〔プロローグ〕
突然空が開けた。
赤い夜だった。
息が乱れて心臓まで吐きそうだった。
腕を引かれたまま一気に階段を駆け上がる。
濃い闇に足下も定かでない。
頼りは目の前の、ほんの30分前に会ったばかりの、
僕の腕を取って走り出した、
まだ友達にもなっていない小さな背中だけ。
【惠/???】
「黒い王子様は女の子を連れて去るのだという」
【惠/???】
「とりわけ美しい女の子が選ばれる」
【惠/???】
「全部ネットの噂だ」
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
ネットで読んだんだけど呪いの王子様って本当の話?
もう一回読んでみようと思ったらもう無いね。誰か死ってる人いない?
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
それ吸血鬼の話じゃなかったっけ?
名前:名無しさん[ 投稿日:20XX/04/08
自分で探せage
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
女の子連れてくって聞いたけど
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
kwsk名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
ツレに聞いた話。
田松市の旧市街のどっかに封鎖されたビルがあるらしいんだけど…
同級生がそこにいって帰ってこなかったんだって
心配で見に行ったツレが出たの見たって
危険な場所(霊的にも地形的にも)だって
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
そこしってるwwwww
駅から10分ぐらいのところに住んでんだぜ
霊感ある友達が嫌な雰囲気だとか言ってたんだよな
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
つか、人身売買だろ
名前:名無しさん[ 投稿日:20XX/04/08
ネウヨ黙れ
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
山賊王に俺はなる!
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
誤爆?
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
だいたい連れて行くってどこにだよ
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
北の国
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
↑天才現る
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
↓次でボケて
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
マジ怖い話なんだけど・・・
上級生のヤバイグループが見たって。
真っ黒なライダースーツとメットで、
その時何人か死人が出て、生き残った子は、顔面蒼白で何も語らなかったらしい。
(というか全員震えて言葉を発することすら出来なかった)
その後も決して何も言わなかったんだって。
彼らが何を見たのか、どんなことが起こったのか。
未だに分からない・・・・・
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
>真っ黒なライダースーツとメットで、
王子関係ねーよ
他人を信じるなとしたり顔で言われたことがある。
信じる信じないと嘯いたところで、
それは選択肢のある状況での優雅な楽しみだ。
余暇みたいなものだ。
時と場合と状況が選択の余地を奪うことがある。
よくある。
【るい】
「早く早く! 何やってんの、急がないと死んじゃう!」
追いたてられていた。
泣きそうだ。
何でこんな目にあうのか。
気分は狩りだ。
それも狩られる獲物だ。
下への道はとっくになくて。
だから逃げる。
薄暗い廃ビルの中を、唯一の活路の上へと急ぐ。
【智】
「ちょ、ちょっと待って、待ってお願い! 痛い痛い痛い、
腕ちぎれちゃうの〜〜〜!!」
【るい】
「気合いで何とかせい!」
【智】
「物事は精神論より現実主義で!」
【るい】
「若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!」
【智】
「少年の大きな夢とは関係ないよ、この状況!!」
【るい】
「少女だっつーの!」
【智】
「あーうー」
涙声になった。
彼女は聞いてくれない。
肘からちぎれちゃいそうな力で、僕の腕を引いて、上へ上へ。
階段を蹴る。二段とばしが三段とばしに加速する。
何度も足がもつれそうになった。命にかかわる。
ラッセル車みたいに突っ走る彼女の腕は鋼鉄の綱だ。
転んでもきっとそのまま引きずられていく。
【智】
「きゃあーーーっ!!!」
【るい】
「根性っ!!!」
【智】
「部活は文化系がいいのぉ!」
【るい】
「薄暗い部屋の隅っこでちまちま小さくて丸っこい絵描いて
悦に入って801いなんてこの変態!」
【智】
「ものすごく偏見だあ!」
親戚にゴリラでもいそうな文化偏見主義者な彼女が、
ドアを蹴破った。
空が開けた。
狭く暗い廊下から転がるように飛び出たそこは――。
屋上。
ビルの頂。
とうに夕刻を過ぎた空は夜に蒼く、そのくせ、
下界から昇る緋の色を残骸のようにこびりつかせている。
赤い夜だ。
【るい】
「どうしよ、こっからどうする、どこいく?」
【智】
「そんなこと言われても」
来る前に考えておけと突っ込みたい。
逃げたはずが追い詰められた。
いよいよ泣きたい。
彼女は広くもなく寂れた屋上をうろつく。
警戒中の野良犬みたい。
あれだけ走って息一つきれていなかった。
こちらは肩まで弾ませている。
自分が文化人だとは思わないけど、
彼女が体育人であることは確実だ。
【智】
「他に階段は?」
【るい】
「あるわけないでしょ」
【智】
「非常階段」
【るい】
「6階から下は崩れてる」
【智】
「なんでそんな上に住んでたの!?」
【るい】
「高い方が気持ちいいもん!」
【智】
「馬鹿と煙!?」
【るい】
「馬鹿っていった! ちょっと成績悪かったからって馬鹿にして、この! とても人様には言えない成績だけどあえて言う勇気ぐらいあるよ!?」
【智】
「聞きたくありません」
切なさで一杯の願望を述べる。
欲しいのは解決方法であって、
個人の学業的悲劇の論述じゃなかったりする。
【るい】
「くそったれ……」
【智】
「女の子は言葉遣いに気をつけて」
【るい】
「おばさんくさいぞ」
彼女が歯がみする。
熊のように落ち着き無い。
そうこうしている一秒一秒に、
僕たちは少しずつ確実に逃げ場を失っていく。
終点は、ここだ。
天に近い行き止まり。戻る道もない。
異臭が鼻をつく。目の前が酸欠でくらくらする。
絶望が胸にしみてくる。
こんな場所で、こんな終わりなんて、
想像したこともなかった。
終わりはいつでも突然で予想外だ。
きっと世界は呪われている。
皮肉と裏切りとニヤニヤ笑い。
ぼくらはいつでも呪われている。
【智】
「――皆元さん!」
【るい】
「るいでいいよ」
【智】
「こういう状況で余裕あるんだね……」
【るい】
「余裕じゃなくてポリシー。
全てを脱ぎ捨てた人間が最後に手にするのはポリシーだけ」
よくわからない主張を力説。
【智】
「イデオロギーの違いは人間関係をダメにするよね」
ふんと鼻を鳴らされる。
破滅の前の精一杯の強がりで。
その強がりに薬をたらした。
【智】
「――あっちまで跳べると思う?」
指差したのは不確かな視界を隔てた向こう側。
隣のビルが朧に浮かぶ。
路地一つ挟んだ距離、フロア一つ分ほど頭が低い。
【るい】
「近くないね」
【智】
「…………無理か」
【るい】
「私より、あんた自分の心配したら」
【智】
「あんたじゃなくて、智」
【るい】
「…………」
【智】
「ポリシー」
やり返す。
るいが、ニヤリと口の端を持ち上げた。
見直したとでもいいたそうに。
【るい】
「――私から跳ぶわ。チャンスは一回」
【智】
「落ちたらどのみち死んじゃうよね」
【るい】
「1階に激突かあ」
【智】
「シャレ! それって洒落のつもり!?」
ブラックジョークには状況が悲しすぎです。
分かり易すぎる構図。
一度限りの綱渡り。
後くされのない脱出チャンス。
二度目に期待するのは最初から心得が違う。
高所恐怖症のけはないのに、屋上の縁から下を見ると足下が傾いた。
目眩。
視界がはっきりしないのが、
こんなにありがたいと思ったことはない。
【るい】
「ちょっとした高さだから、向こうの屋上まで跳べても、
下手な落ち方したらやっぱり死んじゃうわよ。
上手くいっても骨くらい折るかも」
【智】
「石橋は叩いて渡る主義なんだよね」
【るい】
「じゃあ、止めるか」
【智】
「でも、他に方法ないんだよね」
【るい】
「ふーん、見た目より思い切りいいんだ」
【智】
「おしとやかなのに憧れちゃう毎日で」
【るい】
「……いい? 焦んないこと。距離自体はたいしたことない。
普通に助走すれば跳べる。幅跳び思いだして」
保護者めいた顔をした。
やり直しの効かない特別授業。
【るい】
「じゃ、行くよ」
【智】
「ちょ、ちょっとまって、心の準備は!?」
【るい】
「女は度胸」
【智】
「ね…………」
【るい】
「なによ?」
【智】
「無事逃げられたら―――明日、買い物付き合って」
【るい】
「やだ」
即答。
【智】
「空気読めよ! 様式美くらい押さえてよ!」
【るい】
「明日のことなんて考えないポリシーなの」
【智】
「うわ、刹那的な生き様だ」
【るい】
「現在は一瞬にして過去になるのよ! 私たちに出来るのは、
ただ過ぎ去る前の一瞬一瞬を精一杯楽しく愚かしく無様に
生きることだけなんだから!」
【智】
「愚かしく無様なのはやだなあ」
【るい】
「人のポリシーに文句付けないよーに」
【智】
「文句付けられるようなポリシー持たないで」
熱を感じた。
頬が熱い。
視界の悪さと息の苦しさが一層倍になる。
時間がない。
【るい】
「いよいよヤバイね。心の準備は?」
【智】
「――いいよ」
本当はよくない。握る拳が汗ばむ。
深呼吸をする。
鉄さびめいた臭いの混じった酸素が肺を充たして、
頭の中をほんの少しだけクリアにする。
るいが、きゅっと僕の手を握った。
ほんの一部だけ触れ合った場所。
吹けば飛ぶような小さな面積から体温が伝わる。
胸の奥まで届く、熱。
【るい】
「跳べる?」
【智】
「跳べそう……なんとなく」
根拠はない。
できそうな気分だった。
【るい】
「先行くから」
返事くらいしたかった。
できることなら軽口をずっと叩いていたかった。
現実逃避という名の快楽から立ち返り。
世界の呪いと正面切って立ち向かう、その一瞬。
決断という地獄が口を開ける。
返事をする間もなく、るいが走る。
掌が離れていく。
ひどく傷つけられた気分になる。
買い物にいく気安さで、
彼女が縁へめがけて助走した。
跳んだ。
夜を横切る。
それは、とても綺麗な獣――――
月に吠える狼。
身体の機能を集約した一瞬に、
人間という不純物を吐きだした、混じりけのない生命と化す。
落下する勢いで隣の屋上に転がった。
るいは一挙動で立ち上がって、
こちらを向いて元気そうに手を振る。
骨くらい折れそうな感じだったのに、
どっかの科学要塞製超合金でできてるのかもしんない。
【るい】
「はやくーーーーー!!!」
今度は自分の番だ。
もう一度深呼吸する。
身体の隅々まで酸素を行き渡らせる。
何でもない距離だ。
授業なら跳べる距離だ。
違いは些細な一点だけだ。
夜の幅跳びの底は、20メートル下のコンクリート。
しくじれば死ぬ。間違いなく死ぬ。
やり直しの効かない、一度こっきりのジャンプ。
後ろ髪がちりちりとする。
――――追いついてきた。
走った。
呪いを振り切るように、跳躍する。
これまでの人生で一番の踏切。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光、何もかもが圧縮された刹那の秒間。
落ちる、という感覚さえもない。
1フロア分の高度差にショックを受けながら、
受け身も取れないで投げ出される。
感覚を置いてけぼりにした数秒が過ぎて。
ようやく意識できたのは、予想より少ない衝突と、
予想よりやわらかいコンクリートの屋上。
【智】
「……とってもやわやわ」
【るい】
「へへへ、ヤバかったよねー」
るい。
【智】
「受け止めて、くれたんだ」
【るい】
「トモ、あのまま落ちてたら頭ぶつけてたかも。
ほんと、ヤバかったよ。自分でわかんなかったろうけど」
視界が効かなかった。
だから、バランスを崩した。
地雷を踏みかけた寒気と逃げ延びた安堵がごちゃごちゃに
混じりながら追いついてきた。
いくつかの痛み、打撲、擦過――
気がつく。
コンクリートよりもずっとやわらかい、
るいの胸に顔を埋めて、
子供をあやすような掌を髪に感じている自分。
【智】
「あの、もう平気で、大丈夫で……」
【るい】
「へー、意外と体格いいんだね。もうちょい、細い系だと思ってた」
【智】
「け、怪我とかしなかった?」
【るい】
「みたまんま。私、頑丈なんだよね」
【智】
「無茶……するんだ、受け止めるなんて……
あんな高さから落ちてきたのに」
【るい】
「感謝するよーに」
貸したノートの取り立てでもする気楽さ。
なんでもないことのように。
いい顔で、るいは笑う。
今日会ったばかりの、まだ名前ぐらいしかしらないような
相手なのに。
自分が怪我をするとか思わなかったのか?
二人まとめて動けなくなったかも知れないのに?
虹彩が夜の緋を受けて七色に変わる。
間近からのぞき込んだそれは、
研磨された宝石ではなく、
川の流れに洗われ生まれた天然の水晶だ。
人の手を拒む獣のように、鋭く強い。
【智】
「あう」
【るい】
「むっ」
【智】
「にゃう!?」
ほっぺたを左右にひっぱられた。
【智】
「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
【るい】
「なんて顔してんのよ。せっかく助かったんだぞ」
【智】
「にゃおーん!」
【るい】
「感謝の言葉」
【智】
「……にゃにゃがとう(ありがとう)」
【るい】
「よろしい」
手を離す。るいがはね起きる。
伸びをするみたいに体を伸ばし、
肩を回して凝りを解す。
隣にぺたりと座り込んで、
さっきまでいたビルを眺めた。
【智】
「やっと――」
逃げ延びた、
そう思ったのに。
獰(どう)猛(もう)な音が近づいてくる。
下から上に。
腹の底が震えるような重低音。
一瞬なんなのかわからず、その正体に思い至った一瞬後になって、噛み合わなさに戸惑う。
エンジン音だ。
ビルの屋上、エンジン音、上がってくる――
違う絵柄のパズルのピースと同じ。
どこまでいっても余りが出る解答。
【智&るい】
「「な――――――ッッッ」」
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
エスプリの効いた冗談みたいな物体が、
目の前で長々とブレーキ音の尾を引いて横滑り。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
胡乱(うろん)な物体だった。
どうみても原付だった。
どこにでもある、町中を三歩歩けばいき当たりそうな、
テレビを一日眺めていればコマーシャルの一度や二度には
必ず出会うだろう。
成人式未満でも二輪運転免許さえ取れば、
購入運用可能な自走車両。
価格設定は12万以上25万以下。
ただ一点、ここが公道でも立体駐車場でもなく、
廃ビルの屋上だということをのぞけばありがちだ。
黒い原付――。
塗りつぶされそうな黒い車両の上に、
同じだけ黒いライダースーツとフルフェイスヘルメットが
乗っかっていた。
【智】
「――――」
緋の混じる夜。
影絵のような影がいる。
こちらを向く。
背筋によく響く、威嚇の唸りめいたエンジン音が、
赤と黒の混じった夜を裂く。
月の下。
手を伸ばしても届かない空に、ほど近い場所で。
――――――僕らは出会った。
【惠/???】
「黒い王子様は女の子を連れて去るのだという」
【惠/???】
「とりわけ美しい女の子が選ばれる」
【惠/???】
「全部ネットの噂だ」
〔拝啓母上様〕
拝啓、母上さま
おげんきですか。
今日の明け方、杉の梢に明るく光る星を探してみましたけれど、
昨今の都市部では杉も梢も絶滅危惧種でした。
星は光るのでしょうか、海は愛ですか。
いきなり方々にケンカ腰な気もいたしますね。
危ぶむなかれ危ぶめば道は無し、と偉い先生も申しました。
母上さま、私は元気です。
星も見えない環境砂漠な都会といえど住めば都。
新世紀の子供たちが受け継ぐべき美しい国は、
すでに書物と記録の中で跋扈するのみ。
残念ながら私も知りません。
美しい国。
なんとも無意味かつ曖昧なタームです。
詩的表現以上のレベルでデストピアが実在し得るかどうかから論議すべきではないでしょうか。
ネットも携帯もなかった時代こそ甘美である……と懐旧に胸を熱くするのは、時代と少しばかり歩調の合わないご年配の方のノスタルジーにお任せいたしましょう。
残す未練が無くなっていいと思います。
電磁波とダイオキシンにまみれても、生命は生き汚く生きてまいります。
ですが心も身体もゆとりを失えば痩せ細っていくのです。
アイニード、ゆとり。
ゆとり世代だけに、愛が時代に求められています。
愛の受容体である杉花粉は今日も元気です。
都会では絶滅危惧種のくせに繁殖欲旺盛なのはなんともいただけません。
人類の叡(えい)智(ち)はいつの日か花粉症を克服するのでしょうか。
それとも自然の獰(どう)猛(もう)を前に太古の人類がそうであったように膝を屈するのでしょうか。
さよなら夢でできた二十一世紀。
こんにちは閉じた呪いの新時代へようこそ。
さて、母上さま。
実は先日、新たに契約を取り交わしましたことをご報告いたします。
保証人としての母上さまに、ご許可をいただきたく、ここに一筆したためました。
保証人という単語の剣呑さに、エリマキトカゲのごとく立ち上がって威嚇する母上さまの顔が浮かびます。
保証人。なんと官能的な響きでしょう。
英語では Guarantor 。
ご心配なく。
保証人としての母上さまにご迷惑をおかけすることは、何一つございません。
金銭的な問題の発生する懸念は皆無なのです。
契約は極めて安価で行われたからです。
ロハ、なのです。
ただより高いものはない、なんて昔から言われたりしますよね……。
必要な契約であったことは疑う余地がありません。
いささか大げさな修辞を許していただけるのなら、
この混迷の新世紀を生き延びるために、
呪われた我と我が身と世界の全てと対峙するために、
理性の限界と権利の堕落と人間性の失墜に抵抗すべく、
人類の生み出した最大の発明の一つであるこの概念こそが、
パラダイムシフトとして要求された契約そのものでありました。
なんといいますか。
難解な語彙を蝟集すると適度に知的に見えるという、日本語体系のありがたみを噛みしめます。
母上さまの時代には、そのような利己主義に基づく概念を用いる必要など無かったのにとお嘆きでしょう。
過去こそ楽園であったのだと。
それは違います。
契約はありました。
いつでも、どこでも。
聖書時代の死海のほとりから、高度成長期の疑似共産主義の間隙に至るまで目に映らなかっただけで。
今や古き良き時代は標本となり残(ざん)滓(し)もとどめず、崩壊した旧制は懐疑と喪失を蔓延させるばかり。
過去的価値観には、はなはだ冷笑的になってしまう平成世代としましては、従ってこのような形での呉越同舟こそが望むべき最大公約数的妥協点といえるでしょう。
ご理解いただけますよう。
母上さま。
これまで同様、この手紙がお手元に届くことはないと存じてはいますが、新たに契約を取り交わしましたことをご報告いたします。
私たちは契約友情を締結いたしました。
母上さまへ
かしこ
〔本編の前の解説〕
【るい】
「生きるって呪いみたいなものだよね」
ようするに、これは呪いの話だ。
呪うこと。
呪いのこと。
呪われること。
人を呪わば穴二つのこと。
いつでもある。
どこにでもある。
数は限りなくある。
そんなありがちな呪いの話。
ちょうど空は灰色に重かった。
浮かれ気分に水を差すくらいにはくすんでいて、
前途を呪うには足りていない薄曇り。
【るい】
「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……」
【るい】
「それって、まったくの呪い。100パーセントの純粋培養、
これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、
ないない尽くしの呪いだよ」
【るい】
「そうは思わない?」
時々るいは饒舌(じょうぜつ)だ。
とかく気分屋で口より先に身体が動くのに、
どこかでスイッチの切り替わることがある。
とても不思議。
いつも通りの気安さで、まるで思いつきのように、
投げ捨てるみたいに、呪いの呪文を唱えていた。
思うに。
るいは、とっくに待ち合わせに飽きていた。
彼女は待つことを知らない。
昨日のことは忘れるし、
明日のことはわからない。
約束と指切りだけはしないのが、
皆元るいのたった一つの約束みたいなものだ。
軽くコンクリートの橋脚に背中を預けて、
座り込んで足をぶらぶらさせていた。
【花鶏】
「教養低所得者にしては含蓄のある」
【るい】
「日本語会話しろよ、ガイジン」
【花鶏】
「わたしはクォーターよ」
【こより】
「生きてるだけで丸儲けですよう」
【茜子】
「そうでもない」
【伊代】
「ああ、そうね、実は儲かってないのかも知れないわね。
利息もどんどん積もっていくし……」
【智】
「報われないんだ」
【るい】
「呪いだけに」
呪い――それはとても薄暗い言葉。
なんとなく、もにょる。
ロケーション的にはお似合いの場所。
田松市都心部を、
ていよく分断する高架下。
そこが僕らのたまり場に変身したのはつい最近だ。
待ち合わせを、ここと決めているわけではないけれど、
便利なのでよく使う。
【智】
「見通しはいまいち」
指で○を作る。
即席望遠鏡。
高架下のスペースから見上げる空の情景は、
景観としての雄大さに乏しい。
空貧乏。
胡乱(うろん)なる日々には相応しい眺めだ。
胡乱な日々と胡乱な場所。
息をするのも息苦しくて、右も左も薄汚れている。
天蓋の代わりに高くごつい高架、神殿の柱みたいな橋脚、
コンクリートの壁に描かれた色とりどりの神聖絵画ならぬ
ラクガキの数々。
「斑(ハン)虎(ゴ)露(ロ)死(シ)ッ!」
「Bi My Baby」
「あの野朗むかつくんだよ、ソウシのやつだ!」
猖獗(しょうけつ)極めた言葉の闇鍋の上で、
著作権にうるさそうな黒ネズミの肖像画が、
チェーンソー持ってメガネの鷲鼻を追いかけて回していた。
解読していればそれだけで日が暮れそう。
それはそれは胡乱な呪文の数々。
ときどき混じる誤字脱字が暗号めいてなおさら奇怪千万。
【花鶏】
「そういえば、最後に来たヤツ、遅刻だったわね?」
【智】
「今更追求なんだ……」
ちなみに最後は僕でした。
【花鶏】
「遅刻は遅刻。9分と17秒36」
【伊代】
「細かっ。秒より下まで数える? 普通」
【るい】
「普通じゃないよ。若白髪だし」
【花鶏】
「プラティナ・ブロンドと言いなさい」
【るい】
「プラナリア・ブロンソン?」
【茜子】
「プラナリアの千倍くらい頭良さそうな発言です」
【こより】
「扁形動物に大勝利ッスよ、るいセンパイ!」
【伊代】
「それ一億倍でも犬に負けると思うわよ」
【智】
「トンボだって、カエルだって、ミツバチだって、
生きてるんだから平気平気」
【伊代】
「意味不明だから……」
【花鶏】
「それで遅刻の弁明は?」
【智】
「ベンメイが必要なのですか」
【花鶏】
「遅刻の許容は契約条項に含まれてないわ。
一生は尊し、時間もまた尊し。物事はエレガントに」
【智】
「友情とは大らかなごめんなさい」
【茜子】
「ごめんで済んだら(ピーッ)ポくん要りません」
【智】
「さりげなく謝ったのに!」
【るい】
「友情って空しいよね」
【智】
「実は話せば長いことながら」
【るい】
「長いんだ」
【智】
「時計が遅れていたのです」
【伊代】
「え? 短いじゃない」
【茜子】
「ボケつぶし」
【伊代】
「え?」
【花鶏】
「なんて欺(ぎ)瞞(まん)的釈明」
【智】
「適度な嘘は人間関係を機能させる潤滑剤だよ」
【こより】
「センパイは堕落しました! 人間正直が一番ッス!」
【花鶏】
「……(冷笑)」
【茜子】
「……(嘲笑)」
【伊代】
「その純真な心を大切にね」
【こより】
「嫌なやつらでありますよ」
【智】
「そう、たとえばキミが結婚したとするよね」
【こより】
「いきなり結婚でありますか」
【こより】
「不肖この鳴滝めといたしましても、結婚なる人生の重大岐路
に到達するためには、センパイとのプラトニックな相互理解、
手を繋ぐ所からはじめたいところなのです!」
【伊代】
「女同士で結婚できませんッ」
【こより】
「大問題発見ッス!」
【花鶏】
「形式に拘る必要なんてないじゃない?」
【るい】
「……」
【茜子】
「……」
【智】
「たとえの話ですよ?」
【こより】
「センパイは、たとえ話で結婚するのですか!」
【茜子】
「泣く女の傍ら、ベッドでタバコ吸うタイプか」
【智】
「…………何の話だっけ?」
【るい】
「結婚じゃないの?」
【智】
「そう、結婚。キミは夫婦円満で何一つ不満はない」
【こより】
「悠々自適の毎日、エスタブリッシュメントです!」
【伊代】
「愛より地位か。リアルだねえ」
【るい】
「呪われた人生には夢も希望もないんだよ」
【智】
「でも、優しいだけの夫にちょっぴり充たされない。
唐突に禁忌を漂わせたレイプから恋愛な感じの俺を教えてやるぜが現れる」
【智】
「刹那的アバンチュールにキミが、くやしいデモ感じちゃうと
流された後、それを夫のひとに告げる?」
【こより】
「えーっと……」
【智】
「離婚訴訟で慰謝料取られたりして、片親になったのに行きずり男の子供抱えてシングルマザーになったりして、子供が聞き分けなくてブルーな老後になったりして」
【智】
「それでも正直に生きる?」
【こより】
「あーうー」
【智】
「僕らにとって適度な嘘は関係円滑化のためなのです」
【茜子】
「事例のチョイスが黒い」
【花鶏】
「男なんて生き物を信頼する方が間違いなのよ。
がさつで、乱暴で、騒々しくて、美しくない。
研究室で標本になるくらいでちょうどいい」
【伊代】
「ほら、空を見上げて。
いい天気だと思わない?」
【こより】
「すっかり薄曇りッスねー」
【るい】
「面子もそろったことだし、くりだそっか。
ゴミの山でたむろっててもやることないしね」
日が当たれば影ができる。
あやしい所在の一つや二つ、どこにでもある。
偉いひとたちが書類と書類の狭間に、
金にもならず、使い道もないからと忘れ去って幾年月。
地元の人間たちだけが、
塵芥の隙間に再発見して好き勝手に変成し直す、
胡乱な土地。
さて、なんと名付けよう?
日用ゴミから廃車までの万能廃物置き場?
息を殺していれば家賃のかからぬ密かな住居?
まっとうな性根は近づかない最底辺の集会場?
それとも、悪?
悪いもの、悪いこと、悪い出来事。
それらならいくらもありそうだ。
この世に善なるものとやらが本当にいるとしても、
ここなら席を譲って逃げ出していく。
パンドラの箱だ。
百災厄がきっとどこかに隠れている。
もっとも。
混沌が泡立つ中から選んで何か一つを取り出して、
それで本性がわかった気になったところで所詮は錯覚。
ここは街のガラクタ置き場。
世界を作るパズルのピースの流れ着く渚。
どのピースも足りていない。
噛み合うことのない、欠品づくしの破片たち。
けれど、ここには全てがある。
全ての死んだ一部、かつては生きていたものの残骸たち。
ここは、それら全てで、同時にそれ以上。
以下かも知れないけれど。
だから借り受けた。
ここは、僕ら六人の秘密の借用地。
野良犬っぽいのが皆元(みなもと)るい。
プラナリアンが花城(はなぐすく)花鶏(あとり)。
寸足らずが鳴滝(なるたき)こより。
舌先刃物なのが茅場(かやば)茜子(あかねこ)。
眼鏡おっぱいが白鞘(しらさや)伊代(いよ)。
【伊代】
「これも普段は目を逸らしてる文明の烙印ってやつなのよね」
【智】
「ニヒリストっぽくて格好いいと思う」
【茜子】
「あなたはマゾですね。了解です、記録しました」
【伊代】
「がうっ」
【茜子】
「吠えられました」
【こより】
「犬っぽいです」
【るい】
「犬の死体でも転がってそーな感じだわ、このあたり」
【花鶏】
「個人の趣味嗜好に異議を唱えるような無駄な労力を払おうとは思わないけれど、普遍的世界観と折り合わない死体愛好については隠蔽した方が身のタメよ」
【るい】
「趣味の悪さなら、あんたにゃ負けるよ」
【こより】
「火花が散ってるッス」
【智】
「えー、こほん。友情して大人になるために、みんなで死体でも
探しに行く?」
【茜子】
「レズにマゾに、今度はネクロファイルですか」
【伊代】
「はいはいはいはい! あなたたち、いい加減労力年金ばっか
納めてんじゃないわよッ」
【智】
「通訳プリーズ」
【茜子】
「無駄に暴れるなこの役立たずども」
【伊代】
「がうっ」
【智】
「どうして僕が吠えられるのかしらん」
【こより】
「さすがセンパイ、人望よりどりみどりッス!」
【智】
「ゆとりってだめだよね〜」
かくて日本語はその美しさを失っていく。
【花鶏】
「過去を嘆くより明日のこと」
【るい】
「明日の天気より今日のこと」
【伊代】
「刹那的だ……」
【茜子】
「考え無しです」
【るい】
「素直といってよ」
【花鶏】
「単細胞」
【こより】
「火花が散っているッスよ!」
頭の上を厳めしい高架が一直線に走っている。
世界に引かれた1本の黒い線のような。
ここは境界だ。
あらんかぎりを押し込んでごった煮にした暗がりが、
街の意味を分断している。
右には騒がしく乱雑な新市街、
左には置いてけぼりをくった旧市街。
綺麗な線ではない。
あちらに山が、こちらに谷が。
でこぼこと新旧入り交じった地域の濁り汁が、
得体の知れない空気になって左右の隙間に溜まっていく。
白でも黒でもない。
昼でも夜でもない。
右も左もない。
そういう曖昧な場所には、胡乱な輩が出入りする。
それはたとえば、
僕らのような――――――
【智】
「どこまでいこう?」
【茜子】
「ニュージーランド」
【智】
「まずは船を手に入れないとね」
【こより】
「そうそう、それよりなによりも!」
【智】
「やけにテンション高いね」
【こより】
「不肖鳴滝めのスペッシャルプレゼントのコーナー!!」
【るい】
「なにこれ、スプレー?」
【こより】
「拾う神のほうになってみました」
【伊代】
「拾ったものなんか大仰に配るんじゃないわよ」
【こより】
「ラッキーのお裾分けを」
【茜子】
「……随分残ってる」
【こより】
「そうッス。来る途中で道の端っこの方に――」
【花鶏】
「邪魔になってまとめて捨ててあったわけか」
【こより】
「――駐車してあったトラックの荷台に落ちていたッス」
【智】
「それは置いてたの」
泥ボーさんだ。
【こより】
「さすがはセンパイ! 物知りです!」
【智】
「悪いやつ」
【るい】
「いいじゃないの、細かいことは。
せっかくだから景気づけしよ」
【伊代】
「だから、いつもいつもあなたは大雑把すぎなのよ!
別に社会道徳とか講釈するつもりは無いけど、このへんの線引きが曖昧なままになってるといずれ…………ま、いいか」
こよりの秘密道具は使い古しの色とりどりなスプレー缶。
段ボールの小ぶりな箱にキッチリ詰まったそいつを、
るいは一つ適当にえらんで取り上げた。
真っ赤なキャップのついたスプレーが、
手から手にジャッグルされる。
【智】
「スプレーは釘できっちり穴あけてから、
分別ゴミでださないとだめだよ」
【るい】
「所帯くさいこといってないで、さ」
ケラケラと、るいは笑う。
スプレー噴射。
手加減もなく、目星もなく。
勢いまかせに適当に、
誰かが書いたラクガキを真っ赤なスプレーで上書きする。
【るい】
「どんなもん」
【こより】
「ほうほう〜♪」
得意満面な、るい。
変な虫がお腹の奥でざわつきだす。
楽しそう。
他の面子と顔を見合わせて、舌なめずり。
【伊代】
「ラクガキってロックよね」
【花鶏】
「反社会的行為っていいたいわけ?」
【茜子】
「レトリック的欺(ぎ)瞞(まん)」
ごちゃつきながら、手に手にスプレーを取り上げる。
薄汚れた壁。とっくに色とりどりの壁。
【智】
「なんて青春的カンバス」
【こより】
「わかりませんのですよ」
【智】
「悪いことしたいお年頃ってこと」
【こより】
「了解ッス!」
皆そろって悪い顔。
ニヤリと口元を三日月みたいにつり上げて。
【智】
「せーの――――」
僕らはみんな、呪われている。
だから――
これは呪いの話だ。
【るい】
「こんなとこかな?」
【茜子】
「むふ」
【こより】
「いい感じでサイコーッス!」
【伊代】
「悪党っぽいわね」
【花鶏】
「それじゃあ、くりだすわよ」
〔るいとの遭遇〕
――――あなたはスカートです。
それが母親の言いつけだった。
よく覚えている。
お前はスカートになるのだ…………
なんて
無体を命じられた……のではなかった。
履き物はスカートを愛用しなさいという道理。
日本語って難しい。
【智】
「やっぱり制服着替えてくればよかったかも」
学園帰りの制服の瀟洒(しょうしゃ)なスカートに、
ふわりと風をはらませながら、ほうと小さくため息をついた。
くるっと回ってみたり。
【智】
「むーん」
スカートはどうにも好きになれない。
足下がすーすー落ち着かないから。
それでも言いつけだからしかたない。
裳裾をなびかせ街を行く。
目指す目的地はもう少し先だ。
歩きだから距離がある。
灰色に重い空の下、しずしずと歩調に気をつかう。
心を静めておおらかに、かつ美しく。
走ったり慌てたりはもってのほか。
制服の裾がひるがえるのははしたない。
大声を出したりしてはいけません。
【智】
「僕らの学園、このあたりでも有名なんだよね」
ひとりごちる。
南聡学園。
進学校として名が通っている。
頭の良さよりも、学風校風の古くさいので有名というのが、
ちょっぴりいただけなかった。
ようするにお年寄りくさいのだけど、ここはウィットを効かせて、お嬢様っぽいのだと表現しておこう。
【智】
「……欺(ぎ)瞞(まん)的」
先生は揃ってお堅い。
学則は輪をかけてお堅い。
象が踏んでも壊れるかどうか怪しい。
古くさいメモ帳風の学生証を手の中で弄ぶ。
最近ではカード化されているところも多いというのに、
我が校ではアナログ全盛だ。
色気のない裏表紙に、学園での僕の立場が記述されている。
和(わ)久(く)津(つ)智(とも)。
学園2年生。
女子。
無味乾燥な文字の羅列。
誤ってはいないけど、正しくもない。
学生証の頁をめくって校則一覧を斜め読みする。
「バイトは禁止、買い食いは禁止、外出時は制服着用で、
夜は7時までには自宅に戻りましょう」
どこの大正時代か。
古典的すぎて半ば有名無実化している。
今時遵守する生徒は少数派で希少価値、絶滅危惧種だ。
二十一世紀に生きるゆとり世代は意外にたくましい。
建前本音を使い分け、二枚舌を三枚にして学園生活を生き延びる。
……困ったことに制服は有名だった。
こじゃれたデザインが人気の逸品。
マニアは垂涎、物陰では高値取引の南聡制服(女子)。
街を歩けば人目を引く。
南聡=お嬢様っぽい。
パブリックイメージは頑健なので、
ちょっと道徳の道を外れると悪目立ちする。
どんな経路で教師の耳に入らないとも限らない。
それは困る。すごく困る。
平日の、学園帰りの午後だ。
帰宅ラッシュにはまだ早い、
ひと気のまばらな駅前通りを南へ抜ける。
田松市の都心部は、駅を挟んでこちら側が若者向けの
明るいアーケード。
北には危険な夜の街へ通じる回廊がある。
線路のラインが色分けの境界線だ。
肩にかかった髪を後ろへかき上げながら、
こっそり買ったアイスクリームを一口かじった。
とっても甘味。
南聡の学則には、第九条学外平和健康推進法、通称平和健法がある。
買い食いを行うこと無く永久にこれを放棄するむね
定められているのだ。
……バレなきゃ罪じゃないよね。
ときおり学園帰りの学生とすれ違う。
視線を感じる。誰もがこちらを振り返る。
後ろから口笛が背中をくすぐる。
南聡の女学生で人目を引く美少女に感嘆している。
南聡の女学生――――僕のことだ。
人目をひく美少女――――僕のことだ。
【智】
「はぅ……っ」
なんと美しいコンボ。
繊細で薄幸そうで麗しいご令嬢……
というニーズに完璧応えている自分が憎い。
【智】
「んー、むー、ちょっとタイが曲がってる」
ファッションショップのショーウインドゥ。
飾ってある鏡に向かってニコリと笑顔。
タイを直してから、その場でくるり。
スカートの縁が円錐を描く。
とびっきりのお嬢様が優雅に微笑んでいた。
【智】
「かわいいー」
跳び上がる。
そんで激しく落ち込む。自己嫌悪。
拝啓 母上さま
おげんきですか。
母上さまの御言葉はいまも切磋琢磨しております。
日々筆舌に尽くしがたい苦難を前に、
心が折れんとすることもままありますが。
ときどきポプラの通りに明るく光る星を見て、
そっと涙を堪える私の弱さをお許しください。
スカートをひらひら。
アイスのコーンまで食べきって、
残った包み紙を丸めてこっそり道ばたへ。
悪の行為、ポイ捨て。
禁忌を犯す喜びに下腹部がドキドキする。
【智】
「…………危険な徴候」
自分を見つめ直したい衝動にかられた。
天下の公道で自問自答はいただけないので、
懺悔は目的を果たした後にする。
ポケットから几帳面に折りたたんだメモを取り出した。
ボールペンの走り書き。
自分の字だ。
電柱に打ち付けてある区画表示のプレートとメモの住所を見比べる。
【智】
「うー、むー」
目的地はもう少し先らしい。
母さんから手紙がきた。
母親は自分の子供をいつまでたっても子供扱いする。
大きくなっても小さくなっても子供は子供。
月一ペースの気苦労とお腹を痛めた分だけは、
何年経っても権利を主張する。
人は過去に生きている。
未来は遠く、現在にさえ届かない。
あらゆるものは一足遅れでやってくる。
人も、時間も、光も、音も、記憶も、心も。
世界は手遅れだ。
天の光は全て過去。
過去に生きる人間にとって、思い出はとても大切だ。
母上さま。
離ればなれで幾年月か。
時間はよく人を裏切る。
思い出は色褪せ、記憶はすり切れ、情報は劣化する。
白い肌と白い手くらいは覚えている。
細かいことは忘れてしまった。
困ることはないけれど寂しくなる。
線は細くて気苦労の多い母親だった。
ついでに過保護。
何かというと心配する人という印象が残っている。
石につまずいても、箸を落としても気苦労があった。
苦労性は肩が凝る。
胸のサイズに関係なく。
手紙はなるほど母上さまらしい。
心労と心痛。
文面のそこかしこから、
ひとりで暮らす我が子へかける、母性の香りが匂い立つ。
愛情溢れる母と子の交流史の一頁――――
些細な問題を考慮しなければ、
この手紙もそれだけのことで済んだ。
たった一つの小さな問題。
母上さまは、とっくの昔に天国へ行かれているのです。
天国だと思う。
自信は無いけれど。
恨みを買うようなひとではなかったと思う。
欲目は親ばかりにあるとは限らない。
小さい子供にとって親は全知全能の神にも等しい。
たまには悪魔になったり死神になったりする。
現実って救いがないな。
閑話休題。
恨みはどこでも売っている。
コンビニよりも手に入りやすい。
24時間年中無休。
2割3割はあたりまえの大バーゲン。
ドブにはまっても他人を恨めるのが人間という生き物だ。
外出契約書だと思って気軽にサインしたら、
地獄の一丁目に売り渡されることだってよくある話。
一応、母は天国にいるんだと思っておきたい。
あいにく幽霊と死後の世界は連絡先が不明なので、
きちんと確認はしていない。
死んだ母からの、手紙。
嘘のような本当の話。リアルのようなオカルトの話。
黄ばんだ便せんに真新しい封筒。
消印は先週。
県の中央郵便局のハンコが押されている。
幽霊にしてはせちがらい。
大まじめな話をすれば、
死んだ人間が墓から出てきて、
郵便ポストに手紙を突っ込んだりはするわけがない。
母の手紙を母の代わりに誰かが投函したのだろう。
オチがつきました。
天下太平。君子は怪力乱心を語らず。
つまらないというなかれ。
世の中はなるようにしかならないものなのだから。
手紙の内容――――
三つ折りの古紙には見覚えのある文字。
母の筆跡。
「皆元さんを頼りなさい」
聞き覚えのない後見人を過去から指名された。
住所と電話番号が記されていた。
【智】
「このあたりは――」
駅前から随分きた。
駅のこちら側でも中心部から離れれば胡乱になる。
様変わりして、人気も乏しくなる辺り。
めったに来ない場所だけに土地勘も働かない。
人やら獣やらゴミやらなにやら。
入り交じった臭いに鼻が曲がる。
廃ビル、空きビル、閉じたシャッター。
うらぶれたというよりうち捨てられた都市区画。
ここは街の残骸だ。
南聡の制服は水面の油みたいに浮き上がる。
とてもとても似合わない。
手紙にあった「皆元」という名に覚えは無かった。
母は頼れという。
その人物が、我が子の助けをしてくれるという。
助け、助力、意外な授かり物、後援――
【智】
「うっわー、なんとも怪しいよね……」
眉に唾つける。
そもそも差出人は誰なのか、
どこからこの手紙が来たのか。
疑問は山積みだ。
それでもだ。
困っているのを助けてくれるなら、
今すぐ僕を助けて欲しい。
何時でも困っている。
どこでも困っている。
さあさあ、すぐに。
過剰な期待をしてもはじまらない。
死んだ母のいわば遺言であるという――――
それだけの理由で連絡を取った。
それが先週のお話。
得にはならなくても、
何らかのコネにはなるかもしれないと、
その程度の計算は働かせた。
【???】
「皆元信悟でしたなら、亡くなっております」
連絡先にかけた電話の返事は
人生にまたひとつ教訓を与えてくれた。
過度の希望は絶望の卵。
【智】
「亡くなって……」
【???】
「はい、もう何年も前に」
【智】
「その、それはどういう事情で……?」
【???】
「あなた、どちらさま?」
疑り深そうな電話の主に、
これ以上ないくらい胡散臭がられながら、
深窓の令嬢的に根掘り葉掘りと問いただしてみた。
このままのオチではあまりに空しい。
ぶら下がったかいあってようやく聞き出したのは、
縁者がいるということだった。
おお、皆元さま。
どうして貴方は皆元様なの――?
悲恋に引き裂かれた恋人同士のように、
教わった住所を求めて裏通りを右に左に。
どんどん胡乱な方へと進んでいく。
いよいよ活気が失われる。
【智】
「最近の株価は空前の下げ幅だっけ?」
朝のメディアの空疎なあおりを反芻しながら、
ビル脇の電柱にあるプレートとメモの住所を見比べる。
この辺りだ。
背中を丸めて頭をたれた元気のないビルたちには、
取り壊し予定が看板になってかけられていた。
一面をまとめて均して、瓦礫の中から大きなものに
新生させるというお知らせだ。
【智】
「それはそれとして、ホントにここなの?」
住所のメモと現実を見比べる。
どうみても廃ビルだ。
色褪せたリノリウム、ひび割れたコンクリート、
壁面の窓ガラスは半分がた割れており、
かつては名付けられていたビルの名前はとっくに色褪せて読めない。
例えるなら、人間よりもゾンビの方が似合うくらいだ。
【智】
「えーっと…………」
ためらいと困惑。
突っ立っているとこの制服は目立つ。
物陰からの胡乱な視線にうなじが粟だった。
これ見よがしに廃ビルを不法占拠している連中も、
この辺りにはことかかない。
割れたガラスの後ろから、傾いた看板の影から、
裏路地に通じる薄汚れたビルの隙間から。
サバンナのウサギになった気分がする。
(…………いや〜ん)
じっとしているのも不安で、ビルへと踏み込んだ。
エレベーターは当たり前にご臨終していた。
くすんだ色のロビーの奥に、目ざとく見つけた階段を上る。
【智】
「みなもとさん……?」
フロアを昇る。
コンクリートの隙間をわたる夜風のような自分の足音が、
とてつもなく怖い。
恐る恐る声を出す。
低くこもった残響にびびる。
人の気配はないのに、
段ボールや一斗缶で一杯の部屋があったりした。
得体の知れないものを引き当てそうで、
しかたなく黙って上を目指した。
【智】
(ひ〜ん……)
半泣きだった。
甘い言葉につられて来たのがそもそも失敗だ。
早く帰った方がどう考えてもよさそうなのに、
ここまで来てしまうと手ぶらで帰るのは悔しい。
蟻地獄。
ギャンブルで身を持ち崩す人たちは、
こういう気分で道を踏み外すんだろうな、きっと。
【智】
「……皆元さん」
こんな場所を住処にしているという、問題の人物は、
どのような問題ある人格を抱えた人物なのだろう。
まともではない。まともなわけがない。
どうみても正規の物件とは思えない。
一瞬で16通りの可能性を検討して、
まとめて脳内イメージのゴミ箱へポイ。
ただひたすらに、ろくな考えが浮かばなかった。
どれか一つでも現実になったら、母の遺言を投げ捨てて、
回れ右して家に帰りたくなること請け合いです。
距離以上にくたびれて、一番上のフロアに到着する。
うち捨てられた廊下には明かりも無くて、
夜でもないのに暗がりが手招いている。
廃ビルには空っぽの部屋が多い。
扉もない。
この階はその意味ではまだ生きていた。
棺桶に片足突っ込んだ断末魔、みたいなものだけど。
【智】
「えーっと」
端から順番に中をのぞく。
壊れたドアのついた部屋を右回りでフロアを一巡り。
最後に生き残っているドアの前で腕組み思案した。
このドアは機能を残している。
生きている。
ドアらしきものではなくて、まだドアである。
【智】
「皆元……さん……?」
子ネズミっぽい恐る恐る。
場違いな制服で場違いなノック。
今日はいい具合にボタンの掛け違いが続く。
【智】
「おられませんかー、皆元さん……じゃなくてもいいですけど、
どなたかおられませんか?」
皆元さん以外が出たらまずいだろうと自分に突っ込む。
何気なくドアを押した。
あっさり開いた。
鍵はかかってない。
ほんの数センチばかり、
アンダーラインみたいなとば口を開けて差し招く。
【智】
「……どうする。黙って帰る? それが一番平穏無事だけど。
でもここまで来てそういうのってなんだよね」
【智】
「あのぉ、皆元さ……」
のそりと隙間からのぞき込む。
中も暗くてわからない。
おっかない。
ホッケーマスクの殺人鬼とか現れそうで――――
その時に。
いきなり出た。
【るい/???】
「ふんがーっ!!」
【智】
「にゃわ――――っ?!」
頭の横をかすめていった。
凶暴極まりない鈍器。
どこまでも鈍器。
果てしなく鈍器な鉄パイプ。
なんでいきなり鉄パイプ?
意味不明っ!
【るい/???】
「どりゃあーーっ!!」
【智】
「きゃわーーーーーーーーーーーっっ」
必ず当たって必ず殺す鉄パイプが、
目の前で惨殺確定と振りかぶられる。
闇より暗い黒色の影がのしかかってくる。
シルエットで見えないはずの相手の両の目が
炯々と光を放ってくり抜かれている。
スプラッタ映画の1シーンをイメージした。
生皮のマスクをかぶった殺人鬼がチェーンソーを振り上げる場面。
【智】
「はわわっわわっわわわ――――――」
【るい/???】
「…………あれ、女の子じゃない?」
気の抜けた声が、振り切れかけた正気の水位を水増しした。
凶悪な牙を振り上げる謎の狩猟生物を、
捕食対象としての弱々しさで確認する。
【智】
「……あれ?」
女の子だった。
【るい/???】
「なにやってんの、キミ、こんなところで。
ここはね、キミみたいなのが来るような場所じゃないよ。
一人歩きしてると取って食われちゃうわよ」
【智】
「……ええ、取って食われるところでした」
【るい/???】
「そっか、危機一髪だったんだ」
取って食いかけた相手に慰められる。
すれ違いコミュニケーション。
食うものと食われるものには断絶がある。
女の子が手を差し出した。
落ち着いて検分する。
相手は自分とさほど変わるとも思えない年頃だ。
柔らかい少女っぽさよりも、
野生の獣のようなしなやかさが瑞々しい。
【るい/???】
「どうしたの、ほら」
手が目の前に。
そういえば尻もちをついていた。
【るい/???】
「でも、無事そうでよかったよね」
【智】
「凶暴でした」
手を引かれて立ち上がる。
【るい/???】
「最近このあたりも質の悪い連中が増えてきてさ」
【智】
「とても恐ろしかった」
【るい/???】
「私が来たからには大丈夫だって」
【智】
「人間って悲しい生き物だなあ」
相互理解はまだまだ遠い。
【るい/???】
「ところで、こんなところでなにしてんの。
もしかして家出とか?」
【るい/???】
「そういうふうには見えないけど、
もしかすると大変ちゃん?
でもさ、ここ危ないのわかったでしょ」
【智】
「あの、」
【るい/???】
「人生安売りしちゃう前に家に帰った方が良いよ。
んー、なに?」
【智】
「ひとつ、質問よろしいですか」
【るい/???】
「いいよ」
【智】
「もしかして、皆元さん……?」
【るい/???】
「ごめんね〜。部屋の前でうろちょろしてたから、
きっとまた泥棒とかなんだろうって勘違いしちゃってさ」
【智】
「それで鉄パイプ」
【るい/???】
「脅し脅し、本気じゃないって」
【智】
「……」
【るい/???】
「……」
【智】
「…………嘘だ」(ボソッ)
【るい/???】
「人生先手必勝だと思わない?」
なにげにヤバイひとでした。
【智】
「それは是非とも僕以外のひとに」
【るい/???】
「それで、なんだっけ」
部屋は殺風景で大したもののない空間だ。
臭いも景色も外よりましだけど、
とっくの昔に息絶えた建物の残骸には違いない。
彼女の荷物は大きなボストンバッグと
肩からかけるスナップザックが転がっているだけ。
化石の上に間借りした仮宿だった。
【智】
「皆元さん?」
【るい】
「そだよ、皆元(みなもと)るい。るいでいいよ。
コーヒーくらいあるけど飲む?
缶だから心配しなくても大丈夫」
返事も待たず、目の前に缶コーヒー。
【智】
「ありがとうございます」
【るい】
「どういたしましてー。
お客人は歓迎しないとね」
【智】
「るいさん」
【るい】
「そうそう、そういう感じ。
もうちょっと後ろにイントネーション置いて」
なにげに注文が五月蠅かった。
【るい】
「そっちは、えーっと……」
【智】
「和久津智いいます。智恵の字をとって智」
【るい】
「頭良さそうな名前だ」
【智】
「るいさん」
【るい】
「ほいよ」
【智】
「捜してました。捜して歩きました。
とうとうこういうとこまできちゃいました」
そして死にかかった。涙なしでは語れない道のり。
【るい】
「さがしてたの、なんで?」
【智】
「なんでこんな侘びしい所にいるのかの方が素晴らしく疑問なんですけれど。現住所もなくて捜すの大変でした」
【るい】
「侘びしいというより汚い所」
【智】
「自分でいうかな」
【るい】
「なんの、住めば都」
【智】
「欺(ぎ)瞞(まん)的だと思います」
【るい】
「私、家なき子なんだよね」
【智】
「なんとなく名作風」
【るい】
「平たくいうと、自我の目覚めと家庭環境との軋轢に耐えかねて
自由を求めて跳躍する感じで」
【智】
「つまりは家出」
【るい】
「智ってヤな子だ」
【智】
「わりと口の減らない性分で」
立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿は百(ゆ)合(り)の花。
ただし喋らなければ――――という注釈は親しい某学友の弁による。
【るい】
「それで何だっけ?」
【智】
「なんでしょう?」
【るい】
「そこでボケるの!」
【智】
「実は捜してました」
【るい】
「なんで? なんか用事?」
【智】
「用事というのか…………」
用事はある。
捜していた。
皆元るい。
母が名指しした人物、
皆元信悟の娘にあたる。
当たるも八卦当たらぬも八卦。
ここまで辿り着いたは良いのだけれど。
【智】
「うーむー」
【るい】
「うーむー」
二人で額を寄せ合う。悩む。
どうやら付き合いはよさそうだ。
【るい】
「そんでさ、用事無いの?」
【智】
「そこが重要な問題点で」
どこから切り出すのか。
切り出せるのか。
オカルトな話は事態が面倒になる。
不案内な母で、
皆元某に頼れと一筆したためたものの、
何をどのように頼るべきかは示唆がない。
生前からどっか投げやりなひとだったしなあ……。
皆元信悟本人ならば問題もなく話は早いが。
すると父親の話を尋ねるべきか。
ここで話は複雑さを増す。
【智】
(お父さんのことについて教えてください)
【るい】
(どうして?)
尋ねられると困る。
実に困る。
人生に関わる。
恥ずかしがり屋の年頃としては、
根掘り葉掘り掘り返されたくないことは、
両手に余るくらい持ってるし。
【智】
「うーむー」
【るい】
「いつまで悩んでたらよか?」
【智】
「明日の朝くらいまで悩めばいいかも」
【るい】
「長いよっ」
【智】
「実は、その、それなんですが――――
るいさんのお父さんの事なんですけれど、」
切り出した。
【るい】
「なんだって」
びびって座ったまま後ずさりする。
るいが野良犬みたいに牙を剥く。
【るい】
「あんなヤツのことなんてッ!」
適当に踏みだしたらいきなり地雷が埋まってました。
導火線が一瞬で燃え上がる。
心の火の手が、るいの瞳に乗り移る。
野生の動物めいた瞳孔は、まるで不思議な宝石のよう。
怒りが笑いより美しい。
とても綺麗。
〔フライング・ハイ〕
【智】
「んむ?」
異臭がした。
まあ、ここ廃ビルだし異臭ぐらい……。
【智】
「…………ん、むむむ?」
ちょっと違和感。
気のせいかと首をひねる。
部屋が暗いのは、日の暮れた後の廃ビルにまともな明かりが
望めないから。
鼻の奥がむずつくのは、廃墟のどこかから饐えた臭いが
漂っているから。
どれも古い場所には付きものだ。
先入観のせいで今まで気がつかなかった。
【智】
「…………何か臭わない?」
【るい】
「それはなに、私がお風呂に入ってないとかそういうことですか!
ひどい、あんまりだ、女として私は死ねっていわれた!」
【るい】
「これでも公園の水道使ったり学園に潜り込んでシャワー借りたりして気は使ってるんだから!」
【智】
「かなり犯罪者だね」
【るい】
「ちょっと借りてるだけじゃない」
【智】
「不法侵入」
【るい】
「法律と女の子の臭いとどっちが優先されると思ってんの」
【智】
「女の子の臭いが優先されるという根拠を教えて欲しい」
【るい】
「それよりなんの話だっけ?」
【智】
「それそう、臭いの話だった」
【るい】
「ひどい、あんまりだ、女として私は死ねっていわれた!」
【智】
「ループした」
【るい】
「そんでなんの話だっけ」
【智】
「だから臭いの……」
【るい】
「ひどい、あんまりだ――」
【智】
「繰り返しギャグが通用するのは3度まで!」
関西ではそういうルールがあるそうだ。
【るい】
「えー、世知辛い世の中になったもんね」
【智】
「昔からそうなの。暗黙の了解ってヤツ」
【るい】
「昭和の伝統はわかんない。だって、私平成――」
【智】
「かあっ!」
咆えた。
【るい】
「なに?!」
【智】
「あなたは今地雷を踏もうとしました」
【るい】
「地雷? なによ、誕生日の話なんだけ――」
【智】
「かあっ!」
【るい】
「な、なにっ?!」
【智】
「もっと気をつけてくれないと困りますよ!」
エッジの上でダンスするのはマイナーの強みですが。
だからといって信管を叩いて不発弾をわざわざ爆発させるのは
愚か者のなせる技なのです。
【るい】
「そ……それで、なんの話だっけ」
【智】
「焦げ臭くない?」
やっと話が進んだ。
スタートに戻ったともいう。
【るい】
「焦げ臭い?」
【智】
「気のせいかな? さっきからそんな感じがして……」
彼女が鼻をひくつかせる。
目つきが違う。警戒心の強い動物をイメージする。
【るい】
「焦げてる――燃えてる?
何よこれ、近い……ウソ、ちょっとまじ?!」
窓際から外に身を乗り出して外を確かめる。
後を追って窓から外をのぞいて状況がわかる。
外が黒い。
夜以上に黒い。黒くて赤い。
黒いのは煙、赤いのは火の照り返し。
火事だ。
ビルの下の階が燃えていた。
【智】
「うそぉ……」
窓辺で佇んだまま、とっさに思考が停止する。
にへらと笑う。
人間予想をすっ飛んで困った事態に遭遇すると、
最初に漏れるのはやっぱり笑いだ。
【るい】
「何ヤッてんの、さっさと逃げるのよ!」
【智】
「にゃわ?!」
ホッペタを両手で挟まれる。
正気が戻ってきた。
火事。
しかもかなり火が回っている。
すぐに逃げないと取り返しがつかないくらい。
【るい】
「はやく、こっち! 走って急いでっ」
るいの行動は早かった。
手を引かれる。
引きずられながら部屋を飛び出す。
階段から下へ。
四段とばしで3階分を2分とかからず降下して――
【るい】
「どちくしょう、階段はだめだ……」
【智】
「あうう〜〜」
るいが吐き捨てる。
人力ジェットコースターに目を回し、
階段から吹き付ける熱気に酔う。
前髪が焦げてしまいそうな、
オレンジ色の炎の舌。
階段は下りられそうもない。
【智】
「他には?」
【るい】
「……こっち!」
【智】
「どっち?!」
るいが手を引く。
僕が引かれていく。
下ではなく、横ではなく、
非常階段でも、秘密の脱出路でもなく。
まるで悪い冗談のように。
彼女は上へと走り出した。
【るい】
「早く早く! 何やってんの、急がないと死んじゃう!」
【智】
「ちょ、ちょっと待って、待ってお願い! 痛い痛い痛い、
腕ちぎれちゃうの〜〜〜!!」
【るい】
「気合いで何とかせい!」
【智】
「物事は精神論より現実主義で!」
【るい】
「若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!」
【智】
「少年の大きな夢とは関係ないよ、この状況!!」
【るい】
「少女だっつーの!」
【智】
「あーうー」
【智】
「きゃあーーーっ!!!」
【るい】
「根性っ!!!」
【智】
「部活は文化系がいいのぉ!」
【るい】
「薄暗い部屋の隅っこでちまちま小さくて丸っこい絵描いて
悦に入って801いなんてこの変態!」
【智】
「ものすごく偏見だあ!」
片手でこっちを引きずり回す、
親戚にゴリラでもいそうな文化偏見主義者な彼女が
ドアを蹴破った。
時間が凝ってカビの生えた、閉じた薄暗い廊下から、
開いた夜の空の下へ。
るいが歯がみする。
熊のように落ち着き無くうろつく。
そうこうしている一秒一秒に、
僕たちは少しずつ確実に逃げ場を失っていく。
炎が追ってくる。
終点は、ここだ。
天に近い行き止まり。
戻る道もない。
異臭が鼻をつく。
目の前が酸欠でくらくらする。
絶望が胸にしみてくる。
こんな場所で、こんな終わりなんて、
想像したこともなかった。
終わりはいつでも突然で予想外だ。
きっと世界は呪われている。
皮肉と裏切りとニヤニヤ笑い。
ぼくらはいつでも呪われている。
届きっこない空を、
荒い息を弾ませながら見上げた。
時代のモニュメントじみた、
空っぽのビルの頂から。
【智】
「――皆元さん!」
【るい】
「るいでいいよ」
【智】
「こういう状況で余裕あるんだね……」
【るい】
「余裕じゃなくてポリシー。全てを脱ぎ捨てた人間が最後に手にするのはポリシーだけ」
よくわからない主張を力説。
【智】
「イデオロギーの違いは人間関係をダメにするよね」
ふんと鼻を鳴らされる。
破滅の前の精一杯の強がりで。
その強がりに薬をたらした。
【智】
「――あっちまで跳べると思う?」
指差したのは不確かな視界を隔てた向こう側。
隣のビルが朧に浮かぶ。
路地一つ挟んだ距離、フロア一つ分ほど頭が低い。
【るい】
「近くないね」
【智】
「…………無理か」
【るい】
「私より、あんた自分の心配したら」
【智】
「あんたじゃなくて、智」
【るい】
「…………」
【智】
「ポリシー」
【るい】
「――私から跳ぶわ。チャンスは一回」
僕らは走った。
呪いを振り切るように、跳躍する。
これまでの人生で一番の踏切。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光、何もかもが圧縮された刹那の秒間。
落ちる、という感覚さえもない。
一瞬の視界にはただ夜ばかり。
すぐそこにあるはずの、
辿り着くべきビルの頂きを見失う。
赤い夜で塗りつぶされた。
世界は手探りだ。
隣り合っていても名も知らないビル。
呼ばれることのない名前は意味を喪失する。
何者でもない、あるだけのものは化石と同じだ。
街の化石。
時代の亡骸。
誰かの失敗の記念碑。
それは呪いになる。
根を張って、街の片隅を占有し続ける。
落下する。
1フロア分の高度差にショックを受けながら、
受け身も取れないで投げ出された。
感覚を置いてけぼりにした数秒が過ぎて。
ようやく意識できたのは、予想より少ない衝突と、
予想よりやわらかいコンクリートの屋上。
【智】
「……とってもやわやわ」
【るい】
「へへへ、ヤバかったよねー」
るい。
【智】
「受け止めて、くれたんだ」
【るい】
「トモ、あのまま落ちてたら頭ぶつけてたかも。
ほんと、ヤバかったよ。自分でわかんなかったろうけど」
視界が効かなかった。
だから、バランスを崩した。
地雷を踏みかけた寒気と逃げ延びた安堵がごちゃごちゃに
混じりながら追いついてきた。
いくつかの痛み、打撲、擦過――
気がつく。
コンクリートよりもずっとやわらかい、
るいの胸に顔を埋めて、
子供をあやすような掌を髪に感じている自分。
【智】
「あの、もう平気で、大丈夫で……」
【るい】
「へー、意外と体格いいんだね。もうちょい、細い系だと思ってた」
【智】
「け、怪我とかしなかった?」
【るい】
「みたまんま。私、頑丈なんだよね」
そういうタイプには見えない。
【智】
「無茶……するんだ、受け止めるなんて……
あんな高さから落ちてきたのに」
【るい】
「感謝するよーに」
貸したノートの取り立てでもする気楽さ。
なんでもないことのように。
いい顔で、るいは笑う。
今日会ったばかりの、まだ名前ぐらいしかしらないような
相手なのに。
自分が怪我をするとか思わなかったのか?
二人まとめて動けなくなったかも知れないのに?
虹彩が夜の緋を受けて七色に変わる。
間近からのぞき込んだそれは、
研磨された宝石ではなく、
川の流れに洗われ生まれた天然の水晶だ。
人の手を拒む獣のように、鋭く強い。
【智】
「あう」
【るい】
「むっ」
【智】
「にゃう?!」
ほっぺたを左右にひっぱられた。
【智】
「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
【るい】
「なんて顔してんのよ。せっかく助かったんだぞ」
【智】
「にゃおーん!」
【るい】
「感謝の言葉」
【智】
「……にゃにゃがとう(ありがとう)」
【るい】
「よろしい」
手を離す。
るいがはね起きる。
伸びをするみたいに体を伸ばし、
肩を回して凝りを解す。
隣にぺたりと座り込んで、
さっきまでいたビルを眺めた。
【智】
「やっと――」
逃げ延びた、
そう思ったのに。
重低音が這い上がってきた。
一瞬なんなのかわからず、
正体に思い至った後になって、
噛み合わなさに戸惑う。
エンジン音だ。
ビルの屋上、エンジン音、上がってくる――
違う絵柄のパズルのピースと同じ。
どこまでいっても余りが出る解答。
【智&るい】
「「な――――――ッッッ」」
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
エスプリの効いた冗談みたいな物体が、
目の前で長々とブレーキ音の尾を引いて横滑り。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
胡乱な物体だった。
どうみても原付だった。
どこにでもある、町中を三歩歩けばいき当たりそうな、
テレビを一日眺めていればコマーシャルの一度や二度には
必ず出会うだろう。
成人式未満でも二輪運転免許さえ取れば、
購入運用可能な自走車両。
価格設定は12万以上25万以下。
ただ一点、ここが公道でも立体駐車場でもなく、
廃ビルの屋上だということをのぞけばありがちだ。
黒い原付――。
目の潰れそうに黒い車両の上に、
同じだけ黒いライダースーツとフルフェイスヘルメットが
乗っかっていた。
【智】
「――――」
緋の混じる夜。
影絵のような影がいる。
こちらを向く。
〔芳流閣、みたいな?〕
首の後ろがちりちりとする。
産毛が総毛立つ。
背筋によく響く、
威嚇の唸りめいたエンジン音が、
赤と黒の混じった夜を攪拌(かくはん)する。
月の下。
届かない空にほど近い場所。
たちの悪い都市伝説が目の前で形になる。
給水塔とパイプと錆びた鉄柵だけが飾る、
そっけなく廃ビルの屋上、そして原付と黒いライダー。
それは噂だ。
幾千もあり、幾万も消える、
小蠅と同じネットの馬鹿話。
黒いひとは黒い王子様。
その身に呪いを受けた黒い運命のひと。
それは吸血鬼。
それは殺し屋。
それは、女の子をどこかへ連れ去ってしまう
――とりわけ綺麗な女の子を。
語られては語り捨てられ消えていく物語。
緊張に乾いた口の中がひりひりする。
にしても。
【智】
「…………原付かあ」
もう少し、情緒というか、TPOというか。
ファッションにも気を遣って欲しいぞ、伝説。
と。
影が鬱陶しそうにヘルメットを脱いだ。
【智】
「あれ?」
そんなのでいいの?
もっともったいぶらないですか、ふつーは?
前置きもなく神秘のベールがはがされる。
詰め込まれていた髪が流れて落ちた。
月を映す瀧(たき)に似た、青白く染まる銀色の髪。
騒がしい夜がそこだけ回り道しそうな、
目に痛いほどの白。
【智】
「あ……」
あれれ?
【るい】
「――――どこの、女のひと?」
【智】
「心当たりアリマセン」
王子様は、お姫様だった。
鋭い目つきと国産品らしからぬ顔立ちが、
暗がりでもよく目立つ。
冷たいナイフの先のようなまなざしをする。
整っている分鋭くて、
触れようとするとその前に喉もとへぶすりと突き刺さりそうだ。
【花鶏/???】
「みつけた――――」
黒い都市伝説にしてはイメージの違う、
明かな女の子の声で、とてつもなく俗っぽい感情が叩きつけられる。
【智】
「……なんか怒ってない?」
【るい】
「トモの知り合い?」
【智】
「だから違います。王子様の携帯番号なんて知らない」
【るい】
「王子様? なにそれ……あれ、女の子じゃないの?」
【智】
「聞いたことない? ほら、都市伝説で……」
【花鶏/???】
「――わよ!」
原付が突っ込んできた。
【智&るい】
「「なわっ?!」」
跳んで避けた。
鼻先をテールランプがかすめて通る。
手加減無用の突っ込み具合だった。
狭い屋上を、黒い原付は殺人的な加速で横切った。
壁にぶつかる寸前で乱暴にブレーキを利かせ、
タイヤの痕をコンクリートに刻印しながら反転する。
【花鶏/???】
「……避けたわね」
【智】
「避けなきゃ死んでるよ!」
無体な苦情だった。
【花鶏/???】
「この無礼者」
【智】
「いやいや、それはどうですか……」
無体に加えて無礼者呼ばわりだ。
避けて無礼というとことは、礼を尽くすには一礼しながら
轢殺(れきさつ)されなくてはいけないのか。
【智】
「……人生は厳しい選択肢ばかりだ」
お時代的でお堅い我が母校では、初対面の相手にも礼を失することがないようにと常々いわれるのだけれど。
こういう不測の事態のマニュアルは与えてくれない。
【智】
「だからマニュアル型って片手落ちなんだよ」
愚痴愚痴と。
【花鶏/???】
「返してもらうわよ」
【智】
「まったく理解できません」
片手じゃなく両手オチくらい理解不能。
人とは日々己の限界と対話する生き物だ。
人類が獲得した言語というコミュニケーションツールの限界を
しみじみと痛感する。
【るい】
「……ほんとに心当たりないの?」
【智】
「そっちこそ、恨み買った覚えとかは?」
二人でこそこそと責任を押しつけ合う。
轢殺死体を増産したがる原付ライダーの恨みを買ってるという
立ち位置は……なんかやだ。
魂的にすんごく黒くて重い十字架。
【るい】
「恨み、恨み、恨み……恨みねえ……んー」
【るい】
「まあ、それはともかくとして」
【智】
「何故誤魔化すの!」
【るい】
「プライベートには口出しして欲しくない」
露骨に流された。
【智】
「円滑な社会を築くには情報の公開が必要だよ」
【るい】
「嘘も方便といいまして」
【智】
「はっきり嘘っていったー!」
【るい】
「あ、きた」
【智】
「ひゃわ!?」
闘牛みたいな勢いで単眼ライトが迫ってくる。
殺人原付。
【花鶏/???】
「返せーっ!」
逃げた。
【智&るい】
「「ひーーーっ」」
身に覚えのない罪だ。
不幸だ。呪われている。
【るい】
「階段!」
【智】
「ラジャー!」
生命危機に裏打ちされた以心伝心。
原付の蹴破った扉から、
下への階段に脱出を狙う。
罠だった。
逃げる場所が一カ所なんだから狙いうちなんて簡単だ。
原付は見事な先回り。
瞬間移動したみたいな位置取りで、
単眼ライトが僕の顔を睨みつける。
そこまでが、ほんの1秒。
足がすくむ。
その次の1秒。
風景がぐるりと回った。
感覚が遅れてやってくる。
倒れる前に顔が痛くなる。
前髪をサイドミラーがかすめていった。
るいに蹴られたらしい。
おかげで原付の衝突コースから弾き出されて地面に転がる。
【智】
「ぎゃぶ」
潰れたカエル風に呻く。
顔を上げると、
るいが腕を振りかぶっていた。
反撃のラリアット。
肘から先が見えない。
女の子の細腕が即席のハンマーと化す。
一瞬にすれ違う原付とるい。
必殺のラリアットは肩先をかすめただけだ。
なのに、
黒いライダーは進路の真反対にはねとばされた。
原付は真っ直ぐ走って壁にぶつかる。
――――――なんだそれ?
普通じゃない。
力じゃない。
おかしい。
はずれている。
【るい】
「――――ちっ」
るいが舌打ち。
ライダーは頭をかばって転がって、
そのままくるっと立ちあがる。
しぶとい……。
まともには食らっていなかったとしても。
それにしたって。
【花鶏/???】
「――この馬鹿力」
片膝をついたまま吐き捨てた。
対峙する。
距離を挟んで。
るいとライダーの視線が衝突する。
【るい】
「殺すよ」
〔気になるのは――〕
《るいのこと》
《レジェンドライダーに注目》
〔るいのこと〕
るいの顔はよく見えない。
ふたつの目だけが向かいのビルの火事を受けとめて、
炯々と光を放っている。
暗がりから睨む獣だ。
群れを率い、牙を研ぎ、
獲物を狙う肉食獣。
〔レジェンドライダーに注目〕
ライダーさんは針みたいな敵意の一方、
冷静に次の一手を思案している。
原付は、るいのずっと後方で、
ハンドルをおかしな方向に曲げて逆立ちしていた。
〔芳流閣、みたいな?〕
サイレンだ。
誰かが消防署に知らせたんだろう。
この辺りにだって普通に人は住んでいる。
すぐにこのあたりも野次馬と警察やらでいっぱいになる。
【るい】
「ちっ」
るいが僕の手を引いてきびすを返す。
戦線を放棄して逃走に移る。
平和主義には賛成です。
それにしたっていきなりだけど。
【智】
「ちょ、ちょっと――」
【智】
「どうしたの?!」
【るい】
「人が来る前に逃げないと」
【智】
「逃げるって、どうして」
【るい】
「警察に見つかったらヤバイでしょ」
【智】
「……そりゃ、不法侵入に不法占拠に家出っぽければね」
【るい】
「なんか言いたいことあんの?」
【智】
「とりあえず、僕は平気だから」
【るい】
「毒を食らわば皿までって言葉あるよね」
【智】
「……毒薬がいうこっちゃないと思う」
【るい】
「あー、それにしても火事だなんて。
荷物とか食器とか替えの服とか色々あったのに〜〜」
【智】
「ごまかした!」
【るい】
「ちょっとは憐れみと慈悲の心はないの?
生活用具のほとんどを失って、家からもたたき出された
可哀想な女の子が一人で苦しんでるのに」
【智】
「大変だなあ」
他人事風味で。
睨まれた。
怖かった。
【智】
「……とりあえず、どうするの?
警察がマズイんなら場所移そうか」
【るい】
「………………」
返事はなかった。
返事の代わりに。
【るい】
「きゅう」
るいは、倒れた。
【智】
「ちょ、ちょっと――――――?!」
〔一つ屋根の下〕
【るい】
「おー、これいける! ほうれん草のおひたしのさりげない塩味が上品で、新鮮な歯ごたえがしゃりしゃりと耳ざわりよく響き渡る感じ!」
【るい】
「卵焼きがプリチー! 焼き上がりはほんのりでべとつかなくて形もバッチし。ほかほかの猫マンマとの食い合わせが実にたまらなくて、私のお腹にキューンと訴える!」
【智】
「どこの美食な倶楽部の会員さん?」
そういえば、すべからくと耳ざわりって似てるよね。
どちらも誤読から、
本来とは違う使われ方が一般化してるあたり。
時間が経つと得てして最初の意味なんて忘れられてしまう。
【るい】
「二重丸をあげよう!!」
るいが、にまっと笑う。
お箸は持ったまま。
お行儀悪しで減点対象。
格好を崩して、がつがつとご飯をかき込んだ。
食べる。
健啖に食べる。
胃袋の底が抜けてるんじゃないかと思うくらいたらふく押し込む。
どんぶりだけでも3杯目。
さっきまで玄関で倒れていたイモムシと同一人物というのが
信じられない。
【るい】
「うまいぞーーーーーーーっ!!!」
左手のどんぶりが高く高くかかげられた。
背景に火山でも爆発しそう。
蛍光灯の後光を浴びて、それなりに光り輝くどんぶり。
いそいそと4杯目をよそぐ。
【智】
「3杯目にはそっとダシって知ってる?」
【るい】
「私、学ないんだよね」
【智】
「そうだろうと思ってた」
【るい】
「あ、これで最後なんだ……」
炊飯器の中が空っぽだった。
単純な計算だよワトソン君、食べたものは無くなってしまうんだ。
なんてことだ、そいつは新発見だよホームズ。
ちなみに僕は一口も食べてません。
【るい】
「最後………………」
世界の終わりくらい、
ものすごく悲しそうだった。
【智】
「……もう1回ご飯たく?」
【るい】
「えー、そんなの悪いよ、ダメだよ、
そこまでよばれたりなんてできないよ」
ものすごく嬉しそうだった。
なんとなく負け犬チックな気分でキッチンに立つ。
手早くお米を洗って炊飯器を早炊きにセット。
ぱんぱんと柏手を打たれる。
【智】
「なによ」
【るい】
「拝んでます」
手をあわせて伏拝されていた。
【るい】
「いやもう大助かり。ここだけの話なんだけど、
私、お腹すくと倒れちゃうんだよね」
【智】
「そんな漫画チックな体質、自慢げに告白されても困る」
【るい】
「死ぬかと思いました」
【智】
「僕は、ここに来るまでに何度も思いました」
【るい】
「そりゃ悲惨」
他人事のように述べる。
あの騒ぎの後――。
るいが倒れた。
どうしたのか、頭でも打ったのか、
実は黒いライダーの百歩歩くと心臓が
停止する必殺パンチが決まっていたのか。
【智】
「大丈夫?! ねえ、しっかり……しっかりしてって!」
【るい】
「お…………お腹、減った」
【智】
「ベタなオチだな、おい」
正解は空腹でした。
ガソリンの入ってない車は動かない。
お腹の減ったるいは動けない。
うんうん唸るグッタリした女の子を引っ張って、
途中でタクシーを拾って自分の部屋まで戻った。
ちょっと恥ずかしかったです。
【るい】
「ファミレスとかでもよかったんだけど」
【智】
「お金持ってるの?」
【るい】
「………………」
捨ててきた方が家庭平和のためだったろうか。
ファミレスを避けたのは虫の知らせもいいところだ。
食べ終わってお勘定になってから、
誰が払うのか血で血を争う不幸な結末になる可能性が
実に80パーセント。
【智】
「そんなに何も食べてなかったんだ、倒れるくらい」
【るい】
「毎日食費が馬鹿になんなくて……」
【智】
「ご飯がなければケーキでも食べればいいじゃない」
【るい】
「ケーキの方が高いよ、きっと」
【智】
「フランスのひとも罪だなあ」
【るい】
「人よりちょっと食べる体質だからって、
こんなにも生きにくい世の中に私は異議を唱えたい!」
起立、挙手、断固抵抗ストライキの構え。
ちょっと食べる体質。
【智】
「それってかなり控えめな表現だよね」
【るい】
「異議は認めません」
わりかし暴君だった。
【智】
「そんで、これからどうするの」
【るい】
「どうしよっかな」
【智】
「質問とか尋問とか事情聴取とか集中審議とか色々あるんだけど」
【るい】
「尋問か!」
【智】
「問い詰めとか」
【るい】
「もうちょい甘味のある方が」
【智】
「焼け出された身の上は甘くない」
【るい】
「寒い時代だよね……」
【智】
「まだ春だよ」
【るい】
「人の心のすきま風が身にしみる」
【智】
「おひつ空にするくらい食べたくせに」
【るい】
「で、次の、もう炊けた?」
朗らかにすり寄られた。
ほっぺたがぺったりくっつく。
尻尾を振って舐め出しそうな空気。
【智】
「まだです」
【るい】
「しゅーん」
【智】
「その前にシャワーしない? お互い真っ黒だし」
【るい】
「ほへー、よく気がつくね。智って嫁属性?」
【智】
「細かい気遣いは人間関係の潤滑油なのです」
【るい】
「むむむ、難易度高いこといわれた」
【智】
「わかんないだろうと思った」
【智】
「じゃあ、先にお風呂使ってよ」
【るい】
「えー、別にあとでいいよ。やっぱキミん家だし」
【智】
「そういうことだけ気つかわなくてもいいから。
ちょっとしか違わないんだし、さっさと汗流しちゃって。
僕はご飯の後片付けしてる」
【るい】
「…………片付けちゃうの?」
【智】
「…………今炊いてる」
【るい】
「うわーい」
喜色満面。
今にも踊り出しそうで、踊らない代わりに飛び上がって、
【るい】
「そんじゃ、ぱっとシャワー借りちゃう」
【智】
「はーい、ごゆっ――――」
脱いだ。
景気はよかった。
止めるまもなくワイシャツを脱ぎ散らかしてスカートを落とす。
【智】
「…………」
シャツの下は下着だった。
ぶらっと脱ぎ散らかした。
ブラだった。
手元に落ちてきた。
脱ぎたて。
【智】
「ほわた」
したっと履き捨てた。
下だった。
【智】
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
【るい】
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ?!!!!!」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【るい】
「な、なによ、突然大声だして?」
【智】
「ど、ど、ど、ど、ど、ど、ど」
【るい】
「トド?」
【智】
「どうして脱ぐのーーーーーー?!」
【るい】
「お風呂……」
【智】
「ここで脱いでどうするのーーーーー?!」
【るい】
「ど、どこで脱いでも一緒でしょ。
女同士だし、減るもんでもないし」
【智】
「減っちゃうのーーーーーーーーー!!!!」
【るい】
「…………」
るいが変なポーズで固まる。
猫騙しされた猫と同じだ。
隣近所の迷惑間違い無しの大声で、
配線がずれたらしい。
ごく自然に。
上から下へ目玉が動く。
意思は本能に逆らえない。
精神は肉体の玩具に過ぎないのだ。
視覚が対象を補足する。
白いうなじ、白い肩、白い胸――
よくしまった身体には贅肉らしいものはなく、
筋肉質というほどではないが鍛えられている。
機能としての完成系。
ある種の肉食獣をイメージさせる駆動体。
視線を引き寄せる磁力が強い。
さらに下へ。
新事実。着やせする形式だった。
〇八式ぼんきゅぼん。
殺人兵器級に出るところがでて引っ込むところが引っ込んでいる。
余所様の妬みとか嫉みとかやっかみとか歯ぎしりとかを
力任せに踏みにじるパワー。
【るい】
「……なに、いってんの?」
【智】
「は、はいっ!」
直立した。
不動だった。
頭のネジがストンと抜けて、
何が何だかわからない。
【るい】
「いやあ、だからさあ……」
【智】
「お、お、お――――――」
【るい】
「お?」
あっけらかんとした、るい。
あからさまで、開けっぴろげで、
真っ向すぎで。
ダメだと思うのに目を反らせない。
【智】
「おふろ、どうぞ」
【るい】
「うん? うん」
小さくなってバスルームの扉を指差す。
そっと示す。
事態の打開を図っての苦し過ぎる一手。
真っ赤になっているのがばれてないことを心底祈る。
【るい】
「……んじゃ、おさきにいただきます」
どうにも収まり悪そうに首を傾げながら、
白いおしりがお風呂に消えた。
【智】
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
冷蔵庫の角にがつがつ頭突きを決める。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け人という字を
掌に書いて飲み込んだら人生は幸福で
新たな世界がきっと開ける新世紀。
【智】
「よし、冷静に戻った!」
ぎゅっと拳を握りしめる。
ほのあったかい。
手の中に小さな布きれ。
上と下だった。
脱ぎたてピンクだった。
【智】
「にゅおにょわーーーーーーーーーーーー!」
【るい】
「そういえばさー、私の服……」
【智】
「……全部まとめて洗ってます」
【るい】
「さっすがトモちんよく気がつくー。いい奥さんになれるよね」
奥さんなんて、実に嬉しくありません。
【るい】
「そういえばさー、シャンプーと石けん……」
【智】
「そこにあるヤツ使っていいから。全部カラにしても問題なしで」
【るい】
「さっすがトモちん太っ腹ー。いい男つかまえられるよね」
いい男なんて、キャベツの芯ほどの価値もありません。
【智】
「ふんむ」
静かになったので思索にふける。
思考リソースを浪費していないと、
背中から聞こえてくるシャワーの音が
爆弾じみた破壊力で突き刺さる。
すぐそこに、女の子、
それも可愛い、しかも裸。
地雷だ。
【るい】
「ふんふんふん〜」
鼻歌まで聞こえてくる。
のんきの上に剛毅だ。
他人の縄張りには敏感かと思ったけど、
案外無頓着らしい。
【智】
「どうしたもんかなあ」
手と頭をマルチタスクで稼働させる。
食べ終わりの食器を水洗いしながら思考の原野を彷徨。
今日のひと騒動――
慌ただしい事実に優先順位を付ける。
確定していることとそうでないことに分割し、
それぞれ仮想の箱に放り込む。
関連性の直線を縦横にリンクさせてグループ化する。
母さんの手紙、るいの父親という人物、
その人物に関して複雑な感情を持っている(らしい)
るい、火事、黒い王子様はお姫様、そして轢殺されかかる。
【智】
「……刺激的な一日だったなあ」
【智】
「平穏無事と没個性を人生の理想にしたい。野良犬になるよりも、軒下で一日中寝てる飼い猫がいい」
【るい】
「そういえばさー」
【智】
「んにゅ」
【るい】
「一緒にはいろ」
【智】
「にゅにゅにゅにゅにゅ〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」
るいが手招きする。
脱衣所から身体半分つきだして、
おいでおいで。
【るい】
「トモっちも汗かいてんだし、一緒入った方がいいでしょ」
【智】
「よよよよよよよよ」
【るい】
「ヨヨ?」
【智】
「よくないよーっ!」
両手を真上に伸ばし、片足をあげる、
どこぞのお菓子メーカーさんご推薦っぽいポーズで錯乱する。
危険になる。
それなのに注視してしまう。
白とかピンクとか黒とか先っぽとか。
何もしていないのに、
いつの間にか後ろが断崖で退路がなくなっていた。
【智】
「きゃーきゃーきゃーきゃー」
【るい】
「いいじゃん。女同士なんだし、減るもんじゃないって」
【智】
「だから減っちゃうのーーーーーーーーー!!!!」
【るい】
「むお、なんかむかつく!」
【智】
「むかつかないむかつかない」
【るい】
「かくなる上は」
【智】
「上も下もないのお」
【るい】
「実・力・行・使」
【智】
「ひぃいぃーーーーーーーーっ」
るいが来た。
大魔神みたく肩で風きって迫ってくる。
手入れがぞんざいそうなわりには健気に育っている胸ミサイルが、たわわんと揺れた。
ピンク。
先っぽ。
【智】
「きゃあきゃあきゃあ」
【るい】
「えへへへへ、ここまできてうだうだいうんじゃねえ」
【智】
「やー、うは、や、やめてぇ、お願い許してぇ」
襲われる。
まずい、だめ、やめてやめて!
【るい】
「大人しくしやがれ、痛い目にあわないうちに脱いだ方が
身のためだぜぇ」
【智】
「きゃあ、きゃあ、きゃあ……だめえ、いやあ、よして、
結婚までは清らかな身体でいたいのぉ」
お願い許して堪忍して!
死んじゃう、僕死んじゃうからぁ……っ!
【るい】
「力で勝てると思ってやがんのか、ここまで来たんだ、
いいかげん諦めやがれえ!」
【智】
「おかあさーーーーーん!」
【智】
「……お願い、許して……」
【るい】
「ぬを」
涙目で懇願。
死ぬ気で抵抗したのにだめだった……。
汚されちゃった感じで力尽きる。
キッチンの床に押し倒されて、
右腕一本で縫い止められて。
熊とでも取っ組み合ってる気がした。
【智】
「僕、だめ、だから……」
喉に絡んで、
うまく声がでない。
乱れた服の裾から肌がもれるのを押しとどめようとして、
華奢な腕で自分を抱きしめた。
隠しきれない胸元から白い肌がのぞいてしまう。
【るい】
「を……」
生まれたままの格好のるいが、
のしかかっていた。
濡れ髪が額に張り付いている。
シャワーの雫を肌にまとわりつかせて、
すぐそこにある前髪から水滴が落ちてくる。
湿っぽい体温と石けんの匂い。
【るい】
「だ――」
【るい】
「だめ……て……」
なにやら剣呑な目つきをされる。
屍肉を目の前にした空腹のハイエナだった。
ちょっとちょっと……。
この局面でその目つきは。
意味不明な危機感に脊髄がちくちくする。
【智】
「その、僕……っ」
思考する。
思考せよ。
思考するとき。
この場を逃れる方法を――――!
このまま剥かれてお風呂に連れ込まれてしまったら、
僕の人生的な危機だ。
【智】
「ぼ、ぼく」
【るい】
「…………」
まな板の上の鯉気分で。
【智】
「……おっぱい、ちっちゃいから」
誤魔化す。
本当は胸なんてどっちでもいいんだけど……。
【るい】
「…………」
反応小。外しちゃったろうか?
【智】
「ひとに見られるの、恥ずかしくて……」
【るい】
「……ぁぅ……」
【るい】
「…………なんか、かわいい」
【るい】
「は、はわ?! ちょっと、なにいってんの私!
正気に戻れ、目を醒ませ!!」
なにやら、るいが苦悩しだした。
意味不明にぶるぶるかぶりを振っている。
意味不明度、幾何級数的に上昇。
それにしても生物学的神秘だ。
見た目の筋量から連想できない出力系。
実は骨格から異質な生物だとか、
背中にケダモノが宿ってるとか。
【智】
「……人間は考える葦である」
好奇心が刺激された。
手を伸ばして掴んでみる。
もにゅ。
【るい】
「にゃにゃ、にゃわ?!」
【智】
「やわらか手触り」
見た目同様十二分にやわらかい。
あのビルでもそうだった。ちょっと信じられない高出力系が、
この構造に隠されている。
【智】
「すごいね、人体」
【るい】
「そそそそそ、そーいう趣味、私ないから!!」
【智】
「は、はにゃ?」
掴んでいたのは、おっぱいだった。
【智】
「にゃーーーーーー!!!」
【智】
「あー、すっきりした」
お風呂に入ると疲労が節々からにじみ出てくる。
あがった瞬間一歩も動きたくなくなるくらいぼーっとつかっていると、大変な一日だったと実感がわいた。
恥ずかしいのでお風呂の中で着替えた。
【智】
「んで、どんな…………」
【るい】
「にゃわ、どっかした?」
ダイニングに戻る。
るいは、僕が貸したワイシャツ一枚羽織っただけの格好だった。
はいてなかった。
【智】
「あんの」
ロボっぽいぎこちなさで。
【るい】
「あいよ」
【智】
「なんで、履いてないの?」
【るい】
「洗濯してんでしょ。トモが洗ったんだし」
そうでした。
【智】
「替えとか」
【るい】
「荷物ほとんど燃えちゃった」
そうでした。
【智】
「ズボンとか」
【るい】
「面倒なんだよね、部屋でズボンとか履くの。ま、いいっしょ」
すごくよくないです。
地雷だと思ってたら核爆弾でした。
なまじ見えるか見えないかというフェチシズムと狙い澄ました
鉄壁のライン取りが危険度を急上昇させます。
白い布地の下に透ける色々なの、角度とか。
今ボタンの隙間から見えたのは確かにピンクだった気がする。
うなじとか太ももとかどうでもいいところが一々目に入ってきて
ワザとやってるのかと思う。
【るい】
「んでさ」
あぐらを組んでた足の位置を変えた。
見えた。
色々。
【るい】
「どったの、いきなりうずくまって?」
【智】
「どうしたのといわれても」
【るい】
「人と話するときはキチンと相手を見る!」
【智】
「ぎゃわっ」
首ごとグキッてされた。グキッて音した。本当にした。
【智】
「あう〜」
どうしても目にはいる。
見てはいけないと思っても超電磁の力で引き寄せられる。
考える。
ズボンを履かせる方法、下着を履かせる方法、
コンビニで下着を買ってくる方法、パジャマを貸して着せる方法。
【智】
「その……やっぱり部屋でも……裸って言うのは……」
【るい】
「すぐに乾くんでしょ、私の」
【智】
「うん」
【るい】
「それならいいじゃない、細かいことは」
細かいことなのか?
本当に良いのか?
そうだ、なんとなくいい気になってきた。
このまま素晴らしい世界に生きよう。
あなたの望むシャングリラへようこそ。
【智】
「……うん」
状況に流されて妥協的返答をする。
【るい】
「そういえば、トモってすっごい内股で座るんだ」
【智】
「人にはやるせない事情がいっぱいあるから……」
やるせなさすぎて、僕は僕が可哀想だ。
【るい】
「そんで、なんだっけ」
【智】
「そうだ、尋問!」
【るい】
「圧力的な単語だ」
【智】
「事情聴取」
【るい】
「警察っぽくて嫌だなー」
【智】
「我が儘度高っ」
【るい】
「それに事情っていわれても……なんの事情よ」
腕組みして、眉をよせて、ジト目をする。
【智】
「あの、黒い仮面のライダーは?」
【るい】
「悪の秘密結社と戦ってんのと違うかな」
【智】
「みつけたとかいってなかったっけ」
確かに言ったのだ。
みつけた、と。
僕か、るいか、あるいはその両方か。
彼女は捜していたのだ、
なんらかの理由で。
理由――。
原付で屋上まで上がってくる。
非常識な相手に追いかけられそうな、
その上、問答無用の轢殺死体にされかける、
そんな理由。
【るい】
「トモじゃないの?」
【智】
「平穏無事と没個性が生きる目標なんだよ」
あんな面白そうなものに心当たりはない。
【るい】
「没個性の方は、はなから無理っぽくないか、おい」
【智】
「目標は遠いほど価値があるって」
【るい】
「なんか難しいこといわれた」
【智】
「エセ哲学っぽい講釈はいいとして、るいは本当に心当たりとか買った恨みとか誰かを殴り殺して仇討ちされる思い出とかないの?」
【るい】
「……私をなんだとおもってんのよ?」
【智】
「…………」
言ったら怒りそうなので黙秘権を行使する。
【智】
「あの子、過激だったし、容赦なかったし、しかも狙ってたし……怨恨とか報仇とかそっち系の理由じゃないかと思うんだよね」
【るい】
「恨みかあ」
【智】
「逆恨みでも可」
【るい】
「まあ、たまに街でケンカしたりとか殴ったりとか蹴ったりとか投げたりとか捨てたりとか」
【智】
「………………たまに?」
【るい】
「………………たまに」
人生の不良債権が山積みだった。
【るい】
「んなこといっちゃって……トモは、どなの?」
【智】
「それって恨まれてるか話?」
【智】
「うーん、恨み恨まれ人生街道……」
【るい】
「世知辛い道行きだねえ」
【るい】
「ま、るいさんの眼鏡で見たところ、恨んでるひとはいんじゃないかって思うけど」
【智】
「そんなに悪そうにみえる?!」
金槌で殴られたくらいショックだ。
【るい】
「すっごくいい子に見える」
【智】
「もしかして誉め殺されている?」
【るい】
「人を恨むのってさ、善悪じゃないんだよね」
るいが膝を立てる。
見えそうで、見えない。
両手で足を抱いて丸くなった。
声のトーンが少しだけ落ちる。
それっぽっちで不思議なくらい華奢に感じた。
指先が床に頼りない模様を描く。
無意識っぽく。
きっと本人も気がついていない。
【るい】
「……いい人だから恨まれないとか、悪い奴だから恨まれるとか、そういうのって本当は違うでしょ」
【るい】
「よくても悪くても、原因があってもなくても、自分が知ってても知らなくても、お構いなしの関係なし」
【智】
「関係なし、か」
正そうとして恨むのではなく、
過ちに憎むのでもない。
差異にこそ怨恨は生成される。
理想との違い、自分との違い、
周囲との違い――あらゆる違いが引き金を落とす。
哀れな自己矛盾。
個性といい、自分自身という。
誰もが違いを求めるくせに、
誰も違いを受け入れられない。
感情の弾丸が飛ぶ先は最初から食い違っている。
【るい】
「人と違ったら違った分だけ恨まれ易くなるんだから。トモなんて、かぁいいから、知らないとこでどんだけ恨まれてたっておかしくないよ、きっと」
【智】
「やだなあ」
【るい】
「ストーカーに狙われたり」
【智】
「女の子でストーカーっていうのはどうなんだろう」
【るい】
「最近はそっちの趣味の子多いとかいわない?」
【智】
「理解できない」
【るい】
「……そうなんだ。トモは男の方がいいのか」
それも願い下げですけどね。
【智】
「ま、まさか!!」
震える手で、るいを指差す。
そう言えば、さっきの目つき……
るいにはそっちの趣味が――――!
【るい】
「ないないないないないないないない!」
身体全部で力説。
【智】
「ほっとしました」
【るい】
「困ったわね。どっちも心当たり無しなんだ」
レジェンドライダーブラックの正体は、
頑として不明のままだ。
【智】
「続きは明日にしよう。シャワー浴びたら疲れがドッと出た感じ」
まぶたが重い。
頭が接触不良でチカチカする。
【智】
「今日は泊まっていってよ」
【るい】
「いいの?!」
【智】
「他に行くあてとか」
【るい】
「ないない、全然ない、全部燃えてキレイさっぱり」
身軽さが素敵だ。
【るい】
「やったー、お布団のあるお泊まりダー!」
【智】
「お泊まり……」
単語を脳が咀嚼(そしゃく)する。
自分の発言した言語が、
致命的な切っ先になって自分の胸に突き刺さる一瞬。
我が家に、他人を泊めるという、事態。
危機管理の甘さがもたらした危機的状況に愕然とした。
【智】
「それって不味いよ!!」
【るい】
「なにが?」
きょとんとされる。
3秒で前言撤回するのは、
いくらなんでも気がとがめた。
その上、撤回すると放り出すことになる。
荷物もなく焼け出された家なし子を
危険な野獣のうろつく夜の荒野に投げ出して知らん顔。
いや、るいなら平気かも知れないけど。
良心がとがめた。
状況的に両親の方がとがめそうだ。
【智】
「いや、その、でも、ほら、女の子同士一つ屋根の下っていうのって、なんだか……」
【るい】
「なんかいいね、そういうの」
裏表のない顔で。
それで何も言えなくなった。
【智】
「………………そだね」
【るい】
「お泊まりかあ。なんか、わくわくする」
【智】
「なにがわくわく?」
【るい】
「初体験」
台詞でダメになりそう。
【るい】
「今までお泊まりとかしたことないんだよねー」
【智】
「そうなの……」
皆元るい。
変なやつだ。
家なき子の放浪者。
ベッドの上でクッションと遊びだす。
赤い夜の屋上で見た獣じみた眼をした生き物はどこにもいない。
どこにでもいそうな女の子が、
飾り気のないクッションを猫の子みたいに抱きしめている。
【るい】
「えへへへへ」
何が嬉しいのかニヤニヤ笑う。
【智】
「なによ?」
【るい】
「どきどき」
もっとダメになりそう。
【智】
「そんじゃ、お休みなさい」
【るい】
「えへへへへ」
【智】
「あの、さ」
【るい】
「なに?」
【智】
「一人、下に寝てもいいんじゃない?」
この部屋で寝る場所といえばベッドか床だ。
ソファーは使えない。
スプリングが壊れていて、
寝ると確実に身体が痛くなるからだ。
まさに絵に描いたソファーだ。
季節柄、床に寝ても問題はないはず。
【るい】
「いいじゃない、せっかくベッドあるんだから、平気でしょ、女の子同士なんだし、一緒に寝ても。私、ベッドひさしぶりなんだ」
【智】
「僕が下に――」
【るい】
「だめっ」
【智】
「ちょ、や、あかん、あかんの、ひっぱらないで〜」
【るい】
「なら、大人しくする」
【智】
「……はい」
【るい】
「ふかふかだあ」
【智】
「そりゃ、ベッドだから」
【るい】
「トモって感動が足りてない」
【智】
「人生なんて平穏無事が一番なの」
【るい】
「…………平穏無事か」
【智】
「まあ、それが一番大変なんだけど」
【るい】
「そだね」
【智】
「もう、きょうは寝よ。疲れちゃった」
【るい】
「うん」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【るい】
「あの、さ」
【智】
「…………」
【るい】
「トモって、なんか、かわいい」
【智】
「ぶっ」
【るい】
「やっぱ起きてた」
【智】
「はめられた!?」
【るい】
「へへへ」
【智】
「早く寝ないと……睡眠不足は美容の天敵」
【るい】
「ひさしぶりのベッド、なんだか寝つかれない」
【智】
「布団の方がいいなら」
【るい】
「……そういうんじゃないよ」
【るい】
「お布団のある生活って不思議だ」
【智】
「不思議じゃなくて普通だと思う……」
【るい】
「普通じゃなかったぞ」
【智】
「そっちが特別」
【るい】
「いっつも寝袋」
【智】
「女の子的に不都合っぽい」
【るい】
「むわ、また難しいこと言う」
【智】
「難しいんだ……」
【るい】
「家があるっていいなあ」
【智】
「るい、実家は……」
【るい】
「ないも同然」
【智】
「そう、なんだ……ごめん」
【るい】
「なにが? 別に本当のことだし。だから、ずっと放浪人生なの」
【智】
「この世は荒野っぽい」
【るい】
「あそこ、結構居心地よかったのになあ」
【智】
「あの廃ビル? 焼けちゃったね」
【るい】
「荷物だってそろえたのに。食器とか」
【智】
「バイタリティだなあ」
【るい】
「全部焼けちゃった……寝袋も持ってくるの忘れてたし」
【智】
「……明日からどうするの?」
【るい】
「んー、どうしよっかな」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【智】
「きゃわっ?!」
【るい】
「お、黄色い声」
【智】
「なにするのーっ」
【るい】
「指でツツー」
【智】
「そんなことはわかってます」
【るい】
「心温まるスキンシップ」
【智】
「温まらないよ、ゾクゾクだよ!」
【るい】
「心配しないでよ。私、そっちの趣味ないから」
【智】
「…………………………」
【るい】
「疑(うたぐ)るな」
【智】
「早く寝ようよぉ」
【るい】
「誰かと一緒に眠るってさ」
【智】
「……うん」
【るい】
「なんか変な気分」
【智】
「身の危険?!」
【るい】
「そっちじゃない」
【智】
「安心しました」
【るい】
「誰かがいるって、ほっとするかも」
【智】
「邪魔なだけだと思う」
【るい】
「そうかな?」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
音が途絶えて、真っ暗な部屋に自分以外の
体温と息づかいを感じながら、
ゆるい眠りの縁を漂泊する。
誰かの気配を部屋に感じるのは不思議だ。
縄張りを侵されている。
異物感と、違和感と、一滴の安堵。
どうして、ほっとするのか。
孤独ではないからか。
るいは先に眠ってしまった。
ずっと話していたそうだったのに、
いつの間にか自分だけ穏やかな寝息をたてている。
【智】
「自分ペースだなあ」
薄目で闇を透かす。
白い顔がびっくりするくらいに近い。
あまりに無防備な寝顔。
心臓が跳ねた。
【智】
「どうしようか、これから……きゃわ?!」
るいがしがみついてきた。
【智】
「にゃわ、にゃにゃわ、ちょ、ちょっとちょっと、ヤバイ、あぶない、それは危険なのーっ」
悲鳴。
反応無し。
眠っていた。
寝ぼけていた。
【るい】
「にゅー」
寝息が胸あたりから聞こえた。
ぎゅーとされる。抱き枕っぽく。
【智】
「にゃわ…………!」
心臓が不整脈みたいにガシガシいう。
シャツ一枚だけで下着も何もない身体の曲線が押しつけられてくる。
「ここ」にも「ここ」にもナニかが当たっていた。
こっちが胸でこっちが太ももで、腕と足を絡められて逃げられなくなった状態で、
意識を集中するともっと色々なモノが当たっているデフコン4状態がしっかりわかる。
【るい】
「んん……」
【智】
「にゃ、にゃ、にゃ、にゃ」
いつも使っているシャンプーの香りなのに、とても甘い。
混じった肌の匂いが鼻腔をおかしくする。
完全に寝ぼけていた。
寝相は悪かった。
すりすりされた。
人生の危機。
【智】
「きゃーーーーーーーーーーーー」
(平気でしょ、女の子同士なんだし、一緒に寝ても)
涙する。
平気じゃない、全然平気じゃないよ。
なぜならば!
――――僕は、女の子じゃないのだから。
〔後ろの彼はツンデレヒロイン〕
【ニュースキャスター:女性/ニュース】
「昨日午後6時頃、田松市でビル火災が発生しました。火災のあった地域は、中断している市の再開発指定区域でしたが、放置区画として問題になっており、」
【ニュースキャスター:男性の声1/ニュース】
「朝日です。現場付近に来ています。現在の時刻は午前7時。火災から一夜明けて、ここから見るとビルの無惨な姿がよくわかります」
【ニュースキャスター:男性の声1/ニュース】
「早期の消火には成功したものの、長らく無人区画として放置されてきたこの一帯には多数のホームレスが押し寄せており、問題を先送りにしてきた行政の怠慢が、」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「ようするに全ては政治の怠慢ちゅーことですわ」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「以前の市議会がどんぶり勘定でやらかした再開発計画がものの
見事に頓挫して以来、ほったらかしにしてたのは連中ですからな」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「はじまりもそうなら終わりもそう。とにかく政治家ちゅーのは
いい加減なもんですけれど、」
【智】
「とわっ!?」
空から落っこちた。
飛んでいられたのは夢の中だけだ。
おでこを打って引き戻され、居眠りから目が醒める。
【宮和】
「――にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました」
【宮和】
「見ると、もうじつに、金剛石や草のつゆやあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、」
【宮和】
「その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光のさした一つの島が見えるのでした」
【宮和】
「その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいいか、」
【宮和】
「すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした」
【智】
「はにゃ……」
ようするに授業中。
断線した記憶回路の再接続を見計らって、
真後ろの清廉な朗読が一区切りついた。
黒板を切り刻むチョークの切っ先がピタリと静止する。
教師の背中に睨まれた気がした。
【智】
「……ぁぅ」
【教師】
「冬篠さん、結構です。では、次の方」
【宮和】
「はい」
失態は見過ごされたようだ。
かくて優等生の看板は今日も維持される。
ほっと一息。
【宮和】
「珍しいですわ、和久津さまが授業中に違法行為だなんて」
【智】
「居眠りって違法だったんだ」
教師は見過ごしても、
後ろの席のチェックが厳しい。
【宮和】
「清く正しい和久津様が、違法なことごとに手を染められるには、やむにやまれぬ事情があろうかとお察しいたしますが」
【宮和】
「昨日は徹夜でどのような犯罪行為を?」
【智】
「僕ってそんなに怪しげなことしてんの!?」
【宮和】
「違法行為をなさるのは犯罪者の方なのでは」
【智】
「だから夜も違法なことをしているはず?」
【宮和】
「さすがは和久津さま。一を聞いて十を知るとは、
まさにあなたさまのためにあるような言葉なのですね」
後ろの席の冬篠宮和は大まじめだ。
普通の真面目とは毛色が違う。
マルチーズとマルチメディアくらい違う。
困ったことに本人的には本気の本気だ。
人呼んで、天才さん。
天災さんという噂もちらほら。
天災さんは成績勉学の類なら人後に落ちない。
孤高の優等生様も、天災さんの足下にしか及ばない。
【智】
「……珍しいね。宮が授業中に話しかけてくるなんて」
宮和は授業が好きだ。
勉強ではなく、知識を蒐集(しゅうしゅう)して頭の中に
並べるという行為が好きなのだ。
【宮和】
「和久津様の奇行に、謎を解明せよと指令を受けました」
【智】
「そんなヤバイ指令、誰から受けるの?」
【宮和】
「好奇心は猫を殺すのです」
【智】
「脅迫された……」
こそこそとハンカチで涎を拭う。
居眠りの証拠を隠滅し、
居住まいを正して背筋を伸ばす。
優等生のできあがり。
【教師】
「結構です。では、次は――――」
誰かが教科書の頁をめくる。
乾いた紙の音が波紋のように部屋に広がって凪ぐ。
黒い頭が規則正しく配列された教室は静かにすぎた。
教室の水面から、
自分がぽかりと浮かび上がる、
いつもの気分を咀嚼(そしゃく)する。
授業の内容は意味のない暗号で、
黒板には酔っぱらったミミズがのたうちまわっている。
教室と僕。水と油だ。
なのに、混じり合わない自分が、
代わりに作った優等生の仮面は、思いの外にできがよかった。
見抜いた人間は3人しかいない。
宮はその一人だ。
仮面は誰もがかぶる。
自分と世間の折衷点を定めてやっていく。
半分は本気で、半分は必要に迫られて。
折り合えない異物は排斥される。
集団の力学というものだ。
僕は地雷だった。
地雷であることを止められなかった。
和久津智。
南聡学園2年生『女子』。
生物学的には『男子』。
それが僕の秘密だ。
仮面の裏側だ。
死んだ母親の言いつけに従って、僕は男であることを隠して、
女の子の振りをして、世間を偽り生活している。
男の子のくせに、女の子の席に座っている。
学園の名簿や入学証明の書類には「女子」で記載されている。
学園のトイレは女の子の方に入る。
体育の授業は時々欠席する。
身体検査や水泳の類を如何にクリアするかは一大イベントだ。
世の中と人生には、
好き嫌いを越えてままならないことが山ほどある。
水は低きに流れる。
集団の力学は隙間をうかがい、常日頃から目を光らせている。
返す返すも残念なことに、揚げ足を取られる覚えは、
プレゼントで配りたいくらいあった。
細い綱を踏み外したら奈落の底へ一直線。
潜在的な異物が、
異物であることから逃れるための方法は二つしかない。
植物になるか。
空を飛ぶか。
【宮和】
「お顔が芳しくありませんわ」
【智】
「お顔の色が、です」
【宮和】
「宮にはわかってしまいました」
【宮和】
「お貸ししましょうか?」
宮がごそごそとカバンの中を探る。
ブルーな心配のされ方だ。
【智】
「持ってますから!」
【宮和】
「それはようございました」
ブルーブルーな気分で、
親の仇のようにノートを取る。
集中できない。
まぶたの裏に、裸Yシャツがベッドの上で
あぐらをかいて陣取っていた。
るい――どうしているだろう。
焼け出された家なき子。
これからどうするつもりなのか。
予定も計画もなにも考えてない様子。
気任せ風任せ。
どこまでも刹那的な、鉄砲玉。
【智】
「珍しいついでに聞くんだけれど」
【宮和】
「なんでしょうか」
【智】
「宮は、犬とか猫とか拾う方?」
【宮和】
「あわれで無様な野良犬に情けをかけたために、昨日の和久津さまは徹夜なさったのですか」
僕がとてつもない人でなしに聞こえる。
【智】
「日本語ってやだねえ」
【宮和】
「美しい言語でございます」
【智】
「ところで犬の話です」
【宮和】
「あわれで無様な」
【智】
「枕詞なんだ」
【宮和】
「お拾いになられたのですか」
皆元るい。
家を出る時にはまだ寝てたから、
起こさずに来た。
家を出るなら、鍵をかけてポストの中に
入れておいてくれと、合い鍵とメモを残してきた。
【智】
「……歯止めつけないとまずくなりそう」
成り行き任せの状況が成り行き任せに進行している。
【宮和】
「反省なさっておられるのですね」
【智】
「段ボール入りの犬とか拾ったら、宮はどうするの?」
【宮和】
「持ち帰ってご飯を食べさせて一緒にお風呂に入って洗ってから同じベッドでお休みしまして、起きたあとにネットで里親を捜すことにいたします」
【智】
「ものすごく具体的だ」
おまけにネットときた。
今日日珍しくもないが、宮和と電子世界では食い合わせが悪い。
鰻と梅干しだ。
【智】
「立ち位置のパブリックイメージってあるよね」
【宮和】
「私はパシフィックリーグのファンでございますよ」
【智】
「アナログに生きて」
【宮和】
「何の話題でしたでしょうか」
【智】
「犬の話」
【宮和】
「翌日登校しましたら、和久津様に犬を飼うことを勧めるために手段は選ばないことをお約束します」
心の底から朗らかに。
【智】
「そんなに僕に回したいのか!」
【宮和】
「水は低きに流れるものなのです」
【智】
「僕の方が低いんだね!?」
【宮和】
「言ってよろしいのですか」
【智】
「言わないでください、お願いですから」
【宮和】
「さようですか」
もの凄く残念そうにされた。
【宮和】
「本音はさておきまして」
【智】
「冗談と言うべきところじゃない?」
【宮和】
「犬をお拾いになられたのですね」
【智】
「……おおむね」
【宮和】
「さすがは和久津様です。孤高の秀才として高嶺の花と謳われながら、雨に濡れて痩せこけた野良犬を優しく抱き上げて連れ帰る、まさにツンデレの鑑」
【智】
「……どこから持ってきたの、その四文字熟語」
【宮和】
「ネットで、知人に、勧められました」
情報化社会の悪癖だ。
【智】
「勧められたって、四文字熟語?」
【宮和】
「成年向けゲームを」
【智】
「…………」
【宮和】
「…………」
【宮和】
「ぽっ」
楚々と赤面される。
楚々とされても、ツッコミどころが多すぎてどこから突っ込めばいいのか意味不明だ。
【智】
「……勧めるような、男の知り合い、いるんだ」
特殊系孤立主義者の宮が、そういう知り合いを持っているというのが、そもそも驚きだ。
【宮和】
「女の方ですよ」
【智】
「…………」
何年経っても、男の子には女の子がわからない。
【後輩1】
「先輩、さよならー」
【後輩2】
「失礼しまーす」
【智】
「ごきげんよう」
放課後。
脇を駆けていく下級生が慌ただしく頭を下げる。
背筋を伸ばす。
クールに受け流す。
きゃらきゃらとした黄色い声の春風。
優等生っぽく流れていく。
従容とした足取りは乱さない。
走るなんてもっての他。
金看板には制限が多い。
【宮和】
「今日はお急ぎなのですね」
【智】
「わっ」
宮が足音もなく出現する。
【智】
「いっつも心臓に悪い」
【宮和】
「体質なのです」
【智】
「……なにが体質?」
【宮和】
「それよりも」
【智】
「流された!」
【宮和】
「お急ぎでございますか」
【智】
「……事情がありますから」
不思議な鋭さが宮にはある。
外面を貫いて、洞察の手を伸ばす。
いつもよりほんの少しだけ早い足取りが、バレていた。
【宮和】
「さようでございました。和久津様はあわれで無様な野良犬をお拾いになっておられたのですね」
【智】
「本人には聞かせられないなあ」
もにょりながら、上から3番目の下駄箱を開ける。
【宮和】
「今日は控えめですのね」
本日の日課は3通だ。
色とりどりの柄の便せんが、下駄箱に収まった革靴の横にそっと忍ばせてある。
差出人は男子と女子がおおよそ半々。
中味は8:2の割合でラブレターと悪戯だ。
【智】
「哀しい」
【宮和】
「喜ぶべきものではないのですか」
【智】
「半月ほど前には、前世の恋人からお前を殺すって愛の告白をされたよ」
【宮和】
「素敵ですわ」
【智】
「そんな素敵がいいなら差し上げます」
【宮和】
「そういえば、和久津様はほとんど読まずに丸めてポイされておられますね」
【智】
「……何で知ってるの」
【宮和】
「愛の力ですわ」
哀っぽい。
僕は地雷で、地雷であることを止められない。
潜在的な異物が、異物であることから逃れるための方法は
二つしかない。
植物になるか。
空を飛ぶか。
つまり――、
目立たないようにひっそりするか。
振り切って高みに一人で胸を張るか。
選択肢はあっても、
得てして選べるほどの自由があるとは限らない。
人生は難題の連続だ。
【宮和】
「やはり和久津様はツンデレ様なのですね」
【智】
「様を付ければいいというものでもないです」
客観的に判断して、和久津智は「可愛い女の子」だった。
生物学的な差異は棚上げで。
没個性な一個人として植物のように穏やかに集団へ埋没するという、幸福かつ安易な選択肢がない。
宿命づけられていた孤高。
孤高というと聞こえがいいけれど、望まぬ孤高は孤立となにも
変わらない。
安直かつ危険な環境だった。
異者は、異なるという一点だけで排除の力学に晒される。
必要なのは溶け込むこと。
敵を作らず、味方を踏み込ませず。
二重スパイもカルト宗教の信者も、
秘密保有者の一番のハードルは、そこだ。
僕には、そこからさらにもう一つ。
目立たないという最善が不可能なら、
集団の力学に対抗し得る自衛力を確保しないといけない。
ステータスが必要だ。
クールで、孤高の、優等生。
【宮和】
「…………」
【智】
「どうかしたの?」
熱視線。
視殺されていた。
【宮和】
「見惚れておりました」
今にも殺しそうな視線だったけど。
【宮和】
「お美しいですわ、ツンデレ様」
【智】
「その名前やめてください。
四文字カナ名は安易なレッテル張りへの最短コースです」
【宮和】
「可愛いと思うのですが、ツンでデレ」
【智】
「デレがないです。ツンもあるかどうかわかんないです」
【宮和】
「難しいものでございますのね」
【智】
「難しいんだ……」
【宮和】
「和久津様のところになら、王子さまも現れそうでございますのに」
【智】
「王子さま」
白馬の王子さまに迎えられるところを想像してみた。
死にたくなった。
【智】
「願い下げです」
【宮和】
「残念ですわ。美しい方を連れ去るということですから、和久津様ならきっと選ばれるだろうと心待ちにしておりました」
【智】
「……? それは王子さま違うのでは」
身代金誘拐犯?
【宮和】
「ネットの巷にそのようなお話が。
黒い王子さまは女の方を連れ去るのだと」
都市伝説の方だった。
【智】
「黒いのは懲り懲りだよ。胸焼けがする」
【宮和】
「返す返すも残念でございます」
【智】
「……連れ去られて欲しいの?」
【宮和】
「言ってよろしいのですか」
ちなみに。
宮和はどこまでも真剣だ。
〔失われた伝説を求めて〕
昔々ではじまるお話の類だと、拾ってきたナニモノカは、
おじいさんが畑に出た隙に姿を消すことがままある。
一晩寝て起きて、学園という日常を通過して。
頭が冷えた後。
なにも言わずにふらりと彼女が去ってしまったら――
悩みが一つ消える。
皆元るい。
拾ってきた野良犬みたいに、
突然消えてしまってもおかしくない毛並み。
予定がない、未来がない、根っこがない、当然家もない。
一緒にいるとロクでもない事がやってくる。
火事にバイクに都市伝説に妖怪大食らい。
呪いの磁石はどちらだろう。
平和を希求した。
住み慣れた部屋の扉をくぐる。
惨殺現場になっていた。
【智】
「うわぁ」
玄関に、るいが死んでいる。
身体を無惨なくの字に曲げて、地面を掻いた指先が踏み込んだ足のちょうど手前で力尽きていた。
夏の終わりの蝉の死体を思い出す。
【智】
「……死んでる?」
【るい】
「わおん」
死体が情けなく吠えた。
【智】
「お腹減ったんだ?」
【るい】
「ばうばう……」
【るい】
「うまいぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
復活した。
乾燥ワカメ並みの復元率だ。
【智】
「ちょろい」
【るい】
「なんかいった?」
【智】
「とんでもありません。おいら神様です」
【るい】
「意味不明です」
【るい】
「なんて顔してんの。もしかして、お味噌汁にゴキブリでも入ってた? するとこれは危険な黒いミソスープ?! やばっ! でも、とっくに食べちゃったし……」
【智】
「わりと呆れてるんです」
【るい】
「なーんだ」
あっけらかんと食事再開。
図太い。
砂の山を削るみたいに山盛り白米が消えていく。
あの細い身体のどこに収まってるんだろう。
女の子には秘密が一杯だ。
【るい】
「もぎゅもぎゅもぎゅ(ホントに死ぬかと思いました)」
【智】
「食べながら喋らない」
【るい】
「もぎゅもぎゅもぎゅ」
……喋らなくなった。
【るい】
「ごちそうさまでした」
【智】
「おそまつさまでした」
るいが手を合わせて、感謝の祈り。
偶像扱いされた。
【るい】
「いんやー、トモちんご飯つくるの上手だから食が進んでしかたないよねー。太らないかどうか心配」
【智】
「あれだけ食べて太らないなら、そっちのが心配だって」
【るい】
「私、これでも無敵体質」
【智】
「漫画体質の間違い」
【るい】
「それはどうか」
【智】
「だいたい倒れるまでお腹減らさなくても、冷蔵庫開けて何か食べてればよかったのに」
【るい】
「私だってプライドあるっす。一宿一飯の恩義をあだで返すような真似はできんでげす」
出されたお米ならおひつを空にするのはOKらしい。
行動規定の基準が今ひとつ理解しがたい。
【智】
「どこの生まれなのかでげす」
【るい】
「げすげす」
高度に暴君的な胸をはる。
たわわ。
昨夜比1.5倍に実り多き秋。
【智】
「…………なんで、つけてないの?」
薄手の布地がいい感じに透けていた。
オブラート梱包生乳。
【るい】
「部屋ン中だと面倒だし」
【智】
「つけてください」
【るい】
「えー」
反論を黙殺する。
ベランダから出がけに干したブラを取ってきた。
手にしたピンクの布きれに複雑な所感を抱く。
女の子の格好をして世間を偽るのと、女の子の下着を洗って
差し出すのは違う。けたたましく違う。
【智】
「初体験……」
恥ずかしタームにどっきどき。
【智】
「にしても」
【智】
「……一人残して出たのはやばかったな」
半日を回顧して、わからないよう舌打ちした。
部屋に、るいを残して、外出した。
迂闊な。
部屋に来る友達なんて何年もいなかったから、そこまで気を
回さなかった。
他人は欺(ぎ)瞞(まん)できても生活は偽装はできない。
テリトリーでは無防備になる。
秘密の漏洩の危険性――。
探すつもりがなくても、何かの拍子に証拠が目に入ってしまう
ことだってある。
【智】
「ばれなかったみたいだし、ツキは残ってるか」
【るい】
「なんの話?」
【智】
「うんむ、焼き討ちされたりお犬様ひろったりっていうのは、
ツイているとは激しくいえない気が」
どっちかいうと悪運ぽいよ。
【るい】
「意味不明(ノイズ)な言動してるね、トモちん」
【智】
「人生とは一人孤独に受信するモノですから」
【るい】
「まあね」
るいにしては意外な返答がひとつ。
軽い調子の同意には、複雑な色が彩色されていた。
単純な賛同とも違う。
表現しがたい。
【智】
「とりあえず」
綱渡りはクリアした、今日の所は。
石橋を叩いて渡る主義でも、
足下が危ない橋だと気がつかなければ真っ逆さまだ。
知ること。
無知と未知が恐怖を産み落とす。
注意が必要だ。
手に汗を握りしめた。
布製の感触。
ブラだった。
【智】
「ぶらっ」
【るい】
「なにやってんの?」
【智】
「お、お手玉」
【るい】
「ブラジャーだっつーに」
【智】
「……はい、付けて」
差し出した。
【るい】
「キツクてめんどっちーのよね」
【智】
「キツいのですか」
【るい】
「サイズちっさいから」
【智】
「おっきーのすればいいじゃない」
【るい】
「そうすっと今度こっちが邪魔に」
両手で扇情的にすくい上げて、たわたわする。
Yシャツが内部から質量に圧迫され、これ見よがしに
テントを張っている。
【智】
「持てる者の傲慢だ!」
全国のプアーたちの代弁者として立ち上がるときが来た。
【智】
「格差社会打破! 怒れる乳(ニュー)エイジプワーたちよ、今こそ
全世界同時革命を!!」
【るい】
「押さえてんだけど健気に育つんだよね」
【智】
「邪悪なチチにはダイエット推奨」
【るい】
「食こそ我が喜び」
人は理解し合えないのココロ。
火花を散らし、アメリカンに拳をゴスゴスぶつけて合って対立する。
【るい】
「でも、食べると胸だけ増えるんだ、これがまた」
【智】
「殺されても文句の言えない体質」
【るい】
「だから無敵体質と」
【智】
「世界って残酷だなあ」
【るい】
「というわけだから」
【智】
「ダメ、付けないとダメ」
誤魔化されない。
【るい】
「……トモって、なに、もしかしてお堅いひと?」
【智】
「女の子たるもの、そのあたりはしっかりしないと」
ヤバイのです、主にこちらが。
【るい】
「しょぼん」
るいが尻尾を下げる。
肩を落として、見るからにしょぼくれて、
ぬぎっと脱いだ。
【智】
「にゃわっ」
【るい】
「うんしょっと」
【智】
「もももももももーちょっと行動にはタメが必要ですよ!」
【るい】
「思いついたら吉日で」
【智】
「それって刹那的なだけ……」
【るい】
「こうして、こうして、こうして」
【智】
「……」
大きなものを小さなケースに収めるテクニック講座。
いけない!
見ては駄目だ!
相手が知らないことにつけ込んでなんてことを!
お前のしていることはノゾキや痴漢と同じなんだぞ!
この恥ずべき赤色やろうめ!
最低だ!
【るい】
「完成」
最後まで見てしまいました。
【るい】
「おっきいのも結構大変なのだよ」
【智】
「るいってナチュラルに恨み買うタイプだね、きっと」
【るい】
「別に自慢じゃないよ?」
【智】
「自分は、そういうのにこだわらない方ですけど」
【るい】
「さっき世界同時革命……」
【智】
「代弁者である僕と主体である私の間には超克なし得ぬ乖離(かいり)が存在するのであります」
【るい】
「むお」
クエスチョンマークをたくさん飛ばしていた。
扇情な生チチ。
女性らしいまろみとふくよかさを備えながら、類い希なる緊張に
よって黄金律の曲線を維持した天工の生み出した至高の逸品。
とっても美チチでした。
まあ、大したことはない。
だって見慣れているのだから。
学園でも、ほとんど毎日、
目撃する機会に遭遇する。
立場上、女の子なのだもんで。
日常と異常を区別するのは頻度の差でしかない。
どんな異常も繰り返せば日常化する。
慣れる。
女の子は異性の目がなければ、
あけっぴろげだ。
大口を開ける、スカートをばさばさする、
下品な話題でもりあがる、食うし出すし。
何年もの間、毎日直視してきた。
幻想の終焉と楽園の喪失。
大人への階段を一つ上ったのは、随分と前。
女の子には限らない。
誰だってそうだ。
他者の目に映る自分を大切にする。
装う。
世界にいるのがただ一人なら、
自分を律する必要がどこにあるだろう。
【るい】
「んにゃ、熱でもあるの、顔赤いよ?」
【智】
「ななななななんでもありませんからっ」
【るい】
「そ、そう」
【智】
「そう!」
それなのに、恥ずかしい。
学園の誰かを目撃するよりも、
ずっと羞恥心が刺激される。
付き合いの浅い相手というのが
脳内物質の分泌を促すのか。
物理的にも、すごく近い。
母上様、チチの悪魔は実在するのです。
【智】
「それよりも」
【るい】
「なによりも」
【智】
「昨日の話の続き」
【るい】
「話といってもたくさんありまして」
【智】
「るいのお父さんが」
【るい】
「死んどりますがな」
【智】
「お手紙の件で」
【るい】
「白山羊さんが食べちゃいました」
【智】
「……嫌いなんだ、お父さん」
【るい】
「好きか嫌いかっていうより……」
横座りに足を崩して、
後ろに手をついた。
目のやり場に困って視線を漂わせる。
るいは天井を見上げた。
天井でないどこかを見ていた。
【るい】
「どうでもいいのよ。親らしいことしてもらった記憶もないし、
気がついたら死んでたし」
【智】
「アバウトすぎだね」
【るい】
「トモのお母さんの手紙だっけ? どういう付き合いがあったのかわかんないけど、生きてても、手助けしてくれるような気の利くひとじゃなかったよ」
【るい】
「だいたいさ、何を助けてもらうのよ」
【智】
「……ひ、み、つ」
【るい】
「いーやーらーしー」
【智】
「なにがよ」
【るい】
「トモってエロいの」
【智】
「ちがうもん」
【るい】
「うちらの間で隠し事なんてさ」
背中をつつー。
【智】
「やうん、やん……そ、そんなこと言ったって、昨日会ったばかりだし……ぃっ」
【るい】
「連れないナー」
【智】
「……何か聞いてない、それっぽいこと?」
【るい】
「無理矢理話を戻したね」
【智】
「遺言とか資料とか貸金庫の鍵とかおかしな写真とか」
【るい】
「政治家の秘書が自殺しそうな事件の重要参考人っぽく?」
【智】
「そうそう、残り30分で現れて重要な手がかりを渡してくれる
感じで」
【るい】
「でも、その頃なら2回目の濡れ場はいるよね〜」
【智】
「どっちかいうと、主人公の手下の新米がいらない所に首突っ込んで消されたりして」
【るい】
「そんで怒りに火のついた健さんが
ドスもってカチコミにいっちゃうんだよね!」
【智】
「それサスペンスじゃないから」
【るい】
「私はそっちの方がいい」
タコチューみたい唇をにとがらせる。
人と人はますます解り合えないのココロ。
【智】
「るいさんは、単純明快人情主義と力の論理がお好みですか」
【るい】
「どっかんばっきんどごーんがいいっす」
【智】
「米の国だね」
【るい】
「そうだ、そんで思いだした!」
突然起立した。握った拳が震えていた。
【るい】
「何がむかつくってやっぱりあの黒塗りライダーが超ウゼーつーか、憤怒燃え立つ大地の炎よ復讐するんだハンムラビ法典って感じだと思わない?!」
時々やけに豊富になる語彙の数々は、るいのどこに格納されているんだろう。
【智】
「やっぱ胸かな」
【るい】
「あーいーつー」
業火をしょっていた。
轟々と聞こえない音で燃え上がり、
天をも突かんと紅蓮に染まる激情。
【るい】
「あいつのせいで、家はなくなる、荷物はなくなる、服まで
なくなる、教科書の類はまーどっちでもいいけども」
【智】
「ダメっこだ」
【るい】
「とーにーかーくっ」
【るい】
「全ての諸悪の根源はアイツっ。火事だってアイツの仕業だ。
そうだそうだ辻褄あうじゃない。謎は全て解けました。
犯人はア・ナ・タ!」
【るい】
「ポストが赤いのも救急車が白いのも私のお腹が減るのも全部全部アイツのせいっ」
決定した。
腹がくちたので断罪に走った。
善哉善哉。
裁きの神よ、ご笑覧あれ。
(誤字にあらず)
【智】
「ということは、るいさんや。どのようになさるのですか」
るいは、まっとうな返事もせずにニヤリと笑う。
【るい】
「行ってきます!」
きっと表情を引き締めたまま。
弾丸みたいに部屋を飛び出した。
部屋に平穏無事が戻ってくる。
【智】
「がんばってねー」
忌まわしき都市伝説に正義と論理の鉄槌を加えてください。
あ、やっぱり帰ってきた。
【智】
「おかえりなさい」
【るい】
「……服ください」
〔シティーハンター〕
街に出る。
るいの都市伝説探しに付き合って。
三角ビルのショーウィンドウ前を横切ると、
さび色の前衛彫像に見送られる。
【るい】
「トモって付き合いいいよね」
【智】
「そうかな」
【るい】
「だよだよ」
【智】
「学園ではクールな旅人のはず」
【るい】
「どっか旅行してんの?」
【智】
「素ボケ?」
【るい】
「なにが?」
素だった。
筋金を入れて鉄板補強したくらいのボケ体質だ。
【智】
「実は長い人生という旅路を……」
【るい】
「テツガクってヤツだね〜」
感心される。かえって肩身が狭い。
自分の弱みを攻め手に換える。手強い。
【るい】
「うん、これが友情ってやつですか」
【智】
「昨日会ったばかりですけど」
るいは、あてもなく流れていく。
風にまかせ、人混みにまかせ。
このまま先導を任せていると、
都市伝説との遭遇がいつになるかは、
神のみぞ知るだ。
困った。
傷つけ合うほど知り合ってはおらず、
見捨てていくほど薄情にもなれない。
それでも、猫の子と同じで、三日飼ったら情が移る。
昔の人はうまいことを言った。
【るい】
「一目惚れがあるんだから、一日でできる友情があってもいいと
思わない? 心は時間を超えていくんだよ」
いい台詞すぎて皮肉かと思う。
【智】
「情は情でも哀情」
【るい】
「愛っ!?」
たぶん字が違っている。
【智】
「あい違い」
【るい】
「あいあい」
【るい】
「そういえばさ、女の友情って男で壊れること多いんだって」
ねちっこい話題になった。
【智】
「いきなり壊れてどうするのさ」
女じゃないから大丈夫です。
【るい】
「形あるものは、どんなモノでも、いつか壊れるんだね」
【智】
「壮大な話だねえ」
友情に形はあるのか。
難しい命題だ。
【るい】
「投げやりだな、トモってば」
赤。
夕刻。
街は茜色にけぶる。
夜が近くなっても街は眠らない。
黄昏の霧にも負けない騒々しさ。
煮立った釜の中味はネオンと騒音と
得体の知れない鼻を刺す匂いと人の群れ。
昼間はいくらか強かった風もとっくに止んでいる。
赤。
歩道を歩いた。
街にはノスタルジーの色彩が君臨する。
夜までのつかの間にたちこめる移ろいの色だ。
夕映えがオレンジにしたクセの強い髪の毛先を、
るいは無心にいじっている。
【智】
「落ち着きない」
【るい】
「むお」
ふくれられた。
【るい】
「じっとしてるとダメになるんだよぅ」
【智】
「サメですか、きみは」
【るい】
「私はシャケの方が好きだなあ」
【智】
「誰が晩ご飯の話をしてるの」
【るい】
「してないんだ……」
腹ぺこ領域に踏み込んでいた。
燃費の悪いワガママなボディーだ。
二車線の車道を、
乗用車の列が途切れなく流れる。
店先からの音楽、人の会話、エンジン音――
いつ来ても意味をなさないノイズとノイズとノイズ。
熱にうかれたコンクリートと、冷たく堅い人間たち。
猥雑な街の夕暮れ。
街には秩序と混乱が平行する。
交点だからだ。
すれ違う、交差する、
ぶつかり合って跳ね飛んでいく。
人。物。情報。
生きているもの、死んでいるもの、
区別なく入力され、変換され、出力される。
流離し、漂泊する。
ときには絢爛、ときには退廃。
昼なお暗く、夜にも目映い。
これが駅向こうに回ると、
さらに大したものになる。
担任の古橋教諭が学生たちの出入りを見かけたら、
世を儚んで辞職を考えるだろう。
お堅い古橋教諭は、自分の子供に国営放送と
教育番組しか見せないのだと自慢していた。
子供は親を選べないという訓話だ。
【るい】
「うむー」
あくび混じりで猫みたいな伸びをした。
遊びに厭いた子供の風情。
【智】
「真剣ポイント略してSPが足りてないよ」
【るい】
「なにそれ」
【智】
「ステータス確認してください」
【るい】
「難しい……」
理由はわかってないが、
素直に頭を下げる、るいさんだ。
【智】
「ヤツを捜すんだよね」
【るい】
「おお、それそれ。
でもさ、どこにいるんだろう?」
真顔で質問される。
るいちゃん――あなたは、僕が考えているよりも、
ずっと大きく、そして恐ろしい。
【智】
「心当たりは?」
【るい】
「ないです」
【智】
「即答っ!」
【るい】
「自慢」
【智】
「してどうするの!」
【智】
「何をしにここまできたの!?」
【るい】
「……」
黙られた。
自動的だ。
感情のスイッチが行動力に直結している。
気軽に付き合うと、勢いに引っ張られてろくでもない目に
あわされるタイプだ。
本人はいたって平気で、近くにいるヤツがとばっちり同然に
火の粉をかぶる。
被害に遭いやすいのは、慎重派で考え込み易くて、
そのくせ情に流されちゃうようなやつ。
普段クールぶってると特に危険。
…………僕だ。
【智】
「こうときに客観的自己分析のできる性格が恨めしい……」
街路樹に顔を伏せて涙ぐむ。
【るい】
「どっかしたの、なんか顔色悪いよ? おしっこ?」
【智】
「不幸な未来予想図が目の前にありありとうかんで、
高確率で到達しかねない将来像に愕然としてます」
【るい】
「元気ださないとね」
大本の要因に投げやりなフォローをされる。
ドーパミンが分泌して幸せになれそう。
【智】
「夕焼けか……」
るいが足を止め、
寸時薄暮を仰ぎ見た。
街の空は狭い。
ビルとビルの谷間に
切り取られた窮屈な天蓋。
蒼穹とコンクリートの区分は、
この時間には朱に溶け落ちて曖昧になる。
混沌の海だ。
制服が二つ、
海を渡って旅をする。
大きな影を足から伸ばし、
アスファルトの歩道をローファーで蹴りながら。
日没と制服。
組み合わせに、
一種ばつの悪さがつきまとう。
制服が学生の証明だ。
黄昏れに追われて、
本来急ぐべき家路でなく、
立ち去るべき猥雑に混じりこむ。
禁忌を踏み越える瞬間の、怖れと歓喜。
冬の日の早朝、できたての薄氷を踏んで歩く時のような、
くすぐったさが胸中をくすぐる。
【るい】
「これからどーしよっか、迷っちゃうよねー」
【智】
「迷わない。捜します」
早速目的さえ忘れかけていた。
【智】
「コメ頭だね」
【るい】
「トリ頭じゃなくて?」
【智】
「すぐに忘れるのをトリ頭といいますが、もっとひどい忘れんぼ
さんはコメ頭といいます」
【るい】
「そのココロは」
【智】
「(にわ)トリのエサです」
【るい】
「念入りにバカにされるとむかつく」
【智】
「そんで手がかりとかないの?」
【るい】
「なぜ、私」
【智】
「僕には身に覚えがありません」
【るい】
「私もないよ!」
【智】
「忘れてるだけかも」
納豆みたいなべとつく視線で視姦。
【るい】
「そんなことは……ない……とはいえないかもしれないけど、そんなことはないと思いつつ、もしかしたらあるかもしれないけどやっぱりそんなことはないっぽいかも……」
責められたばかりなので弱気だった。
【智】
「論理的な解説プリーズ」
【るい】
「…………」
理詰めには弱い。
男らしく腕を組んで、しかつめらしい顔で、
るいはぶつぶつ呟きながら歩道を横断する。
どの角度から見ても危ない人だ。
他人のフリさせてくんないかな……。
駅にも近い繁華街。
夜も眠らない一角の騒々しさは、
ハンパ無い。
【智】
「どこかであの黒ライダーに会ったことは?」
【るい】
「屋上で」
【智】
「それより前に」
【るい】
「前…………?」
【花鶏/???】
(見つけた)
少なくとも、
あちらにとっては初対面じゃなかった。
どちらかが目標だった。
るいか、僕か。
僕には心当たりがないわけなので。
もっとも、すれ違っただけでも執着されて、
見ず知らずの相手に家まで押しかけられる世の中だ。
油断はできないけれど。
【るい】
「ある。見覚えある」
【智】
「あるの!?」
【るい】
「なんで驚くのかな?」
あるとは思わなかった。
あっても覚えてるとは思わなかった。
言語化すると血を見そうなので、
政治的ソフトランディングを試みる。
【智】
「思ったよりも早くわかりそうだなってリアクション」
にこやかに選挙運動。
【るい】
「ほー」
素直すぎるのは将来が心配だ。
【智】
「それで、どこで」
【るい】
「このあたり」
繁華街でもひときわ目立つ黄色い建物だった。
ちょっとした若者向けテナントビル。
記憶を刺激されて思いだしたらしい。
【るい】
「そうだ、たしかにアイツだった、
すっかり忘れてたけど間違いない、絶対そう!」
敵意をむき出しに、るいが歯を剥く。
【るい】
「三日ほど前だっけかな。このあたりで」
【智】
「跳び蹴り食らわした?」
【るい】
「なんで跳び蹴り」
【智】
「大外刈りとか、ジャイアントスイングとか、機嫌が悪かったから路地に連れ込んでいけないことをしたとか」
【るい】
「道でぶつかっただけ」
【智】
「……」
【るい】
「疑(うたぐ)るか」
【智】
「いえいえめっそうもない」
【智】
「しかしですね、るいさん。道ばたでぶつかったぐらいのことで
ですね、必ず殺すと書いて必殺な感じに追ってくるのはおかしくないですか」
【智】
「なんたって、いきなり屋上に原付で轢殺なんだよ?」
【るい】
「疑(うたぐ)ってる」
【智】
「いえいえめっそーもないです」
限りなく棒読みで。
【るい】
「あいつは心狭すぎ!!」
【智】
「心の面積を斟酌(しんしゃく)するより、別の理由を検討する方が健全だと、
僕は思うものです」
【るい】
「やっぱり疑(うたぐ)ってるーっ!」
【智】
「でもさ、いくらなんでも、ぶつかっただけで殺害しに来るなんてあると思う?」
【るい】
「ないかな」
【智】
「……事実は小説よりも奇なりとは言う」
推理小説なら即座に破り捨てられるつまらない動機だって、修羅の巷には氾濫している。
きっかけとも呼べないきっかけでスイッチが入れば、心という機能は理不尽に他者を攻撃する。
【智】
「困ったね」
【るい】
「困ったんだ」
【智】
「動機が突発的だと捜すのが面倒になるから」
あのヘルメットの下は、もっと理知的な、
よく切れる刃物を感じさせた。
根拠はないけど第一印象を信じてみる。
昔から勘はいい方だ。
【智】
「原付のナンバーは市内だったけど」
【るい】
「そんなのちゃんと見てたんだ……
すごーい」
暴君的な胸を揺らして感心された。
【智】
「なんで、持ち主わかるよ」
【るい】
「???」
【智】
「割と知られてないけど、陸運局いって書類書いてお金払ったら
個人情報教えてくれるんだよね」
【るい】
「んー、警察とかじゃなくても?」
【智】
「なくても」
【るい】
「……それって、指紋とられたり、忠誠の誓い要求されたりしなくても?」
【智】
「しなくても」
るいの眉が顔の真ん中によっていた。
納得のいかない気分を言語化しそこねている。
【智】
「手続きするとできることになってるんだよ」
【るい】
「……首輪付いてるみたいでうっとうしい」
【智】
「盗難車とかだとどうしようもないし、面倒だし、お金かかるから、
他に手がかりがあるならそっちからあたっても」
【るい】
「手がかりか」
【智】
「目立つ子だったよね」
銀色の長い髪。
月の雫によく似ていた。
敵意を溶かし込んだ深い瞳。
錐のように突き刺さる。
嫌いなタイプじゃない。
【るい】
「なんか、トモちん変な顔してる」
【智】
「変な顔といわれました」
【るい】
「カンガルーがカモノハシ狙ってるみたいな顔だね」
【智】
「僕って有袋類!?」
しかも肉食カンガルー絶滅種。
【るい】
「どーしようかな」
るいは、口ぐせのようにさっきから何度も繰り返し呟く。
深刻さはゼロ。
地図も持たずに海へ出るのに慣れた、
船乗りの気楽さだ。
【智】
「軽く捜してみようか」
決めるのが嫌なのか。
曖昧な態度にそんなことを思って、
妥協案を促した。
【智】
「見つかったらめっけ物くらいのノリで。目立つ相手だし、犯人は犯行現場に戻るともいうし」
【智】
「見つからなかったら、役所にいってお金を払う」
街は広い。
外見の差異など吸収してしまう。
二人で歩いたくらいで見つかる道理はなかった。
でも。
【智】
「…………」
心地よかったから。
後しばらくは、この知り合って間もない友人と、
他愛もない時間を潰していていたいと思う程度には。
【るい】
「お金は大事だな」
【るい】
「よし、捜そうっ」
【智】
「御意のままに」
見つけた/見つかった。
ばったり。
間違いない。
あのライダーブラックの中の人だ。
るいが以前にぶつかったという、
ちょうどその辺りだった。
【るい】
「ほんだわら――――っ!」
歯をきしる。
獲物を発見して野性に火がつく。
戦いの雄叫びは現代人には理解しがたい。
【花鶏/???】
「…………っ」
反応有り。
相手はわずかに柳眉(りゅうび)を逆立てる。
天下の公道で奇行に打って出ない分、
るいよりも良識はあるらしい。
人目のない屋上なら轢殺オッケーという非常識だけど。
切れそうなまなざしが刺さる。
冷たく光る銀のナイフ。
たとえ捜していなくても、
雑踏ですれ違っただけで目をひいたろう。
珍しい銀色の髪が毛先まで怒気をはらむ。
整った日本人らしからぬ顔立ちと身を包んだ高雅。
敵意を差し引いてもあまりある。
高価すぎて触れるのさえ躊躇(ちゅうちょ)してしまう宝物のよう。
【るい】
「見つけた、覚悟!」
【花鶏/???】
「――自分から出向いてくるとはいい覚悟ね」
【智】
「すでに僕って眼中無し?」
それにしても。
【智】
「もう少し面白みのある現実を請求したいよ」
事実は小説より奇なりというけれど。
それにつけてもあっけない。
面白みがあればあったで平穏が欲しくなるわけで、人間とはまことに度し難い生き物だ。
【花鶏/???】
「のこのこ現れるなんて殊勝な心がけだわ。
さあ、返してもらうわよ!」
【るい】
「借りはまとめて返してやるわい!」
【花鶏/???】
「借りてただけとはご挨拶ね、寸借詐欺ってわけ!?」
【るい】
「詐欺っていうか、ケンカ売ったでしょアンタわ!」
【智】
「会話が噛み合ってないよ」
小さくツッコミ。
二人とも、冷静な僕の言い分を聞いてくれない。
人の話を聞かないイズムの信奉者たちだ。
信念というのは厄介者だ。
ときに動力となり、
ときに変化を阻害する。
メリットとデメリット。
何にだって裏表はあるわけで。
【花鶏/???】
「どこにやったの!?」
【るい】
「どこにもやんねーっ」
【花鶏/???】
「――潰す」
【るい】
「やったらあ」
【花鶏/???】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉みあいに。
十も年老いた気分で鑑賞する。
もつれた糸を解くためには冒険が必要だ。
この暴風雨の中に徒(と)手(しゅ)空(くう)拳(けん)で乗り込まねばならない。
【智】
「まあ、二人ともオチツイテ。平和のタメに話し合おうじゃないか」
(脳内シミュレーションの結果)
【るい】
「うっさい!」
(脳内シミュレーションの結果)
【花鶏/???】
「死になさい!」
(脳内シミュレーションの結果)
死 亡 完 了。
確実すぎる未来予測に介入を躊躇(ためら)う。
この二人は、生物として対極だ。
対立するのは愛のように宿命だった。
昔の人はいいました。
人の恋路を邪魔する奴は、
馬に蹴られて死んじゃえ。
【智】
「ここはひとつ若いひと同士にまかせて」
【るい】
「なにを」
【花鶏/???】
「なんですって」
【智】
「聞いてないね」
【るい】
「ががががががががが」
【花鶏/???】
「だだだだだだだだだ」
揉めに揉めた。
【るい】
「――――」
【花鶏/???】
「――――」
そして膠着。
【るい】
「……!」
るいの頭の上に、唐突に豆電球が点灯した。
【花鶏/???】
「?」
いぶかしむ。
僕も。
【るい】
「勝った」
勝利宣言だった。
なぜ!?
