グイン・サーガ 2 荒野の戦士
栗本薫
新興ゴーラの進撃の前にパロの王国は滅び去り、王家の血をひく者はリンダとレムスの双児の姉弟だけとなった。からくも辺境におちのび、グインと名乗る記憶を失くした、そして豹の頭を持つ怪人に助けられた二人だったが、ついに辺境の砦スタフォロスへと連行されてしまう。だが、万事休すと見えた時、妖魅の地ノスフェラスより進攻した蛮族の襲撃にスタフォロス城は陥落、リンダ、レムス、グイン、そしてやはり城に捕えられていた傭兵イシュトヴァーン、セム族の娘スニの五人は、死の河ケスにイカダを乗り出した――未曾有の大シリーズ第2巻!
[#改ページ]
WARRIOR IN THE WILDERNESS
by
Kaoru Kurimoto
1979
[#改ページ]
カバー/口絵/挿絵
加藤直之
[#改ページ]
目 次
第一話 死の河を越えて………………… 九
第二話 蛮族の荒野……………………… 七七
第三話 公女の天幕………………………一四三
第四話 イドの谷間………………………二一一
あとがき……………………………………二八一
[#改ページ]
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
――そしてかれらは糸に引かれるように
ノスフェラスへの道を歩んだ。かれらの
上にはつねに暁の星があり、かれらをあ
るべき姿へと導いたのであった。
――『イロン写本』より
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#改ページ]
荒野の戦士
[#改ページ]
[#改ページ]
第一話 死の河を越えて
[#改ページ]
[#改ページ]
1
朝もやが薄紫色にケスの水面を霞ませている。辺境の夜明けである。
見わたすかぎりのノーマンズランドは、その荒涼とした岩と砂、砂と同じ色のわずかな草木にふしぎな独特の美しさをたたえていた。きびしく、人の介入をゆるさない、一種凄絶な驕りの美しさである。その荒野を、同じ辺境でもケス河をへだてたこちら側とは、その緑のいろからしてまったく別世界のように違っていた。
もっとも、いまは、必ずしも河の北岸であるルードの森の周辺が、緑につつまれた平和な世界として見るものの目に映ずる、というわけではない。――リンダはそう考えながら小さな拳を空につきあげ、あくびをした。ルードの森のなかばは灰燼に帰し、そしてその森々のなかほどに高くそびえ立っていたゴーラの護り、スタフォロス砦の雄姿もまた、一夜にして失われてしまったのだ。
「あれほどゆるぎなくそびえ立っているように見えたのに」
白に近い輝く金髪、ほっそりと伸びた四肢と神秘的なスミレ色の目をもつ少女は自分の肩を抱くようにしてつぶやき、そっと瓦礫と化した城墟を見やった。そこからはまだくすぶる黒煙がいくすじか立ちのぼっている。さしも難攻不落を誇っていたスタフォロス城は、おしよせたノスフェラスのセム族の大軍との、丸一昼夜にわたる攻防に破れ去ったのだ。
スミレ色の瞳を翳らせて、何万という死者を出した戦いのあとを見やっている少女の傍で、小さな人影がむくりと起き上がった。
「何かいった? リンダ」
ねむそうな声でたずね、そちらへ首をのばす。朝日が照らし出したのは造化の奇蹟ともいうべきものだった――そこに立って腕組をして、少年のような革の服に身を包んで物思いに沈んでいる美少女と、髪の長さをのぞいてはまったく寸分たがわぬ美しい顔。
そこにまるで磨きぬいた鏡が立ちあらわれたようにして、可愛らしい少年は姉のわきによりそい、スミレ色の目でのぞきこんだ。そうして並ぶと姉弟はほとんど、どちらが少女で、どちらが少年であるのかさえ見分けがたいほどだ。――これはパロのいまはついえた王家の遺児、王女である〈予言者〉リンダと唯一の正当なパロの王位の継承者、王子レムスだったが、姉のほうはきっぱりと果断な性格をあらわして少女としてはきつい顔立ちであり、弟のほうは、むしろ夢みるようにやわらかい瞳とうっとりと開かれた唇をしていたので、その結果、二人は黙って立っていればまずそれと見分けはつかぬふたつぶの真珠のようなのだった。
かれらはパロのクリスタルの都が、野蛮なゴーラ兵の蹂躙するところとなり、かれらの父王、母王妃もまたその刃にかかった黒竜戦争の日に、クリスタル・パレスの奥にかくされていた太古の機械によって九死に一生をえた。ところが、ほんのわずかな座標の狂いが、かれらを予期しなかったゴーラの辺境、ノスフェラスの荒野のまぢかへと送りこんでしまい、そのために双児は、発見されて偶然出会った奇怪な連れたちと共にスタフォロス城へ拉致されて、セムの大夜襲に遭遇することになったのである。
その、いかにも奇妙な組みあわせの連れたちは、双児と共に難を逃れて一夜をあかした、スタフォロスの崖の真下にある巨大な岩かげで、まだ思い思いの格好で眠り呆けている。ようやくセムの部隊がすべてひきあげ、すっかり安全だという確信がもてるようになったときには、もう太陽神ルアーのチャリオットが地平に最初の一閃を投げかけていたので、夜どおしの緊張から解放されたかれらは前後不覚に眠りつづけていた。
もっとも、こそ[#「こそ」に傍点]とでもいぶかしい音か気配があれば、かれらはそのドールの闇よりも深い眠りからでも瞬時にめざめて、膝にひきつけたままの大剣をかまえたに違いない。そう考えて、リンダはかすかに笑い、両手で汚れた金髪を肩のうしろへかきあげた。
「リンダ」
弟のレムスが、ようやくはっきりと目のさめてきた顔でいう。滅びの朝のすきとおった静かさを乱すのを恐れるかのような囁き声だ。
「ぼくたち、生きてたんだね」
「あたりまえじゃないの」
苛々したようにリンダは答えた。レムスは慌てた。
「ねえ、リンダ! そんなに大きな声出したら、そのへんに、まだ奴らが……」
「いるわけないわ、まったくあんたって何も考えてないのね」
リンダは決めつけた。
「セム族は、昨日のあの炎が他の辺境の砦から丸見えだったことを知ってるわ。今日中にも、アルヴォン、タロス、その他の近い砦から援軍がスタフォロスへ着くでしょう。セム族はそれを恐れてるわ。きのうだって、本当なら夜を徹して死体をつみあげて大祝宴を張るだろうに夜明け前に次々とカヌーを出してひきあげていったのは、新手のゴーラ軍にぶつかったらお終いだと知ってるからよ。でなければ、私たちをあっさり見のがすものですか」
「あっ、そうか」
「あんたったら、いつだって、その頭を半分しか使ってはいないのよ。ああ、それにしてもお腹がすいた」
急に現実にひきもどされたようにリンダはぺちゃんこのお腹をおさえ、世にも悲しげな溜息をついた。
「この辺には魚がいる筈なのだけど、きのうああ派手にケス河が血に染まっては食べる気もしないわ。セム族とゴーラ人の死体がたくさんケス河に流れたもの。きょうのこの河の魚は、きっとそれをたらふく食べているはずだものね」
「でも、あんなに夜、血と死体でまっかだったのに、けさはもう、こんなにきれいに青くて、静かなんだね」
レムスは感心した。リンダは舌打ちした。
「下流へ流されたのよ、ばかね。――いくらケス河の魚が多くても、あの死体を一夜で食べきれやしないもの」
リンダは間違っていた。平和な中原のパロで、花のように大切にされて育った王女が、暗黒の流れといわれるケス河について、正確な知識をもちあわせていなかったとしても仕方がない。リンダはそんなことは少しも知らずに、
「餓え死にしちゃうわ。それはまだいいけど、セム族が恐れていたゴーラの援軍は、わたしたちにとっても脅威のはずよ。かれらに見つかりたくないと思うなら、もうさっさとここを立ちのかなくてはならないのだけど――」
どちらへ向かって逃げのびればよいのか、と、リンダは見まわし、そして首をふった。目のまえにひろがるケス河にはとうてい希望を託すことはできそうもない。うしろの森の方へひきかえすことはそれこそゴーラの大軍にまっこうからぶつかる危険を犯すことになる。そして、ケス河の向こうにひろがるノーマンズランドこそは、世にも恐しい、妖魅と蛮族との跳梁する孤独な荒野なのだ。
「早くグインが目をさまして、考えをきかせてくれればいいのに」
リンダはかわいいくちびるをかんだ。弟はなだめ顔で、
「大丈夫だよ。きっと、グインにまかせておけば何もかもよくなるよ」
「だといいけれどね。ここはケス河なのよ」
リンダは云った。しかしふりかえったときふとその目が和んだ。
「スニ。グイン」
岩かげの一夜を明かした隠れ家から立ち上がってこちらへ歩みよってくる二人をみて云う。それはいかにも対象的な二人だった。
ちょこちょこと小走りにリンダにかけよってくるスニは小人族セムの少女である。セム族といっても、昨夜大挙してスタフォロス城を襲撃したカロイ族ではない。カロイは狂暴で知られているが、スニの部族、ラク族は、むしろおとなしい種族である。
セム族は、種族によって多少の大小はあるけれども、平均身長が約一メートル。体重もそれに見あうぐらいしかないし、そして顔にも手足にも剛毛が密生している。それは一見すれば人というよりは猿に近いし、また事実知能もかなり低いとされている。しかしかれらはまったくの獣ではない。
その証拠に、かれらなりの奇妙な言語ももっているし武器をつくることもできる。火もつかえるし、毛皮をまとい、布で身をかざりさえする。そしてその小さな頭の中にはいくばくかの情愛もちゃんとしまいこまれている――そのことは、リンダやリンダの連れによって三回、生命を救われたこのスニが、リンダを忠実な犬のように見上げる、そのクルミ色の目をみればちゃんとわかった。
そのスニのうしろに異形の者が立っていた。豹頭戦士のグインである。
名はグイン。しかし、それしかわからない。国も、これまでどこで何をしていたのかも、いったいどんな事情で放浪することになったのかも――彼は、一切の記憶を失って、ルードの森に裸で倒れていたのだ。
朝の光に照らされ、スニのうしろから歩みよってくる彼は、身長にしてスニの二倍以上、体重ならばたぶん、三倍ではきかぬだろう。しかもそのみごとな体躯には、これっぽっちのムダな肉もない。ずっしりとした鋼のような筋肉に鎧われたからだつきは彼が、きたえぬかれた容易ならぬ戦士であることを明らかにしているし、その浅黒いからだのあちこちにこびりついた、かわいた血、古いのや新しい傷あと、は彼の波乱にみちた過去を示しているようだ。
そして、その雄神のような体躯に異様なさいごの仕上げをしているのは、肩の上にすっかりおおいかぶさって彼の顔をつつみかくしてしまっている豹頭――ほんものの険呑な野獣の頭なのだった。
「充分にやすんだか」
唸るような声でグインがいう。その声は、もう双児はすっかり慣れてしまったけれども、豹頭のために重々しくくぐもって、慣れぬものにはかなりききとりづらい。
「体力をたくわえておかんときついぞ。今日じゅうにはゴーラ領を出るまで行っておかんと危いからな」
「ゴーラ領を出る?」
レムスが目をまるくして云う。
「でもどうやって?」
「驚くことはない。この河ひとつわたればそこがもう辺境だというのは、わかっているはずだ」
スニがちょこちょこと走りよってリンダの足もとに身を投げ出し、憧れるように銀髪の少女を見上げた。リンダはその小さな頭を無意識のままなでてやりながら、ケス河の朝日に照らされたグインの、神話の神がそのままあらわれ出たような幻想的な美しさにうたれている。
「辺境に足をふみいれたりしたら……」
レムスがぶるっと身をふるわせる。
「他に方法はあるまい。昨夜考えていたのだが、とにかくケス河をおしわたり、そしてノスフェラスの荒野を横切って、何とか中原の東端にたどりつくのだな。他のルートは困難なだけでなく危険だし遠すぎる。それに俺とスニがいては、人目に立ちすぎるからゴーラ領をつっきるのもムリだ」
「でもノスフェラスの荒野――」
「いや、まだ一つ方法がないでもないぞ、グイン」
突然うしろから声がかけられて、一同はふりむいた。かれらの目にうつったのは、まだ若い戦士のハンサムな顔だった――ヴァラキアのイシュトヴァーン、〈紅の傭兵〉の。
咋夜、セム族の部隊とスタフォロス城の城主のすがたをかりて城内を跳梁していたルードの死霊、双方に追いつめられた、グイン、パロの聖双児、それにスニの四人は逃げまどった揚句に黒い塔の天辺にたどりついた。
そこの抜け穴から塔の屋根へと這いのぼったかれらを、なおも炎と蛮族は追いかけてきた。いかにグインの力と技倆とが衆にすぐれていようとも、多勢に無勢でこのままゆけばいつかは斃されることが目にみえている。
それと知ったグインは決然と危険な賭けを選んだ。すなわち、戻っても死、とどまっても死、ならば万にひとつの死中の活を求めて、塔の屋根からはるかな眼下にひろがる暗黒の河、ケスの水面へと、リンダとレムス、それにスニを革のベルトで結びあわせておいてやにわに身を投じたのである。
はてしない浮揚の感覚とどこまでも落ちてゆく恐怖、そして激しく水面にからだが叩きつけられたかと思うと、暗黒が四人の逃亡者をのみこんでしまった。
とはいうものの、かれらは予想外に運がよかった――それとも運命の神ヤーンに守られていたのである。というのは、何百メートルの高みからとびおりたのだから、身を守ってくれる水面にでなく、粉々に砕いてしまう岸べの岩に激突してもふしぎはないところだったのだから。しかしかれらは一たんケスの水中に没し、それから意識を失ったままで暗黒の河の水面にぽかりと浮かびあがった。
かれらの幸運は二重だった。もしそのまま浮かんでいたら、誰かが気がつくより早く、ケスの大魚やあるいはもっと別のものが、かれらを見つけたかもしれない。
ところが、かれらが羽根を失った巨大な鳥のようにおちてくるのを、ケス河の水面近く、切りたった崖の根もとの岩に身をかくして、じっと見守っていたものがいた。イシュトヴァーンである。
この海近いヴァラキア生れの、陽気でたちの悪い若い傭兵は、スタフォロス砦の城主に反抗した罪で死刑を宣せられ、グインたちの隣の牢舎にとじこめられていたのだった。しかし、自らの運命は自らで切りひらくとばかり、夜を徹してナワばしごを編んだ彼は、ひと足先にスタフォロス城を脱走してしまったのである。ちょうど、沈みかけた船からの脱出どきをなぜか|ネズミ《トルク》が知るように、自ら超能力者〈魔戦士〉を名乗るかれには、丁度よいときというものを厳密にかぎあてる、奇怪な能力がそなわっているようだった。
なぜなら、もしその夜であったら、砦をおそったセム族によって囚人のまま殺されたであろうし、もっと早かったら、崖の下にひたひたと押寄せてひそんでいたセム族の大軍にまともにぶつかった筈である。
そうなればいくら彼がすぐれた戦士であっても、あとからあとからかかってくる小人族をすべてたおすことは不可能だったろうし、また崖の下での戦いのもの音を城の人間が気づいたら、スタフォロス城の運命も大きくかわっていただろう。しかしイシュトヴァーンは、あたりが闇につつまれ、こっそりと上流をおしわたったセム軍が、森と崖下の二手にわかれて奇襲の布陣をおえた直後にナワばしごをつたってケスの河原へ逃れ出たのだった。
ヴァラキア生れの陽気な傭兵は、しばらく、水面に浮きつ沈みつする人影を見やりながら、どうしたものか思案していたが、やがて、助けてやることが自らの得になるであろう、という結論に達した。
で、そろそろと這い出てきて、手かぎのついたナワを投げた。もう夜になっていたが、スタフォロス城をつつんだ炎のおかげであたりは真昼のように明るかったのだ。手かぎでひっかけた四人を苦労して岩の上にイシュトヴァーンがひきあげたのは、まことに危機一髪だった。彼がたくましい腕にナワのように筋肉をもりあがらせて、重いぬれそぼったからだをひきずりあげたとき、黒くねっとりと静まってみえた河のおもてにざあと波が立ち、同時にものすごい牙のはえた巨大な口がぱくりと歯をかみあわせたからである。その化物は、ぱくぱくと二、三回歯をかみあわせたあと、手近に漂っていた城兵の死体をくわえこんで姿を没した。
「ウワッ」
イシュトヴァーンはつぶやいて魔よけの印を切る。
「〈|大 口《ビッグマウス》〉だ」
もうあらわれぬのをたしかめてから、助けた四人をじろじろと検分した。それは奇妙きわまる組合せであったが、イシュトヴァーンはセム族の少女には目もくれない。ひたすらグインに興味をひかれ、ゆさぶったり、その豹頭をこっそりもちあげたりしようとしてみた。
「へえっ、地獄の犬ガルムの炎の舌にかけて! たまげたもんだ、こいつはほんものの豹あたまをしてるぞ! 酔狂か面をかくすために、出来あいの仮面をひっかぶってるんじゃねえ」
低く叫び、ずるそうに下唇をなめまわす。グインの筋肉をおしてみたり、長剣をとって考えこんだりしたあげく、リンダとレムスに目をうつした。イシュトヴァーンのその切れの長い目がふいに細められた。
「こいつは例のガキで――こっちは女の子だな。――ふう! 青白いイリスにかけて、あと十年もすりゃあ国々はこの娘をめぐって戦争をおっぱじめるだろうよ。どう見てもただのそこらの子どもなわけがない。いや、待てよ、〈紅の傭兵〉よ、ちょいとよく思案するんだぞ!」
ヴァラキアふうにあぐらをかいて座りこんだ彼は飽くことなくリンダの気を失った美しい顔をのぞきこみながら、ぶつぶついっていたが、ふいにぴくっとはねおきた。
うしろに、セム族が一人、毒矢を手にして忍びよってくるところだったのだ。おそらく部隊をはぐれたか、ずる[#「ずる」に傍点]を決めこんだやつだろう。イシュトヴァーンが気づいたと知るやそいつは毒矢を放ってきたが、身をよけざまの剣の一閃が猿人の頭をケス河へふっとばした。
傭兵は他にもいないかとにらむようにあたりへ目を配った。そのとき、グインたちが、もぞもぞと身動きしはじめた。
そうして、かれらは、危険で不安な一夜を、イシュトヴァーンが前もって隠れ家に選んでおいた、えぐれてうろのようになった岩かげに身をひそめてやり過したというわけだったのである。
「話はきいたよ」
そのイシュトヴァーンは、胸のところで腕をくみ、横柄な云いかたをした。
グインほどではないにせよ、やはり非常な長身といってよい彼である。ただ、横はとうていグインにはかなわない。むしろすらりとして、鞭のようなからだつき。しかし十二のときから傭兵で生きてきたと自慢するだけあって、ムダのないその体躯はいかにも強く敏捷そうだ。それをつつむのはゴーラ兵の鎧かぶとだが、牢に放りこまれるとき、ゴーラの紋章類はすべてはぎとられてしまった。
かぶともうしろにはねのけ、若々しい顔を日のもとにさらしている。まだ二十そこそこである。引きしまってぬけめのない、いくぶん長めだけれどもなかなか男前の顔立ち。黒い髪はモンゴールふうに短くかりこみ、そげたように痩せた頬にうかぶ笑みは皮肉っぽい。
しかし何よりも見るものの目をひくのは、その浅黒い顔の中できらきらとして、いつも何やら悪だくみをためこんでいるような、彼の黒い目である。それはずるそうにまたたき、信用ならぬ光をたたえているくせに、妙に愛嬌があり、そしてあまりにも生き生きと輝いているので、見るものはゆだんのならぬやつだと思いながらもつい、心をひかれてしまうのだった。腰におびた長剣と短剣、足首までの革のクツ。
「もうひとつ方法がある――そう云ったようだな」
グインがその彼に無表情な豹面を向けていった。そのくぐもった声をききとりにくいようすで、イシュトヴァーンはせっかちそうにうなづいた。
「とにかくゆうべのあのさわぎは何とか切りぬけたし、われわれにとって幸運だったのは、セム族のやつらもひきあげていっちまった。しかしここにいたんじゃどうしようもない、ゴーラ兵にみつかるのを待つだけだ、ってのは、あんたの云うとおりだよ、豹人。――しかしその前に、もう一つしておきたいことがある」
「何だ」
「腹ごしらえさ」
イシュトヴァーンはニヤニヤして云うと、魔法のようにうしろから食物をとりだした。それは彼が牢を脱走するときにもってきたものだ。冷たい焼肉と、それに穀物の練り粉でつくったかたまり。
見るなり王子も王女も唾をのみこんだ。イシュトヴァーンは気前よくその食物を切りわけたが、スニに与えるときには惜しそうな顔をした。
とりあえず、しかしかれらは朝食にありついた。岩の上にすわって、こねた練り粉に指でおしこんだ冷肉をたべながら、かれらはこれからの相談をした。とにかくゴーラ領には入らずに、ということは何とかして辺境をつっ切って、文明圏にたどりつかねばならない、という点では、スニをのぞく四人の利害は一致していた。
「そのセム族は途中のどこかで仲間をみつけることもできるだろうしな――おれはどうせゴーラではもう札つきで、雇ってくれる者がないどころか、白状すると辺境警備隊に志願したのは、ちょいとまずいことをやったからなんだ」
イシュトヴァーンはにやりと顔を長くして云った。
「トーラスで貴族のせがれをばらしちまったのさ。で、これはヤバいというので――実はユラニアでおたずね者になってクムに流れ、クムの都ルーアンで決闘のさわぎをひきおこしてモンゴールにやってきたのだから、おれはもうゴーラ三国領にいるかぎり浮かぶ瀬はない。――といってもうサルどもの相手はたくさんだしな、だからこの際北方のケイロニアか、それとも太古王国のハイナムをでもめざそうかと思っていたところだ」
「わたしたちは――」
リンダはちょっと考えた。グインはともかく、イシュトヴァーンはまだ信用しきれるとは思っていない。どこまでもらしてよいか、迷ったが、
「わたしたちはケイロニアか、アルゴスに行くつもりでした」
「アルゴスか。先日滅びたというパロの王の妹が、嫁いでいる草原の国だな」
何でもないふりをしてイシュトヴァーンが云い、双児のぎくりとするさまを目を細くして観察した。
「豹あたま、お前はどうする気だ」
「俺は――」
グインは考えた。
「俺は〈アウラ〉ということばを何だったのかつきとめたい。それがわかればあるいは俺が何者で、なぜこんな姿をしているのか、わかるかもしれない。それだけだ」
「では、辺境をつっきってケイロニアをまず目ざすことに、別に異論はないわけだ」
「ああ」
「よし、決まった」
〈紅の傭兵〉は陽気に、
「それで、おれのさっきいった提案なのだが――それは、もし運がよければ、スタフォロス城のやけあとに、まだ一隻や二隻のイカダがぶちこわされずに残っているはずだ。それとも少し直して使えるのがあればそれでいい。そいつを見つけ出して、とにかくケス河へのりだしちまおう――ってのがおれの考えだ」
「ケス河へのりだす?」
レムスがおどろいて叫び声をたてた。
「ダメだ、できるわけないよそんな――ケス河がどうして暗黒の河と呼ばれているのか、それはみんなよく知ってるじゃないの。これを下って生きて帰ってきたものはいないって、むかし教えられたよ。そこは妖魅の領界であるノスフェラスの荒野と、文明界との境をなすところで、いろんな他のところでは見られない奇怪な生物が棲んでいるって」
「ああ、小僧、そんなこたあ、お前に教えてもらうまでもないのさ。おれはお前がおしめにくるまっていた時分にはもう、戦場かせぎをして世界じゅうをかけまわっていたもんだ」
イシュトヴァーンはばかにしたように笑った。レムスは怒って傭兵をにらみつけた。
「ケス河を下ってどうするの?」
リンダは弟の憤慨ももっともだと思いながらきいた。イシュトヴァーンはずるそうな目で美しい少女をちらりとぬすみ見た。
「ケス河を下ってロスの河口に着く。ロスの町で、レントの海をわたる商船をみつけて乗り組ませてもらう。そうすれば、ほとんど苦労しずにケイロニアなりヴァラキアなりにつくことができるし、そこからさきはどうなりとすればいいからな」
「但しこの俺が、商船に怪しまれることなく乗り組めるとしての話だがな」
それまで黙っていたグインがぼそりと云った。イシュトヴァーンは冷肉の脂のついた指をなめ、ゲラゲラ笑った。
「そのでかい豹あたまを、何とかしてしまうわけにいかんのかね」
ひとしきり笑ったあとでまじめになって云う。しかし彼の黒い目は、まだ嘲笑に似たきらめきをたたえている。
「できるならとっくにやっているわ」
リンダがグインを庇った。
「彼は誰かの呪いをうけたのだと思うわ。これはとろうとしてもとれないのだもの。フードか何かで――」
「そんなことをすれば、かえって目立ってしかたがないだろうな」
そっけなくイシュトヴァーンは云い、腰にさげていた水筒からひと口のんだ。
「まあそんなことはあとで、人里に出てから心配すればいい。ケス河にすむ|大 口《ビッグマウス》や屍食らいの魚どもは、グインが豹あたまの化物だろうと、豹そのものだろうと気にとめやしないよ。――それにしても」
つくづくとグインをながめやり、改めて感にたえた、というようにつけくわえる。
「それにしても一体どんな事情と、どんな魔道の呪いが、こんな奇態な生き物をつくり出しちまったのだろうな。おれは〈紅の傭兵〉として全世界を、北方のクインズランド、タルーアンから南方の諸島、美しいシムハラから泥の国ルート、はては神々に見すてられた『不具者の王国』フェラーラにまで足をのばしたものだが、それほどにさまざまなことがらを見聞きしてきたこのイシュトヴァーンにして、こんなにも説明のつかぬ出来ごとを目のあたりにしたことはなかった。女の子、お前は知らんだろうが氷雪のクインズランドを治めるのは〈氷の女王〉タヴィアで、彼女は事実上氷のなかに封じこめられてしかも生きている女なのだ。そうだ、コーセア海の宝石シムハラを治めているのは、牛頭人身で、しかも尻尾のある大祭司なのだが、その牛頭ってのはかぶりものでさ、宝石をちりばめた世にもおぞましい仮面にすぎないのだ。この世にはいろいろと奇妙なことがたしかにあるものだが、その大半をもたらすものは、要するにただの人間なのだからな。
ところが、この豹あたまときたら!」
イシュトヴァーンは嘆息した。
「こればっかりは、どうしたって、戦士の首をもぎとって、かわりにほんものの、モスの草原の豹の首をのっけ、しかもそこに戦士の頭脳と魂をはめこんだのだとしか思えやしない。――あああ、おれはどうも苛々する、この豹あたまを見ていると、気になりはせんがどうも妙な気持になるのだ。おれは、ちゃんと理屈のつけられぬことというのは、あまり好きではないのでな!」
そんなことをいったって、とリンダは反発しながら考えた。グインは何も好きこのんで、こんな姿をしているわけではありゃしないわ。
ところが、イシュトヴァーンは、そのリンダの口に出さぬ思いが、まともに声に出して云われでもしたかのように、平然と答えた。
「たしかにそうだ、女の子。こいつが豹あたまの化け物にされてしまったというのは、たしかに何もこいつのせいではない、だからこいつが一日も早く自分の素性のカギをにぎってるらしい『アウラ』とかいうことばの謎をときたがるのも、実に当たりまえなことさ。おれだってそうしたに決まっている。
にもかかわらず、世の中には、摂理ってやつがあって、そいつがおれを落ちつかなくさせるのさ。おれは〈魔戦士〉イシュトヴァーン、紅の傭兵だ。それなのに、おれやお前にはどうすることもできぬ巨大な何かがあって、そいつにこのおれが操られている、なんて考えたら――これは、苛立ちもしようってもんじゃないか。
たとえば――おい、女の子、お前はきいたことがあるか? 〈光の公女〉のことを?」
「〈光の公女〉?」
リンダは考えた。そのことばは、妙にききおぼえのあるような印象を与えたのだ。しかし、レムスと顔を見あわせた上で、リンダは首をふった。
「それが?」
うながしたが、するとイシュトヴァーンは口の中でむにゃむにゃ云って黙ってしまった。
「〈光の公女〉って何なの?」
リンダはかさねてきいた。しかしイシュトヴァーンは答えようとせず、そのかわりに、ふいに膝の上の粉くずを払いおとして立ちあがった。
「さあ、こんなにしゃべくっている場合じゃない。どうするんだ、イカダをみつけてケス河を下り、ロスの河口に出るっていうおれの案に、のるか、乗らんのか? 危険な上にどこまでいってもつきることのない、ノスフェラスの荒野にさまよいこみ、道に迷う危険をおかしながら蛮族や妖怪どもと戦いたいか、それともケスの妖獣どもを払いのけてあとはらくらくと海路ケイロニアへむかうか? 早くきめろ、おれはどっちにせよイカダをさがすし、そしてもうすぐアルヴォン砦の救援もつく、河をわたらぬわけにはいかないんだ」
リンダとレムスは心を決めかね、しっかりと手をにぎりあって目をみかわし、それからグインを見た。スニは、話の内容はほとんどわからないなりに、それが主人たちにとって重大な話であると理解したらしく、岩かげで肉をかじりながらひっそりと待っている。イシュトヴァーンの黒い、性急な目がキラキラとしてかれらを見つめている。
グインの無表情な豹頭が、ゆっくりと前へ傾いた。
黄色の目は、はかり知れぬ表情をうかべていた。彼は重々しく口をひらいた。イシュトヴァーンでさえもわかっていた――グインのひとことがこの後の行動を決定するのだ、ということが。このパーティの指導者はグインだった。これに限らず、どんな場合にでも、それはそのとおりだっただろう。誇りたかいパロの王女ですらそれを知り、決定を待っていた。この呪いをかけられた豹頭の戦士には、何かしら生まれながらにして世界の王座を与えられた者の威厳、とでもいうべき何かがそなわっていたのだ。
グインはくぐもった、重々しい声で云った――
「イカダを探すなら、地下の穴蔵からだろうな」
イシュトヴァーンが膝を叩き、彼の甲冑は陽をうけて彼の黒曜石の瞳のように黒くきららかに輝いた。――一行のとるべき道は、決まったのである。
[#改ページ]
2
イカダを発見することは、思ったよりも難儀な仕事ではなかった。――というのは、セムたちは略奪には夢中になったけれども、地下の倉庫にたくさん用意してあった、モンゴールの舟や大砲の部品などには興味を示さなかったからである。
セム族がほしがったのは主としてゴーラの精巧な弩と――そして衣服や布の類だった。ノスフェラスの荒野には、布の原料になるような植物などはほとんどなく、セムたちは荒野にすむわずかな数のけものや、もっとおぞましいことは敵対する他種族の同類をとらえては、皮をはいでなめし、身にまとっていたからである。リンダとレムスは威容を誇っていた城の廃墟のそこここにころがっているゴーラ兵の死体が、衣服をひきはがれているのをみて目をそむけた。それは惨澹たる光景だった。スニが怯えたようにリンダの上衣のすそを握りしめる。
グイン、そしてイシュトヴァーンは、そんな光景にわずかでも心を動かされたとも見えなかった。機械的に屍をおしのけて道をつくり、なかば焼けくずれた大扉の前では協力しあって死体を左右へ放り出した。イシュトヴァーンは巨漢のグインと並ぶとほとんどほっそりしているとさえいってよいくらいだったが、その痩身は非常な筋力を秘めて楽々と重い鎧をつけた死体をもちあげた。
やがてイシュトヴァーンが歓声をあげた。扉のむこうに、手つかずで残されていたイカダを発見したのである。
イカダといっても、それはきわめてしっかりとつくられていて、固い木の板を鉄の帯ではぎあわせ、わずかながら必要なものを入れられるよう船底めいたものもついていて、それに帆もはれるようになっていた。ケス河のような、幅広いけれども流れのはやい河にのりだすためには、細長いボートよりも、ひらたいイカダの方が安定性がたかいのである。
四人とセム族の少女とは汗みどろになって、焼けあとからイカダを運び出した。イシュトヴァーンが丸い木の枝を拾いあつめさせてころ[#「ころ」に傍点]にし、押したりひいたりして城壁まで運んだ。
そこで切りたった崖をどうやって無事にイカダをおろすかでかれらは途方にくれたが、これはほどなく解決した。イシュトヴァーンが、城内から水面へイカダをおろす吊り具を見つけてきたのである。かれらはてんでに巨大な滑車にとりつき、何とかイカダをケスの河原におろすことができた。そのときにはもう、日は天の中央たかくのぼりつめて容赦なく照りつけていた。
かれらは汗みずくで一休みすることにした。ゴーラの友軍が砦の危機を救うべくかけつけてくることはわかっていたが動くことができなかった。炎熱と疲労とで、パロの双児はぐったりとへたりこみ、スニがしきりに葉扇であおいでくれるのも気にとめなかった。〈紅の傭兵〉でさえ汗にまみれて肩で息をしていた。
「おい、本当にお前は人間なのか、豹あたま」
ひとり、たくましい胸を上下させてさえおらぬグインを見やって、いまいましそうに悪態をつく。
「蛇神セトーの飲みこんだ彼自らの尻尾にかけて、おまえが人間だとしたら他にひとりも人間などはいやしないにちがいない。何ていう体力なんだ?」
グインは答える手間を省いた。
傭兵は、苦心のすえにようやく水面へおろしたイカダを満足げにながめた。
「ともかくイカダは手に入った。これは、何かの必要があって城兵がケス河をわたるときのために作ったものだが、しかし知っているか、おれたちがスタフォロス城でどのような訓練をうけていたかを。おれたちは、ケス河をおしわたりながらイカダにナワをつけてひいてゆき、対岸からそれをひっぱって、何とかしてケス河に橋をかけることはできないかと何度も試みたものだ。おい、グイン、これがどういうことかわかるか。モンゴールのヴラド大公は、彼の領地の西北限がケス河で切れていることをおおいに不満に思っている。公は、大軍を遠征させて、ノスフェラスの荒野にまでモンゴール大公領をおしひろげ、他の二大公、クムのタリオ公とユラニアのオル・カン公に一気に水をあける野望をもっているのだぞ。あの恐しいノスフェラスの荒野にさえ、虎視眈々としているのだ」
「俺にはかかわりのないことだ」
というのが、グインの穏かな応えだった。彼はそれが間違った考えであり、それほど遠からぬ未来にモンゴール大公の恐れを知らぬ野望が彼自身の重大な岐路となってこようなどとは、夢想さえしていなかったのだ。
一服して息を入れると、かれらはあわただしく立ち上がった。ゴーラ遊軍の脅威が、かれらを性急にしていた。
「とりあえず手に入るかぎりの食物と――そして水、ケス河では水は飲用にならんし、河の魚がそれほど食う気をおこさせるかどうかも保証の限りではないからな。あとは武器だ」
イシュトヴァーンが云った。いかにも物馴れたようすである。彼に指図されて双児とスニはできる限り食物をさがしたが、その結果はかんばしいものではなかった。食べられるほどの食糧はすべてセムに略奪されつくし、飲料水の器は壊されていた。
それでもかれらはいくらかの乾し肉、乾した果実、それに水でねる粉をみつけた。それを適当にわけて皮の袋に入れ、しっかりと腰のベルトに結びつける。イシュトヴァーンは何やらしきりにセム族の死体とみてはかがみこんでふところをさぐっていた。
「何をさがしてるの」
リンダが声をかけると、
「何か、金めのものでもぬすんでいやがるんじゃないかと思ってさ」
云って、ふてぶてしく白い歯をみせて笑いかける。油断のできないやつ、とひそかにリンダは考えた。
その考えを見すかすように、
「なあ、女の子――おまえ、ケイロニアにいってどうしようというあてはあるのか。おまえたちのふた親はどうしたんだ? おまえ、この辺の開拓民のむすめなんかではあるまいが」
〈紅の傭兵〉が云った。リンダはぴくりとしたが、
「あなたこそ、〈光の公女〉とかをなぜ探しているの?」
きびしく問い返してやる。〈紅の傭兵〉は声をたてて笑った。
「隅におけん娘だな。きついむすめだ」
感心したように云う。
「そうして光のあたる場所に立っていると、プラチナ・ブロンドの髪に日の光があたってまるで銀製の人形のようだぞ。どうだ、もしかして〈光の公女〉ってのは、おまえのことじゃないのか。おまえ、どこの何という家の娘だ?」
まあ、さぐりを入れてるんだわ、とリンダは腹をたて、ぎゅっとルビー色の小さな唇をかみしめた。レムスが心配そうな顔をして寄ってくる。それへ、何も口をはさまぬよう目顔で合図をしながら、
「わたしの生まれがあんたに何のかかわりがあるの? わたしが万が一にもその〈光の公女〉とやらだったら、いったい、あんたは、それでどうだというの?」
きびしく云って、賞められた輝く銀髪をうしろへ払いのける。
「〈光の公女〉がおれに運開きをしてくれる筈なんだ」
というのが、〈紅の傭兵〉の答えだった。
「運開き?」
「それ以上の詳しいことは、実をいうとおれも知らぬ。しかし、予言者が」
そこまでいって急に、喋りすぎた、と悟ったように口をつぐんでしまう。リンダがうながそうとしかけたとき、グインがスニを従えて近よってきた。両手に弩をひっさげ、何かしら緊張しているようすが見てとれる。
「出かけよう」
いきなり前おきもなしにグインは云った。
「タロスの森の方角で煙があがっている。俺の考えにまちがいがなければ、あれはアルヴォンかタロスの砦の援軍が中食をつかっている煙だ。アルヴォンからスタフォロスまでは、騎馬で約二日半の距離だしな、休みなしにウマをかけさせれば、もうそろそろ先ぶれがルードの森へ入ってもよいころだ」
「わかった」
イシュトヴァーンはぐずぐずしていなかった。
かれらは、イシュトヴァーン、レムス、スニ、リンダ、グインの順で、城壁から崖下へおりるほそい道をつたって水面近くへおりた。
知らぬ間にかれらの足どりは追われる者のそれになっていた。グインが、何ひとつあとにかれらという生存者のいる証拠をのこしてゆかなかったか、たしかめるようにスタフォロス城の廃墟をふりかえる。そこに巣食い、呪わしい悪行をはたらいていた屍食いの死霊も、ごうごうと燃えさかった浄めの火にやきつくされて滅び去ったのだろう、全滅した砦には動くものの影とてない。
「よかろう」
グインは口の中で呟くとさいごにイカダにとびのった。
重たい彼がのると鉄で補強したイカダもぐらりとゆれた。イシュトヴァーンがそろそろと端へいざりよって平衡を保つ。イカダの両側には、そこにつかまって身を保てるよう、鉄の棒がわたしてあった。
「女の子、もう少し傭兵のそばへよれ。スニは、まんなかから動くな。いや――そう、それでいいぞ」
グインが云う。
「出航だ!」
海の近いヴァラキア生まれの昔をしのぶように、若々しい声をはりあげてイシュトヴァーンが叫び、そして剣をふりあげると、イカダを岩につなぎとめていたナワを一撃のもとに叩き切った。
たちまちに早い流れが五人をのせたイカダをゆりあげ、河の中ほどへ運んでゆく。イカダは暗黒の河ケスに乗り出したのである。
リンダはふるえながら、鉄棒に両手でしっかりとつかまった。河の流れは速かった。
「いいか、水におちたらさいごだぞ。この流れでは、戻って助けにいってやることなどとてもできんのだからな」
〈紅の傭兵〉が叫ぶ。グインはとも[#「とも」に傍点]の方に足をふんばって立って、重い竿をあやつりながらイカダがまっすぐ進むよう気を配っている。
暑い日だったが、水面にはつよい風がふきつけ、水しぶきとでかれらはさむいくらいだった。
「きれいな水! 底の石までのぞけそう、とてもこれが暗黒の河、死の河と呼ばれるなんて信じられないわ!」
まもなく、リンダは、快い速度を保ってすすむイカダの乗心地に馴れてきはじめた。髪をかきあげて大声をあげる。
イシュトヴァーンは何もいわずに肩をすくめた。彼はイカダの先の方に片膝立ちでうずくまり、左手で手すりをつかみ、右手を抜きはなった剣の柄からはなさずにいた。
「ばかなことを」
答えたのはグインである。
「本当はこの河は、とうてい底など見えるわけもないほど深いのだぞ。しかも暗黒の河というのは上からのぞいたその色からきているはずなのだ。底の石がみえたと思ったら、充分に注意するがいい。きっとそれはそうみせかけた何かほかの生物だからな。いいか、皆忘れるな。ここは辺境なのだ。辺境だぞ!」
つよく叫ぶあいだもグインの力強い手は、流れにさす棹の微妙な調節を忘れない。
リンダは大きく目をみはったレムスと顔をみあわせ、それから素直にこっくりした。
「悪かったわ、グイン。――でも、もうスタフォロス城があんなに遠くなった。このままでゆけば、河口の町までは、いくらもせずにつけるのじゃない?」
「ロスの町まではおよそ五十タッド――ウマで五十日分ということだな」
おちついてイシュトヴァーンが云う。
「流れの速さを計算に入れ、一日十タッド進めるとしても丸五日はこの死の河に身をゆだねていなければならんのだ。たっぷりとヤーンの御加護を祈っておけよ」
「わたし、ただ思ったとおり云ってみただけだわ」
イシュトヴァーンにはリンダは怒ったように云い返した。プラチナ・ブロンドの長い髪が、川風にきらきらと吹き乱される。イシュトヴァーンは肩をすくめて、ニヤリと笑った。
かれらはみな急流を、イカダをうまく保ってのりきることにすっかり注意をとられていた。また、仮にかれらがそうでなかったとしても、右手の――ということはゴーラ領がわの岸の、高い崖のつづくその上では、ちょうど死角になって、グインの目をもってしても見とおすことはできなかっただろう。
しかし、その崖の上に――はるか下、ケス河の流れを見おろして立つ、一騎の騎馬武者の姿があった。
かぶとの面頬をおろし、その頭頂には白い房飾りが美々しく風になびいている。白いよろい、すね当て、ウマの着た馬具もすべて、きらめく宝石をはめこんだ白い革で作られている。
馬上のその武者の目は、かぶとの下から、じっとケスの流れに向けられていた。その高みからは、グインたちの乗ったイカダは、さながらアリたちがつかまっている破れた木の葉のようにしか見えない。
その小さな、運命に挑む大胆な姿をしばらくじっと見守っていた武者はやがて、何やら満足げにうなづいた。白いかぶとの下から、キラキラと光る金髪がこぼれるのも気づかずに、手綱をひき、ウマに向きをかえさせる。
白づくめの、鎖編みの手袋をしたほっそりとした手があがり、ムチがウマにあてられた。
「ハイッ!」
鋭い声でウマを叱咤する。白馬は軽い足並みで、崖からかけおりていった。その細い道は、ほかならぬアルヴォン砦の方へつづいているはずである。騎馬が消えたあとは、再び森と辺境の河とに静寂が戻ってきた。
そんなことを、いっぽう、ケス下りのイカダの五人は、知ろうはずもない。
「ねえ、グイン――ぶじにロスへたどりついたとして、その頭、かくすのにはどうしたらいいんだろうね。それにスニは――」
しっかりと手すりにつかまり、うっとりと白い泡立つ水をのぞきこみながら、レムスはそんなことを云っていた。
「何とか手だてを見つけるさ」
「でもスニは――」
「スニは、どこかでおろしてやって、仲間のもとへ帰らせればいい」
「まるで女みたいに、ああだ、こうだと四の五の気をまわす小僧だな、お前は」
イシュトヴァーンが意地わるそうに云った。
「お前の双児の姉貴のほうが、よっぽどしゃきしゃきと、男っぽいじゃねえか」
「そんなこと――」
いつもの一番の弱みにふれられて、レムスはむっとして何か云いかけたが、しかしそれを云いおえることはできなかった。
ことばがふいにとまり、手すりにしっかりと両手でしがみついたまま息をつめる。
「どうしたの、レムス」
リンダがとがめた。レムスはふるえ声で、
「ねえ、見て――あそこ……変だよ!」
「変?」
リンダは眉をしかめて、レムスの指さす方の水面を見そして、あッと息をのんだ。
「な――何なの、何なの、あれ!」
五メートルばかり右手の波間に、ブクブクと白い泡のかたまりが、まるでイカダを追おうというかのようにざわついている。
と思うとその泡をまっぷたつにわけるようにしてとんでもないものが水面にあらわれ出た。
恐しいとがった牙がずらりと生え並んだ、途方もない巨大な口!
