グイン・サーガ 3 ノスフェラスの戦い
栗本薫
滅びさったパロの王国の遺児リンダとレムスは、ゴーラ軍に追われて妖魅の支配する魔界ノスフェラスへと逃れた。二人と行動を共にするのは傭兵イシュトヴァーン、小人族セムの娘スニ、そして、豹頭の怪戦士グイン。彼らはスニの部族ラク族と合流し、白兵戦の後ついに追手の小部隊を蹴散らしたが……敗走する部隊を偵察に出たグインらは、背後にひかえるゴーラの大部隊に遭遇、一転追われる立場となる。しかも、ようやく追跡を振りきったと思う間もなく彼らの行手に奇怪な食肉生物イドが待ちうけるのだった。人外魔境に展開するシリーズ第3弾!
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NODUSATNOSPHERUS
by
KaoruKurimoto
1980
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カバー/口絵/挿絵
加藤直之
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目 次
混沌《カオス》の時代……………………  九
第一話 白き死の谷……………………… 一五
第二話 セム族集結……………………… 七七
第三話 カル・モルの秘密………………一四五
第四話 ノスフェラスの戦い(一)……二〇九
あとがき……………………………………二八一
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――長い年月の後、はじめて模様はそれ
と知られるだろう。しかし模様のすべて
は、かせ[#「かせ」に傍点]とおさ[#「おさ」に傍点]の最初のひと折りの中に、
すでにあらわれているのだ。賢者とは、
糸の中に模様を見る人である。
――アクメット〈予言の書〉より
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ノスフェラスの戦い
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混沌《カオス》の時代
それは――
時と空間とがいったん、その測定者をすべて失うに到ったあの長い〈空白〉よりも前の時代であった。
〈空白〉について語るものが誰一人存在しないのと同様に、〈空白〉よりも前、それもまた、ひたすら伝承となかば神話と化した口誦のうちにだけある記憶である。
しかし、それはまぎれもなく存在した歴史であり、人びとはそのときすでに、言語に絶する長さで先史時代をおおいつくしてきた原始という闇に対抗する、文明と叡智との、かそけき灯りを勇敢にもかかげようとしていたのだ。
否――
人類が、もし真に聡明であった時代があったとしたら、それはむしろ、そのときをおいてなかったかもしれない。それは、かれらが多くのことを――宇宙の生成のことわりを、遠く高く旅するすべを、あるいは極微と極大の世界をふたつながらかいま見るすべを、心得ていたからではなかった。
むしろ、その時代について語るものが必ず冠するように――「そのころ、人びとはいまよりも賢かった。かれらは自らが何を知っており、何を知っておらぬかをわきまえていた。そしてその上になお、かれらは自らが何を知るべきでなく、何を知る必要がないかもまた知っていたのである」とでも、云うべきであるかもしれない。
いずれにせよそれはのちにわれわれの云いならしたような〈原始時代〉では決してなかった。科学は存在し、科学精神と呼ぶものもすでに存在した。しかるに、一般の人びとは魔法使いたちの用いる魔力のよって来たる原理に心を悩まさなかったように、それらを一部の学者のものとして、かれらの邪魔をせずかれらに邪魔されぬだけの聡明さを、充分にそなえつけていたのである。
人びとは階級と、そして禁忌とのきっちりと成立した社会に住み、しかしそれを束縛とは感じていなかった。なぜならばそれはかれらの選びとったものであり、そしてそこから外へ出てゆく余地もまたふんだんに残されていたからである。いつの時代、いかなる社会にもそうであるようにアウトサイダーはかれら独自の社会を形成しており、その大多数は傭兵、風来坊、吟遊詩人、隊商、そして娼婦といった階層であった。市民たちはかれらをアウトサイダーとして遇したが、その境界線は曖昧模糊としており、それゆえに、それは差別というよりは単に区別の問題でしかなかった。市民たちは、王侯が存在し、魔道師たちが存在し、まことに少数ながら真に偉大な人間たちが存在し、かれらにはかれらのルールがある、ということを認めるようにして、アウトサイダーたちの社会とそのルールの存在することを認めていた。かく在り、またかく在らしめよ、というのが、この時代にとってのひとつの黄金律とでも呼ぶべきものであったのである。
それは光と闇、理知と感性、叡知と無知が、無差別に混在する時代であった。それは、科学と魔術、秩序と無秩序、迷信と悟性、専横と寛闊、そして傲慢と卑屈とが、それぞれに自由に権利を主張しうる時代であった。そしてそれは、人びとが、神々により近くあるものとしてのそれを、魔力のテリトリーへの畏怖と同時に確信している時代でもあった。
他のすべての時代と同様、しかしそれよりもなお、この時代をひとことで云いあらわすことは困難である。そこには栄光と同じように暗黒があり、戦火と残虐と共に平和と繁栄もまた存在した。むしろ、この時代を、他の歴史の中から切りはなして語るとしたら、それは他のあれこれの時代よりもいっそうよく、矛盾そのものにほかならぬ時期としてわれわれの目にうつるかもしれない。しかしそれはまた、それゆえにこそものごとの真の相がひどく近いところに、二束三文のがらくたと共に放り出されている、そんな時期でもあった。
歴史上、この時代はふつうは乱世と呼ばれている。いくつもの強国が、興り、衰え、盛りかえし、あるいは滅び去っていった。この時代、世界は、何かひとつの、あるいはいくつかの理念や旗印のものではなく、また誰かひとりのものでもなかった。国々も、王たちも、理想、あるいは何らかの体制も、すべてが、自らが絶対たりえないことをひそかに心得ていた――神々とその祭司ですら、そうだったのである。
国々は、互いに覇をきそい、併合し、また併合された。王たちには暗殺の危機と同時に彼自身の国民からつきつけられる不信任の危険もつねに存在していた。王族は神聖ではあったが不可侵なものではなく――これは、この時代の根本的な美点、ないし冒涜の一部であったがそれは神々についてさえ同じことが云えたのである――しかるべき敬愛をうけてはいたがそれは彼らがそれにふさわしいあいだだけだった。
そこにはどのようなできごと、あるいはものごともそれぞれの場所を要求する権利があった――クーデター、暗黒政治、暗殺、陰謀、圧政、仁慈、虐殺と裏切り、卑劣と高潔、狂信者、下剋上、天変地異、そして奴隷と自由市民、正義のおこなわれることさえ。それはいまやわれわれが喪いつつある、あるいはすでに喪ってしまった、真に輝かしいものである矛盾、何もかもを容認する混沌《カオス》の、素朴で、しかも力にみちた時代だったのである。
そこには当然、英雄たちの場所もあった。かれらの歴史は、卑劣漢、暗殺者と同様、偉大な皇帝、剣を手にした梟雄の手でもまたかたちづくられるものでもあった。
現在われわれがおぼろげにたどることのできる、俗にいう「三国時代」――互いにあれこれの盛衰はありながらも、パロ、ゴーラ、ケイロニアの三強国が、周囲の小国を併呑し、あるいは中原に覇をとなえ、あるいはきびしい撤退を強いられつつ、つねに歴史の主役であったところの、この時代は、すなわちまた、あれこれの英雄列伝の時代でもある。
それは個人が、いかようにも偉大たりえ、また卑小たりえたさいごの時代だった。その意味ではそれは神話の世紀のさいごの一幕である。それをいろどった、聖王、梟雄、美姫、暴君、軍師たちは、列挙すれば数限りもない。パロ建国の聖王アルカンドロス、モンゴールの梟雄ヴラディスラフ、王位請求者ユロ、第一次黒竜戦役のもととなったヴラド大公、ケイロニアの大帝《マーニュ》アキレウス、吸血皇帝コルラ・タルス、殉教者大ラドゥ、その子たるヴァラキア公小ラドゥ、ケイロニアにいったん破滅をもたらすにいたった〈売国妃〉シルウィア――そしてゴーラの僭王イシュトヴァーン、第三次パロ神聖王国の中興の祖となる聖王レムス。そして――ケイロニアを見すてた、豹頭王グイン。
綿々とつづられてゆく英雄列伝の時代のなかで、もしひときわ巨大な光芒をはなつ〈生ける神話〉の足跡を求めるとするならば、それは疑いもなく、ケイロニアの豹頭王の物語となるはずである。彼はどこからともなくあらわれ、そして正史の中へと歩み入ってきたのだった。
そして、彼の登場こそが――より正確にいうならば、彼の登場にいたる過程こそが、いわゆる「乱世」――小国分立の混乱をきわめたその前期から、三国時代――やはり乱世にちがいはないが、ようやく歴史における主役たちとその脇役との力関係がはっきりとさだまりかけてくるその後期への分岐点となるのである。その意味では彼こそは、最後の神話的英雄であると同時に、最初の歴史上の個人であるとも云えるだろう。
ともあれ彼の上にはつねに、黎明と薄暮とが同時にわだかまっていた。彼はこの混沌《カオス》の時代の、混沌《カオス》のなかよりあらわれ、それを秩序だてようと意図した、最初の人物であった。
それを彼はつねに、自らのよってきたるところをさがしつづけることでやってのけたのである……
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第一話 白き死の谷
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ノスフェラス――
それはつねに、この時代のかれらにとって、幻想と、そして畏怖とをさそってやまないひびきをもっていた。
それは人外境の同義語である。そこにも人は棲み、そのいとなみはつづけられていたが、しかしその人は矮小でしかも猿そのままな体毛と尻尾をもつ前人類セム族か、あるいは幻の巨人族、身長はゆうに二メートルをこし、やはり全身を体毛におおわれ、その巨大なずうたいにもかかわらず、知能はセムよりもさえ低いといわれる蛮族ラゴンのどちらかでしかない。
ノスフェラスはその気候も、またその生態系も、人間の版図であるその外側の温暖な地方とはあまりにかけはなれている。人びとはそこを悪魔ドールの領土とよぶが、いまだかつて、そこに単身ふみこんで、無事に戻ってきたもののないことを考えれば、それも無理からぬことと云わねばなるまい。
ノスフェラス地方にはほとんど季節のうつりかわりはなく、従って青々とした若葉や、あらゆる色の花々がそこをいろどるということもなかった。それは一年中、灰色と灰褐色とにおおいつくされた、荒涼たる砂漠地帯であった。
東方にはカナンの山塊をひかえ、北方には常《とこ》雪のアスガルンの連山が、氷雪の北方諸国との境界をなしている。南西に流れる暗黒のケス河が、この見すてられた荒涼たる場所を、人間の領域たる辺境地方と区切っている。
そうした天然の境界線に仕切られて、ノスフェラスの一種独特な生態系は成立していた。蛮族たち、砂ヒル、|砂 虫《サンドワーム》、|大食らい《ビッグイーター》、サソリ、エンゼル・ヘアー、そしてイド――イド!
このような呪われた土地を領土に加えようという、モンゴールのヴラド大公は、いったいどんな狂気にとりつかれたというのだろう――そんな疑惑が、茫然と立ちすくむ一瞬に、ヴァラキアのイシュトヴァーンの心の奥をかけぬけた。
しかし、いずれにせよ、その考えをつきつめたり、口に出して盟友に意見を求めたりしているいとまはなかったのだ。イドの谷間――いまだかつて、どんな途方もない吟遊詩人の冒険譚にさえ語られたこともない、おどろくべき光景が、かれらの前にひろがっていた。
豹頭の戦士グイン、その友〈紅の傭兵〉イシュトヴァーン、そしてかれらにひきいられる四十人あまりのラク族の戦士たち――敗走するモンゴールのアストリアスの一隊を追って、ケス河の岸近くまで足をのばしたかれらセムの尖兵たちが目のあたりにしたものは、アルヴォン城の主力にトーラスの都からの援軍を加え、それをモンゴールの公女アムネリスが指揮する、おそるべき侵略軍の本隊であった。モンゴールは、遂に懸案のノスフェラス侵攻をくわだてたのである。
セム族すべての存亡の危機を前にして、顔色を失ったグイン以下の一隊は、警告を発するべく、ラクの村めざしてひた走る――しかし、天なる運命神、老いたヤーンは、さながらかれらの試練が、それだけではまだ充分でないとでも、考えたかのようだった。
一刻を争う急務に気ばかりはやるかれらの一隊は、ひとまず北をめざしてひた走ってモンゴールの追手をまき、それから東へと進路をとるそのやさきに、かれらをおそったのは、思いもかけなかったもうひとつの危機だった。
案内役のラクたちが道をふみあやまったのか、それとも他に何か異変があってのことか――ひたすらラクの村、リンダとレムスのパロの双児、その忠実な友スニ、そしてかれらを迎え入れてくれた大族長ロトーたちの待つラクの村へと道を急いでいたかれらが、周囲の景色の奇妙な変貌にふと気づいて見まわしたとき……
かれらは、おそるべき原始生物イドの大集落が、見わたすかぎりの視野を埋めつくしている、ぶきみにもおぞましいイドの谷間へ、もはや手遅れなまでに深くふみこんでしまったことに気づいたのである。
「なんという――こ、この……」
イシュトヴァーンの声がかすれ、のどにからんでいたのも、無理からぬことと云わねばならなかった。
「シッ――大声を出すな」
グインは鋭く、低く制した。その豹頭の中で黄色みがかった目は細められ、凄まじい光を放っていた。
「奴らがいまわれわれに気づいたらお終いだぞ」
彼の声は低かったが、おちついていた。おそらく彼ほどに、かれら――彼にひきいられた、イシュトヴァーンとラクの勇敢な四十七人の若者たちの生命が、彼自身のおちつきと正確な判断ひとつにかかっているのだ、ということの重みを知っていたものはなかっただろう。
誰が決めたわけでもなく、そのようにさだめられて、グインはそもそもの最初から、かれらの生命をあずかり、それを導いてゆくリーダーだった。おそらく彼自身もまだ気づいてはいなかったけれども、それは、この異形の戦士の主たる特質を形成していることだった――いつ、どのような状況にあろうと、つねに人々が、その人がいさえすれば、ひとことの異もとなえずにその人をかれらの導き手、指導者、そして庇護者であると感じて自動的にその命令に従ってゆくような種類の人間が、ごくまれにいるものなのだ。
そして、そうした人間はまた、ことさらに人びとから見返りとしての忠誠を約束されなくても、自らをかれらの守護神と感じ、責任と情愛をもってかれらに接しなくてはならぬと感じるのである。疑いもなくグインはラクたち――とイシュトヴァーン――の生命をその手と決断とに握っているのだった。
グインはすばやくうしろに目を走らせた。ラクの若者たちはおちついている――少なくとも、そう見えた。そこにグインがどっしりと立ってかれらの支えになっているからか、それともしぜんに若者頭のようにそのまとめ役になっているシバの手ぎわもあって、かれらは突然目の前にひろがった死の谷をみても自制心を失うこともなく、息さえもひそめるようにして、グインの決断を待っている。イドは、恐しい食肉性をもってはいるが、必ずしも|大食らい《ビッグイーター》や|砂 虫《サンドワーム》ほどに攻撃的なわけではなく、従ってとにかく、とりあえずは息をひそめ、身動きせず、それらに気づかれぬようにしていることが最もよい方法であることを知っているのである。
「よし――」
グインは重苦しい声でうしろへささやきかけた。
「うしろへ下がれ。向きをかえて一度にわっと駆け出すのは危い。静かに、一歩一歩、こちらを向いたままあとずさりしてゆけ。そこの赤い色の岩が見える角、あそこへきたら向きをかえて、谷の入口までできる限りの速度で走れ。そこで後の者がつくのを待つのだ。いいか、取り乱したり声をあげたりするなよ」
「はい、リアード」
ラクたちはささやくように答えた。
その間も、その目は谷を埋めつくしたイドどもの上を一寸もはなれない。その恐るべき原始生物は、ぶよぶよと白いゼリーが巨大な容器を埋めつくしてしまったさまにも似て、その谷底いちめんにはびこっていた。
イドはきわめて原始的な生命体である。それには目も、口らしいものも、手足らしきものもほとんど見あたらないし、それどころか、どこからどこまでがひとつの個体で、どこからが別の個体なのか、その区分さえもほとんどさだかではないのだ。
しかし、だからといって、それの恐ろしさやおぞましさ、あるいは危険がちょっとでも減じるわけではなかった。それは云ってみれば、極限まで巨大化した白くただれたアメーバであり、感覚器官らしいものが見あたらないかわりにそのすべてが感覚、及び消化器官であるとも云えた。それは音もたてずにもぞもぞとうごめきながら、谷底にみちた白く半透明な生命ある池となって波立ち、さざめき、そして見つめるものの胸をむかつかせることには、ひっきりなしに互いを消化しあい、その一方でひっきりなしに分裂しては増えることをつづけているのだった。
「うへえ、何てえいやらしいしろものだろう」
イシュトヴァーンが、ラクたちのあとを追うようにしてじりじり後ずさりしながら思わずつぶやく。グインはにこりともせずに云った。
「もう、唾を吐いてくれるなよ。いまそれをすると、こ奴らは目も耳もないかわりにとても鋭敏な触感があるのだ。温度でもって、何か餌がこの谷へ入って来たと感じとってざわざわしている。唾を吐いたり、ちょっとでもあれにふれようものなら、たちまちあの全部がとびかかって来るからな」
「桑原、桑原」
さきに砂漠のまんなかで、その一匹におそわれたときのことを思い出して、イシュトヴァーンはおとなしくつぶやき、なおもじりじりと下がりつづけた。赤い岩の出ている曲がり角までが、途方もない遠さに思え、そうする間にそのべとべとと互いを消化しあっている怪物が、わが身の分身よりももっと美味な食物に気づいてざわざわと宙をとびかかってくる恐怖に胃がちぢみあがっていた。
どうやら無事に赤い岩までたどりつくや、彼はくるりと向きをかえ、大競技会のランナーのような勢いで走った。それよりもだいぶ遅れて、グインがおちついてウマを駆ってきた。
シバたちはひとかたまりになり、谷の下りくちでグインとイシュトヴァーンを待っていた。丸い目が不安げに光り、怯えたようにじっと身をよせあっている。
「リアード」
シバがグインにかけよってきた。
「皆、無事だな」
「はい」
「こんなところに、イドの谷があろうとは、知らなかったか」
「はい、それが――」
シバはいやな顔をした。自分のガイドとしての名誉がそこなわれたように感じたのだ。
「たしかになかったのです、リアード」
彼は弁解した。
「イド、動きます。動いて、この谷に来た」
「そうだ、シバ。イドは餌を求めて夜間にけっこう遠くまで動く。奴らの通りすぎたあとには何ひとつ残らぬ。お前のせいではないさ、不運だったのだ」
「おお」
とだけシバは云ったが、その毛深い顔は、安堵とすまなさにひきゆがんでいた。
「おい、何をいってるのだい、このサルは」
イシュトヴァーンがおもしろくなさそうにきいた。
それにはかまわずに、
「やむを得ん、迂回しよう――一時は惜しいが、こんなところで立往生している方がもっと惜しい」
グインは云った。シバは、近くにいた仲間と顔を見あわせ、そして当惑したように首をふった。
「まわり道は、できません、リアード」
「なに?」
「この谷と、次の谷、越えたところにラクの村がある。早く、行かねばならないとリアードが云われたので、ラクだけの知っている近道をしました。一本道です」
グインは押し黙った。
「よ、何と云ってるのだ、グイン」
イシュトヴァーンが苛々したようすで云う。グインは手短かにシバの云ったことを説明した。
「冗談じゃないぜ!」
イシュトヴァーンはあっさり云った。
「ルードの森の死霊《グール》にかけて、おらあイドはもう沢山だ。後もどりしよう、グイン。あの山道に入ったあたりからが、村にむかう道だったんだろう。あそこへ戻って、そして東へ大まわりしよう」
「いや――」
グインは少し考えた。
「それはできん」
「なにィ? なぜだ」
「俺がゴーラの隊長なら、あのまさに山の上り口のところに、一中隊おいておくな」
「あ、そうか――ちィッ、おれたちは、追っかけられているんだっけ」
イシュトヴァーンは呪いことばを吐いた。
「それに、どのみち、俺たちにはそう時間がないのさ――見ろ、日暮れだ」
グインは肩をすくめる。イシュトヴァーンは上を見上げ、そして、辺境の太陽がすでに山の端に没しているのを知った。あわただしさに気づかなかったが、再び辺境の夜――危険と、そして怪異とにみちた辺境の夜が、かれらをとりまこうとしていたのだ。
セムたちは身をよせあい、不安そうにグインを見守っていた。その目には、信頼と、怯えと、そして忠誠とが相半ばしていた。
「絵に描いたようなもんだな――みごとなもんだ」
〈紅の傭兵〉がただの鼠ではないところを見せて、ニヤニヤ笑いながら云った。
「進めばイドの谷間、引っ返せばゴーラの大軍――まわり道はできず、夜にゃなるし、そしてこのままだとラクどもがふいをつかれて皆殺し、ってわけか。よ、どうするよ、豹あたまの大将――?」
「ウム……」
「おらあイヤだよ。イドに食われるのは、真っ平だ」
「……」
きくまでもない、というようすで、グインはてのひらを上にしてかるく手をあげた。イシュトヴァーンは青紫に暮れてゆこうとしている、辺境の空を見上げた。
「一体、何だってんだろうな。エンゼル・ヘアーだらけだよ」
たしかに、この谷へおりる道にさしかかったあたりから、すでにかれらが気づいていたように、そのへんには白くふわふわしたエンゼル・ヘアーが異常にたくさん、空中を漂っていた。害のないことは知れているにせよ、すでにさんざんおびやかされているかれらの神経を、やわらげるには程遠い眺めである。
「まったく、何てとこだ――」
口汚く罵ろうとしたイシュトヴァーンは、ふいに黒い目をきらりと光らせて、グインの肩をつかんだ。
「そうだ! 何故こんなかんたんなことに気がつかなかったんだろう。火だよ、火! ミゲルの吐く硫黄の息にかけて、あんたがおれを助けたときに、イドには火しかないって云ってたじゃないか!――やつらを焼き払って、そして――」
「そして、モンゴール軍をよびよせる狼煙を上げることになる」
グインはとっくにその考えを検討していたので、なだめるように云った。傭兵はかんしゃくを起こした。黒曜石のような眼が、薄闇の中でするどく輝いて、刺すように豹頭の仲間を見すえた。
「じゃあ、どうしようってんだ――ここでこのまま立往生か? 有難いね――やつらは夜になったら、移動をはじめるかもしれないんだぜ!」
「わかっている」
「それなら――」
云いつのるのを、グインは手をあげておさえるようにした。
「シバ」
鋭い声で呼ぶ。
「はい、リアード!」
たちまち、ラクの戦士たちのあいだに緊張がみなぎった。グインが何か心を決めたことを悟ったのである。
「イシュトヴァーン」
かさねて、彼は云った。
「ああ」
不承不承、傭兵はグインの方へ頭をよせる。それを見まわすようにして、グインはおちついて口をひらいた。
「やむを得ん。われわれの一刻一刻に、セムすべての生命がかかっているのだ。このまま、まっすぐに、イドの谷間をつっ切ろう」
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「な――」
しばらくのあいだ、イシュトヴァーン――それにシバたち、ラクの戦士までもが、言葉を失ったように呆気にとられていた。
「なんだって――?」
何回か吃って傭兵がようやく、かすれて咽喉にからむ声をしぼり出す。
「あそこを――つっ切る[#「つっ切る」に傍点]?」
「そうだ」
グインはきびしく云った。セムのことばで、ラクたちにもわかるように彼の決断をくりかえす。シバたちは顔を見あわせ、激しくざわめいた。
「冗談だろう」
傭兵は怒ったように云う。
「俺は冗談は云わぬ」
「じゃあ気が狂ったんだ。精神の光と闇をつかさどるヤヌスの双つの顔にかけてな」
イシュトヴァーンはそっけなく決めつけた。
「イシュトヴァーン、時間がないのだぞ」
グインは少し声を大きくした。それからシバたちの方を向き直った。
「お前たちはノスフェラスの住人、いわばイドとは同じ家に住んでいるようなものだ。どうだ、やつらが、ことにその匂いをきらい、それを身体にぬっていればイドの方でよける、というような、草か、けものか何かを知らんか」
「ハッ! そんなつごうのいい話がころがっていれば、誰が苦労など――」
イシュトヴァーンが嘲弄する。グインは手で制した。
シバは真剣なようすになった。うしろを向き、仲間たちに問いかけるようにする。しかし、グインに向き直ったとき、彼の丸い目は失望に曇っていた。
「年寄りなら、知ってるかもしれません、リアード。しかしわれわれでは……」
「そうか」
別にがっかりしたようすもなくグインは云う。それへ、
「待って下さい」
シバのうしろから首をのばすようにしておずおずと、一人の若いラクが口をはさんだ。
「お前は?」
「サライです、リアード。わたしも、そうした草のことは、きいたことがありませんが、ただ昔、わたしの父の父が云っているのを、きいたことがあります。ノスフェラスのセムたちは、かつてはイド、|砂 虫《サンドワーム》、オオアリジゴクまで、飼いならし、云うことをきかせていたものだ、と。何か、それらに云うことをきかせる魔法が、昔あったのかもしれません」
「フム」
グインは考えこんだ。それは興味をそそる話ではあったが、いまの場合、この焦眉の急を切りぬけるのに役に立つとはとうてい云いがたい。何を話しているのか、教えろとイシュトヴァーンがせっつくので、グインはサライのことばのあらましを通訳した。
「ハッ――魔法か! 何も、魔法が使えりゃあ、こんなところまできて、もう夜だというのに、イドの調教なんかしてるこたあ、ないさ。魔法さえ使えるならあっさり、このイヤな谷間を飛びこして、向こう側へおりちまえばいいんだ」
イシュトヴァーンは一笑に付した。
しかし、ふいに、眉をしかめてグインを見つめる。
「どうした――グイン?」
「フム、それしかないのなら、そうするほかあるまいな」
グインが落着きはらって云ったので、イシュトヴァーンは目を丸くした。
「そうするって――?」
「いま、お前が云ったろう――空をとんで、この谷間を飛び越すのだ」
「また、また――」
疑い深い顔で傭兵が何か云いかけるのを、グインはおしとどめるように、
「むろん、われわれが今からバルト鳥のように羽根を生やすというわけにもいかん。それに、この谷は一タッドはひろがっていて、とうていひと飛びにするというわけにもいかん。だが、要は、われわれのからだがイドにふれさえしなければいいのだ」
同じことをセム語でくりかえし、イシュトヴァーンにはわからぬそのことばで何やら指示をいくつか付け加えた。
シバたちは小さな頭をかしげて、注意ぶかくきいていた。それから、にわかに、凄い勢いでとび出してゆく。
「おい、おい、一体何を企んだんだ。教えてくれてもよかろう、何をどうしようっていうんだ――」
イシュトヴァーンが焦れて声を大きくしたところへ、エンゼル・ヘアーがふわりとへばりついてきたので、傭兵は叫び声をあげて手で払いのけた。
グインは考え深そうに、その白いたよりなげなかげろうを見つめた。
「フム、エンゼル・ヘアーか――あるいは、これは、イドのいるところには必ず、ある種の小魚がわに[#「わに」に傍点]のいるところにむらがるように、共生しているものなのかもしれぬ」
「おい、そんな呑気な研究なんかしている場合じゃないぜ!」
「焦ることはない。まだ、ヤーンの糸車がどのような模様を織りつつあるのか、はっきりしたというわけでもないのだからな」
というのが、グインの答えだった。
イシュトヴァーンはいまいましそうに、まるきり平素とかわらぬ無表情で腕組をして立っている、豹頭人身の巨大な戦士を見やった。
「どうやったら、そんなふうに、このノスフェラスのまんなかで、自分の家に座ってるようなつもりになれるんだか、わからんな! それとも、本当にここがあんたの家だってんなら別だがな」
悪戯小僧のようにしかめ面をして、憎まれ口[#底本「情まれ口」修正]をたたく。グインが何か返事をしようとしたところへ、シバが数人の仲間と共に、何やら山ほどかかえて帰ってきた。
「あったか」
「はい、リアード」
シバたちは、何人かでかついできたそれをどさりとグインの前におろした。それを興味津々でのぞきこんだイシュトヴァーンは眉をしかめた。
「何だ、これは? 晶石じゃないか」
それは、このあたりの岩山がだいぶん北寄りであるためにまま見られる、奇妙な細長くはぎとれる岩だった。
そのなかばすきとおった、しかし丈夫な石を、グインはラクたちに云いつけて、できる限り細長くはぎとって来させたのである。
つづいて何組かにわかれて散っていったラクの若者たちが同じように晶石をかついで戻ってきた。
「丈の高いじょうぶな木が生えていれば、話はかんたんなのだが、なにしろノスフェラスじゅうどこをさがしたって、セム族以上に背のたかい木など見あたらぬのだからやむを得ん」
グインはそっけなく云い、それでも手に入った限りのその細長い石をつかんで、その固さをためしてみた。
「おい、教えてくれよ――何をする気なんだ」
このころには、イシュトヴァーンの好奇心は、ほとんど耐えがたいまでにあおりたてられていた。子供のように黒い目を丸くして、グインの手元をのぞきこむ。
「竹馬だ」
グインの答えはいたってかんたんだった。
「竹馬――?」
「ああ。――といって、こんなたわいもないことであっさりあの谷間を切りぬけられるとは、思ってはおらぬが。少なくとも、この手に入る限りの心細い材料は、厄介なことに、きわめてもろくなってしまうのであまり長くははぎとれないし、それになお困ったことに、これでは、セムたちが自由にあやつるには少し重いかもしれず、そしてわれわれ――つまり俺とお前が身を託すためにはあまりにもろすぎるのさ」
「竹馬って何だ?」
グインの言葉を無視してヴァラキア人は弾んだ声できいた。
「つまり、こうして――」
グインは、それ以上石の長い棒がうすくはぎとれたり、あるいは折れてしまったりせぬよう、きわめて注意深くそれを取り扱いながら、それとは別にごく短くかきとって来させた岩のかけらを、セムたちの弓矢を背負う丈夫なつる[#「つる」に傍点]で棒の上から三分の一ばかりのところにゆわえつけにかかった。彼の大きな手は、その大きさに似合わぬほど、すばやく器用に動いたので、まもなく同じ足置きつきの長い石の棒(といっても、晶石は平たくしかはがれて来ないので、棒というよりそれは細長い板だったが)が二本できあがった。
グインはそれがぐらぐらせぬかどうか、かるく手でためしてみたあとで、ラクたちを見まわし、いちばん身体の大きい若者――それはほかならぬサライだったが――をさし招いた。
「サライ、この出っぱりのところに足をおいて、これに乗って立ってみろ。こうして俺が持っていてやる」
「はい、リアード」
サライは敏捷に、云われたとおりにした。たちまち、さしも小さなセムの若者も、その棒の中ほどを握って支えているグインよりもずっと背が高くなった。
「どうだ、サライ――この棒をあやつって歩けないか」
「やって見ます、リアード」
問い返しもせずに云うと、忠実なラクの若者は、グインが手をはなしたその棒をしっかり握りしめて、片足つつ持ちあげ、ゆっくり歩こうと苦心しはじめた。
そのころには、他のラクたちも、グインの意図を理解して、そのまわりに集まって来はじめた。サライはもともと、きわめて運動神経が発達しているらしく、一、二回その上からころげおちたあとでは、たちまちこつをのみこんだようすだった。
「そのまま、イドの群れをつっ切れそうか」
「やって見ます、リアード。できます――たぶん。しかし、この棒は……とてもとても重い」
地上におりてひと息入れたサライは疲れたように、まわりを見まわし、そしてつけ加えた。
「わたしやシバはできても、もっと小さいもの――マノやカイにはできない」
「俺にもできんさ、サライ。このイシュトヴァーンにもだ。俺がそれに乗ったら、そのやわな棒は折れるからな」
グインは云った。
「よいのだ。全員にこれであの谷をつっ切れというのではない。それは無理だ。時間がかかりすぎるし、第一そんなにたくさん、竹馬の材料がない。――一人かふたり、勇気のあるものが、向こう側へわたれば、それでよいのだ」
「そいつらがラクの村へ走り、おれたちはここでしょんぼり助けを待つってわけか」
イシュトヴァーンが口を出す。
「そうじゃない」
グインは辛抱強く説明した。
「ちゃんと、そのあとの手だても考えてある」
「ふう!――そうかい、あんたの生みの親たるシレノスの豹頭にかけて、こやつらの倍は重みのあるわれわれが、無事に向うへゆきつく手段も、あんたは考えついたってわけだな」
「と、思う。まあ危険はつきものだが」
「まったくあんたときたら、ドールその人の前でさえへこたれてあきらめるなんて気はないだろうよ」
イシュトヴァーンはにくらしそうに云ったが、その黒い目には、微かな感嘆に似たものが光っていた。
「リアード」
サライがおずおずと、それでどうするのか、と指図をあおぐようにグインを見上げる。
「さて――これからが大ごとだぞ」
グインはその小さい、毛むくじゃらな、熱意にあふれた顔を見おろした。
「どうだ、サライ――お前は、その竹馬を使って、何とかこのイドの谷間をのりきってみる勇気はあるか」
「はい――はい、リアード!」
「バランスを失ったり、疲れて足をすべらしたり、あるいはわれわれの目測よりもこのイドどもが長くつづいていたりしたら、お前は、イドの真中にまっさかさまだぞ」
「わ――わかっています」
サライはぶるぶるっと身をふるわせたが、怯えたわけではなかった。
「お前がぶじにここを通りぬけられるかどうかに、ラク――いや、全セム族の存亡がかかっている」
グインは静かに云い、それから合図して、竹馬とは別に作っておかせた長いツルなわをもって来させた。このあたりの岩山に、そうしたものの材料があろうはずもないので、ラクたちの背おっている弓矢を縛ったツル、かれらのまとっている毛皮を縛っているベルトなど、ありたけのものを出させて、しっかりと結びあわせたのである。
「これを腰にまいて運ぶのだ」
グインは命じた。そして手ずから、そのナワの端を、サライの小さな腰にしっかりと縛ってやり、細かな指示を与えた。
「行きます、リアード」
「よし。足がすべらんよう、足もかるく結びつけておけ。それと――」
しばらく考えていたが、
「松明を一本、持ってゆくといい。万一足をふみはずしたときには、それでどこまで身を守れるかわからんが、とりあえずおしよせるイドをそいつで焼き払うのだ」
「大丈夫です、リアード」
サライはニッと歯をむきだして笑った。そしてつけ加えた。
「わたくしがしくじったら、シバがやりますから」
グインはうなづき、黙って彼の小さな肩を叩いた。
サライの出発の用意ができた。それはずいぶんと奇妙な決死隊だった。
身をかるくするために彼は、弓矢や石オノや、ほとんど衣服すらすててしまった。その腰ににわかごしらえのナワを結びつけ、両足を、グインの支えている石の竹馬の足置きにくくりつけ、一本の松明を、棒の天辺にしばりつけている。もういちどグインと、そして朋友たちの方を見おろして、ニッと笑ってみせると、サライはこれでいいという合図をした。
「よし行こう。――少しここで待っていろ、サライが少しでも疲れが少ないように、俺がこれ以上いかれないぎりぎりまでは運んでいくから」
グインはそのあいだにラクたちがやっておくべきことを指示すると、サライごと石の棒をかるがると持ちあげた。
右手でそれを抱くようにして、足もとに気を配りながら、イドのむらがる谷底の方へ下ってゆく。ついてくるな、といわれても、そこにそのままとどまっておられるものではなかった。シバ、イシュトヴァーン、それにラクの半分ばかりが、グインのだいぶうしろからついて下りて、例の曲がり角からおずおずとのぞきこんだ。
グインはいちだんと慎重になっていた。そこでサライをおろすと、目を細くして、イドたちのようすをうかがう。
おぞましい不定形の怪獣どもはざわざわと永遠の蠢動をつづけている。それらは一刻もそのままのすがたを保ってはおらず、しょっちゅう、風にざわめく水面のようにかたちをかえ、ゆるやかにのびあがったり、またとけこんでいったりした。
よく目をこらして見ると、その青白いいやらしいゼリーも、どこからどこまで同じ物質でできているのではなく、その中にどうやらきわめて原始的な感覚器官とおぼしい、丸いものや、くねくねしたものが、いくぶん外側のゼリーよりは白さを濃くしてのぞき見られるのがわかる。
それらは、谷への侵入者に、気づいているのか、いないのか、うねうね、ブヨブヨとしたそのうごめきをひっきりなしにつづけながら、その全体もまた永遠の狂おしい餓えと不満そのもののようにのびたり、縮んだりしているのだった。
サライはこれから自分がのりこんでゆく、そのいやらしい生ある不浄の海を恐れげもなく眺めた。棒をあやつり、具合をためしてみる。
「行きついてくれ」
あっさりと、グインが云った。
「はい、リアード」
サライもあっさり答えると、無造作に竹馬をあやつり、イドの充満する谷底へとふみこんだのである。
いつのまにか、シバが、グインのすぐうしろへ来ていた。その小さな顔がきびしくひきしまっている。
「こんなに、イドに近いところにいると、危いです、リアード」
小さな毛深い手でグインを引っぱる。
「うむ――ああ。大丈夫だ」
グインは少しうしろへさがったが、ほぼ安全な、そして丸い頭がいくつもこちらをこわごわとのぞいている赤い岩の角までさがろうとはしなかった。
あたりはもうとっぷりと暮れている。その闇の底に、青白いイドだけがブヨブヨとただれうごめく。イドには、どうやら、ごくわずかだが発光作用があるとおぼしい。もっとも、かつてイシュトヴァーンをおそったイドは、完全に闇の色に身を擬装していたところから察すると、それは周囲の色に従って身を変色させる能力をもっているのかもしれない。
「危いです」
また、シバがグインの腕をひっぱった。
グインは動かない。その豹頭はきびしい無表情のまま、じっと、サライを見守っている。
それは、さながら、青白い光の海をゆく、たよりない一隻のボートにも似ていた。サライのもつ松明のかぼそいあかりが闇をおしわけ、人びとを導く東の星のようにたかだかとまたたく。サライはきわめてゆっくりと、慎重に足もとをためしながら、イドのまんなかを乗り切ろうとしていた。
サライの足は、イドの上、二メートルばかりのところにある。その棒がイドの中につきおろされると、そのたびに、その周辺のイドはうねうねと動いて、何がじぶんを刺激するのか知りたいとでもいうようにのびあがる。
しかし、イドには、粘着性はないので、サライがもう一方の足に支点をうつして、そちらの足をあげると、さほどそれをひきとめるようでもなくまたそれ自体のおぞましいうねりの中へ静かにもどってゆく。
サライの進みかたは、無理もないとはいうものの、見るものを苛々させるほどにのろのろとしていた。それは永久にイドの群れの中をのりきれないのではないかとさえ、思いたくなるほどだった。
ふいに、見守る仲間の口からかすかな悲鳴があがる。サライがぐらりとよろめき、バランスをくずしかけたのである。
「ああっ」
イシュトヴァーンまでが恐怖のうめき声をあげたが、サライは何とかバランスをとりもどした。
「リアード」
シバがそっと身をのりだし、グインの耳に口をよせた。
「リアード、わたしも行けるよう、練習しておきます」
「そうしてくれ」
手短かにグインは云った。その間もサライの、だいぶん遠くなった姿から目をはなさない。
彼のようすは、おちついているように見えたが、ことにするどい、ぬけ目のない観察眼をもっているものだったら、彼のそのおもてむきの平静さを、日にやけた肌の下ではりつめるだけはりつめた筋肉のふるえ、ことに腕と、そして両拳とにこめられた凄まじいばかりの力とが裏切ってしまっていることにすぐ気づいたろう。
「そうしてくれ――だが、できれば、そうせずにすんでほしいものだ」
サライが一歩一歩ふみこんでゆくにつれて、彼の腰にまきつけてあったツルなわはピンとはられてゆく。そのもう一方の端はグインの手にまいてあり、それを彼はどんどんくりだしていきながらもう一度云った。じっさいには、シバはすでに、その命令を実行するためにうしろへしりぞいていたので、彼のつぶやきをきいたものはたぶんいなかったのだが。
(――もう一度こころみて、それも失敗におわったとすれば――それでお終いなのだ、われわれは。晶石そのものはまたそのへんからとってくればよいにせよ、縄の材料はもうたねぎれだし、松明もあと数本しかない――弓のつるまではずして使っても、三回目のこころみができるかどうか……)
だが、おわりの方は、誰もきいていなくてさえ、口には出さなかった。彼は、これがだめならまだいくらでも手だてを考えつける、といった、自信にみちた無感動なようすでそこに両足をふんばって立ちつくし、黙りこんでサライの冒険を見守っていた。
「ちくしょう――まだ通りぬけられねえのか。一体、このイドどもは、ここからどのへんまで、はびこっていやがるんだろう」
うしろからイシュトヴァーンが叫ぶ。グインは手の中のナワを見おろした。それもまた心もとない材料のひとつだった。というのは、ひとすじの生命線のように彼の手もととサライを結ぶそのナワは、どんどんたぐりだされ、これ以上半タッドもイドの群落がつづいているようなら、とうていそのナワの長さではたりそうもなかったからである。そのナワなしでは、彼のもくろみは半分も成功したことにならないのだった。
彼があれこれのもやもやとした不吉な想念を払うようにその豹頭をぐいと立て直したときである。
ふいに、
「向こうが見えた! わたり切れる!」
サライの狂喜の歓声がつたわってきた。
「グイン!」
「リアード!」
うしろから、イシュトヴァーンとラクたちも、歓声をあげる。
グインは中腰になり、イドの海をすかし見ようとしながら、うなるような声をたてた。
「やったか――サライ!」
その手の中のナワはすでにぎりぎりまで、ぴんとはりつめていた。谷間はその半ばをこえるあたりから、こころもちカーブしているとみえて、少し前からサライと、彼のもった松明のあかりはかれらの目に見えなくなっていた。
いまは、グインの手の中のそのナワだけが、サライとかれらをつなぎとめる絆である。
「サライ、油断するな――さいごまで」
グインが声を大きくして、叫ぼうとした――そのときだった!
「ギャアーッ!」
ふいに、おそろしいサライの絶叫――断末魔のおしころされた呻きがかれらの耳をつんざいた!
