〔プロローグ〕
突然空が開けた。
赤い夜だった。
息が乱れて心臓まで吐きそうだった。
腕を引かれたまま一気に階段を駆け上がる。
濃い闇に足下も定かでない。
頼りは目の前の、ほんの30分前に会ったばかりの、
僕の腕を取って走り出した、
まだ友達にもなっていない小さな背中だけ。
【惠/???】
「黒い王子様は女の子を連れて去るのだという」
【惠/???】
「とりわけ美しい女の子が選ばれる」
【惠/???】
「全部ネットの噂だ」
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
ネットで読んだんだけど呪いの王子様って本当の話?
もう一回読んでみようと思ったらもう無いね。誰か死ってる人いない?
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
それ吸血鬼の話じゃなかったっけ?
名前:名無しさん[ 投稿日:20XX/04/08
自分で探せage
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
女の子連れてくって聞いたけど
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
kwsk名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
ツレに聞いた話。
田松市の旧市街のどっかに封鎖されたビルがあるらしいんだけど…
同級生がそこにいって帰ってこなかったんだって
心配で見に行ったツレが出たの見たって
危険な場所(霊的にも地形的にも)だって
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
そこしってるwwwww
駅から10分ぐらいのところに住んでんだぜ
霊感ある友達が嫌な雰囲気だとか言ってたんだよな
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
つか、人身売買だろ
名前:名無しさん[ 投稿日:20XX/04/08
ネウヨ黙れ
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
山賊王に俺はなる!
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
誤爆?
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
だいたい連れて行くってどこにだよ
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
北の国
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
↑天才現る
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
↓次でボケて
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
マジ怖い話なんだけど・・・
上級生のヤバイグループが見たって。
真っ黒なライダースーツとメットで、
その時何人か死人が出て、生き残った子は、顔面蒼白で何も語らなかったらしい。
(というか全員震えて言葉を発することすら出来なかった)
その後も決して何も言わなかったんだって。
彼らが何を見たのか、どんなことが起こったのか。
未だに分からない・・・・・
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
>真っ黒なライダースーツとメットで、
王子関係ねーよ
他人を信じるなとしたり顔で言われたことがある。
信じる信じないと嘯いたところで、
それは選択肢のある状況での優雅な楽しみだ。
余暇みたいなものだ。
時と場合と状況が選択の余地を奪うことがある。
よくある。
【るい】
「早く早く! 何やってんの、急がないと死んじゃう!」
追いたてられていた。
泣きそうだ。
何でこんな目にあうのか。
気分は狩りだ。
それも狩られる獲物だ。
下への道はとっくになくて。
だから逃げる。
薄暗い廃ビルの中を、唯一の活路の上へと急ぐ。
【智】
「ちょ、ちょっと待って、待ってお願い! 痛い痛い痛い、
腕ちぎれちゃうの〜〜〜!!」
【るい】
「気合いで何とかせい!」
【智】
「物事は精神論より現実主義で!」
【るい】
「若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!」
【智】
「少年の大きな夢とは関係ないよ、この状況!!」
【るい】
「少女だっつーの!」
【智】
「あーうー」
涙声になった。
彼女は聞いてくれない。
肘からちぎれちゃいそうな力で、僕の腕を引いて、上へ上へ。
階段を蹴る。二段とばしが三段とばしに加速する。
何度も足がもつれそうになった。命にかかわる。
ラッセル車みたいに突っ走る彼女の腕は鋼鉄の綱だ。
転んでもきっとそのまま引きずられていく。
【智】
「きゃあーーーっ!!!」
【るい】
「根性っ!!!」
【智】
「部活は文化系がいいのぉ!」
【るい】
「薄暗い部屋の隅っこでちまちま小さくて丸っこい絵描いて
悦に入って801いなんてこの変態!」
【智】
「ものすごく偏見だあ!」
親戚にゴリラでもいそうな文化偏見主義者な彼女が、
ドアを蹴破った。
空が開けた。
狭く暗い廊下から転がるように飛び出たそこは――。
屋上。
ビルの頂。
とうに夕刻を過ぎた空は夜に蒼く、そのくせ、
下界から昇る緋の色を残骸のようにこびりつかせている。
赤い夜だ。
【るい】
「どうしよ、こっからどうする、どこいく?」
【智】
「そんなこと言われても」
来る前に考えておけと突っ込みたい。
逃げたはずが追い詰められた。
いよいよ泣きたい。
彼女は広くもなく寂れた屋上をうろつく。
警戒中の野良犬みたい。
あれだけ走って息一つきれていなかった。
こちらは肩まで弾ませている。
自分が文化人だとは思わないけど、
彼女が体育人であることは確実だ。
【智】
「他に階段は?」
【るい】
「あるわけないでしょ」
【智】
「非常階段」
【るい】
「6階から下は崩れてる」
【智】
「なんでそんな上に住んでたの!?」
【るい】
「高い方が気持ちいいもん!」
【智】
「馬鹿と煙!?」
【るい】
「馬鹿っていった! ちょっと成績悪かったからって馬鹿にして、この! とても人様には言えない成績だけどあえて言う勇気ぐらいあるよ!?」
【智】
「聞きたくありません」
切なさで一杯の願望を述べる。
欲しいのは解決方法であって、
個人の学業的悲劇の論述じゃなかったりする。
【るい】
「くそったれ……」
【智】
「女の子は言葉遣いに気をつけて」
【るい】
「おばさんくさいぞ」
彼女が歯がみする。
熊のように落ち着き無い。
そうこうしている一秒一秒に、
僕たちは少しずつ確実に逃げ場を失っていく。
終点は、ここだ。
天に近い行き止まり。戻る道もない。
異臭が鼻をつく。目の前が酸欠でくらくらする。
絶望が胸にしみてくる。
こんな場所で、こんな終わりなんて、
想像したこともなかった。
終わりはいつでも突然で予想外だ。
きっと世界は呪われている。
皮肉と裏切りとニヤニヤ笑い。
ぼくらはいつでも呪われている。
【智】
「――皆元さん!」
【るい】
「るいでいいよ」
【智】
「こういう状況で余裕あるんだね……」
【るい】
「余裕じゃなくてポリシー。
全てを脱ぎ捨てた人間が最後に手にするのはポリシーだけ」
よくわからない主張を力説。
【智】
「イデオロギーの違いは人間関係をダメにするよね」
ふんと鼻を鳴らされる。
破滅の前の精一杯の強がりで。
その強がりに薬をたらした。
【智】
「――あっちまで跳べると思う?」
指差したのは不確かな視界を隔てた向こう側。
隣のビルが朧に浮かぶ。
路地一つ挟んだ距離、フロア一つ分ほど頭が低い。
【るい】
「近くないね」
【智】
「…………無理か」
【るい】
「私より、あんた自分の心配したら」
【智】
「あんたじゃなくて、智」
【るい】
「…………」
【智】
「ポリシー」
やり返す。
るいが、ニヤリと口の端を持ち上げた。
見直したとでもいいたそうに。
【るい】
「――私から跳ぶわ。チャンスは一回」
【智】
「落ちたらどのみち死んじゃうよね」
【るい】
「1階に激突かあ」
【智】
「シャレ! それって洒落のつもり!?」
ブラックジョークには状況が悲しすぎです。
分かり易すぎる構図。
一度限りの綱渡り。
後くされのない脱出チャンス。
二度目に期待するのは最初から心得が違う。
高所恐怖症のけはないのに、屋上の縁から下を見ると足下が傾いた。
目眩。
視界がはっきりしないのが、
こんなにありがたいと思ったことはない。
【るい】
「ちょっとした高さだから、向こうの屋上まで跳べても、
下手な落ち方したらやっぱり死んじゃうわよ。
上手くいっても骨くらい折るかも」
【智】
「石橋は叩いて渡る主義なんだよね」
【るい】
「じゃあ、止めるか」
【智】
「でも、他に方法ないんだよね」
【るい】
「ふーん、見た目より思い切りいいんだ」
【智】
「おしとやかなのに憧れちゃう毎日で」
【るい】
「……いい? 焦んないこと。距離自体はたいしたことない。
普通に助走すれば跳べる。幅跳び思いだして」
保護者めいた顔をした。
やり直しの効かない特別授業。
【るい】
「じゃ、行くよ」
【智】
「ちょ、ちょっとまって、心の準備は!?」
【るい】
「女は度胸」
【智】
「ね…………」
【るい】
「なによ?」
【智】
「無事逃げられたら―――明日、買い物付き合って」
【るい】
「やだ」
即答。
【智】
「空気読めよ! 様式美くらい押さえてよ!」
【るい】
「明日のことなんて考えないポリシーなの」
【智】
「うわ、刹那的な生き様だ」
【るい】
「現在は一瞬にして過去になるのよ! 私たちに出来るのは、
ただ過ぎ去る前の一瞬一瞬を精一杯楽しく愚かしく無様に
生きることだけなんだから!」
【智】
「愚かしく無様なのはやだなあ」
【るい】
「人のポリシーに文句付けないよーに」
【智】
「文句付けられるようなポリシー持たないで」
熱を感じた。
頬が熱い。
視界の悪さと息の苦しさが一層倍になる。
時間がない。
【るい】
「いよいよヤバイね。心の準備は?」
【智】
「――いいよ」
本当はよくない。握る拳が汗ばむ。
深呼吸をする。
鉄さびめいた臭いの混じった酸素が肺を充たして、
頭の中をほんの少しだけクリアにする。
るいが、きゅっと僕の手を握った。
ほんの一部だけ触れ合った場所。
吹けば飛ぶような小さな面積から体温が伝わる。
胸の奥まで届く、熱。
【るい】
「跳べる?」
【智】
「跳べそう……なんとなく」
根拠はない。
できそうな気分だった。
【るい】
「先行くから」
返事くらいしたかった。
できることなら軽口をずっと叩いていたかった。
現実逃避という名の快楽から立ち返り。
世界の呪いと正面切って立ち向かう、その一瞬。
決断という地獄が口を開ける。
返事をする間もなく、るいが走る。
掌が離れていく。
ひどく傷つけられた気分になる。
買い物にいく気安さで、
彼女が縁へめがけて助走した。
跳んだ。
夜を横切る。
それは、とても綺麗な獣――――
月に吠える狼。
身体の機能を集約した一瞬に、
人間という不純物を吐きだした、混じりけのない生命と化す。
落下する勢いで隣の屋上に転がった。
るいは一挙動で立ち上がって、
こちらを向いて元気そうに手を振る。
骨くらい折れそうな感じだったのに、
どっかの科学要塞製超合金でできてるのかもしんない。
【るい】
「はやくーーーーー!!!」
今度は自分の番だ。
もう一度深呼吸する。
身体の隅々まで酸素を行き渡らせる。
何でもない距離だ。
授業なら跳べる距離だ。
違いは些細な一点だけだ。
夜の幅跳びの底は、20メートル下のコンクリート。
しくじれば死ぬ。間違いなく死ぬ。
やり直しの効かない、一度こっきりのジャンプ。
後ろ髪がちりちりとする。
――――追いついてきた。
走った。
呪いを振り切るように、跳躍する。
これまでの人生で一番の踏切。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光、何もかもが圧縮された刹那の秒間。
落ちる、という感覚さえもない。
1フロア分の高度差にショックを受けながら、
受け身も取れないで投げ出される。
感覚を置いてけぼりにした数秒が過ぎて。
ようやく意識できたのは、予想より少ない衝突と、
予想よりやわらかいコンクリートの屋上。
【智】
「……とってもやわやわ」
【るい】
「へへへ、ヤバかったよねー」
るい。
【智】
「受け止めて、くれたんだ」
【るい】
「トモ、あのまま落ちてたら頭ぶつけてたかも。
ほんと、ヤバかったよ。自分でわかんなかったろうけど」
視界が効かなかった。
だから、バランスを崩した。
地雷を踏みかけた寒気と逃げ延びた安堵がごちゃごちゃに
混じりながら追いついてきた。
いくつかの痛み、打撲、擦過――
気がつく。
コンクリートよりもずっとやわらかい、
るいの胸に顔を埋めて、
子供をあやすような掌を髪に感じている自分。
【智】
「あの、もう平気で、大丈夫で……」
【るい】
「へー、意外と体格いいんだね。もうちょい、細い系だと思ってた」
【智】
「け、怪我とかしなかった?」
【るい】
「みたまんま。私、頑丈なんだよね」
【智】
「無茶……するんだ、受け止めるなんて……
あんな高さから落ちてきたのに」
【るい】
「感謝するよーに」
貸したノートの取り立てでもする気楽さ。
なんでもないことのように。
いい顔で、るいは笑う。
今日会ったばかりの、まだ名前ぐらいしかしらないような
相手なのに。
自分が怪我をするとか思わなかったのか?
二人まとめて動けなくなったかも知れないのに?
虹彩が夜の緋を受けて七色に変わる。
間近からのぞき込んだそれは、
研磨された宝石ではなく、
川の流れに洗われ生まれた天然の水晶だ。
人の手を拒む獣のように、鋭く強い。
【智】
「あう」
【るい】
「むっ」
【智】
「にゃう!?」
ほっぺたを左右にひっぱられた。
【智】
「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
【るい】
「なんて顔してんのよ。せっかく助かったんだぞ」
【智】
「にゃおーん!」
【るい】
「感謝の言葉」
【智】
「……にゃにゃがとう(ありがとう)」
【るい】
「よろしい」
手を離す。るいがはね起きる。
伸びをするみたいに体を伸ばし、
肩を回して凝りを解す。
隣にぺたりと座り込んで、
さっきまでいたビルを眺めた。
【智】
「やっと――」
逃げ延びた、
そう思ったのに。
獰(どう)猛(もう)な音が近づいてくる。
下から上に。
腹の底が震えるような重低音。
一瞬なんなのかわからず、その正体に思い至った一瞬後になって、噛み合わなさに戸惑う。
エンジン音だ。
ビルの屋上、エンジン音、上がってくる――
違う絵柄のパズルのピースと同じ。
どこまでいっても余りが出る解答。
【智&るい】
「「な――――――ッッッ」」
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
エスプリの効いた冗談みたいな物体が、
目の前で長々とブレーキ音の尾を引いて横滑り。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
胡乱(うろん)な物体だった。
どうみても原付だった。
どこにでもある、町中を三歩歩けばいき当たりそうな、
テレビを一日眺めていればコマーシャルの一度や二度には
必ず出会うだろう。
成人式未満でも二輪運転免許さえ取れば、
購入運用可能な自走車両。
価格設定は12万以上25万以下。
ただ一点、ここが公道でも立体駐車場でもなく、
廃ビルの屋上だということをのぞけばありがちだ。
黒い原付――。
塗りつぶされそうな黒い車両の上に、
同じだけ黒いライダースーツとフルフェイスヘルメットが
乗っかっていた。
【智】
「――――」
緋の混じる夜。
影絵のような影がいる。
こちらを向く。
背筋によく響く、威嚇の唸りめいたエンジン音が、
赤と黒の混じった夜を裂く。
月の下。
手を伸ばしても届かない空に、ほど近い場所で。
――――――僕らは出会った。
【惠/???】
「黒い王子様は女の子を連れて去るのだという」
【惠/???】
「とりわけ美しい女の子が選ばれる」
【惠/???】
「全部ネットの噂だ」
〔拝啓母上様〕
拝啓、母上さま
おげんきですか。
今日の明け方、杉の梢に明るく光る星を探してみましたけれど、
昨今の都市部では杉も梢も絶滅危惧種でした。
星は光るのでしょうか、海は愛ですか。
いきなり方々にケンカ腰な気もいたしますね。
危ぶむなかれ危ぶめば道は無し、と偉い先生も申しました。
母上さま、私は元気です。
星も見えない環境砂漠な都会といえど住めば都。
新世紀の子供たちが受け継ぐべき美しい国は、
すでに書物と記録の中で跋扈するのみ。
残念ながら私も知りません。
美しい国。
なんとも無意味かつ曖昧なタームです。
詩的表現以上のレベルでデストピアが実在し得るかどうかから論議すべきではないでしょうか。
ネットも携帯もなかった時代こそ甘美である……と懐旧に胸を熱くするのは、時代と少しばかり歩調の合わないご年配の方のノスタルジーにお任せいたしましょう。
残す未練が無くなっていいと思います。
電磁波とダイオキシンにまみれても、生命は生き汚く生きてまいります。
ですが心も身体もゆとりを失えば痩せ細っていくのです。
アイニード、ゆとり。
ゆとり世代だけに、愛が時代に求められています。
愛の受容体である杉花粉は今日も元気です。
都会では絶滅危惧種のくせに繁殖欲旺盛なのはなんともいただけません。
人類の叡(えい)智(ち)はいつの日か花粉症を克服するのでしょうか。
それとも自然の獰(どう)猛(もう)を前に太古の人類がそうであったように膝を屈するのでしょうか。
さよなら夢でできた二十一世紀。
こんにちは閉じた呪いの新時代へようこそ。
さて、母上さま。
実は先日、新たに契約を取り交わしましたことをご報告いたします。
保証人としての母上さまに、ご許可をいただきたく、ここに一筆したためました。
保証人という単語の剣呑さに、エリマキトカゲのごとく立ち上がって威嚇する母上さまの顔が浮かびます。
保証人。なんと官能的な響きでしょう。
英語では Guarantor 。
ご心配なく。
保証人としての母上さまにご迷惑をおかけすることは、何一つございません。
金銭的な問題の発生する懸念は皆無なのです。
契約は極めて安価で行われたからです。
ロハ、なのです。
ただより高いものはない、なんて昔から言われたりしますよね……。
必要な契約であったことは疑う余地がありません。
いささか大げさな修辞を許していただけるのなら、
この混迷の新世紀を生き延びるために、
呪われた我と我が身と世界の全てと対峙するために、
理性の限界と権利の堕落と人間性の失墜に抵抗すべく、
人類の生み出した最大の発明の一つであるこの概念こそが、
パラダイムシフトとして要求された契約そのものでありました。
なんといいますか。
難解な語彙を蝟集すると適度に知的に見えるという、日本語体系のありがたみを噛みしめます。
母上さまの時代には、そのような利己主義に基づく概念を用いる必要など無かったのにとお嘆きでしょう。
過去こそ楽園であったのだと。
それは違います。
契約はありました。
いつでも、どこでも。
聖書時代の死海のほとりから、高度成長期の疑似共産主義の間隙に至るまで目に映らなかっただけで。
今や古き良き時代は標本となり残(ざん)滓(し)もとどめず、崩壊した旧制は懐疑と喪失を蔓延させるばかり。
過去的価値観には、はなはだ冷笑的になってしまう平成世代としましては、従ってこのような形での呉越同舟こそが望むべき最大公約数的妥協点といえるでしょう。
ご理解いただけますよう。
母上さま。
これまで同様、この手紙がお手元に届くことはないと存じてはいますが、新たに契約を取り交わしましたことをご報告いたします。
私たちは契約友情を締結いたしました。
母上さまへ
かしこ
〔本編の前の解説〕
【るい】
「生きるって呪いみたいなものだよね」
ようするに、これは呪いの話だ。
呪うこと。
呪いのこと。
呪われること。
人を呪わば穴二つのこと。
いつでもある。
どこにでもある。
数は限りなくある。
そんなありがちな呪いの話。
ちょうど空は灰色に重かった。
浮かれ気分に水を差すくらいにはくすんでいて、
前途を呪うには足りていない薄曇り。
【るい】
「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……」
【るい】
「それって、まったくの呪い。100パーセントの純粋培養、
これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、
ないない尽くしの呪いだよ」
【るい】
「そうは思わない?」
時々るいは饒舌(じょうぜつ)だ。
とかく気分屋で口より先に身体が動くのに、
どこかでスイッチの切り替わることがある。
とても不思議。
いつも通りの気安さで、まるで思いつきのように、
投げ捨てるみたいに、呪いの呪文を唱えていた。
思うに。
るいは、とっくに待ち合わせに飽きていた。
彼女は待つことを知らない。
昨日のことは忘れるし、
明日のことはわからない。
約束と指切りだけはしないのが、
皆元るいのたった一つの約束みたいなものだ。
軽くコンクリートの橋脚に背中を預けて、
座り込んで足をぶらぶらさせていた。
【花鶏】
「教養低所得者にしては含蓄のある」
【るい】
「日本語会話しろよ、ガイジン」
【花鶏】
「わたしはクォーターよ」
【こより】
「生きてるだけで丸儲けですよう」
【茜子】
「そうでもない」
【伊代】
「ああ、そうね、実は儲かってないのかも知れないわね。
利息もどんどん積もっていくし……」
【智】
「報われないんだ」
【るい】
「呪いだけに」
呪い――それはとても薄暗い言葉。
なんとなく、もにょる。
ロケーション的にはお似合いの場所。
田松市都心部を、
ていよく分断する高架下。
そこが僕らのたまり場に変身したのはつい最近だ。
待ち合わせを、ここと決めているわけではないけれど、
便利なのでよく使う。
【智】
「見通しはいまいち」
指で○を作る。
即席望遠鏡。
高架下のスペースから見上げる空の情景は、
景観としての雄大さに乏しい。
空貧乏。
胡乱(うろん)なる日々には相応しい眺めだ。
胡乱な日々と胡乱な場所。
息をするのも息苦しくて、右も左も薄汚れている。
天蓋の代わりに高くごつい高架、神殿の柱みたいな橋脚、
コンクリートの壁に描かれた色とりどりの神聖絵画ならぬ
ラクガキの数々。
「斑(ハン)虎(ゴ)露(ロ)死(シ)ッ!」
「Bi My Baby」
「あの野朗むかつくんだよ、ソウシのやつだ!」
猖獗(しょうけつ)極めた言葉の闇鍋の上で、
著作権にうるさそうな黒ネズミの肖像画が、
チェーンソー持ってメガネの鷲鼻を追いかけて回していた。
解読していればそれだけで日が暮れそう。
それはそれは胡乱な呪文の数々。
ときどき混じる誤字脱字が暗号めいてなおさら奇怪千万。
【花鶏】
「そういえば、最後に来たヤツ、遅刻だったわね?」
【智】
「今更追求なんだ……」
ちなみに最後は僕でした。
【花鶏】
「遅刻は遅刻。9分と17秒36」
【伊代】
「細かっ。秒より下まで数える? 普通」
【るい】
「普通じゃないよ。若白髪だし」
【花鶏】
「プラティナ・ブロンドと言いなさい」
【るい】
「プラナリア・ブロンソン?」
【茜子】
「プラナリアの千倍くらい頭良さそうな発言です」
【こより】
「扁形動物に大勝利ッスよ、るいセンパイ!」
【伊代】
「それ一億倍でも犬に負けると思うわよ」
【智】
「トンボだって、カエルだって、ミツバチだって、
生きてるんだから平気平気」
【伊代】
「意味不明だから……」
【花鶏】
「それで遅刻の弁明は?」
【智】
「ベンメイが必要なのですか」
【花鶏】
「遅刻の許容は契約条項に含まれてないわ。
一生は尊し、時間もまた尊し。物事はエレガントに」
【智】
「友情とは大らかなごめんなさい」
【茜子】
「ごめんで済んだら(ピーッ)ポくん要りません」
【智】
「さりげなく謝ったのに!」
【るい】
「友情って空しいよね」
【智】
「実は話せば長いことながら」
【るい】
「長いんだ」
【智】
「時計が遅れていたのです」
【伊代】
「え? 短いじゃない」
【茜子】
「ボケつぶし」
【伊代】
「え?」
【花鶏】
「なんて欺(ぎ)瞞(まん)的釈明」
【智】
「適度な嘘は人間関係を機能させる潤滑剤だよ」
【こより】
「センパイは堕落しました! 人間正直が一番ッス!」
【花鶏】
「……(冷笑)」
【茜子】
「……(嘲笑)」
【伊代】
「その純真な心を大切にね」
【こより】
「嫌なやつらでありますよ」
【智】
「そう、たとえばキミが結婚したとするよね」
【こより】
「いきなり結婚でありますか」
【こより】
「不肖この鳴滝めといたしましても、結婚なる人生の重大岐路
に到達するためには、センパイとのプラトニックな相互理解、
手を繋ぐ所からはじめたいところなのです!」
【伊代】
「女同士で結婚できませんッ」
【こより】
「大問題発見ッス!」
【花鶏】
「形式に拘る必要なんてないじゃない?」
【るい】
「……」
【茜子】
「……」
【智】
「たとえの話ですよ?」
【こより】
「センパイは、たとえ話で結婚するのですか!」
【茜子】
「泣く女の傍ら、ベッドでタバコ吸うタイプか」
【智】
「…………何の話だっけ?」
【るい】
「結婚じゃないの?」
【智】
「そう、結婚。キミは夫婦円満で何一つ不満はない」
【こより】
「悠々自適の毎日、エスタブリッシュメントです!」
【伊代】
「愛より地位か。リアルだねえ」
【るい】
「呪われた人生には夢も希望もないんだよ」
【智】
「でも、優しいだけの夫にちょっぴり充たされない。
唐突に禁忌を漂わせたレイプから恋愛な感じの俺を教えてやるぜが現れる」
【智】
「刹那的アバンチュールにキミが、くやしいデモ感じちゃうと
流された後、それを夫のひとに告げる?」
【こより】
「えーっと……」
【智】
「離婚訴訟で慰謝料取られたりして、片親になったのに行きずり男の子供抱えてシングルマザーになったりして、子供が聞き分けなくてブルーな老後になったりして」
【智】
「それでも正直に生きる?」
【こより】
「あーうー」
【智】
「僕らにとって適度な嘘は関係円滑化のためなのです」
【茜子】
「事例のチョイスが黒い」
【花鶏】
「男なんて生き物を信頼する方が間違いなのよ。
がさつで、乱暴で、騒々しくて、美しくない。
研究室で標本になるくらいでちょうどいい」
【伊代】
「ほら、空を見上げて。
いい天気だと思わない?」
【こより】
「すっかり薄曇りッスねー」
【るい】
「面子もそろったことだし、くりだそっか。
ゴミの山でたむろっててもやることないしね」
日が当たれば影ができる。
あやしい所在の一つや二つ、どこにでもある。
偉いひとたちが書類と書類の狭間に、
金にもならず、使い道もないからと忘れ去って幾年月。
地元の人間たちだけが、
塵芥の隙間に再発見して好き勝手に変成し直す、
胡乱な土地。
さて、なんと名付けよう?
日用ゴミから廃車までの万能廃物置き場?
息を殺していれば家賃のかからぬ密かな住居?
まっとうな性根は近づかない最底辺の集会場?
それとも、悪?
悪いもの、悪いこと、悪い出来事。
それらならいくらもありそうだ。
この世に善なるものとやらが本当にいるとしても、
ここなら席を譲って逃げ出していく。
パンドラの箱だ。
百災厄がきっとどこかに隠れている。
もっとも。
混沌が泡立つ中から選んで何か一つを取り出して、
それで本性がわかった気になったところで所詮は錯覚。
ここは街のガラクタ置き場。
世界を作るパズルのピースの流れ着く渚。
どのピースも足りていない。
噛み合うことのない、欠品づくしの破片たち。
けれど、ここには全てがある。
全ての死んだ一部、かつては生きていたものの残骸たち。
ここは、それら全てで、同時にそれ以上。
以下かも知れないけれど。
だから借り受けた。
ここは、僕ら六人の秘密の借用地。
野良犬っぽいのが皆元(みなもと)るい。
プラナリアンが花城(はなぐすく)花鶏(あとり)。
寸足らずが鳴滝(なるたき)こより。
舌先刃物なのが茅場(かやば)茜子(あかねこ)。
眼鏡おっぱいが白鞘(しらさや)伊代(いよ)。
【伊代】
「これも普段は目を逸らしてる文明の烙印ってやつなのよね」
【智】
「ニヒリストっぽくて格好いいと思う」
【茜子】
「あなたはマゾですね。了解です、記録しました」
【伊代】
「がうっ」
【茜子】
「吠えられました」
【こより】
「犬っぽいです」
【るい】
「犬の死体でも転がってそーな感じだわ、このあたり」
【花鶏】
「個人の趣味嗜好に異議を唱えるような無駄な労力を払おうとは思わないけれど、普遍的世界観と折り合わない死体愛好については隠蔽した方が身のタメよ」
【るい】
「趣味の悪さなら、あんたにゃ負けるよ」
【こより】
「火花が散ってるッス」
【智】
「えー、こほん。友情して大人になるために、みんなで死体でも
探しに行く?」
【茜子】
「レズにマゾに、今度はネクロファイルですか」
【伊代】
「はいはいはいはい! あなたたち、いい加減労力年金ばっか
納めてんじゃないわよッ」
【智】
「通訳プリーズ」
【茜子】
「無駄に暴れるなこの役立たずども」
【伊代】
「がうっ」
【智】
「どうして僕が吠えられるのかしらん」
【こより】
「さすがセンパイ、人望よりどりみどりッス!」
【智】
「ゆとりってだめだよね〜」
かくて日本語はその美しさを失っていく。
【花鶏】
「過去を嘆くより明日のこと」
【るい】
「明日の天気より今日のこと」
【伊代】
「刹那的だ……」
【茜子】
「考え無しです」
【るい】
「素直といってよ」
【花鶏】
「単細胞」
【こより】
「火花が散っているッスよ!」
頭の上を厳めしい高架が一直線に走っている。
世界に引かれた1本の黒い線のような。
ここは境界だ。
あらんかぎりを押し込んでごった煮にした暗がりが、
街の意味を分断している。
右には騒がしく乱雑な新市街、
左には置いてけぼりをくった旧市街。
綺麗な線ではない。
あちらに山が、こちらに谷が。
でこぼこと新旧入り交じった地域の濁り汁が、
得体の知れない空気になって左右の隙間に溜まっていく。
白でも黒でもない。
昼でも夜でもない。
右も左もない。
そういう曖昧な場所には、胡乱な輩が出入りする。
それはたとえば、
僕らのような――――――
【智】
「どこまでいこう?」
【茜子】
「ニュージーランド」
【智】
「まずは船を手に入れないとね」
【こより】
「そうそう、それよりなによりも!」
【智】
「やけにテンション高いね」
【こより】
「不肖鳴滝めのスペッシャルプレゼントのコーナー!!」
【るい】
「なにこれ、スプレー?」
【こより】
「拾う神のほうになってみました」
【伊代】
「拾ったものなんか大仰に配るんじゃないわよ」
【こより】
「ラッキーのお裾分けを」
【茜子】
「……随分残ってる」
【こより】
「そうッス。来る途中で道の端っこの方に――」
【花鶏】
「邪魔になってまとめて捨ててあったわけか」
【こより】
「――駐車してあったトラックの荷台に落ちていたッス」
【智】
「それは置いてたの」
泥ボーさんだ。
【こより】
「さすがはセンパイ! 物知りです!」
【智】
「悪いやつ」
【るい】
「いいじゃないの、細かいことは。
せっかくだから景気づけしよ」
【伊代】
「だから、いつもいつもあなたは大雑把すぎなのよ!
別に社会道徳とか講釈するつもりは無いけど、このへんの線引きが曖昧なままになってるといずれ…………ま、いいか」
こよりの秘密道具は使い古しの色とりどりなスプレー缶。
段ボールの小ぶりな箱にキッチリ詰まったそいつを、
るいは一つ適当にえらんで取り上げた。
真っ赤なキャップのついたスプレーが、
手から手にジャッグルされる。
【智】
「スプレーは釘できっちり穴あけてから、
分別ゴミでださないとだめだよ」
【るい】
「所帯くさいこといってないで、さ」
ケラケラと、るいは笑う。
スプレー噴射。
手加減もなく、目星もなく。
勢いまかせに適当に、
誰かが書いたラクガキを真っ赤なスプレーで上書きする。
【るい】
「どんなもん」
【こより】
「ほうほう〜♪」
得意満面な、るい。
変な虫がお腹の奥でざわつきだす。
楽しそう。
他の面子と顔を見合わせて、舌なめずり。
【伊代】
「ラクガキってロックよね」
【花鶏】
「反社会的行為っていいたいわけ?」
【茜子】
「レトリック的欺(ぎ)瞞(まん)」
ごちゃつきながら、手に手にスプレーを取り上げる。
薄汚れた壁。とっくに色とりどりの壁。
【智】
「なんて青春的カンバス」
【こより】
「わかりませんのですよ」
【智】
「悪いことしたいお年頃ってこと」
【こより】
「了解ッス!」
皆そろって悪い顔。
ニヤリと口元を三日月みたいにつり上げて。
【智】
「せーの――――」
僕らはみんな、呪われている。
だから――
これは呪いの話だ。
【るい】
「こんなとこかな?」
【茜子】
「むふ」
【こより】
「いい感じでサイコーッス!」
【伊代】
「悪党っぽいわね」
【花鶏】
「それじゃあ、くりだすわよ」
〔るいとの遭遇〕
――――あなたはスカートです。
それが母親の言いつけだった。
よく覚えている。
お前はスカートになるのだ…………
なんて
無体を命じられた……のではなかった。
履き物はスカートを愛用しなさいという道理。
日本語って難しい。
【智】
「やっぱり制服着替えてくればよかったかも」
学園帰りの制服の瀟洒(しょうしゃ)なスカートに、
ふわりと風をはらませながら、ほうと小さくため息をついた。
くるっと回ってみたり。
【智】
「むーん」
スカートはどうにも好きになれない。
足下がすーすー落ち着かないから。
それでも言いつけだからしかたない。
裳裾をなびかせ街を行く。
目指す目的地はもう少し先だ。
歩きだから距離がある。
灰色に重い空の下、しずしずと歩調に気をつかう。
心を静めておおらかに、かつ美しく。
走ったり慌てたりはもってのほか。
制服の裾がひるがえるのははしたない。
大声を出したりしてはいけません。
【智】
「僕らの学園、このあたりでも有名なんだよね」
ひとりごちる。
南聡学園。
進学校として名が通っている。
頭の良さよりも、学風校風の古くさいので有名というのが、
ちょっぴりいただけなかった。
ようするにお年寄りくさいのだけど、ここはウィットを効かせて、お嬢様っぽいのだと表現しておこう。
【智】
「……欺(ぎ)瞞(まん)的」
先生は揃ってお堅い。
学則は輪をかけてお堅い。
象が踏んでも壊れるかどうか怪しい。
古くさいメモ帳風の学生証を手の中で弄ぶ。
最近ではカード化されているところも多いというのに、
我が校ではアナログ全盛だ。
色気のない裏表紙に、学園での僕の立場が記述されている。
和(わ)久(く)津(つ)智(とも)。
学園2年生。
女子。
無味乾燥な文字の羅列。
誤ってはいないけど、正しくもない。
学生証の頁をめくって校則一覧を斜め読みする。
「バイトは禁止、買い食いは禁止、外出時は制服着用で、
夜は7時までには自宅に戻りましょう」
どこの大正時代か。
古典的すぎて半ば有名無実化している。
今時遵守する生徒は少数派で希少価値、絶滅危惧種だ。
二十一世紀に生きるゆとり世代は意外にたくましい。
建前本音を使い分け、二枚舌を三枚にして学園生活を生き延びる。
……困ったことに制服は有名だった。
こじゃれたデザインが人気の逸品。
マニアは垂涎、物陰では高値取引の南聡制服(女子)。
街を歩けば人目を引く。
南聡=お嬢様っぽい。
パブリックイメージは頑健なので、
ちょっと道徳の道を外れると悪目立ちする。
どんな経路で教師の耳に入らないとも限らない。
それは困る。すごく困る。
平日の、学園帰りの午後だ。
帰宅ラッシュにはまだ早い、
ひと気のまばらな駅前通りを南へ抜ける。
田松市の都心部は、駅を挟んでこちら側が若者向けの
明るいアーケード。
北には危険な夜の街へ通じる回廊がある。
線路のラインが色分けの境界線だ。
肩にかかった髪を後ろへかき上げながら、
こっそり買ったアイスクリームを一口かじった。
とっても甘味。
南聡の学則には、第九条学外平和健康推進法、通称平和健法がある。
買い食いを行うこと無く永久にこれを放棄するむね
定められているのだ。
……バレなきゃ罪じゃないよね。
ときおり学園帰りの学生とすれ違う。
視線を感じる。誰もがこちらを振り返る。
後ろから口笛が背中をくすぐる。
南聡の女学生で人目を引く美少女に感嘆している。
南聡の女学生――――僕のことだ。
人目をひく美少女――――僕のことだ。
【智】
「はぅ……っ」
なんと美しいコンボ。
繊細で薄幸そうで麗しいご令嬢……
というニーズに完璧応えている自分が憎い。
【智】
「んー、むー、ちょっとタイが曲がってる」
ファッションショップのショーウインドゥ。
飾ってある鏡に向かってニコリと笑顔。
タイを直してから、その場でくるり。
スカートの縁が円錐を描く。
とびっきりのお嬢様が優雅に微笑んでいた。
【智】
「かわいいー」
跳び上がる。
そんで激しく落ち込む。自己嫌悪。
拝啓 母上さま
おげんきですか。
母上さまの御言葉はいまも切磋琢磨しております。
日々筆舌に尽くしがたい苦難を前に、
心が折れんとすることもままありますが。
ときどきポプラの通りに明るく光る星を見て、
そっと涙を堪える私の弱さをお許しください。
スカートをひらひら。
アイスのコーンまで食べきって、
残った包み紙を丸めてこっそり道ばたへ。
悪の行為、ポイ捨て。
禁忌を犯す喜びに下腹部がドキドキする。
【智】
「…………危険な徴候」
自分を見つめ直したい衝動にかられた。
天下の公道で自問自答はいただけないので、
懺悔は目的を果たした後にする。
ポケットから几帳面に折りたたんだメモを取り出した。
ボールペンの走り書き。
自分の字だ。
電柱に打ち付けてある区画表示のプレートとメモの住所を見比べる。
【智】
「うー、むー」
目的地はもう少し先らしい。
母さんから手紙がきた。
母親は自分の子供をいつまでたっても子供扱いする。
大きくなっても小さくなっても子供は子供。
月一ペースの気苦労とお腹を痛めた分だけは、
何年経っても権利を主張する。
人は過去に生きている。
未来は遠く、現在にさえ届かない。
あらゆるものは一足遅れでやってくる。
人も、時間も、光も、音も、記憶も、心も。
世界は手遅れだ。
天の光は全て過去。
過去に生きる人間にとって、思い出はとても大切だ。
母上さま。
離ればなれで幾年月か。
時間はよく人を裏切る。
思い出は色褪せ、記憶はすり切れ、情報は劣化する。
白い肌と白い手くらいは覚えている。
細かいことは忘れてしまった。
困ることはないけれど寂しくなる。
線は細くて気苦労の多い母親だった。
ついでに過保護。
何かというと心配する人という印象が残っている。
石につまずいても、箸を落としても気苦労があった。
苦労性は肩が凝る。
胸のサイズに関係なく。
手紙はなるほど母上さまらしい。
心労と心痛。
文面のそこかしこから、
ひとりで暮らす我が子へかける、母性の香りが匂い立つ。
愛情溢れる母と子の交流史の一頁――――
些細な問題を考慮しなければ、
この手紙もそれだけのことで済んだ。
たった一つの小さな問題。
母上さまは、とっくの昔に天国へ行かれているのです。
天国だと思う。
自信は無いけれど。
恨みを買うようなひとではなかったと思う。
欲目は親ばかりにあるとは限らない。
小さい子供にとって親は全知全能の神にも等しい。
たまには悪魔になったり死神になったりする。
現実って救いがないな。
閑話休題。
恨みはどこでも売っている。
コンビニよりも手に入りやすい。
24時間年中無休。
2割3割はあたりまえの大バーゲン。
ドブにはまっても他人を恨めるのが人間という生き物だ。
外出契約書だと思って気軽にサインしたら、
地獄の一丁目に売り渡されることだってよくある話。
一応、母は天国にいるんだと思っておきたい。
あいにく幽霊と死後の世界は連絡先が不明なので、
きちんと確認はしていない。
死んだ母からの、手紙。
嘘のような本当の話。リアルのようなオカルトの話。
黄ばんだ便せんに真新しい封筒。
消印は先週。
県の中央郵便局のハンコが押されている。
幽霊にしてはせちがらい。
大まじめな話をすれば、
死んだ人間が墓から出てきて、
郵便ポストに手紙を突っ込んだりはするわけがない。
母の手紙を母の代わりに誰かが投函したのだろう。
オチがつきました。
天下太平。君子は怪力乱心を語らず。
つまらないというなかれ。
世の中はなるようにしかならないものなのだから。
手紙の内容――――
三つ折りの古紙には見覚えのある文字。
母の筆跡。
「皆元さんを頼りなさい」
聞き覚えのない後見人を過去から指名された。
住所と電話番号が記されていた。
【智】
「このあたりは――」
駅前から随分きた。
駅のこちら側でも中心部から離れれば胡乱になる。
様変わりして、人気も乏しくなる辺り。
めったに来ない場所だけに土地勘も働かない。
人やら獣やらゴミやらなにやら。
入り交じった臭いに鼻が曲がる。
廃ビル、空きビル、閉じたシャッター。
うらぶれたというよりうち捨てられた都市区画。
ここは街の残骸だ。
南聡の制服は水面の油みたいに浮き上がる。
とてもとても似合わない。
手紙にあった「皆元」という名に覚えは無かった。
母は頼れという。
その人物が、我が子の助けをしてくれるという。
助け、助力、意外な授かり物、後援――
【智】
「うっわー、なんとも怪しいよね……」
眉に唾つける。
そもそも差出人は誰なのか、
どこからこの手紙が来たのか。
疑問は山積みだ。
それでもだ。
困っているのを助けてくれるなら、
今すぐ僕を助けて欲しい。
何時でも困っている。
どこでも困っている。
さあさあ、すぐに。
過剰な期待をしてもはじまらない。
死んだ母のいわば遺言であるという――――
それだけの理由で連絡を取った。
それが先週のお話。
得にはならなくても、
何らかのコネにはなるかもしれないと、
その程度の計算は働かせた。
【???】
「皆元信悟でしたなら、亡くなっております」
連絡先にかけた電話の返事は
人生にまたひとつ教訓を与えてくれた。
過度の希望は絶望の卵。
【智】
「亡くなって……」
【???】
「はい、もう何年も前に」
【智】
「その、それはどういう事情で……?」
【???】
「あなた、どちらさま?」
疑り深そうな電話の主に、
これ以上ないくらい胡散臭がられながら、
深窓の令嬢的に根掘り葉掘りと問いただしてみた。
このままのオチではあまりに空しい。
ぶら下がったかいあってようやく聞き出したのは、
縁者がいるということだった。
おお、皆元さま。
どうして貴方は皆元様なの――?
悲恋に引き裂かれた恋人同士のように、
教わった住所を求めて裏通りを右に左に。
どんどん胡乱な方へと進んでいく。
いよいよ活気が失われる。
【智】
「最近の株価は空前の下げ幅だっけ?」
朝のメディアの空疎なあおりを反芻しながら、
ビル脇の電柱にあるプレートとメモの住所を見比べる。
この辺りだ。
背中を丸めて頭をたれた元気のないビルたちには、
取り壊し予定が看板になってかけられていた。
一面をまとめて均して、瓦礫の中から大きなものに
新生させるというお知らせだ。
【智】
「それはそれとして、ホントにここなの?」
住所のメモと現実を見比べる。
どうみても廃ビルだ。
色褪せたリノリウム、ひび割れたコンクリート、
壁面の窓ガラスは半分がた割れており、
かつては名付けられていたビルの名前はとっくに色褪せて読めない。
例えるなら、人間よりもゾンビの方が似合うくらいだ。
【智】
「えーっと…………」
ためらいと困惑。
突っ立っているとこの制服は目立つ。
物陰からの胡乱な視線にうなじが粟だった。
これ見よがしに廃ビルを不法占拠している連中も、
この辺りにはことかかない。
割れたガラスの後ろから、傾いた看板の影から、
裏路地に通じる薄汚れたビルの隙間から。
サバンナのウサギになった気分がする。
(…………いや〜ん)
じっとしているのも不安で、ビルへと踏み込んだ。
エレベーターは当たり前にご臨終していた。
くすんだ色のロビーの奥に、目ざとく見つけた階段を上る。
【智】
「みなもとさん……?」
フロアを昇る。
コンクリートの隙間をわたる夜風のような自分の足音が、
とてつもなく怖い。
恐る恐る声を出す。
低くこもった残響にびびる。
人の気配はないのに、
段ボールや一斗缶で一杯の部屋があったりした。
得体の知れないものを引き当てそうで、
しかたなく黙って上を目指した。
【智】
(ひ〜ん……)
半泣きだった。
甘い言葉につられて来たのがそもそも失敗だ。
早く帰った方がどう考えてもよさそうなのに、
ここまで来てしまうと手ぶらで帰るのは悔しい。
蟻地獄。
ギャンブルで身を持ち崩す人たちは、
こういう気分で道を踏み外すんだろうな、きっと。
【智】
「……皆元さん」
こんな場所を住処にしているという、問題の人物は、
どのような問題ある人格を抱えた人物なのだろう。
まともではない。まともなわけがない。
どうみても正規の物件とは思えない。
一瞬で16通りの可能性を検討して、
まとめて脳内イメージのゴミ箱へポイ。
ただひたすらに、ろくな考えが浮かばなかった。
どれか一つでも現実になったら、母の遺言を投げ捨てて、
回れ右して家に帰りたくなること請け合いです。
距離以上にくたびれて、一番上のフロアに到着する。
うち捨てられた廊下には明かりも無くて、
夜でもないのに暗がりが手招いている。
廃ビルには空っぽの部屋が多い。
扉もない。
この階はその意味ではまだ生きていた。
棺桶に片足突っ込んだ断末魔、みたいなものだけど。
【智】
「えーっと」
端から順番に中をのぞく。
壊れたドアのついた部屋を右回りでフロアを一巡り。
最後に生き残っているドアの前で腕組み思案した。
このドアは機能を残している。
生きている。
ドアらしきものではなくて、まだドアである。
【智】
「皆元……さん……?」
子ネズミっぽい恐る恐る。
場違いな制服で場違いなノック。
今日はいい具合にボタンの掛け違いが続く。
【智】
「おられませんかー、皆元さん……じゃなくてもいいですけど、
どなたかおられませんか?」
皆元さん以外が出たらまずいだろうと自分に突っ込む。
何気なくドアを押した。
あっさり開いた。
鍵はかかってない。
ほんの数センチばかり、
アンダーラインみたいなとば口を開けて差し招く。
【智】
「……どうする。黙って帰る? それが一番平穏無事だけど。
でもここまで来てそういうのってなんだよね」
【智】
「あのぉ、皆元さ……」
のそりと隙間からのぞき込む。
中も暗くてわからない。
おっかない。
ホッケーマスクの殺人鬼とか現れそうで――――
その時に。
いきなり出た。
【るい/???】
「ふんがーっ!!」
【智】
「にゃわ――――っ?!」
頭の横をかすめていった。
凶暴極まりない鈍器。
どこまでも鈍器。
果てしなく鈍器な鉄パイプ。
なんでいきなり鉄パイプ?
意味不明っ!
【るい/???】
「どりゃあーーっ!!」
【智】
「きゃわーーーーーーーーーーーっっ」
必ず当たって必ず殺す鉄パイプが、
目の前で惨殺確定と振りかぶられる。
闇より暗い黒色の影がのしかかってくる。
シルエットで見えないはずの相手の両の目が
炯々と光を放ってくり抜かれている。
スプラッタ映画の1シーンをイメージした。
生皮のマスクをかぶった殺人鬼がチェーンソーを振り上げる場面。
【智】
「はわわっわわっわわわ――――――」
【るい/???】
「…………あれ、女の子じゃない?」
気の抜けた声が、振り切れかけた正気の水位を水増しした。
凶悪な牙を振り上げる謎の狩猟生物を、
捕食対象としての弱々しさで確認する。
【智】
「……あれ?」
女の子だった。
【るい/???】
「なにやってんの、キミ、こんなところで。
ここはね、キミみたいなのが来るような場所じゃないよ。
一人歩きしてると取って食われちゃうわよ」
【智】
「……ええ、取って食われるところでした」
【るい/???】
「そっか、危機一髪だったんだ」
取って食いかけた相手に慰められる。
すれ違いコミュニケーション。
食うものと食われるものには断絶がある。
女の子が手を差し出した。
落ち着いて検分する。
相手は自分とさほど変わるとも思えない年頃だ。
柔らかい少女っぽさよりも、
野生の獣のようなしなやかさが瑞々しい。
【るい/???】
「どうしたの、ほら」
手が目の前に。
そういえば尻もちをついていた。
【るい/???】
「でも、無事そうでよかったよね」
【智】
「凶暴でした」
手を引かれて立ち上がる。
【るい/???】
「最近このあたりも質の悪い連中が増えてきてさ」
【智】
「とても恐ろしかった」
【るい/???】
「私が来たからには大丈夫だって」
【智】
「人間って悲しい生き物だなあ」
相互理解はまだまだ遠い。
【るい/???】
「ところで、こんなところでなにしてんの。
もしかして家出とか?」
【るい/???】
「そういうふうには見えないけど、
もしかすると大変ちゃん?
でもさ、ここ危ないのわかったでしょ」
【智】
「あの、」
【るい/???】
「人生安売りしちゃう前に家に帰った方が良いよ。
んー、なに?」
【智】
「ひとつ、質問よろしいですか」
【るい/???】
「いいよ」
【智】
「もしかして、皆元さん……?」
【るい/???】
「ごめんね〜。部屋の前でうろちょろしてたから、
きっとまた泥棒とかなんだろうって勘違いしちゃってさ」
【智】
「それで鉄パイプ」
【るい/???】
「脅し脅し、本気じゃないって」
【智】
「……」
【るい/???】
「……」
【智】
「…………嘘だ」(ボソッ)
【るい/???】
「人生先手必勝だと思わない?」
なにげにヤバイひとでした。
【智】
「それは是非とも僕以外のひとに」
【るい/???】
「それで、なんだっけ」
部屋は殺風景で大したもののない空間だ。
臭いも景色も外よりましだけど、
とっくの昔に息絶えた建物の残骸には違いない。
彼女の荷物は大きなボストンバッグと
肩からかけるスナップザックが転がっているだけ。
化石の上に間借りした仮宿だった。
【智】
「皆元さん?」
【るい】
「そだよ、皆元(みなもと)るい。るいでいいよ。
コーヒーくらいあるけど飲む?
缶だから心配しなくても大丈夫」
返事も待たず、目の前に缶コーヒー。
【智】
「ありがとうございます」
【るい】
「どういたしましてー。
お客人は歓迎しないとね」
【智】
「るいさん」
【るい】
「そうそう、そういう感じ。
もうちょっと後ろにイントネーション置いて」
なにげに注文が五月蠅かった。
【るい】
「そっちは、えーっと……」
【智】
「和久津智いいます。智恵の字をとって智」
【るい】
「頭良さそうな名前だ」
【智】
「るいさん」
【るい】
「ほいよ」
【智】
「捜してました。捜して歩きました。
とうとうこういうとこまできちゃいました」
そして死にかかった。涙なしでは語れない道のり。
【るい】
「さがしてたの、なんで?」
【智】
「なんでこんな侘びしい所にいるのかの方が素晴らしく疑問なんですけれど。現住所もなくて捜すの大変でした」
【るい】
「侘びしいというより汚い所」
【智】
「自分でいうかな」
【るい】
「なんの、住めば都」
【智】
「欺(ぎ)瞞(まん)的だと思います」
【るい】
「私、家なき子なんだよね」
【智】
「なんとなく名作風」
【るい】
「平たくいうと、自我の目覚めと家庭環境との軋轢に耐えかねて
自由を求めて跳躍する感じで」
【智】
「つまりは家出」
【るい】
「智ってヤな子だ」
【智】
「わりと口の減らない性分で」
立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿は百(ゆ)合(り)の花。
ただし喋らなければ――――という注釈は親しい某学友の弁による。
【るい】
「それで何だっけ?」
【智】
「なんでしょう?」
【るい】
「そこでボケるの!」
【智】
「実は捜してました」
【るい】
「なんで? なんか用事?」
【智】
「用事というのか…………」
用事はある。
捜していた。
皆元るい。
母が名指しした人物、
皆元信悟の娘にあたる。
当たるも八卦当たらぬも八卦。
ここまで辿り着いたは良いのだけれど。
【智】
「うーむー」
【るい】
「うーむー」
二人で額を寄せ合う。悩む。
どうやら付き合いはよさそうだ。
【るい】
「そんでさ、用事無いの?」
【智】
「そこが重要な問題点で」
どこから切り出すのか。
切り出せるのか。
オカルトな話は事態が面倒になる。
不案内な母で、
皆元某に頼れと一筆したためたものの、
何をどのように頼るべきかは示唆がない。
生前からどっか投げやりなひとだったしなあ……。
皆元信悟本人ならば問題もなく話は早いが。
すると父親の話を尋ねるべきか。
ここで話は複雑さを増す。
【智】
(お父さんのことについて教えてください)
【るい】
(どうして?)
尋ねられると困る。
実に困る。
人生に関わる。
恥ずかしがり屋の年頃としては、
根掘り葉掘り掘り返されたくないことは、
両手に余るくらい持ってるし。
【智】
「うーむー」
【るい】
「いつまで悩んでたらよか?」
【智】
「明日の朝くらいまで悩めばいいかも」
【るい】
「長いよっ」
【智】
「実は、その、それなんですが――――
るいさんのお父さんの事なんですけれど、」
切り出した。
【るい】
「なんだって」
びびって座ったまま後ずさりする。
るいが野良犬みたいに牙を剥く。
【るい】
「あんなヤツのことなんてッ!」
適当に踏みだしたらいきなり地雷が埋まってました。
導火線が一瞬で燃え上がる。
心の火の手が、るいの瞳に乗り移る。
野生の動物めいた瞳孔は、まるで不思議な宝石のよう。
怒りが笑いより美しい。
とても綺麗。
〔フライング・ハイ〕
【智】
「んむ?」
異臭がした。
まあ、ここ廃ビルだし異臭ぐらい……。
【智】
「…………ん、むむむ?」
ちょっと違和感。
気のせいかと首をひねる。
部屋が暗いのは、日の暮れた後の廃ビルにまともな明かりが
望めないから。
鼻の奥がむずつくのは、廃墟のどこかから饐えた臭いが
漂っているから。
どれも古い場所には付きものだ。
先入観のせいで今まで気がつかなかった。
【智】
「…………何か臭わない?」
【るい】
「それはなに、私がお風呂に入ってないとかそういうことですか!
ひどい、あんまりだ、女として私は死ねっていわれた!」
【るい】
「これでも公園の水道使ったり学園に潜り込んでシャワー借りたりして気は使ってるんだから!」
【智】
「かなり犯罪者だね」
【るい】
「ちょっと借りてるだけじゃない」
【智】
「不法侵入」
【るい】
「法律と女の子の臭いとどっちが優先されると思ってんの」
【智】
「女の子の臭いが優先されるという根拠を教えて欲しい」
【るい】
「それよりなんの話だっけ?」
【智】
「それそう、臭いの話だった」
【るい】
「ひどい、あんまりだ、女として私は死ねっていわれた!」
【智】
「ループした」
【るい】
「そんでなんの話だっけ」
【智】
「だから臭いの……」
【るい】
「ひどい、あんまりだ――」
【智】
「繰り返しギャグが通用するのは3度まで!」
関西ではそういうルールがあるそうだ。
【るい】
「えー、世知辛い世の中になったもんね」
【智】
「昔からそうなの。暗黙の了解ってヤツ」
【るい】
「昭和の伝統はわかんない。だって、私平成――」
【智】
「かあっ!」
咆えた。
【るい】
「なに?!」
【智】
「あなたは今地雷を踏もうとしました」
【るい】
「地雷? なによ、誕生日の話なんだけ――」
【智】
「かあっ!」
【るい】
「な、なにっ?!」
【智】
「もっと気をつけてくれないと困りますよ!」
エッジの上でダンスするのはマイナーの強みですが。
だからといって信管を叩いて不発弾をわざわざ爆発させるのは
愚か者のなせる技なのです。
【るい】
「そ……それで、なんの話だっけ」
【智】
「焦げ臭くない?」
やっと話が進んだ。
スタートに戻ったともいう。
【るい】
「焦げ臭い?」
【智】
「気のせいかな? さっきからそんな感じがして……」
彼女が鼻をひくつかせる。
目つきが違う。警戒心の強い動物をイメージする。
【るい】
「焦げてる――燃えてる?
何よこれ、近い……ウソ、ちょっとまじ?!」
窓際から外に身を乗り出して外を確かめる。
後を追って窓から外をのぞいて状況がわかる。
外が黒い。
夜以上に黒い。黒くて赤い。
黒いのは煙、赤いのは火の照り返し。
火事だ。
ビルの下の階が燃えていた。
【智】
「うそぉ……」
窓辺で佇んだまま、とっさに思考が停止する。
にへらと笑う。
人間予想をすっ飛んで困った事態に遭遇すると、
最初に漏れるのはやっぱり笑いだ。
【るい】
「何ヤッてんの、さっさと逃げるのよ!」
【智】
「にゃわ?!」
ホッペタを両手で挟まれる。
正気が戻ってきた。
火事。
しかもかなり火が回っている。
すぐに逃げないと取り返しがつかないくらい。
【るい】
「はやく、こっち! 走って急いでっ」
るいの行動は早かった。
手を引かれる。
引きずられながら部屋を飛び出す。
階段から下へ。
四段とばしで3階分を2分とかからず降下して――
【るい】
「どちくしょう、階段はだめだ……」
【智】
「あうう〜〜」
るいが吐き捨てる。
人力ジェットコースターに目を回し、
階段から吹き付ける熱気に酔う。
前髪が焦げてしまいそうな、
オレンジ色の炎の舌。
階段は下りられそうもない。
【智】
「他には?」
【るい】
「……こっち!」
【智】
「どっち?!」
るいが手を引く。
僕が引かれていく。
下ではなく、横ではなく、
非常階段でも、秘密の脱出路でもなく。
まるで悪い冗談のように。
彼女は上へと走り出した。
【るい】
「早く早く! 何やってんの、急がないと死んじゃう!」
【智】
「ちょ、ちょっと待って、待ってお願い! 痛い痛い痛い、
腕ちぎれちゃうの〜〜〜!!」
【るい】
「気合いで何とかせい!」
【智】
「物事は精神論より現実主義で!」
【るい】
「若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!」
【智】
「少年の大きな夢とは関係ないよ、この状況!!」
【るい】
「少女だっつーの!」
【智】
「あーうー」
【智】
「きゃあーーーっ!!!」
【るい】
「根性っ!!!」
【智】
「部活は文化系がいいのぉ!」
【るい】
「薄暗い部屋の隅っこでちまちま小さくて丸っこい絵描いて
悦に入って801いなんてこの変態!」
【智】
「ものすごく偏見だあ!」
片手でこっちを引きずり回す、
親戚にゴリラでもいそうな文化偏見主義者な彼女が
ドアを蹴破った。
時間が凝ってカビの生えた、閉じた薄暗い廊下から、
開いた夜の空の下へ。
るいが歯がみする。
熊のように落ち着き無くうろつく。
そうこうしている一秒一秒に、
僕たちは少しずつ確実に逃げ場を失っていく。
炎が追ってくる。
終点は、ここだ。
天に近い行き止まり。
戻る道もない。
異臭が鼻をつく。
目の前が酸欠でくらくらする。
絶望が胸にしみてくる。
こんな場所で、こんな終わりなんて、
想像したこともなかった。
終わりはいつでも突然で予想外だ。
きっと世界は呪われている。
皮肉と裏切りとニヤニヤ笑い。
ぼくらはいつでも呪われている。
届きっこない空を、
荒い息を弾ませながら見上げた。
時代のモニュメントじみた、
空っぽのビルの頂から。
【智】
「――皆元さん!」
【るい】
「るいでいいよ」
【智】
「こういう状況で余裕あるんだね……」
【るい】
「余裕じゃなくてポリシー。全てを脱ぎ捨てた人間が最後に手にするのはポリシーだけ」
よくわからない主張を力説。
【智】
「イデオロギーの違いは人間関係をダメにするよね」
ふんと鼻を鳴らされる。
破滅の前の精一杯の強がりで。
その強がりに薬をたらした。
【智】
「――あっちまで跳べると思う?」
指差したのは不確かな視界を隔てた向こう側。
隣のビルが朧に浮かぶ。
路地一つ挟んだ距離、フロア一つ分ほど頭が低い。
【るい】
「近くないね」
【智】
「…………無理か」
【るい】
「私より、あんた自分の心配したら」
【智】
「あんたじゃなくて、智」
【るい】
「…………」
【智】
「ポリシー」
【るい】
「――私から跳ぶわ。チャンスは一回」
僕らは走った。
呪いを振り切るように、跳躍する。
これまでの人生で一番の踏切。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光、何もかもが圧縮された刹那の秒間。
落ちる、という感覚さえもない。
一瞬の視界にはただ夜ばかり。
すぐそこにあるはずの、
辿り着くべきビルの頂きを見失う。
赤い夜で塗りつぶされた。
世界は手探りだ。
隣り合っていても名も知らないビル。
呼ばれることのない名前は意味を喪失する。
何者でもない、あるだけのものは化石と同じだ。
街の化石。
時代の亡骸。
誰かの失敗の記念碑。
それは呪いになる。
根を張って、街の片隅を占有し続ける。
落下する。
1フロア分の高度差にショックを受けながら、
受け身も取れないで投げ出された。
感覚を置いてけぼりにした数秒が過ぎて。
ようやく意識できたのは、予想より少ない衝突と、
予想よりやわらかいコンクリートの屋上。
【智】
「……とってもやわやわ」
【るい】
「へへへ、ヤバかったよねー」
るい。
【智】
「受け止めて、くれたんだ」
【るい】
「トモ、あのまま落ちてたら頭ぶつけてたかも。
ほんと、ヤバかったよ。自分でわかんなかったろうけど」
視界が効かなかった。
だから、バランスを崩した。
地雷を踏みかけた寒気と逃げ延びた安堵がごちゃごちゃに
混じりながら追いついてきた。
いくつかの痛み、打撲、擦過――
気がつく。
コンクリートよりもずっとやわらかい、
るいの胸に顔を埋めて、
子供をあやすような掌を髪に感じている自分。
【智】
「あの、もう平気で、大丈夫で……」
【るい】
「へー、意外と体格いいんだね。もうちょい、細い系だと思ってた」
【智】
「け、怪我とかしなかった?」
【るい】
「みたまんま。私、頑丈なんだよね」
そういうタイプには見えない。
【智】
「無茶……するんだ、受け止めるなんて……
あんな高さから落ちてきたのに」
【るい】
「感謝するよーに」
貸したノートの取り立てでもする気楽さ。
なんでもないことのように。
いい顔で、るいは笑う。
今日会ったばかりの、まだ名前ぐらいしかしらないような
相手なのに。
自分が怪我をするとか思わなかったのか?
二人まとめて動けなくなったかも知れないのに?
虹彩が夜の緋を受けて七色に変わる。
間近からのぞき込んだそれは、
研磨された宝石ではなく、
川の流れに洗われ生まれた天然の水晶だ。
人の手を拒む獣のように、鋭く強い。
【智】
「あう」
【るい】
「むっ」
【智】
「にゃう?!」
ほっぺたを左右にひっぱられた。
【智】
「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
【るい】
「なんて顔してんのよ。せっかく助かったんだぞ」
【智】
「にゃおーん!」
【るい】
「感謝の言葉」
【智】
「……にゃにゃがとう(ありがとう)」
【るい】
「よろしい」
手を離す。
るいがはね起きる。
伸びをするみたいに体を伸ばし、
肩を回して凝りを解す。
隣にぺたりと座り込んで、
さっきまでいたビルを眺めた。
【智】
「やっと――」
逃げ延びた、
そう思ったのに。
重低音が這い上がってきた。
一瞬なんなのかわからず、
正体に思い至った後になって、
噛み合わなさに戸惑う。
エンジン音だ。
ビルの屋上、エンジン音、上がってくる――
違う絵柄のパズルのピースと同じ。
どこまでいっても余りが出る解答。
【智&るい】
「「な――――――ッッッ」」
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
エスプリの効いた冗談みたいな物体が、
目の前で長々とブレーキ音の尾を引いて横滑り。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
胡乱な物体だった。
どうみても原付だった。
どこにでもある、町中を三歩歩けばいき当たりそうな、
テレビを一日眺めていればコマーシャルの一度や二度には
必ず出会うだろう。
成人式未満でも二輪運転免許さえ取れば、
購入運用可能な自走車両。
価格設定は12万以上25万以下。
ただ一点、ここが公道でも立体駐車場でもなく、
廃ビルの屋上だということをのぞけばありがちだ。
黒い原付――。
目の潰れそうに黒い車両の上に、
同じだけ黒いライダースーツとフルフェイスヘルメットが
乗っかっていた。
【智】
「――――」
緋の混じる夜。
影絵のような影がいる。
こちらを向く。
〔芳流閣、みたいな?〕
首の後ろがちりちりとする。
産毛が総毛立つ。
背筋によく響く、
威嚇の唸りめいたエンジン音が、
赤と黒の混じった夜を攪拌(かくはん)する。
月の下。
届かない空にほど近い場所。
たちの悪い都市伝説が目の前で形になる。
給水塔とパイプと錆びた鉄柵だけが飾る、
そっけなく廃ビルの屋上、そして原付と黒いライダー。
それは噂だ。
幾千もあり、幾万も消える、
小蠅と同じネットの馬鹿話。
黒いひとは黒い王子様。
その身に呪いを受けた黒い運命のひと。
それは吸血鬼。
それは殺し屋。
それは、女の子をどこかへ連れ去ってしまう
――とりわけ綺麗な女の子を。
語られては語り捨てられ消えていく物語。
緊張に乾いた口の中がひりひりする。
にしても。
【智】
「…………原付かあ」
もう少し、情緒というか、TPOというか。
ファッションにも気を遣って欲しいぞ、伝説。
と。
影が鬱陶しそうにヘルメットを脱いだ。
【智】
「あれ?」
そんなのでいいの?
もっともったいぶらないですか、ふつーは?
前置きもなく神秘のベールがはがされる。
詰め込まれていた髪が流れて落ちた。
月を映す瀧(たき)に似た、青白く染まる銀色の髪。
騒がしい夜がそこだけ回り道しそうな、
目に痛いほどの白。
【智】
「あ……」
あれれ?
【るい】
「――――どこの、女のひと?」
【智】
「心当たりアリマセン」
王子様は、お姫様だった。
鋭い目つきと国産品らしからぬ顔立ちが、
暗がりでもよく目立つ。
冷たいナイフの先のようなまなざしをする。
整っている分鋭くて、
触れようとするとその前に喉もとへぶすりと突き刺さりそうだ。
【花鶏/???】
「みつけた――――」
黒い都市伝説にしてはイメージの違う、
明かな女の子の声で、とてつもなく俗っぽい感情が叩きつけられる。
【智】
「……なんか怒ってない?」
【るい】
「トモの知り合い?」
【智】
「だから違います。王子様の携帯番号なんて知らない」
【るい】
「王子様? なにそれ……あれ、女の子じゃないの?」
【智】
「聞いたことない? ほら、都市伝説で……」
【花鶏/???】
「――わよ!」
原付が突っ込んできた。
【智&るい】
「「なわっ?!」」
跳んで避けた。
鼻先をテールランプがかすめて通る。
手加減無用の突っ込み具合だった。
狭い屋上を、黒い原付は殺人的な加速で横切った。
壁にぶつかる寸前で乱暴にブレーキを利かせ、
タイヤの痕をコンクリートに刻印しながら反転する。
【花鶏/???】
「……避けたわね」
【智】
「避けなきゃ死んでるよ!」
無体な苦情だった。
【花鶏/???】
「この無礼者」
【智】
「いやいや、それはどうですか……」
無体に加えて無礼者呼ばわりだ。
避けて無礼というとことは、礼を尽くすには一礼しながら
轢殺(れきさつ)されなくてはいけないのか。
【智】
「……人生は厳しい選択肢ばかりだ」
お時代的でお堅い我が母校では、初対面の相手にも礼を失することがないようにと常々いわれるのだけれど。
こういう不測の事態のマニュアルは与えてくれない。
【智】
「だからマニュアル型って片手落ちなんだよ」
愚痴愚痴と。
【花鶏/???】
「返してもらうわよ」
【智】
「まったく理解できません」
片手じゃなく両手オチくらい理解不能。
人とは日々己の限界と対話する生き物だ。
人類が獲得した言語というコミュニケーションツールの限界を
しみじみと痛感する。
【るい】
「……ほんとに心当たりないの?」
【智】
「そっちこそ、恨み買った覚えとかは?」
二人でこそこそと責任を押しつけ合う。
轢殺死体を増産したがる原付ライダーの恨みを買ってるという
立ち位置は……なんかやだ。
魂的にすんごく黒くて重い十字架。
【るい】
「恨み、恨み、恨み……恨みねえ……んー」
【るい】
「まあ、それはともかくとして」
【智】
「何故誤魔化すの!」
【るい】
「プライベートには口出しして欲しくない」
露骨に流された。
【智】
「円滑な社会を築くには情報の公開が必要だよ」
【るい】
「嘘も方便といいまして」
【智】
「はっきり嘘っていったー!」
【るい】
「あ、きた」
【智】
「ひゃわ!?」
闘牛みたいな勢いで単眼ライトが迫ってくる。
殺人原付。
【花鶏/???】
「返せーっ!」
逃げた。
【智&るい】
「「ひーーーっ」」
身に覚えのない罪だ。
不幸だ。呪われている。
【るい】
「階段!」
【智】
「ラジャー!」
生命危機に裏打ちされた以心伝心。
原付の蹴破った扉から、
下への階段に脱出を狙う。
罠だった。
逃げる場所が一カ所なんだから狙いうちなんて簡単だ。
原付は見事な先回り。
瞬間移動したみたいな位置取りで、
単眼ライトが僕の顔を睨みつける。
そこまでが、ほんの1秒。
足がすくむ。
その次の1秒。
風景がぐるりと回った。
感覚が遅れてやってくる。
倒れる前に顔が痛くなる。
前髪をサイドミラーがかすめていった。
るいに蹴られたらしい。
おかげで原付の衝突コースから弾き出されて地面に転がる。
【智】
「ぎゃぶ」
潰れたカエル風に呻く。
顔を上げると、
るいが腕を振りかぶっていた。
反撃のラリアット。
肘から先が見えない。
女の子の細腕が即席のハンマーと化す。
一瞬にすれ違う原付とるい。
必殺のラリアットは肩先をかすめただけだ。
なのに、
黒いライダーは進路の真反対にはねとばされた。
原付は真っ直ぐ走って壁にぶつかる。
――――――なんだそれ?
普通じゃない。
力じゃない。
おかしい。
はずれている。
【るい】
「――――ちっ」
るいが舌打ち。
ライダーは頭をかばって転がって、
そのままくるっと立ちあがる。
しぶとい……。
まともには食らっていなかったとしても。
それにしたって。
【花鶏/???】
「――この馬鹿力」
片膝をついたまま吐き捨てた。
対峙する。
距離を挟んで。
るいとライダーの視線が衝突する。
【るい】
「殺すよ」
〔気になるのは――〕
《るいのこと》
《レジェンドライダーに注目》
〔るいのこと〕
るいの顔はよく見えない。
ふたつの目だけが向かいのビルの火事を受けとめて、
炯々と光を放っている。
暗がりから睨む獣だ。
群れを率い、牙を研ぎ、
獲物を狙う肉食獣。
〔レジェンドライダーに注目〕
ライダーさんは針みたいな敵意の一方、
冷静に次の一手を思案している。
原付は、るいのずっと後方で、
ハンドルをおかしな方向に曲げて逆立ちしていた。
〔芳流閣、みたいな?〕
サイレンだ。
誰かが消防署に知らせたんだろう。
この辺りにだって普通に人は住んでいる。
すぐにこのあたりも野次馬と警察やらでいっぱいになる。
【るい】
「ちっ」
るいが僕の手を引いてきびすを返す。
戦線を放棄して逃走に移る。
平和主義には賛成です。
それにしたっていきなりだけど。
【智】
「ちょ、ちょっと――」
【智】
「どうしたの?!」
【るい】
「人が来る前に逃げないと」
【智】
「逃げるって、どうして」
【るい】
「警察に見つかったらヤバイでしょ」
【智】
「……そりゃ、不法侵入に不法占拠に家出っぽければね」
【るい】
「なんか言いたいことあんの?」
【智】
「とりあえず、僕は平気だから」
【るい】
「毒を食らわば皿までって言葉あるよね」
【智】
「……毒薬がいうこっちゃないと思う」
【るい】
「あー、それにしても火事だなんて。
荷物とか食器とか替えの服とか色々あったのに〜〜」
【智】
「ごまかした!」
【るい】
「ちょっとは憐れみと慈悲の心はないの?
生活用具のほとんどを失って、家からもたたき出された
可哀想な女の子が一人で苦しんでるのに」
【智】
「大変だなあ」
他人事風味で。
睨まれた。
怖かった。
【智】
「……とりあえず、どうするの?
警察がマズイんなら場所移そうか」
【るい】
「………………」
返事はなかった。
返事の代わりに。
【るい】
「きゅう」
るいは、倒れた。
【智】
「ちょ、ちょっと――――――?!」
〔一つ屋根の下〕
【るい】
「おー、これいける! ほうれん草のおひたしのさりげない塩味が上品で、新鮮な歯ごたえがしゃりしゃりと耳ざわりよく響き渡る感じ!」
【るい】
「卵焼きがプリチー! 焼き上がりはほんのりでべとつかなくて形もバッチし。ほかほかの猫マンマとの食い合わせが実にたまらなくて、私のお腹にキューンと訴える!」
【智】
「どこの美食な倶楽部の会員さん?」
そういえば、すべからくと耳ざわりって似てるよね。
どちらも誤読から、
本来とは違う使われ方が一般化してるあたり。
時間が経つと得てして最初の意味なんて忘れられてしまう。
【るい】
「二重丸をあげよう!!」
るいが、にまっと笑う。
お箸は持ったまま。
お行儀悪しで減点対象。
格好を崩して、がつがつとご飯をかき込んだ。
食べる。
健啖に食べる。
胃袋の底が抜けてるんじゃないかと思うくらいたらふく押し込む。
どんぶりだけでも3杯目。
さっきまで玄関で倒れていたイモムシと同一人物というのが
信じられない。
【るい】
「うまいぞーーーーーーーっ!!!」
左手のどんぶりが高く高くかかげられた。
背景に火山でも爆発しそう。
蛍光灯の後光を浴びて、それなりに光り輝くどんぶり。
いそいそと4杯目をよそぐ。
【智】
「3杯目にはそっとダシって知ってる?」
【るい】
「私、学ないんだよね」
【智】
「そうだろうと思ってた」
【るい】
「あ、これで最後なんだ……」
炊飯器の中が空っぽだった。
単純な計算だよワトソン君、食べたものは無くなってしまうんだ。
なんてことだ、そいつは新発見だよホームズ。
ちなみに僕は一口も食べてません。
【るい】
「最後………………」
世界の終わりくらい、
ものすごく悲しそうだった。
【智】
「……もう1回ご飯たく?」
【るい】
「えー、そんなの悪いよ、ダメだよ、
そこまでよばれたりなんてできないよ」
ものすごく嬉しそうだった。
なんとなく負け犬チックな気分でキッチンに立つ。
手早くお米を洗って炊飯器を早炊きにセット。
ぱんぱんと柏手を打たれる。
【智】
「なによ」
【るい】
「拝んでます」
手をあわせて伏拝されていた。
【るい】
「いやもう大助かり。ここだけの話なんだけど、
私、お腹すくと倒れちゃうんだよね」
【智】
「そんな漫画チックな体質、自慢げに告白されても困る」
【るい】
「死ぬかと思いました」
【智】
「僕は、ここに来るまでに何度も思いました」
【るい】
「そりゃ悲惨」
他人事のように述べる。
あの騒ぎの後――。
るいが倒れた。
どうしたのか、頭でも打ったのか、
実は黒いライダーの百歩歩くと心臓が
停止する必殺パンチが決まっていたのか。
【智】
「大丈夫?! ねえ、しっかり……しっかりしてって!」
【るい】
「お…………お腹、減った」
【智】
「ベタなオチだな、おい」
正解は空腹でした。
ガソリンの入ってない車は動かない。
お腹の減ったるいは動けない。
うんうん唸るグッタリした女の子を引っ張って、
途中でタクシーを拾って自分の部屋まで戻った。
ちょっと恥ずかしかったです。
【るい】
「ファミレスとかでもよかったんだけど」
【智】
「お金持ってるの?」
【るい】
「………………」
捨ててきた方が家庭平和のためだったろうか。
ファミレスを避けたのは虫の知らせもいいところだ。
食べ終わってお勘定になってから、
誰が払うのか血で血を争う不幸な結末になる可能性が
実に80パーセント。
【智】
「そんなに何も食べてなかったんだ、倒れるくらい」
【るい】
「毎日食費が馬鹿になんなくて……」
【智】
「ご飯がなければケーキでも食べればいいじゃない」
【るい】
「ケーキの方が高いよ、きっと」
【智】
「フランスのひとも罪だなあ」
【るい】
「人よりちょっと食べる体質だからって、
こんなにも生きにくい世の中に私は異議を唱えたい!」
起立、挙手、断固抵抗ストライキの構え。
ちょっと食べる体質。
【智】
「それってかなり控えめな表現だよね」
【るい】
「異議は認めません」
わりかし暴君だった。
【智】
「そんで、これからどうするの」
【るい】
「どうしよっかな」
【智】
「質問とか尋問とか事情聴取とか集中審議とか色々あるんだけど」
【るい】
「尋問か!」
【智】
「問い詰めとか」
【るい】
「もうちょい甘味のある方が」
【智】
「焼け出された身の上は甘くない」
【るい】
「寒い時代だよね……」
【智】
「まだ春だよ」
【るい】
「人の心のすきま風が身にしみる」
【智】
「おひつ空にするくらい食べたくせに」
【るい】
「で、次の、もう炊けた?」
朗らかにすり寄られた。
ほっぺたがぺったりくっつく。
尻尾を振って舐め出しそうな空気。
【智】
「まだです」
【るい】
「しゅーん」
【智】
「その前にシャワーしない? お互い真っ黒だし」
【るい】
「ほへー、よく気がつくね。智って嫁属性?」
【智】
「細かい気遣いは人間関係の潤滑油なのです」
【るい】
「むむむ、難易度高いこといわれた」
【智】
「わかんないだろうと思った」
【智】
「じゃあ、先にお風呂使ってよ」
【るい】
「えー、別にあとでいいよ。やっぱキミん家だし」
【智】
「そういうことだけ気つかわなくてもいいから。
ちょっとしか違わないんだし、さっさと汗流しちゃって。
僕はご飯の後片付けしてる」
【るい】
「…………片付けちゃうの?」
【智】
「…………今炊いてる」
【るい】
「うわーい」
喜色満面。
今にも踊り出しそうで、踊らない代わりに飛び上がって、
【るい】
「そんじゃ、ぱっとシャワー借りちゃう」
【智】
「はーい、ごゆっ――――」
脱いだ。
景気はよかった。
止めるまもなくワイシャツを脱ぎ散らかしてスカートを落とす。
【智】
「…………」
シャツの下は下着だった。
ぶらっと脱ぎ散らかした。
ブラだった。
手元に落ちてきた。
脱ぎたて。
【智】
「ほわた」
したっと履き捨てた。
下だった。
【智】
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
【るい】
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ?!!!!!」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【るい】
「な、なによ、突然大声だして?」
【智】
「ど、ど、ど、ど、ど、ど、ど」
【るい】
「トド?」
【智】
「どうして脱ぐのーーーーーー?!」
【るい】
「お風呂……」
【智】
「ここで脱いでどうするのーーーーー?!」
【るい】
「ど、どこで脱いでも一緒でしょ。
女同士だし、減るもんでもないし」
【智】
「減っちゃうのーーーーーーーーー!!!!」
【るい】
「…………」
るいが変なポーズで固まる。
猫騙しされた猫と同じだ。
隣近所の迷惑間違い無しの大声で、
配線がずれたらしい。
ごく自然に。
上から下へ目玉が動く。
意思は本能に逆らえない。
精神は肉体の玩具に過ぎないのだ。
視覚が対象を補足する。
白いうなじ、白い肩、白い胸――
よくしまった身体には贅肉らしいものはなく、
筋肉質というほどではないが鍛えられている。
機能としての完成系。
ある種の肉食獣をイメージさせる駆動体。
視線を引き寄せる磁力が強い。
さらに下へ。
新事実。着やせする形式だった。
〇八式ぼんきゅぼん。
殺人兵器級に出るところがでて引っ込むところが引っ込んでいる。
余所様の妬みとか嫉みとかやっかみとか歯ぎしりとかを
力任せに踏みにじるパワー。
【るい】
「……なに、いってんの?」
【智】
「は、はいっ!」
直立した。
不動だった。
頭のネジがストンと抜けて、
何が何だかわからない。
【るい】
「いやあ、だからさあ……」
【智】
「お、お、お――――――」
【るい】
「お?」
あっけらかんとした、るい。
あからさまで、開けっぴろげで、
真っ向すぎで。
ダメだと思うのに目を反らせない。
【智】
「おふろ、どうぞ」
【るい】
「うん? うん」
小さくなってバスルームの扉を指差す。
そっと示す。
事態の打開を図っての苦し過ぎる一手。
真っ赤になっているのがばれてないことを心底祈る。
【るい】
「……んじゃ、おさきにいただきます」
どうにも収まり悪そうに首を傾げながら、
白いおしりがお風呂に消えた。
【智】
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
冷蔵庫の角にがつがつ頭突きを決める。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け人という字を
掌に書いて飲み込んだら人生は幸福で
新たな世界がきっと開ける新世紀。
【智】
「よし、冷静に戻った!」
ぎゅっと拳を握りしめる。
ほのあったかい。
手の中に小さな布きれ。
上と下だった。
脱ぎたてピンクだった。
【智】
「にゅおにょわーーーーーーーーーーーー!」
【るい】
「そういえばさー、私の服……」
【智】
「……全部まとめて洗ってます」
【るい】
「さっすがトモちんよく気がつくー。いい奥さんになれるよね」
奥さんなんて、実に嬉しくありません。
【るい】
「そういえばさー、シャンプーと石けん……」
【智】
「そこにあるヤツ使っていいから。全部カラにしても問題なしで」
【るい】
「さっすがトモちん太っ腹ー。いい男つかまえられるよね」
いい男なんて、キャベツの芯ほどの価値もありません。
【智】
「ふんむ」
静かになったので思索にふける。
思考リソースを浪費していないと、
背中から聞こえてくるシャワーの音が
爆弾じみた破壊力で突き刺さる。
すぐそこに、女の子、
それも可愛い、しかも裸。
地雷だ。
【るい】
「ふんふんふん〜」
鼻歌まで聞こえてくる。
のんきの上に剛毅だ。
他人の縄張りには敏感かと思ったけど、
案外無頓着らしい。
【智】
「どうしたもんかなあ」
手と頭をマルチタスクで稼働させる。
食べ終わりの食器を水洗いしながら思考の原野を彷徨。
今日のひと騒動――
慌ただしい事実に優先順位を付ける。
確定していることとそうでないことに分割し、
それぞれ仮想の箱に放り込む。
関連性の直線を縦横にリンクさせてグループ化する。
母さんの手紙、るいの父親という人物、
その人物に関して複雑な感情を持っている(らしい)
るい、火事、黒い王子様はお姫様、そして轢殺されかかる。
【智】
「……刺激的な一日だったなあ」
【智】
「平穏無事と没個性を人生の理想にしたい。野良犬になるよりも、軒下で一日中寝てる飼い猫がいい」
【るい】
「そういえばさー」
【智】
「んにゅ」
【るい】
「一緒にはいろ」
【智】
「にゅにゅにゅにゅにゅ〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」
るいが手招きする。
脱衣所から身体半分つきだして、
おいでおいで。
【るい】
「トモっちも汗かいてんだし、一緒入った方がいいでしょ」
【智】
「よよよよよよよよ」
【るい】
「ヨヨ?」
【智】
「よくないよーっ!」
両手を真上に伸ばし、片足をあげる、
どこぞのお菓子メーカーさんご推薦っぽいポーズで錯乱する。
危険になる。
それなのに注視してしまう。
白とかピンクとか黒とか先っぽとか。
何もしていないのに、
いつの間にか後ろが断崖で退路がなくなっていた。
【智】
「きゃーきゃーきゃーきゃー」
【るい】
「いいじゃん。女同士なんだし、減るもんじゃないって」
【智】
「だから減っちゃうのーーーーーーーーー!!!!」
【るい】
「むお、なんかむかつく!」
【智】
「むかつかないむかつかない」
【るい】
「かくなる上は」
【智】
「上も下もないのお」
【るい】
「実・力・行・使」
【智】
「ひぃいぃーーーーーーーーっ」
るいが来た。
大魔神みたく肩で風きって迫ってくる。
手入れがぞんざいそうなわりには健気に育っている胸ミサイルが、たわわんと揺れた。
ピンク。
先っぽ。
【智】
「きゃあきゃあきゃあ」
【るい】
「えへへへへ、ここまできてうだうだいうんじゃねえ」
【智】
「やー、うは、や、やめてぇ、お願い許してぇ」
襲われる。
まずい、だめ、やめてやめて!