「〈|大 口《ビッグマウス》〉だ!」
見るなり傭兵が大声をあげ、あわてて剣を握り直した。
「気をつけろ。奴はイカダにぶつかり、水におちた奴をひと口にしちまうぞ!」
そのとき巨大な口がおもむろに開いた!
[#改ページ]
3
「キャーッ!」
リンダの悲鳴がひびいた。思わず手をはなして、正視にたえぬそのケス河の怪物を見まいと顔をおおってしまおうとする。
「ばかッ!」
グインが必死に棹をあやつりながら叱責の大声をあげた。
「何をしてる! 手をはなすな、何があってもふりおとされんよう、両手で手すりにしっかりつかまるんだ」
「落ちたらひと口だぞ!」
やはり片手でしっかりと手すりを握りしめたイシュトヴァーンが絶叫する。もう一方の手に大剣の柄をかたく握り、彼の目は泡立つ水面をわけてあらわれ出たその化物からはなれない。
しかしそれにしても何という怪物だったことだろう! それが〈|大 口《ビッグマウス》〉という名をつけられている理由は一目瞭然だった。
なぜならそれはまさしく、生ける巨大な口、以外のものではないのだ。直径はその口をぱくりと開いたときで一メートル以上もあろうか。そのすさまじい顎にはびっしりと鋭い牙が埋めこまれ、その口だけをみればレントの海のサメの口を思わせる。
しかしさらにおぞましいのはその口のうしろに、続くべき胴体はおろか、頭も、手足も、何ひとつ見出されはしないことである。パクパクと獰猛に噛み鳴らされているその口は、本当にただの|大 口《ビッグマウス》にすぎなくて、それはまさに悪魔ドールの悪意によって地上に現出させられた、巨大で盲目な破壊欲そのもののように見えた。
リンダはふるえながら、この悪夢からぬけ出てきたかたちを見つめた。両のあごが噛みあわされるたびにそこから水が白いあぶくになって吐き出される。巨大な口は怒りにふるえてでもいるかのようにこちらにむけて進んでくる。そうであるからには、その水面に没したままの部分に、ひれ[#「ひれ」に傍点]か手足のようなものがついていなくてはならぬ、と思われるのだがそうではなく、ケス河の〈|大 口《ビッグマウス》〉はそのおぞましい口をとじたりあけたりして水を吐き出し、その勢いで実にすばやく移動したり方向をかえたりすることができるのだった。
そいつがそうやって大量の水を吐き出すたびに、小さなイカダは激しくゆれた。イカダの上の人々は悲鳴をあげ、手すりを握りしめながらイカダの上で荒々しくふりまわされた。
「きゃあ! グイン!」
リンダが絶叫する。豹頭の戦士は大胆にも、まだ棹をはなさずに、手すりにつかまろうともせず生来のバランスのよさだけでその動揺をのりきろうとしていたが、いきなりぶつかってきた大きな波に足をさらわれかけたのだ。
豹人は棹を川底につきたてた。それを棒高飛びの要領につかって、巨躯と思えぬほど身がるく、いったん足をはなしてしまったイカダへと飛びもどる。イカダをあやつる唯一の頼みの綱である重い棹をすばやく手にとりもどすことも忘れない。
「グイン!」
レムスが泣き声をたてる。
「おそってくるぞ!」
〈紅の傭兵〉が絶叫した。
「イカダにむかってきたら手すりをはなさず、ぴったり身をふせるんだ。死にたくなかったらどうなろうと頭をあげるな――やつが来たところを、剣でまっぷたつにしてやる!」
そしてそれは襲いかかってきた!
巨大な物凄まじい口は獰猛な執念をむきだしに、がぶりと水泡を吐き出し、やにわに、しぶといイカダの乗り手たちをそのイカダかう叩きおとしてやろうという明白な意志をむき出しにイカダに殺到した。
「気をつけろグイン!」
イシュトヴァーンがわめいて剣を横に払う。しかし怪物の本体よりも先におそってきた、泡だつ水が強い力でその手を叩いた。イシュトヴァーンは剣をとりおとしはしなかったがワッと叫んでイカダから払いおとされまいと手すりを握りしめて突っぷした。
リンダの絶叫がひびいた。リンダは手すりを握って、イカダの板にしがみついていたが、そのぶきみな生き物が頭をかすめ、歯をかみ鳴らして通りすぎたとたんに、その巨大な口のカッと開かれた牙の列の奥に、原初の悪意をこめて光る一対の小さな目を見たのだ。ケス河の〈|大 口《ビッグマウス》〉はすべての感覚器官を、どうやらそのばかでかい口の中に内蔵してしまっているらしい。
それがそやつの攻撃におぞましい正確さを与えているのだった。〈|大 口《ビッグマウス》〉はイシュトヴァーンと双児の上を飛びすぎ、水をしたたらせながら、大胆にもとも[#「とも」に傍点]に立ちつくしている豹人に目標をさだめた。
しかしその獲物は大人しく食われるのを待ってはいなかった。グインは重い棹をふりあげ、それは狙いすました〈大口〉の口が噛みあわされる瞬間につきだされた。たちまち、無数の牙ががっぷりと棹にくらいつく。と見すまして、グインは棹を思いっきり激しくふるった。
さしもの〈|大 口《ビッグマウス》〉も吹っとんだ。離れた水面へぴしゃりと叩きつけられていったん水中へ沈む。しかし、反動でイカダもその平衡を失い、〈大口〉の消えた方向へむかって激しくかしいだ。
「ヒーッ!」
「スニッ!」
悲鳴が交錯する。軽いセム族の少女がしびれた手を手すりからもぎとられ、水面へ吹っとんだのだ。たちまち〈大口〉特有の白いあぶくのかたまりが、そちらへむかって動きはじめた。
「スニを助けて!」
リンダが絶叫する。グインの猿臂がのびて、危ういところで猿人族の少女の軽いからだをイカダにひきあげる。〈大口〉は再び襲いかかろうかどうしようかと考えてでもいるようにブクブクと泡を激しくたてていたが、やがてあらわれたときと同様にふいにその泡のかたまりは水底ふかく沈み、姿を消してしまった。
しばらくは誰ひとりとして、一語を発する者さえもいなかった。
「フーッ!」
ややあって、悪い夢からさめたとでもいうようにイシュトヴァーンが息を吐き出した。
「なんてえ化け物だ、イシュタールの乳のように白い胸にかけて! 千の牙をもつガルムにかけて!――おい、どいつも、どこも食われちゃいねえだろうな」
彼の冗談をおもしろがる人間はいなかった。それはイシュトヴァーンにもわかり、肩をすくめて胴着のすそをしぼる。
「なんてこった。とんだ大スコールにでもあったみたいだ」
全員が、頭から足のさきまでぐっしょりと水にぬれていた。ひとしきりかれらは水をしぼったり、あちこち拭いたりするのに忙しかった。
「スニ、大丈夫よ。もうあれは行ってしまったのよ」
リンダはイカダの板につっぷしてブルブルとふるえつづけているセム族の小さい肩を抱いてなぐさめてやる。
グインは冷静だった。棹をあやつり、いまのさわぎで岸辺の岩にぶつかりかねぬほどにノーマンズランド側の岸に近づいてしまったイカダを、静かに大河の中央におし出しながら、その黄色い目を四方にくばる。
「うむ、確かに行ってしまったようだ」
ようやく彼がそう云ったのは、なおもしばらく、水面が平静をとりもどし、そのどこにも呪わしい水泡の立つのが見えないとたしかめてからだった。
「それほど餓えきってもいなかったようだな。それにケス河の〈|大 口《ビッグマウス》〉としては、それほどばかでかい奴というわけでもなくてよかった」結論を出すように云って、丸い豹頭を、本当の野獣が水を切るときとそっくりのしぐさでぶるぶると振った。
「えッ! あんな化物が、あれ一つじゃなくて、もっとでかいやつがまだいるの?」
レムスがびっくりして云う。イシュトヴァーンが笑った。
「何匹でもいるさ。しかもケス河の化物があれだけってわけでもない。なあ、ゆうべの今朝で、あれほど河を一面埋めていた戦死者の死体がなぜ、一夜にしてきれいさっぱり消えうせていたと思うのだ。ケス河の怪物は、いつでも腹をへらしているんだぞ」
「その死体どものおかげでわれわれが助かったようなものだな」
グインが指摘した。
「そのとおり。――あーあ、食い物から下着から、何から何までぐっしょり濡らしちまった」
イシュトヴァーンは嘆いた。しかし、それほど心配しているふうでもなかった。いまのひと幕は、恐しく長い時間のような気がかれらはしていたが、じっさいには一ザン、すなわち小さい砂時計が一回落ちきるあいださえたってはいなかったのだ。ケス河は見かけだけの平和をとりもどし、すみきった水面をキラキラと光らせる太陽はあいかわらず強烈な光をはなって、たちまちに何もかもをかわかしてくれそうだった。
「もう襲って来ないかしら」
レムスが心配する。
「もちろん、来るさ」
陽気な傭兵が保証した。
「心配するな。あいつやケス河の大ヒルのあしらい方ぐらい知っている。おれは半年以上、この辺境の砦の守兵として訓練をうけてきたんだ」
でも〈大口〉を追っぱらったのはグインだったじゃないの、とひそかにリンダは考えた。このヴァラキア生まれの傭兵の大口ときたら、〈|大 口《ビッグマウス》〉も顔負けだ。
〈紅の傭兵〉はじろりと少女をみた。黒い目がずるそうに輝く。お前の考えていることぐらい見通しだぞ、と云いたげに、にやりと唇の片端をつりあげたが何も云わない。
イカダは少しゆるやかになってきた暗黒の河の流れに棹をさして、たゆみなく下りつづけた。
その同じころ――
いまやモンゴールの、辺境の守りの拠点となったアルヴォン城では、ちょっとした騒ぎが起こっていたのである。
そもそもの騒ぎのはじまりは、トーラスの都から蜘蛛の脚のように、八方へむかってのびている街道ぞいに、アルヴォンの城主が出している伝者からやってきた。早馬で、汗だくになって城門にかけこんできた伝奏の報告をきくうちに、アルヴォン城をあずかる、モンゴールの赤騎士隊長、リカード伯爵の顔色がかわってきた。
「何というか! ではもうアルヴォンの森へ入っておいでだと云うのか! なぜ街道番は狼煙で知らせては来なかったのだ。いや、――こうしてはいられん! ウマを出せ、ウマをひけ。わし自らせめて城壁まで、お迎えにあがらねばならん」
「その必要はない、リカード伯!」
うろたえさわぐ城主の頭上から、ふいに、凛と張った声が降ってきた。
「もう私はアルヴォン城に入っている」
「こ、これは――」
赤騎士隊長は吃り、中庭に通ずる城壁をふりあおいだ。
そこに、一騎の騎馬武者が立っていた。――白づくめの鎧かぶと、白く長いマント、白い馬具をつけた純白の駿馬。まぎれもなくさきにケス河を見おろす崖の上から、グイン一行のイカダを見つめていた一騎である。
かるくウマに拍車をあて、馴れきってさながら人馬一体を思わせる確実さで武者が中庭へおりてくるうしろから、数人の、ほとんど同じ装備の騎馬があらわれて従った。ただしよく見れば、影武者ともまがう同じ装備ながら、従う数騎のこしらえは、先頭のひとりにくらべてごくかんたんなものであることがわかる。
「こんな少人数で、よくまあ――」
不用意ではありませぬか、とリカード伯はとがめようとした。しかし中庭にたどりついたその人は、悠然と、かけよる徒士たちに助けおろされながら手をふって、
「アルヴォンの森に私の手下《てか》の白騎士隊、一個中隊を待たせてある。呼びにやって、休ませてほしい。それから、私がなぜここにあらわれたかについては、今はまだきかぬように」
凛とはりつめた美しい声だった。若く、怜悧な声、どうあってもかぶとの面頬にかくされたその声の主の顔を、ひとめ見たい気をおこさせる。
そしてその武者の声にも態度にも、たちまちわかる、ある高貴なもの――命令し、それがききとどけられることに生まれながら馴れきったものだけの持つある力ともいうべきものがありありと感じられた。
それはむろん、モンゴールにその人ありと知られた勇猛な赤騎士隊長にも感じとられ、リカード伯爵は自分よりわずか背がひくいぐらいなそのあいてにうやうやしくうなづく。
「何もかも仰せのままに」
「スタフォロス城は全滅した」
感情を示さぬ声であいては云った。
「私のともなった魔道士が、水晶球の中に生きて動くものの姿が昨夜からとだえたと告げた。おそらくヴァーノン伯も生きてはいまい」
「スタフォロス砦は全滅――」
リカードは唇をかんだ。古武士の容貌をもつ百戦の勇士。
「黒煙をみてただちに出した三大隊も、遅すぎましたか――おっつけあちらにつくころと思っておりましたが」
「遅すぎた。ここ数年、蝶の年以来セム族のあれほどの大部隊がケス河をこえてくることはなかったので、ヴァーノンにせよ油断があっただろう。モンゴールはスタフォロス城を失った。われわれのゴーラへの野望は、一歩後退を強いられた」
「私どもがもっと緊密に連絡をとりあうべきでありました、将軍」
リカード伯は姿勢を正して云い、腰の剣を鞘ごとぬくと左の胸にむかって擬す、ゴーラの誓いを行なった。将軍とよばれたあいてはその手に、白手袋をした手をかさねて剣をおさめさせた。
「伯の過ちではない」
歯切れよく認める。
「スタフォロスは失われたのだ。なぜ失われたかよりも、この後われわれのとるべき最もよい道を探そう。――黒竜戦争のいきさつは知っていよう」
「は」
「われわれの大部隊の精鋭は、積年の狙いどおり〈中原の宝石〉パロを手に入れた。しかしクリスタルの都とクリスタル・パレスを陥とし、パロをおさめる聖王アルドロス三世とその王妃ターニアの首級はあげたものの、黒騎士隊の追求をのがれた王家の家族がある。すなわち――」
「〈パロの二粒の真珠〉リンダ王女と、世継のレムス王子でございますな」
「そうだ。かれらはどんな小癪な白魔術を使ったものか、不敵にもルードの森へあらわれたという報告があった。
モンゴールの金蠍宮は、一体なぜ、無力な子ども二人が戦士の精鋭の手を逃れただけでなく、一夜にして中原のクリスタルから辺境のルードへとぶことができたのか、炎のように知りたがっている。――もしそこに何らかの未だ知られぬ原理があるとしたら、それこそはわれわれの求めるゴーラ三国の統一、ひいては全中原、辺境統一のカギであるかもしれない。そしてリカード伯!」
「は!」
「かれらがスタフォロスにあらわれたことと、相前後するスタフォロス城のセム族による全滅、この二つの事実には、何かのつながりがあるとは思わぬか」
「それは」
リカード伯は緊張した。
「それは大公閣下の代理人、白騎士隊長、右府将軍としてのご下問でありましょうか?」
「そうだ」
「では申し上げます。小官には、かよわい二人の少年少女に、どのようにすれば十大隊及びその随員とそれにふさわしい装備をそなえたスタフォロス城をせめ滅しうるものか、遺憾ではありますが想像もつきませぬ!」
「愚か者! スタフォロス城を滅したのはセムの大軍だ、わかっていように」
右府将軍はその手にしたムチのような声で云い、リカード伯は青ざめた。
「私がいうのは、パロの遺児とセムの軍とのあらわれるのが重なったのは偶然か否か、ということだ。パロの遺児はノスフェラスのセム族と手を結んではいないのか?」
「ま――まさか!」
伯爵はおどろきのあまり口走ってしまった。
「中原の最も伝統ある祭司が、ノーマンズランドの猿人と!」
「何事も不可能なことなどないのだ、伯」
将軍はたしなめた。手のムチをあげて城壁の向こう、ケス河の方角を漠然とさし示す。
「万に一つ、億に一つでもパロがノスフェラスの蛮人族と手を組むことに成功し、そして黒竜戦争に生き残ったパロの忠臣たちが手兵をまとめてクリスタルをとりもどしに決起するようなことがあれば、ゴーラは腹背に敵をうけることになるのだぞ! そのような危険はおかせぬ、その可能性がどんなに低くともだ。いや、きくがいい、待つのだ、伯――
いま私はケス河ぞいの崖の上をウマを走らせてきた。そのとき奇妙なものを見た」
「奇妙なもの――でございますか?」
「というより、ありうべからざるものを、だ。一つのイカダがケス河を、スタフォロスからアルヴォン、ツーリードを経てロスにいたる流れにそって下ってゆくのを」
「ケス河を、イカダひとつで?」
リカード伯爵は失笑しかけた。しかし思い出して黙った。この、白づくめのほっそりした、ヴラド大公の代理人は、無能は罰するだけだけれども不注意は憎悪する、という恐るべきうわさが心をかすめたのだ。
「してどのようなものが――セム族で?」
「ちがう」
白い武者は考えに沈むかに見えた。
「どうも私には解せなかった。それは何とも奇妙なとりあわせに見えた――遠くて、私の百ゴル先の鳥を見る目でも、たしかにはわからなかったが、それは五人で、大人の男ふたり――子ども、それとも女がふたり、そしてセム族とおぼしい小人がひとり。ただその――」
伯爵は興味をもって見守った。この右府将軍、ゴーラじゅうに名高い大公代理がためらうなど、まったくそれらしくもない。
「その男のひとりが――どうも妙だった」
「妙、といわれますと?」
伯爵は追求する。あいては苦笑いして、
「よかろう、目の錯覚ならそれでもいい。そのあいては、まるで、首から下はふつうの人間だが、首から上だけは、豹か虎といったけもののそれを人のからだにうつしかえたように見えた!」
「豹人?」
伯はまた失笑しかけたが頬をひきしめた。
「ともかく兵どもを出し、たしかめて見られますか」
将軍の目の錯覚だと信じなかったわけではないが、どういう態度と対応をあいてが望んでいるかはわかっていた。あいては満足そうに、
「もう、出してある。――どう考えても不可思議であったし、疑っていることもあったので、白騎士一個小隊をさいて彼らの正体をたしかめ、必要とあらば連れもどるよう命じた上でアルヴォン城へ入った」
「恐れ入ります」
さすがだ、と伯爵はちょっと感心する。それへかぶせるように、
「一個中隊、二個小隊に出動の準備をさせよ。必要とあらばイカダをくり出せるように。それから例の、赤の月のはじめの宮廷会議で申しわたした渡河訓練は行なっておろうな」
「は」
「よかろう。情況に応じてそれも準備を。それからスタフォロス城についた派遣軍から連絡の狼煙があったらただちに応じて狼煙をあげること。――その内容はこれからいう」
その内容、というのは充分に、リカード伯を一驚させるに足るものだった。そうした反問が、あいてを苛立たせることはわかっていたが、思わず問い返してしまう。
「恐れながら――金蠍宮のかたがたには何ゆえそのような御決定を――?」
「無用の問いだ」
というのが、予期したとおりの答えだった。
「では命令が速かにとり行なわれるようにせよ。私はトーラスからの道を不眠不休で走りついできた。少し疲れている。寝所を用意せよ、狼煙のしらせがあるまで眠ろう」
「ただいますぐに」
伯は侍童を用意に走らせた。その間に将軍はゆっくりと、かぶとの緒をほどきはじめる。
将軍がかぶとをとり去るのをリカード伯爵はちょっと息をのみながら見守っていた。そのかぶとの下にどのようなものがかくされているのか、むろんリカード伯爵は知らぬはずもないが、それでもそれは改めて感嘆するに値した。
ほっそりした手がさいごの紐をほどいて、さっと白い羽根飾りつきのかぶとをうしろに押しやる。――と、そこにやにわに、めくるめく光があふれた。
いや――光、と見えたのは輝きだった。たぐいまれな、豊かな――しかもかつて誰ひとりとして見たこともないくらい純粋な黄金色に波うつ髪の。
リカード伯爵は息をつめた。ただうっとりとして、そろそろ傾きかけている陽光にまぶしく照りはえる姿を見まもる。
かぶとの下からあらわれたその顔は、さながら狩と戦いの女神イラナを思わせる、比類なくも美しい、若い女の顔だったのである。
若い女、というよりは、まだ少女といった方がふさわしいほどの年頃だったが、しかし彼女はすでに非常な威厳をかねそなえていた。背の中ほどまでもゆたかな波うつ黄金の髪にふちどられた、その形のよい頭は美しくもたげられ、何事にぶつかっても挫けまいとする意志を刻みこんだかのようにその優美な唇はひきしまっていた。しかしまたその唇は、もしそれがほほえみかけてくれたとしたらどんなに幸せであろうかと、見るものに考えさせるような艶めいたピンク色をしてもいたのである。そしてその緑色の瞳ははるかなケス河の水面に似て底深く、しかも男にも滅多に見られぬようなするどい決断と情熱、高貴と野望、そして冷徹と優雅のふしぎなきらめきを宿していた。
ひとことでいってそれはまだわずかに未完成の、だがたぐいまれな成就へむかってあけぼののように確実にさしそめてゆく〈美〉の肖像にちがいなかった。それも青白くたおやかなイリスの女神の美ではない。常に甲冑をつけ、ツタをからませた槍を手にした姿として描き出されるイラナ、軍神にして太陽の神ルアーの最愛の妻にしてその右で戦う者であるイラナの再来ともみえて、白い装具に身をつつんで立ったその長身は、見るものすべてに飽くことない感嘆と嘆賞とを強いた。
「用意がととのいました、アムネリス様」
侍童の報せをうけ、リカード伯にいざなわれて、イラナ女神の化身ともいうべき少女はゆっくりと歩き出す。――誰知らぬものがあろう。彼女こそはモンゴールのアムネリス、ヴラド大公の一人娘にしてその代理人、右府将軍、黒竜戦争の総司令官にして白騎士隊の隊長にほかならぬ、ゴーラに名高い男装の美少女アムネリス公女であった。
[#改ページ]
4
いっぽう、イカダの五人である。
一行は、そのあと三ザンばかりのあいだ、さっきのようにケス河の〈大口〉や水ヒルなぞに襲いかかられることもなく、しだいに広さを増してゆく河を下っていった。太陽神ルアーの黄金色のチャリオットはたゆみなく中天をかけてしだいに山々に近づき、周囲の光景は、暗黒のというケス河の異名を疑わせるばかりにのどかなままである。
下流へむかってひた流れるイカダの右手の岸には深緑の、辺境の森々が切れめなくつづき、ふいにその向こうから煙があがっては、辺境開拓民のいとなみを知らせる。
木々の梢から、ルビー色やコクタン色の、尾の長い鳥がふいにとびたって、するどい鳴き声をのこして飛び去ってゆく。ミズヘビが褐色のからだをくねらせてイカダを大あわてでよけてゆく。
そして左手をみればこれは灰と白茶色にぬりつぶされた、岩と砂漠のノスフェラスのノーマンズランドの、荒涼たるひろがりである。そのところどころに、わずかな灰がかった緑に地衣類がへばりついて、さびしげな色どりをそえてはいたけれども、たかがケス河ひとつをへだてた、このぬりわけたような地勢の変化ぶりには見るものを途方にくれさせ、妖怪と蛮人族だけが跳梁するノーマンズランド、という人々の認識を、いよいよたしかにさせるのだった。
その見わたすかぎりの砂漠地帯の向こうには、遠いまぼろしのようにして、暗灰色のけわしい山なみがつづいている。
「北方諸国と辺境とをへだてる、世界の屋根たるアスガルン山地だ」
きかれもしないのにイシュトヴァーンが指さして註釈を加えた。
「氷の中で永遠に生きているという〈氷雪の女王〉の治めるクインズランド、巨人国タルーアン、英雄バルドルの君臨する神々の王国ヴァンハイム、そして世界の北端なるノルンがあそこのむこうにはあるという」
誰も何も答えない。別に気分を損じたようすもなく〈紅の傭兵〉は喋りつづける。
「それにしても、どうしてゴーラ、あるいはモンゴール大公領が、ノスフェラスのノーマンズランドなんぞに執着するものか、まったく解せんな。こんなけったくその悪い、人も住めないような――あ、いや、しかしそれについてはよくおれたちは傭兵の寝所で激論をたたかわせたものだ。地獄の河ケスにまっ二つに区切られて、一応人も住むことはでき、緑もゆたかな辺境地方と、それからノスフェラスの荒野、真の辺境とが、これほど異った姿を呈しているというのは、いったいヤーンのどういういたずらなのだろう、とな。
――もし仮に、ヤーンが彼の全能の手で、ケス河を境に向こう岸を妖魅の結界、こちら側を人間界、とさだめて作ったのであるとすれば、何とかうなづけないでもないが、しかし早い話が長いあいだノスフェラス地方が諸国の野望をくじいていた、というのは、そこが人の住むのをさまたげるような毒、瘴気をかくしている、という伝承があったからだ。
もっと奇怪な伝承ではこういうのがあるな。つまりノスフェラスのノーマンズランドに住むただ二つの種族、巨人族ラゴンと小人族セム、これはどちらも人間と呼ぶのがはばかられるようなやつらだが、これは実はもともとはただのあたりまえの人間にすぎなかった――それが、ノーマンズランドに奇怪な妖魅どもと住むうち、しだいにいまのような姿かたちに変容をとげてしまったのだ、と。おれのじいさんというのはヴァラキアでちょいと知られた物知りのキタラ弾きでな、そのじいさんが語ってくれたところによると、ノーマンズランドの大地から出る瘴気が、そんなふうに生きとし生けるものを怪物にかえてしまう力があるのだと。――だからこそノーマンズランド、およびそれをとりまく辺境地方には、ケスの〈|大 口《ビッグマウス》〉をはじめとして、イドだの砂ヒル、〈|飛び石《フライヤー》〉にオオアリジゴク、他にも妖魅そのものとしか呼べぬようなおぞましいドールの創造物ばかりが棲んでるのだとな。
おい、豹頭、ひょっとしてお前の出身ってのも、そのあたりなんじゃないのか?」
「グインはそんな化物なんかじゃ――」
レムスがいきりたち、リンダはしゃあしゃあとした傭兵をにらみつけた。豹頭の戦士は怒りもせずに、わからぬ、というようにその黄色と黒のなめらかな巨頭をふる。
「いいかげん、何かひとつぐらい思い出せそうなもんだがな。わかったもんじゃない、本当にお前がケス河の水ヘビのように無知なのか、それともそうわれわれに思わせておけば何か都合のいいことでもあるのか――」
「〈紅の傭兵〉、あんたってばかだわ」
リンダが怒ってさえぎる。イシュトヴァーンはゲラゲラ笑って、
「怒ると目がスミレ色からたそがれの紫に近くなって、まるで星空のようだな。いいからしっかり水面を見張っていたらどうだ? こんど〈大口〉が襲ってきたら、今度こそは仕とめなくてはならんのだから」
「卑劣漢!」
いまいましそうにリンダはつぶやいたが、あわてて水面に目を戻す。あたりにはゆっくりと夕方が近づきかけており、かれらのイカダはアルヴォンの下流を流れすぎて、そろそろモンゴール領の南端、ツーリード城の領地へと入りかけているぐらいである。
かれらは持ってきた乾肉と乾し果物、ヴァシャ果とでかんたんな昼食を、イカダの上ですませた。さっき〈大口〉との戦いでぐしょ濡れになった衣服は、イカダの上でものの二ザンも陽光にさらされているうちに、一度も水などかぶったこともないほどにかわいてしまった。グインの力強い、疲れというものを知らぬ手が、しっかりと棹をあやつってかれらの行く先を保ちつづける。
「――静かすぎるな」
口をつぐんでいるということができぬたちらしい〈紅の傭兵〉が、ヴァシャ果をかみながらぶつぶつ云った。
「なんだというの、今度は?」
リンダが苛々した返事をする。リンダはイシュトヴァーンには、たえず苛立たされ、憤慨したり当惑しながらも、妙にこの図々しくて押しのつよい不敵なヴァラキア人に、気になるものを感じてしまうようだ。
「静かすぎるといったのさ。地獄のといわれるケス河が、こんなにすんなりとわれわれを見逃してしまっていいものか? いまにきっと、さきの〈|大 口《ビッグマウス》〉どころではないことが起こるぜ」
「それは〈魔戦士〉の予感?」
からかうようにリンダはたずねた。陽気な傭兵の自慢はすでにさんざんきかされている。
「と、いってもいいがな――おい、豹あたま、おまえ、まさか夜どおしケス河をイカダで下る、なんてムチャは考えていないだろう」
「むろん」
というのが、イカダのとも[#「とも」に傍点]からの、グインの簡潔な返事だった。
「ケスは暗黒の河。妖魅の本領を発揮する日没以後に水上にあるのは自殺するようなものだ。日没少し前にはイカダを岸にひきあげ、あまり遠目につかぬ焚火をして、交互に張り番をたてて夜を送り、日の出とともに再び河へのりだす」
「それがいいよ」
レムスが面当てがましく叫んだ。リンダは叫びこそしなかったが、内心で、やっぱりあんな〈魔戦士〉なんてものより、わたしたちのグインのほうがどんなにかりっぱだし頼りになるし強い戦士なのよ、と考えてひそかに深い満足を覚えていた。イシュトヴァーンはおもてだってグインからこの小パーティーの指揮権をとりあげようなぞというそぶりは、一度もみせてさえいなかったのだが、しかし彼のいつもあいてをひそかに笑っているような生き生きした黒い目には、何かしらパロの双児を苛立たしくさせるものがあったのだ。
「おれの考えも同じだよ」
イシュトヴァーンはそんな双児の反感には気づいたそぶりさえ見せずに、
「いずれにしてもモンゴール公領をすぎればいくぶん事情は好転するし。ツーリードのさき、自由貿易都市ロスまでは、開拓民の土地だ」
「夜をノスフェラス側の岸ですごすのは無謀というものだろう。だから、今夜と明日の夜は、多少の危険を冒してモンゴール側の岸に野宿するほかはない」とグイン。
「たしかにな」
イシュトヴァーンが云い、何を思ってかしげしげとグインを見つめた。実はこの旅のあいだにも、すでにグインはかなりしばしば〈紅の傭兵〉の目がさぐるように自分をねめまわしていることに気づいていたのである。豹頭の異相への好奇心というには少し度がすぎているようだが、といってそのほかには、グインにイシュトヴァーンの注意をこんなにもひきつける何があるとも思われない。
グインは目をあげて、無遠慮な彼の目をまっこうからうけとめた。豹頭の、物騒に黄色く底光りする目と、黒くてきらきら輝く、何もかもを皮肉っているかのような目があった。
が、目をぷいとそらしたのはヴァラキアのイシュトヴァーンの方だった。わざとらしく、モンゴール領の方の崖を眺めやるふうをする。
しかし、ふいにその顔がひきしまった。
「おい、グイン」
声がにわかに切迫したひびきを帯びる。グインは棹をあやつり、ようよう赤く夕日の色に染まりかけている水面を、おもむろにイカダの向きをかえて岸に近づけようとしているところだった。
「ちょっと待て! 誰か来るぞ!」
「そんな、ばかな――」
レムスが云いかけたのをリンダが腕をつかんでひきとめる。イシュトヴァーンは薄暮がおりてこようとしている森の側へと目をこらしたが、にわかにあわてた調子で、
「いかん、少し待て、イカダを岸によせるのはちょっと待て。ようすを見るから――森から誰か出てくる。少人数じゃない」
「ゴーラ兵!」
リンダの声はきびしかった。イシュトヴァーンは目を細めてすかし見ながら、
「だとするとな――もしこの辺の開拓民にすぎなけりゃ、まだおれたちにもヤーンの御加護があるってもん――待てよ! 女神イラナの乗る風の白馬にかけて!」
「一個小隊、少なくともそのくらいはいるようだ」おちついてグインが指摘する。
「変だ――黒騎士隊じゃない、あの鎧は白い!」
〈紅の傭兵〉は端正な顔をひきつらせて手すりに身をのりだした。いまはもう、対岸の小暗い森陰から、まるでふっとわき出たかのようにあらわれたその一隊の姿は他の人びとにもはっきりと見てとることができた。
こんな切迫した状況ではあったが、それは妙に夢幻的な美しさをたたえてかれらの目にうつる光景であった――森の木下闇から、あたかも白いまぼろしか、さまよう魂のように次々に岸へと立ちあらわれる、一騎のこらず白づくめの騎馬隊。
白い長いマントがなびき、頭頂のかんたんなかぶと飾りがゆたかに垂れさがっている。ウマもまた一頭残らず純白で、しかも同じ白の馬具をつけている。
「ゴーラの装備だ」
グインが指摘した。
「しかし――あれは白騎士隊、そんな、バカな」
イシュトヴァーンはなおも納得がゆかぬようだ。
「どうして? モンゴールの黒、白、青、赤、黄、五大騎士団は中原じゅうに鳴りひびいて――」
「つまらんことを」
リンダのことばを傭兵は荒っぽくさえぎった。
「小娘のくせに知りもせんことに口を出すんじゃない。スタフォロス城の守備はヴァーノン伯率いる第三黒騎士隊。そしてアルヴォン城はリカード伯麾下の第五赤騎士隊、黒と赤が辺境の守り」
「白は?」
「白はトーラスの主都を守る大公の旗本部隊なのだ。白騎士団の総隊長はヴラド大公の公女にして右府将軍のアムネリス殿下。こんなところへたとえ一個小隊でも、白騎士隊があらわれるわけがない」
「だがあらわれている」
グインは云った。イシュトヴァーンは激しく苛立った身ぶりで答える。
だがそれ以上かれらはその問題をいぶかしんでいるいとまはなかった。なぜなら、全身白づくめ、アスガルドの氷雪からあらわれ出たかのようなそのかれらは、何を探しているにせよまさかこのイカダではあるまい、というグインたちの最後の頼みの綱をたちきるように、水辺近くまでウマをよせるなり、その先頭に立った大柄な白騎士が手を口によせてラッパの形にしてよばわったのだ。
「おーい――そこのイカダ、おーい」
グインはすばやくイシュトヴァーンと目を見あわせた。イシュトヴァーンがそろそろと腰の剣へ手をやりかけてみせる。グインはするどく首をふる。あいては一個小隊、しかもまだ、はっきりとそれがこちらに害意を抱いていると決まったわけではないのだ。
「どうする」
傭兵が猫のような咽喉声で云った。
「もうじき日がくれちまうぞ」
「出かたを見る」
それがグインの答え。岸で、白い騎士はきこえなかったと思ったのか、いっそう声を大きく、手ぶりもつけて、
「おーい、イカダの者。われわれはモンゴール辺境守備隊、アルヴォン城の者だ。名をきかせてくれ、どこへゆく、イカダを岸によせ、われわれの質問に答えよ」
叫びながらかれらをさし招く。
イシュトヴァーンは舌打ちした。
「おれと双児に云いぬけようはあるが、豹あたまとスニは――おい、グイン、こいつはどうも、逃げの一手を決めこむほかはなさそう――」
「いや」
グインがゆっくり云う。
「見ろ」
イカダの乗員は見、そして低い絶望のうめきをあげた。
白騎士の一隊には、はじめから何があろうと、イカダを逃す気がなかったのだ。友好的に出ているうちに命に従え、という暗黙の雄弁を示して、なおもさしまねく隊長のうしろに扇形に散開した三十人の小隊全員が、ぴたりと弩をあげて石弾をこめ、そのさきはすべてイカダにむけられている。
「おれたちに何の不審あっての尋問だ! おれたちはただの旅行者。おれたちが何をした!」
イシュトヴァーンが怒ってわめいた。白づくめの隊長はまた手のムチをふりあげ、
「問答無用。そのイカダの一行全員を、必ずアルヴォン城へともなうよう、固い命令を受けている。イカダを岸によせろ、さもなければ射つ」
「ムチャクチャだ!」
イシュトヴァーンはわめいた。
「グイン、ずらかろう。餓鬼ども、イカダに身をふせていろ。日がおちれば弩はあたらん」
「しっかりつかまっていろ」
グインは声の調子もかえずに云い、イカダの速力をあげようと棹をつよく川底につきとおした。岸では戻ってこいとわめきたてる。思いきり力を入れて川底の岩をつき放し、その反動でイカダが波にふわりとうきあがった――そのとき!
「ウワーッ!」
イシュトヴァーンが絶叫した。
「〈|大 口《ビッグマウス》〉だッ!」
スニが悲鳴をあげた。
暮れかけた水面に、おぞましい白い水泡のかたまりがわきあがり、凄まじい速さでイカダにむかって突進してくる!
岸からの警告の叫び、イカダの上の子供たちの絶叫、その間をぬって、水泡の中から、ぐわッと悪夢の怪物があらわれ出た。
しかも、何という大きさ!
「だめだ! イカダがやられる!」
剣をふりまわし、そのばかでかい凶悪な口をまっ二つにと狙いかけた傭兵が悲鳴をあげて、膝をつき、〈大口〉の体当りに水しぶきの中で斜めにかしいだイカダにしがみついた。
さきのやつとは比べものにならぬほどの巨大な、口だけの怪物は、口から驚くべき量の水を吐くなりうまそうな餌をイカダからふりおとそうと、二度めの体当たりを敢行する。
そのたびに、しがみついた手すりだけを頼りの五人は、木の葉の上の虫のように、すさまじい勢いでふりまわされた。とうてい、抗戦するどころではない、それどころか、手がすべらぬようにするだけで精一杯だ。
岸では、大さわぎがおこっていた。ゴーラ兵たちは隊長の命令一下、生かして連れ帰らねばならぬ貴重な捕虜を助けようといっせいに、水中の怪物めがけて弩をはなつ。しかし〈大口〉は暴れまわり、それと当の人間たちにあたってはという配慮で、せいぜいが威嚇程度の周囲をしか狙えない。
さしもの豹頭の戦士も、〈魔戦士〉イシュトヴァーンも、波に弄ばれるイカダの上ではなすすべもなかった。それのみか、このままでは、まもなくイカダが転覆してしまう。水中におちたがさいご、〈大口〉の盲目であくことのない食欲をみたす生き餌となりはててしまうのだ。
「よしッ!」
瞬時に豹人はそれを悟った。イカダの棹をうちすて、〈大口〉が下からつきあげてくる衝撃にゆれうごいているイカダの上で、手すりをしっかり握りしめたままじわじわと端ににじり寄る。片手で手すりをつかんだ彼は、もう一方の手で腰の短剣をひきぬいた。水中では、大段平よりも短剣のほうが扱いやすい。それをすばやく口にくわえ、じゃまになる腰の物入れをかなぐり捨てる。黄色い目を野獣の決断と意志に燃えあがらせた豹人のその動きに、いまにもしびれた手をはなしそうになりながら、リンダだけが気づき、そして顔色をかえた。
「きゃあ! グイン、何するの!」
悲鳴をあげ、ゆれうごくイカダの上で懸命にそちらへ這いよろうとする。
「ダメよそんな! やられちゃうわ!」
「手をはなすな、ばかもの」
口から剣をとったグインが怒鳴りつけ、あらためて剣をくわえ直した。
〈大口〉の荒れ狂う、地獄のように煮えたぎる水の中へまっさかさまにとびこもうと身をこごめた刹那!
「待って、グイン、あれ見て!」
リンダが絶叫した。
「変よ、〈大口〉が!」
いけにえたちは見――そして見た!
〈大口〉がパニックに陥っている!