「サライ!」
グインはわめいた。その手の中で、ふいにナワがだらりと垂れた。
サライは足をすべらせたのだ。
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「サライ!」
グインの叫び声は、むなしく闇に吸われた。
「――サライ!」
「リアード――」
グインは狂ったような勢いで、ナワをひっぱった。ナワは何か、途方もなく重いものをひっかけた釣糸ででもあるかのように、彼の手にさからった。グインはなおもひっぱった。と、それはふいに軽くなり、彼のたぐるままに手もとへひきよせられて来た。それをひと目見てグインはうしろへ投げた。ナワは、途中で、たぶん岩かどにこすられて、ぷっつりと切れていた。
「リアード!」
グインはふりかえり、そしてラクたちの、小さな、ひきゆがんだ顔を見た。彼は黙って首を横にふった。
「どうしたよ、グイン――だめだったのか!」
イシュトヴァーンもあわててかけよってくる。それへ、セムたちにはわからぬことばで、
「失敗だ」
グインは簡潔に云った。
「あの小っこいのは、どうなったんだ」
〈紅の傭兵〉はおそるおそる、といったようすで、闇をすかして見る。が、むろん、何も見えはしない。
「長くはかからんだろう――有難いことにな。イドのおしつぶす力は、相当なものだから」
グインはつぶやき、それからふいに両手をひろげてラクたちとイシュトヴァーンを制した。
「いかん、危い。それ以上前へ出るな――イドどもが気づいてる」
「うわっ――と」
あわててイシュトヴァーンは曲がり角までひきかえす。谷間にみちた白い怪物たちは、いわば急速に嵐に見舞われていた。
その個体と全部の別もさだかでない群体の端の方の一部が、なにやらめったにありつけぬようなご馳走にありついたことが、他の連中にも感じとれるのだろう。それらは、ざわざわと急に落ちつかなげに、そのうねりもにわかに大きくなり、どこかにもっと食い物はないのかとたずね求めるように、うねうねとのびあがったり、こちらにむかって這いすすんで来ようとしたりしはじめたのである。それは、見るもおぞましい眺めだった。
「うしろへさがるんだ」
強く、グインは云い、セムたちをなかば力づくで、手におえぬ羊を柵に追いこむ牧羊犬とでもいったようすでうしろの方へ追いやった。
「リアード」
そのとき、そのセムたちをおしのけるようにしてシバがあらわれた。見ると、すでに、松明からナワまで用意をととのえている。
「次はわたしが行きます」
「サライの犠牲のおかげで、どうやら、このイドどもがどのへんまでつづいているのかはっきりした」
それにあえてねぎらいやはげましのことばをかけようとはせずにグインは云った。
「おおよそ一タッドにかけるぐらい――その角を曲がってからは、五十ゴルばかりのはずだ。そのつもりで、体力を配分することだ」
「うまくやりますよ」
シバは陽気に保証した。盟友の、目前の惨死をみても、この勇敢な若老の意気は、いっこうに衰えるようすがなかった。彼は皆の気をひきたてるようにつけ加えさえした。
「わたしの方が、サライより、力がありますから、リアード」
「竹馬の扱いは覚えたのか」
「砂ヒルをからかうように簡単ですよ」
シバがすぐにでも行こうとするのを、グインはひきとめ、竹馬の出来ぐあいを見てやり、ナワをかるく引っぱってみた。それから、ナワの端に、さきに切れて手もとにたぐりよせられた分のナワをくくりつけてもっと長くした。
「さあ、アルフェットゥのご加護を」
シバは云うと、無造作にイドの谷へわけ入った。
ラクたちは、グインのうしろへぴったりとよりそって、それをまじまじと見つめた。かれらにも何となく、この二度目のこころみがどれだけ重要か、ということは理解されていたし、しかもシバは人気者で、イドたちはサライをえじきにして、すっかり目ざめてざわざわしていた。サライのときには、その棒をつたって上へのびあがってくるイドは、せいぜい一メートルかそこらまでで、それが食べられるものでないと知っておりていったが、シバはかなりたびたび、あわや足もとまで這いのぼってこようかというイドのために、あわてて棒をひきぬいては、そのために失われかけたバランスを、必死にとりもどさなくてはならなかった。何度か、見守るラクたちの口からは、悲鳴があがった。
しかしシバはなかなかたくみにバランスをとり、少しづつだが着実に前進していった。天の加護をあおぐようにグインはそれから目をそらして夜空を見上げ、うっすらと白く漂うエンゼル・ヘアーがふちどっている、濃灰色の、星もない空をみた。
「よう、グイン」
それへ、寄ってきたイシュトヴァーンが秘密めかした声を出した。
「あいつがダメだったら、どうするつもりなんだ――?」
「そのときのことだ」
「あんたのことだ。どうせ、次の手も何か考えてあるんだろ」
「少しはな」
グインは認めた。
「しかし、シバは失敗せんさ」
「なぜ、わかる。あんたも、リンダなみの霊感がはたらくようになったのか」
それには答えず、シバのかざした松明を目で追いながら、
「ここさえ抜けてしまえば――」
グインは云った。
「そうすればわれわれ――とセムたち――が六分がた、優位にたつことができる。いまはもう夜だ。われわれは、ラクがいるからには、夜どおしノスフェラスをかけてもかまわぬし、またそうするつもりだが、しかし日がくれたことでモンゴール軍の行動力は著しくそがれただろう。かれらはいったん兵をまとめ、夜営して、危険にそなえ、朝をまつほかはない。その間に当然、われらが逃げのびた方向についての目じるしもあいまいになっている。アスガルンおろしの風が、われわれの足あとを消してくれるだろうしな。しかも、かれらは、ラクの村の正確な位置や方向を知らぬ。
そして、万一、しつこく追いすがってきた一隊がいたにせよ、このイドの谷さえこえれば、こんどはこのイドどもが、われわれをかれらから守ってくれるかっこうの門衛になる」
「とにかく、ここをぬけられれば、だな」
イシュトヴァーンは釘をさした。
「なるべくなら早いうちにそうしたいもんだ。おれは、またぞろ腹がへって来たよ」
グインは答える手間をはぶいて、首をめぐらし、イドの海を見わたした。
すでにシバの姿は、かれらの視界からは消えている。グインの手のなかの綱は、前のものとつぎ足したのでだいぶ長くなり、さきのようにぎりぎりまで張ってはいないが、もうそれでもかなりの部分がくり出されていた。
「もしシバが失敗したら、とにかく山のおりくちまで戻るほかはないな」
グインは、ラクたちにきこえぬのをたしかめて云った。どうせ、かれらのつかうことばはラクにはわからないのだが、その語調でもって感じとられることを心配したのである。
「だってモンゴールの――」
「シバが失敗すれば、もうこれ以上、この谷をのりきれるだけの体力のあるラクがおらん。――そうなれば、しかたないさ。少しばかり、たしかに手間は手間だが、夜陰に乗じて、もしモンゴール軍が待ち伏せしていても、それを奇襲でうちやぶり、切りぬけて、そのまま山をまわりこんでラクの村をめざすほかはない」
「おい、あいてが、全部で何万いるか、わかってるのか」
呆れ顔でイシュトヴァーンは云おうとした。しかし、そのとき、ふいにグインがはねおきたので、あわてて身をひいた。
「どうした」
問いかけるイシュトヴァーンには目もくれずに、グインは、ぎりぎりまで進み出た。
「シバ――!」
びりびりとひびく声をはりあげる。かすかな、しかし確かに元気ないらえがあった。
「リアード!」
「シバ! 成功か。無事か!」
「無事です! リアード! 通りぬけました」
「シバめ、やったな」
グインはむらがってくるラクたちを見まわし、吠えるような笑い声をたてた。
だが、この最初の成功に気をよくしているいとまもなかった。すぐにグインは次の段階の指図にかからねばならなかったのだ。
シバには、あらかじめどうするかを指示してあった。彼は、ぶじにイドの谷間をのりきると、休むいとまもなく、腰のナワをといて、それをそのあたりでできるかぎり高いところの岩に結びつけてしっかりと固定しているだろう。
こちら側でもあらかじめ目ぼしはつけてあった。グインは、うっかり彼の豪力で引っぱりすぎて、せっかくとどいたひとすじの生命綱を切ってしまうことがないよう、よくよく注意しながら、谷のおり口の、かなり高いところへ戻って、そこの岩にしっかりとナワを縛りつけた。
ナワは宙に浮き、やがて両側から引かれて、下にイドのうごめくその谷にななめに張った細い架け橋となった。グインは谷の向こうへむけて、用意はよいかと叫び、シバのよいという声がかえってくるのを待って、何回もその綱をひっぱり、安全をたしかめた。
「よかろう」
おもむろにうなづいて、うしろをふりかえる。セムたちは、かれらの勇者《リアード》がなにを考えついたのかと、真剣なまなざしでその手もとを注視している。
「よいか、シバの決死の働きで、谷のこちらから向こうまで、このナワがわたされた」
それへ、グインはきびしい口調で云った。
「このナワにすがって、向こうへわたる勇気はあるか」
「はい、リアード!」
全員が声をそろえて叫ぶ。
「待て」
グインは手をあげて、
「なんとか、ナワはわたされたというものの、とにかく川をわたったり岩をのぼるよりは、ずっと長い距離を、手と足だけでナワにつかまってわたらなばならんのだ。落ちたらサライと同じ運命だぞ」
ラクたちは何も云わなかった。
ただ、両手をあげて、自分たちは死をおそれていない、というゼスチュアをした。グインはそれを見やり、うなづいた。
「身のなるべく軽くて、腕の力に自信のあるものからゆけ」
さいごに指示すると、あとへ下がる。
ラクたちは互いを吟味するように見あったが、やがて比較的小柄なひとりがするすると岩にのぼり、ナワにとりついた。
ナマケモノのように手足でだらりとナワにぶらさがり、たちまち、かなりの速度で、芋虫のように身をくねらしてナワをたどってわたりはじめる。
「うーっ、ぶるぶる」
イシュトヴァーンは呆れ返ってそれを眺めた。
「まったく、あんたときたらとんでもないことを考えつく。あんなしかけで、一体何人がむこうに生きてたどりつけるもんか」
「お前は忘れているぞ、かれらはセムなのだ」
グインは注意深く、どこかナワの結び目に、セムの重みに耐えかねるところがないかと目ではかりながら云った。
「かれらをサル、サルと呼んでいるのは〈紅の傭兵〉、お前ではないか。かれらの腕はわれわれの足くらいつよいし、しかもその腕で支えるべき体重といったら、いいところわれわれの半分ほどしかない。これは、かれらにとっては、それほどのはなれわざというわけでもないさ」
「われわれ[#「われわれ」に傍点]にとっては、どうなのか、知りたいもんだね――奴らの信仰しているあのくさいサル神の名にかけて」
イシュトヴァーンは云ったが、それほど確信のある声ではなかった。彼はつけ足した。
「まあ、それがダメならダメであんたはまたどうせ、何やら考えつくんだろうが――ヤーンの百の目玉にかけて、たしかにあんたは不撓不屈だよ、グイン。ノスフェラスの荒野を歩いて縦断しようと思いつくかと思うと、竹馬でイドどもを出しぬくことを思いつく。しかもそいつをちゃんと人に実行にうつさせるんだからね――まったく」
グインは答えるかわりに、ふいに手をのばして、綱に上ろうとしていたラクを制した。
「もっと重いものが順番をかわれ。シバの次に重いものが次にゆけ」
すでに、そのころには、五、六人の小柄なセムが首尾よくむこうにたどりついていたのだ。たしかにグインの云うとおり、この綱渡りは、小柄で、しかも猿に近い膂力をもつセム族には、むしろ竹馬をあやつるよりもずっと向いた作業であるらしく、かれらは怖がるようすもなくスルスルとナワをたどってゆくのだった。だが、そのあいだに、一人手をすべらしてイドにのまれ、仲間の見ている前で、そのほの白いゼリーの中にねりこまれた肉塊と変じてもいたのである。
「先に重い連中を通しておかぬと、このにわかごしらえの綱がどこまでもつかわからんし、それが切れかけてきたときには、少しでもかるい方が安全だからな」
グインはイシュトヴァーンにかんたんに説明した。
「もっと、のこったツルや弓のツルをつかってナワをつくり、二重にして、補強すればいいじゃないか?」
イシュトヴァーンが提案した。
「それも考えたのだが――」
グインは何やら、思案ありげに首をふる。
「そうしていると、材料が足りなくなるのだ――おお、できたか」
うしろにひきさがって何やら作っていた、ラクの残りの十人ばかりが、しさいありげにグインのところへやってきた。
「よし、では、お前たちも急いでわたってくれ」
グインは云う。もう、それまでには、四十人あまりのラクの戦士たちの大部分が、ぶじに向こうへわたりついていた。
「何人、落ちた?――六人か。まあ、少なくてすんだ方だと云わねばならんだろうな」
グインは首をふった。ひきつづいて綱にとりついた、さいごの十人が次々にわたってゆくのをじっと見守る。
「おい。綱は大丈夫か」
口もとに手をあてて呼ばわった。
「真中あたりで、少し岩にこすれて切れかけています、リアード――しかしそのほかは平気です」
「切れかけているところは、かなりあぶないのか」
「まだ、何とかもちます」
「おい」
イシュトヴァーンが、そのセム語のやりとりの意味は解せぬままに、眉をしかめて云った。
「これでサルどもはどんどん安全なところへゆきついちまって――おれたちはどうなるんだ、おれたちはさ……このおれにも、手長ザルのまねごとでこの綱をわたってゆけって、云うつもりか?」
「それよりは、少しはましだと思うが」
グインは云い、そしていまやさいごの二人になったラクたちが綱にとりつこうとしているのを指さした。
かれらは何やら綱を腰にくくりつけていた。それはどうやら、残ったベルトや弓つる、とにかくそうしてつなぎあわせられるもののすべてを使って作りあげたさいごの縄であるとおぼしく、それが、かれらが綱をつたってゆくにつれて、するするとのびてゆくと、いまやただの二人のこされたグインとイシュトヴァーンの足もとにラクたちがおいて行ったものが、それにつれて少しづつ上へつりあげられるのである。
それは、きわめてかんたんに編んだ、大きな網のようなものだった。
「何だ、これは」
「イシュトヴァーン、これに乗ってくれ。われわれの重みではこの綱を手だけで体重を支えてわたることはとうていできんが、これで身をささえ、むろん両手で綱につかまり、その上、向こう側からラクたちがこの綱でひきよせてくれれば、なんとかわたりおおせるはずだ」
グインはそれをさし示した。
ラクたちは、急場しのぎにしてはおどろくほど、早く、しっかりとした仕事をしたのである。上をしぼった手提げ袋のようなかたちになったその網は、上部をもとの張りわたした綱に通し、そしてその輪の一箇所に、さきにわたっていったラクが腰にむすんでのばしていった綱のもう一方のはじが結んであって、向こうがわからたぐりよせられるようになっていた。
背のたかい、ヴァラキア生まれの脱走兵は、何ともいえないうろんそうな、疑いぶかい顔でその仕掛けをうち眺めた。
「これでおれがイドどものま上をとおりぬけるってか!――ドールの吐く硫黄の炎にかけて――!」
手をのばし、それをぐいとひっぱってみる。
「おれはよくこうやっていろんなものを向こうからこっちへわたしたもんだよ、レントの海の海賊だったじぶん、略奪した荷や、ときには奴隷娘までを、二つの船のあいだにわたり板をわたして運ぶんでは埒があかないからな」
なおも不平そうに唇をとがらして、
「砂糖袋、酒袋、皮袋に入れた砂金、衣類に食いもの――向こうの船にのりうつった奴らが、綱を輪に結んで略奪品の袋に通し、そいつを舷側ごしにはりめぐらした綱にひっかける――と、こっちじゃあそら来たというんで、するする手操りよせるって寸法さ。海と海賊の神なる聖竜トライトンにかけて、あのときまさかこのおれ自身が、場所もあろうにノスフェラスの山ん中であの租み荷のように扱われるとは誰が想像できたことか! おまけに――」
情けなさそうに、いくぶんしょんぼりとして彼はつけくわえた。
「おまけに下は青とぶどう酒色の母なる海であると思いきや、おちたらさいごおれを遅い晩飯にしようってんでくねくねしてる、ブヨブヨのイドの海ときたもんだ!――あああ、わかったよ、わかったよ。乗りゃいいんだろう」
こんな際ではあったが、グインは思わず、吠えるような笑い声をたてずにはいられなかった。ようやく二十になったばかりで、わんぱくな悪戯小僧と、ひどく世故にたけた世なれた傭兵とが入りまじっているようなこのヴァラキア生まれの〈魔戦士〉にして〈紅の傭兵〉であるところの若者は、ときどき、グインにはむやみと笑いを――決して嘲りや、あるいは冷やかな、あるいは苛立たしいそれではなかったのだが――ひき出さずにおかない瞬間があったのだ。
イシュトヴァーンは、笑っている豹頭の戦士を恨めしげに見た。が、ふいに元気づき、
「まあしかし、おれがこんなイドどもなんかに食われてなさけないさいごをとげるなんてことはありっこないんだ――何といったって、おれは〈魔戦士〉イシュトヴァーンなのだからな。――おれが生まれて来たとき、掌に玉石をしっかり握っていたので、魔女がおれはいまに一国の王になるといい、そしてこの名――イシュトヴァーンという、大昔の王の名――をつけてくれたのだ。ところがおれはまだどこの王にもなっていない。
ということは、おれはどこかの王になるまでは、どんな危地にあっても生きのびるのだろうし、ということは、こんなところで綱が切れて、イドどもの中にまっさかさま、なんてことになりっこない、ってことだからな。よし、よし、荷物にでも、網の中の魚にでも、何にでもなってやろうじゃないか!」
奇妙な理屈で、自分を納得させると、無造作に岩によじのぼって、袋の中にもぐりこもうとした。それを、
「待て」
グインがとめた。
「何だよ」
「その甲冑をぬぎ、剣ぐらいにしておいた方がいいな。綱は切れかけているとラクが云っていた。すてられるものは、できるかぎりすてて、少しでも重みを減らすのだ」
「……」
傭兵は、まるで無体なことを云いかけられた乙女のような憤慨した顔でグインを見た。
しかし、そのまま黙って黒い鎧の結び紐をときはじめた。ゴーラのお仕着せの鎧、すねあて、小手あて、が次つぎに地上に投げ出され、彼のほっそりしたすがたはやがて鎧下のぴったりした胴着と短いズボン、革靴だけでそこに立っていた。
「剣はもっていってかまわんのだろうな。剣がないと、素っ裸よりもっと裸になったような気がする」
イシュトヴァーンはふくれつらで云い、網の中に、捕えられた大きな魚といった恰好でもぐりこんだ。
「モスでもシレノスでも何でもいいから、あんたの神の加護を祈ってくれよ!」
さいごに捨台詞を吐いておいて、しっかりとナワにつかまり、もう一本のナワをかるくひいて合図をする。
と、彼の重みでだらりと下がった綱は、再びそろそろとひきあげられ、そして、向こう側のラクたちが総出で引く力と、それにイシュトヴァーンが網の上にのばした手で上の綱をたぐる勢いとで、にわかごしらえのロープウェイはそろそろと進みはじめた。
「うわっち――と! おい、気をつけて引いてくれ!」
ラクたちの引くナワが大きくゆれたので、あわやひっくりかえりそうになった傭兵が大声でわめきちらす。その目はとびだしそうに見開かれて、二メートルとははなれていない真下にひろがってうねうねとうごめいているおぞましい生物を見おろした。彼の体重は、グインよりはだいぶ少ないとはいえセムの倍は確実にあったし、しかも綱は、四十人ものセムたちの重みを支えたあとだったから、あらたに加わったこの重みのために綱は大きくたわみ、下手をすればうんとのびあがってきたイドの先端がいまにも彼の足のさきにふれかねなかったのだ。
「ううっ、ぞっとしねえな――七つの尾をもつイラナにかけて、もう二度と、こんな経験は沢山だ。しかもおれはイドってやつとはどうも気があわねえんだ」
イシュトヴァーンはぶつぶつ云い、あわてふためいて足を上へちぢめた。
イドたちの中に、気味のわるいざわめきが起こっていた。それらは、さきに仲間たちの道をつけるために犠牲になったサライや、綱をふみすべらせて下におちた何人かのラクたちをすでにあとかたもなく消化してしまっていたが、それらのいけにえは、イドたちの永劫の飢餓を、なだめるよりはむしろあおりたて、より多くの食物を狂おしく渇望させるためのものでしかなかったのだ。
いまや、イドたちは、いわばすっかり目ざめて、ざわざわ、ざわざわと激しく身動きをはじめていた。それは、さきほどまでの、うねうねとした、さざ波のようなたゆたいとは比べものにならぬ、大きな、そして危険な動きだった。
それらは、直接に食物の存在を見ききする感覚器官を何ひとつそなえていない――イドは、それほどに原始的な段階にとどまっている生物なのである。しかし、それは、目や耳のかわりに、いわばそのブヨブヨとしたからだのすべてで、空気の中のわずかな温度の変化や、感触でもってえものと、岩や木などの消化できないものとを正確に識別した。
それらを動かしている唯一の衝動――凶暴で猛烈な、盲目の真黒な飢餓にあおりたてられるままに、それらはのびあがり、傍の岩へ這いあがり、怒りにかられてでもいるかのように無言の威嚇をこめて四方へそのからだをひろげた。
イシュトヴァーンの浅黒い顔は、嫌悪にゆがんだ。彼はそのいまわしい場所を通りぬけるための綱の動きが、あまりにも遅々としていることにすっかりうんざりして、げっそりした顔で上を仰いだが、とたんに顔色をかえた。
「わあ! 綱が切れる!」
その口から、恐怖におののくわめき声がほとばしる。
「大変だ、助けてくれ、落ちる!」
彼の黒曜石のような目はまん丸く見ひらかれ、自らがイドの海の真上で心細くもその身をあずけている、ただ一本の命綱の、その一ヶ所を凝視していた。
まだ、彼はようやく、イドの谷の三分の二ばかりをわたりおえたばかり――ラクの戦士たちが待つ、安全な向こう端までは、まだかなりの距離がある。
そして、その彼の恐怖に見ひらいた目の前で、にわかごしらえの綱は、みるみるゆるみ――そしてついにぷつりと切れた!
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「ああっ――!」
谷の向こう側とこちら側で、ラクの戦士たちとグインとは、なす術なく、若い傭兵の絶叫をきいた。
「モスの神よ――!」
かたく結びあわせてはあったが、所詮にわかごしらえで、その上に、すでにセムの四十人以上の若者の体重がかけられた綱は、イシュトヴァーンの重みにもちこたえられなかったのだ。
それは、とりあえず安全な向こう端を目前にしてついに、結び目のゆるんだ一ヶ所からゆるみつづけ、そしてぷっつりと切れてしまった。
イシュトヴァーンはたちまち、にわかごしらえの網袋に、まるで捕えられたけものか何かのようにおしこめられたじぶんのからだが、眼下のおぞましいイドの海めがけて落ちてゆくのを感じた。彼はうめき声をあげ、そして、さいごの一瞬まで生への希望をすてずに戦いぬこうとするかわりに、まぢかに迫った確実で悲惨な死の貌を見ずにすまそうというかのように、かたく目をつぶり、ナワから手をはなし、その手でしっかりと顔をおおってしまった。
短く急な、しかし彼自身には永遠かとさえ思われる落下の感覚が彼をつつみ、それから彼のからだはそれを包んでいるたよりない網ごと、どさりと下に投げ出された。
イシュトヴァーンはなおさら大声で呻き、弱々しく身を丸めた。どのみち、恐しい、人間でもけものでも丸ごとおしつぶして消化してしまうイドのまんなかにおちて、そんな抵抗が役に立とうはずもなかったのだが。
しかし、予想していたような、全身をあの青白いブヨブヨしたゼリーにつつみこまれ、それにねりこまれてゆく、むごたらしい戦慄をさそう死の感触は、いっかな彼をおそって来るようでもなかったのである。
「……?」
イシュトヴァーンはかたく顔をおおっている両手のなかで、ぎゅっとつぶっていた目をおずおずとひらいた。指のあいだからそっと恐ろしそうに外をすかし見――それから、あわてて、両手をおろした。
「これは、何てこった」
すっかり呆れて、不信とおどろきにとらえられながら、彼は弱々しい声で叫んだ。
「おれの守り神たる、ルアーの妻イラナの光の髪にかけて――! こりゃあいったい……」
そして、彼は怪我ひとつせず、身体のどこにもイドのかけらさえなく、網袋から苦労してもがき出ると、けろりとして谷底のやわらかな土の上に立ちあがった。
黒い、いたずらっぽい目を丸くして、あたりのようすを眺める。イドどもは、もはや彼の立っているあたりにいさえしなかった。
「たまげたな!――こいつら、動き出したぞ!」
ヴァラキア人は呆れて叫び、それからふいに、ゲラゲラ笑い出して、身を二つに折った。
「イリスの月光をこぼす青いつぼにかけて! 愛の神トートの運ぶ熱病にかけて、こんなことってあるもんか!――いや、ふしぎはないけどな、そうとも――おれにははじめっからわかっていたんだ。おれはヴァラキアのイシュトヴァーン〈魔戦士〉、〈紅の傭兵〉、なんだからな。そうさ――いつだって、おれは世界一幸運で――決して流れ矢にあたらない男だったんだ!」
彼がそう云うのも、無理はなかったかもしれない――イドたちは、まさに彼が危い綱わたりを文字どおりはじめたとたんに、ざわざわと、そのこれまで満ちていた谷間を見すてて移動しはじめたのだ。
それらは本来、夜のあいだにゼリーでかためた潮ででもあるかのようにノスフェラスの荒野を動きまわり、そしてそのからだがふれたものをすべて消化しつくしてしまう。サライたち、足をふみはずしたセムを数人そのえじきにしたことで、イドの原始的な組織にもおぼろげに、その南西の方向にもっと食物がありそうだ、ということが感知されたらしく、それはそのおぞましい何マイルもありそうな図体を、巨大な不定形の芋虫のようにのたくらせながら、谷のもうひとつの側へむかって動き出し――そして、イシュトヴァーンが、綱が切れて下へおちたとき、あわやというところでそれはイドたちが通りすぎてしまったところだったのである。
傭兵はまわりを見まわし、そして自分がまだそうよろこんでばかりはおられぬくらいイドの端に近くいるのに気がついた。あわてて彼は剣をひろいあげると、敏捷に谷をかけあがった。
その目がふと、イドたちが引き潮のように去っていったあと、地面の上にあらわれたものの上にとまる。それは、さきに仲間たちを無事に通らせるための犠牲になった、勇敢なサライのむくろにちがいなかった。
「うへっ」
畏れを知らぬ〈紅の傭兵〉もさすがに鼻をしわめる。それはもうほとんどサライとは見わけもつかぬほどにかわりはてていた。
巨大なアナコンダが人間をとぐろにまきこんでしめ殺し、丸呑みにして消化しかけたところを、蛇の腹をさいてその中身をひきずり出したとしたら、こうもなろうか。イドのやわらかい、しかも容赦のない圧迫でもってつつみこまれ、窒息した犠牲者の骨はおしつぶされてひしゃげ、むざんな肉塊となっていた。そしてそれのやわらかな部分をすべて、イドは吸いつくし、消化してしまったのだ。洗われたように白い折れた骨へ、イシュトヴァーンはぞっとして目をむけ、いま一歩イドがひいてゆくのがおそかったら、彼自身もあんなざまになっていたのだと考えた。
「まあ、いいさ――とにかくそうはならなかったんだし、イリスの白いうすものにかけて、おれはこうして生きてるんだからな」
犬が水を払うように、ぶるぶるっと身ぶるいして、彼は岩をとびこえ、そこに心配そうにかたまっていたラクたちに合流した。
「ハッ!――無事だったぜ。そんな、幽霊をみるような目で見るもんじゃないぞ、サルども!」
彼はセムのことばを解さないし、ラクたちは彼のことばを解さない。それをいいことにして、イシュトヴァーンは横柄な調子で云った。
だが、その目が丸くなる。ラクたちは、彼にあまり注意を払おうとしなかった。
「リアード!」
「リアード――イニ、リーク、ラニ!」
「リアード!」
彼がいま無事になんとか渡りおえたばかりの谷の向こうを、闇をすかしてのぞき見るようにしながら、しきりと口々にさわいでいる。
「グイン――?」
イシュトヴァーンの眉がしかめられ、彼はラクたちの指さしてさわいでいる方向をみた。
そして、ようやく気づいた。――彼がなんとかこちらへたどりついたいまとなっては、あちらへまだとりのこされているのは、グインただひとりなのだ。
そしていまや、イドの群れはこの谷を見すて、うねうねと生ける波がおしよせるように食物をめざして移動しつつある――グインの方に!
しかも、生命の綱は断たれてしまった。
グインには、何ひとつ、こちらへたどりつく手だてがないのである!
「……」
ヴァラキアのイシュトヴァーンは、鋭く目を細めて、事態をよりはっきりと頭にしみこませようとするかのように闇の向こうをすかし見た。
その狼|面《づら》に、何か奇妙な、苦痛に似た表情が浮かぶ――が、それをふりきるようにタンと舌打ちをして、彼は云った。
「えい、何をさわぐんだ――大丈夫だよ、グインは大丈夫だ。奴のことだ――たとえ世界じゅうのイドが全部おそいかかって来たって、何とかして切りぬけるさ。それより――」
ためらうように唇を舌で湿して、
「それより、おい、サルども、こんなところでいつまで時間をつぶす気なんだ? ラクの村ってのはどっちだ。グインはどうせ追いついてくるんだから、ゆっくりとそっちへ行きかけていようじゃないか――」
途中で彼は口をつぐんだ。どうせ、彼のことばはラクたちにはわからぬのであったが、それにしても、誰も彼のことばに注意すら払っていないことに気づいたからである。ラクたちは、夢中でわいわいと甲高いさえずるような声をたてながら、グインのひとり取り残された谷の向こうを指して取沙汰していた。
かれらには軍神にもひとしい勇者リアードを、救うために、ようやく通りぬけてきたイドの海へ、かけ入ったものかどうかとけたたましく論議しているらしい。シバが昂奮のおももちで、戻ってイドを焼き払い、グインを早く助けねばと主張しているらしく、その手にした松明をふりまわし、しきりに甲高いセムのことばで熱弁をふるっている。
「おい、よせ、よせ」
イシュトヴァーンは大声を出した。
「まさか本気でイドどもを焼き払うつもりでいるんじゃないだろう。なぜわれわれがさっき、あんな曲芸をやらかして谷をわたったと思う。その火を見つけられて、モンゴール軍の主力をまっすぐにこちらへひきよせちまうことを恐れればこそだぞ。いいか、グインなら、何とかして切りぬけるというのに……」
ラクたちはちっとも納得したようではなく、そのかわりに怒ったような、とがめるような目を長身のヴァラキア人にむけた。
「おい、おい、何だよ、その目は――」
少し鼻白んでイシュトヴァーンが云いかけたときである。
「アルフェットゥッ!」
ふいに、ラクたちが仰天して声をはりあげた。
その丸い目が、信じがたい恐怖と衝撃にいっそう見ひらかれ、そしてかれらは悲鳴をあげて四方へ逃げ散ろうとした。
イシュトヴァーンは茫然となって、その、ラクたちを驚かせたもの[#「もの」に傍点]を見つめ、化石したようになっていた。舌は口の中でかわいて上顎にはりつき、全身の毛がさかだち、悪夢の中から立ちあらわれたそのおぞましいもの[#「もの」に傍点]から目をはなしたくても、はなすこともできない。
それは――暗い、ひたひたとひいてゆくイドの海のなかから、夜の海を二つにわけてあらわれ出るクラーケンのようにしてあらわれ、かれらの方へその手をさしのべたのは人のすがたをしたイドのかたまりだった。
いや――
「グ――グイン!」
イシュトヴァーンは叫び、大あわてでかけよろうとし、またあわてふためいて足をとめ、どうしてよいかわからずにおろおろと手をもみしぼった。
それは本当にグインだった。その豹頭や、みごとなたくましいからだは、すっかりねばねばしたイドにおおいつくされて、そうとさだかに見わけもつかないが、たしかに彼なのだ。と見て、イシュトヴァーンがどうしたものかとあたりを見まわすいとまもなく、グインのイドにおおわれた手がいきなりシバの方へのびたかと思うと、思わず悲鳴をあげるシバの手から松明をひったくり、そしていきなり、それを自らの頭へともっていった!
