グイン・サーガ 4 ラゴンの虜囚
栗本薫
パロの王国の遺児リンダとレムスを守りつつ、豹頭の戦士グインは小人族セムを率いてゴーラ正規軍に立ち向かう。しかし、魔界ノスフェラスの地の利を生かしての巧妙な作戦も、やがては彼我の圧倒的な軍事力の差に、次第に色あせていくのだった。そして、グインは起死回生の手段として、北方に住むといわれる巨人族ラゴンに応援を求めにいくが、セム族に約束した日限はわずか四日――四日のうちに妖魅の支配するノスフェラスの荒野に単身横断し、巨人族を説得して戻らねばならないのだ! 全百巻におよぶ未曾有のシリーズ、辺境篇の第四弾登場!
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LEASHED IN LAGONN
by
Kaoru Kurimoto
1980
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カバー/口絵/挿絵
加藤直之
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目 次
第一話 ノスフェラスの戦い(二)…… 九
第二話 再びセムの荒野へ……………… 七七
第三話 狗頭山の狼王……………………一四三
第四話 火の罠……………………………二〇七
あとがき……………………………………二七五
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――かくて戦いの雄叫びは曠野に満ちた
り。白き死とまた炎と、神々の手より曠
野に放たれ、地に満つ。人と馬とは昏き
星のもとにかれらを導く黒死の幻影を見
る。蛮族の乗りたる馬、これなり。
――古書〈ノスフェラス・サーガ〉より
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ラゴンの虜囚
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第一話 ノスフェラスの戦い(二)
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1
「われわれは……」
鼻をつままれてもわからぬような、濃密な夜闇が、打ちひしがれ、打ちのめされた、疲れはてた兵たちを包みこんでいた。
「われわれは――どうやら、考えかたを変えなければならぬようだ……」
闇の中に、ひっきりなしに行きかう歩哨の、重い足音が、ざくり、ざくり、と耳立っている。灯りは最少限にひかえるよう、鎧の紐はとかぬように、との固い申しわたしであった。
がちゃり――と、鎧と腰帯につるした剣の柄とがふれあってたてる音がするたびに、兵たちはびくりと膝をたてて、自らの剣の柄に手をかける。
ウマが低くいなないても、誰かがうかうかと私語をはじめても同様だった。かれらの神経は、おそろしくとぎすまされ、鋭敏になり、ほとんど羽毛の先でつついても破れんばかりに張りつめた静寂があたりをおおいつくしていた。
ときおり、はるか遠い砂漠から風に乗って、得体の知れぬうなりや、叫びめいたものがかすかにきこえてくるのが、その張りつめたかれらの気持をざわざわと逆撫でし、苛立たせた。それは、あるいは、ノスフェラスに棲み、一日よく千里をも馳けるという、幻の砂漠オオカミの遠吠えであったかもしれないし、あるいはまた、もっと別の、何か奇怪なこの人外境の怪物たちのざわめきであったかもしれない。
それは恐しい一夜であった。――モンゴール軍は傷つき、浮き足立ち、動揺していた。それへ、情容赦もないノスフェラスの魑魅魍魎どもが間断ない追い打ちをかける。血のにおいにひかされて、砂の中から突然ばかりと浮かびあがってくる〈大食らい〉、オオアリジゴク、砂虫、音もなくたかってくる吸血ゴケ、血吸いバエ、砂ヒルにいたるまで、それらの気味わるい、ぶよぶよとした、燐光をはなつ怪獣どもに、モンゴール軍はどれほど悩まされたことだろう。
巨大な砂虫や〈大食らい〉におそいかかられるのは、脅威であったが、それよりも実際にかれらを困惑させ、苛立たせるのは、むしろ食いつくとはなれない吸血ゴケや血吸いバエの方であった。かれらは、むきだしの肌にはりついて、雷が鳴ってもはなすものかとばかり深くくらいついてくる、それらの小さな吸血鬼どもを、朋友の肌からひきはがすのに必死になった。
色素というものをすべて欠いてしまっているかのように、イドと同様半透明だが、しかしいやらしいとり肌のようなぶつぶつにおおわれた砂ヒルや、びっしりと細かくうずまいた吸血ゴケは、人肌にはりつくと、たちまち血を吸いあげてあざやかな紅にふくれあがり、ようやくそれをひきはがしてぐしゃりと踏みつぶすと、あきれるほど大量の血が流れ出して灰色のかわいた砂に吸いこまれてゆくのだった。
かれら――モンゴールの誇る五大騎士団のうち一万五千の精鋭をあつめたこの強大な遠征軍が、わずか五千の蛮族セムのために、これほど手いたい目にあわされようとは、一人でも予想しえた者がいただろうか。
かれらはむしろ、セム族をノスフェラスの荒野より一掃し、そこをモンゴールの新たな版図とするべく、勇みたって、辺境とモンゴール領とをへだてる境界線をなす〈暗黒の河〉ケス河を越えたのだった。
一万五千のかれらをひきいる総司令官は、わずか十八歳、モンゴールの公女にして右府将軍なる黄金の髪のアムネリス姫。――魔道士ガユス、白騎士フェルドリック、リント、ヴロンがそれを補佐し、彼女につき従うものは、ツーリード城主マルス伯爵率いる青騎士隊二千、イルム、タンガードがそれぞれ率いる黒騎士二千、リーガン小伯爵、アストリアス子爵の赤騎士、計二千。
弩部隊二千、各騎士団に従う歩兵約五千――それは、実に堂々たる陣容であった筈である。
モンゴールの情勢は逼迫していた。ユラニア、クム、モンゴール、三大公領によって成る、中原の新興勢力、ゴーラ連合公国は、つねにきわどい三大公の勢力のバランスをとりながら、パロ、ケイロニア、アルゴス、カウロスなど強国ひしめく中原へ少しでも歩を進めようとしている。
いまと同じく公女アムネリスを総大将とする、モンゴールの軍勢が、ふいに太平の油断をついておそいかかり、中原の文明国パロをおとし入れたとき、皮肉にも、パロを手中におさめたことで、モンゴールはゴーラ三国中で窮地に立つことになった。
ユラニアのオルガン大公、クムのタリオ大公、この二大公は、ヴラド大公の治めるモンゴールが、かれら自身をおびやかすほどの大勢力になることを警戒し、ひそかに手を結んでモンゴールを敵視する動きを見せはじめたのである。
いっぽう、モンゴールに占領されたパロ内部でも、戦火を逃れていずこへかおちのびおおせた、アルドロス聖王の遺児、レムス王子とリンダ王女を擁立して、モンゴールに抗おうとする動きがやまなかった。このたびのアムネリスによるノスフェラス征服軍の進攻は、まったくの死の砂漠、不毛の荒野とされていた、このノスフェラスに、ある重大な秘密のかくれていることを知ったモンゴール金蠍宮の、頽勢を一挙に逆転せんとする奇策であり、その野望のための重大なステップであった。
だが――荒野の住人セム族とまみえること三度にして、モンゴール軍は、思いもよらぬ、手痛い敗北をこうむり、一時的にでもあれ、大きく後退を強いられたのである。
実際にイドにかかってむざんな肉塊となりはてたり、セム族の攻撃でいのちを落とした者が、致命的な大多数にのぼったというわけでは、実は、なかった。
セム族は、かれらの半分よりももっと少なかったし、イドも、たしかに一方の隊長たるリーガンをそのえじきとして呑みこみはしたものの、本当にそれほど多数の騎士たちが、イドのために死んでいったというわけではない。
とっぷりと日がくれてからもさらにセム族は二回奇襲をかけて来、たっぷりかれらをおびやかして、さっとひきあげていった。その二度の小ぜりあいでの死者・負傷者を入れても、その一日で失われたのは、報告ではおよそ三千であり、その前の分をいれてさえ、モンゴール軍はまだ一万以上が無傷でのこっていた。それは、いまだに、セムの全軍の倍以上にあたるのである。
しかし、にもかかわらず、ようやく夜営の命令が伝令によって触れまわされたとき、モンゴール兵たちは、がっくりと打ちひしがれた顔を見あわせたのだった。
たとえ、数の上ではそうでなくても、気持での敗けいくさ、というものはあり、また、五千のセム族がそのうち千を失うのと、一万五千のモンゴール軍が、そのうち約四千を失うのとでは、気分的に損失の重さがちがう。
かれらをそれほど打ちのめし、敗け犬のみじめさを味あわせ、怯えてびくびくした敗残兵にもひとしくしたのは、〈ノスフェラス〉ただそれだけなのだ――と、もしグインがかれらを見たら云ったことだろう。
かれらは、敵地にいるのだった。イドによる被害はさほど大きくなかったが、それがモンゴール軍に与えた精神的なダメージは、おどろくほど大きいものがあった。かれらは、ノスフェラスの中にふみこんだ――そして、〈ノスフェラス〉――その禁断の砂漠、それ自体がかれらの巨大な敵であり、それにひそむ数多の怪物じみた生き物どもが、すべてセム族と同盟を結んでかれらにおそいかかって来る、そんな強迫観念にとらわれてしまったのである。
風のうなり、砂丘のえがく風紋の変化にも、かれらはぴくりと畏怖の目をむけ、それがまたあらたな怪物じみたしろものを生み出す前ぶれではないかとおそれた。かれらの敵はノスフェラスそのものであり、しかもかれらは四方はおろか、その踏む大地、頭の上にひろがる空までもその強大でえたいの知れぬ、悪意にみちた敵にびっしりと取り囲まれているのである。
その思いはかれらの神経を苛立たせ、不安にさせた。いかに司令部が、モンゴールの優位をふれまわして士気を高めようとこころみても、兵たちは浮き立たず、こんな困難でしかも危険きわまりない遠征を思いついた司令部と、それへまた組み入れられてしまったわが身の運のなさとをこっそり嘆き、アムネリス公女が全軍帰投の命令を出してくれればよいのに、とそればかり念じているのだった。
それにまた、あるひとつの巨大なシルエットが、かれらの心をとらえ、闇いっぱいにひろがってかれらを不吉に見おろしているような、そんな威圧感が、かれらをはなれないでいる。
それは、セム族――ラク、ツバイ、ラサ、グロの四大部族、及びより弱小の部族からなる混成軍――をひきい、巨大な黒馬を駆って、先頭に立って砂丘をかけおりてくる、豹頭人身、黄色く燃える目と驚異的な戦闘能力とをもった謎の狂戦士のすがたであった。
もしも、あいてがセム族だけであったら、いかなモンゴール軍といえどもこうまで受身の戦いを強いられることはなかったにちがいない。
しかし、その豹頭をもつ半獣半人の戦士には、何やら、それに刃向かうものを不安にさせ、受太刀にまわらざるを得なくさせるようなものがあった。その、あまりにも非現実的な、ありうべからざる容姿のためだろうか。人は、さながら軍神ルアー、それとも伝説の半神シレノスに弓引いているような、冒涜の不安めいたものに胸をふさがれて、必ず正義がおのれの側にあると確信することが、でき難くなってくるのである。自らの正しさを確信できぬ軍勢はもうひとつ脆い。
誰も、その豹頭の戦士をみるときわいてくるそのひそかな不安が何に由来するのか、説明できるものはなく、また、突然かれらの前に立ちはだかって、セムの蛮族たちをひきいて嵐のようにあばれまわってはすみやかに砂漠の彼方へ消え去ってゆく、その怪人の正体をおしはかることのできるものもいなかった。
それゆえ、兵士たちは、こっそりと耳に口をよせあっては、かがり火をたくことすら許されぬ暗い夜の中で、その半獣半神の正体についてひそひそと考えを語りあってみようとするのだったが、すぐ、
「シッ!」
「敵にきかれるぞ」
方々からおしひそめた叱責の声がかかって、かれらを黙らせてしまうのである。中には、もっと異る理由で彼[#「彼」に傍点]のことを口に出させまいとする者もあった。
「云うな――云うなというのに!」
そういう者は、指を交叉させて、ヤヌスの悪魔よけのまじないをしながら、声までもひそめてささやくのである。
「あやつのことは云うな――あれは、どうあっても生ま身の、われらと同じ人間ではない、あれは悪魔だぞ。ひょっとしたら、悪魔神ドールその人のうつし身とさえ考えられる。だとしたら――」
「だとしたら?」
「おお、だとしたら、うかうかとその存在について口にのぼせることこそ、とりかえしのつかぬ結果を招くかもしれんではないか。その名を呼ぶことは、すなわちそのあいてを身近に招きよせることだぞ」
「ばかな。いかにここがノスフェラスで、あの豹頭が人間ばなれしているといっても、ドールの化身なぞということが……」
「えい、云うな、云うなというのに。頼むから、あれ[#「あれ」に傍点]のことは口に出さんでくれ。ヤヌスよ守りたまえ」
「ヤヌスよ守りたまえ――なあ、ドレミュー」
「なんだ」
「おれたちは、無事にタロス城へもどれるのかな」
「……」
「――シッ!」
「うるさいぞ!」
またしても、神経質な叱責がとびかって、あたりはしんと闇の中に静もってしまうのである。
いずれにせよ、グイン――その名は、いまやモンゴール遠征軍の全兵士にとって、最もおそるべき、最も謎をはらんだことばとなりはてていたのだった。
それは、むろん兵卒どものみならず、むしろ、司令部にとっては、いやが上にもその正体への関心はたかまる一方だったのである。
「われわれはセムどもを少しばかり、甘く見すぎていたようだ――それは、認めねばなるまい……」
総司令官、公女アムネリス以下、マルス伯、イルム、タンガード、アストリアス、ガユス、ヴロン、リント、といった幹部たちは、天幕にあつまり、小さなろうそくのあかりひとつの下に首を集めて、さきほどから、しきりに軍議にふけっていた。
「だがこうなった上からは、われわれも、考えを改めねばなるまい。当面の目的を、当初の〈グル・ヌー〉探索から、とりあえずセム族の掃討へと変えるのだ。〈グル・ヌー〉をさがしあて、そこにわがモンゴールの砦をうちたてるのは、セムを全滅させたのちでもよいとする――どう思うか、皆?」
「御意――」
「殿下のお考えどおりにいたします」
「それがよいかと――」
モンゴールの誇る騎士団の団長たちは、何がなしひっそりとしていた。
敗戦もさりながら、リーガン――アルヴォン城主リカード伯爵の愛児である、若いリーガン小伯爵を失ったことが、ことのほかにかれらの心を沈ませ、悲しみにつつみこんでいたのである。
「それにしても、われわれは、あの豹頭の戦士ひとりにしてやられたようなものだ――のう、マルス」
アムネリスは、そうした部下たちの気落ちを見て、もはや、それまでの、グインへの激しい怒りや敵意を荒々しくあらわにするのはやめていた。
グインの名を口にするときにも、そのくちびるはふるえなくなり、氷の公女と仇名される、あの冷静な、無感動なおももちが戻ってきた。彼女は、いたずらにたかぶるのはやめて、それよりも敵をしかと見定めてくれようと自らに云いきかせ、そしてみごとに気分をかえるのに成功したようすだった――とはいえ、そこに居並ぶ部将たちのうち一人として、アムネリスがその真の恐しさを発揮するのは彼女が炎と激しているよりもはるかに氷の自制をとりもどしてからのことなのだ、ということを知らぬものはなかったのだが。
「は……」
口重く、ツーリード城主が答える。アムネリスは、底知れぬ緑色の目で、ゆるやかに、自らをとりかこむ部将たちを見まわした。
「もとよりセム族は、軍備もととのわず、いくさのかけひきもつたなく、ただ数を頼んでおしよせるしか知らぬ蛮人であったはず――不運にして陥ちたスタフォロス城にしろ、また、辺境でのいくたびかの対セムの戦さの経験も、その考えを裏づけてくれるはずだ。しかるに、今回、ケス河をこえてノスフェラスにわけ入ってよりというもの、セムの出ようは、まことに、小ざかしい、と云おうか、小癪な、と云うべきか、あれやこれやの術策を弄し、ノスフェラスの地形にわれらが無知であるのに乗じ、あるいはイドを使い、あるいはふた手にわかれて一軍を囮となし、まことにもってめまぐるしい。セムの猿人族が、一朝にしてアウグスチヌスの兵術、アレクサンドロスの戦法書に通じるべくもない以上、これはセムの手柄というよりは、一にかかってかのグインなる怪人の仕掛けであろうと思うのだが――皆はどう思う」
「御意」
「そのとおりでございましょう」
「すべては、あの怪物めのたくらみかと……」
「われわれもそうとは知らず、これまでのセムどもと同じことと、たかをくくり、不覚つかまつりました」
「……」
アムネリスはいくどか深くうなづいた。
「しかし、かくなる上は、セムよりもむしろわれらが当面の敵と目すべきは、セム軍をひきいたあの豹人であろう。このたびの、戦さぶり、指揮ぶり、ひきあげぶりなどをつぶさに見るに、これはおそらく、一介の傭兵、あるいは風来坊の類とも思われぬ。――いずれは、あの豹頭をとれば、その正体は、あんがい、名ある武将に違いあるまい――どうであろうな」
「御意」
「それも、一国の王者、一城のあるじ、英雄として諸国にまで名を知られる戦士とみて、十中十、間違いございますまい」
「また、それなればこそ、顔を見られることをおそれ、正体を知られることを嫌って、あのような仮面をかぶりおるやも知れませぬ」
「ということは、或いは、ゴーラのなにがしということも、最悪、考えられるな」
無遠慮なタンガードがずけずけと云ったので、モンゴールの指揮者たちはざわめいた。
「タンガード。そのようなこと、たとえたわむれにでも口にするでない」
マルス老伯爵が長い白い眉をしかめる。
「いや、私は、クム、またはユラニアのまわし者ではあるまいかとこう申したのですよ、ご老体。ご存じのとおり目下の情勢では、二大公のいずれかがモンゴールの敵と手を組んで、それをけしかけ、モンゴールの立場をあやうくするとは、決して考えられぬことではありませんからな」
赤茶けたひげづらのタンガードは云いわけした。
「それに、クム、ユラニアには、格闘技士ガンダル、ユラニアの勇者〈青髯〉オー・ランなぞ、名だたる戦士がおりますからな」
「たしかに云えるのは、彼奴の正体がモンゴールの裏切者でだけはありえぬ――ということだな」
アムネリスの声には何か冷笑めいたものがあった。
「少なくともわたしの知るかぎりでは、モンゴールには、ただ一騎であれほどの働きをできる戦士がいたとは思い出せぬゆえ」
はっ――と、微妙な空気が、あたりに流れた。
それは、一瞬のことであったから、あるいは、気づかぬものさえいたかもしれない。しかし、マルス伯の顔はさっとひきしまり、懸念にゆがんで公女を見やった。若い彼女が、云ってはならぬことを――と考えたにちがいない。
が、アムネリスは、その刹那に漂った、白々とした冷気に気づきもしなかったようすだった。彼女は、斜めうしろにひかえるガユスを見返った。
「ガユス」
「は」
「どうだ。お前の知るかぎり、あの豹頭に匹敵するほどの戦士にして勇将、あの豹の仮面の下にその正体がかくされてあってもおかしくないと思える勇士、英雄、王族は誰々がいる」
「は――」
ガユスは黒いぶあついフードの蔭にいよいよ沈みこむようにして考えた。
やがて、そのフードの蔭から、にぶい声がゆっくりと洩れはじめる。
「私の知っておりますかぎり、あれまでの体格と剣技をあわせもち、諸国に英雄の名をひびかせ、かつ自ら戦うのみならずよく兵を使いこなしうるものといいますと、まず、さきに云われましたようにクムのガンダル、ユラニアの〈青髭〉オー・ラン将軍、北方のケイロニアで、千竜将軍タラント、千虎将軍ゴーハム……カラヴィア侯アドラン――
アルゴスの|黒 太 子《ブラック・プリンス》スカール。自由貿易都市ライゴールの評議長にして大商人なる不敵なアンダヌス。タリア伯爵ギイ・ドルフュス、北方で、ロングホーン家のオーウェン・ロングホーン、あるいは、タルーアンのヴァイキング王シグルドも、並外れた体躯と武勇を誇る豪傑と聞き及びますが」
「パロでは、誰がいる」
アムネリスは切りこんだ。
「パロでは――」
魔道士は少しためらって、
「剣聖のほまれ高い、聖騎士侯ダルカン、しかし彼は過ぎし黒竜戦役にて傷を負い、ずっと病いの床に伏せっておると聞きおよびます。あるいは勇猛公ベック、彼は戦さのおりには、たまたまアルゴスに嫁いだエマ王女を訪問におもむいて不在でありました。それは彼にとっての痛恨事でありましょう。あるいはまた、クリスタル公アルド・ナリス――アルドロス聖王の従弟たるクリスタル公は、かの戦さの中で傷を負ったとも失明したとも噂がとんでおりますが、そのままいずれかへ逃げおおせ、その首に多額の賞金をかけられながら、いまだに行方が知れておりませぬ。ただ、クリスタル公は、きくところによればクリスタル・パレス随一の伊達男、歌よみと云われた美男で、からだつきが、あの大男とは照合いたしませぬ。
あるいは、また――」
「違うな」
アムネリスのするどい声が淡々とつづくガユスの声をさえぎった。
一同がはっとおもてをむける。
「違うな。それは違う」
アムネリスの語調は激しかったが、その目は、何がなし、遠くを見るように煙っていた。彼女はゆるやかに睫毛をとざし、誰にもその心をのぞかせまいとするかのように、ことばをついだ。
「パロの名をあげたのは、パロの双児を守護し、ゴーラにたてつく以上、はるか遠隔の地ライゴールやタルーアンよりも、まずパロに怪人の正休を求めてゆくのがことわりと思ったからだ。しかし、いまガユスのあげたのは、いずれも、一理あるかに見えて実はそうでない。
のう、皆は気づかなかったか――あの豹人めは、あれは断じて一介の風来坊、あるいは誰かにその剣を捧げた勇士や将軍ですらあり得ぬ。わたしは、彼をひと目見て気づいた。あれは王だ――少なくとも、人をひきい、従え、命ずる家柄に生まれつき、それより上に位するものといっては神々よりない、そうしたもののあかしがどことなく感じられる」
「……」
「ベック勇猛公、クリスタル公の名はわたしも聞き及ぶ。しかし彼は――」
「あるいはまた」
ガユスは、一回もさえぎられたことなどなかったかのように、平然としてことばをついだ。
「これはまったくの噂にすぎませぬが、一説に――」
「……」
「一説に、このようなことを申す者もおります。すなわち、かのパロ攻防の黒竜戦役の折、わが軍は、パロの国王夫妻の貴いみしるしをあげたが、あれは実は影武者にほかならず、まことの聖アルドロス三世は、こっそりと逃げおおせて、いまだにご健在なり――と……」
声もなく、部将たちがどよめいた。
アムネリスはきっとなって魔道士をにらみつける。
「あの豹頭が、ほかならぬパロの帝王だと申すか!」
「噂を申し上げたのみにございます、公女殿下」
「そのようなうわさ、陣中にひろまったときいたら、そなたのとがと見て、そのそっ首、叩き落とすぞ」
「御意のままに」
ガユスはうなだれて呟く。
「他には!」
「世の中がいかに広しといえども、真の英雄、豪傑は雨夜の星ほど少ないもの。そんなところでございましょう――と申して、ライゴールの評議長アンダヌスがセムに肩入れするとも思われず、アルゴスの|黒 太 子《ブラック・プリンス》が、縁つづきのパロの窮地に、直ちに国を発った、という話も聞き及びませぬが。――あと、これはもうだいぶん信憑性うすくなることを、承知の上で申しあげれば、北方のアスガルンをこえてさらに北上した、世界の北端ノルンには、タルーアンをその最南端として、クインズランド、ミズガルドなどいくつかの謎めいた北方諸国が独自の文化を誇っております。その中にヴァンハイムなる国があり、その王なる英雄ハルドルは、古今稀なる武勇と剣技の主ということでございますが……」
「ヴァンハイムの英雄王バルドル……」
「南方諸国は黒人系が多く、東方諸国は、黄色人種が住みますから除外して宜しゅうございましょう。かの豹人の赤銅色の皮膚は、まぎれもない中原、ないし北方の人種と思われますゆえ。ただ――」
「ただ?」
「今、思い出したことがございます。中原を、ロス河ぞいに下って参りますと、そこはレントの海――レントの海をさらに行って、コーセアの海に入りましたところに、シムハラなる謎にみちた巨大な島国一つあり、伝えきくところによれば代々その島の王は奇怪な宝石をちりばめた獣頭の仮面をかぶって素顔をみせぬというしきたりがあるそうでございます。いや――といって、それとあの豹頭とを、ただちに結びつけるのも早計とは存じますが」
「シムハラ――」
アムネリスは呟いた。
「迷宮のあるという……伝説中の島国だな」
「は……」
「ガユス」
「は」
アムネリスは、ふいに、何かおどろいたように目を見ひらいた。
「シムハラというのは――獅子国[#「獅子国」に傍点]という意味だな?」
「は――」
人々は、公女の次のことばを待った。
が、それなり彼女は物思いの中に、沈みこんでいってしまったかに見えた。夜が、にわかにその深さと重さとを増して、この行きくれた人びとにのしかかって来る。
アストリアスの黒い目が、悲しみと崇拝をともどもに、じっとモンゴールの公女に向けられていた。
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2
夜は深い。
それは、モンゴール軍が、ノスフェラスの内陸深く踏みこんで迎える三回目の夜であった。
不安と、ひそかな望郷の思いとをかくして、人びとはひたすら夜明けを待っている。
日の出前の一刻、その上に黒布をかざして、あまり遠くまで灯りのもれぬようにしてある小さな焚火はジジジジ……と音をたて、それへ、遠い砂漠オオカミの吠え声が、恐ろしげな低音部をつけ加える。夜は、砂漠の民たちの時刻であった。人びとは、よりそって朝を待った。
「おい――どうした」
がちゃり……と小さな音をさせて身をおこす騎士のひとりに、となりに寝ていた仲間がぴくりと目をひらいて声をかける。少しでもからだを休めなくては、これからさきの長い行軍、いや、明日の朝からのあらたな戦いにさえ、いっそうの消耗が予想されることはわかっているのだが、たびかさなる夜襲にすっかり神経が立ってしまって、眠ろうにも、眠られないのだ。
貴重な水を補充するオアシスにもまだたどりつけぬので、水は極度に切りつめられ、顔や手を洗うこともできない。砂埃にまみれ、血がこびりついて、さしも美々しかったモンゴールの騎士たちも、いくぶん、しおたれた外見を呈しはじめている。
「何でもない。寝られぬので、少し、ひとまわりしてくる」
その騎士は友に云い返して立ちあがった。彼のウマが、おどろいたように、ぶるんと鼻を鳴らす。
「おい、よせ。危険だぞ。どこに蛮人がひそんでいるか、知れたものではない」
僚友は身をおこした。
「おれも、いこうか?」
「いや。ほんの、そこらまでだ」
「……」
声をかけた騎士は、眉をしかめた。しかしそれ以上何も云わず、また敷布の上に不自由な鎧すがたのまま身をよこたえて、やれやれというようなうめき声を洩らしながら目をつぶる。ほんの一刻でも、安らかな眠りが訪れてはくれぬものかと思うのだが、舌は口の中でざらつき、そして目は砂塵でぴりぴりといたんだ。彼は枕がわりの、頭に固いかぶとをそっと直して、少しでも寝心地のいいようにしながら、いかに頑健無比の騎士団とはいえ、こんな強行軍があと、ものの二日もつづいたら、おれたちはみんな泥人形のように疲れはてて、物の役に立たなくなってしまうぞ、と考えた。
いっぽう、立ちあがった騎士の方は、かぶとをはねのけ、砂漠の夜気にここちよげに顔をさらしながら、あちこちに黒くうずくまっている騎馬のあいだをぬけてぶらぶらとはずれの方へ歩いていった。身をよせあってうずくまり、少しでも眠りをむさぼろうとしている僚友たちは、がちゃり、がちゃり、という音をきいて、はっと首をもたげ、何やら急をつげる使いででもあるまいかと、そちらの方を見ようとするのだが、何でもないとみると、またぐったりと頭を闇の中に沈める。みな、気が立って、苛々としているようだ。
これまで何回かの夜営には、火をかこんで、ふるさとの話をする兵たちの笑い声もきこえたし、中には、持ってきた笛を吹くものさえもあったが、今夜は、モンゴール軍は、黒一色の沈黙にぬりつぶされている。
騎士は人をさけて、どんどん、陣のはずれの方へ歩いていった。
「誰か?」
槍を手にした歩哨の鋭い声がかかる。みな、セム族の夜襲をおそれて、極度に敏感になっているようだ。
「マルス隊、アルゴン中隊のエクだ」
「どちらへ」
「その辺で少し夜気にあたりたいだけさ」
「あまり遠くへは行かぬようにして下さい」
「わかっている」
うるさいな――そう、云いたげに、青騎士は眉をしかめ、うんとひとつ伸びをすると、これ見よがしに身をひるがえして反対側へ歩きはじめた。
そのまま、陣の外周に沿うようにして、ぶらぶらと歩きはじめる。冷たい空気が快い。
そのときだった。
「おい」
ひくい声がした。
エクはぴくりとして、そちらへ目をやる。
「誰だ」
「おれだ。おい、ちょっと、手をかしてくれ」
「何だと?」
エクは、けげんそうに左右を見まわした。
あたりは、ことに暗い岩場の切れ目である。闇の中に黒々とわだかまるものがいくつも、おぼろげに見わけられるが、それがはたして眠っている人馬であるのやら、岩のかたまりであるのやら、たしかに見きわめることもむずかしい。
声の主は、見あたらなかった。エクはますます眉をしかめて首をのばした。
「何かあったのか」
「ああ。おい、ちょっと、手をかしてくれよ。ウマが、ひづめを、岩の割れ目にはさんじまったったんだ」
「なんだ――へまな奴だな」
エクは舌打ちした。あたりはちょうど、歩哨と歩哨との松明のまんなかあたりに入っていて、こちらを見ているものもいない。
「おい、どこだ。見えやせんじゃないか」
「ああ、すまん。ほら、ここだ。いま、そっちへ行くよ」
岩、と見えていた黒いかたまりが突然二つにわかれて、その一方がむくりと起き上った。そしてその背のたかい姿はエクの方へのそのそと近づいて来た。
「そんなところにいると、セム族にやられても知らんぞ」
エクは、ぶつぶつ云った。薄闇に見わけられるその男が、たしかに仲間の青騎士の鎧かぶとを身につけているとわかって、いくぶん残っていないでもなかった疑いもさっぱりと晴れた。
男は、こちらをのぞきこむように、こころもち身をかがめた。黒いきらきら光る目が、かぶとの下からエクを見つめた。
「お前は誰だっけ?」
「何をいってる。アルゴン中隊のエクだ。お前は?」
「おれは、タロス城から来てるんだよ。おお、こうしちゃいられない。ウマがもがくもんで、放っとくと、ひづめが折れてしまう」
「ばかだな――この砂漠で、ウマの足を折ったりしたら、あとが地獄だぞ。わかっているだろうに」
「仕方ない。あまりひどくいためているようなら、負傷者の分のウマを、まわしてもらうさ」
しゃべりながら、男はエクの腕をひっぱった。
「とにかく来てくれ」
「おう。――どこだ、ウマは?」
「ここだ――こっちだよ」
「また、ずいぶん、はなれたところに置いたもんだな。歩哨に、文句を云われるぞ」
「おれは、へんくつだものでね。皆と近くにいるのがイヤなんだよ。皆ももう心得たもので、何も文句は云わないさ。さあ」
「どこだって? ウマなど、見えんぞ」
「そ、そんなはずはないんだが。おかしいな。まさか、逃げていっちまったわけじゃないだろう」
「それらしい気配もないが――おい」
エクは眉をしかめた。ふいに、奇妙な思いがきざしてきた。
「タロスの、何という名だって?――おい、ちょっと待てよ」
タロス城なら黒騎士のはず、黒騎上の陣地はもっと北だろう――エクが、そう云いかけたときだ。
「あ、おい」
相手の声がふいにかわって、
「やっぱりこれでいいんだ。おい、ちょっとこれを見ろよ」
うつむいて何かをひろいあげた。
エクはつられてそちらをのぞきこみながら。あいての鎧がまぎれもなく、自分と同じ青騎士のそれであることに気づいた。ならば、たしかに仲間なのだ。だが、なぜまた、青騎士のくせに、「タロスから来ている」などと云ったのだろう? マルス隊はツーリード城の所属である。
「お前――」
エクは、あいてがさし示しているものを見ようとうつむきながら云いかけた。
だが、そのさきを云いおえることは、永遠にできなかった。
闇の中に、何かがきらりと輝いたかと思うと、するどい、短い悲鳴が洩れ、それはすぐに手でふさがれでもしたかのように途絶えた。
それからしばらく、息づまるような静けさがあり――それから、どさり、と何か重い袋のようなものが砂地へでも横倒しになるような音がした。
「おい――?」
ふといぶかしむように、歩哨が首をもたげた。
「どうかしたか?」
答えるものは、ない。
しばしのあいだ、歩哨は、松明をかざすようにして、岩場のほうをのぞきこんでいたが、セム族の光る目も、何やらぶきみな生物がおそいかかってくるようすもないと見きわめると、そのまま首を立て直して、もとの姿勢に戻った。
闇の中にいつまでもつづく、砂漠のなだらかな起伏を、あんまり長いことのぞきこんでいると、夜の海と同様、なにかえたいの知れぬ魔物があらわれてきて、それにくわえとられて夜の底にひきこまれてしまうような気味わるさにおそわれるのだ。
歩哨はそっとヤヌスの印を切り、ルーン語の魔除け文句をつぶやいた。しかし何ごとも起こらず、それなり彼はさっきの、気配ともいえぬ気配をいぶかしんだことも忘れてしまった。
いっぽう、さきに眠りを破られた青騎士は、そのまま寝つかれずにいた。
(エクは遅いな)
そう、口の中でつぶやき、ようすを見に起き出してみるかどうか、決めかねていたときである。
向こうの方から、のこのこと戻ってくる、青騎士の姿があった。すっかりかぶとをかぶり、マントのボタンをかけている。
「なんだ、エク――どこまで行ってたんだ」
「いや、ちょっとな」
いくぶんくぐもった声であいては答えると、まるで、散歩してようやくきざしてきたねむけが、口をきいたら散り去ってしまうのが、勿体ない、とでもいうようすで、そそくさとウマのとなりに丸くなった。
「なんだ、変なやつだな」
人を心配させておいて――と僚友は少しいまいましげに口をとがらせたが、結局こともなく、自分もまた頭をおとす。
まもなく、夜明けが来るはずだし、それを告げるように空からは夜の深い藍が薄紙一枚ほども失われつつあった。朝が来ればまた、蛮族と怪生物とに悩まされながらの強行軍がはじまるのだ。少しでも、体力をたくわえておかねばならない。
エクの奇妙な散歩のことは、僚友の頭から、たちまちすっかり忘れ去られてしまった。
「出発用意――!」
「出発用意!」
やがて――
終わりがないのか、とさえ思われた。その長く暗い夜にも、ついに終わりが訪れた。
砂漠の朝は、夜と同様に、いかにも不意で、そしていかにも壮麗にやって来る。
巨大なルアーの炎の円盤が東の地平に姿をあらわすと同時に、心和ませる小鳥のさえずりも、美しくさわやかな朝もやと露をおいた草の緑もない、きびしく青い空と、あくまでも明るい砂の波のつらなりだけの世界がそこにひろがるのだ。
司令部の天幕が畳まれ、伝令の声が次つぎに口づたえに送られ、そして、そこかしこでウマがあるじにひきおこされてブルブルと鼻を鳴らして足掻きはじめる。
ともあれまた、この辺境の一夜を生きのびたのだ、という感慨が、虹のように、騎士たちの心にひろがった。そしてまた、再び新しい辺境の一日がはじまるのだ、という思いが。
それは、いまこうしてここに居並んでいるものの誰がさいごまで生きのび、誰が不運にも倒れてゆくのか、誰ひとりとして自らの安全と延命を確信することのできぬ未知の一日であった。
戦いの雄叫びと砂塵、剣と剣がぶつかって散る火花と、かわいてはれあがったくちびると、そして突然の苦痛な死に埋めつくされるであろうことが、早くも予期される一日なのだ。
ノスフェラスの朝の無垢には、早くも、死のかぎろいが立ちこめていた。人びとはそれを知って、言葉すくなに出発の用意をし、ウマに水とかいばをあてがい、自分も水を用心深くひと口だけのみ、乾し肉と乾し果物をよくかんで食べた。
練り粉を練ってガティを作るには水のわけまえはあまりに少なく、火をたいて煮炊きすることはゆるされていない。乾し肉は固く、よくかんでものどにがさがさとひっかかった。人びとは朝の光の中で憔悴した顔を見あわせ、そして各々のウマに乗って、長い行軍にそなえて固い鞍に身をおちつけた。
「――おい」
ツーリードのマルス隊の青騎士、エヴァンは、何げなく隣をふりかえり、そして眉をひそめた。
「おい、エク」
「あ――ああ」
エクは、あわてたように返事をする。
「どうしたんだ。朝めしをくわんのか。道中は長い、参ってしまうぞ」
「いい。いまは食いたくない」
エクは、かぶとの面頬をすっかりおろしたままだ。
「食いたくなくても、とにかく、少しでも腹に入れておかんと――昔から、云うじゃないか、腹がへってはいくさはできんとさ」
エヴァンはせっせとウマの腹帯をしめ、鞍のぐあいを手でためして見ながら、なおも云う。
「それとも、乾し肉がのどを通らんなら、おれのヴァシャ果をひとつかみ、わけてやろうか。おれのは知ってのとおり、家が農園で、そこで生乾しにしているやつだから、支給の乾果とちがって、しるけがあって、うまいぞ」
「いいんだ――いまは。すまんな」
エクはあいかわらずくぐもった声で云った。
エヴァンは――咋夜、エクに声をかけた男はこのエヴァンだったのだが――さほど、頭の切れやカンのはたらきが、抜群によい、と自慢できるほどの男でもなかった。
むしろ、お節介で、人のよいほうである。瞭友たるエクの何やらいぶかしいようすをみて、どうしたのだろうと心配はしても、ゆうべの散歩や、それきりずっとかぶとの面頬をおろしたきりであることと、結びつけて考えられない。
しかし、妙には思ったので、あいての迷惑そうな、どこかへ難を避けたそうなようすには気がつかず、かさねてきいた。
「なあ――どうしたんだ。気分でもわるいのか」
「いや。何でもないんだ。じっとしてればよくなる、放っといてくれ」
「気分がわるいのか? そうなんだな? どうした、砂漠病かなにかかな――どれ」
エヴァンが近づいてゆくと、エクはあわててあとずさりする。
「おい、出発だぞ」
「先陣は黒騎士隊だ。われわれまでには、だいぶあるさ」
なおも近づいて、面頬をあげてのぞきこもうとした、そのときだった。
「アアアーッ!」
やにわに、歩哨のものとおぼしい、おそろしい絶叫が、砂漠をひきさいたのである!
