬらしいな! われはここだ、見えぬか――お前たちの目の前を見てみろ!」
いまやその哄笑はあからさまな嘲りをおびている。かれらはハッとして前を見――そしてその目をそのままあげていったところで、凍りついたように動きをとめた。
かれらの行く手を阻んでいる、どこまでゆけば切れているのか上も下もはてしない暗黒に消えているかと見えた絶壁――
その絶壁のはるか上方、さようおよそかれらの背を五倍もつみかさねたかというほどの上方に――
赤く凶々しくきらめく戦いの星のように、双の邪悪な目がかれらを見おろしている!
「アァ!」
ヴァルーサは叫んだ。
「ヤンダル・ゾッグが、あんな高いところに!」
「違う[#「違う」に傍点]」
というのがイェライシャの呻くような答えだった。
「ヤンダルがあの高みへいつのまにか上ったのではない――
これがヤンダル・ゾッグなのだ!」
そしてやにわにイェライシャは祈り杖をあげるなり、まっすぐに目の前の絶壁にむかって投げつけた。
杖がつきたった瞬間、ふいにかれらは大地とあたりの壁そのものがぶるぶると身ぶるいをしたような衝撃でまろび、あわてて身を立て直した。杖はキラキラと輝きながら闇につきささる光そのもののようにしばしのあいだそこにささっていたが、やがてふいに押し出されでもしたかのように光を失って下へおちていく。そして、
「こたえぬぞ、イェライシャ!」
ヤンダル・ゾッグの笑い声がいんいんとひびきわたった。
「だがまあ、大層気づくのが遅くはあったもののそこに気づいたことは賞めてやろう。
さよう――われはここだ。というよりは、これがわれだ、と云ったほうがよい。
イェライシャ、グイン――そのアラクネーの踊り子はなかなかによい魔女の素質をもっているぞ。さきにその小娘は、横道をぬけながら、それが生きている[#「生きている」に傍点]ことをおぼろげに知覚していた。
そうだ――これ[#「これ」に傍点]がわれだ。というよりも――
お前たちは、われの体内にいるのだ[#「われの体内にいるのだ」に傍点]!」
そして再びヤンダル・ゾッグは、勝ち誇った哄笑を闇の中にひびきわたらせた。
「お前たちを料理することなど、バリヤーのあるなしにかかわらずいともたやすいことだった。
それにもかかわらず、なぜわれがいまのいままでお前たちをこうして無事に過させ、ひとたびはその心臓をとり出して宙につるしておいた豹頭王をとりもどすことさえも許しておいたか、お前たちあわれな虫けらにわかるか――
そしてこれも!」
途方もない高みから見おろす、さしわたし三メートルあまりの二つの火の玉――ヤンダル・ゾッグの凶々しい双つ目が、奇怪きわまりない残忍な喜悦をうかべて輝いた。
と見たとき――
ふいに、かれらの頭上高く、ぼっといくつかの光の球のようなものがうかびあがったのである。
「これは!」
イェライシャが驚愕の叫びをあげる。その光の球の中には――
左腕のちぎれ、背中はばっくりと割れ、それでもなお長杖を握りしめた長舌のババヤガが、首のもげた矮人エイラハ、やはりちぎれた赤いもののついている首のつけねのすぐ近くにかっと目を見ひらいたエイラハの生首が漂っている、首のなくなった石の目のルールバ、――そして体半分がどろどろにやけくずれて、さながら生ける腐乱死体とでもいったありさまの、ひづめあるイグ=ソッグ――五つどもえの戦いにそれぞれ手ひどいいたでをうけ、そのまま闇に沈んでいったかとみえた四人の魔道師たちが、瀕死の体《てい》でぐったりと浮かんでいたのである!