たちまちイドに包まれたすがたは、さらに炎につつまれて燃えあがった。
「ワーッ、グイン!」
イシュトヴァーンはわめいた。その人影は炎のなかで、苦悶するかのように何回か手脚をふりまわしたが、それからやにわに地面へ倒れこむと、凄い勢いでころげまわり、まもなく火のあらかたをどうやら消しとめてしまった。
「な――なんてことを……」
さしもの〈魔戦士〉も、しばし、驚きに呆れるあまり声も出ない。ラクたちも、グインの無事をたしかめることさえ忘れ、茫然となって立ちすくんでいた。
グイン――それともその現し身――は、そこに倒れ、しばらく動かなかった。ようやく火を消しとめた彼の巨躯には、そこここに焼けはぜたイドのかけらがこびりつき、真黒になっている。イシュトヴァーンは唾をのみこみ、それからやっと声をしぼり出した。
「グイン――グイン、お前……焼け死んじまったのか……?」
彼の声は微かにふるえていた。
うずくまった小山のような姿が、ぴくりと動いた。そして、
「いや……」
くぐもった、ききなれた声がかすかに、
「いや、死んではおらん」
「グイン!」
そのときになってやっと、イシュトヴァーン――そしてラクたちは、金縛りのような驚愕から回復しはじめたのである。それと同時に、あわててかけよって、グインが全身に動けぬほどの大火傷をおったのではないかとうろたえさわぎながら助けおこそうとした。
だが、
「大丈夫だ。そこをどいてくれ」
グインの声がいくぶんはっきりしてきたと思うと、ふいに彼の手があがり、真黒な頭がすぱりととれ――
そして一同のおどろきの声のなかで、どこにも傷ひとつおっていない、丸い巨大な豹頭があらわれたのである。
「やれやれ――さしもの俺も、あれより一分長く炎が消えないでいたら、窒息してしまうところだったな」
黄色い目をいっそう黄色くまたたかせながら豹頭の戦士は云い、そして手にもったものを放り出した。
それは、さきにイシュトヴァーンがぬぎすてていった、ゴーラの黒騎士の鎧だった。グインは、その鎧の胴を頭にかぶり、それを防御壁がわりにして、強引にイドの真中をつきぬけたのである。
「なんと……」
イシュトヴァーンが、呆れはててぼんやりと云った。
「この世のありとある奇跡をつかさどるヤヌスにかけて、あんたは一体――一体、ほんとに生身の人間なのか? イドどもの中を身ひとつでかけぬけて、くっついたイドをとるために、自分から火だるまになるなんて……」
「俺にだってそれ相応の分別はある。別にそれほど危い橋をわたったわけではないさ」
グインは吠えるような声で笑い、からだから、とりつけていたものを取りはじめた。イシュトヴァーンは目を丸くしてのぞきこんで、そして唸った。
グインは、イシュトヴァーンが綱わたりをはじめてすぐに、あつめさせておいた晶石のかけらを、残った弓つるや、馬の手綱までとりはずして、それでからだのまわりにくくりつけたのである。そして、むき出しの肌をそうやってイドの吸引力から守った上で、手足にはイシュトヴァーンのすね当て、小手当てをつけ、頭に鎧をひっかぶり、そのあわせめを前にもって来て視野のきくようにして、そのままイドどもの真中をかけぬけたのだった。
「危いところではあった」
それらの、イドの残骸のこびりついた防具をすっかりとりすてると、グインは認めた。
「誰か酒をくれ」
ただちに手わたされた吸い筒から、むさぼるように飲みながら、
「あのイドというやつ、思った以上に力がつよい。――つぶされぬようにするために、全身のありたけの力をしぼり出さなばならなかったし、その上に、足をとられたらさいごだということはわかっていた。手にさいごの松明を持って、足の前を焼いて道をあけながらきたのだが、それをおとしてしまったので、さいごの三十タッドばかりは、うんと息を吸っておいて、イドのむらがってくるままにしてありたけの勢いでかけとおしたのだ。あと、五タッド、イドどもが続いていたら、息が切れるか、足をとられるかしてお終いだったな」
「まったく――何てムチャなことを! いくらあんたが剛力でその上息が長くつづいたといっても、あんたがそうしてその足で地面に立ってるのは、ただの信じがたいような僥倖にすぎんよ」
イシュトヴァーンは呆れ返って云った。グインは笑った。
「どのみち俺の体重は、あんな綱でどのようにしても支えかねるほど重すぎる。はじめから、何かで身を守って、しゃにむにイドの谷をつっきるほかはないと心づもりをしていたのさ」
「モスの神よ――!」
イシュトヴァーンはそっと云った。その黒い、きらきらしていてまじめなところのない目は、いつにない奇妙な驚嘆と、そして――本人は決して認めなかったかもしれないが安堵の光をすらひそめてグインにむけられていた。
「もっともさすがに無傷とはいかなかったな――このぐらいなら、虫がさしたほどでもないが」
グインは、からだを調べてみながら云った。手足や、胸のあちこちに火ぶくれができており、骨をぐしゃぐしゃにしてしまうイドの力でしめつけられた脇腹に、折れた晶石の先がささっていた。シバたちが、薬草をあてがい、応急手当をするのにまかせながら、グインはしびれた首や頭をしきりに動かしてみた。
「ウマたちは可哀想なことをした」
彼は、もはやイドたちの青白く光る海が去って、ただ真暗な深淵としか見えない谷底を見やりながら云った。
「一応放してやったが、イドに食われてしまったろう――自分の身ごしらえをするのがやっとで、とてもウマまでかまっておられなかった」
「何をそんなもの――」
イシュトヴァーンは苛立った身振りをした。かれらを待つあいだに、先についたシバたちが火をたいてあったので、そのまわりは小さな昼の領土となっていた。イシュトヴァーンはそれへ目をやり、また頭をめぐらした。彼の黒い目は、感情を激しくゆさぶられた反動のようにいつもよりいっそう皮肉に、するどく光りはじめ、彼は苛々して、火をとりかこんでひっそりと身をよせあっている三十人もの小猿人たちと、こちらで何人もの猿人族にかしづかれ、手当をされながら、体をいたわって腰をおろしている巨大な豹頭の戦士、という、奇怪で幻想的な光景をねめまわした。
「ウマどころじゃないよ。われわれが死んじまうところだったんだ」
「だが、生きている。それも、あまり多勢を失いもせずにすんだ」
グインは指摘した。そして、シバたちの手をそっと払いのけると立ちあがった。
「よかろう――では出発しよう。われわれには、そうたくさん時間があるわけではないし、しかもあのイドどものおかげでかなりその大事な時間を費してしまったからな。何人かに、われわれにさきがけてラクの村へ入らせておくべきだった」
「わたしが、そうさせました、リアード――もう村から、迎えがこっちへ向かっているはずです」
得意顔でシバが叫んだ。
「それはすばらしい。よく気がついたな、シバ」
グインはほめた。シバは嬉しそうだった。
「では行こう。――ラクの村までは、もう遠くはないのだろう」
「はい、リアード。谷ひとつ、こえれば、もうそこに見えます」
「あのイドどもが、山をおりていって、モンゴール軍を全滅させてしまえばいいのにな」
イシュトヴァーンが真顔で云った。
そして、そのあとはさして危険なめにあうこともなく、かれらは夜を徹して先を急いだ。
目のまえのイドから身を守ることに気をとられて、忘れかけていた、かれらの村、そして種族そのものに迫りくる大いなる危機が、ラクの若者たちの足をいやが上にもはやめさせ、そして疲労を忘れさせた。敏捷な猟犬たちをひきいる巨大な虎のように、底なしの体力で先頭に立つグインのところへ、シバがするすると近よってきた。
「リアード、あの黒い人は、ほんとうに勇者なのでしょうか」
ずっとそれを思い悩んでいた、というふぜいでこそこそとたずねる。
「イシュトヴァーンが?」
「黒い人、リアードと全然ちがう。女のように悲鳴をあげるし、よくしゃべる。それに、リアードのおかげで谷をわたれたのに、リアードをおいて先に行こうとしました。黒い人、リアードの友達だから、わたしたちも歓迎するが――しかし、黒い人、勇者ですか、ほんとうに?」
グインは声をたてて笑い出したので、みなが何事かと見やった。
「あれはあれでいいのさ、シバ――お前にはわからぬかもしれんが」
笑いながらグインは云ってきかせる。
「勇者はひととおりではないのだ。ああいう勇者もいる――〈紅の傭兵〉は、稀に見る勇者だ」
シバはまだ何となく納得しない体である。
「おい、何を話してる、グイン――見ろよ、どうやら、あれはラクの村からの迎えのようだぞ」
何を云われているのか知らぬイシュトヴァーンが太平楽に寄ってきて、こちらへ上り坂になっている細い道の、下の方を指さした。
その谷底に、ちらちらとなつかしくまたたく灯りがひろがっており、そして、その上り口のところに、灯をかざしたラク達が待っていた。かれらは、ラクの村に着いたのである。
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第二話 セム族集結
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「リアード!」
シバの声は、おさえてもおさえきれぬ喜びと、そして懸念とにふるえていた。
「ラクの村です」
「うむ」
身長二メートルあまりの巨人グインと、その半分ほどしかない矮人族セムの若者――そしてグインほどではないがほっそりとしてかなりの長身のヴァラキアの傭兵とは、谷の下り口に立ち、そして見おろした。
ラクの村――それは、イドの谷をこえ、もうひとつ谷をこえた、そのまた谷あいに、ひっそりとひろがっている。
すでに夜は深く、かれらがふみこえてきた谷々には、怪奇なイドや白いエンゼル・ヘアーのほかには、目ざめて動くものの気配とてもなかったが、いま眼下にひろがるラクの大村落は、さながら夜の海に不知火がゆらめくように、あちこちにあかりがあった。おそらく、稀な珍客と、そしてグインたちと共に偵察に出たシバたちの帰りを待つのとで、日ごろ静かなラクの村もすっかり目ざめ、夜どおしばたばたと歓迎の準備に忙しいのだろう。
「へえっ、思ったよりもだいぶん大きな村じゃないか」
サルの客になって逗留するのか、とにくまれ口を叩いたことも忘れたように、イシュトヴァーンが口笛を吹いた。
「イーイーッ!」
「アイー!」
そのとき、さながら巨大な光るアメーバから、その一部がわかれて生まれ出るように、村落のあかりをはなれてこちらへあわただしく川道を上ってきた一隊が、歓声をあげ、手に手にふりかざした松明をうちふりながら、かれらにむかって走り寄ってきたのである。
「リアード! リアード!」
「シバ!」
かれらは口々に叫んでいた。それに混じって、ひときわ高い、若々しい声が、
「グイン!」
「おう。グイン!」
悲鳴のような叫びをあげたと思うと、やにわにセムたちの群れの中から二つのすがたがまりのようにかけてきて、両側から豹頭の戦士にしがみついた。リンダとレムスである。
「ああ、グイン――よかった。無事だったのね……心配したのよ、心配したのよ」
誇り高いパロの王女の気位も、人目も忘れて、リンダは銀色のかわいい頭をグインの胸にこすりつけ、ひしとしがみついてしゃくりあげた。レムスもしっかりとグインの腰にすがりつき、それはどうやら、やっとのことで親鳥のつばさの下に帰ってきた、二羽のはぐれたひなを思わせた。
「俺がどうなるはずがあるものか」
唸るようにグインは云う。イシュトヴァーンは、ちょっと憎らしそうにその三人のようすを見やった。
「パロの小女王といっても、まだガキだな――何かといえば、すぐべそをかくんだからな」
黒い目に、あざけるような光をうかべて、にくまれ口を叩く。リンダが、頭をもたげてイシュトヴァーンを、はじめて彼の存在に気づいたかのように眺めた。
しかし――おそらく、イシュトヴァーン自身もあてのはずれたことには――つんとなって云い返すと思いのほか、リンダとレムスは顔を見あわせるなり、意味ありげにクスクスと笑い出したのである。
「な――なんだ、人が死ぬか生きるかの瀬戸際を、やっとの思いで切りぬけてきたってのに――自分たちは、のんびりとサルの御馳走にあずかってたんじゃないか」
イシュトヴァーンは駄々っ子のように口をとがらせた。リンダはまだクスクス笑いながら、
「ごめんなさい、気がつかなくて――でも、無事でよかったことね、ラクの村では、あなたがたを迎えるために、さっきからすごい歓迎の宴を準備して待っていたのよ」
「ご馳走がたくさんあるよ」
レムスも云った。そしてリンダとレムスはまた、目を見あわせるなりプッと吹き出した。
「何だってんだ、まったくもう――」
イシュトヴァーンはぶつぶつ云ったが、しかしさしも若いとはいえ、あいつぐ冒険でへとへとに疲れていたし、何より腹をひどくへらしていたので、ご馳走ときいてにわかに機嫌よく、ラクたちに囲まれて坂を下ってゆく。いくつもの松明がさし出されて足元を照らし、迎えの一隊のほうはグインとイシュトヴァーンとをひとしなみに帰還した英雄らしく扱っていたので、彼のわんぱくそうな顔はようやくゆるんできた。
「こんな恰好になっちまって、見っともないったらありゃしない――サルの村のどこかに、ゴーラ兵から略奪したのでいいから、何か鎧か、せめて胴着はないもんかな。美の女神サリアにかけて、これじゃさすがのイシュトヴァーンさまも、三割がた男前がさがっちまう」
彼はブツブツ云い、そして鎧下と足通しだけのなり[#「なり」に傍点]を気がかりそうに見おろした。
リンダとレムスはグインに会えて、めちゃくちゃに嬉しそうだった。ルードの森で、偶然に――とはいえ、それが偶然か、それとも運命のみちびきによったのかは、誰にもわからなかったろうが――出会ってからというもの、黒伯爵の虜囚、スタフォロス城の陥落、ケス河の漂流、そしてノスフェラスでの冒険と、数々の困難を共に乗りこえるうちに、双児たちにとってこの豹頭の謎にみちた男は、杖とも柱とも頼む唯一の守護神となっていたのである。
グインさえいれば、よるべない、国を失った流浪の身の上もそのいたみを減じ、行くさきも知らぬこの巨大な未知の辺境もおそろしくはないようにすら感じられるのだった。リンダたちに族長の孫であるスニを助けられたと知って、もともと性質が温和で善良なラク族たちは、あらん限りの歓迎をあびせかけてくれ、パロの陥落以来まったく何日ぶりかで双児はゆっくりと休み、腹いっぱい食べ、そして手足や顔をきれいにすすぐことさえもできたが、しかしグインがかれらとはなれている限り、本当には双児たちはおちついておられない気がしていたのだった。
「グインが帰ってきた――もうこれで、何もかも大丈夫ね」
リンダはグインの大きな手にぶらさがり、とびはねるような足どりで、ラクの村へと案内役をつとめながら、はしゃいだ声を出した。
が、そのけむるようなヴァイオレットの瞳が、グインのからだのあちこちになまなましい傷を見たとき曇って、
「グイン――怪我してるの?」
心配そうに叫んだ。
「なに、大したことはない」
グインはあっさり答え、こまかないきさつを話してきかせようとはしなかった。その豹の目は、闇の中で、何かおさえてもおさえきれぬ懸念と焦燥に光っていた。
「リアード!」
そのとき、松明をかかげた新しい一隊が、かれらの方へ上ってきた。先頭にスニと、そしてラクの大族長でスニの祖父でもあるロトーがいる。ロトーの白くなった剛毛が、松明のくすぶるあかりをうけて銀色の針のように輝く。
「ご無事でお帰りを――勇者たちをお迎えして、われらの村、またその民どもは、心から――」
ゆったりとした、奇妙なうたうような中原のことばでロトーが勿体ぶって述べはじめるのを、グインは手をあげておしとどめるようにした。
「待ってくれ」
きっぱりとした、有無をいわさぬ語調で云う。
「それは後まわしだ。族長、たったいますぐに、セムの部族という部族、そのすべての主立ったものをここに集まるよう、触れをまわしてはもらえんか。できうる限り早くだ――どのぐらいかかる。それがどれだけ早くできるかに、お前たち――とわれわれすべての、生命と平和とがかかっているのだ」
「なんと!」
ロトーは目をむいた。松明の群れが揺れた。
「ラク――ばかりでなく、塩谷のカロイ、黒毛のグロ、まだら[#「まだら」に傍点]毛のラサも、イド飼いのツバイも――でございますか?」
「そのとおりだ」
グインは足をとめずに、そのままゆるやかな下りになっている道を、その両側にリンダとレムスのパロの双生児をかかえるようにしたまま、ラクの大村落へむけて下りはじめていた。
ロトーはあわてて、おいてゆかれまいと足を速めた。ちょこちょことグインたちを追いかけながら、グインが何かの冗談をいっているのか、それともこれには何かの理由があるのかと、さぐるように見上げる。
「リアード! お聞かせ下さい。何ごとでございましょうか」
「モンゴールはノスフェラスに軍を進めた」
グインのいらえは短く――そして、きびしかった。
「すでに進攻軍はケス河をおしわたり、河のこちら岸に陣をしいて朝を待つ気配だ。その数、およそ一万五千。ひきいるのはモンゴールの公女将軍アムネリス。装備や、それから陣そなえの模様からみて、おそらく、こんどこそモンゴールは、ノスフェラスのセム族をたいらげ、再び河をこえてゴーラ領に入ることが不可能なだけの打撃を与え、かつモンゴール国境の西北端をこの際一挙に拡張しようという決意とみた」
「一万――五千!」
ロトーは声なく唸った。
かれらをおしつつむようにして、かれらのやりとりに耳を傾けていた、ラクの民のあいだに、一瞬激しいざわめきがまきおこった。
老族長は手をあげてそれを制した。
「それでは、セムは、おしまいです――リアード。セムは、滅びます」
奇妙なくらいに淡々とした口調でいう。かえって、グインのほうが、声を荒げた。
「滅びては、ならんのだ。――いかに前人類、猿人族と呼ばれるセムであるからといって、自らの野望のために、それを滅ぼし、平和な暮らしをいとなむ部族を追いたててよいという権利は、モンゴールにもあるまい。――戦うのだ、ロトー。そのためにこそ、全部族に触れをまわすのだ」
「おう、リアード」
ロトーはそっと云った。しばらく、かれらは黙りこんで歩いた。
もうそこがセムの村の入口だった。かがり火に照らされた谷底の村は、村とはいうものの、練り土の山をくりぬいた、素朴なすまいが、さながら糸底のある椀をいくつもふせたようにぴったりと並んでいるばかりで、その家々の入口にも、それの中からも、家々の間にも、老若男女あらゆる年かっこうのセムの村びとが、すずなりになってこのおどろくべき珍客に目を見はっている。
かれらが、村の中心部とおぼしい、踏みかためられた通りを歩いてゆくと、セムたちのきらきら光る目がかれらを追いもとめ、そしてセムに特有のあのさえずるような声が、
「リアード、リアード(豹)!」
「アルフェットゥの子!」
とささやきかわすのが、さざなみのようにかれらの耳に届くのだった。
「えい、なんてこった――!」
しばらく、黙りこんでいたイシュトヴァーンは、もとよりそうそう長いこと口をつぐんでいられるわけもない。
つとグインのそばへよってきて、
「おい、グイン――よう」
きょろきょろしながら、いたずらそうにグインの耳に口をもっていった。
「何だ」
「ちょっとしたサル山だな。たいした眺めじゃないか――ところで、まさか、ほんとに[#「ほんとに」に傍点]こいつらをひきいてモンゴールの精鋭一万五千と戦う、なんてバカな気をおこしてるわけじゃねえんだろうな。まさかとは思うが、なにせあんたのことだから――頼むぜ、おい!」
グインは何も答えなかった。ロトーが足をとめ、かれらにもとまるよう合図をした。それは、闇の中にもひときわ大きい、例のお椀型の土の家のひとつの前だった。
「勇者よ――ラクの客人たちよ、どうぞ、われらの家にお入りになり、われらのもてなしをお受け下さるよう」
格式ばってロトーが云った。それから小さな毛深い手をのばしてグインの腕をつかみ、
「リアードはこちらへ――よろしければ」
いくぶん声をひそめていう。グインはうなづいた。
「腹がへったのなんのって――あるもんじゃねえ。だがその前にとにかく、手足を洗う水がほしいもんだな。それと口をすすぐ酒もだ」
イシュトヴァーンがはしゃぎながら云い、そして首をちぢめるようにしてセムたちのあとにつづいて暗い家の中に入ってゆく。双児もつづいた。リンダは、ちらりとそちらをふりむいてグインの方へ、何か云いたげな目をむけたが、思い直して口もとに可愛らしい笑みをうかべてみせると弟につづいて、すでにすっかり馴れた場所にいるようにくつろいでラクの家の入口をくぐる。スニが続く。
まもなく、何か楽しげなかれらの声――中にひときわたかい、いかにもはしゃいだひびきの、イシュトヴァーンの声が、中からくぐもってきこえてきた。
それへちらっと目をやったグインは苦笑した。
「実際、ふしぎな男だ、あの〈紅の傭兵〉というのは。セムの客になるのはいやだの、どうのとさんざん駄々をこねたくせに、いざ村へ入ってみると、たちまちそこに馴染んでしまう。あんなに、どんな境遇にあっても自然に、そこで生まれでもしたかのようにのびやかにふるまえる男も珍しい。あれもやはりあれで、ただものではない運命を背負っているのだな」
かたわらのロトーにきかせるともなく、独り言のようにつぶやく。ロトーが、たずねるように見上げる――しかし、彼が、子供たちに思いをはせていたのは一瞬のことだった。
たちまち、その目が、きびしい、果断な光をうかべてロトーを見返って、彼はかるく手をあげ、漠然と山の向こうをさし示すようなしぐさをした。
「ロトー、一分一秒すらもあまりにも貴重だ」
きっぱりとした、有無をいわさぬ口調で云う。
「触れをまわしてくれ。それから、とりあえず、ラクのすべての族長を」
「かしこまりました」
年古りた大族長はうなづいた。しばらくはかがり火に照らされたラクの村に、あわただしい動きが続いた。
月が上った。
この見すてられたノスフェラス、ノーマンズランドと呼ばれ、住むものとては小人族セム、巨人族ラゴンのほかは荒野のぶきみな怪物ばかりという荒れはてた砂漠にも、月は上るのだ。青白いイリスの宝石は、ひときわ淋しげな玲瓏のほほえみを漂わせて、暗くおもくるしくひろがる岩と砂との荒野を見おろしているかのようだ。
それに照らされて、ラクの村が、谷々の底ふかく、わだかまっている。
黒く、それもまた規則正しく並ぶ岩山のひとつにすぎないかのようにひろがるラクの大村落は、しかし、何やら常ならぬ緊張とざわめきをひそめて、い寝がての一夜を迎えているかのようだった。
ラクの村――それは、椀をふせたようなかたちの土づくりの家が、二列づつ谷の両側にぴったりとはりついたかたちをしている。
そのお椀の列のちょうどまんなかあたりが、そこだけ広く丸い空地となっており、どうやらそこが、そこで種々の儀式などもとりおこなわれる広場として、ラクの村の中心をなしているとおぼしい。そして、その広場の両わきにたっている半円形の家は、他のそれにくらべてずっと大きかった。
グインが招し入れられたのは、その、広場の右横の家である。中に入ると、床――といっても、ただの土だったが――をかなりほりさげてあり、そのまんなかに炉をきって、その火が灯りになっていた。長身のグインにはむろんのこと、小人族のセムの住居が寸法にあうわけもなく、彼はほとんど身を二つに折りまげて進まねばならなかったが、いったん炉辺にあぐらをかいて腰をおろすと、なんとか居心地よくおさまることはできた。
「他のお客人がたは、ラクの女たちが手あつくおもてなしを致しておりますから、お案じになりますな」
ロトーがグインと向かいあってすわりこみながらいう。室内にはまったくかざりらしいものもなく、ただ土の山をくりぬいて梁で支えたにすぎないが、それでも炉辺には、狼の毛皮が何枚もしきつめられていた。ラクの女たちがつぎつぎと、酒のつぼや何かを運んでくる。
しかし、男たちの関心は、もう他のことへ飛んでいた。
「リアード」
ロトーが重々しく云う。
「これまでも、セムの歴史の中で、モンゴールの色のついた悪魔は、何度か河をこえてわれわれをおびやかしました。そのたびに、われわれはノスフェラスの奥ふかくへと追いやられました――むろん、こちらからも、河をこえてかれらを攻めたこともあります。カロイ族やグロ族がそうです。しかしわれわれ――ラク族は、色のついた悪魔たちに手向かったことなどありませぬ。なぜ、かれらは、ラクをそっとしておいてくれぬのでしょうか? なぜ、セムはセム、人間は人間と土地をわけあうことができぬのでしょうか?」
「モンゴールはノスフェラスを手に入れたいのだ」
グインが云う。
「なぜ、このような、かれらも云うところの、辺境のノーマンズランドを? ここは、かれらが住むには向きませぬ」
「わかっている」
グインはうなづいた。炉の火に半面を照らし出された彼の、巨大な豹頭の影が丸い土壁にゆらめいた。
「それをずっと俺も考えてみた。――なぜモンゴールはノスフェラスへ目を向けているのか。むろん、中原へ進出するにはまず、背後の守りを固めなければならぬ、ということもあろう。万が一にも中原のどの国であれ、セムを動かして味方につけることに成功しようものなら、ゴーラは腹背に敵をうけることになる。よしんばセムと同盟しているのでなくても、たまたま時期を同じくしてセムがスタフォロス城へせめのぼったようにケス河をおしわたってくれば、モンゴールのうける打撃は同じことだ。しかし――」
「……」
「しかしさきほど俺とシバたち偵察隊が目にした、モンゴール軍のこしらえは、断じてスタフォロス城の全滅にあわてたモンゴールのとりあえずの反攻、というようなスケールのものではなかった。ケス河には、応急のとはいえ立派な橋がわたされ、兵たちは河のこちら側に防壁をきずきはじめており、そしてアルヴォンからタロスやツーリードへいたる森ぞいの道すじからも、そこかしこで煙があがり、ひっきりなしに使者や補給の車馬が往来していることを思わせた。
いや、断じて、これは一朝一夕によくなしうるような陣そなえではない! しかし、なぜだ[#「なぜだ」に傍点]?――なぜなのだ? モンゴールはパロを陥し入れ、いまや勝利の絶頂にあるが、しかしそれはかえって、パロをおさえつけ、征服軍の体制をととのえ、地下に潜伏したり地方へ逃げのびて後日を期しているであろうパロの残党を狩りたてるなど、きわめて多くの事後処理をも必要にしたはずだ。つまり、いまほどにモンゴール中枢部が辺境へ目をむけ、兵を割くに似つかわしくない時期は他にないのだ。
まして進攻軍をひきいるのは、公女将軍アムネリス姫――アムネリスといえばヴラド大公の右腕、妥当に考えれば、パロの都クリスタルに進み、そこに征服軍の司令部をもうけ、そこにおさまってパロの新司政官となる者こそ、アムネリスであっておかしくないはずだ。事実、彼女はパロ奇襲の総指揮をとっていたという。
その[#「その」に傍点]彼女が、なぜ、業なかばにしてにわかにクリスタルに背をむけ、あわてふためいてトーラスへはせ戻り――そしてこのさびしい辺境へと姿をあらわして、ノスフェラス進攻軍の総指揮官となったのだ? 何かある――たしかに、何かがあるのだ。あるいは、何かが起こったのだ――モンゴールをして、何ごとにも優先してノスフェラスへ目を向けさせねばならぬような何かが。
わからぬ――ノスフェラスには、何が[#「何が」に傍点]あるのだ? モンゴールをそうまでさせる、このノーマンズランドの秘密とは、いったい何なのだ?」
ロトー、そして彼の両脇にうずくまっているラクたちは、巨大な豹頭の軍神の思考をさまたげることをおそれるように、息さえもころして耳をかたむけていた。
おそらく、ロトーにとってすら、そのグインのことばは半分とは腑におちぬものであっただろうが、しかし、それがおちゆく先が、かれら自身の運命に密接なつながりをもっていることははっきりと感じとれる。
そして、こうしている瞬間にも、ひたひたとおしよせる津波のように、モンゴール軍の前衛がラクの村のポジションをめざしつつあるかもしれないのだ。毛深く、猿を思わせる小さな顔々には、ようやく事態の容易ならぬことを知って緊張の色が濃かった。
グインは、しばしそうして黙念と考えに沈んでいたが、やがて、彼の口をひらくのを黙ってじっと待っている小猿人たちの存在に、はじめて気づいたかのようにその巨大な豹頭をもたげた。
「ともかく――」
答えるすべのない疑問を、ひとまず棚上げにしようとするかのように、力強い声で云う。
「ともかくたしかなことは、モンゴールの決意がなみなみならぬものであり、少なくともラク、カロイ、グロの三大部族のどのひとつであれ、単独でかれらにあたっては、とうてい勝ち目はない、ということだ。わかるか。――そしてラクの村は、ケス河の方角からみてもっとも、かれら進攻軍の進路に近いのだ。この谷に守られた村を、地図も道案内もなしに侵攻軍が発見するには、僥倖を除けばおそらく最低であと数日は要すると思う。しかし、同様に、かれらがそれを見すごして通りすぎ、ひたすら内陸部をめざしてくれるという幸運をあてにするのも危険なことだ。モンゴールは一万五千――ラクは、戦えるものすべてを集めて、二千。いまからもっと奥地へ移りかくれるか、出かけていって迎撃するか――だがそれは論外だ。残されたのはただひとつ……」
「しかし……」
ロトーの聡明な目が暗い思いにかげって、何か云いかけたが、首をふっただけで口をつぐんでしまう。
「村をすてて、逃げのびよう。いますぐに」
突然、うしろの方に居並んでいた小族長の一人が、急ぎこんだ声で叫んだ。
「それしかありません。――色のついた悪魔たちは、ウマに乗っている。石を、遠くまでとばす道具も持っている。それに――」
「リノ!」
ロトーが呼んだ。その声には、厳しい叱責のひびきがこもっていた。しかし、リノは気にとめようとしなかった。
「それに、リアードの云われるようなことはとても――とてもムリです。ラクがカロイや、あのいまわしいグロと力をあわせるなどということはできない。グロはわれらを捕えると、食べてしまう。同じセムたるこのラクを食べて[#「食べて」に傍点]しまうのです! カロイにしたところで、これまでに何人の女子供がかれらの手におちて、カロイの奴隷にされていることか……」
「そればかりではない」
別の小族長が、リノをひきついだ。
「カロイが約二千人、グロもそのぐらい――ラサ、ツバイ、あともっと小さい群れをすべてあわせたところで、とうてい、モンゴールの悪魔の数にはなりません」
「お前は?」
グインはそちらへ目を向けてきいた。そのラクは、緊張ぎみに答えた。
「エブです、リアード」
「では、エブ、それにリノ――その他の者もきいてくれ。そのことは、もう、ずっと考えていた。ここに来るまでの道すがら、若者たちに、セムの各部族のあいだの不和も教えられたし、それらをよしんば、すべて集めて力をあわせたところで、七千五百、いって八千にしかならぬこともきいた。しかもこちらは| 弩 《いしゆみ》もウマもない。身体もちいさい。その上に、モンゴールの侵寇軍が、いまの一万五千ですべてだ、とは限らぬのだ。補給線を確保し、ケス河に拠点をさだめ、あるていどの長期戦の覚悟を決めたとなれば、まだ五千――いや、一万や二万の増援はいざとなればただちにあるもの、と思っていなくてはならぬだろう。だが……」
「ムリです」
こんどは、小族長たちのあいだからおこった絶望の声は、ひとつではなかった。
「ラクは、もうおしまいなのだ」
「われわれは、悪魔たちの奴隷になる」
「もう、だめだ」
ロトーが首をめぐらして、部下たちをとがめようと口をひらきかける――だが、それより早く、ひときわ高い声がおこった。
「逃げるんだ。村をすてて、女子供と老人を山に隠そう」
「セブ!」
「それしかない」
声の主は、立ちあがって、周囲を見まわしながらわめいた。
「モンゴールの悪魔からのがれるには、それしかない。北へ行こう。北の山々へ――そうだ、狗頭山《ドッグ・ヘッド》越えのルートで、北のアスガルンへ入ろう」
そうだ、それがいい、という声が口々におこった。グインはかれらを見まわした。どの顔にも、動揺と、不信と、そして恐怖が宿っている。
いまにでも、立ちあがって、あとさきなしに糧食をとりまとめ、北へむかって、村をみすてて走りださんばかりの情勢がかもし出されつつあった。
「待て。きいてくれ――」
グインは身をのりだそうとした。
だが、それより早く、
「いけない!」
若々しい声が、いちばんうしろから上がったのである。その声はつづけて叫んだ。
「逃げるのは――北へゆくのは、戦いに敗けてからでもできます」
「なんだ――シバではないか」
セブが怒ったように、
「座っておれ。お前のような若いものの口を出す順序はないぞ」
「北へ移って、そしてどうするつもりですか――モンゴールの悪魔たちが、あきらめて行ってしまうのを待つ? かれらが、城を築き、このあたりに腰をすえてしまったら、われわれの帰るところは、なくなってしまう」
「かれらがこんなノスフェラスなどに、そんな長いこといられるわけはない。ひと冬の辛抱だと思えばいい」
「まして北の山々の中ではろくな食物もない。――そこを、このあたりを領土にしたモンゴールたちに兵を出されたら、ラクは、全滅するだけです」
「どのみち、戦って、勝つわけがない」
セブは云いつのった。シバがなおも云い返そうとする。
とみて、ロトーがゆっくりと立ちあがった。両手をひろげて、二人を制する。
「争っている時ではないぞ」
「そのとおりだ」
グインが底ごもる声で云った。
「そんなに時間がわれわれにのこされているわけではないのだ。まして――きいてくれ。俺には考えがある」
「考え――?」
ロトー、シバ、セブ、エブ、リノ――その他の、二十人あまりのラクの族長たちの目が、いっせいに、火の向こうにひときわ高くゆらめく、豹頭人身の怪偉なすがたへむけられた。
「それは……」
グインが、ゆっくりと、口をひらきかける。
そのとき、家の入口のところで、何やらあわただしいざわめきがおこったかと思うと、そのあたりに居流れていた族長たちのあいだをおしわけるようにして、まだ若いラク族がひとり、かけこんできた。彼は、居並ぶ長老たちに気をかねながら、ロトーとグインにむかって頭を垂れた。
「ツバイの族長たちと、ラサの一族が、こちらへ向かっています。まもなく、谷の入口へ入るところです」
「早かったな」
グインが云った。ロトーはうなづいた。
「ツバイと、ラサは、ラクの縁つづきです。ラサは隣りの山に村をかまえております」
「とにかく、ここは手ぜまだ」
グインは声を励まして云った。
「広場に出よう。そこで、族長たちだけでなく、ラクのすべての民にも、ことをわけて話をしよう。――皆、外へ出てくれ」
ラクたちは、唯々として従った。シバが、グインのそばに居残って、心配そうな目で見上げた。
それへ、案ずるな、というように彼はうなづきかけた。豹頭から、重々しい呟きがそっともれる。
「ツバイに、ラサか――問題は、カロイとグロだな。かれらが、ラクとの同盟を、がえんじるか否か……」
「リアード――?」
たずねるように、シバがのぞきこむ。グインは首をふって、そのまま、外へ出るために窮屈にからだを折りまげながら動きはじめた。
[#改ページ]
そうして、豹頭の戦士が、せまり来るモンゴールの侵寇軍との対戦に心を砕いているあいだに、彼の連れ――パロの王女リンダ、その弟で世継の王子レムス、忠実なスニ、それにヴァラキアの戦士イシュトヴァーン――の方は、いたってのんきに、ラクの饗応をうけるべく、女たちの家へ招し入れられていた。
ラクの村の、広場の両側にある二つの大きな家は、どうやらそれがラクたちにとっての唯一の公共施設とおぼしく、そしてその向かって右側が男たちというか族長たちの集会所で、そして左側のひとつが女たちの、賓客をもてなしたり、宴の食べ物をととのえたりするための家になっているのである。
疲れをやすめるいとまもなく、グインが族長の家へと入っていったあと、女たちの家のほうでは、ラクの女たちが総がかりになって、このたぐいまれな珍客の接待に大わらわになっていた。
リンダとレムス、それにイシュトヴァーンは、グインの招し入れられたのとまったく同じ、床をほりさげて、まんなかに炉をきった穴居人式の家の上座にすわらされ、枯草とほした日なたくさい匂いのする毛皮とに居心地よく包まれていた。かれらの前には、あとからあとからもてなしの御馳走がはこばれ、酒のつぼ、ミルクのつぼがひっきりなしに補充されるのだった。
イシュトヴァーンはヴァラキアふうに足をくんで毛皮の上にすわり、黒い目をキラキラ光らせながらこのようすを見守っていた。かれは、ほんとうなら、戦士としてグインたちと共にこれからの対策の協議に加わってもしかるべきだったが、もともとがたぶんにずぼら[#「ずぼら」に傍点]で、自分のことをしか考えぬ性分だったし、それに腹をへらして、のど[#「のど」に傍点]もかわききっている。そして、正直のところ、ようやく二十になるかならずのこのヴァラキア生まれの傭兵は、いつでもまず戦士としての待遇を要求するにはまだ充分に、本人が子どもすぎるのだった。
そこで彼はゆらゆらと炉の火にてらされながらゆっくりと安楽にすわりこみ、じぶんが鎧下と足通しだけのそまつなかっこうなのをこっそりと気に病みながら、ご馳走がどのぐらいあって、それはどんな味がするのか、ということをしきりに見きわめようとしていたのである。
「なにしろ、サルだからな!」
彼は、そういうとリンダとレムス――ことにリンダがいやがるのを知っていて、わざと大きな声を出した。
「何を食わせられるか、知れたもんじゃねえぞ――ノスフェラスのサルどもなんぞ、日ごろくってるものといったら、岩にくっついたコケだの、土の中の|土食らい《ミミズ》だの、そんなもんに決まってるからな――おお、サルくせえ」
「ねえ、そんなふうに、サル、サルっていうのやめてよ!」
リンダは、反応をみせればこの若いならず[#「ならず」に傍点]者をいっそう喜ばせ、調子にのせるだけだと知りつつも、云わずにはいられない。
「かれらはこんなによくしてくれてるのだし――第一、かれらにわかったら、気を悪くしてよ。それに、ラクは、サルなんかじゃありはしないわ。かれらはとても親切で、やさしくて、まめまめしくて――あんたやゴーラのいやな悪魔たちなんかより、ずっと人間らしいわよ、イシュトヴァーン」
「おおかた、なんかわけがあって、それで気があうんだろうよ。お宅の先祖か、ひいばあさんかなんかに、サルがいてさ」
というのが、黒い目のいたずら者の答えだった。
「まあッ!」
リンダはたちまち、かッとなった。
「パロの聖王家を侮辱するの!」
「かまうのは、およしよ、リンダ。――かまうと、よけい、とめどがなくなるから」
レムスがいった。
「なんだ、小ざかしい口をきくじゃないか、チビ」
怒ってイシュトヴァーンはレムスをねめつける。しかし、ちょうど運ばれてきた、素焼きの器に指をつっこむと、それを何だろうと味わいわけるのに気をとられて、たちまちそんなことは忘れてしまった。
「どうだ、けっこう食えるぞ、これは――これは、そうだな、イワヒユ[#「イワヒユ」に傍点]の実を、馬乳で煮たらしいな。うん、いける。サルのお心づくしだ。やってみろよ」
「あたしたちは、もう充分よ」
リンダはずるそうにほほえみながら、自分の前にあった皿を彼のほうへ押しやった。
「ずっと、ラクの村で休息をとって、食事もすませたんですもの。あなたとグインはそのあいだずっと、ノスフェラスの荒野で、モンゴール軍のようすをさぐったり、たいへんだったのでしょ。ほんとに、申しわけないと思っているのよ」
イシュトヴァーンは、思いがけないことばをきいて、うろんそうにリンダをぬすみ見た。
しかし、当の少女のほうは、虫一匹殺せそうもない、天使のような無垢な表情の中に、いたずらっぽい目の輝きをなんとかかくしおおせていた。レムスはすましてつぼに鼻をつっこみ、ミルクを飲んでいた。イシュトヴァーンはそこで鼻をひとつ鳴らすと、ぶつぶついいながら目の前の皿にとりかかり、たちまちそれをからにしてしまった。
「なかなか、食えるじゃないか」
くちびるをなめながら認める。ラクの女たちは、惜しみなく持っているもののすべてをさしだして、客人の歓待につくしていた。つねづね、セム族がどのようなものをたべて生きているにせよ、その場所はこの不毛のノスフェラスにちがいはないのだからろくなもののあろうはずはなかったが、しかし親切なかれらの心づくしで、客たちの前には、岩ゴケをあつめたドロドロして青くさい煮物や、岩につくキノコの焼いたもの、砂トカゲの焼き肉、それにサボテンの皮をむいた髄やイワヒユの団子なぞ、幾品もの食物がふんだんに盛られていた。
ラクの女たちは、客がたった三人ではなく三十人もいるかのように、なおもあとからあとから皿を運びこんでくる。その女たちの足もとには、小さなセム族の赤んぼうがまとわりつき、丸い目で、食べたそうに皿の食物を見つめている。しかし、母親たちがかれらをぴしゃりと叩いて、そとへ追いやってしまうのである。
イシュトヴァーンは気にもとめずに汁けの多いサボテンの髄にかじりつき、イワヒユの団子をシチューにひたして食べ、がつがつと食欲をみたしながら、サルの食いものなぞくさくて食えるか、と悪態をついたことなどきれいに忘れているようすだった。スニはリンダの足もとにもたれかかるようにしてすわり、呆れたような、とがめるような目を傭兵のよくうごく口もとへむけていた。
「うん――これもいける。しかし、まったくよくもまあ生きのびてきたもんだよ、ヴァシャの実ばかりかじりながらさ……うーっ、ぞっとする。おれは、コーセアの海で船が難破して、人肉をくって生きのびたこともある――ここだけの話だがな。だからまあ、どんなことになったって、なんとかして生きのびてやる自信はあるが、しかしそれにしたって腹をへらして自分の足の肉まで食っちまいたくなるような経験は一度だけでたくさんだ」
「まあ――そんなに、あなた、いろんな経験しているの、まだそんなに若いのに?」
リンダはかわいらしく首をかしげてたずねた。ゆっくり休んだので、肌にも、目の色にも本来のつややかな輝きがよみがえり、手足を洗い、髪をくしけずったので、もともとが妖精のように美しいこの少女とその双生児の弟は、いまさしそめたばかりの月の光のように、この上もなく生き生きとし、高貴で、そしてまぶしく見え、さながら暗い家の中にあって二つの月そのもののようだった。
スニは、そうした彼女たちのようすをうっとりとした崇拝の目であかず眺めている。イシュトヴァーンはそれを見やり、何かにくまれ口をきこうとしたが気をかえた。
「もちろん、このおれは、どんなことだって経験しているのさ」
自慢たらたらで云いながら、そっと気をひくようにリンダの顔を眺めやる。
「おれは〈魔戦士〉、紅の傭兵、ヴァラキアのイシュトヴァーンだからな。どんなことにぶつかってもおどろいたりしないし、どんなことだって切りぬけてやる。その上に、おれはそのへんのありきたりの英雄たちとさえ異る、あるとてつもない運命を背負っている――という、そんな気がするのさ。ときどき、自分ながら自分がおそろしくなることがあるぞ――いったい、どこまでいくものか、と思ってな」
「しょってるよ!」
レムスがくすくす笑って註釈を加えたが、イシュトヴァーンはすっかりいい気持になっていて気にもとめずにつづけた。
「ああ、まったく、おれはいまに偉大な王になるにちがいない――もしかしたら、皇帝にだってなるかもしれないぞ。生まれはいやしい馬の骨と、皆はさげすんでいるだろうけれどな。だがそいつらもいまに知ることになるのさ。おれは他のやつらとは違うのだ。おれは危険を予知するし、いつだって窮地を生きのびることができる――星々はいつもつねに、おれの味方なのだ。そして青白いイリスにかけて、おれが〈光の公女〉とめぐりあったときが、おれの開運と――そして玉座への道のはじまりなのだ。
どうだい、リンダ王女――おれは、すでにその〈光の公女〉とめぐりあったようだ、とそうは考えないか? だって、そうやっておまえが炉の火に銀色の髪をキラキラさせ、銀色の目をしてすわっているとこは、どう見たって、星のしずくと、月の光でつくった輝く人形のようだぞ。おれは、もうそれを知っているし、ちゃんと気づいている、といったのだったかな? 云ってないのだったらいま云うぞ――おまえは、とても、美しいぞ」
「リンダに無礼をいうと――」
レムスがけしきばんだが、リンダは艶然と笑って弟を制した。
「まあ、どうも有難う、ヴァラキアのイシュトヴァーン――さあ、それはともかく、さめてしまうわよ。せっかくのラクたちの心づくしだわ。その、お皿のごちそうをおあがりなさいな」
「それじゃ、そうするか。何しろ、おれの将来の王妃の云うことだからな」
イシュトヴァーンは手をのばすと、リンダのおしてよこした皿をとった。
その上には、何やら白っぽい、半透明の、あまり見た目のよくないものがなかば焦げて盛られていた。イシュトヴァーンは何だろうと眉をしかめたが、なにしろ若かったし、騎虎の勢いである。
かたわらで、ラクの女たちがつつきあって、ちょっとばかり心配そうな顔をして見ているのにも、リンダとレムスが目を小悪魔のように輝かせ、期待にみちてこっそりひじでつつきあっているのにも気づかず、右手の指でそのぐにゃりとした切れはしをつまみあげると、えいとばかりに口に放りこみ、二、三度噛んだ。
が、やにわに、胸のわるくなったような顔になるなり、口の中のものを吐き出してしまった。
「な――なんだ、これは!」
不信と当惑に浅黒い顔をゆがめて叫ぶ。
リンダとレムスは、こらえかねたクスクス笑いをついに爆発させて、身を折って笑いこけた。
びっくりしたように、ラクの女たちがかけよってくる。
「お口にあいませんでしょうか、と心配しているわよ」
リンダがくすくす笑いつづけながら、かれらの手まねを見て通訳した。
「口にあうもあわないも――こ、こりゃ一体何だ!」
「何だって、あなたのご注文したものよ、イシュトヴァーン。砂ヒルの焼いたのよ!」
云うなりリンダはいっそうひどく笑いこけたので、スニがあわてたようにとびのいたほどだった。
「砂ヒル――?」
傭兵の目がまん丸になり、それがようやくのみこめたとたんに、
「ゲーッ!」
のどをおさえて、いまにも吐きそうな顔をする。
「な、何だってそんなもの――! おれが何を――!」
「だってあなた、黒ブタはムリでもせめて砂ヒルでも焼いて待っててくれといったじゃないの! だから、わざわざ、やさしいラクたちは、それをとりに出かけてくれたのよ!」
「ほんとうにあの黒い人は砂ヒルをたべるのか、といって、わざわざ、かれらは、ぼくらにききに来たよ。砂ヒルってのは、セムや人間の死体をたべるんだけど、それを黒い人の国ではたべるのか、といっておどろいていたよ」
レムスが笑ったあまりとぎれとぎれにいう。イシュトヴァーンは胸をむかつかせ、あわてて、足もとにころげおちた、まだうようよとうごめき出しそうなぶつ切りのヒルの肉からとびすさったが、双児の顔を見たとたん、かんかんに怒り出した。
「こ、このガキども! よくも、よくも、ひとをかついで、おもちゃにしやがって――さては、さっきから、そのたくらみで、ニヤニヤしてやがったんだな! こ、この悪戯小僧ども! この、この――」
怒りと憤慨のあまりひきしまった頬は真赤にそまり、いまにも涙を流さんばかりに腹をたてて、彼はわめいた。
「この呪われた双児め――ドールの八ツ又の尻尾にかけて、きさまらが次にどんなことになろうと、誓って助け出しになんかいってやるもんか! ドールの黒豚の糞にかけて! その中から生まれた三婆姉妹にかけて! こんなまねを――こんな……」
「だって、あなたのほうが、たべたいと云ったのじゃないの」
リンダは猫のようなとりすました顔で指摘した。
「わたしたちがたくらんだなんて、とても失礼よ。第一、あなたは、何だって、どんなことにだっておどろくことのない、ヴァラキアのイシュトヴァーン〈紅の傭兵〉、なのでしょ?」
やりこめられて、イシュトヴァーンはいっそう腹をたてて、手をのばし、やにわにいたずらっ子どもをひっつかまえにかかる。リンダとレムスは笑いにむせながらとびのき、スニがキャンというような声をたててころがった。
ラクの女たちがあわててなだめにかかると、そのときだった。
「待って!」
リンダがふいに動きをとめ、外の気配に耳をすませるようすをする。
「そんなことで、ごまかそうたって――!」
「ちがうのよ。きいてごらんなさいってば」
リンダはじれったそうに唇に手をあてる。
「ねえ、レムス?」
「うん――?」
レムスにも、姉の耳に入ってきた気配か物音か、それは、少しのあいだ、きこえて来なかったのである。かれはしさいらしく立ちあがると、身軽に外のようすをのぞいてみた。
が、あわてて戻ってきたとき、その少年らしい頬には昂奮のいろがさしそめていた。
「たいへんだ」
かれはせきこんで叫び、姉とイシュトヴァーンとをかわるがわる見上げた。
「外に、みんなが――セムたちが……すごい数だよ!」
「何だって?」
イシュトヴァーンの反応はすばやかった。
かたわらにおいていた大剣をつかみとり、敏捷にとびだしてゆく。リンダとレムス、それにつづいてスニたちも、あわてて外へ出てみた。
そして、足をとめた。
イシュトヴァーンも、そこに思わずも、といったようすで、足をとめ、広場を埋めつくしたセムの群集――いや、大軍団に、しばしばまったく気をのまれている。
それは、おそらくは、総計すれば、二千、あるいは三千近くにさえのぼったかもしれない。そしてそれぞれが、頭といただく族長たちを先頭におしたて、所狭しとこのラクの大村落の、広場のみならずすべての家々のあいだ、それでも足りずに、谷の上り口の方までも、ぎっしりと埋めっくしているのである。
かがり火に照らされて、小猿人族の無数の目が星のようにあたりを埋めているのが見え、その手にした斧や、背負ったやなぐいにさした矢羽なぞが白く闇にうかびあがっていた。
そして、かれらのすべてに仰ぎ見られて、中央の高い台の上に、ひときわ巨大なグインの姿がある。
彼はイシュトヴァーンたちに気づいてちょっとうなづきかけたが、そのまま、族長たちを先列へ出し、戦士たちをすわらせ、そのうしろへ女子供をやる手筈に忙しかった。
そして、族長会議がはじまったのである。
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そのおどろくべき――しかしまた、またとなく心にふれる、美しい一夜のことを、リンダとレムスは……いや、かれらだけでなく、おそらくはそれに立ちあったものは一人残らず、それからの長いあいだを通じて決して忘れることがなかった。
ことにだが、それはリンダにとって、グインとともに経た幾多の数奇をきわめた冒険のその真のはじまりの夜として、くっきりと心にのこってやまぬ経験であったのである。
彼女はレムスと手をとりあって、女たちの家の入口に膝をくんで座り、忠実なスニがその少しうしろのところにひっそりとうずくまっていた。リンダはさきほどまでのいたずらっ児らしいおどけた輝きもどこかへ消えうせて――それはレムスとても同じことだったが――そのヴァイオレットにけむる瞳に瞑想的な、考えぶかげな光をうかべ、すっかり眼前の光景に魅せられて、無言のままうっとりと目を瞠っていた。
彼女の感じやすい心は、この夜にひそんでいるふしぎなおののきと神秘にたやすく同化し、セムたちの運命のためにふるえ、その決意にゆさぶられた。そしてむろん、かれら――彼女とその弟――自身の、きのうに変わる身の上の、そのあまりな変わりようも、まだ幼い心をときめかせずにはおかなかった。
思えばつい十日ばかり以前までは、このような辺境はおろか、ゆたかで安全な――と思われていた――中原の、華とうたわれた古き王国たるパロの、そのまたまばゆくきらめくばかりのクリスタルの都、そのクリスタル・パレスで、二粒の真珠、パロの宝玉と呼ばれてかしづかれ、風にもあてぬよう守られていたリンダとレムスなのである。
それがはからずも、夢想だにしなかった安全なはずの北方国境からの奇襲をうけて、わずか二昼夜の激戦のあとに、もろくもパロは破れ去り、クリスタル・パレスは陥ちた。幼い王子と王女たちは、黒煙のあがるパレスの玉座で、父王と王妃とが切り倒され、血を流してよこたおるのを見たのである。
それから乳母のボーガンと大臣のリヤの手で、パレスの奥ふかく隠されていた、謎の古代機械の働きによって、パロ再興の望みを託して送り出された――しかし、そこでもまた、運命の手がはたらいた。彼女たちが意識をとりもどしたのは、大臣たちが意図したように、その叔母が王妃として嫁いでいるアルゴスの国ではなく、皮肉にも、当の敵、パロを滅ぼしたゴーラの三大公国の一、モンゴールの、その辺境近くの森の中であったのだ。
(そこでグインに出会い――死霊たちにおそわれ――スタフォロス城のとりことなり、セム族がスタフォロスへおしよせてきて……)
なんという、運命のめまぐるしさだろう――そう、リンダはしっかりと弟の手を握りしめながら考えた。それは、何事もなかったというにはあまりにも色彩や愛でみちていたにせよ、平和でともかくやすらかでもあったクリスタル・パレスでの十四年間のあとで、その内の十年にも匹敵するほどにめまぐるしい、息をつくいとまもない数日間であった。
その間に、何回あなやと死を覚悟したかわからぬし、しかもなお、いま、彼女とレムスとは無事に、傷ひとつおわず、こうして生きている。
(おお、ヤヌスよ――わたしたち、心から感謝いたします)
リンダはほっそりした手をそっと胸にあてた。しかし、彼女はまた、内心では、そのあまりにも急激な、あいつぐ試練によって、自分がおそらくは激しく変わってしまったこと――かつ、なおも変わってゆくだろうことをも考えずにはいられなかった。
なぜなら、あれほど、ヴァシャの茂みの中で心細さと恋しさとに弟とふたりで泣きあかした、不安な子どもが、いまとなっては、自らの運命を、思ってもみなかったこの辺境、荒野の蛮族たちにひとまず預けて、こうして座ってなりゆきを見守っているのではないか?