【るい】
「大人しくしやがれ、痛い目にあわないうちに脱いだ方が
身のためだぜぇ」
【智】
「きゃあ、きゃあ、きゃあ……だめえ、いやあ、よして、
結婚までは清らかな身体でいたいのぉ」
お願い許して堪忍して!
死んじゃう、僕死んじゃうからぁ……っ!
【るい】
「力で勝てると思ってやがんのか、ここまで来たんだ、
いいかげん諦めやがれえ!」
【智】
「おかあさーーーーーん!」
【智】
「……お願い、許して……」
【るい】
「ぬを」
涙目で懇願。
死ぬ気で抵抗したのにだめだった……。
汚されちゃった感じで力尽きる。
キッチンの床に押し倒されて、
右腕一本で縫い止められて。
熊とでも取っ組み合ってる気がした。
【智】
「僕、だめ、だから……」
喉に絡んで、
うまく声がでない。
乱れた服の裾から肌がもれるのを押しとどめようとして、
華奢な腕で自分を抱きしめた。
隠しきれない胸元から白い肌がのぞいてしまう。
【るい】
「を……」
生まれたままの格好のるいが、
のしかかっていた。
濡れ髪が額に張り付いている。
シャワーの雫を肌にまとわりつかせて、
すぐそこにある前髪から水滴が落ちてくる。
湿っぽい体温と石けんの匂い。
【るい】
「だ――」
【るい】
「だめ……て……」
なにやら剣呑な目つきをされる。
屍肉を目の前にした空腹のハイエナだった。
ちょっとちょっと……。
この局面でその目つきは。
意味不明な危機感に脊髄がちくちくする。
【智】
「その、僕……っ」
思考する。
思考せよ。
思考するとき。
この場を逃れる方法を――――!
このまま剥かれてお風呂に連れ込まれてしまったら、
僕の人生的な危機だ。
【智】
「ぼ、ぼく」
【るい】
「…………」
まな板の上の鯉気分で。
【智】
「……おっぱい、ちっちゃいから」
誤魔化す。
本当は胸なんてどっちでもいいんだけど……。
【るい】
「…………」
反応小。外しちゃったろうか?
【智】
「ひとに見られるの、恥ずかしくて……」
【るい】
「……ぁぅ……」
【るい】
「…………なんか、かわいい」
【るい】
「は、はわ?! ちょっと、なにいってんの私!
正気に戻れ、目を醒ませ!!」
なにやら、るいが苦悩しだした。
意味不明にぶるぶるかぶりを振っている。
意味不明度、幾何級数的に上昇。
それにしても生物学的神秘だ。
見た目の筋量から連想できない出力系。
実は骨格から異質な生物だとか、
背中にケダモノが宿ってるとか。
【智】
「……人間は考える葦である」
好奇心が刺激された。
手を伸ばして掴んでみる。
もにゅ。
【るい】
「にゃにゃ、にゃわ?!」
【智】
「やわらか手触り」
見た目同様十二分にやわらかい。
あのビルでもそうだった。ちょっと信じられない高出力系が、
この構造に隠されている。
【智】
「すごいね、人体」
【るい】
「そそそそそ、そーいう趣味、私ないから!!」
【智】
「は、はにゃ?」
掴んでいたのは、おっぱいだった。
【智】
「にゃーーーーーー!!!」
【智】
「あー、すっきりした」
お風呂に入ると疲労が節々からにじみ出てくる。
あがった瞬間一歩も動きたくなくなるくらいぼーっとつかっていると、大変な一日だったと実感がわいた。
恥ずかしいのでお風呂の中で着替えた。
【智】
「んで、どんな…………」
【るい】
「にゃわ、どっかした?」
ダイニングに戻る。
るいは、僕が貸したワイシャツ一枚羽織っただけの格好だった。
はいてなかった。
【智】
「あんの」
ロボっぽいぎこちなさで。
【るい】
「あいよ」
【智】
「なんで、履いてないの?」
【るい】
「洗濯してんでしょ。トモが洗ったんだし」
そうでした。
【智】
「替えとか」
【るい】
「荷物ほとんど燃えちゃった」
そうでした。
【智】
「ズボンとか」
【るい】
「面倒なんだよね、部屋でズボンとか履くの。ま、いいっしょ」
すごくよくないです。
地雷だと思ってたら核爆弾でした。
なまじ見えるか見えないかというフェチシズムと狙い澄ました
鉄壁のライン取りが危険度を急上昇させます。
白い布地の下に透ける色々なの、角度とか。
今ボタンの隙間から見えたのは確かにピンクだった気がする。
うなじとか太ももとかどうでもいいところが一々目に入ってきて
ワザとやってるのかと思う。
【るい】
「んでさ」
あぐらを組んでた足の位置を変えた。
見えた。
色々。
【るい】
「どったの、いきなりうずくまって?」
【智】
「どうしたのといわれても」
【るい】
「人と話するときはキチンと相手を見る!」
【智】
「ぎゃわっ」
首ごとグキッてされた。グキッて音した。本当にした。
【智】
「あう〜」
どうしても目にはいる。
見てはいけないと思っても超電磁の力で引き寄せられる。
考える。
ズボンを履かせる方法、下着を履かせる方法、
コンビニで下着を買ってくる方法、パジャマを貸して着せる方法。
【智】
「その……やっぱり部屋でも……裸って言うのは……」
【るい】
「すぐに乾くんでしょ、私の」
【智】
「うん」
【るい】
「それならいいじゃない、細かいことは」
細かいことなのか?
本当に良いのか?
そうだ、なんとなくいい気になってきた。
このまま素晴らしい世界に生きよう。
あなたの望むシャングリラへようこそ。
【智】
「……うん」
状況に流されて妥協的返答をする。
【るい】
「そういえば、トモってすっごい内股で座るんだ」
【智】
「人にはやるせない事情がいっぱいあるから……」
やるせなさすぎて、僕は僕が可哀想だ。
【るい】
「そんで、なんだっけ」
【智】
「そうだ、尋問!」
【るい】
「圧力的な単語だ」
【智】
「事情聴取」
【るい】
「警察っぽくて嫌だなー」
【智】
「我が儘度高っ」
【るい】
「それに事情っていわれても……なんの事情よ」
腕組みして、眉をよせて、ジト目をする。
【智】
「あの、黒い仮面のライダーは?」
【るい】
「悪の秘密結社と戦ってんのと違うかな」
【智】
「みつけたとかいってなかったっけ」
確かに言ったのだ。
みつけた、と。
僕か、るいか、あるいはその両方か。
彼女は捜していたのだ、
なんらかの理由で。
理由――。
原付で屋上まで上がってくる。
非常識な相手に追いかけられそうな、
その上、問答無用の轢殺死体にされかける、
そんな理由。
【るい】
「トモじゃないの?」
【智】
「平穏無事と没個性が生きる目標なんだよ」
あんな面白そうなものに心当たりはない。
【るい】
「没個性の方は、はなから無理っぽくないか、おい」
【智】
「目標は遠いほど価値があるって」
【るい】
「なんか難しいこといわれた」
【智】
「エセ哲学っぽい講釈はいいとして、るいは本当に心当たりとか買った恨みとか誰かを殴り殺して仇討ちされる思い出とかないの?」
【るい】
「……私をなんだとおもってんのよ?」
【智】
「…………」
言ったら怒りそうなので黙秘権を行使する。
【智】
「あの子、過激だったし、容赦なかったし、しかも狙ってたし……怨恨とか報仇とかそっち系の理由じゃないかと思うんだよね」
【るい】
「恨みかあ」
【智】
「逆恨みでも可」
【るい】
「まあ、たまに街でケンカしたりとか殴ったりとか蹴ったりとか投げたりとか捨てたりとか」
【智】
「………………たまに?」
【るい】
「………………たまに」
人生の不良債権が山積みだった。
【るい】
「んなこといっちゃって……トモは、どなの?」
【智】
「それって恨まれてるか話?」
【智】
「うーん、恨み恨まれ人生街道……」
【るい】
「世知辛い道行きだねえ」
【るい】
「ま、るいさんの眼鏡で見たところ、恨んでるひとはいんじゃないかって思うけど」
【智】
「そんなに悪そうにみえる?!」
金槌で殴られたくらいショックだ。
【るい】
「すっごくいい子に見える」
【智】
「もしかして誉め殺されている?」
【るい】
「人を恨むのってさ、善悪じゃないんだよね」
るいが膝を立てる。
見えそうで、見えない。
両手で足を抱いて丸くなった。
声のトーンが少しだけ落ちる。
それっぽっちで不思議なくらい華奢に感じた。
指先が床に頼りない模様を描く。
無意識っぽく。
きっと本人も気がついていない。
【るい】
「……いい人だから恨まれないとか、悪い奴だから恨まれるとか、そういうのって本当は違うでしょ」
【るい】
「よくても悪くても、原因があってもなくても、自分が知ってても知らなくても、お構いなしの関係なし」
【智】
「関係なし、か」
正そうとして恨むのではなく、
過ちに憎むのでもない。
差異にこそ怨恨は生成される。
理想との違い、自分との違い、
周囲との違い――あらゆる違いが引き金を落とす。
哀れな自己矛盾。
個性といい、自分自身という。
誰もが違いを求めるくせに、
誰も違いを受け入れられない。
感情の弾丸が飛ぶ先は最初から食い違っている。
【るい】
「人と違ったら違った分だけ恨まれ易くなるんだから。トモなんて、かぁいいから、知らないとこでどんだけ恨まれてたっておかしくないよ、きっと」
【智】
「やだなあ」
【るい】
「ストーカーに狙われたり」
【智】
「女の子でストーカーっていうのはどうなんだろう」
【るい】
「最近はそっちの趣味の子多いとかいわない?」
【智】
「理解できない」
【るい】
「……そうなんだ。トモは男の方がいいのか」
それも願い下げですけどね。
【智】
「ま、まさか!!」
震える手で、るいを指差す。
そう言えば、さっきの目つき……
るいにはそっちの趣味が――――!
【るい】
「ないないないないないないないない!」
身体全部で力説。
【智】
「ほっとしました」
【るい】
「困ったわね。どっちも心当たり無しなんだ」
レジェンドライダーブラックの正体は、
頑として不明のままだ。
【智】
「続きは明日にしよう。シャワー浴びたら疲れがドッと出た感じ」
まぶたが重い。
頭が接触不良でチカチカする。
【智】
「今日は泊まっていってよ」
【るい】
「いいの?!」
【智】
「他に行くあてとか」
【るい】
「ないない、全然ない、全部燃えてキレイさっぱり」
身軽さが素敵だ。
【るい】
「やったー、お布団のあるお泊まりダー!」
【智】
「お泊まり……」
単語を脳が咀嚼(そしゃく)する。
自分の発言した言語が、
致命的な切っ先になって自分の胸に突き刺さる一瞬。
我が家に、他人を泊めるという、事態。
危機管理の甘さがもたらした危機的状況に愕然とした。
【智】
「それって不味いよ!!」
【るい】
「なにが?」
きょとんとされる。
3秒で前言撤回するのは、
いくらなんでも気がとがめた。
その上、撤回すると放り出すことになる。
荷物もなく焼け出された家なし子を
危険な野獣のうろつく夜の荒野に投げ出して知らん顔。
いや、るいなら平気かも知れないけど。
良心がとがめた。
状況的に両親の方がとがめそうだ。
【智】
「いや、その、でも、ほら、女の子同士一つ屋根の下っていうのって、なんだか……」
【るい】
「なんかいいね、そういうの」
裏表のない顔で。
それで何も言えなくなった。
【智】
「………………そだね」
【るい】
「お泊まりかあ。なんか、わくわくする」
【智】
「なにがわくわく?」
【るい】
「初体験」
台詞でダメになりそう。
【るい】
「今までお泊まりとかしたことないんだよねー」
【智】
「そうなの……」
皆元るい。
変なやつだ。
家なき子の放浪者。
ベッドの上でクッションと遊びだす。
赤い夜の屋上で見た獣じみた眼をした生き物はどこにもいない。
どこにでもいそうな女の子が、
飾り気のないクッションを猫の子みたいに抱きしめている。
【るい】
「えへへへへ」
何が嬉しいのかニヤニヤ笑う。
【智】
「なによ?」
【るい】
「どきどき」
もっとダメになりそう。
【智】
「そんじゃ、お休みなさい」
【るい】
「えへへへへ」
【智】
「あの、さ」
【るい】
「なに?」
【智】
「一人、下に寝てもいいんじゃない?」
この部屋で寝る場所といえばベッドか床だ。
ソファーは使えない。
スプリングが壊れていて、
寝ると確実に身体が痛くなるからだ。
まさに絵に描いたソファーだ。
季節柄、床に寝ても問題はないはず。
【るい】
「いいじゃない、せっかくベッドあるんだから、平気でしょ、女の子同士なんだし、一緒に寝ても。私、ベッドひさしぶりなんだ」
【智】
「僕が下に――」
【るい】
「だめっ」
【智】
「ちょ、や、あかん、あかんの、ひっぱらないで〜」
【るい】
「なら、大人しくする」
【智】
「……はい」
【るい】
「ふかふかだあ」
【智】
「そりゃ、ベッドだから」
【るい】
「トモって感動が足りてない」
【智】
「人生なんて平穏無事が一番なの」
【るい】
「…………平穏無事か」
【智】
「まあ、それが一番大変なんだけど」
【るい】
「そだね」
【智】
「もう、きょうは寝よ。疲れちゃった」
【るい】
「うん」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【るい】
「あの、さ」
【智】
「…………」
【るい】
「トモって、なんか、かわいい」
【智】
「ぶっ」
【るい】
「やっぱ起きてた」
【智】
「はめられた!?」
【るい】
「へへへ」
【智】
「早く寝ないと……睡眠不足は美容の天敵」
【るい】
「ひさしぶりのベッド、なんだか寝つかれない」
【智】
「布団の方がいいなら」
【るい】
「……そういうんじゃないよ」
【るい】
「お布団のある生活って不思議だ」
【智】
「不思議じゃなくて普通だと思う……」
【るい】
「普通じゃなかったぞ」
【智】
「そっちが特別」
【るい】
「いっつも寝袋」
【智】
「女の子的に不都合っぽい」
【るい】
「むわ、また難しいこと言う」
【智】
「難しいんだ……」
【るい】
「家があるっていいなあ」
【智】
「るい、実家は……」
【るい】
「ないも同然」
【智】
「そう、なんだ……ごめん」
【るい】
「なにが? 別に本当のことだし。だから、ずっと放浪人生なの」
【智】
「この世は荒野っぽい」
【るい】
「あそこ、結構居心地よかったのになあ」
【智】
「あの廃ビル? 焼けちゃったね」
【るい】
「荷物だってそろえたのに。食器とか」
【智】
「バイタリティだなあ」
【るい】
「全部焼けちゃった……寝袋も持ってくるの忘れてたし」
【智】
「……明日からどうするの?」
【るい】
「んー、どうしよっかな」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【智】
「きゃわっ?!」
【るい】
「お、黄色い声」
【智】
「なにするのーっ」
【るい】
「指でツツー」
【智】
「そんなことはわかってます」
【るい】
「心温まるスキンシップ」
【智】
「温まらないよ、ゾクゾクだよ!」
【るい】
「心配しないでよ。私、そっちの趣味ないから」
【智】
「…………………………」
【るい】
「疑(うたぐ)るな」
【智】
「早く寝ようよぉ」
【るい】
「誰かと一緒に眠るってさ」
【智】
「……うん」
【るい】
「なんか変な気分」
【智】
「身の危険?!」
【るい】
「そっちじゃない」
【智】
「安心しました」
【るい】
「誰かがいるって、ほっとするかも」
【智】
「邪魔なだけだと思う」
【るい】
「そうかな?」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
音が途絶えて、真っ暗な部屋に自分以外の
体温と息づかいを感じながら、
ゆるい眠りの縁を漂泊する。
誰かの気配を部屋に感じるのは不思議だ。
縄張りを侵されている。
異物感と、違和感と、一滴の安堵。
どうして、ほっとするのか。
孤独ではないからか。
るいは先に眠ってしまった。
ずっと話していたそうだったのに、
いつの間にか自分だけ穏やかな寝息をたてている。
【智】
「自分ペースだなあ」
薄目で闇を透かす。
白い顔がびっくりするくらいに近い。
あまりに無防備な寝顔。
心臓が跳ねた。
【智】
「どうしようか、これから……きゃわ?!」
るいがしがみついてきた。
【智】
「にゃわ、にゃにゃわ、ちょ、ちょっとちょっと、ヤバイ、あぶない、それは危険なのーっ」
悲鳴。
反応無し。
眠っていた。
寝ぼけていた。
【るい】
「にゅー」
寝息が胸あたりから聞こえた。
ぎゅーとされる。抱き枕っぽく。
【智】
「にゃわ…………!」
心臓が不整脈みたいにガシガシいう。
シャツ一枚だけで下着も何もない身体の曲線が押しつけられてくる。
「ここ」にも「ここ」にもナニかが当たっていた。
こっちが胸でこっちが太ももで、腕と足を絡められて逃げられなくなった状態で、
意識を集中するともっと色々なモノが当たっているデフコン4状態がしっかりわかる。
【るい】
「んん……」
【智】
「にゃ、にゃ、にゃ、にゃ」
いつも使っているシャンプーの香りなのに、とても甘い。
混じった肌の匂いが鼻腔をおかしくする。
完全に寝ぼけていた。
寝相は悪かった。
すりすりされた。
人生の危機。
【智】
「きゃーーーーーーーーーーーー」
(平気でしょ、女の子同士なんだし、一緒に寝ても)
涙する。
平気じゃない、全然平気じゃないよ。
なぜならば!
――――僕は、女の子じゃないのだから。
〔後ろの彼はツンデレヒロイン〕
【ニュースキャスター:女性/ニュース】
「昨日午後6時頃、田松市でビル火災が発生しました。火災のあった地域は、中断している市の再開発指定区域でしたが、放置区画として問題になっており、」
【ニュースキャスター:男性の声1/ニュース】
「朝日です。現場付近に来ています。現在の時刻は午前7時。火災から一夜明けて、ここから見るとビルの無惨な姿がよくわかります」
【ニュースキャスター:男性の声1/ニュース】
「早期の消火には成功したものの、長らく無人区画として放置されてきたこの一帯には多数のホームレスが押し寄せており、問題を先送りにしてきた行政の怠慢が、」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「ようするに全ては政治の怠慢ちゅーことですわ」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「以前の市議会がどんぶり勘定でやらかした再開発計画がものの
見事に頓挫して以来、ほったらかしにしてたのは連中ですからな」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「はじまりもそうなら終わりもそう。とにかく政治家ちゅーのは
いい加減なもんですけれど、」
【智】
「とわっ!?」
空から落っこちた。
飛んでいられたのは夢の中だけだ。
おでこを打って引き戻され、居眠りから目が醒める。
【宮和】
「――にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました」
【宮和】
「見ると、もうじつに、金剛石や草のつゆやあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、」
【宮和】
「その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光のさした一つの島が見えるのでした」
【宮和】
「その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいいか、」
【宮和】
「すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした」
【智】
「はにゃ……」
ようするに授業中。
断線した記憶回路の再接続を見計らって、
真後ろの清廉な朗読が一区切りついた。
黒板を切り刻むチョークの切っ先がピタリと静止する。
教師の背中に睨まれた気がした。
【智】
「……ぁぅ」
【教師】
「冬篠さん、結構です。では、次の方」
【宮和】
「はい」
失態は見過ごされたようだ。
かくて優等生の看板は今日も維持される。
ほっと一息。
【宮和】
「珍しいですわ、和久津さまが授業中に違法行為だなんて」
【智】
「居眠りって違法だったんだ」
教師は見過ごしても、
後ろの席のチェックが厳しい。
【宮和】
「清く正しい和久津様が、違法なことごとに手を染められるには、やむにやまれぬ事情があろうかとお察しいたしますが」
【宮和】
「昨日は徹夜でどのような犯罪行為を?」
【智】
「僕ってそんなに怪しげなことしてんの!?」
【宮和】
「違法行為をなさるのは犯罪者の方なのでは」
【智】
「だから夜も違法なことをしているはず?」
【宮和】
「さすがは和久津さま。一を聞いて十を知るとは、
まさにあなたさまのためにあるような言葉なのですね」
後ろの席の冬篠宮和は大まじめだ。
普通の真面目とは毛色が違う。
マルチーズとマルチメディアくらい違う。
困ったことに本人的には本気の本気だ。
人呼んで、天才さん。
天災さんという噂もちらほら。
天災さんは成績勉学の類なら人後に落ちない。
孤高の優等生様も、天災さんの足下にしか及ばない。
【智】
「……珍しいね。宮が授業中に話しかけてくるなんて」
宮和は授業が好きだ。
勉強ではなく、知識を蒐集(しゅうしゅう)して頭の中に
並べるという行為が好きなのだ。
【宮和】
「和久津様の奇行に、謎を解明せよと指令を受けました」
【智】
「そんなヤバイ指令、誰から受けるの?」
【宮和】
「好奇心は猫を殺すのです」
【智】
「脅迫された……」
こそこそとハンカチで涎を拭う。
居眠りの証拠を隠滅し、
居住まいを正して背筋を伸ばす。
優等生のできあがり。
【教師】
「結構です。では、次は――――」
誰かが教科書の頁をめくる。
乾いた紙の音が波紋のように部屋に広がって凪ぐ。
黒い頭が規則正しく配列された教室は静かにすぎた。
教室の水面から、
自分がぽかりと浮かび上がる、
いつもの気分を咀嚼(そしゃく)する。
授業の内容は意味のない暗号で、
黒板には酔っぱらったミミズがのたうちまわっている。
教室と僕。水と油だ。
なのに、混じり合わない自分が、
代わりに作った優等生の仮面は、思いの外にできがよかった。
見抜いた人間は3人しかいない。
宮はその一人だ。
仮面は誰もがかぶる。
自分と世間の折衷点を定めてやっていく。
半分は本気で、半分は必要に迫られて。
折り合えない異物は排斥される。
集団の力学というものだ。
僕は地雷だった。
地雷であることを止められなかった。
和久津智。
南聡学園2年生『女子』。
生物学的には『男子』。
それが僕の秘密だ。
仮面の裏側だ。
死んだ母親の言いつけに従って、僕は男であることを隠して、
女の子の振りをして、世間を偽り生活している。
男の子のくせに、女の子の席に座っている。
学園の名簿や入学証明の書類には「女子」で記載されている。
学園のトイレは女の子の方に入る。
体育の授業は時々欠席する。
身体検査や水泳の類を如何にクリアするかは一大イベントだ。
世の中と人生には、
好き嫌いを越えてままならないことが山ほどある。
水は低きに流れる。
集団の力学は隙間をうかがい、常日頃から目を光らせている。
返す返すも残念なことに、揚げ足を取られる覚えは、
プレゼントで配りたいくらいあった。
細い綱を踏み外したら奈落の底へ一直線。
潜在的な異物が、
異物であることから逃れるための方法は二つしかない。
植物になるか。
空を飛ぶか。
【宮和】
「お顔が芳しくありませんわ」
【智】
「お顔の色が、です」
【宮和】
「宮にはわかってしまいました」
【宮和】
「お貸ししましょうか?」
宮がごそごそとカバンの中を探る。
ブルーな心配のされ方だ。
【智】
「持ってますから!」
【宮和】
「それはようございました」
ブルーブルーな気分で、
親の仇のようにノートを取る。
集中できない。
まぶたの裏に、裸Yシャツがベッドの上で
あぐらをかいて陣取っていた。
るい――どうしているだろう。
焼け出された家なき子。
これからどうするつもりなのか。
予定も計画もなにも考えてない様子。
気任せ風任せ。
どこまでも刹那的な、鉄砲玉。
【智】
「珍しいついでに聞くんだけれど」
【宮和】
「なんでしょうか」
【智】
「宮は、犬とか猫とか拾う方?」
【宮和】
「あわれで無様な野良犬に情けをかけたために、昨日の和久津さまは徹夜なさったのですか」
僕がとてつもない人でなしに聞こえる。
【智】
「日本語ってやだねえ」
【宮和】
「美しい言語でございます」
【智】
「ところで犬の話です」
【宮和】
「あわれで無様な」
【智】
「枕詞なんだ」
【宮和】
「お拾いになられたのですか」
皆元るい。
家を出る時にはまだ寝てたから、
起こさずに来た。
家を出るなら、鍵をかけてポストの中に
入れておいてくれと、合い鍵とメモを残してきた。
【智】
「……歯止めつけないとまずくなりそう」
成り行き任せの状況が成り行き任せに進行している。
【宮和】
「反省なさっておられるのですね」
【智】
「段ボール入りの犬とか拾ったら、宮はどうするの?」
【宮和】
「持ち帰ってご飯を食べさせて一緒にお風呂に入って洗ってから同じベッドでお休みしまして、起きたあとにネットで里親を捜すことにいたします」
【智】
「ものすごく具体的だ」
おまけにネットときた。
今日日珍しくもないが、宮和と電子世界では食い合わせが悪い。
鰻と梅干しだ。
【智】
「立ち位置のパブリックイメージってあるよね」
【宮和】
「私はパシフィックリーグのファンでございますよ」
【智】
「アナログに生きて」
【宮和】
「何の話題でしたでしょうか」
【智】
「犬の話」
【宮和】
「翌日登校しましたら、和久津様に犬を飼うことを勧めるために手段は選ばないことをお約束します」
心の底から朗らかに。
【智】
「そんなに僕に回したいのか!」
【宮和】
「水は低きに流れるものなのです」
【智】
「僕の方が低いんだね!?」
【宮和】
「言ってよろしいのですか」
【智】
「言わないでください、お願いですから」
【宮和】
「さようですか」
もの凄く残念そうにされた。
【宮和】
「本音はさておきまして」
【智】
「冗談と言うべきところじゃない?」
【宮和】
「犬をお拾いになられたのですね」
【智】
「……おおむね」
【宮和】
「さすがは和久津様です。孤高の秀才として高嶺の花と謳われながら、雨に濡れて痩せこけた野良犬を優しく抱き上げて連れ帰る、まさにツンデレの鑑」
【智】
「……どこから持ってきたの、その四文字熟語」
【宮和】
「ネットで、知人に、勧められました」
情報化社会の悪癖だ。
【智】
「勧められたって、四文字熟語?」
【宮和】
「成年向けゲームを」
【智】
「…………」
【宮和】
「…………」
【宮和】
「ぽっ」
楚々と赤面される。
楚々とされても、ツッコミどころが多すぎてどこから突っ込めばいいのか意味不明だ。
【智】
「……勧めるような、男の知り合い、いるんだ」
特殊系孤立主義者の宮が、そういう知り合いを持っているというのが、そもそも驚きだ。
【宮和】
「女の方ですよ」
【智】
「…………」
何年経っても、男の子には女の子がわからない。
【後輩1】
「先輩、さよならー」
【後輩2】
「失礼しまーす」
【智】
「ごきげんよう」
放課後。
脇を駆けていく下級生が慌ただしく頭を下げる。
背筋を伸ばす。
クールに受け流す。
きゃらきゃらとした黄色い声の春風。
優等生っぽく流れていく。
従容とした足取りは乱さない。
走るなんてもっての他。
金看板には制限が多い。
【宮和】
「今日はお急ぎなのですね」
【智】
「わっ」
宮が足音もなく出現する。
【智】
「いっつも心臓に悪い」
【宮和】
「体質なのです」
【智】
「……なにが体質?」
【宮和】
「それよりも」
【智】
「流された!」
【宮和】
「お急ぎでございますか」
【智】
「……事情がありますから」
不思議な鋭さが宮にはある。
外面を貫いて、洞察の手を伸ばす。
いつもよりほんの少しだけ早い足取りが、バレていた。
【宮和】
「さようでございました。和久津様はあわれで無様な野良犬をお拾いになっておられたのですね」
【智】
「本人には聞かせられないなあ」
もにょりながら、上から3番目の下駄箱を開ける。
【宮和】
「今日は控えめですのね」
本日の日課は3通だ。
色とりどりの柄の便せんが、下駄箱に収まった革靴の横にそっと忍ばせてある。
差出人は男子と女子がおおよそ半々。
中味は8:2の割合でラブレターと悪戯だ。
【智】
「哀しい」
【宮和】
「喜ぶべきものではないのですか」
【智】
「半月ほど前には、前世の恋人からお前を殺すって愛の告白をされたよ」
【宮和】
「素敵ですわ」
【智】
「そんな素敵がいいなら差し上げます」
【宮和】
「そういえば、和久津様はほとんど読まずに丸めてポイされておられますね」
【智】
「……何で知ってるの」
【宮和】
「愛の力ですわ」
哀っぽい。
僕は地雷で、地雷であることを止められない。
潜在的な異物が、異物であることから逃れるための方法は
二つしかない。
植物になるか。
空を飛ぶか。
つまり――、
目立たないようにひっそりするか。
振り切って高みに一人で胸を張るか。
選択肢はあっても、
得てして選べるほどの自由があるとは限らない。
人生は難題の連続だ。
【宮和】
「やはり和久津様はツンデレ様なのですね」
【智】
「様を付ければいいというものでもないです」
客観的に判断して、和久津智は「可愛い女の子」だった。
生物学的な差異は棚上げで。
没個性な一個人として植物のように穏やかに集団へ埋没するという、幸福かつ安易な選択肢がない。
宿命づけられていた孤高。
孤高というと聞こえがいいけれど、望まぬ孤高は孤立となにも
変わらない。
安直かつ危険な環境だった。
異者は、異なるという一点だけで排除の力学に晒される。
必要なのは溶け込むこと。
敵を作らず、味方を踏み込ませず。
二重スパイもカルト宗教の信者も、
秘密保有者の一番のハードルは、そこだ。
僕には、そこからさらにもう一つ。
目立たないという最善が不可能なら、
集団の力学に対抗し得る自衛力を確保しないといけない。
ステータスが必要だ。
クールで、孤高の、優等生。
【宮和】
「…………」
【智】
「どうかしたの?」
熱視線。
視殺されていた。
【宮和】
「見惚れておりました」
今にも殺しそうな視線だったけど。
【宮和】
「お美しいですわ、ツンデレ様」
【智】
「その名前やめてください。
四文字カナ名は安易なレッテル張りへの最短コースです」
【宮和】
「可愛いと思うのですが、ツンでデレ」
【智】
「デレがないです。ツンもあるかどうかわかんないです」
【宮和】
「難しいものでございますのね」
【智】
「難しいんだ……」
【宮和】
「和久津様のところになら、王子さまも現れそうでございますのに」
【智】
「王子さま」
白馬の王子さまに迎えられるところを想像してみた。
死にたくなった。
【智】
「願い下げです」
【宮和】
「残念ですわ。美しい方を連れ去るということですから、和久津様ならきっと選ばれるだろうと心待ちにしておりました」
【智】
「……? それは王子さま違うのでは」
身代金誘拐犯?
【宮和】
「ネットの巷にそのようなお話が。
黒い王子さまは女の方を連れ去るのだと」
都市伝説の方だった。
【智】
「黒いのは懲り懲りだよ。胸焼けがする」
【宮和】
「返す返すも残念でございます」
【智】
「……連れ去られて欲しいの?」
【宮和】
「言ってよろしいのですか」
ちなみに。
宮和はどこまでも真剣だ。
〔失われた伝説を求めて〕
昔々ではじまるお話の類だと、拾ってきたナニモノカは、
おじいさんが畑に出た隙に姿を消すことがままある。
一晩寝て起きて、学園という日常を通過して。
頭が冷えた後。
なにも言わずにふらりと彼女が去ってしまったら――
悩みが一つ消える。
皆元るい。
拾ってきた野良犬みたいに、
突然消えてしまってもおかしくない毛並み。
予定がない、未来がない、根っこがない、当然家もない。
一緒にいるとロクでもない事がやってくる。
火事にバイクに都市伝説に妖怪大食らい。
呪いの磁石はどちらだろう。
平和を希求した。
住み慣れた部屋の扉をくぐる。
惨殺現場になっていた。
【智】
「うわぁ」
玄関に、るいが死んでいる。
身体を無惨なくの字に曲げて、地面を掻いた指先が踏み込んだ足のちょうど手前で力尽きていた。
夏の終わりの蝉の死体を思い出す。
【智】
「……死んでる?」
【るい】
「わおん」
死体が情けなく吠えた。
【智】
「お腹減ったんだ?」
【るい】
「ばうばう……」
【るい】
「うまいぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
復活した。
乾燥ワカメ並みの復元率だ。
【智】
「ちょろい」
【るい】
「なんかいった?」
【智】
「とんでもありません。おいら神様です」
【るい】
「意味不明です」
【るい】
「なんて顔してんの。もしかして、お味噌汁にゴキブリでも入ってた? するとこれは危険な黒いミソスープ?! やばっ! でも、とっくに食べちゃったし……」
【智】
「わりと呆れてるんです」
【るい】
「なーんだ」
あっけらかんと食事再開。
図太い。
砂の山を削るみたいに山盛り白米が消えていく。
あの細い身体のどこに収まってるんだろう。
女の子には秘密が一杯だ。
【るい】
「もぎゅもぎゅもぎゅ(ホントに死ぬかと思いました)」
【智】
「食べながら喋らない」
【るい】
「もぎゅもぎゅもぎゅ」
……喋らなくなった。
【るい】
「ごちそうさまでした」
【智】
「おそまつさまでした」
るいが手を合わせて、感謝の祈り。
偶像扱いされた。
【るい】
「いんやー、トモちんご飯つくるの上手だから食が進んでしかたないよねー。太らないかどうか心配」
【智】
「あれだけ食べて太らないなら、そっちのが心配だって」
【るい】
「私、これでも無敵体質」
【智】
「漫画体質の間違い」
【るい】
「それはどうか」
【智】
「だいたい倒れるまでお腹減らさなくても、冷蔵庫開けて何か食べてればよかったのに」
【るい】
「私だってプライドあるっす。一宿一飯の恩義をあだで返すような真似はできんでげす」
出されたお米ならおひつを空にするのはOKらしい。
行動規定の基準が今ひとつ理解しがたい。
【智】
「どこの生まれなのかでげす」
【るい】
「げすげす」
高度に暴君的な胸をはる。
たわわ。
昨夜比1.5倍に実り多き秋。
【智】
「…………なんで、つけてないの?」
薄手の布地がいい感じに透けていた。
オブラート梱包生乳。
【るい】
「部屋ン中だと面倒だし」
【智】
「つけてください」
【るい】
「えー」
反論を黙殺する。
ベランダから出がけに干したブラを取ってきた。
手にしたピンクの布きれに複雑な所感を抱く。
女の子の格好をして世間を偽るのと、女の子の下着を洗って
差し出すのは違う。けたたましく違う。
【智】
「初体験……」
恥ずかしタームにどっきどき。
【智】
「にしても」
【智】
「……一人残して出たのはやばかったな」
半日を回顧して、わからないよう舌打ちした。
部屋に、るいを残して、外出した。
迂闊な。
部屋に来る友達なんて何年もいなかったから、そこまで気を
回さなかった。
他人は欺(ぎ)瞞(まん)できても生活は偽装はできない。
テリトリーでは無防備になる。
秘密の漏洩の危険性――。
探すつもりがなくても、何かの拍子に証拠が目に入ってしまう
ことだってある。
【智】
「ばれなかったみたいだし、ツキは残ってるか」
【るい】
「なんの話?」
【智】
「うんむ、焼き討ちされたりお犬様ひろったりっていうのは、
ツイているとは激しくいえない気が」
どっちかいうと悪運ぽいよ。
【るい】
「意味不明(ノイズ)な言動してるね、トモちん」
【智】
「人生とは一人孤独に受信するモノですから」
【るい】
「まあね」
るいにしては意外な返答がひとつ。
軽い調子の同意には、複雑な色が彩色されていた。
単純な賛同とも違う。
表現しがたい。
【智】
「とりあえず」
綱渡りはクリアした、今日の所は。
石橋を叩いて渡る主義でも、
足下が危ない橋だと気がつかなければ真っ逆さまだ。
知ること。
無知と未知が恐怖を産み落とす。
注意が必要だ。
手に汗を握りしめた。
布製の感触。
ブラだった。
【智】
「ぶらっ」
【るい】
「なにやってんの?」
【智】
「お、お手玉」
【るい】
「ブラジャーだっつーに」
【智】
「……はい、付けて」
差し出した。
【るい】
「キツクてめんどっちーのよね」
【智】
「キツいのですか」
【るい】
「サイズちっさいから」
【智】
「おっきーのすればいいじゃない」
【るい】
「そうすっと今度こっちが邪魔に」
両手で扇情的にすくい上げて、たわたわする。
Yシャツが内部から質量に圧迫され、これ見よがしに
テントを張っている。
【智】
「持てる者の傲慢だ!」
全国のプアーたちの代弁者として立ち上がるときが来た。
【智】
「格差社会打破! 怒れる乳(ニュー)エイジプワーたちよ、今こそ
全世界同時革命を!!」
【るい】
「押さえてんだけど健気に育つんだよね」
【智】
「邪悪なチチにはダイエット推奨」
【るい】
「食こそ我が喜び」
人は理解し合えないのココロ。
火花を散らし、アメリカンに拳をゴスゴスぶつけて合って対立する。
【るい】
「でも、食べると胸だけ増えるんだ、これがまた」
【智】
「殺されても文句の言えない体質」
【るい】
「だから無敵体質と」
【智】
「世界って残酷だなあ」
【るい】
「というわけだから」
【智】
「ダメ、付けないとダメ」
誤魔化されない。
【るい】
「……トモって、なに、もしかしてお堅いひと?」
【智】
「女の子たるもの、そのあたりはしっかりしないと」
ヤバイのです、主にこちらが。
【るい】
「しょぼん」
るいが尻尾を下げる。
肩を落として、見るからにしょぼくれて、
ぬぎっと脱いだ。
【智】
「にゃわっ」
【るい】
「うんしょっと」
【智】
「もももももももーちょっと行動にはタメが必要ですよ!」
【るい】
「思いついたら吉日で」
【智】
「それって刹那的なだけ……」
【るい】
「こうして、こうして、こうして」
【智】
「……」
大きなものを小さなケースに収めるテクニック講座。
いけない!
見ては駄目だ!
相手が知らないことにつけ込んでなんてことを!
お前のしていることはノゾキや痴漢と同じなんだぞ!
この恥ずべき赤色やろうめ!
最低だ!
【るい】
「完成」
最後まで見てしまいました。
【るい】
「おっきいのも結構大変なのだよ」
【智】
「るいってナチュラルに恨み買うタイプだね、きっと」
【るい】
「別に自慢じゃないよ?」
【智】
「自分は、そういうのにこだわらない方ですけど」
【るい】
「さっき世界同時革命……」
【智】
「代弁者である僕と主体である私の間には超克なし得ぬ乖離(かいり)が存在するのであります」
【るい】
「むお」
クエスチョンマークをたくさん飛ばしていた。
扇情な生チチ。
女性らしいまろみとふくよかさを備えながら、類い希なる緊張に
よって黄金律の曲線を維持した天工の生み出した至高の逸品。
とっても美チチでした。
まあ、大したことはない。
だって見慣れているのだから。
学園でも、ほとんど毎日、
目撃する機会に遭遇する。
立場上、女の子なのだもんで。
日常と異常を区別するのは頻度の差でしかない。
どんな異常も繰り返せば日常化する。
慣れる。
女の子は異性の目がなければ、
あけっぴろげだ。
大口を開ける、スカートをばさばさする、
下品な話題でもりあがる、食うし出すし。
何年もの間、毎日直視してきた。
幻想の終焉と楽園の喪失。
大人への階段を一つ上ったのは、随分と前。
女の子には限らない。
誰だってそうだ。
他者の目に映る自分を大切にする。
装う。
世界にいるのがただ一人なら、
自分を律する必要がどこにあるだろう。
【るい】
「んにゃ、熱でもあるの、顔赤いよ?」
【智】
「ななななななんでもありませんからっ」
【るい】
「そ、そう」
【智】
「そう!」
それなのに、恥ずかしい。
学園の誰かを目撃するよりも、
ずっと羞恥心が刺激される。
付き合いの浅い相手というのが
脳内物質の分泌を促すのか。
物理的にも、すごく近い。
母上様、チチの悪魔は実在するのです。
【智】
「それよりも」
【るい】
「なによりも」
【智】
「昨日の話の続き」
【るい】
「話といってもたくさんありまして」
【智】
「るいのお父さんが」
【るい】
「死んどりますがな」
【智】
「お手紙の件で」
【るい】
「白山羊さんが食べちゃいました」
【智】
「……嫌いなんだ、お父さん」
【るい】
「好きか嫌いかっていうより……」
横座りに足を崩して、
後ろに手をついた。
目のやり場に困って視線を漂わせる。
るいは天井を見上げた。
天井でないどこかを見ていた。
【るい】
「どうでもいいのよ。親らしいことしてもらった記憶もないし、
気がついたら死んでたし」
【智】
「アバウトすぎだね」
【るい】
「トモのお母さんの手紙だっけ? どういう付き合いがあったのかわかんないけど、生きてても、手助けしてくれるような気の利くひとじゃなかったよ」
【るい】
「だいたいさ、何を助けてもらうのよ」
【智】
「……ひ、み、つ」
【るい】
「いーやーらーしー」
【智】
「なにがよ」
【るい】
「トモってエロいの」
【智】
「ちがうもん」
【るい】
「うちらの間で隠し事なんてさ」
背中をつつー。
【智】
「やうん、やん……そ、そんなこと言ったって、昨日会ったばかりだし……ぃっ」
【るい】
「連れないナー」
【智】
「……何か聞いてない、それっぽいこと?」
【るい】
「無理矢理話を戻したね」
【智】
「遺言とか資料とか貸金庫の鍵とかおかしな写真とか」
【るい】
「政治家の秘書が自殺しそうな事件の重要参考人っぽく?」
【智】
「そうそう、残り30分で現れて重要な手がかりを渡してくれる
感じで」
【るい】
「でも、その頃なら2回目の濡れ場はいるよね〜」
【智】
「どっちかいうと、主人公の手下の新米がいらない所に首突っ込んで消されたりして」
【るい】
「そんで怒りに火のついた健さんが
ドスもってカチコミにいっちゃうんだよね!」
【智】
「それサスペンスじゃないから」
【るい】
「私はそっちの方がいい」
タコチューみたい唇をにとがらせる。
人と人はますます解り合えないのココロ。
【智】
「るいさんは、単純明快人情主義と力の論理がお好みですか」
【るい】
「どっかんばっきんどごーんがいいっす」
【智】
「米の国だね」
【るい】
「そうだ、そんで思いだした!」
突然起立した。握った拳が震えていた。
【るい】
「何がむかつくってやっぱりあの黒塗りライダーが超ウゼーつーか、憤怒燃え立つ大地の炎よ復讐するんだハンムラビ法典って感じだと思わない?!」
時々やけに豊富になる語彙の数々は、るいのどこに格納されているんだろう。
【智】
「やっぱ胸かな」
【るい】
「あーいーつー」
業火をしょっていた。
轟々と聞こえない音で燃え上がり、
天をも突かんと紅蓮に染まる激情。
【るい】
「あいつのせいで、家はなくなる、荷物はなくなる、服まで
なくなる、教科書の類はまーどっちでもいいけども」
【智】
「ダメっこだ」
【るい】
「とーにーかーくっ」
【るい】
「全ての諸悪の根源はアイツっ。火事だってアイツの仕業だ。
そうだそうだ辻褄あうじゃない。謎は全て解けました。
犯人はア・ナ・タ!」
【るい】
「ポストが赤いのも救急車が白いのも私のお腹が減るのも全部全部アイツのせいっ」
決定した。
腹がくちたので断罪に走った。
善哉善哉。
裁きの神よ、ご笑覧あれ。
(誤字にあらず)
【智】
「ということは、るいさんや。どのようになさるのですか」
るいは、まっとうな返事もせずにニヤリと笑う。
【るい】
「行ってきます!」
きっと表情を引き締めたまま。
弾丸みたいに部屋を飛び出した。
部屋に平穏無事が戻ってくる。
【智】
「がんばってねー」
忌まわしき都市伝説に正義と論理の鉄槌を加えてください。
あ、やっぱり帰ってきた。
【智】
「おかえりなさい」
【るい】
「……服ください」
〔シティーハンター〕
街に出る。
るいの都市伝説探しに付き合って。
三角ビルのショーウィンドウ前を横切ると、
さび色の前衛彫像に見送られる。
【るい】
「トモって付き合いいいよね」
【智】
「そうかな」
【るい】
「だよだよ」
【智】
「学園ではクールな旅人のはず」
【るい】
「どっか旅行してんの?」
【智】
「素ボケ?」
【るい】
「なにが?」
素だった。
筋金を入れて鉄板補強したくらいのボケ体質だ。
【智】
「実は長い人生という旅路を……」
【るい】
「テツガクってヤツだね〜」
感心される。かえって肩身が狭い。
自分の弱みを攻め手に換える。手強い。
【るい】
「うん、これが友情ってやつですか」
【智】
「昨日会ったばかりですけど」
るいは、あてもなく流れていく。
風にまかせ、人混みにまかせ。
このまま先導を任せていると、
都市伝説との遭遇がいつになるかは、
神のみぞ知るだ。
困った。
傷つけ合うほど知り合ってはおらず、
見捨てていくほど薄情にもなれない。
それでも、猫の子と同じで、三日飼ったら情が移る。
昔の人はうまいことを言った。
【るい】
「一目惚れがあるんだから、一日でできる友情があってもいいと
思わない? 心は時間を超えていくんだよ」
いい台詞すぎて皮肉かと思う。
【智】
「情は情でも哀情」
【るい】
「愛っ!?」
たぶん字が違っている。
【智】
「あい違い」
【るい】
「あいあい」
【るい】
「そういえばさ、女の友情って男で壊れること多いんだって」
ねちっこい話題になった。
【智】
「いきなり壊れてどうするのさ」
女じゃないから大丈夫です。
【るい】
「形あるものは、どんなモノでも、いつか壊れるんだね」
【智】
「壮大な話だねえ」
友情に形はあるのか。
難しい命題だ。
【るい】
「投げやりだな、トモってば」
赤。
夕刻。
街は茜色にけぶる。
夜が近くなっても街は眠らない。
黄昏の霧にも負けない騒々しさ。
煮立った釜の中味はネオンと騒音と
得体の知れない鼻を刺す匂いと人の群れ。
昼間はいくらか強かった風もとっくに止んでいる。
赤。
歩道を歩いた。
街にはノスタルジーの色彩が君臨する。
夜までのつかの間にたちこめる移ろいの色だ。
夕映えがオレンジにしたクセの強い髪の毛先を、
るいは無心にいじっている。
【智】
「落ち着きない」
【るい】
「むお」
ふくれられた。
【るい】
「じっとしてるとダメになるんだよぅ」
【智】
「サメですか、きみは」
【るい】
「私はシャケの方が好きだなあ」
【智】
「誰が晩ご飯の話をしてるの」
【るい】
「してないんだ……」
腹ぺこ領域に踏み込んでいた。
燃費の悪いワガママなボディーだ。
二車線の車道を、
乗用車の列が途切れなく流れる。
店先からの音楽、人の会話、エンジン音――
いつ来ても意味をなさないノイズとノイズとノイズ。
熱にうかれたコンクリートと、冷たく堅い人間たち。
猥雑な街の夕暮れ。
街には秩序と混乱が平行する。
交点だからだ。
すれ違う、交差する、
ぶつかり合って跳ね飛んでいく。
人。物。情報。
生きているもの、死んでいるもの、
区別なく入力され、変換され、出力される。
流離し、漂泊する。
ときには絢爛、ときには退廃。
昼なお暗く、夜にも目映い。
これが駅向こうに回ると、
さらに大したものになる。
担任の古橋教諭が学生たちの出入りを見かけたら、
世を儚んで辞職を考えるだろう。
お堅い古橋教諭は、自分の子供に国営放送と
教育番組しか見せないのだと自慢していた。
子供は親を選べないという訓話だ。
【るい】
「うむー」
あくび混じりで猫みたいな伸びをした。
遊びに厭いた子供の風情。
【智】
「真剣ポイント略してSPが足りてないよ」
【るい】
「なにそれ」
【智】
「ステータス確認してください」
【るい】
「難しい……」
理由はわかってないが、
素直に頭を下げる、るいさんだ。
【智】
「ヤツを捜すんだよね」
【るい】
「おお、それそれ。
でもさ、どこにいるんだろう?」
真顔で質問される。
るいちゃん――あなたは、僕が考えているよりも、
ずっと大きく、そして恐ろしい。
【智】
「心当たりは?」
【るい】
「ないです」
【智】
「即答っ!」
【るい】
「自慢」
【智】
「してどうするの!」
【智】
「何をしにここまできたの!?」
【るい】
「……」
黙られた。
自動的だ。
感情のスイッチが行動力に直結している。
気軽に付き合うと、勢いに引っ張られてろくでもない目に
あわされるタイプだ。
本人はいたって平気で、近くにいるヤツがとばっちり同然に
火の粉をかぶる。
被害に遭いやすいのは、慎重派で考え込み易くて、
そのくせ情に流されちゃうようなやつ。
普段クールぶってると特に危険。
…………僕だ。
【智】
「こうときに客観的自己分析のできる性格が恨めしい……」
街路樹に顔を伏せて涙ぐむ。
【るい】
「どっかしたの、なんか顔色悪いよ? おしっこ?」
【智】
「不幸な未来予想図が目の前にありありとうかんで、
高確率で到達しかねない将来像に愕然としてます」
【るい】
「元気ださないとね」
大本の要因に投げやりなフォローをされる。
ドーパミンが分泌して幸せになれそう。
【智】
「夕焼けか……」
るいが足を止め、
寸時薄暮を仰ぎ見た。
街の空は狭い。
ビルとビルの谷間に
切り取られた窮屈な天蓋。
蒼穹とコンクリートの区分は、
この時間には朱に溶け落ちて曖昧になる。
混沌の海だ。
制服が二つ、
海を渡って旅をする。
大きな影を足から伸ばし、
アスファルトの歩道をローファーで蹴りながら。
日没と制服。
組み合わせに、
一種ばつの悪さがつきまとう。
制服が学生の証明だ。
黄昏れに追われて、
本来急ぐべき家路でなく、
立ち去るべき猥雑に混じりこむ。
禁忌を踏み越える瞬間の、怖れと歓喜。
冬の日の早朝、できたての薄氷を踏んで歩く時のような、
くすぐったさが胸中をくすぐる。
【るい】
「これからどーしよっか、迷っちゃうよねー」
【智】
「迷わない。捜します」
早速目的さえ忘れかけていた。
【智】
「コメ頭だね」
【るい】
「トリ頭じゃなくて?」
【智】
「すぐに忘れるのをトリ頭といいますが、もっとひどい忘れんぼ
さんはコメ頭といいます」
【るい】
「そのココロは」
【智】
「(にわ)トリのエサです」
【るい】
「念入りにバカにされるとむかつく」
【智】
「そんで手がかりとかないの?」
【るい】
「なぜ、私」
【智】
「僕には身に覚えがありません」
【るい】
「私もないよ!」
【智】
「忘れてるだけかも」
納豆みたいなべとつく視線で視姦。
【るい】
「そんなことは……ない……とはいえないかもしれないけど、そんなことはないと思いつつ、もしかしたらあるかもしれないけどやっぱりそんなことはないっぽいかも……」
責められたばかりなので弱気だった。
【智】
「論理的な解説プリーズ」
【るい】
「…………」
理詰めには弱い。
男らしく腕を組んで、しかつめらしい顔で、
るいはぶつぶつ呟きながら歩道を横断する。
どの角度から見ても危ない人だ。
他人のフリさせてくんないかな……。
駅にも近い繁華街。
夜も眠らない一角の騒々しさは、
ハンパ無い。
【智】
「どこかであの黒ライダーに会ったことは?」
【るい】
「屋上で」
【智】
「それより前に」
【るい】
「前…………?」
【花鶏/???】
(見つけた)
少なくとも、
あちらにとっては初対面じゃなかった。
どちらかが目標だった。
るいか、僕か。
僕には心当たりがないわけなので。
もっとも、すれ違っただけでも執着されて、
見ず知らずの相手に家まで押しかけられる世の中だ。
油断はできないけれど。
【るい】
「ある。見覚えある」
【智】
「あるの!?」
【るい】
「なんで驚くのかな?」
あるとは思わなかった。
あっても覚えてるとは思わなかった。
言語化すると血を見そうなので、
政治的ソフトランディングを試みる。
【智】
「思ったよりも早くわかりそうだなってリアクション」
にこやかに選挙運動。
【るい】
「ほー」
素直すぎるのは将来が心配だ。
【智】
「それで、どこで」
【るい】
「このあたり」
繁華街でもひときわ目立つ黄色い建物だった。
ちょっとした若者向けテナントビル。
記憶を刺激されて思いだしたらしい。
【るい】
「そうだ、たしかにアイツだった、
すっかり忘れてたけど間違いない、絶対そう!」
敵意をむき出しに、るいが歯を剥く。
【るい】
「三日ほど前だっけかな。このあたりで」
【智】
「跳び蹴り食らわした?」
【るい】
「なんで跳び蹴り」
【智】
「大外刈りとか、ジャイアントスイングとか、機嫌が悪かったから路地に連れ込んでいけないことをしたとか」
【るい】
「道でぶつかっただけ」
【智】
「……」
【るい】
「疑(うたぐ)るか」
【智】
「いえいえめっそうもない」
【智】
「しかしですね、るいさん。道ばたでぶつかったぐらいのことで
ですね、必ず殺すと書いて必殺な感じに追ってくるのはおかしくないですか」
【智】
「なんたって、いきなり屋上に原付で轢殺なんだよ?」
【るい】
「疑(うたぐ)ってる」
【智】
「いえいえめっそーもないです」
限りなく棒読みで。
【るい】
「あいつは心狭すぎ!!」
【智】
「心の面積を斟酌(しんしゃく)するより、別の理由を検討する方が健全だと、
僕は思うものです」
【るい】
「やっぱり疑(うたぐ)ってるーっ!」
【智】
「でもさ、いくらなんでも、ぶつかっただけで殺害しに来るなんてあると思う?」
【るい】
「ないかな」
【智】
「……事実は小説よりも奇なりとは言う」
推理小説なら即座に破り捨てられるつまらない動機だって、修羅の巷には氾濫している。
きっかけとも呼べないきっかけでスイッチが入れば、心という機能は理不尽に他者を攻撃する。
【智】
「困ったね」
【るい】
「困ったんだ」
【智】
「動機が突発的だと捜すのが面倒になるから」
あのヘルメットの下は、もっと理知的な、
よく切れる刃物を感じさせた。
根拠はないけど第一印象を信じてみる。
昔から勘はいい方だ。
【智】
「原付のナンバーは市内だったけど」
【るい】
「そんなのちゃんと見てたんだ……
すごーい」
暴君的な胸を揺らして感心された。
【智】
「なんで、持ち主わかるよ」
【るい】
「???」
【智】
「割と知られてないけど、陸運局いって書類書いてお金払ったら
個人情報教えてくれるんだよね」
【るい】
「んー、警察とかじゃなくても?」
【智】
「なくても」
【るい】
「……それって、指紋とられたり、忠誠の誓い要求されたりしなくても?」
【智】
「しなくても」
るいの眉が顔の真ん中によっていた。
納得のいかない気分を言語化しそこねている。
【智】
「手続きするとできることになってるんだよ」
【るい】
「……首輪付いてるみたいでうっとうしい」
【智】
「盗難車とかだとどうしようもないし、面倒だし、お金かかるから、
他に手がかりがあるならそっちからあたっても」
【るい】
「手がかりか」
【智】
「目立つ子だったよね」
銀色の長い髪。
月の雫によく似ていた。
敵意を溶かし込んだ深い瞳。
錐のように突き刺さる。
嫌いなタイプじゃない。
【るい】
「なんか、トモちん変な顔してる」
【智】
「変な顔といわれました」
【るい】
「カンガルーがカモノハシ狙ってるみたいな顔だね」
【智】
「僕って有袋類!?」
しかも肉食カンガルー絶滅種。
【るい】
「どーしようかな」
るいは、口ぐせのようにさっきから何度も繰り返し呟く。
深刻さはゼロ。
地図も持たずに海へ出るのに慣れた、
船乗りの気楽さだ。
【智】
「軽く捜してみようか」
決めるのが嫌なのか。
曖昧な態度にそんなことを思って、
妥協案を促した。
【智】
「見つかったらめっけ物くらいのノリで。目立つ相手だし、犯人は犯行現場に戻るともいうし」
【智】
「見つからなかったら、役所にいってお金を払う」
街は広い。
外見の差異など吸収してしまう。
二人で歩いたくらいで見つかる道理はなかった。
でも。
【智】
「…………」
心地よかったから。
後しばらくは、この知り合って間もない友人と、
他愛もない時間を潰していていたいと思う程度には。
【るい】
「お金は大事だな」
【るい】
「よし、捜そうっ」
【智】
「御意のままに」
見つけた/見つかった。
ばったり。
間違いない。
あのライダーブラックの中の人だ。
るいが以前にぶつかったという、
ちょうどその辺りだった。
【るい】
「ほんだわら――――っ!」
歯をきしる。
獲物を発見して野性に火がつく。
戦いの雄叫びは現代人には理解しがたい。
【花鶏/???】
「…………っ」
反応有り。
相手はわずかに柳眉(りゅうび)を逆立てる。
天下の公道で奇行に打って出ない分、
るいよりも良識はあるらしい。
人目のない屋上なら轢殺オッケーという非常識だけど。
切れそうなまなざしが刺さる。
冷たく光る銀のナイフ。
たとえ捜していなくても、
雑踏ですれ違っただけで目をひいたろう。
珍しい銀色の髪が毛先まで怒気をはらむ。
整った日本人らしからぬ顔立ちと身を包んだ高雅。
敵意を差し引いてもあまりある。
高価すぎて触れるのさえ躊躇(ちゅうちょ)してしまう宝物のよう。
【るい】
「見つけた、覚悟!」
【花鶏/???】
「――自分から出向いてくるとはいい覚悟ね」
【智】
「すでに僕って眼中無し?」
それにしても。
【智】
「もう少し面白みのある現実を請求したいよ」
事実は小説より奇なりというけれど。
それにつけてもあっけない。
面白みがあればあったで平穏が欲しくなるわけで、人間とはまことに度し難い生き物だ。
【花鶏/???】
「のこのこ現れるなんて殊勝な心がけだわ。
さあ、返してもらうわよ!」
【るい】
「借りはまとめて返してやるわい!」
【花鶏/???】
「借りてただけとはご挨拶ね、寸借詐欺ってわけ!?」
【るい】
「詐欺っていうか、ケンカ売ったでしょアンタわ!」
【智】
「会話が噛み合ってないよ」
小さくツッコミ。
二人とも、冷静な僕の言い分を聞いてくれない。
人の話を聞かないイズムの信奉者たちだ。
信念というのは厄介者だ。
ときに動力となり、
ときに変化を阻害する。
メリットとデメリット。
何にだって裏表はあるわけで。
【花鶏/???】
「どこにやったの!?」
【るい】
「どこにもやんねーっ」
【花鶏/???】
「――潰す」
【るい】
「やったらあ」
【花鶏/???】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉みあいに。
十も年老いた気分で鑑賞する。
もつれた糸を解くためには冒険が必要だ。
この暴風雨の中に徒(と)手(しゅ)空(くう)拳(けん)で乗り込まねばならない。
【智】
「まあ、二人ともオチツイテ。平和のタメに話し合おうじゃないか」
(脳内シミュレーションの結果)
【るい】
「うっさい!」
(脳内シミュレーションの結果)
【花鶏/???】
「死になさい!」
(脳内シミュレーションの結果)
死    亡    完    了。
確実すぎる未来予測に介入を躊躇(ためら)う。
この二人は、生物として対極だ。
対立するのは愛のように宿命だった。
昔の人はいいました。
人の恋路を邪魔する奴は、
馬に蹴られて死んじゃえ。
【智】
「ここはひとつ若いひと同士にまかせて」
【るい】
「なにを」
【花鶏/???】
「なんですって」
【智】
「聞いてないね」
【るい】
「ががががががががが」
【花鶏/???】
「だだだだだだだだだ」
揉めに揉めた。
【るい】
「――――」
【花鶏/???】
「――――」
そして膠着。
【るい】
「……!」
るいの頭の上に、唐突に豆電球が点灯した。
【花鶏/???】
「?」
いぶかしむ。
僕も。
【るい】
「勝った」
勝利宣言だった。
なぜ!?
るいが指さし指摘し、
黒ライダーの中身は目で追いかける。
【花鶏/???】
「…………っ!」
胸。
両腕で胸を抱えて後ろにとびすさった。
刺殺できそうなぐらいに視殺。
【るい】
「ふーんふんふんふん♪」
勝ち誇り。
えっ、そこなの!?
そりゃ確かに勝ってるんだけど!
【花鶏/???】
「く、ぬっ、ぐ!!」
【るい】
「ブイ」
【花鶏/???】
「だ、誰が」
【るい】
「にょほ、負け惜しみ」
【花鶏/???】
「きっ」
【智】
「……ものごっそ低次元のところで覇を競わない」
【るい】
「勝てば官軍」
【花鶏/???】
「だ、誰が負けたのよ!」
人類の許容限界ぎりぎりまで
真っ赤になって咆哮する。
負けず嫌いだった。
【花鶏/???】
「サイズがあればいいってもんじゃないのよ。
貴方のはエレガントさに欠けるわ」
嘲笑で。
【智】
「……そっちの話ですか」
【花鶏/???】
「他になんの話があるの!?」
手段のために目的を忘れるタイプだな、こいつ。
【智】
「話があるのは、どっちかいうとこっち?」
【花鶏/???】
「どっち?」
【智】
「あっち?」
【花鶏/???】
「わからないわ」
【智】
「僕も」
【花鶏/???】
「よく見ると可愛い顔してるのね」
唐突に。
片手で、おとがいを持ち上げられた。
【智】
「ほわ……」
むちゅう
【花鶏/???】
「…………」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
れろれろ
にゅるりん
んちゅう
ちゅぽん
【智】
「にょ」
【るい】
「……きす、した……」
奪われた。
公衆の面前で。
【智】
「にょわわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
【花鶏/???】
「うん、まったりとしてしつこくなく、それでいてコクがある。
悪くないわ」
【るい】
「なにやってんのーっ」
蹴った。
【花鶏/???】
「痛いわね、何するのよこの野蛮人!」
【るい】
「コッチノ台詞ダーーーーッ」
【智】
「きききききききき、」
【花鶏/???】
「キスくらいで大騒ぎしない、よくある話でしょ」
【智&るい】
「「あってたまるかーっ!!!」」
ハモる。
【智】
「キス、キスキスキスキス、キスされちゃった……」
【るい】
「オチツイテ、深呼吸して、ね、ね、ね」
【智】
「はじめてだったのに……」
【るい】
「大丈夫、女同士だからノーカンだって」
【智】
「舌いれられちゃったぁ(涙)」
【るい】
「…………じょ、上手だった?」
【花鶏/???】
「ごちそうさま」
【るい】
「容赦ないな、おい」
【花鶏/???】
「愛に禁じ手はないのよ、おわかり?」
【るい】
「まったくもってこれっぽっちも」
【花鶏/???】
「いやね、学のない人は」
【るい】
「ケンカ売ってる? 売ってるよね」
火花再燃。
【智】
「…………蛮族ですか、キミたちは」
ショックの海から必死に立ち上がる。
【るい&???】
「「こいつが」」
ハモる。
互いを指差して責任を押しつける。
呼吸は合っていた。
【るい】
「っていうか、トモだって他人事じゃないっしょ」
【智】
「おまけに愛の犠牲者……」
【花鶏/???】
「心を揺さぶるフレーズね」
【るい】
「とっても吐き気がするぞい」
【花鶏/???】
「悪阻(つわり)ね。妊娠でもしてるんじゃないの?」
【るい】
「これでも処女なりよ!」
【花鶏/???】
「品性のない物言いしかできない女は最悪だわ」
【るい】
「この女……殺るか、ここで」
【智】
「それよりも、なによりも」
【智】
「全ての戦闘行為の即時停止と使節団派遣による双方の意思疎通を求めるものであります」
胸に充ちる喪失の涙をこらえて、
停戦勧告を行う。
【るい】
「裏切るかっ!?」
るいの殺る気は燃えていた。
【智】
「裏切るというよりも」
【花鶏/???】
「愛の虜ね」
【るい】
「にょにわっ、愛なのか!?」
【智】
「あい違い」
【るい】
「……日本語難しい……」
【花鶏/???】
「……同意するわ……」
まれには気が合う。
【智】
「場所を変えてネゴしょう」
【るい】
「ぬな、話す事なんてあんの!?」
【花鶏/???】
「こと、ここにいたって必要なのは、妥協ではなく明確な決着。
対話ではなく武器を取るべき時よ」
【智】
「戦意よりもなによりも恥ずかしいのです……」
行き交う人が笑っている。
ちらりと流し目、含み笑い、呆れた顔。
しょんぼり肩をすくめた。
【花鶏/???】
「……そうね。キスしてもらったわけだし、デートくらいなら付き合ってあげるわ」
【智】
「ニュアンスの違いが日本語の難度を高くする」
【るい】
「殴って蹴って解決!」
【智】
「……僕の話聞いてた、ねえ?」
ようやく落ち着いた。
【智】
「僕は和久津智、こっちは」
【るい】
「るい、だ。べー」
舌を出す。
鼻の頭まで届きそうなくらい長い。
【花鶏】
「花鶏」
先を行く背中が名乗る。
くるりときびすを返す仕草は颯爽(さっそう)と。
薄いルージュを引いた唇が、
三日月の欠片みたいについっとあがる。
【花鶏】
「花城(はなぐすく)花鶏(あとり)よ」
見惚れた。
【るい】
「舌噛みそ」
情緒がなかった。
【花鶏】
「さっさと噛んだ方が人類のためだわね」
【るい】
「噛むぐらいなら、あんたを沈めて逃走する、べー」
微笑ましい女の子同士の交流に涙が止まらない。
【るい】
「ここでぶつかった」
【花鶏】
「貴方がぶつかってきた」
【るい】
「ケンカ売ってる? 売ってるんよね」
【花鶏】
「わたしの日本語がきちんと伝わっていてとても嬉しい」
【智】
「そういえばさ、黄色って警戒色なんだって。注意一秒怪我一生、青の次で赤の前。何が起こるか分からないから人生大切に」
【るい】
「先のことなんてわかんないぜい」
【花鶏】
「アニマルだわ」
【るい】
「欲望ケダモノ」
【花鶏】
「愛の狩人と呼んで」
放置しておくと際限なく揉める。
【智】
「それで、その時に?」
【花鶏】
「――こいつに、大事なバッグを盗まれたわ」
【るい】
「えん罪」
【花鶏】
「シラを切る」
【智】
「だから、るいを捜した?」
【花鶏】
「手間取ったわ。いざ捜し出したらビルが燃えてて近づけなかった。ビルの上から隣に跳び移る誰かが見えた。とりあえず屋上に急いだら神のお導き」
【るい】
「成り行きまかせかよ」
【花鶏】
「努力に世界が応えるのよ」
いい台詞では誤魔化されない。
【花鶏】
「返しなさいよ」
【るい】
「返せるわけねーでしょ!」
【花鶏】
「なんていいぐさ。人類最悪ね」
【るい】
「そんならアンタは人類サイテー」
【智】
「むう」
返せと迫り、知らぬと答える。
折れ合う優しさは1グラムもない。
【智】
「謎を解こう」
【花鶏】
「どうするの、名探偵?」
【智】
「花鶏さんは」
【花鶏】
「さん付けは嫌。花鶏と呼んで」
【智】
「……」
何となく躊躇(ちゅうちょ)。
【花鶏】
「呼んで」
【智】
「……花鶏さん」
【花鶏】
「呼び捨てで、親しそうに。できれば愛しそうに」
【るい】
「厚かましいぞ、ふしだら頭脳」
【智】
「花鶏」
花鶏がにんまり笑う。
冷たい口元に豊かな表情。
アンバランスなモザイクが一枚の絵のようにはまる。
【花鶏】
「それで」
【智】
「るいとは昨日あったばかりだけど、嘘をつくような子とは
思えないから」
【るい】
「うむ、さすがはトモちん」
【智】
「花鶏の大事なバッグを持ってるのが、るいじゃない可能性を
考えてみる」
【花鶏】
「最初の可能性は?」
【智】
「るいが嘘をついている?」
【るい】
「べー」
【智】
「花鶏は、どれくらい僕の言うことを信じてくれる?」
【花鶏】
「会ったばかりなのに、そんなこと」
戯れるように笑う。
突拍子もない申し出を、
蔑んでもいなければ、拒絶してもいない。
【智】
「だから訊いてる」
花鶏はきっと愉しんでいた。
【花鶏】
「――――そうね、キスしてくれた分、かしら」
【るい】
「したのはテメーだ」
【智】
「僕、昔から勘はいい方なんだよ」
はたして。
花鶏は呆れた。
楽しそうに口元を歪める。
【花鶏】
「論理的ではないことね、
そんな言い分を根拠にしろと言いたいわけ?」
【智】
「だから信用。水掛け論よりは前向きでしょ」
【花鶏】
「信用はできない」
直裁に切り落とされる。
【花鶏】
「でも、一時休戦ということなら、さっきのキスでチャラに
してあげる」
【るい】
「この胸なし女、むかつくっス」
【花鶏】
「わたしはちゃんとあるっての!
あんたが淫らにぼよんぼよん膨らんでるだけでしょっ!」
火花が散った。
【智】
「協調と信頼だけが人類を進歩させるんだよ」
【るい】
「……難しいこといわないでよね」
【智】
「難しいんだ……」
人類の夜明けは遠い。
【智】
「じゃあ、一時休戦で。
とりあえずの謎解きをするから、現場の話をして」
我ながら、名探偵なんて柄じゃないのに……。
【花鶏】
「わたしはこのあたりをぶらついてたの――」
【るい】
「そしたらこいつがぶつかって――」
【花鶏】
「肘を入れられた――」
【るい】
「蹴ってきやがったから――」
【智】
「あのー、もう少し慎みとか女らしさとか」
【るい&花鶏】
「「そういえば」」
【花鶏】
「朝だったから人気はなかったけど」
【るい】
「もう一人いてさ」
【花鶏】
「こいつと揉めてたら」
【るい】
「びびって逃げて」
脳細胞に喝をいれて思考する。
騒ぎを起こして逃げ出した後、バッグがないのに気がついた花鶏は猟犬みたいに飛んで戻った。
時間にしてほんの2〜3分。
けれど、どこにもブツはなし。
閑散とした早朝の街路に
ぽつんと花鶏は立ち尽くした。
可能性@ るいが拾って逃走
可能性A 花鶏が隠し持っている
可能性B 居合わせた人物Xの手に
可能性C 偶然通りがかった新たな人物が(以下略
消去法。
@とAはとりあえず消す。
【智】
「通りがかったのはどんな男?」
【花鶏】
「女よ」
【るい】
「ちっこいやつ」
【花鶏】
「あまりよく覚えていないけど」
【るい】
「んーとね、たしか髪の毛をこう、くるっとふたつ」
髪の毛をくるっとふたつ横でまとめて尻尾にしたような女の子が、目の前を通り過ぎた。
【智】
「くるっとふたつ?」
指差してみるが、後ろの二人は固まっていた。
【花鶏】
「……」
【智】
「……」
【るい&花鶏】
「「あいつだよ!!!」」
【智】
「ほえ?」
【こより/???】
「ほえ?」
【花鶏】
「待ちなさい!」
【るい】
「逃がさんぎゃあ!」
【こより/???】
「ほえええ!!」
【花鶏】
「大人しくしてれば、あまり痛くないようにしてあげる」
【るい】
「大丈夫、こわくない、たぶん」
どう考えても嘘に聞こえる。
虎と狼に挟まれた哀れな白ウサギは狩られる運命。
恐怖に顔を引きつらせ、混乱に鼻を啜って、
情け無用に飛びかかる二人の間を、するりと抜けた。
【智】
「お、やるもんだなあ」
感心感心。
【こより/???】
「ほええええええええ」
びびってるびびってる。
【花鶏】
「外した!?」
【るい】
「ちょこまかとすばしこいっ」
【花鶏】
「お待ちっ」
【こより/???】
「いやあああああ〜っ」
【るい】
「動くな!」
【こより/???】
「たわあああぁあ〜〜っ」
待てや動くなで相手が捕まるものならば、
渡る世間に警察なんていやしない。
逃げた。追った。
ウサギっこは、するりと抜けた。
追跡者たちを向いたまま、
伸びたかぎ爪の触れんとしたその先から、
風に柳のたとえのように。
インラインスケートだ。
小さな車輪のついた小さな靴が、
小さな躯を魔法のように機動する。
【こより/???】
「ひやぁあああぁっ」
逃げた。追った。
ウサギが逃げる。ふたつ尻尾をなびかせて。
猟犬が追う。
るいと花鶏の剣幕に、夕の雑踏は、
預言者の前の紅海もかくやと左右にわかれる。
小さな影が小さな肩越しに何度も後ろを振り返る。
血の出るような追っ手の顔が目に入る。
【こより/???】
「うわああああぁあぁあぁぁん〜っ」
泣き出した。
【智】
「悲劇だなあ」
悲劇もすぎれば喜劇に変わる。
喜劇も過ぎれば悲劇に堕する。
走る。跳ねる。尾をなびかせる。
幾度となくあわやのところを手がかすめる。
間一髪に遠ざかる。
【智】
「すんごい」
他人事のように拍手する。
【花鶏】
「まったくちょこまかと、手強いことね」
【智】
「小休止?」
【花鶏】
「狩りには根気が必要なのよ」
【智】
「悪びれないね」
負けず嫌いも筋金入りだ。
【智】
「ところで、るいは?」
【花鶏】
「優雅さに欠けるぶんだけ、体力は余っているようね」
るいは追っている。
人垣の向こうに見え隠れする。
曲芸仕立てのローラーブレード相手に、
門戸無用の一直線で突っかかる。
【るい】
「うららららららら――――――っ」
【こより/???】
「うわああああぁあぁあぁぁん〜っ」
壁があったら跳び越える。
人があったら轢いていく。
【智】
「典型的な目的と手段が転倒するタイプだね」
泣けてくる。
【花鶏】
「手間のかかるのが倍になるわ」
花鶏の方は、
るいよりも多少冷静だった。
【智】
「追いかけるの?」
【花鶏】
「大事なものを盗まれたんだもの」
【智】
「乙女のはーとだっけ」
【花鶏】
「それは貸金庫にしまってある」
【智】
「鍵付きなんですか」
【花鶏】
「乙女だけに」
【智】
「ついさっきいんわいなべーぜ≠」
【花鶏】
「乙女心は気まぐれなのよ」
【智】
「気まぐれと言うより身勝手という」
【花鶏】
「いい女は気ままですものね」
ものは言い様だった。
【智】
「男の子が同意するのか聞いてみたいですね」
【花鶏】
「淫猥で頭一杯の野獣どもに興味はないわ」
えーっと…………。
それって、なに、その、
まさかそっちの趣味なの?
そういえば、さっきのキスだって。
【智】
「僕、女の子ですよね」
【花鶏】
「何をわかりきったことを」
【智】
「キス、しちゃいました」
【花鶏】
「まだ唇が貴女のことを覚えているわ」
きれいな言い回しにすればいいってもんじゃないよ。
【智】
「……典雅(てんが)な嗜好でいらっしゃいます」
ものすごく複雑な気分だ。
【花鶏】
「お褒めにあずかり恐悦至極」
皮肉も通じない。
【智】
「うまく捕まりそう?」
【花鶏】
「……逃げ足は速いわね」
【智】
「捕まってもらわないと話がすすまないよね」
【花鶏】
「話よりも罪の報いを与えてやるわ」
酷薄に笑む。
さよなら、
対話と協調の日々。
こんにちわ、
暴力と断罪の新世紀。
【智】
「もう少し穏やかなところで、ぜひ」
【花鶏】
「目には目と鼻を歯には歯と口を罪には罰を10倍返しで」
【智】
「ハンムラビ決済は利息が高そうです」
【花鶏】
「ではね。また後でお話しましょ」
【智】
「ところで花鶏さん」
呼び止める。
【花鶏】
「花鶏」
添削が入った。
【智】
「……花鶏、行く前に携帯の番号教えて欲しいんだけど」
【花鶏】
「住所と誕生日とスリーサイズも教えてあげましょうか?」
【智】
「いりません」
【こより/???】
「うわああああぁぁぁん〜」
【こより/???】
「ひゃいぃぃいぃぃぃぃぃ〜っ」
【こより/???】
「あーーーーーーーーーーーーーん」(泣)
【こより/???】
「ひぃ、はあ、はひぃ、ひやあ……」
街の片隅で土下座していた。
謝罪ではなく疲れ果てて膝から砕ける。
どうやら逃げのびた。
神出鬼没の猟犬たちの息づかいは振り切った。
おめでとう自由の身。
空よ、私を祝え。
でも、一安心したせいで緊張の糸がぷっつり切れた。
弛緩は人生における大敵だ。
思わぬ落とし穴に足を取られるのは決まってこんな時。
【こより/???】
「……わたし……なんで、こんな……」
頭をぐりぐり回していた。
苦悩中らしい。
【こより/???】
「あにゃー」
見ていて飽きない小動物っぽさ。
愛玩系。
【智】
「あ、花鶏? 近くに、るいは? それなら一緒に。
赤いレンガ仕立てのビルが目印で」
【智】
「そう、ブロンズ像を右に曲がって……うん、見えるから、
三番道の裏手あたり……っていってわかる?
他にめぼしいものは―――」
手早く説明して携帯を切る。
【こより/???】
「…………」
見つめられていた。
熱視線に、花のほころぶような微笑を返す。
【こより/???】
「……う」
赤面されました。
携帯を閉じる。
従容と近づいた。
軽く顎を引いて、背筋を伸ばし、
肩で街の風を切る。
学園でなら、下級生たちが黄色い声援のひとつもよこしてくれる。
【こより/???】
「あ、あの……」
【智】
「なにか?」
いい感じで問い返す。
お姉様っぽく。
【こより/???】
「その……ぶしつけなんですけど、なんていうのか」
【智】
「なんでしょう」
【こより/???】
「……なにか、あります……?」
【智】
「何かといわれても」
【こより/???】
「そ、そーですよね、はははは……」
【智】
「ふふふふふふふふふ」
ひとしきりの乾いた笑いがぴたりと止んだ。
言語化し難い沈黙が漂う。
対峙した距離に圧縮された緊張に、
世界の歪む錯覚をする。
【こより/???】
「あ、あの」
【智】
「なぁに?」
【こより/???】
「ど、」
ウサギの女の子が唇を噛みしめた。
一瞬に逡巡(しゅんじゅん)と決意が交錯する。
一生に一度の大勝負に拳を固めて、続く言葉は。
【こより/???】
「どちらさまでしょーかっ!」
【智】
「……」
【こより/???】
「は、あわ、そじゃなくて……あの……」
ボロボロだ。
【こより/???】
「はぁ――――――……っ」
肺が口から出そうなため息をついた。
【智】
「若いうちからため息をついてはいけないわ」
【こより/???】
「そう……ですか。そうかも……」
【こより/???】
「はぁ――……」
【智】
「また」
【智】
「ため息ひとつで幸せひとつ、逃げちゃうっていうんだし」
【こより/???】
「逃げちゃうんですか」
【こより/???】
「じゃあ、わたしって……幸せ残ってないのかな。
あんなのに追っかけられたりするし」
【智】
「追いつ追われつが人の世の倣(なら)い」
【こより/???】
「生きにくい世間様です」
【智】
「まあまあ、悪いひとたちじゃないから(たぶん)」
【こより/???】
「……悪い人に見えました」
【智】
「心の病気みたいなものなのよ」
【こより/???】
「お病気なのですか」
【智】
「血が上ると周りが見えなくなっちゃう症候群」
【こより/???】
「重症であります……はぁ……」
【こより/???】
「…………」
おとがいに人差し指をあてて、
ウサギっこはなにやら目を彷徨わせた。
喉の奥に引っかかった小骨がちくりと痛んじゃった……
そんな顔で眉間に皺を寄せる。
【こより/???】
「そこの通りすがりの方、
つかぬ事をお伺いするのですが」
【智】
「名前は智、サイズは内緒」
【こより/???】
「……聞いてないですから」
【智】
「ナンパじゃない?」
【こより/???】
「……女の子同士で不毛です」
【智】
「愛に区別は――――」
花鶏のふしだらな顔を思い出す。
プルシアンブルーの気分。
【智】
「……愛は区別した方がいいですね」
【こより/???】
「愛とは区別からはじまるんです」
【智】
「存外深いな」
あなどれないヤツ。
【こより/???】
「ところで通りすがりの方」
【智】
「ナンパ?」
【こより/???】
「違います」
【智】
「そうですか」
【こより/???】
「質問が」
【智】
「どうぞなんなりと」
【こより/???】
「なにやら、いわれなく不穏な気配がするであります」
【智】
「ナイス直感」
【こより/???】
「…………」
【智】
「…………」
沈黙のうちに視線を交わす。
熱視線。
【こより/???】
「うわーん、やっぱりさっきの悪党の仲間なんだあぁ!!」
【智】
「大当たりぃ」
時間稼ぎをやめて拍手する。
アンコールには応えず、
ウサギっこは脱兎と逃げ出して、
二歩もいかずに凍りついた。
【こより/???】
「あ……っ、うそ」
逃げ場がない。どこにもない。
三番町は薄汚れた終点だ。
お嬢様なら近づかない吹きだまり。
怪しい店が軒を連ねて看板を掲げる。
幾つも路地が入り組んでいる。
行き止まりも多い。
ウサギ狩りにはうってつけ。
【こより/???】
「ま、まさか――」
【智】
「はーい、その通り。実は罠でしたー」
にこやかに種明かししてみます。
【智】
「ここまで逃げてくるように誘導したんですねー、もうびっくり。すぐ仲間が到着して君を組んずほぐれつにしてしまいまーす」
【智】
「ここまで来ればわかると思いますが、なんとっ!
