グイン・サーガ 1 豹頭の仮面
栗本薫
中原の由緒正しき王国パロは、新興ゴーラの侵略の前に一夜にして滅びさった。王家の血をひくものもまた、狂乱のうちに残らず敵の刃にかかったかに見えたが……パロの真珠の愛称を持つリンダとレムスの姉弟は、いかなる手段によったか妖魅の跳梁する辺境の森ルードに姿をあらわした。しかし追手の厳しい追求は、たちまち二人を絶体絶命の窮地におとしいれる。だがそこに忽然とあらわれた人物――なんと豹の顔を持つ怪人が二人を危地より救いだすのだった! 現代のロマンの語り手栗本薫が、壮大な構想のもとにくりひろげる絢燗たるドラマ開幕!
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PERSONA OF PANTHER
by
Kaoru Kurimoto
1979
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カバー/口絵/挿絵
加藤直之
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目 次
第一話 死霊の森………………………… 九
第二話 癩伯爵の砦……………………… 七九
第三話 セム族の日………………………一四三
第四話 暗黒の河の彼方…………………二〇九
あとがき…………………………………二七七
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かれらは運命の神ヤーンによって動
かされていた。しかしかれら自身は
自らが運命《さだめ》の糸の上にあることを、
未だ知らなかった。
──『イロン写本』より
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豹頭の仮面
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第一話 死霊の森
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プロローグ
それは――
<異形>であった。
異相、といっても、とうていそのもの[#「もの」に傍点]の異様さを云いあらわしてはいない。奇相、と云っても足りぬ。
それは、異形――としか、云いようがなかった。だが、そのことばもまた、それ[#「それ」に傍点]が見るものにひきおこす衝撃と畏怖を十二分に伝えているとは、とうてい云えなかった。
それ[#「それ」に傍点]は先刻、といってももうおよそ半日ちかい以前から、そこにそうしてよこたわったきり動かない。それはちょうど、打ちすてられたしかばねのようにも見える。
しかし、それは生きていた。
そのあかしに、そののばされたままの四肢の、尋常ならず発達した筋肉が、かなりな間遠ではあるが、ときどきぴくりと痙攣するように動く。
だが、その他にそれの生きていることをあかしだてる動きはまったくない。
あたりは永遠の静寂とまごう静けさにつつまれていた。太陽は山の端のほうに近く、異様なまでに巨大な円盤と化した鈍く光る球である。この辺境――それももうそろそろ人間の領土と妖魅の跳梁する暗黒の領土との境界線を越えてしまおうという、スタフォロスの砦の周辺を、夜の間近いそんな時刻にさまよっている人間など、むろん、正気であったら、いようはずもなかったが、しかしもしそんな勇気のある人間がいたとしたら――そして、その人間がもしそこに、頭をなかば泉のふちに突っこむようにして倒れこんでいるそのもの[#「もの」に傍点]を見出し、のぞきこんだとしたら、その男はたぶん、たちまちに腰をぬかしてすわりこみ、自分がついに人間界の安全で正気な領土をふみこえてしまったのだと信じこんだかもしれない。
その異形のものは、とにかくも人の形をしていた。だが、はたして何人がそれを人であると認めただろう。
たくましい、いかにも実用向きに鍛えぬかれて、すべての筋肉がみごとに発達しきったそのからだは、腰に巻かれた粗末な革布をのぞいては裸だった。そのからだがまた、激しくふるえ――そして苦痛と渇きに無意識にかりたてられたように動いた。手が、よわよわしく、その倒れたすぐ前に渇えたものをさそうように涌き出している泉のほうへとのびたのだ。その大きな、強そうな手は、かわいた血と、そしてさんざん戦ったあとのようないくつもの傷に汚れていた。
その手が泉の清らかな水にとどき、掌をくぼませてすくいあげ、ふるえながら口元へ運んでゆく――おそらくそれ[#「それ」に傍点]――か或いはかれ――は渇き死にの一歩手前、というほどにかつえていたのだ。
だが口元に持っていった水を、かれはついに咽喉に通すことができなかった。再び、かれはこころみた、三たび。だがすべて結果は同じだった。
かれの口から、傷つき、死にかけている野獣の咆哮が洩れた。そのぞっとするような苦悩の声におびえて、泉のふちの木の梢から、小動物――たぶん鳥と獣のあいのこである飛獣のタウロである――がすばやくとびうつった。かれの手はもういちど水を汲もうとさしのばされた。
しかしそこでかれの力は尽きてしまった。かれはまた、全身を痙攣させ、がっくりとなり、そのままさっきと同じように動かなくなってしまった。
風が出てきて、さわさわと草をなびかせ、泉の水に小波を立たせた。下生えのあいだから、草ヘビか何かの紅く光る目がうかがい、奇妙な色とかたちとをした木々の梢からは、するすると吸血ヅタがおりてきた。
それもだが知らぬげに、かれ――或いは、それ[#「それ」に傍点]――は異形のすがたを無防備にさらしてよこたわっている。スタフォロス砦から遠くない、このルードの森林地帯で、かれはそうして渇き、弱りはて、かわいた血と泥にまみれたまま、緩慢でおそるべき死を迎えようとしているのだった。
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1
「リンダ! ねえ、リンダ!」
澄んだ高い声が呼んだ。いちおう、かれとしては、声をひそめてささやきかけたつもりだったのだ。しかし、少年の声は思いのほかに、静まり返った森の木々のあいだに高くひびきわたった。
「しッ! バカね、おまえは」
少女は鋭くとがめた。レムスは頬をふくらせて静かになった。だがまだリンダは満足しなかった。
「まったく、おまえったら考えなしなんだから――ここがどこだか忘れたの? ルードの森よ、まだゴーラの冷酷王の領土なのよ」
「リンダがどこかへ行ってしまったかと思ったんだもの」
少年は云いわけをした。そして同時に、そろそろと首をのばして、茂みの外をうかがった。
「大丈夫。騎兵たちは、行ってしまったようだから」
リンダも隣の茂みから頭をのばしてみていた。弟の不用意な叫び声が、通りすぎていった騎馬武者たちの一隊の注意をひかず、周囲はしーんとしているのを見てとると、茂みから這い出す、というこの難事業に思いきってとりかかる。
茂みはその果実がもっぱら口ざみしさを慰める嗜好食品に最適とされているヴァシャの木である。それはとげとげしい葉をもっている上に、樹皮にまで棘を植えこんでいた。リンダはまずその葉を注意ぶかくおしのけ、ほっそりと白いふたつの腕をのばして、棘だらけの枝をおさえつけ、たくみにするするとその隠れ場所をすべり出た。輝かしいプラチナ・ブロンドの髪につづいて、きゃしゃなむきだしの肩が、そして未熟でみずみずしい細い胴、男の子のようにすんなりのびた、長い革ブーツにつつんだ脚が、その一昼夜のとげとげした棲家からあらわれた。
「あーあ。からだじゅうが、痛くてめりめり云うわ」
リンダは云い、両手をつきあげて伸びをした。だが、すぐに弟の小さな悲鳴をきいて、そちらへ走り寄った。
レムスのほうは、リンダほど、その敵意にみちた隠れ家とうまくいってはいなかった。かれは棘だらけの葉と枝に存分にやわらかい手脚をひっかかれて、かわいそうに傷だらけになりながら悪戦苦闘していた。
「まったく、ばかなのね。何をやらせてもダメなのね、おまえは」
リンダは遠慮なく評しながら、少年のプラチナ・ブロンドの髪にもつれこんだヴァシャの枝を、細い器用な指さきでとりのぞいてやり、手をかしてぶじに地上に立たせてやった。
そうやって、並んで手をとりあって立つと、かれらはおかしいくらいよく似通っていた――双生児であるのだから、べつだんふしぎなことでもなかったが、それにしても、ふたつぶの真珠のようによく似たかれらが、ほのぐらいルードの森の下生えのなかに、揃いの革の少年用の短い衣服、革ブーツ、腰に銀づくりの短剣をさげ、同じ巻毛のプラチナ・ブロンドの髪、同じかわいらしい――リンダはその顔にきかん気なきっぱりした表情を、弟のレムスのほうはもっと無邪気なぼうっとした表情をたえずうかべている、というちがいこそあったが――美しい顔立ち、そして同じあやしいスミレ色の大きな瞳をして立っているようすは、さながら森の二人の精霊のように美しく、それを誰ひとり見ているもののいないことが、くやまれるほどだった。
もっとも、かれら自身は、そんなことになど、かまっているひまは、とうてい持ちあわせてはいなかった。
「ねえ、リンダ――これからどうするの。お腹がすいたよ」
レムスは棘にしこたま引っかかれた手脚を恨めしげにさすりながら早速聞きはじめた。リンダは腰をさぐってみた。腰をぎゅっと締めつけた太い革のベルトには、短剣入れのほかに、やわらかな革の物入れがついているのだが、その中をさぐってみても、今の場合かれらの役に立ってくれそうなものは何ひとつ見あたらなかった。
「携行食糧なんて、思いつきもしなかったわ。しかたないわよ、あのさわぎの中なんだもの」
「じゃあ、狩りをして、食べ物をみつけなくちゃ」
「ダメよ」
リンダは無慈悲に決めつけた。
「わたしたち、ルードの森へピクニックに来てるんではないのよ。何度いったらわかるのかしら――動物を狩ってひょっとしてスタフォロス砦の連中に見つかってしまったらどうなるかわかるでしょう。それにどうせ獲物があっても火をおこすわけにいかないわ。あんたは、生ま肉でよければ食べたらいいけれどね、レムス、わたしはイヤよ」
「でも、ぼく、お腹がすいて倒れそうなんだよ」
「わたしだってよ」
怒ってリンダは云ったが、ふいにハッとして周りを見まわした。
「何かきこえない?」
「なんにも」
「ひづめの音よ。さっきの騎馬武者がもどってきたのよ!」
リンダは何か云いかける弟を制すると、いきなりヴァシャの茂みにとびこんだ。棘にこすられるのも構ってはいなかった。さきゆき、どんな眩しいほどの美女に育つかは、誰がみても明らかだったけれども、本人はまだその自分の美しさや肌のたぐいまれななめらかさになど注意を払う年にはなっていなかったのだ。
「レムス! 早く!」
信じかねて立ったままでいる弟にリンダは激しく叫び、あわてて少年も姉のあとをおってヴァシャの茂みにもぐりこもうとした。
しかし、遅かったのだ。ルードの森のなかに続いている、道ともいえぬような荒れはてた道の上に、突然黒づくめの騎馬の一隊があらわれた。鋭い命令が先頭の、黒かぶとの上に黒の房飾りをなびかせ、面頬で顔をおおった隊長の口から発せられると、同じように黒かぶとに黒いマント、面頬をおろし、巨大な広幅の剣をおびた騎士たちはいっせいにウマをとびおりた。
「逃げるのよ、レムス!」
リンダは悲鳴をあげた。だがそのとき、茂みにもぐるのをあきらめて、敏捷に森の奥へ走りこもうとしたレムスの細い腕は、黒衣の男たちのひとりにがっしりとつかまえられた。
「放せ!」
レムスは叫んでもがいた。そのかわいらしい顔が、真に高貴な血と高貴な心だけのもつことのできる、誇り高い憤怒に燃えあがった。
房飾りをつけたかぶとの隊長がするどく命令した。それは姉弟に、むろん知らぬことばではなかったけれども、つよい辺境の訛りがかかっていて、うっかりしていたらききとれぬくらいだった。部下たちはヴァシャの茂みにかけよると、レムスの怒りの叫びにも、リンダがいっそう茂みの奥ふかくへちぢこまるのにもかまわずに、鉄の籠手をはめた手を茂みにさしこみ、ネコの子をつまみ出すようにリンダをひきずり出した。
むろん、かれらは棘になどしんしゃくしようはずもなかったから、リンダは髪や肌につきささる棘に悲鳴をあげながらひきずり出された。髪をおさえようとしながら、草の上に放り出された少女はからだも顔もひっかき傷だらけにし、痛さに涙をうかべて、息をはずませていた。
「野蛮人! 獣! ゴーラの豚!」
リンダはスミレ色の目を怒りに燃えあがらせて大声で罵った。
「なんであたしたちをこんな目にあわせるのよ! ゴーラの犬はわたしたちから何もかもとったじゃないの! お前たち誰もかれも、ヤヌスの神の雷がおちて黒焦げになればいいんだ」
怒りの涙を目ににじませ、ほっそりしたからだをふるわせている少女を、黒衣の騎士たちは冷やかに見おろしていた。隊長が粗野な声で笑い出し、そしてやにわに一歩進み出た。鉄でおおわれた手をあげて、リンダのあごをとらえ、その顔をのぞきこむ。隊長の意図ははっきりしていた。
「リンダを放せ!」
レムスは絶叫してあばれた。だが男たちの手はがっしりとかれを押えつけていた。リンダはいきなり面頬で鎧われた隊長の顔にむかって唾を吐きかけ、敏捷に飛びすさるなり腰の短剣をぬいた。
彼女は怒ったヤマネコのように物騒に、誇らかに見えた。しかし、その手に握られた短剣はあまりにも華奢な、細工入りの銀製のものでしかない。男たちはどっと口々にはやしたて、隊長はゲラゲラ笑いながら大股に少女に近づいた。リンダは剣をかまえてさがった。隊長は追いつめた。
再びあとずさった足が、草の根っこにひっかかった。リンダは悲鳴をあげて倒れ、その上へ、隊長がとびかかってきた。
「リンダ!」
レムスが叫んだ。リンダは組み敷かれながら、なおも屈しようとせず、激しく抗いつづけた。しかし、その体力と気力はみるみる尽き果てかけていた。
「リンダ――」
もう一度絶叫して、男たちの鋼鉄のような手をふりもぎってとび出そうと少年が身をもがいた、そのとき――
ふいに、すべての目が、驚愕に見ひらかれた!
隊長が、リンダの上からころげおちるようにして、そのまま凍りついた。その目が面頬の中で見ひらかれたまま、不信と恐怖に白くなった。リンダの弱々しい恐怖の悲鳴が恐しい沈黙の中に立ち消えた。
それ[#「それ」に傍点]は、ゆっくり、ゆっくり、木立ちのあいだからあらわれ、近づいて来たのだ。
両手が前につきだされ、まるで手さぐりで歩く死者《ゾンビー》のように、おぼつかない不吉な歩きかた。足もとは震え、しかしかれらのほうに近づくにつれて、少しづつ足どりがしっかりしてくるようだ。
「な――何だ、あれは!」
騎士のひとりがふるえる声で云った。もっとも、云った当人ですら、自分が何か口走ったことに気づいてはいなかったかもしれない。
「ルードの悪鬼だ!」
「死霊《ゾンビー》……」
「化物だ」
一瞬、騎士たちのあいだにざわめきが立った。ゆるやかに木々のあいだをぬけ、近づいてくるそれ[#「それ」に傍点]は、騎士たちの迷信深い心を動揺させるに充分な、現実にさまよいこんだ悪夢の相をもっていたのだ。
「ヤヌスの神! お助けを!」
気の弱いのが、わめき声をあげ、いきなりウマのほうへかけだした。それが凍りついていた騎士たちの呪縛を破った。かれらはレムスを放り出し、我さきにウマの方へ走った。
「待て――誰が持場をはなれていいと云ったか!」
隊長があわててわめいた。度肝をぬかれ、おびやかされてはいたが、さすがに隊長だけは役目を忘れてはいなかった。
リンダもまた素早かった。隊長の手がゆるんだ一瞬に、彼女はその手をぬけだして、弟めがけて走った。
「待て!」
隊長は叫び、不覚にもそちらに気をとられて異形のもののことを忘れ、一歩ふみ出した。
「お前たち、パロスの双児を捕えるのだ――」
だが、隊長は、終りまで命令を発しきることはついにできなかった。怪物のまっすぐにさしのばした手が隊長のかぶとの房飾りをつかみ――そして巨大なそのふたつの手が彼の咽喉首をつかまえたとき、隊長は絶叫して腰の剣をぬこうともがいた。しかし剣が半分も鞘走らぬうちに、ごきりといやな音がして、逞しい腕につかまえられた隊長の首は真後ろに折れていた。
「隊長が――!」
部下たちは足をとめた。恐怖のために度を失いかけてはいたものの、かれらは訓練された兵士であり、臆病な女たちの一隊ではなかった。隊長の恐しい最期を見ると、かれらは大声でわめきながら、ウマにとびのって逃走するかわりに、剣をぬいて怪人をとりかこんだ。
怪物の口から奇妙なすさまじい唸り声がもれた。騎士のひとりがやにわに切りかかると、怪物は隊長の死体をもちあげて応戦した。たちまち、ルードの森の奥は悲鳴と叫喚――剣と鎧のひびきにつつまれた。
パロスの双生児たちは、まったく騎士たちから忘れ去られ、かれら自身も、逃げることさえも忘れて、魅せられ、恐怖に凍りついてその奇怪な戦闘を見守っていた。かたく手をとりあい、よりそいあったかれらのからだはガタガタふるえていた。かれらはほんの数日まえに、もっと大規模な戦いを――それこそがかれらをこんな辺境に放浪させたいわれに他ならない阿鼻叫喚の地獄図をやはりこのように手をとりあって見守っていたのだったが、しかしゴーラの、パロス攻略の大攻防戦でさえ、いまルードの森の奥でくりひろげられている戦いの異様で、しかも奇怪なこととは比べるべくもなかっただろう。
「リ――リンダ」
全身を小きざみにふるわせ、魅せられきって、レムスはささやいた。
「なんだろう――なんだろう、あれ[#「あれ」に傍点]は!」
「わかるわけがないわ!」
リンダは歯をカチカチ鳴らしながら、やっとのことでかすれ声でささやきかえした。
「ひょっとしたら――悪魔ドールかもしれない」
「ああ、神さま!」
そのうめき声は、思わずも少年の唇を洩れてしまったのだった。目の前で、それ[#「それ」に傍点]は切りかかってくる十人の熟練した剣士を、巨体とは思えないなめらかな足さばきでかわしながら、ゆっくりと、しかし確実な死を撒き散らした。怪物の武器は怪力と、そして隊長の死体だけだったが、重いよろいごと、怪物がぶんぶんとふりまわす、隊長の死体にぶつかって、すでにもう三人の騎士が頭をつぶされて倒れ、二人が腕を折られていた。
「ドール! 彼はまるで――まるで神のように強いわ!」
レムスはびっくりして姉を見やった。リンダはしだいに心をうばわれ、ほとんど恍惚として、怪物の戦いぶりに見とれていた。
「どうしてだんびらを拾って、死体のかわりにそれで戦わないのかしら――どうして!」
地団駄をふまんばかりに彼女はささやいた。だが戦士は重い死体をぶんまわして投げつけ、二人をいっぺんにその下敷きにしてしまっていた。のこる三人は絶望的になりかかっていた。
同僚の呻きととびちる血に逆上した男がやにわにむこう見ずにも剣をかまえて体当たりした。怪物は体をひらくなり男をつかまえ、常人の腿ほどもある両腕で、そいつの胴をまき込んだ。大蛇にまき込まれたように悲鳴をあげつづける男の背骨を、鎧ごとへし折るまで、その腕はゆるまなかった。
「あと二人[#「あと二人」に傍点]!」
リンダが荒々しく囁く。
「うしろへまわれ!」
のこる二人のうちの一人が叫び、もう一人が得たりと木々のあいだからまわり込んだ。だが怪物はじりじりと正面から迫る剣士をあしらいながら向きをかえ、すばやく大木を背にとって、かれらの奸計を封じてしまった。わめきながら剣士が剣を持ち直し、いきなり投槍の要領で投げつける。ゴーラでよく使う戦法なのだ。幅びろの大剣が、鎧もつけてない裸の胸を、あわや貫通するかと見えた刹那に、彼は身をかわしざま手刀でそれを叩きおとし、拾いあげると電光のように突進した。
彼が剣を倒れた者から奪わなかったのが、彼が剣の扱い方に長けていないためではないことは明白だった。彼は生まれおちてからずっと剣を握って育ってきたとでもいうかのように、かるがると重い大剣を操った。次の瞬間、逃げようとしたゴーラの戦士の首が血を憤き出しながら宙に舞い上った。彼は身をひるがえすと、森の奥へ逃げこもうとしていたさいごのひとりを後頭部から背中にかけて叩き割った。
「やったわ」
リンダが叫んだ。レムスはリンダの手をひっぱった。
「こっちへ来る!」
怪物はまさしく、森の中で血に塗れた大だんびらをひっさげたままふりかえり、パロスの双児のほうをその異様な目で見つめていた。もう、そこに無事に立っているものは、かれらしかいなかったからだ。リンダは魅せられたように彼を見返し、恐怖も忘れていた。レムスはもういちどリンダの手をつかんだが、怪物がこっちへ来るとみると、健気に前へ出て、おちていた剣をひろいあげて構え、
「リンダ、逃げて!」
と叫んだ。
リンダは弟の叫び声を耳に入れてさえいなかった。彼女の目は吸いよせられたように、その怪物の、おどろくべき姿にくぎづけになり、どうしても目をはなすことができなかった。まばたきする間に、それも素手で、屈強のゴーラの騎馬武者隊十一人を叩きふせてしまったそれ[#「それ」に傍点]は、いったい、人間なのか、それとも人間以外の何かなのか、そうだとしたらいったい何[#「何」に傍点]なのだろうか? という驚きにみちた疑問が、彼女の心を占めてしまっていた。
それを人間、と呼んでいいものかどうか、リンダにはわからなかった。首から下はたしかにまぎれもなく人間そのものだ――ただ、途方もない体格ではあるけれども。じっさい大闘技会の優勝者でさえも青ざめるような見事な体躯だった。なみはずれて大きな全身が、きたえぬかれ、強さとやわらかさと、そして敏捷さをも秘めたすばらしい筋肉に鎧われ、胸も肩も腕もあつく盛りあがっていた。肩幅の広さと、ひきしまった胴との対比はちょっとした見ものだった――リンダは、まるでずっと多勢をあいてに戦いつづけていたかのように、いまさっきの戦いの浅傷や返り血のほかに、いくぶん古い、しかし手当てされていない傷がその比類ないからだのあちこちを汚しているのを見てとった。
それというのも、彼がかろうじて腰をつつんでいる革の足通しのほかには、靴ひとつ、身につけていない裸だったからだが――だが、それにしても、そこまでであったのなら、リンダにしたところで彼が人間であるのかどうかなどと、心を悩ませるいわれはなかった。
しかしその男の首から上は――
リンダは目を瞠り、可愛い拳を無意識に口にあてがって噛みしめながら、目前にさまよい出た夢魔のかたちを見つめつづけていた。
その男の首から上は、完全な、巨大な豹の頭だったのだ。
獰猛に裂けてめくれあがった口から巨大な牙がのぞき、目はふたつの、黄色く燃える炎である。豹頭人身のその怪物は、だんびらをひっさげ、ゆっくりと、立ちすくむレムスとリンダに近づいてくる。
そのとき、リンダは見た。豹頭の怪物のうしろに、隊長の死体の下敷きになって倒れていた騎士のひとりが息をふきかえし、喘ぎながら上体をそらして静かに剣を投げつけようと腕をうしろにひいたのだ。
「うしろよ、うしろ! 気をつけて!」
もしかしたら――いや、十中九までは確実に、自分たちをもそこに倒れている騎士と同じ運命をたどらせようという暗黒な意志をもってゆっくりと近づいてくるその怪人に、なぜそんなふうに味方してしまったのか、リンダにはわからなかった。
しかし知らぬあいだにリンダの唇からは警告の叫びがほとばしり――豹頭の怪物の反応はすばやかった。
ふりむくなり、ちょうど彼の広い背中めがけて投げつけられた剣を払いおとし、ふた足でかけよって騎士の首を貫いてとどめを刺した。いかにも流血の沙汰に馴れきっているように、的確で無慈悲な動作で。
(ああ――! 次はわたしとレムスだわ。ヤヌスの神よ!)
リンダは両手で口をおさえた。レムスはふるえながら剣をつかんでいたが、疲労しきったきゃしゃな手では、重い剣は支えているのさえやっとのようだった。
獣人はおもむろに向き直った。双の目が妖しい光をはなって、二人の子どもの姿をとらえた。
その手から、段びらが力なくおちていった。リンダとレムスはびっくりして眺めていた。ふいに豹人は全身の力がぬけおちてしまったかのようだった。あれほど力と生命とにみちあふれて見えていたからだが急に左右にかすかに揺れはじめ、彼はついにがくりと膝をついた。
「ど――どうしたんだろう」
レムスがふるえ声で云う。リンダは獣人の顔と、そして訴えるようにかれらの方へさしのばされる手の動きとに気がついた。口が何か云いたげに動いたが、洩れたのは奇妙な、押しつぶしたようなうなり声だけだった。
「何か――何か頼んでいるのよ。何かしてほしいのよ」
「リンダ、逃げよう。騎士たちのウマがあるから――」
「レムス!」
いかにも、驚いた、というように、リンダは非難の表情で云った。
「彼はわたしたちを助けてくれたのよ」
「彼? これが人間だ、というの、リンダ――」
「見て!」
リンダはさえぎった。豹頭の男のたくましい両手が、のどへあてられていた。左手で、苦しげにのどをつかみ、右手はしきりに頭をこするようなしぐさを繰り返す。
「わかったわ!」
リンダは両手を打ちあわせて叫び、進み出た。弟は剣を放り出し、あわてて無分別な姉をとりしずめにかかったが、リンダはふりかえろうとさえしなかった。
「彼は人間よ。彼は豹の皮をかぶせられているだけよ。見て、彼はそれをとってほしいのよ」
「リンダ、かまわないほうがいい――」
「まあ、おまえは忘恩の上に臆病者になるつもり?」
決めつけておいてリンダはおそれげもなくつかつかと歩みよった。
「何をしてほしいの? ねえ、どうしてほしいの?」
ほっそりした手を、獣頭の男の血だらけの頭にさしのべてのぞきこむ。きゃしゃで細身の、少年のなりをした彼女が巨大な豹頭の男を気がかりそうにのぞきこむと、それはさながら獅子の周囲をかけまわるウサギか、あるいは小鳥かそんな可憐な光景を思わせた。
豹人が何か云った。というよりも、さっきから発していた声が、ようやく、何とかききとれるまでにはっきりしてきたのだ。
「グイン――グイン」
彼はたしかにそうくりかえしているのだった。
「え? なあに? ねえ、わたしにできることはあって?」
リンダは辛抱づよくくりかえした。だがそのとき、豹人のからだはぐらりとかしぎ、とうとうルードの森の下生えの上に横倒しになった。リンダはずしんと地ひびきをたてたその重いからだからとびのき、それからもっと遠慮をなくして、手を男の血のこびりついた厚い肩にかけてみた。
そして、小さな驚愕の声をあげた。
「まあ――ねえ、レムス、この人は病気なんだわ。とても弱っているみたい。さっきは少しもそんなふうに見えなかったのに……レムス、ちょっと、レムスったら、早く泉へいって何かに水をくんできてよ。手当をしてあげないと、この人死んでしまうわ」
「リンダ、ねえ、リンダ……」
「ぐずぐずしないで。夜が来ちゃうじゃないの」
リンダはまだ抗議したそうな弟に、威厳のあるしぐさで森の奥を指さしてみせた。不承不承、少年は立ちあがる。リンダはもう、すっかりその豹頭をかぶった怪人に心を奪われていた。彼女はプラチナ・ブロンドの髪をぐいと振りやり、かわいい少年めいた顔に決然とした表情をうかべて、改めて豹頭の男の傍にひざまずいた。
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2
辺境で夜を迎えるのは、勇気の要ることである。
頭上に屋根と、そして周囲に壁があってさえ、そうなのだ。もし少しでも分別のある人間だったら、まかり間違っても、このあたりで野宿しようなどという気持は起こすまい。
パロスの双児たちは、ゆたかな中原地帯で育ったのだったから、もちろん、辺境のきびしさとそれが秘めている妖魅や、蛮族や、野獣の脅威についてきかされてはいたけれども、とうていそれを実感として身に叩きこむわけにはいかなかった。また、それだからこそ、ヴァシャ樹の茂みをたてにして一夜をルードの森の中で明かすという無分別ができたのである。
自分たちが目にみえぬ幸運に守られていたことを、リンダもレムスも知らぬままでいたが、しかし辺境の森の中で迎える二回めの夜ともなると、さすがに少しは用心ぶかくなっていた。かれらのまわりには、スタフォロスの砦の騎士たちの死体がそのままになっていたし、いずれは砦から、帰らぬ騎士たちをさがしに手の者があらわれることも確実だった。
「ねえ、リンダ……」
レムスの声が心ぼそく低まっていたのも、その見通しの暗さのためだったろう。
「なあに、もっと草をとってきてよ」
何事につけてもリーダーシップをとる姉のほうは、せっせと怪我人の逞しい手足を、濡らした布で洗ってやり、薬草をもんでひろげてやりながら、ふりむきもせずに云った。
「イヤだよ、もう、日が沈むもの」
「わかってるわ」
「夜が来るんだよ」
「わかってるわよ。だから、急いでいるのじゃない、バカね」
「ねえ、ぼく草を集めるから、火をたこうよ」
「ダメよ」
リンダはするどく云った。
「砦から煙が見えたらたいへんよ」
「だって、夜になったら……」
「わかってるわ、ここは辺境だ、といいたいのでしょ」
リンダは豹頭をかかえおこし、その唇に水を注ぎこもうと腐心しながら云った。
「辺境の恐しさぐらい知ってるわ。でも、じゃあどうするの、スタフォロス砦へ出かけていって、妖怪変化がこわいからひと晩とめて下さい、と頼んでみるの」
「リンダ、リンダ!」
「そんななさけない声で、『リンダ、リンダ!』なんて云わないで頂戴」
リンダはとがめた。
「パロスの聖王の正統な世継ともあろうものが、なんていうざま?」
「だって――」
「しっかりするのよ、レムス。わたしたちは、何とかして生きのびなくてはならないのよ。とにかくウマは手に入ったし、剣もある、食糧も騎士たちの物入れにあった。今夜ひとばん、切りぬけられさえすれば、森をぬけて街道からどこかの町へ出られるわ。でも今夜は、わたしたち、ここにいるほかはないのよ」
「そんな化物に構っていないでどんどん行ってしまえばよかったんだよ」
「そして方向を見失ってルードの森を永久にまわりつづけるの? 馬鹿を云わないで! わたしにはいつだって、正しい道が見えるのよ。だって――」
リンダは眉をしかめて考え深げにつけ加えた。
「わたしはリンダ――<予知者>リンダなのだもの」
弟は沈黙した。同じ真珠の二粒のようによく似たパロスの双生児でありながら、姉の持っている超能力、王家の血筋の条件のように思いなされている予言、透視、予知の能力を持っていない、ということは、かれの十五年間の生でかわらぬ負い目になっていたからである。
リンダのほうは、しかし、弟のそんな傷つけられた沈黙など、気にとめてさえいなかった。ふいに彼女は熱意をあらわして病人の上にかがみこんだ。
「見て、レムス! 彼は気がついたわ!」
豹の頭が弱々しく、それからはっきりと左右に振れた。スミレ色のたそがれ――逢魔が刻の薄闇のなかで、その奇妙な黄色っぽい光をおびた目が見開かれ、そして上にかがみこんでいる子どもたちの顔を認めた。
巨大な口がかすかに動き、唸り声が出た。レムスはあわてて身をひいたが、リンダはいっそうかがみこんでその頭をかぼそい手でおさえ、かれらが味方であることを何とかしてわからせようとした。
「なあに? 水?」
ゴーラの騎士のかぶとを即製の容器にして、レムスの汲んできた水をさしだすと、豹頭はやにわに身をおこして、目を光らせてそれへ手をのばした。
だが、その鉢を口にもっていって、彼は失望ともどかしさに狂気のような唸り声をあげた。かぶせられた豹の仮面は彼の顔と水とのあいだに厳しい隔てとなって、彼の渇きをいやすすべをなくしていたのだ。
彼の失望をリンダは可愛らしい頭をかしげて見つめていた。しかし急に思いついて両手をうちあわせると、立ちあがり、あちこちさがしはじめる。
ようやく求めていたものを見出して、得意顔で持ちかえってさしだしたのは、一本のむぎわらだった。それをそえて手真似で示すと、彼はうけとってむさぼるように飲んで渇をいやした。
彼の衰弱の原因はその九割方が、ひどい渇きと餓えとからきているようだった。大きなかぶとに満たされた水をまたたくまに飲みほしてしまうと、もうほとんど、彼は常態に戻っていた。
「ひどいことをするものね」
考え深く豹頭を見つめながらリンダが云う。
「こんな仮面をつけたら、放っておけば、食べることはおろか飲むこともできないわ。あなたが気を失っているあいだに、何とかしてそれをとってあげようとやってみたのだけれど、呪いでもかかっているようで、どうしてもとることができなかった。いったい、あなたのような凄い剣士が、どうして、そんなものをかぶせられることになってしまったの?」
豹頭は注意深く耳を傾けていた。リンダのことばをすべて理解している証拠には、豹頭の奥の目は鋭い光をうかべてリンダを見つめている。その仮面は目の部分だけがくりぬかれ、そこだけは彼のほんとうの顔があらわれているのだが、その双の目は、おさえた憤怒とそして鉄の意志とをひそめて黄色っぽく、そのままでまことの野獣の目であるといってさえおかしくはなかった。彼はリンダのことばをきくと、その力強い手をあげて、仮面をとろうと再びこころみた。
だが、そのこころみは奏功しなかった。苦痛の低い唸りをあげて手をおろすと、彼はリンダのさしだした、騎士たちがウマの鞍につけていた携行食糧の乾肉をうけとり、口へはこんでみた。こちらのほうが水よりはたやすくマスクの奥へさし入れることができて、まもなく彼は熱心に乾肉をかみはじめた。
「どうやら、生きてゆくために必要なことは、それがとれなくてもやってゆけるようね」
リンダは結論を出し、楽なようにひざをかかえてすわって、肉をむさぼり食う男を見つめた。
レムスはその横で目を丸くして見つめていたが、
「じゃあ、この人は本当に人間なの?」
疑わしげにきいた。
「ばかね!」
リンダは一蹴して、
「この豹頭は、どこかの王か貴族――それとも魔道師の怒りにふれて、むりやりかぶせられたのにきまっているわ。だって自分で好んでこんなものをかぶる人なんて、いるわけがないもの。とろうとしても、とれないところをみるときっと誰か魔道師のしわざにちがいないわ。ねえ、わたしたちは、あなたに助けてもらったし、あなたを助けてあげたのよ。だからわたしたちは味方だわ。あなたは何というの?」
後半分は豹頭の戦士にむかって云った。
豹頭はどうやら生気をとりもどしていた。もともとなみはずれた体力と回復力とをそなえていたのだ。彼は肉を手にもったまま、くぐもった唸り声を出した。リンダはおびやかされてとびのきかけたが、それがかぶせられた仮面のためにくぐもってはいるけれども、彼女たちにも理解可能なことばであるらしい、とようやく気づいて、注意を集中した。
「え?」
「グイン――」
彼はどうやら、そう繰り返しているのだ。
「グイン――それが、あなたの名まえ?」
「そう――らしい」
こんどはもっとはっきり聞きとれた。
「わたしはリンダ。こっちは双児の弟でレムスよ。あなたはどこの人、グイン? この肌の色からみると、少なくとも、北方の人ではないと思うのだけれど」
「アウラ……」
それが彼の答えだった。
「え?」
リンダはききかえした。
「なあに?」
「アウラ――」
「アウラ――って? あなたのやってきたところ?」
「わから――ない」
ことばは、いったん豹の頭の仮面にあたってくぐもらされるために、ひどく重々しく、そして不明瞭だった。リンダは苛立たしさに、気短からしく舌打ちしてのりだした。
「アウラ――グイン」
「ねえ、どうしてこんなものをかぶせられることになったのだか、話してよ」
「リンダ」
レムスは姉のように才気煥発でもなく、予言者でもなかったかもしれないが、しかし少なくとも実際的で理性的ではあった。かれはさっきから心配そうに周囲におりてくる紺青の夜闇を見やっていたが、姉がすっかり夢中になって、あたりの情況も、ここがどこか、ということさえも忘れ去っているのをみると、たまりかねて乗り出して、リンダの肩をつよくつかんだ。
「何よ、痛いわ」
「ね、リンダ、夜がくるよ[#「夜がくるよ」に傍点]!」
「わかってるわ」
云い返したが、リンダもさすがにいくぶん心もとない顔になっていた。彼女はあらためて周囲を見まわし、そして思いのほかに近くまで宵闇の忍びよっていたことに気づいて、ヤヌスの印を切った。
「ねえ」
豹頭の男にむかって彼女はささやいた。
「夜がくるわ。夜がくるのよ[#「夜がくるのよ」に傍点]!」
「そのようだな」
グイン――と名乗った男のことばに、姉弟が馴れてきたためか、それとも彼の方が、はっきりと喋れるまでに渇きがいやされてきたためか、以前よりもいくぶん会話はたやすくなってきていた。男はあたりを見まわし、紫色の、ねっとりした闇におおいつくされた、奇妙でいかがわしい恐怖と未知をはらんだ森の奥のすかし見た。
下生えは立ちあがり、ざわざわとさわいでいた。風が出てきて、なまぐさい不吉な匂いを運んだ。木々の梢で吸血ヅタがしゅうしゅう云い、下生えのあいだには、草ヘビや、もっとちがうものの目がひそやかに紅く光りはじめていた。昼のあいだ、沈黙を装っていた森は、ようやくその本来の姿に立ち返ろうとしていた。
「それが、どうかしたのか」
グインはきいた。リンダは失望と不信に激しく舌打ちをした。
「まあ、ここがどこだかわからないの! もうここは中原地方じゃないのよ。スタフォロス砦は辺境と中原地方の境い目に立っている。ゴーラの支配だって辺境では名ばかりで、ルードの森からさきへは、モンゴールの黒騎士隊だって一個小隊では入ってゆくのをいやがるわ。だからこそわたしたち、妖怪たちの領土であるのを承知で、この森へ逃げこんできたのよ。
ねえ、夜がくるのよ! ただの夜じゃない、辺境の夜、妖魅たちと蛮族と森の住人が動きまわりはじめる夜よ!」
「ねえ、火をたこうよ」
レムスが両腕で自分の肩を抱き、そっと歯を鳴らしながら提案した。リンダはまた、「だめ」
一蹴しようとしたが、考えてみて賛成した。
「それしかないわね。ヴァシャ樹はわたしたちを一晩守ってくれたけれど、あなたは大きすぎてヴァシャの茂みには入れないもの。それとも、ねえ――グイン、あなたは半分は妖魅の血でも入っていて、辺境の夜など何とも思わないの?」
彼の口にした名を、リンダはおそるおそる使って、豹頭の男に呼びかけてみたが、はじめてその名を口にしたとき、奇妙な宇宙的な戦慄ともいうべきものがその五体をかけぬけるのを感じたのだった。
(わたしはどうしたというのかしら)
あれこれと予兆を感じとることに長けていたのだが、ふいにリンダは、いま自らの身内をかけぬけた戦慄の意味をよみとることを恐れた。彼女は弟のいぶかしげな目に見られながら、弟をまねて両肩を腕で抱きしめ、いま全身を走ったおののきはルードの森の寒気のためだ、というふりをした。
豹頭の男のほうは、そんなリンダの当惑になど、気づいたようすもなかった。彼は巨大な手を目の前にもってかざし、しげしげと眺めていた。
「傷をおっていた」
彼はつぶやいた。もっともそれは、リンダにしかききとれなかった。
「ここにも、刀傷がある。ということは、俺は戦ったのだ。これは――だが鞭の傷のようにも見える。辺境――スタフォロスの砦?