〈大口〉のまわりで突然、透明な川水が生命あるゼリー質と化したのだった。いや――そうではない。
暴れまくる巨大な口の上に、ぶきみなおぞましい怪物が泳ぎ寄り――それを泳いだと云えるとしての話だが――そしてスポリと〈大口〉を包みこんでしまったのである。
「|環 虫《リングワーム》だ!」
突然希望のさしそめた声でイシュトヴァーンがわめいた。
ケス河の|環 虫《リングワーム》は名のとおり、半透明のぶよぶよしたゼラチン質のからだに、いまわしい白っぽい何百万もの触手がびっしりとついている、気味のわるい原始的な生き物である。途方もなく巨大化したゴカイ、とでもいったらいいか、さしわたし最大では五メートル以上もあるこのゼリー状の生き物は、その短いざわつく触手をそよがせて水中を泳ぎ、動いているものとみると寄っていってまずそれを何であれその半透明のゼリーに包みこんでしまう。
そうなったらさいご、もがこうと暴れようと|環 虫《リングワーム》を振り払うことはできない。何百万の触手がとじてぴったりと餌食をつつみこみ、それをやわらかく、ぶよぶよと押しつぶして消化してしまうのだ。
ケス河の王者は巨大な〈大口〉ですらないのだった。
〈大口〉はこれまでのイカダへの攻撃など、ただのたわむれ、じゃれつきにすぎなかったのか、と思わせるほどのすさまじい勢いで暴れ狂いはじめていた。日が沈みかけて真赤に照らし出され、あたかも血の色の河かとさえ思わせる水面は、〈大口〉の断末魔のあがきが立てる水しぶきで何ひとつみえない。
しかしどんなにもがいても、|環 虫《リングワーム》はぶるぶるとふるえるそのゼラチン質をときはなちはしなかった。〈大口〉は狩る者から一転して狩られるものになっていた。原初的な生命体の、盲目な生への意志にかりたてられて、そのびっしり生えそろった牙が激しくゼリー状の物質をかみ裂く。それでも|環 虫《リングワーム》のからだは痛みを感じることも、血を流すこともなく、ただねっとりと〈大口〉をおしつぶしにかかってくるばかりだ。
「いまだ! いまのうちに逃げるんだ!」
傭兵がわめいた。
「だめだ。棹をおとした!」
グインの絶望の叫び。
それがやにわにすさまじい驚愕の叫びにたかまったと思うと、リンダたちの激しい悲鳴が、夕日がさいごの光を投げかけるケス河にひびきわたった。
〈大口〉と|環 虫《リングワーム》の、至近距離での物凄い戦いが、ついに棹を失ったイカダをさいごの大波に横転させてしまったのだ。
手すりから、人びとの痺れた手はついにはなれた。スニの甲高い悲鳴、リンダの絶叫。
「大丈夫か!」
いったん、ごまつぶのようにばらばらに水面にばらまかれた五人は、水中に没したが、最初に首を出して水を吐き出したのはイシュトヴァーンだった。
海の町ヴァラキア生まれで水練の達者である。口からプーッと水を吐いてモンゴール側の岸を見やったが、そこであれよあれよとうろたえさわぐゴーラの白騎士隊を見、彼と岸のちょうどあいだでのたうちまわって戦うケス河の両怪獣をみ、そして対岸の方がはるかに近いとみてとるなり、抜手をきってノスフェラスの岸へと泳ぎはじめる。
浮き沈みしていたリンダをみつけてその首に手をのばし、かかえこんで泳いだ。イカダがひっくりかえったとき、高々と空中に舞いあげられてから、ノスフェラス側の岸まで十五メートルもないところまでとばされたのが幸いした。すぐに、それ以上おぞましい生物に煩わされることもなく岸辺の岩へぬれねずみになって這いあがり、気絶しているパロの小女王をひっぱりあげる。
そのときグインも豹頭を波間にあらわして、同じ判断でこちらへ泳ぎつくところだった。岩に這いあがる前にたくましい手がのびて、スニの小さなからだを岩に放りあげ、それからもう一回戻ってレムス王子を助けて這いあがらしてやってから、イシュトヴァーンの手をかりて敏捷に岩へと這いのぼる。真に危い瀬戸際だった。〈大口〉をその檸猛な牙の抗戦もものともせずにねりつぶして、あっという間に食いつくしてしまった恐るべき生きたゼラチンが、その触手をざわめかせて、豹人を追ってこちらへ来ようとしていたからだ。
しばらくは岩の上で、物を云えるものさえなかった。荒い息をつきながらかれらはぬれそぼって、平らな岩にへたりこんでいた。
もうすっかり日は暮れ、対岸の白騎士たちもおぼろな影としか見えぬ。――こうして、一行はノスフェラスの岸に乗りあげたのだ。
[#改ページ]
[#改ページ]
第二話 蛮族の荒野
[#改ページ]
[#改ページ]
1
「何ということだ! 何という!」
叱責の声は、決して大きくなることはなかった。しかしそれは、そこに居並んだすべての古強者を恥入らせる苛立ちの調子がこもっていた。
第五赤騎士隊長であり、モンゴールのアルヴォン城の城主でもあるリカード伯以下、「獅子の広間」に居流れるゴーラの忠実なしもべたちは首をちぢめる。最も恥入っていたのは、いうまでもなく、直接に命をうけていた白騎士親衛隊の小隊長のヴロンである。
「申しわけもございません。しかし――」
羽根のついたかぶとをとって左胸にあてた醜い巨漢はおずおずと云いはじめる。それをきびしい声がさえぎった。
「云いわけ無用! お前はかれらを捕えることができなかった。それを責めているのではない、誰にでも失敗はある。
私がとがめているのはお前がかれらを目のあたりにしながら何ら自らの頭で決断しようとせず、その命令をうけておらぬというだけの理由で河を渡ることなく無為にひきかえした、という怠慢なのだ。第一にヴロン、お前はその一行の異様に気づいたときに、ただちにケス河を押しわたってでもかれらを捕える必要に気づくべきであった。第二に、そうすると同時に使いをアルヴォンに走らせ、ことの成行きを報告すると共に増援の要請をすべきであった。そうすれば、私はリカードに命じて一中隊、二小隊とイカダ兵に待機させてあったのだから、ただちにかれらにケス河を渡らせ、怪人たちを捕えることができたであろう。
暗黒の河をウマで渡ることは、無用の損失と判断したのか、ヴロン?」
「は――」
ヴロン隊長は冷汗をかいていた。彼はトーラスの古い貴族の家柄。その名が示すとおりモンゴールのヴラド大公とまったく縁のないわけではない。
しかしいま彼の前に立っている長身の若い貴人にことばを返したり、その判断にそむきたいと考えるものは、モンゴール全土にはいないであろう。たとえヴラド大公自身でさえも。――
モンゴールの公女アムネリス、右府将軍にして白騎士団の総隊長である彼女は、白づくめの甲冑をぬぎ、白い長いトーガを身につけていた。その下にぴったりとした細いズボン。アルセイスの純金よりももっとまじりけのない素晴しい髪はキラキラと輝きながら腰までも垂れかかっている。彼女は絶世の美貌だったが、しかしどうやらそれは傾国の美女というよりは、たぐいまれな貴公子と呼びたくなるようなものだった。
きっぱりとした口。ブルーグリーンにあやしく輝く、冷たく神秘な瞳。その目に見すえられ、その涼しい声でとがめられて動揺せずにいられるものは大の男にさえ少なかろう。
ヴロン隊長の醜い顔がゆがみ、彼はうなだれる。それを見て、
「よかろう」
アムネリスは言葉の調子をかえた。
「以後心して、私の命だけを機械的に実行し、しかもしそこねるようなことのないように。――すでにリカード伯がさきに待機させた一個中隊にケス河を渡らせている。ことが私の杞[#底本「杞」木+巳]憂であれば何も問題はない。リカード伯、占術師のガユスをともない、私の居室まで来るように」
「かしこまりました」
城主はうやうやしく一揖した。白いトーガをなびかせ、かぎりなく優雅な、しかも有能な戦士のなめらかな身のこなしでもって歩き去る公女を見送る。
「ヴロン、不運だったな」
彼女の姿が消えるのを待って悄然とした白騎士小隊長をなぐさめた。親衛隊として他の四つの大騎士団の上に立つ白騎士隊の小隊長と、赤騎士隊の第五団大隊長とはほぼ同格、そしてリカードはヴロンの旧友である。
「公女が何を恐れておられるのか、俺は理解していなかったのだ。スタフォロスでの調査の結果をきいてはじめて気がついた。あの奇怪な一行がパロの遺児と知っていたら、たといあの死の河をウマで渡るとも逃すことではなかった」
「知らなかったのだから、お主の罪ではないさ」
云いながらリカードはひそかに、それが自分の罪でもなくて幸いだったと考えた。
「しかし俺は右府将軍のもと、クリスタル遠征に加わっているのだぞ、先に公女を守ってひきあげはしたが。どうして、すべて同じ情報を与えられていながら、アムネリス殿下と俺との見てとるものが、白昼と闇夜ほどにも違うのだろう」
「だからこそ公女はモンゴールの右府将軍にして大公の代理人なのだからな。まあ仕方あるまいさ」
「生まれおちてから、生きてきた時間でいえば俺の半分に満たぬ公女が、俺の百倍ものものを見ることができるのだからな」
ヴロン伯爵はほッと小さな吐息をもらした。
「まあ、いい――しかし、パロとはなんと奇怪な王国なのだ? 古いだけのことはある。一夜にして中原のなかばを移動する奇怪なからくりもさりながら、あの奇怪きわまりない豹頭人を見たとき、俺は目を疑った」
「仮面をつけていたのだろう」
「いや、そうとは思えなかった。豹の毛皮は人の肩からそのまま色を変じてはいのぼり、頭を包んでいるように見えた。しかも並大抵の仮面であれば、イカダが転覆し、水面に払いおとされたときその衝撃でとれているはずだ」
「アムネリス様が一行にこだわるいわれもそのあたりにあるな」
リカードは考えこんだ。
スタフォロス城の焼けあとに残された痕跡では、とうてい彼の想像を絶することの真相、ましてスタフォロス城城主であり、モンゴールの黒伯爵として知られる第三黒騎士隊長ヴァーノン伯が、いまわしい死霊にのっとられており、そのためにノスフェラスの蛮族セムを虐殺して憤激をかって今度の破局をまねいたのだ、などといういきさつはわかりようもない。
しかし、スタフォロス城の記録係が命じられて作った狼煙の記録や、他の書きもので燃えのこったものなぞで、スタフォロス城がセムの進攻に破れ去ったとき、城内には奇怪な豹頭の人間、それに探し求めていたパロの双児が監禁されていたらしい、ということがわかった。イカダでケス河にあらわれたところをみれば、かれらはどうやってか、奇蹟的に地獄の業火をのがれ、共にモンゴール領を脱出しようとはかっているのだ。
「クリスタルの都では、ついぞそんな半獣半人がパロ王家を守っている、などという話はきかなかった。あんな外見をしていたら、それこそ一回姿をあらわしただけでも途方もない評判を呼んだろう。一体、あの怪物、どこからあらわれて、何者なのだ?」
ヴロンが云った。リカードは首をふった。
「それはわしには想像もつかん。わしはそやつを見てさえおらん。――しかし行かねばならん、あまり公女を待たせるわけにはいかんしな」
「パロは文化芸術に秀でてこそいるが軍事力ではとうていゴーラ三大公国の敵ではない」
夢みるようにヴロン伯爵は云った。
「夢のように美しい都だった。――そのクリスタルの都がおちたとき、なんとたやすい勝利だと思ったものだが……妙だな。王家は滅び、王国はついえた筈なのに、妙にいつまでもパロ≠ノまつわることがらが心にひっかかる」
侍童がやって来て、ガユス魔道士がすでに公女の居室に参上した旨をつげた。リカード伯はあたふたと立ちあがったが、ヴロン伯は、旧友が出てゆくのさえ気づかずに、深く考えに沈んでしまっていた。
リカード伯爵が、自ら提供した快適だが決して豪奢というわけではない一室へ入っていったとき、アムネリスは既に都からともなった魔道士のガユスをあいてに、しきりに話しこんでいるところだった。コクタンのテーブルの上に、銀杯と果実を盛りつけた大皿がおいてある。針のようにやせこけた魔道士は水一滴口にしようとしないが、白い長衣の裾をはねのけ、細身のズボンの脚をくんだ公女は乳のように白い手に銀杯を支え、自らの考えをまとめるあいだだけ、はちみつ酒を入れた杯を唇にもってゆくのだった。
「いま、スタフォロスに最小限の人数をおいて復興と警護につとめさせ、アルヴォンにも守りを正規におくとして、その他に動かせる手兵はどれだけあるか、リカード伯爵」
入ってきてうしろ手にドアをしめる彼を見て、前ぶれもなしに云う。無用の前説をすべて抜いていきなり要件に入るのは性格である。
リカード伯も公女の性格は知っていた。何も問い返したりせずに答える。
「砦の総勢が三個大隊でありますから、スタフォロスへ二個中隊、アルヴォンへ一個大隊置くとして、騎馬を二個中隊、歩兵を三個小隊、輜重兵が必要であれば一個小隊、そんなところでございましょう」
「ガユス! 一番近いツーリードないし、ガイルンの砦から、日常の警備にさしつかえない程度でただちに増援を送らせるのと、トーラスに使いを出し、赤騎士大隊を動員するのとはどちらが有効か?」
骸骨のような占術師はカサカサとひびわれた声で答えた。
「ツーリードから兵をかり、その上でトーラスに要請して後方の支援を」
「それでは間にあわない」
アムネリスは形よいくちびるをかみしめる。その金色の頭の中で、凄い勢いで考えが回転しているのだ。リカードはすべてを性急に問い糺したい欲望をぐっとこらえる。
「よかろう」
アムネリスは結論を出した。
「リカード、輜重兵はいらぬゆえ騎兵をもう一個中隊ふやせないか。歩兵は一個小隊でよかろう、もしかしたら不用かもしれぬ。大地が有毒な瘴気をはらむノスフェラスの荒野では、徒歩は危険だ。とりあえずそれだけを行動隊としてケス河を渡らせる、その指揮は私自らがとる。いっぽう――」
「姫さまがノーマンズランドへ!」
驚愕のあまりリカードは、公女の機嫌を損じるおそれも忘れ去って叫んでしまった。
「いけません! とんでもない! 私は大公閣下に忠義な臣として、大切なお身をそのような危険にさらすわけには――」
「リカード伯、時間がない」
公女はぴしりと云って、細いつよそうな手をガユスのもつ占いの水晶球にさしのべた。
「私は無用の危険は犯さぬが、せねばならぬ危険は進んでえらぶ。――しかし備えは充分にしておく。云いかけたのは、私のひきいる三個中隊がケス河をおしわたっているあいだ、残る守兵が例の渡河作戦により河面に臨時の橋を架け、対岸にかんたんな防壁を築いておく。ケス河は水量が激しくかわるために、これまで必ず恒久的な架橋には失敗してきたのだが、今度はこの作戦の終わるまでさえ保てばよいのだから、臨時のものでかまわない。――その間にツーリードの増援、トーラスの遠征軍が着くだろう。ノスフェラスへの本格的な進攻はそれからとなる」
「ノスフェラスへの進攻?」
今度こそリカード伯は大声をたててとびあがった。かねがねモンゴールの金蠍宮が、ノスフェラス荒野に目をつけていることは勘づいており、このような有毒で無人の荒野に、なぜなのだろうとひそかな疑いを抱いていたのだ。
しかしこれは彼の予想というものをはるかに越えている!
「金蠍宮はスタフォロス城の損失をきわめて重大に考えている」
アムネリスは説明した。
「スタフォロス――アルヴォンを結ぶ国境は、ゴーラの防衛線であるのみならず、辺境地方との西北限でもあった。そしてスタフォロスこそがモンゴールの辺境開拓の要石だったのだ。われわれが最も恐れているのは先に云ったようにパロの残党がノスフェラスの蛮族と何かの策によって手を組み、ゴーラが腹背に敵をうけることだが、その可能性はパロの遺児の逃亡により、いよいよ重大さを増した。
一刻も早くかれらを追い、セムとかれらが会う前にとらえて尋問することが肝腎だ。そして運よくこれが杞[#底本「杞」木+巳]憂であり、セムとパロは何ら交流をもっていなくて、これからもとうとすることをも防ぎえたにせよ、われわれはスタフォロスの損失を手をつかねて傍観しているわけにゆかぬ。ノスフェラスに長征し、少なくともセムの主要部族をほぼ壊滅させねばならぬ。わかるか、リカード伯。中原の中心部にいよいよ歩を進めたいま、モンゴールは辺境からなしくずしに足場をくずされるわけにはゆかないのだ。このたびのモンゴールのパロ攻略は父の独断だった。それがゴーラ三大国の益となるのでクムのタリオ大公、ユラニアのオル=カン公も祝いのことばを述べはしたものの、これによって三大公国の力のバランスの崩れることを極度におそれ、状況ははりつめている。必要とあればクムとユラニアは手をたずさえてモンゴールを叩くだろう」
「モンゴールのために!」
思わずリカードは叫んで剣をぬき、ゴーラの誓いを行なった。
「そう――だからこそ、われわれにはノスフェラスが必要なのだ」
アムネリスの緑の瞳がふいに、謎めいた光をおびる。
「それは後方の守りとして――」
おずおずとリカード伯はたずねた。モンゴールの男装の公女は、ここちよさそうに咽喉声で笑った。
「それもある」
「と、おおせられますと――」
「リカード伯、これは金蠍宮でさえ最高の機密に属するのだ」
そっけなくアムネリスは云ったが、リカードの顔をみてつけ加えた。
「ただ、――いまはこれだけ云っておこうか。ノスフェラスのノーマンズランドはきわめて重要だ。そしていまのところ、それがなぜ重要なのかを気づいているのは金蠍宮の頭脳だけであり、だからこそ今のうちにわれわれはそれを手中におさめねばならぬのだ、ということをな。――ガユス!」
「は」
しわがれた声で魔道士が答える。
「星は?」
「ただいまお話しなされている間に見ておりました」
占い盤と占い球を見くらべるようにして、その表面をカサカサした手でさすりながら、ミイラめいた魔道士は答えた。
「あまりよくありませぬ。というよりも、おかしな星の配置になっております」
アムネリスは老人の次のことばを待った。ガユス魔道士は胸にかけた占い紐をまさぐりながら、
「ありていに申しますと、それが何を意味するものなのかは、はっきりとはわかりませぬ。ただ、何かが動きはじめております――それも、途方もない何か……いまのみならず、長い長いあいだにわたって中原に激動を与えることになるような何かが。戦いの星と摂理の星、そして北の磁石の星がひきあい、同じひとつの宮に入ろうとしております」
「それは何を示すのだ、ガユス魔道士」
「出会いと、変化と、そして運命を」
アムネリスはするどく魔道士をにらみつけた。しかしもうそれ以上ガユスが口をひらこうとせぬのを見てとると、ほっそりとした肩をかるくすくめてリカード伯爵をふりかえる。
「占術師なぞというものはいつもこれだ、城主。わかるようでわからぬようで、そしてじっさいには何も役には立たぬことしか云わぬ」
「星はものごとを予知するのではございませぬ、アムネリス殿下。それはただ地上のできごとを反映いたします。ですから、ものごとをなすのは人間であり、糸はひとつづつたぐるほかはなく、それ以外に糸の端からもう一方の端へおもむく正しき道はございませんのです」
とガユス。
「わかっている、そんなことは」
アムネリスは上の空で答えた。
「ともかく星は凶兆とも吉兆とも判断がつかぬというのだな」
「恐れながら――というより、この星のひきつけあいかたは、吉凶ないまぜになっていて、そのゆきつくさきは未だ判然とはせぬながらたしかに、何か雪崩れるような運命の変化をもたらすはずと思われます」
「あの奇怪な豹人については何かわからぬか」
公女は思いに沈むように云った。
「あのような不可思議なものが実際にこの世に生きているとは夢想もしたことがなかった。あれは一体、何物だったのだろう」
「失礼ながら、何かの業病によってそれらしく見えた、或いは精巧な仮面をつけていたとは――」
考えられませぬか、と云いかけて伯爵はやめた。盟友のヴロン小隊長のことばを思い出したのと、それとこの公女に限ってはうかつに物事を、検討も加えず断じ去る、などということが決してないことに気がついたのだ。
アムネリスは答える手間をはぶいた。ガユスにむかい、
「どうだ、魔道士。そなたには説明がつくか、世界はひろく辺境は奥深い。そのどこかに、あのような異形の者が生まれたという記録はあるか」
「はて――」
ガユスは考えに沈んだ。
「恐れながら、それは神話の中のこと。いかにも魔道士はあれこれの神秘をとりおこないはいたしますが、それはただ世の人が常と思うものごととは、ほんのわずか角度をかえてものごとを扱うというだけのこと、まことに理屈のつかぬこととは、神話であって魔術ではございません」
「神話――たしかああした半獣神が出て来る神話があったな。シレノスか……」
アムネリスは白い手をのべて杯をのみほすと、ゆっくりと立ちあがった。トーガがふわりと細身のからだにまといつく。
「いずれにせよ彼らを捕えれば、謎の一端はあきらかにされよう。豹人の謎もあるいは解けるかもしれぬ」
「殿下、殿下は何ゆえに、そんなにあの怪物にこだわられるのじゃ?」
ふいにゆっくりとした声でガユスが云った。アムネリスは足をとめてふりかえった。何かしらぎくりとしたようすだ。
「殿下は何かを感じておられる。集まってきた星どもが入ろうとしているのはすなわち獅子の宮、獅子はすなわち豹に近いものでありましょう。星どもの集《つど》うその中心に、一頭の巨大な肉食獣がおります。星々はそやつのためにまどい、動きをかえる。公女殿下、恐れながら、獅子の宮に群れつどってきた多くの星のなかには、あなたさまが生まれたとき金蠍宮の塔の上にかかっていた星もございますぞ」
魔道士のようすは変わっていた。
まぶたが半覚醒のていで垂れさがり、その下からのぞく半目の眼は奇妙な、とろりとした光をたたえている。そのみにくいひからびた顔は何かとほうもなく遠くからひびいてくるかすかな音に、じっとききいっているかのようだ。顔にフードが影をおとし、彼は何かを伝えようとして口をひらいた髑髏ででもあるかに見えた。
アムネリスは一瞬何も云わなかった。その緑の瞳が怒りとも、驚きとも、心外ともつかぬきつい光を浮かべて宙に据えられる。くちびるがぎゅっと噛みしめられ、どう答えたものかと迷うさまに見える。リカードはかすかに息をのんだ。
だが――
一瞬のちに、リカード伯がまったく意外に思ったことには、男装の公女の端正な顔は、思いもかけぬ艶めかしい微笑にほころびたのである。
「ばかな――何を、いわれもないことを。ガユス、そなた年取ったな」
艶然と笑ってアムネリス公女は云い、そしてさらさらときぬずれの音をさせながら、出陣の用意をすべく二人をのこして室を出ていった。
取りのこされた二人は顔を見あわせて、目をあわてて互いからそらした――リカード伯爵は当惑して、そしてガユス魔道士は心の内をよみとられまいとするように。どちらも、何ひとつことばを発しようとはしなかった。
[#改ページ]
2
二|刻《ザン》ののちに伝令がすべての準備がととのったことを告げた。
同時にアルヴォン城の赤い塔の天辺の、巨大な鐘が規則正しく十回打ち鳴らされる。城内のすべての人間はそれぞれの役割に従っておさまっていた持ち場からあらわれ、中庭からそこを見わたせる場所に出てきた。
アルヴォン砦は滅び去ったスタフォロス城とスケールにおいてはほぼ等しいが、人数はこちらがかなり多い。城に残って守りをかためる留守部隊の前方に、美々しく、しかしいかめしく鎧かぶとに身をかためた騎馬が並ぶのはみごとな眺めであった。
ゴーラの一個中隊は約百五十名。それぞれが五個小隊からなるその中隊が三隊、そしてその横に公女の親衛隊であるところの装備の異る二個小隊が並ぶ。
アルヴォン城主リカード伯爵は第五赤騎士団の隊長であるので、そこにウマの手綱をつかんで整列した三個中隊の騎士たちは一人のこらず、渋みのある赤革の鎧にあかがねのかぶと、すね当て、籠手、をつけていた。その鎧の胸にモンゴールのサソリとゴーラの獅子との組みあわさったモンゴール大公の紋章。それぞれの列の先頭に立つ三人の中隊長のかぶとには真紅の羽根かざりが、そしてそのうしろに並ぶ十五人の小隊長のかぶとにも、その半分ほどの同じかざりがなびいて、それぞれの地位を示している。
その右に並ぶ二個小隊は、トーラスの白騎士隊。公女アムネリスの旗本にあって大公家を守るえりすぐられた精鋭たちである。純白の甲冑とかぶと、同じモンゴールの紋章。二人の小隊長、トーラスのヴロン伯爵と同じくトーラスのリント男爵がつけているかぶとの羽根かざりは、赤騎士隊の中隊長のそれにひとしいもの。
アムネリスは侍童に、特に細身に作らせた宝剣を捧げさせてバルコニーにあらわれると、満足げにその五百人あまりの遠征隊をながめた。どこにも怯懦の目も、逡巡の表情も、そして脆弱の顔も見あたらない。一様に五百の顔は、緊張と、そしてかぎりない讃仰をたたえて、ただひとりバルコニーに立つ公主を見上げている。
それはじっさい、すばらしい姿ではあった。アムネリスはさきほどのくつろいだ姿を、戦士の鎧にあらためている。肩からはねあげた白い長いマント。腰に宝石をちりばめた短剣をつるし、かぶとをつけぬままのすばらしい金髪はかがり火に照らし出されてキラキラと照りはえ、それにとりまかれた白い顔は若く輝かしい神話の英雄のように凛々しい。彼女はおもむろに、部下たちにうなづきかけると侍童の手から細身の宝剣をとりあげた。
「これよりわれわれ、赤騎士三個中隊及びヴロンとリントの白騎士隊はケス河をおしわたり、ノスフェラスの方角へと夜間の進軍を強行して、さきに逃したパロの遺児ふたり、及びそれを守るものたちを捕える。指揮はモンゴールの公主にして右府将軍なるこのアムネリス自らがとる。夜間の渡河と進軍ゆえに非常な危険が予想されよう。すべての中隊は火をたき、それを松明として、たえずまわりを照らすと共に互いに互いをたしかめあいながら鞍を近くよせあって進むのだ。糧食は三日分、帰城の予定は目的を果たし次第。よいか、必ず単独行動をとったり、命令を実行するに遅滞のあることがないように」
「モンゴール万歳!」
歓声がアルヴォンの城壁をゆるがせた。
「出発!」
アムネリスは手にした宝剣をたかだかとさしあげる。
リカードの従える留守部隊に見守られて、出動部隊はいっせいにそれぞれのウマにとびのった。白いマントをひるがえしてアムネリスの姿がいったんバルコニーから消えるが、すぐに中庭へあらわれ、侍童のひいた白馬の背に、かるがると打ちまたがる。
醜い巨漢のヴロン伯と、対照的に小柄なリント男爵のウマに左右からよりそわれ、うしろに魔道士のガユスと侍童をひとり従えて、まずアムネリスがアルヴォンの大手門を出る。白騎士隊がそれにつづく。さいごにリカード伯と留守部隊が平素のかんたんな胴丸をつけて城を出た。
すでにあたりはとっぷりと暮れている。辺境の夜だ。もし公女が、一分一秒もムダにできぬと強調しなかったならば、誰一人として、夜の闇のなかでケス河をおしわたるなどという暴挙に加わりたがりはしなかっただろう。
しかしモンゴールの精鋭は、ひとことの不満も口にしない。粛然と美しい右府将軍に従ってアルヴォンの森をだく足でウマを走らせ、通りぬけた。五列になったその両側の騎士たちはそれぞれ手に松明をかざしているので、かれらのゆくての闇はいぶりくさい昼にとってかわられ、そのたびにゆくさきざきの木下闇、下生えの影のなかから、眠りを――あるいはそのいとなみを破られて、あわてふためいてもっと深い夜のほうへ逃げ散ってゆく、あやしい生物の影がかいま見られる。勇猛な騎士たちは気にとめなかった。しかしそれでもかれらは、ようやくアルヴォンの森をぬけ、青白いイリスの月が照らし出すケス河を見わたせるところへ出たとき、ひそかな安堵の吐息を洩らしたのである。
それは夢幻的な――なにかひとの心をふるわせてやまぬ光景だった。
かれらがしんとして立つのは、ケス河を見おろす崖の上である。うしろにひろがるのはアルヴォンの黒い森、そのさらに上にそびえ立つアルヴォン城は、留守部隊のたくかがり火にあかあかとその輪郭を照らし出されている。その背景をなしてさらに黒々とつづくのはタロスの森、ルードの森、その彼方には焼きつくされたスタフォロス城も同じ月下に静もっていよう。
目を転ずればそれは闇の中にたぷたぷとおだやかに揺れている暗黒の河面である。そのなかにひそめた無数の脅威、おぞましい死と魔性をも知らぬげに、岩に打ちよせて静かな音をたてている水のおもては青白いイリスにほのかに光っている。そしてそれを見おろして立つのは、かがりに半面をあかあかと照らし出され、残り半面は物思わしげに夜闇の中に沈みこむ、寡黙な騎馬の部隊。
アムネリスの白い装備、かぶとをうしろにはねのけた金髪が、かれら闇への旅人たちをみちびく光の星のようにおぼろな輝きをはなって暗がりに浮かびあがった。
「灯しを増やせ」
アムネリスは一瞬、ケス河を見て、それのかくしている危険をおもんばかるようすだったが、そのためらいは一瞬にすぎなかった。澄んだ声が命じ、すべての騎士たちは背に負っている松明の一本をとって仲間のそれから火をうつした。弩は鞍つぼの横にくくりつけられている。まもなく小さな白昼が生まれ出る。
アムネリスは白手袋の手をあげて示し、再び部隊は、こんどは細い道を一列になって下りはじめた。
道はまがりくねってケスの河原へとおりていた。きわめてせまい上に岩場の、そこの河原には、五百人がいっせいにおりる場所はなく、まず先陣に命じられた赤騎士二個小隊がウマからおり、くつわをとって水辺におりる。
すでにリカード伯の工兵隊が準備をすませている。さきにスタフォロス城からの逃亡者たちがもちだしたのと同じだがもっと鉄を多くはり、防禦に気を配ってある手すりつきのイカダが水面にすべらされる。
ウマをいったん後続にあずけた先陣の騎士たちは松明をイカダにくくりつけた。剣をぬき、万全の警戒体勢をとり、イカダに十人づつ乗りこんで待つ。三つのイカダを、うしろの工作隊が押し出し、あやつる棹が首尾よくイカダを水面へ進み出させた。
下流へむかい、流れにまかせてゆけばよかったグインたち一行と異り、まっすぐに河を突っ切らねばならぬモンゴール兵はかなり苦心せねばならなかった。イカダの両側にあげられた十本の棹がいっせいに水に入り、河底を突きはなしてイカダをこいでゆく感じになる。松明の灯りは心細げにイカダの動揺に従ってふるえ、同じときに岸をはなれた他の二つのイカダを気にしているいとまもないほどに、騎士たちは細心の注意をかたむけた。
突然そのなかの一隻から絶叫と――そしてすさまじい水音があがって人びとはぴくりとして剣をつかむ。
「うわーッ!」
「〈|大 口《ビッグマウス》〉!」
水しぶきがイカダにくくりつけた松明のいくつかを消してしまい、しばらくそちらでは激しい争闘がつづいた。
「先発隊! 報告しろ、被害は!」
水辺に進み出たリカード伯が大声で叫ぶ。しばしのあいだイカダの上では声をかけあったり、もうつづけておそってくる気配がないことをたしかめるふうだったが、やがて水の上をつたわってきた大声が、
「二名やられました。〈|大 口《ビッグマウス》〉にさらわれたもの一名、イカダからそのおりにはじきとばされたもの一名。他は無事であります。イカダをもどし、水におちた者を探索いたしますか?」
「不用! 先を急げ。後続隊に探させる」
リカードは叫び返す。
そうこうする間に最初のイカダがどうやら無事に対岸へたどりついていた。ほっと安堵の息をもらして十人の乗り手は次々に岸へとびうつり、安全な大地を踏みしめた。実のところそれはノスフェラスと辺境地方のへだてであったのだから、とうていかれらが安全な大地にたどりついたとは云い難かったのだが。
かれらはイカダをたぐりよせるとしっかりと、岸の岩に鎖とナワでその端をくくりつけた。つづいてたどりついた二隻も同じ作業にとりかかった。
三つのイカダがぴったりと横に並べて岸に固定されると、騎士たちはイカダの下についていた鎖を手操りはじめる。そのための滑車もつみこんであった。鎖の先には、次の渡河のために水面へ出された三つのイカダがつながっている。
大変なのは最初の一回なのだった。次からは、棹と、そして岸からの鎖をまきあげる力とがあわさって、ずっと作業は楽になる。〈大口〉やその他の怪物におそわれることもなく第二隊は対岸につき、先発隊のイカダのはしに、かれらのイカダをそれぞれとりつけてある鉄のかぎでしっかりと連結させた。
その間に先発隊は、かれらのイカダの上に横に鉄の板を補強する作業につとめていた。必要なこと以外口をひらくものはまったくない。松明にてらされて、騎士たちは三十人づつ次々に河をわたって来、そのたびに対岸から此岸へむかって、イカダだった橋が少しづつ伸びてきた。
同じ作業が十回近くくりかえされたとき、そこにはイカダの木の上に鉄をかぶせた危なっかしいものではあったがれっきとした浮き橋ができあがっていた。さいごに鉄の棒がしっかりとわたされて仕上げの補強となる。次の一隊は、ウマにのったままで三列になり、ゆらゆらとゆれる橋をおしわたることができたのだ。
それからは進行が早かった。騎士たちは次々にわたってゆき、先にそののりてが徒士としてイカダで渡ったところのウマたちもかりたてられてのりてのもとにたどりついた。
「よかろう。第一段階は完了した」
アムネリスは満足して云う。
「ガユス、時間」
「日の出まで約三ザンでございましょう」
「まだ、時はあるな」
赤騎士隊はすべて対岸へわたりおえ、あと残っているものは白騎士二個小隊だけだった。アムネリスはリカードをふりかえり、命令を下した。
「今夜はここに警戒のため一個小隊の兵をのこして城にひきあげよ。明朝日の出と同時に兵を出し、一個中隊を対岸にわたらせ、さきに云ったとおりそこにかんたんだが一時の防衛には充分に役立っていどの防壁をつくりあげる。いっぽう工作隊はこの臨時の橋の拡張と補強を完全なものとする。伝令は互いに朝と夜の二回必ず出し、さらに他の連絡は狼煙を用いる。ツーリードからの増援軍はよく休息をとらせてから渡河させ、防衛線を守らせよ。よいな」
「かしこまりました。殿下、くれぐれもお気をつけ下さいませ」
リカードは心配そうだった。
「ノスフェラスはノスフェラス、悪魔の版図――殿下に万一のことがあっては私が金蠍宮に申しわけが立ちませぬで」
「かれらを捕えしだい、ひとまず防壁へと戻る。その間にもし河の水量があがり、橋がついえ去ることがあれば、できる限りすみやかに再び架橋せよ。何度でもだ、わかっていような」
「こころえております」
「スタフォロスの情勢に注意を。よもやとは思うが、またセムがおそうかもしれん」
「心しております」
アムネリスは満足した。リカード伯にうなづきかけ、白いかぶとを両手で持ち直すとぴたりとかぶり、面頬をおろす。艶やかな髪はひとすじも見えなくなった。マントをひるがえし、
「さあ、行くぞ!」
右のヴロン、左のリントに声をかける。拍車をあてられて、白馬の一隊はいっせいに浮き橋へさしかかった。その中に、黒いフード付きマントと黒いウマの身ごしらえの魔道士ガユスひとりが、まるで乳の中におとした黒インクのようだ。
橋の両側にかかげられた松明が、こころもとない安全を保証していた。リカード伯爵は気がかりそうに鞍つぼをにぎりしめて、じっとお転婆な公女の姿を見送る。
留守部隊に見守られながらアムネリスと親衛隊六十人はぶじに浮き橋を渡った。赤騎士隊はじっと岸に居並び、ウマのくつわをとって指揮官の到着を待っていた。
そして、かれらはノスフェラスの荒野へと、休むいとまもなく出発したのだった。
ノスフェラス――それは、伝説のノーマンズランドである。
この時代、辺境と呼ばれる、あるいは荒れはてて岩と砂漠とだけがどこまでもつづく、あるいは怪異な生物ばかりがさまよってとうてい人間には生きのびることもかなわない深い森の、その荒涼たる妖魅と蛮人の領土は、実のところ人知と文明の領土であるところの中原地方を、そのひろがりの点でも、脅威という面からも、はるかに凌いでいるのだった。
ひとびとは辺境と、そしてレント、コーセアの二つの海によって囲まれている、わずかな沃野にしがみつき、そのわずかばかりの土地を争いあって文明を築いた。緑ゆたかな中原地方と、それからケス河から数千タッドの距離をへだててレントの海に流れ込む、辺境と中原の南東限たるロス河の周辺の、どこまでもつづく草原地方とに。――コーセアの海にうかぶ島じまには、シムハラ、ウラニア、ロードスなど南方諸国が勢を張り、あくまでも雪ふかい北方にはクインズランド、ヴァンハイム、タルーアンをはじめとする氷雪の諸氏族が根づいていたが、それとてもゆたかで光明るい中原地方からは、なかば伝説の国々と見られ、中原の人びとにとって、まだ世界はあまりにも未知の場所なのであった。
中原に位置する諸国のあいだには、その敷かれた石の色ゆえに『赤い街道』と通称される交通網もひらけ、諸国間での交易も活発である。
しかし、のちにははるか辺境へまでわけ入って人智のひとすじの光となるこの赤い街道も、このころはせいぜい中原の国々とその主立った都市とを結ぶばかりで、いまなお辺境と中原をへだてるいわゆる辺境地方は開拓民の手にまかされたまま、深く荒々しい自然をそのままに文明に立ちむかっているのだった。
だが――
その辺境地方でさえ、ケス河ひとつをへだてた、真の辺境の脅威の前では平和な沃野にひとしいのである。
モンゴールの公女アムネリスのひきいる、赤騎士三個中隊、白騎士二個小隊からなる追跡部隊が足をふみいれたのは、そのような場所なのだった。そこに棲むものといっては、ただノスフェラスの蛮族と、そして生まれもつかぬ妖魅どもばかりというノーマンズランド。
対岸にアルヴォン砦の灯がなつかしい守護神のように輝いている渡河地点をうしろにしてかれらは行く先を東にとった。夕方、逃亡者たちの一行がさいごに、そちらへむかうのを見られた方角である。
道らしい道はノスフェラスにはない。そこはただ、ごろごろと巨大な灰色の岩がころがり、そのあいまをぬうようにしてわずかな苔類がへばりついている不毛の荒地なのだ。暗闇は深く、それほどのような恐るべき怪物をひそめているのかさえあかさずに濃密によどんでいる。
アムネリスの一隊は松明をかかげ、声もたてる者もなく粛然と五列になってウマを歩かせた。松明を灯すことは、逃亡者たちに追手を気づかせてしまうおそれがあったが、おそるべきノーマンズランドを、夜、灯なしで歩くのは死と同じである。騎士たちはたえず互いをたしかめあい、盟友のもつ松明が消えかかれば次の灯りに自分の松明から火をうつさせ、足元があやうければ互いに照らしあってウマを進めた。
かれらのゆくところ、五百の松明が闇をおしのけ、わずかな一時しのぎの安全をつくり出した。ここでは闇さえもが、いくらもはなれてはおらぬはずのケス河の彼岸よりはねっとりとまとわりつくように思われる。あたかも、暗闇それ自体が、不浄の生命を手に入れて、濃密でいまわしい闇黒のゼリー状の生物と化したかのように。
その濃密な闇の中には明瞭に、なにか知らぬ小さな生物がそれと同化したかのようにひそんでいるのが感じとれた。まるでそのねっとりとしたゼリーの任意の一部でしかないように、それらは息さえもひそめて、五百の松明の前に逃げかくれようとするようなのだが、しかしそれらの声にならぬざわめき、恐慌と憤懣、恫喝をひそめた身ぶるいがつたわってくる。ノスフェラスの夜の静寂ほどにざわめきと、不浄の生命とに満たされているものはない。
アムネリスは騎馬の列のまんなかに、五百の騎士に守られて端然と歩んでいた。しかしその彼女のフードでつつまれた頭上をさえ、奇怪な声をひいて、まるで女のすすり泣きのように呻く、大きな翼のあるもの[#「もの」に傍点]が、バサバサとかすめ過ぎていったし、松明がさしのべられると、光の輪の中からあわてふためいて逃げ去ってゆくのはねばねばした、ヒルともつかずむかでともつかぬ短い足のたくさんはえた奇妙なもの[#「もの」に傍点]だった。
アムネリスはそうした奇怪なノスフェラスの住人たちが、早速あらわれるのをみても、顔色ひとつ動かそうとはしなかった。ただ、かぶとの面頬をおろした上からかぶった、大きなゆったりしたフードを深くかたむけ、自分ひとりの物思いに沈むかのような緑色の目をその影にかくして、ひたすらウマを歩かせる。もとより騎士たちにも、一語を発するものもない。
もうそろそろ、日の出もま近いはずだったが、いつまでも闇は地べたに這いまわり、そして空気にはほのかに、異様な臭気があった。何の匂いとも、他に比べることのできぬような、しかしいつまでたっても鼻孔に狎れることのない癇にさわる匂い。それは、誰よりも、魔道士のガユスを苛立たせるようで、ガユスはいよいよ深くフードをひきさげ、口と鼻にマントの端をあてて、ロバにゆられながら、誰にもきこえぬ声でこっそりとぶつぶつ云いつづけているのだった。
(妖蛆《クロウラー》のにおいだ。否、陸棲のノスフェラスの〈|大 口《ビッグマウス》〉の匂いでもある。不吉だ、不吉だ!――というてみたところではじまらぬ。姫さまは星にあやつられておいでなのだからな。それにその星ときては、なにしろこれまでにこのような星の配置は見たこともないというしろもので、それがあまりにさまざまな要素をはらんでいるもので、それは凶兆であるとも、吉兆であるとも、どちらでもないとさえ判じることができぬ。――ただ云えるのは、この星々がどうみても、恐しくややこしく、もつれあった模様を描くために集まりはじめたもので、しかもその模様なるものはいまだに描かれはじめてさえおらぬ、ということ――さて、これほどこみいった星々をたなごころをさすようによみとれるほどの星占者といったら――さよう、西国に住むという賢者にして見者[#「見者」に傍点]なるロカンドラスか、あるいは噂にきく、二万年生きたという大魔道師アグリッパ、〈闇の司祭〉グラチウス――まずはそんなところか。かれら三人にくらべればこのわしなどはいま生まれたてのガチョウのひなよりも何も知らぬ。いや、仮にもっと修業をつみ、道をきわめた魔道士でも、この星をときあかすことは何千年の時間を必要としようよ。まずは魔道の最高祭司というべきかれら三人の他に思いあたる者はない。
ならばかれらをたずねて教えを乞えばよいのだが――しかし桑原、桑原! 〈闇の司祭〉グラチウスといえば、黒魔術の奥義をきわめ、すなわち悪魔神ドールの最高祭司である。グラチウスにかかわりあうことはすなわち世にも危険な生ける暗黒にふれることだ。
では史上稀にみる大魔道師にして、想像を絶する過去から生きつづけているアグリッパはどうかといえば、これはもはやなかば以上伝説の魔道師、その所在、その真の力、その人がいまなお実在するのかどうかをさえ、つきとめるためには、それ自体がキタラ弾きの一篇の長詩に語り伝えられるような、困難をきわめた冒険を必要とするであろう。
強いてたずねてゆくとすれば、それゆえ見者なるロカンドラスだが、しかし白魔術の星占術者にして草原の賢者なるロカンドラスもまた、どこか深い山中にひそんで星をみることをもっぱらとし、ほとんど人前に姿をみせることはないという。いずれにしても、難儀なことだ――難儀なことだ、まあ運命の糸車を手中におさめるヤーンにしたところで、その織物の模様を人間ごときに、そうそうたやすく読みとかせるつもりはないのだろうから無理もないが。
いずれにせよこの星図はわしごときの手にはあまるもの。険呑なことだが、わしにできるのはただ、姫様が正しい運命の糸にのっているや否やを見てとることだけだ。しかもあたりは妖蛆《クロウラー》の匂いにみち、五百騎の精鋭のうち何騎が無傷でトーラスに、いやアルヴォンに戻りつけるかどうかは保証の限りではない。やれ、難儀だ、難儀だ――!)