それはまるで幽鬼の行列とも見える地獄図の現前だった。ヴァルーサはめまいをおこしてふらふらと倒れかかる。それをぐいと抱きとめて、
「こやつら――ダーク・パワーの魔道師どもは、くたばったのではなかったのか!」
ケイロニア王は怒鳴った。
頭上からはヤンダル・ゾッグの答えが重々しく、
「いや――死にたえてはおらぬ。といって、お前のことばで云うような意味で生きているわけでもない、さきに稲妻にうたれたときのお前のようにな、豹よ。かれらは、われがかれらの時間をいっとき、止めたために、それぞれのその最後の時の中にいわば宙づりになっているにすぎぬ――それが何故かお前にはわかるまい。
だがわれにはわかる。刻々と近づく会[#「会」に傍点]のおとずれに従って、星々のエネルギーが蓄積されてゆくのが――それはひとつの恒星の爆発にも匹敵すべきものであり、かつ、われの常人の数十倍の生の中でさえためしなかった巨大なものだ。
それゆえ、そのエネルギーをわれとわが目的にそって地上にみちびきいれるためには、たいへん面倒な儀式が必要とされる。かつてないほどに巨大な黒ミサの血が流れねばならぬ。きさま――とイェライシャを示すように目が動き――ときさま――とその目がヴァルーサにむけられ――そしてそれなる四匹の木っ端道師どもは、そのために必要ないけにえであり、それゆえにこそ、われはお前たちが会[#「会」に傍点]の直前たるいままで生きのびることをゆるしたのだ。
そしていまや時が来ようとしている!」
「待て!」
何か反駁しようと口をひらきかけたイェライシャをすばやく制して、グインが怒鳴った。
「そもそもの事のはじめから、俺には、何もかもがこの世の常と異りすぎていて、よくのみこめぬ――ヤンダル・ゾッグ、教えてくれ! 六百年に一度の会[#「会」に傍点]とはいったいどのような意味なのだ。星々のエネルギーとはそもそも何で、それが魔道とかかわりのない地上界にまで一体どのような影響を与えるというのだ。そして、ことさら、そうしたことどもにこの俺が一体全体どのような役割をはたすゆえに、わがサイロンがこのような事件にまきこまれねばならなかったのだ!」
「お前にそれをとききかせたところで、お前は半分もそれを理解することはできまい、死すべき者よ」
ヤンダル・ゾッグは答えた。足もとにグインたちを見おろし、なかばの空中には四人の魔道師の残骸であったものをふんまえて立つ闇の巨人の赤い目は、あわれみでもするかのようにまたたいた。
「だがきわめてかんたんに云ってみるならこうなる。六百年に一度の会[#「会」に傍点]とは、すなわち星々の直列のことだ」
「星々の直列――?」
「そうだ」
無知なものたちをあわれむようにヤンダル・ゾッグは云った。
「星々とはそれぞれの軌道に従って空をめぐり、彗星でもないかぎり決してその軌道が互いに交叉することはないもの。だが、まれに、異る軌道のうちにありながら星と星とが一方からみたときまさに一つの星としか見えぬように直列することがあり、それは自然界にさまざまな変動をもたらす――その最もつねに見られる形がすなわち日蝕であり、月蝕にほかならぬ」
「ところで魔道がつかさどる世界とは、ひとことでいって、物質界たる地上界に対応する、エネルギー界であるのだ」
イェライシャがひきついだ。
「われわれ魔道師にとっては、思念エネルギーから熱エネルギー、さらには星々の発するエネルギーにいたるすべてのエネルギーこそが人間たちのいう現実の事象とひとしいものとなる。そしてこれは説明しても無駄なことだが、星々のそうした直列がエネルギー界にもたらすエネルギーの変動は、きわめて大きいのだ――ただ二つの星のかさなる日蝕でさえそうで、われらはそれゆえ大きな魔道の術はことさら日蝕、月蝕の時をえらんで行なう。われらのいう魔道とは要するに、そうした自然界のエネルギーをかりて自らの力となすものであるからなのだ。
しるかに、今夜、竜の刻限を契機として起ころうとしている会[#「会」に傍点]とは、獅子の星座の七つの恒星が地球より見てただひとつの線上にまっすぐにかさなろうというたぐいまれな恒星の直列にほかならぬ――」
「ということはその放出される星々のエネルギーも七つの星の分がかさなり、相乗されるということなのだ」
ヤンダル・ゾッグがおちつき払って結んだ。
「そ――その星々の会[#「会」に傍点]と、この俺グインとがどのようなかかわりがあるのだ!」
「すなわち、お前はそれなる爆弾にとっては信管にあたるのだ、ケイロニアの豹よ」
ヤンダル・ゾッグが答えた。
「これまで、六百年にいちどの会[#「会」に傍点]とはいえ数千年をも生きるわれらのこと、そうした機会を何度迎えたことかわからぬ。しかしそれが実を結ぶことはなかった――なぜなら、これまでのその会[#「会」に傍点]の折には、その最も大切な信管が欠けていたからだ。
