グイン・サーガ 5 辺境の王者
栗本薫
辺境ノスフェラスの地で、滅びさった王国の遺児リンダとレムスを守りつつ矮人族セムを率いて戦う豹頭の戦士グイン。だが、対するゴーラ正規軍は、グインの知略をきわめる戦術にもかかわらず、次第に底力を発揮していく。形勢利あらずとみたグインは、幻の巨人族ラゴンの援助を求めて単身人跡未踏の地へと旅立つが、グインの行動に疑惑の目を向けるセム軍のために、四日という日限を決められた。リンダとレムスは体のいい人質同然、さらにグイン自身も、援軍を求めるどころかラゴンの囚人となる破目に――シリーズ第一部辺境篇、白熱の完結!
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MASTER OF THE MARCHES
by
Kaoru Kurimoto
1980
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カバー/口絵/挿絵
加藤直之
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目 次
第一話 ラゴン起つ……………………… 九
第二話 暁の奇襲………………………… 七七
第三話 大進攻……………………………一四三
第四話 辺境の王者………………………二一一
あとがき…………………………………二八三
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――豹頭の戦士グイン。彼は世にも孤独
な放浪者としてルードの森にあらわれた。
しかし彼はいまや、ラゴンとセムという
友を得たのである。
――「ケイロニア年代記」より
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辺境の王者
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第一話 ラゴン起つ
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1
ポタリ――
氷のような水滴がしたたりおちた。
さっきから、規則正しい間隔をおいては、したたりおちている。
それは、それに耳をそばだてるものの神経を、耐えがたいまでに苛立たせる音である。
また――
ポタリ、と落ちる。
水は、岩の上にしたたり落ち、岩をつたって、あふれ落ち、その地面を濡らしている。わずかなあかりで、その下の地面だけが、濡れて、涙をためた眼のようにうるんで光って見える。しかし、それは、決してこちらまで、届いて来ることがない。
ポタリ――
また、落ちた。
ずっと、長いこと、そこにうずくまって、その音にいつ落ちるか、いつ落ちるかと耳をそば立て――そして、そうしているものは、からからにのどをかわかしていながら水の一滴さえ与えられておらず――
そして、この、のばせばすぐにも手の届きそうに見えるあたりを、水滴が静かにしたたり落ちるのを見守りながら、舌をのばしても届かず、からだをそちらへ近づけることもできず、ただじっと岩につながれているしかなかったら――
人ひとり、発狂させ、弱らせ、ついには死に到らしめようと思うのに、これほど手のこんだ、これほど確実な方法は、まず考えられなかっただろう。
はたして、彼をそこにつないだ人びとが、そこまで考えぬいて、拷問のために、彼をその岩をくりぬいた穴の中におしこめ、いちばん奥につないであった鎖でもってぎりぎりといましめたのか、そこまでは、わからなかった。
だがしかし、さっきからグインは、ひどいのどのかわきを覚えはじめている。それは、あの塩の谷――白く美しい死にみちた谷を越え、あまつさえその岩塩を少し口にしたための、当然の結果であった。
グインは、それを訴えようとせぬ。訴えても、無駄だ、と知っているせいか、それとも、それを訴えることで、あいてに自らの弱りを知らせるのをいとうたものか、何も口にせぬまま、じっと、もうこれで数ザンものあいだ身じろぎひとつせず、その豹頭をこころもちうつむけ、縛られたその姿勢でもっとも身体が休まるよう、足をのばし、岩に背をもたせかけて、そこにうずくまっている。内心で、よしんばどのように焦慮にかられているとしてさえ、その半人半獣の怪偉な姿からは、そうした内心を感じとらせるものは、何ひとつとして見あたりはせぬ。
また、ポタリ――と、水滴があざけるようにしたたった。
さきに、白き塩の谷を通りぬけ、四人のラゴンに出会って、かれらの虜囚となって連れて来られてから、いったい、どれだけの時間が流れたものか。
それは、この朝も昼も夜もない岩屋に有無をいわさずおしこめられたグインには、知るすべもなくなっていた。
一日か、一|時間《ザン》か、あるいは半日か。
まだ、誰も、食事をもって来ぬところをみると、一回の食事から、次の食事までの時間がたっておらぬのかとも思えるし、しかし一方では、かれらは捕虜の半獣半人の怪物になど、食事を与えることもいとうて放ってあるだけのことかもしれない。
暗闇にうずくまり、目を闇の中に見開いていると、時の流れはその確かさと意味とをまったく失い、黒く奇怪なアメーバのように、のびたり、ちぢんだりしながらただぬるりとわだかまるだけの存在と化してゆく。
しかし――
グインは、そのふしぎなほど安逸でもある甘さの中に身をゆだねて、放埒な無為のうちに漂っているわけにはゆかなかった。
なぜなら――彼が、この山間部に蛮族ラゴンをたずねて、はるばると砂漠を越えて来たのは、ほかでもないセム族の危機にあたってラゴンの共闘を要請するためであり、そしてそのために、グインがセム族からもらいうけた時間は、丸四日――わずかに、四日間の余裕でしかなかった。
その四日がすぎればセム族は、人質として預けてあるパロの遺児、リンダ王女とレムス王子を容赦なく処刑する気でいる。四日の日限がすぎても戻らぬグインを、かれらは、かれらを裏切って、ただひとり生命をまっとうせんがために逃げのびた卑怯者、と見做すであろうからだ。
むろん、グイン――それとパロの聖双生児に、可愛い孫のスニの生命を助けられた、ラク族の大族長ロトーは、なおも待つことを主張し、おそらくはリンダとレムスのために立って戦ってさえくれるかも知れぬ。しかし、一方の長である、グロの長《おさ》イラチェリは、最も強硬な反対者となろうし、あらたに参戦した(グインは、彼がイシュトヴァーンを使ってたくらんだ、強引なカロイ参戦の作戦が、奏功したことを疑っていなかった)カロイ族の長《おさ》ガウロもまた、凶暴で血に餓えていることではグロのイラチェリに劣らない。その上に、カロイは常日ごろ、穏和なラク族を、茶色毛の臆病者、といって馬鹿にしている。
イド飼いのツバイ族と、ラク族とは血つづきのラサ族だけは、あるいはロトーにくみするかもしれない。しかし、それも、大勢がイラチェリとガウロによっておし切られる方へゆけば、さいごにはどう変わるか、知れたものではないし、しかも、なおも絶望的なことには、ラクとツバイ、それにラサが結束したところで、おそらく、グロとカロイの連合軍に対しては、たいした脅威たりえないのである。グロとカロイは総じて体格がよいし、その上に、かれらはセム中の戦士の種族として、きわめて好戦的で荒々しいのだった。もともと性質が温良なラクやラサが、よく敵するところではない。
(せめて――せめて、対立し、一触即発の危機の中でもかまわぬから、待っていてさえくれれば)
グインは何回、そうはらわたもちぎれるように念じたか知れなかった。
やはり、セムは、前人類に違いないのだ。かれらは勇敢だし、それなりの文化さえ持ってはいるが、しかしある程度以上の抽象的な思考は、うけつけることができない。作戦、とか長い目でみた計算、先ざきの読み――そんなものは、セムの中では賢者である大ロトーにしたところで、理解し得ないものである。かれらの知能は、その体躯と同じく、子どものそれと似かよっている。
かれらには、なぜ、いま一応の優勢を保っている戦場を見すてて、グインが火急にラゴン族の援軍を頼みにゆかねばならないか、その意味するところはさっぱり理解されていないであろう。だからこそ、豹人《リアード》はわれわれをおいて逃げるつもりだ、といった考えしか持てない。
これまで連戦してきて、なぜかれらがあれほどの劣勢にもかかわらず、あらゆる不利を有利にかえて、何とか数に倍するモンゴール軍をたたいて来られたのか、それもかれらにはわからない。イドをつかい、心理の隙をつき、おとりをつかい、計略をもってカロイを起《た》たせ、ついにはモンゴールの誇るマルス伯の青騎士隊二千を、ほぼ全滅させるにまでいたった、グインの苦心のほどは、セム族にはいっこうに実感されてさえいないのだ。ただ、小蛮族は、この豹頭の勇士がこまごまと命じるとおりに、たしかに忠実無比にその命を実行し、そして戦功をあげてきた。
だが、しかし、かれらには、なぜ自分たちが勝ちつづけているのか、その理屈はさっぱりわかっていないし、またそんなものが必要だとさえ考えていない。セムたちがグインの命令に従っているのは、彼を信頼しているから、ただそれだけなのだ。
もし、たった一回、グインが失敗すれば、おどろくほどすみやかにセムたちはかれらのリーダーとしてのグインを見すてたことだろう――セムたちには、セムの戦いかたがある、と称して。グインにとって、すべては、はじめから、白刃の谷の上の危なっかしい綱わたりにほかならなかった。これまでのところは、何とかわたりおおせてきたからよいようなものの、この次の一歩も無事だ、という保障など、どこにもありはしないのだ。
(だが、それでも――)
闇の中にうずくまり、ポタリ、ポタリ、という、神経を苛立たせる水のしたたる音をききながら、グインはひとり呟いていた。
(それでも、ものごとは、どんなにか進んで来ているのだ。綱の前で目がくらみ、ふるえていては、何ひとつはじまらぬ。しがみつくようにしてでも、綱をわたれば、それだけものごとは前へ進む。――たとえ、どのような困難をなしとげねばならぬとしても、俺がルードの森にあらわれたときの――俺にとって、すべての記憶のはじまりにほかならぬあのときの状況に比べれば、ものごとは、どれほど前へ進んでいることか)
(あのとき、俺は、生まれたばかりのけものと何らかわるところがなかった。身に寸鉄をも帯びず、周囲のものは何ひとつとして見知ったものがなく、まわりには見も知らぬ深い森とあやしい人食いの死霊、それに敵意を抱いたモンゴールの騎士たちが立ちはだかり――)
そのとき、グインは、ただ自分の名と、もうひとつ「アウラ」という、意味もわからぬ単語ただひとつを記憶しているほかは、何ひとつ持ってさえいない、裸の、血まみれの、しかも首から上は豹の頭という生まれもつかぬ姿で、いま生まれ出た奇怪な赤児としてルードの森に立ったのだった。
そこへ、たまたまめぐりあわせて、スタフォロス城の追手に捕われかけていた、パロの遺児ふたりと出会い、そうするというはっきりした意図さえもないままになかば本能的にふたりを救い――
そのまま、なりゆきからかれらの連れとなって共にスタフォロス城の虜囚となり、カロイ族の夜襲によってスタフォロスが焼失するに乗じてそこをのがれ――
ヴァラキアのイシュトヴァーン、ラク族のスニも加わって五人でイカダに身をたくしてケス河に投じ、アルヴォンの追手から逃れてノスフェラスに入り――
ただひたすら、逃亡者として、追われる意味さえもわからぬままに生きのびるために走り、戦い、かくれひそんで来た彼が、しかし、ようやく、ひきいて戦うべき友を見出した、それが、砂漠の小蛮族セムであったのである。
それが、中原の他の国の軍勢であり、あるいはせめてパロ再興を誓う抵抗軍であったとしてさえ、どれほどグインの運命は変わっていたかわからなかった。せめてウマに乗ること、戦法にのっとって戦うことを知っている近代的な軍隊であったら――
しかし、グインは、それも思わない。彼に与えられたのは、セム族であり、イドであり、ノスフェラスであった。
そうである以上、彼はそれらを使って、ありとあらゆる手をつくしてモンゴール軍をしりぞけることに賭けている。彼にとっては、運命とは単に与えられたカードにすぎず、あとは自ら切りひらいてゆくものなのだ。
だが――
(もしも――もしも、セムが俺の帰りを待って双児の処刑をのばすの、対立するのという以前に、万が一、モンゴール軍の猛攻の前にセム軍が持ちこたえることができなかったら。何とかして、持ちこたえてくれと頼んだ四日間――それは、セムが、俺を信じられる最低の時限であると同時に、俺の前もって打っておいた手とセムのあれこれの有利でもって、辛うじてかれらがこの戦いを膠着状態にとどめておける、ぎりぎりの期間でもあるのだ。
だが――)
何かひとつでも、彼の読みに計算ちがいがあったら。あるいは、彼の読みは正しくとも、彼の不在の四日間に何かひとつでも、彼が考えてもみなかった新しいできごとが突発的に起こってくるとしたら。
そのとき、彼のすべての努力は水泡に帰してしまうのだ。
しかも――その彼の賭けた、さいごの日限まで、のこされているのはあと二日――少なくとも、彼が、塩の谷をこえたところでラゴンに捕われたときにはそうだった。
それから何時間たったか。一日がたっておれば、もはや彼にのこされているのはたった一日――万が一にも、次の太陽がすでに没しかけてでもいるようなことがあったら、それは、すべての終わりである。
しかも彼は、いまだに手の打ちようもなく、ラゴンの心を動かすよう、懸河の弁をふるう機会にも恵まれず、こんな岩牢の中にしょんぼりとうずくまっている!
(戦さの支度もあろう、狗頭山を越えて、戦いの場へかけつけるまでの距離もあろう)
それを考えれば、ほんとうは、たとえここでラゴンを口説きおとしても、その援軍はセムを救い、パロの双児を救うには間にあわず、すべてはもう手遅れなのだ、と思う方が、どんなにか理屈にあっていただろう。
(ああ――パロの秘密さえ、手に入れば! 炎上するクリスタル・パレスから、一瞬にしてリンダとレムスの双児を、遠くスタフォロス城のほとり、ルードの森へと移してのけた、あの古代のからくりの謎さえ、わかったなら――そうすれば、ラゴンの軍勢を一瞬にしてモンゴール軍のまん中へ現前せしめることなど、わけもないのだが。――おお、リンダよ、レムスよ、お前たちは知るまい。お前たちがどれほどたいへんな――そしてどれほどかけがえのない存在であるのか。モンゴールが狂気のようにかれらを追うのもやむを得まい、かれらには、その体重の千倍の重さの財宝でさえあがなえぬほどの値打ちがあるのだ。かれらを得て、そしてパロの秘密を握ったものは、世界を――そうだ、中原のみならず全世界を制するのだから)
だが、そこまで考えて、グインは、ぐいと頭をもたげ、埒もないくりごとを頭の中から追い払った。考えてもしかたのないことは、考えぬにこしたことはない。そして、彼は、この――どこから見ても八方ふさがり、これ以上はないという絶望的な追いつめられた状況の中でさえ、諦め、運命に屈して破局をただ待つことに甘んじる気などはなかった。
彼が戦うことをやめるとすれば、それはただひとつ、目の前でパロの双児が息たえ、セム族は壊滅し了《おわ》り、そして彼自身の息の根がついに止められる、そののちでしかなかっただろう。
ポタリ――また、水がおちた。
のどのかわきと、いてもたってもいられぬ焦燥を、いやが上にもあおり立てるような、単調な音――彼は、つきあげてくるもどかしさと困難な運命へのいきどおり、そして耐えがたい不安な物思い、そのすべてをひたすら飲み下して、じっと動かずにうずくまっていた。
外からは、豹頭人身のこの怪人の心中に吹き荒れている、そのあらしの激しさ、狂おしさを、見てとるにも何ひとつ、そのあかしはない。
ラゴン――
グインは、灼けるような胸の内を少しでも他へふりむけるために、なかば無理やり、思いを彼を捕えたその蛮族の方へ向けかえた。
彼は、生ある人間としておそらく何百年、何世紀ぶりかに、この幻の蛮族、伝説の巨人族のすまいに足をふみ入れたのである。
セムとラゴン、それは呪われたこのノスフェラスの地をわがもの顔に跳梁する、二つの異様な前人類である。
しかし、同じノスフェラスを故郷としながら、二つの種族は、なんと違っていたことだろう。
身長一タールの短躯、十歳の子どもほどの体重、そして猿に酷似した矮小な外見をもつセムに対して、ラゴンはその呼名のとおり、巨人であった。
身長は二タール半にも及び、体重もまた、ウマの三歳子に匹敵するほどもあるだろう。その雲つくような体格の上に、ぼうぼうとのびた髪、髪のみならず、うなじから腰にかけて、たてがみ、とでも呼びたいような剛毛がびっしりと渦をまき、そしてセムと違って尻尾はない。
脳の発達はその容量に比例するものかどうか、あくまでも前人類、類猿人、の名にふさわしい段階にとどまっているセムに対して、ラゴンは、おそらくは、それなりの知能をもちあわせているはずである。というのは、そのみにくい顔にもかかわらず、かれらの目はランプのように明るく輝いており、そして、また、グインを捕えたとき、かれらはちょうど、白い砂、つまり岩塩を採集にやってきたところであったからだ。
セム族は、原始的な捕食の段階にあり、ようやく煮たきも、料理のあれこれも身につけてはきたけれども、依然としてかれらは砂漠の狩猟民族である。
しかし、ラゴンは、塩をとってたくわえ、それにつけて肉や食物をくさらぬよう保存することを知っているようだった。それのみか、かれらは、塩を通商につかうことさえ行っているようだ。なぜなら、捕えられ、ラゴンの村落へと護送されながら、かれらが何をしにきたのか、とグインがきくと、ラゴンたちは彼の無知をあわれみながら、
「白き砂はラゴンの聖なるものだ。白き砂の恵みは食物をくさらせぬ」
「白き砂はいろいろな品とひきかえることができる――小さな人間《ラゴン》が、それをいくらでもほしがってやって来る」
そう、答えたからである。
「小さな人間――セムのことか」
「セムではない。獣の頭のラゴン、お前は何も知らぬ。セムは人間《ラゴン》でない、猿《セム》だ。砂漠の獣だ。――われわれのいう小さな人間《ラゴン》、自分をキタイと呼ぶ」
「キタイ!」
それもまた、グインにとっては、おどろくべき情報であった。
東方の大国キタイの人間が、山越えのルートで、東からノスフェラスにわけ入り、ラゴンと通商している。――この恐るべき白い死の砂漠にへだてられ、中原の国々が、そこを行きどまりの世界の東端と見做して、せせこましくも豊かでみのり多い中原の覇権争いにかまけているあいだに、世界のどんな港へでも、商売さえ成立すれば単身出かけてゆくキタイの商人たちはどんどん辺境にルートをひらき、ついにはケス河岸からゴーラ三大公国の国境へまでいたるかもしれない。
(モンゴールは、おそらくは何かのきっかけを得て、ようやくいまノスフェラスへ目を向けはじめた。しかしそれすらも、遅きに失したほどなのだ――しかも、二万……この広大で、はてしない、ノスフェラスへの初の遠征軍が二万――焼け石に水だが、つまりはそれだけモンゴールは辺境を甘くみていたのだ。なんのサルのたぐいや野蛮な巨人族、それとあとは脳味噌ももたぬおぞましいイドや砂ヒルの巣くうにすぎぬこのような砂漠など、モンゴールの精鋭二万もの前には、素手でつかみとれる好餌にすぎぬと。また、事実そのとおりだったかもしれぬ――)
(ノスフェラス、未知の驚異にみちた不毛の地)
いつか、ノスフェラスは世界のすべてが注目するポイントとなるだろう――そう、ふいにグインは思った。ノスフェラスには何かがある。その何かがあかるみに出たとき、モンゴールはもとより、ゴーラ三国のユラニア、クム、ノスフェラスに東側で接するキタイ、さらにはカナンの後裔を自称する太古王国ハイナムや暗黒の邪宗国フェラーラにいたるまで、周辺各国はいっせいにこの未踏の果実にむらがり寄ってくるだろう。
だがそれはあくまでも予感にすぎなかった。いまはまだ、ノスフェラスはそうした国の大部分にとって、単なる地図上の空白、世界の東半分と西半分とのあいだをひきさく、おおいなる断層でしかない。
塩の谷から歩いてほど遠からぬ山中に、ラゴンの村落はあった。
伝説には、ラゴンは定住の地をもたぬ、さすらいの民族であると云う。また、他の説によれば、巨大な幻影のようなラゴンは、カナン山脈中にあって、はるかな超古代にほろび去ったカナンの遺跡を、未来永劫墓盗人が手をふれぬよう守る役割を担っているのであると伝える。
しかし、グインは今日、そのどちらの説もが、ともに正しくもあり、正しくなくもあるのを発見したのだった。
ラゴンの村は、カナン山脈につづく山中にあり、セム族のそれよりはいくぶんラゴンの文化がすすんでいるあかしに、それは土を掘ってつくったたてあな式の住居ではなく、岩を切り出して組みあげた石の村である。
石づくりの家々は暗くひんやりとし、その中のいくつかの建造物は、村全体の共有の食物蔵として使用され、その中に、かれらは塩づけにした肉やイワヒユをたくわえているらしい。
それは、それだけでも、セム族の知らぬ知恵である。しかし、村の中を、珍しげな巨人族の視線にさらされてひいてゆかれながら、グインが見てとったところでは、それは必ずしもラゴンにとって先祖伝来の安住の地、というわけではなく、かれらは山中をあちこちと移動しては、そこにそうした石の家を組みあげて何年か、何十年かを過ごし、それからまた、次の地を求めて旅立ってゆくらしかった。
それは、狼や、あるいはセム族にその本拠地を知られまい、という用心もあったろうし、また、何年かたつうちにそのあたりの食物をすべて食いつくす、ということもあっただろう。食物を貯蔵することをはじめていても、かれらはいまだ土を耕すことを知らぬし、また耕そうにも、岩山にはその地はなく、砂漠に生うる穀物もない。
いわば、ラゴンとは、セムと中原や東方の文明人との中間に位置し、農耕と定着へはいたらぬながら、捕食と放浪からはぬけ出しかかっている、そうした種族であると覚しかった。
(同じことばを話しながら――そうだ、セムとラゴンのことばは基本的には同じ幹から出ているのだから――同じことばをさえ話しながら、矮人族セムと巨人族ラゴンと、このふたつの枝道は、いったいどこでこれほどにもわかたれてしまったのだ。いや――もともと、この二種族は、古代帝国カナンの裔であり、つまりは信じがたいことだがかれらはわれわれと同じ人間から派生しているのだとさえ云える。同じ人間に、いったい何が、どんな悪魔の手が働いてこれほどにもかれらを変容させてしまった? ノスフェラス、ノスフェラス――思いはいつもそれにつきあたる。これがわかれば、この謎がとければ、ノスフェラスのひそめた謎もとける)
(それを制するものはパロの古代機械を制するものと同じく、世界を制することができよう)
(われわれと同じ人間が、いつ、なぜ、どのように――)
(われわれと同じ[#「われわれと同じ」に傍点])
ふいに、グインは、氷の手で自らの心臓をつかまれたようにすくみあがった。
(われわれ[#「われわれ」に傍点]――それなら、俺は人間か!)
(このみにくい獣の頭――俺は人か、人でないのか)
(獣の頭のラゴン、とかれらは云った)
(俺は何者だ――俺は)
我知らず、さきのあれほどの焦燥にすら洩れなかった、えぐるような呻き声が、グインの、巨大な豹の口から洩れた。彼は、鎖で岩につながれた手でかなうかぎり、荒々しく自らのその呪われた頭をつかみ、豹頭をむしり取ろうとするかのように激しくゆさぶった。
が、そのときだった。
ふいに、手を放し、油断なくおもてをにらみすえる。
誰かがのぞきこんでいた。
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2
「ア……」
かすかなおどろきの声を洩らして立ちすくんだのは、しかし、グインではなく、あいての方だった。
あるいは、ただひたすら物珍らしさにかられて、獣の頭と人のからだをもつ新種のラゴンを、こっそりのぞき見に来ただけであったのかもしれない。だが、その岩牢の中に見出したのは、黄色く不吉に輝く、暗闇にひそむ恐るべき獣の眼であった。
グインの方は、咽喉の奥にわだかまってくる唸りをかみころして、じっと物騒に光る目をすえてあいてのようすをうかがっている。
それは、まだごく若いラゴン族の子どもで――といったところで、すでに背丈はグインの胸近くまでもある。しかし、そのからだつきの、どことなくアンバランスな感じと、そしてどの種族であれ若い個体には必ず共通している、自信なげで、好奇心にあふれた、稚いようすとが、そのあいての若さをはっきりと示している。
ラゴンとしては、ほっそりしている方だろう。長い髪がぼうぼうとのび放題で、からだも垢と埃に黒く汚れきっている。しかし、丸く見はられた、怯えた目の中には、生まれたばかりの仔馬のようなあどけなさがあった。
若いラゴンは、恐ろしそうにのぞきこんだ。本当は、もう声をたてて逃れ去りたいところかもしれない。しかしグインの強烈な磁力をはらんだ双眸にまっこうからとらえられて、何がなし呪縛にでもかけられたように、動くに動けなくなってしまっているのである。
「アア……アーム」
あいては、その当惑とひそかな怯えを、なんとかして振り切ろうとするように、身をふるわせた。
グインは、若いラゴンの緊張をみていた。そのまま、ふいと視線をはずしてやる。と、あいてはほっとしたようにフーッと息をついた。いかにも恐ろしげに、どんな怪物があのすさまじい目をもってこの岩牢にひそんでいるのかというように、急いで逃げてゆこうと背中を向ける。それへ、力強い声で、
「いま、何時になる、ラゴン」
グインが云った。
あいては、びくんとして、とびあがりかけた。――が、彼の目は見るものをして呪縛し、恐怖せしめたけれども、彼の声には、ひどく命令することに馴れた、ムチのようなひびきがあり、それが、ラゴンの子どもをして従わせずにいられぬようにさせた。
「ア……アイ……」
ラゴンは足をとめ、迷い、ふりむき――そしてとうとう、おずおずと答えた。外からは、暗い岩牢の中は見えない。牢の中からは、外が少しだけ見えた。また、若いラゴンは、ちょうど、グインの縛られている位置からその姿が見えるところに、恐しそうに両手をねじりあわせながら、立ちつくしていたのである。
「アーイ……何?」
「いま、何時になるか訊いたのだ。――ここへ来い、ラゴン」
グインは、声に、いっそう強いひびきをこめた。
ラゴンの子はびくんとした。そして、素直に岩牢の前へ近づいてくると、あいてが自分の解することばをしゃべる、というので少し安心したのか、あかりとりの窓へ顔を近づけて、なおも中をのぞこうとした。
グインはもう少しいざって奥へひっこむ。いま、この異相をみせてあいてをおどかすことは、得策ではない。彼は、いくぶん声をやわらげて、最も気がかりな問いをもう一度くりかえした。
「なんじ――何? わからない」
「わからぬことはない。教えてくれ」
「お前のいうこと、わからない。何時?」
グインは、ふと気づいた。ノスフェラスの蛮族には、時の概念など、ないかもしれない。
「ではきこう。いまは、太陽が出ているか、それとも夜か? 月が照っているか?」
「月――ああ、それは、太陽が出ている」
「日は高いか? 夕暮れが近いか?」
「ワカラナイ――わからない」
「空は赤いか?」
「お前は、頭、おかしいね」
ラゴンは少し、心をゆるしてきたらしく、小さな笑い声をたてた。
「空は青いよ。空はいつも赤くないよ」
「それはそうだが――えい、畜生、いまは空は――いまも空は青いか、それとも黒いか?」
「青い」
「俺がここに来てから、お前は眠ったか? 何回食事をしたか?」
「眠るのはまだ早い。ラゴン、眠るのは、夜になってからだよ。塩づけ肉をふたつたべた」
あいては答えた。グインは少しだけ胸をなでおろした。それでは、少なくとも、三日めの夜は暮れてはいないのだ。彼には、まだ、さいごの一日と夜とがまるまる残されているのだ。
(ならば、何もかも手遅れと思うには、あまりにも早すぎるというものだ)
「お前に頼みがある。きいてくれるか」
グインはおしかぶせるように云った。
「何? おまえは、悪い、これまで見たことのない種類のラゴンで、悪霊かもしれないから、口をきいてはいけないと、母さんが云っていたよ」
「だが、お前はもうきいたぞ」
グインは指摘した。
「どうだ。何か、お前の身に、わるいことは起こったか」
「ううん――起こらない」
少し考えて、あいては答えた。
「何も、わるいこと、起こってない」
「だろう。だから、俺は悪霊ではない。だから、頼みをきいてくれるか」
「なあに?」
「俺に、お前のたべたその塩づけ肉をひとかたまり、ふるまってくれ。それから、飲むものをくれ」
「肉と水?」
断わられるか、と思っていたのだが、あいてはまた少し考えこんでから、
「食べものの家に入って、肉をひときれ、とってくる」
いたってたやすくひきうけて、そのまま走り去る足音をたてていった。
少ししてから、考えに沈んでいたグインは、どさり、と何かが窓から投げこまれた音にはッとなった。
「肉、もってきたよ」
さっきの若い、ラゴンにしては甲高い声がいった。
「食べものの家は、母さんがいちばんえらいから、頼めばいくつでもくれるよ」
「有難う」
グインは心から云ったが、まだひとつ問題が残っていた。食物を与えられたのはよいが、それは窓の下に無造作にころがっており、鎖で室の奥に縛られている彼の手にはとどかないのである。
「俺は縛られているので手がとどかん。どこかから、棒をもってきて、それで外からこっちへとどかせてくれ」
グインは頼んだ。
あいては、どうやら、この成りゆきに興味を持ちはじめたようだ。それは、好奇心のつよい子どもとしては当然のことだろう。グインは、のぞきこんでいるのが子どもであると見たときから、それを考えに入れてきたのだ。むしろすっかり興味をそそられて、ラゴンの子どもは云われたとおりにした。
四苦八苦のすえに、ようやく、食べものは、グインの縛られた手にしっかりと握られた。グインはそれをがつがつと、からだを折りまげるようにして頭を近づけるとほおばった。それは生肉を塩につけておいたもので、ひどく塩からかったが、ずっとセム族の、調味料というものをまるで使わない料理をたべてきた身には、生きかえるようにうまく感じられた。
グインはあっという間に肉を食べつくしてしまった。もっとあればいい、と思ったが、しかしからだには力が戻って来、それにつれて、心持も力づよくなって来るようだった。ただ、のどがひりひりとするほどかわくのが閉口だ。彼は、幼い協力者に飲み物を無心した。
これは、肉ほど容易ではなかった。しかし、子どもはやがて、木の中をくりぬいて栓をする式の水筒をみつけてきた。
グインは膝で筒をおさえて、歯で栓をひきぬくと、それこそむさぼり飲んだ。ただの水を、これほどまでに甘く、美味く感じたこともなく、これほどまでに、生きていることの恵みを味わったこともなかった。彼はまたたくまに水をのみつくしてしまった。
「フーッ」
ようやく、人心地がついて、彼は満足した虎のように口のまわりをなめて唸った。
「お前の親切がヤヌスによって千倍にも報われてあれ――そしてむろん、俺も忘れんぞ。これで生き返った心持だ。――ところで、教えてくれ。この村は、大きいのか」
「もちろん」
子どもは窓にとりついて、目を丸くして、少しづつ馴れてきた視野にうずくまる奇怪な生きものを眺めながら、それでも充分に種族の誇りにみちてこたえた。
「ラゴンは強大。そして勇者ドードーと賢者のカーが、ラゴンを正しくみちびく」
「勇者ドードーと賢者のカーは、いま、村にいるのか?」
「もちろん。太陽と月が空にあるように、かれらはラゴンをみちびいている。おまえは、何にも知らないんだね」
「知らないのだよ。だから、教えてほしいのだ」
グインは下《した》手に出た。
「ラゴンのことをきかせてくれ。ラゴンは全部で何人いる?」
「たくさん、たくさん」
それがあいてのこたえだった。もう一度、具体的に数字をあげてたずねてみたが、同じだった。ラゴンに、あまりに多い数を認知する能力が、セムと同じくないのか、あるいは、ひょんなことでグインの協力者となったこの子に、幼いためにそれがないのか、どちらかだろう。
「ラゴンは戦うのが好きか?」
「アイ――わからない」
「ラゴンは、強いか?」
「ラゴン、誰よりも強い。ビンはターよりも強い。ランはビンよりも強い。テイはランを腕一本で負かす。でも、テイも、テイより強いサンもエブもローも、誰ひとり、勇者ドードーにはかなわない。勇者ドードーは勇者だからだから、勇者ドードーは勇者ドードーなの」
「そうか」
グインはすばやく考えをめぐらした。子どもの話しぶりから、おそらくはラゴンが、その体躯や暮らしぶりからして察せられるように、相当に好戦的であること、しかしそれはセムを制圧したり、ノスフェラスに覇をとなえる、という方向へではなく、仲間うちでの地位の順列を力と強さによって決める、といった性質のものであることは確かなようだ。
そしてまた、賢者カーと共にラゴンの長《おさ》としてこの巨人族をひきいているらしい、勇者ドードーとは、おそらく、セムのロトー、イラチェリ、ガウロのような意味の族長ではなくて、つねにラゴン全体で最も強い戦士であるところの一人をさすのではないかと思われた。つまり、トーナメント形式で全ての戦士が戦っていって、さいごにのこった勝者が、勇者と呼ばれてラゴンをひきいるようになるのではないか、ということだ。この子の話をきいていると、勇者ドードーというその名からして、シンボリックなラゴンの指導者の呼称なのかもしれない。
(そうであれば、話は早いのだが)
そう、グインは考えた。もしラゴンが、そうした体制をしいているのならば、彼は勇者ドードーとうまく戦いへもちこんでしまえばよいのだ。そうして、彼が勝てば、ラゴンの指導権を手中にして、かんたんに、セムへの援軍を決定することができる。
また、ラゴン族一番の勇者と戦って、何とか勝ちにこぎつける自信もあった。ラゴンは巨人族だが、横幅が背にくらべていくぶん少なめに見える。それに、彼は、彼より頭ひとつ大きい、ガブールの灰色猿《グレイ・エイプ》とさえ戦って、勝ったことがあるのだ。
「俺は、勇者ドードーに会いたい」
彼は、云ってみた。
窓の外で、あいてが息をのむ気配がした。
「――どうして?」
やがて、おずおずとたずねてくる。グインは、声を大きくした。
「なぜなら――俺は、勇者ドードーより強いからだ」
「うそつき!」
反応は早く、そしておののいていた。
「うそではないさ。ためしに俺と戦うよう、ドードーに云ってみるがいい。ドードーが断われば、ドードーは俺をおそれたのだ。そして、戦えば、俺がドードーを敗かすことがわかる」
「ドードーより強いものはいない。負けたドードーは、ドードーでなくなる。ドードーはいつでも一番強いよ」
あいては云った。グインの読みは、どうやら証明されたかたちになった。グインはひそかにうなづいて、なおも云う。
「では、ドードーを呼んで来い。俺が、それを望んでいるといってな――受けぬのなら、俺はドードーより強いのだから、俺が次の、そして本当のドードーだ。俺は砂漠と山々をこえて、ドードーが本当にドードーに価するかどうか、挑みにきたのだ――そう云って伝えろ」
「――」
窓の外で、あいてはまた息をのむようすだった。
やがて、
「あんたは――何者なの、獣の頭のラゴン」
かすかな声でたずねる。
「俺の名はグイン」
「グイン――?」
「そうだ。俺は、グイン」
本当に、そうなのだろうか、という、かすかな、不快きわまる疑念をぎゅっと胸の底におさえこむ。少なくとも、何もかもを忘れ去っていた彼が、リンダに「グイン」と呼ばれたとき、何のふしぎもなく無意識にそれに答え、自らの名として受け入れていたことには、まちがいがないのだ。
子どもは、その名に納得してか、しなくてか、そのままバタバタと走り去ろうとする。それを、もう一回、グインは呼びとめた。
「待て、子ども。お前は?」
「ラ――ラナ」
「そうか。では、ラナ、ちゃんとドードーに、俺の――豹頭の戦士グインのいったことばを、伝えるのだぞ」
ラナは、もう何もこたえず、すっかりどぎもをぬかれてでもしまったように、あわてて走り去っていった。
それを耳をすませてききながら、ふっとグインは気づいた。
ラナ――それは、たしかに、女の名だ。彼に肉と水を与えてくれたのは、ラゴンの少女だったのである。
(それは、考えていなかったな)
グインは、ちょっと苦笑したいような気持で窓の方を見やったが、しかし、次の刹那、彼の思いはもう他へとんでいた。
(ラナは、ほんとうに勇者ドードーに俺のことばを告げるだろうか)
夜を日についで急ぐとしたところで、日限にぎりぎりで間にあうためには、ともかく丸一日ほどを、帰りの旅程のために確保しておかなくてはならない。と、いうことは、何があろうとも、ラゴンをうごかすのは、今日じゅうにすませねばならぬ、ということになる。
勇者ドードーがラナの伝えた、豹頭の怪人の大言壮語に、激怒して囚人をひきずり出してくれれば、それこそグインの思うつぼである。しかし、たとえばラナが、禁じられている岩牢に近づいたことを告げるのをはばかって、そのまま口をつぐんでいたとしたら貴重な時間《とき》は、こうしているあいだにも、ひたすら終局へむかって流れてゆくのだ。
(まあ、よかろう。そうなったら、またそのときのことだ。そのとき、次の手だてを考えればよい)
グインは、そう決めた。
それよりは、少しでも眠って、体力をたくわえておくことだ、と、できるかぎり楽な姿勢ですわりなおすと岩に身をあずけ、目をとじる。
のどのかわきもいやされ、腹も満ちていた。さきよりはよほど有利な条件で待つことができる。
(何ごとも、なるようになるものさ)
グインは、戦士らしく、どこでも、どんな状態ででも、たちまち眠りにおち、わずかな気配にも目ざめることができた。そう、肩をすくめて結論づけると、もう、すべての思案は彼の心からしめ出されている。
すぐに、彼は、規則正しい寝息をたてはじめた。ラナは戻って来ず、怒った勇者ドードーが自ら岩牢へかけつけて来そうな気配もまた、なかった。
そして、岩山の上には、ゆっくりと日がかたむきはじめていたのである。
「起きろ! 囚人、起きろ!」
大声の叱咤を待つまでもなく、すでに彼は近づく足音に目ざめていた。
しかし、わざ[#「わざ」に傍点]と眠り呆けるふりをしていたのだ。はたして、
「こやつめ、よく寝ている」
「なんと、ずぶといやつだ」
彼を連れにきたラゴンたちが、おどろいたようにざわざわと云いかわすのがきこえた。それを待って、グインはぱっと目を開いた。
三人の巨人族がそこに立っていた。
手には石の穂をつけた槍をもち、腰に、毛皮の足通しをつけただけの裸だ。
「勇者ドードー、賢者カーがお前に会って下さる」
勿体ぶってひとりが説明すると、おもむろにかがみこんで鎖をほどきにかかった。
ラナの水筒は、かれらから見えぬよう、岩かげに蹴りこんでかくしてあった。その要心を、グインはよかったと思った。
鎖がはずれて落ちる。グインはラゴンたちにとりかこまれて岩牢を出た。少し手足がしびれている。
(ラナは、やはり部族の勇者を激昂させるような伝言は、できなかったか)
それもしかたがあるまい。切り出したままの岩肌があらわれている、暗くてじめじめとした通路をぬけてゆくと、ふいに、あいだをへだてる戸もないまま、風の吹きわたる戸外へ出た。
あたりは、夜であった。ごつごつとした岩山の頂上に、皓々と白い月《イリス》が照っている。
星々は、ノスフェラスの砂漠でみるよりも心なしかずっと近く、ずっと多いように思われた。巨大な白銅貨のような月と、ふるような星々とが、突|兀《こつ》たる岩々のむこうにひろがる、黒布のような空に掛けられているさまは、それをやわらげる木々の一本、革の群生もないままに、きびしく冴えざえとした美しさだった。
「こちらへ来い、怪物」
容赦なくラゴンが引っ立てる。グインは素直に、押されるままに歩いた。ラゴンの村は、ひるま連れて来られたときでようすがわかっている。それは、ごつごつした岩山に、段々になってはりついている形になっている。
その、どこへゆくにも坂を上ったり、下りたりしなくてはならない、階段式の村落の、いちばん下に、これはセムの村と同じく、部族の集会用であろう、かなり広い広場がもうけられていた。
広場のまわりはかんたんな段々になり、そこにおそらくはラゴンたちが腰をかけて、集会に加わったり、あるいはまん中の空地でくりひろげられる、昇進試合や果たしあいを見物したりもするのだろう。
その広場へと、三人のラゴンは、グインを引っ立ててゆくのである。
月あかりのおかげで足もとは明るかった。グインはでこぼこした階段のようになっている岩坂を踏んでおちついた足どりでおりていった。
三人のラゴンも口をきかない。一体にこの巨人族は寡黙である。岩山の向こうで、サバクオオカミが、ウォルルーンとかなしげな遠吠えをするのが、風にのってかれらの耳に世にも物凄げにひびいてくる。
かれらが通りすぎてゆくと、そこここの石づくりの戸口から、蓬髪の頭がぬっと出て、黙りこんだまま、その一行をじっと見守っていた。中には、まだ小さい赤ん坊をかかえた女もいれば、かなりの老齢とみえるラゴンもいる。しかし、総じて、ラゴン族の女は、ラゴンの男とあまり見わけがつかない。孕んでいる女は、乳房がぷくりと盛りあがっているので、それと見当がつくが、そうでない女の胸は平らで、むきだしの肩や腕についている筋肉も、男と少しもえらぶところがない。
かれらはみな、毛皮を身に一枚まといつけているだけだった。セム族を見なれた目には、ぶきみなほど、丈長く、そして猪首である。せりだした眉の下で、白い目が、無言の興昧と敵意をはらんで、異相の囚人を見守る。
そして、かれらが通りすぎると、そのまま家の中へひっこむ頭もあるが、そうでなく、出てきて、かれらのあとへついてくるものも多い。いつのまにか、それは、無言の行列をかたちづくっていた。それはぶきみでもあったが、同時に、いささかこっけいな光景でもあった。
シレノスの地獄めぐりの伝説、とでもいったありさまで、グインと、彼をおしつつむ三人のラゴンの戦士、そしてそのあとにぞろぞろついてくるラゴンたちは、ほどもなく、一番下の集会場についた。その、広場の周辺の段には、すでにかなりの数の戦士が腰をおろして、奇怪な囚人と、かれらのリーダーのそれへの裁決を見とどけようと待っていた。誰もほとんど口をきかない。