今までの小粋な会話は全て時間稼ぎだったのです!!」
【こより/???】
「みゃわ」
衝撃の事実が鉄槌の勢いで打ち込まれる。
【智】
「くくくくく、随分と手間をかけさせてくれたけれど、これで
終わりね。お前はもはやジ・エンドっ!」
【智】
「餓えたケダモノどもの手でっ! 救われぬ新たな運命が!
お前に! 下されるのだッッ!!」
【智】
「さようなら明るく清純な人生、こんにちわ淫猥で甘美な堕落の日々……さあ、」
ついっと涙を拭うフリをして。
【智】
「僕とスイートなストロベリートークしましょう……あれ?」
たっぷりタメをつくって場を和ませようとした。
ウサギっ娘は話も聞かずに飛び出していた。
パニくったまま一目散に走る。
右はビル、前もビル、後ろには僕。
唯一空間の開かれた左側へ。
低い柵が行く手を阻んでいた。
腰よりちょい上の高さの鉄柵を、
映画の身ごなしで横っ飛びに跳び越える。
そこに。
着地するべき地面は無かった。
柵の向こうは土地が低い。
3メートルはある落差。
落ちる。
【こより/???】
「ぎゃわーっ」
【智】
「ちょ――――――っ」
【智】
「なにやってんのーっ!」
危ないところで襟首を捕まえた。
宙づりになったウサギは、
ひたすら混乱して暴れる。
ギリギリの一歩向こう側に
身体を乗り出した危険な姿勢。
目が眩むくらいの不安定だ。
【智】
「――――らめぇ、暴れちゃらめーっ、危ないから、ほんとに
とれちゃうからぁ!」
【こより/???】
「うあああああああ」
【智】
「だから動かないでぇ……動かないでじっとして……っ」
下まで3メートルとちょっと。
他人事なら小さな距離も、
直面するとゾッとする。
【こより/???】
「だめだめ、こんなのだめ、死んじゃう、落ちちゃうとれちゃうぅう」
【智】
「お、おちついて、はやく、何か掴んで!」
【こより/???】
「ぎゃぎゃぎゃーーーーんっ」
聞こえてない。
スケートで壁を蹴った。
魔法の靴が空回りする。
ローラーはまずいよね、
こういう場合。
バランスが、崩れた。
僕にしたって、どだい女の子ひとり支えられる姿勢では
なかったわけで。
【こより/???】
「――――っ」
【智】
「――――っ」
今度こそ落下。
【こより/???】
「は、あ、あれ、生きてる……わたし生きてる……!」
【智】
「あれくらいの高さだと簡単には死にません」
【こより/???】
「あぁ、生きてるって素晴らしいです……」
聞いてない。
下まで落ちればそこは裏路地。
裏の裏までやってくれば
ネオンも雑踏もとっくに彼方。
街の不純物とゴミの混じった腐敗臭と
こびり付いた汚れのせいで、ひときわ暗い。
空。
あそこから落ちたんだ……。
ほんの3メートルぽっちの高さの場所が、
上から見下ろしたときよりも遠かった。
【こより/???】
「ふにゃ」
頭の上からウサギっこが顔を寄せてきた。
【智】
「うわっ」
【こより/???】
「さっきの通りすがりの悪い人」
【智】
「通りすがりだけど悪くないひとです」
【こより/???】
「嘘つきです。わたし、騙されました!」
丸い眼を細めて、糾弾。
【智】
「生きるってコトはね、時には残酷な行いに手を染めなければ
いけないってことなんだ」
【こより/???】
「詭弁だ」
【智】
「方便といってください」
【こより/???】
「でも、助けてくれたんですね。
あそこから落ちて、もうダメって思ったのに……」
【智】
「いいひとですから」
【こより/???】
「……センパイは、わたしを捕まえてとても言えないようなことをするつもりなのですか?」
【智】
「なぜ先輩」
【こより/???】
「年上っぽいので」
【智】
「安易だなあ」
【こより/???】
「悩みを捨て去る、あんイズムを信奉中であります」
【智】
「苦悩は人生の糧だから大切にね」
【こより/???】
「クリーニングオスするッス」
【智】
「クーリングオフです」
【こより/???】
「みゅん……」
【こより/???】
「おっと、それよりも!」
【智】
「なによりも?」
【こより/???】
「助けてくれたのですね」
【こより/???】
「あまつさえ、不肖鳴滝(なるたき)めの身代わりに、下敷きになってくださったですね」
【智】
「…………」
尻に敷かれていた。
女性上位……。
ちょっとエッチだ。
この場合、僕も女性なんだけど。
形式上、彼女を助けたことになるらしい。
偶然のたまものだけど、
告白して感動巨編に水を差すのは止めておく。
真実は僕の心だけにしまっておこう。
【智】
「ウサギちゃんの可愛い顔に傷がついたら大変だものね」
優雅に、ウサギちゃんの乱れた髪を整えてあげる。
日々積み重なる方便の山。
【こより/???】
「きゅーん!」
【智】
「なにそのリアクション?」
【こより/???】
「感動してます」
【智】
「ごめん、でも、僕はもうだめみたい」
【こより/???】
「死んじゃだめ、死なないでセンパイぃ!!」
【智】
「無茶をいわないで。生まれてきたものはいつか死んでしまう。
でも、それは辛くても悲しいことじゃない。僕は来たところへ
帰るだけなんだから……」
【こより/???】
「らめ――っ」
涙ながらにすがりつかれた。
おもむろに身体を動かしてみる。
痛みはあるけど大きな怪我はなさそうだ。
わりと丈夫な我と我が身。
【智】
「そっか、下に何かあったんだ」
天然クッションのおかげで無事だったらしい。
二人で下敷きにしていた。
見知らぬ男だった。
気絶している。
【智】
「…………」
【こより/???】
「…………」
顔を上げた。
目の前にいた。
見知らぬ女の子だった。
大きいのと小さいの。
【こより/???】
「センパイ」
【智】
「なにかしら、あー、花子ちゃん」
【こより】
「花子ではありませぬ、鳴滝(なるたき)こよりです」
【智】
「じゃあ、こよりちゃん」
【こより】
「なんだかとっても投げやりですっ!」
【智】
「今はそんなこと問題じゃないと思う」
【こより】
「そうです。そうなのです。センパイ!」
【こより】
「……これって、もしかするとやらかしてしまったのでは?」
【智】
「やらかしたには違いないですが」
後ろにもいた。
見知らぬ男どもだった。
大きいのと小さいの。
腐肉をあさるのを邪魔された
ハイエナみたいな顔で、呆気にとられている。
男たちは早口に言葉を交わしていた。
【こより】
「なんていってるですか」
【智】
「中国……んと、広東語……かも」
【こより】
「センパイはバインバインです」
【智】
「たぶんバイリンガル」
【こより】
「そうッス、それッス」
大げさに感心して手を叩く。
緊張がほぐれたせいか、
ウサギっこの挙措は一々ハイだ。
【智】
「実はテンション系だったんだ」
驚きの新事実。
【こより】
「侮辱です。
不肖鳴滝め、常日頃から常住坐臥に真剣本気であります!」
【智】
「それはそれでタチが悪い」
【こより】
「それよりも何よりも、センパイ、ガイコク人間さんの言葉が
おわかりになるデスか?」
【智】
「言葉には気をつけてね。最近いろいろ厳しいから」
【こより】
「大丈夫ッス、カタカナですし」
【こより】
「そんでバイリンガルなのですね!」
【智】
「わからないから当てずっぽう」
【こより】
「わたしの感動を返してください」
【智】
「真実はいつだって残酷なんだ。
誰も皆そうやって大人の階段を上っていくの」
男どもからの敵意が痛い。
いやんな予感が止まらなかった。
言葉がわからなくても察しがつく。
こんな人気のない場所で、女の子を取り囲む理由は、
自己啓発セミナーの勧誘や新聞の販売ではないだろう。
【伊代/???】
「あ、あなたたち、早く逃げて!」
【こより】
「センパイ、なんか逃げろ言われてます」
【智】
「ニブチンは幸せに生きるための要諦ですね」
【こより】
「ふむふむ、勉強になるです」
【智】
「……これだもの」
いつの時代も天然ものは強い。
自然の素材が作るうま味に養殖ものでは対抗できない。
【こより】
「これとは、どれでありますか?」
【智】
「とりあえず、前かな」
男どもを刺激しないように立ち上がる。
早くても遅くてもいけない。
即席の後輩を、後ろ手で、
姉妹の方へおいやった。
不満げな顔のウサギちゃんに一瞬注意を向ける。
突っかけられた。
男は場慣れしていた。
素早い。右の手首を掴まれる。
背中にヒネリあげられたら勝負がつく。
多対一。
現実はシビアだ。
ドラマや映画のような鮮やかさはない。
反射的に足を払う。同時に腕を引く。
重心を失った力学が、
掴んだ手を軸に男の身体を半回転させる。
背中からコンクリートに落ちた。
【こより】
「おおー、センパイすごいっス! ミス拳法!」
ただの護身術です。
【智】
「ダメ、全然ダメ」
【こより】
「えー、すごいッスよ」
空気が変わる。
針のような敵意。
相手が女ばかりだと油断してる時が、
最初で最後の好機だったのに。
やるときは確実に、徹底的に。
半端に手を出すのは。
【男】
「…………ッ」
男が左肩を押さえて立ち上がる。
目つきが変わった。
【智】
「――――奥は?」
【こより】
「袋小路になってます」
【智】
「こまるよ、そんなことじゃ」
【こより】
「まったくっス」
これで逃げる選択肢はなくなった。
目の前の二人を何とかしなければ。
二人を引きつけられないか。
時間を稼ぐ方法はあるか。
他に仲間がいたらどうしよう。
【男】
「――――っ」
早口の異国の言葉。
意味不明な言語が断絶を色濃くしていた。
ポケットに手をつっこんだ。
刃物――――
【智】
「まずいかも」
身構える。
【伊代/???】
「……ッ」
ウサギっこより先に、
後ろの姉が言葉の意味に反応した。
きれいな眼鏡っこだ。
整った目鼻立ちは、花鶏と違って、
外に向かう華やかさには欠けている。
【伊代/???】
「だ、だから、早く逃げてっていったのに!」
叱る口調が背中から飛んでくる。
叱責の内容が「逃げなかったこと」だというのに、
状況を忘れて微苦笑がもれた。
【こより】
「逃げられる状況じゃ無かったッス」
【伊代/???】
「そ、そうだけど……っ」
【伊代/???】
「でも、そ、そうよ、それならわざわざ降ってこなくたって!」
【こより】
「事故だったッス」
【こより】
「不幸な出来事だったッス。でも、運命の出会いッス!
不肖鳴滝は、センパイオネーサマとの出会いのために
生まれてきたと知りました!」
【智】
「それはどーだろう」
【こより】
「うわ、ものすごく、つれないです!」
【伊代/???】
「な、なんなの、いったい……あなたたち……」
【茜子/???】
「……」
姉は常識的な反応が微笑ましい。
妹の方はちょっと変だ。
怯えてるのでもないし、
悲鳴をあげるでもない。
起伏の乏しい、大気めいた存在。
切りそろえられた前髪のせいで精緻な人形の印象がある。
【智】
「――――」
爪先が砂利を踏みにじる音。
男たちだ。
途端に空気が冷えた気がした。
腹腔に差し込まれるような、底冷えのする冷気。
どぎつい悪意が向けられる。
刃物と同じ見ただけでそうと知れる剣呑さを感じ取る。
さっきまでとは違う。
女と甘くみていない。
【智】
「……ッ」
温情のない、は虫類に似た目つき。
暴力の扱いに慣れた気配を身につけている。
【男】
「……」
顎をしゃくって、
一人が指示を出す。
無言で進行する事態が、
手慣れた具合を思い知らせる。
冷静に対処しても、しきれるかどうか。
相手が笑っている。
暖かみがなく、胸の悪くなる顔だ。
逃げる方策を練る。
逃走経路がない以上。
どうにかして、突破、しなければ。
せめて、後ろの三人を――、
【るい】
「どぉりゃあああああああああああああああ!!!」
るいが上から落ちてきた。
【るい】
「お・ま・た・せ!」
すっくと立つ、るい。
ぶい。
【智】
「――――」
呆気にとられて、口もきけない。
男二人は、るいの足下で転げ回っていた。
落下ではなく突撃だった。
雪崩式ラリアート。
無事ではすまない。
【るい】
「いんやあ、智ちん、やばかったねえ。上から危機一髪シーン目撃した時は、どーしようかと思ったよ。ま、発見したのはあのヤローだったんだけど」
頭上から、
花鶏が優雅に手を振る。
【るい】
「エロ魔獣もちったー役にたったわな」
【智】
「……助かった。いや、それよりも――」
【るい】
「んん〜?」
上から下まで。
るいを目線で辿る。
見る限り怪我はない。
【智】
「大丈夫? どっかぶつけてない? 折ったりは? 打ち身は
あとから来るけど――――」
【るい】
「なんだぁ、心配してくれたんだ」
【るい】
「これぐらい平気平気。るいさん、鋼の乙女だから」
【智】
「でも」
【るい】
「ちょ、ちょっと、顔こわいよぉ」
詰め寄る。
何事もない高さじゃなかった。
【智】
「!」
後ろだ。
男の片方が半身を起こしていた。
引き抜かれた手には小さな折りたたみのナイフ。
危険が膨れあがる。
ただの激発とは違う、
鋭利な指向性を持った憎悪。
意識と判断の隙間に滑り込む速さで、
無音の殺意が、るいの死角から閃い――――。
その顎先へ、コマ落としめいた、
旋回の遠心力をのせた爪先が合わさる。
【男1】
「ガッ」
路地の狭さを苦ともせず、
高くしなやかに上がる、るいの足。
かかとは肩より高かった。
敵意を扱うにも慣れがいる。
扱いかねれば沸騰する。
過剰にやりすぎるか、
それとも行為そのものに怯えて萎縮する。
刃物を突きつけられれば、
小さなものであれ、誰しも容易に冷静さを失う。
るいの敵意はぶれなかった。
牙のように冷酷に。
技術や体系を感じさせる動作ではないのに、
人体の最適解に基づいた挙動だ。
本能に訴える美しさだ。
蹴りこんだ瞬間はついに見えず、
男がビル壁に叩きつけられた姿だけで結果を知る。
【るい】
「平気っしょ?」
るいは汗一つ浮かべていない。
余裕ありあり。
男はぴくりとも動かなかった。
【こより】
「おー、すっごいッスッ!!」
【るい】
「まね」
素直すぎる称賛と返答。
複雑な安堵の息をつく。
【るい】
「そんで、なんで危機一髪?」
【智】
「それよりも……」
【るい】
「なによりも?」
【智】
「まず、こっから逃げ出そう」
【智】
「突き詰めると世の中は確率的なんだよね」
【るい】
「トモが呪文を唱えた……」
【こより】
「大丈夫であります! 不肖鳴滝めがかみ砕いて解説すると……」
【智】
「すると?」
【こより】
「つまり、世の中確率的ってことです!」
【伊代/???】
「かみ砕いてないわよ」
【こより】
「おううう……」
【智】
「要するに残酷な偶然の神様が支配してること」
【智】
「道ばたで1億円拾うのも、突然事故で大けがするのも、生まれてくるのも、死んじゃうのも」
【伊代/???】
「ただの偶然?」
【花鶏】
「つまらない考え方ね」
【るい】
「なんだと、エロ魔神」
【花鶏】
「エロは関係ないでしょ」
【智】
「花鶏は?」
【花鶏】
「わたしは運命を信じるわ」
【るい】
「乙女エロだな」
【花鶏】
「……だから、エロは関係ないでしょ、エロは」
【こより】
「運命って運命的な響きッス」
【伊代/???】
「……いやいや、それはどうなのよ」
【茜子/???】
「…………」
【智】
「運命があるなら、今の状況も運命?」
【花鶏】
「そうね。必然の出会いだったかも」
【智】
「是非とも道を示して欲しい」
【花鶏】
「つまらないことをわたしに訊かないでちょうだい」
【智】
「他に誰に訊けばいいのよ」
運命はどこいったんだ?
【花鶏】
「運命はね、自ら助けるものを助けるのよ」
【智】
「運命って厳しいんだね……」
要約するなら。
取っかかりは偶然だったらしい。
【伊代/???】
「わたしたち、別に姉妹じゃないから。だって別に似てないでしょ」
【智】
「それは……まあ、そうかな。あの、えーっと……」
彼女の名前は。
【智】
「名前、まだ……」
【伊代/???】
「これ」
わざわざ学生証を差し出された。
県下で有名な進学校だ。
見せびらかしたいんだろうか?
白鞘(しらさや)伊代(いよ)。
それが彼女の名前。
彼女が妹(嘘)とぶつかったのがそもそもの始まりだ。
見たときは追われていた。
どうみてもか弱く、
どう見ても逃げ切れそうになかった。
気がついたときには、
伊代は手を引いて走り出していた。
【るい】
「なんで?」
【伊代】
「だ、だって……っ」
目線を外した。
言葉にしにくそうに唇を噛み、
膝の上で組み合わせた手を何度もにぎにぎしている。
【伊代】
「……ほっとけなかったから」
不器用な返答。
【智】
「いいやつ」
【るい】
「いいやつだ」
【こより】
「いいやつッス」
【伊代】
「ッッッ」
伊代は赤信号のように点滅する。
居心地悪そうにしきりと眼鏡を直す。
田松市三区にある進学校の制服に詰め込まれているのは、
思いの外の正義感と不器用さだった。
委員長っぽい外見だと思ったら、
本当にそういうキャラらしい。
【智】
「正義派委員長純情派」
【伊代】
「……別に委員なんかしてないわよ?」
【智】
「素で返されましても」
【茜子/???】
「甘ちゃんさんは早死にするのです」
しんと場が冷める。
【こより】
「……容赦ないッス」
こっちの方は、普通に名乗った。
【茜子】
「茅場(かやば)茜子(あかねこ)」
ことの発端の方は、
どうにも一際の変わり種だ。
白い肌、そろえた前髪、無表情。
気配の薄さが、
見た目の人形っぽい雰囲気を強くしている。
小柄なこともあって、
最初はうんと年下かと思った。
実は二つばかり離れているだけだった。
芸は、毒舌、らしい。
おまけに、いつの間にか不細工な猫を抱えていた。
どこから生えたんだろう。
【花鶏】
「お人形かと思ったら意外に言うわね。無口なのより、
ずっと可愛いわ」
【るい】
「……とって食うんじゃないだろな」
茜子は、口が悪かった。
他人の反応をちらりと確かめる。
伊代は、舌鋒を気にした様子もなかった。
【茜子】
「私の戸籍上のファーザーが」
【伊代】
「義理のお父さん?」
【茜子】
「リアルファーザーです」
【るい】
「なんで但し書き?」
【茜子】
「縁切り終了済みです」
茜子の父親は借金を作って逃げ出した。
多重債権で首が回らなくなり、
家族を捨てるに至るまでは、ほんのひとまたぎ。
茜子は施設に送られた。
そのまま終わっていれば、
よくある不幸な話で済んだ。
不幸は、得てして次の不幸を呼ぶ。
呪いのように連鎖する。
不幸に陥ったものは、
そこから抜け出そうとあがく。
あたりまえに。
世界は気まぐれだ。
同時に無情に公平だ。
不幸を気遣ってはくれない。
不幸に陥ったものが、
不幸から抜け出すのは、
不幸であるが故に難しい。
焦る。
追い詰められて賭に出る。
ギャンブルで破産したものが、
最後の大ばくちと大穴に賭けるように。
当たり前に失敗する。
呪いだ。
茜子の父親は、呪いを踏んだ。
【茜子】
「あの人たちのお金がどうとか、持ち逃げしたとか、面子が
どうとか。面倒なので聞き流しました」
茜子にも飛び火した。
断片を聞くだけでもろくでもない火の粉だ。
【智】
「笑えない」
【るい】
「ま、父親なんてそんなもんよ」
こちらも一刀両断にする。
【智】
「あてにならないのは認める」
【花鶏】
「親はなくても子は育つ」
しみじみと、共感めいた空気が流れる。
【智】
「……あんまり嬉しくないよね、こういうのの共感は」
【るい】
「考えてもしかたないっしょ。泣いても笑っても親がアレでも、
私らみんな生きてるんだもん。生きてる以上はたくましく
生き抜くの」
【花鶏】
「珍しくも正論ね」
【るい】
「珍しいいうな」
【智】
「あんまり女の子っぽくないのが」
僕の幻想の残り香が五分刻みにされる。
うれしくない。
【るい】
「女は度胸」
【こより】
「センパイッ!」
【智】
「はい、こより君」
びしっと手が上がる。
鳴滝こより。
追われて逃げて捕まったウサギっこ。
小柄だった。
茜子よりもちっこくて細い。
最初は子供かと思ったけど、よく見れば細く伸びた足に色気の
片鱗くらいはうかがえる。
ウサギというより子犬のようにうるさかった。
無駄に元気が余っている。
小動物系とカテゴライズするのは卑近(ひきん)な気がする。
【こより】
「これからどうするでありますか!」
【花鶏】
「そうよ、もう逃がさないわよ!」
【こより】
「は、はひゃ」
花鶏が睨む。こよりがびびる。
猫とネズミの果たし合いっぽい力関係。
【るい】
「いいじゃない、そんな細かいこといちいち」
【智】
「……さすがにそれは大雑把すぎだよ」
るいは追いかけた理由も忘れていた。
【智】
「とにかく、逃げ出して落ち着くまでは一時休戦で」
【花鶏】
「休戦条約が多いわね」
【智】
「戦争は外交の手段です」
【花鶏】
「……ふん」
【伊代】
「それで?」
【智】
「なんとか、全員で、この場を逃げだす」
【花鶏】
「――でも」
花鶏が眉間に皺を作る。
そうだ。
現場を逃げ出した後、好きこのんで、
こんな場所に隠れ潜んだのは理由がある。
こんな場所……。
恥かしいので残念ながらお見せできませんが、
実は、その手のホテルなんです。
でっかいベッドとかあって。
すごく安っぽい作りになっていて。
シャワーとかテレビとかもあったりして。
皆、意識しないように目を逸らし合ったりしてるので、
一種独特の緊張感があったりします。
見ず知らずの男女が、あんなことやこんなことをしてるベッドとかお風呂がすぐ隣にあると思うと。
【智】
「まず、ここを早く出たいよね……」
さて、ここに逃げ込んだ理由。
さっきのヤツの仲間が、
僕らを捜していたからだ。
それらしい連中を見掛けた。
この一帯の歓楽街には日本人以外にもいろんな人種が入り
込んでいて、どいつもこいつも複雑なコミュニティーを
作っている。
部外者で一般人で、おまけにお嬢様系の僕の耳にも、
そういう噂が届くくらい、街の裏側の事情は物騒だ。
できれば一生関わり合いになりたくない。
茜子の父親が手を出したのは、
そのうちの中国人系グループのひとつらしい。
不良あがりのチンピラの機嫌を損ねたのとはわけが違う。
【るい】
「ぶちのめして突っ切っちゃえば」
【こより】
「ひぃ」
【伊代】
「女の子が無茶なこと言わないっ」
【智】
「なんでそんなに荒っぽくしたいかな」
【花鶏】
「脳みそ筋肉」
【るい】
「なんだと、エロス頭脳」
【花鶏】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉み合いに。
【智】
「なぜ揉めるのか」
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。この人たちはだいぶ頭悪いです」
【智】
「うん」
【伊代】
「いやそれ否定してあげなさいよ?」
【こより】
「センパイ!」
【智】
「はい、こより君」
【こより】
「警察さんとかのお世話になるのはいかがッスか!?」
【花鶏&るい】
「いやよ」「反対!」
揉み合いの途中で固まって、
そろって反対意見を出す。
妙なところでだけ息が合う。
【茜子】
「却下です」
【こより】
「茜子ちゃんもッスか!」
【るい】
「私、家出少女なんだかんね。家に連れ戻されたらやっかいでしょーがないつーの」
【花鶏】
「貴方の都合なんてしったこっちゃないわ」
【るい】
「ほほう」
【るい】
「んなこといって、あんただってヤなんじゃない。そういうのをね、同じ穴のムジナっていうんだよ」
【花鶏】
「わたしは、ああいった連中の力を借りるのが気にくわないだけよ。プライドの問題。エレガントではないわ」
【花鶏】
「追われて逃げ回るネズミのよーな、あなたと一緒にされては困るわね」
【るい】
「エレガントつーよりエレキングみたいな顔してるくせに」
【花鶏】
「意味はわからないけど馬鹿にされてるのはわかるわ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
さらに揉み合いに。
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。この人たちは犬猿(いぬさる)です」
【伊代】
「あなたはどうして?」
【茜子】
「…………」
【茜子】
「施設に戻りたくありません」
【伊代】
「戻りたくないって……」
【伊代】
「その、行くあてとかは……?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「あなたは、なにか考えある?」
【智】
「智でいいよ」
【伊代】
「…………」
【智】
「どうしたの?」
【伊代】
「と……いやいやいきなり名前なんて、変よ! うん。こういうのは少しずつ馴染み合って互いに親睦を深め合った結果に生まれる関係であって……」
【智】
「つまり僕らは仲間でもなんでもないぜ?」
【伊代】
「ご、ごめん! そういうんじゃなくて、ないんだけど」
【智】
「焦るところ、可愛い顔」
【伊代】
「…………」
【智】
「ひかないでください」
【伊代】
「……そういう趣味の人じゃないよね?」
警戒される。
【智】
「いいがかり」
【るい】
「そういう趣味のひとはこっちのエロガントだ」
【花鶏】
「差別発言で訴えるわよ」
【るい】
「警察はエレガントじゃねーじゃないのかよ?」
【花鶏】
「それはそれ、これはこれ」
【伊代】
「……なんて心いっぱいの棚」
【こより】
「?」
【茜子】
「…………」
おちびの二人は状況が飲み込めてない。
【智】
「……?
ああ、この制服、知ってるんだ」
【伊代】
「そりゃあね。地元じゃ有名どこだし。
駅のこっちがわに来るようなひとじゃないんでしょ、あなた」
【智】
「厳しい学園だから、ばれたら即コレものじゃないかな」
すっぱりと首を切る手つき。
【智】
「でも、伊代も結構な進学校なんじゃ」
【伊代】
「ん、まあ、そうかな」
【智】
「厳しいところ?」
【伊代】
「繁華街には出入り禁止」
【るい】
「ありがち」
【伊代】
「後はネットも毛嫌い。
うちの学園、一昨年晒されて風評被害被ったからって」
【こより】
「あ、それ覚えてるッス!」
【智】
「教師の体罰問題だっけ? 風評だったんだ」
【伊代】
「事件は本当にあった。内情暴露がアップされたりで、先生何人かいなくなったりもしたし。ただ、余計な風評も多かった。個人情報流されたり」
【智】
「熱しやすく冷めやすいのがネットってやつで」
【るい】
「ネットってよーわからん」
【こより】
「るい姉さんは掲示板とか見ない口ですか?」
【るい】
「そもそもしない」
【智】
「回線もなさそうな家だったねえ」
【花鶏】
「原始人」
【るい】
「てめえが燃やしたんだろ」
【花鶏】
「いいがかりはやめなさい」
【伊代】
「こら、もー、揉み合ってないで!」
【智】
「すごく委員長っぽくてグー」
【伊代】
「わからないこと言ってないでよ……」
【智】
「とりあえず、逃げ出す方法を考えよう」
【伊代】
「あなたも警察とか嫌いなひとなんだ」
【智】
「好き嫌いよりは、やっぱり他人だからね」
【伊代】
「…………?」
治安機構の目的は治安を維持することで、
個人の事情を万全には斟酌(しんしゃく)してくれない。
権力の本質は暴力だ。
暴力的でなければ治安の維持など不可能なのだから。
個々の自由を切り売りすることが、
つまりは平穏無事な毎日の正体だ。
最近では線引きの問題も複雑怪奇になる一方。
立ち入り過ぎれば叩かれ、
手遅れになれば責められる。
個人の権利問題が絡むとさらに厄介になる。
解決すべき問題はそれこそ無数に生じるくせに、
人手というリソースは有限で、ともすれば叩かれさえする。
及び腰にもなろうというものだ。
【伊代】
「あてに出来ないってこと?」
【智】
「どれくらい関わってくれるかわかんないし、一時的にどうにかなっても長期的には無理だし、相手の神経逆撫でして余計な恨みかっても守ってくれないし」
何よりも。
【智】
「個人的に学園のこともあるし、警察沙汰って避けたい」
それが一番の理由で。
【智】
「ついで、さっき3人ほどのしちゃったでしょ」
【こより】
「すごかったッス」
【伊代】
「そうねぇ」
【智】
「表沙汰になると、のした連中につけ込まれるかも」
【伊代】
「…………」
【こより】
「でも、あれって正義の味方ッス。
悪い奴らをぶっ飛ばしただけじゃないですか!」
【智】
「世の中ってよくも悪くも公平だしね」
【伊代】
「つまるところは……」
【るい】
「自分の身は自分で守れってことじゃない」
ソファーでごろごろしながら、るいが一刀両断にした。
【花鶏】
「最低の気分だわ」
【るい】
「それはすごく嬉しいぞ」
【花鶏】
「あなたと意見が一致するなんて、
わたしの人生における最大の汚点だと思う」
【るい】
「人生この場で終わらせるか、この女」
【伊代】
「……ごめん」
【智】
「なにが?」
【伊代】
「…………」
【伊代】
「あなたたちに、とんでもない迷惑かけてる」
伊代は恐縮しきっていた。
いよいよ本格派委員長気質というやつか。
【智】
「……別に伊代の責任じゃないよ」
【伊代】
「でも」
【茜子】
「でももなにも、あなたは悪くありません」
【茜子】
「頭が悪かっただけです。
私なんかを助けたからこんなことになったのです」
【茜子】
「犯人は私でした。情けは人のためではなくて、自分のために
使いましょう。そんなことも気がつかないニブチンさんなので
人生の勝利はおぼつかないのです」
【茜子】
「判断ミス、ザマー」
【伊代】
「…………」
無表情に、茜子が笑う。
透きとおった、硬質なのに、
輪郭の曖昧な笑い。
【茜子】
「そういうわけなので……」
【茜子】
「……別に……そのひとは……悪くないです……」
それなのに、最後だけが、たどたどしい。
目眩がするほどの、純朴さ。
おかしかった。
【るい】
「ぷぶっ」
我慢できずに吹き出した。
るいだった。
【るい】
「くくくくく」
収まらないで笑い出した。
沈みかけていた空気が弛緩する。
救われた、と。
なぜか、思う。
【るい】
「平気平気、るいさん正義の味方だから、このくらいなら迷惑でもなんでもない」
るいらしい、
何一つ考えていない思いつきの返事。
頼もしい。
【花鶏】
「……わたしは、困ってる女の子には手を差し伸べる主義だから」
【智】
「僕の時は、手を差し伸べてくれませんでした」
【花鶏】
「その代わり唇を差し伸べたわ」
【智】
「……そうですか」
つくづく、僕は僕が可哀想だ。
【こより】
「…………」
【智】
「なんですか」
【こより】
「なんか……えっちい会話をしてる気がするであります」
【智】
「他意はありません(嘘)」
【こより】
「そんで、センパイはどーするですか」
【智】
「こよりんはどうしたいの?」
【こより】
「不肖、この鳴滝めはセンパイオネーサマと一心同体。一度は
捨てたこの命、生まれ変わった不死身の身体、地獄の底まで
おともする覚悟であります!」
【智】
「不死身ない不死身ない」
【こより】
「心意気だけ不死身なのです」
【智】
「正直でよろしい」
【智】
「それじゃあ」
【智】
「逃げ出す算段をしましょうか」
【こより】
「さーいえっさーっ!」
【伊代】
「あんたたち…………」
【智】
「細かいことは気にしなくていいよ。いやなら最初から見捨てて逃げ出してる。乗りかかった船には最後まで乗るのが趣味なんだ」
【伊代】
「……火傷しやすいタイプだったんだ」
【智】
「それで伊代の気が済まないようなら」
【智】
「貸しにしとくから、今度返してください。精神的に」
【伊代】
「…………」
言葉を探していた。
【伊代】
「……ありがとう」
結局は、まっすぐなものを選んだ。
返事を考えて。
笑む。
余計な装飾のない笑顔。
伊代が、ぎこちなく口元をほころばせた。
初めてみる表情。
【智】
「伊代は、笑ってる方がずっとかわいい」
【伊代】
「…………あなたは」
【智】
「なぁに」
【伊代】
「男だったら、きっと、ずるい男になってたと思う」
【智】
「むう」
複雑な感じにダメージを受ける。
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。あなたがたはどいつもこいつも
阿呆生物です」
【花鶏】
「どうだったの?」
【智】
「だめ」
【伊代】
「本当にいるの? どれがそうなの?」
【るい】
「あれ。
そういう臭いがする」
【こより】
「わかんないッス」
【花鶏】
「臭いでわかるなんてケダモノね」
【るい】
「役に立たないヘンタイ性欲よりマシだよ」
【花鶏】
「――ッッ」
【るい】
「――ッッ」
【茜子】
「いつもよりたくさん揉めております」
【伊代】
「だー、かー、らー!」
【智】
「おやめなさいって」
【花鶏】
「――――ッ」
【るい】
「――――ッ」
【るい】
「ん、ちょっとお待ちッ」
るいは、がしがしとぶっていた。不意に顔つきが変わる。
お尻に蹴りを入れていた花鶏が、その視線を追う。
【花鶏】
「なによ!?」
【るい】
「動いた……ッ、ばれた!
こっちへ、急いで」
【茜子】
「はぁ、はぁ……はぁ……」
【伊代】
「ひぃ……うひぃ……っ」
【こより】
「皆さん、お疲れしてますね」
体力底なしのるいの他は軒並み顎をだしている。
ひとり、こよりは元気がいい。
【伊代】
「しゃ、車輪付いてると楽そうね……」
【こより】
「コツはいるですよ」
【るい】
「あ〜、う〜」
るいがしゃがみ込む。
がっくり。
肩を落として尻尾を下げた負け犬の風情を漂わせる。
【花鶏】
「何事よ? 地雷でも踏んだの?」
【伊代】
「ここは、どこの前線なのよ……」
【智】
「……お腹減ったんだ」
【るい】
「みゅー」
涙目になっていた。
夕飯抜きで逃避行。
常人の3倍燃料効率の悪いるいにしてはよく保った。
【花鶏】
「お腹減って動けなくなるなんて、あきれるわね!」
力尽きたるいを高いところから傲岸不遜に
見下ろしつつ、力一杯花鶏は呆れる。
【るい】
「おぼえてろー」
すでに敗残兵の遠吠えだ。
【茜子】
「人生勝ち負けのひとたちを発見しました」
【こより】
「……現代の蛮族だ」
【智】
「さ、立って立って。もうちょっとだけがんばって無事に抜け出したら、たくさんご飯食べさせてあげるから」
【るい】
「…………ッ」
あれ、妙な反応?
【花鶏】
「でも、どうやって? どこでも目が光ってる。逃がしてくれそうにない」
【伊代】
「制服だし……」
【智】
「目立つよね」
【智】
「さてと、土地勘も人数も向こうの方が上だから」
【伊代】
「そんな簡単に……」
【智】
「まず事実を認めてから対策を」
【茜子】
「では、対策を。見事なヤツを」
【智】
「鋭意努力中だよ」
【茜子】
「ガギノドンに真空竜巻全身大爆発光線を喰らってくたばれ」
【智】
「その猫、そんな大技あるんだ」
【伊代】
「まぁ、代表は誰でも叩かれるものよね」
【智】
「総理大臣みたいなものか……というよりも、いつから代表?」
【伊代】
「パーティーの引率役」
【智】
「アルケミスト一人くらいいるといいかも」
【こより】
「洞窟行く前に穴掘りからッス!」
【智】
「もう少し安くなると嬉しい」
【花鶏】
「なんの話を」
【こより】
「ネトゲですです」
【智】
「ワールドオーダー、おもしろいよね」
【花鶏】
「低俗な娯楽に耽溺して」
【智】
「では、真面目に。どうしましょう」
【るい】
「やっぱり、ごはんのためには突破しか」
目つきが危険だった。
瞳の奥の水底に、手を出せば噛みつきそうな剣呑の色を揺らめかせている。
【智】
「戦争は最後の手段で」
【花鶏】
「知性派でいけそうなの?」
【智】
「国境地帯が紛争中」
【伊代】
「わたしたちが紛争当事者……」
【智】
「外国にぜひとも仲介役を」
【るい】
「外国って誰さ」
【智】
「そこが問題です」
【こより】
「どこッスか?」
【智】
「ここだよ、ここ」
【こより】
「??」
【伊代】
「……今そこにある危機にぼけなくていいから」
伊代のため息。
現実の重さを笑いで誤魔化す。
差し迫ったときにこそ冷静さが必要だ。
深呼吸して顔を再確認。
僕をいれて6人。
【こより】
「どったですか?」
【智】
「……ん、なんでもない」
ほうけていたのに、
目ざとく見つけられていた。
ささやかな驚き。
細かいことに気の回るタイプとは思わなかった。
知らなければ見えない、
知りあわなければわからない、
意外な部分は誰にでもある。
【智】
「だから、ホントになにもありません」
【こより】
「ん〜?」
疑っていた。
鼻先の触れそうな距離までしかめ面を寄せる。
【こより】
「ッッッ!」
真っ赤になって跳び退く。
【智】
「どうかした?」
【こより】
「えあ、いや、その、あー、なんといいますやら」
【こより】
「センパイの唇がすっごくやわらかそうで……」
【智】
「………………」
【伊代】
「だから、そっちの趣味はやめなさい、悪いことはいわないから」
【花鶏】
「新世界は見果てぬ楽園かもしれないわよ」
【るい】
「……魔界だっつーの」
【こより】
「はや?」
理解していない、こよりだ。
表情は万華鏡のようにくるくると変わる。
目を離した隙に違う顔をする。
見飽きない。
【智】
「こういうの……」
【花鶏】
「なによ?」
むず痒さにも似た感覚。
居心地がいい、というのか。
昨日今日であったばかりの、ろくに知りもしない誰かと、
こうして手を携えて危ない橋を渡りながら。
【智】
「馬鹿みたいだ」
【花鶏】
「はぁ? 何をすっとろいことをいってるの。危機感が足りて
いないわよ」
おしかりに尻尾を丸める。
【智】
「……とりあえず移動しよう。
人気のないところはかえって危険だし。
路地の多い西側からなら抜けられるかも」
先導する。
足音がついてくる。
確かな歩みに反比例して、不安の種が疼く。
自分の足跡を誰かが辿る。
怖い。
はじめての、意識。
自分の失敗は、全員の失敗へと伝染する。
病のように。呪いのように。
触れれば穢れていく。
靴底に入り込んだ見えない鉛が、
一歩ごとに重圧となって肩へ食い込んだ。
【智】
「……」
思い知る。
孤独は、自由でもある。
孤独でなくなることは、束縛されることだ。
【智】
「なに?」
【茜子】
「こーんな顔をしてました、ミス・不細工」
茜子が指で目尻をむにゅっと押し上げる。
狐顔――――酷い顔だ。
【智】
「……明日の実力テストの心配してた」
【伊代】
「無事に帰る心配しなさいって」
【智】
「それは大丈夫」
無理からの安請け合いのすぐ横を、
るいが抜けた。
【るい】
「こっちでいーんだよね?」
先頭に立つ。
【智】
「うん……」
【るい】
「よーし、いっちょいくぞーっ!」
気負いはない。
生まれながらの定位置のように。
ほんの少し自分の足の重さが消える。
重いものを、るいが肩代わりしてくれたんだろうか。
そんなふうに思うのはロマンチックが過ぎるか。
自分に小さく笑った。
肩で風切る、
るいの背を追いかける。
〔央輝登場〕
【るい】
「――――」
るいは立ち止まっていた。
【智】
「どう――――」
石段がある。
西側の高所へ抜ける、短く整備されたコンクリート製の
一段目に片足をかけたきり。
るいは精練されていた。
酷薄で鋭利な爪と牙で
武装した危険な駆動体。
威嚇の吠え声もあげずに睨む。
階段の頂きに少女がいた。
足を組んでいる。
石段に腰掛けているからだ。
【智】
「――――」
獣を幻視した。
階段の上に黒くうずくまった影は、
静寂と闇に充たされた森で出会う、
昔話の牙持つものに似ている。
人に一番近しい獣とよく似た姿をしているくせに、
危険と呼ばれ、外敵と見なされる。
剣呑な殺意を口の内側にぞろりと並べている。
そんな、獣。
彼女は睥睨していた。
【智】
「えーっと」
第一声。
【央輝/???】
「――――――く……くくっ」
うけた。
低く喉をならす。肩を軽く震わせて、
おかしくてたまらないというように。
こちらより高い位置だから判らなかったけれど、相手は随分と小柄で、見る限り年の頃もあまり変わらない。年下かもしれない。
【智】
「何かおかしかった?」
単刀直入に。
疲れで、頭を回すのが億劫だった。
【央輝/???】
「お前、自分でおかしいと思わなかったのか?」
【央輝/???】
「見ろよ。随分とうるさい連中が騒いでやがる」
今来た街の方へ顎をしゃくる。
【智】
「そうね、このご時世にマメな人たちだと思う」
【央輝/???】
「今夜は面倒事があったみたいだぜ」
【智】
「面倒事ならいつもあるんでしょ、この辺りなら」
ひゅう、と軽い口笛が応じる。
【央輝/???】
「やっぱりおかしなヤツだ」
【智】
「普通だよ」
【央輝/???】
「こんな騒ぎの晩に、こんな場所に、こんな人数でやってきて、
こんなにも呑気なやつをはじめて見た」
【花鶏】
「もっともだわ」
【茜子】
「このひと、きっと頭のネジが足りていないひとです」
【智】
「君らどっちの味方よ?」
ここまできてギャラリーにさえ嬲られる。
心底、僕は僕が可哀想だ。
【智】
「ところで、駅の反対の、平和なところまで帰りたいんだけど」
【央輝/???】
「普通に帰ればいい。街の中を通って」
【智】
「怖い人が多くて」
【央輝/???】
「誰彼構わず噛みつくわけでもないと思うぞ」
【智】
「そうなんだけど。気が弱くてか弱い女の子は、怖いところには
近づけないの」
くくっ、とまた笑われた。
【智】
「笑われるようなこと言ってるのかな」
【花鶏】
「5人に4人は笑うと思うわ」
【伊代】
「気が弱くてか弱い女の子は、そもそもこんなとこまで来ません」
【智】
「ごもっともです」
【智】
「それで、どっかに抜けられそうな場所があれば」
【央輝/???】
「――――なくはない」
【智】
「あるの?」
投げやりに聞いただけなのに、返答があった。
これって運命のもたらす救いの手?
蜘蛛の糸という気もヒシヒシしますが。
【央輝/???】
「聞きたいか?」
【智】
「うんうん、聞きたい」
【央輝/???】
「すると取り引きだな」
値踏みするような眼差し。
自分を上から下まで眺めてみる。
【智】
「見ての通り大したものはないんだけど」
交換は世界の原則だ。
質量がエネルギーに変わるように、
お金が今日の晩ご飯になるように。
【央輝/???】
「…………」
【智】
「なあに?」
【央輝/???】
「とぼけたヤツだな。こう言うとき、大抵のヤツはな、
幾らいるんですかって切り出すんだ」
【智】
「そういうのでよかった?」
お金がいるキャラには見えなかったので。
【央輝/???】
「いや」
引っかけ問題でした。
【智】
「どうしよう」
【央輝/???】
「つくづく妙なやつだ。いいさ、一つ貸しにしておく。
それで、どうだ?」
【智】
「…………ただより高いモノはない」
【央輝/???】
「道理を弁(わきま)えてるな。その通り。こいつは高い、高くつく」
【智】
「もう少しまからない?」
【央輝/???】
「バーゲンなら他を当たれ」
【智】
「せめてサービスを」
ちらりと後ろを確かめると、
どの顔も疲労の色が濃かった。
選択の余地は無さそうだ。
るいを見る。
一人だけ元気なるいは、
さっきから黙ったまま、
全身の毛を逆立てて警戒している。
純粋であることは感銘を与える。
世界は不純だからだ。
あらゆる要素は、生まれ落ちたその瞬間から、
不純物と結合を余儀なくされる。
観念と思索のうちにしか存在を
許されない完全なるもの。
理想としての純(じゅん)一(いつ)。
無限遠の距離が、
希求してたどり着けない人の心を、
感動で揺さぶるからだ。
るいは本能で世界を単純に色分けする。
敵と味方だ。
決まり切っていた返答を出すために深呼吸をした。
【るい】
「――――」
るいの足下で、砂利が踏みしめられる。
目つきが危険だった。
【智】
「一つだけ条件があるんだけど」
手を挙げて、発言する。
相手より、るいの機先を制する。
【央輝/???】
「言ってみろよ」
るいも、動きを止めた。
【智】
「…………僕が個人的に借りちゃうってことで、いい?」
【るい】
「トモ!」
【花鶏】
「あなた、何を勝手なこといってるの!」
【智】
「まあまあ」
【央輝/???】
「わかった、いいぜ。これはお前への貸しだ。あたしとお前の
個人的な契約だ」
【智】
「……そんで?」
【央輝/???】
「ここをまっすぐ行く。フェンスがあるから越える。右のビルの
隙間を抜けると昔の川だった場所が暗渠(あんきょ)になってる。そこを
抜けていけば、駅の反対にぐるっと回れる」
【智】
「了解っす」
先頭に立つ。
【伊代】
「ちょ、信用するの早すぎない!? もしも連中に――」
密告とかされたりしたら。
伊代が言葉の後ろ半分を飲み込む。
【智】
「その時は、強行突破しかないなあ」
【伊代】
「いい加減……」
どのみちどこかで賭けは必要だ。
【央輝/???】
「おい」
呼び止めて、投げつけられたのは、
ライターだった。
顔に飛んできたそれを受け止める。
オイルライター。結構いいヤツだ。
【智】
「にゃわ?」
【央輝/???】
「サービスが欲しいんだろ」
灯りの代わりということらしい。
【央輝/???】
「貸しを忘れるな」
【智】
「その件はいずれ。できれば精神的な方向で……」
〔バンド(群れ)になります〕
カーテンの隙間から光が差し込む。
安寧(あんねい)が揺すぶられ、今日も朝を迎えた。
いつものように。いつもと同じ目覚め。
一日の始まりに目に入ったのは。
おっきな、おっぱい。
【智】
「ッッッ!!」
るいが、人の頭を抱き枕に安眠していた。
タオルケットを蹴り飛ばす勢いで、
ベッドではなく床の上から飛び起きる。
るい、花鶏、伊代。
3人が床で川の字になっている。
自分を入れると字が余る。
足の踏み場もない惨状だ。
【智】
「朝…………」
ぼーっとする。
朝には、よく幻想の残り香が付きまとう。
甘美な夢の跡は、学園という現実的な
空間に閉じこめられて、ようやく消える。
夢は記憶の再構成という機能の余波だ。
断片に意味はない。
意味は夢を望むものが与える。
快楽にしろ、悪夢にしろ、現世では得難い幻想であるほどに
深く魂を捕らえて離さない。
【智】
「今日は、おせんちな朝だったり……」
おどけたふうに独りごち、
記憶の土壌を掘り起こす。
九死に一生を得た逃避行から一夜明け。
教えられた抜け道を通って駅の反対に出たころには、
時刻は深夜をまわり、終電もバスも尽きていた。
夜歩く体力も気力もすっかり底値。
鋭気を養う場所こそが必要だった。
しかたなく、最寄りで辿り着いたこの部屋に、
そろって雪崩れ込んで、死体のように朽ち果てたのだ。
花鶏流に言うなら、運命のもたらす必然のように。
【るい】
「んん、うむむ……」
悪戯心を刺激されました。
るいの寝顔を指でつつく。
【智】
「つんつん」
【るい】
「んにゅにゅ……」
無防備にすぎる百面相にしばし見入った。
大口を開ける笑い。酷薄な敵意。孤高。
どれもが、るいだった。
人間一人を構成する因子は複雑極まる。
るいが特別なんじゃなく、誰もがそうだ。
他に目覚める気配はない。
【智】
「女の子には、もう少し花のある情景を期待したいのです」
床に3人。
ベッドには、こより。
こちらは色気というより稚気である。
無防備な女の子が可愛いとは限らない。
茜子は孤独が好きらしくクローゼットの中に。
ちょっと意味不明だ。
異性に対して抱く夢想や憧憬(どうけい)。
異者だからこそ、あり得ない完全さを期待する。
そして、完全は観念の内にしかありえない。
過酷な現実に肩をすくめた。
起こさないように、のろくさと這い出す。
シャワーを浴びにいく。
【智】
「……誰か起きてきたら、やばい……かなぁ。
でも、昨日は一晩中走り回ったし、汗かいてるし……」
危険と秤にかける。
我慢はできそうにないや。
服を脱ごうと手をかけてから、
考え直す。
バスルームに持ち込んで脱いだ。
ワイシャツのボタンを外しかけたところで、一度も使ったことの
ないバスルームの鍵を落としておくことにした。
念には念。
【智】
「ふんふんふふん♪ 生き返るぅー」
予感的中。
【智】
「どちらさまですか」
【花鶏】
「……閉まってるわ」
【智】
「施錠してます」
【花鶏】
「どうして鍵なんてかけてるの?」
なにやらどす黒い情念が、
バスルームのドア越しに伝わってくる。
【智】
「どうしてガチャガチャしてるの」
【花鶏】
「一日のはじめにシャワーを浴びるのが習慣なのよ」
【智】
「いいよ、使って。僕が出たあとで」
【花鶏】
「たまには二人でお風呂も素敵じゃないかしら」
【智】
「僕は孤独を愛してるんだ」
【花鶏】
「それよりも人を愛しなさい」
【智】
「愛情過多な人生も問題あるかなあって」
【花鶏】
「大は小を兼ねるのよ」
【智】
「るいもおっきーけど、伊代も実はどーんだったね……」
【花鶏】
「素敵な黄金律だと思うわ」
【智】
「黄金のような一時を過ごしてます」
【花鶏】
「ここを開けて。わたしにも振る舞って」
【智】
「近頃はこのあたりも物騒で、
女の子を食べちゃう狼さんが出たりするから、だめです」
【花鶏】
「危険な時こそ友情が試されるのではなくて」
【智】
「おばあさんのお口が耳まで裂けてるのはどうしてですか」
【花鶏】
「つれないわね、赤ずきんちゃん」
諦めたのか、ハラス魔王の気配が遠ざかる。
【智】
「……寝たふりして狙ってたんだな」
油断も隙もない。
【教師】
「――政体には三つのものがあるとする。共和政、君主政そして専制政である。それぞれの本性を明らかにするとき、三つの事実を想定する」
【教師】
「共和政は人民に最高権力が委ねられており、君主政は権力がただ一人の手にあるものの制定された法のもとに統治される」
【教師】
「対して、専制政においてはこれを持つただ一人を制する術がなく、第一人者の理性と感情の赴くところのみが、」
生あくびを噛み殺した。
授業を進める小粋なチョークのリズムに普段より乗れず、肘杖をついて意味もなく外へと視線を漂泊させた。
碁盤目に区切られた座席の上に、
きれいに配置された学生たちの頭。
石の海だ。
黒く固い水面の向こう、窓を隔てて空がある。
時間の経過が、今日はひどく遅い。
放課後になる。
授業が終われば閑散とする。
祭りの後めいた空虚が、
主のいない座席の列の上を漂う。
【宮和】
「よだれ」
【智】
「はにゃ――」
口元を拭われる。
窓辺の席に陣取って、ゆるい風に巻かれながら、
いつの間にかうたた寝していた。
【宮和】
「起こしてしまいましたか」
【智】
「宮……」
唇に手を当てる。
優しい感触が残っている。
【智】
「あう」
【宮和】
「愛らしい寝顔でございました」
【智】
「はずかしいです……」
【宮和】
「花の蜜に誘われるように、つい唇の」
【智】
「奪われた?!」
【宮和】
「よだれをぬぐってしまいました」
【智】
「ごめん、ハンカチ汚させちゃった」
【宮和】
「和久津様のいけない寝顔が、他の方に見つからなくて
ようございました」
【智】
「宮には見つかりました」
【宮和】
「そして悪戯を」
【智】
「堪忍してください」
【宮和】
「今日だけは特別にそういたします」
【智】
「多謝」
【宮和】
「よいお日和ですのね」
宮和が細い首を傾けて、笑む。
小さな齧歯類を連想させる。
目をすがめて、雲の合間にのどかな風を見る。
【智】
「気持ちよかったから、つい、うたたねしてた。昨日はちょっと
寝不足気味だったから」
窓から入り込んだ、
ゆるい大気の流れが頬を撫でる。
見えない手に髪をまかせる。
【宮和】
「和久津さまは、ずるずるされなかったのですね」
【智】
「ずる休みのこと?」
【宮和】
「関西方面のスラングでございます」
【智】
「嘘だ、絶対に嘘だ」
【宮和】
「ずるずる」
くねくねした。
【智】
「……何をしてるの?」
【宮和】
「これが意外に、心地よくて。和久津さまもいかがですか」
いつまでもしていた。気に入ったらしい。
【智】
「ご遠慮」
【宮和】
「残念でございます」
【宮和】
「ずるずる」
【智】
「ずるはなしで……」
座ったまま、開いた窓枠に後頭部をのせる。
見上げた空に向かって、うんと伸び。
【花鶏】
「――盗まれた!?」
それは花鶏と呼ばれていたものだ。
今は花鶏ではない。
人の領域にはいない。
百歩譲っても鬼だか悪魔だかが相応しい。
【花鶏】
「盗んだのはあなたでしょ!」
牙が生えた。
角はとっくに生えていた。
【こより】
「盗んでないですようっ!」
こちらは半泣きだ。
証言はどこまでもすれ違う。
整理すれば事実は簡単だ。
数日前。
るいと花鶏が駅向こうで揉めた。
こよりが通りがかったのは偶然だった。
揉めたはずみで、こよりは突き飛ばされた。
【るい】
「……覚えてない」
【花鶏】
「記憶にないわ」
犯人たちの証言の信憑性はさておく。
容赦なく被害を拡散する悪魔たちに恐れを成して、こよりは
逃げ出した。
トラブルが発生した。
揉めたひょうしに花鶏はバッグを落とした。
こよりは逃げ出すときにそれを掴んだ。
持ち逃げするつもりはなかった。
こよりはパニくると周りが見えなくなるらしい。
【花鶏】
「バッグはどちらでもいいの!」
【智】
「高いんでしょ?」
【花鶏】
「高くても」
金銭に執着のない人はこれだから困る。
1円を笑う者は1円に泣く。
閑話休題。
こよりは気付いて呆然とした。
泥棒しちゃった。
唐突に訪れた初体験。
朝ベッドで目が覚めたら、
隣に見知らぬ男が寝てましたな心境。
ショックを受けて雑踏に立ち尽くした。
格好の獲物に見えたことだろう。
雑踏の中から男の手が伸びてきて――――。
【花鶏】
「そんな馬鹿みたいな話が」
【こより】
「あるです、ホントですぅ〜」
――――こよりは、バッグをひったくられた。
追う間もなく相手は街に飲まれて消えてしまった。
【智】
「事実は小説より奇なり」
【花鶏】
「きっ」
【伊代】
「混ぜっ返すとちゃぶ台返されるわよ」
【智】
「蛮族の方々が暴動起こすので止めてください」
【茜子】
「咀嚼(そしゃく)咀嚼ヤムヤム咀嚼」
【るい】
「トモのご飯はやっぱおいしいのうー」
【伊代】
「あなたたち本当にまとまり無いわね……」
こよりは焦った(本人談)。
【こより】
「なんとか探そうと……」
【智】
「してたんだ」
【こより】
「努力はしたんですけれど……」
【智】
「じゃあ、アソコにいたのは」
【こより】
「犯人は現場に戻るの法則ってありますよね」
【茜子】
「儚い期待を抱く夢見るガールは、さっさと目を醒ました方がいいと思います」
【こより】
「いじいじ」
膝を抱えて、床の上に「の」の字を書いてみたり。
【伊代】
「でも、戻ってきてるじゃない」
白い目の伊代が、こよりを指差す。
犯人、現場に戻る。
【智】
「そして、逃避行」
【こより】
「殺されるかと〜〜〜〜」
【るい】
「人聞きわるいぞぉ」
【智】
「無理はなかったと思うけど」
【花鶏】
「………………」
花鶏は打ちひしがれていた。
夢も希望も潰え去った負け犬を、高いところから傲岸に
見下ろしつつ、朝ご飯を満足いくまで飽食してから、
るいは告げた。
【るい】
「ザマー」
【花鶏】
「――――ッッ」
【るい】
「――――ッッ」
朝から揉めた。
【智】
「さてと」
【こより】
「センパイ、どちらへ」
【智】
「当然登校します。学生の本分は勉学です。今日は小テストあるし」
【伊代】
「わたしもそろそろ……と、あ……どう、しようかな」
伊代の眼鏡が逆光で白く曇る。
葛藤の汗が額を流れる。
茜子のことが、伊代の気がかりだ。
窮地は脱したから、後は放置して、
それでよしとできないタイプ。
自爆型の委員長気質だ。
石橋を叩いて渡りたがるくせに、一端乗ると船から下りる決断
ができなくて、一緒になって沈むタイプ。
【るい】
「ずるっちゃえば?」
【こより】
「それ、賛成!」
【伊代】
「それは許されないわ」
眼鏡が朝日を照り返し、
ギラリと良識の光を放った。
【伊代】
「非日常な事件にかまけて日常を乱したらいつまでたっても平和な日々には戻れないのよ。それどころか道を踏み外してどんどん悪い方向に行く」
【智】
「優等生的にずるはなしみたいだよ」
【茜子】
「では、社会秩序の歯車エリートである優等生さま、
いってらっしゃいませ」
【伊代】
「ん〜、なんだか気の重くなる比喩ね……」
【茜子】
「正直は茜子さんの美徳です」
【花鶏】
「…………ぎを」
猛獣が歯を軋らせるにも似た。
花鶏が顔を上げる。
目のある部分が爛々と怪しい光を放っていた。
【花鶏】
「対策会議を、するわ」
【智】
「待ち合わせ、か」
机の上にだらりと突っ伏す。
呟いた言葉がしこりになった。
形の合わないパズルのピースを無理からに詰めてしまったみたいに、みぞおちの辺りがぎこちない。
【宮和】
「今日はどうしてお残りに?」
【智】
「宮も珍しいね」
【宮和】
「わたくしは所用がございましたから」
【宮和】
「和久津さまは、いつも授業が終わると急いでお帰りになられますのに」
【智】
「ちょっとした約束があって、
一度帰っちゃうのも遠回りになるから――――」
しこりの正体に行き当たる。
約束。
待ち合わせ。
長いこと、学園の外で誰かと待ち合わせるような機会はなかった。
秘密がある、とはそういうことだ。
【宮和】
「はじめてですわね」
普段通りの宮和のやわらかさには、普段と違った春先めいた成分が含まれている気がした。
【智】
「なにが?」
【宮和】
「和久津さまとお知り合って以来、事情があると仰られることは何度もございましたけれど、約束があると伺ったのは今日が初めて」
【智】
「……そうだっけ」
放課後の教室に残っていると物寂しさが募る。
教室は喧噪と癒着している。
大勢がそこにある場は、必然騒々しさを宿す。
だが、永続はするものではない。
タイマー付きの時限爆弾だ。
時間が来れば終わる。
爆発の後には瓦解(がかい)が残留する。
不可分の要素の欠落は、
在りし時の「かつて」を連想させる分だけ、
より寂寞を強くした。
世界の中心に自分だけが置いていかれたような錯覚。
今は、ひとりではなく、二人だ。
【智】
「……」
誰かの存在。
たわいもない温度が胸に落ちてきた。
饒舌(じょうぜつ)だが口数は決して多くない宮和と共有する空間の、
奇妙な肌触りがなぜか心地よい。
【智】
「不思議空間」
【宮和】
「世界は不思議でいっぱいなのです」
【智】
「本当にそんな気がしてきた」
【宮和】
「世界の真理にアクセスされたのですね」
【智】
「……はじめて、か」
生き方と不可分に結びついた孤島の歩み。
【宮和】
「間違いはございません。記憶は一言一句の聞き漏らしもなく完璧です。わたくし、これでも学園最強の和久津さまストーカーを
自負しておりますから」
【智】
「是非ともしなくていいですから」
【宮和】
「お気に召しませんか」
【智】
「召すと思う宮の心が心配だ」
【宮和】
「ぽっ」
【智】
「なぜ頬を赤らめるの?!」
【宮和】
「内緒です」
【智】
「なぜ内緒っ?!」
【宮和】
「言ってよろしいのですか?」
【智】
「…………」
聞かせてくださいと決断するには、怖すぎた。
【智】
「ハァイ。今日の待ち合わせは……時間かかるから、場所を変えて? うん、いいけど……いえ、悪くないです。そういわれればそうだけど」
【智】
「ん、了解。バスが最寄りで、降りたら……わかった。
また連絡入れる」
【智】
「対策会議は花鶏の家で、か」
【こより】
「センパーイ、センパイセンパイ〜っ!」
【智】
「こんなところでなにをやっとんのねん」
【こより】
「不肖鳴滝め、センパイの登場をば、今か今かと待っておりましたのこころです」
【智】
「そこまで僕のことを……ういヤツ」
【こより】
「実はビビっておりました」
【智】
「根性なしだ」
【こより】
「見知らぬ土地は北風が強いッス!」
【智】
「どこの港町なのよ」
【こより】
「演歌なら鳴滝めにおまかせを!」
【智】
「いいからいくべし」
【こより】
「いくべしー」
【こより】
「センパイといっしょに、おーてて繋いで、らんらんらん♪」
【智】
「……恥ずかしいですッッ」
【こより】
「女は気合いでありますっ!」
【智】
「でかっ」
【こより】
「でかっ」
第一声。
花鶏の家は大きかった。
家では相応しくない。
邸宅と呼ぶ方がはまる。
厳つく高い門が、外界と内を峻別する建物。
こよりが尻尾を巻いて逃げ出したのもむべなるかな。
門とは境界である。
出入りするためにではなく、
通じる道を塞ぐために存在する。
威圧する機能こそ本性だ。
【智】
「女は?」
【こより】
「……気合いであります」
【智】
「敵は呑んでも飲まれるな」
【こより】
「押忍っ!」
【智】
「まずは1発っ」
【こより】
「ごめんくださいませー」
【智】
「落第ですね」
【花鶏】
「ようこそ、歓迎するわ」
お屋敷の中は、やっぱりお屋敷でした。
【こより】
「ほわー」
【花鶏】
「どうしたの?」
【こより】
「びっくりしてます……」
【智】
「制服じゃないのを目撃しました」
【こより】
「そうじゃなくて! まずは広さの方をびっくりするべきでは!」
【智】
「そういえば……花鶏、今日学園行った?」
【花鶏】
「普通に登校したけれど」
【智】
「よかった」
胸をなで下ろす。
【花鶏】
「行けるときには行くわよ」
【智】
「意外にマジメっこだったんだ。みんなズルズルいっちゃたんじゃないかって、ちょっとだけ心配に」
【花鶏】
「意外に苦労性なのね」
【智】
「気配り文化の国民ですから」
【花鶏】
「勉学は自分のためにするものだから。
わたし、他人の都合や社会秩序に興味はないの」
しれりと、肩にかかった髪を後ろにかき上げる。
【こより】
「それってワルってことですか?」
【花鶏】
「わがままってこと」
【智】
「自分でおっしゃいますね」
【花鶏】
「自己分析は正確に」
【智】
「いっそ横暴と」
他の面子は先に顔をそろえていた。
【るい】
「おーい」
るいは、高そうな椅子に窮屈そうに収まっていた。
手を振りながら飛んでくる。
【るい】
「あいたかったよー」
しがみつき。
【智】
「なになにどうしたの!?」
【茜子】
「人様のなわばりで気が立っているようです。ケダモノのように」
【るい】
「ぐしぐし」
【智】
「僕んちは平気だったのに」
【伊代】
「その子、大きな家は苦手なのかしら」
【智】
「わからないでもないんだけど……」
【伊代】
「なんていうか、場違い、な感じで」
伊代は苦笑いする。
【智】
「僕らで最後?」
【花鶏】
「そうよ。お茶をいれるわ。紅茶でよくて?」
【智】
「僕コーヒー」
【るい】
「お姉さん、コーラ」
【こより】
「渋いのは苦手ッス」
【伊代】
「えっ、他のもあるの? それじゃ緑茶……やっぱりほうじ茶で!」
【茜子】
「ひやしあめを」
【花鶏】
「全員紅茶ね」
花鶏が口を挟む余地のない目をして部屋を出た。
殺す気と書いて「ほんき」と読む。
【るい】
「ビッ○が、ペッ」
【伊代】
「えっ、本当は紅茶しか無いの? なんでみんないろんなの
頼んでたの?」
【智】
「素だったか。キャラが掴めて来た」
【茜子】
「掴めて来ました」
【伊代】
「なに、どういうこと?」
【るい】
「そういえば!」
るいが跳ねた。
【こより】
「ほえ、なんかありまして?」
【るい】
「あった。重大問題。晩ご飯どうしようか?」
【智】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
【こより】
「……」
掴むところしかないキャラだった。
【花鶏】
「わたしのバッグをどうするか」
【こより】
「弁済無理ですから〜!」
【伊代】
「せっかく集まってるなら、
この子のことも考えてあげたほうがいいんじゃないかしら」
【茜子】
「茜子さんは一人で強く生きて行くのです」
【智】
「カモがネギしょって厳しい世間にぱっくりと」
【るい】
「つか、よくも家焼いてくれやがったわね」
【花鶏】
「わたしがやったんじゃないって」
あのビル火災の原因は、周辺を根城にしてたホームレスの
失火らしいと、ニュースでやっておりました。
話題はとりとめがなく、
やくたいもなく続く。
雑多な言葉の意味もない連なりが、それなりに楽しくて、
知らぬ間に時間を浪費する。
果てしなく拡散する過程のどこかの時点で、
爪の先ほどのきっかけができた。
【伊代】
「問題を解決するためには」
伊代が眼鏡のフレームを指先で直す。
【伊代】
「問題を明確化すること」
常識的な見解を吐く。
自分が常識人であると、
ことさらに誇示するように。
得てして自己評価と世間の見方は
交差しないものである。
【花鶏】
「お茶が切れたわね」
【智】
「手伝うよ」
花鶏が部屋を中座する。
金魚のフンよろしく付き従う。
扉の外に出ると気圧された。
庶民離れした屋敷の気配。
価値は時に威圧感にすり替わる。
奇妙に古びた、それでいて何かの欠け落ちた廊下の印象。
夕暮れのオレンジに染められた風景画を想像する。
【智】
「家政婦さんとかいそうな家だよね」
【花鶏】
「いないわ。人嫌いなのよ」
手ずからお茶の用意をする花鶏の言葉の、
どこまでが本気かわからない。
近くにあった扉の一つをこっそり覗く。
手抜きみたいな、同じような部屋がある。
こんな部屋が幾つもある事実を驚くべきな気もしたり。
【智】
「大勢で押しかけちゃって、ご両親とかは」
【花鶏】
「親のことは気にしなくていい」
背中のままで切って捨てられた。
語気の壁が顔に当たる。
それ以上踏み込むことを拒絶する、
見えない柵が作られている。
【智】
「にしても、問題が解決しませんね」
【花鶏】
「別に、わたしは助けがいるわけじゃないから」
えー。
でも、最初に対策会議なんて言い出したのは?
【花鶏】
「手を貸して欲しいから迂遠に泣きついたとでも思ったの?」
【智】
「何を怒ってるんですか」
【花鶏】
「怒ってなんていないわ」
【智】
「なぜに怖い顔なんですか……」
【花鶏】
「わたしは普段通り。顔が怖く見えるのは、キミの心に
やましいことがあるからじゃなくて?!」
【智】
「なにも糾弾しなくても」
【花鶏】
「糾弾なんて、してないわ、断じて」
【智】
「ごめんなさい、全部僕が悪いです。信号が三原色なのも、救急車が白いのも僕のせいです」
尻尾を丸めてお手伝いに没頭する。
カップをそろえて並べる。
同じカップは人数分に足りてなかった。
申しわけに形を合わせた不釣り合いの器が、
不格好に輪を作る。
【智】
「ここはなに?」
【花鶏】
「テラスよ」
【智】
「見晴らしのいいところだね」
【花鶏】
「――――新事実の発掘くらい期待したわ」
花鶏が背を向けたままもらす。
声音は従容として干渉を拒絶する。
他人の心をのぞき込む術はない。
よく知る相手でさえ人の間にあるのは断絶だ。
数日の知己では埋められるはずもない。
【智】
「信頼は裏切られるためにあるんだよね」
【花鶏】
「存外後ろ向きなのね」
【智】
「多少は苦労が骨身に染みついてるから」
【花鶏】
「信じる力を信じないの?」
【智】
「信じるって素晴らしい言葉だよね。花鶏が言うと特に」
【花鶏】
「わたしは誰よりも信じてるっての」
【智】
「友情ってものを信頼できる? 親と子は無根拠に助け合うものだって感じてる? 十年経っても変わらない愛情があるって思う? 明日傘を忘れて出かけたら雨は降らないって信じてる?」
【花鶏】
「最後だけイエス」
【智】
「……なにを信じてるんですか」
【花鶏】
「わたしは、わたしを信じてるのよ」
【智】
「信じる心が力になるなら、神様だってお役後免だよ」
【花鶏】
「そうね。信じるなんて言葉では足りないわ。わたしは、わたしを信仰してる。本当に心の底から、これっぽっちの疑いもなく、ほんの些細な間違いもなく」
【花鶏】
「わたしの才能、わたしの未来、わたしの運命……全てがわたしの味方であることを」
見えないスポットライトが当たっていた。
ステージの上のオペラ歌手のように。
【花鶏】
「感心してるのね」
【智】
「あきれてるんだ」
【花鶏】
「人はわかりあえないものだわ」
【智】
「きれいにまとめてどーするの」
【花鶏】
「きれい事も時には重要ね」
【智】
「……ふむ」
【花鶏】
「どうかして?」
【智】
「どうか、言いますと?」
花鶏は、窓枠のチリを検分する姑さん風に眼を細める。
【花鶏】
「クレタ島の生き残りみたいな顔してる」
【智】
「それは嘘つきということですか」
【花鶏】
「心当たりは?」
【智】
「ありませんともありませんとも」
【花鶏】
「嘘つき村の住人なのね」
【智】
「そんな根も葉もない」
【花鶏】
「吐かせてみようか」
【智】
「ちょ、悪ふざけは……きゃわっ」
後ろから抱きすくめられた。
耳たぶにぬるい息がかかる。
【花鶏】
「細い腰……」
【智】
「ぎゃー!」
手が胸を狙ってきた。
必死になって身を守る。
【智】
「やめてよして堪忍して」
【花鶏】
「とっくにキスはすませた仲じゃない」
【智】
「やーの、それやーのぉ!
あぅん、耳はだめだめ、みみみみみみみみ」
耳たぶを甘噛みされる。
大事なところをカバーすると
それ以外がおざなりになる。
【花鶏】
「うふふふふふふ」
【智】
「ぎゃわーーーーーーっ」
【花鶏】
「胸は本当にちっさいみたいね」
【智】
「いやあああああああああああああああ」
足がもつれて床に転がった。
【こより】
「……何をやっておるですか」
こよりが不思議そうに見下ろしていた。
【花鶏】
「親睦を深めてるのよ」
【こより】
「なるほど」
【智】
「納得しないように!」
隙を見つけて、そそくさと距離を取る。
【花鶏】
「ちっ」
【こより】
「…………」
【智】
「どしたの」
ごにょごにょと、何か言いかけて、
こよりは失敗する。
自分でも処理できない感覚にもじもじしていた。
【こより】
「よくわかんないんですけど……」
【こより】
「なんか、どきどきする」
【智】
「考えるの禁止」
知られざる魔界の扉が目の前に。
【花鶏】
「教えてあげましょうか?」
【こより】
「ほえ」
こよりを引っ張って後ろに隠す。
悪魔の誘惑から、奪い取った。
【花鶏】
「邪魔するのね」
【智】
「正義の行為」
【こより】
「わかんないのです」
【智】
「……わかるの禁止」
世界には危険がいっぱいだ。
用意したお茶に全員が手を付けるのを待つ。
さらに一呼吸置いてから、口火を切った。
【智】
「そこで提案があります」
【伊代】
「どこからの続き?」
【るい】
「晩ご飯」
【茜子】
「食いしん坊弁慶」
【智】
「それ違う」
【花鶏】
「何の話だったかしら」
【智】
「問題の明確化から」
【伊代】
「そこからの続きなんだ」
【智】
「提案があると」
【花鶏】
「話の腰がよく折れるわね」
【智】
「折ってるのは君らです」
【こより】
「センパイ、腰を折るにはやっぱキャメルクラッチからッス」
【智】
「いやいやいやいや」
【伊代】
「もうボキボキね」
【智】
「そう思うなら少しは議事進行の手伝いを」
【伊代】
「他人の力をあてにしない」
【智】
「伊代って冷たい」
【茜子】
「人間フリーザー」
【伊代】
「な、なんということを」
【るい】
「そんで?」
仕切り直しに咳払いをしてから。
【智】
「現状、僕らはそれぞれやっかい事に面している。困ったトラブルを抱えてる。解決すべき事例が身近にある」
【智】
「たとえば、るいには家がない。茜子だって、最低でもほとぼりが冷めるまで帰れない」
【茜子】
「冷めても帰る気ナッシングです」
【智】
「花鶏には捜し物がある。伊代やこよりだって、
多かれ少なかれ巻き込まれたり責任を感じてたりする」
【智】
「問題は投げ出せない。そこから逃げられない。そこでの僕らの
思いは同じで、たったひとつ」
【智】
「早々に解決したい。
トラブルを処理して平穏無事な日常世界に帰還したい。
やっかい事を遠ざけて平和な安寧(あんねい)を呼び込みたい」
【伊代】
「そうね」
【智】
「だから――」
【るい】
「だから?」
【智】
「手を組もう」
【るい】
「……」
【花鶏】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
【こより】
「手を、組む?」
【智】
「そう。手を組む。力を合わせる。
利害の一致で歩調を合わせて前に進む」
【茜子】
「意味不明です」
【智】
「意味もなにもそのままだよ。要するに、一人で解決できないから他人の力を借りようってこと」
【伊代】
「そんなこと言ったって……昨日会ったばかりよわたしたち」
【るい】
「はーい、私は一昨日」
【花鶏】
「大差なし」
【伊代】
「そんなので……」
【智】
「誰だって最初は初対面」
【智】
「なにも難しくないよ。信頼できる絆を結ぼうとか、そういうんじゃない。利害が一致する間だけ、力を合わせて進もうってこと」
【智】
「どのみち一人じゃ何ともならないんだから、それなら、少しは顔見知りの相手の力を借りる方がいいでしょ? もちろん他にあてがあるならそっちに頼ってもいいけど」
返事はない。
今日この場に未解決のまま問題を持ち込んだということが、
そもそも他のアテがない証明でもある。
人間関係の寂しい面子だ。
【花鶏】
「わたしは、一人でも、問題ない」
花鶏が肩にかかった髪を後ろに跳ね上げる。
優雅さに、ある種の剣呑な棘が見え隠れした。
矜持(きょうじ)か、高慢か。
差し伸べられる手をことさらに払いのける。
【智】
「それなら、手を貸して」
朗らかに。
【花鶏】
「わたしが? どうして?」
【智】
「そうね……僕が困ってるから、じゃだめ?」
【花鶏】
「……」
寸刻、おもしろい顔になった。
梅干しでも食べたみたいな酸っぱ顔。
【花鶏】
「まあ、智がそこまで頼むのなら、少しくらい助けて
あげなくもないわ」
【るい】
「えらそーに」
【花鶏】
「なにか?」
【智】
「ありがとう、花鶏」
【伊代】
「意外と姑息だな、こやつ」
花鶏が微笑し、るいが頬をふくらませ、伊代は目を線にする。
【智】
「さあ、どうしよう?」
【智】
「問題を解決するために問題を明確化する」
【智】
「僕らがすべきことはなに? 一人で悩んでいること?
解決できない事情にヒザを抱えて丸くなること?