るいが指さし指摘し、
黒ライダーの中身は目で追いかける。
【花鶏/???】
「…………っ!」
胸。
両腕で胸を抱えて後ろにとびすさった。
刺殺できそうなぐらいに視殺。
【るい】
「ふーんふんふんふん♪」
勝ち誇り。
えっ、そこなの!?
そりゃ確かに勝ってるんだけど!
【花鶏/???】
「く、ぬっ、ぐ!!」
【るい】
「ブイ」
【花鶏/???】
「だ、誰が」
【るい】
「にょほ、負け惜しみ」
【花鶏/???】
「きっ」
【智】
「……ものごっそ低次元のところで覇を競わない」
【るい】
「勝てば官軍」
【花鶏/???】
「だ、誰が負けたのよ!」
人類の許容限界ぎりぎりまで
真っ赤になって咆哮する。
負けず嫌いだった。
【花鶏/???】
「サイズがあればいいってもんじゃないのよ。
貴方のはエレガントさに欠けるわ」
嘲笑で。
【智】
「……そっちの話ですか」
【花鶏/???】
「他になんの話があるの!?」
手段のために目的を忘れるタイプだな、こいつ。
【智】
「話があるのは、どっちかいうとこっち?」
【花鶏/???】
「どっち?」
【智】
「あっち?」
【花鶏/???】
「わからないわ」
【智】
「僕も」
【花鶏/???】
「よく見ると可愛い顔してるのね」
唐突に。
片手で、おとがいを持ち上げられた。
【智】
「ほわ……」
むちゅう
【花鶏/???】
「…………」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
れろれろ
にゅるりん
んちゅう
ちゅぽん
【智】
「にょ」
【るい】
「……きす、した……」
奪われた。
公衆の面前で。
【智】
「にょわわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
【花鶏/???】
「うん、まったりとしてしつこくなく、それでいてコクがある。
悪くないわ」
【るい】
「なにやってんのーっ」
蹴った。
【花鶏/???】
「痛いわね、何するのよこの野蛮人!」
【るい】
「コッチノ台詞ダーーーーッ」
【智】
「きききききききき、」
【花鶏/???】
「キスくらいで大騒ぎしない、よくある話でしょ」
【智&るい】
「「あってたまるかーっ!!!」」
ハモる。
【智】
「キス、キスキスキスキス、キスされちゃった……」
【るい】
「オチツイテ、深呼吸して、ね、ね、ね」
【智】
「はじめてだったのに……」
【るい】
「大丈夫、女同士だからノーカンだって」
【智】
「舌いれられちゃったぁ(涙)」
【るい】
「…………じょ、上手だった?」
【花鶏/???】
「ごちそうさま」
【るい】
「容赦ないな、おい」
【花鶏/???】
「愛に禁じ手はないのよ、おわかり?」
【るい】
「まったくもってこれっぽっちも」
【花鶏/???】
「いやね、学のない人は」
【るい】
「ケンカ売ってる? 売ってるよね」
火花再燃。
【智】
「…………蛮族ですか、キミたちは」
ショックの海から必死に立ち上がる。
【るい&???】
「「こいつが」」
ハモる。
互いを指差して責任を押しつける。
呼吸は合っていた。
【るい】
「っていうか、トモだって他人事じゃないっしょ」
【智】
「おまけに愛の犠牲者……」
【花鶏/???】
「心を揺さぶるフレーズね」
【るい】
「とっても吐き気がするぞい」
【花鶏/???】
「悪阻(つわり)ね。妊娠でもしてるんじゃないの?」
【るい】
「これでも処女なりよ!」
【花鶏/???】
「品性のない物言いしかできない女は最悪だわ」
【るい】
「この女……殺るか、ここで」
【智】
「それよりも、なによりも」
【智】
「全ての戦闘行為の即時停止と使節団派遣による双方の意思疎通を求めるものであります」
胸に充ちる喪失の涙をこらえて、
停戦勧告を行う。
【るい】
「裏切るかっ!?」
るいの殺る気は燃えていた。
【智】
「裏切るというよりも」
【花鶏/???】
「愛の虜ね」
【るい】
「にょにわっ、愛なのか!?」
【智】
「あい違い」
【るい】
「……日本語難しい……」
【花鶏/???】
「……同意するわ……」
まれには気が合う。
【智】
「場所を変えてネゴしょう」
【るい】
「ぬな、話す事なんてあんの!?」
【花鶏/???】
「こと、ここにいたって必要なのは、妥協ではなく明確な決着。
対話ではなく武器を取るべき時よ」
【智】
「戦意よりもなによりも恥ずかしいのです……」
行き交う人が笑っている。
ちらりと流し目、含み笑い、呆れた顔。
しょんぼり肩をすくめた。
【花鶏/???】
「……そうね。キスしてもらったわけだし、デートくらいなら付き合ってあげるわ」
【智】
「ニュアンスの違いが日本語の難度を高くする」
【るい】
「殴って蹴って解決!」
【智】
「……僕の話聞いてた、ねえ?」
ようやく落ち着いた。
【智】
「僕は和久津智、こっちは」
【るい】
「るい、だ。べー」
舌を出す。
鼻の頭まで届きそうなくらい長い。
【花鶏】
「花鶏」
先を行く背中が名乗る。
くるりときびすを返す仕草は颯爽(さっそう)と。
薄いルージュを引いた唇が、
三日月の欠片みたいについっとあがる。
【花鶏】
「花城(はなぐすく)花鶏(あとり)よ」
見惚れた。
【るい】
「舌噛みそ」
情緒がなかった。
【花鶏】
「さっさと噛んだ方が人類のためだわね」
【るい】
「噛むぐらいなら、あんたを沈めて逃走する、べー」
微笑ましい女の子同士の交流に涙が止まらない。
【るい】
「ここでぶつかった」
【花鶏】
「貴方がぶつかってきた」
【るい】
「ケンカ売ってる? 売ってるんよね」
【花鶏】
「わたしの日本語がきちんと伝わっていてとても嬉しい」
【智】
「そういえばさ、黄色って警戒色なんだって。注意一秒怪我一生、青の次で赤の前。何が起こるか分からないから人生大切に」
【るい】
「先のことなんてわかんないぜい」
【花鶏】
「アニマルだわ」
【るい】
「欲望ケダモノ」
【花鶏】
「愛の狩人と呼んで」
放置しておくと際限なく揉める。
【智】
「それで、その時に?」
【花鶏】
「――こいつに、大事なバッグを盗まれたわ」
【るい】
「えん罪」
【花鶏】
「シラを切る」
【智】
「だから、るいを捜した?」
【花鶏】
「手間取ったわ。いざ捜し出したらビルが燃えてて近づけなかった。ビルの上から隣に跳び移る誰かが見えた。とりあえず屋上に急いだら神のお導き」
【るい】
「成り行きまかせかよ」
【花鶏】
「努力に世界が応えるのよ」
いい台詞では誤魔化されない。
【花鶏】
「返しなさいよ」
【るい】
「返せるわけねーでしょ!」
【花鶏】
「なんていいぐさ。人類最悪ね」
【るい】
「そんならアンタは人類サイテー」
【智】
「むう」
返せと迫り、知らぬと答える。
折れ合う優しさは1グラムもない。
【智】
「謎を解こう」
【花鶏】
「どうするの、名探偵?」
【智】
「花鶏さんは」
【花鶏】
「さん付けは嫌。花鶏と呼んで」
【智】
「……」
何となく躊躇(ちゅうちょ)。
【花鶏】
「呼んで」
【智】
「……花鶏さん」
【花鶏】
「呼び捨てで、親しそうに。できれば愛しそうに」
【るい】
「厚かましいぞ、ふしだら頭脳」
【智】
「花鶏」
花鶏がにんまり笑う。
冷たい口元に豊かな表情。
アンバランスなモザイクが一枚の絵のようにはまる。
【花鶏】
「それで」
【智】
「るいとは昨日あったばかりだけど、嘘をつくような子とは
思えないから」
【るい】
「うむ、さすがはトモちん」
【智】
「花鶏の大事なバッグを持ってるのが、るいじゃない可能性を
考えてみる」
【花鶏】
「最初の可能性は?」
【智】
「るいが嘘をついている?」
【るい】
「べー」
【智】
「花鶏は、どれくらい僕の言うことを信じてくれる?」
【花鶏】
「会ったばかりなのに、そんなこと」
戯れるように笑う。
突拍子もない申し出を、
蔑んでもいなければ、拒絶してもいない。
【智】
「だから訊いてる」
花鶏はきっと愉しんでいた。
【花鶏】
「――――そうね、キスしてくれた分、かしら」
【るい】
「したのはテメーだ」
【智】
「僕、昔から勘はいい方なんだよ」
はたして。
花鶏は呆れた。
楽しそうに口元を歪める。
【花鶏】
「論理的ではないことね、
そんな言い分を根拠にしろと言いたいわけ?」
【智】
「だから信用。水掛け論よりは前向きでしょ」
【花鶏】
「信用はできない」
直裁に切り落とされる。
【花鶏】
「でも、一時休戦ということなら、さっきのキスでチャラに
してあげる」
【るい】
「この胸なし女、むかつくっス」
【花鶏】
「わたしはちゃんとあるっての!
あんたが淫らにぼよんぼよん膨らんでるだけでしょっ!」
火花が散った。
【智】
「協調と信頼だけが人類を進歩させるんだよ」
【るい】
「……難しいこといわないでよね」
【智】
「難しいんだ……」
人類の夜明けは遠い。
【智】
「じゃあ、一時休戦で。
とりあえずの謎解きをするから、現場の話をして」
我ながら、名探偵なんて柄じゃないのに……。
【花鶏】
「わたしはこのあたりをぶらついてたの――」
【るい】
「そしたらこいつがぶつかって――」
【花鶏】
「肘を入れられた――」
【るい】
「蹴ってきやがったから――」
【智】
「あのー、もう少し慎みとか女らしさとか」
【るい&花鶏】
「「そういえば」」
【花鶏】
「朝だったから人気はなかったけど」
【るい】
「もう一人いてさ」
【花鶏】
「こいつと揉めてたら」
【るい】
「びびって逃げて」
脳細胞に喝をいれて思考する。
騒ぎを起こして逃げ出した後、バッグがないのに気がついた花鶏は猟犬みたいに飛んで戻った。
時間にしてほんの2〜3分。
けれど、どこにもブツはなし。
閑散とした早朝の街路に
ぽつんと花鶏は立ち尽くした。
可能性@ るいが拾って逃走
可能性A 花鶏が隠し持っている
可能性B 居合わせた人物Xの手に
可能性C 偶然通りがかった新たな人物が(以下略
消去法。
@とAはとりあえず消す。
【智】
「通りがかったのはどんな男?」
【花鶏】
「女よ」
【るい】
「ちっこいやつ」
【花鶏】
「あまりよく覚えていないけど」
【るい】
「んーとね、たしか髪の毛をこう、くるっとふたつ」
髪の毛をくるっとふたつ横でまとめて尻尾にしたような女の子が、目の前を通り過ぎた。
【智】
「くるっとふたつ?」
指差してみるが、後ろの二人は固まっていた。
【花鶏】
「……」
【智】
「……」
【るい&花鶏】
「「あいつだよ!!!」」
【智】
「ほえ?」
【こより/???】
「ほえ?」
【花鶏】
「待ちなさい!」
【るい】
「逃がさんぎゃあ!」
【こより/???】
「ほえええ!!」
【花鶏】
「大人しくしてれば、あまり痛くないようにしてあげる」
【るい】
「大丈夫、こわくない、たぶん」
どう考えても嘘に聞こえる。
虎と狼に挟まれた哀れな白ウサギは狩られる運命。
恐怖に顔を引きつらせ、混乱に鼻を啜って、
情け無用に飛びかかる二人の間を、するりと抜けた。
【智】
「お、やるもんだなあ」
感心感心。
【こより/???】
「ほええええええええ」
びびってるびびってる。
【花鶏】
「外した!?」
【るい】
「ちょこまかとすばしこいっ」
【花鶏】
「お待ちっ」
【こより/???】
「いやあああああ〜っ」
【るい】
「動くな!」
【こより/???】
「たわあああぁあ〜〜っ」
待てや動くなで相手が捕まるものならば、
渡る世間に警察なんていやしない。
逃げた。追った。
ウサギっこは、するりと抜けた。
追跡者たちを向いたまま、
伸びたかぎ爪の触れんとしたその先から、
風に柳のたとえのように。
インラインスケートだ。
小さな車輪のついた小さな靴が、
小さな躯を魔法のように機動する。
【こより/???】
「ひやぁあああぁっ」
逃げた。追った。
ウサギが逃げる。ふたつ尻尾をなびかせて。
猟犬が追う。
るいと花鶏の剣幕に、夕の雑踏は、
預言者の前の紅海もかくやと左右にわかれる。
小さな影が小さな肩越しに何度も後ろを振り返る。
血の出るような追っ手の顔が目に入る。
【こより/???】
「うわああああぁあぁあぁぁん〜っ」
泣き出した。
【智】
「悲劇だなあ」
悲劇もすぎれば喜劇に変わる。
喜劇も過ぎれば悲劇に堕する。
走る。跳ねる。尾をなびかせる。
幾度となくあわやのところを手がかすめる。
間一髪に遠ざかる。
【智】
「すんごい」
他人事のように拍手する。
【花鶏】
「まったくちょこまかと、手強いことね」
【智】
「小休止?」
【花鶏】
「狩りには根気が必要なのよ」
【智】
「悪びれないね」
負けず嫌いも筋金入りだ。
【智】
「ところで、るいは?」
【花鶏】
「優雅さに欠けるぶんだけ、体力は余っているようね」
るいは追っている。
人垣の向こうに見え隠れする。
曲芸仕立てのローラーブレード相手に、
門戸無用の一直線で突っかかる。
【るい】
「うららららららら――――――っ」
【こより/???】
「うわああああぁあぁあぁぁん〜っ」
壁があったら跳び越える。
人があったら轢いていく。
【智】
「典型的な目的と手段が転倒するタイプだね」
泣けてくる。
【花鶏】
「手間のかかるのが倍になるわ」
花鶏の方は、
るいよりも多少冷静だった。
【智】
「追いかけるの?」
【花鶏】
「大事なものを盗まれたんだもの」
【智】
「乙女のはーとだっけ」
【花鶏】
「それは貸金庫にしまってある」
【智】
「鍵付きなんですか」
【花鶏】
「乙女だけに」
【智】
「ついさっきいんわいなべーぜ≠」
【花鶏】
「乙女心は気まぐれなのよ」
【智】
「気まぐれと言うより身勝手という」
【花鶏】
「いい女は気ままですものね」
ものは言い様だった。
【智】
「男の子が同意するのか聞いてみたいですね」
【花鶏】
「淫猥で頭一杯の野獣どもに興味はないわ」
えーっと…………。
それって、なに、その、
まさかそっちの趣味なの?
そういえば、さっきのキスだって。
【智】
「僕、女の子ですよね」
【花鶏】
「何をわかりきったことを」
【智】
「キス、しちゃいました」
【花鶏】
「まだ唇が貴女のことを覚えているわ」
きれいな言い回しにすればいいってもんじゃないよ。
【智】
「……典雅(てんが)な嗜好でいらっしゃいます」
ものすごく複雑な気分だ。
【花鶏】
「お褒めにあずかり恐悦至極」
皮肉も通じない。
【智】
「うまく捕まりそう?」
【花鶏】
「……逃げ足は速いわね」
【智】
「捕まってもらわないと話がすすまないよね」
【花鶏】
「話よりも罪の報いを与えてやるわ」
酷薄に笑む。
さよなら、
対話と協調の日々。
こんにちわ、
暴力と断罪の新世紀。
【智】
「もう少し穏やかなところで、ぜひ」
【花鶏】
「目には目と鼻を歯には歯と口を罪には罰を10倍返しで」
【智】
「ハンムラビ決済は利息が高そうです」
【花鶏】
「ではね。また後でお話しましょ」
【智】
「ところで花鶏さん」
呼び止める。
【花鶏】
「花鶏」
添削が入った。
【智】
「……花鶏、行く前に携帯の番号教えて欲しいんだけど」
【花鶏】
「住所と誕生日とスリーサイズも教えてあげましょうか?」
【智】
「いりません」
【こより/???】
「うわああああぁぁぁん〜」
【こより/???】
「ひゃいぃぃいぃぃぃぃぃ〜っ」
【こより/???】
「あーーーーーーーーーーーーーん」(泣)
【こより/???】
「ひぃ、はあ、はひぃ、ひやあ……」
街の片隅で土下座していた。
謝罪ではなく疲れ果てて膝から砕ける。
どうやら逃げのびた。
神出鬼没の猟犬たちの息づかいは振り切った。
おめでとう自由の身。
空よ、私を祝え。
でも、一安心したせいで緊張の糸がぷっつり切れた。
弛緩は人生における大敵だ。
思わぬ落とし穴に足を取られるのは決まってこんな時。
【こより/???】
「……わたし……なんで、こんな……」
頭をぐりぐり回していた。
苦悩中らしい。
【こより/???】
「あにゃー」
見ていて飽きない小動物っぽさ。
愛玩系。
【智】
「あ、花鶏? 近くに、るいは? それなら一緒に。
赤いレンガ仕立てのビルが目印で」
【智】
「そう、ブロンズ像を右に曲がって……うん、見えるから、
三番道の裏手あたり……っていってわかる?
他にめぼしいものは―――」
手早く説明して携帯を切る。
【こより/???】
「…………」
見つめられていた。
熱視線に、花のほころぶような微笑を返す。
【こより/???】
「……う」
赤面されました。
携帯を閉じる。
従容と近づいた。
軽く顎を引いて、背筋を伸ばし、
肩で街の風を切る。
学園でなら、下級生たちが黄色い声援のひとつもよこしてくれる。
【こより/???】
「あ、あの……」
【智】
「なにか?」
いい感じで問い返す。
お姉様っぽく。
【こより/???】
「その……ぶしつけなんですけど、なんていうのか」
【智】
「なんでしょう」
【こより/???】
「……なにか、あります……?」
【智】
「何かといわれても」
【こより/???】
「そ、そーですよね、はははは……」
【智】
「ふふふふふふふふふ」
ひとしきりの乾いた笑いがぴたりと止んだ。
言語化し難い沈黙が漂う。
対峙した距離に圧縮された緊張に、
世界の歪む錯覚をする。
【こより/???】
「あ、あの」
【智】
「なぁに?」
【こより/???】
「ど、」
ウサギの女の子が唇を噛みしめた。
一瞬に逡巡(しゅんじゅん)と決意が交錯する。
一生に一度の大勝負に拳を固めて、続く言葉は。
【こより/???】
「どちらさまでしょーかっ!」
【智】
「……」
【こより/???】
「は、あわ、そじゃなくて……あの……」
ボロボロだ。
【こより/???】
「はぁ――――――……っ」
肺が口から出そうなため息をついた。
【智】
「若いうちからため息をついてはいけないわ」
【こより/???】
「そう……ですか。そうかも……」
【こより/???】
「はぁ――……」
【智】
「また」
【智】
「ため息ひとつで幸せひとつ、逃げちゃうっていうんだし」
【こより/???】
「逃げちゃうんですか」
【こより/???】
「じゃあ、わたしって……幸せ残ってないのかな。
あんなのに追っかけられたりするし」
【智】
「追いつ追われつが人の世の倣(なら)い」
【こより/???】
「生きにくい世間様です」
【智】
「まあまあ、悪いひとたちじゃないから(たぶん)」
【こより/???】
「……悪い人に見えました」
【智】
「心の病気みたいなものなのよ」
【こより/???】
「お病気なのですか」
【智】
「血が上ると周りが見えなくなっちゃう症候群」
【こより/???】
「重症であります……はぁ……」
【こより/???】
「…………」
おとがいに人差し指をあてて、
ウサギっこはなにやら目を彷徨わせた。
喉の奥に引っかかった小骨がちくりと痛んじゃった……
そんな顔で眉間に皺を寄せる。
【こより/???】
「そこの通りすがりの方、
つかぬ事をお伺いするのですが」
【智】
「名前は智、サイズは内緒」
【こより/???】
「……聞いてないですから」
【智】
「ナンパじゃない?」
【こより/???】
「……女の子同士で不毛です」
【智】
「愛に区別は――――」
花鶏のふしだらな顔を思い出す。
プルシアンブルーの気分。
【智】
「……愛は区別した方がいいですね」
【こより/???】
「愛とは区別からはじまるんです」
【智】
「存外深いな」
あなどれないヤツ。
【こより/???】
「ところで通りすがりの方」
【智】
「ナンパ?」
【こより/???】
「違います」
【智】
「そうですか」
【こより/???】
「質問が」
【智】
「どうぞなんなりと」
【こより/???】
「なにやら、いわれなく不穏な気配がするであります」
【智】
「ナイス直感」
【こより/???】
「…………」
【智】
「…………」
沈黙のうちに視線を交わす。
熱視線。
【こより/???】
「うわーん、やっぱりさっきの悪党の仲間なんだあぁ!!」
【智】
「大当たりぃ」
時間稼ぎをやめて拍手する。
アンコールには応えず、
ウサギっこは脱兎と逃げ出して、
二歩もいかずに凍りついた。
【こより/???】
「あ……っ、うそ」
逃げ場がない。どこにもない。
三番町は薄汚れた終点だ。
お嬢様なら近づかない吹きだまり。
怪しい店が軒を連ねて看板を掲げる。
幾つも路地が入り組んでいる。
行き止まりも多い。
ウサギ狩りにはうってつけ。
【こより/???】
「ま、まさか――」
【智】
「はーい、その通り。実は罠でしたー」
にこやかに種明かししてみます。
【智】
「ここまで逃げてくるように誘導したんですねー、もうびっくり。すぐ仲間が到着して君を組んずほぐれつにしてしまいまーす」
【智】
「ここまで来ればわかると思いますが、なんとっ!
今までの小粋な会話は全て時間稼ぎだったのです!!」
【こより/???】
「みゃわ」
衝撃の事実が鉄槌の勢いで打ち込まれる。
【智】
「くくくくく、随分と手間をかけさせてくれたけれど、これで
終わりね。お前はもはやジ・エンドっ!」
【智】
「餓えたケダモノどもの手でっ! 救われぬ新たな運命が!
お前に! 下されるのだッッ!!」
【智】
「さようなら明るく清純な人生、こんにちわ淫猥で甘美な堕落の日々……さあ、」
ついっと涙を拭うフリをして。
【智】
「僕とスイートなストロベリートークしましょう……あれ?」
たっぷりタメをつくって場を和ませようとした。
ウサギっ娘は話も聞かずに飛び出していた。
パニくったまま一目散に走る。
右はビル、前もビル、後ろには僕。
唯一空間の開かれた左側へ。
低い柵が行く手を阻んでいた。
腰よりちょい上の高さの鉄柵を、
映画の身ごなしで横っ飛びに跳び越える。
そこに。
着地するべき地面は無かった。
柵の向こうは土地が低い。
3メートルはある落差。
落ちる。
【こより/???】
「ぎゃわーっ」
【智】
「ちょ――――――っ」
【智】
「なにやってんのーっ!」
危ないところで襟首を捕まえた。
宙づりになったウサギは、
ひたすら混乱して暴れる。
ギリギリの一歩向こう側に
身体を乗り出した危険な姿勢。
目が眩むくらいの不安定だ。
【智】
「――――らめぇ、暴れちゃらめーっ、危ないから、ほんとに
とれちゃうからぁ!」
【こより/???】
「うあああああああ」
【智】
「だから動かないでぇ……動かないでじっとして……っ」
下まで3メートルとちょっと。
他人事なら小さな距離も、
直面するとゾッとする。
【こより/???】
「だめだめ、こんなのだめ、死んじゃう、落ちちゃうとれちゃうぅう」
【智】
「お、おちついて、はやく、何か掴んで!」
【こより/???】
「ぎゃぎゃぎゃーーーーんっ」
聞こえてない。
スケートで壁を蹴った。
魔法の靴が空回りする。
ローラーはまずいよね、
こういう場合。
バランスが、崩れた。
僕にしたって、どだい女の子ひとり支えられる姿勢では
なかったわけで。
【こより/???】
「――――っ」
【智】
「――――っ」
今度こそ落下。
【こより/???】
「は、あ、あれ、生きてる……わたし生きてる……!」
【智】
「あれくらいの高さだと簡単には死にません」
【こより/???】
「あぁ、生きてるって素晴らしいです……」
聞いてない。
下まで落ちればそこは裏路地。
裏の裏までやってくれば
ネオンも雑踏もとっくに彼方。
街の不純物とゴミの混じった腐敗臭と
こびり付いた汚れのせいで、ひときわ暗い。
空。
あそこから落ちたんだ……。
ほんの3メートルぽっちの高さの場所が、
上から見下ろしたときよりも遠かった。
【こより/???】
「ふにゃ」
頭の上からウサギっこが顔を寄せてきた。
【智】
「うわっ」
【こより/???】
「さっきの通りすがりの悪い人」
【智】
「通りすがりだけど悪くないひとです」
【こより/???】
「嘘つきです。わたし、騙されました!」
丸い眼を細めて、糾弾。
【智】
「生きるってコトはね、時には残酷な行いに手を染めなければ
いけないってことなんだ」
【こより/???】
「詭弁だ」
【智】
「方便といってください」
【こより/???】
「でも、助けてくれたんですね。
あそこから落ちて、もうダメって思ったのに……」
【智】
「いいひとですから」
【こより/???】
「……センパイは、わたしを捕まえてとても言えないようなことをするつもりなのですか?」
【智】
「なぜ先輩」
【こより/???】
「年上っぽいので」
【智】
「安易だなあ」
【こより/???】
「悩みを捨て去る、あんイズムを信奉中であります」
【智】
「苦悩は人生の糧だから大切にね」
【こより/???】
「クリーニングオスするッス」
【智】
「クーリングオフです」
【こより/???】
「みゅん……」
【こより/???】
「おっと、それよりも!」
【智】
「なによりも?」
【こより/???】
「助けてくれたのですね」
【こより/???】
「あまつさえ、不肖鳴滝(なるたき)めの身代わりに、下敷きになってくださったですね」
【智】
「…………」
尻に敷かれていた。
女性上位……。
ちょっとエッチだ。
この場合、僕も女性なんだけど。
形式上、彼女を助けたことになるらしい。
偶然のたまものだけど、
告白して感動巨編に水を差すのは止めておく。
真実は僕の心だけにしまっておこう。
【智】
「ウサギちゃんの可愛い顔に傷がついたら大変だものね」
優雅に、ウサギちゃんの乱れた髪を整えてあげる。
日々積み重なる方便の山。
【こより/???】
「きゅーん!」
【智】
「なにそのリアクション?」
【こより/???】
「感動してます」
【智】
「ごめん、でも、僕はもうだめみたい」
【こより/???】
「死んじゃだめ、死なないでセンパイぃ!!」
【智】
「無茶をいわないで。生まれてきたものはいつか死んでしまう。
でも、それは辛くても悲しいことじゃない。僕は来たところへ
帰るだけなんだから……」
【こより/???】
「らめ――っ」
涙ながらにすがりつかれた。
おもむろに身体を動かしてみる。
痛みはあるけど大きな怪我はなさそうだ。
わりと丈夫な我と我が身。
【智】
「そっか、下に何かあったんだ」
天然クッションのおかげで無事だったらしい。
二人で下敷きにしていた。
見知らぬ男だった。
気絶している。
【智】
「…………」
【こより/???】
「…………」
顔を上げた。
目の前にいた。
見知らぬ女の子だった。
大きいのと小さいの。
【こより/???】
「センパイ」
【智】
「なにかしら、あー、花子ちゃん」
【こより】
「花子ではありませぬ、鳴滝(なるたき)こよりです」
【智】
「じゃあ、こよりちゃん」
【こより】
「なんだかとっても投げやりですっ!」
【智】
「今はそんなこと問題じゃないと思う」
【こより】
「そうです。そうなのです。センパイ!」
【こより】
「……これって、もしかするとやらかしてしまったのでは?」
【智】
「やらかしたには違いないですが」
後ろにもいた。
見知らぬ男どもだった。
大きいのと小さいの。
腐肉をあさるのを邪魔された
ハイエナみたいな顔で、呆気にとられている。
男たちは早口に言葉を交わしていた。
【こより】
「なんていってるですか」
【智】
「中国……んと、広東語……かも」
【こより】
「センパイはバインバインです」
【智】
「たぶんバイリンガル」
【こより】
「そうッス、それッス」
大げさに感心して手を叩く。
緊張がほぐれたせいか、
ウサギっこの挙措は一々ハイだ。
【智】
「実はテンション系だったんだ」
驚きの新事実。
【こより】
「侮辱です。
不肖鳴滝め、常日頃から常住坐臥に真剣本気であります!」
【智】
「それはそれでタチが悪い」
【こより】
「それよりも何よりも、センパイ、ガイコク人間さんの言葉が
おわかりになるデスか?」
【智】
「言葉には気をつけてね。最近いろいろ厳しいから」
【こより】
「大丈夫ッス、カタカナですし」
【こより】
「そんでバイリンガルなのですね!」
【智】
「わからないから当てずっぽう」
【こより】
「わたしの感動を返してください」
【智】
「真実はいつだって残酷なんだ。
誰も皆そうやって大人の階段を上っていくの」
男どもからの敵意が痛い。
いやんな予感が止まらなかった。
言葉がわからなくても察しがつく。
こんな人気のない場所で、女の子を取り囲む理由は、
自己啓発セミナーの勧誘や新聞の販売ではないだろう。
【伊代/???】
「あ、あなたたち、早く逃げて!」
【こより】
「センパイ、なんか逃げろ言われてます」
【智】
「ニブチンは幸せに生きるための要諦ですね」
【こより】
「ふむふむ、勉強になるです」
【智】
「……これだもの」
いつの時代も天然ものは強い。
自然の素材が作るうま味に養殖ものでは対抗できない。
【こより】
「これとは、どれでありますか?」
【智】
「とりあえず、前かな」
男どもを刺激しないように立ち上がる。
早くても遅くてもいけない。
即席の後輩を、後ろ手で、
姉妹の方へおいやった。
不満げな顔のウサギちゃんに一瞬注意を向ける。
突っかけられた。
男は場慣れしていた。
素早い。右の手首を掴まれる。
背中にヒネリあげられたら勝負がつく。
多対一。
現実はシビアだ。
ドラマや映画のような鮮やかさはない。
反射的に足を払う。同時に腕を引く。
重心を失った力学が、
掴んだ手を軸に男の身体を半回転させる。
背中からコンクリートに落ちた。
【こより】
「おおー、センパイすごいっス! ミス拳法!」
ただの護身術です。
【智】
「ダメ、全然ダメ」
【こより】
「えー、すごいッスよ」
空気が変わる。
針のような敵意。
相手が女ばかりだと油断してる時が、
最初で最後の好機だったのに。
やるときは確実に、徹底的に。
半端に手を出すのは。
【男】
「…………ッ」
男が左肩を押さえて立ち上がる。
目つきが変わった。
【智】
「――――奥は?」
【こより】
「袋小路になってます」
【智】
「こまるよ、そんなことじゃ」
【こより】
「まったくっス」
これで逃げる選択肢はなくなった。
目の前の二人を何とかしなければ。
二人を引きつけられないか。
時間を稼ぐ方法はあるか。
他に仲間がいたらどうしよう。
【男】
「――――っ」
早口の異国の言葉。
意味不明な言語が断絶を色濃くしていた。
ポケットに手をつっこんだ。
刃物――――
【智】
「まずいかも」
身構える。
【伊代/???】
「……ッ」
ウサギっこより先に、
後ろの姉が言葉の意味に反応した。
きれいな眼鏡っこだ。
整った目鼻立ちは、花鶏と違って、
外に向かう華やかさには欠けている。
【伊代/???】
「だ、だから、早く逃げてっていったのに!」
叱る口調が背中から飛んでくる。
叱責の内容が「逃げなかったこと」だというのに、
状況を忘れて微苦笑がもれた。
【こより】
「逃げられる状況じゃ無かったッス」
【伊代/???】
「そ、そうだけど……っ」
【伊代/???】
「でも、そ、そうよ、それならわざわざ降ってこなくたって!」
【こより】
「事故だったッス」
【こより】
「不幸な出来事だったッス。でも、運命の出会いッス!
不肖鳴滝は、センパイオネーサマとの出会いのために
生まれてきたと知りました!」
【智】
「それはどーだろう」
【こより】
「うわ、ものすごく、つれないです!」
【伊代/???】
「な、なんなの、いったい……あなたたち……」
【茜子/???】
「……」
姉は常識的な反応が微笑ましい。
妹の方はちょっと変だ。
怯えてるのでもないし、
悲鳴をあげるでもない。
起伏の乏しい、大気めいた存在。
切りそろえられた前髪のせいで精緻な人形の印象がある。
【智】
「――――」
爪先が砂利を踏みにじる音。
男たちだ。
途端に空気が冷えた気がした。
腹腔に差し込まれるような、底冷えのする冷気。
どぎつい悪意が向けられる。
刃物と同じ見ただけでそうと知れる剣呑さを感じ取る。
さっきまでとは違う。
女と甘くみていない。
【智】
「……ッ」
温情のない、は虫類に似た目つき。
暴力の扱いに慣れた気配を身につけている。
【男】
「……」
顎をしゃくって、
一人が指示を出す。
無言で進行する事態が、
手慣れた具合を思い知らせる。
冷静に対処しても、しきれるかどうか。
相手が笑っている。
暖かみがなく、胸の悪くなる顔だ。
逃げる方策を練る。
逃走経路がない以上。
どうにかして、突破、しなければ。
せめて、後ろの三人を――、
【るい】
「どぉりゃあああああああああああああああ!!!」
るいが上から落ちてきた。
【るい】
「お・ま・た・せ!」
すっくと立つ、るい。
ぶい。
【智】
「――――」
呆気にとられて、口もきけない。
男二人は、るいの足下で転げ回っていた。
落下ではなく突撃だった。
雪崩式ラリアート。
無事ではすまない。
【るい】
「いんやあ、智ちん、やばかったねえ。上から危機一髪シーン目撃した時は、どーしようかと思ったよ。ま、発見したのはあのヤローだったんだけど」
頭上から、
花鶏が優雅に手を振る。
【るい】
「エロ魔獣もちったー役にたったわな」
【智】
「……助かった。いや、それよりも――」
【るい】
「んん〜?」
上から下まで。
るいを目線で辿る。
見る限り怪我はない。
【智】
「大丈夫? どっかぶつけてない? 折ったりは? 打ち身は
あとから来るけど――――」
【るい】
「なんだぁ、心配してくれたんだ」
【るい】
「これぐらい平気平気。るいさん、鋼の乙女だから」
【智】
「でも」
【るい】
「ちょ、ちょっと、顔こわいよぉ」
詰め寄る。
何事もない高さじゃなかった。
【智】
「!」
後ろだ。
男の片方が半身を起こしていた。
引き抜かれた手には小さな折りたたみのナイフ。
危険が膨れあがる。
ただの激発とは違う、
鋭利な指向性を持った憎悪。
意識と判断の隙間に滑り込む速さで、
無音の殺意が、るいの死角から閃い――――。
その顎先へ、コマ落としめいた、
旋回の遠心力をのせた爪先が合わさる。
【男1】
「ガッ」
路地の狭さを苦ともせず、
高くしなやかに上がる、るいの足。
かかとは肩より高かった。
敵意を扱うにも慣れがいる。
扱いかねれば沸騰する。
過剰にやりすぎるか、
それとも行為そのものに怯えて萎縮する。
刃物を突きつけられれば、
小さなものであれ、誰しも容易に冷静さを失う。
るいの敵意はぶれなかった。
牙のように冷酷に。
技術や体系を感じさせる動作ではないのに、
人体の最適解に基づいた挙動だ。
本能に訴える美しさだ。
蹴りこんだ瞬間はついに見えず、
男がビル壁に叩きつけられた姿だけで結果を知る。
【るい】
「平気っしょ?」
るいは汗一つ浮かべていない。
余裕ありあり。
男はぴくりとも動かなかった。
【こより】
「おー、すっごいッスッ!!」
【るい】
「まね」
素直すぎる称賛と返答。
複雑な安堵の息をつく。
【るい】
「そんで、なんで危機一髪?」
【智】
「それよりも……」
【るい】
「なによりも?」
【智】
「まず、こっから逃げ出そう」
【智】
「突き詰めると世の中は確率的なんだよね」
【るい】
「トモが呪文を唱えた……」
【こより】
「大丈夫であります! 不肖鳴滝めがかみ砕いて解説すると……」
【智】
「すると?」
【こより】
「つまり、世の中確率的ってことです!」
【伊代/???】
「かみ砕いてないわよ」
【こより】
「おううう……」
【智】
「要するに残酷な偶然の神様が支配してること」
【智】
「道ばたで1億円拾うのも、突然事故で大けがするのも、生まれてくるのも、死んじゃうのも」
【伊代/???】
「ただの偶然?」
【花鶏】
「つまらない考え方ね」
【るい】
「なんだと、エロ魔神」
【花鶏】
「エロは関係ないでしょ」
【智】
「花鶏は?」
【花鶏】
「わたしは運命を信じるわ」
【るい】
「乙女エロだな」
【花鶏】
「……だから、エロは関係ないでしょ、エロは」
【こより】
「運命って運命的な響きッス」
【伊代/???】
「……いやいや、それはどうなのよ」
【茜子/???】
「…………」
【智】
「運命があるなら、今の状況も運命?」
【花鶏】
「そうね。必然の出会いだったかも」
【智】
「是非とも道を示して欲しい」
【花鶏】
「つまらないことをわたしに訊かないでちょうだい」
【智】
「他に誰に訊けばいいのよ」
運命はどこいったんだ?
【花鶏】
「運命はね、自ら助けるものを助けるのよ」
【智】
「運命って厳しいんだね……」
要約するなら。
取っかかりは偶然だったらしい。
【伊代/???】
「わたしたち、別に姉妹じゃないから。だって別に似てないでしょ」
【智】
「それは……まあ、そうかな。あの、えーっと……」
彼女の名前は。
【智】
「名前、まだ……」
【伊代/???】
「これ」
わざわざ学生証を差し出された。
県下で有名な進学校だ。
見せびらかしたいんだろうか?
白鞘(しらさや)伊代(いよ)。
それが彼女の名前。
彼女が妹(嘘)とぶつかったのがそもそもの始まりだ。
見たときは追われていた。
どうみてもか弱く、
どう見ても逃げ切れそうになかった。
気がついたときには、
伊代は手を引いて走り出していた。
【るい】
「なんで?」
【伊代】
「だ、だって……っ」
目線を外した。
言葉にしにくそうに唇を噛み、
膝の上で組み合わせた手を何度もにぎにぎしている。
【伊代】
「……ほっとけなかったから」
不器用な返答。
【智】
「いいやつ」
【るい】
「いいやつだ」
【こより】
「いいやつッス」
【伊代】
「ッッッ」
伊代は赤信号のように点滅する。
居心地悪そうにしきりと眼鏡を直す。
田松市三区にある進学校の制服に詰め込まれているのは、
思いの外の正義感と不器用さだった。
委員長っぽい外見だと思ったら、
本当にそういうキャラらしい。
【智】
「正義派委員長純情派」
【伊代】
「……別に委員なんかしてないわよ?」
【智】
「素で返されましても」
【茜子/???】
「甘ちゃんさんは早死にするのです」
しんと場が冷める。
【こより】
「……容赦ないッス」
こっちの方は、普通に名乗った。
【茜子】
「茅場(かやば)茜子(あかねこ)」
ことの発端の方は、
どうにも一際の変わり種だ。
白い肌、そろえた前髪、無表情。
気配の薄さが、
見た目の人形っぽい雰囲気を強くしている。
小柄なこともあって、
最初はうんと年下かと思った。
実は二つばかり離れているだけだった。
芸は、毒舌、らしい。
おまけに、いつの間にか不細工な猫を抱えていた。
どこから生えたんだろう。
【花鶏】
「お人形かと思ったら意外に言うわね。無口なのより、
ずっと可愛いわ」
【るい】
「……とって食うんじゃないだろな」
茜子は、口が悪かった。
他人の反応をちらりと確かめる。
伊代は、舌鋒を気にした様子もなかった。
【茜子】
「私の戸籍上のファーザーが」
【伊代】
「義理のお父さん?」
【茜子】
「リアルファーザーです」
【るい】
「なんで但し書き?」
【茜子】
「縁切り終了済みです」
茜子の父親は借金を作って逃げ出した。
多重債権で首が回らなくなり、
家族を捨てるに至るまでは、ほんのひとまたぎ。
茜子は施設に送られた。
そのまま終わっていれば、
よくある不幸な話で済んだ。
不幸は、得てして次の不幸を呼ぶ。
呪いのように連鎖する。
不幸に陥ったものは、
そこから抜け出そうとあがく。
あたりまえに。
世界は気まぐれだ。
同時に無情に公平だ。
不幸を気遣ってはくれない。
不幸に陥ったものが、
不幸から抜け出すのは、
不幸であるが故に難しい。
焦る。
追い詰められて賭に出る。
ギャンブルで破産したものが、
最後の大ばくちと大穴に賭けるように。
当たり前に失敗する。
呪いだ。
茜子の父親は、呪いを踏んだ。
【茜子】
「あの人たちのお金がどうとか、持ち逃げしたとか、面子が
どうとか。面倒なので聞き流しました」
茜子にも飛び火した。
断片を聞くだけでもろくでもない火の粉だ。
【智】
「笑えない」
【るい】
「ま、父親なんてそんなもんよ」
こちらも一刀両断にする。
【智】
「あてにならないのは認める」
【花鶏】
「親はなくても子は育つ」
しみじみと、共感めいた空気が流れる。
【智】
「……あんまり嬉しくないよね、こういうのの共感は」
【るい】
「考えてもしかたないっしょ。泣いても笑っても親がアレでも、
私らみんな生きてるんだもん。生きてる以上はたくましく
生き抜くの」
【花鶏】
「珍しくも正論ね」
【るい】
「珍しいいうな」
【智】
「あんまり女の子っぽくないのが」
僕の幻想の残り香が五分刻みにされる。
うれしくない。
【るい】
「女は度胸」
【こより】
「センパイッ!」
【智】
「はい、こより君」
びしっと手が上がる。
鳴滝こより。
追われて逃げて捕まったウサギっこ。
小柄だった。
茜子よりもちっこくて細い。
最初は子供かと思ったけど、よく見れば細く伸びた足に色気の
片鱗くらいはうかがえる。
ウサギというより子犬のようにうるさかった。
無駄に元気が余っている。
小動物系とカテゴライズするのは卑近(ひきん)な気がする。
【こより】
「これからどうするでありますか!」
【花鶏】
「そうよ、もう逃がさないわよ!」
【こより】
「は、はひゃ」
花鶏が睨む。こよりがびびる。
猫とネズミの果たし合いっぽい力関係。
【るい】
「いいじゃない、そんな細かいこといちいち」
【智】
「……さすがにそれは大雑把すぎだよ」
るいは追いかけた理由も忘れていた。
【智】
「とにかく、逃げ出して落ち着くまでは一時休戦で」
【花鶏】
「休戦条約が多いわね」
【智】
「戦争は外交の手段です」
【花鶏】
「……ふん」
【伊代】
「それで?」
【智】
「なんとか、全員で、この場を逃げだす」
【花鶏】
「――でも」
花鶏が眉間に皺を作る。
そうだ。
現場を逃げ出した後、好きこのんで、
こんな場所に隠れ潜んだのは理由がある。
こんな場所……。
恥かしいので残念ながらお見せできませんが、
実は、その手のホテルなんです。
でっかいベッドとかあって。
すごく安っぽい作りになっていて。
シャワーとかテレビとかもあったりして。
皆、意識しないように目を逸らし合ったりしてるので、
一種独特の緊張感があったりします。
見ず知らずの男女が、あんなことやこんなことをしてるベッドとかお風呂がすぐ隣にあると思うと。
【智】
「まず、ここを早く出たいよね……」
さて、ここに逃げ込んだ理由。
さっきのヤツの仲間が、
僕らを捜していたからだ。
それらしい連中を見掛けた。
この一帯の歓楽街には日本人以外にもいろんな人種が入り
込んでいて、どいつもこいつも複雑なコミュニティーを
作っている。
部外者で一般人で、おまけにお嬢様系の僕の耳にも、
そういう噂が届くくらい、街の裏側の事情は物騒だ。
できれば一生関わり合いになりたくない。
茜子の父親が手を出したのは、
そのうちの中国人系グループのひとつらしい。
不良あがりのチンピラの機嫌を損ねたのとはわけが違う。
【るい】
「ぶちのめして突っ切っちゃえば」
【こより】
「ひぃ」
【伊代】
「女の子が無茶なこと言わないっ」
【智】
「なんでそんなに荒っぽくしたいかな」
【花鶏】
「脳みそ筋肉」
【るい】
「なんだと、エロス頭脳」
【花鶏】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉み合いに。
【智】
「なぜ揉めるのか」
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。この人たちはだいぶ頭悪いです」
【智】
「うん」
【伊代】
「いやそれ否定してあげなさいよ?」
【こより】
「センパイ!」
【智】
「はい、こより君」
【こより】
「警察さんとかのお世話になるのはいかがッスか!?」
【花鶏&るい】
「いやよ」「反対!」
揉み合いの途中で固まって、
そろって反対意見を出す。
妙なところでだけ息が合う。
【茜子】
「却下です」
【こより】
「茜子ちゃんもッスか!」
【るい】
「私、家出少女なんだかんね。家に連れ戻されたらやっかいでしょーがないつーの」
【花鶏】
「貴方の都合なんてしったこっちゃないわ」
【るい】
「ほほう」
【るい】
「んなこといって、あんただってヤなんじゃない。そういうのをね、同じ穴のムジナっていうんだよ」
【花鶏】
「わたしは、ああいった連中の力を借りるのが気にくわないだけよ。プライドの問題。エレガントではないわ」
【花鶏】
「追われて逃げ回るネズミのよーな、あなたと一緒にされては困るわね」
【るい】
「エレガントつーよりエレキングみたいな顔してるくせに」
【花鶏】
「意味はわからないけど馬鹿にされてるのはわかるわ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
さらに揉み合いに。
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。この人たちは犬猿(いぬさる)です」
【伊代】
「あなたはどうして?」
【茜子】
「…………」
【茜子】
「施設に戻りたくありません」
【伊代】
「戻りたくないって……」
【伊代】
「その、行くあてとかは……?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「あなたは、なにか考えある?」
【智】
「智でいいよ」
【伊代】
「…………」
【智】
「どうしたの?」
【伊代】
「と……いやいやいきなり名前なんて、変よ! うん。こういうのは少しずつ馴染み合って互いに親睦を深め合った結果に生まれる関係であって……」
【智】
「つまり僕らは仲間でもなんでもないぜ?」
【伊代】
「ご、ごめん! そういうんじゃなくて、ないんだけど」
【智】
「焦るところ、可愛い顔」
【伊代】
「…………」
【智】
「ひかないでください」
【伊代】
「……そういう趣味の人じゃないよね?」
警戒される。
【智】
「いいがかり」
【るい】
「そういう趣味のひとはこっちのエロガントだ」
【花鶏】
「差別発言で訴えるわよ」
【るい】
「警察はエレガントじゃねーじゃないのかよ?」
【花鶏】
「それはそれ、これはこれ」
【伊代】
「……なんて心いっぱいの棚」
【こより】
「?」
【茜子】
「…………」
おちびの二人は状況が飲み込めてない。
【智】
「……?
ああ、この制服、知ってるんだ」
【伊代】
「そりゃあね。地元じゃ有名どこだし。
駅のこっちがわに来るようなひとじゃないんでしょ、あなた」
【智】
「厳しい学園だから、ばれたら即コレものじゃないかな」
すっぱりと首を切る手つき。
【智】
「でも、伊代も結構な進学校なんじゃ」
【伊代】
「ん、まあ、そうかな」
【智】
「厳しいところ?」
【伊代】
「繁華街には出入り禁止」
【るい】
「ありがち」
【伊代】
「後はネットも毛嫌い。
うちの学園、一昨年晒されて風評被害被ったからって」
【こより】
「あ、それ覚えてるッス!」
【智】
「教師の体罰問題だっけ? 風評だったんだ」
【伊代】
「事件は本当にあった。内情暴露がアップされたりで、先生何人かいなくなったりもしたし。ただ、余計な風評も多かった。個人情報流されたり」
【智】
「熱しやすく冷めやすいのがネットってやつで」
【るい】
「ネットってよーわからん」
【こより】
「るい姉さんは掲示板とか見ない口ですか?」
【るい】
「そもそもしない」
【智】
「回線もなさそうな家だったねえ」
【花鶏】
「原始人」
【るい】
「てめえが燃やしたんだろ」
【花鶏】
「いいがかりはやめなさい」
【伊代】
「こら、もー、揉み合ってないで!」
【智】
「すごく委員長っぽくてグー」
【伊代】
「わからないこと言ってないでよ……」
【智】
「とりあえず、逃げ出す方法を考えよう」
【伊代】
「あなたも警察とか嫌いなひとなんだ」
【智】
「好き嫌いよりは、やっぱり他人だからね」
【伊代】
「…………?」
治安機構の目的は治安を維持することで、
個人の事情を万全には斟酌(しんしゃく)してくれない。
権力の本質は暴力だ。
暴力的でなければ治安の維持など不可能なのだから。
個々の自由を切り売りすることが、
つまりは平穏無事な毎日の正体だ。
最近では線引きの問題も複雑怪奇になる一方。
立ち入り過ぎれば叩かれ、
手遅れになれば責められる。
個人の権利問題が絡むとさらに厄介になる。
解決すべき問題はそれこそ無数に生じるくせに、
人手というリソースは有限で、ともすれば叩かれさえする。
及び腰にもなろうというものだ。
【伊代】
「あてに出来ないってこと?」
【智】
「どれくらい関わってくれるかわかんないし、一時的にどうにかなっても長期的には無理だし、相手の神経逆撫でして余計な恨みかっても守ってくれないし」
何よりも。
【智】
「個人的に学園のこともあるし、警察沙汰って避けたい」
それが一番の理由で。
【智】
「ついで、さっき3人ほどのしちゃったでしょ」
【こより】
「すごかったッス」
【伊代】
「そうねぇ」
【智】
「表沙汰になると、のした連中につけ込まれるかも」
【伊代】
「…………」
【こより】
「でも、あれって正義の味方ッス。
悪い奴らをぶっ飛ばしただけじゃないですか!」
【智】
「世の中ってよくも悪くも公平だしね」
【伊代】
「つまるところは……」
【るい】
「自分の身は自分で守れってことじゃない」
ソファーでごろごろしながら、るいが一刀両断にした。
【花鶏】
「最低の気分だわ」
【るい】
「それはすごく嬉しいぞ」
【花鶏】
「あなたと意見が一致するなんて、
わたしの人生における最大の汚点だと思う」
【るい】
「人生この場で終わらせるか、この女」
【伊代】
「……ごめん」
【智】
「なにが?」
【伊代】
「…………」
【伊代】
「あなたたちに、とんでもない迷惑かけてる」
伊代は恐縮しきっていた。
いよいよ本格派委員長気質というやつか。
【智】
「……別に伊代の責任じゃないよ」
【伊代】
「でも」
【茜子】
「でももなにも、あなたは悪くありません」
【茜子】
「頭が悪かっただけです。
私なんかを助けたからこんなことになったのです」
【茜子】
「犯人は私でした。情けは人のためではなくて、自分のために
使いましょう。そんなことも気がつかないニブチンさんなので
人生の勝利はおぼつかないのです」
【茜子】
「判断ミス、ザマー」
【伊代】
「…………」
無表情に、茜子が笑う。
透きとおった、硬質なのに、
輪郭の曖昧な笑い。
【茜子】
「そういうわけなので……」
【茜子】
「……別に……そのひとは……悪くないです……」
それなのに、最後だけが、たどたどしい。
目眩がするほどの、純朴さ。
おかしかった。
【るい】
「ぷぶっ」
我慢できずに吹き出した。
るいだった。
【るい】
「くくくくく」
収まらないで笑い出した。
沈みかけていた空気が弛緩する。
救われた、と。
なぜか、思う。
【るい】
「平気平気、るいさん正義の味方だから、このくらいなら迷惑でもなんでもない」
るいらしい、
何一つ考えていない思いつきの返事。
頼もしい。
【花鶏】
「……わたしは、困ってる女の子には手を差し伸べる主義だから」
【智】
「僕の時は、手を差し伸べてくれませんでした」
【花鶏】
「その代わり唇を差し伸べたわ」
【智】
「……そうですか」
つくづく、僕は僕が可哀想だ。
【こより】
「…………」
【智】
「なんですか」
【こより】
「なんか……えっちい会話をしてる気がするであります」
【智】
「他意はありません(嘘)」
【こより】
「そんで、センパイはどーするですか」
【智】
「こよりんはどうしたいの?」
【こより】
「不肖、この鳴滝めはセンパイオネーサマと一心同体。一度は
捨てたこの命、生まれ変わった不死身の身体、地獄の底まで
おともする覚悟であります!」
【智】
「不死身ない不死身ない」
【こより】
「心意気だけ不死身なのです」
【智】
「正直でよろしい」
【智】
「それじゃあ」
【智】
「逃げ出す算段をしましょうか」
【こより】
「さーいえっさーっ!」
【伊代】
「あんたたち…………」
【智】
「細かいことは気にしなくていいよ。いやなら最初から見捨てて逃げ出してる。乗りかかった船には最後まで乗るのが趣味なんだ」
【伊代】
「……火傷しやすいタイプだったんだ」
【智】
「それで伊代の気が済まないようなら」
【智】
「貸しにしとくから、今度返してください。精神的に」
【伊代】
「…………」
言葉を探していた。
【伊代】
「……ありがとう」
結局は、まっすぐなものを選んだ。
返事を考えて。
笑む。
余計な装飾のない笑顔。
伊代が、ぎこちなく口元をほころばせた。
初めてみる表情。
【智】
「伊代は、笑ってる方がずっとかわいい」
【伊代】
「…………あなたは」
【智】
「なぁに」
【伊代】
「男だったら、きっと、ずるい男になってたと思う」
【智】
「むう」
複雑な感じにダメージを受ける。
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。あなたがたはどいつもこいつも
阿呆生物です」
【花鶏】
「どうだったの?」
【智】
「だめ」
【伊代】
「本当にいるの? どれがそうなの?」
【るい】
「あれ。
そういう臭いがする」
【こより】
「わかんないッス」
【花鶏】
「臭いでわかるなんてケダモノね」
【るい】
「役に立たないヘンタイ性欲よりマシだよ」
【花鶏】
「――ッッ」
【るい】
「――ッッ」
【茜子】
「いつもよりたくさん揉めております」
【伊代】
「だー、かー、らー!」
【智】
「おやめなさいって」
【花鶏】
「――――ッ」
【るい】
「――――ッ」
【るい】
「ん、ちょっとお待ちッ」
るいは、がしがしとぶっていた。不意に顔つきが変わる。
お尻に蹴りを入れていた花鶏が、その視線を追う。
【花鶏】
「なによ!?」
【るい】
「動いた……ッ、ばれた!
こっちへ、急いで」
【茜子】
「はぁ、はぁ……はぁ……」
【伊代】
「ひぃ……うひぃ……っ」
【こより】
「皆さん、お疲れしてますね」
体力底なしのるいの他は軒並み顎をだしている。
ひとり、こよりは元気がいい。
【伊代】
「しゃ、車輪付いてると楽そうね……」
【こより】
「コツはいるですよ」
【るい】
「あ〜、う〜」
るいがしゃがみ込む。
がっくり。
肩を落として尻尾を下げた負け犬の風情を漂わせる。
【花鶏】
「何事よ? 地雷でも踏んだの?」
【伊代】
「ここは、どこの前線なのよ……」
【智】
「……お腹減ったんだ」
【るい】
「みゅー」
涙目になっていた。
夕飯抜きで逃避行。
常人の3倍燃料効率の悪いるいにしてはよく保った。
【花鶏】
「お腹減って動けなくなるなんて、あきれるわね!」
力尽きたるいを高いところから傲岸不遜に
見下ろしつつ、力一杯花鶏は呆れる。
【るい】
「おぼえてろー」
すでに敗残兵の遠吠えだ。
【茜子】
「人生勝ち負けのひとたちを発見しました」
【こより】
「……現代の蛮族だ」
【智】
「さ、立って立って。もうちょっとだけがんばって無事に抜け出したら、たくさんご飯食べさせてあげるから」
【るい】
「…………ッ」
あれ、妙な反応?
【花鶏】
「でも、どうやって? どこでも目が光ってる。逃がしてくれそうにない」
【伊代】
「制服だし……」
【智】
「目立つよね」
【智】
「さてと、土地勘も人数も向こうの方が上だから」
【伊代】
「そんな簡単に……」
【智】
「まず事実を認めてから対策を」
【茜子】
「では、対策を。見事なヤツを」
【智】
「鋭意努力中だよ」
【茜子】
「ガギノドンに真空竜巻全身大爆発光線を喰らってくたばれ」
【智】
「その猫、そんな大技あるんだ」
【伊代】
「まぁ、代表は誰でも叩かれるものよね」
【智】
「総理大臣みたいなものか……というよりも、いつから代表?」
【伊代】
「パーティーの引率役」
【智】
「アルケミスト一人くらいいるといいかも」
【こより】
「洞窟行く前に穴掘りからッス!」
【智】
「もう少し安くなると嬉しい」
【花鶏】
「なんの話を」
【こより】
「ネトゲですです」
【智】
「ワールドオーダー、おもしろいよね」
【花鶏】
「低俗な娯楽に耽溺して」
【智】
「では、真面目に。どうしましょう」
【るい】
「やっぱり、ごはんのためには突破しか」
目つきが危険だった。
瞳の奥の水底に、手を出せば噛みつきそうな剣呑の色を揺らめかせている。
【智】
「戦争は最後の手段で」
【花鶏】
「知性派でいけそうなの?」
【智】
「国境地帯が紛争中」
【伊代】
「わたしたちが紛争当事者……」
【智】
「外国にぜひとも仲介役を」
【るい】
「外国って誰さ」
【智】
「そこが問題です」
【こより】
「どこッスか?」
【智】
「ここだよ、ここ」
【こより】
「??」
【伊代】
「……今そこにある危機にぼけなくていいから」
伊代のため息。
現実の重さを笑いで誤魔化す。
差し迫ったときにこそ冷静さが必要だ。
深呼吸して顔を再確認。
僕をいれて6人。
【こより】
「どったですか?」
【智】
「……ん、なんでもない」
ほうけていたのに、
目ざとく見つけられていた。
ささやかな驚き。
細かいことに気の回るタイプとは思わなかった。
知らなければ見えない、
知りあわなければわからない、
意外な部分は誰にでもある。
【智】
「だから、ホントになにもありません」
【こより】
「ん〜?」
疑っていた。
鼻先の触れそうな距離までしかめ面を寄せる。
【こより】
「ッッッ!」
真っ赤になって跳び退く。
【智】
「どうかした?」
【こより】
「えあ、いや、その、あー、なんといいますやら」
【こより】
「センパイの唇がすっごくやわらかそうで……」
【智】
「………………」
【伊代】
「だから、そっちの趣味はやめなさい、悪いことはいわないから」
【花鶏】
「新世界は見果てぬ楽園かもしれないわよ」
【るい】
「……魔界だっつーの」
【こより】
「はや?」
理解していない、こよりだ。
表情は万華鏡のようにくるくると変わる。
目を離した隙に違う顔をする。
見飽きない。
【智】
「こういうの……」
【花鶏】
「なによ?」
むず痒さにも似た感覚。
居心地がいい、というのか。
昨日今日であったばかりの、ろくに知りもしない誰かと、
こうして手を携えて危ない橋を渡りながら。
【智】
「馬鹿みたいだ」
【花鶏】
「はぁ? 何をすっとろいことをいってるの。危機感が足りて
いないわよ」
おしかりに尻尾を丸める。
【智】
「……とりあえず移動しよう。
人気のないところはかえって危険だし。
路地の多い西側からなら抜けられるかも」
先導する。
足音がついてくる。
確かな歩みに反比例して、不安の種が疼く。
自分の足跡を誰かが辿る。
怖い。
はじめての、意識。
自分の失敗は、全員の失敗へと伝染する。
病のように。呪いのように。
触れれば穢れていく。
靴底に入り込んだ見えない鉛が、
一歩ごとに重圧となって肩へ食い込んだ。
【智】
「……」
思い知る。
孤独は、自由でもある。
孤独でなくなることは、束縛されることだ。
【智】
「なに?」
【茜子】
「こーんな顔をしてました、ミス・不細工」
茜子が指で目尻をむにゅっと押し上げる。
狐顔――――酷い顔だ。
【智】
「……明日の実力テストの心配してた」
【伊代】
「無事に帰る心配しなさいって」
【智】
「それは大丈夫」
無理からの安請け合いのすぐ横を、
るいが抜けた。
【るい】
「こっちでいーんだよね?」
先頭に立つ。
【智】
「うん……」
【るい】
「よーし、いっちょいくぞーっ!」
気負いはない。
生まれながらの定位置のように。
ほんの少し自分の足の重さが消える。
重いものを、るいが肩代わりしてくれたんだろうか。
そんなふうに思うのはロマンチックが過ぎるか。
自分に小さく笑った。
肩で風切る、
るいの背を追いかける。
〔央輝登場〕
【るい】
「――――」
るいは立ち止まっていた。
【智】
「どう――――」
石段がある。
西側の高所へ抜ける、短く整備されたコンクリート製の
一段目に片足をかけたきり。
るいは精練されていた。
酷薄で鋭利な爪と牙で
武装した危険な駆動体。
威嚇の吠え声もあげずに睨む。
階段の頂きに少女がいた。
足を組んでいる。
石段に腰掛けているからだ。
【智】
「――――」
獣を幻視した。
階段の上に黒くうずくまった影は、
静寂と闇に充たされた森で出会う、
昔話の牙持つものに似ている。
人に一番近しい獣とよく似た姿をしているくせに、
危険と呼ばれ、外敵と見なされる。
剣呑な殺意を口の内側にぞろりと並べている。
そんな、獣。
彼女は睥睨していた。
【智】
「えーっと」
第一声。
【央輝/???】
「――――――く……くくっ」
うけた。
低く喉をならす。肩を軽く震わせて、
おかしくてたまらないというように。
こちらより高い位置だから判らなかったけれど、相手は随分と小柄で、見る限り年の頃もあまり変わらない。年下かもしれない。
【智】
「何かおかしかった?」
単刀直入に。
疲れで、頭を回すのが億劫だった。
【央輝/???】
「お前、自分でおかしいと思わなかったのか?」
【央輝/???】
「見ろよ。随分とうるさい連中が騒いでやがる」
今来た街の方へ顎をしゃくる。
【智】
「そうね、このご時世にマメな人たちだと思う」
【央輝/???】
「今夜は面倒事があったみたいだぜ」
【智】
「面倒事ならいつもあるんでしょ、この辺りなら」
ひゅう、と軽い口笛が応じる。
【央輝/???】
「やっぱりおかしなヤツだ」
【智】
「普通だよ」
【央輝/???】
「こんな騒ぎの晩に、こんな場所に、こんな人数でやってきて、
こんなにも呑気なやつをはじめて見た」
【花鶏】
「もっともだわ」
【茜子】
「このひと、きっと頭のネジが足りていないひとです」
【智】
「君らどっちの味方よ?」
ここまできてギャラリーにさえ嬲られる。
心底、僕は僕が可哀想だ。
【智】
「ところで、駅の反対の、平和なところまで帰りたいんだけど」
【央輝/???】
「普通に帰ればいい。街の中を通って」
【智】
「怖い人が多くて」
【央輝/???】
「誰彼構わず噛みつくわけでもないと思うぞ」
【智】
「そうなんだけど。気が弱くてか弱い女の子は、怖いところには
近づけないの」
くくっ、とまた笑われた。
【智】
「笑われるようなこと言ってるのかな」
【花鶏】
「5人に4人は笑うと思うわ」
【伊代】
「気が弱くてか弱い女の子は、そもそもこんなとこまで来ません」
【智】
「ごもっともです」
【智】
「それで、どっかに抜けられそうな場所があれば」
【央輝/???】
「――――なくはない」
【智】
「あるの?」
投げやりに聞いただけなのに、返答があった。
これって運命のもたらす救いの手?
蜘蛛の糸という気もヒシヒシしますが。
【央輝/???】
「聞きたいか?」
【智】
「うんうん、聞きたい」
【央輝/???】
「すると取り引きだな」
値踏みするような眼差し。
自分を上から下まで眺めてみる。
【智】
「見ての通り大したものはないんだけど」
交換は世界の原則だ。
質量がエネルギーに変わるように、
お金が今日の晩ご飯になるように。
【央輝/???】
「…………」
【智】
「なあに?」
【央輝/???】
「とぼけたヤツだな。こう言うとき、大抵のヤツはな、
幾らいるんですかって切り出すんだ」
【智】
「そういうのでよかった?」
お金がいるキャラには見えなかったので。
【央輝/???】
「いや」
引っかけ問題でした。
【智】
「どうしよう」
【央輝/???】
「つくづく妙なやつだ。いいさ、一つ貸しにしておく。
それで、どうだ?」
【智】
「…………ただより高いモノはない」
【央輝/???】
「道理を弁(わきま)えてるな。その通り。こいつは高い、高くつく」
【智】
「もう少しまからない?」
【央輝/???】
「バーゲンなら他を当たれ」
【智】
「せめてサービスを」
ちらりと後ろを確かめると、
どの顔も疲労の色が濃かった。
選択の余地は無さそうだ。
るいを見る。
一人だけ元気なるいは、
さっきから黙ったまま、
全身の毛を逆立てて警戒している。
純粋であることは感銘を与える。
世界は不純だからだ。
あらゆる要素は、生まれ落ちたその瞬間から、
不純物と結合を余儀なくされる。
観念と思索のうちにしか存在を
許されない完全なるもの。
理想としての純(じゅん)一(いつ)。
無限遠の距離が、
希求してたどり着けない人の心を、
感動で揺さぶるからだ。
るいは本能で世界を単純に色分けする。
敵と味方だ。
決まり切っていた返答を出すために深呼吸をした。
【るい】
「――――」
るいの足下で、砂利が踏みしめられる。
目つきが危険だった。
【智】
「一つだけ条件があるんだけど」
手を挙げて、発言する。
相手より、るいの機先を制する。
【央輝/???】
「言ってみろよ」
るいも、動きを止めた。
【智】
「…………僕が個人的に借りちゃうってことで、いい?」
【るい】
「トモ!」
【花鶏】
「あなた、何を勝手なこといってるの!」
【智】
「まあまあ」
【央輝/???】
「わかった、いいぜ。これはお前への貸しだ。あたしとお前の
個人的な契約だ」
【智】
「……そんで?」
【央輝/???】
「ここをまっすぐ行く。フェンスがあるから越える。右のビルの
隙間を抜けると昔の川だった場所が暗渠(あんきょ)になってる。そこを
抜けていけば、駅の反対にぐるっと回れる」
【智】
「了解っす」
先頭に立つ。
【伊代】
「ちょ、信用するの早すぎない!? もしも連中に――」
密告とかされたりしたら。
伊代が言葉の後ろ半分を飲み込む。
【智】
「その時は、強行突破しかないなあ」
【伊代】
「いい加減……」
どのみちどこかで賭けは必要だ。
【央輝/???】
「おい」
呼び止めて、投げつけられたのは、
ライターだった。
顔に飛んできたそれを受け止める。
オイルライター。結構いいヤツだ。
【智】
「にゃわ?」
【央輝/???】
「サービスが欲しいんだろ」
灯りの代わりということらしい。
【央輝/???】
「貸しを忘れるな」
【智】
「その件はいずれ。できれば精神的な方向で……」
〔バンド(群れ)になります〕
カーテンの隙間から光が差し込む。
安寧(あんねい)が揺すぶられ、今日も朝を迎えた。
いつものように。いつもと同じ目覚め。
一日の始まりに目に入ったのは。
おっきな、おっぱい。
【智】
「ッッッ!!」
るいが、人の頭を抱き枕に安眠していた。
タオルケットを蹴り飛ばす勢いで、
ベッドではなく床の上から飛び起きる。
るい、花鶏、伊代。
3人が床で川の字になっている。
自分を入れると字が余る。
足の踏み場もない惨状だ。
【智】
「朝…………」
ぼーっとする。
朝には、よく幻想の残り香が付きまとう。
甘美な夢の跡は、学園という現実的な
空間に閉じこめられて、ようやく消える。
夢は記憶の再構成という機能の余波だ。
断片に意味はない。
意味は夢を望むものが与える。
快楽にしろ、悪夢にしろ、現世では得難い幻想であるほどに
深く魂を捕らえて離さない。
【智】
「今日は、おせんちな朝だったり……」
おどけたふうに独りごち、
記憶の土壌を掘り起こす。
九死に一生を得た逃避行から一夜明け。
教えられた抜け道を通って駅の反対に出たころには、
時刻は深夜をまわり、終電もバスも尽きていた。
夜歩く体力も気力もすっかり底値。
鋭気を養う場所こそが必要だった。
しかたなく、最寄りで辿り着いたこの部屋に、
そろって雪崩れ込んで、死体のように朽ち果てたのだ。
花鶏流に言うなら、運命のもたらす必然のように。
【るい】
「んん、うむむ……」
悪戯心を刺激されました。
るいの寝顔を指でつつく。
【智】
「つんつん」
【るい】
「んにゅにゅ……」
無防備にすぎる百面相にしばし見入った。
大口を開ける笑い。酷薄な敵意。孤高。
どれもが、るいだった。
人間一人を構成する因子は複雑極まる。
るいが特別なんじゃなく、誰もがそうだ。
他に目覚める気配はない。
【智】
「女の子には、もう少し花のある情景を期待したいのです」
床に3人。
ベッドには、こより。
こちらは色気というより稚気である。
無防備な女の子が可愛いとは限らない。
茜子は孤独が好きらしくクローゼットの中に。
ちょっと意味不明だ。
異性に対して抱く夢想や憧憬(どうけい)。
異者だからこそ、あり得ない完全さを期待する。
そして、完全は観念の内にしかありえない。
過酷な現実に肩をすくめた。
起こさないように、のろくさと這い出す。
シャワーを浴びにいく。
【智】
「……誰か起きてきたら、やばい……かなぁ。
でも、昨日は一晩中走り回ったし、汗かいてるし……」
危険と秤にかける。
我慢はできそうにないや。
服を脱ごうと手をかけてから、
考え直す。
バスルームに持ち込んで脱いだ。
ワイシャツのボタンを外しかけたところで、一度も使ったことの
ないバスルームの鍵を落としておくことにした。
念には念。
【智】
「ふんふんふふん♪ 生き返るぅー」
予感的中。
【智】
「どちらさまですか」
【花鶏】
「……閉まってるわ」
【智】
「施錠してます」
【花鶏】
「どうして鍵なんてかけてるの?」
なにやらどす黒い情念が、
バスルームのドア越しに伝わってくる。
【智】
「どうしてガチャガチャしてるの」
【花鶏】
「一日のはじめにシャワーを浴びるのが習慣なのよ」
【智】
「いいよ、使って。僕が出たあとで」
【花鶏】
「たまには二人でお風呂も素敵じゃないかしら」
【智】
「僕は孤独を愛してるんだ」
【花鶏】
「それよりも人を愛しなさい」
【智】
「愛情過多な人生も問題あるかなあって」
【花鶏】
「大は小を兼ねるのよ」
【智】
「るいもおっきーけど、伊代も実はどーんだったね……」
【花鶏】
「素敵な黄金律だと思うわ」
【智】
「黄金のような一時を過ごしてます」
【花鶏】
「ここを開けて。わたしにも振る舞って」
【智】
「近頃はこのあたりも物騒で、
女の子を食べちゃう狼さんが出たりするから、だめです」
【花鶏】
「危険な時こそ友情が試されるのではなくて」
【智】
「おばあさんのお口が耳まで裂けてるのはどうしてですか」
【花鶏】
「つれないわね、赤ずきんちゃん」
諦めたのか、ハラス魔王の気配が遠ざかる。
【智】
「……寝たふりして狙ってたんだな」
油断も隙もない。
【教師】
「――政体には三つのものがあるとする。共和政、君主政そして専制政である。それぞれの本性を明らかにするとき、三つの事実を想定する」
【教師】
「共和政は人民に最高権力が委ねられており、君主政は権力がただ一人の手にあるものの制定された法のもとに統治される」
【教師】
「対して、専制政においてはこれを持つただ一人を制する術がなく、第一人者の理性と感情の赴くところのみが、」
生あくびを噛み殺した。
授業を進める小粋なチョークのリズムに普段より乗れず、肘杖をついて意味もなく外へと視線を漂泊させた。
碁盤目に区切られた座席の上に、
きれいに配置された学生たちの頭。
石の海だ。
黒く固い水面の向こう、窓を隔てて空がある。
時間の経過が、今日はひどく遅い。
放課後になる。
授業が終われば閑散とする。
祭りの後めいた空虚が、
主のいない座席の列の上を漂う。
【宮和】
「よだれ」
【智】
「はにゃ――」
口元を拭われる。
窓辺の席に陣取って、ゆるい風に巻かれながら、
いつの間にかうたた寝していた。
【宮和】
「起こしてしまいましたか」
【智】
「宮……」
唇に手を当てる。
優しい感触が残っている。
【智】
「あう」
【宮和】
「愛らしい寝顔でございました」
【智】
「はずかしいです……」
【宮和】
「花の蜜に誘われるように、つい唇の」
【智】
「奪われた?!」
【宮和】
「よだれをぬぐってしまいました」
【智】
「ごめん、ハンカチ汚させちゃった」
【宮和】
「和久津様のいけない寝顔が、他の方に見つからなくて
ようございました」
【智】
「宮には見つかりました」
【宮和】
「そして悪戯を」
【智】
「堪忍してください」
【宮和】
「今日だけは特別にそういたします」
【智】
「多謝」
【宮和】
「よいお日和ですのね」
宮和が細い首を傾けて、笑む。
小さな齧歯類を連想させる。
目をすがめて、雲の合間にのどかな風を見る。
【智】
「気持ちよかったから、つい、うたたねしてた。昨日はちょっと
寝不足気味だったから」
窓から入り込んだ、
ゆるい大気の流れが頬を撫でる。
見えない手に髪をまかせる。
【宮和】
「和久津さまは、ずるずるされなかったのですね」
【智】
「ずる休みのこと?」
【宮和】
「関西方面のスラングでございます」
【智】
「嘘だ、絶対に嘘だ」
【宮和】
「ずるずる」
くねくねした。
【智】
「……何をしてるの?」
【宮和】
「これが意外に、心地よくて。和久津さまもいかがですか」
いつまでもしていた。気に入ったらしい。
【智】
「ご遠慮」
【宮和】
「残念でございます」
【宮和】
「ずるずる」
【智】
「ずるはなしで……」
座ったまま、開いた窓枠に後頭部をのせる。
見上げた空に向かって、うんと伸び。
【花鶏】
「――盗まれた!?」
それは花鶏と呼ばれていたものだ。
今は花鶏ではない。
人の領域にはいない。
百歩譲っても鬼だか悪魔だかが相応しい。
【花鶏】
「盗んだのはあなたでしょ!」
牙が生えた。
角はとっくに生えていた。
【こより】
「盗んでないですようっ!」
こちらは半泣きだ。
証言はどこまでもすれ違う。
整理すれば事実は簡単だ。
数日前。
るいと花鶏が駅向こうで揉めた。
こよりが通りがかったのは偶然だった。
揉めたはずみで、こよりは突き飛ばされた。
【るい】
「……覚えてない」
【花鶏】
「記憶にないわ」
犯人たちの証言の信憑性はさておく。
容赦なく被害を拡散する悪魔たちに恐れを成して、こよりは
逃げ出した。
トラブルが発生した。
揉めたひょうしに花鶏はバッグを落とした。
こよりは逃げ出すときにそれを掴んだ。
持ち逃げするつもりはなかった。
こよりはパニくると周りが見えなくなるらしい。
【花鶏】
「バッグはどちらでもいいの!」
【智】
「高いんでしょ?」
【花鶏】
「高くても」
金銭に執着のない人はこれだから困る。
1円を笑う者は1円に泣く。
閑話休題。
こよりは気付いて呆然とした。
泥棒しちゃった。
唐突に訪れた初体験。
朝ベッドで目が覚めたら、
隣に見知らぬ男が寝てましたな心境。
ショックを受けて雑踏に立ち尽くした。
格好の獲物に見えたことだろう。
雑踏の中から男の手が伸びてきて――――。
【花鶏】
「そんな馬鹿みたいな話が」
【こより】
「あるです、ホントですぅ〜」
――――こよりは、バッグをひったくられた。
追う間もなく相手は街に飲まれて消えてしまった。
【智】
「事実は小説より奇なり」
【花鶏】
「きっ」
【伊代】
「混ぜっ返すとちゃぶ台返されるわよ」
【智】
「蛮族の方々が暴動起こすので止めてください」
【茜子】
「咀嚼(そしゃく)咀嚼ヤムヤム咀嚼」
【るい】
「トモのご飯はやっぱおいしいのうー」
【伊代】
「あなたたち本当にまとまり無いわね……」
こよりは焦った(本人談)。
【こより】
「なんとか探そうと……」
【智】
「してたんだ」
【こより】
「努力はしたんですけれど……」
【智】
「じゃあ、アソコにいたのは」
【こより】
「犯人は現場に戻るの法則ってありますよね」
【茜子】
「儚い期待を抱く夢見るガールは、さっさと目を醒ました方がいいと思います」
【こより】
「いじいじ」
膝を抱えて、床の上に「の」の字を書いてみたり。
【伊代】
「でも、戻ってきてるじゃない」
白い目の伊代が、こよりを指差す。
犯人、現場に戻る。
【智】
「そして、逃避行」
【こより】
「殺されるかと〜〜〜〜」
【るい】
「人聞きわるいぞぉ」
【智】
「無理はなかったと思うけど」
【花鶏】
「………………」
花鶏は打ちひしがれていた。
夢も希望も潰え去った負け犬を、高いところから傲岸に
見下ろしつつ、朝ご飯を満足いくまで飽食してから、
るいは告げた。
【るい】
「ザマー」
【花鶏】
「――――ッッ」
【るい】
「――――ッッ」
朝から揉めた。
【智】
「さてと」
【こより】
「センパイ、どちらへ」
【智】
「当然登校します。学生の本分は勉学です。今日は小テストあるし」
【伊代】
「わたしもそろそろ……と、あ……どう、しようかな」
伊代の眼鏡が逆光で白く曇る。
葛藤の汗が額を流れる。
茜子のことが、伊代の気がかりだ。
窮地は脱したから、後は放置して、
それでよしとできないタイプ。
自爆型の委員長気質だ。
石橋を叩いて渡りたがるくせに、一端乗ると船から下りる決断
ができなくて、一緒になって沈むタイプ。
【るい】
「ずるっちゃえば?」
【こより】
「それ、賛成!」
【伊代】
「それは許されないわ」
眼鏡が朝日を照り返し、
ギラリと良識の光を放った。
【伊代】
「非日常な事件にかまけて日常を乱したらいつまでたっても平和な日々には戻れないのよ。それどころか道を踏み外してどんどん悪い方向に行く」
【智】
「優等生的にずるはなしみたいだよ」
【茜子】
「では、社会秩序の歯車エリートである優等生さま、
いってらっしゃいませ」
【伊代】
「ん〜、なんだか気の重くなる比喩ね……」
【茜子】
「正直は茜子さんの美徳です」
【花鶏】
「…………ぎを」
猛獣が歯を軋らせるにも似た。
花鶏が顔を上げる。
目のある部分が爛々と怪しい光を放っていた。
【花鶏】
「対策会議を、するわ」
【智】
「待ち合わせ、か」
机の上にだらりと突っ伏す。
呟いた言葉がしこりになった。
形の合わないパズルのピースを無理からに詰めてしまったみたいに、みぞおちの辺りがぎこちない。
【宮和】
「今日はどうしてお残りに?」
【智】
「宮も珍しいね」
【宮和】
「わたくしは所用がございましたから」
【宮和】
「和久津さまは、いつも授業が終わると急いでお帰りになられますのに」
【智】
「ちょっとした約束があって、
一度帰っちゃうのも遠回りになるから――――」
しこりの正体に行き当たる。
約束。
待ち合わせ。
長いこと、学園の外で誰かと待ち合わせるような機会はなかった。
秘密がある、とはそういうことだ。
【宮和】
「はじめてですわね」
普段通りの宮和のやわらかさには、普段と違った春先めいた成分が含まれている気がした。
【智】
「なにが?」
【宮和】
「和久津さまとお知り合って以来、事情があると仰られることは何度もございましたけれど、約束があると伺ったのは今日が初めて」
【智】
「……そうだっけ」
放課後の教室に残っていると物寂しさが募る。
教室は喧噪と癒着している。
大勢がそこにある場は、必然騒々しさを宿す。
だが、永続はするものではない。
タイマー付きの時限爆弾だ。
時間が来れば終わる。
爆発の後には瓦解(がかい)が残留する。
不可分の要素の欠落は、
在りし時の「かつて」を連想させる分だけ、
より寂寞を強くした。
世界の中心に自分だけが置いていかれたような錯覚。
今は、ひとりではなく、二人だ。
【智】
「……」
誰かの存在。
たわいもない温度が胸に落ちてきた。
饒舌(じょうぜつ)だが口数は決して多くない宮和と共有する空間の、
奇妙な肌触りがなぜか心地よい。
【智】
「不思議空間」
【宮和】
「世界は不思議でいっぱいなのです」
【智】
「本当にそんな気がしてきた」
【宮和】
「世界の真理にアクセスされたのですね」
【智】
「……はじめて、か」
生き方と不可分に結びついた孤島の歩み。
【宮和】
「間違いはございません。記憶は一言一句の聞き漏らしもなく完璧です。わたくし、これでも学園最強の和久津さまストーカーを
自負しておりますから」
【智】
「是非ともしなくていいですから」
【宮和】
「お気に召しませんか」
【智】
「召すと思う宮の心が心配だ」
【宮和】
「ぽっ」
【智】
「なぜ頬を赤らめるの?!」
【宮和】
「内緒です」
【智】
「なぜ内緒っ?!」
【宮和】
「言ってよろしいのですか?」
【智】
「…………」
聞かせてくださいと決断するには、怖すぎた。
【智】
「ハァイ。今日の待ち合わせは……時間かかるから、場所を変えて? うん、いいけど……いえ、悪くないです。そういわれればそうだけど」
【智】
「ん、了解。バスが最寄りで、降りたら……わかった。
また連絡入れる」
【智】
「対策会議は花鶏の家で、か」
【こより】
「センパーイ、センパイセンパイ〜っ!」
【智】
「こんなところでなにをやっとんのねん」
【こより】
「不肖鳴滝め、センパイの登場をば、今か今かと待っておりましたのこころです」
【智】
「そこまで僕のことを……ういヤツ」
【こより】
「実はビビっておりました」
【智】
「根性なしだ」
【こより】
「見知らぬ土地は北風が強いッス!」
【智】
「どこの港町なのよ」
【こより】
「演歌なら鳴滝めにおまかせを!」
【智】
「いいからいくべし」
【こより】
「いくべしー」
【こより】
「センパイといっしょに、おーてて繋いで、らんらんらん♪」
【智】
「……恥ずかしいですッッ」
【こより】
「女は気合いでありますっ!」
【智】
「でかっ」
【こより】
「でかっ」
第一声。
花鶏の家は大きかった。
家では相応しくない。
邸宅と呼ぶ方がはまる。
厳つく高い門が、外界と内を峻別する建物。
こよりが尻尾を巻いて逃げ出したのもむべなるかな。
門とは境界である。
出入りするためにではなく、
通じる道を塞ぐために存在する。
威圧する機能こそ本性だ。
【智】
「女は?」
【こより】
「……気合いであります」
【智】
「敵は呑んでも飲まれるな」
【こより】
「押忍っ!」
【智】
「まずは1発っ」
【こより】
「ごめんくださいませー」
【智】
「落第ですね」
【花鶏】
「ようこそ、歓迎するわ」
お屋敷の中は、やっぱりお屋敷でした。
【こより】
「ほわー」
【花鶏】
「どうしたの?」
【こより】
「びっくりしてます……」
【智】
「制服じゃないのを目撃しました」
【こより】
「そうじゃなくて! まずは広さの方をびっくりするべきでは!」
【智】
「そういえば……花鶏、今日学園行った?」
【花鶏】
「普通に登校したけれど」
【智】
「よかった」
胸をなで下ろす。
【花鶏】
「行けるときには行くわよ」
【智】
「意外にマジメっこだったんだ。みんなズルズルいっちゃたんじゃないかって、ちょっとだけ心配に」
【花鶏】
「意外に苦労性なのね」
【智】
「気配り文化の国民ですから」
【花鶏】
「勉学は自分のためにするものだから。
わたし、他人の都合や社会秩序に興味はないの」
しれりと、肩にかかった髪を後ろにかき上げる。
【こより】
「それってワルってことですか?」
【花鶏】
「わがままってこと」
【智】
「自分でおっしゃいますね」
【花鶏】
「自己分析は正確に」
【智】
「いっそ横暴と」
他の面子は先に顔をそろえていた。
【るい】
「おーい」
るいは、高そうな椅子に窮屈そうに収まっていた。
手を振りながら飛んでくる。
【るい】
「あいたかったよー」
しがみつき。
【智】
「なになにどうしたの!?」
【茜子】
「人様のなわばりで気が立っているようです。ケダモノのように」
【るい】
「ぐしぐし」
【智】
「僕んちは平気だったのに」
【伊代】
「その子、大きな家は苦手なのかしら」
【智】
「わからないでもないんだけど……」
【伊代】
「なんていうか、場違い、な感じで」
伊代は苦笑いする。
【智】
「僕らで最後?」
【花鶏】
「そうよ。お茶をいれるわ。紅茶でよくて?」
【智】
「僕コーヒー」
【るい】
「お姉さん、コーラ」
【こより】
「渋いのは苦手ッス」
【伊代】
「えっ、他のもあるの? それじゃ緑茶……やっぱりほうじ茶で!」
【茜子】
「ひやしあめを」
【花鶏】
「全員紅茶ね」
花鶏が口を挟む余地のない目をして部屋を出た。
殺す気と書いて「ほんき」と読む。
【るい】
「ビッ○が、ペッ」
【伊代】
「えっ、本当は紅茶しか無いの? なんでみんないろんなの
頼んでたの?」
【智】
「素だったか。キャラが掴めて来た」
【茜子】
「掴めて来ました」
【伊代】
「なに、どういうこと?」
【るい】
「そういえば!」
るいが跳ねた。
【こより】
「ほえ、なんかありまして?」
【るい】
「あった。重大問題。晩ご飯どうしようか?」
【智】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
【こより】
「……」
掴むところしかないキャラだった。
【花鶏】
「わたしのバッグをどうするか」
【こより】
「弁済無理ですから〜!」
【伊代】
「せっかく集まってるなら、
この子のことも考えてあげたほうがいいんじゃないかしら」
【茜子】
「茜子さんは一人で強く生きて行くのです」
【智】
「カモがネギしょって厳しい世間にぱっくりと」
【るい】
「つか、よくも家焼いてくれやがったわね」
【花鶏】
「わたしがやったんじゃないって」
あのビル火災の原因は、周辺を根城にしてたホームレスの
失火らしいと、ニュースでやっておりました。
話題はとりとめがなく、
やくたいもなく続く。
雑多な言葉の意味もない連なりが、それなりに楽しくて、
知らぬ間に時間を浪費する。
果てしなく拡散する過程のどこかの時点で、
爪の先ほどのきっかけができた。
【伊代】
「問題を解決するためには」
伊代が眼鏡のフレームを指先で直す。
【伊代】
「問題を明確化すること」
常識的な見解を吐く。
自分が常識人であると、
ことさらに誇示するように。
得てして自己評価と世間の見方は
交差しないものである。
【花鶏】
「お茶が切れたわね」
【智】
「手伝うよ」
花鶏が部屋を中座する。
金魚のフンよろしく付き従う。
扉の外に出ると気圧された。
庶民離れした屋敷の気配。
価値は時に威圧感にすり替わる。
奇妙に古びた、それでいて何かの欠け落ちた廊下の印象。
夕暮れのオレンジに染められた風景画を想像する。
【智】
「家政婦さんとかいそうな家だよね」
【花鶏】
「いないわ。人嫌いなのよ」
手ずからお茶の用意をする花鶏の言葉の、
どこまでが本気かわからない。
近くにあった扉の一つをこっそり覗く。
手抜きみたいな、同じような部屋がある。
こんな部屋が幾つもある事実を驚くべきな気もしたり。
【智】
「大勢で押しかけちゃって、ご両親とかは」
【花鶏】
「親のことは気にしなくていい」
背中のままで切って捨てられた。
語気の壁が顔に当たる。
それ以上踏み込むことを拒絶する、
見えない柵が作られている。
【智】
「にしても、問題が解決しませんね」
【花鶏】
「別に、わたしは助けがいるわけじゃないから」
えー。
でも、最初に対策会議なんて言い出したのは?
【花鶏】
「手を貸して欲しいから迂遠に泣きついたとでも思ったの?」
【智】
「何を怒ってるんですか」
【花鶏】
「怒ってなんていないわ」
【智】
「なぜに怖い顔なんですか……」
【花鶏】
「わたしは普段通り。顔が怖く見えるのは、キミの心に
やましいことがあるからじゃなくて?!」
【智】
「なにも糾弾しなくても」
【花鶏】
「糾弾なんて、してないわ、断じて」
【智】
「ごめんなさい、全部僕が悪いです。信号が三原色なのも、救急車が白いのも僕のせいです」
尻尾を丸めてお手伝いに没頭する。
カップをそろえて並べる。
同じカップは人数分に足りてなかった。
申しわけに形を合わせた不釣り合いの器が、
不格好に輪を作る。
【智】
「ここはなに?」
【花鶏】
「テラスよ」
【智】
「見晴らしのいいところだね」
【花鶏】
「――――新事実の発掘くらい期待したわ」
花鶏が背を向けたままもらす。
声音は従容として干渉を拒絶する。
他人の心をのぞき込む術はない。
よく知る相手でさえ人の間にあるのは断絶だ。
数日の知己では埋められるはずもない。
【智】
「信頼は裏切られるためにあるんだよね」
【花鶏】
「存外後ろ向きなのね」
【智】
「多少は苦労が骨身に染みついてるから」
【花鶏】
「信じる力を信じないの?」
【智】
「信じるって素晴らしい言葉だよね。花鶏が言うと特に」
【花鶏】
「わたしは誰よりも信じてるっての」
【智】
「友情ってものを信頼できる? 親と子は無根拠に助け合うものだって感じてる? 十年経っても変わらない愛情があるって思う? 明日傘を忘れて出かけたら雨は降らないって信じてる?」
【花鶏】
「最後だけイエス」
【智】
「……なにを信じてるんですか」
【花鶏】
「わたしは、わたしを信じてるのよ」
【智】
「信じる心が力になるなら、神様だってお役後免だよ」
【花鶏】
「そうね。信じるなんて言葉では足りないわ。わたしは、わたしを信仰してる。本当に心の底から、これっぽっちの疑いもなく、ほんの些細な間違いもなく」
【花鶏】
「わたしの才能、わたしの未来、わたしの運命……全てがわたしの味方であることを」
見えないスポットライトが当たっていた。
ステージの上のオペラ歌手のように。
【花鶏】
「感心してるのね」
【智】
「あきれてるんだ」
【花鶏】
「人はわかりあえないものだわ」
【智】
「きれいにまとめてどーするの」
【花鶏】
「きれい事も時には重要ね」
【智】
「……ふむ」
【花鶏】
「どうかして?」
【智】
「どうか、言いますと?」
花鶏は、窓枠のチリを検分する姑さん風に眼を細める。
【花鶏】
「クレタ島の生き残りみたいな顔してる」
【智】
「それは嘘つきということですか」
【花鶏】
「心当たりは?」
【智】
「ありませんともありませんとも」
【花鶏】
「嘘つき村の住人なのね」
【智】
「そんな根も葉もない」
【花鶏】
「吐かせてみようか」
【智】
「ちょ、悪ふざけは……きゃわっ」
後ろから抱きすくめられた。
耳たぶにぬるい息がかかる。
【花鶏】
「細い腰……」
【智】
「ぎゃー!」
手が胸を狙ってきた。
必死になって身を守る。
【智】
「やめてよして堪忍して」
【花鶏】
「とっくにキスはすませた仲じゃない」
【智】
「やーの、それやーのぉ!
あぅん、耳はだめだめ、みみみみみみみみ」
耳たぶを甘噛みされる。
大事なところをカバーすると
それ以外がおざなりになる。
【花鶏】
「うふふふふふふ」
【智】
「ぎゃわーーーーーーっ」
【花鶏】
「胸は本当にちっさいみたいね」
【智】
「いやあああああああああああああああ」
足がもつれて床に転がった。
【こより】
「……何をやっておるですか」
こよりが不思議そうに見下ろしていた。
【花鶏】
「親睦を深めてるのよ」
【こより】
「なるほど」
【智】
「納得しないように!」
隙を見つけて、そそくさと距離を取る。
【花鶏】
「ちっ」
【こより】
「…………」
【智】
「どしたの」
ごにょごにょと、何か言いかけて、
こよりは失敗する。
自分でも処理できない感覚にもじもじしていた。
【こより】
「よくわかんないんですけど……」
【こより】
「なんか、どきどきする」
【智】
「考えるの禁止」
知られざる魔界の扉が目の前に。
【花鶏】
「教えてあげましょうか?」
【こより】
「ほえ」
こよりを引っ張って後ろに隠す。
悪魔の誘惑から、奪い取った。
【花鶏】
「邪魔するのね」
【智】
「正義の行為」
【こより】
「わかんないのです」
【智】
「……わかるの禁止」
世界には危険がいっぱいだ。
用意したお茶に全員が手を付けるのを待つ。
さらに一呼吸置いてから、口火を切った。
【智】
「そこで提案があります」
【伊代】
「どこからの続き?」
【るい】
「晩ご飯」
【茜子】
「食いしん坊弁慶」
【智】
「それ違う」
【花鶏】
「何の話だったかしら」
【智】
「問題の明確化から」
【伊代】
「そこからの続きなんだ」
【智】
「提案があると」
【花鶏】
「話の腰がよく折れるわね」
【智】
「折ってるのは君らです」
【こより】
「センパイ、腰を折るにはやっぱキャメルクラッチからッス」
【智】
「いやいやいやいや」
【伊代】
「もうボキボキね」
【智】
「そう思うなら少しは議事進行の手伝いを」
【伊代】
「他人の力をあてにしない」
【智】
「伊代って冷たい」
【茜子】
「人間フリーザー」
【伊代】
「な、なんということを」
【るい】
「そんで?」
仕切り直しに咳払いをしてから。
【智】
「現状、僕らはそれぞれやっかい事に面している。困ったトラブルを抱えてる。解決すべき事例が身近にある」
【智】
「たとえば、るいには家がない。茜子だって、最低でもほとぼりが冷めるまで帰れない」
【茜子】
「冷めても帰る気ナッシングです」
【智】
「花鶏には捜し物がある。伊代やこよりだって、
多かれ少なかれ巻き込まれたり責任を感じてたりする」
【智】
「問題は投げ出せない。そこから逃げられない。そこでの僕らの
思いは同じで、たったひとつ」
【智】
「早々に解決したい。
トラブルを処理して平穏無事な日常世界に帰還したい。
やっかい事を遠ざけて平和な安寧(あんねい)を呼び込みたい」
【伊代】
「そうね」
【智】
「だから――」
【るい】
「だから?」
【智】
「手を組もう」
【るい】
「……」
【花鶏】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
【こより】
「手を、組む?」
【智】
「そう。手を組む。力を合わせる。
利害の一致で歩調を合わせて前に進む」
【茜子】
「意味不明です」
【智】
「意味もなにもそのままだよ。要するに、一人で解決できないから他人の力を借りようってこと」
【伊代】
「そんなこと言ったって……昨日会ったばかりよわたしたち」
【るい】
「はーい、私は一昨日」
【花鶏】
「大差なし」
【伊代】
「そんなので……」
【智】
「誰だって最初は初対面」
【智】
「なにも難しくないよ。信頼できる絆を結ぼうとか、そういうんじゃない。利害が一致する間だけ、力を合わせて進もうってこと」
【智】
「どのみち一人じゃ何ともならないんだから、それなら、少しは顔見知りの相手の力を借りる方がいいでしょ? もちろん他にあてがあるならそっちに頼ってもいいけど」
返事はない。
今日この場に未解決のまま問題を持ち込んだということが、
そもそも他のアテがない証明でもある。
人間関係の寂しい面子だ。
【花鶏】
「わたしは、一人でも、問題ない」
花鶏が肩にかかった髪を後ろに跳ね上げる。
優雅さに、ある種の剣呑な棘が見え隠れした。
矜持(きょうじ)か、高慢か。
差し伸べられる手をことさらに払いのける。
【智】
「それなら、手を貸して」
朗らかに。
【花鶏】
「わたしが? どうして?」
【智】
「そうね……僕が困ってるから、じゃだめ?」
【花鶏】
「……」
寸刻、おもしろい顔になった。
梅干しでも食べたみたいな酸っぱ顔。
【花鶏】
「まあ、智がそこまで頼むのなら、少しくらい助けて
あげなくもないわ」
【るい】
「えらそーに」
【花鶏】
「なにか?」
【智】
「ありがとう、花鶏」
【伊代】
「意外と姑息だな、こやつ」
花鶏が微笑し、るいが頬をふくらませ、伊代は目を線にする。
【智】
「さあ、どうしよう?」
【智】
「問題を解決するために問題を明確化する」
【智】
「僕らがすべきことはなに? 一人で悩んでいること?
解決できない事情にヒザを抱えて丸くなること?
後ろを向いて逃げ出すこと?」
【智】
「どれも違う。僕らがすることは、このトラブルを倒すこと。
八つに畳んでバラバラにして埋めてしまうこと。何事もない
毎日へと辿り着くこと」
【智】
「一人ではできない。一人では辿り着けない。だから手を組もう。打算でいい。合理で構わない。秤に乗らない友情を絆にするよりずっと確かで信頼できる」
【伊代】
「わかるけど、でも……」
【智】
「きれい事を言ってもいいけど、昨日今日会ったばかりの関係で、それは無理」
【るい】
「着飾った言葉より本音の方が好みかな」
【花鶏】
「同意するわ、残念だけど」
【茜子】
「助けた分だけ助けてくれるわけですね」
【こより】
「とりあえず、鳴滝めはセンパイとご一緒です!」
【智】
「つまり、これは同盟だ。破られない契約、裏切られない誓約、
あるいは互いを縛る制約でもある」
【智】
「僕たちは口約束をかわす、指切りをする、サインを交換し、
血判状に徴(しるし)を押して、黒い羊皮紙に血のインクでしたためる」
【智】
「一人で戦えないから力を合わせる。1本の矢が折れるなら5本
6本と束ねてしまえばいい。利害の一致だ。利用の関係だ」
【智】
「気に入らないところに目をつぶり、相手の秀でている部分の力を借りる。誰かの失敗をフォローして、自分の勝ち得たものを分け与える」
【智】
「誰かのためじゃなく自分のために、自身のために」
【智】
「僕たちはひとつの群れ≠ノなる。
群れはお互いを守るためのものなんだ」
〔僕のいどころ〕
静閑な住宅街。
緩い上り坂に夕映えが差しかかる。
伊代と茜子を誘って出向いた、
買い出しの帰り道だ。
【伊代】
「わたし、あなたに賛成したわけじゃないわよ」
伊代が言葉を投げてよこす。
僕と伊代の間に挟まった茜子の頭の上を、
見えない放物線が飛んできた。
【茜子】
「ニャーオ」
茜子が我関せずと鳴く。
左右の不穏など他人事で民家の塀へと手を振る。
【猫】
「にー」
野良猫がいる。
警戒心の強い野生のキジ猫が、
茜子には愛想良く返事をする。
【茜子】
「ニャウ」
【猫】
「みゅー」
【茜子】
「ニャーニャー、ゲゲッ」
ほんわか。
理解も出来ない鳴き声は会話を連想させた。
【智】
「なんて言ってるの?」
【茜子】
「吾輩は猫である」
キジトラはインテリらしかった。
三毛はフェミニストだうろか、
シャム猫ならどうか。
【伊代】
「ちょっと、わたしの話聞いてる?」
【智】
「テツガクテキ命題に耽溺して聞いていませんでした」
伊代の眼が細くなる。
危険水域が近づく。
見知らぬ人間関係は手探りだ。
二人いればお互いの距離が問題になる。
近すぎても遠すぎて関係には齟(そ)齬(ご)が生じてしまう。
最適の距離を測るには時間と経験が必要だ。
積み重ねだけが適切な空間を作りあげる。
眼鏡ごしの視線は、怒りめいた鋭利とも
時限爆弾じみた不機嫌とも異なっている。
きっと、伊代は困惑している。迷っている。
現状に。未来に。
未明の全てに。
【茜子】
「ニャーオ」
伊代は、茜子を気にかけていた。
茜子の方は――――意味不明だ。
奇怪で冒涜的で魚類とも頭足綱とも
人間ともつかない特徴を備えた
灰色の石で作られた置物風に。
意訳すると、キャラとしてわからない。
伊代と茜子。
感情のやり取りは一方的で、
なし崩しの関係性がとりあえず成立している。
それ以上でも以下でもなかった。
それでも初対面では姉妹に思えたものである。
【智】
「目が悪かったようです」
【伊代】
「わたしは、目が悪いから眼鏡かけてるんですけど!」
【智】
「そちらの話ではなく」
【伊代】
「じゃあ、なんの話なの!?」
【智】
「話してたのは伊代の方です」
【伊代】
「む、ぐ……っ」
脊髄反射で語気を荒げ、
荒げた分だけ自分の言葉に詰まる。
かといって、感情のままで押し切る無法に染まるには、
伊代は少しばかり理知的すぎる。
【智】
「賛成してないって?」
【伊代】
「ちゃんと聞いてたんじゃない!」
【智】
「嫌いな献立があるならいってくれればよかったのに」
【伊代】
「誰が夕食の話をしてますか」
【智】
「晩ご飯の話ではないと?」
両手にぶら下げた、
中味のつまったスーパーの袋をかかげる。
【智】
「キミの意見を聞かせてもらいたいのです」
【茜子】
「いちいち他人の顔色を伺わなければ生きていけない人間には、
生きてる価値がありません」
【智】
「ほめられた」
【伊代】
「貶(けな)されてるのよ」
【智】
「楽しいおしゃべりとユーモアは人生のエッセンス。
眉間にこーんな皺ばっか作っててもしかたないでしょ」
【茜子】
「……似てる」
【伊代】
「誰の真似かしら?」
【智】
「冗談はさておきまして」
【伊代】
「真面目な話、してもいいの?」
【智】
「はっ、不肖和久津智。
一命をなげうって真面目にお話させていただきます」
伊代が肩全体でため息をついた。
【伊代】
「……も、いいわ。好きにして」
【智】
「ちょっとドキドキする台詞かも」
【茜子】
「えろい人ですね。男の人相手に口にして、近づいて来たところを一撃するわけですか」
【智】
「どこの誘惑強盗なのさ」
【伊代】
「エロでもエラでもいいから……あのね、さっきの話、本気なの?」
【智】
「さっきというと」
【伊代】
「同盟だか連盟だか」
【智】
「同盟っていうとバタ臭くてやな感じ。そこはかとなく漂う
前世紀の香りが特に」
少女同盟。
30年くらい前の少女漫画のタイトルっぽい。
【伊代】
「レトロっぽい響きとは思うけど」
【智】
「まあ、最近は復古ムーブメントも需要あるみたいだから」
【伊代】
「いやね、年寄りのノスタルジーっぽいわ」
【茜子】
「若気の至りな暴論です」
【智】
「話がどんどんずれていくねえ」
【伊代】
「かあっ」
【智】
「……怒った」
【伊代】
「怒ります。すぐに話をはぐらかして」
【智】
「自分だってずらしてたくせに」
さらに怒るかと予想した。
伊代は怒らずにジト目で睨む。
【伊代】
「存外不真面目なのね」
【智】
「存外とはこれいかに」
【伊代】
「優等生みたいな顔してるくせに」
【智】
「これでも学園では、本当に優等生ですよ」
【伊代】
「それはそれは、ずいぶんと分厚い猫の毛皮をご用意なさって
おられることで」
【茜子】
「ニャ〜〜オ」
【智】
「そんな、誤解を招きそうな台詞を」
【伊代】
「――――本気なの?」
強引に話の筋を引き戻される。
鼻の触れそうな距離に伊代の顔が近づいた。
眼鏡の向こうで鼻息を荒くしている。
びっくりするくらい綺麗だった。
【智】
「……美人さん」
【伊代】
「な、なにいってんの、いきなり!? そんなことで矛先逸らせると思ってるの!」
一瞬で完熟トマトみたいに真っ赤に染まる。
【智】
「すぐ顔に出る」
【伊代】
「顔の話はいい」
【智】
「美人さんはほんと」
【伊代】
「世辞もいい」
【智】
「本気なんだけど」
【伊代】
「だからッ」
【智】
「……はい、一応本気です。目の前には問題がある。解決は避けて通れない。一人で無理なら他人の力を借りてでも解決しなくちゃいけない」
【智】
「でも、誰かに助けて貰うには代価が必要になる。その代わりに僕らは条約を結ぶ。お互いの力を利用して、問題の解決に尽力する」
【智】
「僕らの同盟。僕らの関係」
【智】
「きれい事の友情ゴッコより、
打算の方が信用できると思うんだけど」
【伊代】
「信用だってできるのかどうか……」
轡(くつわ)を並べて修羅場をくぐった。
連帯感めいた錯覚はある。
しかし、突き詰めるならそれっぽっちだ。
漠然とした印象と名前以外、
相手のことなど大して知ってさえいない。
【智】
「投資にはリスクがつきもので」
【伊代】
「別に、助けなんかなくても」
【智】
「一人よりはみんなの力で」
【茜子】
「友情・努力・勝利」
【伊代】
「少年漫画ロジックで物事なんか片付かない」
【智】
「あのね、伊代」
【伊代】
「……なによ」
【智】
「あるプロジェクトに参加する人数が増えるほど、
トラブルと問題の数は幾何級数的に増えていくんだよ」
【茜子】
「だめだめですね」
【智】
「あれ?」
【伊代】
「なにがいいたいわけよ」
【智】
「んーと……花鶏は賛成してくれたから、
2〜3日なら茜子ちゃん泊めてくれると思うよ」
対立事項についての妥協点を提示する。
さらに白い目をされた。
【伊代】
「こういうヤツだったとは……」
【茜子】
「最悪さんです」
【智】
「二人でそろって!?」
【伊代】
「そこまで見越して、あの子をたぶらかしたのね」
【智】
「人聞きの悪い」
【伊代】
「しかも色仕掛けで、ふしだらな」
【茜子】
「教育上不適切な欲情です」
【智】
「友情といって欲しいです。
家族に説明できないようなことはしてませんよ?」
【伊代】
「ノンケだとばかり……まさか、わたしのことまでそんな目で」
おっきな胸を両手で隠して後ずさる。
【智】
「何の話をしてるのかわかんない」
【伊代】
「しれっとした顔してるくせに姑息で」
【茜子】
「八方美人の気安いさんです。そのうち、友達と修羅場になって、通学路で刺されて人生エンドです」
【智】
「……そんな未来はやだな」
【伊代】
「やっぱり嘘つき村の住人ね」
【智】
「流行ってるの、それ」
【伊代】
「なにが?」
【智】
「なんでもないです」
【伊代】
「そつもないのね」
言葉の谷間をついた舌鋒(ぜっぽう)が、
意外な鋭さで突き刺さる。
いやに硬い表情をした伊代が、
眠そうな茜子の向こうからまなざしを送ってくる。
しっとりとした笑みを返す。
【智】
「なんのこと?」
【伊代】
「買い物に出かけるとき、わたしたちに声をかけたのが」
思いの外、伊代は聡(さと)い。
こちらの意図を読んでいた。
【伊代】
「元気二人組は最初からあなたの味方だし、あのクォーターも
たぶらかしてたみたいだし」
【智】
「後ろ半分だけ訂正して」
【伊代】
「わたしたちを説得すれば障害は無くなるものね」
【智】
「説得というか」
【伊代】
「そりゃ、たとえ何日かにしたってこの子を泊めてくれるっていうのは悪くない取り引きだとは思うけど」
【智】
「けど?」
【伊代】
「あの家にも、ご両親とか、いるんでしょ」
【智】
「そっちは問題ないと思う」
花鶏の反応を思い返す。
両親の話題を切り捨てるような、印象。
きっと、あの家で、
花鶏の両親のことがリスクになることはない。
【智】
「それにさ、僕らが助けてって泣きついたら、花鶏だって
助かるじゃない」
【伊代】
「なによ、それ」
【智】
「彼女、自分から助けてなんて言い出さないタイプだけど
一番人手は欲しいはずでしょ」
【伊代】
「………………」
【智】
「白い目を通り越して死んだ魚の目だね」
【伊代】
「うおの目にもなりますわ」
【茜子】
「鬼畜さんですね、茜子さん了解しました」
【智】
「……もそっと他の言い方はないですか」
【伊代】
「あきれたわ、今度こそ心の底からあきれ果てました、わたしは。こんな人だとは思わなかった」
【智】
「人間見た目で判断しちゃダメかも」
【伊代】
「貶(けな)してるのよ」
【智】
「……それはしたり」
【伊代】
「全部計算尽くで、たらし込んだんだ」
【智】
「ほんと人聞きが悪いです」
【伊代】
「本当のことばかりだから悪くない」
【智】
「どっちかというと、こっちは強奪された方」
【茜子】
「何を?」
茜子さんのシビアな突っ込み。
【智】
「………………色々」
【茜子】
「邪悪です」
烙印完成。
【伊代】
「それにしても」
【智】
「にしても?」
【伊代】
「晩ご飯の買い出しに行くことになるとは」
【智】
「あっさり全員泊めてくれるとは豪毅な話だよね」
【茜子】
「ブルジョア倒すべし」
【伊代】
「ファミレスとかでもよかったんじゃないの」
【智】
「外食すると高くつくし、節約しとかないと」
【伊代】
「吝嗇(りんしょく)家なんだ」
【智】
「これから何があるかわかんないから。同盟の運営資金は
可能な限り倹約で」
【茜子】
「暗黒宗教資本主義の走狗(そうく)なのですか」
【伊代】
「赤い会話ね」
【智】
「赤いのは流行らないんだよ、新世紀」
【伊代】
「泊めてもらうのは、家無しの二人だけでもよかったんじゃないの」
【智】
「そんな、猛獣の檻に生肉放置するような……
いや、どっちかいうと犬と猿を同じ庭で飼うというか……」
【伊代】
「なんの話をしてるのよ」
【智】
「今後の相談もしとかないと困るわけだから」
【伊代】
「利害の関係か」
【茜子】
「強く結ばれた山吹色の絆ですね」
【智】
「…………」
たかが色ひとつなのに、
ドス汚れた気がしてくるのはどうしてだろう。
頭の上の夕闇は、
夜に傾いてとっぷりと暗くなる。
暗い道を街灯がまたたいて照らす。
夜には灯りが必要だ。
手探りでは遠くまで歩いて行けない。
【伊代】
「わたしは、誰かに助けて欲しいなんて思わない」
【伊代】
「ひとりでできるし、やってきた」
【智】
「伊代が誰かを助けるのはありなんだ」
【茜子】
「……」
【伊代】
「そういう主義なのよ」
差し出された手を振り払い、自分の手を差し出す。
矜持(きょうじ)とも気高さともつかない。
これも我が儘に分類すべきか。
【伊代】
「一緒にやったってどうにかなるとも限らない」
【智】
「人数が足りないから、野球できないのが残念」
【茜子】
「バスケットはできますね」
【智】
「一人余っちゃいますよ」
【伊代】
「だからって」
【智】
「んとね。手を繋ぐのは解決じゃなくて開始。今までは
スタート位置にさえついてなかった」
【智】
「これからよってたかって、やっつける」
【茜子】
「……やっつけますか」
【伊代】
「なにと戦うのよ、魔王でも出てくるわけ?」
【智】
「呪われた世界を、やっつける」
きょとんとされる。
聞き慣れないフレーズに眉をひそめていた。
【伊代】
「呪い?」
【智】
「ずっと続く呪いみたいな、そんな気はしない?」
【伊代】
「なにが、よ」
【智】
「この世の中のこと全部」
【智】
「昨日のことはどうしようもない、先のことはわからない、
途中下車すると取り返しはつかない、立ち止まることさえ難しい」
【智】
「否が応でも歩き続けないといけない。どこかへ向かってるのか、とりあえず歩いてるだけか、それはそれぞれのことなんだけど」
【智】
「真っ直ぐでさえない、曲がりくねって足場の悪い、深い森と
薄暗い沼と荒れ果てた道行き」
【茜子】
「後ろ向き鬱思考来た」
【智】
「もうちょっと感想が別方向になりませんか。含蓄ある詩的表現に心うたれろとは言わないんだけど……」
【茜子】
「わかりました。拍手しますからお小遣いをください」
【智】
「生々しい等価交換ですね」
さもしさに嘆く。
感動を金額に換算するのは、
バラエティーの制作者だけで十分だ。
【伊代】
「呪われた、か」
【智】
「僕らはみんな呪われてるんだよ」
誰だって呪われている。
僕らはみんな呪われている。
呪われた道を、行く先もわからないまま歩いていく呪い。
【伊代】
「そうかもね」
珍しく素直な同意が返ってきた。
【伊代】
「それで、束になったからって、やっつけられるわけ?」
【智】
「少なくとも、昨日は、るいがいて助かったでしょ」
小細工のできる脳みそよりも、
拳骨一発の方が重要な場面は往々にしてある。
昨夜そうであったみたいに。
ひと一人は万能には足りない。
臨機と応変でもわたれない場所には、
適材と適所で埋め合わせをする必要がある。
一人で足りなければ二人で、
あるいはもっと大勢で。
人間が社会的な生き物である必要十分条件だ。
伊代の返事を待った。
明後日を向いたままだった。
どんな表情をしているのか。
見てみたい気もする。
花鶏の家がもう近い。
足を止める。
【智】
「返事、聞いていい?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「なによそれ?」
【智】
「好きなの、愛してる」
真摯に訴える。
絡み合う目と目。見つめ合い。
腐ったお肉でも見る目をされた。
【智】
「冗談です」
【伊代】
「……ほんとにノンケなんでしょうね?」
つついと横歩きで離れられた。
安全距離は二人分くらい。
【智】
「まったくもって、同性といちゃつく趣味はこれっぽっちも
ありませんから」
本当にない。
これっぽっちもない。
【伊代】
「コミュニケーションにおける言語の信憑性についての、
解釈と論理的整合性について」
【智】
「論文ぽいタイトルにしなくても」
【伊代】
「すぐに嘘つくひとは嫌い」
【智】
「失礼です、嘘つき呼ばわりするなんて」
【伊代】
「本当か、本当にひとつもついてないか」
【伊代】
「神にかけて誓える? 指きりできる?」
【茜子】
「『指(ゆび)切(きり)拳(げん)万(まん)』というのは、てめぇ嘘ついたら指ちょん切って
拳一万発食らわせてしかも針千本飲ますぞ、という意味です、
マメ知識」
【智】
「…………嘘も方便といいまして」
【茜子】
「弱気ですね」
【伊代】
「だめじゃない」
あきれ顔。
伊代は、肩を大きく落としてから、
暗い空へ向けて、はね上がるみたいな伸びをした。
【伊代】
「賛成はしない。けど、妥協はする」
【伊代】
「わたしは、ね」
【智】
「茜子は?」
【茜子】
「今夜は家に泊めてやるぜ、その代わりに大人しくしやがれゲヘヘヘへ、ということですか」
【智】
「全然違いますけど!」
【茜子】
「心配はご無用です。茜子さん、修羅の巷に孤独の一歩を
踏みだしたその夜に、最後の覚悟を決めてきましたから」
【智】
「決めなくていい決めなくていい」
【茜子】
「煮るなり焼くなり×××するなり、お好きにしてください」
【伊代】
「×××ってなによ……」
【智】
「あのね、そんな心配しなくても――――」
頭の後ろの方のどこかで、花鶏がニタリと笑っていた。
【智】
「あー、覚悟が決まってるのはイイコトだよね」
【茜子】
「……そういうのは茜子さん困ります」
【智】
「どっちなのよ」
【伊代】
「いいじゃないの、概ねはあなたの目論見通りなんでしょ」
【智】
「これまた人聞きの悪い」
【伊代】
「ま、そういうことにしておいてあげましょうか」
からかうような微笑。
【智】
「なら、伊代が黒で、茜子はピンクってことで」
【伊代】
「なによそれ」
【智】
「五人組だと色分けで役割分担が様式美なんだよ」
【伊代】
「またワケのわからんことを」
【智】
「るいが赤っぽいし、花鶏が青で、にぎやかしのこよりが黄色で」
【伊代】
「あんたはどこよ」
訊かれて、重大な問題を直視する。
〔僕のいるところはどこだろう?〕
《ここじゃない……》
《ここになら、あるんだろうか……》
〔僕のいどころ〕
忘れてたわけじゃない。
そもそも同盟のアイデアにしたって――
【智】
「…………僕は別口で」
【伊代】
「なによそれ」
繰り返された台詞は、
温度が5〜6度低かった。
【智】
「えーっと、僕の仕事は同盟締結までで」
【伊代】
「なによ、それ。大見得切った言い出しっぺが逃げ出そうっていう気?! みんなで力を合わせて魔王退治はどこいったのよ」
【智】
「やっつけるのは魔王じゃなく」
【伊代】
「そんなことはどうでもいいのよ!」
【茜子】
「あそび人ですか」
【智】
「ごめん、それよくわからない」
【茜子】
「さっさと賢者に転職しろってことです」
どこから繋げばいいのかわからない。
どこから反論するべきか難しい。
伊代が柳眉(りゅうび)を逆立てる。
茜子が糸引きそうな横目を送る。
【智】
「それは、その、なんと言いますか、あらゆる非難は甘んじて受けますが、人には人それぞれでやむにやまれぬ事情というものが往々にして」
【伊代】
「政治答弁でひとりで逃げられると思ってるの?!」
罪悪感から逃げをうった。
回り込まれた。
【智】
「そ、そんな、こと……」
【伊代】
「なによ、煮え切らないわね!
言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」
詰め寄ってくる。
口ごもる。
言いたい、
でも、言えない。
ダメなのだ。
本音を言えば、引っかかりは残る。
三日飼ったら情が移るのたとえのように。
茜子に引っかかって巻き込まれている伊代と同じに。
貸せる力があるなら貸してやりたい。
でも。
でも、が残る。
割り切れずに最後に余る。
どうしてもダメだ。
ここは退けない。退いてはいけない。
なぜならば――――。
バレてしまう。
誰かと並んで歩けば危険が増える。
身近に寄せるほど地雷になる。
危険はどこにでも潜んでいる。
どんな機会からでも違和感は忍び込んでくる。
それは、いずれだ。
いずれは、遅いか早いかだ。
すぐに追い詰められる。必ず誤魔化しきれなくなる。
危険すぎる綱渡りを試したいとは思わない。
【智】
「だから……」
だから。
【伊代】
「なんなのよ!」
遠ざけておかないと。
誰をも彼をも。
【智】
「絶対……絶対ダメなんだから!!」
〔牡丹の痣はないけれど〕
【智】
「絶対ダメなんだけど……」
つくねんとこぼれた言葉が天井に昇る。
花鶏の家は大きい。
お風呂も大きい。
個人邸宅には相応しくない。
ちょっとした銭湯か、寮の大浴場だ。
寮生の経験なんてないけれど。
【智】
「無駄な施設だなあ」
大きさは善行であるという、
そんな家訓があるものかどうなのかは、
面倒なので確かめなかった。
余りに余った湯船を一人で使う。
ゴージャス。
口まで沈んで、吐く。
無数の泡沫が弾けるように、
とりとめのない疑問が浮かんでは消える。
【智】
「どうしてこうなっちゃったのか」
検討中。
失敗の原因は意志の弱さか、
それとも議論上のミスか。
逃げるのにしくじった。
お泊まりすることになった。
ここまではいい。妥協の範囲だ。
お風呂に入る。
危機的状況だが、まあ、よしとする。
不作法だがタオルで隠したままお湯に入った。
素肌は頼りない。布きれ一枚の薄さが消えれば、
世界と対峙するのは自分自身。
その無防備さに愕然とする。
隠すことさえ許されない真正の姿。
【智】
「バレたら死んじゃう……」
誰もいないのにごく自然に丸くなる。
自分を隠すようにヒザを抱えた。
決定的瞬間の光景を想像するだけで死にそうになる。
針のむしろに等しい冷視と軽蔑と弾劾に、
踏みにじられる予想図は悲しすぎた。
本当の問題は、現在よりも未来にこそある。
どこまで。どうやって。
隠し通すことが出来るだろう。
【智】
「…………ぶくぶくぶくぶく」
潜行するほど懊悩する。
【茜子】
「広い」
【茜子】
「とてとて」
【茜子】
「よいしょ」
【智】
「あ、いらっしゃい」
【茜子】
「おじゃまします」
【智】
「…………」
【茜子】
「…………」
何気ない裸の挨拶。
ぎぎぎと骨の軋む音を
立てながら首を回して再確認。
白い肌。白い足。白い腰。
見つめ合う。
【智】
「ぎゃわ!」
【茜子】
「――――ッッ!」
何をそんなにというほどの反応だった。
茜子はゾンビと出会った犠牲者の顔で飛び退いた。
後ろから驚かされた猫そっくりの野生の瞬発力。
そして、着地に失敗。
【茜子】
「なう!」
【智】
「どじっこ……?」
意外な属性発覚か。
【茜子】
「ぷ、ぷはっ……く、な、ど、が、あ」
【智】
「まずは深呼吸して落ち着きなさい」
【茜子】
「どうして貴方がここに?!!」
【智】
「うっ、そ、それは――」
絶体絶命――を意識したが、
すぐに気がつく。
危機的状況は揺るがなくとも、
現時点で秘密は漏洩していないのだという大前提。
つまり。
この事態をありのままに判断するなら。
先にお風呂をいただいていた先輩キャラの後ろから、
知らず入ってきたチビキャラとの
裸コミュニケーションイベントフラグ。
【智】
「――別に、どうというわけではなく」
クールだ、クールになれ。
そうとわかれば冷静な対応が必要だ。
【智】
「先にお風呂をいただいてただけですけれど」
【茜子】
「出ます」
立ち上がる。全部見える。
【智】
「ぎゃわ」
【茜子】
「なんですか」
【智】
「そ、そんな、なにも、慌てて、でなくても、いっしょしても、
別に……」
錯乱して、よからぬ事を口走る。
出て行くのなら大人しく出てもらった方が、
あらゆる意味で助かるに決まってる。
【茜子】
「孤独が趣味です」
【智】
「す、崇高なご趣味を」
【茜子】
「わびです」
【智】
「違う気がする」
【茜子】
「そういう突っ込みを入れると、わびを入れさせますよ」
【智】
「ごめんなさい」
なぜに謝らねばならないのか。
謎だった。
【茜子】
「とにかく出ます」
【智】
「は、はい」
【茜子】
「孤独に一人で残り湯をこそこそ使うのが趣味ですから」
【智】
「何も言ってないです」
【花鶏】
「はぁい、いいつけ通りクリームとバターはちゃんとすり込んだかしら?」
【智】
「ぎゃあー!」
【茜子】
「――――ッッッ!」
慌てて肩まで湯船に沈んだ。
【花鶏】
「ずいぶんな悲鳴ね。猫が絞め殺されたみたい」
【智】
「なななななななななななな」
【花鶏】
「なにかしら」
【智】
「なんで裸なのぉ!」
【花鶏】
「お風呂ですもの」
実に当たり前でした。
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【智】
「ぎゃあー!」
茜子とはわけが違う。
花鶏は危険だ。
逃げ場を探す。
なかった。
目の前に裸。間違いなく裸。
これ見よがしに裸。
まったくの一糸まとわぬ全裸。
日本人離れした白い肌、繊細でしなやかで、
それでいてしっかりメリハリのついた身体。
【智】
「ぎゃあーぎゃあーぎゃあー」
全ては罠だった!
花鶏が熱心にお風呂を勧めてきて。
考え事してたから成り行きに任せていたら、
あっという間にこの窮地!
【花鶏】
「うるさいヤツね。いい加減覚悟を決めたら?」
【智】
「非処女になると人気落ちるから清い身体でいたいんですぅ」
【花鶏】
「最近はやらないわよ、そういうの」
【伊代】
「うわ……」
【るい】
「ひろいのお」
【こより】
「センパーイ」
【智】
「みぎゃー!!」
【茜子】
「!!!!!」
追加オーダーが発生しました。
春のオリジナルメニュー、
噂のビッグタックとダブルサンド、
それからポテトはSサイズで。
【智】
「みぎゃーみぎゃーみぎゃー」
警戒警報を発令。
色とりどりで目のやり場がない。
右にも左にも肌色。そうでなければ桜色。
はたまた黒。どっちにしてもどうしようもない。
危機的な状況が訪れていた。
【るい】
「何を鳴いてるの、トモちん」
屈託もなく。
ひときわ豊作な感じが目の前に来て揺れる。
【智】
「錯乱してます!」
【るい】
「……そう、なんだ」
【るい】
「お風呂まででっかいどーとは」
【花鶏】
「それならむしろ、お風呂だけ小さくして何の得があるのかを
訊きたいわ」
【こより】
「おー、銭湯来てる気分であります!」
【伊代】
「そこそこ、湯船で暴れない。お行儀悪いわよ」
【茜子】
「……ナイスお湯」
【智】
「三角形ABCを角Cが直角である直角三角形とするとき、角ABCのそれぞれの各辺の長さをabcとして、頂点Cから斜辺ABに対して垂線を下ろし」
【伊代】
「ほんといい気持ち……
こうしてると昨日のドタバタ騒ぎが嘘みたい」
【花鶏】
「せっかくだから、気は使わないでゆっくりしていらっしゃい。
ストレスは美容の大敵だし」
【こより】
「え、あ、わたし、なんかあるッスか?」
【こより】
「なんでヤバイ目つきを……」
【花鶏】
「失敬な子ね。美しいものを鑑賞する気高い心に、情欲の入る隙間はないのよ」
【茜子】
「……表情と言動が不一致してます」
【伊代】
「それよりも…………なにやってるの、二人して?」
【茜子】
「…………」
【智】
「自身を要素として含まない集合A、含む集合を集合Bとする場合、任意の集合Cは集合Aであるか、集合Bであるかのいずれかで、」
逃げ出す機を喪失した二人だった。
広漠たる湯船の園の、一番端の隅っこで、
左右に別れて孤独の時間を謳歌している。
示し合わせたような、
ヒザを抱えたダンゴ虫。
視界に肌色が入ってこないように背を向けて、
頭の温度を下げる呪文をひたすらに唱える。
茜子の趣味的問題はともかく。
こちらは人生がかかってる分だけ必死だ。
そうだ、天国と地獄は等価なのだ!
絶対的な幸福は絶対的であるが故に相対的な価値を失い、
終わり無く続くことで無限の苦痛へと堕落する!
僕は錯乱していた。
【こより】
「新しい人生哲学の模索ですか、センパイ」
【智】
「……お風呂でそんなことしない」
【るい】
「どうして隅っこにいるの?」
【茜子】
「狭くて暗くてちっちゃいところが好きなので」
【花鶏】
「こっちいらっしゃいな、背中流してあげるから」
【智】
「遠慮します」
【茜子】
「近寄ったら舌を噛みます」
【花鶏】
「二人とも、お堅すぎね」
【るい】
「智ってば、一緒にお風呂はいるのいやがるよ」
【茜子】
「……陰謀のにほいがする」
【智】
「そんなものはない」
あるのは陰謀じゃなくて秘密だ。
危険な隠蔽だ。
【伊代】
「照れくさいのはわからないでもないわ」
【るい】
「オッパイちっちゃいの気にしてた」
【茜子】
「……A?」
【花鶏】
「触った感じだとAAA」
【こより】
「問題ありませんであります!