かれらのうしろにくっついてきた女子どもは、その戦士たちのうしろの方へ、遠慮がちにすわる。グインは目でラナを探してみたがそれらしい、反応を示す子どもは見つからなかった。そこで、グインはあきらめて、視線を正面へもどした。
彼をつれてきた、三人のラゴンは、左右とうしろに彼をおしつつむようにして槍をかまえ、立っている。三人とも、グインよりも頭半分背が高い。それで、かれらは、ほとんどこの警戒は形ばかりのことだ、と見くびっているようでもあるし、一方では、彼の異形を悪霊のそれとみて、いくぶんおそろしがっているようでもある。
グインは、目をあげて、広場の真正面にすえられた二つの椅子と、それに座っている二人のラゴンを見た。
向かって右には、ひどく年をとったラゴンがすわっていた。全身の毛が白く、やせさらばえて、しかしもじゃもじゃの眉の下で目は強く明るい光を出している。これが、賢者のカーだろう。
そして、そのとなりに――
グインはわずかに目を細めた。
座っていてさえ、そのラゴンの体躯の並々ならぬことがはっきりと見てとれた。おそらく、立ちあがれば、グインより、頭一つ半ほども大きかろう。横も、ラゴンとしてはおどろくほどある。そして、その肩、腕、胸に、盛りあがっている、鋼鉄の縄のようなおどろくべき筋肉――そしてその醜い、見られただけで子供なら泣き出しかねない面だましい。
それが、勇者ドードー、ラゴン一の強者であるのにまぎれもなかった。
グインは、この怪物と戦って、それを倒さねばならないのである。
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3
「お前は……」
夢見るようにゆっくりとした語調で、口をひらいたのは、賢者カーであった。
「お前は、何者だ」
彼の声は、太く、しわがれており、そしてそのもじゃもじゃと生えた白い眉の下の目は何か確かな明智をたたえて輝いていた。
勇者ドードーの力をはかろうとするようにそのたくましい巨躯を見つめていたグインはおもむろにこのラゴンの長《おさ》のひとりに目をうつした。賢者カーの目が、深い関心をさぐるような光をおびてグインに向けられている。
「俺は――」
グインが口をひらいたとき、ふいに、あたりをうずめたラゴンたちに、ざわざわという動揺がひろがった。おそらくは、ラゴンたちは、豹頭人身の、神話のなかから立ちあらわれたようなこの怪人をはじめてつくづくと目のあたりにし、前もってきいてはいたものの、いざその怪物がかれらの眼前でこともなげに人語を発するのをきくと、非常なおどろきにうたれるのであるらしかった。
勇者ドードーの目も、せりだした眉の下でするどく驚きにみちて光っている。ただひとり賢者カーだけが、少しのおどろきも、意外さも感じてはおらぬように、ゆっくりとグインのことばに耳を傾けていた。
「俺はグイン。どこから来たか、生国の名さえも知らぬ戦士だ」
「グイン? なぜ、どこから来たかを自ら知らぬのだ。お前は、何者だ」
カーはおだやかに繰り返した。グインは何と答えようかとことばをさがした。そのとき、
「自らの生まれたところも知らぬ。それはこやつが悪霊だからだろう。賢者カーよ、こやつは死者の国からラゴンに仇をなしにきた悪霊にちがいないぞ」
野太い声が発せられたのである。
皆が、はっとしてふりかえった。声の主はカーの隣にすわっている勇者ドードーだった。
あちこちから、勇者の発言に賛同するざわめきがおこった。中には、そうだ、そうだ、と賛成するだけではなく、こんな裁きなど、悪霊には必要ない、殺せ、殺せ、という声もたしかにきこえた。
賢者カーはゆっくりと右手をあげた。すると、たちまち、ラゴンたちはしいんと静まってしまった。
「云うがいい。お前は、何者だ」
辛抱づよく、彼は繰り返した。グインの答えは、すでに用意されてあった。
「俺はグイン。俺は、ラゴンを正しい道にみちびくよう命をうけてきたものだ」
「誰に?」
カーの問いは素早かった。
「天に」
「天とは、何のことだ」
「この世をしろしめす双面の神、ヤヌスの決める運命のことだ」
「ヤヌス――ヤヌス、そんな神は知らぬ」
ラゴンの長は云った。
「では、ラゴンをかくあるべくさだめたのは誰だ。人々の寿命を決め、罪過をはかるのは誰だ。ものごとを進め、ラゴンの民を守り、カーに正しい判断を下させるのは誰だ。アルフェットゥか」
「アルフェットゥ!」
カーの声には、つよいさげすみの調子がこもっていた。
「アルフェットゥ! それは、セム族の神だ。死者の国をさまよい歩くいまわしい虫けら、死体につくうじ虫たるセムの神だ。ラゴンは、アルフェットゥなどの恩恵をうけはせぬ」
「では、何だ。ラゴンはラゴンに恩恵をさずけるものを何と呼ぶ」
「アクラのことか」
カーはおごそかに云った。カーがその名をうやうやしく発したとたんに、グインが内心おどろいたことには、周囲にむらがるラゴンたちが、いっせいにしいんとして頭を下げたのである。
「アクラはラゴンを作り、アクラはラゴンを守った。アクラは万物のはじまり。地に神々は満てり。されどラゴンを作るものはアクラひとつ。アクラはラゴンだけのもの」
カーは単調な声で唱え、
「アクラはラゴンだけのもの。ラゴンはアクラによってつくられる」
一同が低声で唱和した。
「では、そのアクラだ。アクラのことを、われわれのことばでヤヌスとよぶのだと思ってくれ。俺は、そのアクラによって命をうけたのだ」
「アクラは、アクラだ。アクラにはほかの名はない。アクラを知るものは、アクラによってラゴンとなったラゴンしかいない」
強情にカーが云った。グインはひそかに苛立った。宗教問答についやす時間はない。ちらりと見上げた夜空に、白々としたイリスはすでにたかくのぼっている。
「俺はアクラのもとから来たのだ」
グインは胸をはり、声を大きくした。
「俺はアクラの使者だ」
「アクラの――!」
ラゴンたちがまたひとしきりざわめく。勇者ドードーががばと立ちあがった。そうすると、彼は、ほとんど雲つくように大きかった。
「そやつを黙らせろ。舌を切りとって、塩づけにしてしまえ。そやつは神聖なるアクラを冒涜した。そやつはラゴンの大切な白き砂塩をぬすもうとしていたときく。アクラの使者などと云って、そやつはただの盗人の悪霊だ。そやつを殺せ」
そうだ、そうだ、という喚声が爆発した。ラゴンたちは、毛むくじゃらの腕をふりあげ、それを空にふりたてながら、殺せ、殺せ、と声をあわせた。
が、
「静まれ」
賢者カーの声がぴいんとひびきわたり、その右手が再び上がって、とたんにまたさわぎはいちどに静まってしまう。そのとき、グインは、ふっと気づいた。重々しく、手のひらをこちらに向けて掲げられた賢者カーの手には、指が、何回数えなおしても、六本あるのである。
(不具……か)
それも、賢者の資格なのかもしれぬ、とグインはこの切迫詰った状況を忘れてふっと考えた。その思いを、当のカーのおだやかな声が破った。
「獣の頭のグインよ、お前は、勇者ドードーによって重大な告発をされた。ひとつは、お前がラゴンに仇をなしに来た、死者の国の悪霊であるということ。いまひとつは、お前が、聖なる谷の塩をぬすんだということだ。そしてお前は自らをアクラの使者であると称した。これは、まことであればたいへんなことだ――ラゴンは、アクラの命令によって動く。しかし、それがまことでなければ、お前は、悪霊であるよりもさらに大きな罪をおかしたことになる。アクラの名をかたるのは、ラゴンにとっては塩盗みよりも、眠っている者を殺すよりも、もっと大きな罪だからだ。
――お前は、わし――賢者カー――と勇者ドードーとの前で、二つの罪について、申しひらきができるか? また、お前の口にしたことをあかしだてられるか?」
「できる――」
グインはまっすぐに、あいての目を見返した。
「と、思う」
「では、申しひらきをせよ。ラゴンの掟は公正だ。お前が正しいのであれば、お前には何ひとつ、恐れるものはない」
「申しひらきをしよう」
グインはゆっくりと一歩進み出た。はっと、彼をとりかこむ三人のラゴンが色めきたったが、何もするつもりがない、と見てとって、また元の彫像めいた姿勢にもどる。
月はいよいよ皓々と明るく、石の村を照らした。その、鉢の底のような村の広場のまん中に進み出て、両足をこころもちひらいて立ち、手首にかるくナワをかけられた両手をうしろで組み、胸を張る豹頭の戦士の、神話めいたすがたもまた、青いイリスの輝きをあびて、水底のように、濡れたようにそのつやつやとした豹頭とみごとな体躯とがきわだって見える。
「俺は申しひらきをすることができる」
グインは大声で話しはじめた。カーが椅子の上で身をのり出し、よくきこうと耳を傾ける。その静粛の合図を待つまでもなく、ラゴンの戦士たち、女子どもたちもまたしんと静まりかえり、おそらくはラゴン始まって以来の椿事であることのなりゆきを、一語もききもらすまいと耳を傾けている。
「俺のことばをよくきいてくれ。そして俺を裁くかどうか決めるがいい。ただし、ラゴンは公正であるはずだ――少なくとも、ラゴンのことばを話し、ラゴンのからだをもつものを、それがたまたま獣の頭をしており、皆と異るからといって、たちまち悪魔扱いをするほどには、野蛮ではなかろう。俺はラゴンを信ずる」
そうだ、ラゴンは公正だ、という声があちこちから起こった。それは、またすぐに、水が砂地に吸いこまれるように静まってゆく。
「まずはじめの告発――すなわち、俺グインが、死者の国からやって来た悪霊で、ラゴンに仇をなしに来た、という告発だが、これについては、俺は、そうでないのを知っているし、どうしてラゴンがそう考えるのかわからぬほどだ。俺は生きている。見てのとおり、生きて動いており、からだには赤い血がかよい、のど[#「のど」に傍点]もかわく、腹もへる。ことばも発するしこの二本の足で歩き、この二本の腕で戦うこともできる。生者とは、そうしたものだろう。そして死者とは冷たくよこたわって動かず、動きまわるときも食物飲物を必要とすることもない。戦うために剣をとることもなく、かわりにはやり病いをはびこらせる風を吹きつけたり、生者の口に死の息を吹きこんだりして障礙《しょうげ》をなす。ラゴンの目には、俺が悪霊に見えるか――そうしたいまわしい存在に見えるか。だが俺は、剣をふるって敵を切りふせることができる。わざわざ、悪霊の呪いによってあいてを腐り死にさせることなどないのだ。
それに、俺はたしかに砂漠をこえて来はしたが、そこで生まれたのでなく、ましてそこは死者の国でもない。ラゴンほどかしこい部族が、そこにセムが住み、オオカミが住み、他にもあまたの生命がこの山中とかわりない日々のいとなみをつづけていることを知りながら、なぜにその地を死者の国などと称するのだ? 俺にはわからぬ――」
「カー」
ひとりのラゴンが立ちあがった。
若い戦士で、グインとほぼ同じほどの体格をしている。激昂をむりにおさえてでも、いるかのように彼は云った。
「この男は、ラゴンの尊い云いつたえをまでいつわりだという。砂漠は死者の国であり、セムやイドやヒルどもなどは、死の満てる国でうごめく悪霊であることは、ラゴンであれば、三歳の幼児といえどもわきまえていることだ。いや、むしろ、そうした不浄のものがそこに棲んでいることこそ、そこが死者の国にほかならぬあかしだとわれわれはきかされた。これ以上、アクラをけがすことばに耳を傾けることは許されぬ。裁きを下し、罪人を槍につきさすことを求める」
わっと、同意や反対のざわめきがおこる。グインは失敗を悟った。知らずして何かのラゴン特有のタブーをおかしてしまったのである。だが、動ずる気配もみせずに、声をはりあげた。
「待ってくれ。申しひらきは、途中でさえぎられた。公正なラゴンの掟ならば、さいごまで申しひらきを述べおわるまで、かるがるしく判断を下さぬくらいは当然であるはずだ、カー」
「獣の頭のグインが正しい」
六本指の老賢者は、その奇形の手をゆっくりとあげて、少しもたかぶらない声で云った。
「申しひらきをつづけよ。ランは、申しひらきがおわるまで、差し出た口をはさんではならぬ」
グインは感謝を示して老賢者に会釈した。そして、前よりもいっそう慎重に、一語一語に薄氷をふむ思いでつづけた。
「たしかに俺は砂漠をこえてきた。しかしそれは、ラゴンの村にいたるためには、はるばると砂漠をこえて来るほかには道がないからだ。俺は、砂漠のたくさんの生物とたたかい、そしてここまでたどりついた。むしろ、俺が死者の国を生きて通りぬけられた、それこそが、俺の悪霊でないというあかしではあるまいか。――ラゴンが俺をみて、砂漠からやってきた悪霊であるという、そのわけはわかっている。ラゴンは、俺が獣の頭をしているのでそう考えるのだ。だが、俺は、砂漠を通って来たが砂漠で生まれたのではないように、この頭をしてはいるが、生まれおちてからずっとこの姿だったわけではない。そのわけは、いまはまだ、云うわけにゆかないが、俺はある魔法つかいの呪いをかけられて、このような姿になったのだ――この獣の頭の下には、ラゴンと同じ人の頭がひそんでいるのだ。
そしてもうひとつの件――つまり塩盗人のことだが、これもやはりかんたんに申しひらきができる。俺は、ラゴンの山へ来たのはこれがはじめてだ。ラゴンに会いたくて、用があってやってきた。俺は、ラゴンがこの方角にいる、という話をきいて探しに旅立った――砂漠をこえて。どこにラゴンの村があるかも知らず、ラゴンがどのような暮らしをしているかも知らずに来た。俺は、白い塩が、ラゴンにとって大切なものであることも知らなかったし、それを自らの袋につめることが罪であるとも、誰にもきかされてはいなかったのだ。もし知っておれば、むろん俺はラゴンにとって神聖なものを決して犯したりはしなかったろう。現に、俺をとらえたラゴンにそうきかされて、すぐに俺は袋につめた塩を塩の谷へあけた。それをもって逃げ出そうともしなかったのは、俺を捕えた戦士にきいてもらえばすぐわかる。――知らずに、ラゴンのタブーをおかしたことを、俺は心からすまないと思い、わびたいと思う。しかしそれは知らずにしたことなのだ。知らずにでも、タブーをおかしたことが罪だ、というならば、俺はそのつぐないをしようが、しかしそれは知っておかした罪とはおのづから異って来よう。
そしてまた、俺がもしも本当に悪霊であったのなら、俺は塩などぬすんではいない、と俺をとらえたラゴンたちに思いこませることも、そして塩の谷の塩をごっそりとうばい去ることもたやすかったはずだ。だが俺はそうするかわりに武器をすて、塩を谷へもどし、そしてラゴンの村へつれられて来て牢へもつながれた。俺には、ラゴンと戦う気持がなかったからだ――俺はラゴンと友になり、頼みごとをするために、このような姿をあえてかくしもせず、幾多の困難にもかかわらず砂漠をぬけてやって来た。
その俺を、ラゴンはどう扱う――口でいうように、公正に扱うことができるか。それとも、その頼みをききとどけるかどうか、一族で協議をしてしりぞけるのでさえなく、それがどのような頼みか、さえ俺に云わせることなく俺を槍につきさして殺すか。それは、俺は、ラゴンの正義と公正にまかせよう。それは俺がラゴンを信じ、心から、その友になりたいと思ってやってきた人間だからだ。
俺の申しひらきは、これだけだ。賢者カーそして公正なラゴンの民よ」
グインは、口をつぐんだ。
そして、そっと周囲へ目を配る。――少なくとも、彼の演説が、ラゴンたちに、かなりの感銘を与えたことは、確かであるようだ。
ラゴンたちは、たがいに隣の同胞の反応や感想をたしかめるように、横を見やり、がやがや云い、ざわざわした。さきにグインを殺すべしと主張した、若い戦士は、氏の長老にたしなめられて、自らの出すぎたふるまいを悟ったように、こんどはより年長者たちの判断にまかせるままのようすである。
カーは何も云わなかった。グインですら、心配になるほどの長いあいだ、じっともしゃもしゃの眉の下からグインを眺めながら、黙ってその六本指の手――彼が興味をもって見たところでは、この老賢者は左の手指も六本、結局両方で十二本の指をもっていたのである――を組みあわせているぎりである。
グインが、何か念をおそうかと口をひらきかけたとき、まるでそのタイミングをはかっていたかのように、
「裁きはすべてをきいたあととする」
賢者カーが云った。
「では獣の頭のグイン、お前が自ら称した重大なことば――すなわち、お前はラゴンを守護なすアクラによって、ラゴンを正しく導くべくつかわされてきた、というこのことばを、お前はどのようにしてあかしだてるのか、それをきこう」
「それは――」
グインは、ぐっと詰まった。
「答えられんのか」
カーは、畳みかけて来た。
「お前はアクラの使者と云ったではないか。ではきく。アクラとは何だ。それはどこにあり、どんなかたちをしている。お前はアクラに会ったことはあるか。お前がアクラの使者であるという、あかしを見せよ」
「あかしを見せろ。あかしを見せろ」
いっせいに、ラゴンたちが唱和した。
グインは腋下に冷たい汗が流れるのを感じた。こんなところで、月の光をあびながら、よもや宗教問答をさせられようとは、思ってもいなかったのである。彼のあの奇蹟の知識も、彼に、ラゴンの宗教のどのようなものかなど、告げ知らせてはくれなかった。彼は、ままよと頭をふりたてた。どうせ、何とか答えなければならないのだ。
「アクラは普遍在」
彼は思いきって、嵐の海に小舟をあやつって漕ぎ出すことにした。
「アクラはまた、異る名でも呼ばれている。ラゴンがアクラとして知るものは、俺には異る名で知られる。アクラのありかを知るものはない、なぜならアクラはどこにもあり、そしてどこにもないからだ。アクラに会ったことのあるものもない。彼には、生ある人間は、おもてを向けて立つことができぬからだ」
「そのとおり」
思いがけなくも、賢者カーがわが意を得たように云い、グインは少しおどろいた。
「続けよ」
「アクラのかたちを告げることのできるものもいない、なぜならアクラは誰にも見えぬからだ。しかし彼はすべての上に存在する――彼は、すべての造物主である」
「もうよい!」
こんど叫んだのは、勇者ドードーだった。
その声には、何かきびしい怒りと拒否がこもっていた。グインははっとして口をつぐんだ。なるべく、あいまいな、どうとでもとれる物云いをつづけたつもりだったが、何か、うっかりと口をすべらせすぎたのだろうか。
勇者ドードーは石の椅子の上に立ちあがっていた。その魁偉な顔は濡れ濡れとした月光をあびて、憤怒にゆがみ、冒涜に耳をおおわんばかりの激昂をたたえていた。
「もうよい。この男は、アクラの使者などではない。使者であるどころか、この男は、アクラについて何ひとつ知らぬ。この男が云ったことは、すべて口から出まかせの冒涜ばかりだ。アクラは彼ではない。アクラにはちゃんと目にみえるかたちがある。アクラはどこにでもあってそしてどこにもないものでなどない。アクラはアクラにちゃんとある。それが失われればラゴンもまたほろぶと、云い伝えはいうではないか――この男は、アクラを異る名で知っていると云った。アクラはアクラでしかない、なぜなら、ラゴンの他に誰一人としてアクラを知るものはないからだ。この男はいつわった。知らぬものを知っていると云った。アクラの命を伝えにきたといった。そのくせこの男はアクラを知らぬのだ。アクラが生ある人間には近よれぬことを云いあてたのだって、あてずっぽうにすぎないのだ。われらは、これ以上、このような冒涜に耳をかすわけにはゆかぬ。この男は殺す、殺す、殺す! 賢者カーは勇者ドードーの決定に異を立てるか?」
「立てない、立てない、立てない」
「カーはドードーを祝福する」
「獣頭の罪人を殺せ」
「殺せ!」
広場のまわりをぎっしりと埋めた群集の叫びは、いまや、岩山をもゆるがし、オオカミたちの遠吠えをすらかき消すかに思われた。
「殺せ!」
ドードーは吠えた。
しまった――それが、グインの頭をつきぬけたかすかな思いだった。アクラとは、人ではなく、神の謂でもなく、むしろもの[#「もの」に傍点]ででもあるらしい。何かが、激しくグインの心の中をひっかいた。だが、それに気をとられていることはゆるされなかった。
「殺せ、殺せ、殺せ、殺せ!」
「悪霊を殺せ!」
体長二タールにも及ぶたてがみのある巨人たちは、広場のぐるりに総立ちになり、手を握りしめ、つきあげながら叫びつづけている。
グインは、絶体絶命を悟った。が、一縷の望みを託して、賢者カーの方を見た。
カーは、さわぎに唱和してはいない。だが、それをとどめようとする気配もまた、見せてはいない。彼は、目をちょっと見にはつぶってしまったのかと思うほど細くし、手を組みあわせたまま、じっと瞑想にでもふけっているようすなのだ。
「八つざきだ。八つ裂きだ」
群衆は、血を見られる予感に、いよいよたかぶりはじめていた。
「殺せ。殺せ。殺せ」
だめか――と、グインは、カーのとりなしをあきらめた。この上は、力づくででも切りぬけるほかはないか――と、周囲へ目を配る。しかし、ラゴンの群衆は、おそらく少なくて千人には達していよう。そして、セムと異り、この巨人族は、その一人一人がグインにまさるとも劣らぬ体躯を誇っているのである。
(そうだ。賢者カーを人質にとって――)
グインが、とっさに心を決め、一気にうしろの番兵の槍をかいくぐって正面の椅子へとびつこうと、全身の筋肉をひきしめた時だった。
「彼は、勇者ドードーを敗かすと云っているよ」
ラゴンにしては高い、幼い声が、その大さわぎをつきぬけて、あたりにひびきわたった。
それを、あわてておさえつけるような、
「ラナ。お黙り。何を云うの、この子は」
母親らしい声にも消されずに、再び、
「彼は、勇者ドードーより強いと云ったよ。それを皆に知らせて、ほんとうの勇者が彼なことを見せるためにやって来たのだって。ねえ、彼はドードーと戦わないの?」
もう、すっかり、まわりは静まりかえっていた。
しかし、それは、さっきまでの、賢者カーに命じられての静寂とは、まるっきりちがっている。それは、はっきりと、恐怖とそして、戦慄をひそめた沈黙だった。
「ラナ!」
母親は、何とか、とりつくろおうと、大声を出した。グインは、小さな友人がどこにいるか、ようやく見つけていた。それは、勇者ドードーのすぐ左側の群れの中だった。ラナの丸い目が、またたきもせずにグインを見つめている。そしてまた云った。
「ねえ、彼はあんなに小さいよ。だのに、彼はドードーより強いの? どうして、ドードーは、自分より小さい彼と戦わないの?」
「それは、ドードーが、俺を恐れているからだ!」
その機を、グインは電光のように捕えた。
「ラゴンよ、ラゴンの勇者たちよ! 勇者ドードーは俺に申しひらきもさせず、正当に彼と戦わせもせずに、俺を八つ裂きにしようとしているのだぞ!」
「何をいうか、悪霊!」
激怒して――それも無理からぬことではあったが――勇者ドードーは椅子からとびあがり、顔を真赤にして叫び返した。
「誰が、お前ごとき小僧を恐れただと? ラゴンは公正なのだ。お前は罪人だ。申しひらきのためにここへひき出されたのではないか。戦うためではない。ラゴンは悪霊などと戦わない!」
「ラゴンがではない。ドードーが戦わないのだ」
グインは抜け目なく指摘した。
「ラゴンは勇敢にして正しい民だ。ただ、その一方の長《おさ》たるドードーは臆病者だ。俺と戦うことを恐れている。なぜか! なぜならドードーが俺と戦うと、ドードーがラゴン一の強者でないことが知れてしまうからだ!」
はっ、と息をのむような音があたりにひろがった。こんどの沈黙は、明瞭に恐怖の汗の匂いがした。
ドードーがゆっくりと進み出た。もう、彼は、わめき立ててはいなかった。むりやりに激昂をおしひそめたように口をきつく結んでいる。身長三タールにも及ぼうかという巨人の、怒りをけんめいにおしかくして立ちつくしているさまは、彼が怒り狂ってわめき立てているよりも、ずっと恐ろしかった。
「お前は俺をはずかしめた、獣の頭のラゴン」
ぶきみな、爆発の前ぶれのような静かな声でドードーは云った。
「お前は俺に挑戦せぬのに俺をはずかしめるか。それならば、俺には、お前を殺す権利がある。それとも、お前は正しい方法をふんで俺に挑戦し、俺と戦ってそのことばが正しいことを証明するか」
「俺は勇者ドードーに挑戦しよう」
すばやくグインが答える。ラゴンたちは、息をのんだ。かれらには、自分よりもふたまわりも大きいあいてに挑戦しようという――しかもそれは勇者中の勇者ドードーなのである――グインが正気とは思われなかったのにちがいない。グインはかまわずにつづけた。
「ただし、俺は、ドードーに挑戦する正しい種族の方法を知らぬので、教えてもらいたい。俺はドードーに挑戦したいのだ」
「よいとも!」
ドードーは吠えた。
「その挑戦を受けるぞ! 勇者ドードーの名誉にかけて、きさまを八つ裂きにするぞ!」
しかし、そこまで云ってから、ふいにあわてたように賢者カーをふりかえる。その意向をたずねるかのようなようすから見れば、どうやらラゴンの二長老の中では、賢者が勇者の上に位置するとみえた。
賢者カーは、目を半目にして、何やら考えこんでいるようだったが、やがて、目をぱっとひらくと、おもむろに、彼の声をひとこともききもらすまいと息をつめている群衆の前で、口をひらいた。
「よかろう。それならば話は別だ。勇者ドードーは獣の頭のグインと戦うがよい。ドードーが勝てば、グインは死ぬ。そして万が一にもグインが勝つことがあれば、彼の申しひらきは正しいとみとめ、彼が自ら云うようにアクラの使者であると認めよう」
大したものだ、とグインはひそかにその老知恵者をたたえたい気持になった。賢者カーは、ひとことで、どちらが勝とうと勇者ドードーに傷もつかず、ラゴンのためにも何も損にならぬ状況をつくりあげたのである。
「異存はあるまいな」
ゆっくりと彼は念を押した。勇者もグインも無言でうなづいた。
急速に、先刻来のラゴンたちの激昂と興奮は、潮がひくようにおさまってきて、そのかわりに、見世物と、またとないほど面白いことのなりゆきへの期待がうずうずとたかまりはじめていた。明らかに、ラゴンたちは、戦いを見るのが最大の娯楽であり、それが唯一の価値観ですらあるのだった。
「準備を」
賢者カーは命じた。勇者ドードーは立ち上がり、支度のために出てゆこうとしながら、挑戦者の方へちらりと目をくれた。その目は充分に、さげすみと怒りとこのような小さなからだでよくもこの勇者ドードーに挑んだ、と云いたげな露骨にあいてをなめたようすと、そして残忍なよろこびをグインに投げつけてきた。
グインは無言で見つめ返した。ともかく、ことは、彼の願っていたとおりに運びつつあるのだ。あとはただ勇者ドードーをたおし、ラゴンに彼のことばをきかせればよい。
頭の上で、しらじらと月の光が冴えて、石づくりの冷たい建造物と、それのあいだをぎっしりと埋めている蓬髪半裸の巨人族たちを照らし出した。夜明けまでは、もう、三、四|刻《ザン》をあますのみであるようだった。
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4
「用意はよいか」
賢者カーの、低いがよくとおる声が、しいんと静まりかえってすべての観衆の固唾をのむ広場のすみずみへまで、ぴいんとひびいて行った。
「よかろう」
勇者ドードーがそう答えてゆっくりとうなづく。グインもそれにならう。
千、いや、ひょっとしたら二千にも及ぶラゴンの戦士、老人、女たち、子供たち――すべての目が、何ひとつ見のがすまいというように見はられて、競技場へ集中している。もう、真夜中をとうにすぎる刻限であるはずだが、母親に抱かれている、ほんの小さな赤児にいたるまで、誰ひとり、この場を見すてて立つ気配をすら見せているものはない。
それは、好戦的で、尚武の気風の甚だ強く、その種族中の位階をさえも戦士としての強弱によって決めているような、ラゴンの人びとにとっては、何があろうとも見のがせない、絶好の見世物だったのにちがいない。
巨人族たるラゴンからみれば、身長二タール、体重も百スコーンのグインはむしろ小柄である。人間――中原の種族の中にあっては途方もなく大柄の彼だが、ここでは、彼に匹敵する体格といえば、まだ少年といっていいぐらいの若いものや、少し大柄な女ぐらいのものだろう。
そして、勇者ドードー――彼の前に傲然と立ち、胸に両腕を組みあわせ、カーの「はじめ」の合図を待っている、ラゴンの勇者ドードーといえば、その大柄な巨人族の中ですら、ぬきんでて巨大な体躯を誇っている。
腰に、皮の足通しをつけただけの裸体で、グインと同じ広場へおり立った彼は、身長にして一タール、体重でも二、三十スコーンはグインにまさっていた。
全体に、ラゴンは、背がたかいわりあいには体重が軽そうに見えるのだが、このドードーは、背と重みの比率でいえばおそらくグインほどではなかっただろうが、しかしラゴンとしては抜群に逞しい方である。その、背面にはたてがみのように毛がうずまき、腹や胸や腕にももしゃもしゃと茶色っぽい毛の生えている巨体は、隆々と筋肉が盛りあがり、いかにもみごとである。
それに、背のわりに重みに欠けるラゴンの特徴として、平均二タール以上の大男ぞろいであるわりに、巨人族にありがちな鈍重さを欠いていることも云える。ラゴンの動作は巨躯のわりには敏捷で、そうであればこそ、この峨々たる山間をすみかとして、オオカミやイワトカゲを狩って岩から岩へかけまわっていられるのである。
まわりをぎっしりと埋めたラゴンの視線もまた、むろんのこと、侵入者であり、冒涜者であり、そして不敵な挑戦者であるところのグインに好意的なものではなかった。じっと見つめる目のほとんどは、ドードーが勝つか、グインが勝つか、それに興味をひかれているのではない。そうではなく、それは、ドードーがなまいきな、身のほど知らずのちびすけを、どのようにあっさりとさばき、料理し、いためつけ――そして、どのようにして殺してしまうか、それにこそわくわくと血なまぐさい興味をかきたてられている目である。
グインはそれをよく知っていた。いや――おそらく、グインほどそれをよく知っていたものはなかったろう。だが、グインの黄色っぽく輝く豹の眼にも、その巨大な豹頭にも、何の感情の動きを示すあかしすらあらわれてはいなかった。
「さあ、来い、小僧」
ドードーは挑発した。彼からつっかけてゆくなど、格が下がる、とでも云いたげな、余裕たっぷりなようすで、恐しいほどに大きな拳をあげると、その盛りあがった胸を激しく叩いた。
グインは、釣りこまれなかった。冷静な目で間合いをとりながら、左右に足場をかためるだけにとどめる。ラゴンの戦いは、少なくともラゴン同士のそれでは原則として武器をもたぬものである。それは、いかにも公平であるように見えるが、いまの場合、ドードーの巨大な体重、長い腕、恐しい腕力そのすべてが、剣にもまさる致命的な武器であった。
ドードーの腕にとらえられたら、いかなグインといえどもその圧倒的な体重差をはね返して、その腕の輪から逃れることは困難だろう。必死にもがきながら、あとはじりじりとひきよせられ、首か、背骨のへし折られるのを待つばかりだ。
接近戦にもちこんで、組みあっては勝ち目がない、と見てとって、グインは、じりじりと足の位置をかえはじめた。そのまま、右の方へと、ゆっくりとまわりはじめたのである。できれば突っこんでくるところをかわしざま、うしろにとびのいて背後からとびついてやろう、という作戦をたてたのだ。
ドードーはひくく咽喉声で笑うと、無造作に一歩踏み出した。彼はグインの考えを見ぬき、同時に、身体のとおり非力とあいてを見くびったようだった。
もうグインからつっかけて来るのを待たずに、再び足を踏み出す。やにわに手をのばして、ひっとらえにかかるほどは無茶ではないが、大股で左よりに動いて、グインが移ろうとした方向を封じてしまう。
その両手はひろげられ、指はカギヅメのように折れまがって、グインにむけてさしのばされていた。
右を読まれた、とみて、グインはすばやく左まわりに横へ動いた。
とたんに、ドードーがそちらへまわった。間合いをつめられて、グインはやむなく後退した。
「どうした」
ドードーが嘲った。
「お前は、ドードーよりもつよいはずではなかったのか? そうやって、逃げまわっているばかりでは、お前がドードーよりも強いという証明はできないぞ」
わっとまわりを囲むラゴンたちが嘲りの声をあげる。グインは歯をむきだしてその嘲弄に答えた。
その間にも、彼の足は、じりじりとまわりこもうとする努力をつづけている。
ふいに、ドードーは、しびれを切らしたかに見えた。
それまでの慎重な動きをすて、やにわに両手をのばすなり、小さなえものをひっつかまえようととびこんだ。思いもかけぬほどに、すばやい軽快な動きであった。
グインはひらりととびのく。ドードーが追った。グインは再び身をかわした。しかし、ドードーの立ち直る動きが早いので、それを機に有利なポジションをしめることがどうしてもできない。
ドードーが再びぐわッと吠えておそいかかるのへ、グインは今度は足をかけて転ばせてやろうと反撃を試みた。ドードーはよろめきかけたがたッたッと二、三歩泳いでこらえた。グインがあわててとびのいて、つめられた間合いを再びあけた。
「夜の明けるまで逃げまわっているつもりか!」
ドードーが苛立ってきた。彼は長い手をひろげて、組めと挑発した。グインは、それでも近づこうとはしなかった。
周りのラゴンたちから、非難の叫び声があがった。かれらは誰も、その円陣の中で行われている戦いに手をかしたり、どちらかに有利になるようしむけるようすはみせなかったが、しかしグインが組まぬことに怒りはじめていた。こんな戦いがあるか、というひそひそ声や、奴はドードーをつかれさせる気だ、という声がしきりにした。
その刹那だった!
グインが動いた!
ドードーの内ぶところにとびこんだと見るや、電光のようにその凶器の両腕をかいくぐりながら足払いをかける。あざやかに決まって、ドードーの重いからだはステンとうしろざまにひっくり返された。
グインはそれを見届けてはいなかった。彼はラゴンたちのわーっという叫び声の中で、足払いをかけると同時に大きくうしろへとびすさって安全な間合いをとっていた。
起きあがってきたドードーの顔は、憤怒のあまり、真赤にそまっていた。
「もう許さぬ」
ドードーは吠えた。
「悪魔め!」
わめきながら、手をのばし、恐しい勢いで突進する。グインはよけなかった。ドードーの猿臂がその腕と肩をひっつかもうとしたせつな、ぴたりと身を低くするなり、下からかいくぐって巨漢のからだを思いきり前へ投げとばした。
「ああッ!」
こんどの喚声には、ほんの少しではあったが、明らかな嘆声が混りこんでいた。
「ドードーを投げたぞ! あの小さなからだで、ドードーを持ちあげたぞ!」
ドードーのからだはもんどり打って頭から地面へ倒れこんだ。下は岩である。したたかに首や背中を打ったらしく、ひどいしかめ面で背中へ手をまわしながら起きあがってくると、「ウーッ」と唸った。
もう何も罵ろうとさえせず、グインをにらみつけた目は血走り、僧悪に狂っていた。ドードーにしてみれば、無理もないことである。ラゴンの首長はトーナメントによって決まるのだ。彼のラゴン最強の戦士たるを疑われたときが、首長としての不信任をとわれたときである。からだの小さなグインに二度まで投げつけられ、村人の目の前で地面に這いつくばったために、彼はおそらく、グインを八つ裂きにしてもそのあとでわれこそと名乗り出る何人かの戦士たちと戦わねばならぬのだ。
「ガアッ!」
ドードーは咆哮した。しかし、その経験で、いくぶん慎重さをとりもどしていた。むやみにグインをつかまえようと手をのばしてつかみかかることをやめ、かわりに血走った目でグインの動きを見きわめにかかる。グインは両手をだらりと下げて、誘いこむように立っていた。
彼にしてみれば、あいて自身の力を利用して投げとばすのが、最も理に叶った戦法である。だが、ドードーも愚かではない。
あいての、その作戦をようやく読みとると、もはやその手に乗るものかと歯をむき出し、拳を握りしめて、ばかにしたようにグインを威嚇しながら、じりじりと獲物を追いつめにかかった。
グインがよける。ドードーが追う。グインが左へまわりこむと左へ、右へ動くと右へ、じりっ、じりっとすり足のままで、巨大なついたてのように無言のまま追いすがって来る。
「ドードー! ドードー!」
苛々しながらこのようすを見守っている群衆の中から、たまりかねたような、じれったげな声が少しづつ洩れはじめた。かれらは、こんな小兵のあいてを、ドードーが間をおかずにひっ捕えてひきさくことを信じていたのだ。
案に相違したなりゆきに、わずかづつではあるが、この徹底した尚武の種族の期待が、冷めはじめている。
「組め! 組め!」
「捕まえろ、ドードー」
「夜が明けるぞ。とっ組め」
「ドードー!」
あちこちからかかる叱咤の声に、しかし、ドードーは耳もかそうとはしなかった。
同胞の苛立ちにおされて無理な勝負に出ようともしない。ただひたすら、両手をかぎのように折りまげ、足をがに股にひらいて、じわじわと飽くことなく競技場の中をまわりつづけている。
むしろ、グインの無表情な目の中に、ひそかな焦慮の色があった。
じりじり、じりじり、と間合いをつめてくる勇者ドードーを、身軽くとっぱずしてはよけつづけながら、ふっと、グインが、彼方の山並の方に目を走らせた。
夜も昼もなく大声でわめきながら競技場のまわりの石段に、押しあいへしあいしているラゴンの戦士たち、女たち、ねむそうな顔の子どもたち――そして、そのちょうど山側のまんなかに、ひときわ高くしつらえられた段の上にすえつけられた石の椅子の片方に、競技場のなりゆきには何の興味もないかのように目を半目にしてうずくまっているラゴンの長老、白髪多指の賢者カー。
そのかれらのうしろにそそり立っている黒い岩山の、さらにその上方に、夢みるようにひろがる空が、グインの目に入った。
それはかぎりなく美しく、すがすがしく、そしてあわあわしかった。どれほど熟達の名工が極上の絵具を、どれほど念入りにまぜあわせたとしてさえ、一生にいちどそれへ近づくにも困難かもしれぬ。それほどに、神秘な色あいと、大自然だけがゆるされた無限の意味と微妙さとをはらんだ夜明け前の空。
いつのまにか、夜は、その最も暗いひとときを、音もなくすべり出ている。
まだ、太陽神ルアーの火の馬車は、その朝ごとの雄渾なすがたを山の端にあらわしはせぬ。その予兆にほかならぬ、あかね色の輝かしい雲の最初の一閃すら、いまだに見出すことはできない。
にもかかわらず、夜は、すでに過ぎ去っていた。戦う者、戦いに打ち興じる者、人びとが心を地上にとられて、空をうちあおぐ一人とてもいないままに、いつか、あたりの空気は、しんしんと音を発さんばかりな予感にはりつめ、そして空は藍から青へ、そして水色へとうつりかわってゆくあらゆるニュアンスをおびて目ざめようとしている。
それは、約束の四日めのさいごの、運命の日のはじまりを告げているのにほかならぬ。
(……)
グインは、ひそかに、居たたまれぬまでに胸をつきあげてくる激烈な焦慮を、全力でねじふせようとするかのように、歯を食いしばった。
その一瞬に隙が生まれた。
「グワアアッ!」
刹那に周囲が暗転した!
ドードーはそのおしひそめた静けさをかなぐり捨てていた。その、ガプールの大|灰色猿《グレイ・エイプ》もかくやという臂力を秘めた鉄の両腕が、豹頭の戦士の肩をひっとらえ、引きよせた!
「ガーッ!」
グインは吠えた。ふりほどこうと全身をふんばって抵抗する。たちまち逞しい上半身が真紅に染まり、肩、胸、首、腕によじれたナワのような筋肉がくっきりと盛りあがる。
ドードーは百五十スコーンにあまる体重にものをいわせて、さながらそこに生え出た巨大な岩ででもあるかのように、グインの抵抗にもぴくりとも動かなかった。反対に、すべての力を両腕に集めて、じりじりとグインのからだをおのれの方にひきよせようとする。
その手がふいにゆるんだ。
すかさずグインが肩にくいこむ鉄のような指をふり払う――が、これは罠だった。
肩をつかんだ手がゆるんだ、と思わせて、せつな、ドードーの両腕がグインの胴にまきついた!
ワーッ、と周囲でラゴンたちの大歓声がおこる。ドードーはこのまま一気に決着をつける気だった。両腕でとらえた胴をしめつけ、物凄い力でグインの背骨をへし折りにかかった。
たちまち、グインの口から獣のようなわめき声がほとばしった。すでに真赤に染まっていた上体をそらし、両手をあいての胸につっぱってふりほどこうとする。が、はなすまいことか、いよいよ鉄の枷はぶあつい胴をまっ二つにねじきる勢いで締まって来る。
ドードーは目を見ひらいてグインを見た。グインは豹頭をうしろにそらし、指をあいての腕の筋肉にくいこませて力をよわめさせようと甲斐なくもがいている。はじめて、勇者ドードーの口から、すさまじい勝ち誇った嘲笑がひびきわたった。
が、それは中途でとぎれた。背骨をへし折られる激痛に、全身を真紅から紫色に染めたグインが、やにわにその自らをしめあげる鋼鉄の腕を自らの腕でかかえこみ、反対にかんぬきにかけてしめあげる反撃にうつったのだ。
ドードーの顔が激痛に蒼白になった。
両者は、ほんのわずかの――しかし永遠ともまがう時間のあいだ、岩も砕くばかりのその力をふりしぼり、互いに身動きすらできずに蒼白の彫像さながら、その場に凍りついていた。あまりにもすさまじい力と力がまっこうからぶつかりあうとき、それはもはやはたからは単なる静止としか見えぬのである。二人の顔や全身からしたたりおちる、冷たい汗だけが、しぼりつくすようなその死闘の真の凄まじさを辛うじて明かしている。
もはや誰ひとりとして、声をあげようとするものも、どちらかの名を呼ぼうとするものもいなかった。二千観衆は、息をつめ、固唾をのんでくいいるようにそのびりびりとふるえる力と力の激突のなりゆきを待っていた。
そのとき、均衡が破れた。
ドードーのかんぬきにかけられていた腕がにぶい音を発して、ふいにグインの背骨をへし折ろうとしていた恐しい力が弱まった。グインはその一瞬を逃さなかった。
グインの身体が大きく弓なりにうしろへそりかえり、思いきりドードーの巨躯を叩きつけた。
ドードーの巨体はぐるりと一回転して、背中から岩場へ落ちた。それを投げた反動でグインの身体もそのままあいての上に叩きつけられる。グインはさいごの力をふりしぼってドードーの腕の枷からすりぬけ、とびのいたが、そのまま背中をえびのように曲げてがくりと地面に膝をついてしまった。
だが、ドードーの方もしばらく動くこともできなかった。群衆は、背中から思いきり叩きつけられた彼が死んだか、少なくとも気を失ったと信じた。
さーっと恐怖とも、驚嘆ともつかぬ吐息が、息をつめていたかれらの上をかけぬけ、それが大喚声になって爆発しようとしたとき――
勇者ドードーはよろよろと起き直った!