ルードの森――聞き覚えのあるような気がするのだが……俺がどうしてここにいるのか、それがわからぬ。
わからんといえばこれもそうだ――」
手をあげ、顔と頭をすべておおっている豹の首をまさぐってみて、
「いったい俺はなぜこんなものを?」
「わからないの?」
リンダは叫んで両手を口にあてた。
「あなたは、記憶がないの?」
「どうも――そのようだ」
はじめから、ある程度の精神感応能力をもちあわせていたゆえかどうか、リンダとレムス、ことにリンダには、グインのことばは少し馴れればたやすくききとることができた。しかしそれはかれらであったからこそで、かれら以外の少し不注意な耳であったら、豹の巨大な口からゆっくりと、くぐもって吐き出される彼のことばはほとんどが、まるでただの唸りや呻き声としか、きこえなかったかもしれない。
「俺は――誰と戦ったのだ?」
「少なくともゴーラの大公の黒騎士小隊ひとつを全滅させたわ」
リンダは云って手で示した。豹頭はそちらを見やり、いぶかしむように首を振った。
「あれを俺が?」
「そしてわたしたちを助けてくれたのよ」
「ねえ、リンダ、火をたこうよ!」
たまりかねてレムスがわめいた。リンダはまた我に返って、自分たちのおかれている状況に気づいた。
「そうだったわね。――ねえ、わたしたち、ここでは安全に夜を送って生きのびるわけにはいかないわ」
「妖怪たちは血の匂いが好きなんだよ」
レムスが昔習った知識を披瀝した。
「あの死体といっしょにいるのは、危ないことだよ」
「泉があったわね」
リンダは考えて云った。
「泉を背にして、火をたいて一晩起きていましょうよ。水妖は自分から陸に出てきて害はしないし、火はすべてから人を守ってくれるヤヌスの護符だわ。そうそう、それからウマを三頭つれてゆかなくっちゃ。明日の朝、日の出と同時にルードの森をぬけたいもの」
「お前たち――」
グインは苦労しながらことばをさがした。
「お前たちはなぜこんな危険なところにいる?」
「ぼくたちは――」
答えかけたレムスの腕を、姉がつねった。
「わたしたちはモンゴールの大公に追われているのよ」
そうとだけ云って、リンダは立ち上った。
「さあ、早く行かなくては」
「俺は何者なのだ?」
その声は、思わずも唇を洩れた、とでもいう、なまなましい苦悩をはらんでいた。リンダは思わず、気のせくのも忘れてふりかえった。
「俺は何者だ――グイン? それが俺の名なのか? 俺は誰と戦い、なぜこの森の中にいる? なぜこんな――こんなものをかぶせられ、どんな呪いでとることさえできないのだろう――俺の本当の顔がいったいどんなものなのか、俺はこうしていて、思い出すことさえできずにいる。
俺は追われていたのか、それとも罪と処刑から逃れてきたのか――どこで生まれ、誰に剣技を習い、どのような生活をしてきたかさえ、俺は思い出すことができない。
それに、アウラ――アウラ[#「アウラ」に傍点]? グイン、という――俺の名であるらしい親しみ深いひびきと並んで、そのことばがさっきから、しきりに俺の頭の中で鳴りつづけている。アウラ――アウラ? それは、いったい何の――それとも誰の[#「誰の」に傍点]名なのだろう。何を意味しているのだろう。
俺の港――或いは俺の屋根、俺の鎧、俺の主君――それらはどこにあるのだ? どこにいったら俺は安らかに友人の腕の中で眠ることができ、どこに行ったらお尋ね者として指さされ、生命を狙われることになるのだろう。
俺にはわからん――」
戦士は巨大な掌で豹頭をつかみ、狂おしくひきはがそうとした。だが、それは、頑強に彼の頭にしがみついていた。彼は頭をおおってうずくまった。
リンダのやさしい胸に同情があふれた。彼女は戦士の肩に手をかけ、子どもらしい慰めを与えようとこころみた。
「きっと、疲れて、それに戦って傷をおったせいよ」
彼女は甘い声でささやいた。
「そのうちにきっと何もかも思い出すし、その仮面もとることができるわ。わたしもその手助けになってあげる。
だから、行きましょう。ここはもういてはいけないところだわ。明日の朝になれば、すべてはよくなっているわ……」
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3
それは奇怪で――そして心を魅する、忘れがたい夜のひとつであった。
リンダはのちにコーセアの海やモンゴールの塔のなかで、レムスはパロスの絹のしとねのあいだで、もしかしたら戦士グインもまた心の中ではしばしば、誕生の聖夜にも比すべきその奇妙なあやしい一夜のことを、思い出したものである。辺境の森の奥ふかく、さかんに燃えあがっている火だけを頼りにして、俳徊するあらゆる種類の妖魅、悪霊、それに食屍人《グール》のたぐいから身を守りながら夜を明かすのは、好んで血と冒険とを求めてゆく辺境警備隊の傭兵たちでさえも敬遠したがる種類の経験であった。
ましてや、その火をとりかこむ三人のうち、ふたりまでは、服を白いうすものにとりかえて立てば水妖精《ナイアド》にも、木霊精《エコー》にも見まごうかという、火をうけてきらきらと輝く霜の色の髪、闇の中では銀色にみえるヴァイオレットの瞳、ほっそりとしなやかな手足の、ふたつぶの真珠のような双生児たちであり、残るひとりはといえば、なみはずれて精悍な四肢におぞましい豹頭の仮面をつけ、目を暗い怒りに燃え立たせた異形の戦士なのである。
グインはリンダのすすめで、自ら屠ったゴーラの黒騎士小隊の屍から、からだに合いそうな胴丸と鉄の籠手にすね[#「すね」に傍点]当て、それに革長靴をとって身につけ、腰に最も性のよさそうな段平を帯び、さいごに軽くて丈夫な黒マントを肩からかけていた。かぶとだけは彼はとらなかった――ゴーラの黒かぶとをつけることは、万が一ゴーラに敵対する蛮族や諸国の兵に出くわしたとき致命的な誤解を招く、ということのほかに、もっと単純な理由として、巨大な豹頭をおさめることのできるほど巨大なかぶとなど、ありはしなかったのだ。
そうして衣服をととのえ、疲労もいえてみると、おどろくべき男性的な体躯であるだけに、彼は別人のように立派にみえた。衣類をととのえると、その奇怪な豹頭さえもが、ただおぞましい獣人のそれというよりは、半獣神なる戦士を思わせて、ふしぎなほど精悍に、そして野性の精霊の神秘な力を秘めて見えた。
それは何という、ファンタスティックな光景であったことだろう――火は、オレンジ色にちらちらとたえまなく燃え、三人のだれかが万が一にもつきることのないよう、ひっきりなしに補給する、油けをたっぷりふくんだ枝や草のおかげで、美しくゆらめきながらそのまわりにだけなまめかしい昼を作り出していた。
その火が照らし出す円形のひろがりは、あらゆる妖魅からも、そして魔物をひそめた辺境の夜そのものからもかれらを守ってくれる、ささやかだが堅実な領土だった。リンダとレムス、パロスの聖双生児は二人ともマントを草にしき、その上にひざをかかえていたずらっ児のようにすわりこみ、ぴったりとよりそいあっていた。かれらの目はしばしば敵意にみちた、光のとどかない闇のほうへ向けられ、また、火のちらちらする灯りに照らされながらうずくまっている、巨大な異形の道連れのほうへむけられた。火がゆらめくと、その照り返しが、豹頭の戦士の鎧の金具に反射して小鬼の踊りをおどってみせ、すると戦士の悪夢を思わせる異形はいっそう奇怪にかれらの目にうつるのだった。
外の闇では、本来それらの領土であるところの夜に対する、この小さな、不敵な挑戦と侵略とを怒って、いろいろなぶきみなものの気配がうごめいていた。この辺境でさえ、妖魅と人間とのあいだには、はっきりとした境界があり、そこで火がたかれて、人間たちが目ざめており、人間のルールがおこなわれていることが明らかな限りは、妖魅たちにもむやみな手出しはできない。ひるま、無人の荒野然と静まりかえっているルードの森は、夜闇と共にその本来のざわめきと妖しい生命をとりもどし、闇のなかにはありとある、地上のものでない小昏い生物たちがうごめいていたけれども、かれらがあえて光と火の円陣をおかし、生身の三人の侵入者たちに手をのばしてこないのはただそのあやうい境界のゆえだった。
しかし、その火の届くわずかな範囲の外側では、かれら森に巣くうものたちは、跳梁をほしいままにしていた。巨大なぬらぬらしたものが下生えのあいだを荒い息を吐きながら這ってゆくような、ずるずるという音、シューッ、シューッ、という吐息をリンダたちはきいたし、小さなきらきら光る目をもったおぼろげなもの[#「もの」に傍点]が、火の明りのすぐ外までいくつもやってきて、奇妙な耳ざわりなささやきをくりかえしたりした。また、ときおり闇の中で、大きな羽をもったものがとび立ってゆくバサバサという音がしたかと思うと、荒々しい争闘の物音がおこり、それにつづいて恐しい骨をかみ砕くバリバリという音、血をすする音、そして獲物を争いあうぞっとするような物音がきこえてきた。
リンダとレムスは異様な音をきくたびに、ひたとよりそって手を握りしめあった。かれらは十五年間そうやって、かたときもはなれずに暮らしてきたので、いまではそうして抱きあっていないとまるで半身が失われるような気持になるし、そしてぴったりと身をよせあっていれば、何がおこっても、心配することはないし互いの力で何とか切りぬけられる、と信ずることができるように思うのだった。
「こ――ここはひどく暗いのね。火が、弱まってきたのではなくて?」
だが、それにしても、それはまだ<儀式>を終えていない子どもたちが過ごすには、あまりにも苛酷な夜であったには違いない。
リンダは黙って外の異様な、恐怖をそそる物音に耳をすましていることに耐えられなくなって口をひらいた。
しかしすぐに、ぎょっとした顔になってレムスと顔を見あわせた。
(火が弱まってきたのではなくって?)
(きたのではなくって?)
(なくって?)
(なくって?)
四囲は森で、声は吸いとられてしまうはずなのに、あざわらう調子をひそめて、木霊が返ってきたからだ。
戦士はきっとなって段平に手をかけ、身をおこしかけた。声の中にはまぎれもない悪意と嘲弄がひそんでいた。
「大丈夫よ。<|ものまね屋《モッカー》>の小鬼だわ。何もできやしないわ」
リンダは闇の方をにらみつけながら云い、再びおこった悪意にみちた木霊を無視した。
「眠っちゃダメよ、レムス。とろとろとでもしたら夢魔がつけこむわ。眠くなったらひざをつねるのよ」
「大丈夫だよ」
「これで二晩、眠っていないもの。つらいのはわかるけれどね、明日になれば……」
「明日が無事にやってくるかどうかなんて、誰にもわかりゃしないよ、<予言者>リンダ」
レムスは拗ねたように答えた。リンダはむっとして黙りこもうかと考えたが、沈黙の中できく闇の物音のことを思えば、弟の反抗や、からかうような<|物まね屋《モッカー》>の木霊のほうがまだ我慢しやすかった。
「明日は来るわよ」
彼女は云い返し、誇りたかい銀色の頭をもたげた。
「わたしにはわかるわ。明日が来て、何もかも[#「何もかも」に傍点]よくなるのよ。どんな明日でも昨日よりマシだわ。昨日はわたしたち、ひと晩ヴァシャ樹のトゲの中で息を殺していたんだし、その前の日はウマの鞍にしがみついて泣きながら走っていたし、その前の日といったら――」
リンダは口をつぐんだ。恐しい光景が目にうかび、彼女は両拳をぎゅっと口にあてた。
「リンダ……」
「大丈夫よ。わたしたち、何とかして切りぬけてきたんだわ」
暗いまなざしを弟にむけてリンダはつぶやいた。
豹頭の戦士は、ようやく、自分ひとりの疑惑にひたるのをやめ、他人への関心を回復しはじめたようだった。
「お前たちは――」
彼は唸るような声で云った。
「どうして、こんな森の中をさまよう羽目になった?」
「ぼくたちはね――」
「お黙り、レムス!」
リンダはさえぎった。
「あなたはわたしたちを助けてくれたし、わたしたちもあなたを助けたけど、まだあなたが誰の味方だかわからないわ」
「俺は誰の味方でもない」
「なら、なおのことよ」
リンダは小さく身をふるわせ――火は明るく燃えていたから、それは森の寒気のためというよりは、外の闇をゆるがして通りすぎた、影のような巨大な何かの気配のためだったろう――マントを身体のまわりにかきよせた。
「ここはひどく暗いわ」
彼女はうめくように云った。
「それ――それに、どこか遠くのほうで……なにかがしきりに骨をかじっているような、イヤな音がしやしない?」
「リンダは、予言者で、予知者なんだよ」
レムスは戦士に得意げに説明した。
「ぼくや普通の人たちよりも、魔界に近いんだよ。リンダとぼくが生まれたとき、パロの予言者は、『二粒の真珠――一方は薬となり、一方は財宝となる』という予言をしたんだ」
「……」
「ぼくはそれは、リンダが偉い女予言者になって魔道師になり、ぼくがパロスの統治者になる、という意味だときかされたよ」
「レムス」
姉が、とがめる声をたてた。しかしグインはききとがめていた。
「パロス――統治?」
「パロスよ。あなたが記憶を失っていても、中原の真珠、パロス王国のことは知っているでしょう」
「パロス――王国?」
「聖なる君主、アルドロス三世に統治されたパロスは、もうないわ」
リンダは豹頭の戦士に、いまとなってはかくすすべもない、と知ってかんたんに云った。かれらの目はみるみる、こらえてきた涙でいっぱいになり、瞼の裏には美しいクリスタルの都市がふみにじられ、戦火にくずれおち、人びとが切り倒されてゆく恐しい光景がよみがえってきた。
「かれらはクリスタルの塔を焼き、ヤヌスによってさだめられた聖王家の王と王妃を切り殺し、パロスの聖騎兵たちを全滅させたわ」
リンダはささやくように、呪誼をこめて云った。
「わたしは、竜の年、青の月の流血のことを生涯かけて忘れないわ」
「俺は、その戦さに戦ったのだろうか?」
グインの興味はいくぶん別のところにあった。
「さあ、知らないわ」
リンダはそっけなく、
「でもパロスには罪人に豹の頭などかぶせる風習もないし、顔を隠したいと思う人間はそんなものをかぶったらむしろ目立ちすぎて困ると思うわ。ゴーラの大公、モンゴールのヴラド将軍の治めるモンゴールは、他のあらゆる汚らわしさに満ちてはいるけれども、そんなふうにして罪人を拷問したり、束縛したりする、という話はやはりきかないわ」
それをモンゴールの大公の悪徳のリストに加えられないことが、いかにも残念でならぬ、というようにリンダは舌打ちした。
「ぼくは思うけど、この人は、南方から来たんじゃないかな」
レムスが意見をのべた。リンダは考えて、
「そうかもしれないし、そうでないかもしれないわ」
あっさりとかたをつけ、またしても忘れていたことを思い出した、というように、周囲の闇に目をやった。
「ぎ――吟遊詩人が歌ってきかせたときには、辺境で火をかこんであかす一夜なんて、なんとロマンチックなのだろうと思ったりしたけれど――もう二度と、吟遊詩人がキタラをひいて歌ってきかせるような体験を、自分がしたいとは考えないわ」
「――もっと、驚くべき冒険を、われわれはさせられねばならんことになりそうだぞ」
グインがふいに頭を上に向けて叫んだ。その吠えるような声におどろいて、闇の中でバサバサと何かがとびたった。
「ど――どうして?」
「空気の中に雨の匂いがする。湿った風が吹きはじめた。嵐がきたら、火は消えてしまう」
「どうして……」
どうして、ほんとうの豹ででもなければかぎわけられっこない、<予言者>リンダたる自分ですら云われるまでは感じとれずにいた空中の雨の匂いを、戦士がかぎつけることができたのか、と疑惑にかられてリンダは叫ぼうとした。
しかし、そんな疑惑は、嵐がくる、というおそるべき事実のまえに、たちまち立ち消えてしまった。いまではリンダの鼻孔にも湿っぽい風がふきつけ、全身が凶事の予感にひきしまり、唇はかたくかみしめられていた。火は風にあおられてざわめき、ふるえ、闇の中でそこに棲む奇妙なものたちがあわてふためいて、右往左往しはじめる気配が感じとれた。
「運命の神ヤーンはいまいましい老いぼれだわ」
リンダは小さな拳を天につきあげて罵った。
「彼はわたしたちをぬくぬくと眠らせるどころか、火にすがってやっとのことで一夜をさえ、無事には明かさせてくれないつもりだわ。そんなに彼は聖なる王の血筋を絶やしてしまいたいのかしら」
「リンダ、彼には百の耳があるというよ」
レムスは注意し、あわてて浄福の呪文をとなえた。
「その百の耳がひとつづつトーリスのように長くたってかまやしないわ」
リンダは挑戦的に叫んだが、しかしいよいよ雲が不吉に早く流れはじめ、木々は苦悶にかられたように左右に揺れ、いくつもの紅く光る目がこちらをうかがいはじめたのをみるとくちびるをかみしめた。
ふたりの子どもが手をとりあって、相次ぐ危難になすすべを忘れているうちに、豹頭の戦士の方は火をにらみすえながらじっとうずくまっていた。どのような危機に見まわれようとしているのか、気がついているとさえ、思えなかったけれども、しかしリンダとレムスは、やがてふいにグインが立ち上って段平の柄を叩いたのをみて、ひどくびっくりしてしまった。
「危いわ、火が消えるわ――」
怒って注意しようとしたリンダも、戦士の目をみて口をつぐんだ。戦士の目はぎらぎらと輝き――それはさながら、火の円陣の外でかれら三人をうかがっている、奇怪でおぞましい野獣たちの一匹が彼であるといったところで、誰もふしぎには思わぬような暗い輝きだった。
「俺に従いて来い。この夜を生きのびたければ、俺と一緒に走れ、子ども」
彼は吠えるように叫んだ。そして、やにわに一番太い枝をひろいあげてそれに火をうつすと、それをかざして森の中へ走りこんだ。
「待って!」
パロスの双児も俊敏だった。とっさに、手をとりあって豹頭の戦士のあとを追う。グインは足が早かったが、双児は何とかついてゆくことができた。
グインは何か、目にみえぬものか或いは野性の獣だけのもつ直感にでも導かれているようだった――黒々とした木々がぶきみな骸骨のように立ちつくすルードの森を、彼はらくらくと右にまがり、左に折れて、何百年もまえに失われた道をひろっていった。
「グイン――グイン、お願い。どこへ行くの!」
レムスがあえぎながら叫ぶ。
「口をきくな。消耗が早くなる」
叱りつけるようにグインは叫び返したが、
「スタフォロス砦だ!」
手短かに云った。
「リンダ、彼は!」
恐怖にかられてレムスが叫ぶ。リンダはいきなりかれらの前をよこぎった草ヘビに小さな悲鳴をあげたが、
「彼は正しいわ! わたしたちは、スタフォロス砦をのっとるか、それともこの森の中でみじめにさまよい歩いて死ぬしかない。彼ならやれる方にかけるわ」
やはり激しく喘ぎながらささやき返した。
「口をきくなというんだ。生きのびたければ、とにかくスタフォロス砦まで走れ」
グインが怒鳴る。
「グイン!」
リンダは叫んだ。
「グイン、きいて! ウマよ、ウマだわ!」
「何だと?」
「ゴーラの騎士たちのウマが、さっきの戦いをした草地にいれば!」
「よし」
グインは一瞬左右を見まわしたが、そのまま、野獣的な判断力で道を左にとった。
「もしあのウマたちが、妖怪に食われてしまってなければ、嵐のまえにスタフォロス砦へつけるわ」
リンダは云ったが、しかしさすがに彼女の足はもつれがちになっていた。息が激しくなり、グインの手にかざされた松明の灯から、ともすればとりのこされそうになるたびに、彼女の首すじには奇怪なおぞましい生きものの息吹がかけられ、肌に粟を生じさせた。レムスは手をさしのべ、リンダの手をつかんでひっぱったが、それはかえって二人ともを遅らせそうだった。
リンダが絶望的な小さな呻きをもらして草の上にくずおれようとしたときだ。
ふいに、彼女は、かるがるとかつぎ上げられた。
「グイン! だめよ、おろしてよ!」
「松明をしっかり持っていろ、食われたくなければな」
というのが、吠えるような、グインの返事だった。彼はリンダを左肩に小鳥のようにとまらせると、その重みなぞは布袋ほどにもこたえぬようすで、走りながら木々のあいだをぬけてさきの草地へ近づいた。
「上から吸血ヅタがおちてくるから、松明で払え。ただし火を消されんようにしろ」
「わ――わかったわ。グイン」
いまや、闇はすべて敵意の牙をむきだしにしていた。ゆくさきざきの木下闇には紅く光る無数の目がかれらを伺い、夜はざわめきと死者の生命とでみたされていた。空を走る雲はいよいよ早く、それらが心もとないさいごの味方である月、女神イリスの青白い光さえもぬぐったようにかき消してしまった。
「おい、子ども!」
グインが足をとめ、そしてうなるように云った。
「本当に、ここだったか」
「――と、思うわ。でもなぜ……」
「松明をかざせ」
命令してそれがただちにききとどけられることにこそ馴れていたが、命令されそれもこんなふうに横柄に命じられることには、まるで馴れていないリンダだった。しかし豹頭の戦士の声の中には、何かしら人に云うことをきかせずにはおかないものがあり、それゆえ、リンダは反発も感じずに、四方に死屍るいるいの恐るべき惨状が照らし出されるのを予期して鼻をしわめながら松明を下の方へのばした。
戦士にぴったりよりそったレムスが、低いおどろきの声をあげた。
「ないや! 何もない」
松明の火がおぼろげに闇を追い払って照らし出した、そのあたりは、枝の折れた二つのヴァシャ樹の茂みといい、ころがっている黒かぶと、折れた大剣といい、血のあとまでも、どう見てもさきにリンダとレムスたちがゴーラの騎士隊に追いつめられ、それをグインの登場で救われた同じ場所にちがいなかった。
だが、そこには、当然そこにあるはずの、黒騎士たちの死体はひとつとしてなかった。
グインが叩きつぶした死体も、大だんびらで首をはねとばした死骸も――何ひとつない。
むろん、木々のあいだにつながれて、不安げにしきりにひづめで地面をかいたり、草に鼻づらをさしのべたりしていたウマたちの姿もない。
「グイン――!」
リンダがかすれた声でささやいた。
「奴らは食われたな」
重々しい、唸るような声で、戦士は云った。
「何が、グイン、こんなことを――」
「食屍人《グール》か、オオカミどもか、くちなわか、それともそんなものだ」
「おお――!」
リンダは目をぎゅっとつぶり、松明をつかんでおらぬほうの手で、グインの豹の頭にきつくしがみついた。いますぐにでも、周囲の夜闇の中から巨大なグールがおそいかかってくるような気がしていたが、その豹の首に腕をまわし、なめらかな毛皮に頬をすりよせていると、ふしぎにどのような魑魅が襲って来ようとも大丈夫だ、という安心感が、心の奥ふかいところにわきあがって来るのだった。
グインはその少女を肩の上に小鳥のようにとまらせたまま、まばたきするほどのあいだ、思いをめぐらしていた。ウマは失われ、そしてスタフォロス砦まではまだ遠い。距離にすれば、たいしたことはなかろうが、しかしそれは嵐とかけくらべをするには不利にすぎる遠さだった。辺境で、しかも夜に、嵐を迎えるなどは、たとえどのような勇者であれ、生命のあるかぎり、味わいたいとは望まぬ経験の筆頭というものだろう。辺境の夜は妖魅たちの世界だが、それでもまだそこには人間と妖魅たちを画然とへだてる、いささかのルールがある――ところで、嵐は、そのルールをすべて滅茶苦茶にするのだ。
風はいよいよ吠えたけりはじめ、木々は悲鳴をあげて軋んでいた。遠くのほうで不吉な凶々しい、女の泣き声にも似た声が尾をひいた――泣き妖精か、あるいは山オオカミにちがいない。
「グイン――」
ふるえ声で、少年がささやいた。
「何かが……」
「わかっている。奴ら[#「奴ら」に傍点]だ」
闇が濃密にかたまりあい、そしておもむろにかれらを包囲しようとしはじめていた。それはねっとりとみだらな闇と暗黒の媾合であり、そしていまやグインたちをそれらから守っていてくれるのは、あわれなほどにかすかな松明の火――かろうじてかれらの周辺だけをぽっと照らし出しているばかりの灯りにすぎない。
「子ども」
グインが低い唸るような声で云った。
「俺のうしろにまわれ。女の子は俺の首にしっかりしがみついていろ。男の子は俺のマントの内側、ベルトをつかんで俺の動くとおりに動け。俺はあたたかい血肉をそなえ、生きている人間だ。俺が戦っている限りは奴らも手出しはできん」
「でも嵐がきたら――」
「そのときには、ヤーンの憐れみを乞うんだな」
リンダはふるえながら、しっかりと豹にしがみつきなおした。そうしながら、グインがどのような過去を忘却の谷に埋めている男であるかわからぬが、たしかに彼はこの世界で経験をつんでいるし、辺境を単身さまよって生きながらえたことも、一再ならずあるにちがいない、と感じた。いまとなっては、パロスの双児が頼るものは、そのグインの経験と剣しかないのだ。
風の雄叫びがいっそうひどくなった。闇のなか、木々のあいだにひそんでいるもの[#「もの」に傍点]の、悪意にみちたおぞましい気配は、いまはもうはっきりとかれら三人を包囲し、隙をうかがっていた。
やにわに、闇が裂けた!
リンダが悲鳴をあげた。
闇のさなかからまるでにじみ出るようにして、いきなり宙をとんでかれらにおそいかかってきたもの[#「もの」に傍点]には、手も足も胴もなかった!
それは白く目をむいた、恨みをのんだ生ま首だった。むきだした歯が血とあたたかい肉を求めてカチカチと鳴り、何もうつしておらぬ目は凄惨な二つの濁った球だった。それはまるで生命ある巨大なボールででもあるかのように、敵意にみちて、神経の白い糸を尾に引きながら戦士におそいかかり、あわやリンダの肩に歯を立てようとした。
「キャーッ!」
リンダは戦士の肩からずりおちかけた。グインはそれをかかえ直しざま、あいた手にリンダの手の松明をもぎとり、それで思いきり生ま首を叩きつけた。
死肉のこげるいやな匂い、そして耳ざわりなコヨーテの笑い声。目を焼けただらせた首の化けものは、嘲弄にみちた笑いをのこして闇の中にひきしりぞいた。
「食屍鬼《グール》だ」
手短かにグインが云う。彼は左手に松明を持ちかえ、段平をひきぬいた。
「く――首だけだったわ」
「死体を食って乗りうつりやがった。ふつうなら、奴らは死肉しか食わんのだが、ウマを食って、生血の味を覚え、気が大きくなっているんだろう」
グインの声は冷静だった。
「――来た!」
宙を飛ぶ首が再び襲いかかってきた。松明の火にそのガチガチとかみならされる口、焼けこげた半面がうつし出された。そして、そのうしろから――
「くそ!」
グインは罵る声をあげた。闇はいまや、そのおぞましい斥候たちに満たされていた。それは――いまわしい死者たちの群れだった。
首のない屍。背中から腰まで、真二つに割られ、血をふきださせたままの者。ちぎれた腕が指先で歩き、重い武器でおしつぶされて、人間の奇怪でいやらしい戯画のようなすがたになった死体につきしたがっている。かれらはすべて、グインが戦ったゴーラの黒騎士たちの屍が闇のいまわしい生命をふきこまれて動き出した化物だった。それらのなかに、首が背中のほうへむざんに折れまがり、のどもとから白い骨のとびだした、隊長の巨躯もあった。そしてそのうしろには、青白く光る、骨格だけになって影のようにうごいている何匹ものウマの群れ。
黒い、嵐の到来に身をよじる木々のあいだに、それらの地獄の生きものどもはあやしく、青白くうごめいていた。それはおおむね、視覚も聴覚も、おそらく五官とよぶべきものを何ひとつ正常にそなえてはいない下等な生物であったけれども、それらの音のないざわめき、冷やかで熱い渇望のなかに手にとるようにはっきりと、それらをむしばみ呪っている恐しい永遠の餓え――死肉をどれだけむさぼり啖らっても決してみたされることのない、むごたらしい不満足と貪欲さの波動が感じとれるのだった。それらはいまわしい食欲に身をふるわせながら、やにわにおそいかかってきた。
グインの口から獣の雄叫びが洩れ、あたりの空気をふるわせた。グインは大剣をふりあげ、左右に食屍鬼どもを切りふせた。みがきぬかれた剣はまるでバターをでも切ってゆくように、おそいかかる首をまっぷたつになぎ首のねじれた死体を上下に両断し、ウマの骸骨の首を叩き切った。そうしながらグインは敏捷に立ちまわって左手の松明を守らねばならなかった。それだけがいまやかれらのよりどころであり、それと知って悪鬼どもはしきりに、剣の右手をさけて左側にまわりこみ、松明をうばいとろうとねらって来たからだ。グインは左へ、左へと向きをかえながらたえず鬼どもを切りふせた。かれらは自らの身をまったく守ろうとせずにただわらわらとおそいかかるだけだったから、それはたやすい仕事だった。
だが――
「ちいっ、呪われた屍喰いどもが!」
グインののどから、恐しい咆哮がわきあがった。グールどもが身を守ろうとせぬのにはいとわしい理由があった。首を切りとばされようと、胴を横なぎにされようと、悪鬼どもはいっこうに痛痒を覚えるようすもなく、切られた首や胴の切りくちからどろどろといやらしいねばつくものを流しながら、半分に切られたものは二つ、三つに切られたものは三つの悪意にみちた襲撃者となって、いったんひきしりぞいてからまたしてもおそいかかってくるばかりであったからだ。
「グイン!」
激しい左右への動きにふりおとされまいと、必死にしがみついていたリンダが恐慌にかられて絶叫した。いまわしい道化たしぐさで宙にとびあがった、ちぎれた腕が、松明と大剣のガードをかいくぐり、リンダのむきだした腕にはりついたからだ。
リンダは嫌悪の叫びをあげてそれをむしりとろうとした。だがまるでいやらしいヒルにでも吸いつかれたように、その腕はあたたかな肌にしがみついていた。
「いやよ! いやよ!」
リンダの泣き声をきいてグインはいきなり段平と松明を、一瞬のうちに左右もちかえた。右手に握った松明をリンダにはりついた腕にやにわにおしつける。肉のやけただれる恐しい音がひびき、一瞬後にその腕はえものをはなして下生えの上におちた。
リンダの、化物にはりつかれていた肌は、まるでつよく吸いあげられでもしたようにまっかになっていた。グインはふりむきもせず、おそいかかってくる化物どもを益なく叩き切りつづけながら怒鳴った。
「戦え、子ども――俺が三つ数えたらそこにおちた木の枝をとってやるから、それに火をうつして、それで戦え。生きて明日の日の出が見たかったら、火を消されるな!」
「わかったよ、グイン!」
「いいか、一――二――三!」
数えると同時に戦士は松明を宙に投げあげ、それがおちてくるまでの間に走り寄って枯枝をひろいとった。松明をうけとめるのは真にきわどいところだった――グインの手をはなれた、とみたとたんに、脳漿をまきちらす切り首と、焼けただれた胸とが、火を奪いとろうと宙をとんで近づくところだったからだ。松明をぶじに左手におさめざま、グインは右手の剣でそいつらをひっかけ、はねとばした。
「火をうつせ」
叫んで枯枝を手わたす。リンダは松明から火をうつして二本の松明をこしらえた。
「レムス!」
「うん、リンダ!」
いまや、三本の松明の火があたりを威嚇するように燃えあがっていた。だが、地獄の渇望にかりたてられたグールどもは、ひきさがる気配すらみせなかった。レムスはグインのベルトをしっかりつかみながら、おそいかかるいまわしい腐肉のかたまりを松明で払いのける戦いに加わった。
「グイン」
リンダは松明をかざしはしたが、あえてそれをふりまわそうともせず、ふるえ声でささやいた。声はおののいて怯えていた。
「なんだ」
「雨が――頬にあたったわ」
嵐がおとずれようとしているのだ。
グールどもが陰惨な喜悦に音なくどよめいた。かれらは嘲笑はしなかった。笑ったのはコヨーテであり、グールどもの口はすべての音に対して封じられていたからだ。だがそれらの悪意と満悦と舌なめずりせんばかりな期待とは、空気の波動となって、三人の遭難者たちをとりまいた。
「ヤヌスの神よ!」
リンダがうめいた。
「この火が雨で消えたら、わたしたちグールに食われる!」
「希望をすてるな、子ども!」
グインが疲れの色もなく左右に、切るだけムダとみて剣さきでひっかけてはなるべく遠くへ死肉どもを叩きつける戦法に切りかえながら叱りつけた。
「戦え、そうして希望しろ。お前たちはパロの聖王家の血筋なのだろう!」
「ああ、グイン、手がしびれるわ。もうしがみついていられない!」
リンダの声は絶望のためにかすれた。彼女はまだあらん限りの力をふりしぼり、グインの太い首に抱きついていたが、片手で松明を支えねばならぬこともあってその腕の力は失われてゆきつつあった。レムスはというと、これは健気に松明で化物どもを払いのけてグインの手助けをしようとつとめていたが、上から叩きつけるようにおそいかかってきた千切れた胴体に松明をうばいとられて悲鳴をあげた。
雨の大粒な滴がかれらの頬をうち、グールどもはいよいよ喜悦をむきだしに迫りかけていた。激しい風がリンダの髪をあおり、グインはいったん剣をひかえて松明の火を守るためにひきしりぞかねばならなかった。
「|くそ《ドール》! 俺はもっとひどい羽目をだって、切りぬけてきた筈だ――」
グインが唸り声をあげたときである。
「グイン! 見て!」
リンダが絶叫した。その声の奇妙なひびきがあまりにつよかったので、グインは一瞬グールどもから目をはなす危険をさえ忘れてそちらを見やり――そして低い驚愕の声をたてた。
信じられぬもの――さながら闇の中からわき出たかのように、黒い鎧、黒いマント、黒かぶと、ウマにも黒の胴を着せ、怯えるのをなだめるために目かくしをおろしてムチでウマの首を叩きつづけながら、三列になった騎馬武者の一隊が、粛々とこちらへやってくる!
「スタフォロス砦の追手だわ」
リンダが口走った。
「ああ、ヤヌス! わたしたち、もうおしまいだわ」
「いや、待て」
グインはささやいた。彼の、豹頭のなかの目は、ふいにわきあがった狂おしい希望に、青く光りはじめていた。
「その反対だ。これで俺たちは生きのびるかもしれん――見るがいい、グールどもと騎士隊が互いに気づいた」
ウマどもがふいに棒立ちになり、進むのをやめた。鍛えられた騎士たちはさすがにふりおとされるものこそなかったが、新鮮で大量の、生きた餌食のにおいをかぎつけてたちまちそちらへわらわらとむらがりよった、その見るもいまわしい地獄の蛆虫ども、そのむざんにちぎれ、叩き切られ、つぶれてしかもなお渇望にわきたっている死体のすがたを目のあたりにして、あちこちで恐怖と嫌悪の悲鳴がおこった。
「見ろ。グールどもが、より大量の獲物のほうに注意を奪われたぞ」
肩で息をしながらグインがささやいた。
「かれらは――いったいなぜ、嵐になろうというこんな夜に……スタフォロス砦の紋章を鎧につけているところをみれば、この辺境にはもとから詳しいはずなのに」
「彼奴らは戻って来ない一個小隊をさがして、遠出をしすぎたのだ」
グインが云った。
「そしてたぶんルードの森で夜をむかえてしまい、地妖にたぶらかされて堂々めぐりをしていたのだ。見るがいい、かれらはみな、鞍つぼに松明を結びつけているだろう。かれらは夜、辺境をさまよう恐怖を骨の髄まで知っているのだ」
「見て、グイン!」
豹戦士の腕にしがみつくようにしながら、レムスが恐怖の叫び声をあげた。
草地は大混乱と凄惨な阿鼻叫喚につつまれていた。ゴーラの騎士たちは辺境の守護に馴れてもいたし、グールとの戦いかたをこころえてもいたけれども、こんどは、グインが切れば切るほど増えてゆくというノスフェラスの魔物のようにグールどもを叩き切ってしまったのが、大人数のかれらにわざわいして、かれらはそれぞれにかたまりあって剣をふるう充分な場所のないままに、食屍鬼どもにふところへとびこまれてしまった。
いったん剣のとどかぬ胸もとへもぐりこんでしまうと、グールどもは顔やのど、むきだしの肌を求めて執拗に這いのぼった。騎士たちはウマからころげおち、絶叫しながらそのいやらしい腐肉をつかんでころがりまわったが、ヒルのように吸いついたグールは騎士たちの顔にはりつき、窒息させて力をよわめながら、あたたかい生ま肉をすすりにかかった。
リンダはあまりのおぞましさに呻いて、グインの肩に顔を隠した。グールにはりつかれた騎士は絶叫しながらのたうちまわり、その顔がしだいにずるずると吸いあげられてやがてぽかりと陥没すると、夢中になった魔物はもっと大量なやわらかい肉と生血を求めて、鎧の中へと食い入っていった。同僚を助けようとわめきながら騎士たちはウマからとびおりてかけよったが、そこまでゆきつくこともできぬうちに、まずかれら自身を守るために必死の戦いをくりひろげなければならなかった。
「ああ――グイン、かれらを助けなければ!」
レムスはさすがに男の子だけあって、姉のように顔を埋めはしなかったが、吐気をもよおし、ガタガタふるえながら戦士にしがみついていた。
「馬鹿を云え」
というのが戦士の返事だった。
「彼奴らはお前たちをとらえに来た敵なのだぞ。屍食いどもが奴らにすっかり心をうばわれているのは大変な幸運なのだ。本当はこのあいだに逃げるといいのだが、さすがに俺にも、ここをはなれてルードの森の真闇にわけ入り、ぶじに朝を迎える自信がない。何とか、奴らが戦っている間に明けの光がさしてくれれば――あッ!」
ふいにグインが吠えた。レムスは叫び声をあげてとびあがり、リンダもおののいた。
「グイン?」
「俺は何という迂闊な!」
「グイン、どうして――グイン!」
豹頭の戦士は荒々しく天を仰いで罵声を発した。
「俺は屍食いどもの呪われた特性を考えに入れるのを忘れていた。屍食いどもは屍や生きた人獣を食い、それにのりうつって宿をかえるのだ。奴らが黒騎士どもにのりうつって俺たちをおそってきたらどうなる」
「グイン――!」
「あれだけの人数をあいてに朝まで戦いつづけてなどいられんぞ――くそ、知恵の神ヤーンよ!」
グインは逞しい両手を天につきあげて、祈るとも呪うともつかぬしぐさをした。が、そうしていたのは一瞬だった。いきなり彼は行動にうつった。
「グイン――グイン、どうするの!」
リンダが恐怖の悲鳴をあげてなじった。グインはふりむきもしなかった。
「子ども! お前の松明もよこせ」
「何をするのよ! 山火事になるわ。焼け死んでしまうわ!」
「グールに生きながら血肉をすすられるよりましだ!」
豹はリンダの手からひったくった松明をがむしゃらに下生えにうつしにかかった。
「さあ、燃えるがいい。火の神ミゲルよ、風の神ダゴンよ、俺に力を貸してくれ。さあ、燃えてしまえ。呪われた森よ!」
「ああっ!」
生まの、油をたっぷりと含んだ木々と草はしばしのあいだ激しくグインの暴拳に抗った。しかし、やがてさいしょの兆しがパチパチとはぜる音になってあらわれ――つづいて、オレンジ色の炎が下生えいちめんに突っ走った!
闇の領土に恐慌がひきおこされていた。木々の枝にひっそり眠っていた小禽がバサバサとびたち、草ヘビがシューシューいいながら逃げ出した。戦いに夢中になったゴーラの騎士たちとグールどものあいだにも恐慌がひろがっていた。
火があたりを照らし、こうこうと明るくして、かりそめの白昼を現前させた。夜闇の支配はくつがえされ、おぞましい食屍鬼たちはうろたえて、かぶりついていた生き餌を放り出して逃げまどった。炎がしだいに高く、明るく、天をついて燃えあがりはじめると、空をこがすその熱と明るさにうたれてグールどもは狂気のように逃げ場をさがし、きりきり舞いをした。
「グイン、熱いわ!」
「逃げられないよ! 火勢が早い!」
パロスの双児が叫ぶ。グインは炎に全身を照らし出され、腰に手をあて、マントを火がよびさました風にすさまじくなびかせて、不動の姿勢で立ちつくしていた。その雄大な体躯は、グールどもと火だるまの騎士たちが、炎の森で生ける松明となってはねまわる地獄図絵のなかで、半獣の神そのものででもあるかのようにきっぱりと、そして鋼鉄のような生への意志にみちていた。リンダは息を呑んだ。
火にまかれて、グールどもはおぞましい、声にならぬ悲鳴をまきちらしながらちぢんでいった。それらは騎士たちのように人間たいまつとなってかけまわり、燃えつきるのではなくて、あたかも氷が火にあってとけるようにすーっとちぢんでいき、ふっととけてしまうのである。苦悶と呪誼が火のパチパチいう音、風のうなりを圧倒し、リンダとレムスの口もまた、髪をあおり、肌をこがす猛火の前であらんかぎりの悲鳴をあげつづけていた。
と――
グインが動いた!
不動の神像ともみえていたその豹頭人身が、やにわにおどりあがり、逞しいその両手がのびてパロスの双児の胴を片方ずつひっとらえた。
「来い、子どもたち」
吠えるなり、自ら放った火に追われて、彼はもときた道をがむしゃらに走って戻りはじめた。
火はすさまじい大火となって天をこがし、あたりは炎熱の真昼である。逃げまどうあらゆる奇怪な森の住人たちをかきわけ、おしのけてグインは走り、そしてついに求めていたものを見出した――ルードの泉!