「ガユス!」
ふいに公主の鋭い、ムチのような声が老いた魔道士をその物思いからぴくりとさめさせた。
「何を、しきりに独り言を云っている」
「は」
ガユスはフードをいっそうひきさげてうなだれる。アムネリスも、しいてその問いをかさねようとはせず、ただ、ようやく目のさめたといったようすで深くかぶっていたフードを払いのけ、面頬をあげて馬上から、周囲の光景を見わたした。
さしもあたりをねっとりとぬりこめていた夜闇は、ようやく去りかけていた。東の山の端がものういオレンジ色に染めあげられ、空気は薄紙をはぐように闇の黒をぬぎすてて、かわりに白と灰色の荒涼とした透明さを身にまといかけている。
「よかろう、灯しを消せ」
少し待ってからアムネリスは命じた。五百の松明がいっせいに吹き消された。
「殿下、恐れながら、追跡の正しい方角にむかっていることは確かでございましょうか」
リント小隊長がかるくウマを近よせてきてささやく。アムネリスは手をふって、
「ガユスのもつ占い盤はたしかにこの方角、東のカナンの方向をさし示した。それに間もなく夜があける。近くの崖にのぼり、偵察隊に四方を見きわめさせよう。その上で再び兵を進める。ノスフェラスでは、兵を二手にわけたくない」
「心得ました」
「それぞれの中隊長に、ウマをかえして自らの隊に落伍者が出ておらぬかどうか、点検させよ」
「かしこまりました」
リント男爵は白馬にかるくムチをくれて隊列をはなれた。まもなく伝令がゆきわたり、長い夜の暗鬱な進軍につかれた一行にはようやく生き生きとした動きがよみがえった。
落伍者はない。アムネリスは満足し、ほどなく左手にあらわれてきた岩山をみてとると、いったん全軍停止の伝令を出した。
「ここで一ザンの間休息をとる。ウマをおり、糧食をつかい、交代で仮眠してもよろしい。ただし必ず半数が目ざめているように、また装備はとかず、自分のウマにただちに乗れる位置からはなれぬように」
触れをまわすと、アムネリスは、ヴロンとリントの二人の小隊長、それにガユスと侍童とについて来るよう命じて、目をつけておいた岩山へウマを走らせた。
公女をのせた純白の名馬も、長い不安な夜の中の粛々たる行軍がおわり、軽やかに走ることのできるのをよろこぶようすで、脚をたかだかとあげて、ごろた岩山を上る。アムネリスは少しひらたくなっているその頂上でウマをひきとめ、手綱をひかえたままノスフェラスの限下のひろがりを見わたした。
そして覚えず小さな吐息を洩らした。見わたすかぎりの白と灰色の、岩と砂の海原、それは波頭に似てゆったりとうねるさまさえも海に似ているが、そこにたちのぼる何とはない瘴気と空気のゆらめきだけは似ても似つかない。まだそんな時間でもないのに山の端にはゆらゆらと不安な陽炎が立ち、そして荒野はゆるやかに明けそめてゆくが、その朝を心やすらぐものにする、小鳥のさえずりや生物のいとなみは、どこにも見出すことができない。
その荒涼たる眺め、人を不安にさせる光景がやがて一瞬凶々しい赤に染められると、色さえも河向うに比して妙になまなましい太陽が姿をあらわす。ノーマンズランドの夜明けである。
ウマの背に立ちつくす公女とそれを見守る騎士たちに、風にのって白いエンゼル・ヘアーがまとわりついてはたちまちに溶け散ってゆく。
ふと、アムネリスは目を細めた。
その唇がかすかにほころび、それから急にひきしまる。彼女は手をあげて、黙ってその方向を指さした。
岩々の陰からゆらめき上っている、ひとすじの煙。
アムネリスはうなづいた。ウマにムチをくれ、まっしぐらに岩山をかけおりる。騎士たちがつづく。獲物は見出されたのだ。
「出発!」
公女の鋭い声があたりをつらぬいた。
[#改ページ]
3
かれらの前には、ノスフェラスの荒野がひろがっていた。
「グイン――ねえ、グイン」
イカダは岩にぶつかって大破し、対岸ではアルヴォンの白騎士隊が戻って来いと叫びたてつづける。威嚇のつもりの弩の一弾も、ぴしりとかれらのすぐ横の岩に食い込んだ。かれらはずぶ濡れでノスフェラスの岸に這いあがり、あとも見ずに走った。
ようやく疲れはてた双児ががっくりと膝をついたのでグインたちも足をとめたが、そのときには、すでに河の上でも暮れかけていた日はとっぷりと暮れ、そうでなくてもそろそろ足を進めることはできなくなりかけていたのである。
「グイン――お願い、休んで。もう一歩も歩けないわ」
リンダは喘ぎながら云いおえる暇もなく、小さな岩にぐったりとへたりこんでしまった。レムスもその足もとにへたへたとすわりこむ。
グインとイシュトヴァーンは目を見あわせたが、グインは知らず、ヴァラキアの傭兵のほうもさすがに肩で息をしていて、うなづくのも待たずにそこに座ってしまった。
「大丈夫だ。どうせ、夜のケス河をウマで渡って追っかけてくる奴などいないさ」
息を切らしながら云い、腰の革袋からつかみとったヴァシャ果を口に入れる。ガティとよぶ、ねり粉や、乾し肉の類はみな有毒なケス河の水に濡らしてしまった。
「火をたこう」
イシュトヴァーンがいう。グインは止めたげなそぶりをしたが、傭兵は、
「大丈夫だというのに。第一、ノスフェラスの荒野で、灯しもなしに夜闇のなかにうずくまっているつもりか?」
それは尤もな云い分であったからグインも承認した。かれらはそこらの枯れた苔をあつめてきて火をたいた。火のまわりに集まると、やっとほっとしたような気分になる。
「やれやれ――だ」
何事についても最初に口にする〈紅の傭兵〉が、しきりとヴァシャ果をかみながら云う。
「イカダはぱあになっちまうし、ゴーラ兵には追っかけられるし――これで、最初のもくろみは何もかもぶちこわしだな」
リンダはレムスと肩をよせあい、一方の腕にはスニをひきよせながら、不安をかくして焚火を見つめた。スニの小さい毛ぶかいからだに手をまわしていると、何となく心がやすまるのを覚える。そして、火に照らし出されるグインの、神話めいた豹頭の半面を眺めると、よるべのないいまの身の上への、胸をかむ不安も、いくらかは慰められるのだった。
「こうなっちゃもうゴーラには戻れない。第一、イカダもありゃしない。しかし何ひとつ装備もなしに、徒歩でノーマンズランドを横断するなんてことはできやしねえ。やれやれ――だ、他に云うこともないほど有難いヤーンのもてなしだな。
それとも、お前にゃ、何か云うことがあるのか、豹人?」
「ないわけでもないな」
寡黙にグインは答えた。しばらく考えて、
「というより、そのようなことを云いあっていたところでどうにもならん。後戻りができぬ以上、前進するほかない――ということだ」
「へえッ?」
イシュトヴァーンは大仰な声をたてて、何かグインをからかおうとしたらしかったが、急に、
「ウワッ」
声をたてて顔から何かを払いのけた。
「どうした?」
「糞《ドール》、エンゼル・ヘアーのかたまりらしい。とんできてぺしゃりと顔にはりつきやがった」
「気をつけた方がいい。それは無害だが、数が集まると鼻から入りこんで息をつまらせたりする。ノスフェラスのいちばんよく見る生物だ」
「詳しいんだな」
イシュトヴァーンは憎らしげに、
「まあそりゃそうだろうさ。お前はおそらく、生まれ故郷へ帰れて嬉しいんだろう」
「なんでグインがノスフェラスが生まれ故郷だなんてわかるのよ」
リンダが怒って云う。
「化物はみんなノスフェラトゥさ」
というのが傭兵の無責任な返事だった。
「そんなことはどうでもいい。ともかく、前進するほかない、といったな。その考えをきかせてもらおうじゃないか。このノーマンズランドのただなかで、ろくろく食い物さえもなく、一体どこへむかって前進しようというのだ。カナンか?」
「しか、あるまい」
「カナン山脈まで何タッドあるか、知っているのか?」
「たぶんな」
「カナンを越えれば、そのさきにはロスの大密林とロス河があるのだぞ。それをこえ、謎めいた数々の東方諸国をこえてようやく、ケイロニアに出る。それも承知か」
「仕方あるまいさ」
「まあな――とはいうもののそれはたぶん、徒歩でなら一年はかかる旅程だ。その間、食いものはどうする。ノスフェラスのイドでも食うか。まァここ当分はこのやせこけたセムを食ってつなぐにしてもだな――」
「まあッ!」
リンダは柳眉をさかだて、スニを抱きしめた。怒りのあまりことばがのどにつまる。
「ス、スニを食べる、ですって? 蛮人! あんたってほんとに獣だわ!」
「お前の生まれた国ではサルはくわんのか。ヴァラキアでは、サルの肉は祭りの日の焼き肉と相場が決まっていたぞ」
イシュトヴァーンの黒い目がきらきらと輝いた。
リンダはからかわれていることに気づいて、強情そうに可愛いくちびるをひきむすび、黙ってしまう。スニは何を云われているのか、見当のつくような、つかぬような表情で人間たちを見くらべていたが、ふいにリンダの腕から身をもがいてぬけ出ると、グインにむかい、おそるおそるといったようすでさえずりはじめた。
ピイピイと甲高い、いかにもさえずりのようなその声に、グインは重々しく耳を傾けていたが、やがてほのかに興奮のようすをみせて、セムのことばで喋りかえす。スニがいっそうまくしたてる。
「おい、何なんだ。そのサルは、いったい何を喋っているんだ、グイン」
「スニのことをサルだなんて――!」
憤慨してリンダが云ったが、グインはそれを手で制して答えた。
「スニは云っている。スニは生命を助けてもらった恩義を忘れない。このままノスフェラスをさまよっているのはとてもよくないことだから、スニの部族の村へいったん立ちよって礼をうけてくれるように、そのあとで、ラクの若者たちが道案内についてどこへでも望みの場所へ安全にセムの領土内を通りぬけさせてあげよう、と」
「まあ、スニ!」
リンダは小さな猿人族の少女の首にかじりついた。スニがキッキッというような声をたてる。リンダの感謝をみて嬉しそうだ。
「おれたちに、サルの客になって逗留しろっていうのか」
イシュトヴァーンは鼻にしわをよせて叫んだ。
「サルの村へか。ドールの炎の舌にかけて、こんな傑作な冗談はきいたこともないぜ!」
「まあッ! ドールの名をそんなにかるがるしく口にしたりして! しかもここがどこだか忘れたのね! ここはノスフェラス、まぎれもないドールの版図だというのに。わたしたちまでその軽率のまきぞえにしようというのね」
「ドールなぞ恐がっていて戦場稼ぎがつとまるか。ヴァラキアでは、ドールなぞは、毎日のように博奕場の呪いことばにおとしめられていたものさ」
「まあ!」
憤慨を通りこして、リンダとレムスの目は本当の恐れで丸く見張られた。リンダはそっとヤヌスの印を切る。
「あなたが連れでは、たとい無事にすむ旅でも、すみそうにもないわ」
「いいことを教えてやろうか。おれはヴァラキアのイシュトヴァーン、魔戦士にして〈紅の傭兵〉と呼ばれる者だが実はもうひとつの呼名がある。それはな――〈災いを呼びよせる男〉というのだ」
イシュトヴァーンは得意そうだった。
「ほんとにそうだね」
レムスが云う。イシュトヴァーンはくすくすと笑って、
「だから、見ろ、おれの行くさきざきで、貴族のむすこはおれに喧嘩をふっかけて殺され、気取り屋の貴夫人はおれとの浮気がばれて家を追い出され、ついにはスタフォロス城は壊滅さえしてしまったじゃないか? しかも当のおれときたら、その地に災いをもたらしておいて、いつでも、どんなときでも、ふしぎなことには間一髪で危機をすりぬけることができる。いつだっておれだけがおれの呼びよせた災いをまぬかれるのだ。これはおれさえ、ときどき超能力だろうと思うこともある。――ともあれ、おれがそうであるからには、おれの守り神はヤヌスでも老いぼれのヤーンでもなく、もしかしたらドールそのひとなのさ。味方にすりゃあ、こんな心強いしろものはありゃしないね」
「そんなことを云っていると、いまに魂を売ってしまうよ! ドールにたわむれるなんて……」
恐れをなしてレムスが忠告にかかる。しかし、それよりも早く、リンダが口をひらいた。
グインとイシュトヴァーン、それにレムスが、ふいにおどろいたように見つめる。リンダのようすが変わっていた。
焚火の火に照らし出されて、少女の半面は奇妙にもまるでリンダではない誰かのように変わっていた。
きっぱりとして、威厳と誇りをそなえた生まれついての小女王ではあっても、まだほんとうに稚く無邪気な少女らしさをぬけきらぬ、パロの王女の顔が、どういう光の加減なのか、あたかもヤヌスの神殿の巫女とでもいった、暗く神秘な冷やかさをたたえ、その目は黒ずんで何千年もの暗い叡智をかいま見せるかに見える。三人は息をのんで耳を傾けた。
リンダはゆるやかなしぐさで手をあげた。それも平素の彼女とはあまりに違う、重々しく神宣めいたそぶりで、まっすぐにヴァラキアの戦士の胸を指さした。
「いまに――」
かすれた、彼女らしくない大人びた声で云った。
「いまにあなたは知る。おおいなる災いを運ぶ男よ――すべてどのような災いも、それを運ぶ使者をそれが使者であるゆえに見のがしているわけではないのだ。いずれ知るであろう――災いはつねに近くにあり、それは御身に帰るのだ。御身の災いの星を、消すほどにつよい獅子の星が勝利を占めたとき、御身の星は消え――そのときはじめて御身はやすらうだろう。限りない遍歴を経て御身の運ぶ災いのために中原はまどい――その災いはその星があかつきに消されたときにしか消えることはない。
いずれ御身は災の星が、その使者そのひとをも洩らしてはいなかったと知るだろう――」
リンダは何かに邪魔されたように口をとざした。白いまぶたがふいに見ひらかれた眼の上にすーっと降りて来、彼女は力が抜けてレムスにもたれかかった。
「何を――」
傭兵は何か云おうとした。何か、椰楡のことばを。しかし、口にすることはできなかった。
何か奇妙な、ひどく遠くの時空までこのままつづいている永遠のさなかの一点に、ふいに足をふみ入れさせられてしまったかのような、畏怖ともつかぬ麻痺が若い傭兵をおそった。彼はリンダを見つめた。
いまこのノーマンズランドの夜闇の一点で、時と空間とは永遠に止まっているそのしんとした全貌をむきだしにするかに見えた。闇ははてしもなく、夜もまたはてしもなかった。イシュトヴァーンは突然激しい孤独、わななくような心を凍てつかせる孤独感におそわれて、恐怖の目で見まわした。彼のよく知っている、生きて血肉のある人間界の住人を求めて。――彼の目にうつったのは夜と闇、ふたつの永遠の接点で、重々しくマスクのように目を半目にして、運命をつげるものとして彼を見守っている女巫の顔、そしてその守護神然とまっすぐに座っている、あやしい異教の神像さながらの半獣半神の豹頭であった。
セムの娘とパロの世継との顔は闇の中に沈みこみ、そこには豹頭の戦士と異様なまでに神々の領域に近くある予言者の少女しか存在してはいないようだった。
時の果てまで――
イシュトヴァーンは身をふるわせた。若く、無鉄砲で、生まれながらに常人と異る運命を約束され、途方もなく陽気で自信にみちた戦士であるくせに、彼は全身をふるわせたのである。彼はどのような血の凍るような冒険のさなかにも、恐れを感じたことすらもなく、それゆえに魔戦士と呼ばれているのだったが。
――時は凍てつき、止まっていた。これは運命の手中にある、死すべき者であるところの人間が、足をふみ入れるはおろか、まことは面をむけることさえも許されてはおらぬ筈の領域であった。イシュトヴァーンのからだを木の葉のようにふるわせている魂の底からの怯えと寒さとも、おそらくは、決して見てはならぬ領域へはからずも目をむけてしまった人間の、呪われてあることへの悟りからくるものであっただろう。
「おれは――」
上あごにはりついてしまった舌をひきはがして、それでもなお彼は何か云いかけようとした――そのとき、ふいに焚火のなかで、激しい音をたてて燃えさしがくずれた。
呪縛はとけた。火がゆらめき、時は再び正しく流れはじめ、火に照らし出されたのは、血肉をそなえ、自らもひとしくヤーンの糸車にたぐられる存在であるにすぎない、五人の男女であった。
イシュトヴァーンはひそかに深い吐息をつき、肺の中の息をすべてしぼり出した。――そうすれば、たったいまのおぞましい孤独感を、すべて体内から入れかえられる、とでもいうかのように。
(冗談じゃ――ねえ)
誰にもきこえぬように、こっそりと傭兵はつぶやいた。
グインの無表情な豹頭は、いまそこにふいに訪れ、ふいに去っていった奇怪な時間になど、気づいてさえいないように見えた。彼は物騒な輝きを秘めた黄色く光る限を、おもむろに連れたちにむけ、口をひらいた。
「夜が明ければアルヴォンからの追手がかかるかもしれん。俺が城主ならば確実にそうするだろう。さっきの奴らは俺たちを見た。それが城壊滅の折に、スタフォロス城に居あわせた者たちであると知るのはわけもないことだし、だとすれば、鋭敏な目をもってすればその連中がセムの娘をつれてゴーラの敵としてノスフェラスのセム族のもとへおもむくのがどのような脅威をもたらすか、想像するのはたやすいことだ。俺たちは夜闇にノーマンズランドを徒歩で行く危険をおかしてでも、ともかくできるかぎり距離をあけておかねばならん」
「そ――そうだな」
まだどことなく悄然としてイシュトヴァーンは同意したが、すぐに元気づいて、
「それにどうもおれには納得できない。いったいなぜ、赤騎士の砦であるアルヴォンに、トーラスの白騎士がいたのだろう――どうも、うさんくさい話が多すぎるぞ、このへんでは」
「まったくだ」
グインはうなづいた。
「だからこそ一刻も早く、とにかく身のおちつきどころを見つけなければならん。そして、何とか方策を考えるのだ」
「方策?」
「そう。このままでは、強大なゴーラ公国の追手から、ただおどおどと逃げまわり、目をかすめているばかりだからな」
「反撃でもしようというのか」
呆れ返ってイシュトヴァーンは叫び、もうさっきの奇怪な体験などころりと忘れてまじまじとグインを見つめた。すっかり呆れはてた、というように両手を打ちあわせる。
「ヤーンの長い二枚舌にかけて、一体おれたちに何ができるってんだ?」
「ではケイロニアに逃げこんでどうするつもりだったのだ?」
グインは問い返した。
「そ――そりゃあ、どこかの将軍のところへいって試験をうけ、傭兵としてもぐりこむのさ」
「あなたはそれでいいでしょう。でもグインはどうするの?」
リンダが叫んだ。もうその顔はただのかわいらしいきかん気な少女のそれでしかない。どこにも、さきの奇妙な神さびた冷やかさは見出すこともできず、見るものはさきほどの出来事はすべて夢の中のこと、といった錯覚にとらえられるのである。
「この姿で、彼がどうやって傭兵隊に入れると思うの? 追いまわされ、激しく尋問され、あげく信じてもらえずに処刑されるだけよ! わたしたちだって――」
リンダはくちびるをかみしめる。傭兵はいよいよ本来の姿をとりもどしてきた。
「そんなことまで、おれに何とかしろといわれたって困るぜ」
ゲラゲラ笑って指摘する。
「そいつがとんだ化け物なのは、おれの知ったこっちゃねえからな。おれはちゃんと自分の身の始末はできるしこれまでもそうしてきた。そっちにも、そうしてもらいたいもんだね」
「よかろう」
「人非人!」
怒ってリンダがわめくよりも早く、グインは重々しくうなづいた。
「こう云っては何だがそれは心配してもらうまでもない、俺もどうやら自分の身の始末は自分でつけられるぐらいの力はあるようだ。しかしここはノスフェラス、文明圏まではゴーラに戻るのでなければどちらを向いても数十万タッド――そしてゴーラに戻るのは敵のあぎとにとびこむこと、だとすれば、ケイロニアにつくよりもまず、いまここでの身の始末を考えねばならんのとは違うかな。
どうだ、〈紅の傭兵〉――あくまでも、セムのラク族を頼るという考えには反対なのか」
「サルに力をかりるだと?」
イシュトヴァーンは思いきり鼻にしわをよせて下くちびるをつき出した。奇妙にもそういう憎らしげな顔をすると、黒髪と黒い目のその傭兵は妙に愛嬌のある――そして本当にまだ二十になるならずの若さを改めて見るものに思わせて、可愛らしくさえあるようすに見えた。
「おい、豹あたま、きさま一体その獣の頭の中で何を考えている。サルの部族をそそのかして、ゴーラ大公国に進攻させようとでも、考えているわけではあるまいな――獣は獣どうしってわけか? こ、こいつはおかしい」
傭兵は哄笑した。笑いすぎてむせ、涙をふくのをリンダは憎らしそうににらみつけた。イシュトヴァーンのその天性の憎めないところも、リンダにばかりはいっこうに効目がないばかりか、いっそう腹立ちをあふりたててやまないようすだ。
「いい加減にしたら?」
いくぶんわざとらしく、なおも笑いやめぬあいてにぴしりと云う。子供らしい彼女の憤慨が、あいてをいっそう喜ばせているのは、正直なリンダにはわからない。
「リンダ、この人がイヤだというのなら、好きにさせたらいいじゃないの。ねえ、グイン、ぼくたちはスニのところへよせてもらうよ。セムの力をかりるなんてことは考えていないけど、とりあえずアルゴスなりケイロニアなりに身をひそめ、そこで再起を期しているうちにはクリスタルの残党が兵をまとめ――」
「レムス!」
リンダがぴしりとさえぎりかけたが遅かった。イシュトヴァーンの黒いアンズ型の目が丸くなり、それからずるそうにゆっくりと細められ、彼は舌を出して満足げにくちびるをなめまわした。
「ははあ」
わざとらしく、双児を見くらべながら猫なで声を出す。
「やはりな――どうも妙だ妙だと思っていたが、してみるとお前――とリンダを指さし――とお前――レムスをさして――は黒竜戦役の戦火を逃れてきたパロの遺児というわけだ」
「レムス、ばか!」
リンダは舌打ちした。スミレ色の口に何者も許すまい厳しい炎をたたえて〈紅の傭兵〉をにらみすえる。
「そうよ。わたしはパロの聖なる王家の正しい血筋にして〈予言者〉なるリンダ王女、そしてこれはパロの真珠のかたわれ、いまやただひとりの、パロの王位継承者、世継の王子レムスだわ。あんたはそれを知ってしまった。さあどうするの――わたしたちをゴーラに売るなら売りなさい。わたしたちをつれて戻るか、そうせぬまでもわたしたちの居場所をもって戻ればアルヴォン城はおまえを脱走兵としてとがめるどころか騎士団の中に地位を与えてくれるでしょう。
そのかわりおまえは聖なるパロの王家と、その忠誠なる民すべての永遠の呪いをうけるでしょうけれどね!
さあ、選びなさい!」
「何をまったく――」
むきになって、とイシュトヴァーンはニヤニヤ笑った。しかし、実のところ、自分でもそうと認めたくはなかったのだが、リンダにそうしてきっぱりと威厳をもって正面から挑まれると、彼は内心たじたじとなるのだったし、それだけでなく内心、スミレ色の日を激しく燃えあがらせ、頬に血をのぼらせた小女王の誇り高い美しさに讃嘆せずにはいられなかったのだ。
もっとも、彼はとんでもない意地っぱりの、我ながらあまのじゃくであると思うつむじまがりであったから、そんなことをあいては愚か自分自身にこっそりとさえ認める気は毫もなかった。
「――どうするの、〈紅の傭兵〉」
彼の内心のそんなもやもやなどには少しも気づかずに少女は問いつめた。
「わたしたちにはどうすることもできない。二人いたっておまえを殺して口を封じることもできないし、国を失い流浪する王子と王女では、おまえにかわりの報酬や見かえりの地位を約束することもできないわ。わたしたちにあるのはただ消すことのできぬ王家の誇りだけ――こんなに無力だわ。この無力なわたしたちをおまえはどうするの?」
「それは……」
イシュトヴァーンは再びくちびるをなめた、しかし今度はいくぶんうろたえたように。そのときグインがおもむろに動いた。
「そうかな、王女よ」
ゆるやかに、啓示ででもあるかのように口をひらく。
「お前たちは、それほどに無力かな。俺は、必ずしもそうではなく、お前たちはその身を護る騎士くらいは持っているし、その騎士はまた、卑劣な裏切り者の首を素手でねじきるくらいのことはたやすくしてのけると思うのだが。――」
「グイン……」
イシュトヴァーンは息をつめた。しかしリンダとレムスはそうではなかった。
一瞬彼を見つめたあと、やにわにその名を呼びながら両側から豹頭の戦士にかじりつく。
「おお、グイン!」
そしてリンダは――あの誇りたかいパロの小女王が、戦士の逞しい分厚い肩に顔をうずめ、ワッと泣き出したのである。
グインは別になだめてやろうともせず、肩にしがみつかせたままにして、黄色く底光りのする目を焚火ごしにイシュトヴァーンにむけていた。
「おお、リンダ、泣かないで、ねえ、リンダ!」
レムスが懸命に姉の肩をなでさすり、スニもリンダの膝にすがって心配そうにした。イシュトヴァーンは一瞬、笑いのめすか、それとも憤慨するか決めかねてくちびるをかんだ。
が、やにわに、荒々しいしぐさで拳を手のひらに打ちつける。
「畜生、何だってんだ!」
彼は大声でわめいた。
「この世とこの世でない場所と、双方のすべてをしろしめすヤヌスにかけて、何だってこのけしからん小娘と豹あたまの化け物はこのおれをこんな羽目に追いこんだりするんだ!――わかった、わかったよ。何だっていうんだ! いったいいつ、このイシュトヴァーンがパロの遺児を売りわたしてゴーラで生きのびようと考えた、などというんだ。つきあえばいいんだろう――そのくさいサルの村へでも、カナンの彼方へでも、行きてえところへ行くがいいや。こうなりゃ、やけくそだ。ドールの版図だろうとサルの寝床だろうと連れていくがいい。畜生!」
「よかろう」
グインは重々しく云っただけだった。しばらく火を見つめていたがやがて、
「そうとなれば一刻も早い方がよい。スニに、ここからラクの村までどのぐらいかかるものかきいてみよう」
しばらくスニとセムのことばで喋りかわしていたが、
「ここからならたぶん丸一日半も歩けばつくということだ。スニの足でだから、われわれなら一日あればつくかもしれん」
「そう願いたいね! おれたちには食い物はもうひとつかみのヴァシャ果がせいぜいだし、水も底をつきかけているときている。こうなればサルのくさい食い物でも何でもいいからあてがってもらえないなら、おれは必ずその小ザルをくっちまうからな」
「やれるもんならやってごらん!」
リンダが叫んだ。グインは手で制した。
「よし、出かけよう。とりあえず松明のかわりになるものを作って、夜明けまでに東へ一タッドは進んでおこう」
いつのまにか、すべての仲間が、グインのことばに限っては何ひとつ口をはさまずにきき、唯々[#底本「唯唯」修正]として従う。そんな黙契がかわされでもしたかのようだった。かれらはひとことも云わず、グインの命令をはたすために立ちあがる。ほどもなく準傭がととのう。
かくて、記憶を失った豹頭の戦士グイン、ヴァラキアのイシュトヴァーン、パロの双児リンダとレムス、そしてラク族のスニの五人は、とりあえず同じひとつの目的のために手をたずさえて行く仲間となったのだった。
[#改ページ]
4
そして――
再びそこはノスフェラスの荒野だった。
このころにはむろんかれら逃亡者は知るすべもなかったけれどもアルヴォン城からの追跡隊は、首尾よくイカダをもととした浮き橋をケス河にかけおえていた。逃亡者たちは、さしも抜けめのないイシュトヴァーンでさえ、追跡隊の指揮をとるのがアムネリス公女であろうなどとは想像もしていなかったから、その電撃の行動を予測していたわけではなかったが、しかし何かえたいのしれぬ不安にせきたてられてどんどん荒野を東へと深入りしていった。
追跡隊のようにウマがあるわけではなかったから、かれらの道はずっと苦しいものになるかもしれなかったが、しかしそのかわりにこの荒野の住人であるスニが先頭にたって道案内をつとめていたので、夜のなかでもかれらはさほど危険地帯へふみこんでしまうというおそれもなく歩を進めることができた。その意味では追跡者と逃亡者とにはそれほどのハンディキャップが課せられているわけでもなかったのだ。
セムにとってさえノスフェラスの荒野が安全な楽園であろう筈はなく、スニはしばしば闇のなかでこころもとなげに方角をたしかめた。セムのそのやりかたはとびきり変わっていた。夜はほのかに青白い燐光を放って風にのってくるエンゼル・ヘアーを気をつけて手にうける。それはたちまちのうちに手のひらの熱ですーっととけ去ってしまうが、それまでにもうスニは見たいと思ったものを見てとってしまうのである。
リンダたちは、どれもこれも同じ糸くずのようなまぼろしとしか見えないエンゼル・ヘアーのいったいどこに、スニの見ている方向をあかす違いがあるのかと、かれらも手をさしのべてはそれをうけとめてみた。しかしかれらがどんなに目をこらしても、その青白い、原始的な生命というよりはむしろ幻影の中からあらわれたような光の糸はたちまちとけていってしまい、どうしてもそれらを見わけるのはおろかしばらく見ていることさえ不可能だった。
「この妙なしろものが食えでもするというんならともかくな。まったくここはとんでもないところだ。住むものといえば汚らしいセムと阿呆なラゴン、陸棲の〈|大 口《ビッグマウス》〉や|砂 虫《サンドワーム》、食肉で岩そっくりの化けもんヌルや〈血の苔〉それにこのうす気味わるいエンゼル・ヘアー。――まったくどうして、ここらあたりだけがこんな化け物の巣窟になっちまったのだろう。歴史の記録やキタラ弾きの伝説によれば、それは創世以来のこの世の地獄だともいい、ヤヌスとドールが世界をかけて博奕をしたときに、ヤヌスが勝ったにもかかわらず賭けた土地の中にノスフェラスの名を入れておくのを忘れたのでここだけが地上にいまだ残るドール唯一の版図となってしまった、ともいうが。
いずれにしても気狂いザタだってことには何の変わりもねえ。なんてこった、おれの連れは、みんな化け物か気狂いだし、おまけにこういまいましい咽喉のやつがひりついては、もうじきに鼻歌ひとつ歌えなくなるときている。太陽が上りゃあ、このいまわしい土地は焼けたナベの底になっちまうんだからな。――あーあ、ヤヌスとドールが世界をかけて遊んだ、六角のサイにかけて、今度ばかりは〈紅の傭兵〉もちっとばかり追いつめられちまったな」
「あまり独り言をいうな。よけい咽喉がかわくぞ」
グインは忠告した。イシュトヴァーンはからからにかわいてはいないものの、まもなくそうなることの目にみえているくちびるをしきりになめた。
「だからって陰気くさく黙りこんでこんなドールの闇のなかをてくてくはてもなく歩くのかい! おれの趣味じゃねえな、そいつは――おれは何によらず、陽気にやるのが好きでね」
「話し声がしていると万一何かこのへんのいまわしい生物がそこまで忍びよっていても気配がわからん」
グインが云うとイシュトヴァーンは少しのあいだ黙った。
しかしまたたちまち不平を云いはじめ、スニに何かこの辺の食べられる草か動物を教えさせろとうるさく要求するのだった。
「まあそれは日が上ってからでもかまわん。とにかくこのまんまじゃ倒れちまうばかりだ。こうなればサルのくいものだってかまうこっちゃない、ノスフェラスの毛虫だってくえるならくってやる。だから、頼む、よう、豹あたま、そのサルにあのピイピイことばできいてくれ。このへんでくいものと飲み物にありつく見通しはないのかとさ。よう、グイン、頼む」
「困った男だな」
グインはスニに話しかけた。スニが注意深くきいていて何やらしきりに考えこむふうだ。
「まあ、あんたはさっき、あたしたちにはわけもしないで一人でヴァシャ果をたべていたじゃないの」
リンダが云った。イシュトヴァーンは秀麗な額に八の字をよせて、
「あんなもの、歯くその足しにもならねえ。――おっと、パロのお姫さまの前で下品なことばを使っちまったな。糞くらえだ」
威勢よくシュッと暗い地面へむかって唾をはきとばした。
「イミール!」
突然スニがグインとの話をやめ、ひどくあわてた、叱責の調子で声をはりあげ、かけもどってイシュトヴァーンの胸を叩く。
「な、何だってんだ、このサルめ――」
イシュトヴァーンは怒ってスニをつきとばそうとしたが、そのとたん、
「わあッ、助けてくれ! 闇が食いついた!」
大声をあげてひっくりかえった。
「ヒイーッ!」
しがみつかれてスニもひっくりかえる。リンダとレムスはとびのいた。
まさしく、闇が食いついたのである。若い傭兵の右足に、漆黒の闇それ自体が生命を得て流れ出しでもしたかのように、かたちのない黒いアメーバようのものがはりついていた。
「助けてくれ! 足をくい切ろうとしてる!」
イシュトヴァーンはわめいて足をおさえる。腰の剣をつかみとるいとまもないし、その剣で万が一足をついてはと思うので他の者もどうしようもなく手をねじりあわせる。
「わあッ! どんどんのぼってくるッ!」
イシュトヴァーンは腰の近くまで這いのぼってきた闇を地面にこすりつけようところげまわった。
「助けてくれ、なんとかしてくれ、なんて薄情なやつらだ!」
「ま、待って!」
リンダがおろおろ手をのばしたが、やにわにグインが払いのける。
「さわるな。イドだ、危いぞ」
「だって死んじゃうわ!」
「大丈夫だ。どけ!」
ふいにグインのようすがかわった。かがみこんでイシュトヴァーンのイドにおおわれた右脚をつかんでひっぱりあげる。
「いいか、手で顔をおおっていろ。熱いからな」
云うと、右手の松明をいきなりおしつけた。
「ウワーッ! グイン、きさまおれを焼き殺し……」
「顔をそむけろ!」
容赦なくグインは火をつけた。
「キャーッ!」
リンダが絶叫する。イシュトヴァーンの右脚が火につつまれ、さながら巨大な人間松明と化したのである。ぶきみな生物がパチパチとはぜる音をたてて燃えあがる。
「やめてくれ、死ぬ、あつい」
イシュトヴァーンは女のような悲鳴をあげた。
「水をかけてくれ!」
「グイン! 水がない! 死んじゃう!」
レムスが叫ぶ。かまわず、グインはその燃える脚をかかえよせ、砂地にねじこむなり、その上にぴたりと彼自身のからだをふせたのである。
「ああっ、グイン!」
肉の焦げるすさまじい匂い、リンダが立っておられずに顔をおおってうずくまってしまう。グインの豹頭がのけぞり、彼は口をついて出そうになる呻き声をぐいとこらえた。
「――よかろう」
やがて身をおこす。イシュトヴァーンはそこに呆けたようによこたわっていた。その胴衣のすそから革の長靴の足まで、汚らしい黒い、イドの焼けただれた残骸がはじけたままはりついている。しかしぴったりと脚をおおう長靴のおかげでどこにも怪我や血のあとはない。
「グイン!」
リンダとレムスがかけよった。
「グイン大丈夫?」
「何てことはない。それよりも傭兵を見てやれ」
グインは手をあげて胸からイドの焼けかすを払いおとした。
「グイン、ひどい火傷してるわ! あなたったら、自分のからだで火を消すなんて!」
「何ともない、このぐらいの怪我はランドックではしょっちゅう――」
云いかけていきなりグインは息をのんだ。
「グイン! あなたいま――何か思い出した? 思い出したのね? ランドック? それあなたの――国?」
リンダがせきこむ。グインは火傷のことなどすっかり忘れていましがた口ばしったことばを考えようとするかに見えたが、すぐに頭をかかえこんだ。
「だめだ」
苦しげに云う。
「ランドック――レムス、きいたことないの、ばかね!」
「ランドック――ランガートならカウロス公国の都だし、ライゴールは自由貿易都市の港だけど……」
おろおろしてレムスが云う。
「イシュトヴァーン、あんたはきいたことないの? あちこちまわったのでしょ、あんたは」
「ひ――ひでえ小娘だ」
まだぐったりしたまま、年相応に稚いびっくり顔で目をぱちぱちさせていたイシュトヴァーンは叫び、憤慨のあまりすっかり力をとりもどしてはね起きた。
「人が死にかけたってのにお前は豹あたまのつまらん記憶の心配しかしやがらねえ」
「グインが助けてあげたのじゃないの! 第一あんたの不注意のせいでグインが怪我したのよ!」
「何を云うか、あんな妙なしろもんがそこにいると誰にわかる。ドールのウロコだらけの尻尾にかけて二度とあいつは沢山だ。とっつかれねえ奴にはわからんだろう、あいつが脚にへばりついたとたん、脚がしびれ、冷たくなって何の感覚もなくなっちまった」
「スニは云っているぞ――お前の自業自得だとな」
グインがおかしそうに通訳した。
「イドは恐しいがノスフェラスの他の怪物、〈大口〉やサンドウォームにくらべて、むしろ攻撃的ではない。お前が唾を吐いたので、そこに餌があると知ってとびかかってきたのだとな」
「くそッたれ!」
というのが傭兵の力ない返事だった。
「しかしまあ運がよかった。すぐに火をつけられたからな。イドは刀やハサミでは切りさくこともできん。それはぺったり餌をおおいつくし、ゆっくりと、意識を失った獲物を生きながら消化するのだ。イドにきくのは火だけだ」
「どうして知っていたの、もうわたしたちあなたについては何もおどろかないけれど」
リンダがささやいた。グインは首をふる。
「知っていたのだ。何かが頭の中で、〈火だ、火をつけろ〉とささやいていた」
「ふしぎな人――!」
リンダはグインの胸の痛々しい火傷をそっとさすった。
「本当に大丈夫?」
「ああ。――皆いるか」
「あら、スニ……」
見まわしたとき、ちょこちょことした姿が白みかけた夜のあいだからあらわれた。両手に何やらさまざまなものをかかえている。
「近くで薬になる苔をとってきたといっている。これを胸にあてて冷やすようにといっている。――大丈夫だ、スニ」
グインはサルに似た蛮人の子どもにうなづきかけ、その心づくしの苔を逞しい胸にあてた上から革帯をしめ直した。
「――ランドックだが」
歩きはじめようとグインがうながそうとしたとき、ふいに、うしろから〈紅の傭兵〉が小さな声で云った。
皆がふりむいた。イシュトヴァーンはそっぽを向いている。強情にこちらを見ようとしないまま、
「どこかできいたことがあるようだ」
あいかわらずささやくように云った。それで、皆には、彼が後悔していることがわかった。
「どこで? 国、それとも町、それとも……」
「それを今思い出そうとしてるんじゃないか。うるせえガキだな」
素気なく云って、それから思い出したように、
「そうだ!――なあ、おれは十五までは、レントの海でヴァラキアの商船に乗りくんでいたんだ」
「嘘おっしゃい。海賊船だわ」
リンダは手きびしい。イシュトヴァーンはニヤリとすることでその指摘を暗に肯定したかたちになったが、つづけて、
「そのとき、どこかから来た船と出会ったことがあってな――見たことのない妙な流線形をした船だった。恐しく船足が早くて、あんな早い船は見たこともない。白いしょうしゃな、どう見ても王かそれに近い地位のものの御座船だから襲ってやろうと用意しているうちに消えていっちまった、水平線へ」
イシュトヴァーンは自ら白状したことに気づいてぺろりと舌を出した。
「そのとき、その船がすれちがう一瞬に、その右舷に書いてある文字が読めたのだ。〈ランドック〉と」
「船の名?」
レムスが興奮して叫んだ。
「か、どうか――おれが見たのはそれだけ。それともうひとつ、船首に飾ってあったのがすてきもない美しい女の胸像だったが、こいつがまた翼のはえたハーピイときてるのさ。どうだ、豹、おまえ何だったか女の名みたいのを云っていたな」
「アウラ」
「……」
イシュトヴァーンが口をつぐむと皆は物思いに沈んだ。答えの出せるような物思いではなかったのだ。
「グインはそのランドックの王だったかもしれないわ。そして反乱軍に豹の呪いをかけられて王座を追われ……」
「想像力の強い娘だ。だが、当て推量は何の役にも立たないぜ」
イシュトヴァーンはやっつけた。リンダはむっとして黙ってしまう。レムスが彼をにらみつけるのにはかまわずに、
「しかし妙なもんだな。いまの今までおれはそんなささいな出来事など五年もまったく忘れていた。それがいま、豹のことばをきいたとたんにたぐりよせられるようにして心にのぼってきたよ」
唇をひっぱりながら云う。かれらが話したり、その間も足を休めずに歩きつづけるあいだに、気づくとすっかりあたりは明るくなりそめ、暑い一日が訪れそうなきざしの陽光が荒涼とした原野を照りつけはじめているのだった。
かれらはとりあえず一ザンほどだけ休息をとることにした。空腹だったし疲れてもいる。スニがわずかばかり集めてきた青くさい苔をしがんでみたがツバがわいてくるばかりだった。
交代で仮眠をとることにし、まずイシュトヴァーンが焚火に苔をくべながら目をさましていることになった。グインの傷をみれば、さしものへらず口も叩かずに、彼はおとなしく見張りに立つ。
(やれやれ、あんなぶったまげたことはなかったぜ。あれ以上つづいていてもし豹があの荒療治を思いつくことができなかったら、おれは間違いなく剣をひきぬいててめえの脚を切りおとしていただろう。そうなっちゃあ魔戦士もかたなしだ。――それにしても認めざるを得んのだが豹め、たいへんなやつだ。――戦士としても、男としても、立派なもんだ。――戦いの神、太陽の神ルアーだってやっつけるかもしれん。まるで――そうだな、モスの白いやぎひげにかけて、伝説のヘルム大帝みたいな男だ。奴の敵になるのはまっぴらだな。
とはいうもののあの双児は――)
よくよくこの若者は、黙っているということができぬたちである。こっそりまだ靴のへりにかくしてあった、さいごのヴァシャ果をとりだしてしきりと噛むあいまに、口の中でブツブツと自らと話している。
太陽はその間にもたゆみなく上りつめようと先をいそぐ。ふいにイシュトヴァーンはぴくりととびあがった。
「どうしたんだ! 危険が迫ってるってえイヤな気がしたぞ!」
ヴァシャ果を吐き出して叫ぶ。
「首のうしろがちくちくして――敵が近いぞ! だがまさかそんな――あッ!」
岩山の上で何かがキラキラときらめいたのだ。すなわちそれは偵察に上ってかれらの野営の煙をみつけたところだったアムネリスの、しろがねの鎧と金髪が陽をうけて虹のように輝いたのだった。
一瞬、イシュトヴァーンは目を細め、一行を起こそうとするかのようにふりかえる。が、舌があらわれ、ぺろりと唇をなめ――そして彼は瞬時に心を決めた。
「よし!」
呟くと、たちまちに身のまわりのものをとりまとめ、傍らにおいていた剣をベルトにとめつけ、仲間の方を見やる。さしもの豹頭の戦士も傷をうけて弱っていたとみえ、ぐったりと眠るようすだし双児はもとより正体もなく眠りこけている。
ふたたびイシュトヴァーンは唇をなめまわした。そろそろと仲間をうかがいながら、岩かげへと這い出ようとする。
そのとき、小さな手が彼の胴着のへりをつかんだ!