後ろを向いて逃げ出すこと?」
【智】
「どれも違う。僕らがすることは、このトラブルを倒すこと。
八つに畳んでバラバラにして埋めてしまうこと。何事もない
毎日へと辿り着くこと」
【智】
「一人ではできない。一人では辿り着けない。だから手を組もう。打算でいい。合理で構わない。秤に乗らない友情を絆にするよりずっと確かで信頼できる」
【伊代】
「わかるけど、でも……」
【智】
「きれい事を言ってもいいけど、昨日今日会ったばかりの関係で、それは無理」
【るい】
「着飾った言葉より本音の方が好みかな」
【花鶏】
「同意するわ、残念だけど」
【茜子】
「助けた分だけ助けてくれるわけですね」
【こより】
「とりあえず、鳴滝めはセンパイとご一緒です!」
【智】
「つまり、これは同盟だ。破られない契約、裏切られない誓約、
あるいは互いを縛る制約でもある」
【智】
「僕たちは口約束をかわす、指切りをする、サインを交換し、
血判状に徴(しるし)を押して、黒い羊皮紙に血のインクでしたためる」
【智】
「一人で戦えないから力を合わせる。1本の矢が折れるなら5本
6本と束ねてしまえばいい。利害の一致だ。利用の関係だ」
【智】
「気に入らないところに目をつぶり、相手の秀でている部分の力を借りる。誰かの失敗をフォローして、自分の勝ち得たものを分け与える」
【智】
「誰かのためじゃなく自分のために、自身のために」
【智】
「僕たちはひとつの群れ≠ノなる。
群れはお互いを守るためのものなんだ」
〔僕のいどころ〕
静閑な住宅街。
緩い上り坂に夕映えが差しかかる。
伊代と茜子を誘って出向いた、
買い出しの帰り道だ。
【伊代】
「わたし、あなたに賛成したわけじゃないわよ」
伊代が言葉を投げてよこす。
僕と伊代の間に挟まった茜子の頭の上を、
見えない放物線が飛んできた。
【茜子】
「ニャーオ」
茜子が我関せずと鳴く。
左右の不穏など他人事で民家の塀へと手を振る。
【猫】
「にー」
野良猫がいる。
警戒心の強い野生のキジ猫が、
茜子には愛想良く返事をする。
【茜子】
「ニャウ」
【猫】
「みゅー」
【茜子】
「ニャーニャー、ゲゲッ」
ほんわか。
理解も出来ない鳴き声は会話を連想させた。
【智】
「なんて言ってるの?」
【茜子】
「吾輩は猫である」
キジトラはインテリらしかった。
三毛はフェミニストだうろか、
シャム猫ならどうか。
【伊代】
「ちょっと、わたしの話聞いてる?」
【智】
「テツガクテキ命題に耽溺して聞いていませんでした」
伊代の眼が細くなる。
危険水域が近づく。
見知らぬ人間関係は手探りだ。
二人いればお互いの距離が問題になる。
近すぎても遠すぎて関係には齟(そ)齬(ご)が生じてしまう。
最適の距離を測るには時間と経験が必要だ。
積み重ねだけが適切な空間を作りあげる。
眼鏡ごしの視線は、怒りめいた鋭利とも
時限爆弾じみた不機嫌とも異なっている。
きっと、伊代は困惑している。迷っている。
現状に。未来に。
未明の全てに。
【茜子】
「ニャーオ」
伊代は、茜子を気にかけていた。
茜子の方は――――意味不明だ。
奇怪で冒涜的で魚類とも頭足綱とも
人間ともつかない特徴を備えた
灰色の石で作られた置物風に。
意訳すると、キャラとしてわからない。
伊代と茜子。
感情のやり取りは一方的で、
なし崩しの関係性がとりあえず成立している。
それ以上でも以下でもなかった。
それでも初対面では姉妹に思えたものである。
【智】
「目が悪かったようです」
【伊代】
「わたしは、目が悪いから眼鏡かけてるんですけど!」
【智】
「そちらの話ではなく」
【伊代】
「じゃあ、なんの話なの!?」
【智】
「話してたのは伊代の方です」
【伊代】
「む、ぐ……っ」
脊髄反射で語気を荒げ、
荒げた分だけ自分の言葉に詰まる。
かといって、感情のままで押し切る無法に染まるには、
伊代は少しばかり理知的すぎる。
【智】
「賛成してないって?」
【伊代】
「ちゃんと聞いてたんじゃない!」
【智】
「嫌いな献立があるならいってくれればよかったのに」
【伊代】
「誰が夕食の話をしてますか」
【智】
「晩ご飯の話ではないと?」
両手にぶら下げた、
中味のつまったスーパーの袋をかかげる。
【智】
「キミの意見を聞かせてもらいたいのです」
【茜子】
「いちいち他人の顔色を伺わなければ生きていけない人間には、
生きてる価値がありません」
【智】
「ほめられた」
【伊代】
「貶(けな)されてるのよ」
【智】
「楽しいおしゃべりとユーモアは人生のエッセンス。
眉間にこーんな皺ばっか作っててもしかたないでしょ」
【茜子】
「……似てる」
【伊代】
「誰の真似かしら?」
【智】
「冗談はさておきまして」
【伊代】
「真面目な話、してもいいの?」
【智】
「はっ、不肖和久津智。
一命をなげうって真面目にお話させていただきます」
伊代が肩全体でため息をついた。
【伊代】
「……も、いいわ。好きにして」
【智】
「ちょっとドキドキする台詞かも」
【茜子】
「えろい人ですね。男の人相手に口にして、近づいて来たところを一撃するわけですか」
【智】
「どこの誘惑強盗なのさ」
【伊代】
「エロでもエラでもいいから……あのね、さっきの話、本気なの?」
【智】
「さっきというと」
【伊代】
「同盟だか連盟だか」
【智】
「同盟っていうとバタ臭くてやな感じ。そこはかとなく漂う
前世紀の香りが特に」
少女同盟。
30年くらい前の少女漫画のタイトルっぽい。
【伊代】
「レトロっぽい響きとは思うけど」
【智】
「まあ、最近は復古ムーブメントも需要あるみたいだから」
【伊代】
「いやね、年寄りのノスタルジーっぽいわ」
【茜子】
「若気の至りな暴論です」
【智】
「話がどんどんずれていくねえ」
【伊代】
「かあっ」
【智】
「……怒った」
【伊代】
「怒ります。すぐに話をはぐらかして」
【智】
「自分だってずらしてたくせに」
さらに怒るかと予想した。
伊代は怒らずにジト目で睨む。
【伊代】
「存外不真面目なのね」
【智】
「存外とはこれいかに」
【伊代】
「優等生みたいな顔してるくせに」
【智】
「これでも学園では、本当に優等生ですよ」
【伊代】
「それはそれは、ずいぶんと分厚い猫の毛皮をご用意なさって
おられることで」
【茜子】
「ニャ〜〜オ」
【智】
「そんな、誤解を招きそうな台詞を」
【伊代】
「――――本気なの?」
強引に話の筋を引き戻される。
鼻の触れそうな距離に伊代の顔が近づいた。
眼鏡の向こうで鼻息を荒くしている。
びっくりするくらい綺麗だった。
【智】
「……美人さん」
【伊代】
「な、なにいってんの、いきなり!? そんなことで矛先逸らせると思ってるの!」
一瞬で完熟トマトみたいに真っ赤に染まる。
【智】
「すぐ顔に出る」
【伊代】
「顔の話はいい」
【智】
「美人さんはほんと」
【伊代】
「世辞もいい」
【智】
「本気なんだけど」
【伊代】
「だからッ」
【智】
「……はい、一応本気です。目の前には問題がある。解決は避けて通れない。一人で無理なら他人の力を借りてでも解決しなくちゃいけない」
【智】
「でも、誰かに助けて貰うには代価が必要になる。その代わりに僕らは条約を結ぶ。お互いの力を利用して、問題の解決に尽力する」
【智】
「僕らの同盟。僕らの関係」
【智】
「きれい事の友情ゴッコより、
打算の方が信用できると思うんだけど」
【伊代】
「信用だってできるのかどうか……」
轡(くつわ)を並べて修羅場をくぐった。
連帯感めいた錯覚はある。
しかし、突き詰めるならそれっぽっちだ。
漠然とした印象と名前以外、
相手のことなど大して知ってさえいない。
【智】
「投資にはリスクがつきもので」
【伊代】
「別に、助けなんかなくても」
【智】
「一人よりはみんなの力で」
【茜子】
「友情・努力・勝利」
【伊代】
「少年漫画ロジックで物事なんか片付かない」
【智】
「あのね、伊代」
【伊代】
「……なによ」
【智】
「あるプロジェクトに参加する人数が増えるほど、
トラブルと問題の数は幾何級数的に増えていくんだよ」
【茜子】
「だめだめですね」
【智】
「あれ?」
【伊代】
「なにがいいたいわけよ」
【智】
「んーと……花鶏は賛成してくれたから、
2〜3日なら茜子ちゃん泊めてくれると思うよ」
対立事項についての妥協点を提示する。
さらに白い目をされた。
【伊代】
「こういうヤツだったとは……」
【茜子】
「最悪さんです」
【智】
「二人でそろって!?」
【伊代】
「そこまで見越して、あの子をたぶらかしたのね」
【智】
「人聞きの悪い」
【伊代】
「しかも色仕掛けで、ふしだらな」
【茜子】
「教育上不適切な欲情です」
【智】
「友情といって欲しいです。
家族に説明できないようなことはしてませんよ?」
【伊代】
「ノンケだとばかり……まさか、わたしのことまでそんな目で」
おっきな胸を両手で隠して後ずさる。
【智】
「何の話をしてるのかわかんない」
【伊代】
「しれっとした顔してるくせに姑息で」
【茜子】
「八方美人の気安いさんです。そのうち、友達と修羅場になって、通学路で刺されて人生エンドです」
【智】
「……そんな未来はやだな」
【伊代】
「やっぱり嘘つき村の住人ね」
【智】
「流行ってるの、それ」
【伊代】
「なにが?」
【智】
「なんでもないです」
【伊代】
「そつもないのね」
言葉の谷間をついた舌鋒(ぜっぽう)が、
意外な鋭さで突き刺さる。
いやに硬い表情をした伊代が、
眠そうな茜子の向こうからまなざしを送ってくる。
しっとりとした笑みを返す。
【智】
「なんのこと?」
【伊代】
「買い物に出かけるとき、わたしたちに声をかけたのが」
思いの外、伊代は聡(さと)い。
こちらの意図を読んでいた。
【伊代】
「元気二人組は最初からあなたの味方だし、あのクォーターも
たぶらかしてたみたいだし」
【智】
「後ろ半分だけ訂正して」
【伊代】
「わたしたちを説得すれば障害は無くなるものね」
【智】
「説得というか」
【伊代】
「そりゃ、たとえ何日かにしたってこの子を泊めてくれるっていうのは悪くない取り引きだとは思うけど」
【智】
「けど?」
【伊代】
「あの家にも、ご両親とか、いるんでしょ」
【智】
「そっちは問題ないと思う」
花鶏の反応を思い返す。
両親の話題を切り捨てるような、印象。
きっと、あの家で、
花鶏の両親のことがリスクになることはない。
【智】
「それにさ、僕らが助けてって泣きついたら、花鶏だって
助かるじゃない」
【伊代】
「なによ、それ」
【智】
「彼女、自分から助けてなんて言い出さないタイプだけど
一番人手は欲しいはずでしょ」
【伊代】
「………………」
【智】
「白い目を通り越して死んだ魚の目だね」
【伊代】
「うおの目にもなりますわ」
【茜子】
「鬼畜さんですね、茜子さん了解しました」
【智】
「……もそっと他の言い方はないですか」
【伊代】
「あきれたわ、今度こそ心の底からあきれ果てました、わたしは。こんな人だとは思わなかった」
【智】
「人間見た目で判断しちゃダメかも」
【伊代】
「貶(けな)してるのよ」
【智】
「……それはしたり」
【伊代】
「全部計算尽くで、たらし込んだんだ」
【智】
「ほんと人聞きが悪いです」
【伊代】
「本当のことばかりだから悪くない」
【智】
「どっちかというと、こっちは強奪された方」
【茜子】
「何を?」
茜子さんのシビアな突っ込み。
【智】
「………………色々」
【茜子】
「邪悪です」
烙印完成。
【伊代】
「それにしても」
【智】
「にしても?」
【伊代】
「晩ご飯の買い出しに行くことになるとは」
【智】
「あっさり全員泊めてくれるとは豪毅な話だよね」
【茜子】
「ブルジョア倒すべし」
【伊代】
「ファミレスとかでもよかったんじゃないの」
【智】
「外食すると高くつくし、節約しとかないと」
【伊代】
「吝嗇(りんしょく)家なんだ」
【智】
「これから何があるかわかんないから。同盟の運営資金は
可能な限り倹約で」
【茜子】
「暗黒宗教資本主義の走狗(そうく)なのですか」
【伊代】
「赤い会話ね」
【智】
「赤いのは流行らないんだよ、新世紀」
【伊代】
「泊めてもらうのは、家無しの二人だけでもよかったんじゃないの」
【智】
「そんな、猛獣の檻に生肉放置するような……
いや、どっちかいうと犬と猿を同じ庭で飼うというか……」
【伊代】
「なんの話をしてるのよ」
【智】
「今後の相談もしとかないと困るわけだから」
【伊代】
「利害の関係か」
【茜子】
「強く結ばれた山吹色の絆ですね」
【智】
「…………」
たかが色ひとつなのに、
ドス汚れた気がしてくるのはどうしてだろう。
頭の上の夕闇は、
夜に傾いてとっぷりと暗くなる。
暗い道を街灯がまたたいて照らす。
夜には灯りが必要だ。
手探りでは遠くまで歩いて行けない。
【伊代】
「わたしは、誰かに助けて欲しいなんて思わない」
【伊代】
「ひとりでできるし、やってきた」
【智】
「伊代が誰かを助けるのはありなんだ」
【茜子】
「……」
【伊代】
「そういう主義なのよ」
差し出された手を振り払い、自分の手を差し出す。
矜持(きょうじ)とも気高さともつかない。
これも我が儘に分類すべきか。
【伊代】
「一緒にやったってどうにかなるとも限らない」
【智】
「人数が足りないから、野球できないのが残念」
【茜子】
「バスケットはできますね」
【智】
「一人余っちゃいますよ」
【伊代】
「だからって」
【智】
「んとね。手を繋ぐのは解決じゃなくて開始。今までは
スタート位置にさえついてなかった」
【智】
「これからよってたかって、やっつける」
【茜子】
「……やっつけますか」
【伊代】
「なにと戦うのよ、魔王でも出てくるわけ?」
【智】
「呪われた世界を、やっつける」
きょとんとされる。
聞き慣れないフレーズに眉をひそめていた。
【伊代】
「呪い?」
【智】
「ずっと続く呪いみたいな、そんな気はしない?」
【伊代】
「なにが、よ」
【智】
「この世の中のこと全部」
【智】
「昨日のことはどうしようもない、先のことはわからない、
途中下車すると取り返しはつかない、立ち止まることさえ難しい」
【智】
「否が応でも歩き続けないといけない。どこかへ向かってるのか、とりあえず歩いてるだけか、それはそれぞれのことなんだけど」
【智】
「真っ直ぐでさえない、曲がりくねって足場の悪い、深い森と
薄暗い沼と荒れ果てた道行き」
【茜子】
「後ろ向き鬱思考来た」
【智】
「もうちょっと感想が別方向になりませんか。含蓄ある詩的表現に心うたれろとは言わないんだけど……」
【茜子】
「わかりました。拍手しますからお小遣いをください」
【智】
「生々しい等価交換ですね」
さもしさに嘆く。
感動を金額に換算するのは、
バラエティーの制作者だけで十分だ。
【伊代】
「呪われた、か」
【智】
「僕らはみんな呪われてるんだよ」
誰だって呪われている。
僕らはみんな呪われている。
呪われた道を、行く先もわからないまま歩いていく呪い。
【伊代】
「そうかもね」
珍しく素直な同意が返ってきた。
【伊代】
「それで、束になったからって、やっつけられるわけ?」
【智】
「少なくとも、昨日は、るいがいて助かったでしょ」
小細工のできる脳みそよりも、
拳骨一発の方が重要な場面は往々にしてある。
昨夜そうであったみたいに。
ひと一人は万能には足りない。
臨機と応変でもわたれない場所には、
適材と適所で埋め合わせをする必要がある。
一人で足りなければ二人で、
あるいはもっと大勢で。
人間が社会的な生き物である必要十分条件だ。
伊代の返事を待った。
明後日を向いたままだった。
どんな表情をしているのか。
見てみたい気もする。
花鶏の家がもう近い。
足を止める。
【智】
「返事、聞いていい?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「なによそれ?」
【智】
「好きなの、愛してる」
真摯に訴える。
絡み合う目と目。見つめ合い。
腐ったお肉でも見る目をされた。
【智】
「冗談です」
【伊代】
「……ほんとにノンケなんでしょうね?」
つついと横歩きで離れられた。
安全距離は二人分くらい。
【智】
「まったくもって、同性といちゃつく趣味はこれっぽっちも
ありませんから」
本当にない。
これっぽっちもない。
【伊代】
「コミュニケーションにおける言語の信憑性についての、
解釈と論理的整合性について」
【智】
「論文ぽいタイトルにしなくても」
【伊代】
「すぐに嘘つくひとは嫌い」
【智】
「失礼です、嘘つき呼ばわりするなんて」
【伊代】
「本当か、本当にひとつもついてないか」
【伊代】
「神にかけて誓える? 指きりできる?」
【茜子】
「『指(ゆび)切(きり)拳(げん)万(まん)』というのは、てめぇ嘘ついたら指ちょん切って
拳一万発食らわせてしかも針千本飲ますぞ、という意味です、
マメ知識」
【智】
「…………嘘も方便といいまして」
【茜子】
「弱気ですね」
【伊代】
「だめじゃない」
あきれ顔。
伊代は、肩を大きく落としてから、
暗い空へ向けて、はね上がるみたいな伸びをした。
【伊代】
「賛成はしない。けど、妥協はする」
【伊代】
「わたしは、ね」
【智】
「茜子は?」
【茜子】
「今夜は家に泊めてやるぜ、その代わりに大人しくしやがれゲヘヘヘへ、ということですか」
【智】
「全然違いますけど!」
【茜子】
「心配はご無用です。茜子さん、修羅の巷に孤独の一歩を
踏みだしたその夜に、最後の覚悟を決めてきましたから」
【智】
「決めなくていい決めなくていい」
【茜子】
「煮るなり焼くなり×××するなり、お好きにしてください」
【伊代】
「×××ってなによ……」
【智】
「あのね、そんな心配しなくても――――」
頭の後ろの方のどこかで、花鶏がニタリと笑っていた。
【智】
「あー、覚悟が決まってるのはイイコトだよね」
【茜子】
「……そういうのは茜子さん困ります」
【智】
「どっちなのよ」
【伊代】
「いいじゃないの、概ねはあなたの目論見通りなんでしょ」
【智】
「これまた人聞きの悪い」
【伊代】
「ま、そういうことにしておいてあげましょうか」
からかうような微笑。
【智】
「なら、伊代が黒で、茜子はピンクってことで」
【伊代】
「なによそれ」
【智】
「五人組だと色分けで役割分担が様式美なんだよ」
【伊代】
「またワケのわからんことを」
【智】
「るいが赤っぽいし、花鶏が青で、にぎやかしのこよりが黄色で」
【伊代】
「あんたはどこよ」
訊かれて、重大な問題を直視する。
〔僕のいるところはどこだろう?〕
《ここじゃない……》
《ここになら、あるんだろうか……》
〔僕のいどころ〕
忘れてたわけじゃない。
そもそも同盟のアイデアにしたって――
【智】
「…………僕は別口で」
【伊代】
「なによそれ」
繰り返された台詞は、
温度が5〜6度低かった。
【智】
「えーっと、僕の仕事は同盟締結までで」
【伊代】
「なによ、それ。大見得切った言い出しっぺが逃げ出そうっていう気?! みんなで力を合わせて魔王退治はどこいったのよ」
【智】
「やっつけるのは魔王じゃなく」
【伊代】
「そんなことはどうでもいいのよ!」
【茜子】
「あそび人ですか」
【智】
「ごめん、それよくわからない」
【茜子】
「さっさと賢者に転職しろってことです」
どこから繋げばいいのかわからない。
どこから反論するべきか難しい。
伊代が柳眉(りゅうび)を逆立てる。
茜子が糸引きそうな横目を送る。
【智】
「それは、その、なんと言いますか、あらゆる非難は甘んじて受けますが、人には人それぞれでやむにやまれぬ事情というものが往々にして」
【伊代】
「政治答弁でひとりで逃げられると思ってるの?!」
罪悪感から逃げをうった。
回り込まれた。
【智】
「そ、そんな、こと……」
【伊代】
「なによ、煮え切らないわね!
言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」
詰め寄ってくる。
口ごもる。
言いたい、
でも、言えない。
ダメなのだ。
本音を言えば、引っかかりは残る。
三日飼ったら情が移るのたとえのように。
茜子に引っかかって巻き込まれている伊代と同じに。
貸せる力があるなら貸してやりたい。
でも。
でも、が残る。
割り切れずに最後に余る。
どうしてもダメだ。
ここは退けない。退いてはいけない。
なぜならば――――。
バレてしまう。
誰かと並んで歩けば危険が増える。
身近に寄せるほど地雷になる。
危険はどこにでも潜んでいる。
どんな機会からでも違和感は忍び込んでくる。
それは、いずれだ。
いずれは、遅いか早いかだ。
すぐに追い詰められる。必ず誤魔化しきれなくなる。
危険すぎる綱渡りを試したいとは思わない。
【智】
「だから……」
だから。
【伊代】
「なんなのよ!」
遠ざけておかないと。
誰をも彼をも。
【智】
「絶対……絶対ダメなんだから!!」
〔牡丹の痣はないけれど〕
【智】
「絶対ダメなんだけど……」
つくねんとこぼれた言葉が天井に昇る。
花鶏の家は大きい。
お風呂も大きい。
個人邸宅には相応しくない。
ちょっとした銭湯か、寮の大浴場だ。
寮生の経験なんてないけれど。
【智】
「無駄な施設だなあ」
大きさは善行であるという、
そんな家訓があるものかどうなのかは、
面倒なので確かめなかった。
余りに余った湯船を一人で使う。
ゴージャス。
口まで沈んで、吐く。
無数の泡沫が弾けるように、
とりとめのない疑問が浮かんでは消える。
【智】
「どうしてこうなっちゃったのか」
検討中。
失敗の原因は意志の弱さか、
それとも議論上のミスか。
逃げるのにしくじった。
お泊まりすることになった。
ここまではいい。妥協の範囲だ。
お風呂に入る。
危機的状況だが、まあ、よしとする。
不作法だがタオルで隠したままお湯に入った。
素肌は頼りない。布きれ一枚の薄さが消えれば、
世界と対峙するのは自分自身。
その無防備さに愕然とする。
隠すことさえ許されない真正の姿。
【智】
「バレたら死んじゃう……」
誰もいないのにごく自然に丸くなる。
自分を隠すようにヒザを抱えた。
決定的瞬間の光景を想像するだけで死にそうになる。
針のむしろに等しい冷視と軽蔑と弾劾に、
踏みにじられる予想図は悲しすぎた。
本当の問題は、現在よりも未来にこそある。
どこまで。どうやって。
隠し通すことが出来るだろう。
【智】
「…………ぶくぶくぶくぶく」
潜行するほど懊悩する。
【茜子】
「広い」
【茜子】
「とてとて」
【茜子】
「よいしょ」
【智】
「あ、いらっしゃい」
【茜子】
「おじゃまします」
【智】
「…………」
【茜子】
「…………」
何気ない裸の挨拶。
ぎぎぎと骨の軋む音を
立てながら首を回して再確認。
白い肌。白い足。白い腰。
見つめ合う。
【智】
「ぎゃわ!」
【茜子】
「――――ッッ!」
何をそんなにというほどの反応だった。
茜子はゾンビと出会った犠牲者の顔で飛び退いた。
後ろから驚かされた猫そっくりの野生の瞬発力。
そして、着地に失敗。
【茜子】
「なう!」
【智】
「どじっこ……?」
意外な属性発覚か。
【茜子】
「ぷ、ぷはっ……く、な、ど、が、あ」
【智】
「まずは深呼吸して落ち着きなさい」
【茜子】
「どうして貴方がここに?!!」
【智】
「うっ、そ、それは――」
絶体絶命――を意識したが、
すぐに気がつく。
危機的状況は揺るがなくとも、
現時点で秘密は漏洩していないのだという大前提。
つまり。
この事態をありのままに判断するなら。
先にお風呂をいただいていた先輩キャラの後ろから、
知らず入ってきたチビキャラとの
裸コミュニケーションイベントフラグ。
【智】
「――別に、どうというわけではなく」
クールだ、クールになれ。
そうとわかれば冷静な対応が必要だ。
【智】
「先にお風呂をいただいてただけですけれど」
【茜子】
「出ます」
立ち上がる。全部見える。
【智】
「ぎゃわ」
【茜子】
「なんですか」
【智】
「そ、そんな、なにも、慌てて、でなくても、いっしょしても、
別に……」
錯乱して、よからぬ事を口走る。
出て行くのなら大人しく出てもらった方が、
あらゆる意味で助かるに決まってる。
【茜子】
「孤独が趣味です」
【智】
「す、崇高なご趣味を」
【茜子】
「わびです」
【智】
「違う気がする」
【茜子】
「そういう突っ込みを入れると、わびを入れさせますよ」
【智】
「ごめんなさい」
なぜに謝らねばならないのか。
謎だった。
【茜子】
「とにかく出ます」
【智】
「は、はい」
【茜子】
「孤独に一人で残り湯をこそこそ使うのが趣味ですから」
【智】
「何も言ってないです」
【花鶏】
「はぁい、いいつけ通りクリームとバターはちゃんとすり込んだかしら?」
【智】
「ぎゃあー!」
【茜子】
「――――ッッッ!」
慌てて肩まで湯船に沈んだ。
【花鶏】
「ずいぶんな悲鳴ね。猫が絞め殺されたみたい」
【智】
「なななななななななななな」
【花鶏】
「なにかしら」
【智】
「なんで裸なのぉ!」
【花鶏】
「お風呂ですもの」
実に当たり前でした。
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【智】
「ぎゃあー!」
茜子とはわけが違う。
花鶏は危険だ。
逃げ場を探す。
なかった。
目の前に裸。間違いなく裸。
これ見よがしに裸。
まったくの一糸まとわぬ全裸。
日本人離れした白い肌、繊細でしなやかで、
それでいてしっかりメリハリのついた身体。
【智】
「ぎゃあーぎゃあーぎゃあー」
全ては罠だった!
花鶏が熱心にお風呂を勧めてきて。
考え事してたから成り行きに任せていたら、
あっという間にこの窮地!
【花鶏】
「うるさいヤツね。いい加減覚悟を決めたら?」
【智】
「非処女になると人気落ちるから清い身体でいたいんですぅ」
【花鶏】
「最近はやらないわよ、そういうの」
【伊代】
「うわ……」
【るい】
「ひろいのお」
【こより】
「センパーイ」
【智】
「みぎゃー!!」
【茜子】
「!!!!!」
追加オーダーが発生しました。
春のオリジナルメニュー、
噂のビッグタックとダブルサンド、
それからポテトはSサイズで。
【智】
「みぎゃーみぎゃーみぎゃー」
警戒警報を発令。
色とりどりで目のやり場がない。
右にも左にも肌色。そうでなければ桜色。
はたまた黒。どっちにしてもどうしようもない。
危機的な状況が訪れていた。
【るい】
「何を鳴いてるの、トモちん」
屈託もなく。
ひときわ豊作な感じが目の前に来て揺れる。
【智】
「錯乱してます!」
【るい】
「……そう、なんだ」
【るい】
「お風呂まででっかいどーとは」
【花鶏】
「それならむしろ、お風呂だけ小さくして何の得があるのかを
訊きたいわ」
【こより】
「おー、銭湯来てる気分であります!」
【伊代】
「そこそこ、湯船で暴れない。お行儀悪いわよ」
【茜子】
「……ナイスお湯」
【智】
「三角形ABCを角Cが直角である直角三角形とするとき、角ABCのそれぞれの各辺の長さをabcとして、頂点Cから斜辺ABに対して垂線を下ろし」
【伊代】
「ほんといい気持ち……
こうしてると昨日のドタバタ騒ぎが嘘みたい」
【花鶏】
「せっかくだから、気は使わないでゆっくりしていらっしゃい。
ストレスは美容の大敵だし」
【こより】
「え、あ、わたし、なんかあるッスか?」
【こより】
「なんでヤバイ目つきを……」
【花鶏】
「失敬な子ね。美しいものを鑑賞する気高い心に、情欲の入る隙間はないのよ」
【茜子】
「……表情と言動が不一致してます」
【伊代】
「それよりも…………なにやってるの、二人して?」
【茜子】
「…………」
【智】
「自身を要素として含まない集合A、含む集合を集合Bとする場合、任意の集合Cは集合Aであるか、集合Bであるかのいずれかで、」
逃げ出す機を喪失した二人だった。
広漠たる湯船の園の、一番端の隅っこで、
左右に別れて孤独の時間を謳歌している。
示し合わせたような、
ヒザを抱えたダンゴ虫。
視界に肌色が入ってこないように背を向けて、
頭の温度を下げる呪文をひたすらに唱える。
茜子の趣味的問題はともかく。
こちらは人生がかかってる分だけ必死だ。
そうだ、天国と地獄は等価なのだ!
絶対的な幸福は絶対的であるが故に相対的な価値を失い、
終わり無く続くことで無限の苦痛へと堕落する!
僕は錯乱していた。
【こより】
「新しい人生哲学の模索ですか、センパイ」
【智】
「……お風呂でそんなことしない」
【るい】
「どうして隅っこにいるの?」
【茜子】
「狭くて暗くてちっちゃいところが好きなので」
【花鶏】
「こっちいらっしゃいな、背中流してあげるから」
【智】
「遠慮します」
【茜子】
「近寄ったら舌を噛みます」
【花鶏】
「二人とも、お堅すぎね」
【るい】
「智ってば、一緒にお風呂はいるのいやがるよ」
【茜子】
「……陰謀のにほいがする」
【智】
「そんなものはない」
あるのは陰謀じゃなくて秘密だ。
危険な隠蔽だ。
【伊代】
「照れくさいのはわからないでもないわ」
【るい】
「オッパイちっちゃいの気にしてた」
【茜子】
「……A?」
【花鶏】
「触った感じだとAAA」
【こより】
「問題ありませんであります!
こよりもペッタンコでありますッッ!」
【伊代】
「そんなことに胸はらなくても」
【こより】
「だめですか……やっぱし、ないと、人として生きていくには
まずいでありますか……」
【花鶏】
「いいじゃない、可愛らしいわ」
【こより】
「うひゃひゃひゃひゃ」
【花鶏】
「もう少しいい声をだして欲しい」
【こより】
「な、なにをするですか!?」
【花鶏】
「無邪気なスキンシップ」
【こより】
「な、なんかむしろ邪気が、あぅっ」
【花鶏】
「んふふ〜ん♪」
【こより】
「そ、そこはだめです、あうっ、や、あ、ちが、そこはちがぅう〜、きゃう」
【花鶏】
「うふふふ、可愛い子」
【こより】
「あ、あ、あ、あーーーーーーーッ」
あまりの暴挙に全員が我を忘れていた。
残念なことに、一番最初に我に返った。
【智】
「ナニヲシテオラレルノデスカ」
【花鶏】
「片仮名でクレームつけないで」
集団は秩序を失った時に効力を失う。
小さな悪は、見過ごせば大きな木に育ってしまう。
建物の窓が壊れているのを一つ放置すると、
他の窓もやがては全てが壊されるのだ。
【智】
「それで、一体何を」
【花鶏】
「セクハラ」
【智】
「正直ならいいってもんじゃないよ」
【こより】
「せんぱい〜〜〜」
背中にしがみつかれる。
【智】
「ぎゃわー」
【こより】
「お嫁に行きにくくなりそうなところさわられたです〜」
【智】
「ところってどこのこと!?」
【こより】
「せんぱいーせんぱいーせんぱいー!」
【智】
「触ってる触ってる今この瞬間に背中に何か触ってる!」
がくがくされる。
違う意味でがくがくになりそう。
【伊代】
「いつまでも何を騒いでいるのやら。まったくお子様たち
なんだから」
【るい】
「なるほど、たしかにこっちはお子様と違う」
【伊代】
「どこ見てるの……」
【るい】
「なんというけしからん乳」
【伊代】
「はしたない単語のままで」
【茜子】
「……浮いている」
【伊代】
「……だれのだって浮くわよ」
【こより】
「浮かないッス」
【茜子】
「……」(←賛成)
【花鶏】
「浮けばいいってものじゃないわ」
【るい】
「なんだ、浮かないのか」
【花鶏】
「………………なにも言ってないでしょ」
【こより】
「きっと空気か何かが中に――」
【伊代】
「そんなの入ってない」
【花鶏】
「でも、たしかに、これは、中々」
【伊代】
「目つき目つき」
【るい】
「触ってもいい?」
【伊代】
「あんたまでそっちの人か!?」
【るい】
「そういうわけじゃないんだけど、こんだけあると、
エアバックプニプニしてみたい」
【伊代】
「えあ……そういうのは自分ので好きなだけおやんなさい」
【るい】
「これは、今ひとつ迫力が」
いやいや、なかなかだったと思う。
【こより】
「センパイせんぱい、見るです、すごいッス」
【智】
「ソウデスカスゴイデスカ」
【こより】
「ほらほら、たぷたぷするー!」
【伊代】
「やめてやめて」
【智】
「タプタプデスカ」
【こより】
「ほらほら、見て見て」
首を捻られた。
【智】
「――――――ッッ」
【こより】
「見ました?!」
【智】
「見えちゃった……」
【こより】
「すごいでしょ?!」
【智】
「タシカニスゴイデス」
本能的に目を反らせない。
いよいよ危険です。
母上様。
死に場所が桃源郷というのは、
はたして幸運でしょうか、不運でしょうか。
【こより】
「なにくったらこういうのになるですか?」
【茜子】
「日夜もまれて」
【伊代】
「ふしだらなことは何もしてない」
【こより】
「もまれて大きくなるなら、わたしもセンパイにもまれたら!」
【伊代】
「……これこれ、そんな非生産的な」
【花鶏】
「そんなことならわたしがいくらでも揉んであげるわよ」
【こより】
「あー、いやー、それはちょっと……」
【伊代】
「根拠のない俗説を頭から信じない」
【こより】
「おっきくならないっすか……」
とてもとても残念そうに。
【伊代】
「そんなの、あと何年かしたら、ほっといても自然に大きく
なるわよ」
【こより】
「でも、違いすぎるこの現実」
【伊代】
「そりゃ、個人差は、あるかも、知れないけれど……」
個人差。
言葉の欺(ぎ)瞞(まん)の裏側が目の前に証明として並んでいる。
伊代>>>るい>>花鶏>茜子>>(越えられない壁)
>>こより。
【智】
「………………ぶくぶくぶく」
イケナイことを考えた。状況がさらにまずくなる。
【るい】
「沈んでる?」
【智】
「難しい年頃なので……」
【るい】
「おろ、これは――」
【花鶏】
「ん……ああ、それは痣(あざ)よ。模様みたいなおかしな形してるでしょ。でもね、それはいわば聖痕なのよ。わたしの家の先祖には代々あったんだけど、」
花鶏さんは、ひたっていた。
自慢のクラリネットを見せびらかす少年のようなまなざしで、
肩の濡れ髪を大仰にかきあげる。
痣(あざ)。
湯あたり寸前の脳みそに単語が忍び入ってくる。
痣――――。
【るい】
「それ、私もある」
【こより】
「ほんとだ」
いきなり、ありがたみのない展開になった。
【花鶏】
「――――待てや」
物言いがついた。
【花鶏】
「なによそれ」
【るい】
「なによってなんなのさ」
【花鶏】
「どこの盗作よ、親告罪だからってバカにしてると、著作権法違反で訴えるわよ」
【茜子】
「痣にそんなものはない」
【るい】
「文句あんのか」
【花鶏】
「ありすぎて並べてるだけで朝になるわよ」
【るい】
「ほほう」
ずいっと、るいが胸をつきだす。
挑発的なポーズだった。
大人しく鼻白んでいる花鶏ではなかった。
【花鶏】
「……ちょっと人より脂肪が余分についてると思って」
【茜子】
「微妙に逃げっぽい言動です」
【るい】
「みろ」
【花鶏】
「あんたの胸なんか見ても嬉しくない、こともないけど、
まあそれは置いておいて」
【るい】
「そっちじゃなくて、こっち」
そこには、痣がある。
花鶏が目を白黒させる。見入る。
自分のと見比べる。
見てるだけで楽しい万華鏡じみた百面相だ。
【花鶏】
「うそ」
【るい】
「ほんと」
花鶏が運命に破れた者の顔をしていた。
ここがお風呂でなければ、
跪いて過酷な天に怒りをぶつけていた感じの悲鳴。
【花鶏】
「ニェーッ!」
【こより】
「はーいはいはーい! 不肖鳴滝めにもあるでごわす!」
そのうえ追い打ち。
空気を読まない言動は、
無垢な分だけ傷口を深く抉る。
【こより】
「ほらッス」
【智】
「…………」
やたらと扇情的なポーズだった。
お風呂に腰掛けて片膝をたてる。
色香と呼ぶには未成熟だ。
脂肪の薄い腿から付け根へと至るラインも、
異性をあまり意識させることがない。
全部見えた。
【智】
「まだ、はえてないんだ」
【こより】
「う、ちょっと気にしてるのに」
【智】
「ぶくぶくぶくぶく」
ぽろりともらす自分の口が恨めしい。
【こより】
「ほら、ここ」
左の内股を指で示す。
また際どいところにあった。
白い肌に青白い痕が艶めかしい。
今は本人の素養と打ち消しあってただの痣だが、
数年も経てば、痣一つで男を手玉に取れてしまう、
無限の可能性が広がっている。
【花鶏】
「ほんとだ……」
【るい】
「へー、おんなじだねえ。擦ってもとれないし」
【こより】
「にゅにゅ、なんかくすぐったい」
【花鶏】
「なに、これ」
【伊代】
「なにとおっしゃいますと」
【花鶏】
「なによこれ、どういう詐欺よ!」
【るい】
「いきなり詐欺ときやがった」
【茜子】
「いつもより多くとばしております」
【こより】
「なんというできすぎた偶然!」
【花鶏】
「こんな偶然があってたまりますか!」
【こより】
「あわわ」
吠えられたこよりは、尻尾を丸めて、
るいの背中に隠れる。
偶然――。
こよりの言葉の通り、
出来すぎた可能性。
どんな希少な状況であれ、
確率的にあり得るならば出会ったとしても不思議はない。
1億回、1兆回に1度かぎりの出来事も、
今このときが1兆回目であれば成立してしまう。
だがしかし。
【花鶏】
「そっちの3人も!?」
【智】
「返事をしたら食い殺されそうです」
【花鶏】
「返事をしないなら今すぐ殺すわ」
花鶏は崖っぷちにいた。
自分で自分を追い詰めて煮詰まっている気が、
ひしひしとする。少なくとも僕に責任はないはずだ。
なのに、なぜ責め殺されなければならないのか。
【花鶏】
「あるの、ないの?」
【伊代】
「痣くらい、あるけど……」
【花鶏】
「ある!?」
【伊代】
「お、同じのかどうかなんてしらないわよ」
【花鶏】
「どうして!?」
【伊代】
「背中だからあんまり気にしたことない……きゃーっ!?」
花鶏がケダモノになって飛びかかった。
女の子二人が組んずほぐれつ。
もうちょっと夢のあるシチュエーションなら心温まるのに。
【花鶏】
「な、なななな」
背中を確かめる。
結果は訊ねるまでもなかった。
蒼白の花鶏がよろめきながら後ずさる。
【花鶏】
「きっ」
【茜子】
「ッッ!」
次の獲物は茜子だった。
【花鶏】
「大丈夫よ痛くしないから」
【茜子】
「おっぱいさわったら死んじゃいます!」
【花鶏】
「それ以外のところにしてあげる」
【茜子】
「一歩でも近づいたら舌も噛むです!」
【花鶏】
「うふふふふふふふ」
【花鶏】
「――――ッ」
【茜子】
「――――ッ」
茜子が逃げ出した。
後ろにダッシュ。
そして、足を滑らせる。
【茜子】
「きゅー……」
【花鶏】
「あった…………」
うつぶせに倒れた、お尻。
見えた。
やっぱり痣があった。
小ぶりで、白い、まろみの上。
記憶に焼き付いてしまった。
【花鶏】
「そんな……」
花鶏が、よろりと2〜3歩後ずさる。
【智】
「はっ!?」
甘美な一瞬を反芻している場合ではない。
高いところから花鶏がなにも言わずに見下ろしてた。
なにも言わなくても言いたいことがわかる。
繋がることのない心と心が、
この一瞬には確かに結ばれていた。
曰く、獲物と捕食者の強い絆。
【花鶏】
「あなたもなのね」
【智】
「ぎゃわー!」
抑揚のない言葉遣いがなおさら怖い。
食われる!
【花鶏】
「どこにあるの!」
【智】
「まってまってまって!」
【花鶏】
「全部見せろ!」
【智】
「きゃーきゃーきゃー」
【花鶏】
「大人しくしなさい!」
【智】
「だめいけないわそれだけは堪忍してぇーっ」
死にものぐるいで抵抗する。
現実は厳しい。
湯船の中で、タオルで前を押さえたまま、
片手で出来ることなんて知れていた。
【花鶏】
「観念!」
【智】
「おたすけ!」
絶体絶命。
【るい】
「あーこらこら、どうどう」
【花鶏】
「な、離しなさい、こら!」
るいが羽交い締めに止めてくれた。
ほっと安堵にへたり込む。力が抜ける。
【るい】
「だから、おちつきなさいって。ほら、あれ」
右腕の後ろ側だ。
痣がある。
花鶏は目にした。
これで五つめの、自分と同じ痣。
【花鶏】
「どいつもこいつも――――」
【花鶏】
「ど、ど、どッッ……どういうことなのよーっ!?」
【るい】
「どうもこうも」
【花鶏】
「これは何かの間違い? どうしてこんなにぞろぞろと、これは罠、いえ、陰謀……そうよ、陰謀だわ! アポロだって月には着陸していないのよ!」
錯乱していた。
まあ、彼女の意見が、多かれ少なかれ、
全員の代弁なのは間違いなかった。
身体のどこかに同じ形をした痣のある6人。
偶然だなんて言ったら笑いがとれる。
今時なら週刊漫画の新連載でも、
もう少し気の利いた導入を心がけるんじゃなかろうか。
【智】
「あ、でも――」
頭に豆球。
ひらめいちゃいました。
花鶏が騒いで注意を引きつけてくれているじゃないですか。
ゴキブリの身ごなしで、
コソコソと湯船から上がる。
思った通り誰も注目しなかった。
人目の隙を縫って、気付かれないうちに、
そそくさとお風呂を出て行く。
【智】
「それじゃ、おさきにー」
【智】
「…………あー、死ぬかと思った」
〔約束しない人との対話〕
夜を見る。
テラスに出ると、
海原めいた高級住宅街の静けさが眼下に広い。
【るい】
「なにしてんのん?」
【智】
「ひまつぶし」
坂の上にある花鶏の家からは屋根の列が見渡せる。
街は遠かった。汚濁も遠かった。
清潔で、静閑で、
瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいが門を並べる。
切り離された聖域だ。
【るい】
「ひつまぶしって美味しいよね」
【智】
「入れ替わってる入れ替わってる」
【智】
「花鶏は?」
【るい】
「ふて腐れて自分の部屋に引っ込んで寝てた」
【智】
「子供ですね」
【るい】
「おこちゃまめ」
くすくす笑う。
一歩間違うと皮肉だが、
るいの物言いには裏がない。
素直な顔は端から見ていても気分がよくなる。
【智】
「ショックだったんだ」
聖痕と、花鶏は呼んだ。
どんな思い入れがあるのかは知らず、
どんなにか思い入れを込めていたかは想像できる。
信仰していた特別が、十把一絡げに量産されていたのは、
さぞかしカルチャーショックだったろう。
るいも黙りこくっていた。
腕を組んで、首を傾げている。
【智】
「悩んでる?」
あの痣のことを。
【るい】
「何を悩んだらいいかと」
考えてませんでした。
【智】
「だと思った……」
同じ痣がある。
偶然に出会った6人に、
偶然そろっていた痣。
笑いのとれる確率だ。
ジュブナイルかライトノベルの小説じゃあるまいし。
【智】
「るいにも昔からあった?」
【るい】
「よく覚えてないけど、ちっこいときからあったかな。昔は学校の着替えとかで、よくからかわれたりした」
僕の痣は生まれたときからあった。
生前の親の言葉を鵜呑みにするなら、そうだ。
右腕の後ろにある。
自分では見えにくい。
普段は気にしたこともない。
るいが脱いだ時、
そういえば変な模様を見た。
同じ痣だなんて思いもしなかったけど。
別に、白いたわたわで目がいっぱいに
なってたわけじゃない、たぶん……。
本当に痣なのか?
例えば入れ墨。
それともレーザー印刷。
ネイルアートならぬスキンアート。
痣であれ痣以外のものであれ、
明確な現実の前には、些細な違いだ。
収まりのいい解答が、あるにはある。
全ては偶然だ、と。
収まりというより投げやりだった。
空想をする。
見えない糸を手繰りながら、
僕らは集まる。
宿命のように運命のように。
そうやって、この場に、6人が――――
【るい】
「ぬふふふふふ」
【智】
「なんで笑い?」
【るい】
「なんとなく」
【智】
「いい加減だなあ」
【るい】
「痣のこと……」
【智】
「データが少なすぎてわかんない」
【るい】
「ちょこっとうれしい」
るいが、にへらとした顔。
【智】
「なんでですのん?」
【るい】
「変な痣だと思ってた。小さいときはバカにされたりしたことも
あったから、正直嫌いだった」
【るい】
「そのうちに諦めたんだよ」
諦め――。
ちくりと胸の奥で何かが痛んだ。
【るい】
「いつの間にか気にしなくなってた。あることも忘れるくらい、
どうでもよくなってたんだけど」
【るい】
「他にもいたんだね。どうしてこんな痣がそろってるのかわかんないけど……でも、私たち、同じなんだって思えた。同じ印がついてる。どこかで繋がってる感じがする」
【るい】
「もし、あの子たちと、今日ここで、こうやって逢うために、
この痣があったのなら」
【るい】
「そういうの、ちょこっとうれしいかも……」
【智】
「……そうかなあ」
【るい】
「そうだよ」
喉から出かかった言葉を飲み込む。
喜んでいるところに、
根拠もなく水を差すのも悪い。
あらかじめ決まっていた出会い、なんて。
そんなものがあるとして。
それは。
――――呪い。
宿命であれ運命であれ、結果の定められた道のり、
栄光の代価としての苦役、決まった道筋から逃げられない、
選ぶことさえ許されないのなら。
それがどれほどの栄華を約束するにせよ、
その名には「呪い」こそが相応しい。
悩んでも見当もつかない。
そもそも。
呪い、運命、宿命、前世。
それって、ちょっとおもしろおかしい素材過ぎだ。
真夏のオカルト番組で、お笑い担当のコメンテーターに馬鹿に
されるぐらいが指定席なのに。
【智】
「柳の下より今日のテーブル」
【るい】
「その心は?」
【智】
「さて、晩ご飯どうしよう」
【るい】
「ないのか!?」
【智】
「みんなで食べようと思って材料買ってきたんだけど、さすがに
家人がいないのにキッチン借りるのも」
【るい】
「やっぱりないのか!」
るいは棒立ちになった。世界の終わりと遭遇していた。
【智】
「しかたないから外食にしようか」
【るい】
「外食……」
うんうん唸る。葛藤する。
るいは食費の桁が違う。
外食すると、文字通り桁が違ってしまう。
【るい】
「るるる〜」
【智】
「にしても騒がしい一日だったねえ」
【るい】
「うんうん」
【智】
「……」
【るい】
「なによぉ」
【智】
「いい顔で笑ってる」
【るい】
「なわっ」
【智】
「楽しかった?」
【るい】
「…………まね」
【るい】
「なんかお祭りでもしてる気分」
【るい】
「ほら、なんせヤクザな生活してますし、仲間とか友達とか、
そういうのあんまりいなかったんだよね」
【智】
「後輩とかに好かれそうなタイプなのに」
【るい】
「んー、まあ、下駄箱に手紙入ってたり、校舎裏に呼び出されたりしたことは何回かあるんだけど」
ほのかなお話だった。
【智】
「相手は年下の?」
【るい】
「うん、女の子」
【智】
「…………」
ほのかじゃなくて切ない思い出だ。
【るい】
「私、不器用だし、気まぐれだし、怒りんぼだし……すぐ考え無しに突っ走っちゃうから、なんかのはずみで仲良くなっても、あんま長続きしないの」
【智】
「友情って信じる?」
【るい】
「…………信じたい」
夜風が梢を鳴らす音に、切ない言葉が混じる。
信じるでも、信じないでもなく。
信じたいと、るいは口にする。
それは願望だ。
か細くすがる希望だ。
あり得はしないと知っているから、
その裏返しにある無力な祈り。
【るい】
「私ってさ、ほんと単純だから、だから、信じたら――」
【るい】
「きっと、最後まで信じちゃうんだ」
【智】
「るいっぽい」
【るい】
「それってどんなの?」
考えて、言い換える。
【智】
「忠犬っぽい」
【るい】
「いいのか、悪いのか」
【智】
「誉め言葉です、たぶん」
【るい】
「うむ、誉められとく」
歯を見せて笑った。単純だ。
心地よい匂いに気がつく。
石けんと混じった、るいの体臭。
思いの外距離の近いことを意識する。
乾ききってない濡れ髪の無防備さに、
こっそりとドギマギしていた。
【智】
「僕らはさ、とりあえず友情からは、はじめない」
近さから気を逸らそうと、別の話題をふり直す。
友情ではなく、同盟から。
【るい】
「同盟か」
【智】
「相互条約からスタートで」
【るい】
「よくわかんない」
【智】
「ギブアンドテイクで助け合おう」
【るい】
「わかりやすくなった」
利用し、利用されることを互いに肯定する。
【るい】
「智、変なこと思いついたよね」
【智】
「変じゃないです。問題をまとめて解決するために知恵を絞ったんです。家がなかったり、ご飯がなかったり、トラブル多すぎるでしょ」
【るい】
「ご飯がないのは問題だ」
【智】
「元凶その一の自覚なさ過ぎ」
【智】
「あのね……だから、僕らは力を合わせて…………この、呪われた世界をやっつけるんだ」
呪い、呪い、呪い。
くめど尽きぬ泉のごとく、
後から後から湧きだす数多の呪いに充ち満ちた、
この世界を。
【るい】
「……呪われた世界をやっつける」
【智】
「そういえばさ、るいの返事は、まだ聞かせてもらってなかった
よね」
【るい】
「返事って?」
【智】
「これから一緒にやっていくのに、賛成? 反対?」
聞くまでもないとは思って流していたけれど。
最終の段取りに確認をする。
【るい】
「…………」
【智】
「るいはどうしたい?」
【るい】
「どう……」
【智】
「明日のこと、その先のこと、これからのこと」
【るい】
「………………」
【るい】
「わかんない」
【智】
「平然と暴言をかまされますね」
【るい】
「先のことなんて考えたこともない」
【智】
「いやいや、お待ちなさいって」
【るい】
「べーだっ」
舌を出された。
るいは不思議だ。
悪ガキみたいなノリの中に、
奇妙なくらい少女がいる。
【智】
「いきなり舌ですか」
【るい】
「私は何ンにも約束しない人なのだ」
【智】
「なんの自慢か」
【るい】
「しない自慢」
意味がよくわからない。
【智】
「約束しない人(じん)?」
【るい】
「そのとーり」
【智】
「指切りも? 口約束も? また明日のお別れも?」
【るい】
「そのとーり!」
【智】
「……どういうイズム?」
【るい】
「るいイズム」
暴君的な胸をはって断言する。
ちなみに、るいが暴君なので、
伊代の場合は宇宙意志だ。
花鶏サイズで自衛隊。
後の二人は……まあ、いいや。
【智】
「よくわかんないです」
【るい】
「そのとーり!!」
【るい】
「そうなの、まさにそこなの。明日のことはわかんない、明日が来るかもわかんない、そんな心配一々してもはじまんない。だから、人生はいつだって一期一会!」
【智】
「サムライヤンキース」
【るい】
「それが私のライフスタイル、人生設計。だから返事なんかして
やるもんか、べーっ!」
【智】
「…………」
論理的整合性を検討してみる。
途中でさじを投げた。
【智】
「やっぱりわからない」
【るい】
「考えるな、感じろ」
屁理屈なのか、我が儘なのか、
自分の生き様を断固として曲げない信念なのか。
余人の理解を超越した心根も、
貫き通せばそれはそれで美しい――
かどうかは解釈の分かれるところだろう。
【智】
「わかった、わかりました、いいです、それでいいです」
個人のライフスタイルに
ケチを付けてもはじまらない。
同盟に異を唱えてはいない。異議があるなら、
るいは後ろも見ずに飛び出して、きっとそのまま帰ってこない。
消極的賛成。
補足・アテにはしてもよさそう。
心メモにラベリングして貼り付けた。
今はそれで十分。
【智】
「とりあえず、今日から同盟はじめます」
夜を見上げて。
星の群れへと手を差し伸べるように、大きく万歳。
【智】
「るいちゃん、適当についてきてね」
【るい】
「べー」
【智】
「期待してるから」
【るい】
「べーべーんべー」
【智】
「今日はみんなでご飯食べよう!」
【るい】
「えいえいおー!」
本当の問題はここから。
はじめるのはなんだって簡単だ。
やり続けることが難しい。
やり続けて、そこで成果を出すことは、
さらにその何倍もハードルが高い。
そして、なによりも。
(さっさと段取りを付けて、
なるべく早めに手を引かないと……)
〔契約結びました(学園編)〕
【智】
「けれど彼女の願いが叶うことはありませんでした……と」
【宮和】
「珍しいお姿を発見いたしました」
【智】
「なぁに、スベスベマンジュウガニでもいた?」
【宮和】
「和久津さまがレポートを片付けておられます」
【智】
「学生の本分は勉学なんですよ」
シャーペンを指で弾いて、
手のひらの上でくるりと旋回させる。
何年か前に流行した。最近も再燃したという。
意味はないが、流行の多くは
意味などさして必要とはしない。
その瞬間の流行であること、
それ自体が意味だと言い換えても構わない。
ご多分に漏れずに覚えたモノで、さして難しいわけでもないのに、コツがわかっていなければ思いの外うまくいかないのでヤケになる。
要は、慣れだ。
日常といい、非日常という。
対比される両者の境界は、
平常から乖離(かいり)した距離の過多に尽きる。
もののとらえ方の問題でしかない。
慣れ親しんだ平常が移ろえばその定義も変化する。
【宮和】
「提出日の休み時間に、慌てて仕上げておられる姿というものは、初めて目にいたします」
回し損ねたペンが掌からこぼれた。
【宮和】
「優等生の霍(かく)乱(らん)」
【智】
「ひとを鬼かなにかみたいに……」
【宮和】
「いったん亀裂が入ると、たいそう脆いものなのです。かのダムと同じです」
【智】
「不気味な予言をせんでください」
【宮和】
「昨日はお忙しくて?」
【智】
「まあ、その、何かとばたばたと」
【宮和】
「多忙であるのはよいことですわ」
【智】
「縁側で猫でも抱いてるのが理想なんだけどね」
【宮和】
「忙しいうちが花とも申します」
とりたてての意味を持たない、
他愛もない戯れあい。
さりげなく触れ合い、
時間を費やす行為。
日常を意識する。
物語なら、振り返ってはじめて価値をみいだせる平穏な日々にこそ与えられる名であり、多くはその安らぎこそ価値あるものだと主張する。
現実には、どうだろう?
教室に踏みこむと、
日常のリズムに取り込まれる。
習慣のなせる技といえた。
もはや意識もしないほど深いレベルで、
学園は日常の一幕として組み込まれている。
【智】
「欺(ぎ)瞞(まん)に糊(こ)塗(と)された日常でも……」
【宮和】
「日常は欺(ぎ)瞞(まん)の上にしか成り立たないものです」
宮和はいつも唐突だ。
どこまでが計算しているのか、まるでわからない。
【智】
「宮、ときどき可愛いことを言う」
肘杖に頬をのせて、笑う。
【智】
「そういう宮は好き」
【宮和】
「本気にいたします」
【智】
「え、えと……」
墓穴。
【宮和】
「式場の予約は済んでおりますから」
【智】
「どういう手回し!」
【宮和】
「お色直しは3回で」
【智】
「しかも豪華だ!?」
【宮和】
「冗談でございます」
【智】
「目が怖かった。スッゴクコワカッタ」
【宮和】
「悩み事がお有りなのですね」
【智】
「人生とはこれすなわち苦悩」
【宮和】
「含蓄あるお言葉ですわ」
【智】
「幸せは一人でくるのに、不幸は友達と連れだってやってくる、
だった?」
【宮和】
「不幸さまは寂しんぼう、ですか」
【智】
「可愛く言っても嬉しくならない」
【宮和】
「そそりますね」
【智】
「何に猛(たけ)っているの!?」
【宮和】
「悩み事が数多いということですか」
【智】
「無理矢理話を戻された……」
【智】
「まあね。そのあたりも悩みの種。優等生としては、譲れない一線というものがあって……」
境界は、概して、目に映らない。
それでいて、ある。
様々な要因によって区分される自他の領海線だ。
【智】
「宮なら、どうする? たとえば、自分がいることが相手にとって何かのストレスになっちゃうような時」
【宮和】
「それはあれですか? 私は愛人の娘なのあのひとがお腹を痛めた子供じゃないわ、とかのお仲間でしょうか」
【智】
「そんな嫌すぎる例題ぽろっと出さないで!」
【宮和】
「そうですね、わたくしなら……やめます」
【智】
「やめるって、お別れしちゃうの? 家から出てく?」
【宮和】
「いいえ。気にするのをやめるので」
【智】
「気にしてるのは相手の方じゃ……」
【宮和】
「それは相手のご都合ですから」
【智】
「まあ、それは……相手は、きっと、いやだろうね」
【宮和】
「でしょうけれど、私は、私であることは止められませんから。
気にするのを止めて、それで別の問題が出てくるようでしたなら、またその時に改めて考えます」
突き放すような返答は、一面の真実の裏返しでもある。
【智】
「やっぱり、八方丸くなんて、都合のいい解答はそう簡単には
おちてないか」
【宮和】
「眉間に島が」
【智】
「きっと皺」
【宮和】
「そんなにお悩みになっては胃を悪くなさいます」
歳をとったら最初に胃腸を壊しそう。
考え込むのは昔からの悪いクセだ。
わかっていても、やめられない。
きっと、怖い。
見えないことが、恐ろしい。
ホラー映画に似ている。
チェンソーもった殺人鬼は脅威であっても恐怖ではない。
後ろから追いすがってくる姿は笑いさえ誘う。
恐怖とは、未知だ。
不明であること、見えざること、
曖昧であること。
真と偽の境界の揺らぎの中に怖さが潜んでいる。
手探りで進まなければならない、その瞬間――――
それが怖くて、幾度も幾度も考える。
可能性と過去の類例から、自分の持ち得る知識から、
来るべき未来像に懸命な接近を試みる。
【宮和】
「和久津さま。心塞ぎがちの貴方にこれを」
【智】
「文庫本?」
【宮和】
「日常的読書に愛用している書籍です。お貸しいたします」
【智】
「おもしろいの?」
【宮和】
「心洗われます」
【智】
「期待しちゃおう」
表紙をめくる。
魅惑の調教師・幸村大、
令嬢生徒会長肛姦補習授業。
官能小説だった。
【智】
「うりゃ」
投げ捨てた。
【宮和】
「ああ、なんという酷いことを」
【智】
「なんでこんなのが日常的読書なの!」
【宮和】
「こんなのではなくスターリン文庫の、」
【智】
「寒そうなレーベル名はどーでもよいです」
【宮和】
「繰り返し愛読を」
【智】
「なぜ繰り返す」
【宮和】
「心塞ぎがちの日々にはよろしいかと」
【智】
「いい台詞も台無しです!」
【智】
「しかも、外側にこんな、可愛い可愛いなカバーわざわざつけて……」
【宮和】
「学園でも日常的に読めるようにと」
【智】
「そういう気だけ使わないで……」
【宮和】
「お電話ですわ」
【智】
「まったく…………」
携帯の液晶を確認する。
花鶏からだった。
昨日、全員で携帯の番号とメアドの交換をした。
るいと茜子は携帯を持ってないことも発覚したりした。
【智】
「まったくの鉄砲玉……不便だから、今度プリペイド持たせるか
何かしよう」
【智】
「はぁい」
待った。返事がこなかった。
【智】
「はぁい?」
再度。こんどは『?』を語尾のニュアンスで付ける。
【花鶏】
『…………』
【智】
「……花鶏?」
【花鶏】
『別に、特に用があったわけじゃないわ』
【智】
「え、あ、そ、そうなの」
【花鶏】
『ええ、なんでもないのよ。まったく、つまらない電話』
【智】
「あ、はい?」
【花鶏】
『暇だったから、ちょっと時間が余ったの。だから電話してみた
だけよ。まったく度し難い』
【智】
「…………度し難いのですか?」
【花鶏】
『じゃあね、サヨナラ』
ツー・ツー・ツー・ツー。
【智】
「………………はい?」
猫騙しされた猫の気分。
〔どうしたんだろう?〕
《ただの気まぐれかなあ》
《なにかあったんだろうか》
〔契約結びました(学園編)〕
【宮和】
「どうなさったのですか」
【智】
「よくわかりません」
3限目がはじまる。
授業の内容は右から左に抜けた。
胃の下に石でも詰まってるみたいな不快感。
小気味よい白墨のリズムを断ち切って。
【智】
「先生――――」
挙手した。
【智】
「はぁい」
【こより】
『やほーでございます! こちら、こよりであります。
センパイにはご機嫌うるわしゅう……』
【智】
「挨拶はさておき」
【こより】
『なんでありますか』
【智】
「その前に確認を」
【こより】
『はっ、なんなりと』
【智】
「今、時間的に授業中じゃないの?」
【こより】
『…………』
【智】
「…………」
【こより】
『センパイ』
【智】
「なんざましょう」
【こより】
『……ジュギョウチュウとは美味しいでありますか?』
【智】
「この件については後ほど裁判で改めて」
【こより】
『釈明の機会を〜!!』
【智】
「長くなるかも知れないけど、身体に気をつけてね」
【こより】
『お慈悲〜』
【智】
「さて、こより君。
きみを一休のエージェントと見込んで指令を授けます」
【こより】
『おお、まさかそこまで認められていたとは!』
【智】
「(学園を)一休」
【こより】
『一級!』
【智】
「まあ、細かいことはいいか」
【こより】
『なにやら引っかかりを覚える今日この頃……』
【智】
「いつの日か、誤謬のないヤングでアダルトなレディーに
クラスチェンジしたら話してあげる」
【こより】
『らじゃーッス』
【智】
「そっちの現在地は……
なるほど、なら、悪いけど頼まれて欲しいんだけど」
【智】
「……そう、そう……確認を……たぶんそのあたりに。
いなかったらそれで問題なしだし。うん、こっちから携帯に
かけても出ないから」
【智】
「それで状況がわかったら、僕の携帯に」
【こより】
『万事了解でありますっ!』
【智】
「お手数取らせます。
あ……っと、帽子、あるならかぶっていった方がいいよ」
【こより】
『帽子?』
【智】
「ウサギさんだと目立つから」
授業再び。
トイレから戻ってきても教室に変化はない。
歯車の駆動音を連想させる授業の進行。
受験のための知識の錬成。
教師の解説を聞き流しながら、
こよりの連絡を待つ。
曖昧なまま待つ時間。
ひどく、長く、いらだつ。
気がつくとシャーペンで、ノートに「の」の字を刻んでいた。
授業を写し取った白い紙面に、いくつもの「の」が黒い染みになる。
【宮和】
「先生」
宮和が挙手した。
【先生】
「なんだ、冬篠?」
【宮和】
「和久津さまのご気分が優れないようですので、保健室に
お連れしたいと――――」
【智】
「宮、宮、宮和――」
【智】
「別に、どこも悪くは……」
【宮和】
「そうですか。では、どういたしましょう」
【智】
「…………」
【智】
「ごめんね、気を遣わせちゃって」
【宮和】
「ささいなことでございます」
【智】
「宮、思ってたよりも大胆な子だった。こういうことしでかす
タイプだったなんて」
【宮和】
「人は見掛けに寄らないものですわ」
【宮和】
「それで、どうされますか」
【智】
「……悪いけど、早退で。先生には」
【宮和】
「お伝えしておきます」
【智】
「感謝」
【宮和】
「和久津さまは生理痛でご帰宅なされましたと」
【智】
「ちょっとブルーかな……」
【宮和】
「やはりブルーなのですか」
【智】
「ブルー違いだと思うんだ」
【宮和】
「……お貸ししましょうか?」
【智】
「ナニオデスカ」
【宮和】
「愛用しております海外の鎮痛剤です。父の知人の製薬会社の方からいただいているのですが、これが効果抜群」
【智】
「いや別に」
【宮和】
「和蘭(オランダ)製、イタイノトンデケン」
【智】
「日本製だよ!」
【宮和】
「無念です……」
【智】
「じゃあ、宮。申し訳ないけど、後はよろしく」
【宮和】
「承りました」
【智】
「このお礼はあらためて」
【宮和】
「では、今度、わたくしとデートなど」
【智】
「オフィーリアのガトーショコラセットごちそうする」
【宮和】
「初めてですわ」
【智】
「……?」
【宮和】
「和久津さまが、お誘いを受けてくださったのは」
【智】
「そうだったかな……そうかも……」
【宮和】
「では、お覚悟のほどを」
【智】
「覚悟がいるデートなのですか!?」
【宮和】
「行ってらっしゃいませ」
【智】
「しかもなし崩しに誤魔化された!」
見送りの代わりに、宮和は深々と頭を垂れた。
〔花鶏の事情〕
【智】
「昨夜はあの騒ぎでしたので、今後の方針については、日を改めて打ち合わせをするとしまして」
【智】
「それまで行動はなるべく慎重に。慌てる帝国海軍は真珠湾、
という諺もあります」
【るい】
「なんかすごいぞ」
【こより】
「センパイ、学があるです!」
【茜子】
「人を信じる心が美しすぎて、茜子さん涙あふるる」
【智】
「一人で、先走って突っ込んでいっちゃうようなことのないように。くれぐれも」
【花鶏】
「ふんっ」
【花鶏】
「……ふん」
花鶏は隠れている。
無様だと思う。
汚濁の街で孤独に息を殺す。
古いビルの隙間を縫うように、
路地から路地へ、裏道へと移動する。
追われていた。
失策だった。
他人と歩調を合わせて、
じっと時を待つことに、花鶏は耐えられない。
元々これは花鶏個人の問題で、
赤の他人に手をだされる筋合いもない。
自分ひとりでできる。
過信があった。
矜持(きょうじ)があった。
油断があった。
一昨日の騒ぎで、
花鶏たちに煮え湯を飲まされた連中が、
自分を捜している可能性を警戒しなかった。
雑多な街だ。
大勢が交じれば区別はつかない。
いるかどうかもわからない相手に、
わざわざ人手を割くなんてバカのすることだ。
そう思うのが、花鶏の陥穽(かんせい)だ。
向こう側とこちら側。
境界を踏み越えれば世界が変わる。
世界とは、価値観だ。
駅のこちらと駅向こうでは、
街の理屈も別物だった。
ある世界では、面子というものが、
黄金よりも貴重になってしまうことだってあるのだから。
【花鶏】
「どうせ覚えて捜すのなら、殴ったヤツの顔を覚えてればいいのに……」
舌打ちする。
自分に置かれた状況が不条理に思えてくる。
なぜ、あのチチ女でなく自分がこんな目にあうのか。
花鶏は目立つ。
雑踏に混じっても、
油のように浮かび上がる。
昨日の今日とはいうものの、他の誰かであれば、
一日を街に埋もれて平穏無事に終えられたかも知れない。
追われたのは花鶏だからだ。
記憶に残ったのは花鶏だからだ。
花鶏で無くなる以外に避けようがない。
考えなくてもわかることに考えが及ばなかったのは、
花鶏にとっては、それがなんら特別ではないからだ。
自分で思うほどに、ひとは己を理解しない。
自分の物差しが特別だと意識するには、
他者と交差し、差異に苦悩する時間が必要になる。
【男】
「――――ッ」
【男】
「――――――」
【花鶏】
「ちっ」
声がする。
聞こえてくるのが日本語でなければ、
危険とみなして逆方向へと逃げる。
花鶏にはこの辺りの土地勘がない。
逃れるために移動するほど、
現在位置を見失い、さらに深みへ足を取られる。
悪循環だ。
【花鶏】
「ここ、どのあたりかしら」
独りごちても返事はなかった。
一人を意識する。
独りには慣れている。
花鶏は孤高の花だ。
高台に咲く。
世界を見下ろし、肩を並べるものなど無く、
足下を顧みることも知らない。
気まぐれに手を差し伸べることはあっても、
誰かに救われるなんて、考えただけでも――――
【花鶏】
「……怖気がする、死んじゃうわ」
慣れているはずの独りきりが、
裸で校庭に立っているような肌寒さに変わる。
頬を触る風はぬるく、いやな臭いがした。
行く先が見えないだけ不安は身の丈を増す。
連中に捕まったらどうなるのか、考察してみた。
さらにブルーになった。
どう控えめに推測しても、
笑えない展開になりそうなので、それ以上の追求を止める。
【花鶏】
「……X指定はわたしの担当じゃないのよ」
弱気の虫が忍び寄ってくる。
一人では駄目かも知れない。
こんなところに一人でいるのは寂しい。
誰かに一緒にいて欲しい。
この際だから、あの性悪乳オンナでも誰だって――――
ポケットの携帯電話が重みを増す。
開いて番号を打てば、それだけで繋がる小さな接点。
ギブアンドテイク。
同盟なのだと、智は言った。
お互いに利用し合い、助け合う。
助け合う――――?
花鶏は思う。
そんなことは、望まない。
必要ではない。
絶対に。
【花鶏】
「ひゃっ!?」
携帯がマナーモードで震動する。
【花鶏】
「…………」
智からの着信だった。
右手が強張る。
携帯を取る。カバーを開く。着信ボタンを押す。
たった三つの動作で声が聞こえる。
しばらく鳴って切れた。
最後まで取らなかった。
さっき、こっちからかけたのが、
そもそもの間違いだ。
あれは気の迷いだった。
助けが欲しかったんじゃない。
ただの、ほんのちょっとした気まぐれだったのだ。
手助けなんて、
これっぽっちも必要ない。
一人でやれる。
それを証明しなければない。
自分自身の手で。
簡単なことだ。
この街のどこかにいる、
盗んだ相手を捜して、見つけて。
アレを取り返す。
知識も技術も経験も不足しているが、
花鶏は達成をこれっぽっちも疑わない。
花鶏は信仰する。
信仰が可能性の隙間を埋めるのだ。
何もかもうまくいく。
そうでなければいけない。
痣の聖痕。
その運命を信じている。
幼い頃から、花鶏はそれに意味を見いだしてきた。
絶えていた徴(しるし)が、自分の元に返ってきたこと。
母にも、祖母にもなかった。
約束された運命だ。
なのに――――――
聖痕が増える。
増えれば聖ではなくなる。
俗に落ちる。
不安の種が身じろぎしていた。
運命の路が挫折しているのか。
進んだ道の先に約束の地などなく、実のところ、破滅こそが
あらかじめ用意されていた結末ではないのか。
信仰には形がない。
だからこそ強く、また脆い。
根拠は外ではなく内にある。
疑えばきりがない。
指の先を傷つけた小さな棘程度の猜(さい)疑(ぎ)が、
破綻の群れを呼び寄せることだってある。
【花鶏】
「あの牛チチッ!!」
八つ当たりに空き缶を蹴り飛ばした。
品性に欠ける行動は慎まねばならない。
でも止められない。
苛立っている。
移動しようとして、足音に気がついた。
まずい。
ビル影に飛び込んでやり過ごす。
心臓が早鐘を打つ。
こちらを見ている相手は、
誰でも敵に思えた。
いよいよまずい徴候だ。
疑心暗鬼の手が足下まで伸びてきている。
冷静さを失ったら最悪なのに、どうにもならない。
【花鶏】
「ッ!」
また来た。
携帯がマナーモードで震動する。
悩んだ。
怖ず怖ずとポケットに手を伸ばす。
ブルブルと催促するように携帯が震える。
液晶画面に面と向かって、固まる。
「智」
表示された文字。
強張った指でコンソールを開けた。
そして。
呼び出しが切れる。
【花鶏】
「な………………」
裏路地に静けさが戻ってきて。
【花鶏】
「なによそれは!」
一瞬で静寂は破壊される。
【花鶏】
「わたしが取る寸前に切れるなんてどういう了見よ! 処刑されたいわけ?!」
【花鶏】
「帰ったら、ただで済ませると思ってんの!」
リダイヤル。
智の携帯へ。
怒りにまかせて身体が動いた。
携帯が番号を読み取る。入力される。
電子音のテンポがひどく遅くてイライラする。
早くかけて。
さっさと呼び出して。
そうしたら、
そうしたら――――――
どうするつもりなんだろう。
怒りに充ちていた手から力が抜ける。
携帯は勝手に智の番号を呼び出しはじめる。
どうするつもりなんだろう。
どこまでも曖昧な気分のまま、携帯を耳に当てた。
ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー
【花鶏】
「な………………」
【花鶏】
「なんなのよそれは!」
通話中だった。
〔契約結びました(市街編)〕
【こより】
『センパイセンパイセンパイセンパイ!』
【智】
「センパイは1度でいいです」
【こより】
『どーしたらいいのかわかんないッス!』
【智】
「僕にもどーしたらいいのか」
【こより】
『神も仏も〜』
【智】
「だから状況を説明しなさい。
それがわかんないと、どーしようもないのです」
【こより】
『花鶏ネーサンが』
【智】
「見つけたの?!」
【こより】
『いい感じに』
【智】
「間違いなくって?」
【こより】
『ネーサン、目立ちますから』
【智】
「様子はどう?」
【こより】
『普段通りですけど』
【智】
「それは重畳(ちょうじょう)」
【こより】
『ただ追いかけられてるだけで』
【智】
「全然普段通りじゃないです!」
【こより】
『逃げてるみたいでぇ〜』
【智】
「他には?」
【こより】
『隠れてるみたいです』
【智】
「別視点から分析すればいいってモノじゃないよ!」
【こより】
『なんか、不味い空気になってる感じがヒシヒシと〜』
【智】
「そんなに?」
【こより】
『言語が危険な感じに怪しい、イケナイ方向性のひとたちと
3回くらいすれ違いましたです……』
【智】
「……なんとか花鶏を追いかけられない?」
【こより】
『駅向こうの、かなりマズイあたりに来てるです。これ以上、深度深いところへ突っ込んで行ったら、追いかけられないッス!』
【智】
「そこをなんとか」
【こより】
『それは死ねと〜』
【智】
「死んじゃうんだ……」
【こより】
『ウサギは一羽になると死んじゃうのデス……』
【智】
「……そうDEATHか」
【こより】
『どーしたらいいのか、どーすればいいのか……。
不肖鳴滝めは探偵失格でございますー』
【智】
「探偵じゃなくて偵察」
【こより】
『似たようなモノでは』
【智】
「一文字違いで大違い」
【こより】
『まだまだおいらは未熟……』
【智】
「それで」
【こより】
『合流しちゃうのは、鳴滝的にありですが』
【智】
「いや、それは……
カモがネギというか、地雷原に地雷見物というか」
【こより】
『???』
【智】
「とりあえず、こっちも向かってるから。援軍も連れて行くから、それまで危険なことには首を――――」
【こより】
『……………………』
【こより】
『あー、やっばーいっ!!』
【智】
「え、なに、ちょっと?!」
【こより】
『やば、すごくやばー、うー、やー、たーえーい、不肖鳴滝、
オンナは気合いで、やるときはやるでございまーす!!!』
【智】
「あ、ちょと、ちょっとまちなさ―――」
花鶏は追いつかれた。
静止画のように、男が二人。
肌がひりつく。
明らかに手慣れていた。
身のこなしが染みついた暴力を印象させる。
片手がポケットに収まっている。
何かを隠し持っているのだ。
鋭利で、剣呑な。
悪意が遅効性の毒物のように空気を侵していく。
相手は舌なめずりひとつしない。
かえってリアルな危機を感じさせた。
花鶏は、諦めるより憤った。
武器を探す。
棒きれ一つでもいい。
二人はいけない。やっかい事としても倍だが、
相手にすることを考えれば倍以上に危険だ。
役に立ちそうなのは、手持ちのカバンくらい。
【花鶏】
「まったくろくでもない……」
トラブルはくぐり抜けられる。
花鶏は運命を信仰する。
小さくささった不安の棘を飲み込んで。
相手が早口で何かをまくしたてた。
とても聞き取れないが、
恫喝か威嚇かのどちらかだ。
決まっている。
来る。
花鶏は目を丸くした。
【花鶏】
「ちょ、ちょっと待って!」
待つわけがない。
【花鶏】
「だから待てって!!」
男の手が鋭利な速度で動く。
それよりも一回り早かった。
【こより】
「きゃーーーーーーーっ、ちかんさーん!!!」
後ろから、こよりが右の男に体当たりした。
男がよろめく。
もう一人も注意がそれた。
花鶏は、こよりの方を向いた左の男の後頭部に、
カバンの角を叩きつける。
いい感じの手応え。
そのまま、バランスを崩している右の男に肩からぶつかって、
思い切って突き飛ばした。
隙間をこじ開けた。
逃げる。
【こより】
「花鶏センパイ!!」
二つおさげをなびかせたウサギっこが、
愛用のローラーブレードで追いついてきた。
【花鶏】
「あなたはっ」
【こより】
「よかったぁ〜、無事でなによりであります!」
【花鶏】
「無事じゃないわ! これからますます無事じゃなくなるわよ!」
【花鶏】
「ほら急いで! じっとしてたら捕まるわ!」
【こより】
「それはご容赦〜」
【花鶏】
「いやなら走れ」
【こより】
「あうー、どっちいけばいいッスか……」
【花鶏】
「……わからないわ」
【こより】
「無責任だー」
【花鶏】
「いいからこっち!」
【こより】
「あう、まってー!」
【花鶏】
「ちょっと、そっちだけ車輪付きなんてずるいわよ!!」
【こより】
「ずるい言われましても……」
【こより】
「ここ、どのあたりなんです?」
【花鶏】
「だからわからないと」
【こより】
「いよいよ無責任だ……」
【花鶏】
「それよりも、さっきの」
【こより】
「え、てへ、とにかくなんとかしないとって」
【花鶏】
「まあ、役には立ったわね」
【こより】
「お褒めにあずかり恐悦至極にございます」
【花鶏】
「でも、危ないことをして」
【こより】
「……初めてでした」
【こより】
「やりかたとか、全然わかんなくて……」
【花鶏】
「誰だって一度は通る路よ」
【こより】
「ちょっと違う気が……」
【花鶏】
「大したことなかったでしょ」
【こより】
「それは、まあ。なんか、思い切るまでが大変で、実際やってみると、ぱっと終わっちゃったっていうか」
【花鶏】
「案外気持ちよくて」
【こより】
「あううう」
【花鶏】
「ストレス解消にもいいかもね、大声」
【花鶏】
「…………無駄話してる暇はないか」
【こより】
「追ってくるですか?」
【こより】
「うむむ、この間からこういう人生が続いております」
【花鶏】
「二度あることは三度ある」
【こより】
「三度目の正直で遠慮したいであります」
【花鶏】
「仏の顔も三度までといって」
【こより】
「仏さまになるのですか」
【花鶏】
「熨(の)斗(し)つけて、ごめん被るわ」
【こより】
「そうだ、センパイにメール!」
【花鶏】
「智に……?」
【こより】
「コールサインは1041010で、ピンチなので
すぐ来てください!!」
【花鶏】
「……アテになるの?」
【こより】
「ここにはセンパイの命令できたんです」
【こより】
「花鶏センパイがやばそうなので、偵察して捜してと」
【花鶏】
「あいつ、そんなこと……」
【花鶏】
「…………」
【花鶏】
「ふん」
こよりからの連絡を待ちかねていた。
足は無駄に速くなる。
1分でも早く近づこうとする。
急ぐには走らなければならないが、
無闇に動いたところですれ違ってしまうと意味がない。
百も承知の上だった。
待つよりも動いている方が落ち着くのは、
何かをしている感覚が免罪符になるからだ。
無為に待つ方が、辛い。
携帯がメールを着信する。
待ちかねたものだった。
こよりからの連絡だ。
通話でもいいのにメールである。
合流成功。逃走中。
【智】
「安心する暇もないんだもんねえ……」
嘆く。
余裕があれば天を仰ぎたい。
折り返し、リダイヤル。
【智】
「……なぜにメール」
【こより】
『メールに心引かれる、こよりッス!』
【智】
「よくわからない」
【こより】
『字になった方が、心こもってる気がするわけなんです』
【智】
「複雑だ……」
【こより】
『世界の神秘ッス』
【智】
「花鶏は?」
【花鶏】
『……いるわ』
【こより】
『です』
【智】
「現在地は?」
【こより】
『お助け〜』
予想通り道に迷っていた。
どうすればいいだろう?
追いかけてる連中だって、公僕に睨まれるのは願い下げの筈だから、駅向こうまでなんとか逃げるのが一番だ。
状況を訊ね、合流する場所の指示をする。
こちらも向かう。
細い路から二人が転がり出てくるところだった。
【こより】
「センパイ〜〜〜!」
【智】
「よーしよしよし、なんとか生きてる? 怪我とかしてない?
そっちも大丈夫?」
【花鶏】
「私の心配するなんて、百年早いわね」
生きてるうちは無理っぽい。
【るい】
「へらず口女」
【花鶏】
「……どうして、こいつがいるわけよ!?」
【るい】
「こいつっていったよ、こいつ!」
右と左から問い詰められる。
花鶏ン家に茜子と一緒しててくれたので、
るいを捕まえることができた。
茜子も携帯持たない人だけど、花鶏の家の電話機は
ナンバーディスプレイなので、僕からの電話には出てくれる。
どっかに飛んでってたら、実にマズイところだった。
今度、絶対にプリペイド携帯持たせておいてやる。
【こより】
「それよりも、後ろから来るんですよーっ!」
こよりが泡を食って指差す。
追っ手だった。
【智】
「走れ!」
【こより】
「にゃわ〜」
幾つ目かの曲がり角を高速でカーブ。
前方不注意で制限速度をブッチぎっていたローラーこよりが、
通りすがりの無実な学生さんに右から追突した。
横転に巻き込まれた花鶏も足をもつれさせる。
【無実な学生の人】
「――ッ」
【花鶏】
「なにしてる、前見なさい、前を!」
【こより】
「申しわけ〜」
二人の後ろを、僕が追いかける。
何か踏んだような気もするが些細な問題だ。
事故った分だけ追いつかれる。
最後尾のるいが、追っ手の間を遮った。
【るい】
「――――」
追っ手は3人に増えている。
途中で合流したらしい。
るいが、僕らをかばう位置に立つ。
峻厳(しゅんげん)な殺意が、相手を貫く。
後ろから見ているだけで、
背中の産毛が総毛立つ。
相手は逡巡(しゅんじゅん)した。
るいの危険さを嗅ぎとるだけの鋭さを持っている。
それに、ここは人通りも、そこそこある場所だ。
手間取れば騒ぎになる。
判断が難しい。
車を呼んで強引に僕らを詰め込めば済むかも知れない。
【花鶏】
「……バイクに乗ってくればよかったわ」
【智】
「原付でしょ」
【花鶏】
「デカいのもあるわよ」
【こより】
「乗ってくればどうにかなりました?」
【花鶏】
「必殺技が使えるわ」
もの凄いフレーズが来た。
花鶏から聞くとさらにショックが大きい。
【智】
「必殺ナノデスカ」
【花鶏】
「片仮名の発音が気に入らないわね」
【こより】
「スゲーッス!」
こちらは素直に感心していた。
【智】
「今の瞳の輝きを忘れないでね」
【こより】
「了解であります!」
【智】
「それでどういう必殺?」
【花鶏】
「ヘヴィモータード・チャージング・アサルト。3人くらいなら
まとめて一撃よ」
【智】
「それ絶対轢いてるだけでしょ!?」
【花鶏】
「名前は今考えた」
想像よりも恐ろしいヤツだった。
考えてみると、最初の出会いで必殺技を受けそうになっていた。
【智】
「…………素敵な出会いでしたね」
【るい】
「それいただき」
るいの気配が緩む。
ちらりと肩越しに後ろを向いたのは、普段のるいだ。
【智】
「素敵出会い?」
【るい】
「その前のやつ」
【智】
「前というと……」
【るい】
「必殺」
バイク轢殺攻撃。
【智】
「そんなもの、いたただかれても」
【花鶏】
「あなた、免許持ってるの?」
【智】
「そういう問題でもない……」
【るい】
「そこで黙って見てなさい。世界がびびる、るいちゃん流必殺――――」
天に向かって高々と咆哮した。
路上駐車してある、誰かの原付のハンドルを掴んで。
【智】
「な、」
【花鶏】
「に、」
【るい】
「原付あたーーーーーーーーっく!!!!!」
丸ごと投げた。
【智】
「ぎゃわーーーっ???!!!!」
自転車ではない原付である。
持ち上げたのではなく投げつけた。
【るい】
「しねーーーーーーっ!!!!」
言われなくても当たると死ぬ。
ゆうに数メートルを飛翔した。
重量70キロの砲弾だ。
連中がびびった。
こっちまでびびった。
鋼の筋肉をまとったむくつけき2メートルの大男が、
パフォーマンスに持ち上げるのとはわけが違う。
空飛ぶ原付は連中の目の前で壮絶に着地した。
むしろ爆地。
示威効果としては十分すぎた。
蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。
後には大往生した原付の亡骸だけが残される。
どこの誰のものかは知らないけれど。
【るい】
「南無」
るいが手を合わせる。
貴重な犠牲であった、
キミのことは永遠に忘れない。
そう誓っているように見えなくもないが、
たぶん、気のせいだろう。
【るい】
「どんなもんすか、るいちゃんの新必殺技……って、なに
この白けた空気」
【花鶏】
「バカ力とは知ってたけれど……まさか、バケモノ力とは
思わなかったわよ」
【るい】
「感謝しろよな、こンちきしょうめ」
【智】
「すごいね、サイボーグ」
【るい】
「うち人間すから」
【こより】
「すげーですぅ〜〜っ!」
空気読まないこよりは、素直に驚嘆する。
〔契約結びました(ダークサイド編)〕
【智】
「ここまで逃げれば」
【こより】
「大丈夫なのですか!?」
【智】
「だいたい問題ないと思います」
【花鶏】
「走るわ汚れるわ、散々な一日だわ」
【智】
「誰のせいですか」
【花鶏】
「運命を恨みなさい」
やるせなかった。
お前なんか犬のウ×コ踏んじゃえ、運命。
【智】
「ひとりでやっちゃダメって念押ししなかったっけ?