「この明るさでは水妖も何もしかけては来んだろう」
唸るように云って、彼は、双児に抗議するいとまを与えず、小脇にふたりをかかえこんだまま、どぶんとその泉にとびこみ、否応なく頭までもぐってしまった。
求めていたいけにえに、わずかの差で逃れられてしまったことをいきどおるように、シューシュー、パチパチとたけりくるう炎の舌は、ルードの深い森、何千年ものあいだ静まり返って闇の生命をぬくもらせていた森のなかばをやきはらって、なおもその貧欲な侵寇をほしいままにいよいよ荒れ狂っていった。
「――子ども」
水から、まず出たのは、ぐっしょりと濡れてしおれた豹の頭である。
「おい、子ども、二人とも生きているか」
「え――ええ、どうやら」
つづいて水のぽたぽたとしたたる、プラチナ・ブロンドの小さな頭が、その巨大な豹頭の両わきに浮かびあがった。リンダはピュッと水をふきだすと、ガチガチ歯を鳴らしながら返事をした。
グインは見まわした――それは惨憺たる、火の猛威による破壊と浄めの廃墟であった。
木々は黒くやけただれ、下生えはむざんに灰になっている。梢を焼き払われた森はばかに広く、見通しがよく、その中に数知れぬ、やけこげた骸骨のような木々がうずくまっている。
グインはよかろうと見て泉を出、ぶるぶるッと全身をふるわせた。それはまるで、彼が本当に豹の化身ででもあるかのような野獣めいたしぐさだった。
ぶるんぶるんと水を切って豹頭を振りたてると、手をのべて、双児たちを泉からひきずりあげてやる。両手にすがってひきあげられたパロスの双児は、ぬれそぼち、しおたれ、歯をガチガチ鳴らしていたが、まず互いに見つめあうなり、手をさしのべてひしと抱きあった。
黒くこげた木々の向うに、青く夢幻的な連山の姿がうかんでいる。その上にぽっかりと――おお、何ものにもかえがたい、朝のまぶしさをふり澪す太陽が、太古からみればいくぶん冷えたのだとはいえ、かぐわしいぬくもりと光の恵みを満たして輝いているのだ。
「い――い――生きていたのね、わたしたち」
それがふしぎでたまらぬ、というようすで、弟ときつく抱きあったままリンダがささやいた。
「空気が甘いわ――ああ、なんて明るいんだろう!」
「嵐を呼ぼうとしていた風が我々の助けになった、二重にな」
グインが吠えるような声で云った。
「風にのって火は燃えひろがり、我々をルードの森の屍食らいどもから永久に救ってくれた。その同じ火がまたもや風をよび、雨をふらせて、泉が乾あがって我々もグールどもや騎士どものように焼けぼっくいになってしまう前に、ちょうどよい按配に火を消しとめてくれたというわけだ。たいそうな幸運だったと云っていいな、これからもまたこのようにうまくいくとは限らないが」
「あ――あの火をスタフォロス砦のだれかが見なかったかしら」
「もちろん、見ただろう。これだけの大火で、しかも二個の騎士隊がたぶんその火難にあっている。
火が消えるのを待って砦の奴らは調査の人員をくりだすつもりだろう――長居は無用だな。だが、その前に腹ごしらえをし、それと服をかわかしておけ、子どもたち」
グインは云って、マントをしぼり、水を灰の上にしたたらせた。
「でないと、追手を切りぬける前にこちらがぶっ倒れてしまう。幸い、食い物なら、でかい料理かまどが好みのものをローストしてくれている筈だぞ」
「まあ」
恐ろしいことを云う、と憤慨してリンダはにらみつけたが、朝の光の中ではいよいよ異形に、いよいよ伝説の半獣神シレノスさながらに見える豹頭の戦士は、もうかれらには何も注意を払わずに、灰とがれきのあいだから、焼け死んだ小禽をさがし出す仕事に熱中しているのだった。その豹の口がまもなく見つけ出したえものをひきさき、うまそうな汁のしたたりおちる肉をかみくだくのをみていると、双児もたまらなくなって腹ごしらえにかかった。
「――これから、どうするの?」
ようやくそのことばがリンダの口から出たのは、かれらが昨日来の空腹と寒気をやっと解放し、みちたりて指をぬぐったときだった。
「そうだな」
グインは豹頭を振って答える。
「俺はとりあえず自分を捜しに行く。自分が何者で、この仮面は何ゆえで、そしてアウラとは何なのかつきとめねばならん」
「わたしたちは……」
リンダとレムスは顔を見あかせた。だがそのとき、豹頭の戦士は大声で笑い出してかれらをさえぎったのだった。
「どうする気にせよそれにはまずここを生き永らえることだぞ。何十ものひづめの音がきこえてくる。砦の奴らだろう。どのみち、俺たちは考えているいとまはなさそうだぞ」
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第二話 癩伯爵の砦
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1
かれらの上には、青紫にやわらかな天蓋がつづいていた。
かれらの足が踏みしめるものは、焼き払われた下生えの、まだ猛火のぬくもりをとどめてでもいるかのような黒い灰。かれらのふくらんだ鼻孔をくすぐり、満たしているのは、猛火と大雨との夜どおしの浄めによって、かぐわしく、みずみずしく、同時にいくぶんいがらっぽくもある辺境の朝の大気である。
一見してゴーラの黒騎士隊の一員たちと知れる、黒かぶと、黒い鎧、黒マント、それにウマにも黒い胴を着せかけたところの三十人ばかりの騎馬武者が、その灰を踏み、焼け残った真黒な骸骨のような木々のあいまをぬうようにして近づいてくるのを、かれらは黙りこみ、双児たちは互いにしっかりと手を握りあったまま見つめていた。どちらにしても、いまから身を隠したり、向きをかえて逃げ出すことなどはまったく問題外だった。なぜなら、騎士たちの面頬をおろした黒いかぶとの先はまっすぐにかれらにむけられ、そして騎士たちの前衛が手にしている弩《いしゆみ》は、すぐにでも小さな致命的な鉛玉をかれらののどもとににむけて放てるように、ぴたりとかまえられていたからだ。そこで、かれらは何も口をきくでもなく、ただじっと立ちつくして、その一隊が近づいてくるのを待っていた。
かれら――だが、スタフォロスの砦から派遣された一隊に見つかってしまった、かれらの困惑より以上に、砦の騎士たちのほうも、それらが目の前にしているものに対して当惑していたのに間違いない。
それはたしかに、ひかえめに云ってもきわめて異様な組みあわせの三人であると云えた。手をとりあって息をつめ、騎士たちを見つめている、朝の光をあびた雲のようなプラチナ・ブロンドの髪と、夕映えの去ったばかりの空のようなスミレ色の瞳をした、パロスの聖なる双生児、リンダとレムス。ふたりの、革のブーツと革の服は、ふたつぶの真珠のようなふたりをルードの森のいたずらっぽい小妖精のように見せ、前夜の惨憺たる経験でしおたれていた銀色の髪もようやくかわいて、いっそう輝きを増しはじめている。
それだけであったのならば、とりたてて目を疑うような光景ではない――だが、騎士たちの目をむかせ、その自らの正気を疑わせるに足る怪人が、かれらのうしろに、かれらの巨大な守護神然と、厚い胸に腕を組んで突っ立っているのだ。
戦士グイン――一夜の冒険行を共にして、すでに彼に並々ならぬ親しみと奇妙な共感を覚えはじめている双児たちでさえ、正面から彼を見やると、それがあまりに幻想的な、悪魔的な空想の産物なのではないかと疑わずにはいられない。まして、一夜ののちに灰と化したルードの森に調査におもむいて、黒焦げの恨めしげな木々の残骸と、うずたかい灰のまんなかに彼を見出したかれらの狼狽と当惑はたいへんなものだった。
首から下は、グインは立派な、王者の風格をそなえてさえいる古強者の戦士、そのものである。はじめてリンダとレムスが見たときには、粗末な足通しひとつで、傷つき、かわいた血と泥に汚れ、いかにも風来坊然としていたけれども、そのあとで、自ら倒したゴーラの騎士たち――朝を待ちかねて砦から出た一隊が探しにやってきた当の仲間たち――の鎧、すねあて、籠手、大剣、それにマントをとって黒づくめのなりに改めたので、みごとに筋肉の発達した、巨大だが鈍重さのない体躯はいっそうきわだっている。
だが、そうであるほど、彼の首から上[#「首から上」に傍点]は――それは、迷信的な畏怖をよびさましました。
なぜなら、グインの顔にはいかなる人間の特微もなく――最も醜悪なノスフェラスの原始人でさえ、彼ほどに人目をひきはしなかっただろう。黒いマントをはねのけた、あつく逞しい肩の上にがっしりとすわっているのは、黄色い丸い顔、その上部にはなれてついている丸い耳、巨大な牙の生えそろった恐怖を誘う猛獣の口、いかめしい下顎――黄色の地に鮮やかな黒の斑紋をうかべた、完全な豹の頭にほかならないのだ。
よくよく注意深くて、推理力にも空想力にも富んだものが、よくよく近くへ寄って調べてみれば、おそらくそれは誰か魔道師の呪いの手によって、ぴったりとこの戦士の頭にかぶせられてしまった豹頭の仮面であるのかもしれず、決して彼が伝説の中の半獣半人の怪物の現実にあらわれた姿なのではない、と思うかもしれない。しかしそれも、百パーセントの確信をもつことは、とうてい誰にもできなかったろう。なぜなら、その豹の頭と人間の首の境い目は、肩に毛皮がおおいかぶさるようになってはいたものの、ただのかぶりもののように手でもちあげることも、むろんひきはがそうとこころみることもできず、その上、グインの双つの目は豹頭の仮面の奥で、豹そのものの目といったところで何ひとつおかしくはない、凶暴な野性の光と精気をたたえて黄色っぽく爛々としていたからだ。
騎士たちは木々の残骸をへだてて三人の退路を断つかたちに停止し、魅せられたようにこの異様な見世物を眺めつづけていた。だがむろんかれらはほまれ高いゴーラの勇士、それも辺境警備隊にまわされるからには一騎当千のつわものぞろいであったから、ぬかりなくウマの手綱をしぼり、そしてすべての弩《いしゆみ》はぴったりとかれらを狙いつづけていた。かれらは総勢で三十人ばかりだったが、そのかなめの位置にいる、かぶとの上の房飾りで一見してそれと知れる隊長が命じるまでは、決してその、すぐにでも攻撃にうつれる体勢をとこうとはしなかった。
その隊長は、誰よりもグインの異形に魅せられているようにみえた――彼は、真黒なウマの首を叩いてしずめながら、しばらくはしげしげとかれら三人を見つめつづけていたが、やがて夢みるように口をひらいた。
「これは驚いた。おれはルードの森の大火の原因をさぐり、相ついで消息を断った二個小隊の運命をつきとめ、そしてそれらのそもそものみなもととなったはずのパロスの幼い王女と王子の双生児のゆくえをたしかめ、できれば砦へつれもどる、という命令をうけて朝日と共に砦を出た。大火の原因はさだかでないまま、われわれは森のなかばあたりで盟友の骨と焼死体を見出し、いままたパロの二粒の真珠を見出したが、しかし――
しかしさすがのおれも、灰と化したルードの森の廃墟で、こんなシレノスのような怪物に出くわすことは予期してなかった。
きさま――一体全体、何物なのだ?」
云いながら隊長は飾りのついたムチをあげて、グインをさし、奇妙なしぐさをしたが、リンダたちにはそれが暗黒のゴーラの、悪魔よけのまじないであることがわかった。
「子供たちよ」
グインが黄色く物騒に光る目で騎士たちをにらみまわしながら、ききなれぬ耳には獣の吠え声としかきこえぬ重苦しい声でささやいた。
「こ奴らは昨夜の一隊の仲間だな。弩《いしゆみ》と弓矢がちと厄介だが何とかなるだろう。俺が三つ数えたら右左に別れてとびだせ。俺はまず隊長を盾にとる」
「まあッ、だめよそんな、グイン!」
リンダはおどろいて叫び、グインの腕を両手でひきとめた。
「あの弩が三十挺全部、すぐにでも放てるようこっちを狙っているのがわからないの? これだけの敵をあいてに戦いようがないわ」
「何といったのだ、その化物は?」
いぶかしげに、訛のつよいことばで隊長がとがめた。リンダはグインをおさえておくよう、弟に目くばせし、勇敢に進み出た。
「ゴーラの犬よ、パロの双児は逃げ隠れはしない。だから、<ふたつぶの真珠>をスタフォロスの城主のもとへ連れて戻り、手柄を誇るがいい。でも、この人はこの戦士は行きずりの、かかわりのないひと、だから連れ戻るのはわたしたちだけにして!」
隊長は鞍をたたき、面頬をはねあげて目をほそめた。リンダは年のわりに長身だったけれども、ウマの上から見おろされて、いかにもほっそりとたよりなげに見えた。
しかし、そのすんなりとした全身には、なんという凛烈な誇り――貴い王家の正統な世継だけのもつことができる、激しくて力強い誇りがみなぎっていたことだろう。隊長は思案にくれた。だが、もういちど鞍つぼをたたいてグインに目をうつしたとき、その顔には、暗い狡猜な笑みがのぼっていた。
「わがモンゴールに滅ぼされたパロの王女よ」
彼は目をほそめながら、つよい辺境訛りで云った。
「お前と世継の王子をとらえたのはおれの功績で、おかげでおれは黒獅子章をうけることができるだろう。だがその男――その化け物を連れ帰れば、おれの主君はなおのことお喜びだろう。こんな戦士のことをおれはいちども、どんな噂にもきいたことがなかったが――なんという筋肉をしているのだ? もしそれが見かけの半分もつよかったら、その男はその筋肉とその化け物の外見とで、おれの主君の宝物になるはずだ――またそうではなくてその男が、何か悪魔ドールの手先ででもあるのなち、それはそれで主君が処理なさるだろう。ただし、その身につけているものが、たしかにスタフォロス砦の守護兵のお仕着せであるところからみて、その男が、われわれの盟友の運命を知っていることも、疑いはないと思うが、
いずれにしても、お前たち三人を無傷で砦に連れもどることがわれわれの任務だ。剣をすて、ウマの前に乗せられてゆくか、それとも革ひもでつながれてウマにひきずられて来るか、決めるがいい」
「パロの双児をいやしい奴隷のようにウマのうしろにつなぐつもり?」
かっとなってリンダが叫んだ。レムスははらはらして姉の腕に手をかけた。しかし、そのとき、ゆっくりと双児の肩に両手をのせて、豹人が進み出たのだ。
「わかった」
グインは、騎士にもききとれるように、ことさらにゆっくりと、一語一語区切って云った。
「剣はすてよう。お前たちと共に砦へゆこう。だから、この子どもたちをまともに扱ってやれ」
そして彼は、ふしぎに高貴なしぐさで腰のベルトから大剣を鞘ごとひきぬき、灰の上に投げ出した。
隊長が鋭い声で命じると、数人の騎士たちがウマからとびおりてかけよった。いずれもびくびくもので、しきりに指を交叉させてさしだすゴーラふうのまじないをやりながらかれらに近づき、手早く武器をあらためる。それからかれらはウマに乗せられ、それぞれの右手首を丈夫な皮ひもで鞍にしっかりと結びつけられた。リンダとレムスが一頭のウマ、グインは別のウマに乗せられたのである。その上に、グインのウマだけが、両脇を屈強な騎士二人のウマにはさまれ、皮ひもでつなぎあわされた。
「グイン」
三人のとりこをおしつつむようにして、騎士隊が馬首をひるがえし、灰をけたてて砦へと動き出したとき、リンダは低くささやいた。
「わたしたちのためにまきぞえにしてしまったわ。わたしたち、どうやってお詫びすればいいの」
「詫びなどいらん」
グインは仏頂面で――といっても豹頭はいつでもそうとしか見えないのだが――云い返した。
「つまらぬことを気にするな。俺はどのみちこ奴らの仲間をあやめた。こ奴らにしてみれば仇だ、お前たちとかかわりがなくてもとらえただろうさ。
それより――」
左右をはさんでいる、黙りこんだ騎士たちにチラリと目をやって、
「教えてくれ。俺は昔知っていたのかもしれないが、いまは何もかも知識が俺を逃げ出してしまった。ゴーラとは何で、どのような国だ? それはどこにあり、大きいのか、弱小なのか? お前たちの国はこ奴らの国に、なぜ攻め滅ぼされたのだ?」
「ゴーラは豊かで開かれた中原地方の南半分を統べる強国よ」
リンダは低い声で教えた。
「もともとは辺境に位置して、苦しくてつらい開拓で国土をひろげてゆかねばならなかったのだけれど、俗にいう中原の三大国のなかで、ただひとつその国境がほとんど、蛮族と妖魅の跳梁する辺境に接していることが、ゴーラの兵を勇敢にし、その名を中原に高からしめたの。ゴーラは連合王国で、それは、大公オル・カンの治めるユラニア、タリオ公の領地であるクム、そしてヴラド大公の統治するモンゴールの三大公領からなっているわ。これらの三大公は互いに牽制しあい、勢力を競いあいながら、三つどもえの死闘ですべてを失ったりせぬよう、合議によって国をおさめているの。公けには、ゴーラの古い血筋のさいごの生きのこりであるサウルが皇帝として擁立されているけれども、それが大公たちの傀儡にすぎぬことは三つの子どもでも知っているわ。
パロは中原で最も豊かで、そして最も雅びな文化を誇る美しい国だった。中原の真珠、中原の華、人びとはそう呼んだわ。それは長い歴史と交易によって富んだ過去をもつ、平和な国で、新興の粗野なゴーラ、謎めいた北方のケイロニアと並んで中原の三大国とよばれていた。それが中原にとってどのような国であったかということは、すべての都市へ通じ、辺境の一部にさえひらかれて、旅人の安全を守っている<赤い街道>が、第三王朝の全盛期のパロによって拓かれたものだ、ということひとつでもわかると思うわ」
「ゴーラはかねて、辺境の開拓に見切りをつけ、より豊かで実り多い中原へその侵略の矛先を向けようと狙っていたんだ」
レムスが云いついだ。
「これは大臣のルナンが教えてくれたことだけれど、そのことについて、三大公のうちでもあれこれと意見の相違があって――結局、それをおしきってパロに兵を進めたのがモンゴールのヴラド大公だった。
モンゴールの、辺境守護隊あがりの勇士と蛮族たちで編成された強大な兵の前に、パロは――」
「平和に狎れてわたしたちはモンゴールの奇襲など予期さえしてなかった。モンゴール兵はパロの街道ぞいの守りをかためる砦をひとつひとつ落とすと同時に大部隊を迂回させて、突然、ケイロニアとの国境から首都パロに攻めこみ、パロの王家を全滅させたの」
リンダの声がふるえた。
「ぼくたち二人を除いて、だろう、リンダ」
「わたしたち二人を除いて。わたしにはわからない。ケイロニアとパロはずっと友好的で、互いに条約を結び、何百年ものあいだそこには平和が保たれてきた。だからこそパロは北方の守りを手薄にしていた。いくらモンゴールの大公が戦略に長けていても、ケイロニアの協力、少なくとも黙認なしに、北からパロの都へせめこむことなどできないはずなのよ。ケイロニアの皇帝はモンゴールの悪魔に魂を売ったわ」
「そして都が落ちて――お前たちふたりは、いったいどうやってこんな辺境までおちのびたのだ?」
興味を持って、グインはたずねた。
答えようとするレムスを、いきなり姉が制した。
「しッ!」
そしてリンダは、ひどく奇妙な表情で、周囲をかためている黒づくめの騎士たちを見やり、パロの聖なる王家には、いろいろふしぎなことが起きるのよ、と答えたきりだった。
そうこうするうちに、一行はルードの森をぬけ、タロスの森をもぬけて、ようやくスタフォロスの砦が仰ぎ見られる場所へまでたどりついていた。
あたりは、深い森と、森と森のあいだのわずかな草地との連続だった。道はしだいに上りになってきており、どこかできこえる川のせせらぎが、だんだん大きく耳につく。森のむこうは山だった。青紫にけむるような空の下で、妙におぼろげな、不吉な姿でつづいている、黒い連山。
それは辺境地帯の中では、比較的高い土地に属しており、川をこえればそこはもう、深い森も草の下生えもなくなって、ただ、気性の荒い蛮族セムが住んでいる、石ころだらけの荒野が延々とつづいているばかりである。森は危険をひそめていたけれども、それとても荒野の危険にくらべれば何ほどでもなかった。
リンダはウマの上で小さく身震いした――平和なパロのクリスタルの王宮できかされた、荒野に住む蛮族の恐ろしさを思い出したのである。しかもその荒野に逃れてゆくためには、巨大な暗黒な流れ、ケス河をこえなくてはならない。――この時代、人間が安らかに暮らせる土地は、あわれなくらい少ないのだった。
ケス河とノスフェラスの荒野のことを考えれば、ルードの森とゴーラ人たちでさえ、まだマシとしなくてはならなかった。リンダは小さくまじないの魔よけのしぐさをし、そして溜息をついて眼の上にそびえる砦を見上げた。
それは石づくりの巨大で籠城に適した辺境の砦だった。灰色の石を並べた城壁には、無数の銃眼があり、それがたびたび荒野のセム族の来襲をうけて持ちこたえてきたことをしのばせた。いくつもの塔が複雑な、しかし美しい均斉を保って城壁に囲まれてそびえており、すべての塔の上に、ゴーラの黒獅子旗と、モンゴールの大公旗とがひるがえっていた。
黒っぽい森の木々にかこまれ、その砦は、くねくねとまがりくねった山道をのぼりつめた頂上にあった。うしろは切り通しとなっており、その下はケス河の急流だ。それは戦略的にも絶好の地点であるといえただろう。黒々とした木々と、濃紫の連山の背景とのあいだで、砦もまた辺境に特有の何とはない暗さ、ひえびえとした沈黙につつまれていた。
砦が近づき、大きくなるにつれて、黒騎士の一隊とそのとりこは静かになり、息さえもひそめて黙々とウマを歩かせた。山道を突然クロヘビが走りぬけ、森の上で黒っぽい鳥がぎゃあ――という、妙に人声に似た鳴声をのこしてとびたったが、それへ注意をむけるものはなかった。
道のゆきどまりに、パロのとりこたちの希望をたちきるかのように、巨大な石づくりの城壁がそびえていた。
「城門をあけろ」
隊長がすすみ出て叫ぶ。確認の目がのぞいて、それからおもむろに、きしむ音をたてながら、たけ高い城門が開きはじめた。
黒いウマと人の一隊は黙々と門をくぐった――だがそのときだ。
「イヤよ! この門をくぐるのはイヤ!」
ふいにリンダが叫び出した。
「リンダ!」
おどろいてレムスがうしろから姉の肩を抱き、しずめようとする。リンダはみむきもしなかった。そのスミレ色の目は何か戦慄をさそう畏怖に見ひらかれて、そびえたつ石の砦を見上げていた。
「どうしたのだ、さわがしい」
隊長が怒って叫び、ウマを駆って列のさいごへ戻ってくる。リンダは首をふりながら、城を見つめていた。
「瘴気がうずまいているわ。かびくさい、ドールの領土の匂いがするわ。誰も気がつかないの? この砦を待ちうけている運命が見えないの? イヤよ、この城門をくぐるのはイヤ。わたしはあの瘴気にふれたくない」
騎士たちのあいだに、目にみえて動揺がわきおこった。そうでなくてさえ、数日来の、同僚たちの奇禍とルードの森の大火が、迷信深い辺境守護隊の心をおびやかしていた。森で見出した豹頭の怪物も、とうてい愉快な前兆とは云われない。その上に、パロの王家がヤヌスの最高祭司の家柄であり、その血すじをひくものにきわめて偉大な予言者や高僧があらわれるのだ、ということは、誰でも知っていた。そのパロの王家を滅し、刃にかけたのが、かれらの同胞であることも知っている。
王家の呪いだ、というひそひそ声がしきりにわきおこり、騎士たちは鎧の胸にヤヌスの印をきった。ウマたちは広い城門と大手門のあいだでとまってしまった。
「えい、何を騒ぐ」
怒って隊長は叫び、かけもどってうしろからウマたちの尻を手当りしだいにムチで叩いた。
「さっさと通るのだ。これはスタフォロスの砦、けさがたわれわれが出ていったばかりのところだぞ。それはここは暗黒の領土に近い辺境だが、砦の中は安全なモンゴールの封土なのだ、なにも妖怪じみたものが入りこむことはできん。不吉なことがあるとすればそれはすべてパロの呪われた双児どもがもたらすのだ。さあ、早く通れ。わが主君は待ちかねておいでだぞ」
騎士たちは顔を見あわせ、そしてのろのろとウマにムチをくれた。
グインは興味をもって連れのほうをのぞきこんだ。しかしリンダはもう静かに――静かすぎるほどになっていた。彼女はレムスの手をしっかりと握りしめ、革の服の衿にあごをうずめ、顔をなかば銀色の髪におおいかくして、黙々と騎士たちに従った。その大きな、感じやすいスミレ色の目は、得体のしれぬ光をうかべて、けむるような睫毛の陰に隠されてしまった。
そうして、一行はスタフォロスの砦に入った。
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「リンダ」
レムスが、怯えたように周囲を見まわしながらささやいた。
「ぼくたち、殺されるの」
「知るもんですか」
リンダはじゃけんに云い返した。しかし、すぐに後悔して、つけくわえた。
「殺されるにしてもモンゴールの都に送られて、大公じきじきの裁きをうけてからでしょうね。勇気を出すのよ、レムス、そしてしゃんと背をのばしてね。わたしたち、パロの王家のさいごの二人なのよ」
天井は高く、そして壁も天井も、すべては冷たい黄色みをおびた石でできていた。あかりとりの窓はたかいところにあり、そのために、砦の中に入ると、昼でもひんやりとして薄暗い、そして肌寒いばかりなうす闇が、かれらをつつんだ。
「かびくさいわ」
リンダはウマをおりた黒騎士たちにおしつつまれ、うしろからせきたてられるようにして長い廊下を歩きながら、鼻をしわめてつぶやいた。
「妖魅の匂いがする。――辺境の砦などで暮らすのは、わたしはイヤだわ」
グインは唸り声で答え、賛意を示した。
「われわれとて、好きこのんで辺境守護隊に加わるわけではないのさ」
リンダのすぐ隣を歩いていた黒騎士のひとりが、ききとがめて云った。
「それはモンゴールの強壮な若人のみな心ひそかに恐れている、三年間の試練なのだ。辺境から帰ってきてはじめて、モンゴールの若人は成人となる。だが辺境の砦にもさまざまあり、袖の下を使えるものはトーラスの都から一日半しかはなれていないタルフォの砦や、『赤い街道』に沿っていてそこでの主な仕事といったら交易で行き来する商人《あきんど》どもの荷をしらべてかれらのわいろをうけとるだけというエイムの砦に派遣される部隊に入れるし、運のないものが、たえずセム族におそわれたり、妖魅の結界にあまりにも近すぎるこんなスタフォロスの砦やマルヴォンの砦にまわされるのさ」
「そこは何を口軽く喋っておるか!」
先頭からかけもどってきた隊長がムチをふりあげて騎士の肩をピシリと叩くと、騎士は黙り、隣と足並をそろえて石づくりの廊下を歩くことに専念した。
廊下は長く、はてしもなく続いているかのようにリンダたちには思われた――それは暗く、そしてひえびえとして、足音や話声がひどくよく反響する。両側の壁には先史時代からでもあったのではないかと疑われる、磨滅してほとんど顔かたちもたしかではない神々の像が刻まれ、像と像とのあいだはかくし扉になっているのかもしれないがそこから出てくる顔はなかった。
夜になったら、この廊下を歩いてゆくことも、ルードの森でヴァシャの茂みにもぐっていることも、その恐ろしさにかけてはたいしたかわりはないだろう、とリンダは思い、ブルッとからだをふるわせて肩を抱いた。
かれらは角を曲がり、石段をのぼり、また角を曲がった。無人の城かと思うほどに、森閑としたなかを、もういちど角を曲がると、ふいに、規則正しく石の柱が立ち並んでいる巨大な広間がひらけた。
石柱のあいだに、使い走りらしい男女がうろちょろしている。それをつきのけて一隊は通っていった。奥の正面に、一段高くなった一画があった。
細めの石柱で仕切られたその一画には、いくつかの大きな椅子とテーブルとが並べられていた。だがそれはむろんそこで友人どうしが卓をかこむように内側をむけてあったのではなく、背を壁につけて、こちらへむけられた椅子の列の前に、高いテーブルがおかれ、その上にぶどう酒のつぼや石杯、石づくりの大皿などがのっていたのだ。そのために全体の雰囲気はどうやら裁きの間めいていた。テーブルも、椅子も、何もかも石で、椅子の上にはふかふかの毛皮がかけられ、その毛皮に埋もれるようにして大きな男がかけていた。
「ただいま戻りました」
その奥の間の手前で一隊を立ちどまらせた隊長が、すすみ出て房飾りのついたかぶとをとると右胸にあてながら申しあげた。
「ルードの森にてとらえました捕虜三名をめしつれました」
「その二人の子どもはパロの例の双児として――」
椅子の上から、ゆるやかな重々しい調子の返答があった。
「その左側の異形の者はそもそも何者なのだ?」
隊長がかぶとを胸にあてたまま、豹頭の大男を森の焼けあとで発見したいきさつを話しているのをききながしながら、リンダはひそかに非常な興味をもって椅子の上の男を眺めた。
一列に並んだ石づくりの椅子は、中央の玉座然とした最も大きいそれを頂点にして、両側に二脚づつ、しだいに丈を低くしながらならべられている。しかし、食事のときか、あるいは正式の謁見のときにでも、一族のものかそれともおもだった家臣が居流れるためのものらしい、それらの椅子は、中央のひとつを除いては、いまはがらんと空いたままだった。それぞれの背にかけられた毛皮が主待ち顔である。
中央にただひとり、いわばそれらの椅子を供につれて腰かけ、石のテーブルに肘をついて身をのりだしている長身の人物は、しかしその年恰好、顔かたちすらもさだかではなかった。なぜなら、彼は、前に立っている騎士たちと同様に、黒づくめの、ただし胸に銀で紋章をおした鎧をつけ、黒いブーッと黒い手袋をし、黒い長いマントをかけた上に、顔もまた、黒いかぶとでかくされていたからだ。
なお驚くべきなのは、そのかぶとで包まれた顔は、騎士たちと異って、下半分には黒布の仮面のようなものを垂らしているために、この黒づくめの人物の全身で、肌が外気にふれている場所はただの一ヵ所もありはしないのだった。中年の男、とリンダがとっさに思ったのだって、その重々しい声としゃべり方の具合によったので、少なくとも姿かたちからは、その男の素顔、素性をおもてにうかがい知らせるべき何ものも、ありはしなかったのだ。
「――というしだいで、私は君公《きみ》のご賢察にゆだねてご処置をあおぐために、これなる化物をつれ戻ったのでございます」
リンダが魅せられた目で、その黒い男を見つめているうちに、隊長は説明をそう結び、ふかぶかと会釈してから二、三歩ひき退いた。
城主に、命令を、とうながすようなしぐさだったが、しかし城主のほうはなかなか口をひらかなかった。
黒手袋につつまれた手がテーブルの上をすべり、石の杯をとりあげた。リンダは彼が仮面をおろすかと目を丸くしたが、あいては思い直して杯をおくと、テーブルをとんとん叩いた。
「このようなものを見るのははじめてだな」
おもむろに彼は口をひらいた。
「第三隊長よ、その豹人はスタフォロス砦の守護隊の鎧をつけておるが、それにはわけでもあるのか」
「それはおそらく第五小隊のものから奪いとったものででもありましょう」
「そうか」
黒手袋につつまれた手が苛立たしげにうち鳴らされた。
「では、それをとらせよ、それからその豹頭がまことの半獣半人であるのか、それとも単に豹の仮面をつけているにすぎぬのか、それをひきはいでたしかめてみるがいい」
「かしこまりました」
リンダはグインが敵の陣中であることも忘れて暴れだすか、と危惧した。しかし、豹人は、自制した。彼はさっそく命令に従った騎土たちの手がからだにかかったときに、グルルル……と凄みのある声をたてただけで、無言のままマントや鎧をとり去られるに任せた。
ほどもなく、グインは、はじめに双児が出会ったときの、革の足通しに、ひとつだけのこしてもらえた胸をななめによこぎる革帯だけの姿になって、両腕をうしろにくくしあげられたまま傲然とスタフォロス砦の城主の前に立っていた。
だが、城主のもう一つの命令のほうはうまくいかなかった――仮面であるのかないのか、豹頭は、生まれついてそう彼の肩の上にのっていたかのようにおおいかぶさっており、何としてももちあげることはできなかった。
騎士のひとりが意を決したように短刀をぬき、リンダは拳を口にあてて悲鳴をあげた。だが、
「いや、待て」
城主がとめた。
「よかろう、この男は豹人なのだ。傷をつけるのはやめておけ。あとで考えてみよう――わしはいまだかつてこのようなものが悪霊でなく血肉ある人間で存在するなどという話はきいたこともないが。――おもしろい、あとでその男にはここでなく地下でもう一ぺん目通りさせよう。
ところでこの双児がパロの真珠か?」
仮面に下半分を、かぶとに上半分をおおわれた顔がこころもち動いて、ゆっくりとそちらを向いた。リンダは何となく身ぶるいし、レムスの勇気づけようとする手がぎゅっと腕を握りしめるのを感じた。
「わたしはスタフォロス砦をモンゴールの大公、ヴラド殿下よりあずかるヴァーノン伯爵だ」
黒い男はゆっくりと名乗った。とたんに、リンダは反射的に叫んでいた。
「ヴァーノン! 『モンゴールの癩伯爵』!」
そして、嫌悪のあまり叫び声をあげて目のまえの男からあとじさろうとし、黒騎士たちに手荒くおしもどされた。
黒づくめの男は笑った。その笑い声はどうやらされこうべの中で風が鳴っているようにぶきみで、うつろだった。
「モンゴールの癩伯爵の名は、遠く中原のパロにまでひびいているか」
ゆっくりと彼は云い、また笑った。
「怯えることはない、だからこそこうして全身をすっぽりつつみ、外気にも人目にもふれぬようにしているのだ。ヴラド公には、それでもなお宮中をうろつくにはふさわしくないものとお思いになられて、それでこうしてこのような辺境の最西端の守備隊の城主として追い払われたがな。まあ、ケス河をひとつこえればただちにうろつき出す妖魅どもと、これほど近くに住まうのも、仲間と共にあって淋しくないようにという、大公のお心づかいだろう。
どうだ、噂い高い癩伯爵のすがたを、話の種にひと目見たいか? もっとも、人間とは名ばかり、語うじて人のかたちをとどめているにすぎんがな。お前たちの隣のその化物のほうがわしよりよほど人間らしいわ」
そして癩伯爵はおもむろに手をもちあげ、かぶとをぬごうとした。
リンダとレムスは心ならずも戦慄におそわれてあとじさったが、こんどは押しもどす手はなかった。騎士たちも覚えず鼻白んであとじさっていたからである。癩伯爵はまたからからと、うつろな風のような笑い声をひびかせて手をおろした。
「案ずるな」
彼は云った。
「わしにとりついた業病は、空気にふれてひろまるので、わしは決して肌の一部さえも外気にふれさせない。それゆえ、この騎士どもも、わしと同じ砦に住みここを守っていても罹病することはないとわきまえているさ。ところで双児よ――」
彼は立ちあがった。動作はいかにものろくさとして、辛そうだったが、テーブルに手をついて立ち上りおえてしまうと、異様なほどに背が高かった。
「このような辺境の砦で余生を送っているので、わしははじめ狼煙《のろし》とタロス砦からの早馬で、パロの双児がこのあたりに逃げこんだので捕えるようにとの命令をきいたとき、ひどく驚いた。なぜならわが大公殿下がパロを落とした、と狼煙が知らせたのが、さよう四日前のことで――中原の中央に位置するクリスタルの都から、このスタフォロスの砦の周辺にわずか二日あまりで移動するなど、太古の黒魔術の心得でもあるものならば格別、なみ[#「なみ」に傍点]の人間には、とうていかなうわざではないからだ。
しかも、狼煙の知らせたところによると、大公はクリスタル・パレスを落としたものの、かねてからそこにあると人の口に高かった、パロの財宝はなにほども手に入らなかった、という。――いやいや、これは大公の狼煙ではなしに、わしの私設の情報係が教えてくれたものだが。
考えてみればパロはケイロニアの数倍、ゴーラに至っては十何倍もの長い年月のあいだ中原に君臨してきた古い国だ。当然そこには古い叡知もたくわえられていよう。いかに不意をつかれてモンゴールの軍隊の蹂躙にまかせたとはいえ、一朝夜にしてがれきと化してしまうほど、パロは脆くはないはずだ。
パロの双児よ、わしはお前たちを、布令どおりにモンゴールの都トーラスへ送りとどけるが、お前たちを生きてとらえたのはわしの幸運なのだから、わしがそのパロの秘密を手に入れても、罰はあたらぬと思うのだが……」
「パロには、秘密なんかないわ!」
リンダはあおざめながら叫んだ。
「いや、ある」
「ないったら!」
「ではいったい、どうやってお前たちは、わずか一日で、クリスタルの都からこのルードの森へ、居場処をうつすことができたのだ? 空でも飛んだか?」
「さっき自分で云ったでしょう。黒魔術には、そのぐらいのことはできるわ」
「ではその黒魔術を明かしてもらおう」
「まっぴらよ」
リンダははなはだ高貴な王女らしからぬしぐさで下唇をつきだした。
「さっさとわたしたちを殺して、塩づけの首を木箱につめてトーラスへ送りなさい」
「よい度胸だ、娘よ」
癩伯爵は例の笑い声をあげた。
「だがお前はまだ何も知らぬ、この世には真に耐えがたいものがいくつもあるということさえ知らぬ。ある種の人間は、何かを手に入れたいと望めば、どのような手段をつかってでも手に入れるものだ、ということさえ知らぬ」
「拷問のことね」
リンダはおちついて――あるいは少なくともそれを装って指摘した。
「何でもするがいいわ、火でも、水でも。どのみちわたしたちはパロの王家のさいごの生きのこり――パロの誇りと共に死んでいった方がましよ。汚辱の中で永らえるくらいなら舌をかむわ。パロの知恵も、栄光も、わたしとレムスと共にほろぶのだから、わたしたちの死はムダではないわ」
「お前は生まれながらの女王だな、小さい娘よ」
癩伯爵は讃辞を呈した。リンダは長いプラチナ・ブロンドの髪を振りやり、かわいらしいあごをつんとそらせた。
「わたしは拷問台の上で息絶える瞬間までパロの女王で、聖なる血筋の純粋な継承者で、誇り高いアルドロス三世の愛娘で、――そして<予言者>リンダなのだわ。自分のことをかえり見て、わたしの前に姿をさらして立つことを恥じるがいい。――そしてレムスもパロの正統な皇太子、世継の王子――父上がモンゴールの槍にかかったときからは、パロのただひとりの統治者なのよ」
リンダはきびしく云い、どぎまぎしているようすの双児の弟をいかにもはがゆそうに前に押しやった。
「も――勿論だ」
レムスは威厳をとりつくろって云ったが、その姉よりもずっとやわらかな線を描いているあごは、いくぶん弱々しくふるえていた。
「パロスの二粒の真珠は一方よりももう一方がやわらかな貝につつまれているようすだな」
癩伯爵は笑って評した。
「パロの秘密も、やわらかい方の貝をこじあけて、思いのほかかんたんに手に入れることができそうだ。だが――わしは、業病に脳までも侵されているせいか、ひどくひねくれた人間でな。やわらかい貝よりはかたくなな貝から、輝かしい真珠をとりだすことに喜びを覚える。わしは、お前が何も知らぬ、この世で真に耐えがたいということがあるのを何も知っておらぬと云ったが――」
伯爵は、膝関節に故障でもあるかのようなぎこちないしぐさで、ゆっくりと動いて、石の壇をおりはじめた。
「たとえば、どんな感じのものかな、この鎧の下は包帯をまきたてた膿だらけのからだ――業病のために生命ある腐肉のかたまりと化したこのからだに、二人きりの床の上で、ぴったりと寄り添われ、抱きしめられ、口を口にかさねられるとしたら? 手をつかまれ、ひきよせられ、その滑らかな肌におぞましい膿をべったりと塗りたくられるとしたら?」
リンダが金切声をあげて後ずさった。悲鳴をとめようと、小さな拳を口にあてたが、どうしてもとめることができなかった。
「火や灼いた鉄や革ムチでは、たしかにお前のような魂を従えることはできぬだろうな、中原の小さい女王よ。――だがお前の心が高潔で激しければそうであるほど、生きながら腐った肉と、ただれてにじみ出る汚らわしい膿とに耐えることができるかな? わしの寝床に縛りつけられたら、それでもお前はあらいざらい、パロの最高の秘密を、あることないこと叫び出さずにはおれるかな?」
癩伯爵はゆるやかにリンダのほうへ手をさしのべ、近づこうとした。実際にしたのではなく、そうしようとするそぶりをみせただけだったが、リンダは恐怖に我を忘れて長い髪をつかみ、かたく目をつぶりながら、
「やめて、やめて、やめて!!」
と叫びつづけた。
しばらくそのリンダの紙よりも白くなった顔を眺めていてから、癩伯爵はかすかな笑い声をたてた。それは悪意にみちていた。
「それ見たことか」
彼は云った。
「この世には、どのようにしても耐えられぬこと、というのはあるものだ。だから、子供の身で、あまりに生意気なことばを思いあがって吐かぬがいい。
――どのみち、いずれはお前たちの口からパロの秘密を吐いてもらうことになる。逆に云えば、それをききだすまでは都にむけて、パロの子供たちをとらえた、という狼煙は出さぬ。わしはどうあってもパロの秘密、できるものならパロの財宝のゆくえをも、最初にききだす人間になりたいのだ。
だが――わしは見てのとおりの業病の身だ。一日のほとんどを、わし一人のために作り直された塔の中で生活している。そうでないと砦の兵がいとわしがるし、わしもまた――わしの病には、あかりや音や空気がことごとくさわる[#「さわる」に傍点]のだ。だから、わしは一日のうち数刻だけしか、この本丸におりて来ない。
今日はもうその限度が来た。第三隊長よ」
「は」
「この三人を塔につれていき、とじこめよ――わしのための黒い塔でなく、虜囚のための白い塔の一室へ、そして食物と水をやり、決して逃げ出せぬよう念を入れて見張っておけ。責任はすべてお前にある。――それから、その豹の男だが、その男には、わしはおおいに興味をそそられた」
「仰せのとおりで」
「そやつは何物で、どこから来て、なぜそのような外見をしているのか――それもさりながら、その筋肉が見かけどおりに鍛えられたもので、そのいまわしい獣の頭の中に、獣ほどの知恵がつまっておるならば、モンゴールの国境のなかではこの男はこの男と同じ重さの純金ほどにも値打ち物だということになる。なぜならヴラド大公殿下の尚武政策により、モンゴールではたびたび各地で大闘技会がもよおされ、そしてその勝者である名だたる闘士たちは恐るべき巨額の賭けの対象となるのだからな。
――いや、この男は、万が一にも殺したり、傷つけたり、餓えで弱らせたりしてはならんぞ。半獣半人の格闘士――それはどんな評判をよぶことだろう。ただしそれも、こやつが見かけに愧じぬ戦いかたができればの話だが……」
癩伯爵はふいにぐらりとよろめき、テーブルに身を支えた。騎士たちは騒然となったが、だれひとりとして、あるじを助けにその呪われた男に近よろうとするものはいなかった。癩伯爵はしばらく息をととのえていたがせきこんで云った。
「わしは早く塔に戻らねばならん。その三人をつれていき、後刻にそなえよ。くれぐれも逃がさず殺さぬようにしろ。その豹の男には、夜、地下室でわしが戦いぶりを調べてやることにする。よいか」
「はッ」
隊長が胸に手をあてた。とみるや、癩伯爵はいきなりよろめきながら椅子にくずおれ、そしてどこかにかくされたボタンをでも押したらしい。
ふいに、椅子ごと、石の壁がぐるりとまわって、あとにはひとつも椅子のないただの壁があらわれた。病がのこされているのを恐れて、椅子もまたその場にのこさぬ用心にちがいなかった。
考えてみれば、砦につきものの従者や下僕、主君に近くつきしたがう近習などひとりも見当らぬことにリンダは気づいた。スタフォロスの砦がまるで無人の城のような印象を与えたのも当然、癩をおそれる城のものたちは、必要最小限しか城の主と接触せぬようにして、かれら自身の居場所にたむろしているのにちがいない。
そう思っていたとき、
「ひとつ云いのこした」
突然地の底からのように独持の重々しい声がひびいてきて、彼女はすくみあがって見まわした。
だが騎士たちはおどろいた色もない。そこでリンダはそれが石のあいだに埋められ、注意深く隠された伝声管であることに気づいた。
「パロの王女はだいぶお疲れのようだ。塔の小部屋は王女だけ別室にしてさしあげるがいい」
「何を――!」
弟とひきはなされては、とリンダは反論しようとしたが、そのまま伝声管は沈黙し、騎士たちは無言のまま三人を引ったてる仕事にかかった。
「リンダ、ぼくたち引きはなされるよ!」
レムスが叫び、隊長に直訴しようと身をのりだした。しかしグインがふいに吠えるような声で云った。
「ムダだ、やめておけ。あとで俺が何とかする。ともかくいまはこ奴らは俺たちをどうするつもりもないのだ。ひきはなされるぐらいは我慢して、力をたくわえておけ」
「だって――ぼくたち、生まれてからいちどだって別々になったことがないのに!」
「我慢するんだ」
そっけなくグインは云い、うしろから小突かれるままにまた石の回廊をまわり、石段を上って、白い塔へとのぼっていった。リンダとレムスも不安げにつづいた。
それもまたすべて石づくりの、ひえびえとした空気のわだかまっている塔だった。いったんおもてへ出てから再び建物に入り、らせん状につづく階段を二人づつ並んで上りつづけたところで、まず、隊長は大声で、グインとレムスのとじこめられる室のカギをあけるよう命じた。
ひどく背が低くて、不具ではないかと思える、頭巾をかぶった牢番があらわれて、二つ並んだ石の扉の手前のほうをひらいた。グインは身をこごめて自ら石の室に入ってゆき、レムスはリンダをふりむいて訴えるように手をのばしたが、そのままつきとばされて室に入り、そのうしろで重い扉がぴたりとたて切られた。
隊長は交互で見張りをするよう部下に命じてから、奥の室にリンダをとじこめるように牢番に云った。
「そいつはムリってもんでさあ」
というのが、その牢番の返事だった。
「つい昨日、伯爵様自らがその室に若い悪魔をとじこめ、処刑の日時を決めるまで待つよういわれたばかりですからな」
「誰か入っておるのか」
隊長は当惑して他の牢のことを訪ねた。牢番は汚い歯をむきだして笑った。
「娘っこひとりなら、塔のてっぺんの小部屋でもよかべい」
「塔の天辺の小部屋――」
隊長はためらったが、やがて声を決したようにすなずいて、リンダに階段を上るよううながした。
隊長のそのためらい、牢番のイヤな笑いかた、が、リンダにふと奇妙な不安を抱かせた。しかしリンダはかれらなどに弱みをみせる気はなかった。彼女は頭をまっすぐに立て、しだいに幅がせまく、急になってくる石段を、小突かれる前に進んでのぼった。
小部屋の戸があけられた。中はひどく暗く、そしてかびくさかった。リンダはぐいと唇をかみしめ、中に入った。扉がしめられ、カギをかう音がうしろにひびいた。
「気丈な娘だ」
外で声がきこえる。リンダは暗さに目を馴らそうとぎゅっと目をとじた。
「だが一夜ここで明かしゃあ泣いて憐れみを乞うでな」
きこえよがしの嘲りの声と笑声、階段をおりる足音がとおざかってゆく。リンダは両手で胸を抱き、ゆっくりと目を開いた。
そして、音をたてて息をのんだ。急速に、身体中の血がひいてゆくのがわかる。
暗がりに、何かがうずくまり、彼女を見上げていた。その双つの目は蛇か何かのように床のすぐ上で、暗く凶々しい、緑色の燐光を放ってちろちろと燃えていたのである。