「わ!」
声をかみ殺したイシュトヴァーンは、
「何だ、サルか。ばか、静かにしろ。何を怒ってる。追手だぞ――考えがあるんだっていうのに。わかんねえのか。えい、面倒なサルだな」
やにわにスニの小さなからだを横抱きにし、口を掌でふさいで、あともみずに走り出した。
東へ――
そして西、ケスの岸寄りの荒野に立った小さな砂ほこりはたちまちのうちに大きくなり――その五百騎の全容がその煙の中にあらわれ、はじめは穀つぶのように、それから石つぶて、そして赤四百五十、白が六十の姿がもうそれぞれに見わけられるほどになったとき、――グインがはっとして目ざめた。
砂塵の中に騎馬の一隊を認め――その一騎づつのかまえる弩を見たとたん、グインの口から咆哮がもれた。
「な――なに?」
「どう……」
目をこすりながら双児が云いかけるのを、一瞬かかえて走り出すそぶりをみせたが、もう充分に射程圏内に入っていること、五百騎は少なくともいると知って、また短い凄みのあるグルルル……という唸りをあげただけで断念する。
「傭兵がいない――スニも!」
「あいつ裏切ったんだ!」
双児の悲痛な叫びをなだめるように両側にひきつけて、豹の戦士はもはや周囲をとりかこみはじめた砂けむりの中に立ちつくした。
五百の弩と剣とがたった三人のかれらをくまなくとりかこみ、鋭い声が武装解除を命じる。グインは抗わず従った。
三人は再びゴーラの手中に落ちたのである。
[#改ページ]
[#改ページ]
第三話 公女の天幕
[#改ページ]
[#改ページ]
1
辺境の太陽はいまや空の中央高くのぼり、その白い非情な輝きがすべての生命を乾あがらせようとでもするかのようにノスフェラスの荒涼の岩々を照りつけていた。
奇妙なかたちの岩山の下蔭に、革製のテントがはられ、それが臨時の本営となっている。追跡隊を自ら指揮してケス河をわたり、ノスフェラスに足をふみいれた、モンゴールの公女アムネリスの天幕である。
天幕の屋根にはゴーラの黒獅子旗とモンゴールの金蠍旗がかかげられてはためき、二人の侍童がその入口でじっとうずくまっている。五百人の騎士たちはその周囲に何重かの円を描くかたちにウマを休め、静かに休息をとりながら出発の合図を待っているのである。
数人の騎士たちによって見張られたグイン、それにリンダとレムスは天幕の前にずっとうずくまらされていた。太陽はかれらの肌を灼き、ことに胸と腹いちめんに火傷をおっているグインには身にこたえよう。
ナワこそかけられてはいなかったがこの非情な取り扱いにリンダは騎士たちにつよく抗議した。しかしモンゴールの騎士たちがいうのは、もうしばらく待て、ということでしかなかった。公女アムネリスはやっと手中にした虜囚たちの尋問を、ケス河岸に築いた仮砦へまで戻る間さえも待ちかねたのである。
「待てというのならせめて水くらいのませてくれても――いつまでこのままひきすえようというの? これがモンゴールの騎士の正義なの?」
グインへの気づかい、首尾よく自分ひとり逃げおおせたイシュトヴァーンへのやるせない怒り、スニの身の上の心配、などで泣かんばかりに苛立ってリンダは叫ぶのだが、そのたびに騎士たちはそっけなく、しばし待て、という同じ返事を繰り返した。
「こんなモンゴールにたとえ一時でも勝利を与えたヤーンは千度でも呪われるがいいわ!」
激怒したリンダは叫んだが、そのとき、
「虜囚を天幕に進ませよ」
という鋭い命令がきこえた。はっとして三人が顔をあげる。その背をうしろから小突かれた。
屈辱は感じたけれども、しかしじりじりとやきつける太陽から逃れてひんやりとした天幕の内に入るのは何ともいえないくらい有難かった。三人の捕虜はよろめきながら、大きな天幕の中へと抑し入れられた。
瞬間、強烈な太陽に馴れた目には何も見えなくなる。何かにつまづいたリンダをすばやくレムスがささえる。
「これだけか? そんな筈はない!」
きっぱりとして、そしてどこかしら人に命令することに馴れきったひびきのある涼しい声が云うのがきこえてきた。
「ヴロン! リント!」
「は」
「わたしの見たイカダの乗り手はあと二人――ただちに一個小隊に周囲をさがさせるように」
「承知いたしました」
「だがまあ、当初の目的としたところのものはおおむねかなったわけだ。だから、一個小隊にも、それほど本隊をはなれてまで捜索させる必要はなかろう。危険を感じぬていどの範囲でよろしい」
「心得ております」
「さて――」
ようやく天幕の中の暗さに目が馴れてきはじめた虜囚たちは、うなだれていた頭をあげ、日を眩しげにしばたたいた。
ゆっくりとあげた目に、最初に入ってきたのは、白い長いマントとそしてしろがねのすね当てにつづいている白革のブーツだった。へりに銀の彫りものを飾りに散りばめ、いかにも軽く、はきごこちよさそうに作られたブーツと、それが剣を包む鞘のようにぴったりとつつみこんでいるすらりと華奢な脚。
それは見るも快い均整をもってすんなりと伸び、同じしろがねの、細身に仕立てた鎧の胴へとつづいている。その細身の加減でみれば、この鎧をとり去ればその着手《きて》のからだつきの見事なのびやかさとほっそりしていることは目を奪うばかりにちがいない。そしてその鎧の胸に銀と宝石とで惜しげもなく描き出された、美々しいモンゴールの紋章。
白い鎖編みの手袋につつんだしなやかな手が腰にあてられ、のどもとまではぴったりと一分の隙もなくつつんで肌身をみせぬ鎧とマントがおおっているのにその上は、かぶともとり去られ、フードさえもないままに――
「おお……」
ついに目をあげたリンダの耳に、同じようにその立っている人を見た弟のもらした、低い驚嘆の吐息がきこえてきた。
最初の印象は、白と金色だった。
(なんていうみごとな純金の髪!)
その人は何ひとつこてでちぢらせたわけでもない天然のウェーヴに波うつ、そのアルセイスの黄金もかくやという輝く髪を、結いあげもせず無造作に肩にかからせていた。ただ白く高い額に、きわめて細い、まんなかに小さなダイヤをはめこんだ銀製のバンドがひとつ。
その他には身を飾る指輪ひとつないのに、それはそのままでうす暗い天幕の中の闇を背景に名匠が描き出した一幅の芸術品のようにまばゆく、絢爛としていた。
レムスはただぽかんとして見とれる。グインの豹頭はその表情をよみとることができないのだが、それでもちらりとそちらへ目を走らせたリンダはその黄色い底知れぬ目の中に、たしかに感嘆と讃美の輝きに似たものを見たと思った。
誇りたかいパロの小王女は急に身をちぢめた。にわかに、自分がパロの戦乱以来ろくろく水浴もしておらぬこと、身につけているものといえばほこりまみれ、ひっかき傷だらけの、革製の男物の衣服でしかないこと、くしゃくしゃのプラチナ色の髪にはくしの目ひとつ通っておらず、そしてすんなりと少年のような細すぎる手脚はあいつぐ危難で傷だらけで汚れていること、が痛切なひけめになって感じられたのだ。
白い手がのびてその金髪をかきあげた。金色の額、縁にふちどられたイラナの像のように、かぎりなく優雅で、そしてかぎりなく凛然とした美しい顔があらわになる。捕虜たちは呆然と見つめたまま、その白と金色の戦いの女神の両脇に脇侍さながらに居流れている、何人かの戦士になど、気づきさえしなかった。
「お前たちがパロの双児か」
うっとりするようなひびきのいいアルトが云う。リンダがくちびるをかんで答えないので、レムスがおずおずと口をひらいた。
「そ――そうだ。あなたは……」
レムスったら、敵の頭目にあなただなんて、と怒ってリンダは考える。
「わたしはモンゴール、ヴラド大公の公女にして代理人、白騎士総隊長にして右府将軍たるアムネリスである」
公女は静かに名乗った。とたんに、リンダのからだに冷たい電撃が走った。
(白騎士隊長! クリスタルの美しい都を蹂躙し、お父さまとお母さまを殺し、わたしたちをパロからおった黒騎士団と白騎士団の一方の長!)
耐えがたくなって目をとじてしまった。リンダの瞼の裏には、黒煙と猛火がそこここに立ちのぼるクリスタルの都を闇の中からぬけ出したような漆黒の姿でかけぬけてゆく黒騎士の隊列と、そしてそのうしろにあたかも不吉な亡霊のように白マントをなびかせてはパロの勇敢な戦士たちを切り倒してゆく白騎士の姿とがまざまざとよみがえったのである。
「そのアムネリス公女がぼくたちをどうしようという……」
気弱な彼女の弟が、年上の男装の麗人に気圧されながら抗議をしようとした。アムネリスは前にひきすえられた三人の虜囚を鋭い、ものごとの底の底まで見ぬくような目でじっと見すえる。
公女の目にうつったのは、ひどく奇妙でほとんど神話的ですらある、しかし何かしら見るものの心をひきつけ、打つようなものを具えた三人だった――ぼろぼろになった革製の衣服をまとい、手をとりあって、ひどく無力でとるに足らなく見えるけれども、そのくせ星のような目をしているふたりの子ども。
それは髪の長さが異るだけの、そっくり似かよったふたりのわんぱくな少年のように見えた。そしてそのふたりを従え、あるいはその守護神然としてその横に傲然とそびえ立っている豹頭の戦士。
アムネリスの深い緑の瞳が驚きに見張られた。我知らず、彼女は身をいくぶんのりだして、あの有名な、完璧な抑制と無感動の静かさとを失いこそしなかったけれども、はためにもそれと知られるほど激しく興味をひかれたことを示してしまった。
「これはまた」
低くつぶやいて椅子の腕を握りしめる。グインのような生物を見るのは生まれてはじめてだった。
それの奇怪な外貌もむろん人々の驚嘆を誘い、目を奪ったし、それにその体躯のきわだったみごとさ、戦士ならば誰ひとりとして羨望と嫉視に胸苦しくならずにはいられないようなそのすばらしい筋肉も見るものの息をのませる。
しかし――アムネリスの目をグインに釘づけにさせたのはむしろもっと別のものだった。
その豹頭の奥から無表情に、あたかもまことの巨大な肉食獣のようにこちらを見返している、グインの目――
その底光りする黄色っぽい目には何か云うにいわれぬものがあった。それがアムネリスの心臓の鼓動をいわれもなく激しくさせ、不安にしたのである。
もっと鈍い、あるいは皮相な目にはそれは。単なる物騒な凶暴さ、獣のように荒々しい殺気、それともただ単に人をおちつかなくさせる妙な特質とでもしか映らぬような、そんなものだった。だが、リンダやアムネリスのような、世のつねの人よりもものごとの真実に近くある資質をそなえた人間にとっては、それはことばにするさえも不安な――リンダにとってはもっと違った感情を呼びさましたかもしれないが――不思議なおののきを誘ってやまぬだろう。
それは、たぶん、野望、といってはあまりにも無私であった。変革への意志――そういっても、あまりにもそれは無意識でありすぎる。
グインの目、その豹頭人身の巨躯にまつわっている何とはない周囲と異る空気、その逞しい全身から発散するすさまじいまでの生命力――それらの中には、何がなし高貴な[#「高貴な」に傍点]と呼びたくなるような孤高の感じがあった。
だがそれだけでさえない。――アムネリスが無意識のうちに感じとって、うまく云いあらわしようもないままに微かに身震いした、グインの中のある〈もの〉――それは、強いて名づけるならばたぶん〈運命〉とでもいうほかないもの[#「もの」に傍点]だったのだ。
グインはある壮大にして波乱にみちた〈運命〉それ自体のすがたであるように見えた。仮に半獣半神の戦士に結晶させられた、何かのすさまじい〈運命〉そのもの。グイン自身をさえも看過はせずにまきこみ、何もかもを変えてしまうかもしれぬような、何か激烈にして凄絶でさえあるもの。
アムネリスの細い手が、椅子の腕をつかんだまま、止めようのない小波のような震えに震えていたのも、無理からぬことであると云わねばならなかったのだ。
アムネリスは何度かつばを飲みこんだ。物に動ぜぬ若き右府将軍の動揺をみて、居並ぶ騎士たち、白騎士隊のリントやヴロン、赤騎士のメルムやカインが当惑の目をそらしていることにふいに気づく。尋問をはじめねばならぬのに、彼女は異相にまったく魅せられたかのように見つめているばかりなのだ。アムネリスはまたつばをのみこんだ。
「お前は――」
パロの双児に話しかけた、流麗なアルトとはまるで別人のようなかすれた声が出た。
「お前は何者だ」
「俺か」
グインは何の感情も示さずに彼女の目をうけとめる。
「グイン」
「グイン?」
「そうだ」
「それがお前の――名か?」
「そうだ――多分」
「多分とは?」
グインは眠れる獅子がうるさい虫を逐うときのように、丸い頭をちょっと動かしただけで答えようとしなかった。
「アムネリス殿下にお答え申しあげよ!」
怒ってヴロン隊長が云う。アムネリスは手をあげてそれを制した。少しづつ、夢見心地がうすれて落ちつきが戻ってくる。
「なぜそんな姿をしている?」
「知らぬ」
というのが豹人の答えだった
「生まれながらにそのような姿なのか? あるいは何かの呪いによってそのように変えられたのか?」
「俺は知らぬ。気づいたとき俺はこのようなものとしてあった。べつだん、そのいわれを知らなくても、そう在ることはできる」
「どこの生まれか?」
「わからん」
「この――」
失地回復に苛立っているヴロンが身をのり出した。うしろに捕虜を見張って立つ騎士たちに目顔で合図する。
「素直に答えぬなら、答えるようにさせようか。われらはパロの軟弱な騎士連中のように捕虜を鞭打つのにためらったりはせんぞ」
「グインはルードの森にあらわれたとき、それまでのすべての記憶を失っていたのよ」
うなだれていたリンダがたまりかねて顔をあげて叫んだ。
「知らないものをどう答えようがあるというの……」
アムネリスは緑色の目で、まるでこの子どもはなぜこんなところに口出しをするのだろうと無作法をいぶかるかのようにゆっくりとリンダを、上から下まで眺めた。
リンダのことばはしだいに小さく、口の中でとぎれてしまった。彼女は悄然として身をちぢめたが、心の中ではこの美しい、傲然とした年長の娘に対して、憤懣やるかたない反抗心をひたすら燃やしていたのである。
「記憶を失っているというのは真実か」
リンダをへこませると、満足してアムネリスはまたグインに目をむけた。グインは重々しくうなづく。
「自分でもさまざまなことを思い出そうとしてみたのだが思い出せぬ」
「本人がたとい知らぬことをでも、あるていどさぐり出す方法はいくらでもあるのだぞ」
アムネリスは云い、右後ろに幽鬼のようにひかえていた魔道士をふりむいた。
「ガユス!」
「は」
「占い球と占い盤でもって、この男を占って見よ」
「かしこまりました」
「グインをどう……」
どうしようというの、とまたリンダはおずおずと口をひらきかけた。しかし、(痩せっぽちの小娘!)と、アムネリスの冷やかな一瞥にそう怒鳴りつけられたような心地で再び身がすくみ、黙ってしまう。リンダはアムネリスよりたぶん四歳は年下だったろう。リンダは限りなく自分を惨めに感じ、同時に胸の中でやるせなく、激しくその豪華で端正な仇の公女を憎む炎を燃やした。
「隠してもどうせいまあらわれてしまうこと。少しでもいつわろうと思っているのならばやめたがいいぞ」
アムネリスは忠告した。グインは頭ひとつ動かさない。
「ならばとりあえず、ガユスが占いおえるまでお前は身許もわからぬし、これまでの記憶の一切も失っているとしておこう――だが、それならなぜ、そのお前が逃亡したパロの遺児の味方をする?」
グインは答えない。アムネリスは再びうながした。やはりグインは黙ったままだ。
「云え、まことに縁もゆかりもない行きずりならば、なぜパロにくみする! それともパロにゆかりの者か! 答えろ!」
アムネリスは声を荒げた。ふいにその白い顔に、激しい苛立ちのゆがみが浮かび、公女はゆったりとした椅子からふいに立ちあがって、白と銀のブーツの脚で激しく床を踏み鳴らした。
「なぜパロの遺児にくみする!」
「アムネリス殿下にお答えせんか!」
アムネリスと隊長の声が交錯した。
グインはわずかに豹頭を横へむけた。が、そして彼はやにわに、思いもかけなかったことをした。クックッとさもばかにしたように笑いはじめたのである。
「何がおかしいッ!」
アムネリスは激怒した。小さな足が床を蹴った。
「お前がおかしいのだ、モンゴールの公女よ」
グインの答えは、なおさらに彼女を激昂させた。
「何を――何故!」
「モンゴールの美しい公女よ、たおやかな女の身で、そのように鎧に身をかため、右府将軍の、白騎士隊長のと自惚れるのは健気ではあるが、しかしゴーラの腑抜け騎士どもにならいざ知らず、真の戦士の前でもそれでは、ちと片腹痛いとは思わぬかな」
レムスがぽかんと口をあけた。
リンダはやにわに銀色の頭をふりたてて、きッと顔をあげた。その目がキラキラと輝き出す。
「こ、この――」
アムネリスは息をつまらせた。
「この化物、公女殿下に何という無礼なことを!」
激怒したヴロンとリントが両側から、腰の大剣の柄に手をかけてとび出そうとする。
が――さいごの一瞬にアムネリスの手がのびて、かれらを制した。
一同は公女の精神の強靱さにあらためて目を見はった。アムネリスが激怒のあまり声を途切らせたのはわずか一瞬でしかなかった。たちどころに彼女は完璧な自制力で我を取り戻し、青ざめた顔に苦笑さえもうかべたのだ。
「私を怒らせ、気をそらさせねばならぬ秘密があるようだな、グイン」
彼女は冷静な声で指摘した。
「よかろう、その件は、アルヴォン城の地下牢で、たとい拷問台の上ででも、ゆっくりときき出してくれる。――いまひとつ訊ねよう。私はお前たち一行がイカダでケス河を下ろうとする姿を、アルヴォンの崖の上から見た。あのときたしか総勢は三人ではなかったはず――他の二人はどうした? たしか一人はスタフォロスのそれとおぼしい黒い鎧を身につけ、もう一人は奇怪なことに、ノスフェラスのセム族のように見えたが」
「俺は知らぬ」
グインは平然と云った。アムネリスは再び苛立ちかけたが、ぐいとこらえる。
「ガユス――まだか、そちらは」
「只今」
陰鬱に答えて魔道士が進み出た。
「占い球がこの男をうつしました」
「結果は」
「さあ、それが――」
「どうなのだ。勿体をつけず早う云うがいい」
「それが……」
ガユスのひからびた醜い顔は、なぜか濃い当惑と不安に翳っているようだった。彼はカサカサした手をあげて占い球の上におき、まるで火傷をしたとでもいうようにあわててひっこめた。
「占い球を占い盤の上におき、正しきものの相が映し出されるようにとルーン文字の祈りことばをとなえて観相[#「観相」に傍点]いたしましたところ」
「……」
「水盤の中にうつし出されたのはなんと、ただ一頭の巨大な豹でございました」
「豹――」
アムネリスは眉をよせた。
「何だ、それは。何を意味するのだ。いつものようにあいまいにことばを濁さず、はっきりとわかるように云わぬと許さんぞ」
「恐れながら、豹は豹――でしかございませぬ」
ガユスはいくぶんおどおどとさえしながら答えた。
「この男の魂は巨大な豹のかたちを致しております。他は奇怪にも何もかも空白――記憶を失ったというよりは、はじめからそれを与えられてはおらなかったとでもいうように……人はその種族の記憶を無意識層にたくわえてうけつぐもの、仮にいま生まれたての赤児にしたところで、いまこの男のそれよりは確実に多くのものを水盤にうつし出されてしまうことでございましょう。しかもこの観相の球はどのような仮面をも透視すれば、この球で見てなお真の顔がうつらぬという、これは……」
「……」
「このようなえたいの知れぬことははじめてでございます」
「――馬鹿な!」
吐きすてるようにアムネリスは叫んだ。細い眉をよせて、手をふって魔道士をさがらせる。
「もう、よい」
苛立たしげに、
「よかろう、この男、かりそめに人のかたちをしてゴーラ――か中原そのもの――に放たれた一頭の豹であるとしよう。だとしたところで、それがどうだというのだ? 中原は人知と文明の治めるところ、あるいはこれこそがノスフェラスの汚らわしい魔法にしかすぎないのかもしれぬではないか。
よかろう、ノスフェラスをしろしめす悪魔ドールがわれらを椰楡しようというならこちらも手だてはある。ヴロン!」
「は」
「リント!」
「ここに」
「全部隊に帰還の布令を出せ。出立は、他の者を捜索におもむいた一個小隊の帰投と同時に。アルヴォンへ早馬をとばし、迎えの兵を出させよ。そしてこの者たちは――」
アムネリスはふいに、冷やかな顔に何かしらいやな、残忍といっていい喜悦をほの見せて、彼女を怒らせた三人の捕虜を眺めた。そのくちびるに、ゆるやかに、冷艶な嘲笑がのぼってくる。
「ウマを与えることは不用。革のナワで腰と手をくくりつけ、わが小隊の最後尾のウマにそのナワの先を結び、否応なく引いてゆくがいい。こやつ、まことの豹人であれば、そのぐらいの扱いが妥当というものだろう」
「は……」
リントはためらい、ちらりとパロの双児、そのほっそりと未熟な手足へ目をやった。
それより早く、きくなりグインが進み出た。
「俺はかまわぬから、パロの子供たちにはウマをやってくれ。二人に一頭でもよい。子供たちは疲れている。しかもアルドロス聖王のいまや唯一の血筋の貴い身分だ。そのぐらいの礼節は尽しても、ゴーラの恥とはなるまい」
「殿下……」
リントが訴えるようにアムネリスを見る。アムネリスの顔がこわばった。
「無用! モンゴールの公女に、同じ命令を二度云わせるのか」
「か――かしこまりました」
「公女! ならばせめて、子供たちに水と食物を――今にも倒れそうだ」
グインが声を大きくした。
だがそのとき、グインは腕にかかる冷たい小さな手を感じてふりむいた。黄色い目が、ゆっくりと細められる。
「パロの小女王にして予言者なるリンダ、わたしからも云います。そのとりなしは無用だわ」
リンダは云った。
人びとはふいに、何がなしハッと胸をつかれて、そこに奴隷のようにひきすえられている、ひよわな少女を見つめた。
リンダは、もう目の前の絢爛たる公女に対して、どのような負い目さえも抱いてはいなかった。その背は、極度の疲労にもかかわらず、ぴんとまっすぐにのび、その頭は誇り高くもたげられて、正面からアムネリスを見すえた。
怒りと――そして不屈の王家の誇り、貴い身へのほとばしるような自尊とが、わずか十四歳のパロの小女王の血管に、彼女が生来秘めているおどろくべき炎を注ぎ込んだのである。リンダのくちびるはかみしめられ、その目は星のように輝き出していた。
頬にあざやかな血の色がさし、学えられた屈辱に決して汚されることのない、気高い微笑さえも、そのくいしばったくちびるに浮かんできた。
(そうよ! 私はパロの王女、聖王アルドロス三世の唯一人の姫にして〈予言者〉リンダ、クリスタル・パレスの宝石のかたわれ。モンゴールなど血筋でいうなら、古く誇りたかいパロ王家の、陪臣のそのまた末裔《すえ》の僭上者にすぎないではないか。しっかりおし、王女リンダ、頭を高くあげるのよ――お前こそ正当な、パロの象徴なのよ!)
リンダから、気おくれもひけめも、そして敗者の屈辱感さえも、あとかたもなく消え去った。あるのはただ、何者も消しとめることの出来まじい、凛烈の炎とそして面《おもて》もむけられぬ瞋恚だけ。――自分では気づきさえしていなかったけれども、リンダは最初にうしろから小突かれて天幕によろめき入ってきた、みじめな泥だらけの子どもとは、まるで別人になっていた。痩せっぽちの、もしアムネリスがまばゆい太陽だとするならばちょうど月のように青白くきゃしゃな、未熟な容姿さえもが、はっと人目をひきつける銀と白の魅力を輝き出させ、人びとは、グインでさえも、彼女に目を奪われて見守った。
アムネリスは敏感にそのあいての変化をうけとめた。緑の目がきびしく、氷よりも冷たくなり、唇がひきしまり、峻烈な女王の怒りがぴりぴりとあたりにはりつめる。それはあえて女王なる自分に対抗しようという不遜なあいてに対する、不信と苛立ちと、そして苛烈な圧倒への意志がないまぜになった憤怒であった。
アムネリスはパロの王女をにらんだ。しかしもうリンダはおじけるようすさえもなくその目をうけとめ、はねかえした。そこにいるのは彼女の父母の首級をあげ、彼女と弟をその王国から逐ってかくも辛酸をなめさせている怨敵、倶《とも》に天をいただくこともかなわぬ永遠の仇敵のかたわれだった。
峻烈な怒りにみちた緑色の目と、凄壮な瞋恚をたたえたスミレ色の輝く目とが、発止とぶつかり、正面からからみあい、激烈な火花を散らした。それはパロの小女王リンダとモンゴールの公女にして白騎士隊長アムネリスとが、互いを最大の敵として見かわした最初の視線であった。そしてそれは、パロとモンゴールのそれぞれの誇りたかい女神、父を殺されたものと殺したもの、捕えたものと捕われたもの、としての敵対意識だけでさえなく――かれら自身気づきはしなかったが、そこには決して相容れるべくもない、それぞれ異る美しさをもった少女の、女どうしの嫉妬と敵意さえもまじりこんでいたのだ。
アムネリスは厭わしげに、捕われの王女を見すえていた。リンダは目で人を殺せたらという憤怒をこめて目をそらすまいとした。アムネリスの形のいい口がゆがむ。
「殿下。赤騎士小隊がただいま帰投いたしましたが」
はりつめたその一瞬、ふいに天幕の入口の垂れがあがり、小隊長の飾りをつけた赤騎士が報告にあらわれた。
「申しわけございませぬ。逃亡者はどこにも――」
「よかろう!」
アムネリスは最後まできこうともしなかった。やにわに激しく膝をうち、豊かな髪をふり払って、高い調子で叫ぶ。
「出発の触れを!」
あわてて、うしろに居並ぶ騎士たち、魔道士や侍童も立ちあがる。アムネリスは傲然と捕虜たちを無視して出ていきかけたが、何を思ったかリンダの前でぴたりと足をとめた。グインのことは、まるで彼女が彼に持った興味の深さと激しさを彼女自身にさえつつみかくさなくてはいけないとでもいうように、故意に完全に無視している。金色の豊かな髪をこれ見よがしに波打たせて、冷やかにリンダを見おろす。
彼女はリンダより頭ひとつ分ほども背が高かった。肢体はあでやかな飾り鎧につつまれ、もうほどもなく完成を迎えようとする十八の少女の肌は、バラ色とミルク色に内奥からの艶をにじませて光り輝かんばかりであり、そしてその態度にも、雰囲気にも自分の美と力とそれが相手にかきたてるものとを十二分にわきまえた不敵な自信が漂っているのである。
リンダはきかん気らしく頭をもたげたが、彼女も決して小柄というほどでもなかったにせよ、アムネリスの長身の前では分がわるかった。リンダのスミレ色の目が怒りに燃える。
「――ちっぽけな小娘!」
アムネリスは鋭い舌打ちと共にあびせかけた。
そのままもうあとも見ずに歩き去り、天幕を出る。騎士たちが続く。
リンダは血の出るほど唇をかみしめ、レムスが心配げにのぞきこむのも気がつかなかった。彼女は一生涯をかけてモンゴールの公女アムネリスを憎むと決意していたのである。
[#改ページ]
2
モンゴールの騎士隊は出発の途についた。目指すはケス河の彼方、アルヴォン城である。
虜囚たちは腰と手首とに二本の革ヒモをかけてしめあげられた。そのヒモの端がそれぞれウマの鞍つぼにくくりつけられ、赤騎士隊によって護衛された白騎士二小隊のまんなかに追いこまれた。
「リンダ――リンダ、手が痛いよ」
レムスが囁いた。彼の子供っぽい顔はいまにも泣き出しそうにゆがんでいた。
リンダの方は、ナワをかけられるときにも抗おうとさえしなかった。むしろ、ほっそりと、いたいたしいほどにきゃしゃな両手首をかさねあわせ、自分から傲然と前へさしのばしてナワをかけさせた。
「レムス、お父さまはこの白騎士隊の手にかかったのよ」
低く、きびしい声で云う。
「それをいつまでも覚えておおきなさい。そしてモンゴールの公女が勝利におごって、パロの王子と王女とに加えたしうちのことも。――いつかわたしたちが運よく生きのびて、父上の国を再興できる日がもしあれば、その日におまえがパロの王としてせねばならぬ最初のことは呪われたモンゴール、ひいてはゴーラ三大公国をこの地上からあとかたもなく抹殺することよ」
「生きのびて――って、ぼくたち、殺されるの?」
レムスは恐怖にかられてリンダを見つめた。リンダは弟の恐怖をやわらげてやろうとしなかった。
「わたしがモンゴールの公女の立場だったにせよ、そうしないだろうと思うの?――でも、わたしたちは死の時も一緒よ。そして、レムス、お願いだから、お前はパロの世継だということを忘れないで。さいごの一瞬まで誇りたかく、頭をまっすぐにもたげたまま死んでちょうだい。姉さんのいうことをきくのよ」
レムスは首をふった。その柔かな、感じやすい目は手首の早くもはじまった苦痛とリンダのほのめかしと双方で、涙でいっぱいになっていた。
「ぼく、死にたくないよ」
怒られるのを気づかいながらそっと云う。
「お前は――」
リンダが怒気を含んで云いかけたが、レムスの左隣に、子どもたちのそれとは比較にならぬほど頑丈なナワでつながれていたグインが小さく吠えるように笑ってなだめた。
「パロの王女よ、誰もがお前のように心高く、そして強く直《す》ぐに生まれついたとは限らぬのだ。お前のようでない魂をとがめるにはあたらん、たとえそれがお前と同じ顔についていてもな。なぜならお前がそんなようであるのは何もお前の手柄ではないのだから。
――それに、レムス王子。お前も、なかなか立派な子どもだぞ。世継の王子ともあろう身が、ためらうことなく、死にたくないと正直にはなかなか口にできぬものだ。お前もどうして凡夫だとは俺は思わん」
「ぼくを馬鹿にしているんだね」
情けなさそうにレムスはきいた。グインは首をふった。
「それがお前のよいところだと云っているのだ、少年よ。いいか、お前はお前なのだぞ」
「出発!」
前の方から、伝令の叫んでまわる声がつたわってきた。五百の人馬はゆるゆると動き出す。三人の捕虜は、たちまちピンと張りつめた革ヒモに激しく手首を引っぱられ、あわてて足をはやめて追いつかねばならなかった。
日は中天にあってじりじりと諸物をこがしつつ、だんだんに西の地平へ身を移してゆく。
「グイン」
リンダが早くも激しく喘ぎながら云った。
「何だ。――あまり口をきくな。消耗がひどくなるぞ」
「グイン、どうしたかしら、かれらは、あの――」
「云うな!」
ぴしりとグインはさえぎった。高くなった声をききつけて、かれらをつないだウマののりてがふりかえる。
「何か云ったか」彼は厳しく云った。
「無駄口がたたけるのも今のうちだけだぞ。ものの半ザンもせぬうちに子どもらはばたばた倒れ、手首をすりむいてウマにひきずられてゆくことになるのだ」
「モンゴールの悪魔!」
リンダは目に涙をためてかすれ声でののしった。グインは騎士たちが興味を失ってまた前方へ向き直るまで、うつむいたまま待った。きこえぬのをたしかめてから、五百頭のウマのひづめがたてる砂けむりと、ザッザッという足音の中で低く口をひらく。
「あいつの名を口に出すんじゃない。もしかしたら、あいつだけがわれわれの生命綱かもしれんのだからな」
「あんな奴! とっくに裏切ってぬくぬくと寝ているにきまっているわ」
「そうと決めたものでもない。だとしたところであいつを責めるいわれは、傭兵として雇ったわけでもないわれわれにはないしな。まあとにかく、ヤーンと、その不具の子なる希望をとりあえず信じておくことだな」
そう、グインは云った。
その当のイシュトヴァーンである。
とっくにどこかでぬくぬくと寝ている、とリンダはわるく云ったけれども、それは必ずしも正当な非難とばかりは云えなかった。
もっともそれは別にイシュトヴァーンが、偶然のことから同行者となった三人の窮地に、親身に責任を感じていた、ということではない。〈紅の傭兵〉ほどに、情や義理のヴェールで利害の眼をふさがれてはおらぬ人間も珍しいのである。
しかしさしも陽気なヴァラキアのイシュトヴァーンではあったが、今度ばかりは自分ひとり抜け目なくモンゴールの手を逃れたことに、満足だけしているわけにもゆかなかった。
なぜなら、ここはノスフェラス、未知の脅威にみちみちたノーマンズランドであり、せめてグインのような超人的な戦士と力をあわせたならば知らぬこと、たった一本の剣をたずさえ、ウマもない徒歩《かち》立ちでは、所詮イシュトヴァーンがどんなにすぐれた戦士であろうともそこで二日とは生きのびることはできなかったからだ。
おまけに、それは中原の人間であれば当然のことにすぎなかったけれども、イシュトヴァーンは、ノスフェラスの事情にはとんと疎かったのである。
さきに足にへばりついてきたおぞましいイドだの、ケス河に棲む水妖と同種だが陸棲の、ノスフェラスの〈|大 口《ビッグマウス》〉だののことを考えると、身の毛がよだった。といって、もはやゴーラ領にもどるにもイカダもない。
「さて、困った、困った――天にいるヤーンの長い百の耳にかけて、おれがちょっとばかり困った羽目におちいっていることは、認めざるを得んぞ」
朝、追手のウマの砂煙を見かけるや、見張りの義務を放棄し、それをとがめに追ってきたラク族のスニさえも拉致して、その場から首尾よく逃げおおせてしまったイシュトヴァーンは、他によしんばどのような人格的な欠陥があるにしたところで、恐しいばかりに抜け目のないことだけは誰にもひけをとらなかっただろう。
それはグインの秘めている超人的な体力や精神力に、ある意味では匹敵するとさえ云っていい、殆ど超能力の域に達している直感と読みの正しさとにうらづけられているのだった。イシュトヴァーンはモンゴールの追手が、グインたち三人を捕えてほぼ満足はしながら、なおもひととおり他の二人を探索の人数を割くだろうと予期していた。そこで、ピイピイと彼にはまるっきりわけのわからぬことばで叫びたてるスニをひきずり、彼はおおむねの予想のように東へむかって少しでもおちのびておこうとするかわりに、騎士隊の裏をかいてまうしろへまわりこみ、そして崖の上から、探索の一隊が東へかけてゆくのを見送ってからのんびりと身をやすめたのである。
崖の下には天幕と、そしてウマの日陰でやすむ騎士たちとで、臨時の集落が出現している。
それを見おろして、傭兵は不敵にもクックッと笑ったものだ。
「なあ、おい、サル。どうせお前にゃ、きいたって何のことだかわかりゃしねえが、教えてやろう。身を隠すというのは何がコツだか知っているか。完全に身を隠すには、できうる限り対手に近づき、そのうしろから尾けまわしてやりゃあいいのさ。とにかく策略の神ドールにかけて、最もいい逃げ方ってな、追手を追っかけることなんだ。といったところで手前にはわかるまいが。まあだから、この岩の上で日なたぼっこをしてる分にゃ、このくらい安全なことはまずないってわけさ。
くそ――それにしても、なんていう[#「なんていう」に傍点]日ざしなんだ? まるでルアーの円盤に迂闊にものりこんだ霜の精ラーラの伝説みたいに、ものの半ザンもありゃあ、とろとろにとけちまいそうだ。おまけに腹はへるし――ええ? 何だと? 何がいいたいんだ?」
イシュトヴァーンは折角のハンサムな顔をこっぴどくゆがめて半身を起こし、急にピイピイとさえずり出した猿人族の少女をねめつけた。スニは激しく苛立つふうでイシュトヴァーンの手をひっぱる。
しょうことなしにスニの指さす下の方をのぞいて彼は口をゆがめた。折から指揮官のそれとおぼしい豪華な天幕の前に、グイン、それにパロの双児が連れ出されてひきすえられるところが豆つぶのように見えたのである。
スニのことばはヴァラキア生まれの傭兵には一言も理解できなかったが、実のところスニの身振りをみれば、その云わんとするところは一目瞭然だった。スニはやっきになって、小さい毛むくじゃらの足をふみ鳴らし、下を指さし、イシュトヴァーンに哀願のそぶりをしては、その腰の剣の鞘をひっぱる。スニのクルミ色の目は、恐しく真剣な光をたたえて、わずかのあいだも傭兵からそらされない。スニは、イシュトヴァーンに、早くリンダたちを助けろ、と要求しているのである。
「アルーラ、イミニット、グラ!」
語の調子からは何となく、「この卑怯者、ばか!」とでも罵っているような感じでスニはわめいた。
「ばか、このサル、静かにしねえとてめえを焼いてくうぞ」
イシュトヴァーンは怒鳴り、それからあわてて口に指をあてて万国共通のしぐさをした。しかし、必死になっているスニは、わかったのかもしれないがわかったようなそぶりは見せなかった。
なおのことやきもきと、とがめるような丸い目で逃亡兵をにらみつけては剣の鞘をひっぱる。
「くさいぞ――その獣の手でさわるな」
催促に辟易してイシュトヴァーンは声を荒げた。
「何が云いたいってんだ。あいつらか――あいつらは放っとけよ。いいか、あのグインて奴はな、手前で何でも手前の始末はできる奴だ。あんな化け物でもな。男なんだよ。だから、サル、こちらとしちゃあ、奴の始末は奴に任せ、てめえのことだけ考えるのが、本道ってもんじゃあないか――えーい、うるせえぞ、ギャアギャアと」
イシュトヴァーンの黒曜石のように悪戯っぽく輝く目が険悪に細められた。叩高い声でわめきたてていたスニがキャンというような声をたててとびのく。彼がやにわに腰の剣をつかんで、いまにもスニを切り伏せようというそぶりをみせたのである。
スニは大慌てでイシュトヴァーンの剣のとどかぬ範囲へまで退き、おずおずとようすをうかがう。その怯えた丸い目をみて不謹慎な傭兵はまたしても笑いがとまらなくなった。
「サルのくせに、おれがてめえを食おうと思ったのがわかったのか。怯えてやがる」
彼は身を折って笑いこけ、怒ったスニが丸い目でにらみつけるのを見てまた笑った。彼自身はそう云われたらずいぶんと心外だっただろうが、二十になるならずのこの傭兵には、ときどきまるできかぬ気の腕白小僧のように見える瞬間があり、それをみると人びとは、彼にかなり腹をたてていても怒るに怒れなくなってしまうのだ。
しかし、スニはそうとばかりも云っていられなかった。なぜならこの小さなセム族は、すでに生命を救ってくれたリンダにすっかり心を捧げていて、それでその主人のおちいっている窮地に誰よりも心をいためているのは、もしかしたら当の本人よりもこのスニの方だったかもしれない。
スニは、笑ってばかりいる傭兵を不信の目でにらみすえた。しかし、どうせ彼を当てにすべくもない、と思いついたのか、もうそばによって剣をひっぱったりはしようとせず、何か考えこんでいたが、ふいにいかにも獣らしい唐突さではねあがった。
と思うと、またたく間に、この岩山に生まれ、死んでゆく種族だけに可能なすばやい身ごなしで岩山をかけおりはじめる。
「あ――おい、サル!」
びっくりして、イシュトヴァーンが身をおこしたときには、もうなかば岩をかけおりていた。
「こら、待て、どこへ行く――サル、こら!」
イシュトヴァーンは手をのばして、スニの小さい腕をつかまえようとしたが、スニの方がずっとすばしこかった。スニはとがめるようなクルミ色の目で傭兵をねめつけ、はだしの小さい足をはねあげると、もうあとも見ずにかけおりていってしまう。
「あ――」
イシュトヴァーンが呆気にとられて見おくるうちに、崖の、ゴーラ兵のたむろしているのとは反対の方向へ、小さな毛ぶかい姿ははねていってそのまま見えなくなってしまった。
イシュトヴァーンはしばらくぼんやりしてそれを見送った。だが、それから急に、
「チェ、何だってんだ、あのサルは!」
妙に腹立たしげに叫んではね起きる。
「何だってあんな目つきで人を見なけりゃいけねえってんだ? ヤーンの三巻き半の尻尾にかけて、おれが何をしたってんだ?」
傭兵の若々しい顔は、奇妙なふうにゆがんでいた。だが、それから崖の方へ目をやり、ちょっとためらい、それから、おれには関係ない、と決めてまたごろりと身をよこたえ――いくらもせずにまたとびおきる。
「要するにやつらの自業自得ってもんだしな。豹あたまは、自分の運命ぐらい自分で切りひらくことはできるさ――ただ、おれもこうただ逃げまわったって埒もないから、こうなると知っていれば、もっとずっと早日に、パロの王子と王女の居場所をみやげにゴーラへ投降し、うまく立ちまわって騎士団の中に地位でもせしめればよかったな。もっとも、おれとしては、モンゴールのパロ攻略でこの後の三大公の力関係がどのように変わってくるものか、もうちょっと見さだめてみたかったのもほんとうのことだし。
まあ、いい――とにかくこうなったからには何とかいちばんいい手だてを考えることさ。たしかにおれひとりでは、いかに魔戦士といえどもノスフェラスを横断はおぼつかんだろうが、しかし五百の精鋭の騎士団をあいてにひとりで何とか立ちまわり、奴らを何とかせねばならんと思うほどには、借りがあるでなし、別に雇われたというんでもないし――
お?」
ふいに傭兵はそれがくせの一人ごとを途中でやめて、まぶしい日ざしの下で目を細めた。
下の、モンゴールの騎士たちのなかに、急にあわただしい動きがはじまったのである。
どうやら出立の布令が各隊にまわされたとみえた。騎士たちはいっせいに休息の水筒や糧食をかたづけて立ちあがり、身づくろいをし、ウマを立ちあがらせる。隊伍をくみ、隊長たちのウマがそのあいだを何度もかけぬける。
傭兵は用心深く、かれらの目のとどかぬ、だがこちらからは充分に見わたすことのできる場所へ移動すると、ぴたりと崖の上に身をふせた。
東の方から、小さな砂塵のかたまりがしだいに近づいてきたと思うと、それはさきに主部隊をはなれて探索にまわっていた小隊の姿になる。かれらが合流すると、白い花芯をかこむ赤い花弁のようなかたちにととのえられたひきあげの陣容は完成し、そしてそれぞれの隊の先頭に座をしめた鼓手が打ち鳴らす、出発の合図の太鼓がノーマンズランドにひびきわたった。
さいごに天幕から一隊の人びとが立ちあらわれた。高い崖の上からでもすぐに見わけることができるのは、ひときわ高く人々の頭の上にそびえ立つグインの豹頭の雄姿と、その両側につき従う、岩に咲く二輪の桔梗のようなほっそりした双児である。
騎士たちがかれらを小突いて進ませ、ひざまづかせてその腰とさしのべた手首とにナワをかけ、そのナワをウマの鞍にくくりつける。虜囚たちがそうやって隊列のあいだにつながれるのをイシュトヴァーンは眉ひとつうごかさず見守った。
だが――ふと、その目が何かに驚いたように見張られる。天幕がたたまれ、すっかり出発の用意がととのったあとに、いちばんさいごにあらわれて白いウマに悠然とうちまたがる、すらりと長身の人影が目にとまったのだ。
「……」
そこからはとうてい、遠くてすっかりあいてを見さだめるというわけにもゆかなかったが、しかし傭兵は何かを感じとったのだ。なぜなら彼の顔は急にひきしまり、そして急にその目が思案に沈み、そして彼はやにわに身を起こすと、ひとつ大きくうなづいたのである。彼のようすは変わっていた。
何かが今ようやく動き出したのだった。
[#改ページ]
3
「グイン――」
ノスフェラスの荒野を、五百の騎馬は粛然と進んでいた。
先頭に立つのはゴーラの勇者、モンゴール第三赤騎士団のメルム中隊長である。そのうしろにカイン隊、そして白騎士の小隊ふたつ、リント隊とヴロン隊をはさんでそのあとに、しんがりをつとめるのはアルヴォンの誇り、アストリアス隊の百五十騎。
かれら五百あまりの精鋭に守られ、粛々と歩を進める麾下部隊の中央に、ひときわ燦然ときらめく白い装束の一騎――モンゴールの公女アムネリスである。
そのしろがねの鎧、そのかぶとをとり去った豪奢な黄金の髪は、はるか遠くからでさえ、いま辺境の地平に傾きつつある午後の遅日《おそび》をうけて、きらきらと輝きわたる。ノスフェラスのあつい砂地を吹いて、人びとを砂塵まみれにする通称、「ドールの風」と呼ばれる風さえも、この輝かしい姿の前でだけは、おそれて左右にひらくかに見える。
「グイン――ああ、グイン……」
そして、その誇りやかな隊列のうしろに、パロの王家のさいごの生きのこりたちは、ナワで奴隷か、けだもののようにウマにくくられ、ウマにひきずられ、うしろから追いたてられ、手首をすりむいて血だらけにしたみじめな姿でよろばい歩いてゆくのである。
「グイン――わたしもうだめ……」
リンダの声はかすれ、ほとんどいつもの彼女の声とも思われなかった。
「リンダ! しっかりして……」
励まそうとするレムスのほうも、一歩ごとに膝ががくりとくじけかかる。
「どうした、お前たち――誇り高いパロの真珠らしくもなく、弱音を吐くのか」
グインが叱りつけるようにささやく。リンダはかすんで朦朧となった口に、参ったようすもなくウマにひきずられながら頭をもたげているグインを見上げ、そうすると彼女のかよわい、打ちひしがれたからだにも彼の凄絶なまでの野性のエネルギーが注ぎ込まれるかに思えて、またいくばくかのあいだは、よろよろとでも進むことができるのだった。
「レムス――いいこと。この苦痛と、このはずかしめを覚えておくのよ――お父さまとお母さまのうらみ、パロの民の呪い、そしてわたしたちのこの――この苦しみが、すべていつか……かれらにふりかかるように――」
「あまり口をきくな」
グインが叱る。リンダはかすれた声で笑った。
「口をきいていると……少し楽なのよ。ああ――グイン、どうしてわたしたち、こんな目にあわなくてはいけないの。つい先日までの、クリスタル・パレスでの平和な日々は、どうしてこんなに急に終わってしまったの……」
所詮、いかに気強く、情がこわいといっても、リンダは十四の子どもでしかないのである。彼女の砂塵にひびわれたくちびるから、すすり泣くような呻きがもれた。しかし、一日、水も与えられていないのどはかわききってしまっていた。目も――だから、涙さえもからだじゅうの毛穴から汗になって蒸発してしまったかのようだった。
「ヤーンの意志は俺たちにはわからぬ。この俺が記憶を失って、その前後のからくりも知らぬままこういう変転にまきこまれたというのも、きっと何か、はかりがたい巨大な運命が俺をつかんででもいるのだろう」
「ああ――グイン、水がのみたいよ」
レムスがうめく。前をゆく赤騎士がそっとふりかえった。ゴーラの赤騎士といえども、皆がみな鬼神の魂をもっているとは限らない。かれらはアムネリスに絶対の忠誠を捧げていたから、あえてその厳命に背こうとは思いもよらなかったのだが、しかし内心ひそかに、グインはともかく照りつける日の下をよろめき歩いてゆくふたりの子どもに見るにたえぬ思いを味わっているものは、決して少なくはなかったのである。
「水のことを云うな。よけい苦しくなるぞ」
「でも――ああ、ぼくもう歩けないよ……」
「しっかりして――レムス……」
リンダは喘いだ。それからやにわに少しでも心をまぎらそうとでもいうように、
「ねえ――グイン」
「ああ」
「なんだか――なんだかこの砂と岩場は、いつまでたっても熱をもっていて――おまけに、なんだかこの上を歩いていくうちに、足元がふらついてくるようなのね……」
「実は俺も先頃からそれに気づいていた」
グインは認めた。
「何やらえたいのしれぬ瘴気が、あたりをおおっている気がせんか。ノスフェラスの空気は、ねっとりとして妙に生物のように、――それともゼリーをとかした水か何かのように重くまつわりついてくる。それが咽喉に入ると、妙に不浄で、咽喉をかきむしりたくなってくる」
「モンゴールの騎士は、何も感じないのかしら――」
「あまり私語するまい!」
前をゆく騎士が怒鳴り、それから声をひそめてつけくわえた。
「倒れるのが早まるばかりだぞ――いいか」
彼は親切で云ったのだが、敵の情けはリンダの高貴な心を激しく刺激した。彼女はなけなしの体力をふりしぼり、手ひどく云い返そうとくちびるをなめてことばをさがした。
が、そのとき、ふいに先頭の隊の方でちょっとした騒ぎがまきおこり、整然たる行進の隊列がはじめて乱れた。
「〈|大食らい《ビッグイーター》〉!」
「砂の中だ!」
前方から悲鳴がおこり、そしてたちまちのうちに、ウマが怯えてあげるいななきと、しずめようとする叫び、隊長たちが気狂いのようにわめき散らす下知の声とであたりは騒然となった。
|大食らい《ビッグイーター》はすなわちケス河の|大 口《ビッグマウス》と同種の、陸棲の怪獣である。姿かたちもほとんど大口とかわるところのない、鋭い歯を生やした、顎だけのような肉食の怪物だが、ただ水のかわりに砂中にひそんで隙をうかがい、そして|大 口《ビッグマウス》よりもかなり大きいのがふつうだ。
その|大食らい《ビッグイーター》が、前触れもなく突然に砂をけちらしておどりかかり、先頭のメルム隊の若い騎士と彼のウマを襲ってくわえこんでしまったのだ。
最初のひと噛みで、ウマの胴はぱっくりと食いちぎられ、騎士は絶叫とともに|大食らい《ビッグイーター》のからだのあとが作った砂穴へ転落した。|大食らい《ビッグイーター》は血をふきだすウマをまるでガティのねり粉をかみちぎるようにかみちぎり、その間に懸命に騎士は砂を這いのぼろうとしたが――
「ギャーッ!」
突然、彼は絶叫して横転した。折角脱出に半ば成功しかけていた彼の腰を、いきなりのびてきた厭らしい白い、ねばつく触手がまいて、ぐいと砂穴の底へひきずりこんだのである。
「助けてくれ!」
若い騎士の断末魔の悲鳴に盟友たちは耳をふさいだ。
「助けるのだ、早く!」
隊長が叫ぶ。
「駄目であります! オオアリジゴクでは!」
絶望の応えをきいて人々は顔をそむけた。それでも、狂気のようにもがきながら穴の中へひきこまれてゆく仲間の姿がすっかり砂に消えてしまう直前に、かれらの目には、触手の見るもおぞましいくねりの根かたに、ぞろりとあらわれた、身の毛のよだつような巨大でいやらしい吸血の口が見え、その口からもれる、何ともいえないほど不快な臭気があたりに漂うのがわかったのである。
もう手のつけようもなかった。アルヴォンを出てから三人めの犠牲者である。人びとは耳をふさいで、凄惨な悲鳴と物音のやむのを待ち、それから復讐の怒りをこめて、ウマをかみ裂いてしまった|大食らい《ビッグイーター》を槍《やり》につきさして砂の上でひきさき、そしてオオアリジゴクの砂穴には油を流しこんで火をつけた。
砂の上には血と内臓と肉とが散乱していた。ウマはもうまったく原型をとどめていない。人びとは大食らいの死体をオオアリジゴクの火の中へ投げこみ、苦しまぎれの不気味な生物の、くねりもがく長い触手にからみつかれぬようずっと後へさがった。オオアリジゴクの生きながら焼ける臭気のすさまじさに、嘔吐を催す者が続出する。ノスフェラスの生物はほとんどが、中原のとは似ても似つかぬ呪われた怪物でしかない。
そこへわずか五百騎でのりこんで一昼夜がたって、犠牲者が三人ですめば、これはむしろ望外の幸運とも云い得べき成果であっただろう。
かれらは犠牲者の墓をつくる手数もおしみ、仲間が怪物と共に燃える炎が燃えつきるのを見とどけさえせずに、ただちに行軍を再開した。アムネリスの考えでは、三人の捕虜をつれて遅くとも日没までには、ケス河のこちら岸にいまごろはリカード伯の率いる留守部隊が築きあげているはずの防壁の中に入れるだろうというはずだったのである。
しかし、グインたち三人の捕虜の足にあわせなければならないのと、|大食らい《ビッグイーター》とオオアリジゴクにぶつかったのとで、思いのほかに時間をとられ、はるかにケス河の流れが見わたせる場所までようやくたどりついたときには、すでにあたりには紫色の宵闇が濃くなりまさっていた。
その夕方は、たまたま風向きがそうなっていたのだろう。闇があたりを包んでくるにつれて、あたりには、昼のあいだはなりをひそめていた白いエンゼル・ヘアーがふわふわと舞い飛びはじめ、それはケス河にかれらが近づくにつれて、あたかもそれをさまたげようとするかのようにしげくなりはじめた。
白く人の顔にぶつかってきてはふわりととけてゆく、動物とも植物ともつかぬエンゼル・ヘアーは、それだけではまったく無害な荒野の風物にすぎないので、しばらくはかれらはべつだん気にとめることもなく手でそれを払いのけてなおも進んだ。
だが――しばらく行くうちには、エンゼル・ヘアーは少なくなるどころか、だんだん、互いに呼びあいでもしたかのようにかれらの周囲に集まって来はじめた。
あるいは荒野には珍しい、たくさんの人間の集団とウマたちとが発散する、熱の量がかれらの原初的な感覚への刺激になるのかもしれぬ。ともかくエンゼル・ヘアーはあちらからも、こちらからも、音もなくしだいに集まりだし、しまいにはまるで小さな雲のようにむらがってしまった。
隊長たちはちょっとウマを集めて相談しあったが、無害なことは知れているし、どのみち大したさまたげにもなるまい、と決めて、再び進むよう命じた。だが、そのとき、だれかが、なにげなく上を見上げ――
そして、小さく叫び声をあげた。
「あれを!」
人びとはあわてて上を見あげ、そして息を呑んだ。
エンゼル・ヘアーの空!