口から少し血が流れていた。左の腕はだらりと並れている。だが、彼の目は、さいごの息を止められるまでは決して消えることのない闘志に燃えさかっていた。彼はドードー――勇者ドードーだったのだ。
グインはかすむ目に、よろめきながら敵がこちらへ突進してくるのを見た。使える方の右手をのばし、苦痛の呻き声すらももらさずに、ドードーはつきすすんで来た。もはやその目からは怒りも、憎しみも、さげすみも消えている。ただ、闘志だ――怒りにもまして強くあつい闘志だけだ。
グインはそれを迎えうつべく、身をおこそうとした。
背中に恐しい激痛が走った。グインは何とかして呻き声をかみこらえた。だが、背中をのばして、腕一本になったとはいえこれほどの敵となおも戦いぬく力が自らに残されていないのはわかっていた。
むろん、戦わずして屈する気はない。勇者ドードーをかりたてる戦士の血は、この豹頭の戦士の黄金色の目をも、おもても向けられぬばかりにごうごうと燃えあがらせているのだ。
グインの手が、力なくあたりをさぐった。何か身を支えるものはないかという、ほとんど無意識の、本能的な動きだった。
その手が、何かかたい、冷たいものにふれた。
それが何だかもわからぬままに、グインはそれをひっつかみ、苦痛に目はかすみ、膝は砕けたままの姿勢で、よろよろと突進してくるラゴンの長《おさ》にむかってつき出した。剣だと思ったのではない。ただまったく無意識のままに、手が勝手に、戦士の身についた防衛のしぐさをとったのである。
ふいに、あたりがしずまりかえったときも、グインはまだ、その異変の正体にも、原因にも気がついてはいなかった。
そのとき――奇蹟が起こったのである。
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第二話 暁の奇襲
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「ああ――!」
ふいに――
あたりから、一切の物音が、途絶えたかにみえた。
というよりは、むしろ、ふいに、そこにあるすべてのものが、永劫をさえ思わせる死滅のさなかに封じこめられ、凍りついてしまった、というべきであったかもしれない。
その静けさには、何かただならぬ、容易ならぬ異変の前触れが――畏怖と驚愕のあまりの巨大さに、その場で生きながら石と化してしまったという、伝説のカナンの住民をさえ思わせるものがあった。
すべてのラゴンが――賢者カーさえも――息をとめ、声を失ったばかりではない。
動く力をも、考える能力をも、すべてをおどろくべき麻痺の内に失ってしまって、かれらは黒々とわだかまる、いてついた群像にでも、なってしまったかと思えた。
あたりは山ふかぶかと、岩々のそそり立つ、世にも荒涼たる石の村である。岩山のかなたに、すでに青白い月の女神イリスは、そのはじらいがちな姿をつつみかくしてゆこうとしている。
東からはさしそめる朝の光――もう間もなく、ルアーの黄金のチャリオットからほとばしる、最初の曙光が、この谷底にまで届くだろう。
その予兆にみちたほのかな光の中で、そのまま石像と化しおわったかのように、誰ひとりとして動くものもない、ノスフェラスの巨人蛮族ラゴンの、二千の大群衆――
石づくりの、長老の椅子、その一方は空席になっている、そのもう一方の椅子から、身をのりだし、目をはりさけんばかりに見ひらいて凍りついている賢者カー――その、椅子の腕をしっかりと握りしめている手はそれぞれ六つの指をもち、肩からかけた長い胴衣が、すっぽりと足元までを覆っている。
かれらの視線は一様に、かれらがとりかこんでいる集会場のまんなかの広場――石を切り出したあとの、盆の底のような競技場のまんなかにくぎづけになっている。そこには、賢者カーと共にラゴンを統《す》べる巨人、勇者ドードーが、いまやまさにあいてにおどりかかろうとした姿勢のまま、それへ目にみえぬヤーンの巨大な手でひきとめられて金縛りになった、とでもいうように、両手をさしのばし、足を踏みこたえてやはり立ちすくんでいる。
そして、その彼の下に、起き直ろうと半身をもちあげかけて、その右手をまっすぐに彼の方へのばし、つかんだものを、あたかも悪魔よけの護符をつきつける修道士のように、たかだかとかざしているのは――
豹頭の勇士グインである。
おそらくは、何が起こったのか、最も不可解で、最も予想もしていなかったものこそは、当のその驚愕をひきおこしたグイン自身であっただろう。
それどころか、この万物が死に絶えてしまったかのようなおそるべき静寂の中でさえ、いまだに、彼には、何がおこったのかすら、まったく理解されていなかったのだ。
しかし、ラゴンのすべての民におそいかかったその突然の魔力が、彼自身にもその力を及ぼしたというように、彼もまた、何がどうしたものかもわからぬまま、否応なしにその場に凍りつき、不動の彫像となったまま、つかんだものをかざしているのだった。
彼は、自分が何をひっつかみ、それがどうして、いつ彼の手に入ったものだったか、ということさえすっかり忘れ去っていた。それに目をおとしたところで、しばらく考えなくては、それが何故ここにあるのかを思いつくことはできなかったろうし、また、いくら考えたところで、それが何であるのかは、結局納得することができなかったろう。
にもかかわらず、彼はそれ[#「それ」に傍点]を、勝利の剣をかざすイラナのようにかざしてラゴンたちにさしつけ――その、奇妙な、ほっそりとした、銀色のものから、四方八方へほとばしる目にみえぬ力線があって、それがこの世界全体をつつみこみ、時も生死もない、永劫の異次元に変えてしまった、とでもいうかのようだった。
そのまま、彼は動かない。ぴくりとでも動いたら、この場を支配しているぶきみな魔力がやぶれ、たちまちおそるべき破滅の真の相があたりを満たす、とでも知っているように――他のものも動かない。
息づまる静寂と静止のうちで、しかし、さながらその運行を止めたかにみえる〈時〉は、音もなく流れつづけていた。誰ひとり、それに気づく余裕もなくているままに、いつか、壮麗な日の出がはじまり、太陽神ルアーはその光りかがやくもろ手を大きくひろげて、地平に立ち上がり、まっすぐにこの谷をさし示そうとしていたのだ。
そして――
ついに、最初の光が谷底に届いた!
「ああ!」
誰かが叫び声をあげた。
それと同時に、呪縛はとけた。さながらその光が、霜を溶かすように、その驚愕と畏怖を、すさまじい歓喜と感嘆にかえていったかのように。
「あれを見ろ!」
ラゴンの叫びが巨大な喚声となって谷全体をどよもした。
その中で、グインは立っていた――仁王立ちになり、右手につかんだものを高々とふりかざし――その銀色の、ふしぎな形をした棒、それは、彼が、塩の谷でそのわずかなきらめきを見ていぶかしみ、何の気もなしに掘り出してベルトにさしこんできた奇妙な棒だった。
まるで、その棒そのものに意志があって、グインはそれに使役されているにすぎぬ、とでもいうように、それを頭上にかざしたグインを、まぶしい朝日が包み、そしてその光はその銀色のものをまともに見つめることもかなわぬほどにも燦然ときらめかせている。
「おお――!」
誰かがひくく呻いた。それは賢者カーの声だった。賢者カーは折れるほどに椅子の腕木を握りしめ、身をのり出し、ほとんどころげ落ちんばかりになっていた。
「――アクラ!」
その口から、再び低い叫びがもれる。
それが、きっかけとなった。
「アクラだ! アクラだ!」
「アクラ!」
「アクラの使者だ!」
「伝説のとおりだ!」
「あれはアクラのしるしだ!」
「アクラ!」
ラゴンたちの口から、ほとぼしる叫び声は、たちまちのうちに、
「アクラ! アクラ!」
というひとつのすさまじい大合唱になっていったのである。
そして次の刹那、ラゴンたちは、その場所をとび出した。身長二タールにも及ぶ巨人たちは、広場のまんなかに仁王立ちになっている、豹頭裸身の超戦士めがけて殺到し、その足もとにひれ伏そうと、狂気のように同胞をおしのけて走り出したのだ。
その豹頭の戦士の足もとには、すでに、雷にでも打ちのめされて倒れ伏したように、ラゴンの長《おさ》、勇者ドードーがぴったりとひれ伏し、さっきまで打ち倒そうと死力をつくして戦いつづけていたあいての足にすがりついているのである。
グインの手にしたそのものはいよいよまばゆく朝日をうけてきらめきわたり、そして、一体それにどのような魔力があったものか、その銀の棒に太陽の光がとどくたびに、ガラスが砕け散ってゆくような、リンリンリン……という澄みきった音が、あたりにひびきわたるように思えるのだ。
「アクラ!」
すべてのラゴンの民が――戦士も、女も、老人も、そして母親に手をひかれた幼児でさえもがグインにむかって手をさしのべ、畏怖にうたれたように倒れ伏した。そして、再びあたりにたちこめた、しかし一瞬前の凍りついたそれとはまったく異った敬度な静寂の中で、賢者カーは、左右から、二人のラゴンの戦士の組みあわせた手の輿に乗せられて椅子からゆっくりと身を起こした。
そのときはじめて、グインは、この六本指の賢者が、六本指であるだけでなく、足もとまでをすっぽりとおおいかくす長衣の下の足は萎えたままの、自力では椅子から立ちあがることのできぬ不具者であることに気づいたのである。
畏怖と崇敬とにみちた沈黙のなかを、二人の戦士に運ばれて賢者カーはゆるゆると階段を下りてきた。人々は音もなくそれへ道をあける。階段を下りきって、勇者ドードーがその足もとにひざまついたままの、豹頭の戦士のもとへたどりつくと、賢者カーはおろすように戦士たちに指示してそのからだを地面へそっとおろさせた。
そして、深いおどろきとよろこびとにみちたまなざしでふりあおぐ。――燦然たる光の輪は後光のように豹頭の戦士をとりまき、鈴の音のような澄んだ音をふり滾す。
「アクラの使者よ――!」
しぼり出すような、かすかな声で、賢者カーはささやいた。すべてのラゴンの民が、それに和した。
「アクラの使者!」
「それでは、云い伝えは、まことだったのだ。私は生きて――代々のかしこく誤らぬ賢者カーのあるなかで、この私が、この私である賢者カーが、ラゴンをみちびき、栄えある約束の地へと連れていって下さるアクラの使者と会うことができた」
カーは目をとじた。限りなく年経たその巨人族の長《おさ》の頬を、ふたすじの白い涙が伝い落ちた。
「アクラよ――感謝いたします」
賢者カーはしわがれた声でささやいた。畏怖にうたれたように、勇者ドードーが、頭をいっそう地面にこすりつけた。
グインはその、すべての人びとの讃仰と畏怖の中で、さながら巨大な豹頭の運命そのものの化身のように、光をあびて立ちつくしていた。
賢者カーは、手をさしのべ、グインと彼のもつしるし[#「しるし」に傍点]にむけて、その六本指の手のひらをのばした。
「あなた様は、使者だ」
彼は、石づくりの村のすみずみにもとどくような、低いがはっきりとした声で、結論を下すように云った。
「ラゴンはあなたに従う。あなたのみちびく方角へゆき、あなたの敵と戦い、あなたの友を友とする。あなたの命ずる戦いが、たとえ我に利ありと思えぬときも、われわれはさいごの一人の戦士が地に倒れ伏して息たえるそのときまではあえて戦いやめぬだろう。あなたがわれわれをみちびいてゆくさきが、たとえ不毛の地、死と瘴気の谷であるとしても、それがアクラに定められた〈約束の地〉であることを、一瞬たりともわれらは疑うことはないだろう。それはあなたがアクラの使者であり、アクラのみしるしをもち、そしてアクラのことばとおぼしめしとを、われらに伝えるためにあらわれた人であるからだ。獣頭をもつ勇者グインよ――ラゴンはあなたに従う」
「ラゴンはあなたに従う!」
すべてのラゴンの口からほとばしる誓いのさけびが、ラゴン谷にこだまし、すさまじい反響を生み、なおもくりかえされた。
「ラゴンは――あなたに――従う!」
「ラゴンよ――」
グインは手をさしのべ、賢者カーの六本指の手をとった。アクラの「みしるし」は、もうその必要もなさそうだったが、彼はまだ、もう一方の手でつかんでかざすままにしていた。
「俺は、ラゴンの助力と、参戦とを求めて来たのだ」
グインは、朗々とひびきわたる声で云った。
「このラゴン谷の向こう、塩の谷を越え、いくつもの砂漠をこえたさらにその向こうに、ケス河の流れの彼方からやってきたモンゴール軍と、その侵略の手からノスフェラスを守ろうとしているセム族の連合軍とが対峙して陣を張っている。セム軍はモンゴール軍に数の上でも、装備の点でもおとっており、苦しい戦いを強いられているが、しかしかれらはノスフェラスを守り、モンゴール軍を追い払うのが、ノスフェラスの子たるかれらの聖なる義務であると信じ、あえて劣勢をおして、一歩も退こうとはしていない。――俺がラゴンに要請しにきたというのは、そのセム軍を救うこと――同じノスフェラスの子として、この地をその私利私欲のためにおかそうとするモンゴール軍から守り、ノスフェラスをそこに生まれながら棲むものたちの自由の地としてのこすことだ。
いまやまさにモンゴール軍はセム軍にさいごの壊滅的な打撃を与えんものとおそいかかろうとしている――モンゴール軍が勝ちをしめればセム族は女子供にいたるまで虐殺され、砂漠に屍をやく業火は燃えさかり、そしてこの白い聖なる谷もまたおかされ、蹂躙されておわるだろう。セムをうちほろぼしたあとにモンゴール軍のめざすものこそ、ラゴンをほろぼす――ただそれでしかありえないからだ。
俺は、アクラがラゴンをどのような約束の地にみちびくおぼしめしであるのか知らぬ――アクラが、なぜラゴンをこの戦いにかりたてるのか、それすらも、さだかには告げ知らせることができぬのだ。だが、これだけはしかと断言することができる――たとえ、約束の地がいずこにあれ、どのような地であれ、それを得るためにあたってまず、ラゴンは聖なる戦いに参戦し、ノスフェラスを守るためにその力をかし、そして悪しき力を打ち払わねばならぬのだ。俺はただ、ラゴンたちに、死と炎と戦いと――そして勝利とを、要請するために谷々と山々とをぬけて来たのだ。
立ち上がれ、ラゴンたち――立ちあがれ、ノスフェラスの民よ! 俺の頼みにこたえて槍と斧とをとってくれ! こうしている間にも、ノスフェラスは、正当な権利など何ひとつもたぬものどものひづめに踏みあらされているのだ!」
グインの叫びの余韻すらも、未だ消えやらぬ前に、
「ラゴンはアクラに従うぞ!」
「ラゴンは戦う!」
「ラゴンはアクラと共に立ちあがるぞ!」
「アクラ――アクラ!」
すさまじい、口々にほとばしり出る喚声があたりを埋めつくした。
あるものは、そのたかぶる激情のままに剣をつかんでさしあげ、石斧を頭上でぶんぶんとふりまわし、そしてまたあるものは胸を拳で叩いて咆哮した。女たち、子どもたちは、その長く蓬々とのばした髪をつかみ、かきむしって、アクラとその使者と、ラゴンの武勇とを讃える叫びをあげた。
「用意だ――出陣の用意だ」
「支度をしろ。斧をみがけ。食料を皮袋につめろ」
「いくさだ。いくさに出かけるぞ」
その叫びは、そのまま、その口々の声へとかわってゆき、そして、いまだ文明化されぬ民にだけふさわしい、単純明快な性急さでもって、かれらは一刻も早くアクラの使者の要請に応じようと、先を争ってその場からかけ出した。
「頼むぞ」
グインはつぶやき、そしてもはやこの場での役目はすんだとみて、例の奇怪な護符をおろし、元のようにベルトにさしこんだ。それから彼は空をふりあおいだ。
折角の説得が思いもよらぬほど完全に効を奏したというのに、グインは、少しも、嬉しそうではなかった。それどころか、その無表情な豹頭の中で、彼の黄色みをおびた野獣のような目は、何か耐えがたい苦慮と懸念に、きびしく輝き、そして、彼のだらりと下げた手の両拳は、びくびくと痙攣するように握りしめられて、彼はいまや高く太陽ののぼりつめたまばゆい空、石と岩とにぶっきらぼうに切りとられて見える高い蒼弩を怒ったようににらみつけつづけていた。
その口から、思わず、低いつぶやきがもれた。
(今日が四日めの朝――今日の日没までに、いったい、どうやって、ラゴンの援軍をあの山々と狼の棲む地域と、はてしない砂丘をこえてセムたちのもとに導けるというのだ――不可能だ。かれらにはウマはない、ウマがあっても、丸二日はかかるはずの距離だ……もはやあの竜巻のような奇蹟を、二度とは期待するわけにはゆくまい。
四日でなくて、猶予が十四日もあってほしかったものだ。しかし、セムたちが何とかもちこたえられそうなのが、四日でさえぎりぎりすぎるほど長いことは、充分にわかっていた。
間にあえばよいが――そのためには、奇蹟が必要だろう。ただしせめて、何とか少しでも早く――俺と、ラゴンたちとがついたときには、あたりにはただセムどものなきがらが砂に埋もれて大アリジゴクにむさぼり食われている、などということにさえならなければ……ラゴンの助けがただ、セムのとむらい合戦などということにさえならなければ、たとえセムがほとんど壊滅寸前であれ、浮足だっておれ――)
(間にあってくれ。何とか、間にあってくれ。俺にもしそれができるものならば、時さえも止まれと命じたいものを――だが……)
「勇者グインよ」
ふいに、野太い声をかけられて、グインははっといたましい物思いからさめた。勇者ドードーの巨躯がグインのすぐ前に立っていた。
「勇者グインよ、俺は、勇者にわびるために来た」
ドードーが、せり出した眉の下から、燗々と光る目を豹頭の、彼より頭ひとつ小さい戦士にすえていった。
「わびを――?」
「そうだ。俺は、お前がアクラの使者とは知らずに戦いをいどんだ。アクラの使者とは戦うべきでない。アクラの使者になら敗けても恥ではないし、彼はアクラそのものから力をかりるのだから、その力は決してつきることがないからだ」
「……」
「俺は、お前が真実を語っていると信じなかったことをわびる。わびを受けるか」
「そのわびを受けよう」
グインは云い、ドードーの強い巨大な手をとった。ドードーは感動したようだった。
「勇者グインよ、これからラゴンの戦う敵はとても強いか」
「一人一人は、ラゴンの子供にさえ敵ではないさ」
笑ってグインは云った。
「ただしかれらはウマに乗っている。石でなく、鉄の剣や弩をもち、なめし皮でなく、鉄の防具をつけている。そして大勢いる――ラゴンの全戦士の五倍いるのだ。その上に、かれらは群れをなして戦う。ラゴンのように一対一で名誉をかけて戦うことはしない。――しかし、かれらの大半は俺よりも小さく、力もよわい」
「そんな弱い敵か。弱くて大勢いるのか。軍隊アリが砂漠ナオカミにむかってゆくようなものだな」
勇者ドードーの醜い顔がほころんだ。するとその目が、明るいろうそくのように輝いた。
「アクラの戦いを勝ちにみちびくのは、この俺にまかせておけ」
彼は、胸を叩いてうけあった。
「勇者ドードーはすばらしい働きをするだろう」
心からグインは云った。勇者ドードーは、向こうへ行きかけ、ちょっとためらい、それから、思いきったようにまた戻ってきて、グインの目をのぞきこんだ。
「勇者グインよ――そのう――俺は、アクラの使者と戦ったことをすまなく思っているのだが――」
「……」
「なあ、勇者グイン。俺は、これまで、髪の毛の数ほどもたくさんの決闘をしてきたが、これまで一度として、自分より体の小さいあいてに敗けたことがない。――お前は俺より小さい。それなのに、お前はとても強い――それはお前がアクラの使者だから、当然かも知れんが――そのう、勇者グイン、俺は……」
「わかった」
グインは、あいての云いたいことを察した。
「あの勝負が決まりがつかぬうちにああなったので、俺も気持ちが悪い。アクラの命ずるこの戦いがわれらの勝利におわり、そのあとでドードーと俺がどちらも無傷で大地を踏んで立っていたら、吉日を選んで、もう一度けり[#「けり」に傍点]をつけるまで戦おう。ただし、俺はたくさんのやることがあるので、どちらかが死ぬまでではなく、どちらかが地面に倒れて気を失うまでの勝負しかできぬが」
「それでいい」
勇者ドードーは、晴ればれとした顔になった。嬉しそうにグインの胸を拳でどやしつけると、あわただしく、出陣の用意を監督するためにその場を去ってゆく。
いまや、集会所のまわりでは、皮袋や石オノや槍が山のようにもちだされ、ラゴンたちは出陣のしたくに追われていた。グインは目をあげ、そして、少しはなれたところから、じっと丸い目で見つめていた小さなラゴンの子どもを見つけた。ラナだ。
グインはラナを手招いた。ラナははにかみ、おずおずしたが、なおもグインがその黄色い目の光をやわらげて呼ぶと、はずかしそうに近寄ってきた。
「やあ、ラナ」
グインはおどろかさぬよう、そっと手をのばしてラナの頭をなでてやった。
「さっきは、有難うよ。お前の親切のおかげで俺は食物と水を口にできたし、その上にお前のおかげで勇者ドードーと戦うことができた。お前を、幸運が導いてくれるように! ――お前は俺の恩人だ」
「ねえ、本当に、ドードーより強いの?」
ラナは熱心にきいた。おずおずとはにかむようすは、グインの近くによるうちにだんだんと忘れ去られ、ラナは何かしら安心したようにしだいに近くへ寄ってきて、さいごにはグインのさしだした腕におとなしく抱かれた。
「それは、わからんな。さいごまで戦ってみないことには。いま、いずれそうしようと約束していたところだ――しかし、たしかに、ドードーは本当に本当に強い」
グインは心から云った。ラナは丸い目に、ひたむきな驚きと崇拝をこめてグインの豹頭を見つめ、そっと手をのばして、彼の丸い、毛皮につつまれた頭をなでた。
「これは、かぶりものの毛皮?」
子どもに特有の、あのきまじめなようすでたずねる。
「そうじゃない。俺は、これを、どうしてだかとることができぬのさ」
「みんなは、グインと一緒に、戦いにゆくの――ドードーも?」
「ああ――そうだ」
「ラナもゆきたいな」
「ラナがもっと大きくなれば、ラナもゆけるぞ」
グインはラゴンの子供を腕にかるがるとかかえあげた。そのほっそりしてあたたかなからだに近く身をよせていると、耐えがたく内側から彼をさいなみつづけている焦慮のいたみが、少しはうすらいでゆくようだった。もっとも、子どもとはいっても、このおどろくべき巨人族の子どもであるから、ラナの重みは中原の種族の成人女性を少しうわまわるほどもたっぷりとしていたのだが。
「また、ラゴン谷へ帰ってくる?」
ラナはたずねた。グインは正直に答えた。
「わからん。先のことは、俺にもまったくわからんのだよ。――ただ俺にわかるのは、たぶんものごととはかくあるべくして、かくなってゆくのだろう、ということだけだ」
「ふーん」
これは、ラナの幼い頭には、手にあまる考えであったので、ラナはそれを理解しようとするのをやめ、
「塩づけ肉はおいしかった?」
ときいた
「ああ。実に、うまかった」
「もっと、ほしい?」
「いや――あとでいい」
グインはラナの頭をなでた。それはやわらかく、そして太陽と、この石づくりの村に特有の何かほこりくさいような、白い石の匂いとがした。
ラナが、熱心に口をとがらせながら、なおもつづけて何か質問をあびせかけようとしたときだ。
「アクラの使者グイン、賢者カーが、彼の家へ来て、彼と話をしてくれるよう、望んでいます」
先にカーをのせる人輿になったうちのひとりの、ラゴンの戦士がやってきて告げた。おそらく、不具の賢者に仕え、その身のまわりの世話をする、というのが彼の特権的な役割になっているのであるらしい。
「わかった」
グインは答え、ラナを片腕にかかえたまま彼についていった。
賢者カーの「家」は、石づくりの村のいちばん上にあり、それは他の建物と区別するためか、ことさらに赤い岩をつかって組みあげてあった。その小さな長老の住居のぽっかりと切りとられたままの入口の前で、グインはラナをおろし、笑いながらその頭をぽんと叩いた。
ラナが両足をはねあげるようにして、グインの方をふりかえって見ながら坂をかけおりてゆく。それを見送って、グインは、賢者カーの住居のなかに入った。
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2
家のなかに入ると、そこは暗く、石づくりの建物に特有のあの冷んやりとした重々しさがグインを包んだ。
建物とはいっても、セムのたて穴式の住居からへだたること、そう遠くはない、きわめて原始的なものである。家の中はひと間で、三ヶ所ほど壁にきってある窓が白い光をその暗がりに注ぎこみ、そして土をふみかためた床のまんなかには炉をきって、そのまわりには、毛皮としきわらがしきつめてある。
腰から下の萎えた賢者は、いつのまにそこへ運び上げられたものか、毛皮をしいた炉の正面の床にそのまますわり、彼独特のするどく、深く光るまなざしで、豹頭の戦士を迎えた。
グインに、彼と向かいあってすわるようすすめると、二人の従者に手をふって云いつけ、かれらが立ち去るのを待たずに切り出した。
「勇者グインよ、あなたが命じられたゆえ、われわれラゴンは全部族をあげてこの村をすて、あなたのみちびかれる地へおもむき、そこであなたの敵を打ちやぶります。しかし、勝ったとしても、また敗けたとしても、どのみち、ラゴンは二度とこのラゴン谷に戻ることは――この朝かぎりで――ありますまい」
「それは――」
グインが云おうとするのを、老カーはおだやかに、六本指の手をあげてとめた。
「それはラゴンにとって、しばしば起こることなのです。ラゴンは、ひとつの土地にしばられる民ではない――いまだ、そこに属するべき約束の地を見出してないので、どの土地も、ラゴンにとっては、かりそめの土地にしかすぎない。アクラは、ときどきわれわれに使者をつかわします――一世代にいっぺんか、二世代、三世代にいっぺん。この前は私がまだ幼い子供であるときでした。一人のラゴンが砂漠へ出てゆき、アクラのみしるしをもちかえってきた。そこで、大移動がはじまり、われらはこの山あいの地に来て、ラゴンの村をたてた。ラゴンは、ときどきそうしてその日の朝まで住んでいた村をすて、みしるしのつげた地まではるばると旅し、そしてそこに住むのです――砂ならば砂に住む。岩ならば岩に住む。そして山ならば山に住む」
「なるほど――だからこそ、ラゴンは幻の民と呼ばれているのだな」
グインは嘆息して云った。
「逃げ水のように、そのありかのわからぬ民だ、と」
「そのとおりです。――そして、これまで、アクラの告げるその地はつねに、さいごの『約束の地』ではなかった。はじめはそのように思われても、やがて何かがそうでないことを告げ、するとわれわれはそのお告げもまたかりそめのもので、さいごのものではなかったことを知り、しかし少なくともこれでまた一歩、さいごの『約束の地』にわれらは近づきはしたのだろう、と信じながら、次のお告げのときをただ待ってその地で生活《くらし》を送るのです」
グインは、黙って、この老賢者の白い眉の下の静かな年老いた目を見つめた。この勇壮な巨人族が、そんなふうに長い年月にわたって真のお告げを待ちわびながらひっそりと、そのあてにならぬお告げのたびに今度こそと信じながら何世代ごとに住みなれた土地をすてては移り住んでゆく生活をつづけてきた、ということ、その生活の中には、何かしら、グインを感動させるものがあった。
「われらは、『待つ民』です。ラゴンとは、『待つもの』の意味です。だから、われわれは、待ちつづけることこそラゴンの使命、アクラに定められた使命であるのだと、ずっと昔から云いならわしてきました」
そのグインの思いをさらにいっそう強めるように、賢者カーは静かに云いついだ。
「しかし、もしも、ついにその使命がいま終わろうとしているのであれば――それは真におどろくべきことです。これまでどれだけ長いこと、われわれは『約束の地』を待ち、それが本当はありはしないのだ、アクラのいいつけなど忘れて、まことにわれわれのためだけの暮らしを、どこでもよいから腰をおちつけてはじめようではないか、という、必ずもちあがる不平や疑いの異端の声と戦いつづけて来たことか――しかし、もしも、これがまことのみしるしであり、あなたがラゴンを真にかの『約束の地』にみちびく人であれば――」
賢者カーはうなだれて、六本指の両手を組みあわせ、あまりにも深く神秘的な物思いを口にはとうてい云いつくせない、といったふうに見えた。
グインはいよいよ、異様なおののきにうたれてそれを見つめた。もしも、彼が、ラゴンをしてこの村のくらしを捨てさせ、遠い砂漠での戦いにいざなおうとしているのが、正しいことでなかったら、という深いおそれが彼の心にみちた。彼は、自らの、ラゴンを動かすことへの権利を疑った。ラゴンは、彼を、待ちに待ったアクラの使者だと信じている。だが、ほんとうに自分がそうすべくさだめられて、正しいときに、正しいことばを発しているのかどうか、どうしてグインに知るすべがあっただろう。
「アクラのみしるし」は、塩の谷でたまたま彼の手に入ったものであり、そのこと自体が啓示であったのかもしれないし、それとも彼は巨大なペテンを演じているのかもしれなかった。モンゴール軍との戦いで、もしもセムとラゴンの両軍が打ち破られ、全滅のうきめを見ることにでもなれば、彼は約束の地どころか、ただ死と不幸と破滅とにラゴンたちをいざなった、悪魔ドールの使者にほかならないではないか。
「アクラの使者は、どうやって見わけるのだ、賢者カー」
いくぶん、うしろめたいようなようすで、グインはきいてみた。
カーの答えは、いたって単純明快で、何のとどこおりもなかった。
「アクラのみしるしを持っております」
「俺のこれ[#「これ」に傍点]のような――」
「はい。ときには、もう少し異るかたちをしていることもございますが、大体それに似通っております」
「かれらはそれをどうやって手に入れるのだ――アクラの啓示をうけて?」
あまりにも、アクラについての無知を披歴して、折角の信頼を失うことにでもなってはと懸念しながら、好奇心をおさえかねて彼はかさねてきいた。
しかし、賢者の答えは、彼をひどくおどろかせた。
「あなたがそうなさったのと同じように。すなわち、かれらは、それを砂漠のただなかでそのきらめきに目をとめ、あるいは転んで起きあがるときその手につかんだのです」
「なんと!」
おどろきをおさえかねてグインは叫んだ。
「かれらはそれを、単に拾った[#「拾った」に傍点]のだというのか!」
「そうですとも。彼がそれにゆきあたったこと、すなわちアクラの啓示があらわれたのにほかならぬ。あなたの場合は、そうではなかったでしょうかな?」
「いや――」
いよいよおどろきにうたれた心地でグインは認めた。
「それなら正直にいうが、俺は、アクラなるものについて、ついぞきいたことも、知ったこともなかった。そうしたものにも、アクラの啓示はあらわれるものなのか――アクラの使者となるものが、自らがアクラの使者であると知っている必要はないのか、賢者カー?」
「ございませぬ」
カーはあっさりと認めた。
「それどころかわれらが、ことさら私が、このたびの啓示こそ、もしやしてさいごの、まことの、長いあいだ待ちこがれたそれではないのかと考えておりますのも、まさしくそれゆえなのです――これまで、いくたび、何人の、使者があらわれ、時には使者と称するいかさま師も、ラゴンを動かそうとかかったかも知れぬ。しかし、ラゴンの長い年月を通して、ラゴンでないものが、アクラの使者としてあらわれたということは――ましてや、それが、豹の頭と人のからだをもつ、この世ならぬすがたの使者であった、などということは、ついぞ聞き及んだことがございませぬゆえ」
「……」
グインは、答えるべきことばを失って考えこんでいた。古い昔馴染の苦悶――俺は誰で、俺は何のために、どこからやってきたのか、そして、何をすべく生を享けたのか、という疑問が再び彼をとらえきっていたのだ。
それはあまりにも大きく、そのために彼はほとんど、彼の胸を灼きこがす、間にあうかどうか、というこの焦慮すらも、いっとき、忘れかけていた。
そうでなくても、彼、グインの身には、あまりにもさまざまな奇怪なことが起こりすぎるのだ。折にふれて、あたかも何ものかによってわかち与えられでもしたように彼の内によみがえってくる知識の断片。ラゴンのことばも、セムのことばも、中原のことばも、彼は自由にあやつることができたし、といってそのどれかがまさしき彼の母国語である、という確信も持てぬままだった。そして、まだ訪れたこともないはずの中原に対してもっている、切れ切れだが妙になまなましい知識。
彼自身の内ばかりでなく、彼をとりまく出来事もいかにもいぶかしかった。あの彼を狗頭山まで運びきたった竜巻といい、狗頭山の老狼王との邂逅といい――そしてまた、この「アクラのみしるし」にたまたま目をとめ、ひろいあげ、それをそのいわれもないのにベルトにはさんで持ち出し、――そして、それが、たまたま、まさに最も正しい瞬間に、ラゴンたちの前にふりかざされるこれが、すべて、出来すぎた偶然のしわざである、などということが、少しでも思考力をもった人間に、信ずることができるものだろうか?
しかしまた同様に、たとえいかに、豹頭人身の、つねの人からは怪物じみた奇怪な風体をしているといえども、いや、そうであればあるほどいっそう、それがすべて何ものかの命令のまま、人智でははかり知れぬ巨大な何かの欲するとおりに動かされてゆく模様である、と考えることも恐しく、戦慄的だった。
もしそうであれば、彼は、独立の意志をもって、自らの欲するとおりに動いている一個の人間ではなく、そのつもりでいながら実は云うもあわれな巨大なでく[#「でく」に傍点]人形、天か、地かにあやつられ、運命そのものをたしかに行なうためだけに選ばれた単なるあやつり人形にすぎぬことになる。
しかも――考えてはならぬ、と思いながらも、彼はどうしても考えずにはいられなかった。
しかも――それ[#「それ」に傍点]がまことであったとし、彼が何ものかにあやつられる運命の手先にすぎなかったとして――その、何ものか[#「何ものか」に傍点]が、善きもの[#「善きもの」に傍点]である、という保証は、いったい、どこにあろうか?
彼は自らが何ものであり、彼に生を与え、このような存在としておいたものが彼に何をさせようともくろんでいるのか、まるきり知らぬし、知ることもできぬのだ。
もしもそれをあやつっている巨大なものというのが、ヤヌス、あるいは運命をつかさどる老ヤーンではなく、悪の根源なるドールに属するものだったら――それとも、ドールその人であったとしたら?
グインは、ひそかな戦慄を禁じ得なかった。カーは、するどい目をグインに向け、たちまちにして、彼のおののきと動揺とを見てとったようだった。
「人は、運命《さだめ》の道具としてつかわれる――人が道具をつかうように。もし、あなたの告げたアクラの啓示がラゴンにとってよき道ではなく、ラゴンがあなたの命じた戦いで大きないたでをこうむることがあろうとも、そのために、あなたをいつわりの使者であるとは、われらは決して申しませぬ」
なぐさめるように、老カーは云った。グインは顔をあげた。
「アクラのことばにしたがうことが肝要なのであり、その結果どのようになろうとも、それは、さしたることではないのです。なぜなら、われらは、アクラにみちびかれ、そのことばに従うためにだけ、生を与えられた民であるからなのです」
この単純だが至高の信頼にみちたことばが、ひどくグインをおどろかせた。彼は、うめくようにたずねた。
「そんなにまで、ラゴンにとって力をもつアクラとはいったい何なのだ。神か。人か。それとも、いまだかつてこの世に存在したことのないものか。教えてくれ、なぜ、ラゴンはアクラのことばに無条件で従うことのために作られた民なのだ?」
「もうまもなく、村をあげての出立の支度ができましょう」
カーはゆっくりとほほえんだ。
「勇者グインよ、あなたはさきほどから、しきりと何かを気に病んでおられるが、それは、何なのです。何か、心を悩ます約束ごとでもあるのでしょうか――われらが、あなたと共にゆくとさだめたときも、あなたはいっこうに安んじたふうでもなかった」
「実のところ、俺は、いくらも、時間がのこされていないのだ」
カーの叡知をたたえたまなざしの前で、グインはごく自然にそれを打ちあけることができた。が、時のかぞえかたを知らぬ民には、その云いまわしが無意味だったのではないかと思い、云い直した。
「俺は、今日の日が暮れきるまでにラゴンの援軍をつれて、きっと戻って来ようと、味方の軍に誓った。それをすぎると、わがほうは大いなる危険にさらされるだけではなく、俺と共に砂漠へ逃れてきた友であるパロの小王女と小王子が味方の手によって殺されてしまうのだ。しかし、いま日が中天にあるというのにこうしてこの狗頭山の彼方にあるわれらは、とうてい、どのような強行軍をかさねてさえ、魔術でも用いぬかぎり、今日の日没までに戦場となっているノスフェラス内陸部へかえりつくことはできぬ――そこは、ここから、ウマでおそらく四日はゆうにかかる筈なのだ」
いまさらのように、焦慮が苦しく胸を噛み、グインは指図を仰ぎたいかのように天を仰いだ。
老賢者はしばらく何も云わなかった。かれは、何かを深く考えこんでいるようすだったが、やがてゆっくりとうなずき、目を開いてグインを見た。
「そういうことならば――」
重々しい、託宣を告げるような口調で云った。
「われらは、急がねばなりませぬ。勇者グインよ――ラゴンは、ふしぎな民なのです。ラゴンの上には、いろいろとふしぎなことが起こります。アクラの啓示もそうだが、われらは、このノスフェラスについて、他のすべての民をあわせたよりもさまざまなことを知っているのです。われらは、間にあうかもしれません――間にあわぬかもしれない。それはアクラのおぼしめしです。勇者グイン、あとで、行きたいと思う場所の、できるかぎりくわしい地形を教えて下さい」
「わかった。――しかし、魔術をつかうのでないかぎり、ここから、あと十ザンたらずのうちにつくことはできぬはずのところだぞ――狗頭山ごえをするだけでも、たしかに一日を必要とするのだから。おお――モンゴールの公女は正しい。かれらが、パロの双児を血まなこになって追い求め、その物質転送の秘密がどうしてもかれらの手に入らぬならば、いっそ他の国もそれを手に入れられぬよう殺してしまおうとしていることも、むべなるかなだ。あの双児の握っている秘密は途方もなく大きい――もし、あの双児を燃えさかるクリスタル・パレスから、一瞬にしてルードの森へと移動せしめた、あのおそるべき秘密が手に入るならば、魂など千回売りわたしてもかまわぬと思う将軍や国王がどれほど多いことだろう!」
後半は、口の中でのはっきりとはききとれぬつぶやきになった。
そのグインを、注意深く老賢者は眺め、そして、話を、さっき彼がいったんそらしたもとの方へひきもどした。
「とまれ、われらは最善の手だてをつくし、それでわれらが間にあうか、あわぬかは、アクラのみがご存じのことです。それならば、出立の用意がととのうまで、勇者のお心が晴れるよう、アクラと、ラゴンのことについて少しお話しいたしましょう」
「そうしてくれるか」
彼の好奇心は、最前からの話のうちで、いよいよとぎすまされて鋭くなっていたので、彼はよろこんでそう云った。どのみち、ラゴンの出陣の用意がととのうまでは動くわけにゆかぬのだから、それならば、その好奇心をみたしているほうが、いくらかでも気がまぎれるかもしれない。
「アクラは――アクラとは、神ではありません」
賢者カーは、どうやら、はじめからそうしたグインの心のうごきを見てとっていたものらしかった。彼はゆっくりと語りはじめた。
「しかしまた、アクラは人でもありませぬ。アクラは――われらがアクラと呼びならしているものは、場所[#「場所」に傍点]なのです」
「場所[#「場所」に傍点]?」
おどろきのあまり、グインは声を立てずにいられなかった。
「場所[#「場所」に傍点]にすぎぬものが、人をみちびいたり、啓示を与えたりするというのか?」
「そうです」
カーは、ゆるぎない確信にみちて答えた。
「なぜならば、アクラは、他の場所とは、まったく異っているからです。――それは、あなたが云われたように、人が生きてそこに足を踏み入れることができません。人は、アクラにおもてを向ければ、その場で立ったまま死に絶える。遠くから、アクラをかいま見たものの話がわれわれには伝わっておりますが、それによれば、アクラの周囲は、何百タールにもわたってくまなく人と、獣との白い骨におおいつくされ、足をふみ入れようにも足の下でその骨は砕け、人はその骨の灰に、さながら『白き谷』のうちにあるかのようにずぶずぶと足がめりこんでゆくのだといいます。
アクラとはそれほどふしぎな力をもっているのですが、それが一体何であるのかは、人はそこに足を踏み入れることができぬのだから、いまだに知ることはできておりませぬ。
ただ、その白き骨は、ことごとく、ある一点にむかって、円をなして倒れており、そして、朝日が当たろうと当たるまいとつねにその中央、すなわちアクラそのものは、あやしい銀色に光輝き、時に奇怪な、この世のものとも思われぬ音や声を、ただひとりで発しつづけていると申しつたえます。
そしてまた、ラゴンの最初の賢者カー、この人がいでてよりあと、ずっと何百人という賢者カーが生まれ出ましたが、その賢者カーの申し送りにはこう伝えます――すなわち、ラゴンの民を作りしもの、それこそはアクラにほかならぬ。アクラはある夜、天より白き光として下りきたり、ノスフェラスに災いと死とをもたらした。アクラの力は大きく、何人もそれをまぬかれなかった。アクラのやって来るまえ、ラゴンとセムとはひとしく、より大きくもなくより小さくもない民であった。しかるに、アクラ降臨のとき、ラゴンの祖とセムの祖とはいったん滅び、そののち再びかれらがあらわれたとき、それがラゴンであり、セムであった。すなわち、ラゴンを作りしものこそアクラにして、ラゴンはアクラにつかえ、その命に従うべく、死の中からひろいあげられた民である、と」
「……」
「そしてまた――アクラはいつの日か再び降臨し来たるであろう。そのとき、ラゴンは立ってアクラを迎え、アクラのおそるべき力によってラゴンを除く他のすべての民は死にたえて骨となる。しかし、アクラにつかえる民なるラゴンだけは、アクラにゆるされ、ついにアクラの瘴気に誅されることがないであろう――と」
「ふむ……」
グインは、低い吐息をもらした。
それは、いかにも奇怪な物語であったし、蛮人の頭で考え出されたものとしては、妙に筋が通りすぎているようだった。もし、グインがあの――モンゴール公女の天幕にかくまわれて、モンゴールのこのたびの遠征の直接のきっかけを生んだところの、両手のないキタイの魔道師――ノスフェラスをただひとり歩いて横断したカル=モルの話をかりそめに耳にすることでもあったなら、彼はなおいっそうの興味と、そして深いおどろきとにうたれていたことだろう。
しかしカル=モルの物語はむろんのこと、グインのよく知るところではなく、彼は、そのカーの話をどこまでがたわいもない伝説で、どこまでがシンボリックにほのめかされる、過去の奇怪なできごとの名残りであるのかをはかりかねていた。
「それはおどろくべき話だな。ところで――」
グインが、つづけて何か云おうとしたとき、ふいにあわただしくラゴンの戦士たち二人が入ってきた。すっかり戦いの支度に身をととのえたかれらは、カーとグインの前にうやうやしくひざまづき、出発の用意が完了して、みながかれらの下知を待っていることを伝えると、カーを手を組みあわせた人輿にのせるべく歩みよった。
「参りましょう。われらは、急がねばならぬのですから」
カーはいまの話など忘れたように、手をふりまわす。
「われらは、風穴《ふうけつ》を目ざして進まねばなりませぬ」
「風穴《ふうけつ》――?」
グインが聞き返そうとしたときはもう、カーは室を出るところだった。
あとを追って出ながら、ふいにグインは、さっきから心の底に何となくひっかかっていたことに気づいた。
アクラ――その語は妙に親しくきこえる。
アウラ――グインの記憶にある唯一の語とそれが奇妙に似ているのは、それは、単なる偶然の一致の結果にすぎないのだろうか?