こよりもペッタンコでありますッッ!」
【伊代】
「そんなことに胸はらなくても」
【こより】
「だめですか……やっぱし、ないと、人として生きていくには
まずいでありますか……」
【花鶏】
「いいじゃない、可愛らしいわ」
【こより】
「うひゃひゃひゃひゃ」
【花鶏】
「もう少しいい声をだして欲しい」
【こより】
「な、なにをするですか!?」
【花鶏】
「無邪気なスキンシップ」
【こより】
「な、なんかむしろ邪気が、あぅっ」
【花鶏】
「んふふ〜ん♪」
【こより】
「そ、そこはだめです、あうっ、や、あ、ちが、そこはちがぅう〜、きゃう」
【花鶏】
「うふふふ、可愛い子」
【こより】
「あ、あ、あ、あーーーーーーーッ」
あまりの暴挙に全員が我を忘れていた。
残念なことに、一番最初に我に返った。
【智】
「ナニヲシテオラレルノデスカ」
【花鶏】
「片仮名でクレームつけないで」
集団は秩序を失った時に効力を失う。
小さな悪は、見過ごせば大きな木に育ってしまう。
建物の窓が壊れているのを一つ放置すると、
他の窓もやがては全てが壊されるのだ。
【智】
「それで、一体何を」
【花鶏】
「セクハラ」
【智】
「正直ならいいってもんじゃないよ」
【こより】
「せんぱい〜〜〜」
背中にしがみつかれる。
【智】
「ぎゃわー」
【こより】
「お嫁に行きにくくなりそうなところさわられたです〜」
【智】
「ところってどこのこと!?」
【こより】
「せんぱいーせんぱいーせんぱいー!」
【智】
「触ってる触ってる今この瞬間に背中に何か触ってる!」
がくがくされる。
違う意味でがくがくになりそう。
【伊代】
「いつまでも何を騒いでいるのやら。まったくお子様たち
なんだから」
【るい】
「なるほど、たしかにこっちはお子様と違う」
【伊代】
「どこ見てるの……」
【るい】
「なんというけしからん乳」
【伊代】
「はしたない単語のままで」
【茜子】
「……浮いている」
【伊代】
「……だれのだって浮くわよ」
【こより】
「浮かないッス」
【茜子】
「……」(←賛成)
【花鶏】
「浮けばいいってものじゃないわ」
【るい】
「なんだ、浮かないのか」
【花鶏】
「………………なにも言ってないでしょ」
【こより】
「きっと空気か何かが中に――」
【伊代】
「そんなの入ってない」
【花鶏】
「でも、たしかに、これは、中々」
【伊代】
「目つき目つき」
【るい】
「触ってもいい?」
【伊代】
「あんたまでそっちの人か!?」
【るい】
「そういうわけじゃないんだけど、こんだけあると、
エアバックプニプニしてみたい」
【伊代】
「えあ……そういうのは自分ので好きなだけおやんなさい」
【るい】
「これは、今ひとつ迫力が」
いやいや、なかなかだったと思う。
【こより】
「センパイせんぱい、見るです、すごいッス」
【智】
「ソウデスカスゴイデスカ」
【こより】
「ほらほら、たぷたぷするー!」
【伊代】
「やめてやめて」
【智】
「タプタプデスカ」
【こより】
「ほらほら、見て見て」
首を捻られた。
【智】
「――――――ッッ」
【こより】
「見ました?!」
【智】
「見えちゃった……」
【こより】
「すごいでしょ?!」
【智】
「タシカニスゴイデス」
本能的に目を反らせない。
いよいよ危険です。
母上様。
死に場所が桃源郷というのは、
はたして幸運でしょうか、不運でしょうか。
【こより】
「なにくったらこういうのになるですか?」
【茜子】
「日夜もまれて」
【伊代】
「ふしだらなことは何もしてない」
【こより】
「もまれて大きくなるなら、わたしもセンパイにもまれたら!」
【伊代】
「……これこれ、そんな非生産的な」
【花鶏】
「そんなことならわたしがいくらでも揉んであげるわよ」
【こより】
「あー、いやー、それはちょっと……」
【伊代】
「根拠のない俗説を頭から信じない」
【こより】
「おっきくならないっすか……」
とてもとても残念そうに。
【伊代】
「そんなの、あと何年かしたら、ほっといても自然に大きく
なるわよ」
【こより】
「でも、違いすぎるこの現実」
【伊代】
「そりゃ、個人差は、あるかも、知れないけれど……」
個人差。
言葉の欺(ぎ)瞞(まん)の裏側が目の前に証明として並んでいる。
伊代>>>るい>>花鶏>茜子>>(越えられない壁)
>>こより。
【智】
「………………ぶくぶくぶく」
イケナイことを考えた。状況がさらにまずくなる。
【るい】
「沈んでる?」
【智】
「難しい年頃なので……」
【るい】
「おろ、これは――」
【花鶏】
「ん……ああ、それは痣(あざ)よ。模様みたいなおかしな形してるでしょ。でもね、それはいわば聖痕なのよ。わたしの家の先祖には代々あったんだけど、」
花鶏さんは、ひたっていた。
自慢のクラリネットを見せびらかす少年のようなまなざしで、
肩の濡れ髪を大仰にかきあげる。
痣(あざ)。
湯あたり寸前の脳みそに単語が忍び入ってくる。
痣――――。
【るい】
「それ、私もある」
【こより】
「ほんとだ」
いきなり、ありがたみのない展開になった。
【花鶏】
「――――待てや」
物言いがついた。
【花鶏】
「なによそれ」
【るい】
「なによってなんなのさ」
【花鶏】
「どこの盗作よ、親告罪だからってバカにしてると、著作権法違反で訴えるわよ」
【茜子】
「痣にそんなものはない」
【るい】
「文句あんのか」
【花鶏】
「ありすぎて並べてるだけで朝になるわよ」
【るい】
「ほほう」
ずいっと、るいが胸をつきだす。
挑発的なポーズだった。
大人しく鼻白んでいる花鶏ではなかった。
【花鶏】
「……ちょっと人より脂肪が余分についてると思って」
【茜子】
「微妙に逃げっぽい言動です」
【るい】
「みろ」
【花鶏】
「あんたの胸なんか見ても嬉しくない、こともないけど、
まあそれは置いておいて」
【るい】
「そっちじゃなくて、こっち」
そこには、痣がある。
花鶏が目を白黒させる。見入る。
自分のと見比べる。
見てるだけで楽しい万華鏡じみた百面相だ。
【花鶏】
「うそ」
【るい】
「ほんと」
花鶏が運命に破れた者の顔をしていた。
ここがお風呂でなければ、
跪いて過酷な天に怒りをぶつけていた感じの悲鳴。
【花鶏】
「ニェーッ!」
【こより】
「はーいはいはーい! 不肖鳴滝めにもあるでごわす!」
そのうえ追い打ち。
空気を読まない言動は、
無垢な分だけ傷口を深く抉る。
【こより】
「ほらッス」
【智】
「…………」
やたらと扇情的なポーズだった。
お風呂に腰掛けて片膝をたてる。
色香と呼ぶには未成熟だ。
脂肪の薄い腿から付け根へと至るラインも、
異性をあまり意識させることがない。
全部見えた。
【智】
「まだ、はえてないんだ」
【こより】
「う、ちょっと気にしてるのに」
【智】
「ぶくぶくぶくぶく」
ぽろりともらす自分の口が恨めしい。
【こより】
「ほら、ここ」
左の内股を指で示す。
また際どいところにあった。
白い肌に青白い痕が艶めかしい。
今は本人の素養と打ち消しあってただの痣だが、
数年も経てば、痣一つで男を手玉に取れてしまう、
無限の可能性が広がっている。
【花鶏】
「ほんとだ……」
【るい】
「へー、おんなじだねえ。擦ってもとれないし」
【こより】
「にゅにゅ、なんかくすぐったい」
【花鶏】
「なに、これ」
【伊代】
「なにとおっしゃいますと」
【花鶏】
「なによこれ、どういう詐欺よ!」
【るい】
「いきなり詐欺ときやがった」
【茜子】
「いつもより多くとばしております」
【こより】
「なんというできすぎた偶然!」
【花鶏】
「こんな偶然があってたまりますか!」
【こより】
「あわわ」
吠えられたこよりは、尻尾を丸めて、
るいの背中に隠れる。
偶然――。
こよりの言葉の通り、
出来すぎた可能性。
どんな希少な状況であれ、
確率的にあり得るならば出会ったとしても不思議はない。
1億回、1兆回に1度かぎりの出来事も、
今このときが1兆回目であれば成立してしまう。
だがしかし。
【花鶏】
「そっちの3人も!?」
【智】
「返事をしたら食い殺されそうです」
【花鶏】
「返事をしないなら今すぐ殺すわ」
花鶏は崖っぷちにいた。
自分で自分を追い詰めて煮詰まっている気が、
ひしひしとする。少なくとも僕に責任はないはずだ。
なのに、なぜ責め殺されなければならないのか。
【花鶏】
「あるの、ないの?」
【伊代】
「痣くらい、あるけど……」
【花鶏】
「ある!?」
【伊代】
「お、同じのかどうかなんてしらないわよ」
【花鶏】
「どうして!?」
【伊代】
「背中だからあんまり気にしたことない……きゃーっ!?」
花鶏がケダモノになって飛びかかった。
女の子二人が組んずほぐれつ。
もうちょっと夢のあるシチュエーションなら心温まるのに。
【花鶏】
「な、なななな」
背中を確かめる。
結果は訊ねるまでもなかった。
蒼白の花鶏がよろめきながら後ずさる。
【花鶏】
「きっ」
【茜子】
「ッッ!」
次の獲物は茜子だった。
【花鶏】
「大丈夫よ痛くしないから」
【茜子】
「おっぱいさわったら死んじゃいます!」
【花鶏】
「それ以外のところにしてあげる」
【茜子】
「一歩でも近づいたら舌も噛むです!」
【花鶏】
「うふふふふふふふ」
【花鶏】
「――――ッ」
【茜子】
「――――ッ」
茜子が逃げ出した。
後ろにダッシュ。
そして、足を滑らせる。
【茜子】
「きゅー……」
【花鶏】
「あった…………」
うつぶせに倒れた、お尻。
見えた。
やっぱり痣があった。
小ぶりで、白い、まろみの上。
記憶に焼き付いてしまった。
【花鶏】
「そんな……」
花鶏が、よろりと2〜3歩後ずさる。
【智】
「はっ!?」
甘美な一瞬を反芻している場合ではない。
高いところから花鶏がなにも言わずに見下ろしてた。
なにも言わなくても言いたいことがわかる。
繋がることのない心と心が、
この一瞬には確かに結ばれていた。
曰く、獲物と捕食者の強い絆。
【花鶏】
「あなたもなのね」
【智】
「ぎゃわー!」
抑揚のない言葉遣いがなおさら怖い。
食われる!
【花鶏】
「どこにあるの!」
【智】
「まってまってまって!」
【花鶏】
「全部見せろ!」
【智】
「きゃーきゃーきゃー」
【花鶏】
「大人しくしなさい!」
【智】
「だめいけないわそれだけは堪忍してぇーっ」
死にものぐるいで抵抗する。
現実は厳しい。
湯船の中で、タオルで前を押さえたまま、
片手で出来ることなんて知れていた。
【花鶏】
「観念!」
【智】
「おたすけ!」
絶体絶命。
【るい】
「あーこらこら、どうどう」
【花鶏】
「な、離しなさい、こら!」
るいが羽交い締めに止めてくれた。
ほっと安堵にへたり込む。力が抜ける。
【るい】
「だから、おちつきなさいって。ほら、あれ」
右腕の後ろ側だ。
痣がある。
花鶏は目にした。
これで五つめの、自分と同じ痣。
【花鶏】
「どいつもこいつも――――」
【花鶏】
「ど、ど、どッッ……どういうことなのよーっ!?」
【るい】
「どうもこうも」
【花鶏】
「これは何かの間違い? どうしてこんなにぞろぞろと、これは罠、いえ、陰謀……そうよ、陰謀だわ! アポロだって月には着陸していないのよ!」
錯乱していた。
まあ、彼女の意見が、多かれ少なかれ、
全員の代弁なのは間違いなかった。
身体のどこかに同じ形をした痣のある6人。
偶然だなんて言ったら笑いがとれる。
今時なら週刊漫画の新連載でも、
もう少し気の利いた導入を心がけるんじゃなかろうか。
【智】
「あ、でも――」
頭に豆球。
ひらめいちゃいました。
花鶏が騒いで注意を引きつけてくれているじゃないですか。
ゴキブリの身ごなしで、
コソコソと湯船から上がる。
思った通り誰も注目しなかった。
人目の隙を縫って、気付かれないうちに、
そそくさとお風呂を出て行く。
【智】
「それじゃ、おさきにー」
【智】
「…………あー、死ぬかと思った」
〔約束しない人との対話〕
夜を見る。
テラスに出ると、
海原めいた高級住宅街の静けさが眼下に広い。
【るい】
「なにしてんのん?」
【智】
「ひまつぶし」
坂の上にある花鶏の家からは屋根の列が見渡せる。
街は遠かった。汚濁も遠かった。
清潔で、静閑で、
瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいが門を並べる。
切り離された聖域だ。
【るい】
「ひつまぶしって美味しいよね」
【智】
「入れ替わってる入れ替わってる」
【智】
「花鶏は?」
【るい】
「ふて腐れて自分の部屋に引っ込んで寝てた」
【智】
「子供ですね」
【るい】
「おこちゃまめ」
くすくす笑う。
一歩間違うと皮肉だが、
るいの物言いには裏がない。
素直な顔は端から見ていても気分がよくなる。
【智】
「ショックだったんだ」
聖痕と、花鶏は呼んだ。
どんな思い入れがあるのかは知らず、
どんなにか思い入れを込めていたかは想像できる。
信仰していた特別が、十把一絡げに量産されていたのは、
さぞかしカルチャーショックだったろう。
るいも黙りこくっていた。
腕を組んで、首を傾げている。
【智】
「悩んでる?」
あの痣のことを。
【るい】
「何を悩んだらいいかと」
考えてませんでした。
【智】
「だと思った……」
同じ痣がある。
偶然に出会った6人に、
偶然そろっていた痣。
笑いのとれる確率だ。
ジュブナイルかライトノベルの小説じゃあるまいし。
【智】
「るいにも昔からあった?」
【るい】
「よく覚えてないけど、ちっこいときからあったかな。昔は学校の着替えとかで、よくからかわれたりした」
僕の痣は生まれたときからあった。
生前の親の言葉を鵜呑みにするなら、そうだ。
右腕の後ろにある。
自分では見えにくい。
普段は気にしたこともない。
るいが脱いだ時、
そういえば変な模様を見た。
同じ痣だなんて思いもしなかったけど。
別に、白いたわたわで目がいっぱいに
なってたわけじゃない、たぶん……。
本当に痣なのか?
例えば入れ墨。
それともレーザー印刷。
ネイルアートならぬスキンアート。
痣であれ痣以外のものであれ、
明確な現実の前には、些細な違いだ。
収まりのいい解答が、あるにはある。
全ては偶然だ、と。
収まりというより投げやりだった。
空想をする。
見えない糸を手繰りながら、
僕らは集まる。
宿命のように運命のように。
そうやって、この場に、6人が――――
【るい】
「ぬふふふふふ」
【智】
「なんで笑い?」
【るい】
「なんとなく」
【智】
「いい加減だなあ」
【るい】
「痣のこと……」
【智】
「データが少なすぎてわかんない」
【るい】
「ちょこっとうれしい」
るいが、にへらとした顔。
【智】
「なんでですのん?」
【るい】
「変な痣だと思ってた。小さいときはバカにされたりしたことも
あったから、正直嫌いだった」
【るい】
「そのうちに諦めたんだよ」
諦め――。
ちくりと胸の奥で何かが痛んだ。
【るい】
「いつの間にか気にしなくなってた。あることも忘れるくらい、
どうでもよくなってたんだけど」
【るい】
「他にもいたんだね。どうしてこんな痣がそろってるのかわかんないけど……でも、私たち、同じなんだって思えた。同じ印がついてる。どこかで繋がってる感じがする」
【るい】
「もし、あの子たちと、今日ここで、こうやって逢うために、
この痣があったのなら」
【るい】
「そういうの、ちょこっとうれしいかも……」
【智】
「……そうかなあ」
【るい】
「そうだよ」
喉から出かかった言葉を飲み込む。
喜んでいるところに、
根拠もなく水を差すのも悪い。
あらかじめ決まっていた出会い、なんて。
そんなものがあるとして。
それは。
――――呪い。
宿命であれ運命であれ、結果の定められた道のり、
栄光の代価としての苦役、決まった道筋から逃げられない、
選ぶことさえ許されないのなら。
それがどれほどの栄華を約束するにせよ、
その名には「呪い」こそが相応しい。
悩んでも見当もつかない。
そもそも。
呪い、運命、宿命、前世。
それって、ちょっとおもしろおかしい素材過ぎだ。
真夏のオカルト番組で、お笑い担当のコメンテーターに馬鹿に
されるぐらいが指定席なのに。
【智】
「柳の下より今日のテーブル」
【るい】
「その心は?」
【智】
「さて、晩ご飯どうしよう」
【るい】
「ないのか!?」
【智】
「みんなで食べようと思って材料買ってきたんだけど、さすがに
家人がいないのにキッチン借りるのも」
【るい】
「やっぱりないのか!」
るいは棒立ちになった。世界の終わりと遭遇していた。
【智】
「しかたないから外食にしようか」
【るい】
「外食……」
うんうん唸る。葛藤する。
るいは食費の桁が違う。
外食すると、文字通り桁が違ってしまう。
【るい】
「るるる〜」
【智】
「にしても騒がしい一日だったねえ」
【るい】
「うんうん」
【智】
「……」
【るい】
「なによぉ」
【智】
「いい顔で笑ってる」
【るい】
「なわっ」
【智】
「楽しかった?」
【るい】
「…………まね」
【るい】
「なんかお祭りでもしてる気分」
【るい】
「ほら、なんせヤクザな生活してますし、仲間とか友達とか、
そういうのあんまりいなかったんだよね」
【智】
「後輩とかに好かれそうなタイプなのに」
【るい】
「んー、まあ、下駄箱に手紙入ってたり、校舎裏に呼び出されたりしたことは何回かあるんだけど」
ほのかなお話だった。
【智】
「相手は年下の?」
【るい】
「うん、女の子」
【智】
「…………」
ほのかじゃなくて切ない思い出だ。
【るい】
「私、不器用だし、気まぐれだし、怒りんぼだし……すぐ考え無しに突っ走っちゃうから、なんかのはずみで仲良くなっても、あんま長続きしないの」
【智】
「友情って信じる?」
【るい】
「…………信じたい」
夜風が梢を鳴らす音に、切ない言葉が混じる。
信じるでも、信じないでもなく。
信じたいと、るいは口にする。
それは願望だ。
か細くすがる希望だ。
あり得はしないと知っているから、
その裏返しにある無力な祈り。
【るい】
「私ってさ、ほんと単純だから、だから、信じたら――」
【るい】
「きっと、最後まで信じちゃうんだ」
【智】
「るいっぽい」
【るい】
「それってどんなの?」
考えて、言い換える。
【智】
「忠犬っぽい」
【るい】
「いいのか、悪いのか」
【智】
「誉め言葉です、たぶん」
【るい】
「うむ、誉められとく」
歯を見せて笑った。単純だ。
心地よい匂いに気がつく。
石けんと混じった、るいの体臭。
思いの外距離の近いことを意識する。
乾ききってない濡れ髪の無防備さに、
こっそりとドギマギしていた。
【智】
「僕らはさ、とりあえず友情からは、はじめない」
近さから気を逸らそうと、別の話題をふり直す。
友情ではなく、同盟から。
【るい】
「同盟か」
【智】
「相互条約からスタートで」
【るい】
「よくわかんない」
【智】
「ギブアンドテイクで助け合おう」
【るい】
「わかりやすくなった」
利用し、利用されることを互いに肯定する。
【るい】
「智、変なこと思いついたよね」
【智】
「変じゃないです。問題をまとめて解決するために知恵を絞ったんです。家がなかったり、ご飯がなかったり、トラブル多すぎるでしょ」
【るい】
「ご飯がないのは問題だ」
【智】
「元凶その一の自覚なさ過ぎ」
【智】
「あのね……だから、僕らは力を合わせて…………この、呪われた世界をやっつけるんだ」
呪い、呪い、呪い。
くめど尽きぬ泉のごとく、
後から後から湧きだす数多の呪いに充ち満ちた、
この世界を。
【るい】
「……呪われた世界をやっつける」
【智】
「そういえばさ、るいの返事は、まだ聞かせてもらってなかった
よね」
【るい】
「返事って?」
【智】
「これから一緒にやっていくのに、賛成? 反対?」
聞くまでもないとは思って流していたけれど。
最終の段取りに確認をする。
【るい】
「…………」
【智】
「るいはどうしたい?」
【るい】
「どう……」
【智】
「明日のこと、その先のこと、これからのこと」
【るい】
「………………」
【るい】
「わかんない」
【智】
「平然と暴言をかまされますね」
【るい】
「先のことなんて考えたこともない」
【智】
「いやいや、お待ちなさいって」
【るい】
「べーだっ」
舌を出された。
るいは不思議だ。
悪ガキみたいなノリの中に、
奇妙なくらい少女がいる。
【智】
「いきなり舌ですか」
【るい】
「私は何ンにも約束しない人なのだ」
【智】
「なんの自慢か」
【るい】
「しない自慢」
意味がよくわからない。
【智】
「約束しない人(じん)?」
【るい】
「そのとーり」
【智】
「指切りも? 口約束も? また明日のお別れも?」
【るい】
「そのとーり!」
【智】
「……どういうイズム?」
【るい】
「るいイズム」
暴君的な胸をはって断言する。
ちなみに、るいが暴君なので、
伊代の場合は宇宙意志だ。
花鶏サイズで自衛隊。
後の二人は……まあ、いいや。
【智】
「よくわかんないです」
【るい】
「そのとーり!!」
【るい】
「そうなの、まさにそこなの。明日のことはわかんない、明日が来るかもわかんない、そんな心配一々してもはじまんない。だから、人生はいつだって一期一会!」
【智】
「サムライヤンキース」
【るい】
「それが私のライフスタイル、人生設計。だから返事なんかして
やるもんか、べーっ!」
【智】
「…………」
論理的整合性を検討してみる。
途中でさじを投げた。
【智】
「やっぱりわからない」
【るい】
「考えるな、感じろ」
屁理屈なのか、我が儘なのか、
自分の生き様を断固として曲げない信念なのか。
余人の理解を超越した心根も、
貫き通せばそれはそれで美しい――
かどうかは解釈の分かれるところだろう。
【智】
「わかった、わかりました、いいです、それでいいです」
個人のライフスタイルに
ケチを付けてもはじまらない。
同盟に異を唱えてはいない。異議があるなら、
るいは後ろも見ずに飛び出して、きっとそのまま帰ってこない。
消極的賛成。
補足・アテにはしてもよさそう。
心メモにラベリングして貼り付けた。
今はそれで十分。
【智】
「とりあえず、今日から同盟はじめます」
夜を見上げて。
星の群れへと手を差し伸べるように、大きく万歳。
【智】
「るいちゃん、適当についてきてね」
【るい】
「べー」
【智】
「期待してるから」
【るい】
「べーべーんべー」
【智】
「今日はみんなでご飯食べよう!」
【るい】
「えいえいおー!」
本当の問題はここから。
はじめるのはなんだって簡単だ。
やり続けることが難しい。
やり続けて、そこで成果を出すことは、
さらにその何倍もハードルが高い。
そして、なによりも。
(さっさと段取りを付けて、
なるべく早めに手を引かないと……)
〔契約結びました(学園編)〕
【智】
「けれど彼女の願いが叶うことはありませんでした……と」
【宮和】
「珍しいお姿を発見いたしました」
【智】
「なぁに、スベスベマンジュウガニでもいた?」
【宮和】
「和久津さまがレポートを片付けておられます」
【智】
「学生の本分は勉学なんですよ」
シャーペンを指で弾いて、
手のひらの上でくるりと旋回させる。
何年か前に流行した。最近も再燃したという。
意味はないが、流行の多くは
意味などさして必要とはしない。
その瞬間の流行であること、
それ自体が意味だと言い換えても構わない。
ご多分に漏れずに覚えたモノで、さして難しいわけでもないのに、コツがわかっていなければ思いの外うまくいかないのでヤケになる。
要は、慣れだ。
日常といい、非日常という。
対比される両者の境界は、
平常から乖離(かいり)した距離の過多に尽きる。
もののとらえ方の問題でしかない。
慣れ親しんだ平常が移ろえばその定義も変化する。
【宮和】
「提出日の休み時間に、慌てて仕上げておられる姿というものは、初めて目にいたします」
回し損ねたペンが掌からこぼれた。
【宮和】
「優等生の霍(かく)乱(らん)」
【智】
「ひとを鬼かなにかみたいに……」
【宮和】
「いったん亀裂が入ると、たいそう脆いものなのです。かのダムと同じです」
【智】
「不気味な予言をせんでください」
【宮和】
「昨日はお忙しくて?」
【智】
「まあ、その、何かとばたばたと」
【宮和】
「多忙であるのはよいことですわ」
【智】
「縁側で猫でも抱いてるのが理想なんだけどね」
【宮和】
「忙しいうちが花とも申します」
とりたてての意味を持たない、
他愛もない戯れあい。
さりげなく触れ合い、
時間を費やす行為。
日常を意識する。
物語なら、振り返ってはじめて価値をみいだせる平穏な日々にこそ与えられる名であり、多くはその安らぎこそ価値あるものだと主張する。
現実には、どうだろう?
教室に踏みこむと、
日常のリズムに取り込まれる。
習慣のなせる技といえた。
もはや意識もしないほど深いレベルで、
学園は日常の一幕として組み込まれている。
【智】
「欺(ぎ)瞞(まん)に糊(こ)塗(と)された日常でも……」
【宮和】
「日常は欺(ぎ)瞞(まん)の上にしか成り立たないものです」
宮和はいつも唐突だ。
どこまでが計算しているのか、まるでわからない。
【智】
「宮、ときどき可愛いことを言う」
肘杖に頬をのせて、笑う。
【智】
「そういう宮は好き」
【宮和】
「本気にいたします」
【智】
「え、えと……」
墓穴。
【宮和】
「式場の予約は済んでおりますから」
【智】
「どういう手回し!」
【宮和】
「お色直しは3回で」
【智】
「しかも豪華だ!?」
【宮和】
「冗談でございます」
【智】
「目が怖かった。スッゴクコワカッタ」
【宮和】
「悩み事がお有りなのですね」
【智】
「人生とはこれすなわち苦悩」
【宮和】
「含蓄あるお言葉ですわ」
【智】
「幸せは一人でくるのに、不幸は友達と連れだってやってくる、
だった?」
【宮和】
「不幸さまは寂しんぼう、ですか」
【智】
「可愛く言っても嬉しくならない」
【宮和】
「そそりますね」
【智】
「何に猛(たけ)っているの!?」
【宮和】
「悩み事が数多いということですか」
【智】
「無理矢理話を戻された……」
【智】
「まあね。そのあたりも悩みの種。優等生としては、譲れない一線というものがあって……」
境界は、概して、目に映らない。
それでいて、ある。
様々な要因によって区分される自他の領海線だ。
【智】
「宮なら、どうする? たとえば、自分がいることが相手にとって何かのストレスになっちゃうような時」
【宮和】
「それはあれですか? 私は愛人の娘なのあのひとがお腹を痛めた子供じゃないわ、とかのお仲間でしょうか」
【智】
「そんな嫌すぎる例題ぽろっと出さないで!」
【宮和】
「そうですね、わたくしなら……やめます」
【智】
「やめるって、お別れしちゃうの? 家から出てく?」
【宮和】
「いいえ。気にするのをやめるので」
【智】
「気にしてるのは相手の方じゃ……」
【宮和】
「それは相手のご都合ですから」
【智】
「まあ、それは……相手は、きっと、いやだろうね」
【宮和】
「でしょうけれど、私は、私であることは止められませんから。
気にするのを止めて、それで別の問題が出てくるようでしたなら、またその時に改めて考えます」
突き放すような返答は、一面の真実の裏返しでもある。
【智】
「やっぱり、八方丸くなんて、都合のいい解答はそう簡単には
おちてないか」
【宮和】
「眉間に島が」
【智】
「きっと皺」
【宮和】
「そんなにお悩みになっては胃を悪くなさいます」
歳をとったら最初に胃腸を壊しそう。
考え込むのは昔からの悪いクセだ。
わかっていても、やめられない。
きっと、怖い。
見えないことが、恐ろしい。
ホラー映画に似ている。
チェンソーもった殺人鬼は脅威であっても恐怖ではない。
後ろから追いすがってくる姿は笑いさえ誘う。
恐怖とは、未知だ。
不明であること、見えざること、
曖昧であること。
真と偽の境界の揺らぎの中に怖さが潜んでいる。
手探りで進まなければならない、その瞬間――――
それが怖くて、幾度も幾度も考える。
可能性と過去の類例から、自分の持ち得る知識から、
来るべき未来像に懸命な接近を試みる。
【宮和】
「和久津さま。心塞ぎがちの貴方にこれを」
【智】
「文庫本?」
【宮和】
「日常的読書に愛用している書籍です。お貸しいたします」
【智】
「おもしろいの?」
【宮和】
「心洗われます」
【智】
「期待しちゃおう」
表紙をめくる。
魅惑の調教師・幸村大、
令嬢生徒会長肛姦補習授業。
官能小説だった。
【智】
「うりゃ」
投げ捨てた。
【宮和】
「ああ、なんという酷いことを」
【智】
「なんでこんなのが日常的読書なの!」
【宮和】
「こんなのではなくスターリン文庫の、」
【智】
「寒そうなレーベル名はどーでもよいです」
【宮和】
「繰り返し愛読を」
【智】
「なぜ繰り返す」
【宮和】
「心塞ぎがちの日々にはよろしいかと」
【智】
「いい台詞も台無しです!」
【智】
「しかも、外側にこんな、可愛い可愛いなカバーわざわざつけて……」
【宮和】
「学園でも日常的に読めるようにと」
【智】
「そういう気だけ使わないで……」
【宮和】
「お電話ですわ」
【智】
「まったく…………」
携帯の液晶を確認する。
花鶏からだった。
昨日、全員で携帯の番号とメアドの交換をした。
るいと茜子は携帯を持ってないことも発覚したりした。
【智】
「まったくの鉄砲玉……不便だから、今度プリペイド持たせるか
何かしよう」
【智】
「はぁい」
待った。返事がこなかった。
【智】
「はぁい?」
再度。こんどは『?』を語尾のニュアンスで付ける。
【花鶏】
『…………』
【智】
「……花鶏?」
【花鶏】
『別に、特に用があったわけじゃないわ』
【智】
「え、あ、そ、そうなの」
【花鶏】
『ええ、なんでもないのよ。まったく、つまらない電話』
【智】
「あ、はい?」
【花鶏】
『暇だったから、ちょっと時間が余ったの。だから電話してみた
だけよ。まったく度し難い』
【智】
「…………度し難いのですか?」
【花鶏】
『じゃあね、サヨナラ』
ツー・ツー・ツー・ツー。
【智】
「………………はい?」
猫騙しされた猫の気分。
〔どうしたんだろう?〕
《ただの気まぐれかなあ》
《なにかあったんだろうか》
〔契約結びました(学園編)〕
【宮和】
「どうなさったのですか」
【智】
「よくわかりません」
3限目がはじまる。
授業の内容は右から左に抜けた。
胃の下に石でも詰まってるみたいな不快感。
小気味よい白墨のリズムを断ち切って。
【智】
「先生――――」
挙手した。
【智】
「はぁい」
【こより】
『やほーでございます! こちら、こよりであります。
センパイにはご機嫌うるわしゅう……』
【智】
「挨拶はさておき」
【こより】
『なんでありますか』
【智】
「その前に確認を」
【こより】
『はっ、なんなりと』
【智】
「今、時間的に授業中じゃないの?」
【こより】
『…………』
【智】
「…………」
【こより】
『センパイ』
【智】
「なんざましょう」
【こより】
『……ジュギョウチュウとは美味しいでありますか?』
【智】
「この件については後ほど裁判で改めて」
【こより】
『釈明の機会を〜!!』
【智】
「長くなるかも知れないけど、身体に気をつけてね」
【こより】
『お慈悲〜』
【智】
「さて、こより君。
きみを一休のエージェントと見込んで指令を授けます」
【こより】
『おお、まさかそこまで認められていたとは!』
【智】
「(学園を)一休」
【こより】
『一級!』
【智】
「まあ、細かいことはいいか」
【こより】
『なにやら引っかかりを覚える今日この頃……』
【智】
「いつの日か、誤謬のないヤングでアダルトなレディーに
クラスチェンジしたら話してあげる」
【こより】
『らじゃーッス』
【智】
「そっちの現在地は……
なるほど、なら、悪いけど頼まれて欲しいんだけど」
【智】
「……そう、そう……確認を……たぶんそのあたりに。
いなかったらそれで問題なしだし。うん、こっちから携帯に
かけても出ないから」
【智】
「それで状況がわかったら、僕の携帯に」
【こより】
『万事了解でありますっ!』
【智】
「お手数取らせます。
あ……っと、帽子、あるならかぶっていった方がいいよ」
【こより】
『帽子?』
【智】
「ウサギさんだと目立つから」
授業再び。
トイレから戻ってきても教室に変化はない。
歯車の駆動音を連想させる授業の進行。
受験のための知識の錬成。
教師の解説を聞き流しながら、
こよりの連絡を待つ。
曖昧なまま待つ時間。
ひどく、長く、いらだつ。
気がつくとシャーペンで、ノートに「の」の字を刻んでいた。
授業を写し取った白い紙面に、いくつもの「の」が黒い染みになる。
【宮和】
「先生」
宮和が挙手した。
【先生】
「なんだ、冬篠?」
【宮和】
「和久津さまのご気分が優れないようですので、保健室に
お連れしたいと――――」
【智】
「宮、宮、宮和――」
【智】
「別に、どこも悪くは……」
【宮和】
「そうですか。では、どういたしましょう」
【智】
「…………」
【智】
「ごめんね、気を遣わせちゃって」
【宮和】
「ささいなことでございます」
【智】
「宮、思ってたよりも大胆な子だった。こういうことしでかす
タイプだったなんて」
【宮和】
「人は見掛けに寄らないものですわ」
【宮和】
「それで、どうされますか」
【智】
「……悪いけど、早退で。先生には」
【宮和】
「お伝えしておきます」
【智】
「感謝」
【宮和】
「和久津さまは生理痛でご帰宅なされましたと」
【智】
「ちょっとブルーかな……」
【宮和】
「やはりブルーなのですか」
【智】
「ブルー違いだと思うんだ」
【宮和】
「……お貸ししましょうか?」
【智】
「ナニオデスカ」
【宮和】
「愛用しております海外の鎮痛剤です。父の知人の製薬会社の方からいただいているのですが、これが効果抜群」
【智】
「いや別に」
【宮和】
「和蘭(オランダ)製、イタイノトンデケン」
【智】
「日本製だよ!」
【宮和】
「無念です……」
【智】
「じゃあ、宮。申し訳ないけど、後はよろしく」
【宮和】
「承りました」
【智】
「このお礼はあらためて」
【宮和】
「では、今度、わたくしとデートなど」
【智】
「オフィーリアのガトーショコラセットごちそうする」
【宮和】
「初めてですわ」
【智】
「……?」
【宮和】
「和久津さまが、お誘いを受けてくださったのは」
【智】
「そうだったかな……そうかも……」
【宮和】
「では、お覚悟のほどを」
【智】
「覚悟がいるデートなのですか!?」
【宮和】
「行ってらっしゃいませ」
【智】
「しかもなし崩しに誤魔化された!」
見送りの代わりに、宮和は深々と頭を垂れた。
〔花鶏の事情〕
【智】
「昨夜はあの騒ぎでしたので、今後の方針については、日を改めて打ち合わせをするとしまして」
【智】
「それまで行動はなるべく慎重に。慌てる帝国海軍は真珠湾、
という諺もあります」
【るい】
「なんかすごいぞ」
【こより】
「センパイ、学があるです!」
【茜子】
「人を信じる心が美しすぎて、茜子さん涙あふるる」
【智】
「一人で、先走って突っ込んでいっちゃうようなことのないように。くれぐれも」
【花鶏】
「ふんっ」
【花鶏】
「……ふん」
花鶏は隠れている。
無様だと思う。
汚濁の街で孤独に息を殺す。
古いビルの隙間を縫うように、
路地から路地へ、裏道へと移動する。
追われていた。
失策だった。
他人と歩調を合わせて、
じっと時を待つことに、花鶏は耐えられない。
元々これは花鶏個人の問題で、
赤の他人に手をだされる筋合いもない。
自分ひとりでできる。
過信があった。
矜持(きょうじ)があった。
油断があった。
一昨日の騒ぎで、
花鶏たちに煮え湯を飲まされた連中が、
自分を捜している可能性を警戒しなかった。
雑多な街だ。
大勢が交じれば区別はつかない。
いるかどうかもわからない相手に、
わざわざ人手を割くなんてバカのすることだ。
そう思うのが、花鶏の陥穽(かんせい)だ。
向こう側とこちら側。
境界を踏み越えれば世界が変わる。
世界とは、価値観だ。
駅のこちらと駅向こうでは、
街の理屈も別物だった。
ある世界では、面子というものが、
黄金よりも貴重になってしまうことだってあるのだから。
【花鶏】
「どうせ覚えて捜すのなら、殴ったヤツの顔を覚えてればいいのに……」
舌打ちする。
自分に置かれた状況が不条理に思えてくる。
なぜ、あのチチ女でなく自分がこんな目にあうのか。
花鶏は目立つ。
雑踏に混じっても、
油のように浮かび上がる。
昨日の今日とはいうものの、他の誰かであれば、
一日を街に埋もれて平穏無事に終えられたかも知れない。
追われたのは花鶏だからだ。
記憶に残ったのは花鶏だからだ。
花鶏で無くなる以外に避けようがない。
考えなくてもわかることに考えが及ばなかったのは、
花鶏にとっては、それがなんら特別ではないからだ。
自分で思うほどに、ひとは己を理解しない。
自分の物差しが特別だと意識するには、
他者と交差し、差異に苦悩する時間が必要になる。
【男】
「――――ッ」
【男】
「――――――」
【花鶏】
「ちっ」
声がする。
聞こえてくるのが日本語でなければ、
危険とみなして逆方向へと逃げる。
花鶏にはこの辺りの土地勘がない。
逃れるために移動するほど、
現在位置を見失い、さらに深みへ足を取られる。
悪循環だ。
【花鶏】
「ここ、どのあたりかしら」
独りごちても返事はなかった。
一人を意識する。
独りには慣れている。
花鶏は孤高の花だ。
高台に咲く。
世界を見下ろし、肩を並べるものなど無く、
足下を顧みることも知らない。
気まぐれに手を差し伸べることはあっても、
誰かに救われるなんて、考えただけでも――――
【花鶏】
「……怖気がする、死んじゃうわ」
慣れているはずの独りきりが、
裸で校庭に立っているような肌寒さに変わる。
頬を触る風はぬるく、いやな臭いがした。
行く先が見えないだけ不安は身の丈を増す。
連中に捕まったらどうなるのか、考察してみた。
さらにブルーになった。
どう控えめに推測しても、
笑えない展開になりそうなので、それ以上の追求を止める。
【花鶏】
「……X指定はわたしの担当じゃないのよ」
弱気の虫が忍び寄ってくる。
一人では駄目かも知れない。
こんなところに一人でいるのは寂しい。
誰かに一緒にいて欲しい。
この際だから、あの性悪乳オンナでも誰だって――――
ポケットの携帯電話が重みを増す。
開いて番号を打てば、それだけで繋がる小さな接点。
ギブアンドテイク。
同盟なのだと、智は言った。
お互いに利用し合い、助け合う。
助け合う――――?
花鶏は思う。
そんなことは、望まない。
必要ではない。
絶対に。
【花鶏】
「ひゃっ!?」
携帯がマナーモードで震動する。
【花鶏】
「…………」
智からの着信だった。
右手が強張る。
携帯を取る。カバーを開く。着信ボタンを押す。
たった三つの動作で声が聞こえる。
しばらく鳴って切れた。
最後まで取らなかった。
さっき、こっちからかけたのが、
そもそもの間違いだ。
あれは気の迷いだった。
助けが欲しかったんじゃない。
ただの、ほんのちょっとした気まぐれだったのだ。
手助けなんて、
これっぽっちも必要ない。
一人でやれる。
それを証明しなければない。
自分自身の手で。
簡単なことだ。
この街のどこかにいる、
盗んだ相手を捜して、見つけて。
アレを取り返す。
知識も技術も経験も不足しているが、
花鶏は達成をこれっぽっちも疑わない。
花鶏は信仰する。
信仰が可能性の隙間を埋めるのだ。
何もかもうまくいく。
そうでなければいけない。
痣の聖痕。
その運命を信じている。
幼い頃から、花鶏はそれに意味を見いだしてきた。
絶えていた徴(しるし)が、自分の元に返ってきたこと。
母にも、祖母にもなかった。
約束された運命だ。
なのに――――――
聖痕が増える。
増えれば聖ではなくなる。
俗に落ちる。
不安の種が身じろぎしていた。
運命の路が挫折しているのか。
進んだ道の先に約束の地などなく、実のところ、破滅こそが
あらかじめ用意されていた結末ではないのか。
信仰には形がない。
だからこそ強く、また脆い。
根拠は外ではなく内にある。
疑えばきりがない。
指の先を傷つけた小さな棘程度の猜(さい)疑(ぎ)が、
破綻の群れを呼び寄せることだってある。
【花鶏】
「あの牛チチッ!!」
八つ当たりに空き缶を蹴り飛ばした。
品性に欠ける行動は慎まねばならない。
でも止められない。
苛立っている。
移動しようとして、足音に気がついた。
まずい。
ビル影に飛び込んでやり過ごす。
心臓が早鐘を打つ。
こちらを見ている相手は、
誰でも敵に思えた。
いよいよまずい徴候だ。
疑心暗鬼の手が足下まで伸びてきている。
冷静さを失ったら最悪なのに、どうにもならない。
【花鶏】
「ッ!」
また来た。
携帯がマナーモードで震動する。
悩んだ。
怖ず怖ずとポケットに手を伸ばす。
ブルブルと催促するように携帯が震える。
液晶画面に面と向かって、固まる。
「智」
表示された文字。
強張った指でコンソールを開けた。
そして。
呼び出しが切れる。
【花鶏】
「な………………」
裏路地に静けさが戻ってきて。
【花鶏】
「なによそれは!」
一瞬で静寂は破壊される。
【花鶏】
「わたしが取る寸前に切れるなんてどういう了見よ! 処刑されたいわけ?!」
【花鶏】
「帰ったら、ただで済ませると思ってんの!」
リダイヤル。
智の携帯へ。
怒りにまかせて身体が動いた。
携帯が番号を読み取る。入力される。
電子音のテンポがひどく遅くてイライラする。
早くかけて。
さっさと呼び出して。
そうしたら、
そうしたら――――――
どうするつもりなんだろう。
怒りに充ちていた手から力が抜ける。
携帯は勝手に智の番号を呼び出しはじめる。
どうするつもりなんだろう。
どこまでも曖昧な気分のまま、携帯を耳に当てた。
ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー
【花鶏】
「な………………」
【花鶏】
「なんなのよそれは!」
通話中だった。
〔契約結びました(市街編)〕
【こより】
『センパイセンパイセンパイセンパイ!』
【智】
「センパイは1度でいいです」
【こより】
『どーしたらいいのかわかんないッス!』
【智】
「僕にもどーしたらいいのか」
【こより】
『神も仏も〜』
【智】
「だから状況を説明しなさい。
それがわかんないと、どーしようもないのです」
【こより】
『花鶏ネーサンが』
【智】
「見つけたの?!」
【こより】
『いい感じに』
【智】
「間違いなくって?」
【こより】
『ネーサン、目立ちますから』
【智】
「様子はどう?」
【こより】
『普段通りですけど』
【智】
「それは重畳(ちょうじょう)」
【こより】
『ただ追いかけられてるだけで』
【智】
「全然普段通りじゃないです!」
【こより】
『逃げてるみたいでぇ〜』
【智】
「他には?」
【こより】
『隠れてるみたいです』
【智】
「別視点から分析すればいいってモノじゃないよ!」
【こより】
『なんか、不味い空気になってる感じがヒシヒシと〜』
【智】
「そんなに?」
【こより】
『言語が危険な感じに怪しい、イケナイ方向性のひとたちと
3回くらいすれ違いましたです……』
【智】
「……なんとか花鶏を追いかけられない?」
【こより】
『駅向こうの、かなりマズイあたりに来てるです。これ以上、深度深いところへ突っ込んで行ったら、追いかけられないッス!』
【智】
「そこをなんとか」
【こより】
『それは死ねと〜』
【智】
「死んじゃうんだ……」
【こより】
『ウサギは一羽になると死んじゃうのデス……』
【智】
「……そうDEATHか」
【こより】
『どーしたらいいのか、どーすればいいのか……。
不肖鳴滝めは探偵失格でございますー』
【智】
「探偵じゃなくて偵察」
【こより】
『似たようなモノでは』
【智】
「一文字違いで大違い」
【こより】
『まだまだおいらは未熟……』
【智】
「それで」
【こより】
『合流しちゃうのは、鳴滝的にありですが』
【智】
「いや、それは……
カモがネギというか、地雷原に地雷見物というか」
【こより】
『???』
【智】
「とりあえず、こっちも向かってるから。援軍も連れて行くから、それまで危険なことには首を――――」
【こより】
『……………………』
【こより】
『あー、やっばーいっ!!』
【智】
「え、なに、ちょっと?!」
【こより】
『やば、すごくやばー、うー、やー、たーえーい、不肖鳴滝、
オンナは気合いで、やるときはやるでございまーす!!!』
【智】
「あ、ちょと、ちょっとまちなさ―――」
花鶏は追いつかれた。
静止画のように、男が二人。
肌がひりつく。
明らかに手慣れていた。
身のこなしが染みついた暴力を印象させる。
片手がポケットに収まっている。
何かを隠し持っているのだ。
鋭利で、剣呑な。
悪意が遅効性の毒物のように空気を侵していく。
相手は舌なめずりひとつしない。
かえってリアルな危機を感じさせた。
花鶏は、諦めるより憤った。
武器を探す。
棒きれ一つでもいい。
二人はいけない。やっかい事としても倍だが、
相手にすることを考えれば倍以上に危険だ。
役に立ちそうなのは、手持ちのカバンくらい。
【花鶏】
「まったくろくでもない……」
トラブルはくぐり抜けられる。
花鶏は運命を信仰する。
小さくささった不安の棘を飲み込んで。
相手が早口で何かをまくしたてた。
とても聞き取れないが、
恫喝か威嚇かのどちらかだ。
決まっている。
来る。
花鶏は目を丸くした。
【花鶏】
「ちょ、ちょっと待って!」
待つわけがない。
【花鶏】
「だから待てって!!」
男の手が鋭利な速度で動く。
それよりも一回り早かった。
【こより】
「きゃーーーーーーーっ、ちかんさーん!!!」
後ろから、こよりが右の男に体当たりした。
男がよろめく。
もう一人も注意がそれた。
花鶏は、こよりの方を向いた左の男の後頭部に、
カバンの角を叩きつける。
いい感じの手応え。
そのまま、バランスを崩している右の男に肩からぶつかって、
思い切って突き飛ばした。
隙間をこじ開けた。
逃げる。
【こより】
「花鶏センパイ!!」
二つおさげをなびかせたウサギっこが、
愛用のローラーブレードで追いついてきた。
【花鶏】
「あなたはっ」
【こより】
「よかったぁ〜、無事でなによりであります!」
【花鶏】
「無事じゃないわ! これからますます無事じゃなくなるわよ!」
【花鶏】
「ほら急いで! じっとしてたら捕まるわ!」
【こより】
「それはご容赦〜」
【花鶏】
「いやなら走れ」
【こより】
「あうー、どっちいけばいいッスか……」
【花鶏】
「……わからないわ」
【こより】
「無責任だー」
【花鶏】
「いいからこっち!」
【こより】
「あう、まってー!」
【花鶏】
「ちょっと、そっちだけ車輪付きなんてずるいわよ!!」
【こより】
「ずるい言われましても……」
【こより】
「ここ、どのあたりなんです?」
【花鶏】
「だからわからないと」
【こより】
「いよいよ無責任だ……」
【花鶏】
「それよりも、さっきの」
【こより】
「え、てへ、とにかくなんとかしないとって」
【花鶏】
「まあ、役には立ったわね」
【こより】
「お褒めにあずかり恐悦至極にございます」
【花鶏】
「でも、危ないことをして」
【こより】
「……初めてでした」
【こより】
「やりかたとか、全然わかんなくて……」
【花鶏】
「誰だって一度は通る路よ」
【こより】
「ちょっと違う気が……」
【花鶏】
「大したことなかったでしょ」
【こより】
「それは、まあ。なんか、思い切るまでが大変で、実際やってみると、ぱっと終わっちゃったっていうか」
【花鶏】
「案外気持ちよくて」
【こより】
「あううう」
【花鶏】
「ストレス解消にもいいかもね、大声」
【花鶏】
「…………無駄話してる暇はないか」
【こより】
「追ってくるですか?」
【こより】
「うむむ、この間からこういう人生が続いております」
【花鶏】
「二度あることは三度ある」
【こより】
「三度目の正直で遠慮したいであります」
【花鶏】
「仏の顔も三度までといって」
【こより】
「仏さまになるのですか」
【花鶏】
「熨(の)斗(し)つけて、ごめん被るわ」
【こより】
「そうだ、センパイにメール!」
【花鶏】
「智に……?」
【こより】
「コールサインは1041010で、ピンチなので
すぐ来てください!!」
【花鶏】
「……アテになるの?」
【こより】
「ここにはセンパイの命令できたんです」
【こより】
「花鶏センパイがやばそうなので、偵察して捜してと」
【花鶏】
「あいつ、そんなこと……」
【花鶏】
「…………」
【花鶏】
「ふん」
こよりからの連絡を待ちかねていた。
足は無駄に速くなる。
1分でも早く近づこうとする。
急ぐには走らなければならないが、
無闇に動いたところですれ違ってしまうと意味がない。
百も承知の上だった。
待つよりも動いている方が落ち着くのは、
何かをしている感覚が免罪符になるからだ。
無為に待つ方が、辛い。
携帯がメールを着信する。
待ちかねたものだった。
こよりからの連絡だ。
通話でもいいのにメールである。
合流成功。逃走中。
【智】
「安心する暇もないんだもんねえ……」
嘆く。
余裕があれば天を仰ぎたい。
折り返し、リダイヤル。
【智】
「……なぜにメール」
【こより】
『メールに心引かれる、こよりッス!』
【智】
「よくわからない」
【こより】
『字になった方が、心こもってる気がするわけなんです』
【智】
「複雑だ……」
【こより】
『世界の神秘ッス』
【智】
「花鶏は?」
【花鶏】
『……いるわ』
【こより】
『です』
【智】
「現在地は?」
【こより】
『お助け〜』
予想通り道に迷っていた。
どうすればいいだろう?
追いかけてる連中だって、公僕に睨まれるのは願い下げの筈だから、駅向こうまでなんとか逃げるのが一番だ。
状況を訊ね、合流する場所の指示をする。
こちらも向かう。
細い路から二人が転がり出てくるところだった。
【こより】
「センパイ〜〜〜!」
【智】
「よーしよしよし、なんとか生きてる? 怪我とかしてない?
そっちも大丈夫?」
【花鶏】
「私の心配するなんて、百年早いわね」
生きてるうちは無理っぽい。
【るい】
「へらず口女」
【花鶏】
「……どうして、こいつがいるわけよ!?」
【るい】
「こいつっていったよ、こいつ!」
右と左から問い詰められる。
花鶏ン家に茜子と一緒しててくれたので、
るいを捕まえることができた。
茜子も携帯持たない人だけど、花鶏の家の電話機は
ナンバーディスプレイなので、僕からの電話には出てくれる。
どっかに飛んでってたら、実にマズイところだった。
今度、絶対にプリペイド携帯持たせておいてやる。
【こより】
「それよりも、後ろから来るんですよーっ!」
こよりが泡を食って指差す。
追っ手だった。
【智】
「走れ!」
【こより】
「にゃわ〜」
幾つ目かの曲がり角を高速でカーブ。
前方不注意で制限速度をブッチぎっていたローラーこよりが、
通りすがりの無実な学生さんに右から追突した。
横転に巻き込まれた花鶏も足をもつれさせる。
【無実な学生の人】
「――ッ」
【花鶏】
「なにしてる、前見なさい、前を!」
【こより】
「申しわけ〜」
二人の後ろを、僕が追いかける。
何か踏んだような気もするが些細な問題だ。
事故った分だけ追いつかれる。
最後尾のるいが、追っ手の間を遮った。
【るい】
「――――」
追っ手は3人に増えている。
途中で合流したらしい。
るいが、僕らをかばう位置に立つ。
峻厳(しゅんげん)な殺意が、相手を貫く。
後ろから見ているだけで、
背中の産毛が総毛立つ。
相手は逡巡(しゅんじゅん)した。
るいの危険さを嗅ぎとるだけの鋭さを持っている。
それに、ここは人通りも、そこそこある場所だ。
手間取れば騒ぎになる。
判断が難しい。
車を呼んで強引に僕らを詰め込めば済むかも知れない。
【花鶏】
「……バイクに乗ってくればよかったわ」
【智】
「原付でしょ」
【花鶏】
「デカいのもあるわよ」
【こより】
「乗ってくればどうにかなりました?」
【花鶏】
「必殺技が使えるわ」
もの凄いフレーズが来た。
花鶏から聞くとさらにショックが大きい。
【智】
「必殺ナノデスカ」
【花鶏】
「片仮名の発音が気に入らないわね」
【こより】
「スゲーッス!」
こちらは素直に感心していた。
【智】
「今の瞳の輝きを忘れないでね」
【こより】
「了解であります!」
【智】
「それでどういう必殺?」
【花鶏】
「ヘヴィモータード・チャージング・アサルト。3人くらいなら
まとめて一撃よ」
【智】
「それ絶対轢いてるだけでしょ!?」
【花鶏】
「名前は今考えた」
想像よりも恐ろしいヤツだった。
考えてみると、最初の出会いで必殺技を受けそうになっていた。
【智】
「…………素敵な出会いでしたね」
【るい】
「それいただき」
るいの気配が緩む。
ちらりと肩越しに後ろを向いたのは、普段のるいだ。
【智】
「素敵出会い?」
【るい】
「その前のやつ」
【智】
「前というと……」
【るい】
「必殺」
バイク轢殺攻撃。
【智】
「そんなもの、いたただかれても」
【花鶏】
「あなた、免許持ってるの?」
【智】
「そういう問題でもない……」
【るい】
「そこで黙って見てなさい。世界がびびる、るいちゃん流必殺――――」
天に向かって高々と咆哮した。
路上駐車してある、誰かの原付のハンドルを掴んで。
【智】
「な、」
【花鶏】
「に、」
【るい】
「原付あたーーーーーーーーっく!!!!!」
丸ごと投げた。
【智】
「ぎゃわーーーっ???!!!!」
自転車ではない原付である。
持ち上げたのではなく投げつけた。
【るい】
「しねーーーーーーっ!!!!」
言われなくても当たると死ぬ。
ゆうに数メートルを飛翔した。
重量70キロの砲弾だ。
連中がびびった。
こっちまでびびった。
鋼の筋肉をまとったむくつけき2メートルの大男が、
パフォーマンスに持ち上げるのとはわけが違う。
空飛ぶ原付は連中の目の前で壮絶に着地した。
むしろ爆地。
示威効果としては十分すぎた。
蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。
後には大往生した原付の亡骸だけが残される。
どこの誰のものかは知らないけれど。
【るい】
「南無」
るいが手を合わせる。
貴重な犠牲であった、
キミのことは永遠に忘れない。
そう誓っているように見えなくもないが、
たぶん、気のせいだろう。
【るい】
「どんなもんすか、るいちゃんの新必殺技……って、なに
この白けた空気」
【花鶏】
「バカ力とは知ってたけれど……まさか、バケモノ力とは
思わなかったわよ」
【るい】
「感謝しろよな、こンちきしょうめ」
【智】
「すごいね、サイボーグ」
【るい】
「うち人間すから」
【こより】
「すげーですぅ〜〜っ!」
空気読まないこよりは、素直に驚嘆する。
〔契約結びました(ダークサイド編)〕
【智】
「ここまで逃げれば」
【こより】
「大丈夫なのですか!?」
【智】
「だいたい問題ないと思います」
【花鶏】
「走るわ汚れるわ、散々な一日だわ」
【智】
「誰のせいですか」
【花鶏】
「運命を恨みなさい」
やるせなかった。
お前なんか犬のウ×コ踏んじゃえ、運命。
【智】
「ひとりでやっちゃダメって念押ししなかったっけ?
どうしてさっさと走っちゃうかな」
【るい】
「チームワーク大切にしろつーの」
【花鶏】
「あなたに言われたくないわね」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
すぐに揉める。
【智】
「以後は謹んでください」
【花鶏】
「これは、わたしの問題だわ!」
【智】
「今は全員の問題なの、僕らは運命共同体なの!」
同盟。
互いを救う相互条約。
【花鶏】
「はん、運命共同体」
鼻で笑われる。
【智】
「それではお尋ねしますが、手がかりは?」
【花鶏】
「…………」
【智】
「捜し歩いて何か見つかった?」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「はーい、センパイ先生ー、質問があります!」
【智】
「どうぞ、こよりくん」
【こより】
「…………これからどうするですか」
【智】
「それなんだよね」
【花鶏】
「……本を、捜すに決まってるでしょ」
【智】
「本が、バッグの中味なんだ」
【花鶏】
「…………ええ、そうよ。花城の家に代々伝わる古い本、
大切な……大切な本なのよ」
さすがの花鶏も肩が落ちている。
ほんの心持ちだけど。
【智】
「闇雲に捜しても見つからないよ」
【こより】
「闇雲じゃなければ見つかるですか?」
【智】
「捜し方にもよるけど。盗まれたのは本。
とりあえず捨てられてるっていうの考えないでおくとすると……」
もし燃えるゴミと一緒に出されていたら、
ゲームオーバーだ。打つ手はない。
【智】
「そこで問題です。どうして他人のものを盗んだりするんでしょう?」
【るい】
「……それが欲しかったから」
【智】
「いい線です。ただ、今回はかなり偶然っぽいので違います」
【こより】
「……価値がありそうだから?」
【智】
「はい、正解です。10点獲得と次回のジャンプアップで+1」
【花鶏】
「それはつまり、本をお金に換えるということ?」
【智】
「本が入ってたとは思わなかっただろうね。高価そうなバッグ
だったから狙っただけで、本が入ってたのは成り行きだと思う」
【智】
「こうなると盗んだヤツが多少はモノを見る目があるか、とにかくどんなものでも換金しようと考えてくれる方に賭けるしかないんだけど」
【こより】
「古本屋さんに売っちゃったりするんですか?」
【智】
「馬鹿になんないんだよ、本。
稀覯本だったりすると、出るところに出たら――」
ゴニョゴニョ。
純真なこよりちゃんに、とある本のお値段を囁いてあげる。
【こより】
「きゅう」
目を回した。
【こより】
「そそそそそそ、そんなにお高いんですかッッッッ!!!」
【智】
「ピンキリだけども、ものによると……今のヤツのン倍」
【こより】
「ガクガク……」
憐れな小動物と化して怯えてた。
【花鶏】
「こそ泥風情が……」
【智】
「本当の、ただのひったくりとかなら、ボロの本なんか捨てちゃうかも知れないから、早く見つけて」
【花鶏】
「殺してやるわ」
本気だった。
相手の生命と未来のためにも、
捨ててないことをせつに祈らずにはいられない。
【こより】
「すると、古本屋さんとか調べれば手がかりが!」
【智】
「いやまあ、理屈はね」
【智】
「この場合は盗品だから、手慣れた相手なら、下手に足がつかないように、盗品を扱うような人間を間に挟んだりするかも……」
そんな物騒なところにツテはない。
盗品を扱うような連中なら、
一種のコミュニティーを持っているはずだ。
犯罪的なコミュニティーは当然排他的要素を強く持つ。
外部の人間が近づけるとは思えない。
まして――
【るい】
「?」
【こより】
「♪」
【花鶏】
「…………」
美少女軍団だ。
水と油だ。掃き溜めに鶴だ。
美人三姉妹で美術品を盗んで歩くのとは訳が違う。
悪目立ちして最初の三歩でばれてしまう。
【智】
「ただでさえ駅向こうに行くのがマズイのに、そんな所に近づけると思う? ツテもコネもなく」
目隠しして地雷原を突破するようなもので。
【るい】
「すると?」
【智】
「無理っぽいんだよね」
【花鶏】
「そんな――っ!」
花鶏が、珍しく臆面もない声を上げて、
【惠/???】
「案内しようか」
もうひとつ、知らない声が降ってきた。
低温なのによく通る、不思議な声の主は、
【智】
「……?」
見知らぬ学生さんだった。
詰め襟の制服が、上の道路から階段を降りてくる。
【花鶏】
「……誰? 知り合い?」
【智】
「うんにゃ」
【るい】
「右に同じ」
【こより】
「同意」
るいにチラリと目をやる。
それで伝わった。
るいは小さく肯く。
近くには、他の誰も潜んでいる気配はないらしい。
すると。
追っ手ではないみたい。
【智】
「どちらさまですか?」
【惠/???】
「なんだ、君は忘れてしまったのか。人の心は罪だね。こんなにも容易く他人を傷つける。僕は忘れがたく、こんなにも焦がれているというのに」
わー。
【智】
「――――っと、ごめんなさい! ちょっと思考を手放してた」
【花鶏】
「……いえ、私も今真っ白になってたわ」
【るい】
「ほへー」
【こより】
「ほへー」
るいとこよりは、まだ燃え尽きていた。
【花鶏】
「なにこれ。どういうの? なんとも珍しい手合いだけれど」
【智】
「や、やばい」
動揺した。
【花鶏】
「なにが、どう? 危険な相手なの? なにかあるの?」
【智】
「誰か知らないけどものすごくヤバイ。僕、こういうタイプとコミュニケーションするのは、想定したことがなかったんだッッ!」
右往左往。オロオロする。
【花鶏】
「……あなたが本音で慌てるのも初めて見るわね。案外イレギュラーには弱いのかしら」
相手が下までやってきた。
本能的にうなじの毛が逆立つ。
苦手なタイプだ。
おまけに……背が高い。
【智】
「……うらやましい」
【惠/???】
「それで、案内はいらないのかい?」
少年だ。
手の触れそうな場所にいるのに存在感が薄い。
独特の気配だ。
【こより】
「あう、きれー……」
【るい】
「えー、こよりん、あーいう青白いのがいいのー?」
正気づいたギャラリーが騒いでいた
こよりが乙女アイで見惚れている。
ハートが飛んでます。
まあ、たしかに。
こやつは美形キャラだ。
少女漫画っぽい、性別を感じさせない整った顔立ちは、
どこか人形めいて硬質だ。
【智】
「えっと、その、どちらさまでしたっけ?」
再度、質問。
【惠】
「才野原(さいのはら)惠(めぐむ)」
【惠】
「君の友達だよ」
友達宣言された。
才野原惠――
姓と名を別に検索しても記憶がない。
【智】
「覚えてないなあ。
もしかして、進級する前に同窓だったとか、そういうの?」
【こより】
「あ、さっきぶつかった人ッス」
【智】
「ぶつかった?」
【こより】
「そうです、さっき、るいネーサンがバイク投げするちょっと前に――」
【こより】
「にゃわ〜」
【無実な学生の人】
「――ッ」
【花鶏】
「なにしてる、前見なさい、前を!」
【こより】
「申しわけ〜」
【こより】
「飛び出して、通りすがりの無実の学生さんの脇腹に、勢い余って肘を一撃」
【惠】
「そういうことも、あったかも知れない」
【智】
「友達と全然違うだろ!」
出会ったばかりだよ!
変なヤツだと思ったら、
うんと変なヤツだった。
なぜ、どうして、僕の周りには、
こういう変人がより分けでやってくるのか。
神様がいるとすれば、
そいつはどうしようもなく性悪だ。
居場所を教えてくれないから、
胸ぐらをつかんで問いただすという小さな望みも叶わない。
【惠】
「すると、これから友達になるのかな」
【智】
「前後させたら大違いだ」
【惠】
「出会いは運命だという言葉もあるけど、君は信じない?」
【こより】
「うー……運命の出会い〜〜〜〜〜〜っ!!」
少女漫画なフレーズに、こよりが身もだえする。
こういうのを、リアルで耳にするとは思いもよらなかった。
【智】
「僕、リアリストですから、そういうのはちょっと……」
【こより】
「えー」
三角座りして土いじりしそうなぐらい残念がる。
【智】
「でも、とりあえず、そういうことならそれは、つまり、こよりが――」
一撃食らわせた、その帳尻合わせにきた?
【惠】
「その続きを覚えている?」
【智】
「続き?」
【惠】
「そう、ぶつかったその後に」
【智】
「後といえば――」
【無実な学生の人】
「――ッ」
【智】
「あ、踏んじゃった。ごめんなさーい!」
【るい】
「踏んだんだ」
【智】
「……………………」
確かに、踏んだ、気がする。
【惠】
「その時、運命を感じたんだ」
【智】
「そんな運命ゴミ箱に捨ててしまえ!!」
それは運命じゃなくて呪いだ、絶対。
【こより】
「そ、そ、そ、そ、それってもしかして――」
きゃんきゃんと嬉しそうに。
やめて、よして、後生だから。
お願いだからその先の、
呪われた言葉を口にしないで……。
【こより】
「恋っ!! では〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
【惠】
「そうかもし、」
【智】
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
台詞を断ち切って絶叫。
【るい】
「ど、どうしたの、トモちん。でっかいイヤン?」
【智】
「焦るな、静まれ、男に告白されるなんて何回もあったじゃないか。こんなことでめげてどうするの。今度のヤツはちょっとアレだっていうだけで、僕の心臓まだ動いているよお母さん……」
【こより】
「センパイ?」
【るい】
「どない?」
【智】
「ふひ、ひひひひひ、ひひひ、ひひっひ」
【こより】
「こわれちゃいました」
【花鶏】
「たく、この忙しいときにしようのない」
【花鶏】
「えと、才野原惠だったかしら」
【惠】
「ああ」
【花鶏】
「どこまで本気なのか知らないけれど、一つだけ、事前に
はっきりと、断っておくわ」
【花鶏】
「この子はわたしのものだから、あなたは手を引きなさい」
【智】
「そっちじゃないでしょ!」
【こより】
「あ、生き返った」
【花鶏】
「ちっ」
【智】
「ちっ、じゃなくて! 僕は誰のモノでもないですから!」
【花鶏】
「わたしのモノになるのはこれからだけど、遅いか早いかの
違いだから、大差ないでしょう」
大違いだ。
【惠】
「それで、どうする? 案内しようか」
そういえば、話の切り出しはそれだった。
【智】
「…………案内というと」
【惠】
「盗品を扱うような連中のコミュニティー、ツテがあるなら……と。君らが今話してたんだろう」
【こより】
「話は全部聞かせてもらったッスよ!」
【智】
「……今時珍しい刑事ドラマ技能の持ち主だなあ」
【惠】
「案内が必要だと」
【花鶏】
「――別に、わたしには、そんなもの必要じゃないわ」
妙なところで意固地な花鶏だった。
【惠】
「知ってそうな相手に心当たりは、あるかな。君たちを、そのひとのいそうなところに案内して、紹介するくらいしかできないけれど」
相手の方が好意的に無視してくれた。
【るい】
「これって渡りに船ってやつ?」
【こより】
「犬も歩けば棒に当たるです〜!」
【るい】
「当たったのは、こよりだし」
【こより】
「あうぅぅ、誉められてるのか怒られてるのか……」
【るい】
「でも、なんでゴキブリ噛みしめたような顔してるかな」
【智】
「してますか」
顔に出てたらしい。
【智】
「……本当に、案内してくれる?」
【惠】
「必要なら」
【惠】
「そのかわりに」
【智】
「…………」
言われるまでもない。
世界は契約と代価でできている。
【惠】
「実は……」
【惠】
「君のことが忘れられないんだ。でも、強引と言うのは趣味じゃ
ないから、友達からはじめてくれるかな」
わー。
【こより】
「きゃー!」
意識が戻った時、こよりはお星様を一面に飛ばしながら
くるくる回っていた。
【るい】
「……あーいうのの、どこがいいのか、私よくわかんない」
【花鶏】
「男なんてどれもダメに決まってるわ」
【智】
「…………」
【るい】
「トモ、返事してあげなさいよ。せっかくコクられてんだから」
【花鶏】
「意外……色恋絡むと、もっと不器用に逃げ出すキャラだと思ってたのに」
【るい】
「おあいにくさま。これでも告白だけは山ほどされたことあるんですよー、べーっ!」
るいが舌を出す。
告白だけは――すごい日本語の欺(ぎ)瞞(まん)を見た。
るいに告白したのは全員「女の子」だったというのを、
僕は聞かされたので知っている。
【花鶏】
「恋愛偏差値のお高いことで」
【るい】
「告白するのって凄くエネルギーいるんだよ。火がついちゃいそうなくらいに必死で、どーんと体当たりしてくるような感じ」
【るい】
「傍にいるだけで、全部をここに使ってるんだなぁっていうのが
わかっちゃう。だから、せめて、返事はちゃんとしてあげないと
ダメ」
百聞は一見にしかず。
出会ったばかりで愛を告白したにしては、どう見ても必死には
思えない男の子が、目の前で微笑している。
【惠】
「それで、どうかな」
夜になる。
人の川が街路を流れる。
街は交点だ。人と物が交差する。
繋がることはなく、触れ合って離れる。
街はひとの数だけの顔を持っているのかもしれない。
【智】
「どうして夜なの?」
【惠】
「夜でないと相手が現れない」
【智】
「そのあいてって、吸血鬼の親戚筋のひととか?」
【惠】
「勘がいいね。噂を聞いたことは?」
噂はしらないが、
どうやら本物の吸血鬼らしい。
とかくこの世は不思議だらけだ。
吸血鬼、黒いライダー、
花嫁を連れ去る王子様。
【惠】
「そういえば、これってふたりっきりになるのかな?」
【智】
「ブーッ!!
離れろ、近付くな、最短距離50センチ割り込み禁止!」
飛んで逃げた。
愛の語らいなんて断じてごめんだを示す、
両手で×マーク。
【惠】
「つれないね」
惠は肩をすくめもしない。
取り引きに応じて、
僕らは友達契約を結んだ。
最低の語感ですね、まったく。
引き替えに惠にツテを紹介してもらうことになった。
その、問題の相手は夜にしか現れないという。
【惠】
「二人で来ることにしたのは、どうして?」
当然、花鶏は来たがった。
るいも、行くとうるさかった。
【智】
「色々やっちゃったから目立ってるし、顔覚えられてたら余計な
騒ぎになりかねないし。この上物騒なことになったらとっても
困るし」
【智】
「ツテとの話がおかしな方向に流れても、僕ひとりの方がきっと
丸く収まるだろうから」
【惠】
「そうやって巻き込むのを避けるわけか。盗品の話、自分のことじゃないんだろう? なのに……興味深いね、君は」
【智】
「買いかぶらないでよ。僕は効率優先な人種なんだよ」
【惠】
「そういうことにしておこう」
前触れもなく惠が歩き出す。
【惠】
「そろそろ時間だ」
【智】
「どこまで行くの?」
【惠】
「半分は運任せだね」
【智】
「……案内じゃないんですか」
【惠】
「相手がいそうな場所は何ヶ所かある。しらみつぶしにする」
【智】
「どうせロクでもない場所なんだ……」
【惠】
「それはもう。ロクでもない相手がいる場所だから、ロクでもないと相場は決まってる」
聞くまでもなかった。
【惠】
「運が良ければ早めに見つかるだろう」
【智】
「悪ければ?」
【惠】
「いないだけだよ」
わかりやすかった。
【惠】
「運は良い方?」
【智】
「うんと悪い方」
【惠】
「悪運はついてるようだ」
惠に案内された三つ目の路地だった。
異臭が鼻をつく。
灯りのない路地裏に、
街の腐臭とも異なる、饐えた臭気がこもる。
顔をしかめた。
【惠】
「尹央輝(ゆんいぇんふぇい)?」
【央輝】
「誰かと思えば、才野原かよ。
相変わらずウロチョロと目障りなこったな」
路地裏に灯がはいる。
ライターの火だった。
黒い塊がいた。
黒いのは唾広の帽子と蝙蝠の羽めいたコート。
見た目だけならコスプレだが、同じ場所に居合わせるだけで、
肌のひりつく空気を身につけている。
狼が一目で獣だとわかるように、
これは危険だと説明されなくても理解できる。
【智】
「……ほえ?」
帽子の下から、ライターの火に爛々と
照る虹彩が睨みつけていた。
見覚えがあった。
【智】
「あれ、それってもしかして……?」
【惠】
「知ってるのかい」
【智】
「まあ、知り合い程度だけれど……」
尹央輝(ゆんいぇんふぇい)。
そういえば、あの時、名前を聞いていなかった。
【央輝】
「そいつは――?」
【惠】
「君に相談したいことがあるそうだ」
【央輝】
「相談?」
ナイフでくり抜いたような三日月の形に、
相手……央輝の口の端がつり上がる。
近くで見るとよくわかる。
央輝は随分ちっこい。
だが、小型でも刃物と同じだ。
以前にあったときとは違う、
針の刺さるような存在感。
危険な生き物だ。
【央輝】
「くくっ、あたしに相談か、詰まらない冗談を仕込むヤツだぜ」
【央輝】
「いいさ、聞くだけ聞いてやる。場所を変えるか」
央輝が路地を出る。
ライターの火が移動して、
奥にあった臭気の元を明らかにした。
男が二人倒れていた。
大の大人だ。
その男たちの吐いた血反吐の臭いだ。
【智】
「――――」
惠の袖を後ろから引く。
路地の奥を、黙って指で指す。
よくあることだと、惠は小さく肯いた。
【惠】
「注意するといい。央輝は気性が荒いんだ」
尹央輝といえば、その筋ではただならず名前を知られている有名人らしいが、その筋無関係な一般人の僕が聞いたこともないのは当たり前だった。
なんにでも境界はある。
一歩線を踏み越えれば、
そこは知られざる別世界。
央輝は危険な人間だった。
危険な人間の統率者でもあった。
央輝を直接知るものは少ないが、
代わりに、夜の街を伝説が流布していた。
曰く、吸血鬼。
曰く、ひと睨みで相手を殺す。
曰く、人を食っているのを見た。
央輝は、駅のこちら側に夜ごと繰り出す若い連中の、
カリスマとして君臨している、といわれても、
何となく凄そう、以外には実感が湧かないんだけど。
【智】
「こんな場所でいいの?」
【央輝】
「文句があるのか」
【智】
「ないない、ぜんぜんない」
夜の街に佇んで、缶コーヒーを片手に密談にふける。
下手な場所よりは、外の方がいいという。
まあ、下手な場所に連れて行かれても困るわけだし。
【智】
「そういえば、忘れてた。この前は、ありがとう」
央輝にお礼を言った。
追われていたとき、
逃げ道を教えてくれたのだし。
【央輝】
「……」
不思議そうな顔をされた。
水色のパンダとか、
その辺りの珍獣を見つけた顔だ。
【智】
「でも、話を聞く限り、央輝はあっち側の人じゃないの?
どうしてあの時は」
【央輝】
「ふん、ちょっとした気まぐれだ。貴様が気をまわすことじゃない」
物騒な社会には物騒なりのルールとか勢力争いとか、
あまり首突っ込みたくない事情があるのかも知れない。
【智】
「それならそれで、感謝」
【央輝】
「あれは貸しだ。いずれ取りたてる」
【智】
「ごもっともです」
【央輝】
「にしても、盗品の行方とはな! それも、あるのかないのかも
わからないモノを、わざわざ頼みにくるなんてな」
含み笑う。
【央輝】
「笑える話だ、こいつは。才野原、オマエ、ちゃんと教えてやったのか?」
【惠】
「彼女なら、わかっていると思うよ」
惠が流し目で促す。
表情が少なくて感情が読みにくかった。
【智】
「…………」
わかっている、とは思う。
どんなコミュニティーにでもルールがある。
そこに非合法の色がつくなら、
自らを維持するために、より排他的な、
より厳格なルールが必要だ。
求められるのは、契約と代価。
どこででも通用する、どこででも求められる。
それは普遍の法則だ。
【央輝】
「これを聞いてやったら、2度目だな。お前は2度あたしの前に
顔を出して、その度に面倒事を頼んできやがる」
【央輝】
「これが縁なら、糞くだらない縁にも程があるな。違うか?」
【智】
「なんとか、なるの?」
【惠】
「……」
【央輝】
「ならなくも、ない」
酷薄な顔。
【央輝】
「そいつが、あたしたちの仲間なら、話は早い。仲間でなくても、金に換えるためにどこかを通したなら、この街のことなら、必ずあたしの耳には入ってくる」
【央輝】
「だから、だ」
【央輝】
「あるなら、見つけてやってもいい」
背の低い央輝は僕を見上げる。
暗く沈んだ目だ。
3本目と4本目の肋骨の間に、音もなくスルリと滑り込んで
来そうな、薄く鋭利な尖った眼差し。
【智】
「ほんと?」
【央輝】
「…………オマエ、まともじゃないな」
なにやら、酷いことを言われている気がする。
【央輝】
「おい、才野原。そうなんだろ。こいつ、まともじゃねえんだろ?」
【惠】
「まともか否かの区別がつくのは、まともな人間だけじゃないかな」
【央輝】
「はっ、くだらねえ!
そんなもん、まともの保証は誰がつけてくれるってんだ?」
【惠】
「さあね」
くくっ、と央輝が喉に笑いをこもらせた。
【央輝】
「お嬢っぽいわりには、キモの座ったやつだな、お前」
【智】
「そうかな」
そうかもしれない。
【央輝】
「まあ、いいさ」
そうだとすれば、それは、きっと。
――――――――もっと恐ろしいものを知っているから。
【央輝】
「いいぞ。その本とかいうのは見つけてやる――――
あれば、だがな」
【智】
「ホン(本)ト!」
ちょっとしたシャレです。
【央輝】
「ああ」
聞き流された!
【央輝】
「どうした?」
【智】
「いえ、些細な失敗に打ちひしがれてます……」
【央輝】
「ふん。いいか、モノには価値がある。価値は交換できる。あたしが言ってることはわかるな」
【智】
「……僕の借り、二つ目ってことでいい?」
【央輝】
「はははっ! 聞いたかよ、才野原!」
力いっぱい笑われた。
【央輝】
「ここへ来て黙って『貸してくれ』だとよ。ふざけた玉だ、笑えるヤツだ! こりゃいい!」
【惠】
「いいのかい。その本、君のモノでもないのに。
君が借りておく必要はないんじゃないのかい?」
【智】
「借金はまとめておいた方が管理しやすいので」
央輝はまだ笑っていた。
ほっとくと夜明けまで笑われちゃってそうだった。
【央輝】
「ふ、ふふ、くくっ……いいさ、何かわかったら連絡してやる。
せいぜい首を長くして待ってろ」
唇がサメみたいにつり上がった。
俺様お前を丸かじり、といわれてるみたいで、
この先を思うととても悲しくなった。
携帯の番号を教えて、僕らは別れた。
【智】
「ローンで首が回らなくなったらどうしよう……」
茜子の父親も、
こんな感じでがんじがらまったのかも。
借金恐ろしい。
夜風がどうにも身に染みる。
【惠】
「央輝は、本当に、気性の荒いヤツだよ」
忠告らしかった。
しかも、かなり笑えない。
【智】
「あー、うー」
ひとしきり、天を仰いで嘆いた。
惠とも別れて、ひとり孤独な家路につく。
奇妙に胸が詰まった。
慣れている孤独が胸におちてくれない。
名付けがたい胸のにがりに首を傾げる。
【智】
「このところずっと騒がしかったから」
こういうのも寂しさというのかしらん。
そういえば、今頃どうしてるんだろう。
〔誰のことを考えよう?〕
《るいのことを考える》
《花鶏のことを考える》
《こよりのことを考える》
《伊代と茜子のことを考える》
〔るいのことを考える〕
あの暴食魔神はどうしてるだろう。
しばらくは花鶏が家に泊めてくれるから、
家なき子の宿無し問題は一時保留だ。
【智】
「……なにか方法を考えといた方がいいですね」
今の状況を解決したら、次の課題。
問題は際限なし、そろって難問、時間制限付き。
【智】
「そのうちハゲるかも……やだなあ」
部屋に辿り着いた時には深夜近かった。
扉の前に変なものがいた。
【るい】
「おかえんなさい!」
るいが膝を抱えてうずくまっていた。
【智】
「なにしてるの?」
【るい】
「待ってたの」
【智】
「花鶏ん家に……」
泊まってる筈では。
【るい】
「ノンノンノンノン」
指を立ててちくたく振って。
【るい】
「ついつい飛び出て来てしまいました」
【智】
「途中経過を端折りすぎです」
揉めたな。
きっと揉めたな。
そういう可能性は考慮しておくべきだった。
失策だ。
最近多いな、失策……ドラマの完璧軍師並に。
【るい】
「そんでトモちんのこと待ってた」
【智】
「……とりあえず、あがって」
【るい】
「わーい、お部屋だお部屋だ!」
小躍りしている。
計算してみた。
時間が遅いので、
バスも電車もとっくにない。
るいを泊めることで生じるマイナス要因(主に秘密発覚の可能性)と、るいを追い出すことで生じるプラス要因。
差し引きすると追い出す利益が大きすぎる。
季節柄寒くもないし、るいはバイタリティーなひとなので一日や
二日公園のベンチで寝泊まりしていただいてもまったく平気だ。
となれば結論は簡単。
【智】
「…………今日は泊まってっていいから」
【るい】
「わーい!」
弱いな、自分。
ご飯を食べてから、またしても、一緒に寝ることになった。
【るい】
「トモって優しいよね。ちゃんと泊めてくれるし」
【智】
「心的ストレスに弱いんだよね。胃腸とか」
心配性とも言う。
【るい】
「――――それで、今日はそれでどうだったの」
るいは、落ち着いた目をしていた。
津波がくる直前の海だ。
仲間を守るのと同じだけ、敵には容赦しない。
るいなりに、僕が一人で行ったのを心配しているらしい。
僕の返事一つで時限爆弾のスイッチが入る。
【智】
「運が良かったんだか、悪かったんだか。進展はあったから、明日みんなにもまとめて話すよ」
【るい】
「うまくいったんだったら、そんでいい」
【智】
「……うん」
どうか、このまま上手くいってくれますように。
〔花鶏のことを考える〕
【花鶏】
『どうだったの!?』
出るなりこれだ。
【智】
「ちょっと待って」
【花鶏】
『いいから早く答えなさい!』
【智】
「耳が痛くて声がきこえないから」
気を揉んでいるだろうと電話したのを、
ちょっぴり後悔。
【花鶏】
『…………』
【智】
「進展はあった」
【花鶏】
『別に、期待なんてしなかったわよ』
【智】
「でも、捜してくれることになった」
沈黙が落ちる。
花鶏の頭が高速で回転している。
【花鶏】
『必要ないのに』
【智】
「僕らが地道に捜すよりは、あてになるから」
【智】
「詳しくは明日話すから」
【花鶏】
『まあ、いいわ』
【智】
「じゃあね」
【花鶏】
『――――待って』
【智】
「なあに」
【花鶏】
『どうして……一人で行ったの?』
問い詰める口調じゃなくて。
それは押さえた怒りだった。
その矛先は、僕と花鶏で半分こだ。
一人で行くと最後まで譲らなかった僕、
それをとうとう論破できなかった自分。
【智】
「それは、別れ際に言った通り」
【花鶏】
『そんなことは聞いていない』
【智】
「……難しいね」
【花鶏】
『わたしは怒ってるのよ』
【智】
「声でわかります」
【花鶏】
『何故怒っているかもわかって?』
花鶏は予想している。
契約と代価だ。
それはどこにでもある構造だ。
常に適用される、普遍の約束事だ。
僕の借金が、花鶏を傷つける。
【智】
「わかりません」
【花鶏】
『わたしたちが、運命共同体だといったのは、あなたよ』
鼻で笑われた記憶があるんですけれど。
【智】
「同盟だけに」
【花鶏】
『…………いいわ。わたし、無駄なことはしない主義だから。
詳しい話は明日聞かせてもらう』
【智】
「イエスマム」
不機嫌そうな、短い沈黙。
黙ったまま電話を切られそうだった。
【花鶏】
『……他の連中に、伝えることは?』
予想は外れた。
【智】
「おやすみなさい」
【花鶏】
『芸のない』
【智】
「大衆に埋没する平凡な人生が理想です」
【花鶏】
『あなたには波瀾万丈が似合うわね』
いやだなあ。
【花鶏】
『……それじゃ、おやすみなさい』
返事も待たずに切れてしまった。
〔こよりのことを考える〕
【智】
「このまま無事に決着してくれると、こよりんも無駄に元気に
なるんだけどなあ」
ドタバタ騒ぎの発端を作ったことを、
アレはあれで負い目に感じている。
ときおり振る舞いが過剰なのは、
半分はそこが原因じゃないかと思う。
【智】
「もそっと落ち着いてもいいのに」
人間関係の交通整理。
同盟は結んだだけでは終わらない。
維持する方が難しい。
これが中々手間なのだった。
【智】
「ほう……」
小さくため息をついた。
〔伊代と茜子のことを考える〕
出会いを回想する。
【智】
「……危うい偶然だったなあ」
のっけから危機一髪の二人だった。
ほんの数分、あそこへ行くのが早いか遅いかしていれば、
今頃とてつもなくX指定なお話になっていたはずだ。
危機一髪は現在進行形で続いているけれど。
当事者である茜子。
当事者でない伊代。
茜子には選択の余地がないが、
伊代には、本当は僕らといる理由がない。
お人好し。いいやつ。委員長気質。
【智】
「いいやつほど損する世の中なのに……」
肩をすくめたはずなのに、なぜか足下が浮ついた。
どうして気分がよくなったのか。
わからないまま帰路についた。
〔るいのお出迎え〕
何の変哲もなく、進展もなく、穏やかに。
数日が過ぎる。
最近は平穏無事な日々の方が珍しく感じられる。
やだなあ……。
実は、一度だけ波風のたったことがありました。
央輝とお話した翌日のことだ。
【伊代】
「いや、なんといいますか」
【花鶏】
「……バカね」
【茜子】
「バカですね」
【こより】
「バカなのですか?」
【るい】
「うむむむむ」
央輝とのことを説明したら、
死ぬほどバカにされた。
自分から進んで他人の連帯保証人になるようなヤツは、
生きてる資格ナッシングです……
とまで言い切ったのは茜子さんでした。
……もう少し綺麗な言葉にして欲しい。
危険な賭けにあえて挑むのは、
勇気ではなく無謀と呼ぶんだってばよ、レディー。
とか。
花鶏は怒った。
どれだけ怒ったのかというと。
回想シーンにするのもちょっと躊躇(ためら)われるくらい。
主に花鶏の名誉のために。
人間がどこまで怪物に近づけるかという、
新たな可能性をかいま見た、気がする。
【智】
「はわ…………」
大きなあくび。
それらを除けば、
いたって長閑な日々だった。
今日もまた。
行き来の道のりも、授業も、
何事もなさ過ぎて眠気を誘う。
放課後になっても約束はない。予定もない。
ここんとこ、約束はトラブルと裏表だったけど……。
トラブル解決のために約束するのか、
約束するとトラブルが生まれるのか。
【後輩】
「さよならー」
【智】
「さよなら」
下級生が会釈して去っていく。
離れる背中に手を振りながら、
相手の名前も知らないことに微苦笑した。
こちらが覚えていなくても、
あちらは僕を知っている。
名前とセットにラベルされた優等生の姿を。
関係は、いつも相互的とは限らない。
【女生徒3】
「いくよー」
【女生徒4】
「わっせ、わっせ、わっせ、わっせ」
耳を澄ませば雑多な音。
授業を終えて帰るもの、部活にいそしむもの、
誰かとの約束に時間を振り分けるもの。
ひとの数だけの路。
ひとは繋がることはなく、
幾重にも交差するだけだ。
今日は宮和も先に帰ったらしい。
しんみり風情のまま行こうとする。とした。
【るい】
「おーい」
正門のあたり。
どわどわ手を振っていた。るいだった。
【智】
「な、なんで…………」
【女生徒1】
「まあ、騒がしい」
【女生徒2】
「どなた?」
【女生徒3】
「見覚えのない――」
【女生徒4】
「他校の生徒のようですけど」
注目を浴びていた。
白い目だった。
難儀なもので、
当のるいには柳に風である。
その手の悪意には鈍いたちなのだ。
【智】
「……」
悩む。
選択肢を脳内に並べる。
選ぶ。
他人のふりをすることにした。
君子危うきに近寄らず。
学園での生活には、ことさら波風を立てたくない。
今のるいは火災報知器みたいなものだし。
カバンを盾に顔を隠して、正門ならぬ裏門に。
【るい】
「おーいおーい、トモちーん!」
【智】
「ぶっ」
思いっきり名指しされる。
【女子生徒1】
「和久津様……?」
【女子生徒2】
「他の学園の方と……」
【女子生徒3】
「どうしてあんながさつそうな……」
【るい】
「トモちん、トモちん、トモちんー!」
しかも3回も反復。
【智】
「ノー…………」
疑惑の矢が背中に次々突き刺さる。
噂が醸成されている。
明日までには発酵して尾ひれとはひれがついて、
地上を二足で歩行している気がした。
【るい】
「トモち、」
【智】
「こっちへ!」
【るい】
「え、あの、そんなにひっぱんなくても」
【智】
「いいから、何もいわなくていいから、こっちこっち!」
【るい】
「なによー、そんなに引っ張らなくても」
校舎から離れた。
落ち着ける距離まで、
るいの手を引いて早足で歩く。
【智】
「ここまでくれば……ふー」
【るい】
「なんでタメ息つくのか」
【智】
「人生は、長い荒野の最果てを目指す旅に似てるのよって話はした?」
【るい】
「難しいことはわかんない」
明日には孵化してそうな噂に思考を巡らせる。
やめた。
未定のことに神経を使うのもほどほどにしておく。
明日は明日の風が吹く。
るいの好きそうな言葉だ。
【智】
「んで、なに」
【るい】
「なにとは」
【智】
「キミはなんで、わざわざ学園に来て、正門前で待ち伏せ襲撃
しましたか」
ほっぺを引っ張ってみた。
やわらかモチ。
【るい】
「みょー」
【智】
「変な顔」
【るい】
「みょーっ!」
解放する。
【るい】
「みょみょみょ、私のやわらかほっぺが……」
【智】
「そんでもって?」
【るい】
「実は、ちょっとした」
【智】
「ちょっとした?」
【るい】
「気の迷い」
【智】
「迷ってどうするの」
【智】
「……いいかげんだなあ」
【るい】
「いい加減って、ちょうどいいって意味だよね」
【智】
「微妙なニュアンスで日本語として成立してるあたり、
たち悪い感じ」
【るい】
「よくないか」
【智】
「良い悪いではなく」
【るい】
「何の話だっけ」
【智】
「僕に訊かれても困ります」
【るい】
「まあ、細かいことは気にしないで」
【智】
「しかもきれいにまとめた!」
【智】
「それにしても、よくこの学園知ってたね」
【るい】
「制服見たら有名なとこだったし、場所は前から知ってたから、
さっそく来てみました」
えっへんと、タイラント胸を張る。
大胆というか、無謀というか、無計画というか。
【智】
「電話ぐらいしてくれればよかったのに」
【るい】
「私、電話は苦手なんだよね」
プリペイドだけど携帯を渡してあるんだけどな。
携帯が必須アイテムの今時にしては、
なんとも前世紀的な意見を聞かされた。
【智】
「すれ違ってたかも」
【るい】
「るいさん、多少は考えたよ。早めに来て待ってたから」
【智】
「早めって、どれくらい?」
【るい】
「1時間くらい待ったかな」
【るい】
「どーしたの、変な顔になってる。会えたんだからノープロブレム。トモとはやっぱり赤い糸が絡まってるんだね」
【智】
「絡まったら人生間違いそう」
結ばれてる方がいくらかマシで。
それにしても、1時間……。
根拠もなく待ち続けるには長すぎるのに。
【智】
「ごめんね、待たせちゃって」
【るい】
「んもう、そんなの気にしないでよ。勝手に待ってただけじゃない。私の気まぐれ、いちいち気をつかってたら若ハゲ様になっちゃうぞ」
【智】
「すごくヤダ」
【るい】
「うむ。トモにはハゲ似合わない」
【智】
「ま、いいか。僕も、実は、るいに用事があったから」
【るい】
「用事? なになに」
身を乗り出してくる。いちいち楽しそう。
【智】
「大したことじゃないから後でいい。それよりも、これから
どーするの?」
【るい】
「どうもこうも、考えてない」
【智】
「ほんとに気まぐれだったんだ……」
【るい】
「るいネーサンに二言はない」
【智】
「二言ないのも時によりけり」
【るい】
「武士は食わねど高楊枝だぜ」
【智】
「用法が違う」
【るい】
「……トモちん、チェックが厳しい」
【智】
「突っ立ってても何だし、どっかいこうか」
【るい】
「デートだ!」
【智】
「…………」
デート。
複雑な単語に思いを馳せる。
にかり。るいが大口をあけて笑う。
下品に見えかねないところが、
愛嬌になる女の子だ。
【るい】
「んと、二人で?」
【智】
「そだね。他にも声かけてみようか」
【るい】
「んむんむ」
嬉しそうに肯いていた。
【るい】
「そういえば、トモはさ」
【るい】
「男の子とデートしたことある?」
【智】
「ありません」
悲しい質問をされた。
頼まれてもしたくない。
【るい】
「るい姉さんもないんだよ」
【智】
「なんとなく納得」
【るい】
「なんとなく、馬鹿にされてる気がする……」
待ち合わせ場所へ移動した。
【るい】
「そういえば、さっき言いかけてた智の用事ってなに?」
【智】
「……」
余りに明け透けな顔に気後れをする。
切りだし方を考える。切り出すべきかを悩む。
確かめておきたいことがあった。
【智】
「あのね、」
無心の目をのぞき込む。
首筋から肩のラインを追った。
女の子にしては骨格はしっかりしている。
しなやかに圧縮された機能を予感させる手足へと繋がる。
細身だが、見た目以上のポテンシャルを秘めた四肢。
ウエイトリフティングの世界記録はたしか200キロを超える。
たかだか70キロそこそこのバイクくらい、
軽々持ち運ぶ人間だって世の中にはいるわけだ。
だけど、そういう手合いは、
鎧の如き筋肉をまとった、むくつけき方々だ。
人間の出力は筋量から決定される。
だからといって筋肉だけを山ほど搭載して出力を増強しちゃうと、骨格の強度が保たなくなる。
人間はとても物理的だ。
ウエイトリフティングによる記録の数値は、
肉体に技術が加わって、ようやく達成可能な領域にあった。
バイク投げ――必殺技。
無造作に車体をまるごと引き抜く、力。
明らかに意味不明だった。
一子相伝の暗殺拳の伝承者で、普通は30パーセントしか使っていない肉体の力を全て引き出せるとか、そういう裏設定でもないと納得できません。
【智】
「質問があります。
答えたくなかったら答えなくていいんだけど……」
【るい】
「もって回ってるぞ」
【智】
「……ハニワ人類と昆虫人類と新しい血族のどれがいい?」
【るい】
「ハニワってなんだ?」
【智】
「とりあえず手近なところから」
【るい】
「……恐竜帝国」
【智】
「わりと渋いところだね」
【智】
「じゃあ、第2問」
【るい】
「まだあるか」
【智】
「るいは先祖に狼男とかいる?」
【るい】
「そんなのいねー」
【智】
「通りすがりの吸血鬼に血を吸われたとか」
【るい】
「あるわけねー」
【智】
「秘密結社に誘拐されて改造手術を……」
【るい】
「さっきから何の話をしてるかな」
迂回することはできなくなった。
【智】
「……バイク投げ」
【るい】
「すごいでしょ」
【智】
「あれってどういう……仕掛け?」
【るい】
「力持ち」
理由なんて知らないのか、言いたくないのか。
前置きもなく。
【るい】
「昔からそうなの」
るいの笑顔に影が混じる。
形は変わらないのに質量が失せて、
形ばかりの空疎な笑みには心の重さが足されていない。
【るい】
「ちっさい頃からね、ずっとそうなんだ。リクエストがあったら、もっとすごいことでもできちゃう」
【智】
「……もっとすごいんだ」
【るい】
「そのとーり。本気になるとすっごいぞ、るいさんは」
【るい】
「智は、そういうの、あんまし好きくない?」
【るい】
「そういうのって、やっぱり怖い?」
不意打ちだった。
怖い――
何を指して。
誰を指して。
るいにとって、どんな出来事が、
その言葉を選ばせたのか。
固い言葉は城塞じみて、その奥に眠るものに、
安易に触れられることを拒んでいる。
誰にでも、それはある。
触れられたくない場所、部分、心の一部。
時に痛みを、時に苦しみをもたらす、最奥の暗がり。
聖なる墓所。
想像は、できる。
秀でていることが、
常に称賛されるとは限らない。
他者との差異は、
安易に敵意へと化学反応する。
妬み、嫉み、恨み――
優れていることが招き寄せる薄汚れたもの。
ましてや、それが過剰であれば。
ひとは、理解できないものを恐怖する。
(――――怖い?)
【智】
「んー、るいらしいかなって思う」
【るい】
「うむ?」
【智】
「なんか、もの凄いの、るいっぽい」
【るい】
「…………」
目をしばたいた。
【るい】
「そういうのは、はじめて言われた」
【るい】
「トモ、やっぱりちょっと変なひとだよね」
【智】
「変か」
【るい】
「変だ」
【智】
「んー、そういうのって、やっぱり怖い?」
訊いてみた。
笑われた。
今度は心の入った顔で。
【るい】
「うんにゃ、トモらしいかなって思う」
【智】
「なら、いいかな」
【るい】
「そだね」
【智】
「それに、助けられたし」
【るい】
「そんなの、仲間を助けるのは当たり前じゃない」
これまた、るいらしい返事だった。
思わず口元がほころぶ。
さて、すぐに皆やってくる。
今日はどこへ出かけようか。
〔僕らはみんな呪われている〕
最初に花鶏が疑義を唱えた。
【花鶏】
「――――どういうことなのかしら?」
多かれ少なかれ全員の意見だった。
花鶏は言葉で僕を、視線はるいを射る。
運よくか、それとも悪くか、暇つぶしの欠員は無く、
全員がそろった後で、るいが先頭をきって歩き出した。
理由のある集まりではなかったし、
どこに行くのでも、構いはしなかったのだけれど。
【花鶏】
「なに、ここ?」
町外れの廃ビルの中です。
元は何のビルだったのかはわからない。
今ではただの廃墟になっている。
いや、そんなことを訊いてるんじゃないんだろうけど。
るいが、僕らを連れてきたのはここだった。
どうして、わざわざこんな所にやってくるの?
こっちだって教えて欲しい。
【智】
「るい?」
【るい】
「んと――」
先ほどから3度。
同じように問い、
同じように言い淀まれる。
るいっぽくない態度だ。
花鶏の水位がさらに下がる。
いよいよ危険なものを感じて、
伊代に救いを求めると、肩をすくめられた。
【伊代】
「薬なし……っていうよりも、わたしも同感」
【茜子】
「茜子さん、飽きました」
【智】
「こよちゃんは?」
【こより】
「あー、こよりめは別に……
でも、何かあるならお早めにいって欲しいのです……」
るいは、最初からここに連れてくるのが目的だった。
今日、わざわざ誘いに来たのも。
るいはしゃがみ込んでいる。
微妙に苛ついている。
ざらついた感情は、
理解しない仲間には向かない。
うまくステップを踏めない自分をもどかしがる、
そんなベクトルに近い。
【智】
「んー」
全員を呼びたかったのか。
それなら電話で約束するか、
説明するか、方法はいくらだってある。
今日だって、連絡もなく僕を待っていた。
すれ違ったらどうするつもりだったんだろう。
るいが、何も事情を話さない理由にもなっていない。
もって回った迂遠なやり口だ。
迂遠というより意味不明だ。
【花鶏】
「どうするの?」
怒っていらっしゃる。当然か。
【智】
「……いいです。よろしい。わかりました」
これは、つまり――――
るいには、答えられない事情が、ある?
【智】
「るい」
るいは、怒られてシュンとしている犬だった。
【るい】
「……」
これは信頼についての問題だ。
難しく困難な命題だった。
【智】
「あと10分でいい?」
【るい】
「…………」
雨に濡れた子犬みたいな目をしてる。
とりあえずは、肯定と受け取ろう。
【智】
「よろし。あと10分待って、何もなければ」
【るい】
「……」
【智】
「どったの?」
【るい】
「怒ったりしないんだ」
空飛ぶ象と遭遇したような顔。
【智】
「変な顔」
【るい】
「トモの方がよっぽど変だと思う」
【智】
「そうかしら」
自覚はあまりない。
自分の物差しは、得てして自分ではわからない。
【花鶏】
「彼女が変だ、というところには同意するわ」
【伊代】
「ま、そうね」
【茜子】
「……」
【智】
「僕らの信頼はどこに行きましたか」
【花鶏】
「利害の一致とか言ってたのはどこの誰?」
【こより】
「センパイ、不肖鳴滝めは、どんなときでもセンパイの味方で
ございます! 変でもよいではありませんか!」
【智】
「まず変を否定してください」
【こより】
「こよりは正直だけが生き甲斐なので」
【智】
「キミは弟子失格」
【こより】
「お情け〜」
【伊代】
「大人げないわね、全会一致よ」
【智】
「数の暴力ですね」
【茜子】
「マイノリティーな負け犬さんの遠吠えは耳に心地いいです。
もっと言ってください」
ひたすら黒い茜子さんだ。
【るい】
「あのね、トモ。私さ、ダメなの。根本的に身勝手なんだよね。
周りを見ないっていうか。普段から考えなしだしさ、たまに
わかんないことしだすし……」
【智】
「今みたいに?」
【るい】
「今みたいに」
自覚はあるらしい。
【るい】
「今までもね、たまに、なにかの弾みで仲良くなった子とかいて、しばらく一緒にいたりするんだけど、結局怒らせちゃうんだよね」
【花鶏】
「気持ちはわかるわ」
【伊代】
「……シビアな突っ込みはおやめなさい」
【るい】
「智は、怒らないね。変なの。すごく変なの。私、自覚あるんだけど。怒りそうなこと、怒られるようなこと、怒り出してもしかたないようなこと、してると思う」
【花鶏】
「まったくだわ」
【こより】
「ネーサン厳しいッス……」
想像をする。
気ままな風のように掴みがたい女の子の姿。
どこまでも無軌道に、
どこまでも身勝手に、飛び回る。
追いつけないことは――
鳥を見上げるように、憧れにも変わる。
わからないことは――
見えないこと、理解不能であること。
不可解は、怖れに繋がる。
わからないことが怖いから、
見えないものに理由を求める。
【智】
「いまね、考えてるんだ」
【伊代】
「……んと、怒らない理由を?」
【智】
「そうじゃなくて、るいが考えてることを」
信頼は相互的だ。
一方的に支払うだけだと、
すぐに萎えてしまう。
心を通貨にした取り引き。
言葉は心を代替する。
言葉足らずな、るい。
レートは食い違う。売買は成立しない。
考えても、やっぱり、るいの考えはわからなかった。
人は繋がらない。
他人の心なんて、魔法使いでもなければわかるはずもない。
仕草やわずかな断片から心を読み解く術は、あるにはある。
でも、それには時間が必要だ。
相手を理解するための時間と、積み重ねた信頼が。
【花鶏】
「何かの罠だったらどうするの?」
【伊代】
「罠って、あなたね……」
【智】
「それは大丈夫」
【るい】
「信じてくれるんだ?」
【智】
「るいはハメるほど頭よくないと思うから」
【茜子】
「それはつまり、この巨乳はバカ巨乳だということですね」
【るい】
「信じ方が嬉しくない」
【花鶏】
「なるほど」
【こより】
「納得しました!」
【伊代】
「それなりに酷いわね、あなたたち」
【智】
「それなりが一番ひどいんじゃないですか?」
【茜子】
「5分が経過しました」
そして彼女が現れた。
【るい】
「遅いよ、いずるさん。なかなか来ないから、私、死んじゃうかと思ったんだから」
【いずる】
「遅くないね。ちゃんと約束もしてないんだ、私にしてはサービス過剰だよ。わざわざ来てやっただけでも十二分におつりが来て小銭が余って困るじゃないか」
【智】
「知ってるひと?」
【るい】
「待ち人だったり」
にへらと照れ笑い。
【るい】
「あのね、前に訳ありで知り合ったひと。名前はね――」
【いずる】
「蝉丸(せみまる)いずる」
相手は、目をほんのちょっと細めた。
無遠慮な感じで上から下まで眺められる。
何かを探るように、測るように。
ちょい引く。
【いずる】
「ふむ、なかなか……はじめまして、よろしく」
【茜子】
「かなかなかなかな」
茜子が鳴いた。
【伊代】
「蝉が違いそうよ」
【茜子】
「無念なり」
蝉丸。
名前は変だった。
古風だ、くらいが精々の誉めようだ。
花城だか花鶏だかとタメをはるぐらいには変な名前だった。
【花鶏】
「何かよからぬ事を考えているようね」
【智】
「ないない、断じてない」
悪口には鼻のきく花鶏だ。
【智】
「それにしても」
うわ、うさんくさ……。
たぶん、後ろのひとたちも、一部の隙もない全会一致で。
【茜子】
「うわ、うさんくさ」
【智】
「……口に出しちゃうんだ」
【茜子】
「ため込むのはストレスの元になりますから」
健康的な信念だった。
【いずる】
「ごあいさつだねえ。まあ、しかたがない。そこの皆元くん、
どうせ何も言ってないんだろうし。どっちみち、うさんくさい
商売なのは本当だしね」
【智】
「自覚あるんだ……」
さっきのお返しに、ぶしつけな感じでジロジロ見返す。
第一印象は、変な和服の若い美人。
温度の低いつり目が性悪のキツネを連想させる。
【智】
「どういうひと?」
【るい】
「んーと、変人で」
【智】
「それは見ればなんとなく」
【るい】
「不審人物で…………専門家、かな」
【智】
「専門にもピンからキリマデあるよね」
【るい】
「おかしな、ことの、専門家…………怪獣退治とか」
怪獣……それはそれはトンデモだ。
【智】
「どこの科学特捜隊の方?」
【いずる】
「別に退治はしないよ。本業は、語り屋といって」
【智】
「うわ、うさんくさ(棒読み)」
【いずる】
「まったくだねえ」
【智】
「自分で切り返されても」
面の皮の厚い人種らしい。
【いずる】
「心配は無用だよ。中味もそこそこだから」
中味まで、うさんくさいらしい。
【智】
「…………」
悩む。
るいに無言で問いかける。
手を合わせて拝まれた。
無言でお願いのポーズ。
後ろの面子を振り返ってみた。
判断やいかに、のジェスチャー。
悩むまでもなく一部の隙もない全会一致で。
面倒だから白紙委任する、のジェスチャー。
【智】
「………………いいかげんだ」
どいつもこいつも。
【いずる】
「なるほど。私は語り屋なわけだけれど、君は面倒屋なんだな」
そんな面倒、ものすごく願い下げだ。
【智】
「もの凄く色々と不本意なんですけど、一応のコンセンサスが
取れましたので」
【智】
「謎の専門家の、えーと…………お蝉さん? それとも、
いずるさん?」
【いずる】
「おをつけるのかい。また古風だね。和服だから時代劇っぽく
するのもわからなくはないんだが。短くするのも、今ひとつ
語呂はよくない気がするけれど」
【智】
「些細なことはさておいて」
【いずる】
「呼び名というのは些細じゃないよ。名は体を表すという諺もあるくらいでね。昔話というのは大概名前が重要な役割を担うだろう」
【智】
「じゃあ、いずるさん。いの一番の疑問なんですけど」
【いずる】
「それは一言だね」
質問の中味を言葉にする前に、小さく薄く笑みが浮かぶ。
低温で、硬質の、色の薄い微笑。
【いずる】
「私の仕事はね、語ることだよ」
まんまだ。
【智】
「騙る?」
【いずる】
「語る」
【いずる】
「まあ、どっちでもいいか。あまり変わらないし」
【智】
「変わらないと困るよ!」
【いずる】
「違わないんだよ。言葉というのは、それはもう嘘つきだ。
嘘も方便と言うだろ」
【茜子】
「智さん、お好きな言葉です」
【智】
「初対面のひとがいるのに、人聞き悪いこといわないで」
言葉――。
ようするに、それは本質とは違う、本質の代用だ。
言語は方便だ。
百万言を重ねても、本質そのものには到達しない。
【智】
「でも、それって方便じゃなくて詭弁の類」
【いずる】
「一文字しか変わらないじゃないか」
【智】
「一文字違えば大違いだ!」
【いずる】
「ま、語りも騙りも同じものだよ。理屈も方便。とりあえずの
辻褄が合ってれば問題なし」
【智】
「煙に巻かれてる気がします、このあたりにヒシヒシと」
頭の上で、ぐるぐるっと指を回す。
【いずる】
「もちろん、煙に巻いてるんだよ」
【智】
「悪びれろよ、この霊能者は」
【智】
「んで……今日はなんのご用で」
ご用というより誤用な感じ。
【いずる】
「呼ばれたから来たんだ。
呼ばれたのが私で、呼んだのはそこの皆元くん」
【智】
「るいの知り合いなんですよね」
【いずる】
「袖すり合うも多生の縁くらいにはね」
【るい】
「どんな縁でも多少は縁があるって話だよね」
【智】
「たぶんちがう」
正しくは、多生の縁=前世で縁があった、です。
【るい】
「嘘っ」
【智】
「本当」
【るい】
「教わったのに!?」
【智】
「誰に?」
るいが、いずるを指差す。
【るい】
「私、嘘つかれたのか!」
【いずる】
「前世なんていい加減なものを説明の根拠にしてるんだから、
解釈はアバウトでいいんだよ」
美しい日本語に謝って欲しい。
【智】
「嘘つき型の人間だね」
【茜子】
「茜子さんももう一人知ってます」
【伊代】
「わたしもわたしも」
友情のない仲間であった。
【いずる】
「人聞きの悪い。自慢じゃないが、仕事で騙したことは一度もない。勝手に騙されるやつはいるけどね」
【智】
「まんま詐欺師の言い分ですな」
【るい】
「あのさ」
ついついと、後ろから、るいが袖を引いた。
【るい】
「あれでも一応、私の恩人なんで……」
るいの腰が微妙に低いのは、義理と人情らしい。
【智】
「……どういう恩人?」
【るい】
「前にね、変な事件に巻き込まれた時に助けてもらって」
【智】
「帰省の途中で立ち寄った港町の住人は、みな特徴的な顔立ちをしていて、魚の腐ったような匂いが町全体にたちこめていて……」
【るい】
「なにそれ?」
【智】
「まあ、違うか、違うよね」
【智】
「変な事件か。……妖怪ハンターか怪奇探偵みたく、古文書を取り出しておかしな儀式でもして怪事件を解決してくれるとか?」
【いずる】
「それはダメだね、役割分担に棲み分けがあるし。私は解決役
じゃなく、ヒント係だよ」
神秘主義から卑近(ひきん)な世界へ表現が滑落した。
【智】
「できれば雰囲気を大事にしてください」
【いずる】
「ゲーム機は何か持ってるかな、凶箱とか。RPGはやる?
ちょっと昔の……最近のでもいいのかな。まあ、毎年目が回る
くらいゲームも出るからねえ」
【智】
「卑近(ひきん)すぎて目が眩みそう」
【いずる】
「いるだろ、村人Aとか」
【いずる】
「話しかけると会話ができる。どこぞの大学の地下に銀の門の鍵が隠されてるとか、なんとか、そういう感じのやくたいもないヒントを出す。そういうのさ」
【いずる】
「それで、語り屋、とか名乗ることにしてる」
【伊代】
「……とかってなによ、とかって」
【いずる】
「まあ、何でもいいからね」
【智】
「名前が重要とか、さっき聞かされた」
【いずる】
「時と場合によりけりだね」
アバウトだ。単にいい加減ともいう。
【智】
「やっぱり騙り屋だ」
かつかつかつと、足音がする。
和服の分際で足下は、ごついジャングルブーツだ。
情緒のない靴先が間近までやってきた。
いずるさん。背は高い。
うらやましい…………。
目線が上なのは、身長の気になる身の上としては
気分的によろしくありません。
表情の読みにくい瞳がのぞき込んでくる。
触れるほど近いのに気配が薄い。
陶器みたいに堅くて冷たい。
【いずる】
「語り屋だから語るんだよ。君らが持ってるフラグに合わせて
ヒントを出すんだ。そこからどうするかは君ら次第、まったく
もって好きにすればいい」
【茜子】
「……どうせならペロリと答を教えてくれれば手間が省けます」
【いずる】
「それは無理無理、無理なんだよおちびちゃん」
【いずる】
「答なんてあってないようなものだから。どうしたいのか、何を
したいのか、何を支払うのか。その時々ですぐに変わってしまうのが答だろ」
【智】
「ますます詭弁っぽくなったな」
【いずる】
「とりあえず仕事をしようか。こうしてだべってるのも悪くないけれど、こうしてばかりだとヒントにならない」
【花鶏】
「今のお話だけでお腹いっぱいよ、わたしは」
【いずる】
「請け負っていることだから、そういうわけにも行かないんだよ。これも渡世の義理というやつだねえ」
これまた古風な言い回しだ。
【いずる】
「さあ、語ろうか」
【智】
「何を」
【いずる】
「それだよ。簡単だよ。これから語るのは」
そうして、三日月みたいに口元を歪めて。
【いずる】
「呪いのお話」
告げた。
【智】
「――――――」
呪い。
一言で、魔法のように音が途絶える。
斜陽の入り込む無音の廃墟。
誰かがそっと息を飲む。
ありがちな言葉、幾度も繰り返した言葉。
いかさま師なら、タタリがあるぞと脅すように。
使い古された古くさい呪文が毒素に変わる。
静かに着実に心という領域を侵略する。
【いずる】
「そう、呪いの話。呪うこと、呪われること、呪われた世界のお話」
【いずる】
「まあ、便宜上の区別だから、そこまで気にすることはないんだが」
【智】
「……まったくもって嘘くさい」
【いずる】
「嘘みたいな話だからねえ」
いずるさんは、ほんの寸時、何かを思案する。
【いずる】
「手近なところから行こうか。順番の方がいいだろう。今日は頼まれたんだよね。以前にした話をもう1度してくれるようにってね」
【智】
「るいから? 何の話を――」
【いずる】
「痣」
ぶすりと刺さる。
後方で、さざ波めいた気配の動き。
警戒とも敵意とも興味ともつかない感情の周波数が、
人数分、目の前の怪しい人物に流れていく。
【智】
「……」
目を凝らす。見極めようとする。
痣のことは、るいから聞いたのか。
ようやく腑に落ちた。
るいの意図がつかめた。
僕らの確率異常の痣について。
奇妙な縁を語らせるための、語り屋。
【いずる】
「君、目つきが悪くなったな」
【智】
「怪しいひとには身構えくらいするでしょ」
【いずる】
「いやいや、君は『こっち側』のタイプだな。
嘘が得意で、誤魔化しと騙しとで人生をやりくりする」
そんなの言われたら、僕がものすごく悪人みたいだ。
【いずる】
「私のいうことなんて鵜呑みにできない? まったくもって。
メディアにはリテラシーを心がけないとな」
【いずる】
「――――『でも、知りたい』」
図星。
痣――――。
奇妙すぎて手がかりがない。
手探りをするにも床の位置くらいは知っておきたい。
だから、よけいに注意が必要だ。
欲しいものを目の前に並べられた時が、一番危険。
【いずる】
「依頼の分だけ語ってあげよう。それでどうするかは勝手にすればいい。ヒントは所詮ヒントだ。解釈はご自由に。あとは若い二人におまかせで」
【智】
「二人じゃないけど……」
【いずる】
「なるほど、痣は6つだったかい」
6つの痣。6人の痣。
それは繋がりか、それとも奇縁と呼ぶべきか。
【智】
「そこまで話したんだ……」
【るい】
「まだ」
【いずる】
「察しがよくないと他人をかたれないからね」
【智】
「今騙るっていったでしょ、絶対」
【るい】
「私が知り合った時に、ちょっぴり聞かされたことがあるんだけど、その時は話半分だったんだ」
【るい】
「変な事件の後だったから、言われたことを全然信じられなかったわけじゃないんだけど、よくわからなかった。信じてもどうしようもなかったし」
【るい】
「私、馬鹿だから……」
【るい】
「でも、今なら違う気がする」
【いずる】
「パーティープレイか、いいねえ。力を合わせて悪い魔王を倒すには、友情とアイテムと経験値が不可欠だ」
俗な喩えも極まれりだなあ。
【智】
「いいです、わかりました、了解です。
そういうことなら、ヨタ話じゃない方を語ってくださいな」
【智】
「……この痣が、どういうのかって」
【いずる】
「呪いだね」
毒の言葉が繰り返される。
背中に見えない氷柱がそっと忍び入ってくる。
呪い。呪い。呪い。
とてもとても忌まわしいこと。
誰かが呪う。憎悪で。誰かを呪う。
怨恨で。呪われる。いつまでも呪われる。
――――腹の底まで冷えていく。
【いずる】
「簡単に信用しないんじゃなかったかな」
【智】
「――――」
想像だけが先走る。それではすっかり妄想だ。
自分自身で自分を縛る落とし穴。
【智】
「それで、そうだとすると、誰が……」
呪っているのか。
あえて疑念を言葉にしてみた。
言葉にした分だけ見えない呪縛の緩む気がする。
【いずる】
「そんなことはどっちだっていいんだよ。さして重要なところじゃないんだし」
えっ、そうなの? そういうものなの?
【智】
「よくわかんないんですけど」
【いずる】
「誰が祟ってるとか、恨みだとか辛みだとか、龍神様のお怒りだ
とか、30年前に騙されて死んだ若い夫婦がいるんだとか、
そういうのはどっちだっていいんだって」
【智】
「そういうのが、呪い、なんじゃないの?」
【いずる】
「そういうのは全部動機」
【いずる】
「動機は動機。これから語るのは、呪い。そんなに曖昧じゃない、もっともっとありがちでわかりやすくてはっきりしてる、仕組みの話だよ」
【いずる】
「こうすれば、こうなる。そういうのが仕組みさ」
仕組み――
鍵を回すと扉が開く。
スイッチを入れるとテレビがつく。
入力と出力の関係だ。定められた手順と結果だ。
【いずる】
「なぜどうして……なんて言い出すからわかりにくくなる。
区別がつかなくなって混乱する」
【いずる】
「液晶テレビが映る仕組みを知ってるかい? 知らなくても使う分には問題ないだろう。しかも、誰が使ったって基本は同じだ」
【智】
「それが、呪い……」
【いずる】
「そう、それが、呪い」
そして、この痣は。
【いずる】
「そういうものなんだよ」
【智】
「そういうのって……あるものなの?」
一周回って基本的な疑問にたどり着く。
呪いが、仕組みだ。
それが定義なら、とりあえず納得しておくとして。
その一番根本的な部分。
そういう仕組みが。
不思議、怪異、超自然、魔法。
そんなものが――
【いずる】
「ちなみに、自分が呪われている心当たりは?」
【智】
「そんなの、あると、思う?」
表情は、変えなかったと思う。
【いずる】
「なるほど痛そうな話だねえ」
透かし見るような、いやな顔。
【智】
「僕、何も言ってないんだけど」
【いずる】
「結構結構、結構で毛だらけ」
【茜子】
「猫を灰だらけにするのは虐待だと思います」
【伊代】
「……誰もそんなこと言ってないわよ」
【いずる】
「気分がいいから、もう少し話を続けてもいいかい?」
【智】
「別に続けなくてもいいんだけど」
【いずる】
「本当に?」
いやな性格だ。
前世はいじめっ子だったに決まってる。
【智】
「…………どういう気分?」
【いずる】
「ネズミを苛める猫の気分」
【いずる】
「さて、仕組みといったってピンキリだから、それがどんな仕組みかは何とも言えない。語り得ないものには沈黙を。わからないことをこれ見よがしに語るのは範疇外だ」
【いずる】
「でもまあ、あれだね、どうやら地雷っぽいねえ」
【智】
「地雷というと」
【いずる】
「昔話によくあるやつ。大仰な言い方をしちゃうと、なにか禁忌を犯すと災いが起きる……かな」
【いずる】
「踏んだらお終い、だから地雷」
【智】
「それだと本当に呪いじゃないの!」
【いずる】
「だから呪いなんだって」
心底どちらでもよさそうに。
【智】
「……そういうのって、どうにかならないの?」
【いずる】
「どうでもいいんじゃなかったっけ」
【智】
「………………心底どうでもいいけど、たまには聞いてみようかなって思うこともあるわけだから」
【いずる】
「どうにかといっても色々あるけど」
【智】
「たとえば」
【いずる】
「確実に死ぬようにして欲しいとか」
誰が頼むんだよ!
【智】
「そんな特殊例、大まじめに講釈されても困る」
【いずる】
「一般的なヤツの方が好みかな」
【智】
「呪い……なら解くとかできないの?」
一般的そうなところを。
【いずる】
「そういう、魔法とか超能力みたいな要求は通らない」
【智】
「………………」
今、なにか、すごく理不尽なことを言われた気がする。
呪い。呪い。呪い。
それこそ魔法とか超能力とか、
そういう類のいい加減な駄話をしてるんじゃなかったっけ。
【いずる】
「まあ、仕組みなだけに、仕組みがわかれば解体もできる……
かもしれない」
【智】
「そういう地味っぽいのじゃなくて、小(コ)宇(ス)宙(モ)を感じて相手がわかるとか、この魔力の残(ざん)滓(し)は悪しきサソリ魔人の仕業だとか」
【いずる】
「そんな、エセ霊能者のお告げじゃないんだから」
どこがどう違うのか、わかるように説明してほしい。
【智】
「つまり……?」
【いずる】
「原因がわかれば結果もわかる」
【智】
「ここへきて一般論かよ」
【いずる】
「少年漫画の王道パターンっていうのはね、
普遍的に使われやすいからパターンになるわけだよ」
一般論は最強よ、と言いたいらしい。
【いずる】
「喜ばしくも、おおかたの呪いは解除方法とセットだ」
【智】
「そういうヒントを先に言って欲しかった」
【智】
「そういうのを調べたければ?」
【いずる】
「仕組みがわからないと」
堂々巡りだろ、それじゃあ……。
【智】
「わかれば何とかなる?」
【いずる】
「ま、死んだら解除とかいうのもよくある」
【智】
「何ともならないとの一緒だよ」
【いずる】
「ままならないものだね、世の中は」
【智】
「綺麗にまとめるな」
【いずる】
「ヒント係に過剰に期待されても困るな。村人Aは勇者の一行が
魔王と戦うのに手を貸したりしないんだし」
【智】
「最近のなら、ちゃんと声援ぐらい送ってくれる」
【いずる】
「声援でよければいくらでも」
にこやかな作り笑いで両手を広げるポーズ。
うわ、むかつく。
【いずる】
「漫画じゃないんだ。古美術商に身をやつした何でも屋の便利
キャラがパワーアップの修行方法とアイテムくれるのとは
ワケが違うんだから、過度な期待はしないように」
【智】
「漫画みたいなこと言ってるでしょ!」
【茜子】
「追い詰められてる人間の、表層が剥離されて本性の露呈する感じの焦りが、茜子さん的にはとっても素敵です」
【こより】
「しどい……」
【いずる】
「まずは泥にまみれて一歩一歩あくせくやってれば、その一歩
はただの一歩でも、人類にとっての偉大な一歩になるかもね」
【智】
「人類この際関係ない」
二の腕を、痣の有る場所を、
無意識に握りしめる。
掌の熱が奪われて冷たくなる。
それは気のせいだ。
呪いという便利な言葉がつくる錯覚でしかない。
【智】
「痣が、こんなにも身近に集まるのはどういう訳で」
【いずる】
「しったこっちゃない」
【智】
「投げやりダー」
片仮名っぽく抗議。
【いずる】
「理由はあるかも知れないし、単に確率の問題かも知れない。
起こりえる可能性があるなら、どんなに希少な可能性であれ、
遅かれ早かれ起きるわけだから」
【智】
「例えば、理由があるとすれば……一般論的に?」
【いずる】
「ほら、その手の奴同士は引かれ合うっていう」
俗な理由だなあ。
ぐるぐる回る。考えがまとまらない。
方便と詭弁と騙りを頂点にした直角三角形が、幾つも幾つも
回っている。
【いずる】
「これで一通りの話のは終了だ。後は好きにすればいい」
【智】
「散々騙り倒してなんて無責任……」
【いずる】
「ヒント係は聞かれたことを語るのがお仕事なんだよ。
魔王を倒すなりサブイベントで経験値を稼ぐなり、
これからどうするかはパーティーのお仕事だろ」
【智】
「このままだと途中で全滅したりして」
【いずる】
「人生はリセット効かないから、慎重なプレイお勧め」
【いずる】
「じゃあ、そういうことで。これ、名刺」
【智】
「………………………………」
梅干し食べた顔になった。
もの凄く一般論的社会人の、誰でも持ってる必須アイテムが、
呪いのアイテムに思える。
【いずる】
「変な顔だねえ」
【智】
「なにゆえ名刺」
【いずる】
「仕事人にはいるだろ」
【智】
「あってどうにかなる仕事なわけ?」
【いずる】
「様式美なんだから受け取っておいたらいいんだよ。
君も細かいことに拘るねえ。そのうち胃腸悪くすると予言
しちゃおうか」
初対面の人間にまで胃腸の心配をされた。
つくづく僕は、僕が可哀想だ。
名刺はぞんざいな作りだった。
蝉丸いずる。
銘がうってあり、携帯の番号が載ってるだけ。
【智】
「TPOはもうちょい考えて欲しい」
いずるさん、笑いもせずに踵を返す。
るいと二言三言言葉を交わす。
るいが背負ったカバンから、変な形のヌイグルミを取り出した。
カエルとサカナとナメクジを足して3で割ったような形容しがたい忌まわしきものだ。
【るい】
「…………はい」
【いずる】
「ごちそうさま」
ヌイグルミが手渡される間、るいは、かなり真剣な葛藤を、
見ていておもしろくなるくらい続けていた。
【智】
「なにをなさっているんですか」
【るい】
「お別れ…………」
死にそうな顔だった。
【いずる】
「契約だからね。なんだってタダじゃないんだ。タダより高いものはないなんていうわけだし、代価を取ってる分だけ良心的だとは思わないか」
契約と代価。
【智】
「村人Aは話すボタンでヒントくれるのに」
概ねはロハで。
【いずる】
「村人Aがダメなら、町の隅の占い師で」
【こより】
「それ、使ったことありません!」
【いずる】
「私は使うな。ゲームのテキストは全部見る主義だから。イベントクリア後に村人の台詞メッセージ変わったりすると、結構感動するよねえ」
よほど村人が好きなんだな。
【いずる】
「縁があったから呼び出されたけど、契約は契約でまた別の話。
かたった分だけもらい受ける。大事なモノと引き替える。
それが昔からの決まりごとだろ」
【智】
「それって魔女の理屈だろ」
そのうちに、声とか目とか取っていかれそうだ。
【いずる】
「ちょっとした違いだねえ」
そうして、彼女は、冷たく喉をならした。
2時間ほど経過しました。
【智】
「2時間ほど経過しました」
【伊代】
「それは誰に対して何をいってるの?」
【智】
「困難な質問を……」
【伊代】
「困難なんだ」
デートが終わって解散とはならない。
さっきの言葉の余熱が燻る、やりとりの少ない時間。
なのに、離れがたい。
呪い。
歪な言葉が後ろから追ってくる。
そんな気がする。
【るい】
「さよなら、瑠璃っち……」
【茜子】
「なんですか」
【るい】
「不眠の夜を慰める、かわいい抱き枕だったのに」
かわいい……だったかなぁ、あれ。
【智】
「さて。そろそろ落ち着いたところで」
【茜子】
「なんですか」
【智】
「採決を取ろうかな、○×クイズで」
【こより】
「センパイ民主主義なんですね〜」
【智】
「同盟だけに、個々の利害を尊重したいですから」
【花鶏】
「……」
【智】
「花鶏さん?」
【花鶏】
「これまでの華麗な人生であの手のやからに3回ほどあったことがあるけれど、どいつもこいつも最初と最後に言うことは同じなのよ。知っていて?」
【智】
「そういうのと会う機会のある華麗な人生とはこれいかに」
【るい】
「カレーっぽい人生だ」
【花鶏】
「どいつもこいつも、貴方は呪われているからはじまって、貴方の努力次第です……で終わるわけ」
【智】
「いかにもだね」
【茜子】
「騙される阿呆の頭が悪い世の中です」
いい感じで笑う。
【伊代】
「そういえば、人の夢って書いて儚いって字になるのよね」
【智】
「……天然?」
【伊代】
「な、なによ」
【智】
「それよりもなによりも……それで、解答の方は?」
【伊代】
「……6人で民主主義だと、半分のとき、どうするの?」
【智】
「厳しい時に厳しいところつくなあ」
【伊代】
「最初のルールを定義しておかないと、後々揉めることになって、余計に面倒になると思うの。そう思わない?」
【智】
「場を読むことをしてください。あー、でも、そういうときは…………どうしようか…………」
【茜子】
「考え足りないさんですね」
【花鶏】
「……白紙」
花鶏は解答を拒否る。
【花鶏】
「鳩が豆鉄砲くらったような顔してるけれど、なにか言いたいことがあるの?」
【智】
「ちょっと予想外だったかな。
花鶏ならコンマ5秒で袖にすると思ってたから」
痣を、聖痕と花鶏は呼んだ。
呪いだと、いずるは笑った。
【智】
「素敵に折り合いそうにないし」
【るい】
「まず、トモはどうっしょ?」
【伊代】
「言い出しっぺだし」
【茜子】
「風見鶏の退路は断つべきだと思います」
【こより】
「そりはあまりにひどい……」
視線が集まる。
唇に人差し指を当てて、思案のポーズ。
突拍子もない話を信じるか?
先ず大前提。
呪いがあるのかないのか。
僕らは顔を見合わせたりもしなかった。
【智】
「…………」
見回す。
思い思いの表情の薄氷の下、
どろりとしたものが、横たわっていた。
――――――――――恐怖。
そうなんだ、そういうことなんだ。
やっとわかった。
同盟だけじゃない同類。
類は友なり、だ。
僕らはみんな、呪われている。
【智】
「はじめて……」
出会った。
【智】
「……なんとなく、今夜だけは、運命とやらを信じてもいい
気がする」
【智】
「あくまでも今夜限定で」
【花鶏】
「寂しい人生だわね」
【智】
「リアリストですから」
運命が本当にあるのなら、きっと神様は大忙しだ。
だけど、神さまは、
得てして僕らが生きてる間は何もしてくれない。
では、これは――――運命?
【智】
「……冗談じゃないです」
呟く。
気安く運命なんて言葉は使いたくない。
同じ痣と同じ……呪い。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「…………」
【伊代】
「…………」
【茜子】
「…………」
僕らは語らない。言葉にはしない。
でも、伝わる。
類は友。
【智】
「これは、呪いの印だそうな」
【茜子】
「呪いの輪」
【伊代】
「いやな輪ね……」
僕らは、なんとなく。
輪になった。
【智】
「この世界には、不思議がいっぱいかも」
【花鶏】
「……不思議、ね」
【智】
「出会いって、運命じゃなくても、奇跡だと思わない?」
【こより】
「恥ずかしい台詞〜〜〜〜〜〜ぅ!」
嬉しそうに身もだえ。
【智】
「……ねえ、自由になりたい?」
【るい】
「自由に……?」
【茜子】
「なにからですか」
【智】
「そうだなあ。なんでもかんでも……束縛から、壁から、亀裂から、閉じこめるものから、呪いから」
【智】
「――――僕は、なりたいな」
〔群れの掟〕
【智】
「うにゅ……もう、朝っすか。まだもうちょい……」
【智】
「あう、こんな時間かあ……」
【智】
「ん? メール来てる。誰から……」
【智】
「………………央輝」
【花鶏】
「いつまでここにいるつもり?」
【智】
「指定の時間まではまだ余裕があるでしょ。
いそいでいっても待ち惚け食らうだけじゃないの」
街はざわついている。
人が多いのは夕方だからだ。
雑踏を横目に、ガードレールに腰を預ける。
待ち合わせたときから、花鶏はずっとこんな調子だ。
カリカリ焼き。
こんがり風味に焦っている。
焦っている花鶏の隣で、僕も真剣に苦悩していた。
重要な問題だった。
【花鶏】
「それで、どうなの?」
【智】
「それなんだけど。ミントとチョコレート、花鶏はどっちがお好み?」
デコピンされた。
【智】
「前頭葉がいたい」
【花鶏】
「誰がアイスクリームの話をしてるっての! だいたい、
いつの間に買ってきたわけ」
【智】
「おひとつプレゼント」
【花鶏】
「緊張が足りてない」
【智】
「何もしないで怠惰に過ごす1分1秒が、貴重な僕らの青春です」
【花鶏】
「青春というのはね、浪費と読むのよ」
【智】
「浪費するより株で一山って感じだと思うよ、花鶏の場合」
【花鶏】
「青春資産の運用を相談してるんじゃないの」
央輝からメールが届いた。
今朝のことだ。
『捜し物の件で逢いたい』
実用本位のシンプルさがらしい。
【智】
「最近学んだんだけど、お肌と人生には潤いが必要なんだって。
下着もきつすぎると美容に悪いしさ。ちょっと変人のクラス
メートが言ってたよ」
【花鶏】
「貴方が真面目なのか不真面目なのか、時々判断に困るわ」
花鶏にじっと見られる。
瞬きもしない、後頭部まで抜けそうな凝視。
【花鶏】
「最初の印象だと、もっと真面目でお固くて、後ろ向きな子だと
思った」
【智】
「後ろ向きは正解……でもないか。○でも×でもないから、
さんかく。部分正解で3点」
【花鶏】
「たちの悪いやつ」
【智】
「じゃあ、僕がチョコレートで」
ミントを差し出す。
【花鶏】
「……甘いわね」
花鶏は、食べるには食べた。
【花鶏】
「……わたしだと目立つって、貴方、言ってなかったかしら?」
【智】
「あっちの指定なんだよね。当事者連れてくるように。ここいらは央輝のテリトリーらしいし、今回は大丈夫っぽい」
【花鶏】
「望むところよ」
【智】
「……不用意な戦いは避けてね」
【花鶏】
「自衛のための戦争は避けて通れないわ」
【智】
「憎悪の連鎖で、歴史の道路は真っ赤に舗装されてるなあ」
【花鶏】
「右の頬を叩かれて左の頬を出すような狂った平和主義なら、
願い下げよ」
【智】
「まあ、わざわざ呼んだって事は進展があったってことだから……」
【花鶏】
「本当に来るの?」
【智】
「たぶん」
【花鶏】
「たぶん!」
【智】
「僕に怒っても解決しないのです……」
【花鶏】
「そうね、そうなのね、そんなことはわかっているのよ。でも、
人間は理性だけの生き物じゃないわ、それが問題でしょ、だから世界は救われないのが決まっているの!」
花鶏はせっぱ詰まっていた。
ずっと花鶏が捜している、
大切な、持ち去られたもの。
その手がかりが目の前にある。
【智】
「気負うのはわかるけど、焦っても意味がないから、どっしり
構えよう」
【花鶏】
「……罠ってことは?」
【智】
「準備はしてるし」
【るい】
『こちらスネーク』
【智】
「今のところ異常なし。そっちでも何かあったら教えて」
【るい】
『特になし』
【智】
「じゃあ、よろしく」
確認の電話を切る。
最終兵器乙女が近くに待機している。
【花鶏】
「不用意な戦いは避けるんじゃないの?」
【智】
「自衛力の確保だから」
無抵抗主義と性善説は信用しないことに決めてる。
【花鶏】
「そいつが来たとして……」
【花鶏】
「ただより高いものはないわよ」
責める目で睨まれた。
今度バカなことをしでかしてわたしのプライドに傷をつけたら、
ベッドに縛り付けて朝までイケナイことをしてやるから覚悟なさい――と目で言っていた。
人生の危機だ。
人生以外にも色々と危機だけど……。
【智】
「……あの場合、あれが最善の……」
聞こえないように小声で弁明。
聞こえないと意味ないか。
【花鶏】
「なにか?」
【智】
「なんでもないです」
アイスを食べる。
【花鶏】
「――――――」
【智】
「なに? じっと人の顔見て」
【花鶏】
「やっぱりチョコがいいわ」
【智】
「もう半分食べちゃった」
【花鶏】
「大丈夫」
むちう
キスされた。
いきなりの強奪だ。
公衆の面前で。
道行く人たちがひたすら見ないふり。
ジタバタ。
ダメです。
舌を入れられた。
全部確かめられて、絡められて、甘噛みされて、
くすぐられて、吸われて、おまけに飲まされたりなんかして!
ぽん(という感じ)
【花鶏】
「ふう」
【智】
「……あ、あ、あ、あ、あ、あ」
【花鶏】
「やっぱり甘いわね、チョコ」
【智】
「あーい」
涙。
【花鶏】
「そいつ、本当に来るかしら」
【智】
「こっちに来ないで近寄らないでエロ魔神禁止」
【花鶏】
「青春の弾けるような女の子同士の間にある、友情からほんの半歩踏みだした加減がフェティシズムを煽りかねない、ちょっとしたスキンシップじゃないの」
【智】
「ディープだったよ?!」
【花鶏】
「友情は深刻ね」
【智】
「舌までつかったよ!」
【花鶏】
「コミュニケーションよ」
【智】
「半径2メートル以内に近付いたら、花鶏が足下に人生の全て
を投げ出して諦めるまで、くすぐり倒すから」
【花鶏】
「…………いいかも」
逆効果でした。
【央輝】
「えらく時間には正確じゃないか」
央輝だった。
以前と同じ、ゾッとする空気をまとわりつかせている。
【央輝】
「正確なのは、まあ美点だな」
ニヤリ。
くわえていたタバコを捨てる。
【智】
「お出ましはいっつも唐突だね」
【央輝】
「お前らと違って、考え無しに夜歩きするような、呆けた生活は
してないんでな」
3度目の邂逅(かいこう)。
以前と同じ黒い姿だ。
【花鶏】
「それで、メールの主旨は?」
花鶏が、沸点ギリギリの声を出す。
【央輝】
「……こいつが持ち主か?」
【智】
「さようで」
【央輝】
「捜し物は見つかった。こいつで間違いないか?」
ぞろりとしたコートの下から一冊の本を取り出す。
【花鶏】
「それっ!」
(1秒)
【智】
「早っ」
花鶏が反応した。
では間違いなく本物らしい。
あれを花鶏がずっと捜していたのか。
ちょい疑問。
そんなに価値のある本なの?
【花鶏】
「返しなさい!」
【智】
「しかも即断」
駆け寄った花鶏がはっしとつかむ。
素早い。
央輝と花鶏が、本の両端で綱引き。
【央輝】
「がっつくな。みっともないぜ」
左手一本で、器用に新しいタバコをくわえ、火を点ける。
きゅっと唇がつり上がった。
それは噂のままの顔だ。
吸血鬼。
【央輝】
「取り引きだ」
【智】
「取り引き……っすか」
反復してみる。口の中で咀嚼(そしゃく)する。
【花鶏】
「……謝礼が必要というなら、用意するわ」
ギリギリと、本が軋む。
大切な本なら大切に扱おうよ、花鶏さん。
【央輝】
「1億」
【花鶏】
「智、今すぐスコップ買ってきなさい!
こいつを始末して埋めるから!!」
【智】
「おーい」
どっちもどこまで本気なのか読みにくい。
【央輝】
「ふん、金はいらん。代わりのものを引き渡せ。そしたら、
こいつはすぐにくれてやる」
花鶏の鼻先を爪先がかすめた。
ほとんどノーモーションから放たれた。
央輝の蹴りだ。
花鶏は本から手を離していた。
前髪がわずかだけ乱れる。
それだけだ。
【央輝】
「ひゅー」
口笛は掛け値無しの称賛の音色だ。
央輝は当てる気だった。
当たったらただでは済まなかった。
相手の事なんて気遣いもしない、Vナイフと同じ剣呑な一撃を、
花鶏は瞬きひとつせずに避けた。
【花鶏】
「――あたしは、右の頬を打たれたら、腕ごと叩き折ってやる
主義なの」
【智】
「打たれてないよ」
場を和ませる努力。
【花鶏】
「おわかり?」
【央輝】
「気が合うな、あたしもだ」
無視気味です。
両方とも血液がニトログリセリンだ。
【智】
「かーっとっ!!!」
映画監督風に、
二人の間に割ってはいる。
【花鶏】
「邪魔を、しないで」
【智】
「いやあ、せっかく取り引きいってるんだから」
【智】
「それで、さっきの話の続きは?」
花鶏の前を右に左に塞ぎつつ、訊ねる。
【央輝】
「茅場とかいう男の娘、お前の手元にいるんだろう」
【智】
「茅場…………茜子?」
【央輝】
「そいつと交換だ」
【智】
「………………」
【花鶏】
「智」
【智】
「それは、つまり、央輝は……茜子を追いかけてた連中の仲間ってわけじゃないけど、恩を売りたいか、義理があるかどっちかなんだ」
【央輝】
「……一々小知恵の回るやつだ」
央輝の気配が緩む。
剣呑なままでは取り付く島もないので、
まずは一手がうまく進んだ。
【花鶏】
「どういう意味なの?」
普段の花鶏なら気がつきそうなモノなのに、
本が目の前でやっぱり気が回らないらしい。
【智】
「茜子を捜してる連中は僕らの素性を知らない。
知ってるなら強硬手段だって取りかねない連中だし」
【智】
「央輝が連中の仲間なら、僕らと茜子が一緒にいたことはとっくに伝わってて、事態はもっと悪くなってる」
茜子はカードだ。
有用な質札、恩と義理を買い取る通貨だ。
【花鶏】
「はんっ」
【智】
「茜子が必要な理由、聞いていい?」
【央輝】
「そいつの親父が、くだらねえ男の面子を潰した。大層ロクでもないヤツでな、性根が腐ってる上に執念深くてサディストときた」
低く笑う。
【智】
「ほんとにろくでもないなぁ」
世の中、知らない方がいいことはたくさんある。
【央輝】
「その馬鹿は、今まで一度も相手を逃がしたことがないのが取り柄で、それで面目を保って商売をしてる。逃げられたらあがったりだ。わかるか?」
【央輝】
「そいつの親父はうまくやった。今のところ逃げのびてる。
尻尾を掴まれてもいない。そうなると――」
面子の分だけ娘にカタをつけてもらう、と。
【智】
「……それ、困るよ」
【央輝】
「あたしの知ったことか。どうだ、取引としては上等だろう。元々無関係の女……そいつ一人を引き渡せば、大事なお宝は手元に戻ってくる。契約と代価――――ふん、ありきたりな結末だ」
【花鶏】
「………………」
【智】
「だめ」
即断で。
【央輝】
「情けは人のためならず、とかいう諺があるんだろ、この国にはな」
【智】
「だから、人の為じゃなくて、自分の為だよ」
【智】
「今は、ちょっと、その子と運命共同体っていうの、やってるから……だからダメ」
【央輝】
「運……なんだ? よくわからん」
複雑な日本語はダメらしい。
【央輝】
「お前には貸しがあるぞ」
痛いところを突かれた。
獲物を狙う肉食獣の顔だった。
【智】
「それを言われるとなんなんだけど」
央輝には余裕がある。
ということは、央輝の重要度として、茜子はどっちでもいい程度の位置づけらしい。
【智】
「わかりやすいところでいうと、んー……義兄弟の杯?」
【花鶏】
「……姉妹、でしょ」
些細な問題はさておいて。
【央輝】
「はん。身内にしたか」
央輝の世界観的に、こちらの方が伝わりやすかった。
【央輝】
「そうなると、どうするかな」
こっちの足元を見たニヤニヤ笑い。
話がどんどん斜めの方向へ飛んでいく。
打つ手を間違えると取り返しがつかない。
というよりも。
手札がなかった。
央輝は、僕たちが茜子と一緒にいると確信した。
その話を、さっきの話の最低男のところへ
持っていかれるだけで、進退窮まる。
【智】
「……あ、でも時間の問題か……」
【花鶏】
「?」
一緒にいるところや制服は見られてるんだし、
しらみつぶしにされたら、遠からず足はついちゃいそう。
【智】
「あー、うー」
【花鶏】
「真面目にしなさいよ」
【智】
「……うん」
ぐるぐるぐるぐる。
頭を回す。頭が回る。
解決策が思いつかない。
【央輝】
「お前、茅場の娘とは、以前から知り合いってわけじゃなかったんだよな」
【智】
「ま、ね……」
後悔。
同盟で処理するには危険すぎる爆弾だったか。
今更取り返しはつかない。
茜子を大人しく引き渡したりすると、夜ごと悪夢にうなされそうだし、枕元に化けて出られて夜通し悪口を聞かされたりなんかすると、衝動的に練炭でも買いたくなりそう。
【央輝】
「お前、馬鹿か?」
【花鶏】
「この子は馬鹿よ」
【智】
「…………そこはフォローしてよ、運命共同体」
【花鶏】
「あなたとわたしは、同じ路線のバスに乗り合わせただけよ」
ここぞと言うときには冷たい花鶏だった。
【智】
「お互い、どこで飛び降りるかが問題だね」
【花鶏】
「最後まで残ってるヤツは馬鹿を見る」
【智】
「花鶏の好きな映画はさぞかしブラックなんだろうな」
くくっ、と央輝が低く笑う。
【央輝】
「いいぞ、別の条件にしてやる」
【智】
「ほんと!?」
【央輝】
「レースに出ろ」
【智】
「………………」
何それ。
モノ質と引き替えにレースに出て勝利せよ!