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3
室の中はうすぐらく、そして冷んやりとしていた。高いところに切ってある、小さなあかりとりの窓だけが、唯一の照明源だったからだ。
しだいに目が慣れてくると、室内に無造作におかれた、さまざまな調度、毛皮を投げかけてある長椅子、低い卓子の上の水さし、などが目に入ってきた。少なくともかれらは虜囚を、それほど不自由な思いをさせる気はないのだ。
「グイン……」
扉に外から厳重にカギをおろし、兵士たちの足音が遠ざかっていってしまったのをたしかめてから、レムスは心細い声でささやいた。
「ねえ、どうして彼らは、リンダだけを別の室にしたのかしら? リンダは無事でいると思う?」
グインはその並外れた長身をさいわいに、あかりとりの窓から外のようすをさぐろうとしきりにのびあがっているところだった。彼の目に入ったのは、しかし、見わたすかぎり暗色につづいている辺境の森と、そのもっと彼方にひろがる荒野、それらの背景をなしている紫色の山々と、それらすべてを真二つに区切ってよどんでいる暗黒のケス河、という、はなはだ心を和ませない荒涼たる風景でしかなかった。森の一箇所でばかに明るくみえている部分があるのは、昨夜かれらが焼き払ったルードの森だろう。
「わからん」
グインは素気ない答えをして、外を見ることをあきらめた。
「だって……」
レムスは少年らしい不安にかられて連れを見つめ、ほっそりした両手をねじりあわせた。
「くよくよしても、しかたのないことには、くよくよせんことだ」
豹頭の戦士は吠えるような独持の喋りかたで云った。
「お前の姉は気丈者だ。たいがいの危険は自分で何とかできる」
「でもあの気味わるい癩伯爵――」
レムスは云いかけたが、ふいにぎょっとした顔で口をつぐんだ。
「どうした」
「な――何か音が」
「外に見張りの兵が歩きまわっているんだろう」
「違う!」
レムスは不安そうに首をかしげて、左の壁を指さした。
「そっちだよ。ほら、またきこえてきた!」
グインはレムスの示すほうへ目をやったが、はじめは何も少年のいうような異常は感じとれなかった。いぶかしげに彼がふりかえったので、少年は|草ウサギ《トーリス》を思わせるかわいらしい目を丸くしながら、一生懸命になって彼を納得させようとした。
「ほら!――壁をひっかくみたいに、カリカリ、カリカリって!」
「おお」
とだけ、グインは云った。いまは彼の耳にも、その音ははっきりきこえていた。
「な、何だろう」
「|穴《ト》|ネズ《ル》|ミ《ク》だろう」
「でも……」
グインは、同じ<パロの二粒の真珠>とは云っても、姉娘と弟の少年とで、その魂の色合いにはかなりの相違があることに、すでに気づきはじめていた。パロの世継であるところのこの少年は、長年、弟としてリンダにリーダーシップをゆだねてきたせいかもしれないが、明らかに姉より数段内気で、繊細で、感受性がつよく――あえて云うならばまだ幾分その羽根には白いそれが混っているようだった。
「あんなネズミなど……」
グインは嘲るように云いかけたが、ふと言葉を切ると、そちらの壁を見つめた。彼の丸い頭がけげんそうに傾いた。
カリカリ……カリカリ、という、石の壁をするどい歯がひっかいているような音がやみ、かわりに、とんとん、とんとん、と壁を音を忍ばせて叩く音がはじまったのだ。
グインは目を光らせてそちらを見つづけ、不安そうなレムスの手が胸にしがみついてくるのも無視した。
「トルクではない」
彼はほとんど他の者にはききとれぬような唸り声で呟いた。
「辺境の大ネズミが格別に悪魔の知恵をもっているなら別だが――トルクが石壁をかじるだけでなく、それを叩いて隣人に通信するなどという話はきいたこともない」
「グイン」
レムスがささやいた。
「隣の牢の囚人だろうか」
「ああ」
グインはそれ以上云わなかった。云う必要がなかったのだ。そのとき、とんとんと向うから叩かれていた、壁の一部が突然にせりあがり、小さい石のひとつがぽろりとはずれてかれらの室へころげおちた。
グインが手をのばしてその石を床におちる前にすくいとったので、ドアの向うに立っている張り番に、室内の異変を気づかれずにすんだ。その、石がはずれて、ぽっかりとあいた、十センチ四方くらいの小さな穴から、押し殺した笑い声がきこえてきた。
「やれやれ」
まだ若い、しかしどこか不敵でユーモラスなひびきをひそめた張りのある声がつづけてささやいた。
「やっとこれで、通話用の窓ができたぞ」
レムスが目を丸くして何か云おうとする。グインはその肩をおさえてひきとめ、壁の横にはりつくようにして、気配を窺った。彼はまだ、これが癩伯爵ヴァーノンの手[#「手」に傍点]ではないか、という懸念を忘れてはいなかったのだ。
隣から返事がないので、壁の向こうの声は、ほのかな疑惑をはらんだ。
「おい」
性急な声が云った。
「誰も隣の牢におらんのか。そんなわけはないだろう。おれは、うとうとしていたところへ、塔に上ってくる大勢の足音、剣とよろいのふれあうひびき、扉が開き、しまり、そして錠のおろされる音でとびおきたのだからな。おい、答えろ、そっちの牢の新しい住人は何者だ?」
グインとレムスは顔を見あわせた。グインはまだ疑いをすてていなかったが、気短からしいその若々しい声には、その苛立った調子と、何とはない横柄なひびきにもかかわらず、人に不快を与えないなにかがあった。
「おい、きこえないのか? それとも用心して名乗らないのか、あるいはあの厭らしい生きぐされの化物にお得意の拷問にかけられたばかりで、答える力もないのか? それだったら、呻いてでもみせるがいい――それとも、まずこちらから名乗ってみせろというのなら、いいとも、礼儀作法は守るさ。どのみちおれがあのいやな癩男にたてついて、面とむかって膿だらけの腐肉と罵ってやったために、その場で鎧と剣をはぎとられてここに叩きこまれたことは、すでに砦じゅうに知れわたっているはずだからな――おれはイシュトヴァーン、ヴァラキアのイシュトヴァーンで、トーラスで傭兵としてモンゴール軍に投じたばかりにこのいやな墓場に送りつけられることになったのだ。おい、お前が何者なのかは知らないが、聞けよ、このスタフォロス城、こいつは、とんでもないところだぞ」
「どういうことだ?」
グインはつりこまれてきいた。なるべくはっきりと口をあいて発音したのだが、壁のむこうの声はけげんなひびきにかわり、
「お前は北方のタルーマンの頭の足りねえ巨人族か、それともノスフェラスの悪魔みたいな蛮族ラゴンなのか? まるで口の中に生肉を頬ばっているみたいな喋り方じゃないか」
遠慮なく評した。もっとも、それにも長いことかまってはいず、「とにかくここはろくでもないところだし、そこを治める奴はといえば膿汁にまみれた腐肉だが、それだけならまだ我慢はできるというものだ。おれは十二のときから傭兵となってあらゆる城と戦場をわたり歩き、もっとひどい豚小屋にだっていくらも暮らしてきたからな。だがここは――おい、おれも名乗ったんだ。そっちも名乗って、なぜここにぶちこまれる羽目になったのだか云えよ」
「俺の名はグイン」
グインははっきりと発音しようと努力しながら云った。
「ルードの森で黒騎士隊に捕われたのだが、癩伯爵はどうやら俺をトーラスの大闘技会に出して闘わせるつもりらしい」
「なるほどな」
イシュトヴァーンの声がいくぶん親しみを帯びて、
「あのいまわしい膿袋は、たえず賭けでひと財産つくれそうな格闘士奴隷を探しているからな。なら、傭兵のおれとは仲間みたいのものだ。別に、モンゴールのヴラド大公に剣を捧げたというわけではないんだろう」
「俺の剣はいまのところ俺以外の誰のためのものでもない」
「なら、教えてやるが――いいか、おれは間もなくこのとんでもない呪われた城をおさらばするつもりだが、そのときはお前も何があろうとも脱走することだぞ。でないと、いいか、この呪われた城の石ひとつひとつが頭の上に崩れおちてくることになるぞ」
「どういうことだ?」
またグインはきき、なだめるようにレムスの肩を叩くと自分の隣にすわらせて、自分も壁の穴の横に椅子をひきよせてあぐらをかいた。
「この城が呪われているっていうことさ!」
傭兵は陽気に、
「おれは四つのときからひとりで戦場稼ぎをして生きのびてきたし、十二のときにはもう大人の鎧をくすねて一人前の傭兵だった。だから云うのだがおれの、生きのびるための直感は超能力といっていいほど鋭いのだ。人は、それで、おれのことを魔戦士などともいう。どんな戦場でも、どこにどんな危機がひそんでいるかかぎあててしまうからだ。
そのおれが云うのだからまちがいはない。この城には悪魔がとっついている。災厄の黒雲がこの城をおおいかくしている。その瘴気はあの包帯だらけの城主にあるのかもしれないし、あれはただその災厄の一部にしかすぎないのかもしれん。
だが、グイン、いいか――いずれにせよこの砦は何かに呪われているぞ。傭兵部屋でこっそり囁かれていた話だがな、近習たちでさえ決して近付こうとしないあの黒い塔の中で、いったい何がおこっているのか、誰も知らぬそうだ。しかしたしかに何かが[#「何かが」に傍点]おこっている、その何か[#「何か」に傍点]とは――チェッ、たいして知りたいとも思わんがね!」
「何か、あかしがあるのか」
グインは興味をもってきいた。
「さよう――はじめは、近習だったな」
というのが、<魔戦士>イシュトヴァーンの答えだった。
「そいつはおれがここへ部隊と共にやって来る少し前のことだ。近習の若いのが、間をおいて三人、つづけて行方不明になって、その三人が三人とも、さいごに見られたのが、黒い塔の入口近くだった。それからうまや番の下僕、そして昔から癩伯爵につかえていて、この辺境の地に送られた彼にも忠実について下ってきたのだという老執事だ。
黒騎士隊がかわるがわる外に出て、内密の使命を果して来るようになったのはその執事の行方不明で、砦じゅうに前々からのあやしいことが噂になりかけた直後だよ。黒騎士隊は夜明けに出ていって、夕刻、隊列の中に何やらマントをきた二、三人をおしつつむようにして帰ってきた。ところがかれらがそうするようになって以来、城中の者が行方不明になることはぴたりとやみ、噂が口にのぼることもまた、たえてなくなったのだ」
「……」
「なあ――きいたことがあるのだ、おれは。たしかトーラスの魔法使いに、癩という業病にきくのは、人の生血と、生肉以外にはないと」
「……」
「おれは<紅の傭兵>イシュトヴァーンだが、おれが超能力者と呼ばれるのは別に噂のように魔物がとりついているからではない。ただおれには人の見ぬもの、見ぬふりをしているものが見え、またかけはなれたいくつものものをひとつの模様に戻して見ることができるからなのだ。なあ、この砦が長くないというのはほかでもない――この砦の周辺にある開拓民や猟師の家からはおそらくいけにえを狩りつくして、このまえ例のお忍びの任務を果たしに出ていった黒騎士隊がマントをかぶせてつれ返った人間、というのは、わずか身の丈一メートルの矮人が五、六人、それが何かのはずみで猿ぐつわがはずれたときに、『アルフェットゥ! アルフェットゥ!』とわめくのがきこえてきたからなのさ」
「アルフェットゥ?」
「蛮族の神の名だよ、グイン」
レムスがささやいた。
「ノスフェラスの荒野に住むセム族の神の名がアルフェットゥというんだよ」
「草原の神モスに誓って!」
イシュトヴァーンがわめいた。
「そこにはもう一人いるのか? それを早く云え!」
「しッ」
グインは舌打ちして、
「訳は云えんが、俺は子供を一人連れているし、もう一人の子供――女の子だが――をこの牢の入口で引きはなされてしまったのだ。イシュトヴァーン、あんたが脱走するのはいいが、俺はどうやらまずその女の子を助け出さんとならぬようだ」
「おお、グイン!」
レムスはグインの手を握りしめた。壁のむこうからはややあって、
「女の子がいて――一人だけ、引きはなされた?」
「ああ。どこやら別の小部屋にとじこめるといって連れていかれた」
「おい――そいつは、危険だぞ」
「どうして」
レムスが夢中で叫んだ。
「どうして危険なの?」
いきなり石の扉が、槍の先か何かで激しく叩かれ、
「うるさいぞ!」
と張り番の怒鳴る声がした。かれらは沈黙し、やがて声を低めてまた語りはじめた。
「もしかしたら――」
イシュトヴァーンは怒鳴られたことなど意に介さずに、
「その女の子というのを別にしたのは、その例の用途に使おうという肚なのかも知れんぞ」
「そんな――!」
レムスは震えながら、
「リンダを、癩の薬にするために生血を絞ったりさせないよ!」
グインは震えている少年の肩を叩いて慰めた。隣からはそんな少年の動揺などいっこうにかまわぬように声がつづいた。
「ならなおのこと急がねばならんというわけだ、そうだろう。実はおれ自身も少々焦っている。それで遠からずセム族がかれらの同胞を取り返しにか、復讐にか、いずれにしてもこの砦を大挙して襲って来るだろうと踏んだのでな、おれは癩の化物に喧嘩をふっかけ、怒らせて、トーラスの都へ送り返されようともくろんだのだ――おれは癩伯爵の領地からの徴兵でなくて、モンゴール軍の傭兵なのだから、おれを罰するのはトーラスのグドウ将軍の筈だからな。ところがほんの少しおれはやりすぎてしまった、あるいははじめから化物には軍律に従う気持がなかった。都へ、次の連絡隊と共に送り返すかわりに彼奴は、ただちにおれの処刑を宣告しここにぶちこみやがったのだ。おそらく奴は処刑にことよせておれの血を絞ろうと思ってるのかもしれん。
――むろん、おれは、そんなことぐらいでは参りはしなかったがね。おれは<魔戦士>イシュトヴァーン、生まれてきたとき、掌に玉石を握っていたので、土地の老予言者は、この子はいずれの掌の上に王国をのせて支配することになろうと予言したのだ。おれは自分の運命を信じている。おれはいまのところまだ、一介の若い傭兵にすぎぬし、おれはいずれ天下をとるのだ。とすれば、天下をとっておらぬおれがここで傭兵のまま、いやな化物なんかに血を吸い殺されるわけはないからな。
というわけで、どうせおれは今夜かあすの夜明けには牢を破ろうと思っていた。だが、お前たちは――」
「われわれにも、どうやら、ここで死ぬわけにいかぬ理由がありそうだ」
考え深げにグインが云い、声がよくきこえるよう石壁の穴に身をよせた。
「イシュトヴァーン、あんたは世界じゅうを巡ってきたといった。それなら――<アウラ>という名前――か人――に心当たりはないだろうか?」
レムスは下唇をかみしめてグインを見やり、それが、グイン、という彼自らの名前以外、すべてを忘れ去ってレムスとリンダの前に突然あらわれたこの異形の戦士の、記憶に残っている唯一の手がかりであったことを思い出した。同時に、いまさらのように、グインとの出会いかたがどんなに不思議な、謎めいたものであったのかを思ってみずにはいられなかった。かれもリンダも、もうずっと長いことこうしてグインと旅をつづけていたような気持になりかけていたからだ。
「アウラ――アウラと。国の名でなし、町の名でなし、女の名前みたいだな」
陽気な傭兵は考え考え答えたが、ふいにはっと息をのむ音がして、
「ヤヌスの老人の顔にかけて!」
急に声が鋭く、いとわしげなひびきを帯びた。
「双面神ヤヌスの老人の知恵の顔と青年の生命の顔にかけて! おれが壁ごしに喋っていたのは何という[#「何という」に傍点]化物なんだ?」
グインは話に熱中したあまり自らの異形を忘れ去って、向こうから見える位置に豹頭をあらわしてしまったことに気づいた。イシュトヴァーンの口汚い罵声がきこえて、
「運命の神ヤーンの三巻き半の尻尾にかけて! お前はいったい何[#「何」に傍点]なんだ、半獣神シレノスか、それとも生まれもつかぬ辺境の妖魅どもか? おれはあわや魔物を道連れに背負いこんじまうところだったのか? おれはあのいとわしい<不具者の都>キャナリスにも傭兵として行ったが、そこでだっておまえのようなしろものを見たためしはないぞ」
「俺は――」
グインは事情を説明しようと口をひらきかけた――だがそのとき、ふいにイシュトヴァーンはひどくあわてた低声で、
「おい、兵どもが上ってくる。きっと晩飯の焼肉を窓から投げこんでくれようというのだ。お前の正体のせんさくはあとにしてやるから、早くさっきの石をひろって元通りにおしこめ。おれの折角たてた計画が水の泡になる」
「わかった」
グインは云って、石をさがし、元通りに壁の穴にはめこんだ。それは真にきわどいところだったのだ――なぜなら、彼がそれをし終えて長椅子の上に腰をおろすかおろさぬうちに、階段を上ってきた一隊の重々しい足音が二つにわかれ、一方は奥、すなわち傭兵の室の前で止まって、扉の上部についている窓をあけて「食事だ」と叫んで投げ入れる気配がし――それと同時に錠を外す金属的な音がかれら自身の室の扉にひびいて、ゆっくりと石の扉が開いたからである。
牢獄の入口に立っている黒騎士たちは、皆手に松明をかざしていた。その光でおぼろげに照らし出されて、はじめて虜囚たちは、そろそろ日没が迫りかけていることに気がついた。室内がもともとうす暗い上に、あかりとりの窓からのぞける空は濃いスミレ色の、辺境特有の色調をしていたので、気づかなかったのだ。松明の光が石壁に虜囚たちと騎士たちのゆらゆらする影をおとし、室内には、逢魔が刻の心もとなさが漂いはじめていた。
「来い」
隊長――面頬をおろしているので、さきの隊長と同一人であるかどうかは外見からははかりがたい――が手短かに云った。
「我らが主君が、お前の力と技をお試しになる」
同時に二人の騎士が前に進み出て、グインの両脇につきそった。
「グイン!」
レムスは叫び、立ち上ろうとしたが、隊長がそれを制し、うしろから進み出た牢番が、卓子の上に焼肉と粉にひいた穀物をかためたもの、それにモンゴールの果実酒のつぼ、という一人分の食物をおいた。
「豹人だけだ」
隊長はかんたんに告げると、彼を引ったてるよう合図した。グインはそれが彼の主たる特質をなしている、ふしぎな無感動な態度で立ち上り、両脇を騎士たちにかためられたまま促されるままに室を出た。どうやら、彼にとって、静と動とは極度に背中あわせの二面をなしているもので――彼はその頭に冠せられている野獣そのものと同様に、きわめて忍耐強い長時間の沈黙と待機からすさまじい破壊と暴力へ、嵐のような爆発と闘争から無為なときには筋肉ひとつ動かそうとせぬ、一見従順とまがうばかりの無抵抗と無感動へと、一瞬にして移行することができるのであるらしかった。
その彼が黙ったまま連れ出されると、もと通りに石の扉がとざされ、錠がかけられ、レムスは一人きりで残された。騎士たちは壁の灯明入れに松明を一本残していってくれたが、それはかえって室全体にゆらゆらした魔物めいた影を投げかけてぶきみだった。
グインがつれてゆかれ、リンダともひきはなされて、パロの王子はぼんやりと長椅子の上にうずくまり、卓子の上の食物にも手をのばす気になれずにいた。だが、兵士たちがたしかに行ってしまい、塔が静かになった、とみるや、またあの音――石のまわりのつめものをそっと注意深くひっかき、向こうがわへ押し出そうとする音がはじまった。
「そっちからも引っぱってくれ」
傭兵の声がした。レムスはあわてて手をのばし、石をひっぱったが、あやうく石のぬけた勢いでうしろに倒れるところだった。
もとのとおりにのぞき窓があくと、松明のあかりに照らされて、黒いきらきらする目がのぞきこみ――それから若々しい、しかし引きしまった顔全体が壁にかこまれて見えた。
「どうした、小僧」
傭兵はささやいて、唇のまわりについた焼き肉の脂を手の甲でぬぐった。
「彼らはあの豹の男をつれて行っちまったのか」
「ええ」
レムスは泣き出しそうな声で云った。
「癩伯爵が、グインの力と技を試すのだそうです」
「ははあ」
<紅の傭兵>はそれが持ち前らしい、楽天的で不敵なようすで云った。
「じゃ少なくとも殺されはせずに戻ってくるというものさ」
のぞき穴から、松明に照らされた室内やレムスのようすを物珍しげに見ていたが、
「おい、小僧、なんだってそんなにふさぎこんでるんだ? 大丈夫だって、その食い物には癩の菌は入っておらんさ」
陽気に保証した。
「おまえは服装からして、モンゴールの開拓民の子どもなんかじゃないなあ。いったいなんであの化物と旅をし、スタフォロス砦の騎士隊にとらわれたんだ? いったいあの化物は――|くそ《ドール》、まるで化物の巣じゃないか、いくら辺境とは云え何物なんだ?」
「グインはいい人だよ」
レムスは云い、疑わしげにのぞき窓をにらんだ。イシュトヴァーンはそんなことばは聞き流して、
「とにかく飯を食えよ、腹ごしらえをするんだ。お前が生血を絞られるのがイヤなら、おれに手をかしてくれ。おれはこのいやったらしい塔をぬけ出すために石を抜き、何とかくぐりぬけられる穴をこしらえたんだが、そこからケス河まで無事に這いおりるという段になって困っていたんだ。おい、この穴から、そっちの室の寝台の掛布をさし入れてくれ。おれの室の奴だけじゃ、充分なくらい長い紐をこしらえられないんだ。といって、あんまり細く裂いては、おれの体重を支えることができないしな」
「ケス河? ケス河へおりてどうしようというの?」
云われたとおりに掛布をさし出しながら、おどろいてレムスは云った。イシュトヴァーンは笑い出した。
「別にどうするか決めておらんさ。ただこの塔の外側の城壁が、ケス河の暗黒の流れの上にまっすぐつき出しているから、とにかくここから出ようとしているだけだ。いいから肉と穀物を食えよ。腹が減っていては何もできない、というのは傭兵の最初の鉄則だぞ」
レムスは云われたとおりにしながら、隣の室で<紅の傭兵>が丈夫な歯と指で掛布をたてにひきさき、つなぎあわせて器用に縄梯子をつくる気配をじっときいていた。イシュトヴァーンが彼には松明をくれなかった牢番をののしったり、ぶつぶつ呪いのことばを並べたりしながら、不屈の努力をつづけているのをきくと、いまさらのように、わずか数日前まで美しいクリスタル・パレスで世継の王子として大切に守られてきた身の、いまの心細さが心にしみた。
グインは日が完全におちて、青白い月が森を照らしはじめても戻っては来なかった。縄梯子をつくりおえるとイシュトヴァーンは、長椅子に戻り、毛皮をかぶって、力をたくわえておかねばと云いざま眠ってしまった。リンダの身の上も案じられる。辺境の森――ゆうべまで、二夜をすごした危険と怪異にみちた森の上を、得体の知れぬ影がとんでゆく。
レムスは長椅子にうずくまり、長い不安な夜を生まれてはじめてのたったひとりで耐えていた。だれが知っていただろうか――それは、長い髭とウマのひづめ、三巻き半の尻尾と時の終わりまでを見通す隻眠をもつ、運命の神ヤーンが、彼の運命の小車を、静かにまわしはじめた最初の瞬間だった。ヤーンは長い、そしてきわめて入り組んだ模様を織りあげようとしており、その模様でそれぞれの役割を果たすべき人々にすら、まだ、かれら自身が自らの運命の糸の先端にあることは気づかれていないのだった。
グインはなかなか戻らず、イシュトヴァーンは今夜じゅうには砦をぬけると宣言したことを忘れたかのようにぐっすり眠りこんでいた。スタフォロスの城全体を嵐の予兆の黒雲がつつみこみ、砦の兵士たちの夢もまたわけもない不安にいろどられたまま、静かに辺境の夜はふけていった。
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4
そのしばらく前のことである。
ただひとり、連れのふたりとひきはなされて、塔のてっぺんの小部屋につれてゆかれた、パロの小女王リンダは、彼女のうしろで重い石の扉がゆっくりとしまり、嘲りののしる兵たちの声と足音とが遠ざかっていってからようやく、その室に彼女はひとりぼっちでいるのではないことに気づいて身をかたくしたのだった。
彼女の双生児の弟と豹の戦士がとじこめられた室と同様に、その室もまた、うす暗くて、石でできていた。この室には、その下の階の室にあるようなあかりとりの窓が切ってなかったので、室内はいっそう暗く、目が闇に慣れてくるまでは、ほとんど何も見わけがつかないくらいだった。
かびくさい、奇妙に不快な匂いが室の空気に混りこんでいた。これはリンダの心を和ませはしなかった。予言者の資質に恵まれた彼女にとっては、それは妖魅の領域に、危険すぎるくらいに近づきすぎていることを示すのにほかならない。
だが、――少なくとも、いまはまだ、それに心を悩ませるゆとりはリンダにはなかった。彼女は魅せられ、金縛りになって、入れと後ろからつきとばされた姿勢のままドアに背をぴったりつけて目のまえのそれを見つめつづけていた。――床の上とぼんやり見わけられる卓子の下のちょうどまんなかに、ちろちろと凶々しい光を放ってこちらを見つめ返してくる、双つの緑色の目。
|穴《ト》|ネズ《ル》|ミ《ク》にしてはその目は大きすぎ、人間にしては、人のからだが入りこめぬようなせまい床の上にうずくまっている。リンダの頭の中をちらっと、巨大な<|人喰い《マン・イータ》>の長虫とか、ルードの森でさんざん悩まされたゾンビーのような、恐るべきドールの化身のことがよぎった。
リンダは両手を胸にあてがってふるえをとめようとしながらじっと立ちすくんでいた。あおざめたくちびるが小さく主神ヤヌスの名をとなえ、指がそっとルーン文字の魔封じを描く。
だが――どちらからも動くことも、互いの目から目をはなすこともできない、この緊張した対峙は、はじまったときと同様にふいに終わった。リンダは、ふいに、卓の下からのぞくその目が、彼女自身と同様、いや、もしかしたら彼女がそれに怯えたのよりずっと、リンダ自身に対して怯えているのだ、ということに気づいたのだ。どうしてかはわからない――たぶん、彼女のそなえている、異常につよい精神感応力のためだったのだろう。
リンダは深く息を吸いこむと、一歩進み出た。
「まあ――怖がらなくていいのよ」
彼女は何とも知れぬあいてにむかって勇敢にも話しかけた。
「わたしだって、この塔の囚人で、あなたと同じ身の上なんだから」
あいてが反応したのは、たぶん彼女のことばの内容でなく――というのは、すぐにわかったように、あいては彼女のことばを話さなかったから――その澄んで子供っぽい、あたたかな声のひびきだったのだろう。はじめは何の反応もなかった。やがて、リンダがあきらめて椅子にこしかけて休もうかと考えはじめたときになって、あいては、おずおずしながら卓子の下から這い出し、彼女と向かいあって立った。
リンダは目を丸くし、やっと闇に慣れた目にうつるそのすがたをびっくりして眺めた。はじめ、それは子供かと思われた。まっすぐに立っても、あいての頭は、ようやくリンダのウエストのあたりまでしかなかったからだ。
しかし、からだつきは、未成熟な子供のそれではなく、むしろサルに似てそれなりの均斉をもっていた。顔つきも、目が丸くて大きい、ある種のサルを思わせた――それはどこか非人間だったが同時に獣とも云いきれぬ何かがその緑色のまるい目の中に光っていた。
乱れた黒い髪の毛を首のあたりまでのばしほうだいにし、からだには毛皮の貫頭衣のようなものをつけただけだ。明らかに、まだそんなに年をとってはいない。それに、そう云っていいならば、たぶん若い女性であるらしかった。からだはすっかり毛皮でおおわれていたけれども、首や手首に、フジつるをあんできれいな花を編みこんだ、しゃれた装飾物をつけているのがわかったからだ。すでにしおれかけている、その花飾りを見たとき、ふいにリンダの腕に安堵と、そして同情とがこみあげてきた。
「あなたも捕われたのね。わたしもよ」
リンダは自分とあいてを指さしてみせながら云った。
「あなたはケス河のむこうに住むセム族だわね。いつもきかされてはいたけれど、こうして見るのははじめてよ」
緑色の目がまたたいて、リンダのことばを理解しようとするようすだった。だが、首をかしげてみせるとこんどは甲高い早口で何か云った。
首をふるのはリンダの番だった。それはリンダには、あえてくりかえすならば、
「スニ、スニ、セマ・ラクンドラ・リーク」
としかききとれなかったからだ。
「どうして、ケス河の向こうが住みかのセム族が、河のこちらがわで捕まるようなことになったの?」
云ってみたが、同じ早口のわけのわからぬことばがかえってきただけだった。
そこでリンダは考えて、最も原始的な交流の手段にたよることにした。すなわち、自分を何回も指さしながら、
「リンダ――リンダ」
そう繰り返してみせたのだ。
反応はすぐにあった。蛮族の娘は自分の毛皮で包んだたいらな胸を示すと、
「スニ」
と云った。リンダは自分をさして「リンダ」と云い、あいてをさして「スニ」と云ってみた。するとあいては嬉しげにうなずいた。
「セム族のスニ」
リンダは云ってみた。
互いの名がわかったところで、それだけのことで、それ以上に手まねで意志を通じあえるわけでもなかったが、しかしリンダは、何がしかの心のふれあいはたしかにあったことに満足した。彼女はゆっくりした動作で長椅子にいって腰をおろすと、これまでのこと、いまおかれている身の上、これからのこと、などをはじめてしみじみと考えはじめた。
リンダには、たぶん、その予言者の資質と関連して小動物やおびえた弱い心をとり扱う天性のカンもそなわっていたのである。なぜならセム族のスニはひどくおびえきっていて、ひとめ見てもわかるくらいだったから、もしリンダがちょっとでも荒っぽく動いたり、スニにふれようとこころみたりしていたら、たちまちそのささいな交流はふいになっていたことだろう。
しかし、リンダは、空気の流れを乱すのがこわいとでもいうように、ゆっくりとしか動かなかったので、リンダが動き出したときぴくっとした蛮族の少女は、すぐに彼女の意図を理解して、彼女がすわるのを見守った。それから緑色の目を怯えたトーリスそっくりにぱちつかせながらリンダを見つめていたが、そのまま彼女が動かないとみると、リンダから充分にはなれた壁の隅へいってうずくまり、好奇心にかられてじっと眺めつづけた。
リンダは気にしなかった。気にするひまもなかったのだ。彼女は若く、大胆で、そして疲れはてていた。昨夜も、その前の晩も、ろくに眠っていないのだ。
それでおちついてこれからのなりゆきと、パロの唯一の正統の世継である弟王子のことを考えてみようと決心していたにもかかわらず、椅子の上にうずくまると同時に彼女はつよい眠気におそわれ、たちまち眠りにおちてしまった。
若く、健康な少女の眠りをさまたげたのは、妖魔でも、朝の光でもなく――ふいに起こった短い悲鳴、そして絶望にかられた争いの気配のゆえだった。
リンダははね起き、そしてむざんな光景をみた。床の上で、セム族の少女が、壁のどこかの穴から這い出してきた、巨大な穴ネズミ、トルクの二匹をあいてに悲鳴をあげながらもみあっているのだ。
ネズミの鋭い牙が蛮族の少女の肩と太腿とにかみついていた。むろん、ネズミ族としてはぞっとしない巨大種だといっても、いいところ体長は三十センチあまりで、小型のネコ、といったところだ。しかしこれはリンダにとっての話だった。身長一メートル弱、体重もそれに見あうぐらいしかない、矮人族であるセム族からみれば、トルクは猛犬と同じほどの脅威であるだろう。
「ヒィー! ヒィー!」
スニはその牙が咽喉笛を狙ってかいくぐってくるのを、何とか手でつかんでひきはなそうとしながら叫んでいた。
「アルフェットウ! ヒィー!」
リンダは長いこと眺めていたわけではなかった。事情を悟るやとびおきて、周囲をみまわし、手頃な武器を求めたが、見あたらぬ、とみてやにわに床の上へとびかかり、素手でトルクの、スニの肩にかぶりついているほうの一匹をつかんでひきはがした。
汚い毛皮のぞっとするような感触もかまわずに、力まかせにそいつを石壁に叩きつける。ぐしゃりという音がして、ネズミの頭がつぶれた。
もう一匹はすばしこかった。スニをはなすなり、リンダにむかってとびついて来ようとする。リンダはすばやくそこにあった小椅子をふりあげ、空中でそいつをなぎ払うと、とびかかって叩きつぶした。小動物のつぶれる感じに、全身を悪寒が走ったが夢中だった。
いまのところその二匹の他に室にはいりこんでいるトルクはいない、と見てとると、リンダは椅子をおろし、肩で息をしながら立っていた。が、気がついて、倒れたまま泣きじゃくっているスニをひきおこし、胸に抱きよせてやった。
「大丈夫よ、大丈夫よ」
髪をなでてやる。セム族は想像を絶するほど、不潔で醜悪だ、ときいていたのだが、スニはきれいずきなのかどうか、悪臭もなく、ただ萎れた花の匂いと、なまかわきの毛皮の匂いがするだけだった。
「アルフェットゥ! アルフェットゥ!」
スニはくりかえした。その小さなからだを抱いていると、リンダは自分が力強い大きな英雄になったような気がしてきた。
「大丈夫よ。やっつけたわ」
リンダは云ったが、ふいにスニが腕をふりほどき、彼女の足元に身を投げ出して、そのブーツをはいた足にくちづけしはじめたのでひどくびっくりした。
「セママ、ラクラニ、イーニ……スニ、イミクル、リーク」
スニは興奮した声で云った。
「なあに、スニ? わからないわ」
だが次のしぐさの意味は、リンダにも明瞭だった。スニは首のうしろに手をまわし、首にとめていたフジつるの花飾りをはずすと、うやうやしいしぐさでリンダの首にそれをのびあがってかけた。そして、うっとりとした崇拝の目でそれを見あげると、うしろにさがり、主人にするように胸に手をあてて、ていねいに一揖したのである。ことばよりも雄弁な緑色の目と生き生きした表情が、蛮族の娘の感情を物語っていた。
リンダはにっこりとすると首飾りをもちあげて唇をつけてみせ、宮廷でパロの王女が賓客にするように優雅に答礼してみせたそれから、隣の椅子にくるように、スニを手招いた。
ふたりの少女は塔の小部屋に並んですわり、すっかり心が通いあったように感じて満足だった。少なくとも、そこが敵の真只中で、それぞれがどんな苦境におかれているのかさえ、当分は忘れていられそうだった。ふたりは手をとりあってすわり、何とかしてことばを少しでも通じあわせるこころみに夢中になりはじめた。
真夜中をまわって、突然音もなく壁にしかけられていた隠し扉が開き、幽鬼のような姿があらわれるまで、ふたりはすべての懸念を忘れてそうしてすわっていたのである。
いっぽう――
黒騎士隊に両側から守られながら塔をおりていったグインの方は、もとの大広間につれてゆかれると思いのほか、塔の階段を地下にむかって更におりるよう小突かれていた。
石の階段はしだいに急になり、周囲の石と石の間から水がにじみ出してぽたぽたとしたたって、石のくぼみに水たまりを作っていた。地下に通じる階段は曲がりくねりながら、どこまでも続いているように思われたが、やがてついに行きついたのは、穴倉のように暗くびしょびしょする、柱のいくつも立ち並んでいる回廊だった。
「右だ」
松明をかかげながら云う隊長の声が、いくぶん沈んできこえたのは、その周囲の暗さと水のぽたぽた垂れる音、そしてぬるぬるとすべる足元の不快のためだったのだろうか、無言のまま一隊はその通路にふみこんでいったが、光のとどく範囲はごく限られていたから、その松明の光が照らし出すたびに、安眠を破られた気味わるいくらい大きなトルクや、地下に入りこんできたらしいコウモリなどが、あわてふためいて光のあたらない暗がりへ逃れ去ってゆくのが見えるのだった。
騎士たちのほうもとりたててその任務を楽しんでいたとは云えぬようだ。コウモリがバサバサと羽音をたてるたびに、ヤヌスを唱える声や、クモの巣にぶつかった呪いの声がぶつぶつときこえ、隊長もあえて制しようとはしなかった。
いっぽうグインの方はというと、まるで無感覚なようすで、周囲の荒涼たる情景になど何の注意も払わず、大股に歩きつづけていた。その一行の中でいちばん平然としているのは当の虜囚であるくらいだった。
隊長はそれをいまわしげに見やり、ヤヌスの印をきったが、そのとき、前ぶれもなしに通路がおわったかと思うと、再び道は上りになった。そしてかれらが石にその鉄の長靴の音をひびかせながらいくらもゆかぬうちに、ふいに柱の蔭から、さまよい歩く亡霊のような黒マントの男があらわれたので、さすが気丈なゴーラの黒騎士たちもあわや悲鳴をあげるところだった。
「ご苦労」
癩伯爵のヴァーノンは例のきき苦しい、幽鬼じみた声で云った。
彼は鎧をとりはずし、かわりに深い頭巾とマントをつけていた。その下で、頭も顔も手も、うすい鉄の板でギプスをはめられたように包みかくされているのをグインはみてとった。何のことはない鉄製の巨大な人形のように、癩伯爵はぎくしゃくとかれらを手招いたが、部下たちの恐怖と嫌悪をかきたてることを恐れてだろう、ずっと距離をおいたまま近寄ろうとしないので、なおのことその姿は亡霊らしく見えた。
「用意はさせておいた。こちらにその豹人を連れて来るがよい」
その手招きする亡霊にみちびかれ、一隊はさらに廊下をすすんで、やがて地下の広間とおぼしい一室に入った。そこは同じような円柱で支えられている他には何もない、石づくりの室だったが、ただ、その奥のほうにはちょっとばかり人目をひくに足る豪勢な調度がそなえてあった。
もっとも、心和むとは云いがたいものばかり――すなわち、車裂きの台、巨大な石の炉、水責めの水槽、さかづりのためのろくろ、鞭打ち台、鉄製の、針責め人形、などといった拷問のための道具なのだ。
それらの前には、鎖でつながれた奴隷が二、三人いて、のろのろと、もう希望も絶望も感じなくなっているかのようなしぐさで命令にそなえていた。
癩伯爵はそちらには目もくれず、その気味悪いコレクションのわきをぬけていった。騎士隊もつづいた。グインは無感動にそれらの傍を通りぬけ、鼻についた生血の匂いにもそしらぬ顔でいたが、内心は、別にこれらの道具の性能を自分のからだで試してみなくても、残念なことはないな、などと考えているのだった。
だが少なくとも、当面の彼の目的はその室ではなかった。癩伯爵は例のぎくしゃくした動きで、奥の壁までゆくと、その石の一箇処を押した。
それはかくし扉の仕掛けになっており、石の壁がゆっくりと左右にひらくと、その向うにある、広い殺風景な室があらわれた。
そこには拷問台も処刑台もありはしなかったが、かわりに考えようによっては、もっといまわしい――おぞましい生き物が、奥の檻にとじこめられて、鉄格子につかまったまま、目を赤く燃やし、唸り声をあげていたのだ。
「ガブールの大猿――灰色猿《グレイ・エイプ》だ」
隊長が低くつぶやき、ヤヌスの印を切るのをグインは横目で見た。
もしグインが記憶を失っておらず、ガブールの灰色猿がどのようなものであるかを知っていたとしたら、そのおぞましい牙をむいた口や、どんな人間でもたやすく引き裂くに足る盛りあがった上腕の筋肉、悪魔そのものが巣くってでもいるように赤くいとわしい光をうかべている小さな目、を見るまでもなく、そのひとことですべての希望を失ってしまったかもしれない。ガブールの灰色猿は、すべての悪魔《ドール》の創った生物がそうであるように、|人喰い《マン・イーター》で、その上生きた獲物をゆっくりとひきさき、なぶることに無上の嗜好を有しているのだ。
だが、グインにはそれは巨大で物騒な大猿――凶暴で手ごわいだろうが、要するに下司で不潔な獣とうつるだけだった。仮にそうでなかったとしてさえ、グインの頭をおおっている豹頭は、彼のどのような内心の感情をも、その表情の変化からおしはからせるということがないのだ。騎士たちはそっとヤヌスの印を切ったが、中にはグインのその超然と立っている、動揺のないようすをみて、その豪胆にひそかな称賛の表情を示すものも、憎々しげに唾を吐くものもあった。
癩伯爵のほうは、悪夢の中から出てきたようなその汚らわしい獣を見て、彼の虜囚の示したその豪胆な反応に、どうやら満足したらしく見えた。
「そこへおりろ、奴隷」
横柄に彼は命じ、ゆっくりと、檻の前の広い石敷にいたる階段をさし示した。
グインはゆっくりと左右を見まわした。どうすべきか、ここで二十人の騎士をあいてに暴れるか、伯爵のいまわしい意図に従うかをはかっているようなしぐさだった。癩人は焦れて足ずりをし、騎士たちは槍で彼を小突こうとした。グインはひょいと逞しい肩をすくめると、どうでもよさそうに身体をゆすりながら、小突く槍の先をさけて、おちついて進み出ると階段をおりた。
伯爵はグインがおりきったとみてまた壁のボタンをおした。すると石段はバタンとひっくり返り、上るすべもない壁になってしまった。伯爵がまた別の石を押すと、さっきひらいた壁が下から上ってきて、ちょうど地下室を上から見下されるコロセウムのように伯爵のいるところからへだててしまった。
「いいか、あと五つ数えたらその猿めの檻をあけるぞ」
重々しく癩伯爵は宣告し、おもむろにマントのひだから砂時計をとりだして仕切りの上においた。
「この砂時計が三つおちるあいだそやつを相手に素手でもちこたえたら短刀を投げてやろう。それから更に二つのあいだもちこたえたら大剣を投げてやる。お前がよい戦士であるほど、生きのびるチャンスは大きくなるわけだ。わしは公平な男だし、よい戦士は貴重だからな。その灰色猿《グレイ・エイプ》と戦って素手でしとめたなら、お前と同じ重さの純銀を褒美にくれてやるぞ。
さあ! わしにお前の戦いぶりをみせてくれ、豹の男!」
癩伯爵ヴァーノンがゆっくりと、さいごのボタンをおすと、ギギギ……と軋みながら、鉄の格子が上りはじめた!
ガブールの大猿は突然与えられた自由に戸惑って、すさまじい吠え声をあげたが、たちまちその赤い、汚らわしい悪意にもえている目が豹頭の戦士をとらえた!
おもむろに、荒い息を吐きながら大猿はそちらへ向き直った。グインにはいまや戦い以外の道はまったく残されていないのだった。
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第三話 セム族の日
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1
悪夢そのものの中から生まれ出たかたち[#「かたち」に傍点]のように、ガブールの灰色猿《グレイ・エイプ》は長い腕をだらりと垂らして、目の前の豹人をにらみつけていた。
それはすりきれた巨大な頭を除いては、全身を汚らしいねばねばした灰色の毛におおわれた大ザルで、グインもきわめて長身で逞しかったにもかかわらず、そのサルの厭らしい頭は彼よりも頭ひとつぶん高いところにあった。
グインは両手をだらりとしたまま、宮廷のお茶会にでも招待された、といったようすで、大猿をおちついて観察していた。灰色猿はいきり立って檻からとび出し、いまにもつかみかかろうとするかのように餌食にむかってすすみ出たのだが、あいての反応が、その粗雑な脳味噌の知っているどのそれともあまりにかけはなれていたためだろう。足をとめると、いぶかしげに、豹の頭に人のからだをつけたその大男を見、小さな赤い目をわけもない怒りに燃やしながら、腕で胸を叩いて威嚇しはじめた。
グインは動かなかった。しかし、その豹の仮面の中で、彼の目が細められ、黄色っぽい光を放ちはじめ、彼はしだいに、その頭をおおっている高貴なすさまじい生き物――豹そのものへと、変貌してゆくかに見えた。猿の臭い、熱い息を吹きかけられながら、彼はじっと待った。
そしてふいにそれは二者を訪れた!
何のきっかけもなしに、やにわに猿の長い、怪力を秘めた腕がグインにむかってするするとのびた。もしそれに正面からとらえられてしまったら、それだけでこの戦いは終わっていただろう。
だがグインは充分に体勢をととのえていた。彼は猿が手をのばすと同時に自らは身をしずめ、驚くべき決断力でもって自分から猿の内ぶところへおそいかかっていった。
灰色猿のすさまじい吐息は怒りと、そしてかきたてられ炎になった闘争心に燃えていた。大猿は空を切った両の腕で、そのまま生意気な豹人を抱きこみ、締めあげようとしたが、グインは再び身をしずめると、大猿ののどもとと腹を両手につかんでひっかつぎ、頭から石の床へ叩きつけた。
「おお」
というどよめきが、見守る癩伯爵――それに黒騎士たちの口からもれた。だがぐしゃりと音をたてて石の床に叩きつけられた大猿は、面もむけられぬ怒りにたけり狂いながら、少しもその勢いを弱められぬまま両腕をつきだして突進してきた。グインは身をかわしざま体を入れかえて、うしろから灰色猿にとびつき、その太い毛むくじゃらの首を渾身の力で締めあげて、首をへし折りにかかった。
猿は両腕をあげ、グインの胴をかかえてひきはがした。グインは松の根のような逞しい両腕によじれた縄のように筋肉を盛り上がらせ、ひきはがされまいと咽喉笛をつかむ手に力をこめたが、しかし猿の怪力はわずかな抵抗ののちに豹人をひきはがして投げつけた。グインは空中で体勢をたてなおし、すばやく立って身構えた。人間に数倍する臂力と体重とをもつこの獣と戦うのは、グインほどの巨漢にも手にあまることで、早くも彼の厚い日に焼けた肩は激しく波打ち、そのかたくひきしまった腹は荒々しく上下していた。
だが、灰色猿のほうも、それまでにたびたびやったような、たわむれにひきさいてなぶり殺した人間どもと、そこに身構えている豹の頭をした人間とが少し違うことにすでに気づいて、警戒心を示しはじめていた。猿は胸を叩き、ごふごふとおぞましい威嚇の声をあげ、そして原始的な激しい悪臭と憎悪をこめて、その思いどおりにならぬあいてをにらみすえた。
「一つ」
癩伯爵がかすれ声で云い、一回落ちきった砂時計をひっくり返した。
グインはこんどは容易に猿に間合いをつめさせようとはしなかった。猿がとびかかる気配をみせると、さっと身を低くしてしさる。いためつけられた体力を少しでもとり戻す、時間稼ぎをしなければならなかったし、いっぽう大猿の体力はいまの攻撃では少しもそこなわれていない、と見なければならない。
だが、グインはもはや何も考えてはいなかった。それらのことも脈絡のある考えとして彼の豹頭にうかんだのではなかったし、彼の心からもはや四囲の状況、なぜそもそもこうしてガブールの大灰色猿と戦うに到ったのか、ということすら消えていた。彼はいまや一頭の野性の豹――本能を信じ、本能によってだけ動く巨大な野獣そのものだった。
灰色猿が警戒しはじめたために少し、両者のあいだに緊張した対峙がつづくと、癩伯爵はたちまち焦れて仕切りを叩いた。
「何をしている」
彼は濁った声で毒づき、やにわに手近かな水さしを拾いあげて、猿と豹のあいだに叩きつけた。
水さしの割れる音が、二頭の獣に求めていたきっかけを与えた。灰色猿は跳躍しておどりかかった。グインは間一髪でその腕をよけるなり、床を一回転して、起き上ったとき、彼の手には水さしのとがったかけらが握られていた。
騎士たちがざわめいた。
グインはからだを低く、ほとんど垂らした拳が床につくくらい低くして隙をうかがっていた。灰色猿が次にとびかかってきた瞬間、その腕にあえて頭をつかむにまかせた、彼の手の武器が、猿の左眼をまともに突きさしていた。
猿の咆哮が石の地下牢をゆるがした!