そんなことは、もしもそうなるだろうとクリスタル・パレスの大理石の広間で予言されたとしても、誰ひとり、笑いとばすだけで信じるものはなかっただろう。だが、リンダとレムスとはそこにそうしていた。
(遠いわ――パロまでは、なんと、おそろしく、遠いのだろう)
いつまたクリスタル・パレスの、輝く塔を見られるだろう――リンダは思った。しかし、むろん、父母を殺し、美しい街をひづめにかけたモンゴールへの憎悪と恨みとはやわらぐはずもなく、それどころか日を経るにしたがってより固い、年月にも風化することのない復讐の決意へと結晶してゆくばかりではあったのだが、それにしても、失われたふるさとと安逸と平和とを、ただひたむきに嘆き悲しんでいるためには彼女はあまりにも若く、そして生気にみちあふれていた。
たいてい、健康でまともな子どもであれば、かれらは冒険が好きで、珍しい光景やスリリングな見ものに心をうばわれずにはいられない。そして、リンダとレムスとがこの数日間に経てきたものは、彼らがパロの美しい宮殿の奥ふかくにいてはとうてい、見ることも、想像することさえもかなわぬものであったから、それは、かれらの心をひきつけ、冒険と探求とのわくわくするような魅惑で心をみたさずにはおかないのだった。そして――
(おお、そして、その上に、グインがいるわ、もちろん)
リンダはレムスの手をにぎりしめ、それが自分のそれと同様に汗ばんでほてっているのをぼんやりと感じながら考えて、うっとりとした目をそのおどろくべき生物の方へむかってあげた。
彼女はちょうどよいときに見たのである。まさにいまや、グインは高い平たい岩の上に立ち、左右に、ロトーと、ロトーにつぐ地位のラクの族長とを従え、力のこもったようすであたりを埋めたセムたちのすべてを見まわしながら、モンゴール軍の襲来と、そしてセム族すべての困難の必要性とについて説きふせようとしているところだったからだ。
むろん、リンダには、まだ、セムのさえずるようなことばはほとんどわからない。スニとは、心が通じあってからというものは、身ぶりと手まねとでおおよその意志は伝えられるようになっていたが、それとても、きわめて単純な、日常的なことに限られる。
であるから、彼女には、グインの力説しているその話の内容は、まったくのちんぷんかんぷんだったが、しかし、それも、彼女が感じたこの場の魅力を少しでも減じることにはならなかった。
あたりいちめんを埋めつくしたセムの各部族は、おそらく、五千にちかい数にのぼっていたはずである――ラク族が、赤子までも数に入れれば三千近くに達した上に、ラクとは近い隣人でもあるラサ族とツバイ族とは、それぞれに族長が戦士たちをひきいてやって来ただけでなく、さらにそのうしろから、すべての部族の成員が、老人から母に抱かれた子どもまでもやって来ていた。かれらは、広場の中央をあけただけで、まずその演壇がわりの平石のすぐ周囲に、頭にさまざまな羽根をさし、長い毛皮のマントに身をつつみ、眉毛までも白か灰色になったような長老、族長たちが、腰をおろしていた。
そのうしろに、それぞれの部族の旗じるしをつけた槍を立ててもっている、旗手の役の戦士が数人づつすわりこみ、そのあとへ、各部族の戦士たちが列になっておしあいへしあいしている。
それだけでもうラクの広場は十二分にまでいっぱいになり、かれらの最後尾は家々の入口に、なかば押しこまれたようにしてうずくまっている。
そして、さらに、谷のあらゆるすきまを埋めているのは、女たち、子供たち、そして老人と赤児たちだった。かれらはほとんど息苦しいまでにくっつきあって、少しでも広揚近くへ進み、異形の戦士や、かれら自身の族長のことばをきこうと互いを制しあっていた。
これは、しかし、セムたちにとっては、きわめて珍しいことではあったにせよ、さほど前代未聞の大集合というわけではないのだった。なぜなら、ラクの大族長であるロトーがラサとツバイとにまわした触れは、総ての戦力がラクの谷に訪れるように、という要請であったし、そして、セム族が総力戦をはじめるときには、女たちも、子供たちも武器をとって、ほとんど男の、大人の戦士にひけをとらぬぐらいの戦士となったからである。
セム族で、戦士でないのは、動くのもままならなくなった老人と、乳離れもすまぬ赤ん坊と、まずはそのぐらいなものなのだった。
かれらは耳をすましていた。かれらは、モンゴールの来襲をすでに告げられていたし、その兵力のかつてなく大きいことも知っている。ことによると、ノスフェラスから、セム族の全部族が掃討されておわるかもしれぬのである。かれらの表情はきびしく、子供でさえも、むずかる声すら洩らさなかった。
かれらの顔は一様に、この報せをもたらした当の本人である、そして大族長のロトーによって、戦さの神アルフェットゥの申し子の偉大な戦士、としてひろめられた、豹頭人身の、異相の巨人の方にむけられていた。
セムの小猿人族の中に立ちまじると、グインの体格は、ほとんど信じがたいまでに雄大に、そして威風あたりを払って見えた。彼はさながら、信者の群れにあがめ仰ぎ見られる、巨大で魁偉な神像そのものであるかのようだった。
彼のあらわな上体は、かがり火に照らされてくっきりと発達した筋肉が影をおとし、その丸く巨大な豹頭はあやしく周囲の夜闇を威嚇するかに思われた。もしロトーの言がなかったとしてさえも、そこにそうして立ちつくす彼を見上げただけで、それが人間――否、ただのありきたりな戦土や、英雄でさえなく、まぎれもなくセムをみちびき、運命的な決戦におもむかせるためにつかわされてきた、神話的な存在であり、かれらはそのみちびきと慫容のままに、彼に従ってゆかねばならないのだ、と感じずにすむものは、おそらくいなかっただろう。
彼は、あらかじめ定められていたその運命の告知者であり、そしておそらくは、セムに勝利をもたらすべき軍神にちがいない、という意味のことが、そこに立ちあがった彼を見上げた、セムの各部族の女たちの口に、ひそやかに囁やかれていた。
だが、当のグインは、そのようなささやきも知らぬげに、逡巡する族長たちを説得するのに必死になっていた。
「もちろん、ラサは戦うことに賛成です。しかし……」
ラサ族は、まだら[#「まだら」に傍点]毛、と仇名されるだけあって、その特徴は、全身の体毛の、黒と灰色の入りまじった色あいである。それはどちらかといえばセムとしては身体の大きいかれらを、どことなくユーモラスに、そして温和に見せていた。
「しかし、ラサは、また、勝ち目のない戦いはしたくない」
「勝ち目はある」
グインは断言した。セムたちが、おーっというような声をあげてざわめいた。
「俺は誓っていうが勝ち目はあるのだ。だがそのためには、まず、すべてのセムたちが気をひとつにし、力をあわせなければならん」
「ラサや、ラクだけでなく、カロイ、グロともですか。そんなことは、できない」
ツバイの族長のひとりが不服そうに云う。
「カロイはツバイの仇です」
「それに、カロイやグロが、ラクやラサやツバイのために力をかしたりするものか」
他の一人が叫んだ。
「あれらは、ラクを、腰抜けだといってばかにしているのです」
「それは本当です、リアード」
そっとシバが云った。シバは、グインを護衛するように、彼のまうしろに陣どり、そしてときどき、発言者の名や注釈をそっとグインの耳にささやいていたのである。
「カロイの大族長のガウロと、グロのイラチェリは、ラクが女のように戦いをきらうといって、ことごとにばかにします」
「しかも、カロイとグロがいなかったら、ラクとラサとツバイが全員、女子供まで戦ったところで、とてもオームにはかなわない」
ォーム――人間、あるいは無毛人[#「無毛人」に傍点]という意味だとシバがささやいた。
「だがこのままではやられるのを待つだけだ」
ラクの中から声がした。ラクの族長たちは、すでに族長の家でグインの説得に耳をかしているので、なかば彼に同意していた。
「それに、山にこもったり、村を移住するにしても、それで悪魔どもがあきらめればよいが、そうでなかったらおしまいだ」
「ラサとツバイがこのラク谷にひきこもり、通りすぎるのを待ったらどうか」
という意見が出る。いくつかの頭が賛成らしくうなづく。
「いや、それはまずかろう」
ロトーがゆったりと口をひらくと、皆が静かになって耳を傾けた。
「それでは、もしこの谷がたまたまオームどもの偵察隊にでも、偶然にでも、見つかってしまったとき、どうにもならぬ――その上に、カロイとグロのこともある。カロイとグロの村はラク谷よりも、ずっと見つかりやすい場所にある。いくらかれらが敵でも、見すごしてオームのえじきにさせるわけにもゆかぬ」
「それに、かれらの生きのこりを拷問にかけて、オームがラク谷のポジションをききだすかもしれません」
リノが云った。
「大族長! カロイと、グロには、使者を出したのか」
「おお、すでに出してある、ツバイ族のツバイ」
ロトーはおだやかに答えた。
「ツバイの村と、ラサに出したのと同じときにな。――おっつけ、返事をもって帰るはずだ」
「やつらに殺されて、食われていなければだな」
ツバイの大族長のツバイが註釈を加えた。かれはなみはずれて大柄なセム族で、ほとんどレムスに匹敵するほども背がたかかったが、もっと著しい特徴は、その顔と、それから尻尾だった。歴戦の古強者らしく、その顔は、ななめ十文字に白く傷あとがのこっており、尻尾もまた、つけ根のところで千切れたまま、切りかぶのようになっていたのである。
「そうはせんまでも、いくらあんたの肝入りでも、カロイのガウロや、グロのイラチェリが、おめおめと呼びつけられて力をかすとはとうてい思えん」
「待ってくれ。――きいてくれ」
グインは平石の上にとびあがるなり、激しく胸を叩いた。はっとしたように、がやがや、ざわざわと私語をはじめかけていたセムたちが、そちらへ顔をむける。
「俺の云うことをきいてくれ、セムたちよ」
グインは大声を出した。
「いいか、こんなことを協議しあって時をムダに費すうちにも、モンゴール軍は着々と、ノスフエラスの奥ふかく攻め入って来つつあるのだ。カロイが来るか、グロが加わるか、それは知らぬ。あるいは、ここにいるいくつかの氏族だけで、どこまでモンゴール軍を迎えうてるものか、それも知らぬ。敵が味方の数倍にあたるからといって、一から十まで絶望と決まったものでもない――世の中に、奇蹟というものはたしかに存在しているのだ。
だが、それよりもずっとたしかなことは――ただひとつたしかなことは、ここでこうしていたずらに時をかさねているかぎり、決して奇蹟はおこらぬ、ということだ。そして、モンゴール軍はまぎれもない、セム族掃討の非情な決意をもって兵をすすめている。
いいか、セムたちよ――もはや、協議して、最善策を決めたりしているいとまはない――決断のときではないのだ。いまはもう、われわれにのこされているのは、出ていって戦う、それだけなのだ!」
「リアード」
セブがおそるおそる立ちあがって、賛成派の歓呼に敗けまいと大声を出した。
「リアードはさきに、勝ち目はある、そう云われた。この、人数で劣り、大きさで劣り、武器で劣るわれわれが、そもそもどうやってオームに勝ち目があるというのか、それをきかせていただきたい」
そうだ、そうだ、という声がかさなる。グインは手をあげてそれを制し、自信ありげにうなづいた。
「勝ち目は、ある。それを説明するには、ただひとつのことばですむだろう。すなわち――ノスフェラスだ[#「ノスフェラスだ」に傍点]!」
「……」
セムたちがどよめいた。
グインはそれをおさえるようにいっそう声を励まして、自らのことばに補足を加えようとする。
だが、彼が口をひらきかけたとき、ふいに、谷の入口のところでわあッという騒ぎがおこった。
「何か!」
ロトーが腰をうかせる。シバが、あわててようすを見にそちらへかけ出そうとする。
が、そのいとまもなかった。
「グロ――グロ!」
「グロ!」
やにわにおどろきと――そして歓喜とをまじえた叫びが口々に、谷の下り口近くにつめていた群衆から発せられたのである!
「なんだと?」
はっとなって、ロトーがそちらへ首をのばし、すかし見ようとする。
そのとき、谷の入り口で、びっしりとおしあい、へしあいしていたセムの女たちや、子供たちが、あたかも海の波が二つに割れて選ばれた民を通すかのように左右へわかれて道をあけた。
そして、そのあいだを、左右の群衆から口々に、
「グロ! グロ!」
「イラチェリ――!」
「アイー!」
思い思いの歓迎の叫びをあびせかけられながら、四列になった戦士たちが、粛々とラク谷へ歩を進めて来た!
「おう――何ということだ。あのグロ――気位の高い、黒毛のグロが、日頃茶色毛のとばかにしている、ラクの村へ、大酋長みずからにひきいられて、出むいてくるなんて――!」
グインのうしろで、若いシバがひくい驚嘆の声をもらすのがきこえた。
「案ずることは、なかったのだ、シバ」
グインは低い声で、
「それははじめからわかっていた。グロがたとえ、いかにラク一族をさげすんだり、日ごろ不仲であろうと、グロ族だけでモンゴール軍に立ち向かえるわけもない。――報せをきけば、よほど愚かでない限りは、とにかく斥候を出し、報せの真偽をたしかめ、そしてまさしく真実とわかれば、すべての気位も不仲も忘れてラク谷へむかうに決まっていたからな」
「リアード……」
シバはそっと、呆れたようすで頭をふった。グインは笑った。
「ただひとつ、俺が恐れていたのは、かれらが、心を決めかねたり、あるいはあまりにも慎重にすぎて、時をいたずらに費してしまい、その間にとりかえしのつかぬほど、モンゴール軍が近づいてしまわぬか、ということだったのだが――さいわい、グロは、予想よりもずっと迅速に動いてくれた。これで、さきに云ったわれわれの勝ち目も、さらにぐんと増したというものさ」
「おお」
シバはそっと云った。
その間に、グロの新来の戦士たちは、次々に歓迎の叫びをあびせかけられながら、まっすぐに、広場へと歩み入ってきていた。
かれらは、ノスフェラスのセム族としては、ラクにつぐ大きな氏族である。それは「黒毛の」グロと呼ばれ、全身の色がラクよりも、ずっと濃い黒みをおびている。
そして、ラクの谷よりも、だいぶノスフェラスの内陸寄りに、岩々と枯れた灌木しかない砂漠をすみかとしていたが、そのために、かれらは羽根かざりではなく、砂漠トカゲの凶々しい色の皮をからだにまとって、戦士のあかしとしているのだった。
かれらの先頭には、大酋長と呼ばれる、グロのイラチェリがいた――それは、ツバイ族のツバイに匹敵するほど大柄なセム族で、ひときわその黒い体毛は長くふさふさとしており、顔を極彩色の染料で奇怪な文様にくまどっていた。かれは、自ら出迎えたロトーと、いくらかむっつりとではあったが親密な抱擁をかわし、セムの風習に従って、贈り物の砂トカゲを槍につきさして、ロトーの前におとした。
かれにつきしたがうグロ族の戦士は、いずれも一騎当千の強者ぞろいではあったが、グインの予想したよりは、だいぶん、数が少なかった。この理由は、すぐに、大酋長のイラチェリ自身の口から明らかにされた。
「ラサと、ツバイとが、戦士をひきつれて訪れて来ておれば、ラク谷はすでにケス河の環虫《リヨラト》よりもたくさんのセムで埋まっていることと思ったのでな」
かれは云った。
「グロは、女子供にいたるまで戦士であるので、その総勢をひきつれようものなら、とうていラク谷にはおさまりきれぬ。そこで、ラク谷へは、族長、若者頭だけをひきつれることにし、他の者は、谷のそとに待たせてある。だが、もし必要とあれば、女どもも、子供たちも、すぐにでもこちらへ向かえるぞ」
「有難い、イラチェリ」
ロトーはこの新たな盟友の手を心から握りしめた。ロトーにつづいて、ツバイ族の族長ツバイ、ラサ族の長《おさ》カルトが、その歓迎に加わった。
だが、グロの大酋長の興味はまったく別のほうに向けられていた。かれは、ぎょっとした、信じかねる目でグインの方を見やり、そしてすっかりこの巨人に心をうばわれているように見えた。ロトーが、グインの役割と、そしてその意見について説明を加えると、セム族中の勇猛をもって任ずるグロのイラチェリは、いっそう心をうごかされたようすだった。
「そして、ところでひと[#「ひと」に傍点]を急使でもって、寝床の毛皮のあいだから呼びさましておいて、おぬしら――ラク、ラサ、ツバイ――は、顔に戦いの模様も描かず、矢じりもとかず、こんなところにすわりこんで何をしているのだ?」
ひとしきり、歓迎のさわぎがおさまったあとで、イラチェリは、まわりにつめかけてこの大酋長をひと目見ようとしているセムたちをじろりと見やりながら、とがめた。
「われわれは、族長会議をひらき、色のついたオームどもに立ちむかうために、戦うべきか、それとも北のアスガルンへ逃げて、かれらのひきあげを待つべきか、それを協議しておったのだ」
ロトーが説明する。きくなりイラチェリは槍で激しく地面を叩いた。
「まだそんなことを云っていたのか。そんなひまはないのだ。いまやグロのテントでは、女子どもまで、矢じりを毒のつぼにひたし、槍とオノをとぐのに忙しい。われらは知らせをうけてただちに物見の人数を、いわれた方角へ走らせた。まさしく、オームの軍勢はこちらへむかっていたが、それも、まっすぐ東へむかい、もうラク谷までは二日あまりにまで、近づいてきているのだぞ!」
セムたちはざわめいた。グインの目の光もきびしくなった。モンゴール軍が、少なくとも夜間行軍の愚をさけて、夜営し、行動にかかるのは夜があけてからとふんでその時間をあてにしていたのだが、かれらはあえて、速度がおちることも、その危険性も承知の上で、夜のノスフェラス荒野を進軍してきた、というのである。
二日の距離といっても、ラク谷はただちに肉眼で見出せるような位置ではなく、山と山との間にその入口もかくれているから、必ずしも最も危険な状況というわけではない。しかしモンゴール軍は、兵を出して、あたりをしらみつぶしに探査しながら内陸部へと向かうだろう。
「戦いだ!」
まっさきに立ちあがってわめいたのは、ラクの戦士たちだった。それに答える叫びが、ラク谷をどよもした。
「戦いだ――!」
グインはほっとしたように平石からとびおり、イラチェリへうなづきかけた。彼と並ぶと、わずかにその腰のあたりまでしかない、矮人族の戦士は、胸をはって豹頭の巨人を見つめ返した。
気がつくと、あたりはしらじらと明るかった。ノスフェラスに、戦いの予感をはらんで、朝がやってきていたのである。
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にわかに、ラク谷は、あわただしさに包まれはじめていた。
グロ、ラサ、それにツバイの戦士たちは、とりあえずラク谷のすぐ外側にそれぞれの氏族にわかれて集まり、出動の命令をじっと待っていた。
女たちは、転手古舞いの忙しさだった。彼女たちは、夜を徹して馳せ参じた、盟友の氏族の戦士たちのために、あわただしいもてなしの支度をし、手持ちの食料すべてを出してきて、煮炊きと給仕とにおわれた。
しかし、また、花をしぼって集め、つぼにためてある毒液を火にかけて煮たてて、それの中へ石づくりの矢じりをひたし、並べてかわかして、セムの最大の武器たる毒矢をこしらえるのも、女たちの仕事だったし、弓のつるが、切れたり、ゆるんでいないかたしかめて締めなおしたり、ノスフェラスには数多い毒虫や砂ヒルよけ[#「よけ」に傍点]の、草をしぼった液を皮の小袋に入れて、戦士たちにくばるのも、いそいでしなければならぬことのひとつだった。
そして、当の戦士たちの方は、腹ごしらえをし、石オノの刃をとぎ、そしてまた素焼きのつぼに、赤いコケをとってきてかわかしたものを入れて煮とかして、赤褐色の染料をつくり、それを顔にぬって、恐しい戦士の顔にくまどらなければならない。かれらはかれらで、せねばならぬことはふんだんにあった。
そしてその間に、大族長、大酋長をはじめとする、指導者クラスのものたちは、ラクの「族長の家」にとじこもり、さらに具体的な協議に追われていた。
それは、リンダとレムスとが、スニにともなわれ、ひと足さきに迎えられた平和なラクの村とは、似もつかぬ光景であった。
「わたしたちも、何か手伝うわ」
リンダはスニに手まねで申し出て、毒を煮るつぼをかきまわそうと、石のへら[#「へら」に傍点]を手にとったが、スニとラクの女たちにとんでもないとばかり押しもどされ、しかたなくレムスと手をとりあって、広場の一隅に邪魔にならぬようひっそりとすわり、いくさの準備に慌しいセムの村をじっと眺めていた。
もはやすっかり夜は明けきって、かわいて暑いノスフェラスの一日がはじまっている。
顔を、部族によってそれぞれ異る色の染料でくまどった、戦時のいでたちになりおおせた戦士たちが、石斧を腰にさして広場をあわただしく行きかい、つぼや矢の束をかかえた女たちがひっきりなしにかけだしてゆく。
広場の向こうとこちらでたえず大声のセム語のやりとりがとびかい、ものを煮るにおいと、木のこげるにおいが鼻をつく。
グインは、族長の家にひきこもったまま、何やらせわしく打ちあわせや命令を行いつづけているようで、ほとんど姿をみせなかった。
ヴァラキアのイシュトヴァーンは、はじめリンダたちと並んですわり、ああでもない、こうでもないと無駄話をしかけたり、セムの女たちをからかおうとしたりしていたが、そのうちに、そんな子供たちとひとしなみに扱われたり、そうふるまったりしては、沽券にかかわる、と考えたらしく、族長の家へもぐりこみ、そのまま出てこなかった。
あわただしさと、そして緊迫した空気とが、広いラクの谷を支配し、セムたちの足どりを白然にせかせかしたものにさせた。槍のてっぺんに皮のふさのついた旗じるしをつけて、それをかついだセムの戦士の一隊が、あたふたと族長の家にとびこみ、命令をうけては、またとびだしてゆく。
「ねえ――リンダ」
レムスは、丸い目をみはって、この情景に、男の子らしい昂奮をかきたてられながら、姉にささやいた。
「こんなことになるなんて――思いもしなかったね……ねえ?」
「ほんとに」
リンダも、すっかり、その雰囲気にまきこまれ、心もそぞろで答える。
「ほんとに、あのパロのクリスタル・パレスで、辺境のルードの森で、スタフォロス城の牢の中で――ううん、ゆうべ、グインたちの帰りを、セムの床の中にうずくまって、気をもみながら待っていたときでさえ、こんなことになるなんて、まったく思ってもみなかったわ!」
「ねえ――リンダ」
「なあに、レムス」
「これから、いったい、どうなるのかしらね!」
「知らないわ。なるようになるのよ」
苛立たしげにリンダは云ったが、ふと気をかえてつけ加えた。
「でも少なくとも、わたしたち、もう、よるべもなく敵兵にかりたてられている、国をなくしたふたりきりのあわれな子どもじゃないのよ。ねえ、レムス! わたし、スニの部族と一緒に、モンゴールと戦いたいわ!」
「でも、勝てるのかしら――?」
レムスは疑わしげに、目の前のセムたちを見やりながらいった。リンダは苛々した。
「まあ、レムス! そんなこと、決まっているじゃないの。わたしたちには、グインがいるのよ」
「でも、敵の方がずっと数が多くて、おまけにウマもいるし――」
「こんどわたしにむかって、『でも』なんていったら、その舌をひきぬいてやるわよ」
姉は怒って、勇ましく怒鳴った。
「わたしたち、勝つのよ。決まってるじゃないの!」
「そういう予感がするの?」
レムスはおずおずときいたので、リンダは、気の弱い弟が大胆にもじぶんをからかって、皮肉をいっているのだろうかと、あやしむように見つめた。
リンダは気づかなかったけれども、この慎重さ、徹底した現実主義と実証主義、そして無意識の懐疑心、それこそは、この、彼女とまったく同じ顔をもつ双児の弟の、性格の基調をなすものであったのである。
それらは、どれ一つとして姉の彼女にはそなわっておらぬばかりか、まるで神が、同じ日に生まれ、同じ顔をもつ二人に、どこまで違う性格を与えられるものか、ためしてみようと思いでもしたかのように、リンダとはまったく正反対といっていい要素だったので、彼女はそれらを理解することができず、レムスを歯がゆく思い、臆病者の弟を、勇者に育てあげるのは、姉たるじぶんの責任である、とつねづねひそかに考えていた。
しかし、リンダには、まだ、時として勇気が愚かしさとひとつものと化し、そして懐疑とシニズムとが時には王たるものの最良の素質となることすらある、という秘密はさとられてはいない。そればかりでなく、彼女は、あまりにも自らが資質にめぐまれ、神秘と神々の領域にすら近くあることをゆるされているがために、人間というものについてレムスの抱いている、本質的な理解とゆるし[#「ゆるし」に傍点]とを、どうしても理解することができずにいるのだった。
「別に、予感がしたわけじゃないけど」
じろりとレムスをみて、弟が皮肉で云ったのではない、と見きわめをつけると、ようやく、リンダはいくぶん表情をやわらげた。
「だって、勝たねばならないのよ、わたしたち。――もうあとへはひけないわ。もしセムたちが全滅するようなことになれば、わたしたちのさいごの地も、このパロからあまりにも遠いノスフェラスの砂漠ということになるのよ。かれらは、わたしたちを捕え、ウマのうしろにくくりつけてひきずっていって、そしてトーラスへつれていって拷問の上で死刑にするでしょう。首は切りおとされて、トーラスの市場の門柱の上でさらされるわ。わたし、別に死を恐れているわけじゃないけど、でも、どうしてだか、そんなことになりっこない、という気がするのよ。わたしたちは、パロ陥落も、スタフォロスの落城もなんとかして生きのびてきた。きっと、わたしたちは、パロ再興の運命を背負っているのよ。
それにね――」
リンダは弟の肩をつかまえてひきよせ、声をひくめた。
「ねえ、レムス――そんな気がしない? グインは……グインさえいれば、何もかもよくなるっていう! わたしは、グインと一緒にいると、何ひとつ恐れることはなくって、そしてわたしたちの運命がこんなノスフェラスなんかでつきてしまうはずはない、って、そう思えてならないのよ。わたしにはわかるわ――グインは、特別[#「特別」に傍点]な人だわ!」
「ぼくには、何も、予感がしないよ」
レムスは悲しげに云った。だが、リンダは頓着しなかった。
「わたしは〈予知者〉リンダだもの。ああ、そうよ――わたし、感じる[#「感じる」に傍点]わ。グインは、ふつうの人じゃないの。ううん、あの豹頭や、凄い戦士だから、というのじゃなくてよ。グインが特別なのは――わたしが、グインを他の人とちがうと思うわけは――そうね……そうよ、グインには、運命[#「運命」に傍点]がついてまわってるからだわ」
「運命?」
「そう。グイン自身にだって、もちろん、他のすべての人と同じように、彼自身の運命があるはずなのだけど、それよりも何かしら、彼にはまず、どこへいっても必ず、人々の運命に激しい変化をもたらしてしまうような、彼そのものが人々にとっては運命それ自体にほかならないような、そんな何かがあるわ。
そしてそれこそが、彼を他のすべての人からへだて、特別な存在にしているのよ! ねえ、レムス、そうは感じない? わたし、グインがわたしたちのかたわらにいてくれるかぎり、何も恐れることはないし、そしてそうであるかぎりモンゴール軍も、セムの荒野も、すべては何かしらおおいなる運命へわたしたちをみちびくためのひとつのステップにすぎないのだ、という、そんな予感がしてならないわ――!」
リンダの声には、まごうかたない熱狂と、激しく何ものにもこぼたれない全幅の信頼とがこもっていた。レムスは、そんなリンダをまぶしげに見た。
「ああ――ぼくもそんなふうに信じられれば……そんな予感が感じられさえ、すればいいんだけど!」
かれの声には、深い、傷ついた羨望のひびきすらも感じられた。
そのとき、リンダが弟の脇腹をつついた。
「見て。グインが出てきたわ」
「協議がおわったのかな。出陣かしら、いよいよ」
「きっとそうだわ」
期待をこめてリンダは云った。
グインは、ぐるりとセムの各部族の頭だったものたちに囲まれ、巨大な指導者のように族長の家の門口へ姿をあらわした。彼が、すでに、生まれながらにずっとそうして指揮をとりつづけてきた、とでもいうように、いかにも自然なおちつきと確信をもってセムたちに命令を下し、そしてその命令のいちいちが、セムたちに崇拝と忠誠をもってただちに実行されるようすを、うっとりとして、リンダは見つめた。
「ねえ、ごらんよ、レムス――彼は、まるで、どこからみても生まれながらの帝王だわ。王であり、司令官であり――そして英雄だわ!」
すっかり魅せられてささやく。レムスの方は、それもさることながら、いまちょうど谷の下り口から村の中央へかけおりてきて、新しい一隊と入れかわりに報告に来たらしい、セムの一隊に心をひかれていた。
「かれらは、どうしたのかしら。まるで、使者のようにあわてているよ」
いぶかしげにつぶやく。だが、思いもかけずに、
「かれらは、物見から帰った斥候部隊だ」
広場を大股によこぎって近づいてきた、当のグインが答えるのをきいて、すっかりおどろいてしまった。
「まあ、グイン――軍議は、もう、いいの?」
リンダがとびたつように立ちあがりながらきく。グインは重々しくうなづいた。
「充分に休んだか」
谷の入口の方へ半ば気を配りながら云い、双児の頭の上に大きな両手をおく。
「ええ、充分に」
「ねえ、グイン――戦さは、いつはじまるの?」
「もうまもなく。俺がはじめると決めたそのときに」
グインは云った。
「見るがいい。次々に、ラクの戦士たちが谷を出るぞ」
彼の云うとおりだった。あれほど人がおしあい、へしあいしていたラクの村の中央広場からは、セムの姿はことに戦さのいでたちになった戦士たちは急速に消え、それは隊列をくんでは、谷の入口へと集結してゆくところである。
「ねえ――ぼくたち、勝てるの?」
「俺はずっと考えていたのだ」
レムスには答えずに、豹頭の戦士は云った。
「お前たちを、どうしたものか、とな。ラク、それにツバイとラサの、老人と妊婦、それに赤児たちは、まもなく山越えをして、東の山ぞいに、狗頭山《ドッグ・ヘッド》へかくれる。すぐに、グロの残る連中もそれへ加わるだろう。もうすでに、かれらにもこちらへ向かうよう指令が出してある。これは総力戦だからな――それと共に、山へこもってもよいが、それだと、万一のときに、もはやどうすることもできぬ。
といって、いまお前たちのために人数をさいて、アルゴスなりへ送りとどける隊列も組めぬ。ただでさえ、こちらは人数が少ないのだからな」
「まあ、どうして、わたしたちに戦えといってくれないの」
リンダは憤慨して叫んだ。
「わたしたち、もう二度とグインからはなれないことに決めたのよ。待っているのは、まるで拷問だわ。わたしたちに武器をちょうだい。グインの横で戦うわ」
それへは、グインは首をふっただけだった。
「こうなると、モンゴールがああまでパロの遺児に執着したわけもよくわかるような気がする」
一人言のようにつぶやく。
「もしいまここに、お前たちを一瞬にしてクリスタルの都からルードへ移しかえてしまった、あのからくりの秘密がわかるものなら――それさえあれば、お前たちを、たちまちに安全なところへ送り届けられるばかりか、それがもしもう少し大がかりにできれば、兵を思うままの場所へ送って、どんな奇襲も思いのままだ。えい――お前たちは、自分がどんなに恐るべき、その重さと同じだけの黄金でさえあがなえぬ貴重な存在なのか、ちっともわかっておらんのだぞ」
「だって、わたしたちだって、そのからくりを知っての上で、それを使ったというわけでは、ありやしないのよ」
リンダは云いわけがましく云った。
「わたしたちだって、ただそれに送りこまれたというだけで――そうね、クリスタルをこの手にとりもどし、クリスタル・パレスの封宮が、ふたたびわたしたちのものとなったとしての話だけれど、それにしてもわたしたちが、あれ[#「あれ」に傍点]についてわかっているのはほんのわずかのことばかりよ。たとえば――」
少しでも、グインの手助けになりたい、という熱意にまかせて、リンダは声をひくめて云おうとした。
だが、ふいに、レムスの手が、その腕をつかんだ。
「なによ! うるさいわね」
「リンダ」
レムスの声の、とがめるようなひびきと、その目の向いているほうをみて、リンダは口をつぐみ、ふりむいた。
そして、かわいいくちびるをとがらせる。黒い頭があわてたようにラクの家の陰へひっこむところだった。
「卑怯なやつ! ぬすみぎきをするなんて――!」
リンダが怒ってささやき、険悪な目でその方をにらむ。が、当のあいてはぐるりと女たちの家をまわって、反対側から、いとも平然とすがたをあらわした。
「よう、グイン」
口笛でも吹かんばかりの、しれっとした顔で云う。
「何をしてる。早く行かないと、もうサルどもの連合軍は並んで総司令官のお出ましを待ちかねてるとこだぜ」
「なんて、あつかましいのかしら。きこえなかったふりをしてるのよ」
リンダはレムスにささやいた。イシュトヴァーンはニヤニヤしながら、わざとのように双児を無視して、
「なあ、どうも、カロイってやつらは、やって来る気配なんか見えやしねえってよ。――軍神ルアーの炎の馬車にかけて、こうなったら、おれたちだけでやるほかはなさそうだぜ!」
「それならそれで、何とか打つ手は考えてある」
グインは答えた。
「よし――ともあれ、行くとしようか」
「わたしたちは?――ねえ、グイン、わたしたちは?」
「ガキどもは、サルのガキどもと、留守番をしてりゃいいのさ」
とイシュトヴァーン。
「ねえつれてってくれるでしょう」
それにはかまわずにリンダは心配そうに叫んだ。
「ともかく時が惜しい。俺と一緒に、谷の入口までついてこい、子供たち」
「うん!」
「ええ、グイン!」
とびたつようにして双児はグインにつき従う。
もう、戦士たちはみな、ラクの村を出て、谷の入口から上り坂になっている道いっぱいにつめて、グインたちを待っていた。シバが、若いラクの戦士たちをひきつれて、かけもどってくる。
「リアード」
「よし、いま行く」
グインは、左右にパロの双児、うしろにイシュトヴァーンとシバたちをひきつれて、大股に村から谷の上り口へ通じる坂をあがっていった。
かれらの一隊が通りすぎるにつれて、道の両側にびっしりと居並んで出陣の時を待っている、ラク、グロ、ツバイ、それにラサの四氏族の戦士たちからは、
「リアード、リアード!」
「リアード!」
という叫び声があがって、それぞれの手にした旗指物や槍がいっせいに打ちふられるのである。
いまのところはまだ村を守るためにのこる、ラクの女たち、それに、居残ってかれらと逆方向の山へむかう老人と妊婦と子どもたちとが、一番うしろからぞろぞろとくっついて出て、グインや族長たち、それに良人や息子の名を呼びたてるのだった。
「すごいわ――! セム族の大同団結ね」
リンダは目をみはりながらレムスにささやいた。
「そして、これを、たった一日でやってのけたのはグイン――わたしたちの[#「わたしたちの」に傍点]、グインなのよ!」
「でもモンゴール軍の方が倍も多いんだよ」
実際家の弟は、実際的な返事をした。
「第一、ラクについで大きい、グロと匹敵する上にいちばん凶暴でいくさ上手だというカロイは、まだ加わっていないんだよ」
「いやね、がっかりさせるようなこと、云わないでよ」
リンダは不服そうだった。
「あんたって、いつでもそうなんだから――ねえ、スニはどこへ行ったのかしら?」
レムスは答えようと、あたりを見まわした。
しかし、かれは、姉のために、スニを見出しているひまがなかった。
そのとき、グインたちの一行を迎えて、いよいよ号令一下谷を出るばかりのセム連合軍の、その先端部から、ただならぬさわぎがつたわってきたのである。
「どうした!」
ロトーが怒鳴った。
「大変です。使者が――」
「使者?」
族長たちがざわめいた。
その見ている前へ、戦士たちの列をかきわけるようにして、息をきらせたラクの若い戦士が、ころがり出た。
「ノル!」
ロトーが叫ぶ。若い戦士は、ひどい傷をおっていた。頭はざっくりと割れ、血がしたたって、ほとんど目もみえず、その上にからだじゅうが切りさいなまれている。息のあるのがふしぎなばかりである。
「あれは、カロイへ出た使者の一人だな」
「はい、リアード」
「カロイが――」
ノルは喘いだ。その両手にかかえたものをみて、セムたちは叫び声をあげた。
それは、血のしたたる二つの生首だった。
「ゴグと、ルキだ」
シバがうめく。どちらも、カロイへの使者をかって出た、ラクの勇士である。
「ガウロがロトーさまに伝えろと……カロイはナームを河を渡って攻め、城をやきすてた勇者だと……腰ぬけの茶色毛やイド飼いどもと手をくまずとも、オームはカロイをおそれ、よけて通るだろう、と……」
「ばかな」
ロトーが短く吐きすてた。
「誰か、ノルを手当してやるがいい」
「腰ぬけ――われらを腰ぬけと?」
悲憤の声が口々にあがった。
「そもそも、オームが河をわたってせめよせたのは、カロイがきゃつらを攻め、ケス河岸のオームの城を焼いたからではないか!」
「敵はカロイだ」
にわかに、険悪な空気がたちこめる。重苦しい沈黙をひきさくようにして、
「カロイを倒せ!」
だれかが絶叫した。
「おお――カロイを倒せ!」
「イーア、イーア、アイー!」
たちまち叫びは全軍に波及し、セムたちはやにわに総立ちになる。
「リアード!」
シバが絶望的な目でグインをふり仰いだ。
そのときである。
グインが立ちあがった!