それ、どこのハリウッド映画?
【智】
「僕、免許とか持ってないけど……」
【央輝】
「図太い返事だ」
【智】
「お褒めに預かり光栄です」
【花鶏】
「棒読みよ」
【央輝】
「パルクールレース……車は使わない。そいつに出て勝負しろ。あたしたちが主催してるヤツだ。勝てば、このボロ本は返してやる」
【央輝】
「それに、茅場の娘の件、話をつけてやってもいい」
【智】
「えうっ?」
渡りに船な申し出だった。
それだけに素直に受け取れない。
教訓――人は信じるべからず、
ただより高いモノはない。
【智】
「それって、その、どういう……」
【央輝】
「条件は、お前も出ること。それと、お前らが負けたときは――」
【智】
「負けた、ときは…………?」
ごくり。
【央輝】
「お前は、あたしのモノだ」
【智】
「…………………………………………はい?」
耳が遠くなった。
いやだなあ、まだ若いつもりなのに。
年齢って気がつくときてるから。
【央輝】
「お前は、あたしの、奴隷だ」
【智】
「奴隷」
【央輝】
「奴隷」
復唱する。
幻聴じゃない、聞き間違いじゃない、
冗談って言う顔じゃあ断じてない。
【智】
「ひぃいいぃぃぃいぃ――――――――――――――」
【花鶏】
「ちょ、ちょっと!」
【央輝】
「お前が負けたら、煮るなり焼くなり犯るなり、あたしの気の向くままにさせてもらう」
「焼く」の次の「やる」の漢字を教えて欲しい!
僕の思い違いだと証明して欲しい!!
【智】
「そ、そそそそそそそそそそ」
そんなことされたら。
人生の危機。
死ぬ。絶対に、今度こそ死んじゃう!
【央輝】
「あたしは優しくないぜ」
【智】
「ぎゃあーーーーーーーーーーーっ」
【花鶏】
「腹は立つけど……気持ちはわかるわ!」
【智】
「わかんなくていいよ!!」
血の叫び。
これだから!
色々と趣味がお花畑の人は!
【央輝】
「で、どうする?」
決断の時、来たる。
〔こより、逃げ出した後〕
【伊代】
「それで?」
【智】
「それで、とは」
【伊代】
「聞いてるのは、わたしで、答えるのはあなたです」
伊代がメガネのフレームを指先で押し上げた。冷淡に。
ごまかしで誤魔化せそうにない白い目だった。
【智】
「……契約を、しました」
尋問は熾烈を極めた。
昨夜のことを、
洗いざらいゲロさせられる僕だった。
【伊代】
「それは聞いた」
【智】
「勝負をして、勝てば全部チャラになる。負けたら……
ちょっと借金生活みたいな」
【こより】
「なして、センパイが愛奴生活に突入なのですか?」
【伊代】
「愛奴……」
【智】
「こやつ、悪い言葉を……」
こよりは接触悪そうに首を傾げている。
問われて、考える。
なして。
【智】
「…………なしてでしょう?」
難問だった。
【茜子】
「アホですね」
【花鶏】
「馬鹿なのよ」
【智】
「二人がかりで、あまりにあまりな言いぐさ」
【花鶏】
「もう少し頭のいいやつだと思ってたのに、とんだ見込み違いもあったもんだわ!」
【智】
「見込んでてくれた?」
【花鶏】
「……些末な部分はどうでもよい」
【智】
「前途は多難かも知れないけど、勝てば最寄り問題の大半が一気にチャラになるんですよ、花鶏さん」
【智】
「これって一発逆転鉄板レースで、
女房を質にいれてでも賭けるしかないんじゃありませんこと?」
【こより】
「ざわ……ざわ……」
【るい】
「おお、格好よいぞトモっち」
【伊代】
「こらこら、借金で身を持ち崩すオッサンの台詞だ、あれは」
伊代が肘で小突く。
るいは「にゃう?」と悩む。
【茜子】
「質というより自分が死地です」
【こより】
「うまいなあ」
【智】
「(男には)いかねばならぬ時もあるのです」
立場が複雑だ。
【茜子】
「一撃必殺もよろしいですが、茜子さんの問題に、
勝手にずかずか入り込まないでください」
刺々しく冷たい断罪。
針のむしろの気配。
【智】
「そんなこと言ったって、入り込んで解決するための同盟なんだよ!」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「同盟は、結構として」
花鶏が鼻の触れそうなところに来た。仁王立ち。
背が高いので見下ろされる。
くく……っ。
【智】
「……叩きますか?」
噛みつかれそうだ。
【花鶏】
「馬鹿がうつるから叩かない」
【るい】
「うつるんだ!」
【伊代】
「鵜呑みにするなと……」
【花鶏】
「わたしたちは同盟で結ばれている、わたしたちはお互いに手だてを貸し合う、わたしたちは互いを利用し合う、わたしたちは互いを裏切らない――――それが、あなたの言い分よね?」
【智】
「そです」
【花鶏】
「だからといって、どうして、負けたときの代価に、
あなたを差し出すなんて意味不明な条件を飲むわけ!?」
【智】
「話の流れというか、選択の余地がなかったというか……その場で聞いてたんだから知ってるでしょ。リスクとメリットのコントロールを秤にかけたら、いい感じで」
【花鶏】
「わからないこといわないで」
【智】
「……なんでそんなに怒るのかしら」
【花鶏】
「怒ってないわ」
【智】
「えー」
【花鶏】
「怒ってません」
【智】
「ごめんなさい」
無様に平身低頭した。
【るい】
「愛奴?」
【智】
「もう少し言葉を選んで」
【るい】
「メイド?」
【智】
「メイドを甘く見るなぁっ!」
【るい】
「なにその思い入れ」
男は誰しもメイドに心惹かれるのです。
【智】
「……と、とりあえず、負けたら、そういう契約」
【こより】
「センパイ、ドナドナです〜」
こよりが目頭を押さえた。
もらい泣きする。
【智】
「涙無しでは語れないね……」
【茜子】
「だから、あなたはアホなのです」
【智】
「そんなに強調しなくったって」
【花鶏】
「馬鹿にしてっ!」
花鶏が爆発した。
怯えた。
嵐はいなしつつ過ぎ去るまで頭を下げて待つ。
呪われた世界に平穏な毎日を生きるための、
この僕の処世術だ。
【智】
「……馬鹿にはしてない」
上目遣いに、弁明を試みる。
【花鶏】
「してる。今もしてる。そうやって、人畜無害そうな顔して、
心の底で、わたしのことを馬鹿にしてっ!」
【智】
「話を聞いてよ」
【花鶏】
「なら、どうして、あんな約束するの?!」
【智】
「それは、成り行き――」
【花鶏】
「わたし一人じゃどうにもならないと思ってるんでしょ! 正しい答がわかってるのは自分だけだと思ってるんでしょ!」
【花鶏】
「自分がやらなくちゃ、
どうせ上手くいきっこないと思ってるんでしょ!?」
【花鶏】
「赤の他人の身代わりになって自己犠牲するのが性分なわけ!? 馬鹿にして、馬鹿にして、馬鹿にして!
同情なんてまっぴらごめんだわ!」
叩きつけられる言葉。
花鶏の後ろで、伊代と茜子が沈黙している。
無言の賛同。
――――自分なら正しい答が出せる。
それはごう慢だ。
同盟。
僕らは手を結ぶ。
それは一つに繋がることを意味しない。
バラバラのまま。
束ねて、利用し合う。
世の中には、正しい答なんて、ありはしないのだ。
正解ではなく最善があるばかり。
解けない方程式、円周率と同じで割り切れない。
【伊代】
「でも、あの黒いヤツ、そういう趣味だったんだ」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「ふむ」
【伊代】
「な、なによぉ、皆だって考えたでしょ!」
伊代は空気が読めない。
【智】
「せっかく真面目だったのに」
全員で、もにょった。
【花鶏】
「もういいわ」
【こより】
「あう、こわい……」
【花鶏】
「今更賭けを取り消すっていったって、アイツにも通用しない
でしょうし」
【智】
「だねー」
【茜子】
「……」
【智】
「ごめんなさい」
【花鶏】
「それで、どうするつもりなの?」
【智】
「当事者としては、選べる選択肢は一つだけ」
正解を探す。
方程式を解くように。
【智】
「勝てばいいんだよ」
腹が減っては戦ができない。
料理は、キッチンを借りて、
主に僕が作ったりした。
材料は、花鶏の家に来る途中で買っておいた、
質より量を重視した色々を元にしたカレーです。
【るい】
「ぐおー」
【こより】
「がつがつ」
【茜子】
「がっつかないでください、この餓鬼めらが」
【花鶏】
「ちょっと、飛ばさないでよ!」
【るい】
「ぬの?」
【伊代】
「落ち着かない風景ね……」
獣のごとく飽食した。
【こより】
「それで、なんでしたっけ」
【智】
「パルクールレース」
【伊代】
「それって車とかバイクとか……
ちょっと、わたし免許とかもってないわよ」
【智】
「それは僕がもうやった」
パルクールレース。
レースといっても免許不要。
基本は自分の二本の足を使う。
参加者はゴールを目指して、ひたすら街を駆け抜ける。
チェックポイントに先に到着したり、トリックを決めたり
すると賞金が出る。
今回は4人1チームで競う。
【茜子】
「駅伝的なヤツですか」
【智】
「思いっきり俗に言うと、そうかな」
ただし、いくらか物騒な。
チェックポイントを通れば途中の経路は問わない。
ランナー同士なら、相手への妨害行為も認められている。
【花鶏】
「きな臭い話になってきたわね」
【智】
「ネット配信したりして、賭けとかやってるそうな」
【伊代】
「変に今風ね……」
【智】
「どこでもインフラは変化しますので」
【こより】
「そんで、誰がでるですか」
【智】
「勝てそうな面子をよっていこう。まずは……」
【智】
「やっぱり、るいちゃんか」
【るい】
「先のことなんてわかんない」
【智】
「こんな時にも約束しない人!?」
【伊代】
「いきなり挫折してるじゃない」
るいは複雑な表情だった。
複雑すぎてどういう顔なのか読み取れないくらい。
【茜子】
「時間の無駄です。二番手を決めましょう」
【伊代】
「ちょっと、一番手決まってないのに……」
【茜子】
「平気です」
【智】
「わかりました。先へ進めます」
【花鶏】
「信用するっていいたいの? バカもいよいよ極まれりね。
まあ、いいわ」
【智】
「次は……」
【花鶏】
「わたしが出るわ」
【こより】
「花鶏センパイ」
【花鶏】
「自分のことなら自分の力で勝ち取る。わたしには同情も助けも
いらない」
花鶏は硬質だ。
強く儚く高く咲く。
触れれば崩れそうなほど繊細で。
どこまでも花鶏は花鶏だった。
【伊代】
「ねえ、あなた」
【花鶏】
「ええ、わかってるわ。無茶はするなって言いたいんでしょう」
【伊代】
「じゃなくて、これ、チーム戦だからあなた一人だと勝てないんじゃないかしら」
水差しまくり発言だ。
【花鶏】
「……」
【智】
「すごいなあ」
伊代は素だ。
狙ってないだけに一種の才能だ。
水を差す天才。
【伊代】
「ほんとのこと言っただけじゃない……」
だんだんキャラが見えてくる。
人間なんて閉じた筺と同じで、
蓋を開けないと中味はわからない。
【智】
「深い」
【茜子】
「何を一人で納得しているのですか」
【智】
「乙女強度から考えて、三人目は僕が。
自分の身の安全は自分で守ることにする」
【伊代】
「いや、だから、なにそれ」
【智】
「なにとは」
【伊代】
「なんとか強度」
【智】
「だいたい普通だと百万乙女前後で」
【伊代】
「はあ」
【智】
「るいは、でも一千万乙女な感じで」
伊代は最後まで納得いかない顔をしていた。
【智】
「最後の一人は――」
【茜子】
「茜子さんが出ます」
【智】
「えう」
むせかける。
【伊代】
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと!」
【茜子】
「なんですか」
【伊代】
「聞いてなかったの!? 体力勝負なのよ!
ギャンブルの馬役で、妨害アリなんていう際物なの!」
【茜子】
「わかってます」
【伊代】
「わかってない、わかってないわよ!
あなた……ねえ、そっちもなんとか言ってあげてよ」
【伊代】
「この子みたいな体力お化けならともかく、あなたみたいな
細っこいのが出て行ったって怪我するだけだって! いいえ、
怪我じゃすまないかも……っ」
【るい】
「なんかすごい言われよう」
【茜子】
「私、わかってます」
【伊代】
「わかってない!」
【茜子】
「わかってないのは、あなたです」
【伊代】
「……ッッ」
衝突する。
人形じみていても茜子は人間だから。
行きずりの絆で繋がっただけの他人同士。
意見が違えばぶつかり合う。
【茜子】
「これは、私の問題です。他の誰の問題でもない、私のことです。私が追われて、私に降りかかったことです。私が自分で出るのは責任です」
鋼のような決意。
【智】
「…………」
茜子の顔を見ながら思案する。
【智】
「ところで、こよりちゃん」
【こより】
「はいです、センパイっ!」
【智】
「最後のメンバー、キミでいい?」
【こより】
「……………………はい?」
固まった。
【智】
「最後は、こよりん」
【こより】
「ッッッ!?」
ムンクの叫びのポーズ。
【こより】
「はい〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
【こより】
「そそそそそそそ、それはどういうことでありありありあり、
ありーでう゛ぇるまっくす!!」
【智】
「全面的に違ってる」
【こより】
「そ……そんなの……困るです……すごく困りますぅ!」
【茜子】
「待ってください! これは、私のことです!」
茜子が、珍しく激しく噛みついてくる。
【茜子】
「私のことなのに、どうして、そのミニウサギを」
【智】
「これは同盟だから」
【茜子】
「わかりません」
【智】
「僕らは力を貸しあう。僕らは利用し合う。誰かの問題は全員の
問題。それでなくちゃ同盟の意味もないでしょ。そうすること
だけが、ちっぽけな僕らの解決の手段」
【智】
「一番しなくちゃいけないことはなんだと思う?」
【茜子】
「一番………………」
【智】
「勝たなくちゃ、色んなモノに。躓いてらんない。意地とか、
責任とか、誰の事だとか。そんなことには躓いてらんない。
どうしてって? 負けちゃったら終わりだから」
【智】
「負けたら、後はない。二度目がやってくるかどうかもわからない。世界は一度きりなんだ。セーブもロードも通用しない」
【智】
「突き抜けて自己満足で納得するのもいいけど、
それで納得するよりは、勝って幸せになろうよ」
【茜子】
「幸せ、なんて」
【茜子】
「なれると思うんですか」
肩をすくめた。
【智】
「なれる、」
【智】
「と思う。難易度はかなり高いけど、力を合わせれば、みんなで
戦えば、いつかはきっと」
【茜子】
「……呪われてる」
自嘲じみていた。
人生まで、全部ひっくるめて投げ捨てるような、
希少価値の表情だった。
【茜子】
「呪われているのに、追いかけられるのに、
幸せになんてたどり着けません」
いやな空気になった。
欺(ぎ)瞞(まん)の下にあるのは畏れと不安。
呪い。呪い。呪い。
いつでもどこでも背中にぴったり張り付いた言葉。
それは、どこにでもある。
生きることには畏れと不安がつきものだから。
【智】
「そのために……僕らはそのために同盟を結んだんだ。
一人だと無理だから、一人だと足りないから、一人にできる
ことには限りがあるから」
【智】
「だから手を結ぶ、利用し合う」
【伊代】
「…………それで、今回の勝負、勝てると思うの?」
【智】
「人事を尽くして天命を待ちます」
【花鶏】
「天命だなんてらしくないこと」
【智】
「根性で解決するとは思わないけどね」
【花鶏】
「それは冷静な判断ね」
【智】
「なんといってもドナドナの運命がかかってるから。
勝たないことには」
愛奴隷一直線。
【茜子】
「でも、だからって、私……」
問い@
幸せになれると思いますか?
解答
なれると思います。
【智】
「なんとかなるって」
希望は欺(ぎ)瞞(まん)的だ。
信じていなくても言葉にできる。
そして。
言葉は欺くためにあるのだから。
【智】
「それでどうですか、こよりん?」
【こより】
「鳴滝が……やるですか……?」
【智】
「ごめん、他にいなくって」
悪いとは思うけど、選択の余地がない。
モノは試しで残りの面子を検討してみる。
伊代、こより、茜子。
【智】
「……やっぱりキミだけが勝利の鍵です」
【るい】
「残りの二人は?」
【智】
「小利の餓鬼とでもいいますか」
【るい】
「わからぬ」
日本語には秘密がいっぱい。
【智】
「ごめん、この通り。無事に終わったら、代わりに何でも
お礼するから」
【こより】
「でもでも、こよりが出るということは、戦うということですよね?」
【智】
「まあね」
【こより】
「走るだけじゃなくて、妨害っていうと、かなりシャレにならない事態が予想されたりするんですよね?」
【智】
「そうね」
【こより】
「相手は、その、あっち系の本物で、これっぽっちも冗談通じないような気がするんですけど」
【智】
「こよりちゃん、鋭いね」
【こより】
「……」
【智】
「……」
【こより】
「いやあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
泣かれた。
【こより】
「酷いッス、酷すぎます! いくらセンパイでも、
この仕打ちはあまりにあまりで……」
我ながら同意見だ。
【智】
「どうしても、だめ?」
【こより】
「平和主義者の小娘にナニヲキタイスルノデスカ」
【智】
「伊代は、意外と部のキャプテンやってたりとか」
【伊代】
「わ、わたし?!」
【伊代】
「1年だけ、お茶漬けフリカケのおまけカードで占いをする部
の部長をしたことあるけど……」
【智】
「……ごちそうさまでした」
なんだよ、その部は!
そんな得体の知れない部、存在自体おかしいだろ。
【花鶏】
「で、どうするわけ?」
【智】
「それなら、」
どうしよう……。
【智】
「頭数だけそろえても、勝ち手がないと……」
【茜子】
「ドナドナ」
【るい】
「ドナドナかあ」
切なくなる。
【こより】
「……わかりました。センパイを市場に連れて行かれるわけにはいきません。わたしが……出ればいいんですよね?」
【智】
「結構無茶な話だったかなぁ」
【伊代】
「今になって考えなくてもそうでしょ」
【智】
「ほんとにいいの、こよちん?」
【こより】
「うす。しかた……ないです。他に道はないのです」
【るい】
「そのとーり。女は度胸っ」
ぱんぱんと、こよりの背中を景気よく叩いた。
【花鶏】
「歪んだ価値観だわね」
【るい】
「ほほう」
【花鶏】
「なによ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
今日も今日とて揉める。
それでも――――
とりあえず面子はそろった。
翌日。
授業はサボりました。
優等生失格の烙印がついちゃいそうだ。
朝から街をうろついた。
るいを誘って。
腕をくんで、てくてく歩く。
【るい】
「これってデートっすか」
【智】
「んなことしてたらサボった意味がないわいな」
【るい】
「デートじゃないのけ?」
【智】
「なんて小春日和なヘッド」
【るい】
「そろそろ春っつーより初夏って感じの季節、女の子同士のデートもいいよねぇ〜」
デートしつこい。
【智】
「これは下見です」
シティマップを片手に。
パルクールレースでは、ランナーは市街の指定された
チェックポイントを指定の順番で通過すればよい。
コース選択は自由。
たとえば空を飛ぶのも自由。
できるもんなら。
央輝に確認したところ、
こよりのローラーブレードは使って構わないということだ。
チームはランナーが4人。
チェックポイントは20カ所。
分散したポイントに、どれだけ速くたどり着けるのか、
タイムロスを減らせるのか。
ライン取りが重要になる。
【智】
「実際走っててポイントわからなくなったりしたら、そういうのもまずいよね」
【るい】
「まずいか」
【智】
「なんせ、僕がドナドナだけに」
【るい】
「たしかにマズイ」
魂的に危機一髪だ。
【るい】
「なんでもトモは細かいね」
【智】
「白鳥は優雅に浮かんでるだけに見えて、水の下で必死に
バタ足してるもんなの。不断の努力とその成果。これぞ
勝ってナンボの和久津流」
【智】
「人事を尽くして天命を待つ……ってことは、人事尽くさないと
応えてくれないのが天命っていう性悪狐の正体なので、日夜努力の毎日なのです」
性悪度でいうと、いずるさんに一脈通じる。
【るい】
「そういうのって、どーっていって、ばーってやって、どがーんてかましたら」
【るい】
「普通はなんとかならんのけ?」
【智】
「なるか!」
【智】
「抽象的すぎて意味不明です!」
【るい】
「なんとなくフィーリングで、ぱーっと」
【智】
「……るいってさ、そういう、感覚で物事やっちゃう方?」
【るい】
「おうさ」
【智】
「これだからっ、特化した才能の上にあぐらをかいて世間を
軽くみてるヤツは!」
嫉妬に燃えた。
【るい】
「その分頭使うのは苦手だけど」
【智】
「いびれー(※歪型レーダーグラフの略、才能特化型な人種を表現するスラング)だね」
典型的な、できる子理論の人生。
ある分野において、くめど尽きせぬ才能過ぎて、
矮小な常人の苦労が理解できてない。
そういうひといるんだよねー。
自転車に乗れるようになった子供が、
どうして今まで出来なかったのかわからなくなるのに似ている。
【智】
「……人間同士って解り合えないんだなあって、すごくすごく思う」
【るい】
「トモはすぐ難しいこと言う」
【智】
「考えててもしかたがない」
【るい】
「ほほう、するってーと」
とにかく実地で検分に。
【智】
「いこう」
【るい】
「いこう」
そういうことになった。
行ってきた。
【智】
「あいやー! 疲れましたー!!」
【智】
「思ったより大変でした」
【るい】
「そんで、どんなもんかね、手応えは?」
感想はたくさんあるが、
あえて四文字で表すなら。
【智】
「前途多難」
【るい】
「勝利の鍵は?」
【智】
「…………あるのかな?」
ドナドナが近くなった気がする。
さて。
飛ぶように日付が過ぎて――
今宵は前夜。
いよいよ明日がレースの当日。
慌ただしいと月日が経つのが速い。
1クリックで1週間とか。
それぐらい速い。
【智】
「決戦の時はきたれり!!」
と、うたいあげるような、
燃えテンションが不足していた。
拳を突き上げる役がいない。
【智】
「体育会系成分が不足してる」
【花鶏】
「汗臭そう……」
【智】
「偏見だ」
【花鶏】
「そういうの、近付いただけで妊娠するわ」
差別と偏見はこうして広まる。
様式美と蔑まれようとも、
メンタル設計に鼓舞が占める位置は重要なのだ。
【伊代】
「結局あの子が一番手で出そうね」
【智】
「ひとは信じ合わないと」
他人事のように。
【智】
「こよりんはダメです」
【こより】
「あー、うー、やー」
こよりは、部屋の隅でガタガタと震えていた。
生ける屍のごとし。
【伊代】
「本番に弱いタイプみたいねえ」
【智】
「女の子らしい、戦いには向かぬ優しい心の持ち主だから」
【るい】
「私らも女の子」
最終兵器乙女、皆元るい。
【智】
「分を弁(わきま)えないと」
【るい】
「馬鹿にされてる気がする」
さて。
ここは、かつて花鶏ん家の一室だった、
今は、乙女同盟パルクールレース対策本部。
歴史の大河の果てに、
この部屋が獲得した名称である。
戒名だってある。
※刑事ドラマなんかで捜査本部出入り口に掲示する「○○捜査本部」というヤツ。
お手製の垂れ幕がかかっていた。
字は伊代が入れた。
花鶏は最後まで抵抗した。
素直じゃない。
【花鶏】
『お断りよ!』
【智】
『ここは形から入ると言うことで』
【花鶏】
『穢れる!』
【智】
『どうしても』
【花鶏】
『然り』
【智】
『わかりました。では、同盟憲章第2条に基づいて――』
多数決を取った。
同盟だけに、意見対立は多数決でもって民主的に解決する。
垂れ幕一つあってもなくても同じだが。
形から入りたい時もある。
花鶏を困らせると、わりと面白そうだし。
【智】
『賛成多数につき、』
【花鶏】
『卑怯者!』
【智】
『最近よく言われます』
【智】
『これでも普段は品行方正』
【伊代】
『騙りね』
【智】
『……騙るのは、いかがわしいひとだけでいいよ』
【伊代】
『やっぱり、わりと似たベクトルの生き物なのかも』
いやなベクトルだ。
【花鶏】
「勝ち目は?」
【智】
「4、6くらいで」
【伊代】
「……6割で負けちゃうんだ」
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「な、なんで睨むのよぉ……」
どこまでも空気の読めない伊代だった。
【智】
「せめて4割も勝てるの! とか、
味方の士気を鼓舞するような言動をよろしく」
【伊代】
「士気だなんて、精神論よ」
【智】
「病は気からっていうでしょ」
信じれば変わる、
諦めなければ勝てる――。
呪われた世界に蔓延する、
数多の欺(ぎ)瞞(まん)の最たるものだ。
精神論はスタート地点でしかない。
戦いは問答無用。
堅く冷たく揺るがぬ力学で形作られる。
【智】
「知恵と力と友情と、最後が勇気」
【こより】
「あうぅ」
こよりが頭を抱えた。
すっくと立ち上がる。
【こより】
「…………顔洗ってくるデス」
マシンのようにひび割れた声で。
【智】
「大丈夫? ひとりで行ける? 顔が紫色だけど」
【こより】
「紫色だと画面に出せませんね」
【智】
「……わりと余裕ある?」
【こより】
「手首切りたい……」
【智】
「ヤバイ目をしていうな」
【こより】
「いってきます」
【智】
「大丈夫かな」
【茜子】
「この期に及んで大丈夫だなんて、脳に蛆がわいてますね」
【伊代】
「……やっぱり怖いわよ」
伊代が肩を落とす。
小さくなる。
【伊代】
「ほんと、怖い。胃のあたり重いし。わたしは出ないからいくらか楽だけど、明日負けたら、負けちゃったら……そう思ったら、
あの子の気持ち、少しはわかる」
あと十数時間すれば。
決する。
勝者と敗者に別れる。
敗者は強奪される。
代価を。
【智】
「もっと力抜いて。よしんば明日負けたって……」
失うモノは。
一冊の本。
茜子と僕。
【智】
「大丈夫だから」
少なくとも伊代は。
【伊代】
「だから……それだから、よけいに……」
視線が彷徨う。所在なく。
伊代は、傷ついていた。
【伊代】
「わたしもおトイレいってくる……」
逃げるように。
【智】
「むう、人間心理は複雑です」
無傷でいられる事への後ろめたさが、
伊代を抉っている。
リスクは持たない。レースにも出ない。
伊代だけが。
それを承知の同盟だ。
それぞれの置かれた状況や条件は異なっている。
違うモノだから、同じにはなれない。
違っても、リスクを共有し、力を合わせる。
差異はでる。
完全な平等は完全な平和と同じくらいの幻だから。
そこに苛立って。
不完全であることに。
完璧でないことに。
憤る。
【智】
「…………可愛いヤツ」
【るい】
「うにゅ? なんでトモちん、難しい顔してんの」
【智】
「るいは簡単そう」
【るい】
「???」
理解してなかった。
【伊代】
「ねえあの子、いる?」
伊代が戻ってきた。
【智】
「あの子?」
【伊代】
「オチビ」
【智】
「さっき顔を洗いに……っていうか、伊代こそ会わなかったの、
お手洗いで」
【花鶏】
「そういえば、随分経つのに戻ってこないなんて……ちょっと
遅すぎるわね」
【伊代】
「いなかったわよ」
【るい】
「テラスで頭冷やしてるとか?」
【伊代】
「気になって、ざっと見てきたんだけど……あの子、どこにも
いないのよ」
【茜子】
「…………」
胃の下あたりが、ざわざわした。
【智】
「それって、ちょっとマズイっぽいかも……」
花鶏の家中を手分けして捜した。
どこにも、こよりはいなかった。
【伊代】
「これってもしかして」
【智】
「…………逃げた?」
これは、予想外。
簡単にいうと……
最悪だ。
〔団結、もう一度〕
手分けして捜すことにした。
花鶏の家の近辺をしらみつぶしに。
土地勘はないだろうから、
遠くに行ってないと踏んだ。
【智】
「いた?」
【花鶏】
「いいえ」
【伊代】
「こっちにもいなかった。まったくどこいったのかしら」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「プレッシャーに弱そうなタイプだものね」
【伊代】
「じゃあ、ほんとに……」
対策を検討する。
【花鶏】
「見当たらなかったわね。
じゃあ、もう尻尾巻いてどこか遠くに……?」
【智】
「でも、バスだってない時間だし」
時間はとっくに22時を回っていた。
バスはおろか、この辺りだと、
タクシーだってつかまえるのは一苦労だ。
電車の駅までは大概遠い。
【智】
「でも、まずいよ、まずいですよ。明日は本番なのに……
このままだととんでもないことになっちゃうよぉ!!」
【茜子】
「こいつ、普段姑息な分だけ、予期せぬトラブルに弱い雑魚ですか」
【伊代】
「なにその一番の小者設定」
【智】
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
頭を抱える。
ごろごろと床の上を転がり回る。
こよりがいないとメンバーが足りない。
戦わずして不戦敗。
そんな馬鹿な!
他に手は……?
例えば、代理をたてるとか。
【伊代】
『ファイトー☆』
【茜子】
『いっぱーつ☆』
【智】
「……………………ッッ」
見果てぬ文系世界が広がっている。
先行き真っ暗。
【茜子】
「人の顔を見てげっそりするのは失礼生物です」
【智】
「ごめんなさい」
土下座する。
【茜子】
「謝るよりも今すべきことは」
【智】
「そうだよ戦わないと、今そこにある危機と! 捜そう、もっと
捜そう、それに……夜にひとりほっつき歩いてたら危ない」
【伊代】
「そ、そうね。なにせあの子だし」
【るい】
「もういい」
冷たく。
るいが目をせばめる。
不在の何者かを睨むように。
おっ?
なんか、予期せぬ反応だ。
【智】
「いい、とは?」
【るい】
「ほっとけばいい」
【智】
「…………」
ものすごく意表を突かれた。
るいが、そういうこと言うなんて。
【るい】
「裏切ったんだ」
【智】
「あの、ちょっと、るい……?」
怖い顔。
今にも噛みつきそうだった。
純粋で、それだけに強固な生き物が居る。
【るい】
「裏切ったんだ」
るい……。
静かな裁定、本気の目だ。
【るい】
「どうして裏切るの?」
【智】
「裏切ったなんて、大げさな」
【るい】
「信じたなら裏切るな」
苛烈(かれつ)な二分法。
白と黒。善と悪。敵と味方。
るいは世界を二つに分けようとする。
信じることと裏切ること。
【智】
「それは、違うよ」
【るい】
「違わない!」
【智】
「違わないことない!」
こんなにも強い言葉をぶつけ合うのは初めてだ。
るいが睨んでくる。
視線だけで火傷しちゃいそう。
【るい】
「だって、逃げたじゃない。仲間を裏切った! 嘘をついて、
自分だけで!」
【智】
「そんなことない、僕は信じてる!」
【るい】
「――――っ」
信じる?
誰が、そんなこというわけ?
【智】
「僕は、こよりのこと信じてる。怖くて逃げ出したかも知れない
けど、こよりは僕らを裏切ったりしない。ほんのちょっと怯えて、
自分を見失っただけで」
【智】
「だから、きっと僕らと一緒に、明日は走ってくれるって信じてる」
僕は、誰も信じない。
信じるなんて間違っている。
心は天性の裏切り者だ。
何度でも繰り返す。
他人を裏切り、自分を裏切る。
嘘をついて、欺いて、
本当のことさえ言えないのに。
自分の心ひとつ信じられないのに。
見えない他人の心を信じることが出来るの?
【智】
「…………だから、今は全員で、こよりのこと、もう一度
捜してみようよ」
――――――――出来るわけがないじゃないか。
【智】
「……るいのヤツは?」
【伊代】
「部屋で待ってる、ですって」
【智】
「そっか」
まあ、しかたないか。
るいに、あんな面があったなんて思いもよらなかった。
【智】
「じゃあ、手分けして捜そう」
【伊代】
「わたしは、あっちを」
【茜子】
「茜子さんはこっちから」
散っていく。
【智】
「花鶏は――――」
【花鶏】
「信じてる……ね」
からかうような物言いだった。
【智】
「なんだよ」
【花鶏】
「あら、いつもよりかなり余裕無いのね」
【智】
「悪かったね」
【花鶏】
「そういう素の顔も可愛いわよ」
……誉められても嬉しくない。
【花鶏】
「鳴滝を信じてる?」
【智】
「そういった」
【花鶏】
「本当に?」
【智】
「なによ」
【花鶏】
「物事を考えるっていうのは、疑うってことでしょ」
そう、だ。
【花鶏】
「知恵の実の悲劇というわけね」
【智】
「……持って回った言い方するね」
【花鶏】
「そういうときもあるわ」
【智】
「そうだよ。僕は、いつも疑うところから始めるんだ。どんな事がありえるか。どんな失敗が成立するか」
世界を、常識を、友情を、信頼を、自分自身を。
他人なんて、一番信用できない。
【花鶏】
「今回はびっくりしてたわね」
【智】
「予想外のことなんて、いくらもあるから」
知恵の限界。
思考を繰り返しても、限界がある。
人間には完全な未来なんてわからない。
【智】
「……るいがあんなに怒るなんて」
【花鶏】
「そうね」
人ひとりにしたって、本当の心は量りがたいんだと、
いやというほど思い知らされる。
【花鶏】
「それでどうするの?」
【智】
「どうするもなにも、こよりを捜す。言ったとおりだよ。そんなに遠くまで行ってないと思うし」
【花鶏】
「そうね。でも、問題はその後でしょ」
見つけたとして――――――
本当はわかっていた。
こよりが逃げ出すのは当たり前だ。
理由がないから。
るいにも、花鶏にも、茜子にもある、トラブル。
同盟をあてにしなければならない理由。
【智】
「どうにもならなかったら…………」
【花鶏】
「ならなかったら?」
こよりには理由がない。
あるのは負い目だ。
花鶏の本を失った原因であるという後ろめたさ。
わかっていて、こよりを利用した。
その方が都合がいいから。
【智】
「うんにゃ、どうにもならない退路はなし。諦観するのは最後の
武器。僕の売買権がかかってますので死にものぐるいでなんとかします」
【花鶏】
「背水の陣だわ」
【智】
「余裕のある人生をギブミー」
【花鶏】
「昔の人は偉いわね。そういうあなたに、含蓄のあるお言葉を
プレゼント。曰く」
【花鶏&智】
「「自業自得」」
【智】
「ハモってどうする」
【花鶏】
「自分でわかってるだけに、あなたの不幸も根が深いわね」
【智】
「行ってきます」
【花鶏】
「わたしはあっちを捜すわ。
でも、その前に、よければ聞かせてくれない?」
【智】
「なに? 僕にわかることなら」
【花鶏】
「貴方にしか、わからないわよ」
ころころと、花鶏は笑った。
【花鶏】
「あなた、本当に、信じられなかったの?」
【智】
「――――っ」
きっと顔に出た。
本心を言い当てられた。
誰のことも、僕は信じてなんていないんだと。
でも、それなのに。
花鶏はそれを揶揄する。
まるで。
僕の、本当が――――だと、いうように。
【智】
「…………」
花鶏のその問いに、
とうとう僕は答えられなかった。
ほどなくして発見した。
【智】
「みーつけた!」
【こより】
「あう」
ライオンと鬼ごっこをする
カピバラみたいな顔で、こよりは動揺した。
バス停近くだ。
花鶏の家に初めて来たときに遭遇したあたり。
こよりは右往左往する。
右へちょろちょろ、左へちょろちょろ。
【智】
「なにやっとんのねん」
【こより】
「……逃げてますです」
【智】
「そうなの?」
どこにも行ってないけど?
【こより】
「…………見つかってしまいました」
覇気がない。
【智】
「なんたること、僕の知ってるこよりんはもっと腹の底から
声をだす女の子だったぞ!」
【茜子】
「そんなの無理に決まってます」
【智】
「余計な突っ込み入れなくていいから」
茜子だった。
どっから出たんだ。
わざわざ邪魔しに来たのか?
【茜子】
「…………」
【智】
「何を無表情に百面相してるの?」
【茜子】
「あなたは前を向いて説得にせいをだしてればいいです」
【智】
「図星」
【茜子】
「ビッチ」
舌先のキレが悪い。
こよりがどうするかは、そのまま茜子の未来を左右する。
おきものっぽくても不安は感じているだろう。
茜子の調子がいまいちな理由を、論理的に説明することができる。
でも。
それでいいのか。それだけなのか。
無表情な顔からは何も読み取れない。
【こより】
「無理……です」
【智】
「だから」
【こより】
「絶対無理、レースなんて無理、戦ったり競争したりぶつかったりするのなんて絶対無理です!」
半泣きだ。
【智】
「まあ、そこんとこ無理とは承知の上なのです。
他に選択の余地がかなり厳しい人材のインフレ」
【智】
「こよりも、花鶏助ける時は、がんばったでしょ」
【こより】
「あのときは無我夢中でしたから……」
【智】
「今は?」
【こより】
「…………」
【智】
「怖いんだ」
【こより】
「こわい、です」
こっくり。肯く。
【こより】
「ものすごく怖いです! 考えただけで、足震えてきて、立ってるのだって無理で、何も考えられなくなって息苦しくって……」
こよりは馬鹿だ。
怖いなら逃げればいい。
追いつけないくらい遠くまで。
他人のことなんて考えず。
誰だって自分が一番可愛い。
どんな献身も、崇高な自己犠牲も、
最後まで突きつめてしまえば自分のための行いなのだし。
それなのに、こんなところにいて。
【智】
「痛いかもしんないしね」
【こより】
「そういうのじゃありません!」
【智】
「……んと、すると?」
【こより】
「あー、その……怪我したり、怖いひとと面と向かったり、
そういうのも十分怖いは怖いんですけど……」
正直者だ。
【智】
「こよりだけじゃなくて、誰だって怖いよ」
【こより】
「……るいセンパイとか、平気そうです」
【智】
「あれは特殊例」
【こより】
「わたし、そんなふうになれない」
【智】
「ならなくてもいいよ。こよりはこよりで、るいじゃないんだから」
【こより】
「…………」
【こより】
「でも、わたしが負けたら、センパイが売られるんですよ!?」
なるほど。
こよりが怖がっているのはそこだったのか。
【智】
「…………だから?」
【こより】
「……(こっくり)」
【智】
「自信はない?」
【こより】
「全然ないです」
傷つくことよりも、もっと怖いこと。
自分のせいで誰かが傷つくこと。
何かが失われてしまうこと。
責任の重みだ。
背中に背負った、
見えないものの重さを怖れている。
【智】
「いいこだね、こよりん」
本当は必要ないものさえ背負い込んで。
本当に逃げ出すことさえできないで。
【こより】
「………………」
だから、精一杯の嘘をつく。
【智】
「大丈夫だよ。出ても十分やれる。勝てるって。
こよりのローラーブレード、すごく上手だし。自信持っていい」
【こより】
「そんなの理由になりません。そういうのとは違うじゃないですか。走るだけじゃなくて、誰かと戦ったりするんですよ。誰かを押しのけて勝たないとだめなんですよ!」
【こより】
「全然……違ってる……っ」
競うことに向かない人種というのはいる。
戦い、傷つけあい、奪い合うこと。
【智】
「たしかに、そういうのは気構えの問題かもね」
【こより】
「わたし、そういうの向いてない。
ケンカしたり、勝ち負けがシビアだったり、そういうのやです」
ウサギは神経質な生き物だ。
争いには向かない。
【智】
「別に必殺技使えとかはいってない」
【こより】
「人前で使うの、恥ずかしいですから……」
戦うことを怖れるのは、優しさだ。
でも。
争うこと――――。
それはどこにでもある。
普通に生活をしていても、
競ったり、争ったりすることは幾らでもある。
呪いのように付きまとう。
いつだって席の数は決まっている。
誰かが座れば誰かが振り落とされる。
競って、邪魔して、譲って、争って。
価値観はぶつかり合い、利害は衝突し合う。
終わりのない椅子取りゲーム。
それが世界の正体なのだから。
【こより】
「わたしが失敗したら…………」
【智】
「そういうの、気にするなっていっても、ダメだよね」
【こより】
「無茶いいっこです」
【こより】
「センパイは残酷です。わたしにそんな責任押しつけるのは
ひどすぎです。ほら、ドキドキしてます。心臓今にも栓が
抜けちゃいそう……」
おかしい言い回しをする。
【智】
「それはしかたないよ」
【智】
「それは、どこにでもあることなんだから」
見えない責任。
繋がり。
連鎖。
キミとボク。
自分の行動の結果が、誰かの人生を左右する。
重い事実だ。
それは、本当に、どこにでもある。
見ないふりをしているだけだ。
見てしまうと成り立たない。
他人の生命の重さに潰される。
でも、それを拒絶するのなら。
何一つできない。
自分が生きていくことさえもできなくなる。
人知れぬ砂漠の奥にでも孤独な庵を構えて、
一生引きこもるしかないのかも。
【こより】
「そう、かもしれないですけど……」
【智】
「何をやっても、どこかで、なにかで、他人のことを左右しちゃうんだよ。そうなっちゃう。それがイヤなら、本当にひとりでいないと……」
【こより】
「そんなの! そんなの……無理……」
ウサギさんは人恋しい生き物だ。
孤独には耐えきれずに死んでしまう。
【智】
「それにさ、今からだと、逃げちゃってもあんましかわんないよ」
【智】
「こよりがいないと、代役頼むわけだし。それってつまり、
こよりが」
【こより】
「……逃げちゃったから?」
【智】
「責任の重さとしたら同じでしょ」
【こより】
「それは、そーですけど、実際にやって負けたら……」
【智】
「六分の一」
【こより】
「なんですか、いきなり?」
【智】
「責任の重さ」
【こより】
「6人いるから……?」
【智】
「うん。そういうのが同盟だよ。僕らは一個の生き物、ひとつの
チーム、まとまった群れ。メリットを分かち合うかわりに、
リスクも分散して共有する」
【智】
「こよりが失敗してダメになったとしても、それは、こよりだけの責任じゃない。みんなの責任」
【こより】
「そんなの……」
【こより】
「わたしが上手くできなかったら、それで迷惑かかるのは
同じことです」
【智】
「いまさらそんなこと、いいっこなし」
【智】
「同盟を結ぶときに、そういうのは覚悟完了してる」
【こより】
「わたし、ちゃんと考えたことなかった……」
【智】
「契約って恐ろしいね。いつだって一番重要なことは、読めない
くらいちっちゃな文字で、契約書の隅っこにこっそり書いて
あるんだよ」
【こより】
「悪徳キャッチセールスみたいッス」
【智】
「タダより高いモノはないって言うでしょ。メリットだけ手に
はいるなんて上手い話は転がってません。責任だって背負い
込むのは当たり前」
【智】
「だから、こよりが考えてるようなことは、そんなこと一々
気にしたりしないよーに」
【智】
「安心して。
こよりが失敗して負けちゃっても、僕は恨んだりしないから」
じっと、目を合わせる。
【智】
「茜子さんも何とか言ってやって」
【茜子】
「え、えうっ!?」
振られるとは思わなかったらしい。
面白いくらいに狼狽した。
【茜子】
「あ、あ、あ、あの、の……」
【智】
「いつもの毒舌はどこいったの」
【茜子】
「ビッチは黙れ」
ひどい……。
【茜子】
「……っ」
茜子が深呼吸して。
【茜子】
「ふぁいとー!」
【智】
「……………………」
【茜子】
「ちゃ、ちゃんと言いましたから」
ぷいっと横を向いた。
【こより】
「……………………」
こよりも眼をぱちくりさせていた。
長いことそうしていた気がする。
本当は、ほんの1〜2分のことだったろう。
【こより】
「…………逃げられないんですね」
【智】
「呪われてるからね」
【こより】
「逃げても逃げられない。捕まっちゃう。やっつけるしかない」
【智】
「呪われた人生だね」
【智】
「でも、誰だって呪われてるんだよ」
色んなモノから。
僕らはみんな呪われている。
【こより】
「それなら、しかたないですね……」
【智】
「しかたない」
こよりが立ち上がった。
長い時間をかけて。
背筋を伸ばして、前を向いて。
【こより】
「こより、いきます」
【智】
「よろしい」
【智】
「性能の差が戦力の決定的な違いじゃないと、是非とも教えて
欲しいな」
空には月。
とても静かで、とても綺麗。
3人で戻った。
他の連中は、一足先に戻っていたらしい。
【こより】
「ご迷惑……」
深々と頭を下げる。
【伊代】
「……まあ、いいんじゃない。外回りで疲れたでしょ。
今日はもう休んで、明日に備えよ」
【花鶏】
「明日じゃないわよ。日付変わってるから」
深夜を過ぎていた。
【智】
「前夜にこれとは、なんという逆境……」
【こより】
「あーうー」
責任を感じていた。
【伊代】
「戦う前から負けてどうすんのよ!」
【こより】
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜」
責任に押しつぶされかけていた。
【智】
「なんの。逆境こそ我らが糧」
あと、一つ、解決することがありましたね。
部屋の奥から、のっそりと動く。
【るい】
「……………………いい」
すれ違い様。
【こより】
「がんばりますです!」
こよりは、ほんのちょっと涙ぐんでいた。
【智】
「感謝」
るいの背中に手を合わせて拝む。
これで、後は明日……。
もとい。
もはや今日だ。
逃げられない、避けられない、勝つしかない。
全てを得るか、一文無しか。
運命は二つに一つ。
決戦の日、いよいよ来たるっ!!
〔パルクールレース〕
夕焼けの赤が染みる。
街が塗り替えられる時刻。
もうすぐ運命のレースが始まる。
駅のすぐ近く、歓楽街のスタート地点。
高鳴る心臓を押さえながら、
その瞬間を待ちわびていた。
右を見た。
雑踏、雑踏、雑踏。
左を見た。
雑踏×6。
【智】
「帰宅ラッシュとぶち当たり」
【央輝】
「その方が盛り上がるんだ」
央輝はビル影に埋もれる。出てこない。
本当に吸血鬼を連想する。
【智】
「薄暗いところが好きとか」
【央輝】
「よくわかるな」
本当にそうだった。
カサカサしたのが親友かもしんない。
【央輝】
「不測の障害が多いほど勝負が荒れて盛り上がる」
【智】
「目立つかも……」
【央輝】
「ギャラリーが足りないか?」
【るい】
「聞きたいことがあるんだけど」
るいが割り込む。
あいも変わらぬ怖いモノ知らずだ。
【るい】
「どうして制服なの?」
それは僕も気になってた。
レースの前に、当日は制服を着てくるように指定された。
普通、レースのランナーっていったら、なんというのか、
もそっとそれっぽい格好するもんじゃないですか?
【央輝】
「制服の方が男の観客にウケが良いんだよ」
【智】
「ウケ……」
【央輝】
「制服は浪漫だそうだ」
なるほど!
わかる、わかるぞ、その気持ちは!
でも、この場合、僕が着ないといけないわけですから、
魂的にペルシアンブルーな感じに落ち込みそう。
【央輝】
「たくっ、クズどもの考えることはよくわからん」
クズ扱いだった……。
【伊代】
「脳腐れ……脳腐れだわ……っ!」
【茜子】
「人として生きてる価値がありません」
【智】
「……本当に困ったものですね」
とても本音は口には出せない。
代わりに、自分のスカートの端をつまんで持ち上げる。
ぴらり。
【央輝】
「サービス精神旺盛だな」
【智】
「下はスパッツはいてます」
完全防備。
当方(ら)に女の慎みの用意有り。
【智】
「でも、その、僕とか制服だと色々まずいんだけど。たしかネットで流してるんでしょ?」
【智】
「教師にばれちゃったりすると、
停学とか退学とか呼び出しとか不測の事態に……」
【央輝】
「心配いらん」
【智】
「なにやら隠された秘密が?」
【央輝】
「明日からあたしのモノだから、つまらないことは考えるな」
【こより】
「こっちが負けてからいってください!」
こよりが僕の腕を掴んで、
央輝から引きはがした。
【央輝】
「安心しろ。
ネットの配信先は、メンバーシップのアングラサイトだ」
【智】
「一応ばれる心配はない、といいたい……?」
いやあ、でも、街中走り回るんだから、
見てる人いるかもしれないわけで……。
【央輝】
「漏れるときは漏れる」
やっぱり。
【智】
「安心できないネット社会……」
高速インフラの新時代を嘆くのだった。
時間を確認する。
スタートまで、まだいくらか余裕がある。
いっそ早く始まってくれた方が、
余計なことを考えなくても済む分だけ気楽ではある。
暇があるとついつい考え込んじゃいそう。
【智】
「みなさん」
円陣を組んで。
雑踏近くなので、わりと人目が痛かったけど。
ここは様式美として必要だ。
【智】
「個々に、精一杯頑張る方向で」
【こより】
「気楽な感じッスね」
【智】
「気合いだけ空回りさせてもお寒いご時世だからねー」
スポ根が受けない時代になった。
【伊代】
「今更ナイーブなのも受けないわよ」
【智】
「じゃあシティ派で」
【るい】
「じゃあ、なのか」
【伊代】
「結局出るなら最初からそういえばいいのに」
【智】
「個人のポリシーは尊重する方向で」
【伊代】
「ところで、シティ……ってどういうのをいうの?」
乙女の疑問。
【智】
「それは、当然、決まってますけれど……シティ派っぽい感じ」
【伊代】
「惰弱だ」
【智】
「外来語には弱いんですよ」
【花鶏】
「…………」
【智】
「どうかしたの?
さっきからあり得ないくらい大人しいんですけど」
【花鶏】
「別に」
……やっぱり、なにか変だ。
いつもの花鶏なら、あり得ないくらいというのは
どういうことかしら、とかなんとかきそうなのに。
【智】
「別にって、なんか調子悪そうだよ?
顔赤いし、目もはれぼったい感じがするし……」
いやな予感が。
まさか、ここへ来て更なるトラブル?
天は我に七難八苦を与え給う?
【花鶏】
「あ、だめ、大丈夫だから、いいからって」
【智】
「動かないで」
おでこをくっつける。
【智】
「……………………熱っぽい」
【智】
「え……………………?」
えーーーーーーーーーー!!!!!
まじでぇ!?
【こより】
「ひええええぇっ!?」
絶望の悲鳴。
【伊代】
「な、なによそれ、こと、ここに至って!」
【茜子】
「……もしかすると、昨日の夜出歩いたせいで風邪……とかですか?」
【花鶏】
「違う」
【智】
「でも、熱っぽい」
【花鶏】
「……来ちゃったの」
【智】
「誰が?」
【こより】
「あ、あやや」
【伊代】
「ひぃ」
【智】
「?」
わからない。
【るい】
「そっか、生理か」
【智】
「なんですと」
こめかみをハンマーで不意打ちされた気分。
【花鶏】
「今週は大丈夫だと思ってたけど、狂ったみたい」
【智】
「ちょっとまって、そ、そ、そ、そ、それって……」
【花鶏】
「だから風邪とかじゃないわ。平気よ。わたしって重い方だから、ちょっと調子悪くなるけど」
【智】
「全然平気じゃないよぉ!!」
花鶏が横目で睨む。
【こより】
「…………これってどうなりますか?」
【智】
「マズイデスヨ」
片仮名になった。
追い詰められた心境で。
花鶏は主戦力だ。
それが使えないということになると……。
直前になって角落ち将棋。
【智】
「ああ、ドナドナの歌が聞こえて来た……」
【こより】
「なんて遠い目、センパイが錯乱してます!」
【るい】
「心配むよー」
【智】
「……どういう根拠のない自信で、それほど偉そうにされますか?」
【るい】
「平気平気。るいさん一人で3人分!!!」
断言。
たしかに、るいなら一人で3人分だろう。
【智】
「でも、これ、区間リレーなんだよね」
るいが無敵超人でも、一人では勝てない集団競技。
チームプレイと総合戦力が物をいう。
ここへ来てこれ、この逆境。
最後まで、これは、まさに――――
呪われた世界来たれり!!
熊のようにうろつく。
状況打開の方策がない。
【智】
「あー、うー」
どうしたら。
一体全体どうしたら……。
花鶏はそれでも走ると力説してるけど、
見る限り、かなり無理っぽい。
すると、選手交代しかないのか。
でも、直前で交代だといって、
央輝が許すだろうか?
よしんば、それが通じたとしても。
【智】
「でも、手持ちのカードで花鶏と交代させられるのは――」
伊代か、茜子か。
【智】
「……………………」
ドナドナめがけて一直線。
気分的には、もはや最終コーナー残り150メートル。
二人とも、ランナーとしてはブルーデー花鶏とどっちがマシか、
丙丁つけがたい文系的強者だ。
【智】
「と、とりあえず、主催者への言い訳を考えて、
せめて選手交代だけでも認めてもらわないと……」
【惠】
「困り顔だね」
聞き覚えのある声。
【智】
「……どっからでて来たの?」
惠だった。
以前もいきなり降ってわいた。
どこにでも出る。
黒くてカサカサするのと似てる。
【惠】
「しばらくご無沙汰だったね」
【智】
「僕の質問に答えろ」
惠相手だと容赦の無くなる僕だ。
【惠】
「このあたりをテリトリーにしているんだ」
【智】
「そっちも央輝の同類みたいなもんなのか」
【惠】
「さて、僕のことよりも、君のことじゃないか。どうやら
トラブルがあったんだね?」
【智】
「なんでわかるの!?」
【惠】
「予知能力がある」
へー。
素で言われてしまいました。
もう1回。
【智】
「へー」
【惠】
「笑ったね」
【智】
「笑いました。笑いましたとも。なんでしたら、お腹抱えて
笑いましょうか? 僕はリアリストなんですよ」
【惠】
「不思議は信じない方かな?」
【智】
「手品と魔法を混同しないだけだよ。
『未来がわかる』っていうのは、いくら何でも嘘度が高過ぎ」
【智】
「そうだ、こんなことしてる場合じゃないよ!」
話の主題を思い出す。
【惠】
「それなんだけれど。
今、君たちのことが、ちょっとした話題になっているんだ」
【智】
「……急ぐのでお付き合いの話でしたら日を改めて」
【惠】
「彼女……央輝が配信してるサイト。美少女戦隊だったかな」
なにその、いかがわしさ満点のフレーズ。
【惠】
「君たちのチームのことだよ」
己のあずかり知らぬところで、いやなキャッチコピーで
売り出されていた。
【智】
「…………そういう売り出しはやだな」
【惠】
「それで、どういうトラブル?」
今度はこちらのターンだ、と言うように。
【智】
「…………」
【惠】
「僕が力になれるかも知れないし、なれないかも知れない」
【智】
「なられても困る。愛の告白困る。
ピュアでプラトニックな関係で結婚するまではいたいの」
【惠】
「友達からはじめるという約束をしたのに」
【智】
「……本気でそういうお付き合いなら」
これっぽっちも安心できない。
いきなりの愛戦士だから、
それも、終始このローテンションな顔で。
【智】
「――――――そ、そうだ!」
人生の断崖絶壁三歩手前で閃いた。
いや、しかし、それはあまりにも…………。
でも、他に取れる手段は――――
他の手段を無理矢理考える。
37通りの方法を考察して、全部実現性の乏しさに
泣く泣く心ゴミ箱に破棄して捨てた。
【智】
「うわーん!!!」
現実の無情さに、僕は泣いた。
【智】
「というわけで、補欠と交代します」
【花鶏】
「どういうわけなの?」
ベタな返しだ。
【智】
「かくかくしかじか」
ベタっぽく。
便利ワードを使って説明する。
【花鶏】
「わたしは、まだ走れるわ!」
【智】
「予想通り、熱血スポ根モノできたね」
【花鶏】
「前にも言ったはずよ! これはわたしの問題なの。わたしが戦うべきことだわ。ちょっと調子悪くなったくらいで、そんなことくらいで、止められる問題じゃないの!!」
【智】
「これは同盟の問題でもあるから」
感情よりも実利優先で。
【智】
「花鶏ひとりがどうにかすべき問題じゃないし、どうにかしていい問題じゃない。手を繋いでる分リスクも共有してるんだ」
【智】
「僕にだって言う権利はある」
【花鶏】
「…………言ってくれる」
【智】
「矜持(きょうじ)も信念も思想も正しさも、必要なのはそんなものじゃない。勝つこと。僕らが勝つこと。やっつけること。そのためなら僕はなんだってするよ」
【花鶏】
「前向きな卑劣漢はタチが悪い」
【智】
「後ろ向きに卑怯よりは救いがあると思うんだ」
【智】
「1パーセントでも勝率を上げるためには、今は、花鶏が出るよりこっちの方が役に立つ。だから、僕は花鶏を下ろして取っ替える」
【花鶏】
「…………立つの?」
【智】
「…………立つよね?」
怖ず怖ずと。
【惠】
「それなりに」
代走ランナー(予定)の惠は、いつも通りの、本音が読めない
ローテンションで軽く肯く。
【るい】
「ここへ来て傭兵か」
【智】
「逆境の中生き残るには、手段を選べない貧しい国々」
【こより】
「このレース、怖い話ですよ?」
【惠】
「知らなかったな」
【るい】
「いいの、トモチン?」
【智】
「いやあ、正直微妙なんだけど、全然良くないんだけど、
なんといっても選択肢が少ないから、僕たち」
貧困にあえぐ発展途上国くらい
選択できる手段がない。
苦肉の策である。
とにかく、こやつを代走にしなければ、
残るメンバーは文系ソリューション。
【るい】
「なんかすごいよね。進む度にトラブる人生ゲーム級」
【智】
「僕の理想は植物のように穏やかな人生」
【伊代】
「無理だと思うわ」
【花鶏】
「…………わかったわ。でもね、智」
【智】
「はい」
【花鶏】
「これは、ひとつ貸しよ」
【智】
「借りじゃないんだ……」
世知辛い世の中だった。
【智】
「そういえば、これで、せっかくのフレーズがダメになったなあ」
【伊代】
「フレーズって何よ」
【智】
「美少女戦隊」
【こより】
「なんです、それ」
【智】
「僕らは広大なネットの海で、そのように呼ばれ、崇め奉られて
いるのだ」
嘘である。
【花鶏】
「ブルーになるわね、そのタイトルは」
ブルーデーだけに。
【智】
「まったくもって」
前触れもなく。
【惠】
「才野原惠」
名乗る。
名前はとっくに知っている。
あらためての自己紹介は開始の合図だった。
刻限が来た。
夕闇の赤色を、ビル影に抱かれて避けながら、
央輝は冷淡に笑んでいた。
これで状況は、引き返せない折り返し点を過ぎた。
ここから先の結末は二つに一つ。
問答無用な二分法。
勝利か敗北か。全てか無か。中途半端はない。
いよいよ、
レースが始まる――――――
チームは4人。
最初はるい、次は花鶏の予定が惠に。
央輝はメンバー変更による代走を、
くわえタバコでニヤリと笑って許してくれた。
【智】
「あっさりだ」
【央輝】
「メンバー交代を禁止した方がよかったか?」
【智】
「禁止された時にどうやって言いくるめるか、必死に頭を
悩ませてたのに」
【央輝】
「ひゃははっ」
お腹を抱える。
そんなにツボだったのか。
【央輝】
「やっぱり、オマエは怖いモノ知らずだな。この街で、あたしが
なんて呼ばれてるのか、知らないわけじゃないんだろ?」
【智】
「饅頭怖いのは、るいの専売特許で十分。僕は世の中怖いモノ
だらけだよ」
【央輝】
「あたしが見るところ、お前の方がよっぽどたちが悪いな。
知らないから怖がらない頭の悪い馬鹿ってのはいくらもいるが、
知っていて怖れないひねくれ者は滅多にいない」
【智】
「……吸血鬼、だっけ?」
噂をいくつも耳にした。
央輝は夜の闇を住処にする。
央輝に呼び出しを受けた家出娘が、
それきり二度と姿を見せなくなった。
血をすする。
日の光を浴びると死んでしまう。
などなど……。
【智】
「ひと睨みで相手を殺す、とかいうのもあったかな」
邪眼伝説。
正体が吸血鬼なら、殺すんじゃなくて惑わすのでは。
【央輝】
「お前は、本当に、見た目よりずっと面白いヤツだな」
【智】
「そういう言われ方は傷つくかも……」
【央輝】
「気に入ったんだよ」
央輝の爪が、ついっと、僕のあご先を持ち上げる。
白い喉をさらけ出す瞬間、ほんの少しドキリとした。
はたして。
央輝は笑った、
のか、どうなのか、
よくわからない微妙な表情。
間近にいる央輝は小さく細い。
ガラス細工のように儚く映る。
なのに、二歩離れれば尖った威圧感が肌を刺す。
【央輝】
「時間が来る。はじまる。そうしたら――」
今度は、はっきりと笑った。
獰猛に。
【央輝】
「お前は、すぐに、あたしのモノだ」
伊代たちは、ここで待機する。
央輝がナシをつけている、
会員制クラブかなにか、それらしい場所だった。
こういう場所、今まで入ったこと無いから
よくわからないけど、なかなかに高級そう。
【智】
「高いんだろうね、こういう場所だと……」
【伊代】
「さあ?」
こっちも、こういうところは初心(うぶ)だ。
【伊代】
「それで、あなたたちは……」
【智】
「もうすぐ、それぞれのスタートのポイントに行きます」
各ランナーのスタートするポイントは、
当然ながら、街中に散っている。
【智】
「心配しなくても、最初はるいだから、ランナーとしてのスペックは圧勝してるはず」
【伊代】
「じゃあ、勝てる?」
【智】
「……マシンの性能差が戦力の決定的差ではないことを教えてやる」
【伊代】
「教えてどうするのよ」
【こより】
「こわいッス〜〜〜〜〜」
背中にしがみついてきた。
【智】
「覚悟だ、覚悟があれば超えられる」
【智】
「あとね、それから……」
【伊代】
「まだなにか? 貴方もそろそろ行くんでしょ」
【智】
「今日、ここに来る前にした相談、覚えてる?」
【伊代】
「相談……」
【智】
「忘れてる」
【花鶏】
「仕掛けの話ね……」
ソファーを借りて横になったまま花鶏が呻く。
【伊代】
「ああっ!」
来る前に相談しておいた。
央輝と、茜子の父親が砂をかけた相手との力関係は、
正直よくわからない。
今回のゲームでチャラにできるからには、
隅に置けない関係があるのは間違いないんだけど。
でも、ただのレースじゃない。
たちの悪いギャンブルでもあった。
レースの勝敗に賭けがされていて、お金が動く。
かなりの額だ。
面子とお金。
危険な代物だ。
命より重くなったりもする。
そんなものが二つもそろって、
正々堂々と勝負をしてくれるのを信じるほどには、
僕は素直になれない。
【伊代】
「でも、まさか……」
【智】
「伊代ちゃんのお人好し」
【智】
「オッズは見た?」
【伊代】
「どうなの?」
【智】
「そりゃもう大穴ですよ」
レースに参加するのは、
僕らのチームと相手のチームの二つだけだ。
相手は何度もレース経験のある玄人さん。
こちらは素人もど素人。
しかも美少女軍団だ。
【智】
「女の子ばっかで侮ってるだろうけど、るいが飛ばして慌てるはず」
るいちゃん、無敵超人だから。
うむむ、オーダーを間違ったかなぁ……。
妨害ありのハードなゲームだ。
切り札を先に切ったのは、
最初に差を広げておきたかったからだ。
接戦になるのはよろしくない。
花鶏はともかく、こよりはマズイ。
走るならまだしも、潰し合いになると、ボロが出る。
なので、我らが美少女軍団チームの戦略は、
先行逃げ切りを重視した。
その分、手の内を早くにさらけ出してしまう。
ギリギリまで実力を隠しておいて、
ラスト2ページの見開きで大逆転という、
少年漫画な展開は難しい。
なにせ美少女軍団チームはインスタントだ。
経験値ないし、チームワークもいまいち。
【智】
「うわあ」
【こより】
「なんか絶望の声が」
【智】
「こんな勝負に勝つ気で挑んだ自分の無謀さに、
今更ながらにびびってるところ!」
【こより】
「ほんといまさらダー」
投げやりなテンションだった。
【こより】
「もはや勝負ははじまっておるです。かくなる上は一億総玉砕あるのみ!」
こよりんにスイッチが入る。燃えていた。
燃え尽きる前のロウソクのように。
【智】
「おお、昨日しゃっぽを脱いで逃走したマンモーニ(ママっこ)とはひと味もふた味も違う頼もしいお言葉。背負った子に教わるとはまさにこのこと」
【こより】
「ふふふふ、女子三日あわざれば刮目せよなのです」
【智】
「一日も経ってないけどね」
央輝がやってきた。
指を鳴らして仲間を呼ぶ。
そいつが持ってきたシティマップが、
僕らにも手渡される。
【るい】
「こいつはなんじゃんよ」
【智】
「マップですよ、皆元さん」
【るい】
「見ればわかるっす」
【央輝】
「今回のマップだ」
【智】
「地図は前にももらわなかったっけ?」
【央輝】
「コレは現場で使う用だ」
【智】
「赤の○がチェックポイントで、こっちの☆印が交代地点ってわけ?」
【るい】
「なるほどー」
いよいよ伸るか反るか。
身売りの運命が決定される。
【智】
「実は、僕、ギャンブルって得意じゃないんだよね」
【るい】
「ほほう、女は飲む撃つ買うじゃろー」
【智】
「……何を買うのよ」
意味知ってて言ってるのか。
【るい】
「えとー、巫女ーお茶の間ショッピング……?」
【智】
「なによ、そのフェチっぽいテレビシリーズ」
【茜子】
「るいさん世界は平和です」
【花鶏】
「……ギャンブルが嫌いなくせに、
渡る橋はずいぶんと危ないところばかりなのね」
花鶏は濡れタオルを額にソファーに伏せっている。
【智】
「病人のくせにアトリンが虐める」
【こより】
「おー、よしよし」
【伊代】
「……不思議だ」
【るい】
「なにが?」
【伊代】
「イヤ、アレが唸ってるのに、貴方が静かなんて」
【るい】
「私、弱いものイジメはしない主義」
胸をはる。
揺らす。
【花鶏】
「……二重にむかつくわ」
そうだろう、そうだろう。
【伊代】
「あのね、あなたたち、状況わかってるの? 緊張感持たないと、どうなっても知らないわよ!」
伊代の眼鏡がキラリと光る。
逆光で下が見えないあたり、演出過多だ。
【智】
「座の空気を和らげようと、ねー」
【こより】
「ねー」
こよりと手を繋ぐ。
【智】
「それはともかくとして」
【智】
「本音をいうと、僕は勝つのが好きなんです。勝利の味をしゃぶり尽くしたいんです。1階でLVあげて、ニンジャにクラスチェンジしてゴブリン倒すとか、そういう感じの」
【智】
「圧倒的な力と陰湿な策略で、よわっちー虫けらを高笑いしながらぷちっとか、特に好き」
【こより】
「わりと最低だ、このひと」
【茜子】
「美少女軍団一番の小者は、一番手でがんばってください」
【智】
「心温まる励ましありがとう。でもアンカー」
【智】
「それで質問なんですが、央輝さん」
細々と指示を出していた央輝が振り向く。
【央輝】
「なんだ」
【智】
「スタートは同じで、ポイント通ればコースは自由。
さてここで問題です」
【智】
「……邪魔OKってことだけど、いつもはどれくらい邪魔するの?」
【央輝】
「ルールブックは読み込んだか?」
【智】
「ルールブック? ああ、あのミニコミ誌。保険の契約書くらいのつもりで読みました、読み込みました。あんまり細かい説明してなかったけど」
【央輝】
「イイコトを教えてやる」
ちょいちょいと指で呼ばれた。
【央輝】
「あたしは血を見るのが好きなんだ」
唇が耳まで裂けた、気がした。
【智】
「最悪だ」
がっくり膝から崩れる。
冗談ならタチが悪いし、本気なら始末に悪い。
【央輝】
「せいぜいあがけよ。ルートは自由でも最短のコース取りは限られる。どうやったって、一度や二度はぶつかることになるからな」
【央輝】
「地図見たくらいじゃ、最短ラインなんてわからんだろうがな。
こればっかりは経験が物を言う」
【智】
「大層なハンデだなあ」
【央輝】
「元々そういう賭けだ。勝てば借りがチャラになる。なら、
多少不利なのは当たり前だろうが」
【智】
「経験値の高い方が勝つ、ですか」
概ね正しい。
強いて、あと一つ勝つために必須なものをあげるとすると。
【智】
「面の皮の厚さかな」
【こより】
「?」
ランナーの各所定位置への配置予定時刻になった。
チェックポイントに移動する。
【智】
「それじゃあ、後で」
【花鶏】
「勝った後で……」
【るい】
「先のことはわかんない」
【智】
「大変そうだなあ」
【こより】
「悩みを捨て去る、あんイズム! 鳴滝のオススメですよう!」
【伊代】
「気楽なのね」
【智】
「深刻よりいいと思うよ」
【惠】
「面白いね。やっぱり、君は」
【茜子】
「…………」
悲喜こもごも。
美少女軍団プラス1。
この期に及んでも、団結はいまいち。
【伊代】
「ホントに行っちゃった」
【花鶏】
「こっちは3人で居残りか……」
【茜子】
「残りものには福があるそうです」
【花鶏】
「土壇場で、こんな屈辱っ」
【伊代】
「……出たかったの?」
【花鶏】
「当たり前でしょ! わたしの問題なのよ。それを、他人に取って代わられる口惜しさ、貴方にはわからないでしょうね」
【伊代】
「……怖くないの?」
【花鶏】
「こわい?」
【伊代】
「レースもそう、黒いヤツの仲間連中もそう……
街で最初に追いかけられたとき、わたしはすごく怖かった」
【伊代】
「どんなバカなことだって起こるんだって思ってたのに、いざとなったら身動きひとつできないくらい震えが来たのよ。あなた、本当によくやるわ」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「負けるのはごめんだわ」
【伊代】
「あなたとか、あの体力バカとかなら、それでいいんでしょうね。でも……わたしは違う。わたしは普通よ。怖くてできない」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「普通なら、さっさと別れればよかったのよ。今からだって遅くはないわ、見捨てて逃げ出せばいい。高笑いして見送ってあげるから」
【花鶏】
「普通だなんていってるくせに、のこのこついてくるのは
どういうつもりかしら」
【伊代】
「……手を引くなんてできないわ」
【花鶏】
「それなら諦めるのね。逃げ出すこともできない、覚悟もない。
意味のない後悔を延々繰り返すくらいなら、逃げる方がまだ潔い」
【花鶏】
「………………ぷはぁっ」
【花鶏】
「話すぎたわ。頭痛がぶり返した」
【茜子】
「自爆マニアめ」
【伊代】
「………………」
【伊代】
「それにしても、ここは、いかがわしいお店ね」
【伊代】
「繁華街の奥のお店とは」
【花鶏】
「尹の関係のお店で、今日はメンバーシップオンリーらしいわ……」
【伊代】
「……お店って、あの子、わたしたちとたいして歳も変わらない筈なのに、いったいどんなことやってるのよ」
【茜子】
「秘密がムゲン」
【花鶏】
「ちょっとは落ち着きなさいよ。
貧乏揺すり、鬱陶しいし響くから……」
【伊代】
「わたし、こういうお店ははじめてなのよ……」
【花鶏】
「よかったわね、経験できて」
【伊代】
「そんな経験、ちっとも……っ」
【花鶏】
「だから少し静かにしてちょうだい、頭に響く……」
【伊代】
「あ、その、ごめんなさい……」
【茜子】
「お水です」
【花鶏】
「спасибо(ありがとう)」
【茜子】
「他の人たちはどうなってますか?」
【伊代】
「なによそれ」
【花鶏】
「ノートPC。わたしのよ。
ここで繋げば見れるってきいたから持ってきた」
【茜子】
「映像きちゃないですね」
【花鶏】
「ネット配信用にビットレート下げてるし。見てると頭イタイし、管理はあなたたちに任すわ」
【茜子】
「映りました。ちゃんと顔はわかりますね」
【伊代】
「あの子…………」
【茜子】
「…………トモ・ザ・アホーは今世紀決定版バカです」
【伊代】
「でもあの子、成績は悪くないらしいわよ。わりと名門通ってるし」
【茜子】
「はい生理痛、ツッコミどうぞ」
【伊代】
「え?」
【花鶏】
「誰かこのメガネを黙らせろ……」
【伊代】
「減らず口だけは、どこまでも元気なのね、あなた」
【茜子】
「世の中で一番大事なモノはなんだと思います?」
【花鶏】
「誇り」
【伊代】
「……正しさ」
【茜子】
「ブッブーです。正解は利害」
【茜子】
「私は知ってます。誰だってそうなんです。それに色々な名前を付けてごまかしたりするけれど、それは得か損かっていうそれだけです」
【茜子】
「家族も夫婦もラバーズもフレンズも、赤の他人同士となにも変わりません」
【茜子】
「私たちだって利害で結ばれてます」
【茜子】
「誰だって、いざとなったら逃げ出します」
【茜子】
「親子だって、手に余ったら手を切るんです」
【伊代】
「そんな……」
【茜子】
「魔女だって、言われたことはありますか?」
【伊代】
「な、何よそれ、ひどい!!」
【茜子】
「ひどくないです」
【茜子】
「猫は猫です。犬と狼は似てても違うものなんです。
魔女はやっぱり魔女です。魔女に向かって魔女というのは
酷くも何でもないです」
【茜子】
「そうじゃないですか?」
【伊代】
「……自分をそういうふうに言わないで」
【茜子】
「私のこと、何も知らないくせに。
そんなふうに言うのはやめてください」
【伊代】
「…………っ」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「そうよ、そうよね。わかってる。ほんとは、あなたのことなんて何も知らない。でもね、知らないのが当たり前よ。他人のことなんてわからないんだから」
【茜子】
「まあ、当たり前はそうですね」
【伊代】
「何を考えてるのかわからない。基準もない。誰も何も正しくない。今は良くても、明日には変わってしまうかも知れない」
【伊代】
「誰のこともわからない、先のこともわからない、なにもどれも
わからない。世の中なんてわからないことだらけ」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「今の白鞘は、悪くないわよ」
【伊代】
「……わからないことだらけなのに、誰も守ってくれない」
【伊代】
「だから、自分のことは自分でしなくちゃ、自分で守らなくちゃ。世界も社会も他人もなにも、どうせわかりっこないんだから、
自分を守るのは自分だけよ」
【伊代】
「………………」
【伊代】
「……なんで……なんだろう、なんでそうなってるんだろ」
【伊代】
「バカは損するようになってるのよ。厄介を自分で背負い込んで
足をすべらせるような子は、遅かれ早かれ世間の荒波に揉まれて死ぬわ」
【茜子】
「特に、自分が頭良いとか思ってるヤツに限って、特大級の
墓穴っちですね」
【花鶏】
「思うに」
【花鶏】
「やっぱり一番頭悪いのは智ね」
【花鶏】
「自分からしゃしゃり出てきて穴に入るんだから」
【伊代】
「……賛成」
【茜子】
「異議無し」
【伊代】
「要領悪いのよ、きっと」
【茜子】
「頭の容量足りてないだけだと思います」
【智】
「っくしゅん」
不意にくしゃみをする。
自分のスタートポイントで配置についている。
僕の競争パートナー、敵チームの最終走者は、
なんと央輝だった。
敵チームが、実は央輝のチームだと教わったのは、
今日になってからだ。
【央輝】
「走る前から風邪か? 倒れたらそんときは、お前の明日は
うるわしの生活だぜ」
空を仰いで、げっそり。
【智】
「麗しくない麗しくない。人は奴隷として生きるにあらず。
荒野にボロ着でも自由に生きたい」
【央輝】
「はっ」
すがめた目が見下げ果てていた。
【央輝】
「明日食うものの心配もしなくてすむ連中の戯れ言だ、そんなのはな。首輪よりも自由がいい、心に錦で肩で風切って生きていくか」
冷たい敵意の刃先が鋭い。
【央輝】
「冷たい雨に打たれながら眠ったことは? 三日ぶりの晩飯代わりに大きなネズミをかじったことは?」
【央輝】
「水の代わりに泥を啜って這い回ったことは? 一枚の硬貨のために血塗れになって争ったことは?」
【央輝】
「何もかも捨ててもどうにもならない、死んだ方がいいって本当に心から思ったことは、お前、あるか?」
【央輝】
「自由と鎖を秤にかけるのは、秤に両方が乗る場合だけだ」
【智】
「……キミは、ある?」
【央輝】
「さあな」
央輝が口元を歪める。
笑いと呼ぶには空っぽで、酷く虚無的だった。
【央輝】
「ヨタ話をしてていいのか。ほら、スタートだ。見てみろよ。
はじまったぞ」
すぐ間近に路駐されてるバンの中。
央輝の仲間がノートPCをガチガチやっている。
モニターにネットからの映像が映っている。
【智】
「るい……」
ファーストランナーはスタートを切っていた。
画像の中で、るいが疾走している。
最初から飛ばしているようだ。
るいの姿は、あっというまにカメラの視野から消えてなくなった。
【伊代】
「見てみて、ほら見て、さっき映ったわ。ほらほらこれこれ!」
【茜子】
「すごくうるさいです」
【花鶏】
「見てるわよ。子供じゃあるまいし、はしゃぎ過ぎだわ。
大声出さないでくれる、頭に響くっていったでしょ……」
【伊代】
「う……ごめん……」
【伊代】
「そ、その、薬は飲んだの……?」
【花鶏】
「ちゃんと飲んだわよ。そのうち落ち着く」
【伊代】
「あなたもこっちで座ればいいのに」
【茜子】
「狭いです」
【伊代】
「二人くらい大丈夫でしょ」
【茜子】
「いやらしい」
【伊代】
「な、なにいってんの、その子じゃないんだから!」
【花鶏】
「ダイエットしないと駄目なんじゃない?」
【伊代】
「……ダイエットならしてるわよ!
わたしくらいの体型で○×キロなら普通でしょ!!」
【花鶏】
「○×!?」
【茜子】
「……普通じゃない」
【伊代】
「え、うそ!??」
【花鶏】
「普通じゃないわ」
【伊代】
「で、でも、わたし……違う、そんなに太ってない……」
【茜子】
「世界の終わり〜♪」
【伊代】
「きゃ、うひゃひゃひゃ、どこサワってんの?!」
【花鶏】
「……エアバッグが重すぎるみたいね」
【伊代】
「だ、だれがエアバッグか」
【茜子】
「また映った」
【伊代】
「どれ……あの子ったら……」
【花鶏】
「……無駄に元気そうね」
【るい】
「だっしゃー」
【るい】
「つかさ、いったいどこが最短コースだったっけ。
トモはたしかこっちって」
【るい】
「おお、そうそう。ここのビルに入って一気に階段を駆け上がって」
【るい】
「フロアに出て3つ目の扉をくぐって」
【OLの京子さん】
「いらっしゃいませ。お客様はどちらから、」
【るい】
「あー、平気平気ちょっとごめんくらさい」
【OLの京子さん】
「あ、あの、お客様、そちらは窓しか」
【るい】
「よっこらしょ」
【OLの京子さん】
「お、おきゃくさまぁっ、ここは5階で!?」
【京子さんの上司】
「おーい、京子君。ちょっとお茶貰える?」
【るい】
「うわ、こりゃひどいや。つか足場もあんなんだし。下見に来たときに言ってやればよかったな。なんでこういう高くてヤバイとこ通らせるのかな、うちのトモちんは」
【OLの京子さん】
「おおおおおおおお、おきゃくさまあ!?」
【るい】
「せーの」
【OLの京子さん】
「わー!」
【るい】
「わーーーーーい」
【OLの京子さん】
「と、とんだ……?」
【智】
「また映った」
【央輝】
「今回はえらくカメラのあるところ通らないな」
【央輝】
「それにしてもいい勝負じゃないか。どういうルートだったのかわからないが。たしかに手札の一つや二つ仕込みもしないで勝負は受けないってわけか」
ご名算。
用意したのは、るい用の特別ルート。
ビルの上からちょっとショートカットするコース。
【央輝】
「うちの連中はゲームに慣れてる。コースだって勝手知ったる自分の庭だ。あの女がいくらゴリラでもそう簡単にはいかないと思ったが」
【智】
「るいちゃん、最終兵器乙女だかんね」
ビルからビルをひとっ跳び。
ハイジャンプは経験済みなのだ。
【智】
「ゴリラなんて聞いたら怒るだろうなあ」
【智】
「おわ、ハイジャンプ!」
なに今のものすごいのっ!?
カメラ正面だし。
揺れたし回っちゃってます。
【智】
「だからあれほどヒモ太ブラを着けろと……ッッ」
あれ……?
下着は昨日洗濯機してた。
しばらく花鶏の家に泊まり込んでるし、
洗濯当番は僕だったから覚えてる。
ブラっとしたやつの代わりは
持ってなかったような。
洗ったヤツを出した覚えはありません。
(※洗濯当番は僕です、常に)
もしかしてノーブラ!?
なんという神の領域。
【央輝】
「なにやってんだ、お前は?」
【智】
「いやその、ちょっと今まずいので……」
もじもじと。
主に身体の一部分がマズイです。
【央輝】
「得難いコース取りをしやがるな」
【智】
「乙女兵器特設コースはちょっとシャレがききませんよ」
常人には高確率で無理だ。
【智】
「妨害って直接殴ったりは禁止なんだよね」
【央輝】
「ゲームだからな。血を見るのは結構だが、ただの殴り合いになるなら最初からそうする」
サドっぽく笑われた。
【央輝】
「ヤバイ連中が多いから、どうかするとどうかなるが、そういうのも盛り上げにはちょうどいい」
【智】
「できれば遠慮したいナー」
【央輝】
「怪我をさせたらペナルティーだ、一応な」
ものすごくどうでもよさそうに。
【智】
「美少女軍団なんだから加減してよ……」
【央輝】
「この国には男女平等ってのがあるんだろ」
いよいよどっちでも良さそうに耳をほじる。
【智】
「時には思いだそう古き良き時代のレトロな文化」
【央輝】
「このままじゃ、追いつけないな」
【智】
「あ、ゴミ箱ぶつけた!?」
相手の方が、だ。
るいがゴミまみれ。
【央輝】
「挑発して心理的に追い詰める手だ」
【智】
「……武器はありなんだっけ、説明だとかなり曖昧に書いてあったけど?」
【央輝】
「たまたま持っていたビールビン、たまたま落ちていたゴミ箱、
たまたま近くにあったプラカード、更には相手がしていた
ネクタイ……」
【智】
「いやいやいやいや」
全力で否定。
【央輝】
「おいおい、お前の仲間、足が止まってるぞ?」
るいが固まっていた。
【智】
「こりはヤバイかも」
ぷち、とかいう音がモニターごしに聞こえる。
【るい】
「たまたま落ちていた、」
【るい】
「120ccのバイクーッッ!!!!!」
【智】
「…………」
【央輝】
「…………」
【智】
「……たまたまってことでいい?」
【伊代】
「……あれ、落ちてたっていうの?」
【花鶏】
「駐車してあったのよ」
【茜子】
「ぐろ」
【花鶏】
「なんて泥臭い」
【茜子】
「泥臭いというよりもきっとゴミ臭いです、反吐のように」
【伊代】
「さすがにこれはペナルティーなんじゃ……」
【茜子】
「直接攻撃してないからセーフで」
【伊代】
「……いいのかおい」
【央輝】
「どのあたりが美少女軍団だ」
ぼそっと。
【智】
「………………見た目?」
異論は認める。
【央輝】
「本物のゴリラかアレは」
【智】
「ゴリラよりはレア度が高いと思います」
あっちも絶滅危惧種だけど。
【智】
「あれ、そっちのヤツ起き上がった。元気だなぁ。やっぱり倒れた」
【央輝】
「避けたときに捻ったか何かだな。あのゴリラも、直接ぶちあてなかっただけ、加減はしたらしいな」
【智】
「るいちゃんにも理性はありました」
なけなしですが。
それにしたって。
本当に頑張ってくれている。
るいには意味がないことなのに。
同盟だ。
名前を付けて結びつく。
そうでなければ結びつけない。
なぜなら。
秘密があるから。
呪い――。
【智】
「でも、利害は」
なくても。
きっと、るいは走る。
理屈を抜きにして。
【るい】
「ぶえっくしゅん」
【るい】
「うぐ、ぐす」
【るい】
「風邪かなあ」
【智】
「るいって、ホントにバカだねぇ」
今、僕はとても楽しい。
【伊代】
「体力屋、随分頑張るわね」
【花鶏】
「脳まで筋肉細胞でできてるせいじゃないかしら」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「……?」
【伊代】
「……ナプキン貸そうか?」
【花鶏】
「誰がそういう話をしてるの!」
【伊代】
「あ、でも、なんか難しい顔してたから……」
【花鶏】
「ちょっと気にかかることがあっただけ」
【伊代】
「病人は頭使わず大人しくしてたほうがいいわよ?」
【花鶏】
「大人しくしてられるわけないでしょうに。
何度も言ってるでしょう。これは元々わたしの問題なのよ」
【るい】
「ターッチ」
【惠】
「たしかに」
【るい】
「それから一言言っとくけど」
【るい】
「私、まだそっちを信用したわけじゃないから」
【惠】
「負けるためにここにいると?
僕が、央輝のスパイだって言いたいわけだ」
【るい】
「みんないっぱいがんばってる」
【るい】
「私バカだから、そっちが何考えてるのかなんてわかんない。
けど――」
【惠】
「怖い顔だ。キミは本当に獣のようだね。優しく、鋭くて、純粋で」
【惠】
「指切りをしようか?」
【るい】
「指切り嫌いだから」
【惠】
「安心するといいよ。僕は、彼女とは友達以上になりたいんだ」
【央輝】
「二番手が出たぞ。ふん、そっちがリードしてやがる」
モニターは惠の俯瞰を映している。
一番手は予想以上に上手くいった。
問題はここから。
急あつらえのピンチヒッター。
ろくな仕込みもしていない。
【智】
「あーうー」
策士、策がなければただの人。
【惠】
「どうかな」
【惠】
「…………」
【惠】
「さすがに央輝の仲間だけのことはある。予想より早くついてくる。これだと、そのうち並ばれるかもしれないな」
【惠】
「いや、運命ほどには早くないかな」
【惠】
「君が、僕に付いてこれるといいが」
【伊代】
「え、今どっから出たの?」
【茜子】
「代理の変態生物……善戦、してますね」
【伊代】
「変態は、ないんじゃない」
【茜子】
「そうですね。では、変質者生物くらいで」
【伊代】
「生物つけても柔らかくなってない」
【花鶏】
「うー、またあだまがいだい…………」
【智】
「……そっちと知り合いだったよね」
【央輝】
「才野原か、ああ、多少は付き合いがある」
【智】
「聞いていい?」
【央輝】
「いけ好かないが役に立つ……そういうやつだ。それ以上は知ったこっちゃない」
【央輝】
「世の中の人間には三種類ある。役に立つヤツと、立たないヤツと、邪魔なヤツだ」
【央輝】
「邪魔なヤツは敵だ、敵は殺す」
首の後ろがちりつく。
むき出しの殺意。
刃物の鋭利ではなく、それは牙だ。
やわらかな喉に噛みつき引き裂くための。
【央輝】
「……お前、本当に妙なヤツだな」
【智】
「何が?」
【央輝】
「お前はそっち側の人間だ。わかるだろ。お前はこっちにはいない」
【央輝】
「誰だって赤い血の流れる同じ人間……なんてお題目があるが、
嘘っぱちだ。線があるんだよ。そっちとこっちは違うんだ」
【央輝】
「見えない、だが、深く、はっきりとした。境目だ。犬と狼の。
どんなにでかくなったって犬は犬、首輪を付けても狼は犬には
なれない」
【央輝】
「お前は犬っころだ、ただの犬っころだ。なのに、面白い。
どこにでもいる犬っころとは違う」
【央輝】
「最初に会ったときからそうだった。へらへらしやがって」
【智】
「……へらへらとは、酷いおっしゃりよう……」
【央輝】
「それなのに、壊れない」
帽子の下からのぞく、央輝の目が細くなる。
【央輝】
「普通のヤツはビビるんだ。あたしの近くに来ればな。犬だって
鼻が利く、自分の持ってない牙と爪がある相手のことは黙って
たってわかる」
【央輝】
「お前はしぶとい、腹が据わってやがる」
【央輝】
「どうして怖がらない?」
【智】
「……央輝を……?」
【央輝】
「他のことも全部ひっくるめて、だ」
鼻の頭が触れるほど間近に来た。
頭の上を見下ろせるほど小柄な尹。
ほとんど物理的な圧力が吹き付けてくる。
央輝が身につけている息苦しいほどの剣呑さは、
血の匂いをイメージさせる。
奇しくも彼女自身が言葉にしたように。
犬と狼。
悲劇的にステージが異なっている。
【智】
「買いかぶらないでよ。怖いにきまってるんだから、当たり前に。こういうのは虚勢っていうの」
【央輝】
「そうだな。確かにお前は怖がってないわけじゃない、そのあたりは人並みだ」
【智】
「……わかる……?」
【央輝】
「鼻が利くんだよ、狼だからな」
【央輝】
「お前が知ってるのは耐える術だ。しぶとく、頑丈に、壊れることなく、生き延びるための知恵だ」
【智】
「…………」
【央輝】
「誉めてるんだぜ?」
悪い大人のような、濁った笑い。
【智】
「ありがと」
誉められたので、お礼を言う。
知恵。
知っているのは、ささやかなこと。
諦めという名の知恵。
日々が不安定だという事実を納得する諦観。
偶然が支配する。
この世界のどんなものをも支配するのは、空の上にいて見えない誰かの寝ぼけ眼な思いつきで、汗水たらした努力も日々磨き抜いた叡(えい)智(ち)も、無意味に無情に押し流してしまう。
すぐ足下に恐怖があること。
それを知っているから。
耐えられる。
【智】
「…………それよりゲームは?」
話題を引き戻す。
【央輝】
「お楽しみだ」
【伊代】
「あいつ、中々カメラの範囲にでてこないわ」
【茜子】
「それはどういうことですか」
【伊代】
「コース取りが変なんだと思うけど」
【茜子】
「映った」
【花鶏】
「さっきより差が詰まってるわね……」
【茜子】
「それでもまだリードしてます」
【惠】
「…………」
【通行人】
「あ、なんだ、このやろうっ。
いきなり走ってきてぶつかりやがって!」
【寡黙な会社員】
「……」
【2年目のOL】
「きゃー、いたーい!」
【酒屋の店主】
「おまえ、ちょっと待てぇ!」
【惠】
「今日も騒がしいね」
惠のリードが詰まっていく。
【央輝】
「経験値の差がものをいってるってわけだ」
【智】
「そっちのひとは慣れてるんだっけ」
【央輝】
「ゲームの経験が豊富だからな。が、才野原のやつも予想以上だ。土地に詳しい。こっちの知らない妙な抜け道を幾つも使ってるようだ」
モニターに惠の姿。
雑踏を流れに逆らって突き抜ける。
予想外なことにリードしていた。
距離は小さいが、一度も抜かれていない。
【智】
「…………っ」
繁華街の人混みを横断し、
ビルの中をくぐり抜け、赤信号を飛び越える。
頑張って頑張って頑張って。
声援を送る。
予定は全部狂う。
計画は破れる、予告は失われる、未来は変わる。
ただの一つも叶わない思惑。
どれだけ賢しく小細工を弄しても、世界は罠を飛びこえて、
後ろから急所を刺しにやってくる。
偶然と呪いでできた、この小さくて醜い世界に生きる、
僕らの持つ知恵の限界。
それを日々思い知りながら。
【智】
「…………頑張って…………」
信じていいのか?
言葉よりもずっと難しい。
信頼、友情、絆。
世間的に尊ばれる無私の絆。
言葉にすれば希薄になって消えてしまいそうになる。
本当は、誰も信じられない。
信じることは、命を落とすこと、だから。
【智】
「や……っ!?」
【伊代】
「……このまま勝ってくれる? 信じていいの?」
【茜子】
「人の善意を鵜呑みにすると足下すくわれます」
【伊代】
「そうね、そうだと思う。でも……だから……それでも正しい事っていうのは、人の中にしかないんだと思う……」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「あー、頭痛い…………」
【伊代】
「お?」
【智】
「止まった!?」
惠が動かない。
【智】
「ゴールはすぐそこなのに!」
【央輝】
「…………」
後ろから追いついてくる。
まずい。
こよりにはリードが必要なのに。
ちっちゃなウサギがチームの一番の弱点だ。
惠……。
【伊代】
「……ッ!」
【茜子】
「動きませんね」
【伊代】
「まさか、そんなの、ここまできて!」
【花鶏】
「…………」
【惠】
「…………」
【尹チームの二番手】
「――――――っ」
【尹チームの二番手】
「ぬぐぁっ!?」
【智】
「……ッッ」
蹴った!?
たまたま落ちていた(?)
看板を蹴って吹っ飛ばした。
相手を坂道の下までたたき落とす。
【花鶏】
「思いの外過激なヤツだったわけね…………」
【伊代】
「ちょ、あーいうのはありなわけっ!?」
【茜子】
「直接攻撃じゃないので、ルール的にはオッケーです」
【伊代】
「乳ゴリラといい、あいつといい……
き、禁止されてなきゃ正しいってわけじゃないんだから」
【茜子】
「勝てば官軍」
【央輝】
「…………武闘派だな」
呆れていた。
【智】
「ごめんなさい」
這い蹲りそうな勢いで。
美少女軍団、名前負け……。
【智】
「ルール的には……?」
るいのやったのより、ボーダーなんじゃ。
【央輝】
「盛り上がってるな」
【智】
「なにが……?」
【央輝】
「オッズ」
パルクールレースは賭けの対象にされている。
最終的な勝敗の他に、各プレイヤーのトリックや、
区間での勝敗などにも賭けがある。
らしい。
【智】
「盛り上がってるから問題なし?」
【央輝】
「今のところは」
【央輝】
「これで、またお前たちがリードした」
【智】
「余裕あるね、二連戦で負けてるのに」
【央輝】
「それくらいはハンデにくれてやる」
戯れるように鼻をつままれた。
【央輝】
「お前たちこそ大丈夫か? 三番手はネックなんだろ」
見抜かれる。
【智】
「あれでも、うち一番の逃げ上手なんだよ」
【央輝】
「勝負でモノを言うのは力や技術より先に、気合いだ」
【智】
「少年漫画みたいなことを」
【央輝】
「意志だ。力も技術も、意志がなければなにもならない。
泳げるやつでも手を動かさなければ沈んでいく」
央輝がつまらなそうに吐き捨てる。
精神力は最初の前提だ。
愛と勇気と根性でラスボスは倒せないが、
愛と勇気と根性がなければ冒険の旅に出られない。
【央輝】
「追い詰められたのが犬なら戦えるが、ウサギはどうだろうな。
逃げるだけのウサギは、エサだな」
ウサちゃん……。
【央輝】
「武闘派美少女軍団か」
【央輝】
「面白みはあるな。
いいさ、あたしが勝ったら、せいぜい上手く使ってやる」
【智】
「ひとつだけお願いが……」
【央輝】
「言ってみろ」
【智】
「武闘派美少女軍団っていう、泥臭い名前、なんとかならない
かしら……?」
【央輝】
「ならない」
【惠】
「あとは任せるよ」
【こより】
「ひゃう〜」
【惠】
「君は自分のできることを果たせばいい。僕がそうしたように」
【こより】
「あー、うー、たー」
【こより】
「と、とりあえず、こより行きます……」
【こより】
「いー、うー」
【こより】
「あ〜〜〜〜! やっぱり、こういうの、こよりには向かないですです……」
【こより】
「王子様王子様……」
【こより】
「どうかわたしを守ってください。か弱いこよりを地獄の黙示録に放り込んじゃったりする血も涙もないセンパイめに、どうか天の裁きをお下しください〜(>_<)」
【こより】
「にゃわ〜〜〜」
【こより】
「このまま最後まで何事もありませんよーにー」
【伊代】
「さっきからキョロキョロしてどうしたのよ。病人は大人しくって何度……そ、それとも頭痛がひどいの?」
【花鶏】
「妙な連中がこっちを見てたわ……」
【伊代】
「それは妙な連中くらい掃いて捨てるくらいいるでしょうよ。
わたしたち、妙な連中のまっただ中にいるんだし」
【伊代】
「それに、どちらかっていったら、わたしたちの方がここだと
目立つんじゃない? 制服なのよ、しかも、」
【茜子】
「美少女軍団」
【伊代】
「いやな名前ね」
【花鶏】
「さっきから3回も、こっちを……」
【伊代】
「興味本位じゃないの、目立ってるんだから」
【花鶏】
「智が言ったこと、もう忘れたの?」
【伊代】
「あ、で、でも、だからって……」
【花鶏】
「……智に連絡は?」
【茜子】
「つきません。ランナーは携帯持ってませんから」
【花鶏】
「こういうのは智の領分でしょうに……」
【茜子】
「どいつなのですか?」
【花鶏】
「あいつ」
【茜子】
「そんなに?」
【花鶏】
「わからないわ。女の勘よ」
【花鶏】
「でも、こんなところで台無しにされたくない」
【茜子】
「台無し」
【茜子】
「…………皆、がんばっていますよね」
【花鶏】
「自分のことだからよ」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「どうかしたの、あなた?」
【茜子】
「行ってきます」
【伊代】
「ちょ、なにするつもりなの!?」
【茜子】
「確かめてきます」
【伊代】
「なに危ないことしようとしてるの! それに、あなたが行って
どうにかなるもんじゃないでしょう!!」
【茜子】
「……なります」
【伊代】
「な、なにいってんの」
【茜子】
「これは元々私のことです。そこの白髪の言う通りです、
なにもせずに結果だけ受け取るわけにはいきません」
【茜子】
「ある阿呆がいいました。私たちは同盟だって」
【茜子】
「利害の一致だ、力を合わせる」
【茜子】
「手を出された分だけ手を貸し付けます。無担保貸し付けは
ノーセンキューです。私たちは五分と五分ですから」
【花鶏】
「いい覚悟ね。そういうの素敵だと思う」
【伊代】
「で、でも、その、どうやって……」
【茜子】
「大丈夫」
【花鶏】
「なにをするの?」
【茜子】
「魔法を使います、魔女だけに」
【伊代】
「魔法……?」
【茜子】
「呪文はパピプペポ多めで」
【智】
「よい感じでリードが広がってるけど、いいの」
こよりがバタバタと踏ん張っている。
【央輝】
「ここまで競るとはな」
【智】
「手段を選ばず勝ってますから」
問題は我らが三番手。
こよりはプレッシャーに弱い。
接戦になったらまずかった。
先にどれだけリードを開けられるか。
惠に助けられた。
暴力勝ちだったけど……。
【智】
「…………にょほ」
惠が真剣に助けてくれたことが、
ちょっと嬉しい。
【智】
「あの告白だけなんとかなってくれれば……」
人生とはままならない。
【央輝】
「最後までこのままいけばな」
手慰みか、ライターを擦る。
【智】
「どういう意味?」
【央輝】
「大した意味はない」
【央輝】
「どこにでもトラブルはある、そうだろ」
不安をつつかれる。
【央輝】
「それに最後は、あたしとお前だ、これくらいハンデがあった方が盛り上がる」
【智】
「僕は手段を選ばず勝ちに行きますよ」
【央輝】
「ルールは覚えてるな?」
【智】
「そりゃあもう」
借金の契約書くらいの勢いで目を通した。
【央輝】
「もう一つイイコトを教えてやる」
【央輝】
「あたしも手段は選ばない主義だ」
【茜子】
「!!!!!!!!!」
【伊代】
「どうしたの、面白い顔して?」
【茜子】
「!!!!!!!!!!」
【花鶏】
「焦ってるんじゃないの、それ……」
【伊代】
「これが……そうなの?」
【茜子】
「ぐぎっ」
【伊代】
「ぎゃー」
【茜子】
「大変です」
【伊代】
「わ、わたしの指が大変なことに……」
【花鶏】
「ちょっと、響くから大声だして揺らさないでって……」
【茜子】
「ウサッギーが狙われています」
【伊代】
「なによそれ?! どういうこと」
【茜子】
「詳しくはわかりませんけど」
【花鶏】
「わからないのにどうしてわかる?」
【茜子】
「それはともかく」
【花鶏】
「流すのね」
【茜子】
「たぶん、ズルを」
【花鶏】
「イカサマ……?」
【茜子】
「それ」
【伊代】
「なんですって?」
【花鶏】
「智の言ってた通りなわけ……当たり前か。ギャンブルですものね、大金が動くならなんでもありよね」
【伊代】
「ルールなんて知ったこっちゃない、世の中勝った方の勝ち……」
【花鶏】
「ばれなければ、そういうものよ」
【花鶏】
「裏側をぐるっと回してぶっすり」
【伊代】
「…………っ」
【花鶏】
「どうやって、鳴滝を狙うの?」
【茜子】
「それはちょっと……」
【伊代】
「わからないことが多いわね」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「何か証拠は? あなたの勘違いってことはない?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「信じ、られるの……?」
【花鶏】
「…………」
【茜子】
「……証拠はありません。信じてもらう以外にないです、なにも」
【伊代】
「どう、するのよ?」
【花鶏】
「…………いいわ、信じよう」
【伊代】
「ちょ、いいかげん過ぎない!? 根拠もなしに!」
【花鶏】
「悩んでる時間もないわ。なにか仕掛けてくるなら、鳴滝が
走り終えるまでだから、一分一秒を争う」
【伊代】
「それは、そうだけど……」
【花鶏】
「とりあえず問いただしてやるわ」
【伊代】
「あ、ちょ、ちょっと、あんた病人……」
【茜子】
「行っちゃいました」
【伊代】
「やっぱり、あの日で頭に血が足りてない」
【茜子】
「血が上ってるのでは」
【伊代】
「……えっと、あのね」
【茜子】
「なんでしょう」
【伊代】
「さっきは怒鳴ってごめんなさい。八つ当たりだった」
【茜子】
「……正直生物」
【伊代】
「何か言った?」
【茜子】
「別に」
【花鶏】
「だめだわ、ぜんぜん取り合いやがらない。らちがあかない、ああ、頭が痛い……」
【茜子】
「ミニマムは今どこに?」
【伊代】
「現在地は配信してるカメラのフレーム外」
【茜子】
「相手の方はほとんど映ってるのに、どうして私たちの方は
映らないんですか?」
【伊代】
「ウチの詐欺師のルート指定がデタラメだからよ。
通れないようなとこばかり指定してたじゃないの?」
【こより】
「すーいすーいすーい」
【こより】
「あう〜、なんかトイレの窓ってばっちー気がしますよ〜。
スカート汚れたらどーしよー。もうちょい女の子っぽいルート
お願いしたかったり……」
【こより】
「センパイ……もしかして、
鳴滝はセンパイに恨まれておりますか……」
【こより】
「もう少しマシな道……ちちちちちち(泣)」
【伊代】
「さっきこのカメラに映ってたから、地図で言うと、ここからここまでのどこかにいると思う」
【茜子】
「そういえば、陰険姑息貧乳と一緒に下見にいったら、げっそり
して帰ってきてました」
【花鶏】
「あんなローラー着けてて、よくそーいう、わけのわかんないとこ通れるものね……」
【伊代】
「……あんた達、二人がかりで追いかけ回したんでしょ?」
【花鶏】
「そういうこともあったわね」
【茜子】
「時間がありません」
【花鶏】
「鳴滝に連絡は……?」
【伊代】
「だから、ランナーは携帯を持ってない」
【花鶏】
「智も駄目か……」
【花鶏】
「智なら尹に談判してなんとか……」
【伊代】
「……どうするの?」
【花鶏】
「智のところまで連絡をつけにいけば」
【茜子】
「その間に、ろりりんの方が」
【花鶏】
「でも、鳴滝の方は居場所もわからないわ」
【茜子】
「ルートはわかります」
【伊代】
「そうよ、中間のポイントで待ってればどう?」
【花鶏】
「それまでにやられてたら」
【伊代】
「う〜〜〜〜〜」
【伊代】
「…………時間、ないわ。あの子を追っかけるしか」
【花鶏】
「どうするつもり? 方法がなければ絵に描いた餅よ」
【伊代】
「そういえば! あなた、バイクは?」
【花鶏】
「乗ってきてる」
【伊代】
「それで直接」
【花鶏】
「鳴滝がどこにいるのかが……」
【伊代】
「それは教える」
【花鶏】
「だから、どうやって」
【伊代】
「それは任せて」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「…………本当に任せていいのね。
言い出した以上責任は取ってもらうわよ」
【伊代】
「自分で言ったことと決めたことは守る主義なのよ」
【花鶏】
「あなたも大概身勝手だこと……」
【茜子】
「お互い様の身勝手様々」
【花鶏】
「言っておくけれど。わたしは誰にも頼らない、誰の力も借りない、助けを願ったりしない」
【伊代】
「助けるんじゃないわ、きっと。わたしたちは同盟なんでしょう?」
【花鶏】
「契約と代価ね。対等の関係。いいわ、居場所は携帯で連絡を。
わたしは行くわ」
【茜子】
「……身体の方は?」
【花鶏】
「まかせておきなさい」
【伊代】
「よろしく。じゃあ、後で」
【花鶏】
「そうね、後で。何もかも上手く片付いてから」
【茜子】
「それで、ピン髪の居場所は?」
【伊代】
「今から調べる」
【茜子】
「……そんなこといってたら」
【伊代】
「大丈夫。今の世の中、オンラインのやつが町中にあるんだから、なんとかなる」
【伊代】
「……たぶんだけどね。上手くいったら拍手喝采」
【茜子】
「本当におまかせしても大丈夫そうですね」
【伊代】
「ちょ、あなた、どこいくの」
【茜子】
「花鶏さんを手伝ってきます。病気のときは桃缶な感じで」
【伊代】
「わからない、そのたとえはちょっとわかんない」
【茜子】
「行って参ります」
【花鶏】
「ちょっと、わたしは急いでるの。邪魔をしないで」
【花鶏】
「退かないつもり? それともホントに邪魔だてするの?」
【花鶏】
「……あなた、どなた?」
【花鶏】
「そういえば見張りがいたんだったわ。
わたしたちが妙なことしそうなら、引き留める役ってわけね」
【花鶏】
「ゲームの決着がつくまでは、こっちに下手な手出しをすると尹が怒るんじゃないかしら? あの子、話の筋の通し方には、うるさそうだったけれど」
【花鶏】
「ふーん、言葉がわからないのかと思ったけれど、こっちの言うことはわかってるみたいね。それでも退かないつもりらしいけど、こっちも急ぎなの」
【花鶏】
「…………手段は選ばないって顔ね。そう、そういう事ならこっちもこっちでそのつもりになるわ。後悔する前に、手早く言っておいてあげるけれど」
【花鶏】
「後ろが危ないわよ」
【花鶏】
「消火器で殴るなんて、やるわね」
【茜子】
「今日は特急です」
【花鶏】
「お前は、いいからそのまま寝てなさい」
【茜子】
「平成残酷物語」
【花鶏】
「大丈夫、峰打ちよ」
【茜子】
「峰関係ないと思います」
【花鶏】
「ああもう頭いたい……いくわよ、茅場」
【茜子】
「はい」
【智】
「流れがなんだか変な気が」
【央輝】
「まだそっちのリードはあるな」
【智】
「そうなんだけど」
こよりがビルから飛び出してくる。
インラインスケートでするする走る。
出口で住人とすれ違い、危うくニアミス。
くるり。回避。
【央輝】
「うまいもんだな」
腕を組む。
思いの外順調に行ってるせいだろうか、逆に不安をかきたてられる。
【智】
「……がんばれ、こよりん」
【こより】
「ひふー、はふー、はひっ、はひ、ひー」
【こより】
「せんぱ〜い」
【こより】
「鳴滝は死んじゃいそうでございますー」
【花鶏】
「白鞘はなんて?」
【茜子】
「地図だと3dのあたりの交差点の裏側を通過」
【花鶏】
「それってどのあたり?」
【茜子】
「たぶん、そこ右です」
【花鶏】
「たぶん」
【茜子】
「おそらく」
【花鶏】
「スピード出すからしっかりつかまってないと落ちるわよ」
【茜子】
「スピード違反は犯罪者です」
【花鶏】
「わたしの法はわたしだけよ」
【茜子】
「社会的不適合者の台詞ですね」
【茜子】
「ところで、茜子さん、一つ質問があります」
【花鶏】
「なにかしら」
【茜子】
「たしか、愛馬は原付だと聞いた覚えが」
【花鶏】
「原付だったわ」
【茜子】
「これは、はっきり言ってドデカイン」
【花鶏】
「うふ、ふふふふふ…………」
【茜子】
「こけたら起こせなさそう」
【花鶏】
「………………ッッ」
【茜子】
「マジか、そうなのか。
つか、なんで、そんなもの持ってるのか、この人」
【花鶏】
「人には戦わないといけないときがあるのよ!」
【茜子】
「我が身に余る力を得ようとして滅びるのは悪役のサガ」
【花鶏】
「いいから早くつかまりなさい! 死ぬ覚悟で飛ばすんだから!」
【茜子】
「………………」
【茜子】
「はい」
【花鶏】
「いつも手袋してるのね」
【茜子】
「愛してますの」
【花鶏】
「そう」
【花鶏】
「それよりも、一体どうやって、鳴滝を狙うつもりなのかしら」
【茜子】
「くわしくは……」
【花鶏】
「わからない、か」
【茜子】
「でも、たぶん……事故、みたいな感じで」
【花鶏】
「みたい?」
【茜子】
「たぶん」
【花鶏】
「色々とよくわからないものなのね」
【茜子】
「ごめんなさい」
【花鶏】
「…………」
【茜子】
「なにか?」
【花鶏】
「素直に謝るところは初めて聞いたわ」
【茜子】
「……忘れました」
【花鶏】
「そう」
【茜子】
「ベレー帽が謝るところ、聞いたことないです」
【花鶏】
「頭を下げるくらいなら相手を殺るわ」
【茜子】
「本気ですか」
【花鶏】
「でも、事故か。いよいよ冗談ごとですまなくなってきたわね」
【茜子】
「消火器殴打は冗談で済むでしょうか」
【花鶏】
「たぶん」
【茜子】
「あてにならない」
【花鶏】
「えーっとどこかしら。こっちのルートは、智がかなりアドリブ
利かしてるわけだから、動きは読みにくいだろうし」
【花鶏】
「どれくらいやるつもりかしら……?」
【茜子】
「死ぬとかじゃ、ないと思いますけど」
【花鶏】
「たぶん?」
【茜子】
「はい」
【花鶏】
「そういうことなら一番いいのは……?」
【茜子】
「ムギュー」
【花鶏】
「交通事故!」
【茜子】
「事故りました」
【花鶏】
「大きな事故は必要ない。死んだりしたら後が面倒だし、
邪魔するつもりだけなら骨の一本でも折れば」
【花鶏】
「あっち側に、鳴滝の居場所がわかる位置で、大きめの道、車……バイクでいい、たぶんバイクが入れて、絶対に通過するような――」
【茜子】
「道の区別がつかないです」
【花鶏】
「大きめの道を教えて、先回りして合流できそうな」
【茜子】
「えーと、えーと、えーと」
【花鶏】
「あー、もう、こよりちゃんの今の居場所は!?」
【央輝】
「またチビうさが見えなくなったな」
ライターを放り投げて弄ぶ。
余裕。
こっちがかなり有利なのに焦りもしない。
【智】
「そだね」
こよりはカメラマンが追えないところを走っている。
下見に来たとき、泣き出した場所を走らせてます。
僕は鬼か!?
まあ、しかたない。
他に勝ち目がなかったし。
鬼にもなろう、悪魔にも堕ちよう。
策というより駄策の類。
奇策というよりイカサマだ。
【智】
「ごめんね、こよりん」
手を合わせて、無事を祈る。
【こより】
「ふーいー、もーちょいだー」
【こより】
「こより選手、最後のラストスパートです。ゴール周辺では押し寄せた一億七千万の大観衆が歓呼の声で出迎えております」
【こより】
「ビバー!!!!!」
【こより】
「ん?」
【こより】
「にょ、にょわ――――――――」
【こより】
「――――――――わわわわわわわあああああああって、あれ、
花鶏センパイに茜子センパイ!?」
【茜子】
「間一髪だったのです」
【こより】
「うは、でっかいバイク……あれれ、わたし何でこんな所に、
いえ、それよりも」
【こより】
「気のせいかもしんないのですけど、今し方なんか、もう1台
バイクが突っ込んできて、バーンと炎が燃えて交通事故の
走馬燈が一生分キラキラ巡って」
【こより】
「果てし無き、流れのはてに……麗しの白馬の王子様が約束通り迎えに来てくれたりした感じがしてましたけど……」
【花鶏】
「轢かれかけたのは本当よ」
【こより】
「ほ、ほえ?」
【花鶏】
「危機一髪だったのを、かっさらって助けたの」
【こより】
「それって映画のヒロインみたいッス〜!」
【花鶏】
「わかってないわね」
【茜子】
「ヒロインになるなら、テキサス・チェーンソーとか、
茜子さんお勧めです」
【こより】
「なんかおいしそーです!」
【茜子】
「きっと(チビうさは)おいしいですね」
【茜子】
「ところでひき逃げ未遂犯は?」
【花鶏】
「逃げたわね、当たり前だけど」
【茜子】
「そうですか。では、こよりん生物。お話があります」
【こより】
「うす、こよりんです。大人の都合により20歳です!!」
【茜子】
「あなたが危機一髪です」
【こより】
「はい?」
あ、見えた。
【智】
「こよりんだ、リードのまま来た!」
【央輝】
「ふん」
【こより】
「ひい、ひい、ひしいいいい」
【智】
「燃えてるなあ」
【央輝】
「せっぱ詰まってるんじゃないか?」
【智】
「こよりー、こっちこっち、早くタッチー!」
【こより】
「うひひひひひひひいひひひひひひひ」
【智】
「笑いながらゴールインなんて、もしかして余裕でした?」
【こより】
「心底死ぬかと思ったです!!!」
胸ぐらを掴まれました。
【智】
「そ、それはご無事で何よりです……」
すごくびびる。
【こより】
「実は花鶏センパイと茜子センパイが、」
【智】
「んじゃ、華麗にラストを決めてくるからね」
向こうの央輝がスタートする前に、
ちょっとでもリードを広げておきたい。
【こより】
「あ、お話……」
【智】
「また後で」
【こより】
「…………はい、わかりました。センパイ、鳴滝待ってますから。また後ほど」
【伊代】
『あの子は無事についてアンカーが出たわ』
【茜子】
「…………だそうです」
【花鶏】
「それは、なによりね……」
【伊代】
『んで、白頭は?』
【茜子】
「女としての人生の苦役がぶり返して伏せっています」
【伊代】
『お大事に』
【茜子】
「あとは智さんが」
【伊代】
『無事に勝ってくれれば良いんだけどね……』
【花鶏】
「ここまでして、負けたら、あとで、ただじゃおかないわよ……」
夜がくる。
陽が落ちる。
吸血鬼が後ろからやってくる。
尹央輝。
【智】
「うう……」
速いよ。
夜の街がざわめく。
パルクールレース。
コースは街で、そこにあるのはどれもこれも障害物だ。
【智】
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
自分の息づかいに混じる、別のリズム。
【央輝】
「ふっ……ふっ……ふっ」
央輝は着実に距離を詰めてくる。
夜がそんなに得意なのか。
ホントに本物の吸血鬼ですか!?
表通りの人の流れをかき分ける。
ぶつかり、とびのき、逃げ回って。
後ろから怒鳴り声。
ネオンが煌めく。派手な音楽が充ちる。
帰宅の人の列に割り込んで。
流れる車の横に並ぶ。
非常階段から飛び降りる。
ごろごろ転がって立ち上がる。
実際に走ってみないとわからない。
普通の持久走や短距離よりも消耗する。
体力以上に精神力が。
【智】
「ペースを、保って、なんとか」
障害物もコースもばらばら。
ビルを上って下りたりもする。
日が暮れていた。
視界がぐっと悪くなる。
どうしても乱れるペースをどうやって保つか。
【智】
「ひゃ」
ぞっとした。
聞こえるはずのない足音が確かに聞こえた。
央輝が近い。
姿は見えない。
夜は彼女の世界だ。
本物の牙を持つ生き物が棲む。
僕らは昼の生き物だ。犬と狼は違うモノだ。
狼は死に絶えた。
この国ではそういうことになっている。
でも彼らは生きている。
知らないだけで。
彼らの世界で。
【智】
「あー」
追いつかれるのはマズイ。
増速。
【智】
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ」
走る。走る。走る。
ハシゴを登る。
螺旋階段を駆け下りる。
エレベーターを途中で下りて、
踊り場の窓から外の屋根伝いに雨樋を滑り降り、
お隣のビルの屋上へジャンプする。
路地の上、ビルの間を幅跳びする。
下から猫が見上げながら、
尻尾を振ってニャーと鳴いた。
夜を駆け抜ける。
夜に生きる狼の真似をして。
ガードレールを横っ飛びに飛び越えて、ポーズを付ける。
余裕があるとトリックが入る。
加点プラス5。
【智】
「あとどれくらいだっけ……」
【央輝】
「三分の一くらいだ」
【智】
「ぎゃわっ!!」
ビル壁面に作られた非常用の螺旋階段の中程。
央輝と遭遇した。
【智】
「どっから生えたの、早すぎるよ!!」
泣きを入れる。
非常階段を央輝は上へ、
こちらは下へすれ違う。
屋上には途中のチェックポイントが。
距離差はほとんど縮まっている。
体力にはそこそこの自信があったのに。
小さな央輝は小さな巨人だ。
【智】
「おにょれ、このままでなるものか。ファイト一発……」
相手は瞬発力がある。
細く華奢なくせに肉薄してくる。
軽量だから加速が良いのか。
【智】
「このままだと、おいつかれちゃう……」
【智】
「なんていうか、愛奴の未来が見えてきた感じ」
キラキラと。
【智】
「いや〜〜〜〜〜〜ん」
走りながら天を仰いだ。
マジ、負けるわけにはいかんとです。
全員でがんばったのに。
ここまできたのに。
僕が足を滑らせてお終いなんて以ての外だ。
責任は感じなくていいから。
こよりを籠絡するときに、自分で言った。
詭弁だ。
関わる全員に責任を負う。
それが手を繋ぐことの代償だ。
美しくも残酷な戒めだった。
【智】
「ほぁ、ほぁ、ほぁぁっ、ほあたぁっ」
路地を抜ける。
裏道を通る。
坂道を全力疾走で転がる。
ひょいと見上げた。
古ビルの上に浮かぶ月を、黒い影が横切った。
蝙蝠みたいにビルからビルへ跳ぶ。
本物の吸血鬼――。
【智】
「尹央輝……」
顔も見えない距離で確信する。
まずい。
正規のルートより一見遠回りに見える。
どういうルート通られてるのかわかんないけど。
けど、央輝に敵に塩を贈る趣味なんてあるわけがないから、
あれはリスクを犯す価値のあるショートカットだ。
【智】
「……あぇいぅ」
まずさ百倍。
こうなると、最大のネックは僕になる。
るいみたいな乙女力も、
こよりみたいなムーンライトウサギパワーも持ってない。
【智】
「ぎにゃーっ!!!!」
叫んだ。
呪われた未来がすぐそこに。
【るい】
「私、信じてる」
【惠】
「宿命というのは振り切れないんだよ、いくら走ってもね」
【伊代】
『現実って、やっぱり厳しいかも……』
【茜子】
「だそうです。聞こえてますか?」
【花鶏】
「聞きたくないわ」
【こより】
「ふれー、ふれー、センパーイ♪」
央輝がいた。
ほんのちょっと先行されている。
向こうのペースは落ちている。
【智】
「はは、やっぱ無理した分だけ疲れてますね、明智君……」
追う。
距離が詰まらない。
離されないだけで精一杯。
【智】
「ひぃ、ひっ、ひぃぃ」
こっちのペースも落ちていた。
足も手も重い。
理屈に合わない間尺に合わない打つ手がない。
どうした、打つ手は終わりか?
終わりだ、万策尽きた、全部なくなった。
帽子の中に残りはなかった。
種のなくなった手品師と失敗した詐欺師くらい
惨めな生き様はそうないと思う。
コースは終盤。
物理的にショートカットもないのなら。
ここからは地力の勝負。
疲労で足がもつれた。
【智】
「あいどぅー!」
暗黒の未来を嘆く叫びを。
電柱にすがる。
休む間もなく走行再開。
【央輝】
「ふん」
笑われた。
こっちの状態を見透かされてる。
勝ち目が遠のく。
よろしくない人生だった。
情けなくって、厳しくて、未来がなくて。
ずっと嘘をつかなくちゃいけない、そんな日々。
狭苦しく孤独な道のりを考えて考えて考え抜いて一歩一歩前進
しても、世界はいつでも片手間の戯れにテーブルをひっくり
返して嘲笑(あざわら)う。
偶然と不幸が幸運にすり替わる。
気がつけばいつだって薄暗い。
――――――――どうして僕だったんだろう。
それは夜眠る前に、何度となく繰り返した答のない問い。
呪われた人生。
どうして僕を選んだのか。
他の誰でもよかったのに。
ペースが乱れて息苦しい。
足だけを動かしてとりあえず前に。
走馬燈のように苦悩が巡る。
やだなあ。
この若さで走馬燈とか。
別に死ぬわけじゃないんだし。
央輝は善人には見えないけれど、
そこそこ僕のこと大事に重宝してくれるかも……。
囚われて。
塞がれて。
繋がれて。
その程度じゃないか。
どのみち呪われた人生なら。
何一つ得るものもなく、孤独に歩む。
呪い。
呪い呪い呪い。
いずるさん。
いかがわしい女の人が、愉しそうに嘯く。
僕も囁く。
呪い。
その忌まわしい言葉を。
ずっと一人でいた。
誰にも心は許せない。
誰かといると気が休まらない。
孤独な部屋の小さなベッドの上に帰ってきて、
夜一人になるとほっとする。
誰もいなくて安心する。
いない方がいい、だって秘密があるんだから。
呪われているんだから。
後ろを見る。
夜だけがあって何も見えない。
呪いは、きっとどこまでも追ってくる。
逃げてもいつかは追いつかれるんじゃないだろうかと、
ことある毎に振り返る、そんな生き方をしなくちゃいけない。
【智】
「はぁ、ひぃ」
前へ走る。
央輝の背中を目指して。
どうやっても追いつけない。
こんなに息を乱して走っているのに。
速度では変わらないのにライン取りが違う。
人生の道か。
狼と犬の差は、遺伝子レベルで超えられない。
【智】
「――――ッッ」
長い階段が目の前に。
行く手を阻む壁のように。
ゴールへの最後の障害物だ。
心臓が壊れそう。
とにかく考えるのをやめて走る。
【智】
「すごい……」
央輝は凄い。
体格は絶対的に恵まれてない。
小柄な女の子。
物理的限界がある。
それなのに。
ここまで走る。
るいみたいな馬鹿馬鹿しいぐらいの違いがないのが、
かえって見えない努力を意識させた。
じりじりと引き離されていく。
【智】
「にゃーっ!!」
やけになる。
二段飛ばしで駆け上がる。
転んだ。
全力疾走していたのでごろごろと。
【智】
「にゃあああああ!!!!」
階段から落ちる。
下にはゴミ置き場が。
落着。
ゴミ塗れに。
【智】
「な……るほど……最後にはゴミまみれになる人生か……」
上手いことをいってみる。
【央輝】
「どうする?」
階段の半ばで央輝が待っていた。
口元に冷笑を。
高いところから傲岸に見下ろす。
選択肢を突きつけてくる。
続けるか、否か。
犬は犬、狼は狼。
生きる世界が違う分、勝ち目がない。
負傷リタイヤはどうだ?
【智】
「は、は、は…………」
弱い考えが足首を掴んでいる。
考えるのは僕の悪い癖だ。
夜の道は見えないから恐ろしい。
でも。
見えすぎることも恐ろしい。
諦観と停滞。
1パーセントをゼロにするのは弱い心だ。
考えすぎれば道がふさがる。
ほら、こうやって考える。
わかっているのに止められない。
知恵の呪い。
誰だって、きっと、呪われている。
足の力が抜ける。
このままへたり込んでしまえば、きっと楽だ。
呪いが僕の足を掴んで……。
愛奴隷。悪くないかも。
(呪われた世界を――)
【智】
「…………っ」
萎えかかった足を気力で支えた。
ビルの壁にすがりついて、
潰されたカエルみたいな不格好で立ち上がる。
腕も足も脇腹も肩も首も。
どこもかしこも痛みに軋む。
気を抜けばそれっきり起き上がれない。
もう止めろと理性が警報を鳴らしていた。
だって勝ち目はない。
このまま続けても勝機なんて億に一つ。
白黒はついた。
ここで仰向けに倒れて。
諦めて。
――――――――立て
自分の中の何かが命じる。
どうにもならないのに投げ出せない。
それは答を探す行為ではなく、
わかりきった結末へと辿り着くための愚かな前進。
なのに。
【智】
「……まっ…………たく……」
どういうわけか、
最近はいっぱいっぱいな事ばかりだ。
星の巡りでも悪いのか。
【るい】
(――――若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!)
夢も希望も最初からあるもんか。
僕らはみんな呪われている。
震える足で。
一歩。
【花鶏】
(――――赤の他人の身代わりになって自己犠牲するのが
性分なわけ!?)
冗談じゃない、
マゾっぽい趣味は願い下げだ。
立つのは自分のために、自身のために。
負ければ身売りの運命なんだから。
もう一歩。
【茜子】
(――――茜子さんの問題に、勝手にずかずか入り込まないで
ください)
まったく同感だ。
他人のことなんてわかりはしないのに。
いつだって知ったふうな口を叩いて。
足がもつれる。
それでも三歩目。
【伊代】
(……ほっとけなかったから)
なんて曖昧で胡乱な理由。
見えないもの、
在るかどうかもわからないもの。
そんな、頼りないものを頼りにするのか。
【智】
「……できるわけ……ないでしょ……っ」
四歩目と五歩目を踏みだして。
早く逃げ出そうと思ってた。
それなのに、こんなところまでやってきた。
どこで選択肢を間違ったんだろう。
【こより】
(――――逃げても逃げられない。捕まっちゃう。やっつける
しかない)
逃げられない。捕まっちゃう。
いつでも最後は追いつかれる。
それなら、いっそ。
(呪われた世界を――)
どうするんだっけ?
世界を。
一人じゃなくて。
皆で。
【智】
「はぁ、はぁ、はぁ」
あぁ。
はじめて出会った。
あの痣と。
あれは……。
聖徴(せいちょう)といい、烙印という。
【智】
「……僕たち、同じ……」
同じ徴を持っている。
ようやく出会えた、孤独ではなくなる、
一緒にいてくれる誰か。
【智】
「せっかく、なのに……」
負けるのか?
(呪われた世界をやっつけよう)
約束したんだっけ。
言ったのは僕だ。
るいは関係ないのに力を貸してくれた。
こよりは泣きながらでも参加した。
伊代はいいやつだし。
花鶏や茜子だって。
ちょっとだけ、力がわいた気がする。
あまり感じたことのない力。
自分以外の誰かがいるから。
こういうのは、なんていうんだっけ?
少年漫画が好きそうなやつ。
見えないモノにつく名前。
そう、
同盟だ。
【智】
「…………まだまだ」
【央輝】
「しぶといな」
【智】
「条約が……あって……やめると……きっとひどい目に……」
【央輝】
「今にも倒れそうじゃないか」
【智】
「そっちも、実は苦しいでしょ……」
【央輝】
「…………」
無表情。
カマかけだったのに。
答えないってことは図星なのか。
普段の央輝なら、きっと、
この程度では引っかからない。
疲労で判断力が鈍っている。
【智】
「……体格的な限界ってあるだろうしね」
央輝の体つきはアスリートみたいな鍛え方はしてない。
瞬発力があっても持久力は苦しいと見た。
【智】
「ひとつ……聞いていい……?」
【央輝】
「いいぞ」
【智】
「女の子を、さ……愛奴にして、どーすんの……? その……
いかがわしいお仕事でもさせるの?」
それは何が何でも遠慮させて。
【央輝】
「決まってる。あたしがいかがわしいことをするんだよ」
【智】
「……………………」
悪くないかも。
いやいやいや。
【智】
「……生命の危機だね」
バレちゃうし。
【央輝】
「安心しろ、血は吸わない」
【智】
「自分のために最善の努力を」
【央輝】
「手札は尽きてるくせに」
【智】
「人事を尽くした努力が足りなければ、埋めるものはただひとつ
…………」
ぐっと、天を掴むように拳を突き上げて。
【智】
「根性で勝負!」
【央輝】
「ここ一番で精神論か」
鼻で笑われた。
【智】
「まあ、そういうことにしといてよ」
ラストスパート。
【るい】
「来た――」
ゴールのポイント。
【るい】
「ともー、がんばーっ!!!!」
るいがいた。
先回りですか、どこまで体力あるんだ、
あの乳怪獣は……。
死ぬほど元気そうに手を振っている。
…………ちょとむかつく。
【智】
「智ちん、いきまーすっ!」
【央輝】
「しぶといヤツが!」
パッシングする。
【央輝】
「なにを!」
【智】
「まだまだあ」
【央輝】
「……こ、こいつっ」
ペースを乱して、
央輝のやつがつんのめる。
【智】
「ちゃーんす!!」
【央輝】
「く、くそが……くそくそっ!」
死にものぐるいで抜きつ抜かれつ。
ダッシュ。
ゴールは目の前。
体力は底値いっぱい。
【央輝】
「やろう……っ!!」
央輝が増速する。こっちもする。
【央輝】
「ど……どこに、こんな体力が、残って……やがったんだ……っ」
さすがに央輝が焦る。
【智】
「根性ですっ!!」
【央輝】
「根性で……そんなばかな……」
心理的揺さぶり。
【智】
「仲間と繋がった心の力は無限なのです!!!!」
【央輝】
「ば、ばかな…………」
まったく馬鹿げてます。
ノリと精神論とクサイ台詞で押し切るには、
僕は神経が細かすぎる。
そういうのは、るいの領域だ。
ごめんね、央輝。
実はまだ奥の手があったんだ。
最後ではなく、最初のカード。
出す前から伏せていたから、
央輝にだって予想がつかない。
央輝は女で、僕は男。
ズルっぽい……というより、しっかりズルです。
男女の体力差を央輝は計算できてない。
【央輝】
「く、うくく、くあ……っ」
央輝がたじろいだ。
歩調が乱れる。
【智】
「ぷくくくくっ、どうやら貴様の負けのようだな!!」
悪役の台詞だ。
疲労の極でハイになっていた。
一気に追い抜こうとする。
ここまでに何度も央輝が勝つチャンスはあった。
こっちを甘く見た分、つけいる隙ができた。
【央輝】
「…ぐ…くぁ……っ」
【智】
「ひまらー……(いまだー……)」
いよいよ呂律がまわらない
あとビル二つ。
勝てる、と思った。
そこで。
央輝は壁に寄りかかった。
限界っぽく。
終わりか。
長かった戦いにもようやく決着の時が。
【智】
「とどめぇっ!!!」
刹那。
【央輝】
「――殺す」
凄み。
刺すような眼差しが背中まで抜ける。
本気の目。
睨まれた。
殺される。
ほんの一瞬、本気でびびる。
【智】
「……あ?」
冷静になれば、それはただの脅しだ。
そんなことをすればゲームが台無しなんだから。
ここまできて、それはない。
央輝という人間に合わない。
のに。
【央輝】
「恐れ入ったよ、ここまでやるとは思わなかった。
もう一つ、いいことを教えといてやる」
【央輝】
「あたしは、負けるのが、嫌いだ……っ」
心臓が早鐘を打つ。
足が震える。
なに。
怖い。
目の前の相手が。
どうしてこんなものがいるのか。
【央輝】
「噂を聞いたろ?」
【智】
「……え、あ、あ」
殺される。
殺されて殺される。
殺されて殺されて、
それでも足りなくて殺される。
ここにこうしていたら。
だめだ。
逃げよう逃げよう逃げよう。
足が動かない。
萎縮して固定される。
蛇に睨まれたカエルは、
きっとこんな気分を味わいながら、
真っ赤な口に呑まれてしまう。
丸くなって何も見ないで聞こえないで――。
【智】
「あ」
【央輝】
「ルールの通り、指一本触れてないぜ……」
【央輝】
「だが、こいつでゲームオーバーだ。しばらくそうしてろ。
そうすれば……」
【央輝】
「――――――っ!?」
恐怖が消えた。
年末の換気扇をつけ置きしてさっと拭き取ったように、
今の今まで胸を潰しそうになっていた感情が消え失せる。
【智】
「……………………あれ?」
【央輝】
「お前!」
央輝がせっぱ詰まっていた。
たぶん、消えたのはそのせいだ。
【央輝】
「おまえ、そんな」
央輝が顔色を変えて凝視している。
僕を。
正しくは、僕の腕を。
さっき階段から落ちたときに、制服が破れたらしい。
痣が見えていた。
【央輝】
「いや、でも」
【央輝】
「それは……その痣、まさか……お前……お前ら、そうなのか!?」
動揺している。
考える。
つまりこれは。
【智】
「いざ、さらばー!」
大チャンスでした。
【央輝】
「あ、テメエぇっ!!」
ブッチぎった。
央輝が取り込んでいる隙に、
最後の最後のラストスパート。
死ぬほど走る。
【央輝】
「ま、まて……っ」
【智】
「待てない!」
【央輝】
「ひ、ひきょう……」
【智】
「卑怯未練はいいっこなし!」
【央輝】
「とにかく…ま、待て……!」
【智】
「絶対待てません!!!」
さっきのは何が起こったのか。
意味不明だ。
央輝が何か仕掛けた。
それは確実だけど。
わからないので考えるのをやめる。
今は勝たなくちゃ。
もう一度、さっきのやつが来たら、
今度こそ逃げられない。
残り1分もない時間の勝負。
だから走る。
【央輝】
「ま、」
【智】
「もう、」
【央輝】
「くおぉー」
【智】
「ちょっとー」
【央輝】
「くのーーーーーーっっ」
【智】
「たーーーーーーーっっ!!!!!!!!!!」
ゴールイン――――――――――――――。
〔エピローグとプロローグ〕
時刻は深夜を回っていた。
【央輝】
「約束通り、返してやる」
【智】
「返すだけじゃなくて……」
レースには勝った。
無事に……まあ、かなり無事じゃなく。
転んだ怪我の治療をめぐって、
るいたちから大層なお小言の一悶着が
あったことだけはいっておこう。
(※ちなみに僕は頑として譲らず、一人で薬を塗った)
【花鶏】
「やったあーーーっ!」
クリスマスプレゼントをもらった子供みたいに飛び跳ねる。
最近の子供は飛び跳ねないかも知れないけど。
【花鶏】
「本、本、本、わたしの星、帰ってきたわ! やっと帰って
きた、長かった、苦しかった、戦いの日々だった!!」
【智】
「いやもうまったく」
【智】
「これで茜子も」
【央輝】
「今回の件では自由だ。追うヤツは居なくなる。
あたしが責任を持つ」
【智】
「自由の身です」
【茜子】
「あ、は……はい」
実感がわきやがらないご様子。
【智】
「僕も自由の身」
愛奴隷危機一髪。
【花鶏】
「それはそれで惜しかったかも」
【こより】
「見てみたかったのです」
【智】
「君たち君たち」
【央輝】
「それから」
央輝が肩をすくめる。続きがあった。
【央輝】
「イカサマの件についてはあたしのミスだ。謝っておく」
【智】
「央輝はタイプじゃないと思った」
【央輝】
「買いかぶりだな。今回はゲームだったからだ。必要なら騙しも
殺しもする。嘘もつく」
それは本当だろう。
【央輝】
「奴らには始末をつけさせる」
【こより】
「結果的になにごともなかったので、ほどほどでいいのです……」
【智】
「当事者がこのように」
【央輝】
「奴らは、あたしの顔を潰した。それなりの代償は必要だ」
【智】
「嘘は央輝もつくんでしょ」
【央輝】
「そうだ。素人相手に底を見られるような仕込みをするのは、
あたしの顔を潰すにも程がある」
逆の意味だった。
【智】
「いやな世界だね」
央輝はタバコをくわえて火を点ける。
唇を歪めた。
ほんの一瞬、人生に膿み疲れた老人のような顔を
見たような気がした。
【央輝】
「まったくだ。この腐れ切った世の中は、骨の随まで
呪われてるんだよ」
イヤなフレーズに。
【智】
「そだね」
軽く相づちをうった。
央輝とはそれで別れた。
――――――僕らは自由になった。
【こより】
「これからどうするんですか」
【智】
「お家に帰ります」
【こより】
「あう、そうではなくて……」
【茜子】
「私たち」
【伊代】
「……どうするの、これから?」
同盟。
とりあえず所定の成果を得ました。
目の前のことを一つ二つ。
【るい】
「やっつけたしねー」
【智】
「やっつけた」
【花鶏】
「呪われた世界、だったかしら?」
【茜子】
「やっつけましたか?」
【智】
「そうねえ……」
ぼやく。
うんとのびをすると、
身体中がボキボキと音をたてる。
【智】
「たぶん、まだまだ」
たとえるなら、
魔王の七大軍団の、
最初の幹部を倒したくらい。
【こより】
「ほんでは、戦わないといけませんね」
【るい】
「やる気だね、こよりん」
【こより】
「こよりん、燃えております!」
【智】
「萌え〜」
【伊代】
「なにかいかがわしい感じに」
【るい】
「なんで?」
【伊代】
「なんでだかわからないけど……」
【智】
「印象差別だ」
【伊代】
「むう」
【花鶏】
「それで、どうするの」
とりあえず。
【智】
「やっぱりお家に帰りたい……」
【るい】
「まあね」
【こより】
「そっすね」
【花鶏】
「そりゃね」
【伊代】
「まあ」
【茜子】
「です」
一斉に賛成した。
【智】
「あーと、今更なんだけど惠がいない……まだお礼を」
【るい】
「気がついたらいなかった」
【茜子】
「神出鬼没キャラ」
【こより】
「危なくなったらタキシード来てお助けに来てくれるかも」
【伊代】
「あー、似合うかも〜」
【るい】
「それならニーさん〜で、イキなり現れる方が」
【茜子】
「兄弟愛キャラ」
【花鶏】
「姉妹愛の方がいいわ」
【智】
「そふ凛子ちゃんに怒られたって知らないよ」
ちゃらちゃらと話題が弾む。
当人不在のまま。
次に会えたらキチンとお礼をしないと。
惠がいなかったら、
新しい人生が開かれるところだった。
【こより】
「お礼考えないとだめですよねー」
【伊代】
「まあ、大丈夫じゃないかしら」
【るい】
「にゃも?」
【伊代】
「……だって、恋、したんだって……」
【智】
「ぶぅっ」
何もしてないのにむせる。
視線が、色々なものの含まれた視線が、同情とか困惑とか
少女漫画チックなキラキラビームとか入り交じったやつが、
背中に一杯突き刺さった。
【智】
「思い出させないでよ!」
悪夢の告白。
【伊代】
「……まあ、変人だけど顔いいし……」
【こより】
「も、もしかして、これを切っ掛けにして恋の炎〜」
【茜子】
「じゃーんじゃかじゃーん、じゃーんじゃかじゃーん」
【智】
「絶対ありません!!!」
【るい】
「そうだそうだ!!