しかし猿は戦士の頭をはなさなかった。戦士は左手で猿の腕くびをつかみ、その万力のような力をゆるめようとしながら右手に力をこめてえぐり、猿の顔半面をひきさいてしまったが、猿は意に介さず咆哮しながら戦士をつりあげた。
グインの足が床をはなれた。グインは思いきり猿の毛だらけの腹を蹴り、再び蹴ったが、頭をつかみつぶそうとする大猿の手からのがれることができなかった。
騎士たちは息をとめた。
グインの口からも野獣のすさまじい唸り声がたてつづけにもれていた。もしその頭が奇怪な豹頭におおわれているのでなかったら、とっくにその頭は卵の殻よりももろくつぶされていただろう。グインの首から下のあらわれている肌が、こらえようとする努力のために真赤になり、彼はわめきたてながら気狂いのように右手の武器で猿の顔をおそった。
その盲滅法にふりまわした鋭利な石がもうひとつの目のすぐ上をひきさいたとき、さすがの猿も手をゆるめた。すかさずグインの足がありたけの勢いでみぞおちを蹴る。猿は戦士をぼろぎれのように投げすてると、顔を汚い巨大な掌でつかんで呪われた地下室をどよもす憤怒の叫びをあげた。
戦士のほうも、しかし、叩きつけられた床の上で動けずによこたわっていた。豹頭はそれだけの力を加えられてさえ彼の頭を執拗にはなれなかったが、心なしかいくぶんゆがんだように見え、そして逞しい肩や胸には猿の爪がひっかいた長い血のにじむ傷がついていた。彼は起き直ろうとしてもがいたが、二、三回足で宙を蹴ると、呻き声をあげ、頭を両腕でかかえて丸くなってしまった。
癩伯爵は息をつめて身をのりだした。腕の下の砂時計はいつのまにか、まったく忘れ去られていた。
大猿は片目をつぶされ、もう一方の目にも流れこむ血のために視力を失って、すさまじい激怒にかられ、足をふみならし、拳で胸を叩きつづけていた。猿は自分を痛いめにあわせたあいてがどこにいるのか、探そうと手をのばしながら、二度、三度怒りの声をあげた。
「起き上れ、豹人!」
期せずして見守る騎士たちの中から警告の叫びがわきあがった。
グインは起き上れなかった。手ひどくしめあげられ、つぶされかかった頭はもうろうとして、目の前がまっ暗になっていた。彼の手から力なく石のかけらが落ち、彼は弱々しく呻いた。
猿ののばした手が水さしのかけらにつきあたった。猿は怒りの声をもらし、それを噛んでこなごなにしてしまった。暗黒な、太古の闇にそのままつながってゆくような煮えたぎる憤怒。
猿のしきりとまさぐる手が倒れたままの戦士のからだにふれた!
「危い!」
騎士たちは恐怖の声をあげた。中のひとりがやにわに腰の長剣をぬいた。
「豹人! 右だ、来るぞ!」
叫びざま彼はそれをグインにむかって投げつけた。
グインはかすむ目を見ひらいて、自分にむかって投げ与えられた武器をみた。
彼の手がのびて、いなづまをつかんだという神話の豹人シレノスさながら、長剣の柄をしっかりとつかみとった。
灰色猿がおめきたてながらおそいかかってきた。
グインの右手の長剣がその胴を出会いがしらの勢いで真一文字にないだ!
灰色猿の絶叫が耳をつんざいた。
豹人ははねおきた。それはまさしく巨大な豹そのものの敏捷さだった。豹頭の戦士はいやらしい猿の腹からふきだす熱い血にまみれながら猿の内ぶところにとびこみ、長剣を何度となくつきさし、えぐった。
おどろくべき野獣の生命力でもって、それだけの傷をおいながらなおも猿はもちこたえていた。盲目な真紅の憤怒にみちて、ガブールの大灰色猿は自分を傷つけた豹人の両肩をつかみ、肉をひきむしろうとした。
豹人はさらに剣をつきさした。まだはなさぬとみて剣をふりあげ、猿の指を切り払った。
手がゆっくりとはなれていき、猿がどうと倒れる直前に豹人はとびはなれて床の上におりたった。その厚い肩に、まるでドール自身の指が印をおしたかのように紫色の巨大な指のあとが捺されているのを人びとは恐怖の目で見つめた。
グインは猿の首を上からつらぬき、残忍で要心ぶかい豹そのままにとどめをさした。だが、そのままよろめくと、彼は長剣を握ったまま倒れてしまった。全身が血にまみれ、傷をおい、弱りはてていた。
そのときようやく二回目の砂時計がゆるやかに落ちきったのだった。
「痴《し》れ者め!」
疲れはてた闇へおちこんでゆく寸前に、グインは癩伯爵ヴァーノンのわめき声をかすかに耳にした。
「ばか者! わしの貴重な実験をふいにしおって! 豹人に剣を投げた男は早く一歩進み出るのだ。ばか者!」
「お言葉ですが、伯よ」
隊長が思いきって――というのは、彼自身もできればその部下のようにふるまいたかった気持だったので――抗弁をこころみた。
「豹人は立派に戦えることを示したのでありますから、これも結果どおり――ともかく長剣一本で、二ザンのあいだにガブールの灰色猿《グレイ・エイプ》を屠れる者は無念ながら私どもの隊には存在いたしません」
「痴れ者! 痴れ者!」
たけり狂って業病の貴族はわめいた。
「長剣一本をたずさえてならば、たった一人でトーラスの都を落とせる剛の者などモンゴールの格闘士には何ぼうでもおるわ! わしはこ奴が素手で灰色猿《グレイ・エイプ》をひき裂くところを期待しておったのだ。どのみちこ奴に短剣も長剣も投げてやる気はなかった」
「しかしそれは――」
隊長は口をつぐみ、鼻白んでひきさがった。癩伯爵はいっそうたけりたって、足ずりをし、うなだれたまま押し出された罪人を指さした。
「その痴れ者の鎧かぶとをはぎとれ。早くはぎとれ! そやつはわしが罰を与える。豹人をつれてゆけ、元通りとじこめて食事を与え、次の命令を待たせろ。そやつの戦いぶりをいま少し見るには、また蛮族の商人が猛獣を連れてくるまで待たねばならん。
――いや……」
ふいに、伯爵は、悪魔的な思いつきに興じて手を打ち鳴らしはじめた。
「おい、その親切な痴れ者めに剣をやり、闘技場へおろすのだ。豹人と戦って倒したなら、第五隊長に入れかえてやるぞ。早くしろ、鎧をはぎとり、剣をやって、階段の下へおろすのだ」
「伯爵! ガブールの大灰色猿をあいてに二合で切りふせる闘士に、トーラスのオロが何で立ちむかえましょうか」
隊長は抗議した。
「ならば奴に切りふせられるがいい」
伯爵は冷やかだった。
「豹人は傷をおい、弱っているぞ。豹人に手傷でもおわせたら、命令にそむいた罪は見のがしてやろう。さあ、階段をおろすぞ――」
癩伯爵がボタンをおして、ゆっくりと壁から石の段がおりてきた。
刹那だった!
うずくまり、血にまみれて、失神しているかに見えたグインが、バネ仕掛けのようにはねあがった!
騎士たちがおどろきの声さえもあげるいとまのないうちに、灰色猿の血にまぶれた長剣をつかんだ戦士は豹そのまま石段をかけあがり、仕切りをおどりこえ、呪われた城主めがけて突進した!
癩伯爵が逃げようと手をかざすひまもなく、豹の戦士は剣をつきつけ、業病の貴族のマントをひっつかんで勝利の叫びをあげた。騎士たちはあとずさりした。
「モンゴールの癩伯爵の生命が惜しければ、道をあけるのだ」
グインは吠えた。
「こやつ、口をきくぞ!」
騎士たちのあいだからおどろきの叫びがもれる。
「さあ、道をあけろ。この厭らしい腐肉にとどめをさしてほしくなければな」
騎士たちはヴァーノン伯その人には、同じ空気を吸うことさえもいとわしいほど、その業病をおそれ、いみきらっていたけれども、しかし伯が象徴しているモンゴールの栄光に対しては、かれらの剣を捧げていた。ゴーラの騎士たち、といえば、勇猛、忠誠の形容詞にすら使われるほどなのだ。かれらは迷って顔を見あわせ、グインが剣先でおどしながら伯を小突いて進み出ると、うろたえてあとにさがった。もっともそれはグインをおそれてのこととも、かれらの主君の病をおそれてとも、見わけのつけようはなかったのだが。
「長剣の柄から手をはなせ。でないと――」
グインは怒鳴った。
「トーランのオロといったな。お前の厚意を忘れんぞ。――白い塔のカギをよこせ。そして俺を元の塔まで案内しろ」
まっすぐに立ち、長剣をかれらの城主ののどもとに擬して、低い石の天井にその豹頭がふれんばかりに長身のその半獣半人には、何かは知らず、威厳と――そして野性の誇りとがみなぎっていた。ゴーラの騎士たちは、彼の身にそなわったその威容を感じ、ためらいがちにその命令に応じようとざわざわしはじめた。
そのなりゆきをいちはやく察したのは当の楯にとられた貴族だった。全身を鉄板でつつんだ癩伯爵は、ふいにグインの剣をつきつけられたまま、幽鬼のようなしわがれた声をたてて笑いはじめたので、皆はぎょっとした。
「この膿袋め、何がおかしい」
グインは怒って叫んだ。伯爵はいよいよ、声を大きくして笑った。
「なるほど、こやつは、段びらをふりまわすだけでなく、豹なみの脳味噌ぐらいは持っておるというわけだ。だが、豹は豹だけのことしかないのだな。よりによって、このわしを楯にとろうと考えるとはな」
「なぜだ、きさまがスタフォロスの城主なのだろう」
「いかにも、そうだ」
癩伯爵はおかしそうに、
「ところでわしはスタフォロス城の城主だが、同時に呪われたモンゴールの癩伯爵でもある。それを忘れてもらっては困るな――どうだ、その手の長剣で、わしの胸をえぐるか? わしの咽喉を切り裂いてみるか? うすい鉄のマスクがわしと外界とをへだて、わしを浮世の風から、そして外の世界をわしという呪いから守っているのだぞ。お前の手の剣がわしのマスクを切りさいたそのときに、その破れめからわしの業病のみなもとがほとばしり、ここにいるお前らはみなその場で生きぐされの病人となるのだぞ」
そして伯爵は、ぎょっとなったグインが彼をはなし、あわててあとずさるのをみてもっとひどく笑った。
「いや、その剣が切り裂くのを待つまでもない。こうして、このマスクをひらき、呪われた肉を風にさらせば……」
鉄の手袋でつつんだ手がのろのろと顔のほうへあがっていった。たちまち騎士たちのあいだに恐慌がまきおこった。かれらは算を乱して逃げようとし、互いを自分より前に出してたてにしようともみあい、罵りあった。
隊長のほうはさすがに逃げようとこそしなかったが、ヤヌスの護符をまさぐりながら両手を頭の上にさしあげ、「伯爵さま、ご容赦を!」と叫んだ。
グインの手から段平がおちた。彼は呆然とし、どうすればよいかわからずにそこに立っていた。伯爵はそれをとらえろと部下たちにわめいた。
「そやつをとらえ、すみやかに元のとおりとじこめて、これからも何によらずわしの命をただちにかなえると誓いをあらたにするならば、ここでこの病いの風を解放することだけはゆるしてつかわすぞ」
騎士たちは長剣の柄をあるじにむけ、切っさきを自らの左胸にむけてさしのばす、ゴーラふうの誓いのために先をあらそって鎧をがちゃつかせた。それからあわてふためくあまりにたがいにぶつかりあいながら、豹頭の戦士にとびかかり、その太い腕に何重にも革ひもをかけた。
グインは手むかいしなかった。彼の黄色の目は、まるで化け物をでも見たかのようにぼんやりしてしまい、彼は虚脱したようになって剣をとりあげられ、ひきすえられるままになった。
「よかろう、これからもその従順を忘れぬことだ」
からかうように癩伯爵は部下たちに手をさしのべて云った。
「さあ、わしは疲れた。この腐ったからだをやすめるために暗室へ戻るゆえ、お前たちはすみやかにその男を白い塔へつれ帰り、手当し、血を洗わせ、食物を与えて休ませるのだ。いずれ近いおりにその男は再び試され、そののちわしがトーラスへのぼる折につきしたがって闘技会のために連れてゆかれることになろう。どのみち、パロの世継の双児を、遠からず大公殿下のもとへさしだすためにわしは都へもどるからな。さあ、行け。わしのもくろみをさまたげた馬鹿者は隊長の判断で罰をうけるがいい。
わしの前にこれ以上その姿をさらすな! 早くつれてゆけ!」
ふいに癩伯爵は勘忍袋が緒を切ったようにみえた。あわてて騎士たちは命令に従い、グインはスタフォロス城を支配しているのが、ゴーラの威光やモンゴールの忠誠というよりは、より多く恐怖であることを知ったのだった。
来た通りの通路を、黙りこんでかれらは通っていった。夜はふかく、足もとで水はびしょびしょと革のクツをぬらし、かれらの足どりは重かった。腰にさげた長剣ががちゃがちゃと鎧にふれあう音をたて、スタフォロス城の守護兵たちはかぶとをかしげてうつむいて歩いた。
「おい、気をつけろ」
なみはずれて長身のグインが、通路の上からのしかかってくるような低い天井に頭をぶつけそうになると、彼の左を歩いていた兵士が低い声で注意してくれた。グインはそっとそちらを見やり、その親切な男が、腰の鞘に剣の入っておらぬことと、かぶとの下からのぞくモンゴール人特有の青い目とまだ若々しい顔とから、さきに剣を投げて彼を救ってくれたトーラスのオロにほかならぬことに気がついた。
グインがそれに気づいたことを悟った為だろう。オロははにかんだふうをし、驚嘆のまなざしで豹頭を眺めた。
「あんたは凄い戦士だ」
彼は先頭をゆく隊長にはききとれぬような声でささやいた。
「あんたを見殺しにしたら、おれは長剣を腰に帯びる資格などはなかったろうよ。あんたと戦わされずにすんで、おれは心からよかったと思っているよ」
隊長がふりむいたのでオロは黙りこんだ。グインも口をひらかず、一行は長い石段をようやくぬけたときには心から安堵の息をついて新鮮な夜気を思うさま吸いこんだのだった。
グインは黙ったままだった。機械的に歩いてはいたけれども、その豹のまなざしはかげり、何かしらいとわしい思いつきの萌芽を隠しているように見えた。だが彼の丸い、毛皮に包まれた頭の中でどのような奇怪な疑念がきざしているのかは誰にも知られぬまま、一行はこんどは地上を通って、改めて白い塔へと入っていき、せまい段々を足音を反響させながらのぼっていった。
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そして、再び、彼のうしろで重々しい音をたてて牢舎の錠がおりたのだった。
グインは肩をひとつすくめると、石の扉に背をつけて立ったまま戻ってきた獄舎のなかを見まわした。パロの王子は向うをむいて、毛皮にくるまって寝台の上にまるくなっていたが、戸口でおこった物音にはっとはねおきて戦士を見、あわてて何か叫び出そうとした。しかし彼のうしろに黒騎士隊の姿を見ると何も云わず、寝台をおりると、かけよってグインにすがりついた。
グインはそのほっそりした腕にしがみつかれたまま安心させるようにうなづいてみせた。戦いのあとで弱ってもいたし、空腹で疲れはてていたが、その少年の銀色の絹糸のような、なめらかな髪を傷だらけの手でなでてやっていると心がなごんだ。
「帰ってきたんだね、グイン」
ふるえ声でレムスはささやき、うしろで戸がしまるのを見守った。
「ぼくとても心細かったよ。グインが殺されてしまったらどうしようかと思って」
「心配するな。俺は生きている」
グインは笑った。
「このぐらいのことでどうにもなるものか。それよりも食物があったらくれ。それと酒があったら」
「ええ、グイン」
あわてて少年は卓子に行って、食物ののこりとつぼをもってきて、豹頭の戦士が冷えた焼肉をひきさいて穀物の粉のねり物の中に指でおしこみ、がつがつと口に運ぶのを物云いたげに見つめていた。
「どうした」
その顔に気づいてグインは云った。
「まだ、姉のことを心配しているか。大丈夫だ、お前の姉は自分のことは自分で始末できる娘だ」
「違うよ、グイン」
レムスは扉のところへいき、外の気配をたしかめてから、戻ってきて、豹の丸い耳にささやいた。
「隣の男が……」
「<紅の傭兵>か」
つぼからゴーラのはちみつ酒をのんで、彼は云った。
「あの男がどうかしたか」
「それが……」
レムスは口ごもった。
グインはそちらの壁をみた。石はもとどおりはめこまれ、隣室との通話孔はふさがれている。
「ぼくは……眠っていたの。つい、うとうとして。目がさめたら」
レムスはグインが怒るのではないか、と怖れているように、おずおずと説明した。イシュトヴァーンはレムスに云ってかれの室の寝台の掛布をとりあげ、それでしきりに縄梯子を作っていたが、そのうちに寝椅子によこたわると大鼾をかきはじめた。
パロの美しい宮殿で育てられ、典雅な貴族たちや、うやうやしい召使にしか会ったことのない少年にとって、その傭兵の粗野なふるまいはひたすら面くらうものだった。レムスはイシュトヴァーンに何回か話しかけてみようとしたが、返事がないので諦め、そのうちにグインを待ちつかれてとろとろとまどろんだ。
そのうちに、ふいに隣でごそごそ動く気配がしたと思うと、
「ヤーンよ!」
ひと声ささやいて、ひそやかな活動がはじまった。とびおきてのぞいてみたレムスは仰天した。<魔戦士>が、塔の壁にうがった穴から、つくったばかりの縄梯子をつりさげ、いまや這いおりてゆこうとしていたのだ。
「待ってよ! その梯子はぼくたちのものでもあるじゃないの! グインが帰って来ないのに、どこへゆこうというの? 待ってよ、ねえ!」
レムスは壁の穴に顔をおしつけて叫んだ。するとイシュトヴァーンはこちらをにらみすえ、
「静かにしろ、口をつぐめ、ばかだな。牢番が気がつくじゃないか」
云うやいなや、レムスの当惑にはかまいもせずにするすると梯子をおりて夜闇の中に姿を消してしまったのである。
「あいつ、だましたんだ。ぼくたちと一緒に逃げるふりをして」
きいて、グインは吠えるような声で笑った。
「なるほどな、イシュトヴァーンは逃げたのか。かまうな、あいつにはあいつのもくろみがあるのだろう。どのみち、この室からとなりへ、この穴をくぐっては行けん。あいつには我々と行を共にする気はなかったのだ。俺ひとりなら共に戦う剣だからつれていったろうが、子供たちがいては足手まといだからな。――あいつのしそうなことだ、賢い男のようだったからな」
「だってぼくをだまして掛布をとりあげて!」
レムスは憤慨した。グインはいっそう笑った。
「お前は正直な子どもだなあ、王子よ」
彼は云って、壁のむこうへ漠然と手をふってみせた。
「そうかんたんに人を信じ、裏切られたといってむかっ腹をたてるようでは、とうてい名王と呼ばれるようにはなれんぞ。心配するなというのに、俺はこうなったらお前たちと一蓮托生だ。何とかして姉もおまえも無事にこの砦をつれ出して逃げるすべを考えるさ。イシュトヴァーンにはイシュトヴァーンの道をゆかせよう。それはともかく俺は疲れきっている。少し眠らせてくれ」
グインは目をとじ、床の上にじかに横たわった。レムスは邪魔をせぬように室のすみへ行き、おとなしくうずくまったが、しかしグインはすぐにまた目をかッと見ひらいて、思い出したように云った。
「お前の姉は<予知者>リンダなのだな。彼女がいまここにいて、俺のさっき見た怪異をときあかしてくれることができるなら、俺はどのようなことでもしてやるのだが!」
「何なの、怪異って」
姉と比べられ、いちばんのいたいところにふれられたのでレムスは怒ったようにきいた。
グインは、目の裏にやきついたものを忘れたい、というようにその豹頭を激しく振り、毛皮をからだの上にひきあげた。
「スタフォロスの城門をくぐるのはイヤだ、と姉は云っていたな。ここには不吉な瘴気が立ちこめている、と。あれは、何を感じとってのことだったのだろう。俺はあのとき、彼女が何を感じたのかさっぱりわからなかったが、さっき塔の暗い地下室でガブールの大猿と戦わされ、そのあとで癩の城主をたてにとってここから脱出しようとしたときに、異様なものを見た」
「異様なもの?」
「そうだ」
グインはむくりと身を起こした。毛皮をかぶり、床にうずくまって彼は闇に目をこらした。まるで、その塔の石壁をすかして、スタフォロス砦全体をおおっているあやかしの輝く目が見つめている、とでもいうかのように。
「異様――というのはあたらぬかもしれん。俺が見たのはただ、スタフォロスの城主、癩伯爵のヴァーノン自身にすぎなかったからだ。――俺の目の錯覚かもしれん。だからこそ、俺はお前の姉に、俺の見たものが目の迷いであり、俺の感じたおぞましい寒けが気の迷いである、と云ってほしかったのだ」
グインは身ぶるいをして、
「――お前にはわかるか。癩伯爵に長剣をつきつけて、その呪わしいからだにきわめて近く立ったとき、ふいに俺はおこり病みのようにふるえだすのを感じた。俺は心の迷いを気づかれてはとふるえをとめようとした。だが俺のすべての五体はいまいましくも、蛇の巣にさまよいこんだ小鳥のようにふるえつづけ、俺はまるで地獄の口のヘリにあやうい一筋の糸でぶらさがって、その底知れぬ深淵をのぞきこんでいるような気がした。
その俺の思いは、ヴァーノンの奴がカササギのような声で笑って、この仮面をとってその呪われた肉を空気にさらしてやるとおどしたときに恐しいくらいに強まった。俺は騎士どもの誰より近く伯爵に寄って立っていた。それで俺は、騎士の誰にも見えなかったものが見えた――というよりも、かれらには見えなかったものが、俺にはもっと見えなかった[#「もっと見えなかった」に傍点]のだ」
「――?」
「というのはな」
グインは無意識に指と指を交叉させてヤヌスのまじないをした。
「俺はその癩人のおおいかくされた手が、マスクのあわせめをおろしかけるのを見てしまったのだが――
マスクの内側には[#「マスクの内側には」に傍点]、何ひとつとしてなかったのさ[#「何ひとつとしてなかったのさ」に傍点]!」
「まさか」
とレムスは叫んだ。
「いや、そうなのだ。俺は目を疑い、呆然とし、手から長剣のおちてゆくことにさえ気づかずにいた。俺の目はルードの森の、梢のさきのバルト鳥までも見え、下生えと同じ色をした草ヘビでも見わけられる。
その俺が何度みても、癩伯爵の首から上には、癩でただれた頭どころか――たとえそこに宇宙の無限の星々が輝いていたとしても、俺はこんなにはふるえなかっただろうさ。マスクのすきまからのぞかれたものは深淵だった。ドールの居場所である地獄そのままな深淵だった。わずかにかいま見ただけだったが、そのすきまから吹きつけるなんともいえぬなまぬるい風がいとわしく俺の肌にとどき、俺の鼻孔は耐えがたいまでに強まってきた、かびくさいようないまわしい匂いをかいだ。
いったい、モンゴールの癩伯爵ヴァーノンとは、何物なのだ?」
グインとレムスは黙りこんで顔をみあわせた。二人の頭に、まるで今夜の明けぬうちに砦をぬけ出さなくては生命にかかわることを、知ってでもいるかのようにあわてて脱走していったヴァラキアの戦士、イシュトヴァーンのことばが期せずして同時にうかんだ。
(おい、ここはとんでもないところだぞ。おれは間もなくこの呪われた城をおさらばするつもりだが、そのときにはお前たちもさっさとここを――でないとこの城の石、ひとつひとつが、お前の上におちてくることになる)
「グイン……」
レムスはふるえ声でささやいた。
「ぼくたち、これからどうなるのかしら」
「わからん」
グインは、いくぶん気をとりなおして、
「とにかく、たしかにこのまま手をつかねて運命を待つのはよくないことのようだな。たとえどのようななりゆきになってもいいから、この塔をぬけだし、辺境地帯へ入ってしまうことだ。どのみちそこも妖魅の領土だが、なあ、子ども、この城に巣くっているいまわしい恐怖よりは、ルードの森のゾンビーのほうが、まだ俺は好きだぞ!」
「でも――でもリンダが……」
「それだが、何とかして手だてを考えるさ」
グインは云うと、のこったはちみつ酒を、つぼを傾けてのみほし、改めて毛皮をかぶって丸くなった。
「モンゴールの妖怪のことは、考えてもしかたのないものなら考えずにおこう。やがて、なるようになるだろうからな」
そう結論して、力をたくわえるために目をとじ、眠ろうとする。
レムスはうずくまったままそれを見つめていた。彼の目には暗い不安な想念が燃え、彼はやがて豹頭の戦士が静かに眠りこんでしまってからも、その姿勢をくずすことができなかった。
だが――どのみち、かれらは、その夜をもまたゆっくりと休んではいられぬさだめであったようである。
そうして夜をすごす体勢になっていくらもたたぬうちに、やにわにばらばらと大勢の兵が塔の階段を上ってくるあわただしい音がきこえ、そしてドアがあいたと思うと松明がさしつけられた。何人かがのぞきこんで、
「うむ、確かに二人だな。豹人と、パロの王子と」
無遠慮な声が叫ぶ。グインはくるりと起き直り、モンゴールの虜囚は眠らせてさえもらえぬのか、と大声で罵った。
「この室はよい」
最初に確かめた長身の騎士が他の仲間に命じてから、
「その虜囚の中でなんと城壁よりケス河の流れに身を投じたものがあった、と見張りが叫んだのだ」
説明した。
「暗黒の流れといわれるケス河に身を投じるとは底しれぬばかものだが、しかしこの塔にはいま何人かのセム人をとらえていることでもある。セム人ならばケスの流れぐらいはおしわたって逃れることができよう。それでこうして囚人をたしかめてまわっているのだ」
「どうして囚人と決める」
おもしろそうにグインがきいた。
「つらい防人《さきもり》の暮しに気のふれた、ゴーラの兵かもしれんぞ」
「ゴーラにはそんな弱卒はおらぬ」
ゴーラの騎士は誇らしげに、
「歩哨は、たしかにこの塔からつたいおりて城壁へかけのぼり、とびおりた人かげを見た、と云ったのだ」
「それはわからんぞ。なにしろスタフォロス城には、ただならぬ魔物が巣くっているようだ」
夜目にもわかるほどに、騎士は顔色をかえた。あおざめ、長剣の柄に手をかけてつめよろうとしたとき、
「わかったぞ! この室の囚人が逃げたのだ!」
隣を改めていた仲間の大声がひびいた。
「石が切られ、穴があいている。おい、牢番、この室の囚人はだれだ?」
「伯爵さまにさからって罰をうけた、ヴァラキア生まれの傭兵で」
「ならばケスの流れをそうたやすくおしわたることはできまい。しかしヴァラキア兵とあれば海の近く、泳ぎは慣れているか。よかろう、筏を出すまではないが、灯しでもってケスの川面を照らして屍体をたしかめるよう伝令をまわせ。よいか」
外でいよいよあわただしい気配がつづき、グインたちの室の戸口に立った騎士は何か云いたげにかれらをにらみつけていたが同僚がうしろをどんどんかけぬけてゆくので、
「けだものめ」
腹立たしげにひとこと云いすて、そのまま扉をしめた。
「図星をさされたな。城内でもすでに怪異のうわさはひろまっていると見える」
グインは愉快そうに云った。
「イシュトヴァーンの奴無事におちのびたかな。なかなかに殺しても死にそうもない奴だったが、ケス河の流れに身を托してはどこまで生きのびられるものやらな」
「――グイン」
壁ぎわにうずくまっていたレムスの声が、急に不審そうなひびきをおびたので、グインは顔をあげた。
「グイン、ほんとにグインは何もかも記憶を失っていて、自分が何者だかもわからないの? だって、ときどきグインは、まるで――」
「自分でも、わからぬのだが、ふいに頭の中に、それについての知識があることに気がつく前にそれが出てきてしまうのだ」
グインは認めた。
「自分が何を知っていて、何を知らんのかわからん。だが自分が何者であったのか、思い出せぬのだけは本当だ」
「グインが連れていかれているあいだに、ぼく考えていたんだよ」
レムスはさかしげに云った。
「グインと出会ってから、まだ間もないはずなのに、もうぼくもリンダもこんなにグインと昔から知りあっていた気がしている。グインは人を信じるなと云ったけれども、ぼくはグインだけは、はじめから何も疑っていないよ。ねえ、もしかしたら、グインはぼくたちの知っていた勇士たちの誰かなのじゃないかしら?」
「パロの王家に仕える?」
グインはしばらく考えた。が、やがて頭をふった。
「そうは思えない。俺の頭には、ケス河やその向うの蛮族の領土についての知識はあるのに、ゴーラやパロ、中原の国々についての知識は恐しいくらい欠けおちている。まるで何ものかが、俺の頭に辺境で生きのびるに必要な知識だけを植えつけて、あとは白紙のまま、この世の中に生みおとしたとでもいうようだ」
「パロということばがなつかしい気はしないの? クリスタル・パレスは? ではモンゴールの都トーラスは? ユラニアは? クムは?」
「だめだ」
しばらくグインは頭をかかえていたが、やがてうなるように云った。
「頭が痛む。頭のなかで、<アウラ>ということばだけがガンガン鳴るんだ」
「いったい、なんだって――」
レムスは云いかけたが、ふいにことばを切って、恐ろしそうに、
「グイン! みて、外の空が真赤だ! 朝かしら?」
「ちがう。松明を城壁じゅうにつけて、ケス河の水面を照らしているのだろう。<紅の傭兵>を捜しているんだ」
「そうか……」
レムスはまた考えた。あかあかと照らし出された水面が反射する光で、塔の室の中もまた赤く染まった。
「じゃあグインは、北方諸国か、それとも南の神秘な国々からでもやって来たのかしらね?」
「――わからん」
「辺境には、グインのような戦士を育てる国があるとは思えないし」
「俺の素性など、いま知れなくても大したちがいはないさ。すべてはここをぶじにぬけ出してからだ」
グインはぶっきら棒に云った。
「眠れよ、小僧。少しでも、眠っておけ。といっても、このいまいましい明るさではムリかもしれないがな」
「何か――何か声がきこえない? とてもたくさんの男たちが、ざわざわ話しているような?」
「イシュトヴァーンを捜しにいくため、黒騎士どもがウマを厩からひきだし、前庭につないでいるんだろう」
「それなら、いいけれど」
レムスは何となく不安そうだった。グインは苦笑した。姉のリンダが<予知者>リンダ、パロの小女王だというのに、弟のパロの世継は、まったくのびくびく虫だ。
だが彼は間違っていた。レムスの秘めている、まだそのほとんどは目覚めていない真の性格について知るすべがなかったように、レムスの不安についても間違っていたのだ。レムスは決してリンダのように予知能力をもってはいなかったかもしれないが、しかしかれは予知者リンダの双生児の弟であり、彼女の魂をなかばわけあっていた。かれのわけもない怯え、恐怖と不安、を、もっと豹人は彼自身のあじわった怪異と結びつけて考えてみなければならなかったのだ。
グインはいまいましげに寝返りをうつと、明るくなった室内に背をむけて壁をむき、毛皮にくるまって、再びいためつけられた体力を回復するために眠りこんでしまった。彼の丸い豹の頭はあかあかとした松明の火に染まった室の中で影になって壁にゆらめく神話的な影絵をつくった。レムスは膝をかかえ、疲れきって、弱りきってはいたが、まどろむ気にもなれずにそれへ目をあてていた。
「グイン――グイン」
そっとささやいてみたがもう答えはない。
どうしてこんなに心がさわぐのだろう、とレムスは自らに問うてみた。答えはひとつだけしか思いあたらなかった――じぶんが、女のように臆病でびくびくしている人間なのでないとしたら、たぶん、かれの魂をわけあっている片割れが、塔の上の室かそれとも他のところでやはり安らかに眠ることができずにいる、ということなのだ。
交感は、これまでそれを必要とするほどにリンダとひきはなされたことが一度もなかったから、こころみたことがなかったけれども、ヤヌスの祭司として聖なる血をうけたパロの王家の、そのまた双生児として生まれたのであってみればそのぐらいの白魔術が身にそなわっていてもふしぎはなかった。
レムスは考え、それからリンダの身に何かしら危険が迫っているかもしれない、というひどく切迫した不安にあおりたてられるままに、両膝をきちんとそろえた上にほっそりした腕をくんで、一心に精神を集中しはじめた。
(リンダ――リンダ――リンダ――リンダ――リンダ!)
しばらくはそれは何の効果ももたらさぬように見え、少年は気落ちして立ちあがった。
眠りこんでいるグインの方を見やり、眠りをさまたげぬように椅子をそっと動かして窓の下にもってくると、それによじのぼって、あかりとりの窓から外をながめた。
ひんやりした夜気が顔をうった。しかし、目にうつったのは、黒々としずまりかえっている眠りについた森と、そのかなたの連山のかわりに、夜空をこがすばかりにあかあかと燃やされている松明の炎に照らされて、不吉に黒々とうかびあがっている城壁だった。
奇妙な考えが、パロの王子の頭をかすめた。こんなに周囲をあかあかと照らしたら、たしかに妖魅の跳梁する辺境の夜の脅威から、逃亡した傭兵の捜索隊を守ることにはなるかもしれないが、そのかわりもっと血肉をそなえた敵のほうは、たやすくあかりの下の暗がりに身を潜めてしまうだろうに。レムスはふいにぶるっと身をふるわせた。
夜のなかには騒擾と、そして何かしら執拗な不安の気配とがひそんでいた。山の端をうっすらと染めかけている薄紫の色あいからすれば夜明けは近いのかもしれない。レムスは石の壁に両手をかけ、ざわめぎとウマのいななき、ひっきりなしの命令やパチパチと木のはぜる音に耳を傾けながら、いっそ一刻も早く夜が明けそめてほしいと思った。太陽は万物の恵みであり守護者だ。それは夜、ドールのしろしめすときである夜の不吉な翳を光の手でかきのけ、すべてを明察の光で照らし出す。夜にひそむ妖魅も、凶兆も、危険も、朝はひとたびそれらを征圧して、とにかくこのいまわしい砦のさなかでもまた一夜、かれらがこともなく過ごすことができたこと――なべての凶兆と不安とが笑い話にすぎなかったことを教えてくれるだろう。
「クリスタルの都が火に包まれ、ゴーラの軍の手におちたのも、ちょうどこんな不安な夜が流血と恐怖と叫喚の夜になだれこんでいったときだった」
レムスは思い出してささやいた。きくものはいなかったが――かれは、ひんやりする石の壁になめらかな頬をおしあて、それまでの平和で輝きにみちた生のあとの、この数日間のあまりにもめまぐるしい変転に思いをはせた。
(いつかまたぼくとリンダはパロの美しいクリスタルの塔を見ることがあるのだろうか?)
かがり火はあかあかと燃えて夜をおしのけようとし、そして月はひたすら黒雲のヴェールにその青白い顔をかくしてしまっていた。レムスはふいにまた椅子の上でのびあがって外を見た。
夜の中に、たしかに、何か――不安の本体がひそんでいる。
レムスは魅せられた目をそちらにむかって上げ、そしてついに、その恐怖をさそい出してやまぬ源を見た。
――黒い塔!
かれらの幽閉されている白い塔と対をなして、城壁に近くそれは立っていた。レムスたちの入れられていた室は、白い塔のちょうどまんなかぐらいに位置していたが、そのせまいあかりとりの窓からのぞける黒い塔は、何か云い知れぬ瘴気とそして不浄の暗黒をその中に隠してでもいるかのように、あかりひとつ、窓ひとつないその姿をみせて立っていた。
覚えずレムスはヤヌスの魔よけの印を切ると、大いそぎで椅子をおり、反対側の壁にいってうずくまった。しかし、かがり火に照らし出された黒い塔のイメージは、かれの目にやきつき、そのまがまがしいいとわしい夜の凝固したかのような影でもって、壁を通してかれを見張ってでもいるかのようだった。
レムスは起こさぬよう気をつけながら、そっとグインによりそった。不安はたえがたいまでにたかまり、ほとんど息もつけないくらいだった。レムスは拳を口にあて、頭のうしろがしびれたように熱くなり、この夜がぶじには明けぬこと――夜明けまでにはなにか[#「なにか」に傍点]が――何だかわからぬ致命的な破局がおそってくることを確信しながらうずくまっていた。おそらくイシュトヴァーンには自ら云ったとおりの動物的な直感があって、それで彼は沈む船から逃げ去るネズミのようにケス河へ身を投じたのだろう――できればレムスもそうしたかった。この不安に身をゆだね、なすすべもなくうずくまっているくらいなら、ケス河の暗黒の流れの方が何十倍もマシだった。
ヤーンは静かにその運命の小車をまわしつづけていた。
そして、レムスはそれ[#「それ」に傍点]をきいたのだ。
夜明け前の、ひそやかなざわめきにみちた暗闇をぬって、それは実にはっきりとパロの双児の心に届いた。
「わたしにさわらないで[#「わたしにさわらないで」に傍点]、亡霊[#「亡霊」に傍点]! おお[#「おお」に傍点]、その手がさわったら舌をかんでやるわ[#「その手がさわったら舌をかんでやるわ」に傍点]! イヤよ[#「イヤよ」に傍点]、やめて[#「やめて」に傍点]、レムス[#「レムス」に傍点]、レムス[#「レムス」に傍点]! グイン[#「グイン」に傍点]!」
それはリンダの助けを求める叫び声にまちがいなかった。レムスははねおきると、ありったけの声でここを出せと叫びはじめた。グインはとびおきて驚いて少年を見つめた。
そのとき、砦の鐘が鳴りはじめたのである。
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3
パロの小女王、<予知者>リンダは、塔の小部屋に蛮族の娘スニと閉じこめられ、窓もない暗がりの中でじっと腰をおろしていた。
連れのふたりとひきはなされ、共に閉じこめられているのはことばも通じないセム人の娘、しかも女の身で、たぶんふつうの娘であったら自らの運命への不安と敵の手におちた恐ろしさに、悲嘆の涙にくれていたのにちがいない。
しかし、リンダはなみはずれて激しい気性と、そして運命についてのするどい洞察力とをもった少女だった。その心の中には不屈の炎と同時にふしぎな自らの運命への信頼がひそんでいた。そこで彼女は冒険好きの少年のように、自らの苦境も忘れ、膝をかかえてすわり、何とかしてスニとのあいだに理解を成立させようとこころみることに、すっかり夢中になっていたのである。
「壁」
リンダが指さしていうと、体長一メートルほどしかない、猿人族の娘のスニはそれを口まねして、
「カベ」
といぶかしそうに云うのだった。
「手」
「イクク、ニーニ、リードラ、イミ」
「そんなにたくさんしゃべったらわからないじゃないの!」
スニはすぐにリンダのこころみの大人しい生徒であることに飽きて――というのも、いかにも王女らしい驕慢さで、リンダはパロのことばを教えようとこそしたが、同時にセムのことばを覚えるというこころみには、まったく関心を示さなかったので――甲高いさえずるようなセムのことばをしゃべりだし、リンダを失望させるのだったが、しまいに少女たちは顔をみあわせると同時に吹き出してしまった。
「伝説の<魔法の舌>がわたしの舌にふれて、いますぐどんなことばでもわかるようにしてくれればいいのに」
リンダは閉口して云った。スニはその足もとにすわり、暗がりでも見えるらしいその目で、崇拝をこめてリンダの白いはだ、プラチナ・ブロンドの髪、しなやかな長身、をあかず眺めていた。
この即製のレッスンは、どうやら失敗におわったことが明瞭だった。そこで、リンダはやりかたをかえて、もっと直接的な手段――すなわち身ぶり手真似に頼ることをこころみた。
「あなたたちはと――スニを指さし――どこから――壁のむこうを漠然と示して――来たの?」
スニは短い髪が不揃いにのびた顔をかしげて考えていたが、甲高いセム族のことばで何か云いながら、しきりに手で何かの形を示しはじめた。
まどろこしいやりとりを通してようやくリンダには、スニと何人かのセム族の仲間たちが、ケス河の中州で砦の騎士たちに見つかり、数人はその場で弩《いしゆみ》で殺され、数人が否応なしにじゅずつなぎにしてひったててこられたことがわかった。たぶん、セム族たちは、そのいまわしい風習に従って、川にすむ気味のわるい生き物を狩っていたのであろう、とリンダは理解した。
スニは激しい身ぶりをし、どうやら、仲間はこうして何度もゴーラ人におびやかされている、と云っているのだった。
「わたしは、セム族を見たのはスニがはじめてだから、わからないけれど――ケス河の向こうこそが、わたしたち中原の人間がほんとうに辺境と呼んでいるところで、その向こうでは、どんな怪異でもおこり得るし、そこでの唯一の神は悪の化身なるドールなのですってね?」
スニは当惑した顔でリンダを見、わからない、というように首をふった。
「わたしたちにもまた、ゴーラ人は敵なのよ」
かまわずにリンダはつづけた。
「ゴーラ人はわたしたちの住むパロの国を滅し、クリスタルの都を軍靴で踏みにじり、野蛮な手でパロの絹のカーテンをひきさいたの。スニにはどうせ知るすべもないのだから教えるけれど、わたしたち――わたしとパロの世継なる王子レムスは、宮廷の騎士たちがゴーラの黒騎士隊、青騎士隊、赤騎士隊の前に次つぎに倒れ、ヤヌスの祭司長にして学者なる父王アルドロス三世が切り倒されて血の海に沈むのを、手をとりあってみていたの。乳母のボーガンと大臣のリヤが走ってきて、いまこそパロの希望をお二人の上にかけねばなりません、と告げた。わたしとレムスは煙のあがるクリスタル・パレスをかけぬけ、かねて決して近づいてはいけないと云われていたヤヌスの塔に入ったの。
ボーガンとリヤはあわただしくわたしたちを導き――わたしとレムスはヤヌスの塔の地下にある、水晶の台座に入った。
リヤが手をあげたとき走りこんできた赤騎士の段びらが乳母の胸をさしたわ。わたし目をつぶってしまい、騎士が、『パロの世継の首を見つけたぞ!』と叫んで剣をふりあげるのがきこえたの。レムスとわたしは抱きあって倒れ――
ねえ、スニ、信じられる? そのとたんまわりが暗くなり、大臣のリヤが、『座標が狂ってしまった! ヤーンの御慈悲を!』と絶叫するのが遠くきこえ――
気がついたら、わたしとレムスはルードの泉の奥ふかい草地に倒れ伏していたのよ。癩伯爵ヴァーノンはそれをパロの黒魔術といったけれども、わたしにもほんとうのことを云えばわからないの、いったいなぜ、わたしとレムスが、黒煙のあがる、落ちたクリスタルの都から、一瞬にしてこんなゴーラ領の辺境にやってくることができたのか。
もっともそれでわたしたちの運命が楽なものになったとは決して云えないわ。わたしとレムスはそこが何の国で、どんなに辺境近いかも知らずに、ヴァシャ樹の茂みをベッドにして二日を過ごしたの。食べものといえばヴァシャ果と、草花の蜜だけで――そこへ通りかかったゴーラの黒騎士たちの話を立ちぎいて、わたしたち、ここがモンゴールの大公領のはずれで、妖魅の領土に近い辺境のルードの森であり、その騎士たちは辺境を守るスタフォロス塔の者だ、ということを知ったの。
わたしたちがルードの森で、ともかくも二日無事に過ごせた、というのは信じられぬような幸運だったのよ――そして、その森で、あわや砦の騎士たちにとらえられようとしたとき、わたしたち、グインに出会った。グイン、という自分の名と、アウラ――ということばのほかにはどこから来たのかさえわからないという、豹頭をした戦士に会ったのよ」
驚いてリンダは口をつぐんだ。
スニの表情に、非常な変化があらわれていたのである。スニはふいに立ちあがり、よろめいて、両手を上へさしあげ、まるであわれみを乞うかにみえた。
「アウラ!」
スニは叫んだ。
「アウラ! アウラ!」
「どうしたのよ?」
リンダは叫び、スニにかけよった。
「スニは<アウラ>ということばに心あたりがあるの? ねえ、教えて! 豹頭の戦士グインを知っているの? 彼が覚えていたただひとつのことば<アウラ>とは何なの?」
「アルフェットゥ、リニ、イミヤル!」
スニはわめいた。リンダはセムのことばがわかりはしなかったが、それでもスニの声の調子から、その意味がわかってしまった。
「アルフェットゥの神よ、お守り下さい!」というのにちがいない。
「まあ、スニ」
リンダはスニがひどく怯えているのを知り、眉をしかめた。アウラとは、セムの娘をこんなに怯えさせるような単語なのか? だとすれば、その名を覚えていたグインをおそった運命はどのようなものだったのだろう?