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3
モンゴール全軍は喪に服していた。
それぞれの大隊の先頭に、つねならば誇りやかに風にむかってかざされている大隊旗、中隊旗、小隊旗は、ことごとく半旗にひきおろされ、そのために、それらは細長い三角形の旗ででもあるかのように見えた。
幾旒[#表示不能に付き置換え「方」+「流さんずい除く」Unicode:U+65C8「P111」]もの吹き流しもたたまれ、隊長格のものたちは全員が、腕とかぶととに喪の黒い小布をつけていた――よもや、戦場でそれが必要になるとはたいていのものが思ってもみなかった、騎士の身だしなみの喪章だったのである。
戦さの場にある以上、隣りの友が、兄が、弟が死んでゆくとても、それをいたみ、とむらうことは、戦士たちにはゆるされていない。死者をとむらうのは、すべての戦いが終わってのちであり、それまでは、屍そのものすら、戦場にうちすてられたままになる。
ただしこれにも階級差がつきまとうのは、世の習いのことで、何千人の死者にも喪に服さぬ剛気のモンゴール軍にあってすら、その死者が高貴の、しかも由緒ある身分の、一方の大将ともなれば事情はちがった。
赤騎士隊の隊長たる、リーガン小伯爵の惨死にも、あえてその激烈な進軍をとめようとはしなかったモンゴール軍を、打ちのめしたのは、大公家の摂政役をすらつとめる大貴族、青騎士二千をひきい、辺境のかなめツーリード城の城主であるところの、マルス老伯爵の凄絶な戦死であった。
それは、モンゴール軍にとっては、予想外のいたでであり、きわめて大きな損失であったというばかりではない。モンゴール軍をひきいるのは、弱冠十八歳の公女アムネリスである。
たとえ、いかに全軍の兵が彼女に心を寄せ、モンゴール大公に忠誠を誓ってその手足のごとく動いたところで、わずか十八歳の少女には、この壮大な遠征軍を取りしきり、掌握しきることは、なかなか荷にあまる役目であった。まして、たとえアムネリスに単なる忠誠以上の熱烈な思慕を捧げている、アストリアスのような忠臣であったところで、この氷の公女を、おだやかできわめて思慮分別に富んでいるとはあえて云い得ない。アムネリスは、氷であったけれども、しかし熱く激しい、きびしい氷であった。その怒りは時にあまりにも直截にすぎ、云いまわしをやわらげたり、あいての心を思いやったりすることを知らない。
そうした総司令官をいただく遠征軍にとっては、隊長じゅうの最年長でもあり、経験をつみ、しかも有名な思慮深さをもって知られる、マルス老伯爵こそは、現実のささえであり、事実上の心のよりどころであったのだ。
アムネリス公女のかたわらに、影の如く寄り添うマルス伯の姿があって、はじめて全軍は生き生きとわが軍の理と勝利を信じて動いた。若い公女が、あまりに決着をいそぎすぎれば、老伯爵がそれとなくひきとめ、公女が感情にまかせて部下を叱咤するに厳しすぎれば、さりげなくマルス伯がしょげた部下をなだめた。
しかるに、その老伯爵はもはやない。
モンゴール軍全員が、自発的に、戦場では珍しい喪章に身をかため、言葉も少なく、云いあわせでもあったかのように粛々と静まりかえっていたのも、まことに無理からぬことと云わねばならなかったのだ。
最も寂として声もないのは、予想されるとおり、公女とその旗本の参謀の面々であった。さしもの強気のアムネリスも、悲報をうけてから茫然となり、善後策を講じる気力もまだないままに、天幕を張らせてその中にとじこもり、ずっと余人を近づけようともせずに、幼い彼女のお守役であった「爺」の死をいたむ涙にかきくれていた。近習たちは、アムネリスをなぐさめることもできず、ただひたすら気をもみながら、足音を忍ばせて歩きまわり、話し声も忍びがちに、天幕のようすをうかがっていた。旗本隊の隊長たるフェルドリックと、相談役の魔道士のガユスだけを招し入れたなり、その天幕の入口の垂れ幕は、長いあいだとざされたままだった。
いっぽう、一般の、平騎士や歩兵たちのほうは、そうはいかなかった。
かれらとても、マルス伯の死で衝撃をうけたのは司令官たちにおとらない。しかし、伯の死への悲しみもさりながら、かれらには、より現実的な先行きへの不安と当惑とがあった。
「これから、モンゴール軍は、どうなるのだろう」
「マルス伯まで失ったというのに、この遠征は、まだ続けられるのだろうか」
「いったい、いつまでつづくのだ。どこまで行けば、帰ることができるのだ」
「われわれはリーガン隊を失い、いままたマルス隊を失った。それとたびかさなるセムの奇襲とで、いまやわれわれは出発したときの半分しか無事に立っているものはない。それでも、まだ、遠征はつづくのか」
流言をいましめる伝令がいくたび出されても、不安のきざしはじめた軍兵たちがよりあつまってはひそひそとささやきあうのをおさえることはできなかった。どのみち、マルス伯の死にすっかり打ちひしがれた公女が、マルス伯がもし生きておれば、きびしくとがめ、いましめたであろうが、すぐにその事態の重大さを見てとって、参謀を集めて対策を協議したり、全将兵の動揺をしずめる手だてを講じたりするかわりに、天幕にとじこもったきり命令を出すのもやめてしまったので、モンゴール軍は砂漠の一点にとどまって応急の陣ごしらえをしたなり、何もすることがなかったのだ。これも、いよいよ、兵たちを不安に、おちつかなくさせる大きな原因であったのだが。
そこで、いまや一万にも足りなくなった、満身創痍ともいうべきモンゴール軍は、とりあえず歩哨を立てて陣そなえをしたあとは、ウマを一箇所にあつめ、まだその時間でもないのにタバコをすい、兵糧をつかい、頭をよせあつめては埒もない内証話に時を費していた。
隊長たちは、どうしたものかと、副官たちと顔を見あわせたが、実のところ、この遠征にもうすっかりいやけがさし、いくぶんだらけた気分になっていたのは、かれらとても同じことだったのである。そこで、かれらは、伝令の来ぬのをいいことに、兵たちがヴァシャ果を噛んだり、ウマのかげにねそべったりして心をゆるめているのを黙認し、かれらもほっとウマからおりて足を休めていた。
そしてまた、兵たちのあいだには、どこから流れ出したとも知れぬ、奇怪な、しかし妙に信憑性のあるうわさが、こっそりと流れまわっていたのである。
「おい、聞いたか」
「何をだ」
「まだきいていないのか、ばかな。――どうだ、マルス隊長の話を教えてやろうか――俺はユヴァンからきいたので、本当かうそかは、全然知らんのだぞ。いいな」
「わかった、わかった。――早く、教えてくれ、早く」
「つまりだな――このたびのマルス隊の全滅は――」
「うむ、うむ」
「あれは、裏切者がいたのだ、という、もっぱらのうわさだぞ」
「裏切者?」
「シッ――大きな声を出すな」
「いったい、どういうことだ。このモンゴール軍の中に、裏切者だと?」
「大きな声を出すなというのに。――うわさだ、うわさだ。だが、あのとき、マルス大隊があの死の谷間へみちびかれていって、待ちぶせにかかったのは、どう考えてもわが軍に内通者がいてセムの猿どもと連絡をとり、そのようにしむけておびきよせさせた、としか思えんふしもあるしな」
「しかし、われらは栄光あるモンゴール大公国の騎士団だぞ――いったい、どんな狂人が、あんな汚らしい、ことばもろくろく通じないようなサルどもと内通したりするというのだ? 第一、そんなことは不可能だ。われらには、サルどもと連絡する手段などないのだからな」
「だから、うわさだと云ったろう」
「いや、そうではないぞ」
「おお――早耳のゴーランか。何か、知っているのか。そんなら早く教えてくれ」
「うむ、これは、たったいま、マルス隊の救援にむかったイルム隊の友人から、こっそり耳うちされたのだが――」
「ふむ、ふむ」
「やはり、密通者がいたのは、たしかなようだ」
「密通者が――!」
「信じられん」
「だがまことなのだ。それも、どうやら、その名さえも明らかになっているらしい。これは、われら下っ端の平騎士では知るすべもないが、イルム隊の友人の話では、どうも、かれらがあの火の谷へ息せき切ってかけつけたとき、気の毒なマルス隊は炎につつまれ、岩を投げおとされ、毒矢を射かけられて、もうその九割までは息絶えた屍となっていた。しかし、その死体の山を、ようやく火を消しとめて、かれらが涙ながらに調べていたとき、その中に何人かは、ひどいやけどをおいながらも、友の体の下にあったのが幸いして何とか虫の息でも生きていたものがないでもなかった。――そして、どうやら、その連中が、イルム隊長の手を焼けこげた手で握りしめ、傷ついたくちびるで、その裏切りのてんまつと、その裏切り者の名をさいごにささやいたらしいのだ――おそらくは、前もってその災厄を逃れ、その不浄な同盟者たるセムどものもとへとびこんでただひとり生きながらえたはずの、そいつの名をな」
「――おう、ヤヌスよ……なんということだ」
騎士たちは恐しげにヤヌスの印を切り、そっと顔を見かわした。
「セムと、内通だと? どうしたって、そんなことは、信じるわけにいかんぞ」
強情なのが、口から泡をとばして、まだ、主張を枉げまいとする。
「いったいどうやって、人間とサルが同盟できるというのだ。――つまるところ、セムとは、サル以外のものではないのだぞ」
「だがマルス伯爵をおびき出してワナにかけ、また作戦をたてていくさができるほど知恵のあるサルにはちがいないのだ」
疑われて、情報通の騎士は腹立たしげに、
「第一、ほれ、あの――例の怪人のことを思い出すがいい。豹頭をしているとはいえあれは人間だ。サルとは同盟を結ばなくても、あの豹頭と通じる人間はいるかもしれん」
「そういえば、あの怪人を、このところ、見ないな」
うかうかとひとりが口をすべらせるのへ、あわてて、
「シッ!」
まわりの連中がおさえた。
「云うな。あれは人の形をした悪霊という説もあるのだ。せっかく、あらわれぬものを、口にしたばかりに呼びよせることになりでもしたらどうする」
なじられた方は、空元気を出して、
「なあに、俺は、別にあんな怪物ごとき、あらわれようとおそれはせんからな。わが隊の近くにあらわれてみろ、たちまちひっ捕えて正体をあばいてくれようと、武者ぶるいしているわ」
「おお、云うわ、云うわ。その口が、たちまち悲鳴をあげねば何よりだがな」
「なんと――!」
「まあ、よせ、それよりも、その裏切り者の名だが、参謀たちだけはまさしく知っているのだな」
「らしいな」
「どこの誰と、知れているのだな――マルス隊の、誰と」
「だとすればそやつにだけはなりたくないものだな。万が一にもセムがやぶれ、そやつがとっ捕まりでもするようなことがあれば、その売国奴がどんな拷問にかけられることか、考えただけでも歯の根が浮くな」
「しかし、よくもまあそんなことをしたものだな。あの汚らしいサルどもと、豹頭の化物に、こともあろうに、マルス大隊を売りわたすとは――いったい、どんな報酬なら、そんな大それたことをひきうけるつもりになる? サル国の王になり、イドと砂ヒルだらけのノスフェラスをおさめ、二度と、同胞に会わず、ふるさとの地を踏めないことになるというのか――?」
「ふむ、たしかにな――一体、なぜなのだ?」
誰も、答えるものはない。騎士たちは、鼻白んだ顔つきで、使いの顔を見まわし、その上に何か答えらしいものでもありはしないかと、しきりとせんさくするようだった。
(一体、なぜ――?)
それは、誰にとっても、あまりにも尤もな、そして答え難い疑惑であったのだ。
「裏切り――だが、一体、なぜなのだ[#「なぜなのだ」に傍点]?」
そして、そのころ――
その問いは、もっと高貴な口からも、吐きすてるようにして発せられていたのだった。
長いこと、アムネリスは、天幕にとじこもったきり、フェルドリックとガユスの他には誰も口どおりを許さず、マルス伯の死のいたでにひたりきっていた。
その無為は、およそ半日にも及んだのだが――その間、ずっと、タロス城のイルムとその副官ゴランの二人は近習にアムネリスへの目通りを乞うてはそのたびにはねつけられ、すっかり苛立っていた。かれら二人の豪傑にとっても、マルス伯の死はいたましくないわけがなかったが、しかしそれにもまして、かれらはかれらの考えをはやく総大将に伝えたくて、焦っていたのである。
ようやく、かれらが天幕の中へ通されたのは、五、六ザンも待ち呆けをくわされてからのことだった。案内を待つ儀礼ももどかしく、天幕の中へ入っていった二人の隊長は、公女の天幕のうちの灯りがほとんど消され、すっかり夜ででもあるかのように光をとおさぬ天幕の中が暗くされているのをみた。公女は、軽装の胴貫で、そのうすぐらい天幕の奥に、長椅子によこたわっていたが、疑いもなく、それは、どんなときにも平静さを失わぬ「氷の公女」でなければならぬ彼女が、守り役の死に泣きはれた顔を部下に見せまいとしての細工にちがいなかった。
しかし、それにさえ、イルムとゴラン副官は構っているいとまがなかった。
かれらはさっそくに進み出ると、マルス隊の救援におもむいたさきでかれらの知らされた、おどろくべき、そしてモンゴールの忠誠心にとっては脅威的な事実を打ちまけた。
はじめのうち、なかば暗がりに身を沈めた公女は顔をふりかかる金色の髪にかくし、ほとんどかれらの報告に興味を示しているとさえ見えなかった。むしろ、彼女の長椅子《ディヴァン》の両うしろに、よりそうようにして立っている、フェルドリックとガユスが強い関心を示してかれらの報告をきいていた。
公女が、びくりとして、長椅子の上に身を起こし、わが耳を疑うかのようにするどく問い返したのは、イルムがどもりがちに、興奮しながら、マルス隊にいた裏切り者がどうやらただひとり炎の難を逃れ、その不浄な同盟者のもとへ帰っていったらしい、という点に言及したときである。
「――馬鹿な!」
顔を、暗がりになかばかくしたアムネリスは、思わずその自制を忘れて、とがめだてるように、あのうわさ話をきいた騎士と同じことばを発していた。
「モンゴール人が――もし、そやつがモンゴール人であるとしての話だが――セムどもと手を組んで、何をしようというのだ? 何のために[#「何のために」に傍点]?」
「それは……」
イルムはゴラン副官と顔を見あわせ、自分には何とも云えない、という身ぶりをした。
アムネリスは長い自失を忘れて、思わず、荒々しく立ちあがると、天幕の中を歩きまわりだした。それほど、その情報は、彼女の心をかきみだし、マルス伯の死の悲しみからさえ、むりやりにひきずり出したのである。
「考えられぬ」
ほっそりした両手を組みあわせ、ねじりあわせるようにしながら、アムネリスは厳しい声で云った。
「私には考えられぬ。――どうして、そんなことができるのだ……私の部下たちは、誰も、このノスフェラス遠征に入ってからというもの連戦につぐ連戦をかさね、おそらく一人として、こっそりと陣営をはなれてセムと連絡をとることのできるものなどいなかったはずだ。第一、そんなことをして、いったいそやつに何の益がある。何が約束される。もはや二度とモンゴールの地を踏むもかなわず、生涯をセムと共に砂漠の怪物どものさなかで暮らす――そんなことを、モンゴール人にさせることが、一体どんなセム族に可能だというのだ。いや、私には信じられぬ」
「もし――」
それまで黙りこくっていたガユスが、ふいに口をひらいたので、かれらはびくりとした。
「もしそやつがモンゴールの民であれば、でございますな」
「何だと」
アムネリスはすばやくふりむき、彼女の魔道士をにらみつけた。
「何が、云いたいのだ、ガユス」
「は――このように、考えてみてはいかがでございましょう――その裏切者なるもの、もともとがモンゴールに忠誠を誓う、モンゴール人でも何でもなかった、と……すなわち、滅び去った王国パロ、あるいはゴーラ三大公国の二たる、クム、またはユラニア、そのいずれかが、あらかじめ送りこんだ、それら敵国の手の者が――」
「待て!」
アムネリスはふいに、苛々と歩きまわるのをやめた。
彼女は、彼女とその軍勢とをおそった悲運の衝撃から、すっかり立ち直っているようだった。彼女はガユスを制するように手をあげたが、その手を打ちあわせて近習を呼び、冷たい飲物をもってくるように云いつけた。それから、続けた。
「それは、容易ならぬことだぞ、ガユス」
「は――」
「いま、おのれが何を口にしたか、わかっておろうな。――この遠征は、モンゴールにとっては命運をかけた秘中の秘……その遠征隊に、万にひとつもそのような――敵国の間諜が忠臣をよそおって入りこみ、あれこれの術策をめぐらしている、というようなことがあれば、モンゴールは、二度とはとりかえしのつかぬいたでをうけることになる」
「……」
「それはまた、辺境警備隊や、ひいては金蠍宮の内部にさえ、敵の手がのびている、ということだぞ」
「お忘れでございましょうか」
うっそりと、ガユスが主の注意を喚起した。
「かの、パロの双生児、クリスタルの都を逃れ出た王子と王女とは、たびたびの虜囚のいましめをかいくぐって、ついにセム族と共にノスフェラスの彼方へおちのびてございます」
「おお――!」
アムネリスは、低い叫び声をあげた。
それからもういちど低い声をあげて、激しくその手を打ちあわせた。
「忘れていた。それを――パロの双児のことをすっかり失念していた。なんということだ――このアムネリスともあろうものが!」
そして、激しく苛立った心をむりにおさえようと、手をのばして、近習の捧げたはちみつ酒の杯をつかみとり、一気にのみほして、また考えをまとめようとするかのようにあたりを歩きまわりはじめた。
しかし、こんどは、さきほどとは異り、彼女のその精密な頭脳が狂気のようにその金髪の下で回転しつづけていることが明らかだった。あたりに沈黙が立ちこめた。イルムやフェルドリックは、公女の思案をさまたげまいと、じっとうつむいていた。
「パロ――」
やがて、アムネリスはつぶやいた。
すぐに、確信したように声を大きくする。
「パロ。そうだ。それに決まっている。いつだって、パロなのだ――いつだって、この古い魔道の王国こそが、モンゴールの前に立ちはだかり、モンゴールをさまたげ、その野望を邪魔しようとする――パロの間諜か! おのれ、うかつだった!」
ぎりっとくちびるをかみしめたのは、ひとたびは手中におさめながらあっさりと逃げ去らせてしまった、その双児と、かれらの異形の守護神のことを考えたばかりでなく、占領軍の司令としてクリスタルの都にいたとき、パロの人びとの抵抗にさんざん悩まされたことをも、あわせて思いうかべたものかもしれない。
「ガユス」
「は」
「どう思う」
「おそらくは、そのように見て、間違いはないかとというのは、こちらからも、クム、ユラニア両国内に送りこんでございます間諜が、その両国に何か、モンゴールの意図に気づいたとの動きがあれば、その報告があってしかるべき――それにまた、パロの双児をかくまったところからして、すでにセムと、パロの残党のあいだには、ある同盟があったのでございましょう」
「だとすれば、容易ならぬことだぞ」
アムネリスは、くちびるをひきしめてくりかえした。
「フェルドリック」
「は!」
「なるべく早くに、この遠征に加わったもののなかで、素性の明らかでないものを、リストにつくる必要があるな」
「御意!」
「もっと早くに気づいておればあるいは――! いや、それはもう云うまい。もし、まだ何人かのパロの手先がもぐりこんでいるようであれば、このあと、どのような局面で、そやつのために不幸を招かぬものでもない」
「……」
「疑わしいものは、一人たりとも生かしておくな。ききなれぬ託りの傭兵。パロに身内のいることが知られているもの、態度のあやしいもの、一人もあまさず、旗本隊へ連行して問いただせ」
「は。心得ました」
「隊長格のものすべてに布令をまわし、戦いのさなかでとかくセムを庇い立てしたり、セムがわざわざ矢をよけて放ったりするものがないか注意して見させよ。――それとイルム!」
「はッ」
「その裏切り者の名――瀕死の青騎士の口から、しかとききとった、と申したな」
「はい。――青騎士のなかでただひとり、われらがあの谷に到着したときにまだ息のあったものが、はっきりと――そやつこそが、マルス伯の信頼をうけながら、その恩を裏切り、青騎士隊を、セムの村が見つかったと称してかの谷へみちびき――そして、セムどもにおそわせた、と……マルス伯は手ずからその裏切者の右の耳に、投げ槍で傷をおわせたそうです」
「その者の名は?」
いまは再び、「氷の公女」はその完璧な自制をとりもどしているかにみえた。きつく銀杯を握りしめて、アムネリスは訊ねた。
イルムは、ひげ面をあげた。ことばは、はっきりと、天幕にいる、すべての者の耳にひびきわたった。
「アルゴンのエル――と……」
「アルゴンのエル……」
ゆっくりと、その名のひびきを味わうように、アムネリスは、二度、三度、くりかえした。そして云った。
「覚えておこう。――もし、そやつが運わるく、生きてモンゴール軍の手におちるようなことあらば……」
そのあと、どのような酸鼻の運命が彼を待つことになるのかは、それぞれの想像にまかせる、というように、アムネリスは手をふった。
「よし――わかった」
やがて、ゆっくりと、結論を下すように云う。
「隊長たちを、テントに集結させよ、フェルドリック。――セムどもに、もはやこれ以上の増上慢はゆるさぬ。セムどもの女子供にいたるまで、明日の朝日を生きては仰がさぬ。斥候隊を、それぞれ一個小隊にわかち、東西南北一方向づつを受けもたせ、セムの本隊、ないし本拠地のありかを最終的に発見させよ。――それまで、本隊はこの地にて、最終決戦にそなえ、軍議と準備をすること。よいな」
「かしこまりました!」
おだやかな、静かな声で告げられたそのことばは、どんな怒声よりも甚しい効果を、かれら部下たちにもたらした。フェルドリックはあたふたと天幕を走り出てゆこうとする。それへ、
「ああ、それから」
アムネリスが云いついだ。
「隊長たちに、アルゴンのエルの名を告げ――そして記憶させるがいい。この男を生きてとらえたものには一万ランの賞金と地位を――そして、誤ってこの男を殺してしまったものは、私の眼前で、ムチ百叩きの罰を下す、とな。豹頭の怪物、パロの双子、そして裏切者、かれらは生かして捕えよ。そしてセムどもは、一匹たりとも生かしておくな。この戦いを、まことに、さいごにするのだ――もう、許しておくわけにはゆかぬ。退却すれば追いつめ、降伏すれば虐殺せよ。――よいな、これは、マルスの葬い合戦だぞ」
「は!」
「行け!」
「は!」
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4
それは、グインが、ただひとりウマをかって、狗頭山の彼方へと消えていってから、約束の日限まであと一日と迫った三日目の朝のことだったのである。
セムの本隊は、転々とその位置をうつし、いまや狗頭山の南寄りのオアシスにしばらくとどまっていた。
セムたちはノスフェラス砂漠じゅうのオアシスを知りつくしている。カロイ族の参戦を得て、いまや七千ちかい大所帯にふくれあがったセム混成軍は、知るかぎりで最も大きいオアシスを、当座のすみかに選ばねばならなかった。
リンダとレムスとは、スニとともに、ロトーたちの軍のなかにいた。ラクの女たちも一緒である。
グインがかれらをあとにのこし、ラゴンの援軍を要請するべくそこを立ち去ってから、双児は表面は何ごともかわったことのないようにふるまっていたが、内心では、不安で、いたたまれぬ気持だった。
なんといっても、グインこそは、かれらの力強い守護者であったし、それにスニやロトーがいかに親切にしてくれたところで、ことばもまだよく通じない、蛮族にはちがいないのだ。
グインが東へむけて走り去った翌日、セム軍は南へむけて移動を開始し、このオアシス付近で、マルス隊を壊滅させて意気揚々たるカロイ軍と合流した。
そこには、リンダとレムスにとっては嬉しいおどろきが待っていた。ラクの小部隊に案内されたカロイ族にまじって、かれらのよく知っている人間のすがたがあったからである。
「イシュトヴァーン!」
さすがに、同じ人間のすがたを見、中原のことばで話せるよろこびにさしもこの悪戯者に腹を立てたことも忘れてリンダとレムスはかけよった。
「あなたは生きていたのね!」
「あたりまえだ」
ヴァラキアのイシュトヴァーンは、怪我をしたらしく、右の耳に薬草をはりつけていたが、ひどく元気で、そして少しもおとなしくなっていなかった。
「この〈紅の傭兵〉が、王になる前につまらん雑兵の刃にかかるとでも、思っていたのか。――おお、かわいそうに、おれのことをずっと心配していたのだな、王妃よ」
そして彼はリンダに接吻しようとして、ぴしゃりと手を引っぱたかれた。
「誰が、あんたなんかの、王妃[#「王妃」に傍点]だって?」
リンダは顔をまっかにして怒った。
「図々しいにも、程があるわ!」
「そう、照れるな。会いたかったんだろう。さっき、あんなに、おれに会えて嬉しそうなようすをしていたくせに」
そして彼はゲラゲラと笑い出した。
かたわらでは、ロトー、イラチェリ、それにツバイやカルトらをはじめとするおもだった連中が、この新たな勇猛な味方を迎えて、安堵の色をかくせぬようすだった。
しかし一方で、グロのイラチェリを除く他の族長たちは、多少不安そうでもあった。それというのも、カロイの勇猛ぶりと同時に、その見さかいのない兇暴さと向こうみずな好戦ぶりは、つとに知れわたっているところだったからである。その勇猛は、セムに勝利をもたらす有力な味方であると同時に、いつ、味方にむかって爆発するかわからない、物騒な両刃の刃でもあったのだ。
「それはともかく――」
ひとしきり、怒ったリンダをからかって気がすむと、イシュトヴァーンは、きょろきょろしながら云い出した。
「奴はどこなんだ。ひとにあんな、厄介な役目をおしつけておいて、ご苦労とねぎらいにも、出て来ないとは、早くもセムどもの皇帝にでもなったつもりなのか? ――おい、ガキども、あいつは、何をしてるのだ。豹あたまの大将はさ」
「グインは――」
リンダは云いよどんだ。イシュトヴァーンが、どこへ雲隠れして、何をやらされていたのかも、わからなかったし、それで、グインの考えを、どこまで彼に打ち明けてよいものか、ちょっと決めかねていたのだ。
イシュトヴァーンは苛立って、かさねてきいた。しかたなく、リンダは助けを求めるように弟のほうを見たが、そこでも何の助言も得られなかったので、ためらいがちに、いまここにはすでにグインはいないのだと打ちあけた。
「なんだって?」
イシュトヴァーンの反応は、思いのほかに激しかった。彼は、あわてふためいてリンダにつめより、その肩をつかんでゆさぶりかねまじい勢いだった。リンダはあわててあとへ下がった。
「一体、奴は、お前たちをおいたまま、どこへとんずらしたってんだ?」
「とんずら[#「とんずら」に傍点]だなんて、とんでもないわ」
怒ってリンダは答えた。
「それどころか、グインは私たちを助けてくれるために生命をかけているのよ。彼は、援軍を呼びに出かけたの――このままでは、遠からず、セム軍はモンゴール軍のために追いつめられる、といって」
「援軍!」
〈紅の傭兵〉の顔つきは、ちょっとした見ものだった。
「へッ! ――暁の女神の紅の裳裾にかけて、いったいどこに、そんな援軍が砂に埋まっているのだか教えてもらいたいもんだ――それとも、奴はついに記憶を取り戻し、奴と同じ豹頭の化物がごろごろしている国が近くにあったのを、思い出した、ってわけかね」
「まあ! イシュトヴァーン、あなたってひどい人よ!」
リンダは憤慨し、そうしながら、この若い無礼者の皮肉やからかいに憤慨させられる、というひさびさの経験に、自分では気がつきもせぬまま、あるなつかしさと――そして奇妙なことだが、ある安堵感をも覚えているのだった。何といっても、グインほど頼りにはできぬまでも、イシュトヴァーンもすでに彼女たちの道連れであり、仲間になっていたのである。
「グインは、一か八かの賭けに乗り出したのよ」
リンダは、もうこうなっては、半端に隠し立てをしてもしかたないと悟り、すべてをイシュトヴァーンに喋った。
傭兵は、注意深くきいていたが、それから、塩のかたまりをでも、間違えてがぶりと噛んでしまったような顔をした。
「ラゴン[#「ラゴン」に傍点]? 幻の蛮族ラゴンだと? それじゃ、援軍の来る見通しは、奴が同族の豹どもの一連隊をつれてひきかえしてくるのと同じくらい多いってもんだな! やれやれ、有難いこった」
イシュトヴァーンの実際家の黒い眼が、皮肉たっぷりにくるめいた。
「おまけに、それを、四日のうちにさがし出して連れ帰ると約束したんだって? いったいあの豹めは、自分にできないことだって世の中にはあるということが、本当にわかってるんだろうか」
「あなただって、そうじゃないの、ヴァラキアのイシュトヴァーン!」
そんなふうにグインをけなしつけられて、リンダはかっとなった。
「あなただって、いつも、夢みたいな大言壮語ばかりしているじゃないの!」
「そうだよ。王さまになるとか、〈光の公女〉を見つけるとか」
レムスも加勢をした。
イシュトヴァーンは怒って云い返すと思いのほか、片目をつぶって、にやりと笑ってみせた。
「こう見えても、おれは現実家なんだ」
彼は云った。
「おれの守護神は疑惑の女神エリスだし、おれの体に流れてる血はコーセアの海水のように塩辛くて、白日夢という麻薬をうけつけないのでね。おれが云うことは、いずれ実現できることでしかないし、できそうにないことは、云っても決して、やると約束はしないのさ。まして、そいつをやるためにわざわざ砂漠に出かけていったりはしないよ」
「このあいだは、イラナが守護神だったし」
リンダが皮肉った。
「神々という神々は、みんなあなたの守護神らしいわね、イシュトヴァーン」
「ああ、ことに女神はな。おれは、年上の女に好かれるんだ」
ぬけぬけとイシュトヴァーンは云った。
「しかしグインの守護神は、どうやら、盲目と頑固の神ヘルらしいな。そして、お前たちのは、アヒルの姿をした、愚かもののドラックスなんだろう。なんでまた、グインをのこのこ、ひとりで出してやったんだ――ついてゆけば、そんなどこにいるかわからぬ幻の民をさがすかわりに、グインと三人、あっさりと逃げのびられたじゃないか――別に、われわれは、セムどもと運命を共にする義理は少しもないんだぜ」
「セムは、わたしたちを、助けてくれたのよ」
リンダはきっとなって云った。
「それに、イラチェリたちが納得しなかったんだよ――グインが援軍を呼びにいくのでなく、そのままセムを見すてるのでないと、どうしてわかる、といって」
レムスが説明した。きくなり〈紅の傭兵〉の目が、細くなり、ぬけめのない、ゆだんのならない表情にかわった。彼は、「ほほう」と云いながら、ゆっくりと、舌で唇をなめた。
「なるほどな――どうも、おかしい、おかしい、とおれのカンが云っていたわけだ」
ずるそうに考えこみ、下唇をしきりに指でつまみながら云う。
「あのグインが、お前たちだけのこして、どこかへ消えるというのは、どうも変だ、と思っていたよ――ことばもろくろく通じないというのにさ。そうだったのか」
「何よ。何を云いたいの」
不安になって、リンダは叫んだ。イシュトヴァーンと、よく気があう、というわけではなかったが、少なくともイシュトヴァーンが年のわりに世たけて、ぬけめのないことは、認めなければならない。
「おい、いま、ラク族の戦士は、何人ぐらいいるんだ」
「ど――どうして?」
リンダが戸惑って云うより早く、
「千二、三百人になってしまったのじゃないかしら」
レムスが云った。リンダは少しおどろいて弟を見直した。いつも、ぼんやりの弱虫とばかり思っているので、リンダは、自分が考えてもみなかったそんなことを弟がちゃんと把握していることに、驚いたのである。
「千――」
傭兵は下くちびるをひっぱった。
「ラサは?」
「その半分くらいだよ」
「ウーム」
「ねえ、何なの。何を考えているの」
たまりかねて、リンダは叫んだ。
「教えて。焦らさないでよ」
「では、お教えしましょうかね、お姫《ひい》さまは、何が何だか、さっぱりわかっておられないようだから」
皮肉っぽく、イシュトヴァーンは云った。
「いいかね。いま、あんたの頭のいい弟が、イラチェリが、グインとお前さんたちが一緒にいくことに賛成しなかった、といったのをきいたろう。イラチェリってのは、あの黒毛のグロの酋長だ。ということは、お前たちふたり――と、いまはおれもってことになるんだろうな、われわれ三人は、人質にのこされたわけだよ。これが、どういうことか、わかるかね」
「……」
「つまり、セム軍のすべてがグインを――〈リアード〉を信用しきってるわけではないってことだ。ということは――いまは、こっちが押しぎみに戦さをすすめてるからいいようなものの、いざドカンと正面からモンゴール軍にぶつかって、人数が少なくなったとはいえそれでもサルどもよりは多いし有利なモンゴール軍に、われわれがじりじり押されだしたとする。すると、場合によっては、セム軍は、こんなときに最もしちゃあならないこと――すなわち、内輪もめを始めかねない、ということなのさ。たとえグインがいて、指揮をとっていても、それに従う、従わない、でな――しかも、おお、イリスの青白い額にかけて、グインは消えちまった。四日待て、と云ったのだって? 四日どころか、今日一日もつのも怪しいだろうよ。今夜にも、連中はそわそわ、ざわざわしはじめるこったろう。まああの――ロトーか、あの大年寄りザルは庇ってくれるだろうな。お前たちに、孫娘を助けられた、となぜだか知らんが、ばかばかしいくらい恩義を感じているようだからな。あのぱっとしないラサ族もロトーにつくだろう。問題はグロの黒ザルどもさ――それからカロイ、おい、あいつらは、見上げた戦士だぜ。しかもすごく血に飢えている。おれはカロイと半日、一緒に旅をしてきて閉口したよ。奴らをひきとめるのは、砂ヒルをひきはがすより難しい。グロは、さぞかし、奴らと気が合うだろうな――おい、おい」
「……」
「おれは、だんだん、自分がここへ帰って来ちまったのが、どんな恐しいヤーンの悪だくみだったのか、わかりはじめたよ。――ラクとラサをあわせたよりも、カロイとグロをあわせた方が多い。仮にツバイがこっちについてくれても、戦士としちゃあ、やはり黒いサルどもの方が上なのだ。おれはまた、どうして、あの谷を逃れ出て、そのままウマをかって砂漠の彼方へと、走り去ろうとしなかったんだろうな。万が一、カロイとグロがしびれを切らし、ここにいもしない軍神のリアードよりは、自分たちの族長の方が、戦いのやりかたを知っているし、そうすべきだ、と信じこもうもんなら……」
イシュトヴァーンは大きく手をひろげ、あとは想像に任せる、という素振りをした。
リンダはまだ、新たな同盟者たちについての、この辛辣な見かたにすっかり納得はしておらぬようすだった。
「だけど、かれらは、グインのおかげでこれまでずっと勝ち進んできたのよ。グインの計略がなければ、真正直に正面からぶつかりあい、そしてわずか一日とは保たないで、このノスフェラスから全滅させられていたでしょう」
いかにも、信じられない、といったふうに、彼女はきゃしゃな手を動かした。
「それはロトーだけでなく、ツバイにも、イラチェリにも、よくわかっているはずよ。そして、そのグインが四日待てといったのよ……」
イシュトヴァーンは、疑わしげに肩を動かしたきり、何にも答えなかった。
かわりにレムスが思いがけぬことを云った。
「でも、リンダ。グインだって、その場にいないまま彼の云いつけに皆を従わせるほど、すべてのセムの部族の信頼を集めるのに成功したわけではないよ」
「まあ!」
リンダはおどろき、いつも自分の子分と見做している弟に、一体何が起こったのだろうとあやしむようにねめつけて、レムスの感じやすい顔をまっかにさせた。
「いつから、そんなに立派な人になったのよ!」
「いや、王子さまは、なかなかうがったものの見かたをしてるってことさ」
イシュトヴァーンは、何かしきりに考えこんでいるようすで、いくぶんそっけない云いかたをした。
「とにかく、一日でも半日でも早くグインが戻りさえすれば、何の問題もなかろうが、万が一、ほんのちょっとでも期限に遅れるようなことでもあったら――こっちは、生きのびるために、必死で戦わねばならん羽目になるぞ。――おまけに、セムが内輸もめをはじめりゃあ、モンゴール軍にとってはもっけの幸いというものだし……それに、砂漠には、いや[#「いや」に傍点]というほど、腹をへらした化け物がいるからな。砂ヒル、イド、吸血ゴケ、オオアリジゴク――しかもどこをどう探せばいいか、誰にもわかってないものが、当の探し物だときてる。それとも、わかってるのかな。奴のことだからな。わかってるのかもしれん。しかしわかってないかもしれん。それは知れたものじゃない……」
「ああ、もう、やめてちょうだい。お願いだから」
リンダは耳をふさぎたそうに、からだをふるわせながら叫んだ。
「砂ヒルやイドのことなんて云わないで。もし――もしグインが帰って来られなかったら、わたしたち、ここで死ぬほかないのよ――それは、わかってるでしょうね」
「リンダ!」
レムスが、ひしと姉にすがりつき、ふたりはおさえきれぬ不安をせめてわかちあおうとするように、しっかりと抱きしめあった。
イシュトヴァーンは、その双児を、奇妙な目つきで眺めた。その黒い、いたずらっぽい目の中には、何か、なんとも云いあらわしようのない考えの萌芽のようなものが見てとれた。
「もちろん、そんなことは、云われなくてもわかっているさ――これ以上わかりようのないくらいにな」
彼は、奇妙な、これまで双児がきいたこともないような調子の声音でつぶやいた。あるいは、彼は、彼にあざむかれ、火の中で、彼の名を――仮のいつわりの名ではあったが――叫び、決して忘れぬと叫びながら死んでいった二千の騎士たちと、白髪の老武士のことを、思いうかべていたのかもしれない。
彼は、双児たちがふしぎそうに彼を見つめていることに気づいた。彼は、彼らしくもなく、口の中でもごもご呟き――それから、うっそりと、オアシスの反対側へ歩き去ってしまった。双児は黙りこんでそれを見送った。
しかし、そうした、かれらの懸念や疑惑にもかかわらず、その日一日は何も起こらなかった。グインの帰ってくるようすもなく、敵襲も、また出陣の命令も下されなかった。おかしいほどにおだやかな、戦場とは思えないような一日だった。
あの砂嵐がすべての空気の動きをひきさらっていってしまったかのように、日が高くのぼると、非常に暑かった。風はそよ[#「そよ」に傍点]とも吹かず、セムたちはぐったりとしてオアシスの水に手足をひたしていた。子どもや老人はすでに北の方へ避難させられていたから、はしゃいでかけまわるセムの子どももいない。リンダとレムスは終日、スニをつれて、木蔭で休むことで、炎暑から身を守ろうとつとめた。ようやく日がおちて、その暑さがうそのような砂漠特有の涼気がおとずれたとき、誰もがほっとした。しかし、その涼気はすぐに、いささか度のすぎる冷気にかわってしまうのである。それが、ノスフェラス特有の風土なのだ。
族長たちの方は、長老や頭立った戦士たちをつれて互いに行ったり来たりし、あるいはカロイがそうであるように、他の部族とみだりに交流せぬよう、少しはなれたところにかたまってむっつりとしていた。じっさいこの新参者の部族は愛想がなかった。かれらは凶暴な顔つきをして、ロトーでさえ、かれらに近づこうとはあえてしなかった。
やがて夜がおとずれた。セムたちは、その粗末な食物をたべ、別に軍議をする習慣もなく、いまや確固たる指導者もいない混成軍であったから、それぞれの部族ごとにかたまりあい、歩哨を立てるだけの手間もかけたがらず、ぐっすりと寝入ってしまった。グインがいないこと、そして、今日一日、何の動きもなかったことが、かれらをすっかり弛緩させてしまったかのようだった。
かれらは、このオアシスの方向へ、粛々と近づく一隊のあったこと、そして、オアシスとおぼしい水のきらめきを見つけるや、その隊が前進をやめ、やがてそこから、二つか三つの小さな点がはなれて音もなく近づいていったこと、を知らなかった。
小さな点は、細心の注意を払ってオアシスへ、気づかれぬぎりぎりまで近づき、それからまた母隊の方へもどっていって、その黒いかたまりに吸いこまれた。低声で緊張した会話がかわされ、それから、再び足音すらも忍ばせてその一隊は来た方角へ戻りはじめ――もう気づかれるおそれのない地点にまで達した刹那、狂ったような速足となって、かれらが見すててきたモンゴール本隊の位置までをかけとおした。
斥候部隊の報告は、モンゴール軍が、待ちに待ちつづけていたところのものだった。さっとすべての部隊が二つにわれて、手柄をたてたこの部隊を通した。すでに、報告がもたらされていたので、アムネリスは天幕から出て待っていた。とっくに身づくろいをおえて、白い手袋をベルトに、白いマントをうしろにはねあげた彼女は、すでに出陣の正装になっていた。彼女は唇をひき結び、よろこびの表情ひとつ見せぬまま、報告をきいた。
「よかろう――フェルドリック、伝令」
「出陣、でございますな!」
フェルドリックがかけ出してゆく。アムネリスは、斥候隊の隊長をきびしい目で眺め、何か云おうとした――が、思いかえして、やさしい声になる。
「手柄であったな。――アストリアス!」
「は!」
アストリアスは感動に身をふるわせた。しかし目をあげたとき、すでに公女はそこを立ち去ろうとしていた。
「全軍、出発! 目的地は南東約三十タッドのオアシス、セム本隊!」
フェルドリックのしゃがれ声がきこえる。
「わが軍は日の出前にセム本隊を奇襲する――!」
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第三話 大進攻
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1
夜が明けるまでには、まだ間があるようだった。
何かひそやかな、奇妙な緊張感にみちた静寂が、夜闇の底を埋めている。
小柄な、毛ぶかい、セムの戦士たちは、石オノを胸に抱いてころりと横になった夢うつつのまま、わけのわからぬ息苦しさにかられて身動きし、小さな声を洩らした。
総勢七千人のセム混成軍は、オアシスのまわりにそれぞれの部族にわかれて寄り集まり、黒い果実のたわわに実った畑でもそこにあるとでも云ったふうに、膝をかかえてうずくまってあたりに群れていた。
あたりの夜気にはセム特有の体臭がむっと垂れこめ、慣れぬものならば、息苦しさをさえ感じかねない。かわるがわるに、そこかしこの黒いかたまりの中から、なかのひとりが寝返りをうったり、手足をのばそうとしたりすると、まわりからたちまち、シッ、シッ、というおどすような叱責の声がおこる。
それは、いかにも、セム族らしく――つねに、人と、猿族との、きわどい境い目にあって、人とも云いきれず、かといって獣とは決して云い得ないこの呪われた種族が、まさしく、獣そのものにほかならぬ半面を、最も直接に露呈する時間なのだった。
あちこちからきこえる寝息やいびき、かすかなつぶやき――そういったものも、種族の存亡をかけた決戦をひかえて陣を張る、戦士たちの夜営の場というよりは、やはり、群をなして移動する猿人たちの夜をすごす、そうしたひびきを帯びてきこえる。
(じっさい、こいつらがいまや唯一の頼みの綱だとは、このイシュトヴァーンさまも、落ちたものさ!)