あんな白っぽいの、トモちんに絶対断じて似合わない!」
【伊代】
「……男と女なんて何が切っ掛けで恋愛に発展するかわかんないっていうし……」
【智】
「ない、断じてない」
あってたまるか。
【花鶏】
「一晩くらい付き合ってあげたら? 泣いて感謝されるんじゃないかしら」
【智&るい】
「「まっぴらだ!!!」」
【るい】
「だいたい、アンタはトモ狙ってんじゃないのか、このエロス頭脳」
【花鶏】
「男の一人や二人に目くじらを立てるほど、わたしの了見は
狭くないわよ」
【花鶏】
「それに、乱暴な男に傷ついた智を、後で優しく慰めてあげるの。新しい恋の足音が聞こえてくる気がしない?」
【智】
「そっちもまっぴらごめん」
【こより】
「お、センパイ、そういえばの二乗です!」
【智】
「なんですか」
【こより】
「お家帰るにも、
すでにバスも電車もなかりにけりないまそかり……」
【智】
「たぶん、全然間違ってる」
【こより】
「あうー」
【智】
「そういえば、電車もないね」
【花鶏】
「それは最悪」
【伊代】
「まだこれから歩くわけ……」
【智】
「無理無理無理無理死んじゃうよ」
【るい】
「近くでどっか休めるところを」
【茜子】
「ファミルィーレストラントなど」
【智】
「どこでもいいんだけど――――」
見上げれば夜空。
空には月と星が。
気分がいい。
今夜はずっとこうやって、
空を見ながら歩いていてもいい。
【智】
「明日はどうしようか」
もう今日だけれど。
一つのことが終わった後。
新しく何かの始まる、始めなくてはならなくなる日に。
【るい】
「明日のことはわかんない」
るいが呟く。
まったくだ。
明日のことはわからない。
それが呪いだ。
僕らはきっと呪われている。
誰もがきっと呪われている。
そんなどうでもいい話をしながら、
僕らは夜通し歩き続けた。
ぼくらはみんな、呪われている。
みんなぼくらに、呪われている。
【るい】
「生きるって呪いみたいなものだよね」
【るい】
「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……」
【るい】
「それって、まったくの呪い。100パーセントの純粋培養、これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、ないない尽くしの呪いだよ」
【るい】
「そうは思わない?」
これは呪いの話だ。
呪うこと。
呪いのこと。
呪われること。
人を呪わば穴二つのこと。
いつでもある。
どこにでもある。
数は限りなくある。
ちょうど空は灰色に重かった。
浮かれ気分に水を差すくらいにはくすんでいて、
前途を呪うには足りていない薄曇り。
【智】
「むふ」
それでも僕らはやってくる。
約束もなくても。
明日のことがわからなくても。
同じ場所から空を見上げる。
【るい】
「こんなとこかな?」
【茜子】
「むふ」
【こより】
「いい感じでサイコーッス!」
【伊代】
「悪党っぽいわね」
【花鶏】
「それじゃあ、くりだすわよ」
【智】
「北北西に進路をとれ」
--------------------------------------------------▼ 個別ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》各ルートフラグのチェック
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》初回プレイの時
--------------------------------------------------◆ るいルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・茜子=+4 の時
--------------------------------------------------◆ 茜子ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・るい=+2 の時
--------------------------------------------------◆ るいルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・花鶏=+2 の時
--------------------------------------------------◆ 花鶏ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・伊代=+2 の時
--------------------------------------------------◆ 伊代ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・こより=+2 の時
--------------------------------------------------◆ こよりルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》上記条件以外の場合
--------------------------------------------------◆ るいルート
〔僕らの日々(茜子編)〕
【智】
「黒いのが! 黒いのがいるよ!」
【智】
「おうちの屋根にいるよ……天井の隅にいるよ……窓の外にいるよ……」
【智】
「ベッドの下にいるよ……お風呂の中にいるよ……テレビの後ろにいるよ……玄関の外にいるよ……!」
僕は幼かった。
何かにひどく怯えている。
【美保代/女】
「あなた……この子、呪いを……!」
【真一郎/男】
「智、しっかりしろ! 智!」
【智】
「鏡の中にいるよ……おトイレにいるよ……ご本の中にいるよ……タンスの下にいるよ……お外の道にいるよ……すぐ、そこにもいるよ……!」
【智】
「僕の、あたまの中にもいるよ! 黒いのがいるよ! 黒いのが! 黒いのがいるよ!」
あたりの景色はとりとめのない色彩に
霞んで見えない。
傍らに立つ影だけが意識できた。
【美保代/女】
「しっかりして智! もう大丈夫よ! 大丈夫だから!」
【真一郎/男】
「この子に死なれるわけにはいかない」
誰かが僕を囲んで呼びかけていた。
必死に呼びかける声。
すぐ近くから聞こえるのに、
どこか遠い声だった。
誰でもいい、助けて欲しい。
恐怖に縛られた体を動かして、
なんとか声の主に手を伸ばそうとする。
あやふやな空気の中をまさぐる僕の手が、
誰にも届かないうちに止まった。
……寒気。
待て、目を凝らせ。
待て、もう一度よく見てみろ。
待て、■と■……だけじゃない。
【智】
「黒いのがいるよ!」
気付いた瞬間、
黒い影は一気に僕に迫る。
細かな線虫が這い登るような怖気が全身を包み込む。
激しい震えに身体がちぎれそうになる。
【智】
「黒いのがぁぁぁっ!!!」
不吉な闇が視界一杯に広がって――――
【真耶/女の子】
「だいじょうぶ……」
【智】
「夢か………………」
ひさしぶりに見た古い家の匂いがする夢は、
いつもとはほんの少し違っていた。
【智】
「……というわけで、ちょっぴり夢見が悪かったのです」
清々しい午後にはセンチな話題だった。
【茜子】
「かりぽりん」
茜子はいつも通りシュールなリアクションをする。
買い込んできた謎銘柄のお菓子の山を、
無表情に処理していた。
まさに処理。咀嚼(そしゃく)咀嚼嚥下(えんか)。
【茜子】
「怖い夢ですか。茜子さんにも怖い夢があります。50メートルのどんぶりに入ったラーメンに潰されるのすごく怖い。うっとり」
【智】
「すごく饅頭怖いです」
――人生とは何が幸いするかわからない。
ここは地上の楽園だった。
歩いて5分のユートピア、
空に近くて人気がなくて、
広くて静かでいい風が吹く。
僕ら6人は、あてもなく街を彷徨い歩いた挙句、
地上の楽園に辿り着いた。
ベッドタウンなんかにありがちな、
テナントのロクに入ってないビルだ。
土地をキープするのが主目的なのか、
一階にこじんまりとした自然素材インテリア雑貨の店が
収まっている以外は、二階に眼科があるだけ。
近頃は安全管理のうるさい屋上も
期待通りに解放されていた。
なので、さっそく溜まり場として利用しだした僕たちだ。
【るい】
「もしゃもしゃもしゃもしゃ……アカネ、もの食べてるの、
あんま似合わないよね」
【伊代】
「……人間に似合う似合わないなんてあるのか、それは」
【茜子】
「茜子さんはロボ美少女3号です。好きな食べ物はラーメン」
茜子は機械のように食べる。
美味しいでもマズイでもなく咀嚼(そしゃく)嚥下(えんか)。
【こより】
「もふもふもふもふ……ねこセンパイは、ラーメンよりも人間の脳とか吸収して生きてそうであります!」
挙手。
【伊代】
「せめて背中に電池入れるとかは! もっとソフトな発想はないの?」
【茜子】
「ラァー・アメンって呼ぶとかなり神聖な感じしませんか」
ちなみに、本日のお題はへんなお菓子。
【こより】
「じゃんじゃかじゃーん! 甘〜いお菓子好きな鳴滝と、
甘いものニガテな、るいセンパイ。二人が手に手をとって
食べられるお菓子を、遂に発見したでありまッス!」
【智】
「陰謀のにほいがする」
【るい】
「ぜんぜん味がないおかし?」
【伊代】
「すっぱいのも苦いのもダメな、おこちゃまなのに……あれ、普通の塩味とかは、いつも食べてなかった?」
【茜子】
「このマエフリで普通のポテチが出てきたら……
3秒以内に日本沈む!」
【こより】
「それは……これでありますッ!!」
【智】
「『さきいかチョコ』……?」
【こより】
「なんです、そのゲテモノを見るような目は〜っ!」
【茜子】
「いかだけにイカモノとは、茜子さん大受け」
【こより】
「カカオの香りと磯の香り、絶妙なバランスが奇跡を生み出した! このお菓子こそ甘党と辛党が共に歩む、平和な未来への歴史的架け橋なのですよう!」
【花鶏】
「うぇ、グロ菓子。見るだけで気分悪くなったわ。
智、口直しにパンツ頂戴!」
【智】
「花鶏さん……出会った頃は、もう少しお上品で百合りんな
お嬢様だったのに……」
目頭を押さえる。
【花鶏】
「失礼な。こっちが地なのよ」
救われない現実にひざまずいた。
こなれてくると、人間本性が丸見えになる。
気の荒い豹かなにかだと思っていたら、
手段を選ばない人食い大虎でした。
【智】
「猫科ならいいってもんじゃないです」
【花鶏】
「それにしても、今時怖い夢なんていいだすとは! なんて
古風な清純派! 一緒に添い寝してあなたを慰めてあげたい!」
【智】
「もっと怖い目にあっちゃうよ」
獣のモードですり寄ってくる花鶏とじゃれる。
失敗するとお触りされる。
されると命に関わる。
シャレにならない。
【智】
「夢の中では、最後に誰かが助けてくれたんだけど……」
【花鶏】
「それって、きっとわたしの愛ね」
【茜子】
「夢の見過ぎは健康の害毒です。ぱりぽりん」
【伊代】
「あー、だめ、わたし、ああいうのだめなの、そっちからも
なんとか言ってあげてよ!」
【智】
「ああいうと言いますと」
【伊代】
「アレよ、アレはちょっとないと思うわ。世間は足し算じゃない
のよ。違うもの合わせても上手くいったりしないんだから」
伊代はごろごろしそうな塩梅。
ドロドロしたお菓子が苦手らしい。
【智】
「違うもの合わせときて」
【るい】
「夫婦」
【こより】
「ボケとツッコミでーす」
【花鶏】
「ネコとタチね」
【茜子】
「アメン・ラァー知ってますか。エジプトのまじえらい太陽の神」
茜子はやっぱりマイペースで。
高所の風に髪をさらわれる。
首筋が気持ちいい。
つまらなくも楽しい日々を実感。
【こより】
「うにょにょにょにょー」
奇声をあげて、がつがつ食べる。
こよりがぺたりと屋上に座り込んで、
膝をたてた。
スカートがはらりとめくる。
花鶏が身を乗り出す。
【花鶏】
「まだネンネの太ももをちらり、それはわたしへの挑発か!
そんなに舐めて欲しいなら、まだ酸っぱい青い果実この場で
散らせてやろうか、げへへ」
【智】
「お客さん、この線から前に出ないで」
【伊代】
「大虎通り越してタダのオヤジね」
【茜子】
「目つき超餓えた狼」
無邪気に翻るスカートの下、
こよりの足の付け根の際どい辺りに痣(あざ)がある。
文字のような、記号のような。
痣にしては奇妙に整った形をしている。
あれは呪いだ。
僕らを縛る、呪いの痣だ。
僕ら全員が、類で友。
身体のどこかに同じ痣を持っている。
ぼくらはみんな、呪われている。
【智】
「花鶏がアレを聖痕っていう、根拠ってあるの?」
それはなかなか珍しい気まぐれだった。
僕らは互いの呪いを、
おおっぴらには語らない。
否応なく影のつきまとう、
重苦しい話題には違いないから。
空に近い場所で呪いの話。
業が深い。
【智】
「……なにこの針のむしろの視線」
【伊代】
「なにと言われても、空気読め」
【智】
「伊代にいわれるとショックだ」
【茜子】
「この先天性嘘つきには、厚顔無恥成分が多量に含まれており危険です」
【こより】
「ともセンパイが、はげしくモノ知らずだとは知りませんでした!」
【智】
「こよりんのことは信じていたのに……僕の味方はるいちゃん
だけだ……っ」
【るい】
「もぎゅもぎゅ」(←食べてる)
飽食の使徒は聞いてなかった。
【花鶏】
「バカにしてると、後ろと前を両方一度にぶっといのでかき回してやるわよ」
【智】
「超レイプ!」
前は無理ですから。
【花鶏】
「根拠も理由も決まってるでしょ! これは徴(しるし)よ、生まれ持った特別の『才能』を指し示し、わたしたちと凡夫を区別するための」
花鶏は胸を反らして髪をかき上げる。
矜持(きょうじ)はごう慢すれすれだが心地よい。
白い銀糸が強い風になびいて目を奪う。
呪いというものがある――――
風化した俗説でも、黴(かび)の生えた伝承でもない、
現実の仕組みとしてそれは僕らを呪縛する。
「未来の約束をしてはならない」
「ものの名前を呼んではならない」
呪いが僕らに与えるものは束縛。
破った者に与えられるのは死だ。
【智】
「花鶏にも特別の『才能』ってあるんだ」
【花鶏】
「いまさらなことを。 お互いはっきり口にはださなくても、
それくらい、わかってることでしょ!」
才能――――。
花城花鶏はそれを『才能』と呼んだ。
呪いがそれを与えるのか、
それがあるから呪われるのか。
コインの裏と表に描かれた二種類の模様のように、
呪われた僕らには『才能』がある。
ある者は、人間離れした身体能力を持っている。
ある者は、あらゆる道具の使い方を直感する。
【花鶏】
「並外れたギフトがあるなら、代償だって高く付いて当然よ。
だから、わたしは呪いを怖れたりしない」
花鶏はフェンス際に近寄って、
眩しい空に眼を細めて、怜悧な顔をして笑う。
【智】
「『呪い』と『才能』はひと組だって、みんなもそんなふうに納得してる?」
【こより】
「んー、鳴滝はそこまではわりきれないですけどー、関係あるんだろうな〜くらいです!」
【るい】
「まあ、なんとなくかな」
【伊代】
「聖痕かどうかに賛成するかは別の問題として……、その二つが繋がった関係っていうのは、解りやすくてフェアじゃないかしら」
伊代はフェアが大好きだ。
【智】
「茜子もそう思う?」
【茜子】
「どっちでもいいです」
変な解答だった。
茜子はやっぱり掴みがたい。
【智】
「よくわかりました……僕は余計にブルーになりました。
ブルーブルー」
【るい】
「きちゃったのけ?」
【智】
「きてません」
【智】
「だって……ないの」
【茜子】
「妊娠ですね。いい子を産みなさい」
【智】
「しません」
【花鶏】
「何が、ないっての」
【智】
「『才能』。ギフトでも力でも能力でもいいけど。僕には
心当たりの一つもないんです、コレが」
本当だった。
肩をすくめてみる。
僕は、みんなとは違っている。
僕だけが『才能』を持たない。
僕だけが『男の子』だ。
水と油のように浮かび上がってる。
【智】
「無能……一応学園では優等生なんだけど。これが『才能』なら、なんとも重たい烙印だなあ」
呪いしか持たない半端物。
代価しかないとんだ借金生活だ。
パルクールの時も借金生活だった。
借金がついてまわる人生なのか。
いやすぎる。
【智】
「……ざ・借金王」
【花鶏】
「気づいてないだけ、じゃないの?」
【伊代】
「普通に考えればあるわよね。そこ以外は全員あるみたいだし。目立たないけど実は……とか」
【るい】
「はいっ、トモっちは超・料理つくるの上手です!」
【智】
「それは超、才能違います」
【こより】
「んぐんぐ……おいしい〜」
【智】
「…………まだ食べてたんだ」
【こより】
「センパイがたは食べないですか? 種類他にもいっぱいありますよ。いと気高きフロンティア・スピリッツが足りてませんねぇ〜」
【花鶏】
「どちらかというとカミカゼ精神」
【茜子】
「芸人根性のほうが適切ではないかと」
【智】
「あのお菓子シリーズ、柿の種チョコとかもあるんだよね」
【るい】
「なにそれ! おいしそう!」
【花鶏】
「だまれ動物。チョコとピリ辛って言う時点でもうやばいでしょ」
【茜子】
「ピリ辛と言えば……ラー油は実は中国が起源ではないのを
知ってますか」
茜子先生のマメ知識コーナーだ。
【るい】
「えっ、ギョーザのたれに入れるあれでしょ? 違うの?」
【こより】
「鳴滝も初耳ですよう」
茜子は表情が変わらない。
意味不明な発言も多い。
冗談か本気かわからないことも多い。
【茜子】
「実はラー油は古代エジプト起源なのです。太陽神ラァーの神官たちが神殿の中でのみ作っていた油で、ラァー油。原語ではメレヘト・エン・ラァーと言います」
【伊代】
「う、うそでしょ……? でも、辣油って漢字もあるのに……」
これは……嘘だ。
最近はなんとなく、茜子の無表情の
微妙な変化がわかるようになってきた。
【茜子】
「そんなことはありません。智〜乙女伝説〜なら知ってるでしょう?」
目配せが、伊代の頭上を山なりボールでパスされた。
【智】
「茜子の言ってることであってるよ。ラァー油を飲むとまるで太陽神のように体が熱くなるでしょ?」
【茜子】
「あのオレンジ色も、日輪の輝きを象徴しているのです」
【るい】
「そうだったんだ。へーへーへーへー」
【こより】
「茜子センパイ、何気にマメ知識であります!」
【花鶏】
「くくくくっ……それ、わたしも聞いたことあるわ」
【智】
「花鶏も知ってた? さすが」
【伊代】
「ちょっとちょっと、待ってよ!」
【伊代】
「よく考えたら唐辛子って……サボテンとかの国の原産でしょ! 古代文明の時代のそんなとこにあるわけないじゃない!」
【こより】
「あれ? メキシコでありますか?」
【るい】
「騙されたのか!?」
【伊代】
「そうよ! あなたたちも! 人に嘘を教えるのはよくないわよ! こういうささいな間違いが、社会に出てから恥になるんだから……」
【智】
「…………駄目な子」
【伊代】
「…………ちょ、な、なによ」
【茜子】
「今すごい水さした巨乳がいる。刑罰です」
【智】
「刑罰だね」
【伊代】
「な、なんでそうなるのよ!」
【こより】
「今のは騙されるほうが面白かったトコですよ! 伊代センパイ!」
【るい】
「『嘘でもいいから、抱いて!』っていうとこ?」
伊代は報われない子だ。
【茜子】
「罪状はァァ『いけてない』! 判決はァァァ……死刑ィィィィィ!」
【智】
「執行人は?」
【茜子】
「究極執行人パラダイスフィンガー先生にお願いします」
【花鶏】
「パラダイスフィンガーッ!!」
【伊代】
「や、やめ……ちょっと、こら揉むな! きゃ、きゃあぁぁぁ〜〜……っ!?」
【茜子】
「おお乳者(にゅうしゃ)よ、しんでしまうとは以下略」
【花鶏】
「評価A−……やるわね」
【伊代】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
【こより】
「凄惨な処刑シーンでありました」
【智】
「僕まで処刑されそうでした……」
主に下半身的に。
【るい】
「イヨ子、おっきすぎて取り外し出来そう」
【花鶏】
「もっとやれば取れる? やって見ようかしら」
【伊代】
「取れないわよっ!」
【智】
「そこらへんで勘弁してあげてください」
主に僕がやばいので。
茜子が一本指を、ついっと立てる。
【茜子】
「メロン夫人の粛清も済んだところで、今度は本当のマメ知識を
披露しましょう」
【茜子】
「ラーメンには様々なトッピングがありますが、いまいち地味な
具として『なると』があります」
【花鶏】
「エレガントでない食材ね」
【るい】
「私、替え玉があれば満足なひとだ」
【こより】
「メンマメンマメンマ!!」
【智】
「僕はコーンかなぁ」
【伊代】
「わたしは海苔かしら」
【茜子】
「ラーメンに海苔入れるやつ死ね」
【伊代】
「ええええ……っ!? 海苔くらいで……」
全否定されて伊代は死んだ。
【茜子】
「で、そのなるとですが。実は裏表があるのです」
【智】
「え……? ホント?」
茜子の表情からは真偽が読み取れない。
【茜子】
「あるのです。ひらがなの『の』に見えるほうが表です」
【智】
「それだと、メールのアドレスのアレを『なると』って呼ぶのは
間違いなんだ。裏なると?」
@ ← アレ。
【こより】
「嘘だっ!(←根拠無し)」
【茜子】
「嘘つきはそこな美少女軍団一番の小者」
第一軍団の先鋒扱いされた。
【茜子】
「なるとを一本買ってきて、全部裏から食べてダークヒーロー
気取ると気分爽快」
【花鶏】
「お安いヒーローね」
【こより】
「いーや! 鳴滝はもう騙されません。
鳴滝となるとって似てますし!」
【茜子】
「茜子さん嘘つかない。本当、本当、本当」
【こより】
「伊代センパーイ、ホントはどっちなのか教えてくださいよう」
こよりは伊代にすがりつく。
横目の疑惑を茜子がひらりひらりと受け流す。
背後で、死んだはずの伊代がゆらりと甦った。
【伊代】
「ああ……、『の』の字が表で合ってるわよ」
【こより】
「おおー、ベンキョになりましたであります」
【茜子】
「こいつまたバラしやがった」
【智】
「伊代……」
目頭を押さえた。
【伊代】
「え、ちょ、ちょっと? 今のはセーフでしょ?
ねぇ、教えてあげただけじゃない!?」
【こより】
「ではスッキリしたところで。さきいかチョコの続きを食べ
ましょう!」
【るい】
「カレー味の方がよかったな。むぐむぐ」
【花鶏】
「さて……」
ゆらりと。
【茜子】
「先生出番です」
【花鶏】
「パラダイスフィンガーッ!」
【伊代】
「ま、待っていややめて助けて、だ、ダメ、いや、いやあぁぁぁぁ……っ!?」
ごちそうさまです。
気持ち悪い菓子もいつのまにかなくなって、
見上げた空には気の早い星がひとつ輝いていた。
そろそろ頃合い。
【伊代】
「すっかり遅くなっちゃったわね。わたしは家近いからいいけど、みんな、そろそろ帰ったほうがいいんじゃない?」
晩ごはんも作らないといけないし、
できれば帰りに買い物も済ませたい。
【智】
「そうだね。帰ろっか、みんな」
【るい】
「そだね。んじゃ――」
言葉が消える。
何度もみた風景だ。
それはおそらく、るいの呪い。
未踏(みとう)の制約――――
未来の約束を禁じる呪いだ。
るいは、さよならとは言えても、
また明日とは約束できない。
だから。
【智】
「続きは、また明日にでも」
代わりに言葉を引き継いだ。
【花鶏】
「さてと……まだ夜は暗いから、うら若き乙女たちが一人歩きするには危ないわね」
【るい】
「花鶏みたいな変質者に襲われるしな」
【花鶏】
「そこまで見境なくはない!」
みんなで白い目をした。
【伊代】
「騙されちゃだめよ。
油断を誘うのが、ああいう人の手口なんだから」
【こより】
「実際の被害者の声は参考になるッス」
笑いながら屋上を去る。
一人ずつ潜るドアを押さえていると、
茜子がずっと黙っているのに気がついた。
【智】
「茜子も帰り遠いんでしょ? 気をつけてね」
【茜子】
「はい」
気のない返事。
茜子は僕の顔を覗き込む。
【茜子】
「………………」
【智】
「なに?」
【茜子】
「……わたしも一度、騙されてみたいものです」
【智】
「え……?」
聞き返す僕に構わず、
茜子は階段を下りていった。
【茜子】
(……わたしも一度、騙されてみたいものです)
【智】
「………………」
茜子の言葉がリフレインする。
茜子の『才能』は、
人の心を読む力だという。
僕の顔を覗き込んだ茜子には、
僕の心が見えていたのだろうか。
【茜子】
(この先天性嘘つきには、厚顔無恥成分が多量に含まれており危険です)
まったくだ。
僕は嘘つきだ。
嘘をたくさんついてる。
仲間にだって嘘をつく。
僕が嘘をついていることが、
茜子には全部筒抜けだとしたら。
なんとも言えない気分になった。
【智】
「何もかもお見通しってわけじゃないよね」
理由は明白だ。
僕が呪いを踏んでないから。
茜子が全部まるっと見抜いていたら、
僕はとっくに命を失っている。
ふと思う。
茜子の方はどうだろう。
心が読めて、全部の虚飾が取り払われれば、
現れるのは残酷で薄汚れた世界の姿だ。
すべてが知れてしまうというのは、
いったい、どんな気持ちなんだろう。
僕も、るいも、茜子も、他の仲間たちも。
僕らはみんな呪われている。
どこまでいっても僕らの背中には
呪いの爪が張り付いている。
いつか、この呪いの解ける日は来るんだろうか。
想像を巡らせながら空を振り仰ぐ。
屋上で見たときよりも遥かに星は増えていた。
〔騙り屋対談(茜子編)〕
穏やかに学園で過ごす。
教室で日常を堪能した。
たまには仮面優等生に戻るのも悪くない。
【智】
「今日はよい天気」
肘杖をついて、窓の外、
空を流れる雲を見る。
満ち足りた笑顔。
ずっとこの穏やかさが続いてくれるような、
そんな錯覚をする。
【宮和】
「ご気分はよろしいですか」
【智】
「朝から快調」
【宮和】
「愛の波動が到着したようです」
きてません。
【智】
「おふとん干してきました」
【宮和】
「お布団」
【智】
「ここのところバタバタして、部屋の掃除も洗濯も二の次に
なってて」
最近は仲間たちと遊び過ぎだ。
奇妙な縁で結びついた、
呪われた絆の6人。
ついついハメを外して、
遅くまで歩き回る日々が続いている。
【宮和】
「ここしばらくで和久津様は遠くなられました」
なんでせう。
【宮和】
「宮だけのものでしたのに」
【智】
「何時何分何秒にそんなことが」
【宮和】
「じっと見つめておりました」
【智】
「穴が空きそうです」
【宮和】
「テレビはお好きですか」
【智】
「最近はあまり見ません」
出歩いているからだ。
【宮和】
「特殊な番組などは」
【智】
「どんな特殊」
【宮和】
「そそる感じの女の方がカタカタと」
【智】
「イヤらしい感じ」
【宮和】
「お嫌いですか、天気予報」
【智】
「比喩が歪んでます!」
【宮和】
「雨が降るそうですが」
【智】
「話変わりすぎ」
――――雨?
【智】
「今日雨なの?」
【宮和】
「午後から急に天候が崩れだし、一時的にどさっと降るとか
降らないとか」
【智】
「お布団」
【宮和】
「涙ながらに」
【智】
「全部まとめて干して」
【宮和】
「人生とは思うに任せないモノです」
立ち上がる。
目がすわっていた。
【智】
「宮、先生に早退と病欠と遅刻の届けを」
実は錯乱していただけだった。
【宮和】
「和久津様、顔色がブルーに」
【智】
「とってもブルーで危険です!」
雨が降る! 僕のお布団が死んでしまう。
【宮和】
「お貸ししましょうか」
【智】
「いりません」
ブルー道具を手渡されかかった。
【宮和】
「今からお帰りですと、残念ながらお昼休みには間に合いそうも
ありませんね」
昼抜きになるが、お布団の方が大事だ。
【智】
「急がねば。僕を呼ぶ声が」
お布団が。
【宮和】
「では、メロスのように雄々しく疾走なさる和久津様にこれを」
【智】
「ぱん?」
【宮和】
「食パン、と」
【智】
「どこから出したの」
【宮和】
「女の子には秘密がたくさんございます」
【智】
「不穏当な台詞だ!」
【宮和】
「さ、お持ちください」
【智】
「何故に?」
【智】
(宮の予言があたった)
【智】
(空暗いよ、雨降るよ……)
涙が出る。
アパートへの道のりを疾走する。
スカートをはためかせるはしたなさも構わず、
メロスのように走る。
【智】
(パン苦しい……)
パンをくわえて走る。
走るにはパンをくわえるのがセオリーという。
角を曲がると転校生にぶつかる。
ラブになる。
宮和はとっても変な子だった。
【智】
(律儀にパンを咥えて走ってる僕って……)
角を曲がる。
【智】
「うわっ!!」
ぶつかった。セオリー凄い。
【智】
「ひゃうぅ」
転んだ。
とっさの判断で、大げさに捲れるスカートを押さえ、
中味を晒すのを命がけで阻止した。
【智】
「あーうー、間一髪……あれ?」
ぶつかった相手は、茜子だった。
尻餅をついたまま睨んでいる。
【智】
「どうしたの、茜子。こんな時間に……」
普通なら授業があるだろう。
茜子はもっぱらサボリの常習犯だが。
【茜子】
「…………」
睨まれる。
【智】
「ごめんなさい」
とりあえず公道で土下座。
無反応。
普段なら毒舌が飛んでくる。
あなたの目玉は目玉焼きです、
くらいは言われる。
茜子は動かなかった。
いつもの少ない表情は笑っていない。
怒ってさえいない。
恐怖――
それは呪いの色だ。
【智】
「茜子…………」
ゆっくりと手を差し出した。
身動きしない人形みたいな茜子の、
次の動作をじっと待つ。
茜子は手を取らずに立った。
【茜子】
「前見るがいいですだ、このめく(ぴー)」
毒舌にはキレがなかった。
前を見たまま、茜子がずりりと二歩下がった。
ぽかりと開いた空白が、おそらく茜子の呪いだ。
茜子は四六時中手袋を外さない。
服だって肌を見せないし、今の学園を選んだのも、
制服が古風なミッション系で露出がすくないせいかも知れない。
他者に触れてはならない、触れれば死ぬ、
――――――呪い。
触れたものを黄金に変えて、
ついに餓えて死ぬ男のおとぎ話を思いだした。
【智】
「えっと……ごめん。茜子」
【茜子】
「理解しましたか」
僕の声についた沈痛のせいか、
それとも茜子の『力』によるものか。
【茜子】
「よいです。茜子さん、隠す気ナッシングですので」
茜子の呪いは、
その気があっても隠せない。
誰とも触れてはいけない。
常に手袋を、ストッキングをし、
長いスカートを履いて。
人混みやラッシュの電車は鬼門だ。
仲間とだって常に距離をはからなくちゃならない。
分厚い服と無表情で、自分の全てを隠し続ける茜子は、
だから呪いだけは隠せない。
【智】
「……あぶなく殺人事件発生だった」
【茜子】
「次ぶつかったら小指に地蔵落とす刑」
【智】
「酷すぎる!」
【茜子】
「恐怖の通り魔、食パン女め」
それにしても、本当に危なかった。
二重の意味での落とし穴だ。
不意の衝突。
その程度で僕らのどちらかが、
どちらもが命を落としたかもしれない。
『呪い』――馬鹿馬鹿しいほどの理不尽。
顔や肌に僕が触れていれば、茜子はどうなったろう。
僕もそうだ。
スカートの下を見られていたら。
狂喜乱舞されたかも……。
茜子だけに予想はつかない。
でも。
どちらでも、どちらかが、死を引いた。
【茜子】
「ほっとしておりますね」
【智】
「そりゃもう」
【茜子】
「ニタリ」
何故悪魔っぽく笑うのか。
【茜子】
「隠し事がある」
【智】
「ッッ」
読まれた?
嫌がらせだ、いじめっ子だ!!
【茜子】
「くくくくくく」
茜子は、狙いをつけるスナイパーみたいな顔で舌なめずりした。
通り雨の過ぎた街に出る。
お布団はかろうじて救われた。
宮に感謝を。
【智】
「お詫びアイスです」
【茜子】
「資本主義の犬めが、私にこびを売るというなら、尻尾のあたりにケリくれてやらないでもありません」
ほんのりと残った水たまりをケリながら、二人で街を歩いた。
空が茜の色に染まる時間。
東から順番に街の色彩は
濃淡を変化させていく。
茜子と二人きりというのは珍しかった。
普段なら、僕より猫と逢い引きしてるのが茜子だ。
時間的にはちょうど良い。
ラッシュには早く、
寂しくなるほど人気が足りなくもない。
これくらいの雑踏なら、
茜子も怖くないだろう。
【茜子】
「路地裏ナゴナゴ国際会議が懐かしいです」
遠い目をしていた。
【智】
「これってなんとなくデートっぽくない?」
【茜子】
「デート?」
【智】
「ふたりで」
【茜子】
「茜子さんと?」
【智】
「僕が」
【茜子】
「時間単位で3枚を要求します」
【智】
「た、高っ」
泣く。
【茜子】
「そういえば、先ほど、ランディングハイを決めましたときに」
【智】
「ぶつかった?」
【茜子】
「それです」
【智】
「痛かった?」
【茜子】
「…………ブルマ」
【智】
「ぶっ」
見られていた!?
僕の制服のスカートの下着はブルマだ。
趣味じゃない。
フェチじゃない。
実用性である。
見られても平気だから。
一応。
【茜子】
「汗ばんだブルマの匂いに日々の疲れを癒している女の告白に、
茜子さんはムラムラ来ました」
【智】
「そんなエロ話してないよ!」
【茜子】
「ブルマリアン貧乳僕っ子というと新しい世界が開けてきそうです」
【智】
「くっ」
なんだその肩書きは。
僕がとてつもなく駄目な人間に聞こえる。
いじめだ。さっきぶつかったのを根に持っている。
なんて酷いやつ。
【智】
「なんてひどいやつ」
素直な僕だった。
【茜子】
「俺の神経を逆撫でしやがるベイビートークが、テメエの命を
サンマのナス漬けにしやがるぜ」
【智】
「ブルマくらい、なんだというんですか。みんな履くでしょう」
【茜子】
「普段から履いてるとは、さては」
じっくり顔色を見られる。
【智】
「……」
これってまさか――バレるっ!?
【茜子】
「冷え性」
ほっと。
【茜子】
「違いましたか」
【智】
「――ッッッ!」
よ、読まれる、読まれてしまう!?
茜子の才能!
まずい。天敵だ。
これは僕の天敵だ。
嘘が嘘だとわかる人間と嘘つきの
相性なんて考えたくもない。
【智】
「……」
でも、気分は悪くなかった。
ずっと嘘をついてきた僕には得難い体験だ。
【智】
「そうだ、この際だから手でも繋ぐ?」
【茜子】
「…………」
言ってから、後悔した。
【茜子】
「今回は、」
【茜子】
「悪気ないようですから、許してあげます」
【智】
「うん、ごめん」
手を繋ぐ。
茜子にとって、
それはとても恐ろしい行為だ。
手袋一枚向こうに呪いがある。
ほんの小さな破れ目でもあれば。
必要以上に近付いて、
何かのはずみで素肌を触れ合わせたりすれば。
呪いは茜子を追いかけてくる。
【茜子】
「本当はどっちでも構わないのですが」
【智】
「前も似たようなこといってなかった?」
気がつくと夕暮れ。
びっくりするほど大きな太陽が、
西の空を焼きながら、ビルの谷間に沈んでいく。
茜に染まった茜子の、カットされたばかりの
宝石みたいな、冷たく固い横顔に、声もなく魅入られる。
【茜子】
「メインストリートに夕暮れコスプレイヤーがおりますね」
茜子が指差した方向を目を凝らした。
うさんくさいコスプレがいた。
コスプレじゃなく、蝉丸いずるだ。
【智&茜子】
「「うさんくさ」」
僕らの心は一つ。
蝉丸いずる。
語り屋だと名乗った妙な彼女は、
相変わらず珍妙な格好をしていた。
【智】
「胡乱(うろん)なひとだからいいんですよね」
【いずる】
「面と向かって言うのは図太いねえ」
【茜子】
「うさんくさい変質者和服の方は、無駄にお元気そうでなにより
です。早々」
僕より図太い人がいました。
ニヤニヤと、いずるさんが笑って見下ろす。
特別に嫌がらせしてるんじゃなく、
この人は前あった時も似たような顔だった。
先天性でうさんくさいっぽい。
【智】
「変人ツーショット」
レアものだ。
【いずる】
「誰が変人なんだね」
【智】
「自覚を持とうよ……」
【智】
「でも、こういう格好、茜子も似合いそう」
変だから。
【茜子】
「同性の鎖骨のくぼみにリビドーを感じるなんて、告白されても
茜子さんは困ります」
【智】
「異性にしか興味ないよ!」
複雑な告白だった。
【茜子】
「エロエロっぽい衣装を着せ替え……茜子さんが着ると肩が見えてしまいますね」
【智】
「…………」
今日は失敗が多い。
最近の平和ボケで隙だらけになってるらしい。
肌の見える服なんて、どんなに似合っても、
茜子が着ることはできない。
なにやらむかつく。
胸の内にしこりみたいなものが溜まる。
――――――『呪い』。
僕と僕らの人生の障害物である。
僕らは、そろって何年も、
こいつと寄り添って生きていた。
時に怖れ、時になだめすかし、
起こさないように足音を忍ばせ歩いている。
僕らはみんな、呪われている。
ぼくらがみんなになった後、
それはほんの少しだけ変化した。
呪いのことを、わざわざ語り合わなくても、
お互いにわかっている関係。
僕らを孤独にしてきた呪いを、許し合える、僕らの仲間。
随分と楽になった筈だった。
けれど、
僕はやっぱり嘘つきのままだ。
僕だけは仲間からも浮かび上がる。
僕の呪いは、知られるだけで呪いを踏む。
仲間が相手でも変わらない。
だから嘘をつく。
隠し続ける。
今までで一番身近なひとたちに、
今までで一番上手に嘘をつき続けないといけない。
【茜子】
「また隠し事をしてやがる」
【智】
「ぶっ」
天敵! まさに天敵!!
僕を虐めるために生まれてきたような女の子!!
【智】
「……」
違っているのは僕だけじゃない。
きっと茜子もだ。
触れることを許さない呪い。
それが、仲間との間にさえ距離を作らせる。
茜子だって、
仲良くなった相手と触れ合いたいと思うんじゃないだろうか。
戯れたり、撫でたり、手を繋いだり。
それは叶うことのない願いだ。
るいに抱きつかれることもない。
花鶏のセクハラにだって晒されない。
こよりの頭を撫でてやることもできない。
伊代や僕と手を繋ぐことさえできやしない。
【智】
「――いずるさん、」
人と人は繋がらない。
孤独な僕らは、だから痛みを覚悟で触れ合って、
手を繋ぎ、幾つもの一瞬を重ね合う。
けれど。
僕らが手を繋いだ輪を、茜子だけは、
触れることさえできずに見つめている。
それは、きっと――
泣きたくなるくらい寂しいことだ。
【いずる】
「初夏の空、頬くすぐる薫風(くんぷう)が心地よい出会いの季節を教えて
くれるねえ。では、さらば」
【智】
「いきなり帰るな」
呼び止める。
【いずる】
「君はときどきぞんざいだなぁ、面倒屋くん」
【智】
「実は呪いのことで、もう少し聞きたいことがあるんだけど。
その、呪いを解く方法っていうのを具体的に」
【智】
「解呪用アイテムとかあるとなおベター」
【いずる】
「いきなり何を言い出すかと思えば、お得なチートを要求かい……」
【智】
「いきなり思いつきましたから」
【茜子】
「こやつ、頭のネジがゆるんでます」
酷いことをいわれた。
【いずる】
「思いつきも想いのうちさ。重いことのひとつも語ってやらんではないが。だがしかし、私は語り屋なんだよ。わかるかい、『屋』だからね」
商人根性旺盛な騙り屋だった。
【智】
「それってお幾ら?」
【いずる】
「ざっとこれほど」
耳打ちされる。
【智】
「た、高っ」
【いずる】
「これでも普段よりは大層サービスしているつもりなんだがね、
気に入らないか」
【智】
「一人暮らしの貧乏学園生に、どういう要求するかな」
【いずる】
「君と私の縁じゃないかね」
【智】
「縁があるなら安くしてください」
【いずる】
「縁はバカにしたもんじゃない。とても大切なんだ。どんなものにでも縁がある。出会った以上は紡がれる。縦に横に。模様を作る。語り屋というのはね、その縁に乗って語るのさ」
語るほどに胡散臭さが増していく。
【いずる】
「まあ、たまにはサービスデイも悪くない。お若い面倒屋くんに
老婆心から忠告をしてあげよう」
【いずる】
「思いつきで呪いを解きたいと決心するのは自由だが、
最後まで見極めてからでも遅くはないと思うね」
【智】
「見極め?」
【いずる】
「外と内は同じものさ。始まりと終わりが、神さまと悪魔が
大差ないのと同じくらいには」
【いずる】
「呪いを払えばそれで失うものもあるだろう。
なにも目に見えるものとは限らないが。全ては手に入らない――
この世の鉄則の一つだよ」
【いずる】
「唸るほど金があろうと、道ばたで飢えて死ぬような身の上で
あろうとも、なにもかもは叶わないものさ」
【智】
「それでも…………呪いを解きたいんだ」
【いずる】
「世の中は冷酷非情な選択問題集だ。君の手放すものが、それ
で得るものよりも大きいとさえ限らないのに。それでも?」
【智】
「必要なんだ。どうしても」
【いずる】
「今日の君は意固地だね、以前会ったときよりもずっと強情だ。
あの時よりもずっと幸せそうにみえるのに、あの時よりも一生
懸命だね」
【智】
「僕のことまで語らなくても……」
【いずる】
「いやいや、是非とも聞かせて欲しいな。どういう縁が君を
そこまで意固地にさせるのか。面白ければもう少しサービス
だって考えてもいい」
慎重に考えて、言葉を選んだ。
【智】
「……手を繋ぎたい子がいるんだ」
隣の茜子を意識する。
ぽっかり空いた距離の向こうで「この脳みそワカメはいきなり何をほざき出すのですか」と目が言う。
【智】
「手を繋いで街を歩いてみたい。屋上で一緒に星が出るのを見たりしてみたい。でも、その……呪いが弊害になるっていうか、邪魔をするっていうか……だから、なんていうのか」
【いずる】
「…………」
黙っていた。真剣な顔だった。
【いずる】
「ぶはははははっはっははっはっはっはっはっはっっはっはっははっははっはっはっはははっはははははははっはっはっははは!」
真剣な顔で転げ回って笑われた。
【智】
「……傷ついた」
【いずる】
「いやいや、まったくこれは、お腹を抱えるたいそうな縁だ。結構毛ダラケ猫灰だらけ。犬灰だらけといわないのは奇妙だね。いいとも、私も縁の分だけ仕事はしようじゃないか」
【いずる】
「さあ、語ろうか」
ちろりと赤い唇から舌がのぞいた。
【いずる】
「呪いの解き方だったかな。まずは復習、呪いというのは仕組みだ。恨み辛みは動機にすぎない。相手をどれほど恨んでも、それで相手が死ぬわけじゃない。殺したければ刃物でブッスリ」
【智】
「それが、動機と仕組み?」
【いずる】
「さよう。仕組みにはえてしてコレというポイントがある。ゼンマイがシャフトで支えられているように、車はエンジンがなければ動かないように」
【智】
「それを、壊す?」
【いずる】
「概念としては、ね。呪いを呪いたらしめているもの、物理的で
あるかどうかは定かでない。だが、それがどこにあるのかが
問題だ」
【智】
「うん、手がかりナッシングだし」
【いずる】
「一般論として聞いてくれ。特殊例があったからって八つ当たり
するのは筋違いだぞ」
【智】
「いいから、先に進んでよ」
【いずる】
「今日の最初の話を思い出すといい」
【智】
「……初夏」
【茜子】
「夏ボケには早すぎますが脳が垂れてますね」
【智】
「外と内……」
【いずる】
「その次は」
【智】
「始まりと終わり……」
つまり、呪いの始まりには
終わりが隠されているということか。
ぐるりと回って一周するのか。
【いずる】
「さて、今日の話はこれまでだけど、縁繋がりでひとつものを
頼まれてくれないか」
【智】
「……お代はこれくらいで」
背が低い僕は、かかとをあげて耳打ちした。
【いずる】
「高っ……いうね、面倒屋くん」
【智】
「『屋』だけに。それで、頼みというと?」
【いずる】
「皆元くんに伝言を。彼女の実家、父親の残した小金を巡って
骨肉の争い中なんだが、知ってるかい?」
【智】
「いえ……」
【いずる】
「昔、彼女の父親に頼まれて、ある本の解読に手を貸したことが
あって」
【智】
「そういう仕事もしてるんだ」
【いずる】
「蛇の道は蛇なのさ。父親が死ぬ前に、自分に万一のことがあったら、この本だけでも娘の手に渡るように計らって貰えないかと頼まれた」
【智】
「本……?」
【いずる】
「ロシア語の本さ。まあ、本来は守秘義務なんだが、当人も
いないし、皆元くんにも縁深い君にはタイトルくらい……
日本語で『ラトゥイ……』何だったかな、まあいいか」
【智】
「ロシアの本ねぇ……。あれ、そのタイトルどこかで……」
【いずる】
「弁護士のところで、彼女の分与分の遺産として銀行の貸金庫
のキーを受け取れるように計らってある。気が向いたら行って
くれたまえ、と」
【智】
「あ、ちょっ、ちょっと……」
【いずる】
「それじゃ、また縁があればってことで」
見るからにうさんくさい人は、
その粘っこい話の運びとは裏腹にあまりにもあっさりと。
スタスタと歩み去ってしまった。
茜子と並んで歩いた。
びっくりするほど長い時間、
茜子と二人だけでいるんだと意識する。
黄昏の最後の一片まで、とっくにぬぐい去られた夜の空。
国道を流れるテールランプの川と、
ネオンの明かりが星をかき消して降りそそぐ。
【智】
「茜子、晩ご飯どっかで食べていく?」
【茜子】
「…………」
変な重さの沈黙だった。
いずるさんが去ってから、
茜子は一言も口をきいてくれない。
何か機嫌を損ねるようなことしちゃったのか。
【茜子】
「同情押し売りお断り」
【智】
「同情……」
【茜子】
「……いりませんので」
茜子にしては言葉足らずだ。
それだけに本気だった。
見ず知らずの他人からの同情とは違う。
仲間からの同情は、憐れみは――
同じ呪いの繋がり。
互いを利用し合う同盟からはじまった、
対等であるべき関係性。
それだけに、余計に自分を惨めにさせる。
【智】
「そう、だね」
同情でないとは言い切れない。
茜子は心を視る。
隠したところで意味はない。
だから。
【智】
「同情じゃないとは言い切れないけど、
でも、それだけじゃないから。
見たいんだ」
【智】
「茜子が
るいと手を繋いで遊んだり、
花鶏におっぱい揉まれたり」
【智】
「こよりの頭をなでてやったり、
伊代と文系腕相撲してみたり、
そういうところを見てみたいんだ」
【智】
「それに……
僕もやってみたい。
茜子の頭を撫でてあげたり」
【智】
「手を繋いで一緒に街を歩いたり、
そういうことをしてみたい。
そういうのも同情っていうのかな」
【茜子】
「……変態です、新たな百合りん発見です、茜子さんはターゲットロックオンしたセクハラー二世の養分になるデンジャーが急上昇」
いつもの茜子だった。
【智】
「べ、別に、花鶏の仲間ってわけでは……」
元々男なんだから。
【茜子】
「………………?」
【智】
「どうかした?」
【茜子】
「今、おかしな嘘の付き方をした」
だんだん見抜かれ精度が上がってる気がする!?
それってマズくないですか!?
そのうち本当に何もかも見抜かれてしまう!
辺りはすっかり夜だった。
静かな星と青い月の下を、
とぼとぼと歩いて帰る。
【智】
「がんばって呪いを解こうよ。手がかりはないけど、方法は、
この世のどこかにあると思う」
【茜子】
「解けると思いますか」
簡単ではないだろう。
雲を掴むような話かもしれない。
【茜子】
「楽観すぎる意見には、茜子さん、賛成できません」
【智】
「やる前から悲観論もどうかと」
【茜子】
「茜子さんの呪いを解こうとした人は、今までにもいました。
マイファミリーも最初は解こうとしたもんなのです」
【智】
「そっか、茜子を救いたかったんだ」
【茜子】
「私が気味悪かったから、です」
【智】
「――――――」
絶句する。
茜子が言うなら、それは真実だ。
口には出さなくても相手の心だ。
【茜子】
「当たり前です。だって、そうじゃないですか。
親だって触れることができないんです」
【茜子】
「頭も撫でられない子供を、
可愛いなんて思い続けられる親はいないのです」
【茜子】
「ファミリーもラバーもフレンズもスレイブも、
一方通行なんかあり得ない」
【茜子】
「キャッチボールと同じです。
投げ返されなければ遊ぶこともできない」
【茜子】
「たとえ自分の娘でも、
おっぱいもあげられない」
【茜子】
「服を着替えさせるのだって手袋ごし。
お風呂にだって一緒に入れない」
【茜子】
「それに、私は、」
――――――心を視る、から。
【茜子】
「小さい頃から、
あの人たちが、私を怖がっているのがわかりました」
【茜子】
「物心つき始めると、
私はだんだん避けられるようになりました」
【茜子】
「少しでも事情に通じた人は、
家族も他人も、みんな私を遠ざけるようになっていきました」
誰もが心の中は醜く薄汚れている。
他人に心は見えないから。
装う必要がないから。
欲望も呪いもありのままにある。
それを全部知られる、語られる。
怖がって当然だ。
僕は怖いのか?
怖くないわけないじゃないか。
茜子は鏡だ。
怖いのは何より自分自身。
自分の醜さを突きつけられたとき、
耐えられる人は多くない。
それに、何よりも――
僕の場合は、
呪いを見抜かれてしまったら……。
僕は死ぬ。
ひたすら足早に歩き続けて、必死の思いで置いてけぼりにしているのに、呪いは一瞬で追いついて、背中に爪を突き立てる。
【智】
「……茜子は辛くなかった?」
【茜子】
「…………」
【智】
「誰だって心は薄汚れてるよ。
僕だってこっそりロクでもないことを考える」
【智】
「憎んだり、恨んだり、妬んだり、みんなが心のままに生きたら
世の中なんてあっという間に滅茶苦茶だよね」
【智】
「心が見えないから、わからないから上手く回る。
知らなければ、怖くない」
【智】
「目を逸らしていれば大丈夫。
それを、全部……」
茜子は視てしまう。
突きつけられる真実は、
見せかけの笑顔の下に淀んだ心、
残酷な正しさの色。
僕はほんとに抜けている。
僕よりも、ずっと茜子の方が救われない。
【茜子】
(どっちでもいいです)
聖痕談義の時の、
茜子の返事は当たり前だ。
裏と表の、呪いと才能。
無能な僕には呪いの重荷しかないけれど、
茜子は二つの呪いに縛られている。
身体には触れられず、心には触れてしまう。
それはきっと、
どんな呪いよりも根深い呪いだ。
(呪いを、解きたい――――――)
自由なところを見てみたい。
どんな束縛も、怖れもなく。
素肌のまま、どこまでも続く広い草原を走っていく、
そんな茜子を見てみたかった。
【智】
「その、茜子の両親が解こうとして、結局」
【茜子】
「当然ダメでした。茜子さんみればわかると思いますが、察しの
悪いボク女ですね」
どこまでも虐められる僕だった。
【茜子】
「なにもわかりませんでした。最初から荒唐無稽な話ですし。自分たちの血筋には、時々、私みたいな魔女が生まれるという記録を見つけたくらいで」
【茜子】
「だから、呪いを解くなんて、」
【智】
「がんばろう」
そんなことでは諦めない。
きっとできないから、
では止められない。
最後まで走れば活路はきっとある。
【茜子】
「人の話を聞かないヤツは、耳を千切って耳なし芳一にします」
【智】
「痛すぎるよ!」
泣いた。
【智】
「でも、やる。やるっていったら、がんばる。
みんなでやれば、きっとなんとかなるって。
パルクールレースの時みたいに力を合わせれば」
【茜子】
「M1エイブラムスなみの前向きさ」
【智】
「後ろ向きよりいいでしょ。だから、呪いが上手く解けたら――」
茜子の正面にくるりと回る。
ほんの少し腰をかがめて、茜子と目線を合わせて、
精一杯の強がりと決意の顔をつくる。
【智】
「今度こそ、手を繋いでデートしちゃおう」
【茜子】
「変態呼ばわりします」
やる気がわいてくる。
変態呼ばわり……
残念だけど、そんな日はきっとやってこない。
もしも、本当に呪いが解けたなら。
その時の僕は――
女の子じゃないんだから。
〔『彼』の正体〕
呼び鈴を鳴らさず誰かがドアを叩く。
ベッドの枕元の時計を確かめた。
PM10時。非常識な時間だった。
隣人にもうるさく言われる。
【智】
「夜なのに……」
敵の正体を推測する。
そこにいるのは新聞の勧誘か、
はたまた宗教参加のお誘いか。
【智】
「まにあってます!」
奥から叫ぶ。
大概はコレで消える。
消えないのは元々しつこい。
はたして、ノックは消えた。
平和な夜が帰ってくる。
【茜子】
「ドアを茜子さんの描き下ろしイラストでいっぱいにされたく
なかったら、両手を挙げて大人しく出て来てください」
茜子だった。
【智】
「なにこれ、すんごいの!」
【茜子】
「茜子印の宅急便です。こちらにサインを。
ありがとうございました」
【智】
「やー、帰っちゃいやー!」
【茜子】
「冗談です」
全部が全部予想外だった。
こんな時間に大量の猫を引き連れて茜子が来たことも、
茜子が拾って運んできたものも。
鳴いていた子猫じゃなかった。
【智】
「才野原惠……」
才野原惠だった。
パルクールレースで、
僕らを助けてくれた相手。
玄関先で詰め襟姿がうずくまっていた。
よりにもよって怪我をしている。
かすり傷じゃない量の明らかな出血が、
詰め襟を黒く変色させている。
【智】
「猫の子じゃないんだよ!」
【茜子】
「僕女さんは犬派でしたか」
【智】
「ここで派閥闘争してどうするの」
【茜子】
「首輪に繋がれた飼い犬の最後は惨めですよ」
【智】
「……どこで拾ったの?」
【茜子】
「茜子さんが近くの高架下で第7回猫猫地球環境対策会議に
特別オブザーバーとして出席していますと、ガギノドンの
弟の親友の隣の席に座っていたブルグルグンさんが」
【智】
「それは赤の他人です」
他猫かも知れません。
【茜子】
「河原にこやつめを見つけました。上流から流されてきた
くさいです」
【智】
「それで、どうしてここへ?」
【茜子】
「救急車とか病院とか、このクールビス男が嫌がりましたので、
至急最寄りの避難所へ」
【智】
「避難所違う!」
【茜子】
「前世からの因縁かも知れません。茜子さんはリンゴを持った
魔女で、あなたはリンゴについた虫」
ものすごく因縁がなさそうだ。
それにしても、僕のところへ来るとは。
他に行くところがなかったからだとしても、
茜子から頼られているようで悪い気はしない。
【茜子】
「自惚れるな、姑息貧乳の分際で」
【智】
「ひぃいぃいぃ……っ」
何をどうしても読まれてしまうッッ!
勝てない、茜子に僕は一生勝てそうにない。
【智】
「……でも、茜子が運んできたの?」
【茜子】
「めっちゃ苦労。後でこやつにトイチで治療費請求しなければ」
【智】
「た、高っ」
茜子を見つめる。
思いの他の距離の近さに気づいて、
茜子は玄関横のキッチンの隅に移動する。
茜子には『呪い』がある。
惠に肩を貸すくらいのことでも、
茜子にとっては生死の危機だった筈なのに。
【智】
「茜子、優しいんだ」
【茜子】
「猫科は気まぐれ」
玄関先で惠の様子を調べる。
服の上からだと確かなことはわからない。
外から見る限り出血はかなり酷い。
動脈をやっていたら、手の施しようがない。
【智】
「やっぱり、ここよりも、ちゃんとした病院にいれないと……
急いで救急車を――」
携帯を。
番号の二つ目の「1」をプッシュした手を、
血の付いた手が下から掴んだ。
【惠】
「…………個人のポリシーを尊重して、やめてもらえないかな」
【智】
「惠っ! 目が醒めたんだ!」
【惠】
「傷は……見た目より酷くないと思うから、このまま道ばたに
捨てて貰えれば、朝には自分で家まで帰れそうだ」
【智】
「そんなの無茶に決まってるでしょ!」
【茜子】
「温暖化防止に二酸化炭素削減を目指すなら、他の方法を
お勧めしますよ」
【惠】
「……それなんだが、環境破壊と寛正飢饉(かんしょうききん)はどこか似てる気が
しないか」
【茜子】
「深い道のりです。ようやく大悟(たいご)いたしました」
得体の知れない通じ方をしていた。
【智】
「とにかく、救急車を呼ぶから、その手を離して」
惠は手を離さない。
意外な程の力で、
携帯を持つ手を押さえつける。
負傷者とは思えない強い意志の目だ。
【惠】
「やめろ」
鋭く短い命令形。
惠の、はじめてみせるせっぱ詰まった顔だった。
謎めいた笑みにいつもの余裕がない。
ただでさえ白い顔が血の気を失って、マネキンを思わせる。
【智】
「どうして」
【惠】
「宗教上の理由だといったら信じてくれるのかな」
【智】
「……僕の周りは無理難題をいうやつばっかりだ」
惠が笑う。いつもの低温以上に力がなかった。
【惠】
「この程度の傷は、君に心配をかけるほどのこともないんだが、
今日は星回りが悪いらしい」
【智】
「星回りとか言い出した」
【惠】
「……気を遣ってくれなくても、隅に転がしておいてくれるだけでいいのに」
惠の語尾が弱くなる。
力が抜ける。
【智】
「厄介だなあ……」
病院はだめ。放置もだめ。
方法は一つしかない。
【智】
「先ずベッドに運ばないと。治療しなくちゃ」
【茜子】
「どうにかできますか」
【智】
「…………面倒事は得意なんだ。悲しいほどに」
惠を部屋に入れる。
手を貸そうとする茜子を制止し、
自分で運び込む。
運んでる途中で意識のない身体が下手に動いても、
それに触れれば茜子は呪いを踏む。
そんな危険は犯せない。
【茜子】
「猫の手はいりませんか。茜子さんの手は塞がっていますが、
ガギノドンが今日も戦います」
一歩引いた場所から、茜子が言う。
ガギノドン(ネコ)が、惠を心配してか短く鳴いた。
【智】
「大丈夫……」
引きずるようにして、惠を奥へと運んだ。
身長のわりには軽かった。
細身の僕でもどうにかなるくらいだ。
キャビネットから大きめの救急箱をとってくる。
あまり使いたい物じゃない。
普段は気にすることのない怖いことを、
否応なく思いだしてしまうから。
【茜子】
「怪盗セットをトレジャーゲットです」
【智】
「応急治療セット」
【茜子】
「中味が妙に充実。ふむ、さてはミス貧乳は胸元ちらりで男を
路地裏に運び込んでは、睡眠薬を嗅がせて肉体を貪る趣味が」
【智】
「エロ強盗か」
手際よく準備を整える。
外から検分。
惠は左の脇腹を負傷している。
内臓に届いてないことを祈るしかない。
万一、大きな手術が必要なほどの重傷なら、
有無を言わせず救急車を呼びつけないといけない。
いや――
その時は、手遅れの公算大だ。
その時は、無理にでも救急車を呼ばなかった自分の判断を、
僕はずっと後悔しないといけなくなる。
【智】
「こんなやつでも一応恩人なんだ。なんとかする」
【茜子】
「茜子さんお手伝い」
猫の置きもののように部屋の隅に立ちながら。
誰にも触れられない茜子。
それでも手伝うという、その気持ちを汲みたかった。
【智】
「お湯、湧かしてくれるかな」
【茜子】
「さーいえっさー」
テキパキと用意をする。
【茜子】
「これまた手際が良い」
ポットをコンロにかけて、茜子が戻ってくる。
【智】
「…………覚えたんだ」
それは興味ではなく、必要だから。
僕には呪いがあるから。
医者にはかかれないから。
怪我をして病院に運び込まれたら。
身体検査をされたら。
助からない。
呪いの爪がやってくる。
だから覚えた。覚えさせられた。
男の僕にスカートをはかせた母は、小さい頃亡くなる前に、
まるでその日を予期していたように色々なことを教え込んで
くれた。
お化粧の方法、痴漢対策に護身術。
簡単な応急処置の方法なんかもだ。
誰の力も借りなくても済むように。
自分一人でやっていけるように。
それでも。
一人では限界がある、素人には限界がある。
大きな病気をするのが怖い。
怪我くらいならなんとかなる。
でも、もっと大きな病気なら。
手術が必要なことになったら。
どうにもならない。
背中に怪我でもしたらどうするのか。
盲腸ひとつでも、僕にとっては致命傷だ。
医者にかかればそれで済む簡単な病が、
助かりっこない死の病に姿を変える。
普段は考えないようにしていることを意識する。
恐怖に手が震える。
【茜子】
「……怖い」
呟き。
僕の恐怖を茜子が読み取る。
惠のことで焦っているのか、
茜子の呟きは無意識だった。
【智】
「じゃあ――――――」
服を脱がせる。
治療のためだ。
男の裸なんて見たくもないのに。
………………………………
……………………
…………
……
【智】
「わぎゃああああああああああああ」
【茜子】
「小さいが形はマニアックなBカップ」
【智】
「エロスな解説しなくても!」
錯乱した。
【惠】
「どうしたのかな」
幸か不幸か、惠が目を醒ました。
どうしたもこうしたも。
【智】
「お前、女だったのか!!!!」
才野原惠。
服を脱がしたそこにあったのは、女の子。
胸があった。
嘘っ!
【惠】
「……男と言った覚えはないんだが」
【智】
「いわなけりゃいいのか! 詰め襟着てショートカットで、
これ見よがしに僕に告白してきて、友達からはじめて恋人
目指す女の子がどこにいるんだよ!」
【茜子】
「狼狽すると素を露呈するア×ズレですね」
【智】
「…………ッッ」
我を失ってしまった。
【智】
「ごめんなさい」
【智】
「不肖、和久津智。これより再び治療作業を再開いたします」
上半身をはだけられた惠。
脂肪の少ない、骨の尖った細身の身体。
たしかにBカップサイズの胸があるのに、
顔立ちと同様に彫刻めいた中性的な雰囲気が漂う。
負傷箇所を確かめようとして、再度固まった。
【茜子】
「これ」
固まっている僕の肩越しに、茜子が指差した。
ハンマーで脳天を叩き割られたような衝撃。
最初の衝撃から回復してないのに、
第二弾がきた。
眩暈がする。ぐらりと部屋が傾ぐ。
見覚えのある形、色。
象形文字とも記号とも付かない奇妙な印象。
それは――――
【智】
「呪いの痣…………」
負傷箇所のちょうど下辺り、左の脇腹に、
何度も見た呪いの痣が浮かび上がっている。
【智】
「惠っ!!」
怪我人だということを、
忘れてしまうほどの衝撃。
【惠】
「珍しいものでも見つけた顔だ」
惠も呪われている。
僕らと同じ、呪いを身体に宿している。
混乱する。
いったい何がどうなってるんだ。
【智】
「驚いてる場合じゃない、手当てしなきゃ!」
【茜子】
「間抜け」
茜子に怒られながら、傷口を見る。
刃物の傷じゃない。
見たことのない傷だ。抉れている。
黒く変色してるのは一種の火傷なのかもしれない。
撃たれた?
【茜子】
「どうなってます」
【智】
「浅傷だと思う。動脈まではいってないみたい」
いや、変だろう……。
この傷の位置、どう考えても致命傷だ。
服に染みてる出血にしたって、
かすり傷の量じゃなかった。
それなのに傷口は思いの外浅く、
出血も半ば止まっている。
【智】
「これなら、縫わなくてもなんとかなりそう」
【茜子】
「できるんですか?」
【智】
「小さい頃から練習させられてたんだ」
【茜子】
「いやいやと口走りながら、身体は一度火がつけば治まることを
知らず、面倒の官能に溺れてしまう」
【智】
「イヤすぎです」
【智】
「見た目よりずっと浅傷でよかった」
【智】
「すぐに動いて悪くなったらまずいし、二、三日ここで養生
させればいいと思う。ベッドもあるし、僕もいるから世話
くらいしてあげられるし」
【茜子】
「助かりました。ごめんなさい」
素直に謝られる。
【智】
「別に茜子が謝ることじゃないよ。怪我したのは惠なんだし」
【智】
「仲間同士迷惑掛け合うのも素敵だって思う」
【茜子】
「M奴隷気質の告白は、大魔王セクハラーに」
【智】
「それは真面目に食べられちゃうから」
【惠】
「お礼を言っておいた方がいいのかな」
僕のベッドに横たえられた惠が、
うっすらと目を開けていた。
治療中は黙っていたが、ずっと起きていた。
痛みはあった筈なのに、
呻くことさえしなかった。
ものすごい精神力だ。
【智】
「……もう身体動かしても大丈夫なの?」
【惠】
「君にはどう見える?」
【智】
「そうだね、惠。大丈夫だと、思う」
【惠】
「……僕も、智と呼んでもいいかな」
【智】
「いいよ。でも、その代わり、三つほど聞きたいことがあるんだけど、答えて貰える?」
【惠】
「結婚の申し込みなら考える時間を貰えるかい」
【智】
「違います!」
女同士だろ! 一応だけど。
【智】
「惠……君も呪い持ちなの?」
【惠】
「『君も』という言い回しの方が興味深いな」
隠しても意味はない。
茜子にも目配せをする。賛同。
【智】
「僕らも呪い持ちだから」
【惠】
「……!」
惠が驚きに息を呑む。
大理石を彫刻したような顔立ちが息をひそめて、
次の言葉を待っていた。
【智】
「他にもいる。僕の仲間、惠だって知ってるはずの……全部で六人。惠で七人目になる」
【惠】
「そんな……まさか……こんなに身近に、こんなに多くの呪いが
集まっていたなんて……」
【智】
「じゃあ、惠も本当にそうなんだね!」
【惠】
「智は、自分の目で見たモノでも信じないタイプなのか?」
そうだ、惠の言うように、
この目で痣を見つけた。
間違いない、僕らを繋ぐ呪われた徴だ。
【惠】
「僕からも確認させて欲しい。智、君も呪い持ちで間違いないのか」
【智】
「証拠を見せるよ」
袖をまくって、自分の痣を明らかにする。
【惠】
「…………本当だ。僕の知っている……まさか、あのレースに
出ていた、智のチームが全員呪い持ちだったのか」
【智】
「……詳しくは後で話すよ。それで、もう少し突っ込んだ話をするけど、傷は思ってたよりずっと浅傷だった。あれは……このままにしておいても大丈夫なの?」
それは、質問ではなく確認だ。
かなりの深傷を負ったはずなのに、
気がついたら治癒しはじめている。
そんな馬鹿げた話が現実に目の前で起こっている理由づけに、
心当たりは一つしかない。
特殊な『才能』――――
惠は呪い持ちだ。
るいや茜子と同質の、
特殊な『力』を持っていてもおかしくない。
【惠】
「……僕は身体が丈夫なのだけがとりえでね」
【智】
「わかった。じゃあ、これ以上は詮索しないから。良くなるまで
ベッドは使ってくれていい」
【智】
「でも、最後に一つ。いったいどこで何をしてきたの。血塗れで
運び込まれてくるだけでも普通じゃないのに、あんな傷まともに付くわけないでしょ!」
【茜子】
「夜分にうるさくするとご近所迷惑だと思います」
くっ、家主に対してどこまでも酷い。
【惠】
「…………わかった。真実を話そう」
深刻な顔で惠が目を伏せた。
ごくりと息を呑む。
【惠】
「この街の地下に、下水道があるって話はきいたことがある?」
【智】
「聞かなくても知ってる」
【惠】
「そこの白いワニが」
【智】
「人を見つけて襲いかかるので退治に?」
【惠】
「智は物わかりがいいな」
枕を投げつける。
さすがに怪我人には当てられず、
外した狙いは近くの壁に当たって、
ぽすりと音を立てる。
惠は謎めいた顔で微笑していた。
【智】
「さっきの傷は、転んだとか刃物で切られたとかで、つく傷じゃ
なかったんだ」
【惠】
「智は、転ぶとたまに酷い傷痕がつくことがあるのを
知っているかい」
【智】
「答える気はないですね」
【惠】
「ちょっとしたケンカをしてね」
【智】
「そんなことで……」
【茜子】
「半分は本当です」
【智】
「半分?」
【茜子】
「半分だけです」
【智】
「ちょっとしたケンカ?」
【茜子】
「争ったのは、おそらく真実です」
【惠】
「その子は、面白い『力』を持っているようだ」
【茜子】
「はい。茜子さんは相手の心が視(み)えます。嘘つきさんを暴き出すのが一日のストレス解消にはもってこい」
【智】
「ス、ストレス……」
そんなもののタメにいじられる、
僕は僕が可哀想だ。
【惠】
「……それは重い『力』だね」
【智】
「…………」
本当に。
【茜子】
「一応、感謝はしてるみたいです」
茜子が言うのなら間違いない。
【智】
「いいよ、怪我人相手に騒いでもしかたない。今日は大人しく寝てください」
深呼吸して肩の力を抜くと、
細かいことはどうでもよくなった。
明日になって、もう少し落ち着いてから、
これからどうするかを考えよう。
【智】
「……というわけなので、おたふく風邪と水ぼうそうを併発
してしまいました。学園の方は今日明日くらい休むことに
なりそうなので」
【宮和】
『承知いたしました。ご自愛ください』
【智】
「ありがとう、宮和」
【宮和】
『そこは、ありがとうではなく。
愛しているよスイートハートと、是非に』
【智】
「さよなら」
無情な感じで通話を切る。
宮和に適当な言い訳を並べて、
授業をしばらく休むからと伝言を頼んだ。
惠の傷の世話もあるので、今日はお休み。
惠はベッドの上に上体を起こして、
テレビを流し見ていた。
日々消化されていくメディアの情報が
右から左に通り過ぎる。
【智】
「ムリして起きないように」
誰か来たらしい。
【智】
「朝早くなのに、誰だろう?
まさか、お隣が理性をぶち切って遂に情欲魔獣にっっ!」
【智】
「まさかね……はーい」
【茜子】
「開けないと貧乳裂きの刑です」
猫会議を再開しないといけないからと、
いったんは帰った茜子だった。
貧乳裂き……どんな刑だろう。
【智】
「なんだ、こんな時間から心配で来たの? わざわざこなくっても電話の一本も……」
瞬間。
【るい】
「おっはよー」
【花鶏】
「面白いのを拾ったんですって?」
【こより】
「お見舞いに来たんですよう!」
【伊代】
「一応わたしはとめたのよ。いくら何でも朝早過ぎるし、それに怪我人のお見舞いっていっても大勢で押しかけたら大変だろうって、でも……」
【茜子】
「昨夜のうちに手配をば」
ニヤリ笑い。
混沌開始――――。
部屋は一気にすし詰め状態になった。
ベッドの周りを見物客が取り囲む。
茜子だけはベッドの下に潜り込んでいた。
ちょっとした珍獣状態の惠だ。
【るい】
「おー、あンとき以来久しぶりだねー」
【惠】
「あの時というと、君とデートして以来だったかな」
【こより】
「パルクールレースで一緒して以来ですよぉ。鳴滝もちゃんとお礼言いたかったです!」
【惠】
「昔のことは忘れる主義なんだ」
【花鶏】
「まさか女だったとは。この私の目を誤魔化すなんて侮れないわね。その分楽しみが増えたわ!」
【伊代】
「それよりも痣の話よ。あなたにもあるんですって?」
歓談を断ち切る伊代のマジ発言。
【茜子】
「空気読め」
喋るベッド、マジ怖い。
【惠】
「さあ。自分の身体は見ないから、忘れたね」
【伊代】
「え、なにそれ、そういうのってあるの?」
【茜子】
「次はエロペラーにタッチ」
【花鶏】
「く・う・き・よめ〜」
指先にヒネリが入っていた。
パラダイスフィンガーッ・改!!
【伊代】
「あ、やう、あ、あ、あ、あひぁ、らめ、うあ、ひあああああああああっっ!!」
伊代が屍と化して転がっていた。
【るい】
「あれからどーしてたの?」
【惠】
「風に流れる雲と同じで自由人だったよ」
【茜子】
「不自由人っぽいらしい」
【こより】
「とりあえず、不肖鳴滝めはお礼をばもうします! レースの折はありがとうございましたです〜」
【惠】
「君も怪我をしなくてよかった。央輝の仲間は気の荒い連中が
多いからね」
【茜子】
「眼鏡オッパイに変わる、新たなニューホープにマジ期待」
【花鶏】
「それで、話を戻すけど、本当に痣はあるの?」
【伊代】
「わたしには制裁したくせに……」
ゾンビのように生き返る。
【惠】
「智の方が詳しいよ」
【茜子】
「あるあると申しておる」
【伊代】
「その……見せては貰えないの……?」
【惠】
「女同士でそんなはしたない」
【茜子】
「構わないといっているので、ここはセクハラーに」
【花鶏】
「ほほう、どれ」
花鶏が、惠の制服をぺらりとめくる。
白い肌の上に印された見慣れた形の痣が、
花鶏たちに息を飲ませた。
僕も別の意味で息を飲む。
そこに昨日は確かにあったはずの傷痕は、
跡形も残ってはいなかった。
【花鶏】
「なるほど、これは本物ね」
【るい】
「ほえー、なんで昨日は大けがしてたの?」
【惠】
「『黒い王子様』に襲われたんだ」
【茜子】
「ケンカしやがったらしい」
【るい】
「ヘンなやつだ」
【こより】
「ヘンな人です」
【花鶏】
「ヘンなやつね」
【伊代】
「この人も、この人も嘘つき村の住人だわ……まったくもう、
どうして正直にまっすぐ生きられないの。性根の曲がったやつ
ばかりがはびこる世の中なんて……」
【惠】
「茜子……君は思っていたよりずっと面白い子だね」
【茜子】
「はい。茜子さんは耳で餃子食べられますから」
【惠】
「僕もできるよ、奇遇だね。今度ペアでレバニラライスに挑戦するのはどうだろう」
【茜子】
「GJ」
【るい】
「すごーい!」
【伊代】
「嘘に決まってるでしょ……もうこの子は……」
ぴきーん。
茜子と惠の変人ハートが通じ合っていた。
愛の鼓動が聞こえる。
類は友なのか。
意味不明な変なの同士、
友情が芽生えたらしい。
〔チュカバブラの呪い〕
ぼくらはみんな、呪われている。
孤独な僕らは6人になった。
呪いの絆で結ばれた、6人の類で友。
けれど。
呪われていたのは6人じゃなかった。
才野原惠。
新しい仲間だ。
僕らは7人になった。
反対意見はどこからもでなかった。
当たり前だ。
悩むより前に、考えるより先に、
僕らを繋ぐ絆がある。
奇妙なほどにうきうきする。
何か新しいことでもはじまりそうな、
根拠はなにもなかったけれど、
そんな素敵な予感がした。
【惠】
「いや、栄養素というのは無闇に摂れば良いというものではない。ドイツではキャロットジュースを摂取し続けた成人男性の死亡例がある」
惠の怪我は、医者にもかからず、
一夜にしてほとんど完治していた。
傷痕も残らない。
生命力とか医学とかが裸足で逃げ出す。
【花鶏】
「あーあー、うるさいわね。そんな死ぬほど飲まないっていってるでしょう!」
【るい】
「メグム、変なことに詳しいよね」
【茜子】
「今度から栄養オタクと呼びましょう」
【惠】
「ははは、それはいい」
惠が声を上げて笑う。
同じようにたまり場に出入りし、
くだらない時間を一緒に潰しあう。
【こより】
「え〜〜? そんなかっこわるいアダ名、ホントにいいんですか〜?」
インラインスケートを履いたこよりは、
屋上を落ち着きなく滑って横切り、戻ってきた。
【茜子】
「茜子さんのクールすぎるネーミングにケチをつけるとは。
すぐ脳改造しろ」
【智】
「改造人間!?」
【こより】
「悪の怪人はいやですよう〜っ!!」
こよりの目が×になる。
【惠】
「改造手術というと、担当するのはやはり外科の医者になるのかな」
【智】
「論点そこじゃない」
【茜子】
「楽しい楽しい前頭葉切除、イェ〜、ロボトミ〜ィ」
【こより】
「ろぼとみーイヤぁ〜っ!?」
【茜子】
「豊胸手術もつけますぞ」
【こより】
「え……、ほ、ほうきょう…………」
【伊代】
「悩むとこじゃないでしょそこ! まったく……やっと真面目な
メンバーが入ったかと思ったら、変人が一人増えただけだった
わ……」
自称常識人、伊代の苦労は耐えない。
一見すると、惠はまともそうに見える。
が、その実体は、茜子の相方を務められるような人物だった。
思い返せば、
最初の出会いからして浮世離れしていた。
まあ、わりと良い言い方をすれば、だけど。
日差しの強い日だ。
普段はいい場所の、
屋上溜まり場。
欠点は屋根がない。
雨が降ると困る。
晴れていても、
空に近い分、余計に暑い気がする。
そこで僕らは流浪の旅に出た。
新たな涼める理想郷を求めて――――
この間まで6人で彷徨った道を、
僕らは7人で歩く。
道いっぱいに我が物顔で広がって、
思い思いの位置に陣取りながら。
【花鶏】
「夏でもないのにやめて欲しいわね。肌が焼けるわ」
【るい】
「花鶏って肌弱そうだもんね。UVとかがオゾンホールで肌に
発がん性だよ」
【智】
「ものすごい適当に単語使ったね」
平然と胸を張る、るい。
物怖じしなさすぎる性格は部分的に見習いたい。
【るい】
「うん! UVって何の略なの?」
【伊代】
「紫外線よ。英語でウルトラバイオレットって言うから、それを
略してU・V」
【るい】
「え!?
つまり、ウルトラ・ヴァイオレット・ビィィーーー……ッム?」
謎の光線発射ポーズを取りながら、
途中で首を傾げた。
【花鶏】
「何が言いたいのよ、おまえは」
【こより】
「ニュアンスは伝わりました! つぎはオゾンホール行きましょう」
【るい】
「オゾン・ホォォォーーー……ッる?」
いまいち自分でも何をやってるのかわかってない。
るいの後ろでは、惠が花鶏の帽子を指差していた。
【惠】
「ところで君の帽子は、やはり日差し避けの意味があるのかい?」
【花鶏】
「それもあるわ。わたし、この髪だから日射病になりやすいのよね」
【茜子】
「白髪ですからね」
【花鶏】
「プラチナブロンドと言えッ!」
カッと目を見開く花鶏を押し退ける。
伊代だった。
茜子を指差す。
【伊代】
「あなたも肌白いけど、その手袋とかはやっぱり日除けなの?」
【智】
「あ、それは……」
呪いのことにはあまり触れたくない。
そう思って割って入った。
が、茜子は平然と事実を語った。
【茜子】
「呪いのせいです。茜子さんの呪いは『人に直接触れてはならない』というものなので、未然に事故を防ぐためにこの手袋をしています」
ほんの一瞬、場が静まる。
お互いの呪いを追求しないのは、
僕らの群れでの不文律だ。
誰もわざわざ言葉にしない暗黙の了解。
互いの知る恐怖の上にある、優しい欺瞞だ。
踏まれた呪いは僕らを殺す。
ルールを知っていれば、
相手に呪いを踏ませることは、
その気になれば簡単だ。
どれだけ親しい間柄でも、簡単に自分を殺す方法を
知られているのは、気分のいいことじゃない。
なのに――――
茜子は、僕らの間に確かにあったはずの、
見えない線を踏み越えた。
横っ飛びするような簡単さで。
【智】
「あ…………」
わからなかった。
どういう心境が、茜子にそういう行動をさせる?
【伊代】
「あ、そ、そうだったの。なんか……悪いこと聞いちゃったわね……。わたしの呪いも言っとこうか? そのほうがフェアだと思うし」
伊代はフェアに拘る。
たとえルールには従わなくても、
常に公正でなければといけないと。
ルールは公正とは限らない。
正も邪も善も悪も、一つの見方でしかないと、
最近ではそういうことになっている。
ルールは善悪には拘らない。
突き詰めれば方便だ。
ルールのある場所、ある所が、
うまく回っていくように、束縛と権利の間に線を引く。
だから、伊代は、世の中全部に
無謀にもがなり立ててるみたいなものだ。
【茜子】
「必要ないでしょう」
【伊代】
「ごめんなさい……」
気まずそうに謝る。
伊代には、うまく場をフォローするような
器用なことはできない。
【智】
「不便だよね。今日なんか暑そうだし」
なんとか僕がフォローを入れる。
意図は、みんなに正しく伝わった。
【るい】
「手繋いだりとかも出来ないんだ」
【茜子】
「手袋越しでノープロブレムです」
【こより】
「で、でもでも、好きな人とか出来たらぁ〜……」
【るい】
「ちゅーとか出来ないよね」
【こより】
「ですです! ちゅーとか……さ、さらにその先とか……」
【茜子】
「肉の交わりですか」
【こより】
「に、にく……表現が、必要以上にエロいですよう!」
【伊代】
「れ、恋愛するのに肉体関係は必要ないわよ! 大切なのは
心でしょ? ほら、プラトニック・ラブって言葉もあるし……」
【茜子】
「こないだは誰でもいいから搾乳してぇっ、て言ってたのに」
【伊代】
「誰が言うか!」
【惠】
「そうだな……、全身をゴムなどの薄い皮膜で覆って行えば
どうだろうか」
【花鶏】
「ま、マニアック……!!」
真顔でものすごいことを惠が言った。
花鶏が驚くとか、
それどんなマニアックなプレイですか?
【花鶏】
「ぶつぶつ……そうよね……全身ラバースーツで器具でプレイ
すれば茅場でも大丈夫よね……ぶつぶつ……」
【智】
「茜子に実行しちゃダメだよ!?」
【茜子】
「緊急の時は自爆します」
【こより】
「あのドクロマークのボタンですねっ!」
ぴよよんと、こよりが跳ねる。
よくあのスケートを履いた状態で、
ジャンプとかできるものだ。
【こより】
「ところで茜子センパイには、らぶ〜な人とかいるんですか?」
【茜子】
「いるわけありません」
【智】
「そうなんだ。好きな人できる前に、呪いの解き方わかるといいね」
【花鶏】
「いざとなればラバースーツがあるわ」
【智】
「ラバースーツ(※恋人服)って意味深だ……」
花鶏の言葉を聞き流しながら、
何故か少し安心してる自分がいることに気づく。
【智】
(あれ……?)
胸のこのあたりがチクリとする。
乙女チックな感じの痛みとぽかぽか。
意味不明だ。
【智】
「乙女チックっていうのも変なんだけど……」
乙女じゃないですから。
だからって非処女って訳でもないですが。
【茜子】
「…………」
目が合った。
【茜子】
「……姑息乙女一号には意中の人はいるのですか?」
【智】
「え…………?」
【茜子】
「和久津さん……、好きな人、いるんですか……?(どきどき)」
【智】
「ぶっ」
血を吐きそうになった。
ベタすぎのシチュエーションを妄想した自分は、
腹を切ってしまいたいッッ!
よりにもよって、茜子なんて!
【智】
(ちがう、冗談ナッシング、そんなのあり得ない、西から昇った
お日様が水平線にドクロを刻むくらいありえない!)
あの超変人の茜子が、
そんなベタをするわけない。
そんなベタを僕が期待するわけもない。
その通り。
僕らはある意味同類だ。
類で友だ。
呪いのせいで恋愛できない。
茜子には、同じ境遇のシンパシーを抱いている。
それだけに決まってる!!
【茜子】
「…………」
表情はやっぱり変わらない。
次第にこっちも落ち着いてくる。
よく考えると、僕は今、女の子をやっているのだ
ということに気がついた。
【智】
「……いないよ。そんなの」
【こより】
「あれー? 何です今の間はー!? あやしいですぞ、あやしい
ですぞー!」
【るい】
「トモ、好きな人いるのか!?」
【伊代】
「か、隠すとためにならないわよ……!」
【智】
「いないって! いないいない! 本当! (実話)!」
【こより】
「あーやーしーいー!」
【惠】
「別に隠さなければならないことじゃない。僕はそう思うけれど」
【伊代】
「あなた、まさか、ラヴァーズ専用悪のイベント日に予定のある
裏切り者じゃないでしょうね……!!?」
伊代の眼鏡が、良識光を放つ。
かなりこわい。
【智】
「ほんと、ほんとだってば! そうだ茜子! 君からも何とか
言ってやってよ!!」
【茜子】
「…………」
助けを求める。
茜子は何も見ていなかった。
【茜子】
「恋愛感情というもの、よく、理解できません」
【智】
「……?」
【茜子】
「いえ、なんでも。そこのブルマーエンジェルの言葉はウソ半分、本当半分と言ったところです」
【智】
「……っ!?」
【伊代】
「あなた、白状しなさいよね……!?」
【こより】
「かつ丼です! かつ丼用意して尋問ですよう!」
茜子はあいかわらずの顔。
何を考えているのかわからない、
何も考えていないような。
伊代とこよりの尋問をかわしながら思う。
茜子の読んだ僕の心は正解だ。
たった今――
茜子に「好意」くらいの呼称が
妥当な感情を抱いてることに、気づいてしまったから。
【智】
「うっ……ぐす……」
どうしても堪えきれず、涙がこぼれた。
子供みたいにごしごしと目をこする。
冷凍庫を開けた。
【智】
「うう……」
ひんやりした冷気が顔に当たって涙が止まった。
マメ知識、たまねぎ切ったときの痛みは、
冷凍庫に顔を突っ込むと治まる。
【智】
「ふぅ……さて、続きをば」
みじん切りを終えたタマネギをフライパンで炒めながら、
ミンチに塩コショウとナツメグで味付けをする。
ミルクに浸しておいたパン粉をまぜて、
あとはタマネギ待ち。
【智】
「ハンバーグの予定だけど、今日は煮込みハンバーグにしてみようかな?」
調味料を確認すると、
ウスターソースが切れていた。
【智】
「う〜ん……」
ウスターソースは普段ほとんど使わない。
目玉焼きはケチャップ派だし、
キャベツはドレッシングを自作してる。
かといってウスター無しに
デミグラスもどきは作れそうになかった。
火を止める。
【智】
「よし、買いに行こう」
一人暮らしで必要から始めた料理に、
いつのまにか僕はすっかりハマっていた。
だから、ここで手を抜くことは出来なかった。
昼間の強い日差しと関係があるのかないのか。
コンビニからの帰り道に見ながら帰ってきた月は、
いつになく綺麗だった。
アパートの階段を軽く上る。
駐車場スペースから猫の鳴き声が聞こえた。
【猫】
「にゃー」
【智】
「にゃー」
片手をあげて挨拶する。
闇の中にいくつかの目が光る。
いっぱいいた。
【猫】
「にゃー」
【猫】
「にゃー?」
【猫】
「にゃー」
【智】
「にゃー」
今夜はここが猫会議の会場らしい。
会議と言っても、猫たちは、それぞれバラバラにだらっとしてる
だけだ。
何匹かがこっちに興味を示した。
にゃーにゃーと寄ってくる。
ここいらの猫は妙に人慣れている。
エサを貰おうとコンビニの前で寝てたり、民家の室外機の上で
道行く人みんなに声をかけてたりだ。
【智】
「ハンバーグに使った牛乳が残ってたっけ」
何せ用途はパン粉を浸すだけだ。
いつも余るのだ、これが。
【智】
「猫の方々におすそわけですよ」
わざわざ上から取ってきた。
皿に注ぐ間も、さっきの猫たちが
にゃーにゃー寄って来る。
【猫】
「にゃー」
猫まみれ。
【智】
「少々お待ちください」
【猫】
「にゃー」
寄って来た猫の方々の間に、
皿を置いて少し離れる。
【智】
「はい。会議疲れを癒してね」
沢山いる猫のうち3分の1くらいが飲みに来る。
あとの方々は関係ない方向を向いて、
座ったりやる気なく寝たりしていた。
自分用のカップも持って来たので、
そこにも牛乳を注いでひとくち飲む。
【智】
「んく……」
【猫】
「にゃー」
【智】
「同じものだよ」
【猫】
「にゃー」
【智】
「遠慮しないでねー」
【猫】
「にゃー」
【智】
「月の満ち欠けと猫会議の日取りって、関係あるのかなあ……」
見上げた空の月は丸い。
満月の下、猫の方々と飲む牛乳はおいしかった。
【茜子/猫?】
「にゃー」
妙に高い位置から鳴き声が聞こえた。
変な猫がいた。
【茜子】
「にゃー」
【智】
「にゃー」
茜子だった。
【茜子】
「なにをしてるのだ、こんな時間に?」
【智】
「僕の台詞です」
【茜子】
「猫会議です。議席を持っています」
【智】
「猫議員なんだ」
【茜子】
「いえ、神官です」
【智】
「宗教国家……」
【茜子】
「まあ、悪の神官ですが」
【智】
「神聖帝国の神官!?」
どこの中ボスだ。
カリカリと、茜子が猫ライクな手つきで僕を掻く。
【智】
「今日はご機嫌なんだ」
茜子が、自分から戯れて触ってくるのは珍しい。
【茜子】
「悪の神官だけに満月の影響を」
【智】
「それは人狼さんでは」
【茜子】
「猫違いますか」
かりかりと、今度は足下を掻かれる。
【智】
「茜子も飲む? 牛乳」
【茜子】
「げへへ、催促したみたいで悪いですにゃー」
【智】
「うわ、すごく可愛くない」
語尾に「にゃー」と付けてるのに、
ものすごく可愛くない。
茜子は両手で挟んでカップを受け取った。
小さな口で牛乳を舐める。猫飲み。
【智】
「今はまだ花鶏の家にお泊まりを?」
【茜子】
「屋根と寝床はお借りしていたり」
【智】
「食事は?」
【茜子】
「家主の好物のセロリ丼にも飽きがくる今日この頃。専用の
熱湯1分のイカす奴が。生タイプです」
カップラーメンか。
毎日一人でカップラーメンばかり食べててもおかしくないイメージがある。
茜子の全身は隈なく衣服に隠されている。
印象は痩せぎすだ。
【智】
「ところで茜子さん、今日はごはん食べました?」
【茜子】
「いえ」
【智】
「よかったら、うちでごはん食べていかない? 煮込みハンバーグ、多めにまとめて作ったとこだから」
【茜子】
「ほう」
【智】
「僕もひとりで晩ごはん食べるの寂しいから」
【茜子】
「寂しい……ですか。わかりました。では茜子さんが食卓慰安婦として赴きましょう」
【智】
「もう少し心地よい言い方は?」
【茜子】
「夕食愛奴」
どっちもどっちだ。
【智】
「猫の方々には適当に牛乳を飲んでもらっといて、上がろう?」
もう一度牛乳を追加しておく。
皿はあとで回収すればいいだろう。
【茜子】
「はむはむ……」
二人でテーブルを囲んで夕食を食べる。
テレビもつけない静かな食卓。
煮込みハンバーグの匂いと食器の音しかしない。
このアパートの辺りは夜になると静かで、
猫の鳴き声以外は大した物音も聞こえてこない。
【智】
「なんか違うね、やっぱり」
【茜子】
「違うというと、土星と木星が合体してアルファケンタウリ十四世になるのは間違っていると?」
【智】
「よくわからないけど、それは最初から間違ってそうだ」
【智】
「そうじゃなくて、二人でご飯を一緒に食べるの」
【茜子】
「違いますか」
【智】
「一人暮らしをはじめるようになって……
僕、ずっとひとりご飯だったしね」
【茜子】
「貧乳ブルマーは一般交遊偏差値も水準キープっぽいですが」
【智】
「そりゃまあ、学園だと優等生のお姉様なんだけど……やっぱり
家には呼べないよね」
【茜子】
「…………」
肘杖をついて浮かべた顔は自嘲に近い。
茜子は何も言わなかった。
言うまでもなかった。
多かれ少なかれ僕ら6人は類で友だ。
【智】
「僕にも……呪いがあるから」
【茜子】
「そりゃもーすんごいそーですね」
【智】
「まあ、茜子もびっくりして心臓止まるくらい、そりゃもー
超すんごい」
【茜子】
「ちょーっ」
あらぬ方へ視線を彷徨わせる。
間近から茜子の顔を真っ直ぐ見ることが、
どうしてだか出来ない。
【智】
「僕は、ずっと一人だった」
不思議と、そんなことを話す気になった。
【智】
「誰にも言えないことを抱え込んだまま、誰とも必要以上には
関わらないようにして生きてきた」
【智】
「いろんな所でいろんな嘘をついて、
いろんなことを誤魔化しながらやってきた」
【智】
「茜子や、みんなと会うまでは、
僕は本当に一人だったよ」
【智】
「僕の呪いは……
そう、知られちゃだめなんだ」
【智】
「呪いがあることさえ隠さないといけない。
誰にも言えない。助けを求めることさえ出来ない」
【智】
「少し親しくなれた人がいると、
最初に思うのは、どうやって誤魔化すかだった」
【智】
「いつも付き合いなんて表面だけにして、
学園では取っつきにくい優等生のふりをして、
誰も身近に近づけないようにした」
【智】
「クラスメートを家に呼んだりなんて、
もってのほかだ」
【智】
「仲良くしてくれる子には、いつも怖くなる」
【智】
「いつこの子は気がついてしまうんだろう。
いつまで僕はこの子を騙していられるんだろうって」
【茜子】
「今はどうですか?」
茜子が問いかけてくるのは珍しい。
【智】
「バレるかもって思うと正直怖い。
隠し事をずっとしてるのも苦しい」
【智】
「でも……一緒にいるのは楽しいよ。
レースの時に色々怖い目にあったのだって、
いい思い出だし」
【茜子】
「ますますマゾ属性加速中。400マイクロ秒でマゾリアンブルマーに変身せよ」
【智】
「……茜子は、どうなの?」
【茜子】
「どう?」
【智】
「……怖くない?
この間、呪いのことをみんなに話してた」
【智】
「茜子の呪いは、
誰かと一緒にいるだけでも危険じゃあ……」
【茜子】
「まあ、それはそれで。スリルとサスペンス」
どこまで本気なのか、わからない。
【智】
「……長話してるとせっかくの料理が全部冷めちゃうね。
お味の方はどう? 茜子の口に合うかな」
【茜子】
「はい。その昔茜子さんが実験的に作った料理、ダーク焼きの
1029倍おいしいです」
【智】
「ダーク焼きってなに!?」
【茜子】
「好奇心は猫を殺す」
【智】
「脅迫された!」
本日のメニューは煮込みハンバーグをメインに
簡単なサラダ、そして軽く炙ったバゲット。
なぜか、茜子はさっきから
煮込みハンバーグ以外に手をつけない。
【智】
「サラダ、食べないの?」
【茜子】
「サラダは食後に限界まで圧縮して、一口で食べます」
【智】
「斬新な食べ方だね」
【茜子】
「フロンティアスピリッツ」
【智】
「パンも圧縮して食べるの?」
【茜子】
「このパン固い。歯折れる」
【智】
「ラーメンばっかり食べてるから! カルシウムも取らないとダメ!」
【茜子】
「さっき牛乳飲みました。完璧」
指先でフランスパンの中のやわらかい部分だけを
ほじくりだし、穴から僕を覗く茜子。
【智】
「そんなので足りるの?」
【茜子】
「栄養のことは栄養オタクに、また今度、聞いてみましょう」
二人の夕食を済ませた後。
茜子を下まで送っていく。
【智】
「今日はしめっぽい話して、ごめん。誰にもあんな話したこととか、なかったんだけど」
【茜子】
「こいつ、おいらを口説いてやがる」
【智】
「…………」
複雑な気分。
【茜子】
「しかも、複雑な気分」
【智】
「……ッッ」
よ、読まれてしまうっ!!
【猫】
「にゃー」
【茜子】
「ただいまです、ガギノドン」
ブサイクな猫が寄って来た。
するりと茜子の手に収まる。
ガギノドンは自分から腕に収まった割には、
撫でられるとものすごく嫌そうな顔をした。
【智】
「猫と仲がいいんだね。茜子」
【茜子】
「眷属ですから。それに……」
毛並みを楽しむように猫の背にほお擦りをする。
【茜子】
「猫なら、触れることができます」
【智】
「そっか。人間以外はセーフなんだ」
【茜子】
「生まれた頃は呪いの力も弱かったらしくて、ファミリーが触っても泣き出すくらいだったそうですが……。まあ、物心つく頃には。親の手の感触なんて記憶にもありません」
茜子はガギノドンを下ろす。
他の猫たちにも声をかける。
【茜子】
「メガロガルガン、デスエンペラー三世、タラバガニラス、
帰りますよ」
【智】
「斬新なネーミングだね……特にタラバガニラス」
【茜子】
「強そうでしょう」
そのまま、行きかけて、
【茜子】
「……ところで、前からひとつラブリーエプロン少女に聞きたかったことがあるのです」
くるりと不気味に180旋回した。
【智】
「エプロンつけてないけど……なに?」
【茜子】
「その常に履いてるブルマの中は、いったいどんなエロ下着を
履いているのか……っ」
【智】
「くわっ」
茜子が両手をかざしてにじり寄ってきた。
【智】
「な、なにをっ!」
【茜子】
「私は真実の探求者」
後ずさる。
本能がアラームで真っ赤になる。
【茜子】
「ぞーんぷろーぞー」
謎呪文を口走りながら!
背中が壁に当たった。
退路無し。
前には茜子。
ちょっと待って、だめ、
それは冗談になってない!
そうだ、事情を話せば茜子だって――
だめです、それだと呪い踏んじゃうよ!
【茜子】
「ぞーんぷろーぞー」
【智】
「ひぃぃぃ」
な、なんて卑劣な!
茜子は下手に触れられないので
花鶏よりも防御しにくい!
自分の弱点を最大の攻撃に換えながら、
一歩一歩距離を詰めてくる。
逃げ場がない!
周囲は猫の方々に包囲されていた。
【智】
「まずいってそれ!」
【茜子】
「ふひふひふひ」
じりじりと。
ブルマを! 脱がされたら!
いくらなんでも下着一枚だったらバレるって!
ま、まさか……!
こんなどうでもいい場面で僕は呪い踏むのか!?
【智】
「ひぃいぃぃぃぃぃぃぃぃっぃぃぃ!」
【茜子】
「ぞーんぷろーぞー!」
【智】
「待って、待とう、落ち着いて話し合うんだ茜子!」
【智】
「僕たちの間には美しい信頼と友情が、相互理解を深めつつ世界との対峙は厳しいけど、これは母さんの遺言で、決して片時もブルマを脱いではなりませぬぞよって……!!」
僕は錯乱していた。
【茜子】
「人類の・知・的・好・奇・心!!」
飛びかかる茜子。
反射的に跳ねのけようとして、
茜子に触れることが出来なくて硬直した。
そうだ、避けるのだ!
かつて花鶏の原付アタックを避けたときを凌ぐ、
人生の全てをかけた、必殺の回避スキルが――――
【茜子】
「すとらいく!!!」
【智】
「ッッッッ!!!!!」
――――――ずるり。
【茜子】
「………………」
世界が凍りつく。
頭の中には色とりどりの花が咲き乱れ、
竪琴がファンタジーな旋律を流している。
フランスの美しい町並みと河川を
ゆったりと渡る船が見えて、おだやかな日差しが
水面をキラキラと輝かせて……。
【智】
「………………!!」
ブルマどころか全部脱げていた。
何かが夜風に揺れる。
【智】
「き…………」
【茜子】
「うぇ…………」
【智】
「き…………」
【茜子】
「ふぉ…………」
【智】
「……きゃああああああぁぁぁぁぁーー…………っ!!!?」
【茜子】
「ちゅ、チュパカブラ出たーーっ!!!?」
【猫】
「ふぎゃあああぁぁ!」
【猫】
「ぎにゃあああぁぁ!」
僕と茜子は泣き叫ぶ。
猫の方々も逃げ惑う。
【智】
「うぐ……ひっく、もうお嫁に行けない……」
汚された感じでさめざめと泣いた。
【茜子】
「元から行けません」
高いところから、ざっくり見下ろされる。
とりあえず死んでなかった。
その事実に気づいたのは、泣きながらブルマを引き上げて
茜子に文句を言ってる最中だった。
完璧に性別がバレたというのに。
完全に呪いを踏んだというのに。
僕は死ななかった。
【智】
「うぅ……茜子、冷静だね……」
【茜子】
「全部腑に落ちてしまいましたから」
【茜子】
「あれが、あなたの呪いだったというのは、
顔を見て判りました」
【茜子】
「それなら嘘つき村の住人もしかたないです。
私たちにだって言えません」
【茜子】
「しかし、何も起こらない」
【茜子】
「茜子さんはむしろこちらに興味をおぼえます。
あと、ぷらんぷらーんと揺れたあの動きが……」
【智】
「言わないで! そのことには触れないでっ!」
センシティブなハートがずたずたになるから。
【茜子】
「まさかメンバー一番の乙女ちっくラブリー優等生が、こんな、
ぷらんぷらん生命体だったとは」
【智】
「ぷらんぷらん言わないで〜っ!」
真っ赤になって茜子を叩くジェスチャーをする。
やっぱり触れない。
卑怯だ。すごく。
【茜子】
「呪いが発動しなかったのは何故でしょう。
それとも、これですでに何か起こってるのでしょうか」
【智】
「なんか緊迫感、ない……」
【茜子】
「はい」
幼い頃に一度呪いを踏んだことがある。
仲の良かった女の子に秘密を明かしてしまったのだ。
僕は一度死にかけた。
けれど、その時のことは、よく覚えていない。
死に掛けたことよりも、呪いを踏んだことで圧し掛かった得体の
知れない恐怖が、僕の当時の記憶を曖昧にしている。
はっきりと覚えているのは、
背中に貼りつくような黒い影の色、
身体の芯まで凍えるような冷たい戦慄。
そして、僕を助けてくれる暖かい手……。
その時には感じた筈の恐怖が、
今はまるでなかった――――。
【智】
「相手が呪いなんてものだから確証はないけど……」
【智】
「なんとなく呪いは発動してない気がする」
【茜子】
「つまり、女装は単なる趣味だったと」
【智】
「違います!」
【茜子】
「わかっています。いぢると面白い」
【智】
「うぅ……いじめっこめ……!」
茜子にいちいち泣かされる。
僕は僕がかわいそうだ。
【茜子】
「色々と不思議です。呪いは腑に落ちましたが、すると今度は貴様一人が野郎です。美少女呪い軍団唯一の汚点、これはいけない」
【智】
「ひどいことを言われてる」
【茜子】
「みんなに教えたら、どんな顔をするかと思うと」
【智】
「今度こそ死んじゃうよ!」
【茜子】
「残念です」
色々な意味で泣きそうだった。
【智】
「茜子の疑問は……もっともだと思う。僕が自分で気になってたし」
【茜子】
「心あたりがあると」
【智】
「うん。僕は身代わりかも知れない」
【茜子】
「身代わり、ですか」
【智】
「僕の両親はとうの昔に死んじゃってるんだけど、もう一人家族がいたんだ、双子の姉さん」
【智】
「もしかしたら、僕は姉さんの代わりかも知れない」
【茜子】
「本当ならお姉さんの方が呪われていた?」
【智】
「かも、だよ。でも、僕だけが男で呪われてることを、なんとなく説明できる気がするし」
母さんから聞いた話だ。
僕には姉が居たという。それも双子の姉だ。
幼くして死んでしまったのか?
一緒に生まれたはずなのに?
姉さんの記憶はまるでない。
写真も見た事がない。
この話をすると母さんはいつも寂しく笑った。
姉は何か、悲しい死を迎えたのかも知れない。
自分と同じ日に生まれた血を分けた存在が、
今はもう居ないというのは不思議な感覚だ。
会ったこともない相手なので、
寂しいというのはちょっと違う。
うまい言葉が見つからない。
もしも生きていてくれたなら――――
【茜子】
「どうしました?」
【智】
「……大切に、したかったな。弟として、いろいろ姉さんに孝行をしてあげたかった……」
写真さえ見たことのない姉さん。
自分と同じ日に生まれて、そして死んでしまった。
小さな頃は、元気にしている姉さんと一緒にいるところを、
何度も空想した。
手を取って、駆けだして、
どこかへ出かけて――――。
【智】
「だって、家族だから」
【茜子】
「ほかほか家族でしたか」
【智】
「どうだろう、そうでもない」
両親健在の頃から、実際には、
母さん一人に育てられたも同然だった。
父さんは一年中仕事で
帰らないのもざらで、記憶も曖昧だ。
父さんが死んだと親戚のひとから聞かされた時にも、
実感らしい実感がわかなかったのを覚えてる。
【智】
「ただ、僕が小さい頃、呪いを踏んでしまったとき…父さんと
母さんが必死に守ってくれたこと……それは今でもうっすらと
覚えてる」
【茜子】
「茜子さんはクソ親父の借金のカタでした」
家族の絆。
それさえも人と人の間を埋められない。
茜子の方が正しくて、僕は運が良かっただけだ。
【智】
「ごめん。茜子のこと考えてなかった……」
【茜子】
「最近は謝ってばかりですね」
【智】
「それを言われると」
【茜子】
「あなたのお姉さんが生きてたら、やっぱり同じ呪いだったんで
しょうか」
【智】
「僕と同じなら、男装の麗人?」
想像する。
わりといけてるかもしんない。
【智】
「それにしても……」
【智】
「呪い、本当にセーフ、なのかな?」
そもそもセーフなんてあるんだろうか。
【茜子】
「……今回のセーフがどういう条件で成り立ったのかは
わかりません」
【智】
「そうだね、何かの偶然かも知れないし」
【茜子】
「生えてるちゃんは、やはり女装を続けたほうが良さそうですね」
【智】
「その呼称は非常に勘弁してくださいッッ」
泣きそうです。
【智】
「……秘密を守り続けたほうがいいってことは賛成。僕もそう思う」
【茜子】
「というわけで」
ハロウィンカボチャそっくりの悪い笑い。
【茜子】
「口止め料を貰いましょう」
【智】
「悪っ!?」
【茜子】
「なにか疑問が」
【智】
「ぬ、脱がしたのは茜子さんでは!」
【茜子】
「ち・○・こ! ち・○・こ!」
【智】
「なんでもいたします! 犬と呼んでください!」
弱い僕だった。
【茜子】
「素直でよろしい。それでは本日は泊めてください」
【智】
「…………」
【茜子】
「なにか」
【智】
「……泊めるって、そんでいいの? 茜子だから、もっととんでもないことを要求されるのかと思ってビクビクしちゃった」
【茜子】
「明日の朝食はバニーガール姿で作ってください」
【智】
「…………」
【茜子】
「なんとタンスの中にバニーガール衣装が」
【智】
「ないよ!」
【茜子】
「それはともかく、今夜は帰りたくないのです」
色々な意味でダメになりそうな台詞だった。
【智】
「……茜子……?」
茜子が真顔(※常に同じ顔)なだけに、
うろたえる。
【茜子】
「では、今晩よろしく」
ぺこり。
ぺこりとおじぎしかけて――。
【智】
「ちょっとお待ちください」
【茜子】
「なにか問題が」
【智】
「僕はお××のこなんですよ」
【茜子】
「今何やらピー音が」
【智】
「些細なことはさておいて」
【茜子】
「まあ、よいです」
【智】
「茜子さんはご存じですよね」
【茜子】
「未知なる真実と遭遇しました」
【智】
「ま、マズくはないですか」
【智】
「と、と、年頃の、うら若き乙女が、若い男の部屋に泊まるということは」
【茜子】
「泊まったら強姦するぞという意味ですか?」
【智】
「しませんっ!!」
【茜子】
「くくく、初心(うぶ)なやつ」
ここで一歩でも下がったらなし崩しだ。
本能がめいっぱい赤ランプを点して警告していた。
ごねる。
全力で。
気合いを込めて。
今必殺の。
【智】
「と・に・か・く、そんなことはだめーっ!」
【茜子】
「良い湯でした」
ダメでした。
自分のツメの甘さに涙が止まらない。
【智】
「う、うん」
湯上がりの茜子が傍を通る。
いい匂いがした。
同じシャンプーとトリートメント、
ボディーソープを使っているはずなのに。
眩暈するくらいに甘い匂い。
【茜子】
「どうしましたか」
【智】
「な、なんでもないよ」
声がうわずる。
【茜子】
「なんで湯上りの女の子ってこんないい匂いするんだろう、
じゅるじゅる」
【智】
「読まれたっ!? ずるい、ずるすぎだ!」
真っ赤になって涙目の抗議。
世界全部を騙し続けるために駆使される、
僕の嘘つきがこれっぽっちも通用しない。
茜子は穏やかに笑う。
電気みたいな衝撃で胸をうたれた。
それは、とても珍しい表情だった。
【茜子】
「実はそんなに細かく心を読むことはできません。嘘か本当か、
どんな感情を抱いてるか、わかるのはそれぐらいなのです」
【智】
「へぇ……そうなんだ」
【茜子】
「はい。でも、慣れた相手ならもう少し。付き合いが深くなれば、色々とわかるようになってきます。今のは当てずっぽうですが」
【智】
「……ぅぅ」
【茜子】
「図星め」
【智】
「あーうー」
二の句も告げないほど手玉にとられる。
面白いようにからかわれる。
初体験だ。
【茜子】
「そういえば、みんなといたあの時とか」
【智】
「うお」
【茜子】
「この時とか」
【智】
「ひゃあ」
【茜子】
「全部、男の子だったのか」
【智】
「きゃあああああああああああ」
過去をほじくり返さないで!
【茜子】
「お風呂も」
【智】
「ぶっ」
【茜子】
「茜子さんのも、全部見ましたね」
最初に僕らが集まった時。
花鶏の家で、
お互いの痣を見つけたときに。
【茜子】
「エロスめ」
【智】
「もう堪忍してください……」
土下座する。
ずっと嘘つきで居続けてきた。
他人を騙すのにも、
自分を騙すのにも慣れたはずの自分が、
こんなにも簡単につけ込まれる。
悪い気分じゃない。
なぜだか浮き浮きする。
感じたことのない高揚感だ。
【茜子】
「嫌がらないですね。普通、心が読めるというと誰でも気味悪がったり怖がったりするものですが」
【智】
「……それも読まれてるんだ。まあ、全然いやじゃないってわけはないよ」
【智】
「僕は、これっぽっちも聖人君子じゃないし、よからぬことも、いやらしいことも考えてる。茜子にはあんまり知られたくないかな」
【智】
「でも、そんなこといってもはじまらないよ。力があって、
そういうものなら……認めるしかない」
【智】
「仲間だから、茜子のこと信頼してるし」
【智】
「怖いっていうなら、
るいの力だってそうだし……」
【智】
「みんな色々な力を持ってる、
全部怖いとは思わない?」
【智】
「僕だけ持ってないけどね。
花鶏はそれを特別な選ばれた才能っていったけど。
そうとも限らない気がする」
【茜子】
「特別じゃないと?」
【智】
「たしかに特別な才能だと思う。
普通の人にはどうしたって手の届かない力だ」
【智】
「でも、そういうのって
見方を変えれば、どこにでもあるだろ」
【智】
「誰だって色んな力や才能はもってる。
差があったり、個性があったりさ」
【茜子】
「極論というよりキレイごとっぽいですね」
【智】
「まあ、そうだね。
でも、誰だって自分とは違う」
【智】
「誰かの身代わりにはなれない誰か自身だ。
自分に出来ないことが出来る人や、その逆や」
【智】
「色んな人がいて、
他人のことはやっぱりわからないけど」
【智】
「茜子だって、
他人の心が全部わかっちゃうワケじゃないように。
それでも、僕らは一人ぼっちじゃやっていけない」
【智】
「だから、手を繋ぐ。
群れになって、みんなで生きる」
【智】
「怖がるよりも信じ合って
傷つけあっても許し合いながら」
【智】
「そうやってかないと、
ずっと一人でやっていくことになってしまうから」
【茜子】
「だから、怖さも認める、許しもする?」
【智】
「まあ……」
【茜子】
「そうですか。惚れそうです」
【智】
「ぶッ!?」
【茜子】
「いつか呪いが解けたら手を繋いで」
それは、二人で街を歩いたときに言った……。
【茜子】
「ま、それはいいか」
【智】
「えー、そこで落とすの!?」
【茜子】
「それではおやすみなさい。茜子さんはクローゼットの中で半笑いで眠りますゆえ」
【智】
「…………」
茜子はするりとクローゼットの中に消えた。
【智】
「えっと、おやすみ」
【茜子】
「おやすみなさい」
クローゼット越しに挨拶を交す。
それきり部屋は静かになる。
一人ではないけれど、
一人にしか見えない部屋。
【智】
「そっか、ばれちゃったんだ……」
茜子。
この呪われた世界でたったひとりだけ、
僕の秘密を知ってしまった人。
本当に呪いがセーフなのかはわからない。
相手は呪いだ。
明日にも追ってこないとも限らない。
【智】
「んー」
胸に手を当てた。
心臓の鼓動はいつもの通り。
恐怖感はやはりない。
【智】
「考えても仕方ないか……」
【茜子】
「一人でブツブツいうな」
ツッコミが飛んでくる。
【智】
「ごめんなさい」
ベッドで土下寝する。
【智】
「今度こそおやすみ」
【茜子】
「OKです。おやすみなさい」
明日は少し早めに起きよう。
二人分の朝ごはんを用意しよう。
二人で食べる朝食は、
きっといつもより美味しいに違いない。
〔猶予の街〕
街は余韻を引きずっていた。
少し前に起きた暴力団幹部殺害事件の余波だ。
未だに燻っている。
ワイドショーがしきりに宣伝した事件。
太慈興業という地元の暴力団の、
有力幹部が殺害された。
警察や専門家によると、
他組織との抗争の結果という見方が主流らしい。
そのせいで一時街頭は騒然とした。
報復合戦が展開されるのではないか。
大きな抗争に発展するのではないのか。
それも今のところは――――
【智】
「平和そのもので何も起きてないんだよね」
【伊代】
「起こって欲しかったのか、あなたは。ホントに、大人しそうな顔して小ずるいわ過激だわ。世間も身内も平穏無事が一番です」
【智】
「あの事件の起きた場所、意外と僕のアパートから近くて。
まあ、近いっていっても川向こうなんだけど。それで
ちょっと気にかかる感じなの」
今日は六人でぞろそろと移動する。
一団の最後尾、伊代が良識派として眼鏡を光らせる。
【智】
「もちろん、僕が一番欲するのは、植物のように穏やかな人生
ですが」
【茜子】
「ウツボカズラとかハエトリソウな肉欲植物の人生として、
茜子さんのお勧めです」
それは花鶏の世界です。
【智】
「しかし、穏やか志向だけに」
【こより】
「だけにとかけてー」
【智】
「人生これ遊興と解く」
【こより】
「……その心がわかりません、みゅん」
ダメっこだった。
【智】
「他人の不幸、外から見るなら蜜の味」
【茜子】
「最低僕女は一階で罠踏んでアウトな人生を送れ」
踏みました。
ぷらんぷらんな罠を…………。
【こより】
「どうしたですか、ともセンパイ。なにやらお顔の色が緑色です!」
【智】
「はい、元気元気」
【こより】
「おー、復活した!」
【茜子】
「チュパカブラー」
【智】
「しおしお……」
【こより】
「またしぼんじゃいましたよー」
最近はことあるごとに、
僕を苛(いじ)める茜子だった。
あの夜――。
茜子に秘密を知られてしまった夜以来――
何日過ぎても、呪いの降り掛かる様子はなかった。
本当にセーフだったのかしら……?
【花鶏】
「それで、今日はどうするの?」
【智】
「週末なのに特に予定ないよね。惠もこないし」
【伊代】
「あの子なら、たまり場にいれば来るんじゃないの?」
【るい】
「おなかひぇった、栄養欲しい……」
るいは、朝ご飯が食べられなかったのだ。
【智】
「なんで食べられなかったの?」
【るい】
「セロリ……」
目が緑色になっていた。
【花鶏】
「味のわからない蛮族が」
【るい】
「せろりはいやぁ」
道の隅に座っていじける。
あのるいを、ここまで怯えさせるとは……。
恐るべし、セロリ。
【智】
「まだ花鶏のところにいるんだよね」
【るい】
「家ない子なの」
【花鶏】
「毎晩やかましいわ」
【るい】
「花鶏の夜中の歯ぎしりほどじゃないよね」
【花鶏】
「なんですって、ガサツの大将!」
【るい】
「なんだと!」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
路上で揉み合いに。
【伊代】
「天下の公道を狭く使うわね……」
【智】
「そういえば、惠の家ってどこにあるの?」
【るい】
「ドラム缶の中に棲んでるつーてた」
【こより】
「ほっ、鳴滝にはルナルナハイツの最上階を1フロア占領している株富豪だと」
【伊代】
「本当のとこ、どうなのか誰か知らないの? 全部いい加減な
出任せばかりじゃない……」
【智】
「嘘つき星人だ」
【花鶏】
「嘘つき村に人が増えてよかったわね」
【智】
「ものすごく不本意なことを言われました」
同じ嘘つきでも系統は別だ。
【智】
「僕は一番の小者ですが、惠はお調子者」
【こより】
「センパイ、どっちがよりえらいですか?」
難しい質問だ。
街の中心から旧市街へ、
あてもなく流れていく。
【三宅/???】
「あーっと、いい……ですか。ちょっと道を伺いたいんだけど……」
知らない男の人に声をかけられた。
【智】
「はい? 道ですか」
【るい】
「がるるるるる……」
見知らぬ相手に、るいが必要以上に警戒する。
テリトリーに近付くモノを拒むのは本能だ。
【三宅/???】
「ああっと、この辺りで……って、名前はなんていったかなぁ……んー」
男の人は頼りない感じがした。
ぱっと見、三十歳前後。
ちょっと猫背気味で、痩せ形。
皺だらけのスーツと手入れのいい加減な頭のせいか、
くたびれた印象が必要以上にある。
【三宅/???】
「そうそう、これなんだけど……」
体じゅうのポケットを裏返しにして探す。
ようやくズボンの後ろポケットからメモ帳を出した。
ページの間に新聞の切り抜きが挟んであった。
【三宅/???】
「これのあった場所が…………」
【智】
「――――」
差し出された切り抜きに眉を顰める。
【伊代】
「ねえ、これさっき……自分の家からそこそこ近くだっていってなかったかしら?」
伊代の空気が読めない言動。
おかげで素知らぬふりして聞き流せなくなった。
【三宅/???】
「え、もしかして、場所に詳しかったりするのかな……?」
【三宅】
「いやぁ、助かったよ。この辺りで迷ってたんだけど……場所って意外とわかんないもんだね」
【智】
「そういうこともありますよ」
男の人は三宅と名乗った。
【智】
「伊代があんなこというから……」
隣の伊代に小声で囁く。
【伊代】
「うっ、そ……そんなこと言ったって……本当なんだし、案内
くらいしてあげてもいいじゃない」
【伊代】
「……どうせ予定とかなかったんでしょ」
【茜子】
「イインチョー属性きました」
【こより】
「でもでも、やっぱり困ったときはお互い様っていいますよねー!」
【三宅】
「そうそう! おチビちゃんいいこというね。困ってるひとには
手を差し伸べる、すごくいい」
【こより】
「うっは、鳴滝はいいこ一番をめざしますです!」
こよりは人なつっこい。
あっさりうち解ける。
人見知りするるいと、花鶏は露骨に警戒心をむき出して、
少しばかり距離を置いてついてきた。
【智】
「それで、この事件の現場に?」
三宅さんから見せられた切り抜きは、件の暴力団幹部殺害
事件を扱ったものだった。
曰く。取材の一環でね、と。
【三宅】
「俺、これでも記者やってるんだよ。ま、見ての通りの三流どこ
なんだけど」
【智】
「マスコミのひと……」
あまり心象のいい職業じゃない。白目で見る。
【花鶏】
「一流には見えないわね」
もっと容赦なかった。
【三宅】
「そっちのベレーの女の子、厳しいねー。いやまあ、本当のこと
だからなおきびしー」
仕方なく、案内することになったのだ。
古く淀んだ街の空気が押しやられた旧市街。
田松市旧市街地と一口にいっても広い。
溜まり場の高架を境界に、都心部新市街と
区別されてはいるものの、開発放棄されたビルから
年老いた街並みの残滓まで様々だ。
【伊代】
「ねえ、あなたの家行くのにこんな道通った? 前に行ったときには全然……」
どんどんと都心部から離れて郊外へ行く。
人気はおろかすれ違うことさえまばらになる。
【智】
「現場が川向こうだからぐるっと回った方が近いと思って……
どうも位置を見失った感が……」
小声で告白する。
【伊代】
「ちょっと……案内してて道に迷ったとかって」
【茜子】
「送り狼美少女編姉妹荒縄調教」
【智】
「よくわかりません」
三宅さんは、僕の不穏な会話にも気がつかず、
全方位に人当たりのよさを発揮しいてた。
【三宅】
「なんていうか。きれいな子ばかりで、おにいさんちょっと気後れしちゃうね」
【三宅】
「もちろん、案内のお礼くらいはするよ。ファミレスで奢(おご)って
あげるくらいだけど」
【るい】
「!」
ぴんと、るいが耳を立てた。
空腹のるいには魅力的な提案だった。
【智】
「厳しい話になるかもしれないですけど」
【三宅】
「大丈夫だよ。女の子6人くらいなら、どうにでもなるなる」
るいが何人前になることやら。
【三宅】
「で、その暴力団幹部が死んだ事件なんだけど」
三宅さんが小声になる。
とびきりの秘密のように。
【三宅】
「実は妙な噂のある事件でさ。まあ、だからこそ、今更取材なんかにきてるんだけど」
【茜子】
「妙というとハンミョーとか」
【三宅】
「いやあ、ちょっとわかんないかな……」
【茜子】
「では、ミョーの方ですね。手から壊滅光線とか、地球へ向かって飛ぶ感じで」
【智】
「それも違うから」
【三宅】
「まあ……例の事件、暴力団同士の抗争っていわれたわりには、
その後に事件も続かなかったろ?」
【三宅】
「現場には発砲した形跡もあったらしいんだけど。その相手が
ちょっとわかんないんだ」
【伊代】
「相手って、他の……その、暴力団とかの……じゃないんですか」
【三宅】
「目撃者がいないからなんとも。噂ならいくつもあって、骸骨
みたいな顔をした黒い影を見た、とかね」
【智】
「薄気味悪い噂ですね」
ちくりと。記憶が刺激される。
ノイズ混じりの過去に残る黒い残像――
幼い頃の夢に現れる恐怖が動き出す錯覚をする。
【三宅】
「実はさ、他にも似たような事件があるんだ」
【三宅】
「変死事件があった時にね、たまに目撃されたりする。まあ、
噂は噂なんで、はっきりしたことはわからないけど」
【三宅】
「人を追いかけて殺す、呪いだ……っていうヤツも、いたりなんかするなあ」
――――――――――――――『呪い』。
黒い影、
それは僕らの後から僕らを縛る。
それは僕らだけではなくて、街の裏側で息を殺して、
僕らのような誰かが来るのを待っている。
【智】
「――――」
暗いイメージを振り払った。
【智】
「呪いなんて、ちっとも現実的じゃないですよ」
【三宅】
「世の中、不思議なことはたくさんあるもんさ」
【三宅】
「暗くない話だってたくさんあるんだぜ。たとえば、バイク投げてヤクザものをやっつけちゃった女の子とか、睨んだだけで人を操るとか」
花鶏の目が温度を下げる。
警戒していた。
【三宅】
「きみはどう? 眼鏡の……そういや君たちも女の子だし、
そういうスーパーヒロインっぽい子の噂とか聞いたことない?」
【伊代】
「……いえ、わたしは……そういう話はあまり」
【三宅】
「他の子たちもどう? 聞いたことない?」
気さくに語りかける三宅さん。
【こより】
「え……あ、そーですねー、ホントにいたらすっごく格好良いと
思いますけど……」
【花鶏】
「面白い話じゃない」
【三宅】
「あれ、その……おれ、もしかして何か怒らせるような事、
いっちゃった?」
【茜子】
「茜子さん、よくご存じですよ。それの正体を」
【智】
「っ!」
最後尾にいた茜子がつかつかとやってくる。
いきなりなにを言い出すのか。
【三宅】
「へえ、すごい! そいつは!?」
【茜子】
「チュパカブラーの使いです。わかっています。南米の大森林の奥で蠢いているのです。ぶらーんと」
【智】
「ぶっ」
噴いた。
【三宅】
「い、いやあ……あんまり聞いたことないかな」
【茜子】
「そうですか」
キラリンと茜子の目が光った。
【茜子】
「では腕によりをかけてお教えしましょう」
【智】
「……かけるんだ」
チュパカブラの講義はそれから10分近く続いた。
【智】
「あそこの家すごいね」
厳めしい塀が長々と続いていた。
【花鶏】
「たしかに、これはでかい」
【るい】
「ほわ〜」
【智】
「誰の家だろう」
【茜子】
「…………」
じとりと睨まれた。
後方で黙っている茜子の隣まで下がる。
【智】
「どうかした?」
【茜子】
「ちゃんと来た」
あれは召還の合図だったのか。
【茜子】
「幾つも嘘と悪意がありました」
【智】
「それは……三宅さん?」
三宅さんは、こよりと何やら話しているところだ。
気さくで頼りなさそうな相手に見える。
他人は見かけではわからない。
悪意は刃物よりも簡単に他者を傷つける。
【智】
「茜子が言うなら間違いないんだろうね」
沈思する。
悪意と嘘――――
そんなものを持ち込んでくる理由に心当たりがない。
【智】
「……気をつけておくよ」
人畜無害そうな背中に注意を向けた。
【三宅】
「ここの庭、全部あの家のなのかなぁ」
塀の彼方から、これ見よがしの豪邸が現れた。
時代から取り残されたような明治風の日本式洋館。
【伊代】
「これが格差社会ってやつ……まさに格差……」
【こより】
「近くからみてもすっごいですよ〜、センパーイ!」
こよりが塀の傍までインラインスケートで滑る。
楽しそうにシャカシャカと旋回した。
小さいこよりと比べると、塀は一際高く厳めしい。
【茜子】
「ニューチャレンジャー登場」
一人、茜子は屋敷以外を指差していた。
【惠/???】
「意外なところで会うね」
惠だった。
【智】
「惠じゃない!」
【伊代】
「ほんとに意外なとこで」
【るい】
「どうしてこんなとこに?」
【惠】
「近くに屋敷があってね」
【智】
「へえ、惠の家」
キャラ的にどういう家に住んでるのか興味がある。
【智】
「どこに?」
【惠】
「どこにもなにも」
【智】
「どれよ」
【惠】
「それだよ」
すぐ傍を指差した。
【智】
「………………」
【惠】
「動悸、息切れ、眩暈……寝不足と栄養失調の怖れがあるね。
後は強いストレス」
【智】
「え゛」
【花鶏】
「なに!?」
【るい】
「うそー」
【こより】
「ほ、ほえ〜、それっても、もしかして、このものすごいのが……!」
【伊代】
「ひえええええええ」
【茜子】
「ブルジョワ出た」
長い塀が延々続いており、その向こうには、
開いた口の塞がらない豪邸が……。
【三宅】
「こりゃすごい、彼は君たちの友達なんだ」
【惠】
「……」
惠はニヤリと笑ってみせた。
【三宅】
「いやあー、こんなでっかい家の人とお知り合いだなんて……
もしかすると、君たちって良いとこの子だった?」
【三宅】
「社長さんとか会長さんとか、俺の仕事先の偉いさんのご家族とか、いたりするのかなー?」
【三宅】
「うはー、いやごめんよ、ほんとに悪かったなあ。こんなとこまで図々しく一緒にきちゃったあげく、くだらない話ばっかり聞かせてさ、このとーり」
手を合わせて頭を下げる。
三宅さんは何度も何度も頭を下げながら、
ここから先の道を一人で進んでいった。
とりあえずは、安堵する。
悪意、嘘。
どちらの理由の見当もつかないけれど。
【惠】
「さて、君たちはこれからどうするんだ?」
【智】
「いやあ、とくに予定はないんだけど」
【こより】
「センパイセンパイセンパイ! こういうお屋敷、一度お泊まりしてみたいですー!」
【伊代】
「いきなりそんなこといったって、迷惑に決まってるでしょ」
【惠】
「ふむ」
惠は軽く首を傾げて考える。
【惠】
「仲間というのは……相手にそういう遠慮をするものなのかい、
伊代?」
【るい】
「それって」
【こより】
「もしかして〜」
【花鶏】
「あなたの家、いきなりで押しかけて大丈夫なの?」
【惠】
「この間、こよりからは、花鶏のところも、いきなりでなんの問題もなかったと聞いたんだけどね」
【花鶏】
「それはそうだけど……」
【惠】
「見ての通り大きいだけの屋敷で、気にする人間も住んではいないんだ」
【茜子】
「鷹揚なブルジョワ出た」
【惠】
「遠慮はいらない。皆で楽しい週末を過ごすのも悪くはないだろう?」
その庭は古い森を連想させた。
広い敷地は木々が茂るに任せてあり、
屋敷へ続く蛇行した石畳は、
横たわった白蛇のようだ。
【佐知子】
「お帰りなさい、惠さん」
【浜江】
「お帰りなさいませ、惠さま」
二人の家政婦が惠を出迎える。
リアル家政婦さん!