お前はそれほどにもたぐいまれな運命的な存在なのだ、豹頭王よ――お前を信管としてはじめて、星々の膨大なエネルギーは地上にむかって及ぼし得るものとして使うことができる。それはこの世にかつてなかった巨大な爆弾とも、またたくわえられた原子エネルギーとも変えることができる――
さればいま、いけにえを揃え、肝心かなめのお前を手に入れ、星々の直列するとき[#「とき」に傍点]を待つわれは、まさにかつてなかった巨大な力、それを用いれば地上界地下界双方のすべてを支配下におきうるほどの莫大な力を手に入れようとしているわけだ」
「そんなことをさせるものか!」
グインは絶叫した。
「ドールの祭司に、この世のすべてを支配させ、この世界をほろび去った暗黒大陸カナンの二の舞いにさせてなるものか! 俺がここに、この剣を握っている限り、そんなことはさせんぞ!」
「豹! ――きさま、何物だ!」
ふいに、それをきいたとたんに、ヤンダル・ゾッグは大きく動揺したかにみえた。その巨大な目が激しくまたたき、彼の体内そのものであるところのその洞窟はふるえた。
「なぜ――古き神々のしろしめすところであり、暗黒の神々の争闘のうちに海中に没した、超古代大陸たるカナンの名を知っている! それは――われほどの魔道師にとってさえきわめて巨大な秘聞とされているのだぞ!」
「ドールの黒魔術を少しばかりきわめたからといって、この世の叡知のすべてをおさめたようにまで、思いあがるのは間違いというものだぞ、ヤンダル・ゾッグ!」
イェライシャが叫んだ。
「この世の事象にはお前の認識のほかのことがいくらでもある。そしてグインはその中でも最も巨大な生ける謎なのだ。そもそもなにゆえに彼が星々のエネルギーにとってかくも重大であるのか、それがどのように使えばよいのかは知りえてもその奥の謎までは解き得ないようにな。
ケイロニア王グイン――彼は、きさまなどの思っているよりも、ずっと巨大な秘密であるのだぞ!」
「ええ――つまらぬ世迷いごとを!」
瞬間、ヤンダル・ゾッグのたじろぎと迷いを、その体内にいる三人は目にみえぬ波動として感じたと思った。
だがしかし、それは一刹那のことにすぎなかった。たちまちに、ヤンダル・ゾッグは自らの目的と、時刻の迫っていることを思い出したようだった。
「グインがたとえどのような秘密を持っておろうがそれとわが野望とは何のかかわりもないこと――
そのように世迷いごとに耳をかしているいとまはない。われはわが欲するものをつかむまでだ。
おお――会[#「会」に傍点]の刻限が訪れようとしている!」
突然、あたりが、すきとおったゼリーと化した。
いや――それは、ヤンダル・ゾッグの体そのものが突然に無と化したといった方が正しかったろう。ふいにあたりは、かれらのついさきまで巨大なヤンダル・ゾッグを見上げて立っていた、奇怪な鐘乳洞――ヤンダル・ゾッグの体内とはまるでさまをかえていた。
「ああっ!」
グインの口からするどい叫び声がほとばしる――
そこは宇宙空間の深淵のまっただなかだった!
かれらはいつの間にか、足元に踏む地面さえも失って、まさに星々の海のまんなかに投げ出されていたのである。
左を見ても、右を見ても、上も、下も、そこは上下の感覚さえもない真の、そして永遠の夜だった。
はるか――はてしなく遠くつづいている、渦状星雲、そして銀河系の海――
その足元はるかに、かすかに、懐しい地球とおぼしき緑と青の宝玉が見える。
グインは眩暈のような戦慄にかられ、なぜ彼のからだがそんなところに浮かんでいるのか、そして空気もなければ時も、朝さえもないはずのそこで、なぜ彼が息のつまることもなく浮いていられるのか、問いただそうとしてイェライシャの姿を求めてふりかえった。
だが、目に入ったのは何もない、見わたすかぎりの星々のひろがりでしかなかった。
イェライシャの姿は消え失せていた。
そして闇の巨人、ヤンダル=ゾッグの赤くもえる、呪縛するような双の目も――かれらは死力をつくし、どことも知れぬ、この世でない次元のいずれかで、魔道師と魔道師だけに可能な奇怪な、人間にはうかがい知るべくもない死闘を、くりひろげているのかと見える。
ふいにグインは恐しいまでの、全身の凍りつくような孤独感におそわれた。ヤンダル・ゾッグの手でこのようなところへ移しかえられ、そのまま二人の魔道師が共倒れになりでもしたら、異形とはいえ生身の人間にちがいもない彼は、そこにそうして永遠に星々を見つめながら、そのままひからびた人間衛星と化してゆくほかはない。
突然おそったその激烈な恐怖にあおりたてられてグインは身もだえし、歩くか、泳ぐというのか、とにかくそこから動こうとした。
だが、その口から低い呻きがもれる――ふりかえったり、わずかに身を入れかえることはできても、足にふみしめる大地も、からだを浮かせるべき水もないそこでは、からだは手ごたえもなくふわりとひっくりかえるばかりで、いっかなどちらかへむけて進むようでもない。
「ガーッ!」
グインの口から、すさまじい唸り声がもれた。