彼が、まるで怒りにかられた女神イラナの呪いをうけでもしたように、その頭を豹のそれに変えられ、それをとることもできぬことを考えると、それは何となく、予想がつくような気がする。
「スニ! 教えてよ。アウラというのは、なんなの? グインはなぜ、豹頭に変えられ、何ひとつもたずに、ルードの森にあらわれたの? ねえ、スニ! わたしグインのことを知りたいのよ!」
リンダは気短かに、怯えて首をふりつづける蛮族の少女の肩をつかんでゆさぶった。
「イミヤ、イミヤ!」
スニは声をあげ、恐しそうに両手をさしあげてよじりあわせた。そのしぐさが、ますます、パロの少女を苛立たせた。
「スニってば!」
リンダはスニの肩をつかまえ、何が何でもききだそうとのぞきこんだ――だが、そのときだ。
リンダの細いがしっかりとした手のなかで、スニはふいにもがくのをやめ、そして大きく目を見ひらいた。
その目が白く狂おしくなって、リンダの肩ごしの何か[#「何か」に傍点]を見つめつづけている。
「何――」
リンダはスニの表情に気づくと手をとめた。忘れていた、いまの身の上、まわりをとりまいている危険と凶兆、がふと心に戻ってきた。
「どうしたのよ、スニ――」
リンダの声はよわよわしくかすれた。スニの目にうかんでいる、信じられないような恐怖の色が、リンダにのりうつり、あれほど勇敢な少女であったにもかかわらず、彼女はスニが彼女の肩ごしに見ているものを見るために壁のほうへふりかえるのを、激しくためらった。
しかしそれよりもなお、スニをおそれさせているものに無防備に背中をさらしている恐怖――そして知りたい気持のほうが強かった。リンダは真珠色の歯できつくくちびるをかみしめ、スニをはなし、その小さい毛むくじゃらの手がしっかりとしがみついてくるのを感じながら、ゆっくりとからだの向きをかえていった。
そして見た。
壁がゆるやかに割れようとしている!
窓ひとつない石壁の一面に、重くどっしりした、この暗がりではその模様もよくは見えぬタペストリがかけられているのだが、風の吹きぬけるすきまとてないのに、その掛布はゆるゆると揺れ、石壁の面をあらわし、――そしてその壁が、まるでとけてゆくかのように左右にひらきつつあった。
リンダは知らず知らず、スニの小さな手をぎゅっと握りしめて息をとめていた。スニの激しいふるえが伝わってくる。リンダの目は左右にひらいてゆく壁のむこうに、ぽかりとひろがった暗黒な空間をうつし、リンダの鼻は、そこから吹きつけてくる、何ともいえない不快と戦慄をさそう、かびくさいいきづまる匂いをかいだ。
「だれっ! そこにいるのは?」
リンダのかすれた声は悲鳴のほうに近かった。
壁にひらいた隠し扉は、そのままドールの棲家である地獄へとつづいているかのようだった。リンダはそこからゆっくりと、まるで生とそれ自体の意志とをもったもののようになまなましく吹きあがってくる匂いのある風が、彼女の顔をふわりとなでるのを感じて吐気をもよおした。リンダはヤヌスの印を切り、そして低く声をたてた。
その暗い穴の中に、ぼうっと人影があらわれたのだ。
それははじめ、ぼんやりと白い見かけの輪郭は、そのまま闇の中から立ち上がっている、とでもいうかのようにおぼろげに見えた。だがリンダはすぐに気がついた。その人――それが人だとすればだが――は、すっぽりと頭をおおう長いフードつきの漆黒のマントを着、それが足元までをおおっているために背後の闇が凝って立ちあらわれたかのように見えるのだ。
マントの人影がゆらりと動いたとき、リンダは、ふかぶかとかぶったフードの中で、わずかにほの白く見えた顔が、どうやら手荒らに包帯をまきつけてあるらしいことに気づき、さむけを感じた。
(癩伯爵!)
たちまち、その名がうかんだのである。
マントの影は、ひどくたどたどしいしぐさで手をあげ、さし招くようにした。手もまた、包帯にまかれ、あまった布切れが形のくずれた手から下へひらひらと垂れていた。
「アルフェットゥ……」
恐怖のあまり叫ぶ力さえなくしたスニがよわよわしくうめくのがきこえた。
周囲は石の無情な壁――リンダとスニは、少しづつ亡霊が進み出るたびに、少しづつあとへさがって間をつめられまいとし、ついに反対側の壁にぴったりと背をつけてしまった。
その間もふたりはのろくさと動く黒い長身の幽鬼から目がはなせなかった。息づまるようないやらしい臭気が、かびくさい匂いのなかに混りこみはじめ、かれらの胸をつまらせた。しかし恐怖にとらわれて、かれらはその匂いに気づきさえしなかった。
マントの人物は両手を前にあげ、まるで目も見えず、感覚も失っている、とでもいうかのように、じりっ、じりっと前にまさぐり出てくる。まるでそうして身を移動させることにさえ、異常な努力を必要としているかのようだ。リンダは吐き気をもよおし、嫌悪と戦慄にふるえあがりながらも、その男――男だとすれば――の立っているのが、リンダの顔にまでとどくそのなまぬるい風のまんなかでありながら、ずしりと垂れたマントの裾が風にそよともゆらぐことがないのに気づいて、異様に思った。
「ヒイー!」
スニがついに呪縛をやぶって絶叫した。リンダは喘いだ。
「ヴァーノン……」
声がかすれて出ない。いくども舌で唇をしめした。
「ヴァーノン伯爵、あなたがもしヴァーノン伯爵なら……」
なんとかことばをしぼり出して説得しようとしたが、そのことばもたちまち舌の上で凍った。
マントの人物が、ゆらゆらと横にからだをゆらしたかと思うと、包帯だらけの両手を、まるで礼拝でもするかのように――それとも助けを求めるかのように、さしのばし、彼女たちにふれようとしたのだ。
「ヒイッ!」
悲鳴をあげたのは、こんどはリンダのほうだった。マントがゆらめき、顔をおおった包帯がずれ――
そこから、なんともいえないくらいおぞましい、腐りはてたくずれかかった白がゆ[#「白がゆ」に傍点]とでもいった人間の残骸がどろりとのぞいたのである。
「助けて!」
リンダの心から、パロの小女王の誇りも、予知者の勇気もふきとんだ。リンダはスニとかたく抱きあい、石壁に背をつけてぺたりとくずれおちたまま、つづけざまに悲鳴をあげはじめた。その動き出した死骸、生をふきこまれた不浄の腐肉のような姿が、どうにも我慢ができぬくらいに恐ろしかったが、もっともいとわしく恐れをさそうのは、このおぞましいものがまさしく人間であり、モンゴールの貴族、スタフォロスの城主にほかならないのだ、と考えることだった。だが、包帯のさけめからのぞく、ただれた黄色い肉になかばふさがれかけている目は、まさに、明らかな人間性を示して光っており、そしてその目は、かれらにむかって何か訴えかけようとすらしているかに思われるのだ。
「ヒイー! ヒイー! ヒイー!」
スニがあらん限り、悲鳴をあげつづけている。腐臭は気絶しそうなくらいにたかまり、リンダは自分でも意識せずに激しく首をふりつづけていた。
癩人はじりじりと距離をつめた。その細いつぶれかけた目には、まぎれもない渇仰とそして狂おしい欲求の光があった。包帯がとけた肉からずるりとすべっておち、ほとんど指の骨があらわれてしまった屍そのまま手がなかばのぞいた。
怪物はその手をゆっくりとあげると、ふたりの怯えきった少女の肩をつかもうとするかのように、よわよわしくのばした!
リンダの腕の中で、セムの少女はふいに失神し、リンダにそのかるい体重をすべてあずけてきた。
リンダのスミレ色の目は凍りついたように癩人からはなれなかった。できればリンダもあっさりと気を失ってしまいたかった。だがそうなってしまえば、ここでこのいまわしい生きた屍体の思いのままなのだ、という戦慄が全身をつかんで、リンダはただ、魅せられた目で癩人を見つめていた。
くずれ、形をとどめない手が二、三回、何か云いたげに上下した。それからそれが、ほとんどリンダの肩にふれそうにおりてきた。リンダはその、黄ばんだ膿汁まみれの包帯のあいまからのぞく恐しい、骸骨よりもグロテスクな顔を見、すさまじい悪臭に息をつまらせ、動くこともできずにいた。しかしその骨と化した指さきが、なめらかな肌にふれようとした刹那、リンダの全身を縛っていた麻痺は恐怖のあまりけしとび、リンダはのどもさけるような大声で、断末魔の絶叫をあげた。
「わたしにさわらないで、亡霊! おお、その手がさわったら舌をかんでやるわ! イヤよ、やめて、レムス、レムス! グイン!」
そして恐怖のあまり目をとじ、倒れたままのスニの上におおいかぶさって倒れると、まるで接吻を求める熱烈な愛人ででもあるかのように、妙に哀しげなようすでのしかかろうとする化物を見ないですむよう、両手で顔をおおってしまった。
そのときである。
「リンダ、どこにいるの! いま助けるよ、リンダ、リンダ!」
レムスの声が――リンダにはむろん知るすべもなかったが、レムスにきこえたリンダの声と同じぐらいにはっきりと、リンダの頭の中でひびいたのである。
「ここよ、レムス! こわい!」
リンダは叫んだ。目をかたくつぶり、両の掌で顔をおおっていても、彼女の目には、呪われた男の手がふれようと近づいてくるさまがありありとうつり、そしてその手のふれたところから彼女の肌がその怪物どうようにくずれ腐ってゆくさまがはっきりと見えた。彼女はすすり泣いた。
そのとき、鐘が鳴りわたった!
急調子に、あわただしい切迫したひびきで、いくども城の鐘がうち鳴らされている!
それは危機を――何か、ヴァラキアの脱走兵だのルードの森の火事とは比べものにならない危機の襲来をつげて、激しく、耳をつんざいて、城じゅうにひびきわたりつづけ、いっこうにやむようすもなかった。
リンダは顔をあげ――そしておどろきの声をあげた。
「化物がいないわ[#「化物がいないわ」に傍点]!」
たしかに彼女の上におおいかぶさるようにしてのぞきこんでいたはずの黒マントの亡霊は、まさしくそれが亡霊そのものででもあったかのように消えうせてしまっている。
壁の隠し穴もまたなかった。タペストリがゆるゆると左右にゆれており、リンダがはねおきて、それをおしのけてみても、そこにあるのはただ、動くべきしかけなどあるとは思えない、平らで堅牢な石の壁面でしかなかった。
「そんなはずはない――わたしはたしかに見た!」
リンダは口に手をあてて叫んだ。そうする間にも、カーン、カーン、カーン、という、急をつげる鐘の音はひびきわたりつづけている。
「たしかにあのいとわしい匂いをかいだし、あの――おぞましいすがたも見たわ! でも――でもそういえばいったいなぜ、空気にふれただけでも伝染するというほどの宿痾と、あれほど近くにいて、わたし、何ともないのだろう――ううん、でも、スニだって見たのよ!」
リンダは当惑しきってあたりを見まわした。しかしあつい壁が彼女の視界をさえぎっており、そしてただ、悲鳴のような鐘の音だけが、よせてはかえす波になって耳をふさいでいた――カーン、カーン、カーン、カーン!
鐘のあいまをぬうように、剣戟のひびき、ウマのいななき、ただならぬ騒擾の気配がきこえ、そしてほどもなくそれには悲鳴や叫喚が混じりはじめた。そしてどこからとも知れぬ叫び――
「セム族の襲撃だ!」
リンダはバネ仕掛けのようにはね起きた。しかし両手をもみしぼるばかりで、どうするすべもなかった。とにかく彼女は砦の虜囚なのだ。
鐘の音はいつのまにか、まるで鐘楼の打ち手がのどにセムの毒矢をつきたてられてころがりおちた、とでもいうようにとだえていた。リンダはふたたび両手をねじりあわせて苦悩の叫びをあげた――それから、やにわに、床の上にぼろぎれのように倒れているスニに走りよると、その小さなからだを抱きあげ、何とかして正気づかせようと一心にゆさぶったり頬を叩いたりしはじめた。
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4
もし、それよりまえに、スタフォロスの城とその周辺の光景とを、さしづめ近くの山のてっぺんからでも眺めている悪魔がいたとしたら、彼はそこでくりひろげられている運命のなりゆきに、必ず皮肉な哄笑をあびせかけずにはいられなかっただろう。
スタフォロス砦はルードの森とタロスの森とにかこまれ、高くなった丘のいただきに、ケス河を背にして立っている城である。
辺境での勢力争いはまだ中原人種と辺境の蛮族とのあいだで一進一退をくりかえし、そこで国境の守備につとめるのは決して安全な任務とはいえなかった。
それゆえ、砦は天然の要害をえらんで築かれ、陸路からの襲撃者は森から出ると、丘のいただきまでのまがりくねった細い坂にぶつかって、一列にのぼってくるよりしかたなく、その力を八分どおりそがれてしまうのだ。いっぽう砦の守護兵はと云えば、それを上から見おろして、石をころがしおとし、矢を射かけ、弩で射てばらくらくと防御の役をはたすことができる。
そして城の背後はケス河にむかって切りたった、水ヘビかトカゲででもなければのぼれぬような絶壁だったから、こちらの守りも万全というわけだった。
もっとも、このへんにすむ蛮人族であるセムの領土は、主としてケス河の向うであったから、河のこちらがわにそうしてわだかまっている分には、通常は、さして危険なめにもあわずにすむというものだ。だが、相次ぐ事件のために、砦の守護兵たちの目は、あらぬ方へ向けられてしまっていた。
もし、ことのなりゆきをすべて見通す目をもった鬼がその夜のはじめからスタフォロス城を見おろしていたとしたら――石の壁の内と外を共に見通す目がもしあるとしたら、彼は気づいたことだろう。ケス河の黒い流れに、夜半から真夜中にかけて続々と、流れの向う岸、その彼方にノスフェラスの荒野をのぞむ暗黒の側の岸からすべりこみ、音もなく泳ぎわたってくる、いくつもの小さな影に。
それはどこかサルに似ていた。背丈からすれば子どもか矮人のようでもある。ケスの流れにはおぞましいさまざまな魔魚や水ヘビが棲むといって、辺境の人びとは、イカダでさえその流れを下るのをいやがるのだが、ただセム族だけがその流れを友とし、それにひそむさまざまな脅威を手なづけうるのだ。
それらの影は黒い頭を水面近くに沈めて、あとからあとからケス河を泳ぎわたってきた。それらはそれまでも事あるごとにそうして辺境をおかす中原の先兵をせめるべくやって来ようとしたのだが、これまでのところそれは功を奏していたとはいえない。なぜならば、ケス河がかれらの退路を阻んでおり、いったん河をおし渡ってきたかれらは河のこちら側で分断されるとなすすべなく数でまさる砦の守護兵にたいらげられるほかはなかったからだ。
だがその夜ふけ、河をあとからあとからおし渡ってくる黒い小さな頭は、かつてないほどの数にのぼった。それは音ひとつたてずにひたすら河を渡っては森に走りこみ、ルードの森のやけのこった部分と、タロスの森とをくまなく埋めつくした。しかもなお、黒い頭は増えつづけるのだった。
さしもの大部隊が夜明けを前にして河をようやく渡りおえるかおえないかのうちだった。にわかに城のあちこちに灯りがつき、壁の内がさわがしくなった。
セムの族長たちはあおざめた。伝令が激しくとびかい、甲高いさえずるような声がかわされた。だが、
「ヴァラキアの傭兵が逃げたぞ!」
「塔からケス河の流れに身を投じたのだ」
そう、城内で叫びかわしていることに気づくと、またすぐにかれらは動揺をおさめて、それぞれの部隊に伝令をとばし、断崖の下にはりついているものはいっそう身をちぢめ、森にひそんだものはいっそう息をひそめて、城内がもとどおり静まるのを待ちうけた。
だがしかし、この夜、百の耳とただひとつの目をもつ老いた運命の神ヤーンは、とびきり皮肉な心持ちでいたのにちがいない。まもなく城中でひとしきりざわめきがおこり、やがてケス河に面した城壁という城壁に、数知れぬ松明が運ばれた。それが河の上にむけてさしのばされるとケスの河面はま昼のように明るくなり、崖の下のセム人たちはまるで毒トカゲのように平たくなってあぶら汗を流した。
だがヤーンは結局のところセム族に肩入れをするつもりだった――松明の火だけであったら、ほどもなく歩哨のたれかが[#底本「たれかが」ママ頁195]襲撃者に気づいたかもしれないが、城ではやがて夜明け前の寒気に対抗しようと松明ののこりをあつめて天も焦すばかりなかがり火をたきはじめ、
「夜が明けたらケス河にボートを出すぞ」
「だがもちろんもう脱走兵は死んでいるだろうに」
「かまわん、死体を確認しろとの伯爵のご命令だ」
声高に話しながらみなかがり火の周辺にあつまって夜明けを待ちはじめた。かがり火は砦を昼のように明るくし、天を赤く照らし出し――その火のかげで、ルードの森やタロスの森々、それにケスの暗い流れは、いよいよその暗さを増して、セムの大部隊をのみこんだまま黒々と闇に沈みこんでしまったのである。
しかしセムの族長たちは、この予期せぬなりぬき[#底本「なりぬき」ママ頁196]に一瞬はとまどったものの、かれらの最大の味方が夜闇であり、夜が明けおおせてしまえば戦いは七割方、砦がわに有利になることをよくわきまえていた。族長たちは音もなくよせあつまって小声で相談してから、さっと散ってゆき、自らのひきいる蛮族たちに命令を下した。
セムの長《おさ》の手の、ウマの尾の鞭が打ちふられた!
たちまち、小さくすばしこい蛮族たちの一隊が、ケス河に面する城壁をサルのようにすばやくのぼりはじめた。同時に森にひそむ部隊は音もなく砦までの間合いをつめた。
城内ではたき火をかこんで果実酒、はちみつ酒の皮袋がまわされ、ちょっとした酒盛りがはじまりかけていた。どのみち夜明けまではイカダもボートも出せっこないさ、とかれらはヴァシャ果の皮を吐きすてては実をかじりながら云いあっていた。それに何といってもケス河に身を投じるようなばか者のためにそう急ぐことはない。どうせケスの岩でなければケス河に棲む水妖が、そいつを冷たいぷかぷか流れる屍にかえてしまうのに決まっているからな!
だれひとりとして、この辺境の、妖魅の領土なる夜のしかもケス河の河辺へと、たかが一人の傭兵のために出てゆきたがる兵はいなかった。かれらはここにいれば安全だと信じている砦の城壁の中で、すっかり安心し、気をゆるめ、火に顔をほてらして、互いに手わたしあってははちみつ酒を飲んでいた。
ふいにその中の一人が大きく目を見ひらいた。うしろを指さして何か叫ぼうとした。が云いもはてず、のどをかきむしって倒れた。
仰天してとなりの兵が助けおこし、そののどに突っ立っている、セム族特有の短い毒をぬった矢を見た。
指さされた側に並んでいた兵たちもあわててふりむこうとした。その目に、闇から突然生まれ出たかのようにとび出してくる、サルのような毛むくじゃらの姿がみえた。赤く、ミーア果の汁で色どった顔、鬼のようにむきだした歯、毛ぶかいからだにまきつけた狼の毛皮と腰布とクツ、異様なにおい。
兵は絶叫しようとした。セムの手にかざされた石斧が頭にふりおろされ、かぶとをたちわって血と脳漿をたき火にとびちらせ、その絶叫を止めた。
たちまち、中庭は阿鼻叫喚にみちた!
夜の中から、あとからあとから蛮族は城壁をのりこえておどりこんできた。かれらはまず矢を放ってたくさんの守護兵を倒し、それから石斧をかざして突進した。
ゴーラ兵たちもそう長いことうろたえてはいなかった。かれらはちょうど脱走兵をさがすために、武装して起きていたし、腰の剣を寝床におきわすれてはいなかった。かれらは最初の驚愕から立ち直ると、激怒にかられて猿人たちを切り倒しはじめた。セム族は数でまさり、奇襲をかけた有利をも手中にしていたけれども、じっさいの白兵戦になれば大人と子どもほども体の大きさにはひらきがあったから、決して一対一で守護兵にたちむかおうとはしなかった。
すべてのゴーラ兵が、それぞれ五人から十人もの、縦横にはねまわるすばしこい人間猿を相手にしなければならなかった。中で左右にセム族を切りふせた黒騎士のひとりが、おそいかかってくるやつらをだんびらで払いのけながら、塔にむかって走り、鐘楼にかけのぼった。
勇敢に彼はセムの矢の雨に身をさらして鐘楼に立つと、危急をつげる鐘を打ちならしはじめた。
「セムの夜襲だ――セム族が砦に入った!」
カーン、カーン、カーン、カーン――激しく、狂おしく鐘は打ちならされ、同時に兵たちはのどもさけよと警告の叫びをあげつづけていた。猿人の斧がその頭上にうちおろされ、矢が目につきたった。
ふいをつかれ、中庭に入りこまれてしまった不利をはねかえそうと、砦の黒騎士たちは一列に並び、塔と建物のすべての入口をうしろにして戦っていた。セム人たちはなんとかして防衛線を破り、建物のなかに入りこもうとした。かくて、戦いは、中庭から四方へ分散しようとする襲撃者と、それをくいとめようとする守護者のあいだに激しかった。
砦の外からは、森をかけぬけた新手の大軍が「イーア、イーア、イーア!」とセムのときの声をあげながら、砦へつづくただ一本の坂道をおしのぼって来る。ゴーラ兵は城門をとざし、はね橋をあげて万全の構えをとっていたが、内庭の戦いにその兵力の半ば以上はさかれていたために、高方の有利を守って矢を射かけ、石を投げおとす守護兵の奮戦も、ともすれば圧倒的な数の敵の前におされ気味だった。
中庭でも、しかし、じわじわとセム軍は押し気味にいくさを進めた。ゴーラ兵たちは門や建物の入口に背をつけ、サルのように小さいがすばしこいあいてを左右に切り払いながら、そのままではいつか数でまさるセム軍に内と外とからなだれこまれることに気づきはじめていた。
黒いかぶとのふさをなびかせた第四隊長は、目の前でトーラスから来た若い騎士が五人まで、セムの毒矢をのどと顔にうけて倒れるのを見た。
「顔をあげるな! 面頬をおろせ、城壁へ顔をむけるな!」
第四隊長は絶叫し、城壁の石という石にむらがって矢をつがえている小さな悪鬼を長剣でなぎ払った。その背にサルのような蛮族がたちまちとびつき、石斧をふりあげた。
「隊長、危い!」
黒騎士のひとりが絶叫してとびこんだ。蛮族の石斧は騎士のかぶとをやぶり、彼は倒れた。隊長の大剣がセム族の首をはねた。
「このままでは手をつかねてやられるのを待つばかりだ」
城壁近く、這いのぼってくるセム族とその矢をあいてに奮戦する盟友たちを見やって、内庭の門を守っていた第三隊長が叫んだ。
「おい、きさま、一ザンの間だけでいい、この扉を守りぬいてくれ――おれは一ザンの間だけ扉をひらいて中へとびこみ、伯爵の指図をあおいでくるから」
「わかりました、隊長」
青年は緊張した声で叫んだ。隊長はかぶとにつつまれた隊士のその若々しい声をきいて、それがさきにあわや処刑をまぬかれたばかりの、トーラスのオロであったことに気づいた。
「三数えるぞ」
隊長はオロの肩を叩いて笑いかけ、そして数えた。
「一――二――三!」
数えおわると同時に彼は戦いに背をむけて、死守していた内扉の錠を外しにかかった。たちまちそれへむけてセム軍がおしよせようとする。ゴーラ兵は走り寄り、防いだ。トーラスのオロはかなりの使い手だった。彼の剣はたちまちセム族の血にまぶれたが、彼のくりだす剣の舞いにはばまれて、セム族たちはひらかれた内扉に近づけなかった。
隊長は暗く静かな建物の中に走りこんだ。その姿をのみこんで扉が激しく音たててとざされると、扉を再び背にしてゴーラ兵たちは戦った。千の首をもっていて切っても切っても生えてきたという巨人ノスフェラスのように、切り倒しても切り倒しても蛮族の数はへらず、ゴーラ兵のほうは少しずつ、少しずつ、矢にあたり、斧にうたれてその数を減らしていったが、しかしかれらは必死に戦いつづけた。それは強国ゴーラを一介の辺境の属国から、ついに中原の華を誇るパロの都をせめほろぼして中原の制覇をめざすまでに強大にした最大の力――ゴーラ兵の勇猛を、この絶望的な戦いの中でさえ誇らしく守り通そうとするかのように悲壮だった。
あとからあとからセムの矢ははなたれ、屍はどさりとかがり火の中に倒れこんで夜空に美しい金色の火の粉を舞いあげた。叫喚と雄叫び、剣戟と炎――火はいよいよあかあかと燃えさかって天をこがし、それに照らし出されて蛮族たちは悪鬼そのままにおどりこんできた。スタフォロスの城全体がいまやふしぎな幻想的な、オレンジと金色の炎にその輪郭をくっきりとうかびあがらせ、それはさながらその巨大な砦が身をよじって断末魔の悲鳴をあげつづける姿とも見えた。
「アイー、イーア、アイー!」
セムの族長たちは手をあげて合図した。一列に並んだセムの射手が、いっせいに火矢をはなち、それは火の尾を引いて城壁をこえて、多くは石の壁にあたって落ちたけれども、それでもその中には木の扉につきたってパチパチと燃えあがりはじめたものが相当数あった。再び族長が手をあげ、再び、三たび、火矢は小さな流星雨と化して城をおそった。
いまではスタフォロス城全体が、かがり火だけでない燃えひろがろうとする炎によってくまなく照らし出されていた。それは城を守ろうとするものを不利に、闇にひそんで矢をはなつ襲撃者を有利にした。ゴーラ兵たちはセムの矢をうけて次々に倒れていった。
「大手門が破られるぞ!」
悲壮な叫びがあがり、兵たちはそちらへゆこうとするが、すでにかれらのまわりは小さな蛮族に埋めつくされ、盟友よりもかれら自身を守るためにまずかれらは死にものぐるいで戦うことを余儀なくされていた。ゴーラ兵たちのひきつった顔にはすでに疲労の色が濃く、重い甲冑に身をかためたかれらがよろめいて膝をつくとたちまち象にむらがるアリのようなセム人たちがひきたおしてそののどもとへまさかりを打ちおろした。
「もうすぐ日が昇るぞ!」
内庭のさいごの防衛線を命をかけて守っていた、トーラスのオロはまだ生きていた。手傷をおい、よろめいていたが、彼は東の空のしらみはじめるのを見、美しいバラ色とスミレ色の光がさしそめるのを見た。彼は段平を杖にして立ち、声を高くして城兵たちをはげました。
「もう少しだけ持ちこたえるんだ! 日が昇れば、セム族の有利な闇は去る。われわれは誇りたかいモンゴールの騎士だぞ!」
オロの頭を、これまでかつてこれほどにセム族が怒りにみちて、これほどの大部隊でもって辺境の砦をおそってきたことはないし、もはや城内に入りこまれてしまった以上あとはゴーラ兵たちは一人一人打ち倒されてゆくばかりだ、ということ――仮にいちばん近くのアルヴォンの砦の同胞が、燃えさかるスタフォロス城の方角に異変を認めて即刻救援の兵をさしむけてくれたとしてさえ、アルヴォンからスタフォロスまではウマで三日の距離があること――そういった絶望的なことがらばかりがちらとよぎっていった。しかしオロは頭をふり、目のまえでまたひとり、黒騎士が頭を割られて地に沈む光景に目をむけてとびだしながら、もういちど声をはげまして叫んだ。
「もうすぐアルヴォン城からの援軍がつくぞ! 日が昇ればわれわれは助かるのだ。持ちこたえろ、戦え、モンゴールの勇者たち!」
彼の剣はそのあいまにもセムの首をはね、毒矢を払いのける。それにしても襲われている城の、当の城主はいったいどこにいて、どうしているというのだろう――オロはセム族の族長らしいけばけばしいやつに追いすがって、そのまさかりをはねとばしざま返す剣で切り倒しながら思った。城主さえいれば――主君さえ指揮をとってくれれば!
だがその一瞬の思いがオロの気をそらした刹那に、黒いかぶとに包まれた後頭部に、セムの石斧が思いきり打ちおろされた。
オロの目のまえが流星の色の闇につつまれた。オロはゆっくりと中庭の石畳の上につっぷし、その手から段平は力なくおちた。戦いは、オロのからだをのりこえたセムたちと、ゴーラ兵とのあいだでなおも激しくつづいたが、ほどもなく内庭の扉を守っていたゴーラ兵のほとんどが、死ぬか戦闘能力を失って倒れ、セム族の刃の下に屈した。
セムののどから異様な勝ちどきの叫びがほとばしった。蛮族はるいるいとよこたわるゴーラ兵の死体をのりこえ、おどりこえ、ふみつけて、内扉に殺到した。巨大な破城槌がもちだされ、扉はめりめりと音をたててふっとぶ。
「イー、イー、イー!」
「イーイー!」
サルめいたわめき声をあげながら蛮族の毛むくじゃらの小躯がつぎつぎに、暗いひんやりする城内へとびこんでいった。オロのからだは同胞と蛮族たちの死体のあいだによこたわったなり、ぴくりとも動かなかった。
そのとき、大手門のほうでわーっと大喚声が上がった。同時にすさまじい音をたてて石がくずれおちた。ついに大手門が破られたのである。くずれおちた石はその下にむらがっていたたくさんのセム族をおしつぶしてしまったけれども、蛮族たちはそれにひるむどころかいよいよ躍起になって叫びたてながら石の山によじのぼり、仲間の屍をふみつけて、城内へ殺到した。
せき[#「せき」に傍点]は切れた。またたくまにスタフォロス城はどこもかしこも、かけまわり、キーキー声をあげる、異様な匂いのする小さな姿でみたされた。セム族たちは奇声をあげて廊下を突進し、ゴーラ兵たちを切りつけた。いまや城のなかば以上が炎につつまれてごうごうと燃えあがり、そうでない部分はすべてセム族に埋められていた。ゴーラ兵の叫びと命令はとだえ、あがるのはただ断末魔の絶叫と負傷者の微かな呻きばかりだった。パチパチと火は燃えひろがり、城の中心部に立つふたつの塔、黒い塔と白い塔とにその炎の舌をのばそうとして貧欲そうに舌なめずりをしていた。
そのとき、夜が明けた。
巨大な真紅の円盤、ヤヌスの神の子なる太陽は、あたかも地上の炎を空に掛けたかのように、流血の城をまばゆく照らし出した。黒くひろがる森々のなかに、瀕死のスタフォロス城は立ち、その各所から黒煙がたちのぼり、そして叫喚と呻きとが酸鼻の内庭をみたしている。朝の光の中で、セム族の勝ち誇った悪魔の喚声と、そしてどこかで石壁のくずれおちる轟音だけが、ヤヌスのしろしめす、小鳥の鳴く平和な朝のたたずまいを破り、たえずおこるあらたな火の手が、地獄の業火の中に燃えつきてゆく砦の運命を告げ知らせる炎の指となって、やわらかなスミレ色の空にメネ・メネ・テケル・ウパルシンの啓示の文字を描いていた。
いつしか鳴りつづけていた鐘の音もとだえ、鐘楼は炎の中にあった。スタフォロス城はもう間もなく落城するだろう。黒煙と屍、打ちすてられた折れた剣や矢のあいだで、倒れていたトーラスのオロは、顔にしたたりおちた血のしずくにはっと意識をとりもどし、朦朧としながらあたりをよわよわしく見まわした。内庭は静かになっていた。セム族たちはすべて、建物の内部へ走りこんでいったのである。
オロは呻きながら立ちあがり、剣を杖にしてよろよろと歩き出した。見わたすかぎり、盟友と蛮族の死体がころがり、たちのぼる炎が呼んだのだろう、しだいに風が出てきて死者たちのマントをはためかせはじめた。それは一夜にして生き地獄とかわった、辺境の守りのかなめ[#「かなめ」に傍点]、ゴーラ王国の誇るスタフォロス城の廃墟だった。オロは嗚咽しながら歩きつづけ、もがいて起き直ろうとしたセム族をつきさした。かぶとがはずれておち、オロのまだ若い、血にまみれた顔と血走った青い目とはすっかりあらわになっていた。呻きながら、それでもトーラスのオロは白い塔にむかって歩き、しだいに力をとりもどして走った。そのとき塔の中で激しい戦闘の気配がおこったが、そのときにはすでに火の手は本丸から、両側の塔へと迫っていたのである。
それよりまえ――
セムの来襲を報せに本丸へ走りこんだ第三隊長は、暗い石づくりの廊下を狂ったようにかけぬけた。
それはまるで外の阿鼻叫喚が一場の悪夢か、ただの思いちがいではないかと思わせるまでに、暗く、ひんやりと静まりかえったたたずまいだった。癩をおそれて、つね日ごろ、毎日それぞれ一刻の目どおりの刻限以外には、城主のヴァーノン伯爵の住まう城のこの側に近づこうとするものはほとんどなかったから、その廊下には騎士たちはもとより近習も、およそ生あるものの影さえもなく、長い廊下をブーツを鳴らして走りぬけてゆきながら、隊長はまるで無人の星へやってきてしまったかのような不安に胸をたかならせていた。
だが耳をすませると、外のさわぎ――叫喚と悲鳴、剣戟のひびき、急をつげる鐘の音とウマたちの不安にかられたいななき――がかすかにつたわってくる。
第三隊長は、ひえびえと暗い回廊をようやくかけぬけて、黒い塔の下までたどりついた。そこには、黒い重い封じられた扉が立ちはだかって隊長を阻んでいた。
隊長は少しためらった。最もいやしい下僕でさえ、そこからさきに踏みこんでゆくくらいなら死を選んだ。なぜならその扉のむこうはヴァーノン伯――モンゴールの癩伯爵が一日の大半を、孤独に、死と異臭とだけを友として過ごしている、伯爵の私室であったからだ。腐敗はゆっくりと、だが確実にそのおぞましい進行をつづけている、と城の兵たちはささやきかわし、砦も辺境に数ある中に、よりによってヤヌス神に罰せられたこのような城主のもとに剣を捧げるはめになった運命を呪った。
だが――
第三隊長は面頬をはねのけ、その豪毅な顔を決意にひきしめて、重いかんぬきを抜きとり、黒い死の扉をあけた。とたんに悪臭が――生きながらくさってゆく肉の、何ともいえないくらいおぞましい匂いが息をつまらせたが、隊長はあえて無視して、
「伯爵さま! わが君!」
声をはりあげて叫んだ。
「伯爵!」
「なんだ」
返事は、あまりにも近いところからきこえたので、隊長はびくりととびすさって目をこらした。扉の内は真黒な真の闇、その中にある何ものも見ることはできなかった。
さしも勇気あるゴーラの黒騎士隊の隊長も、その癩の貴族がひそむ暗闇へ、足をふみいれてゆく気にはなれなかった。そこで、彼はそこにたちつくしたまま、再び声をかけた。
「伯爵――大変です。セム族が砦を」
「わかっておる」
返ってきた答えは、隊長をかッとさせた。この間にもおもてでは彼の部下が切り殺され、あるいは毒矢をうけて倒れてゆくのだ。
「セム族の大逆襲であります。わが砦は今日の夜を無事に迎えられることはまず、望めますまい」
彼は重ねて云い、相手は病人であることを考えて、しいて自制しようとしながらも云いついだ。
「第三騎士隊は全滅寸前、第五隊もやられました。第六隊が防いでおりますが新手が加われば大門は破れそうです。ご命令を賜わりますように」
「破れたら、どうなのだ?」
暗闇からの声は、はっきりと嘲りの調子をひそめていた。
「大門が破られたところでわしにはかかわりがない。この砦ひとつばかり、猿どもにくれてやるがよい」
「伯!」
第三隊長は激昂した。伯爵が発狂した、と信じたのだ。
「セム族がこれほどに大挙して砦を襲ったのは何故かとお考えか! かれらは凶悪とはいえ、蛇の年以来われわれとの間には無言の協定が成立し、わずかな平和が保たれていたものを、これほどにかれらを怒らせたのは、伯、閣下のご命令ですぞ! それ例の、セム族を生けどりにして連れ帰れという。たびかさなる仲間の拉致がついにセムたちにその災害の正体を気づかせ、この日をもたらしたのだ。かれらは仲間を救い出す気です。伯爵、かれらの同胞を塔に封じこめたのはあなたですぞ。一体なぜ、かれらは一人また一人と姿を消したのです。砦の者も噂しております。かれらを一体どんな運命が襲ったのです?」
「教えてやろう」
穏やかな――しかし何かぞっとするような悪意をひそめた声がささやいた。隊長は少しあとずさった。
「第三隊長よ、お前は忠実で勇猛なゴーラの騎士だ。砦の運命はヤーンの糸車がつむぐに任せておけ。わしにはわしでまだやることがある」
「伯爵――?」
隊長の声は上ずり、彼はますますあとずさりした。闇が少しずつかたちをとり、彼の前に、そのひそめていたもの[#「もの」に傍点]の全貌を、ゆっくりと明かしつつある。
モンゴールの癩伯爵――それともそう呼ばれているその生き物が、ゆっくり、ゆっくりと戸口に姿をあらわしたとき、恐怖に凍りついた隊長のかすかな叫び声が暗黒神ドールの名を呼んだ。すぐにそれは止んだ。
そして、そのあとにはまたねっとりした異臭を放つ闇だけがわだかまっていた。
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第四話 暗黒の河の彼方
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1
スタフォロス城は炎のなかにあった。
すでに戦いの帰趨は決している。内庭にも、本丸と二の丸をつなぐ回廊にも、頭を割られ、矢に射られて打ち伏す、黒い鎧をつけたゴーラ兵の姿があり、そのあいだをぬうようにして、くすぶる黒煙が立ちのぼっている。
わずかな残りの守兵たちは追いつめられ、じりじりと後退しながら互いに助けあって、しだいに城の中央に立つ二つの塔にむかって集結していた。日は高くのぼり、外はうららかな辺境の昼である。セム族の奇声がたえずきこえてきて砦の運命を知らせるほかは、やわらかなスミレ色の空にも、黒々としたケスの流れにも、いつもと変わったものは何ひとつとしてない。
それより早く、まだ砦の守備隊が壊滅的な打撃をうけるまえ、内庭にも回廊にも剣戟のひびきと戦いの怒号が満ち満ちていたとき、城の二つの塔のうち牢舎として使われている「白い塔」のなかでも、ちょっとした波乱がまきおこっていた。
砦の兵たちは中庭と大手門を侵入の突破口としてなだれこんで来る蛮族を迎えうつために、ひっきりなしに命令を叫びかわしあいながら、いつの間にかじりじりと追いつめられていた。第四隊長はすでに毒矢に射られて打ち伏し、第六隊の隊長もむらがりよせる猿人たちに引き倒されるようにしてかれらのさなかへ沈んだ。
「塔を守れ! 君公《きみ》を守れ!」
劣勢の中で、ヴァーノン伯の信任厚い第一隊長だけが、まだ手傷もおわずに声をからして叫びつづけていた。手兵をまとめて、何とか二つの塔へ近づいてゆこうとする。
その背にむけてはなたれたセム族の矢が、鉄のよろいにあたってカンカンと音をたててはねかえる。
第一隊長がもういちど「塔を守れ!」と大声をあげて手をたかだかと打ちふったとき、突然、白い塔の中でわーッと騒乱の気配がおこった。
「セム族が白い塔へ!」