ヴァラキアのイシュトヴァーンは、その夜、なぜだか、どうしても寝つくことができずにいたのだった。
ずっと身をやつしてモンゴール軍にもぐりこんでいた気疲れ、そのあとオアシスまで、長い道のりを、ことばも通じぬ蛮族たちとともに旅をしてきた疲れ――からだが、参っていないわけはないのだが、なぜだか彼は眠ることができなかったのだ。
しばらく、休息を求めてあがいてみたあとで、ついにそれを断念すると、彼は立ちあがり、足音を忍ばせて、眠り呆けているセムの戦士たちのあいだをぬけ、オアシスの外れの一本の灌木の根かたへいって腰をおろした。
ずっとこれまでの二十年間をひとりで、自らの力だけで生きてきて、彼は、ひとりでおかれたからといってまったく退屈することも、心淋しく思うこともない。しかし、そのかわりに、彼は、どんなときでもぶつぶつと自分自身に話しかけ、自ら答えて考えをまとめようとするやっかいなくせ[#「くせ」に傍点]が身についている。膝をかかえ、銅の輪でとめた髪をしきりに指でくしゃくしゃにしながら、彼は無意識に独語していた。
「ああ、そうだとも――何の、かんのいったって、おれはもう、たったひとりで砂漠へ出てゆくわけにはいかないくらい、ノスフェラスの内陸部へ深く入りこんで来ちまっているのだ。いかなおれでも、いま一人で砂漠へ出ても、方角はわからん、化け物どもは寄ってくる――そのうちに、水もつきるし、行けども行けども砂ばかり、というわけで、おそらくいまここをとび出したって十中十まで、生きのびてはゆけんだろう。
といって、もうひとつの道――モンゴール軍へ投降したり、モンゴール兵とみせかける道も、これでしっかりと閉ざされてしまったしな――あの、呪われたマルス隊にひとりでも生きのこりがいて、おれのことを見知っていてみろ。おれを待っているのは、これ以上ないくらい立派な拷問台と焼きゴテだろうよ。
うう――くわばら、くわばら――とにかくこの、ヴァラキアのイシュトヴァーンさまともあろうものが、めったにないくらい念の入った窮地に追いこまれてしまったものさ。進むに進めず、ひくにひけず、頼むのはただセムたちがモンゴールを打ち破ってくれるという、あてにならない希望ばかり――イシュタルの銀の尻尾にかけて! グインの畜生はおれたちをおいたまま、一体どこに消え失せやがったんだ?」
イシュトヴァーンは、夜気に寒さを感じたようにぶるっと身をふるわせた。もっともそれも無理はなかった。青騎士の鎧かぶとを、つぎつぎにぬぎすてて火の中へ投じてしまったので、彼はまた、鎧下の胴着と足通しとブーツだけの、いたって昼間向きな薄着になっていたのだ。
彼は女のように、両肩を自分の手で抱いて、おしよせる冷気をふせごうとしながら、そっとあたりをすかし見た。ひろがる砂漠の黒々とした起伏と、オアシスの水が星の光をうつすかそかな輝き、それしかない、しんとし、冷えびえとした、砂漠地帯の深夜である。
「ううっ――一体また、どんな悪魔がおれの眠りを食っちまったというんだろう」
頭をふり、苛立たしげにイシュトヴァーンはつぶやいた。
「たといスタフォロス城の牢のなかでだって、ぐっすり眠れなかったためしなど、一夜とてないこのおれだというのにな――もっとも、だからといっておれが参ると考えたら、とんだまちがいというもんだぞ。このおれ、〈魔戦士〉ヴァラキアのイシュトヴァーンは、いつだって、特別な神の愛児として、常人にない、もうひとつの感覚を、予感、予知としてさずけられていた。船が火事になりそうだと、おれの首すじはあつくなり、こっちの道へゆくと巡察の手がまわっている、という晩は、おれはさむけがして盗みに出るのをおりたもんだ。
だから、おれは信じているぞ――このおれが、こうも眠れなくて、不安で、苛々しているというのは、これは、おれは起きていたほうがよいようなことが、何かあるからにちがいない。神々の祖父たるヤーンには、それなりの都合があるのだ。そうだとも――それを感じないというなら、あのおてんば娘、〈予知者〉リンダも、たいした予知者とはいえないさ。
おお――それにしても、サルくせえといったらありゃしない。いったい、おれがこの前ヴァラキアの火酒をつぼ一杯飲んだのは、何年前だったかしら? 黄色い肌で、途方もなく床上手のキタイの売女を買ったのは、――まるまる一本の豚のあばらの焼き肉を、指をあぶらだらけにして平らげることができたのは――やれやれ!」
イシュトヴァーンは、いくぶん、ひとりごとの声が高くなりすぎたことに気づいて、ひとりで照れながら、オアシスの草むらにひっくりかえった。ひんやりとした下生えが、青草の香りとともに、快く彼をつつみこんだ。
「こんなことは、考えたくもないことだが、考えておかなくちゃならんなら、いつだっておれは考えるにやぶさかじゃない。おれは、愚か者じゃないからな――一体、おれたちはどういうことになるんだろう。もし――万が一、グインが戻って来なかったら……それとも、セムが破れ、おれたちがモンゴール軍に捕えられるようなことになったら――うーっ、ぶるぶるぶる!」
どこから考えても、それは、すこぶるぞっとしない見とおしをしか、提供せぬようだった。イシュトヴァーンは、頭をふり、げっそりしながらいきなり立ちあがり、いやな考えを追い払おうとするかのように荒々しくのびをしたが、その動きが、ふいにそこでそのまま止まり、やにわに、銅像とでも化したかのように硬直してしまった。
それから、彼は、ゆっくり、ゆっくりと、両手をおろしていった。まるで、両腕が胸の中の息を吐き出すふいご[#「ふいご」に傍点]ででもあるかのように、ふーっと深い息をひとつ吐いて手をおろしきると、そろそろと首をもちあげ、もういちどよく、彼の注意をひいたものをたしかめにかかる。
他の面ではどうあれ、少なくともイシュトヴァーンは熟達した兵士であり、傭兵として、本来の彼の年齢よりたっぷり二倍は年をくった兵士ほども、経験をつんでいた。見そこなったり、見のがしたり、ということはありえなかった。
「――なんてこった!」
よくよくたしかめると、また息をしぼりだすようにしてささやく。その黒い目が、異様な輝きをたたえて、闇の中で、ジャガーのそれのように光っている。
「モンゴール軍だ。あかりをけして、ひづめとウマの口を布でつつんで、忍びよろうとしてやがるのだ」
彼は結論を出すと、腰に手をあて、胸をそらして立ち、なおもその、闇の底を黒いヘビのようにのたくり歩いているかたまりに目をこらしながら、どうしたものかと思案した。
「なんてこった。――サルどもは、夜哨を立てるだけの知恵も、兵法も知らんのか。――考えてみりゃあ、ムリもないがな。サルなんだからな。しかし――これは、えらいことになったぞ!」
自分がいまや、裏切者として、モンゴール軍にとってはグインやパロの双児に劣らず興味ぶかい存在になってしまったことは、百も承知である。思案はたちまちについた。
彼は再びのびあがり、よく距離を見さだめると、わざと大あくびをして、ぶらぶらとセムたちのあいだをとおりぬけ、ラクたちの眠っている方へついた。
リンダとレムスは、スニと一緒に、少しはなれた木かげに毛皮をしきつめて、そこで抱きあってぐっすり眠っている。
それをさがしあてると、
「おい――おい、起きろ。おい!」
それまでの、見せかけの平静さをかなぐり捨て、切羽詰った声で呼びながら、彼はそっとリンダとレムスをゆさぶりおこしにかかった。
「うーん」
子供たちは、深い健康な眠りのなかにいた。
リンダは、うるさそうに寝返りをうった。
「なんなの、ボーガン――父さまがお呼び? 朝でないなら、まだ眠らしておいてちょうだい、どうぞ」
「チェッ!」
イシュトヴァーンは苛立ち、ひそめた声でなおも呼んだ。ようやく、レムスが目をあき、ねぼけ声で、「なあに?」と不平そうにきいた。
「まったく、お前たち、王子さまとお姫さまときたら、モンゴール軍がおもて門からクリスタル・パレスにせめこんだって目がさめないのだろうよ! だが起きてくれ、起きるんだ、頼むから!」
「起きたわよ、起きたわよ――なあに、イシュトヴァーン。グインが帰ってきたの?」
レムスより早く、リンダの方がちゃんと気をとりもどして、眠たげにたずねた。それから、自分の云ったことでやにわにはっきりと目がさめたらしく、急に、希望にみちてはね起きて、
「ね、グインが帰ってきたの?」
と叫んだ。
「静かにしろや、頼むから」
イシュトヴァーンはひどい不機嫌で、
「その反対だ。いいか、よくきけ。モンゴール軍が、こちらへ向かってきている。おれの目に狂いがなければ、もうあと一ザンもかからずにオアシスを囲んで散開できるぐらいの距離だ。たぶんそれもモンゴールの主力すべてだろう――シッ、きけというのに」
イシュトヴァーンは、叫び声をあげかけるリンダとレムスの腕をつかんで、きびしく制した。
「たぶん、モンゴールは、このへんが決着のつけどきとふんで、奇襲で一気にけりをつけにかかったのだ。いいか、おれはセム語がしゃべれん。お前たちが、こんな複雑なことを、ちゃんとしゃべれるとは思わんが、あのロトーはいくらかおれたちのことばがしゃべれるのだろう。あれをそっと起こして、まかり間違っても、全軍が大さわぎになるようなことのないよう、そーっとこの話をつたえろ。もしサルどもがさわぎ出して、モンゴール軍が、奇襲を知られたと知ったら、奴らはこっちに戦う準備をする時間を与えぬよう、そのままつっこんでくるだろうからな。それでは、いきなり奇襲をくらったのと同じことになってしまう。いいか、まともにぶつかれば何といったって向うが強いに決まっている。こっちが何とか切りぬけるかどうかは、はじめに知らぬふりを決めこんで、その間に、いかに時間をかせげるか、それだけにかかっているんだぞ。ロトーに、それを、手まねでも何でもいいから、何とかわからせるんだ。さわぐのは、いちばんいけない、ということをとにかくわからせろ。いいか、今すぐに、そっとロトーのところへいってそう云うんだ。偵察隊も出しちゃいかん。とにかく、何ひとつ、奇襲に気づいたってところを、見せちゃいかん。わかったか」
「な――何とか、やってみるわ」
リンダは、ふるえ声で云った。いま、このときに、グインが近くにいない、というのがどのぐらい大きないたでか、かれらはようやく、痛いほどに思い知らされていた。リンダとレムスは目をみあわせて、物もいわず抱きあった。スニが身をおこし、いぶかしそうな物問いたげな丸い目で、三人を眺めていた。
「すぐだ。一刻を争うぞ」
「わ――わかってるわ」
リンダはレムスをおしのけると、スニに向かいあい、ロトーにこっそり会って話がしたい、ということを告げようと骨を折りはじめた。双子とスニは戦闘からも除外されていて、その主な仕事は互いのことばを早くおぼえ、意志の疎通を自由たらしめることにつきたから、はじめにくらべて、スニも双子も、ずいぶん互いのことばを解するようにはなっていたのだが、しかしこういう高度に抽象的な内容を伝えるには互いに力が足りなかったし、いかに心が通じあっているとはいったところで、手ぶり身ぶりで伝えられることには限界がある。
汗をかいているリンダのわきで、傭兵は、もどかしげにじっと見ていたが、やにわに、そのかたわらにおいてあった戦利品の剣をとって帯につるすと、そのまま立ち上がろうとした。
レムスは、リンダの手伝いの手まねをやめて、目を丸くして、イシュトヴァーンを見つめた。
「どこへ行くの。イシュトヴァーン」
「偵察してくるんだ」
イシュトヴァーンの云いかたは、いつもにも増してぶっきらぼうだった。
「あら」
こんどは、リンダも、手話を一時中止してふりかえった。グインほどではないにせよ、グインがいないとなれば、かれらが頼れるのは、この当てにならぬ傭兵のほかにはいないのだ。
「だってさっき、偵察隊を出すなって云ったわ」
とがめるように云う。
「偵察隊を出したら目立つから、だからわざわざ、おれがようすを見て来てやろうと云うのじゃないか」
イシュトヴァーンは勿体らしく説明した。
「おれなら、万一見つかったところで、何とでも云いのがれがきくからな。それも、ロトーに云っといてくれよ」
「それもそうだね」
何となく、はきつかぬ調子でレムスが云い、それをしおにイシュトヴァーンは、あわてたようにまた歩き出した。
それを見送って、リンダとレムスとは、ようやく話の大意をのみこんだスニをうながして、ロトーのところへいそいだ。むろん、かれらは、イシュトヴァーンがカロイの谷でつとめた、ちょっとした――しかし凄惨な役割についてなど、何も知ろうはずがない。グインは、なぜイシュトヴァーンがしばらく姿を消したのか、何も云わなかったし、イシュトヴァーンもまた、むろん自らの不利になるようなことは口にしなかったからである。もし、それを知っておれば、かれらがいかに人を疑うことを知らなかったとしても、さすがに、あの慎重で、自分を危険にさらすことが何よりも嫌いなイシュトヴァーンが、自分から当の裏切りで探し求めているモンゴール軍の前へ姿をあらわしたりなどしようはずがない、ということに気づいただろうに。
しかし、レムスとリンダは何もうたがいを抱くこともなく、ロトーのところへようやく通してもらうと、スニのことばと、身ぶり手ぶりとで、イシュトヴァーンの云ったことを何とか理解させようと奮闘をはじめた。まだ夜は深く、カロイも、グロも、ぐっすりと寝入っていて、近づきつつある破滅と死の忍びやかな足音など耳に入らぬかに思われた。
そのころ、イシュトヴァーンの方は、首尾よく、ラクのサークルをぬけ出すと、偵察にモンゴール勢の来る方向へむかうどころか、それと正反対の――狗頭山《ドッグ・ヘッド》に近い、岩場へむかって、はじめはそろそろと、やがてたいへんないきおいで走っていくところだった。
彼にしても、微かなうしろめたさを感じぬわけではなかった。しかし、彼にとって、つねにいちばん大切なのは自分の生命にほかならなかったし、そして、彼は必要とあればいつでもおどろくほど勇敢になれるのだったが、必要でないときに発揮される勇敢さというものを、何よりも軽んじていたのである。
(そうとも――当のグインにしてからが、われわれをおいてさっさと、とんずらしちまったのだからな! どうして、このおれだけがかわりにモンゴール軍をひきうけて、戦ったりしなくちゃいけない理由がある?)
彼はひとりごちた。彼は、岩のごろごろある、砂丘のはずれまで走るとようやく歩みをとめ、あたりにイドや砂虫や、その他不愉快な生物がいないかどうか、剣でよく叩きまわってたしかめ、それからひとつの岩かげにじゅうぶん身をかくすことのできる場所をみつけると、そこへうずくまり、剣を抱いて目をとじた。彼はちゃっかりと、戦闘がどちらへころぶか、どっちにしても決着がつくまで、お尋ね者の顔をいたずらにモンゴール軍の前にさらして勝ちめのない戦いを戦うかわりに、そこへかくれひそんでようすを見てやろう、というわけだったのである。
しばらく、彼は目をとじて、眠ろうとつとめたが、さすがにそこまでは図々しくはなりきれなかった。目をつぶっても、まぶたの下で目は冴えわたり、さまざまな先行きへの不安や計算が頭を去来し、その上に、あのオアシスとはちがって、このような岩かげにたったひとりうずくまっていることは、砂漠のたくさんの奇妙な生物のことを考えれば、戦闘に加わっていることに比べてさえ、とりたてて安全とは云えないのかもしれなかった。
イシュトヴァーンは、おちつかなげに身動きし、眠ろうとつとめ、不安にかられて目をひらき、またとじた。ついには、目をひらきっぱなしにして、こっそりかすめてきた、かわいたイワゴケの切れはしをかみながら、しきりと、これからのことについてさまざまな計画をめぐらしはじめた。そのほうが、まだいくらか気がまぎれた。
「そうさ――グインが悪いんだ」
彼は、起き直り、ひざをかかえこみ、義務を放り出してリンダとレムスとを二人だけ、モンゴールとの決戦をひかえたセムたちのあいだにおき去りにしたことについて自己正当化をしようとした。
「グインがいりゃあどうにでもなったんだ――だが、豹め、ひとりだけ逃げて、おれに重責をおっかぶせようとたくらみやがった。そうとも、わかるもんか。おれが奴だとしたって、そんな夢のような援軍をさがして自分の生命を危険におとし入れたりするはずもないさ。もちろん、奴は、あの双児を守るのが重荷になって逃げ出したのだ。そうに決まっている――はじめから、そうなることぐらい、わかっていたのだ」
イシュトヴァーンは、ひとりごとというよりは、むしろ、自分を説得したいかのように声を高くした。
「そうだとも。だから、おれが悪いんじゃない。第一おれは双子をおいて逃げようというんじゃない、いまやつらに顔を見られては、おれは一生モンゴールのおたずね者になってしまうから、とりあえず姿をかくしておこうというだけだ。何といったって、セムどもの中にひとりだけ中原の兵士がいれば、あとはどう申しひらきをしようと、おれがあれ[#「あれ」に傍点]をやった、ということは、決まってしまうからな。――おお、恐しいことだ。おれだって本当はあんなことを少しもしたいわけじゃなかった。マルス伯、マルス伯、おれにあの作戦を命じたのはグインなんだ。だから頼む。どうか、恨むなら、おれを恨まず、グインに化けて出てくれ。おれは、あんたが嫌いじゃなかった。これからずっとあんたの亡霊につきまとわれるなんて、まっぴらだ。それじゃあんまり、割があわない――おや?」
ふいに、ヴァラキアのイシュトヴァーンはそのくせ[#「くせ」に傍点]の独り言を、何かにおどろかされたようにやめ、びくりと身をかたくした。
耳をそばだて、じっと、つたわってくる物音をきいていたが、かたく剣の柄をにぎりしめたままつぶやく。
「おお――きこえる、きこえる! はじまったのだ。戦さがはじまったぞ、戦いの女神の角笛にかけて!」
彼のからだは、おさえきれぬたかぶりにふるえ、彼は、さすがにたまりかねたように、そろそろと岩かげを這い出した。
岩かげから出ると、その遠くの物音は、いまやいっそうはっきりときこえてきた。剣のふれあう音、モンゴール軍の雄たけび、
「アイー、アイーッ!」
「ヒャーッ!」
という、セム独特の、あのとき[#「とき」に傍点]の声、ヒュンヒュンと、弩や毒矢の、弓づるのうなる音。
意味のとれぬわめき声と悲鳴、そしてウマのいななき、いくさ特有の、耳をつんざくような、生と死の双方をはらんだ喧騒――どうやら、いまや、モンゴール主力とセム混成軍とのたたかいは、たけなわとなってゆくとおぼしい。夜は、まだ、明けきってさえいない。イシュトヴァーンは、杖がわりに剣の柄をつかんだまま、じっと耳を長くして、何とか、どちらが押しぎみに戦いをすすめているのかを、その阿鼻叫喚からききとろうとした。
しかし、何ひとつ、ききわけることはできなかった。セムの叫びとモンゴール軍の叫びとは、入りまじり、ウマのいななきや金属と石のぶつかりあう音にかき消され、全体に、ひとつの巨大な〈戦い〉の音そのものとなって、もやもやしたかたまりのように立ちのぼっていた。
イシュトヴァーンは、おさえきれぬもどかしさと、焦慮とに、我知らずしだいしだいに身をのりだした。ついには、彼は、すっかり岩の外へ出て、立ちあがったばかりか、岩によじのぼり、目をこらした。
しかしむろんのこと、夜明けまでにはまだいくばくの時間がある。砂漠の向こうのオアシスは、それがどことさえさだかに見わけることはできない。もしも、朝の光があれば、少なくとも戦いの砂塵でもって、戦さのありかはそれと見わけることもたやすかっただろう。
「……」
イシュトヴァーンは、我にもあらず、そわそわしつづけていた。
何度か、岩からとびおり、思いきってかけ出して戦闘に加わろうか、とためらって、あわやそうしかけては、あわてて自分じしんをひきとめる。彼の内で、生まれながらの苦しい戦いに生きぬくためにつちかわれた、自分中心の徹底した狡智と保身の本能と、そのさらに下にかくれている、ほんとうの彼のもって生まれた無垢で情深い心とが、必死に相争ってでもいるかのように、彼は、岩の上に立ち、遠くの物音に耳を傾け、その中に、戦闘のただなかにいるはずの十四歳の双児を思って、うろうろと手をもみしぼっていた。
彼は空をふりあおいだ。そして、もはや、夜が去ろうとしかけていることに気づいた。
空はすでにまったくの闇とは云えなかった。それは群青色にかわり、その東から、あわい光が、少しづつ、少しづつ闇をおしわけようとしている。彼はまた、汗ばんだ手に剣をにぎりしめて南をすかし見、そして、いきなり、
「えい、くそ!」
と叫んだ。
「もう、一体何を考えてるのだ、おれは! 甘いぞ、ヴァラキアのイシュトヴァーン! いったんこうして逃げかくれちまってから、あとからいくさにもぐりこんだりしたら、どれだけ人目をひくと思うんだ? 第一、お前の野望はどうした――国王になる野望は。お前は、サルや、おちぶれた子どもなんかのために死んではならないんだ!」
朝になれば、少しはようすがわかるだろう――そう、彼は、自らに云いきかせた。朝になれば、朝になれば朝の光が、なおもつづく暗がりでの死闘の中にかきわけてさしそめてくれれば。そして、それは、もうすぐだった。
そして、それはまた、グインが約束したその日の日没には、まちがいなく援軍をひきいて戻ってくると、セムたちに約束したその日――日限の四日めのはじまりを告げることになるのだ。
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それより少し前――
「シッ――物音を立てるな!」
「よいか。しゃべってはならん。ウマをいななかせぬよう、ウマのはみ[#「はみ」に傍点]を布でつつめ」
「金具と剣がふれあわぬよう気をつけよ。車をひく歩兵は充分に車輪に油をさしておくのだ」
つぎつぎと、あわただしい命令をもって、伝令がかけまわったのちに、モンゴール全軍は、粛粛と行軍を開始したのだった。
先頭に立つのは、ポラックを従えたアストリアス。自ら志願した斥候の任務を、首尾よくセム本隊の現在地を見出すことで果たし、アムネリスからはじあてやさしい賞讃のことばをかけられて、いまや、彼はいやが上にも――生まれたばかりの若駒のようにはやりきっている。
これがさいごの戦いとなる――少なくとも、何回かつづく激烈な、勝敗を決める大決戦の、真のはじまりとなる。そのことは、モンゴール軍すべてが、いたいほどわかっていることでもあった。
(もう、逃がさぬ)
(決着をつけるのだ。この日を、セムの滅亡の日にしてやる)
(このいくさがおわれば――ケス河の彼方、なつかしいモンゴールへ、帰ることができる)
思いは、それぞれに異るところにあるにせよ、そのはやる心はひとつである。
「よいか――セムのとどまるオアシスより五タッドの地点で、いったん全軍は止まり、二《ふ》た手にわかれること。一隊は迂回し、オアシスの北方よりかかってセムどもの退路をふさぎ、本隊は南から、まっすぐセム陣内にかけ入る。迂回隊の指揮はイルムがとる。そのさい、イルムは、半月形に兵を配置し、セムどもが東、西いずれかへ逃走路を見出すこともできぬよう、心を配るのだ」
「万が一散開前にセムどもが奇襲に気づくことがあれば、合図のラッパを吹く。そのまま全軍は南よりまっしぐらにセムを攻撃せよ。ただしイルム隊はそのままセム陣内をつきぬけ、そこで隊形をととのえて、あらためて退路を断て」
「くれぐれも、セムに戦さにそなえるいとまをあたえるな。いったん、突撃の命あらば、しゃにむに前進、攻撃、撃滅せよ」
「一匹もきゃつらを生かして逃すな。豹人、裏切者アルゴンのエル、パロの双児、この四人を生けどりにせよ。ただしセムは一匹たりとも容赦をするな」
「ノスフェラス砂漠より、セムの姿を消してしまえ!」
つぎつぎにとばされた伝令は、激しい、総司令の憤りと復讐にもえる心とを、そのまま伝える苛酷な下知をふれまわった。
しかし、それも、行軍が開始されたとき、ぴたりとやんだ。もはや、セムに気づかれまいという、奇襲の用心が早くもはじまっているのだ。
アストリアスの赤騎士隊につづき、リーガンを失ったアルヴォン騎士団。隊長タンガードを重傷で後方送りにし、ことばもないツーリード黒騎士団。
ヴロンとリント率いる旗本隊の白騎士二千は、ほとんど無傷である。まんなかに公女アムネリスが、魔道士たちの二台の輿を従え、フェルドリックの伝令隊に守られて馬上にある。そのあとから、だいぶんその数を減じてしまった歩兵たち。
しんがりを、迂回部隊を命じられたイルム隊が守った。かれらは、遅れぬようにつとめるだけでなく、たびたび後方を注意し、砂虫や、その他のノスフェラスの化物があとを追ってくることのないよう、セムの斥候にあとをつけられることのないよう、気を配らなくてはならない。
布をかぶせたひづめが砂をふむたびに、ぱっぱっとやわらかく砂が舞いあがり、月もない砂漠の夜のなかで、ふんわりとした霞を形作った。セムの歩哨の目と耳をおそれて、早くも、しゃべることも、物音をたてることも禁じられている。唖の大蛇のようなウマと人の群れは、粛々とひそやかに夜の砂丘にかくれ、また砂の波のさなかへあらわれ出る。
ケス河をわたり、防衛線をあとにして砂漠にふかくわけ入るときには、それは、マルス伯をはじめ八大隊長にそれぞれひきいられる、一万五千の堂々たる軍勢であった。
いまや、マルス伯を失い、リーガン小伯爵を失い、タンガードを負傷させて、その軍自体も一万に大きく足りないまでにその数を減じている。とはいえ、それはやはり、威容を誇る大行軍に違いはない。
(わたしは、ノスフェラスを甘く見すぎていたのだろうか……)
「――姫さま?」
アムネリスをのせて歩む白馬、その白馬の左右に従う、ウマにのせた輿の、左側のひとつの垂れ幕が、こころもちあがって、にぶく光る目がのぞき、ひくい声がいった。
「何か、云われましたか?」
「よいのだ、ガユス。独り言だ」
アムネリスは手綱をとる手をあげて、かるく振った。あとで、誰もきかぬ天幕のうちで相談をもちかけるならばともかく、全軍の総大将は、決戦に向う馬上で、たとえ参謀にでも、自らの決断に疑いを抱いた一瞬をみせてはならなかった。
さらにかぶとをひきさげて、もはや声に出すこともないままに、アムネリスはひとり呟いていた。
(この砂と岩の不毛の地は、広い。あまりにも、広い。――一万五千でなく、十万の兵をひきいてこられれば、あるいはもっと、ことはたやすかったのかもしれぬものを――思いもかけぬセム族の抵抗のおかげで、もう、持参の水と糧食もたいしてのこり多くはない。もし、ここでさらに戦いが長びく形勢にでもなれば、ここは砂漠、そのへんの村落から徴発もかなわぬゆえ、ともかくいったん矛先をおさめ、防衛線まで戻らねばならぬ。その、帰路何日かの分も考えに入れなばならぬ。それはしたくない、それではすべてが徒労にひとしい。その間にセムどもは体勢を立て直し、あるいは北の山岳地帯へ逃げこんでしまうかもしれぬ。わが方の士気にもおびただしい影響が出よう。まるで、それでは、砂で城をきずいては、風にくずされているような……)
「ガユス」
彼女はかぶとをこころもちおしあげ、声を、あまり先まではきこえぬ程度に大きくした。
「は……」
輿のうちから、にぶい返答がある。
「ガユス、どう思う。フェルドリック隊の一小隊をケス河畔の留守部隊へつかわし、おっつけアルヴォンへ到着しているはずの、増援の部隊にわれらのあとをたどるよう、伝令を出した方がよいと思うか」
「はて――」
「それとも、やはり伝令を出し、とりあえず補給線を敷かせるか。――ただわたしは、いたずらに長びく体勢にはしたくない。なるべく、早急に――このたびのセム殲滅さえうまくゆけば、そのまま防衛線まで引き返し、あらためて砦をきずくべく出直したいのだが。――正直のところ、トーラスも気になる。クリスタルの占領軍も、気にかかるのだ。急な任務でパロ占領軍の司令代理には、ポーラン伯をおいてきたが、わたしがクリスタルを発つ前後から、あちこちでパロの残党が兵をあつめ、占領軍になおも歯向うようすがしきりだった」
アムネリスは、うっとうしげに、かぶとの下に手を入れ、垂れかかる金髪をかきあげた。
「気になる」
「御意……」
にぶい声が云って、ガユスはしばらく、じっと考えに沈むようすだったが、やがて、ゆるやかに垂れ幕を少しおしひらいて、
「おそらく、増援部隊が参るまでには、ことの決着がついておりましょう。また、それまでに決着がついておりませぬようでございましたら、増援があったところで、分散し、離合して戦うセムの小部隊を、ことごとく退治ることは困難となりましょう」
「増援の必要は、いまは、まだないと申すのだな」
アムネリスはいくぶん欣然とした。考えが、彼女のそれと一致したからである。
「それよりは、伝令をお出しになるといたしましても、状況を報告し、いつなりと動けるよう準備しておれと――」
「ふむ。わたしも、そう考えていた。戦いながら動くうちに、かなり、方角があいまいになっている。ここらで、いま一度、わが軍のおよその位置を留守部隊に報せておく必要もある」
アムネリスは、考えぶかげに云った。
「しかし、もうずいぶんと内陸ふかく入りこんだようだが――もう、ケス河なぞ、影も形も見えもせぬが、これでもまだ、ようやく砂漠へ一歩をふみこんだにすぎぬのだな。カル=モルの見たという〈瘴気の谷〉など、まだどこにも、この方向だというようすさえないし、あの岩山をこえた向こうにも、まだまだノスフェラスが続いているのだろう」
「……」
「ガユス。――ノスフェラスは、広いな」
「は。――広うございます」
アムネリスは、もう少し何かを云おうとしたようだった。
しかし、考え直して口をとざし、そのままウマを歩ませた。重たい静寂がふたたびかれらの周囲をつつみこんだ。
かれらは進軍をつづけた。進んでも、進んでも、あたりはゆるやかに起伏のつづく砂原であり、とろりとした凪の海面ででもあるかのように黒くなだらかにひろがっている。行けども、行けども、目当てのオアシスはあらわれて来ないように思われた。ときたま、この単調な、眠けをさそう夜の行軍を、するどい叫び声や、奇妙な耳ざわりな物音が破る。
それは、砂の中からくねり出てきた、オオアリジゴクの触手をみた悲鳴であったり、突然音もなく、ぽかりと砂の中からあらわれ出た大喰らいが、あわてて兵たちのつき出した槍さきをくわえこみ、ごきりという音をたてて折ったのであったりする。
「――シッ!」
そのたびに、ひそやかな叱声がとぶ。モンゴールの兵士たちも、いつの間にか、すっかり、ノスフェラス砂漠とその奇怪で奇形な住人たちに、慣れっこになりはじめているようであった。
粛々と、モンゴール軍は進む。――ごくたまに、アムネリスの命をうけて軍列の右側をかけぬけてゆく伝令だけが、しじまを破って新たな命令をつたえる。が、それも、砂漠にいんいんとひびきわたるというにはあまりにも、おさえた声で、方向や、激励や、指示を伝達してゆくだけである。
嵐の前、ともいうべき奇妙な静けさが、ノスフェラスをつつんでいた。いつも、ノスフェラスの夜は死のようにとろりと静まりかえっているが、ことさらに、その夜の静寂が、ふかく感じられるのは、日の出前にはじまるはずの、殺戮と、狂気とを、かれらが予期しているからか。
今夜は、頭上に月もない。――いや、それは、出てはいるのだが、ノスフェラスには珍しい雲がかかって、ともすればその青白い冷やかなすがたは隠されがちになる。隊列が、砂丘のかげに入り、またゆるゆるとあらわれて来るのに相呼応するかのように、霞のうすぎぬをつけた月の女神、青白いイリスもまた、雲にかくれて世界をまったき闇の中に取り残したと思うと、再びその気まぐれなおもてをあらわして、砂丘の黒々とした起伏を、ひんやりとした青白い輝きの下に照らし出す。
あまり数はかぞえられぬ星々が、彼女のささやかな取り巻きとなり、先達をつとめる。隊列が進むにつれて、空はかたむき、いまにもかれらの上に落ちかからんばかりに近づくかに見えて、その実決してかれらに歩みよってくることはない。
ときおり風がかれらの頬をなぶってゆくと、決まったように、風に乗ったエンゼル・ヘアーがほの白くかれらにまつわりついてきた。もう、それにおどろかされることも、それに肝を冷やされることも、モンゴールの兵士たちはなくなっている。それが、無害で、ただ荒涼たるノスフェラスの風物にいくぶんの色どりをそえる奇妙な存在でしかないことは、かれらにもよく知られはじめたのだ。エンゼル・ヘアーは、ウマや、人や、鎧のはしにぶつかり、そのまま音もなくすうっと溶けて、あとには何ものこさなかった。その、はかなげな風花に、人々は何の注意も払わなかった。
黙々として歩を進める部隊に、ノスフェラスの夜はひときわ重たげにのしかかって来る。アストリアスは、全軍をうしろに従え、静かにかれらを決戦の場にむけて導いてゆく。ひさびさにその顔は晴ればれとし、その目は闇にこらされて、どんなきざしも見そこなうまいと、オアシスの水のわずかな照りかえし、前方にうごめく人の影、何ひとつ見おとしのないように、きッと見張られている。
この先鋒は、夢にまで見た好機であった。手柄をたて、公女の目にとまり、その心にかなおう、という、ささやかな彼の夢のためにヤーンの与えてくれた機会である。
アストリアス、この若い貴族の将校は、なにも、アムネリスの目にとまっての立身出世だの、あるいは、その二つ年下の美しい公女の、駒《ふ》[#表示不能に付き置換え「馬+付」、第4水準2-92-84「P170」]馬たるの資格をあわよくば得ようなどと、そんな野望を抱いているわけではなかった。彼が、そう望むのが、それほど分不相応であった、というわけではない。彼の父親は古い家柄の伯爵で、治安長官の地位にあり、ヴラド大公の信任もあつい。いずれは、アストリアスが長男として爵位を継ぎ、手柄しだいでは、左府将軍への昇進も、夢ではないであろう。
家柄も毛並みもよく、年頃も申し分がない。もし、大公が、他国の皇族との政略結婚よりも、国内のしかるべき家柄から公女の婿をむかえて、地盤をかためるのが得策であると考えるのであれば、死んだリーガン小伯爵や、マルス伯のあととりのマリウス子爵、そういった同じ年頃の青年たちと並んで、アストリアスの名も、当然候補のひとりに上ってくるはずである。
しかし、アストリアスは、そうしたことを、何ひとつ考えてはいなかった。
それをひそかに夢見たのではない、とは云わない。彼は、アムネリスを恋しており、それも初恋のすべてのういういしさといちずさをかけて崇拝している。自分でも、とっくにその自らの感情には気づいていた。だが、アストリアスは、一本気で、きわめて騎士らしい性情をもつ、ひたむきな青年であった。
公女の愛や、その夫の座や、そうした褒賞をあてにして彼女を慕うのは、不純きわまりないだけでなく、冒涜ですら、あるような気がする。認められよう、手柄を立てよう、と思うのも、それによって、美しい彼女をふりむかせ、自分に心を向けてほしい、からではない。
アストリアスにとっては、アムネリスの、「よくやった」というひとこと、「手柄であった」というほほえみ、それひとつで充分すぎるほどであった。賞讃のことば、勲章、爵位、そんなものが何になろう。
(おれは、アムネリス姫の騎士になりたいのだ。おれは、姫の一顰一笑のために死にたい。それが、おれの生まれてきたいわれであり、おれの本懐とするところだ)
若い激情は凝って、いまだ何ものにもとどめられることを知らぬ、最も至純なまじりけのない炎をたぎらせている。
そのためにも、彼は手柄を立てなくてはならないのだった。
(よりによっておれ――この、おれの斥候隊に、セムどものオアシスを発見させてくれたのは、ヤヌスのおはからいにちがいないのだから)
そう、彼は信じこんでいる。
やわらかで足元の危い、何物がひそむかわからぬ夜の砂漠を、注意しながらゆっくりと進んでゆくのはもどかしかった。たびたび、彼のひざは苛立たしげに、がむしゃらな疾駆を命じ、ムチをふるいまくりたくてたまらぬように、ウマの腹をぎゅっとしめつけた。
ガユスとカル=モル、ふたりの謎めいた魔道師をのせた輿は寂として声なく、中にはたして人がいるのか、と疑わせるように、静かにアムネリスの両脇を歩んでゆく。後衛のイルムは親友タンガードの悲運の負傷に、セムへのにくしみをいちだんとたぎらせ、ぎりぎりと歯をくいしばってタンガードの青ざめた血まみれの顔を思いうかべている。
それぞれに、異る思案があり、ひそかな決意がある。半分近くにまで減ってしまったモンゴール遠征軍は、いちど、わずか十五タルザンの休憩をとったなりで、ひたすら、東へ! 東へ! と前進しつづける。
その間に、天にかかるイリスもまた、雲に見えがくれしながら、まるで地上のかれらときそいあいでもするかのように、ひたすら西の地平を動きつづけていた。
「ガユス、時間」
「日の出まで、二ザンはございませぬ」
「遅い」
アムネリスは、ちょっと、くちびるをかみしめた。吐き出すように云う。
「日が上ってしまっては何もかももとの木阿弥だ。そのオアシスは、そんなに遠いのか。アストリアスはオアシスまで約三十タッドといった。もはや、三十タッドは充分に、進んできたはずだ。まったく――」
アストリアスは、頼りにならぬ、とでも云いたげに、アムネリスが鞍つぼにのびあがり、前方の、夜明け前の濃闇を、すかして見た――そのときである。
「――見えたぞ!」
ふいに、隊列の先頭の方から、ひそやかだが、おさえてもおさえきれぬざわめきが伝わって来た!
「セムのオアシスだ! 前方およそ五タール!」
「見えたか! よし、全軍停止、散開の用意を。フェルドリック、伝令!」
「心得ました」
アムネリスの命に応じて、フェルドリックが、部下の伝令隊に命令を発しようとした。
が――
「いや――ちょっと待て!」
やにわに、アムネリスの顔に緊張の色が走る。そこへ、前列をはなれて、夜目にも鎧かぶとの緋色もあざやかな赤騎士が二騎、あわただしく本陣めざしてかけもどってきた。アストリアスの部下である。みるみる、アムネリスの頬がひきしまる。
一方、アストリアスは、モンゴール軍の先頭で、おぼろに見おぼえのある地形をたしかめ、小踊りしていた。
「よーし、近いぞ!」
斥候から、本隊さしてかけもどるおりに、目じるしにとのこしていった道標の、さいごの一個を、ウマからとびおりたポラックが、欣喜雀躍してひろいあげた。
「間違いありません、隊長殿!」
「よし、殿下のところへ、一騎走らせろ。すぐに総攻撃の陣形をとるからな」
声をひそめながら、アストリアスは小手をかざして、先刻たしかに見た、セムの全軍がそこかしこで眠り呆けている大きなオアシスをたしかめて見ようとした。
が――そのからだが、ふいにぴくりと固くなる。
「どうしました、隊長殿!」
すでに部下をよびよせて、アムネリスのもとに報告に出そうとしていた副官のポラックは、びっくりして、若い隊長を見あげた。
「ちょっと待て――ようすが変だ」
アストリアスの声がにわかに緊張している。
「セム軍に、動きが見える。何か、あわただしい気配がするぞ。そう、思わんか、ポラック」
「そういわれれば――」
「気づかれたかな」
アストリアスとポラックは、闇の中で一瞬見つめあった。気づかれたのであれば、奇襲は完全に失敗である。
「斥候を出しましょう、隊長殿」
「よし。騎馬でなく、徒歩で近づけるところまで近づかせろ」
「すぐに!」
たちまち、あわただしさが、モンゴール全軍にもひろがっていった。闇はもうかなりうすれ、夜明けの紫が、夜闇の黒にとってかわりはじめている。
斥候が帰ってきて、セム陣内に、ただならぬざわめきと、あわてふためくようすがあることを、せきこんだ口調で告げた。
「どうやら、われわれの奇襲は、気づかれた模様であります。セムどもは、オアシスの中を右往左往し、ざわざわと、おそらく、戦闘用意にすっかりうろたえているようすであります」
「ウム――」
アストリアスは、口惜しそうな顔をした。
が、次の瞬間、
「用意にうろたえさわいでいる、それならまだ戦闘用意は、すべておわったわけではないのだな。たぶん、いまさっきの地点でようやく気づいたのだ。よーし、来い、ポラック!」
「はーッ!」
たちまち主従二騎は、隊列をはなれ、すさまじい勢いで長い隊列をかけもどった。疾風をまいてアムネリスの白騎士隊にかけこむと、そのままアムネリスの前へ、下馬の礼もとるいとまがなくかけつけてゆく。
アムネリスの決断は早かった。
「全軍、総攻撃!」
「総攻撃!」
「セム軍を掃滅せよ!」
ただちに、新たな下知が、モンゴール軍全隊に下される。
八千の軍勢は、動き出した!