突然、ケイロニア王は、手負いの豹と化していた――グインのうちにひそむ獣は、日頃はその内なる強烈な人間の魂によってぴったりとおさえつけられ、ただその人間性に特異な色あいを染めているのにすぎないが、しかしふいにそのようなときにはほとばしり出てきて、彼を頭からつまさきまで文字どおり一頭の巨大な肉食の猛獣そのものに変えてしまうのだ。いまや、グインは、暗い出口のない檻にとじこめられて狂った野獣そのものだった。
周りの暗黒が壁であったら、やにわとその頭を力まかせにぶつけてつき破ろうとし、自らその頭を割り砕いてしまったかもしれぬ。それほどに、恐しい宇宙的な孤独がこの勇敢な王を、原始の盲目な恐慌のうちにおとし入れてしまっていた。
「グォーッ!」
彼は吠えた。
「イェライシャ! ヴァルーサ! ヤンダル・ゾッグ――!」
応えはなく、ただからかうように冷ややかに星がまたたく。
グインをついに本物の恐慌がおそった。グインの口からつづけざまにすさまじいばかりの咆哮がもれる。彼はあばれようとしたが、からだはふわりと向きをかえるばかりである。
そのとき、彼のするどい感覚は、ふいに何か動くものの気配をななめうしろに見つけた。
ハッとなって、彼はそちらを向こうとする。何回か失敗してからようよう向きなおることができた。だが、そのもの[#「もの」に傍点]を見たとたん、グインの頭のうしろの毛は嫌悪にさかだち、彼は鼻にしわをよせてすさまじい唸り声をあげた。
うしろの空間に、ぽかりと漂って、こちらへ近づいてきたのは、イグ=ソッグの血みどろの体だったのだ。
つづいて、左から、右から、上から――おぞましい残骸が次々に近づいてきた。
「グワーッ!」
狂ったように豹は吠えて、大剣をふりまわし、その不浄な、見るもいとわしい生ける屍を身に近よせまいとするが、叫び声をあげ、その剣があいてにふれようとする刹那に剣をひいた。
それは、失神してぐったりと手足を垂らした、ヴァルーサの体だったのだ。
「ガーッ!」
グインはヴァルーサの体を左腕にかいこみざまわめいた。
「俺――俺を嬲っているのか、ヤンダル・ゾッグ!」
答えはなかった。
だがそれで、ようやくケイロニア王はいくらかの理性をとりもどした。左腕に、失神した娘の体のなめらかな肌からの快いぬくもりが伝わってくる。そして何よりも、自分を救ってくれたこの勇敢な娘を守りとおさねばならぬ、という思いが、グインの心に冷水をあびせかけてしゃんとさせた。
グインはその姿勢でできうる限り体勢を立て直し、なおもヤンダル・ゾッグとイェライシャの姿を求めてあたりを見まわした。
そのときである――
それが起こったのは?
はじめ、何が起きたのか、王は何ひとつ理解しなかった。
が、そのからだはふいに、圧倒的な抗うべくもない力によってもちあげられ――その手をのばすいとまもなくヴァルーサのからだはその手からひきさらわれてはなれてゆく。
「ヴァルーサ!」
ケイロニア王は叫んだ。だがそのとき、王は気づいた。
周囲の真空が、ふいに、うず巻く地獄と化していた!
ババヤガ、エイラハが、イグ=ソッグが、ルールバが――その傷つき、力つきたからだが、さながら目にみえぬすさまじく巨大な手によってもみつぶされ、ひきさかれてゆくように、王の見る前でむざんにもずたずたになってゆく!
恐しく強大な力場がかれらをとらえ、そのからだをひきまわし、めちゃくちゃに圧しつぶしているのだった!
王は嫌悪のあまりわめき声をあげた。王の顔にも、からだにも、ひきさかれ、つぶされた魔道師どものからだからとびちる血や脳漿や内臓などがぴしゃぴしゃとはねかかってくるのだ。そして、
「ヴァルーサ! ヴァルーサ!」
この悽惨な地獄に娘がまきこまれて、このような見るもむざんな圧しつぶされた肉塊と化しているのではないか、という懸念に王ののどから、はりさけんばかりの絶叫がほとばしった!
そのとき!
「おう――会が起こる!」
何ものかが、宇宙的な規模にわたって存在する何ものかがそう、声にならぬ声でとどろきわたるように告げるのがきこえてきた!
王がはっとなったとき、ふいにあらわれ出た、途轍もない大きさの双つ眼が、前の空間すべてをおおいつくし、その凶々しい赤い炎でもってその向こうのあらゆる星々の輝きを消しながら、いまにも王をのみこもうとするかのように迫ってきたのである。
「ヤンダル――ゾッグ!」
「時が来たった! 時が来たった! 時が来たった!」
さきの同じ声がいんいんと反響する声で呼ばわった。
そのとき、王は見た。
肉眼では、それはとうてい直視のかなわぬ光景であったはずである。だが、幻視というにはあまりにもはっきりと、王の目はそれを見た。
おお――星々が割れてゆく!
その中にゆっくりと、ゴゴゴゴ……とすさまじい音をたて、何もかもをまきこんでゆく白熱の炎につつまれながら、七つの惑星、獅子の宮を構成する七つの惑星が、いま、ぴったりとひとつに重なろうとしている!