「待て――セムたちよ、きいてくれ!」
その口から、びりびりとふるえるような咆哮が洩れる。彼は両手をひろげ、そして叫びはじめた。
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第三話 カル・モルの秘密
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その朝――その同じノスフェラスの朝をケス河をこえてきたモンゴールの侵攻軍のほうは、しらじらとひろがる荒野のまっただなかで迎えていたのだった。
夜どおしの行軍のあと、もうまもなく夜が明ける、という時分になって、司令官は全軍止まれの触れをまわし、交代で仮眠をとり、かるい食事をとるよう云いつけた。
モンゴール一万五千の侵攻軍はそこで、はるかな地平線までも君と砂の起伏以外には河ひとつないようなノスフェラス荒野のまんなかにウマをとめ、染めわけられた鎧の色そのままに四色の巨大な花のように本陣をおしつつんで陣をしいた。
ケス河をあとにして東へ、東へと進んできたかれらの前にひろがるのは、東のカナン山脈、はるか北には万年雪をいただくアスガルン山塊――しかしそれは、空恐しいばかりに遠く、よしそれがま近くあるように見えたとしても、それはすなわち、世界の屋根なるそれらの神秘な山々の、途方もない高さをこそ物語るのでしかないのだ。
カナン山脈よりもだいぶん手前に、奇妙なかたちの岩山がいくつか砂漠にへばりつくようにしてつづき、この、人間たちに自らの卑小さをとことん思い知らせるためにこそ作りあげられたかのような広大な砂漠の中で、ほんのささやかなよりどころとなっていた。
また現に、セムのいくつかの氏族のうちの半数ばかりが、このあまり高くもない岩山をすみかとし、そこに身をひそめるようにして、かれらの村をこしらえあげたのだが、むろんのこと、この時点でモンゴール軍がそうと確信していたわけではない。
だが、あたかも、磁石のありかにひきよせられる砂鉄のように、かれらはとりあえずその山々のふもとをめざす、ということで意見の一致をみた司令部にひきいられて、まっしぐらにそれを目指して来たのだった。
夜営の合図が出されるや、かれらモンゴールの兵たちはウマからおり、ウマの背にかけた厚い織物をとって敷いた。それがかれらの行軍中を通じての、唯一の寝床なのである。
ウマたちに乏しい水をやり、かいばをあてがうと、兵たちも食事にとりかかった。あちこちで穀物の粉が練られ、乾し肉があぶられた。
その間、当番にたったものはむろん、身を休めることなく、弩を手にしたまま四方の、ひろびろとした荒野へするどい目を注いでいる。
何重もの円になって陣をしいたそれらの兵のまんなかに、例によって巨大な羊の皮の天幕がはられ、ふさ飾りのついた公女の旗がその六角形の屋根のてっぺんにはためいた。その中へ、隊長たちが呼びあつめられて出たり入ったりし、また忙しげな公女の世話係たちが、手にいろいろな容器だの、ウマの背の荷の中からとりだしたやわらかな毛布だのをかかえてはその中に消えた。天幕の中では、隊長たちを集まらせての、さきざきの指令が下されているようだった。
だがそれは、ノスフェラスの明け方の、かわいた薄暗がりに、せめての仮眠をとろうと身を丸めてうずくまった騎兵、歩兵たちにはかかわりのないことだった。かれらは、いまにもその握ってもさらさらとくずれてゆく砂の波をかきわけて、砂漠に棲む怪物のぶきみな顔があらわれるような不安にとらわれ、ほんのわずか歩哨が目をはなした隙をぬって悪魔のように忍びよってくる、顔を染料でくまどり、石オノをふりかざした猿人族の、戦慄をさそう幻影に悩まされた。
モンゴールの兵たちの半ば以上は、アルヴォン、ツーリード、タロスの各砦から派遣された辺境警備隊の兵士であり、従ってケス河ひとつをへだててそのかなたにひろがる、この灰色の荒野にあるていどは慣れてもいたし、セム族やその他のノスフェラスの住人の、奇怪な生態にも、ひととおりの知識はもっていたはずである。
しかし、そのかれらにして、ウマで一日の距離より深く、ケス河岸からノスフェラスの奥へ踏みこんだことはまだなかった。
否――辺境に伝わる、なかば伝説化したうわさの中にはこんなのもある――それはトーラスからやって来て、ケス河をこえて行ってしまった青年の話、あるいはカナン山脈の中にいまも眠っている、超古代の廃都カナンの黄金の財宝を見つけ出そうという、そんな気狂いじみた執念にとりつかれた隊商、無頼漢、冒険児、夢想家の、すべて失敗におわってしまうあくなき試み、といったたぐいのもの。
しかしそれは必ず同じことばでしめくくられる、という点についてはまったく例外がないのだった。すなわち、ケス河をこえて、ノスフェラスの荒野ふかく入りこんでいった人間[#「人間」に傍点]は、いないわけではない――むしろしばしば、それを自らへの挑戦のように感じて、ひきつけられてゆくものがあとをたたない。だが、ノスフェラスを横断したり、あるいはその奥深くふみこんで、生きて帰ってきた人間[#「人間」に傍点]は、ノスフェラスの長い歴史の中に、ついにただのひとりも、いはしないのだ、ということである。
むろん、辺境の砦からではなく、トーラスの都からはるばると派遣されてきたものも、そのことはすべて知りつくしている。そこで、上からの叱責を恐れて、おおぴらには口に出せぬけれども、モンゴールの将兵たちは、こっそりと耳に目を、口に耳をよせあつめて、この大胆不敵なこころみに参加させられた不運を呪い、そのこころみとかれら自身の運命のゆくすえの心もとなさに首をふり、そしていったい指揮官の心に、突然こんな無謀なくわだてを思いつかせるとは、どんな悪霊が巣食ってしまったのだろうか、とひそひそ声で嘆くのだった。
それはだが、司令部の天幕に呼びあつめられて並んだ、それぞれの隊の隊長たちにとっても、ひとしく胸にわだかまる不安であり、懸念であり、そして当惑であったのである。
「――お訊ねすることを許していただきたい」
重々しく口をひらいたのは、ツーリードの城主、二千の青騎士隊をひきいるマルス伯爵である。
「なんだ、マルス」
モンゴールの右府将軍にしてヴラド大公の公女、通称公女将軍と呼ばれるアムネリス姫は、きらりと光るまなざしを、青騎士隊長へむけた。あまり、機嫌がよくない。
それはだが、この無謀な進軍が開始されてからずっとそうなのだった。おそらくアムネリス自身にも、自らの不快の真の理由は、はっきりとはわかっていなかったにちがいない。
彼女と隊長たちのあいだには、巨大な羊皮紙の、ノスフェラスの地図がひろげられ、その何箇所かに、青や赤でしるし[#「しるし」に傍点]がつけられていた。
それをのぞきこむ、今回の進攻軍の指揮官たちは、いま云った青騎士隊長マルス伯を筆頭として、タロス城の副指揮官で、黒騎士二千をたばねるイルム、その下で徒士たちをひきいるタンガードの両隊長、そしてアルヴォンからの赤騎士隊長、リカード伯爵の息子リーガン。その隣に、九死に一生をえて雪辱にもえるアストリアスの若々しい顔がある。公女麾下の白騎士隊をひきいるヴロン伯爵とリント男爵。
そして、それを眺めまわし、ぐいと金髪をふりやった若い公女のうしろには、影のようにひっそりとした魔道士のガユスと、それに白騎士フェルドリック、それにもうひとり、これはどこからどうしてあらわれたものか、正体不明の人物が黙りこくってひかえていた。
その人物は当初からずっと、ちょうど東方で用いる女乗物のように、ウマの上にくみたてられた、布を四方に垂らしたこし[#「こし」に傍点]の中に身をひそめて、この軍勢についてきたのだった。モンゴールの兵士たちは、誰もその乗物の中みを知らず、それをかいま見ることもできなかったので、ひそひそとささやきかわして、その正体をあてようとしていたが、結局誰ひとりとして自信をもってこうと云えるものはなかった。
そして、将軍たちもまた、この人物について、何ひとつ知らされてはいなかったので、ひそかに好奇心をあおりたてられていた。その人は、一番最後にケス河をわたり、そのまま白騎士隊に守られて、アムネリスのウマとくつわを並べて進軍に従ったのだが、何回かの小休止の折にもついぞウマからおりようとはせず、それどころか、垂れ[#「垂れ」に傍点]をあげて外をかいま見ようとさえしなかった。
それで、将軍たちは天幕に呼び集められたとき、そこに、公女と並んでその人物がいるのをみて、ひそかにさてこそと思ったり、いぶかしんだりしたのだったが、しかしそれは、その人物の正体がわかったからではない。
というのは、いよいよその女乗物から出て、姿をあらわしたところが、その人物のいまの服装というのは、巨大なフードにすっぽりと顔と頭をおおい、マントとトーガにふかぶかと身を包み、つまるところ外には目ひとつあらわれぬよう気を配ったものだったからである。
これは、アムネリスの左うしろにひかえた魔道士のガユスの服装と、根本的には同じいでたちで、そのため、アムネリスは左と右に黒い死神を従えた、金いろの暁の女神のように見えたが、しかしそのガユスでさえ、フードの下からは老いしなびた醜い顔が見えていたし、マントの袖からはひからびた手が出て、膝の上で瞑想的に組みあわされていた。
しかしその人物は、手もマントの下にひっこめたなり、目も誰ともあわさぬようフードをかたむけて、うつむいたきりだった。それは、いよいよ将軍たちの疑惑をふかめ、奇妙で奇怪な連想にさそう姿だった。
マルス伯爵は、それへちらりと目を走らせた。何がなし、見てはならぬものを見たかのような狼狽の光をうかべて、あわてて目をそらせる。
「お訊ねすることをゆるしていただきたい」
彼はくりかえした。
「このたびのノスフェラス遠征――これについてはわれら――辺境守備隊をあずかる者たちは、狼煙と使者をいただき、それに応じてそれぞれに兵力を引きつれ、まかりこしましたが、それが金蠍宮のどのようなお考えによるものとも、どのような目的をもつとも、否、それがどの程度の長期間にわたるものとさえ、いまに至るまでお教えいただいてはおりませぬ」
「それについては、いずれ申す――そう、云っておいたはずだ、マルス伯」
アムネリスは気短かに云った。氷の冷静と非情とをもって鳴る彼女を、もしよく知っているものがいたとしたら、その人は、彼女がノスフェラスに入ってからというもの――というよりは、実のところ、パロの双生児をひきつれた、豹頭の奇怪な戦士をとらえ、それに面罵され、そしてそのあと彼らに逃亡されてからというものずっとどうかしている、と云ったかもしれない。
「いつ、お教えいただけるのでありましょうか」
しかし、伯爵も、自分の娘のような少女に、へこまされてはいなかった。
「せめて、遠征の目的と、それにおおよその期間なりと」
アムネリスは答えなかった。その白い、ろうたけた顔に、一抹の逡巡の色がかすめ過ぎる。
「殿下」
マルスは食いさがった。彼は、居並ぶ隊長たちの中では最年長でもあるし、格も最も高い、大貴族である。
「兵たちも不安に思っておりましょうし、それに何よりも、それをとりまとめるわれらが動揺しておりましては、それが兵たちにも伝わります」
「モンゴールの兵は、モンゴールの頭脳の命ずるままに動く、モンゴールの手足ではないのか?」
アムネリスは声を荒立てはしなかったが、充分な苛立ちをこめて云った。
「わたしはどこへゆくにも、何をするにも、いちいち兵たちすべての賛成を得るかどうか、伺いを立ててからにせねばならないのか?」
「殿下、殿下」
うしろから、フェルドリックがなだめ顔にささやいた。
マルス伯も、娘のような年頃の総司令官をなだめるように、
「そうではございませぬ。ただ、兵たちの不安をしずめるために、最低限の情報だけは与えておいてやらねばと――兵たちは、前人未踏、帰ってきたもののないといわれるこのノスフェラスの荒野へ、ふかくわけ入ってゆくことを、少なからず心細く思っております」
「われらも、はじめは、スタフォロス城へのセム族の小癪な襲撃に対し、掃討とモンゴールの権威を保つがための遠征とばかり信じておりましたが」
おずおずと、若いリーガン小伯爵が口をはさんだ。彼はリカード伯爵の息子で、面立ちも父にそっくりだった。
「しかし、このままセムを求めて荒野にわけ入って参りますと、われらは……」
「心配せずともよい」
アムネリスは、苛々と細い手をふった。しかし、そのようすには、前よりも苛立ちの表情は感じられなかった。どのみち、それは、いずれは説明しておかねばならぬことだったし、そのための軍議の時間すらも惜しんで、ひたすらウマを進めてきたかれらではあったが、こうして夜明けを待って陣をはっているいまこそ、その絶好の機会にはちがいなかったからである。
「――よかろう」
アムネリスは、ほんの短いあいだ、どこまで、どのようにして話したものかと思案するらしく見えたが、ただちに心を決めて、顔をあげ、将官たちを見まわした。
「よかろう。いずれ、どうせ話すつもりでいたことでもある」
考えこむようにくりかえす。その緑色の、神秘な冷たい瞳が、マルス伯、イルム隊長、タンガード隊長、リーガン小伯爵、アストリアス隊長、と順々に見つめて過ぎる。
その目が、ふと、末席にひかえたアストリアスの上まできて、はからずも、といったようすで止まった。この若いトーラスの貴族、まだ二十歳ながらすでに『ゴーラの赤い獅子』としてその勇名を三大公領にはせている、赤騎士の中隊長は、その天幕にはいって席を占めたときからずっと、ひっそりと声にならぬ崇拝と讃美をかくして若い公女の白い顔を見つめつづけていたのである。
何かをいぶかしむかのような、アムネリスの冷たい目にぶつかって、アストリアスの端正な顔はたちまち真赤になった。すっかりうろたえて、おずおずと目を伏せる。アムネリスは、何かを感じたように、小首をかしげてそのようすを眺めたが、すぐに白騎士のヴロンとリント両隊長へと視線をうつした。
「兵たちが動揺しているという事実はあるか、マルス」
説明にかかる前に確認しておこうというように訊ねる。マルス伯は手をあげた。
「ただいまのところは、まだ。しかし、行くさきなり、殿下のご計画なりについて、早急に告げ知らせてやらぬかぎり、明日《みょうにち》中には、軍中に流言や臆測が野火の如くひろがり、おさえようもなくなりましょう」
「さても、人は、それほどノスフェラスのような無人の地に対して適応できぬものなのだな」
アムネリスは考えに沈むようすで云った。
「まだわれわれは、ノスフェラスにわけ入って一日しかたってはおらぬというのに。しかも、一回のセム族の襲撃さえもない」
「それが、ある、と信じておればこそ、いまだ兵たちはさほど不安をおもてにあらわしてはおりませぬ」
マルスは云った。思いきってつづける。
「しかし――さきほど、兵たちの中でふと洩れきいたのでありますが、今回のこの遠征の目的は、実は――実はセム掃討ではないのではあるまいか……その証拠は――」
「何ときいた」
アムネリスの顔がけわしくなった。
「その証拠には、われらの軍は、四方に斥候を放ってまずセムのありかをたしかめてから、そこへむかっていって掃討するかわりに、あたかもこの未踏の地ノスフェラスのいずこかにそれと知られた目的地がある、とでもいうように、まっしぐらに一点をめざしておるようだ、と――」
「――兵たちは、ふしぎなものだ。見ぬようで見ているし、知らぬようですべてを知らずにはおかぬ」
アムネリスは美しい顔に苦笑をうかべた。
「その見かたは、なかなか鋭いし、それに正確でもある。そのとおりなのだ、マルス伯爵」
静かに告げる。天幕に居流れた隊長たちは、わずかにざわめいたが、それはさほど大きなものではなかった。それは、隊長たちにはすでに、ある程度予測されていたことだったのだ。
「むろん、セム族の掃討も今回の遠征の重要な目的のひとつであり、それはすべての将兵に伝えられたとおりだが――だがしかしわれわれの目指すべき、最終の目的地は、別にある。それは――」
アムネリスはたおやかなしぐさで指をのばしたと思うと、一転した激しさで、彼女の前におかれた地図の一点を荒々しくさし示した。
「ここだ!」
彼女が指さした一箇所を、将官たちは息をのんで凝視した。
前人未踏をうたわれるノスフェラスであってみれば、むろん地図とはいってもさほど精緻なものができていよう筈もない。むしろそれは、周囲にぽつり、ぽつりと山塊や地名を書きこんであるがほとんどは白紙そのものの、空白の地図、とでもいうべきものであった。
それの、アムネリスに近いがわ[#「がわ」に傍点]の辺をちょうどなぞるようにして描きこまれているのが暗黒のケス河であり、そして赤や青のインクでつけられたしるし[#「しるし」に傍点]はそのケス河の周辺にかたまっている。
だが、アムネリスの指さしたのは――それは、ケス河をはるかに越えた、羊皮紙のまんなかあたり――その周辺にはほとんど書きこみひとつない、空白の中の一点であった。
「公女殿下、それは……」
マルスがおずおずと口をひらこうとする。アムネリスはそれをかるく制し、胸をはって隊長たちを見まわした。
「この一帯をセムどもは、『グル・ヌー』と呼んでいる。『瘴気の谷』という意味だそうだ。われわれが目指しているのは、この『瘴気の谷』である」
声にはもはや微かなよどみもない。モンゴールの勇士たちは顔を見あわせて、誰かそれを知っているかと問いあうように互いをぬすみ見た。
「もはやこの地点まで進んだことであれば――とアムネリスは地図のはるかに手前の赤い×印を叩いて――その秘密をあかしたとて他国の諜者に洩れるおそれもないだろう。よいか――今回のこの遠征軍の最終的な目的をいう。それは、この『瘴気の谷』を探しあて、その周辺のセム族をたいらげ、その谷近くにモンゴールの砦を建設することである」
アムネリスの声は、澄んでよく通ったけれども、決して大きくも、激しくもなく、むしろ低くておちついていた。にもかかわらず、公女のそのことばは、今度こそ、まるでかれらのまん中に四方へはじけ飛ぶバクダンソウの実が投げこまれでもしたかのような、驚愕と動揺とをまきおこした。
「姫さま――そ、それは……」
さしもの厳しい軍律さえも忘れはてたかのように、たちまちまきおこった大きなざわめきの中で、マルス伯爵は声をふり絞った。
「それは一体――」
「姫さまと呼ばぬように申したではないか」
アムネリスは眉をひそめて云った。
「もう、わたしは、そなたを爺と呼んでいたころの子供ではないのだぞ」
「ご――ご無礼を……公女殿下」
老伯爵はうろたえて頭をさげた。それすらも、周囲のなりやまぬどよめきに消された。
「ええい、やかましい。静まらぬか!」
公女はやにわに卓を叩いて声をつよめる。とたんに、嘘のようにざわめきと私語がやんで、驚きと疑惑にみちた目が、この長身の、かれらの導き手を見上げた。
「殿下――お訊ねすることを、許していただきたい」
しんとなったなかで、マルス伯はなおも声をつよめて、
「モンゴールがただいまどのような状況にあり、かのパロ征圧以来どのように微妙な情勢にあるか、それはわれらもすでにわきまえております。が、なればこそ、われらは――つまり……」
「いま、このような辺境に、貴重な、一万五千もの兵力をさかねばならぬいわれが納得できぬというのだな」
「――は」
マルス伯はうなだれた。公女の逆鱗にふれたら、たとい伯ほどの名門の大貴族であろうと、幼いころの彼女の守り役であろうと、無事ではすまぬのである。
「いわれはあるのだ」
だがアムネリスは、機嫌を損じたようでもなかった。
むしろ、皆が意外に思ったことには、わが意を得たとでもいったほのかな笑みに、その氷のくちびるがほころびすらしたのである。
「そのいわれを紹介しよう――前へ進むがよい、カル・モル……そして、かぶりものをとるのだ」
公女は、彼女のうしろの、例の謎の人物をふりかえった。
つづいておこった、隊長たちの叫び声――鉄の自制をすらうちやぶる、驚倒と、そしてまぎれもない恐怖――恐慌すらもひそめたうめき声を、公女はおちつき払って手で制した。
「紹介しよう。カル・モル――この世がはじまって以来はじめて、ノスフェラスの荒野を横断し……そして生還した、奇跡の魔道師だ!」
アムネリスの声は、勝ち誇ったようにするどく、しんと静まりかえった天幕にひびきわたったのである。
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しばらくのあいだ、モンゴールの勇士たちは声もなくその男――カル・モルを見つめていた。
それも無理からぬことと云わねばならなかった。というのも、黒くあつぼったいフードをとりのけ、その下からあらわれたのは――異相、というもおろかな、怪奇といおうか、無残、というべきか、二目と見られぬ醜貌であったからである。
それもただの醜貌ではなかった。生ける骸骨、――そう云っただけでさえまだ足りぬ。
これをして、はたして、人間[#「人間」に傍点]、と呼んでもよいものかどうか、見たものは絶句したあとには、そう疑わずにはいられまい。その男の顔は、ほとんど、ただの頭蓋骨にやけただれた皮一枚、ぴったりとはりつけただけとしか見えなかった。
くちびるも鼻も、まぶたすらもとけただれてしまいでもしたかのように、その男は、げっそりとした歯ぐきとぬけおちてまばらな歯、そしておちくぼんだ眼窩の中の限球だけがまざまざと目立つのである。
(黒死――?)
とっさにそう疑ったものも多かったにちがいない。
しかし、それは、黒死の病とも微妙に違っていた。何よりもそれは、特有のじゅくじゅくとしたただれを欠いている。そのかわりにすべての血液が体内から失われでもしたかのようにひからびて、そしてひきつれていた。
ほとんど原形をとどめないその異様な顔の中で、しかし、目だけは異常なまでに明るい光をはなって、あかりの下にさらけだされたそのおのれの顔を愧じるようすもなく人びとを見返している。が、やがて、頃はよしとみてアムネリスが合図をすると、のろのろと手をあげてフードをふかぶかとかぶり直し、その恐るべき顔をかくしてしまった。
人びとはようやく、自失からさめて、ひそかな安堵の吐息を洩らした。カル・モルのその顔には、何かしら見るものをおののかせ、その魂の深奥までも震撼させるものがあったのである。彼が、このような姿になるにいたった経緯、一人の人間をしてこうまで変容させ、一個の怪物ともいうべきものに変貌をとげさせるその経験とははたしていったいどのようなものなのか、それを考えずにはいられないからかもしれなかった。
「カル・モルははるか東方の国、キタイの人間だ」
大の男たちをそれほどに恐怖させたカル・モルの異相にも、見慣れてか、それとももっと性格に由来するものか、十八歳の公女はべつだんたじろぐようすもなく、説明した。
「彼は熱心な若い魔道師で、術の秘奥をきわめたいと願うあまりに、伝説上の大魔道師アグリッパに会い、そして弟子入りしようという、途方もない野心にとりつかれた。そうであったな、カル・モル?」
怪物は、いまはすっかりフードでおおいつくした顔をゆるやかにさげた。
「しかしアグリッパと申せば――」
思わず、リーガン小伯爵が叫んだ。
「彼は何千年も前――否、二万年もの昔に生まれたといわれ、むろん、二万年生きたと称されてはおりますものの、そんなことを信じるものはおりますまい」
「ところが、カル・モルは信じたのだ、リーガン」
アムネリスは託宣をする巫女めいたようすで細い手をあげた。
「ばかりでなく――そのあかしをつかんだ、とそう信じた。それは、魔道師にしかわからぬことであってみれば、われわれにははかりがたいが――ともあれカル・モルは、伝説の大アグリッパが生きていて、そしていまなおこの世界のどこかで神秘な錬金術をいとなんでいる、ときき、彼をさがすためにキタイを旅立ったのだ。そして、最も彼に出会う可能性の多い場所を考え――すなわちカナン山塊に入って、古代帝国カナンのあとをたずね、そこでは何も見出すことなく、そのままノスフェラスの荒野へと足をふみいれた」
隊長たちは息をひそめてきき入っていた。
それは、いかにも奇怪な――そして常人にはとてものことにお伽話としか思えぬ話であった。しかし、隊長たちは、信じぬわけにはいかなかった。とにかく、かれらは、カル・モルの姿を目のあたりにしたのである。
「むろん、ふつうの人間であれば、ノスフェラスの荒野を横断して、なおかつ生きてかえるものがあろうとは、夢にさえ思わぬだろう。だが、カル・モルは魔道師だ。さまざまのふしぎな術を知っている。その上に、若くてたくましく――もとは、この男は、並よりもずっとたくましく、そして強いからだをしていたのだという――そして、しかも運にも恵まれていた。彼は数ヶ月ものあいだ、歩いて歩いて歩いた――」
「そのあとは、私が自ら語りましょう、公女殿下――もしよろしければ」
カル・モルのフードの下から、突然声が洩れてきたので、一同はぎょっとして身を固くした。何となく、この生ける屍が、ふつうの人間と同じように、口をきくことなど、ありえないような気がしていたのだ。
カル・モルの声は、いかにも、くちびるもない、裂け目のような口から洩れてくるのにふさわしく、さながら廃墟をわたる風のようだった。
「私は歩きました」
その、ききぐるしいカサカサした声で、魔道師はつづけた。
「むろん、私もそれなりの術をおさめた魔道の使い手であってみれば、たとえ魔のノスフェラスといえど、ひと飛びにすることは必ずしも難くはありませぬ。禁じられた|黒 魔 術《ブラック・マジック》の中には、空間と時間とを思いのままにねじまげ、たわめる古代の秘術もございます。しかし、私は自分の足で歩かねばなりませなんだ。なぜなら、私の目的は大導師アグリッパのかくれひそむ場所を見つけることでしたから。
それで私は歩き、砂ヒルと戦い、吸血の砂ゴケに悩まされ、ラゴンの村落をみてあわてて針路を変え、岩と砂とのさなかを数ヶ月にも及ぼうかという長さをひたすらアグリッパを求め歩きました。食物、飲み物にはこと欠くことはありませなんだ。私も魔道師のはしくれであってみれば、空中よりそれらのものを取りだすすべも、空中にうかび、安全に眠るすべもわきまえております。
そうして歩くうちに私は、このノスフェラスの地にただならぬことを知りました。ここは、神に見すてられた地、と人は申します。が、それはまさしくこの地を云いあてております――ここでは、動物相、植物相のすべてが、異様な、怪物じみた変容をとげております。さながらこの地だけが、他の星からうつし植えられた鬼子である、とでも云うように……魔道師はまた植物、動物についてことこまかに学びますので、私にはノスフェラスの異常さがよくわかりました。
そしてそれは、私にとっては、大アグリッパがひそむとすればたしかに、おそらくこの地をおいてないはずだ、という確信をつよめるあかしとなったのです。私のもつ水晶球はノスフェラスに入ってからというもの、この地の妖気、瘴気をうけて曇り、どうしてもその曇りを払うことができませなんだ。
そしてある朝目ざめたとき、私は、その水晶球が、ついにまっ黒になってしまっていることを知りました。指をのばしてふれようとした刹那、それは地におち、粉々に砕け散ってあとかたもなくなりました」
誰ひとりとして、口をひらくものはなかった。アムネリスでさえ、彼女はすでにその話を知っているはずであったが、しんとして、おもてに緊張の色をたたえ、一語もききのがすまいというかのようにカル・モルの話にききいっていた。
カル・モルは何の感情も感じられぬ声で、淡々とその異常な物語をつづける。
「私にはそれは凶兆というよりは、むしろいよいよ私が目指すアグリッパに近づきつつあるという前知らせのように思えました。なんとなればアグリッパとは〈古き神々〉、に術を学んでその奥義をきわめた者で、それゆえ彼はヤヌスの神の体系にはおのづから相反する存在であり、水晶球はそのアグリッパの霊気をうけとめかねて割れたのである――と、そう感じたからです。
また事実、数日前より私自身も何かの、異様につよい気配――あるいは妖気、それをしきりと感じはじめておりました。それは進むにしたがっていよいよ強くなりまさり、魔道師にとってはいわば周囲に展開される、めくるめく轟音と光とにおいとの滝のまっただなかへ歩み入ってゆくにもひとしい強烈な刺激をもたらすものとなっていたのです。
(これは、アグリッパの瘴気にちがいない)――私はそう思いました。アグリッパをおいて、これほどにつよい気[#「気」に傍点]を四方へ放つ存在はいない筈である――よしんば魔神ドールその人であったとしても。というのも、その瘴気は、単に悪[#「悪」に傍点]の気[#「気」に傍点]というのではありませんで、むしろある説明不可能なもの――異気[#「異気」に傍点]とでもいうか、つまりはこの星の生物や魔術のいかなる体系からも無縁な、そんな異質さを感じさせたからです。
かくて、私はノスフェラスをわたりつつ、火にひきよせられる虫の如くにその瘴気の中心へとひきつけられて参りました。
そしてある朝――」
カル・モルは口をつぐみ、疲れたようすで少し休んでから、再び語りはじめた。
「ある朝わたくしは、周囲の景色が、唖然とするような変化をとげていることに気づいたのです。
それは――もともとが死の[#「死の」に傍点]と呼ばれ、蛮族と妖怪のすまいするところとして人外境にほかならぬこのノスフェラスにしてさえ、あまりにも異様な、この世のほかの光景でした。
私が足をふみ入れたのは、一面ただ真白にあたかも気まぐれな悪魔の手により、地の骨[#「地の骨」に傍点]でしきつめられた、とでもいうべきありさまでつづいている屍の谷でした。
否――屍の谷、といったのは、比喩でもなければ、あるいはことばのあや[#「あや」に傍点]でもありませぬ。
私の立つ足のその下で、ぱりぱりとかわいた音をたてて白と灰色の固くもろいものが砕け散り、するとぱっと白いかるい埃が舞い上がるのでした。私は足もとをながめ、そして気づきました――その大地は、骨――かつては私と同じく生きてうごいていた、ありとあらゆる生物のなれのはてを、さながらしきつめでもしたかのように、延々とどこまでもつづく骨、骨、また骨でできていたのです。
その中には、力つきたことを怨ずるがごとくに宙にむかって突きあげられている、何やら太古の巨大な獣の肋骨もあれば、小さな、おそらくはセム族とおぼしい人間の頭骨も、いくつも見わけられました。それらはみな、異常なまでにもろく、白くなり、そしてとにかく――おお! なんとそれらは無数にあったことか!
私の立っているのは、骨と骨の粉の原であり、そのかなたには、骨の林、骨の森、そして骨の海に漂う骨の島――音ひとつ、生あるもののうごめく気配ひとつない、それは、死、そのものがかたちをとってあらわれでたかのような、白と灰色の永遠でした。
(こんなはずはない)そのとき、私は呆然と立ちつくしたまま、夢のような気持で考えていたことを覚えております。
(こんなはずはない。これは、アグリッパのしわざではない。アグリッパは伝説の中の人とはいえ、古きあやしい神々を信ずるとはいえ、まごうかたなく人間なのだ。これは、人間に可能なわざではない――どこの国、どこの時代の、どんな魔道師にだって、こんなことを思いつけるわけはない)
黒魔の秘儀にも参加し、何ごとをも、恐れることのない私をすら、そうつぶやかせるほどに、そこにある〈死〉はおびただしいものであり、そして無言であるだけにいっそう、異怖と自失を誘ってやまぬのでした。
あまりのことに、私の自制と、そして理性とは、しばしのあいだ、まったく働かなくなってしまっていたものと見えます。
気づいたとき、私はそこにひざまづき、両手でそのかわいたもろい骨をすくいあげておりました。その骨はいかなる作用の蚕食をうけたものか、ほんのわずかふれてさえ、たちまちのうちに砕け散っていってしまうのです。
どのような呪いが、どのような圧倒的な魔術が、この場をこのような地獄そのものにかえてしまったのだろう――やにわに、それをどうしても知りたい、やけつくような欲求が私を圧倒いたしました。私は知らぬ間に自分がこの骨にうずめつくされた谷の中心――すべての骨がそれへむかってなびいているところ――をさして歩き出していたことに気づきました。
何故かは知らず、云いしれぬほどからだは重く、さながら鉛をつめられでもしたかのようでした。しきりにのどがかわき、そして、からだじゅうの力がぬけてゆくような感じがありました。そのとき、私は、まだ何ひとつとして予感してはいなかったのです。むしろ私の頭脳はその動きを止め、私の魂もまた悪夢の中に封じこめられて、ものを感じたり、あやしむ能力をすら、忘れてしまっているかのようでした。
私は骨を踏みしだいて歩みつづけ、そして――ついに、谷の中心部とおぼしいところをのぞきこんだのです。
それは、私のあらゆる予想を裏切って、何ひとつ、変わったことがありませんでした。そこにはアグリッパの棲家の痕跡すらもなく、また、死の噴煙をふき出す深淵も、死の谷の秘密を説明するに充分なようなかわったものひとつ、見出すことができませんでした。
ただ――そこにあったのは、巨大なひとつの石、それだけだったのです。菊石、と前に誰かから教えられたような、見にくいでこぼこのある、あばただらけの石。
これが一体どうして――私の、しびれ、いよいよ重たくなってゆく脳のどこかで、しきりといぶかしむ声がいたしました。こんな石が、何もかわったところのない石が、どうしてこんなふうに、あたりの三タッド四方というものを、死の谷、骨の森と化すことができたのか。さながら、その石へむかって、圧倒的な力でひきずりよせられ、そしてその途中でついに力つきた、とでもいうかのように、すべての屍は、その石へ頭をむけ、北側のものは南へ、南側のものは北へというように、その石を中心とした同心円状に、なびき伏しているのです。
ただごとではない――そう、私はぼんやりと思いました。これは、ただごとではない。この石は、何か恐しい秘密を秘めているのだ。私は愚かにも――というのは、その奇怪な麻痺の中で、すべての私の明皙さも要心ぶかさも、すっかり忘れ去られておりましたので――手をのばすなり、その石をひとかけら、手にとってみようとしました。
お信じいただけるでしょうか――私の手が、その石にふれたとき、とたんに何かふしぎな、云うにいわれぬ感じがいたしました。私は手をひっこめました。――そのはずでした。が、次の瞬間、私はあまりのおどろきと恐怖に声も出ないままで自分の手――それともそれのあった場所――を見つめていたのでした。
私の手は、私の見ているまえで、風化し、とけ去り、見ているうちに骨までもボロボロにくずれ去って、またたくまに、手首からさきがあとかたもなくなってしまったのです」
カル・モルはマントの下から手を出してみせた。隊長たちは目をそむけた――それは、手首からさきを欠いた、まったくの骸骨のようなものだった。
「ふしぎと何ひとつ、いたみは感じませんでした。というよりも、それを感じているいとまさえなかった、というのが、正直なところです。
私はあまりのことに茫然と空をうちあおぎました。骨の灰が空に舞い、日輪までもが、あつい白灰色のヴェールを身にまとってでもいるようでした。ふいに、その視野をおおう白いヴェールをひきさくようにして、何やら黒いものが舞いこんでくるのが見えました。それは一羽の砂漠ガラスでした。その鳥は、何ごともなくその死の谷の上空をとび過ぎてゆこうとしたのですが、ふいに、前ぶれもなしに、きりもみをはじめ、つばさをばたつかせ――ほんの二、三秒のちには、石のようにおちてきました。それこそ――石のように、死んで。
それは例の石のまわりの、そこだけまるで骨どもが無言の約定として近づかずにおいた聖域でもあるかのような鉄砂の上へおちました。しかし、おちた、とみえたとき、それはジュッと音をたてて溶け――次の瞬間、そこに生あるものがいた、というあかしは、何ひとつとしてなくなっていたのです。私の失われた右手と同じように。
(殺生石)
そのひとつのことばだけが、私の頭の中をぐるぐるとまわっていました。
(殺生石の谷――|死の谷《グル・ヌー》)
ここを出なければいけない――私は、かすむ意識の底で、そう考えておりました。私ども魔道師というものは、すでにして百パーセントただ[#「ただ」に傍点]の人間というわけではないのです。あれこれの修業、また身体の構造組織を、施術にふさわしいものに作りかえてゆく過程のあいだで、私どもの肉体は、ふつうよりもずっと精神とかかわりの深いものとなり、それに呼応して、精神がなかば肉体化した粒子となって参ります。それでこそ、他のものに姿をかえたり、あるいは宇宙のさまざまのエネルギーを、そのままこの身に感じとったりすることができるわけです。
もしそうでなかったら、おそらく、その石の周囲数タッドに近づくという愚行をしでかした他の獣どうよう、私の生命も、またたくうちにその石の瘴気にあたって失われていたのでしょう。しかし、その常人ならぬ私にして、そこにものの三、四分ばかり立っていたそれだけで、すでになかば正気を失い、からだからは力がぬけ、いまにもくずれおちんばかりでした。
そこに倒れでもしようものなら、さしもの私も、一瞬にして消滅するらしいことが、失われた右手のにがい教えとなってわかっております。
ここを出なければいけない、何としても、この谷を逃れ出なければいけない――私は、思いました。
そのあと、いったい、どのような精神と意志のはたらきをふるいおこして、私が、どうやら生きてその死の谷――グル・ヌーを、まろび出ることができたものか――さながら泥酔でもしていたかのように、その間のことは何ひとつ、私の記憶にはありませぬ。
ただ、気づいたとき、私はノスフェラスのはてしない岩と砂のたたずまいの中に、精魂つきはてて倒れていたのです。いったいどうやってあの地獄を脱出し得たものか、はたして自分がほんとうに生きているのやらそれともそう信じてはいるものの、じっさいにはただの霊魂にでもなってしまっているものやら、それすらもさだかではない、苦しく、そして狂おしい心地がしました。
私はすでに、もはや半ば人間ではなかったのかもしれませぬ――私は、自分が、どうなってしまったのかもわからぬままに、よろばい歩きました。どこまでいってもノスフェラスのたたずまいはその荒涼を変えることもなく、そしてどこまでいっても、この世のすべてがあの殺生石の放つ瘴気によって、無人の地とされ了《おわ》ったかのように、何ひとつ生きものの気配とてございませんでした。いや――一度だけ、親切なセム族が声をかけてくれました。
どうしたのか、とあの甲高い、セムに特有のさえずるような声が人なつこく訊ねかけてきてくれたのをうっすらと覚えております。しかし、私が人[#「人」に傍点]に会えたうれしさと、たえがたいのどのかわきとで、顔をやっと上げたとたん、そのセム族は恐怖の絶叫をのこして逃げ去りました。
私はいぶかしみながら、セム族のそこにおいて去った、土焼きのつぼに手――というよりその残骸――をのばしました。やれ、有難い――水だ!
だが、つぼの中にある、わずかな水面をのぞぎこんだとき、私は――水をやけつくのどに注ぎこむことすら忘れはて、そこにうつったものをまじまじと凝視するばかりでした。
いったい、あの呪われた石には、どんな悪魔の力が秘められていたというのか――私の顔(顔だけではなかったのですが)、それは、肉という肉は焼けとろけ、ひからびてしまったかのように、ごらんのとおりのていたらくとなり――生ける髑髏、そのままに、ふくれあがった舌が歯と顎骨のあいだからつき出し、限球は永遠の恐怖に見ひらかれて、とじることもできず――
かくて、私は、地獄から還りきたった、一個の生ける屍体となりはてていたのです」
「カル・モルはその後何とかしてケス河にたどりつき、辺境開拓民に救われた」
声もない一同の耳に、涼やかなアムネリスの声が、一陣の風さながらに吹きわたって、この世にも奇怪な物語の冷静なしめくくりをつけた。
「はじめ、新しい伝染病ではないかと恐れた開拓民だが、話をきくとかれをひそかに辺境警備隊にひきわたした。話はそのルートを通じてトーラスへ及び――かくて、われらがいまここにこうしている次第なのだ」
それゆえどう、ということを、とりたてて公女はつけ加えようとはしなかった。ただ、それだけきけば充分であろうと云いたげに、てきぱきとあとの注意を与えると、あと二ザンの後の行軍再開を命じて、解散を告げた。
隊長たちは、何も問いかえそうとしなかった。明らかに、かれらはすっかり毒気をぬかれ、どぎもをぬかれてしまっていたのである。かれらは私語さえもかわさぬまま、のろのろと、公女の天幕を退出した。
あとに残ったのは、公女アムネリス、魔道士ガユス、そして当のカル・モル、とそれだけだった――いや、いま一人いた。
「何か用か、マルス伯爵」
アムネリスが、いぶかしむような、冷やかなまなざしを、立ち去りがたい風情で居残っていた老貴族にむける。――老、といっても、老い朽ちる年ではない。きびしくひきしまった武人らしい顔は、幼いころからいつくしんできた公女への、懸念とおもんぱかりで曇っている。
「それで、金蠍宮は、ノスフェラス征圧を火のように急いだのでございましたか」
つと無人《ぶにん》になった天幕をよこぎって、公女の近くに寄って、声を低めた。
「何が云いたい。――何か、意見があるのだな、爺?」
「差し出口をとお叱りをうけるかもしれませぬが」
マルス伯爵は深い不安をひそめた目の色で、美しい公女を見つめた。
「その前に、パロの双児の、クリスタル脱出と――そしてモンゴール辺境全域への、パロの双児をとらえよという指令をうけたときから、何かを感じてはおりました」
「パロの双児を、クリスタルから脱出させた装置の秘密は、まだ諦めたわけではない」
リンダ――征服者たるモンゴールの公女に、公然とたてついてきたその失われた王国の王女を思い出してか、アムネリスの美しい顔が、けわしくしかめられた。
「それもいずれは――いずれはかれらはセム族の集落のどれかへ逃げこんだとみていい。でなくば、ノスフェラスの荒野に行き倒れたか――それならばよし、われわれとしては、その秘密が他国の手にわたるのでさえなければかまわぬのだからな。パロの双児を捕えさえしたら、どのような手段を用いてでも、その秘密を明かさせてみせる――が、カル・モルの見た死の石の重要さとて、それに少しも劣りはせぬ、ということに金蠍宮は気づいた――しかもこれは、今のところまったく、モンゴールだけの秘密なのだ。思うところへ人を送りこむパロの謎、瘴気でもってどのような獣をも殺すグル・ヌーの謎、ふたつの謎を掌握したとき、まさしくモンゴールにとって、三大公領はおろか、中原すべて――否、全世界に覇をとなえることすら、夢ではないのだぞ!」
「姫さま――姫さま!」
アムネリスの不興をかう恐れも忘れてマルスは哀しげに云った。
「爺は何やらいやな予感がしてなりませぬ。そのような恐しい未知の兵器――それに手を出すのは、人智をこえたことだ、という気がしてならぬのです。それは世界はもとより、それにふれた者そのものを呪う、ドールのわざにほかならぬ。決してふれてはならぬ領域だ、という気がしてなりませぬ」
「ばかな」
アムネリスは笑った。
「兵器は、兵器にすぎぬ。――それは使う人間いかんによって決まるのだ。何も、恐れることはない――私は、しばらく眠るぞ」
それは退出せよの合図であった。マルス伯は、無言で天幕の出口をくぐった。しかしその思慮深い顔はくもり、彼は口の中でそっと呟いた。
(人がもの[#「もの」に傍点]に使われる、ということをご存じない――お若い、あまりに、お若い!)