もはや声をひそめる必要も、ウマをおさえることもない。すべての騎士のムチがあがってウマの尻を叩き、その拍車は馬腹を蹴った。さながら、水の中を、くねり泳いでいたミズヘビが、やにわに水面にとびあがって物凄い勢いで突進しはじめるように、砂煙が舞い立ち、ドドドド……と隊列は前へむけてくずれた。
「モンゴール! モンゴール!」
前方では、オアシスじゅうに、すさまじいうろたえきったさわぎが野火のようにひろがっていた。
「アイー、アイー!」
「アルフェットゥ!」
アムネリスは、手にした采配をさっとばかりふりおろす。
「皆殺しにせよ!」
鋭い声が、拡がりゆく混乱をつらぬいた。
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3
「敵だ! オームだああーッ!」
絶叫が、セム陣内にひびきわたるにつれて、みるみるセム全軍には、手のつけられない混乱がまきおこりはじめていた。
イシュトヴァーンに注意されて、あわててパロの双児がロトーに注進をしにいったときには、すでに事態は手おくれであったのである。
半ば猿に近いセム族は、人間よりもかなり鋭敏な嗅覚をもっている。モンゴール軍の、音を消し、息をひそめた用心にもかかわらず、かれらがオアシスから五タッドばかりに近づいたとき、軍のいちばん外側に身をよせあって眠り呆けていたカロイたちは、ふいに何かつよいおどろきにでもうたれたようにとび起きた。
そして、きょときょととまわりを見わたし、半ばというよりどこからどこまでけだものそのものであるようなしぐさで、くんくんとあたりを嗅ぎ、キーキーと声をあげあった。
そのころ、リンダとレムスはころがるようにしてロトーのところへかけこみ、すでに薄情なイシュトヴァーンがかれらを見すてて一人だけ安全なかくれがへ身をひそめたとも知らずに、身ぶり手ぶりで懸命になって事情をわからせようとしていたが、それをすっかりロトーにのみこませるいとまもなかった。
ふいに、セムたちのようすがかわり、きッとなって闇をすかし見ようとする。オアシスの外のほうで、何か、キーキー、ヒーヒー、とけたたましく、甲高くさけびかわす声と、バタバタとかけまわるもの音がきこえはじめたのだ。
ロトーの、年老いた賢そうな顔が、急にけわしくなった。
「シバ! シバ!」
しきりと呼んでいるところへ、若いラクの戦士がかけこんで来た。
すっかりあわててしまって、ろくろく口もきけぬほどである。リンダとレムスが不安げに手をとりあって立っているのになど、気づきもしないようすで、うしろの闇を指さし、カン高くたてつづけに何か叫ぶ。むろん、リンダとレムスにはわからない。
「……!」
何か、ロトーが叫び返した。
「アルフェットゥッ!」
ひどく腹をたてでもしたかのように、かれらの神の名を叫んだと思うと、やにわにがばと立ちあがる。
立ちあがっても、せいぜいリンダの胸のあたりまでしかないが、そこは大族長で、何かしら人をおのずと威圧するものがそなわっている。ロトーがたてつづけに命令を下し、あわてふためいてラクたちがかけ出すころには、セムのキャンプすべてにカロイの動揺が波及していた。
夜は歩哨をたてて奇襲にそなえ、つねに起きて槍をとれるようそなえておく、そんな戦術の第一歩にも、あまり縁のない砂漠の蛮族である。
モンゴール兵よりはいささかの夜目がきくとはいえ、急な奇襲を知らされて、うろたえさわぎ、自分の武器を求めてかけまわり、他人に衝突しては大声でののしりあったり、人の武器をひったくろうとしたり、あるいはこのさわぎにも悠然として眠りこけているやつに蹴つまづいて、悲鳴をあげたりする。
族長たちは大声でわめきつづけ、指示を叫びつづけたが、あまり効果があるとも見えなかった。奇襲に気づいたことを、気づかれぬよう、寝静まっているふり[#「ふり」に傍点]をして戦闘準備の時間をかせげ、などという、イシュトヴァーンの指図は、なくもがなというよりは、はじめからまったく無駄であった。
もしも、グインがいれば、彼の強烈な指導力はそのセムたちをさえなんとかとりまとめ、おちつかせて、隊伍をたて直させ得たかもしれない。
しかし、ロトーでは、他の族長たちをおさえる力はなかった。ことにカロイは独立独行の気概がつよい。
いちばん早く気づいたこともあって、そのカロイ族が比較的早くに混乱状態からぬけだし得た。かれらは自らをセム中の戦士の種族をもって認じている。オノをとり、毒の吹矢筒をとると、ロトーがしらせをきいてとめるいとまもなかった。
「アイヤーッ!」
大族長たるガウロの命令一下、ろくろく陣形もととのえぬまま、やにわにオアシスをかけ出した。
「カロイにつづけ! 敵を迎えうて!」
イラチェリが大声でわめき散らす。それに従えられてグロもキャンプをはなれる。戦術も、陣そなえも、あったものではない。
いっぽう、奇襲をすでに気づかれた、と知ったモンゴール軍も、ぐずぐずしてはいなかった。
「突撃!」
「総攻撃開始!」
立てつづけにアムネリスの口から命令が発せられ、アストリアス隊を三角のくさびの頂点として、まっしぐらにオアシスめがけてのこりの距離をかけぬける。
ここまで互いに近くなっては、弩でもっての牽制や、罠を警戒してのさぐりあいも無意味であった。ただひたすら、両軍がまっこう正面からぶつかりあい、力と力でもみあい、おしあうばかりである。
ウマのひづめが砂を蹴ちらし、解きはなたれて激しく剣は鎧や鞍とぶつかりあった。オアシスまでの、さいごの数タッドは、たちまちのうちに走りぬけられた。
「隊長! セムが向かってきました!」
ポラックが叫ぶ。
「小癪な! 一気にもんでおしつぶせ!」
アストリアスが叫び返した。ころがるようにしておしよせてくるセム軍は、てんでばらばらにオノをふりあげ、あの耳ざわりな奇声を発しながら、モンゴール軍にぶつかってきた。
「アイー! アイヤーッ!」
「ヒャアーッ! ヒャアーッ!」
すでにもう、幾度となくきかされている、セム特有のけだものじみた雄叫びである。
「かかれ、かかれ! かかれーッ!」
アストリアスは腰の剣をぬき放った。
セムたちはイナゴのように、モンゴール軍の先頭をかけぬけるや、そのままとびついて来た。大きくとびはねてウマの上にとびのり、ひょいひょいと騎士の剣をかいくぐって、鎧で身の重い騎士の頭へ思いきり石オノをうちおろす。
下から来るものはウマの足を石オノでなぎ払い、毒矢を目にむけて吹きかける。思ったより早く、ふいをつかれたセムの逆襲の用意はととのえられたようだった。たちまち、オアシスの手前でめちゃめちゃに入り乱れた混戦がくりひろげられる。
そこへ、ようやく、ラクとラサ、ツバイの戦士たちがかけおりてきて戦列に加わった。
「アイヤーッ! アイヤーッ!」
「モンゴール! モンゴール!」
「ヒャアアーッ!」
さながら巨大なイナゴにたかる黒アリに似て、セムたちは、ふいをつかれたいたでを感じさせぬ。だが、その顔をくまどっている戦いの顔料は、そこまではとうていいとまがなかったとみえて見あたらず、闇の中では、どれがどうとその種族をたがいに見わけることもできない。
ぶんぶんとふりまわす騎士たちの長剣に、あたると小さなセムのからだは金切り声をあげてうしろへふっとび、砂の上へころがりおちる。
「イルム隊――前へ! イルム隊、前へ!」
「迂回せよ。セムの退路を断て」
「敵は案外に小人数だぞ!」
つぎつぎに伝令がかけぬけ、くさび形にオアシスへむけてつっこんでいったモンゴール主力をしりめにかけて、ゆるゆると最後尾のイルム隊が動き出した。
かねての打ちあわせどおり、大きくまわりこみ、半円に陣をひろげて、セム族の退路をふさぐためである。ここでまたセム族に砂丘の彼方へバラバラに逃げ散られては、もはやモンゴール軍はそれ以上ノスフェラスの奥地へ踏みこんでそれを追いつづける余力をのこしていない。イルム隊の任務は、重大であった。
すでに激しい戦闘のくりひろげられているかたわらをイルム隊はまっしぐらにかけぬけた。
「オアシスを通りすぎるのだ――オアシスと向うにみえる岩山のあいだのところで網をはれ!」
イルムがわめく。
「弩隊、前へ――歩兵隊、散開!」
その、イルムの目標として指さした岩山こそは、イシュトヴァーンがかくれひそんだ場所なのだがむろん、モンゴール軍がそうと知っていよう筈もない。
しだいに明るさを増してくる夜明けの光の中で、左右に剣をふるいながらしきりとまわりをたしかめていたアストリアスは眉をしかめた。
「ポラック」
「ヒャアーッ!」と奇声をあげてとびあがり、ウマの頭にとびつこうとしてきたカロイの戦士を、ウマの手綱をひいてとっぱずしざま、剣で叩き切る。足もとを払ってきた石オノをよけてウマをひらりとジャンプさせ、余裕しゃくしゃくの戦いぶりを見せながら、アストリアスは怒鳴った。
忠実な副官は隊長の身を護ろうと、ずっとアストリアスに近くウマをかってセムたちを切りふせていたが、
「何です、隊長殿」
剣をほこ[#「ほこ」に傍点]のように使って、とびかかってきたセム族をみごとに串ざしにしながら、大声で云い返す。つき刺された傷口から、ねばっこい血がシャワーのように噴出してきて、彼の赤いかぶととその下の顔にかかったので、彼は呪いことばを吐いてウマをさがらせ、マントの端で顔をぬぐった。
「おかしいと思わんか――あやつ、どこにもいないようだぞ」
「豹人ですか!」
ポラックは、若い隊長の、グインに対する確執を、ことのはじめからわかちあっている。おや、というようすで左右に目をはしらせたが、
「そういえば――しかしまだ、セムの主力はオアシスにおりますからね。おそらく、あの中にいるのでしょうよ」
「それだけじゃない。例の裏切者も、パロの双子もいない。セムの中だ。いさえすれば、必ず、ひどく目立つはずだが」
「オアシスですよ!」
ポラックは、アストリアスがそれをさがすのに気をとられて、いくぶん戦闘の方がお留守になっているのをみてとって、ウマを近よせて来ながら注意した。
「隊長、うしろ!」
「おっと――」
アストリアスはふりかえり、うしろから忍びよって、ウマの尻に毒矢を吹きつけようとしていたセムを、激しく剣で切りとばした。
シュッと血がふきあげる。
「オアシスか――」
ようよう、夜は明けてゆこうとしている。
もう、あたりは紫でも青でもなく、白に青の入りまじった明るさにつつまれていた。セムたちのむきだす黄色い歯も、その全身をおおっている剛い黒や茶の毛も、石オノにこびりついた古いかわいた血の色さえ、はっきりと見てとることができる。
アストリアスは混戦の状況を見さだめようとあたりを見まわした。
彼の目に入ったのは、イナゴの群れとアリの群れの入り乱れるように、あるいは一人の騎士にびっしりとセムの戦士たちがとりつき、あるいはウマをとばして縦横に蛮族をモンゴール兵が切りまくってゆく、めちゃめちゃな大混乱だった。セムたちは、戦法も、リーダーも何ひとつあったものではなく、ただもう滅茶苦茶に切りかかり、おそいかかってくるばかりだ。
「ポラック!」
「は!」
「よし、では、そのオアシスの中へつっこんでやろうじゃないか」
「かしこまりました!」
ポラックの手があがり、ムチが大きく打ち振られる。
アストリアス隊の赤騎士たちは、日ごろの訓練のほどを思わせるすばやさでセムの獲物をうちすてて、隊長のまわりヘウマをかりたててかけ寄って来る。
「オアシスへつっこむぞ! 狙いは豹人とアルゴンのエルだ!」
イルム隊がこの入り乱れた場面のわきをかけぬけ、オアシスのかたわらをもかけぬけていったのへ目をちらりと向けながら、アストリアスは大音声をはりあげた。ちらりとうしろをふりかえる。リーガン隊の残党と、アストリアス隊の後半分、それへ、アムネリスがヴロン隊とリント隊を前へ進めたと見え、茶と黒と褐色のセムたちのあいだに、赤騎士の赤いよろいにまじってあざやかな白いよろいが見えかくれしている。どうやら、戦いの局面はモンゴールが押しぎみに進めていると見られる。
(当然だ。こんな、小さい、ろくな装備ももたぬ蛮族、ふいをつかれたり、つまらぬ小ざかしい策略をつかわれるならともかく、正面からぶつかるなら、このモンゴール軍がおくれをとるはずもない)
アストリアスは面頬をおろした下で、ニヤリと会心の笑みをうかべた。
「おい、今日という日を、セム族最後の日にしてやれ!」
「おう!」
いっせいにあげる喚き声を快くきいて、アストリアスは馬腹をけった。
「オアシスへ!」
アストリアスと、彼につき従うポラック以下の赤騎士の勇士たちは、混戦の中をつきぬけ、オアシスへの残りの距離をかけぬけた。
そうと見て、セムたちがわッと左右から、それを防ごうとかけ寄ってくる。
「アイーッ!」
「イイイーッ!」
石オノをふりかざして威嚇しつつ、オアシスとかれらのあいだにわりこもうとする小猿人たちを、赤い鎧をつけた騎馬のひづめが蹴散らし、長剣がその頭上でふりまわされた。
「ギャーアーッ!」
たくましい馬のひづめにかけられて、はねとばされるカロイの口から悲痛な絶叫がもれる。
「邪魔立てするな!」
アストリアスは、再び馬腹に思いきり拍車をあて、オアシスへ先頭切ってかけこんだ。
何本かの木と灌木、その下生えのあいだに、奇妙なかたちにまがりくねった、茶色っぽい水をたたえた池がある。
セムたちはすでにすっかり身ごしらえを終え、モンゴール軍の先陣がオアシスへかけ入ってくるのを、いまや遅しと待ちうけていたようだった。たちまち、木のかげ、池の岩のかげから、シュッ、シュッ、と蛇の威嚇のようなするどい音をたてて、小さいが致命的な猛毒をもった吹矢がかれらにおそいかかってくる。
アストリアスはいっそう深く面頬をひきさげ、頭を馬の首の上に伏せて、顔を矢から守りながらつき進んだ。
「キャアァーッ!」
その剣で右へ払いのけられたセムが絶叫して池の水ぎわへ倒れこむ。まっぷたつに割られた頭から噴出するふんだんな血が、茶色がかった水に、ゆらゆらと鮮紅の波をおこす。
赤騎士たちはザブザブと池の中へウマをのり入れ、砂漠の貴重な水をふみあらしてしまった。ひづめにかきまわされて、底の砂がまいあがり、池は泥の暗い色にみるみるにごり、それへ、倒れたセムたちの流す血が流れこんで、泥色の水面をさらに暗紅色ににごらせる。
「ヒイイーッ!」
「アイーッ!」
毒矢の筒を投げすてたラクたちが、石オノをふりかざして突進してくる。
アストリアスは、油断なくセムに気を配りながらも、グインを求めて、狂おしく目をあたりへさまよわせた。彼は、その豹頭の戦士に与えられた屈辱を、どうしても忘れることができなかった。
しかし、見わたすかぎり、あれほど目に立つはずの豹頭の偉丈夫のすがたはどこにもない。マルス伯を裏切った、青騎士らしい姿もない。オアシスの草のあいだを走りぬけ、あるいは木の上から奇声もろともとびおりてくるのは、すべてセムの矮小な毛ぶかいすがたばかりである。
おかしい――かすかな疑惑が、アストリアスの胸をよぎった。
(ここにいないのか。そんなばかな――それでは、これは、セムの主力ではないのか? いや、だが、この数をみれば、もはや別のところにさほど大勢がいるとも思われん)
「危い!」
ポラックのするどい叫びをきいて、さッときたえぬいた身ごなしで身をしずめ、頭をなぎ払った石オノをやりすごすと、くるりと馬首をたてかえざま、ぶんと剣をとばして小さな頭をふっとばす。
だが、アストリアスの心には、何かえたいのしれぬ不安がわだかまっていた。豹頭の戦士の、たくみで縦横な策略によって、これまでいくたび苦杯をなめさせられたか知れぬ。
(また、奴め何か……)
たくらんでいるのではなかろうか、いくらかのセムたちをひきいて、何か、常人では考えも及ばぬ奇手をうつべく、どこかへひそんだのではあるまいか――その不安を、どうしても、ぬぐい去ることができない。
「グイン! グイン、どこだ!」
そのわだかまりを、何とかふきとばそうとでもするように、アストリアスは、手綱をひいて池の反対側の岸にぬれたままかけ上りざま、思いきり大声をあげた。
「かくれているのか、卑怯者! 出てきておれと戦え! アストリァスはここにいるぞ。アルヴォンのアストリァスがきさまとさいごの対決をいどんでるのだぞ。グイン! グイン、どこだ!」
さながら、まだ見ぬ恋人を呼び求めるように、必死に呼ばわるアストリアスのうしろで、いまや戦いはオアシスの中いちめんにひろがり、赤いよろいの騎土たちと、茶色毛のラクたちは、池の水につかり、下生えを血にそめ、あるいは灌木の枝をへし折りながら、すさまじい死闘をくりひろげつづけている。
ふいに、アストリアスの目が、オアシスのはずれ、いちばん高い木の根かたに、ひとかたまりになってどうやらかなり位の高いらしいセムたちの群れをとらえた。
一群の精鋭がそのかたまりをとりまいて守っている。どうやら、それらをおしつつんだまま、徐々に戦場をのがれ出て安全なところへうつそうとしているところらしい。
中に、白い髪がきらりときらめいた。
(セムの族長だな!)
アストリアスは、ぐいと長剣をとりなおした。
「よーし!」
逃がすか、とウマにピシリと鞭をくれる。
あわてて、ポラックが、あたりの精鋭をとりまとめ、
「隊長につづけ! 隊長を孤立させるな!」
大声でわめきながらつき従った。
アストリアスのほうは、それも眼中にない。何とか手柄をとはやり立つ彼である。グインも、裏切者もおらぬのなら、せめてセムの大族長の首をあげて――と、まだ、突然どこからか黄色い巨大な豹頭がセムの精鋭をひきいておどりかかってくる不安にとらわれながら、ことさらそれを払いのけるように、そちらへむけて突進した。
その群れにはたちまち動揺がひろがった。
「キャアアーッ!」
「アイ、アイーッ!」
「アルフェットゥ! アルフェットゥ!」
赤ひと色に身をつつんだアストリアスには、おもても向けさせぬ鬼神の勢いがあった。
アストリアスのゆくところ、たちまちに血しぶきと悲鳴と断末魔の絶叫とが舞いおこり、その突進をはばもうと立ちはだかるセムの小戦士たちはつぎつぎに叫び声をのこしてひづめにかけられ、はねとばされてゆく。
ヤシの根かたの一群には、非常な動揺がひろがっていた。アストリアスは、その木をおしつつむようにしていたセム族たちがやにわに四方へちらばり、いかにも族長、それも相当に年をとった大族長とおぼしい全身が灰白色になった一人のセム族を何人かが守っていそいでその場をはなれようとするのを見た。
「逃がすか!」
叫びざま手綱をしぼったアストリアスは、ふと、反対の方向へ、やはり何人かに守られて逃げのびようとしているものを見た。
(――人間だ!)
朝の日をうけて輝く銀髪と、そしてセムたちの毛深いからだにかくされた、日焼けしてはいるもののすんなりとした白い四肢が彼の目を射た。何か、くわッと熱いものがアストリアスの心をつきあげた。
(しめた!)
ことばにしいておきかえるとしたら、まさしくそれであったろう。
(パロの双児!)
双児とは、かれらがアムネリスに河岸でとらえられ、その天幕で公女の前にひき出されたとき、その姿をみている。他にはセムたちしかいない、このような状況でなかったとしてさえ、いちど見たら二度とは見まちがいようのない、印象的な容姿である。
(グインも、アルゴンのエルも見あたらぬなら――)
これも、手柄だ、と、いよいよはやり立って、アストリアスは、セムの族長を追おうとしていたのをやめて左へウマを向け直した。
「いたぞーッ! パロの双児だ!」
背後で甲高く、ポラックのわめくのがきこえる。アストリアスは舌打ちした。自分の、この手で、双児をとらえ、アムネリスのもとへ引っ立ててゆきたかった。
「おれの獲物だ!」
叫ぶなり、アストリアスはウマをかりたて、ちりぢりに逃げようとするセム族と双児を追った。数人のセムが立ちはだかろうとする。ほとんど気をつかわずに無造作に槍の柄で横なぐりにしてふっとばした。
「どけ!」
どのようにセムたちが足が早かったとしても、平地の一本道でウマにかなおう筈はない。たちまちのうちに追いすがり、追いぬいて、あまりの勢いに止まることができず、オーバー・ランしてぐるりと体を入れかえた。
と見て、双児たちも方向転換し、もと来たオアシスへ逃げ込もうとするが、そこはもはや両軍入り乱れ、モンゴール軍もほとんどがウマをすてての肉弾戦たけなわである。
「リンダ!」
「レムス!」
双児は叫びかわし、そのまま左右にわかれるなり、アストリアスのウマの両側をかけぬけようとした。
「逃がさん!」
アストリアスは手柄にはやった。長剣をふりあげ、いまやまさに彼のウマのわきをすりぬけようとする小柄な子供たちの、少年のほうへむけて夢中で打ちおろそうとした。必ず殺してはならぬ、という厳命など、とっくに彼の頭から去っていた。
少年はあわやというところで、わずか数ゴルのところで剣風をかわした。その反動で体勢がくずれた。そのまま、かれは草地の上へ倒れこんだ。
「しめた!」
アストリアスはウマの手綱をつかんだ。たけり狂い、血の匂いとすさまじい喧騒とに歯のあいだから泡を吐き出して荒れ狂っている駿馬のひづめが大きくもちあげられ、少年が起き直るいとまもなく、そのほっそりしたからだを踏みにじろうとした。
その刹那!
「レムス!」
絶叫とともに、長いプラチナ・ブロンドをなびかせた少女がウマの下をかいくぐり、弟の上へころげこんだ!
「――!」
声なき憤怒に燃え、双生のわが分身を敵のひづめから守ろうと、リンダは弟の上へおおいかぶさるなり、身をよじって、襲撃者をにらみすえた。
「あッ――!」
ふいに、アストリアスの口から、するどい叫びがもれた。彼は手綱をほとんど無意識のままさらにしぼった。
限度まで、頭をそらしていたウマは、こらえきれず棹立ちになる。アストリアスは叫び声をあげて、ウマの鞍からぶざまにも転落してしまった。
しかしそのいたみ、部下たちの前で醜態をさらしたことにさえ、アストリアスは気づきさえしなかった。
彼は草のあいだに手をつき、なかばはね起きようとした中腰の姿勢のまま、息をつめ、まわりに気をくばることさえ忘れて、彼を落馬させた少女を見つめていた。
それは、何という少女であったことだろう!
長い銀髪がよごれた顔に乱れかかり、彼女はなおもレムスにおおいかぶさったまま、死んでも敵の手に弟を蹂躙させるものかという瞋恚にこりかたまって、微動もせずにアストリアスをにらみつけていた。そのぎらぎらと輝く双の眸はそのまま灼熱の熔鉱炉となって、それへあえて手をふれようなどという冒涜をおかす無法者をやきつくし、とかしつくすかとさえ思われた。
何という威厳と、そして激情が彼女を包んでいたことだろう!
アストリアスはわずか十四の、小女王の気魂の前にたじたじとなった。それはむろん一瞬にすぎなかった。たちまち、はッと気をとり直して、彼はそのままウマをかえり見もせずに手をのばし、二人をとらえようとした。
しかしその一瞬のためらいで充分だった。砂漠ウサギよりも敏捷に、二人の子どもはとびおきるなり、手をとりあい、すばしこくのばされるいくつもの手をかいくぐって走り出した。追いつめられた小動物の表情がそのうしろ姿にはあった。
「捕えろ! 殺してはならん、パロの双児だ!」
うしろで、ポラックの大声がひびきわたる。アストリアスは息を切らし、茫然として、立ちあがり、剣を手にしたまま、追うのも忘れてそこに立ちつくした。何かしら、おどろくほどの――讃嘆とさえ云いたいものに胸をゆさぶられていたのである。
彼のわきを、次つぎに赤いよろいをつけた騎馬がかけぬけていった。彼は気をとり直してウマを追い、ひらりととび乗ったが、しかし、彼の目をつらぬくかとさえ思われた、その少女の威厳にみちたひとみは、そのときでさえ、彼をまっこうからにらみすえ、焼きつくそうとしているかのようなのだった。
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4
「リンダ――!」
レムスは、足を何回も、草の強い根にひっかけてころびそうになりながら、息を切らして叫びつづけていた。
「リンダ――リンダ――ああ!」
「レムス!」
リンダの頬も真赤になっていた。肺は呼吸を求めてあえぎ、わき腹がひきつるように痛む。しかし、うしろからは、荒々しいわめき声、「捕えろ! 捕えろ!」という叫びと、そしてのばされる手、ウマのひづめのひびきが迫る。
かれらは赤いオオカミたちのウサギ狩の、かよわい無力な二匹の獲物だった。リンダの誇り高い心は、中原最古の高貴をほこるパロの正統な王位継承者ともあろうものが、かくもむざんに逃げまどい、追いつめられる恥辱におもても向けられぬほどにも燃え狂っていたが、しかし、彼女の誇りでさえ、荒くれた捕獲者たちの上に下す怒りのいかづちを天から呼びおろす奇蹟はよくなしえなかった。
「ああ――リンダ、もう走れないよ!」
「だめ、レムス! 走るのよ。走って!」
「もう――もうだめだよ、ぼくたち!」
「何をいうの、レムス! あんたはパロの唯一の王なのよ。こんな――こんなところで……」
苦しい息でとぎれとぎれに叫びかわす、彼女たちの心に、かれらの父母や重臣たちが、同じモンゴール軍兵たちに追いつめられ、切りふせられ、場所もあろうにかれらの伝統ある玉座の広間で血を流して倒れていった、クリスタル・パレスの惨劇がかさなる。
(死なない。わたしは死なない、モンゴールの手にかかって死ぬものか。わたしはパロを――パロを……)
いつか、リンダとレムスの握りあっていた手もはなれていた。
レムスはさきに転倒したときに、足首をいためたらしい。いつのまにかリンダにおくれがちになり、「リンダ――リンダ――!」と呼ぶ声も苦しげになっていた。
しかし、それをふりかえるゆとりも失い、逃れようと走りつづけるリンダも、すでにオアシスのまわりの草地をぬけ、やわらかい砂地になって、そこへ足をとられて思うように走れなくなっている。
(ああ――グイン、グイン……グイン、助けて、グイン!)
いつのまにか、リンダは、よろめき走りながらそう口走っていた。
(グイン――来て! わたしを助けて、グイン――おお、グイン!)
すべての希望はその豹頭の戦士のうちにあり、助けを求めうるとすればそれもまたグインによる以外なかった。ふいに、リンダは、うしろの方で弟のするどい悲鳴をきき、そして、
「逃げて、リンダ!」
という絶叫をきいた。ついに足をとられてころんだレムスが、モンゴール軍の手におちたのだ。
「レムス!」
絶叫しながら、リンダはあえてふりむくこともせぬままよろめき走った。この上は、彼女ひとりでも逃げのび、グインの助けをえて、その上でレムスを助けに戻るほかない、とわかっていた。グインにならできる――彼になら、どんな奇蹟をでも期待することができるのだ。あの燃えあがるスタフォロス城のなかからさえ、かれらを救ってくれた彼ではないか?
これほどにその異形の怪人を恋い、欲したことはなかった。グインさえいてくれて、その太い腕にかるがるとつかんだ大剣をふりまわし、セムの軍の先頭に立っていてくれたら。リンダの目に、あつい涙がにじんだ。しかし、弱音を吐いていられる場合ではなかった。
あの向こうにみえる岩山へ逃げこめば、きっと助かる。
もう、セムたちがどうなったのか、とらわれた弟がどうされたのか、それさえも気にかけてはいられなかった。死神の猟犬に追われるウサギ、それがリンダだった。もう走れない、という呻くような声がほとばしりそうになるのを、激甚な恐怖と生への執着がのみこんだ。彼女は、あわれなくらい速度のおちた足をうごかして、よろよろとかけつづけた。
そして、ふと気づいた。
うしろからは、もう、「追え! 追え!」というわめき声が、ほとんどきこえなくなっている。
パッパッとけちらされて背中へはねかかる砂けむりも、セムの悲鳴やとびちる血しぶきも、いつのまにか、彼女のうしろへ迫って来なくなっている。
しかしその変化はリンダを安堵させはしなかった。その反対に、何かしびれるような恐怖と当惑とが彼女の脳につきあげた。
もう、うしろから、モンゴールの赤騎士たちは追って来ようともしない。
リンダの足はしだいにのろくなり、よろめき――そして、ついに止まってしまった。ほとんどそのことさえ意識しないままに、リンダはのろのろと両手をあげ、その手で口をおおい――そして、悲鳴をあげた。
いや――あげたつもりだったのだが、じっさいには、声は出てさえいなかった。ただ、絶望に目の前が暗くなり、ぼんやりとうつろな表情で、行手をふさぎ、さえぎっているいかめしい黒衣の騎士たちを見つめているばかりだった。
その膝がのろのろと折れまがり、ぐったりと砂地に座りこむ。両手は口にあてがわれたままだ。イルム隊の黒騎士の隊列は、わざわざ、このみじめな少女をひったてるために近づいて来ようとはしなかった。かれらはセムの主力がこちらへ活路を求めてくるのを待ちぶせて、ほとんど無傷のまま、なおも半月形に展開をつづけていた。黒い巨大な壁に行手を無慈悲にさえぎられたような気が、リンダにはした。
うしろから、砂煙を立てながら、一騎のモンゴール騎士が近づいてきた。赤騎士だ。かぶとをうしろへはねのけた顔はまだ若い。瞬間、奇妙な気狂いじみた希望がリンダの心をとらえた。
「イシュトヴァーン!」
彼女は叫び、が、たちまち自分の思いちがいに気がついた。
黒髪、黒い目、面長の、ととのって浅黒い顔――それは、イシュトヴァーンがモンゴール軍にもぐりこみ、こっそりと彼女に救いの手をさしのべるときを待っていたのか、とカンちがいしてもおかしくないほど、ヴァラキアの傭兵によく似かよっていたが、しかし若々しくて年相応に純真な初々しい表情、どことなく品のある、凛とした面差し、はその彼女の求める人にはないものだった。黒騎士の壁の、黒光りする姿の前で、一騎の赤騎士は、明るく、ほとんど華麗にすら見えた。
(そうね……)
放心状態のリンダの口から、そんな低いつぶやきがもれていた。
(そうよ――来るはずなんてない。わたしたちを助けに、あのイシュトヴァーンが……)
イシュトヴァーンがあれきり姿を消してしまったことを、どこかで戦っているのだろう、偵察に出てそのままつかまったのかもしれぬ、といろいろと気をもんでいたのだが、助けに来てくれぬ、ということがはっきりすると、グインがあらわれぬことへのそれとはまた別な、全身の力がぬけてゆくような絶望感があった。
赤騎士は、砂にウマが足をとられぬよう、ゆったりとかけさせて近よってきたが、リンダの前までくるとウマをとめ、ひらりととびおりた。彼は手をさしだした。
リンダは反射的にとびすさり、敵意と憎悪にみちてあいてをにらみつけた。アストリアスは当惑したようすだった。
「さあ、もう逃げられはせんのだから」
彼は、この、まぶしいほどな女王の威厳と、あわれな庇護者もない孤児のいたいたしさとを交互にみせるあいてをどう扱ってよいかわからぬ、というように、あやふやな調子で話しかけた。
「こっちへ来なさい」
「さわらないでよ! モンゴールの仇敵に腕をつかんで引ったてられるくらいなら、この場で舌をかんでやるわ」
リンダは爆発した。
アストリアスは、頭をふり、すっかり困ったようすだった。
「あんたの弟はもう捕まって、運び去られたのだから」
何となく、ためらいがちな口調で云い、リンダの腕をつかもうとまた手をのばす。
リンダはふり払った。
「自分で歩くわ」
「その方がいい」
いくぶんほっとしてアストリアスは云い、リンダが立ち上って膝の砂を払うのを見守った。
「痛っ!」
立ってみて、ふいにリンダは声をあげた。走っているあいだは、気づかなかったが、砂地を走っていたので、彼女も足首を少しいためていたらしい。
アストリアスはそのようすを見ると、人馴れぬヤマネコをでもあつかうように、おっかなびっくりで手をのばした。
「ウマに乗りなさい」
「いやよ。敵の情けなんかうけないわ」
「情けじゃない。まだ戦いはつづいているし、私は早く戦場へ戻らねばならん。これは、命令なんだ」
アストリアスは、それ以上反抗されることもなく、敵意にみちた捕虜を、彼のウマの鞍の前へのせ、自分もまたがった。彼の鍛えた腕には、なきに等しい重みであった。リンダは、歯をくいしばり、嗚咽を敵にきかれまいとしながらウマのたてがみをしっかりつかんでいた。
アストリアスはいくぶんもてあました体《てい》で、無言のまま幼い捕虜をつれもどった。まだ、激しい戦いのつづいているオアシスを大きく迂回してアムネリスの旗本隊へリンダを送りとどけにかかる。
ふいに、オアシスの中から、小柄な姿が走り出してきた。
「リンダーッ!」
金切声をあげて、ウマにとびつこうとする。
反射的にアストリアスの剣が打ちおろされた。
「キャーッ!」
するどい悲鳴をあげたのは、倒れたセム族でなく、リンダのほうだった。
「スニ! スニーッ!」
ウマからとびおりようとしたが、アストリアスの手がしっかりと彼女をおさえつけた。
リンダは、もがいても無駄だと知ると、静かになった。そして、まるで、よくよく顔を見覚えておこうとでもいうように、首をねじってアストリアスをじっと見つめた。
「スニを殺したわ」
おさえきれぬ涙で目を一杯にしながら、平静な声でリンダは云った。
「モンゴールの人殺し。わたしの父さまと母さまを殺し、スニを殺し、わたしとレムスも殺すのね。いつまで、ヤヌスの裁きから目をくらませていられるのか、試してみるがいい。お前の顔は死んでも忘れないわ」
アストリアスはむっつりしたまま、何も答えなかった。答えたところで、どうなるという話でもなかったからだ。
彼は黙りこんだまま、それ以上さまたげられることもなく白騎士の本隊へリンダを送りとどけ、ひきわたした。彼としては、アムネリスの賞讃のことばをひそかに期待しないでもなかったが、旗本隊は行きかう伝令と看護兵であわただしく、とてもそれどころではなかった。
アストリアスは、釈然としない気分を抱いたまま、ただちに馬首をかえして、オアシスをめぐっておこなわれている戦いの中へもどってゆかねばならなかった。
リンダは、ウマからおろされると、すでにそこへ運びこまれていた弟のところへ追いやられ、弟と同じように足首を縛られて放り出された。リンダとレムスは、互いの名を呼びあうと、それきり何も云わずに抱きあった。レムスはすすり泣いていたが、リンダは泣こうともしなかった。スニの悲運のときだけうかんだ涙もすでにかわいていた。
レムスを抱きしめながら、このほっそりとした勝気な少女はきッと唇をひきむすび、のどまでつかえてくるかたまりを懸命にのみ下していた。モンゴールの手におちたのが、これで何度めか、もう忘れていた。しかしこれまでは、グインがいて、必ず助け出してくれる、と信じていられた。
しかし、こんどこそ、グインもいない、イシュトヴァーンもいない。
双児は、こんどこそ二人きりだった。そしてモンゴール兵はなぶり殺しを楽しむように小さなセム族たちをウマで追いまわしていた。リンダは血が出るほどきつく唇をかみしめた。
(グイン、どこにいるの――セムは敗けてしまったのよ。グイン――あなただけしかいないのよ。グイン)
もはや、大勢は決した、と云ってよかった。
もとより、正面きって力と力で押しあえば、どちらが強いかは決まっていたことである。セム族が地の利を得て、またもちまえの敏捷さと小まわりのきく体格をフルに利用したといっても、石オノと毒矢に対するに鉄の、きたえた長剣と長槍とでは、まるで威力が違っていた。その上に、モンゴール兵はたびかさなるセムとの小ぜりあいで、ようやく、この小猿人族をあいての戦いぶりに馴れ、コツをのみこんで来つつあった。
かぶとをかたむけて毒矢をふせぎ、石オノは剣でうければたやすく刃が欠けて、その力は半減する。その上に、重いよろいかぶととウマの鎧の重みがかかって、ウマが足をとられる砂地と異り、こんどは、比較的地面が固く、草がびっしりと生えている、オアシスの周辺が戦場であった。
モンゴールの勇士たちは長剣をふるい、つぎつぎとセムの戦士をほふっていった。カロイとグロの戦士たちはきわめて勇敢に戦い、それでも相当のいたでをあいてにおわせはしたが、不意をつかれ、敵に優位を占めさせたハンディはついに補いきれなかった。
「退け――退け!」
とうとう、族長たちの悲鳴のような声があがり、あわただしく、退却の太鼓がトウトウと打ち鳴らされる。
それはしかし、いくぶん遅きに失したと云えた。族長たちは兵をまとめて、それぞれにオアシスを引き払いにかかった。
「かたまっては、敵の思うつぼだぞ。――ばらばらに、四方へ走れ。奴らの目をくらませろ!」
甲高い声でイラチェリがわめく。
「アイーッ!」
応じて、セムたちは、四方八方へ、それこそクモの子を散らすように逃げのびにかかった。
「逃がすな。ここで奴らを逃がしては、また同じことの繰り返しだ。徹底的にサルどもをたいじてしまえ」
次々に伝令がとばされ、モンゴール軍は外側からオアシスそのものを封じこめにかかる。岩山へ逃げこもうとするセムたちは、腕を撫して待ちかまえていたイルム隊が、得たりとおそいかかる。
「シバ」
老ロトーは、若い勇敢なシバに守られて、退路を求めていた。
「ロトー、私に考えが」
シバの目が血走っていた。彼は、あたりを見まわし、求めていたものを見出した。
「私は考えてみました。ここにもし、リアードがいたらどうするかと」
ロトーは黙って、シバを見ている。シバは袋からケムリソウの実をとり出すと、それを配下のラクたちに手わたし、自分はヴァシャ油のつぼを持った。
「行くぞ」
「アイヤーッ!」
けたたましい叫びをあげて、比較的モンゴール兵の手薄そうな左側にむけてつき進んだ。
シバの部下たちがケムリソウの実を叩きつけると、かわききった実は激しい音をたててはじけ飛び、同時にパッと四方へ濃い煙が立った。それでモンゴール兵をあとずさらせておいて、シバはやにわに油のつぼをさかさにし、まわりにむけてふりかけるなり火打石を打って火をつけた。
たちまち、ボッと燃えあがるのを、油をつぎつぎに注ぎこみつつ、
「さあ早く!」
大族長をうながす。油の道にみちびかれて、火はひとすじの蛇のようにくねり進む。それの中へシバたちはつぎつぎにケムリソウを放りこみ、煙幕をはった。
「逃がすな」
「目をくらまされるな。気をつけろ」
あわてて、ゴホゴホとせきこみながら騎士たちはわめきあう。煙をこころもとない身をかくす幕にした、シバを先頭にしたラクの戦士たち数十人は、ロトーを守って、ころがるように煙のかげを走りぬける。
「鬼が岩のところに集まれ!」
「鬼が岩まで逃げのびろ!」
「カロイ、グロ、ラサ! 生きのびられたら、鬼が岩へ集まれ」
走りながら、ロトーの指示にしたがって、かれらはモンゴール兵にはわからぬセムのことばで叫びつづけた。かすかにいらえがあちこちからあったようだが、それも待ってはいられない。それそれの手段で脱出をはかるに任せて、この死のオアシスをあとにひた走る。左から、待ち伏せていたイルム隊が、右からはヴロン隊の白騎士が、さながら扉が左右からゆっくりとあわさって来るかのように互いに近づきつつあった。それがぴったりとあわさってしまったら包囲陣は完成し、もはやセムたちには逃げ場がない。反対に、それを何とかのがれて砂漢へとび出せば、かつての有利がそのままよみがえり、身の重い騎馬隊をふりきることも可能であろう。
「走れ、走れ、走れ!」
シバは、自らも足のつづくかぎり動かしてかけつづけながら、のどをからして叫んでいた。
「走れ、セムたち! 走れ、ラク、ツバイ、ラサ! 鬼が岩までジグザグに走って、やつらをまいてしまえ!」
ふいに、ロトーがあっと叫んで足をとめた。シバはうながそうとして、ロトーの指さすのが何か見た。小さなラクの少女のからだが、なかば砂にうもれるようにして倒れている。
「スニ様!」
シバは次の瞬間スニのからだをかかえあげると、それが気を失い、傷をおって倒れているのか、それともむざんにも死体となっているのかさえ見わけるいとまもなく、また走り出した。
それは生と死との熾烈な駈けっくらであり、赤い鉄の死神から、生のゴールをめざしてのセムの、種族存亡の希望をかけた大競争であった。
モンゴール軍の包囲と追撃をふりきろうとしているのはシバたちだけではなかった。あちこちで、それぞれの族長を何とか脱出させようという勇敢な戦士たちが、あるいはびっしりと族長をとりかこんで一丸となって突進しようとし、あるいはイラチェリのように族長そのものが先頭に立ってウマの下をつきぬけようとし、激烈なたたかいをくりひろげている。
日の上る前にはじまったその戦いが、いっかな終るようすもみせぬままに、いつのまにか日は高く中天にあり、そしてまたゆっくりとうつろいはじめている。
強烈になりまさる日ざしに焼かれて流れた血はかわいてゆき、しかしたちまちその上にどさりと倒れこむあらたな犠牲者の、新しい血潮が草地を染めた。
ようやく包囲は完了し、モンゴール軍はセム族を完全にその牙のあいだにおさえこんでいた。
「かかれ!」
容赦のない総司令の手がうち振られる。
「一人も生かすな!」
それはもはや戦いではなかった。
それは、一方的な虐殺、屠殺であった。逃げおくれたもの、あえて族長を逃すべくふみとどまった勇敢なセム族にむけて、ウマにまたがり、剣をかざし、悪鬼の形相に顔を真赤にそめたモンゴール軍が牙をむいたのだ。
傷ついて倒れたものはウマがひづめにかけてふみにじり、なおも立って刃向おうとするものは寄ってたかって切りきざまれた。血がオアシスに流れこみ、その量の多さに水は血の池と変じ、草は赤い草とかわった。
悲鳴とうめき、絶叫は、いつまでも終らぬかとさえ思われた。
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第四話 辺境の王者
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「オーイ……」
「アイーッ――」
「イーイーアー」
かすかに、呼びかわす声が、夕陽にそめられて長い影をおとす「鬼が岩」のまわりにひびいていた。
「無事か」
「怪我はないか」
鬼が岩は狗頭山に近く、オアシスよりだいぶ東寄りにある大きな奇怪なすがたの岩である。それひとつだけではなく、いくつもごろごろと乱立する黒い岩が、みな奇妙な、奇怪なすがたをしているので、おりからの日没の赤さに染めあげられて、そのあたりは、さながら奇形の巨人たちの集会場ででもあるかのように見えた。
そこへ、三々五々あつまりつつある、足をひきずり、打ちひしがれた、傷ついた小猿人の群れ――
それが、むざんな惨敗を喫したセム族の生きのこりのすべてであった。
「カルトはいないか。カルトは、やられたか」
ロトーの命をうけて、この敗残の群れのとりまとめにあたっている、ラク族のシバは、それぞれの群れの中に族長のすがたを求めて、呼ばわって歩いた。
「ツバイは。ツバイ族のツバイは」
「ツバイはやられた」
族の若者が口重く答える。もともとそれほど数の多い種族でないだけ、イド飼いのツバイのうけた被害はきわめて甚大であるようだった。
「カルトは、ここにいるぞ」
「おう――カルト、無事だったか」
ラクとラサはもともと縁つづきである。ロトーは、ほっとしたように手をさしのべ、旧友とひしと抱きあった。
「カルトは無事だ。しかし、ラサの若者はたくさんやられた」
カルトは血でまだらに汚れた顔をうつむけて云う。
「ラクも同じだ」
「ラクが、いちばん被害が少ない」
むっつりと答えたカルトは、そんななぐさめをうけつける気持がないらしかった。
「ラサは、全滅だ」
「そんなことはない。また、子を生み、育てればよい」
「ラサの女もたくさん死んだ」
カルトはきこうとしなかった。
「カルトの女も、死んだ」
ラサの族長は、岩かげにぺたんとすわると、悲痛なうめくような声を出して嘆きはじめた。
「みんな、死んだ」
「グロ――グロ?」
シバは、肩をすくめると、カルトが悲嘆にくれるままにしておいて、仕事のつづきにかかった。
「イラチェリは無事か」
「いや――」
グロの大柄な若い戦士は、両手足に傷をおっていた。
「イラチェリは死んだ」
その手足に、仲間にしきりと薬草をまきつけてもらいながら云う。
「オームの赤い悪魔、白い悪魔がイラチェリの頭をふたつに割ってしまった。イラチェリは倒れ、ウマに踏まれた。頭から、白いどろどろしたものを流していた」
「イラチェリは死んだか――」
シバはうなだれた。その、グロをひきいる大柄な勇士が、セムにとって非常な心づよい味方であったのは、まちがいなかった。
「ツバイも、イラチェリも死んだ」
「グロは、次に正式の集会をひらいて族長を決めるまで、とりあえず、イラチェリのむすこが族長をつとめる」
大柄な、負傷した戦士のかたわらから立ちあがった、真黒なグロ族が云った。
「ウタリだ」
「ウタリ。グロは、何人死んだ」
「大勢だ」
吐きすてるような口調だった。
「おれは、生きているぞ」
野太い声がかかり、シバはびくりとした。
「おお。ガウロ」
カロイ族の族長ガウロである。肩に傷をおっているが、元気そうで、その意気と凶暴さとはますます盛んなようだ。
「よく、あのオームの群れをくぐりぬけて――」
シバは、ガウロを好きではなかったが、思わず、声をあげずにはいられなかった。