「な……」
気をのまれて、エヴァンはふりかえる。その隙に、エクのウマは凄い勢いで走り出し、総立ちになった、同じ青いよろい、かぶと、青いマントの騎士たちの中にまぎれこんでしまった。
ことばにならぬ絶叫がふたたび起こった。同時に、砂漠の東側に近いところに陣どっていた騎士たちは、歩哨があえぐように手をさしのべ、何かを訴えようとしながら、ことばにできぬままきりきり舞いをして倒れるのを――その額のまんなかにブッツリとつき立った、もう見慣れた黒い短い矢を、はっきりと見た。
「敵だああーッ!」
「敵襲! 敵襲ーッ!」
たちまち、モンゴール軍は、かなえの沸くような大さわぎになった。
騎士たちは剣をひっつかみ、かぶとの面頬をひきさげて、雨あられとふりそそぐセムの毒矢に対抗しながら、内心、又か、という、がっくりとした思いをかくしきれずにいる。一日無事におわろうとはよもや考えるものはなかっただろうが、それにしても、咋夜からのセムの来襲ぶり、そのひきあげぶりは、よくよく戦場における人びとの心理をわきまえたものが采配をふるってでもいるのか、やれやれと気のゆるんだ刹那に奇声をあげておそいかかり、すわと身構えて待ちかまえるときには肩すかしをくわせ、まことにあざやかにモンゴール軍を疲弊させていたのである。
その自軍に漂う、ほのかな倦怠と疲労の色をたちまち見てとって、マルス伯爵の大音声がひびきわたる。
「奮い立て、モンゴールの勇者ども! 敵は小兵だぞ、一気にたいらげて、この小賢しいサルどもを退治してしまえ。よいか、決着をつけるのは今日だぞ!」
「おう!」
青騎士たちの口から、いっせいに鼓舞されたどよめきが起こる。
そのときだった。
「おお――豹人だ!」
だれかの大声がきこえて、騎士たちはぎくりと、いっせいにふりむき、その指さす方を見た。
いまやモンゴール軍にとってグインの名は、この上もなく不吉な、いまわしい、死神にもひとしいものに変わっている。
そのグインが、ただ一騎、砂丘の上にウマをかって立っていた。
丸く頭の横にはりついた耳、頭頂部が平たく、そして後頭部が丸くなった、獣の頭、かッと裂けた口――朝日を背にして、そのすがたは、まぶしく、そして威嚇するように輝いている。
「グイン――」
白騎士隊に手あつく守られた本陣の中央で、モンゴールの公女アムネリスは息をのんで呟き、
「おのれ、グイン――!」
先陣につづく赤騎士隊の先頭で、若きアストリアスが食いしばった歯のあいだからしぼり出すようにうめき、そして、
「化物め」
老いたりとはいえどかすんではおらぬ目を爛々と燃やして、マルス伯が砂の上に唾を吐きすてた。
すべての目――モンゴール兵すべての目が、豹頭人身のこの異形の戦士を、さながらそれが崇拝する神像ででもあるかのようにまじまじと見上げていた。嫌悪――驚嘆――畏怖――驚異――闘志、それはありとある感情を秘めていた。このとき、一万余のモンゴール軍の目には、あたかもそこに立つその輝かしい姿は、たまたま人のかたちをかりてあらわれた、かれらの運命それ自体のすがたであり、そしてこの獣人の幻のような手にみちびかれて、かれらはどこまでもかりたてられ、彼に従ってゆかねばならない――ちょうど、伝説のキタラ弾きについていってしまった少年たちのように――そんなふうにも映じていたのである。
一瞬、明るくまばゆい、白く陽光の照りかえす朝まだきの曠野は、そのはてしない起伏をそのまま〈永遠〉の中へとけこませ、一万の騎士と歩兵たちは自らを白々とはかない蜃気楼の軍勢と――そして光をあびて輝きながら駆けてゆくその半人半神を追ってふいと彼ら自身も溶け去ってゆく運命にあるかのような、そんな空漠たる心もとなさにとらえられた。
だが、そのとき、
「何をしている。あいては一騎だ。かかれ、うちとってしまえ、かかれ!」
マルスのしゃがれた大声が、かれらをその不吉な夢心地から辛うじてひき戻した。同時に、再びセムの矢が雨のようにふりかかってきて、本隊が砂丘をかけおりてくる前ぶれの、奇声がひびきはじめる。
「お――おうっ!」
人びとは剣をとり直し、隊伍を立て直した。またしても、ノスフェラスに、戦いにあけ、血と死とに暮れるはずの一日が始まったのだ。
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3
かくて、モンゴール遠征軍は、いくたびめかの大混戦のうちに、時を忘れていた。
セム族は、相変らず、その小まわりのきく敏捷さと、生まれ育った土地を背景にしているという有利を最大の武器にして、実際の数の上の不利にもかかわらず、つねに押しぎみに、攻撃を仕掛ける側として、戦さをすすめる。
もしも、これが、同じゴーラ人、あるいはせめて同じ中原の国のどれかというのであったら、勇猛なモンゴール軍も、さほどの眩惑におちいることはなかっただろう。アルゴスにせよ、ケイロニアにせよ、またパロにせよ、人種的には多少の後発的な特徴はあるもののまず単一といってよく、文化もまた、北方は北方の、草原《ステップ》は草原の特色をもちつつも、その発達のていどはおおむね似かよっている。
しかしセムは――このあいては、目の前で見るかぎり、まったくの前人類であり、キーキーと奇声を発し、歯をむいてとびかかってくる、毛深く尻尾を生やした猿なのだった。
それが、知能を有し、いっぱしの戦略や心理の洞察力までそなえている、と、頭ではそう考えてみても、目の前にそのサルの姿を見ていると、どうしても納得することができにくいのである。
この期に及んでさえ、かれらの内には、「たかがサル風情」をあいてに、まともな戦いができるか、というひそかな忿懣がありがちであり、それが、いつまでたってもモンゴールの騎士たちをもうひとつ奮わない気分にさせていた。
が、ともかく、敵は敵であり、戦さは戦さである。
白く平らかなノスフェラスの砂漠のまんなかで、黒い巨大なしみ、あるいはうようよとうごめきながら、あちこちへのび出そうとするアメーバのように、二つの軍は、ぶつかっては入り乱れ、入り乱れては殺しあっていた。
はるかな――ほんとうにはるかな北のほうの地平には、遠い蜃気楼のように白い山のあたまが並ぶのが見える。それこそは、北の山々、永遠の氷雪におおわれたアスガルンの山塊であり、そして、東に、黒い筋のようにたなびいているのが、伝説のカナンであろう。
そう云えば、それはいかにも、ノスフェラスの砂漠にも果てのあることを示しているかに見えるが、そうではなく、それらの東と北の山々がそれほど近くにあるかにさえ見えて二つの地平を区切っている、という、そのこと自体が、ノスフェラスの途方もないなだらかさ加減を――それぞれの果てに達するまで、その見晴らしをさまたげるものとてもない、砂漠のはてしなさを示しているのにほかならなかったのだ。
わずかに、かれらが過ぎてきた〈鬼の金床〉の周辺にある、巨石のごろごろしている箇所と、そして、セム族の村をかくしている、東北の岩山のつらなり――それだけが、この巨大な砂の海に変化をつけているばかりである。
それは、人の心を――ゆたかで緑多い中原からやってきた人の心を、がっくりと沮喪させるのに充分な眺めであった。その非情、その無機的な感じ、その苛烈さ――その中には、本質的に、非人間的な、人間を阻む何かがあったのである。
セム族は、昨夜二回の奇襲と同じく、またあるていど攻撃の成果があがったと見るやいなや、さっとひきあげていった。こんどこそ、小癪なサルどもを追いつめ、うちはたし、二度とこの神経を苛立たせる奇襲の脅威にさらされぬようにしようと、いきごんでいたモンゴール軍が、またしても気抜けするほど、それはあざやかな引き揚げぶりだった。
「追え! 追え!」
「敵は浮足立ったぞ。追撃だ」
なかには、鞍つぼを叩いて勇み立つものもあったが、
「無用の深追いはせぬように。伝令、伝令」
「陣容を立て直し、敵襲と進軍の命令にそなえよ」
肩の白布をひらめかせた伝令がまわってきて、公女のことばを伝えたので、それもやんでしまった。
「――まずいな」
青騎士群の先頭に立つ、マルス老伯爵は、ふっと何かの懸念にとらわれたようだった。
白くなった眉をしかめ、かぶとの面頬をあげて、しきりと思案するようすで呟く。その低い呟きをききつけたのは、すぐかたわらにいた、副官のガランスだけだった。
「何がでありますか、隊長殿」
おどろいてききかえす。
「何か、云われましたか」
「いや――」
マルス伯は、いっそう眉をしかめた。
「敵も敗走しましたし、おおむね、ものごとは、順調にいっているように、わたくしなぞには見えますが」
とガランス。
「そう見えるか。だが、そうではないな。わしにはわかる」
マルス伯は、ガランスにともなく、低く云った。
「どうも、このなりゆきは気にいらぬな。一度にあまりたいした損害もないし、それにいつのまにか、われらはセムのこのたびたびの奇襲に押れてしまって、どうせすぐにさっとひきあげるものと、たかをくくりはじめておる――ような気がする。わしは、どうもそれが気にくわぬ」
「で、ありましょうか」
「フム――どうも、そんな感じがしてならんな。ところが、その実、わしらはきゃつら――セムどもの思いどおりにされておるではないか。やつらは、来たいときにせめよせて来、ひきあげてゆく――わしらはただ、あわてて武器をとって追い払うだけだ。つまり、わしらは、つねに後手後手、受身になってしまっている」
「はあ……」
「いくさに、後手をひくのは、何によらず禁物――数で劣ろうが、武器で劣ろうが、さいごに勝つのはいつでも先手をとる側だ。なあ、ガランス、覚えておくがいい。いくさが長びくとき、どちらが先にくずれるかは、どちらの軍がどれだけ兵士どもを、こちらが攻め、向こうが守っているのだ、という気にさせつづけておけるか、それひとつにかかっておるのだぞ。決して、人数の多寡や地の利によるのではない」
「はあ」
「まあ――これは、本来、わしこそが心しておかねばならぬことだったのだが」
マルス伯はちらりと、白騎士団に守られた本陣のほうを見やった。
「なんといっても、姫さまはお若い。これまた――これまた、兵士どもにはきかせられぬ台詞だがな。しかし、お若いし、氷のという仇名にもかかわらず、まだあまりに、血の気が多くておられるのもたしかなところだ。こうしたいくさの機微までは、なかなかお分りになれぬ。また、だからこそ、わしやガユスの云うことに、もっと耳を傾けていただかねばならぬのだが」
「……」
「まあ、ここで、こんなことを云うておってもはじまらぬな。ふむ――しかし、たしかに、どうもこの成行は気にくわん」
「隊長殿。――それほどご心配なら、どうです。それをひとつ公女殿下に申しあげて、攻勢に転じ、セムどもを追いつめるようご進言しては。われらとて、実のところ、そうしたくてむずむずしておるのですからな」
「ふーむ」
マルス伯は、しばらく、考えこんだ。
が、すぐに、その顔がいくぶん晴ればれとして、
「それもそうだ。よいことを云ってくれたな、ガランス」
莞爾として、老副官にうなづきかける。
「どれ、いまならば、当分はさしものセム族も来まいし――」
愛馬の腹にかるく拍車をあて、隊列をはなれかけた、ちょうどそのときだった。
「何だ。なにか、急用か」
ガランスの声にふりかえる。ウマを静めようとしながら、そこに、かぶとの面頬をおろした、背のたかい青騎士が一騎近づいてきていたのだ。
「はア、それが」
「これ、いかに遠征軍で、無礼講でも、申告ぐらいの礼はつくせ」
「申しわけありません。――アルゴン中隊のエルであります」
「そのアルゴン中隊のエルが、何だ」
「失礼ながら、大隊長殿に――」
「伯爵様はお忙しい。私が取りつぐから、私に云うがいい」
「いや、それが、あの――」
「何だというのだ。副官の私では云えぬというのか」
「いや、待て、ガランス」
マルス伯爵は、手綱をふりしぼると、いったん本陣へ向かいかけた馬首を立て直して、戻ってきた。
「聞こう。何だ」
「お人払いを――」
「人払いもへったくれもあるか、陣中だぞ。わしと副官にだけきこえる声で話せばよい」
「わかりました」
マルス伯が、ウマを戻す気になったのは、アルゴン中隊のエルのその若々しい声にふと心をとめたからであった。
一城をあずかる大隊長ともなれば、人を見る目にもいささかの自負はある。アルゴン中隊のエルの声は、若々しく子供っぽいくせに、どこか不敵な、力強いものをはらんでい、それがこの一徹な老軍人の心にふれた。
エルは、面頬の奥から、マルス伯爵とガランスの顔、をのぞきこむようにした。
「これ。面頬をあげろ、無作法者」
「はあ」
しぶしぶ、エルは面頬をあげる。おや、とマルス伯は思い、それから。なぜ自分がそう思ったのかに気づいてほほえんだ。いくぶん長めの、しかし引きしまって若々しい顔が、赤騎士隊長たるアストリアスによく似ていたのである。
黒く生き生きと光る、いたずらそうな目が、マルス伯を臆することなく、正面から見返した。
声で思っていたより、もっと若い。
「何だ、エル」
「あの――私の、思いちがいであったら、申しわけないので」
「ごたくはよい、云わんか」
苛々とガランスが云う。エルはすばやく左右に目を走らせ、だれもこちらを見ておらぬのをたしかめた。
「あのう――私が思うに、私は……。あの豹頭の怪人、あの男の正体を、知っているのではないかと考えるのであります」
「なにィ!」
マルス伯の声が、あまりにも大きかったので、まわりの青騎士たちがふりむいた。
が、ガランスが手をふるのを見て、そのままもとに戻る。それを待って、
「事実か、エル」
「むろん、あの仮面の下の顔をたしかめたわけではありませんから……」
「むろんだ。では何だ」
「ただ――昨日来の戦闘で、あの男の胸に、こういう――」
エルは、手をあげて、×字型の線を宙に描いた。
「こんな傷があるのが目についたのです」
「むう――あったかもしれん。あの男は、裸だった。その傷に、見覚えがあったのか」
「それがついたところを、見たのではないかと思うのです」
「ちょっと待て」
マルス伯はきびしい表情になった。
「それは、公女殿下の前で申し上げた方がよいかもしれんな」
「い、いえ」
エルは、へどもどして、
「さっきも申しあげたとおり、ではないかというばっかりで――たしかかときかれれば、困るような話でありますから」
「ふむう、しかしそれにしても、わからぬよりははるかにマシだ。どれ、最初からことをわけて話して見るがいい」
伯爵は、すっかり興味をそそられた。まわりをちらと見まわすが、進軍開始の伝令のかけてくるようすもない。
「まことであるとすれば、得難い情報だ。こちらへきて、ウマからおりて、細大もらさず話してみろ。まだ、出立までには時間があるだろう」
「失礼ながら、もしこれが私の思いちがいであっては、重大なことになります。一応、豹人の顔がたしかめられるまでは、これは閣下と副官どののお心にだけ、おさめておく、という、お約束をしてはいただけませんか」
黒い眼をくるくるとさせて、エルは云った。
「お前のもの[#「もの」に傍点]の云いようは、ちと――」
ガランスが腹を立てて云いかけたが、マルス伯はむしろこの若者を面白がって、手をふってとめた。
「かまわん。今どきの軟弱な若いものから比べれば、無礼なぐらいの方が、気骨があるというものだ。さあ、エル、話してみるがよい」
「はあ、では……」
エルは、ウマからおりた伯爵の招くのに従って、となりに腰をおろした。
「私はガリキアの生まれで、十六の年にトーラスにのぼり、それ以来モンゴール騎士団に入れていただいております」
エルは、おもむろに話しはじめた。
「当然、兵役騎士[#「兵役騎士」に傍点]ではなく、職業軍人でありますから、これまで、赤騎士団のタグ殿、黒騎士団のロマン殿などの剣をいただいて、この辺境警備隊に編成される前にはあちこちで転戦いたしました。
それは、たしか、私がタグ大隊長の指揮下にあって、大使の警備に、クムの都ルーアンにのぼったときのことと思います。大使の某侯爵は到着と同時に、早速タリオ大公の公宮たる水上宮へお出ましになり、われわれ警護の者には、その日の当番の班をのぞいて、ひとまず自由とのお申しわたしが出ました。
ご存知のとおり、クムの都ルーアンは、西にある『美の女王』タイスと並んで、水の都といわれる、きわめて美しくゆたかな都市であります。私どもは、そこで、三々五々、休憩のひとときを、女を買ったり、酒を飲んだり、ばくち場へもゆこう、などとそれぞれの計画に胸をふくらませて出かけました。
私は、いつも仲のよい数人の仲間と一緒でありました。水の都といわれるだけあって、通りというよりは、堀割にかかる橋ばかりの道を、物珍らしく歩いておりますと、向こうから、突然たいへんな歓声がおこります。
けんかか、と思いましたが、それにしてはその声が、喧騒というよりはむしろ歓呼に似ていると思えました。すぐに、そのさわぎのゆえんははっきりしました。そのさわぎの中に、たしかに、『ガンダル! ガンダル!』という叫び声がききとどけられ、たちまちそれは、『ガンダル! ガンダル万歳!』というひとつの巨大な歓呼へとひろがっていったからです。
『おい、ガンダルが来るらしいぜ』
私の、年長の仲間が云いました。
『クムのガンダルといえば、ゴーラ三国はおろか、中原すべてにその名をとどろかしている格闘士だ。不滅の格闘士王、素手でウマ二頭をもちあげる男、などと仇名され、彼をしのぐ格闘士はこの両半世紀中にはあらわれまいと云われている。あたりまえさ。そもそも、いまやガンダルに挑戦しようという挑戦者がどうしてもあらわれず、しかたないのでガンダルは熊《バルト》やヘビをあいてにそのわざを見せている始末だからな。まあ、正気でガンダルに挑もうという阿呆者など、そうそういるわけもあるまいが』
『そうですかな』
突然下の方から声をかけられて、私たちはとびのきました。
『本当に、そうお思いかな、――だとしたら、あんたがたは、つい最近ルーアンについた、旅行者にちがいない』
見ると、小さな――ひと目みて、女衒かばくちのテラ銭とりか、そんなものだとわかる、貧相でみにくい男が、ずるそうに唇を舌でなめまわしながら私たちを見あげ、鎧の袖をひいているのです。
『なんだというのだ。聞きずてならぬことを云うな、ガンダルが強くなりすぎて挑戦者がなくなり、困っている、というのは、われわれの国でさえきき及んでいる。おまえの云いかたをきくと、まるで――』
そこまで云いかけたとき、
『ガンダル! ガンダル!』
『王者ガンダル!』
『格闘技王!』
すさまじいばかりの歓声につつまれて、黒山の人だかりの中を、ガンダルの乗った馬車がゆっくりと私たちのいた橋の上に通りかかったので、私たちは口をつぐみました。
馬車の上に、ガンダルは傲然と、手には鉄製の小手あてをつけ、その手を腰にあて、もう一方の手の拳を胸にあてた堂々たるすがたで、手すりにつかまりもせずにつっ立っていました。彼は実に大きな男で、その上全身がはがねのような逞しさ、黒光りする皮膚とライオンさながらの長髪をもち、その大きさといったら、ごらんのとおり長身の私が、うっかり巨人国にさまよいこんだ小人のように自分を感じてしまうくらいです。また、さまざまなうわさにたがわず、恐しい顔をしていて、顔のあちこちにある古い傷がいっそう、彼をすさまじく、戦うことしか知らぬ機械のように見せていました。
『たしかに、物凄い男だな』
同僚が云いました。
『俺なら、酔いつぶれているから寝首をかけといわれてもまっぴらだ。それじゃあ、お前の口ぶりでは、あのガンダルに新しく挑戦しようという気狂いがあらわれたとでもいうのか? 信じられないな』
『そうは、云っちゃいませんよ』
女衒は歯をむき出して云いました。
『そんなことなら、あっしは、まず第一にあのおかたに賭けて、ひと財産つくるんだが! ただ、あっしは、世間ってのは恐ろしく広いから、ガンダルをしのぐ格闘士があらわれたことだって、信じられると云ってるんです』
そう、彼が云いおわった刹那でした。
『おい』
ふいに、ぴいんとひびく、おそるべき声が、馬車の上からふって来たのです。
『今、なんといったのだ』
なんと、ちょうど私の前をとおりかかっていたガンダルが、彼の言を、不運にも、小耳にはさんでしまったのでした。
『い――いえ、何も、あのう』
女衒はまっさおになりました。生きた心地もないようでした。それはそうで、きっとこちらを見おろした格闘士のそのみにくい顔のすさまじさ、目の光のすごいこと、あたかも目の前に突然巨大な獅子がくわッと口をひらいたかのようなのです。
『いや、たしかにきいたぞ。ガンダルをしのぐ格闘士があらわれた――たしかに、お前はそう云った』
腕とすねに鉄の帯をまき、なめし皮の腰布をつけた大男はそう云うなり、気の毒な女衒の前へ、身がるくとびおりてしまいました。
『そんな奴がいるというのだな。面白い。そいつをここへ出せ。おれはガンダルだ。おれは、ガンダルをしのぐ格闘士と、果たしあいがしたい。おれは、そやつが本当にガンダルをしのぐかどうか、どうしても知りたい。それは、誰だ。どこにいる。――お前か!』
いきなりガンダルは私たちをねめつけました。すごい目の色でした。私たちは大あわてで否定し、その名誉を返上しました。
『では、お前か』
ガンダルは小さな女衒をひとにらみしました。かわいそうに、不運な小男はいまにも失神せんばかりでした。
『あれは、ほんの、ことばのあやで――どうか、どうか――ガンダル様……』
『いや、そう云うからには、おれをしのぐ格闘士をお前は知ってるのだ。それを教えろ。満都の観衆はもう、ガンダルがクマやヘビとばかり戦うのを見せられるには、あきあきしているはずだ。教えろ。――云わんのか。よし、おい、こいつを、おれの宿までつれていけ』
『助けてくれ』
女衒が、くるりとうしろをむいて逃げようとしたとたんに、太い腕がのびて、その首すじをひっとらえました。
ネコの子でもあしらうようなものです。私たちも、さすがに胸がわるくなりました。しかし、天下のガンダルをあいてに止め男に入る自信もなし、なすすべもなく、大男がその貧相な女衒をふりまわすのを見ていたのです。
そのときでした。
『大人げないことは、よしたがいい。ガンダルともあろうものが』
太い、びいんと腹にこたえる声がして、私たちのうしろ――橋のたもとの宿屋の戸があいたのです。
はっとなる私たちの前にあらわれたのは――たぶんガンダルに、体格では一歩もひけをとるまいという、巨大な一人の男でした。
全身を鎧うずっしりとした筋肉もこの上もないみごとさで、なりは長マントの旅ごしらえ、いかにも遠いところからきたように、ほこりにまみれているのですが、見ていたものがあっと叫んだのは、その途方もない巨躯ばかりのせいではない。むしろ、その頭を包んでいた、黒い奇妙な頭巾のせいで、一瞬彼は首から上がないように見えたからです。
が、よく見ると、それはすっぽり頭を布でくるんで、口だけ出しているのだとわかりました。その目――黄色っぽく光る、そのおそろしいまでに力をはらんだ目をみたとき、私たちは、云われなくても、この男が、女衒の云っていたその男だとわかったのです。
ガンダルにも、それはたちまち悟られたようでした。彼は女衒をはなし、値ぶみするように新来の男を眺め、その顔に、にわかに早天に慈雨を得たとでもいう歓喜の色がうかびました。
『ウム、お前は強そうだ。お前は、強い』
ガンダルは吠えたてました。
『俺と戦え。俺と、戦ってくれ、頼む』
『俺は格闘士ではない』
というのがあいての答えでした。
『そんなことはどうだっていい。俺は強いあいてが欲しくってしょうがないのだ。戦え、剣をぬけ、いまここで』
『都の街路での決闘は重罪だぞ』
『では闘技場でだ。行こう』
『いや、行かん』
あいては、ガンダルを恐れても、あいてにしてさえもいないようでした。ガンダルはそれを感じとり、やっきになってなおも挑発するのですが、あいてが乗らぬ、と見たとたんです。
『なら、戦うようにさせてやるぞ』
叫んだかと思うと、ガンダルは、添え差しの短剣をひきぬき、目にも止まらぬ早さで、切先をくりだしたのです。
見ていたものたちがあっと叫んだとき、あいてのマントは、そのとめ紐を切りおとされ、そればかりではない、マントの下に彼のまとっていた、ゆったりとした胴衣の上部――つまりは胸のちょうどこのへんのところが、ざっくりと×字型に切りさかれて、そこから血がふきだしたのです。
私たちが仰天したのは、ガンダルのその無法な挑発よりもむしろ、その剣を、その気になれば確実に避けて剣をぬいて応戦し得たはずなのに、そうするかわりに、黙ってガンダルに傷つけられるに任せたまま、微動だにしなかったあいての、あまりな豪胆さだったのです。
そうと知って、みるみるガンダルの顔が紙のように白くなったとき、やにわに、あいては格闘士の腕にぐいと万力のような手をおいて近づくなり、
『むだなことだ。俺はいま、お前のあいてをしていられるような身ではない。が、俺とてもお前のような男とは、ひとかたならず戦いたい。――そのうちに、相まみえる機会を作ることにしよう。俺が、いまのように、重大な用件をかかえておらぬときにな』
そう、とききかせるように云ったのです。
『逃げる気では――なかろうな……』
ガンダルのことばは、著しく生彩を欠いてしまっていました。それへ、彼は、
『それほどに心配ならきかせてやろう。俺の名は……』
それをききとどけたのはガンダルだけでした。なぜなら、彼はガンダルの耳に口をおしつけるようにして、そのあとを囁いたからです。
とたんに、ガンダルの顔は、さっきよりいっそう青くなり――ガタガタふるえ出しさえしたのです。
『そんな――そんな……』
そううわごとのように云いながら、茫然と立ちすくむガンダルをのこして、次の刹那、彼は胸の傷からしたたりおちる血を拭おうともせずに、宿屋の中へさっと姿を消してしまいました。
そして、我々には、満たされるすべもない好奇心と、激しい驚異の念だけがのこされたのです」
エルは、語りおえた。
「ふうむ……」
マルス伯爵が、長い吐息をもらしたのは、さらにしばしの沈黙のあとである。
「たしかに――それだけでは、何とも判断はつかぬな。しかし――しかし、それがまことあの豹人であれば……これは――」
「……」
「これは、容易ならぬことだぞ、ガランス。――これまでわれらは、あやつをパロと結びつけ、パロとセムどもとの結びつきにおそれをいだいておった。それが、万が一にも、クムと――クムにあらわれた男であったとすると……」
「私も、その後不審を抱き、その宿屋へいって――さきの女衒は、この宿の抱え人であったことが、あとでわかりましたが――調べようとこころみましたが、もう例の男は発ったあとで、名前ひとつ宿帳にのこされてはおりませんでした」
とエル。
「ふむ」
マルス伯はまた唸って、こんどは違った興味を抱いて、アルゴンのエルを眺めた。
「よし、わかった。それは当分、わしの胸ひとつにおさめておこう。それと、どうだ、エル。おまえは、頭もよいようだし、目さきもきく。腕もたちそうだ。中隊におくのはおしい。わしの親衛隊に入れば、役立つことがありそうだ」
「光栄に存じます」
エルは剣の柄を胸にあてる、正式の礼をした。
「異存はないな。では、ウマをつれて、隊列に入るがいい。中隊長にはこちらから云っておこう」
マルス伯は、明らかに、このはきはきと喋る陽気な若者に、つよい印象をうけていた。
「あんな若者が、アルゴンの隊にいるとは知らなかったな、ガランス」
「はあ」
「気づいたか。あの若者、どことなく、小アストリアスに似ている」
「トーラスの、マリウス子爵にも、どこやら似ておりますな」
「実は、わしもそう思った」
遠くはなれているむすこに思いをはせるように、老伯爵は、エルのうしろ姿を見やった。
「よい若者だ。抜擢には、充分応えてくれるだろう」
何回かうなづきながら呟く。
「ガランス。そのこと、あとでアルゴンにな」
「心得ました」
「そろそろ、出発だな。――おお、伝令がまわってきた」
マルス伯の心からも。老ガランスにも、さきの懸念を、アムネリス公女に進言するという、あまり楽しくない義務は、忘れられてしまったかのようであった。
「出発――出発!」
伝令の声がひびく。出発まえの、あわただしさの中で、忠実なガランスは、忘れぬうちにと、うしろの方のアルゴン中隊へウマを走らせた。
「中隊長は」
「いま、お支度をしておられます」
「そうか」
ガランスは少し考えた。ウマのいななき、剣とよろいのふれあう音が周囲にやかましい。
「では、アルゴンに伝えてくれ。そちらの中隊のエルを、マルス伯ご自身のご命令で、旗本隊にうつした、とな」
「かしこまりました」
小姓は、うやうやしく頭を下げる。
「エル――?」
それを、エヴァンはふとききとがめた。
「そんなやつがいたかな――エクのことか。そういえば、姿が見えん。エクの云いまちがいだな」
「おい、並べよ」
うしろから、手荒くどなられて、人のいいエヴァンはあわててウマにとびのった。巨大な極彩色の虫がのたくり歩くように、一万にまで減ってしまったモンゴール遠征隊は、ゆるゆるとまた白砂をけたてて動きはじめようとしていた。
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4
「リアード」
シバに、何度めかに声をかけられて、グインはようやく気がついたようだった。
「おお、なんだ、シバ」
〈鬼の金床〉から数タッド行ったところに、数少ないオアシスの中でもいちばん大きいひとつがひっそりとひろがっている。
五千のセム混成軍のキャンプは、そのオアシスのほとりであった。
「何か、考えていましたか、リアード」
「ふむ」
グインは、ゆっくりと目がさめた人のように首をめぐらして、シバを見た。
「赤児と老人たちを、北へ送っていった、ガルの隊が戻ってきました」
「そうか」
「リアード」
こんどは、シバの声には、まぎれもない懸念が忍び込みはじめた。その毛深い、サルと人とのまさに中間とでもいうべき、どこか愛嬌のある顔に、きょとんとした不安そうな表情がうかび、そうすると、妙に分別くさく、けだものらしく見える。
「どうしたのですか、リアード」
「いや――何でもない」
グインは立ちあがり、オアシスの全体を見わたそうというように、背筋をまっすぐにした。
それは、数倍もの人数の敵をむかえうって、ひとつの種族がなんとか生きのびようという、必死の、苦しい、そして悲劇的な決戦のさなかであるということが、信じがたく思えるような、妙に静かな――それどころか、のどかですらあるながめだった。
北から東にかけてひろがる、あまり高くない岩山地帯を除いては、ほんとど起伏というものを見せないノスフェラスに、それらのオアシスは、珍しい強烈なアクセントとなって、白一色の砂漠に涼しいたたずまいをつくりあげている。
たいして高い樹木は生長しないのだが、灌木とコケ類はたっぷりと水分を吸ってみずみずしくはびこり、まるで蜃気楼のように美しい別世界を現出させていた。
その中を、五千ちかいセムたちは、おおむね部族ごとにかたまってではあるけれども、わらわらと水辺にむらがり、口をつけて飲み、コケをとってそのままほおばって、渇きと餓えをいやすと、こんどは負傷者の手当てや、折れた矢、石オノの修理、毒矢の補充――と、来たるべきあらたな戦いにそなえるのに余念がない。
「士気は、少しもおとろえておらぬようだな」
それを見やって、グインは呟いた。
「もちろんです、リアード」
シバは誇らしげに、
「セムは、戦うために生まれてきた種族です。セムであれば、何族であれ、男であれ女であれ、倒れて死ぬまで戦うかくごのないものはありません」
「それが、かえって、困ることもあるな」
グインは呟いたが、それは、前よりもいっそう低かったので、シバにもきこえなかった。
「それに、ノスフェラスは、セムの母です」
シバは満足そうに、生まれたときからずっとそうしてでもいるかのようにオアシスを動きまわっている。毛深い矮人族の同胞たちを眺めやった。
「ノスフェラスにいる限り、どこにいようと、村をはなれようと、セムは悲しくない。ここは、セムの土地です。――人間《オーム》のではない。オームはここでは生きられない」
「だが、人間は、それすらも承知の上で、やって来ることもあるのだ。シバ――人間というものは、死を恐れ、古里にいる安心を得たいよりも、もっとつよい何ものかにかりたてられることがあるのだ」
「セムには、わかりませんよ」
シバは疑い深そうに云った。そこへ、リンダが近づいて来た。手に素焼のツボをもち、スニを従え、グインがオアシスに帰ってきてそうしていることで、すっかりはしゃいでいる。
「グイン、お食事をもってきたわ。わたしが粉をひいて、煮たのよ」
得意そうに、湯気の立つツボをさしだした。
「うむ。有難いな」
うけとって、指で食物を丸めとって口にはこんでいるグインの、たくましいからだを、どこかに傷をおってはいないかと心配して調べるように眺めながら、
「ねえ、グイン――こんどは、いつ出撃するの」
リンダは、膝に手をあててきいた。
「フム」
グインは、食物をのみこむのに忙しいようだ。
「ねえってば。わたしだって、同盟軍のひとりよ。グインたちが出ているあいだ、ずっと、ツバイやラサの若い女たちと、毒汁を煮て、毒矢をつくったり、傷をなおす薬草の見わけたかを、教わったりしていたのよ。もし手頃な大きさの弓矢をつくるのをゆるしてくれれば、わたしだってグインといっしょに行って、モンゴールと戦いたいわ」
「戦場は子どもの来るところじゃない」
「イシュトヴァーンみたいなことを云うのね」
リンダは膨れた。
「王子はどうした」
「レムスは、ロトーたちといっしょにいるわ。あの子ったら、わたしより早くセム語がしゃべれるようになったもんで、すっかり喜んでしまっているの」
面白くなさそうにリンダは云ったが、しかし、グインが秘かに話をそらしたことには気づきもせずに話をひき戻して、
「イシュトヴァーンといえば――ねえ、グイン、イシュトヴァーンは一体どこへいってしまったの。全然、戻って来ないじゃないの」
「気になるのか」
グインははぐらかすようにからかった。
「あんなに腹を立てていても、いないとなると淋しいらしいな」
「まあッ、よしてよ! あんなイヤなやつ!」
リンダの頬がパッと真赤になった。つんと頭をもたげて、
「お酒をとって来るわ」
ふりむきもせずに向こうへ行ってしまう。スニがちょこちょことそのあとを追う。それを見送って、ツボにさし入れた手をふととめたグインの豹頭に、微かな焦燥の影がさしたようだった。
(遅い。遅すぎる。――何をしているのだ、奴は……)
黄色みをおびた目がきらりと光る。シバが、何かを感じたようすで、そんなグインを見上げた。
シバには、むろん、丸い異形の豹頭の中で、どんな考え、どんな不安がかけめぐっているのか、知るすべはない。しかし、グインに心酔しているだけに、この若いラクの戦士には、誰に見せることさえもできない、この異形の軍神の、英雄なるがゆえの重さが何となく感じとれるようだった。
「リアード」
思いきったように、シバが何かきこうとしたとき、
「――よかろう」
ふいに、短く、グインの口から唸るようなつぶやきが洩れた。
同時に、彼は食物を下においた。
「ロトーとイラチェリらはどこだ、シバ」
きいたその口調には、もはや迷いの翳りも、懸念のひびきもない。
「はいっ、リアード!」
シバはとびあがって、呼びにかけ出そうとした。しかし、
「いい。俺が行く」
云うなり、グインはすたすたと歩き出した。
「リアード、リアード!」
「リアード!」
彼が、大股にセムたちのあいだへ入ってゆくと、類猿人たちはいっせいに仕事の手をとめて彼を見上げる。その目には、子供のような、無垢な信頼と、讃仰とがこもっている。
ラクの大族長ロトー、グロの長イラチェリ、それにツバイ族のツバイとラサのカルトとは、ひとつの木蔭に砂漠オオカミの毛皮の敷物をしいて、しきりに談合しているところだったが、グインの姿をみると、いそいで立ちあがった。
「リアード、あなたのお蔭で、わがセムは大勝利をかさねております」
全身の体毛が真白なロトーが重々しく云う。ふつうはセム族の声は甲高くて耳にっくのだが、スニの祖父であるこの大族長の声は、しゃがれていて重々しい。
「だがリアードがすぐにひきあげの令を出されるので俺は不満だ。そうでなければ、もっと早く、オームの悪魔をやっつけてしまえただろう」
グロのイラチェリが云った。グインの奇襲戦法の可否について、ここで族長会議をやり、いささかは内輪もめでもしていた気配が見える。
イラチェリは前の戦いで傷をおっていたが、物ともせぬようすで、古い戦さのたまものである、ちぎれて切り株のようになった尻尾をふりたてて、大変な元気だった。セムとしてはとりたてて大柄で、ほとんどリンダ、レムスと体格がかわらない。
「イラチェリ、それは短慮というものだ。人数の少ないわれわれがこんなに勝ちいくさをつづけることができたのは、みなリアードの教えによるものだ」
ラサのカルトが口を出す。この中では部族が小さいので、おずおずとしたようすが見える。
「いや、ツバイが使った、イドの手柄を忘れてもらっては困る。あれがなかったら、とっくに敗けていた」
ツバイ族のツバイが叫んだ。
「内輪もめをしているときではないぞ」
とロトー。
「そのとおりだ。だがおれはどうしてもこれだけは云いたい。どうして、もっといちどに敵をやっつけてしまうようないくさをしない。こんなに小きざみにちょこちょこと出ては逃げもどる戦法では、まるでオオアリジゴクが砂の穴の底から触手を出してはひっこめてるようなものだ。これでは、えものをつかまえ、汁を全部すすってしまうこともできぬ」
「イラチェリ、それはちがう」
ロトーが云おうとした。しかし、
「そうだ――イラチェリ。イラチェリの云うとおりなのだ」
グインの太い声が、セムたちのおどろきの声をかきけしてひびいた。
「リアード!」
シバまでが、あっけにとられてグインを見つめる。
「きいてくれ。俺はずっと考えていたのだ――この戦法、小きざみにあいてを叩いては逃げる戦法を考えて、お前たちに教えたのは俺だ。しかし、このままでは――」
「……」
「このままもう三日もこの状態がつづくようなら――必ずや、セムは敗ける!」
「アイーッ!」
鋭い声をあげたのはカルトだった。
ロトーとイラチェリは、食いつくように豹頭の戦士をにらんだきり、一言一句ききもらすまいとして、耳をこらしている。
そのとき、うしろに、酒のツボをかかえたリンダと、レムスがスニをつれてあらわれた。このただならぬようすを見て、心配そうに、リンダはツボを下におき、双児は手をとりあって、グインのきびしい顔をのぞきこんでいる。
「セムが敗ける――なぜです、リアード。リアードが云ったのです。こうして戦え、と――そして、われわれは、とてもオームの軍勢を苦しめている。もうオームは、セムの何倍もいないようになった。もう何回かああして戦えば、オーム、セムとかわらぬ人数になる」
しんとしたあたりの空気を払いのけたいかのように、シバが叫んだ。
「シバ。敵を苦しめたぶん、われわれもまた、やられているのだぞ」
グインは手短かにいった。
「俺はいろいろと、これからどうするかを考えてみた。――また、このあと何とか、敵に壊滅的打撃を与えるための手も、多少とはいえ打ってある。しかし、それが最もうまくいったとしてさえ――われわれセム軍は、〈決め手〉を欠いているのだ!」
「決め手とは、何です、リアード」
けげんそうにシバがきいた。セム族には、独自の言語も、倫理や名誉の観念もあるけれども、ある程度以上の抽象的な思考は、かれらにはできないのである。
「つまり、このままの状態で敵の目をくらまし、われわれの優位を確保しておけるのは、ぎりぎり保ってあと三、四日しかない、ということさ」
グインは、説明した。
「いまは、我々が先手をとり、敵は、不馴れな土地にいるという威圧感をともなって、心理的に動揺している。しかし、これがもう少しつづくと、敵のほうで、この状態に慣れてくる。そうすると、実際にうけている損害はたいしたことがなく、セムの全軍はかれらよりかなり少なくて、こうした奇襲戦法をとりつづけるのは、どうやら、その事実をかくしたくてのことだ、ということに、否応なしに気づくだろう。そうなったときが、われわれのおしまいだ。そうなれば、敵は徹底的な攻勢に転じてくる。減ったとはいえ、一万余のモンゴール精鋭全軍を、まっこうからうけとめて持ちこたえるだけの力は、わがほうにはない。あれば、とっくに、けさがたの一戦ででも、とどめをさしていられたろうさ」
セムの族長たちは、顔をみあわせた。
「だが、リアード――リアードのいうことは、よくわからないが、リアードのいわれるとおりにしていれば、われわれが勝つ――そう、リアードはラクの村で云われたではないか。われわれには、ノスフェラスがついている――と」
「ノスフェラスがついているからこそ、これまで、なんとか善戦しているのだ」
グインは云った。
「しかし、イド作戦も一度限りの奇手、奇襲戦法も、そろそろあいては馴れっこになりかけている――本当なら、ここで隠れていた主力をくりだし、一気に叩きつぶさねばいかんのだ。だが、われわれにはもうそんな主力はない。すなわち、決め手を欠いている、というのはそういうことだ。このままでは、一時的に、俺の用意した次の策が図に当たったとしてさえ、いや、当たればなおのこと、必ずセムは敗ける」
「敗けてもよいのか」
叩きつけるようにイラチェリが叫ぶ。それへ、きらりと豹の目を向けて、
「敗けるわけにはいかんのだ。――それで、さきほどから考えていた。大きな――これまでのどれよりも大きな賭けをせねばなるまいか、と――」
「賭け?」
ききかえそうとしたところへ、
「リアード!」
ラクの若者がひとり、かけこんできた。手に、何か結んだパピルスをもっている。
「リアードのご命令どおり、見張っていて、ナームの動き出したあとで行ってみたら、サボテンの皮の下に、これが」
「おお! 来たか!」
グインはほとんどひったくるようにしてそのパピルスをとった。むさぼるように読み下す、その目がみるみる爛々と燃えあがる。
「よし!」
ひとことだけいって、パピルスを投げすてた。と思うや、膝を叩いて立ちあがる。
「手はずはととのった。さきに申しあわせたことは、すべてのみこんでいような」
「むろんだ、リアード」
イラチェリがさっと緊張して云う。
リンダとレムスは、好奇心にかられた目を見あわせた。すばやく、グインの投げすてたパピルスをひろいあげ、ひろげてみる。
そこには、へたくそな金釘流で、謎めいたことばが並んでいた。
「用意/完了した/合図を待つ/のろし[#「のろし」に傍点]」
そしてその下に、何やら判読しかねるような、ヘビがからみあっている模様めいたもの。
「ねえ、グイン……」
これはなに、とリンダはきこうとした。
しかし、そのままはっと口をつぐみ、息をのんでグインを見つめた。
グインの、腰に手をあてて立った、巨大な、彫像のような姿――その全身から、何か、おもても向けられぬ白熱した炎がほとばしり、ふれでもしようものならばたちまちに焼きつくされてしまいそうな――そんな、凶気じみた恐しさをすら、覚えたのである。
(グイン……)
何を考えているのか、問うことすらもはじきとばすような、凄まじい、超人的な意志力と、決断力とが、びりびりと見るものに伝わってくるようなのだ。
「イラチェリ、ロトー、シバ!」
グインは怒鳴った。
「さきの手はず――俺がいなくとも、まちがいなくできるか!」
「むろんだ」
イラチェリがまっさきに答え、
「なぜです、リアード」
おずおずとシバがきいた。
「よいか、セムたち」
グインは、すさまじい目でかれらを見まわした。
「このままでは、一時は何とか優位に立とうと、セムは必ず敗ける。だが、ひとつだけ敗けずにすむ――だけではない、勝って、永久に、オームをノスフェラスから追い払うための方法がある。俺を信じるか。俺を信じて、丸四日、四日だけ持ちこたえてみせるか。それはこうだ……」
グインは語りはじめた。たちまちまきおこった驚愕と衝撃の叫びの中で、彼は吠えるように語りつづけた。
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第二話 再びセムの荒野へ
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1
見わたすかぎり白く平らかな、ノスフェラス砂漠――
白くはてしもない、大海原にも似たその荒野のかなたに、いつのまにか、ぽつんとひとつ、小さなかたまりが生まれていた。
遠目には、目の錯覚か、それともちょっとした蜃気楼としか見えぬような、白灰色のかたまり――それは、白い砂地から、ひょいとすくいあげられた、ふわふわしたクリームのひとすくいのように、だんだん細くなる尾をひいて、いま肉体をもがき出ようとする魂さながら、ふらふらと揺れている。
「まずいな」
はるか向こうのそれに、さっきから目をこらしたままの旅行者の口から、小さな呟きがもれた。
「砂嵐が来る。――うまく、方向をかえてくれればよいが、まっすぐにまきこまれようものなら……」
ぐいと懸念を手で払いのけようとでもするように、目のまえに手をあげた、その旅行者の頭は、人間のそれではなかった。
丸くまだらな模様のある毛皮におおわれた頭、巨大な牙のはえた口、頭の横にぴったりと寝た耳――それは、云うまでもなく、豹頭の超戦士グインの姿なのである。