ノスフェラスの黄昏は、ねっとりと重く、スミレ色に――リンダの瞳の、星のように神秘的なスミレ色とは似もつかぬ、何やら不浄であやしげなみだらさを秘めた濃紫にあたりにたれこめ、そこには星さえもまたたかぬ。あたかもねばつくその夜の色のジェリーが、半透明の被膜となって清澄な星々と地上の人びととを切りはなそうとたくんでいるかのように――その、ノスフェラスの夜空を、ほの白く、もやのように、エンゼル・ヘアーの大集結が染めている!
それは、たとい無害であることが知れていたところで、それを見るものの不安と戦慄とは少しも減じることのない、そんな気味のわるい眺めだった。まるでかれらの上にだけ雨をふらそうとしてヤヌスがつかわしたひとかたまりの雲か、それとも水中にうごめく|環 虫《リングワーム》の何百万の触手ででもあるかのように、音もなくより集《つど》った白い繊糸はかたまりあい、うごめき、その間もひっきりなしに新手のそれがその大群落に加わる。
見わたす限りの空をその青白いたなびく霞が埋めてしまっているようにさえ人びとは感じたが、それはただ、そのエンゼル・ヘアーがかれらの上だけでなく、横も、前も、うしろも、まるであたりをその幽鬼の白でぬりつぶそうというようにふさいでいるからなのだった。
モンゴールの勇士たちのあいだに動揺がひろがった。かれらはセムの大軍や、ケイロニアの竜騎兵、獅子騎兵をならばむかえうつこともできたが、このほの白い、ゆらゆらとただうごめいている無言の怪生物は、なにやら勇士たちの抵抗力を根こそぎ奪い、その心の最も深奥にたえず巣くっている根深い恐怖心をまともにあおりたてた。
「ガユス」
アムネリスは魔道士を呼んだ――その声は、微かな押さえきれぬふるえをおびていたかもしれない。
「これは、何としたことだ」
魔道士はひからびた手で、しきりとルーン文字をかたどった祈り紐をまさぐっていた。そのしぐさは妙に見るものの心を苛立たせた。
「エンゼル・ヘアーは無害なはずだが、こんなに大量にむらがって、われわれにおそいかかってくる、などということはあるまいな?」
「……」
ガユスは首をふった。
「このようなことは、聞き及んだことがございませぬでな」
「予兆か!」
「で、あるとしたところで、やつがれ如きには、凶兆とも、吉兆とも」
「もうよい!」
アムネリスは苛立って云った。総指揮官と魔道士とのこのやりとりはむろん全軍のほとんどにはきこえなかったが、それはある意味では幸いだった。
なぜなら、騎士たちは騎士たちで、気味わるげにエンゼル・ヘアーのほの白いカーテンを見上げ、顔にふわりとはりつかれるたびにいまはかなり恐慌をきたして払いのけながら、こそこそと取沙汰しはじめていたからである。
「――こんな話というのをきいたことがあるか、マルス」
「いや、ないな。おれのいとこの家は辺境開拓民として、ツーリードの森近くに長いこと住んでいるのだが、エンゼル・ヘアーといえば少し気味がわるいだけでまったく無害なしろものだといつも云っていた。おれがアルヴォン城へ配属と決まったときにもな、そういえば……」
「おい、ちょっと聞け。これはどうも尋常とは思われん。厭な予感がするぞ――これは凶兆のような気がする」
「云うな、ヘンドリー」
「おれは第六感が発達していると噂なのだぞ」
「ユーレックは物識りだ。あれにきいてみよう。ユーレック、ユーレック」
「……」
「知っているか、こんなことがいつもあるのかどうか」
「きいたこともない――だがここはノスフェラス、何が起こっても不思議はないところだからな」
「なあ、皆、きいてくれ。知らんか、こんな俗説を――このエンゼル・ヘアーというやつ、そのひとつひとつが、死んだ人間の口からとびだした、やすらわぬ魂だという話――」
「云うな、皆まで!」
「ヤヌスの慈母の顔にかけて!」
「クリスタルの都が奇襲によって陥ちたとき、われらモンゴールの黒騎士隊と白騎士隊とはどれぐらいの罪もない一般市民をウマの上から――」
「ええい、云うなというのに! 不吉な!」
「だがあれは……」
しばらくやんでいた風が、また少しばかり出てきて、ねっとりとした闇を揺りうごかすと、エンゼル・ヘアーの白い紗の掛|布《ぬの》は、あたかも深い水中で|環 虫《リングワーム》の繊毛がいっせいにそよぐように、ひそとの音もなくなよなよと揺れた。
それは深甚な畏怖と――そして恐怖とを誘うながめだった。だれかが松明を灯し、それをひたひたと漂うそのもや[#「もや」に傍点]に近づけてみたが、するとその周囲でいったん繊糸はかなり大量にとけて、もろく闇に消え去り、そこには黒紫の夜闇がぽっかりとのぞくのだが、いくばくもなく、また周辺からよりあつまってきたエンゼル・ヘアーが音もたてずにその穴を埋めて、前よりもいっそう濃いほの白さの中にとけこませてしまう。
ついに五百の部隊の足は、まったく止まってしまっていた。何も害をしようという気配こそないものの、それが万一おりてきて一行の顔や口にはりつけば、この数では全員を窒息させることもたやすかったろうし、それに何よりも、無害といい切れぬことには、この幽鬼のような白暮に視野をふさがれて、なおも無鉄砲にも進もうとこころみた先頭隊の数騎が、見とおしのきかぬままあわや又してもオオアリジゴクの砂穴にすべりおちかけたのである。
それ自体はたとえ無害であっても、それに視野をふさがれて、ノスフェラスの夜の無数の危険の中へ自らとびこんでしまうおそれは十分すぎるほどにあった。メルム、カイン、アストリアスの三隊長はウマを走らせて鳩首相談し、あわててアムネリスの旗本隊の隊列に割って入った。
「アムネリス殿下、おそれながらこれ以上ウマを進めるのはあまりに危険がすぎるかと存じますが」
「部下が恐れはじめております」
「われら合議の結果、とりあえずここでの夜営をご進言申しあげては、ということになったのでございますが」
口々に言上する。アムネリスは眉をしかめて左右についた両親衛隊長へ目を走らせた。
ヴロンとリントが目顔でうなづく。
「よかろう」
アムネリスはしばしの思案ののちに決断を下した。
「持参の糧食は三日。なんとか、明朝になればここからケス河まではもう三タッドあまり、いま無理押しに進むよりは――よかろう、下知をまわし、この地で夜営の支度を。ただし見てのとおりの異常な状態のことであれば、ウマを円陣に並べて防壁となし、歩哨をつねの三倍にふやしてたえず交替させ、そして円陣の中央に大篝火をたいて火をたやさぬよう心がけよ。仮眠のさいも鎧はとかぬ。明朝は日の出と同時に立ち、日が中天にのぼるまでにはアルヴォン城へ入る。わかったか」
「相わかりました」
「じゅうじゅう、注意致させるでございましょう」
「万が一このエンゼル・ヘアーが何やら害意を示したときにそなえ、各人がひとつ必ず松明を腰にさし、篝火からいつなりと火をうつせるよう。――このエンゼル・ヘアーは少し高い熱にあえばたちどころにとけるもの、その意味では、そなえがあればさほど脅威ではあるまい」
「心得ました」
「行け!」
三隊長を走り去らせてからアムネリスはふりかえった。ガユスにとも、二隊長にともなく云う。
「いまいましいことを――どうあっても、多少の無理はおしてでも、今夜中にアルヴォンの防壁へたどりつかねばならぬ、とかたく決めていたのだが」
「やむを得ますまい、この有様では」
「気になる。――こんなことはついにきいたこともない。一体、どのような変化が、このような異変をもたらしたのであろうか」
「ここはノスフェラスでありますから」
「私が云うのは、そんなわかりきったことではないぞ!」
アムネリスは手厳しく決めつけた。バラ色の唇をかみ、頭上にたなびく、幽鬼じみた青白さをにらみすえる。
「天幕をしつらえます。少々お休み下さいませ」
侍童が云ったが、アムネリスはなおもウマをおりようとするようすさえも見せなかった。
騎士たちはあわただしく夜営の準備をととのえた。巨大なかがり火がたかれ、水でガティがこねられた。
虜囚たちは手首のナワをとかれ、ウマの陰に一枚の敷物を与えられた。かれらはやにわに布の上へくずれおち、しばらくは動きもならなかった――それほど精魂がつきはて、息も絶え入るばかりだったのである。
アムネリスからは、虜囚のことは忘れ去りでもしたかのように何の指示もなかった。それをよいことに、ひそかに心のとがめを感じていた騎士たちは、急いで水筒と、穀物のつぼ、それに手首にぬる油ぐすりを持っていってやった。
リンダとレムスは夢中になって水筒を口にあて、むさぼりのんだ。長いこと口から吸い筒をはなそうともしなかった。だが、ガティの粉は口にする気になれなかった。空腹の度がすぎて、のどを通らなくなってしまったのだ。グインはひとり、水筒からひと口だけすすりこむとそれでゆっくりと口中のうがいをし、しばらくふくんで口中に水分をゆきわたらせた上で吐き出した。穀物の中に埋めて持ちあるく乾した果実をひろいあげると時間をかけてしゃぶりはじめる。
彼がそうして痛めつけられた体力の回復につとめているかたわらで、双児はぐったりと倒れたなり、ぼんやりとして空の異変を見上げていた。
「ふ――不思議だわ」
リンダが弱々しい声で呟く。
「モンゴールの兵はあんなにエンゼル・ヘアーをおそれ、異変の予感におののいているというのに――わたし、少しもあれ[#「あれ」に傍点]がこわくない。それどころか――なんだか、ふしぎとなつかしいような気持ちにさえなってくるの――あれを見ていると……」
「ああ……」
レムスもしゃがれてしまった声で同意した。
「怖くないし――それに……なんてきれいなんだろう、ぼくたちが死んで、ヤヌスの神の座へのぼってゆくときに、乙女のアイノがひろげてくれる、クモの糸と朝露で編んだ布みたいだ」
「あれを見ていると、な――なんだか、からだがふわっと浮きあがり、あれにつつまれて空をとぶような気持ちになってくるわ」
リンダはうっとりと云った。
「もしかしたらエンゼル・ヘアーが死者の、魂だというのは本当かもしれない。あれがほろびたパロの、火に焼かれた幾万の人びとのわたしたちに会いに来てくれた姿だったら……」
グインは双児を見た。何やら不服そうだったが、双児がその考えにひどく慰めを感じていることを見てとったのだろう、何も云わずに、ねり粉のパンをかじりはじめる。
見張りの騎士たちも何か云いたげにかれらへ目をむけたが、かれらを見、頭上の白い生ける闇を見、何も云わずにヤヌスの印を切った。
エンゼル・ヘアーの群は風もないのにゆらゆらとゆらめき、あたりはさながら白い水底とも見える。不安とそして鳴りやまぬ畏怖にみちたときめきとをひそめて、ノスフェラスでの二回目の夜は重くふけていった。
[#改ページ]
4
夜はふけた。
天幕ではおそくまで、公女を囲んでの隊長たちの談合が持たれていたが、それもついに果て、隊長たちもそれぞれの隊へとひきあげる。侍童が貴重な水を使って布をしぼり、公女の手脚をぬぐってノスフェラスの砂塵をきれいに洗いきよめ、何重にも麻布をかさねた床へ主をくつろがせると、天幕のあかりも吹き消された。
外では、もちろん、そこがアルヴォンの詰所ででもあるかのような、平穏な眠りが訪れていた筈もない。篝火は天をこがせとたかれ、あとからあとから枯れ苔や携帯の燃料がさしくべられた。
兵たちは上をちらちらと見ながらあわただしく糧食をつかい、飲むことの禁じられているはちみつ酒の味を思い出してのど[#「のど」に傍点]を鳴らした。互いに見かわす顔はノスフェラスの砂塵に白茶けてすすけ、それを洗い流す水もない。
だがしかし、かれらが火をたきはじめると、上へのぼるあたたかい空気を嫌ってだろう、エンゼル・ヘアーたちはその上空を避けてたゆたうドーナツ型にかわり、そしてそれ以上大集結をつづけるようすも見えなくなって、ひとまずようすはおちついたかに見えた。
頭の上に|環 虫《リングワーム》をのせてその襲撃を待つしかないような、兵たちの不安と動揺も、そのたきはじめた火の効力と、それとエンゼル・ヘアーが何もするようすのないのとで、少しづつおさまり、人びとはその頭上のもやに何となく馴れて来はじめた。見上げればそのおとなしい怪物はゆらゆらとたなびき、青白くかれらを感情もない目で見下ろすかのようだ。しかし火は明るく燃え、兵士たちはようやく、私語をぽつぽつとかわすまでに気力をとりもどしてきた。
かれらの関心はただ二つのことにわかたれた――このエンゼル・ヘアーの異常な集結と、それからかれらの虜囚にほかならぬ、豹頭、人身、巨躯に異常なまでのエネルギーを秘めた怪物と。
「このようなことは、見たこともきいたこともない」
どの隊にも、物識りゆえに尊敬を払われている男や、その多少ぬきんでた第六感や直感力を頼りにされているものがいる。
かれらは、炎に半面を照らし出されながら物思わしげに、口をあけてききいっている同僚たちにむかって喋るのだった。
「凶兆だ。そうに決まっている。そうでなけりゃ、おれは鞘ごとこの大剣をくって見せる」
「このエンゼル・ヘアーどもがか、それともその――と声をひそめ、その方を見やって――怪物がか」
「両方さ!」
男は答えて水筒からひと口のんだ。
「どちらかひとつならばまだ説明がつけられたかもしれん。偶然だとか、ノスフェラスではどんなことが起こっても、おどろくいわれはないのだとか、そこにはどのようなものが棲むか決してすべては明らかになることがないとか。
しかし――この二者がこうも合致して起こり、しかもそれに相前後してスタフォロスの悲運がもたらされたからは――」
「スタフォロスにはおれの同郷のガルンや若いオロがいた」
別の騎士が炎にあかく顔を染めながら云う。
「もしスタフォロス城壊滅の悲劇をもたらしたのがあの怪物にかかわりのある――あるいはあの怪物が凶兆となってさし示したところの何かの運命だとしたら教えてくれ。おれは友人どもをセムの手にかかって悲惨にも屍をさらさせたそのあいてに、わずかながら、してやりたいことがある」
「よせ、無駄なことだ、運命を腰の剣で切れるものならば、魔道は要らぬ」
物識りの男はうつろな笑い声をたてて、それから、
「しかし――おれは思うのだが」
彼のことばをもらさずきこうと耳をそばだてている仲間を見まわして声をひそめた。
「よいか、ここだけの話だぞ――本当は、云ってはならぬことと承知で云うのだからな……正直云うとな、おれはどうも――金蠍宮は、黄金のパロに手出しをしてはならなかったのではないかという気がしてならぬのだ……」
彼の声はいよいよ低くなった。
「それはまた何故――」
ショックをうけた顔、顔、を見まわす。
「考えてもみろ。スタフォロスの壊滅にはじまる一連の妖異のおこるところ、必ずパロの真珠と、それを守るあのシレノスの姿があるではないか……」
「そういえば、確かに」
「ヤーンの繰《く》る糸車は〈運命〉という名であり、その手にしたおさ[#「おさ」に傍点]は〈偶然〉という、そして彼の織り出す模様にそのときどちらの糸がおちるのかは、ヤーンにしかわからぬという。
だがこれは……」
「ならば早いところ、あの真珠どもを首飾りのように糸でつらねてしまって、その呪いを封じればよいではないか」
「おれがいうのは、何もかれらそのものが呪いのみなもと、妖異の張本人というのではないのだ」
かれらのまわりに、少しづつ、人々がより集って来はじめた。喋っている男は皆の無知をあわれんで見まわし、
「ただ、クリスタル・パレスをいただく美の都パロはまた、魔道の都、ヤヌスの神殿のお膝元でもある。――それは何千年を経た王国であり、そこではいろいろと、われら新興のゴーラの民には考えもつかぬことがおこるというのだ。たとえば、おぬしらは知らんのか、クリスタル・パレスの地下にはもうひとつの封宮があり、その中でははるかな昔に時の流れからひろいあげてそこへ封じこめられた魔道師や女どもが、パロのアルドロス大王の聖なる遺骸を守っていまなお生きている――そして、パロの玉座につくものは必ず、一度は地底の封宮におりてそのアルドロス大王のミイラと対話する試練を経なければならぬ、というささやきを? いや、たしかにパロに手出しをしてはならなかったのだ!」
「この一連の妖事は、われらの主ヴラド大公が他の二公にさきがけて、クリスタルの都をおとし入れ、火と流血の中にほふった、ほかならぬそのたたりだというのか?」
「ただ、それだけであれば、むしろ幸運なくらいだが――」
なおも話しつごうとしたときに、ふいに彼は肩にぴしりと焼けつくようなムチの痛みを感じてとびあがった。
あわててふりむいた彼は、馬上から怒りに目をけわしくしてにらみすえているカイン中隊長を見、とびすさって平伏した。
「あらぬ流言で人心をまどわすものは、ケス河の大口と素手にて立ちむかうことになるぞ」
カインは鋭い声で怒鳴った。
「他の者も心して、あやしげな蜚語に耳を傾けるよりは耳に練り粉でもつめておくがよい」
ぎろりと四方に目をくれて、そのままウマの横腹を蹴って火の周囲を離れる。
騎士たちはしばらく、しゅんとなって黙りこんだ。
が、そのとき、ふいに誰かが叫んで上を指さした。
「見ろ!」
人々は見上げた。
そして、さきにエンゼル・ヘアーで埋めつくされた空をそこに見出したときと同様に、鋭い音をたてて息をのんだのである。
かれらが話にかまけているあいだに風が夜空に吹ききたり、そこを埋めていた白紗のカーテンをあとかたもなくひきさらってしまっていた。
「おお――!」
誰かが低くささやくのがきこえる。空は晴れていた。
さきほどまでの乳白色におおいつくされていた水底はどこかへ去り、うってかわったスミレと群青色の夜空が、高くどこまでもかれらの頭上につづいている。
それだけではなかった。奇妙にも、そのエンゼル・ヘアーを吹きとばしたきよめの風は、ノスフェラスの夜に特有のあのねっとりとした不浄な重さまでも払拭してしまったかのようだった。空は晴れ、何かしらすがすがしく風が吹きわたり、そして――
「星が……」
騎士たちはしんとして見上げる。
ノスフェラスで星空の見えることは、そこに特有の重苦しいもやや雲がさえぎるので滅多になく、それゆえにこそそこは星の光さえもとどかぬドールの版図と呼ばれている筈なのだが、しかしいま、かれらの頭上たかく、チカチカとまたたくのは紛れもない、辺境の夜をいろどる数知れぬ星だった。
星辰のかたち、その位置すらも、太古から見れば同じそれとは思われぬほどゆがんで変貌をとげてしまった、と星占師たちは云う。だが、この時代のかれらにはその星々の位置こそが、なつかしく目に馴染んだ導き手なのである。
光弱いもの、巨大な赤い軍神の星、さまざまな伝説や教えにいろどられたそれらの星々の中に、ひときわ目に立つ二つの星がある。
そのひとつは俗に北の星と呼ばれ、船乗りたちを導く、その位置を太古からそれだけはまったく変えていないといわれる|白熊の星《ポーラースター》であり、その冷やかで巨大な光は北のアスガルンの黒い山塊の、ちょうど上あたりにおちつきはらってかかっていた。その怜悧な光は、運命のうちなる死すべき人間どもの愚行をはかり、さばき、あざわらうかに見える。
いまひとつは東の星であった。東のカナン、黒々と、瘴気を漂わせて荒野の果てに静まりかえる、奇怪で伝説につつまれた古代山脈カナンの、獅子の眠るかたちの山の端に、白くひそやかな、しかし見誤られっこない高い光を放って大きく明滅しているマリニアム、暁の星。
それは|北の星《ポーラースター》が人々を安らかに航海させるための神々の灯台であるとするならば、ちょうど、何ものにも左右されず曇らぬ目で、招くように、拒むように地上をしろしめす、ヤーンの一つ目それ自体であった。それゆえに人びとは暁の星をまたヤーンの目[#「ヤーンの目」に傍点]とも呼ぶのである。
星々は夜空をかけり、モンゴールの騎士たちとその虜囚の心は和んだ。かれらは星の聖なる音楽に耳をかたむけ、癒され、ゆるされてあるように感じた。それは、たぶん、嵐の前のひとときの凪ぎであったかもしれない。人々はそっとよりそいあい、辺境の夜闇、ヤヌスの安らかな版図の外にある不安すらもいっとき忘れていた。
公女の天幕は灯も消え、静まりかえっているのである。
その同じ夜の底で、寝もやらず静かにうごめいているひとつの影がある。
その影は、ほっそりとして、そして背がたかかった。鎧をつけ、剣を帯びているのだが、固い岩地をぴったりと地に這うようにして移動するときにも、まったくといってよいほど物音というものを立てない。ダネインの水ヘビもかくや、という、しなやかで油断のない熟練した身ごなしなのである。
その影は、さきにまだ日の高いころ、公女の一隊が天幕をたたんで出発したころから、つかず離れずの按配でその周辺にあらわれはじめていた。
もちろん、気取《けど》られるようなへま[#「へま」に傍点]はしない。岩があるときは岩かげに隠れ、見わたすかぎりの砂地のときにはためらわずに地に伏して、日の高いうちはそれも見失なわぬのがやっと、というくらい遠く距離を保つほどの用心をかさねて尾けていたが、日が没し、あたりに闇が立ちこめてくると彼の仕事はずっとやりやすくなった。
もっとも、そのために一度は接近しすぎてしまい、あわや気づかれるところだった。トーラス生まれの、端麗な青年貴族、しんがりの一隊をひきいるアストリアス隊長は、たえず彼のウマをかって最後尾へかけもどっては、何か妙なものが追跡したりするきざしはないかと注意におさおさ怠りなかったのだが、日没のさいごのきらめきに反射して、鎧の止め金がするどく光るのに、ただちに目をとめたのである。
黒い髪、黒い目の青年将校の秀麗な顔に、怪訝の色が浮かび、彼は手にしたムチをあげて、
「何だ、今のは?」
誰にともなく問いかけた。
「私には何も見えませぬが」と部下。
「いや、いま確か――」
アストリアスはしんがりとしての責任を重く感じていた。ウマをかえして確かめようか、と一瞬迷うふうだったが、そのとき、
「わあッ!」
「|大食らい《ビッグイーター》だ!」
先頭の方から激しい騒ぎがつたわってきた。
「どうした!」
たちまち、アストリアスはウマをかって、彼の隊列が乱れぬようにすることに全神経を集中し、そのために目の錯覚かもしれぬその微細な輝きのことはすっかり忘れ去られてしまった。そしてそのあとは例の、エンゼル・ヘアーのさわぎである。
それが一段落して、火がたかれ、すっかり人びとの夜営の準備がととのうころには、もう日はとっぷりくれて、怪しい人影はずっと動きまわるのがたやすくなっていた。
彼はちょうど黒づくめの装備であったから、白昼の岩場地帯ではそれこそ白紙にのせた黒い虫のように目立っただろうが、闇があたりを包んでしまえば、火をたてにとったモンゴール隊に、よほどのことがない限りは気づかれずにすんだのである。
イシュトヴァーンは――いうまでもなくそれはヴァラキアのイシュトヴァーンだった――それでもなお、口の中でブツブツいう癖だけはあきらめてはいなかった。
(やれやれ、たまげた。ドールの十三人の醜い娘にかけて、たまげたぞ! いったい、なんだ、あのエンゼル・ヘアーどもは! モンゴール隊もびっくりしたろうが、おれときたらなお仰天さ。あんな話、きいたことも見たこともない。一時はどうなることかと思った。が――まあやれやれ、これでおれとしては、爺いになったときに家の外で石設に腰かけて、口をあいている孫どもに喋ってやる珍奇な話がまたひとつ増えたというわけさ。
おお、さいわい皆あのさわぎで気が疲れて、交替しながら眠っちまった。この分だと――おお、東のカナンを見おろす〈ヤーンの目〉の光にかけて、この天幕だな、総隊長、司令官、さっきの白騎士がいるのは。あれは一体何ものだったのだろう。光の加減かもしれないが、まるでもえたつような黄金の髪をしている、まだ年若そうな騎士だった。
白騎士の中の主だった隊長といえば、ヴロン伯爵、リント男爵、若いところではライアス、アリオン、レンツ――アリオン卿か。そんなところだろうな。しかし妙だ……
まあそんなことはともかく――や? おっと――危い)
口の中で、自分に元気づけるようにつぶやきながら傭兵は、ようすを偵察するために、じりじりと天幕へ近よっていったのだが、そのとき、歩哨とおぼしい連中がひそひそ云うのが、思いもよらぬほど近くできこえたのであわてて身をふせ、ぴたりと闇にまぎれて気配さえも殺してしまった。
「――下もむごいことをなさる」
きこえてきたのは、辺境なまりのつよい、しゃがれた声である。
「何も捕虜だといって子どもにあんなしうち――」
「云うまい、それはわれわれにははかり知れぬお考えが何か――」
「どうせ城へ入れば拷問台にかけられるのだが、それとこれとは――」
「拷問台に少し早くかけられたと思えばあきらめもつくさ。しかし勿体ない話だな、あの小娘は、なかなかのもんだぞ。まだまったくの子供のからだつきではあるが、王家の肌をしているし、なかなかの美形でもある。あの手足をそうむげに車つきの台で押しつぶさせるというのは――」
「しッ!」
そのときおもての方でシャッと天幕の入口の垂れがかかげられる音がした。
「では、お休み下さいませ」
太い男の声がかさなる。それへ、若々しい、どこか凛とはりつめた声が、
「では日の出と共に出立できるよう、用意怠りないように。いまごろは先に立たせた早馬がケスの防壁に入るころゆえ、明朝になれば迎えの隊と合流できよう。それまでは気を抜かず、よいな。
特にリント!」
「は」
「捕虜をしっかりと見張り、かれらが舌をかんだりすることのないよう」
「心得ました」
「アストリアス!」
「は」
「明朝はしんがりをカイン隊と交替し、まんなかに入れ。ずっと後詰では神経が疲れようから」
「いえ、そのような――かしこまりました」
ほのかに心外そうなひびきを隠した、若い声をさいごに、再び天幕の垂れがおりる。
イシュトヴァーンは命令することにいかにも馴れきっているようなその声の主を、何となく見てみたくなってそっと首をのばした。天幕のあわせめからのぞいてやろうとそろそろと這い出す。昼ま見たときは高い崖の上からで、とうてい姿かたちまでは見わけられなかった。しかしその凛としたなかに何か傲慢なもののある声、物の云いかた、は何がなし、ヴァラキアの若い傭兵を苛立たせ、その顔とすがたをたしかめたい衝動をあおりたてたのである。
〈紅の傭兵〉はそろそろと身をおこし、天幕のあわせめを両側へひろげはじめた。中では低い話し声がしている。そのとき、
「あ――」
イシュトヴァーンは反射的に叫びかけて、あわてて口をおさえた。
手の上に、気味のわるいしろものがはりついていることに気づいたのだ。それはブヨブヨして、燐光をはなつ、いやらしい|砂 虫《サンドワーム》で、自分の吸いついたものがいくら吸っても血を吸いあげられぬほど固いことに腹を立てたらしく輪型にもちあがった厭らしい口をふりたてている。口の下にある小さな赤い目が、ドールの創った生物だけのもつ執拗な悪意をこめてイシュトヴァーンを見つめているようだ。
「ウワッ、気味が悪い」
それは砂虫としてはほとんどいま生まれおちたというほどの小ささであったから、まるで害はなかったが、その形のおぞましさとブヨブヨと小さいそれが生意気にもそのさかづき型の頭で威嚇するさまの不快さとに傭兵は反射的にそれを払いおとし、ぐしゃりと踏みつぶした。彼は魔戦士と仇名されるほどに怖れというものを知らなかったが、正直云うとナメクジやヒルのたぐいには少々弱かったのである。彼はぶるぶると身震いして、踏みつぶしたとき足裏に、ブーツをとおしてさえ伝わったぞっとする感触を払いのけようとした。
そのために少しばかり注意を怠たったのだ。
「誰だ!」
歩哨の鋭い声がひびき、こっちへやってくる気配に、彼はあわてふためいて、天幕の主をのぞこうという野心を放棄し、安全なあたりまで逃げのびた。
それ以上怪しまれたようでもなく、気のせいだろうと歩哨が決めて立ち去るのをじっと待つ。だが、いまのひと幕は無駄ではなかった。なぜなら、息をひそめて岩にはりついているときに、〈紅の傭兵〉は、求めていた手だてを、ふいと考えついたのである。
それはいささかぞっとしない案で、できれば彼もやりたくなかった。しかしそうも云っていられない。もうじきに東の空に太陽神ルアーのチャリオットが最初のひづめの音をきかせるだろう。
「畜生《ドール》」
彼は身ぶるいし、そしてつぶやいた。
「ことがうまく行ったら、おれは富裕の神イグレックの五万タッドの金袋にかけて、パロの双児から百万ランの身代金をふんだくってやるからな」
なおもぶつぶつと我身の不運を呪うことばを吐きながら、彼はいやいや目的のものを探しにノスフェラスの砂漠へあともどりしていったのである。
それから一ザンほどあとだった。
突然、どうやら夜が無事にすぎたと信じはじめていたモンゴールの騎士たちは、すさまじい絶叫にとびあがった。
「助けてくれ! |砂 虫《サンドワーム》だ、砂虫が追っかけてくる!」
「どこだ!」
「砂虫だぞ!」
たちまちに、夜営じゅうが蜂の巣をつついた大さわぎになる。青白くブヨブヨした、途方もない大きさの砂虫が、火など物ともせずに逃げ遅れた騎士をつかまえ、運のわるいいけにえをその吸血の口でからからにしてしまうのを見るにおよんで、大混乱と大恐慌は収拾がつかなくなった。
ノスフェラスの|砂 虫《サンドワーム》は荒野のいまわしい怪物の中でもことに始末がわるい。というのもこの下等生命には痛覚というものがないからで、巨大になれば人間三人分ほどにも及ぼうかというこのいやらしい妖蛆《クロウラー》は、突いても、身体を分断してしまっても、めちゃめちゃに押しつぶすかその原始的な脳を叩きつぶしてからだをずたずたにせぬかぎりいつまででも平気でくねくね動いているのである。
「助けてくれ!」
「天幕を守れ!」
悲鳴と叫喚があたりを埋めつくし、ウマはいなないて激しく足掻き、騎士たちはうろたえさわいで走りまわった。
「殿下、危のうございます。避難を!」
「大事ない。弩部隊を前へ! 私が指揮をとる!」
その恐慌のさなかで火は消えてくすぶり、その中で一見してゴーラのとわかる鎧をつけた兵が捕虜にかけよるのに、その鎧の色が赤と黒と異っていることに気づくものはいなかった。
一人だけ、かけよった傭兵が岩に縛った捕虜のナワをいきなり剣で断ち切ったのに文句を云おうとしたが、
「隊長の命令で安全な場所へ移す!」
蒼白な顔でそう叫ばれるとうなづいた。
「手伝うか?」
「ここはいい。それより早くあれを! 見ろ、また一人やられた!」
イシュトヴァーンの声はわなないていたが、彼は恐慌をよそおう必要もなかった。なぜなら、砂漠に砂虫の穴をさがしあて、わが身を餌としてここまでおびき出すあいだ、彼はほんとうに、心の底から恐慌にかられて全速力で走って走って走りぬいたのだから。
「糞! 本当に本当にもう二度と人助けなどせんぞ! ヤヌスの呪われた二本のそっ首にかけてな!」
何もいわず彼を見すえるグインのナワを切り、短剣を手わたしながらイシュトヴァーンは押し殺した声でわめいた。
双児もグインもひとことも云わず、ナワが切られ、かれらは自由になった。大混乱を呈しているキャンプの反対側へ目立たぬよう走り、イシュトヴァーンとグインがかけまわるウマをつかまえ、一人づつ双児を前にのせた。
「東だ」とグイン。
「ハイホー!」
傭兵がわめき、思いきりウマの横腹をけりつける。
ウマが気狂いのように疾駆しはじめたとき、
「捕虜が逃げたぞお!」
誰かの絶叫が背中から追いかけてきた!