王のからだははてしなく上空に投げあげられ、また奈落の底へおち、さながら目にみえぬ腕につかんでふりまわされるかと思えた。遠く渦をなす星雲がゆらぐのが王の目にみえ、かさなりあう星々からほとばしり出る、天文学的な力のエネルギーがまさに彼じしんをめがけるように光の奔流となって、こちらへ暴れ馬のように噴出してくるのがはっきりと感じとれた。
「星々よ!」
ヤンダル・ゾッグの双の目が王をみつめている。しびれるような呪縛がゆったりと王の魂を圧倒的な力でとりこもうとする。ヤンダル・ゾッグの呼ばわるおそるべき呪文が宇宙のすみずみにまで激しい鳴動をひきおこすのを、王はぼんやりと知覚した。
「さあ――来たれ、豹よ、われに力をかせ――その豹の心臓をわれに……」
呪縛はいよいよ甘く、強烈に、うっとりするほどのいざないをもって王を抱きとろうと迫ってくる。王は呻いた。もはや王の目には、目の前をつつむヤンダル・ゾッグの赤い炎の目しかうつらず、その心はしびらされ、その魂は静かな甘美な睡魔に屈しようとしている。
「さあ――たやすいことだ。睡りは甘くそしてお前は疲れている――われに身をゆだねるのだ。目をとじるのだ――目をとじさえすればいい――たすやいことだぞ……豹よ、ケイロニアの王グインよ――」
誘惑はもはや抗しがたいまでに強まっていた――だが……
(ケイロニア王!)
麻痺し、睡りこもうとするグインの頭に、ふいに一条の錐のような光がさしこんだ。
(俺は――俺はサイロンの支配者、ケイロニアの帝王)
「イェライシャ!」
グインは唇をうごかした。麻痺し、動きたがらぬ五体に、何とか抵抗の力をとりもどそうとよわよわしくあがきながら声をふりしぼった。
「イェライシャ! イェライシャーッ! 俺を殺せ! このドールの手先の手に、わがケイロニアを蹂躙させるよりはいっそ、いまここでひと思いに俺を殺すのだ。俺がいなければこやつには星々のエネルギーを利用することもできぬ。
俺を殺せ、イェライシャ!」
「よし!」
限りなく、限りなく遠いところからのように、ふいにきこえてきた応《いら》えを、夢うつつにグインはきいた。
「わかった。王よ、祈りをとなえるがいい!」
俺には祈るべき神はない――グインはかすかに答えようとした。何故かは知らず、このような存在として俺をつくり、そしてここにおいたものが誰であるかは知らないが、俺はこの自らの生の意味と、そしてその過去をとりもどすまでは、誰を運命の主と呼ぶ気もない。
だが唇はうごかなかった。はかり知れぬ苦しさがグインをおそい、彼は目をとじ、その苦痛に身をゆだねた。
おぼろにかすんでゆく意識の底で、彼は、ひどく遠いところからその彼にむかって宇宙空間をつきすすんでくる、一本の巨大な光り輝く大剣を見た。
それはまっしぐらに彼の胸をつらぬくかにみえた。ああ、イェライシャだな――そう、ぼんやりと思いながらグインは、目をとじているのになぜそれがかくもありありと目に映ずるのか、いぶかしむ気力も失っていた。彼はそれが、まっこうから彼の鎧ごと逞しい胸のまんなかをつきとおすのを待ち――そして、そのくちびるに、声になりはしなかったがかすかに、この世で最もいとしんでいるある美しい名まえを呼ぼうとした。
そのとき!
「ギャアアアアーッ!」
突然、耳を聾するだれか[#底本「たれか」修正]の絶叫が、波になって彼をゆりあげ、つきとおした!
その絶叫は、はてるときがないのかというほどにつづいている。王は目をひらき――
そして、見た。
王の手にはいつの間にか、その光の剣が愛剣にかわってしっかりと握られており――そしてその剣はまっこうから、ヤンダル・ゾッグのそれとおぼしい赤く輝く目の一方をつらぬいていたのである!
「オオ――オオオオオ!」
魔道師の苦痛の悲鳴が三たび、あたりをゆるがした。彼はわめいた。
「オオオ! 仕損じた! われは仕損じた!」
星々が、急激に遠のいてゆくのが王に感じられた。はてしもなく落ちてゆくような、墜落の感覚のなかで、王は、かすかに、片手で目をおさえ、もう一方の目を嚇怒にぎらつかせた、長身で、そしてはかり知れぬまでに年老いた、どこかの王か何かのような身装りの威厳ある男のすがた――ヤンダル・ゾッグのうつし身をたしかに見たと思った。
「晴らすぞ――この無念は晴らすぞ! いまはいったん引揚げようが、近い未来に、われは必ずや立ちもどり、豹よ、お前の王国をわがものとし、お前の秘密を手に入れてやるぞ! 心せよ、グイン!」
なおも王のからだはきりもみ状態をつづけながら落ちつづけてゆく。再び激痛とめまいが王をとらえ、ついにまったく意識を失って暗黒の淵に沈んでゆく直前に、王は、ゴゴゴゴ……ととどろくような音をたててとびたってゆくモノリスの中からひびきわたる、ヤンダル・ゾッグ――キタイの王なる魔道師の声をきいたのである。
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エピローグ
「王さま――王さま――王さま!」