騎士が叫んで注進にかけつける。
「自い塔は囚人どもの牢舎、かれらがどうなろうとかまわぬようなものだが、パロの王子と王女だけは守らねばならん。それに白い塔がやぶられれば地下を通って黒い塔へも侵入することができる」
あえぎながら第一隊長は云った。
「おまえ、ラッパを吹くのだ。無念だが他の場所はすべて放棄しよう。二つの塔めざして、すべての生存の兵をとりまとめ、蛮族を追い払え」
「かしこまりました」
ただちにラッパ手が口にラッパをあてた。それを吹くために彼は顔をのけぞらせなければならなかった。そののどがあらわになったとたん、セムの矢がそののどのまんなかにつき立った。ラッパ手がのどをかきむしって倒れる刹那、同僚がとびついてラッパをうばいとり、絶望的な勇をふるってのども裂けよと吹いた。
りょうりょうとひびきわたるラッパの音に耳を傾けながら、第一隊長は肩で息をし、大剣を杖について青く美しい空を見あげた。そこには、黒地に金で草原のライオンをぬいとり、金のふさをつけたゴーラの黒獅子旗と、紫の地に白と金の紋章をぬったモンゴールの大公旗とが、セム族にゆさぶられる砦の苦境も知らぬげに、誇りやかに風になびいている。
それは砦の兵たちがかれらの生命にかえて守り通そうとしているものだった。それは限りなく誇りにみちて美しかった。
隊長の目がかすんだ。彼は、「モンゴールのために!」と大声をあげて段平をふりあげ、しゃにむに白い塔へむかって突進した。
その足に、ピシリと鞭がからみついた。セムの猿人がくりだしたヤマオオカミの皮鞭だ。ふいをつかれ、隊長は横転した。たちまちその大柄な姿は蛮人たちのからだにおおいかぶさるようにして隠された。蛮族の石斧がうちおろされ、石ナイフが隊長ののどをかき切った。
そのころ――
塔の中で、虜囚たちが、それぞれの壁をがんがんと叩きながら、絶望にかられて叫びたてていた。
そのとき、必ずしも、白い塔のすべての室が血に餓えた城主の癩伯爵によって死を宣告された囚人たちでいっぱいになっていた、わけではない。
多くの石づくりの室は空いており、|トルク《ネズミ》とむなしい沈黙との二者だけがその主だった。
しかし、いくつかの室には囚人がとじこめられていた。そしていくつかの室にはあかりとりの窓がきってあり、そこからのぞくと中庭の戦闘、スタフォロス城を現におそっている恐るべき災厄は手にとるように見おろせた。
あちこちの、ふさがっている牢舎から、石づくりのドアを平手で、あるいはそのへんの椅子か何かで叩き、足でけとばし、あらんかぎりの声でわめきたてて牢番の注意をひこうとする、たいへんな喧騒がまきおこり、それでほとんど塔の下の阿鼻叫喚はかき消されてしまうくらいだった。
「牢番! 牢番!」
「何が起こったのか教えてくれ!」
「セム族だ、セムが攻めてきた。砦はおしまいだ。おれたちは皆殺しだ」
「出してくれ。ここを出してくれ。おれも猿人どもと戦う。誓って逃げたりしないから大剣をくれ。モンゴールの剣をくれ!」
「助けてくれ! このままではとじこめられてセムの奴らに皮をはがれるのを待つばかりだ!」
「だれか! 牢番! 仲間たち! 壁かけに火がついた。あつい、焼ける、助けてくれ!」
「牢番! 牢番――!」
「出せ!」
戸を叩く音、窓からセムの火矢が入ったのだろう、火のパチパチはぜる音と焼き殺されようとしているあわれな男の絶叫に混って、トーラス、辺境、ヴァラキア、遠いクムまで、ありとあらゆるなまりの声が、のどもかれよと叫びつづけた。
その声は、暗い廊下に佝僂の牢番が、のたりのたりと、しかし彼としてはできる限り急いで姿をみせるに及んですさまじいまでに大きくなった。
「カギをあけてくれ。ここを出してくれ!」
牢番が歩いてゆくたびにその階のなかで悲鳴のような哀願の合唱がおこる。
それへ、いちいち、牢番は戸をカギ束でどやしつけて怒鳴った。
「駄目だ。駄目だ。でかい声、出すでねえ、やかましい。伯爵さまから囚人をおっ放していいなんどというご命令は出ておらんでな。出してやるわけにゃいかねえ」
「だがこのままではみすみすセムのいけにえだ! そんな悠長なことを云っている場合か!」
「とにかく、あけろ!」
「ならねえ。出して、黒い塔にうつせちゅう命令もらったのは、パロの子どもと豹あたまのばけもんだけだ。ならねえ、ならねえ」
口々の、狂ったような罵声や哀願にもかまわず、数人の騎士を従えた牢番は、そのまま多くの扉の前を通りぬけて、グインたちをとじこめてある室まできた。
豹頭の戦士グインと、パロの聖なるアルドロス三世の遺児レムス王子も、他の囚人たち同様に叫びたて、戸を叩いていた。レムスは狂ったように姉の名を呼びつづけ、グインはその巨大なハムのような手で扉を叩き、ゆさぶりつづけていた。扉は決して破れぬよう、一枚石でできていたのだけれども、グインの手がゆさぶり、そのおどろくべき巨体が体あたりをかけるたびに、扉のちょうつがいはきしみ、いまにも外れんばかりだった。
牢番は辺境なまりのガラガラ声でちょっと待てと怒鳴った。
「いま、出してやっから、ドアからはなれてるだ」
「牢から出しても、あのくされ城主のところへつれてゆく気なら、ここでサルどもに頭を叩き割られた方がマシだ!」
豹人はその頭のつくりのために、くぐもってきこえる大声で怒鳴った。
「それよりも俺の大剣を返せ! 俺にも、あのノスフェラスの前人類どもと戦う権利をくれ」
「そんなことは云われてねえ」
佝僂の牢番は頑固だった。彼はちょこちょことかけよって重い鉄の輪で腰につるしたカギたばでドアをあけたが、いそいでうしろにさがった。グインが咆哮をあげて、とびだしてこようとしたからだ。
「待て! これが目に入らぬか!」
牢番がそのうしろに逃げこむと黒騎士たちがすばやく前に出た。その手にはそれぞれ大槍が握られ、その穂先は囚人ののどや胸にふれんばかりだった。グインはおどすようにうなり声をあげ、パロの王子はそのたくましい腰にすがってかれらを説得しようとこころみた。
「このさわぎが耳に入らないのか。グインならひとりで黒騎士一個小隊ほどにもあたるはたらきをすることができるんだ。砦がセム族の手におちてしまえば皆死ぬばかり――グインに剣を返して!」
「囚人の身でそのような心配はいらぬ」
誇らしげに騎士のひとりがこたえた。
「お前たちは伯のご命令どおり、黒い砦へ地下通路をとおって避難するのだ」
「あの暗黒の化物のところへか!」
グインはあざわらった。
「何から本当にわれわれは避難せねばならぬのだか、知れたものではないぞ!」
「化物はどっちだ、生まれもつかぬけだもののくせに」
かっと怒って騎士はグインを槍の石突でこづいた。グインは平気な顔をしていた。
「さあ、来い、化けもの」
「断る。二度と、あのドールの生まれかわりの伯爵野郎はご免だ」
「きさま!」
「おい、下で何かさわがしい気配がする」
かっとなって、囚人を殴打しようとすすみ出かけた騎士をひきとめて、同僚のひとりが不安そうに云った。
「大丈夫だろうか、この――」
「大丈夫にきまっている」
騎士は腹立たしげに、しかしいかにも誇らしげに同僚にむかって云いきかせた。
「このスタフォロスの砦は、たかが蛮族の一部隊におそわれたくらいでは決して落ちぬ。ここはモンゴールの、辺境の守りのかなめなのだ。これまでだってなんど蛮族の襲撃をうけたことか、だがそのつどわれわれは誇りたかいモンゴールの剣で彼奴らを切り払い、危機を切りぬけた。
ほどなくアルヴォンからの救援部隊もつくだろう」
ふいに騎士は口をつぐんだ。
その顔はかぶとの下で、何ともいえぬ奇妙なものに見えた。少しのあいだ、なぜその同僚が口をつぐんだのか、なぜその顔が急にこっけいな人形のように見えたのか、だれも理解しなかった。
騎士には、演説のつづきをおえることは永遠にできなかった。モンゴール人特有の高くせまい鼻梁の上、目と目のちょうどまんなかに、ふいにつけられた奇怪なアクセサリーのように、黒い羽根、黒い矢柄の短い矢が突っ立ち、ぶるぶるとふるえていたのである。彼はグインたちに背をむけ、同僚の方をむいてしゃべっていた。
彼は白目をむきだし、石づくりの入口に、そのまま倒れこんで、金具のぶつかるにぎやかな音をたてた。
「セム族だ!」
隣にそれまで元気で喋り、砦の安全を保証していた友人が、瞬時に冷たく動かぬむくろと化すのを見たとたんに、並んでいた黒騎士は、呪縛されたように立ちつくしてしまった。
「危い! うしろ」
レムスが叫んだ。そのときには、上からうちおろされた石斧が、不幸な彼の頭を叩き割っていた。彼は絶叫して射殺された同僚の上へおりかさなって倒れた。その上へ、天井から、まるで何十人もいちどきに石壁のなかからわいてでも出たような茶色の蛮族が、口々に奇声を発しながらとびおりてきた。
佝僂の牢番がわめきながら逃げようとする。その背にむかって矢が射かけられた。しかし蛮族たちとほとんど同じぐらいしか上背のない佝僂は背なかの肉瘤に針さしのようにつきささる矢をかまいもせず、カギ束をおとして階段をかけおりようとした。その足がしかしすくんだように止まった。
階段を無数の猿人たちが、異臭をはなち、奇声をあげながら、せきを切った水のようにかけのぼってきたのである。
「お助け! お助け!」
牢番はのどもかれがれの悲鳴をあげ、そうすればまるで石の壁が彼をのみこんで守ってくれるとでもいうように、ひたすらつきでた背中を壁にこすりつけて平たくなった。だが猿人たちは彼を同族とみまちがえはしなかった。
「アイ! アイ! アイイー!」
「イーイ、イイー!」
けたたましい怪鳥のような声を発しながら、ふりあげたセムの石斧が打ちおろされ、牢番は背中をむけて二、三回までは肉瘤をうたせることで防いだが、とうとう一人の斧がその亀のようにひっこめた頭をおそって額のまんなかにぐしゃりとのめりこんだ。
牢番は声もあげずに倒れた。彼のからだはまりのように石段をころがりおちてゆき、一階下の踊り場に、何人かの蛮族をまきぞえにして倒れ込んだ。その上をたちまち、階段をかけのぼろうとするたくさんのセム族の汚い裸足が踏みにじり、乗りこえた。
階上では猛烈な戦闘が展開されていた。セム族はただちに剣をぬき放って応戦した騎士たちの前にたちまち切り倒された。場所の利は騎士たちにあった。ふいをつかれはしたもののそれはもともとかれらの城であり、そして廊下のせまさがかえって、おしよせるセム族をさまたげたからだ。一対一、ないし一対二ぐらいで戦えば、からだの大きさでまさる黒騎士たちは確実に蛮族を倒した。
しかし、蛮族の強みはその圧倒的な人数だった。仲間が血煙をあげて倒れても、倒れても、
「アイー! アイー!」と叫びつづける猿人たちは、ひるむということを知らぬかのように仲間の死体をふみつけておしよせた。
他の連中は牢番の死体からカギをとり、あちこちの牢の戸をあけはなちにかかっていた。重い扉をひらくとかれらは奇声をあげて中におどりこんだ。中に囚人がいれば、たちまちそれは蛮族に頭を割られて倒れた。その中には、ベッドの下にもぐりこんで隠れようとするものもいたし、椅子をふりあげて、人間の領土をおかすこの半人類どもと勇敢にも戦おうとするものもいた。しかし、セムたちは、隠れるものはひきずり出し、歯向うものはおっとりかこんで、さながら大きな虫をアリどもがむらがってたいらげてしまうようにひとりひとりをかたづけていった。
中のいくつかの室はすでに、窓から射こまれた火矢でごうごうと燃えあがりはじめていた。塔の廊下という廊下は、火の燃え、パチパチとはぜる音、虐殺される囚人たちの絶叫、セムの奇声と、そしてうずまく黒煙とに満たされた。
それは生き地獄ともいうべき光景であった。レムスはがたがたふるえながらその凄惨なありさまをただ見つめ、手にもった武器がわりのイスをにぎりしめていた。
だが、グインはそれどころではなかった。彼が行動をおこさなかったのはほんの短いあいだだけだった。彼と王子とを連れにやってきた騎士が、セムの矢に射られて倒れたとき、豹頭の戦士は瞬間とまどったが、たちまちのうちにレムスをひっつかむように石の扉のうしろへ追いやった。
「そこをはなれるな」
吠えるように命じておいて、敏捷にありあう道具――彼がつかんだのはからになったみつ酒のつぼだった――をかざして矢を防ぎながら廊下へとび出す。
「グイン、危い!」
レムスが悲鳴をあげたが、豹の戦士の狙いは、倒れた黒騎士の腰の大剣にあった。
グインが戸をくぐってその怪奇なすがたをさらしたとき、ふいにセム族の中に動揺がわきおこった。
「アルフェットゥ!」
「リアード、リアード!」
豹だ、豹だ、とでもいうらしいおどろきの声が、いっとき、奇怪なとき[#「とき」に傍点]の声をうわまわった。
だがただちに頭だったものが何か叫んで彼を指さし、セムどもは気をとりなおして豹頭の戦士めがけて突進した。
グインには、その一瞬のセム族のためらいで充分だった。彼はかがみこみ、死んだ黒騎士の腰から大剣をひきぬこうとした。鞘に、柄がひっかかった。
グルルル……とグインは咽喉で唸った。そして力づくで引っぱり出そうと全身をまっかにして力をこめた。
それへ、カラスのようなけたたましい声をあげたセムの射手が、矢をいかけた。グインは顔をあげた。
「キャーッ!」
レムスは椅子をとりおとして悲鳴をあげた。矢はもろに、グインの豹頭の眉間につっ立ったのだ。だが、
「ケケッ!」
驚愕に奇声を発したのはセムの射手のほうだった。
猛毒のぬりつけられているはずの、セムの黒い矢を、額のまんなかでぶるぶるとふるわせて突き立てたまま、豹人は平然として剣の柄を左右にゆさぶり、ついにからみついていた鞘をぷつりと切りおとして欣然と大剣をつかみあげた。
彼の口から満足そうな呻きが洩れた。彼はびゅん、と剣をふってみてそのバランスをたしかめると悠々と立ちあがり、額に手をのばし、左手で無造作にセムの毒矢をひきぬいて、蛮族に投げつけた。
矢は投矢《ダート》の要領でうなりをきって飛び、狙いあやまたずそれを射た射手ののどにつきたった。一瞬、セムどもは、その矢の毒がうすれていたのか、と思ったかもしれない。だが、射手はたちまちのどをかきむしってころげおちた。
セムどもの中に目にみえて動揺がひろがった。
「アルフェットゥ!」
「アルフェットゥ!」
猿人は口々にかれらの神の名をわめいた。
「リーララ、ムル、ストラト!」
恐れるな、とりかこめ、とでもいった意味らしくリーダーがさけび、セム族たちはいくぶんためらいがちに再び囚人にむかって奇声をあげた。
しかしグインはかれらを待ってなどいなかった。待望の大剣を手に入れるやいなや、彼の戦士の血は燃えあがり、彼は巨大なファイティング・マシンと化していた。彼は突進し、ぶんと唸りをたてる大だんびらのひとなぎで、たちまちのうちに猿人どもを五人ふっとばしてしまった。彼はまた剣をふりかぶった。
「グイン!」
そのときレムスの悲鳴をきいてふりかえると、隙をみて猿人どもが牢の中へとびこもうとしている。
ウォーッとおめいてグインは身をひるがえし、あわやレムスに石斧を叩きつけようとしていた蛮族をからだの真中でまっぷたつ、横なぎに両断してしまった。
「ついて来い。ここにいては数でやられる、いつかは。いいか、俺から絶対にはなれるな」
グインは唸るように王子に命じると王子のほっそりしたからだを巨躯のうしろに庇い、左手にはあらたにひろいあげたセムの石斧をふりまわし、右手の剣を着実にふるって二人、三人ずつ猿人をほふりながら、廊下へとびだす隙をうかがった。
その間にも、廊下やせまい階段に陣どって、黒騎士たちや、少しは腕のたつ囚人の二、三人がそれぞれに抗戦をつづけていたが、かれらは一人ずつ寸断されていたので、いずれは数で圧倒され、つかれはてて、むなしく蛮族に屈することは目にみえていた。
縦横に剣をふるいながら、グインはすばやくそのさまを見てとった。彼の豹頭の中におさまった、人の狡智と豹の決断とをかねもった頭脳がすばやくはたらき、彼はいきなり大声をはりあげた。
「黒騎士ども、囚人ども、こっちへ来い。一人ずつ戦ってはやられるばかりだ。集まれば俺たちが強い、集まっていずれか一箇所でセムどもをくいとめるのだ!」
「だめです!」
悲痛な叫びが応えた。囚人の一人だった。
「切りふせても切りふせても新ら手がおそってくる。そこまでたどりつける者はおりません!」
そして彼はセムの斧に足を折られてどさりと倒れた。
「ちいっ」
グインは吐きすてた。その間にも彼の剣がひらめいてサルに酷似した小さな毛むくじゃらな首を胴体からふっとばした。
「王子!」
「ええ、グイン!」
「このままではどうにもならぬ。おまけにどうやら火がまわりはじめた」
「グイン、リンダが!」
「わかっている。何とかサル共が塔の天辺まで埋めつくしてしまう前に、王女を助けよう。本当は切りぬけるには下へ下へと戦う方がいい、上ってゆけばいよいよ追いつめられてしまうがそうは云っておられん」
「危い! うしろ!」
「大丈夫だ!」
グインはうしろにひそんで高々とはねあがっておそってきた蛮族をなぎ払って壁に叩きつけた。
「三つ数えるぞ」
彼はささやいた。
「俺のベルトをつかんでいろ。三つでとび出して階段までの血路を切りひらく。そのままかけあがってリンダを探す」
「はい――グイン」
「いいか、一、二――三!」
「三!」というと同時にグインは頭をさげ、剣と斧をつきだすようにして、セム族でいっぱいの石の廊下へとびだした。
レムスはすかさずグインのうしろに身をかくしてついて出た。グインの大剣が目のくらむような速さで左右に血しぶきをあげてセム族を切りふせてゆく。グインの口から豹そのままの雄叫びがもれ、黄色い目はすさまじく燃えあがり、たくましい雄神さながらの全身に返り血をあびて彼はそのまま一頭の猛獣だった。
さしも勇敢な小人族も、その彼の突進の前にたじろいで道をあけた。グインは階段までを自らの剣で切りひらき、そのまま大股に、三段づつふっとばして石のせまい階《きざはし》をかけのぼった。王子が続いた。
ひとつ上の階もすでにセム族の先兵に占められかけていた。ここでもグインは剣をふるって蛮族を切りふせた。
「姉をさがせ。呼べ」
剣を舞わせるあいまに彼が云った。レムスはうなずき、
「リンダ――リンダ!」
声をはりあげた。
「リンダ! ぼくだよ! どこなの!」
応えはなく、レムスはグインが階段の上に陣どって、おしよせようとする蛮族をふせぐあいだに各部屋を走ってあらためにいった。しかし、すぐに戻ってきて、
「この階にはいないよ」と告げた。
「よし、わかった。上へ行くぞ」
グインは云って、大きくひとなぎしてからいったん剣をひき、今度はレムスを先にたてて階段をかけのぼった。もう、その階からはほとんどセム族の姿はなかった。
もう一つ上の階にもリンダのとじこめられている室はなかった。
「グイン!」
「上へのぼれ。急げ」
グインは不吉な光を目にうかべて云った。その丸い豹頭はかしげられ、何かをいぶかしむように見えた。
「グイン――?」
「気がつかんのか。中庭――と外が妙に静かになった。剣戟のひびきがきこえてくるのはこの塔の中だけだ。もし、セムどもが砦の守兵を圧倒し、ほとんど片付けてしまったのだったら、いかな俺でも、生きてこの城を出てゆけるかどうかはちと考えものだぞ」
「グイン……」
「そんな顔をするな。セムどもに追いつかれる、早く走れ」
あわててレムスは階段をかけあがった。しだいにそれは細く、そして急になりつつあった。
「グイン、もうここしか残っていない」
「塔の頂上だな」
そこは他の階にくらべてさえひどく暗く、そして天井も低く威圧的だった。そこにはただひとつの扉しかなかった。レムスは期待をこめて叫んだ。
「リンダ、リンダ――返事して!」
たちまちに応えがあった。
「レムス! ここよ、あたし! 出して!」
「グイン!」
狂喜してレムスが叫んだ。
「よし」
グインが石の扉をゆさぶった。しかしそれは、よくよく頑丈な一枚岩を使ってあるとみえて、びくともしなかった。
「ウーム」
グインは唸って体当たりをこころみようとしたが思いとどまった。一枚岩の戸に体当たりをしたら、いくら彼が怪力であろうと彼は生ま身にはちがいないのだ、折れるのは彼の肩の骨の方であるに決まっている。グインは石斧を戸に叩きつけようとしたがふとその手をとめた。
「あのちびの牢番がもっていたカギ束はどうしたかな」
「ぼく見ていたよ」
レムスは即座に答えた。
「ぼくたちのとじこめられていたへやの、前の廊下におとし、それを野蛮なセムどもがけとばして廊下のみぞへ知らずに落としてしまった。まだあそこにあるはずだよ」
「ほほう」
ちょっと意外そうに、グインは、弱虫で気のよわいとばかり思っていたパロの世継を見た。一瞬考えて、
「よし」
と彼は云った。
「いいか、王子――俺はこれから下へかけおり、そのカギ束をとってくる。この階へ通じる階段の上り口に、下の階の石扉をもってきて防塞を作っておいてやる、それならばそれだけのあいだぐらいは何とか保つだろう。それをのりこえてやってくる奴はそう多くはあるまいが、そのときには――」
斧を王子のふるえる手に渡してやり、
「お前も男の子なら、何とかしてそれだけのあいだもちこたえてみろ」
「うん――うん!」
「よーし」
グインはレムスのかぼそい肩を大きな手で叩くと、血でぬめる剣をしっかりととりなおした。
「いいか、姉を守るんだぞ」
「グイン、死なないで!」
「大丈夫だ。俺は――」
ふいに、豹頭の仮面を冠せられたこの謎の男の黄色い光を放つ目に、ふしぎな理解めいたものがひらめいた。
「俺はここでは死なぬ運命《さだめ》だ。ということは、お前たちもそうであるのにちがいない」
ほとんど優しいといっていい口調で豹頭の戦士は云った。そして、レムスがそのことばの意味をといただすいとまもなくているうちに、つむじ風のように階段をかけおり、バリケードをつくる荒仕事にとりかかった。
応急のその防塞のできばえに一応満足すると、彼は剣をふりかざし、いまやすぐ下にまで迫ってきていた蛮族どもの群れの中へためらわずに走りこんでいった。
たちまち絶叫と、そして激しい戦いの物音が起こる。にわかごしらえのバリケードの向こうにも、それは届いた。レムスは石斧を汗ばんだ手に握りしめ、姉とのあいだを無情にもさまたげる石の扉にぴったりと背中をつけたまま、声にならぬ声で(グイン――死なないで……グイン!)と祈るように云いつづけていた。
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グインは景気よく右に左に蛮人たちを叩きふせ、切り払い、なぎたおしながら、黄色と黒の疾風さながらに石の階段をかけおりた。
切りふせても、切りふせても、蛮族はいっこう減るけしきも見せない。グインは疲れの色もなく、剣をふるい、「サルどもめ――セムどもめ!」とうなるように叫びながら死体の山を築いた。彼の剣はいなづまのように早く、彼の手は確実に死をまきちらし、彼は血まみれの戦いの神ルアーのうつし身とも見えた。
だがセム族も勇敢だった――それだけは認めないわけにいかない。セム族の毛深い頭蓋におさまった、野蛮の前人類の頭脳には、おそらく恐怖とか保身を考える部分が欠落しているのではないか、とさえ思わせる、がむしゃらな勢いで、やられてもやられても彼らは仲間の死骸をふみこえておしよせてきた。
だがグインはぐずぐずしてはいなかった。そんないとまはまったくなかったのだ。彼は豹頭の悪魔と化して階段をかけおり、ようやく見すててきたばかりのかれらの獄舎の前へたどりつくまでまったく歩調をゆるめなかった。
廊下は意外にも、おりてゆくに従って蛮族の数が少なくなっていた。たぶん、豹頭の戦士を仕止めようと上へ上へとのぼっていった連中をのこして、他の連中はこの塔を見すてて他の獲物を求めていったのだろう。廊下や戸のひらいたままの室の中に、セム族のそれに混って砦の騎士や囚人たちの死骸がうちすてられ、もう、生き残っている砦がわのものは、このへんにはまったくいなくなっていたからだ。グインが相手にせねばならなかったのは主として、彼を追って塔をかけ上って来、また彼を追ってかけおりてきたセム族の一隊だった。
塔の下の方は妙にしずまりかえっていた。そして塔の外にも何の戦いの気配もない。
(スタフォロス砦は全滅したか)
グインは唸った。
彼は焦っていた。ようやく目当ての場所にたどりつき、レムスが云ったとおり、壁にそって掘られている排水管がわりの溝の中に、カギのたばとおぼしい金属のきらめきがあるのを目にとめた。だが、そのときには、彼を追って階段をかけおりてきたセム族たちに十重二十重に囲まれて、身をかがめてそのカギへ手をのばす、たったそれだけのひまさえもなく剣をふるわねばならないのだ。
スタフォロス砦がわが全滅かそれに近い打撃をこうむったのならば、ほどなく蛮人たちは砦に火をかけるだろう。
グインは焦りをつよめた。彼はセムの石斧をはねとばし、返す刀でちっぽけな猿人を肩から腹まで切りさげ、壁を背にして身をまもりながら、何とかしてカギをひろいあげる隙を作ろうと左右をきょろきょろ見まわした。
そんな隙のあろう筈もない。グインはぎりっと歯がみをすると、やにわに強引な行動に移った。おそいかかるセム族どもをまったく無視して、いきなり身を沈めて左手でカギ束を溝からひろいあげたのである。
いなづまよりもすばやい動きであったが、しかし一瞬彼の広い背中と豹頭は、完全に無防備に蛮族どもの前にさらされた。セム族たちは一秒の十分の一ほどのあいだ、それが豹人の何か故意にしかけた策略ではないかとためらった――それから、かれらは、彼の意図を悟り、たちまち石斧をふりあげた。
そのときにはもうグインは体勢をたてなおしにかかっていた。しかし彼は先刻までの優位をカギ束をひろうために自ら手ばなしてしまっていた。彼が頭をあげたとき、その額にまっこうからふりかぶった蛮族の石斧が、ぶんと唸っておちてくるところだった。グインはすばやく剣で防いだ。すでに何百人もの蛮族の血を吸っている剣は血でぬめっていた。それは石斧の攻撃をうけ流しはしたもののよけることはできず、斧はグインの二の腕をかすめた。剣が同時に彼の手をすべってはねとび、壁に当たってチャリーンと音をたてた。
「危い!」
ふいに予期しなかった絶叫がセムどもの背後からおこった。同時にセムどもの頭越しに、武器を失ったグインめがけて新しい剣がとんできた。
すかさずグインはそれを空中でつかみとり、持ち直すなり横ざまにないだ。真に危いところだった。その剣がはねとばさなかったら、打ちおろされた石刀がグインの痺れた左肩にもろに食いこんでいるところだったのである。
刃こぼれもしておらぬ新しい武器をえて、疲れを知らぬもののように新たな勢いでセム族を切りふせながらグインは彼を救ってくれたものの方を見た。救い主もすでに、二手にわかれた蛮族の一方をひきうけて激しく戦っていた。
グインの無表情な豹頭の仮面の奥で、満足げな笑いが洩れた――彼に剣を投げてくれたのは、トーラスの若い戦士オロだった。
「これでお前には二回助けられたな、トーラスのオロ!」
グインは陽気にセムどもを片付けながら怒鳴った。
トーラスのオロはセムと切りむすびながら、グインのほうを見、かすかな笑いをうかべてみせた。彼はあちこちに傷をうけており、セムの石斧をうけとめる刃も、ともすれば宙を切った。オロがグインの方に注意をふりむけたとき、うしろに忍びよっていた蛮族が石刀をふりあげた。
オロは気配に気づいて向き直りかけた。それが悪かった――刀はまともにオロの額を割ったのだ。かぶとはすでにどこかでうちすててしまっていた。トーラスの若者の額がぱくりと割れ、血がふきだしてきた。オロはくるくるとコマのようにまわり、よろめいて、どさりと倒れこんだ。
「オロ!」
グインはわめいて、セム族をからだごとはねとばしてオロのもとへとびおりた。そのときまでには蛮族の数もようやく底をつきかかっていた。さいごの数人を、片手でオロを抱きおこしながら右手の剣でかたをつけてしまうと、グインはトーラスのオロのからだをゆさぶった。
「おい、しっかりするのだ」
「駄目だ」
というのが、オロのあえぎあえぎの返事だった。
「早く逃げてくれ。奴らはまたすぐ新ら手をくりだしてくるぞ。あんたが軍神ルアーその人であっても、あいてはルードの森のグールよりもきり[#「きり」に傍点]がない。いつかはやられる」
「あまり喋るな」
グインは剣をおき、傷をしばる布を目でさがしながら云った。ぱっくりと割れた額から脳味噌をなかばはみ出させて、トーラスのオロは首をふった。
「早く逃げろ。間にあってよかった。あんたを助けにきたんだ。白い塔から黒煙が上っているのを見たんで――あんたのような戦士が、とじこめられたまま、生きながら焼き殺されるなんて、あ――あんまりむざんな話だものな。あんたが、た――戦っているのをみて、嬉しかった」
「オロ。喋るなというのに。お前はこれで二回、俺を救ってくれた。ガブールの灰色猿からと、セムの猿人からと。今度は俺がお前を助けてやる」
「おれはただ……剣を、剣をあんたに投げてやっただけさ。そ――その剣で切りぬけたのはあんた自身だ。あんたが自分で自分を救ったのだ。ああ――目が見えない」
「水がのみたいか」
「もう無駄だ。ああ――なんという災厄が美しいスタフォロス城を襲ったのだろう。おれの目のまえで隊長も……同郷のリードも仲のよかったエクもみんな――みんなやられてしまった。わが城にかくも理不尽な運命をもたらしたヤーンは百回も呪われるがいい。ああ……おれはこの春で辺境警備のつとめをおえ、美しいトーラスの都に帰れることになってたのに」
オロののどがごろごろ云いはじめた。グインは黙って、太い腕に彼を救ってくれた若者を抱いたまま、じっとその若々しい顔が死相にくまどられてゆくのを見守っていた。
「ああ――苦しい。ああ……」
「何か俺にしてほしいことはあるか」
「いや……もう何も――」
「何か――トーラスで待つ家族に伝言でも」
「いや……いや、それなら……」
オロはくちびるを舌でなめ、声をしぼり出した。
「もしあんたがト――トーラスで助けが必要になったら、トーラスの下町で<煙とパイプ>亭をいとなんでいるゴダロのところへいくといい。おれのおやじだ。よい人間だし、むすこの死にかたを知りたいだろう――ちゃんと戦士としてのセムの猿どもと戦った、と……」
「わかった」
グインはオロの手をとった。それは早くも冷たく、そして力を失いかけていた。
「お前は俺によくしてくれたな」
グインは云った。オロは傷ついた顔で笑おうとこころみた。その口がゆがんだ。
「あんたは――凄い戦士……だ、豹人」
彼はさいごの力でささやいた。
「あんたに剣を投げなかったら、あのとき――おれはモンゴールの戦士などと名乗る資格は――なかっただろう……」
声がとぎれ、トーラスのオロは死んだ。
「お前のためにセム族の首を十、とってやろう」
グインは重々しく剣をつかみ、床におろした死骸の上にさしのべて誓った。
「お前は勇者だ、トーラスのオロよ」
彼の無表情な豹頭がいくぶん前に傾いた。
そのとき彼はぴくりとして身を起こした。彼の鼻は、いぶる煙の匂いをとらえ、彼の耳は、新たな騒擾の音をききつけていた。セムどもが新ら手を送りこんできたのにちがいない。
「イイー! イーイー!」
「アイー! アイー!」
階下からセムのあの呪わしい奇声がかすかにきこえてきた。
バネ仕掛けのようにグインははねおきた。オロの死体をのこし、彼は再び階段をかけのぼった。ひと息に頂上へゆきついて、バリケードがわりの石扉をおしのける。
「ああグイン!」
レムスがとびついてきて泣きじゃくった。
「グイン、グイン、ぼくもうグインがやられてしまったのだと思ったよ――」
「そしてお前もパロの王子にふさわしいだけの働きをしたようだな」
グインはバリケードの内側にころがっている、四、五人のセム族の死体をみて云った。
「俺はお前のことを、白い羽根の臆病者のように思ってしまっていたが、どうやらそれは間違いだったらしい」
レムスは嬉しさで頬を染めた。グインはカギをとり出してつぎつぎにあてがってみていた。
「これだ」
唸るように声をたててカギをさしこむ。一枚岩の扉がゆっくりとひらくなり、中からリンダがとび出してきた。
「おお、レムス!」
「リンダ、リンダ!」
一卵性双生児であるこのパロの真珠たちにとって、最も耐えがたいことはすなわちひきはなされていることだったのだ。リンダとレムスはやにわにひしと抱きあい、二度と何ものにもひきはなされまいというかのように、何度も何度も腕に力をこめて接吻しあい、互いを涙にぬれた目で見つめあった。
「――!」
グインはその間に目を光らせて室の中へふみこんだ。
「ヒイー!」
たちまち甲高い悲鳴がおこる。リンダはレムスをおしやって室にとびこみ、グインのふりかざした剣を両手で制止した。
「ちがうの、ちがうのよ、スニは、いい子なの、あたしたち友達なのよ、だめ!」
「友達だと?」
「スニは癩伯爵につかまったのよ。あのセム人たちはスニを助け出しに来たのだわ。スニがぶじだとわかればかれらも、わたしたちの生命まではとろうともしないのにちがいないわ」
「そいつはどうかな」
グインは吠えるように云った。
「子供たち、うしろにさがっていろ。奴らがのぼって来る」
「スニが話してくれるわ!」
「いいから隠れていろ、じゃじゃ馬姫どの」
グインは吠えた。
「くそ――セムどもは火をつけながら上ってくる。奴らはサルの親戚だからな、城壁をつたってでもおりられるだろうが、俺たちは、ここでむし焼きになるかそれとも――来た!」
セムの一群がついに、塔のてっぺんまでかけのぼってきたのだ。
スニは前へ出て仲間を迎えようとした。が――先頭の数人を見たとたんに、キーッという金切声をたててグインたちのうしろへとびこんでしまった。
「ど――どうしたのよ、スニ!」
スニは早口でまくしたてる。
「どうしたというの! 仲間が助けにきたのよ――話をして、わたしたちは味方だといって!」
「ムダだ。このセム人の娘は、あいつらは自分たちラク族の仲間ではない、敵対するカロイ族のやつらだと云っている」
「グイン!」
リンダは一瞬おどろきに、そのことばの重大ささえも感じとれず口に手をあてた。
「グイン、あなたセム語をわかるのね!」
「うむ、どうもそのようだな。ところで、これでたぶんわれわれの運もここまでだぞ。その娘がいても役に立たず、下からはセムの大軍とすべてを焼きつくす火、そしてモンゴール軍は全滅――ということは……」
「グイン、危い!」
いきなり射かけられた矢をグインは間一髪で払いとばし、
「中に入れ」
おめいて、石の扉をしめるなりがっちりと中からカギをかってしまった。
「この扉は頑丈だ。しばらくは保つだろう――そうして一時安全になったところでどうなるものでもないが」
扉の外に、数秒の差でどっとおしよせてきた蛮人たちが、鼻さきで逃した獲物に怒って口々に呪誼の声をあげるのをきき流してグインは云った。
「でもさっきまでわたしたち、別々で互いを案じることしかできなかった。同じ死ぬんでもふたり一緒がいい」
リンダは云い、レムスをもういちど抱きしめたが、スニが隅へちぢこまり、両手で肩を抱いてぶるぶるふるえているのをみると、
「まあ、いらっしゃい、可哀そうなスニ、あれがスニの部族だったならスニだけでも助かったのに」
やさしく云って手をさしのべた。スニはリンダにおずおずとすがりつく。
それをじろりと見て、
「俺はここでは死なん」
グインが云った。
「俺は自分が何者で何のためにこんな姿をしておるのかさえ知らんのだ。それを知るまでは、俺はたかがノスフェラスの猿どものためになど殺されはせん」
「でも……」
レムスが叫んだ。
「グイン! どうしよう、扉が破られるよ!」
扉の外からはすさまじい、何か重いものが石にぶち当たる轟音がひびいて、互いのことばさえもききとり難くしはじめていた。
「奴ら、破城槌をもちだしたな」
グインは笑った。
「サルのくせによく知恵のまわることだ」
「グイン!」
両手を握り、上へつきあげるようにして、リンダは決然と云った。
「かれらはノスフェラスの蛮族よ。かれらは捕虜をかれらの神にそなえ、拷問し、食べてしまうんだときいたわ。かれらが扉を破ったら、その剣でわたしとレムスを刺してちょうだい。スニが望むならスニも」
「リンダ……」
レムスが叫んで姉に抱きついてしゃくりあげた。
いよいよ激しくなりまさる破壊の音の中でグインは笑った。
「あの呪われた癩伯爵が云ったとおり、お前は生まれながらの女王の誇りをもっているな、リンダ。だがまだ早い、さいごのさいごまで追いつめられているわけではない。
これでもう百の中さいごのひとつまでも望みが絶えた、というそのときまでは――いや、たとえそうであろうとも、息絶えるその瞬間までは、希望しろ、そして戦え。それが本当の誇りというものだ」
「でも……」
リンダが云いかけた、そのとき、ついに石の厚い扉のまんなかに穴があいた。
石の粉がとびちり、破片が散った。グインは剣をとりなおした。
「グイン、わたしにも剣をちょうだい。わたしも戦うわ」
リンダが云った。
「うしろにさがっていろ。壁までさがれ、背後にまわりこまれんよう、ぴったりと背中を壁につけろ」
というのが、グインの答えだった。グインは三人の子供たちをうしろに庇い、扉からいちばん遠い、つづれ織りの壁掛のかかった壁へと少しづつさがった。
奇声を放ち、石斧をふりかざしながら、破れた扉口から勝ち誇った猿人どもがとびこんできた。
再び戦闘がはじまった。だがこの室は天井が低く、そして暗かった。その分、巨大なグインの体格は不利になった。彼の長い腕につかまれた大剣がふりまわされると、それはセムの首をひとつはねるたびに天井か、壁かにぶつかってしまったのだ。
グインはすさまじい唸り声をあげて少しづつ、少しづつ退がった。
「グイン――もうこれ以上さがれないよ!」
レムスが悲鳴をあげた――その、刹那だった!
ふいに、タペストリの向こうの壁がなくなってしまった!