初めて目撃する動いて喋るメイドさんに、
僕ら(※花鶏以外)は歓声を送る。
さっくり無視された。
黙って頷く惠に、二人は厳かに一礼する。
惠はどうやら本物のお嬢様であるらしい。
【惠】
「彼女たちは僕の友人だ。この週末をここで過ごすことになった。よろしく頼む」
若い女の人が佐知子さん、
年老いた人が浜江だと、
惠は僕らに紹介した。
【浜江】
「左様で御座いますか。かしこまりました」
【惠】
「さぁ、みんな入るといい」
家政婦の二人が下がる。
大きな扉を開いた玄関から中へと踏み込んだ。
ヒヤリとした感触が肌を撫でた。
冷房が効いているのかと思ったが違った。
冷気そのものが錯覚だ。
仄暗い照明に照らされた空間の広がりと、人の生活感が
希薄なうら寂しい気配が、僕に錯覚を起こさせたのだ。
吹き抜けのホールに重厚な手すりの付いた階段、お決まりの
剣を持った甲冑が対であったりと全部が洋風かと思えば、
階段下の扉の上には精緻な透かし彫りの板をはめた欄間。
和風建築と洋風建築の入り混じった不思議な壮麗さを秘めていて、洋館の中は外からの威圧的な印象よりもずっと繊細だった。
しかし、舘に漂う生活感の希薄さが全体の雰囲気に寂しさを
添えている。
【智】
「惠。ここには、あと誰が住んでいるの?」
【惠】
「他には誰もいない」
【伊代】
「え……じゃあ、あなたとさっきのお2人だけで住んでいるの?」
【惠】
「陰鬱な屋敷なんだ」
【こより】
「そういうのってー、さびしくないですか?」
【惠】
「一人で暮らしてるのは智だって同じだろう?」
【智】
「僕? 僕は……仕方なしだから」
【惠】
「そうか。すまない。つまらないことを言ったね」
【智】
「気にしてないよ。それよりも今日は」
【惠】
「ああ、今日は賑やかになるさ」
惠が落ち着いた笑みを見せる。
裏から回ってきた家政婦の二人が、
玄関ホールにやって来た。
【佐知子】
「お待たせしました。皆さんお寛ぎになって下さい。
今、お茶をご用意しますので」
【こより】
「すごー〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
【るい】
「ぎゃわ――――♪」
【花鶏】
「ふん」
【智】
「すごいねー」
【茜子】
「ブルジョア倒すべし」
昼間には広過ぎる家を惠に案内され、
夜には豪華なディナーに招待される。
ブルジョア気分を満喫した週末だ。
洋食和食バリエーションに富んだ食事は
味のほうも素晴らしかったけれど。
ただ、一点。
【浜江】
「……………………」
【浜江】
「……………………(ギロリ)」
始終ほとんど睨むような目つきでこっちを見ている浜江さんだけは、申し訳ないが怖かった。
会食も終わり、燭台に火が入る。
全てが時代がかっている。
あの高い塀が、時間の流れを
切り落としているような気がしてくる。
【るい】
「満腹ダー!」
【こより】
「いえっさーう!」
飽食して猛っていた。蛮族のように。
【花鶏】
「まったく、お里が知れるわ」
【るい】
「がーっ!」
【智】
「そういえば惠……パルクールレースの時のお礼、まだちゃんと
言ってませんでした。あらためて申し上げたいと思うんです
けれど」
【惠】
「智は持って回った言い方が好きだね」
【智】
「惠ほどじゃないよ」
可笑しくなって笑う。
【智】
「ずっと男だと思ってた」
【こより】
「かっちょよかったですよぅ!」
【伊代】
「あんな格好してれば誰だって間違うわ。わたしなんて疑いも
しなかったんだから」
【惠】
「そういえば、教えるのを忘れていたかも」
【智】
「いい加減ダー」
【伊代】
「いよいよ、世も末、嘘つきばっかりだわ……」
【智】
「まあ、それはともかくとして」
【智】
「……パルクールの時は」
深呼吸して。
【智】
「本当に助かりました。ありがとう」
【智】
「あれ、花鶏の代走に出てくれなかったら、そもそも勝負になってなかったと思うし。おまけに勝ってくれた。がんばってくれた」
【惠】
「僕らは仲間だと、君が言ったんだろう」
【智】
「照れちゃいます」
【惠】
「仲間うちで、そんな仰々しい挨拶はいらないんじゃないのかい」
【花鶏】
「代走がいなければ、わたしが自分で出て、勝っていただけの
ことよ」
【智】
「あいかわらずの鉄壁な自信」
【花鶏】
「信仰」
【るい】
「過信」
【花鶏】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
余所さまの家でも揉めた。
【茜子】
「OK茜子さん了解しました。頭悪さマックスです」
【智】
「落ち着きが欲しいよねえ」
【茜子】
「反発する魂と魂がふとした切っ掛けで近づき、遂に一線を越えて禁じられた花園に熱く潤ったヴィーナスの丘を捧げてしまうこの一瞬」
【智】
「やりません」
【智】
「でも、あれってギャグだったんだ」
【るい】
「あれというと?」
【智】
「告白されちゃったの」
【るい】
「なにぃ! 私のトモを、いったい誰が奪っていくのー!!」
【智】
「惠と会ったときの話。るいちゃんも聞いてたでしょ……」
思いだしたらブルーになった。
下腹部のあたりがしくしくする感じ。
【惠】
「恋に落ちてしまったんだ」
【智】
「悪い冗談はやめて、悪い冗談止めて」
【花鶏】
「冗談とは限らない」
花鶏が舌なめずりして、隣の席に座る。
惠を上下に検分して、喉をならした。
【花鶏】
「滅多にない果実が独特の香りを醸し出していて、わたしの狩猟心を刺激するわね」
【智】
「こういうの『が』趣味でしたか」
【花鶏】
「こういうの『も』趣味なのよ」
趣味の広い人でした。
【花鶏】
「智、あなたは気がつかなかったの?」
【花鶏】
「わたしたちに欠けた属性! 男装の麗人! これはいい、
まさに適役、清楚も、ロリも、おっぱい眼鏡もいるけれど、
これはなかった、今私のハーレムは完成したわ!」
【智】
「しなくていいよ!」
邪悪本能だ。
【智】
「でも、ほんと……どうして、わざわざあの時、追いかけてきてまで助けてくれたの? 二度も」
【惠】
「一度目は気まぐれ、二度目は幸運だった」
【智】
「運が良かった?」
【惠】
「運命というのは、得てして残酷なものだけどね」
【こより】
「でもでも、鳴滝びっくりです。まさか、他にも同じ人が、こんなに近くにいたなんて!」
こよりがぴょこたんと嬉しそうに跳ねた。
【伊代】
「そうね。同じ痣……つまり、同じように呪われてるっていうだけでも驚きだけど。こんなところに」
【伊代】
「それに……なんか、すご……」
ブルジョアーな屋敷の造りに目を奪われている。
伊代は即物的に驚いていました。
【茜子】
「茜子さんとそこな詰め襟リバ女とは、すでに小宇宙的スケールで繋がれたソウルメイトなのです」
惠とは何故か気の合う茜子だった。
【るい】
「他にもいると思う?」
【智】
「痣が――?」
見回した。
どの顔も興味深そうに。
【智】
「8人、それとも9人?」
【花鶏】
「7人が近くにいたのなら、
他にもいるなら身近にいてもおかしくないわ」
【花鶏】
「それは、わたしたちに相応しい
運命的な出会いだと思う」
【智】
「前は量産型痣を嫌がってたくせに」
【花鶏】
「現実なら受け入れるわ」
花鶏は孤高だ。
戯れることはしても、
自分の中に他人を近づけない。
それでも、
一人は寂しいんだと思う。
だから、繋ぐ手を求める。
誰だって。
【るい】
「他にもいるなら、会いたいな」
【惠】
「いるかも知れない、いないかも知れない」
【こより】
「あと何人くらいいるんでしょう? もっと増えたらそれはそれでおもしろいかも〜!」
【惠】
「智はいつも悩んでいるね」
心痛が酷くて歳をとったら胃を悪くしそうだ。
言われるまでもなく自分で気にしてる。
【智】
「苦悩だけが人生です」
【惠】
「かわいた世界に生きるには、きみは優しすぎる」
【智】
「背中がかゆいよ。……僕は、ただ姑息で陰険で卑劣なだけだから」
【茜子】
「ダニに食われましたか。自己分析が正確な血は塩味が聞いて
美味しいというもっぱらの噂です」
【智】
「誰が噂したの」
【るい】
「トモチン、なにやら難しい顔しとるぞ」
るいが隣に来て、まねっこする。
首を傾げていた。
腕を組んで、難しい顔で。
【智】
「……わからないから」
【るい】
「どうかした?」
【智】
「僕らってなんだろうって」
【花鶏】
「選ばれたのよ」
花鶏の信仰は揺るがない。
聖痕といい、運命と呼ぶ。
呪いと才能。痣と聖痕。聖と俗。
内と外を区別するのは見る者に過ぎない。
見る位置によって、境界の意味は姿を変える。
【智】
「いい機会だから、お話ししていい?」
【茜子】
「げへへ、ボク女の分際でなにやら座を仕切ろうとしてますぜ」
【惠】
「君の心が傷つけられるときには、僕が彼女の前に立ちはだかって戦ってあげよう」
【智】
「それもどうなの」
不思議コンビが手に手を取り合っていた。
【花鶏】
「何を話したいわけ」
【るい】
「トモチンなんかあるのけ」
【伊代】
「あなたはだから、いつも気を遣いすぎてるようにみえて、良からぬことを考えてたりするんだから。まあ、悪いやつじゃないのに……だからって……」
微笑ましく。
【智】
「同盟……覚えてる?」
【るい】
「……」
【花鶏】
「……」
【こより】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
僕らの始まり。
偶然の出会いから繋がって、呪われた世界に囚われて、
呪われた世界と戦うために、足りないところを補い合って、
這いずりながら前に進んだ。
【智】
「この痣って何なんだろ」
【智】
「最初は偶然だった。でも」
【智】
「僕らは呪いで繋がれている。
ぼくらはみんな、呪われている」
【智】
「偶然……というには出来すぎていて、
必然というのは信じられない」
【花鶏】
「あなた、運命を信じないのね?」
【智】
「花鶏は信じてるんでしょう」
【花鶏】
「そうよ。以前にも言った。
わたしはわたしを信仰している」
【花鶏】
「わたしの運命、わたしの未来、わたしの誇り」
【花鶏】
「そしてわたしの聖痕。
わたしの全てがわたしを導く」
【花鶏】
「必然に、ありうる形に、行くべき所に。
選ばれたわたしには選ばれた運命があるわ」
【花鶏】
「たとえ、それが今は見えなくても。
そうよ、わたしはわたしを信じてる」
【花鶏】
「あなた、それを信じないの?」
必然。あるべき運命――――
そんなものがあるとしたなら。
それは、とても。
【智】
「……信じないかな」
悲しすぎる。
【智】
「――――」
目が、合った。
茜子。
触れられない宿命。
それが決まっていた未来だというのなら、
決めた相手に拳骨の一発でもお見舞いしてやりたい。
寄り添い合うことさえ遠い。
僕は嘘の仮面を被るけど、
茜子は影絵の街に一人佇む。
それは行き着いた頂きにある呪いだ。
望まぬものが見え、望むものに触れられない。
世界という幻想に、優しく抱かれた絶対孤独。
踊る影絵の舞踏会と同じ、
混じりあっても自分一人が浮かび上がる。
間近という名の無限遠。
茜子の小さな手は、
いっぱいに伸ばしてもどこにも届くことがない。
【智】
「決められた道があるなんて、まっぴらだ」
花鶏が見下ろす。
長大なテーブルに気取った調子で腰掛けて、
ツンとすました顔で、胸を反らして口を歪める。
そこにあるのは怒りではなく。
剣を交える好敵手を見据えるような、
とても鋭く真っ直ぐな瞳だ。
夜を飾る銀の月によく似た、
花鶏の瞳がとても綺麗だ。
【花鶏】
「なぜだろう、腹がたたないわ」
【花鶏】
「今までわたしにそんなこと言ったヤツには全員、生まれてきたことを後悔するくらい、おっぱい揉んでやったのに」
【智】
「ひどすぎる!」
絶望の悲鳴。
【るい】
「トモは痣が私たちを結びつけたって信じないの?」
るいは不思議そうな顔をする。
【智】
「るいは信じてるの」
【るい】
「いやー、るいねいさんは、よくわかんないかな」
るいらしい。
【こより】
「でもでも……それでも、こうして出会えたのは、すごいッス! これって運命っぽくって素敵ーな気がしません?」
【花鶏】
「智は、未踏(みとう)の未来に希望を見いだしたいわけね」
【智】
「進んでも引いても結論がかわらないなら、僕なんか生きてる価値のないタイプの人間だよね」
【茜子】
「しゃべれぬ姑息貧乳はただの人」
呪いがあるからただの人以下です。
未踏の未来。
信じたい。信じられない。
折り合いの付かない矛盾を抱いて、古い館の古い空気を一杯に吸う。
どこか懐かしく鼻をつく。
ぼくらはみんな、呪われている。
その残酷な束縛が、
僕らに与えられて変えようのない運命だなんて――
そんな呪われた世界があるのなら――
僕は、それをやっつけたい。
【智】
「先ず自分がやっつけられそうな気がします!」
僕は危機一髪だった。
【こより】
「とわたーです!」
黄色い嬌声が白い部屋を飛び回る。
白はイメージだ。
惠の部屋はベッドとクローゼットを除いて何一つ家具がなく、
装飾品の類も一つとして置かれていなかった。
惠らしいと言えば非常に惠らしい。
殺風景な部屋だ。
今夜はここで雑魚寝する。
惠と僕ら6人がだ。
この屋敷はたった三人で維持しているので、
とてもではないけど隅々までは手が回らず、
使わない部屋は放置されている。
埃と蜘蛛の巣に充ちた人外魔境は、
昼間に大掃除としゃれ込まなければ使用に耐えなかった。
【こより】
「そういえば、季節も良い感じで、今年は夏は素敵素敵の予感がするですよねーっ!」
【るい】
「夏の前に、私はそろそろ胸重い感じが」
【智&花鶏】
「「食べ過ぎだ、この胸暴君」」
【伊代】
「い……いいわね、あなたは。食べたぶんだけ、胸だけ増える
なんて……この、許し難いな……ぅっ」
嫉妬していた。
【智】
「どういう格差社会」
【茜子】
「また太りましたる眼鏡オッパイの本日終値は、
東証株価指数を大きく引き上げる○×kg」
【伊代】
「ぎゃーーーーっ、なんで知ってるのよ!」
【惠】
「夏を前に○×kgだと大変だな、伊代も」
【伊代】
「ちょ、ちょっとそこも余裕あるわけ!?」
【花鶏】
「すやー」
【こより】
「3秒で寝ちゃう人だ」
【智】
「別段太ってないでしょ、伊代は。るいとは違うけどバランスいいと思うし」
【伊代】
「あなたは、そりゃ胸ないかもしれないけど、華奢だし、ちょい
お嬢様っぽいし、乙女度高いからいいでしょうけどねっ!!」
【智】
「…………ひどいや、泣いちゃうぞ」
さも当然の顔でベッドに横たわる花鶏。
花鶏に譲って床に下りてくる惠。
クローゼットに入り込んだ茜子。
床に敷かれたタオルケットの上を、
ゴロゴロと転げ回るこより。
他にも床には伊代とるいの胸コンビ。
そして僕。
【智】
「もうすぐ本当に夏だね」
【惠】
「夏は好き?」
【智】
「僕はニガテ」
夏場は一年で一番困る季節だ。
薄着になるとバレる危険性が高くなる。
【伊代】
「はん、もう良いわ。電気消すわよ。みんな、場所取りしてよね。わたしはここにしますから。せーの……」
【茜子】
「それでは茜子さんはクローゼット内に。みなさん、よい怪夢を」
床には佐知子さんの敷いてくれた
白いタオルケット。
ベッドを奪った花鶏、クローゼットに隠れた茜子以外の5人が
床の上に思い思いの場所を取る。
【智】
(あーうー)
1つの部屋に女の子6人と雑魚寝。
これは得難い幸福で、ついでに地獄だ。
【花鶏】
「すーぴー」
ベッドから聞こえる花鶏の寝息。
【るい】
「にひひ」
隣にやって来たるいが、ぎゅうっと右腕にしがみつく。
るいは抱き枕がないと生きていけないダキマクランなのだ。
【こより】
「センパーイ」
暗がりから小声のこよりが、
左の腕にしがみついてくる。
ぶらさがるように。
【伊代】
「せっかく消したんだから大人しく寝なさいよ」
足下で伊代が身じろぎする。
【花鶏】
「スヤ〜……」
花鶏は静かだった。
【惠】
「智、眠れないのか?」
【智】
「惠……」
惠は近かった。
僕の頭の近くに陣取っていた。
【惠】
「智は、こんなふうに大勢で寝ることは多い?」
【智】
「ないよ。だって、いつも一人だったから」
【惠】
「呪いのせいで?」
【智】
「まあね。惠はどうなの?」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
【惠】
「僕か。どうだろうね。昔のことは忘れてしまったかな」
【智】
「惠のいうことは、いっつもあやふやだ」
【惠】
「はっきりさせたくない性分なんだよ」
夏の気配を孕んだ夜。
タオルケットの上で小さくなって。
細い息づかいと甘い体臭を混じらせながら。
暗闇に言葉を交わしあう。
【惠】
「どうなんだろう。今の僕たちは、普通の女の子たちと何も
変わらないように見えるのかな?」
暗さのせいか、
いつもより饒舌になった。
【智】
「普通の女の子…………
なんだか恥ずかしくなるフレーズだけど、そうだといいな」
【智】
「こうやって、みんなで騒いでいられたら、
とても幸せだと思う」
【智】
「一緒に街をあるいたり、仲良く手を繋いだり、
くだらないことを喋ったり、どこかへ出かける相談をしたり」
【智】
「勉強したり、さぼったり、遊んだり……
甘いものを食べたり、買い物をしたり」
【智】
「今みたいに、みんなでどこかに泊まったり、
色んなことをしてみたい。
それで、時々はケンカもして、仲直りする」
【智】
「雨の中を一緒に走ったり、
雪が降るのを見上げたり、
街灯の数を数えながら朝を待つのはどう?」
【智】
「長い坂道をくるくる回りながら、
上るのだって悪くない」
【智】
「夜の線路の上を、ずっとどこかへ歩いていってみたい。
それから、恋をしたり……」
【惠】
「……それは、とても素敵な夢だね」
【茜子】
「素敵すぎて茜子さんは悪酔いです。かーぺっ」
【智】
「喋るクローゼット怖いよ」
闇の中、月明かりに白く浮かぶ惠の輪郭。
最初男と間違ったのが嘘のように綺麗だった。
【惠】
「みんなが智を信じてるわけだ」
【智】
「なんか持って回った言い方……」
【惠】
「気にしないこと」
【智】
「そんなに信用されてるかなあ」
【るい】
「大丈夫! るいネーサンの一番はトモちんだから」
【伊代】
「まあ、信用というとなんだけど、ここぞという時の判断くらい
なら任せても大丈夫かなとは思わなくもないわね」
【こより】
「はーいはいはい、鳴滝もセンパイファンでーす!」
【茜子】
「真百合のお姉様降臨」
【智】
「あうん、ちょ、なんか腕にあたるのん!」
【るい】
「いいじゃん、女同士だし」
【智】
「でもでもぉ」
【惠】
「本当に楽しそうだ」
【智】
「惠も楽しそうだよ」
【惠】
「僕が…………?」
惠は自分の顔に指で触れる。
見知らぬ誰かの顔だとでもいうように。
【智】
「惠は、自分のことは何も話さないよね。色々と冗談は
聞かされたけど」
【惠】
「……知りたい、本当のことを?」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「…………」
【花鶏】
「スゥ……」
【智】
「いつか話したくなったらで、いい」
【惠】
「いつか?」
【智】
「僕らは仲間だろ。
今も、これからも、これから先も」
【智】
「だから、いつかでいい。
今じゃなくても。
仲間にだって話せないことがあると思うから」
【智】
「でも……
でもね、本当は先のことなんてわからない。
僕らがずっとこうして仲良くしてられるのか」
【智】
「いつかは別れるときがやってくるのか。
もしかしたら明日のことかも知れない」
【智】
「そう思ったら怖くなる。
あのね、惠。
今の僕は幸せなんだ」
【智】
「まだまだ色々なことがあって、呪いは僕らを縛っていて、
どうしようもないことがたくさんあるけど」
【智】
「それでも、いつか振り返ることがあったなら、
とても幸せだったろうって……」
【智】
「そう思えるって信じられる。
見えない未来に期待を持つなんて格好の良いこと言ったって、
本当は見えないことほど怖いものなんてないよ」
【智】
「明日のことがわからないだけで不安になる。
それでも、一緒にいられたらって思う」
【智】
「手を繋いで、信じ合って、
やっていけたらって思うんだ」
【智】
「僕らはみんな、呪われてる。
色んなものに縛られてる」
【智】
「そんなもの全部やっつけようって約束したんだ。
みんなで力を合わせて」
【惠】
「…………もしも、智が男の子だったら、
僕は、本当に恋に落ちてたかもしれないよ」
【茜子】
「真変態フラグきた」
【智】
「な、なにいってんの、惠っ!」
【るい】
「トモ、浮気するのかーっ!?」
【智】
「ぎゃわあああ、やめてやめて、そこは堪忍して!」
【こより】
「ともセンパイが男の子だったら、鳴滝の新王子さまの素敵
コスチュームをプレゼントですー!」
【智】
「ひゃああああああああああああ」
【伊代】
「ああ、もう、うるさくて眠れないでしょ!」
【花鶏】
「スゥ……スゥ……」
賑やかに夜が更ける。
今日と同じ明日はこないとわかっていても。
祈らずにはおられない。
こんな日が、ずっと続いてくれればいいのに……。
今夜は、いい夢が見られそうだった。
〔未来視の断片〕
【真耶/智】
「明日は、才野原惠が発作を起こして倒れる」
僕は虚ろな目つきで正面を見据えたまま呟く。
言葉を紡ぎ続ける口はオルゴール。
世界は閉ざされた小さな箱だ。
【真耶/智】
「皆元るい、花城花鶏、鳴滝こより、茅場茜子、白鞘伊代」
僕は目の前にじっと座る人を見下ろしている。
声をかけることも忘れて。
身じろぎさえせず見つめている。
【真耶/智】
「六人とも帰宅を取りやめ、屋敷で、才野原の回復を待つ」
ここはどこだろう?
自分がどこにいるのか理解できない。
僕は見下ろす。
言葉を紡ぐ人を見下ろす。
【真耶/智】
「書斎で時間を潰し、右から三番目の書架の後ろに、ノートを
見つけ出す」
虚ろな目とゼンマイ仕掛けの口。
心をのせぬ言葉の羅列が事実だけを記録する。
おかしい。
僕は端坐して明日の予定を呟きつづけている。
僕は呟く人を立って見下ろしている。
【真耶/智】
「夜、回復した才野原惠が密かに外出する」
僕が僕を見ていた。
僕が僕を見ている。
僕はただ立ち尽くすだけで、
同時に僕はただ座って明日の予定を淡々と述べている。
そこまで言い終えて、始めて座っている僕が動いた。
【真耶/智】
「は・や・く」
唇が動く。
淡々と語るだけの夢の中。
ようやく明確な意思と遭遇する。
【真耶/智】
「き・て」
目が、合った。
合わせ鏡をのぞき込んだような浮遊感。
どろりとした感覚が四肢に絡みつく。
【智】
「――――」
叫んだ。叫ぼうとした。
喉は空気の擦れる乾いた音を立てるばかりで、
言葉になってくれない。
恐怖が、真っ白に僕を灼く。
【智】
「……ッ!!」
得体の知れない恐怖感と共に目覚めた。
ぐっしょりと汗をかいている。
怖い夢を見た。
どうして恐かったのかはわからない。
感情と内容がリンクしない奇妙な夢だった。
【智】
「あれ…………」
寸時、途惑った。
狭い壁も、見慣れたカーテンも、
使い古したテレビもない。
見覚えのない場所だった。
ああ、そうか……。
ここは惠の部屋だった。
見慣れた部屋の調度の代わりに、団子になって床に丸まって
いる仲間たちの寝姿を見て安堵した。
ここは現実だ。
実感が湧いてくる。
【るい】
「どうしたの、トモちん。顔が紫色してる」
【花鶏】
「昨日はあんなに元気だったのに、それって、あの日じゃないの。どれ、わたしが確かめてやろう!」
【智】
「ぎゃわあああああああ!」
暴れた。
【惠】
「朝から元気だ」
【智】
「大丈夫、だ、大丈夫ですぅ……っ!」
【花鶏】
「相変わらずオッパイちっちゃいわね」
【茜子】
「自然の摂理」
【るい】
「なんじゃら?」
【こより】
「でもセンパイ、大丈夫に見えないですが……」
【智】
「こよりんはやさしいね、よーしよしよし」
【こより】
「うにゃにゃにゃにゃ」
頭を撫で撫でする。
ごろごろと喉をならす、
こより。
【伊代】
「調子悪いなら、大人しく寝ててもいいのよ」
【智】
「ほんとタダの食べ過ぎで。体調のほうは全然大丈夫だよ!
今日もいけるいける」
虚勢を張る。
夢の余韻を引きずっていた。
何とも言えない身体の重さと、
腹の底に鉛を詰めたような感覚。
でも予想外の惠の家の招待を、
今朝まで残っているその余韻を。
自分のせいでぶちこわしにしたくない。
【伊代】
「それならいいけど……。いるのよ、心配かけたくなくて大丈夫なフリするんだけど、後で倒れて余計な迷惑かけたりする子が……」
【茜子】
「はい、長話終了」
朝食まで、いくらか余裕があった。
【茜子】
「とてとて」
頭を冷やすつもりで屋敷をぶらりとする。
いくつあるのかもわからないくらい、
たくさんの扉が廊下の向こうまで並んでいる。
そこへ、茜子が追いついてきた。
【智】
「どうしたの?」
【茜子】
「刺激的な一夜にようこそ。俺の欲望ははち切れんばかりのビックガンだぜ」
【智】
「ぶっ」
【茜子】
「チュパカブラーが官能的に情欲で眠れぬ一夜を過ごして、調子が悪いというわけでもなさそうですか」
【智】
「心配してくれたんだ」
【茜子】
「ガギノドンのエサの値上がりを考えるくらいには、茜子さん心配しました」
【智】
「とっても安そうだ」
惠もやってきた。
【惠】
「ここにいたのか。朝食の用意が出来るそうだから食堂の方へ
どうぞ」
【茜子】
「おはようございます。昨夜はお楽しみでしたね。茜子さん、
すっかりスパークですの」
【惠】
「おはよう。この家がこんなに明るいなんて、めったにないことだ。君たちのおかげかも……」
【智】
「明日は、才野原惠が発作を起こして倒れる」
【智】
「……ッッ」
夢のことを思いだした。
心臓が締め付けられる感覚に息が詰まる。
なにをばかみたいなことを……
【茜子】
「……」
凝視される。
心を読み取る茜子の『力』――
【惠】
「では、食堂で――――」
惠が先導する。
その瞬間、
【惠】
「ゲホッ……!」
惠の口から大量の血が溢れた。
【智】
「め……惠っ!?」
【惠】
「ゲホッ、ゲホホッ……っ!!」
服も床も一瞬で赤い色に染まる。
糸が切れたように膝から崩れた。
咳き込むたびに新しい血が廊下にこぼれる。
【智】
「惠っ!」
【茜子】
「っっ!」
【智】
「茜子! はやく、佐知子さんたちを呼んできて!」
【茜子】
「はい! 気をしっかり持って、すぐになんとかします」
よろける惠の手を、茜子が握った。
一瞬の接触。茜子が踵を返して走り出す。
【智】
「茜子が自分から……」
誰にも触れてはならない呪い――。
破れば死ぬ束縛が、茜子にはあるのに。
【智】
「惠……しっかり、惠!」
【惠】
「……ゲホッ、ホッ………ゲホッ……」
【惠】
「……ばかな、こんなに早く発作が……!」
部屋には嫌な匂いが漂っていた。
病人独特の匂いと、生臭い血の匂い。
【佐知子】
「みなさん、驚かせてしまいまして……」
【るい】
「そんなことよりメグムの様子は!」
血に汚れた服もそのままに、
惠はベッドに寝かされていた。
浜江さんが厳しい面持ちで付き添っている。
【惠】
「ゲホッゲホッ! ぐぅ……、はぁ、はぁ……、ぁ……」
惠の浅い息は、喉の奥に粘つく泡の音がした。
【智】
「惠!!」
【佐知子】
「いけません、部屋に入っては……ここは私たちに」
【智】
「佐知子さん、これっていったいどういうことなんですか!?」
詰め寄る。
あまりの急変で混乱していた。
【佐知子】
「そ、それは……」
【浜江】
「…………」
【惠】
「すまない……せっかくの……週末だったのに……でも、ゲホッゲホッ! たびたびある、たいしたことない発作なんだ……だから……」
【花鶏】
「たいしたことないわけないでしょ! あれだけの量の血を吐いてるのに!」
【こより】
「救急車! 救急車よばなきゃ!」
【伊代】
「もう、救急車は呼んだんですよね。まだ来ないんですか?」
【佐知子】
「それは、惠さんが……必要ないからと……」
【伊代】
「ま、まってくださいよ、そんなの! これが薬も救急車も必要ないように見えますか!? この子が死んでもいいんですか!? あなたたちが呼ばないのなら、わたしが……!!」
【茜子】
「待ってください」
携帯から119を押そうとした伊代を、
茜子が制止する。
【惠】
「……死ぬ病気じゃ……ない。必ず……明日にでも治る。だから……はぁ、はぁっ……」
【伊代】
「離しなさいっ! あれがどういう状況かわからないの!? 万一を考えたら、わたしたちじゃだめ、まず病院に移して――」
【茜子】
「――待ってください」
【伊代】
「だから離しなさいって!」
【智】
「伊代、待って」
【伊代】
「……あなたまで!?」
伊代が柳眉(りゅうび)を逆立てる。
【智】
「……惠は、本当に、病院に行かなくても?」
【浜江】
「………………」
浜江さんは無言で頷いた。
【佐知子】
「どうか、一日だけで構いません。待ってください。必ず惠さんはよくなりますから……」
【伊代】
「そんなこと言って、もし手遅れになったらどうするつもりなんですかっ!?」
【智】
「いいから、伊代!」
納得いかない顔で伊代が押し黙る。
【智】
「惠……本当に……?」
【惠】
「智、みんな……ああ、明日にはよくなる……」
【惠】
「心配かけてすまないけれど……今だけは一人にしてくれないか……しばらくゆっくり休みたい」
【伊代】
「全然納得いってませんからね」
伊代が詰め寄ってきた。
【伊代】
「どうしてあのままにするのを、納得するの!? 友達でしょ! 取り返しのつかないことになっても構わないの!?」
【智】
「そんなことさせないよ」
【伊代】
「じゃあ……っ」
【智】
「……病院には行けない理由があるのかもしれない」
【こより】
「……あんなに苦しそうなのに、理由ってなんですか……?」
素朴な疑問に、茜子が解答する。
【茜子】
「茜子さん、死にかけても病院はノーです」
【るい】
「あ、それっ……!」
惠も呪いを持っている。
束縛はわからないけれど。
その内容が病院にかかることの出来ない種類の物なら、
頑なに拒む理由もわかる。
【智】
「茜子はダメだし、僕もダメだよ」
【花鶏】
「智はそういうタイプなのね」
【智】
「言えないけど」
【花鶏】
「わたしは……きっとボーダーね。あまり試したいとは思わないわ」
【智】
「花鶏も複雑そうだ」
【花鶏】
「いいえ、シンプルよ」
【智】
「とりあえず、惠は様子を見たいと思う。このまま帰るわけにも行かないし、同じ呪い持ちがいた方が役に立つかも知れないから」
【智】
「後で、惠の様子が落ち着くまで泊めて貰えないか、佐知子さんと話してみる」
【智】
「みんなはどうする」
花鶏は小さく肩をすくめた。
茜子はいつも通り。
るいはどしんと椅子に座って、
伊代は不機嫌そうに机の上を指で叩いた。
こよりが涙目で寄ってくる。
【こより】
「邪魔にならないならいます。
惠センパイ……よくなってほしいです……」
屋敷に残るという考えに反対意見は出なかった。
仲間の苦境を前に、何一つできない自分たちの無力感が、
重く押し寄せてきた。
誰もいない書斎。
一人まんじりともできない時間を過ごす。
みんなも思い思いの場所で時間を潰している。
惠の回復を信じて。
【茜子】
「居ますか」
【智】
「居るよ」
【智】
「惠の具合はどう?」
【茜子】
「会えませんでした。佐知子さんが言うには、状態が落ち着く
までは面会謝絶だと」
【智】
「そう」
【茜子】
「半分は嘘です」
茜子の力なら、疑う余地がない。
【智】
「半分……じゃあ、惠は、まさか……」
【茜子】
「それは大丈夫だと思います。おそらくです」
【茜子】
「病気について、何かを隠しています。後ろめたいことです」
後ろめたい……。
よく笑う佐知子さんと、
イメージが結びつかない。
【茜子】
「他の人もです。この屋敷の人は、全員、何か隠し事をしています。何かはわかりませんが」
【智】
「人間誰だって隠し事の一つや二つ……」
【茜子】
「茜子さんが言うのは、そんな漠然とした部分を指しているのではないです」
【智】
「…………わかってるんだけど」
わからない。
言えないことがあるとしても、
佐知子さんや浜江さんまで何を隠してる?
【茜子】
「あなたも隠し事がありますね。朝、発作に立ち会った時は、普通じゃありませんでしたから」
【智】
「茜子には隠せないね」
【茜子】
「言いたくないならいいです」
【智】
「……またの機会でも?」
【茜子】
「…………」
見つめ合う。
【智】
「おかしな話をするけど、いいかな」
【茜子】
「いまさらですね。私たちはとっくにどこかおかしいですから」
呪いだけに。
【智】
「今朝、夢を見たんだ。おかしな夢だった」
今朝見た悪夢のことを茜子に語って聞かせた。
【茜子】
「予知夢……だとしても変です。普通は未来の場面を見るのではないですか」
【智】
「そうだね。僕は喋ってただけだ。予定を読み上げるみたいに、
淡々と」
【茜子】
「でも、その夢が本当なら」
【智】
「うん。惠は今夜回復して……」
外出する?
それもよくわからない。
回復するだけならともかく。
あれだけの血を吐いたすぐ後で、
いったいどこに外出するんだ。
【智】
「でも、今は、惠が助かるっていうのなら、あやふやな可能性
だって信じてみたいと思ってる」
【茜子】
「……私もここで待っていていいですか」
【智】
「うん。一人でいると沈んでしまいそうだから、茜子が一緒にいてくれると助かる」
【茜子】
「はい」
無為の時間が一番つらい。
時間を潰すためだけに書斎の背表紙を目で追って、
呼吸が止まる。
【智】
「茜子、見て!」
【茜子】
「どうかしましたか」
背表紙のタイトル。
見慣れた文字が混じっている。
「呪」の字。
屋敷の規模相応に大きな書斎ではあるけれど、
呪いに関する文献があるなんて。
【智】
「……おかしくもないか。惠の家だもの。惠だって自分の呪いを
何とかしようとしてたのかも」
【茜子】
「一応の納得はできますが」
【智/真耶】
「書斎で時間を潰し、右から三番目の書架の後ろに、ノートを
見つけ出す」
【智】
「……右から三番目の書架って、どれだと思う?」
【茜子】
「あれだと思います」
【智】
「あの棚の本を下ろしたいんだ」
【茜子】
「病人の家を狼藉するのはレイプ願望の一種です」
【智】
「それはどうだろう」
【智】
「さっき話した夢なんだけど……」
【茜子】
「タイトル『自動書記ボク女の恐怖』。D級っぽいですが」
【智】
「あの棚の本の後ろから、ノートを見つけることになってたんだ」
【智】
「ちょっと話したいことがあるんだ」
食堂に、みんなを呼び出した。
そろった顔は一様に不満げな表情を浮かべていた。
花鶏が黙ったまま怖い顔をする。
惠が大変な時にわざわざ呼び出すなんて
どういうつもり、と目が語っていた。
【智】
「ごめんね。でも、大事な話だから」
【るい】
「どういうこと? よーわからん」
【こより】
「センパイ、こんな時にわかんないことされるのは、鳴滝もぶーぶーですよー!」
【智】
「ちょっと、これを見て欲しい」
【茜子】
「茜子さんのトレジャーハンティング」
茜子に目配せする。
茜子はいつもの顔で、大事に抱えていた
古びた一冊のノートを、食堂のテーブルの上に置いた。
【伊代】
「なによ、このボロノート?」
【智】
「惠に黙ってこんなことするのは気が引けたけど」
【智】
「書斎の本棚の奥に挟まってたのを『偶然』見つけたんだ。
惠のものじゃないみたいだし。もしかしたら、意図的に
隠されてたのかも……」
【伊代】
「それ全然人様のものじゃない! 親しき仲にも礼儀ありといって、たとえ友達同士だからって勝手に家をあさって、ましてや……」
【智】
「伊代の言うことはもっともだけど、まず、ノートの中味を
確かめて欲しい」
【伊代】
「…………」
【伊代】
「それって、惠のことよりも大事なことなの?」
【智】
「わからないけど、もしかしたら、同じくらい大事なことかも
しれないから」
静かな食堂。
顔を寄せ合って息を潜める。
悪い事でもしてる気分で。
何の署名もない表紙。
本棚の奥深くにあったせいなのか、
目立った変色などもないページ。
いつ頃のものかは正直判断がつきかねる。
伊代がページを慎重にめくる硬い音だけが響く。
【智】
「ざっとしか見てないんだけど、この屋敷の持ち主の記した
ものだと思う」
【るい】
「それって、惠の前の持ち主のこと?」
【茜子】
「ずばり前かどうかは、茜子さんにもわかりません」
【伊代】
「これ、呪いのことが書いてある!」
【伊代】
「ここにある呪いっていうのがわたしたちの呪いと同じかは
わからないけど、これ書いた人が呪いのことを独自に調べた
記録みたい……!」
【智】
「呪いなんてそうそう在っちゃ堪らないよ。たぶん僕らの呪いと
同じものだと思う」
【こより】
「それって……それって、どういう?」
【智】
「簡単に説明すると――――」
このノートには一族の末裔である一人が、
呪いと戦おうとした顛末が綴られている。
どうやらこの屋敷も、呪いの秘密を探る必要から
手に入れたものの一つらしい。
筆者は記す。
「この家に残された情報はあまりにも少ない」
【こより】
「呪いと戦う……というと……」
【花鶏】
「呪いを解く方法を探したっていうこと!」
【智】
「たぶんね」
【智】
「これでわかって貰えたと思う」
【智】
「……呪いを解く重要な手がかりが見つかったってことなんだ。惠も呪いを持ってるけど、今度こそ解くことができるかもしれない」
【るい】
「メグムのためにもなるんだ!」
【こより】
「あ、そっか。呪い解けたらお医者さまにかかれるかもしんないですね!」
【伊代】
「とにかく……読めないけどこの『なにか』があれば、もっと
詳しいことがわかるのに、みたいなことが書いてあるわ」
伊代が顔をあげた。
【伊代】
「ここ……手がかりらしいけど、これ日本語じゃないわね。パ……? 英語でもない? わからないわ」
【花鶏】
「――――――『ラトゥイリ・ズヴィェズダー』」
【伊代】
「……なに?」
【花鶏】
「なによ、もう忘れたの。その文字のこと……それは『ラトゥイリ・ズヴィェズダー』、『ラトゥイリの星』って意味よ」
【こより】
「ほえ、そのそのそれってたしか!」
【茜子】
「茜子さんと交換になりそうだったあの本ですね」
【花鶏】
「ええ、本は持ってくる。わたしの家に代々伝わる『ラトゥイリ・ズヴィェズダー』の真実が明かされるのは望むところだし」
【花鶏】
「それで惠が助かるかもしれないなら、悪くないわ」
【智】
「呪いを解くことになってもかまわない?」
【花鶏】
「智は、呪いを解きたいのよね?」
【智】
「うん。花鶏には悪いとは思うけど……」
【花鶏】
「その話は、呪いを解く方法とやらが本当に見つかってからに
しましょう」
【智】
「ありがとう、花鶏」
花鶏が颯爽(さっそう)と席を立つ。
【花鶏】
「夜までには戻るけど、わたしがいない間に、万一のことがあったりしたら絶対に許さないからと、惠に伝えておいて」
じりじりと焦げ付くような時間が過ぎる。
惠の様態に変化はない。
花鶏の帰りは予想より早かった。
日暮れ前に戻ってきた。
『ラトゥイリの星』――
約束通り、あの時の本を携えて。
【智】
「早かったね」
【花鶏】
「道が空いてたのよ」
さぞかしトバしたんだろう。
【花鶏】
「謎、すぐには解けないでしょうね」
【智】
「何もしないでいるよりはマシだよ」
【花鶏】
「こう言うときの智も悪くないわ」
冴えた微笑を浮かべる花鶏も、悪くない。
夜。
テーブルの上には、殴り書きされた、
たくさんのメモが散乱していた。
『ラトゥイリの星』とノートを付き合わせることで、
内容を解読しようとする。
簡単な夕食を挟んでの作業。
『ラトゥイリの星』とノートを付き合わせることで、
内容を解読しようとする。
一日二日で謎が解けるはずもない。
全員が承知の上で作業に入る。
何もしないよりは、何かをしていたかった。
【智】
「花鶏はどれくらい読めるの?」
【花鶏】
「わたしはロシアに住んでたわけじゃないし、中味も難解な表現が多いわ。正直言って――」
片言のロシア語が読み書き出来る花鶏を中心に、
『ラトゥイリの星』を読み解く。
読み解くまでもなく、問題のノートに示唆され、
まとめられた記述も多かった。
それはどれも、今まで僕らが知らなかった、
呪いという物語の隠された『真実』だった。
曰く――――
呪いの受け手は『八つ星』と呼ばれ、
そもそも8人居たらしい。
彼らは特別な『力』を持っていた。
ゆえに『呪い』を受けた。
何者に……?
それはノートにも示唆はない。
人智を越える「何か」だろうとうかがえるだけだ。
話を戻す。
8人は恐るべき呪いを受けた。
以来、『力』を持って生まれた者には
呪いの徴が刻まれ、死の束縛に苦しむようになった。
呪いの受け手たちは抗った。
抗い続けて生き延びた。
そして、現代にまで呪いを受け継いだのが、
この僕たちというわけだ。
【智】
「8人……なんだ」
呪いを解く方法の実在も示唆されていた。
ノートの執筆者、曰く。
「それには、呪いのはじめと同じ、
呪われた8人の力が必要になる」
【るい】
「メグムをいれても7人」
【こより】
「ひょえー、あと一つどっかに呪いあるわけですか」
【伊代】
「ここにいない八人目が不可欠なんていわれたら、そんなものどうにもなりっこないわ。だいたい、近くにいるとも限ってないのよ」
伊代はやっぱり空気を読まない。
【茜子】
「実はナゴルノ・カラバフ共和国に最後の一人がいると猫巫女サマの神託が下ったっ!」
【智】
「どこの国ですか、それは」
【るい】
「そんで? 続き続き!」
【伊代】
「待ちなさい。落ち着いてよ。えーっと『……私に調べられるのは現段階ではここまでだ。だが、私はあの子たちが居る限り研究を続けるだろう』」
【伊代】
「『私は妻との間に双子を授けてくれたことを、神に感謝する……』」
【伊代】
「………………?」
【伊代】
「ちょ……見て、これ!」
【こより】
「どったのですか?」
【茜子】
「『和久津……』」
【智】
「呼んだ?」
【伊代】
「……そうじゃない、これよ、これを見なさい、これって、
あなたの――――!!」
ノートに最後に署名があった。
『和久津』。
和久津…………?
【智】
「双子……わくつ……そんな、まさか……」
【るい】
「これってトモの!?」
【伊代】
「それじゃ……これって、まさか……」
双子の子供がいる和久津、呪いに関わる和久津。
呪いと戦った和久津――――
【智】
「まさか、父さん……?」
【智】
「そんな……そのノートは……僕の父さんの…………ッ」
後ずさる。
【るい】
「えっ、じゃあ、トモって双子だったの!?」
【智】
「姉さんが居た……らし……」
目眩――――――――が――――――――
昔の話だ――――
記憶も曖昧な父の顔を思い出す。
影絵のように揺らぐ父親の顔は、
黒く塗りつぶされている。
最後に会ったのは母の葬式の後。
父さんの手配で、預けられることになった
親戚の家に連れられていく途上のこと。
その時もろくろく目もあわせられなくて、
ただ、背の高いひとだとだけ思った。
母といた家に変わって、
新しい住まいになる古びた家の住人は、
年老いた遠縁のお爺さん一人だった。
言葉を交わすことも少ない寂しい生活だったけれど、
僕の呪いにはかえって都合が良かった。
ほどなくして、父さんは死んだ。
親戚の人から、その死を聞かされた時も、
最後まで泣くことはできなかった。
それで、僕の家族は誰もいなくなってしまった。
父さんも。
母さんも。
姉さんも。
ただ。
それでも、たった一つ覚えているのは。
あの時折見る黒い影の記憶の、
僕をノロイから守ってくれた家族の背中……
その父さんが――――
呪いと、戦っていた?
【伊代】
「おちついた?」
うっすらと視界が戻ってくる。
【智】
「うん、もう大丈夫……」
椅子を連ねて作った即席のベッドで横にされていた。
さっき目眩を起こして倒れてしまったらしい。
我ながら混乱しすぎ。
【智】
「運んでくれたの……るい? 迷惑かけてごめん」
【るい】
「いいっていいって……トモちんも色々ショックだったんだよね」
即席のベッドから上体を起こした。
【伊代】
「起きても大丈夫? まだ寝てた方がいいんじゃないかしら。
心因性だと思うけど、あまり大丈夫に見えないし」
【智】
「平気。ちょっと驚いただけだから……ぜんぜん予想もしてなかったせいで……」
あいかわらず不意打ちに弱い僕だ。
【伊代】
「ノートを書いたのは、本当にあなたのお父さんなの?」
【智】
「断言はできないけど……」
【茜子】
「呪いに関わっている人間で、和久津という珍しい名前が
二つも三つもいるというのは考えがたいと思います」
【伊代】
「でも、じゃあ、それって……やっぱり、あなたを呪いから……」
【智】
「…………えっ」
意表を突かれた。
伊代の思いつきを考えつきもしなかった。
考えるまでもない。
普通、行動には動機がともなう。
父さんが呪いを解く研究をしていたというのなら、
その理由は?
僕の呪いを解くためか?
そのために、僕と母さんと離れて?
たった一人で、この屋敷で?
【るい】
「そっか、そう……だったんだ」
【るい】
「そうだよね。親子なんだから……」
るいの声が不思議に沈んでいく。
それを気遣う余裕もなく。
【智】
「……うまく頭の整理がつかない。父さんがここに居て、
呪いの研究をしていて……惠はどこまで知ってたんだろう?
屋敷の他の人たちは呪いとは関係ないんだろうか……」
【花鶏】
「ここまでくれば無関係とは考え難いわね」
【こより】
「色んなことがわかった分だけわからなくなったかんじです」
父さん――――――――
逃げ出すように、廊下へ。
頭を冷やしたくて、屋敷の中をあてもなく歩いた。
【茜子】
「大丈夫ですか?」
茜子だった。
追いかけてきたのか。
茜子らしくない行動に苦笑する。
【智】
「平気……」
【茜子】
「嘘です」
【智】
「……ホントに誤魔化せないんだなあ」
頭の中が滅茶苦茶だ。
混乱しきってまともにものを考えることができない。
和久津?
どういことなんだ?
ここはいったいなんだ?
惠はどんな関係があるんだ?
そして――――
【智】
「父さん……」
呪いと戦うためにここへ来たのか。
自分の子供を縛る呪いを打ち破るために。
願い叶わず、志半ばで死んでしまったのか。
【智】
「あーもー、頭の中ぐちゃぐちゃで……っ」
【茜子】
「考えない貧乳はただの貧乳です」
【智】
「茜子は知ってるくせにーっ」
【茜子】
「チュパカブラー」
【智】
「にゃわ……」
自爆した。
【茜子】
「さっき、夢の話はしませんでした」
【智】
「まだ僕自身よくわからないし……もうすこし落ち着いて、何かの手がかりがつかめるまで……」
【智】
「夢のことは、みんなには内緒にしてくれる?」
【茜子】
「わかりました」
【茜子】
「二人の秘密が増えていきます」
【智】
「両方僕が一方的に負い目なやつなんじゃ……」
【茜子】
「わかっているなら生き方をあらためて僧になるのが、茜子さん的にお勧めです」
【智】
「お坊さんになったら、呪いで死んじゃうよ、僕」
【茜子】
「…………」
ふと窓の外に目を向けた。
【智】
「……っ!」
ナイフを思わせる、細く鋭い銀の月。
その薄明かりの下に。
【智】
「惠……っ」
夢で語られたとおり。
惠は灯りも持たず、
月を頼りに庭の木々に分け入って行く。
それは見間違いかと思えるほどの、
短い時間の出来事――
すぐに姿は見えなくなった。
小さな森のような庭の奥は到底見透かせない。
【智】
「…………ッッ」
今のは本当に惠だったのか?
暗すぎてわからなかった。
惠なら回復したってことなのに。
もっと喜んで良いはずなのに。
佐知子さんは何故教えてくれない?
屋敷の事。ノートのこと。父さんのこと。
夢。
わからないことが多すぎる。
あのノートの存在を、惠は知らなかったのか?
知っていたなら、僕が呪いと何らかの関係がある
人間だってことを、最初から承知してたのか?
全部偶然なのか?
それとも最初から仕組まれてたことなのか?
【智】
「これで、全部夢で見た通りになった……」
【茜子】
「そうなりますね」
喜んでいいはずの友達の回復が、
どこまでも黒い不安をかきたてる。
翌朝。
【惠】
「どうやら心配をかけてしまったみたいだね」
惠は思いの外元気そうだった。
【るい】
「ほんとに! 全然ダメかと思った……」
【花鶏】
「あれだけ血を吐いたにしては元気そうね」
【惠】
「僕にはよくある発作でね、吐血するけれど、見た目ほど大した
ことはないんだよ」
【伊代】
「わたしびっくり……病院にもいかないで、本当に一晩でこんなによくなるなんて」
【惠】
「佐知子たちも慣れたものだから、僕の言うとおりにしてくれるんだ」
【こより】
「ほんとよかったですー!」
顔色も良い。
あれだけの血を吐いたのが嘘みたいに。
致命傷から回復する力――――
それは惠の『才能』だ。
だとすると、あの発作はそもそもなんだ?
【智】
「惠……」
【惠】
「どうしたのかな、あらたまって」
【智】
「書斎で見つけたものがあるんだ」
ノートを見つけてからの顛末を、一通り伝える。
解読に一応の成果があったことも。
【惠】
「まさか、君が和久津氏の娘とはね」
【智】
「知ってるの、父さんのことを!?」
【惠】
「いや、ここの主である大貫氏から聞いたことがあるだけだ。この屋敷の先代の持ち主で、呪いに関わりのある人物だった、と」
【智】
「大貫……? 惠がこの屋敷の主じゃないの」
【惠】
「……」
【茜子】
「主ではない、ということです」
【惠】
「君がいると助かるな」
主ではない。
わざわざ沈黙するほどのことだろうか?
【智】
「僕のことも最初から承知していた?」
【惠】
「名前が同じだ。親戚かも……くらいは思っていたよ」
【智】
「それで、このノートなんだけど。よければ、しばらく貸して
もらえないかな。解読を進めれば、本当に呪いを解く方法が
わかるかも知れないし」
【浜江】
「…………」
【佐知子】
「…………」
【惠】
「いいとも。そのノートは、元々君の父上のものだ。君の手に
あれば、父上も喜ばれるだろう」
【智】
「本当に呪いを解く方法がわかればいいね」
【惠】
「そうだな。一日も早くそうなるといい」
病み上がりなので長居を避ける。
二日間のお礼を述べて、僕らは屋敷を後にする。
別れ際。
【智】
「昨日の夜。君を庭で見かけたんだけど、どこへいってたの?」
【惠】
「昨日の夜? 知らないな。僕は、昨夜一晩中部屋で伏せっていたから」
【智】
「そうなんだ。じゃあ、見間違いだったんだね」
【茜子】
「…………」
帰り道。
疲れ切った面々は三々五々に散る。
今日は僕も一人になった。
とてとてと足音が追ってくる。
【智】
「どうだった?」
みんなには内緒だ。
茜子と落ち合う約束をしていた。
【茜子】
「……先に言っておきます」
【茜子】
「茜子さんの『力』では、あの男装女の言葉だけ、嘘か本当か判りづらいです。嘘に包まれた本当が見抜けません」
【智】
「いつもは読めるのに?」
【茜子】
「隠す気になられるとわからなくなります。ただ、悪意を感じないのも本当です」
【智】
「…………」
【茜子】
「あと、呪いを解く方法の話題が出たとき、家政婦コンビがひどく慌てていました」
【智】
「秘密の多い人生ってやだよね」
ため息をついた。
【茜子】
「鏡を見れ」
バカにされた。
【智】
「惠はいつも謎かけみたいなことしか言わなかった」
【智】
「惠らしい冗談なんだろうって思ってたけど、そうじゃないのかも知れない」
【智】
「こんなにたくさんの秘密がここにあるなんて」
【茜子】
「どうするつもりですか」
きっと、僕の答も茜子にはわかっている。
【智】
「誰だって言えないことはあるだろうけど……それが悪意なら、
それが敵なら、仲間に牙をむくなら――――僕はそれを
見極めなくちゃならない」
【智】
「……茜子、それを手伝ってくれる?」
〔殺す者、殺される者〕
赤い!
赤い、赤い、赤い!
【智】
「どうして……、どうして……誰がッ!?」
吐き気を催すような生暖かい鉄の匂いが
鼻腔から入り込んできて、眩暈が視界を歪ませた。
どれだけ歪んだ視界の中でも、
見える光景の忌まわしさは変わらない。
【智】
「るい……こより、茜子、花鶏……!」
ぬるりとした液体が靴底を滑らせる。
鮮やか過ぎる赤が目に痛い。
【智】
「惠も……!」
赤い。
辺り一面真っ赤だった。
【智】
「……伊代……っ!!」
大地を彩る鮮烈な赤、それは……血だ。
ぬらぬらといやらしく光を反射する赤い絨毯の上、
みんなの体が動かない肉袋になって転がっている。
【智】
「こんな、こんなことって……!」
すべての体が、鋭利な刃物でボロボロになるまで壊されている。
だが、僕は何かがずれている気がしていた。
【智】
「いや、これは」
そうだ。
血が赤すぎる。
恐ろしい周囲の世界から気をそらすために、
努めて冷静に考える。
血液は空気に触れると、
急速に酸素と結びついて黒く変色する。
こんなに赤い血液が、
いつまでも血だまりを作っているはずがないんだ。
現実との違和感――
これは夢だ、
これはまた……。
【智】
「っ!」
曲がり角の向こうから気配がした。
水面下を魚影がよぎるみたいに、
赤すぎる血の表面を影が動いた。
【智】
「誰っ!?」
夢であるはずだ。
こんなに赤い血は考えられない。
それにこの場所はどこだ?
僕はどこからここに来た?
夢だ。夢であるはずだ。
それなのに背筋を這い上がる戦慄を、
理屈で押し留めることができない。
誰かが……みんなを殺した誰かがそばにいる……!
【智】
「ひッ……!」
血だまりに刃物の光が反射した気がした。
もう僕は震え出す膝を留められなくなって、
足が言うことを聞かなくなる前に走り出す。
【智】
「逃げなきゃ……逃げなきゃ……! 殺される……!!」
見たこともない街並みの中を闇雲に走った。
どこに向かうのかはわからない。
とにかく少しでも速く、遠く、
ヤツから逃げなければならない!
【智】
「はぁ……ッ、はぁ……ッ! 助けて……助けて……っ!」
途切れそうに苦しい呼吸をしながらひたすらに走る。
やがて、道は唐突に袋小路になっていた。
【智】
「そんな……!」
引き返して別の道に……!
疲労のせいか恐怖のせいか、
そう思ったのに足が動かない。
袋小路を形作るのは高いビルで、
そのどれもが威圧的に聳え立ちながら、
僕の方にのしかかってくるようだった。
膝が震え出して、手も、体も震え出した。
歯がガチガチと激しく鳴って、
喋れば舌を噛み千切ってしまいそうだ。
【智】
「…………」
もはや逃げられない。
それならば待ち受けるしかない。
待ち受けて返り討ちに……みんなの仇を!
【智】
「……殺してやる……」
ぬるぬると滑るものを振り払い、
ぎゅっと強く握りなおした。
けれど、どれだけ待っても追っ手は現れない。
どこだ!?
どこからか、滑稽な僕の姿をあざ笑っているのか!?
【智】
「殺してやる、殺してやる」
【智】
「殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる……!!」
震えは自然と治まっていた。
目の前に現れるどんな相手でも一突きで殺せるように、
僕は両手を前に出して身構える。
あれだけ走ったのに、
まだ血の匂いがついて来ていた。
さっきから手にまとわりつく、
ぬるぬるした感触が忌まわしかった。
【智】
「殺して、殺して、殺して、殺して……!!!!」
……待って。
僕は何を構えている?
両手で握り締めている……、
これはなんだ?
ぬるぬると滑る生臭い液体に覆われたこの柄は?
時折鋭い光を反射するこの刃は?
これは?
【智】
「こ、これ……そんな」
僕の手に握られているものは――
殺意を形にしたような鋭い刃だった。
刃は、ついさっき見た鮮やか過ぎる赤に彩られている。
刃先から柄までべっとりと血に塗れていた。
そしてそれを握る僕の手も!
【智】
「そんな、なんで……どうして僕が……!?」
手だけじゃない。
服も!
髪も!
顔も!
口の中さえ!
【智】
「うぷ……うぇ、ぉぐ……ぅえぇぇ……!」
抑えきれなくなった吐き気に身を任せると、
僕の口から赤いものが地面に滴った。
全身が血に塗れている!
返り血だ!
僕が……僕が……僕が……。
僕がみんなを……!!!!
住み慣れた自分の部屋。
【智】
「がは――――っ」
血を吐く思いで飛び上がる。
そこが寝床だということに気がつくまで10秒程度。
【智】
「…………」
枕元の時計が、無機質に時間を告げていた。
落ち着くまで秒針とにらめっこをした。
するりと寝床を抜け出す。
シャワーを浴びた。
【智】
「ふぅ。すっきり……しないなぁ」
冷たい水にも鬱屈が消えない。
身体よりも心が重い。
顔色が悪いのが気にかかる。
【智】
「今日のファンデーション、どれがいいかな?」
お化粧くらいしておいた方がいい。
きっと顔色が悪いから。
心配をかけてしまうから。だから。
いつもは薄くナチュラルメイクなんだけど、
今日は濃いめにお化粧を。
【智】
「パックとかしちゃう?」
戯れてみる。
心は晴れなかった。
【智】
「もうそんな時間か」
茜子だった。
学園をサボって、惠を見張る。
惠には秘密がある。
館にもだ。
それが、仲間たちに危害を加えるものではないと
確信しなければならない。
【智】
「普段何してるのかも謎だらけだし」
【茜子】
「にしては、地味ポイントアップ偵察活動」
お手伝いの茜子は不満そう(無表情)だ。
【智】
「白鳥活動と呼んでください」
【茜子】
「一発逆転大穴きやがれ、1−3、どうだー!」
すごく似合わない。
ギャンブルにだけは手を出して欲しくない茜子だ。
【智】
「手がかりもないし、まずは本人の日常行動から地味こちゃんに
一つ一つ」
本の解読を花鶏たちに進めてもらっている間に。
【茜子】
「茜子さんはやっぱり疑問です」
【茜子】
「ブルマリアンは姑息と卑劣がとりえです」
【智】
「ほめてないよ!」
【茜子】
「普段のあなたなら、もう少し陰険で効率的な方法を考えそうな
ものですが」
【智】
「……惠は友達だから。波風立てずに何もないことを確信できれば、一番いいと思わない? 下手に陰険なことしたら後々わだかまりになるよ」
【茜子】
「半分嘘です」
嘘つきの天敵だった。
【智】
「……自分でも焦ってると思う。上手く考えがまとまらない。
何故かな。父さんのことか、惠が何か隠してるからか……
整理できないけど」
【茜子】
「……参っていますね」
おまけに夢見も最悪だった。
【智】
「あと、きっと今日惠は動くと思う」
【茜子】
「茜子さんには意味不明です」
【智】
「勘……だよ。結構いい方なんだ。そんな気がする」
【茜子】
「………………」
【智】
「なぜに死んだ魚の目」
【茜子】
「かなり参ってますね。変態超人ブルマリアンの勘とかいわれると、魔神皇帝エロペラーに純愛語られるぐらいショック」
【智】
「同じにされる僕の方がショックだ」
【茜子】
「とにかく、わからないことを考えるのは時間の無駄無駄無駄です。そんなヒマがあったら茜子さんフルアクションフィギュアでも作ってください。1/10スケールで」
いつもの茜子の妄言がどこか心地よい。
わからないことは考えるな。
その通りだ。
言われなければわからなくなっていた。
すっかりまいっているらしい。
【智】
「…………茜子ってさ」
【茜子】
「はい」
【智】
「優しいかも」
【茜子】
「ビッチ」
屋敷の近辺に潜んで動きを見張る。
今日の所は外から。
惠の普段の行動を探る。
【茜子】
「普段、あの男装女は何をしているんでしょう」
【智】
「たいして気にしたことなかったし。聞いてもはぐらかされる
ばかりだったから」
たくさんの嘘。
嘘をつくのは僕も同じだ。
惠を、他の仲間たちを、
今も騙し続けている。
その僕が惠を責めるのか?
お門違いだ。
言いたくても言えない嘘だってあるというのに。
それでも――――
僕は、群れを、守らないと。
【智】
「放課後の時間には、僕らと溜まり場にいたりするから。何か
やっているとすると……」
【茜子】
「昼間か深夜」
【智】
「惠だ!」
【茜子】
「ぎゃわ」
厳めしい門を薄く開いて。
惠が現れる。
季節外れの黒いコートをまとっている。
人気の無い郊外に下りた、黒い影だ。
【智】
「見つからなかったね」
【茜子】
「……離してください」
茜子の手を引いていた。
とっさに危険な行動をしていた。
【智】
「あ、ご……ごめん」
【茜子】
「いきなり腕を引っ張られたら、横隔膜が飛びます」
【智】
「すごいね、横隔膜」
【茜子】
「追いましょう」
ひと雨きそうな空。
惠の後を猟犬のように追跡する。
【茜子】
「学園で勉学にいそしむ、という感じはありません」
【智】
「茜子は、惠を信じてる?」
【智】
「僕は信じてる。最初に会ったときよりも、ずっといい仲間に
なれた。僕らの七人目。だから……」
【茜子】
「人間というのは、とても脆いです」
【茜子】
「心も体もすごく脆い」
【茜子】
「信じていても、相手を裏切れます」
【茜子】
「誰も悪くなくても、裏切られることがあります」
【智】
「呪われた、世界……だもの」
【茜子】
「…………」
【茜子】
「やっつけると、誰かがいいました」
【智】
「…………」
【茜子】
「私は、惠さんのこと、嫌いではないです」
混乱。
わからないことが多すぎて。
謎が解ければ迷うことはなくなるんだろうか。
そうはいかない。
名探偵が事件を解き明かすようには、
きっと世界は解きほぐせない。
聖と俗が、見方の問題に過ぎないように。
それでも。
知らなければ。
知らないまま流されて、壁にぶつかって、
傷つく身体と傷つく心を抱えて嘆くより――
やっつけるために。
自分から選ぶためには、知らなくちゃいけない。
正しいことは、いつも厳しい。
それでも。
【智】
「茜子、お願いがひとつ」
【茜子】
「ホワイ」
【智】
「グーで」
自分の顔にパンチを入れる真似をする。
凄く変な顔をされた。
【智】
「ぜひとも気合いを入れて」
茜子パンチ希望。
【茜子】
「アホです」
【智】
「色んな意味でそう思う」
【茜子】
「……筋肉巨乳かエロス魔神に頼め」
【智】
「茜子にやってほしい」
【茜子】
「マゾソステック」
【智】
「たぶん全部間違ってる」
【茜子】
「本当にやる?」
【智】
「早くしないと見失う」
【茜子】
「ぐーぅ」
動物みたいに唸って、
【茜子】
「死ね、ゾウリムシ」
パンチ。
手袋越しの一撃が、
淀んだ頭を晴らしてくれた。
【茜子】
「これで呪い踏んだら、茜子さん、絶対にあなたを道連れにします。二度と手を離しません」
【智】
「いく」
気合いが入る。
やらなくちゃ。
僕らは群れだ。
一人の間違いが群れ全体を左右する。
だから余計に、
少しでも、ほんの少しでも、
僕らにとって正しい道を選ばなければ。
繁華街。
惠の目的地はホテルだった。
ラブとかファッションとかはつかない。
遅れて追いかける。
一階のロビーは閑散としている。
ホテル特有の、肌寒い静けさが突き刺さる。
惠はどこ?
姿はなかったが、エレベーターが動いている。
ランプが上へと昇っていく。
おそらくは惠が乗っている。
【ホテルマン】
「お客様」
ホテルのひとに止められた。
顔つきに訝しむ様子がある。
失敗を悟った。
キョロキョロと挙動不審で。
フロントに来た学園生二人。
それも普通なら学業にいそしんでいる時間。
【茜子】
「おい、ボク女。あれを追うのです」
【智】
「でも、ホテルのひとは」
【茜子】
「茜子さんにお任せを」
つかつかつかと、
自信に溢れた足取りで近付く。
あまりの堂々っぷりに、
百戦錬磨のフロントの疑念が緩む。
【茜子】
「今日こちらで第7回地獄猫学園生委員会が開催される予定と
伺いましたので、フロアご存じですか」
【ホテルマン】
「あ、は……はい、あと、そのようなイベントは本日の予約には……」
【茜子】
「ご存じない? ではお教えいたしましょう」
【ホテルマン】
「あの、お客様……」
【茜子】
「そもそもジゴクネという古代インドの食べ物に端を発する……」
茜子が煙にまいてる間に。
階段を駆け上がる。
3階昇ってエレベーターを確認した。
ランプはさらに上昇する。
もっと上だ。
惠。
こんな所でいったい何をしてるんだ?
さらに駆け上がる。
踊り場に差し掛かった。
チンという電子音。
この上のフロアにエレベーターが開いた。
この上――――。
急ぎかけて歩調を緩める。
焦っても気づかれてしまうだけか。
足音を忍ばせるまでもなく、
ホテルのカーペットは音を吸う。
それでもそっと歩く。
廊下。
惠はどこに……。
いた!
階段の入口から廊下をのぞき込む。
奥から二番目の部屋の前に惠の背中があった。
ノックしている。
誰かに会いに来たってことか。
誰と? なんのために?
【智】
「あ――」
慌てて自分の口を塞いだ。
部屋から出てきたのは見覚えのある人物だ。
三宅さん。
惠の家まで一緒した……。
というよりも、半ば一緒された人。
記者、と名乗っていた。
【三宅】
「おまえ……」
【惠】
「色々と話を聞かせてもらいたくて」
【三宅】
「どうしてここが……」
【惠】
「蛇の道は蛇、というやつじゃないかな?」
この位置からは声は聞こえない。
二人は小声で二、三言葉を交わす。
三宅さんと惠は、
この間会ったとき、初対面だった。
なら、どうして惠がここに?
あの後、惠はずっと僕らと一緒していた。
三宅さんと交流を深めるような時間はなかった。
二人は知り合いだったのか? 以前から?
【惠】
「しかし――」
不意打ちだった。
惠が三宅さんの胸を手で突いた。
よろめいた先は部屋の中。
惠が押し入る。
【智】
「ちょ……」
【智】
「惠、何をしてるんだ」
待つしかなかった。
しばらくの時間。
時間にして、ほんの五分足らず。
惠が出てきた。一人だ。
三宅さんは?
惠はくるりときびすを返す。
慌てて踊り場に首を引っ込めた。
セーフ。
【惠】
「…………」
惠は非常階段に向かった。
緑のランプが示すドアを開いて、
ホテルの側面に設置されている螺旋階段に滑り込む。
非常階段?
エレベーターもあるのに。
不吉な予感がする。
非常階段を使ったのは、
フロントに見とがめられたくないから……だとすれば?
惠を追いかけようとして後ろ髪を引かれた。
三宅さん。
あの部屋で、惠は何をしてた?
逡巡。
部屋を覗いてみることにした。
惠には屋敷でも会える。
最悪、そこで問い詰めることも出来る。
不安が消えない。
惠が何をしていたのか?
ドアノブに、手を伸ばす。
慎重に。
回った。
(鍵がかかっていない――?)
どうして鍵がかかっていないんだ?
薄く扉を開けて、
隙間からのぞき込んだ。
意識が白くなる。
見たものが理解できない。
横たわっている。
それは明らかに物体だ。
生命ではなく、ただの物体。
呼吸を、していない。
駆け寄るまでもなくわかる。
死んでいる。
どうして――
1足す1は2だ。
Q:部屋に二人の人間が入り、一人が出てきて、
もう一人は死体になりました。殺したのは誰?
A:出て行ったもう一人
――――どうして、だって?
【茜子】
「どうしました。どうかしたんですか」
【智】
「茜子、あか――」
目の前に茜子の顔がある。
いつの間にここへ。
部屋の前の廊下で立ち尽くしていた。
意識が寸断されている。
じっと見つめられる。
いけない。
読まれる。隠さないと。焦って。
こんな事件、茜子に知られちゃ――
惠が、人を殺しただなんて。
惠と茜子。
あんなにもうち解けた、奇妙なコンビ。
なのに。
【智】
「なんでも、ない……惠に逃げられて……」
【茜子】
「隠しごとをしています」
【智】
「そ、それは……」
【茜子】
「どこですか」
茜子の『力』。
心を盗み取る。
【茜子】
「中。そうなんですね」
【茜子】
「どうして何もいわないんです。惠さんが――」
何かを察した。
【茜子】
「惠さんに何かあったんですか」
ドアの隙間から中を見る。
部屋には入れない。
不要な証拠を残してしまうから。
事実を認めると、血の上った頭が冷えてきた。
ドアノブをハンカチで拭って指紋を消す。
【茜子】
「これを彼女が……」
三宅さんは部屋の中央に倒れている。
胸をひと突きにされていた。
凶器はない。
【智】
「決まったわけじゃない。
ただ、何かで関係あるのは、そうなんだろうと思う」
【茜子】
「誤魔化しはいいです」
茜子には、そんな、嘘は通用しない。
優しさを装った誤魔化しは。
真実から遠ざける欺瞞は。
茜子は正しさを見つけ出す。
正しさはいつも残酷だ。
【智】
「惠が、やったんだと思う」
茜子が黙り込む。
小さく脆い陶器の人形のようだ。
こんなにも弱々しい茜子を見たことがない。
【智】
「ここを離れよう」
【茜子】
「…………」
言葉もない茜子の手を引いて。
惠と同じ非常階段を使って、僕らは外に出た。
街には雨が降り出していた。
〔八つ星相打つ〕
自分の部屋に篭もっている。
最小のテリトリーが心身を保護していた。
テレビのチャンネルをせわしなく変えて、
ニュースからニュースへと渡り歩く。
後ろで茜子が、わざわざ買ってきた新聞をめくった。
【茜子】
「載っていません」
【智】
「テレビも相変わらずだよ」
せめてほとぼりが冷めるまで。
そう思ってあれから家に篭もった。
下手に警察に捕まって拘留でもされたら。
僕も、茜子も、呪いを踏む。
【智】
「どうしてニュースになっていないんだろう?」
【茜子】
「犯人逮捕の為に警察が報道を規制して、掴んだ情報を伏せている、というのが妥当な線ですが」
【智】
「事件そのものが発表されないっておかしいよ」
篭もっていた理由は他にもあった。
どうしても惠の真意が掴めなかったからだ。
――――何故、殺した?
人を殺すだけの理由は山ほど思いつく。
怨恨。嫉妬。衝動。同情。
前世の因縁でも人は人を殺せる。
それと惠を一本の線で繋ぐことが難しい。
【智】
「茜子。やっぱり、惠に直接会って話をするしかない」
【茜子】
「でしょうね。最初からそうすべきだったと思います。でも、私は彼女に会うのが怖い」
血の色を思い出す。
ホテルのカーペットを浸した赤と、
切り裂かれた傷口の色。
惠。
【智】
「僕も怖いよ」
垣間見ただけなのに目蓋にこびりついてしまった。
記者の死に顔が頭をかすめる。
携帯を持つ手が震えた。
【智】
「…………」
【茜子】
「…………」
ボタンに指を乗せたまま、
1コールごとに切ってしまいたくなる自分を抑える。
指は少しずつ重くなる。
視線は茜子を見つめていた。
見つめ返す茜子は、
僕の怯えを見るだけで理解してくれている。
二人で支え合っても重過ぎる時間だった。
…………。
堪えきれなくなって指先が震えだす。
見計らったようにコール音が途切れる。
【惠】
『……もしもし』
【智】
「惠、話したいことがあるんだ」
昼なお暗い。
しばしば薄暗い森に使われた形容が、
この道にはしっくりと来る。
人工物の投げかける直線的な陰の下。
寂れた道に二人が対峙していた。
一人は惠だ。
謎めいたアルカイックスマイルといつもの詰め襟。
もう一人は、黒かった。
黒いコート、つば広の帽子。
漆黒の色は蝙蝠の羽根を連想させる。
見覚えがあった。
尹央輝。
あのパルクールレースの時に、勝負した相手。
【惠】
「君の話はわからないな。フィクションとしては面白いけれどね」
【央輝】
「とぼけるのもいい加減にしろッ! 記者殺しのことも知ってるぞ!」
言い争う。
惠がゆっくりと目を細める。
【智】
「…………」
【茜子】
「もう少し近ければ、二人の考えていることが視(み)えるのですが」
【智】
「今は下手に近寄らないほうがいいよ」
もう一度、壁に背中を貼り付ける。
幸いあたりは静かだ。
声だけは聞き取ることができる。
【惠】
「殺し、なんて穏やかじゃないね」
【央輝】
「オマエ、そんないい加減な嘘で、誤魔化せるとでも思ってるのか……?」
【央輝】
「見えないところで何をしてるかは知らないが、近頃のオマエは
やり過ぎだ! あたしたちの顔に泥を塗って、このまま済むと
――――」
惠を高架下の溜まり場に呼び出した。
遅れてきた僕らが声をかけるほんの一歩手前で、
尹央輝は現れた。
央輝の目的は惠だった。
戸惑ってるうちに二人は言い争いを始めた。
【惠】
「用が済んだなら、そろそろ帰ってくれないか」
【央輝】
「どうしても、あたしを怒らせたいみたいだな」
【惠】
「そう取ってくれても構わない」
【央輝】
「…………」
風を切る音が走る。
刃物を振るうような蹴りが、
惠に襲い掛かる。
【央輝】
「オマエは始末してもいいことになってる」
【惠】
「できることならそうして欲しい」
距離を取った惠を央輝が睨みつける。
いきなり争いがはじまっている。
どうすればいいのか。
そもそもどちらに味方すればいいのか?
仲裁など可能なのか?
【央輝】
「オマエ、呪い持ちだろう?」
【惠】
「……よく調べてるじゃないか」
【央輝】
「あたしもそうだよ」
【惠】
「なに!?」
意外な言葉に一瞬、
惠が戸惑いを見せた。
その隙に、央輝はポケットから取り出した
ライターに火をつける。
【央輝】
「見ろ」
遠くから見ていた僕らさえ、
異様な圧迫感を感じて身を引いた。
パルクールレースの時に味わったものと同じだ。
あれよりもずっと強い。
遊びがない。
あたしもそうだよ――――。
央輝が呪い持ちなら、これは彼女の『才能』だ。
どういった『力』なのかはわからないが。
【惠】
「それが君の『力』か……!」
【央輝】
「そうだ。オマエは危険だからな。この際だ、始末させてもらう!」
【惠】
「く……ッ」
コートの裾を翻し、
影法師が間合いを詰める。
央輝の得体の知れない『力』に縛られながら、
惠は華麗な体捌きを見せた。
勢いに任せて襲う央輝の粗野な一撃一撃は、
ことごとく惠に届かなかった。
【央輝】
「クソッ! なんでそんなに動ける!」
【惠】
「奪ってきた命の数のせいじゃないかな?」
【央輝】
「んッ!」
惠の蹴りが地面をかすめて、
央輝の足元に飛ぶ。
さらに惠は、飛び退る央輝の顔目掛けて、
身を翻しざまの蹴りを送り込む。
円弧を描いた爪先は、
央輝の帽子だけを跳ね飛ばしていた。
【央輝】
「あっ!?」
鍔広の帽子からこぼれた髪がふわりと舞った。
斜めに差し込む光が、央輝を照らす。
【央輝】
「ひ、光が……!!」
どこかでガラスの割れる音が鳴り響く。
何かに影を掴まれたような、
ゾクリとした悪寒が背筋を走る。
【智】
「……呪いだ!」
【茜子】
「…………」
記憶野を刺激する冷たい感覚。
この世のものでない何かが動き出す。
今の音がその予兆か。
央輝が『呪い』を踏んだ。
おそらくは――『光』の呪い。
「光を浴びてはならない」――――。
央輝はその呪いを踏んでしまった。
僕の時とは、はっきりと違う気配。
恐ろしい何かが空気を震わせる。
【惠】
「なるほど、それが君の呪いというわけか」
【央輝】
「の、呪いが……! 呪いが……!!」
虚空を見つめて震えだす央輝。
惠は踵を返す。
【央輝】
「ちくしょう……貴様! こんな……っ」
【智】
「惠! 央輝!!」
予想外の決着に、物陰から飛び出した。
【惠】
「…………」
走り去ろうとした背中が立ち止まる。
【智】
「ど……どうして三宅さんを!」
【惠】
「…………!?」
【惠】
「智、君はどうしてそれを……」
【智】
「見てたんだ……あのホテルで……だから」
【惠】
「ばかな……そんなことは一度もなかったのに。いや、稀少には
ありえるのか……」
【智】
「惠っ!」
【茜子】
「――――つ」
【惠】
「………………」
一瞬、肩越しに振り返った惠と目が合った。
いつもと変わらない寂しげな眼差しが、
かえって胸に苦しい。
惠はそのまま去ってしまった。
【茜子】
「あちらも取り込み中です」
【智】
「……っ、くそっ!」
【智】
「央輝! 尹央輝! 覚えてるか! 僕だ、智だ。
僕の言ってることがわかるかい、大丈夫!?」
肩をつかんで揺する。
【央輝】
「死ぬ……! 死ぬ……! か、影が来る! 影が……!
うわぁぁぁ……ッ!!」
【智】
「しっかりして! 落ち着くんだ」
ビリビリと空気が震えている。
違う。空気が振動してるわけじゃない。
何かもっと、世界にかけられた薄い膜のようなものが
僅かにズレてしまった様な……。
【茜子】
「息が気持ち悪いです。何かが起こってる……」
【央輝】
「か、影が……!」
【智】
「央輝!? しっかりして! 影が見えるの!?」
【央輝】
「オマエらには見えないのか!!?」
大声に驚いて視線の先を追う。
そこには道の只中、
黒い陽炎のようにゆらめく不自然な影が佇立していた。
【智】
「えッ!?」
【茜子】
「あれが……!」
ゆらめく影の群雲。
瞬きするたびに近づいているように見える。
病的に痩せた人間のような手足に、歪な髑髏が乗っている。
間違いない。
これが呪いの執行者――『ノロイ』だ。
央輝の『力』が与えた不安感など、ものの数にも入らない。
内臓に鉛を入れられたような、重い恐怖感が大気ごと
圧し掛かってくる。
殺される――
生物の根源的な本能がそう告げていた。
【央輝】
「ク、クソ……ッ! 殺されてたまるか……ッ!!」
【智】
「央輝!」
央輝が懐からナイフを投げつける。
『ノロイ』目掛けて投げつけたはずの刃は、
最初から違う方向を狙ったみたいに道を逸れる。
高架のコンクリートを削って金属音を響かせた。
【央輝】
「クソ……、クソ……ッ!!」
【茜子】
「ここに居ては危ないです。でも、焦るのはもっと危ない」
【央輝】
「うるさい!!」
戦える相手ではないと判断した央輝は、
コートを翻して振り返り、そのまま凍りついた。
【央輝】
「…………クソ…………ッ!!」
【智】
「後ろにも!」
そこには寸分違わぬ姿で『ノロイ』が立っていた。
網膜に焼きついた光の残像のように。
事実そうなのかもしれない。
だが単なる網膜の残像であったとしても、
そいつは僕たちを容易く殺す力を秘めている。
理屈じゃなく、この体の震えがそうだと教えてくれる。
【央輝】
「こんなところで殺されてたまるかッ!」
前も後ろも塞がれた。
そう判断した央輝はフェンスをよじ登り始める。
そうか、なりふり構ってる場合じゃない。
川向こうに『ノロイ』の影はなかった。
この川を強引にでも渡れば逃げ切れるかも……しれない!
【智】
「茜子! 僕たちも川の方へ逃げよう!」
【茜子】
「川の中に入るつもりですか!?」
【智】
「そうだよ! 今はなりふり構っていられない!」
央輝はとうにフェンスの上にまで辿りついた。
『ノロイ』との距離を見ながら、
逃げる先を判断しようとしていた。
幸いまだ距離がある。
実際『ノロイ』は、その場でただ僕たちを見ているだけにも見える。
フェンスに片足をかけながら、茜子に手を伸ばす。
【智】
「茜子! 手を!」
【茜子】
「で、でも」
【智】
「大丈夫、手袋越しだよ! 僕が引き上げてあげるから!」
茜子は手を取ってくれない。
怯えていた。
人に触れることに条件反射的な恐怖がある。
呪いのせいだ。
だがそんなことを言っていられない。
茜子の力と体格では、
フェンスを登るのには時間がかかる。
【央輝】
「あたしは先に逃げるぞ……! 悪く思うな」
央輝は見捨てて逃げようとする。
その判断は正しい。
命の選択。
全滅するよりも、一人でも生き延びた方が、
数の理屈の上では勝っている。
【智】
「茜子っ!」
【茜子】
「だめです!」
【智】
「そんなこと言ってる場合じゃないんだ、手を!」
【央輝】
「……バカがっ」
央輝にわずかな躊躇があった。
僕らを見捨てることを?
どうして――らしくない。
【茜子】
「落ち着いてください! ちゃんと、見て!!」
【智】
「落ち着いてる余裕なんて……!!」
見て?
この状況下で思考がまともにまわるはずもない。
反射的に、茜子の指す方向に顔を向けた。
【智】
「ひ……っ!!!」
今までどうして見えなかったのか。
これから飛び込もうとしていた川面――――。
何かが水草のように揺れていた。
無数の黒い手。
【智】
「うわあぁぁぁあぁぁ……ッ!」
【央輝】
「おい! どうしたんだ!?」
【茜子】
「川に入ってはダメです! もう一度よく見てください!」
【智】
「いぇ……央輝、とにかくこっちへ!!」
【央輝】
「オマエ、何するんだ!? お、落ちる……!」
強引に体重をかけて、央輝を引き摺り下ろした。
フェンスの上から落ちてきた央輝が、まともに僕にぶつかる。
【央輝】
「うわッ!」
【智】
「あっ!」
僕らはもつれながら高架下の道路に転がった。
【智】
「いたたたた……」
【央輝】
「何するんだオマエ! …………オマエ、あたしより胸ないな」
【智】
「な、なななな! そんなことより今は『ノロイ』だよ!」
【央輝】
「そうだった!」
関係ないところでびっくりしながらも跳ね起きた。
【智】
「『ノロイ』は!?」
【茜子】
「消えていきます」
【央輝】
「な……なんだよアレ……おい……!」
前後の道を塞いでいた影はすでになく、
川面の腕はゆっくりと水の中に
消えていくところだった。
ゆらゆらと揺れる不気味な腕は次第に沈み始め、
最後には消しゴムをかけられたみたいに
細くなって薄れて、そして消えた。
【央輝】
「…………」
【茜子】
「消えましたね」
【智】
「……うん」
【央輝】
「助かった……みたいだな。いや、助けられた」
【智】
「お礼は貰っとく。でもお礼以上のものも貰うことになるとは思う」
央輝の目がきっ、と鋭さを増した。
怒りを買うことは承知の上だ。
【智】
「でも、尹央輝、君とは変な縁があるね」
【央輝】
「旧交を温めようってか。ふん。そんなことをやってる暇が
あるのか」
【智】
「なくても聞いてもらわなくちゃね」
【央輝】
「どういう意味だ、なにが言いたい」
【茜子】
「私たちはあなたと同じ呪いを負っています」
【央輝】
「オマエらが……?」
【智】
「僕たちは今、呪いを解く方法を探してる。実は僕も呪いを
踏んだんだ」
【智】
「まだ『ノロイ』に襲われたことはないけどね」
【央輝】
「信じられんが……そんな嘘をつくバカには見えないな」
【茜子】
「痣を見せるのが早いでしょう」
【智】
「うん、見て」
袖を捲り上げて痣を見せる。
央輝は妙に納得した様子で深く頷いた。
【央輝】
「やはり、あの時のは見間違いじゃなかったんだな」
【茜子】
「見間違い、ですか?」
【央輝】
「あのパルクールレースの時、あたしは偶然オマエの痣を見た。
見間違いに違いないと思ったよ。だが、一瞬の躊躇であたしは
負けた」
【智】
「そっか。あの時、央輝が手を緩めたのは……」
【央輝】
「同類がいるらしいことは知ってたが、まさかお前がそうだとは思わなかった。あの筋肉ゴリラも、呪い持ちだと思えば腑に落ちる」
【央輝】
「正直、まさかとも思った。同じ場所に3人も4人も呪い持ちが
集まるなんてな。そんな馬鹿げた偶然が、そう簡単にあるはず
がない」
【智】
「じゃあ、いま茜子が無事なのはこの痣のおかげだね」
【央輝】
「ふん……」
不思議な運命のめぐり合わせだ。
運命……。
あまり好きな言葉じゃないけど。
【茜子】
「コート女は一人なのですか?」
【央輝】
「コート女ぁ……!?」
【智】
「ごめんごめん! 茜子に悪気はないから! こういうキャラなの!」
【茜子】
「こういうキャラでーす」
【央輝】
「バカにしてるのか、こいつ……?」
【智】
「こういうキャラなの! わかってあげて! 茜子も自重!」
【茜子】
「OK」
央輝は茜子を殺しそうな目で睨みつけていた。
やがて、ため息。
目から怒りの色が薄れる。
最後には小さく笑った。
【央輝】
「ふん、おかしな奴だな」
【智】
「そだね、かなり。でもとってもいい子だから」
笑い返した。
茜子の唐突な悪ふざけのせいで、
ようやく生きた心地が戻ってきた。
この場は取りあえず、『ノロイ』から逃げ切ったのだろう。
【茜子】
「褒められました。ところでさっきの質問の答は?」
【央輝】
「あたしは一人だ。オマエらは他にも呪いのことを知ってるヤツがいるのか?」
【智】
「央輝、君が最後の一人だよ。呪いを負った人間は全部で8人。
僕らは7人だ」
【智】
「……惠も含めて」
【央輝】
「あいつか……」
【智】
「惠のことは、きっと僕が説得する」
【茜子】
「簡単に行くとは思えませんけどね」
【央輝】
「……説得? 仲違いでもしたか」
【智】
「似たようなものかな。それに、ここから重要なんだけど……8人の呪い持ちが集まれば……」
【智】
「呪いを解くことが出来るらしい」
【央輝】
「なにぃっ!?」
【智】
「詳しいことは後で。でも、呪いを解けば、『ノロイ』に追われることはなくなる。央輝は助かる」
【央輝】
「…………助かる」
希望の光が灯る。
僕らにとって『ノロイ』は絶望だ。
いつか来る逃れられない死。
唐突に、理不尽に訪れる。
【智】
「そのために力を貸して」
僕。
皆元るい。
花城花鶏。
鳴滝こより。
白鞘伊代。
茅場茜子。
尹央輝。
そして、才野原惠。
呪いで繋がった僕ら8人。
予期せぬ形で最後の一人が判明した。
運命的だ。
宿命的だ。
あとは『ラトゥイリの星』の解読ができれば。
呪いが解ける――――。
【智】
「トントン拍子だね」
【央輝】
「どうやらお前、ツキはあるらしいな」
【智】
「悪運の類だと思うけど」
解読は急ぐ必要がある。
当初の予定よりずっと。
襲われていない僕だけならともかく、
央輝が呪いを踏み、現実に『ノロイ』が現れた。
一度は消えたが、あれで終わりかどうか。
これでタイムリミットが切られた。
【智】
「央輝は呪いのこと、どれくらい知ってるの?」
【央輝】
「……どれくらい、と言われても答えられんな」
【智】
「それもそっか。僕たちは仲間の一人が『ラトゥイリの星』
っていう古文書を持ってて、それに……」
【茜子】
「呪いお得情報が載ってます。ただし古いロシア語」
途中から茜子にセリフを奪い取られた。
央輝は記憶を探る。
【央輝】
「そうか、あたしたちの呪いに関して記した本があることは知っていた。『ラトゥイリの星』っていうのはあの時の本だな?」
パルクールレースで賭けられたものの一つだ。
【智】
「そうだよ」
【央輝】
「あれが、そうだったのか……」
【央輝】
「こいつはいい、とんだ笑い話だ! くくくっ」
【央輝】
「お前といい、本といい、あたしの鼻前を、お宝はこれ見よがしに素通りしてたってわけだ」
【央輝】
「いや、お宝だと気がつかなかったあたしの目が、節穴だったか……」
【智】
「僕らも呪いは解きたいし、央輝のことも助けたい。協力して
くれるよね?」
【央輝】
「それで礼以上のものを貰う、か」
【央輝】
「…………協力はする。あたし自身、呪いに狙われてるしな。
ただし」
【茜子】
「ただし?」
【央輝】
「あたしはあたしで呪いの事を調べて、情報だけをオマエらに提供する。定期的に会ってオマエらの情報とあたしの情報を統合するというわけだ」
【央輝】
「それでいいな」
【智】
「ちょっと考えさせてね」
央輝はまだ茜子の能力を知らない。
何か含みがある央輝の提案に思案するふりをしながら、
僕は茜子が央輝の顔を観察する時間を与えた。
【茜子】
「…………」
茜子自身言っていた通り、
茜子の読心は万能じゃない。
それでも。
相手の悪意の有無くらいは判断できる。
央輝の顔に苛立ちが見えるまで沈黙を保った。
茜子なら央輝の顔に悪意を読み取った瞬間、
真っ向からそれを指摘して見せるはず。
【央輝】
「どうなんだ!」
【茜子】
「GJ」
央輝の独自の情報源が何なのか。
なぜ秘密にしなければならないのか。
理由はわからない。
だけど、少なくとも悪意はないようだ。
【智】
「わかった、それでいいよ。これで僕たちは仲間」
【央輝】
「ふん」
僕の差し出した手を軽く叩いて央輝は握手の代わりにした。
〔最後の仲間〕
花鶏の携帯に連絡を取った。
手早く事情を説明する。
【智】
「うん、そう。それで、花鶏の家を……うん、ありがとう。
もう一人、最後の仲間を連れて行くから」
【央輝】
「仲間呼ばわりはするな」
【智】
「同盟、とかの方がいい?」
【茜子】
「そこのコートチビお下げ、お友達と呼ばれてニラニラされるのが趣味らしいぜ」
【智】
「ニラニラわかんない」
【央輝】
「……その女を何とかしろ」
【茜子】
「ちゅぱかぶらー」
【智】
「それは堪忍してください」
【智】
「……それで元々は惠を問いただすつもりで呼び出したのに、ここへ着いたら先に君たちがやり合いはじめた」
【央輝】
「ふん、邪魔したな。
だが、早い者勝ちって言葉がこの国にはあるんだろう」
【智】
「後、さっき惠に記者殺しがどうのって……」
【央輝】
「……聞いてたのか。そうだ、三宅とかいう男だ。才野原のヤツが殺した。おそらく間違いない」
吐き捨てるように。
【央輝】
「その男の絡みで、ヤツは、あたしたちの顔に泥を塗った。
わざわざ、あたしが来たのはそのためだ」
【茜子】
「…………」
【智】
「わかってたんだけど……改めて聞くとショック」
【智】
「ひと一人の命なのに、どうしてそんなに簡単に……」
【央輝】
「一人死んだくらいでそのざまとはな。それでこの先
やってけるのか?」
【智】
「央輝はいつも厳しい……」
【央輝】
「教えといてやるが、あの三宅っていう男は相当なヤツだぞ」
小馬鹿にするように喉をならす。
【智】
「相当……って」
【央輝】
「悪党――あたしと同じ穴のムジナだ」
【智】
「三宅さんが……でも」
【茜子】
「茜子さんも、見ました」
悪意と嘘……と、茜子は言った。
茜子は正しさをえぐり出す。
ということは?
【央輝】
「どこにでもいるゲスだが、人を泣かす腕だけは一人前以上。
腹の底まで腐った男だ」
【央輝】
「アイツが今までやってきたことを、お前の仲間にいちいち教えてやったら、明日から安心して眠れなくなるな」
【智】
「………………」
【央輝】
「悪い奴には見えなかった、か」
【智】
「……一度しか会ったことのないひとを、そこまでは信用は
しないよ」
人を信じれば足下をすくわれる。
人の善意ほどあてにならないものはない。
僕の生き方だった。
それにしても。
三宅さん。
善人ではなかったにしても、
そこまでの悪人には見えなかった。
【央輝】
「見えないから最低のゲスなんだ。お前たちに近付いたのも、
偶然なわけはない」
【央輝】
「ああいった連中はいくらでもいる。弱みにつけ込んで、自分より弱いヤツを食い物にする。骨の髄までしゃぶって離さない」
【央輝】
「ふん。弱いヤツが食い物にされるのは、ゲス相手に限らないがな」
【央輝】
「三宅は呪いのことを感づいていた。一儲けを企んでたってわけだ。人好きのする顔で近付いてきたんじゃないか。えっ?」
その通りだ。
【央輝】
「よかったな。何かやる前にヤツは死んだ」
【智】
「……そんなこと、いわないで欲しい」
【央輝】
「同じ人の命か?」
【央輝】
「アイツは死んでも構わないヤツだった。変な顔するなよ、死んでも構わないクズってのはいる。それとも命には代わりはないか?」
【央輝】
「たとえば、たとえばだ――お前の仲間全部と、ヤツ一人と
比べたらどうだ」
【智】
「比べられるわけないだろ!」
【央輝】
「怒ったか? それが答だ。お前だって並べてどっちかを選べって言われれば、間違いなく仲間を取るだろう。命の値段には差がある」
平等は観念の中にだけある。
現実には、あらゆる意味で平等は存在しない。
【央輝】
「あのゲスが生きてれば、もっと大勢が泣いたさ」
【央輝】
「計算が得意じゃなかったか、オマエは? 死ねば10人、いや、もっとか……これから先泣くヤツがいなくなる。数の理屈だ」
悪人を殺すことは正しいのか、
善人なら殺すことは罪なのか。
いや。
善悪は線引きにすぎない。
これは命の選択だ。
計りえないものを秤にのせる問題だ。
例えば、未来が決まっているとして――――。
そのひとが、将来に多くの人間を死なせるとしたら。
生まれてすぐ、その子を殺せば、
大勢の人間が助かるんだとしたら。
その一人の死で多くの命が救われるとすれば、
その命は死んだ方がよい命とはいえないか?
【智】
「そんなの……」
明日は未踏だ。ありえない仮定だ。
【智】
「命の値段――僕にはわからない」
【智】
「惠にはわかってるのか? 惠は三宅さんを殺した、央輝のことも殺しかけた……」
央輝の言葉に頷く僕がどこかにいる。
悪人なら、多くのひとを苦しめたり
泣かせた人間なら、それが死んだとしたって――
【央輝】
「他にも殺してる、証拠は残してないが」
惠と仲の良かった茜子には聞かせたくない。
けれど、偽りにも意味がない。
茜子の力には、優しい嘘も、暖かい欺瞞も、
虚飾の全てがはぎとられてしまう。
【茜子】
「気にしないでください。茜子さんは平気です」
【智】
「…………」
下手な嘘だ。
泣きそうな茜子の顔をはじめて見た。
僕らの中で、一番呪いに近い、その『力』。
呪いの束縛が触れることを許さない。
与えられた力は心さえも許させない。
真実、正しさ、本当――
嘘のない世界は、いつだって、尖った刃だ。
正しさほど問答無用の武器はない。
【智】
「惠は、どうして三宅さんを? 呪いの秘密に近付こうとしたから? それとも……死んだ方がましなヤツだから?」
【央輝】
「さあな、他人のことなんてわかるか。知りたきゃ、ヤツに
訊くしかない」
【智】
「そうだね」
人と人は繋がらないのだから。
【智】
「央輝……頼みがあるんだ」
【央輝】
「オマエは……あたしに会う度に、くだらん頼み事をする。
その度に面倒なことになる」
【智】
「相性が悪いと思って」
【央輝】
「面の皮の厚い女だ」
男ですが。
【智】
「ひどいこといわれてる」
【茜子】
「茜子さんの○×コーナーは今日も平和です」
央輝に敵意はないと、茜子は判断した。
それなら、今の央輝は信用できる。
【智】
「一緒に来て欲しいんだ。呪いを解くためにも。みんな所へ」
花鶏の家が前線基地化する。
あのレースの時以来だ。
かつて六人がそろった部屋に、
七人目が加わった。
尹央輝。
【茜子】
「チビチビヤンキーが仲間入りです」
【央輝】
「……だからオマエはなんなんだ」
【花鶏】
「これはまた、変なのが混じるじゃない」
【央輝】
「馴れ合うつもりはない。生き延びられる可能性の一番高いところに賭けるだけだ」
央輝が鋭く睨めつける。
るいと違う意味で、
花鶏とは相性が悪そうだ。
世界の天秤の両極端だ。
【伊代】
「こういうのも昨日の敵は今日の友っていうのかしら。あ、
少年漫画っぽいかもしれないわね。でも、現実だとそういう
のって難しいし…………」
【央輝】
「オマエは黙れ」
【伊代】
「……ぅ」
【るい】
「えへへ、なんだか前の時と似てるよね」
【こより】
「鳴滝、今度は逃げたりしませんよぉだ!」
あの時は。
僕らは手を繋いだ。
同盟を結んだ。
【智】
「話さなくちゃいけない事があるんだ……」
惠のこと。央輝が『ノロイ』を踏んだこと。
事情は一通り話した。
【伊代】
「……人……殺し……?」
話だけで伊代が血の気をなくす。
【智】
「ちょっとヘビー級過ぎだよね」
【央輝】
「オマエが図太すぎるんだ」
【こより】
「でも、それって惠センパイがぁ……」
【るい】
「絶対理由が、あるって……」
二人して混乱した。
【花鶏】
「……それで、その狂犬を助けるために、呪いを解くっていいたいわけ?」
【智】
「もちろん、花鶏は」
【花鶏】
「反対よ」
【智】
「……ですよねー」
【智】
「それについては後にしよう」
【智】
「まずは、僕らは知らなくちゃいけない。
今なにが起こっているのか。僕たちがなんなのか」
【智】
「見えなければわからない。わからなければ闇雲に進むしかない」
【智】
「せめて、進む道くらい、成り行きじゃなく、手探りでも自分で
考えて決断したい」
【花鶏】
「まず、前提の誤りが見つかったわ」
【智】
「誤読ってやつ?」
【花鶏】
「この部分、『8なる力を持った』ではなく『8なる力を得るため』と訳すのが正しいのね」
【智】
「それってつまり?」
【花鶏】
「『八つ星』の『力』がどこから来たのか、ということよ」
では、予習と復習をはじめよう――――
むかしむかし。
はじめに8人からはじまった。
彼らは力を欲して契約を結んだ。
人智の及ばぬ何者か、とだ。
彼らは、それぞれが『八つ星』を与えられた。
星は痣になり、それを持つものを区別する。
痣は『力』と『呪い』を持ち主に与える。
以来、『星』は血脈と共に伝えられた。
やはり、『呪い』と『力』は
ひと組の力という解釈が正しかったわけだ。
伊代あたりなら「フェアね」というだろう。
『呪い』――――
与えられた力の代価が呪いだ。
『呪い』が破られた時、
『ノロイ』が現れ、破った者を殺す。
ここからは想像やら推測が入る。
正確には、『ノロイ』は殺すのではなく、
乱された呪いの代償を奪う。
呪いを踏んで生き延びる例もあるのはそのためだ。
小さい頃の僕のように。
わかりやすく言うと、借金取り。
破った者が命を落とすのはあくまでも結果。
『ノロイ』は「何か」を持っていく。
持ち去るものが僕らを死なせる。
幸運、寿命、オーラ、乙女力――――。
何を持っていくのかは想像もつかない。
哲学的なものを持っていくのかも知れない。
すべては契約と代価。
だから『ノロイ』は呪いの徴のある者だけを襲う。
『ノロイ』は一度に、一人しか殺さない。
帳尻が合えば『ノロイ』は消える。
ここに罠がある――――。
『ノロイ』は乱された呪いと釣り合う分だけ、
何かを奪えば消える。
一度に、必要な分だけ。
『ノロイ』は区別しない。
誰でもいいということだ。
自分以外の痣持つ者の誰かを身代わりに差し出せば、
『ノロイ』を消すことができる。
【智】
「……裏切りのルールだ」
ノートを解読して得られた、
忌まわしいルールだった。
【智】
「『ノロイ』が呪い持ちにしか見えないように、『ノロイ』に
見えるのも僕らだけ。だから――」
【花鶏】
「笑えるわね。わたしたちの中で押しつけ合えば、死ぬ人間を
選べるってことよ、これは」
【るい】
「そんなのってないよ!」
るいは純粋だ。
だから、こんなものには耐えられない。
【茜子】
「――裏切りなんて珍しくもないです」
茜子は淡々と。
正しさは、いつだって厳しく鋭い。
【るい】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「…………」
【伊代】
「…………」
【央輝】
「……ちっ」
【智】
「…………」
そうだ。
裏切りなんて珍しくもない。
茜子は父親に裏切られた。
父親の借金のカタにされたこと、
それが僕らの出会いの始まりだった。
世の中は終わりのない椅子取りゲームだ。
安全な椅子は決まっている。
あぶれた者は捧げられて代価に変わる。
世界は裏切りに充ちている。
最初から呪われている。
【智】
「……悔しいな」
【茜子】
「あたりまえだから、悔しくなんてないです」
【智】
「ぼくは、悔しい。本当に、くやしい……。
裏切ることが自分を救う――」
【智】
「どこまでも裏切りがついて回る。
誰もが裏切る。世界さえ裏切る」
【智】
「誰かを裏切って、呪って、陥れる。
信じたときは裏切られるのか。
そんなの、悔しすぎる」
【花鶏】
「ふん」
【央輝】
「結局、お前が一番の甘チャンだ。人一倍利害にうるさい面で、
人の借りまで背負い込んで」
【央輝】
「そういうやつをなんていうか知ってるか、
馬鹿っていうんだ」
【智】
「…………よく言われるよ」
話を続ける――――
長い時が過ぎる。
多くの者が呪いに苦しみ、
呪いを打ち破る方法を求めて歩いた。
たとえば、僕の父のように――
呪いを解く方法。
それは『ラトゥイリの星』に暗喩されていた。
呪いを解くには。
『八つ星』を揃え、
その全員で儀式を執り行うこと。
儀式の手順については、
さらなる解読が待たれる。
手順さえわかれば、
後はそれに従って儀式を行えばいい。
そこで全員が呪いを解くことに賛同すれば、全てが終わる。
【智】
「痣の持ち主は全部で8人……」
【るい】
「私、トモチン、イヨ子、こより」
【茜子】
「茜子さん、セクハラー、帽子チビ、それから」
【こより】
「惠センパイで8人!」
これで、全員。
ここにいない一人を含めた8人で、はじまりから連綿と伝えられた呪いの流れの最後がそろうのか。
【伊代】
「そ、それって、すごい偶然……」
本当に、長い果ての。
最初の8人がはじめてから、
どれだけの時間が流れたんだろう。
どれだけの呪いと痛みが僕らの前にあるだろう。
力を欲した結果としてあった呪い。
最初は代価と呼ばれ、
いつしか呪いになった。
裏と表は区別が付かない。
境界は誰かが引くものだ。
線を引かれれば内と外は区別される。
もともとは何の区別もありはしないのに。
【花鶏】
「でもね、話はまだ続きがあるのよ。8人をそろえて、儀式を解読しても、そう簡単にはいかないって記述があるわ」
【智】
「いやな話をするなあ」
【花鶏】
「意訳すると『呪いを解くことを望まない意思が常に存在する』――――」
呪いを解くことを望まない意思……。
【智】
「どういう意味だろう」
【こより】
「呪いの守護者がどーっと!」
まじめに!?
それはやだなあ。
【智】
「まだまだ前途多難ですね……」
当面は花鶏の家が、僕らのベースキャンプだ。
もっとも、央輝は鼻で笑って街へ去った……。
〔裏切り者の世界〕
「呪いを解いちゃうぞ」同盟(仮称)が発起した。
この同盟の目的は
一日も早くに呪いを打破することだ。
不安要素は多かったが、
目的が定まれば作業ははかどる。
最大の問題点。
儀式の具体的方法を探る解読作業が進行した。
【花鶏】
「余計な気がかりが一つあるわ」
【智】
『なに、気がかりって?』
【花鶏】
「ここしばらく……惠の家から帰った後くらいからだけど――
監視されてるみたい」
【智】
『…………やっぱりそうか。こっちでも、カメラを持ったヤツを
何人かみかけたよ』
【花鶏】
「皆元も尾行されたっていってたし、わたしたち全員を、誰かが
見張ってるのは間違いないわね」
【智】
『なんのために?』
【花鶏】
「そういうのを考えるのはあなたのほうでしょ」
【智】
『…………』
【花鶏】
「一つだけ、央輝のやつ信用できるの?」
【智】
『…………僕は、信じてる』
惠の屋敷から続く、寂れた道を帰る。
途中から降りはじめた雨の下。
今日の空は重苦しい。
【智】
「…………」
央輝との一件以来、
惠は行方を眩ませている。
足を運んだが、
佐知子さんには不在と言われた。
【智】
「本当にいないのかな……」
【茜子】
「お悩みですね。便秘と見ました」
【智】
「ぎゃわっ!」
後ろから傘を差しかけられていた。
茜子だった。
【智】
「僕の心臓をそんなに苛(いじ)めたいの!?」
【茜子】
「男なのにビックリ症で、キモの小さいあなたには飽き飽きです」
【智】
「おおおおお、大声でいわないでーっ」
いじめっ子だった。
【智】
「でも、どうして茜子がこんなところに」
下手になる。
【茜子】
「茜子さん、人捜しのお手伝いをしようと」
【智】
「ここから先は文系には辛い世界です」
【茜子】
「今までだってたくさん引っ張り回したくせに」
【智】
「うっ」
【茜子】
「茜子さんの乙女パウワーがあれば、一発必中で役立つこと間違いアリマセン。べいべー」
【智】
「それはそうだけど……惠は人を殺したんだよ」
【茜子】
「はい」
【智】
「何を考えてるかなんかわからない」
【茜子】
「はい」
【智】
「僕らだって殺されるかもしれないんだし」
【智】
「……危ないことはして欲しくない」
【茜子】
「チビチビコートは一人で出ていかせましたが」
【智】
「絶対に花鶏の家で泊まるのはヤダって譲らないから……まあ、
僕がダメって言っても聞かないし、央輝は強いから」
【茜子】
「ご安心ください。茜子さんは危機が訪れると800ミリ秒で
アカネ・ザ・キャットに変身しますので」
一回見たいかも。
【茜子】
「ネコ耳フェチの脳腐れですね」
【智】
「……読まれたッッ」
【茜子】
「そういうわけですから」
【智】
「だめですから」
【茜子】
「…………」
【智】
「に、にじりよってもだめ! チュパカブラもだめ! 危ないんだから! 怪我したらどうするの! 茜子……お医者さんにだっていけないのに……!!」
【茜子】
「………………っ」
【智】
「ホテルで、三宅さんが死んでたのを覚えてる?
人間、あんなふうになるんだ」
【智】
「息をしてないで、血を流して……
ただのモノになる」
【智】
「あんなふうに……なって欲しくない。
仲間の誰にも、央輝にだって、茜子にも」
【智】
「今度こそ、呪いが解けるかもしれないのに」
【智】
「惠は、三宅さんを殺した。央輝も殺そうとした。
僕らだって殺されるかもしれない」
【智】
「そんなところは、
殺すところも、殺されるところも見たくない……」
【茜子】
「巨乳筋肉とかの手も借りないで、こっそりでてきたのは、
そういう理由ですか」
【智】
「…………」
【茜子】
「借金生活はアホの証明です」
【智】
「アホ言われました」
【智】
「……とりあえず僕なら上手く立ち回れると思うんで」
【茜子】
「アホだけあって大事なことを忘れてますね」
【智】
「はい?」
【茜子】
「私も惠さんのことが心配なんです」
【智】
「……きっと他のみんなも心配してるだろうね」
【茜子】
「私たち、仲間でしたから」
【智】
「同盟」
【茜子】
「ずっと遠い昔みたいな気がします」
【智】
「ほんとに、すっごく昔みたいな気がするな」
【智】
「ほんのちょっと前のことなのに。
ほんのちょっと前まで、僕は一人っきりの嘘つきだったのに」
【茜子】
「嘘つきは今もですね」
【智】
「……呪い、解けると思う?」
【茜子】
「あなたのお父さん、頑張ったんですよね?」
【智】
「そうみたいだね。
実感はないけど、なんとなく覚えてるんだ」
【智】
「小さい頃に呪いを踏んで、
仲の良かった女の子につい男だって教えちゃって」
【智】
「『ノロイ』に襲われたとき、
父さんと母さんが僕を必死に守ってくれた」
【智】
「僕を自由にしたくて、最後まであのノートを残してくれた。
そのおかげで……」
【智】
「自由に、なりたいな。
本当に、どこにでもいけるように」
【智】
「茜子と手を繋いで、
街の中を歩いたって平気になりたい」
【茜子】
「私の両親は、私のことを嫌ってましたので。
よくわからないのですが」
【智】
「…………」
【茜子】
「智さんは幸せだと思います」
【智】
「……そうだね、きっと」
【智】
「みんなは?」
【茜子】
「泊まり込みお勉強会続行中、ロシア語編」
【智】
「僕らも行こう。どこかにいる惠を見つけよう」
【智】
「やっぱり7人よりも8人の方が良い。
惠がやったことが許されないことだとしても、
きっと理由はあると思うから……」
【央輝】
「あたしだ――」
【央輝】
「明日、会える。いつもの場所でいつもの時間に情報交換を」
【央輝】
「まだ才野原は見つからないのか」
【智】
「手分けして捜してるんだけどね」
裏路地に央輝が姿を見せる。
コートをはためかせて、黒い街の夜から
抜け出てきた吸血鬼を連想させる。
【茜子】
「よっ、コスプレイヤーさん」
なぜか央輝にはぞんざいな茜子だ。
【央輝】
「…………っ」
【智】
「央輝の方こそ大丈夫。顔色あんま良くないし、痩せた?
『ノロイ』が追ってくるのはわかるけど、なんとか休んだ方が」
【央輝】
「あたしのことはどうでもいい」
央輝はいらいらと、
愛用のプッシュライターを着火する。
【智】
「僕らと合流した方がよくない? 一人だと消耗するばかりだと
思う」
【央輝】
「あたしの後を『ノロイ』が追ってくるぞ。まだヤツはくる……
くそっ、くそくそっ!」
【智】
「…………一人だとそれこそ」
【央輝】
「忘れるな。これは取引だ。オマエへの借りを返すため、
あたし自身が生き残るための選択だ。馴れ合いを期待するな」
【央輝】
「あたしは狼だ、似ていてもお前らとは違う」
【智】
「央輝」
【央輝】
「それと、これが今回の、こっちの情報」
【央輝】
「この半年に、才野原のヤツが関わったと思われる事件の資料だ」
【智】
「変死……四件も……」
【央輝】
「実際にはもっと多い。ほぼ確実に裏が取れたモノだけだ」
【智】
「全部、惠が……?」
【茜子】
「……っ」
一人じゃなかった。
三宅さんを殺し、
央輝を殺そうとしただけじゃなかった。
他にも、こんなに大勢。
【智】
「どうしてこんなこと!」
【央輝】
「さあな」
【茜子】
「可能性として、快楽殺人者であることも考えられますが」
【智】
「そんなはずは、そんな……っ」
【央輝】
「どんな理由があるにせよ、本人以外はわからん」
【智】
「理由――――」
央輝から手渡された資料に目を通す。
暴力団幹部、詐欺師、
麻薬の売人らしい未成年者、連続強姦魔。
惠が標的にした四人には共通点があった。
犯罪者だ。
それも、法の網をくぐり抜け、警察の手を逃れている者たち。
【智】
「三宅さん……」
悪党だと、央輝は言った。
【智】
「これが……そうなの?」
悪を、惠は殺す。
罪に罰を与えるように、彼らに死の裁きを加える。
生きるべき者と死ぬべき者を。
命を選択する。
【智】
「惠、これが君の理由なの……っ!?」
正義のため――――――――
正義なんて言葉が、
その行為の中にあるとして。
【央輝】
「あと、ヤツの事件には共通点がある」
【央輝】
「どれも目撃者がいない。才野原のヤツは、信じられないくらい完璧に足取りを消してる」
【智】
「事件を起こすなら、それくらい……」
【央輝】
「完璧すぎる。現場はまちまちで、人気も少ない場所を選んでるが、それにしても何件も起こしておきながら、一度も目撃されてないのはおかしい」
【茜子】
「呪いの『力』というのは考えられませんか」
【智】
「それは……ないと思う。僕の部屋に茜子が運んできた怪我の時、惠の傷がみるみる回復してた」
【智】
「『力』っていうなら、あれだろうけど……それは今の話とは
食い違っちゃう」
【茜子】
「…………」
【智】
「それにしても『ノロイ』から逃げながら、どうやって調べたの。この短い間に、これだけのことを調べるのは簡単じゃないはずだ」
【央輝】
「あたしにも手足の二、三本くらいならある。オマエには
わからなくても、こっち側の人間には……」
【央輝】
「……急用が出来た。あたしは行く。次に会うときはまた連絡を
入れる」
【智】
「どこへ?」
【央輝】
「借りがあるが、これは別だ。教える義理はない」
央輝は黒い風を巻いて、路地裏から消えた。
【智】
「央輝……」
茜子が後ろから袖を引いた。
【茜子】
「央輝には、私たちに知られたくないことがあります。情報元の
ことが特に大きい。さっきの電話で動揺しましたから、おそらく、
あれの相手が――」
【智】
「あの央輝が動揺する相手……」
【茜子】
「今ならまだ追いかけられます」
【智】
「…………」
【智】
「確かめて……みよう。たぶん、これから直接会ってるはずだ。
ちゃんと知らなくちゃ。央輝の――僕らの、八人目の仲間の
ことも」
【茜子】
「あの人のことも仲間と呼ぶんですか」
【智】
「まだ仲間じゃないかもしれないけど、これからなればいいじゃ
ないか。同じ呪いを背負った、8人の仲間」
【茜子】
「野良犬八鬼衆」
【智】
「せめて英語で……」
【茜子】
「エイトドッグス」
【智】
「それ、いい感じ」
深夜の街路だった。
人通りのなくなった街並みに、
乗用車が一台停車している。
グレーカラーの高級車だが、
これ見よがしの外車ではなく実用本位だ。
【智】
「央輝と……誰だろう、あれ。知らない相手だ」
【茜子】
「スーツも車も高級品です。社会的な立場も十分ある、相応の人物とみていいと思います」
【智】
「でも、央輝なんだよ? まだマフィアの偉い人とかいう方が――」
思わず声が大きくなった。
【央輝】
「誰だっ!?」
【智】
「―――やば、見つかっちゃった」
【茜子】
「大きい声を出すからです」
逃げるよりも央輝が早い。
【央輝】
「出てこい」
抵抗する愚を悟る。
大人しく出た。
【央輝】
「オマエら……ちっ」
【央輝】
「……尾行けられて見落とすとは、あたしもヤキがまわったな」
【智】
「央輝……あの、これは……」
【央輝】
「オマエには関係のないことだ。さっさと帰れ」
【智】
「――――帰れるわけないだろ! いいからちゃんと説明してよ。それを聞いたら僕だって帰る! この人はだれなの!? 央輝はここで何してるの!」
【央輝】
「黙らないと――――」
殺意が膨らむ。
それが弾ける寸前に、
背広の手が央輝の前を遮った。
【常務/???】
「私が直接話そう」
【央輝】
「常務!?」
【智】
「――――っ」
常務!?
それって……いったい……。
【常務】
「はじめまして、和久津智くん」
落ち着いた、冷静な大人の声がする。
【常務】
「君たちについては詳細な報告を受けている、この尹央輝から」
【智】
「――――っ」
言葉に詰まる。とっさに返事が出てこない。
【常務】
「私自身については重要ではない。必要なら『常務』と呼んで
くれればよい。立場としては、尹央輝の上司にあたる」
【智】
「上司…………なに、それ央輝……?」
【央輝】
「…………」
【常務】
「質問があるなら答えられる範囲で答えよう。時間は少ないが、
君にとって有益であることを祈る」
【智】
「――――あなた――――央輝のなに? いったい、ここで、
なにを……っ」
【常務】
「順番に答えよう」
【常務】
「尹央輝は私の部下であり、義理の娘だ。他国に渡った呪い持ちの血筋の生き残りを研究のために引き取った」
【常務】
「央輝は君らと接触して以降、得た情報を細大もらず報告する任務に従事している。ここでは、今回得た情報の受け渡しと、直接の報告を受けていた」
【央輝】
「…………」
【智】
「――――」
なにを言われているのか、よく理解できない。
【茜子】
「嘘じゃないです」
悲しいほどの確実さで茜子が保証する。
【央輝】
「ちっ。そいつの力……心を読むのか!」
【智】
「………………」
【央輝】
「…………」
央輝を見つめる。
央輝はわずかだけ目を逸らした。
【常務】
「私の目的は情報の蒐集(しゅうしゅう)と記録、そして保存」
【常務】
「我々は、君や君の仲間に手を貸すことも、逆に行動を阻害
することもない。その点については安心してもらってもよい。
我々は情報を収集し、結末までを記録する。そして忘れ去る」
【智】
「………………」
【常務】
「そろそろ時間だな。さよなら、和久津くん。結末にかかわらず
二度と会うことはないだろうが」
【常務】
「央輝。引き続き任務に従事を」
【央輝】
「……はい、常務」
常務と名乗った人は、
僕を一瞥もせず車に乗り込んだ。
最初から最後まで、
まともに見ようともしなかった。
路傍の石を眺めるような無関心。
それに、ひどく傷ついている自分がいた。
車が他人事のそっけなさで走り去る。
立ち尽くす。
次にすることを思いつかない。
【智】
「…………どういうこと」
絞り出すように、ようやくそれだけ。
【央輝】
「今の話を聞いてなかったか」
【智】
「央輝の口からちゃんと聞きたい」
【央輝】
「……オマエの知らない世の中にはな、あたしやオマエみたいな呪い持ちや、呪いのカラクリが大事な価値を持つ世界もあるってことだ」
【智】
「…………」
監視されていた――
花鶏の言葉を思い出す。
【央輝】
「本当に、まだわからないのか?」
【茜子】
「私たちの情報を渡したんですね」
【智】
「じゃあ……僕らを騙して、近付いたのか」
【央輝】
「……あたしは最初からあっち側だ」
【智】
「……あっち……?」
【央輝】
「『円窓』の人間だ」
【央輝】
「『円窓』……聞いたことないか? まあ、なくて当然だが。
バカでかいシステムだ。どれくらい大きいのか、下っ端の
あたしくらいじゃ想像もできないくらい……そういう連中だ」
【央輝】
「連中が何をやってるかって? さあな。笑うなよ、真面目な話だ。世の中ってやつと同じさ」
【央輝】
「でかすぎて全体がどうなってるのか、中にいるヤツにもわからない。きちんとわかっているヤツが一人でもいるのかどうかさえ、わかりゃしない」
【央輝】
「機械と同じだ。仕組みだ。よくわからなくても動く。あたし
みたいな歯車は大勢いて、時々妙なことに首を突っ込んでくる」
漠然とした大きなものの影を見る。
自分が、酷くちっぽけになったように錯覚する。
どんな規模のテリトリーであれ、
内側を作れば外側ができあがる。
手にした領土が楽園と荒野を線引きする。
人は元来大きすぎるものを理解し難い。
だから線を引く。
多層な、幾つもの線で、
自分の世界を切り取る。
外部は不快だ。
機能的にも、人はすべてを
理解することはできないから。
忘れる方が効率がいい。
だけど……忘れることは消え去ることとは違う。
見えなくても、ある。
触れ合えば侵害される。
【智】
「…………僕らのことも教えたの?」
いつのまにか自分たちを取り囲んでいた黒いものに、
飲み込まれていく姿を幻視した。
【央輝】
「あたしが全部報告した。お前たちが呪い持ちだって知ってから」
【智】
「自分だって同じ呪い持ちのくせにっ!?
同じ仲間を裏切ったの!?」
呪いの痣の絆。
それなのに。
他人に知られれば。
呪いの束縛が誰かに知れれば命だって危うい。
それなのに――――。
【央輝】
「だからどうした」
央輝が口の端をついっと持ち上げる。
ナイフの切れ目のような、
濁った大人に似た笑い。
【央輝】
「『大人』の世界へようこそ、和久津智。
ここが、そうだ」
【央輝】
「あたしは強い方につく。生き残るために最善を選ぶ。
言ったはずだ。 あたしを裏切り者と呼びたいなら呼べ。
胸を張って、あたしはお前たちを裏切る」
【央輝】
「正しいだの間違ってるだのはな、なにもしなくても
腹一杯メシが食える、幸せなヤツの戯れ言だ」
【央輝】
「世の中を突き詰めれば、
強いヤツが正しいって決まってるんだ」
【智】
「………………だから、裏切ったの?」
【央輝】
「ホテルの事件が表沙汰にならないのも、連中が手を回したからだ。それもこれも、呪いのシステムと成り行きを記録するためだ」
監視されて。
実験動物みたいに。
都合のわるいことは消されてしまって。
三宅さんの事件のように。
【央輝】
「あたしらが、少しばかり、並の連中よりも大きな力を持っている
としても、もっと大きなモノは幾らもある」
やっとわかった。
どうして、あの常務という男が、
あんなにもあっさりと僕の質問に答えたのか。
どうでもいいから、だ。
独り言と等価の対話。
僕には塵芥ほどの意味もない。
【智】
「…………」
曖昧なものが僕の周りを包んでいた。
【央輝】
「冷たい雨に打たれながら眠ったことは? 三日ぶりの晩飯代わりに大きなネズミをかじったことは?」
【央輝】
「水の代わりに泥を啜って這い回ったことは? 一枚の硬貨のために血塗れになって争ったことは?」
【央輝】
「オマエの言うとおりだよ。この世界は呪われてる、
最初から最後まで一部の隙なく呪われてるんだ」
【央輝】
「だから、あたしは強い方につく。
それが、生き残るための、あたしの正義だ」
【央輝】
「他の誰を犠牲にしても、
あたし一人が生き残っていくためにだ」
考えるより先に手が動いた。
央輝の頬をひっぱたいた。
手のひらが痛かった。
【智】
「………………」
【央輝】
「ふん、つまらん終わり方だな」
〔触れ合う僕ら〕
どこを通って帰ったのか自分でも
よく覚えていない。
央輝と別れた後だ。
気がつくと自分の部屋だった。
ベッドの上に座っていた。
力が抜けている。
今は、みんなと合流できない。
こんな顔を見せられない。
灯りを落とした部屋で。
電気を入れる気にならない。
色々なことがショックだった。
【智】
「…………」
砂を噛んだような、ざらつきが口の中に残っている。
【茜子】
「裏切られるのは辛いですか」
部屋の隅に茜子がいてくれた。
【智】
「生まれてはじめてだった」
【茜子】
「裏切られたのが?」
【智】
「女の子の顔をひっぱたいたのが……」
【茜子】
「むう」
【智】
「すごく、胸が痛い。
これって裏切られたからかな」
【智】
「他人なんて信用できない。
人の心なんて何があっても不思議じゃない……」
【智】
「いつもそんなこといってるくせに、
すごく惨めだな……」
【茜子】
「そんなに信じてましたか、ツリ眼ブラックのこと」
【智】
「信じる程長く付き合ったわけでもないけど」
【智】
「いいヤツじゃないし、悪いヤツに決まってるし、口も悪いし、
気性も荒いし、すぐ刃物出すし……」
でも、どこかで通じ合ってる気がした。
錯覚だ。
人と人は繋がらない。
他人の心がわかるはずもない。
【智】
「最初から央輝の事、嫌いじゃなかった」
【智】
「変なやつで、黒いやつで、荒いヤツだった」
【智】
「同じ痣があるんだって、最後の八人目だってわかったとき、
楽しかった」
【智】
「同じ痛みを知っているんだから、
きっと信じられるって…………
間違って思いこんだ」
だから、これは罰だ。
信じるという愚かさへの代価。
わかりあえない孤独の呪いを踏んだ、
僕には似合いの結末だ。
【智】
「でも――――」
【茜子】
「はい」
一番辛かったものを思い出す。
目。
央輝の上司だと名乗った男の。
濁った笑いを浮かべた央輝の。
同じ色だった。
無価値なものと見下ろした。
いや、見下ろしてさえいなかった。
路傍の石に対するように。
機械的。
素通りする視線だ。
見失う。
曖昧な世界の大きさに。
塵芥と同じ、ほんの一粒でしかない自分のちっぽけさに。
希薄になる。
そこに確かにあったはずのものが。
記録されるのは結末だ。
記録されない過程は存在しないも同然だ。
痛み、苦しみ、孤独、不条理――――
僕らの呪いも。
三宅さんの死も。
そんなものに価値はないのだと。
当たり前の結論だった。
他人の痛みも、苦しみも、理解はできない。
わからないものに値札はつかない。
それは者ではなく物(モノ)。
モノを傷つけても心は痛まない。
自分が他人にとって無価値であること。
他者にとって無意味であること。
【智】
「………………」
言葉にはしなかった。
出来なかったから。
抉られた痛みに苛(さいな)まれる。
なぜ。
理解しがたかった。
結論は当然で、反論の余地がない。
当たり前のことが、
どうしてこんなに腹立たしいのか。
自分が何に憤っているのか、
それさえもわからない。
それさえも茜子は読み取るだろうか。
【茜子】
「あなたは本当に阿呆ですね」
【智】
「……いつも茜子にそんな風に言われてる気がする」
暗い部屋に、気配が動いた。
茜子がベッドの隣にちょこんと座る。
僕の左側。
女の子とベッドで並んで座る。
普通なら何かを期待してもおかしくない。
でも、ここにいるのは僕で、
座ったのは茜子だ。
触れ合うことさえ出来ない僕らの間。
ひと一人分にはちょっと足りない隙間を置いて、
ぎしりとベッドが軋む。
二人分の体重を受け止めたベッド。
【茜子】
「…………」
【智】
「…………」
茜子が黙っている。
僕も黙っている。
茜子が何をしたいのか、
わからなくて。
【茜子】
「……ふ……ん」
かすかな接触。
茜子の指だ。
ベッドについた左手の甲に指先が触れる。
【智】
「茜子……」
【智】
「触るの、怖くないの?」
【茜子】
「…………怖いです」
【茜子】
「…………んっ」
指の腹が手の甲をなぞる。
恐る恐る。
触れ合うことは怖い。
茜子でなくても。
わかりあえない人と人。
だから。
接触すれば傷つけ合う。
侵略し、侵害し、傷を創る。
【茜子】
「ちっちゃい手です」
【智】
「……茜子の方がちっちゃいよ」
【茜子】
「わかりますか?」
大きさの話はしていなかった。
触れているのがわかるかと。
そんな当たり前のことを聞いてくる。
【智】
「わかる……」
手袋越しのツメが僕の指をまさぐる。
ドキリとする。
触れることさえない接触。
拙く繰り返される指の動き。
僕の手の上を、丸く、
たしかめるみたいに繰り返して動く。
【智】
「いるのがわかる」
【茜子】
「でも、触れてないのです。触れたら死んじゃいます。
怖くて、遠くて……」
【茜子】
「これが、私の国、でしたよ」
触れ合って気付く。
たしかな存在。
曖昧ではない、熱と重み。
ひと一人の全存在、
積み重ねた時間を意識する。
愛おしい。
唐突な想い。
突き動かされて、指先を絡めた。
形になる繋がりが欲しくて。
愛撫のように指を這わせる。
【智】
「すごく不思議」
【茜子】
「茜子SF短編劇場」
【智】
「……もう少しロマンが欲しい」
【茜子】
「贅沢は×です」
【茜子】
「……私も不思議な感じがします。他の人のことを感じたいと
思ったことは初めてです」
ツメの形に添って指の腹でなでる。
人差し指から、中指に、
中指から、薬指に、親指。
こんな風に、茜子を確かめたことなんてはじめてだ。
【茜子】
「やっぱり怖いですね」
【智】
「怖くても……」
【茜子】
「……」
他人が怖い。
理解できないものが怖い。
怖い、のに。
僕らは触れ合う。
傷つけ合いながら、
自分以外の誰かを求めて。
それは一瞬の幻影だ。
この呪われた世界では、
吹けば飛ぶような儚く細い繋がりだ。
なのに。
【智】
「もっと、確かめてよい?」
【茜子】
「確かめる?」
【智】
「茜子がここにいるって。
君はロボでもなければ木でもないと思う。
魔女なんて誰が言ったんだ」
【茜子】
「ロボですよ。フルメタル魔女っ子です」
指に触れる。
直に触れたい。痛切に思う。
けれど、それは叶わない。
触れ合えば、死ぬ呪い。
布一枚を挟んだまま、
僕らは互いを確かめ合う。
【茜子】
「みゅ……」
【智】
「な、なに」
【茜子】
「変なので」
【智】
「こ、これ?」
【茜子】
「にゅにゅにゅ……」
指が、少し、深くなる。
絡みあう。
びくっ、と茜子の手が震える。
誰にも許したことのない行為。
一つ間違えれば死に至る。
そんな罠。
【茜子】
「とっても変な感じです」
【智】
「そんなこといわないでほしい……」
【茜子】
「……いやな気分じゃないです」
眩暈するほど甘過ぎる罠。
茜子が解ける。
指先が僕の指を受け入れる。
命を僕に差し出すように。
人差し指と中指が。
互いを求める腕のように。
やせぎすの身体は骨張って尖っている。
茜子の指は小さく儚く細く尖っている。
【茜子】
「…にゃう……にゅ……みゅみゅみゅ……」
緩く弾んだ息づかいだけを聞く。
茜子の指が僕を求めてきた。
自分から近づく。
誰にも触れない指で、
僕の指の谷間を探る。
指の腹が上下した。
くすぐったい。
熱い。
ずっとそうしていてもいいくらい。
【智】
「ちゃんとここにいるんだ」
【茜子】
「います」
【智】
「機械だって」
【茜子】
「機械……のつもり、だった」
機械。
茜子は自分を機械を呼んだ。
血の通わない、
ネジと歯車でできた模造品。
触れあえない距離と虚構のない世界が、
きっと、茜子を機械にさせた。
自分の命さえ軽々と扱う。
寂しい機械。
だけど。
【智】
「本当に機械なら、怖さなんて感じないよ……」
触れるのを怖いと茜子は言った。
触れられることを茜子は怖れた。
人は本物の機械にはなれない。
心を冷たく凍てつかせて、
痛みには耐えられても。
痛みが消えることはない。
機械だった、と茜子は言った。
過去形。
機械ではなくなった。
僕が、僕らが。
触れあえなくても傍に在る誰かが、
ネジと歯車を血と肉に置き換える力になる。
【茜子】
「こうしていても伝わることはあるでしょうか」
【智】
「あると思う」
無価値でちっぽけな僕らはここにいる。
触れ合えば伝わる温もりを持って。
価値は不実だ。
意味が幻想なのと同じくらい。
それでも。
触れ合う僕らは、
見えない何かを交わし合う。
不確かで壊れやすくて。
大切なものを。
顔を見合わせることさえせずに。
隣り合って座って、同じ方向を向いたまま。
伸ばした手だけを絡め合う。
それは、どこか、僕らに似てる。
絡みあう指が深くなる。
互いを怖れ、傷つけ合うことを恐れながら。
深く繋がる。
強く手を握りしめる。
手と手。
不思議だ。手袋越しなのに。
こうしていると、
相手のことがわかるような気がする。
本当はそんなことなんてあるはずもないのに。
僕らは決して解り合えない。
繋がることなく、重なるしかない。
手と手を合わせて。
指を絡ませるように。
飽きることなく指を絡ませる。
手を取って、撫でて。
指をつまんで、しごいて。
飽きることなく、いつまでも。
〔群れへようこそ〕
【智】
「央輝を捜して、会って話そうと思うんだ」
そう決めて、立ち上がった。
もう一度、央輝に会おう。
【茜子】
「捜してどうしますか。裏切り者ですよ」
【智】
「わかってるけど」
【智】
「央輝は僕らを裏切ってた、
これからも裏切り続けるかもしれない」
【智】
「でも、このままほっておいたら、一人にしてたら、
央輝は呪いに殺されてしまう……きっと」
【茜子】
「では、助けるつもりですか」
【智】
「僕は央輝を知ってるから」
【茜子】
「…………」
【智】
「央輝が善人だなんていわないよ。
良いところもあるくらいはいえるけど、
わかりあえるほど付き合いがあるわけじゃないし」
【智】
「でも、僕は彼女を知ってる。短い間でも一緒にやった」
【智】
「だから、死んで欲しくない。
何もかもを上手くすることなんてできないけど、
あいつらのいうとおりだ」
【智】
「僕はちっぽけだ」
【智】
「頭を悩ませても力を合わせても、
できることなんてたかが知れてる。
できないことの方がたくさんある」
【智】
「だから、せめて手の届くところくらいはちゃんとしたいんだ」
【茜子】
「そんなことをしても、何もならないかもしれないのに?
また裏切られるのは承知の上ですか」
【智】
「うん」
【智】
「だって、僕らはそうしてやってきたんだから」
【智】
「リスクも覚悟の上で、傷つけあっても許し合って、
そうすることが、たった一つの僕らの武器だから」
【智】
「たとえ、ちっぽけな力でも、みんなで手を繋いだら、
大きな波に耐えられるかも知れないだろ。だから……」
【智】
「央輝を捜して、連れてくるよ」
【茜子】
「…………待ってます」
尹央輝は憔悴していた。
あれから何度『ノロイ』と出会い、
逃れたのか。
3度目から先は数えるのも止めた。
あらゆる方法は通じなかった。
央輝の力。刃物。銃。
車をぶつけることさえ試みた。
集めた部下たちは『ノロイ』を
見ることさえできなかった。
『ノロイ』は数日に一度、
一定の時間現れる。
逃げ切れば、またしばらくは出てこない。
してみると、ヤツにとって、
この世は水の中みたいなものなのだ。
顔を出せば消耗する。
逃げ続ければ、やがて消えるのはだからだ。
だが――――――
『ノロイ』は央輝を殺すまで諦めない。
いつかは追いつかれる。
そして死ぬ。
いつ来るのか。
体力以上に精神が削られる。
央輝は昔を思い出す。
酷い生活だった。
ゴミためみたいな貧民街。
父親は最低のクズで、日本人の血が
入っていたという母は輪をかけたクズだった。
一切れのパンが欲しくて血を流したことがある。
泥水を啜りながら眠ったことがある。
ネズミの死骸を争って血塗れになったことがある。
希望のない汚濁からすくい上げてくれた唯一の手が、
今の央輝を作り上げた。
【央輝】
「……何もかも捨ててもどうにもならない、死んだ方がいいって
本当に心から思った」
何年も前、人格崩壊寸前に、
納屋の中から月を見上げてそう思った。
その翌日、差し出された手は、
央輝にとって揺るがせぬ奇跡になった。
【央輝】
「お義父様、わたしは――――」
央輝にとって唯一の存在は、
遠いどこかで追い詰められていく。
央輝のことを、機械のように聞くのだろう。
彼にとって全ては部品、自分を含め、
なにもかもが代替可能な部品にすぎない。
それを悲しむ自分は、ついに彼の望む者に
なり得なかったのかと細く息を吐いた。
【央輝】
「――――」
疲労の極だ。
斜陽を避けた物陰に
膝を抱えて目を閉じる。
靴音がコンクリートの破片を
踏みしめる音がした。
予定にない来客だった。
【智】
「やっと見つけたよ、央輝」
心のどこかで予感していた。
央輝は廃ビルに身を潜めていた。
ガラスの割れた廊下の隅に、差し込む斜陽から
逃げるみたいに両膝を抱えていた。
小さく丸くなった央輝は、
ひどくか弱い女の子に見えた。
【央輝】
「よく、ここがわかったな」
【智】
「昔から勘はいい方だったんだ。なんとなく、ここにいる気が
したから」
広い旧市街の、幾つもある廃ビルの中から、
目当てを引いたのは、我ながら大した勘の冴えだ。
【智】
「央輝、君にも一緒に来て欲しいんだ」
央輝は石のように冷たく硬い顔をした。
ゆらりと蝙蝠めいた影が揺らめく。
陽炎が視界をよぎる。
そう認識した時には、
央輝はすぐ傍に立っていた。
【央輝】
「お前は寝ぼけてるのか。それとも、骨の髄まで吐き気のする
甘ちゃんか」
獣を連想させる央輝の目に射すくめられながら、
僕はゆっくりと考えてから、首を横に振った。
【智】
「……そんなんじゃないと思う」
【央輝】
「あたしはお前らを裏切ったんだぞ」
【智】
「わかってる」
斜陽が差し込んでいた。
僕には央輝を否定できない。
誰かのためじゃなく、
自分のために、自身のために。
当たり前の結論だ。
僕らもそこから始めた。
【智】
「最初の気持ちを思いだしたんだ。僕らは孤独なひとりぼっち
だった。手を繋ぐために理由が必要だった。お互いを縛る
盟約が、束縛が、利害が――」
【智】
「互いを認め合うことが、許し合うことが」
【央輝】
「だから、あたしを許すと?」
【智】
「そうだよ、僕らには君が必要なんだ。8人がそろわないと呪いを解くことができない」
央輝が愛用のプッシュライターを突きつける。
安物の作りの金具が、
銃口の剣呑さで僕ののど元に狙いをつける。
怖い。
だけど、一歩たりとも下がれない。
央輝が口元を鋭利につり上げる。
【央輝】
「その利害はわかりやすい。おまえらは、あたしがいなければ呪いを解くことができない」
【智】
「それに、僕は央輝に死んで欲しくないから」
【央輝】
「死ぬつもりはない」
【智】
「でも、央輝の仲間は、あの連中は……央輝のことを助けたり
はしないと思う」
【央輝】
「……だろうな」
【智】
「央輝は、どうしてあんな連中と一緒にいるの?」
【央輝】
「生き残ることが正義と言ったはずだ。だから、あたしがつくのは一番強い連中だ」
【智】
「最初に会ったときの央輝は綺麗だった」
場違いな言葉だった。
正直な言葉だった。
ライターの切っ先が緩んだ。
央輝が途惑ってる。
【央輝】
「戯れてる場合かどうか……」
【智】
「冗談じゃないよ。
夜から生まれたみたいな真っ黒なコートと帽子」
【智】
「とても怖かったけど、とても綺麗だった。
森で狼と出会ったら、こんな気分かもって思った」
【智】
「たった一人で生き抜こうとあがいている。
そういう強さが綺麗だった」
【央輝】
「あたしは最初から常務の命令でこの街に来た」
【央輝】
「呪われ筋の調査と監視のためだ」
【央輝】
「常務は、あたしの『才能』を大陸で見つけ、
拾ってくれた」
【央輝】
「常務にとっては実験動物と変わらなかったのかもしれないが、
それでもあたしにとっては救いだった」
【央輝】
「すぐに『円窓』は、あたしの力の大本を見つけ出した」
【央輝】
「あとは、お前たちが調べたままだ」
【央輝】
「異能や鬼子を輩出する血筋……呪われ筋。
その大本はこの土地だ」
【智】
「あの夜、僕が会った央輝は、なら、幻だったんだ」
央輝が獰猛に唇をつり上げた。
【央輝】
「オマエの、都合のいい解釈を、あたしに押しつけるな」
【智】
「央輝は嘘つきだ」
僕は嘘つきだ。
嘘つきの武器は舌先三寸だ。
【央輝】
「なに」
【智】
「央輝が本当に生き残るのだけが正義なら、大きな顔して僕らのところへやってくる筈だ。8人そろわなければ呪いが解けない以上、僕は君を拒めない」
【智】
「でも、君は一人で逃げてここにいる。
僕らと一緒に居た方が利益は大きい筈だろ」
【智】
「『ノロイ』の身代わりに差し出す呪い持ちだって大勢いるのに」
【央輝】
「――――あたしは馴れ合うつもりはない」
張り詰めた空気が異質に歪んだ。
異質ななにかが蠢いていた。
世界全部がすり替わる幻想。
【智】
「……これって」
【央輝】
「ヤツだ、ヤツがくるっ」
央輝が飛び出す。
斜陽が払われ、夜の染み込んだ廊下の
突き当たりに蠢くものがいた。
『ノロイ』――――。
歪に長い四肢を、
巨大な蜘蛛のように伸ばす。
天井に貼りついて、音もなく迫る。
【智】
「こっちへ!」
【央輝】
「どこへ行く、そっちは上だぞっ」
叫ぶ央輝の腕をつかんで、
走り出した。
上へ。
理由はよくわからない。
そこが唯一の活路である気がした。
階段の踊り場。
下と上。
二者択一の運命に。
躊躇(ためら)わずに上を選んだ。
階段の下方、
降りた先に黒い霧が蠢いていた。
【央輝】
「下は塞がれてる――」
【智】
「大丈夫!」
走る。
空には闇。
高所の風が渦を巻いて、
僕の髪を散らせた。
ぞっとする冷たさが足の裏から這い上がってくる。
この世のモノでない何か。
『ノロイ』がくる。
【央輝】
「見ろ、追い詰められたじゃないか」
【智】
「大丈夫、あっち! 走って、央輝――――跳ぶよ!」
【央輝】
「なに!?」
屋上の床から、陽炎めいた黒い影が立ち上る。
空に向かって伸ばされた無数の黒い腕。
海草のように揺らめいて僕らを招く。
捕まれば死ぬと本能が教える。
構わず走った。
ビルの端までほんの6メートル。
暗く見えない淵の上を、
躊躇うことなく踏み切った。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光。
【央輝】
「――――ッ」
向かいのビルの上に落下し、
二人で転がる。
【央輝】
「ば、バカがっ、どういう無茶だ!
足下があるかどうかさえわからないのに飛んで――」
【智】
「大丈夫な気がしたんだ……」
説明できない感覚だったけど。
成功は決まってるって気がしてた。
【央輝】
「ヤツ、これくらいじゃ諦めないぞ」
【智】
「大丈夫」
爆音が近付いてきた。
下から上に。
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
ブレーキの尾を引いて、
ライダーと乗馬が横滑りする。
【花鶏】
「急いで、智!」
花鶏は、ヘルメットのバイザーを跳ね上げて叫ぶ。
【智】
「央輝、早く!」
【央輝】
「きさま、どういう手品だ……」
【智】
「ここに来る前に花鶏に電話して、迎えに来てくれるよう
頼んでたんだ」
【央輝】
「それにしても、このタイミングで……」
【智】
「今日は勘が冴えてたみたい」
【花鶏】
「智の頼みだから、助けてあげるわよ」
花鶏のバイクのリアに乗った。
イヤそうな顔の央輝の手を引いて、
僕の後ろに座らせる。
【智】
「これで今夜は逃げ切れるよ」
加速する。
腹に響く排気音。
女の子(?)ばかりでも三人乗りは窮屈だ。
花鶏の腰にしがみついて。
世界を横切る風が心地いい。
街のネオンが加速に流れて流星に変わる。
【央輝】
「……お前への借りが二つになったな」
【智】
「せっかくだから、返して欲しいな。僕は央輝の生き方が正しい
とは思えないけど、否定はできない」
【央輝】
「あたしはこれからも、常務の命令通りに動き続ける。
お前たちには身中の虫だぞ」
【智】
「……うん。それでもいいよ。
何よりも僕が君を助けたいから」
【花鶏】
「智ぉ、あんまり融通利かないようならいいなさい!
振り落としてやるから!」
【央輝】
「……バカなやつだ」
【智】
「何か言った?」
【央輝】
「別に」
【智】
「央輝、群れへようこそ」
〔儀式の失敗〕
央輝を加えて。
僕らは再び7人になった。
残りは一人。
【智】
「まって、花鶏、花鶏!」
【花鶏】
「どーしたの!? しっかり掴まってなさい。もっとぎゅーっと。身体全部押しつけるくらい!!」
【智】
「エッチっぽいよ」
【花鶏】
「わたしはいつでもこうよ!」
【央輝】
「……ちっ」
【智】
「それよりも花鶏! 溜まり場によって!」
【花鶏】
「こんな時間に? 何事よ」
【智】
「惠がいる気がする……」
【花鶏】
「はあ? そんなヤマカンで……」
【央輝】
「そこにいけ」
【花鶏】
「なにぃ」
三人乗り、二人ノーヘル、80キロオーバーの
速度超過中という道交法違反フルコースの最中、
犬猿の仲ぽい火花が散る。
【央輝】
「今夜のこいつは冴えてる。賭ける価値はある」
【智】
「央輝……」
【央輝】
「あたしは有利な方に賭けると言った」
【花鶏】
「ふん! いいわ、その代わり、後で唇を奢るのよ!」
【智】
「ぎゃわあああああああああああああああ」
衝動に突き動かされていた。
予感が確信に変わるのは扉に触れるより早い。
扉を開いて夜空が広がる。
見慣れた溜まり場――――。
はたして。
【智】
「惠……」
惠はいた。
【惠】
「……今夜はこんなに綺麗な月なのに、キミの顔は曇って
いるんだな」
【花鶏】
「惠……ホントにいた」
【央輝】
「貴様ッ」
【惠】
「花鶏と央輝も一緒か」
【惠】
「どうする、この間の決着をつけるかい?」
決着。
高架下でのことだ。
央輝は惠と戦い、呪いを踏まされた。
【央輝】
「お前を見つけたのは、こいつだ。先約に譲る」
【花鶏】
「あなたが智に手を出すなら、わたしが殺すわ」
前に出る。
惠と視線が静かに絡み合う。
【智】
「惠、会いたかった。もう一度話をしたかった」
ようやく出会えた。
訊ねたいことは山のようにある。
冷静でいるつもりだったのに。
目の前にすると心が乱れた。
【惠】
「……智」
惠。
菩薩に似た謎めいた笑みは以前と同じ。
だけど惠の手は血に染まっている。
命を選択するように幾人もの命を奪ってきた。
央輝さえ殺そうとした。
一緒に笑った。
仲間だった。
混乱する。
どれが本当の惠なのか。
わからないことは恐怖に化学変化する。
この瞬間にも。
悪意のナイフが突きつけられるかもしれないと。
予断を振り払った。
どちらにせよ。
呪いを解くためには惠が不可欠だ。
【智】
「話したいことがあるんだ」
【惠】
「好きにしてくれればいい」
【智】
「……どうして殺したの?」
三宅さん。
四人の犯罪者たち。
もっと大勢殺しているのだと央輝は言った。
――――――何故?