誰かが、激しくグインをゆり動かしていた。
頭がわれるように痛く、そして全身が、針で刺されてでもいるかのようにちくちくと痛んだ。王は呻き声をあげ、するとその口に何か冷たい、じゃこうの匂いのするものがさしつけられ――
それをのみくだすと、嘘のようにすべての痛みも、そして激動の名残も消えていった。
「ここは――おう、サイロン!」
叫び声をあげてグインはとびおきる。やわらかな手が王をひきとめた。ヴァルーサだった。その顔に笑みがうかぶ。
「まだ起きちゃダメよ、王さま。ここは、イェライシャの、まじない小路の家の中。いいえ、あの星の家じゃなくてね」
「イェライシャの――おう!」
王はヴァルーサの肩を叩いてやり、身をおこした。
「もう、何ともないわ」
安心させるように云う。老魔道師は、いっぺんに百あまりまた年をとったように小ぢんまりと、ヴァルーサの反対側に座っていた。
「まことにすまぬことをした――わしも動顛していてな。さすが、ヤンダル・ゾッグは手強く、わしはヴァルーサを守るだけで手いっぱいで、あなや王を奴の魔力にまかせてしまうところだった」
イェライシャは云い、王に壷からのむよう顎をしゃくった。王の口にヴァルーサが壷をさしだす。王は香り高い酒をぐっとのみ、生きていたというめまいのするような甘美さに酔った。
「サイロンはどうした?」
まず口に出たのはそれだった。
「大事ない。サイロンの嵐は去った。もはやサイロン市民は復興の槌音を町々にひびかせているし、それに彼らは健康な民だ。このような悪夢はものの一ヵ月もあれば忘れよう。黒曜宮にも連絡したので、間もなくランゴバルド侯自ら、サイロンを妖魔から救った王を迎えにやって来よう」
「そうか――」
王は考えに沈むかにみえた。それへ、
「あれはだが、驚くべきことではあったな。わしはおぬしにただ、エネルギーを放出する光の剣を投げるのがようやく間にあったのだが、その刹那実におどろくべき量の光エネルギーがおぬしの体からほとばしり、まるであたりは新星の誕生かという明るさに包まれた。さしものヤンダル・ゾッグも一秒ともちこたえることはできなんだよ。驚くべき存在だな、おぬしは、グイン」
「ヤンダル――奴は死んだのか?」
「いや……手傷をおったもののどこかへ逃げのびたようだ」
「そうか。いずれ俺のいる限りまたサイロンを狙う、とか云っていったようだな――まあ、いいさ!」
グインはほんのいっとき考えこむようだったが、すぐにその黄色みをおびた目をランプのように輝かせ、その中にはほのかに悪戯っぽいきらめきさえあった。
「奴がまたその野望をとげに訪れるそのときまで、俺がケイロニア王のままでいる、と決まったものでもあるまいし。なお、ヴァルーサ――それともお前は、どうしても、ケイロニア王の愛妾でなくてはイヤか?」
「え――」
ヴァルーサの頬が染まったその腰に手をかけてグインが荒っぽくひきよせると、彼女の顔に陶然とした歓喜が浮かび、そしてたおやかなしぐさで彼女は王の胸に身をあずけた。
「ここはまじない小路か――すれば、ことはまじない小路ではじまり、まじない小路で終わったわけだな。そして、イェライシャ、俺は美しい、俺を想ってくれるし俺と並んで戦うこともできる女をひとり、今度こそ手に入れたぞ――どうやらその女は俺の豹頭も厭がりはせぬようだ」
「その女はさぞ強い子を生めようさ」
イェライシャが答え、グインと顔を見あわせて笑うと、ヴァルーサはうなじまで真赤に染めていっそう王の胸に顔を埋めてしまった。
それを見守るグインの目に感嘆と、そして輝かしい勝利の誇らしさがある。彼は恋人の腰をかるく叩き、ちょうどそのときイェライシャの扉をノックした、彼を迎えに来た忠臣ランゴバルド侯の前に二人で共に出ようと、イェライシャにうなづきかけて、ヴァルーサの肩を抱くとゆっくりと立ちあがった。
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解 説
[#地から2字上げ]鏡 明
日本人の手になるヒロイック・ファンタシイの解説が書ける。これだけで、充分すぎるほどハッピイな気分にひたることができる。その上、ぼくは、ここに至るまでの日本におけるヒロイック・ファンタシイ(もちろん、ヒロイック・ファンタジイと呼んでもらっても、かまわないさ)の紹介の第一歩から、つきあうことができたのだ。
実際、ぼくは、ヒロイック・ファンタシイを日本に紹介した人間の一人だと、言うことさえできる。ちょっとした想い出話につきあってもらえるだろうか。
ヒロイック・ファンタシイを、日本に紹介したのは、ぼくらだ。つまり、現在、幻想小説の翻訳や特異な評論の書き手として知られる荒俣宏、SFや怪奇小説の翻訳、書評をしている竹上明、それにぼくの三人だ。もう十数年も前、三人とも十代、大学生だった。