「オームの城ひとつおとしたカロイ族だ。あのぐらいの窮地は窮地と思わん」
ガウロは横柄に答える。ガウロのまわりにあつまっているカロイたちを、シバは目で数え、それからロトーのところへ戻っていった。
「イラチェリと、ツバイがやられました。ガウロとカルトは無事です。グロは、半分ものこっていない。ツバイはほとんどみんな。ラサもひと家族ぐらいの数しかいない。カロイはかなり生きのびています――それにラクも、たくさん死んだが、わりにたくさん生きている」
セム族には、あまりたくさんの数の概念はない。シバの報告は、たいして明瞭なものではなかった。要するに、カロイがくわわって、ようやく七千という数をかぞえたセム軍は、わずか一朝にして、二、三千いるかいないまでに減ってしまったのである。
ロトーはうなづいて、黙念と鬼が岩のまわりを見まわした。どうやら、しつこいモンゴール軍の追撃はかわし、岩場に逃げこんだので、少なくとも当座は、モンゴール軍におびやかされるおそれはない筈だった。
「オームは、どのぐらい死んだろう」
低い声でロトーが云う。
「半分は死んでいません。奴等は、セムが三人死ぬあいだ、四人死ぬあいだにやっとひとり死んだ」
「ウム」
ロトーはますます絶望的なその状況に考えをめぐらすようすだった。
それはなんという、みじめな軍勢であったことだろう。五部族の指導者のうち、二人までを失い、戦士の被害はさらに大きかった。
のこされた人数もその大半は傷つき、ぐったりとして岩かげにもたれ横になり、それへ手当てしようとするものもまた、どこかしらに傷をおっていないものはないありさまである。
傷ついたものはひっきりなしにうめき、泣き声をあげ、あまりにその叫びが大きくなると、敵軍に気づかれてはとその口に草をつめこまれた。逃げ出すときにこわれたり、おとしたりして、じゅうぶんな水もなかったし、食物はさらになかった。この砂漠の民であるかれらのことである。元気な何十人かは、命じられて、食物をあつめに出かけていたが、それもあまり遠出はできないので、見込みうすだった。
「ロトー」
「なんだ、シバ」
「オームは、われわれを探しているでしょうか」
「ウム――」
ロトーの年とった白い顔に苦渋にみちた表情がうかんだ。もはや、この人数では、依然として六、七千を下らないモンゴール軍に、立ち向かうのはおろか、陣容をととのえることすら難しいのだ。
「逃げよう」
わきから声をかけられて、シバはびくりとした。何人かの頭立った者を従えたカルトが、ロトーを見つめていた。
「いますぐ、種族ごとにバラバラになり、山へかくした女子供をつれもどし、それぞれに活路を求めて東、あるいは北の山々へわけ入って身をひそめるのだ。とにかくオームの軍がいなくなるのを待つ。それ以外に、セムの生きながらえる方法はない」
「いや、それはいけない」
思わずシバは、序列をわすれて口をさしはさんだ。
「オームはわれわれを生かしておかないつもりなのだ。今日だって、倒れた者にまで、いちいちとどめをさしていた。オームは、このノスフェラスから、われらセムをすべて消してしまう気だ。このままでは、必ず、ひと部族づつ、どこへかくれようと追いつめられ、殺される」
「この若いのは、ロトーのあとつぎか?」
いやな顔をして、カルトがきいた。ロトーがあいまいに首をうなづかせたのをみて、しかたなさそうに、
「殺されるときまったものでもない。降伏した者まで、むげに殺すとは云うまい。――それに、ノスフェラスは広い。いったん身をかくせば、そうかんたんには見つかるまい」
「ノスフェラスは、たしかに広い。だが、われわれセムとてその中ですべての地理を知りつくしているわけでは、ないのです」
シバは熱心だった。
「われわれが知っているところなら、いずれはオームに追いつめられる。われわれが知らぬところでは、われわれとて危い。ノスフェラスには何があるかわからない。イドの谷も、砂ヒルの群生も――セムは、こうして、ノスフェラスの一部をわが領土とするまでに、どれだけ、それのために、ほろびかけてきたかわからない」
「そんなことはあとから考えればよい」
カルトはひどい不機嫌だった。
「ラサは、もうこの上、人死にを出したくない。ラサは小さい部族だ。この上人数をへらされたら、ラサは、滅びてしまう。――ロトー、もしも逃げかくれるのに不賛成だというのなら、いったい、ラクは、どうするつもりだ? まさか、これ以上オームに立ちむかうつもりだ、などというのではないだろうな――もう、セムは戦えぬ。戦う力など、砂ヒルあいてにだって、残っておらんぞ」
「それは――」
ロトーが何か云いかけたときだ。
「戦わなくては!」
甲高い、まだ若い女の声が、かれらをびくりとさせた。
「スニ様――」
シバがあわてて手をのばす。話をきいて、よろよろと、岩に身を支えるようにしてあらわれたセムの少女は、いたいたしく頭と肩に薬草をまきつけていた。
「わしの、孫娘のスニだ」
ロトーがカルトの部下たちに説明した。
「おじい様、リンダさまとレムスさまが、オームにつれていかれたのよ」
スニはセム族に独特の、甲高い鳥のさえずりのような声で叫んだ。
「おふたりを、助けてあげて。朝になる前に、オームの陣地へもどって、おふたりを、助けて」
「スニ様!」
シバが、よろよろするセムの少女のからだを、うけとめて、むりにすわらせた。
「おふたりはスニを助けてくれたのよ――こんどは、スニが、おふたりを助けなくては!」
「スニ――」
ロトーは困惑したように手をあげた。
「そうだ。戦うほかに、セムの生きのびる方法はない、とリアードも云われた。あと四回、日が沈むまで、何とかもちこたえてくれ、そうしたら必ず援軍をつれてもどるから、と――リアードは約束を破らない。今夜中にはきっと来てくれる。だから前のように、ちょっと戦っては逃げて敵をじらして、何とかもう一日もちこたえていられれば、リアードが来てくれる。リァードが助けをつれてきてくれる」
「おう、リアード――」
ロトーは、思い出したように呟いた。カルトは怒った。
「あと一日、オームをあいてに逃げまわったら、その一日の日がくれるころには、セムなどこの地上に影も形もなくなっているわ!」
「おじい様、リンダさまを助けて。シバ、リンダさまを助けて」
「あの二人はオームだ」
カルトが云った。
「オームはオームを殺さない。だがセムは殺す。オームふたりを助けるために、セムが死んでよいのか、みんな」
オイヤー、とか、イーアー、などという声が口々にあがった。いつのまにか、生きのこりのセムの戦士たちは、みな、岩の周囲にあつまり、談合のなりゆき如何を耳と長くしていたのである。
「オームはオームを殺すわ」
スニは憤然として叫んだ。
「スニがオームの城にとじこめられていたとき、オームがたくさんのオームを殺したり、棒で打つのを見た」
「それは、オームが、悪魔だからだ」
カルトがぬけめなく云った。
「そんなオームを助けるために、セムが死ぬことはない」
「戦わなくては、必ずセムは皆殺しにされる!」
ここぞと、シバは強調した。相変らず、考えに沈むようにロトーは何も云わない。
「戦いだ!」
「リンダを助けて!」
「早くかくれることだ!」
三人は、互いの声を消すように声をはりあげた。
「あまり、大声を出してはいかん」
おだやかにロトーが口を出す。
「近くに、オームがいたら、今夜のうちに、逃げも戦いもせぬうちにセムはみな殺しにあう」
皆が声をひくめた。しかし、主張をひっこめたわけではなかった。
「いいとも。ラクは、戦いたければ、戦うがいい」
カルトが吐きすてる。
「ラサは、ラサの道をゆく」
「そんな――」
シバは拳をにぎりしめた。
「ただでさえ、こんなに人数がへってしまっているのに、ラサがいなくては――」
「ラサは、これ以上一人も死にたくない」
「生きのびるには、戦うしかないのだ!」
「リンダはスニを助けてくれたのよ!」
「それならラクが恩を返せばよい。ラサには、関係ない」
「カルト――」
また、おだやかにロトーが云った。
「お前の母の母は、わしの姉の姉だぞ」
カルトは黙った。
ロトーはふりむいた。年経た、ひどく賢い大白猿、とでもいったようすだ。
「グロよ、イラチェリのあとをとってグロをしたがえているのは誰だ」
「俺だ。イラチェリのむすこのウタリだ」
ただちに答えがあって、大柄な若いグロが進み出た。
「グロの考えはどうじゃな」
ロトーがきいた。ウタリは、いかにも、その権力にまだ馴れるいとまもないらしく、うしろの仲間たちを見まわした。グロの群れから、ぶつぶつと呟きがおこる。
「グロは――」
ウタリは口ごもった。どうこたえれば、指導者としてグロの心をかちえてゆけるのか、まだわからぬようすだ。
「イラチェリはもうたくさんだと云っただろう」
突然、それをもりたてるように、うしろから年をくったグロが云った。賛成のつぶやきが、弱々しくグロの群からもれた。
「いや、イラチェリは勇士中の勇士だ。イラチェリがいれば、あくまでオームをやっつけようといったに決まっている。イラチェリは、途中で敵にうしろを見せるような、腰ぬけではなかった」
なかなかの政治家ぶりをみせて、シバが云った。
グロは動揺したようだった。ウタリは、カルトを見、ロトーを見、シバを見、どう云ってよいかわからぬようすである。
そのときである。
「ロトーに云うぞ。これは、話がちがう」
ふいに、ふとい、荒々しい声がわりこんだ。一同全員がびくりとしたほど、荒々しい声だった。
「ガウロ」
ロトーは、心持ちすすみ出た。ロトーには、それは、予期されていたことだったのだ。
「カロイは、リアード、とかいうオームの約束のことは知らぬ。ただ、オームがカロイの村に迫ったので、ロトーやイラチェリの使者のことばを入れて、ラク、グロと共に戦うことにした。が、カロイは、何だか知らぬオームの子供を助けるとか、ロトーやそのリアードとかの部下になってたたかうとかいう、そんな約束は、したおぼえがないぞ」
「ガウロ、きくがいい――」
ロトーは云おうとした。だが、獰猛な顔つきをしたカロイの族長は、老大族長の威厳など無視した。
「カロイは、ロトーの釈明をききたい。ロトーの使いは、ロトーと共に戦えばオームを追い払える、それだけが、セムの生きのびる道だといった。そこでカロイは力をかした。ところが、いまになって、逃げるか、戦うか、などと云っている。カロイをだましたのか、ロトーは」
「釈明など、している場合か」
シバが怒って叫んだ。
「何もロトーがわるいのではない。大体、カロイがもっと早くに味方に加わってくれれば、よほどちがっていた。カロイがもっと早く、オームの奇襲に気づいていても、もっと多勢が逃げのびることができた。いくさとはそういうものだ。いくさに敗けて、味方に釈明をせまる話など、きいたこともない」
「誰がお前に話しているのだ、小僧」
侮辱するようにガウロは答えた。
「おれはロトーにきいている」
「リアードとの約束というが――」
カルトが、元気をとりもどして口を出した。
「大体そのリアードはどうしたのだ。リアードのつれていたもう一人のオームはどこへいったのだ。彼等は、援軍などつれに行ったのではない。われわれをオームと戦わせておいて、かれらだけ生きのびようと逃げ出したのだ。二人の子どもだって、もしかしたら、オームともともとぐる[#「ぐる」に傍点]だったかもしれない。オームなど信じられるものか。四日待て、とリアードはいったな。その四日は、もう暮れてしまった。それなのに、リアードはどこにも帰ってくるようすさえないではないか。それが、何よりの証拠だ」
「待て」
ガウロの声に、意外そうなひびきが加わった。
「その約束とか、四日とかいうのは何のことだ。カロイは、きいていないぞ」
「こういうことだ」
しぶしぶと、シバが説明した。きくうちに、ガウロのみにくい顔が、あざけるようにひきゆがんできた。
「四日待てだと――援軍? それも、ラゴン[#「ラゴン」に傍点]だと? ハッ!」
ひどい険悪な表情になって叫ぶ。
「それは一体何のおとぎ話だ――人質をのこしただと? ハッ! そこに、このカロイの、ガウロがいればよかったのだ。このガウロにむかって、そんなばかげた申し出をしようものなら、さぞかし見ものだったろうな」
ウタリが不安そうに身じろぎした。
「カロイは、リアードを知らんのだ!」
シバは黙っていられなくなった。
「リアードが、どれほどのことを、セムのためにしてくれたか――リアードは、ひとりで、他のオームをおいて逃げるような方ではない。リァードが援軍をつれてもどるといったら、援軍をつれて戻ってくるのだ。リアードさえいれば、セムは、たとえオームがセムの十倍いても、必ず勝てる――」
「ロトー、この小僧はうるさくて話ができぬ」
ガウロは歯をむきだし、すごい表情をして云った。
「ともかく、カロイは、援軍とか、アルフェットゥの申し子とか、ばかげたことを信じるわけにはいかんぞ。まして、オームの子どもなど、何故助けにゆかねばならん。オームなら、オームに助けさせろ。そうでないなら放っておけ。とにかく、カロイはこれでカロイの役目は果した。これで、カロイは、カロイの道をゆくぞ」
「グロもだ。グロは、カロイと一緒にいく」
うしろでしきりと知恵をつけられていたウタリが、あわててわめいた。カルトが、得たりと進み出た。
「山にかくれよう」
「それは――」
シバが叫ぼうとするより早く、ロトーが、ゆったりとおちついてガウロを見た。そして重々しく口をひらく。
「つまり、カロイは、あわてふためいて逃げる――もう、オームとたたかうほどの力は残っておらぬ、というわけじゃの」
「何をいうか」
叫び出そうとしたガウロはにやりと笑った。
「その手にのるものか」
ロトーをねめつけて云う。
「とにかくカロイはそのリアードのことなど知らぬのだ。そんな約束は、かわした奴があてにするがいい。もし、どうしても、カロイをとめようというなら、よかろう、カロイは、腕づくでも、したいようにするぞ」
「ガウロ!」
ロトーが前へ進み出た。
シバのからだが、びくりと緊張した。シバは、彼の腹心の、数人のラクを従えたまま、さっと前へ出て、腰の石オノに手をかけた。
ガウロにつき従うカロイたちが、たちまち凶暴な顔になり、吹矢筒をかまえた。
「ガウーッ」
おどすような、獣めいたうなり声と鼻息とが洩れる。セムたちの上くちびるが自然にめくれあがり、歯がむきだされる。
一触即発の危機が、かれらにおそいかかった。
シバは、かれの族長を守ろうとして、じりっ、じりっと足をずらしにかかった。ラサまでがカロイの味方に立つなら、ラク一族だけでは、カロイ、グロ、ラサ、ツバイの四つの氏族をひきうけて戦うことは――たとえそのダメージが大きいとはいえ――きわめて苦しい。
だが、シバは、彼の崇拝おくあたわざるリアードが戻るまでは、何があろうとも、待ちつづけるつもりだった。
リアードがかれらをおいて逃げ去る、などということは、シバには、決してありえないことだったのだ。
シバの口からも、ひくい唸りがもれた。
ロトーが手をゆっくりとのばした。びくりとするセムたちをおさえつけるように、何か云おうとした。
そのときだ。
ころがるようにしてかけこんできた、ラクの戦士が、ロトーをみつけた。
「大変です、ロトー。オームが、火をもってこっちにくる。セムを探している」
咋晩の苦い失敗に懲りて、遅まきながら歩哨に立てておいた戦士である。ロトーは、いらぬことは何ひとつ口にしなかった。
「いま何処にいる」
「火がたくさん、砂丘を動いています。歩いて半日はないところです」
「ガウロ、カルト、ウタリ」
ロトーは手短かに云った。
「争いはやめだ。ただちに、全部の戦士をつれて、狗頭山へ入ろう」
「狗頭山? あそこには、恐しいオオカミの群れが住んで――」
カルトが反対しかかる。が、口をつぐんだ。そう云っているいとまのないことが、彼にも知れたのである。
「戦いを諦めたわけではないが――」
ロトーはおだやかにつけ加えた。
「とにかく、陣を立て直す時間がほしい」
「まだそんなことをほざいているのか。それともその、リアードとかをあてにしてるのか。我々を見すてて逃げた裏切者を」
ガウロが決めつける。
「いずれ、わかる」
とだけロトーは云い、命令を下すために立ちあがった。そこへ、
「オームがこっちへ来ます。大ぜいです」
二番手の見張りがかけこんで来る。セムたちは騒然となった。かれらには、一夜の休息すらも、許されてないのだった。
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2
かくて――
再び、セムたちは、取るものもとりあえずそこをはなれた。
すでにとっぷりと日は暮れて、岩山の彼方からは、ぶきみな、心を凍らせるような、オオカミの遠吠えがいくどもきこえてくる。
足元は暗く、夜目のきくセムといえども、安全とはいえぬ。しかし、灯をつけることはむろんできなかった。いま、ここで、モンゴール軍に追いつかれれば、まちがいなく、ラク、カロイの別なくセムは全滅するのだ。
かれらは互いに低く声をかけあい、長い砂漠のくらしでつちかわれた知恵で、長い棒をもったものが左右に出て、ひっきりなしに土を叩きながらすすんだ。そうすれば、怯やかされた砂漠の怪生物たちは、自分から近づいてくることは決してないのだ。
エンゼル・ヘアーが暗闇からふいに風にのって、ふわりとかれらの顔やからだにまつわりついてくるが、その数も、岩場へ入ってゆくに従ってだんだん減ってくる。
うしろをふりかえると、海の彼方にみえるいさり火ででもあるかのように、暗い砂漠をたくさんの松明が動いてゆくのが見えた。モンゴール軍はオアシスでの勝利におごり、もはやセム軍にはあえてモンゴール軍をおそう力などないとみて、それに気づかれることを警戒するよりも、セムの残兵を早く見つけ出すことに力を入れているとみえる。
地上の星のようにその松明がちらちらとゆれ動きながら、左右へ少しづつ展開してゆくさまは、この上もなく夢幻的で美しかった。しかしそれはセムたちにとっては、死と蹂躙を意味する地獄の業火にほかならないのだ。
「もし、リアードがいたら――」
シバはぶつぶつ云った。
「もし、リアードがここにいれば、きっとわれわれから進んであの火に近づき、先手をうって奇襲をしかけるよう、命じられたにちがいないのに」
「そして、全滅するというわけだな」
ききつけて、ガウロがつよい声であざけった。
「さぞかし、そのリアードという化物は、セムを全滅させたいのだろう。だが、カロイは、ラクのまきぞえを食うのなどまっぴらだぞ」
「それなら、なぜ別の道をゆかずラクについてくるのだ」
むっとして、シバは云い返した。ガウロは肩をゆすった。
「これはおかしい。カロイは、心細くてそばにいてほしがっているのは、ラクだと思っていたが。カロイはオームなど、少しもおそれたおぼえはないぞ」
「ラクがおそれるだと」
かっとなってシバは叫びかけたが、
「口をひらくな。気をそらすな、間もなく狗頭山へ入るのだぞ。それまでは、オームに気づかれてはおわりだ」
ロトーがおだやかに云ったので口をつぐんだ。
スニは、ロトーのかたわらにくっついて歩いていた。傷がいたんで、だいぶ辛そうだったが、健気にこらえて弱音も吐かない。
その小さなすがたを、胸をいたませてシバは見つめ、オオカミや、いろいろな、砂漠の怪物よりもさらに凶暴な生物のひそんでいるはずの、目前にひろがる狗頭山を見上げた。
もうかれらは岩だらけの広い裾野の部分に入ってはいる。しかし、山そのものはまだ、いくぶんはなれていて、そのために、その奇妙な岩山の、イヌそっくりのかたちは、はっきりとシルエットになってかれらに見てとられた。
それを見上げながら、そこに入ればどんな脅威におびやかされるのだろうとしきりに思い悩んでいたシバは、ふいに、はっと気づいた。
「リアードは、この狗頭山の方へむかって行かれたはずだ」
思わず、小さく眩く。
「われわれは、リアードがそのまま行ったのであれば、リアードにずいぶん近づいたことになる」
同時に、モンゴール軍もだ。モンゴール軍が、すでにセムたちを発見したのかどうかはさだかではないが、しかしモンゴール軍はずっと東へむけて捜索の手をのばすつもりでいることはたしからしい。
方向をかえ、モンゴール軍をすっかりふりきってしまったほうがよいのではないか、という声も出た。モンゴール軍の灯はかなりはなれていて、それがセムたちに気づいてじわじわと距離をつめているものか、それとも、単なる偶然で、とりあえずこの方向をしらみつぶしに調べようとして斥候をさしむけているものか、それがどうしても断定しきれないのである。
しかしガウロでさえ、ごり押しに北や南へ方向をかえさせようとはしなかった。そちらへむかえば、当分、身をかくす岩や山や丘はほとんどなくなる。何かしら、すがり、身をよせるものをもとめてゆくのは、おちのびてゆく戦士にはごく自然な心かもしれなかった。
「スニ様――」
シバは気にして声をかけた。傷ついている上に幼いスニは、しばしば遅れそうになる。
「スニ様、痛みますか?」
「平気!」
族長の孫娘は云った。それが空元気にすぎなくても、シバは少しほっとした。スニが脱落すれば、おそらく、ガウロのことだ、足手まといをそこにおき去りにするか、あるいはいっそ邪魔にならぬよう殺してしまうのが、なさけだ、と主張するに決まっている。
何とか、がんばりとおせるだろうか、と気がかりにさしのぞいたシバは、スニの目に、白く涙がたまっているのをみてびっくりした。
「スニ様――スニ様、具合でも?」
「……」
スニは薬草をまきつけた頭をふり、すがりつくようにシバを見た。
「シバ」
小さな声でいう。
「リンダを助けたいの。リンダを助けて」
「スニ様――」
シバは、途方にくれた。
彼は忠実で勇敢なセムの勇士だった。リアードを深く崇拝してもいる。そのリアードの大切な双児なら、むろん、救い出しにゆくことには異存はない。
しかし、彼の族長はロトーだったし、ロトーは今のところ、あえて戻るつもりはなさそうだ。とにかく、一時身をおちつけ、ガウロたちを説きふせて、それから、というつもりなのだろう。そして、ガウロたちには、二人の捕虜など、どうなろうとかまわないのだ。
シバは力なく首をふった。スニはわっと泣き出したいのをこらえるように、口に手をつめこんだ。
また、どこかの岩山で、砂漠オオカミが遠吠えをする、世にも物悲しく、物凄い、セムたちの背すじの毛をざわつかせる底冷えのする声がきこえてくる。
「――わがほうの損害は、死者三百六十二、負傷、千五百、ウマが数十頭、以上であります」
単調な伝令兵の声が、夜の砂漠にひびきわたってゆく。
「死者のほとんどは歩兵で、負傷でいちばん多いのは、石オノで頭をやられたものと、吹矢で目をやられたものであります」
「負傷が思ったより多いな」
アムネリスは、天幕の前にもちだした床几にかけて、傲然と膝の上によこたえたムチをもてあそんでいた。
「ただしセム軍のうけたいたでは、わが軍とは比べ物にならぬほど大きいはずで」
オアシスは血染めにかわり、あたりは血の匂いで、ほとんど息もつけないくらいだった。セムの切りとられた首がつみあげられて陰惨なピラミッドを築きあげ、首のない屍体がおりかさなるようにしてころがっている。
もう、犠牲者のうめきやすすり泣きや悲鳴も、ぱったりと途切れていた。モンゴール軍はふた手にわかれ、半分はセムの残党を追い、のこり半分は、オアシスの中をまわって、敵にとどめをさしてまわったからである。
もはやここには用はない、と見ると、その半分も、すばやく隊伍をととのえ直し、伝令をとばして互いに連絡をとりあいながら、追走にうつった。先に追撃にむかった都隊からは、ひっきりなしに伝令がかけつけて、セムの状況を伝える。
「セムの残兵は、どうやら東の岩場に逃げこみ、足場がためをしようとしているようすであります」
「セムのめざしているのは、どうやら、狗頭山の手前にひろがる岩石地帯と思われます」
「あまり、深追いするふうを見せるな」
アムネリスはその報告に耳をかたむけ、きびきびと命令を下した。
「ばらばらのまま砂漠へ散らばられては、片づけられるものも、片づけられなくなる。少しわざと追撃の足をゆるめ、セムどもにふりきられたふりをしてみせ、セムどもがいったん体勢を立て直しに集結をおえるいとまを与えてやれ。ひとつに固まらせておいて、また叩く。こんどこそ、一兵たりとも生きては逃がさぬためにもな。のう、ガユス」
「は――」
にぶい声でガユスは答え、アムネリスの上機嫌を頭巾の下から見守った。
「しかし、殿下――岩山に入られては、何かと面倒でございましょうに」
ヴロンが口を出す。双児を手中におさめ、勝利を目前にしたアムネリスは、いつもなら怒るさしで口にも怒らなかった。
「それはむろん考えてある。ちゃんと手を打っておくのだ。例の山へは入らせはせぬ。あそこへ逃げこめば、と思わせて、その山の入口に人数を伏せておく。一本道で、逃げ道がないのは、こちらに不利になると同時に、やつらにとっても致命傷になりうるというものだ。のう。ガユス」
「御意――」
「しかし、それに気づかれぬよう、わが軍の主力は松明をつけ、ゆっくりと移動して、セムどもをゆるゆると追いつめてやる。その間に、伏勢が先まわりする。陽動作戦というわけだ。その伏兵隊をひきいるのは、そうだな、アストリアスがよかろう。彼は、パロの双児をとらえ、手柄をたてた。イルムは、セムの首領格をかなりの数、逃してしまったからな」
アムネリスはいくぶん饒舌にさえなっていた。
「まったく、解せぬことだな。あれだけ、前もって周到に申しあわせて退路をふさがせておいても、掬おうとした手から水がもれるように何人も洩らしてしまう。イルムも、髭が泣こうよ」
うへえ――とフェルドリックが身をすくめた。しかし、早速アストリアスへ伝令がとばされる。
「夜に入ってから、陽動作戦に入るゆえ、それまではセムどもを見失わぬよう、気づかれぬよう、つかず離れずつけさせておけ。万が一にも行方を見失うことあらば、そやつは打首だ」
「は!」
「まったく、思ったよりも手間どってしまったが――」
アムネリスはガユスをふりかえって、
「しかし、それもどうやらこれでかたがつくだろう。そのあとは、カル=モルのいう瘴気の谷をさがす前にいったん留守部隊を野営させておき、補給と休養をかねてケス河畔まで戻ろう。ガユスは、帰路につくによい日和でも、占っておくがよいぞ」
アムネリスはかるい声をたてて笑った。公女の珍しい上機嫌をみて、フェルドリック、ヴロン、リントらの取巻きも追従するように笑う。
もしここに、戦死したマルス老伯爵がいたら、若い将軍の不心得をきびしくとがめ、いさめもしたかもしれない。
(姫さま――いまだ、お心をゆるめられるべき時は来たっておりませぬぞ! セム掃討もならぬうちから、帰路の日和でも占っておくがよい、とは、何たるおことばです。さきについて考えるはよしそれは将たるもののつとめ。しかし、安易にこうなるであろうと見つもりをたて、いまだその事も成らざるに、すでに事の終わったかに思って剣をにぎる指をゆるめるのは――ご油断でございましょう。アレクサンドロスの兵書にも、さいごの一兵が倒れ伏さぬうちは、いくさはおわらぬ、とあるを、お忘れでございますか!)
しかし、マルスはもはやおらず、フェルドリック以下の白騎士たちは、アムネリスの一顰一笑に意を迎えようと心をくだく側近でしかなかった。
アムネリスは考えこむように、長い輝かしい金色の巻毛に指をからませながらあたりを見まわした。日は砂漠におちてゆき、血と死とにまみれたオアシスを、そっと闇がやさしくつつみこもうとする。
「日没後に出発。合図をしたら全軍松明をともせ。伏兵を出したことを見破られぬよう、横にひろがり、なるべく人数を多くみせかけつつ、セムの逃走路を追うこと。アストリアス隊はこれよりただちに別行動にうつり、くれぐれも、こんどこそセムの頭立ったものたちを逃がさぬようにせよ」
アムネリスは命じた。そして、うっすらと微笑してつけ加えた。
「この伝令を、セム族の死刑執行の命令書とこころえるがよい」
「御意!」
そうとは、ロトー以下のセム族には、知られよう筈もない。
狗頭山までの道のりは長く、そしてはか[#「はか」に傍点]が行かなかった。あかりがあれば、足もとを照らすこともできようし、イワモドキのような危険な怪物から、前もって身を守ることもできよう。
しかし、かれらは追手を恐れる落人だった。かれらのうしろを、ちらちらとゆれうごく、あざけるようなモンゴールの灯火が、セムたちを手ひどくおびやかし、前へとかりたてた。砂漠オオカミの恐怖も、砂をふむのに適したひらべったい足のうらにいたくあたる、ごつごつした岩かども、それにくらべれば物の数ではなかった。
狗頭山は目の前のように見えるが、そこへの道のりは、ずっと岩場がつづき、起伏にとんでいる。
一回、休もう、とカルトが音を上げたが、
「休みたければラサだけ好きに休むがいいさ」
冷やかなガウロのことばにあっさりと片づけられてしまった。そのあとは、スニでさえ弱音ひとつ吐かなかった。
ひっきりなしのオオカミの遠吠えがいちばんかれらの心を悩ました。砂漠オオカミは、いまのセムにはとうてい手にあまるあいてである。前にはオオカミの住む岩山、うしろにはモンゴールの非情な追手――そして踏むのはいつイワモドキにとびつかれるか知れたものではない、ごつごつした岩である。それがかれらの追いこまれている状況だった。かれらが、ともすれば黙りがちに、うなだれがちに、ひたすら先をいそいだのも、むりとはいえなかった。
その単調でしかもおびやかされた行軍が、どのぐらいつづいたことか――
「ガウロ」
ロトーの、低いが、しかしいつになく鋭い声が、セムたちの足をとめた。
「何だ、疲れて、もう歩けぬというのか。ならば置いてゆくまでさ」
ガウロが毒づく。ロトーは手をあげて、経験ゆたかな白髪の顔をあおむけた。
「おかしいと思わぬか、ガウロ」
「何が」
ガウロは、おどろいたようだ。
「いや――」
ロトーは云いよどんだが、意を決して、
「気がつかぬか――少し前から、オオカミの遠吠えが、ほとんどきこえなくなった」
「そんなことは――」
ガウロは、苛立ったように肩を動かす。
「オオカミどもが、山の反対側の斜面にいったのだろうさ」
「いや、ちがう。バルト鳥の鳴声も絶えた。さっきから、あたりがひどく静まってしまった。何かが、おかしい」
「しかし――」
ガウロはふりむき、そして、眼下にちらちらゆれているモンゴール軍の灯火が、いっこうに距離をつめていないのをたしかめた。
「オームどもはうしろから追ってきている。もう、ずいぶん狗頭山に近づいた。追いつかれるものなら、もうとっくにオームは仕掛けてきていたはずだ」
ばかにしたようにロトーをねめつけて云いすてた。
「そんなオオカミの吠え声などを気に病む前に、少しでも先をいそぎ、一刻も早く山中に入ることだ。山中に入ればとりあえず安全になるし、食料も水もある。山の入口はもうすぐそこだ。急こう」
ガウロが、まだ云いおわらぬうちだった。
「オ――」
闇をつんざいて、先頭にいたラサたちの絶叫がかれらの耳につきささった!
「オームだああーっ!」
「オームが待ちぶせていた!」
「イアアーッ!」
「ガウロ! シバ!」
ロトーの反応は誰よりもすばやかった。
「罠だ。戦うのだ。戦って切りぬけるしかない」
「無理だ!」
カルトが悲鳴のような声をあげた。
「セムはもう戦えない。逃げ――」
うしろをふりかえってみたが、そのまま低い絶望的な声をもらす。モンゴールの灯火はにわかに速度を増して近づきはじめていた。
「あッ――あれを!」
シバが前方の、狗頭山の入口に近いところを指さす。
そこにも、ふいに、さっきまでは影も形もなかった、いくつかの灯火が、不吉な人魂のようにうかび出ている。
それが、奇妙な線を闇に描いてうち振られる。疑いもなく、それは、モンゴールの伏兵が、セムたちを罠にかけたこと、もはやセムたちが追いつめられたことを、彼方の本隊に連絡しているのだった。
「おのれ――」
ガウロが、口汚く罵った。
しかし、かれらは茫然自失しているいとまものこされてはいなかった。見るまに、さながら地の中からわき出した、とでもいうように、モンゴール軍の一隊が出現し、わらわらと展開したと思うと、セムたちと狗頭山のあいだを、ぴたりとふさいでしまったのである。
そして、うしろからは、ひたひた、ひたひた、と夜光虫の打ちよせる波のように、松明をかざしたモンゴール本隊が急速に間合いをつめてくる。
「ロトー」
シバは、すがりつくようにして、大族長をふりあおいだ。
「おちつけ。いつでも、攻撃がはじまると同時に岩に身をかくせるようにしておけ」
ロトーはゆったりと云う。その口調には、追いつめられたネズミと化したセムたちを、ふしぎとおちつかせる何かがある。
セムたちはいっせいに毒矢を吹矢筒にセットし、石オノをぬき出してかまえた。ロトーやスニや、怪我人たちを中に入れて、ぐるりと四方を向いてかまえ、どこから最初の攻撃に見まわれてもよいようにする。暗闇の中で荒い息づかい、誰かが「――アルフェットゥ!」とささやく声だけが耳につく。
「かかれ!」
ふいに――
若々しいモンゴール隊長の声が闇をつんざいた!
岩場ではウマは役に立たぬ。すべてのモンゴール騎士は、ウマをあらかじめのりすて、徒歩立ちになって突進した。鎧がぶつかりあう、がちゃがちゃという音が、セムたちに、敵のありかを教えた。
「アイヤーッ!」
ガウロ、カルト、シバの口からも、荒々しい命令がほとばしる。
いくたびめかの死闘が闇の中ではじめられたのである。
「アウア! アイ、アイアーッ!」
「アルフェットゥ! アルフェットゥ!」
「モンゴール――モンゴール――モンゴール!」
月は雲にかくれ、星々もまた消えた。
あやめもわかぬ闇のなかで、ぶつかりあう石オノと鎧、石オノと剣が、青白い火花を一瞬パッと散らし、猿人のむき出した歯と死物狂いの形相、騎士たちのふりあげた剣を、一刹那照らし出す。
「逃がすな――逃がすな!」
「皆殺しにしろ!」
剣がふりおろされ、闇に血しぶきのとびかうシュッという音とともに、セムの首が恨みをのんで空をとび、岩かどに叩きつけられてぐしゃりとつぶれる。
もはや族長もカロイもラクもラサもない――否、モンゴール兵とセム兵すら区別がつかぬ。
兵士たちは手をのばしてさぐり、固く冷たいよろいに手がふれるとあわててひっこめ、あたたかいゴワゴワした毛にふれると、たちまちもう一方の手に握った剣をうちおろした。悲鳴、金切り声、断末魔のうめき、それだけが、その結果を推測させた。
シバはスニのからだをひっつかむと、岩かげの穴におしこめた。そのまま戦いにもどった。スニは身をちぢめ、岩の中へそのままもぐりこみたいように丸くなった。
どさり、と音がして、岩に足をとられたらしいモンゴール兵が倒れこんできた。赤くもえる血に餓えた目が、小さくなって目ばかり光らしている毛ぶかい生き物を見た。
「ここにも一匹!」
野太い声でわめくと同時に剣をなかへつきたてようとする。
「ヒイー!」
スニが悲鳴をあげかけたとき、ふいに、かすかな呻き声がして、その男はどさりと倒れた。こんどは、足をとられたわけではなかった。
目を丸くしていっそうちぢこまっているスニの腕が荒々しくつかまれてひきずり出された。闇にも見なれた黒い瞳が光っていた。
「来い。リンダたちを助けるんだ」
イシュトヴァーンはささやき、そのままスニの手をひきながら岩から岩へするするとかけぬけた。
うしろから、粛々と迫っていた松明の群れが近づくにつれて、岩場はその灯りに照らし出された。絶望にかられて抵抗をこころみるセムたちは、灯りに照らし出され、一人づつ囲まれて刺し殺された。呻きと血の匂いがオアシスから流れこみでもしたかのように岩場をみたした。
もはや、セム族がすべて切り倒されるのは時間の問題でしかない。
[#改ページ]
3
「逃げろ――」
カルトのらしい絶叫がきこえ、そしてそれは云いもはてぬまま、うめき声と苦痛の悲鳴にかわって、他の悲鳴の中にのみこまれてしまった。
「ロトー――」
シバは、けんめいに、族長のわきをはなれまいと守りながらわめく。
「ここはあきらめていったんおちのびましょう――私が血路をひらいて……」
すでに、手に手に松明をかざしたモンゴール軍の本隊は怒濤と化して岩場へなだれこんできている。
岩場の入口でかれらはウマをすてると、左手に松明をかざし、右手に剣をもって、アストリアス隊の援護に岩々のあいだへかけこんできた。
それは、攻撃力を半分にそぐ、危険な姿勢であったが、しかし同時に、そのあかりのおかげで、岩場に朝の光がおとずれたかのように、あたりはあかあかと照らし出され、岩のかげに逃れかくれようとするセム、暗さに乗じて走っておちのびょうとするセムを見つけやすくした。
「こんどこそ、一匹ものこすな――一匹のこらず首をうて! いいか!」
フェルドリックの叫び声が闇をつらぬいてゆく。
「殿下――」
そのかたわらをはなれずに公女を守っていたヴロンは、笑って云った。
「戦い甲斐なき弱敵でございますな」
「戦いなどというな」
アムネリスは、美しい顔に、酷薄な笑いをうかべて答えた。
「これは獣どもの屠殺――サル狩りにすぎぬ」
たしかに――
アムネリスの云うとおり、もはや、それはいかなる意味でも戦いとは云えなかっただろう。
セムたちはついに、まったく戦意を喪失してしまっていた。いったん統制を失うと、半猿の前人類であるだけに、いよいよ収拾がつかなかった。
族長たちのなんとかふみとどまらせようという努力も知らぬげに、てんでに金切声をあげながら逃げまどい、仲間どうしがぶつかりあい、鋭利な剣さきをよけようとして仲間のうしろへもぐりこむ。それへ、切り倒された同胞の噴き出す血潮がパッとしぶいてふりかかる。
「戦え、戦え!」
「逃げるな!」
族長たちの叫びはむなしく悲鳴にかき消される。
「アイアーッ!」
「イイーッ!」
逃げようとする足は、倒れた仲間をふみつぶし、手はまろび走る仲間をつきとばした。
モンゴールの兵士たちは、ゲラゲラと笑うゆとりさえみせて、かぶとをはねあげ、猿人たちを追いまわす。剣の刃先が松明の灯をうけてキラリと光り、同じ火が血に酔いしれる顔を真赤にてらてらとうつし出す。
そこかしこで目をおおわんばかりの凶行がくりひろげられていた。モンゴール兵たちは、ただセムを切り倒すだけでは物足りず、てんでにあわれないけにえをとらえては、残虐なゲームのたねにした。
「俺は手だ」
「俺は足だ」
「よーし、目だ!」
口々にののしりさわいで、逃げまどうセム族のうしろから剣をふりまわし、誰の刃がいちばん早く、云った箇処を切りはなし、あるいはえぐりとるかをきそった。悲鳴をあげる猿人をつかまえると、わざと剣をふるわずに、恐怖に白くまん丸に見ひらかれた目と目のあいだへ岩を叩きつけて、頭をぐしゃぐしゃにたたきつぶした。
「マルス隊長は生きながら、焼かれたんだからな!」
酒によいしれでもしたかのように、真赤な顔をしてわめいているやつがいる。
「おれも、同じことをやつらにしてやるぞ!」
そして、彼は、セム族をつかまえて、その頭からヴァシャ油をあびせかけると、左手にもった松明で火をつけ、火だるまでころげまわり、絶叫するのをみて大声で笑い出した。
「こんどの奴が何タルで焼け死ぬか」
「十タルに一ラン賭ける!」
「五タルに一ランとはちみつ酒ひとつぼだ!」
「十タルに鎧ひとつ!」
そして、かれらは、その賭けにつかうセム族をどれにしようかと、松明をふって追いまわしながら、あいつが燃えやすそうだ、いや、こいつの毛の生えぐあいがいい、などと論評しあった。
こちらには、どこまで皮一重のこしてセムの首を切りおとせるか、というゲームに熱中している連中がいる。うっかりと、スパリと切りはなされてしまった首をみると、かれらは舌打ちして、ヤン・ゲームのボールででもあるかのように、それを無造作にけとばした。
セムの外見、その毛ぶかい、一見すれば人よりもサルにちかいかの感を与えるすがたとが、かれらをして、途方もない陽気な残酷さにおちいりやすくしたようだった。かれらはイヌかネコをほふるのと同じ気がるさで、セムの目をえぐり、皮をはいだ。尻尾だけ切りおとしては山のようにつみあげるもの、小さな猿人をおさえつけておいて、ゲラゲラ笑いながら、その手足をくしざしにしているもの、セムの毒矢をとりあげて、逃げまわるセムをあいてに、セム自身の武器をためし、練習しているもの――
いたるところに、胴から切りはなされた頭が白く目をむいてころがり、指をバラバラに切りおとされた腕、皮をむかれた顔、えぐり出された限球が見られた。はみ出した脳漿と内臓と、そして川になって流れる血とで、地面はぬるぬるとすべり、それに足をとられぬよう、モンゴール兵たちは、セムの屍をふみつけて歩いた。屠所でもこれほどではあるまいというすさまじい、鼻のもげそうな臭気が立ちのぼり、もしモンゴール兵がそれほど夢中になっていなかったならば、かれらは血の匂いにすっかり興奮して火の恐しさも忘れて忍びよってきた、オオカミどもの青光りする目、そのだらだらとよだれを流している口やめくれあがった唇を、岩かげにいくらでも見出すことができただろう。
さいわいにして、肉と血とは、狗頭山に住むすべてのオオカミがかかっても食いつくせぬほどあった。オオカミどもは、すばやくとび出しては死体や切られた頭をくわえて岩かげへひきずりこみ、あちこちから、骨をかみくだく音、まだあたたかい血をすするぶきみな音がきこえていた。
それはまさしく、セム族さいごの日にちがいなかった。生きながらの地獄図絵がそこに展開されていた。モンゴール兵は血に酔い、肉にむせて、もはやどのような規律も、自制も、理性すらも、のこしていないようにみえた。
「おお――おお――おう!」
両手をもみしぼり、レムスのふるえる肩を抱きしめて、狂ったように叫んでいるリンダに注意をむけるものは、誰ひとりいなかった。
リンダは、後方送りになるひまもないまま、足首をレムスとじゅずつなぎにされてひっ立てられてきていたのである。
リンダの目は涙でいっぱいになり、いくどとなく嘔吐のえずき[#「えずき」に傍点]をこらえた。彼女の目の前で、小さな陽気な猿人たちはキーキーと叫び、のたうちまわりながら剣につきとおされ、おさえつけられてベリベリと皮をひきはがされた。
「おう――何ということを――ヤヌス、ヤヌス、お慈悲を!」
リンダはいまとなってはもうレムスしか、彼女を正気のさかい目にひきもどしてくれるものはない、というように、泣いている弟のからだにしっかりと、まるでしがみつくように抱きつきながら狂ったように叫びつづけていた。
「おお――やめて、お願い、やめて! かれらが何をしたというの、かれらに何の罪があるの――何ということ……何ということを!」
むざんに切り倒され虐殺されるセムのすがたはそのまま、クリスタルの都の美しい人びとに対しておこなわれた流血の惨劇とかさなってゆく。リンダの目に、モンゴールの四色の鎧は悪鬼のしるしとも見え、苦しみながら殺されてゆくセムたちはそのままリンダのいとしい身内や国民であった。
「やめて!」
血を吐くようにリンダがうめいて、レムスの胸に顔を埋めてしまった。
(どうして、こんなことがゆるされるの――どうしてこんなことを神は怒らないの。グイン、どうして来てくれないの、グイン……)
「リンダ」
彼女はあまりにも悲嘆と絶望にひたりきっていたので、はじめ、その低い、あたりをはばかる声にも気づかなかった。さきに気づいたのは、レムスの方だった。
「リンダ」
不安そうに、弟が云い、姉をつつく。リンダは顔をあげ、そしてびくっとした。
一人の赤騎士がそこに立って、いわくありげに二人を眺めている。面頬をとおして、黒く輝く瞳が二人に秘密めかした合図を送っているようだ。
「イ――」
リンダはあとのことばをのみこんだ。ふいに、大いなる安堵とぬくもり、ともいうべきものがつきあげてきた。
「ずいぶん、さがしたぞ。まったく、とんまな上に世話をやかせるがきどもだ」
ヴァラキアのイシュトバーンは含み笑いをしてささやくと、短剣をそっとぬいてまわりの兵がすっかり虐殺に心をうばわれているのをたしかめた。
ウマの陰に身をかくすようにしながら、プッリと、二人の足をウマに結びつけていたナワを切る。あわててとび出そうとする二人の手をぐいととらえた。
「あわてるな。そーっと、ウマから岩、岩から岩とつたわって、身をかくしながらここをはなれろ。みんなが夢中になっているうちだ――いいか、ゆっくりだぞ。むこうの岩かげにスニがいる。ウマをぬすみ出せといっといた。乗って、逃げろ」
「イシュトヴァーン、あなたは?」
「おれの心配などしてくれんでいい。どうとでもするさ――さ、行け」
イシュトヴァーンは、さすがに双児をセムの中にのこし、自分ひとり逃げのびたことをうしろめたく思っているようだった。それ以上かさねて何か云おうとするリンダの口をふさがせると、行け、と指さす。
「身をおこさず、這ってゆけ。もうすぐ、日の出だ。日が出ると、おしまいだ」
「わ――わかったよ」
レムスが、まだためらうリンダをひっぱって、そろそろと動き出そうとした――刹那だった!