憎悪。
正義。
それとも。
命を選択するように、
命を摘み取る。
命は軽い。
自決さえ容易い。
戦争の最中なら紙切れ同然に消費される。
あまりにも軽量な、生命。
でも。
ただ一つの、ちっぽけで
代替の利かないオリジナルだ。
人を殺す。
そこに堆積した時間と空間の全て無に帰す。
言語化できない怒りがわいた。
【惠】
「…………」
【智】
「どうして!」
凄惨な笑みでも浮かべてくれれば、まだよかった。
素直に憎むことだってできたかも知れない。
惠は不思議な笑みを崩さない。
悲劇のような、
喜劇のような。
悲しみさえたたえた瞳だ。
【智】
「……せめて何か言って。僕たちは、同じ呪いを背負った仲間……ううん、惠は、僕と茜子と、みんなの大切な友達なのに……」
怒りの矛先が揺らぐ。
惠の瞳も揺れる。
【智】
「どんな理由が……」
【惠】
「キミは、殺すのに理由が必要なのかい?」
【智】
「……央輝から聞いたんだ。あの三宅っていう人は、僕たちを
騙そうとしていたひどい奴だったって」
【智】
「君は、僕たちが騙されないようにするため……?」
【惠】
「それじゃあ理由としては足りないかい?」
【智】
「足りると思う!? 人を殺したんだよ、惠は!」
では。
どうすれば足りるのか。
友情、正義、憎悪、信念、信仰――――
どんな理由をつけても十分ではない。
消えない罪が後に残る。
【惠】
「ああ……」
【智】
「……憎かった? それとも、恨みがあった? 惠は、あの人と
親しかったの?」
【惠】
「恨みを抱くのに、深く知っている必要はない」
【惠】
「人は理由がなくても、誰かを傷つけることができる。
理由なんて後からつけたとしても変わらない」
【惠】
「誰かを守るため、誰かを憎むため、誰かを呪うため、自分のため、他人のため、人は人を殺す。誰もが、誰かを殺せる」
【智】
「観念の話をしてるんじゃないんだ。惠、どうして君は……
あの人を殺さなければならなかったの……!?」
自分でも驚くくらいの声が出た。
どうしてこんなに憤っているのか。
きっと僕は信じていた。
馬鹿馬鹿しいくらいの甘チャンだ。
信じない僕はどこにいった?
他人の善意なんて、
あてにしなかったこの僕は。
いつの間にか、
こんなにも、僕の心は隙だらけになっている。
鎧と仮面で固めてきた僕の代わりの、
生身の僕はこんなにも弱かった。
【惠】
「…………」
僕と惠の会話はまるで噛み合わない。
噛み合わないんじゃない、惠が意図的に
すべてをはぐらかしている。
【智】
「惠!」
【惠】
「言葉にすれば僕がわかるとでも?」
絶対の真理を静かに告げる。
繋がらない人と人。
解り合えない。
どんなに寄り添っても、
隙間の全てを埋めることはできないのだから。
だから、それはきっと拒絶だ。
【惠】
「僕が単なる快楽殺人者だとすればどうだい? 初めから
理由など……」
【智】
「惠っ!!」
【惠】
「…………」
【智】
「…………」
【惠】
「……僕が不要なことをするとでも?」
【智】
「…………」
ぽつりと呟いて目を逸らした。
【智】
「どうしても話せないことなの?」
【惠】
「…………」
【智】
「それは惠の呪いに関係することなの?」
【惠】
「…………」
沈黙の堂々巡り。
これ以上の質問が無駄だと理解した。
言葉にはできないのか、したくないのか。
この断絶を埋める術がない。
それなら。
大きく、手を広げて深呼吸。
疲弊した脳に酸素を供給する。
賢い選択をしよう。
わからない全てを棚上げにして。
【智】
「……わかった。聞かない」
【惠】
「智はそれでいいのかい?」
【智】
「よくないけどさ。呪いを解くためには呪いを負った人間、
8人全員が必要なんだ」
【智】
「惠の協力があれば、呪いが解けるかもしれないんだ」
【花鶏】
「度し難いわ」
【央輝】
「ふん」
【惠】
「それは、そこの央輝を助けるため?」
【央輝】
「…………」
【智】
「もちろんそれはある。でも、実は僕も呪いを踏んだんだ」
【惠】
「君も……!?」
【智】
「僕の時は何も起こらなかったけど」
【惠】
「…………」
影は僕の元には未だ現れていない。
助かったという保証はない。
【智】
「惠の協力が必要なんだ。惠だって呪いは邪魔でしょ? 今だけでもいいから、僕たちに協力して欲しいんだ」
【惠】
「僕は……」
【智】
「僕は央輝を助けたい。同じ呪いを背負った仲間として。そして、みんなも呪いの枷(かせ)から解き放ってあげたい」
呪いが消えて、みんなが自由になって、
ただの友達同士になって、この溜まり場で笑いあって……。
騙されてみたい、そう呟いた横顔と
手袋越しに触れた遠いぬくもり。
茜子の憂いを消してあげたい。
【智】
「僕は、約束したんだ。この呪われた世界をやっつけるって……」
【惠】
「やっつける……」
惠が黙り込む。
続く言葉を待つ。
秒針の進む速度さえ遅く感じる。
遅々として進まない、
短く長い時間が過ぎていく。
惠が否と言ったとき、
僕はどうするだろう。
力を失いたくない――――。
そう思う心を否定はできない。
誰もが誰かを傷つける。
生きるだけで何かを奪う。
ここは呪われた世界だから。
ぼくらはみんな、呪われている。
みんなぼくらに、呪われている。
だから……。
僕を助ける理由が惠にあるのか。
見捨てた所で自分が傷つくわけじゃない。
助けたところで自分が嬉しいわけじゃない。
手を貸せば呪いが解かれる。
失われるのは、『力』。
ぼくらは惠から奪い取る。
世界がぼくらから奪うように。
与えられた力を、才能を、
ただ、僕らが生き残るために。
それは、どちらが正しいの。
僕か、惠か。
命は才能より重いのか。
たとえば、惠の才能が、この先沢山の人を助けるとするなら、
央輝を犠牲にしても、それは帳尻があったといえるのか。
長い沈黙の末に、惠は深く頷いた。
【惠】
「わかった。君に協力しよう」
【智】
「惠……ありがとう」
【惠】
「方法は判ってるのかい」
【智】
「花鶏たちが、かなりのことを調べてくれた。儀式の手順や
必要なものも判ってる。惠さえ来てくれれば、きっと呪いは
消えるはずだ」
【惠】
「そうか。ならば僕も、智たちの見つけたものに賭ける価値は
あるのかもしれない」
【智】
「きっと成功させる。ついて来てくれる?」
【惠】
「ああ……」
見上げたビルを指したのはこよりだった。
【こより】
「あの場所がいいんではないかと、るいセンパイと話してたんです」
【るい】
「なんか星の話が出てきたからさ。やっぱり星に近い場所がいいのかなって」
【伊代】
「あなた、本当に大丈夫?」
【央輝】
「今は大丈夫だ。影は居ない……」
【花鶏】
「でも、早くした方がいいわ。例の監視――」
監視は続いてた。
僕らをじっと見つめて記録している。
僕らよりずっと大きくて、
見えないものが。
他人事のような距離から、
レンズ越しに、僕らの苦悩を書き取っている。
【央輝】
「……」
監視については、
央輝からはなんの裏付けも得られなかった。
円窓の連中じゃないのか?
央輝が知らないところで事態が進んでいるのか?
それとも、央輝が僕らに嘘をついているのか?
どれであっても。
ずっと監視下にあるという現実は変わらない。
【智】
「連中が何かしでかす前に、早く呪いを解かないと……」
じりじりと弱火に炙られるような焦りに侵された。
夜まで待った。
【花鶏】
「その前に……惠のこと、本当に信用していいの?」
【惠】
「…………」
【伊代】
「人を殺したっていうのは……本当なの?」
【央輝】
「信頼なんて必要ないだろ。あたしたちは目的の為に手を組む
だけだ」
【伊代】
「でももし、儀式の最中に何か妨害をされたりなんかしたら?
わたしたちだって、殺そうとしてるかも知れないのよ?
だいたい、あなたは呪いを踏まされたんじゃないの?」
【央輝】
「そうだ。だが、飢えれば人は泥でも虫でも人間でも喰う。
コイツと協力するのも同じ、必要なだけだ」
【花鶏】
「合理的なのは認めるけど、納得はいかないわね。ま、いいわ。
わたしは納得いかないままでも協力はできる」
【智】
「花鶏は、よく呪いを解くのに賛成してくれたよね」
花鶏にとって、これは聖痕なのに。
【花鶏】
「……気まぐれよ」
【花鶏】
「でも、そうね、10くらい貸しにしてあげるから、終わったら
たっぷりお礼するのよ、智」
【智】
「……うん、いいよ」
【花鶏】
「ホントっ!? 女に二言はないわよ! 今の一言であなたの
未来はピンク色だわ!!」
【智】
「それでも、いいよ。終わったときに、それでも花鶏が望む
なら……」
【花鶏】
「望む望む望んじゃう!」
【茜子】
「…………」
【智】
「なに? ……ぎゃわ、いたいいたい、やめ、やめて、
つねるのやーっ!」
痛い目に合わされた。
【伊代】
「なにやってんだか……」
【智】
「……と、とにかくですね、今は全員の協力が必要なんだ。
央輝の言う通り、今は目的を優先しようよ」
【こより】
「鳴滝は協力します。呪い解きたいですし、ともセンパイも助けたいですし。鳴滝は央輝センパイだってコワイですけど……やっぱり死んじゃうのは……」
【るい】
「智のすきにすれば……」
【智】
「惠もそれでいいね?」
【惠】
「これで、決まりというわけだね」
『ラトゥイリの星』の記述に、儀式の記述がある。
幻想小説のその下り、ラトゥイリが星の世界へ歩み出すために、
あらゆる束縛から逃れるための儀式を行う。
正しい順番があるのかどうかはわからない。
僕らは思い思いの並びで8人で輪を作った。
【智】
「ここからどうすればいいの、花鶏?」
【花鶏】
「ちょっと待って。伊代」
【伊代】
「訳して判明した手順を、プリントアウトしてきたの」
几帳面に折りたたまれた紙を取り出すと、
伊代は書物に隠されていた古い古い儀式の手順を読み上げ始めた。
手を繋いで円陣を組んだ。
ぐるりと繋がれる人の輪。
極論すれば、儀式というのはこれだけだ。
みんなが呆れるのも無理はない。
【るい】
「あの、あのさ……」
るいが聞きにくそうに訊ねた。
儀式の文句を口に出して読み上げる。
それは、るいの呪いを踏むことになるかもしれない。
【伊代】
「ああ、そうか。あなたの呪いって……」
【智】
「たぶん大丈夫」
【智】
「るいの呪いは、未来の呪いだから、この場での契約破棄では
踏まないと思う」
【智】
「それに、儀式が成功したら呪いは消えてるはずだから、何の
問題もないし」
一抹の不安はある。
呪いのルールは、僕ら自身経験則に頼っているから、
ルールの線引きでは、確実と言い切れない部分が残る。
【智】
「…………万一、はあるかも知れない。どうする、るい。やめる?」
呪いを解くには8人の同意が必要だ。
るいが「やめる」と一言言えば、
僕らは呪いを解けなくなる。
【智】
「どうする?」
るいは静かに首を横に振った。
【るい】
「…………成功した方がいい」
【智】
「だね」
無駄話を終える。
時間がないのもあるが、
黙っているのも怖かった。
じっと待つよりも動くこと。
【智】
「はじめよう」
ぼくらはみんな、呪われている。
今夜、ぼくらは、僕らの呪いと別れを告げる。
【惠】
「…………」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「…………」
【央輝】
「…………」
【茜子】
「…………」
静かな夜。
呪いとの別れ。
本当に、そんなことができるのか。
少しだけ疑ってしまう。
ずっと僕を、僕らを縛ってきたものが消えてしまう。
【智】
「本当に……」
【惠】
「雑念を捨てて」
【智】
「ごめん」
僕が一番落ち着きがない。
もう一度。
呼吸を深くして心を掘り下げる。
雑念を取り除いていく。
残すものはただ一つ、
この『力』を捨てて呪いを破棄する意思のみ。
はじめにあった八つの意思。
終わりにも同じ意思がある。
『力』を破棄する。
意思する。
【智】
「…………」
凪いだ海のような静けさ。
足下に自分の体温が伝わるくらいまで待つ。
そして。
【智】
「僕は自らの意思に基づいて、この力と呪いを破棄する」
夜に声が響く。
暗い空に吸い込まれて消える。
古い呪いの終わりに、きっとそれは相応しい。
【るい】
「私は自らの意思に基づいて、この力と呪いを破棄するよ」
るいの声はよく通る。
星のように、火のように。
激しさを秘めた強い声が、真っ直ぐに進む。
【こより】
「わたしは……自らの意思に基づいて、この力と呪いを破棄します」
こよりはちょっぴり頼りない。
震える声。
でも、知っている。
この声が、最後には強く育つこと。
僕らを追ってきたように。
【花鶏】
「わたしは自らの意思に基づいて、この能力と呪いを破棄するわ」
一瞬の躊躇いが、最後の迷い。
それも消える。
高く咲く鋭い声で、花鶏が宣言する。
【伊代】
「わたしは……わたし自身の意志に基づいて、この力と呪いを
破棄する」
伊代は不安を抱きながら、それでも声をあげる。
最後の放棄の意思を示す。
優しくて、大きな伊代の心が呪いに向かう。
【央輝】
「あたしは自らの意思に基づいてこの力と呪いを破棄する」
敵であった央輝。
今、僕らの仲間にたつ央輝。
不思議に思う。
それはなんて奇妙な縁。
【茜子】
「私は……自らの意思に基づいて、この力と呪いを破棄します」
茜子……。
幻に囚われた孤独の終わりがようやくに来る。
それは、茜子にとってどんな意味を持つんだろう。
わからなかった。
茜子の顔を見ても、いつも通りの無表情だ。
きっとそこには新しい世界がある。
呪われていない僕らの世界。
今よりも、そこが優しい場所でありますように。
僕は祈る。
祈らずにはいられない。
【惠】
「僕は、自らの意思に基づいて、この力も呪いも、この契約すべてを破棄する」
冷たい声が響く。
最後の一つ。
呪いの終わりを示す声が――――
――――――――きえて、
【智】
「…………………………」
僕は待つ。
何かが起こるのを。
吹き抜けた風は渦を巻いて空へ登っていった。
まるでそこに居た何かが、天へ去ったかのように。
【智】
「終わっ……た?」
何一つ実感はない。
果たして呪いは消えたのか?
そもそも儀式は終わったのか。
【るい】
「これで私たちの呪いって消えたの……?」
【茜子】
「まだ迂闊に呪いを踏むような行為はしないほうがいいと思います」
【伊代】
「そうね。ここは慎重に……なにか呪いが消えたかどうか確かめる方法はないのかしら」
【央輝】
「痣だな」
【智】
「そうか、痣だ」
【花鶏】
「力は消えてないみたいだけど、痣を確認したほうが良さそうね」
【るい】
「私が見るよ」
胸元を開いて、るいが痣を確認する。
【るい】
「消えてない」
【こより】
「失敗……」
落胆の色が隠せなかった。
儀式は失敗だ。
【央輝】
「クソ……、何が足りない?」
【花鶏】
「わからないわ。手順はすべて辿ったんだけど」
【伊代】
「何かわたしたちの見落としてる条件があったのかも知れないわね。まだ書物のすべてを訳せたわけじゃないし」
【智】
「…………」
足りなかった条件はなんだろうか?
儀式の手順に抜かりはなかったように思う。
事実、途中まで儀式は効果を発していたはずだ。
僕たちは確かに、何か説明の付かないものに
呼びかけて、その存在を感じた。
儀式を終えた時に渦巻いた風は、その何かが僕たちの
呼びかけに一度は応えた証拠になりはしないだろうか。
【茜子】
「儀式は私たちの知らない法則で作られたものです。悩んでも答は出ないのでは」
【智】
「うん、でも気になって」
【伊代】
「また調べなおしね。成功まで繰り返すしかないわ。儀式の失敗にリスクがなければいいんだけど」
【花鶏】
「『ラトゥイリの星』は一見幻想物語に偽装されてるし、表現も
回りくどかったり古めかしかったりが多くて、解読が難しいのよ」
【こより】
「本当は呪いを解く方法なんてないのかも……。あ、でもちゃんと儀式の間は、呪いと力を捨てられるように願ってましたよ」
【智】
「…………。全員が心から念じないとダメっていう条件は……
本当に満たせたのかな」
【茜子】
「…………」
【惠】
「…………」
口にするべきではないと思いながらも、
疑念は零れてしまった。
弱気なこより、呪いを誇っていた花鶏、
真意の測りがたい惠。
伊代やるいにもどんな理由があるかわからない。
呪いに追われている央輝にだって、
この儀式を失敗させる理由がないとは限らない。
もしかすると、茜子にだって……?
【智】
「…………」
探り合う視線が交錯した。
こんな筈じゃなかったのに。
自分に生まれた疑念を恥じて奥歯を噛む。
茜子は俯く僕の側に寄り添ってくれた。
【茜子】
「和久津智はいろいろなことを一人で考えすぎです。話すのが
難しければ見せてくれるだけでいい。俯かないでわたしに顔を
見せてください」
【智】
「茜子、ありがと」
【茜子】
「茜子さんには、それだけで見えますから」
【智】
「うん……」
僕をいたわってくれた茜子は、
しかし見えたはずのみんなの心の中を語らなかった。
互いの視線は重ならない。
疑い合っているわけじゃない。
疑い難いからこそ僕らは、
視線を合わせることに怯えていた。
みなそれぞれに儀式が失敗した理由……、
もっと他の合理的な説明を探している。
【智】
「失敗したものはしょうがないよ。もっと『ラトゥイリの星』の解読をやりなおして、またやってみようよ」
【るい】
「……やりなおし、か」
【伊代】
「ほんとうにわたしたち、呪いを解けるのかしら……」
【央輝】
「解かないと死ぬ。あたしは最後までやる」
【こより】
「そうですよう! きっと解けますって! ともセンパイ、
そうなんでしょ?」
【智】
「大丈夫だよ、きっと解ける。今までも色んなことを何とかして
きたんだから、今度だって」
欺瞞のような言葉を口にする。
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「ふぅ、面倒だけどもう一回訳し直すしかないわね」
【伊代】
「そうね……、何か見落としてる場所かあったのかも。
あの本だけじゃ足りない情報があるのかも知れないし、
もう一度調べて見ましょうか」
【央輝】
「あたしも手に入れられるだけの情報を手に入れる。自分の為
だからな」
疑念を飲み込みながら、
みんな協力してくれる。
問題は……惠だけだ。
【智】
「惠、これからも僕たちに協力してくれる?」
【惠】
「……わからない」
【智】
「え……?」
【惠】
「アルベルト・アインシュタインは『神はサイコロを振らない』
と言ったことがあるという。もちろんこれは彼の信じたすべてが
美しい公式で証明できる世界へ向けた言葉だが」
【惠】
「やはり、神はサイコロを振らないんだとは思わないか?」
【智】
「…………」
惠にとってこの失敗は必然に思えるということか。
【智】
「……わかった。また準備が出来た時に連絡する。惠が協力するかどうか、その話はまた時が来てからにしよう」
【惠】
「助かるよ。察してくれて」
惠は笑った。
〔疑心暗鬼〕
授業が終わると、花鶏の家に集まる。
『ラトゥイリの星』の解読に励む日々が続いていた。
【智】
「早くしないと……」
自分が焦っているのがわかる。
【るい】
「あいつらまだいる」
監視者たちだ。
【花鶏】
「まったく、うっとうしいったら!」
【伊代】
「わたしは怖いわ……こういうのっていいの?
警察とかにいったら何とかしてくれないのかしら……」
【智】
「三宅さんの事件をもみ消しちゃうような連中かも知れないんだ……無理だよ」
【こより】
「…………鳴滝、すごく不安になります……」
【伊代】
「……っ、どうして、そんな連中が、わたしたちなんかに……」
【智】
「とにかく、急いだ方がいいよ」
状況は必ずしも平穏とはいえない。
仮初めの穏やかさが続く。
【るい】
「頭脳労働はニガテなんだよね……」
【こより】
「こよりも壁のハナッス」
【伊代】
「お邪魔っこどもが……」
【智】
「今日は一度、央輝と合流する」
【るい】
「むー、私、まだ苦手なの……」
【智】
「そのうち慣れるよ」
途端に不安そうな顔になる、るい。
仲間には異常にあけっぴろげで気安く、
仲間以外には警戒心過剰。まさにドッグ。
【こより】
「それなら鳴滝がお供いたします!」
【こより】
「でも、央輝センパイって、たしかにちょっとコワイですよね……?」
【茜子】
「そうです。コスプレまがいの格好で堂々と街中を歩くような
コワイ人です」
【花鶏】
「それは怖いわね」
【智】
「それを後ろから指差して、吸血鬼ハンターって笑う茜子の方が
さらに怖い」
陰鬱さを吹き飛ばすように、無理からに笑った。
【花鶏】
「それで?」
【央輝】
「あたしの情報はこれだけだ」
央輝がきた。
昼間から出会える央輝には違和感がある。
本物の吸血鬼のように、
呪いで陽の光に拒まれる性。
皮肉にも、呪いを踏んでしまった今だから、
央輝は大手を振って陽の下を歩くことができる。
【智】
「そっか。惠を問い詰めた時は、結構無理してたんだ」
高架下で惠と戦った時。
惠の足取りがつかめなくて焦っていたのか。
結果、央輝は呪いを踏んで、僕らは手を組んだ。
それもまた皮肉だった。
【花鶏】
「ほとんど何もないじゃない。出し惜しみしてるんじゃないの?」
【央輝】
「言いがかりをつけるのか?」
相変わらず、花鶏と央輝は仲が悪かった。
【茜子】
「大丈夫です。その怪奇乳無し女に今のところ嘘はありません」
【央輝】
「な……そ、そいつのほうがないだろ!!」
茜子の指摘に、
必要以上にうろたえた。
央輝は火が出るような勢いで、
僕に向けて人差し指を突き出した。
【智】
「僕ですか」
【茜子】
「ぷらんぷらん乙女は特別ですので」
【花鶏】
「そうね、智は特別よ。でも、ぷらんぷらんって何?」
【智】
「ぷ、プランのことだよ! 計画的っていうかなんていうか!」
【花鶏】
「ふぅん……?」
【茜子】
「まさにぷらんぷらん。小賢しいです」
苛(いじ)められていた。
【伊代】
「そうね。あなたはいつもこのバラバラなメンバーを統率するのに役に立ってると思うわ。あなたとわたしぐらいしか秩序を守ろうと思ってる人間が……」
【央輝】
「とりあえずオマエは黙れ」
【伊代】
「な、なんで……」
【こより】
「伊代センパイはそのイケてない発言こそ、輝いてますから!」
【るい】
「イヨ子もこのせんべい食べるといいよ」
平和だと思う。
小さな谷間のようなワンシーン。
ずっと見ていられればいいのに。
ここに惠がいてくれれば、もっと……。
【智】
「…………っ」
仲間である惠と殺人者である惠。
思慕と恐怖。
矛盾した感情がせめぎ合う。
【智】
「それよりも」
軽く頭を振って上った血を冷ます。
前回の儀式での失敗の要因はまだ洗い出せない。
手順や条件に抜け落ちている要素はない。
【智】
「落ちてないなら……」
【央輝】
「足りてない、だ」
まだ判明していない条件。
たとえば日時。
たとえば場所。
たとえばさらに必要な道具や手順。
だが、もっと簡単に抜け落ちた条件を探すこともできる。
「全員が呪いを解けるように心から願うこと」
簡単だが、難しい。
心から――――。
心の底から、自由を望む。
裏切り者がいないという前提の上で。
保証の出来ない前提だけが、お互いの間をつなぐ。
茜子の『力』も、知っていれば回避する術はある。
【智】
「本当に裏切り者がいても、僕らには選ぶ余地がないんだけどね」
8人。
メンバーには予備がない。
【花鶏】
「……少し休憩入れる?」
【るい】
「うにゅう、ちょっと考えすぎてつかれた」
【伊代】
「いや、あなた何も考えてないでしょ?」
【智】
「央輝も休憩しよう。焦るのはわかるけど、落ち着かなくちゃ。
お茶くらいだすし」
【央輝】
「好きにしろ」
【茜子】
「パチン! メアリ、お客さまに今すぐお茶の用意を!」
【智】
「メイドいないから」
【こより】
「ぱちん。あはは、ぱちん」
花鶏と伊代がキッチンへ向かう。
【智】
「…………っ?」
窓の向こうに人影が映っているのに気づいた。
【茜子】
「奥歯から触手でも生えて来ましたか」
【智】
「あそこ、誰かいるみたいなんだけど」
ずるりと動く。
【智】
「――――――――」
窓の外側に貼りついていた。
真っ昼間なのにそこは暗い。
まるで影だ。
身体は黒い。
髑髏の面。
本能が警鐘を鳴らす。
総毛立つような戦慄が、全身を震わせる。
テーブルを蹴っ飛ばす。
【こより】
「ひゃあああぁっ!?」
こよりの悲鳴。
それは「呪い」だ。
目に映る「呪い」、形になった「呪い」。
――――――――『ノロイ』。
人影は直立のまま胸の高さまで上げた片手を、
何か微妙に動かしていた。
家の中には入ってこない。
かえって不気味さをかきたてられる。
【央輝】
「必要以上にびびるな……」
【央輝】
「あたしが何度も逃げのびてる。冷静になれば対処できる」
異変が起きた。
人影がいきなり膨れ上がる。
人の大きさを軽く通り越す。
【央輝】
「くそ、くそっ!?」
【こより】
「な、なんですかあれ……っ!?」
【花鶏】
「『ノロイ』が!?」
【茜子】
「逃げましょう。
逃げて意味があるのかわかりませんけど」
【智】
「逃げられる……あれからは逃げられる」
冷静になりさえすれば。
判断を間違わなければ。
ビリビリと窓が震え、今にも粉砕されそうだ。
何か人知を超えた大きな存在が、
この屋敷に入り込もうとしている。
思い思いに仲間の手を引いて戸外へと駆け出した。
【茜子】
「被害者は何故か外へ逃げずに屋敷の中を逃げ回り、
最後には追い詰められて殺される」
【智】
「ホラー映画の定番だね」
【伊代】
「ちょ、ちょっと! 映画じゃないのよ!」
【央輝】
「そうだ。映画じゃない。現実だ!」
【るい】
「今までどうやって生き延びたの!?」
【央輝】
「走ることだ……逃げ切ればしばらく出てこない」
【花鶏】
「とんだ鬼ごっこだこと!」
軽い言葉を交わす。
背筋には冷汗が伝っていた。
いつのまにか、影はどんどん大きくなって……、
花鶏の屋敷半分が影になっている。
【智】
「逃げよう!」
外へ飛び出す。
道行く人々は一人として、
僕たちを追う巨大な影に気づかない。
るいが拳を握りしめる。
無力な拳だ。
『ノロイ』には通じない。通じなくても握る。
街並みを走り抜ける。
すれ違う人々すべてが恐ろしい『ノロイ』に見える。
逃げ場を求めて、仲間の先頭を切って。
逃げろ。
どこへ? どう逃げればいい?
強化された身体能力とスケートによるスピードで、
るいとこよりがみんなの前に出る。
【智】
「バラバラになったら狙われる! るい、こより!」
【るい】
「***」
【こより】
「******!? ***!」
【智】
「え……!?」
振り返った二人の顔が認識できない。
見えているのに……見えていない。
写真の顔が塗りつぶされたみたいに。
怖い。
怖い。
怖い。
恐怖感が両肩を掴む。
押しつぶそうとしてくる。
【智】
「み、みんな!?」
【央輝】
「****!?」
【花鶏】
「**、*****!」
左右には誰が居たのか。
みんなが黒い顔の、なにかに変わっている。
黒いなにかが警戒するように僕と距離を取る。
いや……違う。
こいつらは僕を取り囲もうとしているんだ。
僕を取り囲んで、首を掴んで、指を噛み千切って、
目玉を切って、足先を潰して、背中を裂いて、
それから、腹に入り込んできて……!!
殺される!
何かが耳から入り込んでうなり出した。
金属同士を思い切りぶつけ合うような、
耳障りなノイズ。
だんだんと意味を成して叫び声に変わる。
「殺される」
「殺される」
「殺されるぞ」
「殺されるぞ」
「殺されるぞ」
「逃げろ」
「逃げろ」
「逃げろ」
「逃げろ」
「逃げろ」
「逃げろ!!」
頭が割れそうだ!
頭の中で響く警告の声。
なおも大きくなり続ける。
【智】
「茜子は!?」
【茜子】
「******。********」
黒い奴ばかりだ。
みんなもうやられてしまった。
街の中すべてが、黒い奴ばかりだ。
『ノロイ』にみんなやられた。
みんなやられてしまった。
【智】
「逃げなきゃ……! 逃げなきゃ殺される……!」
死にたくない。
死にたくない!
他には何一つ考えられなくなって、
狂ったように逃げ出した。
【央輝】
「**……!!」
【伊代】
「****!? ***!? *******!?」
後ろから飛んでくる意味不明な声。
振り返る余裕もなく闇雲に走る。
どっちに曲がるか、
そんなことを考える余裕もない。
【智】
「逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ……!!」
曲がり角が見える。
「右」
「右」
「右」
何かに囁かれて右に曲がった。
次の角。
「右」
「右」
「右」
また右に曲がる。
その次の角。
「右」
「右」
「右」
【智】
「ハァ、ハァ、ハァ……ッ! 逃げないと……、逃げないと……!」
「右」
「右」
「右」
待て、ずっと同じ場所を周らされているんじゃないのか!?
「逃げろ」
「逃げろ」
「逃げろ!」
叫び声が頭の中を埋め尽くした。
【智】
「そうだ……! 道なんて関係ない、逃げないと殺されるんだ……!」
【茜子】
「********!」
突然前に黒い奴が飛び出してくる。
僕を殺しに来たんだ!
【茜子】
「********! ****!!」
【智】
「殺されてたまるか……!」
わけのわからない怒りに駆られて、震えるくらい渾身の力を込めて拳を握り締めた。
こいつを殺さないと!
【智】
「『ノロイ』め!!」
【茜子】
「*****さい!!」
【智】
「…………!!! ………………!?」
繰り出そうとした拳が、
僕の意思に反して止まった。
殺さないといけないのに、
こいつを殺さないと僕が殺されるのに……。
【茜子】
「*****か? お****よ**て*さい!」
【智】
「え……?」
黒い奴が何かを言っている。
「殺さないと殺されるぞ!」
頭の中の叫びを無視して、耳をすませた。
【茜子】
「よく*て*さい!!」
【茜子】
「よく見て下さい!!」
【茜子】
「よく見て下さい!!」
【智】
「あ……茜子!?」
一瞬、頭の中で騒いでいたものが遠ざかる。
ざわざわと思考の潮騒。
視界を覆っていた靄が吹き飛ばされる。
目の前には息をつく茜子がいた。
【茜子】
「よかった。どうやら『ノロイ』に惑わされていたみたいです」
【智】
「あ、茜子……」
【智】
「そんな、どうして平気だったの?」
【茜子】
「言葉はわからなくても、感情は見えました」
【智】
「そうか……」
【茜子】
「いえ。それより他のみんなを」
【こより】
「***! *******! ********……!」
【央輝】
「****!! ****!!」
【こより】
「きゃぁッ!!」
誰かが誰かを思い切り突き飛ばした。
あの声……こよりだ!
【智】
「危ないっ!!」
思い切り飛び出して、車道に落ちかけたこよりの手を繋ぎとめた。
【こより】
「あ……、と、ともセンパイ……?」
【智】
「無事で良かった。……央輝! わかる!?」
【央輝】
「何を、何か言ってるのか……!?」
【智】
「僕は智! ここにいるのはこよりと茜子だよ!!」
【央輝】
「え!? ……オマエは……!?」
僕らは『ノロイ』から逃れた。
あの影の動きは遅かった。
【央輝】
「『ノロイ』があんな手を使うなんて……一度も」
【智】
「痣が集まってたせいかも知れない。央輝が逃げ続けて、知恵
みたいなものがついたのかも知れない」
僕らを襲った異常。
あれは『ノロイ』の影響を被ったせいだろう。
しかし――――。
【花鶏】
「あんた、本当は見えてたんじゃないの?」
【央輝】
「なに」
【伊代】
「……代わりに誰かが死ねば、呪いを踏んだことはチャラになる。たしかそういうルールよね。もし、あの時、この子がノロイに
捕まってたら……」
【こより】
「え、そんな、鳴滝は……」
【央輝】
「…………」
【智】
「待って。僕も、間違って茜子を殺してしまうところだったよ……」
【茜子】
「でもあれは」
【こより】
「と、ともセンパイまで……?」
【花鶏】
「どうして茜子と智にはみんながわかったの? 本当に全員が同じ幻を見てたの?」
【智】
「なに言ってるの? そんなこと言ってる場合じゃ」
【伊代】
「二人だけじゃないわ……他にも誰も知らない間に、呪いを踏んだ人間がいるかもしれない」
【伊代】
「どうしてわたしたち全員が襲われるのよ。本当は他にも誰か呪いを踏んだんじゃ……」
違う。
全員が襲われたんじゃない。
僕ら全員がノロイを見ることが出来たから、
その影響を被っただけだ。
【央輝】
「知らない間に踏んだとしたら、まだ踏んでないヤツだろう。
オマエが一番怪しいな」
【伊代】
「……ッ」
【るい】
「ちょ、ちょっとみんな、どうしたの……?」
【央輝】
「クソ……」
【花鶏】
「………………」
【こより】
「こわい…………」
【伊代】
「わたし、何を信じればいいのかわからない」
不和の種だ。
儀式の失敗以降、燻っていた火種。
央輝の存在もその一つだ。
僕と茜子以外にとって、央輝はまだ、
かつて敵だった異質な呪い持ちだから。
伊代の指摘は、理屈でしかない。
例えば――――
伊代がそんな発言をしたのは、
自分を容疑の目から遠ざける為かもしれない。
央輝があの時こよりを突き飛ばしたのは、
最初からこよりを殺すつもりだったのかもしれない。
るいとこよりが先に駆け出したのは、逃げ遅れた者を『ノロイ』の
エサにするつもりだったのかもしれない。
花鶏が疑いの目を誰もに向けるのは、
自分こそ隠すべき事実があるからなのかもしれない。
お笑いぐさだ。
バカな話だと思う。
そんなことをするかどうかは
考えればわかる。
でも。
信頼には根拠がない。
疑いにはきりがない。
見えないものは、
見えないだけに儚く脆い。
【央輝】
「わかった。オマエらと手を組むのはやめだ」
【智】
「央輝、そんな!」
【央輝】
「儀式は失敗したんじゃなくて、わざと失敗させたのかもしれない。長引かせてるうちに『ノロイ』にあたしを殺らせるようにな」
【智】
「…………」
【花鶏】
「それで? あんたと智と、それから呪いを踏んだ誰かさんは
身代わりに一人を殺して助かるつもり?」
【央輝】
「オマエなら殺しても後味が悪くなさそうだな」
【こより】
「他にも誰か……、いるんですか? みんな何か隠してるんですか?」
【智】
「みんな、冷静になって! 何言ってるの!!」
【伊代】
「普段のあなたなら信用するけど、命がかかれば人間なんでもするものよ。わたしだって、そうしないと死ぬって言われたら、もしかしたら……」
【るい】
「ちょっと、ちょっと待ってよ!!」
るいの声が、感情のぶつけ合いを断ち切る。
【るい】
「みんなどうしちゃったの!? 私たち友達でしょ!? 友達を
殺して自分が生き残るなんて、そんなことする奴いるわけない
でしょ!」
【るい】
「トモはそんなことしないし、いえんふぇーだってしないって、
私信じてる!」
【花鶏】
「信じるなんて意味ないでしょ!? 何でもかんでも信じた通りになるなら苦労しないわよ!」
【智】
「みんな、バカなこと言わないで! 落ち着いてよ!」
【央輝】
「信じてもらわなくて結構だ。もう手段なんて選ばない。あたしは生き延びる」
【伊代】
「…………」
【茜子】
「…………」
【智】
「…………」
不信からの沈黙が苦かった……。
【るい】
「…………みんな最低だよ……。どうして……、友達だと思って
たのに……、トモも、アカネも、イヨ子もこよりも花鶏も
いえんふぇーも……みんな最低だよ!!!!」
【花鶏】
「そういうあんたこそ怪しいんじゃないの? 自分の身代わりに
できる奴を、側に置いておきたいんじゃないの?」
【るい】
「花鶏ッ!!!!」
るいが掴みかかる。
咄嗟に身を捻った花鶏がかわす。
【央輝】
「あたしは行く。少しの間だが一緒に過ごしたよしみで警告して
おいてやる。オマエら、せいぜい夜に気をつけろ」
静まり返った中で、
コートを翻す音が高く鳴った。
一度も振り返らず、央輝は去っていく。
【こより】
「そ、そんな……誰か、助けて……。鳴滝は、鳴滝は怖くて……」
【伊代】
「残念だけど無理みたい……わたしも帰るわ」
【花鶏】
「ま、楽しかったわ。でも」
【花鶏】
「……『ラトゥイリの星』は誰にも渡さない」
伊代と花鶏の足音が、
寂しげに遠ざかっていった。
取り残された僕たちの中で、
こよりが小動物のような怯えた目でみんなの顔を見る。
【るい】
「…………」
【智】
「…………」
【こより】
「わ、わたし…………ごめんなさい!」
緊張に耐え切れず、こよりは慌てて逃げ去った。
【るい】
「みんな……バカーーーーーっ!」
【茜子】
「みんなの心が疑念に満ちてて、何も、見えませんでした」
【智】
「みんな……」
〔茜子とのH〕
帰路は一人だった。
ベッドの上に力尽きる。
馬鹿馬鹿しい感情のぶつけ合い。
結局それだけだ。
不安。憔悴。疲労。恐怖。
自分で作り出した敵に、
溜まったものをぶつけただけ。
不信ではなく不満の発露。
冷静になれば、落ち着けば。
そんなことはないとわかる程度の、
簡単な理屈さえ見えなくなって。
馬鹿馬鹿しい……。
こんな場面さえ、
どこかの誰かが監視しているのか。
自分たちの利益のために僕らの自由を踏みにじって。
でも、どうすればいいのか。
るいが殴れば済むのか、央輝の力ならどうだろう。
蟷螂(とうろう)の斧と同じで意味のない行為。
陰鬱さに拍車がかかる。
徒労感で肩が重い。
こんなにも儚かったのか。
僕らを繋いでいたものは。
ごちゃごちゃした考えが浮かんでは消える。
引っかき回された心の中がまとまらない。
【智】
「――――何が、いけなかったんだっけ」
どこの選択肢を間違ったのか。
わからなかった……。
人生はセーブもロードも出来ないから慎重にと……
いかがわしい語り屋が笑っていた。
【智】
「…………」
いつもいつも考えこんできた。
頭を悩ませてきた。
真剣に、こざかしく、間違わないように。
それでも世界は意地悪く、
知らないうちに背中に周り、
隙を見つけてひと突きにする。
予定は崩れる。予測は外れる。未来は変わる。
偶然の不幸が計画を台無しにする。
見えない力はやっぱり弱い。
友情、愛情、信頼。
言葉にすれば、途端に頼りなくなる数多の絆。
……結局、すべては無駄なあがき。
『呪いを解くことを望まない意思が常に存在する』
呪いのシステムを考えついたのが誰かは知らないが、
そいつは本当に性格悪だ。
特別なガーディアンなんて必要ない。
8人の同意がなければ解かれない契約――――
呪いという不幸で結ばれているのに。
たった8人の利害と意思さえまとまらない。
すれ違い、対立し、疑い、奪い合う。
『ノロイ』くらいのことで――――
【智】
「んにゅ……はい……」
うるさい呼び出しに目が覚める。
いつの間にか眠っていた。
目をこすりながら起き上がる。
衣服は昨日のままだ。
カーテンから漏れる光を見て時計を確認した。
夕方の4時。
【智】
「はい、はいは〜い!」
もしかしたら。
誰かが来てくれたのか。
茜子が心配して様子を見に来てくれたとか。
るいがお腹を減らしてやってきたとか。
こよりでも、花鶏でも、伊代でも。
央輝だって歓迎しよう。
冷蔵庫の中のありったけの材料で、
とっておきのごちそうを。
【おばさん】
「どうも始めまして、私たちはこの近くの教会で主の教えについて考える会をやっておりまして、お近くにお住まいの方にご挨拶に回らさせて頂いている途中でして……」
【智】
「僕はキャベツ教徒なんで」
扉を閉める。
途端におかしさがこみ上げてきた。
【智】
「えーと……」
なに馬鹿なことで真剣に悩んでたんだろう。
優しくない世界。
醜く、残酷で、冷淡な。
呪われたこの世界。
そんなこと当たり前じゃないか。
運命はいつだって問答無用にやってくる。
自分たちをお構い無しに自分勝手に巡っていく。
【智】
「やっつけるんだっけ」
諦めて眠っても、膝をついて祈っても、
空を仰いで嘆いても、何も変わらないから。
――――だから、やっつける。
一人でだめなら、みんなで。
失敗しても、何度でも。
【智】
「やっつける」
もう一度。
言葉にするとやる気に変わる。
心の熱量が上がっていく。
【智】
「……クックックッ、思い知らせてやる」
悪役の台詞じゃないの。
ちょうどいいか。
【智】
「僕は、たった今から世界の敵だ」
見てろ。
びた一文だって残さずに。
正義のヒーローだろうが世界の秩序だろうが。
全部まとめて。
【智】
「呪われた世界を、やっつけてやる」
それを思い知らせてやる。
るいに、花鶏に、こよりに、伊代に、央輝に。
それから、茜子に――。
やる気が沸々と湧いてきた。
【智】
「僕は諦め悪いからね」
ここにくれば茜子に会える。
何の根拠もないいい加減な閃きで、
街中に無数にある路地裏から一つを選ぶ。
見えた。感じた。
ここにいる。
そこで僕らはもう一度会う。
会って話をする。
一周回ってハイテンションになっていた。
負ける気がしない。
温暖化でも高年齢化でもなんでもこいだ。
【智】
「茜子さん?」
路地の横道をのぞいていく。
空き缶を踏みつぶす。レジ袋を蹴る。
ダクトとパイプを乗り越える。
いくつかの角を曲がった先。
【智】
「みっけ」
発見。
【茜子】
「あ…………」
【智】
「茜子」
【茜子】
「…………」
【智】
「やっぱり来ちゃった」
【茜子】
「嬉しいです」
【茜子】
「よくわかりましたね」
【智】
「愛の力で」
【茜子】
「歯の浮く台詞は×」
何か言おうとして、茜子が目を伏せた。
顔を見ないように。
【智】
「どうしたの?」
返事はない。
目を上げれば、心が見える。
それを茜子は躊躇っている。
幾度も覗いてきた僕の心をかいま見ることを。
それは――――
【智】
「あのね」
切り離された心の代わりに、
僕らは言葉で伝えあう。
偽りと、欠落と、遠回りとに苦しみながら。
【智】
「触っていい?」
【智】
「ベタベタ触りたい。エッチなとこ触りたい。うんと触って
確かめたい。匂いも嗅いじゃう」
飾らない言葉で、ありのまま。
【茜子】
「このエロスびと」
【智】
「エロスびとでもいいよ」
【茜子】
「服越しなら」
【智】
「うん」
ベタベタした。
【茜子】
「ん……ふぅ……っ」
ちっちゃくて華奢な身体を抱きしめる。
肌に触れないように慎重に。
壊れ物みたいな茜子。
暖かくて気持ちいい。
触れ合わなければわからない、
伝わらないことはたくさんある。
【茜子】
「あ、だめ、そこ……おしり……っ」
【茜子】
「あぅ、ぅ、あ、胸、あ……」
【茜子】
「そ、そこはだぁ……ん――――っ」
ぶるっと茜子が震えた。
【茜子】
「……触りすぎ」
【智】
「もっといっぱい触りたい」
【茜子】
「超エロス人だこのひとは」
【智】
「冷えてる」
【茜子】
「来るのが遅いからです」
【智】
「寝坊しちゃって」
【茜子】
「遅刻2回で欠席1回にします」
【智】
「以後は気をつけます」
【茜子】
「よろしい」
【智】
「髪なら触ってもセーフなの?」
【茜子】
「試したことないです」
やめておいた。
代わりに、人形みたいに端整な顔を近くで見つめる。
【茜子】
「見すぎ」
【智】
「見るだけならタダだよね」
【茜子】
「拝観料」
【智】
「いくら?」
【茜子】
「また、泊めてください」
【智】
「いいよ」
茜子を部屋に連れ帰る。
いつかと同じようにベッドに座る。
茜子が隣に座る。
危険な距離に、ぺたりと腰を下ろして、
僕の方を見つめてくる。
【茜子】
「思ったより落ち込んでない」
【智】
「前みたいに、なってるって思った?」
【茜子】
「実は」
【茜子】
「その時は、私も必殺技を出すしかないと」
【智】
「あるの、必殺技……」
【茜子】
「それなりに」
【智】
「みんながあんなことでケンカして、些細なことでバラバラに
なって……」
【智】
「わかったんだ」
【智】
「甘えてたんだなって」
【茜子】
「ズルチンより甘かったですか」
【智】
「うんと甘かった」
【智】
「……甘えてた。
傷の痛みに、傷があることに」
【智】
「呪いの徴があるから、繋がっている――」
【智】
「そんなものは理由にはならないのに。
血のつながりだって、結びつきを保証しない」
【智】
「決まった未来を嫌ったくせに、
いつの間にか痣に未来を預けてた」
【智】
「裏返しだ」
【智】
「僕だってこれを聖痕だと思いこんだんだ。
痛みで繋がる、僕らの絆だって」
【茜子】
「えい」
【智】
「手の甲つねったら痛いよ」
【茜子】
「痛いですか」
【智】
「うんと痛い」
【茜子】
「やっぱり私は痛くないです」
【智】
「――そうだよね。
痛いのも苦しいのも、その人のものだから」
【智】
「手を差し伸べることはできる。
隣で支えてあげることだってできる」
【智】
「でも、痛みを丸ごと、
代わってあげることはできない」
【智】
「茜子が言ったんだよ。
一方通行の想いなんて積み上がらないって」
【智】
「触れ合うのは痛いけど、
そうでなくちゃ強くなれない」
【智】
「そんな簡単なこと、忘れてしまうくらい、
僕はすっかり甘えてた」
【智】
「気がついたら僕らは平和になってた。
以前のような敵はいない」
【智】
「呪いを解く――」
【智】
「8人がそろわなければ解けない呪い。
僕らの前に立ちはだかるのはお互いだけだ」
【智】
「誰もいないことが、
かえって僕らの間に不和を蒔いた」
【智】
「他人を信じる苦痛じゃなくて、
疑う気楽さに身を任せた」
【智】
「呪われた、僕ら自身。
呪われたこの世界」
【智】
「信頼と裏切りのルールはどちらも同じだ。
いつだって裏切りは多くをもたらす」
【智】
「疑いが消えることはない。
僕らはお互いを傷つける」
【茜子】
「どうするんです?」
【智】
「どうにかする。
こんな事はいつでもあるんだから」
【智】
「小さな疑いも、行き違いも、言葉の刺も、
ひっこみのつかない勢いも、汚い裏切りも、
自分のちっぽけな矜持(きょうじ)も」
【智】
「当たり前なんだって思う。
ケンカしたら仲直りすればいいし、
すれ違ったらやり直せばいい」
【智】
「相手を許し合って、
もう一度始めればいいんだから」
【茜子】
「バラバラなのに?」
【智】
「バラバラだから、
手を繋いだらその分嬉しくなるんだよ」
【茜子】
「…………」
【智】
「もう一度みんなを呼んできて、呪いを解く」
【智】
「手伝ってくれる?」
【茜子】
「なんでもお任せ」
【智】
「今度こそ、やるよ」
【茜子】
「何を?」
【智】
「決まってる」
るいは幾人かの観客に囲まれながら、
街角でベースを奏でていた。
【るい】
「………………」
ベースという楽器はしばしば地味だと思われがちだが、
案外そうでもない。
目を瞑ったまま酔うように指先を躍らせて、
四弦から音を紡ぎだす。
力強い、男っぽい音。
るいらしい。
低音が長く尾を引いた。
極めてあっさり、るいの独演は終わった。
まばらな拍手とともに、ベースケースにいくばくかのお金が、
お賽銭みたいに入れられる。
この小銭は、きっと、るいの食事代になって
すぐさま消えてしまう。
【るい】
「ひーふーみー……カレーパンなら5個くらい買えるかな」
おひねりを数える。
目の前に少年が座り込んでいた。
【少年】
「あの、前にもここで演奏してましたよね!
僕もベーシスト目指してるんです! 良かったらもう一曲……」
キラキラ輝きそうな目で、るいを見つめる。
【るい】
「あー……ごめ。今日はちょーっと調子悪いから」
【少年】
「じゃ、また今度聞かせてください!」
また今度。
それは出来ない約束だ。
ぴらぴらと手を振ってあっちへ行けとジェスチャーしてから、
逃げるように荷物をまとめる。
【智】
「聞かせてあげればよかったのに」
【茜子】
「むしろ個人指導でフラグを立てるべき」
【るい】
「トモ! アカネ……!」
【るい】
「あ……、あ……!」
考える前にくしゃくしゃになった。
【智】
「あ?」
【茜子】
「亜?」
【るい】
「会いたかったよおぉぉ〜……っ!!!」
跳んできた。
散りかけていた観客も全員振り返るような大声で。
容赦無用に抱きつかれる。
【智】
「ぎゃわあああ、死ぬ、死んじゃう、ギャグじゃなく死んじゃう、るいが思いっきりやったら、僕がまず最初にしんじゃうううう!!!」
【るい】
「うえぇぇ……、会いたかった……!
トモも、茜子……会いたかった……!
わたし、わたし〜……っ!!」
【智】
「あぐあぐあぐあぐあぐあぐ」
心なしか嬉しそうに。
【茜子】
「……せいぜい巨乳の感触を堪能するが良いです」
心なしか白い目で。
【るい】
「えぐ、ひっく……、トモぉ……アカネぇぇ……!」
【智】
「あ……あのね、るい」
【智】
「約束はしなくていいから、僕の後を、しっかり前見て
追いかけてきて」
【るい】
「えぅ……ふぅ、ふぐ……なに、なに、するの?」
【智】
「呪われた世界をやっつけるんだ」
【るい】
「イヨ子とかこよりんとか、花鶏とか……メグムとか、
いえんふぇーとか……どうするの?」
【智】
「全員仲直りする。全員で呪いを解く」
【茜子】
「一番お手軽なのは拾っちゃったので、
残りは難度高そうなキャラ目白押しです」
【るい】
「るいさん、お手軽なのか」
【茜子】
「変態と乳無しはどっちも256発撃っても壊せそうないほど、
頭が固いですから」
【智】
「大丈夫、みんな一回はクリア済みだし」
【茜子】
「…………私はとても傷つきました」
【智】
「えー、そこなの!?」
【智】
「るいには、央輝たちの居場所を捜してもらってる」
【茜子】
「ケンカになっても知らんですよ」
【智】
「殴り合ったらそれも友情で。明日から手段を選ばず順次クリア」
【茜子】
「思いっきり前向きに卑劣です」
【智】
「後ろ向きよりは生きてる価値があると思うんだ」
時刻は8時半。
買い物帰りの茜の下を、茜子と歩いた。
後ろについて来るのは猫2匹。
横目で観測するうちにもう1匹増えた。
記憶が正しければ、前からガギノドン、
デスエンペラー三世、うしろの1匹は知らない奴だ。
【智】
「一番後ろの子、なんて言う名前なの?」
【茜子】
「ゴルホーズです」
【智】
「寒い国にありそうな名前だね」
【茜子】
「約束通り今夜は泊めてもらいます」
【智】
「覚えてた」
【茜子】
「茜子さんメカのメモリーを舐めてはいけません」
【智】
「問題が一つ」
【茜子】
「なんなりと、ダディ」
【智】
「お泊まりすると、呪いを踏ませちゃったりするかもしんない」
【茜子】
「…………」
【智】
「…………冗談ですから」
【茜子】
「すぐに解けるんですよね?」
【智】
「何が?」
【茜子】
「呪い。今度こそ」
【智】
「…………」
【茜子】
「…………冗談ですから」
【猫】
「フギャーッ!」
猫たちが騒いだ。
毛を逆立てて逃げ去る。
警戒した。
獣たちのレーダーが感知したものを見る。
【茜子】
「なんですか?」
【智】
「バイク」
前方に。
凶悪なフロントカウル。
夕刻に朧なライトが単眼を連想させる。
威嚇じみた爆音に睨まれた。
まっすぐな殺意。
立ち竦んだ茜子を突き飛ばして、飛び退く。
【茜子】
「――――っ!?」
唸り声じみたエンジン音が擦過した。
直前までいた場所を黒い影が通り抜ける。
当たれば骨くらい折れていた。
黒いライダースーツとフルフェイスのヘルメット。
大型のバイクを含めて、見覚えがあった。
【智】
「――――花鶏?」
【智】
「花鶏! いったいどうしたの!?」
花鶏はそのまま走り去る。
数百メートル先の角を曲がって消えた。
【茜子】
「あのメガネが言ったように、すでに人知れず呪いを踏んでいた
のでは」
【智】
「それで僕らに呪いの死を被せに来たって?」
ない、とは言い切れないけれど。
るいと出会った夜、花鶏に襲われたこともある。
花鶏は強く激しく手段を選ばない。
呪いというタイムリミットを設けられれば。
あるいは。
【智】
「だからって、道ばたで襲えばノロイが満足するわけでもないだろ――」
【茜子】
「また来ます」
周囲の道を軽く回ってUターンしてきた。
真っ直ぐ狙ってくる。
逃げた。
【智】
「痛ッ!!」
体に遅れた指が思い切り弾かれる。
ブレーキの金切り声。
バイクは再び回り込んでくる。
【茜子】
「大丈夫ですか!?」
【智】
「指かすっただけ……」
【茜子】
「また来ます!」
背を向けて逃げ出せば余計に危ない。
【茜子】
「このままじゃ……」
【智】
「でも」
【智】
「こいつは花鶏じゃない」
【茜子】
「え?」
本気の花鶏はもっと容赦ない。
遊ぶより先に叩きつぶす。
こっちはとっくに轢かれてる。
【智】
「花鶏は、もっと綺麗だったんだ」
【茜子】
「私はとっても不機嫌になりました」
【智】
「えー」
他にいい言葉が出てこない。
外見を似せても、違う。
わかる。
繋がり、触れ合い、はじめてわかるもの。
花鶏は強い。
孤独の頂きで上を見るひとだ。
【茜子】
「……偽者?」
謎のライダーがハンドルに体重をかける。
深く前傾姿勢を取る。
とどめを刺す。
黒い車体が刃物となって鋭く刺し込んできた。
【茜子】
「危ない!!」
横っ飛びに。
茜子の華奢な体が飛び込んできて。
風圧と速度が鼻先をかすめた。
派手に地面を転がる。
際どく避けられたバイクの車体が制止しそこねて、
シャッターを閉めた商店の壁に激突した。
【智】
「だ、大丈夫? 助かったよ……」
【茜子】
「………………………」
茜子は、発作みたいに震えていた。
【智】
「茜子……?」
すぐに茜子の震えの理由に気がついた。
僕は――
【智】
「あ……」
僕は、茜子の頬に。
【茜子】
「わ、私は…………」
茜子の頬は柔らかかった。
ライダーのメットが弾ける。
フェイス部分が砕け散った。
幾つもの方向からガラスの割れる音が鳴り響く。
高架下でも聞いた。
これは、呪いの知らせだ。
【ライダー】
「っ……!」
やはり花鶏じゃない。
フェイスの砕けたライダーは、
顔を覚えられることを恐れるように身を翻して走り去る。
【茜子】
「触れて……しまった」
心臓を掴まれたような違和感がきた。
視界の隅に何かが動く。
それが、いた。
斜陽が朱に染めた電柱の柱の上。
細く長い手足を伸ばした、
蜘蛛を思わせる影が張り付いている。
【茜子】
「うあぁあ……っ」
【智】
「……茜子、大丈夫!」
根拠などなく。
茜子の手を引いて走り出す。
『ノロイ』――――。
4度目の出会いだ。
いくらか余裕がある。
城壁も、武器も、『力』も――――通じない。
物理法則さえ無視して迫る。
でも、ルールはある。
央輝の話によれば、
一度逃げ切ればしばらくは現れない。
早くて二日、長くて四日に一度程度のスパン。
ノロイは不条理でも不可解でもない。
見えないルールで動いているだけの仕組みだ。
呪いは仕組み。
答は、いずるさんが最初に会ったときから、
教えてくれていた。
【茜子】
「智さん……智……っ」
【智】
「こっち!」
走り抜けると大通り。
交差点の選択肢が目の前に来る。
前。
だめだ。
慌てて隣の通りに移動する。
ブレーキ音がすぐ後ろに。
今いたところを乗用車が通過した。
黄色い車体の上に黒い影――ノロイがいる。
【茜子】
「ひぃ……っ」
激突音を後方に聞きながら逃げる。
次はいつ来る。
あとどれくらい逃げればいい。
右。
左。
左。
運にまかせて街を走る。
左――――
首筋がちりついた。
行きかけた足を止めて、
来た方向へ引き返す。
奇異の目を向けてくる、
ノロイの見えない人たちの中、
茜子の手を引いてひたすら走る。
不気味な破砕音がした。
さっきの交差点を左に折れた先――――
ビル壁から大きな看板が落ちてきたらしい。
あのまま左折していたら、
今頃はあれの下敷きだった。
【智】
「ほんとに冴えてる……」
確信がある。
ここは逃げ切れる。
だけど、その先は――――?
ノロイは眠らない。
ノロイは諦めない。
茜子か、他の呪われた者か。
代価を奪うまで追ってくる。
いつかは追いつかれる。
僕。
央輝。
茜子。
僕を除いても二人が呪いを踏んだ。
それに。
あのライダー。
きっと僕らを監視している奴らの仲間だ。
なら花鶏に化けて僕たちを狙ってきた理由は?
わからないことが多い。
でも、やるべき事は一つ。
問題を解決するためには、
問題を明確化すること。
【智】
「勝てばいいんだ!」
茜子の手を引きながら、
野良犬みたいに歯を鳴らして、精一杯の声を出す。
【智】
「――絶対に、呪いを解いてやる」
どうやらノロイから無事に逃げのびた。
部屋に二人で逃げこんだ。
【茜子】
「逃げられるなんて……」
【智】
「愛の力」
【茜子】
「恥ずかしい台詞は×です」
今日は大人しく、眠る。
茜子は早々とクローゼットに納まっている。
【智】
「しゃべるクローゼット怖いよ」
【茜子】
「早く寝れば怖くない」
眠れない。
【茜子】
「死ぬと思いますか」
【智】
「思わないよ」
【茜子】
「そうですか」
淡々とした会話。
【茜子】
「これで呪いを踏んだのは、わかってる分だけで3人ですね」
【智】
「そうだね」
【茜子】
「私は呪いは解かなくてもいいと、ずっと思ってました」
みじろぎする音。
クローゼットの中と外での奇妙な会話。
【智】
「……人間じゃないから?」
【茜子】
「茜子さんはロボットなのです。魔女なのです。恐怖のメカニカルウィッチーなのです」
【茜子】
「こんなこと、聞いたことはないですか」
【茜子】
「誰も居ない冬山で、誰一人知るものもなく1本の朽木が倒れた。誰も聞いていない木の倒れる音は、存在したのか、しないのか」
【智】
「聞いたことあったかなぁ」
【茜子】
「誰も触れない茜子さんの体温は、在るんでしょうか、無いんで
しょうか?」
【智】
「あるよ」
【茜子】
「私には、意味あるものも価値あるものもありませんでした」
【茜子】
「他人は、私にとって毒薬同然です。触れられたら死ぬ呪い。
一人でいないときはいつも怖くて、学園だってさぼってばかり」
【智】
「不良だね」
【茜子】
「誰もが私を怖がった。
私を魔女と最初に呼んだのはリアル母です」
【茜子】
「心の醜くない人はいなかった。
誰もが表面だけ取り繕って善意と平等の振りをした」
【茜子】
「自分のことしか考えてないくせに」
【茜子】
「だから、世界にはなにもなかった」
【茜子】
「呪いを解いても、仕方がないと思いました。だって、私は世界が醜いことを知っている。ここに価値がないことをわかってる」
【茜子】
「死ぬのもいやだけど、こんな世界に混じるのもいやだった。
何もかも醜いくせに嘘で固めて綺麗な振りをし続ける、こんな
場所……」
【智】
「僕も、きっと醜かったよね……」
【茜子】
「……すごくエロスで」
細い声で。
【茜子】
「でも、あなたは必死でしたね」
【智】
「余裕つくれるほど才能無いから」
【茜子】
「あなたは私とよく似てた。私は力で世界を拒んだけど、あなたは嘘で世界と折り合いをつけようとしていた」
【茜子】
「嘘で世界を突き放して、自分自身も嘘だらけなのに、がんばってくれた」
【智】
「……楽しかったから、がんばれたんだ」
【茜子】
「楽しかったですか」
【智】
「自己犠牲みたいな崇高なものじゃないよ」
【智】
「楽しかったから。誰かと一緒にいるのは。誰かのために何か
するのは」
【智】
「手を繋ぐってそういうことだと思う。
見えない何かをやり取りする」
【茜子】
「やり取り……」
【智】
「僕が茜子に見えない何かをあげたのなら、茜子だって僕に
たくさんのものをくれたよ。みんなそうだから。人と人って
相互的だから」
【智】
「どんなに醜くて悲しい場所でも、それがあるから、やっていけるんだと思う」
【智】
「やっぱり茜子の手は温かかったよ。メカなんかじゃなくて……
とても温かかった」
【茜子】
「信用できません。もう一度、確かめてください」
決闘に挑むみたいな足取りだった。
ずんずんと歩み寄ってくる。
ぎゅっと目を閉じる。
目の前に。
ここへ来るまで、
ずっと茜子の手を引いていた。
新しいノロイが現れた様子はない。
これもきっと『ノロイ』のルール。
一度に、ノロイは一人しか殺さない。
同じように。
一度に、ノロイは一体のみ。
一つの痣から、同時に多くのノロイが現れることは無いんだろう。
茜子は、すでに呪いを踏んでいる。
今なら触れても……。
【智】
「……」
手を伸ばしかけて躊躇った。
触れただけで壊してしまいそうで。
【茜子】
「確認……してください……っ!」
思い切り飛び込んでくる。
小さな体を受け止めてた。
【智】
「茜子のからだ、あったかい」
でも震えてる。
【茜子】
「もっと、確かめて……」
【智】
「いっぱい触るよ」
内に秘めた心とはうらはらに。
儚げで華奢な体。
人の手が触れてはならないもののよう。
【茜子】
「ふぁ……っ!」
親鳥が卵を守るみたいに、
脆い骨の感触が見え隠れする茜子の体を抱きしめる。
服越しに僕の体温が伝わるだけで、
茜子は吐息を洩らして身を震わせた。
誰も触れたことがない。
誰にも触れられたことがない宝物。
【茜子】
「ん……っ、はぁ、はぁ……暖かい……熱い……。はぁ……はぁ……はぁ……っ、あ……ぁ……」
綺麗に切りそろえられた髪に指を梳かして、
優しく頬を撫でる。
【智】
「茜子の肌……すごく綺麗だね」
【茜子】
「ふぁ……っ、ぁ……。わ、私、人に触ったことがないから……
っ! 撫でられる……だけで……はぁっ、はぁ……」
人肌の感触をほとんど知らない茜子の肌。
普通では考えられないほど敏感だ。
ただ頬を撫でるだけで全身が敏感に反応した。
【智】
「可愛い」
【茜子】
「ふぅ……んんっ! 少し、くやしいです……はぁ、はぁ……指先だけでこんな……されて……っ! んっ、はあぁぁ……」
優しく体を抱きながら
頬を撫でるだけでこんなになってしまう茜子。
これ以上のことをしたらどうなるんだろう。
好奇心と愛しさに後押しされて、
なだらかなふくらみに手を伸ばす。
【茜子】
「ひあ……っ!」
初めての刺激に、感電して茜子が背を反らす。
【智】
「だいじょうぶ?」
【茜子】
「は……っ! は……はい……んんっ! ちょ、ちょっとびっくりしただけですから……ぁっ、んく……はぁあっ……、も、もっと……触ってください……、触って、確かめて……」
茜子は下唇を噛む。
強すぎる刺激に耐えようとする。
少しの間でもぬくもりに慣れる時間を与えてあげるため、
幼さの残る顎を持ち上げて唇を吸った。
【茜子】
「ん……っ、ん……ん…………。ふぅん……、んちゅ、ん…………」
唇さえも敏感に震える。
僕の動きひとつひとつに反応する。
そっと当てた手の平の中、
薄い胸の下で茜子の鼓動が確かに感じられた。
【茜子】
「ん……っ、ん……。智さ……ちゅ、ん……っ。はぁ、はぁ……
あ……」
【智】
「ちょっと慣れた?」
【茜子】
「初めて……なんですよ……?
そんな簡単に、慣れるわけ……ふああぁ……っ!」
小さなおしりの下。
手をまわして、こねたお尻は小さく固い。
ぎゅっと、しがみついてきた。
【茜子】
「でも……もっと触って欲しいです……。
私の初めて感じる、感触……ぜんぶ埋めつくして……」
【智】
「ん……」
唇を、また吸う。
茜子の感覚を全部自分で埋めてしまいたい。
独占欲だろうか。
【茜子】
「あっ……! あ、ああ……っ!」
壊れてしまいそうな痩せぎすの体。
浮いた肋骨も首筋も。
細すぎる足も折れそうな手首も。
そのすべてを確かめる。
【茜子】
「ふぅ……く……っ、んっ、はぁ、あ、はあぁぁ……。ひぅうんん……っ! もっと、もっと……確かめて……」
【智】
「茜子の全部、僕でいっぱいにする」
【茜子】
「はい……。もっともっと、触って欲しい……です」
【智】
「手袋はずそうか」
【茜子】
「ん……っ」
小さな手を覆う手袋を慎重に抜き取る。
真っ白な手が現れた。
初めて見る茜子の手に、指を絡ませる。
【茜子】
「んふ……ぁ……」
【智】
「服も……」
【茜子】
「ん……」
茜子は少し恥ずかしげに頷く。
これから何をどうしたいのか、
そんな思いまですべて茜子には見えているんだろうか。
指先が逸った。
【茜子】
「んっ……ふあ……ぁ……」
首もとをはだける。
はっとするほど白い鎖骨にちろりと舌を這わせる。
もっと、もっとすべてが見たい。
【茜子】
「くぅん……、んっ……。自分が次に何をされるのか、見える
というのは意外と恥ずかしいものです」
【智】
「じゃあ、目隠しでもする?」
【茜子】
「やっぱり超エロスだ……」
両手をまわして背中を撫でる。
びくびくと全身が震える。
【茜子】
「はっ……ぁあ……っ! んくぅ……ん……」
背中から腰をまわって、
なめらかなおなかの肌を楽しんで胸にのぼる。
隔てるものが下着1枚になる。
茜子はいっそう辛そうに奥歯を噛んだ。
【茜子】
「ん……っ! はふ、んんんん……っ!!」
【智】
「ごめん、きつかった?」
【茜子】
「……ここでやめたりしたら、絶対許しません……。鎖骨のくぼみを全部パテで埋める刑です……」
困らないけどイヤ度が高い。
【智】
「やめてっていっても、やめないから……」
【茜子】
「はい……、もっと……触ってください」
敏感な胸には手を置くだけ。
比較的感覚の鈍い足やおなかのあたりを中心に。
触れていく。
産毛の感触まで確かめるほど丹念に。
【茜子】
「はぁ、はぁ……んっ……! 遠慮……してますね……くふぅんん……ひうっ! ん……はあぁぁ……」
指摘されても、乱暴にはできない。
ほとんど触れるか触れないか。
魔法をかけるみたいな手つきの愛撫で。
茜子に人肌の感触を教えていく。
【茜子】
「あうぅ……く……っ、んんんっ! はあぁんんんっ……と、ともさん……あふっ、んくぅぅ……!」
玉の汗が浮かんだ背中を撫でる。
薄いおなかをすべり、手が下着の中に潜りんだ。
【茜子】
「ふああぁ……、手、あついぃ……っ」
【智】
「胸は敏感すぎるから、こっちのほうがいいみたいだね」
ゆるゆると小舟のように動かす。
【茜子】
「あ、ふぅ」
手が動くたび反射的に身を固くする。
もう一度唇を重ねた。
回数を重ねるたび、素直にキスを受け入れる。
目蓋はギュッと閉ざしている。
【智】
「ん……」
【茜子】
「ん……、ちゅ……。ん……んふ、ん……」
体が求めるままに舌を伸ばした。
茜子の口の中に侵入する。
【茜子】
「んんんっ!?」
【智】
「んっ! ……いたた」
一瞬舌を噛まれてしまった。
【茜子】
「んぅ……ごめんらさい…………」
力いっぱい閉じていた目を開いて、
茜子が上目遣いの目線で謝っていた。
お詫びとでも言いたげに。
茜子はおずおずと自分の舌で僕の舌を舐める。
【茜子】
「ぺろ、ぺろ……、ぺろっ。ん……ぺろぺろ……ぺろ……」
小さな舌でぺろぺろと舐める。
まるで猫みたいだ。
横から四度目のキスをする。
舌を合わせると途端に舌が艶を帯びた。
粘つく唾液が二人の舌とともに絡み合った。
【茜子】
「ぺちゃ……んちゅ、ちゅぷ……ん……んんっ! んうぅ……ぺちゅ、ん、ちゅ……」
舌を絡ませながら次第に強く抱きしめた。
舌も唇も唾液も混ぜ合わせつつ口の中を貪る。
生暖かくて思考を溶かす感覚。
茜子の緊張がほぐれていく。
【茜子】
「ん……ちゅ……、ん……。ちゅぷ、ぺちゃ、ぺちゅ……ちゅる……ん…………ふあぁぁ……」
完全に力が抜けた。
茜子はぐったりと全身を投げ出していた。
【智】
「リラックス……できた?」
【茜子】
「ふあ……はぁ、はぁ……。ぁ……、しすぎ……です……」
浅い呼吸で胸を上下させる。
茜子は口元のよだれすら拭うことができない。
そろそろもっと先へと進みたい。
【茜子】
「あっ……、待って下さい」
意図を読まれた。
両手で胸を庇う。
下着を脱がそうとした僕の手を留める。
【智】
「恥ずかしい?」
【茜子】
「当たり前……です」
身体を寄せた拍子に太もも同士が触れた。
【茜子】
「ひゃぅんん……っ!」
震える肩を撫でれば、それすらも刺激となって茜子の息を詰まらせる。
【智】
「大丈夫だから」
【茜子】
「んは……ぁ……、わ、わかってます……。気持ち、見えますから……。それに……んんっ!」
また硬くなってしまいそうな体を掴まえる。
抱き寄せた首筋にキスをする。
【茜子】
「はぁあ……っ! それに……それに、本当は私だってもっと……触って欲しい……」
【智】
「どうすればいい?」
茜子が首筋にぎゅっとしがみつく。
幼い動物が母に対してするような懸命さ。
茜子は新しく生まれ変わる。
鎧も力もない裸の身体と心で、
残酷で無慈悲な世界に立ち向かうために。
【茜子】
「少し……準備期間を要求します」
【智】
「メンタルな準備という意味で?」
【茜子】
「メンタルな準備という意味で」
手をゆるめて開放する。
茜子はベッドに座り込んでぺこりとお辞儀した。
【茜子】
「ご理解まことにありがとうございます」
こんな時にまでシュールなやりとりだ。
【智】
「…………はひぁっ!?」
油断した瞬間、不意打ちされた。
お辞儀したそのままの姿勢で、
茜子がいきなりスカートの上から
僕の股間を掴んできた。
【智】
「殿中でございますよ!?」
僕は混乱していた。
【茜子】
「それでは準備期間とはいえ、コレを放置するわけにも
いかないので」
【智】
「え……待っ……茜子!?」
【茜子】
「待ったなし」
茜子の手がスカートの中に入ってきて、
僕のモノを愛おしげにさすり始める。
当然、そこは熱く硬くなっていた。
【茜子】
「こんなに硬くなるものなんですね……」
【智】
「ぅあ……茜子……」
下着とブルマの上からさすった。
手の平に触れる感触も、
茜子にとっては大きな刺激なのだろう。
愛撫する手は震えていた。
【茜子】
「それに、こんなに熱くなって……ここ、他の部分より
体温高いですか?」
【智】
「そ、そんなの計ったことないよ……っ」
間近からじろじろと観察される。
形が浮き出てしまっていて恥ずかしい。
【茜子】
「そうですか……こんど計ってみましょう」
【智】
「いいって」
【茜子】
「ところで苦しそうですね。脱がせましょうか……」
抵抗するのもおかしいし、
自分で脱ぐと言い出すのも何かおかしい気がする。
迷っている間に、
茜子は硬くなって上を向いたモノを露出させた。
【茜子】
「前のときと……ぜんぜん違います……」
【智】
「あの……茜子さん?」
大きくなったモノを凝視されると恥ずかしい。
【茜子】
「あの!」
手を添えたまままっすぐに見つめてくる。
頬には紅の色が混じっている。
【茜子】
「体に触れられたの、はじめてです。あの……すごく、気持ち
よかったです……」
【智】
「う、うん……」
【茜子】
「だから私も……お返し。いいですよね?」
【智】
「うん……」
頭がぼーっとしてしまって、
バカみたいに頷くことしかできない。
【茜子】
「じゃあ…………、はむ」
【智】
「あ、茜……うわぁ…………っ」
咥えられた。
ここまでしてくれるなんて、予想外。
【茜子】
「んぐ……くひのなかれ……すごくおっきく……んん……っ」
ぬるりとした粘膜につつまれる。
【智】
「そ、そんな……口でしてくれなくても……っ」
清潔にしてるつもりでも場所が場所だ。
嬉しいのだけど、気が引けるのも事実だった。
【茜子】
「手は……びんかんなのれ……、口のほうが……んむ……ん……ちゅぅ、ちゅぅ、んむ、ちゅる……っ」
【智】
「くぅ……っ」
下半身の感覚が頭の中を塗りつぶす。
なにを言ってるのか聞き取れない。
胸から息がせり上がってきて、呼吸が荒くなる。
【茜子】
「らから……ちゅぱっ、ん……ちゅ、ん……ちゅるっ、ん、
ぺろぺろ……ちゅぷ……んは……、あむ、ん……」
堪らず茜子の頭を両手で掴む。
【茜子】
「ん……ちゅ、ちゅ、んぷ……じゅぷぷぷ……んっ、んふ……ん……。じゅぶぶ、じゅる、れろ、れろ、ちゅぽっ! ぺろ、ぺろぺろ……」
本物の猫みたいな小刻みな舌遣い。
小さな口には入りきらないモノを一生懸命舐める。
ぬるつく口腔と舌の感覚。
目眩にも似た快楽だった。
【茜子】
「ん……ぺろ、にゅる、ちゅ……こっちをちゃんと向いてください……れろれろ、めろぉ……」
【智】
「ん……でも……っ」
背筋を駆け上がる電気に、
顔を仰け反らせたら注意された。
どうやら僕の顔を見て、
気持ちいい場所を探りながら舐めているようだ。
【茜子】
「ぺちゅ、じゅるる、ぬろぉ……、ちゅっ。んぷ……れろ、れろ……ぺろ、ちゅ、ぷちゅる……ん、ぺろぺろ……」
【智】
「うあ……こ、これ……っ」
舌使いは見る間に的確になっていく。
茜子は僕の弱点を巧みに責めた。
先端を広げた舌で幅広く先端を包む。
尖らせた舌先で裏筋を上下になぞる。
【茜子】
「んろぉ……、ちゅる、ん、んちゅ、ぺろぺろ……、んんぅ……、ちゅっ! ん……ねろぉ……ぺろ、ぺろ……」
【智】
「あ、あかね……っ」
【茜子】
「……んんっ、ん……」
玉を優しく口に含んで、茜子は艶っぽく笑った。
【茜子】
「ぺろぺろ……んっ、ちゅうぅ〜……ちゅぱっ! ちゅ、ちゅ……ん……智さん、気持ち良さそう」
【智】
「う……うんっ、すごく、いいよ……でもここままじゃっ!」
なんというか。
本当に我慢しきれない。
茜子の悶える声を聞いただけでもはちきれそう。
それがこんなことまでされて。
【茜子】
「ぺろ、ぺろぺろ……ぷちゅ、んぷ、ちゅぽ……れろれろ……、
いいですよ。口に出してください……ちゅぶぶぶ……ぬりゅ、
れろ……」
【智】
「う……っ!」
茜子が僕のモノを深く飲み込む。
少し苦しそうな息づかい。
唾液の多い口の中で、器用に舌が動いた。
限界が急速にやってくる。
【茜子】
「んぷぷぷ……じゅぶぶぶぶ……、じゅる、ちゅうう……、ぬりゅ、じゅぷ、ん…………んんんんっ!?」
抑えきれず腰がひとりでに飛び跳ねた。
茜子の喉の入り口まで、
滾るものが蹂躙する。
唇が僕を根元まで包み込んだとき、
下腹に充満していた快楽が爆発した。
【茜子】
「んんっ!! んぷ……んっ!」
【智】
「ああ……っ! あ……! ぁ…………」
【茜子】
「んっ! んんぅぅ〜っ! んぶぷぷ……ん〜!」
電気ショックを与えられたみたいに
繰り返し腰が飛び跳ねて、そのたび熱いものが迸る。
ほとんどすべての容積を僕のモノで満たされている茜子は、
繰り返し吐き出される精を飲み込むこともできず、
どろりと口のまわりに溢れさせた。
【茜子】
「んぶ……ん……ぷぁ……。げほっ、げほげほっ! んぁ……あぅ……んぁ…………」
【智】
「ご、ごめん、だいじょうぶ……?」
もともと口の中が狭いのか、
茜子はほとんどすべてを溢れさせて吐き出した。
【茜子】
「うえ……げほっ、げほっ……ん……んんん…………。ものすごく……」
【智】
「ごめん……、すごく気持ちよくて」
【茜子】
「……これ、ものすごく……マズいです」
自分から口に出していいと言ったのに……。
思い切り睨まれた。
いったいどんな味を期待してたんだ。
吐き出したものを軽くぬぐう。
いよいよもう一度茜子をベッドに横たえようとしたら、
するりと腕から逃げられた。
【智】
「茜子? まだ心の準備期間、いる?」
【茜子】
「いえ、そういうわけでは……」
這い寄ろうとしたらまた逃げられる。
【茜子】
「顔が見えると次にされることがわかってしまうので……
どうしても緊張してしまいます」
身構えてしまうのだろうか。
かと言ってどうすればいいだろう?
やっぱり目隠し?
【茜子】
「そんなに目隠ししたいんですか、このエロス」
【智】
「い、いや……あくまで解決手段のひとつとして」
【茜子】
「智さんの顔が見えることが問題なので……えっと、このまま……」
這って逃げていた姿勢から、
茜子は少し恥ずかしげにおしりを持ち上げる。
可愛い、小さなおしりを前にして、
無意識に唾液を飲み込んだ。
【智】
「後ろから……?」
【茜子】
「はい。そのほうがきっと……、あ……そんなギラギラした目で
見ないで下さい……」
【智】
「そ、そんなつもりは」
茜子には心の中が見えている。
潤んだ瞳で僕を招く。
全てを許して、全てを受け入れるために。
【茜子】
「あの……月並みですが、優しくしてください……」
【智】
「……無理」
【茜子】
「ケダモノです、このひとは」
はじめてなんだから。
優しくできるかどうかわからない。
だから気持ちだけは限りなく、
優しくしよう。
【茜子】
「はふ……触られるより見られるほうが、どっちかと言うと
恥ずかしいので……」
催促するようにおしりが持ち上がった。
緊張する手を一度強く握り締めてほぐしてから、
持ち上げられたおしりを包む下着に手をかける。
【茜子】
「ん……」
するりと下着をずらす。
果実のような丸いおしりが現れた。
さらけ出された股間はすでにぬかるんでいた。
下着との間に糸を引いている。
【茜子】
「はあぁぁ……見られてる……」
もう一度唾を飲み込んで、
ゆっくりと指先を肉色の割れ目に近づけていく。
茜子は顔を背けたまま。
両手でシーツを握り締めていた。
【茜子】
「はぁ、はぁ……ん…………んぁぁ……っ!」
指一本さえ入るように見えなかった割れ目は、
近づけるだけでぬるりと指先を飲み込んだ。
他人の侵入する感触に、茜子の背中が仰け反った。
【茜子】
「きゅうぅぅんんんっ! あはぁっ! あ……、んんん〜……っ! はうぅ、ん、くはあぁ……っ」
できるだけゆっくり、
ぬるぬると愛液を絡ませながら指を出し入れする。
他の子と比べてどうなのかはわからないけれど、
茜子はこの部分もおそろしく敏感だった。
【茜子】
「ひんっ! んっ! ともさんのゆびがぁ……っ、なかで、
うごいて……あうぅ、んんぁあぁぁぁっ!」
茜子は身を捩らせて悶える。
けれど、こうしてほぐしておかなければ、
余計に茜子を苦しめることになる。
【智】
「僕が茜子のここ、よくほぐしてあげるから……」
【茜子】
「ひああぁぁ……っ、あ、あ、あ、あっ! はああぁぁ、くうぅぅんんっ! んんんんっ! はあぁぁぁああぁぁ……あああぁぁ、あああぁぁあぁぁ……っ!!」
ほとんど泣き声みたいな声をあげる。
茜子は、僕の言葉に答えることもできない。
指を出し入れするごとに全身が震える。
それにひかれて指を咥えた肉襞が淫らに蠢く。
【茜子】
「はぁ、はぁっ、か……体のなか……おかしくなっちゃいそうで……っ! ひんんっ、ふあ、あ、あぁぁ……っ!」
2本目の指を入り口にあてがった。
少しずつ力を込める。
じゅぷじゅぷと蜜を押し出しながら指が沈み込む。
茜子が可愛い悲鳴をあげた。
【茜子】
「ふああああぁぁあぁぁ……っ! ひろげられてますぅ……っ、
ともさんの指、私のなかいっぱいにして、あううっ! はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ」
敏感すぎる感覚とは
裏腹に指をすんなり受け入れる。
大量の潤滑油のせいで往復させるにも問題がない。
浅く出し入れする。
【茜子】
「ふああぁんんっ、あっ、あっ! くうぅ……あんんっ! あはあぁぁ、きゅんんっ、んっ、ひんんん……っ!!」
【智】
「痛くない……大丈夫……?」
【茜子】
「だい、じょ……ぶ、ふぁ、んんっ……あ……ぅ」
肉壁の中で2本指を交互に動かす。
蜜をかきまぜる。
ゆっくりゆっくりと何度も往復を繰り返した。
ほんの僅かずつ挿入を深くしていく。
【茜子】
「はあぁぁぁ、はああぁぁあぁ……、あっ、あっ! ぐ……
ひぐ……、くぅんんっ! あ……くっ、んんんんっ!」
滴り落ちた愛液が、ベッドのシーツをぐしょぐしょにしていた。
これだけ感じていれば……。
もう少し深く入れても大丈夫だろう。
【茜子】
「きゃあああぁぁぁっ!!」
ぐっ……と力を込めて指を挿れる。
ぶるぶると茜子の体が痙攣した。
【智】
「痛かった?」
【茜子】
「は……っ、あ……っ! ぁぁあっ!! ……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………。す、少し……痛かったです……で、でも」
目元に涙、
口元には笑みを浮かべて振り返る。
【茜子】
「でも……もっと触ってほしい……。智さんに……私の中も、外も、ぜんぶもっと触ってほしい……」
【智】
「ん……」
【茜子】
「んんんんんぅぅぅ……っ」
胸がはちきれそうな、感情の波。
茜子の中を愛撫する。
中も、外も。
もう片方の手も添えて、
割れ目に挟まる可憐な肉の突起にも触れた。
【茜子】
「ひぅっ! んぐぅ……、はぁぁっ、あ、あっ! んああぁぁっ! はんんっ、んっ、んっ! くうぅぅんんん……っ」
肉豆を指の間で転がしながら、
挿入した指を何度となく往復させる。
茜子の腰が意思に反して淫らにくねり出す。
太ももはそれを恥じるように、
幾度も閉じようとしては弛緩するのを繰り返した。
【茜子】
「あっ、らめ、それらめっ! あああぁ……っ! ひうぅぅぅぅ……っ! き、きもちいぃですぅぅ……っ」
擦り合わされる細い太ももの間。
ぬめる愛蜜がぬり広げられて、
内股ぜんぶが卑猥な照りを帯びていた。
腰が疼いた。
一度果てたモノも、
さっきより大きく猛っている。
【茜子】
「はあぁぁっ、あっ! あくぅぅ……、んんっ、はぁ、はぁ、はぁ……っ、あう……んんんんんっ! くあぁぁぁ……」
今すぐにでも一つになって乱暴に腰を動かしたい。
本能の衝動に堪えながら愛撫を繰り返す。
指はすでに根元まで入るようになっていた。
【茜子】
「んんんんぅぅ……っ、もっと、もっと触ってくださいっ!
智さんの指で、もっと、もっとぉ……っ」
肉豆を少しだけ強めにつまみあげる。
茜子の腰ががくがくと揺れる。
【茜子】
「ひあぁうっ! きゅぅんん……っ! はっ、あっ、あんん……っ!! もう、私、ふあああ……っ!」
吠えるみたいになんども背を反らせる。
茜子はシーツを引き裂きそうなほど、
強く手を握り締めていた。
挿入した指を曲げて肉壁をこすり上げる。
【茜子】
「はあぁぁっ、きゅうぅ……んんんっ! はぁ、はぁ、あっ!
ああああぁっ!! ん、んんんっ! ふああぁぁ……っ!」
指がきゅうっと搾られる。
一瞬、茜子は呼吸も止めて仰け反った。
【茜子】
「あ、あ、あ、あ…………あああああぁぁあぁぁぁ……っ!!」
茜子は達していた。
長く尾を引く悲鳴をあげる。
何度も収縮する。
性器から愛液とは違う透明の体液が噴き出す。
勢いよく出たそれは、僕の顔にまで飛んでくる。
【茜子】
「ひああぁぁ……あっ……ああああっ、あ、あ……っ!
ああぁぁ……、ぁ……あっ、あ…………!」
激しい絶頂の波が続く。
茜子は動物のように何度も腰を跳ねさせた。
恥じらいさえ消し飛んでいた。
頭の先から爪先まで最後の大きな緊張が駆け抜けたあと、
ぐったりと脱力する。
【茜子】
「あぁ……は……はああぁぁぁ……、あ……はぁ、はぁ……はぁ……はぁぁ、はぁ……」
荒くなりすぎた呼吸が、
不規則で途切れ途切れになっている。
なんとか力を出して振り返った顔は、
涙でぐしょぐしょになっていた。
【智】
「茜子……すごく可愛い……」
【茜子】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………っ」
指だけでこれだけ激しく感じてしまう。
これ以上はまだ無理なんじゃ……。
【茜子】
「……だめ…………」
茜子は僕の脳裏を掠めた想いを素早くすくい取る。
ふるふると首を振った。
【茜子】
「だいじょうぶ……ですから。来てください……」
【智】
「茜子」
【茜子】
「私は、あなたと繋がりたい……です」
神妙にならないよう、
微笑みを浮かべて頷いた。
繋がる身体。
繋がらない人と人。
人の間には埋められない距離がある。
だから。
僕らは寄り添う。手を繋ぐ。
過ぎ去る刹那に心を重ねて、
埋まらない距離を埋めていく。
【智】
「もっと、茜子のことを教えて」
【茜子】
「はい、智さん……好きです」
【智】
「僕も好きだよ。茜子」
愛液でべちょべちょになったおしりを
両手で持ち上げて、性器同士を密着させる。
火傷すると錯覚するほどに熱かった。
【茜子】
「来てください……」
【智】
「……挿れるよ」
抑えきれない。
想いのまま腰を進めた。
【茜子】
「あああああぁぁぁ……………………っ!!」
茜子の純潔を引き裂く。
触れ合って傷つける。
ぎゅうぎゅうと肉壁がすぼまって、
ものすごい快感に下半身が襲われた。
【智】
「慣れるまで動かないから、大丈夫そうなら言って」
【茜子】
「だ、だいじょうぶです……っ、動いて……ください……!
激しくしても大丈夫、ですから……っ」
【智】
「でも」
【茜子】
「嬉しすぎて……痛みとかわかりません……から……っ」
【智】
「それじゃゆっくり動くから」
【茜子】
「んくぅ……っ! ふああぁっ、あ、あ、……っ! ひうぅ……っ!!」
どれだけゆっくり動いても
茜子には刺激が強い。
何度も何度も背筋を反らせて高い声を洩らす。
【茜子】
「あっ、あっ、あっ、あっ! んくうぅ……、ひぐっ、んっ!
きゅうぅぅぅ……んっ、んんんんっ!」
全てを茜子が望んでいた。
痛みを、苦しみを、喜びを、悲しみを。
今まで心と体から遠ざけていた全てを。
生まれ変わって始めるために。
【茜子】
「はぁ、はぁ、智さんんっ! ともさぁぁんん……っ!
んんぅぅぅ……、んっ! はあぁぁっ、あ、いっ!
ぃんんん……っ! あ、あ、あふあぁぁぁ……っ」
茜子につつまれる。
気の遠くなりそうな快楽だ。
生まれてはじめての女の子の中は、
頭がどうにかなりそうだった。
【茜子】
「ひぁぁ、あっ、ああああっ! くふ……ふあぁぁぁ……っ!
あ、あぅ……んく……っ、くぁあぁぁぁっ」
ゆっくりと慎重な挿入を繰り返す。
どれだけ努力しても少しずつ動きは速くなる。
【茜子】
「あっ、あっ! ひぁんんっ! んっ、んっ、んっ、んっ、
んんっ! ふああぁぁあぁぁ……っ!」
いつしか勢いよく茜子のおしりに
腰をぶつけている。
茜子の奥深くまで抉るたびに、
白いおしりがぷるぷると震えた。
【茜子】
「すごいれすぅ……、頭のうえまでぐちゃぐちゃになりそうれすぅ……っ! はあぁぁ、あふぁぁぁ……っ!」
止まれ、もっと優しくしないとダメだ……。
そう命じる僕は確かに存在するのに。
すでに本能に支配されている。
止めることなどできない。
力を込めたところで腰の動きが激しくなるだけ。
【茜子】
「ともさぁん、ともさぁんん……っ! きもちいいです、きもち
いいれすぅ……っ、はああぁぁぁ……っ!!」
性器全体に背筋が冷たくなるような快楽を与えられながら、
何度も肉襞をかき分けて奥へと進む。
口の中の感覚ともまた違う。
筆舌につくしがたい快感だ。
【茜子】
「ひぐうぅぅ……っ、くっ、きゅぅんんんっ! くあぁぁ……あっ、あんんっ! ん……くっ! はああぁぁっ、あ、あ、あ、ああああぁぁっ!」
朦朧とする思考。
茜子と繋がった部分の生み出す快楽に溺れる。
僅かに残っていた思考や理性といった人間的な部分も、
部屋に充満する淫らな匂いと茜子の可愛い喘ぎ声に
はじき出される。
【茜子】
「すごいぃ、すごいぃぃ……、からだの中ぐちゃぐちゃにされて
ますぅぅ……っ、はあぁぁっ、あ、ああああぁぁっ!」
頭の中が真っ白になって、
ただもう動物みたいに僕は腰を振った。
理性の飛んだ頭で、
永遠にこのまま繋がっていたいとさえ思う。
【茜子】
「もう、もうぅ……っ! わらし、もうっ! とんじゃいます、
あたま、もうっ! もう、わらしぃぃ……っ! きもちいい、
きもちいい、ともさぁんん……っ!」
そんな夢想が頭をちらりと掠めた刹那、
後頭部で閃いた光が五感すべてを支配した。
直後に強烈な快感が、
腰へと集まって暴れる。
【茜子】
「あ、あ、あ、あっ! もうらめ、もう、もうっ! あああっ! あっ! あああぁぁぁ……っ!」
堪えることなどできなかった。
めちゃくちゃに茜子の蜜穴を犯しながら、
僕は激しく射精する。
【茜子】
「あっ、あっ、あっ、あっ! きて、きて、きて、きて、ともさんんんっ!」
【智】
「が……ぁ……っ! あ……っ!!」
【茜子】
「ふああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ…………っ!!」
ケダモノみたいな声を上げて何度も何度も腰を叩きつけて、
一滴残らず茜子の中へと精を送り込む。
苦しいはずの茜子があげる悲鳴が艶を帯びていることが、
僕を一層狂わせた。
【茜子】
「ひぁぁぁぁっ! あ……っ! んぐうぅぅぅ…………っ!
はああぁぁ、あ……はあぁぁ……はぁ、あ……ぁ……っ」
すべての精を吐き出しきったあとも、しばらく乱暴に腰を
動かしていたが、やがて限界がやってくる。
全身をわななかせて最後の最後に一番奥まで突き入れると、
深く繋がったまま、僕らは折り重なってベッドに倒れこんだ。
【茜子】
「はぁ……ぁ……、あ…………っ」
【智】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
心も体も何もかも使い果たして。
身じろぎもできないほど疲れきって、
二人で荒い息だけを繰り返した。
それでももっと触れ合いたくて。
僕たちは意識が途切れるまでの
ほんの僅かな猶予に残された力を振り絞る。
【茜子】
「とも……さん」
【智】
「茜子……」
意識が闇に飲まれるのと、指を絡ませて手を繋ぐのは、
ほとんど同時だった。
〔失われた本〕
翌日――
【るい】
「トモちん! 茜子!」
嬉し恥ずかしい気分と呪いへの不安とを
混ぜ合わせながら出てきた街。
明るすぎる大声に迎えられる。
ブンブンと振り回す両手は、
不安を消し飛ばしてくれそうに心強い。
【るい】
「にゃわー!」
自分から駆け寄ってくる。
【茜子】
「声デカ。傷跡に響く」
【るい】
「ん? アカネ、どっかケガしてんの?」
【茜子】
「ぱんつの中にケガを」
【智】
「ぶぅっ」
噴いた。
【智】
「さっそく計画立てよう! さぁ立てよう! 光よりもはやく立てよう! ライトベロシティ超えて今すぐ立てよう、田松市野良犬ユニオン再生計画!!」
【るい】
「トモチン、なんか今日はテンション高いね」
【智】
「その前に。昨日あったことを話しておくよ」
【るい】
「ん、なに?」
【茜子】
「実は昨日茜子さんは荒々しくベッドに組み敷かれて」
【智】
「ぶばっ」
死ぬほど噴いた。
【智】
「ちがっ! 茜子!! そうじゃないよ!? そうじゃないよ、
るい!! 違うからね!?」
【るい】
「……なにが?」
【茜子】
「テヘー」
【智】
「てへーじゃないです」
デコピンする。
【茜子】
「ニヤー……」
いまいち可愛くない笑い方だ。
【智】
「今の見たと思うけど、茜子は昨日呪いを踏んじゃったんだ」
【茜子】
「踏んじゃったのです」
【るい】
「ほえ……」
一時停止するるい。
【るい】
「だ、だいじょぶなのそれ!? 笑ってる場合?」
【智】
「笑ってる場合じゃない」
【智】
「とは思うけど、まあ……もう三人目だからね。こうなったら早く呪いを解くしかないし」
【智】
「で、そうなっちゃった原因なんだけど、むしろこっちの方が問題で……」
【るい】
「どゆこと!?」
【茜子】
「レズの偽者が現れたのです」
【るい】
「花鶏の?」
【智】
「花鶏と同じバイクに同じライダースーツ、ヘルメットまで同じのかぶって僕らを襲ってきたんだ」
【るい】
「なにそれ」
【智】
「そりゃもう……」
【るい】
「私たちを監視してた連中!」
るいの思考は、
尾行 ―> 敵 ―> 今回の黒幕、くらいには単純だ。
【智】
「理由はわからないけどね。花鶏のフリして襲って来たって
言うのは、僕らが仲直りするとマズイからなんじゃないかな、
とは思う」
【るい】
「何でそんな嫌がらせすんの!?」
【茜子】
「わたしたちが揃うことによって為される行為を防ぐ。つまり、
呪いが解かれるのを防ごうとしている」
【智】
「呪いがある方が利益になる連中だよ」
【るい】
「そんなの、そんなの……って」
るいが唇を噛む。悔しいと。
何に悔しがっているのか、
きっとるい自身にもわからない。
【智】
「連中みたいな奴らにとって、僕らはいつだってバラバラの方が
都合がいいんだ」
【るい】
「連中みたいなって……?」
【智】
「うまく言えないけど……自分たちを特別だって思ってる奴ら、
かなあ」
【智】
「力があるから、自分は他とは違うから、そうでない奴らを自由にしてもいいって」
【智】
「そんなことを考えてるやつらのこと」
【智】
「そういう奴らには、きっと都合が良いんだ」
【智】
「バラバラのまま、弱いまま、何も知らない、寂しがりで、独りよがりで、誰も信じないで、そのくせ盲信したり、自分一人でなんでもできるって思いこんでたりする……ちっぽけなままの僕らは」
だから、考え続ける。
負けないために、やっつけるために。
自分のタメに、自身のタメに。
自分以外の誰かのために。
【智】
「僕らが取れる一番の対抗手段は、みんなともう一度集まって
呪いを解いてしまうことだと思う」
【るい】
「るいねいさんは今日することがわかれば戦えるっす!」
【茜子】
「ポジティブ過剰」
【るい】
「それだけが取り柄なの……」
【智】
「後ろ向きよりずっといい」
ああ、本当に。
るいは、いつでもるいだった。
【茜子】
「神経が縄文杉なみに太い人の言うことは違います」
るいの元気は、魔法の井戸並みに涸れない。
どんな病人も食欲があるうちは大丈夫、
なんて言う人もいるし、あの食欲こそ元気の秘訣なのかもしれない。
今度、るいに付き合って、
どこまで食べられるか試してみよう。
【智】
「じゃあ、次いってみます」
こよりは、はじめて出会ったあたり、
ガードレールに腰を下ろして足をぶらぶらさせていた。
なにもせず、上を見て、また下を見る。
耳をなびかせ走ることもしないのは、
一人でいられないこよりが、誰かといる怖さを知ったから。
【智】
「ここにいたんだ」
【こより】
「あう、ともセンパイ……っ、茜子センパイ……!」
【るい】
「私もっ!」
挙手。
【こより】
「あ、あう……あう……」
【智】
「またどっかへいっちゃう?」
【こより】
「…………」
力なく首を振る。
【こより】
「それに、ともセンパイしってるですよ……
鳴滝、ひとりだとどこにもいけないです。
知ってるところをうろうろするだけ」
【智】
「んじゃ、別のところ行こうか」
【こより】
「ど、どこへ行くんですか……?」
【智】
「他の連中を迎えに行って、仲直りして、最後に呪いを解いて、
全部収まるところに収めます」
【こより】
「そんなのできるわけないじゃないですか!」
【こより】
「あんなに……仲良かったのに……」
【こより】
「ほんのちょっとしたことで、あれから一人で考えてみたけど、
誰が正しいのか、間違ってるのか……」
【こより】
「やっぱり全然わかんなくて、何回も、ともセンパイとかに電話
しようと思いました。でも、怖くてそれもできなくて……」
【こより】
「ホントに裏切った人とかいるんですか?」
【こより】
「わたしたちの誰かは、友達のこと、
身代わりとしか思ってなかったんですか?」
【こより】
「鳴滝にはわかんないです」
【智】
「それが信じる辛さだよ」
【こより】
「信じる……辛さ?」
【こより】
「信じてるのに、辛いんですか?
信じてれば、いっぱい幸せになれるのに、
辛くなるんですか?」
【智】
「本当は、信じるから辛くなるんだ」
【智】
「信じているから裏切られたら胸が痛い。
信じているから疑いだせばきりがない」
【智】
「一番難しいのは信じ続ける事じゃなく、
信じて努力を続けること」
【智】
「疑ったり、迷ったり、ケンカしたり、
時には違う道を行くことがあっても」
【智】
「また戻ってきたときに、
両手を広げて出迎えてあげること」
【こより】
「センパイ……」
【智】
「こよりは、みんなのこと嫌いだった?」
【こより】
「そんなことないです! そんなこと……
みんな、すき……好き、だった。
すき……」
【智】
「一緒に迎えに行こう。
それで、もう一度はじめからがんばろ!」
【こより】
「…………うすっ!!」
電話で伊代を呼んだ。
ここなら伊代の家から近いし、
なによりこの場所に集まるのが懐かしい。
【伊代】
「……みんな来てたんだ……。あ、みんなじゃないわね。
足りてないけど、こんなに集まってると思わなくて驚いたわ」
相変わらずの要約できてないセリフに安心する。
むしろこれがないと伊代じゃない。
【こより】
「ひゃい。りつはともひぇんぱいに続いてあかへこひぇんぱいまでろろいを踏んひゃったんれふ。ほこれ、伊代ひぇんぱいも」
【伊代】
「あの……、ぜんぜんわからない」
【智】
「実は僕にもわからない」
【るい】
「私も私も」
【こより】
「はれぇ?」
【茜子】
「アメ噛めばどうかと」
【こより】
「ほうれふね。ガリゴリガリゴリ」
【伊代】
「いや、別の人が説明すればいいんじゃないの……?」
一連の出来事を説明する。
茜子が呪いを踏んだ件を含めて。
【こより】
「ぽりぽり……ん……。それに花鶏センパイのニセモノまで
出てきたらしいんですよう」
【智】
「同じバイクに同じライダースーツとヘルメットで変装して、
僕と茜子を狙ってきたんだ」
【茜子】
「殺す気はなかったように思えました。とすると目的は、
わたしたちが互いの関係を修復するのを阻止したいとしか」
【伊代】
「例の監視してる連中?
バイクから衣装まで一式用意して、ごくろうさまね」
【智】
「僕らが協力し合わない限り、呪いは解けないことは分かってる。呪いが解けるとまずいヤツがいたら、きっとそうするよね?」
【智】
「央輝が言ってた。
僕らにとっては呪いでも、価値のでる世界も在るんだって」
【伊代】
「企業とか、研究室とか、そういうののこと?」
【智】
「そう」
【伊代】
「……そんなやり方で干渉してくる人たちの思い通りになるのは
我慢できないわね」
【るい】
「私もそういうの許せない」
【伊代】
「それで、どうするつもりなの、あなたは?」
【智】
「当たり前のことをする。全員を迎えに行って、仲直りして、
呪いを解いて――――」
【伊代】
「私の答が決まってるの……。あなた、知ってて呼んだのよね?」
【智】
「うんとね、伊代は、いいやつなんだ」
【智】
「すぐに慌てたり、困ったりするところもかわいいし」
【智】
「自分で思ってる以上に、
伊代は僕らを助けてくれた」
【智】
「なにかと損な性分をしてたりするけど、
誰かを身代わりにして自分一人で逃げたりしない」
【智】
「自分の言葉を裏切ったりもしない。
そういう伊代が、僕らには必要なんだ」
【伊代】
「……面と向かっていわないでよ……そんな恥ずかしいこと、
もう……」
【智】
「最初にあった時から、
伊代はすごくいいヤツだった」
【智】
「伊代のそういうとこが、僕は大好き」
【伊代】
「…………っ」
【こより】
「…………」
【るい】
「…………」
【伊代】
「……でも、わたしが協力しても不利な賭けには違いないわよ。
誰かが裏切って身代わりを差し出せば、人数が欠けて儀式が
できなくなる。本番で裏切り者が出ても結局は失敗」
【智】
「失敗したらやり直そう。
上手くいくまで何度だって」
【智】
「信じる努力をし続けて、お互いの手を繋ぎ合って。
この呪われた世界をやっつける」
【伊代】
「そのフレーズ、何度も聞かされたけど……」
【伊代】
「今度こそ、やってもらうわよ」
【智】
「応援してね」
【茜子】
「…………」
【智】
「…………どうしたの?」
【茜子】
「私は、呪いを解くことに、今ものすごく危機感を抱いてたりするところなのです」
【智】
「わかんない」
【茜子】
「呪いを解いたら束縛はなくなりますよね」
【るい】
「そのとーり」
【茜子】
「嘘つきさんも嘘つかなくてよくなってしまいます」
【智】
「まあ、そうなります」
【茜子】
「うんと危険だ……」
【伊代】
「なにぶつぶついってんのよ、あなたは」
【花鶏】
「……………………」
花鶏はテラスに座っていた。
ものすごく機嫌の悪い顔だ。
こよりが怯えて、
るいの後ろに隠れてしまった。
【智】
「ちゃんと中に入れてくれるあたり、花鶏の優しさがしみじみ
伝わってくる感じ」
【花鶏】
「………………」
【智】
「花鶏、僕らがこうしてやって来た理由は、言わなくてもわかると思う」
花鶏は思い切りソファに身を沈めて、
気だるげに首を鳴らす。
【花鶏】
「呪いを解くのに協力しろ、って?」
【智】
「変に繕うのをやめればそういうこと。
でも、花鶏はもともと呪いは解きたくないって、
言ってたよね」
【花鶏】
「この痣と呪いと力、全部わたしの証だわ」
視線はちらりと飾られた曾祖父の肖像画をかすめた。
【智】
「それがなくなれば、花鶏は花鶏じゃなくなる?」
【花鶏】
「さあ?」
【智】
「実はね、僕も痣を信じてたんだ」
【花鶏】
「あなた、運命とか嫌いじゃなかったの?」
【智】
「でも、信じてたから足下をすくわれた。
この痣が証になるって思ってた」
【智】
「僕らの繋がりを保証するんだって、
いつの間にか信じこんでたんだ」
【智】
「そんな筈ないのにね」
【智】
「血が繋がっててさえ、人は簡単に裏切れる」
【智】
「僕らを繋ぐ見えないモノは、
やっぱり細くて頼りないんだ」
【花鶏】
「他人を信じるのはバカみたいっていいたいの?」
【智】
「バカみたいだから、
頑張るんだっていいたいんだよ」
【智】
「ひとりだから手を繋ぐ。
むずかしいから、やってみる」
【智】
「目に見えるものを信じるんじゃなく、
目に見えないモノを信じる努力をし続ける」
【智】
「僕はやる。みんなとやる。
間違ったらその度にやり直す」
【智】
「壊れてしまったら、また積み上げてやる。
ケンカをしたら仲直りする」
【智】
「何度でも、何回だってやってやる。
この呪われた世界をやっつけてやる」
【花鶏】
「……バカだバカだとは思っていたけれど、
ここまで折り紙付きのバカとは思わなかった」
【智】
「誉めてくれてありがとう」
【智】
「それと……
昨日、茜子も呪いを踏んじゃった」
【花鶏】
「……それで?」
【智】
「花鶏と同じバイクに同じスーツ、ヘルメットまで同じのを
かぶった誰かに襲われた」
【花鶏】
「……わたしがやったっていいたいの?」
【智】
「違う。顔も確認した。相手は顔を見られたら逃げていったし」
【花鶏】
「は……? 偽者……?」
【花鶏】
「それって例の監視してる連中?」
【智】
「みたいだね。こういうの気に入らないんじゃない? 花鶏」
【花鶏】
「ふぅん。ま、確かにそういうのは気に入らないわね。
……ただし、それが事実ならの話」
【るい】
「なんで、そんなに、なんでもかんでも疑ってかかるんだよ!?」
黙っててくれるように頼んでたるいが、
抑えきれずに身を乗り出した。
【こより】
「お、落ち着いてください、るいセンパイぃ」
【伊代】
「気持ちはわかるけど、今は抑えて。あとでわたしが話聞いて
あげるから」
【るい】
「あっ……ごめん」
爪先でテンポを取りながら、
花鶏は、るいたちのやりとりを見つめていた。
退屈そうな仕草だ。
花鶏らしいポーズだった。
茜子には今、花鶏の本心が見えているだろうか。
【智】
「というわけだから、
僕のこと、助けてくれると嬉しい」
【花鶏】
「…………」
【智】
「僕たちは央輝に会ってくる。
来てもいいと思ったらいつものところ……
高架下の方にしようか。来てよ」
【智】
「僕たちきっとそこに居るはずだから」
【伊代】
「ちょっと、それでいいの?」
【智】
「うん」
【花鶏】
「…………」
【央輝】
「オマエは勘違いしている」
【央輝】
「オマエらとあたしの関係は呪いを解くために結ばれた
一時的な協力関係に過ぎない。なぜ協力関係を結んだか
わかるか?」
【智】
「呪いを解くためにはそれしか方法がないから」
【央輝】
「オマエらと協力して呪いを解くという選択が、一番リスクが
少なかったからだ。だが、『ノロイ』は今こうしてる間にも
やって来るかもしれない。呪いを解く手段はまだわかってない」
【智】
「だから、裏切りルールを適用して、誰かを『ノロイ』の犠牲に
して生き延びるの?」
【央輝】
「そうだ」
【るい】
「誰かを犠牲にして生き残って楽しいの!? ぜったい辛いのに!」
【央輝】
「楽しいかどうかは問題じゃない。
それが世の中の仕組みってだけだ」
【央輝】
「不幸を誇る必要もない、
苦痛なら飽きるほど味わってきた」
【央輝】
「学んだのは、
生き延びることが何より重要だということだ」
【こより】
「で、でも呪いは残るんですよ……?」
【伊代】
「確率が高い選択をしたいのは理解できるわ。
でもこの子が言う通り、呪いは残る」
【伊代】
「根本を断たない限り、
またいつ呪いを踏むかわからないのよ?」
【央輝】
「いま生き延びなければ
『またいつか』の未来すらない」
【茜子】
「もっともな考え方ですね。それに迷いもない」
【央輝】
「あたりまえだ。
だが、鬱陶しい能力だな。オマエのそれは」
【茜子】
「はい。わたしも迷惑しています」
【央輝】
「フン……」
【智】
「央輝の考え方はわかったよ。でも、僕たちは君が僕たちの仲間を犠牲にして生き残るのを見過ごすことはできない」
【央輝】
「いつか聞いたようなセリフだな。
なら、どうする?」
【智】
「僕たち全員で央輝と戦うよ。
本気で。殺すつもりで」
【こより】
「ともセンパイ!?」
【智】
「これで呪いを解く選択のほうがリスクが小さくなったと思うけど、どう?」
物凄い目つきで睨みつけられた。
けれど、央輝はその目の『力』を使いはしなかった。
こよりが唾を飲む音が、
周囲に響き渡る。
【央輝】
「……面白いことを言うヤツだな。オマエは」
【智】
「褒め言葉?」
【央輝】
「好きに取っておけ。本来ならオマエら全員潰すところだが……
もう一度だけ協力してやろう。オマエにはまだ借りがあるしな」
【智】
「ありがとう」
【茜子】
「はいツンデレツンデレ」
【央輝】
「つん……?」
【智】
「気にしない気にしない」
【央輝】
「一つ教えておいてやる。あたしたちが呪いを解くのを妨害
しようとしている連中――例の監視してた連中だ。どこぞの
企業がバックにいる」
【智】
「それって、央輝の方の話だと思ってたのに……」
【央輝】
「当たらずとも遠からずかもしれないがな。どことどこが繋がってるのかなんて、デカ過ぎてわからないような代物だ。案外根は繋がってるかもな」
【智】
「央輝にしては優しい説明ありがとう」
【央輝】
「くっ、な、なにいってやがる!」
狼狽する。
いじると結構面白い。
【智】
「でも、企業と呪いか。
営利優先なのに曖昧なものに手を出すんだなあ」
【央輝】
「あるから使う。現実主義だろ」
【智】
「無くなった困るから邪魔をする……か」
世知辛い話だった。
肩をすくめる。
頭だけ巡らせて、
背後を視野におさめた。
【智】
「あとは、二人……花鶏と惠か」
【茜子】
「惠さん……」
【央輝】
「アイツもなんとかできるつもりか」
【智】
「なんとかならなくても、頑張ってみる」
【智】
「とりあえずは花鶏を待って……」
【央輝】
「あいつが居ないなら、本がないんじゃないのか」
【茜子】
「問題ありません。どうせすぐ来ます」
【るい】
「あ、来たよ。あれ」
【伊代】
「異常にタイミングいいわね……。こっそり見張ってたんじゃ
ないの?」
【智】
「花鶏がバッグ持参って珍しいね。『ラトゥイリの星』かな?」
【茜子】
「どうでしょう」
正体のわからない妨害の手を
警戒したのだろう。
僕らが集まるのを防ぐのに失敗したなら、
次は呪いを解く手段を奪うのが常套だ。
【花鶏】
「……来たわよ」
【るい】
「待ってたよ。花鶏」
【花鶏】
「少し早く来すぎたみたいね。あんたたち最初から絶対来ると
思ってたでしょ」
【智】
「まあね。でもまんざらでもないでしょ」
【花鶏】
「まあね」
【智】
「それは『ラトゥイリの星』?」
【花鶏】
「誰が狙ってるかわからないんでしょ? あんまり口にするのも
やめた方がいいと思うわ」
いつも人通りの少ないこの高架下とはいえ、
まったく無人というわけでもない。
毎日散歩のコースにここを選んでるらしい老人も一人二人いるし、今だってブルテリアを連れたおばさんが向こうから歩いてくる。
央輝の情報が確かなら、
四六時中監視の目に晒されてると考えておかしくない。
向こうが『ラトゥイリの星』を狙ってるなら、
それが花鶏のバッグに収まってることは承知しているはずだ。
【智】
「言わなくてもきっとバレてるよ」
【花鶏】
「ま、そうかもね」
【伊代】
「家に置いてたほうが安全なんじゃないの? ひったくりとかに
遭ったら危ないんじゃない?」
【花鶏】
「わたしがひったくりに反応できないと思う?」
【こより】
「るいセンパイから逃げ切るのも、すごい厳しいですよね〜」
【るい】
「お、犬ー! 犬、いぬ! いぬー! ばうわう」
通りがかりのブルテリアと会話するるい。
通じてそうでちょっとこわい。
【おばさん】
「あらあら……」
【こより】
「おおおお……しっぽがまるでプロペラのように回転しております!」
【央輝】
「こ、こら……寄って来るな!」
【るい】
「いぬいぬ! ばうわう!」
【伊代】
「恥ずかしいからやめて……」
【おばさん】
「ああ、ついでにお尋ねしますけど、郵便局へはどっちの道から
行くのが近いでしょうか……?」
【智】
「?」
【伊代】
「郵便局ですか? 郵便局ならここの道をまっすぐ進んで、歩道橋を渡ってそれから、ええと……」
【智】
「最初に見えるコンビニの角を右へ」
茜子が僕の袖を掴んだ。
気がついた。
犬の散歩に、道を知らないような
場所にまで来たりするだろうか?
犬とおばさんに気を取られた。
一瞬の隙をつかれた。
爆音が降ってくる。
あの夜の黒いバイクだ。
猛スピードで高架下に走りこんできた。
花鶏のバッグを掠め取る。
【花鶏】
「なっ……!?」
【央輝】
「クソ! はめられた!」
【茜子】
「何か投げつけてでも止めてください!」
【こより】
「えとえと、それじゃコレ!」
こよりが、高架下のゴミ山から慌てて
拾い上げた信楽焼きの狸をるいに手渡す。
【花鶏】
「当てなさいよ!?」
【るい】
「いっくぞー! たぬきミサイルーッ!!」
【智】
「たぬきミサイル!?」
意味不明な叫びとともに投げられた狸は、
狙い外さずバイクに直撃し粉みじんとなった。
衝撃でハンドルを取られたライダーは、
それでも咄嗟に飛び降りる。
【るい】
「捕まえる!」
【こより】
「鳴滝も行きます!」
ライダーも足は速いが、
いかんせん相手が悪い。
苦し紛れに歩道橋を駆け上る。
サバンナでピューマが獲物を捕まえるシーン。
上り階段なんて無視して、るいがライダーに迫った。
【ライダー】
「ちッ……!!」
【るい】
「えっ!?」
るいの手がライダーを捉えた瞬間。
自棄になったライダーが、花鶏のバッグを歩道橋から投げ捨てる。
【花鶏】
「嘘……!」
ほんの一瞬の出来事だった。
落ちていくバッグはトラックの荷台に落ちて、
見る間に彼方へと運ばれていった。
【央輝】
「クソッ!」
アスファルトを蹴り付けても、
トラックが止まることは決してなかった。
【ライダー】
「こ、ここです……」
【央輝】
「嘘をつくなよ」
【茜子】
「大丈夫です。つくだけ無駄ですから」
明らかにあの犬をつれたおばさんもグルだったが、
捕まえたところで私刑を下すわけじゃない。
捨て置いてきた。
ライダーだけを引っ立てて、
命令を下した誰かのところに案内させる。
心を茜子に読まれる上に、
央輝に睨まれて恐怖を植えつけられる。
道案内させるのは簡単だった。
【ライダー】
「こ、このビルの……。もう許してください、お願いします……! お願いします……」
【智】
「もう少し付き合って。バッグ盗んだの証言してもらうから」
【央輝】
「逃げるなよ?」
【ライダー】
「は、はいぃ……」
全面鏡張りの近未来的な美しさを持ったビルだ。
いかにもハイテク企業のビルという風に見える。
エントランスには社名のロゴがあった。
どうやらこのビル1つが、
まるまる一企業の所有物らしい。
景気のいいことだ。
【こより】
「あれ……ここの会社って……」
【伊代】
「なにか知ってるの?」
【こより】
「ハイ。お姉ちゃんの……会社」
応接室。
災難なライダーの人を通行証がわりに乗り込んだ。
社内に怪しい雰囲気はない。
自分たちの方がおかしな行動をしてるのかと、
錯覚しそうになる。
少ない人数で話すための部屋に、
7人+ライダーで待たされてしばらく経った。
【こより】
「お姉ちゃん……」
やってきたのは、目元にわずかに、
こよりと似た雰囲気を持った女の人だった。
音を立てないように椅子を引いて腰掛ける仕草は、
神経質な性格を感じさせる。
【小夜里】
「鳴滝小夜里と申します。どういった用件でしょうか」
【央輝】
「どういった用件だと?
コイツにあたしたちを襲わせたのはオマエらじゃないのか」
【こより】
「お姉ちゃん、どういうことなのか説明して欲しいよ……」
こよりとその姉、小夜里さんは
もう長らく会っていないということだった。
小夜里さんは、こよりと目を合わせない。
目もくれないといったほうが正しい。
【小夜里】
「そのような事実はありません」
【央輝】
「オマエ……!」
【智】
「この人が僕たちを襲ってきたのは事実です。ここの7人全員が
目撃しています」
【智】
「この人が自分はここの会社に所属していて命じられてやったと
自分で言ったんです」
【ライダー】
「…………」
気の毒なほど萎縮したライダーの人とは対照的に、
小夜里さんは眉ひとつ動かさない。
【小夜里】
「そのような事実はありません」
【るい】
「こいつ!」
【小夜里】
「その方がどなたか存じませんが、当社とは無関係です」
【ライダー】
「そ、そんな……」
【智】
「………………」
茜子が目で合図を送っていた。
そんなことされるまでもなく、
これが嘘であることは明白だ。
だからと言ってどうすることができるだろう?
茜子には心を読む力があって、
それによるとあなたは嘘を言っています、とでも説明するか。
無意味だ。
妄想だと一蹴されて終わり。
トカゲのしっぽ切りというわけだ。
【小夜里】
「用件がお済みならお引き取り下さい」
冷たい宣言。
おそらくは、僕らを監視させたのもこの人だ。
【伊代】
「お済みでしたらって……、終わりのわけないでしょ!?
わたしたちの大切なものが盗まれたのよ! それに……どうせ
あなたたちが……っ」
わたしたちを監視してたんだろう、と。
【小夜里】
「当社には無関係です。その方を起訴でもされれば良いかと」
【こより】
「お姉ちゃん、なんで……なんでそんなこと言うの……、
お姉ちゃん……」
【小夜里】
「…………」
【花鶏】
「やられたわね……」
【智】
「みたいだね」
小夜里さんはこよりの言葉にだけは答えない。
そこが小夜里さんの弱点であることはわかったけれど、
このまま問答を続ければより深く傷つくのはこよりだ。
【小夜里】
「用件はお済みですか?」
【央輝】
「ちっ」
【るい】
「…………」
【茜子】
「お気の毒です。ライダーの人」
【ライダー】
「そ、そんな、わたしは……」
【小夜里】
「そろそろ会議がありますので」
【花鶏】
「……そうね。帰るわ。そんでこいつを警察に突き出す」
【ライダー】
「そ、そんな……!」
【智】
「…………」
【小夜里】
「それでは失礼します」
【智】
「待ってください」
呼び止める。
【小夜里】
「なにか」
【智】
「ひとつだけ、あります」
真っ直ぐ目を見た。
冷たい目が見返していた。
こよりと似た面影のある瞳が、
数字と数式で世の中を解体していくような、
冷ややかな光を宿しているのが悲しかった。
【智】
「僕らは、負けませんから」
なんの意味もない自己満足の宣言だ。
まさに負け犬の遠吠えだ。
それでも言葉にせずにはいられない。
【小夜里】
「失礼します」
来た時と同じように音を立てず椅子を引くと、
小夜里さんは静かに応接室を出て行った。
【宇田川】
「どうだった、上手く処理したかねえ」
【小夜里】
「問題はありません、社長。万一訴訟沙汰になる場合でも、当社には影響は無いでしょう」
【宇田川】
「捕まっちゃうとは面倒だったねえ。それくらいはやってくれないと、コレクションの価値もないかな、ははは」
【小夜里】
「例の本は彼らの手から無くなったようです」
【宇田川】
「そうかそうか。えーと、あれはどうなるんだったかな?」
【小夜里】
「呪いを解く鍵のはずです。本が無ければ、これ以上の進展は
見込めないでしょう」
【宇田川】
「呪いが解かれると、せっかくの『商品』が台無しになって
しまうからな。ははは、センセーショナルな商品だ、いいと
思わないか!?」
【宇田川】
「では、後の始末もよろしくな」
【小夜里】
「ただ」
【宇田川】
「んー、まだなにか考えるようなことあったっけ?」
【小夜里】
「『常務』から、干渉は避け、観測に留めるようにと」
【宇田川】
「ん〜、こまるねえ。彼は偉いさんだけど、もう少し理解を示して貰わないと。こっちは企業なんだから。いつの世も利益優先、
それがシステムのためでもあるだろう。そう思わない?」
【小夜里】
「引き続き監視を続けます」
【宇田川】
「くっくっくっくっくっ」
【智】
「これで手がかりがなくなった……」
『ラトゥイリの星』はもうない。
呪いを解く術は失われてしまった。
【るい】
「せっかく……せっかくみんなそろったのに」
【こより】
「お姉ちゃんが……な、鳴滝の、お姉ちゃんが……」
【伊代】
「あなたのせいじゃないわ。泣きやみなさい」
【花鶏】
「許さないわ奴ら。この借りは絶対に――」
【央輝】
「…………ふんっ」
ここまで来たのに。
ここまでやったのに。
ダメなのか。
【智】
「………………お」
何かが閃いた。
【るい】
「どうしたの?」
【智】
「ある」
【茜子】
「なにがですか?」
【智】
「『ラトゥイリの星』……、あの本がそうだ……」
〔継がれた想い〕
【いずる】
「昔、彼女の父親に頼まれて、ある本の解読に手を貸したことが
あって」
【いずる】
「蛇の道は蛇なのさ。父親が死ぬ前に、自分に万一のことがあったら、この本だけでも娘の手に渡るように計らって貰えないかと頼まれた」
【いずる】
「ロシア語の本さ。まあ、本来は守秘義務なんだが、当人も
いないし、皆元くんにも縁深い君にはタイトルくらい……
日本語で『ラトゥイ……』何だったかな、まあいいか」
【花鶏】
「つまり、その貸金庫に本があるっていうの?」
【智】
「るいのお父さんがそれを手に入れてたらしいって、胡散臭い人が言ってた」
【花鶏】
「なんて胡散臭い……」
【智】
「ひととの縁って大事だと思います」
るいの手元に唯一残った父親の遺産。
いずるさんの言葉に寄れば、
そこに写本が納まっているはずだ。
【伊代】
「それの中味、本当に問題のブツなの?」
【智】
「それは、るいちゃんの方に。この件は以前に伝えてあるから。
……どうだったの?」
【るい】
「…………行ってない」
【智】
「なんで?」
【るい】
「…………行きたくない」
ふて腐れた顔で。
【智】
「そんな、どうして?」
【るい】
「なんで、どうして、そんなもの!」
るいが憤る。
今にも噛みつきそうな勢いで。
父親に向けられた強い感情。
憎悪に歯噛みして。
【伊代】
「でも、それって、……もしかすると……その本は元々呪いに
関わる本じゃない。自分の娘が呪い持ちで、わざわざ重要な
本を遺すってことは」
【こより】
「るいセンパイの、ためじゃないんですか」
【るい】
「そんなことない!!」
【るい】
「あいつが、あいつがそんなことするはずない!」
るいが吠えた。
瞳の奥、炎のように感情が燃えていた。
【こより】
「あう〜〜」
涙目になって、僕の後ろに隠れるこより。
【智】
「お父さんと何かあった?」
【るい】
「…………」
るいは答えず押し黙る。
【智】
「わかった。無理には聞かない。でも、一度だけ、確かめて
くれない?」
【智】
「本当に、るいのお父さんが遺したものが『ラトゥイリの星』なら、それは、僕らにとって最後の希望かもしれないから」
【るい】
「……トモ」
るいは、うんとも、否ともいわない。
呪いのせいだ。
けれど、るいの棘は緩んでいた。
承諾を察する。
【るい】
「……その……ごめんね、こより」
【こより】
「…………はいっす! 鳴滝は元気だからだいじょうぶです。
だから……泣かないください!」
【花鶏】
「それで、どうするわけ」
【伊代】
「『ノロイ』に追われ、企業に追われ……」
【智】
「最後の一人もまだそろえてないしね」
【央輝】
「いちいち鬱陶しい連中だ」
【茜子】
「ツンデレ入りました」
【央輝】
「お前はいちいちなんなんだ!」
央輝が凄む。
火花散る。
【智】
「僕らって意外に仲いいよね」
【伊代】
「ど近眼!? さんざん揉めたのを忘れたの、あなたの頭は!」
【智】
「それでも、こうして一緒してるんだから」
いずるさんが指定した弁護士事務所から、るいのお父さん、
皆元信悟の遺産分配分として、貸金庫のキーが手渡された。
小夜里さんたちも気がつかなかった、僕たちにとっての、
最後にして、ささやかな希望。
それは、るいが、憎む父親から、
唯一引き継ぐことになった遺産だった。
るいのお父さんは、家族を顧みず、
価値のない骨董品の蒐集に明け暮れて、
交通事故で死んだという。
それでもいくらかの資産は残ったものの、
るいの行状不行き届きを理由に、多くは親類たちに奪われていた。
その小さな鍵だけが、実の娘であるるいに、
父親から遺されたモノだった。
【るい】
「おまたー!」
るいが銀行から飛び出してきた。
【智】
「しーっ」
【茜子】
「無駄元気筋肉」
壁に耳あり障子に目有り。
【るい】
「これ」
るいの元気が奇妙にぎこちない。
渡されたのは茶封筒だ。
そこに入っているのが、件の本。
ずしりと重い厚み。
【花鶏】
「これが……」
【伊代】
「これでダメなら、私たち」
【茜子】
「その時は大人しく『ノロイ』に殺されます」
【こより】
「ひぃいぃいぃぃ」
【央輝】
「誰が死ぬか、くそっ」
【智】
「るい、中は見た?」
【るい】
「トモが、あけて」
ぎこちなさの理由がわかった。
お父さん。
自分を見捨てた、
家庭を見捨て、
母親さえ捨てた、
そんな父親。
その父親の残したものが、
自分と仲間にとって、かすかな希望になろうとしている。
【智】
「本当に、開けて、いいの」
【るい】
「トモなら、開けていい。
トモが開けるのが一番いいと思う」
【るい】
「わたし、開けられない。
それ見たら、許せなくなるかもしれないから」
【茜子】
「憎いですか」
茜子の言葉が刃になる。
るいの胸を深く抉る。
【るい】
「……憎いに、決まってる」
るいの声が震えている。
握りしめた拳の隙間に、血の色が滲んでいる。
【るい】
「そいつは、何もかも裏切ったんだ。
私も、お母さんも、家も、なにもかも」
【るい】
「好きっていったのに、
一度はきっと好きだったはずなのに」
【るい】
「だって、そうじゃなくちゃ、
そうじゃなくちゃ、私がいるはずないのに……」
【るい】
「そうじゃないの? そうでしょ!」
【るい】
「なのに、
なのに、裏切った」
【るい】
「全部裏切って、逃げ出して、
こんなもののために――
それなのに」
それなのに。
そんなモノを、自分たちが必要とする。
るいの未整理の感情が噴き上がる。
【智】
「でも、るい。
るいのお父さんがコレを持っていたのには、
きっと何かの意味があると思う」
【るい】
「ないよ!」
【智】
「運命なんて信じない」
正面から、るいを見つめてる。
薄く涙を滲ませた目に途惑いがゆれる。
【智】
「偶然はあっても運命はないって、
僕は信じてる」
【智】
「見えない誰かが遠くで糸をたぐっていて、
僕らはそれに乗っかって、知らず知らずに歩いている」
【智】
「そんなことを僕は信じないし、信じたくない」
【智】
「暗くても辛くても、
悲しくても寂しくても、
それは、自分で選んだ道だって信じたい」
【智】
「だって、そうでなくちゃ、
酷すぎる」
【智】
「生まれてすぐに死ぬ人だっている、
沢山の人に惜しまれていく人もいる」
【智】
「好きな人とも別れは来る、
救いを求めても手は差し伸べられない」
【智】
「それが全部最初から決まっていることなの?」
【智】
「僕は信じない、信じてやらない、
たとえ、本当はそうだとしたって、
そんなものは――――」
【智】
「やっつけてやる」
【智】
「偶然はあるさ、
どれだけ注意していても、
ほんの気まぐれみたいな引き金で」
【智】
「何もかもおじゃんになってしまう。
強くても、賢くても、弱くても」
【智】
「臆病でも、
同じように世界は残酷にやってくる。
【智】
「ひとりじゃどうにもならないくらい。
力を合わせても、時にはどうしようもないくらい。
【智】
「それなら、
せめて僕は、
自分で選んだ道を進んでいるって信じたい。
【智】
「辛いことも悲しいことも、
自分で選んだ結果なんだって信じたい。
【智】
「だからぼくは思うんだ。
【智】
「これが、
るいのお父さんがこれを手に入れた、
【智】
「そのお父さんの道は、
運命で片付けてイイモノじゃない。
【智】
「そこにあったはずの決断が、
僕らにこれをもってきてくれたんだ」
【るい】
「だからって……
だからって、ゆるせないよ!」
【るい】
「そいつがなにしたか知ってるの!?」
【るい】
「お母さん死んじゃっても、
そいつは自分のことだけで……」
【茜子】
「そんなに――――」
【茜子】
「お父さんが好きですか」
【るい】
「な…………っ」
【茜子】
「本当に嫌いなものには価値がないです」
【茜子】
「知ってますか。
石ころと同じなんです」
【茜子】
「何も感じない。
影みたいなものです。
触れられなければ、ないのと同じです」
【茜子】
「憎むのは好きだから。
充たしてくれないから憎くなる」
【茜子】
「裏も表も同じものなんです」
【茜子】
「わたしにとって、
今までの世界は意味ありませんでした」
【茜子】
「影と同じで温もりのない、
薄い霞の向こう側」
【茜子】
「意味がないから価値がないんです」
【茜子】
「死んでしまうのは怖かった」
【茜子】
「死ぬのが怖いより、
何の意味も価値もないままで、
死んでしまうのがいやだった」
【茜子】
「でも、今は違いますよ?」
【るい】
「…………」
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【央輝】
「…………」
【伊代】
「…………」
【こより】
「…………」
【茜子】
「信じることも、笑うことも、
手を繋ぐことも、暖かい温もりも、
誰かと一緒にいることも」
【茜子】
「明日の夢を見ることも、
胸の痛みも、苦しさも、
泣きたくなるようなたくさんのことも」
【茜子】
「全部、全部、
私は見つけましたから……」
【茜子】
「だから、死んでいいなんて思わない」
【茜子】
「惨めに、無様に、醜くても、
どんなにあがいても生きていきたい」
【智】
「茜子……」
【茜子】
「……なーんちゃって」
いつも通りの無表情で。
ついさっきの出来事が
まるで幻であるかのように。
〔真耶との再会〕
るいがようやく部屋から出てきた。
【智】
「大丈夫?」
【るい】
「うん、もう平気平気……るいさん復活」
るいのお父さんが手に入れた『ラトゥイリの星』写本には、
るいへの遺言とでもいうような多くのメモが残されていた。
切々と記された、最後の想い。
るいのお父さんとお母さんが、
どれだけ、るいを愛していたのか。
そのために、呪いを解く方法を探し続けたのか。
二人とも志半ばで倒れてしまったけれど。
るいが、自分を見捨てたと信じて、
父親へ向けてきた憎悪の氷がようやく融けたんだ。
目が真っ赤になるまで、泣きはらした、るい。
親子の絆を確かめて。
【るい】
「智のお父さんも、この呪いを解こうとしたんだよね。それで、
私たちにあのノートを遺してくれた」
【智】
「そだね。おかげで、僕らは呪いを解くことができそうだし」
【るい】
「不思議だね。
私のお父さんも、お母さんも、智のお父さんも」
【るい】
「色んなものを投げ出して、それで遺したモノが、
私たちの手元で一つになって……」
【るい】
「それって、上手くいえないけど、
すっごく不思議だと思う……」
小さな星だ。
月のない夜を手探りで進む僕らを導く、
失われた星の最後の一欠片だ。
僕らはこの小さな星を頼りにして、
荒野の果てを目指して、
小さな群れで歩いていく。
【智】
「そうだね。ほんとに不思議だ。
そういうのを縁っていうのかもしれない」
【智】
「それって、人と人の繋がりの事だよ。どんなに無関係でも、
たとえ山奥に一人で、引っ込んでいても」
【智】
「僕らはどこかで繋がってるのかもしれない」
【るい】
「わたし、決めたんだ……」
何をとは聞かなかった。
るいも言わなかった。
それでも、言葉にしなくてもよくわかった。
るいは、両親の果たせなかった最後の想いを、
今度こそ果たすんだ。
呪いを解くには必要なものが三つある。
一つは儀式。
それは『ラトゥイリの星』を解読することで手に入れた。
もう一つは8人。
僕、茜子、るい、花鶏、こより、伊代、央輝。
あとは惠の協力を得られれば揃う。
最後の一つは場所。
正しい儀式には正しい場所が必要であることが、
解読によって判明した。
これがどこなのか、
まだ僕たちにはわからない。
【茜子】
「んん…………」
朝ごはんの支度をしようと冷蔵庫を開けたまま、
思わず考え込んでしまっていた。
茜子が起きるまえに、
支度を済ませようと思っていたのに。
【智】
「おはよう、茜子」
【茜子】
「ひとりでベッド出るの禁止です……ふぁふ……」
【智】
「すぐ朝ごはん作るから少しだけ待ってて」
ふしふしと顔をこすってベッドから這い出してきた茜子は、
ずるりと床に落ちてそのままそこで動かなくなった。
【茜子】
「すぅ……」
【智】
「あ、寝た」
きっと茜子も疲れてるんだろう。
ごはんが出来るまで、しばらく寝かせてあげよう。
それから一緒に朝ごはんを食べて、みんなの所へ。
最後の謎――『場所』を探し出さなくてはならない。
【茜子】
「その動物はキリンっぽい模様があって、体は逆三角錐の形
なんです。足は3本で、鳴き声はキュー」
【こより】
「外見はなんか気持ち悪い気がしますケド、鳴き声はプリティーな感じであります」
【花鶏】
「それで、この詩篇部分の挿絵なんだけど、雲みたいになってる
部分をよく見たら……」
【茜子】
「場所は深夜の美術館みたいなところなんですが、そこで突然の大地震が起きて動物たちピンチ。咄嗟に崩れてきた壁を支える茜子さん。『今のうちに逃げて!』『キューキュー』」
【花鶏】
「そっちの二人も聞いてるの!?
場所の手がかりになりそうなものが見つかったのよ!?」
【るい】
「おお〜、なんか感動的な話……ってえええ!?」
【智】
「場所の手がかりが!?」
茜子の朝見たシュールな夢の話に、
ついつい聞き入ってしまった。
【茜子】
「聞きましょうか」
【智】
「切り替え早いね」
【こより】
「茜子センパイ、あとで続きお願いします」
【茜子】
「OK」
【伊代】
「呪いを踏んだ本人が、そんなにのん気に構えててどうするのよ! 急いで調べなきゃいけないと思って、わたしもがんばってたのよ!? それにまたいつ呪いが現れるか……」
【央輝】
「とりあえず、まずオマエが黙れ!!」
【伊代】
「…………はい。場所の話、おねがい」
【るい】
「イヨ子はよくがんばった」
【智】
「それで花鶏、場所の手がかりって言うのは?」
全員が思わず居住まいを正してから注目する。
花鶏はゆっくりと『ラトゥイリの星』のページを繰って、
やがて目的のページを見つけ出した。
【花鶏】
「この絵。見て? 雲の部分は一見ただの模様だけど、こうして
次のページを透かして見ると……」
【智】
「……?」
挿絵は幻想物語としての『ラトゥイリの星』の
メイン・テーマと言える、情景を描いていた。
八つの星が1つに集まって翼を得、雲の間を突き抜けて
天頂に光り輝く球体へ向かって舞い上がっている絵だ。
その、絵全体としては脇役と言える
雲の部分を、花鶏は指差す。
【花鶏】
「地図に見えない? それもこの田松市周辺の」
【智】
「あ……!? これが川で……この右の方の黒いところが湖
……なの?」
【央輝】
「ふうん……」
田松市は平坦な土地に住宅が立ち並ぶ土地だ。
特徴的な地形はほとんどないけれど、
地名の由来になった湖がかつて存在したと、
子供の頃に聞いたことがある。
【るい】
「すっごい、よく気づいたね、こんなの!」
【こより】
「これ花鶏センパイのご先祖さまが書いたんですよね!?