どうしてさっさと走っちゃうかな」
【るい】
「チームワーク大切にしろつーの」
【花鶏】
「あなたに言われたくないわね」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
すぐに揉める。
【智】
「以後は謹んでください」
【花鶏】
「これは、わたしの問題だわ!」
【智】
「今は全員の問題なの、僕らは運命共同体なの!」
同盟。
互いを救う相互条約。
【花鶏】
「はん、運命共同体」
鼻で笑われる。
【智】
「それではお尋ねしますが、手がかりは?」
【花鶏】
「…………」
【智】
「捜し歩いて何か見つかった?」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「はーい、センパイ先生ー、質問があります!」
【智】
「どうぞ、こよりくん」
【こより】
「…………これからどうするですか」
【智】
「それなんだよね」
【花鶏】
「……本を、捜すに決まってるでしょ」
【智】
「本が、バッグの中味なんだ」
【花鶏】
「…………ええ、そうよ。花城の家に代々伝わる古い本、
大切な……大切な本なのよ」
さすがの花鶏も肩が落ちている。
ほんの心持ちだけど。
【智】
「闇雲に捜しても見つからないよ」
【こより】
「闇雲じゃなければ見つかるですか?」
【智】
「捜し方にもよるけど。盗まれたのは本。
とりあえず捨てられてるっていうの考えないでおくとすると……」
もし燃えるゴミと一緒に出されていたら、
ゲームオーバーだ。打つ手はない。
【智】
「そこで問題です。どうして他人のものを盗んだりするんでしょう?」
【るい】
「……それが欲しかったから」
【智】
「いい線です。ただ、今回はかなり偶然っぽいので違います」
【こより】
「……価値がありそうだから?」
【智】
「はい、正解です。10点獲得と次回のジャンプアップで+1」
【花鶏】
「それはつまり、本をお金に換えるということ?」
【智】
「本が入ってたとは思わなかっただろうね。高価そうなバッグ
だったから狙っただけで、本が入ってたのは成り行きだと思う」
【智】
「こうなると盗んだヤツが多少はモノを見る目があるか、とにかくどんなものでも換金しようと考えてくれる方に賭けるしかないんだけど」
【こより】
「古本屋さんに売っちゃったりするんですか?」
【智】
「馬鹿になんないんだよ、本。
稀覯本だったりすると、出るところに出たら――」
ゴニョゴニョ。
純真なこよりちゃんに、とある本のお値段を囁いてあげる。
【こより】
「きゅう」
目を回した。
【こより】
「そそそそそそ、そんなにお高いんですかッッッッ!!!」
【智】
「ピンキリだけども、ものによると……今のヤツのン倍」
【こより】
「ガクガク……」
憐れな小動物と化して怯えてた。
【花鶏】
「こそ泥風情が……」
【智】
「本当の、ただのひったくりとかなら、ボロの本なんか捨てちゃうかも知れないから、早く見つけて」
【花鶏】
「殺してやるわ」
本気だった。
相手の生命と未来のためにも、
捨ててないことをせつに祈らずにはいられない。
【こより】
「すると、古本屋さんとか調べれば手がかりが!」
【智】
「いやまあ、理屈はね」
【智】
「この場合は盗品だから、手慣れた相手なら、下手に足がつかないように、盗品を扱うような人間を間に挟んだりするかも……」
そんな物騒なところにツテはない。
盗品を扱うような連中なら、
一種のコミュニティーを持っているはずだ。
犯罪的なコミュニティーは当然排他的要素を強く持つ。
外部の人間が近づけるとは思えない。
まして――
【るい】
「?」
【こより】
「♪」
【花鶏】
「…………」
美少女軍団だ。
水と油だ。掃き溜めに鶴だ。
美人三姉妹で美術品を盗んで歩くのとは訳が違う。
悪目立ちして最初の三歩でばれてしまう。
【智】
「ただでさえ駅向こうに行くのがマズイのに、そんな所に近づけると思う? ツテもコネもなく」
目隠しして地雷原を突破するようなもので。
【るい】
「すると?」
【智】
「無理っぽいんだよね」
【花鶏】
「そんな――っ!」
花鶏が、珍しく臆面もない声を上げて、
【惠/???】
「案内しようか」
もうひとつ、知らない声が降ってきた。
低温なのによく通る、不思議な声の主は、
【智】
「……?」
見知らぬ学生さんだった。
詰め襟の制服が、上の道路から階段を降りてくる。
【花鶏】
「……誰? 知り合い?」
【智】
「うんにゃ」
【るい】
「右に同じ」
【こより】
「同意」
るいにチラリと目をやる。
それで伝わった。
るいは小さく肯く。
近くには、他の誰も潜んでいる気配はないらしい。
すると。
追っ手ではないみたい。
【智】
「どちらさまですか?」
【惠/???】
「なんだ、君は忘れてしまったのか。人の心は罪だね。こんなにも容易く他人を傷つける。僕は忘れがたく、こんなにも焦がれているというのに」
わー。
【智】
「――――っと、ごめんなさい! ちょっと思考を手放してた」
【花鶏】
「……いえ、私も今真っ白になってたわ」
【るい】
「ほへー」
【こより】
「ほへー」
るいとこよりは、まだ燃え尽きていた。
【花鶏】
「なにこれ。どういうの? なんとも珍しい手合いだけれど」
【智】
「や、やばい」
動揺した。
【花鶏】
「なにが、どう? 危険な相手なの? なにかあるの?」
【智】
「誰か知らないけどものすごくヤバイ。僕、こういうタイプとコミュニケーションするのは、想定したことがなかったんだッッ!」
右往左往。オロオロする。
【花鶏】
「……あなたが本音で慌てるのも初めて見るわね。案外イレギュラーには弱いのかしら」
相手が下までやってきた。
本能的にうなじの毛が逆立つ。
苦手なタイプだ。
おまけに……背が高い。
【智】
「……うらやましい」
【惠/???】
「それで、案内はいらないのかい?」
少年だ。
手の触れそうな場所にいるのに存在感が薄い。
独特の気配だ。
【こより】
「あう、きれー……」
【るい】
「えー、こよりん、あーいう青白いのがいいのー?」
正気づいたギャラリーが騒いでいた
こよりが乙女アイで見惚れている。
ハートが飛んでます。
まあ、たしかに。
こやつは美形キャラだ。
少女漫画っぽい、性別を感じさせない整った顔立ちは、
どこか人形めいて硬質だ。
【智】
「えっと、その、どちらさまでしたっけ?」
再度、質問。
【惠】
「才野原(さいのはら)惠(めぐむ)」
【惠】
「君の友達だよ」
友達宣言された。
才野原惠――
姓と名を別に検索しても記憶がない。
【智】
「覚えてないなあ。
もしかして、進級する前に同窓だったとか、そういうの?」
【こより】
「あ、さっきぶつかった人ッス」
【智】
「ぶつかった?」
【こより】
「そうです、さっき、るいネーサンがバイク投げするちょっと前に――」
【こより】
「にゃわ〜」
【無実な学生の人】
「――ッ」
【花鶏】
「なにしてる、前見なさい、前を!」
【こより】
「申しわけ〜」
【こより】
「飛び出して、通りすがりの無実の学生さんの脇腹に、勢い余って肘を一撃」
【惠】
「そういうことも、あったかも知れない」
【智】
「友達と全然違うだろ!」
出会ったばかりだよ!
変なヤツだと思ったら、
うんと変なヤツだった。
なぜ、どうして、僕の周りには、
こういう変人がより分けでやってくるのか。
神様がいるとすれば、
そいつはどうしようもなく性悪だ。
居場所を教えてくれないから、
胸ぐらをつかんで問いただすという小さな望みも叶わない。
【惠】
「すると、これから友達になるのかな」
【智】
「前後させたら大違いだ」
【惠】
「出会いは運命だという言葉もあるけど、君は信じない?」
【こより】
「うー……運命の出会い〜〜〜〜〜〜っ!!」
少女漫画なフレーズに、こよりが身もだえする。
こういうのを、リアルで耳にするとは思いもよらなかった。
【智】
「僕、リアリストですから、そういうのはちょっと……」
【こより】
「えー」
三角座りして土いじりしそうなぐらい残念がる。
【智】
「でも、とりあえず、そういうことならそれは、つまり、こよりが――」
一撃食らわせた、その帳尻合わせにきた?
【惠】
「その続きを覚えている?」
【智】
「続き?」
【惠】
「そう、ぶつかったその後に」
【智】
「後といえば――」
【無実な学生の人】
「――ッ」
【智】
「あ、踏んじゃった。ごめんなさーい!」
【るい】
「踏んだんだ」
【智】
「……………………」
確かに、踏んだ、気がする。
【惠】
「その時、運命を感じたんだ」
【智】
「そんな運命ゴミ箱に捨ててしまえ!!」
それは運命じゃなくて呪いだ、絶対。
【こより】
「そ、そ、そ、そ、それってもしかして――」
きゃんきゃんと嬉しそうに。
やめて、よして、後生だから。
お願いだからその先の、
呪われた言葉を口にしないで……。
【こより】
「恋っ!! では〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
【惠】
「そうかもし、」
【智】
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
台詞を断ち切って絶叫。
【るい】
「ど、どうしたの、トモちん。でっかいイヤン?」
【智】
「焦るな、静まれ、男に告白されるなんて何回もあったじゃないか。こんなことでめげてどうするの。今度のヤツはちょっとアレだっていうだけで、僕の心臓まだ動いているよお母さん……」
【こより】
「センパイ?」
【るい】
「どない?」
【智】
「ふひ、ひひひひひ、ひひひ、ひひっひ」
【こより】
「こわれちゃいました」
【花鶏】
「たく、この忙しいときにしようのない」
【花鶏】
「えと、才野原惠だったかしら」
【惠】
「ああ」
【花鶏】
「どこまで本気なのか知らないけれど、一つだけ、事前に
はっきりと、断っておくわ」
【花鶏】
「この子はわたしのものだから、あなたは手を引きなさい」
【智】
「そっちじゃないでしょ!」
【こより】
「あ、生き返った」
【花鶏】
「ちっ」
【智】
「ちっ、じゃなくて! 僕は誰のモノでもないですから!」
【花鶏】
「わたしのモノになるのはこれからだけど、遅いか早いかの
違いだから、大差ないでしょう」
大違いだ。
【惠】
「それで、どうする? 案内しようか」
そういえば、話の切り出しはそれだった。
【智】
「…………案内というと」
【惠】
「盗品を扱うような連中のコミュニティー、ツテがあるなら……と。君らが今話してたんだろう」
【こより】
「話は全部聞かせてもらったッスよ!」
【智】
「……今時珍しい刑事ドラマ技能の持ち主だなあ」
【惠】
「案内が必要だと」
【花鶏】
「――別に、わたしには、そんなもの必要じゃないわ」
妙なところで意固地な花鶏だった。
【惠】
「知ってそうな相手に心当たりは、あるかな。君たちを、そのひとのいそうなところに案内して、紹介するくらいしかできないけれど」
相手の方が好意的に無視してくれた。
【るい】
「これって渡りに船ってやつ?」
【こより】
「犬も歩けば棒に当たるです〜!」
【るい】
「当たったのは、こよりだし」
【こより】
「あうぅぅ、誉められてるのか怒られてるのか……」
【るい】
「でも、なんでゴキブリ噛みしめたような顔してるかな」
【智】
「してますか」
顔に出てたらしい。
【智】
「……本当に、案内してくれる?」
【惠】
「必要なら」
【惠】
「そのかわりに」
【智】
「…………」
言われるまでもない。
世界は契約と代価でできている。
【惠】
「実は……」
【惠】
「君のことが忘れられないんだ。でも、強引と言うのは趣味じゃ
ないから、友達からはじめてくれるかな」
わー。
【こより】
「きゃー!」
意識が戻った時、こよりはお星様を一面に飛ばしながら
くるくる回っていた。
【るい】
「……あーいうのの、どこがいいのか、私よくわかんない」
【花鶏】
「男なんてどれもダメに決まってるわ」
【智】
「…………」
【るい】
「トモ、返事してあげなさいよ。せっかくコクられてんだから」
【花鶏】
「意外……色恋絡むと、もっと不器用に逃げ出すキャラだと思ってたのに」
【るい】
「おあいにくさま。これでも告白だけは山ほどされたことあるんですよー、べーっ!」
るいが舌を出す。
告白だけは――すごい日本語の欺(ぎ)瞞(まん)を見た。
るいに告白したのは全員「女の子」だったというのを、
僕は聞かされたので知っている。
【花鶏】
「恋愛偏差値のお高いことで」
【るい】
「告白するのって凄くエネルギーいるんだよ。火がついちゃいそうなくらいに必死で、どーんと体当たりしてくるような感じ」
【るい】
「傍にいるだけで、全部をここに使ってるんだなぁっていうのが
わかっちゃう。だから、せめて、返事はちゃんとしてあげないと
ダメ」
百聞は一見にしかず。
出会ったばかりで愛を告白したにしては、どう見ても必死には
思えない男の子が、目の前で微笑している。
【惠】
「それで、どうかな」
夜になる。
人の川が街路を流れる。
街は交点だ。人と物が交差する。
繋がることはなく、触れ合って離れる。
街はひとの数だけの顔を持っているのかもしれない。
【智】
「どうして夜なの?」
【惠】
「夜でないと相手が現れない」
【智】
「そのあいてって、吸血鬼の親戚筋のひととか?」
【惠】
「勘がいいね。噂を聞いたことは?」
噂はしらないが、
どうやら本物の吸血鬼らしい。
とかくこの世は不思議だらけだ。
吸血鬼、黒いライダー、
花嫁を連れ去る王子様。
【惠】
「そういえば、これってふたりっきりになるのかな?」
【智】
「ブーッ!!
離れろ、近付くな、最短距離50センチ割り込み禁止!」
飛んで逃げた。
愛の語らいなんて断じてごめんだを示す、
両手で×マーク。
【惠】
「つれないね」
惠は肩をすくめもしない。
取り引きに応じて、
僕らは友達契約を結んだ。
最低の語感ですね、まったく。
引き替えに惠にツテを紹介してもらうことになった。
その、問題の相手は夜にしか現れないという。
【惠】
「二人で来ることにしたのは、どうして?」
当然、花鶏は来たがった。
るいも、行くとうるさかった。
【智】
「色々やっちゃったから目立ってるし、顔覚えられてたら余計な
騒ぎになりかねないし。この上物騒なことになったらとっても
困るし」
【智】
「ツテとの話がおかしな方向に流れても、僕ひとりの方がきっと
丸く収まるだろうから」
【惠】
「そうやって巻き込むのを避けるわけか。盗品の話、自分のことじゃないんだろう? なのに……興味深いね、君は」
【智】
「買いかぶらないでよ。僕は効率優先な人種なんだよ」
【惠】
「そういうことにしておこう」
前触れもなく惠が歩き出す。
【惠】
「そろそろ時間だ」
【智】
「どこまで行くの?」
【惠】
「半分は運任せだね」
【智】
「……案内じゃないんですか」
【惠】
「相手がいそうな場所は何ヶ所かある。しらみつぶしにする」
【智】
「どうせロクでもない場所なんだ……」
【惠】
「それはもう。ロクでもない相手がいる場所だから、ロクでもないと相場は決まってる」
聞くまでもなかった。
【惠】
「運が良ければ早めに見つかるだろう」
【智】
「悪ければ?」
【惠】
「いないだけだよ」
わかりやすかった。
【惠】
「運は良い方?」
【智】
「うんと悪い方」
【惠】
「悪運はついてるようだ」
惠に案内された三つ目の路地だった。
異臭が鼻をつく。
灯りのない路地裏に、
街の腐臭とも異なる、饐えた臭気がこもる。
顔をしかめた。
【惠】
「尹央輝(ゆんいぇんふぇい)?」
【央輝】
「誰かと思えば、才野原かよ。
相変わらずウロチョロと目障りなこったな」
路地裏に灯がはいる。
ライターの火だった。
黒い塊がいた。
黒いのは唾広の帽子と蝙蝠の羽めいたコート。
見た目だけならコスプレだが、同じ場所に居合わせるだけで、
肌のひりつく空気を身につけている。
狼が一目で獣だとわかるように、
これは危険だと説明されなくても理解できる。
【智】
「……ほえ?」
帽子の下から、ライターの火に爛々と
照る虹彩が睨みつけていた。
見覚えがあった。
【智】
「あれ、それってもしかして……?」
【惠】
「知ってるのかい」
【智】
「まあ、知り合い程度だけれど……」
尹央輝(ゆんいぇんふぇい)。
そういえば、あの時、名前を聞いていなかった。
【央輝】
「そいつは――?」
【惠】
「君に相談したいことがあるそうだ」
【央輝】
「相談?」
ナイフでくり抜いたような三日月の形に、
相手……央輝の口の端がつり上がる。
近くで見るとよくわかる。
央輝は随分ちっこい。
だが、小型でも刃物と同じだ。
以前にあったときとは違う、
針の刺さるような存在感。
危険な生き物だ。
【央輝】
「くくっ、あたしに相談か、詰まらない冗談を仕込むヤツだぜ」
【央輝】
「いいさ、聞くだけ聞いてやる。場所を変えるか」
央輝が路地を出る。
ライターの火が移動して、
奥にあった臭気の元を明らかにした。
男が二人倒れていた。
大の大人だ。
その男たちの吐いた血反吐の臭いだ。
【智】
「――――」
惠の袖を後ろから引く。
路地の奥を、黙って指で指す。
よくあることだと、惠は小さく肯いた。
【惠】
「注意するといい。央輝は気性が荒いんだ」
尹央輝といえば、その筋ではただならず名前を知られている有名人らしいが、その筋無関係な一般人の僕が聞いたこともないのは当たり前だった。
なんにでも境界はある。
一歩線を踏み越えれば、
そこは知られざる別世界。
央輝は危険な人間だった。
危険な人間の統率者でもあった。
央輝を直接知るものは少ないが、
代わりに、夜の街を伝説が流布していた。
曰く、吸血鬼。
曰く、ひと睨みで相手を殺す。
曰く、人を食っているのを見た。
央輝は、駅のこちら側に夜ごと繰り出す若い連中の、
カリスマとして君臨している、といわれても、
何となく凄そう、以外には実感が湧かないんだけど。
【智】
「こんな場所でいいの?」
【央輝】
「文句があるのか」
【智】
「ないない、ぜんぜんない」
夜の街に佇んで、缶コーヒーを片手に密談にふける。
下手な場所よりは、外の方がいいという。
まあ、下手な場所に連れて行かれても困るわけだし。
【智】
「そういえば、忘れてた。この前は、ありがとう」
央輝にお礼を言った。
追われていたとき、
逃げ道を教えてくれたのだし。
【央輝】
「……」
不思議そうな顔をされた。
水色のパンダとか、
その辺りの珍獣を見つけた顔だ。
【智】
「でも、話を聞く限り、央輝はあっち側の人じゃないの?
どうしてあの時は」
【央輝】
「ふん、ちょっとした気まぐれだ。貴様が気をまわすことじゃない」
物騒な社会には物騒なりのルールとか勢力争いとか、
あまり首突っ込みたくない事情があるのかも知れない。
【智】
「それならそれで、感謝」
【央輝】
「あれは貸しだ。いずれ取りたてる」
【智】
「ごもっともです」
【央輝】
「にしても、盗品の行方とはな! それも、あるのかないのかも
わからないモノを、わざわざ頼みにくるなんてな」
含み笑う。
【央輝】
「笑える話だ、こいつは。才野原、オマエ、ちゃんと教えてやったのか?」
【惠】
「彼女なら、わかっていると思うよ」
惠が流し目で促す。
表情が少なくて感情が読みにくかった。
【智】
「…………」
わかっている、とは思う。
どんなコミュニティーにでもルールがある。
そこに非合法の色がつくなら、
自らを維持するために、より排他的な、
より厳格なルールが必要だ。
求められるのは、契約と代価。
どこででも通用する、どこででも求められる。
それは普遍の法則だ。
【央輝】
「これを聞いてやったら、2度目だな。お前は2度あたしの前に
顔を出して、その度に面倒事を頼んできやがる」
【央輝】
「これが縁なら、糞くだらない縁にも程があるな。違うか?」
【智】
「なんとか、なるの?」
【惠】
「……」
【央輝】
「ならなくも、ない」
酷薄な顔。
【央輝】
「そいつが、あたしたちの仲間なら、話は早い。仲間でなくても、金に換えるためにどこかを通したなら、この街のことなら、必ずあたしの耳には入ってくる」
【央輝】
「だから、だ」
【央輝】
「あるなら、見つけてやってもいい」
背の低い央輝は僕を見上げる。
暗く沈んだ目だ。
3本目と4本目の肋骨の間に、音もなくスルリと滑り込んで
来そうな、薄く鋭利な尖った眼差し。
【智】
「ほんと?」
【央輝】
「…………オマエ、まともじゃないな」
なにやら、酷いことを言われている気がする。
【央輝】
「おい、才野原。そうなんだろ。こいつ、まともじゃねえんだろ?」
【惠】
「まともか否かの区別がつくのは、まともな人間だけじゃないかな」
【央輝】
「はっ、くだらねえ!
そんなもん、まともの保証は誰がつけてくれるってんだ?」
【惠】
「さあね」
くくっ、と央輝が喉に笑いをこもらせた。
【央輝】
「お嬢っぽいわりには、キモの座ったやつだな、お前」
【智】
「そうかな」
そうかもしれない。
【央輝】
「まあ、いいさ」
そうだとすれば、それは、きっと。
――――――――もっと恐ろしいものを知っているから。
【央輝】
「いいぞ。その本とかいうのは見つけてやる――――
あれば、だがな」
【智】
「ホン(本)ト!」
ちょっとしたシャレです。
【央輝】
「ああ」
聞き流された!
【央輝】
「どうした?」
【智】
「いえ、些細な失敗に打ちひしがれてます……」
【央輝】
「ふん。いいか、モノには価値がある。価値は交換できる。あたしが言ってることはわかるな」
【智】
「……僕の借り、二つ目ってことでいい?」
【央輝】
「はははっ! 聞いたかよ、才野原!」
力いっぱい笑われた。
【央輝】
「ここへ来て黙って『貸してくれ』だとよ。ふざけた玉だ、笑えるヤツだ! こりゃいい!」
【惠】
「いいのかい。その本、君のモノでもないのに。
君が借りておく必要はないんじゃないのかい?」
【智】
「借金はまとめておいた方が管理しやすいので」
央輝はまだ笑っていた。
ほっとくと夜明けまで笑われちゃってそうだった。
【央輝】
「ふ、ふふ、くくっ……いいさ、何かわかったら連絡してやる。
せいぜい首を長くして待ってろ」
唇がサメみたいにつり上がった。
俺様お前を丸かじり、といわれてるみたいで、
この先を思うととても悲しくなった。
携帯の番号を教えて、僕らは別れた。
【智】
「ローンで首が回らなくなったらどうしよう……」
茜子の父親も、
こんな感じでがんじがらまったのかも。
借金恐ろしい。
夜風がどうにも身に染みる。
【惠】
「央輝は、本当に、気性の荒いヤツだよ」
忠告らしかった。
しかも、かなり笑えない。
【智】
「あー、うー」
ひとしきり、天を仰いで嘆いた。
惠とも別れて、ひとり孤独な家路につく。
奇妙に胸が詰まった。
慣れている孤独が胸におちてくれない。
名付けがたい胸のにがりに首を傾げる。
【智】
「このところずっと騒がしかったから」
こういうのも寂しさというのかしらん。
そういえば、今頃どうしてるんだろう。
〔誰のことを考えよう?〕
《るいのことを考える》
《花鶏のことを考える》
《こよりのことを考える》
《伊代と茜子のことを考える》
〔るいのことを考える〕
あの暴食魔神はどうしてるだろう。
しばらくは花鶏が家に泊めてくれるから、
家なき子の宿無し問題は一時保留だ。
【智】
「……なにか方法を考えといた方がいいですね」
今の状況を解決したら、次の課題。
問題は際限なし、そろって難問、時間制限付き。
【智】
「そのうちハゲるかも……やだなあ」
部屋に辿り着いた時には深夜近かった。
扉の前に変なものがいた。
【るい】
「おかえんなさい!」
るいが膝を抱えてうずくまっていた。
【智】
「なにしてるの?」
【るい】
「待ってたの」
【智】
「花鶏ん家に……」
泊まってる筈では。
【るい】
「ノンノンノンノン」
指を立ててちくたく振って。
【るい】
「ついつい飛び出て来てしまいました」
【智】
「途中経過を端折りすぎです」
揉めたな。
きっと揉めたな。
そういう可能性は考慮しておくべきだった。
失策だ。
最近多いな、失策……ドラマの完璧軍師並に。
【るい】
「そんでトモちんのこと待ってた」
【智】
「……とりあえず、あがって」
【るい】
「わーい、お部屋だお部屋だ!」
小躍りしている。
計算してみた。
時間が遅いので、
バスも電車もとっくにない。
るいを泊めることで生じるマイナス要因(主に秘密発覚の可能性)と、るいを追い出すことで生じるプラス要因。
差し引きすると追い出す利益が大きすぎる。
季節柄寒くもないし、るいはバイタリティーなひとなので一日や
二日公園のベンチで寝泊まりしていただいてもまったく平気だ。
となれば結論は簡単。
【智】
「…………今日は泊まってっていいから」
【るい】
「わーい!」
弱いな、自分。
ご飯を食べてから、またしても、一緒に寝ることになった。
【るい】
「トモって優しいよね。ちゃんと泊めてくれるし」
【智】
「心的ストレスに弱いんだよね。胃腸とか」
心配性とも言う。
【るい】
「――――それで、今日はそれでどうだったの」
るいは、落ち着いた目をしていた。
津波がくる直前の海だ。
仲間を守るのと同じだけ、敵には容赦しない。
るいなりに、僕が一人で行ったのを心配しているらしい。
僕の返事一つで時限爆弾のスイッチが入る。
【智】
「運が良かったんだか、悪かったんだか。進展はあったから、明日みんなにもまとめて話すよ」
【るい】
「うまくいったんだったら、そんでいい」
【智】
「……うん」
どうか、このまま上手くいってくれますように。
〔花鶏のことを考える〕
【花鶏】
『どうだったの!?』
出るなりこれだ。
【智】
「ちょっと待って」
【花鶏】
『いいから早く答えなさい!』
【智】
「耳が痛くて声がきこえないから」
気を揉んでいるだろうと電話したのを、
ちょっぴり後悔。
【花鶏】
『…………』
【智】
「進展はあった」
【花鶏】
『別に、期待なんてしなかったわよ』
【智】
「でも、捜してくれることになった」
沈黙が落ちる。
花鶏の頭が高速で回転している。
【花鶏】
『必要ないのに』
【智】
「僕らが地道に捜すよりは、あてになるから」
【智】
「詳しくは明日話すから」
【花鶏】
『まあ、いいわ』
【智】
「じゃあね」
【花鶏】
『――――待って』
【智】
「なあに」
【花鶏】
『どうして……一人で行ったの?』
問い詰める口調じゃなくて。
それは押さえた怒りだった。
その矛先は、僕と花鶏で半分こだ。
一人で行くと最後まで譲らなかった僕、
それをとうとう論破できなかった自分。
【智】
「それは、別れ際に言った通り」
【花鶏】
『そんなことは聞いていない』
【智】
「……難しいね」
【花鶏】
『わたしは怒ってるのよ』
【智】
「声でわかります」
【花鶏】
『何故怒っているかもわかって?』
花鶏は予想している。
契約と代価だ。
それはどこにでもある構造だ。
常に適用される、普遍の約束事だ。
僕の借金が、花鶏を傷つける。
【智】
「わかりません」
【花鶏】
『わたしたちが、運命共同体だといったのは、あなたよ』
鼻で笑われた記憶があるんですけれど。
【智】
「同盟だけに」
【花鶏】
『…………いいわ。わたし、無駄なことはしない主義だから。
詳しい話は明日聞かせてもらう』
【智】
「イエスマム」
不機嫌そうな、短い沈黙。
黙ったまま電話を切られそうだった。
【花鶏】
『……他の連中に、伝えることは?』
予想は外れた。
【智】
「おやすみなさい」
【花鶏】
『芸のない』
【智】
「大衆に埋没する平凡な人生が理想です」
【花鶏】
『あなたには波瀾万丈が似合うわね』
いやだなあ。
【花鶏】
『……それじゃ、おやすみなさい』
返事も待たずに切れてしまった。
〔こよりのことを考える〕
【智】
「このまま無事に決着してくれると、こよりんも無駄に元気に
なるんだけどなあ」
ドタバタ騒ぎの発端を作ったことを、
アレはあれで負い目に感じている。
ときおり振る舞いが過剰なのは、
半分はそこが原因じゃないかと思う。
【智】
「もそっと落ち着いてもいいのに」
人間関係の交通整理。
同盟は結んだだけでは終わらない。
維持する方が難しい。
これが中々手間なのだった。
【智】
「ほう……」
小さくため息をついた。
〔伊代と茜子のことを考える〕
出会いを回想する。
【智】
「……危うい偶然だったなあ」
のっけから危機一髪の二人だった。
ほんの数分、あそこへ行くのが早いか遅いかしていれば、
今頃とてつもなくX指定なお話になっていたはずだ。
危機一髪は現在進行形で続いているけれど。
当事者である茜子。
当事者でない伊代。
茜子には選択の余地がないが、
伊代には、本当は僕らといる理由がない。
お人好し。いいやつ。委員長気質。
【智】
「いいやつほど損する世の中なのに……」
肩をすくめたはずなのに、なぜか足下が浮ついた。
どうして気分がよくなったのか。
わからないまま帰路についた。
〔るいのお出迎え〕
何の変哲もなく、進展もなく、穏やかに。
数日が過ぎる。
最近は平穏無事な日々の方が珍しく感じられる。
やだなあ……。
実は、一度だけ波風のたったことがありました。
央輝とお話した翌日のことだ。
【伊代】
「いや、なんといいますか」
【花鶏】
「……バカね」
【茜子】
「バカですね」
【こより】
「バカなのですか?」
【るい】
「うむむむむ」
央輝とのことを説明したら、
死ぬほどバカにされた。
自分から進んで他人の連帯保証人になるようなヤツは、
生きてる資格ナッシングです……
とまで言い切ったのは茜子さんでした。
……もう少し綺麗な言葉にして欲しい。
危険な賭けにあえて挑むのは、
勇気ではなく無謀と呼ぶんだってばよ、レディー。
とか。
花鶏は怒った。
どれだけ怒ったのかというと。
回想シーンにするのもちょっと躊躇(ためら)われるくらい。
主に花鶏の名誉のために。
人間がどこまで怪物に近づけるかという、
新たな可能性をかいま見た、気がする。
【智】
「はわ…………」
大きなあくび。
それらを除けば、
いたって長閑な日々だった。
今日もまた。
行き来の道のりも、授業も、
何事もなさ過ぎて眠気を誘う。
放課後になっても約束はない。予定もない。
ここんとこ、約束はトラブルと裏表だったけど……。
トラブル解決のために約束するのか、
約束するとトラブルが生まれるのか。
【後輩】
「さよならー」
【智】
「さよなら」
下級生が会釈して去っていく。
離れる背中に手を振りながら、
相手の名前も知らないことに微苦笑した。
こちらが覚えていなくても、
あちらは僕を知っている。
名前とセットにラベルされた優等生の姿を。
関係は、いつも相互的とは限らない。
【女生徒3】
「いくよー」
【女生徒4】
「わっせ、わっせ、わっせ、わっせ」
耳を澄ませば雑多な音。
授業を終えて帰るもの、部活にいそしむもの、
誰かとの約束に時間を振り分けるもの。
ひとの数だけの路。
ひとは繋がることはなく、
幾重にも交差するだけだ。
今日は宮和も先に帰ったらしい。
しんみり風情のまま行こうとする。とした。
【るい】
「おーい」
正門のあたり。
どわどわ手を振っていた。るいだった。
【智】
「な、なんで…………」
【女生徒1】
「まあ、騒がしい」
【女生徒2】
「どなた?」
【女生徒3】
「見覚えのない――」
【女生徒4】
「他校の生徒のようですけど」
注目を浴びていた。
白い目だった。
難儀なもので、
当のるいには柳に風である。
その手の悪意には鈍いたちなのだ。
【智】
「……」
悩む。
選択肢を脳内に並べる。
選ぶ。
他人のふりをすることにした。
君子危うきに近寄らず。
学園での生活には、ことさら波風を立てたくない。
今のるいは火災報知器みたいなものだし。
カバンを盾に顔を隠して、正門ならぬ裏門に。
【るい】
「おーいおーい、トモちーん!」
【智】
「ぶっ」
思いっきり名指しされる。
【女子生徒1】
「和久津様……?」
【女子生徒2】
「他の学園の方と……」
【女子生徒3】
「どうしてあんながさつそうな……」
【るい】
「トモちん、トモちん、トモちんー!」
しかも3回も反復。
【智】
「ノー…………」
疑惑の矢が背中に次々突き刺さる。
噂が醸成されている。
明日までには発酵して尾ひれとはひれがついて、
地上を二足で歩行している気がした。
【るい】
「トモち、」
【智】
「こっちへ!」
【るい】
「え、あの、そんなにひっぱんなくても」
【智】
「いいから、何もいわなくていいから、こっちこっち!」
【るい】
「なによー、そんなに引っ張らなくても」
校舎から離れた。
落ち着ける距離まで、
るいの手を引いて早足で歩く。
【智】
「ここまでくれば……ふー」
【るい】
「なんでタメ息つくのか」
【智】
「人生は、長い荒野の最果てを目指す旅に似てるのよって話はした?」
【るい】
「難しいことはわかんない」
明日には孵化してそうな噂に思考を巡らせる。
やめた。
未定のことに神経を使うのもほどほどにしておく。
明日は明日の風が吹く。
るいの好きそうな言葉だ。
【智】
「んで、なに」
【るい】
「なにとは」
【智】
「キミはなんで、わざわざ学園に来て、正門前で待ち伏せ襲撃
しましたか」
ほっぺを引っ張ってみた。
やわらかモチ。
【るい】
「みょー」
【智】
「変な顔」
【るい】
「みょーっ!」
解放する。
【るい】
「みょみょみょ、私のやわらかほっぺが……」
【智】
「そんでもって?」
【るい】
「実は、ちょっとした」
【智】
「ちょっとした?」
【るい】
「気の迷い」
【智】
「迷ってどうするの」
【智】
「……いいかげんだなあ」
【るい】
「いい加減って、ちょうどいいって意味だよね」
【智】
「微妙なニュアンスで日本語として成立してるあたり、
たち悪い感じ」
【るい】
「よくないか」
【智】
「良い悪いではなく」
【るい】
「何の話だっけ」
【智】
「僕に訊かれても困ります」
【るい】
「まあ、細かいことは気にしないで」
【智】
「しかもきれいにまとめた!」
【智】
「それにしても、よくこの学園知ってたね」
【るい】
「制服見たら有名なとこだったし、場所は前から知ってたから、
さっそく来てみました」
えっへんと、タイラント胸を張る。
大胆というか、無謀というか、無計画というか。
【智】
「電話ぐらいしてくれればよかったのに」
【るい】
「私、電話は苦手なんだよね」
プリペイドだけど携帯を渡してあるんだけどな。
携帯が必須アイテムの今時にしては、
なんとも前世紀的な意見を聞かされた。
【智】
「すれ違ってたかも」
【るい】
「るいさん、多少は考えたよ。早めに来て待ってたから」
【智】
「早めって、どれくらい?」
【るい】
「1時間くらい待ったかな」
【るい】
「どーしたの、変な顔になってる。会えたんだからノープロブレム。トモとはやっぱり赤い糸が絡まってるんだね」
【智】
「絡まったら人生間違いそう」
結ばれてる方がいくらかマシで。
それにしても、1時間……。
根拠もなく待ち続けるには長すぎるのに。
【智】
「ごめんね、待たせちゃって」
【るい】
「んもう、そんなの気にしないでよ。勝手に待ってただけじゃない。私の気まぐれ、いちいち気をつかってたら若ハゲ様になっちゃうぞ」
【智】
「すごくヤダ」
【るい】
「うむ。トモにはハゲ似合わない」
【智】
「ま、いいか。僕も、実は、るいに用事があったから」
【るい】
「用事? なになに」
身を乗り出してくる。いちいち楽しそう。
【智】
「大したことじゃないから後でいい。それよりも、これから
どーするの?」
【るい】
「どうもこうも、考えてない」
【智】
「ほんとに気まぐれだったんだ……」
【るい】
「るいネーサンに二言はない」
【智】
「二言ないのも時によりけり」
【るい】
「武士は食わねど高楊枝だぜ」
【智】
「用法が違う」
【るい】
「……トモちん、チェックが厳しい」
【智】
「突っ立ってても何だし、どっかいこうか」
【るい】
「デートだ!」
【智】
「…………」
デート。
複雑な単語に思いを馳せる。
にかり。るいが大口をあけて笑う。
下品に見えかねないところが、
愛嬌になる女の子だ。
【るい】
「んと、二人で?」
【智】
「そだね。他にも声かけてみようか」
【るい】
「んむんむ」
嬉しそうに肯いていた。
【るい】
「そういえば、トモはさ」
【るい】
「男の子とデートしたことある?」
【智】
「ありません」
悲しい質問をされた。
頼まれてもしたくない。
【るい】
「るい姉さんもないんだよ」
【智】
「なんとなく納得」
【るい】
「なんとなく、馬鹿にされてる気がする……」
待ち合わせ場所へ移動した。
【るい】
「そういえば、さっき言いかけてた智の用事ってなに?」
【智】
「……」
余りに明け透けな顔に気後れをする。
切りだし方を考える。切り出すべきかを悩む。
確かめておきたいことがあった。
【智】
「あのね、」
無心の目をのぞき込む。
首筋から肩のラインを追った。
女の子にしては骨格はしっかりしている。
しなやかに圧縮された機能を予感させる手足へと繋がる。
細身だが、見た目以上のポテンシャルを秘めた四肢。
ウエイトリフティングの世界記録はたしか200キロを超える。
たかだか70キロそこそこのバイクくらい、
軽々持ち運ぶ人間だって世の中にはいるわけだ。
だけど、そういう手合いは、
鎧の如き筋肉をまとった、むくつけき方々だ。
人間の出力は筋量から決定される。
だからといって筋肉だけを山ほど搭載して出力を増強しちゃうと、骨格の強度が保たなくなる。
人間はとても物理的だ。
ウエイトリフティングによる記録の数値は、
肉体に技術が加わって、ようやく達成可能な領域にあった。
バイク投げ――必殺技。
無造作に車体をまるごと引き抜く、力。
明らかに意味不明だった。
一子相伝の暗殺拳の伝承者で、普通は30パーセントしか使っていない肉体の力を全て引き出せるとか、そういう裏設定でもないと納得できません。
【智】
「質問があります。
答えたくなかったら答えなくていいんだけど……」
【るい】
「もって回ってるぞ」
【智】
「……ハニワ人類と昆虫人類と新しい血族のどれがいい?」
【るい】
「ハニワってなんだ?」
【智】
「とりあえず手近なところから」
【るい】
「……恐竜帝国」
【智】
「わりと渋いところだね」
【智】
「じゃあ、第2問」
【るい】
「まだあるか」
【智】
「るいは先祖に狼男とかいる?」
【るい】
「そんなのいねー」
【智】
「通りすがりの吸血鬼に血を吸われたとか」
【るい】
「あるわけねー」
【智】
「秘密結社に誘拐されて改造手術を……」
【るい】
「さっきから何の話をしてるかな」
迂回することはできなくなった。
【智】
「……バイク投げ」
【るい】
「すごいでしょ」
【智】
「あれってどういう……仕掛け?」
【るい】
「力持ち」
理由なんて知らないのか、言いたくないのか。
前置きもなく。
【るい】
「昔からそうなの」
るいの笑顔に影が混じる。
形は変わらないのに質量が失せて、
形ばかりの空疎な笑みには心の重さが足されていない。
【るい】
「ちっさい頃からね、ずっとそうなんだ。リクエストがあったら、もっとすごいことでもできちゃう」
【智】
「……もっとすごいんだ」
【るい】
「そのとーり。本気になるとすっごいぞ、るいさんは」
【るい】
「智は、そういうの、あんまし好きくない?」
【るい】
「そういうのって、やっぱり怖い?」
不意打ちだった。
怖い――
何を指して。
誰を指して。
るいにとって、どんな出来事が、
その言葉を選ばせたのか。
固い言葉は城塞じみて、その奥に眠るものに、
安易に触れられることを拒んでいる。
誰にでも、それはある。
触れられたくない場所、部分、心の一部。
時に痛みを、時に苦しみをもたらす、最奥の暗がり。
聖なる墓所。
想像は、できる。
秀でていることが、
常に称賛されるとは限らない。
他者との差異は、
安易に敵意へと化学反応する。
妬み、嫉み、恨み――
優れていることが招き寄せる薄汚れたもの。
ましてや、それが過剰であれば。
ひとは、理解できないものを恐怖する。
(――――怖い?)
【智】
「んー、るいらしいかなって思う」
【るい】
「うむ?」
【智】
「なんか、もの凄いの、るいっぽい」
【るい】
「…………」
目をしばたいた。
【るい】
「そういうのは、はじめて言われた」
【るい】
「トモ、やっぱりちょっと変なひとだよね」
【智】
「変か」
【るい】
「変だ」
【智】
「んー、そういうのって、やっぱり怖い?」
訊いてみた。
笑われた。
今度は心の入った顔で。
【るい】
「うんにゃ、トモらしいかなって思う」
【智】
「なら、いいかな」
【るい】
「そだね」
【智】
「それに、助けられたし」
【るい】
「そんなの、仲間を助けるのは当たり前じゃない」
これまた、るいらしい返事だった。
思わず口元がほころぶ。
さて、すぐに皆やってくる。
今日はどこへ出かけようか。
〔僕らはみんな呪われている〕
最初に花鶏が疑義を唱えた。
【花鶏】
「――――どういうことなのかしら?」
多かれ少なかれ全員の意見だった。
花鶏は言葉で僕を、視線はるいを射る。
運よくか、それとも悪くか、暇つぶしの欠員は無く、
全員がそろった後で、るいが先頭をきって歩き出した。
理由のある集まりではなかったし、
どこに行くのでも、構いはしなかったのだけれど。
【花鶏】
「なに、ここ?」
町外れの廃ビルの中です。
元は何のビルだったのかはわからない。
今ではただの廃墟になっている。
いや、そんなことを訊いてるんじゃないんだろうけど。
るいが、僕らを連れてきたのはここだった。
どうして、わざわざこんな所にやってくるの?
こっちだって教えて欲しい。
【智】
「るい?」
【るい】
「んと――」
先ほどから3度。
同じように問い、
同じように言い淀まれる。
るいっぽくない態度だ。
花鶏の水位がさらに下がる。
いよいよ危険なものを感じて、
伊代に救いを求めると、肩をすくめられた。
【伊代】
「薬なし……っていうよりも、わたしも同感」
【茜子】
「茜子さん、飽きました」
【智】
「こよちゃんは?」
【こより】
「あー、こよりめは別に……
でも、何かあるならお早めにいって欲しいのです……」
るいは、最初からここに連れてくるのが目的だった。
今日、わざわざ誘いに来たのも。
るいはしゃがみ込んでいる。
微妙に苛ついている。
ざらついた感情は、
理解しない仲間には向かない。
うまくステップを踏めない自分をもどかしがる、
そんなベクトルに近い。
【智】
「んー」
全員を呼びたかったのか。
それなら電話で約束するか、
説明するか、方法はいくらだってある。
今日だって、連絡もなく僕を待っていた。
すれ違ったらどうするつもりだったんだろう。
るいが、何も事情を話さない理由にもなっていない。
もって回った迂遠なやり口だ。
迂遠というより意味不明だ。
【花鶏】
「どうするの?」
怒っていらっしゃる。当然か。
【智】
「……いいです。よろしい。わかりました」
これは、つまり――――
るいには、答えられない事情が、ある?
【智】
「るい」
るいは、怒られてシュンとしている犬だった。
【るい】
「……」
これは信頼についての問題だ。
難しく困難な命題だった。
【智】
「あと10分でいい?」
【るい】
「…………」
雨に濡れた子犬みたいな目をしてる。
とりあえずは、肯定と受け取ろう。
【智】
「よろし。あと10分待って、何もなければ」
【るい】
「……」
【智】
「どったの?」
【るい】
「怒ったりしないんだ」
空飛ぶ象と遭遇したような顔。
【智】
「変な顔」
【るい】
「トモの方がよっぽど変だと思う」
【智】
「そうかしら」
自覚はあまりない。
自分の物差しは、得てして自分ではわからない。
【花鶏】
「彼女が変だ、というところには同意するわ」
【伊代】
「ま、そうね」
【茜子】
「……」
【智】
「僕らの信頼はどこに行きましたか」
【花鶏】
「利害の一致とか言ってたのはどこの誰?」
【こより】
「センパイ、不肖鳴滝めは、どんなときでもセンパイの味方で
ございます! 変でもよいではありませんか!」
【智】
「まず変を否定してください」
【こより】
「こよりは正直だけが生き甲斐なので」
【智】
「キミは弟子失格」
【こより】
「お情け〜」
【伊代】
「大人げないわね、全会一致よ」
【智】
「数の暴力ですね」
【茜子】
「マイノリティーな負け犬さんの遠吠えは耳に心地いいです。
もっと言ってください」
ひたすら黒い茜子さんだ。
【るい】
「あのね、トモ。私さ、ダメなの。根本的に身勝手なんだよね。
周りを見ないっていうか。普段から考えなしだしさ、たまに
わかんないことしだすし……」
【智】
「今みたいに?」
【るい】
「今みたいに」
自覚はあるらしい。
【るい】
「今までもね、たまに、なにかの弾みで仲良くなった子とかいて、しばらく一緒にいたりするんだけど、結局怒らせちゃうんだよね」
【花鶏】
「気持ちはわかるわ」
【伊代】
「……シビアな突っ込みはおやめなさい」
【るい】
「智は、怒らないね。変なの。すごく変なの。私、自覚あるんだけど。怒りそうなこと、怒られるようなこと、怒り出してもしかたないようなこと、してると思う」
【花鶏】
「まったくだわ」
【こより】
「ネーサン厳しいッス……」
想像をする。
気ままな風のように掴みがたい女の子の姿。
どこまでも無軌道に、
どこまでも身勝手に、飛び回る。
追いつけないことは――
鳥を見上げるように、憧れにも変わる。
わからないことは――
見えないこと、理解不能であること。
不可解は、怖れに繋がる。
わからないことが怖いから、
見えないものに理由を求める。
【智】
「いまね、考えてるんだ」
【伊代】
「……んと、怒らない理由を?」
【智】
「そうじゃなくて、るいが考えてることを」
信頼は相互的だ。
一方的に支払うだけだと、
すぐに萎えてしまう。
心を通貨にした取り引き。
言葉は心を代替する。
言葉足らずな、るい。
レートは食い違う。売買は成立しない。
考えても、やっぱり、るいの考えはわからなかった。
人は繋がらない。
他人の心なんて、魔法使いでもなければわかるはずもない。
仕草やわずかな断片から心を読み解く術は、あるにはある。
でも、それには時間が必要だ。
相手を理解するための時間と、積み重ねた信頼が。
【花鶏】
「何かの罠だったらどうするの?」
【伊代】
「罠って、あなたね……」
【智】
「それは大丈夫」
【るい】
「信じてくれるんだ?」
【智】
「るいはハメるほど頭よくないと思うから」
【茜子】
「それはつまり、この巨乳はバカ巨乳だということですね」
【るい】
「信じ方が嬉しくない」
【花鶏】
「なるほど」
【こより】
「納得しました!」
【伊代】
「それなりに酷いわね、あなたたち」
【智】
「それなりが一番ひどいんじゃないですか?」
【茜子】
「5分が経過しました」
そして彼女が現れた。
【るい】
「遅いよ、いずるさん。なかなか来ないから、私、死んじゃうかと思ったんだから」
【いずる】
「遅くないね。ちゃんと約束もしてないんだ、私にしてはサービス過剰だよ。わざわざ来てやっただけでも十二分におつりが来て小銭が余って困るじゃないか」
【智】
「知ってるひと?」
【るい】
「待ち人だったり」
にへらと照れ笑い。
【るい】
「あのね、前に訳ありで知り合ったひと。名前はね――」
【いずる】
「蝉丸(せみまる)いずる」
相手は、目をほんのちょっと細めた。
無遠慮な感じで上から下まで眺められる。
何かを探るように、測るように。
ちょい引く。
【いずる】
「ふむ、なかなか……はじめまして、よろしく」
【茜子】
「かなかなかなかな」
茜子が鳴いた。
【伊代】
「蝉が違いそうよ」
【茜子】
「無念なり」
蝉丸。
名前は変だった。
古風だ、くらいが精々の誉めようだ。
花城だか花鶏だかとタメをはるぐらいには変な名前だった。
【花鶏】
「何かよからぬ事を考えているようね」
【智】
「ないない、断じてない」
悪口には鼻のきく花鶏だ。
【智】
「それにしても」
うわ、うさんくさ……。
たぶん、後ろのひとたちも、一部の隙もない全会一致で。
【茜子】
「うわ、うさんくさ」
【智】
「……口に出しちゃうんだ」
【茜子】
「ため込むのはストレスの元になりますから」
健康的な信念だった。
【いずる】
「ごあいさつだねえ。まあ、しかたがない。そこの皆元くん、
どうせ何も言ってないんだろうし。どっちみち、うさんくさい
商売なのは本当だしね」
【智】
「自覚あるんだ……」
さっきのお返しに、ぶしつけな感じでジロジロ見返す。
第一印象は、変な和服の若い美人。
温度の低いつり目が性悪のキツネを連想させる。
【智】
「どういうひと?」
【るい】
「んーと、変人で」
【智】
「それは見ればなんとなく」
【るい】
「不審人物で…………専門家、かな」
【智】
「専門にもピンからキリマデあるよね」
【るい】
「おかしな、ことの、専門家…………怪獣退治とか」
怪獣……それはそれはトンデモだ。
【智】
「どこの科学特捜隊の方?」
【いずる】
「別に退治はしないよ。本業は、語り屋といって」
【智】
「うわ、うさんくさ(棒読み)」
【いずる】
「まったくだねえ」
【智】
「自分で切り返されても」
面の皮の厚い人種らしい。
【いずる】
「心配は無用だよ。中味もそこそこだから」
中味まで、うさんくさいらしい。
【智】
「…………」
悩む。
るいに無言で問いかける。
手を合わせて拝まれた。
無言でお願いのポーズ。
後ろの面子を振り返ってみた。
判断やいかに、のジェスチャー。
悩むまでもなく一部の隙もない全会一致で。
面倒だから白紙委任する、のジェスチャー。
【智】
「………………いいかげんだ」
どいつもこいつも。
【いずる】
「なるほど。私は語り屋なわけだけれど、君は面倒屋なんだな」
そんな面倒、ものすごく願い下げだ。
【智】
「もの凄く色々と不本意なんですけど、一応のコンセンサスが
取れましたので」
【智】
「謎の専門家の、えーと…………お蝉さん? それとも、
いずるさん?」
【いずる】
「おをつけるのかい。また古風だね。和服だから時代劇っぽく
するのもわからなくはないんだが。短くするのも、今ひとつ
語呂はよくない気がするけれど」
【智】
「些細なことはさておいて」
【いずる】
「呼び名というのは些細じゃないよ。名は体を表すという諺もあるくらいでね。昔話というのは大概名前が重要な役割を担うだろう」
【智】
「じゃあ、いずるさん。いの一番の疑問なんですけど」
【いずる】
「それは一言だね」
質問の中味を言葉にする前に、小さく薄く笑みが浮かぶ。
低温で、硬質の、色の薄い微笑。
【いずる】
「私の仕事はね、語ることだよ」
まんまだ。
【智】
「騙る?」
【いずる】
「語る」
【いずる】
「まあ、どっちでもいいか。あまり変わらないし」
【智】
「変わらないと困るよ!」
【いずる】
「違わないんだよ。言葉というのは、それはもう嘘つきだ。
嘘も方便と言うだろ」
【茜子】
「智さん、お好きな言葉です」
【智】
「初対面のひとがいるのに、人聞き悪いこといわないで」
言葉――。
ようするに、それは本質とは違う、本質の代用だ。
言語は方便だ。
百万言を重ねても、本質そのものには到達しない。
【智】
「でも、それって方便じゃなくて詭弁の類」
【いずる】
「一文字しか変わらないじゃないか」
【智】
「一文字違えば大違いだ!」
【いずる】
「ま、語りも騙りも同じものだよ。理屈も方便。とりあえずの
辻褄が合ってれば問題なし」
【智】
「煙に巻かれてる気がします、このあたりにヒシヒシと」
頭の上で、ぐるぐるっと指を回す。
【いずる】
「もちろん、煙に巻いてるんだよ」
【智】
「悪びれろよ、この霊能者は」
【智】
「んで……今日はなんのご用で」
ご用というより誤用な感じ。
【いずる】
「呼ばれたから来たんだ。
呼ばれたのが私で、呼んだのはそこの皆元くん」
【智】
「るいの知り合いなんですよね」
【いずる】
「袖すり合うも多生の縁くらいにはね」
【るい】
「どんな縁でも多少は縁があるって話だよね」
【智】
「たぶんちがう」
正しくは、多生の縁=前世で縁があった、です。
【るい】
「嘘っ」
【智】
「本当」
【るい】
「教わったのに!?」
【智】
「誰に?」
るいが、いずるを指差す。
【るい】
「私、嘘つかれたのか!」
【いずる】
「前世なんていい加減なものを説明の根拠にしてるんだから、
解釈はアバウトでいいんだよ」
美しい日本語に謝って欲しい。
【智】
「嘘つき型の人間だね」
【茜子】
「茜子さんももう一人知ってます」
【伊代】
「わたしもわたしも」
友情のない仲間であった。
【いずる】
「人聞きの悪い。自慢じゃないが、仕事で騙したことは一度もない。勝手に騙されるやつはいるけどね」
【智】
「まんま詐欺師の言い分ですな」
【るい】
「あのさ」
ついついと、後ろから、るいが袖を引いた。
【るい】
「あれでも一応、私の恩人なんで……」
るいの腰が微妙に低いのは、義理と人情らしい。
【智】
「……どういう恩人?」
【るい】
「前にね、変な事件に巻き込まれた時に助けてもらって」
【智】
「帰省の途中で立ち寄った港町の住人は、みな特徴的な顔立ちをしていて、魚の腐ったような匂いが町全体にたちこめていて……」
【るい】
「なにそれ?」
【智】
「まあ、違うか、違うよね」
【智】
「変な事件か。……妖怪ハンターか怪奇探偵みたく、古文書を取り出しておかしな儀式でもして怪事件を解決してくれるとか?」
【いずる】
「それはダメだね、役割分担に棲み分けがあるし。私は解決役
じゃなく、ヒント係だよ」
神秘主義から卑近(ひきん)な世界へ表現が滑落した。
【智】
「できれば雰囲気を大事にしてください」
【いずる】
「ゲーム機は何か持ってるかな、凶箱とか。RPGはやる?
ちょっと昔の……最近のでもいいのかな。まあ、毎年目が回る
くらいゲームも出るからねえ」
【智】
「卑近(ひきん)すぎて目が眩みそう」
【いずる】
「いるだろ、村人Aとか」
【いずる】
「話しかけると会話ができる。どこぞの大学の地下に銀の門の鍵が隠されてるとか、なんとか、そういう感じのやくたいもないヒントを出す。そういうのさ」
【いずる】
「それで、語り屋、とか名乗ることにしてる」
【伊代】
「……とかってなによ、とかって」
【いずる】
「まあ、何でもいいからね」
【智】
「名前が重要とか、さっき聞かされた」
【いずる】
「時と場合によりけりだね」
アバウトだ。単にいい加減ともいう。
【智】
「やっぱり騙り屋だ」
かつかつかつと、足音がする。
和服の分際で足下は、ごついジャングルブーツだ。
情緒のない靴先が間近までやってきた。
いずるさん。背は高い。
うらやましい…………。
目線が上なのは、身長の気になる身の上としては
気分的によろしくありません。
表情の読みにくい瞳がのぞき込んでくる。
触れるほど近いのに気配が薄い。
陶器みたいに堅くて冷たい。
【いずる】
「語り屋だから語るんだよ。君らが持ってるフラグに合わせて
ヒントを出すんだ。そこからどうするかは君ら次第、まったく
もって好きにすればいい」
【茜子】
「……どうせならペロリと答を教えてくれれば手間が省けます」
【いずる】
「それは無理無理、無理なんだよおちびちゃん」
【いずる】
「答なんてあってないようなものだから。どうしたいのか、何を
したいのか、何を支払うのか。その時々ですぐに変わってしまうのが答だろ」
【智】
「ますます詭弁っぽくなったな」
【いずる】
「とりあえず仕事をしようか。こうしてだべってるのも悪くないけれど、こうしてばかりだとヒントにならない」
【花鶏】
「今のお話だけでお腹いっぱいよ、わたしは」
【いずる】
「請け負っていることだから、そういうわけにも行かないんだよ。これも渡世の義理というやつだねえ」
これまた古風な言い回しだ。
【いずる】
「さあ、語ろうか」
【智】
「何を」
【いずる】
「それだよ。簡単だよ。これから語るのは」
そうして、三日月みたいに口元を歪めて。
【いずる】
「呪いのお話」
告げた。
【智】
「――――――」
呪い。
一言で、魔法のように音が途絶える。
斜陽の入り込む無音の廃墟。
誰かがそっと息を飲む。
ありがちな言葉、幾度も繰り返した言葉。
いかさま師なら、タタリがあるぞと脅すように。
使い古された古くさい呪文が毒素に変わる。
静かに着実に心という領域を侵略する。
【いずる】
「そう、呪いの話。呪うこと、呪われること、呪われた世界のお話」
【いずる】
「まあ、便宜上の区別だから、そこまで気にすることはないんだが」
【智】
「……まったくもって嘘くさい」
【いずる】
「嘘みたいな話だからねえ」
いずるさんは、ほんの寸時、何かを思案する。
【いずる】
「手近なところから行こうか。順番の方がいいだろう。今日は頼まれたんだよね。以前にした話をもう1度してくれるようにってね」
【智】
「るいから? 何の話を――」
【いずる】
「痣」
ぶすりと刺さる。
後方で、さざ波めいた気配の動き。
警戒とも敵意とも興味ともつかない感情の周波数が、
人数分、目の前の怪しい人物に流れていく。
【智】
「……」
目を凝らす。見極めようとする。
痣のことは、るいから聞いたのか。
ようやく腑に落ちた。
るいの意図がつかめた。
僕らの確率異常の痣について。
奇妙な縁を語らせるための、語り屋。
【いずる】
「君、目つきが悪くなったな」
【智】
「怪しいひとには身構えくらいするでしょ」
【いずる】
「いやいや、君は『こっち側』のタイプだな。
嘘が得意で、誤魔化しと騙しとで人生をやりくりする」
そんなの言われたら、僕がものすごく悪人みたいだ。
【いずる】
「私のいうことなんて鵜呑みにできない? まったくもって。
メディアにはリテラシーを心がけないとな」
【いずる】
「――――『でも、知りたい』」
図星。
痣――――。
奇妙すぎて手がかりがない。
手探りをするにも床の位置くらいは知っておきたい。
だから、よけいに注意が必要だ。
欲しいものを目の前に並べられた時が、一番危険。
【いずる】
「依頼の分だけ語ってあげよう。それでどうするかは勝手にすればいい。ヒントは所詮ヒントだ。解釈はご自由に。あとは若い二人におまかせで」
【智】
「二人じゃないけど……」
【いずる】
「なるほど、痣は6つだったかい」
6つの痣。6人の痣。
それは繋がりか、それとも奇縁と呼ぶべきか。
【智】
「そこまで話したんだ……」
【るい】
「まだ」
【いずる】
「察しがよくないと他人をかたれないからね」
【智】
「今騙るっていったでしょ、絶対」
【るい】
「私が知り合った時に、ちょっぴり聞かされたことがあるんだけど、その時は話半分だったんだ」
【るい】
「変な事件の後だったから、言われたことを全然信じられなかったわけじゃないんだけど、よくわからなかった。信じてもどうしようもなかったし」
【るい】
「私、馬鹿だから……」
【るい】
「でも、今なら違う気がする」
【いずる】
「パーティープレイか、いいねえ。力を合わせて悪い魔王を倒すには、友情とアイテムと経験値が不可欠だ」
俗な喩えも極まれりだなあ。
【智】
「いいです、わかりました、了解です。
そういうことなら、ヨタ話じゃない方を語ってくださいな」
【智】
「……この痣が、どういうのかって」
【いずる】
「呪いだね」
毒の言葉が繰り返される。
背中に見えない氷柱がそっと忍び入ってくる。
呪い。呪い。呪い。
とてもとても忌まわしいこと。
誰かが呪う。憎悪で。誰かを呪う。
怨恨で。呪われる。いつまでも呪われる。
――――腹の底まで冷えていく。
【いずる】
「簡単に信用しないんじゃなかったかな」
【智】
「――――」
想像だけが先走る。それではすっかり妄想だ。
自分自身で自分を縛る落とし穴。
【智】
「それで、そうだとすると、誰が……」
呪っているのか。
あえて疑念を言葉にしてみた。
言葉にした分だけ見えない呪縛の緩む気がする。
【いずる】
「そんなことはどっちだっていいんだよ。さして重要なところじゃないんだし」
えっ、そうなの? そういうものなの?
【智】
「よくわかんないんですけど」
【いずる】
「誰が祟ってるとか、恨みだとか辛みだとか、龍神様のお怒りだ
とか、30年前に騙されて死んだ若い夫婦がいるんだとか、
そういうのはどっちだっていいんだって」
【智】
「そういうのが、呪い、なんじゃないの?」
【いずる】
「そういうのは全部動機」
【いずる】
「動機は動機。これから語るのは、呪い。そんなに曖昧じゃない、もっともっとありがちでわかりやすくてはっきりしてる、仕組みの話だよ」
【いずる】
「こうすれば、こうなる。そういうのが仕組みさ」
仕組み――
鍵を回すと扉が開く。
スイッチを入れるとテレビがつく。
入力と出力の関係だ。定められた手順と結果だ。
【いずる】
「なぜどうして……なんて言い出すからわかりにくくなる。
区別がつかなくなって混乱する」
【いずる】
「液晶テレビが映る仕組みを知ってるかい? 知らなくても使う分には問題ないだろう。しかも、誰が使ったって基本は同じだ」
【智】
「それが、呪い……」
【いずる】
「そう、それが、呪い」
そして、この痣は。
【いずる】
「そういうものなんだよ」
【智】
「そういうのって……あるものなの?」
一周回って基本的な疑問にたどり着く。
呪いが、仕組みだ。
それが定義なら、とりあえず納得しておくとして。
その一番根本的な部分。
そういう仕組みが。
不思議、怪異、超自然、魔法。
そんなものが――
【いずる】
「ちなみに、自分が呪われている心当たりは?」
【智】
「そんなの、あると、思う?」
表情は、変えなかったと思う。
【いずる】
「なるほど痛そうな話だねえ」
透かし見るような、いやな顔。
【智】
「僕、何も言ってないんだけど」
【いずる】
「結構結構、結構で毛だらけ」
【茜子】
「猫を灰だらけにするのは虐待だと思います」
【伊代】
「……誰もそんなこと言ってないわよ」
【いずる】
「気分がいいから、もう少し話を続けてもいいかい?」
【智】
「別に続けなくてもいいんだけど」
【いずる】
「本当に?」
いやな性格だ。
前世はいじめっ子だったに決まってる。
【智】
「…………どういう気分?」
【いずる】
「ネズミを苛める猫の気分」
【いずる】
「さて、仕組みといったってピンキリだから、それがどんな仕組みかは何とも言えない。語り得ないものには沈黙を。わからないことをこれ見よがしに語るのは範疇外だ」
【いずる】
「でもまあ、あれだね、どうやら地雷っぽいねえ」
【智】
「地雷というと」
【いずる】
「昔話によくあるやつ。大仰な言い方をしちゃうと、なにか禁忌を犯すと災いが起きる……かな」
【いずる】
「踏んだらお終い、だから地雷」
【智】
「それだと本当に呪いじゃないの!」
【いずる】
「だから呪いなんだって」
心底どちらでもよさそうに。
【智】
「……そういうのって、どうにかならないの?」
【いずる】
「どうでもいいんじゃなかったっけ」
【智】
「………………心底どうでもいいけど、たまには聞いてみようかなって思うこともあるわけだから」
【いずる】
「どうにかといっても色々あるけど」
【智】
「たとえば」
【いずる】
「確実に死ぬようにして欲しいとか」
誰が頼むんだよ!
【智】
「そんな特殊例、大まじめに講釈されても困る」
【いずる】
「一般的なヤツの方が好みかな」
【智】
「呪い……なら解くとかできないの?」
一般的そうなところを。
【いずる】
「そういう、魔法とか超能力みたいな要求は通らない」
【智】
「………………」
今、なにか、すごく理不尽なことを言われた気がする。
呪い。呪い。呪い。
それこそ魔法とか超能力とか、
そういう類のいい加減な駄話をしてるんじゃなかったっけ。
【いずる】
「まあ、仕組みなだけに、仕組みがわかれば解体もできる……
かもしれない」
【智】
「そういう地味っぽいのじゃなくて、小(コ)宇(ス)宙(モ)を感じて相手がわかるとか、この魔力の残(ざん)滓(し)は悪しきサソリ魔人の仕業だとか」
【いずる】
「そんな、エセ霊能者のお告げじゃないんだから」
どこがどう違うのか、わかるように説明してほしい。
【智】
「つまり……?」
【いずる】
「原因がわかれば結果もわかる」
【智】
「ここへきて一般論かよ」
【いずる】
「少年漫画の王道パターンっていうのはね、
普遍的に使われやすいからパターンになるわけだよ」
一般論は最強よ、と言いたいらしい。
【いずる】
「喜ばしくも、おおかたの呪いは解除方法とセットだ」
【智】
「そういうヒントを先に言って欲しかった」
【智】
「そういうのを調べたければ?」
【いずる】
「仕組みがわからないと」
堂々巡りだろ、それじゃあ……。
【智】
「わかれば何とかなる?」
【いずる】
「ま、死んだら解除とかいうのもよくある」
【智】
「何ともならないとの一緒だよ」
【いずる】
「ままならないものだね、世の中は」
【智】
「綺麗にまとめるな」
【いずる】
「ヒント係に過剰に期待されても困るな。村人Aは勇者の一行が
魔王と戦うのに手を貸したりしないんだし」
【智】
「最近のなら、ちゃんと声援ぐらい送ってくれる」
【いずる】
「声援でよければいくらでも」
にこやかな作り笑いで両手を広げるポーズ。
うわ、むかつく。
【いずる】
「漫画じゃないんだ。古美術商に身をやつした何でも屋の便利
キャラがパワーアップの修行方法とアイテムくれるのとは
ワケが違うんだから、過度な期待はしないように」
【智】
「漫画みたいなこと言ってるでしょ!」
【茜子】
「追い詰められてる人間の、表層が剥離されて本性の露呈する感じの焦りが、茜子さん的にはとっても素敵です」
【こより】
「しどい……」
【いずる】
「まずは泥にまみれて一歩一歩あくせくやってれば、その一歩
はただの一歩でも、人類にとっての偉大な一歩になるかもね」
【智】
「人類この際関係ない」
二の腕を、痣の有る場所を、
無意識に握りしめる。
掌の熱が奪われて冷たくなる。
それは気のせいだ。
呪いという便利な言葉がつくる錯覚でしかない。
【智】
「痣が、こんなにも身近に集まるのはどういう訳で」
【いずる】
「しったこっちゃない」
【智】
「投げやりダー」
片仮名っぽく抗議。
【いずる】
「理由はあるかも知れないし、単に確率の問題かも知れない。
起こりえる可能性があるなら、どんなに希少な可能性であれ、
遅かれ早かれ起きるわけだから」
【智】
「例えば、理由があるとすれば……一般論的に?」
【いずる】
「ほら、その手の奴同士は引かれ合うっていう」
俗な理由だなあ。
ぐるぐる回る。考えがまとまらない。
方便と詭弁と騙りを頂点にした直角三角形が、幾つも幾つも
回っている。
【いずる】
「これで一通りの話のは終了だ。後は好きにすればいい」
【智】
「散々騙り倒してなんて無責任……」
【いずる】
「ヒント係は聞かれたことを語るのがお仕事なんだよ。
魔王を倒すなりサブイベントで経験値を稼ぐなり、
これからどうするかはパーティーのお仕事だろ」
【智】
「このままだと途中で全滅したりして」
【いずる】
「人生はリセット効かないから、慎重なプレイお勧め」
【いずる】
「じゃあ、そういうことで。これ、名刺」
【智】
「………………………………」
梅干し食べた顔になった。
もの凄く一般論的社会人の、誰でも持ってる必須アイテムが、
呪いのアイテムに思える。
【いずる】
「変な顔だねえ」
【智】
「なにゆえ名刺」
【いずる】
「仕事人にはいるだろ」
【智】
「あってどうにかなる仕事なわけ?」
【いずる】
「様式美なんだから受け取っておいたらいいんだよ。
君も細かいことに拘るねえ。そのうち胃腸悪くすると予言
しちゃおうか」
初対面の人間にまで胃腸の心配をされた。
つくづく僕は、僕が可哀想だ。
名刺はぞんざいな作りだった。
蝉丸いずる。
銘がうってあり、携帯の番号が載ってるだけ。
【智】
「TPOはもうちょい考えて欲しい」
いずるさん、笑いもせずに踵を返す。
るいと二言三言言葉を交わす。
るいが背負ったカバンから、変な形のヌイグルミを取り出した。
カエルとサカナとナメクジを足して3で割ったような形容しがたい忌まわしきものだ。
【るい】
「…………はい」
【いずる】
「ごちそうさま」
ヌイグルミが手渡される間、るいは、かなり真剣な葛藤を、
見ていておもしろくなるくらい続けていた。
【智】
「なにをなさっているんですか」
【るい】
「お別れ…………」
死にそうな顔だった。
【いずる】
「契約だからね。なんだってタダじゃないんだ。タダより高いものはないなんていうわけだし、代価を取ってる分だけ良心的だとは思わないか」
契約と代価。
【智】
「村人Aは話すボタンでヒントくれるのに」
概ねはロハで。
【いずる】
「村人Aがダメなら、町の隅の占い師で」
【こより】
「それ、使ったことありません!」
【いずる】
「私は使うな。ゲームのテキストは全部見る主義だから。イベントクリア後に村人の台詞メッセージ変わったりすると、結構感動するよねえ」
よほど村人が好きなんだな。
【いずる】
「縁があったから呼び出されたけど、契約は契約でまた別の話。
かたった分だけもらい受ける。大事なモノと引き替える。
それが昔からの決まりごとだろ」
【智】
「それって魔女の理屈だろ」
そのうちに、声とか目とか取っていかれそうだ。
【いずる】
「ちょっとした違いだねえ」
そうして、彼女は、冷たく喉をならした。
2時間ほど経過しました。
【智】
「2時間ほど経過しました」
【伊代】
「それは誰に対して何をいってるの?」
【智】
「困難な質問を……」
【伊代】
「困難なんだ」
デートが終わって解散とはならない。
さっきの言葉の余熱が燻る、やりとりの少ない時間。
なのに、離れがたい。
呪い。
歪な言葉が後ろから追ってくる。
そんな気がする。
【るい】
「さよなら、瑠璃っち……」
【茜子】
「なんですか」
【るい】
「不眠の夜を慰める、かわいい抱き枕だったのに」
かわいい……だったかなぁ、あれ。
【智】
「さて。そろそろ落ち着いたところで」
【茜子】
「なんですか」
【智】
「採決を取ろうかな、○×クイズで」
【こより】
「センパイ民主主義なんですね〜」
【智】
「同盟だけに、個々の利害を尊重したいですから」
【花鶏】
「……」
【智】
「花鶏さん?」
【花鶏】
「これまでの華麗な人生であの手のやからに3回ほどあったことがあるけれど、どいつもこいつも最初と最後に言うことは同じなのよ。知っていて?」
【智】
「そういうのと会う機会のある華麗な人生とはこれいかに」
【るい】
「カレーっぽい人生だ」
【花鶏】
「どいつもこいつも、貴方は呪われているからはじまって、貴方の努力次第です……で終わるわけ」
【智】
「いかにもだね」
【茜子】
「騙される阿呆の頭が悪い世の中です」
いい感じで笑う。
【伊代】
「そういえば、人の夢って書いて儚いって字になるのよね」
【智】
「……天然?」
【伊代】
「な、なによ」
【智】
「それよりもなによりも……それで、解答の方は?」
【伊代】
「……6人で民主主義だと、半分のとき、どうするの?」
【智】
「厳しい時に厳しいところつくなあ」
【伊代】
「最初のルールを定義しておかないと、後々揉めることになって、余計に面倒になると思うの。そう思わない?」
【智】
「場を読むことをしてください。あー、でも、そういうときは…………どうしようか…………」
【茜子】
「考え足りないさんですね」
【花鶏】
「……白紙」
花鶏は解答を拒否る。
【花鶏】
「鳩が豆鉄砲くらったような顔してるけれど、なにか言いたいことがあるの?」
【智】
「ちょっと予想外だったかな。
花鶏ならコンマ5秒で袖にすると思ってたから」
痣を、聖痕と花鶏は呼んだ。
呪いだと、いずるは笑った。
【智】
「素敵に折り合いそうにないし」
【るい】
「まず、トモはどうっしょ?」
【伊代】
「言い出しっぺだし」
【茜子】
「風見鶏の退路は断つべきだと思います」
【こより】
「そりはあまりにひどい……」
視線が集まる。
唇に人差し指を当てて、思案のポーズ。
突拍子もない話を信じるか?
先ず大前提。
呪いがあるのかないのか。
僕らは顔を見合わせたりもしなかった。
【智】
「…………」
見回す。
思い思いの表情の薄氷の下、
どろりとしたものが、横たわっていた。
――――――――――恐怖。
そうなんだ、そういうことなんだ。
やっとわかった。
同盟だけじゃない同類。
類は友なり、だ。
僕らはみんな、呪われている。
【智】
「はじめて……」
出会った。
【智】
「……なんとなく、今夜だけは、運命とやらを信じてもいい
気がする」
【智】
「あくまでも今夜限定で」
【花鶏】
「寂しい人生だわね」
【智】
「リアリストですから」
運命が本当にあるのなら、きっと神様は大忙しだ。
だけど、神さまは、
得てして僕らが生きてる間は何もしてくれない。
では、これは――――運命?
【智】
「……冗談じゃないです」
呟く。
気安く運命なんて言葉は使いたくない。
同じ痣と同じ……呪い。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「…………」
【伊代】
「…………」
【茜子】
「…………」
僕らは語らない。言葉にはしない。
でも、伝わる。
類は友。
【智】
「これは、呪いの印だそうな」
【茜子】
「呪いの輪」
【伊代】
「いやな輪ね……」
僕らは、なんとなく。
輪になった。
【智】
「この世界には、不思議がいっぱいかも」
【花鶏】
「……不思議、ね」
【智】
「出会いって、運命じゃなくても、奇跡だと思わない?」
【こより】
「恥ずかしい台詞〜〜〜〜〜〜ぅ!」
嬉しそうに身もだえ。
【智】
「……ねえ、自由になりたい?」
【るい】
「自由に……?」
【茜子】
「なにからですか」
【智】
「そうだなあ。なんでもかんでも……束縛から、壁から、亀裂から、閉じこめるものから、呪いから」
【智】
「――――僕は、なりたいな」
〔群れの掟〕
【智】
「うにゅ……もう、朝っすか。まだもうちょい……」
【智】
「あう、こんな時間かあ……」
【智】
「ん? メール来てる。誰から……」
【智】
「………………央輝」
【花鶏】
「いつまでここにいるつもり?」
【智】
「指定の時間まではまだ余裕があるでしょ。
いそいでいっても待ち惚け食らうだけじゃないの」
街はざわついている。
人が多いのは夕方だからだ。
雑踏を横目に、ガードレールに腰を預ける。
待ち合わせたときから、花鶏はずっとこんな調子だ。
カリカリ焼き。
こんがり風味に焦っている。
焦っている花鶏の隣で、僕も真剣に苦悩していた。
重要な問題だった。
【花鶏】
「それで、どうなの?」
【智】
「それなんだけど。ミントとチョコレート、花鶏はどっちがお好み?」
デコピンされた。
【智】
「前頭葉がいたい」
【花鶏】
「誰がアイスクリームの話をしてるっての! だいたい、
いつの間に買ってきたわけ」
【智】
「おひとつプレゼント」
【花鶏】
「緊張が足りてない」
【智】
「何もしないで怠惰に過ごす1分1秒が、貴重な僕らの青春です」
【花鶏】
「青春というのはね、浪費と読むのよ」
【智】
「浪費するより株で一山って感じだと思うよ、花鶏の場合」
【花鶏】
「青春資産の運用を相談してるんじゃないの」
央輝からメールが届いた。
今朝のことだ。
『捜し物の件で逢いたい』
実用本位のシンプルさがらしい。
【智】
「最近学んだんだけど、お肌と人生には潤いが必要なんだって。
下着もきつすぎると美容に悪いしさ。ちょっと変人のクラス
メートが言ってたよ」
【花鶏】
「貴方が真面目なのか不真面目なのか、時々判断に困るわ」
花鶏にじっと見られる。
瞬きもしない、後頭部まで抜けそうな凝視。
【花鶏】
「最初の印象だと、もっと真面目でお固くて、後ろ向きな子だと
思った」
【智】
「後ろ向きは正解……でもないか。○でも×でもないから、
さんかく。部分正解で3点」
【花鶏】
「たちの悪いやつ」
【智】
「じゃあ、僕がチョコレートで」
ミントを差し出す。
【花鶏】
「……甘いわね」
花鶏は、食べるには食べた。
【花鶏】
「……わたしだと目立つって、貴方、言ってなかったかしら?」
【智】
「あっちの指定なんだよね。当事者連れてくるように。ここいらは央輝のテリトリーらしいし、今回は大丈夫っぽい」
【花鶏】
「望むところよ」
【智】
「……不用意な戦いは避けてね」
【花鶏】
「自衛のための戦争は避けて通れないわ」
【智】
「憎悪の連鎖で、歴史の道路は真っ赤に舗装されてるなあ」
【花鶏】
「右の頬を叩かれて左の頬を出すような狂った平和主義なら、
願い下げよ」
【智】
「まあ、わざわざ呼んだって事は進展があったってことだから……」
【花鶏】
「本当に来るの?」
【智】
「たぶん」
【花鶏】
「たぶん!」
【智】
「僕に怒っても解決しないのです……」
【花鶏】
「そうね、そうなのね、そんなことはわかっているのよ。でも、
人間は理性だけの生き物じゃないわ、それが問題でしょ、だから世界は救われないのが決まっているの!」
花鶏はせっぱ詰まっていた。
ずっと花鶏が捜している、
大切な、持ち去られたもの。
その手がかりが目の前にある。
【智】
「気負うのはわかるけど、焦っても意味がないから、どっしり
構えよう」
【花鶏】
「……罠ってことは?」
【智】
「準備はしてるし」
【るい】
『こちらスネーク』
【智】
「今のところ異常なし。そっちでも何かあったら教えて」
【るい】
『特になし』
【智】
「じゃあ、よろしく」
確認の電話を切る。
最終兵器乙女が近くに待機している。
【花鶏】
「不用意な戦いは避けるんじゃないの?」
【智】
「自衛力の確保だから」
無抵抗主義と性善説は信用しないことに決めてる。
【花鶏】
「そいつが来たとして……」
【花鶏】
「ただより高いものはないわよ」
責める目で睨まれた。
今度バカなことをしでかしてわたしのプライドに傷をつけたら、
ベッドに縛り付けて朝までイケナイことをしてやるから覚悟なさい――と目で言っていた。
人生の危機だ。
人生以外にも色々と危機だけど……。
【智】
「……あの場合、あれが最善の……」
聞こえないように小声で弁明。
聞こえないと意味ないか。
【花鶏】
「なにか?」
【智】
「なんでもないです」
アイスを食べる。
【花鶏】
「――――――」
【智】
「なに? じっと人の顔見て」
【花鶏】
「やっぱりチョコがいいわ」
【智】
「もう半分食べちゃった」
【花鶏】
「大丈夫」
むちう
キスされた。
いきなりの強奪だ。
公衆の面前で。
道行く人たちがひたすら見ないふり。
ジタバタ。
ダメです。
舌を入れられた。
全部確かめられて、絡められて、甘噛みされて、
くすぐられて、吸われて、おまけに飲まされたりなんかして!
ぽん(という感じ)
【花鶏】
「ふう」
【智】
「……あ、あ、あ、あ、あ、あ」
【花鶏】
「やっぱり甘いわね、チョコ」
【智】
「あーい」
涙。
【花鶏】
「そいつ、本当に来るかしら」
【智】
「こっちに来ないで近寄らないでエロ魔神禁止」
【花鶏】
「青春の弾けるような女の子同士の間にある、友情からほんの半歩踏みだした加減がフェティシズムを煽りかねない、ちょっとしたスキンシップじゃないの」
【智】
「ディープだったよ?!」
【花鶏】
「友情は深刻ね」
【智】
「舌までつかったよ!」
【花鶏】
「コミュニケーションよ」
【智】
「半径2メートル以内に近付いたら、花鶏が足下に人生の全て
を投げ出して諦めるまで、くすぐり倒すから」
【花鶏】
「…………いいかも」
逆効果でした。
【央輝】
「えらく時間には正確じゃないか」
央輝だった。
以前と同じ、ゾッとする空気をまとわりつかせている。
【央輝】
「正確なのは、まあ美点だな」
ニヤリ。
くわえていたタバコを捨てる。
【智】
「お出ましはいっつも唐突だね」
【央輝】
「お前らと違って、考え無しに夜歩きするような、呆けた生活は
してないんでな」
3度目の邂逅(かいこう)。
以前と同じ黒い姿だ。
【花鶏】
「それで、メールの主旨は?」
花鶏が、沸点ギリギリの声を出す。
【央輝】
「……こいつが持ち主か?」
【智】
「さようで」
【央輝】
「捜し物は見つかった。こいつで間違いないか?」
ぞろりとしたコートの下から一冊の本を取り出す。
【花鶏】
「それっ!」
(1秒)
【智】
「早っ」
花鶏が反応した。
では間違いなく本物らしい。
あれを花鶏がずっと捜していたのか。
ちょい疑問。
そんなに価値のある本なの?
【花鶏】
「返しなさい!」
【智】
「しかも即断」
駆け寄った花鶏がはっしとつかむ。
素早い。
央輝と花鶏が、本の両端で綱引き。
【央輝】
「がっつくな。みっともないぜ」
左手一本で、器用に新しいタバコをくわえ、火を点ける。
きゅっと唇がつり上がった。
それは噂のままの顔だ。
吸血鬼。
【央輝】
「取り引きだ」
【智】
「取り引き……っすか」
反復してみる。口の中で咀嚼(そしゃく)する。
【花鶏】
「……謝礼が必要というなら、用意するわ」
ギリギリと、本が軋む。
大切な本なら大切に扱おうよ、花鶏さん。
【央輝】
「1億」
【花鶏】
「智、今すぐスコップ買ってきなさい!