天幕はただ静まっているばかりであった。
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かくて――
モンゴールの天幕は、すっかり寝静まったのだった。
さいごまで灯っていた、アムネリスの天幕の隙間から洩れるオレンジ色のあかりも消えた。
当番以外の兵たちは、それぞれのウマの黒々と足を腹の下にしいてうずくまったその陰に、厚織りの布を、それですっぽり身体を包んでしまうよう、ミノ虫のように身体にまきつけてよこたわり、身体をくの字に曲げて、少しでも眠りをむさぼろうとつとめていた。その布は、ふだん、行軍中にはかれらの下にあって少しでも鞍の乗りごこちをよくするために使われ、かれらがウマをおりると、たちまちに、即席のじゅうたん、寝床、ときには即席の宴のテーブルにさえなるのだった。
黒く、ノスフェラスの、視界をさえぎるものとてない荒野に突然生え出た無数のキノコのように丸く、くっつきあってうずくまった、そのモンゴール軍の、外周のそこ此処に、これはまた、さながら丸いキノコの群生からのびあがる胞子のようにぽつりぽつりと、夜を徹して歩哨をつとめる当番兵が、手に槍をもち、頭にはかぶと、肩からは半マントのシルエットをさらして立っている。
かれらの頭上にひろがるのは、ようやく明けてゆこうとする青紫の空である。それは、この人跡未踏の辺境にもあるまじき、またとないやさしさと美しさでもって、見るものの目を染めるような色あいだ。――が、それへ、目をむけるものとてもない。
あったにしても、そのやわらかなスミレ色の、けむるような美女の瞳を思わせる色あいを嘆賞しようというのではさらさらなく、ただひたすら、少しでも早く夜の明けきってくれることを――どこにひそむかわからぬ、セム族の脅威から、少なくとも当座だけであれ安全に守られている、と感じるために――願っていろいろと地平を見やる目、ばかりにすぎない。
その、当番の歩哨たちの一画で、ひとりの歩哨が、何におどろかされてか、ぴくりと槍をとりなおし、
「誰か!」
低い、短い声をあげた。
が、
「あ――失礼致しました、隊長殿」
あわてて、槍をひく。あらわれたのは、赤騎士隊長の、アストリアス子爵だった。
「よい、よい――見張りを続けろ」
未だようやく二十になるならずの、若いハンサムな隊長は、寝つかれもせぬままに、おのれのウマと粗末な寝床のかたわらをはなれて、澄んだ夜明けの空気を吸いがてら歩いていたものとみえる。
がっしりとした鎧に守られていてさえ、いかにも細くひきしまってしなやかな腰に、両手をあて、肩をそびやかすようにして、明けそめる地平の方へ目をやる、その白く端正な横顔が、何やら物思わしげな翳に曇っている。
「――なんという女性だろう。――まったく、なんという、おどろくべき女性であることだろう、彼女は……! しかも、まだ彼女は、たった十八にしか、すぎないというのに――」
アストリアスは、かぶとをはねのけて朝の空気にさらした顔に、夢みるような表情をうかべ、何やらせつない、慕わしげな思いにとらわれているかのようにそっとささやいた。
「は――? 何か、云われたでありましょうか、隊長殿!」
「あ、いや――何でもない」
若いモンゴールの勇士は、はっとしたような目をそちらに向け、思わず、頬にかすかな血の色をのぼらせた。
が、むろん、それは、歩哨の目に見えよう筈もない。
「……」
モンゴールの若き獅子、赤い勇士、と異名をもって、全軍の愛敬の的である、この若い英雄の、沈思をさまたげることを恐れて、しばしの間、目を伏せ、うなだれながら、ときどきそっとそちらへ目をやっていたが、やがて思いきったようにおずおずと声をかけた。
「隊長殿」
「何だ」
「――お訊ねしてもよろしくありましょうか?」
「なんだ。云うがいい」
「その――」
歩哨はためらった。そのようすで、アストリアスはおおよそのことは察したが、黙って地平へ目をやっていた。
「その――われわれの、目的地についてであります」
口を切ってみると、歩哨は、度胸がすわったらしく、ここで云っておかねば、といった必死のおももちになった。
「その――われわれの内では、かような噂がとびかっております。その……モンゴールの公女殿下には、われらを引きつれて、ノスフェラス全域征圧の長征の途におつきになり、われらの内何人がはたしてふたたび故郷の地を踏めるものか、それはさだかではない、と――」
「かりにそうであったにしたところで、そのような重要な責務につき、モンゴールの繁栄のいしずえとなって骨を他郷に埋めるこそ、モンゴール軍人としての本分とは思わぬか」
アストリアスは一瞬、とがめだてる声音になったが、しかし、すぐに思いかえした。
「そうした噂は、もうずいぶんと流れているのか?」
歩哨のそばへ一歩近よってたずねる。
「は――」
「恐れずともよい。かぶとをとって、はっきり申せ」
歩哨はふと、アストリアスが、さしで口をきいた彼の顔を覚えておこうとするのではないか、という恐怖にかられたらしい。
しかし、若い隊長の、黒くつぶらな瞳が笑いをたたえているのを見ると、ようやく安心して、かぶとのひもをとき、それをとって、左手で正式にかかえて胸へあてがった。そうやってあらわれた顔は、ほとんどアストリアスとかわらぬくらい若かった。正規の騎士団付きの歩兵ではなく、三年の年期でかりだされる、辺境警備隊づとめの、農夫のせがれか何かにちがいない。国民皆兵を標榜するモンゴールでは、若者は全員が、十八歳になるとどこかの辺境警備隊にくみこまれて、三年間の兵役をつとめねばならぬのである。
日に灼けた若い顔は朴訥で、いかにも農民めいていた。アストリアスは、心をやわらげた。
「われわれ指揮官の最も恐れるのは、不正確な情報に踊らされて、兵たちの心が動揺することなのだ。――名は、何という。出身は」
「マレルであります、隊長殿。ボア地方のルーエ村から参りまして、タロス砦におります」
「では、マレル。――どうせ、ほどもなく全軍にお達しがあることと思う。さきの作戦会議でそのように決まったのだ。だから、いまお前に話してきかせても、何らさしつかえはあるまい――われらの目指しているのは、グル・ヌーと呼ぶ、ノスフェラスの中ほど近くに所在する谷の周辺であるらしい」
「なんと!」
マレルは仰天した。
「そ、それでは、われらは、セム族掃討にこの地へ入ったのではないのでありますか」
「むろん、セム族の掃討も、任務のうちだ、そう心得るがいい」
アストリアスは云った。
「また、ノスフェラス深くわけ入ってゆくについては、とうてい、セム族と大きな一戦をまじえぬではすむまい。――しかし、われらの最終目的は、そのグル・ヌーとよぶ谷にたどりつき、そこにモンゴールの砦を建設し……それを、失われたスタフォロス城にかわり、ノスフェラスにおけるモンゴールのあらたな拠点とすることなのだ。よいか」
「ひえっ! こ――こりゃあ……」
おどろきのあまり、マレルは、ボア地方のなまりをむきだしに叫んだ。
「そりゃまるでドールの気狂いウマだ! いや――失礼つかまつりました。しかし、それでは……」
あわてて、アストリアスの顔をうかがいながら、
「そ、それでは、われらはその砦が建設されたら、その砦詰めとなり、それから任期のおわるまでのあいだ、道ひとつないノスフェラスのただなかで、セム族と戦うのでありますか? そ――そんな……」
「まだ、そこへゆきつけるとさえ定まったわけではないのだぞ。まして、金蠍宮の決められたことを、一介の歩兵が不平がましく文句をいうとは、なんという、僭越な――」
かっとして、アストリアスは声を荒立てかけた。
だが、たちまち悄然とちぢこまってしまったマレルをみて、気をかえた。
「まあ、よい。元気を出すがいい、何も、われらがそこへ詰めるというわけではない、そもそもわれらは工作兵をつれてきてはおらぬのだからな。もし首尾よく、その谷を見出せば、われらは、そこへ一隊をのこしておいて急ぎアルヴォンへ戻り、改めて砦の建設部隊がそちらへ下る、ということになろうよ。むしろわれらの任務は、そのさまたげとなるセム族を掃討し、かつその谷を見出すことにある。まあそう案ずるな。すぐに、アルヴォンへ戻れるよ」
「は……」
励まされても、マレルの顔は、晴れなかった。
それもだが、無理はない。マレルたち、多くの、兵役づとめの若者にとって何よりのおそれは、危険な辺境の砦へ配属され、兵役なかばで死ぬことである。職業軍人と異り、かれらには、帰ってゆくべき故郷の田畑があり、老いた父母もいるのだ。タロス城のような、ケス河近いはるかな辺境へ配属されただけでも、わが身の不運と嘆いていように、それがノスフェラスへの長征軍に加えられたばかりに、グル・ヌーにできる砦への居残り部隊に入れられでもしたら、まことに立つ瀬がなかろう。
だが、アストリアスは、そうことばをかけると、それほどに一兵卒の失望に心をはせている時間はなかった。
アストリアスはまだ若い。功名心に燃えている。しかも、二つ年下の、光り輝くように美しいモンゴールの公女が、かれの司令官なのだ。
かれにとっては、安全なモンゴールの領土をはなれ、辺境ふかくわけ入って来たことも、この先の不安な、未知の脅威にみちた行程も、さほど絶望的には思えない。それどころか、いよいよほんものの大功をたて、三国全土に名をとどろかせ、かつは美しい若い公女にそのいさおしを認められる絶好のチャンスであると、ひそかに胸をときめかせている。
ぶきみな、セム族と怪生物ばかりの領土であるこの不毛の荒野ですら、アストリアスの若い心には、未だ見ぬダイヤモンドの原石を埋めた沃野ともうつるのである。
アストリアスはもうマレルがしきりに考えこんでいることも忘れて、再びさきの物思いのつづきへと沈みこんでいった。
その思いの中心に、燦然と輝いているのは、やはりアムネリス公女の冷たく美しい容姿である。むろん、トーラスの大貴族の家柄に生まれたアストリアスは、それまでも、何度でも、公女に接する機会は持っていた。
しかし、巨大な宮廷のホールでのパーティーに、けたたましいファンファーレと歓呼に迎えられて姿をあらわすアムネリスは、いつも、おもても向けられぬばかりまばゆい、宝石と絹とサテンとにつつまれ、左手に病弱な弟のミアイル公子を従えて、バルコニーの上から典雅に貴紳淑女たちへうなづきかけ、そのまま少しして退出してしまうのを常とした。いわば、宮廷の彼女は、あらわれてはたちまち雲にかくれる月の女神のように、限りなく美しく、限りなく遠い存在にすぎなかった。
だが――と、うっとりとアストリアスは思う。だが、ここでは――このノスフェラスでは、彼女は、地上におりたイリスである。
彼女はそこの、石を投げれば当たるばかりな天幕のなかで、しばしの眠りにおちている筈である。そのきびしく美しい白い顔は、誰にもあかすことのないやさしい娘らしいまどろみの表情にたゆたい、そのくちびるは小さくひらいてかすかな、規則正しい寝息をもらし、そして胸は掛布の下でゆるやかに上下しているだろう。眠りのなかの彼女はほんとうに、十八の、やさしくたおやかな純潔な乙女にしかすぎない。
だがしかし、ひとたび、行軍再開の布令がまわされるや――彼女はまた、きりりとかぶとのとめ紐を結び、飾りのついたかぶととフード付のマントにその麗容をかくし、全軍の先頭に立って男まさりの采配をふるう、凛々しい馬上の人となる。
(どんな男よりも剛毅で、どんな勇者よりもおそれを知らず、どんな女神よりも美しい――!)
アストリアスが、ひざまづき、告げねばならぬ敗北と任務失敗の屈辱にみちた報せに恥じ入りながら、おそるおそる見上げたとき、そのうら若いモンゴールの公女将軍は、一点の慈悲も、ゆるみもない、峻烈そのものの目で、この名家の出の隊長をにらみすえた。
(セムなどにおめおめと敗北して逃げかえった――どんなにかさげすまれたことであろう。どんなにか、頼む甲斐なき役立たず、腑抜け、そう思われたことであろう)
彼女は、アストリアスの心ひそかに捧げていた、そうした讃美と驚嘆と、そして慚愧の念などには、気づくべくもないだろう。
だが、いままさに明けてゆこうとするノスフェラスの、壮麗なきびしい朝の美しさにうたれながら、アストリアスは、ひたすら彼女を思って胸をふるわせているのだった。
(護ってさしあげたい。――たとえ一命にかえても、あの黄金色の髪の毛ひとすじ、いためさせてはならぬ。このお若さで、このかよわい女性の身で、たぐいまれなる運命《さだめ》を背負っておられる姫だ。いずれはモンゴールの女帝として中原に覇をとなえるお方だ。――戦いの女神イラナの分身のようなかただ。戦士にして公女、一万五千の兵をひきいて荒野をわたろうという、大胆不敵、この勇気と胆力が、あのかよわい美しい姿のどこにひそんでいたものだろう!――たとえ、ひと筋なりとも、汚らわしい蛮族などの手をふれさせてはならない。何があろうと、お護りして、ご無事にトーラスの都へお返しするまでは――)
手柄をたて、公女を守って、その心にかなえば、万が一、公女のお心をとらえて、その左側にすわり、ヴラド大公の世継の座も――なぞという計算や、目論見が、入ってくるにはまだあまりに、若く、純である。一途である。
そんな目論見に気づくことさえないまま、アストリアスはうっとりと、公女の天幕の方へあこがれの目を向けている。そこの半分をわかちあっているカル・モル――あの、見るもおぞましい奇怪な、死の谷を越えてきた魔道師のもたらした情報が、金蠍宮にいったい、どのような計画、どのような壮大にして空恐しいプランをたてさせたのか、ということも、それが、かれらモンゴールの勇士たちにとって何をもたらすことか、ということも、かれの心を苦しめる疑問とはなり得ない。かれはただひたすら、公女のゆくところにゆき、公女の命ずるままに、公女と共に戦い、そして公女をその剣で護りとおす――それしか、考えてはいないのだ。
「おや……」
かれはふいに目をあげ、おどろいたようにつぶやいた。
「誰かが、リゴロを吹いている」
「さようでございます」
かれの思念から忘れ去られていた、ルーエ村のマレルが、ひっそりと同意した。それは、モンゴールで最も一般的な楽器で、竹でつくったかんたんな笛である。
だれか、陣中のすさびにと思って、はるばるモンゴールからたずさえてきた風流な騎士でもが、無聊をなぐさめようと吹いているのか――その、素朴な音色は、ごおっ……と、音をたてんばかりに底深くしずまった、夜明け前のノスフェラス――そしてびっしりとそこに身をよせあったモンゴール一万五千の兵たちのあいだに、りょうりょうと流れてゆくのである。
アストリアスは、目をほそめ、何か云おうとした。――が、思い直し、じっと黙りこんだまま、その望郷のしらべに耳を傾けた。
必ずしも、はるばると来てしまった、という思いにとらわれた、というわけではない。望郷に胸をふさがれるには、かれはまだあまりにも若く、しかもトーラスよりはむしろ、三年を過ごしたアルヴォンの辺境のほうが、そののびやかな心にかなうと思っている。
かれは、そのかわりに、
(アムネリス様……)
と、そう口の中で呟いたのだった。
「おお――夜が、明けたな」
ふっと、われに返ったような目をあらためて四方の光景へむける。
四方へひたすら続いている荒野を、石と地苔類とごくまれな枯れはてた灌木、という起伏にもとぼしい風景には、何のかわりもあるわけではなかったが、しかし、その灰色一色の世界には、ふしぎなきびしい峻烈な美があって、それが見る人の心をとらえてしまうのである。
だれかが吹きならす、いくぶん稚拙なリゴロのしらべと、それは妙にぴったりとふさわしい光景だった。
(おや――?)
ふと、アストリアスは、わずかに眉をひそめた。――何かが、かなり向うの方で、動いたような気がしたのである。
(気のせいか)
目を細めて、再び、そちらを見やったが、なだらかな石と砂がつづいているばかり、別に何ひとつ、異常なものは発見できない。
「おい――」
何か、見えなかったか、とルーエのマレルに声をかけようとして、アストリアスははっとした。
マレルの、あらわなままの顔が、白く涙に汚れているのに気づいたのだ。
(あれは、ボア地方の唄か)
ボアは、トーラスの南、あたたかな温和な気候の盆地地帯で、モンゴールの中でもゆたかで果樹などの栽培のさかんなところだ。その、ゆたかで実りおおい故郷から防人《さきもり》にかり出され、暗黒のケス河近いタロス城に何年かを送り、そしていままたそのケス河すらこえて、この荒野へふみこんできた若者の心を思い、アストリアスは、そっと、マレルのそばからひき退いた。
(おや――)
そのとき、断ち切られでもしたかのように、笹の音がやんだ。
風も、先刻から、絶えている。
空気は、ひそとも動かず、笛の音の消えたあとに、静寂がひときわ威圧的に、するどく耳をふさいで来る。
マレルが、顔をあげて、あたりを見まわすのを、アストリアスは見ながら、そっと腰をおろそうとした。いつのまにか、すっかり明けきっている、荒野のおどろくほどの明るさの中に、無防備に立っていることに不安をおぼえたのである。
マレルのほうは、何も気づかない。笛の音の主をさがそうとふりむいた彼は、童子のように罪のない、人のよさそうな顔になっていた。アストリアスは、彼に、かぶとをかぶるよう、声をかけようとした。
そのとき!
ヒュン、とするどい、何かが空気を切る音と同時に――
「ギャーッ!」
マレルののど[#「のど」に傍点]から、笛のような叫びがもれた。と見るまに、彼の、一瞬前まで生きて、うごいていたからだが宙にまい、きりきりとまわって、白灰色のノスフェラスの砂の上に叩きつけられるのを、アストリアスは、一瞬、あっけにとられて見つめた。一体、何がおこったのか、よく理解できなかったのである。彼は、呆然として、マレルの目をむいた死顔、そののどにつきたっている短い羽根のついた矢、を見つめていた。
が――やにわに、ころがるように砂地へ身を投げ出すなり、次の矢をよけた。たちまち、たったいままで彼のいた場所へ、無数の矢が、ハリネズミの背中のようにつき立った。
彼は剣をひきぬいた。かぶとをかぶっている暇はとうていなかった。矢が、猛毒をぬってあることは、知りぬいている。無我夢中で、剣を水車のようにふりまわし、ピシピシと矢を切りふせぎながら、背を丸めて、あとずさりに自分の隊のほうへ走った。
が、思わず足をとめた。いったい、何ごとがふりかかったのか、虚空から毒矢がふりそそいできたのか、といまだに疑っている彼の前で、ふいに、砂がむくむくともちあがったのだ。
いや――そうではなかった。
それは、サルそっくりの、毛むくじゃらな蛮族が、腹這いになり、からだの上に、とりもちをいちめんにぬりつけた布の上へびっしりと砂漠の砂をふりかけた、カモフラージュの網をひろげて、じりじりと矢の射程圏内まで近づくや、それをかなぐりすてたのだった。
さながら、アストリアスの目の前で大地がふたつに割れ、そこからみにくい「地の骨」どもが、あとからあとからおどりだしてくるかのようだった。またたくまに、白と灰色、それに空の青しかなかったはずの清澄な、荒涼の砂漠は、地の底から湧き出てくる、赤や青にくまどった顔、むきだした汚れた歯、茶や黒の体毛、異様なにおいとかんだかい叫び声をたてる、小さな生きものに埋まった。
「アイー!」
「イーア、イーア、アイー!」
「イーア、イー、イー!」
アストリアスは、息を呑んだ。
が、次の瞬間、
「奇襲だ。セムの奇襲だ! 出会え、出会え!」
絶叫しながら走り出していた。みるみる、彼のまわりは、セム族で埋まった。
そのときになって、ようやく、彼は、耳もつぶれんばかりな蛮族たちのわめき声に混って、しきりに打ち鳴らされている、急をつげる銅鑼の音、戦いの叫び――そして、四方ですでにくりひろげられつつある、凄惨な戦いに気づいたのだった。
彼は、思わず、うめき声をあげた。――セム族は、一個所からだけあらわれたのではなかったのだかれらはすでに、すっかり四方をおおいつくしてしまっていた。
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が――
実のところ、一万五千のモンゴール軍を、すっかり取りこめてしまうほどに数多い、セムの小猿人族がいっせいに砂の下からあらわれ出た、というわけでは、それは、なかった。
不意をつかれ、アストリアスならずとも、ことに行軍の疲れでぐったりと眠りこんでいた兵たちの寝呆け眼に、それは、二万の上も――それこそ、うんか[#「うんか」に傍点]の大群のようにあとからあとから涌き出してくる、と見えて、すっかりかれらの心を絶望と恐慌におとし入れてしまったのだが、おちついてようすを見さえしたら、かれら自身の方が、数であれ、装備であれはるかに立ちまさっていることは、すぐにでも見てとることができたはずである。
あたりはすでに明るくなっていたし、身を隠すべき岩や木々もそこにはほとんどなかった。それは、奇襲をかけた側にこそ不利である筈だった。
だが――また、それだからこそ、――あらゆる条件が、すべてモンゴール軍に有利であり、セム族に不利であればこそ、モンゴール軍は、あまりの意想外の攻撃に、完全に肝をつぶしてしまったのである。
司令部は、はじめから、セム族の奇襲をおそれ、それにそなえていた。なればこそ、危険をおして夜間の行軍をすすめ、あたりがある程度明るくなり、万が一にも奇襲のおそれがなくなったと見てからはじめて、しばしの休止を命じたのだった。ノスフェラスの荒野を夜間おしすすむ危険よりもさえ、夜営をして、闇にまぎれてセム族に近くへ忍び寄られることを恐れたのである。
しかしあたりはすっかり明るくなり、歩哨の目はぬかりなく四方を見はらし、そしてモンゴール軍は人数でも、装備でも、体格ですら圧倒的にセムの一部族すべてを上まわっているはずだった。何がありえないといって、いま、まさにこの朝の光の中で、セム族が、モンゴール軍本隊に、大胆にも奇襲をかけてくる――そのぐらい、考えも及ばないことがあろうか。
そこに、心のゆるみがあった。かれらは、完全に意表をつかれた。
それに加えて、襲って来たセム族は、けばけばしい顔料と羽根とで身をかざり、それがねずみのように敏捷にここ、またあちらとかけめぐっては、実際の人数以上に多人数であるように見せていた。その上に、その印象をいやが上にもつよめるよう、かれらは、あらかじめ少しはなれたところに、あちこちに人数をふせておき、その伏兵たちは、ありたけの音で太鼓を叩き、笹を吹きたて、金切り声をあげてさわぎたてると同時に、用意してきたケムリソウの葉を、火の中に放りこんで、もくもくと黄色い煙をたてさせた。
たちまち、その煙が、モンゴールの陣営に流れこみ、晴れあがった明るい朝を、黄色いきなくさい目くらましでまぶした。モンゴール兵たちはごほんごほんと咳込み、うろたえて剣をとろうとかけまわっては互いにはちあわせをし、悲鳴をあげた。
足をもつらせて一人が転ぶと、たちまち、それへ足をひっかけて二人、三人が倒れこんだ。それに加えて、セム族は、兵士たちを尻目にかけてかれらのウマに突進し、膝を折ってうずくまっているウマや、煙と物音におどろいていなないているやつの尻といわず、首といわず、尖がった石槍の穂先でつきさしたから、ウマどもは痛みとおどろきに棹立ちになり、悲鳴をあげて、近よるものを見さかいなしに噛んだり、蹴ったりし、あるいはがむしゃらにその場を逃げ去ろうと四方へ走り出した。
煙、セム族の雄叫び、ウマのいななき、太鼓の乱打、兵士たちのわめき声――それへ、あわてふためいた隊長たちの絶叫が、なおさら混乱に拍車をかけた。
「静まれ、静まれ!」
「セム族だ、セムの奇襲だ!」
「剣をとれ。弩部隊はどこだ。ウマをひけ、ウマを」
「アイー、アイー、アイー!」
わけもわからぬ絶叫が、セム族の戦いの叫びと混じった。
すでに、敵は、弩をもちいるにはあまりにも、かれら自身の陣中へ入りこみつつあった。それへ弩をむけることは、同士討ちの危険が大きすぎる。にもかかわらず、忠実にうろたえた隊長の命令を実行しようとした弩部隊の石弾は、的の小さいセム族にあたるよりはるかに多く、モンゴール兵のよろいにあたってはねかえり、あるいはかれらのウマの皮をつきやぶってウマを狂走させ、横転させ、いよいよモンゴール軍を手のつけようもない混乱におとし入れた。
「撃つな。弩をすてろ、弩をうってはならん。剣だ、剣で戦え!」
アストリアスは、もはや敵、味方もさだかではない、煙と耳をつんざく阿鼻叫喚のさなかで、夢中に敵と切りむすび、セム族の血でその赤騎士の鎧をいよいよ真赤に染めながら、声をからしてわめいていた。
「おちつけ。弩をすてろ。ちらばるな、一箇所にかたまって敵を迎えうて、ウマをしずめるのだ。いいか――いいか!」
わめきながら、戦いながら、彼は必死で、少しづつ、公女の天幕の方へ走り寄ろうとしていた。彼の頭には、アムネリスの無事――ただ、それしかなかった。
右に左に、セム族を切りふせながら、彼は激しく、天幕を見やった。――すでに敵陣ふかく入りこんだので、モンゴール軍が弩を使えないように、セム族もまた、その最も有効な武器である毒をぬった吹矢を用いることができなくなっている。かれらは、かわりに腰にさしてあった石の戦斧をふりあげて、キーッという甲高い声をあげながら、兵士たちの頭を割り、膝を砕こうと狙ってくる。
だがむろん、それはがむしゃらですばやいだけの攻撃であるから、アストリアスは、自らの身の危険は、ほとんど感じなかった。ただ、知らぬまにうしろにまわっておそいかかられることのないよう、心を配ってさえおれば、それと、まともに石斧の刃にあたって、彼の鍛えた愛剣が折れとんでしまうようなことのないかぎり、蛮族の攻撃をうけながすのは、あいてが小さいせいもあって、比較的たやすい。
ギェーッ、というような声をあげて、彼の頭をぶち割ろうととびかかってきた蛮族の、異様な赤でくまどられた毛深い顔を、まっこうから叩きつけた剣でまっぷたつにしたアストリアスは、びしゃっとはねかかってきた血と脳漿を、うしろとびにとんでよけながら、また天幕の方へすばやく目をやった。
煙が目に入るのを、あわててこすりながら、目を細める。――天幕は、静かだった。
この、外のさわぎが、とどいていないわけもないのに、公女の天幕は、さながら平和な眠りにしずみこんでいる、とでもいうかのように、その中でいかなる狼狽、いかなる大さわぎがはじまっているという気配もない。
そしてまた、さすがに歴戦のモンゴールの勇士たちは、不意をつかれたというものの、いつまでもそのまま混乱の中で右往左往してはいなかった。
陣の外周に位置していた歩兵たち、弩部隊、それに騎兵の一部などは、たちまちにセム族にせめこまれ、よりそって体勢をととのえるひまも、かけまわるウマをしずめるいとまもないままに、抜きあわせた剣をふるって応戦しながら、必死に互いの無事を叫びかわすばかりである。しかし、その内側にいた者たちは、とりあえずの大混乱からなんとかぬけ出すと、ただちに、かれらの隊長の下知に従い、そして急いで、総指揮たるアムネリスの天幕を中心にした、幾重もの防衛線をしいた。
そのころまでには、モンゴールの隊長たちもようやく、事態の全貌を見てとっていた。
「落ちつけ。かぶとの面頬をおろせ」
「敵は小人数だぞ。おちついて、よく敵を見きわめろ!」
「モンゴール! モンゴール!」
つぎつぎに、指令が口から口へと伝えられてとびかい、よくきたえられた騎士たちは、やっと、その本来の精鋭らしさをとりもどしつつあった。そうしてみると、敵に、じっさいにぶつかっているのは、陣の最も外周のきわめてわずかな範囲だけで、それより内側まで入りこんでくるセム族はほとんどいないことが、明らかになった。
「敵は少ないぞ。煙と音にまどわされるな」
「敵軍は小人数だぞ」
伝令がかけまわって隊長たちに、司令部からの命令を伝える。
もしも、空中のたかみにあって見おろしていたならば、それは、さながら四色の花がゆるやかにその花びらをひらいてゆく、夢のように美しい光景とも見えたであろう。
「リーガン隊、前へ!」
「イルム隊、後詰へまわれ!」
「タンガード隊、左翼を護衛せよ」
「マルス隊、二手にわかれて右側の防衛線を強化せよ!」
「全白騎士団は司令部の旗を守れ!」
次々に発せられる指令をたずさえ、それを伝えるあいてと同じ色の旗をうちふってかけこんでゆく伝令をうけいれて、青い花びらがゆるゆるとひらき、赤いそれがひろがり、黒いそれが動き出し――そして白が見るもあざやかな花芯のように収斂してゆく。
それは荒野に突然咲き出した、おそるべき大輪の、目もあやな花であった。
セム族たちはさながら、巨大な花にまつわりつく羽虫のように、そのそこかしこをとびまわっていた。しかし、もはや、ウマたちはひきすえられ、騎士たちはそれぞれの馬上の人となり、そしてケムリソウをたいた煙もようやく晴れかけていた。奇襲によって、かれらが確保した有利は、いまやその大半が失われつつあった。
「イルム隊、歩兵隊の前にまわりこめ」
「マルス隊の第一隊は砂漠にまわり、目くらましの煙をたいている敵兵を掃討せよ」
「フェルドリック、リント、ヴロン隊は、伝令を待ってテント前に整列せよ」
なおも、つぎつぎにくり出されるクモの糸のように、伝令は各隊へ走った。
だが、もはや、戦闘はその山場をこえていると見えた。セム族たちは、体勢をたてなおした騎士たちに分断され、一人づつ切り倒されていった。もともと、小さい上に武器によっても劣るセム族は、数で数倍にもまさることによってでなければ、とうていモンゴールの精鋭と対抗することができようもないのである。
「隊長殿! お怪我は!」
そのころになれば、もう、騎士たちは、かわるがわるに相手にあたっていればじゅうぶんに事足りた。ずっと、最前列に出て蛮族を左右に切り倒していたアストリアスも、剣をひき、あらてと交代して、剣の血のしずくを払いおとしながら、彼の隊の場所へ戻った。
彼の隊は、比較的内側にいたので、ほとんど、奇襲の被害をうけていない。
「ご無事でしたか。心配しました」
副長のポラックがかけよってきて云った。歯をみせて笑っている。
「ばか、たかがあんなサルども風情に遅れをとってたまるか」
アストリアスは剣をさしだし、小姓にぬぐわせながら云い返した。
「かすり傷ひとつないさ。――わが隊で、怪我をしたものはあるか」
「ございません」
ポラックはまた笑った。
「われわれまでは敵が行きわたりませんので、皆、腕をさすって不平の声をあげております。――いや、一人だけ、頓馬が」
「誰だ」
「リロが、奇襲にあわてて寝呆け眼でウマに乗ろうとし、左手をくじきました。その他は、全員異常ありませぬ」
「なんだ、ばかなやつだな」
「われらは、隊長殿を、いちばん心配申しあげていたのですよ」
トーラス以来の右腕のポラックは、遠慮のないことを云った。
「見まわしたら、隊長殿だけ、おられないのですからな」
「おれにだって、少しばかり散歩したいときぐらいあるさ」
アストリアスは口をとがらせて云いかえした。まわりの、彼の隊の赤騎士たちがニヤニヤ笑った。
「そのおかげで、わが隊は、隊長殿だけが戦うはめになりました」
「あんな敵では、戦いというより遊びのようなものさ――が、マレルは可哀想なことをしたな」
アストリアスは、笛をきいて目に涙をうかべていた辺境警備兵のことを考えて、眉を曇らせた。
「これに懲りて、今後は、お散歩をなさるときにはだれか護衛をお連れになることですな」
ポラックはまだしつこく、年若い隊長をからかうのをやめない。
アストリアスがむき[#「むき」に傍点]になって云い返そうとしていたとき、肩から白い長いふさ飾りをなびかせた伝令がウマをかってまわってきた。
「各部隊の隊長は、それぞれの隊の負傷者、死亡者、ウマその他の損害を調べ、できるかぎりすみやかに報告するように」
「了解しました」
アストリアスにかわってポラックが敬礼した。
「隊長殿。どうやらこれで一段落ですな、第一回のさわぎは」
「うん。わが隊は、負傷者ひとり、と――ウマは、どうだ」
「マルゴーのウマが少し足をいためたようですが、これは大丈夫でしょう。その他にはありません」
「セム族は、ひきあげたのか?――そのようだな。全滅させるまでにはいかなかったろう」
アストリアスはおもてをあげて、陣の外周を見やった。
すでにそこでは、すべての戦いは煌《や》んでいた。セム族は、おそいかかってきたとき同様に、おどろくべきすばやさで引きあげていったのだ。あとには、セム族の死体と、そして毒矢にやられたり、石斧に顔を割られた、不運なモンゴールの死者のなきがらとが、地によこたわっているばかりだった。負傷者は、内陣にもうけられた救護所に運び入れられて手当てをうけた。
「おかしいな」
ふっと、そのようすを見まわしていたポラックがつぶやくのを、アストリアスはきいた。
「何がおかしい、ポラック」
「この、奇襲ですよ、隊長殿。――あまりにも、無謀だ、そうは思われませんか」
「たしかにな。しかし、あんなサルが何を考える力があるものか」
「それは、そうです。しかし――」
「やつらは、何も、考えてなどいないのさ。ただ、砂虫かなにかのように、そこにわれわれがいるからワーッといってせめよせてくるだけだ。所詮、蛮人は蛮人だからな」
「それは、そうです。しかし、何となく、妙ですな」
ポラックは、たしかに、何となくいぶかしげな顔をしていた。
それをひやかすように見て、アストリアスは、何が妙なのだ、ときいたが、答えをきくまで待ってはいなかった。
折しもそのとき、シャッと音をたてて天幕の垂れ布が両側に掲げられ、アムネリス公女がようやく姿をあらわしたからである。
公女の天幕は陣の中央にあって、いくぶん高くなっているところにしつらえられていたので、あらわれた総司令官の姿はどの方向からもよく見えた。
またそれはそれほどに目立つ、すばらしい姿であった。みるみる、アストリアスの頬には、おさえてもおさえきれないあざやかな血の色がのぼり、彼はうっとりと讃仰をこめて、彼の女神の姿に見とれた。
アムネリスは、すっかり身づくろいをおえていた。例によって白づくめの鎧、ブーツ、白い毛皮のマント――その上に、あのつややかな光の滝のような黄金の髪が、きらきらと流れかかっている。
白く高貴な顔はノスフェラスの太陽の下にあらわになり、眩しげにかるく左手を額の前にかざして立ったありさまは、そのままで、目もあやな名画とも見えた。
「こ――こうしてはおられん。ご報告に行って来なくては」
いくぶん、のどにからんだ声でアストリアスは云い、そちらへむかって、ひきよせられるように歩き出した。ポラックがそれを凝然と見送る。
天幕の前には、すでに、各部隊長たちが勢揃いしていた。
「イルム隊、死者、騎士八名、歩兵三十四名、負傷、騎士二名、歩兵八名、以上であります」
「リーガン隊、死者ありません。負傷ありません」
隊長たちがてきぱきと報告する声がひびいている。
モンゴール軍の損害は、あまりの奇襲に、大混乱におちいったわりには、きわめて少ないものであった。腰に手をあてて報告に耳を傾けるアムネリスのうしろで、書記があたふたとそれを巻紙に書きとる。
「アストリアス隊、死者なし。軽傷一名、以上であります」
申告をしてからアストリアスは少しわきへさがって、こっそりとアムネリスを見つめつづけた。
その間にも、つぎつぎに報告がつづけられ、セム族の死体が数えられ、ひきあげたセム族を追っていった、マルス伯|手下《てか》の二小隊も帰ってきた。かれらは、あまり深追いをせぬように、かたく云いわたされていたのである。
「生きのこったセム族はおよそ三百あまりかと思われます」
ツーリード城の紋章をつけた、青騎士の小隊長が報告した。
「セム族の死体は総数で約百五十であります」
「――仕掛けの煙と音をひきうけていた、伏せ人数まで入れて、およそ五百の奇襲部隊だった――ということだな」
アムネリスがつぶやいた。その顔に、信じがたい、という表情がうかんだ。
「五百名で、一万五千のわが軍へ、奇襲をしかけてきたというのか」
「殿下」
マルス伯が、ゆっくりと、公女の方へ歩みよった。
「何だ、マルス」
「これは、われわれの、おびき出し戦法でありましょうかな」
「五百でもって叩き、ただちに逃げ帰らせ、それをわれわれが追うところを、本隊がおそいかかる、というか?――なるほど、考えられる」
「しかし――」
イルムが口をはさんだ。
「しかし、セムの全部族をあわせたところで、この完全武装の一万五千をしのぐ大人数は、なかなか集められますまい」
「うむ。ノスフェラスのセム族が、全部あわせて約何万か、その正確なところはいまだにつかめておらぬが、しかしいかに多くとも、二万をこすとは考えにくいからな」
「その上に、セム族は互いに仲がわるく、各氏族間でかなり激烈な抗争をくりかえしているはずです。――われらがノスフェラスに入ってよりわずか三日、その間に、そうもすみやかに全セム族が臨戦体勢をととのえられようとは、どうも、考えられませぬが」
「第一、そうであったとしたところで、この五百の奇襲の意味はいったい何であるのか――まるで、これでは、自ら死ににとびこんできたとでもいうような……」
隊長たちは、ふと、当惑の目を見あわせた。
これが、せめて二千というのであったら、かれらも奇襲によって有利に戦おうというセムの戦法として納得していたことだろう。だが、五百とは――
それは、はじめに、敵が意外に小人数だ、と気づいたとき予測したよりも、はるかに下まわっていた。それが何を意味するものか、何かかくされた重要な意味あいがあるものやら、そうでないやらわからぬだけに、かれらは戸惑った。あまりにも少なすぎる人数に、眩惑されたのである。
天幕前の広場は、部隊長たちの取沙汰でさわがしくなった。
かれらはそれぞれに、その考えをのべようと声を大きくした。それは単に、何も思考能力のない蛮人どもの一部隊が、敵とみてたちまちおそいかかってきたのだが、思ったよりずっと多人数なのにあわてて、いそいで逃げ出したのだろう、と主張するものもいた。
あるいはまた、それがおとりの決死隊であり、やはり少し先に本隊が伏せてあったのだ、と読むものもいる。その証拠にセムどもは、最少限の人数で最大限の混乱を引きおこし得るように気をくばり、音や煙の仕掛けでさんざん目くらましをしたので、はじめはモンゴール軍は、かれらとほぼ同人数かとさえ信じかけたではないか。――それがまた、少ない、ということが知られかけるやいなや、あっさりと逃げ出した。すなわち、被害を最少限にくいとめることがまた、あらかじめ申しわたされていたとしか思えない、というのである。
「――おかしい……」
マルス伯が、ぽつりとそうつぶやくのを、近くにいたアストリアスは耳にした。
「何がでありますか、伯爵」
ポラックと同じことを云っている、とふっとおかしくなって、たずねてみる。老伯爵はアストリアスに気がついた。マルス伯は、アストリアスの父親で都の治安長官の、マルクス・アストリアス伯爵とは竹馬の友である。
「おう、小アストリアス」
考えぶかい顔に、何やら心配そうな表情をうかべて、彼は云った。
「わしにはどうも納得できぬ。わしは、この年まで、ずいぶん蛮族どもと戦いもしてきたのだが、きゃつらがこのように――なんというのかな、わけのわからぬふるまいに出たことは一度もなかった。――どうも妙に思えてならんのは、これが、これまで知っているセムどものどのような行動パターンともちがうからだろう。わしは、不安だ。――何が、どうして不安かは云えないが、こんどのセムどもは、これまでわしの知っているセムどもとは、何とはなしにちがうような気がする。――何をたくらんでいるかわからぬという気がする。しかも、これまで、わしはセムどもに、通りいっぺんの奇襲や待ちぶせはできても、何かそれ以上の奇策や高等戦術をほどこす頭があるなどと、考えたこともなかった。
何かある。これは、何かあるぞ。油断できん。われわれは、決して油断してはならぬようだぞ……」
「それを、アムネリス殿下に、申し上げたらいかがですか、ご老体」
アストリアスは云い、そちらへ目をやった。
マルス伯もそちらへ目をむけた。が、公女は折しも、ガユスとの何やら打ちあわせをおえて、四方へしずまるよう、合図をするところだった。
「聞け、モンゴールの勇士たち」
よくとおる声が告げると、隊長たちは私語をやめてしんとした。
「セム族は去った。が、いよいよわれらは敵の本拠に足を踏み入れたのだ。前後左右に決して監視をおこたらず、くれぐれも油断なきよう。今後は休止時もウマの手綱ははなさず、剣の柄はすぐに抜きはなてるよう紐をゆるめ、鎧、かぶとは決してとらぬように。これより十タル後に行軍を再開する。以上である」
隊長たちはあわててそれぞれの隊へと散っていった。アストリアスはマルス伯をふりかえり、また、テントをたたみにかかっている従僕たちと、その前に立ってガユスと、魔道師カル・モルの二人の黒づくめのマント姿をあいてに地図をひろげて何か検討している公女を見た。が、そのまま、急いで自分の隊へ戻ってゆく。行軍再開の支度をしなければならない。
そのころ、マルス伯爵ひきいる青騎士隊の中で、小さなさわぎがおこっていた。
「おい――おれのかぶとを知らんか、グルラン」
「さあ、おれのはここにあるぞ、タグ」
「おかしいな。どこへ行ったんだろう」
「やかましい。何を騒いでおるか」
「あッ、小隊長殿。――タグのかぶとが」
「かぶとがない? どうせ、さっきの騒ぎで、ウマにでもけりとばされたのだ。あとで、死者の分をまわしてもらうから、とにかくウマに乗れ。行軍再開だぞ」
かぶとをなくした騎士は不安げに頭をなで、ぶつぶつ云ったが、小隊長や盟友たちはじきにそんなことは忘れてしまった。誰も、それを気にとめるものはなかった。
そしてモンゴール軍は再び、ゆるゆると動き出したのである。