[#改ページ]
[#改ページ]
第四話 イドの谷間
[#改ページ]
[#改ページ]
1
「大変だ!」
「捕虜が逃げた!」
「捕虜がウマを!」
モンゴールのキャンプの中に、うろたえた叫び声が交錯するのを、狂気の如くに疾走するウマの背にぴったりとしがみついたまま、必死の逃亡者たちは地獄の犬ガルムの咆哮のようにきいた。
「追え!」
「追うんだ!」
「ウマを出せ!」
アムネリスのひときわ高い叫び、そして砂虫を退治ようという剣のひびきにまじって、何とか隊列をとりまとめようとする隊長たちののどをからした指令の声がごく少しづつ、背中で遠のいてゆく。
二頭のウマはたてがみを、ノスフェラスの明け方の風にたなびかせて岩と岩のあいだを、東にむかってひた駆ける。東――〈ヤーンの目〉暁の星の光がうすれ、謎のカナンの山塊の上にいま太陽がさしそめようとする、自由と生命をかけた東の地平をめざして。
「ハイッ、ハイッ!」
イシュトヴァーンはくりかえしウマの腹をけりつけた。いまにもうしろから弩と怒号とがとびかい、長い手がのびてえりがみをひっつかんで引きずりおろされるような恐怖が抜けぬ。
グインは遙かに冷静だった。腰にしっかりとレムスをしがみつかせたまま、ウマをイシュトヴァーンのウマによせ、
「もうそれほど急がせるな。あまりせきたてるとウマが早く参って、かえってよくないぞ」
おちついた声で指摘する。イシュトヴァーンはリンダを前にのせたままふりかえった。
白と灰色の岩場に見えかくれして、朝日に照らし出されるモンゴールのキャンプは、すでに遠い幻影のように、それとも地にはりついた苔のように小さくなっていて、そしてこちらにむかってくる不吉な砂塵のかたまりもまだ認められぬことをたしかめ、ホッと低く息を吐き出す。
あとはただもう罵言と呪詛の洪水だった。
「ドールの火を吹く黒豚にかけて! その汚らわしい臭い泥にかけて! 二目と見られぬその飼主にかけて、おれは、おれはもう――もう二度と決して、おれは――」
「イ、イシュト――ヴァーン」
その猛烈な、恐しく品のわるい呪詛をまともに吐きかけられながら、リンダは泣くとも笑うとも、叫ぶともつかぬヒステリーのような声になってかわいい顔をくしゃくしゃにした。
「あ――ありがとう、そしてわたしをゆるしてね、〈紅の傭兵〉、わ、わたしはあなたのことを、ぬ――ぬ――ぬくぬくといまごろ眠っているなんて云っていたのよ。あ――あなたが|砂 虫《サンドワーム》に追っかけられているあいだに! わ――わたしをひとつぶってもいいわ……」
「お前をひっぱたいたら金貨でもくれるってのか」
イシュトヴァーンの機嫌は最悪だった。
「お前の感謝だってだ、パロの厄介な真珠め、おれはばかだよ、ぬけめのないヤーンのおんぼろの頭巾にかけてな、ひとつ、傭兵たるものただ働きはすべからず、というのは、戦場商売の最初の鉄則なのにな。その次は、ひとつ、傭兵たるもの、情に流されるべからず、というのだ。畜生、ありがとうなんて云うな、ありがとうなんか屁にもならねえや」
ウマを並べて走っていたグインは傭兵のこの、やんちゃ小僧めいた憤慨をきいた。
彼は何も云わなかったし、そもそも彼の豹頭は、にやりとして顔をほころばせる、などという芸当が不可能であったのだから、表面からはまったくそうとわからなかったが、丸い豹の頭の奥で、彼の黄色がかった険呑な目は輝き、おかしくてたまらないような光をたたえていた。彼には、傭兵が柄にもなく照れていることがわかったからである。
それにしても騒々しい照れかただな、とでも思ったのにちがいない。グインの目はユーモラスにまたたいた。
しかし、気の毒なリンダにはそんなことがわかるほどにはよく、男というものがわかっていない。せっかくの感謝とわびごとを、そんなふうにはねつけられて、パロの小女王はひどく気をわるくしてしまった。
「わたくしの前だけでも、そんな下品なことばをつかわないでいるよう、お願いしたいわ、ヴァラキアのイシュトヴァーン」
つんとすまし、ウマの首にしがみついてイシュトヴァーンの鞍にまたがっている恰好でできるかぎりの威厳をかきあつめて、リンダは冷やかに云った。
「それに、わたくしの感謝がそんなにあなたにとって値打ちのないものでしたら、受けとっていただくには及びませんことよ。そんなに、ただ働きをお嘆きになることはないわ。わたしたち、いまはこんなにも何ひとつもっていない逃亡者にすぎませんけど、もし万一、パロの王座が回復されるようなことがあればあなたにこの借りは十倍にしてお返しいたしますから。ですからあなたはご心配なさることはないわ」
「ちゃんと支払うというのだな」
ふくれつらで傭兵は云った。
「〈紅の傭兵〉の雇い賃は高いぞ」
「いかほどなりと」
「百万ランだ」
「それは、暴利じゃないの」
リンダは怒った。
「人の弱みにつけこんで――」
「それとも地位だ。どうだ、おれを、パロの諸侯の列に加えてくれんか」
「なんて図々しいことを!」
「いまやパロの聖王家の唯二人の継承者である、〈予言者〉リンダと世継の王子レムスが、仇敵ゴーラの手で拷問されたうえ、高い処刑台にかけられる運命から救ってやったのだぞ!」
「わかったわ。では約束します、わたしたちがぶじにパロを再建できたら、クリスタル・パレスの聖騎士隊長に任ずることを」
「万が一にもありえないお伽話だからと安心して空手形を乱発すると、あとで困るかもしれんぞ」
イシュトヴァーンはむきになって王女に念を押し、その結果彼がひそかにパロの再興をかなりあてにしている内心の勘定をさらけ出してしまった。
リンダは少しも気づかずに、
「パロの聖王家の人間には一言はありません、ヴァラキアのイシュトヴァーン」
「クリスタル・パレスの聖騎士侯にするのだな」
「そうよ」
「むろん、百万といわぬまでも、相場だけの代金も払えよ、それとは別にさ」
「わかってるわ」
「よかろう」
イシュトヴァーンは、ミルクをなめた猫のようににんまりと舌なめずりをした。その黒い生き生きとした目に、何やらけしからぬことを思いついた、たちのよくないきらめきがやどる。
「ところで――」
彼は満悦のていで云った。
「いまのは、さっきもモンゴールの追手からお前と弟を助けたぶんだぞ。ところがおれたちはまだ安全になったわけではなく、うしろから追手もかかろうし、このさき幾ヶ月かかるかわからん困難な旅をしてノスフェラスをぬけてゆかねばならんし、おまけにそのさきには謎と伝説にみちた古代山脈カナンの地がひろがっているときている。
どうだ、もし、おれがそれらの困難をみな何とかのりこえて、お前たちをアルゴスなりケイロニアへ無事に到着させてやったとしたら、そのときは、報酬には、何を寄越す?」
「さあ、それは――」
「さっきの働きがクリスタル・パレスの聖騎士侯という相場を忘れるなよ」
ずるそうにイシュトヴァーンは念をおした。
「それしだいで、おれは何しろ雇ってくれれば否やの云えぬ傭兵稼業だ。四の五のいわずに剣をあんたに捧げ、契約破棄か、更改までは、あんたと弟のために忠誠をつくすことを誓ってもいいんだぞ」
「そう云われたって、わたしたちは、国もない王位継承者だし」
リンダは口ごもった。イシュトヴァーンは舌なめずりをした。
「どうだい、とりあえず――あんたの左に並ぶクリスタル公にしてくれるってことではさ!」
云うと同時に、身を二つに折って笑い出したので、あわや鞍からころげおちるところだった。
「まあッ!」
正直なリンダは、たちまち顔を真赤にそめて、
「なんてことを! クリスタル公ですって! そ、それはわたしが万一王座につくときの夫にして摂政役、王位の第三継承者たる諸侯中の諸侯だと、まさか知って云ってるんではないんでしょうね、ヴァラキアのイシュトヴァーン!」
「ちゃんとパロを再興に力をかしてやったら、それでも、おれと結婚するのはイヤなのかね、王女さま?」
イシュトヴァーンはあえぎあえぎ云い、なおも狂ったように笑いこけた。ふとまじめなおももちになって、
「おれは、まんざら醜男ってわけでもない――と、思っているんだがな」
云うなり、また笑い出す。
リンダはとうとう口もきけないくらい怒ってしまった。
「お――おろしてよ! いますぐ、ウマからおろして! こんな無礼者に勝手なことの限りを云わせて、パロの王女を侮辱させておかねばならぬくらいなら、ノスフェラスの砂虫の餌になった方がマシだわ! さっさとウマをとめてよ!」
「二人とも、何を子供じみたことを云ってる」
グインがこらえかねて吠えるような笑い声をたててたしなめた。しかし、こんどはイシュトヴァーンが気を悪くしてしまった。
「ああ、そうか。じゃ王女にとっては、おれが王女と結婚するなぞという考えをおこすのは、パロ王家に対する侮辱以外のものではないってわけだな。おれがヴァラキアの貧しい漁師のせがれで、足のつまさきに泥をくっつけて生まれてきた卑しい馬の骨で、おまけに四つの年から戦場稼ぎのこそ泥をして何とか生きのびてきたような悪党だからというんだな。ああ――わかったよ! よかろう、王女さまを侮辱してしまったお詫びをしようじゃないか! そのかわり、いいか、おれは掌に玉を握って生まれてきたので、取りあげばばあの魔女はいつの日かおれがどこかの王国の王になるだろうと予言したのだ。そしていつかおれの前にあらわれる〈光の公女〉がおれに王国と――そして闇とを与えてくれるだろう、とな。
いいか、おれは忘れんぞ。もしおれが王になったあかつきには、お前――パロの小女王がおれの讃美を侮辱ととったことを……」
「わたしは何も――」
「さあ、もういい加減にしろ」
グインが舌打ちして、際限のないふたりの口論を打ち切らせた。
「イシュトヴァーン、リンダはまだ子どもなのだぞ。むきになってみたところで仕方ないだろうが」
たしなめながらも、頭の中では、そういうイシュトヴァーンの方もまだ充分に子どもなのだとでも思って苦笑するふうだ。リンダは憤慨の目で、もうすっかり明けそめて再び暑い一日が訪れてきそうなきざしの見えているノーマンズランドの荒野を見やった。
空はスミレと青をつきまぜたけだるい色あいにかすみ、白茶けた岩々とそこにはりついた地苔類だけがどこまでもつづく荒野を、ほの白い糸のようなエンゼル・ヘアーがふわふわと飛んでは宙にとける。
その荒涼たる光景はふいにリンダに忘れていたあることを思い出させ、彼女は憤慨していたことも忘れて首をねじってイシュトヴァーンをふりかえった。
「そうだ! スニは――スニはいったいどうしたの! あなたまさか、本当にたべてしまったり……」
「冗談いうな」
イシュトヴァーンはまだ機嫌を直していない。
「あんなやせこけた、くさいサルをくったところで――あのサルはな、お前たちがゴーラの手におちると見るより早く、とんで逃げちまったよ。嬉しそうにはねて岩場の向こうへいっちまった。けしからん、恩知らずのサルじゃないか――どうせ、畜生だから、しかたないがな」
「スニが?」
リンダはショックをうけたようだった。思ったよりずっと、彼女はスタフォロス城の塔の小部屋で出会ってから、さまざまな困難を共にするあいだに、その小さい忠実な、毛皮をきた友達の忠誠になぐさめを見出していたことに気づいたのである。
云い返すすべもなく、リンダは口をつぐみ、黙ってウマの背に揺られつづけた。しかしそのスミレ色の瞳には傭兵への不信と反抗が宿り、そのまつげには哀しみが宿っていた。それ以上、口をきくものもなく、ノスフェラスの荒野はどこまでもつづき、そしてウマのひづめの音だけが、無人の岩場にこだましているのだった。
ウマは進んだ。
最初にそれを見つけたのはグインである。
「――見ろ」
おちついた声で云い、うしろをふりむいてみせた。何ごとかと皆はふりむき、そして、青ざめた。
西の方角に、小さなひとかたまりの砂塵がある。
「追手だ」
イシュトヴァーンがシュッというような息の音をたてて云う。
「ああ」
「ついに追いついてきやがったか。スタートで水をあけたにしろ、このままですんでは話がうますぎると思っていたんだ」
「ああ」
そのあいだにも砂塵は見ている前でどんどん大きく育った。かれらのウマはそろそろ疲れはじめるころあいだった。
おまけにそれぞれ、軽いとはいえパロの双児という余分な荷をものせている。しばらくのあいだにかれらの行く速度はずっと落ち、かれらが口論にかまけているあいだに怒りにもえた追手の一隊の方は着々としずかに間合いをつめていたのだ。
しばらくのあいだ誰も口をきかなかった。
ややあって、イシュトヴァーンがけだるげに、
「で、どうする、グイン」
「そうだな」
グインは厚い肩をすくめた。
「お前の考えをきこう」
「隠れるのさ! 逃げも、戦いもできねえなら、他にゃないよ!」
「かくれんぼうか」
グインは考えるふうだったが、
「だが、いつまでもつかな」
「だめだよ、かれらはあきらめやしないのだもの! どうせ糧食もぼくたちはなくてかれらはあるし、かれらはただ辛抱づよくさがして、待てばいいんだもの」とレムス。
「誰もお前にきいてやしねえぞ、餓鬼」
イシュトヴァーンはとげとげしく云った。
「じゃあお前は他にいい考えがあるってのか、化けもの」
「いい考えなどはないが」
グインは重々しく、妙に託宣めいて云った。
「じゃ何だ」
「ただ、お前は逃げも戦いもできぬといったが、おれは、そんなこともないだろうと考えている」
「戦うのか! ルアーの炎の剣にかけて!」
呆れてイシュトヴァーンは叫び、目をこらして、まだ遠いけれども確実に間をつめてくる兵たちを見やった。
「何小隊か、見わけられんか、〈紅の傭兵〉」
「むろん――このおれの目は一タッド先の木の上のバルト鳥だって……一個中隊はいるな、どう少なく見つもっても。先頭に白いよろいが二騎、あとは赤だ」
「一個中隊か」
グインは考えに沈む。
「もしかしたら、それに加えて二個小隊くらいは」
「少し、しんどいが」
グインはゆっくりした口調で云った。
「まあ何とかやってみよう。イシュトヴァーン、この辺の地理はわかるまいな」
「自慢じゃないが皆目わからん」
「いいか――まっすぐ東の方向、あそこに昼でも不吉に黒く見えているのがかのカナン、伝説の古代山脈」
「そのぐらいは知ってらあ」
「ひといきにカナンまでかけとおすのはとうていムリだが、スニの云っていたラク族の村はここからほど遠からぬはずだ。スニの云うにはその村は『カナンの犬の首が左に指一本に見えるところ』にあるという」
「な――なんだ、そりゃあ!」
「見るがいい、カナンの最も左側に山が見えよう。すなわちカナンの最高峯、フェラスの霊峯だが、この山は西側から見ると犬の首に似ているのでまたの名を狗頭山《ドッグ・ヘッド》ともいう」
「……」
「いまはその頭半分が見えているだけだが、こうして――」
グインは手をまっすぐのばし、人さし指をたててみせた。
「片目をとじて、指の長さと山のシルエットの高さが一致するところまで走るのだ。そこから半径一タッドの円のどこかに、必ずやラクの村落がある」
「……」
グインはふりかえり、今はもう砂塵の中に騎士のひとりひとりが見わけられるまでになった追手との距離をはかった。
「一頭のウマに三人では速度が出なかろうが何とかやってみてくれ」
これですべて説明がすんだ、とでもいうように云う。
「え?」
イシュトヴァーンはわからぬような顔をした。その黒い、アンズ型の、キタイ美人のような目が丸くなる。
「おい、豹あたま」
「それとすまんが俺のはとりあげられてしまった。お前の剣をかしてくれ、傭兵」
「おい、おい――」
「だめよそんな! グイン!」
傭兵とリンダが同時に叫んだ。
「大丈夫だ。食いとめる方法はいろいろと知っている」
グインはちょっと笑い声をたて、
「おい、子供たち、ことによると〈紅の傭兵〉の云うとおり、俺の生まれ故郷はこのノスフェラスかもしれんぞ。なぜなら、この荒れはてた地のことを、その生物、その地理、これ以上はない、というほど詳しくこころえていることに、俺は今気づいたからな」
「そんなこと、ダメよ。わたしがさせないわ! そこまであなたに犠牲的な献身をさせる権利はわたしたちにはない――」
「行かんか!」
グインは苛立ったようだった。やにわにレムスの腰をひっつかみ、あわててしがみつく王子の手をかるくひきはがして、イシュトヴァーン目がけて乱暴にも投げつける。危いところで傭兵はうけとめ、鞍のうしろにのせ直した。
「グイン、だめ――!」
「いけないよ、グイン――」
双児が悲鳴のような声をあげるのにはかまわず手をさし出す。こころえて傭兵は鞘ごと腰の剣をひきぬき、投げる。
豹頭の戦士の逞しい手ががっしりと大剣をうけとめた。
「グイン――!」
「心配するな。あとからスニの村に行く」
戦士の不敵な、吠えるような笑い声!
その間に、モンゴールの追手はいまやまぼろしの中からぬけ出してきたかのように、その姿を明らかにしはじめていた!
いまはもう、かれらの鎧の金具が剣にふれて鳴る音、そして
「おーい、おーい」
「待つのだ、そこの者、止まれ。さもないと弩で――」
口々に叫ぶ威嚇と恫喝の大声さえも風にのってはっきりときこえてくるのである。
「よし、行け」
グインは云って、剣をただ一度、力強く振ってみせる。
「ラクの村で会おう!」
「よーし、ラクの村だな。犬の首が指一本だな!」
イシュトヴァーンは叫び、目をキラキラさせて、ウマの横腹をけりつけようとした。その足にリンダがしがみついた。
「ダメよ、いや! お願い!」
「ハイホー! このガキどもを何とかしてくれ!」
イシュトヴァーンがわめく。グインはウマをよせてゆくと剣をふりあげて鞘で思いきり、イシュトヴァーンのウマの尻を叩く。
疲れきったウマは、この虐待にびっくりした。さいごの力をふりしぼって走り出す。
「ラクの村だ。東へ三タッドだぞ!」
グインは叫ぶや、もうそちらには目もくれずにウマの向きをかえた。
「止まれ、止まれ!」
「脱走者、止まれ!」
「撃つぞ!」
追跡隊の叫びがいまやもう弩の石弾のようにふりかかってくる。グインはウマの背で、片手に手綱をつかんだなりで口に剣の鞘をくわえてひきぬき、鞘をすてた。
「豹人、待て!」
「抵抗しなければ殺しはせん、投降せよ!」
あびせかけられる叫びなど、風のうなり、エンゼル・ヘアーほどにも感じぬようすで、
「さて――どうしたものかな。このあたりに|砂 虫《サンドワーム》か、|大食らい《ビッグイーター》の群生地があれば話は早いのだが――」
えい。面倒くさい、一本の剣で血路をひらくか――と、さすがに二百の騎馬が訓練のゆきとどいた散開ぶりをみせるのへ舌打ちして目をむけたが、そのとき、
「グイン!」
うしろで走りよってくるひづめの音と呼びかけをきいて、
「馬鹿者! なぜ戻ってきた」
ぴしりと鞭のような声で怒鳴る。ふりむいた彼の目が青白い激怒に燃えあがる。
「グイン――だめだ」
イシュトヴァーンはたじろいで云った。
「あれを……」
そのふるえる手が上がり、東の方角を指さす。リンダとレムスは傭兵の鞍にしがみつき、くちびるまで青ざめてすがるようにグインを見つめている。
グインの目から厳しい瞋恚の炎が消え、彼は頭をゆっくりとまわしてかれらの指さすほうを見やった。
そして、見た。
東の地平――かれらにただひとつの生命と自由を約束するはずだった東方角からこちらへ、ゆっくりと、しかし着実に近づいてくるひとかたまりの砂塵を。
「はさみうちにしやがったんだ――」
〈紅の傭兵〉が力ない声でいう。
グインの咽喉から凄惨な唸り声が洩れた。
ただ一度。
[#改ページ]
2
左右から、砂塵はゆっくりと、そのまんなかにある無力な獲物をのみこもうとするふたつのあぎとのように、その間をせばめつつある。
「グイン――おしまいね」
リンダが小さな声でいう。その目にはうっすらと涙がうかんでいる。
「また連れ戻される――こんどこそ逃げられない。トーラスへつれてゆかれ、処刑されるのね。トーラスの悪魔たちが、パロ王家のさいごのふたりに、ふさわしい安らかな最期を与えて名誉をまっとうさせてくれるほど、誇りというものを持っていてくれればいいんだけど。
でも、わたしとレムスはさいごの息をひきとる瞬間まで忘れないわ。グイン、あなたが自分の身をたてにして、国をおわれたわたしたちに生きのびさせようと戦ってくれたこと――他に、してくれたいくつものことも。
それに、イシュトヴァーン」
リンダはふりむいた。スミレ色の目が、おどろいたように見はられた黒曜石の目とぶつかりあう。
「どうもありがとう――ほんとうに有難う、生命をかけてわたしたちをモンゴールの天幕から救って下さって。わたしたち、約束した報酬を何ひとつあげることができなくて悲しいわ。あなたならきっと、聖騎士侯の毛皮のふちつきの胴着がすごく似合ったのでしょうに。何をどう云いくるめても、何をしてもいいから、せめてあなただけは無事に生きのびてね。お願いよ」
イシュトヴァーンはふいに非常にあわてたようすでぱちぱちとまばたきをし、そして、「おれはなにも――」とか何とか、口のなかでもごもご云い出した。
だが、それをさえぎったのはグインのきっぱりとした声だった。
「いいか、希望をすてるな。たしか、パロの子供たちよ、お前たちには前も云ったはずだ。さいごのさいごまで、希望をすてるな、そして戦うのだ。剣をとってでなくてもいい、戦うことだけはあきらめるな!」
「で、でも――」
レムスがあえいで何か云いかける。
そのときだ。
「待て」
ふいに、イシュトヴァーンの異様な緊張した声がそのことばをさえぎったのである。
「待て! 何だか……何かがおかしいぞ!」
「何が……」
「あの――あの一隊は!」
つづく一瞬、双児たちは、ヴァラキアの戦士がついに絶望のあまり発狂したかと思いこんでしまうところだった。
やにわに、うちしおれていた傭兵が、鞍つぼではねあがり、身を折るようにして笑いころげはじめたからである。
「イシュトヴァーン!」
リンダが叫ぶ。グインの目がやにわに細められる。
「そ、そうか! そうだったのか! こ、こいつあ――こいつあ……」
イシュトヴァーンはあえぎあえぎ叫び、まっ黒な絶望から狂おしい希望へと突然にとびうつりながら狂気のように鞍つぼを叩いた。
「あッ!」
ふいに、グインの口からも、狂ったような叫びが洩れる。
「グイン! いったい――」
「スニだ!」
というのが、グインのほえるような答えだった。
「おい、走れ――いいから鞍に身をふせて、うしろから奴らが弩を射ってきても、運を天に任せて、死んでも走れ、東へ!」
「ハイホー!」
きくより早くイシュトヴァーンの足がウマの腹を蹴る。
「しっかり、つかまってなよ、ガキども!」
「ス――スニって……スニが何……」
まだリンダは理解していない。イシュトヴァーンは、さっきひきかえした、砂塵の方角へ、狂ったようにウマをあおりたてて走らせながら叫ぶように、
「スニがセム族の戦士をつれて助けに戻ってくれたのさ! ハッ、きわどいところだったぜ! ほんとにこいつは、|大 口《ビッグマウス》の口よりもっと、きわどいところだったぜ!」
「まあ、スニ!」
云ったきり、リンダは何も云えなくなってしまった。
いまは鞍の前でウマの首にしがみついたリンダにも、イシュトヴァーンの腰にしがみついたレムスにも、砂塵をけたてて進んでくる一軍がはっきりとみえる。それがずっと遠くにあるように見えつづけたのは、それがゴーラ兵の半分ほどしかないセム族で、しかも徒歩《かち》立ちであるせいだったのだ。イシュトヴァーンは倒れる直前のウマを再び蹴った。
セムの大軍――顔に丹《に》をぬりつけ、背に皮製のやなぐいとつるで作った弓、そして毒をぬりつけた短い矢を背負い、奇怪な毛皮と鳥の羽根で身を飾った、小さな兵士たちの群れ。
その先頭に――小さな姿がはねあがり、ころがるようにこちらへかけてくる!
「スニ!!」
リンダは絶叫し、やにわに身軽にウマからとびおりた。下の砂地にがくりとひざをついたが再びたちまちはね起きて走る。砂は足をめりこませ、岩に足をとられるのもかまってはいない。
「リーンダ!」
スニも叫んだ。その小さい、猿のような忠実な顔がくしゃくしゃになり、涙で汚れている。
「スニッ!」
うしろから、モンゴール兵の弩がぴしぴしと砂地にあたってほこりをたてたがかまうものはいなかった。リンダのさしのべた手がついにスニの小さな毛むくじゃらの手にとどき――そして、二人の少女はひしと抱きしめあって砂地に倒れた!
「おお、スニ、スニ、スニ……」
「リンダ、リンダ!」
互いの名を激しくしゃくりあげながら呼びかわすほかは何ひとつしゃべることもできない。種族も違えば外見も、育ってきた環境も、これ以上ちがうことは考えられないくらいなふたりではあったが、どちらもまだ若いふたりの少女はノスフェラスの砂地できつく抱きしめあって、互いをどれほど愛し、一方は一方を崇拝し、もう一方はあつい友情を抱いているかを発見したのである。ことばさえ通じはせぬままでも、心を通わせることはできるのだった。
「スニ――ああ、スニ、ありがとう、スニ、小さな友達!」
リンダはスニの清潔な小さな頭に頬をおしつけてむせび泣いた。
「アルラ、アルフェ、イーミル、アル、エラートゥ!!」
スニは昂奮したようすで云って身をおこし、うしろの大部隊を指さす。そのときイシュトヴァーンが、ついにあぶくを吹いて足をがくりと折ってしまったウマからとびおり、レムスと共にかけよってきた。
「ひの、ふの、み――と、およそのところで三百ってとこだな。モンゴール兵が二百、まあおれとグインがいりゃあ、これでも何とかなるだろう」
もう平然と、まるでセムの援軍を得たのは自分の手柄ででもあるかのように歯をむき出して笑いながら云う。
「高貴なおかたよ」
突然呼びかけられてリンダはぴくりとした。
スニが、リンダからはなれて、嬉しそうにその小さなセム族を指さす。一見して位が高い――おそらくは族長であろう――とわかるそのセム族は、かなりの年とみえて、あちこちの毛が白くなり、そしてたどたどしくてほとんど抑揚がないものの、ちゃんとリンダたちにも通じることばをしゃべれた。
「わが部族のむすめをお助けいただいたお礼――あのものたちを、打ちはたし、われらの村落へご滞在いただきたく――」
「まあ――わたしは……」
「私は、ラクの大族長でロトーというものであります」
誰に教わったのか、たどたどしい中原のことばは丁寧だった。
「とりあえず後詰へ入ってお休み下され」
「わたしはパロの予言者にして小女王、リンダ。こちらは弟にしてパロの唯一の正統の世継なるレムス。ヴァラキアのイシュトヴァーン、わたしたちの味方。歓迎を心から感謝してお受けいたします」
クリスタル・パレスの完璧な礼儀作法でもってリンダは片膝をつき、セムの大族長の手をとって礼をした。
「おい、おい! のんびり宮廷ごっこなんざ、サルとやってる場合かよ!」
たまりかねたようなイシュトヴァーンの大声。
「見てみろよ! 伝説のシレノスの二枚刃の剣にかけて、豹あたまはひとりでモンゴール二百の騎士をあいてに暴れはじめているんだぞ!」
リンダたちは我に返って見やった。
そして息をのむ。
そこには早くも、凄まじい戦いが展開されていたのだ。スニとの再会にかまけて、リンダたちは、グインが彼のウマのこうべをめぐらして、彼女たちのあとからセムの都隊の方へ逃れては来なかったことに気づかずにいた。
そうするかわりに、グインはウマをかけさせて、右手に大剣をたかだかとかざし、豹の戦いの咆哮もろともにただ一騎モンゴール二百の精鋭のまっただなかへ駆け入ったのである!
「ウワーッ!」
「戦え、戦え! 敵は一騎だぞ!」
「弩をうつな。味方にあたるぞ!」
モンゴール軍はただ一騎、まるで錐のようにもみこんでくる戦士をうけとめかね、その鬼神の勢いをおそれて、いったん左右にひらいたが、たちまち秀麗なアストリアス隊長は赤い軍配をふりあげて叫びつづけ、兵をとりまとめた。
グインの大剣が縦横に騎士たちをなぎたおし、ウマの上からふっとばし、地に這わせる。
「できることなら生けどりにしたい。弩はうつな!」
アストリアスは苛立ちながらわめいた。生きたまま連れ帰れ、という公女の厳命がなければ手心を加えずともよいものを、と馬上でひとりほぞを噛む思いである。その両脇に二騎の白騎士、すなわちサイムとフェルドリックが目付役についているのでなかったら、たとえ公女の命があっても、抵抗したからと申しひらくことにして、「殺せ!」と絶叫をはりあげているところだったろう。
ただ一騎とは云いながら、その一騎がモンゴールの十騎ほどにもあたるのだ。血をあび、雄叫びをあげて、伝説のシレノスが剣をふるうところ、必ずそこには断末魔の絶叫と血しぶきとが舞いおこり、ウマは足を払われてどうと倒れ、さしも勇猛を誇る赤騎士たちはたじろいで先をゆずりあう。
それはいっそう、若いアストリアスの心を憤激させた。
「えい、退がるな。敵は一騎だ、おっとりかこんで取りこめろ」
だが、アストリアスのその怒りにみちた叫びのうちに、また一騎、これは徒歩《かち》で戦さの場へとかけ入ってきた、面頬をおろした黒づくめの鎧の戦士が、
「助太刀するぞ!」
叫んで、最初の騎士にとびかかるなりウマからひきずりおとして短刀でとどめをさした。黒ヒョウのように敏捷にその剣をうばうなりそのウマにとびのり、たちまちにこちらも獅子奮迅の戦いぶりをくりひろげる。
「グイン、無事かよ!」
「おお」
二人の狂戦士は二百の騎士どものなかで、左右に剣を舞わせながらたくみにウマを操って近づき、ついにぴたりと背中あわせになった。
「グイン!」
「ああ!」
「お前と並んで戦うのははじめてだな!」
「ああ」
わずか二騎に精鋭たちはかくらんされ、おしよせる波のようなかれらの前でたじたじとなる。
そして――そこへ雲霞《うんか》のように、セムの大部隊が奇声を発しながら丘をようやくかけおりてきた!
「アイー、アイー、アイー!」
「イー、イーッ!」
「セムだあ!」
「セム族の迎撃だ!」
たちまち、モンゴール隊の中に動揺がひろがる。
とみて、ついに、指揮官としてうしろにさがっていたアストリアスは我慢も何もならなくなった。
「モンゴールのために!」
のどもさけよと声をはりあげるなり、彼のうちまたがる鹿毛《かげ》の駿馬の腹にぴしりとひと鞭くれて、自ら戦いに加わらんものとまっしぐらに走り出す。傍につくサイムとフェルドリックがひきとめるいとまもなかった。
それはさながら、二頭の巨大な|砂 虫《サンドワーム》が、左右から近づき、いとわしい唸りをあげ、そしてついに激突してあとはただ死力の限りをつくしてもつれあうさまに似ていた。というよりも、巨大で赤い砂虫を、白茶けた獰猛なオオサバクアリの大群がびっしりと埋めつくしておそうさま、と云おうか。
セムの猿人たちはウマとウマとのあいだをかけぬけ、毒矢を吹いてはたくみに、鎧からあらわれているごくわずかな弱点、すなわち目だの、のどだのに射あてた。騎士たちはそのたびに絶叫してウマからころがりおち、するとたちまち猿人たちがむらがり寄ってその息の根をとめた。
むろんアストリアスをはじめとする、モンゴールの勇者たちの剣も数知れぬセム族の首をはね、上から切りおろし、切りさげる。しかしセム族は、一人の肩にいまひとりがその小さい足をかけ、さらにそれを踏み台として仲間にかけのぼったものが上からウマにとびおりる、というチームワークにまかせての戦法で身長の不利をおぎない、鎧に守られているのでかえってふところにとびこまれると動きのとれない騎士たちの胸もとに、ダニのようにもぐりこみ、はりついた。
それはルアーの赤いチャリオットほどの高みから見たならば、おそらくは白と茶色のノスフェラスの荒野をよごす、生きてうごめく血の色のしみ、息づかいをするようにのびちぢみするアメーバのさまとも見えたにちがいない。雄叫び、絶叫、そして阿鼻叫喚はさいげんもなくつづき、
「アル、アルラ、アルフェットゥ!」
「イーイーイーッ!」
「モンゴールのために!」
「モンゴールのために! セムをほふれ!」
舌ももつれんばかりのときの声ももはや切れぎれになってゆく。
と、見て――
「フェルドリック!」
ずるく立ちまわってうしろへさがっていた、白騎士のサイムが同僚へささやいた。
「どうやらこれはわが軍不利と見たが?」
「いかにも。敵は数でまさるだけでなく、その切り込み隊長にあの二騎の勇士をもつことで気力を充実させている」
「豹人め恐しい剣士だな!」
「豹人もさることながら、あのいまひとりの黒い戦士、どうもあの鎧は、紋章こそないもののゴーラのものに見えるのだが」
「だとすれば裏切者だ。ゆゆしいことだ」
「おっとっと――危い」
フェルドリックはたまたまこちらへつっかかって来ようとしたセム族を、鞭で左右へはねとばして、
「ともかくこれでアムネリス様の恐れがどうやらまことであったことがたしかめられた。あのセム族はパロの遺児を救うべくあらわれたのだ。パロはセムと組んでいる」
「となるとこれは、ゆゆしき危機だな、モンゴールの」
「いかにも。われらは早速かけもどり、事のしだいを姫君に報告しよう」
「しかしアストリアスが――?」
「やむを得ん、モンゴールの命運がかかっているかもしれんのだ」
フェルドリックとサイムは顔をみあわせ、一回うなづきあうなり、くるりと馬首を西へむけかえた。
「ハイッ!」
鞭があがる。
剣と血との戦いのさなかで、二騎の白騎士が戦場を放棄しようとしていることに気づいたのは豹頭の戦士だった。
「待て! やらぬ!」
たちまちに二騎の意図に心づいて、グインはおめき、むらがりよせる赤騎士をけちらして、二人を追おうと突進した。
「傭兵! きゃつらを行かせるな、援軍を要請するつもりだぞ!」
「心得た!」
イシュトヴァーンもウマをかけさせてグインに従った。が、周囲にむらがる必死のモンゴール兵を、間にあうほどに早くは片をつけられぬ、と見てとるや、ヴァラキアふうに剣をもちあげ、片腕を肩のうしろへひき、投げ槍の要領で投げつけた。
狙いはあやまたず、大剣はあとを走るサイムの白馬の尻にふかぶかとつきささる。ウマがはねあがり、サイムは宙を舞って岩に叩きつけられた。
イシュトヴァーンが走りよってとどめをさす。フェルドリックは盟友のさいごを、ふりむいて確認しようとさえしなかった。みるみるウマをかりたて、あおりたててその姿はケス河の彼方アルヴォン城めざして小さくなってゆく。
「いま一人!」
サイムの死を見とどけて、イシュトヴァーンがフェルドリックに追いすがろうとしたときだ。
「俺が相手だ!」
たぶんイシュトヴァーンと年の頃も背恰好もほぼ同じ、おまけにかぶとの下からのぞく黒い髪と輝く黒い目までもどうやらどこか似ている赤騎±の一騎がやにわにウマをかけさせて、フェルドリックとイシュトヴァーンのあいだに立ちはだかった。
「邪魔だ、どけ、雑兵!」
「おれは追撃隊長アストリアスだ! きさまも名のれ、ゴーラの鎧をつけながら蛮族にみかたする裏切者!」
「なに? アストリアスだって? 〈ゴーラの赤い獅子〉アストリアスその人か?」
イシュトヴァーンはあわてていっそう深く面頬をひきさげた下から、あいてをねめつけた。若々[#底本「若若」修正]しくハンサムな顔、それは彼自身と同じようにひきしまって浅黒く、そして生き生きした黒い目と短い黒髪をそなえ、面頬をおろして同じなりをしていれば、もしかしたら二人は見わけがつかなかったかもしれない。
しかし赤の鎧、中隊長のかぶとをつけたあいての顔には、イシュトヴァーンのもちあわせておらぬ、貴族の品位といちずな忠誠の炎とが漂っており、それが、ぬけめのない目と皮肉にゆがんだ口もととをもつヴァラキア生まれの傭兵をしてあいてを気にくわぬやつと感じさせた。
「アストリアス! よし、きさまの首を貰ったぞ!」
叫ぶなり、もう砂塵の彼方へかけ去ってしまったフェルドリックのことはすっかり忘れて、イシュトヴァーンは剣をにぎり直し、若い貴族めがけて突進した。
「おおよ!」
若い勇士は得たりとこたえて抜きあわせる。ウマのかけちがいざまに、互いによく似た若者の剣ががっきとぶつかりあい、青い火花を散らせる。
かけぬけて馬首をめぐらしざま、二度、三度かれらは切りむすんだ。だが、イシュトヴァーンの顔からわずかに血の気が引く――戦場を生きのびるために自力で習い覚えた、無手勝流のイシュトヴァーンの剣法、トーラス宮廷きっての教師に、幼い頃からみっちりと叩きこまれたアストリアスの剣、互いにほとんど腕に遜色はなかったが、他の条件がすべて伯仲しているときには、正規は必ずや、いつか邪道をしのぐのである。
二合、三合と打ちあううちに、ヴァラキアの海賊は、目にみえて不利を意識しはじめた。ぶっつづけの冒険につぐ冒険で、へとへとに疲れてもいた。
手は汗ですべりはじめ、アストリアスの剣をうけとめるたびに、腕から肩にまで、しびれが走りはじめる。
「どうした、そんなことでアルヴォンの獅子の首がとれるか!」
アストリアスは反対に自らの優位を確信しはじめた。もっとも周囲をみれば優位どころか、いまやセムたちが七割がた、モンゴール軍を圧倒しつつあることに、ただちに気づかずにはいられなかったはずなのだが――そこは、アストリアスとていまだ二十になるならず、勇士の名をゴーラじゅうにひびかせているとはいいながら、指揮官の責務よりはおのれの戦いに気をとられるには充分なくらいに若すぎたのである。
「名を名のれ。おれの剣は、名もなき雑兵ばらのためのものではない。名を名のれ、卑怯者」
勝ち誇ってアストリアスは叫んだ。
「グイン! グイン!」
イシュトヴァーンは、ところで四つのときから戦場稼ぎに生活の糧をえてきて、この手の騎士的正義や誇りなどにはこれっぽっちもしんしゃくのない現実派である。かなわぬ、と見るや大声で助けを求める。
豹頭の戦士の周囲には、もうあえて立ちむかおうというものはなくなっている。グインはウマをかって近づいた。イシュトヴァーンはありがたいとばかり、あたふたとそのうしろへ逃げこんでしまう。
「おのれ、新手《あらて》とは卑怯な!」
叫んでアストリアスは立ちむかったが、こんどは先刻とは逆になった。
グインの力、技倆、体力、そのすべてが青年将校を桁はずれに上まわっていたのだ。アストリアスは二合とは持たなかった。剣をはねとばされ、落馬した上へ、グインの巨躯がはねおりておさえつける。
のどもとに剣をさしつけられてアストリアスは喘いだ。
「殺せ。早く刺せ!」
屈辱に頬をそめてうめく。グインは剣をつきつけたまま、その若々しい誠実な顔をじっと見おろす。
「ゴーラに災いをもたらす悪魔の化身め! 早くアルヴォンきっての勇士を殺せ!」
アストリアスは悲痛な声をあげ、うしろで傭兵が望みどおりにしてやれとわめきたてる。
それにはかまいもせず、
「俺の名はグイン」
豹頭の戦士は重々しく云った。
「モンゴールのはねかえり公女に伝えるがいい。平和に暮しているノスフェラスの蛮族と怪物どもに手出しをするな、さもなければ俺はモンゴールの永遠の敵となる――と」
そして剣をひき、アストリアスを助けおこしてうしろへさがる。
青年は呆気にとられて怪人を見つめていた。相手が絶対的優位にいながら傷ひとつ負わせることなく彼を釈放したのが信じられぬのだ。のど[#「のど」に傍点]に手をあて、惨めな敗北感に目を伏せながら、よろよろとウマまで逃れ去ってゆく。
やがて、「退《ひ》け――退却!」
かすれ声で、アストリアスが屈辱の命令を下したとき、それに従って何とか集まることのできたゴーラ兵は、わずか五十足らずだった。
[#改ページ]
3
それは若きアルヴォンの獅子、アストリアス隊長にとって終生忘れることのできぬ屈辱の敗走であったのである。
貴族の家柄に生まれ、十五の初陣以来数々の手柄をたて、「ゴーラの若き獅子」の異名までも得たアストリアス、いずれは父のあとをついで伯爵となり、トーラスを守るべき彼が、いかに数の上で多少優勢であったとはいえ、かれらの半分もないような小人族、おまけに弩さえも知らぬ未開の蛮族たるセムに一方的に追いまくられ、兵をとりまとめて蒼煌としておちのびてゆくのだ。
かぶとの下でアストリアスの端正な顔は紙よりも蒼白となり、彼はくちびるをかみしめて、いくどとなく鞍を拳でいやというほど撲りつけた。しかし、ここでセムの手にかかって果てるのはあまりにも、モンゴール貴族の誇りがゆるさない。
後日を心中に期して落ちてゆく赤騎士たち、いまは五十騎足らずにまで減ってしまったアルヴォン勢を、セムたちはしいて全滅させようとはしなかった。いや、族長たちはそう望み、弓を叩いてキッキッとおどりあがったのだが、いまやセムから軍神その人のように仰ぎ見られるようになった豹頭の戦士がそれをとめたのである。
「なぜとめる、グイン」
イシュトヴァーンもまた不満そうだった。
「身の程知らずにわれわれにたてつくものの末路を、あの小生意気な貴公子どののそっ首を枯れ枝にさして砂につきたてることで、モソゴールに知らせてやろうぜ」
「まあ、よしたがいいな」
というのがグインの返事だった。
「なぜだ」
「アストリアス卿は名門の出で、しかもヴラド大公気に入りの青年貴族――そして父のマルクス・アストリアス伯爵は大公の右腕にしてトーラスの柱石たる治安長官だ。あの男を殺せばモンゴールの復讐は苛烈をきわめよう」
「そうだったな」
少ししおれて、イシュトヴァーンは云ったが、ふいに目をむいた。
「おい、グイン。きさま記憶を失ってるんではないのか。なぜ、おれさえも失念していた、トーラスの事情まで知っている。きさまいよいよ、うろんな奴だぞ」
傭兵は気味悪そうに、こころもちグインからはなれるようにした。グインは何も答えなかった。
砂は両軍の犠牲者の血で染まっていた。るいるいたる死体をおしのけながら、ラクの大族長ロトーが近づいて来た。リンダとレムスが従い、ロトーは頭に羽根飾りをいただいて、あちこち白くなった剛毛につつまれたその姿は、猿人族とはいえ威厳にみちあふれている。
ロトーはうやうやしくグインとイシュトヴァーンの前にすすみ出て叩頭した。見上げたとき、その目には、讃仰と深い驚嘆の輝きがあった。
「勇者よ」
甲高いセム特有の声として可能なかぎり、重々しく云う。
「アルフェットゥの神があなたをつかわされた、砂漠へ。ラクの弓矢はあなたのものであります」