「ああーっ!」
リンダの絶叫が尾をひいた。リンダ、スニ、レムス、そしてグイン――四人を暗黒の中にのみこんで、おどろくセム族の前で、壁はもと通りにぴたりと閉ざされてしまったのだ。
あとにはただ石壁だけが残った。
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3
石壁の向こうには、はてしないかに見える暗黒だけが続いていた。
豹頭のグイン、パロの王子レムス、その姉<予知者>リンダ、そしてセム人の娘スニ――その三人は、押しよせる蛮族の猛攻を避けて、白い塔の天辺の部屋のいっぽうの壁へとしだいに追いつめられていった筈だった。
塔の下ではるいるいと砦の兵たちの死体がつみかさなり、もはや動くものの姿はなくなっている、運命の日である。
かれらを突然呑みこんだ石壁はうろたえさわぐセム族の前でぴたりと閉ざされてしまい、サルに酷似した蛮人どもが叩いたり蹴ったりしてののしりさわいでも、まったく開く気配すら見せなかった。そして、その壁に吸いこまれるように姿を消した四人はというと、それぞれに予期せぬできごとに悲鳴や、怒声をあげながら、なすすべもなく、深い暗黒の中を落下していった。
それは、さほど深い穴というのでもないようだったが、いかにも奇怪だった。最初のはてしなく落ちてゆくような速度がふいに弱まると、ふわりとした浮揚感に似たものがかれらを包みこみ――そしてかれらはどさりと重なりあって石の床の上におちた。
落ちてゆくあいだに、その体重の最も重いグインがいちばん下になっていたのがかれらに幸いした。これがもし、スニかリンダが下じきになったのだとしたら、とうてい四人全員が無事でいるというわけにはいかなかっただろう。だがグインの鍛えぬいた筋肉は石の床に叩きつけられた衝撃を本能的にうけとめ、少年少女たちはその彼の上へ次々におおいかぶさるようにして落ちた。
墜落のショックがかれらをとらえ、かれらはしばらくのあいだ意識を失ったまま、真闇のたて穴の底でくずおれていた。
だがそれは、長い時間ではなかった。やがて一番下でグインがごそごそと動き出し、フーッと息をつき、そして胸の上にのしかかっている少女のものらしい頭をおしのけたので、みな何とか意識をとりもどした。
「大丈夫か。誰も怪我はないか」
グインがまず云ったのはそれだった。この豹人に特有の、底ごもった少し聞き苦しい声が、暗黒の中にいんいんと反響し、奇態なこだまを呼んだ。
「だ――大丈夫だよ。リンダ……」
「わたしも大丈夫」
レムスとリンダは答え、手さぐりして互いに抱きしめあった。
「ま――まるでめくらになってしまったみたい。なんて暗いのかしら、いったいわたしたちに何が起こったのかしら。わたしたちはたしかあの塔の部屋で……」
「静かにしろ」
というのがグインの答えだった。闇の中でも緑色に燃えてみえる豹の眼を彼はまっすぐにすえて、どこにひそむとも知れぬ敵をさがしながら底ごもった声で云った。
「われわれはあの塔の部屋の壁からこぼれ落ちた。あの壁がかくし扉になっていて、そのうしろに秘密のたて穴があったのに違いない。まあ古い城にはよくあることだ――だが、これでわれわれが当座少なくとも安全になったと云っていいのか、わるいのか――」
「なんにも見えないわ。何かとても不安だわ。ねえ、グイン、ここはよくない場所だわ。何か暗闇の中に耐えがたい瘴気がある。わ――わたしたち、何かひどくいまわしいものの本体に、とりかえしのつかないほど近づいてしまっている、そういう気がしてならないわ」
リンダはふるえ声でいい、暗がりで身をぶるぶるとふるわせた。
「お前は<予知者>リンダだ、王女」
というのがグインの答えだった。
「いつもながらお前は正しい。しかし今度ばかりはお前のその予知がなくとも俺にさえその瘴気がかぎとれるぞ。俺の鼻をさっきから甘ずっぱい腐臭が満たしているが、これは生きながら腐ってゆく人肉の、死臭よりもいとわしい匂いではないのか」
「癩伯爵ヴァーノン」
リンダはささやいた。そして急におどろいたように、
「そう! そうだったんだわ」
手をうちあわせた。
「わたしとスニが塔の部屋でみたいまわしい亡霊、あれは癩伯爵がこの通路をぬけて、とじこめられたいけにえをおそうために訪れてきた姿だったのだ。だから、急に彼は消えてしまったんだわ」
リンダは早口で、包帯を巻いた下からどろどろと肉が白くとけくずれた怪物があらわれ、消えた経過を説明した。それからふいにぞっとして、
「でも、それならこの通路はあの怪物が通るのよ。いまわしい病菌がここにのこっているとしたら――」
「ふむ」
グインは唸った。彼の鼻はむずむずし、彼の逞しいからだは本能的な嫌悪に、いますぐここからとび出したさにおののいた。しかし彼はこらえた。
「だがそれでも話のあわぬところがあるぞ。癩伯爵はいったいどうやってこのたて穴を使って、塔の小部屋までを行き来していたのだ? 壁に、なわばしごでもあるか? それとも石壁に出っぱりが刻んであるか? だが癩人のくずれた手でそれをつかって高い壁を登ってゆけるものかどうか――どうももうひとつ、わからぬな、何もかも」
「ええ――」
リンダは考えた。
「それにまだわからないことが――あのときわたしとスニは、あの怪物にほとんどふれんばかりに近づいていたのよ。だのに、怪物がかき消えたあと、わたしたちは無事だった。肌がただれもせず――リンダは激しく身をふるわせた――生きながら人を腐らせてゆくというあの病におかされもせずに。
でも、ヴァーノン伯爵はたしか云っていたわ、自分の病は、ちょっとでも空気にふれたら、たちまちひろがって、その場で近くにいたものをおかしてしまう奔馬性の宿痾なのだと。――」
「なるほど」
「スタフォロス城には何かがある」
リンダはささやいた。暗闇にひそんでいる何ものかがきくことを恐れるかのように、低い声で、
「この城には謎があるわ。たとえセム族が攻めよせて来なかったとしても、近い将来にスタフォロス城は滅びてゆく運命にあったと思うわ」
「<予知者>リンダよ。隣の牢を早々に破って逃亡していった囚人、自ら危険を察知するというので<魔戦士>と名乗っていた傭兵のイシュトヴァーンもそれと同じことを云っていたぞ――どうした、娘」
グインは笑いながら云ったが、ヴァラキアのイシュトヴァーンの名を口にのぼせたとたん、すりあわせていたリンダのからだに電撃のようなふるえが走るのを感じておどろいた。
「ヴァラキアのイシュトヴァーン、<紅の傭兵>に心当たりがあったのか」
「い――いいえ! 全然。でも……」
リンダは手をのばして、グインの固い腕にそっと手をからめた。豹頭の戦士の名をはじめて口に出して呼びかけてみたときもたしかに、まるでヤーンの糸車の音をきいたとでもいうような戦慄が走ったのをリンダは覚えていた。
しかしそれと、その傭兵の名を耳にしたときのおののきとはいくぶん何かが異っているようだった。これまできいたことさえもないヴァラキアのイシュトヴァーンの名は、神々に愛されてふしぎな感覚をさずけられて生まれたこの少女に奇怪な不安と動揺とをかきたてた。リンダはいっそうつよくグインにしがみついた。そのあたたかいむき出しの、逞しいからだにふれていると、そこから何か力強い波動が流れこんできて、彼女を勇気づけ安心させてくれるのだった。
「ねえ――リンダ、どうしたの。何が見える[#「見える」に傍点]の?」
闇の中でじっと二人の話をきいていたレムスがいくぶん不満げに会話に加わった。レムスはいつも、姉を自慢にもし、愛してもいたけれども、姉がパロの聖双児というだけでなく<予知者>リンダとしての感覚に没入してしまうと、決まって取りのこされたような、見すてられたような不満とさびしさを覚えた。
「わからないわ。きっと気のせいよ。でも――」
リンダはグインと弟の双方にいっそう身をすりよせながら、
「ねえ、わたしたちこんなところにいつまでこうして坐りこんでいるの?」
「出られるものならば――だが」
グインは苦々しげに答えて、自分のさしのべた手さえも自らに見えぬ、墨色の闇をそろそろと探索するために身をおこした。
それまで黙っていたセム族のスニが甲高い声で喋り出した。グインがかれらのことばで喋り返したのでリンダとレムスはひどくおどろいた。
「グイン! あなたセム族のことばをわかるだけでなく話しまでできるのね!」
「ねえグイン――グインはいったい何者なの!」
「静かにしていろ。大切な話をしているんだ」
グインは叱りつけ、それから説明した。
「この娘は、セム族は闇の中でも目が見える、そして俺は味方だしお前たちは大切な人だから、俺たちを救うために自分が偵察に行くと云っている。スニの云うところでは、この闇はそう広くはなく、壁にはもと何かの上昇装置がついていたような刻み目があり、そしてものの五十歩もゆけば行きどまりの壁だそうだ。スニは云っている。この壁にきっとまた隠し戸の仕掛けがあるだろうと」
「でもその向こうに何があるのかわからないのよ。行っちゃだめよ、スニ」
「だがこうしてここにうずくまり、永久にじっとしているわけにいかないのだから仕方がない。それにスニはもう壁を調べに行ってしまったぞ」
グインは云った。
「心配するな。壁の向こうに何があろうと、俺はさいわい穴を落下するあいだも手の長剣をはなさなかった。これさえあれば、何がこようと恐れることはない」
「わたし[#「わたし」に傍点]が考えているのはあの動きまわる死骸のことなのよ」
腹立たしげにリンダは云った。だがそのとき、ふいに少しはなれたところでセム族の娘のするどい叫び声がおこって注意をひいた。
「スニ! どうしたの!」
リンダが叫んでとび出そうとする。それをあわててレムスがひきとめた。
「隠し扉があるらしい、といっている」
グインが通訳し、二人の肩をつかんだ。
「行くぞ」
「でも癩伯爵は――」
レムスが云いかけたとき、
「ヒイーッ!」
スニの悲鳴がきこえた。
そして急に細い光が闇を切りさき、たちまちもとの闇――グインは二人をひきずってそちらへ突進した。
「隠し扉がまわったのだ。スニは向こう側へ出たぞ」
「スニ! スニ!」
リンダはそれが癩伯爵の通路だったかもしれない、という懸念も忘れ、小さな拳でスニをのみこんだ石壁を叩いた。
それがたまたまスニがふれたのと同じ、どんでん返しの作動ボタンにあたったらしい。とたんに石壁はさきと同様にくるりとまわると、かれら三人をその壁の向こう側に吐き出してばたりと閉じた。
三人はちょっと呆然として石床にへたりこんだ。盲目になったかと思わせる闇の中から、にわかに光の中へ出たために、しばらくは目がくらんで何も見えなくなってしまったのだ。
といって、そこが別にとりたてて明るかったというのではない。むしろ、それは薄明ていどの灯りしかなく、少し目がなれてくるとそこが石づくりの天井の低い地下室で、相も変わらぬスタフォロス城の城内であることがわかった。
じめじめとした地下室はどうやら回廊の中にある一室らしい。まわりに人けはなく――セム族どもはもちろんのこと、先にドアから吐き出されたはずのスニの姿さえもない。ただ石壁からポタポタと水がしたたっている。
「これは――」
見まわしながらグインが云った。
「どうやら、俺がさきに連れてこられた、黒い塔の地下のようだぞ」
長剣を手にしてぬかりなく一歩づつ忍び出て、外のようすをたしかめ、双児を手招いて云う。
「たしかにそうだ。俺はこの回廊をぬけて癩伯爵の拷問室へつれてゆかれた」
「黒い塔と白い塔は地下の秘密の通路でつながっているのね」
リンダが云った。
「そしてきっと癩伯爵か、その部下が、白い塔にとじこめておいた生贄をこっそり訪れるのよ」
「そんなことだろう」
グインは答えながらもしきりに左右を偵察していたが、回廊に林立する柱の陰にも、別にひそむものの姿や気配はないと見てとると、双児を両わきにひきつけながら踏み出した。
「スニはどうしたのかしら」
「わからん。逃げたのかもしれん」
「そんな――そんな娘じゃないわ」
リンダは両側を見まわした。ずっと規則正しく並んでいる石柱、すりへった石の壁、暗い照明、どこにも人影はなく、むろんのこと城の他の部分をおおいつくしてしまったセム族の侵略さえもここにいるかぎりはとても現実とは思われない。
重苦しいまでの沈黙と孤独だけが地下の回廊を支配しており、そこにいれば、地上の騒擾はすべて夢ではなかったのか、という思いの中に誘い込まれてしまう。ただかすかな、すでに嗅ぎおぼえた不快な異臭だけがどこからともなく鼻にとどいて、一抹の不安をかきたてる。
「スニ――スニ!」
リンダが呼ぶと声が石の建物に反響した。
「よせ。何が巣くっているか知れたものではないぞ」
グインにとめられてリンダは唇をかんだ。
「俺はここをたしかに歩いた――この右へ、上り坂になった道をのぼってゆくと、そこは城主の拷問室になっており、多勢の奴隷がつながれていたはずだ」
グインが云った。
「何なら奴隷たちを解放し、かれらをひきつれてセムどもを切りぬけ、おちのびよう」
「でも、スニ……」
「スニはセムの娘だ。セム族の切りぬけかたまで、俺たちが考えてやる必要はないさ」
グインは子供たちをうしろに庇うようにして、灰色猿と戦わされたとき黒騎士たちにおしつつまれて通った、見覚えのある大広間の入口の横に、ぴたりとはりついた。
「ここにいろ」
声を低めて云い、長剣をかまえて音もなく拷問具の並ぶ室へ踏み込む。
が――
「これはまた」
グインの急に大きくなった声をきいて、リンダとレムスはつづいて室へ入った。
「誰もおらぬ。奴隷どもも、癩伯爵も」
「セムたちにやられたのじゃない?」
「いや――」
グインはしきりに見まわしながら云った。
「死体もない、血のあともない。ただ奴隷どもがつながれていた鎖だけだ」
それは妙に心を寒くするうつろな光景だった。
広い、しかし薄暗い室の中には、あらゆる拷問具が、それを収集した主の狂ったゆがんだ心そのもののように暗鬱な行列を作っている。それに鎖でつながれ、のろのろと、すべての希望を失って死人のような目をした奴隷たちが拷問機械を動かしていたときよりも、からくりがみな止り、石の台と鉄の仕掛けのかたわらにただ空の輪をつけた鉄鎖がおちているいまの方が、ずっとそれらは凄惨なおぞましい感じを与えるのだ。
「――何が起こったのだ」
グインが沈んだ声で云った。
「何もかも解せぬ。奴隷たちに何が起こり、そして何がこんなにもきれいさっぱりと黒い塔から人の気配を消してしまったのだ……」
「グイン――こわいよ」
レムスがグインの腕にしがみついた。
「わ――わたしも……」
リンダも認めた。セム族の攻撃にも、よしんば癩伯爵そのひとのおぞましい脅威にでも、形ある敵であるかぎりは何とか立ちむかうことができる。しかし、こうまで徹底した無人と沈黙、ひそとも空気さえも動きはしない、よどんで重苦しい陰鬱な恐怖をあいてどって戦うことは――
「グイン、ここにいるのイヤよ!」
リンダの声が激しくふるえていたとしても無理はなかった。
「ここはよくないわ。さっきの闇とセム族のもたらす死のほうがまだいい。グイン、ひきかえしましょう」
「いや」
グインは首をふった。豹の目が光った。
「引き返して死に直面するなら、このまま進んで未知の呪わしい脅威に立ち向かった方が、のぞみがあるというものだ。心配するな、もしお前たちが癩伯爵のために生きながら腐りはててゆく業病にとりつかれてしまったなら、その場で俺がお前たちを刺し殺してやろう」
「約束してね。誓ってくれる?」
「俺のこの豹頭にかけて」
グインは長剣を持ち直した。
「この広間をぬけると、向こうに俺が灰色猿と戦わされた室があり――その奥に、再び暗い入口があるのを俺は見届けておいた。たぶん、俺のカンに間違いがなければあの入口の向こうが、黒い塔の中をのぼってゆく階段か、少なくともどこかへぬける通路にはなっているだろう」
かれらはそこでよりそいあい、壁にたまってくる水のしずくがポタリとおちてたてる陰気な音に神経をさかなでされてはとびあがりながら、生あるものの気配さえもない石の室をとおりぬけていった。
「見ろ」
次の、がらんとした室へ入るとグインは云った。
「そちらの低くなっているところで俺はガブールの灰色猿《グレイ・エイプ》を屠った。奥に鉄格子のはまった檻が見えるだろう。
だが――どこにも、捕われていた大猿の悪臭だけがあって猿の死骸は見えぬ」
「きっと片付けたんだよ」
レムス。が推理した。
「あるいはもっとかんたんな始末の方法があったのかもしれんな」
グインが陰気な笑い声をたてる。リンダとレムスは両側からしっかりとグインに身をすりよせ、それはさながら巨大な岩にからみつく二輪の白い岩ズイセンのようだった。
室の中に、三人の足音だけが反響した。かれらは何者にも――生ある敵にも、死んだ敵にもさまたげられることなく、その室を通りぬけ、奥の出入口まできた。
「このさきが本当の試練だぞ」
低い声でグインが云い、双児たちを彼のうしろに入らせた。
そのアーチ型の入口の向こうは、グインの予想したとおりに、細い階段になり、まがりくねって続いているようだった。してみるとかれらのとじこめられていた白い塔と、この黒い塔とは、ほぼ対の設計がされているのだ。
だがグインはその入口をふみだす前にごくわずかためらった。果断な豹の騎士にはふさわしくない、何か異様なおののきが彼をひきとめたのだ。その入口の向こうには、再び、ねっとりとした闇がつづいており、いかにもそれはその闇のひそめているもの、そこに棲むものについて、警告を発しているかのようだった。「何か感じるか、リンダ」
進むことをためらう云いわけのようにグインは闇とその中に没している石段、せばまった両側の壁のむこうを指さしてささやいた。リンダはレムスと抱きしめあったまま、闇にきかれることをはばかるようにささやき返した。
「最も悪いことはそこにあります、グイン。そしてわたしたちの生きのびる道がその向こうに見える」
「ではわれわれはどうであろうと、この塔に巣くう化物に立ち向かわねばならんというわけだ」
グインは云うともう恐れることなく階段ののぼっている闇へと一歩をふみだした。彼の黄色っぽい眼は奇怪な炎をひそめて燃えあがりはじめていた。それは、レムスの頭にふとうかんだ考えだったが、それはもうグインが彼の内なる人間を眠らせ、かわって一頭の豹にその魂をあけわたしたあかしのように見えた。
「ついて来い、俺からはなれるな、双児」
グインは云い、慎重に、しかしためらいなくせまい石段を上りはじめた。たちまちなまぬるい、妙に生命あるもののようによりそってくる闇が彼を包んだ。双児が続いた。
三人は階段を上り、曲がり、また上った。リンダは唇をかみしめて叫び声をあげまいとし、励ますように双児の弟の手がつよく腕をつかむのを感じた。というのも、霊能力に秀でたリンダにとって、この闇のなまなましい手ざわり、しだいに鼻をぬりこめてくるかびくさいような臭気、そしてあたかもかれらをじっと塔ぜんたいが見守っているかのような気配なき気配、などは、それが魔神ドールの結界であることを示すものにほかならず、決して馴れることのできぬ不安をかきたてたからだ。
果てしないかのように思われる階段をかれらはまた曲がり、上った。
そのとき、それはきこえてきたのだ。
かすかな、布で縛られた口からかろうじて洩れてくるような泣き声。
若い娘の声のようだが、妙に人間らしくないところのある甲高い声。
「スニの声よ!」
リンダは叫んだ。
グインは走り出した。彼の発達した聴覚は、あやまたずその声のきこえる方角をききわけていた。もう一階上――そして右だ。
さいごの数段は大股にとびあがった。そこには、いくつかの室へ通じているらしい、暗い通路があった。異臭が耐えがたいまでにたかまった。
グインは剣をかまえて走り、いきなり最初の扉を蹴破った。そして息をつめた。白い塔と同じつくりの石壁の室の中にあったものは、暗がりにさえしらじらと白い、人骨の山!
「キャーッ!」
双児が悲鳴をあげた。
「ここじゃない!」
叫ぶなりグインは次の扉へ走り、そしてまたまた次の扉へ――
そして、はっとたじろいであとずさりした。
次の扉を蹴破ろうとした足は宙で迷った。
扉はおのずから開き、ぽっかりと、宇宙空間さながらの闇をのぞかせ――
その中で、縛ってつるされたスニが泣きわめいている。だがそれより――
三人は我知らずさがった。
四角く石壁にふちどられた、異様な臭気にみちた闇の中から一体の鎧武者がゆるゆると立ちあらわれた。
面頬をおろし、黒い仮面で鼻と口をもおおい、古い金具をがちゃつかせ――夜ごとの悪夢からさまよい出てきた、太古の亡霊さながらの姿で。
そのぎくしゃくとしたゆるやかな動作には云いしれぬ不自然なところがあった。そしてすさまじい臭気――恐怖と呪詛にみちた、巨大で滑稽な武者人形。
リンダが悲鳴をあげた。その悲鳴はよわよわしく咽喉に立ち消えた。
「癩――伯――爵!」
何かその、永劫の闇を背景にしてゆらゆらと立っている鎧武者の姿の中には、すべての摂理を冒濱し、あらゆる生命の輝きを絶望と汚臓にぬりこめるようなおぞましい恐怖が漂っていた。武者はゆっくりと顔をのけぞらせた――笑ったのだ。
そして同じようにゆっくりと、スタフォロス城の城主、モンゴールの癩伯爵、ヴァーノン将軍は口をひらいた。
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「豹人よ、豹頭の男よ」
癩伯爵の声は、枯木の梢を吹きわたる冬の風に似て、カサカサとうつろだった。
「よくぞセムの重威をくぐりぬけてここまで来たものだ。パロの双児までも無事にひきつれて、な。それについてわしはお前に礼を云わなくてはならん」
グインは答えなかった。彼は双児をうしろに庇い、目をらんらんと光らせ、巨大な口をいくぶん開いてそこから白い獰猛な牙をのぞかせながら、長剣をつかんで癩伯爵をにらみすえていた。
「わしは黒騎士どもに命令してお前たちを黒い塔へ連れてくるようにさせたが、時すでに遅く、汚らわしい猿人どもが本丸を占領し、白い塔にまで入りこんでしまった。わしは恐れていたのだ。お前たち、貴重な、そのからだと同じ重さの純金を支払っても惜しくない戦士のお前と、そしてパロの秘密を握るパロの双つの真珠が、下らぬ前人類どもの手にかかって失われてしまうのではないか、とな」
「スニを放しなさい。外にはセムどもが満ちている。スニをときはなってセムと和平を請うのよ!」
リンダが叫んだ。目の前の鎧武者がいいようもなくおそろしかったが、室の中で奇妙な機械に縛って吊され、彼らの姿をみて泣くのをやめてもがいているスニを見ると、彼女の小さな胸は瞋恚に恐怖さえ忘れた。
「パロの小女王よ、この機具が何のためのものかわかるかな」
ヴァーノン伯爵はカサカサした声で嘲った。
「これは、わしの宿痾である癩にきく唯一の薬、すなわちあたたかく新鮮な人血を、さいごの一滴まで生きた犠牲者から絞りとるためのものだ」
「吸血鬼!」
リンダは大声で罵った。
「そうやってセムの罪もない蛮人たちを何人もお前は――! 今日スタフォロス城がセムの怒りの火に焼かれるのはヤヌスの認めたまう成りゆきだわ」
「新鮮な甘い血潮だけがわしの日々の糧なのだ」
王女の怒りを無視して癩伯爵は続けた。
「そして血を絞ったあとのいけにえの生肉をそいで患部にあてる。これがわしの病の進行を辛うじてくいとめてくれているのだ。
このような砦がほろびるなら、ほろびるがいい。それがヤーンの定めた模様ならばな。ヤーンにもし一抹の慈悲あらば、このわしをこんなふうな生き物として生かしてはおかなかったはずだ。このようなさだめをさだめたヤーンにも、それをよしとしたヤヌス神にも、呪いこそあれ信仰などひとかけらも持たぬわしには、スタフォロス城がどうなろうとかかわりのないことだ。むしろわしはわしの存在そのものをひとつの呪いとし、祖国モンゴールにその呪いをとき放ち、モンゴールと中原一帯をしろしめすヤヌス、その機織りたる老いたヤーンの面にわしのその呪詛をふきかけ、その摂理に泥をぬりたくり――」
「ヴァーノン伯よ」
癩伯爵の昂然たる、毒々しい長広舌をふいにさえぎったのは、それまで一言も口をきかず、異様な黄色い光をはなつ目でスタフォロス城の城主を見すえていた豹人グインだった。
「たいそう立派な、ドールの喜びそうな呪詛のことばだな。だがお前はひとつだけ忘れているぞ」
「豹頭のけだもの如きが何を云うか」
癩伯爵はぎくしゃくと手をあげて云った。
「わしがこの鎧をひらけばお前もパロの双児もその場でわしと同じ癩人に化すのだぞ。それを知り、心してわしに物を云うがいい」
「やってみたらどうだ」
グインは云い、不敵にずいと一歩出た。
「グイン! 近寄っちゃだめよ!」
リンダが悲鳴をあげる。
かまわずに二歩、三歩、と彼は進み出た。
「癩をとき放つぞ! そばへ寄るな、いまわしい半人半獣め! わしの手はすぐにでもこの鎧をひらき、城じゅうにセムの火など子供のたわむれに思えるような破局と裁きをもたらすことができるのだぞ!」
癩伯爵がわめいた。その手がのろのろと胸もとへ上がってゆく。子供たちはグインを止めようと悲鳴をあげ、グインはかまわずに長剣をふりあげて大股に迫った。
「きさま、きさま、業病がこわくはないのか、豹め!」
「俺も業病は恐しい」
グインは云った。
「だがお前はひとつ忘れていると云っただろう。それはこれだ――お前はヴァーノン……モンゴールの癩伯爵ではないとなぜはっきり云わぬ!」
いきなり、グインのふりかぶった長剣がふりおろされて鎧かぶとで包まれた癩伯爵のからだを頭の上から足まで真二つにした!
リンダとレムスの口から恐しい悲鳴があがった。だがそれさえも、突然ほとばしった、すさまじい断末魔の絶叫に、かき消されてしまった。
つづいて起こった悲鳴は再びリンダとレムスのそれだった。双子は立ちすくみ、信じられぬ目で、グインの切りさげた鎧のなかみを見つめていた。
どろどろととけくずれ、もはや人の形をすらとどめぬ廃人が倒れこんできて、死と業病をまきちらすかと思いのほか――
「グイン! な――何もない[#「何もない」に傍点]!」
「これがスタフォロス城に巣くっていた<癩伯爵>の正体だ」
グインがわめいた。彼はまっ二つになった鎧の残骸をとびこえ、おぞましい絞血の機械からセムの少女をときはなってやっていた。
「こいつはただの悪霊だ。癩伯爵なんかでありはしない」
リンダとレムスは手をとりあい、ふるえながら見つめた。床の上には、奇妙ないやらしいもの[#「もの」に傍点]がわだかまっていた。
生命ある黒い霧――と云おうか。闇が同族である闇からかりそめのいとわしい生命を得て、のたうつ不定型なアメーバと化したかのような、と云おうか。
鎧の内側に、何もなかった、というのは、ある意味では本当ではなかった。そこにのたうち、うごめいている闇には、何やら明瞭な意志があり、生命があり――どうやってかヴァーノン伯爵になりすますだけの知力さえもあったのだから。生命ある、いまわしい虚無、動き出した虚空! リンダは吐きけを感じた。
少女の白い指があわただしくヤヌスの印を切り、呪いよけのまじないをする――が、途中でその手が凍りついた。
「グイン!」[#「グイン」フォント太字]
リンダは絶叫した。
「イヤ、イヤ、イヤ! こっちへ来る!」
グインがふりかえる。
彼の目にうつったのは、真二つに切りさげたはずのその動く暗黒が、ぶるぶるとふるえながらのろくさとよりあつまり、何とか人の形とおぼしいものをととのえてうごめきだす、吐気のするような光景だった。
その暗黒のゼリーをすかして、居すくんだパロの双児をぼんやりと見ることさえできた。グインはようやくときはなった、スニの毛ぶかい腕をつかみ、そちらへ突進し、厭らしい闇の生物を再び、三たび切りさいた。
「だめよグイン!」
リンダがまた悲鳴をあげた。怪物はぶるぶるとふるえ、グインの剣に切りさかれた刹那だけ散るが、またたちまちもやもやとより集まり、形をととのえ、そのたびに人間ばなれした姿へ変じてゆきながらもその地獄の意志だけは疑いようもなくかれら――生きて、あたたかな血のかよう人間たちへ迫ってこようとした。
「いかん」
グインが吠えた。
「こいつは死霊だ――ルードの森の食屍鬼《グール》と同じ種類のやつだ! あの人骨を、生きながらくっちまったのはこやつだぞ! 逃げろ、早く!」
云わせもはてずリンダ、レムス、それにスニ、は通路をかけもどり、階段にむかって逃げた。
グインはしんがりをつとめて、剣をふるい、怪物を何度となく切りつけながら後退した。それは怪物をおしとどめる役にしか立たず、決してそいつの息の根をとめる一撃にはならなかったけれども、少なくとも時間かせぎにはなった。そうやって集合しようとする生ける闇を分断しながらグインは怒鳴った。
「上へ行くな。追いつめられるぞ。下の通路をぬけて外へ出るのだ」
「グイン!」
すでに廊下から、階段へさしかかっていたレムスの悲鳴がきこえた。
「だ、だめだよ、グイン! セム族が塔を!」
「セム族が下の扉を破るわ。ときの声がきこえるわ!」
「下からはセム族、うしろからは死霊か!」
グインは怒鳴った。
「親切なヤーンめ俺たちにこの世の窮地のすべてを味あわせてくれようというのか。よしわかった、上へ走れ!」
「ええグイン!」
だがリンダたちは云われたとおり階段をかけ上ってゆこうとはせず、上り口でグインを案じて待っていた。下からは扉に打ちあたる破城樋の音がきこえ、早くも、
「イーイーイー!」
「アイー!」
「アイイー!」
セム族の甲高い勝ちどきに混ってわずかに生きのこっているらしい砦兵の、
「君を救え! 城主を守れ!」
という叫び、絶望的な命令と剣の打ちあうひびきがきこえてきた。
「えい、奴らは守ろうとしている当のあいてが人食いの死霊だと知らんのか」
グインはののしったが、いよいよ扉が打ち破られた、とみて、剣でいたずらに死霊を防ごうとするのをやめて子供たちをせきたてて階段をかけのぼった。
「死霊めはそう早くは動けん」
息を切らしてグインは叫んだ。
「もしセムどもの方が早ければ――」
「セムが怪物を見つけたわ!」
階段の下で突然おおさわぎが起こっていた。死霊がグインたちよりも手っとり早くありつける生き餌どもを見つけたのである。
それは狼の群れの中に蛇を放ったにも似ていた。たちまちセムの絶叫と戦いの物音がわきおこった。死霊は餌を選ばなかった。
「この隙だ。とにかく走れ」
グインは云って急がせた。だがもう四階ばかりもかけのぼると、そこは白い塔と同じくゆきどまりで、塔の小部屋の重い戸がかれらをはばんだ。
「くそ、別の塔で同じはめになったばかりか」
グインは怒った。息を切らしながらレムスがきいた。
「あ――あの化物は何だろう。あれがヴァーノン伯爵を僭称していたのなら、真の癩伯爵はどうなってしまったんだろう」
「俺の想像にまちがいがなければ、さいしょに食われたのがほんものの伯爵なのさ」
グインは答えた。
「たぶん伯は人肉と人血に身をひたすのが宿痾によいときき、辺境にやられたのをよいことに治療をこころみて、それ、ルードの森のグールにとりつかれた人間を死人とは知らずにつれ帰ってしまったのだ。グールにそいつを食ってのりうつり、あとは次々に人間をつれて来させてはむきぼり[#底本「むきぼり」ママ頁268]食っていた。たぶん、伯を食ったときに伯の知識なども一緒に身につけたので、城主になりすませばすべては思いのままと知ったのは小面にくいことさ、たかがルードの森の悪霊ふぜいにしてはどうして知恵のまわることだ」
「ではほんとのヴァーノン伯爵は……」
「とうの昔に自骨になっているさ」
グインが云いおわらぬうちだった。
「ああっ!」
リンダが絶叫した。その指がさす方向をかれらは見――そして凍りついた。
暗い石廊のゆきどまりに、何の前ぶれもなく亡霊が出現していた。
それは亡霊以外のものではなかった。その輪郭はおぼろになかば壁とかさなりあい、そこには生ある闇の死霊ほどの実在感さえも感じられなかった。
にもかかわらず奇妙なくらいにそれはありありとした姿をしていた。それは背のたかい一人の、どことなく貴族的な男で、といってもその全身は乱暴にまきつけた包帯と黒い長いフードつきマントでおおいかくされてほとんど見えない。
その、包帯のすきまからのぞく顔やからだの皮膚は、むざんにも白くただれ、生きながら腐肉と化したそのどろりとした白がゆ[#「白がゆ」に傍点]、まじりもののあるかゆ状の肉のあいだから、真白な骨がいたましくのぞいている。
だがその凄惨な腐れはてた外見よりも、もっともっと恐怖をさそい、あわれみをかきたてるのは、包帯でおおわれ、ほとんど髪もぬけおちているようなその頭で、包帯のさけめからのぞいて光っているどろりとした目だった。
それは白くにごり、なかば視力をも失っていることは明白だったけれども、それでもそれは人間の目――知性と意識とを辛うじて保っている目だった。
リンダは胸を抱いてふるえながら、そのいまわしい呪われたすがたが、白い塔の小部屋で突然あらわれ、突然消えた、あの亡霊にほかならぬことを認めた。
「ヴァーノン伯爵……」
かすれ声でリンダは叫んだ。
「そうだ――真のヴァーノン伯爵はとっくに食い殺され、といって呪われた死に方ゆえに黄泉へもたどりつけず、生前の姿のままで城内をさまよって、いま城主を僭称しているのがルードの森の死霊であると何とかして知らせようとしていたのにちがいない」
その正視にたえない姿から目をそらすようにしてグインは呟いた。
「かわいそうなヴァーノン伯爵」
リンダが涙声で云った。
「何という恐しい運命でしょう――身はルードの食屍鬼にくわれ、生きているときも、死んでからも、このような呪われた姿でさまよわなければならないなんて」
「だが少なくともこれで、この男はもう、業病の呪いを祖国にときはなつことからはまぬかれたのだ」
グインは左手を亡霊の方にさしのべて、奇妙などこかまじないめいたしぐさで指さしながら云った。
「癩伯爵よ、もはやスタフォロス城は蛮族セムの席捲するところとなり、遠からず炎の中に果てる。ルードの森の死霊もまた、こうなってはおぬしを詐称して砦の兵たちをえじきにすることもできまいし炎がいずれ死霊をも焼ききよめてしまうだろう。火はすべてのきよめだ。おぬしの宿痾も、化物の所業も、スタフォロス城の滅びの劫火がきよめてくれる。
それゆえ、安らかにドールのしろしめす黄泉へもどるがいい、亡霊!」
グインの声は朗々とひびいた。
亡霊はのろのろとその手をあげた。何のしぐさをしようとしたのか、そのくずれはて形をとどめない外見からはおしはかることもできなかったが、しかしリンダは、そのにごった、しかし人間の誇りをかすかにとどめた癩人の目の中に、安らぎ、満ちたりたほのかなきらめきを見たように思った。
そしてリンダは思った。リンダと、スニとの前にあらわれ、彼女たちに手をさしのべ、のしかかってきたこの亡霊――その目にうかんでいた奇怪な哀願と欲求のいろは、まごうかたなく、救いを求め、そして自らが彼の城にもたらしてしまった恐るべき災厄について、何とかして伝えようとする、苦悩の表情だったのだ、と。リンダの鼻の奥がつうんと熱くなった。
「ヤーンはいったいどんな罪業ゆえに彼がこれほどの罰に価すると思ったのだろう」
リンダは頭をふり、挑戦的に云った。
「わたしにはそんな罪業は、思いつくことができないわ」
「お前の魂はまだ眠っているからだ、王女。俺は考えつくことができるな」
グインがからかうように云いかけたが、すぐにきっとなって、
「いや、待て――来る、上ってくるぞ。セムどもだ!」
大声をあげた。
下では、かわらぬ戦闘の音がしだいに近づきつつあった――セムたちが、何人死霊にくい殺されたのであれ、それはセムたちを決しておしとどめはしなかったし、そしてたぶん死霊もまた、生き餌をむさぼりくってその脅威を増しこそすれ、セムの毒矢も石斧も身に致命傷とはならなかったのにちがいない。かりそめの闇の生をしかもたぬものに、どうして矢や剣がいたでをおわせることができるだろうか。
グインは剣をとり直した。その手も、剣も、連続する戦いのために血がこびりつき、黒くかわいてその上にまた血が塗られていた。このまま戦っていても、いつかはセムの矢か、斧に力をそがれ、疲れに足をとられて、この行きどまりの塔の頂上で死んでゆくばかりだろう。逃れる道は下にしかない。たとえそこにセムの大軍と、死霊とそして――パチパチはぜる音と煙の匂いとが気づかせてくれたのだが――火とが待ちうけているとしてもだ。
グインはぐわッと吠えて剣をとり直し、疲れた腕を何回か振ってみた。
そのとき、――
リンダが彼の腕をつかんで注意を促した。
「見て!」
グインはふりむき、そして見た。
亡霊のすがたが消えてゆこうとしている。
そうしながら、亡霊は、ゆっくりと、たいぎそうなしぐさで天井をさし示しているのだ。
何度も何度も、亡霊は天井のある一点を指さしてみせた。その目が奇怪な輝きをうかべ――そして、壁にとけこむようにして癩の貴族ヴァーノン伯爵のさいごのすがたはすっかり消えてしまった。
「天井よ。何かあるのよ!」
「そいつが抜け道だと有難いが」
グインは怒鳴り、やにわに天井の、亡霊が示したところへむけて手をのばして押してみた。
しばらくは何もそこにはないように反応がなかった。が、グインの剣がどこか仕掛けにふれると、そこにはただちにばかりと穴があき、さわやかな夕風と共に青紫の暮れなずむ空がのぞいたのである。
双児――それにスニまでが歓声をあげた。
「のぼれ」
グインは云って、リンダを抱きかかえておしあげ、リンダが敏捷に穴をぬけ出るとレムスを、つづいてスニを穴にもぐりこませた。
そのとき、にわかに剣戟とときの声が近づいたかと思うと、セム族のさいしょの一隊がついにこの天辺の階へ、死霊にもさまたげられずにたどりついたのだ。
グインは吠えて剣をふるい、左右にセムどもを切りふせた。
「グイン! 早く!」
「グイン、大丈夫?」
上から双児の叫び声がする。
「逃げられるようなら先に逃げていろ」
グインは怒鳴り返してなおしばらくせまい廊下で一身にセムどもをうけとめて戦った。
が、きりがない、と見て――それと下の悲鳴から、死霊もどうやら少しづつ、セムどもを屠りながら上へ近づいてきている、と感じとって、手近かな蛮族を血煙をあげて切り倒すなり、もう追いすがる猿人どもにはかまわずにぬけ穴へととびあがる。
たくましい両腕で穴のへりにぶらさがる彼へ殺到したサルどもを、蹴りはなしておいて、巨躯に似あわぬ敏捷さで穴をくぐりぬけた。
並はずれた肩幅が穴につかえた。何とか身をはすにしてやっとぬけ出すなり、彼はふっと深い息を吐いた。
そこは石づくりの、黒い塔の屋上だった。
そろそろ死闘に明けた一日は死闘のうちに暮れようとしている。見おろす目の下に、スタフォロス城は死体で埋めつくされ、いたるところから破局の黒煙が吹き出している。
そこからは、眼下に光る暗くふかいケス河が見えた。ルードの森、タロスの森、神秘なスミレ色にけむる山なみも、河の向うにひろがる荒れはてたノスフェラスの野もみえた。
そしていま沈みかけている日輪は、巨大な暗いオレンジ色の球体となって城にさいごの光を投げかけ、グインはそれを背にして剣を手に立っていた。
リンダとレムス、それにスニ――その三人は息をつめて、そんな彼を見守った。巨大なコロナにふちどられた赤い円盤を背景に、血ぬられた剣を手にして立つ、雄大な体躯と豹の怪奇な頭とをもつ一人の戦士。
――それは、半獣神シレノスとも、軍神ルアーのうつし身とも、どのようにも思える奇怪な、しかしこの上なく美しい彫像のようだった。発達した筋肉が日をうけてぬめぬめと光り、彼はあたかも全身に血の洗礼をうけたかのように見えた。
彼は片足を塔のいただきの、旗台のヘリにかけ、剣をもっていない方の手をその旗をかけた棒にのばしてすっくりと立っていた。
「グイン!」
リンダが警告の叫びをあげる。間髪を入れず豹頭の戦士ははねおきて、ぬけ穴からのぼってこようとした蛮族の首を、はるか目の下の中庭まで切りとばした。つづいて出たのを蹴りおとしたが、
「これではきりがない」
唸るように云って、
「おい、子供たち、それにスニ――こうしていても死を待つばかりだ。俺は行くが、ついて来るか」
「ど――どこへ? この追いつめられた塔からいったいどこへ行けるというの?」
「あそこへだ」
グインは指さした。
ケス河の深くたゆたう神秘な流れ。
子供たちは息をのんだ。
「ここからあそこへとびこめば死ぬかもしれん。それにまもなく日がくれる。辺境の暗黒の河で夜を迎えることになる、もしかしたら意識を失って。だがここにいれば確実に死だ」
「わかった」
答えたのはリンダだった。
「行くわ。つれてって」
「ぼ――ぼくも」
「よし」
グインは短く云い、ベルトをとると三人の子供たちを彼の腰に背負うようにくくりつけた。そのときにはもう、下から上って来ようとするセム族の数は、グインひとりでは抗しきれぬまでになっていた。
「目をつぶり、頭をかばってしっかりと俺にしがみついていろ」
グインは云った。そして彼は巨大な豹頭の鳥のように飛んだ。自由と――
そして運命とに向かって。
[#改ページ]
あとがき
ヒロイック・ファンタジー――このことばはぼくには特別なひびきをもっている。
もしかしたら時にそれは<SF>というひびきよりさえも、大きいのかもしれない。もちろん、ぼくはSFというとてつもなく大きくて魅力にみちた家の中を、はじめて探険する子どもの熱意と驚嘆をもって探索していて、その中のひとつの、うす暗くてかびくさい、妙に秘密めいた匂いのする大きなへやへ入っていったところ、そこに無造作に箱に入れてつみあげられていたのがヒロイック・ファンタジーだったのだ、ということ――すなわち、ヒロイック・ファンタジーといえどもSFの広大な裾野の一部分なのであるということを、忘れていいと強弁するつもりもなければ軽視するつもりもないのだ、ということだけは云っておかなくてはなるまいが。
それにしても、<ヒロイック・ファンタジー>という――このことばのひびきそのものが、ぼくにとっては、はじめから、あるひとつの魔法、甘美な呪文、そのものだった。
ぼくにとって信仰の告白というよりもむしろ、恋愛感情にひとしいそんな思いを、あまりにもあからさまにぶちまけてしまうのは、少々うしろめたく、気のさすことだけれども、しかしたいていの告白というものがそうであるように、ぼくもやはり、そもそもの「なれそめ」の話をせずにすます気にはとうていなれない。ぼくがはじめてヒロイック・ファンタジーというものに接したのは昭和四十四年のことである。
つまりそれは、一九六九年のSFマガジン、十月臨時増刊号で、それには小松左京さんの「星殺し」、筒井康隆さんの「フル・ネルソン」、平井和正さんの「ウルフガイ」のほんとの原型「悪徳学園」などがのっていたのだが、その巻末に「クラシック冒険幻想譚」と銘うち、次のような三つの作品が掲載されていたのだ。それは、
「黒い河の彼方」(冒険児コナン)ロバート・E・ハワード
「地獄のササイドン」(魔術師ナミラハ)クラーク・アシュトン・スミス
「ドラゴン・ムーン」(冒険王子エラーク)ヘンリー・カットナー
の三つである。
「ヒロイック・ファンタジー」ということばさえもまだどこにも見あたらないこの特集くらいに、ぼくにとって運命的[#「運命的」に傍点]ですらあったものは他には思いあたらない。SFマガジンをずっと読んでいたからこそこの特集にゆきあたることができたのだから、むろん、SFというものはぼくにとって、高校一年のそのとき、すでに大切なものであった。しかし、バロウズの「火星シリーズ」もよみ、「イシュタルの船」「ムーン・プール」などのエイブラム・メリットの作品にすでに夢中になってもいたぼくが、最終的にSFの数限りない可能性のなかでほんとうにこれはという輝かしい驚嘆につきあたるためには、どうしてもそれはハワードであり、C・A・スミスであり、ヘンリー・カットナーでなければならなかったようなのである。
それはいま分析してみたところでどうしようもないかもしれないが、しかししいて考えてみるならば、メリット、バロウズ、H・ライダー・ハガード、といった作家たちの作品が、他の点ではすべて完璧にぼくを熱狂させていながら、ただその一点でだけ、どうしても満たしてくれるにいたらなかったもの――すなわち、ある「魂の本質的な昏《くら》さ」、ある「病的で不幸な熱狂」とでもいったものが、ついに満たされたかたちでそこにあった、ということだったのかもしれない。
(それはバロウズ、ハガードは知らず、メリットには必ずしもまったく欠けていたとはいえない。その証拠に、それから少しして鏡明さんの訳した「蜃気楼の戦士」を読んだときにはぼくは「コナン」と同じほどそれに熱中した)
そしてぼくは|細身の剣《レイピア》、アトランティスの王子エラーク、ウムマオスの王ピットハイム、ピクト人の荒野、ゾガール・サッグ、といったあやしい呪文のかもし出す一種異様な、戦慄をさそう世界にすっかりひたりきってしまった。ぼくが運がよかった、というよりは、当然そうなるべき成行き、というものがこの世のなかには存在していたのだろう。ぼくが「黒い河の彼方」(「暗黒の河を超えて」のこと。このタイトルを愛するあまり、ぼくは自分自身のこの最初のヒロイック・ファンタジーの第四話のタイトルにそのまま借用しようと何度も書きつけたが、結局ひきうつしは気がとがめたので妥協し、「暗黒の河の彼方」とした)で英雄コナンの名を知っていくらもたたぬうちに、まだ当時早稲田大学に在学中だった鏡明さんの訳業がはじまり、ぼくはひきつづいてコナンの世界にひたりこんでゆくことができた。その訳がまだ完結しないうちに、ぼく自身が偶然、その鏡さんの後輩として同じ学校へ入学することになったのもめぐりあわせである。そのときになってもまだ、ぼくにとっては、ヒロイック・ファンタジー、ということばよりは、当のヒロイック・ファンタジーの作品そのもののほうがはるかに魔法と、そして確実に心をいざない去ってくれる麻薬に似た作用をもっているものだった。
もう少し埒もない思い出話をつづけさせてほしい。ぼくは数々の愚行の記憶をしまいこんでいるが、そのひとつに、これまでどこにも白状したことのないものもある。それは、何をかくそう、昭和四十八年にSFマガジンが主催した「ハヤカワSF・三大コンテスト」小説の部、にぼくがひそかに応募し、鎧袖一触で落選していることで、なにせそのときぼくはジャスト二十歳、新井素子くんよりは年はいっていたが、それよりもぼくの出した小説というのがもろ[#「もろ」に傍点]ヒロイック・ファンタジーでおよそ当時の流行とはかけはなれていたのだ。
なにしろニューウェーヴ全盛の時代で、さすがに気がさして、「私は二十年遅く生まれすぎたとくやんでいます」などといわずもがなの弁明をそえて出したことを覚えている。そのときデヴューしたのがほかならぬ「決戦日本シリーズ」のかんべむさしさんと、「仮面舞踏会」の山尾悠子さんだった。一次予選にものこらぬという惨敗にさすがにぼくはふて[#「ふて」に傍点]てSFマガジンの購読を中断し、だからぼくの本棚には七三年十二月号から七六年七月号までのバックナンバーがきれいに欠落している。
再びSFマガジンが本棚に並び出したとき、そのきっかけは、「早川書房の今岡」と名のるわかい編集者が、書評をやりませんか、と突然電話をくれたことだった。現・SFマガジン編集長の今岡清さんである。ぼくに「SFを書きましょう」と妙なことをけしかけ、書いたものをのせてくれて「これはSFだ」と保証し、あまつさえ「大河ヒロイック・ファンタジー」などという阿呆らしいドン・キホーテ的冒険行のお膳立てをしてしまったのも彼である。もっともより正直にいうと、豹頭の戦士グイン、というシリーズものの主人公が生まれるきっかけになったのは、「クラッシャージョウ」シリーズの高千穂遙氏がヒロイック・ファンタジー「ハリィデール(美獣)シリーズ」に着手したのを見てあわてふためいたことだったのだが。
しかしきっかけはどうあれそれでものごとはすべりだしてしまったのである。それはそれでよいことにちがいなく、同時にぼくはコナン・サーガの向こうを張るなどとは云わないが、少なくともコナンに読みふけっていたときのあの魔法、黒海湾の女王ベリ、女戦士ヴァレリア、ベンダーヤの王女《デビ》ヤスミナ、群盗の都市《みやこ》、魔道師スグラ・コータン、などというひびきがかもし出す眩惑的で甘美な薄明を再び少しでもよびさますことはできぬものか、そして「どうしてこの本が終わってしまうのだろう」というあのやるせない無念を、こんどは自分が書き手になることで何とかぬぐい去ることはできぬものか、そう思って、あえてこのとんでもない大海原にそなえもなく小舟を出すことになってしまった。
本来、物語とは「いつまでも終わりなく語りつづける」ことだけを主張してしかるべきものであり、そしてそれこそが近代小説が物語とその読者から無報酬で奪い去ってしまった正当な純朴さの権利である。もし、これを書きつぐことで少しでも、そうしたものを読者――とぼく自身――に還すことができたら、それこそぼくは一介の物語作者として望みうるかぎりの贅沢をゆるされたことになるだろう。そしてそのときこそ、「蜃気楼の戦士」のあの「エヴァ……リー! エヴァ……リー!」という小人たちの叫び声、「アキロニアはコナジョハラを失ったのだ。辺境地帯は押しもどされた。これからはサンダー河が国境だろうさ」というあのコナンのつぶやき、それにぼくの感じてやまなかった、いたたまれぬようなあるやるせなさはつぐないを得ることになるのかもしれない。
ヒロイック・ファンタジー――それは、本質的に<夜>に属する物語である。夜と闇、呪文といかがわしい黒魔術、淫祠邪教と病んだ魂とに。
ヒロイック・ファンタジー――それは必ず、熱にうかされて見る悪夢の様相をその内にいつまでももっていなくてはならない。
ヒロイック・ファンタジー――それは本質的に、成長して子供部屋を立ち去ってゆくことを忘れてしまった、狂った子どものおもちゃ箱であり、母の死をきくまいと自分の頭をうちぬいた明るい青い目(ほんとにそうでなくたってかまやしない)の大男が、その病んだ心の暗がりで見つけた妖女である。
そしてどうやら、そのいかがわしく、悩ましい呪いは、困ったことに、ぼくという新たないけにえをずっと手放すつもりはないようなのだ。
五十四年七月
[#改ページ]
著者略歴 昭和28年生、早稲田大学文学部卒
GUIN SAGA<1>
豹頭の仮面
昭和五十四年九月二十日 印刷
昭和五十四年九月三十日 発行
著 者 栗本薫
発行者 早川清
印刷者 矢部富三
発行所 株式会社早川書房
平成十八年十二月一日 入力 校正 ぴよこ