砂漢の幾千、幾万ものうねりが、グインの前に茫漠のひろがりをみせていた。ウマの手綱をとらえ、いつもの胸帯ひとつの半裸の上に、革の厚いマントをつけ、ウマの鞍のうしろにいくらかの食糧と水とをつみこんだグインは、リンダとレムスをも、またシバの懇願をもしりぞけ、セムたちのあらゆる懸念や訴えをふりはらって、ただひとり、ノスフェラスのさなかへ馳け入ったのだった。
「このままではセムは敗ける。敗北と、それにつづくモンゴールの思うままな蹂躙を、ただ待つしかないのだ。だが、俺には、ひとつだけ思うところがある」
そう、云いきったグインがその心に秘めた計略をぶちまけたとたんに。あたりから、いっせいにおどろきと、そして疑惑の――中には、憤怒と反発の叫びさえおこって、たちまちセムのキャンプはごうごうたるさわぎにつつまれた。
「ラゴン? そんな、ばかなことが!」
「アルフェットゥに誓って! ラゴンだと!」
「リアードは気が狂ったのだ!」
おどろいてこちらへやってくるセムの戦士たちに、つぎつぎに口伝えでグインのことばがくりかえされると、そこにまた、あらたな驚樗の叫びがまきおこる。
「グイン――ねえ、グイン、一体なんなの!」
「グインってば」
まだセムのことばをすらすらと理解するとまではゆかぬリンダとレムスはおどろき、焦れて、グインに左右からとりすがった。
「お願いだから、どうしたのだか教えてよ! ようすが変だわ。わたしたちだって、何がおこったのか、知る権利はあるわ」
リンダはつよく、グインの手をにぎりしめ、その黄色っぽい無表情な瞳をのぞきこんで叫んだ。
「何のことはない。このままでは、しだいしだいにセムが不利だ。だから、俺が援軍を呼んでくるから、それまでもちこたえていてくれと云っていたのだ」
グインが説明する。
「援軍!」
レムスは思わず叫んだ。
「そんなもの、どこにいるの?」
「――あっ」
リンダは、やはり、頭の回転が早かった。
さきにおこった、セムたちのおどろきにみちた叫び声の中みが、ふいにぴんと腑におちて、
「グイン! まさか――まさかあなた、本気でそんなことを考えているのじゃないでしょう? ラゴンを――ラゴン[#「ラゴン」に傍点]を味方につけて、モンゴールと戦おう、なんて!」
「その通りだ」
というのが、短くそっけない、グインのいらえだった。
ラゴン――それは、辺境の荒野ノスフェラスに住む、もうひとつの蛮族の名まえである。
文明人の住むところではない、未知の脅威にみちた、などとさまざまにいわれるノスフェラスを、自らの領土としてそこにはびこるものは、イドをはじめとする奇怪な動植物のほかには、矮人族たるセムの数氏族と、それにくだんのラゴンの二つしかない。
セムが前人類と呼ばれる類猿人であるように、ラゴンもまた、文化を誇る中原の文明人からみれば、野蛮でおそるべき、不潔な|蛮 族《バーバリアン》である――が、しかし、ラゴンについて、人びとが知っていることといっては、ほとんどそれですべてだと云えた。
あとは、ただ、巨人族と通称されるとおり、小人族であるセムと対照的に、それは巨大で、そして粗野な、凶暴な種族である、という――わずかにそれだけである。
身長二メートルをこす、巨大で獰猛な種族――それだけが、ラゴンについて知られることのすべてであり、その意味では、セムよりも、ずっと、ラゴンの存在こそが伝説的であり、謎に包まれているといえた。
何よりも、セム族は、おおむね北東の岩山地帯にかけてその村落をさだめ、また、ケス河の河岸までしばしば姿をあらわす。それゆえ、ケス河をへだてたゴーラの民や、自由開拓民とは、小ぜりあいもひんぱんにおこなわれたし、スタフォロス城の夜襲のように、どちらかがケス河を渡ってあいての領域をおかすことも、きわめてまれというわけではなかった。
しかし、そのような意味では、ラゴンこそは、セムとは比べ物にならぬ、〈幻の蛮族〉である、と云っていい。かれらは、ノスフェラスの奥深くわけ入ったさらにその奥地にその居を定めている。一説には、岩山に守られ、砂漠にへだてられて、堅牢な石の村落を築いているのだ、ともいったし、また他のものは、そうではない、ラゴンこそはまことの漂泊の民族、家をもたず貯えをなさぬ砂漠の漂流民として、はてしないノスフェラスそのものをわが家としているのだ、ともいった。
いずれにせよ、東方のキタイの魔道師カル=モルを除いては、いまだかつて魔のノスフェラス砂漠を横断して、生還した文明人はいないのだから、そのどちらの説が真とも、偽とも、さだめるべき材料は何ひとつないのである。
グインが、砂漠の民の存亡をかけて、対モンゴールの決戦に、切り札としてあげたのは、このような連中であったのだ。
セムたちよりも、むしろグインが説き伏せねばならなかったのは、リンダの方だった。ロトーをはじめとするセムの長たちは、かれらの軍神が、そのような不可能な援軍にことよせて、この戦場を見すてるつもりではないのか、と疑いを抱いたり、そうではないまでも、これまでの勝利のすべてをもたらしてくれたグインが一時的にせよかれらからはなれてゆくことに不安と危惧を抱いて反対したので、それに対しては、グインはいちいち、彼特有の強い説得と辛抱強さとでときふせてゆくことができた。しかし、
「何でもいい、とにかく、わたし、もう二度とグインと別々になるまいと決めたのよ! ラゴンのところでもどこでもいい、ドールのところだっていいわ。グインがゆくところなら、どこへでも、わたしとレムスもゆく。連れてってちょうだい」
リンダの、その、決して退くまいと決意をみなぎらせた宣言には、さすがの豹頭の戦士も困惑したようだった。
「またそういう無茶をいう。俺は、遊びにゆくのではないぞ」
「わたしだってよ、グイン!」
「一刻を争わねばならぬのだ。その上に、危険きわまりない未知の砂漠だ。お前たちをつれていっては、どれだけ足手まといになると思う」
「でも、そのかわり、何かあれば、助けを呼びにもゆける。グインが失敗したのか、成功したのか、助けが必要なのかどうか、何もわからぬまま不安に手を拱いていなくてもいいのよ」
「王女」
リンダの必死な目の色に動かされたかのように、グインの口調は少しやさしくなった。
「信じて、そして待っていろ。俺は決して失敗はせん」
「グインが失敗などしない、ということは、わかっているわ。でも、何かで助けが必要になったり、もうひとつの手や足があればと思うことは――ことにそれが霊感をそなえた頭についているときにはね――必ずあるし、そのときになってからではもう遅いはずよ」
「王女、もう時間がない。一分一秒も惜しいのだ。俺はもう行くぞ」
「まだ、支度がすんでいない、とスニが云っていてよ」
云いつのるリンダを、レムスはいかにも心配そうに見守っていた。レムスとても、グインとはなれるのは心細いのだが、といって、グインの懸念や、それも無理からぬと云わねばならぬ、ゆくてに待ちうける困難と危険のことを考えると、なかなか、現実派のかれは姉のようにむこうみずにはなれなかったのである。
「リンダ――リンダ」
かれは、気がかりそうに姉の手をひっぱった。
「とにかく、わたしは、グインのゆくところへは、どこへなりとついてゆくわ。止めてもムダよ。わたし[#「わたし」に傍点]が決めたのよ」
ふりむきもせずに、強情そうに小さな顎をつきあげたリンダをみて、グインは、苦笑するようにその豹頭を振った。
「では、仕方ない。ありていに打ちあけるが、王女、お前とレムス王子には、どうしても、ここに残っていてもらわねばならないのだ。そうでないと、セムたちが、どうしても納得せぬのでな――俺が、形勢不利になる前に、俺たち三人だけ安全なところへおちのびようというつもりなのではない、とわかってもらうために」
「つまり、ぼくたちは人質になれっていうんだね」
レムスが叫んだ。
「そうだ。そうせねば、長《おさ》たち――ことに、イラチェリが得心せぬ、というのでな。ロトーは、俺のすることは、一から十まで信じる、と云ってくれたが」
「それなら、レムスを残して――」
リンダは叫びかけたが、さすがに口をつぐんだ。
どうしてもグインについてゆきたい、自分でも不可解なまでにつよい衝動と、かつて一日でもはなれたことのない自らの分身ともまた、別々にはなれない、板挟みの苦痛におしひしがれて、小さなくちびるをかみしめて、黙りこんでしまう。
そこへ、ラクの戦士が、用意のととのったことを知らせにきた。
グインは、いまにも涙ぐみそうにしているリンダと、目を大きくしているレムスの、ふたつの銀色の頭に、その大きなたくましい手をおいた。
「よいか。俺は、四日後の日没までには、必ずラゴンを見つけ、かれらをときふせ、味方としてつれて戦場へ戻って来る。これは、戦士の約束だ」
リンダは、目を大きく見開いて、かれら双児のこの異形の守護神を見上げた。
「なに――実際には、もっと早く帰って来られるだろう。それにとにかく、これはどうしてもやらねばならぬことなのだ。なぜなら、俺はお前たちふたりをアルゴスか、パロか、とにかく安全な中原の同盟国へまで、連れ戻ってやると約束したのだし、そのためには、まず、セムたちをひきいて、モンゴール軍を打ちはたさねばならぬのだからな。信じて、そして待っているがいい」
グインは繰り返した。
「信じて、そして待っているのだ」
リンダは、返答をしなかった。その感じやすい目は、強情に結びしめられた口を裏切って、いまにもぽろぽろと大粒の涙をあふれ出させそうだった。
「グイン! 早く帰ってきてね」
レムスがグインの手にすがりついた。
グインはうなづいて、大股に、ラクの戦士たちが待っている方へ歩いていった。これまでの戦いですっかり疲れている、以前のウマにかわって、何度かの小ぜりあいの中でモンゴール軍から分捕ったなかで、もっともつやつやして、もっとも肉づきのいい、もっとも頑丈なウマがそこにつながれていた。
「リアード! 替えウマはどうしましょうか」
「要らんだろう。どのみち、ウマは、あまりノスフェラス向きの乗物というわけではないからな」
グインはなめし革のマントをつけた。
「イドよけのアリカの汁が、鞍の前の袋に――それから、これを手足と、からだの出ているところへつけて下さい。砂ヒルや羽虫や血吸いバエよけになります」
ある種のコケをまぜあわせて叩きつぶした、どろどろした青くさい汁を、グインは手のひらですくって、からだのむきだしの部分になすりつけた。シバと、数人のラクの若者がそれを手伝った。
「食べ物は、四日ぶん、この袋に入れました」
「ああ」
「リアード」
シバが、虫よけのコケをぬりつける手をとめて、忠実な毛深い顔をグインにむけた。
「シバもお供します」
「お前も、ダメだ」
グインはきっぱりとしていた。
「わからんか。ことは、とにかく急を要するのだ。俺一人が行って、戻ってくるのが、何よりも早く行動できる」
グインの目つきをみて、シバはそれ以上云わなかった。そのかわり、
「早くお帰り下さい、リアード――リアードがおられないと、わが軍の士気は半減しそうです」
小さな声で云った。
「四日後の日没――つまり、日が地平に没するまでに、確実に、力強い援軍を多勢ひきつれて戻ってくるさ」
「もし、それを過ぎても戻らぬときは――」
イラチェリが、ウマに乗ろうとするグインに近づいてきて、光る目で見上けながら云った。
「やはりリアードは、セムを見すてて逃げたのだと見なして、二人のオームの子どもは、グロのやりかたに従ってアルフェットゥへのいけにえにするからな」
「イラチェリ」
ロトーが鋭い声を出す。それへ、かるく頭をふってみせて、グインは身軽にウマにまたがった。
「ロトー、シバ、イラチェリ、みな――どうか、四日間、これまでどおり……それと、例の作戦とをつかって、いまのような状況をもちこたえていてくれ」
馬土のグインは、地上にいるどのセムよりも、数倍もたかくそびえ立っていた。なめし革のマントが、ふわりと風にあおられた。
「俺は、必ず、ラゴンをつれて戻って来る」
グインは、馬腹を蹴った。
「リアード!」
シバが叫ぶ。それに、あおられたように、
「リアード、リアード!」
「リアード!」
「アイーアーッ!」
オアシスのそこかしこに群らがる、セムの戦士たちの口から、歓呼の声があがったが、英雄であり、かれらの勝利の神でもある| 豹 《リアード》がかれらからはなれてゆくことを、かれらはひどく心細く思い、あるものは憤っていて、それで、その声は、さきほどまでの熱狂的な叫びにくらべれば小さく、どこか不安そうなひびきを帯びていた。
「ハイッ!」
グインは、オアシスをぬけると、とりあえずラゴンの痕跡を求めて、まっすぐに北をめざすつもりだった。
彼が、ウマにムチをあてようと、それを上げた、そのときである。
「グイン――グイン……グイン!」
甲高い、必死な叫び声がきこえて、リンダが夢中になって走り寄ってくるのが見えた。
「グイン――東よ。東をめざすのよ……狗頭山《ドッグ・ヘッド》を越えなさい。ラゴンは、白い石の彼方[#「白い石の彼方」に傍点]にいるわ――白い石が[#「白い石が」に傍点]、黒い山とまじわるところ[#「黒い山とまじわるところ」に傍点]――そこに、ラゴンの魂がある……死の風に気をつけなさい――」
なおも、リンダは、何か叫びつづけているようだったが、それはもはや、グインの耳にはとどかなかった。
グインは、わかったというしるしに、大きく右手をあげて、手にしたムチをうち振った。リンダは、グインが限られた時間を少しでも無駄に費すことのないよう、瞑想をし、ヤヌスの祈りをとなえて、自らの透視の能力を呼びさましたものにちがいない。グインは、リンダのことばが正しいことを疑わなかった。彼は馬首をたてかえ、北から真東へ向けなおすと、ピシリとウマにムチをあてた。
みるみる、足もとに白く細かい砂塵をけたてて、ウマは素晴しい速度で走りはじめる。オアシスも、セムたちも、背後になり、遠くなり、
「リアード、リアード!」
というセムの叫び声も、オアシスの水のせせらぎもきこえなくなった。
グインは、砂漠に出たのである――今度こそ、たった一人で。
それからすでに、半日の時間が過ぎている。
はじめ、グインのウマがかけぬけてゆくのは、行けども行けども何ひとつ変化のない、平らかでしらじらとした固い砂地だけであった。
オアシスに近いほうでは、その砂地のあちこちに、灰緑色の地苔類がへばりつき、ときおりチョロチョロと走りぬける砂漠トカゲの姿も見える。しかし、オアシスから遠のくに従って、徐々にそうした貧しい地苔類すらも姿を消し、あとはただひたすら砂のうねり、つらなり、だけが視界をおおいつくすのである。
グインのウマはずしりと重くはあるけれども乗り方をこころえた、完璧な乗り手を得て、らくらくとしたギャロップでそのうねりをのりこえていった。ウマのひづめには、砂漠の砂がつめの間に入っていためることのないよう、うすい皮のクツがはかせてあり、ウマが走るたびにぱっぱっと白いかわいた砂が舞いあがった。
空は快晴であった。行手をさまたげる、イドや大ヒル、大食らいやそうしたぶきみな生き物のあらわれてくるきざしも当分はない。また、セムたちがウマにものりてにもふんだんにぬりつけたコケの汁が、それらをふせぐのに役立っている。日がおちて、それらの活動のひときわ活発になる夜がやってくれば、おのづから危険の度含いも増し、旅は困難をきわめるだろうが、グインとしては、それまでのあいだに少しでも距離をかせいでおきたいのである。――リンダの云った狗頭山《ドッグ・ヘッド》までは、まだ相当の距離があり、それはまだ、姿をあらわしてさえいないのだった。
グインは、休みをとることなくウマを走らせた。ただ、ウマがつぶれぬよう、ときどき歩みをゆるめさせ、またときどきはウマからおりてそれをひいて歩いた。彼は、歩きながら、鞍につけた袋から乾し肉をとりだし、それを食べた。少しの食物で力をつけると、再び馬上の人となって先を急いだ。
ただいちど、彼が、ひたすらなその歩みをとめたときがあった。それは、はるかな北東の地平に、はじめは目の迷いかとも思われるような微かな黒いしみ[#「しみ」に傍点]が生まれ、それがみるみるひろがって、無数の騎馬の姿となったときである。
まだ、ラゴン族の本拠というべきあたりまでは、入りこんでいなかったし、それではあまりにもたやすすぎた。はたして、グインが目をこらしたとき、その遠くの騎馬の一隊は、どうやら移動中のモンゴール軍の本拠であることが知れた。
そうと知ると、グインはすばやくウマからとびおり、ウマの手綱をひいて向きをかえさせ、あまり大きく砂埃をたてさせぬようゆっくりと動いていった。じっと伏せて危険をやり過ごすには、あまりにも一分一分が貴重なものでありすぎた。しかも、かなり離れているとはいいながら、この白く平らかなノスフェラス砂漠では、ことさらに人のすがたはひどく目に立つのである。
モンゴール軍はしかし、さいわいなことには、かなり速度をあげての移動中で、周辺にすきなく目を配っているというわけでもないようだった。灰色の、大量の砂埃――というよりは地平にけむる雲か、もや[#「もや」に傍点]のようなものが、風に吹かれる煙のように左から右へ動いてゆく。
それが、かなり遠くへいって、もう見つけ出される心配がない、と確信してから、はじめてグインは再びウマにとびのった。
そのあとは、ただひたすら、遅滞をとりもどすべくウマを走らせる。むろん、行けども行けども少しも進んではいないかのような心地に人を誘いこむ、単調で平らかな砂漠に、ラゴンであれモンゴール軍であれ、二度とは蜃気楼のような姿が立ちあらわれることはなかった。
もとより、グインには、はっきりとした当てがあるわけではない。東を目指して進んできた、そのこと自体が、王女にして〈予知者〉であるリンダの透視による神がかり的な託宣によるのであって、云ってみれば当たるか外れるかの危険な賭けである。
その上に、彼には、時間が無限に残されているわけでさえない。――彼がセム混成軍に約束したのは、四日後の昼である。――すでに、何刻かがむなしい歩みの内に過ぎ去っている。その約束には、セム全軍の勝敗のみならず、リンダとレムス、パロの聖双生児の生命もまたかかっているのである。
だが、グインのようすには、まだ焦慮の色はない――あるいは、少なくとも、ないように見える。
あるいは彼は、そうしたいたずらな焦慮が、さまたげにこそなれ決してよい結果をもたらさぬことを知っていたのにちがいない。まだ岩山地帯の影すらも地平に見えて来ぬ砂漠の彼方に、おそるべき砂嵐の遠いかたまりを見出したとき、少しだけ、グインの豹そのままな黄色っぽい双眼の中にくるめくものがあった。
だが、またすぐに、それへ心をとらわれるよりは、充分に注意を払いつつ、少しでも先を急ぐべくウマにムチをあて直す。こんどのムチには、かなりの力がこもっていた。ウマは疲れの色もみせずにやにわにスピードをあげ、砂をけたてて走り出す。
グインは、ウマを走らせながらちらりとふり向いて見た。砂嵐の渦巻きは、細い尾をひいて、さきほどより、かなり大きくなった――ということは、かなりの速度でこちらへ向かっているようである。
グインには、それでも、ひるみの色はなかった。再び、ウマにムチをあて、砂嵐と競争するように、まっしぐらにかりたてる。
もし何かおそろしく巨大な――ヤーンのように全世界をひと目で見わたすほどの巨大な目があってこの光景を見おろしていたとしたら、彼の目にうつったのは、次のような一幅の絵であったにちがいない。
それは、はてしなく白くなだらかな砂漠を、その巨大なもの[#「もの」に傍点]の目からすれば動いているとすら云い難いほどの速度で、ずっと前進してゆく、小さな黒い点と、そして、そのはるか後ろから、ごおっというような音をたてて追いすがろうとしているかに見える、巨大な竜巻とである。竜巻にくらべて、それはいかにも小さく、無力で、そしてその速度は歯がゆいばかりに遅い。
しかし、それでもそれは、前へ進みつづけていた。――大自然の猛威や、あるいはより巨大な運命そのものに、あえて単身で立ちむかい、決して何も戦うことなしには屈するまいとする、小さな姿。――それは、さながら、不屈の〈意志〉と〈闘志〉そのものの、荒々しく雄々しい具現とも見えるのだ。
だが――その間にも、容赦のない砂嵐は、苛酷な力をむきだしにして、騎手に追い迫りつつあった。
いまや、パチパチとはねかえる砂や小石の粒がグインや彼のウマの尻に当たって危険の襲来の近いのを告げ知らせ、晴れわたっていた空はにわかにざわざわと不安な黒灰色におおわれはじめ、そしてそれに呼応するように、さまざまな奇妙なノスフェラスの住民たちが姿をあらわすようになった。それらもまた、近づきつつある砂嵐から逃れようと必死であるのにちがいない。
やがて冷たい風のうなりが彼の耳にとどろきはじめたとき、ついにグインは彼のウマを止めた。
「もう、先へ進むのは危険だ。どこかに、身を隠すか――しかし……」
一人ごちながら、ぎりりっと手綱を握りしめる手に力をこめて、あわただしく左右を見まわす。
その目が、ふいに、何におどろいたのかぎらりと光った。
「狗頭山《ドッグ・ヘッド》だ!」
その口から、短いうなるような叫びがもれる。
まさしく、それは狗頭山《ドッグ・ヘッド》だった。地平に、黒く、影のようにうかんでいる、巨大な犬の姿――それは、さながら砂漠が故意に隠してでもいたかのように、突然、その奇態なすがたをあらわしたのである。彼は、最初の目標にたどりついたのだ。
そのとき、すさまじい音と風とが彼の息をつまらせ、とっさに地に伏せさせた。
砂嵐がやって来たのだ!
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「全軍、停止! 小休止!」
それよりも、しばし前のことである。
むろん、セムの本隊が〈鬼の金床〉にほど近いオアシスにいようとは知るよしもなく、モンゴール軍は移動の足を休めていた。
「砂嵐が来そうだ。空が曇ってきた」
アムネリスは、眉をひそめて空を見上げる。
「ガユス、方角」
「おおむね、わが軍に被害の及ぶような進みかたは、いたしますまい。ただ、嵐ともなりますと、例の怪物どもが、しきりに地上へ出てまいります。それだけ、注意なさるよう、各隊長へふれられた方がよろしいかと」
「ふん」
アムネリスは、肩をすくめ、底知れぬ緑色の瞳に厭わしげな色をうかべて、白い大海にも似た砂のうねりを見やった。
「呪われた土地だ」
はきすてるように呟く。まわりが暗くなってくると、うかうかとイドの中へふみこんだり、オオアリジゴクの穴へ足を踏みすべらしたりする危険なしには、前進することもできない。アムネリスの顔はおちついて、沈着そのものであるように見えたが、その下には、つのりゆく焦慮と苛立ちの色がひそんでいた。
「セムの襲撃が、嵐に乗じてあることも考えられる。おのおのの隊長は、充分注意するよう、伝令を」
「は」
「それにしても――こう、はかのゆかぬことではたまらぬな。遠からず兵糧も底をついて来よう。その前に、とにかくセムどもにかた[#「かた」に傍点]をつけてしまいたいのだが――こう、小ぜりあいを繰り返すばかりでは……」
アムネリスのつぶやきは、しだいに低くなった。
が、また声をはげまして、
「いったんどこかにとどまり、四方に斥候をくりだしてセムの村のありかをさぐらせ、その上で主力をもってきゃつらを根絶やしにしてゆくほうが、早道かも知れぬな」
「は……」
「ふむ――」
アムネリスは、考えを決めかねるように、物思いに沈んだ。
「セムの村――」
その口から、かすかな吐息のようなことばが洩れる。
「は? 何か、云われましたか」
「セムの村のありかを――何とかして、知りたいものだ」
「御意」
「このような――」
アムネリスの声がにわかに、きつい、苛立たしいひびきをおびた。
「このような状態をだらだらとつづけるのは、意に染まぬ! たかが、サルようの蛮人あいてに何たる時間の無駄だ!――私には、重大な使命がある。よいか、私には、母なるモンゴールの運命《さだめ》を決するに足る、重大、かつ火急の使命があるのだぞ! たかだか、蛮族などが、何故もって私の行手をさまたげる!」
「は!」
「ガユス!」
「はッ」
「軍議だ。隊長たちを呼び、天幕を張れ。考えてみれば何もこちらがいつまでも、セムの仕掛けてくる小ぜりあいばかりを受けて立ち、あいての思うままにことを運ばせることはない。われらに目ざわりなのはグイン、あの豹人ただひとりだ。あとはただのサルどもの集まり――」
ガユスは、息をのんだ。
アムネリスは、ガユスを見てなどいない。その目は、砂嵐の到来をうつして暗くかげりつつある砂漠にむかって火を噴くばかりに輝き、そのくちびるはいたいほどかみしめられていた。公女はさながら、これまでにじりじりとくすぶりながら身内におさえつけてきた激情を、いっきに燃えあがらせることを自らにゆるしたかに見えた。彼女は、恐しいほどに美しかった。
「殿下……」
「ガユス!」
アムネリスはやにわに、小さな拳で激しく鞍つぼを叩いた。
「もう、待たぬぞ。一気にけりをつけよう。思うことは、二つだ。セムの村のありかをさぐり、セムどもの息の根をとめることと、それから――」
「……」
「それから、グインの首級をあげること!」
「は――」
「あやつが何者であろうと、構わぬ! たとえ、どのような計略をもちいてでも、あやつの生命は私のものだ。ガユス、吉凶を占え」
「心得ました」
「伝令! 軍議だ。伝令!」
アムネリスは、ひらりとウマからとびおりるなり、足早に、伝令係があわててかけつけて来るのさえも待ちどおしい、といった体で陣中を横切りはじめた。
白い豪奢なマントがひるがえり、いまや墨を流したように暗くなってきた空の下で、かがやかしいその黄金の髪だけが、古都ナントの光の宮さながらにきらきらと光る。
彼女が小姓たちを従えて大股に歩いてゆくさきざきで、さっと騎士たちはウマからとびおり、道をあけ、剣を胸にあて、直立不動で礼をする。
アムネリスは、それにも注意を払わなかった。
(グインの首級をとるのだ。すれば、一気にセムはくずれる)
なぜ、これほどかんたんなことに、これまで気がつかずにいたのだろう――と、むしろ自分をいぶかしむような思いで、考えている。頭があつくなり、胸が高鳴り、いますぐにでも自ら陣頭に立ってせめこみたいようなもどかしさでよけい足早になる。
「伝令――伝令! 何をしている、フェルドリック――ミロール!」
アムネリスは声をはりあげて叫んだ。
彼女は、うしろで、彼女を見送ったガユスが、ひそかに頭巾の下で奇妙な表情をしているのに気づきもしなかった。
ガユス――その老魔道士の目は、摩訶不思議なきらめきをたたえて、暗くアムネリスの輝くようなうしろ姿にすえられている。
が、すぐに目をいっそう伏せて、黒いマントにその不吉なすがたをかくした彼は、
「これ、テントを立てよ、水盤と占い板をもて。早うしろ」
彼づきの下男たちに命じた。アムネリスが、おのれの命令がとどこおりなく行なわれぬことに、どんなに腹を立てるか、彼ほどにわきまえているものはいないのだ。
こうしたときのために、ただ四本の柱と、それに張った黒布をぴんとひろげさえすればできあがる簡易テントが携行されている。カラヴィア人の肌の黒い下男が、砂地にたてた小さな四角いテントの中に敷物をしき、五芒形の金砂の模様を描き、香をたいて人をしりぞけると、ガユスはいそいでその中に入っていった。
が、いくらもたたぬうちにあたふたと出てきて、すぐ近くに、ウマにのせた鞍の中でじっとしていたキタイのカル=モルを呼んだ。
「カル=モル殿。一寸、来て下され。一寸、この水盤を見て下され」
しわがれ声がひそかな動揺を示している。
死からよみがえった東方の魔道師が、不自由なからだで占いのテントに入ってゆくと、ガユスは何ともいえぬ奇妙な表情で巨大な水盤と、その下にたてた占い板を指さしてみせた。
「これは、なんと――」
カル=モルのききにくい声がカサカサと洩れる。
「これはまた」
「わしは、恥ずかしながら、このような奇怪な紋様を見たことがこれまで、一度としてありませなんだ」
ガユスは、魔道師としての誇りや自負よりもつよい、大きな不安と動揺につきうごかされているようだった。
「これは、吉ならず、凶でもなく、いったい何をわしに告げようとしておるのか……」
「吉ではない。や、なんだ――これはわが陣だ。わが陣中に、火の星があって、凶と未来を同時にはらんでいる」
「この合[#「合」に傍点]はそもそも何を――」
「ガユス殿。私の国のある東方では、ひとつの星が同時に二つのまったく異る意味をはらむのを、もって、革命と呼ぶのだが、しかし……」
「ともあれたったいま、わがモンゴール軍の陣中に何やら重大な異変の種がはらまれておることは確かだ。これを、公女殿下に、なんとお告げしたものか――」
「光の星の光が流れ出している」
カル=モルの骨のあらわれた指さきが、ふるえながら占い板を指さした。
「東へむかって光が流れだしている。東の方向に、磁力があって、そのために光の星の生命が乱れておる」
「その謂は、わかっている。公女様は、あの豹人に、そうとは知らず非常な強さで魅かれておられる。あの半獣人のことを口にすると、ひどく動揺され、それを自らにかくしおおせようと、いっそう過激になられる」
ガユスの指が占い板のみぞをまさぐった。
「しかしこれは、さだめであるから、申しあげて、光の向きをあるべきように変えることもできぬ」
「すべてはさだめによって動く」
カル=モルがゆっくりと云う。
「ただ――」
「ただ?」
「ただ、この地ノスフェラスには、あまりに多くの星があつまっており、それがあまりにさだめそのものにとって重大、かつ有力な役割をはたす星であるために、黄金律における力の配分が過剰なまでに乱れてしまう」
「この働きかけてくる力のみなもとはどこにあるのか――」
「わからぬ。しかし――」
カル=モルがひくく笑い声をたてた。
「ガユス殿。わしらもまた、この織り布のひとつの模様だ」
「それはそうだが、しかし――この火の星、これだけは納得がゆかぬ」
「たしかにゆかぬな。おそらく、それは、この星のはらんでいるものがいまだ生まれ出てはおらぬからだ」
「けさがた、定時の占いをしたときには、このような異常な星はわが陣中にはなかった……」
奇妙な渦巻き模様をみせているアラバスターの水盤と占い板をはさんで、ふたりの魔道師の会話は、ぼそぼそとつづいていった。
だがそれは、むろんのこと、黒地に金で星印を描いた占い師のテントの外にまではとどくすべもない。
「――やれやれ」
「ようやく、わが軍がしかける番だぞ」
アムネリスの決然とした姿を見出し、また、軍議をふれ歩く伝令たちの声がひろまってゆくにつれて、モンゴール軍の中に、さざなみのように活気がみなぎりはじめていた。
ひたすら後手をひき、あいてをただ受けて立っていることは、いつのまにか軍の士気をくさらせる。ようやく決戦を公女が決意した、とみて、たびかさなるセムの奇襲に苛立つばかりだったモンゴール軍はすわこそとばかり勇み立っている。
「大体、一回わが軍が本腰を入れて立ちむかいさえすれば、あんな蛮族など、ひとたまりもないのだ」
「もっと早く総攻撃にうつっておれば、リーガン小伯爵とて死なずにすんだかもしれん」
「おい、そんなことを云うな」
「そうとも、アムネリス様にはちゃんとお考えがあってのことにちがいない。あの方は常に正しいのだからな」
「おい」
がやがやと取沙汰している騎士たちにはきこえぬところで、より年若い歩兵たちは、そっとささやきかわしていた。
「もし、セムどもを全滅させれば、すぐに帰途につけるのかな」
「運がよく生き残って、任務がぶじにすんで、帰還部隊に入れればな」
「ああ、早く帰りたい。――もう、砂と蛮族は沢山だ、おれは」
「おい、きこえたら、ムチを食うぞ」
「食ってもかまわん。砂、砂、砂にはとことんうんざりしちまった。何でもいい、セムどもをやっつけ、おれは早く緑美しいケス河の彼方へ帰りたい」
「声が高いぞ。桑原、桑原」
「あああ、いまごろは、オーダインでは、ヴァシャ果の収穫に入っているだろうなあ」
砂嵐が近づいていた。砂嵐は、モンゴール軍を直接におびやかす危険はまったくなかったが、しかし風が出はじめ、まだそれほど日暮近いわけでもなかったがあたりは日没同様まっくらになり、そしてそれに従って、砂漠オオカミの遠吠えが風のうなりに入りまじり、砂漠トカゲや砂虫が狂気のように逃げたり、砂にもぐってゆくのがあちこちで見られた。
ピュウピュウと吹きつける、砂塵を舞いあげる風にのって、エンゼル・ヘアーがぶきみにほの白く舞いおどりはじめ、砂地に生える数少ない植物のひとつである、砂色の砂漠ヨモギが、砂から根ごとひきぬかれて、ぴしゃりと騎士たちの顔にかぶさってきたり、その頭上を吹かれて過ぎたりした。ノスフェラス砂漠はおもむろに、あたかもこれまでそれが人びとに施していた恩寵の大なることをあらためて人びとに思い知らせ、自らの真の無慈悲で残酷な顔を見せつけようと思い決めでもしたかのようだった。
「なんてところだ」
さきに故郷を思って嘆いた歩兵が云う。
「神に見すてられた土地だからな」
と同僚。
「こんなところと知っていりゃあ、罰金を払ってでも兵役を逃れておくのだったよ」
「こんなときに――」
あいては、不安げに、吹きすさぶ、細かな砂塵をふくんだ風に顔を向け、目を細めた。
「こんなときにもしセムどもがおそってきたら、ずいぶん痛いめにあうかもしれんな」
それはまた、むろんのことに、主脳部の憂慮の種でもあったのである。
「軍議の用意がととのったそうで」
告げにきたガランスに、マルス伯爵は、憂慮にしかめた顔を向けた。
「なんと、間のわるいことだ。ようやく、姫様が、反攻を決意されたやさきにな――まったく、この地では、天までが、セムどもに味方しおるわ」
「ここは、セムの土地ですからね」
いたって快活に口を出したのは、アルゴンのエルであった。
きわめて短時間のうちに、彼は、老伯爵にすっかり気に入られてしまっていた。もともと、見かけが遠い都にいるマルス伯の息子に似ていることで、老伯爵に、親衛隊として手もとにおこうという気をおこさせたのだが、その上に、はきはきとして物おじをしない、図々しいくらいなこの若者には、その気になれば人にすっかり好きにさせずにはおかない、奇妙な魅力がそなわっていたのである。
「それに、どのみち、砂嵐のあいだは動けませぬからな。その間に軍議をすませ、嵐が晴れしだい出動ということで、都合がようございましょうが」
ガランスはなだめ顔である。
「今度は公女殿下も、総攻撃でけり[#「けり」に傍点]をつけたいお心づもりでございましょう」
「そうなくては困る。そうでない折には、こちらから進言して、ぜひにもきいていただくつもりだった」
マルス伯は、はたはたとマントの裾の砂埃をはたき、身なりをととのえた。
「さあ、姫さまをお待たせしては、お怒りになるからな、ガランス」
「もし総攻撃と決まれば、ぜひにも、わが隊に追撃部隊をひきうけさせていただきたいですな」
エルが茶目なようすで目を輝かせながらそそのかした。
「皆、セムどもをやっつけたくて、うずうずしております」
「その意気だ」
マルス伯はほめた。満足げに何回かうなづいて、まるで息子か、孫をでも見るようなやさしい目つきで、エルを眺める。
「よし、ではひとつ、先鋒をうけたまわって来ようか」
云うと、ガランスを従えて、大急ぎで張られた軍議の天幕のほうへ歩き出す。
騎士や兵卒たちのほうは、間近い決戦と砂嵐に乗じてのセムの奇襲にそなえて、せねばならぬことがいくらでもあった。歩哨が倍に増やされ、ひっきりなしに四方を見まわり、ガチャリガチャリと重い剣の音をさせた。
その忙しげな中を、マルス伯につづいて、ポラックを従えたアストリアス、タンガード、イルム、フェルドリック、とおもだった面々があわただしく天幕へ入ってゆく。どの顔も、ようよう惰眠からさめることができる、とでも云いたげに、勇み立ってきびしくひきしまっている。
やがて、天幕のかかげられていた垂れ幕は、さっとおろされた。
風がうなり、エンゼル・ヘアーの数はいよいよ増した。
「砂嵐が来るぞ」
「あまり風が強くなるようなら、マントをあげ、顔面を砂つぶてから守って、ウマの蔭に入っていよ」
「歩哨は、面頬をあげて風に顔を向けてはならん。砂で、目をやられるぞ」
「セムに乗じられるな。耳、目をすませ、決して油断するな」
「砂嵐は一ザンばかりでやむはずだ。その間には決して持ち場をはなれず、兵糧をつかい、からだを楽にして、なるべく体力を養うようにしておけ」
「よいか、決して単独行動をするな」
つぎつぎに伝令がふれを伝えてくる。
そんなことは、わかっている、と云いたげに、エルは下僕がマルス伯の愛馬の面倒をみているのを眺め、ぶらぶらと自分のウマのところへ戻った。
ウマの鞍の内側につけてある小さなポケットに手を入れて、一枚の羊皮紙をとりだす。ウマのかげにかくれ、マントをかぶって、ごそごそと何か書き出す。
すぐに、満足して、彼はマントからにゅっと首を出した。
「なんだ。何を書いてるのだ」
誰も見ているまい、と思っていたのだが、あにはからんやウマから首を出すやいなや、同じ旗本隊の小隊長が、この新しい隊に組み入れられた陽気者を興味津々で眺めていたのに気づいて、ひどくぎょっとしてとびあがる。
「な、な、何でもありません。いや、私は――実は詩人でして。詩を書くのです。この、砂嵐のことを、キタラにのせて歌う韻律につくれぬかと思いましてね」
エルはどきまぎと云いわけをして、くちびるをなめた。彼の浅黒い顔は、恥ずかしさのゆえとも、どぎもをぬかれてともつかず、みるみる上気してしまった。
しかし小隊長はさいわいそれ以上追求しようとも思わなかった。それよりも彼は、軍議の行なわれている天幕の方に気をとられていた。エルは、ひどくあわてふためいたようすで、その羊皮紙をおりたたむと、鎧の下のかくしにつっこむ。そのまま、せっせと彼はガティをとり出してはかじり、ヴァシャ果の汁をかみ、いかにも、腹ごしらえにすっかり夢中になっているように見えた。
風は、いよいよ強くなっている。
エンゼル・ヘアーは無数の白い魂と化してひっきりなしにかれらの周囲を飛び過ぎ、ニガヨモギの枯れ枝はかたい鎧に当たってピシピシとかわいた音をたててはじけた。空は低く、暗くたれこめ、地平にはおそろしい巨大な竜巻が、東の方面へむかってつきすすんでいるあかしが見えた。
あれにまきこまれたらとても助からぬだろう――誰もがそう思い、ぞっと身をふるわせて自らの幸運をヤーンに感謝した。それは、その下にある砂も、植物も、石も、生あるものも、のこらずまきあげながらいよいよ巨大になってゆく、おそるべき空気の渦であり、まるでそれは呪われた大地であるこのノスフェラスに、あえて踏みこむという暴挙を犯した人間どもに、大魔神ドールが叩きつける、憤怒と警告とそして呪詛のすがたであるかに思えた。
そして嵐がやってきた。
ノスフェラスでは、むろん、雨がそのかわいた砂地を叩くことはない。ノスフェラスの嵐は、ただごうごうと地上を叩きつけて荒れ狂う、猛烈な風と、それに舞いあげられる砂と小石である。
それはモンゴール軍の進軍の前に、あえておさえつけられ、なりをひそめていた、奇態でおそましい辺境の怪生物たちの待ちに待った時であった、風のうなりの中には、なんという無数の怨みがましい唸り声や吠え声や、またすすり泣くような音が混じりこみ、かれらをおびやかしたことだろう。砂は煮えはじけるように荒れくるい、その中から白いくねくねした触手がのびてきて不運な歩哨をあっという間もなく砂の底へひきずりこんで消えた。悲鳴も呪詛も神の名を称える声もまた、風のうなりにかき消された。いまや、ノスフェラスはようやくその本性をむき出しているのだった。
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3
もし――
グインが、とっさの判断を誤り、なおも逃げようとムダな努力をつづけるか、あるいはそうでなくとも身をおく場所をほんの少し、見あやまったとしたら、もはや、彼の巨大な運命は、その最初の出だしにおいて終わりをつげてしまっていたかもしれない。
グイン――誰ひとりとしてその素性を知るものもないままに、スタフォロス城下なるルードの森に忽然とあらわれた、この豹頭の戦士、裸の半獣半神には、なぜかは知らず、奇妙で的確な本能ともいうべき行動の指針がはじめからそなわっているかのようだった。
それに導かれるままに、彼は、迫りくる凶暴な砂嵐のうなりを背後に感じた、そのせつな、ウマからとびおりるなり、ウマの手綱をしぼるようにして引き倒し、それを盾にして身を伏せ、頭を守るために両腕でかこいこんで、胎児のような姿勢で身を丸めて小さくなったのである。
革のマントがすっぽりと彼の巨体をつつみこんだ。たちまち、パラパラと砂や小石がそのマントの外側をうつ激しいかわいた音がし、ウマの世にも悲しいいななきと悲鳴がきこえ――
そして、ついに嵐が訪れたのだった!
すさまじい狂風のうなりが、一瞬にして轟音にまでたかまった。目をとざし、頭をかかえこんでからだをひたすらかばう姿勢をとったままの、グインの周囲が瞬間まったく空白になり、恐しいまでの真空状態があたりを支配した。
轟音は悲鳴のように甲高い切りさくような音と変わり、圧倒的に巨大な掌が、乱暴きわまりないやりかたでグインをつかみあげ、ふりまわした。風のさなかですすり泣くような奇怪な音がきこえ、とざしたまぶたの外側で、完全な暗黒と白熱の光が入れかわった。
いまや大自然の猛威は砂漠のすべてをおのれの領土とすべく、狂おしい暴虐をほしいままにしていた。竜巻に巻きあげられたすべての砂がおそろしく巨大な手で激しく振られている入れものの中のそれのように滅茶苦茶にはねまわり、シェイクされ、煮えたぎっていた。石と石、砂と砂がぶつかって立てる、もののはぜるような音が、竜巻の中心部の真空にそれらが当たるときのすさまじいひびわれるような音と入りまじった。
たとえシレノスその人といえども、この嵐のさなかに無事では、一秒とさえいられなかったにちがいない。巨大な黒い手が黒い雲におおいつくされた空をかきわけてあらわれ、大地をその空気の大槌でもってくりかえしくりかえし叩きつけ、その広大な砂漠を煮えたぎる嵐の大洋と変えた。あたかもそれは魔神たるドールの息子である、黄泉の国の大蛇ゾードが、その盲目で狂おしいどす黒い憤怒にまかせ、その長大なからだのふれるものすべてへのやみくもな破壊への欲望にあふられて、火と硫黄の息を吐き出しながら荒れくるい、もがきくねってでもいるかのようだった。ノスフェラスはドールの怒りの前に、その呪われた身を屈し、その息づかいにふるえ、その怒声にわなないた。
もはや、石と砂とにおおいつくされたぶあつい空気の壁が、すべての視界を埋めつくし、そこをまったくの暗黒に変えた。砂は巻きあげられて、その中に安全にひそんでいたイドや砂ヒルやオオアリジコクなどの奇怪で残忍な生物もろとも天空高く放りあげられた。そのあとには見るもむざんにえぐられた穴がのこり、しかしそうと見る間にたちまちそこへ四方から砂の川と化した流れがそそぎこんできてすさまじい土砂崩れをみちびいた。それはこの世のさいごアルマゲドンを思わせる壮絶な力の爆発だった。いかなる力も、知恵も、手だても、この力の直撃に対して何ひとつなすすべをもたなかった。竜巻がその下にあるすべてのものを放りあげながらつきすすんでいったあとには、急激にうがたれた傷口にむかってなだれおちてゆく砂の濁流が、耳をつんざく轟音をたててありとあるものを押し流した。
嵐は、一ザンに近いあいだ、さながら永遠かとも思われるほどの勢いで荒れ狂っていた。それは、はるかにケス河をへだてるアルヴォン城の天守塔からさえありありと見てとれるほどの、まれに見る大嵐であり、大竜巻だった。アルヴォンの城主リカード伯爵は遠征軍を心配して物見の塔からはなれなかった。この日、アルヴォンよりもさらにケス河の下流にあたる、ツーリード城周辺の自由開拓民の土地では、ノスフェラスでも内陸部にしか生えぬはずの砂漠ニガヨモギが、風にのって、かれらのたがやした畑にまでおちてきた、というのが、のちのちまでの語り草になった。
それはまぎれもないドールの嵐だった。ノスフェラスが悪魔の土地であり、神に忘れ去られて、そこではあらゆる恩寵の機会が失われている、という根づよい思いこみの、これほど確かなあかしだてはなかった。
空は墨を流したようになり、さながら地獄からあらわれた暗黒の生命、あの伝説のグラックの馬たちがかけぬけてはかけもどり、またかけぬけていった、とでもいうように、大地は揺れ、鳴動した。竜巻が、生まれ出たときと同じようにふいに東の岩山地帯にいたってしずまっていったとき、もう、日はすっかり没していたのである。
グインは、夢を見ていた。
意識を失い、風と嵐との暴虐に、なされるままになっていた彼の見たものが、どこからがうつつで、どこからが夢にすぎず、そしてどこからが、――より大きな存在によるひそやかな啓示であったのか……むろん、それは、彼に知り得ようはずもない。
ただ、彼は、吹きすさぶ嵐、とどろきわたる、グラックの馬の大群のヒヅメのようなすさまじい地鳴りの中で、ひどくまざまざと、ほとんどその声のトーンすらもききわけられるほどにありありと、しかし恐しく遠いところからのような声が彼の名を呼ぶのをきいていたのだった。
(グイン……グイン……)
その声は、はじめ、ただの、嵐のうなり、風のすさびにすぎないのか、と思われた。しかし、
(グイン――グイン!)