こいつを始末して埋めるから!!」
【智】
「おーい」
どっちもどこまで本気なのか読みにくい。
【央輝】
「ふん、金はいらん。代わりのものを引き渡せ。そしたら、
こいつはすぐにくれてやる」
花鶏の鼻先を爪先がかすめた。
ほとんどノーモーションから放たれた。
央輝の蹴りだ。
花鶏は本から手を離していた。
前髪がわずかだけ乱れる。
それだけだ。
【央輝】
「ひゅー」
口笛は掛け値無しの称賛の音色だ。
央輝は当てる気だった。
当たったらただでは済まなかった。
相手の事なんて気遣いもしない、Vナイフと同じ剣呑な一撃を、
花鶏は瞬きひとつせずに避けた。
【花鶏】
「――あたしは、右の頬を打たれたら、腕ごと叩き折ってやる
主義なの」
【智】
「打たれてないよ」
場を和ませる努力。
【花鶏】
「おわかり?」
【央輝】
「気が合うな、あたしもだ」
無視気味です。
両方とも血液がニトログリセリンだ。
【智】
「かーっとっ!!!」
映画監督風に、
二人の間に割ってはいる。
【花鶏】
「邪魔を、しないで」
【智】
「いやあ、せっかく取り引きいってるんだから」
【智】
「それで、さっきの話の続きは?」
花鶏の前を右に左に塞ぎつつ、訊ねる。
【央輝】
「茅場とかいう男の娘、お前の手元にいるんだろう」
【智】
「茅場…………茜子?」
【央輝】
「そいつと交換だ」
【智】
「………………」
【花鶏】
「智」
【智】
「それは、つまり、央輝は……茜子を追いかけてた連中の仲間ってわけじゃないけど、恩を売りたいか、義理があるかどっちかなんだ」
【央輝】
「……一々小知恵の回るやつだ」
央輝の気配が緩む。
剣呑なままでは取り付く島もないので、
まずは一手がうまく進んだ。
【花鶏】
「どういう意味なの?」
普段の花鶏なら気がつきそうなモノなのに、
本が目の前でやっぱり気が回らないらしい。
【智】
「茜子を捜してる連中は僕らの素性を知らない。
知ってるなら強硬手段だって取りかねない連中だし」
【智】
「央輝が連中の仲間なら、僕らと茜子が一緒にいたことはとっくに伝わってて、事態はもっと悪くなってる」
茜子はカードだ。
有用な質札、恩と義理を買い取る通貨だ。
【花鶏】
「はんっ」
【智】
「茜子が必要な理由、聞いていい?」
【央輝】
「そいつの親父が、くだらねえ男の面子を潰した。大層ロクでもないヤツでな、性根が腐ってる上に執念深くてサディストときた」
低く笑う。
【智】
「ほんとにろくでもないなぁ」
世の中、知らない方がいいことはたくさんある。
【央輝】
「その馬鹿は、今まで一度も相手を逃がしたことがないのが取り柄で、それで面目を保って商売をしてる。逃げられたらあがったりだ。わかるか?」
【央輝】
「そいつの親父はうまくやった。今のところ逃げのびてる。
尻尾を掴まれてもいない。そうなると――」
面子の分だけ娘にカタをつけてもらう、と。
【智】
「……それ、困るよ」
【央輝】
「あたしの知ったことか。どうだ、取引としては上等だろう。元々無関係の女……そいつ一人を引き渡せば、大事なお宝は手元に戻ってくる。契約と代価――――ふん、ありきたりな結末だ」
【花鶏】
「………………」
【智】
「だめ」
即断で。
【央輝】
「情けは人のためならず、とかいう諺があるんだろ、この国にはな」
【智】
「だから、人の為じゃなくて、自分の為だよ」
【智】
「今は、ちょっと、その子と運命共同体っていうの、やってるから……だからダメ」
【央輝】
「運……なんだ? よくわからん」
複雑な日本語はダメらしい。
【央輝】
「お前には貸しがあるぞ」
痛いところを突かれた。
獲物を狙う肉食獣の顔だった。
【智】
「それを言われるとなんなんだけど」
央輝には余裕がある。
ということは、央輝の重要度として、茜子はどっちでもいい程度の位置づけらしい。
【智】
「わかりやすいところでいうと、んー……義兄弟の杯?」
【花鶏】
「……姉妹、でしょ」
些細な問題はさておいて。
【央輝】
「はん。身内にしたか」
央輝の世界観的に、こちらの方が伝わりやすかった。
【央輝】
「そうなると、どうするかな」
こっちの足元を見たニヤニヤ笑い。
話がどんどん斜めの方向へ飛んでいく。
打つ手を間違えると取り返しがつかない。
というよりも。
手札がなかった。
央輝は、僕たちが茜子と一緒にいると確信した。
その話を、さっきの話の最低男のところへ
持っていかれるだけで、進退窮まる。
【智】
「……あ、でも時間の問題か……」
【花鶏】
「?」
一緒にいるところや制服は見られてるんだし、
しらみつぶしにされたら、遠からず足はついちゃいそう。
【智】
「あー、うー」
【花鶏】
「真面目にしなさいよ」
【智】
「……うん」
ぐるぐるぐるぐる。
頭を回す。頭が回る。
解決策が思いつかない。
【央輝】
「お前、茅場の娘とは、以前から知り合いってわけじゃなかったんだよな」
【智】
「ま、ね……」
後悔。
同盟で処理するには危険すぎる爆弾だったか。
今更取り返しはつかない。
茜子を大人しく引き渡したりすると、夜ごと悪夢にうなされそうだし、枕元に化けて出られて夜通し悪口を聞かされたりなんかすると、衝動的に練炭でも買いたくなりそう。
【央輝】
「お前、馬鹿か?」
【花鶏】
「この子は馬鹿よ」
【智】
「…………そこはフォローしてよ、運命共同体」
【花鶏】
「あなたとわたしは、同じ路線のバスに乗り合わせただけよ」
ここぞと言うときには冷たい花鶏だった。
【智】
「お互い、どこで飛び降りるかが問題だね」
【花鶏】
「最後まで残ってるヤツは馬鹿を見る」
【智】
「花鶏の好きな映画はさぞかしブラックなんだろうな」
くくっ、と央輝が低く笑う。
【央輝】
「いいぞ、別の条件にしてやる」
【智】
「ほんと!?」
【央輝】
「レースに出ろ」
【智】
「………………」
何それ。
モノ質と引き替えにレースに出て勝利せよ!
それ、どこのハリウッド映画?
【智】
「僕、免許とか持ってないけど……」
【央輝】
「図太い返事だ」
【智】
「お褒めに預かり光栄です」
【花鶏】
「棒読みよ」
【央輝】
「パルクールレース……車は使わない。そいつに出て勝負しろ。あたしたちが主催してるヤツだ。勝てば、このボロ本は返してやる」
【央輝】
「それに、茅場の娘の件、話をつけてやってもいい」
【智】
「えうっ?」
渡りに船な申し出だった。
それだけに素直に受け取れない。
教訓――人は信じるべからず、
ただより高いモノはない。
【智】
「それって、その、どういう……」
【央輝】
「条件は、お前も出ること。それと、お前らが負けたときは――」
【智】
「負けた、ときは…………?」
ごくり。
【央輝】
「お前は、あたしのモノだ」
【智】
「…………………………………………はい?」
耳が遠くなった。
いやだなあ、まだ若いつもりなのに。
年齢って気がつくときてるから。
【央輝】
「お前は、あたしの、奴隷だ」
【智】
「奴隷」
【央輝】
「奴隷」
復唱する。
幻聴じゃない、聞き間違いじゃない、
冗談って言う顔じゃあ断じてない。
【智】
「ひぃいいぃぃぃいぃ――――――――――――――」
【花鶏】
「ちょ、ちょっと!」
【央輝】
「お前が負けたら、煮るなり焼くなり犯るなり、あたしの気の向くままにさせてもらう」
「焼く」の次の「やる」の漢字を教えて欲しい!
僕の思い違いだと証明して欲しい!!
【智】
「そ、そそそそそそそそそそ」
そんなことされたら。
人生の危機。
死ぬ。絶対に、今度こそ死んじゃう!
【央輝】
「あたしは優しくないぜ」
【智】
「ぎゃあーーーーーーーーーーーっ」
【花鶏】
「腹は立つけど……気持ちはわかるわ!」
【智】
「わかんなくていいよ!!」
血の叫び。
これだから!
色々と趣味がお花畑の人は!
【央輝】
「で、どうする?」
決断の時、来たる。
〔こより、逃げ出した後〕
【伊代】
「それで?」
【智】
「それで、とは」
【伊代】
「聞いてるのは、わたしで、答えるのはあなたです」
伊代がメガネのフレームを指先で押し上げた。冷淡に。
ごまかしで誤魔化せそうにない白い目だった。
【智】
「……契約を、しました」
尋問は熾烈を極めた。
昨夜のことを、
洗いざらいゲロさせられる僕だった。
【伊代】
「それは聞いた」
【智】
「勝負をして、勝てば全部チャラになる。負けたら……
ちょっと借金生活みたいな」
【こより】
「なして、センパイが愛奴生活に突入なのですか?」
【伊代】
「愛奴……」
【智】
「こやつ、悪い言葉を……」
こよりは接触悪そうに首を傾げている。
問われて、考える。
なして。
【智】
「…………なしてでしょう?」
難問だった。
【茜子】
「アホですね」
【花鶏】
「馬鹿なのよ」
【智】
「二人がかりで、あまりにあまりな言いぐさ」
【花鶏】
「もう少し頭のいいやつだと思ってたのに、とんだ見込み違いもあったもんだわ!」
【智】
「見込んでてくれた?」
【花鶏】
「……些末な部分はどうでもよい」
【智】
「前途は多難かも知れないけど、勝てば最寄り問題の大半が一気にチャラになるんですよ、花鶏さん」
【智】
「これって一発逆転鉄板レースで、
女房を質にいれてでも賭けるしかないんじゃありませんこと?」
【こより】
「ざわ……ざわ……」
【るい】
「おお、格好よいぞトモっち」
【伊代】
「こらこら、借金で身を持ち崩すオッサンの台詞だ、あれは」
伊代が肘で小突く。
るいは「にゃう?」と悩む。
【茜子】
「質というより自分が死地です」
【こより】
「うまいなあ」
【智】
「(男には)いかねばならぬ時もあるのです」
立場が複雑だ。
【茜子】
「一撃必殺もよろしいですが、茜子さんの問題に、
勝手にずかずか入り込まないでください」
刺々しく冷たい断罪。
針のむしろの気配。
【智】
「そんなこと言ったって、入り込んで解決するための同盟なんだよ!」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「同盟は、結構として」
花鶏が鼻の触れそうなところに来た。仁王立ち。
背が高いので見下ろされる。
くく……っ。
【智】
「……叩きますか?」
噛みつかれそうだ。
【花鶏】
「馬鹿がうつるから叩かない」
【るい】
「うつるんだ!」
【伊代】
「鵜呑みにするなと……」
【花鶏】
「わたしたちは同盟で結ばれている、わたしたちはお互いに手だてを貸し合う、わたしたちは互いを利用し合う、わたしたちは互いを裏切らない――――それが、あなたの言い分よね?」
【智】
「そです」
【花鶏】
「だからといって、どうして、負けたときの代価に、
あなたを差し出すなんて意味不明な条件を飲むわけ!?」
【智】
「話の流れというか、選択の余地がなかったというか……その場で聞いてたんだから知ってるでしょ。リスクとメリットのコントロールを秤にかけたら、いい感じで」
【花鶏】
「わからないこといわないで」
【智】
「……なんでそんなに怒るのかしら」
【花鶏】
「怒ってないわ」
【智】
「えー」
【花鶏】
「怒ってません」
【智】
「ごめんなさい」
無様に平身低頭した。
【るい】
「愛奴?」
【智】
「もう少し言葉を選んで」
【るい】
「メイド?」
【智】
「メイドを甘く見るなぁっ!」
【るい】
「なにその思い入れ」
男は誰しもメイドに心惹かれるのです。
【智】
「……と、とりあえず、負けたら、そういう契約」
【こより】
「センパイ、ドナドナです〜」
こよりが目頭を押さえた。
もらい泣きする。
【智】
「涙無しでは語れないね……」
【茜子】
「だから、あなたはアホなのです」
【智】
「そんなに強調しなくったって」
【花鶏】
「馬鹿にしてっ!」
花鶏が爆発した。
怯えた。
嵐はいなしつつ過ぎ去るまで頭を下げて待つ。
呪われた世界に平穏な毎日を生きるための、
この僕の処世術だ。
【智】
「……馬鹿にはしてない」
上目遣いに、弁明を試みる。
【花鶏】
「してる。今もしてる。そうやって、人畜無害そうな顔して、
心の底で、わたしのことを馬鹿にしてっ!」
【智】
「話を聞いてよ」
【花鶏】
「なら、どうして、あんな約束するの?!」
【智】
「それは、成り行き――」
【花鶏】
「わたし一人じゃどうにもならないと思ってるんでしょ! 正しい答がわかってるのは自分だけだと思ってるんでしょ!」
【花鶏】
「自分がやらなくちゃ、
どうせ上手くいきっこないと思ってるんでしょ!?」
【花鶏】
「赤の他人の身代わりになって自己犠牲するのが性分なわけ!? 馬鹿にして、馬鹿にして、馬鹿にして!
同情なんてまっぴらごめんだわ!」
叩きつけられる言葉。
花鶏の後ろで、伊代と茜子が沈黙している。
無言の賛同。
――――自分なら正しい答が出せる。
それはごう慢だ。
同盟。
僕らは手を結ぶ。
それは一つに繋がることを意味しない。
バラバラのまま。
束ねて、利用し合う。
世の中には、正しい答なんて、ありはしないのだ。
正解ではなく最善があるばかり。
解けない方程式、円周率と同じで割り切れない。
【伊代】
「でも、あの黒いヤツ、そういう趣味だったんだ」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「ふむ」
【伊代】
「な、なによぉ、皆だって考えたでしょ!」
伊代は空気が読めない。
【智】
「せっかく真面目だったのに」
全員で、もにょった。
【花鶏】
「もういいわ」
【こより】
「あう、こわい……」
【花鶏】
「今更賭けを取り消すっていったって、アイツにも通用しない
でしょうし」
【智】
「だねー」
【茜子】
「……」
【智】
「ごめんなさい」
【花鶏】
「それで、どうするつもりなの?」
【智】
「当事者としては、選べる選択肢は一つだけ」
正解を探す。
方程式を解くように。
【智】
「勝てばいいんだよ」
腹が減っては戦ができない。
料理は、キッチンを借りて、
主に僕が作ったりした。
材料は、花鶏の家に来る途中で買っておいた、
質より量を重視した色々を元にしたカレーです。
【るい】
「ぐおー」
【こより】
「がつがつ」
【茜子】
「がっつかないでください、この餓鬼めらが」
【花鶏】
「ちょっと、飛ばさないでよ!」
【るい】
「ぬの?」
【伊代】
「落ち着かない風景ね……」
獣のごとく飽食した。
【こより】
「それで、なんでしたっけ」
【智】
「パルクールレース」
【伊代】
「それって車とかバイクとか……
ちょっと、わたし免許とかもってないわよ」
【智】
「それは僕がもうやった」
パルクールレース。
レースといっても免許不要。
基本は自分の二本の足を使う。
参加者はゴールを目指して、ひたすら街を駆け抜ける。
チェックポイントに先に到着したり、トリックを決めたり
すると賞金が出る。
今回は4人1チームで競う。
【茜子】
「駅伝的なヤツですか」
【智】
「思いっきり俗に言うと、そうかな」
ただし、いくらか物騒な。
チェックポイントを通れば途中の経路は問わない。
ランナー同士なら、相手への妨害行為も認められている。
【花鶏】
「きな臭い話になってきたわね」
【智】
「ネット配信したりして、賭けとかやってるそうな」
【伊代】
「変に今風ね……」
【智】
「どこでもインフラは変化しますので」
【こより】
「そんで、誰がでるですか」
【智】
「勝てそうな面子をよっていこう。まずは……」
【智】
「やっぱり、るいちゃんか」
【るい】
「先のことなんてわかんない」
【智】
「こんな時にも約束しない人!?」
【伊代】
「いきなり挫折してるじゃない」
るいは複雑な表情だった。
複雑すぎてどういう顔なのか読み取れないくらい。
【茜子】
「時間の無駄です。二番手を決めましょう」
【伊代】
「ちょっと、一番手決まってないのに……」
【茜子】
「平気です」
【智】
「わかりました。先へ進めます」
【花鶏】
「信用するっていいたいの? バカもいよいよ極まれりね。
まあ、いいわ」
【智】
「次は……」
【花鶏】
「わたしが出るわ」
【こより】
「花鶏センパイ」
【花鶏】
「自分のことなら自分の力で勝ち取る。わたしには同情も助けも
いらない」
花鶏は硬質だ。
強く儚く高く咲く。
触れれば崩れそうなほど繊細で。
どこまでも花鶏は花鶏だった。
【伊代】
「ねえ、あなた」
【花鶏】
「ええ、わかってるわ。無茶はするなって言いたいんでしょう」
【伊代】
「じゃなくて、これ、チーム戦だからあなた一人だと勝てないんじゃないかしら」
水差しまくり発言だ。
【花鶏】
「……」
【智】
「すごいなあ」
伊代は素だ。
狙ってないだけに一種の才能だ。
水を差す天才。
【伊代】
「ほんとのこと言っただけじゃない……」
だんだんキャラが見えてくる。
人間なんて閉じた筺と同じで、
蓋を開けないと中味はわからない。
【智】
「深い」
【茜子】
「何を一人で納得しているのですか」
【智】
「乙女強度から考えて、三人目は僕が。
自分の身の安全は自分で守ることにする」
【伊代】
「いや、だから、なにそれ」
【智】
「なにとは」
【伊代】
「なんとか強度」
【智】
「だいたい普通だと百万乙女前後で」
【伊代】
「はあ」
【智】
「るいは、でも一千万乙女な感じで」
伊代は最後まで納得いかない顔をしていた。
【智】
「最後の一人は――」
【茜子】
「茜子さんが出ます」
【智】
「えう」
むせかける。
【伊代】
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと!」
【茜子】
「なんですか」
【伊代】
「聞いてなかったの!? 体力勝負なのよ!
ギャンブルの馬役で、妨害アリなんていう際物なの!」
【茜子】
「わかってます」
【伊代】
「わかってない、わかってないわよ!
あなた……ねえ、そっちもなんとか言ってあげてよ」
【伊代】
「この子みたいな体力お化けならともかく、あなたみたいな
細っこいのが出て行ったって怪我するだけだって! いいえ、
怪我じゃすまないかも……っ」
【るい】
「なんかすごい言われよう」
【茜子】
「私、わかってます」
【伊代】
「わかってない!」
【茜子】
「わかってないのは、あなたです」
【伊代】
「……ッッ」
衝突する。
人形じみていても茜子は人間だから。
行きずりの絆で繋がっただけの他人同士。
意見が違えばぶつかり合う。
【茜子】
「これは、私の問題です。他の誰の問題でもない、私のことです。私が追われて、私に降りかかったことです。私が自分で出るのは責任です」
鋼のような決意。
【智】
「…………」
茜子の顔を見ながら思案する。
【智】
「ところで、こよりちゃん」
【こより】
「はいです、センパイっ!」
【智】
「最後のメンバー、キミでいい?」
【こより】
「……………………はい?」
固まった。
【智】
「最後は、こよりん」
【こより】
「ッッッ!?」
ムンクの叫びのポーズ。
【こより】
「はい〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
【こより】
「そそそそそそそ、それはどういうことでありありありあり、
ありーでう゛ぇるまっくす!!」
【智】
「全面的に違ってる」
【こより】
「そ……そんなの……困るです……すごく困りますぅ!」
【茜子】
「待ってください! これは、私のことです!」
茜子が、珍しく激しく噛みついてくる。
【茜子】
「私のことなのに、どうして、そのミニウサギを」
【智】
「これは同盟だから」
【茜子】
「わかりません」
【智】
「僕らは力を貸しあう。僕らは利用し合う。誰かの問題は全員の
問題。それでなくちゃ同盟の意味もないでしょ。そうすること
だけが、ちっぽけな僕らの解決の手段」
【智】
「一番しなくちゃいけないことはなんだと思う?」
【茜子】
「一番………………」
【智】
「勝たなくちゃ、色んなモノに。躓いてらんない。意地とか、
責任とか、誰の事だとか。そんなことには躓いてらんない。
どうしてって? 負けちゃったら終わりだから」
【智】
「負けたら、後はない。二度目がやってくるかどうかもわからない。世界は一度きりなんだ。セーブもロードも通用しない」
【智】
「突き抜けて自己満足で納得するのもいいけど、
それで納得するよりは、勝って幸せになろうよ」
【茜子】
「幸せ、なんて」
【茜子】
「なれると思うんですか」
肩をすくめた。
【智】
「なれる、」
【智】
「と思う。難易度はかなり高いけど、力を合わせれば、みんなで
戦えば、いつかはきっと」
【茜子】
「……呪われてる」
自嘲じみていた。
人生まで、全部ひっくるめて投げ捨てるような、
希少価値の表情だった。
【茜子】
「呪われているのに、追いかけられるのに、
幸せになんてたどり着けません」
いやな空気になった。
欺(ぎ)瞞(まん)の下にあるのは畏れと不安。
呪い。呪い。呪い。
いつでもどこでも背中にぴったり張り付いた言葉。
それは、どこにでもある。
生きることには畏れと不安がつきものだから。
【智】
「そのために……僕らはそのために同盟を結んだんだ。
一人だと無理だから、一人だと足りないから、一人にできる
ことには限りがあるから」
【智】
「だから手を結ぶ、利用し合う」
【伊代】
「…………それで、今回の勝負、勝てると思うの?」
【智】
「人事を尽くして天命を待ちます」
【花鶏】
「天命だなんてらしくないこと」
【智】
「根性で解決するとは思わないけどね」
【花鶏】
「それは冷静な判断ね」
【智】
「なんといってもドナドナの運命がかかってるから。
勝たないことには」
愛奴隷一直線。
【茜子】
「でも、だからって、私……」
問い@
幸せになれると思いますか?
解答
なれると思います。
【智】
「なんとかなるって」
希望は欺(ぎ)瞞(まん)的だ。
信じていなくても言葉にできる。
そして。
言葉は欺くためにあるのだから。
【智】
「それでどうですか、こよりん?」
【こより】
「鳴滝が……やるですか……?」
【智】
「ごめん、他にいなくって」
悪いとは思うけど、選択の余地がない。
モノは試しで残りの面子を検討してみる。
伊代、こより、茜子。
【智】
「……やっぱりキミだけが勝利の鍵です」
【るい】
「残りの二人は?」
【智】
「小利の餓鬼とでもいいますか」
【るい】
「わからぬ」
日本語には秘密がいっぱい。
【智】
「ごめん、この通り。無事に終わったら、代わりに何でも
お礼するから」
【こより】
「でもでも、こよりが出るということは、戦うということですよね?」
【智】
「まあね」
【こより】
「走るだけじゃなくて、妨害っていうと、かなりシャレにならない事態が予想されたりするんですよね?」
【智】
「そうね」
【こより】
「相手は、その、あっち系の本物で、これっぽっちも冗談通じないような気がするんですけど」
【智】
「こよりちゃん、鋭いね」
【こより】
「……」
【智】
「……」
【こより】
「いやあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
泣かれた。
【こより】
「酷いッス、酷すぎます! いくらセンパイでも、
この仕打ちはあまりにあまりで……」
我ながら同意見だ。
【智】
「どうしても、だめ?」
【こより】
「平和主義者の小娘にナニヲキタイスルノデスカ」
【智】
「伊代は、意外と部のキャプテンやってたりとか」
【伊代】
「わ、わたし?!」
【伊代】
「1年だけ、お茶漬けフリカケのおまけカードで占いをする部
の部長をしたことあるけど……」
【智】
「……ごちそうさまでした」
なんだよ、その部は!
そんな得体の知れない部、存在自体おかしいだろ。
【花鶏】
「で、どうするわけ?」
【智】
「それなら、」
どうしよう……。
【智】
「頭数だけそろえても、勝ち手がないと……」
【茜子】
「ドナドナ」
【るい】
「ドナドナかあ」
切なくなる。
【こより】
「……わかりました。センパイを市場に連れて行かれるわけにはいきません。わたしが……出ればいいんですよね?」
【智】
「結構無茶な話だったかなぁ」
【伊代】
「今になって考えなくてもそうでしょ」
【智】
「ほんとにいいの、こよちん?」
【こより】
「うす。しかた……ないです。他に道はないのです」
【るい】
「そのとーり。女は度胸っ」
ぱんぱんと、こよりの背中を景気よく叩いた。
【花鶏】
「歪んだ価値観だわね」
【るい】
「ほほう」
【花鶏】
「なによ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
今日も今日とて揉める。
それでも――――
とりあえず面子はそろった。
翌日。
授業はサボりました。
優等生失格の烙印がついちゃいそうだ。
朝から街をうろついた。
るいを誘って。
腕をくんで、てくてく歩く。
【るい】
「これってデートっすか」
【智】
「んなことしてたらサボった意味がないわいな」
【るい】
「デートじゃないのけ?」
【智】
「なんて小春日和なヘッド」
【るい】
「そろそろ春っつーより初夏って感じの季節、女の子同士のデートもいいよねぇ〜」
デートしつこい。
【智】
「これは下見です」
シティマップを片手に。
パルクールレースでは、ランナーは市街の指定された
チェックポイントを指定の順番で通過すればよい。
コース選択は自由。
たとえば空を飛ぶのも自由。
できるもんなら。
央輝に確認したところ、
こよりのローラーブレードは使って構わないということだ。
チームはランナーが4人。
チェックポイントは20カ所。
分散したポイントに、どれだけ速くたどり着けるのか、
タイムロスを減らせるのか。
ライン取りが重要になる。
【智】
「実際走っててポイントわからなくなったりしたら、そういうのもまずいよね」
【るい】
「まずいか」
【智】
「なんせ、僕がドナドナだけに」
【るい】
「たしかにマズイ」
魂的に危機一髪だ。
【るい】
「なんでもトモは細かいね」
【智】
「白鳥は優雅に浮かんでるだけに見えて、水の下で必死に
バタ足してるもんなの。不断の努力とその成果。これぞ
勝ってナンボの和久津流」
【智】
「人事を尽くして天命を待つ……ってことは、人事尽くさないと
応えてくれないのが天命っていう性悪狐の正体なので、日夜努力の毎日なのです」
性悪度でいうと、いずるさんに一脈通じる。
【るい】
「そういうのって、どーっていって、ばーってやって、どがーんてかましたら」
【るい】
「普通はなんとかならんのけ?」
【智】
「なるか!」
【智】
「抽象的すぎて意味不明です!」
【るい】
「なんとなくフィーリングで、ぱーっと」
【智】
「……るいってさ、そういう、感覚で物事やっちゃう方?」
【るい】
「おうさ」
【智】
「これだからっ、特化した才能の上にあぐらをかいて世間を
軽くみてるヤツは!」
嫉妬に燃えた。
【るい】
「その分頭使うのは苦手だけど」
【智】
「いびれー(※歪型レーダーグラフの略、才能特化型な人種を表現するスラング)だね」
典型的な、できる子理論の人生。
ある分野において、くめど尽きせぬ才能過ぎて、
矮小な常人の苦労が理解できてない。
そういうひといるんだよねー。
自転車に乗れるようになった子供が、
どうして今まで出来なかったのかわからなくなるのに似ている。
【智】
「……人間同士って解り合えないんだなあって、すごくすごく思う」
【るい】
「トモはすぐ難しいこと言う」
【智】
「考えててもしかたがない」
【るい】
「ほほう、するってーと」
とにかく実地で検分に。
【智】
「いこう」
【るい】
「いこう」
そういうことになった。
行ってきた。
【智】
「あいやー! 疲れましたー!!」
【智】
「思ったより大変でした」
【るい】
「そんで、どんなもんかね、手応えは?」
感想はたくさんあるが、
あえて四文字で表すなら。
【智】
「前途多難」
【るい】
「勝利の鍵は?」
【智】
「…………あるのかな?」
ドナドナが近くなった気がする。
さて。
飛ぶように日付が過ぎて――
今宵は前夜。
いよいよ明日がレースの当日。
慌ただしいと月日が経つのが速い。
1クリックで1週間とか。
それぐらい速い。
【智】
「決戦の時はきたれり!!」
と、うたいあげるような、
燃えテンションが不足していた。
拳を突き上げる役がいない。
【智】
「体育会系成分が不足してる」
【花鶏】
「汗臭そう……」
【智】
「偏見だ」
【花鶏】
「そういうの、近付いただけで妊娠するわ」
差別と偏見はこうして広まる。
様式美と蔑まれようとも、
メンタル設計に鼓舞が占める位置は重要なのだ。
【伊代】
「結局あの子が一番手で出そうね」
【智】
「ひとは信じ合わないと」
他人事のように。
【智】
「こよりんはダメです」
【こより】
「あー、うー、やー」
こよりは、部屋の隅でガタガタと震えていた。
生ける屍のごとし。
【伊代】
「本番に弱いタイプみたいねえ」
【智】
「女の子らしい、戦いには向かぬ優しい心の持ち主だから」
【るい】
「私らも女の子」
最終兵器乙女、皆元るい。
【智】
「分を弁(わきま)えないと」
【るい】
「馬鹿にされてる気がする」
さて。
ここは、かつて花鶏ん家の一室だった、
今は、乙女同盟パルクールレース対策本部。
歴史の大河の果てに、
この部屋が獲得した名称である。
戒名だってある。
※刑事ドラマなんかで捜査本部出入り口に掲示する「○○捜査本部」というヤツ。
お手製の垂れ幕がかかっていた。
字は伊代が入れた。
花鶏は最後まで抵抗した。
素直じゃない。
【花鶏】
『お断りよ!』
【智】
『ここは形から入ると言うことで』
【花鶏】
『穢れる!』
【智】
『どうしても』
【花鶏】
『然り』
【智】
『わかりました。では、同盟憲章第2条に基づいて――』
多数決を取った。
同盟だけに、意見対立は多数決でもって民主的に解決する。
垂れ幕一つあってもなくても同じだが。
形から入りたい時もある。
花鶏を困らせると、わりと面白そうだし。
【智】
『賛成多数につき、』
【花鶏】
『卑怯者!』
【智】
『最近よく言われます』
【智】
『これでも普段は品行方正』
【伊代】
『騙りね』
【智】
『……騙るのは、いかがわしいひとだけでいいよ』
【伊代】
『やっぱり、わりと似たベクトルの生き物なのかも』
いやなベクトルだ。
【花鶏】
「勝ち目は?」
【智】
「4、6くらいで」
【伊代】
「……6割で負けちゃうんだ」
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「な、なんで睨むのよぉ……」
どこまでも空気の読めない伊代だった。
【智】
「せめて4割も勝てるの! とか、
味方の士気を鼓舞するような言動をよろしく」
【伊代】
「士気だなんて、精神論よ」
【智】
「病は気からっていうでしょ」
信じれば変わる、
諦めなければ勝てる――。
呪われた世界に蔓延する、
数多の欺(ぎ)瞞(まん)の最たるものだ。
精神論はスタート地点でしかない。
戦いは問答無用。
堅く冷たく揺るがぬ力学で形作られる。
【智】
「知恵と力と友情と、最後が勇気」
【こより】
「あうぅ」
こよりが頭を抱えた。
すっくと立ち上がる。
【こより】
「…………顔洗ってくるデス」
マシンのようにひび割れた声で。
【智】
「大丈夫? ひとりで行ける? 顔が紫色だけど」
【こより】
「紫色だと画面に出せませんね」
【智】
「……わりと余裕ある?」
【こより】
「手首切りたい……」
【智】
「ヤバイ目をしていうな」
【こより】
「いってきます」
【智】
「大丈夫かな」
【茜子】
「この期に及んで大丈夫だなんて、脳に蛆がわいてますね」
【伊代】
「……やっぱり怖いわよ」
伊代が肩を落とす。
小さくなる。
【伊代】
「ほんと、怖い。胃のあたり重いし。わたしは出ないからいくらか楽だけど、明日負けたら、負けちゃったら……そう思ったら、
あの子の気持ち、少しはわかる」
あと十数時間すれば。
決する。
勝者と敗者に別れる。
敗者は強奪される。
代価を。
【智】
「もっと力抜いて。よしんば明日負けたって……」
失うモノは。
一冊の本。
茜子と僕。
【智】
「大丈夫だから」
少なくとも伊代は。
【伊代】
「だから……それだから、よけいに……」
視線が彷徨う。所在なく。
伊代は、傷ついていた。
【伊代】
「わたしもおトイレいってくる……」
逃げるように。
【智】
「むう、人間心理は複雑です」
無傷でいられる事への後ろめたさが、
伊代を抉っている。
リスクは持たない。レースにも出ない。
伊代だけが。
それを承知の同盟だ。
それぞれの置かれた状況や条件は異なっている。
違うモノだから、同じにはなれない。
違っても、リスクを共有し、力を合わせる。
差異はでる。
完全な平等は完全な平和と同じくらいの幻だから。
そこに苛立って。
不完全であることに。
完璧でないことに。
憤る。
【智】
「…………可愛いヤツ」
【るい】
「うにゅ? なんでトモちん、難しい顔してんの」
【智】
「るいは簡単そう」
【るい】
「???」
理解してなかった。
【伊代】
「ねえあの子、いる?」
伊代が戻ってきた。
【智】
「あの子?」
【伊代】
「オチビ」
【智】
「さっき顔を洗いに……っていうか、伊代こそ会わなかったの、
お手洗いで」
【花鶏】
「そういえば、随分経つのに戻ってこないなんて……ちょっと
遅すぎるわね」
【伊代】
「いなかったわよ」
【るい】
「テラスで頭冷やしてるとか?」
【伊代】
「気になって、ざっと見てきたんだけど……あの子、どこにも
いないのよ」
【茜子】
「…………」
胃の下あたりが、ざわざわした。
【智】
「それって、ちょっとマズイっぽいかも……」
花鶏の家中を手分けして捜した。
どこにも、こよりはいなかった。
【伊代】
「これってもしかして」
【智】
「…………逃げた?」
これは、予想外。
簡単にいうと……
最悪だ。
〔団結、もう一度〕
手分けして捜すことにした。
花鶏の家の近辺をしらみつぶしに。
土地勘はないだろうから、
遠くに行ってないと踏んだ。
【智】
「いた?」
【花鶏】
「いいえ」
【伊代】
「こっちにもいなかった。まったくどこいったのかしら」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「プレッシャーに弱そうなタイプだものね」
【伊代】
「じゃあ、ほんとに……」
対策を検討する。
【花鶏】
「見当たらなかったわね。
じゃあ、もう尻尾巻いてどこか遠くに……?」
【智】
「でも、バスだってない時間だし」
時間はとっくに22時を回っていた。
バスはおろか、この辺りだと、
タクシーだってつかまえるのは一苦労だ。
電車の駅までは大概遠い。
【智】
「でも、まずいよ、まずいですよ。明日は本番なのに……
このままだととんでもないことになっちゃうよぉ!!」
【茜子】
「こいつ、普段姑息な分だけ、予期せぬトラブルに弱い雑魚ですか」
【伊代】
「なにその一番の小者設定」
【智】
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
頭を抱える。
ごろごろと床の上を転がり回る。
こよりがいないとメンバーが足りない。
戦わずして不戦敗。
そんな馬鹿な!
他に手は……?
例えば、代理をたてるとか。
【伊代】
『ファイトー☆』
【茜子】
『いっぱーつ☆』
【智】
「……………………ッッ」
見果てぬ文系世界が広がっている。
先行き真っ暗。
【茜子】
「人の顔を見てげっそりするのは失礼生物です」
【智】
「ごめんなさい」
土下座する。
【茜子】
「謝るよりも今すべきことは」
【智】
「そうだよ戦わないと、今そこにある危機と! 捜そう、もっと
捜そう、それに……夜にひとりほっつき歩いてたら危ない」
【伊代】
「そ、そうね。なにせあの子だし」
【るい】
「もういい」
冷たく。
るいが目をせばめる。
不在の何者かを睨むように。
おっ?
なんか、予期せぬ反応だ。
【智】
「いい、とは?」
【るい】
「ほっとけばいい」
【智】
「…………」
ものすごく意表を突かれた。
るいが、そういうこと言うなんて。
【るい】
「裏切ったんだ」
【智】
「あの、ちょっと、るい……?」
怖い顔。
今にも噛みつきそうだった。
純粋で、それだけに強固な生き物が居る。
【るい】
「裏切ったんだ」
るい……。
静かな裁定、本気の目だ。
【るい】
「どうして裏切るの?」
【智】
「裏切ったなんて、大げさな」
【るい】
「信じたなら裏切るな」
苛烈(かれつ)な二分法。
白と黒。善と悪。敵と味方。
るいは世界を二つに分けようとする。
信じることと裏切ること。
【智】
「それは、違うよ」
【るい】
「違わない!」
【智】
「違わないことない!」
こんなにも強い言葉をぶつけ合うのは初めてだ。
るいが睨んでくる。
視線だけで火傷しちゃいそう。
【るい】
「だって、逃げたじゃない。仲間を裏切った! 嘘をついて、
自分だけで!」
【智】
「そんなことない、僕は信じてる!」
【るい】
「――――っ」
信じる?
誰が、そんなこというわけ?
【智】
「僕は、こよりのこと信じてる。怖くて逃げ出したかも知れない
けど、こよりは僕らを裏切ったりしない。ほんのちょっと怯えて、
自分を見失っただけで」
【智】
「だから、きっと僕らと一緒に、明日は走ってくれるって信じてる」
僕は、誰も信じない。
信じるなんて間違っている。
心は天性の裏切り者だ。
何度でも繰り返す。
他人を裏切り、自分を裏切る。
嘘をついて、欺いて、
本当のことさえ言えないのに。
自分の心ひとつ信じられないのに。
見えない他人の心を信じることが出来るの?
【智】
「…………だから、今は全員で、こよりのこと、もう一度
捜してみようよ」
――――――――出来るわけがないじゃないか。
【智】
「……るいのヤツは?」
【伊代】
「部屋で待ってる、ですって」
【智】
「そっか」
まあ、しかたないか。
るいに、あんな面があったなんて思いもよらなかった。
【智】
「じゃあ、手分けして捜そう」
【伊代】
「わたしは、あっちを」
【茜子】
「茜子さんはこっちから」
散っていく。
【智】
「花鶏は――――」
【花鶏】
「信じてる……ね」
からかうような物言いだった。
【智】
「なんだよ」
【花鶏】
「あら、いつもよりかなり余裕無いのね」
【智】
「悪かったね」
【花鶏】
「そういう素の顔も可愛いわよ」
……誉められても嬉しくない。
【花鶏】
「鳴滝を信じてる?」
【智】
「そういった」
【花鶏】
「本当に?」
【智】
「なによ」
【花鶏】
「物事を考えるっていうのは、疑うってことでしょ」
そう、だ。
【花鶏】
「知恵の実の悲劇というわけね」
【智】
「……持って回った言い方するね」
【花鶏】
「そういうときもあるわ」
【智】
「そうだよ。僕は、いつも疑うところから始めるんだ。どんな事がありえるか。どんな失敗が成立するか」
世界を、常識を、友情を、信頼を、自分自身を。
他人なんて、一番信用できない。
【花鶏】
「今回はびっくりしてたわね」
【智】
「予想外のことなんて、いくらもあるから」
知恵の限界。
思考を繰り返しても、限界がある。
人間には完全な未来なんてわからない。
【智】
「……るいがあんなに怒るなんて」
【花鶏】
「そうね」
人ひとりにしたって、本当の心は量りがたいんだと、
いやというほど思い知らされる。
【花鶏】
「それでどうするの?」
【智】
「どうするもなにも、こよりを捜す。言ったとおりだよ。そんなに遠くまで行ってないと思うし」
【花鶏】
「そうね。でも、問題はその後でしょ」
見つけたとして――――――
本当はわかっていた。
こよりが逃げ出すのは当たり前だ。
理由がないから。
るいにも、花鶏にも、茜子にもある、トラブル。
同盟をあてにしなければならない理由。
【智】
「どうにもならなかったら…………」
【花鶏】
「ならなかったら?」
こよりには理由がない。
あるのは負い目だ。
花鶏の本を失った原因であるという後ろめたさ。
わかっていて、こよりを利用した。
その方が都合がいいから。
【智】
「うんにゃ、どうにもならない退路はなし。諦観するのは最後の
武器。僕の売買権がかかってますので死にものぐるいでなんとかします」
【花鶏】
「背水の陣だわ」
【智】
「余裕のある人生をギブミー」
【花鶏】
「昔の人は偉いわね。そういうあなたに、含蓄のあるお言葉を
プレゼント。曰く」
【花鶏&智】
「「自業自得」」
【智】
「ハモってどうする」
【花鶏】
「自分でわかってるだけに、あなたの不幸も根が深いわね」
【智】
「行ってきます」
【花鶏】
「わたしはあっちを捜すわ。
でも、その前に、よければ聞かせてくれない?」
【智】
「なに? 僕にわかることなら」
【花鶏】
「貴方にしか、わからないわよ」
ころころと、花鶏は笑った。
【花鶏】
「あなた、本当に、信じられなかったの?」
【智】
「――――っ」
きっと顔に出た。
本心を言い当てられた。
誰のことも、僕は信じてなんていないんだと。
でも、それなのに。
花鶏はそれを揶揄する。
まるで。
僕の、本当が――――だと、いうように。
【智】
「…………」
花鶏のその問いに、
とうとう僕は答えられなかった。
ほどなくして発見した。
【智】
「みーつけた!」
【こより】
「あう」
ライオンと鬼ごっこをする
カピバラみたいな顔で、こよりは動揺した。
バス停近くだ。
花鶏の家に初めて来たときに遭遇したあたり。
こよりは右往左往する。
右へちょろちょろ、左へちょろちょろ。
【智】
「なにやっとんのねん」
【こより】
「……逃げてますです」
【智】
「そうなの?」
どこにも行ってないけど?
【こより】
「…………見つかってしまいました」
覇気がない。
【智】
「なんたること、僕の知ってるこよりんはもっと腹の底から
声をだす女の子だったぞ!」
【茜子】
「そんなの無理に決まってます」
【智】
「余計な突っ込み入れなくていいから」
茜子だった。
どっから出たんだ。
わざわざ邪魔しに来たのか?
【茜子】
「…………」
【智】
「何を無表情に百面相してるの?」
【茜子】
「あなたは前を向いて説得にせいをだしてればいいです」
【智】
「図星」
【茜子】
「ビッチ」
舌先のキレが悪い。
こよりがどうするかは、そのまま茜子の未来を左右する。
おきものっぽくても不安は感じているだろう。
茜子の調子がいまいちな理由を、論理的に説明することができる。
でも。
それでいいのか。それだけなのか。
無表情な顔からは何も読み取れない。
【こより】
「無理……です」
【智】
「だから」
【こより】
「絶対無理、レースなんて無理、戦ったり競争したりぶつかったりするのなんて絶対無理です!」
半泣きだ。
【智】
「まあ、そこんとこ無理とは承知の上なのです。
他に選択の余地がかなり厳しい人材のインフレ」
【智】
「こよりも、花鶏助ける時は、がんばったでしょ」
【こより】
「あのときは無我夢中でしたから……」
【智】
「今は?」
【こより】
「…………」
【智】
「怖いんだ」
【こより】
「こわい、です」
こっくり。肯く。
【こより】
「ものすごく怖いです! 考えただけで、足震えてきて、立ってるのだって無理で、何も考えられなくなって息苦しくって……」
こよりは馬鹿だ。
怖いなら逃げればいい。
追いつけないくらい遠くまで。
他人のことなんて考えず。
誰だって自分が一番可愛い。
どんな献身も、崇高な自己犠牲も、
最後まで突きつめてしまえば自分のための行いなのだし。
それなのに、こんなところにいて。
【智】
「痛いかもしんないしね」
【こより】
「そういうのじゃありません!」
【智】
「……んと、すると?」
【こより】
「あー、その……怪我したり、怖いひとと面と向かったり、
そういうのも十分怖いは怖いんですけど……」
正直者だ。
【智】
「こよりだけじゃなくて、誰だって怖いよ」
【こより】
「……るいセンパイとか、平気そうです」
【智】
「あれは特殊例」
【こより】
「わたし、そんなふうになれない」
【智】
「ならなくてもいいよ。こよりはこよりで、るいじゃないんだから」
【こより】
「…………」
【こより】
「でも、わたしが負けたら、センパイが売られるんですよ!?」
なるほど。
こよりが怖がっているのはそこだったのか。
【智】
「…………だから?」
【こより】
「……(こっくり)」
【智】
「自信はない?」
【こより】
「全然ないです」
傷つくことよりも、もっと怖いこと。
自分のせいで誰かが傷つくこと。
何かが失われてしまうこと。
責任の重みだ。
背中に背負った、
見えないものの重さを怖れている。
【智】
「いいこだね、こよりん」
本当は必要ないものさえ背負い込んで。
本当に逃げ出すことさえできないで。
【こより】
「………………」
だから、精一杯の嘘をつく。
【智】
「大丈夫だよ。出ても十分やれる。勝てるって。
こよりのローラーブレード、すごく上手だし。自信持っていい」
【こより】
「そんなの理由になりません。そういうのとは違うじゃないですか。走るだけじゃなくて、誰かと戦ったりするんですよ。誰かを押しのけて勝たないとだめなんですよ!」
【こより】
「全然……違ってる……っ」
競うことに向かない人種というのはいる。
戦い、傷つけあい、奪い合うこと。
【智】
「たしかに、そういうのは気構えの問題かもね」
【こより】
「わたし、そういうの向いてない。
ケンカしたり、勝ち負けがシビアだったり、そういうのやです」
ウサギは神経質な生き物だ。
争いには向かない。
【智】
「別に必殺技使えとかはいってない」
【こより】
「人前で使うの、恥ずかしいですから……」
戦うことを怖れるのは、優しさだ。
でも。
争うこと――――。
それはどこにでもある。
普通に生活をしていても、
競ったり、争ったりすることは幾らでもある。
呪いのように付きまとう。
いつだって席の数は決まっている。
誰かが座れば誰かが振り落とされる。
競って、邪魔して、譲って、争って。
価値観はぶつかり合い、利害は衝突し合う。
終わりのない椅子取りゲーム。
それが世界の正体なのだから。
【こより】
「わたしが失敗したら…………」
【智】
「そういうの、気にするなっていっても、ダメだよね」
【こより】
「無茶いいっこです」
【こより】
「センパイは残酷です。わたしにそんな責任押しつけるのは
ひどすぎです。ほら、ドキドキしてます。心臓今にも栓が
抜けちゃいそう……」
おかしい言い回しをする。
【智】
「それはしかたないよ」
【智】
「それは、どこにでもあることなんだから」
見えない責任。
繋がり。
連鎖。
キミとボク。
自分の行動の結果が、誰かの人生を左右する。
重い事実だ。
それは、本当に、どこにでもある。
見ないふりをしているだけだ。
見てしまうと成り立たない。
他人の生命の重さに潰される。
でも、それを拒絶するのなら。
何一つできない。
自分が生きていくことさえもできなくなる。
人知れぬ砂漠の奥にでも孤独な庵を構えて、
一生引きこもるしかないのかも。
【こより】
「そう、かもしれないですけど……」
【智】
「何をやっても、どこかで、なにかで、他人のことを左右しちゃうんだよ。そうなっちゃう。それがイヤなら、本当にひとりでいないと……」
【こより】
「そんなの! そんなの……無理……」
ウサギさんは人恋しい生き物だ。
孤独には耐えきれずに死んでしまう。
【智】
「それにさ、今からだと、逃げちゃってもあんましかわんないよ」
【智】
「こよりがいないと、代役頼むわけだし。それってつまり、
こよりが」
【こより】
「……逃げちゃったから?」
【智】
「責任の重さとしたら同じでしょ」
【こより】
「それは、そーですけど、実際にやって負けたら……」
【智】
「六分の一」
【こより】
「なんですか、いきなり?」
【智】
「責任の重さ」
【こより】
「6人いるから……?」
【智】
「うん。そういうのが同盟だよ。僕らは一個の生き物、ひとつの
チーム、まとまった群れ。メリットを分かち合うかわりに、
リスクも分散して共有する」
【智】
「こよりが失敗してダメになったとしても、それは、こよりだけの責任じゃない。みんなの責任」
【こより】
「そんなの……」
【こより】
「わたしが上手くできなかったら、それで迷惑かかるのは
同じことです」
【智】
「いまさらそんなこと、いいっこなし」
【智】
「同盟を結ぶときに、そういうのは覚悟完了してる」
【こより】
「わたし、ちゃんと考えたことなかった……」
【智】
「契約って恐ろしいね。いつだって一番重要なことは、読めない
くらいちっちゃな文字で、契約書の隅っこにこっそり書いて
あるんだよ」
【こより】
「悪徳キャッチセールスみたいッス」
【智】
「タダより高いモノはないって言うでしょ。メリットだけ手に
はいるなんて上手い話は転がってません。責任だって背負い
込むのは当たり前」
【智】
「だから、こよりが考えてるようなことは、そんなこと一々
気にしたりしないよーに」
【智】
「安心して。
こよりが失敗して負けちゃっても、僕は恨んだりしないから」
じっと、目を合わせる。
【智】
「茜子さんも何とか言ってやって」
【茜子】
「え、えうっ!?」
振られるとは思わなかったらしい。
面白いくらいに狼狽した。
【茜子】
「あ、あ、あ、あの、の……」
【智】
「いつもの毒舌はどこいったの」
【茜子】
「ビッチは黙れ」
ひどい……。
【茜子】
「……っ」
茜子が深呼吸して。
【茜子】
「ふぁいとー!」
【智】
「……………………」
【茜子】
「ちゃ、ちゃんと言いましたから」
ぷいっと横を向いた。
【こより】
「……………………」
こよりも眼をぱちくりさせていた。
長いことそうしていた気がする。
本当は、ほんの1〜2分のことだったろう。
【こより】
「…………逃げられないんですね」
【智】
「呪われてるからね」
【こより】
「逃げても逃げられない。捕まっちゃう。やっつけるしかない」
【智】
「呪われた人生だね」
【智】
「でも、誰だって呪われてるんだよ」
色んなモノから。
僕らはみんな呪われている。
【こより】
「それなら、しかたないですね……」
【智】
「しかたない」
こよりが立ち上がった。
長い時間をかけて。
背筋を伸ばして、前を向いて。
【こより】
「こより、いきます」
【智】
「よろしい」
【智】
「性能の差が戦力の決定的な違いじゃないと、是非とも教えて
欲しいな」
空には月。
とても静かで、とても綺麗。
3人で戻った。
他の連中は、一足先に戻っていたらしい。
【こより】
「ご迷惑……」
深々と頭を下げる。
【伊代】
「……まあ、いいんじゃない。外回りで疲れたでしょ。
今日はもう休んで、明日に備えよ」
【花鶏】
「明日じゃないわよ。日付変わってるから」
深夜を過ぎていた。
【智】
「前夜にこれとは、なんという逆境……」
【こより】
「あーうー」
責任を感じていた。
【伊代】
「戦う前から負けてどうすんのよ!」
【こより】
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜」
責任に押しつぶされかけていた。
【智】
「なんの。逆境こそ我らが糧」
あと、一つ、解決することがありましたね。
部屋の奥から、のっそりと動く。
【るい】
「……………………いい」
すれ違い様。
【こより】
「がんばりますです!」
こよりは、ほんのちょっと涙ぐんでいた。
【智】
「感謝」
るいの背中に手を合わせて拝む。
これで、後は明日……。
もとい。
もはや今日だ。
逃げられない、避けられない、勝つしかない。
全てを得るか、一文無しか。
運命は二つに一つ。
決戦の日、いよいよ来たるっ!!
〔パルクールレース〕
夕焼けの赤が染みる。
街が塗り替えられる時刻。
もうすぐ運命のレースが始まる。
駅のすぐ近く、歓楽街のスタート地点。
高鳴る心臓を押さえながら、
その瞬間を待ちわびていた。
右を見た。
雑踏、雑踏、雑踏。
左を見た。
雑踏×6。
【智】
「帰宅ラッシュとぶち当たり」
【央輝】
「その方が盛り上がるんだ」
央輝はビル影に埋もれる。出てこない。
本当に吸血鬼を連想する。
【智】
「薄暗いところが好きとか」
【央輝】
「よくわかるな」
本当にそうだった。
カサカサしたのが親友かもしんない。
【央輝】
「不測の障害が多いほど勝負が荒れて盛り上がる」
【智】
「目立つかも……」
【央輝】
「ギャラリーが足りないか?」
【るい】
「聞きたいことがあるんだけど」
るいが割り込む。
あいも変わらぬ怖いモノ知らずだ。
【るい】
「どうして制服なの?」
それは僕も気になってた。
レースの前に、当日は制服を着てくるように指定された。
普通、レースのランナーっていったら、なんというのか、
もそっとそれっぽい格好するもんじゃないですか?
【央輝】
「制服の方が男の観客にウケが良いんだよ」
【智】
「ウケ……」
【央輝】
「制服は浪漫だそうだ」
なるほど!
わかる、わかるぞ、その気持ちは!
でも、この場合、僕が着ないといけないわけですから、
魂的にペルシアンブルーな感じに落ち込みそう。
【央輝】
「たくっ、クズどもの考えることはよくわからん」
クズ扱いだった……。
【伊代】
「脳腐れ……脳腐れだわ……っ!」
【茜子】
「人として生きてる価値がありません」
【智】
「……本当に困ったものですね」
とても本音は口には出せない。
代わりに、自分のスカートの端をつまんで持ち上げる。
ぴらり。
【央輝】
「サービス精神旺盛だな」
【智】
「下はスパッツはいてます」
完全防備。
当方(ら)に女の慎みの用意有り。
【智】
「でも、その、僕とか制服だと色々まずいんだけど。たしかネットで流してるんでしょ?」
【智】
「教師にばれちゃったりすると、
停学とか退学とか呼び出しとか不測の事態に……」
【央輝】
「心配いらん」
【智】
「なにやら隠された秘密が?」
【央輝】
「明日からあたしのモノだから、つまらないことは考えるな」
【こより】
「こっちが負けてからいってください!」
こよりが僕の腕を掴んで、
央輝から引きはがした。
【央輝】
「安心しろ。
ネットの配信先は、メンバーシップのアングラサイトだ」
【智】
「一応ばれる心配はない、といいたい……?」
いやあ、でも、街中走り回るんだから、
見てる人いるかもしれないわけで……。
【央輝】
「漏れるときは漏れる」
やっぱり。
【智】
「安心できないネット社会……」
高速インフラの新時代を嘆くのだった。
時間を確認する。
スタートまで、まだいくらか余裕がある。
いっそ早く始まってくれた方が、
余計なことを考えなくても済む分だけ気楽ではある。
暇があるとついつい考え込んじゃいそう。
【智】
「みなさん」
円陣を組んで。
雑踏近くなので、わりと人目が痛かったけど。
ここは様式美として必要だ。
【智】
「個々に、精一杯頑張る方向で」
【こより】
「気楽な感じッスね」
【智】
「気合いだけ空回りさせてもお寒いご時世だからねー」
スポ根が受けない時代になった。
【伊代】
「今更ナイーブなのも受けないわよ」
【智】
「じゃあシティ派で」
【るい】
「じゃあ、なのか」
【伊代】
「結局出るなら最初からそういえばいいのに」
【智】
「個人のポリシーは尊重する方向で」
【伊代】
「ところで、シティ……ってどういうのをいうの?」
乙女の疑問。
【智】
「それは、当然、決まってますけれど……シティ派っぽい感じ」
【伊代】
「惰弱だ」
【智】
「外来語には弱いんですよ」
【花鶏】
「…………」
【智】
「どうかしたの?
さっきからあり得ないくらい大人しいんですけど」
【花鶏】
「別に」
……やっぱり、なにか変だ。
いつもの花鶏なら、あり得ないくらいというのは
どういうことかしら、とかなんとかきそうなのに。
【智】
「別にって、なんか調子悪そうだよ?
顔赤いし、目もはれぼったい感じがするし……」
いやな予感が。
まさか、ここへ来て更なるトラブル?
天は我に七難八苦を与え給う?
【花鶏】
「あ、だめ、大丈夫だから、いいからって」
【智】
「動かないで」
おでこをくっつける。
【智】
「……………………熱っぽい」
【智】
「え……………………?」
えーーーーーーーーーー!!!!!
まじでぇ!?
【こより】
「ひええええぇっ!?」
絶望の悲鳴。
【伊代】
「な、なによそれ、こと、ここに至って!」
【茜子】
「……もしかすると、昨日の夜出歩いたせいで風邪……とかですか?」
【花鶏】
「違う」
【智】
「でも、熱っぽい」
【花鶏】
「……来ちゃったの」
【智】
「誰が?」
【こより】
「あ、あやや」
【伊代】
「ひぃ」
【智】
「?」
わからない。
【るい】
「そっか、生理か」
【智】
「なんですと」
こめかみをハンマーで不意打ちされた気分。
【花鶏】
「今週は大丈夫だと思ってたけど、狂ったみたい」
【智】
「ちょっとまって、そ、そ、そ、そ、それって……」
【花鶏】
「だから風邪とかじゃないわ。平気よ。わたしって重い方だから、ちょっと調子悪くなるけど」
【智】
「全然平気じゃないよぉ!!」
花鶏が横目で睨む。
【こより】
「…………これってどうなりますか?」
【智】
「マズイデスヨ」
片仮名になった。
追い詰められた心境で。
花鶏は主戦力だ。
それが使えないということになると……。
直前になって角落ち将棋。
【智】
「ああ、ドナドナの歌が聞こえて来た……」
【こより】
「なんて遠い目、センパイが錯乱してます!」
【るい】
「心配むよー」
【智】
「……どういう根拠のない自信で、それほど偉そうにされますか?」
【るい】
「平気平気。るいさん一人で3人分!!!」
断言。
たしかに、るいなら一人で3人分だろう。
【智】
「でも、これ、区間リレーなんだよね」
るいが無敵超人でも、一人では勝てない集団競技。
チームプレイと総合戦力が物をいう。
ここへ来てこれ、この逆境。
最後まで、これは、まさに――――
呪われた世界来たれり!!
熊のようにうろつく。
状況打開の方策がない。
【智】
「あー、うー」
どうしたら。
一体全体どうしたら……。
花鶏はそれでも走ると力説してるけど、
見る限り、かなり無理っぽい。
すると、選手交代しかないのか。
でも、直前で交代だといって、
央輝が許すだろうか?
よしんば、それが通じたとしても。
【智】
「でも、手持ちのカードで花鶏と交代させられるのは――」
伊代か、茜子か。
【智】
「……………………」
ドナドナめがけて一直線。
気分的には、もはや最終コーナー残り150メートル。
二人とも、ランナーとしてはブルーデー花鶏とどっちがマシか、
丙丁つけがたい文系的強者だ。
【智】
「と、とりあえず、主催者への言い訳を考えて、
せめて選手交代だけでも認めてもらわないと……」
【惠】
「困り顔だね」
聞き覚えのある声。
【智】
「……どっからでて来たの?」
惠だった。
以前もいきなり降ってわいた。
どこにでも出る。
黒くてカサカサするのと似てる。
【惠】
「しばらくご無沙汰だったね」
【智】
「僕の質問に答えろ」
惠相手だと容赦の無くなる僕だ。
【惠】
「このあたりをテリトリーにしているんだ」
【智】
「そっちも央輝の同類みたいなもんなのか」
【惠】
「さて、僕のことよりも、君のことじゃないか。どうやら
トラブルがあったんだね?」
【智】
「なんでわかるの!?」
【惠】
「予知能力がある」
へー。
素で言われてしまいました。
もう1回。
【智】
「へー」
【惠】
「笑ったね」
【智】
「笑いました。笑いましたとも。なんでしたら、お腹抱えて
笑いましょうか? 僕はリアリストなんですよ」
【惠】
「不思議は信じない方かな?」
【智】
「手品と魔法を混同しないだけだよ。
『未来がわかる』っていうのは、いくら何でも嘘度が高過ぎ」
【智】
「そうだ、こんなことしてる場合じゃないよ!」
話の主題を思い出す。
【惠】
「それなんだけれど。
今、君たちのことが、ちょっとした話題になっているんだ」
【智】
「……急ぐのでお付き合いの話でしたら日を改めて」
【惠】
「彼女……央輝が配信してるサイト。美少女戦隊だったかな」
なにその、いかがわしさ満点のフレーズ。
【惠】
「君たちのチームのことだよ」
己のあずかり知らぬところで、いやなキャッチコピーで
売り出されていた。
【智】
「…………そういう売り出しはやだな」
【惠】
「それで、どういうトラブル?」
今度はこちらのターンだ、と言うように。
【智】
「…………」
【惠】
「僕が力になれるかも知れないし、なれないかも知れない」
【智】
「なられても困る。愛の告白困る。
ピュアでプラトニックな関係で結婚するまではいたいの」
【惠】
「友達からはじめるという約束をしたのに」
【智】
「……本気でそういうお付き合いなら」
これっぽっちも安心できない。
いきなりの愛戦士だから、
それも、終始このローテンションな顔で。
【智】
「――――――そ、そうだ!」
人生の断崖絶壁三歩手前で閃いた。
いや、しかし、それはあまりにも…………。
でも、他に取れる手段は――――
他の手段を無理矢理考える。
37通りの方法を考察して、全部実現性の乏しさに
泣く泣く心ゴミ箱に破棄して捨てた。
【智】
「うわーん!!!」
現実の無情さに、僕は泣いた。
【智】
「というわけで、補欠と交代します」
【花鶏】
「どういうわけなの?」
ベタな返しだ。
【智】
「かくかくしかじか」
ベタっぽく。
便利ワードを使って説明する。
【花鶏】
「わたしは、まだ走れるわ!」
【智】
「予想通り、熱血スポ根モノできたね」
【花鶏】
「前にも言ったはずよ! これはわたしの問題なの。わたしが戦うべきことだわ。ちょっと調子悪くなったくらいで、そんなことくらいで、止められる問題じゃないの!!」
【智】
「これは同盟の問題でもあるから」
感情よりも実利優先で。
【智】
「花鶏ひとりがどうにかすべき問題じゃないし、どうにかしていい問題じゃない。手を繋いでる分リスクも共有してるんだ」
【智】
「僕にだって言う権利はある」
【花鶏】
「…………言ってくれる」
【智】
「矜持(きょうじ)も信念も思想も正しさも、必要なのはそんなものじゃない。勝つこと。僕らが勝つこと。やっつけること。そのためなら僕はなんだってするよ」
【花鶏】
「前向きな卑劣漢はタチが悪い」
【智】
「後ろ向きに卑怯よりは救いがあると思うんだ」
【智】
「1パーセントでも勝率を上げるためには、今は、花鶏が出るよりこっちの方が役に立つ。だから、僕は花鶏を下ろして取っ替える」
【花鶏】
「…………立つの?」
【智】
「…………立つよね?」
怖ず怖ずと。
【惠】
「それなりに」
代走ランナー(予定)の惠は、いつも通りの、本音が読めない
ローテンションで軽く肯く。
【るい】
「ここへ来て傭兵か」
【智】
「逆境の中生き残るには、手段を選べない貧しい国々」
【こより】
「このレース、怖い話ですよ?」
【惠】
「知らなかったな」
【るい】
「いいの、トモチン?」
【智】
「いやあ、正直微妙なんだけど、全然良くないんだけど、
なんといっても選択肢が少ないから、僕たち」
貧困にあえぐ発展途上国くらい
選択できる手段がない。
苦肉の策である。
とにかく、こやつを代走にしなければ、
残るメンバーは文系ソリューション。
【るい】
「なんかすごいよね。進む度にトラブる人生ゲーム級」
【智】
「僕の理想は植物のように穏やかな人生」
【伊代】
「無理だと思うわ」
【花鶏】
「…………わかったわ。でもね、智」
【智】
「はい」
【花鶏】
「これは、ひとつ貸しよ」
【智】
「借りじゃないんだ……」
世知辛い世の中だった。
【智】
「そういえば、これで、せっかくのフレーズがダメになったなあ」
【伊代】
「フレーズって何よ」
【智】
「美少女戦隊」
【こより】
「なんです、それ」
【智】
「僕らは広大なネットの海で、そのように呼ばれ、崇め奉られて
いるのだ」
嘘である。
【花鶏】
「ブルーになるわね、そのタイトルは」
ブルーデーだけに。
【智】
「まったくもって」
前触れもなく。
【惠】
「才野原惠」
名乗る。
名前はとっくに知っている。
あらためての自己紹介は開始の合図だった。
刻限が来た。
夕闇の赤色を、ビル影に抱かれて避けながら、
央輝は冷淡に笑んでいた。
これで状況は、引き返せない折り返し点を過ぎた。
ここから先の結末は二つに一つ。
問答無用な二分法。
勝利か敗北か。全てか無か。中途半端はない。
いよいよ、
レースが始まる――――――
チームは4人。
最初はるい、次は花鶏の予定が惠に。
央輝はメンバー変更による代走を、
くわえタバコでニヤリと笑って許してくれた。
【智】
「あっさりだ」
【央輝】
「メンバー交代を禁止した方がよかったか?」
【智】
「禁止された時にどうやって言いくるめるか、必死に頭を
悩ませてたのに」
【央輝】
「ひゃははっ」
お腹を抱える。
そんなにツボだったのか。
【央輝】
「やっぱり、オマエは怖いモノ知らずだな。この街で、あたしが
なんて呼ばれてるのか、知らないわけじゃないんだろ?」
【智】
「饅頭怖いのは、るいの専売特許で十分。僕は世の中怖いモノ
だらけだよ」
【央輝】
「あたしが見るところ、お前の方がよっぽどたちが悪いな。
知らないから怖がらない頭の悪い馬鹿ってのはいくらもいるが、
知っていて怖れないひねくれ者は滅多にいない」
【智】
「……吸血鬼、だっけ?」
噂をいくつも耳にした。
央輝は夜の闇を住処にする。
央輝に呼び出しを受けた家出娘が、
それきり二度と姿を見せなくなった。
血をすする。
日の光を浴びると死んでしまう。
などなど……。
【智】
「ひと睨みで相手を殺す、とかいうのもあったかな」
邪眼伝説。
正体が吸血鬼なら、殺すんじゃなくて惑わすのでは。
【央輝】
「お前は、本当に、見た目よりずっと面白いヤツだな」
【智】
「そういう言われ方は傷つくかも……」
【央輝】
「気に入ったんだよ」
央輝の爪が、ついっと、僕のあご先を持ち上げる。
白い喉をさらけ出す瞬間、ほんの少しドキリとした。
はたして。
央輝は笑った、
のか、どうなのか、
よくわからない微妙な表情。
間近にいる央輝は小さく細い。
ガラス細工のように儚く映る。
なのに、二歩離れれば尖った威圧感が肌を刺す。
【央輝】
「時間が来る。はじまる。そうしたら――」
今度は、はっきりと笑った。
獰猛に。
【央輝】
「お前は、すぐに、あたしのモノだ」
伊代たちは、ここで待機する。
央輝がナシをつけている、
会員制クラブかなにか、それらしい場所だった。
こういう場所、今まで入ったこと無いから
よくわからないけど、なかなかに高級そう。
【智】
「高いんだろうね、こういう場所だと……」
【伊代】
「さあ?」
こっちも、こういうところは初心(うぶ)だ。
【伊代】
「それで、あなたたちは……」
【智】
「もうすぐ、それぞれのスタートのポイントに行きます」
各ランナーのスタートするポイントは、
当然ながら、街中に散っている。
【智】
「心配しなくても、最初はるいだから、ランナーとしてのスペックは圧勝してるはず」
【伊代】
「じゃあ、勝てる?」
【智】
「……マシンの性能差が戦力の決定的差ではないことを教えてやる」
【伊代】
「教えてどうするのよ」
【こより】
「こわいッス〜〜〜〜〜」
背中にしがみついてきた。
【智】
「覚悟だ、覚悟があれば超えられる」
【智】
「あとね、それから……」
【伊代】
「まだなにか? 貴方もそろそろ行くんでしょ」
【智】
「今日、ここに来る前にした相談、覚えてる?」
【伊代】
「相談……」
【智】
「忘れてる」
【花鶏】
「仕掛けの話ね……」
ソファーを借りて横になったまま花鶏が呻く。
【伊代】
「ああっ!」
来る前に相談しておいた。
央輝と、茜子の父親が砂をかけた相手との力関係は、
正直よくわからない。
今回のゲームでチャラにできるからには、
隅に置けない関係があるのは間違いないんだけど。
でも、ただのレースじゃない。
たちの悪いギャンブルでもあった。
レースの勝敗に賭けがされていて、お金が動く。
かなりの額だ。
面子とお金。
危険な代物だ。
命より重くなったりもする。
そんなものが二つもそろって、
正々堂々と勝負をしてくれるのを信じるほどには、
僕は素直になれない。
【伊代】
「でも、まさか……」
【智】
「伊代ちゃんのお人好し」
【智】
「オッズは見た?」
【伊代】
「どうなの?」
【智】
「そりゃもう大穴ですよ」
レースに参加するのは、
僕らのチームと相手のチームの二つだけだ。
相手は何度もレース経験のある玄人さん。
こちらは素人もど素人。
しかも美少女軍団だ。
【智】
「女の子ばっかで侮ってるだろうけど、るいが飛ばして慌てるはず」
るいちゃん、無敵超人だから。
うむむ、オーダーを間違ったかなぁ……。
妨害ありのハードなゲームだ。
切り札を先に切ったのは、
最初に差を広げておきたかったからだ。
接戦になるのはよろしくない。
花鶏はともかく、こよりはマズイ。
走るならまだしも、潰し合いになると、ボロが出る。
なので、我らが美少女軍団チームの戦略は、
先行逃げ切りを重視した。
その分、手の内を早くにさらけ出してしまう。
ギリギリまで実力を隠しておいて、
ラスト2ページの見開きで大逆転という、
少年漫画な展開は難しい。
なにせ美少女軍団チームはインスタントだ。
経験値ないし、チームワークもいまいち。
【智】
「うわあ」
【こより】
「なんか絶望の声が」
【智】
「こんな勝負に勝つ気で挑んだ自分の無謀さに、
今更ながらにびびってるところ!」
【こより】
「ほんといまさらダー」
投げやりなテンションだった。
【こより】
「もはや勝負ははじまっておるです。かくなる上は一億総玉砕あるのみ!」
こよりんにスイッチが入る。燃えていた。
燃え尽きる前のロウソクのように。
【智】
「おお、昨日しゃっぽを脱いで逃走したマンモーニ(ママっこ)とはひと味もふた味も違う頼もしいお言葉。背負った子に教わるとはまさにこのこと」
【こより】
「ふふふふ、女子三日あわざれば刮目せよなのです」
【智】
「一日も経ってないけどね」
央輝がやってきた。
指を鳴らして仲間を呼ぶ。
そいつが持ってきたシティマップが、
僕らにも手渡される。
【るい】
「こいつはなんじゃんよ」
【智】
「マップですよ、皆元さん」
【るい】
「見ればわかるっす」
【央輝】
「今回のマップだ」
【智】
「地図は前にももらわなかったっけ?」
【央輝】
「コレは現場で使う用だ」
【智】
「赤の○がチェックポイントで、こっちの☆印が交代地点ってわけ?」
【るい】
「なるほどー」
いよいよ伸るか反るか。
身売りの運命が決定される。
【智】
「実は、僕、ギャンブルって得意じゃないんだよね」
【るい】
「ほほう、女は飲む撃つ買うじゃろー」
【智】
「……何を買うのよ」
意味知ってて言ってるのか。
【るい】
「えとー、巫女ーお茶の間ショッピング……?」
【智】
「なによ、そのフェチっぽいテレビシリーズ」
【茜子】
「るいさん世界は平和です」
【花鶏】
「……ギャンブルが嫌いなくせに、
渡る橋はずいぶんと危ないところばかりなのね」
花鶏は濡れタオルを額にソファーに伏せっている。
【智】
「病人のくせにアトリンが虐める」
【こより】
「おー、よしよし」
【伊代】
「……不思議だ」
【るい】
「なにが?」
【伊代】
「イヤ、アレが唸ってるのに、貴方が静かなんて」
【るい】
「私、弱いものイジメはしない主義」
胸をはる。
揺らす。
【花鶏】
「……二重にむかつくわ」
そうだろう、そうだろう。
【伊代】
「あのね、あなたたち、状況わかってるの? 緊張感持たないと、どうなっても知らないわよ!」
伊代の眼鏡がキラリと光る。
逆光で下が見えないあたり、演出過多だ。
【智】
「座の空気を和らげようと、ねー」
【こより】
「ねー」
こよりと手を繋ぐ。
【智】
「それはともかくとして」
【智】
「本音をいうと、僕は勝つのが好きなんです。勝利の味をしゃぶり尽くしたいんです。1階でLVあげて、ニンジャにクラスチェンジしてゴブリン倒すとか、そういう感じの」
【智】
「圧倒的な力と陰湿な策略で、よわっちー虫けらを高笑いしながらぷちっとか、特に好き」
【こより】
「わりと最低だ、このひと」
【茜子】
「美少女軍団一番の小者は、一番手でがんばってください」
【智】
「心温まる励ましありがとう。でもアンカー」
【智】
「それで質問なんですが、央輝さん」
細々と指示を出していた央輝が振り向く。
【央輝】
「なんだ」
【智】
「スタートは同じで、ポイント通ればコースは自由。
さてここで問題です」
【智】
「……邪魔OKってことだけど、いつもはどれくらい邪魔するの?」
【央輝】
「ルールブックは読み込んだか?」
【智】
「ルールブック? ああ、あのミニコミ誌。保険の契約書くらいのつもりで読みました、読み込みました。あんまり細かい説明してなかったけど」
【央輝】
「イイコトを教えてやる」
ちょいちょいと指で呼ばれた。
【央輝】
「あたしは血を見るのが好きなんだ」
唇が耳まで裂けた、気がした。
【智】
「最悪だ」
がっくり膝から崩れる。
冗談ならタチが悪いし、本気なら始末に悪い。
【央輝】
「せいぜいあがけよ。ルートは自由でも最短のコース取りは限られる。どうやったって、一度や二度はぶつかることになるからな」
【央輝】
「地図見たくらいじゃ、最短ラインなんてわからんだろうがな。
こればっかりは経験が物を言う」
【智】
「大層なハンデだなあ」
【央輝】
「元々そういう賭けだ。勝てば借りがチャラになる。なら、
多少不利なのは当たり前だろうが」
【智】
「経験値の高い方が勝つ、ですか」
概ね正しい。
強いて、あと一つ勝つために必須なものをあげるとすると。
【智】
「面の皮の厚さかな」
【こより】
「?」
ランナーの各所定位置への配置予定時刻になった。
チェックポイントに移動する。
【智】
「それじゃあ、後で」
【花鶏】
「勝った後で……」
【るい】
「先のことはわかんない」
【智】
「大変そうだなあ」
【こより】
「悩みを捨て去る、あんイズム! 鳴滝のオススメですよう!」
【伊代】
「気楽なのね」
【智】
「深刻よりいいと思うよ」
【惠】
「面白いね。やっぱり、君は」
【茜子】
「…………」
悲喜こもごも。
美少女軍団プラス1。
この期に及んでも、団結はいまいち。
【伊代】
「ホントに行っちゃった」
【花鶏】
「こっちは3人で居残りか……」
【茜子】
「残りものには福があるそうです」
【花鶏】
「土壇場で、こんな屈辱っ」
【伊代】
「……出たかったの?」
【花鶏】
「当たり前でしょ! わたしの問題なのよ。それを、他人に取って代わられる口惜しさ、貴方にはわからないでしょうね」
【伊代】
「……怖くないの?」
【花鶏】
「こわい?」
【伊代】
「レースもそう、黒いヤツの仲間連中もそう……
街で最初に追いかけられたとき、わたしはすごく怖かった」
【伊代】
「どんなバカなことだって起こるんだって思ってたのに、いざとなったら身動きひとつできないくらい震えが来たのよ。あなた、本当によくやるわ」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「負けるのはごめんだわ」
【伊代】
「あなたとか、あの体力バカとかなら、それでいいんでしょうね。でも……わたしは違う。わたしは普通よ。怖くてできない」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「普通なら、さっさと別れればよかったのよ。今からだって遅くはないわ、見捨てて逃げ出せばいい。高笑いして見送ってあげるから」
【花鶏】
「普通だなんていってるくせに、のこのこついてくるのは
どういうつもりかしら」
【伊代】
「……手を引くなんてできないわ」
【花鶏】
「それなら諦めるのね。逃げ出すこともできない、覚悟もない。
意味のない後悔を延々繰り返すくらいなら、逃げる方がまだ潔い」
【花鶏】
「………………ぷはぁっ」
【花鶏】
「話すぎたわ。頭痛がぶり返した」
【茜子】
「自爆マニアめ」
【伊代】
「………………」
【伊代】
「それにしても、ここは、いかがわしいお店ね」
【伊代】
「繁華街の奥のお店とは」
【花鶏】
「尹の関係のお店で、今日はメンバーシップオンリーらしいわ……」
【伊代】
「……お店って、あの子、わたしたちとたいして歳も変わらない筈なのに、いったいどんなことやってるのよ」
【茜子】
「秘密がムゲン」
【花鶏】
「ちょっとは落ち着きなさいよ。
貧乏揺すり、鬱陶しいし響くから……」
【伊代】
「わたし、こういうお店ははじめてなのよ……」
【花鶏】
「よかったわね、経験できて」
【伊代】
「そんな経験、ちっとも……っ」
【花鶏】
「だから少し静かにしてちょうだい、頭に響く……」
【伊代】
「あ、その、ごめんなさい……」
【茜子】
「お水です」
【花鶏】
「спасибо(ありがとう)」
【茜子】
「他の人たちはどうなってますか?」
【伊代】
「なによそれ」
【花鶏】
「ノートPC。わたしのよ。
ここで繋げば見れるってきいたから持ってきた」
【茜子】
「映像きちゃないですね」
【花鶏】
「ネット配信用にビットレート下げてるし。見てると頭イタイし、管理はあなたたちに任すわ」
【茜子】
「映りました。ちゃんと顔はわかりますね」
【伊代】
「あの子…………」
【茜子】
「…………トモ・ザ・アホーは今世紀決定版バカです」
【伊代】
「でもあの子、成績は悪くないらしいわよ。わりと名門通ってるし」
【茜子】
「はい生理痛、ツッコミどうぞ」
【伊代】
「え?」
【花鶏】
「誰かこのメガネを黙らせろ……」
【伊代】
「減らず口だけは、どこまでも元気なのね、あなた」
【茜子】
「世の中で一番大事なモノはなんだと思います?」
【花鶏】
「誇り」
【伊代】
「……正しさ」
【茜子】
「ブッブーです。正解は利害」
【茜子】
「私は知ってます。誰だってそうなんです。それに色々な名前を付けてごまかしたりするけれど、それは得か損かっていうそれだけです」
【茜子】
「家族も夫婦もラバーズもフレンズも、赤の他人同士となにも変わりません」
【茜子】
「私たちだって利害で結ばれてます」
【茜子】
「誰だって、いざとなったら逃げ出します」
【茜子】
「親子だって、手に余ったら手を切るんです」
【伊代】
「そんな……」
【茜子】
「魔女だって、言われたことはありますか?」
【伊代】
「な、何よそれ、ひどい!!」
【茜子】
「ひどくないです」
【茜子】
「猫は猫です。犬と狼は似てても違うものなんです。
魔女はやっぱり魔女です。魔女に向かって魔女というのは
酷くも何でもないです」
【茜子】
「そうじゃないですか?」
【伊代】
「……自分をそういうふうに言わないで」
【茜子】
「私のこと、何も知らないくせに。
そんなふうに言うのはやめてください」
【伊代】
「…………っ」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「そうよ、そうよね。わかってる。ほんとは、あなたのことなんて何も知らない。でもね、知らないのが当たり前よ。他人のことなんてわからないんだから」
【茜子】
「まあ、当たり前はそうですね」
【伊代】
「何を考えてるのかわからない。基準もない。誰も何も正しくない。今は良くても、明日には変わってしまうかも知れない」
【伊代】
「誰のこともわからない、先のこともわからない、なにもどれも
わからない。世の中なんてわからないことだらけ」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「今の白鞘は、悪くないわよ」
【伊代】
「……わからないことだらけなのに、誰も守ってくれない」
【伊代】
「だから、自分のことは自分でしなくちゃ、自分で守らなくちゃ。世界も社会も他人もなにも、どうせわかりっこないんだから、
自分を守るのは自分だけよ」
【伊代】
「………………」
【伊代】
「……なんで……なんだろう、なんでそうなってるんだろ」
【伊代】
「バカは損するようになってるのよ。厄介を自分で背負い込んで
足をすべらせるような子は、遅かれ早かれ世間の荒波に揉まれて死ぬわ」
【茜子】
「特に、自分が頭良いとか思ってるヤツに限って、特大級の
墓穴っちですね」
【花鶏】
「思うに」
【花鶏】
「やっぱり一番頭悪いのは智ね」
【花鶏】
「自分からしゃしゃり出てきて穴に入るんだから」
【伊代】
「……賛成」
【茜子】
「異議無し」
【伊代】
「要領悪いのよ、きっと」
【茜子】
「頭の容量足りてないだけだと思います」
【智】
「っくしゅん」
不意にくしゃみをする。
自分のスタートポイントで配置についている。
僕の競争パートナー、敵チームの最終走者は、
なんと央輝だった。
敵チームが、実は央輝のチームだと教わったのは、
今日になってからだ。
【央輝】
「走る前から風邪か? 倒れたらそんときは、お前の明日は
うるわしの生活だぜ」
空を仰いで、げっそり。
【智】
「麗しくない麗しくない。人は奴隷として生きるにあらず。
荒野にボロ着でも自由に生きたい」
【央輝】
「はっ」
すがめた目が見下げ果てていた。
【央輝】
「明日食うものの心配もしなくてすむ連中の戯れ言だ、そんなのはな。首輪よりも自由がいい、心に錦で肩で風切って生きていくか」
冷たい敵意の刃先が鋭い。
【央輝】
「冷たい雨に打たれながら眠ったことは? 三日ぶりの晩飯代わりに大きなネズミをかじったことは?」
【央輝】
「水の代わりに泥を啜って這い回ったことは? 一枚の硬貨のために血塗れになって争ったことは?」
【央輝】
「何もかも捨ててもどうにもならない、死んだ方がいいって本当に心から思ったことは、お前、あるか?」
【央輝】
「自由と鎖を秤にかけるのは、秤に両方が乗る場合だけだ」
【智】
「……キミは、ある?」
【央輝】
「さあな」
央輝が口元を歪める。
笑いと呼ぶには空っぽで、酷く虚無的だった。
【央輝】
「ヨタ話をしてていいのか。ほら、スタートだ。見てみろよ。
はじまったぞ」
すぐ間近に路駐されてるバンの中。
央輝の仲間がノートPCをガチガチやっている。
モニターにネットからの映像が映っている。
【智】
「るい……」
ファーストランナーはスタートを切っていた。
画像の中で、るいが疾走している。
最初から飛ばしているようだ。
るいの姿は、あっというまにカメラの視野から消えてなくなった。
【伊代】
「見てみて、ほら見て、さっき映ったわ。ほらほらこれこれ!」
【茜子】
「すごくうるさいです」
【花鶏】
「見てるわよ。子供じゃあるまいし、はしゃぎ過ぎだわ。
大声出さないでくれる、頭に響くっていったでしょ……」
【伊代】
「う……ごめん……」
【伊代】
「そ、その、薬は飲んだの……?」
【花鶏】
「ちゃんと飲んだわよ。そのうち落ち着く」
【伊代】
「あなたもこっちで座ればいいのに」
【茜子】
「狭いです」
【伊代】
「二人くらい大丈夫でしょ」
【茜子】
「いやらしい」
【伊代】
「な、なにいってんの、その子じゃないんだから!」
【花鶏】
「ダイエットしないと駄目なんじゃない?」
【伊代】
「……ダイエットならしてるわよ!