ロトーのうしろには、五人の小族長がずらりと並んでいた。かれらは叩頭の礼をして、
「リアード」
うやうやしく声をあわせた。
「皆があなたを| 豹 《リアード》と呼んでおります。あなたはアルフェットゥのお子」
「おい、サル神の子だとよ!」
不謹慎なイシュトヴァーンがたちまち、うかれて叫ぼうとするのを、グインはおしとどめた。
「俺の名はグイン」
重々しい声で云う。
「俺たちを助けてくれたことに感謝している」
ロトーはあわただしく手をふった。
「あなたは、私の孫をお救い下さった、リアードよ」
「スニはお前の孫か」
「そうです、四番目の。砂漠の祭りにつかう薬草をあつめに出かけ、ケス河をこえてきた黒い悪魔につかまった。黒い悪魔はわれらの皮をはぎ、血をしぼる」
「それももう大丈夫よ。スタフォロス城に巣くっていた悪魔は、グインがやっつけたから」
スニと手をくみあって見つめていたリンダが保証した。ロトーは首をふった。
「黒い悪魔のあとは赤い悪魔がケスをこえてくる。なぜ、悪魔どもはわれらに静かなくらしをゆるさぬのか」
「スタフォロスへの大進攻には加わらなかったようだな」
グインが云った。ロトーはうなづいた。
「ラクは平和が好きです。カロイ、グロの大族長たちから大族長会議のしるしがまわって来たがラクは断わった。ラクの願いはわざわいからうまく逃れることで、わざわいを断つために自らわざわいとなることではない」
「スタフォロス城は壊滅し、何万という、セムとモンゴールの生命が失われた」
グインは夢みるように云った。
「ラクはあなた様とお連れの高貴な人たちを歓迎いたします。勇者リアード。――いつまでもラクの村でおとどまり下さい」
イシュトヴァーンが文句ありげに口をとがらす。
が、グインは別のことを考えているようだった。
「ラク族が平和を愛し、無用の戦いを好まぬという、それはたいへんよいことだ。だが俺はひとつ気にかかることがある――それは、さきに隊から離脱してケス河をめざしていった白騎士どものこと。一騎はしとめたが、もう一騎はのがした。もし、俺の考えが正しければその一騎はいまごろすでに河をわたってアルヴォン城に入り、奴らは陣容をととのえて、われらへの新たな討伐隊を編成しているかもしれん」
ロトーがグインのことばを伝えると、小族長たちのあいだには、目に見えて動揺がまきおこった。
「ラクの総勢はこれで全部か」
グインはたずねる。
「とんでもない。ラクはセム中最大の部族、しかもセムは女子どももすべて戦士。老人、赤児をのぞいて、戦えるすべての者を呼びあつめれば、ラクの総勢はまず二千近くにはのぼりましょう」
ロトーは「二千」という数のところだけは、セム語に戻って、「ケスの|環 虫《リングワーム》の触手二匹分」と云ったのである。グインはそれを二千とこころえてうなづいた。
「二千か」
考え深げに云う。リンダ、スニ、レムス、それにイシュトヴァーンは父のことばを待つ子供たちの群像のようにグインをふり仰いだ。グインの黄色みをおびた剛毅な目が翳り、彼は何やらじっと思いにふけるふうだ。
「リアードよ」
ロトーがすすみ出て、つとその固い腕にふれた。
「恐れながら、この地に長くとどまるのは、あまり正しいことではございませぬ。この地にはたくさんの血が流れました。ほど遠くないときに、その匂いをかぎつけて、|大食らい《ビッグイーター》、砂ヒル、オオサバクアリ、その他にもいろいろなものが、やってくるでありましょう」
「おお――忘れていた」
グインはうなづいて立ち上がった。
「さっそくここをはなれよう」
「ラクの村へ?」
「いや」
「グイン――?」
リンダが意外そうな声を出す。
それへなだめるようにうなづきかけて、
「俺はどうもあの逃げ去った白騎士が気になる。族長、すまぬが五十人ばかり、若い戦士をかしてほしい。俺はきゃつらを偵察した上であとからラクの村落に入ろう」
「勇者のおおせのとおりに」
ロトーは叩頭した。
「誰でもお選び下され」
「子どもたちはひと足先に、村で休ませてほしい」
「まあ、グイン、わたし、グインとはなれるのは――」
リンダが不平の声をあげかかる。が、
「すぐだ。ようすを見きわめた上ですぐゆくさ」
グインはなだめて、大きな手を少女のかぼそい肩にのせた、リンダは首をふったが、あえてさからおうとはしなかった。あいつぐ危難で、本当は泥のように疲労こんぱいしていたのである。
「おい、おれは、お前と行っていいんだろうな。ことばもわからんし、サルにとりかこまれて食われちまうのはまっぴらだよ」
イシュトヴァーンが叫ぶ。グインは反対しかけたが思い直した。
「俺と共に赤い悪魔の城を偵察にゆくものはいるか」
セムのことばで叫ぶ。言下に、若くはつらつとした小猿人が五十人並んだ。いまの戦いの疲れもすでにいえ、傷もおってなく、たったいまワラの寝床から出てきたように元気いっぱいだ。
「リアードよ、彼らを思いのままに」
ロトーが云った。グインはうなづく。
「すぐ、俺たちもラクの村に入る」
「歓迎に、黒ブタは無理でも、砂ヒルの肉でも焼いて待っていてくれよな」
イシュトヴァーンが片目をつぶって叫ぶ。ロトーたちはびっくりしたようだった。
グインとイシュトヴァーンは、主を失ったモンゴールのウマを二頭とりおさえ、剣も刃こぼれのしていないものにとりかえて乗った。従う五十人のラクの若者は、村に帰る仲間から、よぶんの毒矢をわけてもらっている。出かけよう、というときになって、いきなり、リンダが走り出てグインのウマのくつわにとりすがった。
「わたしもつれていって、グイン」
小さな日やけした顔に、必死な表情がうかんでいる。
「だめだ」
グインはにべもなく云った。
「どうしてもだめ?」
「あたりまえだ。お前はいまにも倒れそうではないか。お前は男にも珍しい真の戦士の魂を持ってはいるが、からだは小さな女の子にすぎんのだ。スニと共にラクの村に入って休め」
「グイン――わたし、厭な予感がするのよ。それは必ずしも最悪のというわけではないけれども、できたら避けたいようないやな。ねえ、グイン、お願い。わたしをつれてって、そしてわたしを闇を見とおす目にしてちょうだい。わたしがいれば、曲がり角を曲がる前に、その向こうにあるものを見てとることができるのよ」
グインは考えこんだ。こんどはリンダにも、グインが真剣に検討していることがわかった。
しかし、ややあって彼が決断を下したとき、その決断はリンダを失望させた。
「いや、だめだ」
彼はきっぱりと云ったのである。
「最悪ではないと云ったな。ならば、俺の力、俺の星、そしてどこからわいてくるのかわからぬ、俺の頭の中にあるこのふしぎな知識とで、正しくふるまっているかぎりは何とか切りぬけることができよう。心配するな、王女よ。俺は必ずラクの村へゆく」
「わかったわ、グイン」
あらがっても無駄だった。グインは心を決めたのだ。そうと知ってリンダは肩を落としたが、ふと思いついたように、
「ならばいま見えることだけを云っておくわ。いいこと、グイン、よくきいてね。――
それはこうよ。行きよりも帰りに注意しなさい。そして目に見えるものよりも見えぬものをおそれなさい。災厄と思われるものは実は幸運にほかならないけれど、そのためにはまず自ら道を切りひらかねばならないわ」
「それだけか」
「それだけよ」
「予言というよりゃ、そりゃ、格言だな、王女」
イシュトヴァーンがからかい半分に口をはさんだ。
「――わかった」
グインがリンダの肩を叩く。
「気をつけよう」
柔かなあたたかい肩をぶこつな手でつつんで約束するリンダの心配は、たいしてやわらげられたようすもなかったが、彼女は気をつけてね、とかさねて念をおすとうしろへさがった。
出発のときだった。グイン、イシュトヴァーンの二騎のウマを先頭にした、五十人のセムの小部隊は西へ、そしてのこりのセムたちと双児は東へ。村へ帰るロトーたちは、アルヴォン兵との戦闘で傷ついた仲間を隊列の内側に入れ、肩をかしてやれるようにした。ことに怪我の重いものは毛皮をひろげ、弓のつるをくみあわせた即製の担架ではこぶ。しかし連れかえるのは、手当てをすればもとどおりになるていどのものだけだ。
重傷をおったもの、直っても不具になりそうなものは死体と共に放置される。それはノスフェラスの蛮族にとって、生きのびるための非情である。ノスフェラスの自然はきびしく、食糧はつねに足りない。戦えぬもの、何かの点で部族のためにならぬものは生きのびる資格がないのだ。そして遠からず、ノスフェラスのありとある奇怪で檸猛な肉食の怪物たちが、日のかんかんと照りつける岩場に投げすてられた死体の葬儀とともに、かれら負傷者のかたをもつけて、かれらの苦しみを終わらせてくれる筈である。
リンダはそっと身震いした。スニを愛していたし、ラク族を友とすることに否やはなかったが、それでも考えずにはいられない。
(まあ、わたし――わたしノスフェラスの荒野に生まれて来なくて、なんと幸運だったのかしら)
隊列は左右に動き出した。
日は高く中天にあり、そして血の匂いはノスフェラスの砂塵を舞いあげる風によって四方へ吹きちらされつつある。負傷者のうめき、ウマのいななき、空を見あげるとそこにはふわふわとエンゼル・ヘアーが漂っていて、おどろいたように顔にぶつかってきてははかない夢か沫雪のようにとけていってしまう。
最後尾を守っていたセムの精鋭たちが神の名をよんでとびのいた。グインたちはふりかえり、そして見た。砂がいまわしいかたちに盛りあがり、そしてその中からぽっかりと、凶悪な牙をびっしりと生やした口がのぞくのを。
「リヨラト」
うしろを歩いていたセムの若者が指さして教えた。ノスフェラスの|大食らい《ビッグイーター》はその赤い口にゴーラの騎士の死体をぱくりとくわえこむと、そのまままた砂中へ沈んでいった。
ほどもなく白いいやらしい触手、オオアリジゴクの触手と知られるそれが砂の中からのびてきて、セム族の死体をさらってゆく。そしてまたひとつ。
「ラル」
若者がいう。ノスフェラスはそのぶきみな活動を開始したのだ。
夜までには、そこにころがる死体も、血のあともすっかりうせて、ひろがるのはただどこまでも同じ砂と岩々の海となり、ひとびとは、互いの死闘のあとをたずねるすべとてもなくなるだろう。
長居は無用だった。ノスフェラスの大食漢たちはその凶暴な餓えをついに満たされるということを知らぬ。死体と重傷者とを片づけてしまえば、こんどは生き餌の匂いをかぎつけよう。ロトーはセムのことばで命令を下した。ラクたちも早々に撤退にかかる。
ふりむいたリンダがさいごに見たものは、怪物たちののたうつぶきみな砂の海の向こうに、はるかな蜃気楼のように消え去ってゆく半獣半人の軍神にひきいられた一隊のすがたであった。
グインはふりかえろうともしなかった。|大食らい《ビッグイーター》の歯の噛みあわされる、身の毛のよだつ音、骨が砕け、肉が骨ごとかみ取られる、耳をふさぎたくなるような物音に、心を動かされたようすもない。
「だいぶ遅れてしまった。手おくれになったかもしれん、急げ」
ひとこと、そう云ったなりで、ひたすら西のケス河のほとり、つい昨日に逃れてきたアルヴォンの天幕の方向へとウマを急がせる。
徒歩で従うセムの若者たちを気にする必要はなかった。砂漠はかれらの大地であり、かれらの足はそこを歩くのに適している。五十人のラクの精鋭は遅れもせずに二人ののったウマのうしろについてきた。
一ザンあまり行ったところで、グインは目を細めた。
「止まれ」
吠えるように命ずる。訓練のゆきとどいた麾下部隊でもこうはゆくまいというほどすみやかに、セムたちは止まり、命令を待った。
「どうした」
とイシュトヴァーン。グインは岩の向こうを指さした、
「アストリアスの残党どもだ」
「まだ、このへんをよたよたしてたのか。よし、ひと思いにやっちまおうか」
「気の短い男だな」
グインは低く唸って、
「いまはわれらも本隊をはなれて五十騎だぞ。それを忘れまい。――一同、迂回しよう。そちらの岩場へ入れ」
「おもしろくねえな」
イシュトヴァーンはぼやいた。
が、また急に気分がかわってくすりと笑う。
「なア、グイン」
「なんだ」
「妙な話だぜ、ついさっきのさっきまで、おれとお前はモンゴールの追手におっかけまわされ、剣といえば二本だけ、足手まといのガキどもまでしょった疲れはてた逃亡者だった。
だのに、いまは、お前はそうして五十人のサルどもに、まるでそれが生まれてこのかたずっとお前のしてきたことだというみたいに命令を下している。なあ、グイン」
「……」
「おれは思うが、お前のさがすランドックとか、〈アウラ〉とかいうのが何だったにしろ、おれの握って生まれた二つの玉石にかけて、お前の前身はそこの国の王か、それとも大元帥にほかならなかったに違いない。そうでなかったらおれはお前のその豹頭をまるやきにしてくって見せるよ」
グインは何も答えなかった。
かれらの一行は、アストリアスの兵に発見されることを避けて、大きく迂回し、ごつごつとした岩山づたいに上っていった。セムたちは何の苦もなく岩から岩へとびうつり、そしてかれらのふりまく薬草の汁はあらかじめかれらの行手から砂ヘビや|砂 虫《サンドワーム》、そして食肉ゴケを追い払ってくれた。
ほどもなく、かれらは崖の上から砂漠を見おろす有利な位置をしめた。あとは岩場づたいに、下のようすを見ながら行けばいい。
眼下に、アストリアスの敗残部隊の、アルヴォンめざしておちのびてゆく姿があった。二百騎あまりで堂々とノスフェラスの荒野をおしすすんできた誇り高い赤騎士隊はいまや、見るもあわれなありさまになりはててしまっている。ウマは傷つき、鎧はやぶれ、そして負傷者はひっきりなしに呻き声をあげる。
「もう少しだ。もう少しでケス河にたどりつくのだぞ。頑張るのだ」
アストリアスはたえず、かれがれになった声をはりあげては部下たちを叱咤するのだが、ともすればその声はのどにつまってかすれ、そして疲労と失意の極に達した部下たちのあげる呻き声に消されがちになった。
そうとみるとアストリアスはウマをかって隊列の先へいき、またあとへまわって、自ら兵たちをまとめ、勇気づけようとこころみるのだった。彼はようやく二十になったばかりだったし、小人数の小ぜりあいとはいえこれほど情容赦のない敗北を喫したのは生まれてこれがはじめてで、その誇りは手ひどく傷ついていた。ほんとうに最も慰めと励ましを必要としていたのは彼自身だったというのに、それでも彼はかけもどっては、うしろをおびやかすセムの姿はないか、脱落したものはないかと心を配り、負傷者の苦痛をやわらげてやろうと彼自身の水筒をさしだしつづけたのである。それこそは若々しく誇りにみちた、新興のゴーラの精神そのもののすがた、と云ってよかっただろう。
さいわい、みじめな敗走兵をたいらげようと、執念深く追いすがってくる猿人族の姿はどこにも見えないように思われたし、砂漠の神、砂蛙の姿をしたアルフェットゥもこの悲惨な青年貴族をあわれんだかのように、かれらのゆくてには|大食らい《ビッグイーター》、砂虫、その他の危険な動植物もあらわれては来なかった。
さすがのアストリアスも、頭上に切り立った白茶けた崖の上から、ウマにまたがった豹頭の狂戦士と、黒衣の傭兵とが、五十人のセムの若者を従え、光る目でじっとこちらを見おろしつづけていようとまでは、とても想像できなかったのだ。
鞘を失った剣はひきずられ、岩にぶつかって、きくものを力なく苛立たせるガチャリ、ガチャリという音をたて、負傷者の弱々しい呻きには腰にさげた水筒のなかで残り少ない水のはねおどる、ぴちゃぴちゃという音がはかない伴奏をかなでた。騎士たちの面頬をあげてしまった顔は、砂ぼこりにすすけ、血がこびりついて汚れていた。
中にはその重みにたえかねてゴーラのかぶとすらもなげすて、力なくウマの首にしがみついているものもいる。アストリアスはそれを見やり、万が一うしろから矢弾がとんでくればひとたまりもないからと、わざわざウマをかえし、弓の先でかぶとをひろいあげ、注意を与えて頭にのせ直させようとウマをよせてゆこうとした。
そのときだ。
「隊長……あれを」
そのアストリアスのウマに追いすがるようにして、まだいくらかの元気を残しているうちに入る彼の右腕のポラックが枯れ声をふりしぼった。
「あれを……」
「ああ――?」
アストリアスはかすむ目をまばたいた。目には砂埃が入っていたむのでよく目をあけていられず、ポラックの指さすほうをみても、ばくぜんとただ一面にもやか霞がたってでもいるかのようなあいまいな印象があるだけだった。
アストリアスは面頬をあげ、鎖編みの手袋をぬいで注意深く目をこすった。目は激しくいたんだが、やがてゆっくりと焦点があってくる。
「隊長――」
ポラックが再びささやく。その声にはこんどは何かしらきびしい歓喜とでもいったものの萌芽が宿っていた。
「止まれ――停止!」
アストリアスはひびわれたくちびるをなめて命令を下した。ふいに心臓が激しく動悸をうちはじめる。彼はその、そこにひろがった信ずべからざる幻影を、うかつに信じてそれが消えてでもしまっては、というように、再び目をしばだたいて見やった。
そして、見た。
「――ポラック」
彼はかすれ声でいう。
「隊長!」
「ポラック。――行ってくれ」
「わかりました!」
ポラックの大声。彼はいきなりウマにひと鞭あててかけだしてゆく。
アストリアスはそれを、肩で息をつきながら見送った。突然に、屈辱と怒りにうちふるえていた彼の心に、物狂おしいばかりな復讐と雪辱の甘い希望がみちあふれてくる。それが彼の四肢に力を送りこみ、新たな生命を注ぎこんだ。
彼の若々しい顔は真赤に染まった。彼はのびあがり、ポラックがようやく蜃気楼の一端へと吸いこまれてゆくのを見ながら、鞍つぼを拳で撲りつけて叫んだ。
「豹頭の怪物め! 黒づくめの裏切り者め、そしていまわしい蛮族め、ノスフェラスの猿どもめ! 見ているがいい、おのれらの命運は尽きたぞ。ノスフェラスはまもなくまことの意味で、|無人の地《ノーマンズランド》になるのだ!」
[#改ページ]
4
むろん――
アストリアスとポラックとが見たもの[#「もの」に傍点]は、しかし、崖の上に豹頭の神々のように立ちつくしたグインの一行にも同じように目にうつっていた。
それに気づいたのはむしろ、アストリアスたちよりも偵察隊の方が早かっただろう。それははじめ、西の、ケス河の青い光りとかれらとのあいだをさえぎる、ひとすじのもやもやとした砂塵の帯としてかれらの目に映じてきた。
が、やがて砂塵が晴れ、そこにあるものの全貌があきらかになってくる。
と、見たとたんだった。
「いかん――伏せろ!」
グインが叫ぶなりウマからとびおりたのは。
ラクたちの反応も早かった。一言とはいわせずに岩の上にぴたりと腹ばいになる。もう毒矢を弓につがえているものもいる。
グインはそれを制した。
「いや、いかん――伏せて、じっとしているのだ。光を反射するものがあったらからだの下にまわしておけ」
イシュトヴァーンはグインと彼のウマをうしろへ追いやり、そこに休ませておいてから彼の黒い装備がことに白い崖の上ではよく目に立つことを考えて、ぴたりと平たくなったままじわじわとグインの横まで這いよってきた。
「おい、ありゃあ――」
「ああ」
グインは仏頂面でうなづく。といってもその豹面はいつでもそうなのだが。
イシュトヴァーンは小さく息をのんで、じっと、眼下に展開するおどろくべき光景に見入った。
「ルアーと彼の、炎の軍勢にかけて――畜生!」
彼がささやくように云う呪詛のことばが耳に入る。グインは気にとめていなかった。
彼は目を細め、物騒な輝きをやどして、ひたすらにらみすえている。すっかり砂塵が晴れたとき、かれらが見ることができたのは、かれらのいかなる予想をもうわまわるものだった。
見事にもあざやかに陣容をととのえ、びっしりとケス河の西岸を埋めつくした、モンゴールの大軍。
それは、ざっと目測しただけでも、たしかに一万は越えていただろう。辺境の日ざしをうけて鎧、かぶと、かざした剣や槍がきらきらと輝きわたり、その砂漠に時ならぬ光の池を現出する。
「中央に白騎士隊――右の赤騎士隊はアルヴォンの残留部隊だろう。左にひろがっている青づくめの一隊はツーリード城からの友軍とみていい。ツーリード城主、第八青騎士隊長、マルス伯その人が指揮をとっているかもしれん。
後詰をあずかる黒騎士隊は、おそらくタロスの砦の一軍か、あるいは――」
「……」
「あるいは、トーラスから派遣されつつある大部隊の尖兵かも――」
イシュトヴァーンの声はおちついていたが、注意深くきけばそこに微かなためらいを感じとることができた。
「一万から一万五千、そんなところだな。――弩部隊が五千、徒士三千、そして精鋭の騎兵隊が五千、そういったところか。
あの並びかたはモンゴールの誇る五色陣の小型版というところだ。五色陣には一色足りんが、正式には五つの色にそれぞれぬりわけられた五つの部隊が、それぞれの方角からおしつつむようにして敵をとりこめてゆく。モンゴール軍がなぜああいう、色でぬりわけられた編成をもっていると思う。それは、決して同士討ちをせぬためと、それからどの方角が劣勢で、どこから兵を投入すればよいのか、指揮官がひと目で見わけられるようにという配慮なのだ」
「アストリアスの隊が迎え入れられた」
上から見おろしていたグインが指摘した。
「総指揮はやはりあのはねかえり娘か、イシュトヴァーン」
「ああ。麾下部隊は白騎士隊だし、旗はモンゴールの大公旗、ゴーラ三大公国の黒獅子旗を両わきに従えて、ひときわ高いのはたしかにあれは公女の旗だからな」
「女だてらに一万五千の軍勢をひきつれ、ノーマンズランド遠征の采配をふれるつもりか」
グインは云った。その声には、アムネリスが耳にしようものなら屈辱でまっかになりそうな、皮肉な嘲弄がこもっていた。
「モンゴールの公女将軍といえば中原に名高い女傑だよ。たしか今回のパロ攻防の黒竜戦争にも、指揮をとってモンゴールに勝利をもたらしたのは、ほかならぬ公女自身であるはずだ。唯一人の公子であるミアイル殿下が病身なので、いずれは公女がつけひげを結びつけ、白テンのマントをきてモンゴール大公の地位につくだろうともっぱらのうわさだったものだ。――ハッ! モンゴールも、悩みに関しては、いまはないパロと双生児だというわけだな」
「と、いうと?」
「女が強く、おんどり[#「おんどり」に傍点]は尻に卵の殻をくっつけてぴいぴい泣くだけなのさ」
イシュトヴァーンは辛辣に云うとゲラゲラと馬鹿笑いした。
グインは首をふった。
「それは王女リンダとレムス王子へのあてこすりのつもりか? それならばお前は王子のやわらかなほほやなめらかな髪にごまかされて、卵の内側に眠っている竜を見逃しているのだ。俺にはわかるがあの少年は――
や!」
グインがふいに云いやめて下へするどい目を送ったので、なにごとかと人びとは目をこらした。
「モンゴール軍が動き出すぞ」
グインはおちついて云う。
それは、きわめて幻想的な、しかしまた奇妙に壁画のように見なれた思いをさそう、壮麗で堂々[#底本「堂堂」修正]たる光景であった。
右に赤、左に青、そして後方に黒。四つの花弁のひとつ欠けて、前にむかって開いたその花の花心の位置にはまばゆいばかりの白一色。
砂漠にくっきりとぬりわけられたその人の花は、それぞれが騎兵、弩兵、そして歩兵の順に外へむかって細くなってゆく三角形をしていて、あたかもそのすべてが何百何千の兵士ではなく、同じひといろの巨大な生物でできてでもいるかのように、何のとどこおりも、迷いもなしになめらかに動いた。
その動きは、しかしその要所要所に目にみえぬ糸がついていて、その糸がある一点にあつまり、そこからくりだされる命令のとおりに動かされる忠実なあやつりのそれででもあるかのようだ。そして、その見えない糸の集中してゆく一点とは、すなわち、白い花心のそのまた中心部、何本もの旗のもとに忠誠をちかう騎士たちに誇りやかに守られて立つ、モンゴールの公女将軍アムネリスの、白いたおやかな指さきであるだろう。
「チッ!」
突然、イシュトヴァーンがつぶやいた。
「な――なんだってこう急に、きゃつらはこうまで完璧に陣そなえをすることができたんだろう? この布陣じゃあ、まるで何ヶ月もまえからこの日あるを知っていて、そなえにそなえてでもいたようじゃないか?」
「おそらくは、な」
グインは重々しく声を低めた。
「おそらくは、われわれのことは、たぶんちょうどきっかけとなったというだけにすぎないか、あるいはすでに燃えあがりかけていた火に最後の油を注いだにすぎないのだ。どうやらモンゴールは、パロ攻略のあと、次の布石としてノスフェラスへの進攻、セムとラゴンの平定をすでに決めていたようだし、それは俺のみたところ、パロへと手をのばして、背後がおろそかになっている間に、クムでもユラニアでもいい、あるいはパロの残党でもいいが万一ノスフェラスに軍をすすめて、背後からモンゴールをうつことになってはというおそれによるものだろう。
俺――とパロの双児――がセムの助けをかりてアストリアス隊をほふったことは、かれらにいわばさいごの確信を与えたのだ。おそらくこれも遠征軍の全員ではなく、あと二万や三万は確実に、トーラスからの遠征軍の本隊が、いまごろノスフェラスめざして街道をひた下り、先陣部隊と合流すべく先をいそいでいる最中だろう。
やはり、ただちにラクの村へ入らなくてよかったな、〈紅の傭兵〉よ。二千の守りしかない村へ、寝耳に水でこの遠征軍におしよせられたら、いかにセムが勇敢とはいえ、とうていなすすべもなしで皆殺し、なぶり殺しはまぬかれないところだったぞ」
グインはセムの若者たちをふりかえってセム語でくりかえした。
ラク族の若者たちには、目にみえて動揺がまきおこっていた。頭だった、皆がシバと呼んでいる若者が甲高くグインにこたえる。
「何といってるのだ、グイン」
「いますぐ村にかえり、抗戦の準備をしなければ、と。ノスフェラスのさいごの日だ、と云っている」
「ハッ! 二千の、サルどもで、この軍備のゆきとどいた一万五千を?」
イシュトヴァーンは笑った。
「なんてえお笑いだ! けなげな話じゃないか!」
「とにかくも、敵のもくろみにこうして心づいて、しかも敵はわれらの気づいたという事実をまだ知っておらぬのは、われらに有利だ」
グインはたしなめるように、
「それに、ラクの村の正確な位置は、まだノスフェラスにウマで一日の距離以上、踏みこんだことのないかれらには、たしかにわかってはおらぬ筈。――しかもラクの村はわかりにくい谷に守られている。うまくゆけば、五、六日はかせぐことができる。うまくゆけばな」
「もうおれは、あんたが何を知ってようと、びっくりしやしないがね」
というのがイシュトヴァーンのあきらめたような返事だった。
「それじゃあんたは、行ったこともないラクの大村落のポジションも知ってるってわけだ」
「誤解せんでほしいのだが」
グインは唸って、
「俺は何も、すべてのことを知っているのではない。ラクの村の正確な位置など知らんが、ただ何となく、その周囲の光景を霧の中のように目にうかべることができるのだ」
「何でもいいや――とにかく」
イシュトヴァーンも唸った。
「とにかくここにこうしていたってしかたがない。一刻も早く、ラクの村とかについて村をすてて逃げちまうにしろ、あわれっぽい抗戦をこころみるにしろ、何とかしろと云ってやらざあなるまい。そうなんだろ、グイン」
「まあな」
というのがグインの答えだった。
偵察隊はそのころまでには見るべきほどのものはすべて見たと決めた。そこでグインは鋭くセム語で下知を下し、そろそろとひきあげの準備にかかる。崖下では、まるで巨大な四色のアメーバがゆさゆさと身を動かして移動にかかるように、モンゴールの遠征軍がやはりノスフェラスの奥地めざして動きはじめんとするところである。
「岩づたいにかれらの先陣から見えぬところまでゆき、そこから砂地へおりて、あとはひたすら東へ走るぞ」
グインはセムの若者たちに云った。
「お前たちの足に、お前たちの村とお前たちの女たち、子どもたちの生命とがかかっているのだ」
小猿人たちはうなづいて、静かに立ちあがる。
つづいてイシュトヴァーンが立とうとして、革のブーツがふいにつるりとすべった!
あわててグインのさしのべた手につかまり、立ち直ったが、崖の上のもろい砂がくずれ、そこに埋まっていた小石が二つ三つ、ぱらぱらと崖下へおちてゆく。
傭兵はあっと叫び、まるでそのおちてゆく小石を網ですくいとりたいかのようなしぐさをした。グインの力づよい手ががっしりとその肩をつかんでひきとめる。
「ん?――」
ぱらぱらと小石があたって、おどろいたモンゴールの左翼の兵のひとりが上を見上げた。
「おや……」
公女の天幕の歩哨とはちがって、すでに臨戦体勢に入り、心をひきしめている戦士である。崖の上で息をつめる偵察隊の無言の祈りにもかかわらず、わずかでもあやしいと感じたものを、そのままにしておくようなことは万にひとつもない。青騎士はしばしのあいだけげんな顔で崖の方を見やっていたが、にわかに合点合点をするなり隊列をはなれ、中隊長のもとへかけつけた。
隊列を乱したことを叱ろうとした中隊長も、その言に耳を傾けるうち、やにわにきびしい顔になる。たちまち、大隊長へ、そして総指揮官へと伝令がとんだのだ。
アムネリスはことをかるくは見なかった。ただちに、「全軍、止まれ!」の命令が発せられ、一万五千の軍は目にみえぬ綱にさえぎられたように停止する。アムネリスは部下の一隊をよびよせた。
「いかん」
これを崖の上から見守るグインたちのほうはひや汗ものである。
「気づかれたぞ。公女め、小隊を出して斥候させる気だ」
イシュトヴァーンはあえて「すまん」とは云わない。セムたちのとがめるような目をにらみかえして黙っている。
「逃げろ!」
グインはあっさりと云った、ウマのところへかけつけ、ひらりととびのる。イシュトヴァーンもつづく。
「まっすぐ東へいってはラクの村を教えるようなものだ。とりあえず北へ走り、やつらを完全にまいたと見てから進路を東にかえてラクの村へことの次第を急報しよう」
「アイー!」
セムたちはいっせいにうなづく。
崖下ではあわただしい動きがつづいていたが、もうかれらはそれを見てさえいなかった。巨大なアメーバから、細胞分裂によって小さいそれがわかれ出るように、小さな青騎士のかたまりが母体からはなれて、そして崖の上へのぼる道をさがしはじめる。
セムたちはそれを待ってなどいない。先頭にたつ二頭のウマは一方は半獣半人のシレノスを、一方はゴーラの脱走兵をのせて、風をくらって岩山を北へむかってかけおり、セムの小人たちがころがるようにそれにつづく。けたたましく砂埃が舞いあがって、心なくもそれと知らせてしまった。
「そこだ!」
「その岩山をこえたところだぞ!」
三たび、グインと傭兵とは、背後から追いすがるゴーラ兵の絶叫をきいたのである。
「ハイッ、ハイッ!」
「走れ!」
かれらの無事な到着に、ラク二千五百の生命がかかっている、ということはわかりすぎるほどわかっているのである。グインでさえ冷静さをすてて、狂気のようにウマの腹をけり、二騎と五十人とは足のつづくかぎり疾走しはじめた――はるかなる北方、常雪をいただく白いアスガルン山塊へむかって。
「走れ、ラクたち、走れ!」
「イーッ!」
「リアード、リアード!」
かれらの心はひとつであり、かれらの足の下でノスフェラスの砂はきしんで悲鳴をあげた。砂よ、とラクたちはそのセムの奇態なことばでささやいたかもしれない。われらを生み、育てたものである砂よ――心あらば生ける砂となり、舞いあがって、たけだけしい追跡者の目からかれらをかくすヴェールとなり、目つぶしの灰となり、ノスフェラスの子らをいまわしい闖入者から助けよ、と。
うしろから、モンゴールなまりの大声はいつまでもかれらを追って来、ほどもなくそれは弩の石弾となった、ヒュン、ヒュンとかれらの周囲をかすめる石弾はかれらの頬を擦り、かれらのゆくての砂地にあたってバッと煙をまいあげた。最後尾を走る二、三人が石弾にあたって倒れた。
「リアード!」
訴えるようにシバがグインに叫んで毒弓矢を叩いてみせる。
「かまうな!」
グインは怒鳴り、なおもウマを急がせた。
「一人ふたり、やっつけてみたところで同じことだ」
「グラ、イミール!」
シバは悲憤やるかたなく叫んだが、勇者とあがめたグインの言にさからおうとはしなかった。ラクの心は、いったん友と誓えばあくまでも忠節をつくすのである。
モンゴール兵はウマであり、ラクたちは徒歩《かち》ではあったが、モンゴール兵たちは岩山を大きく迂回せねばならぬというハンディがあり、しかも岩山の北辺のやわらかい砂は、ラクたちのはだしの方により適していて、鎧かぶとをつけた重い荷をのせた、鉄の甲をつけたウマの足をともすればずぶずぶとめりこませた。兵たちは鞍を叩いて口々に威嚇と呪詛をあびせかけ、口惜しまぎれにびゅんびゅんと弩を放ったが、効果のあったのは二、三発までであり、そのあとはラクたちは、最後尾でさえはるかに射程圏外へ出てしまった。そして差はひらくいっぽうだった。
ついにモンゴール兵たちはあきらめた。隊長の怒りをおそれ、口々に嘆いたりののしったりしながら、弩にあたって倒れふしていた三人のラクをとらえてやむなく本隊へとひきかえす。北のアスガルン山塊の方角へ消えていった五十人ほどの行方を示すものは、岩と岩のあいだの地平にパッパッとあがる小さな砂埃だけで、やがてはそれも見えなくなってしまった。
ひとしきりつよい風が吹いて、荒野にまたたそがれがやって来ようとしている。北から吹きつけるアスガルンおろしの風は、たくさんのエンゼル・ヘアーを遠征軍の顔にふきつけ、いつぞやの怪奇な一夜に加わっていたアルヴォンの兵たちは何がなし不安そうに暮れなづむ空を見上げた。
いっぽう――
グインたちが、もう大丈夫、と完全に心を決めて、へとへとに疲れはてたウマと足とを、ようよう少しゆるめる気になったのは、北へむかっておよそ三ザンほどもかけとおしたあとである。
もはやうしろから追手の声もなく、弩もとんでは来なかった。かれらは足をとめ、息をととのえ、互いの名を呼びあった。
「三人、やられた、リアードよ」
シバがグインに報告にくる。
「死んでいればよいが。生きてつかまると、あの色のついた悪魔ども、口でいえぬほどひどい仕打ちを、する」
グインは沈痛にうなづく。口に出しては、
「かれらをまくために、だいぶん迂回をせねばならなかった」
そう云ったきりだった。
「ただちに進路を東にかえ、夜どおしすすむ危険を犯してでも、一| 分 《タルザン》でも一|秒《タル》でも早くラクにモンゴールの野望を伝えねばならん」
「わかった、リアード――おれたち、疲れてない。夜どおし走る」
「走らんでもいい。速足で歩け」
かれらは東へ向きをかえた。かれらは太陽を背にしおわると、こんどはいくらかおちついて、そちらへ歩きはじめた。かれらはそんなものに心をくばっているゆとりはなかったのだが、そのころには早くも、雲によってやわらげられることのない辺境の夕日は恐しいまでに巨大なオレンジの円盤となって、ケスの地平へゆるやかにさしかかり、あたかもかれらを悪意あるひとつ目で見守るドールその人のようにも見えていたのである。
道は、やがて、ゆるやかな下り坂となり、その両側に切り立つ崖は、ゆっくりとその角度を急にしていった。
最初に、そのことに[#「そのことに」に傍点]気づいたのは、やはりグインだった。
「ばかに――」
巨大な手をあげ、顔から白い糸のようなそれを払いのけようとしながら云う。
「ばかにまたこのへんはエンゼル・ヘアーが多いな」
「奴らの集会所でもあるんだろう」
イシュトヴァーンが不機嫌に云う。彼は、崖の上で彼のためにモンゴール軍に発見されるなりゆきになってから、ずっとふくれ返って黙りこんでいたのだ。
グインは何も云わなかった。ただ見まわして低く唸るともつかぬ声を出しただけだ。
たしかに左右から崖がぐっとはりだして、かれらの視野をさえぎりはじめてからというもの、その限られた視野に舞いおどる白いエンゼル・ヘアーの数は激増していた。夕暮れだということもかかわりがあるのかもしれない。セムたちは、顔にあたってとけてゆくだけのこの怪物に、すでにまったく馴れっこになってしまっているとみえて、小さな毛深い手で払いのけて平然と進むが、グインの方はしだいにおちつかなくなってきた。
「シバ!」
きびしい声で呼ぶ。
「はい、リアード」
「道は、これでたしかにまちがいないのだろうな」
「はい、ラクの村」
「だが、だんだん道が細くなってゆくぞ――見ろ!」
グインがそんなふうに、驚異と――そしてなおおどろくべきことには恐怖さえもまじりこんだ叫びをあげるなど、彼を知る限りの者には想像もつかなかったに違いない。
しかしそのとき――
誰ひとりとして、そのことを考えておどろいている余裕のあるものはいなかった。
かれらは全員、ただもう息をつめ、電流にうたれたようになって、ふいに角を曲がったところにひらけた、悪夢とも、生地獄とも、狂気の芸術家の絵とも――
何ともつかないそのおぞましい光景の前に立ちすくんでいたからである。
かれらの前で道は突然おちこんで、深い谷の全貌をあらわしていた。
そしてその谷は――青白く、そして限りなくおぞましい燐光の海!
恐怖と嫌悪に舌までしびれたようになりながら、かれらは、そのブヨブヨとただれうごめく青白いゼリーが、それこそ何千万何億万という、不定型のアメーバ、見るもいまわしい生ける粘液の大集落であるのを見た。
おお――イドの谷間!
叫びは舌の上ではりつき、手足からは生命のぬくもりが恐れて逃げ去り、そしてかれらは、行くもならず、退くもならぬ隆路の突端に、絶望と破滅と向かいあって立っていた。
そして――
怪物どもが、突然かれらに気づいたのである!
[#改ページ]
あとがき
この「荒野の戦士」は、前作「豹頭の仮面」によって開幕した、豹頭の戦士グインの物語の第二巻目であり、同時に全体の第一部である「辺境篇」の二冊目、起承転結の承の部分にあたる。
すべてのプロローグである「豹頭の仮面」において、平和で静かな中原の王国、パロは隣国ゴーラ三大公国の中の強国、モンゴールの、他の二大公を出しぬいた奇襲の前に陥落し、その王と王妃とはモンゴールの刃にかかってあえない最期をとげた。パロに古来伝わっているふしぎな機械(おそらくは物質転送機か、ないしは小規模なワープ装置と思われる)によって辛うじて難を逃れたパロの双児の世継、王子レムスとその姉で予知能力者でもある王女リンダとは、パロ再建の唯一の希望をたくして安全なアルゴスへ送りこまれるはずだった。
しかし動乱の中での精密な機械の操作の、ほんのわずかな狂いが皮肉な結果をもたらし、二人は当の敵国モンゴールの辺境、ルードの森で転送のショックから目ざめることになってしまったのである。
そして、そのとき、あたかも、すべては運命神ヤーンの意図したところであったとでもいうように、同じそのルードの森で、過去の記憶の一切を失い、身許も、出生も、ここにいたるまでの事情も忘れはて、ただ「グイン」という自らの名と「アウラ」という謎めいたことば二つだけを記憶に刻んでいる、呪われた豹頭の超戦士グインもまた意識をとりもどしたのだった。
三人は事情を知ったモンゴールの辺境警備隊にいったんとらわれ、辺境を守るスタフォロス城の虜囚となる。そこでかれらはそれぞれに、それ以後つねに影のようにリンダに従うこととなる蛮族の娘スニ、そしてかれらの運命にとってきわめて重要なからみを持ってくることになる、ヴァラキア生まれの若く悪党の傭兵イシュトヴァーンとめぐりあう。
いっぽうスタフォロス城を支配する「黒伯爵」ヴァーノンは、その業病ゆえにルードの森の死霊にとりつかれており、自らの城に、ノスフェラスの荒野の蛮族セムの大逆襲を招きよせる悪運をもたらしてしまった。
死霊を退治し、スタフォロス城を壊滅させたセム族の手を逃れたグインたち一行は、要領よくさきに逃げのびていたイシュトヴァーンのあとを追い、暗黒のケス河に身を投じる――というのが、「豹頭の仮面」のおおむねのあらすじであり、そのあと物語は辺境のノスフェラスの荒野を舞台に展開する。
「荒野の戦士」ではモンゴールの公女アムネリスが登場し、それによって、あと二人を除けばこの長い入り組んだ物語で主要な役割を演じるキャラクターは大体出そろった勘定になる。かつて例のない途方もない長さであるだけに、構想倒れになる恐れもないでもないが、以後のかれらの運命の展開を、長い目で見守っていただけるようお願いしたい。
二、三必要な注釈を加えておく。この時代、世界は北方、中原、辺境、南方諸国、の四区域によって成立し、うち南方は海洋におおわれ、中原と辺境とがそこに住む人間たちにはキレノア大陸として知られる唯一の大陸の上にある。主要な交通機関はウマと呼ぶ(現在知られている「馬《うま》」とは似て非なるもので音が同じなのは奇妙な偶然である)巨大な四足動物と|ラクダ《タンク》、そして帆と入力に頼る船である。
人々は神々が現実の存在でしばしば人間界に干渉してくることも、人間からはかれらに手をふれることもできぬことを知っており、魔術や占いは人々にとって迷信ではなくきわめて現実的なひとつの力の体系である。動物も、草木も、山河大地も、衰弱しはてた二十世紀人たる我々の考える数倍のなまなましさでもって、かれらの近くに共に生きているたしかな「もの」であるのだ。中原におけるごく一般的な信仰の主神は双面神ヤヌス。辺境には辺境の神、北方、南方にはそれぞれの神信仰があるが、それは寓話でなく実感であるのだから、人々は決して他の信仰の神を迷妄と呼んで否定したり、粗略に扱ったりすることはしない。悪魔神はひとつでその名をドールという。ドールは黄泉の王であり、冥界の主神である。それは七つの姿をとるが、その中のひとつにササイドンの姿もあるのかもしれない。
五十四年七月
[#改ページ]
著者略歴 昭和28年生、早稲田大学文学部卒 主著書「豹頭の仮面」
GUIN SAGA<2>
荒野の戦士
昭和五十四年十月十五日 印刷
昭和五十八年二月十五日 発行
著 者 栗本薫
発行者 早川清
印刷者 矢部富三
発行所 株式会社早川書房
平成十九年三月十一日 入力 校正 ぴよこ