その声は、しだいにはっきりとききわけられ、風にゆりあげられ、嵐に身をゆだねている彼の空白になった意識に忍びこみ、まとわりついてきた。彼は、答えようとした。
(誰だ――何故、俺を呼ぶ)
(グイン――グイン――グイン!)
(俺だ。グインは俺だ。俺はここにいる――お前は誰だ!)
(グイン――)
それは遠くなり、近くなり、あるいは笑いを含み、あるいはもどかしげになり、あるいは厳かな威圧にみちた。しかし、ただひとつ間違いようのないのは、それが、女の――若く美しい女の声である、ということだった。
それがただひとりの女の声なのか、それとも、何人もの女がかわるがわるに呼ぶのか、それすらもグインにはわからない。ただ、その声の主が何かきわめて重大なことを知っており、そしてそれを彼に告げようとしているということ――それを、あるいは彼女を理解することができたそのときこそ、すべては正しくせられ、輝くばかりのゆるしと慈悲とが彼をつつむであろうということが、彼にはわかっていた。
(俺は――)
彼は、むりに口をうごかして、叫ぼうとした――その女[#「女」に傍点]の注意をひき、その女[#「女」に傍点]の心に訴えかけるために。
(俺はお前を知っているぞ……お前は俺にとって、とても大きな近しいかかわりがあるものだ。俺はお前をさがしていたのだ。俺はお前にきくことが――どうしても問い糺さねばならぬことがあったのだ。なぜ――それはこうだ、なぜ俺はこのような――)
(なぜ俺はこんな……)
(なぜ俺は)
(なぜ)
ふいにグインは困惑した。なぜ俺はこんな[#「なぜ俺はこんな」に傍点]に、どうであったのか、どうしてもきかねばならぬと思っていたその重大なことがいったい何だったのか、どうしても思い出せぬことに気づいたからである。彼は当惑した。
(俺は――)
(俺は)
(俺は)
(俺は)
(俺は)
ふいにあたりはしんと静まりかえった、深い洞窟のようなところに変わっていた。グインの思念はその洞窟の中にいんいんと反響し、無数のエコーを生んだ。
「つまらぬいたずらをしていないで、姿をみせたらどうだ」
かっとなって、彼は叫んだ。そのどこかに、探しているそれ[#「それ」に傍点]がひそんでいることは、わかっていたからである。それがまた、
(みせたらどうだ)
(どうだ)
(どうだ)
(どうだ)
ヤーンの神殿の神託をつげる声ででもあるかのようなエコーを生んだ。
グインはあたりを見まわした。あたりは、どうやら、グインがすでに一度訪れたか、あるいはもっとたびたびやってきている場所であるようだった。なぜなら、鐘乳石が無数に垂れさがり、盛りあがっているその壁や、前後左右にいくつもぽかりと誘いこむようにひらいている暗くしめっぽい枝穴には、何かしらひどく見覚えのある、なつかしい感じをおこさせるものがあったからである。
(ここはどこだったろう)
グインは思い出そうとした。しかし、記憶という記憶がすべて彼の自由になるものではなくなってしまったように思われ、自分がそもそも何かを、知っているのか、いないのかすら、さだかには知覚することができなかった。
彼は手をのばしてさぐり、すると彼の手は腰につった愛用の大剣にふれた。その頼もしいなめらかな鋼鉄の手ざわりが、みるみる彼にもたらした安堵と自信のふかさは、彼自身をさえ驚嘆させるほどだった。そうか、と彼はひとりごちた。
「これさえあれば、たとえお前が何をたくらんでいようが、俺の知ったことか」
再び、だんびらの柄に手をおき、それがただちにぬけるようになっていることをたしかめると、彼はおもむろにどこかへ行きつくべく、洞窟の探険にとりかかることにした。
全身が重く、けだるい疲労感があった。ひどく遠くを旅してきた人のようなものうさが彼をとらえ、それよりもさらに、空気が水のようにねっとりとまつわりついて来る感覚が彼の身軽い動作をさまたげた。剣をぬいて、からみついて来る倦怠を叩き切りたいような思いで、彼は周囲を見まわした。
鐘乳洞の、無数の枝穴と見えたものは、しかし、そうして眺めると、じっさいには四つの大きな岐路を構成しているにすぎないことがわかった。あとの穴は、すぐに行き止まりであったり、ただちに大きなそれへ通じてしまうに過ぎず、ただその四つだけが、あたかも彼の訪れを待つかのように、彼の立っているホールの四方にむけて、ぽかりと歯のない口のような暗黒をうがっているのだった。
さて、どれを行ったものか、と彼はひとりごちた。なぜかは知らず、そのどれかを選択することに、彼はためらいを感じた。彼は、その中にあるものを前もって知りたいと思った。
しかし、それが不可能であることもわかっていた。知ってしまえば、おそらくその道はたちどころにそのあるすがたを変えてしまうのだ。彼はかくしをさぐると、ひとつのコインをとりだした。
それを、ピンとはじきとばして、その落ちたさきにある入口へ入ってゆこうと思ったのだ。だが、そのコインに目をおとした刹那、彼はぎょっとなった。
赤銅のその小さなコインの表面にきざまれている横顔――
それは、まさしく、豹頭人身の、彼自身のレリーフであったのである。しかも、それだけではなかった。
その、真横をむき、カッと口を開いた、豹の頭上には、ひとつの輝かしい王冠が擬せられてある。
巨大な宝石をいくつとなくちりばめ、複雑な模様をきざみ――あきらかに、それは、伝統ある栄光にみちた強大国の王の、誇らしくも貴いあかしなのだった。
(これは……?)
グインの手がわずかにふるえた。彼はコインをかざすようにして、よくよくのぞきこんだ。コインの、そのレリーフの周囲には、彼自身の横顔をとりかこんで、ルーン文字がきざみこまれている。それを、彼は読んだ。
(双面のヤヌスの御名により大王に宣せらる)
とある。
(王――?)
グインはあわただしく、そのコインを裏返した。裏には、グインではなく、ひとりの若い女の顔が彫られていた。
髪をたかだかと結いあげ、小さなあごをつんとそらせた、ほっそりとした女――高貴な血筋をあらわすかのようにととのって、気品のある顔立ちだが、あごのそらせかたに、いくぶん情ごわそうな、いかにも気位の高そうなようすがある。その結いあげた頭にも、王冠がのせられていた。明瞭に、グインのそれと対の、いくぶん小型のものである。その下にも、文字があった。
(ヤーンの導きにより――グイン王の王妃となる)
と。
(グイン――王……王妃?)
グインは喘いだ。
(王妃[#「王妃」に傍点]? この――この女は誰だ。そしてこれは……)
いったいいつの間に、かくしに入りこんだものか、と途方にくれて彼はその謎めいた、彼自身の出世と、見知らぬ妻の存在とを告げるコインを見すえた。
が、それを投げるかわりにしまいこむと、この謎はもっとのちにゆっくりと解きにかかることに決め、他のコインを探す。見なれた、中原共通の十分の一ラン貨幣があらわれた。
いくぶんほっとしさえして、彼はそれをピンと指ではじいた。それは、彼の頭上へ放りあげられ、それから、彼の右手――彼からみて、右からふたつめの洞穴の手前に、ポタリとおちた。
「よかろう」
彼は呟くと、コインをひろいあげた。身じまいを正し、剣をもう一度たしかめると、無造作な大股でその穴へと踏みこんでゆく。一瞬、戻り路のために目印をきざんでおくかと迷ったが、肩をすくめた。どのみち、ここがどこで、何のためにこうしているのかさえ、知ってはおらぬことに思い到ったのである。
(まっすぐ前へさえ進んでゆけば、どうせどこかに行きつくだろう)
彼はひとりごちて、暗くてせまい道を、ぬるぬるとすべる足元に注意を払いつつ進みはじめた。
それは、どこかひどく懐しい感じすら与える――しかしまた、何かしらぶきみで、異様な不吉さにみちた洞窟だった。
それは人が、この世に生まれ出るために必ずたどらねばならぬ、暗い胎内道とも、また死者がその生と魂の価値をヤーンの秤によってはかられては追いたてられてゆく、この世とあの世とのはざま、無明の境界とも思えた。遠くの方に青白い火がみえて、鬼火か、あるいは死せるものの魂か、といくたびかグインをハッとさせるが、そのたびにまたそれは消え去って、あとは静寂だけが残る。
どこにも灯りはなく、またそこはあくまでも暗いはずなのに、ふしぎと歩いてゆくその足もとだけは、おぼろげに、大地自体が光をはらんででもいるように浮かびあがって見えた。グインは決してふり向かなかった。何故かは知らず、決してふりむいてはならぬ――ふりむいて、やって来た方を見たがさいご、何か見てはならぬもの[#「見てはならぬもの」に傍点]を見てしまう、とりかえしのつかぬことになる、という予兆がありありと感じとられたのだ。
グインの首すじはちりちりとあつくなり、五感以外の何か超越的な感覚だけが、危機と正しい道とをあやうく教えみちびいているかのようだった。彼は、歩いてゆけばゆくだけ、彼のうしろでねっとりと闇がとざしてゆき、彼の退路を断ちつつある、という、そんな気がした。
彼がそう考えたとき、ふいにうしろのほうで、かすかな笑い声が――砂漠ハイエナかワライオオカミのような、いやな笑い声がきこえたようだった。が、それでも彼はふりかえらなかった。
さきにきこえていた、彼の名を呼ぶ声は、いつかまったくとだえてしまっていた。彼は、自らが正しい道をとり、正しく進んでいることを疑うまいとした。偶然ではなく宿命にみちびかれ、自らはたえず偶然と信じながら、つねにすべきことをし、とるべき方向をとっている、そうした人間だけが、皮肉なことだが運命にとってある種の力であることができる。偶然と宿命の二面の顔が、この世界を照らしており、そのどちらにむかって手をさしのべるか、それこそがひとを漕ぎ奴隷と水先案内人《ガイド》とにわかつのだった。
グインは闇にすっぽりと包みこまれ、守られる、奇妙なゆったりとした心地よさを感じつづけていた。目ざめていながら目ざめてなく、生まれ出ていながら生まれ出てさえいないような、ふしぎな安息とそして肉感的な充足とが彼をみたした。
(人は、こうして歩いているのだ。たいていの人間は、闇からその魂のごく一部しか目ざめさせることなく、賢者と呼ばれるものでさえ、じっさいには、せいぜい薄明の中で寝呆け眼をまたたいているにすぎぬ。人は眠りながら生まれ出、深い夢を見つづけているかのように闇の中を歩き、そしてゆっくりともたげた頭をたちまちまた枕につけて、寝返りをうったにすぎなかったかのようにまた眠りに――こんどは永遠に目ざめることもない眠りへと戻ってゆく。目ざめているのは誰だ。夢とうつつとの境をつかさどるものは誰だ。誰が偶然のサイを投げ、誰が宿命の機《はた》を織る。神?――神とは何で、どこにいる。なぜそやつは俺を選んだ。俺は誰だ。俺は何をするためにこの頭を、昏い安らかなねむりからもたげたのだ……)
(俺は誰だ)
ふいに、グインは息をのんだ。
彼がそう思うのと、彼の前、ずっとつづくかにみえた暗黒がふいにおわり、青白い、得体の知れぬ光が一箇所からさし出でたのとが同時だったのだ。
グインは剣の柄に手をあて、光にむかって、足元に注意しながら走り出した。首のうしろにまでねっとりと重くたれこめていたような闇が、いやいや彼のからだからひきはがされてゆくのが感じられた。
(この光は!)
青白い光は、彼の行手の、大地が急に一段低く落ちこんだ、そこによこたわっている何ものかのからだから、じかにさしそめているようだった。グインは剣を握りしめたまま、油断なくじりじりとそれへ近づいた。
ようやく、その光の正体をのぞきこめるぐらいの距離に近づいたとき、グインの口から、あっという低い呻き声がもれた。
「こ、これは……」
グインが見おろしているのは、恐しく異様なものだった。
巨大な――ほとんどグイン自身にも匹敵するぐらいも巨大な、青白く光る赤ん坊。
しかし、それには、手も足もない。いも虫のように身を丸めたそれは、巨大な頭と、巨大な胴体だけをもつただの肉塊にすぎなかったのだ。
そのとき、それ[#「それ」に傍点]が、かッと目を見開いた!
「ワッ!」
さしもの物に動ぜぬグインが、覚えず悲鳴のような叫びをあげてとびすさった。その赤ん坊の巨大な、一つしかない目が開いたせつな、すさまじいばかりの眩ゆさがあたりを支配し、その青く白熱した光につつまれて、一瞬にあたりは熔岩をふきあげる火山の内部のように光り輝いた。
グインは目をおさえ、よろよろとたたらをふんだ。剣をぬくいとまもなく、手でしっかりとおさえたまぶたを通してさえ白熱するまぶしさが目をまともにつきさして来、さきまでのねっとりとした闇はすべて光に駆逐された。
(自らの道をゆくがいい)
その光の爆発の中で、遠く、さきほどのそれとはちがう、力強く、そして異様にいんいんとひびきわたる、かぎりなく年経た男の声がした。それは、どうやら、彼の前によこたわる、その手も足もない子どもの、裂けたような唇から、声ならぬ発声器官によって発されているのであるらしかった。
(自らの道をゆき、自らの運命《さだめ》にあうがよい。王冠と鎖をともに踏みにじるがよい。三人の女がお前を導くだろう)
(三人の女――?)
(一人の女に出会って運命を――一人の女に出会って王冠を――そして一人の女に出会ってお前自身を見出すがよい)
(女――それは、誰だ! 誰のことだ、いや、俺は誰だ、何物だ、俺はなぜこんなすがたをしている! 俺は、人[#「人」に傍点]なのか、獣[#「獣」に傍点]なのか、それとも呪われているのか! 教えてくれ、人が自らが何者であるのか、ついぞ知ることなしに、どうして自分自身であることが、己れの道をゆくことができる!)
(お前にはできるだろう)
いんいんとひびく声が答えた。それは、何か、厳しく、冷やかなひびきを帯びていた。
(なぜなら、お前は、人ではないからだ[#「人ではないからだ」に傍点])
(人ではない、だと!)
グインは吠えた。激情と憤怒と、そしてもっとえたいのしれぬつきあげてくるものに、彼は畏怖さえ忘れた。
(人ではない、だと! 俺は化け物か、それともただのけだものなのか! 教えろ、俺が人でも何でもないなら、なぜ俺に人の生を与えた! 俺に何をしろというのだ!)
(では)
声が答えた。
(では云い直そうか。お前は、まだ[#「まだ」に傍点]、人ではない。自らの道をゆき、三人の女に出会って、自分自身になるがよい)
(どうやってだ! どこへだ!)
(自らの道を正しくゆくことによって)
(どうやって、それが正しい道とわかる。どうやって、その女がその[#「その」に傍点]三人のひとりの女だとわかる!)
叫んだ瞬間だった。
(グイン――グイン!)
ききおぼえのある、若い女が声がした。
はっとふりかえったとき、彼は、白熱光のあふれる中に立っている、ほっそりとした女のシルエットを見た。その女はこちらに手をさしのべ、何かをさしだそうとしているようだった。
(これがその女の一人か!)
叫ぶなり、彼はやにわに、そちらへ向けて突進した。女のシルエットは、怯えたようだった。くるりと身をひるがえし、かろやかに走って逃げ出す。
「待て!」
グインは走った。男の足である。たちどころに、彼は追いついた。
たくましい、力にみちた手が女をとらえた。女は悲鳴をあげて抗った。はっとするほど滑らかな、なよやかな肩と手首の感触が、グインをかっと逆上させた。
「この女か! この女が俺に、運命か、それとも王位か、さもなくば見失っていた俺自身を与えてくれるというのか。この女が、いまだ人[#「人」に傍点]でない俺を、本当の生の中に生みおとしてくれるのか!」
グインは、女の首に手をかけて、ぐいとひきよせた。女は長い髪をはらりとうちかけて、顔を隠した。まわりにみちている白熱の光がその髪をも白い光にかえ、その色をわからなくさせた。
グインはその光り輝く髪を手にからめて払いのけ、女の顔をこちらに向けさせた。
そして、叫び声をあげた。
「――お前は!」
その刹那――
すべてが暗転した。
すべての光、すべての世界、すべての現実が、いちどきにくずれおちた。かぎりない虚無の中を、まっさかさまに墜落してゆきながら、グインはただその女の白熱したほほえみだけにつきまとわれていた。
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4
冷たい――快い風が、裸の皮膚をひたひたとなぶっていた。
それは、炎熱と乾きとが支配する砂の領域に馴染んだからだには、さながら冷水のシャワーをあびているように、快く、そして逸楽的な感じがした。
「ああ……」
思わず、彼は、低い満足のうめき声をもらし、そして丸めていたからだをうんと伸ばした。そのはずみに、手を何か固いものに思いきりぶつけてしまった。
そのいたみが、こんどこそ彼の意識をまったくの覚醒にみちびいた。グインは反射的に、覚醒と同時に完全な戦闘体制をとれる、戦士のすばやさでもってはね起き――
そして、周囲を見まわして目をむいた。
「ここは、何処だ」
覚えず、唸るような声が洩れる。襲い来る壮絶な砂嵐の中で、運を天にまかせて身を伏せたはずの彼が目ざめた場所――
それは、彼のあらゆる予想を裏切っていた。
「ノスフェラス……」
また、グインは唸った。あたりは暗くなっていたが、闇にもきく彼の目には、それがどう考えてもノスフェラスの、少なくとも内陸部の砂漠ではありえないことが、まざまざと見てとれた。
「なんということだ」
彼は呟き、そして手をのばして、彼自身のよこたわっていた地面にさわってみた。それは固く、ひんやりとして、湿っぽい、岩石地帯のそれだった。彼がさきに手をぶつけたのは、四方にごろごろところがっている、巨大な岩のひとつだった。その岩の蔭には、湿っぽいコケが生えていた。それは、砂漠のかわききった地苔類とは、どうやら種類からしてちがうようだった。
「ウマは――」、
彼は見まわした。ウマの姿はどこにもない。
彼はそろそろと立ちあがり、注意ぶかく、どこにも異常がないかどうかたしかめた。全身に無数の擦過傷があるらしく、おそろしくひりひりとして、とうがらし[#「とうがらし」に傍点]風呂にでもつかっているようだが、どこも骨折や捻挫のような、行動にさしつかえる大きな怪我をおった箇所はなかった。
(剣――)
腰に手をやって、ふいにグインのからだがぴくりとふるえた。
(ない)
爛々と光る目で周囲を見まわす。が、どこにも、彼の大剣とウマのあるようすは見えなかった。
(砂嵐で、砂が流れになり――俺は、その砂にのせられて、知らず知らずこんなところまで運ばれてきたのか……こんな、岩石地帯まで)
それは人知で考えれば、まったくありえぬことに思われた。ノスフェラスの荒野は、セムたちの棲む、東北のわずかな岩山地帯と、いまだその全容の知られていない最奥部とを除いては、ほとんどが広大な砂の海である。そして、グインが砂嵐に遭遇したのは、オアシスを出て、半日あまりの砂漠地帯のただなかだった。
かりに、砂の流れが、どのように速かったにせよ、あるいは竜巻が彼を巻きあげてはるかに空中を拉致していったにせよ、これほど空気が湿っぽいからにはかなりの内奥部と思われるこの山岳地帯へまで、短時間にグインの巨体が流され得たとは思えないのだ。
しかし現実に、彼は岩々のあいだによこたわり、夜空には冷やかな星がまたたき、そして砂嵐はもはや影もなかったのだ。
グインは声もなく唸ると、周囲の最も高い岩をみつけ、それへ、あたりに気を配りながらよじのぼった。岩の頂上に立ち、油断なく四囲を見まわす。そしてまた唸る。
はるかな限下に、凪の大洋のようにも見える、とろりとした平らかな大地がひろがっていた。
(あれが、ノスフェラスだな)
次に、頭上を見上げる。すぐ頭の上のように感じられる近さで、ちりばめられた星が無数に輝いていた。
(ヤーンの目……)
目印となる〈東の明星〉を探しあてて、グインは知らず知らず、ぎゅっと拳を握りしめていた。
『ヤーンの目』と通称される東の星は、ほとんど彼の真正面にそびえ立つ岩山の頂上に近かったのだ。
(だいぶ東寄りだ。すると、まさかとは思うが、この山は――狗頭山《ドッグ・ヘッド》……)
イヌの頭の形をなすその山は、ノスフェラスの中にあって数少ない明確な目標となるべき、東寄りの岩山地帯のとっぱな[#「とっぱな」に傍点]にある。
何ひとつ目印となるもののない砂漠のこちら側で、セム族はどこへゆくにもこの狗頭山から何日の距離、狗頭山を右手に見てどのくらい、というように、それをすべての基準にする。もしそれがほんとうに狗頭山であればまたそれはまさしく、グインがとりあえず越えようと目指していた、最初の目標であった筈である。
(竜巻に巻きこまれて、どうやってかはるばると運ばれて、気がつくと狗頭山にいる、とは――)
グインはまた拳を握りしめた。なにものか[#「なにものか」に傍点]の意志――人間よりも、ずっと巨大ではかり知れぬ、なにものかの作為がそこに働いていると、嫌でも感じとらぬわけにはいかなかったからである。
(俺は、何かにあやつられ、それ[#「それ」に傍点]の定めたとおり動かされているにすぎんのか)
グインとてもこの時代の人間である。彼は、ブルッと逞しい、傷だらけのからだをふるわせた。
(そういえば――気を失っているあいだに、俺は何かとてつもない夢をみていた)
それが実に重大な――彼自身にとってだけではなく、何かもっと大きなものの運命にも、きわめて大きな影響を与えるような、そんな夢だった、という意識だけのこっていて、夢そのものがどんな、どのようなものであったのかは、故意にぬぐい去られでもしたかのように彼の心から消え失せている。
彼は短い吐息を洩らして岩からとびおりた。考えても答えの得られそうもないことがらが、あまりにも多すぎたし、そんなときに考えこむよりは一歩でも先へ進むのが、この時代の彼の流儀に叶っていたのだ。神[#「神」に傍点]は、彼と彼の仲間にとっては、きわめて現実的な超越者であり、神秘な実在だった。神のすることが理解できぬときには、いたずらに解釈しようとする、それ自体が冒涜の禁忌となった。
とにかく、それが主神たるヤヌスか、運命神ヤーンか、あるいは悪の根源たるドールかはわからぬが、何か巨大ではかりがたい存在が彼に目をとめ、彼に何かの役割を演じさせたがってすべてを仕向けていることは確かであるらしい。この砂嵐も、狗頭山への漂着も、いや、もしかしたら、ラゴンの援軍を要請にゆこうという考えそのものが、それ[#「それ」に傍点]によってあらかじめ仕組まれた紋様にすぎないのかもしれない。
(だとしたところで、何だというのだ。人は、誰でもが、所詮おのれの運命をおのれの生で織りあげる、あわれな小グモにすぎぬさ)
グインはひとりごちて、あれこれと天意に頭を悩ますよりは、少しでも早く当面の目的の達成にいそしもうと、正面の山をふりあおいだ。
グインがいるところは、どうやらその山の西側のふもと近くの岩石原であるらしかった。その山がほんとうに狗頭山なのかどうか、名高いそのシルエットでたしかめようにも、イヌの首にとりついたノミがイヌの頭をそれと見すかすことはできないように、近くにありすぎて、どうにも見きわめることができない。
しかし、そこがかなりな海抜をもつ高地であることは、夜の空気の冷たさと湿っぽさ、さきに岩の上から見はらしたノスフェラス砂漠がはるかな眼下にひろがっていたことからも明らかだった。ひるまであれば、風向きしだいで、遠くケス河をも、その彼方にひろがるゴーラの緑の地をも、見わたすことができたのかもしれない。
(東へ――ともかく東へ進め、とリンダは云った)
「東をめざすのよ。狗頭山を越えなさい――ラゴンは、白い石が、黒い山とまじわるところにいる。死の風に気をつけて……」
〈予知者〉リンダの託宣が、耳にありありとよみがえってくる。
(白い石が黒い山と――白い石の地帯があるのか。死の風というのは、さっきの砂嵐のことか)
だとすれば、あれは死よりは生をもたらしてくれたはずだ――そう考えながら、グインは、岩場をぬけるべく進みはじめていた。
剣を失ったことが、ひどくいたでであったし、からだは弱ってはいなかったがひりひりといたんだ。その上に、食料も水も失ってしまっている。残っているのは、ベルトの内側につけてあって流失をまぬかれたらしい、鋭い細身の短剣と、かくしに入っていたごくわずかな果実だけである。身を守るにも、飢えにそなえるにも、それははなはだ心もとない装備と云わねばなるまい。
(だが、まあ、ウマはどうせこの岩場ではむしろ邪魔になったろう。それに、俺は、もっとずっと困難なはめをだって、何とかして切りぬけてきたはずだ)
岩によじのぼり、とびおりて、道なき道を進みながら、ふと、グインは自分の考えたことに気づいてぎょっとした。記憶が戻ったのか、と考えたのである。だが、そうではなかった。
何もかもが、彼自身の名を除いては、空白のままであった。ただ、自分はどのような困難にあっても、どのような強敵に対しても、剣一本、あるいは身ひとつ、その腕で、あるいは大軍や精鋭の部下をひきいて、確実に運命をかちとり、切りひらき、切りぬけてきた、という、知識というよりは確信だけが彼の中にあったのだ。
(ふしぎだ。俺はおそろしく、いろいろな経験をつんできた人間であったらしい)
彼は思った。
(ああしてルードの森に忽然とあらわれ、このような異様な姿をさらすまで俺はいったいどこで、何をし、どのような経験を経てきた人間だったのだろう)
それは、いわばルードの森でリンダとレムスとの前に生まれ出て[#「生まれ出て」に傍点]以来、どのような瞬間にもグインの頭の一隅を決してはなれ去ることのない、根源的な疑問であり、不安である。彼は、何故かは知らず、どのような状況にも自分が正しく対処できること、それはいわば生きのびるための本能として彼にそなわっているもので、それにさえまかせていれば、たいていの難事態には対応できること、をすでに知りつくしてはいたが、しかしそのことと、いわばより根源的な存在の中枢がすっぽりと欠落しているという、どうしようもない不安にさいなまれるのとは、おのづから別だった。
(この下には、一体何がかくされているというのだろう。どんな恐しい、すさまじい、震撼すべき秘密が)
グインは頭に手をやった。短くこわい、みっしりと生えた毛につつまれた皮膚が手にふれた。丸い頭、鼻づら。短い無数の髭、獰猛な牙までもそなえた、まったくの野獣の頭。
それがもともとのものなのか、冠せられたただの仮面か、それとも呪いか、魔術によってそう変えられたものなのか、それさえも彼には知るすべがない。
(だが、妙だ。――俺はどうも、自分がどういう存在なのか、いまだに決められずにいるような気がする)
自分が何を知っており、何ができるか、ばかりではなかった。
はじめ、彼は、喋るのはおろか、水をのむのも、ものを食べるのも、恐しく困難で、その上苦痛をさえともなっていたような気がする。それが、ふと気がつくと、彼は、生まれながらにただ豹の頭と人のからだをあわせ持った、きわめて自然な生物でしかないように、何の不自由もなく飲み、食べ、喋り、その上にセム語をも自在にあやつっていた。
(何ものか[#「何ものか」に傍点]が、どうしたものかとようすを見ては、それにあわせて俺を調整[#「調整」に傍点]してでもいるかのように。――)
気がつくと、ノスフェラスのイドの弱点もわきまえており、アレクサンドロスの兵法や、国際情勢の基本すらも頭の中にあった。大剣も、槍も、弩も、きわめて熟達して使いこなせることがわかっていた。
(俺は、何だ。いったい、何のために、俺はこんな存在としてあるのだ。俺はいったい……)
(何ものか[#「何ものか」に傍点]が、まるで、自分の身代りの生き人形として俺を都合よく動かしているかのようだ。何もかもが……)
(何ものか――しかし、それは……)
何ものかとは何なのだ――知らず知らずのうちに、再びグインの思念はやみがたくその答えのない疑念へとひきつけられてゆく。
(俺には、限界はないのか? もしも、天にある何ものかが俺をあやつり、すべてをさだめられたように動かしているとすれば、俺には生ま身の個人としての限界がないのだろうか。力、耐久力、体力、戦闘力――俺には何ができるのだろう。あるいは、俺は死すべき人間だろうか[#「俺は死すべき人間だろうか」に傍点]。それとも……)
(それとも……)
グインはぶるっと身をふるわせた。その考えは、彼ほどの豪胆な男にさえ、しびれるほどに恐ろしかった。それは、あまりに、人間界の叡知を超えた世界に近づきすぎていた。
(……)
少なくとも、その答えだけは、知ろうとすればすぐにも出せるわけだが、と、ふいにたばさんだ短剣を見おろしながら彼は思いついた。あるいは、岩場から身を投じてみてもよい。そうすれば、自分が不死の傀儡であるのか、それともいかに異形であれ、死すべき運命《さだめ》をまぬかれぬ、生ま身の個人であるのか、それだけは即座にわかるはずだ。もっとも、わかったときには、それはもう彼には価値のない知識になっているかもしれない。
(――いや……)
グインはまたしても、ブルッと身をふるわせて、短剣から目をそらし、ヤヌスの御名をとなえた。
(神を試し、自らの運命を試すのは、冒涜の最大のものだ)
そうでなくてさえ、それは人間が抱いているには恐ろしすぎる疑惑だった。
グインは、まるで水を払う野獣のようにぶるぶると頭を振り、しかしその間にも足は少しも止めることなく、岩場を前進しつづけていた。いくぶんの空腹と、咽喉のかわきを感じはじめていたが、ここで残ったわずかな食料に手をつけてしまうことはあやぶまれたし、それにまだ休息をとる気もしなかった。
思いがけぬ竜巻は、彼のこの急を要する旅の道程を、大幅に縮めてくれた。しかし、リンダのいう「白い石が、黒い山とまじわるところ」が、狗頭山をこえさえすればそこにひろがっているという保証はどこにもない。あるいは、折角ラゴンを見つけ出しても、その説得が奏功せぬかもしれず、また、説得に成功してさえ、かれらをつれて戻るまで、セムたちが持ちこたえられるものかどうかは、わからないのだ。
それほどに――常人であれば、はじめからそんなことを実行にうつそうなどとは考えつきさえしないほどに、それは、ばかばかしい、夢のような、実現不可能な思いつきだったのだ。
だが、何ももう考えまい――そう、グインは呟いた。狗頭山《ドッグ・ヘッド》を越えるのだ。それだけを、いまは考えていればよい。
道は、いつのまにか、ごろごろところがる巨石はあいわからずのまま、ゆったりとした上り坂になっていた。
満天の星が近い。――このあたりでは、同じノスフェラスといっても、植物相、動物相はかなり変化しているにちがいない。イドも、砂ヒルも、大喰らいも、かれらはみな、さらさらと陸の海さながらにくずれ、風に動く、白くかわいた砂地に棲息する怪物である。
その上に、それらはみな、熱く乾燥した気候の中で、そうした異様な生命を発達させてきた。砂漠の生物に、イドから血吸いバエ、吸血ゴケにいたるまで、吸血、あるいは獣の体液を食物にするものがやたらに多いのは、それがこのかわききった土地にあっては滋義分と同時に水分をも摂取する、もっともかんたんな方法だからである。
しかし、この岩場では、動物も植物も、もっとはるかに冷やかな――同時にもっとずっとむきだしの暴力に立ちむかわねばならぬようだった。
月が出て、足もとを照らすあかりになり、いくぶん歩きやすくなった。グインはしだいに急になってくる岩土の道を、息も切らさずにかなりの速度でのぼっていった。彼の行手をさまたげるものは、しばらくのあいだは、何ひとつなかった。〈ヤーンの目〉は東の空に高く冴え、ノスフェラスはただ一人のぼりつづけるグインのはるか後方にまどろんでいた。そのかぎりない砂の波のうねりの中に、セムのキャンプをはるオアシスをも、モンゴール軍の夜営をもかくして、昼間の砂嵐でそのなめらかな顔をあらあらしくかきみだされたことなど一度もなかったかのように、砂漠はぶきみなまでに黒く静まっていた。
せり出した岩と岩のあいだで道が急にせばまっていた。岩に手をかけて、面倒なとばかりそれをとびこえようとしたグインが、ふいに短い吠え声をあげて岩からとびのいた。いきなり、これまでと同じように固く冷たいものとばかり信じていた右の方の岩が、彼の手の下でぬるりとなまあたたかくひしゃげたかと思うと、やにわに敵意をむきだしにして彼の手にくらいつこうとしたのである。
きたえぬいた反射神経がかろうじてグインを救った。手をつくかつかないかで異変を察知して、とびのき、手をひくと同時に彼は腰の短剣をぬいていた。
岩がくわッと口をあいておそいかかってきた。グインはとびのき、有利な体制を確保しつつ、短剣を生ける岩の真上からつきおろした。
気味のわるいぐにゃりとした手ごたえがあった。岩はいっこうにいたでを感じないようだった。
三たび、それは身を丸めるやいなやおそいかかってくる。グインの右足があがり、思いきりその岩の下の方をけとばした。グインの足に、激痛がひびいたが、しかし空中高く舞いあがった生ける岩は、上と下とまっ二つにわかれていた。
下の方は、どうやらただの、ほんとうの岩にすぎなかったようだ。それは地におちて、固い音をたてた。だが、上半分は、急にその丸まった姿を失い、一枚の布めいたものになっておちてきた。
グインの足が、それのおちる寸前に再びけとばしてひっくり返した。それはグインの足にすぽりとまとわりつこうとしたが間にあわず、裏返しに地面におちた。だらりとひろがったその裏側には、無数の白い糸のような偽足がはえていた。それがいっせいに何かにしがみつこうとうようよともがくさまは、吐き気をもよおすようないとわしさだった。
グインは短剣をふるって、その厭らしい生物をずたずたに切りさいた。
「イワモドキか」
呟く彼は息も乱していない。それは、岩にはりつき、岩とまちがえてそれへふれてくる動物をすぽりとその形なりにつつみこんで食べてしまう、擬態をつかう生物なのである。
「イワモドキでは、食うわけにもいかんだろう」
肩をすくめて呟き、短剣を腰におさめようとした、グインが、ぴくっとした。
何か、自分でも説明できぬ第六感にうながされた、としか云いようがない。
ふいに、彼の黄色い双眸が細められた。それはぶっそうな、ほんものの野獣とまがうかたない光を闇の中にはなちはじめていた。
彼の、丸い頭のうしろの毛が突っ立ち、知らず知らずのうちに、豹の鼻づらに、獰猛なしわ[#「しわ」に傍点]が寄せられた。上唇が大きくめくれあがり、カッと牙がむきだされ、のどをついて、短い怒りと警告と――そして敵意の、ふるえるような唸り声がもれた。
彼は、ふいに、まったくの――半ば残っている人間性さえも失った、完全な一頭の野獣と化してしまったかのようだった。事実、もしここに人がいて、彼に出くわしたとしても、その人のかたちをした首から下が目に入るよりも早く、恐しく凶暴で度外れて巨大な人食い豹に出くわした、と信じて、その場で失神してしまったに違いない。
彼の目から、それほど、すべての人間らしさが瞬時にして消え失せていた。
「グルルル……」
彼は唸った。
「ガウ……」
奇怪な野獣の声――そしておしひそめたようなあらいけだものの息づかいが、それにこたえた。
岩と岩のあいだに――
ギラギラと光っているものがあった。
ひとつではない。
二つで一対の、そのチロチロと燃える赤い陰火のような目は、見るまに、二対、三対――とその数を増した。それどころか、いまや、岩という岩のかげ、地のくぼみに、にわかに鬼火の饗宴でも、はじまったかのようだった。
その鬼火は、まごうかたない凶悪な殺意と、そして残忍な喜悦とにみちていた。フーッ、フーッ、というあらい息づかい、たまりかねたようにもらす短い威嚇の唸り声、そして、異様な、けだものくさい、毛皮と血とよだれの入りまじった悪臭が、闇を満たした。その声は、少しづつ包囲をちぢめていた。たちまち、それは、フッ、フッ、フッ、という興奮したような、脅すような短い息の音にとってかわられた。
グインはとっさに大きな岩を背にとって、身じろぎもせずに立ちつくしていた。その口は、いまや彼をぐるりととりかこんでしまった無数の鬼火を、ただ一対ではね返そうとでもするかのような、すさまじい怒りをおびていた。
その手は、細身の短剣をがっきと握っている。このときほど、大剣を失ったことがいたく感じられたことはないにちがいない。
しかし、そんな思いすら、いまやグインの心からは、まったく消え去っているようだった。彼はじりじりと足場をさがし、そうする間も、彼をとりかこむ、飢え、やせこけた悪鬼の群れの動きから、一瞬も目をはなそうとはしなかった。
砂漠オオカミ!
砂漠、とはいうものの、そのテリトリーは、主としてこうした岩山地帯の中である。いまや、そのくわッと裂けたいくつもの口が、美味なひさびさの肉を求めて激しくかみ鳴らされる牙の音がきこえ、異臭は息もつまるばかりだった。
そして――
グインが一声咆哮したとき、それに動かされたかのように最初の一頭が躍りかかってきた!
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第三話 狗頭山の狼王
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「ガーッ!」
グインの口から、知らず知らずのうちに、世にもすさまじい雄叫びがほとばしっていた。
それと――獰猛に牙をかみ鳴らし、火のような舌を吐いて、オオカミの最初の一匹が宙をとんでおそいかかってきたのとが、まったく同時であった。
「ウオーッ!」
「ガウルーッ!」
オオカミの咆哮とグインのそれとが一瞬交錯する。次の刹那――二頭の獣はがっきと空中で激突していた。
世にも淋しい、荒れはてた、地の涯てのノスフェラス――
そのまた東、遠くカナン山脈へつらなる東の連山を踏まえて、そのとっぱなに狗頭山《ドッグ・ヘッド》は立つ。
それは、人智の領域でもなく、あるいは、また、どのようなものであれ人の世の秩序に従ったためしもいまだかつてない。
これまで、セム族といえども狗頭山をおのれの領土と呼んだことはなく、またそう望んだこともないだろう。それは人でなく、獣の――あるいはむしろ、その神聖不可侵たるあかしとしてそこにその衛兵なる獣たちをつかわすにいたった、その支配者にして超越者なる神々の領域にほかならないのだった。
黒く、そそり立つ無言の岩山――
イワモドキ、砂漠オオカミ、強風と道もろくろくないけわしい上り、飢渇と疲労、そしてそれらすべてにも増して絶対的な、圧倒的な孤独と無力感――その前に立ちはだかる、それらの困難きわまりない障害を、そうと知りながらあえてのりこえて、なおもそのはてを目指そうとする一人の男が、いま、その岩々に挑んでいる。
無謀とも、愚劣とも、悲愴とも云いようもないその暴挙の前に、早くも狗頭山はその最初の試練をさしむけて来たのだ。
砂漠オオカミ!