わたしくらいの体型で○×キロなら普通でしょ!!」
【花鶏】
「○×!?」
【茜子】
「……普通じゃない」
【伊代】
「え、うそ!??」
【花鶏】
「普通じゃないわ」
【伊代】
「で、でも、わたし……違う、そんなに太ってない……」
【茜子】
「世界の終わり〜♪」
【伊代】
「きゃ、うひゃひゃひゃ、どこサワってんの?!」
【花鶏】
「……エアバッグが重すぎるみたいね」
【伊代】
「だ、だれがエアバッグか」
【茜子】
「また映った」
【伊代】
「どれ……あの子ったら……」
【花鶏】
「……無駄に元気そうね」
【るい】
「だっしゃー」
【るい】
「つかさ、いったいどこが最短コースだったっけ。
トモはたしかこっちって」
【るい】
「おお、そうそう。ここのビルに入って一気に階段を駆け上がって」
【るい】
「フロアに出て3つ目の扉をくぐって」
【OLの京子さん】
「いらっしゃいませ。お客様はどちらから、」
【るい】
「あー、平気平気ちょっとごめんくらさい」
【OLの京子さん】
「あ、あの、お客様、そちらは窓しか」
【るい】
「よっこらしょ」
【OLの京子さん】
「お、おきゃくさまぁっ、ここは5階で!?」
【京子さんの上司】
「おーい、京子君。ちょっとお茶貰える?」
【るい】
「うわ、こりゃひどいや。つか足場もあんなんだし。下見に来たときに言ってやればよかったな。なんでこういう高くてヤバイとこ通らせるのかな、うちのトモちんは」
【OLの京子さん】
「おおおおおおおお、おきゃくさまあ!?」
【るい】
「せーの」
【OLの京子さん】
「わー!」
【るい】
「わーーーーーい」
【OLの京子さん】
「と、とんだ……?」
【智】
「また映った」
【央輝】
「今回はえらくカメラのあるところ通らないな」
【央輝】
「それにしてもいい勝負じゃないか。どういうルートだったのかわからないが。たしかに手札の一つや二つ仕込みもしないで勝負は受けないってわけか」
ご名算。
用意したのは、るい用の特別ルート。
ビルの上からちょっとショートカットするコース。
【央輝】
「うちの連中はゲームに慣れてる。コースだって勝手知ったる自分の庭だ。あの女がいくらゴリラでもそう簡単にはいかないと思ったが」
【智】
「るいちゃん、最終兵器乙女だかんね」
ビルからビルをひとっ跳び。
ハイジャンプは経験済みなのだ。
【智】
「ゴリラなんて聞いたら怒るだろうなあ」
【智】
「おわ、ハイジャンプ!」
なに今のものすごいのっ!?
カメラ正面だし。
揺れたし回っちゃってます。
【智】
「だからあれほどヒモ太ブラを着けろと……ッッ」
あれ……?
下着は昨日洗濯機してた。
しばらく花鶏の家に泊まり込んでるし、
洗濯当番は僕だったから覚えてる。
ブラっとしたやつの代わりは
持ってなかったような。
洗ったヤツを出した覚えはありません。
(※洗濯当番は僕です、常に)
もしかしてノーブラ!?
なんという神の領域。
【央輝】
「なにやってんだ、お前は?」
【智】
「いやその、ちょっと今まずいので……」
もじもじと。
主に身体の一部分がマズイです。
【央輝】
「得難いコース取りをしやがるな」
【智】
「乙女兵器特設コースはちょっとシャレがききませんよ」
常人には高確率で無理だ。
【智】
「妨害って直接殴ったりは禁止なんだよね」
【央輝】
「ゲームだからな。血を見るのは結構だが、ただの殴り合いになるなら最初からそうする」
サドっぽく笑われた。
【央輝】
「ヤバイ連中が多いから、どうかするとどうかなるが、そういうのも盛り上げにはちょうどいい」
【智】
「できれば遠慮したいナー」
【央輝】
「怪我をさせたらペナルティーだ、一応な」
ものすごくどうでもよさそうに。
【智】
「美少女軍団なんだから加減してよ……」
【央輝】
「この国には男女平等ってのがあるんだろ」
いよいよどっちでも良さそうに耳をほじる。
【智】
「時には思いだそう古き良き時代のレトロな文化」
【央輝】
「このままじゃ、追いつけないな」
【智】
「あ、ゴミ箱ぶつけた!?」
相手の方が、だ。
るいがゴミまみれ。
【央輝】
「挑発して心理的に追い詰める手だ」
【智】
「……武器はありなんだっけ、説明だとかなり曖昧に書いてあったけど?」
【央輝】
「たまたま持っていたビールビン、たまたま落ちていたゴミ箱、
たまたま近くにあったプラカード、更には相手がしていた
ネクタイ……」
【智】
「いやいやいやいや」
全力で否定。
【央輝】
「おいおい、お前の仲間、足が止まってるぞ?」
るいが固まっていた。
【智】
「こりはヤバイかも」
ぷち、とかいう音がモニターごしに聞こえる。
【るい】
「たまたま落ちていた、」
【るい】
「120ccのバイクーッッ!!!!!」
【智】
「…………」
【央輝】
「…………」
【智】
「……たまたまってことでいい?」
【伊代】
「……あれ、落ちてたっていうの?」
【花鶏】
「駐車してあったのよ」
【茜子】
「ぐろ」
【花鶏】
「なんて泥臭い」
【茜子】
「泥臭いというよりもきっとゴミ臭いです、反吐のように」
【伊代】
「さすがにこれはペナルティーなんじゃ……」
【茜子】
「直接攻撃してないからセーフで」
【伊代】
「……いいのかおい」
【央輝】
「どのあたりが美少女軍団だ」
ぼそっと。
【智】
「………………見た目?」
異論は認める。
【央輝】
「本物のゴリラかアレは」
【智】
「ゴリラよりはレア度が高いと思います」
あっちも絶滅危惧種だけど。
【智】
「あれ、そっちのヤツ起き上がった。元気だなぁ。やっぱり倒れた」
【央輝】
「避けたときに捻ったか何かだな。あのゴリラも、直接ぶちあてなかっただけ、加減はしたらしいな」
【智】
「るいちゃんにも理性はありました」
なけなしですが。
それにしたって。
本当に頑張ってくれている。
るいには意味がないことなのに。
同盟だ。
名前を付けて結びつく。
そうでなければ結びつけない。
なぜなら。
秘密があるから。
呪い――。
【智】
「でも、利害は」
なくても。
きっと、るいは走る。
理屈を抜きにして。
【るい】
「ぶえっくしゅん」
【るい】
「うぐ、ぐす」
【るい】
「風邪かなあ」
【智】
「るいって、ホントにバカだねぇ」
今、僕はとても楽しい。
【伊代】
「体力屋、随分頑張るわね」
【花鶏】
「脳まで筋肉細胞でできてるせいじゃないかしら」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「……?」
【伊代】
「……ナプキン貸そうか?」
【花鶏】
「誰がそういう話をしてるの!」
【伊代】
「あ、でも、なんか難しい顔してたから……」
【花鶏】
「ちょっと気にかかることがあっただけ」
【伊代】
「病人は頭使わず大人しくしてたほうがいいわよ?」
【花鶏】
「大人しくしてられるわけないでしょうに。
何度も言ってるでしょう。これは元々わたしの問題なのよ」
【るい】
「ターッチ」
【惠】
「たしかに」
【るい】
「それから一言言っとくけど」
【るい】
「私、まだそっちを信用したわけじゃないから」
【惠】
「負けるためにここにいると?
僕が、央輝のスパイだって言いたいわけだ」
【るい】
「みんないっぱいがんばってる」
【るい】
「私バカだから、そっちが何考えてるのかなんてわかんない。
けど――」
【惠】
「怖い顔だ。キミは本当に獣のようだね。優しく、鋭くて、純粋で」
【惠】
「指切りをしようか?」
【るい】
「指切り嫌いだから」
【惠】
「安心するといいよ。僕は、彼女とは友達以上になりたいんだ」
【央輝】
「二番手が出たぞ。ふん、そっちがリードしてやがる」
モニターは惠の俯瞰を映している。
一番手は予想以上に上手くいった。
問題はここから。
急あつらえのピンチヒッター。
ろくな仕込みもしていない。
【智】
「あーうー」
策士、策がなければただの人。
【惠】
「どうかな」
【惠】
「…………」
【惠】
「さすがに央輝の仲間だけのことはある。予想より早くついてくる。これだと、そのうち並ばれるかもしれないな」
【惠】
「いや、運命ほどには早くないかな」
【惠】
「君が、僕に付いてこれるといいが」
【伊代】
「え、今どっから出たの?」
【茜子】
「代理の変態生物……善戦、してますね」
【伊代】
「変態は、ないんじゃない」
【茜子】
「そうですね。では、変質者生物くらいで」
【伊代】
「生物つけても柔らかくなってない」
【花鶏】
「うー、またあだまがいだい…………」
【智】
「……そっちと知り合いだったよね」
【央輝】
「才野原か、ああ、多少は付き合いがある」
【智】
「聞いていい?」
【央輝】
「いけ好かないが役に立つ……そういうやつだ。それ以上は知ったこっちゃない」
【央輝】
「世の中の人間には三種類ある。役に立つヤツと、立たないヤツと、邪魔なヤツだ」
【央輝】
「邪魔なヤツは敵だ、敵は殺す」
首の後ろがちりつく。
むき出しの殺意。
刃物の鋭利ではなく、それは牙だ。
やわらかな喉に噛みつき引き裂くための。
【央輝】
「……お前、本当に妙なヤツだな」
【智】
「何が?」
【央輝】
「お前はそっち側の人間だ。わかるだろ。お前はこっちにはいない」
【央輝】
「誰だって赤い血の流れる同じ人間……なんてお題目があるが、
嘘っぱちだ。線があるんだよ。そっちとこっちは違うんだ」
【央輝】
「見えない、だが、深く、はっきりとした。境目だ。犬と狼の。
どんなにでかくなったって犬は犬、首輪を付けても狼は犬には
なれない」
【央輝】
「お前は犬っころだ、ただの犬っころだ。なのに、面白い。
どこにでもいる犬っころとは違う」
【央輝】
「最初に会ったときからそうだった。へらへらしやがって」
【智】
「……へらへらとは、酷いおっしゃりよう……」
【央輝】
「それなのに、壊れない」
帽子の下からのぞく、央輝の目が細くなる。
【央輝】
「普通のヤツはビビるんだ。あたしの近くに来ればな。犬だって
鼻が利く、自分の持ってない牙と爪がある相手のことは黙って
たってわかる」
【央輝】
「お前はしぶとい、腹が据わってやがる」
【央輝】
「どうして怖がらない?」
【智】
「……央輝を……?」
【央輝】
「他のことも全部ひっくるめて、だ」
鼻の頭が触れるほど間近に来た。
頭の上を見下ろせるほど小柄な尹。
ほとんど物理的な圧力が吹き付けてくる。
央輝が身につけている息苦しいほどの剣呑さは、
血の匂いをイメージさせる。
奇しくも彼女自身が言葉にしたように。
犬と狼。
悲劇的にステージが異なっている。
【智】
「買いかぶらないでよ。怖いにきまってるんだから、当たり前に。こういうのは虚勢っていうの」
【央輝】
「そうだな。確かにお前は怖がってないわけじゃない、そのあたりは人並みだ」
【智】
「……わかる……?」
【央輝】
「鼻が利くんだよ、狼だからな」
【央輝】
「お前が知ってるのは耐える術だ。しぶとく、頑丈に、壊れることなく、生き延びるための知恵だ」
【智】
「…………」
【央輝】
「誉めてるんだぜ?」
悪い大人のような、濁った笑い。
【智】
「ありがと」
誉められたので、お礼を言う。
知恵。
知っているのは、ささやかなこと。
諦めという名の知恵。
日々が不安定だという事実を納得する諦観。
偶然が支配する。
この世界のどんなものをも支配するのは、空の上にいて見えない誰かの寝ぼけ眼な思いつきで、汗水たらした努力も日々磨き抜いた叡(えい)智(ち)も、無意味に無情に押し流してしまう。
すぐ足下に恐怖があること。
それを知っているから。
耐えられる。
【智】
「…………それよりゲームは?」
話題を引き戻す。
【央輝】
「お楽しみだ」
【伊代】
「あいつ、中々カメラの範囲にでてこないわ」
【茜子】
「それはどういうことですか」
【伊代】
「コース取りが変なんだと思うけど」
【茜子】
「映った」
【花鶏】
「さっきより差が詰まってるわね……」
【茜子】
「それでもまだリードしてます」
【惠】
「…………」
【通行人】
「あ、なんだ、このやろうっ。
いきなり走ってきてぶつかりやがって!」
【寡黙な会社員】
「……」
【2年目のOL】
「きゃー、いたーい!」
【酒屋の店主】
「おまえ、ちょっと待てぇ!」
【惠】
「今日も騒がしいね」
惠のリードが詰まっていく。
【央輝】
「経験値の差がものをいってるってわけだ」
【智】
「そっちのひとは慣れてるんだっけ」
【央輝】
「ゲームの経験が豊富だからな。が、才野原のやつも予想以上だ。土地に詳しい。こっちの知らない妙な抜け道を幾つも使ってるようだ」
モニターに惠の姿。
雑踏を流れに逆らって突き抜ける。
予想外なことにリードしていた。
距離は小さいが、一度も抜かれていない。
【智】
「…………っ」
繁華街の人混みを横断し、
ビルの中をくぐり抜け、赤信号を飛び越える。
頑張って頑張って頑張って。
声援を送る。
予定は全部狂う。
計画は破れる、予告は失われる、未来は変わる。
ただの一つも叶わない思惑。
どれだけ賢しく小細工を弄しても、世界は罠を飛びこえて、
後ろから急所を刺しにやってくる。
偶然と呪いでできた、この小さくて醜い世界に生きる、
僕らの持つ知恵の限界。
それを日々思い知りながら。
【智】
「…………頑張って…………」
信じていいのか?
言葉よりもずっと難しい。
信頼、友情、絆。
世間的に尊ばれる無私の絆。
言葉にすれば希薄になって消えてしまいそうになる。
本当は、誰も信じられない。
信じることは、命を落とすこと、だから。
【智】
「や……っ!?」
【伊代】
「……このまま勝ってくれる? 信じていいの?」
【茜子】
「人の善意を鵜呑みにすると足下すくわれます」
【伊代】
「そうね、そうだと思う。でも……だから……それでも正しい事っていうのは、人の中にしかないんだと思う……」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「あー、頭痛い…………」
【伊代】
「お?」
【智】
「止まった!?」
惠が動かない。
【智】
「ゴールはすぐそこなのに!」
【央輝】
「…………」
後ろから追いついてくる。
まずい。
こよりにはリードが必要なのに。
ちっちゃなウサギがチームの一番の弱点だ。
惠……。
【伊代】
「……ッ!」
【茜子】
「動きませんね」
【伊代】
「まさか、そんなの、ここまできて!」
【花鶏】
「…………」
【惠】
「…………」
【尹チームの二番手】
「――――――っ」
【尹チームの二番手】
「ぬぐぁっ!?」
【智】
「……ッッ」
蹴った!?
たまたま落ちていた(?)
看板を蹴って吹っ飛ばした。
相手を坂道の下までたたき落とす。
【花鶏】
「思いの外過激なヤツだったわけね…………」
【伊代】
「ちょ、あーいうのはありなわけっ!?」
【茜子】
「直接攻撃じゃないので、ルール的にはオッケーです」
【伊代】
「乳ゴリラといい、あいつといい……
き、禁止されてなきゃ正しいってわけじゃないんだから」
【茜子】
「勝てば官軍」
【央輝】
「…………武闘派だな」
呆れていた。
【智】
「ごめんなさい」
這い蹲りそうな勢いで。
美少女軍団、名前負け……。
【智】
「ルール的には……?」
るいのやったのより、ボーダーなんじゃ。
【央輝】
「盛り上がってるな」
【智】
「なにが……?」
【央輝】
「オッズ」
パルクールレースは賭けの対象にされている。
最終的な勝敗の他に、各プレイヤーのトリックや、
区間での勝敗などにも賭けがある。
らしい。
【智】
「盛り上がってるから問題なし?」
【央輝】
「今のところは」
【央輝】
「これで、またお前たちがリードした」
【智】
「余裕あるね、二連戦で負けてるのに」
【央輝】
「それくらいはハンデにくれてやる」
戯れるように鼻をつままれた。
【央輝】
「お前たちこそ大丈夫か? 三番手はネックなんだろ」
見抜かれる。
【智】
「あれでも、うち一番の逃げ上手なんだよ」
【央輝】
「勝負でモノを言うのは力や技術より先に、気合いだ」
【智】
「少年漫画みたいなことを」
【央輝】
「意志だ。力も技術も、意志がなければなにもならない。
泳げるやつでも手を動かさなければ沈んでいく」
央輝がつまらなそうに吐き捨てる。
精神力は最初の前提だ。
愛と勇気と根性でラスボスは倒せないが、
愛と勇気と根性がなければ冒険の旅に出られない。
【央輝】
「追い詰められたのが犬なら戦えるが、ウサギはどうだろうな。
逃げるだけのウサギは、エサだな」
ウサちゃん……。
【央輝】
「武闘派美少女軍団か」
【央輝】
「面白みはあるな。
いいさ、あたしが勝ったら、せいぜい上手く使ってやる」
【智】
「ひとつだけお願いが……」
【央輝】
「言ってみろ」
【智】
「武闘派美少女軍団っていう、泥臭い名前、なんとかならない
かしら……?」
【央輝】
「ならない」
【惠】
「あとは任せるよ」
【こより】
「ひゃう〜」
【惠】
「君は自分のできることを果たせばいい。僕がそうしたように」
【こより】
「あー、うー、たー」
【こより】
「と、とりあえず、こより行きます……」
【こより】
「いー、うー」
【こより】
「あ〜〜〜〜! やっぱり、こういうの、こよりには向かないですです……」
【こより】
「王子様王子様……」
【こより】
「どうかわたしを守ってください。か弱いこよりを地獄の黙示録に放り込んじゃったりする血も涙もないセンパイめに、どうか天の裁きをお下しください〜(>_<)」
【こより】
「にゃわ〜〜〜」
【こより】
「このまま最後まで何事もありませんよーにー」
【伊代】
「さっきからキョロキョロしてどうしたのよ。病人は大人しくって何度……そ、それとも頭痛がひどいの?」
【花鶏】
「妙な連中がこっちを見てたわ……」
【伊代】
「それは妙な連中くらい掃いて捨てるくらいいるでしょうよ。
わたしたち、妙な連中のまっただ中にいるんだし」
【伊代】
「それに、どちらかっていったら、わたしたちの方がここだと
目立つんじゃない? 制服なのよ、しかも、」
【茜子】
「美少女軍団」
【伊代】
「いやな名前ね」
【花鶏】
「さっきから3回も、こっちを……」
【伊代】
「興味本位じゃないの、目立ってるんだから」
【花鶏】
「智が言ったこと、もう忘れたの?」
【伊代】
「あ、で、でも、だからって……」
【花鶏】
「……智に連絡は?」
【茜子】
「つきません。ランナーは携帯持ってませんから」
【花鶏】
「こういうのは智の領分でしょうに……」
【茜子】
「どいつなのですか?」
【花鶏】
「あいつ」
【茜子】
「そんなに?」
【花鶏】
「わからないわ。女の勘よ」
【花鶏】
「でも、こんなところで台無しにされたくない」
【茜子】
「台無し」
【茜子】
「…………皆、がんばっていますよね」
【花鶏】
「自分のことだからよ」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「どうかしたの、あなた?」
【茜子】
「行ってきます」
【伊代】
「ちょ、なにするつもりなの!?」
【茜子】
「確かめてきます」
【伊代】
「なに危ないことしようとしてるの! それに、あなたが行って
どうにかなるもんじゃないでしょう!!」
【茜子】
「……なります」
【伊代】
「な、なにいってんの」
【茜子】
「これは元々私のことです。そこの白髪の言う通りです、
なにもせずに結果だけ受け取るわけにはいきません」
【茜子】
「ある阿呆がいいました。私たちは同盟だって」
【茜子】
「利害の一致だ、力を合わせる」
【茜子】
「手を出された分だけ手を貸し付けます。無担保貸し付けは
ノーセンキューです。私たちは五分と五分ですから」
【花鶏】
「いい覚悟ね。そういうの素敵だと思う」
【伊代】
「で、でも、その、どうやって……」
【茜子】
「大丈夫」
【花鶏】
「なにをするの?」
【茜子】
「魔法を使います、魔女だけに」
【伊代】
「魔法……?」
【茜子】
「呪文はパピプペポ多めで」
【智】
「よい感じでリードが広がってるけど、いいの」
こよりがバタバタと踏ん張っている。
【央輝】
「ここまで競るとはな」
【智】
「手段を選ばず勝ってますから」
問題は我らが三番手。
こよりはプレッシャーに弱い。
接戦になったらまずかった。
先にどれだけリードを開けられるか。
惠に助けられた。
暴力勝ちだったけど……。
【智】
「…………にょほ」
惠が真剣に助けてくれたことが、
ちょっと嬉しい。
【智】
「あの告白だけなんとかなってくれれば……」
人生とはままならない。
【央輝】
「最後までこのままいけばな」
手慰みか、ライターを擦る。
【智】
「どういう意味?」
【央輝】
「大した意味はない」
【央輝】
「どこにでもトラブルはある、そうだろ」
不安をつつかれる。
【央輝】
「それに最後は、あたしとお前だ、これくらいハンデがあった方が盛り上がる」
【智】
「僕は手段を選ばず勝ちに行きますよ」
【央輝】
「ルールは覚えてるな?」
【智】
「そりゃあもう」
借金の契約書くらいの勢いで目を通した。
【央輝】
「もう一つイイコトを教えてやる」
【央輝】
「あたしも手段は選ばない主義だ」
【茜子】
「!!!!!!!!!」
【伊代】
「どうしたの、面白い顔して?」
【茜子】
「!!!!!!!!!!」
【花鶏】
「焦ってるんじゃないの、それ……」
【伊代】
「これが……そうなの?」
【茜子】
「ぐぎっ」
【伊代】
「ぎゃー」
【茜子】
「大変です」
【伊代】
「わ、わたしの指が大変なことに……」
【花鶏】
「ちょっと、響くから大声だして揺らさないでって……」
【茜子】
「ウサッギーが狙われています」
【伊代】
「なによそれ?! どういうこと」
【茜子】
「詳しくはわかりませんけど」
【花鶏】
「わからないのにどうしてわかる?」
【茜子】
「それはともかく」
【花鶏】
「流すのね」
【茜子】
「たぶん、ズルを」
【花鶏】
「イカサマ……?」
【茜子】
「それ」
【伊代】
「なんですって?」
【花鶏】
「智の言ってた通りなわけ……当たり前か。ギャンブルですものね、大金が動くならなんでもありよね」
【伊代】
「ルールなんて知ったこっちゃない、世の中勝った方の勝ち……」
【花鶏】
「ばれなければ、そういうものよ」
【花鶏】
「裏側をぐるっと回してぶっすり」
【伊代】
「…………っ」
【花鶏】
「どうやって、鳴滝を狙うの?」
【茜子】
「それはちょっと……」
【伊代】
「わからないことが多いわね」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「何か証拠は? あなたの勘違いってことはない?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「信じ、られるの……?」
【花鶏】
「…………」
【茜子】
「……証拠はありません。信じてもらう以外にないです、なにも」
【伊代】
「どう、するのよ?」
【花鶏】
「…………いいわ、信じよう」
【伊代】
「ちょ、いいかげん過ぎない!? 根拠もなしに!」
【花鶏】
「悩んでる時間もないわ。なにか仕掛けてくるなら、鳴滝が
走り終えるまでだから、一分一秒を争う」
【伊代】
「それは、そうだけど……」
【花鶏】
「とりあえず問いただしてやるわ」
【伊代】
「あ、ちょ、ちょっと、あんた病人……」
【茜子】
「行っちゃいました」
【伊代】
「やっぱり、あの日で頭に血が足りてない」
【茜子】
「血が上ってるのでは」
【伊代】
「……えっと、あのね」
【茜子】
「なんでしょう」
【伊代】
「さっきは怒鳴ってごめんなさい。八つ当たりだった」
【茜子】
「……正直生物」
【伊代】
「何か言った?」
【茜子】
「別に」
【花鶏】
「だめだわ、ぜんぜん取り合いやがらない。らちがあかない、ああ、頭が痛い……」
【茜子】
「ミニマムは今どこに?」
【伊代】
「現在地は配信してるカメラのフレーム外」
【茜子】
「相手の方はほとんど映ってるのに、どうして私たちの方は
映らないんですか?」
【伊代】
「ウチの詐欺師のルート指定がデタラメだからよ。
通れないようなとこばかり指定してたじゃないの?」
【こより】
「すーいすーいすーい」
【こより】
「あう〜、なんかトイレの窓ってばっちー気がしますよ〜。
スカート汚れたらどーしよー。もうちょい女の子っぽいルート
お願いしたかったり……」
【こより】
「センパイ……もしかして、
鳴滝はセンパイに恨まれておりますか……」
【こより】
「もう少しマシな道……ちちちちちち(泣)」
【伊代】
「さっきこのカメラに映ってたから、地図で言うと、ここからここまでのどこかにいると思う」
【茜子】
「そういえば、陰険姑息貧乳と一緒に下見にいったら、げっそり
して帰ってきてました」
【花鶏】
「あんなローラー着けてて、よくそーいう、わけのわかんないとこ通れるものね……」
【伊代】
「……あんた達、二人がかりで追いかけ回したんでしょ?」
【花鶏】
「そういうこともあったわね」
【茜子】
「時間がありません」
【花鶏】
「鳴滝に連絡は……?」
【伊代】
「だから、ランナーは携帯を持ってない」
【花鶏】
「智も駄目か……」
【花鶏】
「智なら尹に談判してなんとか……」
【伊代】
「……どうするの?」
【花鶏】
「智のところまで連絡をつけにいけば」
【茜子】
「その間に、ろりりんの方が」
【花鶏】
「でも、鳴滝の方は居場所もわからないわ」
【茜子】
「ルートはわかります」
【伊代】
「そうよ、中間のポイントで待ってればどう?」
【花鶏】
「それまでにやられてたら」
【伊代】
「う〜〜〜〜〜」
【伊代】
「…………時間、ないわ。あの子を追っかけるしか」
【花鶏】
「どうするつもり? 方法がなければ絵に描いた餅よ」
【伊代】
「そういえば! あなた、バイクは?」
【花鶏】
「乗ってきてる」
【伊代】
「それで直接」
【花鶏】
「鳴滝がどこにいるのかが……」
【伊代】
「それは教える」
【花鶏】
「だから、どうやって」
【伊代】
「それは任せて」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「…………本当に任せていいのね。
言い出した以上責任は取ってもらうわよ」
【伊代】
「自分で言ったことと決めたことは守る主義なのよ」
【花鶏】
「あなたも大概身勝手だこと……」
【茜子】
「お互い様の身勝手様々」
【花鶏】
「言っておくけれど。わたしは誰にも頼らない、誰の力も借りない、助けを願ったりしない」
【伊代】
「助けるんじゃないわ、きっと。わたしたちは同盟なんでしょう?」
【花鶏】
「契約と代価ね。対等の関係。いいわ、居場所は携帯で連絡を。
わたしは行くわ」
【茜子】
「……身体の方は?」
【花鶏】
「まかせておきなさい」
【伊代】
「よろしく。じゃあ、後で」
【花鶏】
「そうね、後で。何もかも上手く片付いてから」
【茜子】
「それで、ピン髪の居場所は?」
【伊代】
「今から調べる」
【茜子】
「……そんなこといってたら」
【伊代】
「大丈夫。今の世の中、オンラインのやつが町中にあるんだから、なんとかなる」
【伊代】
「……たぶんだけどね。上手くいったら拍手喝采」
【茜子】
「本当におまかせしても大丈夫そうですね」
【伊代】
「ちょ、あなた、どこいくの」
【茜子】
「花鶏さんを手伝ってきます。病気のときは桃缶な感じで」
【伊代】
「わからない、そのたとえはちょっとわかんない」
【茜子】
「行って参ります」
【花鶏】
「ちょっと、わたしは急いでるの。邪魔をしないで」
【花鶏】
「退かないつもり? それともホントに邪魔だてするの?」
【花鶏】
「……あなた、どなた?」
【花鶏】
「そういえば見張りがいたんだったわ。
わたしたちが妙なことしそうなら、引き留める役ってわけね」
【花鶏】
「ゲームの決着がつくまでは、こっちに下手な手出しをすると尹が怒るんじゃないかしら? あの子、話の筋の通し方には、うるさそうだったけれど」
【花鶏】
「ふーん、言葉がわからないのかと思ったけれど、こっちの言うことはわかってるみたいね。それでも退かないつもりらしいけど、こっちも急ぎなの」
【花鶏】
「…………手段は選ばないって顔ね。そう、そういう事ならこっちもこっちでそのつもりになるわ。後悔する前に、手早く言っておいてあげるけれど」
【花鶏】
「後ろが危ないわよ」
【花鶏】
「消火器で殴るなんて、やるわね」
【茜子】
「今日は特急です」
【花鶏】
「お前は、いいからそのまま寝てなさい」
【茜子】
「平成残酷物語」
【花鶏】
「大丈夫、峰打ちよ」
【茜子】
「峰関係ないと思います」
【花鶏】
「ああもう頭いたい……いくわよ、茅場」
【茜子】
「はい」
【智】
「流れがなんだか変な気が」
【央輝】
「まだそっちのリードはあるな」
【智】
「そうなんだけど」
こよりがビルから飛び出してくる。
インラインスケートでするする走る。
出口で住人とすれ違い、危うくニアミス。
くるり。回避。
【央輝】
「うまいもんだな」
腕を組む。
思いの外順調に行ってるせいだろうか、逆に不安をかきたてられる。
【智】
「……がんばれ、こよりん」
【こより】
「ひふー、はふー、はひっ、はひ、ひー」
【こより】
「せんぱ〜い」
【こより】
「鳴滝は死んじゃいそうでございますー」
【花鶏】
「白鞘はなんて?」
【茜子】
「地図だと3dのあたりの交差点の裏側を通過」
【花鶏】
「それってどのあたり?」
【茜子】
「たぶん、そこ右です」
【花鶏】
「たぶん」
【茜子】
「おそらく」
【花鶏】
「スピード出すからしっかりつかまってないと落ちるわよ」
【茜子】
「スピード違反は犯罪者です」
【花鶏】
「わたしの法はわたしだけよ」
【茜子】
「社会的不適合者の台詞ですね」
【茜子】
「ところで、茜子さん、一つ質問があります」
【花鶏】
「なにかしら」
【茜子】
「たしか、愛馬は原付だと聞いた覚えが」
【花鶏】
「原付だったわ」
【茜子】
「これは、はっきり言ってドデカイン」
【花鶏】
「うふ、ふふふふふ…………」
【茜子】
「こけたら起こせなさそう」
【花鶏】
「………………ッッ」
【茜子】
「マジか、そうなのか。
つか、なんで、そんなもの持ってるのか、この人」
【花鶏】
「人には戦わないといけないときがあるのよ!」
【茜子】
「我が身に余る力を得ようとして滅びるのは悪役のサガ」
【花鶏】
「いいから早くつかまりなさい! 死ぬ覚悟で飛ばすんだから!」
【茜子】
「………………」
【茜子】
「はい」
【花鶏】
「いつも手袋してるのね」
【茜子】
「愛してますの」
【花鶏】
「そう」
【花鶏】
「それよりも、一体どうやって、鳴滝を狙うつもりなのかしら」
【茜子】
「くわしくは……」
【花鶏】
「わからない、か」
【茜子】
「でも、たぶん……事故、みたいな感じで」
【花鶏】
「みたい?」
【茜子】
「たぶん」
【花鶏】
「色々とよくわからないものなのね」
【茜子】
「ごめんなさい」
【花鶏】
「…………」
【茜子】
「なにか?」
【花鶏】
「素直に謝るところは初めて聞いたわ」
【茜子】
「……忘れました」
【花鶏】
「そう」
【茜子】
「ベレー帽が謝るところ、聞いたことないです」
【花鶏】
「頭を下げるくらいなら相手を殺るわ」
【茜子】
「本気ですか」
【花鶏】
「でも、事故か。いよいよ冗談ごとですまなくなってきたわね」
【茜子】
「消火器殴打は冗談で済むでしょうか」
【花鶏】
「たぶん」
【茜子】
「あてにならない」
【花鶏】
「えーっとどこかしら。こっちのルートは、智がかなりアドリブ
利かしてるわけだから、動きは読みにくいだろうし」
【花鶏】
「どれくらいやるつもりかしら……?」
【茜子】
「死ぬとかじゃ、ないと思いますけど」
【花鶏】
「たぶん?」
【茜子】
「はい」
【花鶏】
「そういうことなら一番いいのは……?」
【茜子】
「ムギュー」
【花鶏】
「交通事故!」
【茜子】
「事故りました」
【花鶏】
「大きな事故は必要ない。死んだりしたら後が面倒だし、
邪魔するつもりだけなら骨の一本でも折れば」
【花鶏】
「あっち側に、鳴滝の居場所がわかる位置で、大きめの道、車……バイクでいい、たぶんバイクが入れて、絶対に通過するような――」
【茜子】
「道の区別がつかないです」
【花鶏】
「大きめの道を教えて、先回りして合流できそうな」
【茜子】
「えーと、えーと、えーと」
【花鶏】
「あー、もう、こよりちゃんの今の居場所は!?」
【央輝】
「またチビうさが見えなくなったな」
ライターを放り投げて弄ぶ。
余裕。
こっちがかなり有利なのに焦りもしない。
【智】
「そだね」
こよりはカメラマンが追えないところを走っている。
下見に来たとき、泣き出した場所を走らせてます。
僕は鬼か!?
まあ、しかたない。
他に勝ち目がなかったし。
鬼にもなろう、悪魔にも堕ちよう。
策というより駄策の類。
奇策というよりイカサマだ。
【智】
「ごめんね、こよりん」
手を合わせて、無事を祈る。
【こより】
「ふーいー、もーちょいだー」
【こより】
「こより選手、最後のラストスパートです。ゴール周辺では押し寄せた一億七千万の大観衆が歓呼の声で出迎えております」
【こより】
「ビバー!!!!!」
【こより】
「ん?」
【こより】
「にょ、にょわ――――――――」
【こより】
「――――――――わわわわわわわあああああああって、あれ、
花鶏センパイに茜子センパイ!?」
【茜子】
「間一髪だったのです」
【こより】
「うは、でっかいバイク……あれれ、わたし何でこんな所に、
いえ、それよりも」
【こより】
「気のせいかもしんないのですけど、今し方なんか、もう1台
バイクが突っ込んできて、バーンと炎が燃えて交通事故の
走馬燈が一生分キラキラ巡って」
【こより】
「果てし無き、流れのはてに……麗しの白馬の王子様が約束通り迎えに来てくれたりした感じがしてましたけど……」
【花鶏】
「轢かれかけたのは本当よ」
【こより】
「ほ、ほえ?」
【花鶏】
「危機一髪だったのを、かっさらって助けたの」
【こより】
「それって映画のヒロインみたいッス〜!」
【花鶏】
「わかってないわね」
【茜子】
「ヒロインになるなら、テキサス・チェーンソーとか、
茜子さんお勧めです」
【こより】
「なんかおいしそーです!」
【茜子】
「きっと(チビうさは)おいしいですね」
【茜子】
「ところでひき逃げ未遂犯は?」
【花鶏】
「逃げたわね、当たり前だけど」
【茜子】
「そうですか。では、こよりん生物。お話があります」
【こより】
「うす、こよりんです。大人の都合により20歳です!!」
【茜子】
「あなたが危機一髪です」
【こより】
「はい?」
あ、見えた。
【智】
「こよりんだ、リードのまま来た!」
【央輝】
「ふん」
【こより】
「ひい、ひい、ひしいいいい」
【智】
「燃えてるなあ」
【央輝】
「せっぱ詰まってるんじゃないか?」
【智】
「こよりー、こっちこっち、早くタッチー!」
【こより】
「うひひひひひひひいひひひひひひひ」
【智】
「笑いながらゴールインなんて、もしかして余裕でした?」
【こより】
「心底死ぬかと思ったです!!!」
胸ぐらを掴まれました。
【智】
「そ、それはご無事で何よりです……」
すごくびびる。
【こより】
「実は花鶏センパイと茜子センパイが、」
【智】
「んじゃ、華麗にラストを決めてくるからね」
向こうの央輝がスタートする前に、
ちょっとでもリードを広げておきたい。
【こより】
「あ、お話……」
【智】
「また後で」
【こより】
「…………はい、わかりました。センパイ、鳴滝待ってますから。また後ほど」
【伊代】
『あの子は無事についてアンカーが出たわ』
【茜子】
「…………だそうです」
【花鶏】
「それは、なによりね……」
【伊代】
『んで、白頭は?』
【茜子】
「女としての人生の苦役がぶり返して伏せっています」
【伊代】
『お大事に』
【茜子】
「あとは智さんが」
【伊代】
『無事に勝ってくれれば良いんだけどね……』
【花鶏】
「ここまでして、負けたら、あとで、ただじゃおかないわよ……」
夜がくる。
陽が落ちる。
吸血鬼が後ろからやってくる。
尹央輝。
【智】
「うう……」
速いよ。
夜の街がざわめく。
パルクールレース。
コースは街で、そこにあるのはどれもこれも障害物だ。
【智】
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
自分の息づかいに混じる、別のリズム。
【央輝】
「ふっ……ふっ……ふっ」
央輝は着実に距離を詰めてくる。
夜がそんなに得意なのか。
ホントに本物の吸血鬼ですか!?
表通りの人の流れをかき分ける。
ぶつかり、とびのき、逃げ回って。
後ろから怒鳴り声。
ネオンが煌めく。派手な音楽が充ちる。
帰宅の人の列に割り込んで。
流れる車の横に並ぶ。
非常階段から飛び降りる。
ごろごろ転がって立ち上がる。
実際に走ってみないとわからない。
普通の持久走や短距離よりも消耗する。
体力以上に精神力が。
【智】
「ペースを、保って、なんとか」
障害物もコースもばらばら。
ビルを上って下りたりもする。
日が暮れていた。
視界がぐっと悪くなる。
どうしても乱れるペースをどうやって保つか。
【智】
「ひゃ」
ぞっとした。
聞こえるはずのない足音が確かに聞こえた。
央輝が近い。
姿は見えない。
夜は彼女の世界だ。
本物の牙を持つ生き物が棲む。
僕らは昼の生き物だ。犬と狼は違うモノだ。
狼は死に絶えた。
この国ではそういうことになっている。
でも彼らは生きている。
知らないだけで。
彼らの世界で。
【智】
「あー」
追いつかれるのはマズイ。
増速。
【智】
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ」
走る。走る。走る。
ハシゴを登る。
螺旋階段を駆け下りる。
エレベーターを途中で下りて、
踊り場の窓から外の屋根伝いに雨樋を滑り降り、
お隣のビルの屋上へジャンプする。
路地の上、ビルの間を幅跳びする。
下から猫が見上げながら、
尻尾を振ってニャーと鳴いた。
夜を駆け抜ける。
夜に生きる狼の真似をして。
ガードレールを横っ飛びに飛び越えて、ポーズを付ける。
余裕があるとトリックが入る。
加点プラス5。
【智】
「あとどれくらいだっけ……」
【央輝】
「三分の一くらいだ」
【智】
「ぎゃわっ!!」
ビル壁面に作られた非常用の螺旋階段の中程。
央輝と遭遇した。
【智】
「どっから生えたの、早すぎるよ!!」
泣きを入れる。
非常階段を央輝は上へ、
こちらは下へすれ違う。
屋上には途中のチェックポイントが。
距離差はほとんど縮まっている。
体力にはそこそこの自信があったのに。
小さな央輝は小さな巨人だ。
【智】
「おにょれ、このままでなるものか。ファイト一発……」
相手は瞬発力がある。
細く華奢なくせに肉薄してくる。
軽量だから加速が良いのか。
【智】
「このままだと、おいつかれちゃう……」
【智】
「なんていうか、愛奴の未来が見えてきた感じ」
キラキラと。
【智】
「いや〜〜〜〜〜〜ん」
走りながら天を仰いだ。
マジ、負けるわけにはいかんとです。
全員でがんばったのに。
ここまできたのに。
僕が足を滑らせてお終いなんて以ての外だ。
責任は感じなくていいから。
こよりを籠絡するときに、自分で言った。
詭弁だ。
関わる全員に責任を負う。
それが手を繋ぐことの代償だ。
美しくも残酷な戒めだった。
【智】
「ほぁ、ほぁ、ほぁぁっ、ほあたぁっ」
路地を抜ける。
裏道を通る。
坂道を全力疾走で転がる。
ひょいと見上げた。
古ビルの上に浮かぶ月を、黒い影が横切った。
蝙蝠みたいにビルからビルへ跳ぶ。
本物の吸血鬼――。
【智】
「尹央輝……」
顔も見えない距離で確信する。
まずい。
正規のルートより一見遠回りに見える。
どういうルート通られてるのかわかんないけど。
けど、央輝に敵に塩を贈る趣味なんてあるわけがないから、
あれはリスクを犯す価値のあるショートカットだ。
【智】
「……あぇいぅ」
まずさ百倍。
こうなると、最大のネックは僕になる。
るいみたいな乙女力も、
こよりみたいなムーンライトウサギパワーも持ってない。
【智】
「ぎにゃーっ!!!!」
叫んだ。
呪われた未来がすぐそこに。
【るい】
「私、信じてる」
【惠】
「宿命というのは振り切れないんだよ、いくら走ってもね」
【伊代】
『現実って、やっぱり厳しいかも……』
【茜子】
「だそうです。聞こえてますか?」
【花鶏】
「聞きたくないわ」
【こより】
「ふれー、ふれー、センパーイ♪」
央輝がいた。
ほんのちょっと先行されている。
向こうのペースは落ちている。
【智】
「はは、やっぱ無理した分だけ疲れてますね、明智君……」
追う。
距離が詰まらない。
離されないだけで精一杯。
【智】
「ひぃ、ひっ、ひぃぃ」
こっちのペースも落ちていた。
足も手も重い。
理屈に合わない間尺に合わない打つ手がない。
どうした、打つ手は終わりか?
終わりだ、万策尽きた、全部なくなった。
帽子の中に残りはなかった。
種のなくなった手品師と失敗した詐欺師くらい
惨めな生き様はそうないと思う。
コースは終盤。
物理的にショートカットもないのなら。
ここからは地力の勝負。
疲労で足がもつれた。
【智】
「あいどぅー!」
暗黒の未来を嘆く叫びを。
電柱にすがる。
休む間もなく走行再開。
【央輝】
「ふん」
笑われた。
こっちの状態を見透かされてる。
勝ち目が遠のく。
よろしくない人生だった。
情けなくって、厳しくて、未来がなくて。
ずっと嘘をつかなくちゃいけない、そんな日々。
狭苦しく孤独な道のりを考えて考えて考え抜いて一歩一歩前進
しても、世界はいつでも片手間の戯れにテーブルをひっくり
返して嘲笑(あざわら)う。
偶然と不幸が幸運にすり替わる。
気がつけばいつだって薄暗い。
――――――――どうして僕だったんだろう。
それは夜眠る前に、何度となく繰り返した答のない問い。
呪われた人生。
どうして僕を選んだのか。
他の誰でもよかったのに。
ペースが乱れて息苦しい。
足だけを動かしてとりあえず前に。
走馬燈のように苦悩が巡る。
やだなあ。
この若さで走馬燈とか。
別に死ぬわけじゃないんだし。
央輝は善人には見えないけれど、
そこそこ僕のこと大事に重宝してくれるかも……。
囚われて。
塞がれて。
繋がれて。
その程度じゃないか。
どのみち呪われた人生なら。
何一つ得るものもなく、孤独に歩む。
呪い。
呪い呪い呪い。
いずるさん。
いかがわしい女の人が、愉しそうに嘯く。
僕も囁く。
呪い。
その忌まわしい言葉を。
ずっと一人でいた。
誰にも心は許せない。
誰かといると気が休まらない。
孤独な部屋の小さなベッドの上に帰ってきて、
夜一人になるとほっとする。
誰もいなくて安心する。
いない方がいい、だって秘密があるんだから。
呪われているんだから。
後ろを見る。
夜だけがあって何も見えない。
呪いは、きっとどこまでも追ってくる。
逃げてもいつかは追いつかれるんじゃないだろうかと、
ことある毎に振り返る、そんな生き方をしなくちゃいけない。
【智】
「はぁ、ひぃ」
前へ走る。
央輝の背中を目指して。
どうやっても追いつけない。
こんなに息を乱して走っているのに。
速度では変わらないのにライン取りが違う。
人生の道か。
狼と犬の差は、遺伝子レベルで超えられない。
【智】
「――――ッッ」
長い階段が目の前に。
行く手を阻む壁のように。
ゴールへの最後の障害物だ。
心臓が壊れそう。
とにかく考えるのをやめて走る。
【智】
「すごい……」
央輝は凄い。
体格は絶対的に恵まれてない。
小柄な女の子。
物理的限界がある。
それなのに。
ここまで走る。
るいみたいな馬鹿馬鹿しいぐらいの違いがないのが、
かえって見えない努力を意識させた。
じりじりと引き離されていく。
【智】
「にゃーっ!!」
やけになる。
二段飛ばしで駆け上がる。
転んだ。
全力疾走していたのでごろごろと。
【智】
「にゃあああああ!!!!」
階段から落ちる。
下にはゴミ置き場が。
落着。
ゴミ塗れに。
【智】
「な……るほど……最後にはゴミまみれになる人生か……」
上手いことをいってみる。
【央輝】
「どうする?」
階段の半ばで央輝が待っていた。
口元に冷笑を。
高いところから傲岸に見下ろす。
選択肢を突きつけてくる。
続けるか、否か。
犬は犬、狼は狼。
生きる世界が違う分、勝ち目がない。
負傷リタイヤはどうだ?
【智】
「は、は、は…………」
弱い考えが足首を掴んでいる。
考えるのは僕の悪い癖だ。
夜の道は見えないから恐ろしい。
でも。
見えすぎることも恐ろしい。
諦観と停滞。
1パーセントをゼロにするのは弱い心だ。
考えすぎれば道がふさがる。
ほら、こうやって考える。
わかっているのに止められない。
知恵の呪い。
誰だって、きっと、呪われている。
足の力が抜ける。
このままへたり込んでしまえば、きっと楽だ。
呪いが僕の足を掴んで……。
愛奴隷。悪くないかも。
(呪われた世界を――)
【智】
「…………っ」
萎えかかった足を気力で支えた。
ビルの壁にすがりついて、
潰されたカエルみたいな不格好で立ち上がる。
腕も足も脇腹も肩も首も。
どこもかしこも痛みに軋む。
気を抜けばそれっきり起き上がれない。
もう止めろと理性が警報を鳴らしていた。
だって勝ち目はない。
このまま続けても勝機なんて億に一つ。
白黒はついた。
ここで仰向けに倒れて。
諦めて。
――――――――立て
自分の中の何かが命じる。
どうにもならないのに投げ出せない。
それは答を探す行為ではなく、
わかりきった結末へと辿り着くための愚かな前進。
なのに。
【智】
「……まっ…………たく……」
どういうわけか、
最近はいっぱいっぱいな事ばかりだ。
星の巡りでも悪いのか。
【るい】
(――――若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!)
夢も希望も最初からあるもんか。
僕らはみんな呪われている。
震える足で。
一歩。
【花鶏】
(――――赤の他人の身代わりになって自己犠牲するのが
性分なわけ!?)
冗談じゃない、
マゾっぽい趣味は願い下げだ。
立つのは自分のために、自身のために。
負ければ身売りの運命なんだから。
もう一歩。
【茜子】
(――――茜子さんの問題に、勝手にずかずか入り込まないで
ください)
まったく同感だ。
他人のことなんてわかりはしないのに。
いつだって知ったふうな口を叩いて。
足がもつれる。
それでも三歩目。
【伊代】
(……ほっとけなかったから)
なんて曖昧で胡乱な理由。
見えないもの、
在るかどうかもわからないもの。
そんな、頼りないものを頼りにするのか。
【智】
「……できるわけ……ないでしょ……っ」
四歩目と五歩目を踏みだして。
早く逃げ出そうと思ってた。
それなのに、こんなところまでやってきた。
どこで選択肢を間違ったんだろう。
【こより】
(――――逃げても逃げられない。捕まっちゃう。やっつける
しかない)
逃げられない。捕まっちゃう。
いつでも最後は追いつかれる。
それなら、いっそ。
(呪われた世界を――)
どうするんだっけ?
世界を。
一人じゃなくて。
皆で。
【智】
「はぁ、はぁ、はぁ」
あぁ。
はじめて出会った。
あの痣と。
あれは……。
聖徴(せいちょう)といい、烙印という。
【智】
「……僕たち、同じ……」
同じ徴を持っている。
ようやく出会えた、孤独ではなくなる、
一緒にいてくれる誰か。
【智】
「せっかく、なのに……」
負けるのか?
(呪われた世界をやっつけよう)
約束したんだっけ。
言ったのは僕だ。
るいは関係ないのに力を貸してくれた。
こよりは泣きながらでも参加した。
伊代はいいやつだし。
花鶏や茜子だって。
ちょっとだけ、力がわいた気がする。
あまり感じたことのない力。
自分以外の誰かがいるから。
こういうのは、なんていうんだっけ?
少年漫画が好きそうなやつ。
見えないモノにつく名前。
そう、
同盟だ。
【智】
「…………まだまだ」
【央輝】
「しぶといな」
【智】
「条約が……あって……やめると……きっとひどい目に……」
【央輝】
「今にも倒れそうじゃないか」
【智】
「そっちも、実は苦しいでしょ……」
【央輝】
「…………」
無表情。
カマかけだったのに。
答えないってことは図星なのか。
普段の央輝なら、きっと、
この程度では引っかからない。
疲労で判断力が鈍っている。
【智】
「……体格的な限界ってあるだろうしね」
央輝の体つきはアスリートみたいな鍛え方はしてない。
瞬発力があっても持久力は苦しいと見た。
【智】
「ひとつ……聞いていい……?」
【央輝】
「いいぞ」
【智】
「女の子を、さ……愛奴にして、どーすんの……? その……
いかがわしいお仕事でもさせるの?」
それは何が何でも遠慮させて。
【央輝】
「決まってる。あたしがいかがわしいことをするんだよ」
【智】
「……………………」
悪くないかも。
いやいやいや。
【智】
「……生命の危機だね」
バレちゃうし。
【央輝】
「安心しろ、血は吸わない」
【智】
「自分のために最善の努力を」
【央輝】
「手札は尽きてるくせに」
【智】
「人事を尽くした努力が足りなければ、埋めるものはただひとつ
…………」
ぐっと、天を掴むように拳を突き上げて。
【智】
「根性で勝負!」
【央輝】
「ここ一番で精神論か」
鼻で笑われた。
【智】
「まあ、そういうことにしといてよ」
ラストスパート。
【るい】
「来た――」
ゴールのポイント。
【るい】
「ともー、がんばーっ!!!!」
るいがいた。
先回りですか、どこまで体力あるんだ、
あの乳怪獣は……。
死ぬほど元気そうに手を振っている。
…………ちょとむかつく。
【智】
「智ちん、いきまーすっ!」
【央輝】
「しぶといヤツが!」
パッシングする。
【央輝】
「なにを!」
【智】
「まだまだあ」
【央輝】
「……こ、こいつっ」
ペースを乱して、
央輝のやつがつんのめる。
【智】
「ちゃーんす!!」
【央輝】
「く、くそが……くそくそっ!」
死にものぐるいで抜きつ抜かれつ。
ダッシュ。
ゴールは目の前。
体力は底値いっぱい。
【央輝】
「やろう……っ!!」
央輝が増速する。こっちもする。
【央輝】
「ど……どこに、こんな体力が、残って……やがったんだ……っ」
さすがに央輝が焦る。
【智】
「根性ですっ!!」
【央輝】
「根性で……そんなばかな……」
心理的揺さぶり。
【智】
「仲間と繋がった心の力は無限なのです!!!!」
【央輝】
「ば、ばかな…………」
まったく馬鹿げてます。
ノリと精神論とクサイ台詞で押し切るには、
僕は神経が細かすぎる。
そういうのは、るいの領域だ。
ごめんね、央輝。
実はまだ奥の手があったんだ。
最後ではなく、最初のカード。
出す前から伏せていたから、
央輝にだって予想がつかない。
央輝は女で、僕は男。
ズルっぽい……というより、しっかりズルです。
男女の体力差を央輝は計算できてない。
【央輝】
「く、うくく、くあ……っ」
央輝がたじろいだ。
歩調が乱れる。
【智】
「ぷくくくくっ、どうやら貴様の負けのようだな!!」
悪役の台詞だ。
疲労の極でハイになっていた。
一気に追い抜こうとする。
ここまでに何度も央輝が勝つチャンスはあった。
こっちを甘く見た分、つけいる隙ができた。
【央輝】
「…ぐ…くぁ……っ」
【智】
「ひまらー……(いまだー……)」
いよいよ呂律がまわらない
あとビル二つ。
勝てる、と思った。
そこで。
央輝は壁に寄りかかった。
限界っぽく。
終わりか。
長かった戦いにもようやく決着の時が。
【智】
「とどめぇっ!!!」
刹那。
【央輝】
「――殺す」
凄み。
刺すような眼差しが背中まで抜ける。
本気の目。
睨まれた。
殺される。
ほんの一瞬、本気でびびる。
【智】
「……あ?」
冷静になれば、それはただの脅しだ。
そんなことをすればゲームが台無しなんだから。
ここまできて、それはない。
央輝という人間に合わない。
のに。
【央輝】
「恐れ入ったよ、ここまでやるとは思わなかった。
もう一つ、いいことを教えといてやる」
【央輝】
「あたしは、負けるのが、嫌いだ……っ」
心臓が早鐘を打つ。
足が震える。
なに。
怖い。
目の前の相手が。
どうしてこんなものがいるのか。
【央輝】
「噂を聞いたろ?」
【智】
「……え、あ、あ」
殺される。
殺されて殺される。
殺されて殺されて、
それでも足りなくて殺される。
ここにこうしていたら。
だめだ。
逃げよう逃げよう逃げよう。
足が動かない。
萎縮して固定される。
蛇に睨まれたカエルは、
きっとこんな気分を味わいながら、
真っ赤な口に呑まれてしまう。
丸くなって何も見ないで聞こえないで――。
【智】
「あ」
【央輝】
「ルールの通り、指一本触れてないぜ……」
【央輝】
「だが、こいつでゲームオーバーだ。しばらくそうしてろ。
そうすれば……」
【央輝】
「――――――っ!?」
恐怖が消えた。
年末の換気扇をつけ置きしてさっと拭き取ったように、
今の今まで胸を潰しそうになっていた感情が消え失せる。
【智】
「……………………あれ?」
【央輝】
「お前!」
央輝がせっぱ詰まっていた。
たぶん、消えたのはそのせいだ。
【央輝】
「おまえ、そんな」
央輝が顔色を変えて凝視している。
僕を。
正しくは、僕の腕を。
さっき階段から落ちたときに、制服が破れたらしい。
痣が見えていた。
【央輝】
「いや、でも」
【央輝】
「それは……その痣、まさか……お前……お前ら、そうなのか!?」
動揺している。
考える。
つまりこれは。
【智】
「いざ、さらばー!」
大チャンスでした。
【央輝】
「あ、テメエぇっ!!」
ブッチぎった。
央輝が取り込んでいる隙に、
最後の最後のラストスパート。
死ぬほど走る。
【央輝】
「ま、まて……っ」
【智】
「待てない!」
【央輝】
「ひ、ひきょう……」
【智】
「卑怯未練はいいっこなし!」
【央輝】
「とにかく…ま、待て……!」
【智】
「絶対待てません!!!」
さっきのは何が起こったのか。
意味不明だ。
央輝が何か仕掛けた。
それは確実だけど。
わからないので考えるのをやめる。
今は勝たなくちゃ。
もう一度、さっきのやつが来たら、
今度こそ逃げられない。
残り1分もない時間の勝負。
だから走る。
【央輝】
「ま、」
【智】
「もう、」
【央輝】
「くおぉー」
【智】
「ちょっとー」
【央輝】
「くのーーーーーーっっ」
【智】
「たーーーーーーーっっ!!!!!!!!!!」
ゴールイン――――――――――――――。
〔エピローグとプロローグ〕
時刻は深夜を回っていた。
【央輝】
「約束通り、返してやる」
【智】
「返すだけじゃなくて……」
レースには勝った。
無事に……まあ、かなり無事じゃなく。
転んだ怪我の治療をめぐって、
るいたちから大層なお小言の一悶着が
あったことだけはいっておこう。
(※ちなみに僕は頑として譲らず、一人で薬を塗った)
【花鶏】
「やったあーーーっ!」
クリスマスプレゼントをもらった子供みたいに飛び跳ねる。
最近の子供は飛び跳ねないかも知れないけど。
【花鶏】
「本、本、本、わたしの星、帰ってきたわ! やっと帰って
きた、長かった、苦しかった、戦いの日々だった!!」
【智】
「いやもうまったく」
【智】
「これで茜子も」
【央輝】
「今回の件では自由だ。追うヤツは居なくなる。
あたしが責任を持つ」
【智】
「自由の身です」
【茜子】
「あ、は……はい」
実感がわきやがらないご様子。
【智】
「僕も自由の身」
愛奴隷危機一髪。
【花鶏】
「それはそれで惜しかったかも」
【こより】
「見てみたかったのです」
【智】
「君たち君たち」
【央輝】
「それから」
央輝が肩をすくめる。続きがあった。
【央輝】
「イカサマの件についてはあたしのミスだ。謝っておく」
【智】
「央輝はタイプじゃないと思った」
【央輝】
「買いかぶりだな。今回はゲームだったからだ。必要なら騙しも
殺しもする。嘘もつく」
それは本当だろう。
【央輝】
「奴らには始末をつけさせる」
【こより】
「結果的になにごともなかったので、ほどほどでいいのです……」
【智】
「当事者がこのように」
【央輝】
「奴らは、あたしの顔を潰した。それなりの代償は必要だ」
【智】
「嘘は央輝もつくんでしょ」
【央輝】
「そうだ。素人相手に底を見られるような仕込みをするのは、
あたしの顔を潰すにも程がある」
逆の意味だった。
【智】
「いやな世界だね」
央輝はタバコをくわえて火を点ける。
唇を歪めた。
ほんの一瞬、人生に膿み疲れた老人のような顔を
見たような気がした。
【央輝】
「まったくだ。この腐れ切った世の中は、骨の随まで
呪われてるんだよ」
イヤなフレーズに。
【智】
「そだね」
軽く相づちをうった。
央輝とはそれで別れた。
――――――僕らは自由になった。
【こより】
「これからどうするんですか」
【智】
「お家に帰ります」
【こより】
「あう、そうではなくて……」
【茜子】
「私たち」
【伊代】
「……どうするの、これから?」
同盟。
とりあえず所定の成果を得ました。
目の前のことを一つ二つ。
【るい】
「やっつけたしねー」
【智】
「やっつけた」
【花鶏】
「呪われた世界、だったかしら?」
【茜子】
「やっつけましたか?」
【智】
「そうねえ……」
ぼやく。
うんとのびをすると、
身体中がボキボキと音をたてる。
【智】
「たぶん、まだまだ」
たとえるなら、
魔王の七大軍団の、
最初の幹部を倒したくらい。
【こより】
「ほんでは、戦わないといけませんね」
【るい】
「やる気だね、こよりん」
【こより】
「こよりん、燃えております!」
【智】
「萌え〜」
【伊代】
「なにかいかがわしい感じに」
【るい】
「なんで?」
【伊代】
「なんでだかわからないけど……」
【智】
「印象差別だ」
【伊代】
「むう」
【花鶏】
「それで、どうするの」
とりあえず。
【智】
「やっぱりお家に帰りたい……」
【るい】
「まあね」
【こより】
「そっすね」
【花鶏】
「そりゃね」
【伊代】
「まあ」
【茜子】
「です」
一斉に賛成した。
【智】
「あーと、今更なんだけど惠がいない……まだお礼を」
【るい】
「気がついたらいなかった」
【茜子】
「神出鬼没キャラ」
【こより】
「危なくなったらタキシード来てお助けに来てくれるかも」
【伊代】
「あー、似合うかも〜」
【るい】
「それならニーさん〜で、イキなり現れる方が」
【茜子】
「兄弟愛キャラ」
【花鶏】
「姉妹愛の方がいいわ」
【智】
「そふ凛子ちゃんに怒られたって知らないよ」
ちゃらちゃらと話題が弾む。
当人不在のまま。
次に会えたらキチンとお礼をしないと。
惠がいなかったら、
新しい人生が開かれるところだった。
【こより】
「お礼考えないとだめですよねー」
【伊代】
「まあ、大丈夫じゃないかしら」
【るい】
「にゃも?」
【伊代】
「……だって、恋、したんだって……」
【智】
「ぶぅっ」
何もしてないのにむせる。
視線が、色々なものの含まれた視線が、同情とか困惑とか
少女漫画チックなキラキラビームとか入り交じったやつが、
背中に一杯突き刺さった。
【智】
「思い出させないでよ!」
悪夢の告白。
【伊代】
「……まあ、変人だけど顔いいし……」
【こより】
「も、もしかして、これを切っ掛けにして恋の炎〜」
【茜子】
「じゃーんじゃかじゃーん、じゃーんじゃかじゃーん」
【智】
「絶対ありません!!!」
【るい】
「そうだそうだ!!
あんな白っぽいの、トモちんに絶対断じて似合わない!」
【伊代】
「……男と女なんて何が切っ掛けで恋愛に発展するかわかんないっていうし……」
【智】
「ない、断じてない」
あってたまるか。
【花鶏】
「一晩くらい付き合ってあげたら? 泣いて感謝されるんじゃないかしら」
【智&るい】
「「まっぴらだ!!!」」
【るい】
「だいたい、アンタはトモ狙ってんじゃないのか、このエロス頭脳」
【花鶏】
「男の一人や二人に目くじらを立てるほど、わたしの了見は
狭くないわよ」
【花鶏】
「それに、乱暴な男に傷ついた智を、後で優しく慰めてあげるの。新しい恋の足音が聞こえてくる気がしない?」
【智】
「そっちもまっぴらごめん」
【こより】
「お、センパイ、そういえばの二乗です!」
【智】
「なんですか」
【こより】
「お家帰るにも、
すでにバスも電車もなかりにけりないまそかり……」
【智】
「たぶん、全然間違ってる」
【こより】
「あうー」
【智】
「そういえば、電車もないね」
【花鶏】
「それは最悪」
【伊代】
「まだこれから歩くわけ……」
【智】
「無理無理無理無理死んじゃうよ」
【るい】
「近くでどっか休めるところを」
【茜子】
「ファミルィーレストラントなど」
【智】
「どこでもいいんだけど――――」
見上げれば夜空。
空には月と星が。
気分がいい。
今夜はずっとこうやって、
空を見ながら歩いていてもいい。
【智】
「明日はどうしようか」
もう今日だけれど。
一つのことが終わった後。
新しく何かの始まる、始めなくてはならなくなる日に。
【るい】
「明日のことはわかんない」
るいが呟く。
まったくだ。
明日のことはわからない。
それが呪いだ。
僕らはきっと呪われている。
誰もがきっと呪われている。
そんなどうでもいい話をしながら、
僕らは夜通し歩き続けた。
ぼくらはみんな、呪われている。
みんなぼくらに、呪われている。
【るい】
「生きるって呪いみたいなものだよね」
【るい】
「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……」
【るい】
「それって、まったくの呪い。100パーセントの純粋培養、これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、ないない尽くしの呪いだよ」
【るい】
「そうは思わない?」
これは呪いの話だ。
呪うこと。
呪いのこと。
呪われること。
人を呪わば穴二つのこと。
いつでもある。
どこにでもある。
数は限りなくある。
ちょうど空は灰色に重かった。
浮かれ気分に水を差すくらいにはくすんでいて、
前途を呪うには足りていない薄曇り。
【智】
「むふ」
それでも僕らはやってくる。
約束もなくても。
明日のことがわからなくても。
同じ場所から空を見上げる。
【るい】
「こんなとこかな?」
【茜子】
「むふ」
【こより】
「いい感じでサイコーッス!」
【伊代】
「悪党っぽいわね」
【花鶏】
「それじゃあ、くりだすわよ」
【智】
「北北西に進路をとれ」
--------------------------------------------------▼ 個別ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》各ルートフラグのチェック
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》初回プレイの時
--------------------------------------------------◆ るいルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・茜子=+4 の時
--------------------------------------------------◆ 茜子ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・るい=+2 の時
--------------------------------------------------◆ るいルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・花鶏=+2 の時
--------------------------------------------------◆ 花鶏ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・伊代=+2 の時
--------------------------------------------------◆ 伊代ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・こより=+2 の時
--------------------------------------------------◆ こよりルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》上記条件以外の場合
--------------------------------------------------◆ るいルート
〔勉強会をしよう〕
空は快晴、どこまでも――――
僕らは牢獄に囚われていた。
恐ろしい獄卒の爪がのど元に迫り、
逃げる術もない暗黒の闇。
【るい】
「ううう、活字を見るとめまいがする……」
【伊代】
「あなた、どうせわたしの100倍くらい視力あるんでしょ!
そんなことで眩暈なんてしないから、シャキっとする!」
【こより】
「鳴滝はまだ子供ちゃんだから免除でも良かったのでは……」
【伊代】
「勉強が免除されるのは卒業してから!
勉強は出来るときにもっともっとしないといけないの!」
【茜子】
「勉強は1日1時間」
【伊代】
「16回連射でスイカ割るおじさんみたいなこと
言ってるんじゃないの!」
ダメっ子三人組が音を上げる。
図書館で、テーブルを囲んでの勉強会。
言い出したのは伊代である。
そういうことを言い出すのが彼女だ。
【伊代】
「ここのところちょっと遊びすぎたから、ここいらで取り戻しとかないとマズイでしょ! 学園生の本分は勉強なんだから……」
【智】
「僕は一応、伊代の言うことに賛成。なにせ優等生ですから」
【茜子】
「猫の皮被り僕女め」
【智】
「か、皮被り!?」
違うよ、それは!
【花鶏】
「わたしは勉強なんかしなくても成績いいから〜。
プ〜ピュ〜、ピュピュ〜♪」
花鶏は才能の上にあぐらを掻いていた。
これで人知れず努力するタイプではある。
【伊代】
「余裕ぶってこいつ、こいつ……!!」
【智】
「伊代、落ち着いて! かなり落ち着いて!」
館内は空調も効いてて快適なのだが、
いかんせん僕らはアウトロー。
るい :野生児
こより:お子ちゃま
茜子 :勉強嫌い
花鶏 :天才肌
普段からまともに勉強をやってるのは、
どうやら僕と伊代だけのようだった。
ダメっ子たちからはヘアレスドッグの
毛ほどもやる気が感じられない。
【智】
「伊代って数学苦手なの?」
【るい】
「わたしは全部ニガテだよ」
【こより】
「鳴滝も同様であります!」
【智】
「君たちには聞いてないから」
【るい&こより】
「ぶーぶーぶーぶー!」
【伊代】
「数学ってどうも無機質で頭に入ってこないわ。
頭が文系なのかしら」
【智】
「僕、理系わりと得意だから、教えっこしようよ」
【伊代】
「…………庭で詩集でも読んでそうな顔してるくせに、
なんで理系なのよ、あなた」
【茜子】
「やっぱり皮被りめ」
【智】
「ち、ちが……っ」
こちらは順調に勉強にしていたのだが。
三人娘は早々と試合放棄した。
【るい】
「うー」
【こより】
「きゅー」
【茜子】
「ぶじゅるぶじゅる」
それぞれに効果音を口で言いながら、
デロリとテーブルに伸びる。
【花鶏】
「わたしは保健体育が得意よ。わたしも伊代に手取り足取り、
実技指導を朝まで教えてあげる!」
【伊代】
「来るな変態性愛者っ! ……背中は守ってね」
【智】
「まかせて」
基本のデキがいい花鶏はじゃれる余裕があった。
あとの三人はもう、僕と伊代の『お勉強ゾーン』に
接近するだけで精神ダメージを受ける状態。
【こより】
「鳴滝はもーダメです〜! 目が疲れました〜!」
【るい】
「私も、もーダメ〜。おなかすいた〜」
【茜子】
「茜子さんもギブアップ〜。勉強とかキャラじゃない〜」
とにかくこの三人は、
勉強というものにやる気が無さ過ぎた。
花鶏もちょっかいをかけるのに疲れてきたらしい。
三人組が花の四人組に。
【花鶏】
「だいたい勉強とか、青春の浪費でしょ」
【るい】
「花鶏からセイシュンなんて言葉が出てくるとは」
【花鶏】
「青い春と書いて『青春』よ? わたしたちはもっとこう……青い春を満喫しなければならないわ! そう、青い春、青い春……!」
【こより】
「どうして花鶏センパイは、青い春を連呼しながらよだれ垂らして、手をワキワキさせて鳴滝に近寄ってくるんですか!?」
【花鶏】
「それはお前を……食べてしまうためだよ!」
【茜子】
「こうしてこよりずきんちゃんは、悪い狼に身も心も汚されて、
狼のいやらしい指なしには生きられない躯に調教されてしまったのでした」
【こより】
「本当は性的なグリム童話〜っ!?」
空調の風がよく当たるテーブルを選んで、
社会不適合者の四人がぎゃいぎゃい騒いでる。
【智】
「伊代と勉強すると苦手なとこ補強し合えて助かるよ。
これからも一緒に勉強してくれると嬉しいな」
【伊代】
「え……、あ、あはは! うん、うん、いいよ。
わたしもあなたと一緒だと、いろいろ教えてもらえるし……」
【智】
「ところで古典、まだちょっと分かりにくいとこあるんだけど……」
【伊代】
「よかったら古典のノート貸そうか?」
【智】
「わ、ありがと。それすっごい助かる」
なんとなく……。
伊代っていいな、と思う。
一緒にいると落ち着くキャラでもなし、
特別話して楽しい相手でもなし。
頭は悪くないし、特にドジというわけでもないのに、
なんだかいつも常に一歩イケてない。
そこが伊代独特の魅力だった。
それがなんとなくいいのだ。
【こより】
「センパ〜イ!」
【智】
「乙女チックな物思いを打ち破る邪悪な影一号」
【こより】
「一号です! いいものみつけたですよう!」
【花鶏】
「これでテスト勉強しましょ! その名も『女体のひ・み・つ』! これを読めば保健体育のテストはっ!」
【るい】
「それよりこれだって! 『すぐできるお肉のおかず100』。
おいしそうーっ」
【こより】
「いやいやこれですよう! 『決定版・妖怪大全科 外国と日本の妖怪ゾクゾク』! 版権がやばそうな絵とか写真が満載ですよ!」
ギロリと伊代が三人を睨みつける。三人ともまるで意に介さず。
【花鶏】
「わーわー」
【るい】
「きゃーきゃー」
【こより】
「ぴーぴー」
閑散としているとはいえ、
知性の殿堂・図書館できゃーきゃーと騒ぎ立てる。
【伊代】
「………………」
危険だ。
伊代の熱き☆いいんちょハートが
「図書館ではお静かに!」と燃えあがりつつある。
【智】
「ちょ、ちょっとみんな……」
そろそろやばい……と気づいた時は
すでに遅かった。
伊代のこめかみに荒天の稲妻の如く
血管が浮き上がり、怒りの炎が両眼から迸った!
鬼神降臨。
【伊代】
「ぁあんたらっ!! 勉強しないんだったら邪魔だから
帰りなさいッ!!!!」
【3人】
「うひっ!?」
出るか!? 必殺・伊代アッパー……と思ったところで、
まだ本を抱えていた茜子が伊代の前にすべり出てきた。
【茜子】
「お待ちを」
【智】
「あ、茜子! 死ぬよっ!?」
【茜子】
「大丈夫です。真打ちはこれ。『食べながら痩せる! 驚異の
光触媒ダイエット』。なんと1週間で10キロも」
【伊代】
「え……それ見せてっ!?」
あからさまに嘘臭いにも関わらず、
伊代のメガネはギラギラと輝いていた。
【伊代】
「お、重いわ……。紙って重いのね……」
【智】
「半分持ってあげる」
【伊代】
「ありがと……!」
図書館からの帰り道、茜子にまんまと踊らされた伊代は、
どっさりとダイエット本を抱えて帰るハメになっていた。
【伊代】
「光の何とかってなんかよさそうなこと言われてるのに、
痩せないの!?」
【智】
「光触媒って一般的には酸化チタンだよ。紫外線を当てると
強い酸化作用を促して消毒代わりになる」
【こより】
「ダイエットぜんぜん関係ないですねぇ」
【伊代】
「え、じゃあマイナスのアレは!? ほら滝の近くに行くと
イオン効果で気分スッキリーみたいなこと言われてるじゃない?
わたし毎日シャワーの前で座ってたんだけど」
【花鶏】
「負のイオンは英語でアニオン。マイナスイオンなんていう物質は存在しないわ」
【伊代】
「え、えええ〜っ!? 今までのわたしの消費してきた時間は
なんだったの!?」
【るい】
「マスメディアに踊らされちゃダメだね。うんうん」
【伊代】
「そ、それじゃ玄米のヤツは? これは食品だから確実よね?」
【智】
「玄米と白米のカロリー差は3%程度。
つまり3%ダイエットできるよ」
【伊代】
「それ、ダイエットできてないから! せっかく玄米食べてたのに……! なにもかも、わたしの苦労は無駄だったなんて……」
【茜子】
「たぶん、今その本を運んでるのが一番ききます」
【伊代】
「あ、あなた、わたしあと2冊持つわ!」
【智】
「でも、伊代はそんなダイエットしないといけないほど、
おニク付いてないと思うんだけどなあ……」
【花鶏】
「その体重は、主におっぱいのせいだもの」
【花鶏】
「……あ、と。わたしたちこっちだから」
いんちき科学批判に花を咲かせていたら、
いつの間にか花鶏たちと別れる道にさしかかっていた。
るい、茜子の家なき子たちは、
今も花鶏の家に居候している。
花鶏の家はたしかに随分とでかいお屋敷だったけど、
二人も泊めっぱなしで大丈夫なんだろうか?
……まあ、ダメになった時はその時また考えるとしよう。
【るい】
「ごはんだ! ごはんだ!!」
【茜子】
「そうですね。ありえない程食べましょう。
そう……食べ過ぎで太ってしまうほどに!」
【伊代】
「くっ、こいつ……! ちょっとガリガリだからって
いい気になりやがって……!」
【こより】
「まーまー伊代センパイ、おさえておさえて〜。鳴滝におっぱい肉を分ければ、伊代センパイも体重軽くなると思うでありますよ」
【伊代】
「あげられるものならあげたいわよ……。こんなの肩凝るだけよ? あ、みんなさよなら。また今度ね」
伊代はこよりの冗談に答えながら、
花鶏たちへの挨拶も律儀にする。
道行きは僕と伊代と、伊代の家の近くに
住んでいるこよりだけになった。
それにしても……。
横目で思わず、伊代の胸に見入った。
……でかいよね。
こよりが僕の部屋みたいなワンルームとしたら、
伊代のは花鶏邸ぐらいの豪華なお屋敷。
それくらいに巨大なのだ。
自分のおへそも見えないんじゃなかろうか?
【智】
「胸がおっきいのってさ、普通女の子なら自慢になるでしょ?
男の子にモテるし。ね、こより」
【こより】
「そうですよう。ともセンパイと鳴滝みたいな平野地帯を前にして、『肩凝るだけ』発言はザンコクとさえ言えますよう!」
【伊代】
「も〜、本当に重いのよ? ちょっと持ってみる?」
伊代は本の入ったバッグを置くと、
片手でたわわんぷるるんとしたものを持ち上げた。
やわらかにトランスフォーム。
自重で変形した。
【智】
「ええっ!? いいの!?」
【智】
「……ってかそうじゃなくて!
やっぱりおっきいのは羨ましいものだって」
【こより】
「そうですよう。どれどれ、伊代センパイのおっぱい重量は……?」
そうやって見るともう本当にでかい。
花鶏の家どころか、
ちょっとした城くらいありそうだった。
【こより】
「ホー、これはたしかに重いですね〜」
こよりが伊代の胸をぽよぽよと持ち上げる。
【伊代】
「でしょ? お風呂に入る時だけ浮かんで肩がラクなのよ」
脊髄反射で、花鶏の家で一緒にお風呂した時の桃源郷を思いだした。
恥ずかしくてまともに見てなかったのを、ちょっぴり後悔。
【智】
「巨乳が水に浮くって都市伝説だとばかり……」
【伊代】
「……浮かぶわよ?」
【こより】
「ともセンパイ、顔赤いですよ?」
【智】
「ななな、なんでもありませんよ」
こよりが柔らか物体をぽよぽよしながら聞く。
大変目に毒な光景だった。
伊代の家にたどり着く。
【伊代】
「ふぅ、ふぅ……。重かった……。痩せたかしら……」
【智】
「ダイエットなんかしなくても……僕、伊代の身体って好きだよ」
【伊代】
「…………ッ」
【伊代】
「あなた、好きとかそういう言葉、気安く使いすぎよ!
いつでもどこでも、誰にでも! 男の子だったらセクハラものよ、今の発言!」
あー、ちょっと複雑だ。
【こより】
「大魔王セクハラーは得意ですけど」
【伊代】
「人は正しい道を進まねばならないわ。間違ったやつを手本に
しないように」
【智】
「アトリンも、はじめて会った頃はもうちょい
お嬢様っぽかったのに……」
【伊代】
「こなれて馬脚をあらわしてきたものね」
【こより】
「はーい! 時に乳無し芳一な鳴滝は、伊代センパイにダイエットを推奨いたします! そして胸から痩せていくのだ!」
【伊代】
「やせたいなあ……」
【智】
「持てる者はいつもごう慢だなあ」
わかりあえない人と人だ。
【智】
「それじゃ。そろそろ僕帰るね」
【こより】
「ういっす。それでは鳴滝も帰投するであります!」
【伊代】
「うん……。今日は白いごはん食べよう……」
伊代にダイエット本を手渡した。
さて暗くなる前に帰ろうと思ったら――
【伊代】
「あ、待ってあなた」
背後から急に呼び止められた。
僕とこより、どっちを呼んだのかわからない。
【智】
「んにゅ、僕?」
【こより】
「ふえ、鳴滝ですか〜?」
【伊代】
「違うの、ほらあなた。んっ……とあなたの方」
【伊代】
「えっと、ほらあなた……」
【智】
「僕のこと?」
【こより】
「鳴滝のことですか〜?」
【伊代】
「いや、そうじゃなくて……」
要領を得ないまま、僕とこよりは伊代の目の前まで
戻ってきてしまう。
そこまで来てやっと伊代は、ジェスチャーで『あなた』を特定した。
【伊代】
「ほらこっち、こっちのあなた」
【智】
「僕?」
【こより】
「ああなんだ。ともセンパイを呼んでたんでしたかー」
【伊代】
「うん。ごめんなさい。まどろっこしくて……。やっぱり人を指差すのって礼儀に反するじゃない? だからどうするか思いつかなかったの。ごめんね」
【伊代】
「……あ、それより、あなたに言いたいことがあったの」
【智】
「うん、なに?」
このクドさ。
格別な会話のテンポの悪さは、伊代のお家芸だ。
【伊代】
「あなた、本当は図書館の近くに住んでたんでしょ?
こんなところまで送ってくれて……ありがとう」
【智】
「……うん」
思いがけず笑顔でお礼を言われた。
ちょっとドキリとする。
【智】
「そ、それじゃ、また明日!」
【こより】
「うい、鳴滝も今度こそ帰投いたします!」
【伊代】
「うん。また明日ね。古典のノート返すのはいつでもいいから」
僕は照れ隠しにブンブンと大きく手を振って、伊代たちと別れた。
柄にもなく勉強会なんてやったのは、正解だったかもしれない。
独りぼっちの帰り道を考え込みながら歩く。
今さっきの、ものすごく変なやりとりを反芻する。
いままでにも伊代との会話で、
ずーっと感じてきた違和感。
【智】
「名前なのか……」
そういえば、伊代がみんなの名前を
呼んでるのを聞いたことがない。
僕も「姓」でも「名」でも呼ばれた記憶がない。
たまにシャイな子で相手の名前を呼ぶのが
苦手な子もいるが、伊代のは苦手なんてレベルじゃない。
誰を呼ぶにも代名詞……。
さっきの変なやりとりで、
それを強く意識させられた。
どんなに不便な事態になっても、
伊代は代名詞でしか人を呼ばない。
人の名前だけじゃない、国でも星でもお菓子でも、
伊代の口から「名前」が出てきたのを聞いたことがない。
……つまり、それが伊代の呪いなのだろう。
【智】
「名前を呼べない呪い、か」
伊代は親しい友達の名前すら呼ぶことができないのだ。
いつも眉をハの字にして言葉を詰まらせていた伊代。
気をつけていれば守るのは簡単だが、
この呪いは思いの外に苦しい呪いかも知れない。
〔騙り屋対談(伊代編)〕
伊代があんまりダイエットダイエットと言うものだから、
僕まで影響されてしまった。
いつものサラダとトーストの朝食から、
引くことの太り要素。
サラダドレッシングはノンオイル、
トーストもマーガリンが50%カットとなっております。
ハムまで抜いて、物足りないことこの上ない。
やっぱりダイエットは、食事制限より運動だ。
伊代にもジョギングとかを勧めよう。
プチダイエット朝食を食べ終える。
食器もそのままに、僕は何気なく伊代から借りた
古典のノートをめくってみた。
【智】
「…………」
思ふには忍ぶることぞ負けにける
色にはいでじと思ひしものを
1ページ目には一首の和歌が書かれていた。
【智】
「伊代の好きな歌なのかな……」
単語からしてたぶん恋歌。
ノートの1ページ目に恋歌を
書いてるなんて、結構洒落てる。
と思いきや、下に出展から現代語訳までが
細かくメモされているせいで、雰囲気は台無しだった。
説明によると、古今和歌集の巻第十一の歌で
「とうとう忍ぶ心が負けて(あなたを)
想う心を顔色に出してしまった」の意味らしい。
さらにパラパラとページを繰って、
係助詞がどうとか已然形がどうとか言うメモを流し見る。
ふと、ノートの端の落書きに手を止めた。
【智】
「これ……」
名前だった。
皆元るい。
花城花鶏。
鳴滝こより。
茅場茜子。
和久津智。
もう一度、今度は下の名前だけで
みんなの名前が列記されている。
るい。
花鶏。
こより。
茜子。
そして、智。
備忘録とは思えない。
伊代はみんなの名前を呼んでみたくて、
代わりにその思いをペンに託したのだろう。
【智】
「伊代……」
伊代の人付き合いのヘタさも、
元を正せばきっと呪いのせいだ。
かく言う僕だって、呪いのせいで
人付き合いには随分と泣かされてる。
昔の偉い人は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
とか言ったそうだが、ぜんぜん世の中は平等なんかじゃない。
貧乏な家庭もあれば、障碍(しょうがい)を負っている人もいる。
顔の良し悪しで、人生半分決まってしまったりもする。
呪いなんてものを背負った僕たちはというと……
この平和ボケな日本の中で、
平穏な日々の暮らしにさえ苦労している。
伊代ならこう言うだろう。
こんなの、フェアじゃない。
そば屋の場所は僕も知っていた。
そば処、小篠。
新しい店舗が並ぶ繁華街の只中に
粘り強く生きてる老舗の店っぽい。
この繁華街で生き残ってるからには、
味は確かなのだろう。
るいの話によると、
この店にあの騙り屋が出没するという。
食事時を狙って来たので、そば屋は混雑していた。
店の前、携帯で天気予報を見ながら、
お洗濯の計画など立てていると、
ほどなくして異常に目立つ格好の人物が現れた。
蝉丸いずる――待ち人来たるだ。
【智】
「こんにちは」
【いずる】
「おや君は。皆元くんパーティーの勇者さまじゃないか」
【智】
「勇者はるいだから。僕は後ろでちまちま回復とか強化とかしてる役で」
【いずる】
「苦労症だね。ま、『若い時の苦労は勝手にしろ』とかいう言葉もあるから」
【智】
「それぜんぜん報われない言葉……」
【いずる】
「で?」
【智】
「で、って」
【いずる】
「用があるから来たんだろ。
ただし、私の語りはタダじゃないけどね」
【智】
「あの気持ち悪いぬいぐるみに価値はあったの?」
【いずる】
「もちろん」
るいが切なげな顔で
お別れしていた正体不明のぬいぐるみ。
あんなものを巻き上げてどうするんだ、この人は。
【智】
「人の大切にしてるものを巻き上げて、
いじめっ子ソウルを満足させてるだけとか?」
【いずる】
「ああ、そういうのもいいねえ」
【智】
「うわ、まじ性格わるい」
【いずる】
「くっくっくっく……。あなたの知りたいことを教える引き換えに、あなたが一番大切にしているものを頂きます! これはなかなかいいかもしれないな」
【智】
「ただでさえ胡散臭いというのに……」
どこまで本気かわからないのがまた始末が悪い。
いずるさんは少し思案するように顎のあたりを撫でると、
見るからに「邪悪なたくらみを思いついた」なんて顔をした。
【いずる】
「時に君、たしか一人暮らしだったね」
【智】
「るいから聞いたの?」
【いずる】
「ありがたみが出るように、私の力で解ったとでも言っておこうか」
【いずる】
「で、その暮らしを始めて、一番最初に買ったもの。
そいつを貰おうか」
【智】
「一番最初に買ったもの?