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第四話 ノスフェラスの戦い(一)
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そのころ――
グイン、ラクの大族長ロトー、それにグロのイラチェリにひきいられた、セムの大部隊は、モンゴール軍の司令部が思うよりも、ずっとかれらに近くいたのだった。
さしも油断なく、その上にさきの奇襲をくらってからは、ことに斥候、物見の人数をおこたりなく、これ以上ないというほどに気を配って行軍を再開したモンゴール兵たちも、いままさに見すててきたばかりのかれらの夜営地のあとに、大胆にもセム族五千の全部隊が集結していようとは、夢さら予想もつかなかったにちがいない。
マルス伯の読みのとおり、五百人のセムの決死隊が奇襲をかけたとき、五千人のセムの本隊は、実は、そのすぐ近くにひそんでいたのだった。
ノスフェラスに生まれ、そこに一生を送って死んでゆくセムたちにとって、その、「死の」と呼ばれる荒野はしかし未踏の地でもなければ、そこで迷うことが死を意味する、不毛も地獄でもない。
その荒涼たる岩と砂漠とのつらなりほどにかれらに馴染み深いものはなく、そのどこにどのような危険があるのか、イドの群生する谷はどこどこにあり、決して足をふみ入れてはならぬ死の谷や流砂や吸血ゴケの群落がどこどこにあり、そしてどの方角へ何日ぶん歩けばオアシスがあるのか、それはみなかれらが生まれおちて最初に学ぶことである。
この、どこまでも見はらしがきくかに見える、あくまでひろびろとした荒野のまんなかですら、実は、涸《ワ》れ河《ジ》があり、岩場があり、砂丘の起伏がある。かれらは、それを利用して身をかくしつつ、あたうかぎりモンゴールの遠征軍に忍び寄ったのであった。
「やはり、リアードの云われたことが正しかった。オームは、右も、左も、前も、上まで見ているが、うしろは自分の足跡しかないと信じている」
シバが痛快そうにささやいた。
「うむ」
グインは、ひときわ目立つその豹頭が、万が一にもモンゴール軍の目に入ることがないよう、砂色の布でつくった長いフードつきのマントに身をつつんで岩かげに腰をおろしていた。シバ、ロトー、イラチェリをはじめ、ツバイ族の長《おさ》ツバイ、ラサのカルト、それに〈紅《くれない》の傭兵〉ヴァラキアのイシュトヴァーンと、スニを従えたパロの聖双生児、といったおもだった顔ぶれが、彼をとりかこむようにしている。
「決死隊が、帰って来ました、リアード」
少し高いところに立って物見をしていた若いラク族が、かけおりて来て云った。
「オームに、あとをつけられてはいないか」
心配そうに、ロトーがきく。グインは首をふった。
「大丈夫だ。かれらは全員そろってから行軍をはじめた。――近くに、もっと多い軍勢が伏せてあるのではないかとおそれて、深追いはさせぬように云いわたしたはずだ」
「そのようです、リアード」
決死隊は、グロ族と、ラク族の半々で構成されていた。かれらはわざわざモンゴール軍の目をくらますために、充分に東へ行ってから、あらためて大まわりで戻って来たのである。その間、ずっとありたけのいきおいでかけとおしていたので、さしも砂漠の走り手であるセムたちも、せいせいと息を切らしていた。
「何人、やられた」
「百三、四十です、リアード」
「三分の一に欠けるか。思ったより、多いな。――必ず無理をせず、二つの目的を果たしたらただちにひきあげろと命じておいたのに、つい、戦いに夢中になったろう」
「そのとおりです」
決死隊をひきいていたのは、ラク族のセブだった。彼は、恥ずかしそうな顔をした。
「まあ、いい。――で、どうだった」
「二つとも、云われたとおりにいたしました」
セブは云い、戦利品を、どさりと投げ出した。
グインはそれをしさいに調べて見、うなづいた。
「よかろう。完全だ。――それにもうひとつの、敵を眩惑する、という役目も、お前たちは立派にはたした。――いまごろ、先を急ぎながらも、モンゴール軍は、さきのセムの奇襲の意味をはかりかねてとまどっているはずだ。なにしろ、敵は、われわれの三倍の人数があるのだからな。よくせき、うまくやらんことには、所詮ひと呑みにされるのが落ちだ」
「このまま、連中をやってしまうのか、リアード」
イラチェリが、不服そうに云った。
「うしろから追いかけて、毒矢で三分の一、殺してしまえば、奴ら、おれたちの倍しかいなくなる。石斧で、もう三分の一、殺してしまえば、おれたちと同じ数しかいなくなるぞ」
「その前に、われわれもだいぶん減らされていようから、同じことさ」
グインは短い笑い声をたてて、それからすばやい身のこなしで立ちあがった。
「さあ――あまり、のんびりしてはおられん。敵は、われわれが、まさかこんなところまでもう近づいていようとは思っているまい。奴らは、よくて、たまたま近くに住む部族が、奴らを発見して、それでおそいかかってきたと思っているはずだ。これはわがほうの最大の有利だ。この有利を失ってはならん」
「ねえ――リンダ」
立ちあがり、まわりに名ざしで何人ものセムの頭だったものを呼びあつめているグインを見やりながらレムスが姉にささやいた。
「ねえ、グインは、何を考えてるの?」
「わたしが知ってるはずがあって?」
リンダは苛立たしげに云いかえした。それをききつけたイシュトヴァーンが、二人に近よってきた。
「奴は、とんでもねえことを考えてるんだよ、お姫さん」
眉をしかめて云う。この軍勢のなかで、この三人だけが、セムのことばを話せず、理解もできない。
それで、おのずと、異邦人であるかれらは、互いを気に入っているのか、いないのかは別として、ことごとく、共に行動しているほかはなかった。
「とんでもないこと?」
リンダはついつられて訊きかえす。イシュトヴァーンには、いつも、さんざん腹を立てさせられているのだが、それでいて、妙に彼女が無視できない、気がかりなものを、この馴れ馴れしい、悪党を自認する傭兵はもっているのである。
「ああ」
「とんでもないことって、何のこと?」
「いやさ――明けがたに、ラク谷を出るまぎわになってサルどもが、カロイをやっつけろとさわぎ出しただろうが」
「ええ。どうなることかと思ったわ」
「あのとき、グインが、石の上にとびあがって演説をぶったら、はじめキイキイいってたサルどもが、だんだんおとなしくなり、さいごには、『リアード! リアード!』なんて叫びはじめやがっただろう。あのとき、グインのやつは、いったい何を云って連中をなだめたのかと思ってさ――さっき、ラク谷からこの……何といったっけ、夜泣き岩の丘か、そこへ来るまでのあいだにグインにきいてみたわけさ」
「何ていったの、グインは、ねえ?」
「さあ、そこだ」
イシュトヴァーンは、焦らすように、勿体をつけた云いかたをした。
「グインが云うにはだ、俺は何も特別なことは云わない。ただ、俺は、俺たちには充分な勝ち目がある、なぜなら、一万五千対五千の劣勢をでもはねかえすだけの、有力な味方、秘密兵器をもっているからだ――そう云っただけだ、というんだな。それで、おれは、そいつは一体なんだい、ときいてやった。そうしたら……」
「……」
「豹あたまの奴め、吠えるように笑って、『ノスフェラス』とこうさ。そりゃ一体なんのことだ、ときいたが、何も云いやがらねえ。ただ、『それから、もう一日もたたぬうちに、カロイはどうせわれわれに加わるのだから、とそう教えてやったが』なんてぬかしやがるのさ」
「カロイが?」
リンダは目を丸くした。
「だって、カロイ族は、ラクの使者の首を切り、無礼なことを云ったのでしょ?」
「そいつは、おれの云ったことじゃないからね。グイン本人に、きいてもらうほかはないね」
浅黒い顔をしかめて、イシュトヴァーンは云った。
「きっと、奴には、なんか考えがあるんだろうさ。その考えのおかげで、こっちは大迷惑だがね」
「あら――どうして?」
イシュトヴァーンは答えず、そのかわりに、リンダだけでなくレムスまで真赤になるような、卑猥な悪態をついた。
リンダが憤然として、淑女の前ではことば使いに気をつけるよう、文句を云おうとしたときだ。
「イシュトヴァーン」
グインが呼んだ。
「イシュトヴァーン。こちらへ来てくれ」
グインは、おもだったセムたちを呼びあつめ、何やらこまごまとした策をさずけていたのである。すでにそのいくつかはおわったらしく、いまや、ツバイやラサはそれぞれの氏族をまとめて、あわただしく左右へ出発してゆくところだ。
「イシュトヴァーン」
「わかったよ。今、行くよ――なあ、グイン、やっぱりおれがやらなけりゃいけないのかよ」
イシュトヴァーンはしぶしぶとそちらへ寄ってゆきながら、口をとがらせて云った。グインは砂色のフードをはねのけ、例の短い笑い声をたてた。
「気の毒だがお前にやってもらうほかはないな。俺、セム族、子供たち、誰ひとりとして、その役がつとまりそうなものは他にいないからな」
「ち――いつだって、おれひとりが貧乏くじだ」
また、イシュトヴァーンは、卑猥な呪いことばを吐いた。グインは頓着しなかった。
「われわれに勝ち目があるとすれば、唯一、人数で数倍するモンゴール軍を分断し、できる限りの小人数にわかれさせてしまうこと、ただそれだけだからな。――いくつかにひきはなしてしまえば、一万五千といえども、五千が三組、あるいは二千が七つと同じことだ」
「わかったよ、わかったよ――やりゃあいいんだろう」
ふてくされたおももちのイシュトヴァーンに、グインはこまかい、入りくんだ打ちあわせをはじめた。その低い声は、邪魔をせぬよう少しはなれたところに退いている双児の耳にまでは入って来なかった。
「グインは、何を考えてるのかしら」
そのようすを見やりながら、またレムスが云う。
「わからないわ。ただ――」
リンダは夢みるように云った。
「とにかく、グインにすべてを任せておけば大丈夫だ、ということだけはわかるわ。ああ――グイン、彼は、なんていう人間なんだろう! 少しでも彼に似たものを見たことがないわ。ううん、あの外見のことじゃなくよ。ねえ、レムス。わたし、彼のことを、知れば知るほど、ますます彼みたいな存在が現実に生きているということが、信じがたくなるわ」
リンダの顔はかがやき、その目には、誇らしさと熱っぽい信者のそれにも似た驚嘆があった。レムスはそれを見やり、用心ぶかく、そうだね、と同意するにとどめた。
そのとき、
「わあ!」
イシュトヴァーンが大声をはりあげたので、二人はびっくりしてそちらを見やり、スニもまた、崇拝をこめて見上げていたリンダの顔から、思わずそちらへ目を向けた。
「静かにせんか、イシュトヴァーン」
グインがぴしりと云う。
「何を云う、ひとごとだと思って! おれの立場はどうなる。いったい、おれを何だと思ってるんだ。それじゃあんまりひどいじゃないか――いいよ、わかったよ、やりゃいいんだろう、やりゃ! いいとも、こうなれば、何だってやってやらあ!」
そして、イシュトヴァーンは、いきなり、威勢よく着ていた鎧下の胴着をぬぎすて、素裸になってしまった。
レムスの目がまん丸くなり、リンダは真赤になって顔をそむける。そんなことにはかまいもせずに、黒い胴着と足通しをぬいで、浅黒いよく発達した裸すがたになった傭兵は、やけくそのていで手をさしだした。
「さあ、それをくれよ。早くしてくれ。風邪をひくじゃないか!」
ノスフェラスの、やわらかなスミレ色の空に、もうすでにだいぶん日は高く、その下に、うららかな春霞ででもあるかのようにたなびいている、白灰色の砂埃だけが、モンゴールの軍勢のありかを遠く告げ知らせているのである。
モンゴール軍がそのたゆみない行軍を止めたのは、前進を再開して、わずか三ザンののちのことだった。
「報告! 報告!」
あわただしくかけこんでくる斥候兵を、あわてて、兵たちは左右にわかれて中を通しながら、ぎくりとして見送った。
「報告! 報告!」
斥候が、中心に位置する白騎士団のまんなかへかけ入ってゆくのと、前方と後方へ同時に口伝えで、
「行軍停止! 全軍そのまま停止!」
その命令が伝えられるのとがまったく一緒だった。
「全軍止まれ!」
隊長たちの大声がとびかう中で、
「斥候兵、近う寄れ!」
白馬の手綱をきびしくひきしめたアムネリスは、すばやくかぶとをはねのけた。
「御報告であります!」
斥候に出ていた兵士は、公女の前とあって緊張しながら敬礼した。
「礼はよい。云え」
「申し上げます。左後方よりセム族の大軍が追ってきているもようであります」
「何と!」
アムネリスはくちびるをひきしめた。
「数は!」
「不明でありますが、かなりの大軍と思われます。砂煙が一面に立っております」
「……」
思わず、いあわせた騎士たちは、云われた方へ目をやり、そして声もなく唸った。
またかなりはなれた砂漠のむこうに、もやもやとわきおこった砂塵が、敵のありかを示している。
「距離!」
「約、三タッドでありましょうか」
「三タッド――」
再び、アムネリスの表情がきびしくなった。
「よし、ご苦労。隊に戻ってよい」
斥候にうなづくと、ただちにうしろをふりかえって、
「フェルドリック!」
「はッ!」
「伝令!」
「かしこまりました!」
「中隊長以上を集合させよ」
「はッ」
白騎士の伝令隊をたばねるフェルドリックがただちにかけ去ってゆく。
「伝令、伝令!」
再び、モンゴール全軍は、きびしい緊張につつまれた。
「セム族来襲!」
「敵襲――ッ!」
口から口へ、その叫びが伝わってゆく。
「ガユス」
それをききながら、アムネリスはふとつぶやくように云った。
「は」
「どう思う。――これは、さきほどの奇襲部隊の本隊だな」
「御意――」
「やはり、小人数でようすを見ながら、われらのうしろにまわりこんで、尾けてきたものか」
「と、思われます」
「ということは、今回は、小ぜりあいではすまぬな」
「は……」
「ガユス」
「……」
「何か、ひっかかるな。――さきの奇襲でわれらの装備のほどは知れたはず――それを、うわまわるほど、ノスフェラスのセム族は無数なのか?」
「……」
「まあよい。水盤にて勝敗を占ってみよ。それから、〈瘴気の谷〉への正しい針路を、見失うことのないよう、カル・モルと共に羅針盤を守っていよ」
「心得ました」
暗鬱な魔道師が答える。それへはもう目もくれずに、アムネリスはウマにひと鞭くれて、伝令によっていそぎ集結してきた隊長たちの前へ走った。ヴロン、リント、両旗本隊々長が従う。
「報告!」
第二波の斥候がかけこんで来たので、アムネリスの命令は少しおくれた。
「申し上げます。セム軍は推定一万、現時点でわが軍の二タッド半後方を、全員徒歩でひたひたと接近しております」
「わかった」
「足の速いやつらだ。砂漠の蛇、と云われているのも尤もだな」
黒騎士隊長のイルムが呟く。
「素足で、ウマと同じほど速く、しかも長時間走れるのだからな」
タンガードがささやき返す。
「静まれ!」
アムネリスの右手があがった。
「陣ぞなえを聞きもらさぬように。――よいか、向かってくるセム軍はおよそ一万と思われる。われらはこの場にてかれらを迎えうつ。先陣を――」
若いアストリアス、リーガンが勇み立った。指名をうけようとするかのようにこころもち前へにじり寄る。アムネリスはそれへさっと目をくれたが、
「イルム!」
「は!」
「弩隊を前に出し、半月形に陣を張れ」
「は!」
イルムがウマの腹をけってかけ去ってゆくのを、アストリアスは羨ましそうに見送った。
「タンガード」
「は!」
「イルム隊を後方より援護し、かつ本陣の防衛にあたれ」
「は!」
「マルス、後詰!」
「心得ました」
「リーガン、左翼へ。アストリアス、右を守れ」
「かしこまりました」
「それぞれの部隊は弩隊を先兵とし、うしろに盾を並べ、歩兵、騎士の順に来襲にそなえよ。ウマをかる際には頭を下げさせ、セムの毒矢で目をやられぬよう」
「は」
「油断するな!」
たちまちのうちに隊長たちは、それぞれの中隊長を従えて走り去り、自らの隊を命じられたポジションへかりたてるのに大わらわになった。
再び、砂漠にあでやかな四色の花がひらく――が、今度は、両翼がツノのように張り出し、なかほどがきわだって厚くなった、半月形のいびつな花だ。弩隊が前へ出てひざをつき、いっせいに命令一下石弾をうち出せるよう武器をかまえる。
そのうしろに、セムの毒矢をふせぐ木盾が幾千となく並べて立てられ、そのうしろで、騎士たちはたけっているウマの首をたたき、手綱をひいて、しずまらせようとした。
「報告! セムの第一陣接近!」
叫び声をひいて、三たび、斥候兵がその半月形の陣の中心部へかけこんでゆく。
「隊長!」
ただちに抜きはなてるよう、剣の下げヒモをしきりにゆるめながらポラックがアストリアスの右で、声をかけた。
「なんだ」
「右翼詰めではつまりませんな!」
「殿下の決められたことだぞ」
アストリアスは肩をすくめた。
「なに、こんどは相当にやつら大勢いるようだから、ちゃんとこちらにもえものはまわってくるさ。心配するな」
「心配はしちゃあいませんよ」
ポラックは笑った。
アストリアスはふりかえり、彼の部下たちに、士気の欠けた顔も、臆病風に吹かれた顔もないのをたしかめ、それからガチャリと音をたててかぶとの面頬をおろした。
鎖編みの手袋をつけた手で、その下部を横切っている、皮の止め紐を、ぴっちりととめ、ちょっとかぶとの具合いを直す。その天辺についた、赤い羽根飾りが、彼の頭の動きにあわせてふわりと揺れる。
「よかろう。来るなら来いだ」
彼は呟き、ぶるぶるっと武者震いをした。はやりたつ愛馬をかるくひきとめながら、そちらへ目をやる。――報せをうけて急ぎモンゴールの全軍は向きをかえ、セム軍をむかえうつべくすべての動きを止めているのだ。
「あれだ。あの砂塵だ」
ポラックか誰かが、大声で云うのが耳に入る。そのとおりだった。
ノスフェラスの地平にわいた不吉な黄灰色の雲は、しだいに、着実に、雨をもたらす雷雲ででもあるかのように、かなりの速度で近づきつつある。
「来るぞ――!」
誰かが叫び、
「――かなり多いな」
低い声で、他の誰かがおちついて云った。モンゴール軍は待ちうけた。いまや、すべての弩には弾がこめられ、その先きはたかだかとあげられて近づきつつあるその雷雲をねらい、すべての騎士たちの右手は大剣の柄をにぎりしめ、左手はウマの手綱をつかみしめた。
アムネリス麾下の旗本部隊――黒、赤、青の三色にあつく包まれた純白の一団だけがおちついてその方角へ目をやったまま、何の動きも見せずにいる。
アムネリスはつと手をあげ、息苦しくなりでもしたようにかぶとに手をかけてそれを持ちあげた。
その白い顔はきびしくひきしまって一方をにらみすえている。――弱冠十八歳で、しかも女の身というものの、十五歳で初陣を飾って以来、いくども自ら剣をとり、采配をふるって戦い、パロ攻防の黒竜戦役では、総指揮官として全軍に号令した、歴戦の右府将軍なのである。
見守るうちにも黄灰色の砂塵は目の中で大きくなり、近づいてくる。――アムネリスは、ちょっとためらったが、ついにかぶとをとりのけてしまい、そのみごとな金色の髪を、フードの上へはらりと流した。
「――お危のうございましょう」
あわてて、フェルドリックが云うのを左手でおさえ、ふっと、何かに耳をすませるふうをする。
「――静かだな……」
おどろいたように、低く呟いた。その、刹那だった。
ヒュン、という、吹矢が空を切る鋭い音がした。
さながら、それが合図ででもあるかのように、
「アイー、アイー、アイー!」
「アイイ、アイヤー!」
「イーイーイーイーッ!」
けたたましい雄叫びが、耳をつんざいた。
「敵襲――!」
「来襲――っ!」
たちまちにして、四方は戦さの叫喚にみちる。――再び、戦闘がはじまったのだった。
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「いいか、セムたち――ラク、グロ、ツバイ、ラサ!」
その少し前――グインのきびしい命令がこうした団結しての戦いには不馴れなセムたちに、くりかえして下されていたのである。
「くれぐれも、ばらばらになってはならんぞ。あいては訓練された精鋭だ。われわれの方が、人数がこれほど少ないと知られたらさいごだ。戦いに夢中になって、俺の云ったことを忘れたら、そのときがセムのさいごなのだぞ!」
「アイー!」
いっせいにセムの勇士たちは石斧、石槍をふりかざす。
「リアード、リアード!」
「いいな――俺の云ったとおりにするのだぞ!」
あたりを埋めつくしたセムの各氏族の中に、イシュトヴァーンの姿はどこにも見えなかった。
リンダとレムスの聖双児も見えない。――それだけでなく、女たち、少年たちまでも含めたその全セムの人数――カロイの二千は除いてだが――は、はじめの五千という数よりも、だいぶん少なかった。
モンゴールの斥候が、たちのぼる砂塵の大きさから判断した、一万という推定はおろかその半分をすら、大幅に下まわっているのである。
「いいか。これは、決着をつけるための総力戦ではないのだぞ。それだけは忘れるな。じっさいの人数をさとられるな。足をけたて、もうもうと埃をたてて歩け」
グインは、どこからか調達してきた大きな黒馬にうちまたがり、さながら地の精の侏儒たちをひきいて進む巨大な魔王とも、小悪魔たちを従えた半獣半神のササイドンのうつし身とも見えた。
その右手がたかだかと上がり、大きくうちふられるや――セムたちは、いっせいにかけ出す。
グインは、セムたちを、約千人づつの四つにわけていた。それぞれロトー、イラチェリ、ツバイ、カルト、にひきいられる混成軍は、ちょうど頂点を中央によせあつめた四つの細長い三角形とでもいったかたちに前進していったが、やがて立ちのぼる砂塵の中で、すでに陣ぞなえを完了して、弩部隊を前に出し、命令一下ただちにうち出せるようかまえているモンゴール軍が見えてくるやいなや、奇怪な動きかたを開始した。
毒矢の射程距離のぎりぎりのところまでまっすぐに進んでくると、かれらは、風車のようにそれぞれの三角形を矢羽根としたかたちで右へぐるぐるとかけめぐりはじめたのである。
そうしながら、ヒュンヒュンと毒矢をモンゴール軍にむかって射こむ。ひとわたり射かけるやいなや、ただちにその一隊は右へむかってかけ去って次の一隊に場所をゆずる。
それは、グインが、一万五千の敵の前に、数における圧倒的な劣勢を悟られぬためにとった、車軸がかりの戦法であった。
籠城の場合とことなり、こうした平地での白兵戦では、弩と吹矢とは、どちらもあまり有効な武器とは云えない。
吹矢は、切り払われたり、かぶとや鎧にあたってはねかえってしまえばそれまでだし、いっぽう弩はというと、これはいったん発射してしまうと、次の弾こめに手間どれるので、必ずしもおどし以上の役に立つとは云えないのである。
そこで、ひとしきり、前哨戦のあんばいに飛び道具合戦がくりひろげられたあと、
「弩部隊、射ち方やめ!」
「歩兵隊、前へ!」
命令一下、弩部隊はうしろへ下がり、かわって、各色の胴丸具足に身をかため、短い槍をふりかざした徒士たちが、いっせいに盾をとりはらって前進してきた。
と見てセムたちも吹矢をすて、斧をふりかざし、奇声をあげながらモンゴールの前衛めざして突き進む。
「アイー、イーアー!」
「リアード、リアード!」
「アーアイーッ!」
セムのあげる、鳥の鳴き声にも似た奇声と、
「モンゴールのために!」
「モンゴール、モンゴール!」
「進め、勇者たち、進め!」
モンゴール兵たちのとき[#「とき」に傍点]の声とが激しく入りまじる。
直接に前衛をうけもっているのは、イルムひきいる黒騎士二千であった。
勇猛をもって鳴る辺境五城のうちのタロス城を、副長官としてたばねるイルムである。その麾下の軍勢もまたよりすぐりの精鋭であり、しかも辺境の警備を業として、何回も、セム族との攻防を経ている。
ノスフェラスの猿人族の戦いかたとしては珍しい、奇妙な、しかも統制のとれた動きにかれらはいくぶんとまどった。つねならば、セムたちは、ただひたすら、毒矢を吹きかけたあとに奇声をあげながらせめこんできてあばれまわるだけであり、それゆえこちらもそれなりの対応を覚えている。
だが、いまここでぶつかった、かつてない大人数――とかれらの目には、あとからあとからあらわれるセムたちが、そううつったのである――のセム軍は、右手からかけ入って来た一隊がひとしきり暴れると、そのまま左手へかけ去ってあらてと入れかわり、そうやって何回でも損害をあたえてはかけちがってしまうようなのだ。
「サルめ、こざかしい真似を覚えおって……」
イルムはぎりっとくちびるをかみ、鞍つぼを叩いて身をのりだすと、部下たちをはげまそうと大声をはりあげた。
「敵のうごきにまどわされるな。友軍の助けをあおぐのは、タロス城主の恥だぞ! 戦え、戦え!」
「アイーッ!」
「イーアーッ!」
甲高い叫び声、剣と石斧のぶつかりあう激しい音、それに傷ついたものたちの悲鳴や絶叫が、彼の叫びをかき消した。
そのときだ。
「おおっ――あ……あれは、なんだ!」
イルムは絶叫し、セムたちの戦略的な動きに感じたひそかな疑惑さえも忘れてしまった。
それは――
いましも、ようやく混戦模様になってゆこうとするぶつかりあいのさなかへ、新たなセムの一隊をひきつれてかけ入ってきたのは――見るも魁偉な一人の騎士だったのである。
それを、はたして、人、と呼んでよいものか。――イルムは鞍つぼにのびあがり、おどろきのあまり目を見張ったまま声もなかった。
おお――豹頭の戦士!
その、黒馬にうちまたがった雄渾なすがたは、彼につきしたがうのが侏儒ともいうべきセムの猿人たちであるだけに、ひときわ雄大に、魁偉に、そして物凄まじく見えている。
小さな毛むくじゃらの、顔や手足に赤や青の顔料をぬりたてたキイキイ叫ぶ敵を見なれた目に、その上半身裸の、革帯だけを胸にしめ、大剣を縦横にふるう、首から上は豹のすがたをそなえた怪物は、いやが上にも驚嘆をさそった。
「おお――なんだ、あれは――一体、あれは何者だ!」
「シレノスだ。伝説のシレノスにちがいない」
「おう――なんという戦いぶりなのだ、あれは!」
イルムとタロス城の黒騎士たちは、あとからケス河越えの長征軍に加わった人数のうちである。
従って、スタフォロス城とアルヴォン城とに、あれほどの驚愕を呼びさました、豹頭人身の怪物の話は、まだかれらの耳に届いてはいなかった。
おどろきさわぐうちにもその逞しい豹頭の武者は右手の長剣をふるい、巨体とも思えぬ敏捷な動作でもって、縦横にモンゴールの兵たちを切り倒してゆく。
その行くところ、一合と立ちむかえるものはなく、その剣が一閃すれば必ず人が致命傷をうけて倒れた。
もはや、あたりは大混戦の様相を呈しはじめている。セム軍たちも、すでに肉弾戦のたかぶりにまきこまれ、車軸がかりの戦法も忘れはてたかのように総がかりになってイルム隊の青騎士たちに立ち向かってくるが、すでに場がごった返しているために、セムたちがじっさいには三千あまりしかいないことは、イルムたちにはわからない。
それにもまして、豹頭の戦士のはたらきは敵味方の目をうばった。
彼はただひとりで、セムの十人、いや、一部隊にすら匹敵するほどの、阿修羅のような戦いぶりをくりひろげていたのだ。彼は鎧ひとつ身につけてはいないのに、モンゴールの精鋭たちは、彼に十人がかりでも傷ひとつ負わせることができず、いっぽう彼の右手の剣が一回ふりまわされるごとに、確実にモンゴールの血が流れた。
「ええい! 何をしている、たった一人ではないか、敵は!」
はじめ、ひたすら呆然とこの鬼神の戦いぶりに心を奪われていたイルムも、ようやく我にかえって、歯ぎしりをしながら怒鳴りはじめた。
「大勢で取りかこんで、討ちはたしてしまえ! 敵はあの化け物一人を除けば、われらに敵すべくもない蛮族どもばかりだぞ! えい、おれがゆくわ――!」
そしてイルムは鞍を叩き、馬腹をけって、最も激しい戦いのくりひろげられているところへとびこもうとし、あわてた腹心たちに必死でひきとめられた。
イルム隊の苦戦は、両翼を守るふたりの若い隊長にも見えていた。
ことに、マントひとつまとわずに戦いの渦へとびこんできた、その豹頭の勇士をみて、
「あッ!」
鞍つぼにのびあがって絶叫したのは、つい先に、グインとイシュトヴァーン率いるラクの部隊のために、むざんな敗北の憂き目にあい、面目をつぶしたアストリアスである。
「あ――あいつは!」
(モンゴールのはねかえり公女に、伝えるがよい――ノスフェラスから手をひけ、とな!)
そう冷やかに云いすてて、すでに彼の咽喉もとに擬していた大剣を、グインがあっさりとひいたとき、アストリアスが味わった屈辱と憤怒と痛恨の煮えたぎる思いは、いまなお彼の顔を瞬時に青ざめさせるのである。
「ポラック――!」
「奴[#「奴」に傍点]ですな。間違いっこありません、あのすがたかたちを!」
ポラックの声もわずかにふるえている。
「お――」
やにわに、アストリアスはわめいた。
「おのれ、化け物め!」
「隊長ッ!」
あわててポラックがひきとめようとする。が、アストリアスは、千人隊の隊長たる自らの立場も、司令を待って動かねばならぬ自制すらも、目のあたりにしたグインの姿の前に吹きとんでしまっていた。
「奴を仕止めるのは、俺だ!」
絶叫するなり、アストリアスはありたけの勢いでウマの腹を蹴ったのである。
ウマはおどろき、全速力で、セムとイルムの青騎士との戦いのまんなかへただ一騎かけこんだ。
「いかん」
ポラックが青くなって叫ぶ。
「隊長を救え。アストリアス隊、前へ!」
「おうッ!」
右翼の一隊が、右の防衛線をはなれて戦線へ入ったので、左翼をかためるリーガン小伯爵はおどろいた。
「おい、両翼を投入の伝令があったのか」
あわてて左右をふりかえりながら怒鳴る。副長のレンはあわてた。
「は、いや、ありません――ないはずですが」
「おかしいな。アストリアス隊がイルム隊の中へ入ってゆく」
「いかが致しましょう」
「アストリアスだけに伝令がいったはずはないのだが――おい、レン、兵を出して、公女殿下に伺いをたててくれ。それまで、おれはとりあえずあっちへまわるぞ――アストリアスだけに手柄を立てさせるという法はない」
トーラスの名門の御曹子たるアストリアスと、アルヴォン城主リカード伯の長男のリーガンは、年頃も地位も同じく、幼い頃から事あるごとに功をきそう仲である。アストリアスの参戦をみて、リーガンもまたいさみ立った。もとから、両翼にまわされた、脾肉の嘆をかこって武者ぶるいしていたのだ。
「殿下におゆるしを得ないで、よろしくありましょうか」
「かまわん。早く、殿下のもとへ兵を走らせろ。えい、おれは行くぞ」
リーガンの手があがって、ウマにムチをあてる。リーガンひきいるアルヴォン城の赤騎士千人もまた勇躍して動きはじめる。
アストリアスの方はすでに混戦のまっただなかにいた。
「グイン! グイン、俺と戦え! 俺の相手をしろ、グイン、臆したのか!」
大声でわめきつづけながら、何人ものモンゴールの青騎士と切り結んでいる豹頭の戦士を求めて、ひたむきに血路を切りひらいてゆく。
「ええい、サルなどに用はない」
左右に、むらがってくるセムたちをムチではねとばし、
「俺を見わすれたのか。ただしは、臆したか、グイン! 追撃隊長アストリアスはここにいるぞ!」
のどをからしてわめきつつ、ひたすらグインをめがけた。
おどろいたのは、イルムである。
「なんだ、小アストリアスは――赤騎士に援護しろとの伝令が出たのか。イルム隊! イルム隊! アストリアス如き若僧の助けをかりたとあっては、タロスの青騎士、一代の名折れだぞ。えい、早くサルどもとその化け物を片づけてしまえ。何をしている」
怒りくるって剣をふりまわしているところへ、
「伝令! 伝令!」
白いよろいの肩から伝令のしるしをなびかせ、背い旗を槍にくくりつけた使いがかけてきた。
「イルムはここだぞ!」
「伝令であります。セム族をひきいる豹頭の戦士は、重大な秘密のカギをにぎる人物である。決して殺さぬよう、生きたまま手どりにするよう、全隊に申しつたえるように。くりかえします。豹頭の戦士を殺すな、生けどりにせよ。以上がアムネリス殿下よりのご命令であります」
「了解。――しかし!」
伝令が走り去ってゆくのを待って、イルムは中っ腹でどなった。
「生きたままとらえろだと! なんてことだ、シレノスを生ま身の人間が、伝説のカウリノスの網もないのに、傷もつけずに手ごめにできると思うのか――おい、ルカス! 伝令だ!」
「心得ました」
副長があわててウマをかって混戦の中へかけこんでゆく。
アストリアスの方はそんな伝令になど、気をとられているいとまもなかった。
仮にルカスの叫び声が――「豹人は殺してはならん。生かしてとらえろ。これは公女のご命令だ!」――耳にとどいたにしたところで、屈辱にもえる彼が、それに従おうはずもない。
「グイン――見つけたぞ!」
グインのゆくところ、あたりにはすべて、るいるいと青騎士たちの死骸が山をなした。
彼自身もすでに返り血をあびて、その丸い獣の頭から、比類なくたくましいその上体まで、真赤に染まっている。
その手にした大剣は柄からきっさきまで、モンゴールの血にまみれ、血をしたたらせてねとねとと粘った。
その、想像を絶する勇猛ぶりにおそれをなしたかのように、一瞬、彼の周囲だけが空白になる――アストリアスがかけよったのは、そこへであった。
「グイン――! このアストリアスに、よくもおめおめと敗けて逃げ帰る生き恥をかかせてくれたな。あのときの恨み、いま晴らしてくれるぞ。立ち会え、俺と戦え!」
アストリアスは絶叫した。が――グインがおもむろにこちらをふりむいたとき、ふいに、全身の毛が逆立つような寒気を感じた。
グインの双の瞳が、黄色い、凄まじいとしか云いようのない光を放って爛々と燃えている。――そこにいるのは人ではなく、一匹の巨大な血塗れた野獣、食い殺した人間の血に全身がまぶれた恐るべき魔豹であることを、突然、アストリアスは悟ったのだ。
心ならずも、彼はたじたじとしてあとずさった――そして、そのことにいっそう腹をたてた。
「俺と戦え、グイン!」
声を励まして叫ぶなり、剣をふりかざして突進しようとする。が、そのとき、グインが笑った。
いや――豹頭は無表情なままである。だが、アストリアスには、グインがにやりと、顔をほころばせたように感じられた。じっさいには、気の弱いものであればそれを見ただけでショック死しかねない、その人喰い豹の目の光が、ほんの僅かばかり、和んだのだったかもしれない。
「手に合わんな、小僧。――あと二十年して、出直して来い。そのときには、立ち会ってやろう」
グインの口から、重々しい、あの特有の声が洩れた。そして、ふいに、グインは完全に戦いの狂奮から、正気の冷静さに立ちかえったかのようだった。
「いかん――やはり、セムどもは、戦さに我を忘れたな」
その口から、誰にもきこえない低いつぶやきが洩れる。彼は、息をつめてその場に立ちつくしているアストリアスにはもう目もくれずに、ウマの腹を蹴った。
「シバ――シバ!」
「はい、リアード!」
「退却だ。笛を吹け」
「はい、リアード」
シバは首からかけていた、竹の笛をとって、力一杯吹きたてた。グインの方はウマをかってイラチェリやロトーをさがし、
「ひけ。退却だ――手はずを忘れるな」
きびしくせきたてた。
次々にセムの鼓笛手の吹く甲高い笛の音が、ひとつ、またひとつと増えていく。戦いに我を忘れているかに見えたが、あれほどにきびしくグインの云いわたした申し送りは、セムたちの頭にしみこんでいた。
「アイーイーイーッ!」
「イーアーイーアーアー」
「アイーアー、アイーッ」
山オオカミの遠吠えにも似たひきあげの声をあげながら、セムたちはいっせいに敗走しはじめたかに見えた。
「逃がすな、追え!」
イルムがわめく。が、青騎士たちはぎくっとして足をとめた。
グイン――かれらをあれほどおびやかした狂戦士が、数人のセムを従えたなりで、やにわにかけ戻ってきたのである。
息をのむモンゴール兵の前で、
「モンゴールのはねかえり公女よ、セムの挑戦をうけるがいい!」
びんとひびく大声で怒鳴るなり、グインは馬上で思いきり手をうしろに引き、反動をつけて、青騎士からうばった槍を自騎士隊の中心めがけて投げつけた。
槍はすさまじい勢いでとんで、あわててヴロンがアムネリスをおしのけたとたん、まさにそれまでアムネリスのいた場所へつき立ってぶるぶるとふるえた。
「キャーッ!」
思わず、アムネリスの口から、悲鳴がもれた。――それから、おどろいて、自分の口をおさえた公女将軍の顔が、みるみる、ノスフェラスの夕映えもかくやという血の色に染まった。
(こ――この私が、小娘のような悲鳴をあげるところを、兵たちにきかれるとは)
赤くなって、それから青ざめたアムネリスの耳に、不敵な笑い声と、そして大声が再びとどいた。
「これに懲りてドレスの裳裾でもひき、宮殿の舞踏会で男の首をとるがいい。その方が似合いだぞ、おてんば姫どの!」
「あ……」
一瞬、全軍が息をつめたかのようだった。
が、そのときにはもう、血まみれの鬼神は疾風さながらに、すでに走り去っていたセムの本隊のあとを追って、走り去っていったあとだった。
「追え――」
アムネリスは喘いだ。
憤激のあまり、ことばがもつれて声にならない。くちびるを何度もなめ、胸をさすって、ようやく叫んだ。
「追え! 一兵たりとも、生かしておくな! 追え、追え!」
「全軍、追撃開始!」
ただちに伝令がまわった。
モンゴール軍はあわただしく体制を立て直し、セム軍が逃げのびていった北西の方向めざして追走にうつった。
イルム隊は、かなりのいたでをこうむっていた。負傷者をうちすてて、死者のなきがらも、セムの死骸もそのままに急いで兵をとりまとめる。伝令がきて、イルム隊に、内陣へ入ってタンガード隊と先陣を交代するよう告げた。
モンゴール軍は、半月形にしいた陣ぞなえが、そのまま両翼が先に出て、Uの字になって追撃をつづけた。アストリアスも彼の隊をひきい、先頭にたってウマにムチをふるいつづけた。彼は、まっ青な顔をしていた。
(おお――おのれ、おのれ、おのれ!)
もしも面頬の下の彼の若い顔を、誰かがのぞき見て、その口の中の呪詛をきくことができたとしたら、その人間は、まだ二十歳のこの若い勇士が泣いていることに気づいて仰天したかもしれない。それは、一生忘れることのできぬ憤怒の、熱い口惜し涙だった。
そして、もう一人、口惜し涙をかむ人間がいたとしたら、それはアムネリス以外のものではありえなかっただろう。
ともあれモンゴール軍は追走をつづけた。もはや、かれらは前後への気配いをすら、忘れはてていたのである。
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モンゴール軍は追走をつづけた。
そのころまでには、日は中央に高く、白い光と白い灰色の荒野にふり滾し、隊列も乱れがちに走りつづける騎士たちの影は長々とうしろにおちた。セム族との戦いは、ひどく長いあいだくりひろげられていたように思われたのだが、じっさいには、一ザンにも足りぬほどの短いあいだのできごとでしかなかったのである。
「追え――追え!」
「あやっを逃がすな!」
先頭に立つ隊長たちは、口々に、のどをからして叫び立てていた。
かれらの、ほんの半タッドばかり前を、さながら砂漠の蜃気楼が生んだ幻影のようにあやしく駆けぬけてゆく、グインと千人足らずのその親衛隊のセムたち――
それは、またとなく奇怪な幻想をさそう、そしてふしぎなほど心にのこる、伝説さながらの場面であった。
それはその背景――荒涼たる不毛のノスフェラスに、またとないほど似つかわしく、そして、奇妙なくらい神話めいていた。
グインは彼の乗る巨大な黒馬の腹を蹴りつけながらも、彼のうしろを短い足で追い走るシバたちがひきはなされぬよう、気を配って手綱をひきしめる。その血塗られたたくましい全身が、ノスフェラスの真昼の、強烈な陽光の照りかえしをうけて、赤く輝く。
「無事か、シバ!」
「はい、リアード、みんな!」
うしろからは、
「止まれ、止まれ!」
「逃がさぬ!」
「追え、追え!」
モンゴールの軍勢の叫び声が風にのってかれらをかりたてる。
「よし――そろそろ、第一地点だな、シバ」
「はい、リアード」
「よかろう。突破するぞ」
「はい!」
シバは、走りながら、腰の袋に手をつっこみ、何か丸い木の実をとりだした。
それを頭上にかざし、もう一方の手で鼻と口をおさえ、目をきつくとじておいて、えいとばかりその黒い実をにぎりつぶす。
パシッというかるい音をたててその果実がひしゃげたとたん、その中から、果汁が、おどろくほど豊富にほとばしって彼の頭から肩、胸を濡らした。
思わず、シバはうーっというような唸り声をたてる。その果汁は、息づまるようなアンモニアの匂いを、一里四方にも届こうかというほど強烈に発散したのだ。
シバにつづくセムの若者たちも同様にして、むせたり、せきこんだりしながらその果汁の洗礼を自らにほどこしていた。
たちまち、かれらは自らの放つ異臭にごほごほ云い、むせび、涙を流す、異様な集団になった。
いっぽう、かれらはその間にも足をゆるめようとはせず、あたりは、同じノスフェラスの砂漠であるままに、いくらかようすを変えはじめていた。
「そろそろ、〈鬼の鉄床《かなとこ》〉に入ります、リアード」
シバが自らのつきさすようなアンモニアの匂いにむせながら叫ぶ。
「よし。行くぞ、セムの勇者たち!」
グインは吠えた。
やにわにムチをあげて、思いきってピシリとウマをかりたてる。ウマは、異臭にいくらか足掻いていやがるようすだったが、その虐待におどろき、疲れたからだをかって再び全速力で走りはじめる。シバたちが遅れじと続く――そのときだ。
やにわに、周囲の砂漠が、ふつふつと煮えたぎった!