それは、ノスフェラスの高地に棲息する、怪奇で伝説的な獣である。もともとは、その名のとおり、それらは砂漠の住人として、白く凶暴な蜃気楼のようにノスフェラスの砂地を群れなして走り、セム族はむろんのこと、イドや大食らい、それに砂虫やヒルどもの領域をおびやかしていたものだという。きわめて古い東方の遺跡で見出されたレリーフには、砂漠をやわらかな毛に保護された肉厚の足で、かろやかに、砂をけたてて走る何百頭もの砂漠オオカミの図柄がよく描かれていたのである。それの彩色を信じるとすれば、そのころの砂漠オオカミは剛毛のうずまく頭から尾のさきまで、すべて純白であり、それはノスフェラスの白砂の上にあって絶好の保護色をなしていた。
だが――砂漠オオカミが、文字どおり砂漠の覇者、ノスフェラスの帝王たる種族であったのは、まだカナンが砂漠の中心に古代王国をかまえた文明の都であり、中原は毛むくじゃらの蛮人どもの走りまわるジャングルにすぎなかったほど昔のことだ。
そのあと、帝都カナンが砂に埋もれた廃都となり、さらにカナン山脈の中のどこかにその所在を没し去った、まぼろしの都となり、そして、誰もその原因を知らぬある巨大な異変によってノスフェラスの、狗頭山以東、以北のほぼ全域が、生きてそれを踏みこえて来るもののない死の土地となったころ――
おそらくは、ノスフェラスが死の土地となった、その同じ原因によって、砂漠オオカミたちは、砂漠を――かれらの帝国であったところの広大な砂漠を追いたてられることになったのである。
このころの奇怪な伝説のひとつは伝える。ある晩、にわかに天の一画が裂けて、死が地に満ちた。その前後、オオカミをはじめとするノスフェラスの生物たちは、その故郷をすてて西へ西へと移動を開始し、ゆえに砂漠は、狂ったように走りつづけるけものたちに埋まった、と。――けものたちは、日ごろ追うものも、追われるものも、まったく互いに注意を向けることなくひた走った。そして無人、無住となったノスフェラスに、イドをはじめとする、新しい奇怪な生命たちがどこからかわがもの顔にあらわれてきた、と。
伝説の真偽ははかるすべもなかったが、ただひとつ確かなのは、ある時を境として、秒漠オオカミたちが、狗頭山を中心とする岩山地帯へとその居をうつし、しだいにそこへ適応していった、ということである。
砂漠でこそ絶好の保護色となるが、黒い岩々の中にあってはかえってそれへ敵をひきよせてしまう、真白な毛皮は、長い時を経るうちに、暗い灰色とかわった。もともとはさほど長くなかった体毛も、温度の低い高山で何代かをかさねるうちに、かなり長くふさふさすることになった。
ただひとつ、変わるすべもなかったのは、かれらのその獰猛で凶悪な性質と、群れをつくって敵にいどんでゆく、群居性の習性である。それは、イドや砂虫など、あらゆる奇怪で攻撃的な生物と住まいをわけあうセム族にさえ、かれらオオカミたちをノスフェラスでもっともおそるべき野獣として認識させ、岩場近くに住むセムたちにとっては、砂漠オオカミと戦ってその毛皮をもちかえることは、グロの長イラチェリのように、なみはずれた勇士たるあかしとして名をとどろかせる早道であるほどだ。
砂嵐でウマを失い、食糧を失い、そしてわずかに細身の短剣一本をのこして、愛用の戦士の大剣さえも失ってしまったグインが、夜の狗頭山山中で遭遇したのは、そのような獣の大群なのだった。
闇の中――岩という岩のかげ、上、を取りまくようにして、ぎらぎらと光る何百対もの目が、少しづつ、少しづつ、じりっじりっと間合いをつめて来る。
最初に襲撃の口火を切っておどりかかってきた一頭は、一瞬の争闘ののちに、グインの短剣にまっこうからみけんをつらぬかれ、
「キャーン!」
と、ひと声、世にも悲しげな断末魔の声をあげて岩に叩きつけられた。
と見るなり、たちまちまわりの何頭かが牙を鳴らしてとびかかり、仲間の死骸を奪いあってすさまじい争いをはじめた。かれらは一様に、このきびしく荒涼とした岩山で、餓死寸前にまで追いつめられているようだった。
いっぽう、その仲間がはねとぶのをきっかけに、のこるものはいっせいに、グインにむかっておどりかかりつつあった。たちまちのうちに物凄い威嚇と怒りの咆哮があたりに満ちる。ガクガクと顎を噛みならす音、野獣の異臭がグインを押しつつんでいる。
グインはいきなり、短剣を左手にすばやく移しかえた。次の一頭が彼の咽喉を求めておそいかかって来るのと、グインの右手が拳にかためられてつき出されるのとが同時だった。
拳はオオカミの鼻づらを叩き割り、そいつは悲鳴をあげて吹っ飛ぶ。そちらを見もせずに、グインは岩を背にとりながら、左に短剣をなぎ払い、右に思いきり脚をあげてかかって来た奴を蹴りあげる。
さながら、その巨体が舞いでも舞っているかのような、ひらめくような動きだった。グインにとっては、両手、両脚、そのすべてが同じ威力を秘めた兇器にほかならなかったのだ。
いまやオオカミどもはあとからあとから、アリがチョウにおそいかかるかのように、グインめがけておしよせつつある。グインはおめき、ひるむ色さえも見せずにくわッと裂けた熱い口にすさまじい足蹴りをくわせ、獣の血でぬるぬるとすべる短剣であいての目をまちがいなく突きとおし、とびかかってくるやつに爆発するようなカウンター・パンチを見舞う。
数限りないかに見える闇の悪鬼どもの多さも、そのみにくいすさまじい耳まで裂けた口も、血と獣臭さとの入りまじった異臭も、足もとが血と毛皮でぬめる阿鼻叫喚も、グインをこれっぽっちさえひるませることはできなかった。というよりも、すでに彼の中からすべての人間の理性も、悟性も、感情すらも、消え去ってしまっていたのだ。
彼はただ一匹の巨大な猛獣にすぎなかった。――全身の毛皮を血に染め、その牙をオオカミの血と脳漿に濡らして荒れくるう、物凄まじい大豹。――そのたくましい四肢は疲労も弱ることをも知らず、野性の、自然の精霊だけのもつあくなき活力と破壊欲とにかりたてられて、彼は吠えたけり、あえてこの獣王をおかそうとする汚らわしいハイエナ、雑兵ばらを、王者の憤怒にまかせて噛みくだき、切りさき、はねとばしつづけた。
もしもここにリンダかレムスがいたならば、ルードの泉にあらわれ、黒騎士の一個小隊をただひとりで全滅させてしまった、あのときよりもさえ、さらにすさまじく物狂おしい破壊と死の権化となった巨獣を見出して、それがはたしてかれらの知っているかれらの守護神なのかと怯えふるえてへたりこんでしまっただろう。それは、人間ではなかった。仮に首から下が人のかたちをとっていようと、断じてこれが、この血ぬられた、野性の咆哮をあげて敵ののどにくらいつく生きものが人間でありえようわけはなかった。もしこれが人であったならば、どのように熟達し、どのように鍛えぬかれた戦士中の戦士であれ、この半分の時間、半数のオオカミどもをでももちこたえることは不可能だっただろう。
そこにいるのは豹――一頭の、巨大な、血に飢えた猛獣でしかなかった。彼は戦いを楽しんでさえいた――赤く燃えあがる目、血をしたたらせ、ときどき牙をなめずる口、敏捷で強靱ならくらくとした身のこなし、そのすべてがそれを物語っていた。彼はまぎれもなく、彼にむらがり、引ぎ倒し、屠ってその血肉をすすろうとかかってくるオオカミたちの同類だった。オオカミたちもそれを知っていた。これは、人と獣との宿命ともいえる悲劇的な戦いではなかった。これは、弱肉強食の神聖不可侵なおきてにもとづいた、獣と獣との争闘――盲目で、慈悲も憐憫も入りこむ隙のない、野性と野性との戦いであったのだ。
「グワーッ!」
グインが吠えた。同時に、血でねばる手から、彼は群れの中でも巨大なやつを叩きつけたはずみにぽきりと折れとんでしまった短剣ののこりを威勢よく投げすてた。
すばやく、背後の岩の有利はすてぬよう注意を払いながら、彼はとびかかってきたやつをかわしざまその尾をつかみ、両手に棍棒の要領でその太い尻尾をにぎりしめて、ぶんぶんと左右へふりまわす。仲間のからだをまともにくらって、何匹かが闇の中へ吹っとんでゆく。
そのとき、ふいにグインの口から短い瞋恚にみちた吠え声がほとばしった。
隙をうかがって、グインのたてにとる岩の上へ、うしろから這いのぼった一匹が、やにわに岩からとびおりざま、グインの左肩にがっぷりとくらいついたのだ!
「グワアーッ! ウォルーッ!」
グインは再び吠えた。腕をあげ、つかんでいたやつの死骸を前からかかってくるやつへ投げつけざま、右手でそいつの顎をひっつかみ、引きはがそうとする。はなすまいとますます牙を立てるのへ、筋肉をびいんとかたくひきしめて対抗しながら、左腕でそいつの首をまき、右手でつかんだ顎を上へ押しあげる。
ぽきりと異様な音とともに牙は力を失い、首のへし折れたオオカミは背なかへだらりと頭をねじまげたまま地面に落ちた。
が、そのときにはもう次のやつが、この新しい有利な戦法をひきついで、岩の上からグインの頭上へおどりかかるところだった。身を低くしてやりすごしざまそいつを地面と岩のさかいめへ叩きつけた王者は、ぎらぎらと赤く燃えあがる双眼で、無感動に四囲を見まわした。
血の匂いが風に乗り、同類の咆哮と断末魔の悲鳴が呼び声となって、そこにくりひろげられつつあるすさまじい戦いを四方に告げ知らせたものか。彼が殺し、あるいは戦闘不能におとし入れたオオカミは、決して少なくない数にのぼった筈であるにもかかわらず、彼をとりかこみ、あとからあとからおそいかかってこようと頭を低く、目をぎらつかせているオオカミどもの群れは、いっこうに減ったようすもなかった。
それどころか、ぎらぎらと闇に燃えあがる地獄の星のような何百対の目は、かえって前よりも、切れば切るほどその数を増してゆく、辺境地帯のグールさながらに、ずっと増えたようにさえ見える。
「ガルルルル……」
グインの頭のうしろのこわい毛が逆立ち、その口から警戒するような唸りが洩れたのは、彼がふいにこの血まみれの闘いのさなかで人間の理性をとりもどしたからではなかった。
むしろ逆だ。野性のきびしい本能が彼に、
(このままではいつかはやられる!)
その、警戒信号のパルスを発したのである。
文明人にこそ、道徳律、倫理、騎士精神――はては意地や面子もある。だが、野獣には、そのようなものはない。あるのは、食うか、食われるかのぎりぎりの闘争と、そしてあらゆる手だてをつくして生きのびようとする、盲目の生存本能だけだ。
(――!)
グインは、くわッと口を開き、声なく炎の目どもを威嚇した。と見たときには、もう、彼はこの戦場への興味を失っていた。なおもとびかかってきたやつを電光のようにとびすさってよけざま、やにわに岩の上へとびあがり、岩から岩へ、巨大な飛獣タウロのようにとびうつり、走って逃げ出しにかかったのである。
たちまち、逃がすものか、という意気込みの、オオカミどものわめき声が闇をつんざいた。
オオカミどもは、岩にとびあがり、あるいは地を岩をよけてまわりこんで、総がかりの追走にかかる。ただひとりの獲物は、しかしふりかえろうともしない。
一頭のオオカミが、岩をけって跳躍し、背中から豹の首に牙を立てようとした。ふりむきさえせずに、背中にも目のあるような奇怪な確実さで、巨大な豹は身をしずめ、噛み鳴らされる牙をよけざま、もう次の岩へうつっている。
その逞しい肩と胸は、ふいご[#「ふいご」に傍点]のような激しさで上下してあわただしく肺に空気を送りこみ、その足は意識もされぬ正確さで、でこぼこした、とがった岩角をしっかりと踏みしめた。丸い豹頭からそのなめし革の衣類をつけた半裸にいたるまで、すべてにオオカミの血のりや毛や肉片がぶちまけられている。足元の大地にも、背後からも、仲間の報復戦に執念を燃やすかのようなしつこさで、何百頭のオオカミが追いすがる。
ある意味では、これはさきほどの一対何百の戦いよりも、はるかに困難な、はるかにきわどい易面であると云ってよかった。
もし、岩ひとつ踏みそこなったら――血や肉片でぬめる足ひとつ、岩かどで踏みすべらせたら、たちどころに彼はとがったナイフのような岩の表面で全身を切り裂かれながらまろび落ちてゆくほかはないのである。そして、それは、体勢ひとつ立て直すいとまも与えず、彼をずたずたの肉塊にしてしまおうと待ちかまえている、何百頭ものオオカミどものあぎとのまっただなかなのだ。
足元は暗く、岩はぎざぎざと足をさすかと思うとつるりと滑らかで、そして彼のクツはオオカミの血でぬるぬるしていた。
しかし、彼は、まどわない。足元をたしかめるためにその無鉄砲な足のはこびをゆるめることさえもしないまま、さながらその地形をも地質をも知りぬいた、平地の競技場を、桂冠をかけて走るランナーででもあるかのようにすばらしいスピードでかけつづけていく。
その足どりにはわずかなためらいさえなく、その跳躍にはこれっぽっちの恐怖さえなかった。それは美しかった――巨体だがしなやかで俊足のジァガーがかけぬけてゆくかのように、それは恐しいまでにはりつめた、野性の、神話時代の美しさを保っていた。
彼は走り、オオカミたちも走った。それは、いまや、殺すものと殺される者、猟師たちと巨大な獲物との死を賭した競争でありながら、まるで、そうではなく、巨大な王者とそれにつきしたがう軍勢、あるいは布教の聖者とそれへついてゆく信者たちの群れででもあるような、奇妙で異教的な調和をすら、かもし出しはじめていた。
それほどに、かれら――巨大な豹頭の半獣神と岩山に棲む飢えたオオカミたちはたがいに似かよっていたのだ。グインの呼吸とオオカミたちの呼吸が交錯し、入りまじった。グインの足音と、オオカミたちの踏み鳴らす足音とが乱れてはかさなり、かさなっては乱れた。やがて岩々がごろごろところがっている地帯はおわりに近づいてきた。道はずっと上りだった。月の女神イリスは休みなく空を歩み、それもまた生と死との競争への出場者でもあるのかと疑わせた。
グインの吐く息が夜目にも白かった。ハッ、ハッという息の音が、背後から迫るオオカミの吠え声、威嚇的な唸り声に入りまじる。グインはオオカミどもを一気にまいてしまえる入りくんだ地形を探していた。急に細くなっている岩場、巨大な岩にふさがれている谷の入口、横倒しの大木、何でもいいのだ。グインには、ゆっくりとある考えがかたちをとりはじめようとしていた。
だが、求めるものは何ひとつとして見当たらなかった。それどころか、彼の目は、とびうつりつづけてきたこの岩原がついに終わりをつげ、むしろなだらかなむきだしの黒い地面がひろがっている光景を見たのである。おそらく、山頂に近づきつつあるのだ。
それは、救いとはとうてい云いがたい。なぜなら、岩もまばらになり、木の茂みも見あたらぬそうした場所では、身をかくす遮蔽物にもことかいたし、しかも、岩場でこそグインの敏捷さがものをいって何とかリードを保てこそすれ、何も障害物のないゆるやかな上り坂となったら、こんどは秒漢オオカミたちが、ノスフェラスの砂漠をひた駈けた、その抜群の俊足と身のかるさとをいかんなく発揮しはじめるだろう。
いまさら戻るにも退路は断たれており、そしてゆくてに救いのあらわれそうな気配はまったくなく、そして彼は唯一身を守る短剣すら、さっきついに折ってしまっていた。
どんな勇士、英雄であろうと、こうなってはいまはの覚悟を決め、ただ天の救いの手を待って、守護神の名をとなえはじめたにちがいない。
しかし、グインの赤く光る双眼はまったくの無表情、無感動のままだった。もとよりその豹頭は、喜怒哀楽を思いのままにあらわすことなどできはしない。――が、そのせいばかりではない。
何かが――人間を、それあるがゆえに人間たらしめている何かが、この豹頭の怪人、ある瞬間にはまったくの野獣そのものとしか見えぬ超戦士からは、きれいさっぱりと欠落しているようなのだ。それは、〈死〉に対する恐怖、生存本能とはおのづから異なる最も人間的な未知への怯えの感情であったかもしれない。
彼には絶望という二文字は存在しておらぬかのようだった。これほどに追いつめられた状況のなかで、なおも豹頭の戦士はためらいもひるみも見せず、そこに必ずなにかの生命綱がぶらさがっているとでもいうように、岩場の終わりをめざして走りつづけていた。
その足が、がくりとやわらかな地面の上へおちる。もう、そこからは、オオカミどもの行手をさまたげる、とがった岩はない。
ひらりと、さいごの岩から地面へとびおりるやいなや、グインはおそるべきスタート・ダッシュと底知れぬ体力をみせて、すばらしいスピードでかけだした。
革のマントがなびいた。マントの裾も、靴のヘリも、岩やオオカミの牙でぼろぼろになってしまっている。胸を荒々しく上下させて、グインは走った。
しかし、こんどというこんどは、オオカミどもに利があった。もともとが平地を走るに適した肉厚の四つ足である。みるみる、岩場でグインにひきはなされた距離をつめ、しばらくはその周囲を、まるで飼主のまわりをギャロップしてまつわりつく犬の群れのように走っていたが、やがて威嚇の声をあげるなり一頭がとびかかると、たちまち、ウシにむらがる食肉魚さながらにどっと十何頭がグインの肩といわず、足といわず、腕といわず、牙をがっぷりと食いこませようととびかかってきた。
「グワーッ!」
グインは再び吠えた。ここで、引き倒されようものなら、それこそさいごだった。あとからあとから、追いすがってくるオオカミどもの数ははじめの何倍もにふくれあがり、もしここで足をすべらせでもしたが最後、さしものグインのからだも、のしかかってくる毛皮つきの悪鬼どもの下にすべて隠されてしまうだろう。
グインはそれを知っていた。ぐっと足を踏んばって持ちこたえる。いまとなっては、四方からおそってくるオオカミどもに対して、有利な位置をさがすいとまもなくなっている。グインの全身に、ナワのようによじれた、すさまじいばかりの筋肉がもりあがり、オオカミどもの牙をはねかえした。
同時にその両腕に、のどへくらいついてきた二頭の首を両わきにひとつづつ、がっきとかかえこみ、おそるべき怪力でしめあげ、首の骨をへし折りにかかる。ぐうっというような、恐しい呻き声と、そしてその周囲でしきりに吠えたてる仲間のわめき声とが、あたりを圧した。
それはしかし、なんという、人間界からほど遠い争闘であったことだろう。雑兵にむらがり寄せられながら突っ立つ王者のようなその豹も、それへ吠えたてながらおしよせるオオカミどもも、どちらもついにあいての憐れみを求めることも知らず、ことばで敵をひるませることも知らない。情けも、慈悲も、手ごころも、ギヴ・アップも、かれらには何の縁もないのだ。
グインはこの苦境にあってなお、ヤヌスの名ひとつ唱えず、助けを求めて空を仰ごうとさえしなかった。彼のその目の光を消すことができるのは、のど[#「のど」に傍点]か心臓に達する、最も物理的な致命的な一撃――ただそのひとつだけでしかない。絶望を知らぬと同様、おそらく彼はまた生きのびる希望によって喘ぎながら戦いつづけているわけではないのだ。彼の目には戦いしか見えてはいなかった。彼は、巨大な盲目の戦闘機械そのものだった。
だがそれにしてもこの敵はあまりにも圧倒的な多勢でありすぎた。さしも疲れることを知らぬかに見える彼も、ようやく、倒しても倒しても、叩きつければその仲間を踏み、首の骨をへし折ればその死体をよけてあとからあとから入れかわっておそってくるオオカミどもを前にして、せいせいと呼吸をはずませはじめていた。
その肩からも、ふくらはぎからも、腕からも、オオカミの返り血ではない、彼自身の血が流れ出はじめている。四方をかこまれて、そのすべてはよけきれず、二回に一回はオオカミの牙が彼を噛み裂くのだ。
「ガアアーッ!」
彼は吠えた。身内からこみあげてくるもどかしさと瞋恚とにふるえる咆哮。
そのとき、仲間のからだをかいくぐった、敏捷な一頭が、いきなり彼ののどぶえにがぶりとくらいついた!
「――!」
グインはそれをひきはがそうと手をかける。一瞬、背後が無防備になった。
そのとき彼はうしろから火かき棒で殴られでもしたかのような衝撃によろめいた!
これまでないくらい大きな身体のオオカミが、思いきりとびあがりざま、彼の背中に牙をたて、のしかかってきたのだ!
グインは身を立て直そうとしたが、前後にうけた重みを支えきれなかった。
彼はがっくりと片膝をついた!
オオカミどもはそれを待っていた。たちまち、四方八方から泡を吹き、よだれをたらす口が彼におそいかかってきた。
おお、グイン――!
それでもなお、彼には絶望の安息さえゆるされてはいないのだ。
彼の目はむらがりおそいかかる数知れぬ死のあぎとをガラスのようにうつし出している。
そのからだはなおも戦うことをやめず、荒々しくのたうち、牙をはねかえそうとしていた。
そのとき――
〈彼〉があらわれたのである。
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はじめ、何が起こったのか、グインはおろかオオカミどもにすら、理解されてはいなかったようだ。
数知れぬオオカミにのしかかられたまま、ついに仰向けに引き倒されてしまったグイン――
その耳にきこえてきたのは、ふいに耳をつんざく威丈高な吠え声に入りまじりはじめた、キャーンという世にも悲しげなオオカミの悲鳴だった。
たちまちのうちに、吠え声とうなり声とがしずまり、それにかわって甲高い悲鳴と、苦痛の声、それにクーンクーンというあわれみを乞うようなうめきだけがあたりを満たすのを、豹頭の戦士は、あっけにとられ、何が起こったのかさっぱり理解できぬままできいていた。
何ものかが、いささか手荒な手段で、オオカミどもを追い散らしているのだ。
しかし何ものが――?
ついに、グインののどにくらいついていたやつの顎がいやいやゆるみ、その牙が、がっぷりと食いこんでいた固い筋肉からぬけて、グインはいまや、まったく自由になってよこたわっていた。
戦いつづけているときには感じもしなかった、傷の痛みと疲労、それに出血のいたでとが、にわかに全身におしよせて来た。がんがんと頭が鳴り、牙で噛みさかれた傷からすうっと体力がぬけ出してゆくようだった。
いまや、あたりはまったくしいんとしてしまっている。といって、オオカミどもがすべて追い払われて立ち去ってしまったのではないことは、周囲からときどきおこる、おしひそめたようなフッ、フーッという息づかいからも明らかだ。
グインは、身を起こそうとした。
のど[#「のど」に傍点]と背――それに腕や足、からだじゅうに、筋肉にひびでも入ったかのようなするどいいたみが走って、いったんは、思わずまた身を倒してしまう。
しかし、好奇心と――それを上越す疑惑の方がいたみにさえまさっていた。グインは歯をくいしばり、うめき声をこらえて手をついて起き直り――
そして、〈彼〉を見た。
同時に、鋭く音をたてて息を吸いこむ。グインを助け、オオカミどもをしずめてくれたのは、それほど思いもかけなかったもの[#「もの」に傍点]だったのである。
さしも物に動ぜぬグインの目が、大きく見ひらかれ、われとわが見たものを疑うようにぎらぎらと光っていた。それと共に、さきほどまでは、まったく――百パーセント、人のかたちをした豹そのもの、野性のたけだけしい獣そのものにほかならなかったこの豹頭の戦士の中に、ようやく、少しづつ〈人間〉の知性と感覚とが、ちょうど深いところへもぐっていた潜水者が、ゆっくりとうかびあがり、やがて水面にぽかりと頭を出すように、もどって来るようだった。
「――これは驚いた」
グインは、長いこと、ことばを忘れてでもいた人のように、不自由そうに舌をもつらせながら云った。
「お前が、俺を助けてくれたというのか。――これは、想像さえもつかなかったぞ、俺もさすがに、こればかりは」
あいては、どうやら、グインのことばを理解しているようだった。それとも、ことばではなく、むしろグインのおどろきの感情がそのまま波動として伝わったのかもしれない。それ[#「それ」に傍点]は、どことなく、満足げなおももちで、ゆっくりとあごを上に向けた。
月が出た。いったん、雲にかくれていた女神イリスが、この呪われた土地を青ざめた光で皓々と照らし出す。グインがオオカミたちと死闘を演じていたのは、恐しく長い、永遠にもひとしいほど長い時間のようだったが、そうではなく、実際にはほとんど二分の一ザンばかりのできごとにすぎなかったのだ。
月はだいぶん地平に近く、〈ヤーンの目〉は山頂のまっすぐ東方にその明らかな輝きを掛けていた。それらの天の灯りと、そしてもとより与えられている夜目のきく獣の日とで、それ[#「それ」に傍点]のすがたはグインには昼のようにはっきりと見てとることができる。
それは――
グインをむらがる獰猛なオオカミどもの牙から救い出したものは、一頭の巨大な――それまでグインの見た最も大きな奴でさえ、ようやく育ちはじめたばかりの仔のように見せてしまうほど、ケタはずれに巨大な砂漠オオカミだったのである。
しかも――それは、ただの大オオカミですらなかった。
子ウシほどもあろうかという、そのすらりとした体躯の、額に渦巻様の剛毛のある頭から、ふさふさと豊かな尻尾の先まで――それ[#「それ」に傍点]は、北のアスガルンの雪にまごうばかりの銀白に輝いていたのである。
「お前は……」
覚えず、あたかも同じ人のことばを話すあいてに対するかのような声がグインの口をついて出ていた。
「――お前は俺を助けてくれたのか……」
あいてもまた、グインのことばをやすやすと解しでもしたようだ。それは、おもむろに、フーッとあきらめきれぬような唸りを洩らした若い奴へ、低い明らかな叱責の一声をくれて黙らせると、ゆっくりと進み出、グインと向かいあった。
彼[#「彼」に傍点]の足は、グインよりもいくぶん高いところに地中からのぞいている岩の端を、さながら玉座のように踏みしめていた。そうしてゆるゆると向きあってみると、ほとんど彼[#「彼」に傍点]の巨大さと、そしてその他からかけはなれた感じとは、圧倒的なまでのものがあった。
彼[#「彼」に傍点]は、狗頭山《ドッグ・ヘッド》の帝王だった――また、明らかに、彼[#「彼」に傍点]自身、それをわきまえ、それをもって任じていることが見てとれた。彼[#「彼」に傍点]の双眸は、白く輝かしい額の下で、金色に炯々とした光を放ち、そしてそのゆるやかで重々しい動作や、その金色の目で値踏みするようにグインを眺めるようすには、なんともいえぬ堂々たる自信と、そして威厳とがおのづから具わっていた。
グインはいま、狗頭山《ドッグ・ヘッド》の狼王の宮廷に立っていたのである。
グインのコハク色の目が、狼王の金色の目をがっしりとうけとめ、ぶつかりあった。純白の狼王は、さながらグインが自らのさしのべた救いの手に価したのかどうか、決めねばならぬ、とでも云うように、またたきもせずその目を豹頭の戦士にすえていた。その目の中には、はかり知れないほど年経た獣だけのもつ、老賢者の叡知と、そして妙に人間くさい聡明な理解とがほの見えた。
周囲の灰色のオオカミたちは、ひそとも身動きしようとはせず。帝王の結論を待っていた。グインもまた動かなかった。月が、ついと雲にかくれ、再びあらわれてこの神話めいた光景を照らし出すまでのあいだ、奇妙な息づまる静寂と緊張があたりを支配した。
それから、狼王はゆっくりとその白い頭を横向けた。その口から、
「ウォルーン」
という、ひくい、命じるようなひびきを帯びた声がひと声だけ洩れた。
とたんに、狗頭山のオオカミたちは、音もなく、すごすごと向きをかえ、てんでに帰りはじめたのである。
それは疑いもなく、退却の命令だった。若いオオカミたちの中には、ほのかに不平そうな唸りを咽喉の奥で洩らすものもいたが、それも帝王にひとにらみされるとおとなしくなり、ふさふさとした尻尾を足のあいだに巻きこんで岩易の方へ小走りに戻ってゆくのだった。
たちまちのうちに、あれほどたくさんでグインのまわりを包囲していた砂漠オオカミたちは消えてしまった。のろのろと歩きながら未練がましくふりむいてみるものも、とうとうなくなり、グインは微動だにしない狼王と向かいあったまま、ただひとりそこにとりのこされているのだった。
からだにうけたいくつもの傷口で、ようやく血がかわきかけていた。からだじゅうがぴりぴりといたみ、全身が疲労のために重かった。しかし、グインは、やはり傲然と立ちつくしたまま、狼王と同じように身動きもしないで狼王を見つめ返していた。
狼王の目には、敵意は感じられなかった。むしろ、しばらくして、おもむろに部下たちのすべて立ち去ったことをたしかめるように首をまわし、それから改めてグインへ目を戻したとき、そこにはなにかしら親しげな、お前のことはよく知っているとでも云いたげな光があった。
狼王はゆるゆると――害意のないことを示そうというようにごく静かに歩を運んで、ゆっくりとグインのほうへおりてきた。重々しい動きにつれて、その長い白い毛がさわさわと揺れた。彼[#「彼」に傍点]は、冬山の精霊のようだった。
その銀白の毛皮は月灯りの下で霜のようにきらきらと輝いていた。じっと身動きもせぬままでいるグインに近づくと、狼王は首をのばし、しめった鼻づらをよせて来、そして舌を出すと、静かに、敬意をこめて、豹頭の戦士の手を舐めた。
その、舌のざらざらとした冷たい感触が伝わった刹那、ふいにグインの逞しいからだに、電撃のようなおののきが走った。
それは、むろん、グインにすら説明のつくものではなかった。が、グインは再びぶるっとからだをふるわせ、異様な、それまでとは異る輝きを宿した豹の双脾で狼王を見つめた。
何かしら、この邂逅には、あらかじめヤーンの手によって定められていた、とでもいうべき、運命的な感じがあった。しかもそれは、グインにではなく、狼王の側にだけ知らされていて、彼[#「彼」に傍点]はそれに従ってグインを導くために彼[#「彼」に傍点]の玉座を下りてきた、とでもいうような。――狼王の賢げにまたたく年老いた眸を見れば、それが人ではなく、けもののかたちをしてあらわれたことをも、あえて異とするには当たらなかった。
グインは黙りこんで狼王を見つめていた。彼[#「彼」に傍点]の濡れてザラザラする舌がそっと触れた手の表面から、グインの体内へと、何か神秘な、野性の精霊の精気とでもいったものが凝って流れ込み、グインの中にあった生命の泉を再び生き生きとあふれ出させる役目をした、というように、急速に、彼の全身からは、激しい疲労も、傷の苦痛も、のどのひりつくような乾きも消え去ってゆきつつあった。
それにかわって、原初的な尽きることのない生命力がからだのすみずみにまでみなぎって来る。グインはそっと手をあげ、狼王の剛毛のうずまく大きな頭にその手をおいた。
年経た獣は身動きもしなかった。さながら、それが必要な手続きの儀式である、とでもいうように、ほんのしばらく、じっとグインの手を頭におかせていてから、静かに頭をはずし、もう一度グインの手を舐めると、こんどはグインの目を物云いたげにのぞきこむようにしてから、音もなく向きをかえて静々と歩き去ろうとする。
「あ……」
グインは思わず。追おうとして足を踏み出しかけたが、少しはなれたところで彼[#「彼」に傍点]が足をとめ、とがめるように彼をふりかえって、また走り出したので、立ちどまった。狼王が、何か用があってここをはなれるが、すぐにここへ戻って来るつもりで、それまでグインにこの場を動かずにいてほしい、と思っていることが、そのようすでわかったのである。
純白の老狼はしなやかに巨体をとびはねると、たちまち闇の中へ姿を消してしまった。それを見送って、グインはまわりを見まわし、そしてそこに腰をおろした。ひどく疲れ、弱ってもいた筈なのに、ふしぎなほどに気分が高揚し、朝起きたばかりのように清々しい気持だった。
楽なように手足をのばし、ただし何があってもすぐに対応できるよう、警戒は怠らぬままで、彼は何となくその狼のことを考えていた。
その獣には何か超越的な――何かしら獣ばなれのした、神秘的なところがあった。突然に、彼の目の前でそれが長い白髯の翁に姿をかえ、自分はこの地の精霊であるが、事情によってこのような姿に身をやつしていたものだ、と名乗りをあげたとしても、おそらくグインは少しもおどろかぬばかりか、いかにもそうだろう、と納得しただろう。
しかし同時にまた彼[#「彼」に傍点]の身ごなしや、深く忠実な、目の色の中には、一種云いようもないけものらしさといったものもあって、それはまた、野性やけものの魂の高貴をはっきりと見るものに伝えてくるのだった。
あの狼王は純白だった、とグインは考えていた。砂漠オオカミがまだ砂漠にいたころに、それらは純白の、雪白《ゆきしろ》の美しいすがたを誇っていた、という話は、知っている。そのあと岩山へ追いあげられると共に、オオカミたちは濃い灰色の不吉な幻を思わせる姿へと変わっていったが、いまだにときたま先祖返りのようにして白い仔が生まれることもあり、そうした白オオカミの毛皮は、たまたまセム族の猟師が仕止めて文明国へ売るようなことがあると、それ自体の十倍近い重さの金が支払われるのである。
この老狼王もそうしたなかの一匹だろうか、とグインは思った。しかし、それにしては、狼王のからだはあまりにも大きく、ノスフェラスオオカミの標準を越えすぎている。
それにその年老いていることをみれば、あるいはむしろ、狼王が、砂漠オオカミの砂漠にいたころからの、さいごの生きのこりかもしれないとも考えられる――が、グインはすぐに笑ってその考えを否定した。砂漠オオカミが砂漠オオカミであったそのころからは、もうずいぶんと長い年月が流れ去っているはずなのだ。
そのとき、はっとしてグインは身を起こした。
が、すぐに全身の力を抜く。狼王が戻って来たのである。
待たせたことを、すまなく思ってでもいるようすで、狼王はしなやかにグインに近づいてきた。その口に、何かくわえられている。狼王は、そのくわえたものをグインの足もとにそっと置くと、ちょうど、神聖な君主に貢ぎ物を捧げた諸侯が礼をつくしてひきさがる、とでもいったようすで、少しあとへさがり、そこにそっとすわり、そろえた前足の上に胸に頭をつけるようにして顎をのせて、うやうやしい――しかしまた妙に親しみをこめたようすでグインを見上げた。
グインは狼王のもってきたものをとりあげた。それはよくふとった、羽根が美しい虹色をしたバルト鳥で、まだ死んだばかりのようにあたたかかった。
グインは狼王を見つめた。狼王は、自らの贈り物が彼の心に適うか否かを恐れるようにじっと見守っている。グインはうなづくと、ためらわずそれを口へもっていった。
甘い新鮮な生血がのどへ流れこみ、ひりつくような乾きをいやした。グインは生まれながらの獣のように、するどい牙でふとった鳥を噛み裂くと、その肉を噛みとり、たちまち忘れていた飢えに襲いかかられて夢中で食べはじめた。たくましいあごが動き、ぼりばりと骨を噛みくだいた。
狼王はそのようすをじっと、何かしら満足げに見守っていた。鳥をたいらげるのに夢中のグインがふと気づいて、手で鳥の片羽をひきちぎり、狼王へさし出すと、狼王は鼻のさきで押しかえすようにしたが、有難く王のお裾分けをいただく、というようにうけとると、ゆっくりと食べはじめた。
まもなく、グインはしるけのたっぷりある大きな鳥をほとんど食べつくしてしまった。この野性の食物は恐しく美味で、さながら神々の食事、生命そのものをむさぼり食ったというようにグインのからだのすみずみまでも満足と喜悦でみたした。口や手のまわりについた血を、長いざらざらする舌でなめとりながら、しかし、グインはふと不安にかられて呟かずにはいられなかった。(俺は、本当に獣なのではあるまいか? どんな文明国のたくみに調理された食物も、血をすすり、骨を砕いてむさぼり食ったこの殺したてのバルト鳥ほどに心を満たしたことはなかった。――俺は、やはり、人ではなく、獣人にすぎんのだろうか)
(リンダは――パロの小王女であるリンダは、いまのような、狼と並んですわり、口を血だらけにしてえものをむさぼり食う俺を見たら、悲鳴をあげるだろうか)
それは、自分は何者で、何のためにこのような姿をさせられているのか、という、いつものうずくような疑惑へ彼をいざなう考えだった。
しかし、その考えは、いつもほど彼を苦しめはしなかった。彼は満腹だし、疲れていた。その上に、彼のかたわらでさっきから満足げに舌で足や胸の毛をなめてととのえていた狼王が、グインの食事がすんだとみるや、自分の頭を足の上におとし、目をつぶってみせて、少し眠れ、という合図をしてみせたのである。
「賢いやつだな、お前は」
グインは笑いながら云った。
「しかしもうそれもいいことにしよう。たしかにおまえは、俺の世話をやいてくれるために誰かにつかわされたのだ。もう、俺は、自分の上におこることに、いたずらにうろたえたり、さわいだり、たかぶったりすることはやめたぞ。それは俺の性には合わん。――なあ、狼王よ、俺はお前を信じるし、お前が何ものかの意をうけて俺をもてなしてくれた、ということも信じようと思う。それに実際あの鳥は、俺がかつて食った食事の中でも最も美味だったしな。ただ――俺が口惜しいのは、もしお前が獣でなく、口がきけるのだったら、俺がこれほどに探し求めている、俺の正体、俺の素性、俺の運命――その謎の一片なりとも、お前が教え明かしてくれるかもしれないのに、ということだが!」
まったく人間に対するのと同じように、グインが話しかけるのを、狼王は目をひらき、少しでもよく理解しようとでもいうように、熱心に耳を傾けていた。が、その賢い獣の目には、わかったとも、わからないとも、何のきざしも浮かばなかった。
ただ、彼[#「彼」に傍点]は、もう一度、休め、と云うように頭を下げ、目をつむってみせた。グインは笑ってうなづくと、そのままそこへ手足をのばし、横になって目をとじた。
狗頭山の夜は冷える。しかし、グインのからだをつつむ頑丈ななめし革のマントは、グインの身を外の夜気から守ってくれたし、それに彼の鍛えた戦士のからだは、どこででも、どんなところでも眠って休息をとれるよう、訓練されていた。
たちまち、彼は眠りにおちてしまった。
狼王は、しばらくのあいだ、戦士の休息をさまたげるのを恐れるかのように、身じろぎもしなかった。
やがて、そっと首をのばし、グインをのぞきこむ。
グインはよく眠っているようだった。それをたしかめると、狼王はゆっくりと起きあがった。
うんと伸びをし、かるく身ぶるいをして泥を払い、ゆるゆると動き出してグインの顔をのぞきこむ。それから彼は物思わしげな、ふしぎなくらい考え深げな獣の目をしばたたいて、起こさないよう気をつけながらグインの額をなめた。
それは、賢く年老いた諸侯が敬愛する帝王の手をそっとおしいただくような、敬意と畏怖にみちたしぐさであったが、同時に何がなし、一族の長老である老賢者が、彼からみればまだまだ若くて知らぬことの多いたくましい新族長を、気づかい、いつくしむようなやさしさにもみちていた。同じ一族、といっても何のふしぎもないほどに、この狗頭山の王者である巨大な銀狼と、その足もとにうずくまって眠る剽悍な豹の頭をもつ戦士とは、奇妙に似かよったところがあったのである。
それはおそらく、世のつねの人には背負い難いまでの重い運命をになうために、より巨大な何ものかによって選ばれ、能力と精神力と度はずれた闘志とを与えられ、その上で何の助けも期待できぬ、おそるべき戦いのなかへつきはなされた、そうした運命的な存在に共通した何かでもあったろう。
ごくまれに、こうした生を生きるものがいるのだ――そして、それがあまりにも孤独であり、あまりにもけたはずれの使命を背負い、そしてあまりにもその達成にかりたてられているゆえをもって、人びとは、かれらを〈英雄〉と呼ぶのである。
グインが、わずかに身じろぎして、そのたくましいからだを神経的にふるわせた。何か、夢をみてでもいるようすだ。
狼王は心配そうにそれをのぞきこんだ。が、そのまま、また彼が眠りつづけるとみて、そっと身をおこし、また何かを思いついたとでもいうように、足音をたてずに岩場のほうへ走り去る。その姿は、白くあやしい幻影のようにみえた。
闇は深かった。しかし、それがさきほどまでのそれとは、どことはなく微妙に異った昏さにかわりはじめていることは、注意ぶかい観察者にはすぐ知られただろう。
星々は規則正しく天空をめぐり、青白い月《イリス》は朝ごとの求愛者たる白熱のルアーから逃れるように、西の地平へそのチャリオットをひた駆ける。空気には藍色の目覚めが忍びこみ、ルアーはその壮麗な誕生を待って東の空へ白い予兆を投げかけ、星々を散りばめた巨大な天空の精アイはおもむろにその身をつつむカーテンをおしひらこうとしていた。
ノスフェラスに朝が来る。――それは、グインがセム同盟軍にラゴンの援軍をつれて戻ると約束した、四日の日限の、二日めのはじまりを告げる朝であり、同時に、公女アムネリス率いるモンゴール一万の遠征軍が、セム殲《せん》滅の総攻撃にうつるべく期していた、その朝でもある。
グインは眠っていた。その眠りをさまたげる、心ない獣も、イワモドキやイワヘビ、ヒルの類も、まるで彼の眠るその周囲にだけ神秘な五芒陣が描かれて、すべての外敵から彼の眠りをまもるバリヤーとなっている、とでもいうように、一頭、一匹も近づこうとはしない。
朝の光が、たくましいルアーの腕が厚い夜をかきわけてさしのべられた、というように狗頭山の頂きを照らしたとき――
狼王があらわれた。
彼[#「彼」に傍点]は、また口に何かの獲物をくわえていた。こんどの獲物は、バルト鳥と同じくらいしるけがあって、肉は鳥のササミのような味をしている、大きなイワトカゲだった。それをおくと、また走り去り、再びあらわれたときには、汁のたっぷりと含まれたヴァシャ果の果実をくわえていた。彼[#「彼」に傍点]はグインのためにまめまめしく、朝食の支度をしていたのである。
ヴァシャ果をトカゲのとなりに畳くと、老狼王はグインの頭上に、グインを守るようにその足をふんばって立ちあがった。
そのとき、のぼりくるルアーの白熱の円盤が、今日の最初の輝きを岩におおわれたこの山になげかけた。たちまち、その光をうけて、狼王の銀白の全身は、オーロラに照りはえるアスガルンの氷河よりもキラキラと、まばゆくきらめき、輝いた。
それはかぎりなく神話的な、かぎりなく美しい光景だった。狗頭山の王者はその身をもって豹頭の英雄に侍するように、輝きつつなおも身動きもせずに立っているのだった。
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3
朝だった。
グインは、胸と手にためらいがちに押しあてられた、冷たく濡れた鼻によって目をさまされた。はっととびおきた彼の目に入ったのは、朝日をあびて、高山の雪がそのまま結晶したかのように純白の全身をきらきら輝かせながら、金色の目で彼をのぞきこんでいる、巨大な狼の姿だった。
「俺は、夢を見ていたぞ」
彼は、それを見ても、少しもおどろいたようすを見せなかった。もう、何年ものあいだ、こうして狗頭山に、狼王と共にオオカミの群に君臨する日々を送ってでもきたように、狼王にともなく云う。
「その夢の中で俺は王になっていた。この豹頭に輝かしい冠をいただき、ヤヌスの神殿において王の紫衣を肩にかけられた。人びとは俺の名を呼んでいた――それから暁の星が俺の手から逃れて去ろうとし、俺は人びとの制止をふりきってそれを追った。冠と杖と衣を投げすて、また一介の裸の戦士となって。――すると、どこの途上であったか、ひとすじの赤くのびた道のまんなかで、一つ目、長い髭に、三角の頭巾をかむり、腰から下は山羊という奇怪な老人があらわれて曲がりくねった杖で俺を叩いた。彼は一つ目を赤く燃やし、『愚か者! 戻れ、戻って竜の玉座をとりかえすのだ!』と叫んでいた」