「待て。何をしている。なぜ、双児のナワを切った?」
うしろから、きびしい声がかれらをいすくませた!
イシュトヴァーンは全身を硬直させた。それへなおもきびしく、
「赤騎士だな、アストリアスの隊か? 名をいえ、きさまもパロの手先か?」
「とんでもない。これにはわけがあって――」
弁解がましく云いざま、イシュトヴァーンはくるりと身をひねり、長剣をつき出した。
あいては充分に予期していた。老獪さをみせてパッととびすさりざま抜きあわせる。自騎士の鎧に、大隊長の大房つきのかぶと。面頬をあげた顔はゆだんなくひきしまっている――フェルドリックだ。
「痴れものが。殿下の前で尋問してやる」
フェルドリックの方が剣技にかけては一日の長があった。イシュトヴァーンの必殺の突きをすばやくフェイントすると同時に、右から顔を狙った一撃が、パッとかぶとの結び紐を切断し、すかさず踏みこむ突きをよけかねて、たたらを踏んだイシュトヴァーンの頭から、かぶとがおちた。
(――!)
見られた、とうろたえる一瞬の隙に、フェルドリックの剣さきがイシュトヴァーンののどに擬されていた。
「云え。きさま何ものだ。なぜ、パロの双児を逃がす」
イシュトヴァーンはきょろきょろと目ばかり動かして活路を求める。フェルドリックの顔がけわしくなる。
「云わぬと、このままひと突きだぞ!」
腕にぐっと力が入った。絶体絶命のイシュトヴァーンは顔をそらし、蒼白になって喘いだ。
「云え!」
フェルドリックが、刃さきがのどに食いいるほど、ぐいぐいと押しつけた――
そのとき!
「おおっ――!」
ふいに、叫びともつかぬ、どよめきともつかぬ波が、あたりをゆるがした!
「――?」
びくり、とフェルドリックが身を固くする。その一瞬をのがさずイシュトヴァーンはうしろざまにとんぼ返りで刃先を逃れる。
「待て――」
フェルドリックは追って踏みこもうとした。
その足が宙に踏み出されたまま、彼は凍りついてしまった。
口がぽかんと大きくあいた。目は、とうてい信じがたいものを見たおどろきに、はりさけんばかりに見ひらかれ、われとわが理性を疑った。
「な――」
その口から、かすかな、無意識の声がもれる。
「なんだ[#「なんだ」に傍点]、あれは[#「あれは」に傍点]!」
それはまた、すべてのモンゴール兵の口からほとばしった叫びでもあったのだ!
おお――
いまようやく、長い流血と虐殺の夜は明けようとしている。
地上の酸鼻など少しも知らぬげに狗頭山の彼方にのぼりくるルアーは、灰色のものうげな明るさでもってその地獄図絵を照らし出しはじめている。
松明の灯などはその偉大な光の前にあって、みるみるくすんだ、黒煙を放つ卑小な螢火と化し了《おわ》ってしまった。
朝の光に照らし出されたあたり一帯は、むごいとも、悲惨とも、酸鼻とも何とも、形容のしようのない惨状を呈していた。
血、生首、臓腑、脳漿――
そのあいだで、しかし、生あるものは、モンゴールもセムも、将も兵も、ひとしなみに、これ以上ない大いなるおどろきにうたれて、さながら伝説の魔女キュクロベをかいま見たために、その場で生きながら石と化したカナンの都民と変じたかのように見える。
すべてのあごがあんぐりと落ち、すべての目が、驚愕と不信に見ひらかれている。むろん、岩のあいだにまろび伏した、リンダも、レムスも――ウマにうちまたがったアムネリスでさえ――
「グ……」
誰の口からか――
どのぐらいの時ののちにか――
かすれた、さだかならぬ叫び声が、ようやくほとばしるまで、かれらはすべて、血まぶれの剣を手にし、あるいはいまやまさに敵につきとおさんとしたまま、凍りついたようにそれ[#「それ」に傍点]を見すえて動かなかった。
いや――動けなかったのだ。
「グイン……」
「グイン――」
「グイン!」
おのづから、最初のひとつの叫びは、波紋のひろがるように、つぎつぎにひろがっていった。
あたかも、深山にひびき、しだいにその数を増してゆく、エコーのように――
「グイン!」
「リアード!」
「リアードーッ!」
シバは、やにわにかけ出した。
その目が、みるみる、涙で見えなくなるのもかまわずに――
リンダもとび起きて走り出した。レムスも。
「グイン!」
すすり泣くような叫びがその口をもれる。
「グイン――おう、グイン、グイン!」
まるで、その叫びと、そして、その、まろび、走り寄る姿とが、この凍りついた群像の呪いをやぶり、生きかえる命令を下したかのようだった。
それまでの恐しい静寂をつきやぶるかのようにして、すさまじい――耳も破れんばかりの騒擾が、一どきにまきおこされたのである。
「どこから――一体どこから、どこから……」
「あれは何だ。あの化物どもは一体何だ」
「グイン――」
「リアード! リアード!」
セムの生きのこりの喚声は、いまや、ひとつの大歓声へとなだれこんでいった。
「リアード! リアード! リアード!」
いったい、どこをどう通ってあらわれてきたものか――
狗頭山の、ひときわ高い岩の上に立つ、豹頭、人身のたくましい戦士は、胸に腕を組み、あたかも地上の盛衰を傲然とつかさどる運命神それ自体の化身のように、黄と黒の巨大な獣面をこの酸鼻の極の戦場へむけている。
その左右に居並ぶ、見るも魁偉な、グインそのひとよりもさえ巨大な、雄々しい巨人たちの群れ――
英雄シレノスに率いられたたくましい神兵の軍勢にも似て、いずれ劣らず雄渾な、不敵なすがたをみせるその巨人たちは、しかも、見ているうちにさえ、あとからあとからその数を増してゆく。地にまかれた竜の歯から生えいでたという、ヴァルゴスの兵士たちのように、かれらはいずくともなくあらわれ、そしてグインのうしろに並ぶのだ。
おりからかれらのうしろから上りくる朝日につつまれて、それは、神兵の降臨の、云うにいわれぬふしぎな魅力と美しさとにみちて光り輝いた。巨人たちの、あわい色の髪、全身をおおううぶ毛が、逆光にすかされて、金色にすきとおり、まるでかれらそのものから光を発しているかのようだった。
かれらの手には太い棍棒が握られ、そのひきしまった腰には、太いオオカミの皮のベルトがまきついている。
グインのうしろには、その巨人族のなかでさえ、ひときわ目立つほどの巨人が、シレノスを守るバルバスのように、胸に腕をくんで足をふんばっていた。そのせまいひたいと、けわしくしかめた眉の下で、輝く目は、火を発し、すべてを焼きつくそうとしているかのようだった。
「ラゴン――!」
「ラゴン――」
「ラゴン!」
伝説のなかにだけいるとずっと信じられてきたまぼろしの民を、いま、人びとは目のあたりにしていることを知ったのである。
グインの手が、ゆっくりとあがった。その手には、何か奇妙な、日をうけてまばゆく光る銀色のものがにぎられていた。
「セム――」
豹の口がカッと開いた。そこから、大地さえゆるがすような、腹にひびく咆哮がほとばしった。
「セム!」
「セム!」
すべての巨人たちが唱和した。大地がふるえ、鳴動した。
そして、グインを先頭に、巨人たちは、ドドドド……と狗頭山をゆるがせて、戦場のなかへ、いまこそ駆け入ってきたのだった!
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「ひ――」
悲鳴のような声が、伝令たちののどからもほとばしっていた。
「ひるむな。あらての敵だ。心して向かえ!」
「おじけつくな。あいては、われらより、少ないぞ!」
「隊伍をととのえ横隊を組んでぶつかれ! バラバラに敵にあたるな。一人に対するに三人をもって当たれ!」
完全に、形勢は逆転していた。
わずか、時間にすれば、日が上りきるまでの数タルザンでもって――
アムネリスは、狂気のように伝令隊を走らせ、命令を下し、何とかして、自軍をふるい立たせようとした。ヴロンとリントはおろおろしてかけまわり、必死に陣容を立て直しにつとめた。
だが、ひとたび、くずれた軍勢は、もろい。それがまして、その一瞬前まで、圧倒的な強大と有利とを誇り、確信していればいるほどその自信をつきくずされたいたでは大きいのだ。
大きいだけの野蛮人だ、という、むりにふるいおこした勇気も、ラゴンたちが雄叫びをあげて、岩のあいだへかけおりてきた瞬間にあっけなく崩壊した。ラゴンは、すばらしい戦士であった。
かれらは、戦うために生まれ、きたえられてきた種族なのだ。――その巨躯は、その大きさにも似ず、きわめて敏捷にしなやかにとびまわり、そしてかれらのひとりひとりが、剣と棍棒との達人であった。
必死にむかってゆくモンゴールの勇士たちは、こんどは、さきにモンゴール軍に対するセム族がそうであったように、いともやすやすとあしらわれた。岩山は、ラゴンの領土であった。その固い足のうらは、岩かどをふんでカモシカのようにかろやかにかけまわり、そのおどろくべき力を秘めた腕がたかだかとあがるとき、みるみる、モンゴールの精鋭は頭をうち割られ、血へどを吐いて、地面を血に染めて倒れた。
「なんてこった、なんてこった!」
イシュトヴァーンは、奪いとったよろいかぶとのすべてを、ラゴンに敵とまちがわれぬよう放りすて、身軽になって、とびまわって戦っていた。途方もない陽気な声が、彼ののどからほとばしっていた。
「なんてえ戦いぶりだ、なんてえ剣士なんだ! わけてもあのでけえ奴ときてみろ、あいつはまるでルアーその人みたいに戦うぞ! なんてこった、奴とグインの戦いに賭けてみたいもんだ。グインのやつ、なんてやつらをひっぱって来たんだろう――なんてことをしてのけたもんさ! おお、シレノスの母なるニンフにかけて、こんな戦いっぷりははじめて見るぞ! あれが味方でよかったよ――じっさい、あんなやつらと戦わされちゃあ、たまったもんじゃねえよ!」
そう云いながら、彼自身もけっこうまめに左右へステップし、とびすさり、突きさして、勇猛な戦いぶりをくりひろげていたのである。形勢逆転とみて、フェルドリックがあわてふためいて逃げ出そうとする。
「待ちやがれ、卑怯者!」
陽気に叫んで、イシュトヴァーンは剣をくり出した。フェルドリックは叫んで倒れる。あわてて、その部下が隊長の前に立ちはだかり、もうひとりは隊長をひきずって逃れた。
「おっとっと――そうか、すっかり忘れてたぞ」
ふいに、イシュトヴァーンはいくぶんうろたえた。
(おれは、面を見られちゃまずいんだっけな)
運び去られるフェルドリックをみて、追っていってとどめを刺してやろうか、という考えに見舞われたが、
「ま、いい。爺いだったから、あの傷ならどうせ生命はねえだろう」
ひとり決めすると、そのあとは、あまり正面からその特徴ある顔をさらさぬよう注意しながら、グインと合流すべく少しづつ移動しはじめた。
セムたちもまた、このあらたな強力な味方を得たと知るや、いたずらに時を費してはいなかった。
「リアードの援軍だぞ! ふるい立て、戦え、セム!」
「リアード、リアード!」
「バラバラになるな。かたまってオームにぶつかれ!」
それまでのむざんな戦いで、手ひどい打撃をうけてはいたものの、この小さくて勇敢な砂漠の戦士たちは、頼もしい味方に前線をゆずって後方にひきさがっていたでをいやすつもりなどなかった。
仲間の屍をのりこえ、ふみつけて突進する――その、セムの凶猛な素質が、十二分に発揮されたのである。
生きのこったセムたちはそれぞれの族長のもとに集まり、たけだけしい金切声をあげてつきすすんだ。それはとうてい、たったいままで追いまくられ、なぶり殺され、残虐をほしいままにされていた敗者の気魂ではなかった。
「仲間の仇を討て!」
「ラゴンにおくれをとるな!」
「アイ、イーッ!」
セムは敏捷にかけまわって、アリが蝶にとりつくようにモンゴール騎士におそいかかり、ラゴンはその偉大な腕力をふるってぶんぶんと棍棒をふりまわす。それにあたろうものなら、鎧もかぶとも紙のそれででもあるように、ぐしゃりと音たててモンゴール人の頭は砕け、頭のあったところは血と脳と骨のかけらの入りまじったどろどろのかたまりになる。セムの毒矢が、するすると長剣をかいくぐる口から発せられ、モンゴール兵は目をおさえ、絶叫して倒れる。
その混戦の中でさえ、勇者ドードーと、そして豹頭も輝かしいグインの戦いぶりは、ひときわ立ちまさって目をひいた。
ふたりがそれぞれにむかうところに、よくおもてを向けられるモンゴール兵はなく、逃げまどうのを、イヌの子でもとらえるように、岩のようなドードーの腕がのびてひっとらえ、叩きつぶす。
必死の勇をふるって向かってゆく、勇敢な騎士の長剣は、太い棍棒にたやすくはねとばされて、ドードーのからだにさえ、よくふれ得ない。そして、次の瞬間、恐怖に凍りつき、白く目を見ひらいたあいての頭を、その棍棒が容赦なくまっぷたつにする。それは、戦士の種族ラゴンの、最強の戦士とドードーが呼ばれるゆえんを、いかんなく人々に知らしめる。
そしてグイン――
「おのれ! おのれグイン!」
アストリアスは、歯がみして叫びつづけていた。
「おれと戦え! おれの相手をしろ! きさまを探していたのだぞ!」
必死に、ラゴンの戦士の猛攻をふせぎつつ、何とかしてグインの方へたどりつこうとするのだが、これまた必死のポラックが、狂気のようになって、隊長をおしとどめていた。
「ムチャです。あいつは人間じゃない、鬼神にちがいない。死にたいのですか――隊長、隊長!」
「鬼神だろうと、ドールその人だろうと――」
「あの戦いぶりを見なさい!」
ポラックはあえいだ。
「だからおれは戦いたいんだ!」
「こんなところで死なないで下さい!」
「おれと――おれと戦え、グイン!」
「おお――」
ポラックは、ふいに思いついた。
「そうだ。隊長どの、我々には公女殿下を守る義務があります。本隊まで退いて、公女の旗を守らねば」
「公女――」
アストリアスはびくりとして目を見ひらいた。
はっとして、崇拝する姫の方へ目をやり、そして愕然とする。すでに、ラゴンの怒濤は、本隊、旗本隊へまでおそいかかりつつある。
これまでつねに、自ら戦うまでのことはなかった白騎士隊が、おしよせる戦いの巨人あいてに、白い姿を血に染めて、必死の防戦をくりひろげているのだ。
「大変だ。アムネリスさまが危い」
アストリアスはわめいた。
「全隊方向をかえろ。旗本隊を守れ」
「そう来なくちゃ」
他のことはどうあれ、この若い隊長を守るのに死物狂いのポラックはつぶやいた。
「ひけ、ひけ! アムネリス様を守るのだ!」
まだ、いくぶんは、阿修羅のようにイルム隊を蹂躙しているグインに未練を残しながら、アストリアスは大声で呼ばわった。しかし、それは、口でいうほどたやすいことではなかった。ラゴンたちが、アストリアスと、アムネリスとのあいだに立ちはだかっていた。アストリアスはぎりぎりと歯をかみ鳴らし、滅茶苦茶に剣をふりまわしながら突進にかかった。それはさながら、泥の海を、泳ぐように前進しようとするさまにも似て、はかが行かなかった。
その間に旗本隊もまた、隊伍をととのえるいとまもなく、苦しい戦いを強いられていた。
「姫さま――」
ヴロンがかけつけて来る。
「姫さま。ここはわれらに不利です。ひとまず退きましょう。退却の命令をお願いいたします」
「何をいうか、ヴロン!」
アムネリスは細い手を激しくねじりあわせた。
「ようやくここまでたどりついたというのに――たかが蛮族ふぜいに、モンゴールの精鋭がうしろを見せられるか!」
「あの巨人族は――」
ヴロンは絶句した。ガユスが、ゆらりと立った。
「殿下。退却の太鼓を」
「ガユス、お前まで!」
アムネリスは、金髪をぐいとふり払った。
「それとも、ここは足場がわるいゆえいったん退き、その上であらためて戦いをいどむということか? それなら、わかる。そうすべきというのか、ガユス」
「全軍、ケス河畔へ退き、防壁の彼方へ入ることを――」
ガユスはにべもなかった。アムネリスは息をつめ、口惜しさに蒼白になってガユスとヴロンを見くらべた。
そこへ!
「姫さま、危い!」
二重三重の防衛線を単身で突破したラゴンの戦士が、棍棒をふりまわしておそいかかってきた!
「キャーッ!」
悲鳴をあげて立ちすくむアムネリスをヴロンがつきとばした。一瞬、棍棒はヴロンの胴をなぎ、ヴロンは声もなく反転したと思うと血へどをガッと吐いて動かなくなった。
「姫さま、ここは危険です。いったんケス河畔へ退いて、リカード隊と合流を」
ヴロンを倒したラゴンを、一刀のもとに、うしろから切りふせたリントが叫んだ。彼もまた、退却をすすめにかけもどってきたのである。
アムネリスは声もなく、紙のように青ざめたままうなづいた。ガユスとリントが左右から姫を守って戦闘から避難させた。
ただちに、トウトウトウ……と、モンゴールの太鼓が打ち鳴らされ、明るくすんだ空へひびきわたった。
「総員、退却! ケス河畔めざして撤退せよ!」
「撤退、撤退!」
リントが、なぐさめようと、ウマに助けて乗せながらアムネリスをのぞきこむ。――が、その顔をみるとおし黙った。くちびるをかみしめ、頬をひきつらせ、血の気もないアムネリスには、もはやモンゴールの驕慢な公女将軍の誇りも気位もなく、心なしか、その名高い金髪さえも、その輝きをうすれでもしたかのように色槌せてみえた。いまのアムネリスは、年相応の、無力でかよわい十八の少女でしかなかった。
ウマにとびのり、なんとか陣容をととのえるいとまもなく、モンゴールの誇る精鋭は西のケス河めざしておちていった。そこを出たときの堂々たるおもかげは更にない。モンゴール一万五千の遠征軍は、むざんにも、その三分の一をすらのこしてはいなかった。それは、――その悲鳴のように打ち鳴らされつづける退却の太鼓、それは、ノスフェラスを制し、その秘密を手に入れて、全中原に覇をとなえようというモンゴールの野望が、さいしょに打ちくじかれた、そのあかしであった。
「――しんがりは……」
アムネリスが、ようやくそう問う気力をとりもどしたのは、岩場をすぎ、オアシスのかたわらをぬけ、どうやらラゴン――セム混成軍の追手もとだえた、と知らされたあとである。
「アストリアス隊がつとめております」
口重くリントがこたえる。
「アストリアス――無事だったのか……」
アムネリスは、何か云いたそうにした。
が、思いとどまる。
「ガユスは?」
ガユスもいた。しかし、
「カル=モルが、どうやら――姿がみえませぬ」
むっつりと、リントがいう。それは、いたでであった。カル=モル、そのキタイの、ノスフェラスから生還した男なしには、モンゴールはノスフェラスの秘密を手にすることができぬ。
「かれらの手に――おちたのか?」
「――彼が切り倒されるのを、見たものがおりました。生きてはおりますまい」
「そうか――」
まだ、その方がよい、と云いたげに、アムネリスはぐったりと呟いた。
(父上に、何と報告しろというのだろう――これほど手ひどい敗けいくさを)
自ら軍をひきいて、これほどにこっぴどくうち敗かされたのはこれがはじめてだった。アムネリスは、まぶたにこみあげてきた熱いものをぐいとおさえた。彼女の、十八歳の心は、この敗戦、という手いたい事実を、何とかうけとめるのに精いっぱいだった。まだ、グイン――その、十中九までの勝ちいくさを、かくもかんたんにひっくり返してみせた男を憎んだり、呪ったりする気力さえもわいては来ない。
しかし、グイン――というその名が、その異形のすがたが、これからさき、二度とは忘れられぬものになることもまた、よくわかっていた。アムネリスは馬の首の上に顔をふせると、とぼとぼと砂漠に踏み迷う敗残の兵たちのてまえも忘れて、力ない嗚咽に身をまかせた。
ケス河まではまだ何百タッドの遠きにある。越えてゆかねばならぬ、敵意にみちた砂漠が、この打ちひしがれた軍勢の前に白くひややかにひろがっているのである。
ノスフェラスの戦いは終わった。
「リアード」
走りよってきたシバが、やにわにその足もとに身を投げるようにしてすすり泣いた。
「リアード、やつらを追って、そして皆殺しにしなくてよいのか」
ドードーがのしのしと近づいて来て云う。
「よいさ。これでもはや、モンゴールはノスフェラスへの野望を打ちくじかれた。しばらくは目を中原へ向け直すだろうし、よしんば再度のくわだてがあったにせよ、ラゴンがあるかぎり、ノスフェラスはモンゴールの蹂躙にはかかるまい」
グインは吠えるような声で笑った。
「ドードー、ラゴンとは、戦いのためにつくられた種族だ、というのは、嘘ではなかったな」
グインは巨大なドードーと、小さなシバとを従えて、戦場の中を大股に歩いていった。
そこかしこで、よわよわしくもがくモンゴール兵ののどを、とどめの一撃でかき切るセムたちの姿があった。両軍の屍は折りかさなり、あたりを血と死臭とでみたし、一場の悪夢を、明るく輝きわたる砂漠の太陽が照らしていた。
ふいに、グインは足をとめた。その目が、奇妙なおどろきにかげって足元を見おろした。
「リアード?」
シバとドードーがいぶかしげにのぞきこみ、そしてドードーが眉をしかめる。
「なんだ、この化物は。砂ヒルに食われもせぬうちから、髑髏になっている」
そこに倒れ伏した、黒い長いフードつきマントを着た死体を、三人は見つめた。フードがずりおち、あらわれている顔は、世にも凄惨な、どろどろにとけくずれ、限窩も下顎骨もそのままあらわれた恐しい顔だった。
その胸を、うしろからつきとおされたらしいラゴンの槍がくしざしにしている。ノスフェラスを歩いて横断し〈瘴気の谷〉からさえ生還したほどの魔道師カル=モルも、この魔力を失った不具のからだでは、ラゴンの難を逃れることができなかったのである。
手首からさきのない、やせほそった手が、助けを求めるようにつき出されていた。ぽかりと黒い眼窩の中で、ひとつだけの眼球がうつろに空を見上げている。
三人は何もいわずそこをはなれた。かれらには、知るよしもなかった――いまようやく世にあらわれかけた、〈|瘴気の谷《グル・ヌー》〉――ノスフェラスをして死の地、異形の者の住家たらしめている〈瘴気の谷〉の秘密が、いったん水面にうかびあがるかにみえて、再び、前にもまして深く沈んでゆく船のように、カル=モルの生命と共に黄泉へ沈んでいったことを。それが、いまいちどあらわれるには、長い年月を必要とし、そしてそれがときあかされるまでには、さらにさらに長い年月を必要としているのだった。
かれらはさんたんたるありさまを呈している戦場を、べつだん心を動かすこともなく、通りぬけた。足はたえず血とはみ出した内臓にすべりかけ、屍はかわいて、空の下にかたく冷えてゆく。切られた生首、腕、両断された胴が、そこかしこを埋めている。セムの中には、モンゴール兵の死体にかぶりついて、飢えをみたしているものもある。
最も死体の山の多く築かれたあたりをとおりすぎたとき、
「グイン!」
「おお――グイン!」
ころがるようにして、まろび寄ってきた、小さな二つの姿があった。
「リンダ――レムス」
グインは、その、涙にかきくれたふたりの子どもが、左右からしがみついてせぐりあげるにまかせた。
「おお、グイン――グイン――グイン! わたし信じてたわ。きっとグインが助けてくれる、グインがすべてをよくしてくれるって、どんなときでも信じていたわ……」
顔を涙でぐしゃぐしゃにしてリンダがむせび泣いた。グインの大きな掌が、あたたかく、頼もしく、その国を失った王女と王子の肩を抱いていた。
「もう少し早く来てやりたかったのだが」
彼はなだめるように太い声で云った。
「あれで精いっぱいだった。ラゴンが、風穴《ふうけつ》という、狗頭山のなかをとおって、山の反対側へぬける鐘乳洞を知っていたので、それを通ってきたのだ。俺もしかし、狗頭山をぬけてから、また戦場までの距離を思って、いささか絶望していた。まさか、こんな近くへ戦場が移動していようとは思わなかった。風穴の出口がみえてきて、同時に戦闘の物音がきこえたとき、これは夢ではないかと疑ったな。同時に、確信したぞ――天は、われわれの側にある、とな」
「ああ――グイン!」
としか、リンダは云えなかった。
二度と手をはなしたら、またグインが消えてしまう、とでもいいたげに両側からしがみつく双児をつれて、グインたちは進んでいった。ふいに、岩陰からぎゃあぎゃあ騒ぎ立てる声がきこえた。
あわててシバがのぞいてみて、そして目を丸くした。そこにはイシュトヴァーン――〈紅の傭兵〉がいて、岩に背中をすりつけて大声をあげていた。一人のラゴンが、イシュトヴァーンの弁明など聞かばこそ、生きのこりの敵を見つけたとばかり、棍棒をふりおろそうとしかけていたのだ。
「なんてこった!」
グインがラゴンを納得させて、彼を救い出すと、イシュトヴァーンはかんかんに怒ってわめきちらした。
「あれだけ苦労して戦って――あげくのはてが味方にやられるだと。とんだ味方もあったもんさ! 大体、グイン、おまえのつれてくるのは化け物でなきゃあろくでなしか、そうでなけりゃ、血にうえた砂虫のようなやつばかりなんだ!」
リンダとレムスは顔をみあわせた。リンダは怒って云い返そうとしたが、ふいにやめ、そのかわりにぷっとふき出してしまった。ふたりはイシュトヴァーンの怒った顔と、まん丸く見開かれた目をみては、笑いころげつづけた。生きている――これで、生きのびたのだ、という、陽光のようにからだのすみずみまでしみわたるぬくもりが、何とも云いようのない甘美さでもって、かれらのからだを浸していた。
イシュトヴァーンもくわわって、一行は、なおも歩きつづけた。岩場のとぎれるあたりになって、かれらは足をとめた。
そこには、ロトーと、そして恐るべきたたかいをついに生きながらえ、戦いぬいた、セムの勇士たちが、かれらを待っていたのだ。
「よう」
イシュトヴァーンが陽気にいうと、あいてには、ことばの通じるすべもないことも忘れて、ウインクをした。
「いい天気じゃないか?」
「リアード――」
ロトーは重々しく、まるで祝福を与える小仙人のように両手をあげた。
「そしてラゴン――セムの友達――」
「シバ!」
グインはふりむいてシバを呼んだ。
「はいッ、リアード!」
「生きのこったセムたちを、それぞれの部族ごとに集まらせ、どの部族がどのぐらいの被害をうけたか調べさせろ」
「はい、リアード」
「ドードー」
「おう」
「いま、ここで、われわれの小さな友人セムをラゴンにひきあわせよう。ラゴンを集まらせてくれるか」
「いいとも」
二人がそれぞれにかけてゆくのを見送り、グインはゆっくりとロトーのところへ歩みよると、その小さな、年とったセム族の肩に大きな手をそっとのせて、何回もうなづいた。ロトーも黙ったままじっと見上げた。
そのかたわらで、リンダとレムスとが、再会の涙にかきくれていた。二人のあいだには、頭の傷もいたいたしいスニがいて、二人にことばのわからぬことも忘れたように甲高くさえずりまくっていた。
「アルラ・イ・エーム・アルフェットゥ」
「そうよ、スニ」
リンダは、興奮してしゃべりつづけるセムの少女の小さなからだをしっかりと抱きしめた。
「生きていたのね――よかった。ほんとによかった。もういいのよ、もう大丈夫よ、もう殺しあいはおわったのよ。ノスフェラスは守られた。グインが守ったのよ。それはセムとそしてラゴンのものよ」
レムスは考え深い、けむるような目で砂漠の彼方を見やり、本当にモンゴールの野望はくじかれたのだろうか、と考えた。それは、また力をたくわえてから、あらたに牙のむかれる明日をかくしてはいないのだろうか。しかし、レムスは注意ぶかく、その思いを口にのぼせることは――少くともいまは――やめにした。
「リアード」
「グイン、集めたぞ」
シバと、ドードーがやってきて報告した。うなづいてグインは立ちあがり、リンダ、レムス、スニ、イシュトヴァーンを従えて、そちらへ歩き出す。
「セムの被害はどうだ」
彼はきいた。シバは眉をくもらせた。
「大きいです。ツバイがほとんど全滅――しかし、何とかなる」
急に元気づいていう。
「これよりもっと、苦しい年も、セムはちゃんと切りぬけてきた。セムは、つよい種族です。小さいが、心は大きく、そしてつよい。セムは大丈夫です」
「そうだ」
グインはうなづいた。
「セムは勇士だ。セムがわれわれを助けてくれた」
「そしてリアードがセムを助けた」
ゆっくりとロトーが云い、そしてかれらを追いぬいてセムの前に立った。
ロトーにひきいられたセムの生きのこりたち、そして賢者カーの輿を先頭にした巨人ラゴン――この対照的な、ノスフェラスの二つの住人を、グインがひきあわせ、その友好を結ぶことを約束させた。ロトーと賢者カーとがその誓いをそれぞれくりかえすと、全セムと全ラゴンとのあげる歓声が、狗頭山をもゆるがさんばかりにひびきわたった。
それは世にも幻想的な――そして世にも美しい光景だった。勇者ドードーと、足萎えの賢者カーとにひきいられる、身長二タール、体重百五十スコーンという、ラゴンの巨人たち。左手には、全身を剛毛におおわれ、石オノを手にした、身長一タールの、子供のようなセムたちと、それを統べるラク族の大族長ロトー、若いシバ。そして、かれらの前に足をふみしめ、腕を胸に組んで立つのは、異形の豹頭に、たくましく浅黒いからだをもつ、豹頭の戦士グイン。
ぬけるように青い砂漠の空と、白くまぶしい砂丘の起伏とがかれらをつつんでいた。リンダとレムスの銀色の髪がキラリと輝く。
「リアード」
シバがためらいがちに云い出した。
「もし、またオームがせめて来たら――」
「セムと、ラゴンが手を組んでいるかぎり、やつらは歯が立たんさ。ノスフェラスは、お前たち二つの種族のものなのだ」
グインは笑った。思い出したように呟く。
「ドードーとの決着をつけねばいかんな」
「そして俺に打ち勝ったら、グインが次の勇者ドードーになるのだぞ」
ドードーが嬉しそうに念を押した。グインは頭をふった。
「いや……」
「リアード。これから、どうなさるおつもりです」
ロトーがゆっくりした調子で云う。
「フム、そうだな――」
「もし、リアードが、ラゴンとセムを統《す》べる、ノスフェラスの王になって下さるなら……」
グインはおどろいて、セムとラゴンを見まわした。どの顔も笑い、そしてうなづいていた。グインは笑い出した。
「それもいいかも知れんな。俺は、この砂漠が好きだ」
青い空と砂漠とは、静寂を破ってひろがる巨大な歓声をきいた。リンダはそっと手を組みあわせた。
豹頭の戦士グイン――彼は世にも孤独な放浪者としてルードの森にあらわれた。しかし彼はいまやラゴンとセムという友を得たのである。
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あとがき
グイン・サーガ第五巻、第一部・辺境篇の完結篇「辺境の王者」をお届けする。
先回「ラゴンの虜囚」のあとがきで、質問があればお答えする、と書いたところ、かなりの数でお手紙をいただいた。
このあとは、ときどきそうしたご質問の中からいくつかを選んでお答えしてゆこうと思っている。私から直接お返事をさしあげることは、現在のところなかなかできないが、できれば全部の方にお答えしたいものである。早川書房気付で送っていただいたものは、大体確実に私の目にふれているので、ご安心下さい。
で、質問であるが――
「@その時代の舞台設定、特にノスフェラスについて
Aリンダとレムスの過去(パロの国とは)
Bウマの具体的な説明
C現在のパロは幸福なのか? どこの国が友好的か?
Dこの時代背景はいつか
Eグインが目をとじると、仮面も目をとじるんですか」以上、瀬戸市の五十住千鶴さんからの質問。(五十住さん、「ラゴンの虜囚」の表紙のおっさんは、マルス伯です。だと思います――こんど加藤直之にきいてみよう)
まず、@――これは、近々に、某「スターログ」誌上で地図入り大特集をやりますので、それを見て下さいませ。
A――リンダとレムスの過去……これは、要するに、幸福な双子の王子さま、お姫さまだったので、たいして書くことないです。パロの国は、中原でいちばん歴史の古い、三千年の繁栄を誇る文明国で、たいへん優雅で文化の高い、同時に占い、魔術、超科学の発達した国です。首都はクリスタル、その中央に美しいクリスタル・パレスがある。第二部「陰謀篇」は主としてこのクリスタルの都を舞台に展開しますからお楽しみに。
B――ウマ。四足、首が長く、走るのがはやい哺乳類。音が同じなのは偶然だ、と書いたが、要するに、同じ(ほとんど同じ)動物を、パロ時代のことばと現代日本のことばで「UMA」と発音するのが偶然なのであって、おおむね同じ獣と考えてよいと思います。鹿、豹、オオカミ、といった語に関しては、その形態からの意訳だと思って下さい。それで判りやすいようにイワジカ、クサウサギ、サバクオオカミ、などと書いてあるわけです。本当は、トルク=穴ネズミ、バル=大北方熊、ブルク=砂漠オオカミ、といったように、全部原語の単語があるが、わかりにくいので、いまの概念で書いている。しかし砂漠オオカミにせよ、おおむねいまのオオカミと同じすがたをしています。それも、この時代がいつごろなのか、わり出すヒントになるのでは?
C――パロは、幸福ではありません。モンゴールに占領されているのですから。それについては、六巻以降、まさにそれをめぐって物語が展開します。一応、モンゴールの侵攻にあうまでは北方の大国ケイロニアと同盟を結び、草原の国アルゴスとは親戚関係を結んでいたが、ケイロニアの裏切りにより同盟はくずれた。現在では、おもてだってパロの味方といえるのは、アルゴスただ一国である。
D――時代はいつかって? うふ。幻想の超古代、それとももしかして、未来かもよ。内緒! そのうちわかるんじゃない?
E――これはよい質問です。けどそれをバラしたら、グインの仮面がホンモノか、そうでないか、わかってしまうやんけ!
次に、北九州市の飯塚真美さん。
@スコーン、タール、などの単位は、こちらの世界でいうとだいたいどのぐらいなのですか?
一スコーン=約一・七五キロ。
一タール=約一・二メートル。
一タッド=約一・四六五キロメートル。
一ザン=約四十七分。
A豹は住んでいないのでしょうか? もし住んでいれば、どの国のあたりにいるのか教えて下さい。
豹は住んでおります。住んでないと、見たとき豹だとわかんないでしょ。主として、草原地方に分布してます。斑点のあるのと黒ヒョウがいるのは現在と同じ。あと南方――ランダーギア、フリアンティア、といった暑い国のジャングルに、でかいのがおります。黒ヒョウはジャングルに、斑点ヒョウは草原及び亜熱帯諸国にいるみたいです。カラヴィア、という国は大灰色猿とヒョウの産地で知られています。(でもグインがカラヴィアの生まれだというわけじゃないよ)
Bグインの頭は本当の豹頭なのですか? (私は本物だと思ってます)
わあわあわあ。そんなこと答えたら、誰も先を読まなくなっちゃうじゃないか。
次。伊丹市の前川督雄君のきびしい質問に答えてしまう。
@(一)の一一七頁ではタルーマ[#「マ」に傍点]ン、(二)の六〇頁ではタルーア[#「ア」に傍点]ンとあるが
答――誤植や。誤植! わいも泣いとるんや。タルー「ア」ンです。アイウエオのア!
A(二)の六〇頁ではアスガルド山脈、他のところではアスガルン山脈
答――アスガルンの方が語呂がいいからかえたのだよ、明智君。
B(二)の六〇ページではノルンは北方諸国よりまだ北の地のことであり、(四)二五ページではノルンはアスガルン以北の地のことである
答――「スターログ」にこんど地図を書くから見てね。しかし君もコマカイねえ。
C(二)三九ページでは一タッド=馬で一日進める距離、それ以後は一q前後
D(一)第三話では一ザンは数分、それ以後は一時間もある
E(三)四七ページに一ゴルが距離、もしくは時間の単位として出てくる
F(三)七三ページ「さいごの三十タッドばかりは……かけとおしたのだ」
G外伝(一)三三二ページにダールという距離の単位が……
H外伝(一)三六八ページ「さしわたし十ザン」という表現
答――わあ! もう、誤植や、誤植! と、校正係に罪をなすりつけたいのをぐっとこらえて、あやまっちゃう。もうゴメンったらゴメン。あのね、正直云うとね、正確にいろんな単位決めたの四巻のあとがき書いたときだったのよ! このあとはチャンとやるから頭ん中でC=一モータッド、D=一タルザン、E=一タッド、G=一タール、H=十タール、とおきかえて読んでくれえ。
Iケイロニアの千竜将軍は出てくるたびに名がちがいますが、これはやはり何人もいるからですね、
答――そのとおりだよ、ワトスン。初歩的なことだよ!
Jきわめつけをひとつ!
外伝(一)の四七四ページで、なぜグインは@地球が球であること、A地球が球に見えるほどの距離には空気のないこと、Bまた、そこには朝のないこと、を知っていたのか、
答――ふっふっふっどうしてでしょうねえ、あるいはグインは×××××で、実は××××××が彼を××××××している×××であることこそ、グインの秘密なのかもしれませんよ。
おまけ。
「グイン・サーガ」のファンクラブはないものでしょうか。あるならば連絡先を教えて、という質問が、前川君ほかかなりの方からありました。誰か作っとくれ。早川書房が作りたいようなことを云ってくれたよ。「クラッシャージョウ」には敗けぬのだ。
それから、今後の刊行予定について。わたくしめはもう、第六巻、「陰謀篇」その1、「アルゴスの黒太子」の巻にかかっております。希望としては、一年五冊の刊行ペースは守りたいにゃー。今後のタイトル(かわるかもしれんが)を公開しちゃうよ。
(六) アルゴスの黒太子
(七) 望郷の聖双生児
(八) 死の婚礼
(九) クリスタルの反乱
(十) パロへの帰還
SFM増刊号の外伝その(二)「イリスの石」は、理論的には、この十巻めのあとすぐのお話になる予定なのです。乞御期待!
また質問があったら早川書房気付で待ってます。
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著者略歴 昭和28年生、早稲田大学文学部卒 主著書「火星の大統領カーター」「闇の司祭」「サイロンの豹頭将軍」「ヤーンの目」「星の船、風の翼」(以上早川書房刊)他多数
GUIN SAGA<5>
辺境の王者
1980年十月十五日 発行
1990年三月三十一日 二十三刷
著 者 栗本薫
発行者 早川浩
印刷者 矢部富三
発行所 株式会社早川書房
平成十九年七月十五日 入力 校正 ぴよこ