いや――そうではなかった。
おお――それは、あたり一面を埋めつくす、おそろしい膨大な、イドの大群だったのである! そのへんは、〈鬼の鉄床《かなとこ》〉と呼ばれる、白くかたい、陽に焼かれて昼にはあつく、夜には冷えびえとする固砂がどこまでもつづく、比較的平らな砂漠である。
そこに、透明でぶよぶよとしたイドどもは、まるでそんなものは存在してすらいないかのように周囲の砂の色と同じ白に染まり、あつい日ざしの下でぺったりと静まりかえっていた。
その中へ、グインのウマと、そしてシバたちが足をふみ入れたとたん、それらは、いっせいに色めきたって、ふつふつとうごめき出したのである。
それは地獄もかくやという、どんな豪胆な勇者の血をも一瞬にして凍りつかせるに足る物すさまじい光景であった。
四囲は、見わたすかぎりの〈鬼の鉄床〉――それを、さながら白くただれたゼリーの海をぶちまけたかのような無数のイドどもが埋めて、永遠の盲目な飢餓にがつがつと色めきたちながら、ざわざわ、ぶよぶよとしたその蠕動を、そこに足をふみ入れる無知な獲物を待ってつづけているのである。
グインの目は血走り、その首のうしろの短い毛は嫌悪とおぞましさとに逆立ち、そのたくましいからだは、彼ほどの勇士にすらとりしずめようもない、本能的な反発と恐怖とで鳥肌立っていた。シバたちも同じことだ。
かれらの顔は恐怖にひきつり、その口からはひっきりなしに喘ぐような声と呪詛とが洩れた。イドよけの果汁をぬってあるかれらの異臭がとどくと、いったんざわめいてこちらへおしよせて来ようとしたイドどもは、あわてふためいて、波がひくように押しあいへしあいしながらさがってゆき、かれらの狂走の前に道をひらく。
それは、予言者の前に二つに割れる、生ある海にも似た。しかし、無情なノスフェラスの太陽はじりじりとかれらを照りつけ、その日ざしはまたたくまにかれらの浴びた、イドよけの、アリカの実の汁をかわかし、蒸発させてゆく。
シバはまた袋に手をつっこんだ。顔をひきつらせながらまたひとつマリカの実を割ってその汁をあびる。
うしろにつづくものもそれに習い、グインも、それを彼のウマの足へ垂らすためにたくましい拳で握りつぶした。
しかしその実は、それでおしまいなのだ。それがかわききってしまえば、かれらはイドの海のまっただなかに、無防備のままさらされて、云うもおそろしい凄惨な死を待つことになるのである。
かれらはのどのひりつき、足から力のぬけてゆくような恐怖におそわれて、すでに全身をそのぶよぶよとした怪物のねっとりとした感触にぬりこめられたように感じながら、死にもの狂いで走った。〈鬼の鉄床〉は、どこまでもどこまでもつづくかに見え、さしも砂漠の天性のランナーたる若いセムたちも、ようやくせいせいと肩で息をしはじめた。
そのとき、それ[#「それ」に傍点]が見えたのである。
「早く――こちらへ!」
「リアード、ご無事で!」
まるで、それが、膝までのなだらかな遠浅の海かなにかででもあるように、イドどものまっただなかに立ち、長い棒を手にしてかれらをさし招きながら大声で呼び立てているのは、ツバイ族の女たちであった。
その手にした奇妙なかたちの長い棒をあげて、煮えたぎる鍋でもかき混ぜるようにイドどもにつきたてると、イドどもはざわざわと左右へ道をひらく。それに導かれて、のこりの距離はどうやら安全に渡りおえると、そこに、ツバイ族の女たちがいっせいに集まってきた。
「お云いつけのとおりにしましただ」
「これだけで足りますだか、リアード」
口々に云いながら、グインのまわりにむらがってくる。かれらは、奇妙なかっこうをしていた。
足は、膝の上までくる、不恰好な木靴につつまれ、頭に、やはり木の帽子のようなものをかぶっている。腰にまいた帯からは、糸でつらねたいくつもの黒い木の実がつるさがり、毛深い手足からはきついアンモニアの匂いが発散し、そして手の杖からもそれはぶんぶんとあたり一面に匂っている。
それはすべて、アリカの木でつくられた、木靴であり、帽子であり、杖であり、アリカの実のベルトであった。
ツバイ族は、またの名を、『イド飼い』のツバイ、と呼ばれている。ノスフェラスのおそるべき怪物イドをかれらが恐れるどころか、かえってそれをかりたてて、自在にあやつることができるのは、ひとえに、イドが何よりきらうそのアリカの木の群落を、領地の中に育てているからにほかならない。
グインは、子供たちをまとわりつかせる父親のように小さなツバイの女たちのまんなかに立ち、イドの海を見やりながらうなづいた。
「よかろう。充分だ――いまのところはな」
「こんなに、一度にたくさん集めたことはありましねえ。アリカの実が、足りねえんじゃないかと、おっかなかっただ」
「ノスフェラスじゅうのイドの半分はいるかもしれねえだよ」
ツバイの女たちは、子供のようにはしゃいでいた。
さしも広い〈鬼の鉄床〉を埋めつくしたイドの大群も、〈鬼の鉄床〉の切れ目のあたりでようやく尽き、岩場になっているその向こうに、セムの本隊が、すでに戦いつかれたからだをやすめていた。
「リアード!」
グインたちを待ちかねたように、ロトーたちがかけよってくる。
「どうだ、わがほうのいたでは」
「さして大きくはありませぬ。千は、やられてはおりますまい。六、七百、というところか」
「オームのこうむったいたでのほうが大きいはずだ」
意気軒昂として、グロ族のイラチェリが云い、手にした石槍をふりまわす。イラチェリは、モンゴールの剣に左肩をざっくりとやられ、薬草を何重にもまきたてて、いくぶんげんなりしていたが、いっこうに気勢のおとろえるようすもなかった。
「傷《て》を負ったか、イラチェリ」
「浅手だ。グロは、このぐらいの傷は、傷と思わん」
「無傷のものは、半数以上はいるか、ロトー」
グインはきいた。
「もう少し、いるでしょう」
「まあまあのところだな。半分、戦力をそがれると、このあとが苦しくなりすぎるところだった。――ともかく、敵は、こちらの三倍はいるのだからな」
彼は、シバのさし出す竹筒から水をひとのみにし、やわらかいコケで剣と、ついでに血をあびて汚れたからだを拭きながら、岩場にひろがるセム軍を検分するように見わたした。
決して、セム軍のこうむった被害は、軽いとは云えなかった。
もともと、体格で大幅に劣るのが、人数も三分の一でしかないのである。イラチェリはああ云うものの、傷をうけて岩にもたれかかり、盟友の手あてを受けているセムもずいぶんと多かった。
しかし、志気だけは、たしかに衰えてはいない。――かれらはグインを信じていたし、グインがかれらに勝利をもたらし、モンゴールの蹂躙からかれらを救うためにこそノスフェラスへあらわれた、神の使いであると確信して疑っていない。その上に、グインの何度もくりかえした、(われわれにはこの人数の劣勢を補ってあまりある、強い味方がついているのだ)ということばが、かれらをかりたてていた。
(それは――ノスフェラス[#「ノスフェラス」に傍点]だ!)
なぜ、この不毛の地がそうなのか、とききかえすものもない。
「リアード。これから、どうしましょう」
いつの間にか、すっかりグインの親衛隊長格になっているシバが、案じ顔によりそってきいた。
「手筈どおりにやれ」
グインは、短く云ったきりである。
「そろそろ、モンゴールの追手も、〈鬼の鉄床〉へさしかかるはずだ――む!」
「リアード!」
少し高い岩の上でようすを見ていたセムの戦士が、すばやく岩をまろび降りてきてうしろを指さした。
「来たか」
「ハイ!」
「よし、ツバイたち!」
「承知だよ!」
ツバイの女たちが、色めきたった。
「あたいたちの出番だよ」
「イーアーッ、イーアーッ!」
てんでに、金切声をはりあげながらかけ出して、あらかじめ用意してあった素焼きのつぼを、一人がひとつづつかかえ、イドの海の端に相応の距離をおいて立つと、
「アイー、イー、アイーッ!」
かけ声と共に、ひと思いにつぼの中身を、イドどもへ打ちまけた。
たちまち、大恐慌がおこった。
つぼの中身は、ツバイたちがたくわえている、アリカの実のしぼり汁であった。それをしぼり、つぼに貯めるのは、イド飼いと呼ばれるツバイの女たちの主要な役割である。
別に、イドを飼い馴らしてそれを食用にしようとか、何かの役に立つというわけではなく、ただ、もともとかれらの村の位置していたのが、きわめてイドの多いあたりであったところから、イドの被害をふせぐ方法がかれらにうけつがれているのにすぎない。
あたりいちめんにぶちまけられたそのアリカの実汁のつんと来る臭気は、セムたちをさえ思わず鼻白ませ、咳こんだり、目をこすりながらあとずらせた。
ましてや、それをいきなり注ぎかけられたイドどもの恐慌は、物すさまじかった。
白い、生あるゼリーの海が、パニックにおちいり、嵐の海そのままの勢いでうねりながら、てんでにそのイヤな匂いを避けようとし、まるで退き潮のように〈鬼の鉄床〉の南の方角へめがけてひき退いてゆくのを、あらかじめ計算づくとは云いながら、セムの首魁たちですら、息をつめて見守った。
「――アルフェットゥ!」
思わず、ロトーが低くつぶやく。
グインはその凄まじい光景に心を動かされたふうもなく、手をあげて、もういちどふりおろす。
と見て、ツバイの女たちは、アリカの木をくりぬいてつくった木の椀型の帽子を顔の前にひきさげた。それは、ひもで頭のうしろにくくりつけて、ちゃんと先が見えるよう、目のところに小さな穴のあいている、木の面にたちまち早変りする。
目ばかりの奇怪な丸い顔ののっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]と変じたツバイたちは、つぼを新たなものととりかえ、イドどもが退いていったあとへおいて、ざわざわ、うようよと逃げてゆくそれらを追いかけると、再び、アリカの汁をまいてイドを逐った。
ここに到って、イドどもの動きは、恐しいほどに速まり、煮えたぎるようにふつふつと互いをのりこえ、先を争って――といっても、この怪物の、どこからどこまでが一匹なのか、ということをはっきり見わけられるものなど、ツバイにさえいはしないのだが――恐慌をきたしながらそのイヤでたまらない悪臭から逃れようと暴走しはじめた。
その、海が音たてて後退してゆくような、物すさまじいありさまを、眉ひとつ動かさず、腰に手をあてたまま、グインは見守った。
が、頃はよし――と見たか、ふりかえると、鋭く呼ぶ。
「シバ!」
「ハイッ、リアード!」
「次の手筈だ」
「ハイ!」
シバと数人のセムたちがかけだしてゆく。じっと、タイミングをはかるように砂漠の向こうを見つめているグインのうしろで、
「やれ――まあ! これで、ツバイどもは、むこう二年間のアリカの実を、ぜんぶ使いきってしまっただよ!」
ツバイの女たちのあげる、陽気な喚声がきこえてきた。
いっぽう、グインたちを追うモンゴール軍である。
アストリアス、リーガンの両赤騎士隊を先頭に、かれらは一丸となって、敗走するセム軍を追いつづけて来たのだった。
しかし、かれらはウマで、敵は徒歩《かち》立ちであるにもかかわらず、セムとの距離をつめることはなかなかできなかった。それというのも、ウマのひづめはこのような、足の下でさらさらとくずれ、がっくりと足をのめりこませる、やわらかで熱い砂を走るにはおよそ適していなかった上に、重い鎧かぶとを身につけた、完全武装の騎士たちをのせることでウマの重みは倍加し、その足はいよいよ一足ごとに砂の中へもぐりこんで、ともすれば膝がくだけそうにすらなったからである。
「ハイッ、ハイッ!」
かれらはたびたびそっと手綱をあやつっては、ウマが前へのめりこまぬよう、必死にひきとめねばならなかった。
それに対して、セム族の、やわらかな毛のはえた、ひらたい足のうらは、こうした砂地を走るにはこの上もなく適していたのである。
その上にかれらは、ノスフェラスの地形や道順を知りつくしていた。かれらがいかにも追手をまこうとするかのように、そのくせ決して追手が広大な砂の海の中にかれらを見失ってしまうことのないよう加減しながらジグザグに走って、しだいにモンゴール軍を〈鬼の鉄床〉に誘いこもうとしていることに、気づくものはいなかった。
いや――一人だけ、いないでもなかった。
後詰をうけたまわり、歩兵たちをまとめてそのうしろに青騎士二千をひきいてしんがりをつとめていた、ツーリード城主、マルス伯爵である。
彼の考え深いしわふかい顔は、モンゴールがいっせいに追走にうつったときからずっといまひとつ冴えぬ色をたたえ、その目は何やら物思わしげに曇っていた。
「――隊長殿」
マルスの右腕で、主と同じくらい年とっている中隊長のガランスが近づいてきて、気づかわしそうにのぞきこむ。
「どうされましたな。何を、考えておられるのです」
「――セムめ、逃げ足が、速すぎる」
マルス伯は、ゆるゆるとウマを走らせながら、つぶやくように云った。
「それとも遅すぎるのかな。――本気でモンゴール軍をふりきろうとするには遅すぎ、本気に戦うつもりで出てきたにしては速すぎる。どうも、解《げ》せぬ。このたびの遠征での、セムどもの出ようには、解せぬことが、多すぎる」
「お気のせいではございませぬか」
「ガランス」
マルス伯は、きびしく云った。
「気のせいですめばよし、やはり気のせいでなかったではすまぬぞ、戦さは。――わしは、わしもお前もともに十五の小僧であった昔から、数知れぬ合戦、小ぜりあい、一国をかけた大いくさに出てきた。その結果学んだことはな、ガランス、いくさは生きものだ、ということだ。いくさは、生きものなのだ。ていねいに、獣を扱うように、そっとつぼをこころえ、なおかつ心をこめ、いっときも気をゆるさずに見守っていてやらんと、そやつはこちらにしたたか噛みつきおる。いくさとは、人馴れることのない獣よ、ガランス、それを扱うには、こちらは鞭と、そして肉とを持ちながら、それがわれらにでなく、敵方にかみつくようけしかけねばならん。が――姫さまには、それがおわかりではない」
「……」
「姫さまはお若い。その上に、これまでに敗けいくさを味わっておられぬ。噛まれたことのない調教師はな――」
そこまで云って、伯は、口をつぐんだ。が、またしばらくして、地平に立っている白い砂塵に目をやりながら、
「それにしても解せぬ――解せぬな、これは」
「何がでございます」
「それがわかれば苦労はせぬ。どうも、こたびは、いくさという名の生き物が、われらに対して、もうひとつ機嫌のわるいような――や!」
「いかが、なされましたか」
「あれは、何だ」
マルス伯の武人らしい白い眉が、けわしく寄せられていた。伯は手をのばすと、地平線を指さした。
「セムどものあかしの砂塵でございましょう」
「お前には、わからぬか、ガランス。――砂塵の立ちかたがさきほどまでとどこやら違うぞ――待て!」
伯はくちびるをかんでしばらく考えこんだ。が、やにわに、鞍を叩いておどりあがった。
「あッ! そうか!」
「な――何がでございます」
「ここはノスフェラスなのだ。われらが忘れていたのはそのことだった――いかん、アストリアスとリーガンが危い」
「は――?」
「ガランス! 行け。アストリアスとリーガンに、止まれ、と伝えろ。姫さまにはあとでかまわぬ。ともかく全軍を停止させるのだ。行かんか、早く――!」
「は――はッ!」
何が何やら、まだよくのみこめぬながら、ガランスはウマをかり、隊列をはなれる。
「おーい――おーい止まれ。全軍止まれ――停止ーッ!」
伯の命をうけてまた数人の青騎士が、停止をふれに走り出す。
「――なんだと?」
おどろいたのは、白騎士隊に守られて進んでいたアムネリスである。
「あれは、マルスの青騎士だな?」
「御意!」
「止まれだと? 総司令官たるわたしをさしおいて――マルスは、気でもふれたのか――伝令、伝令! マルスをここへ、早く!」
こんどは、フェルドリックが自らあたふたと後詰へむけて走り出してゆく。
その間に、必死のガランスは兵たちのだらだらとのびた列の横を夢中でかけぬけていた。
「アストリアス殿ーッ! リーガン殿ーッ! 止まれ、お止まり下され、しばらく、しばらく!」
老青騎士のかれがれの声をききつけたのはポラックである。
「隊長」
「何か、きこえんか――いま、誰かが……」
「隊長、あれは、マルス隊のガランス殿ですぞ!」
「何といってるのだ――なに、止まれだと? 公女殿下のご命令か?」
アストリアスはけげんそうに眉をひそめながら、
「全隊、止まれ!」
声をはりあげた。
アストリアス隊は、日ごろゆきとどいた訓練ぶりをみせて、一言を待たず、ぴたりとその場に停止する。
いっぽう、リーガン隊は、足を休めようとはしなかった。ガランスは、長い隊列の右外側をかけぬけながら、「止まれ!」とわめきつづけていた。それで、彼の叫ぶ声は、右側にいたアストリアス隊にはきこえたが、反対側を走っていたリーガン隊には、かれら自身のウマのひづめの音、鎧のふれあう音にまぎれて、耳にとどかなかったのである。
「リーガン――リーガン、全軍停止だぞ」
アストリアスは、そのまま親友の隊がかけつづけるのを見て、大声で注意しようとした。
が、そのとき!
「な――なんだ、あれは!」
誰かが絶叫した。
その声は異様な恐怖と驚愕をはらんでいた。それにハッとして、アストリアスは、声のした方をふりむいた。
そして、愕然と凍りついた!
[#改ページ]
4校正
「ウワーッ!」
恐しい悲鳴が、モンゴールの勇士たちの口から止めようもなくほとばしった。
「あれは――!」
「イドだあっ! イドの大群がこっちへくる!」
「ポラック!」
アストリアスの顔からみるみる血の気がひいた。
「危いぞ――逃げろ。逃げろーッ!」校正
辺境のアルヴォン城に詰めてもう何年にもなる。ノスフェラスのイドのおそろしさ、剣でも、弩でも切ることのできぬその不死身の怪物の脅威は、かれら辺境警備隊には骨身にまでしみこんでいる。
「逃げろ!」校正
もういっぺんわめくなり、アストリアスはくるっと馬首をめぐらし、恥も外聞もなく来た方へかけ戻りはじめた。あいてが人間であれば、めったに遅れをとることではないが、あいてがノスフェラスの化け物とあっては話が別だ。
イドに練りつぶされて殺されるのは不名誉な話だし、第一こんなおそろしい死にかたはない。そして、いまだかつて、これほどのイドの大群に、まっこうからぶつかった話など一度もきいたことがなかった。
まったく、それはなんという大群であったことだろう――広大なノスフェラスの砂漠が、見わたすかぎり、ざわざわと泡立つ白い死のゼリーに埋めつくされていた。
それにまた、イドがこれほどの狂気にかりたてられて暴走してきたこともないだろう。それはさながら、恐しい死をもたらす津波が地鳴りと共におしよせてくるとも見え、あるいはむしろ、それだけは決して彼らを見すてるはずのないさいごのよりどころであったはずの母なる大地が、突然の狂気と盲目な怒りにかりたてられてその子たる人間たちを裏切り、白い毒のしたたる牙をありったけむきだしておそいかかって来たさまとも見えて、兵士たちを狂おしい絶望と恐慌に誘った。
いまや、鍛えぬかれたモンゴール一万五千の精鋭は、ただの、おびえ、恐怖に狂った逃げまどう群衆と変わっていた。
「イドだあ!」
「イドがおそって来る!」
「イドだーッ!」
先頭をきって走っていた連中がにわかに算を乱してわれがちにうしろへかけ戻ろうとするのを見、その悲鳴の意味をききとるなり、うしろにいたものも馬首をめぐらし、馬腹をけって、てんでに来た方へと逃げはじめる。
いまはもう、すべてのモンゴール兵がその目に、津波のようにかなりの速さでおそいかかってくるイドの大群を見てとっていた。
「ああーッ! 追いつかれる!」
恐しい悲鳴が砂塵をつんざき、そしてものすごい叫喚がおこる。
アストリアスは、我を忘れてウマにムチをあてつづけていた手を止めてふりかえり――そして世にも恐しい光景を見た。
「助けてくれーッ!」
おお――リーガン隊の赤騎士たちが、つぎつぎに、イドの津波に呑まれてゆく!
リーガン隊はガランスの忠告の叫びをききそこねた。かれらが砂漠の異変に気づき、狼狽して来た方へ駆け戻ろうとしたときには、すさまじい勢いでおしよせてくる白い怪物は、もはや手おくれなまでに近々と迫ってきていた。
それは、あたかも雪崩が人々をのみこんでゆくにも似た。まず、ウマが、ぶよぶよとふるえる凶暴なゼリーに足からからめ取られ、悲しげにひと声いなないてどうと倒れる。
それに乗った赤騎士も横ざまに投げ出されて、必死に起き直ろうとするより早く、うねうねとうごめく、執拗でねばねばした死が、ウマと騎士とにおおいかぶさってくる。
くぐもった絶叫と、圧し殺されるいけにえの恐しい呻きとは、たちまちに咽喉に入りこみ、顔にはりついてくる気味のわるい生きたゼリーにのみこまれ、功けを求めてさしのばした手に盟友が生命綱を投げるより早く、その手のさきまでもイドがおおいつくした。そしてまた、友を助けようとその手をつかみ得たものも、こんどは自らがイドの圧倒的な力にひきこまれて、底なし沼におちるように、その白い地獄の中へ吸いこまれてしまうのだ。
恐怖におののきながら、イドにおそいかかられるリーガン隊を見つめていたアストリアスは、ふいに、鞍の上で大声をあげた。
「リーガン! リーガンがやられた!」
まさしく――必死に、むなしく宙をけってあがきながらどうと倒れるウマの上で、いままさにイドにのまれようとしていたのは、ほかならぬリーガン小伯爵の絶望と恐怖に凍りついた顔だったのである。
「救え!」
アストリアスは絶叫するなり、無謀にも、単騎ウマを返してイドの群れのまっただ中へ駆け入ろうとした。
その前へ、やにわにポラックがウマをまわして立ちはだかった。
「どけ、ポラック。リーガンが危い」
「駄目です、隊長殿!」
「どけ!」
アストリアスは手をのばしてポラックをつきのけようとした。その手を、副長はひしとすがりつくように押さえた。ポラックの目と、アストリアスの血走った目とがあった。
二人ながら、人心地もないまでに青ざめ、ひきつった顔になっている。
「駄目です、隊長殿」
ポラックは喘いだ。涙目になった。
「諦めて下さい」
「リーガン――リーガンが!」
「ここは危い。早く、逃げないと」
ポラックは手をはなすと、有無を云わさずアストリアスのウマの尻を剣の腹でぴしりと打った。
ウマは凄い勢いで走り出す。ウマの首にしがみつき、
「リーガン! リーガン――!」
咽喉もさけよとアストリアスはわめいた。その叫びを、盟友を呼ぶ騎士たちの声、犠牲者の悲鳴とウマのいななき、そしてイドにおしつぶされる人体の骨がめりめりとひしゃげる恐しい音が消した。
もはやイドは白くもなく、半透明でさえなかった。それは、そこかしこに呑みこんだ赤騎士や黒騎士の鎧の色を透かせ、ねりこまれ、おしつぶされて原形をとどめなくなった人間とウマのふんだんな血のためにあちこちが赤くなまなましく染まっていた。イドの海のそこここが、獲物を呑んだ大くちなわの腹さながらに丸々とうねり、盛りあがり、そしてぶきみな蠕動をくりかえしている――その下では、骨も肉もめちゃくちゃにひしがれて、単なる肉塊となった人やウマが、ものすごい勢いで消化されていくのだ。どんなわずかな鎧のあわせめ、かぶとのあいだからでもうようよと入りこんでゆくこの不定形の怪物の前には、モンゴールの誇る騎兵隊も、ただまれにしかありつけぬ恐しく大量の、美味なえじきでしかないのだった。校正
それはすさまじい光景だった。無我夢中で逃げつづけた兵たちは、ようやくさしものイドのいきおいもおとろえ、とりあえずは安全になったと知っても、なおもその足をとめようとしなかった。かれらは完全に、恐怖のために狂って自制心を失ってしまっていたのである。
「止まれ――止まれ!」
「青騎士隊、止まれ!」
「なんということだ――モンゴールの誇る四大騎士団ともあろうものが、事もあろうにノスフェラスのイド如き原始的なしろものを恐れて逃げまどうとは!」
隊長たちはようやく平静をとりもどし、口々にののしっていた。
「えい――末代までの恥ではないか。おちつけ――ウマを止めい、列を正すのだ。ええい、止まれというのがきこえんのか」
隊長たちはかけまわり、ムチをふりまわしてウマたちの行手をさえぎろうとした。おじけついて、止めようとしても止まらぬのは、兵よりもむしろウマそのもので、中には、手綱を必死にしぼっても暴走するウマを止めることができず、ウマからふりおとされるものがかなりいたからだ。
「止まれ。止まらんか」
だが兵たちの動揺はなかなかしずまらなかった。かれらのすぐうしろにはイドの大群がひろがり、かれらの盟友たちをむざんにもむさぼり食らうそのぶきみな音さえもが、はっきりときこえてくるのである。
「なんということだ――!」
隊長たちはあぐねて、指令をあおぐように、公女のすがたを探した。ケイロニアの竜騎士団、虎騎士団があいてであろうと、ミロク教徒がくさり鎌をとって向かってこようと、いささかも恐れるかれらではなかったのだが、身をかくすものもないノスフェラスの荒野で、このようなぶきみな怪物をあいてに戦うすべなど、わきまえておろう筈もない。
(アムネリス様ならば――)
(姫様なら、決して誤ったご命令はなさるまい)
これからどうすればよいのか――そう、子どもが慈母にすがるように、兵たちは司令官のほうをふり仰いだ。
その、アムネリスは、だが、白馬の上で、その身をつつむ白皮の鎧よりも蒼白になって立ちすくんでいた。
「おお――なんということを……なんて恐しい……」
公女将軍とは云えいまだ十八の少女である。その有名な自制こそ、なんとか保ちつづけていたものの、周りを守る者たちに向ける目には、ひそかなおののきと不安とがかくれていた。
「イド――おお、なんという恐しい……マルス、マルス――!」
「は」
「あれは何なのだ。あんなものは生まれてから、見たことも、想像したことさえなかった――あれも、セムめのたくらみなのか? そ――それとも、ノスフェラスには、あんな化け物ばかりがうごめいているというのか?」
「御意――」
隊をはなれて、ずっと公女をそば近くで護衛していたマルス伯は重く答えた。
「もっと早くわれらが気づいておりますれば――申しわけもござりませぬ」
「あれ[#「あれ」に傍点]は一体、何なのだ。あれ[#「あれ」に傍点]を何とかして、退治る方法はないのか。わたしは、あのようなもの、はじめて見たが、そなた達は本来このノスフェラスにまぢかい辺境を守護して、この人外境についてのいくばくの知識もあるはず――あれ[#「あれ」に傍点]は、弩を射こんでも、剣で切りさいなまいても死なぬのか」
「は――」
「では、われらはどうあっても、あれに行方を阻まれ、この先へゆくためには大きく迂回するほかはないというのか?」
「は――」
マルス伯の顔は沈痛だった。
アムネリスは、まわりを見まわした。その周囲には、臨時の作戦会議のてい[#「てい」に傍点]で、主だった部将たちが集まってきていた。
マルス伯をはじめとして、魔道師ガユス、カル・モル、白騎士のヴロン、リント、フェルドリック――どの顔もまっさおだ。
アムネリスが解答を求めるようにそれらを見るたびに、見られたほうは目を伏せて、自らの無力にうなだれた。
そのときになって、ようやく兵をまとめたアストリアスが本隊に追いついて、ポラックともども報告にウマをとばして来た。
「――殿下」
白騎士たちに囲まれた公女を見るなり、若い隊長は深々とうなだれた。
「ご無事で――」
「被害は!」
俄かにアムネリスは〈氷の公女〉の威厳をとりもどして声を張る。アストリアスは力なく、
「リーガン隊は被害きわめて甚大――わが隊もかなりやられましたがさほどのことはありません。が、リーガン隊は――」
「リーガンは?」
アムネリスが訊ねた。アストリアスはますます、ふかくうなだれてすすり泣きをかみ殺した。
「――イドに……」
「リーガン小伯爵はやられたか」
マルス伯が沈痛な声をあげる。そのとき、
「火」
ぼそり――と、カル・モルが呟いた。
「え――?」
皆がいっせいに、この砂漠をこえてきたキタイの魔道師を見やる。カル・モルのみにくい顔はすっぽりとフードにかくれていたが、その手がさしのべられ、イドの方を指さした。
「イドは火に弱うございます、殿下。それだけがイドを殺します。突くも切るも無駄な怪物ですが、火にあえば――」
「そうか!」
やにわに、司令部は元気づいた。
若いリーガンの遭難をきいて暗澹となっていた一同の顔に生気がよみがえる。
「火だな!」校正
「よくぞ、思い出してくれた、カル・モル!」
アムネリスもおちつきを取り戻した。ノスフェラスという未知の、恐るべき脅威にみちた荒野のまんなかで、自信を失いかけ、ただのおびえた、うろたえた十八の小むすめになりかけていた彼女だったが、目にも、顔にも怜悧な驕慢なモンゴール公女の輝きが戻ってきた。もっとも、それが、カル・モルがイドの弱点を思い出したせいか、それとも彼女を女神とあおぎ、限りない崇拝をよせていることがはた目にもあきらかな、若く美しいアストリアスが、彼女のそばにうちしおれて立っていたせいかは、彼女自身にもわからなかったのだが。
「フェルドリック!」
「はッ!」
「伝令!」
「は!」
「イドは、火に弱い。全軍たいまつを用意の袋よりぬきとり、ありたけの火種をあつめ、ただちに火をもってイドの群れを退治する準備にかかるように」
「はーッ!」
「行け!」
フェルドリックがウマをかって走り出す。
「マルス」
「は」
「隊に戻り、青騎士をまとめよ」
「心得ました」
「そしてアストリアス」
ぴくっとして、アストリアスは顔をあげた。
公女の、エメラルド色の神秘な瞳と、アストリアスの、黒く輝かしいいちずな瞳とがあった。泣きはらした若者の顔を公女は冷やかに見つめ、一瞬迷った。しかし、口をついて出たのは、かたわらでヴロンとリントがはっと身をちぢめたような、峻烈なことばだった。
「見苦しいぞ、アストリアス! これで二度の失態ではないか。それで、アルヴォンの赤い獅子と呼ばれた男か?」
「……は」
ムチを肩にあてられたように、アストリアスは身をふるわせてうつむいた。アムネリスはなおもかさねて、
「三たびがあらば、そなたのその隊長章はないものと心得たがよい。よいか」
「――は……」
「もう、よい、退がれ。リーガン隊の残兵をまとめ、そなたの隊とあわせ、後詰に退がるがよい」
「お待ち下さい」
アストリアスはくちびるをふるわせた。
「何とぞ、何とぞ後詰の件は――」
「二度云わせるか!」
アムネリスの瞳がもえあがる。
「は!」
アストリアスが、しおしおとポラックにつきそわれて戻ってゆくのを見送って、ひそかに気の毒そうにリントとヴロンは目を見かわした。
モンゴール軍はにわかにあわただしく動きはじめていた。
「とむらい合戦だ!」
「おう、仲間を殺したイドの化け物めを殺せ!」
「火だ、火だ!」
歩兵たちは槍をおき、騎士はウマをおり、弩部隊も弩をいったんおいて、みながてんでに燃やせるものをあつめ、油をつぼにとり、巨大なたき火をまず作って、それから火をうつそうと松明を手にした。
その間にようやく日はかたむきかかっていた。あたりには、うす紫のもやが流れはじめて、どこまでいっても波のうねりのように変化のない荒野を死のように染める。かれらの前方、わずか半タッドぐらいのところに、イドの大群は、その大量のいけにえをすべてくらいつくしたものか、しんと静まって、そうすると凪ぎの海さながらにあくまでも平たく、どこからどこまでとも見当のつかぬその怪物の存在は、いよいよ、ひしひしとぶきみに感じられて来る。校正
「日が暮れきらぬうちにイドめを退治てしまわんと厄介だな」
誰かがぽつりと呟いた。その不安は、モンゴール兵すべての中にひそんでいただろう。
そしてもうひとつ――
「セムだああーッ!」
突然、絶叫があたりをつんざいた!
「出たーッ!」
「来たな!」
マルス伯が、鞍を叩いてくちびるをかみしめる。
「だと、思っておったわ。小癪なことを、サルづれが!」
暮色にようやくかすみはじめた左右の砂丘から、わらわらと、奇怪な染料に身をくまどった、悪夢のような姿が、二手にわかれてあらわれ出た!
「アイ、アイー、アイーッ!」
「ヒャアアーッ!」
「イーイーッ、イーッ!」
「きゃつら、われらがイドにかまけて気をぬくのを待ちもうけていたのだ」
マルス伯はわめいた。
「えい――者ども、かかれ! サルごときに、遅れをとるな!」
「モンゴール、モンゴール!」
青騎士たちはときの声をあげた。
が、そのとき――
「イドだあ! イドがまた来る!」
列の前方から、恐しい叫び声が伝わって来たのだ!
そして、ドドドド……という、遠い地鳴りか、近づきつつある高津波にも似たぶきみな鳴動!
セムたちは、いったんおさまったイドに、三たびアリカの汁をそそぎかけて、またそれを暴走させ、モンゴール軍めがけておそいかからせたのだ。
あたりにみちる血とアリカの匂いに、イドどもは極限まで気が立ち、凶暴になっていた。
左右からはセム――そして前からはイドの大群!
「おのれ――小ざかしいことを!」
老武人は歯がみしてわめいた。そしてかぶとの面頬を音たてておろすなり、しころ[#「しころ」に傍点]を傾け、雨とふるセムの毒矢をふせぎながら、やにわに自ら剣をとって左からの敵兵の中へつっこんでゆく。
「城主!」
「伯爵さまが危い!」
ただちにマルス伯麾下、ツーリードの青騎士二千は馬首を転じてあるじにつき従う。またたくまに、そこでは壮絶な白兵戦が三たびはじまっていた。
「イドが――助けてくれ、イドが!」
「火だ。火をつけるんだ」校正
イルム隊と、タンガード隊には大混乱がまきおこっていた。
かれらはまさにイドに立ちむかおうと火を手にしたところだったのだ。だが、おしよせるイドはあまりに多く、そして松明をかざすうちにもセムの毒欠は雨あられとふりそそぐ。
松明をかざしたかれらはうす闇の中でかっこうの目標となり、つぎつぎに顔につきささる毒矢に射られてかれらは倒れ、イドの中へころげおちた。
「火を――火をつけよ。マルス――マルス!」
アムネリスは喘いでいた。
「公女殿下。ここは危のうございます。イドがそこまで来ております。こちらへ――こちらへ!」
ガユスと、ヴロン、リントの両隊長におしつつまれ、旗本隊に守られてとりあえずひき退きながら、
「おのれ――おのれ――おのれ!」
彼女はぎりぎりと菌をくいしばって呻く。
「イドなどを使うとは――卑怯な! けだものめ、卑怯なことを――おのれ……」
彼女のくちびるがぶるぶるとふるえる。
「おのれ――グイン[#「グイン」に傍点]!」
そのとき、左にぴったりとよりそっていたガユスが、彼女の袖をひいて注意をうながした。
彼女はそちらを見やり――
そして見た。
夕日――巨大なオレンジ色の円盤となって、いまやまさに地平にふれようとしている太陽をうしろにして、あたかもそのまっただ中から立ちあらわれた、軍神ルアーその人であるかのように、砂丘の上に立つ、一人の戦士の姿を。
セムの精鋭をひきい、その豹頭は、黒くきわだったシルエットとなって、目の下にくりひろげられる修羅の戦場を見おろしている。
「グイン……!」
アムネリスの声が、あつく燃える息になって、くちびるの上で途切れた。
その目が青く光ってまばたきもせずにその彫像のようなあやしく雄渾なシルエットをにらみすえる。
そのとき、グインの右手が上がった。
無言のままそれがふりおろされたとき、
「リアード――リアード!」
「リアード!」
怒濤の歓呼がすべてのセムの戦士たちの口からほとばしったのである。
「リアード!」
その大地をどよもす雄叫びの中を、最精鋭たる五百の勇士をひきいた豹頭の軍神は、あらしのように砂丘をかけおり、マルス隊とセム軍のくりひろげつつあった大乱戦のただなかへ、一条のいかづちそのままに突っこんでいった!
たちまち、その剣が左右に、縦横に、阿修羅のはたらきを開始する。
「ヴロン! マルスを救え。えい――わたしもゆく!」
アムネリスは叫んだ。同時に、これまで満を持していた、旗本隊千の白騎士たちは、いっせいにウマをかり、豹頭の戦士めざして応戦にうって出る。校正
いまや戦いは最高潮に達していた。モンゴール軍――セムの合同軍、そしてあばれ、のたうちまわるイド。モンゴール軍の手にする、イドへの火が、あかあかと燃えあがる。
叫喚、雄叫び、悲鳴、剣戟のひびき――そして、流血と絶叫と殺戮とが、いつ果てるともなくくりひろげられる、広大なノスフェラスの砂漠。
そのすべての上に、それらすべてを包みこむようにして沈もうとする巨大な太陽は、さながらこの世界すべてを血の色に染めてゆくかに見えて真紅に燃えているのだ。
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あとがき
グイン・サーガ第三巻は、辺境篇の第三部にあたる「ノスフェラスの戦い」である。
この巻において、開幕以来一、二巻と、ゴーラの強国モンゴールに追われる無力な逃亡者としてスタフォロス城から暗黒のケス河へ、公女アムネリスの虜囚からノスフェラス砂漠へと放浪をつづけてきた、豹頭の戦士グイン、傭兵イシュトヴァーン、パロの双生児リンダとレムス、の四人は、ついに、かれらを友として受け入れ、共に戦おうという強力な味方――すなわうスフェラスのセム族とめぐりあうことになる。
そして舞台は辺境ノスフェラスへうつり、そこでさまざまな怪生物や異常現象にさまたげられつつ、ノスフェラスの荒野に食指を動かすモンゴール勢力と、それにたちむかう、ラク族をはじめとするセムの各部族とが、存亡をかけた激突にもつれこんでゆくわけである。
今後あと二巻のあいだ、(予定としては)物語はノスフェラスを背景として展開され、それからおもむろに導入部のおわり、本篇の開幕、といったなりゆきを見せるはずであるが、それは実際にどうなってゆくものかは、運命の神ヤーン以外に知るものはない。
どこからともなくあらわれた豹人グインの正体がはたして何で、その故郷、素性はどこにあるのか――あるいはまたグインの豹の顔の下に、本当に人間の顔がかくされているのかどうか。
すべてはまだ闇につつまれており、それはまた国を失った王子と王女、レムスとリンダや、気位の高いモンゴールの公女アムネリスとそれを慕う若い勇士アストリアス、一国の王たるべく生まれたと予言されている陽気なイシュトヴァーンらの主要な人物たちの運命についても同じことである。
どちらにせよ人びとは運命の手に操られて自らの道を歩み、かつまた自らの道を歩むことで、知らず知らずのうちに最も巨大な運命の曼茶羅を織りあげてゆこうとしているのである。
第三巻の舞台となっているノスフェラス地方の、怪異な動植物についての解説を次に掲げておく。
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|大 口《ビッグマウス》 ケス河に棲む巨大な肉食の怪物。名のとおり大きな牙の生えた口のかたちをし、目や第二の口や舌はその口の奥にある。大きなものでは全長三メートルにも及ぶものもある。またノスフェラスの砂漠にいる陸棲の同種のものもおり、こちらは〈大食らい〉と呼ばれているが、からだのつくりはおおむね似ている。性質は凶暴で貪欲。
|砂 虫《サンドワーム》 ノスフェラスの大ヒルナメクジ。ぶよぶよして、頭にじょうご型の吸血口があり、それを吸いつけて生物の血を吸う。きわめて源始的な生物で分断されてもなかなか死なない。
|環 虫《リングワーム》 ケス河の怪物、クラゲとイソギンチャクをあわせて巨大化したような半透明の生物。体の上部にうようよと透明で毒の刺胞のある触手が数千もついている。イドは系統的には環虫から派生したとおぼしい。
オオアリジゴク ノスフェラスの砂漠に棲む。しばしば大食らいと共生、えものをひきつけてやり、大食らいの食べのこしを食べる。
砂ヒル 砂虫よりは小さいが、数はずっと多い。ちょうど人間の胃袋くらいの大きさと形。生血、死肉、腐肉をたべ、ノスフェラスの掃除屋と呼ばれている。陸生のナマコのようなもの。
エンゼルヘアー ノスフェラスのいちばんありふれた生物。ただの白い糸のように見え、風にのって漂い、さわるととけてしまう。知能も独自の行動もない、きわめて原始的な存在。実は――
アリカ つよいアンモニア臭をもつ木。その実の中には異臭のある果汁が多く含まれ、イドはこの匂いをたいへん嫌うのでイドよけに栽培されている。
イド ノスフェラスに部分的に群生する怪物。わりあい小さいことも、砂漠をすべて埋めつくすような大群落をつくることもある。ぶよぶよしたゼリー状のアメーバ生物で、なんでもぴったりとおおいつくしたら放さず、生物ならおしつぶしてすべての養分を吸いとってしまう。決して離れないのでつかまったら致命的。ノスフェラスの怪物中でも最も危険でおそろしい。ノスフェラスのセム族中、ツバイ族だけがイドを飼いならして狩猟に使ったりしている。
セム族 ノスフェラスの荒野を中心として棲息する前人類。原始人で外見は身長一メートルから一メートル二、三十くらい、体重もそれにあうぐらい。全身を体毛におおわれ、おおむね尻尾がある。動作はきわめて敏捷。原始的なとはいえ知性も、言語も有しており、首長制のもとに大家族で生活している。住居はたてあな式の原始的なもの。石器の段階。凶暴なカロイ、グロ、比較的温和なラク、などの種族がある。ツバイがイドを飼って狩猟をするほかは、ごく原始的な捕食生活を行っている。主要食物は、苔、虫類、砂漠の果実、トカゲや鳥の肉など。
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著者略歴 昭和28年生、早稲田大学文学部卒 主著書「豹頭の仮面」「荒野の戦士」(以上早川書房刊)他多数
GUIN SAGA<3>
ノスフェラスの戦い
一九八〇年三月十五日 発行
一九九〇年一月十五日 二十四版
著 者 栗本薫
発行者 早川浩
印刷者 矢部富三
発行所 株式会社早川書房
平成十九年三月十五日 入力 校正 ぴよこ