グインはしさいげに手をあげて、丸い頭をかいた。
「あれは、運命を織る機織り、老ヤーンに他ならなかったのだろうか」
むろん、老狼は答えなかった。かわりに、グインの腕に、親しげなしぐさで鼻づらをこすりつけて来、彼が用意しておいた、グインのための朝食に注意をひきつけようとした。
グインは笑い、ねぎらうように狼の頭を叩くと、その岩トカゲの皮をはぎ、ヴァシャ果を二つに割って、朝食をしたためた。あいつぐ冒険と困難な戦いにもかかわらず、彼のたくましい四肢は、寝足りて、力がみちあふれ、疲れもきれいさっぱり、ぬぐい去られていた。
彼が旺盛な食欲を発揮して、その食物をたいらげてしまうのを、狼王は満足そうにじっと見守っていた。この限りなく年経た老狼には、何かしら妙に人間らしさとけだものらしさ、それと共に、そのどちらでもない超越的なところが入りまじっていた。
食べおわった彼を、狼王は、よいか? と尋ねるように見上げた。そして、もういちど彼の腕に鼻づらをおしつけると、ふいに、とっとと歩きはじめたのである。
グインはけげんそうに見守っている。彼が動かないのをみて、狼は、焦れったそうに、再びもどってきて、こんどはかるく、歯を立てぬよう気を配りながら、グインの手首をくわえてひっぱった。それからまた同じほうへ――狗頭山の頂きの方へ歩き出す。白いふさふさとした尻尾が揺れた。
「これは驚いた。お前は、俺を案内してくれようというのか」
グインは云った。
「そのためにお前はヤーンにつかわされて来たのか?――お前は、俺があと二日半のうちには、ラゴン族の援軍をつれて、セムのところに戻らなばならぬのを、知っているのか。だとすれば、お前はヤーンにつかわされて来たというよりは、ヤーンその人の、百ある現し身のひとつなのかもしれないな。そう云えば、今朝がたの夢にあらわれた老人の髯も、お前のように真白だった」
彼を舞いあげ、狗頭山のふもとへ一気に運んでいった砂嵐の大竜巻といい、この狼王といい、たしかにこれは彼に何か[#「何か」に傍点]をなさしめようとする神意なのだ――そんな感慨と、恐怖のようなものが、グインの全身をふるわせた。
しかしノスフェラスは神々に見すてられた地なのだ。竜巻はしょっちゅう起こっているし、それがたまたま東へむかっていて彼のゆく方向とかちあっただけかもしれない。また、この狼王が、神意をうけてこのように行動している、と考えるのも、少しばかり、うがちすぎた考えかたかもしれない。結局、すべては、偶然のたまものかもしれないのだ。獣は、ことにオオカミなどという聖獣は、ひどく年をとると奇怪な能力を身につけることはよく知られた事実である。
――グインは、そんなふうに考えて、不必要な過度の神秘的な見かたを自らにいましめ、しかしその間に、油断なくあたりに目をくばりながら、狼王のあとをついてゆくべくその足を踏み出していた。
狼王は、また少し行ったところで、ついて来るかどうか確かめるようにふりむいた。グインが少しはなれて彼のあとについて来る、と見ると、満足げに、いくぶん足を速める。それでもおそらく、彼[#「彼」に傍点]としてはずいぶんと歩みをゆるめている方だろう。そうしながら、五、六タールゆくたびに、彼はちょっちょっとふりかえって見た。
グインは、狼王の足にあわせようとこころもち足を速めた。道は上りで、そのまま狗頭山の山頂につづいている。狗頭山はその名のように、イヌの頭によく似たかたちをしているが、その頂上では、両脇に耳[#「耳」に傍点]にあたるとがった岩塊がつき出してい、そのあいだを、せまい峠になったイヌの頭頂がぬってゆく。
狼王とグインが目ざしているのはその峠部であった。咋夜、オオカミたちに追われて、必死で岩場をぬけるあいだに、ずいぶんと上の方までかけ上っていたが、しかし山すそから蛇行するようにしてのぼっている道は、思いのほかに遠い。
頂きの二つの耳は、すぐ目の前であるかのように見えていたが、そのわりに、かれらが歩いても歩いても、なかなか山頂に達することはできなかった。
かれらは黙念としてひたすら先を急いだ。もとより狼王の喋るすべもないが、グインもまた、野性の獣だけのもつあの神秘的な忍耐を発揮して、立ちどまって汗をぬぐうことも、息を入れることもせず、岩が道をふさげば手をかけてのりこえ、断崖になっているところでは注意深く横づたいに岩をつたって、ひたすら急ぎつづけた。
周囲の景色もまた、たいして登山者の心を和ませるようなものではなかった。もともと狗頭山はノスフェラスの岩山で、カナン連山のとっぱなとはいうものの、山脈の本体とはかなりはなれて、ぽつねんとそびえている。高さも、アスガルンやカナンの高山とは比ぶべくもない。ただ、周りがことごとく砂漠のノスフェラスであるから、遠くからでも目につくわけである。
いわば、ノスフェラスに棲んで年を経た大イヌが巨大化して岩になってしまった、とでもいうようなこの岩山は、その内懐ろにオオカミどもや、さまざまな住人を住まわせながら、うるおいになるような緑の樹木ひとつ、ろくに生やしてはいない。岩と、イワモドキと、灰色の地苔類――ほんのときたま、短い灌木の地帯がつづいているが、主としてとげとげしたヴァシャ樹であるところのその茂みは、たちまち終わってしまい、あとにはまた殺風景な禿山がつづいていくのだ。
それは困難な、しかしまたしばらくゆくうちにはその単調さと殺風景さとが奇妙なぽうっとした無感覚に行く者をおとし入れてゆくような、そんな旅だった。
岩々の切れたあとの固いむきだしの地面はノスフェラスのオオカミと同じ灰色を帯び、そこにいかなる花々や草木が萌え出すことをも拒んでいるかのようだ。その地面を、あたふたと灰色の岩トカゲがかけぬける。岩トカゲとほっそりしたイワヘビ、それに虫類なぞが、狗頭山のオオカミたちの主な食物なのだろう。
そういえば、あれほどたくさんいたオオカミたちはどこへ消え失せたか、一匹として、かれらの王とこの闖入者との行手に姿をかいま見せようとさえしなかった。
間もなく日は高く上った。何もその影響をやわらげるもののないこのノスフェラスでは、夜の冷たさと日中の炎熱との入れかわりはきわめて極端である。この狗頭山の上の方では、夜の冷えこみは、いっそうきびしいが、かといって日中の日ざしがその熱気を失うというのではなく、むしろ岩場をぬけると木々も影をつくる岩々もないだけに、容赦ない直射日光がじりじりと照りつける。
このあたりの地面がかたくかわききって苔すらも許さぬかに見えるのは、おそらく、そうした、太陽に照りつけられて灼かれ、夜には急速に温度の下がる、そのくりかえしのうちに作りあげられたものであったろう。
単調な灰色の道程の中で、グインはなかば夢のつづきのような、ぼんやりとした酩酊感におそわれ、そんなことをうっとりと考えていた。
まことに、ここは、人外の地なのだ。世界はさまざまな驚異と未知を秘めており、その中には、とうてい人智ではその謎の一半をとくことさえかなわぬような驚異もある。しかし、ノスフェラス――この奇怪な土地に限っては、ただ未踏の地であり、怪異な生物たちをかくしている、というばかりでなく、そこには何かしら奇妙な意志めいたものがあった。
云ってみればそれは、ノスフェラスというこの地、広大な砂漠とかわきはてた岩山だけが、ケス河とロス河の二つの川を境界に、この世のはてをおおいつくしているこの不毛の地、それ自体が、ひとつの巨大で怪奇な生物であり、イドも、大喰らいも、砂嵐さえも、いわばこの巨大な怪物に寄生するにすぎないというような――そんな、悪魔的なある〈不自然さ〉といったものが、ノスフェラスにはあるのだった。
もちろん、グインが、あるいはまたこの地に足をふみ入れたモンゴールの遠征軍たちにせよ、このようなことばでそれを考えたわけではなかったが――
しかしそれは、ことばにして云いあらわし得ぬ分、いっそう実感的な理解となって、かれらの膚《はだえ》によりそってくる直感だった。
ノスフェラスでは、何かが狂っている。生態系、植物相、動物相もさることながら、それ以上に、そうした生態系をもたらす、ノスフェラスという地域そのものに、何か狂おしいゆがみ[#「ゆがみ」に傍点]が感じられる。
だがしかし、その地が昔からずっと狂っていたのでないことを、グインは知っていた[#「知っていた」に傍点]。なぜかは知らず、ノスフェラスのことを考えていたとき、中原の事情や、セム語の知識と同じくごく自然にその知識が彼の脳裡にうかんできたのである。
(ノスフェラスは、もとから呪われた、毛むくじゃらの蛮族しか住まぬ悪魔の地であったわけではない)
グインはひとりごちた。狼王が、いぶかしむでもなくそんなグインの足に身をすりよせて来る。
(その証拠にはかつてカナン、大帝国カナン、太陽王ラーによってひらかれたという幻の古代帝国カナンが、この地ノスフェラスをすべてその栄光ある版図とし、砂漠と岩々のあいだに広大な帝都をうちたてていたというではないか。カナンは岩と砂漠という天然の要害に加えて、砂の上を自在に走る船をもち、またその大都市にはことごとく水道がととのえられて砂漢のただなかにありながら人びとは水に困ることさえもなく、その栄華は中原のどの帝国をさえもしのいだのだという。
だがその古代帝国カナンは、何とも知れぬ不慮の炎厄――天から劫罰が下されたのだとアレクサンドロスの史書は伝えるが――により、ほとんど一夜にして廃都となった。カナンの版図は無人の砂漢となり、いまにいたるまで、どのような帝国にも属することはない。
ノスフェラスには、何が起こったのだ――カナン帝国をほろぼし、ノスフェラスに住む動物たちを、見るもおぞましいイドや砂虫のような奇形の生命だけとし、そしてまた伝説によれば、昔はまさしく砂漠に住んでカナン帝国の善良な住民にほかならなかったという、かれら砂の民たちを、毛深く矮躯の前人類や、巨大な謎の蛮族に変容させてしまうような、一体、何が……)
グインにはむろん、モンゴール宮廷を動かして、このノスフェラス遠征の不敵なこころみにおもむかせるに到った直接のきっかけであるところの、キタイの魔道師カル=モルのノスフェラス内奥部からの生還、その〈|瘴気の谷《グル・ヌー》〉における奇怪な体験、などを知るよしもない。また、モンゴール金蠍宮が、そのカル=モルの恐るべき経験を早くも、全世界制覇の野望に役立つ、致命的な新兵器と結びつけてみていることも、知ろうはずもなかった。
だがしかし、グインには、おのづから具わる直観と理解とによって、このノスフェラスに秘密のあること、そしてそれは、世の中の流れそのものに、何か巨大な変化をもたらすものであること、が感じ得られているのである。
グインはうなだれて歩いた。その目は油断なく四方へ配られ、何かほんの少し気配でもあればただちに、一瞬のうちに彼は戦闘体制に入ったであろうが、しかしおもてから見たかぎりでは、彼はその大きく重い物思いに心をとられ、ほとんど放心状態でさえあるように見えただろう。
かれら、奇妙なひと組の旅行者は、どちらもきわめて健脚で、その上に疲れを知らなかったので、間もなくかれらは狗頭山の頂上、二つの耳にあたる大岩の峰を両側にみる、せばまった峠の天辺にのぼりついた。両方の「耳」は、針のように細くとがり、とうてい人はおろかオオカミも、岩シカでさえもその上に立つことはかなわぬくらいであったから、それよりも低くなっているとはいえ、そこが狗頭山の山頂であることにまぎれもない。
もう、日はのぼりつめて、そろそろ下り道にさしかかろうかというところで、その陽光はいよいよ仮借なくかれらを焼いた。グインと狼王は、どちらからともなく、ひと息入れることにし、グインは準備よくもってきていた岩トカゲの肉ののこり――それは腰にぶらさげているあいだにすっかりかわき、なまがわきの乾し肉のようになっていた――を口に入れ、ヴァシャ果の種をわって中のなまぐさい果汁でわずかに渇きをいやした。
あたりは、素晴しい見はらしであった――もし、それをそう呼べるものならば。景色というものを、きわめて人間的な美意識でもって判断するものにとっては、それは、むしろぞっとするほどに残酷な、非人間的な景観であるだろう。
狗頭山の両耳によって、東につらなってゆくはずのカナンはさえぎられていた。そしてかれらの目には、かれらが踏みこえてきたばかりの上り道と、その下にどこまでもどこまでもつづいている白い大海原だけがうつっていた。
どこを見ても一点の緑もなく、一点の茂みもない。空にもまた雲もなく、この高さではエンゼル・ヘアーも飛んで来ない。
この無愛想で単調な景色を眺めながら、しかし、グインにも、狼王にも、むろんのこと何の感情も生まれては来ぬようだった。その広大なひろがりに空恐しさを感じることも、畏怖と感動を覚えることも、共に野性の、そこを棲家とする獣にとっては無用のことだったのだ。
山頂の冷たい風に汗をかわかすと、かれらはまた、早速下りにとりかかった。
上りよりは、しかし下り路のほうがいくぶん困難であることが、まもなくグインにはわかった。というのも、東の斜面は、ひどく土がもろくなっていて、西側はオオカミたちがそのテリトリーとして踏みかためては来ても、こちらまではあまり来ないためかどうか、道らしい道もなく、岩と岩とのあいだをそろそろと下ろうとすると、足もとでざらりと土がくずれたり、砂の中にかくれていた岩につきあたってしまったり、しがちであったからだ。
グインはためらうことなく、慎重に足場をさぐりさぐり下りかかったが、一度ならず、足場がくずれて何タールもすべりおち、また一度ならず、安全なつもりで手や足をかけた岩がぐらぐらとしたかと思うと、それを支えていた土がくずれて、巨大な岩がすさまじい音をたてながら、はるかな谷底までころがりおちていった。
オオカミは、グインほど難渋することはなかったが、それでも上りのときのように勝手を知ったたしかさでひょいひょいとはねてゆくというわけにはいかなかった。このへんのもろい土に支えられている岩の中には、狼王の体重をすら支えきれないものがままあったのだ。谷々は、グインと狼王の足もとからころがりおちてゆく岩や小石や砂が、下の岩や地面にぶつかって発する、からんからんという音、ざあっという音、そしてもっと大きな音を反響させて、奇怪なハーモニーに満ちた。
下りでは、上りよりももっと時間がかかったし、その上に、もっとしばしば、休んで、いたむ筋肉をいたわるために立ちどまらなくてはならなかった。日は容赦なくつるべ落としに落ちかかり、遠くの岩場で悲しげにオオカミの鳴くのがきこえはじめる。
(狗頭山を越えなさい)
もしも、リンダの声があれほどはっきりと耳にひびきわたっていなかったなら。おそらく、さしもの豹頭の戦士も、つよい焦りを感じはじめずにはいなかったろう。あるいはまた、狼王という連れが、彼の前になり、横になりしてついてくるのでなかったなら。
ようやく、長い困難な歩きづめの二日めが日没にさしかかっている。それは、セム族との約束の日限の、ちょうど半ばがすぎたことを告げるものであり、しかも彼はいまだに、目的のラゴンの姿を見てさえいなかった。
あの砂嵐と狼王に出会うこととがなかったならば、彼はおそらく、いまだに狗頭山のふもとへようようのことでさしかかるほどでしかなかっただろう。自らが正しい方向へむかって進んでいることを、戦士は一度として疑ったことはなかったが、しかし、ただ狗頭山を越えるだけに日程のなかばをついやしてしまう、ということは、戻り道のあること、またラゴンの説得にも当然あるていどの時間を必要とするであろうことを計算に入れれば、まことに不本意なことだった。
といって、あの場合、四日以上の日時を要求することはまったく無理であっただろう。セムたちはその種族そのものの存亡をかけて戦っており、そして四日間のあいだ、敵の半分以下の兵力で、のらりくらりとかわしながら持ちこたえられる、という保障はどこにもない。
あるいは、こうしているあいだにすら、すでにモンゴール軍が総攻撃を開始し、すべては手おくれになっているのかもしれないのである。そのときには、たとえラゴンを首尾よく連れ戻ろうとも、グインの努力はすべて水泡と帰してしまうだろう。
(あと二日)
グインは、目さきの焦りのために、がむしゃらに足をはやめて、自らペースを乱してしまうような愚を決しておかさなかったが、しかし、ときおり、無言のままぐいと握りしめる拳には、非常な力がこもっていた。
狼王がたずねるように見上げる。やがて日が落ちた。あたりがとっぷりと暮れて、真の闇につつまれるころには、かれらは、いちばんけわしい下り道をこえ、いくぶん山の裾にそってまわりこむようになっている、崖ぞいの、ゆるい坂道にさしかかっていた。
狼王は、そのへんで再び一泊することを、むしろすすめたいようだった。しかし、グインには、まったくそんな気持はなかった。
いくぶん勾配がゆるくなってきたとはいえ、あいかわらず足元は崩れやすく、右手は切り立った谷である。道はところどころで急激に細くなっていたりし、そういうところで、うっかり路肩をふむと、それはたちまちざらりと足元でくずれて千仞の谷底へとおちてゆく。
暗くなればなるほど、それは危険が倍増する道であった。
狼王は、足元をしきりに気にして、グインをふりかえり、休もう、といったようすをするのだが、グインがイワモドキや血吸いゴケに気を配りつつ、岩を手さぐりにつたって、なおも崖ぞいに下りつづける、とみると、しかたなさそうにまた足を早める。
狼王もグインもあるていどではあったが夜目がきいたから、その点では、いくぶんふつうの旅人よりは有利といえたかもしれない。もっとも、ふつうの旅人が、こんなところへさまよいこむチャンスは、まずもってありそうにもなかったのだが――
と――
ふいに、グインの頭のうしろの毛が、知らず知らずのうちにさか立った。
「あれは、何だ」
短い、吠えるような声が、彼の口をもれていた。
狼王は、おどろいたようすもない。
それは――
何か、まっ白なものであった。
(雪――?)
グインは、目をほそめて、前方の暗闇をすかし見る。
(イドか……?)
(それとも――)
何か、まだグインのぶつかっていない、奇怪なノスフェラスの怪物なのか。
かれらのゆくてで、道はふいに落ちこんでいた。
その向こうは、ずっとその白いかたまりが点々と闇にうきあがってつづいている。
目をこらしていても、動くようすもないが、しかしそれは、ずっと濃灰色の岩ひと色の狗頭山を見なれてきた目には、なんとも判断のつきかねる、あやしい光景であった。
(……)
グインは、迷った。
そのときである。
「あ――!」
思わず、グインの口から、叫び声がもれた。
狼王がやにわに、グインの横をすりぬけるようにして、その白い怪物群にむかって、とびこんでいったからである。
「待て――!」
グインはあわてて手をのばし、狼王をひきとめようとした。ノスフェラスの怪生物の中には、植物とも動物ともつかぬものがあるように、動物とも、鉱物ともつかぬものもあるのかもしれない。そして、それは、何か匂いか、あるいは思念波のようなものを発して、動物をさそい込んで、食べてしまう、というぐらいの奸計はするかもしれない。
しかし、狼王の動きは電光のようだった。止めようとするグインの手をすりぬけ、まっしぐらに岩をおどりこえて、その白いもの[#「白いもの」に傍点]のある地帯へとびこむなり、いちばん手近なそのかたまりにとりついて――
そして、やにわに、ぺろぺろと、かかえこむようにしてそれをなめはじめたのである。
(――!)
グインの目が光った。
油断なく、しかし急いで、彼もまた崖ぞいの道のさいごの方をころがるようにおりると、あちらにも、こちらにも、岩にまじってその白い大小のかたまりがごろごろとしているあたりへふみこむ。
地面にもまたその白いかたまりからこぼれたとおぼしい白い粉がふりまかれ、あたりはさながら雪のふりはじめのようだ。
グインは立ちどまった。いくぶん、茫然として狼を見つめる。
あの賢い狗頭山の老狼、かぎりなく年古りた狼王ともあろうものが、どうにかしてしまったのだ。
猫にマタタビを与えたときのように、恍惚と顔をゆるませ、その輝かしい白い毛皮と同じほども白い岩に身をすりつけ、地面をころげまわり、そのあいだも、ぺろぺろと岩を舐めつづけている。白い岩はわりあいにもろく、狼王の牙でさくりと割れるらしい。
グインはいやな顔で、手をのばし、そっとふれてみた。別に何もおこらない。
思いきって、少し白い岩をかきとる。それは手のひらにぱらぱらとくずれてくる。
それから、少しためらった末、狼王のようすにも別におかしなところは――ひどくはしゃいではいるものの――なさそうだ、と判断して、手のひらを口に近づけ、ざらざらした舌をのばして、ぺろりとやってみる。
とたんに、
「おう!」
彼は叫んでいた。
からい。
しかし、うまい。砂漠のかわいた太陽に照りつけられ、一日汗を流した疲れた口に、やにわに、何ともいえぬここちよさがひろがったのだ。
「岩塩だ」
彼は呟いた。あわただしく、他の岩に近づき、また同じことをしてみる。同じ塩からい味がした。
あたりは――見わたすかぎり、この谷を埋めていたのは、途方もない量の、塩のかたまりであったのである。
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4
「白い石――!」
次の刹那、グインの口から。低い叫び声があがっていた。
(黒い山が白い石とまじわるところ)
(そこにラゴンがいる)
リンダの予言が、ふいに、頭によみがえってきたのである。
「白い石が、黒い山と――それは、このことか!」
岩塩の原は、さながらおおいかぶさるようにして、狗頭山の暗灰色の大地の上にのびている。
狼王はグインのことなど、忘れてしまったようだった。あいかわらず、ぺろぺろと岩をなめながら、まるで仔狼のようなはしゃいだ鼻声をもらしている。真白な彼は、まるで、狼のかたちにきざんだ岩塩のひとつにほかならぬかに見える。
グインは、手ごろなひとかたまりをとるとかくしにつめこんだ。それからもう少し小さいひとかたまりをとり、これも本能的な欲求のままに、ぺろぺろと狼王のまねをしてなめはじめた。
ノスフェラスの砂漠では、ほとんど、こうした岩塩が手に入る機会はない。セム族たちの食物は、ほとんど味がないし、そしておそらく、熱気のたかいその気候が要求するたくさんの塩分は、かれらはサルそのままにたがいの毛のあいだからつまみとった、汗のかわいたあとの塩のかたまりと、それから肉類の含んでいるごく少しのそれとでかろうじてまかなっているにすぎぬのである。
この岩塩の原をみれば、どんなにかかれらは狂喜することだろう。そんな考えが、ふっとグインの心をよぎったが、当面の目的は、岩塩でなくラゴン族である。
(そこにラゴンはいる――どこだ。どこに、ラゴンがいる)
グインは、あたりを見まわした。
もう、夜がふかくなりかかり、中天には月イリスが青白い光を掛けている。その光をあびて、岩塩の谷は、さながら一面の雪につつまれた北国のようにほの白さをおびている。
これほどの塩分が岩にも、地にも、むろん雨水(ノスフェラスのこのあたりには、雨期といえるほどのものもないが)にもしみこむのだろうから、その土壌は、およそ生物をはぐくむには最悪であるにちがいない。その谷には、見わたすかぎり一本一草、苔ひとつすらもなく、岩から岩へすばやく走って消える岩トカゲも、岩の擬態をしてえものをだましとるイワモドキも、虫のたぐいすらまったく見あたらない。
むろん、噂にのみきく、伝説のラゴン族の巨大なすがたが、そこにあろうはずもなかった。
(だが、リンダは云った――狗頭山を越えよ。ラゴンは白い石の彼方にいる。白い石が、黒い山とまじわるところ――そこに、ラゴンの魂がある……死の風に心せよ、と――)
グインは、〈予知者〉リンダの予言を信じていた。現に、狗頭山をこえたとき、そこには「白い石が、黒い山とまじわる」光景が現出したのだ。
(白い石の彼方――そうか。この岩塩原を越えねばならんのか。ラゴンの魂がここにある――ラゴンの魂とは、何のことだ)
それもまた、知るすべはなかったが、取るべき道ははっきりしていた。このまま進んで、この塩の谷をふみこえることだ。さいわい、これは、さほど広い面積にわたっているとも、思われない。
グインは、もういちど手にした塩のかたまりをかじったが、あまり欲求にまかせてそのからさを楽しんでいると、あとでのどがひりつくようにかわいてその放埒のむくいをうけることになるだろうと気がついて、ぱッとそのかたまりを投げすてた。そのかたまりは、別の塩の岩にあたり、はらりとくずれた。
(おや)
グインのするどい目が、そのとき、何か光るものをとらえた。いま砕けた岩塩の粉にまぶれて、そこに何かが埋もれているらしい。
彼は敏捷にかがみこむと、塩と砂を手でかきわけた。手が何か固いものにふれる。案外に深くもぐっているようで、ひっぱってもなかなか出てこない。手ざわりは金属でできた何かのようだ。
グインは、自分でもわけのわからぬ衝動にかられて、執拗に土をかきわけた。かなり掘りすすんだあとで、ようやくその先端があらわれた。
妙なものだった。銀色で、つるつるして、奇怪なかたちをしている。ぐいとひっぱったが動かない。土を、その先端をつかんで左右に掘りくずし、力をこめてひっぱると、ようやく、全体が彼の手もとにもちあがってきた。
砂をはらってみて、彼は首をかしげた。それはついぞ見たこともないし、何のためにつかうのかも、さっぱりわからぬものだった。
ただし、何かの道具として、意図的に作り出されたものと見て、まず間違いはないようだ。それは、しいて云うならば、銀製のたて笛か、あるいは祈り棒、さもなければ短い折りたたみ式の杖とでもいった感じだった。グインの手でつかんでいるのと反対の側に、妙なポッチのようなものがいくつか並んでいる。
グインはそれをしばらく月明りにかざしてすかし見ていた。見ていても、何もわかっては来なかった。グインをいつも助けてくれる、あの奇怪などこからわいて来るのかわからぬ知識も、今度は彼を助けてはくれなかった。が、再び、それを掘り出さねばならぬ、と感じたときと同じ、奇妙な切羽つまった衝動にかられて、彼はそれを無造作に腰のベルトにさしこんだ。
(いずれ、正体のわかるときも来るだろうさ)
彼は云いわけがましくつぶやいた。
「ともあれ、月のあるうちに、この『白い石』の谷を越えねばなるまい。もし本気で、セムたちとの約束の刻限に間にあうようもどるつもりでいるのなら、どんなに遅くても、あすの正午までには再びドッグヘッドを越える旅に出なくてはならんのだからな」
彼はひとりごちて、それから、うながすように、狼王の方をふりかえった。
狼王は、知らん顔をしていた。もう、狂ったように塩をぺろぺろ舐めるのこそやめていたが、塩の岩のあいだにすわりこみ、何となく、したたかに酒にくらい酔った人間と似たようなようすで、陶然と舌をなめずっている。そのきびしい口はとろんとし、その顔は、人間ならば馬鹿のように相好をくずしているのに相当するかもしれない。あれほどグインをせきたて、用ありげに彼の案内役をつとめて来たくせに、かれはもう、豹人に何の興味も失っているようだった。
あるいはもともと、オオカミが、いかに賢いとはいえ神の意志をうけて人間をみちびく、などという考えそのものが不自然なのだ。もしかして、老狼王は、ただこの塩の原――おそらく彼にとっては酒やマタタビと同様な魔力をもつ塩の原へやって来たさに、グインにくっついて来ただけなのかもしれない。
そうは思ってみたが、彼は、一応狼王の注意をひこうとし、声をかけてみた。何とはなしに、一昼夜のあいだ行動を共にしたこの大オオカミには、彼の心をひきつけるものがあり、まだできれば別れたくない、という、そんな気が漠然としていたのである。
しかし、狼王は、とろんとした目を彼に向けて、うるさそうにするだけだった。明らかに、かれには、ここから先へゆく意志は、まるでなかった。
「そうか」
何回か、かれの注意をひこうとして、ついにグインは諦めた。
「ならば、ここでお別れというわけだな。よかろう――お前は、とてもよくしてくれたぞ。お前のもてなしは、決して忘れぬようにしよう。もっとも、俺が生きてラゴンをつれもどることができれば、帰途に再び狗頭山の、お前の王国をとおらせてもらうことになるのだろうが、おそらく、大勢の巨人族をひきつれていれば、お前が俺のところへ姿をあらわすことはあるまいからな」
ことばの通じるあいてに対するようにいう。また、事実この巨大な白オオカミ――狗頭山の帝王と、この豹頭の、尋常ならざる運命を背負った戦士とのあいだには、なまなかな人間どうしのあいだにあるよりもずっと根源的な、ずっと誠実な交流が生まれていたのである。
酔心地を楽しんででもいるかのようにとろりとしてすわりこんでいる老王に、もういちど別れの一瞥をくれてから、グインは塩の原の中にふみこんだ。月あかりは、塩の岩々を白くうかびあがらせているので、夜とはいえ、歩くことは、昼間どうようにわけもないことだった。
気のせくままに大股に歩き出したグインがさいごにふりむいたときには、老狼王は、もう塩の饗宴に満り足りて、水でものみに去っていったものか、それともその純白のアスガルンの氷河のような太古そのままの毛皮が、岩塩の白にまぎれたものか、もはやその姿はどこにも見わけられなかった。
グインは、再びひとりきりになった。
話しあいてになるわけでもなく、人間ですらない、といっても、連れは、連れであった。老王がいなくなると、道は心なしか実際よりもずっと長く、塩の原はいつまで行ってもつきることのないような、そんなふうに感じられた。
しかしその思いもそのうちに去った。グインは少し足をはやめ、ひたすら先をいそいだ。
周囲の光景はきわめて幻想的なものと化しつつあった。
それは、しだいに黒くあらわれている地面が失われ、ひたすら白一色におおわれてゆくのに呼応していた。塩が、そこここで結晶して、美しいふしぎなかたちのオブジェをつくり出していた。グインは、空につきだした、動物の骨のかたちの塩の結晶、もっとふしぎな、立ち木のかたちそのままの塩の木≠フあいだをとおりぬけた。塩には、まさか生きものを殺すほどの力はあるまいから、その骨は、もうずっと以前からそこで死んだけもののそれがそのままになっていたのへ、塩の結晶がついて、奇妙でまたとなく美しい彫刻をつくりあけたものだろう。一本だけでなく、何木か見うけられる塩の木の方は、これはあきらかに、塩にまわりをかためられて、立ちながら枯死したものと見えた。
それは幻想的であったが、また見ようによっては妙に怖ろしさを感じさせる光景でもあった。地面は、グインが踏んでゆくとさくりさくりと崩れた。塩の層は、谷の奥へゆくに従って厚くなっているらしい。
グインの足がみごとにボールのように丸くなった塩のかたまりを踏みつけた。とたんにルビーの輝きがグインの目を射た。
塩が血を流しでもしたかのような錯覚にとらわれ、あわててグインはそれをひろいあげてみて、そして声なく唸った。
それは、赤くすきとおった何かの木の実であった。おそらく、それは、その何本もある塩の木≠フ一本の枝になったものが、地におち、そのまま塩づけになってしまったのだろう。それはルビーのようにつやつやして、そしていまもいだばかりのようにさえ見えた。これほどの塩づくめのなかでは、ものは、きっと腐ることもないのだろう。それにがぶりと歯を立てて、あわててグインはそれを吐き出し、投げすてた。それの中身は、塩そのものでこしらえた果実とえらぶところがなかった。
それは、はじめは美しく、幻のように見えても、しばらくゆくうちに、何がなし、嫌悪と、そして漠然とした非人間的な恐怖とが心に忍び入ってくる光景だった。それは、まったく見も知らぬ、どこかちがう星の一画へ、たまたまさまよいこんでしまったのかと見えた。
塩は水分を吸いあげる。もしここでグインが足をくじきでもして倒れることになろうものなら、彼は口に入れるものとては塩のかけらしかなく、そうするうちに体中の水分を失ってひからびたミイラとなり、しかもこの塩の雪の中で、腐ることもなく永遠によこたわり、そのうちに全身が美しく白いこの粉につつまれてゆくだろう。これはやはり、死の谷であった。この周辺の泉や川はのこらず。塩分のために飲み水にならぬであろうし、同じ理由で魚の一匹も、さしもの〈大口〉でさえ住みかとすることができないだろう。
そういう目であらためて見直すと、塩の木と塩の岩、それに塩の骨、と、雪国のように幻想をさそう美しいこの谷が、見るもいとわしい、おぞましいものに見えてくる。
(やはり、ここもノスフェラス、呪われた地なのだ)
グインはつぶやいた。塩をさっき口にしたせいか、塩の谷をずっとぬけてきたせいなのか、かなりのどがかわきはじめていた。
(まだしも、砂漠の白砂のほうが好きになれるようだな)
再び、グインは思った。そして、周囲が明るくなってきたのに気づいて、顔をあげ、あたりをあおぎ見た。
夜どおし、その白い世界を歩きとおしてきたのである。いつのまにか、青白いイリスの控え目な光は、ルアーのチャリオットが予言のように放ってくる、赤みをおびた先触れの光と入れかわっていた。
三日めの朝が来たのだ。
(あと二日しかない)
その二日めも、すでにはじまろうとしている。
(イシュトヴァーンは、かねての計画どおりことを運んでいるか。セムどもは、内輸もめ、仲間割れをおこしていないか。パロの双児は、おとなしく待っているか。モンゴール軍はどのあたりまで主力を進めたか)
すべて、知るすべもないことばかりである。グインは、答えを求めるように空を仰いだ。
そのとき、ルアーの最初の光が、この死の谷に届いたのである。
(あ……)
グインは、一瞬、立ちすくみ、殴られたように手を上にあげて目をかくそうとした。
それほどに、あたりにやにわに満ちあふれた七色の光は、輝かしく、まばゆかったのである。
それは雪よりもさらにきらきらと光を反射して輝きわたった。塩の木々が、岩々が、骨や、グインの踏んできた足あとが、虹のようにその結晶に太陽の光をうけて、さながら聖なる音楽の鳴りひびくクリスタル・パレスの朝の儀式ででもあるかのように燦然とくるめきわたった。
それは、壮絶なまでに美しい、そして怖しい光の乱舞であった。手をかざしただけではとうてい足りず、目をあいてなどいられぬほどに。
グインは、思わずよろめいた。ここで目をやられてしまったらお終いなのだ。彼は両手でしっかりと目をかばうと、足さぐりで先をいそいだ。どのみち、もうじきにこの塩の谷をぬけることはわかっている。
この光の音楽も、虹の饗宴も、彼の心をうごかしはしなかった。彼は目をつぶったまま、まるでこのすさまじい白い生きものにとらわれまい、と怯えでもしたかのように足をはやめ、そのために岩につまづいて膝を打ちつけ、それにもかまわずに夢中で歩いた。
その歩みはしだいに速くなり、さいごにはほとんど駈け足になった。何とも説明のつかぬ恐怖と、そして嫌悪に似たものが、彼をつき動かしていた。
彼は駈けた。
そのとき、もし前方から、野太い声がかからなかったら、そのままずっと駈け通しただろう。
「止まれ」
その声は、おどろきと、疑惑と、敵意とを同時にはらんでいるかのようだった。
「止まれ。何をしている」
「どこへゆく」
「お前は、何だ」
いくつもの声が交錯して、あいての一人でないことを告げている。
グインは、光の反射で目をいためる危険をおして、いきなりパッと目を見開いた。
そこに、ラゴンが立っていた。
それは、まさしくラゴンであった。
ラゴン以外の何ものでもないにちがいない。ノスフェラスの矮人族セムと対照的にラゴンは巨人族と呼ばれている。グインの前に立ちはだかるようにして、巨大な槍をこちらにつき出し、その穂先をグインの胸元にぴたりと擬している、四人の人間――それがそう云えるとして――は、まさしく四人の巨人であった。
二タールに及ぶ長身のグインよりも、一番小さいものでさえ、指一本ほど大きいのである。最も大きなものは、ほとんど頭ひとつ分も大きい。
横もむろん、それにふさわしいだけある。しかし、どちらかといえば、身長にくらべれば、体重の方が少なめであるように見えた。その分、敏捷そうで、鈍重なところはどこにもない。だが、そのおどろくほど巨大な石の穂つきの槍を、見るからに楽々と扱っているところから察するに、相当な大力でもあるようすだ。
かれらは警戒しているようだった。槍を向けたまま、身じろぎもせずにグインを見つめている。その目には、疑うような、戸惑ったような色がほの見える。
かれらのうち、三人は男であった。少なくとも、一番小さい一人が、他の三人と少し異ったようすをしていたので、そのように考えられたのである。その一人は、他の三人より身長も体重もいくぶん小さめなだけでなく、頭の毛を長くのばし、くしゃくしゃとちぢれたそれを両肩から胸へまで垂らしている。他の三人が身につけているのはなめし皮の腰布だけだが、この一人は片方の肩まである皮の布もつけ、肩の上で縛ってとめている。
しかしそのことをのぞいては、三人の男とその女(であるとすれば)とのあいだのちがいはないに等しい。かれらは一様にあかがね色の皮膚をし、足に皮のサンダルをはき、全身の筋肉が美しく発達して、そして体毛はセムとちがってなかった――少なくとも、前面には。というのは、あとで、かれらがうしろを向いたとき、そのうなじから腰にいたるまで、剛そうな、たてがみのような毛が密生しているのを見ることができたからだ。
顔もまたセムとはまったくちがっていた。きわめて額が広く高い。いっそ異様にみえるほどである。そして顎はいくぶんつきだし気味になっている。そのために、全体としては、頭はさかさにした酒つぼのように細長くみえる。しかし目は、まぎれもない知性と、そして凶暴なきらめきをはなっている。からだには、何か動物の脂をぬってあるらしく、むきだしの肌の部分はてかてかと光っていた。腰に石づくりの短刀をさげ、背に奇妙な道具を背負っている。石のなかみをくりぬいたような小さな桶で、それと共に、長い柄のついたスプーンのようなものが背負われてある。
「お前は、何物だ」
一番背のたかいラゴンが再び、油断なくにらみつけながら口をひらいた。
「けものの頭に、人《ラゴン》のからだ。――こんなものは、見たことがない。お前は、何物だ」
グインはどう答えようかと迷った。そうしながらも、再び、めまいのするような思いで、奇蹟がまだすべておわってしまったわけではないことに気づいていた。
彼には、ラゴンのしゃべることばが、ことごとく理解できるのである。
もっとも、それは、セムの甲高い声帯と異って太い、低い発声で語られるので、そうとは思われ難いにせよ、じっさいには、セムのことばときわめてよく似た言語であった。してみると、セム族とラゴン族がもとは古代帝国カナンの末裔で、同じ根から派生したこれほどちがう種族である、という云いつたえはまったく真実であるのかもしれなかった。
「俺は――」
あいかわらず、答えに迷いながら、グインは云った。彼の太い、低い声には、甲高いセム語よりも、むしろラゴンのことばをあやつる方がずっと楽だった。
「こいつ、喋るぞ」
ラゴンの一人が石槍をつきつけたまま云う。
「と、すると、人間《ラゴン》なのか」
「いや、ラゴンは、けものの頭など、持たない」
「だが、けものは喋らない」
「それも見たことのないけものだ。オオカミでも、トカゲでもない」
「だが、喋るなら人間《ラゴン》だ」
頭かぶの長身のラゴンがとりあえずそう結論をつけて、改めて槍を彼につきつけた。
「獣の頭のラゴン、お前、どこから来たか」
「俺はグイン」
グインはゆっくりと云った。
「俺は塩の谷をこえ、狗頭山の向こうから来た」
「狗頭山の向こうは、死者の国だ」
リーダーがいう。
「死者の国から来たなら、悪霊だ。悪霊は、ラゴンの村に入れない」
「俺は生きた人間だ。狗頭山の向こうは、死者の国ではない。だから、狗頭山をこえてきた」
「狗頭山をこえると、死者の国だ」
リーダーは執拗におりかえした。
「だから化物の頭をしてるのだな。お前は悪霊だ」
「それについては、あとで説明しよう。だが、一つ頼みがある。ラゴンの王に会わせてくれ」
グインが云うと、ラゴンたちは、一瞬ざわめいた。
「それとも、ラゴンには王はいないのか」
「王はいない。賢者のドードー、勇者のカー、二人がラゴンのためにものごとを決める」
「では、賢者のドードーと勇者のカーに会わせてくれ」
「会わせてやろう」
リーダーはあっさり云った。
「ただし、罪人としてだ、裁きをうけるためだ。お前は、化け物だ。死者の国から来た。そして大切な白き砂を踏みあらした――そこにもっているのは何だ」
リーダーはグインがかくしに入れていた塩のかたまりをみつけ、とりあげてざあっとこぼしてしまった。
「白き砂はラゴンだけのもの、ラゴンの神聖なもの。盗人は罰をうけるのだ。――ついて来い」
槍の穂先がちくりとグインの胸をつつく。
はじめから、あらがう気はなかった。ラゴンの王に会うのこそ、彼の目的であったのだから――たとえそれがどれほど非友好的な状況からはじまろうとだ。グインは黙って従い、四人のラゴンたちが、周囲をかためて彼を護送してゆくままに、おとなしく、再び黒い地面の出てきた坂を下っていった。
彼は、蛮族ラゴンの虜囚となったのである。
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第四話 火の罠
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グインが狗頭山を老狼王のみちびきによって越え、塩の谷の彼方でついにラゴン族とぶつかって、その虜囚となった、それよりも二日前のことである。
グインが彼を狗頭山に運ぶことになった奇怪な砂嵐に、まっこうからぶつかって、気を失っていたころ、モンゴール軍もまた、その砂嵐のために行く手をはばまれ、やむなくそこに予定外の小休止を強いられていた。
嵐の中心部はもっとずっと東寄りであったから、かれらをおそったのは、同じ嵐でも、グインを空中たかく巻きあげたそれとは比較にならぬ、いわば波紋が及んできたのにすぎない。
しかし、それでさえ、モンゴール軍を行き悩ませるには充分であった。モンゴール遠征軍は大急ぎでそこに、場所を選ぶいとまもなく公女のためのテントを張り、兵たちはぴったりとよりそいあい、頭の上に寝布がわりにもなるウマの掛布をひろげて、強風と雨あられとふりかかる砂つぶてに耐えつづけた。
「なんてところだ」
あちこちで、ひそやかな呪詛と不平のつぶやきが、よせあつめた口にささやかれていたのは事実である。
「こんな呪われた化け物どもの領域を、こんな思いをしてまで、なぜわがモンゴールは手中におさめなくてはならんのだ」
「よせ。それは、お上に対する反逆だぞ」
「反逆でもいい。この風の悪魔のようなうなり声をきいてみろ。革布にパラパラあたるこの砂の雨をきいてみろ。ここは人間の住むところじゃない。おれは、もう、つくづくいやになった」
「おれだっていやでなかろう筈がない。しかしわれらモンゴール兵は、モンゴールのために生命を捧げねばならんのだからな」
「モンゴールのためになら、どんなにだって、戦って死ぬ覚悟はあるさ。誰にも、おれを臆病者とは云わせぬ。しかし、砂嵐に埋もれたり、あのイヤな吸血の化け物どものえじきになるなんてそれでは犬死もいいところだ。それではあんまりだ。モンゴールの勇者も浮かばれん」
「まったくな。かわいそうなリーガン隊長、あんなに若くて勇敢でいい人だったのに、こともあろうにイドのやつにからだじゅうの血を吸われて死ぬとはな」