荒俣宏と竹上明は、恐怖小説の側から、ことにあの名高い「ウィアード・テールズ」から、ヒロイック・ファンタシイに、めぐりあった筈だ。少なくとも、ぼくよりは、何年も前に、ロバート・E・ハワードの作品に触れ、クラーク・アシュトン・スミスの作品を読んでいた。
ぼくは、古本屋で見つけた「コナン」のペーパーバックで、狂った。静的な恐怖小説に、活力が、行動が吹きこまれているのを感じた。当時のぼくにとっては、一つの理想的な作品のように思えたのだ。以来、フランク・フラゼッタのカバーのついたランサー版の「コナン」シリーズを、探し出しては、読みはじめた。こんなものに狂っているのは、日本では、ぼくだけだろうと信じながら。
だから、荒俣宏と竹上明と知り会ったときには、うれしさよりも、驚きが先に立ったように思う。ハワードのファンが、ぼく以外にもいたのだ! そしてこの二人には、多くのことを教えてもらった。何よりも、彼らの知識に追いつくことが、ぼくには必要だったのだ。
その頃、ヒロイック・ファンタシイに関してならば、先を行く走者たちに追いつくことは、さほど難かしいことではなかった。一九二十年代から三十年代にかけて「ウィアード・テールズ」に発表された作品と作者が、ヒロイック・ファンタシイと呼ばれるもののほとんどであったし、フリッツ・ライバーの「ファファード&グレイ・マウザー」、アンドレ・ノートンの「ウィッチ・ワールド」シリーズをはじめとする幾つかの作品しかなかったからだ。
当時、ぼくたちが読み、知っていたものを挙げるならば、クリフォード・ボールの三つの短篇、C・L・ムーアの「ジレル・オブ・ジョイリー(処女戦士ジレル)」、ヘンリー・カットナーの「アトランティスのエラク」シリーズ、ノーヴェル・ページの「プレスター・ジョン、ポール・アンダースンの「魔界の紋章」、ジャック・ヴァンスの「ダイイング・アース」シリーズ、ジョン・ジェイクスの「ブラーク」シリーズ、ロード・ダンセイニの幾つかの短篇、すでに挙げたものを含めて、ざっとこんなところだっただろう。
ちょっとしたファンであり、英語で読む労力をいとわなければ、すぐに追いついてしまう程度の量しかなかった。実際には、その頃すでに、アメリカではリン・カーターが「レムリアのゾンガー(レムリアン・サーガ)」シリーズを書きはじめ、六十年代の終りにはじまるフォーミュラー・フィクションとしてのヒロイック・ファンタシイ・ブームの先駆となっていたのだし、イギリスでは、マイケル・ムアコックが、「エルリック」のシリーズを書いていたのだが、少なくともぼくは、ハワードに夢中になっていて、まだそれと気付いていなかったのだ。
それからしばらくしてムアコックの「ストームブリンガー」に出会って愕然とするわけだ。そして、今度はムアコックを必死に追いかけはじめることになる。それは、ハワードの「コナン」を一方の極とするならば、ムアコックの作品は、その対極に位置していると思えたからだ。事実、ムアコック自身、エルリックを書くに至った経過を、「コナン」の対極にあるものを造ろうとした結果だと、後に語ることになるのだが、とにかく、ムアコックに出会ったぼくは、ヒロイック・ファンタシイというジャンルの見取り図を読み取ったように思ったものだ。それが六十年代の終りの頃だ。
もちろん今でも、その見取り図がまちがっていたとは思わない。けれども、七十年代に入ってのアメリカのヒロイック・ファンタシイ・ブームの十年間が生み出した途方もない量の作品を消化することは、ぼくの手に、明らかに、余る。それでも、初期の見取り図を拡大していくチャンスを、その過程で、見失ってしまったことは、ぼくの怠慢ということになるだろう。
ぼくはヒロイック・ファンタシイの紹介者の一人だと言ったけれども、そのことを考えてみると、どうも、紹介者としての役割をまともに果たしてこなかったのではないかと、思えてならない。日本におけるヒロイック・ファンタシイの流れにつきあってきただけということかもしれないと思う。
だから、あるいはそれだからこそ一層、この栗本薫や高千穂遙、それに豊田有恒や田中光二といった優れた作家たちが、ヒロイック・ファンタシイを書きはじめてくれたことが、たまらなくうれしいのだ。それは、荒俣宏や竹上明たちといっしょに蒔いた種子が、自力でここまで成長してきたのだという幻想をぼくに与えてくれる。
たとえば、栗本薫が、ぼくたちの訳したコナンでヒロイック・ファンタシイを知り、今、全百巻の「グイン・サーガ」を書きつつあるというのだ、少々、ハッピイな気分になっても許してもらえるのではないかと、思う。
栗本薫の「グイン・サーガ」は、その構想の雄大さにおいて、アメリカのヒロイック・ファンタシイの多くを抜き去っている。そして、もしもすべての物語がグインというキャラクターを中心にして語られていくとしたら、おそらく類のないものになるかもしれないという予感がする。それと同時に、ヒロイック・ファンタシイが常に重要なファクターとしてその中に含んでいながら、ほとんどの場合、それを充分に満足させることのできなかった一つの世界の構築という試みを、満たしうるかもしれないという予感がする。まだ進行中、しかも発端が語られたにすぎないものについて、何かを述べるというのは難かしいものだが、ヒロイック・ファンタシイの世界の見取り図に、新たな土地を付け加えてくれることは、確実になるだろう。