おお、おおおお〜! 先祖の仕掛けた謎を、子孫が解く
なんてかっこいいですよう!」
【花鶏】
「このページだけ裏表に挿絵が続いてるのが気になってね。それで伊代、昔の地図はあった?」
【伊代】
「……画像が荒くて見難いけど、これとか」
伊代がさっきから使っていた
ノートPCをこちらに向けた。
液晶画面には、
田松市周辺の古地図が映し出されている。
【花鶏】
「どう?」
【智】
「…………」
なるほど、たしかに似ている。
湖の形と、川の流れるライン。
大まかな形は捉えていると言える。
この書物が書かれた年代も不明だし、おそらくロシアにて
記憶を元に書かれたであろうことを考えれば、
この程度は誤差だと思える。
【茜子】
「だとすると、この八つ星が向かっている球体の位置が」
【花鶏】
「たぶん、わたしたちの目指す場所よ」
【智】
「この場所って……」
地図の縮尺に比して球体のサイズは大きすぎて、
位置は極めて曖昧だ。
だが、朧気なイメージの一致する場所には……。
【茜子】
「あの屋敷ですね」
それは、惠の暮らすあの古い屋敷だった。
今まで惠は隠していたのか?
儀式を行うのに必要な特別な場所。
それが屋敷の中に隠されているならば、
暮らしている惠が知らないとは思えない。
だが、惠も参加した儀式は……失敗した。
【こより】
「ほんとに忍び込むんですか〜? やっぱり事情を話して調べさせてもらったほうがいいですよう……」
【智】
「惠は最初から場所のことを知っていて隠していた可能性が
あるんだ。だとしたら、あの儀式が失敗するのも、最初から
わかっていたのかもしれない」
【伊代】
「それって……どういうこと? あの子は……本心では呪いを
解きたくないって事? そんな理由を考えられるの?」
【花鶏】
「この『力』を失いたくないのなら、呪いを解かないことを選ぶ
でしょ。呪いを踏んだのは惠じゃないわ。他の誰かよ」
【るい】
「……惠は、友達よりも自分のことが大事なの?」
【花鶏】
「惠じゃなくても、そうよ」
冷たい論理を口にする。
僕らは誰もが、
自分のために、自身のために、戦う。
【智】
「惠とは、友達だった」
【るい】
「うん」
【智】
「呪いを解きたくなかったなら、最初から協力しないこともできた。僕らのうちの一人を欠けさせて、それで呪いを解けなくすることだって……」
【智】
「惠の行動はうまく割り切れないんだ。だから、理由があると思う。呪いを解きたくない理由が……。それを本人に確かめてみたい」
思い当たる場所があった。
前に惠の屋敷にみんなで泊まった時のこと。
惠が発作を起こした夜だ。
僕と茜子は夜半に、鬱蒼と木々の茂る庭に分け入る惠を見た。
あれはどこへいったんだろう?
外出したわけじゃない。
あの庭には何が隠されている。
【茜子】
「どちらにしても、ここまで来て引き返すこともないでしょう。
行っちゃいましょう」
塀は高いけど、
助けを借りれば充分乗り越えられる。
それに、このあたりは本当に人通りがない。
侵入は簡単だ。
いくら惠が秘密を守ろうとしているとしても、
屋敷には惠を含めて3人しか住んでいない。
【智】
「見たところ警報装置の類も見当たらないし、気づかれることなく侵入できるはずだよ」
【るい】
「でも……本当にトモが一人で行くの? せめて、何人かで
行った方がよくない?」
【央輝】
「あたしが行ってもいい」
央輝も心配してくれている。
【智】
「気持ちは嬉しいけど……やっぱり僕が一人で行くよ。
大勢で押しかけたらどうしても目立つし、惠だって警戒して
姿を消すかも知れない」
【智】
「惠とは戦うんじゃない。呪いを解くために、力を合わせるんだ。央輝だと、万が一惠とはち合わせになったときに争いになるかもしれないしね」
【央輝】
「……そうか」
【伊代】
「趣旨は良くわかるし、その通りだと思うけど。本当に気をつけてね。あの子が最初から隠していたのなら、わたしたちのこういう行動は見逃せないはずだから」
【茜子】
「心配はしてませんけど……気をつけて」
【智】
「うん」
るいの助けを借りて、
塀の内側に降り立った。
荒れ放題に植物が繁茂する庭を、
記憶を頼りに分け入る。
月明かりに、古い離れが浮かび上がる。
草に幾度か手を切られて、
それでも下生えを払いながら進んでいたら、
踏み分け道に行き当たった。
屋敷の方向を確認して反対方向に進んだ。
こんなにも広い敷地があったのかと驚かされた。
低い木々の間に踏み跡らしいものがある。
辿っていくと、次第に木々だけが立ち並び
雑草が処理された場所に出る。
小さな離れがあった。
目立たず小さな作りの建物は、
庭の木々に埋もれてしまえば目立たない。
【智】
「…………」
こんなところに離れがあるなんて。
明らかに母屋と断絶された、この建物は異常だ。
3人で暮らすに不必要とされて放置されたのならば
まだ納得がいくが、その離れからは人の生活を
匂わせる明かりが漏れている。
【智】
「こんなところに誰が……?」
奇妙に胸がざわめいた。
離れに踏み入ると、すぐに御簾(みす)が視界を遮っていた。
明かりが漏れている。
この向こうにはおそらく離れの主がいるのだろう。
【智】
「…………」
誰何の声は出せない。
耳を済ませても、物音は何一つ聞こえない。
ただ、不自然に甘い香りだけが漂ってきていた。
思考を麻痺させるような、どこか危なげな香り。
香りの蠱惑(こわく)に耐えながら気配を殺す。
ふと、衣擦れの音が聞こえる。
【真耶/???】
「そこに誰かいるの……?」
【智】
「…………!」
逃げ出しても気づかれる。
為すべき手立てを決められないうちに、
御簾は内側から持ち上げられた。
【智】
「え……!?」
ただでさえ焦っていた思考が凍り付いて、
完全に停止する。
現れた離れの主は、
予想を遥かに超えていた。
【真耶/???】
「智……やっと……来てくれた」
【智】
「――――――――」
鏡かと思った。
そこに自分と同じ顔がある。
【真耶/???】
「まっていた……遅かったのね……」
思考が根こそぎにされる。
黒く長い髪が、ゆるやかな動きにつれて、
さらりと流れる。
これは、誰。
同じ顔。
同じ顔。
同じ顔。
理性よりも本能が言う。
僕は、彼女を、知っている。
【智】
「そんな、まさか……」
【真耶/???】
「智……会いたかった」
【智】
「姉……さん?」
やっとのことで搾り出した一言がそれだった。
嘘だ…………。
でも、見るだけで判る。
死んだ……それだけ聞かされていて、
写真さえ見たことがなかった双子の姉。
それでも見た瞬間に悟ってしまった。
身体の深い部分が感じ取っていた。
間違いなく、姉さんだ。
【智】
「ほんとに……姉さんなの……?」
実感のない遭遇。
幽霊と出会うよりも、もっと奇妙な再会だ。
顔さえよく覚えていない姉なのに、わかる。
【真耶】
「わかるのね……嬉しいわ。
わたし、ずっと智を待っていたのよ……」
【智】
「まって……」
【智】
「姉さんも、僕のことがわかるの……?」
【真耶】
「わかるわよ……あなたは智でしょう……智のことは、なんでも
知っているわ」
姉さん、生きていた。
でも、それはどういうことだ――――。
姉さんはどうして生きていた?
なぜ死んだことになっていた?
どういう経緯でこの離れに?
そして、なぜこの屋敷の人たちは
姉さんの存在を隠していた……?
頭が働かない。
【智】
「姉さん……本当に生きて……」
【真耶】
「ええ。母さんの下で育った智は……わたしのことを死んだって
教えられていたんでしょう……あなたが寂しがらないよう、
お父様がそうしたのよ……」
【智】
「…………」
父さん。
そう、父さんだ。
年中仕事で帰ってこなかった父さん。
呪いと戦うためのノートを遺した父さん。
この屋敷の前の持ち主は父さんだった。
【智】
「姉さんは……ずっと父さんの下で育てられていたの……?」
【真耶】
「智、もっと側に来て……。姉さんに智の綺麗な顔を見せて……」
そうだとして。
父さんの下で育てられていたとして。
どうして僕と姉さんは分けて育てられたのか?
姉弟の感動の再会のはずのシーンに、
僕はそんなことばかり考えている。
【智】
「姉さん……」
不思議な浮遊感と現実感のなさ。
胸に寄りかかる姉さんの存在を感じ取る。
酷く軽くて、体温の低い肌だった。
【真耶】
「そうよ、智。会いたかった……。
ずっと、ずっと待ってたのよ……」
熟し切った果実によく似た甘い香りがする。
姉さんの吐息が絡みつく。
蜜に溺れ死ぬ虫のイメージが頭をよぎって、
妙な妄想を振り払うために声を出す。
【智】
「どうして、姉さんは、こんなところに閉じ込められていたの……?」
【真耶】
「違うわ……。わたしは自分の意思でここに居るのよ」
【智】
「それじゃあ、惠に捕まえられてるわけじゃないんだね?
姉さんと惠はいったいどういう関係なの? それにこの屋敷は
いったい……」
【真耶】
「ふう……」
興味がなさそうに姉さんはため息をつく。
【真耶】
「父さんが亡くなった後、惠とわたしは同じ後見人に引き取られて育てられた……それだけよ。それより智は、呪いを解くために
ここに来たんじゃないのかしら……?」
【智】
「……知ってるんだね、呪いのこと」
【真耶】
「ええ……。智が来てくれることも……、呪いを解こうとしてる
ことも……、これから智が呪いを解くことも……わたしは全部
知ってたわ……」
【智】
「姉さん、呪いを解く手段のことも知ってるの!?」
【真耶】
「知ってるわよ、智。う、ふ、ふ、ふ、ふ……」
着物を引きずりながら姉さんは僕に這い寄ってくる。
ずっと一人で暮らしてきて、
僕の存在を知っていた姉さんは、
きっと僕より寂しかったのだろう。
顔さえ覚えていないといっても、
もっとこみ上げるものがあってもよいはずなのに……。
どろりとした不安に足をとられているような、
言葉にならない感覚。
でも、まずは――――呪いだ。
【智】
「姉さん、もうすぐ全部終わる。終わらせる。その後で、必ず
迎えにくるから。だから……」
【智】
「呪いを解くための手がかりを、姉さんが何か知ってるなら、
教えて欲しい。呪いを踏んだものが二人いる。それに、僕自身も呪いを踏んだんだ。今までにも何度か『ノロイ』に襲われてる」
【真耶】
「心配はいらないわ、智……」
血の気の薄い唇が笑い、甘い匂いが立ちこめる。
【智】
「そうはいかないよ。
呪いを早く解かないと、茜子や央輝が危ないんだ」
【真耶】
「ふう……」
また一つため息をついて、
姉さんは蛇にように僕に身を摺り寄せてくる。
不健全な白い指が、僕の胸を這った。
【真耶】
「可愛い智……、わたしの智……。大丈夫よ、安心して……」
【智】
「大丈夫って……なにが……どういうことなの」
【真耶】
「智はわたしが守ってあげてるから。わたしと智は……同じ呪いと『力』を共有しているのよ」
【智】
「え、共有……?」
【真耶】
「そう。本来、呪いを持った子はひとつの家に一人、娘しか生まれない。だけど、わたしたちは双子として生まれたわ……」
【真耶】
「ふふふ、そのせいでわたしたちは一つの呪いと『力』を共有しているの……」
【智】
「…………」
呪いと『力』の共有。
どういうことだろう。
胸から肩、頬へ手を這わせながら、
姉さんは後ろから僕に身を寄せる。
熱く柔らかい膨らみが背中を押した。
【真耶】
「わたしと智で、『八つ星』の力を移し替えることができる。
『呪い』も『力』もやり取りして、わたしたちだけが呪いの
裏をかくことができる……」
【真耶】
「わかる? 安心をして……
呪いを踏む必要のない時は、ずっとわたしが呪いを持っていたのだから……あなたは呪いを踏んでないのよ」
【智】
「それが、僕が、呪いを踏まなかった理由……」
それは、まさにルールの裏側だ。
例え呪いを踏んだとしても、呪いを失えば、僕は『ノロイ』の目に映らなくなる。
【智】
「それじゃあ、僕が他のみんなと違って、特別な力がなかったのは……」
『八つ星』の『力』と呪いは、
本来、両方とも姉さんが持っていたということか。
じゃあ、そうでない時の僕は、
特別な力がない……どころじゃない。
力も呪いも持たない僕。
まるで普通の、どこにでもいる……。
【真耶】
「智……わたしは、あなたが必要なときには……いつでも、あなたに力を手渡してあげた……ふふふ、それはあなたの助けになったでしょう…………」
【智】
「それって……その、どういう…………」
【真耶】
「う、ふ、ふ、ふ、ふ……。だから、智は安心していいのよ。
わたしがずっと守ってあげてるから……」
そうか。
幾つも謎が解けていく。
僕が、呪い持ちで、たった一人の男である理由。
呪いを踏んだとき、危険な感じがしなかった理由。
【智】
「だめだよ」
【真耶】
「どうしたの、智……そんなに大きな声をだしたりして、
ふ、ふ、ふ」
【智】
「僕が大丈夫でも、茜子と央輝が危険だってことは変わらない。
『ノロイ』は代価を奪うまでは消えない。あの二人にしろ、他の呪い持ちの仲間にしろ、誰かが犠牲になってしまう」
【智】
「それに……茜子は、僕を助けるために呪いを踏んだんだ!
茜子がこのままだと『ノロイ』に殺されちゃう! 僕らは呪いを
解かなくちゃいけないんだ」
【真耶】
「ふう……」
少しずつ強まる抱擁から逃れようと身じろぎしたが、
姉さんは離してはくれなかった。
【真耶】
「……その女、背丈が低くて前髪は眉のあたりで切り揃えているでしょう……?」
【智】
「え……?」
【真耶】
「いつもいつも手袋をして……そうね、あとはよく猫を抱いている……」
【智】
「どうして茜子のこと知ってるの!?」
【真耶】
「ふう……」
殊更に顔を寄せて、
甘い吐息を吐きかける。
頬を撫でていた手が下りてきて、
首筋に爪が食い込んだ。
【智】
「い、痛いよ……姉さん」
【真耶】
「ふふふ……今はしばらく待ちなさい。智」
【智】
「待つって……でも、みんなが危ないんだ。僕にとっては、みんなみんな大事な友達なんだ」
ゆるやかに僕から身を離した姉さんは、
僕と正面から向き合って刃物みたいに目を細めた。
【真耶】
「呪いを解くための、最後の場所のことは、わたしも知らないわ。それに智、あなたは惠を協力させられる……?」
【智】
「…………」
本当に…………姉さんは事情に通じているようだ。
惠を説得できるだろうか?
人を殺す惠。
呪いを解きたくない惠。
たくさんの秘密を隠し続けてきた惠。
僕はまだ、惠について……あまりに多くのことを知らない。
僕たちは仲間だった……。
その見えない絆が、唯一の信頼の担保。
それで、惠を最後まで信じられるのか?
わからない。
まだ惠が何を考えているのかも。
そして、目の前にいる自分の姉さんの考えも。
わからなくなってくる。
【真耶】
「わたしがなんとかしてあげる……だから今は帰りなさい、智」
【智】
「姉さんが!?」
【真耶】
「ええ、そうよ。時が来れば、わたしがもう一度呼んであげるから……」
【智】
「呼ぶって……」
【真耶】
「もう一度、お母さまからの手紙が来たら、その時はまたここへ
いらっしゃい……」
【智】
「なんで、あの手紙のことを……あれは……」
あれは、姉さんだったのか。
でも、なんのために?
【智】
「姉さん……」
【真耶】
「またすぐに会えるわ……。そして、今度は、もうずっと一緒に……。わたしの智、可愛い智、愛してるわ……」
【智】
「う、うん。僕も姉さんと暮らせるのを……楽しみにしてる……」
わだかまる不安のせいで、
僕は最後までうまく言えなかった。
姉さんの目はわずかにも逸れることなく、
じっと僕の目を見つめている。
【真耶】
「ただし、その間、呪いを智の方に移すから……くれぐれも
気をつけて……」
【智】
「うん……わかった」
【真耶】
「そろそろ行きなさい」
【智】
「さよなら……また、必ず来るから……」
塀の上から力任せに引っ張り上げてもらって、
僕は無事大貫邸から脱出した。
【こより】
「それで、目的の場所は見つかったのでありますか?」
【智】
「目的の場所は見つからなかったよ。でも、別のもっと大きな発見はあった」
【央輝】
「勿体つけるな」
【るい】
「もっと大きなって、なに?」
【智】
「庭の中に離れがあって、そこに僕の姉さんが居た」
【伊代】
「え……、たしかあなたのお姉さんは、幼い時に亡くなったって
……」
【智】
「うん。僕もそう聞かされてたし、写真すら見たことなかったよ。だけど居たんだ」
【茜子】
「双子の姉、でしたね。同じ顔なのですか」
【智】
「見ただけで姉さんだってわかった。たぶん顔だけのせいじゃないけどね」
【花鶏】
「でも、なんでそんなとこに、智のお姉さんがいるわけ?」
【智】
「詳しいことは後で話すよ。まずはここから離れよう? せっかくうまく見つからずに侵入して戻ってこれたんだから」
姉さんから聞いた話を、みんなに手短に話した。
僕と姉さんの呪いの共有のこと、姉さんがそこに居た理由、
それから姉さんが今は待つようにと言っていたことなど。
【花鶏】
「信じられるの?」
【伊代】
「ずっと離れにいるんでしょ、そのひと。あなたの姉さんを
疑いたいとは思わないけど……」
【智】
「たぶん、それが姉さんの『力』らしいんだ。それに姉さんは、
ずっと父さんと一緒にいたから、何か大事なことを聞いてるんだと思う」
みんなはとりあえず姉さんの言葉に従って、
しばらく様子を見ることに納得してくれた。
【央輝】
「あいかわらず、ツキはあるようだな」
【智】
「ツイてる……のかな」
【央輝】
「額面通りならな。この状況で、『敵』の内部に、内通者ができた。そいつは自分の姉で、おそらくは味方で、あたしたちを取り巻く状況にも詳しい」
『敵』――――。
央輝は惠をあえて『敵』と呼んだ。
僕から、甘い考えを奪うために。
敵なのか、味方なのか。
未だに惠のことがわからない。
【智】
「残りは惠を説得すること、呪いが解ける日まで、『ノロイ』の
追跡を逃げ続けること……だね」
【茜子】
「では、双子呪ッテの能力は結局なんだったのですか?」
【智】
「そういえば……あまりのことで聞きそびれてた」
【るい】
「ま、いきなりお姉さんじゃねー」
【るい】
「しばらくしたらトモのトコに呪いと『力』が来るんでしょ?
使えば判るんじゃない?」
【央輝】
「これでオマエも『力』持ちというわけか」
【花鶏】
「もっとも、もうすぐ呪い解いちゃうわけだから。それまで
いっぱい使って堪能してみたら」
【智】
「まあ、どういう『力』か判ったら試してみる……」
またもし『ノロイ』に襲われたら逃げ切れるだろうか。
いつまで待てばいいのだろう。
姉さんを信じるしかない。
【智】
「…………」
姉さんを……信じて待っていて、
本当に大丈夫なのだろうか?
同じ顔をした双子。
誰よりも濃い血で繋がっているのに、
こんなにもよくわからない。
出会った気さえしない。
【茜子】
「帰りましょう」
【智】
「あ、うん」
答のない考えに沈みそうになった僕を止めるように、
茜子が袖を引いた。
【智】
「そうだね。帰ろうか」
【るい】
「うん、それじゃ、おやすみー!」
【伊代】
「おやすみ。はやく呪いを解いて姉さんと一緒に暮らせるように
なるといいわね」
【こより】
「おやすみなさいであります! あ、伊代センパイ! 途中まで
一緒に帰りましょー」
【央輝】
「連絡を待ってる」
【花鶏】
「こんな面倒なこと、本当にさっさと済ませたいわね。じゃ、
わたしも帰るわ」
【智】
「ばれたらまた狙われるから、『ラトゥイリの星』はちゃんと
隠しておいてね」
【花鶏】
「わたしは二度も同じ失敗をしないわよ」
【智】
「信じてる。じゃあ、みんな、おやすみ」
闇の中手を振り合って、
僕らは家路を辿った。
茜子の手を引いて帰る。
町外れの工場が夜の中に浮かんでいる。
【茜子】
「お姉さん……どんな人でしたか?」
【智】
「同じ顔してた。初めてあったけど……血が繋がってるって……
心のどこかでわかった。でも…………」
【茜子】
「不安なんですね」
【智】
「何を考えているのかわからない人だった。どうしてあそこにいるのか。それよりも……どうして、死んだって聞かされてたのか」
繋いだ手に茜子が力を込める。
【茜子】
「私、最後まで智さんにひっついていますから」
【智】
「…………やだっていっても離さないから」
【智】
「もう少し考えがまとまったら、茜子には順番にせつ……」
茜子が立ち止まる。
気がつけば街の音が絶えていた。
無音の闇から何かが近付いてくる。
背中の毛が総毛立つ。
これは。
影法師めいたものが立ち上がる。
病人じみた細く長い手足を蜘蛛のように広げて。
顔のあるべきところに髑髏が笑う。
――――――『ノロイ』。
【智】
「走れ、茜子!」
【茜子】
「智さん、アレが……くるっ!」
走る。
音もなく迫る黒い圧力。
腹腔が凍てつくような冷気に貫かれる。
走る。
足音は聞こえない。
月影にも移らない。
呪いは僕らにしか見えず、
僕らしか見ないで追ってくる。
【智】
「やつは――――!?」
遮二無二走ろうとして足が止まった。
【茜子】
「ど……どうしたんです……っ!?」
走ったせいですっかり息のあがった茜子が、
怯えながら立ち止まった僕の手を引こうとする。
【智】
「こっちだ!」
【茜子】
「あ、でも、そっちは――」
くるりと反転して、
来たばかりの方向へ走る。
飛び出そうとした十字路に車が突っ込んできた。
真っ直ぐ進んでいれば助からなかった。
道路標識にフロントを半分潰された乗用車の屋根から、
黒い『ノロイ』が幽鬼のように立ち上がった。
今の事故は呪いの仕業だ。
【茜子】
「だめ、そこは! 智さん!」
入り組んだ街の路地に入り込む。
逃げ道がない。
わかっている。
でも、ここだ。
進むべき道が見える。
それは細い糸のように揺らめいている。
ほんの些細な力加減で、道は枝分かれし、
絡まり、千切れてしまう。
だけど、この細い道だけが、
僕と茜子の逃げ道だ。
【茜子】
「智さん……」
【智】
「わからないけど、でも……いける……気がする」
【茜子】
「はっ、はぅ、はっ、は……」
茜子は息を乱し、足を何度ももつれさせる。
手を引いて、僕は走り続けた。
【智】
「どうやら、逃げのびたみたいだね……」
『ノロイ』の気配は去った。
とりあえず、今夜は生き延びた。
次にヤツがくる前に呪いを解かなければ。
さもなければ……。
【茜子】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
立てないくらい息を弾ませている。
その背中を優しく抱きしめる。
【智】
「立てる? 多分、今夜は逃げ切ったと思う……」
【茜子】
「…………」
小さく頷く気配。
〔命を選択せよ〕
【智】
「ん……」
【茜子】
「起きてください。うーん、あと5分!」
【智】
「それは……起こす方が言うセリフじゃ……ないでしょ……」
【茜子】
「茜子さん考案の、つっこみを要求することによって頭脳を覚醒させる、まったく新しい起こし方です。特許出願中」
【智】
「まあ、ありがと」
【茜子】
「礼には及びません」
ガラスの割れる音だけが、耳にこびり付いていた。
夢の内容はよく憶えていない。
言いようのない不安だけが、
断片的に残っていた。
あれから数日。
今日見た夢は、
どこかしら不安な要素を孕んでいた。
形のない危機感は募っていく。
【智】
「ねえ茜子、正夢とか信じる?」
【茜子】
「智さん、前に見たことのあるやつですか」
【智】
「んーと、もっと一般的なやつで」
【茜子】
「基本的には信じませんが。女装大好きっ子が今よからぬ夢を見て、不安がってるのはわかります」
【智】
「女装は呪いのためだから仕方ないの! ……本当だよ?」
【茜子】
「はい。ではそういうことに」
【智】
「本当なんだってば! ……で、夢なんだけど、どうも呪いに関係ある気がして。待ってちゃいけない気がするんだ」
【茜子】
「姉上は待つようにと言ったのでは?」
【智】
「うん、そうなんだけど……」
じりじりと首筋を炙る焦りを感じる。
僕の中の何かが警鐘を鳴らしていた。
姉さんからの連絡は未だ来ない。
考えてみれば姉さんからこちらへの連絡手段は何か存在する
ようだけど、こちらから姉さんへ連絡を取る手段はない。
本当に待っていていいのだろうか?
【智】
「やっぱりもう待てない」
【智】
「いたずらに時間が過ぎれば、央輝も茜子も危険になる。
それは最初から承知だったのに」
【智】
「僕らで惠を説得しよう。どうせ最後には惠の協力が必要に
なるんだ。最初から惠を説得しに行って、協力してもらう
べきだったんだ」
呪いを解くには8人全員の協力が必要。
どのみち惠のところには行かなくちゃいけないんだ。
どうして僕は待っていたんだ?
茜子を危険に晒してまで、今まで待っていた?
もしかして、姉さんこそ
呪いを解かせないようにしているのだとしたら……?
【茜子】
「姉さえ疑うのですか?」
【智】
「茜子を助けるためだよ!」
思わず声が出た。
得ることは失うことと不可分だ。
何度でも、何回でも。
挫けず挑む意思を構えても。
取り返しのつかないことはある。
そんなとき、僕はどうしたらいい?
手に入れて初めて、失う怖さを思い知る。
【茜子】
「…………」
虚を突かれた顔で、
茜子が目を丸くした。
それから、素早く僕の懐に飛び込んで唇を重ねてきた。
【智】
「ん……」
【茜子】
「ん…………。今さら好感度稼ぐ必要はありませんよ」
魔法でもかけられたみたいに、
焦りの濃度が薄くなる。
この魔女っこは、
本当に魔法使いかも知れない。
深呼吸する。
落ち着け。冷静になれ。
自分を見失ったら正解だってわからなくなる。
一番正しい答えを見つけなくちゃならない。
自分の失敗は、全員の失敗へと伝染する。
病のように。呪いのように。
手を繋ぐことの美しくも残酷な戒めだ。
【智】
「……なんとか、いけそう」
【智】
「変だね。以前は色んなことを諦めてたのに……手に入ったら入っただけ、欲深くなっていくみたいだ」
【茜子】
「本当はもう、このまま助からなくてもいいと思っていました。
わたしは……充分に満たされたので」
【智】
「困るよ」
【茜子】
「そうですね。ではあの男装と直接対決と行きましょうか」
【智】
「みんなを呼んで、一緒に行こう」
今度は惠は逃げも隠れもしない。
連絡を待っている。
そう約束した。
だから、あそこに。
自分の屋敷で、僕たちを待っている。
【茜子】
「はい。それに生きなければならない理由を、もうひとつ
見つけました」
【智】
「ん、なに?」
【茜子】
「呪いを解いた後の、智さん女装趣味暴露ショウ。これは
見逃せない」
【智】
「……呪い、解きたくなくなってきた」
そういえばそうだった。
学園とかどうなるんだ……?
これからの事を考えて気を重くした僕の腕に、
茜子がまとわり付いてくる。
【茜子】
「では、行きましょう」
【智】
「ふう、そうだね。まずは呪いを解いてから。後のことは
後で考えよう!」
【浜江】
「惠さまは今、誰ともお会いにならん」
訪ねた僕らを一番に出迎えたのは浜江さんだった。
譲歩の余地を一切見せない仏頂面に気圧される。
だが、今はこちらも引けない。
【智】
「浜江さん。どうしても屋敷に入れて貰わないと困るんです」
【浜江】
「惠さまは誰とも会わんと……」
【智】
「離れに居る人に、会わせて下さい」
【浜江】
「な…………!」
隠された離れに居る人物を、
まさか僕が知っているとは思わなかったのだろう。
驚きで言葉を詰まらせて、
僕を睨みつける。
【智】
「惠にも会わせて貰えますね」
【浜江】
「……入れ」
知っている理由を問うことはなかった。
理由を聞いたところで
知られたことは変わらない。
観念したように、
浜江さんは僕らを屋敷を招き入れる。
【智】
「今夜、すべての決着をつけてやる!」
屋敷の一室で待たされる。
出された紅茶と菓子は、
るいとこよりさえ手を出せなかった。
【浜江】
「…………」
【佐知子】
「…………」
浜江さんと佐知子さんは壁際に直立不動で待機していて、
まるで僕らを監視しているようにも見える。
空気が重い。
部屋は泥の中のような静寂に包まれていて、
時おり神経質に央輝が拳を握り直す音だけが響いた。
【こより】
「ん…………、ん…………」
【伊代】
「…………」
不安そうにこよりが、きょろきょろとみんなの顔を見る。
無言でたしなめた伊代も落ち着かないようだった。
やがて階上から靴音が聞こえて、
惠がやってきたことを告げる。
覚えず背筋も伸びる。
【るい】
「メグム」
扉が開いて惠が現れた時、
堪えきれずにるいが声をかけた。
【惠】
「待たせてしまったかな?」
【央輝】
「何を平然としてる!? オマエ、最初から……」
【伊代】
「怒るかどうかは事情を聞いてからにしましょ。この間も
わたしたち、感情的になって失敗したばかりじゃない」
【央輝】
「……ふん。まあ、いいだろう」
【惠】
「それで?」
央輝の怒りを受け流して、
惠は聞いた。
【智】
「姉さんと話がしたい。惠は真耶姉さんのこと、知ってるんでしょ」
【惠】
「真耶は誰にも姿を見せない。かつて、この屋敷と離れを管理
していた大貫という男は、呪いを避けるために、真耶はあの
離れに隠れていなければならないと言い残した」
【茜子】
「でも、知ってたんですね」
【惠】
「僕がどの程度知っていたかは想像にまかせよう。
智との関係については、真耶はなにも話したことはない」
茜子が何も言わないということは、
惠は嘘は言っていない。
【智】
「そう、惠も知らなかったんだ」
【惠】
「……」
【智】
「でも、疑ってはいたんだね。惠が最初に僕を助けてくれたときも……声か、名前か、どこかしらに姉さんや屋敷との繋がりを感じたからだろ?」
【惠】
「想像にまかせる」
【智】
「惠、とりあえず姉さんに会わせて欲しいんだ。
話さなくちゃいけないことがある」
【惠】
「…………」
何者をも間に挟まず、惠と目を合わせる。
やはり惠の真意は推し量ることができない。
【惠】
「その前に……僕と話をしてもらえるかい? ……いけないかな」
【智】
「……どんな話?」
【惠】
「知っていることのすべてを話そう」
ざわっ。
【智】
「わかった。聞くよ」
いつのまにか新しい紅茶を用意して来た佐知子さんが、
惠の分を淹れる。
【佐知子】
「惠さん、どうぞ」
【惠】
「ありがとう。佐知子」
惠がゆったりとした動作で紅茶を一口含むと、緊張で喉が
渇いていた僕らは、それぞれに冷めかけの紅茶で舌を湿した。
【惠】
「君たちは儀式に必要なもの、最後の一人である僕と、
それから『特別な場所』を探してここへ来た」
やはり惠は最初から知っていた……。
【智】
「惠は知ってたの?
呪いを解くのに正しい場所も必要だって言うこと」
【惠】
「……この屋敷には地下室がある」
【央輝】
「はぐらかすな!」
【花鶏】
「どういうつもりか知らないけど、最悪あんたを現れた『ノロイ』の犠牲にすることだって出来るのよ!?」
【伊代】
「落ち着いてよ、もう! まずは話を全部聞きましょ? 腹に
据えかねてるところがあるのは、わたしだって同じ。きっと
みんなも同じよ。でも今は全員の協力が必要なんだから」
【こより】
「花鶏センパイも落ち着いてください! 鳴滝だって本当は
逃げ出したいけどガマンして聞いてるんですよう……」
【央輝】
「チッ……」
【花鶏】
「……いいわ、続けて」
話をはぐらかした惠に、花鶏と央輝が反応したが、
二人はそれぞれこよりと伊代に抑えられる。
話の接ぎ穂を提供したのはるいだった。
【るい】
「地下室がどうしたの?」
【惠】
「そこがおそらく、『正しい場所』だ」
【茜子】
「やはり知っていたんですね」
【惠】
「賭けた、といったらどうする?」
【智】
「賭けた……?」
【伊代】
「さっきからどうして真面目に答えてくれないの?
三人……じゃなかったのね。二人の命が掛かってるのよ?」
【惠】
「三人だよ」
惠の話はちぐはぐで、
一言一言が謎めいて意味を掴み難い。
それでも惠は冗談など言っているようには見えなかった。
テーブルの下、
手袋に包まれた茜子の手を握る。
ちらりと視線を交わしたけれど、
どうも茜子さえ惠の考えを読みあぐねているようだった。
ペースを奪われてはならない。
【智】
「『ラトゥイリの星』は失われた。でも、僕たちは正しい方法を
今度こそ見つけたよ」
【るい】
「私のお父さんが残してくれてたものがあったから」
【惠】
「…………いずれこうなるのは判っていたよ」
『ラトゥイリの星』が失われたことは、
惠は知らないはずだ。
もう一冊の存在を知っていたのか……。
それとも、惠が隠そうとした屋敷の秘密の場所、そこへ僕らが
すべてを揃えてやって来ることを覚悟していたのか。
【茜子】
「私が心を見えるのは知っていますね?」
【惠】
「…………」
【茜子】
「では聞きます。あなたは私たちが呪いを解く儀式に協力する気はありますか?」
【惠】
「…………」
【茜子】
「…………」
惠は答えない。
沈黙は、拒絶か。
やはり惠は呪いを解くことを、
最初から拒んでいた?
【智】
「惠っ! どうして君は呪いを守る必要があるの!?」
【惠】
「物事には存在理由というものがあるんだ」
【央輝】
「回りくどい話し方をするな! オマエは何を考えてる!?」
【こより】
「せめて、理由を話してください、惠センパイ! ともセンパイ
……はだいじょうぶだったらしいですケド、央輝センパイと茜子センパイは命がかかってるんです!」
【るい】
「メグムの事情がわからないと、私たちもどうしていいのか
わかんないよ」
【茜子】
「……、話せないことなのですか」
【惠】
「…………」
惠は答えない。
惠は今、どれだけの情報を手札に握っている?
惠の呪いは何だ?
惠の力は?
惠と姉さんの関係は?
僕たちはまだ何一つ知らない。
【智】
「惠! 知っていることは全部話すと言ったじゃないか!」
【惠】
「智、僕は……」
【佐知子】
「惠さんは……っ!」
壁際でずっと黙していた佐知子さんが割り込んできた。
浜江さんが感情的になった佐知子さんを、
すぐさま止めに入る。
【浜江】
「佐知子、惠さまの邪魔をしたらいかん」
【惠】
「ありがとう。佐知子、浜江。大丈夫、智ならわかってくれる」
彼女たちには彼女たちの、
惠に味方するべき理由があるのだろう。
ともかく、佐知子さんのお陰で、
惠はなんとか話す気になってくれたようだった。
【智】
「聞くよ。惠なりの話し方で構わないから」
【惠】
「ああ、ありがとう」
惠は視線を動かして、少し考える。
視線の行く先は……左上。
茜子でなくとも、
相手の思考を読むことは多少なら出来る。
人間の視線は脳の働きと関係があって、創造的な思考をする
ときは、右上に向かうと言われている。
左上を見た惠は今、記憶を辿っている。
あるいは、思考を整理している。
これから言う惠の言葉に嘘はない。
テーブルの下でまた、央輝が指の骨を鳴らした。
それが惠の、話し出す契機となったようだ。
【惠】
「2つの袋があるとしよう。片方にはコインが2枚、もう片方にはコインが1枚。どちらか一方しか取ることができない。君たち
なら、どっちを取る?」
【智】
「…………」
何を言っている?
惠の言葉はいつも謎かけじみている。
【こより】
「それは……モチロン2枚の方じゃないですか?」
【伊代】
「2枚の方は100円玉で1枚の方が500円玉とかそういう
ひっかけじゃなくて、両方同じコインが入ってるなら当然
そうよね」
【惠】
「では、袋に入ってるのが、生きた猫ならどうする?」
【茜子】
「…………」
金銭の価値なら多いほうが確実に上。
だが、命なら?
【るい】
「そりゃ、どっちも助けたい……けど」
【花鶏】
「両方が無理なら多いほうを助けるしかないわね」
【るい】
「そんじゃあ、もう片方の猫はどうなるの?」
現実的で冷徹な花鶏の意見と、
感情的なるいの意見。
【央輝】
「イライラするな……さっさと結論を言え」
【惠】
「そうだね。それなら、袋に入ってるのが人間ならどうする?」
ここまで来てなるほど、と思う。
2匹の猫は茜子と央輝、
もう1匹の猫は惠というわけだ。
惠はそれを選べというのか。
【智】
「呪いを解くとどうなるのか、それを教えてもらわないと
判断できないよ」
【こより】
「え、どうして呪いが出てくるんです? え?」
【惠】
「コインや猫と同じなんじゃないかな。ははは」
空虚な笑いは高い天井に反響して消えた。
さっき少ない猫を切り捨てると言った花鶏が、
苦い表情をする。
花鶏も気づいたんだ。
【茜子】
「呪いを解けば茜子さんとツリ目っこが助かる。
そのかわり男装アルカイックスマイルが死ぬ。そうですね」
【惠】
「その判断は君に委ねるよ、茜子」
あくまで――。
惠は自らの真意を語ろうとはしない。
敢えてそれを茜子の心を読む『力』に委ねた。
茜子はゆっくりと時間を掛けて、そこに書かれた長い長い
複雑な文章を読み解くように惠を見る。
やがて茜子は、もともと小さい口を、
殊更に小さく開いて言葉を零し始めた。
【茜子】
「…………」
【茜子】
「心がわかるこの『力』が……恨めしいです」
【惠】
「君にはそれを誇ってほしい」
【惠】
「君がここにいること、智がいること、君たちの全員が
この場にそろっていること」
【惠】
「不思議だとは思わないか?」
【惠】
「どれ一つが欠けていても、
これから起こることはきっとおこらない」
【惠】
「君たちの誰一人が足りなくても、
きっとこの場にはいなかった」
【惠】
「ほんの些細なきっかけで、
全ては変わり、壊れてしまう」
【惠】
「呪われたこの世界で――」
【智】
「惠…………?」
【惠】
「この一瞬こそが奇跡なのだと、
君たちは感じられるだろうか?」
【惠】
「瞬きする度に去っていく刹那に、たしかに築かれたものだけが、
本当に意味あるものなんだと」
心の中、痛みに耐える表情を見せる茜子に、
いくばくかの力でも分けられればと僕はその手を握る。
どんなに想っても、人と人は繋がらない。
逃れようのない呪いだ。
それでも。
テーブルの下、密かに握り合った手を通じて、
何かが伝わると信じたかった。
【茜子】
「わたしたちはどうやら、2匹の猫と1匹の猫、どちらかを
選ばなければいけないみたいです」
茜子は、惠の心を読んでいる。
茜子の言う言葉は、
すべて真実に違いなかった。
【智】
「…………僕には、選べないよ」
【るい】
「そんな……、そんなの私にも選べないよ!」
【央輝】
「一人で呪いが解けるなら、あたしは間違いなくオマエを殺してる。けど」
【伊代】
「どういうことなの? あなたはわたしたちとまったく逆の呪いを負っているっていうこと?」
【こより】
「茜子センパイが言うってことはもう、それ間違いじゃないんですよね……。そんなの、鳴滝には難しすぎますよう……」
こよりが僕の思ったことを口にする。
みんなの感想を待つ間、
惠は紅茶の残りを飲み干した。
最初からこの展開を、
惠は覚悟していたということだ。
【佐知子】
「惠さん」
【惠】
「ああ」
佐知子さんが淡々と、
惠のカップにおかわりを注ぐ。
【茜子】
「結論を出すのは難しい、というよりも私たちには出来ない。
そしてこのまま悩み続ければ、いずれ『ノロイ』がその目的を
達する。つまり男装の勝ちというわけですね」
【惠】
「君がいるのは、本当に運命の巡り合わせだね」
【智】
「たとえ惠に悪意があったとしても、僕には惠を犠牲にして呪いを解くなんてできそうにない」
【智】
「だから、あの時は賭けたんだね」
【惠】
「『正しい場所』が必要だという確証は、誰にもなかったからね」
【央輝】
「自分の命をか」
【惠】
「迷っているのか、疲れたのか……君には僕がどう見える?」
賭けた。
つまり惠は自分も決め難い2対1の命の交換を把握していた。
だから、賭けた。
場所が必要であるという確証はなかったから。
もしもあのビルでの儀式が成功していたら、
僕らは知らずに惠の命を奪っていたことになる。
【智】
「惠……」
知らないことは恐ろしい。
優しい嘘の向こうにある厳しい正しさ。
真っ直ぐに惠を見る。
正しさから目を背けないように。
【花鶏】
「でも、『ラトゥイリの星』には呪いを解けば死ぬなんて、そんなわたしたちと真逆の存在なんて記されてなかったわ」
【惠】
「『ラトゥイリの星』は、嘘は書いていない」
【るい】
「ならどういうことなの!? 私はいぇんふぇーやアカネが
『ノロイ』に襲われるのを黙ってみてられないし、メグムを
犠牲にすることも出来ないよ!」
【茜子】
「秘密があるなら教えてください。ここで嘘を並べても無意味な
ことは、あなたが一番理解しているはずです」
【智】
「惠、話して? 話してくれれば、なにか他の手段が見つかる
可能性だってある」
【惠】
「それは……、それは呪いではなく……!」
ティーポットが乱暴にテーブルに置かれた。
【佐知子】
「惠さんはッ!」
【惠】
「佐知子」
【佐知子】
「もう、言わせてください! 惠さんが責められているの、
私もう我慢できません!」
【浜江】
「…………」
今度は浜江さんも、もう止めようとはしない。
【佐知子】
「惠さんは、代々先天的に若くして命を落とす夭折(ようせつ)の家系でした。だけど、はるか先祖の誰かが、惠さんの今持ってる……この『力』を手に入れたんです」
【智】
「この『力』って……」
【佐知子】
「『命の上乗せ』の力です。どうか惠さんを責めないで下さい。
惠さんの『力』は、人の命を奪って自らの『命』を延ばす力
なんです……」
【智】
「そんな、それじゃ……」
これまで何人もの命を奪ったのは、自分の命を延ばすため……?
【佐知子】
「惠さんは軽い発作が起きるだけで、常に命を落とす危険な状態にあります。その死を乗り越えるために、誰かの命を奪って、予備の命にするんです」
【央輝】
「そんな、人智を超えた『力』が……」
【佐知子】
「それでも惠さんは人の命をどうしても奪うことが出来ず、
悩みました。悩んで悩んで悩んで、それでも自ら死を選ぶ
ことが出来ずに、殺す道を選びました」
【智】
「…………」
壮絶な惠の苦悩が響いてきて、胸が痛くなる。
【佐知子】
「惠さんは考えたんです。それなら、生きる価値のない、生きて
いるだけで人に害を及ぼす、人間のクズの命を奪おうと。私も
……その裁きで救われた者のひとりです」
【佐知子】
「惠さんは何も悪くないんです! ただ社会の害悪を裁いて
その報酬として自分の命を繋いでいるだけ! 惠さんに罪は
ないんです!」
【佐知子】
「もしも裁くべき悪人が見つからなければ、私は自分の命を惠さんに差し出したっていい!」
【惠】
「佐知子」
【佐知子】
「惠さんに救われるまでの地獄の日々を思えば、私のこの屋敷での生活は本当に幸せでした。私には本当に幸せな日々だったんです……!」
【惠】
「佐知子、もういい」
【佐知子】
「でも……」
【智】
「それが惠の、呪いを解けない理由だったんだ」
ようやく得た正しい答。
命を選択せよ。
生きるべきものと死すべきもの。
計りえないものを計る道を、惠は選んだ。
【惠】
「…………」
【佐知子】
「ごめんなさい、惠さん……。私、我慢できなくて」
【惠】
「いや、いいんだよ、佐知子」
【佐知子】
「ごめんなさい……」
呪いを解けば惠は『力』を失う。
『力』を失えば、惠は発作が起きた瞬間に終わりだ。
それとも、今まで『力』で上乗せしてきた不自然な命が、
一瞬にして失われてしまうのか。
どちらにしても『力』の消失は、惠にとっての『死』だ。
【るい】
「なんで……こんなうまくいかないの……」
悲しげに洩らす言葉は、
塩辛い水に濡れていた。
【茜子】
「きっと、私たちは最初から呪われているんです」
残酷で、身勝手で、不条理で、救いのない、
この世界。
ぼくらはみんな、呪われている。
みんなぼくらに、呪われている。
惠か、茜子と央輝か。
これも命の選択だ。
呪われた取捨選択を惠は迫る。
【智】
「なんてこと……」
気づいて、目を落とす。
【茜子】
「どうしたんですか」
【智】
「一緒なんだ」
【るい】
「なにが?」
【惠】
「そうだよ」
【智】
「僕たちと惠とが――――」
生き残るために命を選択する。
他の命を奪い取る。
鏡写しの関係だ。
気がつけば僕らは同じルールの中にいる。
呪いを解くことを望まない意思が常に存在する――。
『ラトゥイリの星』の一節を思い出す。
この呪いをかけたものがどういう存在なのかはわからない。
惠の存在こそが呪いを解かせない最大の障害だ。
呪いを解くことが自身の死。
八つの星の一つは、
最後まで呪いを解くことを望まない意思になる。
呪いを解くために、
互いに力を合わせれば合わせただけ。
【茜子】
「たしかに、そうですね」
【惠】
「誰もがそうなんだ。
それは特別でも何でもない」
【惠】
「奪い合うことで作り上げられる世界」
【惠】
「それは、いつだって、どこにだってある、
ありがちな日常だろう」
【智】
「…………」
選ぶ。
選択する。
人間は複数の選択肢から一つを選ぶとき、
どういう理由を以ってそれを選ぶか。
ひとつ、楽しいから。
ひとつ、有益であるから。
ひとつ、正しい行為であるから。
どれ一つとして、
この選択を決める理由とはならない。
友達が死んで楽しいはずがない。
友達が死んで有益であるはずがない!
どちらが正しいのかなどというのは馬鹿げた問題だ。
正しさなんて、見方によっていくらでも変わる。
【惠】
「智」
【智】
「惠……」
ではどうする。
両方欲しいなんて、
両手におもちゃを持ってむずがる子供と同じだ。
正しさの代わりに求められるものはなんだ?
公平さ? ではみんなで心中でもしろというのか?
……それこそ馬鹿げている!
答が出るはずもない。
泥の中の静寂はさらに重さを増して、鉛の海に沈みつつあった。
〔僕らの決断〕
停滞した場を動かすために、
無理やり口を動かした。
そこしか動かせる部分がなかった。
【智】
「姉さんと会わせて欲しい」
半ば以上時間稼ぎだ。
決断を先延ばしにするために……いや、
姉さんは呪いを解くのを待てと言った。
姉さんが父さんから何かを聞いているなら、
それは僕らの八方塞がりの状況を打開する、
小さな鎚になってくれるかも知れない。
【惠】
「……わかった」
すべてを語り終えた惠は、
僕が姉さんと会うことを認めてくれた。
【惠】
「真耶は一対一でないと会えないと言っている。呪いのせいだ。
智一人で会うことになる」
【茜子】
「智さん、あまり……期待はしないで下さい」
【智】
「大丈夫。ちゃんと警戒していく」
【惠】
「思えば真耶も不憫な境遇だ。大貫が真耶の身柄を引き継いで
からは、ずっとあの離れで暮らしている」
【惠】
「真耶の顔を見たことがある者もほとんどいない」
【智】
「姉さん……。
そうだね、姉さんに僕と同じ呪いがあるのなら――――」
『本来の性別を知られてはいけない』
それは僕らの血筋に与えられた、
嘘と偽りの呪いだ。
僕はこうしてスカートを強制されながら女として生きて、
姉さんは人との交わりそのものを断ってあの離れだけで
生きる道を選んだわけだ。
【惠】
「智は一人で真耶と会ったほうがいい。それでいいね」
【智】
「そうだね。みんな、待っててくれる?」
【るい】
「トモのこと、信じてる」
【こより】
「どうすればいいのかわかりませんケド、
鳴滝はともセンパイの考えること間違ってるとは思いません」
【央輝】
「さっさと済ませてこい」
【伊代】
「たとえどんな考えの行き違いがあったとしても、あなたの
お姉さんよ。それを忘れないで」
【花鶏】
「智。んー、別に言うことないわ。待ってるから」
【茜子】
「ええ、茜子さんはボーっとするのは得意ですから」
【智】
「みんな、ありがと。じゃあ行ってくる」
姉さんのもとへは、
浜江さんが案内してくれるようだった。
【惠】
「僕と向かい合って時間を潰すのは過ごしにくいだろう。僕は席を外すから、くつろいで欲しい。佐知子も浜江も、あまりみんなを緊張させないであげて」
【佐知子】
「はい、惠さん」
【浜江】
「畏まりました」
僕が姉さんと会っている間の気まずい場を配慮して、
惠が席を外す。
姉さんと会うことに、
なんらかの解決があるとは思えない。
それでも僕は、
「わたしがなんとかする」
と言った姉さんの言葉を信じたかった。
幾重にも重なる梢に隠された場所。
日中でもほの暗い庭の森は、
夜には漆黒の海のように見通しがきかない。
小さなランプを手に細い暗がりをぬける。
あの離れがあった。
浜江さんに促されて一人御簾を潜る。
【智】
「姉さん」
【真耶】
「あら、智……」
御簾の隙間から漏れ出してた甘い香りは、
部屋に踏み込むとより一層強くなった。
部屋の隅に古風な香炉が置かれて、
薄い煙をたなびかせている。
それがこの、
甘い匂いの源なのだろう。
【真耶】
「こんな時間に……来るなんて。どうしたの、智」
【智】
「時間は関係ないよ、姉さん」
【真耶】
「あるわ。わたしが呼ぶまで待つように言ったのに……
どうして来てしまったの? ねぇ、智」
長い着物の衣擦れの音。
裾の奥の姉さんの脚の動きは見えない。
白い蜘蛛が目の前を這ってくる。
そんな意味のない姿を幻視する。
すこし動けば触れそうな距離から、
大きく見開いた姉さんの目が僕を覗き込む。
姉さんが、不意に近くに現れたような錯覚さえ感じた。
【真耶】
「惠に話してしまったのね……? 智が……こんな、こんな悪い子のはずがないのに……」
【智】
「もう待って居られないんだ!
なんていうか、うまく説明できないんだけど……不安で…」
【真耶】
「そう……そうなの。智」
【智】
「姉さん……?」
【真耶】
「ふう……失敗だったわ。智に呪いと『力』を移したのは……」
【智】
「違うんだ! 改めて自分に呪いがかかるからって心配してるわけじゃないんだ!」
【真耶】
「智……わたしも……そんなことを心配してはいないわよ……」
香炉から漏れ出す煙は、
室内には充満はしない。
だけど、一刻ごとに甘い匂いは
強くなっていく気がする。
【智】
「……じゃあ?」
【真耶】
「見たのね、夢を」
三度の夢――。
一度目に見たのは、未来を読み上げる自分の姿。
思えば、あれは姉さんの姿じゃないのか。
二度目に見たのは、血にまみれた自分の姿。
死んだ仲間たちの血にまみれて慟哭する。
三度目に見たのは、記憶にさえ残らない白昼夢。
あれは……あれは、いったいなんなのか。
【智】
「夢……」
真正面から、姉さんの吐息がかかる。
腐った果実の匂いに目眩を覚える。
【真耶】
「智、見たのね……?」
蜘蛛がいる。
姉さんの視線が、粘つく糸となって絡みつく。
【智】
「姉さん、どうして知ってるの……」
【真耶】
「呪いを解くのはまだよ……もっと待たなければ駄目……今はまだ早すぎる」
【真耶】
「今解いても……たどり着けないの……」
【智】
「なにを言ってるのかわからないよ!? 聞いて姉さん、
待てないんだ! たとえ姉さんの頼みでも」
【真耶】
「智……? わたしの可愛い智は、そんなこと言わないはずよ……?」
【智】
「呪いを解かないといけないんだよ!」
【真耶】
「智、姉さんよりあの女……あの手袋の女が大事なの?」
【智】
「あの女って……」
テレビの画像が乱れるように、
視界に『ノロイ』の影がよぎる。
違う、幻だ。
【真耶】
「ねぇ、智……? あなたも見えるでしょう……?」
【智】
「な、なにが……」
まただ。
影。
影。影。
これは『ノロイ』の影だけじゃない……何かの影……。
【真耶】
「死ぬところ……」
ぞっとするほど冷たい声が。
【智】
「誰が…………!?」
再度瞬いたノイズの中、
茜子の姿に黒い影が重なる。
【真耶】
「みんな、死ぬことに決まってるのよ……、智。
みんな、みぃんな……」
声がしんしんと降り積もる。
【智】
「…………」
『ノロイ』に対してでなく、
背筋が凍った。
【真耶】
「まずはあの女、茅場茜子とか言ったかしら……。『ノロイ』に
追われて車に撥ねられる」
苦く大きな錠剤みたいに、
僕は苦しげに唾液を飲む。
【真耶】
「次は惠……。自分の呪いに負けて、才野原惠は血を吐いて死ぬ」
甘い空気に吐き気がする。
苦しい、苦しい。
【真耶】
「その次はコートの女……。尹央輝は、些細な争いから、かつての部下の男たちと殺しあって死ぬ」
なんて……なんてことだ。
【真耶】
「その次は眼鏡の女……。白鞘伊代は呪いの『力』を狙う企業の者に仲間の情報を売った挙げ句、騙されて無念のうちに死ぬ」
『ノロイ』なんて避け得る災厄のようなもの。
恐れるべき対象ではなかった。
【真耶】
「その次はスケートの女……。鳴滝こよりは仲間の死に姉が関わっていることを知り、激情のままに姉を刺し自らも身を投げて死ぬ」
見えない糸が絡みついてくる。
【真耶】
「次は銀髪の女……。花城花鶏は誰も信じられず疑心暗鬼に陥って無意味な殺人を犯し、獄中で孤独に死ぬ」
本当に恐ろしいのは。
この人だ……。
この人こそ、本当に僕らが
恐れるべき相手だったんだ……。
【真耶】
「最後は赤い髪の女。皆元るいは、智とわたしのもとへやって来て、わたしの示した死ぬべき場所に向かって、起こるべき事故で死ぬ……」
姉さんが僕を見つめる。
僕が姉さんを見つめる。
甘い匂いに吐き気さえ催す――――。
【智】
「姉さん……それ……いったい……何なの……」
【真耶】
「あ……っ、智……」
いつのまにか文机で姉さんが開いていた日記帳のような本。
奪い取った。
それはまったく普通の日記帳のように見えた。
ただひとつ異常な点を除いては。
【智】
「……未来の日付……」
【真耶】
「気づいたんでしょう……? 智……、う、ふ、ふ、ふ、ふ……」
そう、か。
そういうことなのか。
姉さんの、そして僕の持っている『力』は――。
【真耶】
「わたしが預けた力は……」
【智】
「姉さんから受け取った力は……」
央輝を捜し出したとき。
茜子をノロイから連れだした時。
ずっと遠くまで見えるような気がした、
あの感覚は――。
【真耶】
「そう、これがそう……みぃんなが怖がった、みぃんなが欲し
がった……八つの呪いの最後の『力』……わたしとあなたの
受けついだ『力』……」
【智】
「未来を……!」
【真耶】
「そうよ、これが……わたしの『力』……『望みの未来を引き
寄せる力』…………」
ただ未来を予知するのではなく、
揺るがせない未来をただ読み取るのではなく。
変えることのできる可能性としての未来を探り出し、
望む世界への道筋を見いだす力――――。
【智】
「ねえ……さん……」
【真耶】
「智……。わたしの、可愛い智……愛しい、智……」
【智】
「姉さんは……何を……しようっていうんだ……」
【真耶】
「言ったでしょう、智……わたしの、可愛い智……わたしたちを
邪魔するやつが、だぁれもいない未来を……わたしがひきよせてあげるのよ……」
【智】
「それじゃあ……あんな手紙を……僕に出したのも……」
死んだ母さんの手紙――――。
全てをはじまらせた、あの手紙。
僕とるいが出会うことも、
それからみんなと出会ったことも。
一緒に頑張ってきたことも、
あの明るい屋上の溜まり場も。
高架下から見上げた空も、
夜明けまで一緒に歩いた道も――――。
全部なにもかも、ここへ、ここから先へ、
あの血の夢のように、一人残らず死なせるための、
道筋だったのか。
昔から――
最初から――
はじめから――
バタフライ効果というものがある。
蝶の羽ばたき一つでも、
世界の裏側では台風を引きおこすことがある。
小さな事実の連なり。
無数の出来事の重なり。
全ては繋がっていると。
あの日、るいと出会ったこと。
そのビルが火事になったこと。
隣に飛んだビルの屋上に花鶏が飛び込んできたこと。
花鶏のバッグをこよりがさらっていったこと。
こよりと僕が落ちた先に、伊代と茜子がいたこと。
僕らが逃げ出す道の先に、央輝が佇んでいたこと。
逃げ出す最中に惠とぶつかったこと。
一つ一つは小さな偶然。
重なり合うときにあり得ない必然。
【智】
「そんな……姉さん……!」
熱に浮かされたように、
僕は日記帳のページを遡る。
たぶんここには答がある。
なにもかもがわからない。
わからないままではいられない。
砂漠で出会う水のように、
解答を求めてページを捲った。
【真耶】
「何を探しているの……智。大貫のおじさまのこと? それとも……お父さまのこと……?」
そこには、確かに二人のページもあった。
大貫氏は完全犯罪が成り立つ状況を姉さんが予知し、
惠がその手にかけた。
父さんは姉さんの罠に嵌って事故で命を落とした。
【智】
「…………………………え?」
『これで、あの男は死んでしまう――――』
姉さんが、
殺した
父さんを
【智】
「なに…………?」
どうして父さんまで……!
どうして姉さんが、父さんを殺すんだ!?
【智】
「どう……し……」
【智】
「どうしてこんなことを……」
【真耶】
「わたしと智以外――他人は、みんなわたしたちを苦しめるのよ」
【智】
「…………」
わからない。
この人が、なにを言っているのか、よくわからない。
【真耶】
「わたしがこの離れから出られないのをいいことに、みんな見張っているのよ。毎日毎日毎日毎日、わたしが起きたり寝たりごはんを食べたり、なにもかも見張っているのよ」
【智】
「見張ってるって、誰が」
ぬるついた言葉の全ては異国の言語、届かない心の声は歯車の軋み、壊れてひび割れたガラスの破片を紡いでできたがらんどう――――
【真耶】
「惠も、浜江も佐知子も、お父さまも、大貫のおじさまも
みんなみんなわたしを見張っているのよ」
姉さんはどこかを見ている。
姉さんはどこかも見ていない。
ああ――――――――そうなのか――――――
【智】
「父さんも大貫氏ももう……」
届かない言葉は異国の言語だ。
【真耶】
「見張ってるのよ! 現に毎晩わたしがこの日記を書こうとするとドン! ドン! って壁を叩くのよ! だからわたし、見つからないようにこっそりと机の下に隠れて書くの」
無意味な音が連なるだけのがらんどう。
【智】
「姉さん…………」
僕は泣く。
抉られる痛みと切り裂かれる痛みに涙を流す。
【真耶】
「それだけじゃないわ。寝る時には悪意の目が壁を通り抜けて
入ってきて、わたしの足に突き刺さってたくさん血が出るの。
布団も血だらけになるわ!」
甘い匂いに耐え切れなくなって咽せる。
【真耶】
「みんながわたしを苦しめて……、だから邪魔な人がなくなるように未来を見るのよ。お父さまも大貫のおじさまも、居ればわたしと智が幸せに過ごせる未来がなくなってしまう!」
もはや、僕は姉さんの言葉は聞いていない。
涙で歪んだ視界の中で、
未来を記した異常な日記をただ遡った。
【智】
「…………」
それは答を探す行為ではなく、
わかりきった結末へと辿り着くための愚かな前進。
優しい嘘と甘い虚飾を、
一枚一枚はぎ取る行為。
【智】
「――――――――――――――――」
頁をめくる手が止まる。
日記の記述を落ちた涙が滲ませる。
【真耶】
「何もかも消さなければならないの。すべて、すべて、呪いとわたしたちのことを知っているものは全て! 佐知子も殺す。浜江は放っておいても死ぬけどね!」
姉さんが笑う。
誰よりも愉しそうに。誰よりも悲しそうに。
誰よりも僕を愛して。誰よりも僕を憎んで。
昔話をしよう――――――。
時間は遡り、大貫氏の死。
大貫氏は父さんの死後に、
館ごと姉さんを買い取った人物だった。
彼は惠と共にやって来た。
姉さんと惠は、彼を殺した。
大貫氏が来るより前。
僕の父さんは姉さんの予知が告げた指示に従い出かけて、
そして事故で死んだ。
父さんは、姉さんの力を道具として使い、
大きな財を得ていたのだ。
『望みの未来を紡ぐ力』。
八つ星でもっとも歪で恐ろしい力は、
最初からひとには大きすぎる諸刃の剣だった。
不安定で、負担が大きい。
姉さんは未来視の力を高めるために、
起きたまま夢を見る特殊な薬物を施されていた。
姉さんは僕と分けて育てられた。
父さんの道具として、
ただひとりこの屋敷に囚われて。
姉さんは生まれると同時に、
僕と引き離されてこの屋敷に来て、
特別な『力』を用いて、
自在に未来の情報を引き出す道具になって……。
姉さんは……!
【真耶】
「ねぇ、智……。わかるでしょう? わたしたちは呪われている
のよ。生まれたときから、すべてが。この世のすべてがわたし
たちを傷つけ苦しめようとしているのよ」
【真耶】
「智。見てしまったからにはもう、あなたにはわかるでしょう……?わたしと智は同じ存在の半分ずつのかけらなの。
わたしたちは一つになるべきなのよ」
【真耶】
「智……、どうして悩んでいるの? 智は可愛くて優しくて、綺麗で、愛しくて……、賢くて強くて……いつもいつも、どんなものからも、わたしを守ってくれるはずよ……?」
【智】
「姉さん……姉さん……!」
抱きしめた。
折れてしまうくらいの力で、
顔も知らなかった姉さんの身体を抱き留める。
姉さんは、とっくに壊れてしまっていた。
夢と現に引き裂かれ――――
現在と未来に砕かれて――――
どうして、今になって出会ってしまったんだろう。
どうして、もっと早くにここへ来ることができなかった。
何もかも手遅れになる前に。
何もかも失われてしまう前に。
なぜ、そうできなかったんだろう…………。
姉さんはずっと僕を見ていた。
姉さんの見る未来の夢の中で。
紡がれる糸の中で。
僕が何も知らないときも、
この小さく閉ざされた離れの中から。
姉さんは僕を憎んでいるだろう。
姉さんを身代わりに、
自由に生きていた僕。
呪いの束縛なんて、
姉さんに比べれば……。
ずっと幸せだった。
恨んで。
憎んで。
――――――――――呪って。
【真耶】
「智……智……。そうよ、智もこの香を嗅ぐといいわ……。
お父さまがわたしに苦しいことや辛いこと、すべて忘れられる
ように下さったのよ……。ほら、智……こっちに来て」
ぐいと手が引かれて、
顔を甘い煙が包み込む。
鼻腔を通じて脳の中にまで、
熟れすぎた桃の実にも似た危うい香りが忍び入る。
少しずつ少しずつ頭の中に溜まっていた煙が、
急速に満ちるような錯覚を覚える。
【智】
「けほっ、ね、姉さん……やめて」
【真耶】
「智はわたしの言うことならなんでも聞いてくれる、とっても
優しいいい子なのよ……。だからこの香を……もっと、この
香を吸って……! そうしてわたしと一緒に、ずっと……」
【智】
「ね、姉さん……」
ぐらり、天井が揺らめく。
【真耶】
「智……、わたしの可愛い、可愛い、可愛い智……お父さまからもおじさまからも呪いからも、すべての人からも、わたしを守ってくれる、智。わたしの、智。智、智、智、智……」
柔らかく冷たいものに頬が包まれる。
姉さんの腕と、胸。
ゆっくりと遅すぎる鼓動が聞こえる。
【智】
「あ……、ぁ、なにこれ……、父さん……?」
淀む煙の中に父さんの面影が見えた。
いや、そこに父さんが居る!
それから、隣にいるのは……誰だ!?
知らない顔……大貫?
それから、黒い呪いの影!
みんなが両手を突き出して、
僕と姉さんを狙っている!
【智】
「ぼ、僕が姉さんを守らないと……!」
【真耶】
「そうよ……、智。わたしの言うことをちゃんと聞いていれば、
智もわたしも幸せになれる……」
【智】
「姉さん……僕、どうすれば……?」
【真耶】
「何もかも殺さなくてはいけないわ……、わたしと智を知っている人、みんな。二人で逃げるの……。どんな苦しいことも辛いこともない、幸せなところへ……」
【智】
「そんな場所、あるの……?」
【真耶】
「見つけられるわ。わたしたち……二人なら」
【智】
「姉さん……」
【真耶】
「智……」
次第に混濁していく甘い闇を、
何かが引き裂いた。
【惠】
「やめないか。真耶!」
強引に御簾が引き開けられ、
危険な煙が外へ逃げていく。
それでも惠は姉さんが呪いを踏まないよう、
僕たちに背を向けていた。
【智】
「惠…………」
【真耶】
「智、そうよ……。もっとわたしと一つになって……。呪いも心も、体まですべて繋がって……」
【惠】
「来るんだ、智」
急速に靄が晴れていく。
離れには、姉さんと惠以外誰も居やしない。
思い返せば、さっき見た父さんの幻も、
朧気な記憶の中にある印象とは似つかなかった。
何もかも、あの甘い香が見せた、
ひび割れた夢に過ぎない。
【智】
「僕は……」
【真耶】
「智……。大丈夫、大丈夫よ……。みんな死ぬわ。みんな、みんな、死んでいって、消えてしまうから……」
【惠】
「しばらくそっとしておいたほうがいい」
【智】
「うん………………」
僕が腕を振り払うと、
はじめて変化に気づいたように姉さんはうろたえる。
惠など目に入っていなかった。
【真耶】
「智、どうして離れるの!?」
【智】
「姉さん、後でまた必ず来るから」
【真耶】
「嫌! 智はわたしとずっと一緒なのよ。ずっとずっとずっと、
どんな瞬間も一秒も離れることなく一緒なの。智とわたしは
一つなのよ……?」
【智】
「姉さん」
【真耶】
「もともと一つの存在が、半分に分かれて生きていけるはずがないでしょう!? 智はどんな時も、わたしと一緒に居なければいけないのよ! 智、姉さんを置いていかないで、智……!」
【惠】
「真耶、いい加減にしないか。大貫から聞いているぞ。
僕が今そっちを見れば、君は呪いを踏むことになるはずだ!」
【真耶】
「智……! 智……!!」
【智】
「姉さん……、またあとで」
もう一度抱きしめる。
宝物を扱うような優しさで。
どうすればいいのかわからないもどかしさで。
壊れてしまった姉さん。
たった一人で囚われていた。
何もかもが遅すぎた。
僕には、いったい、何が出来るんだろう――――
姉さんに隠れるようにゆっくりと。
痺れの残る頭の中から毒を吐き出す。
深い呼吸を繰り返しながら離れを後にした。
屋敷に戻る頃には、
毒気もかなり抜けていた。
まだ少し香の効果が残っているのか、
デジャヴのような感覚を何度も感じる。
【茜子】
「平気……だったのですか」
【智】
「惠が止めてくれて助かった」
【るい】
「どうなってるの? トモのお姉ちゃんって、いったい……」
【智】
「ごめん……、まだ少し頭が混乱してて……」
【惠】
「智、それにみんな」
惠がみんなの注意を集めた。
僕に聞きたいことがあっても聞けないでいるみんなは、
かわりに惠の答えに期待する。
【惠】
「もう何もかも聞いてしまったんだろう? 智」
【智】
「たぶん、ほとんどね」
【惠】
「おそらくは聞いた通りだ。この屋敷は、もともと和久津氏、
つまり智の父君のものだった」
【智】
「父さんは…………」
【惠】
「…………」
【智】
「じゃあ、やっぱり本当にそうなんだね。父さんは、呪いを
破るために研究を進めたんじゃなかったんだ」
【みんな】
「……」
【智】
「父さんは姉さんを道具にして、多額の財を成した。
どうして…………? 決まってる」
【智】
「父さんは独り占めにしたかったんだ。呪いの仕組みの裏をかいて、その『力』を……、もっと大きな力を自ら手に入れるために研究を続けたんだ」
【智】
「そのために姉さんを利用して、ここを買い取った。姉さんをあの離れに閉じこめて……」
惠は不思議な無表情で、
一度だけ上を見上げた。
【惠】
「僕も、和久津氏については、大貫から聞いた話しか知らない。
真実かどうかはわからないが、知っている限りを話そう」
【惠】
「彼の目的は『呪いの力』だった。より正確には、呪いの力の本質……とでもいうべきだろう。和久津の家に婿入りしたのも、元々は和久津の血……呪われた者の血の力を探りたかったかららしい」
【惠】
「運命は、彼に味方した……残念ながら。そう、彼と妻の間には、双子が生まれ、その姉は、彼が望んだ『八つ星』の痣を持っていた。偶然の悪戯というにはあまりに不幸だが……」
【智】
「真耶……姉さん……」
【惠】
「智……君たち双子が生まれた後、彼は、この屋敷で研究を
はじめた」
【惠】
「和久津氏は真耶を擁して財を成し、その財で様々な成果を生んだという。これは推測に過ぎないが、君と真耶の間の不思議な繋がりも、その……」
【惠】
「研究の成果……だと思う」
【智】
「そうか。僕は、姉さんのスペアだったのか……」
必要なときに『呪い』と『力』を移し替え、
呪いを回避するためのスペア。
【惠】
「研究は進んだらしい。他にも、呪いを他人に移す方法や呪いを弱める方法など、様々な手段を見つけ出したらしいが…………和久津氏の望みだけは最後まで叶わなかった」
【智】
「望み……?」
【惠】
「大いなる力……『八つ星』の力の本質に迫り、それを
手に入れること」
【惠】
「やがて……研究が遅々として進まないことに苛立った彼は、
和久津の星にもっとも近い血を持つ人間を、実験に供じた」
【智】
「近い……人間……?」
それは、誰?
それは、誰。
僕ではなく、姉さんでもなく。
星に『もっとも近い』のは誰?
吐き気がする。
頭痛。
痛。
【惠】
「…………智、君の」
【智】
「母さん、を…………?」
耳の奥が騒がしい。
血の音が騒がしい。
止まらない。うるさくて眠れない。
目が痛くて吐き気が止まらないのに眠れない。
【智】
「は、」
【智】
「ははははははは」
乾いた笑いが止まらない。
【智】
「はははははははははははははははははははは」
【茜子】
「智さん……っ!」
茜子が僕の手を握る。
そのぬくもりにかろうじて正気を保つ。
【智】
「……父さんは一年中帰ってこなかった。記憶だって薄かった。
死んだときにもまともな涙さえ流せなかった。けど」
母さん。
僕に色々なものを与えた。
教えてくれた。
優しい白い手のひと。
【智】
「母さんとは、通じ合った夫婦だって……思って……っ」
小さな頃。
呪いを踏んでしまった僕を、助けてくれた……。
あれは、
父さんと母さんと……。
それから。
【真耶】
「だいじょうぶ……」
ああ、思いだした。
あれは、姉さん――――。
優しい声と手で僕を守ってくれた。
僕の、家族……。
ずっと信じていた、幻のような……ぬくもりは……。
本当に幻だったのか。
父さんが僕を守ったのは、
あれは、ただの……ただの……。
そして、
姉さんと母さんまで……。
【智】
「母さん…………」
【るい】
「トモ………………」
【智】
「ふ、ふくぐ……うっ、……」
嗚咽を堪える。
涙を飲み込んで。
【惠】
「……当時、まだ小さかったはずの真耶が、どうして父親を殺す気になったのか、僕にはわかるような気がする」
【智】
「姉さんは憎かったの? ……自分を閉じこめてる父さんが
……母さんを殺した父さんが……」
【惠】
「真耶は、きっと見てしまったんだ……」
【智】
「見た……?」
【惠】
「このまま、真っ直ぐに未来を進めていけば『次』は誰の番なのか。和久津氏が必要としたのはオリジナルの真耶だけだったろう。
他は全てスペアに過ぎない」
【惠】
「使い潰していくためのスペアだった……だから」
使い潰していくための『スペア』。
計算は単純極まりない。
予備は二つ。
この二つで正答に辿り着けばよい――――。
【智】
「次は……次が僕の番だったから……姉さんは……僕を、
守ろうとして…………」
命を選択せよ。
僕が生き延びるために、
父さんの命を奪う。
【惠】
「あくまでも僕の想像に過ぎない。答は真耶でなければわからないだろう」
【惠】
「真耶の目は数多の未来を見抜くけれど、辿り着ける未来は
一つだけだ。この救いのない未来だけだった」
【惠】
「真耶は自分の父親を罠にかけて殺した。 それは真耶にとっては容易いことだったろう。歪んだ予言を紡ぐだけで済んだはずだ」
【智】
「姉さん……」
【惠】
「それから真耶を、この屋敷ごと買い取った男が居た」
【こより】
「それが大貫って人なんですね……」
【惠】
「そうだ。その男は両親を失った僕の後見人でもある。彼は巧妙
だったよ。真耶の『力』で財を成し、一方で、仇になる者を始末
させる管理人を見つけ出した」
【智】
「その管理人というのは……」
【惠】
「…………」
【茜子】
「あなた、なんですね」
【央輝】
「汚い奴だ」
【佐知子】
「惠さん……」
【惠】
「あの男にとって、僕の存在は極めて好都合だったんだ。
わかるだろう?」
【茜子】
「あなたは呪いを解くことが出来ないから、呪いの秘密に近付く
モノを殺すしかない」
【花鶏】
「あんたをこの屋敷に置くことによって、呪いが解かれないように守らせる……つまりあんたは呪いの番人ってわけ?」
【惠】
「……だが、大貫はやりすぎた。あの男は酷使しすぎたんだよ」
【茜子】
「それで、あなたは智さんの姉と手を組んだと」
【惠】
「…………」
惠は否定しない。
姉さんがあそこに記していたことは、
すべて真実だったということだ。
日々の横暴に耐えかねた惠と姉さんは、
結託して後見人である大貫を殺害……。
【智】
「…………それから、惠と姉さんは助け合って生きてきたんだね」
【智】
「君が決して誰にも知られることなく命を奪い続けてこれたのは、姉さんの未来視の『力』のおかげだったんだ」
【るい】
「でも、トモのお姉ちゃんは呪いを解くのに協力するって……」
【惠】
「真耶は僕だって信じていなかったんだよ。だけど、真耶の未来も、僕を始末するのは容易でなかったようだ。僕を始末するには、呪いを解いて力を失わせるのが早い……そう考えた」
【惠】
「それに、真耶の目的は智、君なのだから」
【智】
「僕は……姉さんに恨まれても当然なのに……どうして
あんなに……」
【惠】
「真耶にとって、智……君は唯一の慰めだったのだと思う」
【惠】
「真耶は今更、あの離れを出ることは出来なくなっていた。
本来持つ呪いと、薬。二つの枷(かせ)が真耶を閉ざしていた」
【惠】
「彼女の夢に現れ、彼女が得られなかった日の光の下での人生を生きる君は、どこにもいけなくなった真耶にとっての救いだったんだろう」
【智】
「そんな……そんな、もので……そのために……」
姉さんの得られるはずの
幸せ全てを独占していた僕……。
その僕を守ろうとして、
父さんを殺した姉さん……。
僕との未来を手にするために、
僕以外の全てを壊してしまおうとした姉さん……。
【智】
「惠、君はこれから……」
病と呪い。
二重の枷に縛られ、姉さんにも裏切られていた惠……。
【惠】
「今ここで決断するべきは、僕ではないはずだ」
静かに光る目が、
僕を見据えていた。
【惠】
「それで、どうする?」
【惠】
「ようやく君は全てを知った。
なにもかもを悟り、知って、君はどうする?」
【惠】
「智。何を為す。
あるいは茜子。
るい、花鶏、こより、伊代、央輝!」
【智】
「惠……!」
惠の瞳を見返す。
吸い込まれそうな、
深く澄んだ色に心をうたれる。
決断をうながしていた。
そうだ。
姉さんのことを、
変えられない過去を嘆くのは後だ。
決断すべきはこの先にある。
どうすればいい?
『望みの未来を引き寄せる力』――――
姉さんの力が本当に言葉通りの物なら、手段がない。
未来が確定されているなら、結果は絶対だ。
これから起こることも全ては過程。
決まり切った結末へ向かって物語のページをめくるに等しい。
どんな力も小細工も無駄なあがき。
諦めるな。
諦めれば1パーセントがゼロになる。
僕の失敗は全員の失敗へ伝染する。
一人ではなく、手を繋いだから。
残酷な代償を負う。
思い出せ。
姉さんから受け取った能力のことを。
考えろ。
どんな小さな隙間でもいい。
【智】
(未来は、まだ――――)
数多の可能性を探り出し、望みの未来へたどり着く力。
【智】
「……まだ、決まっていない」
姉さんの『力』そのものが答えを教えてくれている。
姉さんが見ているのは未来ではない確率だ。
起こるかも知れない可能性だ。
未来が本当に『決まって』いるのなら、
未来を視たところで望む世界にはたどり着けない。
未来を変えられるのは、未来が不確定だから。
僕らはいつも確率的だ。
わずかな行動で未来を変える。
無数の分岐点と可能性。
――――――変えればいい。
姉さんが変えた未来から、
新しい未来を作ればいい。
何度でも、何回でも。
未来は未踏だ。
まだ、なにひとつ、決まってなんていないから。
【智】
「…………ッ」
でも。
正しい道を選べるか?
これも全て予知されている運命の上のことで、
どこまでいっても逃げられないのかも知れないのに。
たったひとりで正しい答えを――――
【茜子】
「…………」
僕はどうする。
どうすればいい?
最も賢明な選択はどこにある。
惠が殺人を繰り返すのを止めるか?
それは惠を殺すことだ。
姉さんを諌めて、あの香を取り上げるか?
それが何の解決になる?
【惠】
「どうする、智!」
【智】
「僕は……、僕は」
姉さんの予知した未来。
すべてこのまま行けば起こるべきこと。
呪いを解かずに引き伸ばせば、
茜子が最初の犠牲者になる。
呪いを解けば惠が死ぬ。
命の選択だ。
死すべき命をこの場で決める。
与えられた時間は短く、
長引かせれば全てが失われる。
救いをもたらす蜘蛛の糸はどこにもない。
誰かを殺さなければ最初の一歩さえ進めない。
なにをもって決めるのか?
命の価値はどこにあるのか。
力か、正しさか、年齢か、それまでの善行か。
それとも独善か。
【智】
「僕は…………!」
一つの可能性が頭をよぎる。
呪いのルール。
ノロイは、仕組みだ。
奪うものの帳尻が合えば帰る。
一度に、一人しか命を奪わない。
茜子の代わりに
僕が『ノロイ』の犠牲になれば……。
みんなは初めて出会った頃みたいに、
呪いを踏まないように気をつけて生きていけばいい……。
【智】
「……ッ」
ダメだ……。
それだと一人足りない。
央輝も呪いを踏んでいる。
もう一人犠牲にならないと。
もう一人……もう一人の犠牲……。
そうだ、姉さんなら。
姉さんはまともに戻れる望みが薄い。
それなら、
いっそ僕と一緒に犠牲になって、みんなを……!
【茜子】
「何を考えているんですか!」
【智】
「あ……! 僕は……」
何を考えていたんだ。
僕が自ら犠牲になるだけならまだしも、
姉さんを生け贄にするだなんて。
だめだ、出口がない。
何一つ為すべきことがわからない。
【智】
「僕は……、どうすればいい……!?」
【真耶】
「ふふふふ……」
【智】
「えっ……!?」
居るはずのない人物の声に、
弾かれて目を上げる。
【真耶】
「わたしが決めてあげるわ」
【惠】
「ぐ……ッ!?」
どろりとした赤に覆われた鋭角が惠の胸を貫いて現れて……
赤が滴るとともに鈍い輝きが漏れる。
【智】
「惠ッ!!!」
駆け寄る僕を迎えるのは咽返るような血の匂い。
惠の胸を貫くものは、鋭く尖った切っ先。
飾られていた洋剣だった。
どくどくと溢れ出る血は、惠の衣服を見る間に赤く染めていき、
床までも滴る。
【惠】
「真……耶ぁ……! どうや……って……!?」
【真耶】
「呪いは今、智に移っているわ……。大丈夫……、これで大丈夫よ、智……。これで呪いは解ける……うふふ、う、ふ、ふ、ふ、ふ……」
【浜江】
「惠さま!」
【佐知子】
「惠さん!」
慌てて駆け寄る二人を、惠は手で制する。
【惠】
「僕は……死なない。まずは真耶を……頼む……! 浜江、佐知子……」
【真耶】
「大丈夫よ、智。何も心配はないわ……。これですべてが
うまく行くから……」
【智】
「姉さん……、何を考えてるんだ……、姉さん……!」
優しく微笑みかける姉さんが、
僕は恐ろしくてたまらない。
いったい、何が大丈夫だと言うんだ!?
【浜江】
「真耶さま! いらして下さい!」
【佐知子】
「真耶さん! その剣を離して!」
【真耶】
「ええ……もう必要ないからいらないわ……。智、早く呪いを
解いて、姉さんを迎えに来てね……」
【浜江】
「真耶さま!」
浜江さんと佐知子さんに連れられて、
姉さんは屋敷内の一室に消えた。
【るい】
「メグム! 血が、こんなにいっぱい出てる……!」
【こより】
「惠センパイ! はやく病院に行かないと、救急車呼びましょ! 伊代センパイぃ!」
【伊代】
「そ、そうね。えっと、119だっけ、199だっけ……えっと、携帯から電話できるんだっけ……!?」
【花鶏】
「あ、あんた、それ抜いたら余計に血が……!」
【惠】
「気に――しなくていい」
苦痛に顔を歪めながら、
惠は深々と胸を貫いた剣を抜いた。
無造作に捨てる。
その凶器としての存在の重さに比して、
響いた音は思いのほか軽かった。
【惠】
「ぐぅ……ッ」
胸の傷口からは、
蛇口が壊れたみたいに血が溢れ出す。
人間の体内には、
こんなにもたくさんの血が流れていたのかと驚く。
【央輝】
「死ぬ気か」
【惠】
「そんなに簡単にいくのであれば、真耶はこんなにも持って回った方法をとったりしない……」
【茜子】
「たとえ死ななくても、あなたは苦しんでます!」
【惠】
「多くのひとたちが、これ以上の苦しみと痛みを受けながら、命を盗まれてきたんだろうね……」
【智】
「……っ」
【智】
「惠、喋っちゃダメ!」
惠は笑う。
【惠】
「よく見ていて欲しい……」
差し伸べたるいの手を辞して、
壁に血の跡を引きながらぐったりともたれかかる。
それでも惠は笑っていた。
【惠】
「見てくれ……みんな」
息を飲み見守る中、非常にゆっくりとではあるが血は止まり、
惠の傷は着実に塞がっていく。
【智】
「これが、命を盗む『力』の……」
【こより】
「すごいです……、もうほとんど傷が消えて」
【るい】
「あんなに血いっぱい出てたのに……」
【央輝】
「古傷がないところを見ると、跡形もなく治るんだな」
【茜子】
「よかったです……心配しました」
【智】
「無事で良かったよ、惠」
傷の完治には2時間ほどを要した。
たった2時間と言うべきか。
感嘆の息を洩らす僕らの前で、
命を落として当然の深い傷を、
惠の『力』はあっさりと癒してしまった。
【惠】
「……呪わしい『力』とは思わないか?」
破れた服の着替えをすませた惠からは、
あれだけの負傷の残り香さえ感じられない。
【茜子】
「そんな、どうして」
【智】
「でも! 惠は力がなかったら、もっと幼い頃に命を落としていたんでしょ?」
【惠】
「だからといって、君には赦せるのか?」
【智】
「…………ッ」
命の選択。
奪い合う世界。
誰かの代わりに、
誰かが失われる。
見えない線で勝者と敗者を区分して。
終わることなく続く、椅子取りゲーム。
――――――――――さあ、選択をせよ。
最も賢明な選択は惠を殺すこと。
数理は単純にして明快。
二人殺すより一人の方が理に適う。
本当に?
惠は裁きの剣を振り下ろす。
命を継ぐことの引き替えに。
未踏の明日に救われる命は十か二十か。
それは赦される行いなの?
駄目だ。
決断できない。
誰を、何を、切り捨てればいい。
切り捨てていいものなんて一つもない。
でも――――。
【智】
「だめなのか……
本当にだめなのか。
ここまできて、僕らはやっぱり勝てないのか」
【智】
「みんなで、やっとここまで来たのに。
目の前まで来て、やっぱりだめなのか」
【智】
「がんばっても、
手を繋いでも、
繋がらない心を重ねても」
【智】
「信じることを止めないでいても。
それでも………………」
【智】
「呪い、呪い、呪い……、
どこまでいっても終わらない」
【智】
「生まれたときから僕らを苛(さいな)んで、
僕らも、僕らの世界も呪われていて、
いつまでたっても自由になれない」
【伊代】
「あなたは……」
【伊代】
「あなたは、死んでも仕方ないような、
社会の悪みたいな連中をばかりを選んで、
命を奪っていたんでしょう!」
【伊代】
「それが悪いことなの!
わたしは、思うわ。
あなたはきっと、大勢の誰かを助けてるのよ!」
【佐知子】
「そうです!
惠さんは何も悪いことなんかしてません!」
【佐知子】
「惠さんがどんな人か、
どれだけの人を助けてきたのか。
誰よりも私が一番よく知っています」
【佐知子】
「沢山の人を助けたあなたが、自分の命を継ぎ足すことを
どうして責められなくちゃいけないんですか」
【佐知子】
「生きる希望さえなかった私に、
惠さんはなにもかもを与えてくれました」
【佐知子】
「未来なんてなかった私は、
生まれていないも同じ事だった」
【佐知子】
「私がこの世に生まれてきたのは、
惠さんのおかげです!」
【惠】
「失われていい命などないはずだよ」
【花鶏】
「そうよ。
善悪なんて立場でいくらでも変わる。
正しさなんて答はどこにもないの」
【伊代】
「じゃ、でもそれじゃあ、
自分のためなら何をしても良いの!?」
【伊代】
「人として最低限守るべきものってあるでしょう!?
誰かを傷つけても笑っていてもいいの?」
【伊代】
「他人のものを奪って踏みにじっても許されるの!
あの人は、それを止めてるのよ!」
【こより】
「あ、花鶏センパイ、伊代センパイもぉ……」
【惠】
「人の命を盗むなんて、人として最低限守らねばならないものを
破っていると思わないかい?」
【伊代】
「……でも……あなたは…………っ」
言葉を失った伊代に代わって、
茜子が惠の前に出た。
【茜子】
「罪の意識に、苦しんでいるのですね」
【惠】
「君には見えるんだね」
【智】
「……痛いの」
【惠】
「優しい智。
命を奪う時に痛みを感じないモノがいるかい?」
【惠】
「もしいるのなら、それはどこか壊れているんだ」
【惠】
「積み重なった痛みの列は、
盗んだ命の数と同じかもしれない」
【惠】
「その罪はどんなものになる?
誰がそれを罰してくれる?」
【惠】
「この呪われた世界に、
神というものが本当にいるのなら……」
【惠】
「罪には相応しい罰が与えられる、
希望だけはもつことができるのに……」
【惠】
「それだけの罪を背負っていても、
僕には生き続ける価値があると思うかい?」
【智】
「………………ある」
僕は顔を上げる。
真っ直ぐに惠を見る。
【惠】
「智……」
【茜子】
「智さん」
当たり前のことに気づかされる。
僕らは無価値でちっぽけだ。
命はただ在るだけの等価。
生まれてきた意味も、価値もない。
消えてしまっても世界は眉一つ動かさない。
【智】
「惠の罪を僕は許さない。惠がしたことを僕は絶対に忘れない」
罪は不動だ。
償うことも消すこともできないから。
【智】
「それでも僕は惠に生きて欲しい。
僕が……僕らが惠を必要としてる。惠に居て欲しい」
それが命の価値だ。
触れ合う狭間にしか生まれないものだ。
【智】
「罪を償うことはできないけど、出来ることを一緒に探そう。
罰があるなら、僕が一緒に引き受けるから」
【智】
「だから、生きて」
【惠】
「智……!」
【智】
「世界の理屈なんて知らない。僕は世界の敵だ」
だから、誰よりも愚かな選択をする。
【智】
「やっと気づいたよ。
惠を助けるか呪いを解くか、
最初からそんなもの選べるはずがないんだ」
【智】
「呪いは解かない」
【央輝】
「オマエ……それじゃ!」
【智】
「方法があるかどうかはわからない。
そんなものないのかもしれない」
【智】
「それでも、
僕らは惠も茜子も央輝も、
みんな助けられる方法を探そう」
【智】
「姉さんだって助けてみせる……。
その方法を、いつまでも探し続けよう」
【智】
「もしも『ノロイ』が現れて、
どうしても逃げきれない事態が来たら、
その時は……」
【智】
「僕が犠牲になる」
【惠】
「智、君は……」
【智】
「惠も協力してくれるよね」
むりやり掴んだ惠の手は暖かい。
【茜子】
「犠牲になるのは許しませんが、そういうことなら茜子さんは
全面協力する所存です」
【こより】
「鳴滝もっ、鳴滝もっ」
【るい】
「それがトモらしいよ」
【央輝】
「あたしが『ノロイ』に襲われたら、オマエが庇って死ね。
それが協力の条件だ」
【伊代】
「そんなこと言って、本当はみんなこういう選択しか選べるはず
なかったのよね。みんな……仲間なんだから」
【花鶏】
「解決法なんてないかも知れないのに。でも、ま、悪くないわね」
【智】
(たったひとりで正しい答えを――――)
やっぱり、僕は馬鹿らしい。
ひとりじゃない。
みんなで、だ。
信じることが救いになるとは限らない。
それでも、あきらめないこと。
無様でも、不格好でも、あがき続けること。
それが、
それだけが僕らに許された、
運命(姉さん)と戦う、たった一つの手段。
(――――やっつけてやる)
言ったのは僕だ。
今度こそ。
【智】
「今度こそやるんだ。みんなでやろう」
【智】
「呪いの呪縛も、姉さんの夢も、悲しい日々も、
なにもかも……」
【智】
「今度こそ、
僕の手で、僕らの手で、
呪われた世界をやっつけるんだ!」
【惠】
「…………」
【智】
「惠?」
惠が僕の手を払った。
その表情は悲しみとも喜びともつかない。
怒りさえ隠れている気がする。
【惠】
「真耶との話を覚えていないのかい?」
【惠】
「呪いを解かなければ、最初に犠牲になるのは茜子だ。智は放っておかない。犠牲になるだろう。僕は今度は智の命まで奪って生きていくのか?」
【智】
「だから、その前に!」
【惠】
「存在しないものが見つけられるわけないだろう!!」
【智】
「存在しないなんてわからないだろ!」
【惠】
「すべては裏表だ。
幸福が不幸の陰画であるように。
不幸が幸福の陰画であるように」
【惠】
「僕らはみんな、呪われている」
【惠】
「誰も彼もが幸福になる未来なんて、
あの真耶にだって見つけられないだろう」
【智】
「僕は……」
【惠】
「智……
君を責めるつもりはない」
【惠】
「いや、僕は君を頼っていたのかもしれない」
【惠】
「君が決断してくれるのを期待していた」
【智】
「決断って……、
そんなことできるはずなんてないでしょ!」
【智】
「僕が惠を犠牲にして、
自分たちが助かろうと思うとでも!?」
【惠】
「智……
本当に、心から済まないと言わせて欲しい」
【佐知子】
「惠さん!」
【惠】
「いや、いいんだ」
【智】
「いまのは……」
【央輝】
「呪いの?」
【惠】
「いつも煙に巻くような言葉ばかりを弄して、
済まなかった」
【惠】
「僕は君たちと会えて、
本当に良かったと思っている」
【惠】
「君たちは、僕にとって、
初めて出会えた本当の友達だった」
【惠】
「それから浜江……佐知子。
今まで、本当にありがとう」
【るい】
「また!」
【こより】
「せんぱーい」
【惠】
「僕は臆病者ものだった」
【惠】
「自分の命を絶つ方法ならあったのに、
絶望にしがみついて生き続けた」
【惠】
「ひとりぼっちで、
何の望みもありはしなかったのに、
ただ生き続けようとする自分を止められなかった」
【惠】
「真耶と同じだ。
現実を否定し、夢に閉じこもり、あの香だけにすがった」
【惠】
「取り返しのつかないところまで来てしまった」
【花鶏】
「これって」
【伊代】
「つまり……」
【智】
「これが、惠の……呪い?」
【惠】
「そう…………これが僕にかけられた呪いだ」
【惠】
「……さあ、呪いを、解こう」
〔最後の儀式〕
屋敷の中は、塵の舞う音さえ
聞こえそうなほどに静まり返っていた。
【佐知子】
「そんな……惠さん……!」
蒼白になった佐知子さん。
惠に駆け寄ることも出来ずに、震える。
さっきのガラスの崩壊する音。
惠は告白によって自ら呪いを踏んだ。
その行動のどこかに、
惠の呪いがあったに違いない。
【智】
「でも、呪いを解いたら惠が――」
【惠】
「それでいいんだ」
【智】
「どうして!? きっと何か方法はあるはずだよ!」
【惠】
「生まれてから今まで、
ずっと探してきた。その方法をね」
【惠】
「僕だけじゃない」
【惠】
「きっと僕の母も、祖母も、
そのまたもっと前の祖先たちも」
【惠】
「その方法を求めていたはずだ」
【惠】
「僕らの血筋だけじゃない。
誰もが捜していた。
自由になる術を」
【惠】
「この広い空の下を、
何にも心煩わされることもなく、
どこまでもいけるような、そんな方法を」
【惠】
「けれど、長い長い時の中、
呪いを破る術を求めて、
繰り返し辿られた多く道のりも……」
【惠】
「その全ては潰え、
どこにも辿り着くことはなかった」
【惠】
「手がかりすら見つけられなかった。
きっとそんなものは……存在しないんだよ」
【智】
「でも……」
【惠】
「ああ、やっと心が決まったよ」
【惠】
「僕はただ普通の生活が欲しかった。
ただ平穏な日々を望んだだけだ」
【惠】
「それ以上でもそれ以下でもない」
【惠】
「でも、そんなものは有りはしないんだ」
【惠】
「僕が求めていたのは、優しい嘘に充ちたあり得ない夢だ」
【惠】
「これまで間違い続けた代価を支払おう。
僕は今、偽善に死ぬ」
晴れやかに笑う。
ガラスのように透き通った、
こんなに綺麗な人の顔をはじめてみる。
後悔もなく、迷いもなく、悲痛さえなく。
全てを受け入れて。
【智】
「めぐ……」
【惠】
「僕が何を言わなくても、
智ならわかってくれるだろう」
【智】
「惠は、死ぬ……
僕が呪いを解いても、呪いを解かなくても」
逃げられない袋小路。
『ノロイ』による死には、
惠の不死の『力』も、命を守れないだろう。
『ノロイ』に殺される、
『呪い』を解いて死ぬ。
惠は決断を迫る。
【茜子】
「顔を見せてください」
【惠】
「何故? 僕はもう呪いを踏んだ。偽る必要もない」
【茜子】
「それでも見せてください」
【惠】
「……わかった」
茜子は惠の心を視る。
時間を掛けて、心の奥底までを。
【茜子】
「…………」
【惠】
「…………」
その『力』がどこまでの深みを覗けるのか?
僕には知り得ない。
それでも、茜子は誰よりも深くまで、
惠の心を読み取るだろう。
【茜子】
「…………はい。終わりました」
【惠】
「もういいかい?」
【茜子】
「はい」
【惠】
「それで?」
【茜子】
「もはやこの変人の意志は何をやっても揺るぎません。呪いを
解きましょう。みんなで」
【智】
「惠……、茜子……」
【惠】
「ああ。わかってくれて嬉しいよ、茜子」
【茜子】
「いえ」
【智】
「惠……」
【惠】
「いいんだよ。
僕は、僕の命を自分で選んだ。
誰に決められたわけでもなく、自分でね」
【惠】
「さあ、案内しよう。こっちへ」
【智】
「どこへ……?」
【惠】
「この屋敷の地下にある。
終わりであり始まりである場所へ」
地下室への入り口は、
2階にある惠の部屋にあった。
見取り図があれば気づいたのかもしれない。
どの部屋からも繋がっていない、不自然な空間。
柱の一つ、壁紙を引き剥がすと、
巧妙に隠されたドアがあった。
明かりさえない暗闇の階段を、
手すりの感触だけを頼りに下る。
【惠】
「これから向かうのは、僕たちの祖先8人が、かつて奇怪な契約を交わした場所。その相手が何なのか、どうして彼らがそんな契約を結んだのかは、残念ながら僕も知らない」
そこは『八富座(やつふざ)』と父のノートに記されていた場所だ。
こつこつと響く靴音と惠の言葉。
僕らのかすかな息遣いが続く。
【惠】
「特別な『力』は呪いと引き換えに得られたもの。それぞれの家は人を超えた『力』によって栄えた。彼らは、子孫にも、この『力』が益をもたらし続けると考えたのかもしれない」
2階から地下まで直通の階段は狭く、
螺旋のように何度も回る。
【惠】
「だが祖先たちも、何代も何代も子孫が代を重ねて、時代が
まったく様変わりすることは想像していなかった」
時代は変わり、
価値観は変わった。
【惠】
「かつての人智を超えた『力』は、ちょっとした特技に成り下がって、呪いの枷だけが重くなった」
暗闇の階段は、
地の底までも続くかのような錯覚を覚えさせる。
【惠】
「最初の8人の子孫も次第にバラバラになって、契約のことも忘れた。央輝や花鶏の家のように、海外に出たものも少なくなかった」
【惠】
「時代と変化が何もかもを覆い隠し、ほんのわずか、
僕の才野原家と智の和久津家だけが、『知識』を保っていた」
闇を満たす空気は湿り気を帯び、
重みさえ感じさせるようになる。
【惠】
「と言っても、残っていたのは表層の知識ばかりで、役に立つ
モノはわずかだった。反面、花鶏の花城家は、神秘学への
傾倒から一度は失った契約の知識の一部を取り戻した」
この下は、本当に人の踏み込む領域では
ないのかもしれない。
【惠】
「この説明には僕の想像も含んではいる。だが、概ねは正しい
はずだ。そうして記されたのが、おそらく『ラトゥイリの星』
なのだろう」
【惠】
「…………さぁ、ここが……『場所』だ……」
作りかけのビルの中のような。
そこは何もない殺風景な部屋だった。
オカルトの分野で見るような魔術的な装飾もなければ、
物々しい祭器、祭壇の類もない。
ただ石床の中心に、
仄かな光を漏らす穴が口をあけているだけだった。
【智】
「ここが……そうなんだ」
【惠】
「ああ」
【るい】
「なんか、なんもないね」
【こより】
「ですね……。もっとすごい魔方陣とか書いてあって、壁には
コワイ像とかあるかと想像してたんですケド」
【央輝】
「…………」
【智】
「あ……あー、あの真実の口みたいなやつとか?」
【こより】
「そうですそうです! ヒーローものの最後のボスの、壁に埋まってて目とか光るだけのヤツみたいなのとか!」
【るい】
「あるある! 部下に声で指令だけ出してて、実は最後にわたし
こそが黒幕だったのだーっていう」
【こより】
「でも、結局ナンバー2のやつに裏切られて、失脚しちゃうんですよね!」
【伊代】
「もう、そんなのあるわけないでしょ! テレビの見すぎじゃないの!? ここはほら……、ただの遺跡の……。ね、……………………惠」
【惠】
「…………」
【惠】
「ああ」
伊代が惠の名前を呼んだ。
呪いの音がどこからか聞こえた。
伊代は敢えて呪いを踏んで、
決意を示したんだ。
【智】
「うん……」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
僕たちは何をしたんだ。
こんなところにまで来て、
わずかでも時間を延ばそうと他愛のない雑談をして。
【花鶏】
「あんたらのそういうとこ、悪くないと思うわ」
【るい】
「ありがと、花鶏……」
【茜子】
「…………」
【智】
「…………」
【るい】
「トモ、指切り!」
【智】
「ちょ……っ」
るいが飛びついてきた。
【るい】
「約束、しよう。
これが終わったら、みんなで幸せになるって!」
【智】
「…………」
【智】
「うん、約束する! ぜったい幸せになる!」
【花鶏】
「なら、わたしにも誓ってもらうわよ」
【智】
「いいよ、何なりと」
【花鶏】
「智、これから先……」
【花鶏】
「わたしが困ってるときには、
必ずわたしを助けてよね!」
【智】
「……えー、花鶏の呪いってそんなのぉ!?」
【花鶏】
「なにを今更」
【伊代】
「……他人に助けを求めちゃいけない?」
【こより】
「……なんというか、らしーといいますか」
【茜子】
「それ束縛ちがうやろ、エロペラー」
【花鶏】
「結構面倒なのよ、わかってないわね!」
【こより】
「じゃ、じゃあ、こより……あ、扉……扉…ないっすぅ」
【智】
「こよりはこのままで」
【こより】
「でもでも……」
【央輝】
「どうせすぐ解ける呪いだ。
うだうだ言わずにさっさとはじめろ」
【こより】
「はぅ〜」
【茜子】
「ツンデレー」
【央輝】
「……つくづく、うっとうしいヤツ」
呪いの音が。
るいと花鶏の。
二人分の呪い。
【るい】
「聞こえたね」
【花鶏】
「これで、後戻りはきかないわよ」
【智】
「後戻りなんてしない」
【智】
「僕らは前に進むんだ」
8人。
ようやくここまで僕らは来た。
【智】
「惠……」
【惠】
「ああ」
言葉が尽きると、部屋はより一層静かになる。
静寂が耳に突き刺さるようだ。
【惠】
「始めよう」
【智】
「……うん」
祖先たちは、
何年の昔に、ここに同じように立ったのだろう。
思いを馳せながら、
僕たちは底の見えない穴を囲んで並び立つ。
儀式の手順は簡単すぎるほどに簡単だ。
それも一度やったことがある。
始めればすぐに終わってしまうだろう。
【惠】
「…………」
惠と頷き交わす。
もう始めるしかないんだ。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「…………」
【央輝】
「…………」
【茜子】
「…………」
呼吸を深くして心を掘り下げる。
雑念を取り除いていく。
残すものはただ一つ。
この『力』を捨てて、呪いを破棄する意思のみ。
痣がわずかに冷たくなる。
一歩、円の内へと進み出る。
左手を地面に付いた。
ここへは長らく誰も踏み込んでいないにも関わらず、
埃ひとつない石床だった。
じんわりと石へと自らの体温が伝わるまで待つ。
立って、手を繋ぐ。
そして。
【智】
「僕は和久津智。
自らの意思に基づいて、この力と呪いを破棄する」
地の底から咽ぶような声が響いてくる。
それは、この穴の底から通じる、
どこか遠い世界からの叫びだろうか。
【るい】
「私は皆元るい。
自らの意思に基づいて、この力と呪いを破棄するよ」
四方の壁を照らしていた光が僅かに暗くなる。
それと引き換えに、穴からの光が明度を増した。
何かが確実に動いている。
【こより】
「わ、わたしは鳴滝こよりです。
自らの意思に基づいて、この力と呪いを破棄します……」
巨大な手が地下室を殴りつけたみたいに、
部屋全体が揺れた。
束になった『ノロイ』が、
僕らの儀式に対して、最後の妨害をしようとしている。
【花鶏】
「わたしは花城花鶏。
自らの意思に基づいて、この能力と呪いを破棄するわ」
穴からの光が、
僕ら8人の影を壁に映す。
すべて悪魔のようなシルエットに変じて、
威嚇するように唸り声を上げる。
だが、それらもすべて幻。
【伊代】
「わたしは……白鞘伊代。
わたし自身の意志に基づいて、この力と呪いを破棄する」
魔物の断末魔のような叫び声。
間断なく僕らの耳をつんざき、
恐怖に陥れようと心を揺さぶる。
幻。
【央輝】
「あたしは尹央輝。
自らの意思に基づいてこの力と呪いを破棄する」
嵐の中の小船みたいに部屋全体が揺れ始め、
床には炎が燃え広がり始める。
僕たちは、よろめくこともなければ、
体を焼かれることもなかった。
【茜子】
「わたしは茅場茜子……。
自らの意思に基づいて、この力と呪いを破棄します」
叫び声も揺れも収まり、
炎も消えて。
ついに部屋に、わだかまる影という影が集まって、
巨大な『ノロイ』の影の姿を為し始める。
最後だ。
一つの旅路の終わりが来る。
僕は惠を見る。
惠は僕を見る。
語り合えなかった言葉を夢に見る。
もっと違う、
幸せでちっぽけな出会いを幻想する。
あり得たかもしれない過去の全てと、
あり得なかった未来の全てを一瞬に集める。
僕に残された最後の力が、
あり得たかも知れない可能性をかいま見せる。
僕らはいつでも確率的だ。
僅かな選択で未来を変える。
選び取ったただ一つ以外の全ては
手のひらからこぼれて落ちる。
それでも僕らは前に進む。
僕は惠を見る。
惠は僕を見る。
惠。
僕らの八人目。
僕らの仲間、僕らの友達。
【惠】
「僕は、才野原惠。
自らの意思に基づいて……この力も呪いも、この契約すべて
を破棄するッ!!」
巨大な髑髏面が笑った。
人間という矮小なものを、
存在の根底から揺るがすような哄笑が響き渡る。
嗤っている。
ちっぽけで、愚かな僕らを。
穴から漏れ出す光は一秒刻みでまばゆさを増す。
すぐに開けていられなくなる。
目を閉じる寸前、
天井に伸び上がる『ノロイ』の影が、
開きすぎた口蓋の中を光の海に満たされて溶けていく。
すべては無意味、幻、幻!
この身を焼く熱さも幻、この揺れも、怨嗟の叫びも、
体じゅうを引き裂く痛みも、魂を凍らせる冷たさも、
すべてが幻に過ぎない!
【智】
「この光さえ……幻だ!」
光に抗い目蓋を持ち上げる。
見開く!
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「…………」
【央輝】
「…………」
【茜子】
「…………」
【惠】
「…………」
【惠】
「…………」
【惠】
「…………」
【茜子】
「……………………終わり、ましたね」
【智】
「……うん…………」
儀式は終わった。
連綿と受け継がれてきた
『呪い』と『力』は消え失せた。
穴から漏れ出す光だけが、
未だ微妙に明度と色彩を変化させながら、
脈動するように変化している。
それだけが最後の残滓。
【智】
「痣も……消えたよ」
【茜子】
「終わりましたね……」
【るい】
「そっか……。終わったんだ」
【こより】
「なんかあっけない……」
【伊代】
「そういうものよ。得てして本当に大切なものっていうのは、
いつだってあっさり終わってしまう」
【花鶏】
「は……。悟っちゃうわね…………」
【央輝】
「終わりか……これで全て」
【惠】
「…………」
空気の逆巻く余韻のようなものを肌に感じながら、
半ば恍惚として僕らは立っていた。
ふいに。
【惠】
「げほッ……! ぐ……、げほッ、ぐ……ごほッ、がはッ……!!」
ふいに、惠が崩れる。
背筋を折り曲げて、
口元を庇うように手を添えながら咳き込む。
白い指の隙間から大量の血が見えた。
【智】
「惠……っ!!」
【惠】
「げほッ……、ぐ……ぁ……。がはッ……!」
【智】
「惠……」
【惠】
「そんな顔を……するものじゃ……ない。
わかっていたこと……だろう……」
【惠】
「これは……さんざん奪ったものを返す時が来た、
……ただそれだけのことだから」
【茜子】
「ばか! 喋らないで下さい!
一言しゃべるたびに血が……血が……どんどん……溢れて……!」
【惠】
「は……、ははは……ぐふ……ッ、
ぅ……ぐッ
お別れだ……、みんな」
【るい】
「メグム!」
【花鶏】
「才野原!」
【こより】
「惠センパイぃ……!」
【伊代】
「あなた……いえ、惠! 惠! 惠!」
【央輝】
「才野原惠……」
【惠】
「はは……、は……
僕はじきにこの身体さえ朽ちて消えるだろう……」
【惠】
「ここにこのまま置いて行ってくれないか、
そして佐知子と浜江に……」
【智】
「バカ! そんなこと出来ないよ! ほら、腕!!」
【惠】
「智……こんなこと……意味が……」
【智】
「意味や理由なんていらないんだ! 見返りだってほしくない。
僕が……僕が、そうしたいだけだよ……っ!」
【惠】
「智…………」
膝さえまともに伸ばせない惠に肩を貸す。
立たせる。
反対側からは、茜子が小さな背丈で支えてくれた。
【茜子】
「……帰りましょう」
【智】
「……うん」
みんなに見守られながら、
今にも命尽きそうな惠に肩を貸して、
僕たちは2階へと続く長い階段を上る。
幾度となく血を吐き、意識を失いそうになる惠を支えながら、
僕らは戻ってきた。
【惠】
「はぁ、はぁ……は……、はぁ……。
はあぁぁ……は……。
智……済まない……、ありがとう……」
【智】
「お礼なんていらないよ、僕らは友達でしょ……」
【茜子】
「…………」
惠は弱々しい呼吸しかできなくなっていた。
その顔から、手から、急速に生気が失われていく。
砂時計の砂のように、止める術さえない。
【惠】
「はぁ……ッ、はぁ……。
本当に、ありがとう」
【惠】
「智……
きみには、
どんなにお礼を言ってもたりないくらいだ」
【惠】
「せめて、ここで眠れる……。
本当に……ありがとう……、みんな……」
【智】
「そんなこと……いわないで……、
僕には、結局……何もできなかった……、
だから、ツメが甘いっていわれるんだな」
【智】
「みんながいなくちゃ、
ここまでくることだってできなかった」
【智】
「惠が助けてくれなくちゃ、
呪いなんて解けなかった」
【智】
「決断することさえ出来なかったじゃないか……」
【惠】
「いや……
智…は、救ってくれたよ」
【惠】
「本当に何もかもを……終わらせて、
救ってくれた……」
【惠】
「終わりはないんだ……」
【惠】
「道はどこまでも続いている……だから、
胸を張って、前を見て、進んで……」
【惠】
「智……」
【惠】
「きみは、勝ったよ……、
自慢していい」
【惠】
「智……僕の自慢の友達、
智は、僕の……、呪われた世界を……、
やっつけてくれたじゃないか……」
【智】
「惠……」
【惠】
「さあ、不死の力をもった僕の……、
死に様なんて無様すぎて見せられない……、
どうか、みんな……もう、僕のことは置いて……」
【智】
「最後まで一緒にいるよ、惠」
【茜子】
「最後の最後の瞬間まで、茜子さんが見てますから。もう『力』はありませんが、目に見えるすべてをずっと覚えますから」
手袋を脱ぎ捨てて、
血にまみれた惠の手を茜子が握った。
【惠】
「はぁ……ッ、は…………ぐッ……! もう、いいんだよ……
充分だ……」
【るい】
「ずっと……十年後も二十年後も、ずっとずっとメグムは私の友達だよ。だから最後まで一緒にいたい」
【こより】
「そうですようぅ……。惠センパイは、ずっと鳴滝のセンパイ
なんですよう……! 鳴滝がこれからいくつになってもずっと
センパイなんですようぅ……っ!」
堪える表情をしていても、
るいの頬はすでに涙に濡れていた。
こよりはもう、
いくら拭っても溢れ出る涙を拭いきれない。
【惠】
「ありがとう……、ありがとう……。
この瞬間だけで……僕はきっと、
生き抜いてきた意味が……あった……」
【花鶏】
「惠……、
あなたは馬鹿だわ。
でも……ずっと忘れないでいてあげる」
【伊代】
「絶対に忘れられないわ」
【伊代】
「だってわたしが初めて名前を呼んだのは、
あなたなのよ、惠……」
【伊代】
「これからわたしは、
今まで呼んだことのない幾つもの名前を呼ぶけど、
あなたが最初でよかった」
花鶏は腕を組んで目を逸らそうとして、
逸らせずに。
伊代はベッドの傍らに跪いて、
眠る子をあやすように優しく語り掛けていた。
【央輝】
「借りが出来た。
返せない借りを抱えてあたしは生きていく。
オマエのせいだ」
【惠】
「ああ……、みんな……。
もう、本当にさよならだ……、
だんだん暗くなる……、なにも、見えない……」
【智】
「惠、君の呪いは……
才野原惠は、本当の名前じゃないんでしょ。
本当は……君のことを本当は……なんて……」
【惠】
「惠でいい。
僕は……才野原惠だ」
【惠】
「その名前と、惠として生きてきた全てを、僕は受け入れる……、
僕を惠にしてくれたのは、君たちだ……」
【智】
「惠……!」
【茜子】
「めぐむ…………」
その時、激しい音を立ててドアが開かれた。
【佐知子】
「惠さん…………!」
【浜江】
「佐知子、惠さまはもう……。
それより屋敷が燃えとる! こんなところに居たら煙に
巻かれるぞ!」
【智】
「火事!? まさか『ノロイ』が最後に……」
【浜江】
「いや、真耶さまが火を……」
【智】
「姉さん……」
【央輝】
「今は逃げるぞ。
泣くのはあとでいくらでも好きにやれ。
死んだらそれすらできんことを忘れるな!」
【伊代】
「う、うん! 行きましょう!」
【智】
「でも、姉さん……姉さん! 姉さん!」
【るい】
「急いで、もうここはだめ! こより!!」
【こより】
「は、はいっ!」
【佐知子】
「惠さんが! 惠さんが……っ!!」
【惠】
「はぁ、はぁ……、佐知子……!
行くんだ……、佐知子……」
【惠】
「今までありがとう……
浜江も、本当にありがとう……」
【惠】
「佐知子、今からでも人生を……
すべてやり直して……」
【佐知子】
「惠さん!
惠さんを置いていくなんてわたし……!」
【るい】
「さっちーもダメだよ!
メグムはそんなこと望んでないんだから!」
【るい】
「花鶏、智を引っ張っていって!!」
【花鶏】
「火の手が回り始めてる!
煙に閉じ込められたら終わりよ! 早く!」
【茜子】
「智さんっ、急いで!!」
【智】
「………………姉さん…………惠」
【惠】
「…………さよなら」
【佐知子】
「惠さぁぁぁん…………ッ!!」
泣き叫ぶ佐知子さんを、
るいが強引に引き剥がす。駆け出す。
こんなところで死ねば、
惠にどれだけ怒られるか。
僕たちは……生きる!
【智】
「行くよ、茜子!」
【茜子】
「はい!」
〔だから僕らは手を繋ぐ〕
火事は屋敷のすべてを飲み込んだ。
離れも、蔵書も、写本の『ラトゥイリの星』も含めて。
すべてを焼き尽くした。
僕らはというと。
『ノロイ』が砕け散らせたガラス窓が幸いして、
煙に巻かれることなく、誰一人軽い火傷も負わずに、
屋敷から脱出することができた。
朝が来た。
何もかも燃え尽きた朝だった。
呪いも歴史も灰になり、館も惠も消えた。
姉さんも…………。
【るい】
「これで、なにもかも終わった……?」
【花鶏】
「どうなのかしらね」
【こより】
「…………ぐすっ」
【央輝】
「朝か」
【伊代】
「眩しいわ……」
【茜子】
「…………智さん」
【智】
「……」
さっき泣いたせいだろうか。
涙は出てこなかった。
きっと色々なことがありすぎて、
心が麻痺してしまっている。
悲しすぎたら泣けなくなるんだということを、
生まれて初めて知った。
この鮮烈な朝。
何もかも消えてしまうほど。
【智】
「終わったんだね」
【智】
「何もかも」
【智】
「やっつけた?」
【智】
「わからない」
【智】
「始まりもやっぱりこんなふうだったのかな」
【智】
「何百年も前の、
ここにやって来た人たちも」
泣きたかった。
やっぱり泣けなかった。
【央輝】
「もう朝だ。
すぐに警察や消防の連中がやってくるぞ」
【智】
「……警察とか、平気になったけど」
【央輝】
「あたしはご免被る」
【智】
「じゃあ、ここでお別れしちゃおうか」
まだ火の燻っている廃墟で。
僕らは円陣を組む。
いつかのように右手を重ねる。
ちっぽけな輪だ。
小さく非力でか細い僕ら。
ひとりぼっちからはじまった僕たちは、
8人になった。
そして、今は、7人。
最初に僕が。
次に茜子。
それから央輝。
花鶏。
伊代。
こより。
るい。
【るい】
「私は約束する。私たちは仲間だった。これからも、
私たちはずっと仲間でいる。みんなが困った時には、
絶対、どこからでも私は駆けつけるから」
【こより】
「こよりは、これからもっと遠くへ行きます。一人でしっ
かり歩いていきます。転ぶかもしれないし、迷うかもしれ
ないけど、知らない場所でも怖がらないで歩いていきます」
【伊代】
「さよなら、るい、こより、花鶏、央輝、茜子、それから、
智。わたしの名前は白鞘伊代よ。わたしのことをずっと
忘れないでいてね」
【花鶏】
「わたしは、自由になったのかもしれないわ。本も燃えた、
痣も消えた。わたしにはもう何も残っていない。ちっぽけな
わたしだけ。もし、困った時には、きっとわたしを助けてよ」
【央輝】
「あたしはこれからも一人だ。これからは、このうざった
らしい昼の太陽の下があたしの世界だ」
【茜子】
「ありがとう。私は人間になりました。あなたたちに触れた
ことを一生忘れない。なにもできない裸の私で、
私はこれから生きていく」
【智】
「さよなら、みんな。
ありがとう、みんな」
【智】
「会えてよかった。
僕はなにもかもを忘れない」
【智】
「一緒に歩いた高架の下を、
そろって見上げた屋上からの空を、
夜になるまで遊んでいたあの日のことを」
【智】
「並んで夜明けを迎えた薄暗い空を、
この先何年でも覚えている」
【智】
「僕らが一緒にいたことを。
僕らが手を繋いだことを」
【智】
「辛いことも、悲しいことも、
どれもこれも忘れられない」
【智】
「それでも、僕は心から言える。
みんなに会えてよかった」
【智】
「僕らにはもう同盟はいらない」
【智】
「だから、僕は……」
【智】
「僕らの同盟を終わらせようと思う」
【智】
「ここで――――」
【るい】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「…………」
【伊代】
「…………」
【茜子】
「…………」
【央輝】
「…………」
大きく息を吸って。
高い空を思い切り見上げながら。
【智】
「そうだ、最後に一つだけ。
みんなに言うの忘れてたんだけど――――」
「僕、実は、男の子だったんだ」
【全員】
「えああぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?????」
〔だから僕らは手を繋ぐ〕
【茜子】
「その後のことを、
少しばかり書いておこうと思います」
【茜子】
「あの後。
心が落ち着くと、
ようやく悲しみがやってきました」
【茜子】
「智さんも、ひたすら何日も泣き続けました。
泣きすぎると喉が渇くんだと知るほどに泣いて」
【茜子】
「真耶さんはというと、
あの火事のさなか、割れた窓から逃げ出して、
そのまま、行方知れずになってしまいました」
【茜子】
「智さんもひどく心を痛めて、ずっと捜していましたが……
今も真耶さんの行方はわかっていません」
【茜子】
「そして…………」
【るい】
「はぁ、はぁ、はぁ……。なにこれ……しんどい……。こんな、
ちょっと走っただけなのに……」
皆元るいは、考えられないほどの身体能力の低下に
日々苦しんでいる。
少し走れば息が切れる。
当然のように持ち上げられた荷物も上がらない。
何も考えずに弾けたベースさえ
弾けなくなった。
今はベーシストに憧れる少年に、
あっさりとベースをあげてしまった。
【伊代】
「なんでこんなにいっぱいボタンあるの……? なにこの変な
マーク? 日本語で説明書いてよ……。ええっ!? なにこの
画面、アプリってなに…………?」
白鞘伊代は、今まで気づかなかった、
とんでもない機械音痴が露呈していた。
手足のように仕えていたはずのPCは、
今では単なる神秘の箱。
携帯電話すら満足に扱えない。
電話帳機能は諦めて、
手書きのメモに頼る毎日だった。
【央輝】
「…………」
力も後ろ盾も失った尹央輝は、裏社会での地位を失い、
祖国の闇をさ迷っていた時のように、
一匹狼となって地を這いずる生活。
【こより】
「うは……歩くの面倒ですよう……。
自転車買わないと……
でも自転車ってすぐ盗まれるし……」
鳴滝こよりは、トレードマークのインラインスケートに
乗れなくなって、地道に靴で地面を踏んでいる。
残されたゴーグルだけが滑稽だった。
【花鶏】
「ふぅ。こんなもんかしら。
だいたい荷物も片付いたわね」
花城花鶏は、花城家の再興をついに諦めて、
古い家へのこだわりを捨てた。
ただいま引っ越し準備中だ。
そして――――――
【智】
「はにゃーん」
授業終了とほとんど同時に、
席を立って伸びをする。
一足早い夏が香る。
意味もなく嬉しくなった。
【宮和】
「今日はお急ぎなのですね」
宮はいつも変わりない。
足音もなく後ろに立つ。
【智】
「うん。ちょっと約束があるから」
じゃあね、と行きかけて、足を止めた。
【智】
「宮。前に約束してたデート、来週でよければ」
【宮和】
「…………」
珍しいものをみた。
猫だましされたような宮和の顔。
繰り返しに似た穏やかな日々も流転する。
同じではいられない。
【宮和】
「そそりますね」
【智】
「期待しててね。じゃあ」
【宮和】
「行ってらっしゃいませ」
今日は大事な約束があった。
【智】
「見られてるよ」
【茜子】
「ダメです」
【智】
「友達にウワサされると恥ずかしいし……」
【茜子】
「どこの×学生か」
待ち合わせた茜子と、いつかのように街を歩く。
半ば強制的に手を繋がされている。
手袋なし。
本当の意味で、手と手で触れ合って。
僕はなぜかスカート現役だった。
カミングアウトすると学園とかが大変だし、
とにかく卒業するまでは、このままで行くつもりだ。
いつかだったか、
あの胡散臭いひとと話したあたりに差しかかる。
蝉丸いずる。
あれ以来、顔を合わせてはいないけれど。
ヒント係と自分から名乗った。
あの性悪は、確かにそうだった。
過不足なく役目を果たした。
何もかも本当で、何一つ嘘がない。
【いずる】
(それじゃ、また縁があればってことで)
【智】
「いいのか悪いのか」
なぜだか小さな笑みがこぼれた。
【るい】
「トモーっ! ひぃ、ひぃ……はふぅ……、疲れたぁ……。
はやくはやくーっ!」
【智】
「もう……、疲れるなら走らなきゃいいのに」
【茜子】
「食欲魔神ですから」
【るい】
「そうだぞ! 食べる量をキープするには走ったり叫んだり
いっぱい動かないとダメなの。だから今晩はちくマヨ食べ
させてね。もう山ほど! あと明日も! 明後日も!」
【智】
「毎日食べに来る気か」
【るい】
「家無し少女に優しくしてよう〜!
茜子はずっと家に泊めてるんでしょ!」
【茜子】
「くくっ、所詮ただのトモダチ」
今夜は久しぶりに、みんなで集まって
晩ごはんでも食べることになっていた。
花鶏の家の、
引っ越し前の最後のパーティーだ。
【こより】
「あ、いたいた〜。こよりも移動力低下してるんですから、
もっとゆっくり移動してくださいよう」
【智】
「ごめんね。どうせ、花鶏のとこで会うからいいかなって」
今までドアに苦渋していたこよりは、
いい歳になって自動ドアを踏んで開けるへんな癖がついた。
【こより】
「ひらけ〜ジャイロ! 開いたー! ……あ、知ってます?
駅前のデパートで最近始まった教室」
【るい】
「なんかガッコーでも出来るの?」
【智】
「教室って?」
【伊代】
「あ、ちょうど良かったわ! あなた……智、こよりでもいいわ。これ、メールってどうやって送信するの!?」
【茜子】
「出たな巨乳」
【るい】
「イヨ子〜」
【こより】
「巨乳は能力じゃないですもんね〜、伊代センパイ、得ですよね。
ってこれ何です? このメール」
【茜子】
「なになに、『おかあさん、きょうともだちのうちでたべる。
ごはんいらない』。……ば……蛮族が出た!」
【伊代】
「だって漢字に変換するの大変じゃない!!?」
【智】
「これをお母さんに送るってことは、お母さんは普通にメール
できるんだよね……。それで、さっきの教室って?」
【こより】
「おお〜、そりはですね〜……」
こよりの話によると、
駅前のデパートが僕たちみたいな学園生と
時間のある専業主婦向けに料理教室を始めたらしい。
そこの教室はすごくレベルが高くて、
生徒たちは高級レストラン顔負けの味を習えるものの、
授業はものすごく厳しいそうだ。
それもそのはず。
その教室の講師は、
なんとあの浜江さんだというのだ。
【浜江】
「そんなもん、馬も食わん!」
……聞いただけでも教室の厳しさが目に浮かぶ。
惠は、いつかはこういう日がやってくることを予期していたのか、自分に万が一のことがあったとき、屋敷の財産は佐知子さんと浜江さんの二人で分けるように手配していた。
二人はその財産で、それぞれの人生を歩き出している。
佐知子さんは、家庭の事情で中退せざるを得なかった大学を、
再び1から受験して通いなおすそうだ。
あの人が何歳なのか聞いたことはないけれど、
この近くの大学を目指すそうだから、ひょっとしたら
いずれキャンパスの先輩なんてことになるのかもしれない。
【智】
「痛ぁッ!? 何するの茜子!?」
いきなり小指をものすごく捻られた。
【茜子】
「次に他の女のこと考えたら、足の爪、断ちバサミで縦に切ります」
【智】
「な、なんで!? 『力』はなくなったはずなのに!」
【茜子】
「たしかに『力』はありません。だがマヌケは見つかりました」
【智】
「カマかけるために暴力はひどいぃ……!!」
【茜子】
「…………………………ただでさえ、やばいの5人もいるのに」
【央輝】
「ふぅ……いい、天気だな」
央輝は帽子を脱いで、
日中の太陽の眩しさに目を細める。
これが日の光。
睨むだけで人の感情を操れた『力』と引き換えに手に入れたのは、こんなどうでもいい日光浴ができる権利だけ。
【央輝】
「だが不思議だな。後悔は感じない」
空の明るさに、
なぜか脳裏を横切った顔があった。
今頃何をしているだろう。
相変わらず馬鹿には違いないだろうが。
思い出すと、口元が緩んだ。
半笑いめいた表情を浮かべながら、
眩しい空に目をすがめる。
必要ないコートを着ているのも、
そろそろ暑くなる季節だった。
【るい】
「うわー、すっかり片付いたね!」
【花鶏】
「まだまだよ。あんたら晩餐会の引き換えに、最後の荷物まとめるの手伝ってよね!」
気軽に花鶏がみんなの助力を頼る。
不自由ではあるけれど、
きっと、僕らの日々は充実している。
【伊代】
「晩餐会って言ったって、用意するのは、わたしと智ばっかり
でしょ! 花鶏はテーブル貸すだけじゃないの! ちょっと呪いが解けたと思ったら、怠け癖に磨きが掛かったんじゃないの!?」
【こより】
「いよ子センパイは巨乳は残ったけど、そのイケてない呪いも健在なので苦しいところですね……」
【花鶏】
「そうね……。ま、イザとなればわたしが嫁に貰ってあげるわ」
【伊代】
「女同士は結婚できません!!」
【茜子】
「負け犬どもが。結婚一番乗りは茜子さんで決まりです。皆は
オールドミスになって、しょぼい相手と渋々結婚した挙げ句、
家庭という人生の墓場で足掻くがいいのです」
【智】
「け、けっこんって……!!」
触れることに飢えていた茜子は、
所構わずベタベタしてくる。
腕を絡めるのはもちろん、
隙あらばキスしてくるし、
座るときは膝に座ってくる。
ルール無視。
アウトローも震え出す、
情け無用さだ。
しかも、拒否すれば妙な脅迫が待っていて、
僕は何一つ逆らうことができない。
【るい】
「しっかし、私、まだトモが男の子だなんて信じられないんだよね」
【こより】
「ですよね〜! ともセンパイが男って最初から知ってたら、
こより、ツバつけてたのに……」
【伊代】
「今でも、この中で一番可愛いくらいだもんね……。それにしても、なにもよりによって、茜子を選ぶことはなかったのに……」
【花鶏】
「正直、この発想はなかった」
【茜子】
「茜子さんと智さんは、必要以上にらぶらぶなのです。もはや
バクテリオファージすら割り込む余地はない。そうですよね?」
【智】
「あ、あはは……、まあ、ね……。ほら、そろそろ僕は伊代と
お料理の用意するから茜子、離して」
【茜子】
「離すの禁止です」
【るい】
「…………さて、皆の衆、どんなもん?」
【こより】
「意外に隙はありと見えますが、どーでしょうか」
【伊代】
「あれで智って胸に弱かったり、押しに弱かったりするし、
既成事実をつくっちゃえば……いや、この際だから2号でも」
【花鶏】
「たまには男の子も悪くないかなーって、最近は思ったり
してるのよね」
【るい】
「よーし、それでは」
【こより】
「はいです、決意」
【伊代】
「しかたない」
【花鶏】
「処女同盟結成、いくわよ!」
【処女同盟】
「おーーーーーーーーーーーーー!!!!」
茜子が、ひしっとしがみ付いて離してくれない。
【智】
「離してくれないとお料理できないよ」
【茜子】
「もし、離したら、寝ている間に智さんのぱんつを全部燻製に
します」
【智】
「そんなことしたら香ばしくなるよ!!?」
【茜子】
「離さず料理してください。さぁ〜レッツ・トライ」
【智】
「だ、誰か助けてよう〜……!」
【花鶏】
「はぁ〜ぁ、暑い暑い」
【こより】
「なむなむ……、ごちそうさまです」
【るい】
「私でも食べる前からおなかいっぱいになりそ」
【伊代】
「時と場合を考えた方がいいわよ? 将来的なことを考えるなら、ご近所や友達との付き合いは、やっぱり大切にしていかないと
いけないから、こういうところはきちんと……」
【茜子】
「はいはい。メスブタはさっさと料理をする」
【伊代】
「ぶ……、これでも600グラム痩せたのよッ!?」
【こより】
「ぐらむ…………」
【智】
「…………ふふっ」
寄り添う茜子に、
るいの大雑把な笑い声に。
こよりの小さな足音と伊代のため息と、
花鶏の冴えた仕草に。
僕は胸がいっぱいになる。
小さく、平穏で、幸せな日々。
だけど平穏は幻のように儚く弱い。
ほんの少し目を離しただけで失われてしまう、
小さな花と同じに。
ひっついてくる茜子の背中から、
華奢な体をそっと確かめて。
腕の中の重みに、
そこにあるものを実感する。
【智】
「あのね……姉さんは、
あそこで……僕以外のものを全部壊そうとしてたんだ……」
胸の奥から吐き出す。言葉は固体に似ていた。
僕と同じ顔をした姉さん――――。
姉さんが、あの小さく閉じた部屋の中、
誰よりも遠くの見える目で一番見つけたかったモノは。
本当は小さな幸せだったはずだ。
父さんと母さんと、
僕と姉さんと。
裕福でなくても、
みんなが笑っていられる温かな手と小さな家。
それは、きっと、惠が一番に望んでいたものでもある。
【智】
「僕の周りの全てを消そうとした」
傷つきひび割れた心で、
壊れてはいたけれど、それでも一途に欲しがった安らぎ。
ほんのちっぽけな、
手のひらに収まる分だけの幸せ。
そんな、ささやかな願いさえこの世界は摘み取る。
誰かから奪わなければ成り立たない。
【茜子】
「私、智さんのお姉さんのこと、なにも恨んでいませんよ」
【智】
「……僕が、もっと早く、あそこに辿り着いていれば、もっと違う結末があったんだろうか」
それはあり得なかった可能性だ。
叶わぬ願いだ。
現実はいつも残酷で、
世界はいつだって手遅れになる。
僕らには未来しか手に入らない。
終わってしまった世界を変えることは誰にも出来ない。
【智】
「…………僕の、父さんは最低のヤツだった」
過ぎ去った時間だけは終わりなくあたたかい。
けれど、それは嘘と曖昧さで出来たセピア色の幻想だ。
信じていた。
父さんのことを。
母さんと姉さんとの優しい日々を。
家族だから。
思い出の中で、
あの『ノロイ』から僕を守ってくれた人たちだから。
でも――――――。
現実はいつも過去を打ち砕く。
理想は夢と同じで儚く消える。
血の繋がりさえ優しさを保証しない。
【茜子】
「ふむ。
私のリアルファーザーも、
ボトムライン更新父でした」
【茜子】
「恨むくらいならいくらでも恨めますけど、
今はちょぴっとだけ感謝してます」
【智】
「感謝?」
【茜子】
「なんせ種ですから」
【智】
「もうちょっと言い方……」
【茜子】
「私が生まれてきた原因です。
だから感謝しようと思います」
【茜子】
「怒るのとはまた別に」
【茜子】
「産んでくれてありがとう。
そんで、二度とツラみせるな、ファック」
茜子の言葉が、不思議と胸にしみてくる。
忘れがたく記憶される。
刻みつけられた過去の罪と罰。
変質も償いもできないそれを、
誰もが背負って生きていく。
優しい世界は誰にも見つけられなかった。
全てを壊したくて、
姉さんの出した一通の手紙が――。
けれど僕と仲間を出会わせた。
未来は常に不確定だ。
無数の小さな選択の違いが
大きな差異を作り出す。
姉さんが僕らの未来を
定められなかったように。
未来を視る目でさえ、
結末を見通すことは出来ない。
るいが僕の手を取って走り出さなければ。
花鶏がバッグに本を入れていなければ。
こよりが路地に落ちたりしなければ。
伊代が茜子を連れて逃げなければ。
央輝が裏道に居合わせなければ。
可能性はいくつもあった。
たくさんの可能性の全ては消えて。
不思議な積み重ねの果ての、
たった一つの出来事だけが、
僕の手の中に残っている。
父さんを殺した姉さん。
僕の命を救った姉さん。
姉さんの預けてくれた力は、
みんなを助ける力になった。
多くの命を奪った惠。
多くの命を救った惠。
惠がいなければ、
僕らは呪いを解けなかった。
父さんが欲望のために記録したあのノートが、
僕らの道しるべになった。
るいを悲しませた、るいのお父さんの想いは、僕らを
最後の最後にすくい上げてくれた。
無数の糸が絡み合う。
動的な世界。
僕らはいつでも確率的だ。
【智】
「茜子、君ってほんとに魔法使いかも」
ようやくわかったような気がする。
何もかもが繋がっている。
孤独なものなんてありはしない。
孤独でいることさえ許されない。
姉さんの寄こした、
死んだ母さんのあの手紙。
僕にとってははじまりだった、あの手紙。
でも、本当は、もっと前からはじまっていた。
父さんや母さんの頃から、
それよりもずっと以前から。
数え切れない人たちの、
数え切れない想いと命が、
僕らの場所へと通じている。
命の選択と惠は言った。
奪い合うのが、この場所なんだと。
醜く憐れな、孤独さえ許されない、
呪われたこの世界。
運命のように、宿命のように、
僕らはそのくびきに囚われている。
気がつけば。
窓の外には夏が来ていた。
【智】
「『ありがとう』……。
本当に……そう思える?」
【智】
「今までの辛かったこととか、苦しかったこととか、
裏切られたこととか、見捨てられたこととか、
これから先にあるたくさんの理不尽とか」
【智】
「その全部をひっくるめて、
茜子は、本当の本当にそう思える?」
【茜子】
「ここがどんなに、身勝手で、自堕落で、冷酷非情で、不条理な、最初から最後まで呪われた世界だとしても」
【茜子】
「私は、世界の全部を、問答無用に、大好きだって誓えます。
だって」
力強く頷いて。
【茜子】
「私は、あなたに会えたから――――」
腕の中の彼女を宝石みたいに抱きしめる。
茜子がなにも言わずに手を伸ばす。
指を絡めて手を繋いだ。
儚くてもしっかりと結ばれる。
窓の外には気持ちのよい夏の色。
大きく息を吸い込んで、空を見上げて、
二度と還らない全てのひとたちへ別れを告げた。
さよなら。
さよなら。
さよなら。
そして――――――。
ありがとう。
さあ。
今日はとびきり美味しい料理を作ろう。
明日も食べたくなるような、
元気になって歌い出したくなるような、
そんな料理にしてやろう。
追憶を振り切って、新しい一歩を踏みだす。
ちっぽけな僕らの、ちっぽけな望みが叶っても、
世界の片隅で惠が死んでも、
ここは何一つ変わらず続いていく。
特別な力なんて、あってもなくても、
呪われた世界は終わらない。
無くしたものと得たものと。
帰ってこない、つまらなくも楽しい日常と。
新しく手にしたささやかな幸せと、
数え切れない不条理と。
全てを連ねて続いていく遙かな道を、
顔を上げて歩いていこう。
あの日、惠と約束をした。
いつか悲しみが思い出に変わっても、
最後に交わした約束は、
忘れることなく、この胸に残る。
触れ合うことでしか生まれないもの。
そんな形のないものが、僕らの意味だ。
だから、僕らは手を繋ぐ。
偽りと、欠落と、遠回りとに苦しみながら。
繋がらない心を重ねて。
この呪われた世界を、やっつけるために。
ぼくらはみんな、呪われている。
みんなぼくらに、呪われている。
だから、
これは呪いの話だ――――。