「リーガン小伯爵は、イドに食われて戦死なさいました、と、おれたちはアルヴォン城に帰ってリカード伯爵に云えるか?」
「ああ、いやだ、いやだ。こんな世にも呪われた地は、いっそドールの火に焼かれて、この世から消えてしまえばよいのだ。セムもろとも、豹頭の怪人もろともな」
「見ろ、お前だってそう思っているではないか――おお、きくがいい。なんていやな音が、風にのって来るのだ。あれは、なんだ」
「砂漠オオカミの吠え声だろうよ」
「ああ、いやだ、いやだ」
嵐は三ザンに及ぶあいだ荒れくるい、それがようやくにして去ったときには、すでにあたりは暮れそめていた。
砂嵐の間に、砂の中からぽかりとうかびあがってくる、|大食らい《ビッグイーター》、砂ヒル、オオアリジゴク、なぞにやられて、絶叫をのこして何人かのモンゴール兵とウマが砂の中へ消えていった。仲間は救い出そうと手をさしのべたが、まともに顔をむければ目に砂を叩きつけられて失明しかねない、この砂嵐のまっただなかでは、どうすることもできなかった。一度なぞは、大さわぎになった。かれらが陣ともいえぬ陣を張っていた、まさにそのまんなかの地面を割って、いきなり、青白く気味のわるい、オオアリジゴクの触手がのび出して来、同時にその周辺の砂がさらさらとじょうご型にくずれて四、五人のモンゴール兵をのみこんでしまったからである。
兵たちは気狂いのようになってその触手を切りさいた。砂嵐のうずまく、昼というのにたそがれ時のように暗くなった砂漠は、まさしく妖径変化めいたそれらの生物どもの我物顔に咆哮する生き地獄であった。
それは、セム族の襲撃よりも、いっそう気を滅入らせる、そしていっそう手のつけようもない敵であった。だから、さいわい、さすがのセムもこの嵐にあっては身動きもとれぬのか、一回の奇襲もないままに、嵐が去って、冷たく星々の輝く夜空が顔を出したとき、人びとは、セムの奇襲へのおそれも忘れ、ほっと安堵の息をついたのである。
もう夜であった。つねの夜営のように、まずあたりの地面をならし、そこにそうした奇怪で有害な生物の巣なぞがとりあえずないことを、たしかめてから陣をはったわけではなかったから、砂嵐が去ったといって、必ずしもすっかり安全になったと思っていいのではなかったが、それにしても耳をつんざく嵐のすさび、砂の乱舞が去っただけで、かれらはもう半ば以上安全になったような気分だった。
糧食が配給され、歩哨が交代した。砂嵐のあいだじゅう、ずっと公女の天幕の中で指揮官たちの軍議が持たれていたが、ようやくそのテントの垂れ幕が、小姓の手でさっとかかげられ、そこからわらわらと隊長たちが出てきて、それぞれの隊へと戻っていった。
「軍議は、どうなったのでありますか、大隊長どの」
マルス伯爵が、副官のガランスを従えて、ツーリードの青騎士隊の列に戻ってくると、早速、親衛隊や各中隊長が寄ってきた。その中には、アルゴンのエルもいた。
「ふむ」
マルス伯はかれらを見まわした。
「騎士たちに、いつもより多く兵糧をつかい、かわるがわるなるたけ休息をとり、そして武器の手入れをさせておくとよいな。明日、いよいよ行くぞ」
「いよいよ、とは?」
「もはや、これ以上セム族の思うがままにはさせておかぬ、ということだ。これまでは、深追いをしてセムの策略にかかり、リーガン隊の二の舞を演じては、と、たびかさなるセムの奇襲にもあえて受け太刀となり、無理な追撃とてもしなかったが、このままいても事態が好転するきざしはない。そこで、だ」
伯爵にかわって、ガランスがひきついだ。
「そこで、明朝、日の出を期して、明日をもってこの戦いに決着をつける、ということが、ただいまの軍議で決定されたのだ。明日は、たとえいつセムが奇襲をかけて来ようとも、これを迎え撃ち、きゃつらが退却しようとすればどこまでも追いつめ、きゃつらの巣喰っている場所を見つけ出して、ことごとくサルどもを退治してしまう。おい、諸君、喜べ。あしたこそ、サル狩りができるぞ」
中隊長、小隊長たちは歓声をあげた。
たったいまの指示を、全員に伝えるように、という命令をうけるまでもなく、はずむような足どりで、それぞれの部隊へ戻ってゆく。たちまち、そこかしこで、にわかにいさみ立った歓声があがった。
モンゴール兵たちは、ずっとつづいた受け身の戦いにすっかり気を腐らせていたのである。やにわにモンゴール遠征軍の全軍ははやり立ち、動きもきびきびとしはじめ、眠っていた獅子がブルブルと身ぶるいをしてからだをのばしはじめでもするかのように、一刻も早く夜が明けぬかと待ちこがれるようすだった。
あちこちでウマのいななきや剣のふれあう音、話し声、声高な笑い声などがきこえる。モンゴール軍はようやく活気に包まれはじめた。
エルが、何やら立ち去りがたいようすで、マルス伯のそばをうろついていたが、伯の視線をとらえると、とことことやってきて馴れ馴れしく声をかける。
「隊長殿、おめでとうございます」
不思議なことに、軍議でその進言がとりいれられたにもかかわらず、マルス伯は、あまり楽しそうなようすではなかった。しかし、エルの、愛嬌のある黒い目がくるくると輝くのを見ると、つい微笑をそそられた。
「エルか、おかしな奴だな。まだいくさははじまってさえおらんというのに、いったい何がめでたいのだ」
「おや、だって、この総攻撃は隊長殿のご進言だったのでしょう。それが、満場一致で賛成となり、公女殿下も御感よろしくあって先鋒と決まったのですから、おめでとうでございましょうが」
「それが、気がかりがひとつあってな、わしには」
若々しいエルの物云いは、いつもマルス伯の心を和ませた。もっと年の若い指揮官であったら、とんでもない図々しいやつと反感を抱いたであろうが、マルス伯にとっては、気負った、生意気ざかりの物云いが、もう何年も会っていない、トーラスの邸にいる彼の長男を思い出させてならないのである。
マルス伯はガランスを目で探した。しかし、この忠実な副官は、伯の出陣の用意を指図しに、どこかへあたふたと消え失せていた。
「気がかり? 何です、それは」
「この砂嵐だ。もともと、わしが進言しようと思っていたのは、今すぐ[#「今すぐ」に傍点]の反攻体勢にうつること、だった。このままではわが軍の士気にも影響する。ともかくいつなんどき、次のセムどもの襲撃があろうとも、それを期してただちに反攻にうつる、という用意をしておくこと――それよりもむしろ、こちらから果敢に打って出て、とにかく何が何でも、戦さの展開を、向こうでなく、こちらのペースにひきこむことだ。ところがそこへあの嵐、それがようやくやんだと思えばもう夜で、否応なしにわれわれはもう一晩夜営だ。攻撃にうつるのは次の朝、ということになり、またしても時間がたってしまう」
「そのあいだにセムが消えもしますまいし、第一朝までは、もうほんの五、六ザンしかありませんよ」
「セムはたしかに消えまいさ。だがわしがもしセムで、いくさのかけひきというものを心得ていたら、明日一日は決して奇襲をかけて来ず、それどころか姿ひとつあらわさず、一挙にここで反攻といきごんだモンゴール軍の気持に肩すかしをくわせてやるだろうな。ウム、たしかにそうするだろう。いくさで何より苦しいのは、士気がたかまったまま、じっと待つこと、こちらからはしかけることができずに待つこと、だからな。朝になりしだい、斥候隊が四方へ出て、セムの主力を求めに出発するだろうが、わしの気にかかってならぬのは、むしろ、われわれがいざ行動をおこそうとする矢先に砂嵐がやって来る、というこのタイミングのわるさ、間のわるさ、なのだよ、エル」
「といったって、セムがおこした砂嵐ではあるまいし、ただの偶然に決まっていますよ、隊長殿」
「エル、いいか、よく覚えておくがいい」
マルス伯は、教えさとす口ぶりになった。
「いくさに何より大切なのはな、いくさの帰趨をよみとるのもむろんだが、それ以上に、まず、空気と匂いとを肌でかぎとることなのだ。いくさは生きものだ。それも気まぐれな生きものだ。どのひとつの要因が、いくさを一挙に異る姿に変え去るかわからぬ。ほんのちょっとしたことで充分なのだ。天気でも、偶然でも――いや、むしろ、そうしたものの方がすべての人為よりも大きいことがある。いくさが生きて呼吸をしている、ということを知らぬ武将は、エル、アレクサンドロスのすべての兵書をそらんじていたところで、しょせんただの知将だ、大将ではない」
「よく、覚えておきます」
エルは、考え深そうに云った。
「しかし、いまの場合は、考えすぎですよ、隊長殿の。天がセムに味方する、というようなことがあるなら、いまの嵐に乗じて、セムがおそってきたでしょうし、それもないままわが軍の士気はかつてないくらい上がっております。あすの日が暮れるまでには、すべてのかた[#「かた」に傍点]はつき、わが軍はノスフェラスの主となっていることでしょうよ」
「ならば、いいが――」
マルス伯は、ふと、かたわらにいるのがアルゴンのエルであって、マリウス子爵ではない、ということを失念したかのように、遠い目になった。
「わしも、年をとったな」
ぽつりと、黒く静まりかえって、忍びよってくるセム族の影とてもない砂漠の起伏へ目をやりながら云う。
「そんなことを思ったことは、これまでどれほど困難ないくさのさなかでも、一度もなかったが――このノスフェラス遠征に出たときから、しきりとそう思われてならなんだ。わしは、再び、青い水面に白い影をうつす、ツーリード城の天守閣を見ることができるだろうか――遠くトーラスの、金色に輝く金蠍宮の姿を目のあたりにし、その五王の塔の頂上にはためくゴーラの黒獅子旗、モンゴールの金蠍旗を見ることが二度とあるのだろうか、そしてまた十六で兵役につくべくトーラスへおもむいた息子マリウスと再びまみえることがあるのかどうか――順当にゆけば今年、あれは二十になり、義務による兵役の、王宮の親衛隊づとめをおえて、アストリアスや小リーガンのように中隊長の旗を与えられるはずだが……」
マルス伯の声は途中でとぎれて消えてしまった。
エルはじっとおとなしく、そんな老隊長の顔を見十げている。黒いくるくるとした口の中には、何とも意味のつかぬ奇妙な光がある。
マルス伯は、深い物思いから我にかえって、エルに微笑んだ。
「行くがいい」
彼は手をあげて命じた。
「行って、出陣の支度をせねばならんだろう。大丈夫だ、モンゴールは不敗だ。たとえこの老人が再びツーリードを、トーラスを、見ることができぬようなことがあっても、若いお前たちは、ほどもなく元気いっぱいにモンゴールの地へ帰れるだろうからな」
エルは、相変らず奇妙な目つきでマルス伯爵を見返りながら、自分のウマのところへ戻っていった。しかし、長いことそうしてはいなかった。
たちまち、いまの一幕も忘れはてたようすで、ウマの横に丸くなり、革のマントを頭の上にあげ、敷布の砂をはたいてからくるまって、ぐっすりと眠りこんでしまう。明日の朝が総攻撃とあってみれば、少しでも、眠って体力を養っておかねばならなかった。まもなく、なおも昂奮したざわめきを低くはらみながら、モンゴール全軍は眠りについたのである。
夜が明けて、日がさしそめるより早く、かれらは元気いっぱいに目ざめて兵糧をしたためていた。
長い行軍の疲労も、ようやく労苦が報われるときが近づいた思いに、埃だらけの顔々から、ぬぐわれたように消えている。
それは、豹頭の戦士グインが、狗頭山の老狼王とともに迎えた、その同じ朝であった。
むろんのこと、モンゴール軍がそんなことを知るよしもない。グインはまだ、セム族とともにあって、奇襲にそなえて指揮をとっているものと信じて、彼に憎しみを燃やし、今日という今日は彼の首級をあげて手柄をたてることをひそかに期している。
夜が明けきる前に、モンゴール五千の騎士団、五千の、歩兵隊と弩部隊とは、すべて戦いの準備をととのえ、それぞれの小隊長のもとに整列した。
小隊長たちをひきいて、中隊長たちが並ぶ。そのまた先頭に、それぞれの親衛隊をひきいた各大将たちがいる。
青、赤、黒、白、とあざやかな四色の鎧の色にノスフェラスの砂を染めあげて、陣容をととのえたモンゴール遠征軍は、その数が、遠くケス河のほとりをたったときよりも三分の一を減じていることも、よくみれば鎧、かぶと、マントのすそまでも、白い砂埃にすすけていることもすべて忘れはてて、遠征に出発したときそのままに威風あたりを払って見えた。
「静かに!」
隊長たちの声がとぶ。ウマの足掻き、いななきもしだいに静まり、あたりがしいんとなったとき、
「公女殿下万歳!」
「右府将軍閣下万歳!」
巨大な歓声に迎えられて、モンゴールの公女にして右府将軍、遠征軍総司令官たるアムネリス姫が姿をあらわした。
高い壇の上に、かるく両脚を踏みしめて立った姿は、一万の将兵すべてにはっきりと見えた。左右で、ヴロン、リントの両雄が、警護にあたる。朝日にアムネリスの純白の鎧がきらきらと照りはえる。
だが、その宝石をちりばめた鎧よりも、さらに輝かしいのは、かぶとをかぶらぬ彼女の両肩へ、なだれ落ちている、すばらしい金色《こんじき》の滝のようなその髪であった。
一万のモンゴール兵はしんとなった。かれらはその、勝利の女神が生命を得て動き出したとしかみえぬ、あでやかな中に凛烈なものを漂わせた、気高く美しい姿にくぎづけになっていた。
「わがモンゴールの勇敢なる兵士たちよ!」
アムネリスは口をひらいた。その声は澄みわたってきびしく、砂漠のすみずみにまでよく届くかとさえ思われた。
「よく辛抱してくれた。さぞかし、何回にもわたるセム族の奇襲に、なぜこちらから反攻に出てはならぬのかと、歯がゆかったことと思う――
しかし、待機はもう終わった。兵士たちよ、剣をとれ。もはやノスフェラスをおそれることはない。兵士たちよ、モンゴールの勇士は、攻撃こそふさわしい。セム族をうて――蛮族をたいらげ、この地にモンゴールの旗をたてるのだ!」
「おう!」
一万の口からいっせいに叫びがほとばしり、砂丘をどよもした。
「モンゴール万歳!」
「モンゴール万歳!」
「公女殿下万歳!」
「公女殿下万歳!」
「モンゴールに勝利を!」
「モンゴールに栄光あれ!」
巨大な歓声が爆発する。
アムネリスは満足げにそれをきいていた。それから、ひらりとマントをひるがえして、小姓のささげる踏台を待たずに壇上からとびおりる。白騎士のフェルドリックが寄って来る。
「フェルドリック」
「は」
「準備が整い次第、出発しよう。ここに動かずにセムを待つことは、折角たかまった、わが軍の士気をいたずらに弱めることになる。かねての申しあわせどおり、東へむけて行軍しつつ、セムどもがあらわれしだいこれへ全力をむけて殲滅し、かつ斥候隊によってセムの村のありかを探らせることとする」
「心得ております」
「先鋒のマルス隊に、ただちに動きはじめるよう伝令を。今日のしんがりは誰だ」
「タンガードの黒騎士で」
「よかろう。私も支度をするぞ」
アムネリスが歩くと、そのみごとな髪はさながらそれ自体生あるもののようにくるくると巻きあがり、ふさふさと揺れ、まばゆく輝いた。たしかに美しい、とフェルドリックはそれを見送りながらこっそり考えていた。
(まさしく一見の価値はあるというものさ。しかし、そうは云うものの、この苦しいかつかつの遠征で、白騎士配下の歩兵一個中隊が、この姫さまのやわらかいベッド、敷物、衣服の替え、特別の食物、を運ぶために費されているのだし、それにこの砂漠のまん中で、埃ひとつまみれておらぬ白い手足をゆあみし、あのおぐしをくしけずるために、いったい兵士何人分の何日分かの水が、いっぺんに使われておることか)
アムネリスがふりむいた。フェルドリックはあわてふためいて、伝令のために走りだした。たとえそうした点ではどれだけ女らしいと云え、他の点では、それらすべてを補ってあまりあるほどに苛酷な気性の持主であることを、側近のフェルドリックほどによく知っているものはいなかったのである。
そうこうしているうちに、早くも先発のマルス隊はゆるゆると、巨大な青い蛇のように動き出していた。
そこかしこに夜営の痕跡を示すたき火のあとや、ものをすてたあとがある。かれらはもはや追われる側でなく、追う側である以上、あとをとりつくろって痕跡をかくすことも不要であった。
アルゴンのエルは先頭が動き出したのをみて、あわててウマにとび乗ろうとした。彼は眉をしかめて、手にしてかじっていた、かわかしたヴァシャの実を見つめた。
「こいつは、きっとドールの呪いのかかったヴァシャ果にちがいねえぞ」
彼はぶつぶついった。
「おそろしく辛くて、おまけにピリッと舌をさしやがる。兵糧係め、なんてものを配給しやがるんだ」
「そりゃあ、乾果だからな。名産地オーダインのとりたての実のようなわけにはいかんさ」
「そんなにまずいなら、すててしまえよ」
僚友たちが口々にいう。エルは顔をしかめ、勿体なさそうにしばらくそれを見つめていたが、もうかれらの隊がそろそろ動き出す順番であることに気づいて、あわてて彼のウマにとび乗ると、思いきったように、そのかたわらにあった焚火めがけてぽんとその果実を放った。
それは、からからにかわいていたらしい。たちまち、ぽん、という音をたててはじけたと思うと、シューッと煙を吹き出した。その煙は、美しいオレンジ色のひとすじの蛇となって、青い空へまっすぐに立ちのぼった。
「なんてことだ」
エルは呆れ顔だった。
「ヴァシャ果どころか、こいつは、ケムリソウの実じゃないか。冗談じゃない。あんなものを食ったら、死んじまう。文句を云ってやらなくちゃ」
「何かのはずみで、伝令用のやつがまぎれこんだのさ」
同僚たちはエルの憤慨をげらげら笑いながらなぐさめた。煙はしゅうしゅうと立ちのぼっている。
「こいつを、どうしたもんだろう。ケムリソウの煙は水をかけてすっかり実をしめらせないと、やまないぞ。――敵どもに、われわれの居場所を知らせてしまう。といって、水は――」
同僚たちはあわてて知らん顔をした。この砂漠のまんなかだ。水を一滴でも失うことが、あとになって生死のさかい目になるかもしれないのだ。
「いいさ、放っとけよ。もう、われわれは、見つかったってかまやせんのだから。それどころか、セムめがあの煙を見つけてやってきてくれれば手間がはぶけて有難いというものだ」
青騎士の一人がそういってエルをなだめた。もう、かれらはすでに列に遅れかけていた。
その煙をみて、中隊長が何ごとかと寄ってきたが、わけをきくと笑って、放っておけと命じた。どのみち、煙を出しきってしまえば、ケムリソウはひとりでにくずれてしまうのだ。
モンゴール軍は、将校から歩兵たちにいたるまで、何となく勇み、ふるい立っているようだった。あまり晴れやかな顔をしていないのはおそらくマルス伯だけで、それとても、部下たちに気づかれるほどではなかった。かれらはモンゴールの歌を次々に大声で歌いながら進んでいった。
オレンジ色の煙はくねり曲がるダネインの水ヘビのように、それを見すてて動きはじめたモンゴール軍を尻目に高く天へとのぼりつづけていた。
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2
セム族が、手ぐすねをひいて待ちかまえるモンゴール軍におそいかかってきたのは、それから一ザンばかりののちである。
これまでと異り、今度はぞんぶんにこちらから出て戦ってよいというので、モンゴールの将兵たちの意気はすこぶる上がっていた。
「セム族だあーッ!」
見張り役の兵が、砂丘の影からパッと立ったひとすじの砂煙をみつけて、そう叫ぶが早いか、
「そら、来たぞ!」
「やっと、来たか」
「来たぞ、来たぞ、われらの友人が」
「さて、祭りだぞ。オーダインの火祭りだ」
たちまち、浮き立った喚声が、陣中にまきおこった。
「これ、騒いではいかん――セムのサルどもが、あやしむかも知れんではないか」
「なあに、あやしむよりも先に、奴らの毛むくじゃらの首は、あの小っぽけな胴体から切れて飛んでいますとさ。なあ!」
「おお、そうとも――リーガン小伯爵の仇討ちだ」
「おお、仇討ちだ、仇討ちだ」
わいわいとののしりさわぎながら、かぶとの面頬をおろし、剣の切れ味を親指でためし、弩部隊はいっせいに散開して弩をかまえるうちに、砂丘の向こうに立った砂埃はみるみる増えてゆき、やがて、ぐるりとモンゴール軍をとりかこむようなかたちになってしまった。
「おや、セムどもも、今度ばかりは、どうやら本気でかた[#「かた」に傍点]をつける気かな。ばかに、数が多そうだぞ」
「なあに、いくら多いといったところで、俺たちの三倍はいるまい。一人が、小ザル三匹の首をねじ切ってしまえば、それでもう事足れりというものだ」
「奴らの毒矢にだけは気をつけろよ」
モンゴール兵たちは、じっさいにはラク、グロ、ツバイ、ラサの混成部隊からなるセム軍の総数が、かれらの半分に足りないことを、知らない。もともと、ラクと並ぶ最大、最強の部族である、カロイ族の参戦を欠いているセム軍は、何回かの奇襲のうちでも、その少い人数の何割かを失っている。
しかし、女、子どもを囮に狩り出して、砂煙をあげさせ、そのほんとうの人数を知られる不利を避けつづけているので、モンゴール軍は、セム軍が少なくもかれらと同数。多ければ、二倍はたしかに集まっているものと信じこんでいた。
それゆえ、その小癪なサルどもを迎えうち、一気にかたをつける決意で、どの顔も真赤に染まっている。
伝令はひきもきらず陣中をかけまわり、つぎつぎに司令部の意志を伝えた。それは、ただちに実行され、青、赤、黒、の巨大な三つの生きものが、まんなかの白い小さめのそれをおしつつんで華やかに左右へひろがってゆく。
弩隊が前に出、その援護をするべく歩兵隊がそれぞれの左右をかため、出番を待つ騎士たちは、ドウドウとたかぶったウマたちの首を叩いて声をかけて、気を静めさせようとしながら、そのうしろに、何列かになって並んでいた。
やがて――
「アイー、アイー、アイヤー!」
「イーイーイーイー、イーッ!」
「イアーアーッ!」
けたたましい、耳にさわる蛮族のとき[#「とき」に傍点]の声が砂埃のなかからわきおこり、それにつづいて、なだらかな秒丘の上に、ついにセム族が姿をあらわした!
「来たな、サルめ」
マルス伯は、ぐいとそちらをにらみすえる。まだ面頬をあげたままで、かぶとからはみ出した真白な髪、真白な髯、眉毛が、青く光る鎧かぶとと、日に灼けた赤銅色の顔の中で、びっくりするほどあざやかに白く風になびいた。
「隊長殿、隊長殿。面頬をお下ろし下さい」
それが、セムの毒矢の恰好の目標になっては、とガランスが気にして注意する。マルス伯は素直に、がちゃりと音を立てて面頬をおろしたが、青く塗られた鉄のマスクにおおいかくされる寸前、異様なまでに激しい光を放つ目が、砂丘をかけおりて来ようとする小蛮族をひたとにらみすえるのを、ガランスは見た。
「ものの一ザンもあれば、やつらを蹴散らせますよ」
あるじの異常なたかぶりを気にかけて、しずめようと、老練なガランスはおだやかな声で云った。マルス伯は、面頬をおろしたままで、そちら.をふりむいた。
「ガランス」
「何です、隊長殿」
「死ぬなよ」
こんな、砂ばかりの異境で――マルス伯は、そう付け加えたかったのかもしれない。
ガランスが笑って何か云い返そうとしたときには、もう、砂丘の上に一列横隊の姿をみせたセム族が、秩序も陣形もあったものではなく、てんでにけたたましいキャアキャア、アイー、アイー、という声をあげながら、モンゴール軍めがけてかけおりてくるところだった。
かくて、ここにまた、モンゴール遠征軍とセム族混成軍は、正面きって激突したのである。
太陽は、砂漠の中天にいよいよ白熱して、かれらを灼いた。
それは、どちらの軍にとっても、いわばすでに馴れっこになってしまった戦闘の繰り返しであった。
モンゴール軍には、今度こそ必殺の意気込みがあったものの、しかし、もはや幾度となく繰り返されているこの衝突に、新たな局面を開くべき地勢や事情のなんらの変化があったわけでもない。
モンゴール軍は次々に弩部隊を前進させ、かれらの射ち出す弩が砂の中にめりこんではパッと砂埃をあげた。それにつづいて、歩兵隊が、鉄の盾を組みあわせ、そのかげに隠れて、セムの毒矢に対して身を護りながら前進した。
セムたちは、すさまじい奇声をあげながら砂丘をかけおり、砂を蹴立てて走りよって来る。そこには、何の秩序も作戦もないかに見える。顔を毒々しい色で、戦士の模様にくまどり、手に手に毒矢の吹き筒をかざし、走りながらそれを口にあてると、肌にあたれば確実に一瞬にして死をもたらす、おそるべき毒をぬった黒い小さな矢がシュッという音を立ててとび出した。
セムたちは、吹き矢の筒をかまえるいとまもないほど距離をつめると、いっせいに筒を背中にしょった紐のあいだにさしこみ、かわりに石オノをぬきはなった。盾を紐んで突進する、迎撃の歩兵隊と、正面からぶつかるや、セムたちは身軽にその盾をむしろ踏段がわりにふみつけてかけのぼり、一気に内側へとびおりざま石オノを叩きつける。
むろん、そのいとまもなくつきすすんでくる盾に押し倒されるもの、盾のすきまからかれらのつき出す矛に刺され、あるいははねとばされるセム族もいる。しかし、かれらはたがいに手を組みあわせ、その手を踏み台にして大きくはねあがると、つぎつぎに兵たちの列のうしろへとびおりる。するとたちまち、列の内側のいたるところで死に物狂いの白兵戦が展開した。
歩兵たちは盾から手をはなすと向き直り、剣をぬいて応戦する。そこへうしろから、セムたちがそれとばかりに雪崩れこんで来る。
と見て、三色にぬりわけられた中央の本陣のそこかしこで、いっせいにそれぞれの色の采配が激しく打ち振られた。
ひと声たかくウマがいななく。一度に、騎士たちのムチがあがり、ウマの尻にぴしりと当てられる。
「サルどもを蹴散らせ!」
「リーガン隊長の仇をとれ!」
「モンゴール! モンゴール!」
激しいときの声とともに、モンゴール騎士団は動き出した。
イルム、タンガード率いる黒づくめの黒騎士団、アストリアス率いる赤騎士団、そしてかれらの先頭をきって、マルス老伯爵ひきいるツーリードの青騎士団。
中央に公女の旗を守る白騎士団を残して、三大騎士団は目もあやな三色の奔流となってモンゴール歩兵隊と蛮族セムとの混戦の中へ突入してゆく。
それは目のくらむような激しさだった。それぞれの所属騎士団の鎧の色と同じ馬鎧をつけたウマの背中で、騎上たちはぎらぎらと光る長剣を抜きはなち、それをふりまわしてセムたちの首をはねた。
「アイー、アイー!」
「アイイーッー」
体力で劣るセム族は、しかし敏捷さでは、重い鎧をつけた騎士たちをはるかにしのいでいる。振りおろされる剣を軽々とかわし、ウマのひづめをかいくぐり、キッキッと異様な声を立てて敵にとびついてゆく。セムたちのつかう戦法は、向かって来るウマの前で、一人が踏み台がわりになり、その背をもう一人が踏んで高々ととびあがるなり上から石オノを叩きつけて左右へとびおりるか、あるいは下から毒をぬった石の短槍でウマの腹をつき上げてウマを棒立ちにさせ、さもなければ剣をかいくぐってあいての内ぶところにとびこみ、ダニのようにしがみつき、毒をぬった槍をあいてのかぶとからあらわれている顔面やのどもとめがけて素早くくり出して来るのである。
セム族は、人数や、体力や、武器でさえ圧倒的にモンゴール軍より不利であるかに思われたが、実のところ、それほどに大きな有利をモンゴール軍が得ているわけではなかった。
かれらは、緑ゆたかな中原の王国の戦士たちである。そのウマは砂漠のさらさらと足をめりこませる砂の上を縦横に走りまわるのに適した獣ではなく、かれらのつけた重い鎧かぶともまた、かれらを守ると同時に、かれらの動きに制限を加えた。セムたちのすばしこい動きに、モンゴール軍はのろのろとしか対応できなかったし、しかもがっしりとした面頬をおろしてしまうと、それはかなり、着手《きて》の視野をさまたげ、ことさらセムの狙うのどもとやウマの下服どを無防備にした。
かれらの馴染んだ、かれらのものである戦いのしかたは、固く安定した地面や都市の道をウマでかけまわり、馬上から歩兵は切りふせ、同じ騎馬のあいてとは、槍や剣をかざして、すれちがいざまはっしと切りむすぶ、というものだったのである。
そうした戦いにすっかり馴らされているかれらにとって、このちょこまかとかけまわる、小さくてすばしこいあいては、牛が尾をふりまわしてとびまわるハエを退治しようとあせるように、扱いにくく、勝手が違った。
もちろん、取っ組めば、モンゴール人の大きな体格は、たやすくセム族をしのぎ、その大剣がまともに当たれば、小さなセム族の頭蓋は粉砕されて血と脳漿がはねとび、それが横なぎにすれば、セム族のからだは両断されて、腰から上と下にわかれてどうと倒れ、あるいは宙高く舞いあがる。
しかし、セムたちは、めったにその剣をまともにくらうまでじっとしてなどいなかったから、それはほとんど互角の、五分の白兵戦なのだった。
「アイアーッ!」
「クェーッ! イーアー!」
セム族の奇声と、モンゴール騎士たちの意味もとれぬ罵声とが、激しく入りまじる。
マルス伯は、先鋒の青騎士隊をひきいて、自らその混戦のまっただなかにいた。その、青くふさふさとした大隊長の房じるしをかぶとの天辺から流した長身は、ひときわ目立ち、壮年をすでに過ぎているとはいいながら、そのはたらきは、若い勇者たちに一歩もひけを取らなかった。伯を守る、旗本隊にあって、忠実な老ガランスが一歩もはなれることなく伯を守る。
「む……」
伯爵は、セム族の血のりでべったりと汚れた、長年の愛剣をぬぐうために、いったん旗木隊の後列にひき退いてひと息入れながら、激しい混戦状態を呈している戦場を見わたした。
それは、血しぶきと砂埃、ウマと人と蛮族との入り乱れる、何が何やら見てとることさえできぬ阿鼻叫喚の様相を呈していた。
セム族の毛むくじゃらの首が、赤い糸をひき、恨みの形相ものすごく、たかだかと宙に舞いあがる。ウマの悲しいいななきと悲鳴がきこえて、セムの槍に突かれたウマがそののりてをセムの踏みにじるにまかせてどうと砂地に倒れこむ。
「ウム――むう……」
小姓のさし出した水筒を口にあて、やけるようなかわきをいやしながら、マルス伯はその戦場を見わたした。
彼の部下たちも、みな面頬をおろし、しころを傾けてセムの槍の毒ある穂先を防ぎながら、青い鎧を血まぶれにして戦っている。誰が誰とも、もはやわかちがたいその光景を、じっと見つめていた伯の耳に、
「ええい、サルどもめ――イシュタルにかけて、このくさい畜生どもめ!」
聞きおぼえのある、若い、陽気なわめき声がきこえてきた。伯爵のすぐ前の方で、激しく剣をふりまわし、つぎつぎにセムたちを切りふせて、ひときわその戦いぶりのめざましい、長身の騎手の発したものである。
それをきくと、伯爵のけわしく、きびしかった目もとが思わずも和んだ。
「エルだな。無事か」
低く呟く。たぶんガランスだけがそれをききつけたが、別に何も云わずに彼も面頬をあげて水の筒を口にあてていた。
「モンゴールのために、モンゴールのために――この旗のもとに、去年は黒竜戦役のパロの市街で、そしていまはノスフェラスの砂漠をモンゴールの血に染めて、いったい何人の若者が死んでいったことか――」
マルス伯はいっそう声を低く、ガランスにすらきこえぬようにつぶやいた。その目には、かぎりない悲傷と、そしていたましい輝きがあった。
「モンゴールのために。わかってはいるのだ。しかしこれ以上、一人でも若者を死なせたくはないものだ――一人でも……」
頭を振って、そっと前方をまた見やる。さきにそのあたりにいたアルゴンのエルは、すでに切りむすびながら戦いの中へまぎれてしまったらしく、どの一人とも、すでに見さだめがたくなっていた。
(わしも、年をとったか)
マルス伯は呟くと、声をはげましてガランスをふりかえり、
「よかろう。行くぞ、ガランス」
「行きますか、隊長殿」
まだまだ、若いものに負けてはいぬぞ、と云いたげにガランスが胸を叩いて、面類をおろす。
それを待って、
「モンゴール!」
大声をあげて、伯は再び混戦の中へ剣をふりかざして馳け入った。
「モンゴールのために!」
「モンゴール、モンゴール、モンゴール!」
たちまち、巨大な喚声が伯に応えた。
いっぽう、アストリアスは、副官ポラックに守られながら、後衛にいた。
公女の怒りはまだとけておらぬと見え、この配置で、アストリアスはあっさりと後詰にまわされた。
退却したり、あるいは後方の敵をうかがいながら進むときにこそ、しんがりは名誉の役目だが、徹底的に敵を迎えうち、あくまでも追撃しよう、という今日のいくさに、後詰はいわば無用者である。
それを思って、友軍の果敢な戦いぶりを眺めやりながら、しきりとアストリアスはひとりで気を腐らせていたのだった。
彼は、ひそかに、この遠征軍の総指揮をとるアムネリス――モンゴールの公女にして右府将軍、輝く金の髪と冷やかなエメラルドの瞳をもった氷の女神に愛慕の情をよせている。それは、いまだ、彼自身にさえそうとは意識されてはいないものの、彼はその彼の女神の前にあって、ひたすら、手柄をたて、その心にかない、その賞讃と、できうればやさしい満足の微笑をでも得ることだけを念じているのだ。
ところが、それは、そもそものはじめから――グインたち五人の逃亡者を追って、追撃隊をひきいてノスフェラスにわけ入ったときから、さらにはそのときの失態を取りつくろおうとはやり立つあまり、公女の命令を待たずにセムを追走してイドの罠にかかり、彼自身は何とかのがれたものの、僚友リーガンの死という惨禍を招き――ことごとく、アストリアスにとっては生き恥の醜態をさらす結果に終わっているのである。
(もし先陣をうけたまわれたら――今度こそ、恥をすすいで、何としても――どんなことをしてでもこの屈辱をはらしてみせたものを……)
しかし、アムネリスは、アストリアスに、雪辱の機会を与えるかわりに、きびしい叱責と侮蔑をもって、彼を後詰に追いやった。
(それも、これも――思えば、何もかも、思えば……)
それを考えるだけで、アストリアスの胸は煮えくりかえる。
(何もかもあいつのせいだ。あいつの――)
(グイン――)
その名を口にするのさえ、胸が憎しみと屈辱にわななきふるえ、激しい狂おしさにつきあげられた。グイン――その豹頭の怪人は、彼に恥をかかせ、彼の慕う冷たい女神に、彼に冷たいさげすみの目をむけさせて、三たびの失態があれば彼の隊長の地位はないものと思うがいい、というきびしい言葉を吐かせたばかりではない。
何よりもアストリアスの心がいやされることのない恥辱の焼きごてをあてられた苦痛にうずくのは、雪辱にはやって、俺と戦え、と叫びながらグインにおそいかかっていった彼を、グインがまったく相手にさえしようとはしなかったことだった。
(二十年たって出直して来い、小僧。そしたら、相手になってやろう)
その豹頭にうかんだ笑いの色――それが、冷やかな、残酷なものではなくて、むしろおちついた、あわれむようなものであったこと、それが、他のすべてにも増して、アストリアスを逆上させるのだ。
(それが――それがこんなところで、来もせぬ後方の敵軍にそなえて、敵の首ひとつとれずに指をくわえているとは)
万が一、後方からの奇襲をひきいて、当のグインがうしろからおそって来れば、とアストリアスは必死で念じた。
(そのときには、目にもの見せてやる)
さっきから、そればかりを考えて、彼はのびあがるようにして、戦いの中に、グインのひときわ目立つ豹頭ばかり探し、それが見あたらぬことに一抹の不信と、そして自分の希望がかなえられるか、というひたすらな希望を抱いていたのである。
(グインめ、出てこい。そうすればおれが小僧かどうか思い知らせてやるさ。――グインめ、出てこい)
と、そのとき、
「隊長」
まるで、その彼の思いを見すかしたように、ポラックが声をかけてきた。
「どうしたのでしょう。あの豹頭め、今日は見あたりませんな」
アストリアスはぎくりとした。
「援軍をひきいて、迂回してうしろをつこう、という肚じゃないのか」
「だと、願ったりですな。われわれで、あの化物を打ちとれる」
ポラックは、アストリアスの胸のうちを、ちゃんと見てとっていた。
「ねえ、隊長」
「なんだ」
「一体、やつめ、何ものなのでしょうな」
「さあな」
「あの豹頭をとってみたら、一体どんな顔が出てくるものか――」
「案外、よく知られた顔かもしれんぞ」
前日の、軍議の席上の話を思い出しながら、アストリアスは云った。
「一体、どこから来たのか。あんなすごい戦士が、もし中原にいたのなら、われわれの耳に届かないはずもない」
「ああ」
「それに、あやつ――一体、何と考えて、人間[#「人間」に傍点]でありながらセムごときサルどもに味方するのでしょう。パロの王家の生きのこりが、セムと結んだ、なんて話は、私のようにあの美しいクリスタルの都をこの目で見てきたものには、信じられませんよ。クリスタル――美しい都だった。パロの人びとは、一人残らず、すらりとして、美しく、そして肌が白かった」
「……」
「パロ王家とセム――そんなことは、ありえない。――が、まあ、それも、あの豹人めをふん捕まえて、泥を吐かせてしまえば、わかることですがね。――隊長、何をぼんやりしてるんです」
「あ――ああ。何だ」
「ともかく、ここは一番、どうあっても、われわれアストリアス隊があの豹男をとっつかまえ、公女さまの前へひきずって行ってやりたいですな――さもなくば、豹の首でもかまわないから」
「まったくさ。――おおっ、ポラック!」
アストリアスの声がかわったのをきいて、ポラックは何事かとのびあがって見た。
「おお、まただ。また、セムめ、退却しようというつもりだ」
そして鞍を叩いてうめく。まさしく、セムたちは、またしても決着をつけようとはせぬまま、とりあえず襲撃の効果をあげたことに満足してひきあげてゆこうとするところだった。
タン、タン、タン、タン、タン、と急拍子の太鼓が打ち鳴らされる。
「アイヤーッ!」
「ヒァーッ!」
セムたちは、わめきたてながら、しんがりも秩序もなく、てんでに背をむけて、あらわれた砂丘の方角へかけのぼりはじめた。
「待て、卑怯者め」
「サルどもめ、こんどこそもう逃がさんぞ!」
「今度という今度はきゃつらを全滅させるのだ。追え、追え!」
「追撃開始!」
「伝令! 伝令! 追撃開始!」
だが、今日こそは、モンゴール軍は、切って放たれた矢であった。
もはや、かれらをひきとめるべきものは何ひとつない。――それは、待ちに待っていた機会なのだ。
「ガランス!」
「はッ!」
「追うぞ!」
「は!」
マルス伯の手にした采配がうち振られ、たちまち、ツーリードの青騎士は訓練のほどを見せて五列の急流となった。
「追え!」
「マルス隊につづけ! 追え!」
砂漠は、一瞬にして、四色の雪崩の河床となった。
「畜生」
それを見やって、不満げに舌打ちをしたアストリアスも、しかたなく、兵をまとめて最後尾を走り出す。だらだらと長い列になって逃げるセム族、ウマにムチをあて、喚声をあげて追いすがる、青騎士、黒騎士、白、そしてアストリアスの赤騎士隊――ノスフェラスの戦いは、いまやそのさいごの時を迎えたかに見えた。
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3
「追え! 追え!」
「セムどもをたいらげろ!」
「逃すな! 一匹とても、生かしておくな!」
「モンゴール――モンゴール!」
砂漠はいまや、五つの巨大なイドの暴走に埋めつくされていた。
先頭を走りぬけてゆく、毛ぶかい蛮人たち――それに追いすがる青、黒、自、赤のモンゴール軍。
ウマは歯をむき出し、ひっきりなしに泡を吐き、そのたてがみと尻尾は激しくうしろへなびいた。ムチがあてられ、騎士たちは歩兵隊を追いぬいて前へ出、われこそ手柄をたてんものと喘ぎながらウマをかりたてた。
ウマのひづめは砂にめりこみ、砂を蹴立て、セムの足はひたひたと砂を叩いた。すべての人間も獣も、異常な狂熱と、物凄まじい昂ぶりに巻きこまれ、目を血走らせ、ことばにもならぬ声をはりあげつづけていた。
今日こそ――いまこそ、すべての決着をつけるのだ、とその意志にモンゴール一万の軍隊はふるい立って、行軍のつかれも、このいまわしい砂漠とそれがかくしている怪物たちへのおそれも忘れている。
「アイー、アイヤーッ!」
「ヒャーッ、ヒャーッ!」
「アルフェットゥ! アルフェットゥ!」
セムたちは、そのモンゴール兵の、昨日にかわる意気込みを、知ってか知らずか――ただひたすら、すべての統制をも、この強引な思わぬ追撃にあって失いはてたように、算を乱して走りつづける。
砂漠のランナーであるかれらの足ははやく、重い鎧をつけた体重の多い騎士たちをのせてひと足ごとにひづめをめりこんだ砂の中からひきぬかねばならぬモンゴールのウマを、しだいにひきはなしはじめた。
そうと見て、いよいよモンゴール軍はやっきになる。
「伝令――伝令ーッ!」
白い肩じるしをなびかせ、伝令係が息を切らして、先頭を走る青騎士の最後尾に追いついた。
「右府将軍よりマルス伯へ。伝令――伝令! マルス隊はこのまま徹底的にセムを追撃!」
「おおさ――云われいでも、追わいでおくものか」
かれがれの声をきいて、ガランスがわめいた。
「青騎士ども! 手柄を立てよ!」
「おお!」
青い鎧かぶとに身をかためたマルス隊は、いっせいに手にしたムチや剣をふりたて、勇み立つ。
マルス伯はちらりとふりかえって見た。マルス隊のうしろにつづくのは、タンガードの黒騎士二千――だが、それは、かなり、マルス隊にひきはなされている。
そして、その間にも、セムたちは、着々とかれらをひきはなしつつある。あくまでも平らかだと思っていたノスフェラスに、ふいに砂漠にへばりついたような低い岩山があらわれてきたことに、突然マルス伯は気づいた。
砂丘のゆるやかな起伏にそれはおおいかくされていたのだ。セムたちが目ざしているのは、明らかに、その岩山であるらしい。
と見て、マルス伯は手綱をひきしぼり、大音声をはりあげた。
「者ども! きゃつらは、若場に逃げこむ気だぞ。そうはさせるな――岩山に入られたら、これまでの二の舞だ。セムどもを山に入らせるな!」
「おお!」
マルス隊は、再びムチをあげ、ウマの腹をけりつけて、疲れきったウマを狂ったようにあおり立てた。騎士たちの腰は鞍からほとんど浮きあがり、いまにもウマの首をとびこえて前にとび出さんばかりに身をのりだし、そして鎖編みの手袋をした手は食いこむほどの勢いで手綱をにぎりしめている。
もしも、マルス伯が、それまではつねにセムたちをひきいて軍の先頭にあった豹頭の戦士の、この日に限って姿が見えないことに気づいていたとしても、おそらく、それはこの雪崩か津波のような追走のなかでは、事新しく思いうかべるいとまもないままに忘れ去られていったことだろう。
その上に、マルス伯は、アストリアスのように、直接グインと剣をまじえ、ことばをかわし、そのすさまじいエネルギーを肌で受けとめたわけではなかった。
迂回して背後をつくための別動隊をひきいているかもしれぬ、とは当然思いはしても、それはしんがりのアストリアスなり、イルムなりにまかせることである。いまはただ、セムたちを岩山に入らせてはならぬ、と思い決めて、わき目もふらずにセムたちを追いつめる。
セム族の先頭は、砂丘をまわりこみ、ひたすら眼前に大きくなってきた岩山をめがけて走っていた。木ひとつ、革ひとつない、ノスフェラス特有の灰色で丸裸のような印象を与える岩山は、ふたつ重なりあうようにして、その不吉なすがたをさらしている。
ひた駈けるセム族を追って、マルス伯の青騎士隊が砂丘をまわる。
それよりもかなり遅れて、タンガード隊の先頭が砂丘の手前へさしかかった――
そのとき!!