かつて、リン・カーターは、自分の作品がオリジナリティに欠けるという批判を受けて、オリジナリティに欠けて、どこが悪いと、開き直ったことがある。つまり、ハワードやE・R・バロウズの作品が面白かったのだとすれば、その面白さをもう一度、いや、何度も語り直してどこが悪い、つまらぬ改変をすることに、どこに意味があるのか、面白いと思える限り、オリジナルの複製を書き続けることに充分な意味があり、ヒロイック・ファンタシイというのは、そういうものなのだ、そう述べた。
それは、単純には否定することのできない真理を含んでいる。物語は、語り続けられることに一つの意味があるのだし、終ることのない物語は、確かに一つの理想でもあるからだ。今、ポール・アンダースンやアンドリュー・J・オファットといった作家たちまで含めて、新しいコナンのシリーズが、アメリカで書かれはじめているが、それは物語というものの、ヒロイック・ファンタシイというものの特質を示しているといって、かまいはしないだろう。
けれども、ぼくは、どうせ語られ続けていくのなら、そこに新たなものが付け加えられるべきではないか、リン・カーターが不必要だと言ったのと同じ意味で、そう考えるのだ。そして「グイン・サーガ」は、その双方を含みうる可能性を示している。
この「七人の魔道師」(魔道師! そいつは荒俣宏の造語なんだ)は「グイン・サーガ」の外伝の第一巻として書かれたものだが、外伝というよりも、本篇の鏡像のように書かれている。すなわち、「グイン・サーガ」という物語の広がりの一方の端なのではないかと思える。現在のところ「グイン・サーガ」は、ヒロイック・ファンタシイの中の剣の要素を強く示している。もう一つのファクターである魔法の影は、おぼろげにしか感じられないだろう。そしてこの「七人の魔道師」にあっては、その魔法が全篇をおおっているのだ。そして、これほどに魔法が力を振るっている物語は、かつてなかったのではないかと思う。例外があるとすれば、クラークアシュトン・スミスの作品だけだろう。そうだ、クラーク・アシュトン・スミスだ。栗本薫の「グイン・サーガ」を読みながら、ぼくは、そこにハワードやバロウズの影を感じていたのだが、それだけではない何かの影があるのに気付いていた。それが、クラーク・アシュトン・スミスの影だったのだと、思う。
あるいは栗本薫は、ぼくたちの紹介したヒロイック・ファンタシイの集大成を、ここで完成してしまうつもりなのかもしれないとさえ、思う。それにしても、この「七人の魔道師」の中に注ぎ込まれた魔法の力は、大きい。アメリカは、ついに第二のクラーク・アシュトン・スミスを生み出すことはなかった。というよりも、クラーク・アシュトン・スミスの造り出す世界は、真似することのできぬものだったといった方がいい。ぼくは彼の短篇を訳しながら、その描写に本当に吐気を感じた記憶がある。それだけのパワーを持った作家だ。似たものを書くだけでも、難かしいことだろう。
けれどもこの「七人の魔道師」で、栗本薫は、文体こそ異なれ、クラーク・アシュトン・スミスと競り合うことのできる方法を生み出している。栗本薫は、視る作家なのだと思う。幾つものシーンを視ることによって書いていくのではないかと思う。そして、この「七人の魔道師」では、その視る力が、フルに発揮されているのを何度も感じさせられる。空に浮かんだ二つの巨大な顔が出現するシーンは、その典型だろう。一つの都市の人々が、すべてその顔を見上げ、破滅の予兆に戦慄する。それは、まさに、この物語を読む者たちのアナロジーとして成立する光景であるのかもしれない。
栗本薫の視る力が、最大限に発揮されているという意味で、物語そのものの魔法という意味で、この「七人の魔道師」は、ここまでの栗本薫の作品の中で最も優れたものの一つになっている。この物語が、「グイン・サーガ」の本篇と、いつ、どこで、どのようにからみあっていくのか、ぼくは、その日を楽しみに待ちたいと思う。
日本のヒロイック・ファンタシイの本当の第一歩は、まだ踏み出されたばかりなのだ。
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著者略歴 昭和28年生、早稲田大学文学部卒 主著書「火星の大統領カーター」「闇の司祭」「サイロンの豹頭将軍」「ヤーンの目」「星の船、風の翼」(以上早川書房刊)他多数
グイン・サーガ外伝<1>
七人の魔導師
一九八一年二月十五日 発行
一九九〇年十一月三十日 二十三刷
著 者 栗本薫
発行者 早川浩
印刷者 矢部富三
発行所 株式会社早川書房
平成十九年七月二十日 入力 校正 ぴよこ