大地が、かれらの足もとでまっ二つに裂けた!
「ウワアアーッ!」
「ギャーッ!」
踏み出したウマの足は、虚空を踏んでいた。
「アアアアーッ!」
「止まれ! 落とし――落とし穴だああーッ!」
「ああっ!」
一瞬にして、あたりは騎士たちの絶叫と、悲鳴に満ちた!
砂丘のかげから、そこに身をふせていたセムの小隊が姿をあらわした。左から一隊、右から一隊――
かれらの手には、奇妙なひものようなものが握られている。
かれらは、あらかじめ掘ってあった落とし穴に石の板をしき、その上に砂をまいてかくしておいて、かれら自身と、そしてマルス隊が通りすぎたあと、左右へつないであった綱を切りはなち、アリジゴクの穴のように砂がくずれおちてゆくにまかせたのだ。
モンゴールの騎士たちのウマは虚空にもがきながらその中へすべりおちた。さらさらとやわらかな砂はかれらの重い身を支えるには、あまりにももろくうつろだった。
「止まれ――止まるんだ――止まってくれ!」
あとからあとから、気ばかりはやっておしよせてくるタンガード隊には、その警告の、悲鳴のような叫びは、上からおちてくるウマと人との下じきになった、先頭の方のものたちの苦痛と断末魔の悲鳴、ウマの声に消されて届かない。
「助けてくれ!」
「痛い――動けない!」
「ああ――俺の足が! 俺の足が!」
「ギャアーッ!」
下のものをおしつぶして落ちてゆくものの上に、さらに、あとからおしよせて足を踏みすべらした騎馬がおし重なって、落とし穴を埋めた。その上へさらさらと音をたてて、恐しい、何もかものみこんでしまう白砂がふりそそぎ、人びとの悲鳴と呻きをなかば消した。
「止まれ――止まるんだ。ワナだ。これは、セムのワナだぞ!」
ようやく、イルムの絶叫が人びとに届いて、少しづつ、追いかけることに夢中になっていたモンゴール騎士たちの足を止めさせた。
「止まれ。全隊、止まれ!」
「なんだと、止まれだと? そんな命令はうけてないぞ!」
「マルス隊はいっちまったぞ。いったい、どうしたというんだ。なぜ、止まるんだ」
「さっきは、徹底追走だったじゃないか、命令は!」
「どうした、何だ。前の方で、何があったんだ。また、イドでも出たのか」
「何だ、何だ。何も見えんぞ」
「止まれ、止まれ、止まれ、止まれーッ!」
蜂の巣をつついたようなさわぎの中で、
「タンガード! タンガード、無事か!」
タンガード隊のすぐあとにつづいていたイルムは僚友を案じて叫びたてていた。
「タンガードはおとし穴に落ちたのか!」
「隊長! 隊長!」
タロス砦の黒騎士たちは、悲鳴をあげる負傷者たちとウマとを、必死で救い出しにかかっていた。
それは一刻を争う作業だった。なぜなら、そのままにしておくと、見ているうちに四方から、ものごとをすべて平らかに、均等にしてしまおうというあくなき執念を燃やしてでもいるかのような、悪魔の砂流が、物凄いいきおいで流れこんできて、動くこともできずに折り重なって叫いているいけにえをみるみる、一人のこらずのみこんでしまおうとしつづけていたからである。
「タンガード隊長!」
「隊長どの!」
タンガード隊のぶじだったものの悲鳴のような声がきこえた。列の中ほどにいたタンガードは、比較的上の方から、その穴の中へおちたのである。
しかし、一番下じきでこそなかったものの、人とウマのあいだからあらわれたタンガードのひげ面は蒼白で、目をとじたまま、自らの力でまわりのものをおしのけてもがき出ようとするようすも、さしのべられた救助の手にすがろうとするようすも見えなかった。
「隊長どの――隊長どの! しっかりして下さいッ!」
「タンガード、どうしたのだ。怪我は重いのか、タンガード――」
同じタロス城にあって黒騎士をひきいる、無二の親友イルムは自らウマをとびおり、救助の人の群れをおしわけてタンガードをひき出そうとした。
しかし、ようやく、腹の上にのしかかっていたウマをひきずり出して、タンガードの上半身を持ちあげたとき――
「ウワッ!」
「隊長ッ!」
「タンガード!」
人びとの口から、悲痛な叫びがもれた。
不運にも――黒い鎧のあわせめを破って、ウマのつけている鉄のあぶみの先端が、ぐさりとタンガードの腹につきささっていたのである。
ウマをのけるはずみに、それは抜けたが、同時にタンガードの内臓も血まみれで傷口をひきずり出されていたのだ。
「お――おおッ! なんということだ!」
タンガードにおとらぬくらい、蒼白になったイルムは呻いた。人びとの中には、覚えず嘔吐をこらえて口をおさえるものもいる。タンガードが微かに叫いた。
「まだ、息があるぞ――救護兵! 救護兵!」
あわてて人びとが呼ばわる。イルムは、親友を抱きおこし、その血を止めようと手を傷に、血にまぶれるのもかまわずにおしこんだ。
そのとき――
「伏勢だ!」
「セムだああーッ!」
兵たちの絶叫がひびいた!
セムたちが、左右から、毒矢を雨のように吹きかけながら、おそいかかって来たのだ!
「おのれ――」
イルムは、ぎりりと歯を噛み鳴らし、狂おしく胸を叩いた。
「おのれセム! タンガードを――よくも!」
「敵襲! 敵襲!」
「許さん!」
イルムは吠えた。
たちまち、セムたちは、毒矢の射程圏内にやって来ている。モンゴール軍は、あわただしく、応戦の体勢をとる。
ウマは、この白兵戦の役に立たなかった。弩も同じである。騎士たちはウマを毒矢に対する盾にし、かぶとをさげ、顔をかくしながら、セムと切りむすぶべくつき進む。
うめき、呪い、泣き叫んでいる負傷者たちは、ひとまずそのままに置き去られねばならなかった。アムネリスは、伝令をとばし、白騎士団の一部をまわして、かれらを救うよう云いつけたが、おとし穴の周辺は、すでに、セムと黒騎士隊、暴走するウマ、歩兵隊の入り乱れる激戦の場となっている。毒矢と、そしてセムの石オノにまっこうからぶつからなくては、そこへ近づくこともできなかった。
「――小ざかしい計略を!」
アムネリスは怒りに青ざめて、わなわなとふるえる手で采配を握りしめる。負傷者の呻きと悲鳴は、しだいに微かになってゆき、それすらも、流れこむ白砂が埋めて、そのおとし穴をおそるべき、生きながらの墳墓と変えつつあった。
一方――
何も知らず、落とし穴の上を走りぬけたマルス隊は、砂丘を大きくまわってもはや後につづくタンガード隊をもずっとひきはなしたまま、岩山へ逃げ込もうとするセム族を、ひた追いに追っていた。
マルス伯もガランスを従え、隊の半ばほどを、ウマをかりたてると、やにわに、後方から何やら大きな叫び声と、何かがくずれ落ちてゆくような物音が立てつづけに起こったのである。
そして、わずか数分を待たずに、
「セムだ!」
「伏兵だぞーッ!」
という絶叫。
「隊長殿!」
ガランスは、ウマの手綱をしぼると、マルス伯に、ウマを寄せていった。
「隊長殿」
「うむ、聞こえた」
伯爵は、うしろをふりかえった。
もとより、白くさらさらとたえずその表面を砂のこぼれおちている砂丘が、かれらの視界をさえぎっている、しかし、その向こうでつづけざまに聞こえてくるのは、もうかれらがイヤというほど知りつくしている戦闘の物音、そして蛮族の恐しい、甲高い笛のような雄叫びにまぎれもない。
「あっさりと引きあげたと思ったが、やはり伏勢があったのだな」
たくまれた落とし穴のことを知るすべもなく、マルス伯は云った。その間にも、ウマの足はゆるめない。
「セムめ、小ざかしい真似を――おおかた、豹人の指揮だろうが、小知恵のまわることだ」
「で――」
ガランスは、少し心配そうな顔をした。
「どうします、隊長殿」
「どう?」
マルス伯は、むしろけげんそうに忠実な副官を見返した。
「本隊は八千だ。いくらセムが多いといっても、あれと前方をかけぬけてゆくセム軍のうしろ姿へ顎をしゃくって――だけの人数を本隊においておれば、伏兵に一万は使えまい。何も、心配することはない」
「では、このまま、追っかけますか」
「むろんだ」
マルス伯は前方をにらんだ。
「伏勢の方は、本隊に任せておけ。あちらには、タンガードも、イルムも、小アストリアスもいる。セムになど、遅れをとるおそれはまったくない。われわれは、追撃隊だ。このまま、きゃつらを追いかける」
「追っかけますか!」
「おお。ここまで来て、山に逃げこまれ、見失っては、いつもと同じことだ。セムどもめ、そうたやすく、きゃつらの村までわれわれを案内してはくれんだろうが、追いかけて、追いかけて、追いかけまくるうちには必ず、逃げきれなくなって村の方向へいくだろう。そこを、叩きつぶしてしまえ。そのうちに、本隊が合流してくるからな」
「合点承知!」
ガランスは、面頬をあげ、日に焼けた顔を出して、伯ににやりと笑いかけた。それから、ウマの腹をけり、伯を追いぬいた。
「このまま、追っかけるぞ! 脱落するな、セムの巣をつきとめろ!」
大声でわめきながら隊列の横をかけぬけてゆく。マルス伯は、再び、本隊のようすを見ようとふりかえったが、戦いがまだつづいているらしく、まだタンガード隊の先頭も砂丘のかげをまわって姿をみせるきざしはなかった。
前方の岩山は、いよいよ大きくなって来て、その裾から少しカーブして、うしろ側の山の方へ入ってゆく、谷へつづく道があるのが見える。すでに、敗走をつづけるセム族の先頭は、いっさんに、その谷あいの道へと走りこむところだ。
「逃がすな! 山へ入らせるな!」
再び、ガランスは大声をはりあげた。
「下は岩場になってきたぞ! ウマに岩角を踏ませるな!」
モンゴールの騎士たちはそれに応える喚声をあげた。砂を踏むたびに、ズボッ、ズボッと自らの重みでそれにめりこんでいたウマの足も、下がしだいに固い地画になってきて、走りよくなっている。ムチがあがり、泡をふいて疲れきったウマにさいごの力をしぼり出させる。
「追え! 追え!」
「追いつくぞ!」
「モンゴール、モンゴール、モンゴール!」
先頭の方を走っていた騎士たちは、ようやく、その利を得て一気にセムのしんがりとの差をつめていた。
「くらえ!」
馬上から、大剣をふりあげて、ちょこちょこと走るセム族の頭に打ちおろす。かぶとをかぶっていない蛮族は、ひとたまりもなく頭を割られ、血を噴水のように吹き出させる。
下が固い、平地ならば、いかにセムがすぐれた砂漠のランナーであろうとも、ウマの足にはかなわない。青騎士たちはウマをかりたて、セムのしんがりを追いぬきざま左右に切りさげ、切りふせる。
中には、足をとめ、オノをふるって反撃をこころみるものもあれば、剣をかいくぐって馬上の騎士にとびつき、地上へひきずりおろそうとするものもある。だが、反撃のオノはかけぬけるウマをとらえかねて宙を打ち、まだ体勢を立て直せずにいるところを、たちまちそれにつづく騎手が唐竹割にした。
とびつくものも、騎士にかわされ、ウマのあぶみに足をひっかけたまますべりおちて、白い岩にまっかな血の筋をひいてひきずられた。切りふせられてよこたわる蛮族の小さなからだを、次次に怒濤となっておしよせるモンゴールの騎馬がひづめにかけて踏みにじる。
「アイヤーッ!」
「アルフェットゥ!」
「キャアーッ!」
心なしか、セムの甲高い叫びには悲鳴に似た恐怖のひびきが入りこんできている。
白くかわいた谷の入口は、いまや一方的な虐殺の場と化していた。
(セムたちには、あの豹人以外にはしっかりとしたリーダーがいない。要するに鳥合の蛮族、野蛮なサルどもだ。――でなくとも、いつになくしつこく追いかけられて、浮足立っている。人数をまとめて反攻しようというよりさきに、きゃつらは、追われて逃げまどう恐怖にかられたけだものの群れになってしまっているのだ)
マルス伯は、左右に走りぬけるセム族には大して注意も払わず、ただ前とうしろに気を配ってゆるゆるとウマを走らせながら、むしろ自らの疑問に自ら答えようとするかのようにつぶやいた。ガランスもまた彼の側をはなれ、剣をあげてセムたちを追いまわしている。
いまや、マルス伯のまわりに展開しているのは勇敢な未開の蛮族の戦士を、ウマに乗った力強い文明の戦士が踏みにじってゆく戦いのなれのはてですらなく、ただひたすら、キーキー叫んで逃げまわる獣を、人が勝ち誇って面白半分に切りすてる、サル狩り、猛獣退治そのものであった。
何がなし、そのことに対する一抹の不安が伯の心にさっきから、風にのってくるエンゼル・ヘアーのようにからみついてきてはなれない。しかし、その微細な異和感のゆくえを、はっきりとつきとめようとすればするほど、それはエンゼル・ヘアーそのままにすうっと溶けて、あとかたもなく消え去っていってしまう。
「……」
マルス伯は、かぶとの中で、誰にも見られぬまま白い眉をしかめ、困惑したような嘆息をもらした。何やら、心が晴れない。
が、すぐに、頭をふり、ウマの腹に拍車をあてた。
「いたずらに敵をたいらげるに心をとられるな。よいか――いくらかを生かしてわざと逃がし、この機にセムの本拠をつきとめ、今度こそ恨絶やしにしてくれん。ノスフェラスから、セム族を一匹のこらずかたづけてしまうのだ――よいな、ここで、この場できゃつらを全滅させることにこだわるな」
年老いたとはいえ、少しもおとろえぬ大声で叫びながら。そこかしこでくりひろげられている酸鼻の光景のかたわらを、まっすぐウマで走りぬけてゆく。
白い谷は血に染まり、セム族の切りおとされた首や腕、まっぷたつにされた胴や内臓であたりはぶちまけられたようになっている。呻き声、絶叫、断末魔の悲鳴が入りまじり、それへモンゴールの騎士たちの、勝ち誇った叫びがかさなる。毛深い小さなからだはウマのひづめにかけられ、モンゴールの剣に両断され、恨みをのんで歯をむきだし、白く目をむいた前人類の首が、血潮をあふれ出させながら宙高く舞いあがっては、ぴしゃりと谷の岩に叩きつけられてつぶれる。
だが、戦さに馴れた老戦士は、それに心をいためるでもない。ウマが、ぬるぬるとすべる血に足をとられてころばぬよう、気をつかいながら、青いマントとかぶとの上の房飾りをなびかせて、ずっとその地獄のまっただなかをかけぬけた。
そこへ、
「隊長殿――おお、隊長殿!」
息せき切って、一人の騎士が、かれらの行手の方から馬首をめぐらしてかけもどってくるのに行きあった。
「わしはここだ。何だ」
「おお、隊長殿。おられましたか」
あいては、せいせいと息をはずませて、
「大変です。きゃつらの村が――セムどもの村が!」
「なに!」
マルス伯はきっとなった。
「セムの村が何だと!」
「ありかがわかりました。この先です」
騎士は手をあげて、来た方を指さした。その鎖編みの手袋をはめた手は、わずかに、おそらくは昂奮のあまり、ふるえていた。
「なにッ、本当か!」
「たしかに。きゃつらは、必死で村に逃げこもうとしていたのです。セムの村は、この谷底です」
「……」
マルス伯は、何か、叫び出そうとした。
が、ふと、気をかえて、
「お前は? 面頬をあげい。それがまことならまたとなき大手柄だ」
「まことであります。わが守護神モスにかけて!」
騎士は云い、素直に手をあげて、かぶとの面頬をあげた。見るなり、マルス伯は莞爾と微笑んだ。
「アルゴンのエル! お前か!」
「はッ」
黒い切れ長の目が中に火をひそめた黒タンパク石のように輝いた。彼は、息を切らし、きびしい表情をしていた。その緊張をゆるめて、伯ににこりと笑い返した。
「よーし、手柄だぞ!」
お前を、親衛隊長に推薦しよう、と口にしかけて、それはまだあとのことだとマルス伯は思いかえした。
「この谷底だな」
「はいッ!」
「よし。ガランス! ガランス!」
たちまち、走ってきたガランスの命令で、マルス隊の青騎士はそこでるいるいと横たわるセム族にとどめをさすのをやめた。
「セムの村を打ち滅せ!」
「女、子供も残しておくな!」
「捕虜はいらぬ! 皆殺しにしろ!」
「モンゴール、モンゴール!」
叫び声は谷にこだまし、それをさらにドドドド……と地鳴りのような、全青騎士団のウマのひづめの鳴る音が消した。
「モンゴール――モンゴール!」
マルス伯は、ぐいとマントをふりやった。
「エル! 案内を!」
「心得ました」
セムの村へ、セムの村へ――
青い死の津波をのせて、いま、二千の騎馬が、ノスフェラスの地をゆるがせて馳け下ってゆく!
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そして――
ほどもなくそれはかれらの前に、その全容をあらわにしたのだった。
「おお――」
「セムの村!」
期せずして、それを見おろしたモンゴール兵たちの口から、同じ嘆声がもれる。
それは、ひっそりと、谷底の涸河《ワジ》のほとりにわだかまっていた。
白くかたい泥でつくられた、かわききった伏せ椀のようないくつもの建物。
床は地面を掘りさげ、柱はナワでしばりつける、きわめて原始的なたてあな式の住居である。
まん中に集会用であろう広場があり、土の家のいくつかからは、ちょうど炊事をしていたところなのか、あわい紫色の煙がほそぼそと立ちのぼっている。
かわき、涸れはてたワジの河床には、何本もの杭が打ちこまれ、それにはなにやらけものの皮や――そして恐しいことには、明らかに人の――文明人の首とわかる奇妙なボールがさらされて、かわかされている。
そして――
村は、無人であった。
すでに、先頭をきってその村へ逃げこんだセム族が、かれらの妻子に迫りくる危難をつげて、とるものも取りあえず、村をおちのびさせたものか――それとも、むしろ、あわてふためいて、逃れる場所もないまま、小さな毛深い人間たちは、その原始的な家々の中に逃げこみ、母は子を、姉は妹を、老人は孫をひしと抱きしめて、身をよせあってこの恐るべき災厄――青く光る鉄の皮に守られ、巨大な四足獣にうちまたがった魔神たちの来襲をふるえながら待ち、かれらの神の名をとなえているのだろうか。
それとも――
マルス伯は、ゆっくりと面頬をおしあげた。
きびしい、油断のない目つきで、セムの村を見まわし、そこに何らかの痕跡を、かれらがどうしたか、その正しい手がかりを与えてくれるしるし[#「しるし」に傍点]を求めようとする。
「――ガランス」
「はッ」
「かなり、大きな村だな」
「は」
おのづから、声さえも、ひそめられるような感じになる。風のそよぎ、さらさらと流れおちる砂のささやきさえも、はたりと途絶えた。
それは、死の谷を、死に絶えた村をさえ思わせた。谷あいに、家々はしんと静もり、モンゴール軍がいま踏みにじってきたその道に、るいるいと折り重なってよこたわる小さな毛むくじゃらの死骸も何も語らず――
ただ、ワタのようにかるく、しかもイドのように押しのけることもできぬ、圧倒的な静けさが、息づまるような緊張感のなかで、かれらに執拗にまつわりついて来る。
誰かが、鎧に剣をふれあわせ、ガシャーンとするどい金属製の音をたてて、ハッときこえるほどの勢いで息をのんだ。
だが、そのまま――
再び、静けさが、さらさら、さらさらと流れこんですべての穴を均等に平らかに埋めてしまう、ノスフェラスの白砂のように、そこへ流れこんできて、一瞬のおののき、何かが破れかかる刹那の戦慄を埋めつくしてしまう。
家々は語らぬ。涸《ワ》れ河《ジ》も、語らぬ。ましてや、杭につきさされた生首も、そのカサカサとひからびてふくれあがった唇をひらいて、村人のゆくえを告げようすべもない。
「隊長――」
ガランスが、声を出すことを自ら畏れるかのように、神々しいヤヌス神の神殿の奥の院へでも間違って足をふみ入れてしまったかのように、咽喉声で呼んで、そっとウマをマルス伯のそばによせてきた。
が、どうつづけてよいかわからぬように、老伯爵を見上げる。もう何十年、こやつはこうしてわしのかたわらにウマをよせていることか、とふとマルス伯は、日だまりのソファにでもいるように、そんなことを考えた。古い忠僕、忠臣、古い友――年も同じなら、経てきた戦さの数も同じ、十五の年に共に初陣をして以来、どちらかが流れ矢にも当たらず、ウマからおちて首の骨も折らず、パロ、サイロン、チルエルアラーム、と転戦してツーリード城に及ぶ。
ガランスのウマがぴったりとよりそって来ると、ふしぎな安心感と、そして死なせたくない、古く長い信頼と忠実の中で醸し出された友愛の情とが、すでに髪も髯も眉もまっ白になったこの老武人の胸中にこみあげてくる。
(遠くへ……)
なんという遠くへ来てしまったことか――そう、場違いな感慨にとらわれたことに、ふっと気づいて、マルス伯がガランスに指示を与えようと口をひらきかけた時だった。
「ハイッ!」
いきなり。するどい叫び声が、沈黙をひきさいたのである!
はッ、と全員が段から足でも踏みはずしかけたようにおののいた。
その中を――
そんなことには頓着するようすもなく、青騎士の隊列をはなれて、一騎の武者が、狂ってでもしまったように、しゃにむにセムの村へかけこんでゆくのだ!
「おう――」
マルス伯は、夢からさめたように、愕然とした。
「何事だ――命令なく、動いてはならん!」
「おい、どうしたというのだ。止まれ、止まらんか」
おどろいてガランスも叫ぶ――が、聞かばこそ!
ただ一騎のその騎馬は、狂ったように、
「ハイッ! ハイッ!」
乗り手は宙に腰を浮かせ、マントをなびかせ、ウマの首からいまにも飛び出さんばかりに前のめりになって、ひたすら、生命がけの勢いで、セムの村へかけてゆく。
「ガランス!」
マルス伯は、副官をふりむいた。
同時に、一心同体のガランスの手が大きく打ち振られる。
ドドドドド……と音を立て、地を鳴動させて、モンゴール青騎士団は、セムの村へと殺到した。
「ガランス!」
その中で、マルス伯はふいにかっと目を見開いて叫んだ。
「あれは、エルではないか」
「は――?」
「まちがいない。アルゴンのエルだ。ばかな、エルめ、手柄にはやったか――たとえ女子供ばかり残されているとしても、ここはセムの村、イドの例もある――どのようなたくらみがあるものか、知れたものではないに」
エルめ、まだ若いな――苦々しく、そう吐きすてたとき、当のエルの方は、何の障害にもあわぬままセムの村のまんなかをいっさんに走りぬけ、そのまま上りになっている向こう側の道へつっこんでいくところだった。
「エルのやつ、何の――」
つもりだ、と云おうとしたのだ。
だが、そのいとまはなかった。
エルは見ているうちに谷をかけぬけ、かけあがり――
そして、手をあげるなり、さっとふりおろしたのだ。
その途端だった!
ふいに、モンゴール軍をおしつつんで、谷が鳴動した!
すさまじい音が大地をゆるがした。一瞬、モンゴール軍は、何が起こったものか、まったく理解しなかった。
それをようやくわかったときには、もう手遅れだったのだ!
頭上から、谷底めがけて、無数の巨石が雨あられところげおちて来たのである。
「ギャーッ!」
「ウワーッ!」
「アアーッ!」
たちまち、そこは、阿鼻叫喚のるつぼと化した!
巨石は、すさまじい勢いで、さながら岩山が噴火しでもしたかのように、山肌をはね飛びながら、かれらの上に降って来た。鉄のかぶと、鉄の鎧が、このおそるべき破壊の前に何の役に立ったろう――それは、まるで紙のそれででもあるかのようにひしゃげ、石の下敷きになった。悲鳴と苦痛の絶叫、そして助けを求める金切声が、あれほど静まりかえっていたセムの谷を一瞬にしておおいつくした。
石と岩とが打ちあってたてる、すさまじい煙と、石の粉の乱舞とが、ようやくいくらかおさまったとき、一瞬にして呻き、呪い、泣き叫ぶ負傷者の集団となったモンゴールの誇る青騎士団は、かすむ目をこすって上を見上げ、そして見た。
谷の上の岩々――その間から、無数の小さな悪鬼の顔がのぞいている。
それはモンゴール軍にとっては見わけるすべとてもなかったけれども、それこそは、このセム=モンゴールのノスフェラスをめぐる死闘に、ついにこれまで加わろうとしないで来たさいごの部族、カロイ族の戦士たちであったのだ。
セム軍がかれらをおびきよせた谷の村は、カロイの村であった。さしも、動き出そうとしなかったカロイも、モンゴールの大軍がまっしぐらにかれらの村をめざして来ることを告げられ、斥候を出してそのことばの真であることを知ると、もう、槍をとって立たぬわけにはゆかなかったのである。
カロイは参戦した。カロイの長《おさ》ガウロは、これまでのいきさつを水に流したロトー、ツバイ、イラチェリと手を組んだのである。
そのガウロに率いられたカロイの戦士たちが、崖の上からさしのぞいて、号令を待っていた。
ガウロの手がさっと打ち振られる。たちまち、第二波の巨石がモンゴール軍の頭上に無慈悲な死を降らせる。
「危い――隊長殿、伏せて!」
ガランスは、幸いにしてさきの攻撃にも岩の直撃をまぬかれた老隊長を、とびついてウマからひきずりおろすなり、ウマと岩のかげに押し倒した。悲鳴と絶叫とを岩の砕ける音が消し、泥をかためたカロイの家は見ている前で岩に打たれて木っ端微塵に砕け散る。
「頭を下げて――伏せてッ!」
ガランスはわめいた。マルス伯は、まるで自分に何が起こっているものか、よく理解していないようだったのだ。
「わからん――なぜだ……どうして――エルは――何を……」
頭もからだも叩きつぶし、血まみれのどろどろの挽き肉にかえてしまう巨大な岩など、降っても来ない、といったようすで、伯はぼんやりと呟いているだけだ。
「隊長殿――罠です。われらは、罠にかかって――」
叫びながら、あるじの一方へ腹這いになってにじり寄ろうとしていたガランスの声が、突然途絶えた。
その老いて忠実な頭を、巨大な岩がまともに一撃したのである。マルス伯は、はッとして、一瞬に自分を取りもどした。
「ガランス――ガランス!」
愕然として飛び出す。副官の頭の位置には、突然に彼の白髪頭がそんなに巨大にふくれ上がりでもしたように、大きな岩があるばかりだった。
「ガランス!」
マルス伯はのども裂けよと叫びながら岩をおしのける――が、そのままよろよろとあとずさり、岩につきあたってがくりと手をつく。
ガランスの頭のあったところには、ただ、何やら血の色の中に白や灰色のどろどろが混じった、ねばつくゼリーか、生肉のようなペーストがあるだけだった。
「ガランス!」
伯は血を吐くように絶叫した。が、恐しい形相になって歯を噛み鳴らしながら谷の上方を見上げる。
もう、大石の用意は、急のこととて品切れであるらしく、石の降ってくるようすはなかった。石はすべて谷底を埋めつくし、一瞬前までのその力と生命にあふれたモンゴールの精鋭を、半ば以上血と肉のむざんな練りものに変えてしまった。
からだを石になかば押しつぶされた負傷者の、耳をおおうような苦悶の呻き、ウマの苦痛の鳴き声、ひっきりなしの、つきささるような悲鳴――
それの立ちのぼる谷底をのぞきこむようにして、カロイの毛深い無数の顔がある。
戦士の顔料で顔をくまどった、サルに酷似した矮躯。キーキー、キーキー、と勝ち誇ったような甲高い、耳ざわりな叫びをあげているかれらに混って、一人だけすらりと高く、モンゴールの鎧をつけた男が立っていた。
「エ……ル――」
しぼり出すような――血を吐く叫びが、声にもならぬ叫きになって、マルス伯爵ののどから押し出される。
その男は、谷をのぞきこんでいた。長い青いマント、青い、胸にモンゴールの紋章を打った戦士の鎧、腰に下げた大剣、革の青い長靴。鎖編みの手袋をした手をあげて、彼はゆっくりと、青い、紋章を前立てに打ってあるツーリード城のかぶとをぬぐと、それを無造作に谷底めがけて放った。
かぶとの下からあらわれた顔は若かった。――浅黒く、日に焼けた端正な顔。まだ二十代の前半、いや、それにもいっていなさそうに見える。ととのった顔立ちは、しかし、いまはひきつって、おののいている。いつも陽気にくるめいている、怜悧でシニカルな、輝かしい黒曜石の瞳も、いまは大きく見ひらかれ、異様な激情にふるえてでもいるようだ。
黒い長めの髪には銅のバンドをつけ、そのくちびるはそばへよって見ればぶるぶるふるえてきつく歯で噛みしめられていることがわかっただろう。その手もまたきつくマントのはしをにぎりしめている――が、はずみでかぶとをうしろへとばしてしまったマルス伯爵を、その白髪でそれと見わけ、彼がまだ生きて、こちらを見上げていることを知ったとき、――
ヴァラキアのイシュトヴァーンは、ぶるぶる震えながら手をあげ、そして振りおろした。
「キャーアッ!」
「イーイーッ!」
カロイたちの方は、ほとんどはしゃぎ立てている。たちまち、手はずどおりにいくつもの巨大なつぼが、三人がかりでさかさにされ、なかみが谷底めがけてふりそそぐ。
「お――」
「な……なんだ。これは――」
死傷者をかかえたまま、身動きのとれなくなったマルス隊の生きのこりたちは、自分たちの上にふりかけられたそのぬるぬるする液体に、いぶかしげに、毒ではないかと鼻をこわごわよせる。が、
「油だ!」
「ヴァシャの油だ!」
「セムめ――俺たちを生きながら焼く気か!」
すべてのモンゴール騎士の顔から、血の気が失せた。
「サルめまさかそんな……」
「おう、ヤヌスの神!」
だが、すでに、崖の上には、うしろにさがって用意していたセム軍が入れかわってあらわれていた。
その手には、先に火のついた、火矢がつがえられている。
「お――お……おのれ……」
紙よりも白くひきつっていたマルス伯の顔が、くしゃくしゃとゆがんだ。ようやく、かれがれの声が洩れた。
「よくぞ――よくぞたばかって……モンゴールの――モンゴールの鎧をつけながら、モンゴールの名をとなえながら、これほど――これほどまでに……」
マルス伯は、さいごの気力をしぼりつくして、剣を杖によろよろと立ちあがる。
「売国奴。――いや、裏切者……アルゴンの――エル!」
もはや、伯の目には、そのまわりで苦痛にうめく部下たちも、崖の上のセムたちと、そしてその手から、すぐにでも発射されるべくめらめらと燃えたっているおそるべき死の運命すらも入らない。
ただ目に入るのはアルゴンのエル――ヴァラキアのイシュトヴァーン――ただひとりである。
「きさまだけは、許しておかぬ。きさまだけは――たとえ、たとえこの身が……砕け散るとも――ガランスの仇……」
やにわに、老人とも思えぬ敏捷さで、伯は手を返すなり、杖にしていた剣を投槍がわりに崖の上へ投げつけた。
「わあッ!」
イシュトヴァーンは悲鳴をあげて身をよける。が、執念をこめた剣先を、完全にはよけそこねた。マルス伯の剣は、ざくりと、イシュトヴァーンの右の耳を切り裂き、鮮血が吹き出した。
「痛え!」
イシュトヴァーンはわめき、手で傷をおさえ、腹立ちまぎれにもう一方の手をふりあげる。
「やれ! やっちまえ!」
「イーアーッ!」
火矢は、いっせいに、切って放たれた!
それは、一瞬にして、カロイの谷を火につつんだ。
ばらまかれた、ヴァシャの油に火が燃えうつり、たちまちのうちに、谷底にうごめくモンゴール兵とウマたちを、狂気のようにはねまわる、フライパンの中のシラミに変えた。岩による圧死をまぬかれた兵たちとウマたちは、更にいっそうおそるべき死の運命が、自らを待ちかまえていたことを知らされた。火はたちどころに谷一面にひろがり、ごうごうと人体の油で燃えさかる。人びとは狂ったように、逃げ道をさがして谷をかけ上ろうとしたが、すでにあらかじめ両側の入口は岩によってすっかりふさがれており、そして崖を這いのぼって助かろうとするものめがけて、セムたちは情容赦なく岩をころがし落とし、あるいは致命的な毒矢を吹きつけた。ときおり、セムの女たちが前に出て、火勢をよわめぬよう、上からヴァシャの油をふんだんに注ぎかけた。
谷は、巨大な火葬場――モンゴールの精鋭たちを、生きながらほふる、ごうごうと音たてて燃えさかる火の海と化していた。その中で、騎士たちは黒こげになり、狂った死の舞踏をおどってのたうち、走りまわり、むざんにも火の神なるミゲルの舌になめられ、炎に包みこまれ、全身をかきむしりながら息絶えていった。ウマたちも、その例に洩れなかった。
その修羅の火焔地獄のまっただなかにあって、マルス伯爵は、まだ、生きていた。もはや全身に油をあび、足もとは燃え出し、マントの端もちろちろと燃えあがりながら、それでもまだ、伯はその足で地を――死の満てる大地を踏みしめて立ちつくしていたのである。
その白髪はさかだち、その顔は荒れ狂う炎をうつして真赤に染まり、さながらそれは火の神ミゲルその人のうつし身とも、阿修羅のすがたとも見える。
その血走った目はただ、かたときもはなれようともせずに崖の上のイシュトヴァーンの姿を追い求めていた。だがその背後にもはや火は迫り、のたうちまわる部下たちをむごたらしい黒こげの死体とかえたように、この高貴な武将をもひとなめにしてやろうと、舌なめずりをしている。
イシュトヴァーンは、痺れたようになってそのさまを見守っていた。片手で右の耳をおさえたまま、そのいたみさえももはや感じない。ただ、まるで呪いにでもかけられたように、どうしても、マルス伯爵のすがたから、目をはなすことができないのだ。
ついに、ボッと音をたてて、マルス伯の全身が、炎に包まれた。
それはまるで、この老武人をやさしく迎えにきた大気の乙女アイノの火の接吻とも――太陽神ルアーの炎のチャリオットが、この老伯爵をその手にひきあげた一瞬ともみえた。
あかあかと、白熱する火炎に全身をゆだねて、マルス伯は、なおもそこに立っていた。白髪頭も燃えあがり、彼はもはや、巨大な人間たいまつとなっていた。
そのとき、彼は目をくわッとはりさけるほどに見開いた。
「アルゴンのエル――」
その声が、崖の上のイシュトヴァーンに届いた。おそろしいほどに、ありありと、それはあたりにひびきわたった。
「アルゴンのエル。モンゴールは、決して忘れぬ……裏切者の名を――アルゴンのエル。アルゴンのエル。アルゴンの……」
思わず、おれはアルゴンのエルなんかじゃない、とヴァラキアのイシュトヴァーンが耳をおさえて悲鳴をあげそうになったときである。
マルス伯のからだは、真黒に焼けこげて、音もなく死の猛火の中に倒れこんでいった。
谷には、もはや、ほとんど生きて動くものの姿さえもなくなっていた。ただ、狂炎だけが、ごうごうと、そのおそるべき宴を飽くことなくくりひろげる。
イシュトヴァーンの顔は蒼白だった。
「悪く――悪く思わないでくれよ。こいつは、俺じゃねえ。グインの思いついたことだ……奴の頭をかざるシレノスにかけて、呪われるなら俺じゃない、グインなんだ」
そして、彼は、老武人の呪いがかからぬうちに、とでもいうように、大あわてで、ツーリードの青騎士の鎧かぶとをぬぎすて、火の中に投じはじめた。
かくてツーリード城主、マルス老伯爵のひきいる、モンゴール二千の青騎士隊は、カロイの谷を巨大な火葬の穴と化して燃えつきたのだった。
やがてようやくのことでセムの伏兵を追い散らしたモンゴールの本隊がマルス隊のあとをたどってカロイの谷へ入ってきたとき、もはやセム族の姿は一人もなかった。ただ、そこには、黒こげになった、二千の青騎士隊のむざんな姿が、苦悶の姿をそのままに折り重なっているばかりだった。
グインの計略は、みごと、図に当たったのである。
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あとがき
グイン・サーガ・シリーズ、第一部「辺境篇」第四巻である。
毎回あとがきを書いていると、だんだんネタがなくなってしまうので、毎回、少しづつ異ったことがらについて解説し、少しづつでもよいから読者の便宜をはかることにしたいと考えている。何か、ご質問があったらお答えするので、早川書房あてでお手紙下さい。
(ただし、この先のストーリイ、及び登場人物の星座についてはノーコメントである。後者はなぜかというに、現在とは星の配置がまったくちがっているので、いまの尺度では、はかることができないからである)
というわけで、今回は、二、三の気になる点について注釈を加えておく。
まず、メイン・タイトルたる「グイン・サーガ」について。これは、グイン・「サガ」と、つめて呼んでいる人が多いようなのだが、作者の気持としては、あくまでも「サーガ」とのばしたい。その方が、語呂がよいからである。すべては語呂によって決められる。それに、「サガ」だとツイストを連想するので、イヤなのであります。
「サーガ」とタイトルにあることから、これが、何らかの、既存の神話や英雄譚を下じきにしている、というふうに受けとられるかたが少なくないようである。しかし、この点についてはことに明記しておきたいのだが、そういう事実はまったくない。このグイン・サーガには、ヴァラキアのイシュトヴァーンをはじめとして、バルドル、シグルド、アムネリス、といった、あるいは歴史上の、あるいは神話上、創作上の人物の名前が出てくるが、それはまったくその人物の謂ではなく、むしろ、先史以前の歴史中にあったそうした名が、長い年月を経て各地で見出されることがロマンである、というように受けとっていただきたい。言語の進化や偶然の一致についても同じことである。
それから、このグイン・サーガ・シリーズには、一冊一冊、英語の、頭韻を踏んだ「原題」がつけられているが、これを考えて下さっているのは、翻訳家のLEOこと佐久間弘さんである。この機会に、彼の苦心に対してお礼を云っておこう。
次に、「グイン・サーガ」世界における、基本的な度・量・衡についてのべておく。
長さの単位
一タール=約三一〇タルゴル。
一タッド=一〇〇〇タール。
一モータッド=一〇〇タッド。
〔註〕グインの身長が正確にいうと、二タール四〇タルゴル。
重さの単位
一スコーン=一〇〇〇ラン。
一ゴル=一〇〇〇スコーン。
〔註〕一ランは中原における通貨の名称でもある。これは、その貨ひとつがそれぞれ一ランの重みをもっていることによる。グインの体重は一〇五スコーン。
時間の単位
一ザン=四五タルザン。
一タルザン=九〇タル。
一タル=中肉中背の男のふつうに歩く一歩の時間。
一日=三〇ザン。
ただし、この時代に、時をはかる機械をもっているのは、正確なそれは星々の運行から算出する占い師、魔道師のみで、ふつう一般には、日の出をもって朝とし、日の入りをもって夜とし、その間は砂時計をひっくり返して用を足す。しかし、王家が祭司を兼ねているパロ旧王朝では、クリスタル・パレスの水品塔の先端に、陽光のつよさにより反応する時計をもうけ、町の人々はその色と、毎ザンごとの鐘によって時刻を知った。パロが、中原随一の文化国と呼ばれるゆえんである。
通貨単位は、「ラン」が最も一般的であるが必ずしも全世界的に共通とはいえないので、物語の進展をまって詳述することとし、今回は省略する。
なお、次巻「辺境の王者」をもって第一部「辺境篇」はいったん完結し、あらたに「陰謀篇」がはじめられることとなるので、その前に、ここで第一部の登場人物表を掲出しておくことにしよう。物語の参考にしていただきたい。
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グイン 全篇を通じての主人公。人身豹頭をもち、ルードの森に突然あらわれるまでの記憶と出自を、「グイン」と「アウラ」という二つの単語の他は一切失っていた。その豹頭はいまのところとることができないし、毒矢の毒も通らぬらしい。その他にも彼をめぐっていろいろといぶかしいことがある。剛力無双の巨漢で古今未曾有の戦士。
リンダ 滅び去った王国パロの王女。十四歳で、予言者の能力をもち、「予知者」の敬称をもっている。勇敢で勝気な、進取の気性に富んだ少女。
レムス リンダの双生児の弟、パロの王子。パロ聖王家を継ぐべき正当な権利をもつ。リンダと二人「パロの聖双生児」「パロの真珠」とも呼ばれる。気がやさしく夢見がちな性格。
イシュトヴァーン グインたちと、スタフォロス城脱出のさい相棒になった正体不明の若者。自ら「紅の傭兵」「魔戦士」と名乗り、まだ若いが多くのうろんな経験をつんでいる。陽気で、生まれおちたときの予言により彼を王にしてくれる「光の公女」を探している。
アムネリス ゴーラ三大公国の一つ、モンゴール大公国の公女、ヴラド大公の娘。十八歳で、つねに男装し、輝く金髪、女ながら右府将軍の位にあり、「公女将軍」の呼名をもつ。きびしく凛烈な気性の持主。
アストリアス モンゴールの名門貴族のむすこ。アルヴォン城の赤騎士隊長。アムネリスを慕い、グインを憎む。
マルス伯爵 モンゴールの大貴族、ツーリード城主、アムネリスの昔のお守り役。剛胆な老武人で、ノスフェラスの戦いに出陣し、カロイ谷で悲劇的な最期をとげる。
リカード伯爵 モンゴール、アルヴォン城主。赤騎士を率いる。
リーガン小伯爵 リカード伯の嫡男、赤騎士隊長。アストリアスの親友。
ガユス アムネリスの軍師、魔道士。
ポラック アストリアスの副官。
ガランス マルス伯の副官。
フェルドリック 白騎士隊長。アムネリス旗、本隊の隊長。
タンガード アムネリス麾下の黒騎士隊長。
イルム アムネリス麾下の黒騎士隊長。
ロトー セム、ラク族の大族長。
ガウロ セム、カロイ族の大族長。
イラチェリ セム、グロ族の族長。
ツバイ セム、ツバイ族の族長。
カルト セム、ラサ族の長。
シバ ラク族の戦士。
サライ ラク族の戦士。
カル=モル キタイの魔道師。ノスフェラスを越えた男。
ヴァーノン伯爵〈黒伯爵〉。スタフォロス城主。
スニ セムの少女、ロトーの孫。リンダに生命を救われ、以後ずっと忠実にリンダに従うようになる。
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著者略歴 昭和28年生、早稲田大学文学部卒 主著書「豹頭の仮面」「荒野の戦士」「ノスフェラスの戦い」「セイレーン」(以上早川書房刊)他多数
GUIN SAGA<4>
ラゴンの虜囚
昭和五十五年六月三十日 発行
昭和六十年三月三十一日 十一版
著 者 栗本薫
発行者 早川清
印刷者 矢部富三
発行所 株式会社早川書房
平成十九年七月十三日 入力 校正 ぴよこ