それって安物のポップアップトースターだよ」
毎朝トーストを焼いてくれる銀色ボディのニクイ奴。
あんなもの、また買い直してもたいした負担じゃないけれど、
毎日使って愛着がある。
人が本当に大切にしているモノを巻き上げて、
イビるつもりだろうか。
【いずる】
「長く人の使ったものには、人の想念が宿る。なかでも新しい生活を始めると共に使い始めたものは、その人の生活の中で生まれる想念のほとんどを吸い込んで、その内に宿している」
【智】
「人の……想念……?」
【いずる】
「人の想念というのはとても強い力を持ったものだ。普通の人には無意味だが、私ならそれを利用できる。だからそのトースターを貰おうじゃないか」
【智】
「やっぱり……そういう不思議な力とか使っちゃう人なんだ」
【いずる】
「とか言ったらそれっぽいだろ?」
【智】
「冗談かよ!」
一瞬でも驚いて損した。
話せば話すほどうさんくささが滲み出すな、この人は。
【いずる】
「さぁて、どうかな? とにかくお代はそのトースターでよし。
で、聞きたいことはなんなのかね」
【智】
「むぅ……」
さようなら、僕のトースターちゃん。
【智】
「呪いを解くのに、もっと手がかりが欲しいんだ」
【いずる】
「ほう。前にも聞いたのに食い下がってくるなんて、
何かあったかね」
【智】
「友達が呪いの束縛に苦しんでるから。彼女たちばかりが普通に
生きることも許されないなんて、不公平すぎるから」
【いずる】
「僕たちじゃなく彼女たちか……。泣かせるねえ。友情パワーだな」
【智】
「茶化してないで」
【いずる】
「手がかりといっても、直接の方法云々は私の領分じゃない。
そう言ったろ」
【智】
「いずるさんしか頼れる人いないんだ。
だから、何かほんの少しの手がかりでも」
【いずる】
「……参ったね。そう下手に出られると誤魔化して逃げるのも
やりにくい」
【いずる】
「前に私が、仕組みが分かれば解けるかもしれない、と言ったのは覚えてるかい?」
【智】
「うん」
【いずる】
「君は何かに気づいたのかい? 仕組みへの足がかりとなる、
なんらかの徴(しるし)に。呪いを負ったものたちを識別する記号に」
【智】
「う〜ん、痣(あざ)……かな? 僕たち六人全員に痣と呪いがある」
【いずる】
「痣と呪い、徴と禁則……そんなものは世の中にあんまりゴロゴロ転がってるもんじゃないだろう? それが6人もこの街にいる。奇妙とは思わないか?」
【智】
「たしかに。じゃあ、この街に何か特別なものがある?」
【いずる】
「それはどうかはわからない。だけど、普通じゃないことだけは
確かだ。君もそう思うだろ?」
【智】
「呪いを解く手段を探すのに、別に世界中を飛び回ったりしなくていい。おそらくこの街に手がかりがあるはず……そんな意味にとっていいのかな」
【いずる】
「それは君が判断すればいい。私があげられるものはヒントぐらいだ。ま、闇雲に探し回るよりは、当てずっぽうでも的を絞った方がいい。それだけさ」
【智】
「そっか、ありがと」
僕のお礼を、手をあげて制する。
【いずる】
「一つ訊いておくよ。呪いを解いたところで、不公平とやらは
本当に改善されるのかね?」
【智】
「それは……呪いを解けばみんなもう禁則を気にしなくてよくなる。普通に生活できるんだ」
【いずる】
「どうだか。もとより本当の平等なんて、どこをどうやったって
存在し得ないんだよ。若いうちは夢を見たいのもわかるけどね」
【智】
「夢なんてみないよ」
【いずる】
「なんとも君は年寄りくさいねえ」
【智】
「夢と希望に期待しない程度には苦労したから。
でも、今よりマシなスタート地点に立てると思う」
【いずる】
「後ろ向きにやる気ありなキャラは、始末に悪い」
みんなの呪いを解きたかった。
平等でなくても、せめて自由でいられるように。
伊代が、友達の名前を、その声で直接呼べるようにしてあげたい。
【いずる】
「ふう。私の話はここまでだ。結局わからないことばっかりであんまり役に立てなかったから、今日はお代は負けといてあげるよ」
【智】
「いや、払うよ。参考になったから」
【いずる】
「なんとも律儀なことで」
その後、僕は急いで自宅に戻ってトースターを
持ってとんぼ返りし、充分に納得した上で
いずるさんに約束の報酬を支払った。
さらば、トースター。
君の屍を越えて僕は行く――
「呪いを解いちゃうぞ」委員会が結成された。
【こより】
「でも一体どんな本を調べたらいいんでありますか〜?」
【るい】
「私も呪いを解きたい。解きたいけど……」
【伊代】
「うーん、だけど図書館っていうのは正解なんじゃない? ネットから調べるより、掘り出し物の古い本の情報とかがありそうだし。わたし、頑張って探してみる」
【智】
「歴史関係のトコも怪しいけど、とりあえずはオカルト関係の
コーナーから調べてみようよ」
おー、と団結して調査を始めたのは、
四人だけだった。
【花鶏】
「興味なし」
【茜子】
「同じく」
【花鶏】
「茅場って可愛くないし、意地でも触らせてくれないから
面白くないわ」
【茜子】
「この変態はいつか性犯罪で捕まる」
この二人は、図書館に来たはいいが、
空調の風にあたりながらダラリと
伸びているだけだった。
【智】
「あの二人、呪いで困ってないのかなぁ……?」
【伊代】
「あんなグータラ放っとけばいいわ。わたしたちだけ呪い解いちゃいましょ? 働かざるもの食うべからず、調べざるもの呪い解くべからずよ」
【るい】
「語呂わるいね、それ」
【こより】
「うし! それでは鳴滝はこの本棚を絨毯爆撃であります!
まずはこの妖怪事典から!」
【智】
「君はまた妖怪か」
図書館はやっぱり公的な施設なので、
信憑性の低いオカルト的書物が置いてあるブースは狭い。
四人で手分けして、ブース内の書物を虱(しらみ)潰しにする。
【るい】
「これどう!? 『相手にかけられた呪いを解く』って
書いてあるよ!」
【伊代】
「いやそれ表紙に『黒魔術の秘呪』とか書いてあるし。
サブタイトルの『太古より伝えられし悪魔の呪法が蘇る!』とか
うさん臭過ぎるでしょ」
【るい】
「そういうもん?」
【智】
「そういうもんです」
深刻な問題に直面した。
【るい】
「飽きた」
【こより】
「鳴滝ももう目がチカチカします〜」
いくらブースが狭いとは言え、
一冊一冊の本をすべてチェックするのは重労働だ。
アタリに近そうなものさえ出てこないなら尚のこと。
簡単に僕らのMPは底をついてしまった。
【伊代】
「そううまく市の図書館なんかに、手掛かりがあったりは
しないみたいね……」
【智】
「もう少しヒントがあれば、探す方向性も定まるんだけどね……」
【こより】
「お、この本どうです!? 伊代センパイっ!!」
こ、これは!
【こより】
「『知らずに痩せる!? 月のパワーダイエット』ですよう!? 1ヶ月以内に必ず理想体重になるらしいですよっ!?」
【伊代】
「その本、借りるわ!!」
伊代のメガネはギラギラと輝いていた。
寝こけていた花鶏を起こして解散となる。
その日は結局、なんの収穫も得られなかった。
委員会初日、成果無し。
伊代の言うとおり、市の図書館に都合良く手がかりが
転がっているなんて、考える方が間違ってるのかもしれない。
【智】
「伊代は本当のところ、自分の呪いのこと、
どう思ってるのかな……?」
晩ご飯後、お風呂から上がって髪を乾かしているときに、
ふとそんな疑問が浮かんだ。
携帯を取り出して伊代の番号を表示する。
受話器が跳び上がった電話マークの通話ボタンを押しかけて、
僕は指を引っ込めた。
代わりに僕は手紙マークのボタンを押す。
【智】
「伊代の声も聞きたいけど」
伊代にとっては、相手の名前を自由に呼べる
メールの方がいいよね?
「呪いのこと」と題して、
僕は伊代へのメールを打ち始めた。
[From]智
[Sub.]呪いのこと
「伊代は自分の呪いのこと、どう思ってる?」
メールはすぐに返ってきた。
[From]伊代
[Sub.]Re:呪いのこと
「やっぱり、智も気づいた?」
[From]智
[Sub.]呪いのこと
「うん、なんとなく。やっぱり、辛い?」
答えづらいことと分かりながらも、聞く。
[From]伊代
[Sub.]Re:呪いのこと
「普段の生活には支障ないけど、辛いよ。結構。もう慣れたけど」
[From]智
[Sub.]名前
「そっか。そうだよね。呪いはやっぱり大変だよね」
[From]伊代
[Sub.]Re:名前
「智はどう? 呪いのこと、どう思ってるの? よければ聞かせて」
[From]智
[Sub.]僕の呪い
「日々すごく困ってるよ。それこそ毎日綱渡り」
[From]伊代
[Sub.]Re:僕の呪い
「そうなんだ……。
智の呪いがどんなものか分からないけど、
わたしに出来ることがあったらなんでも言ってね」
[From]智
[Sub.]僕の呪い
「ありがと。今のところ一人でなんとかやってるよ。
伊代もがんばって」
[From]伊代
[Sub.]Re:僕の呪い
「うん。わたしもがんばるから、智もがんばって。
智と呪いのこと話せて良かった。なんだか楽になった気がする」
[From]智
[Sub.]よかった
「よかった。僕も伊代に話せて楽になった気がするよ。
それじゃ、そろそろおやすみ。また明日」
[From]伊代
[Sub.]Re:よかった
「うん。おやすみ、智。また明日」
メール交換を終えて、
気分良く携帯を閉じる。
伊代が何度も何度も「智」と僕の名を
繰り返し書いてくれるのがこそばゆい。
気がつくと辺りはもう夜の静寂に包まれていて、
窓から見える景色は月光の底に沈んでいた。
伊代とのメールに夢中になって、
いつのまにか遅い時間になっていたみたいだ。
明日も学園がある。そろそろ寝よう。
着替えてベッドに潜り込む。
おやすみと呟いた時に、
もう一度僕の携帯が震えた。
闇の中、開いてみる。
[From]伊代
[Sub.]それから
「あと、それから。わたしのこと気使ってくれてありがとう。智。
だからメールなのよね? おやすみ、智」
伊代は不器用だけど、
細やかで優しい女の子だった。
【智】
「おやすみ、伊代」
口の中で呟いて、僕は今度こそ眠りについた。
〔惠再登場〕
学園帰りの道端で、珍しいものに遭遇した。
謎の路上女ベーシストだ。
年季の入ったアンプとベースケース。
人通りが多いわけでもないこの道に、
独演の準備をしている。
指先でベースを撫でる仕草は、これからの演奏に
魔術のような繊細な旋律を予感させた。
【るい】
「お、トモ! 今帰り?」
【智】
「ぜんぜん謎のベーシストじゃないし!」
るいだった。
謎じゃない上に、どっちかというと繊細の対極。
【智】
「ビルと一緒に服も荷物も全部なくなったハズなのに、どこからそんなベース一式手に入れてきたの? 追い剥ぎでもしたとか?」
【るい】
「んにゃ。こんなこともあろうかと、埋めて隠してたの。
賢いでしょ!」
【智】
「その『カシコイ』は、君の母星ではどういう意味だ」
本当に犬だった。
いつかのヌイグルミも埋めてたから、
火事で焼けなかったのか。
抱き枕埋めて、どうやって使うつもりだったのか謎だけど。
【伊代】
「犬じゃないんだから! 埋めてたって何よ!? ちゃんと洗わないとあぶないわよ、もう……。地面の下には雑菌が多いんだから」
キレの悪いツッコミが、いかにも伊代らしい。
【智】
「伊代! 昨日はありがと」
【伊代】
「こっちこそ。昨日はありがとう、……」
空白の部分は、メールなら「智」という
文字が入る部分だと推測できた。
僕たち二人の秘密のコミュニケーション。
ちょっと面白い。
【るい】
「お〜、イヨ子も来たんだ。じゃ、そろそろやるか」
るいがベースを構える。
観客は僕たちだけだ。
るいと楽器。いまいちイメージが結びつかないけれど、
一体どんな演奏を聞かせてくれるんだろう?
ジャン、と鳴らす。
【るい】
「はじまりはじまり」
女の子がピックも使わずに弾いてるとは
思えない力強い弦の音に、僕らの注意は引き戻された。
最初の一音の反響が消えようとするとき、
それに被さるように旋律が流れ出す。
ベースとは思えない旋律だ。
【伊代】
「え、あなたこれ……」
【智】
「……びっくり。すごく上手じゃない!」
【るい】
「へっへ〜、唯一続いてるシュミですから」
るいの演奏は、僕らのイメージの
遥か斜め上をいく上手さだった。
これだけの演奏が聞けたなら、ベースを埋めるという
るいの奇癖も許容できるかもしれない。
知らない間に満員御礼。
気がつくと周りには人だかりが出来ていた。
るいは瞑目し、風の匂いを嗅ぐように
ごく自然な仕草で、ベースを奏でる。
【伊代】
「あの子……ただの怪力でぺこぺこな子じゃなかったのね。
わたしすごく侮ってた」
【智】
「怪力でぺこぺこなスゴ腕ベーシスト」
【智】
「そういえば……伊代?
るいって実は僕たちよりいっこ年上らしいよ」
【伊代】
「え、え!? あ……あの人? あの方?」
【智】
「るいだから、今まで通りでいいとは思うけどね」
それにしてもよくこれだけ集ったものだ。
ベース独奏なんて渋いので、
なかなかギャラリーは作れないものだけど。
【惠/???】
「…………ふむ」
【智】
「あれ、今なんか知った顔を見たような!?」
【伊代】
「どうしたの?」
もう一度ギャラリーを見回してみる。
たしかどこかに見覚えのある姿が……。
【惠】
「…………ふむ」
あそこだ!
【智】
「うわ、やっぱりあれ惠だよ!」
才野原惠――。
初対面で、いきなり僕に
告白まがいの事をしてきた彼だ。
パルクールレースでは、体調の悪かった花鶏の代わりとなって
僕たちに協力してくれたけど……。
初対面の印象が印象だったから、
あんまりお近づきになりたくないというのが本音だ。
【智】
「見つかりたくないなぁ……」
【伊代】
「え、あの危ない感じの……王子様な彼? どこにいるの?」
【智】
「ほらあそこだよ、あそこ」
【伊代】
「え? どこ? わたし、メガネかけても視力0.8なのよ。
どこなの?」
せっかくのるいの演奏中だから、逃げ出すわけにも行かない。
なんとか気づかれないように、じりじりと死角に移動する。
【伊代】
「どこ? ん〜……どこ?」
【智】
「あんまりキョロキョロしたら、気づかれるってば」
ごちゃごちゃ話していたら、惠がこっちを向いた。
やばい、と思った瞬間――
幸運にも惠の注意をそらしてくれた人がいた。
【オバちゃん】
「ギャアアァーッ!! この人チカンヨーッ!!!」
……訂正。
人かどうかは、かなり疑わしかった。
豚とゴリラの合成生物みたいなオバちゃんが、
空気を読まずに雷鳴のような大音声で咆哮をあげた。
大魔獣の哮りに、ギャラリーの全員が何事かとそちらを振り返る。
【るい】
「お?」
るいの演奏も止まっていた。
瞬時に視線が集まる中、今にもナックルウォークしそうな
野太い腕が、背後の人物を引っ掴んで挙手させる。
【オバちゃん】
「この人ヨーッ!! この人が、
アダシのお尻触ったのヨーッ!!!!」
【惠】
「ん……なんだ?」
惠だった。
惠が……痴漢?
って言うか、そもそもそんな怪奇モンスターに
痴漢するヤツいないだろ。
生暖かく見守っていると、惠は逆に怪物の腕を掴んで引き下ろす。
何をするのかと思えば、惠はその手を導いて
自分の胸元に持って行った。
そして、ぎゅっと握らせる。
むにゅ。
【惠】
「君は誤解している。一般論として、女は女に痴漢行為をしない」
【オバちゃん】
「お? おぉ?」
むにゅ、むにゅ。
【惠】
「揉まないでくれ」
怪物の手の中でむにゅむにゅと変形するそれを見て、
ギャラリーが大きくどよめく。
だが、僕らのどよめきはそれどころじゃなかった。
【智】
「ええ、えええええ〜っ!? 惠って女の子だったの!?」
【伊代】
「あ、居た! え? 女の子!? なに、それ本当!?」
【智】
「ほら、あれ……」
【伊代】
「ほんとだ、ある」
るいのベースにもましてびっくりだ。
一度は共にチームを組んだ相手の性別に、
ずっと気づかなかったとは!
あの詰め襟の制服なら勘違いされても仕方がない、
と自分のことを棚に上げて驚く。
【オバちゃん】
「おお? おおぉ?」
むにゅむにゅ。
【惠】
「揉まないでくれ」
なるほどたしかに女の子……。
そんな風に、怪物の手による確認作業を
ギャラリーのほぼ全ての男たち(僕含む)が
注視している最中――
【本物の痴漢】
「くそっ、間違えた! 消毒しないと!!」
【智】
「あっ! 本物の痴漢!!」
【伊代】
「え、どこどこ!?」
【オバちゃん】
「おお? おおおぉ?」
むにゅむにゅ。
【惠】
「揉まないでくれ。
それよりいいのかい? 本物の痴漢が逃げたみたいだが」
痴漢行為を働いたはずの男が、
逆に悲鳴を上げて逃げていく。
本当は隣の短いスカートを履いた、
セクシーな女の子を触りたかったのだろう。
悲劇的な事故だった。
【本物の痴漢】
「お、俺だって、そんなの触りたくなかったんだよォ〜っ!」
モンスターの尻を触ってしまった痴漢は
哀れではあったが、やっぱり痴漢は女の子の敵だ。
断罪せねばなるまい。
【智】
「るいっ!」
【るい】
「逃がさないってーのー!!」
るいがベースケースに投げ入れてもらっていた小銭を、
1枚掴み出す。
るいなら十円玉1枚で十分だ。
【るい】
「うりゃっ!」
【本物の痴漢】
「ぎゃっ!!」
ヘタしたら死ぬ。
それくらいの勢いで、十円玉が痴漢の後頭部に激突。
見事、男を一撃で昏倒させた。
【オバちゃん】
「アダシのお尻を触って、タダで済むと思ってんじゃ
ないでしょうね!!!!!」
【本物の痴漢】
「ぎゃ〜〜〜〜〜〜〜!!!」
かくして、痴漢はめでたく御用となったのであった。
【るい】
「それじゃ、私、おなかすいたから帰るね」
昼間から街角でベースを弾いておなかが減ったるいは、
そのまま花鶏の家に帰っていった。
あまりにも適当だった。
【智】
「いったいどういう生活してるんだ? るいは」
【伊代】
「テクニックも一級なのに、もったいないわね……」
【惠】
「あのベースなら天下が取れる。そうは思わないかい」
気がつくと、惠が側に来ていた。
【伊代】
「いや、そんないきなり自然な感じで会話に入られても!?」
【惠】
「いきなり混じるのはまずかったかい?」
るいも変だが惠も十分変だ。
こよりもちょっと変だ。
花鶏も変だし、茜子はものすごく変だ。
こう周りが変な人間ばかりだと、
僕や伊代みたいな常識的な人間はいつも大変なのだ。
【智】
「ま、まあ会話に入るのはいいんだけどさ。でも驚いたよ!
惠が女の子だったなんて」
【伊代】
「そうね、わたしもすっごい驚いた。
ずっと男の子だと思ってたから」
【惠】
「いちいち性別を紹介してまわる義務はないだろう?」
【智】
「ははは、まったくだ」
ほんと、まったく……。
【智】
「惠って背もスラっとしてるしさ。服装も……
僕、ぜったい男の人だと思ってたよ」
【伊代】
「わたしもよ。でも何も……あんな方法で……女だってこと
証明しなくてもいいのに」
たしかに、あの観衆の前でむにゅむにゅさせるのは、
あまりにも冒険だ。
というかサービスしすぎ。
惠はいつだって平然としている。
【惠】
「そうだな……このぐらいあれば、間違えられることはないのかな?」
無造作に伊代の胸を掴んだ。
【伊代】
「きゃあぁっ!?」
ちょっと触っただけで、かなりの体積の胸肉がふるえる。
やっぱり伊代のはすごかった。
【伊代】
「あ、あなたもそうだったの!?」
伊代は、ニヤニヤ笑う某セクハラ銀髪女をイメージして後退る。
【惠】
「??? 智、どういう意味だい?」
【智】
「違うみたいだよ、伊代」
さすがに惠のその格好で、花鶏の同類っていうのは、
いろいろな意味でハマりすぎだ。
ちょっと想定してみる。
惠×花鶏
僕もカンベンして欲しかった。
少し話をしてみてわかったのだけど、
惠と僕は意外に気が合った。
しばしば謎めいた発言をするけど、全体的に好人物で、
特に女の子なのがわかって親しみやすかったのだ。
電波的な恐怖の運命論告白も、
得意の言い回しとわかって一安心。
危機は去った!
【伊代】
「それでその子がとんでもないレズでね……。
もうわたし日々セクハラを受けてるのよ」
【惠】
「なるほど。女は女に痴漢しない――というのは
当てはまらない場合もあるということだね」
【伊代】
「ええ、ええ。あの子射程範囲すっごい広いから、
誰も安心できないの」
【惠】
「僕も気をつけたほうがいいのかな? ……そういえば。
あの子はその後元気かい?」
【智】
「ん? 誰?」
【惠】
「レースの賞品になってた子だよ」
【智】
「ああ、茜子だね。元気だよ。よく意味不明なこと言ってる」
【伊代】
「うん、あなたのおかげ。本当に辛辣な毒舌を吐いてるか
寝言みたいなこと言ってるかばっかりだけどね。うふふ」
【惠】
「そうか、それは良かった。運命に導かれるままに崇高な使命の元、君たちを手助けをした甲斐があったのかな。それにしても……」
【惠】
「君たちの話を聞いていると、とても楽しそうだ。
愉快な仲間がいるのはいいことだね」
【伊代】
「愉快であるのは間違いないわね」
話し込みながら歩いているうちに、
いつのまにかずいぶんと来ていた。
三叉路にさしかかったところで、
惠が軽く手を挙げる。
【惠】
「じゃあ、ここで解散とするかい?」
【智】
「あ、待って惠」
【惠】
「何かな」
【智】
「良かったら……良かったらさ。惠も僕らのところに来てみてよ。あの高架下の粗大ゴミ捨て場になってるとこに、だいたいいつもいるからさ」
【伊代】
「そうね、あなたはあの変な子の恩人だもの。みんなもきっと歓迎してくれるわ。それになんだか……あなたって他人の様な気がしないのよね。なぜかしら?」
伊代の言葉に、惠は一瞬動きを止める。
【惠】
「……何故だろうね」
窺い知れない思いが、
惠の瞳の中に去来したように見えた。
【智】
「本当に都合がいい時でいいからさ、1回みんなに会いに来てよ。きっとみんな喜ぶからさ」
【惠】
「考えておくよ」
とにかく惠は微笑みを見せてくれた。
〔かたつむりのように〕
かたつむりたちはどこへ行ったのだろう。
昔、僕がまだ母とともに実家に住んでいた頃、
雨の日に街路樹の葉を探せば、
カタツムリの一匹や二匹は必ず見つかったものだ。
傘をくるりと回す。
学園の行き道から授業を終えて今まで、
ずっとかたつむりを探しているのに、
今日は一匹も見つからなかった。
あのくるくると巻いた貝殻が愛らしく、
見つけると庭の木の葉に移しては、
ゆっくりと這うのを飽きもせずに眺めていた。
何度連れてきてもいつの間にかいなくなってしまうのを、
幼い頃は知らない間に逃げてしまうのだと思っていた。
だけど、あのゆっくりとした歩みで、
かたつむりはどこへ行けるというのだろう。
思えば、みんな家の庭の環境に適応できず、
死んでしまったのかもしれない。
残酷なことをしたと、
後悔することしばしばだ。
【智】
「かたつむりさん、かたつむりさん。連れて帰らないから、
どこかに居ませんか〜?」
かたつむりは、環境指標生物なのだという。
移動能力の乏しさゆえに生育環境が悪化しても
逃げることがかなわず、環境に合わせて形態を
変化させるしか生き残るすべがない。
結果として環境を如実に反映する生物となるのだが、
最近はもう、都市部では数そのものが激減してきている。
適応しきれないほどに環境が悪化しているのだ。
思えばこの街も、開発の手が入って大きく様変わりした。
【智】
「やっぱり居ないか……」
そんな風に物思いに沈んでいると、
バシャバシャと水しぶきをあげながら追いかけてくる足音があった。
【伊代】
「はぁ、はぁ、はぁ……っ! あ、あなたちょっと、
話が……はぁ、はぁ、はぁ……」
伊代が息を切らしながら、
惠を引っ張っていた。
惠は、きょとんとした顔のまま伊代に
手を引かれてやってきて、何気なく僕に挨拶する。
【惠】
「やあ、智」
【智】
「…………どういう状況?」
都会でかたつむりを見つけるより、珍しい状況であることは
確かだった。
【伊代】
「学園からの帰り道、この子が一人で傘もささずに雨の中を歩いてるのを見たのよ。わりと雨が強いのにゆっくり歩いててね。
それで見ていられなくて、傘に入れてあげたのよ」
【智】
「うん」
確かに人間は二人、傘は1本。
そういう状況はなんとなく予想がつく。
だけど肝心の、伊代が惠の手を引っ張って走ってきた状況の
意味がわからない。とはいえ、焦ってはいけない。
伊代の話は、いつもこんな風にテンポが悪い。
【惠】
「時には雨もいいと思わないか?」
【伊代】
「風邪ひくでしょ。風邪は万病の元っていうくらいだから、
甘く見ないほうがいいと思う」
【惠】
「ご忠告痛み入る。雨の良さは忘れよう」
【智】
「それで、なんで走ってきたの?」
【伊代】
「それで……、あ、それ。……それで服もびちょびちょだったから、
ちょっと傘を持ってもらって服を絞ってあげたのよ。こう、袖の
ところとか裾のところとか……」
【智】
「うん。絞り方はいいから」
【伊代】
「……ごめん。それで上着の裾のところを絞ってたら、
偶然見えちゃったの……これが」
惠の制服の裾を、ぺろりとめくる伊代。
【智】
「わ……なにをいきなり……!」
雨に濡れて透き通りそうな白いおなかが見えて、
思わずドキっとしてしまった。
だが、僕の目はすぐに違うものに釘づけとなる。
【惠】
「………………」
【伊代】
「これ……、そうでしょ?」
【智】
「…………うん」
真っ白な惠の脇腹、肋骨の下端あたりには、
決して見紛うことのない『印』があった。
呪いの、痣。
それは、僕らと同じ生まれながらにして
呪われた者であることを証明する刻印だった。
激しさを増す雨の中、それでも僕らは家路を辿らず、
馴染みの高架下にやってきていた。
そこには、同じように家よりもこのコンクリートの
無骨な屋根を選んで逃げ込んできた仲間たちもいた。
【3人】
「ええ〜っ!!?」
【茜子】
「まじですか」
【智】
「まじです」
【惠】
「他にも、この呪いを持ったものが居たなんてね……」
【伊代】
「ホント、道理で他人に思えなかったのよね。知らないだけで、
他にも仲間っているのかしら?」
【智】
「いっぱい居たら……結構楽しいよね?」
雨はいよいよ激しさを増して、豪雨となった。
これでは、傘をさしたところでびしょ濡れだ。
僕たちは望むと望まざるとに関わらず、
この高架下で雨宿りするしかなかった。
【伊代】
「そうだ。あなた、ちゃんとこの子にお礼言っとかなきゃダメよ。あなたの恩人みたいなものなんだから……」
伊代に促されて、茜子が惠の前に出る。
茜子はわりと意外に、素直にペコリと頭を下げた。
【茜子】
「あの時はありがとうですペコリー。お礼に茜子さんがあなたに、超シビれる超かっこいい超ニックネームをつけてあげましょう」
【伊代】
「こら、あなた何言って……」
【惠】
「いや、嬉しいよ。どんなニックネームかな?」
【伊代】
「ん……そう〜?」
【智】
「伊代、僕らは仲間なんだから、
そんなに堅苦しくしなくていいって。
ほら茜子、惠にもなんかいいあだ名つけてあげてよ」
【茜子】
「OK。最適愛称計算プログラム起動……ピーガーピーガー」
茜子は勿体つけて変な演出を始める。
【惠】
「計算……、姓名判断にでも基づいた名前を貰えるのかい?」
【こより】
「茜子センパイの言うことは1から10まで聞き流したほうがいいですから!」
【花鶏】
「それより誰か、その大時代的な機械音につっこみなさいよ」
【惠】
「おや、君はたしかレズビアンだったね」
【花鶏】
「ぶッ!! そうだけど!?」
【智】
「天然だ」
【るい】
「天然だ」
【こより】
「天然です」
雑談に興じていると、茜子が急に両手を
頭の高さに上げて、カッ! と両眼を見開いた。
どうやら、最適愛称計算プログラムとやらの
処理が完了したらしい。
【茜子】
「オマエ ノ アダナ ハ 『天然マンレディー』 デス!」
【伊代】
「そのカクカクした喋りはどういう演出なの?」
【智】
「天然はわかるとしても、マンなのにレディーってどういうこと?」
【花鶏】
「え? レディーだからマンなんでしょ」
【こより】
「ここに、なんでもすぐ性的なことに結びつける人がいまーす!」
【伊代】
「え? どういう意味? なんでみんな笑ってるの?」
【惠】
「…………は」
唐突に、惠が笑い出した。
【惠】
「……はははは、ははははははははっ!」
最初は、僕らのあまりの馬鹿馬鹿しさに、
呆れて失笑したのかと思ったけど……。
【惠】
「はははははは、あはははははははは!」
止まらなかった。
【智】
「……惠?」
【茜子】
「ばかうけだ」
【るい】
「笑うのはいーことだよ。うんうん」
【惠】
「ははは、はは……いや、済まない。ここはいい……
本当にいい……。仲間がいるというのは、楽しいものだね」
目元の涙を拭った惠。
本当に心から楽しそうで、
生まれて初めて笑ったみたいに見えた。
雨は降り止まない。
粗大ゴミのたまる陰気なはずの高架下が、
仲間たちの明るい声で満ちた。
【智】
「ねぇ、最近、かたつむり見た?」
そんな風に、ほんの他愛ない話をしながら。
あたりはすっかり暗くなってしまった。
時計を見ると、もう夜の7時を回ってる。
雨は全然止む気配を見せない。
門限なんてないけれど、いつまでも雨宿りを
しているわけにも行かなかった。
【花鶏】
「止まないわね……。わたし、そろそろ帰るわ」
【茜子】
「はい。そこのミス・ペコリーナも限界でしょうし」
【るい】
「うう……ごはん……」
花鶏は年季の入ってそうなこうもり傘を広げて、
るいを引き込む。
茜子はなぜか、子供が着るような
黄色いカッパを用意していた。
【こより】
「鳴滝もそろそろ帰ります。止みそうにないですし」
【智】
「そうだね。伊代、惠、僕らもそろそろ帰ろうよ」
【伊代】
「そうね……。明日は晴れって言ってたのに。
夜中から晴れるのかしら……」
【惠】
「春の雨なら悪くはないさ」
惠はまた、傘もささずに雨の中へ出て行こうとする。
【伊代】
「ちょっとあなた、せっかく乾いたのに、また濡れて帰る気?」
【惠】
「今度までには傘を取り出す手品を覚えておこう」
【伊代】
「そういう時は、友達に『傘に入れて?』って頼むものよ」
【惠】
「……そうか。そういうものか」
【惠】
「じゃあ、傘に入れてくれないか?」
【伊代】
「喜んで」
伊代の傘に惠が入って、
その隣に自分の傘をさした僕が並ぶ。
一時ほどの勢いは失せたけれど、
長引きそうな雨だった。
街灯の光が反射する雨の夜道を3人で歩く。
【惠】
「智、さっきのかたつむりの話だが……」
【智】
「なに?」
【惠】
「君の話はいつも興味深い」
【智】
「え? それは……どうも」
【伊代】
「本当に、最近見ないわね」
【惠】
「僕たちだって、かたつむりのようなものじゃないか?」
【智】
「僕たちが?」
惠の話は、いつも唐突で謎めいている。
【惠】
「この呪いは、いつ生まれたのか? どれだけの時代を
受け継がれて来たのか」
呪い――
俄かに雨音が強く聞こえる。
どれだけ冗談を飛ばしても、
どれだけ笑っても、そいつは決して振り払えない。
暗闇の奥に幻視する怖れの形。
僕らをいつも見張ってる。
【惠】
「呪いを背負った者は、変化する環境にさまざまに対応してきた
だろう。だけど、そろそろ無理が来てはいないか?」
【伊代】
「…………」
【惠】
「僕たちは、僕たちにとって悪化する環境の中でどこへも
逃げられずに、いつかは呪いに捕まるんじゃないだろうか?」
僕たちに掛けられたこの呪い。
いつから存在したのだろう。
どうしてはじまって、
今まで受け継がれてきたのだろう?
たとえば僕の家系の祖先は?
人里離れて山に隠棲でもしていた?
大昔なら、そういうことも可能だったと思う。
時代が進むごとに、
人は生活の安定と引き換えに自由を奪われた。
規格化して、列に並べて、管理する。
列からはみ出れば攻撃される。
イレギュラーな存在は排除するのが現代の正義だ。
こっちは、生まれながらに列に入ることさえ
できないでいるというのに。
【智】
「追い詰められた生き物だね」
【惠】
「ああ、そうだ」
【智】
「でも、逃げられない僕たちは環境に適応する。……呪いを
隠すことでね。大丈夫、僕たちだって生きていけるよ」
【伊代】
「そうよ。わたしだってこの呪いには不便してるけど、
今はメールがあるから、もしかしたら昔の人よりも恵まれてる
かも知れないし。ね、……」
伊代の唇から、言葉を読む。
「ね、智」か……。
【智】
「環境は悪くなったばかりじゃないよ」
【惠】
「そうかも知れない」
ちらちらと明滅する街灯の下。
岐路で僕らは立ち止まった。
【惠】
「傘はここまででいいよ。親戚にカタツムリがいてね、
濡れていくのもちょうどいい」
【伊代】
「この傘あげるわ。ううん、遠慮しないで。どうせ安物だし」
【惠】
「いいのかい? それじゃあ伊代が濡れてしまうのでは?」
【伊代】
「大丈夫。いい? 自分の傘がない時はこうするのよ」
指を1本立てながら、まるで惠のお姉さんのように振る舞う伊代。
そして僕の方へと向き直る。
【伊代】
「ねぇ傘、入れて?」
【智】
「……喜んで」
自分の傘を惠に渡すと、伊代は僕の傘に入ってきた。
僕に身を寄せるようにして、惠に笑いかける。
【伊代】
「ね、簡単でしょ?」
【惠】
「ああ……。まったくだ」
惠も伊代に笑みを返してくれた。
僕も自然と微笑みがこぼれる。
人よりも不器用であるがゆえに、真剣に人と
付き合おうとする伊代の態度は眩しかった。
【智】
「それじゃ、僕は伊代を送っていくよ」
【伊代】
「またね」
しとしとと降りつづける雨に手を濡らさないよう、
傘の下で小さく手を振る。
雨の夜は、季節を一つ跳び越えたみたいに
冷え冷えとしていたけれど、傍らに伊代がいれば
暖かになる気がした。
小さな傘で二人分の雨を避ける。
別れ際、惠が僕らを呼び止めた。
【惠】
「見てくれ」
惠が指差す方向には、ただ民家の壁。
でも、よく目を凝らすと――
【智】
「あ……」
【伊代】
「かたつむり」
そこには小さなかたつむり。
壁に生えたわずかな苔を餌としているんだろう。
【智】
「それって惠の叔父さん?」
【惠】
「叔母さん、というのはどうかな」
【惠】
「智……僕らもこの小さな生き物のように、逞しく生き延びていくことが出来るのだろうか?」
【智】
「できるよ。きっと」
【伊代】
「わたしは絶対、って言う」
【惠】
「……ありがとう。この先も、君たちの上に幸運があるように」
雨の向こう。
惠はずっと僕たちを見送っていた。
〔難民問題対策委員会〕
【智】
「は〜い」
学園から戻ってとりあえずカバンを置いて、そろそろみんなの
とこに出かけようかな……と思っていたら、インターホンが鳴った。
一応、身だしなみをチェックする。
偽造女の子である僕は、いつだって容姿のチェックを
怠ってはならない。
もともとヒゲとかは生えない体質みたいだけど、
ある日突然モジャって来ないとも限らないし。
【智】
「うん、ちゃんと女の子♪」
急かすように、またインターホンが鳴った。
ずいぶんせっかちな来客だ。
【智】
「は〜い、今出まーす」
【茜子】
「えへ、来ちゃった」
【智】
「はい」
抑揚のない不気味なボケを、練達のマタドールのように
スルーしつつ、ドアをさらに開く。
【るい】
「えへ、来ちゃった」
【花鶏】
「二人が来たいって言うから、来てあげたわよ」
【智】
「はい?」
【花鶏】
「るいも茜子も上がって?
自分の家と思ってくつろいでくれていいわ」
【るい】
「おじゃましまーす」
【智】
「ちょっと待った、話が見えないよ!? 不可視だよ!?
インビジビリティだよ!?」
【茜子】
「まあ、積もる話は、とりあえず上がりこんで風呂に入って
飲み食いして一眠りしながら」
【智】
「眠りながら話せない!」
【花鶏】
「ベッドで教えてあげるって言ってるのよ」
とりあえず近所迷惑なので、
渋々三人は部屋の中に入れた。
【智】
「それで、一体どういう話なの?」
【るい】
「実は全員、住むとこなくなっちゃってさ」
【智】
「は?」
【るい】
「私はまた野宿でもいいんだけど。アカネがトモの家行こうって
言うから……」
【茜子】
「このロシアン落ちぶれ貴族が、家族と喧嘩しやがったのです」
【花鶏】
「大お爺さまの悪口を言うなんて許せないわ!
それに家の再興なんて意味がないとか言って!」
話がようやく見えてきた。
花鶏が、ご両親と揉めて家を飛び出してしまったらしい。
それで、居候のるいと茜子もとばっちりを受けて、
宿無しになってしまったというわけか。
【茜子】
「つまり、この零落貴族が幻想を引き摺った挙句、
現実を諭されてキレた、ということです」
【花鶏】
「茅場、お前絶対死なす」
【智】
「話はわかったよ。わかったけど……」
このワンルームに三人も泊めるのは無理だ。
スペース的に可能でも無理。
女の子三人とワンルームで同居とかもう、
どんなホラー映画よりも恐ろしい状況だ。
るいを一晩泊めただけで、
180回くらい死に掛けたって言うのに。
【智】
「だ、ダメだよ!? ウチはほら狭いし! ダメ、ぜったい!」
【るい】
「ほら、智は自分のナワバリ守りたい子なんだって」
【茜子】
「茜子さんが家に住み着くと、その家は栄えると言われてますよ」
【智】
「座敷わらしじゃないから」
【花鶏】
「毎晩、天国への階段を昇らせてあげるわよ?」
【智】
「キリシタンじゃないから」
【花鶏】
「茅場や皆元は可愛くないから、一緒にいても楽しくなかったのよ。でも智と一つ屋根の下なら、わたし、こんな狭いところでも我慢できるわ!」
【智】
「ダメ絶対!!」
とにかく断固拒否。
3人もの可愛い女の子に囲まれて……ってのは男ドリームだけど、
そのせいで呪いを踏んで死んじゃったりしたら、
あまりにもかっこ悪い。
【智】
「とりあえず、みんなのとこに行こうよ。
誰かいいアイデアあるかもしれないし」
【るい】
「あの高架下、屋根あるし住めるよね?」
【花鶏】
「そんなの、わたしは絶・対・イヤよ。野宿とかありえないから」
【茜子】
「茜子さんは、高架下の土地に全10層のダンジョンを掘って住むとかなら賛成です」
【智】
「工事費を捻出しようね」
災厄というのは、
一つ起きると連鎖的に発生するものだ。
【花鶏】
「なにこれ?」
【るい】
「昨日までなかったのに!」
【茜子】
「本格的に難民になりつつあるみたいです」
【智】
「不法投棄対策〜!?」
僕らが懇意(こんい)にしていた高架下の溜まり場は、
一夜にして奪われてしまった。
スペースがまるまる背の高いフェンスに
囲まれてしまっていたのだ。
どうやら、僕らが学園で勉学に
励んでいた間に施工されたらしい。
真新しい銀色のフェンスには、
『立入禁止』『不法投棄禁止』の札が。
今まで転がっていたもろもろの粗大ゴミも、
綺麗さっぱりと撤去されていた。
【智】
「そ、そんなぁ〜。ここ気に入ってたのに〜」
【るい】
「私のなわばり、取られた〜!」
【花鶏】
「がちゃがちゃしないで、うるさいから」
【茜子】
「これでは、ダンジョンを掘っても、きっとすぐ
埋められてしまいます」
【智】
「どうしよう……」
不法投棄対策に、地方自治体が動いたらしい。
恨みがましくフェンスに張り付く。
金網の向こうに、僕らの書いたスプレーの落書きが見えた。
未練たっぷりにガシャガシャ鳴らしていると、伊代とこよりも
やってきた。
【こより】
「うは……これは……!」
【伊代】
「まさか1日でこんなことになるなんて……。だいたいゴミを
捨てるのにお金を取ったりするから、不法投棄が増えてこんな
無駄なスペースを作ることになるのよ!」
伊代の方向のズレた怒りは置いとくとして。
【智】
「実は、溜まり場が奪われたことよりも大きな問題があって……」
【こより】
「まだあるんですか〜? なんです? 智センパイが妊娠したとか?」
【智】
「してない」
花鶏の影響か、エロ浸食されているこよりんだ。
【伊代】
「なんなの? 聞かないで済ませられることじゃないなら、
いっそまとめて聞いておきたいわ……」
【智】
「うん、実は……」
【るい】
「花鶏がケンカして家を飛び出したから、私たち三人とも
住むとこがなくなっちゃったんだ」
あっけらかんと、るいが事情を話す。
いざとなれば野宿をものともしないるいは、
流石に強かった。
【伊代】
「無理よ?」
【こより】
「無理ですよ?」
即答。
まだなにも言ってないのに……。
【花鶏】
「でも、わたし、こよりちゃんの家へのお泊まりなら、全然我慢
してあげられると思うの! 一緒に食事、一緒にお風呂、一緒にベッド!」
【こより】
「たとえ泊めることができても、花鶏センパイだけは拒否します」
【茜子】
「茜子さん泊める、イイヨ〜。
お金儲かる、もてる、ハッピー舞い込むネ〜」
【伊代】
「なぜ意図的に、より泊めたくなくなるような発言をする?」
【智】
「二人とも実家住まいだからね。無理だとは思ってたんだけど……」
【るい】
「私、また廃ビルか工場でも探す。住めば都だし」
【花鶏】
「皆元みたいな野性動物と一緒にしないでよ。
わたしはこう見えても良家の令嬢なんだから」
【茜子】
「元・良家」
【花鶏】
「死なす! 絶対死なす!」
【智】
「うわ〜! どうしたらいいんだ〜!」
にっちもさっちもいかなくなって、思わず叫び声を上げてしまう。
【惠】
「変な叫び声を上げて、いったいどうしたのかな?」
【智】
「あ、惠……」
惠の登場に、少しだけ我に返る。
【惠】
「やあ、今日も変わらず賑やかだね…………おや?」
さすがに惠も、変わり果てた溜まり場の様子に気づいて
眉をひそめた。
【惠】
「これは……」
【伊代】
「ひどいでしょう? 昼間のうちに工事されちゃったみたいなのよ」
【惠】
「たしかに、これはひどいね……」
【智】
「いや、それよりも、もっと困ったことがあって……」
【惠】
「……聞こうか」
【智】
「実は……」
【惠】
「ふ〜む……」
難民問題の話に、惠は少し考え込むそぶりを見せた。
【伊代】
「まあ、こんなこと、あなたに話したところでなんの解決には
ならないんだけどね……グチにしかならないわ」
伊代の言うことはもっともだけど……
言わずには居られないときってのもあるんだよね。
【智】
「ここに来れば、誰かからいいアイディアをもらえないかなって
期待してたんだけど……なんだかそれどころじゃなくなったねぇ。これからどうしよう?」
【惠】
「いや、そうでもないんじゃないかな?」
【智】
「え? どういうこと?」
【惠】
「そこの三人さえよければだけど……屋敷の空き部屋に住む
というのはどうだろう?」
【みんな】
「あるの!?」
【惠】
「ああ、ほとんどが空き部屋だ」
【惠】
「……そうだ、伊代。こんな時、仲間ならお願いすれば
いいんじゃなかったかな?」
【伊代】
「え……?」
惠はニヤリと笑って言った。
昨日の傘のことを言っているのだ。
伊代も思わず苦笑する。
【伊代】
「ええ、そうだったわよね……。
あなたたち、泊めてもらえるように頼んでみたら?」
【るい】
「やっぱり屋根と壁がある方がいい」
【茜子】
「茜子さんも泊めてください。
できれば秘密の地下室とか開かずの間とかに」
【花鶏】
「そ、そうね……泊まって欲しいというなら、わたしだって
考えてみなくはないわ」
殿様発言きました。
【惠】
「ふふ、なるほど。では、僕からお願いするよ。どうか我が家へ
おこし願えないだろうか。残念ながら秘密の地下室はないけれど、ね」
【智】
「ねえ、どこにあるの?」
【惠】
「………………」
招待する、と言って歩き出した惠だったけど……。
道中一度も振り返らないし、
一言も説明してくれなかった。
後をついて行く僕たちは、
どんどん人気のない郊外に連れて来られ……、
なんだかだんだん不安になってきてしまう。
あたりには人影がなく、
なんだかとても寂しい場所で……。
【智】
「惠……、いったいどこまで行くの?」
【惠】
「僕の家さ」
【智】
「それはわかるけど……」
【花鶏】
「ずいぶん距離があるのねえ……そろそろ疲れて来ちゃったわ」
【伊代】
「文句言う前に、ありがとうでしょ!」
【花鶏】
「はいはい、ありがとうございます、おっぱい様〜」
【伊代】
「わたしに言ってどうするのよ! あなたたちもちゃんとお礼言いなさいよ!? そういうとこは、やっぱりきっちりしないといけないと思うわ!」
【茜子】
「アリガトゴザマース」
ちゃんと家に帰れだとか、
親と仲直りしろだとか……そういうことを言わない割には、
礼儀をわきまえない行為は厳しく注意する。
伊代独特の倫理基準だ。
真面目なんだか不真面目なんだかわからない。
【るい】
「壁があるところだと助かるんだけどな」
【こより】
「るいセンパイ、壁がないのは普通、家とは呼べないです」
【智】
「念のため聞くけど……惠は、廃墟とかには住んでないよね……?」
惠の身なりやキャラ的にも、
まさかるいのようなワイルド生活は営んでいないとは思うけど。
周囲は動いてるのかどうかわからない工場と、
雑草だらけの空き地。
何某建設予定地という札が、
汚れて読めないほど古くなって立っていた。
民家も一様に陰気な気配を漂わせていて、真新しい新聞が
入っていても廃墟に見えてしまう。
そんな道を歩きながら不安と期待をモヤモヤと弄んでいると、
出し抜けに惠が立ち止まった。
【惠】
「ほら、そこだ」
惠の指が差した方向を追って、僕らは一斉に顔を上げる。
【智】
「え? ここ……」
【こより】
「こ、これは……!」
【花鶏】
「でか! ウチよりでか!」
【るい】
「ここ!? ホントにここなの!?」
【茜子】
「……しかしこの時はまだ、世にも忌まわしい、あの凄惨な事件が起こることなどとは、私たちは夢にも思わなかったのである」
【伊代】
「意味もなく不吉なこと言うんじゃないの!
すごいじゃないあなた。まるで外交官の家みたい……」
僕たちの目の前に建っていたのは、余りにも仰々しい、
時代から取り残されたような明治風の日本式洋館だった。
【惠】
「ようこそ、君たちを歓迎する」
〔大貫屋敷へようこそ〕
【こより】
「惠センパイ! ホントにおっきい家ですよね!
うっは、なんか鳴滝ドキワクですよう!」
【伊代】
「すごいお屋敷ね……。さぞかし歴史のある建物なんでしょうね。戦前から残ってたの?」
【惠】
「さぁ、調べたことがないな。家は居住できればそれでいい」
ワイワイと騒ぎながら、
蔦(つた)の絡まるいかめしい鉄門を潜る。
【佐知子/メイド】
「お帰りなさい、惠さん」
【浜江/老婆】
「お帰りなさいませ、惠さま」
リアル家政婦さんが二人も現れた。
ますますお屋敷っぽい……。
【惠】
「彼女たちは屋敷の客人だ。中でも、花鶏、るい、茜子の3人は
事情があってしばらくここに逗留する。余っている部屋を
使わせてあげて欲しい」
【浜江/老婆】
「左様で御座いますか。かしこまりました」
小さく手を挙げて、
惠は老婆に指示を出す。
どうやら惠は、
本当に本物のお嬢様みたいだ。
内心感心しながらも、あまり騒ぐとかっこわるいので、
みんなして大人しく屋敷の中に招じ入れられる。
【惠】
「さぁ、みんな入るといい」
【伊代】
「え、ええ。お邪魔します……」
【浜江/老婆】
「それでは失礼致します」
【佐知子/メイド】
「私も失礼します」
家政婦の二人が下がる。
大きな扉をくぐって玄関の中へと踏み込むと、
ヒヤリとした感触が肌を撫でた。
まだ夏前だというのにもう冷房を
効かせているのかと思ったけど、それは違った。
冷気そのものが錯覚だ。
邸内の気温はむしろ、外より高い。
仄暗い照明に照らされた空間の広がりと、
生活感が希薄さが僕に錯覚を起こさせたのだ。
【こより】
「鳴滝、はじめて本物のメイドさん見ました……って、あれ?
メイドさんたち、どこいっちゃったんですか?」
【惠】
「ああ、裏だよ。彼女たちは、裏の通用口から出入りしている」
【こより】
「ほ、本物の香りがします!」
【茜子】
「かなりのリアルノーブル感です。今度からは貴族と呼びましょう」
【花鶏】
「これはウチより広……、うぐ、おほほほ」
【るい】
「無理すんな、エセお嬢」
【花鶏】
「エセじゃないわよ! 真性野生児のくせに、何を言う!」
【るい】
「なんだとう!?」
【花鶏】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
玄関ホールでいきなり揉めた。
【智】
「……すごい」
目を奪われる。
吹き抜けのホールに重厚な手すりの付いた階段や、
お決まりの剣を持った甲冑が対であったりと、
全部が洋風かと思えば、階段下の扉の上には、
精緻な透かし彫りの板をはめた欄間があったりして、
和風テイストも見え隠れする。
和風建築と洋風建築の入り混じった不思議な壮麗さを
秘めていて、外からの威圧的な印象とは異なり、
洋館の中はずっと繊細な造り込みがなされていた。
これだけ大きいお屋敷に住んでいるんだ、
惠の家はさぞかし大家族なんだろう。
【智】
「惠、ご家族の方にも挨拶しないといけないよね?」
【惠】
「いや、ここには、他には誰も住んでいないよ」
【伊代】
「え、じゃあ、あなたとさっきのお二人だけで住んでいるの?」
【惠】
「そうさ」
【伊代】
「それは……寂しいわね」
【惠】
「しかし、智は一人で暮らしているじゃないか?
そちらの方が寂しいんじゃないかな?」
【智】
「いや、まあ……どうなんだろう……」
返答に困ってしまう。
【惠】
「三人が泊まってくれれば、賑やかになるさ」
【こより】
「賑やかすぎることになるかもしれないですけど……」
そうこうしているうちに、
裏から回ってきた家政婦の二人が玄関ホールまで戻ってきた。
【佐知子/メイド】
「お待たせしました。皆さんお寛ぎになって下さい。
今、お茶をご用意しますので」
【惠】
「ああ、その前に、二人を紹介しよう。こちらは佐知子、
主に屋敷の掃除や買い出しを担当してくれている」
【佐知子】
「芳川佐知子です。よろしくお願いします」
若い女性のほうが頭を下げる。
飾らない笑顔が、親しみ易そうな印象だった。
【惠】
「それからこちらは浜江。主に屋敷の家計と料理を
担当してくれている」
【浜江】
「沖浜江と申します」
次に深々と礼をしたのは老婆のほうだった。
慇懃(いんぎん)な言葉遣いながら表情はぴくりとも動かず、
この屋敷の外観のように厳めしい印象だ。
【惠】
「花鶏、るい、茜子。この三人がここに泊まることになる」
【花鶏】
「よろしくお願い致します。お世話になります」
【るい】
「ぅ……えと、その……よ、よろしく」
【茜子】
「見ての通り猫かぶりと人見知りです。茜子さんだけは
クールな常識人なので二人のフォローに尽力します」
【伊代】
「一番の問題児が何を言ってるの!?
あなたの口から常識人とか出てくるなんて信じられない!!」
【佐知子】
「うふふふ、賑やかで楽しい方たちですね。歓迎します」
【茜子】
「まったくです。賑やかで騒がしいおっぱいメガネです」
【伊代】
「あ……、あはは……」
茜子に乗せられて思わず人前で熱くなってしまった伊代は、
恥ずかしげに身を縮める。
気まずそうな伊代を察して、
惠がすぐに紹介を続けてくれた。
【惠】
「それから、こちらが伊代」
【伊代】
「よ、よろしくお願いします……」
【惠】
「こちらは智」
【智】
「よろしくお願いします」
【惠】
「そして、こより」
【こより】
「フツツカなセンパイがた三人を、
よろしくお願いする次第でありますっ!」
【花鶏】
「だ・れ・がっ、不束モノですってっ!?」
【こより】
「うひぇえぇぇぇ〜っ! やめて、襲わないで、穢さないで〜っ」
【るい】
「アカネ、フツツカってなに?」
【茜子】
「『仏国から来た遣い手』の略です。フランス殺法です」
【るい】
「へぇー」
【伊代】
「こ、こら! なにウソ教えてるのよ! そちらも素直に信じない! まったくもう、はしゃぎすぎはいい加減にしなさい!
恥ずかしいじゃないの!」
【佐知子】
「うふふふ……。本当に面白い方たちですね、惠さん」
【惠】
「ああ、恋人たちだからね」
【智】
「恋人違う!」
【佐知子】
「まあ、ふふふ」
【智】
「伊代も、ほら、落ち着いて落ち着いて」
【伊代】
「あぅ……」
佐知子さんの笑顔は優しかった。
この人とはうまくやって行けそうな気がする。
だけど……。
【浜江】
「………………」
老婆の浜江さんの方は、隣で佐知子さんが
笑っていても眉一つ動かさず、むっつりと押し黙ったままだった。
この人はもしかしたら、茜子より表情が動かないかもしれない。
【惠】
「みんな、家の中を案内しよう。戻るまでにお茶の用意を頼む」
【浜江】
「かしこまりました。惠さま」
いくつドアを通り過ぎただろう?
【伊代】
「本当に広いのね……」
【惠】
「不便なものだよ」
使われていない部屋がほとんどで、
人気がまるでない。
そのせいで、この屋敷には
寂しげな空気が満ちているのだろう。
【るい】
「こことか、なんかドアもかっこいいし、いいんじゃない?」
【花鶏】
「ドアで決めるなって……うわ、ゲホ! ゲホ!」
通りのドアの一つをるいが勢いよく開くと、
もうもうと埃が立ち昇った。
【惠】
「ケホ、ケホ……、こ、ここは……」
【智】
「ケホ……すごい埃……」
【伊代】
「ここは……?」
【こより】
「うは、蜘蛛の巣とかも張ってますよう……ケホケホ」
埃にむせながら苦しげに咳き込む惠というレア姿を、
ちょっと新鮮な思いで楽しんでみる。
【智】
「……ここは一体なんなの?」
【惠】
「……ああ、済まない。別にここが特別という訳じゃないんだ」
【惠】
「家の掃除は佐知子がほとんど一人でやってくれている。
だから使わない部屋まで掃除していられないんだ。
この屋敷のほとんどの空き部屋はこんな感じなのさ」
【智】
「じゃあ、使うには掃除しないとダメだね」
【惠】
「ああ。酷いありさまだ。佐知子に後で掃除させておこう」
【るい】
「こっちが世話になるんだし、自分で掃除する!
んで私、ココの部屋がいい!」
【伊代】
「あら、意外と律儀なのね。
あなたもっと大雑把な性格だと思ってたわ」
【るい】
「るいねーさんはね、義理と人情の為なら、飢えにでも耐えられる
よいこなの」
【智】
「へえ、るいにしては感心だね」
【伊代】
「ええ、見直したわ。そうよね、やっぱり世の中には通すべき筋という物が常にあるものなのよ。そういうものは明確にルール化できるものじゃなくて、自分の中でしっかりと……」
長いくどいマイ倫理論を語りながら、
伊代がるいを褒める。
花鶏と茜子の二人が温度の低い視線を、
るいの背中に送っていた。
余計なこと言いやがって――
目は口ほどに物を言う……
二人の表情は、露骨にそういっていた。
【花鶏】
「わたし、育ちがいいから部屋の掃除なんてしたことないわよ」
【伊代】
「そんなのいいワケないでしょ。
あなたも自分の部屋くらい掃除するのよ。泊めていただくんだから、それぐらいするのは常識でしょ!」
【茜子】
「今までずっと秘密にしてきましたが、茜子さんは掃除をすると
死ぬ病気なのです!」
【伊代】
「そんなわけないじゃない! ふざけてると承知しないわよ!」
【茜子】
「人権侵害……!」
【智】
「まあまあ、みんなで掃除しようよ。惠の家って古くていろいろ
ありそうだから、たぶん掃除も面白いよ」
【こより】
「おおお、宝探し的楽しみですねっ! 鳴滝手伝いますよっ。
お宝を発見して、鑑定番組に持ち込みましょう!」
【惠】
「ははは、それはいい。もしも価値のあるものが見つかったら、
掃除したみんなで山分けにしようか」
【茜子】
「俄然やる気でました」
【花鶏】
「フッ……今こそわたしの力が必要なようね」
【伊代】
「まったく、現金な人たちなんだから……!!」
静かな舘の中に騒がしい声を撒き散らしながら、
僕らは方々の部屋を散策した。
本当に空き部屋が多く、もともとこの屋敷には
一体何人の人間が住んでいたのかと疑問にすら思う。
埃にくすんだ窓から外を見る。
庭も、草木が繁茂するに任されていて荒れ放題だ。
【惠】
「庭の管理にまで手が回らなくてね」
【智】
「そうなんだ。こんなに広いもんね……」
【伊代】
「仕方ないわね。たった三人で住んでるんですもの」
【るい】
「チェーンソーでドガガーって切ったら楽しそうだなあ」
もっとも、木々を伐採して一時的に外面を整えたところで、
これだけの広さの庭を継続して管理し続けていくのは難しいだろう。
そんなことを思いながら庭を見ていると、
佐知子さんが僕たちを呼びに来てくれた。
【佐知子】
「ああ、ここに居たんですか。お茶の用意が出来ましたので、
どうぞ食堂の方へおこしください」
【惠】
「……だそうだ。お茶にしようか?」
【みんな】
「賛成〜!」
【花鶏】
「あら、いい香り……」
【佐知子】
「ありがとうございます。特別に取り寄せた紅茶なんですよ」
【茜子】
「没落貴族が知った口を」
【花鶏】
「茅場! 今死なす!
このティーカップに収まるくらい圧縮してやるわ!」
【茜子】
「きゃあこわいわ。野蛮人だわ。たすけてえ」
【花鶏】
「この……! この……!!」
宿無し三人娘もそれぞれに自分の部屋を決め、
僕たちは食堂で、佐知子さんの入れた紅茶で
一息ついていた。
【佐知子】
「このような場所ですみません。これだけの大人数のお客様を
おもてなしできる部屋がご用意できなかったものですから……」
【伊代】
「いえ、そんなこと気になさらないで下さい。
わたしたちがいきなりお邪魔しただけですから。
ほんと、こんなにしてもらえるだけでも」
【智】
「伊代だなあ」
【惠】
「伊代だね」
【伊代】
「なに? ……なに?」
一人だけ訳がわからないで、
ハテナマークを浮かべていた伊代。
と、ふと、なにか思い出したような顔をした。
【伊代】
「そういえば……表札の名前、あなたの苗字と違ったんだけど……?」
【智】
「え、ぜんぜん気づかなかった。みんな気づいた?」
【るい】
「ぜんぜん」
どうやら蔦(つた)に隠されていて、
伊代以外は気がつかなかったらしい。
【惠】
「ああ、ここの表札は『大貫』という名だね」
【伊代】
「えっと、親の旧姓とか?」
惠は実質、ここの主のように扱われているけれど、
本当は一体どういう立場なんだろう?
【惠】
「……この屋敷は仕組みなんだよ」
【伊代】
「え、それってどういう……」
【惠】
「…………」
【智】
「伊代」
さすがの伊代も、それに気がついた。
【伊代】
「……ごめんなさい。そうよね、言い難い家庭の事情とかも
あるものね。詮索するようなこと聞いて……」
【惠】
「いや……、伊代が気に病むことじゃない」
惠の表情が陰った気がした。
静かになってしまった食堂で、紅茶を一口含む。
華やかな香りが口中を満たした。
【佐知子】
「あ、あら。私お茶菓子を用意するの忘れてました。
紅茶のおかわりと一緒にすぐに用意しますね!」
【るい】
「あ〜、私、甘いの駄目なんだよね〜」
るいも佐知子さんを警戒している様子はない。
うち解けている感じだ。
これなら居候生活も安泰だろう。
この屋敷での惠の立場はまだ気になったけれど、
今はとりあえず、るいと一緒にお茶菓子を
楽しみに待つことにしよう。
夕食時。
【るい】
「はぐ、んむ。これいけるよ! メグムとおばあちゃん!
んぐ、ん……いやハマさんだっけ? とにかくコレ智に
負けないよ! あむ、はぐ……!」
【伊代】
「こ、こら! 食べながら喋らないの! もう〜……!」
【こより】
「んぐ、ん……っ。ともセンパイって、そんなに料理得意なんですか!? あむ……うっは、鳴滝だんぜん興味湧きました! はぐ、はぐ……」
【伊代】
「こら! あなたもっ! どうしてこんなにお行儀が悪いの、
この子たちは……!」
【茜子】
「うるさい巨乳ですな。まったく」
【花鶏】
「そうですわ。お食事の時くらい、上品に振る舞えないものかしら」
【こより】
「花鶏センパイのそのお上品なフリ、
そろそろ無理あると思うであります……んぐんぐ」
【花鶏】
「ゆで卵沢山入れるわよ!!」
【こより】
「さ、産卵ぷれいはおゆるしを〜っ!」
こよりがエロ知識で汚されていく。
【伊代】
「ちょっと静かにしなさいよ! なんで食事中に騒ぐの、
あなたたちはっ!」
浜江さんの料理は純和食と思いきや、
これが意外に洋食和食に縛られないバリエーションで、
たしかにびっくりするほどおいしかった。
おいしかったにはおいしかったのだが……。
【浜江】
「……………………」
浜江さんは始終ほとんど睨むような目つきで
こっちを見ていて、落ち着かないことこの上ない。
最初はまともに挨拶すらできなかったるいは、
エサにすっかり気を許して、佐知子さんにも
浜江さんにも気安くなった。
しかし繊細な僕は、さっきから浜江さんの視線が
気になって仕方がないのだ。
猫を被ってる花鶏はとりあえずいいとして、
あとのみんなは伊代も含めて怒られないかどうか……。
まるで怖い先生を前にした子供の心境だったりする。
【るい】
「あぐ、んむ、んぐ、イヨ子、食べないと冷めるよ」
【伊代】
「だから食べながら喋っちゃダメだって……!」
【智】
「……ちょ、ちょっとみんな……」
【浜江】
「……………………(ギロリ)」
今こっち見たぁー!!
佐知子さんに助けを求めようと視線を流すが、
どこにも姿が見えない。
【惠】
「ふむ……」
惠は我関せずというか、周りが目に入ってもない感じで、
黙々と食べてるだけで頼りにならない。
こよりは食べながらなにかにつけて喋ってるし、
るいも同様。
花鶏や茜子は当然使えないし、
頼みの綱の伊代はむしろ余計被害を拡大している。
どうしようどうしよう。
ひとり気を揉んでいると、浜江さんと目が合ってしまった。
【浜江】
「……………………(ギロリ)」
こ、こわいよーっ!
【惠】
「……智」
【智】
「びくぅッ!? ……め、惠?」
【惠】
「浜江はもともとああいう顔しかできないたちなんだ」
【智】
「え、ぅ……でも……ん……」
【惠】
「ねえ、浜江。食事はやっぱり楽しい雰囲気の中で行う方が
いいものだろう?」
惠が無造作に振り返って、
浜江さんにとんでもないことを言う。
【浜江】
「……………………(ギロリ)」
【浜江】
「……その通りで御座います、惠さま」
一応、浜江さんは惠の言葉を肯定してくれたけれど、
その顔は相変わらず睨みつけるような目つきのままだった。
【智】
「それはやっぱり危険だよ。体が保たない」
【伊代】
「事態は一刻を争うのよ! もはや手段なんて選んでられないの」
【智】
「そんなに思いつめる必要はないよ。伊代、まずは落ち着いて……」
【伊代】
「でもっ」
拳を固めて力説する。
彼女の死活問題。
【こより】
「なんです〜? またダイエットの話ですか〜?」
【茜子】
「二の腕ぷよぷよメガネが夏本番までにダイエットしないと、
プールで羞恥プレイするハメになるので、断食ダイエットを
敢行すると」
【伊代】
「だってこのままじゃ水着着られないじゃない!? ……ってあなたねぇっ!」
【茜子】
「太ももぽよぽよ女が怒ったー。こわいわー」
【るい】
「イヨ子って、あんまり食べないのに太るの? 私なんか、
食べても食べても胸しか育たないから、よくわかんないや」
【伊代】
「ぐあ……! ぐあぁ……!」
るいの無邪気な発言に、伊代がのたうち回る。
【惠】
「時として無垢な一言は、明確な悪意より残酷だね」
茜子はガリガリ、
こよりはお子様体型。
花鶏と惠はスレンダーな感じで、
るいは前述の胸特化ボディー。
たしかに他のメンバーと比べると、
伊代はふっくらしてる。
気にするほどのものじゃないとは思うんだけど。
未だ掴みきれないオトメゴコロは複雑だ。
【智】
「伊代はダイエットいらないって。水着とかすごく似合うと
思うんだけどな」
【花鶏】
「浜辺でなわとびするだけで、かなり稼げると思うわ」
【智】
「え!? 伊代の水着なわとび……!」
思わず想像してしまった。
それはもう前代未聞のぶるんぶるん……!
【こより】
「え、なんでなわとびだけでお金もらえるんです?
それなら鳴滝、交差とびでも二重とびでもやっちゃいますよう!」
【るい】
「私もやる〜」
【智】
「る、るいはともかく、こよりはちょっとね……」
【こより】
「なんで鳴滝じゃダメなんです〜? なぜに〜!?」
【花鶏】
「智、わかってるじゃない。
そうよ、悲しいけれどこよりちゃんじゃダメなの……」
【こより】
「ナゼでありますか〜!? そもそもどうしてなわとびするだけで稼げるんですか〜!?」
【茜子】
「しかし、ラン○セルを背負ってやれば、もしかすると
おっぱいーズも越えられるかも知れません」
ラン○セルを背負って胸に「なるたき」と
名前が書かれたスクール水着でなわとびする
こよりをイメージする。
【花鶏&智】
「……その発想はなかった……!!」
【こより】
「んむ〜……?」
こよりが、なわとびショーの大人の秘密を理解できないまま
首をシロフクロウのように捻っていると、静かな食堂に
柱時計の音が響き渡った。
いつのまにか短針は10時を指していた。
【伊代】
「あら、もうこんな時間だったの。
長くお邪魔しちゃってごめんなさい。わたしたちは、
いくらなんでもそろそろ帰らないといけないわね……」
【こより】
「うへ、ぜんぜん気がつきませんでしたよう!
うわぁ〜、ここからの帰り道って真っ暗じゃないですか〜」
【惠】
「確かに街灯はほとんどないね。
しかも今日はほとんど新月のはずだ。外は真っ暗かもしれない」
【茜子】
「ここで耳寄り情報。先月の中旬、このあたりで深夜に殺人が
ありました。凶器は刃渡り30センチ以上の刃物とか」
【こより】
「ふわわわっ、アレってこの近くだったんですか!?
しかも、あの犯人のひと、捕まってないんですよね〜?」
【伊代】
「不安を煽るな! 何が耳寄り情報よっ!
……でもあの事件の被害者って、たしかとんでもない連続詐欺犯だったんでしょ? 復讐されたんじゃないの?」
【惠】
「たとえその殺人犯が出なくても、用心に越したことは
ないんじゃないかな?」
ただでさえ夜道の真っ暗さ加減に腰が引けていたこよりが、
茜子の「耳寄り情報」にすっかり怯えてしまって、
僕にしがみついてくる。
るいが尻尾をたてて、目線を寄こした。
【るい】
「……」
送っていこうか、という合図。
たしかにるいなら、あぶない人とか出てきても
まず負けないだろうけど……。
るいがここに戻ってくる時はやっぱり一人なわけだし、
万が一のことが無いとも限らない。
たとえムテキだろうと、るいもやっぱり女の子なんだし。
【花鶏】
「こよりちゃんは、わたしが送っていってあげてもいいけど?
超いいけど!?」
【茜子】
「あぶない人発見。送り狼が出たゾー」
同じく時計の音を聞いたのか、
佐知子さんが食堂にやってくる。
僕らが立ち上がって時計とにらめっこしているのを見て、
帰り支度だと察したようだ。
【佐知子】
「お帰りですか? でももう随分と夜も遅いですし、良かったら
お泊りになりませんか? ねえ、惠さん?」
【惠】
「そうだね……君たちさえ良ければ、どうだい?」
【智】
「僕はもともと一人暮らしだから大丈夫だけど……」
伊代とこよりを振り返る。
【こより】
「それじゃ、鳴滝ちょっと電話してみます!」
【伊代】
「でも悪いわ……。三人泊めて貰うだけでもご迷惑なのに、
わたしたちまで……」
【智】
「惠が誘ってくれてるんだし。ここは好意に甘えようよ、伊代」
【こより】
「うす! 鳴滝はおっけーです。……あれ?
伊代センパイはやっぱり帰るんですか〜……?」
【惠】
「お礼のかわりに、明日掃除をしてくれれば十分さ」
【伊代】
「そんな。掃除なんて、自分たちが使う部屋なんだから
当然じゃない。本当にいきなり六人も泊まっちゃって、
迷惑にならないの……?」
【茜子】
「空気よめ」
【惠】
「家が賑やかになるのはいつでも歓迎したい。そうだろう?
佐知子」
【佐知子】
「そうですね、惠さん。普段はこの大きなお屋敷に女三人ですもの。人が増えると心強いし、楽しいです」
【智】
「惠も佐知子さんもそう言ってくれてるしさ」
【伊代】
「わかった……電話してみる」
伊代が携帯を取り出して、自宅に電話をかける。
そして一言、二言かわすと通話を切り、伊代は控えめに微笑んだ。
【伊代】
「OK……出ちゃった」
【智】
「じゃあ、決まりだね」
【惠】
「この部屋だ」
【伊代】
「シンプルな部屋ね……」
惠の部屋は、本当に何もない。
ベッドとクローゼットを除いて何一つ家具がなく、
装飾品の類いも、一つとして置かれていなかった。
惠らしいと言えば非常に惠らしい、殺風景な部屋だ。
なので、部屋の広さ以上にスペースはある。
惠の家は洋館なので、家の中まで土足で入るようになっていたが、この部屋だけは部屋の前で靴を脱ぐようになっているのも好都合
だった。
【伊代】
「日本人だからかしら。
やっぱり靴を脱いだほうが落ち着くわね……」
【るい】
「私、ビルでも靴脱ぎゾーン、設定してた」
【伊代】
「ベッドに二人、あとは床ってところかしら?」
一つの部屋に女の子六人と雑魚寝……。
そ、そんなの、僕にとっては、
地雷原のまっただなかで野宿するのも同然じゃないか!?
よもや寝床になる部屋が一部屋しか無かったとは
……計算外だった!
しかし、いまさら帰るとも言い出せず……
またもや状況に流される僕。
【こより】
「そうっすね。ベッドは一人は惠センパイとして、あと一人は
じゃんけんで決めます? ……ってもう寝てる〜っ!?」
【花鶏】
「スヤ〜……」
【智】
「はや!」
いつのまにベッドに移動したのかさえ気づかせず、
花鶏はすでにベッドの上で熟睡していた。
【茜子】
「電光のような寝入りです……!」
【伊代】
「……これでベッドのあと一人はあなたで決まりね」
【惠】
「僕かい?」
【智】
「でも花鶏、いつ起きるかわからないよ?
朝起きたら惠が花鶏のことお姉さま呼ばわりしてたらって思うと、
ゾッとする」
【伊代】
「すごく恐ろしい想像ね……いかにもあり得そうなだけに」
【こより】
「すごいです、花鶏センパイ。寝てるだけなのにまるで
世にも恐ろしい爆弾みたいに扱われてますよう!」
【茜子】
「それはそれとして、茜子さんはクローゼット内を独占フィールドとして確保」
【智】
「取られた……」
この際クローゼット内とかでも、と狙ってたのに。
【花鶏】
「スヤ〜……スピ〜……」
花鶏の安らかな寝顔を見る。
あ、今ちょっと卑猥な笑み浮かべた。
【るい】
「いくら花鶏でも泊めて貰う相手に、セクハラはしないんじゃ
ないの?」
【花鶏】
「くか〜……ス〜……」
ゴクリ……!
【智】
「いや、花鶏ならやる」
【こより】
「花鶏センパイならやります」
【伊代】
「この子なら躊躇なくやるわ……!」
【花鶏】
「スヤ〜……スピ〜……」
【るい】
「ひ、被害者のリアルな言葉だね」
寝顔を見ているだけなのに冷汗が背を伝った。
僕らは知ってる。
花城花鶏は容赦しない。
【惠】
「花鶏は信頼されているんだね」
【智】
「悪いベクトルでね」
【茜子】
「パワーファイターをガーディアンに仕立てるのが妥当かと」
【伊代】
「そうかもね。一番安全ではあると思うわ」
【智】
「るい先生、出番です」
【るい】
「しょーがない」
のそのそと、心底申し訳なさそうに。
るいがベッドを占領する。
【惠】
「みんなと床に寝るというのも、新鮮な気分かもしれない」
遠くで柱時計の音が、1回だけ鳴った。
もう深夜だ。
【伊代】
「そろそろ寝ましょうか。これ広げるから、みんな端に寄って」
【こより】
「うい〜」
用意してくれたタオルケットを床に延べる。
あとは一枚の大きな毛布を、みんなで一緒にかぶるだけだ。
おなかくらいしかカバーできないけれど、寒い季節じゃないので
大丈夫だろう。
【伊代】
「じゃ、電気消すね。あなた、消すまえに寝る場所決めたほうが
いいよ。わたしはこのまま壁際で寝るから」
【智】
「う、うん。今、慎重にスポットを選んでるんだ……!」
【こより】
「鳴滝は真ん中のほうに潜り込むであります!
伊代センパイの隣とかだと柔らかくて寝心地良さそう〜」
【惠】
「僕はベッドの隣でどうだろう。なら、智は僕とこよりの間だね」
【智】
「え、ちょっと僕は端が……!」
【こより】
「早いもの勝ちですよう!」
【るい】
「ふあ……花鶏の横に居たら、私まで眠くなってきたよ。
早く電気消そ」
【茜子】
「それでは茜子さんはクローゼット内に。みなさん、よい怪夢を」
【智】
「なぜ怪夢」
【伊代】
「じゃ、電気消すわよ〜」
【こより】
「は〜い」
電気を落とすと、室内は途端に足もとも
覚束ないほどに暗くなってしまった。
【伊代】
「ほら、あなたも寝て」
闇の向こうから伊代の声がして、
ごそごそと寝そべる音が聞こえた。
【こより】
「ともセンパイが寝る場所、ちゃんとここに空けてますから」
【智】
「うぅ……仕方ない」
ベッドは花鶏にるいをつけて隔離するのに使われた。
茜子はクローゼットに納まった。
残された僕は、壁際すら取れずに女の子に挟まれて
眠るという事態に陥った。
やむなく僕は、こよりと惠の間に
用意されたスペースに寝そべる。
川の字+1完成。
視覚を遮られると、途端に他の感覚が冴えてきて、
かすかな吐息や部屋に充満する女の子たちの匂いが
僕の心を惑わす。
できるだけそれらを意識しないようにしつつ、
目を閉じて眠ろう眠ろうと念じるのだが、
こんな状況で眠れるはずもない。
悶々として身じろぎする間にも時間は過ぎゆく。
まわりからは、規則正しい安らかな寝息。
目はますます冴えてくるばかりだ。
【惠】
「智、眠れないのかい?」
声に驚いて目を開けると、
惠の顔が間近にあった。
【智】
「わっ、め、惠」
【惠】
「こんなに大勢のみんなと一緒に寝るなんてね、眠れないのも
無理はない。僕は困ってるんだ。実は、いびきが大きい方
なんでね」
【智】
「う、うん……」
言葉がうまく出てこない。
いいかげんな返事をする。
だって暗闇の中寝そべってお話をするには、
惠の顔は近すぎたから。
【惠】
「智、どうしたんだい?」
【智】
「い、いや! ごめん、僕寝るね」
慌てて方向転換して惠に背を向ける。
【惠】
「ああ、話し掛けてすまなかった」
【智】
「うん……」
闇の中で見た惠の顔はとても綺麗だ。
まだ少しドキドキしている。
最初、男の子と間違えたのが嘘みたいだった。
長い睫毛(まつげ)に縁取られた瞳はとても美しく、
ふっくらとした唇は女の子らしい瑞々しさを
湛えていて……。
【智】
「うぅっ! だめだめだめだめ!」
頭から毛布を被ってボリューム最小で叫びつつ、
頭を振って邪念を追い払う。
もぞもぞと動いていたら、
こんどは僕のおなかのあたりから声がした。
【こより】
「うにゅ……、むにゅぅ……」
こよりが、寝ぼけてむにゅむにゅ言っていた。
思わず和んで、僕はこよりの頭を撫でてあげようとする。
小動物を愛でるみたいにこよりの頭を撫でてたら、
僕も落ち着いてそのうち寝られるだろう。
【智】
「あれ?」
こよりの頭は思ったより高い位置にあった。
ふにふに。
【智】
「さっきはおなかのほうから声が聞こえたと思ったんだけどな……?」
ともかく撫でてみる。
ふにふに、ふにふに。
妙に柔らかい。
こよりは全体的にふにゃふにゃしてそうだけど、
頭まで柔らかいってことはないんじゃないか?
【智】
「ん〜?」
手を頬のあたりにまわしてみる。
ぽよぽよ。
ちゃんとまるくて柔らかい。
起こさないように顔もちょっと触ってみよう。
つんつん。
真ん中のあたりにツンと尖った鼻があって……あれ?
【智】
「あ、あれ……目も口もないよ……?
それに髪にも触れないし……」
もしかして顔に毛布を被ってしまっているのだろうか?
だとしたら顔は出してあげたほうがいい。
毛布をめくってみることにする。
【智】
「ん……この毛布、やけに薄い生地だなぁ……?」
ぐいぐい。
毛布をめくろうとして引っ張るのだが、
どうにも毛布が手繰り寄せられない。
誰かが踏んでいるのだろうか?
こよりをいじってる間に僕も落ち着いてきた。
よし、毛布から出て確認してみよう。
【智】
「ぁぅ……ぁぁあ……っ!!!!」
目に飛び込んできた衝撃映像に、
僕の頭が突沸して目が渦巻きになる。
そこに見えたのは伊代の豊かすぎる胸に、
頭をぽよよんと乗せて眠るこよりだった!
僕の手は伊代の服を掴んで、
ぐいぐいと引っ張っている!
【伊代】
「ぅ……うぅん……」
おなかの方から服がめくれて、
いまにも溢れ出さんばかりの胸を包むブラが見えている。
【智】
「おぅ……ぅぅ……っ!!」
一昔前のマンガのキャラみたいに、
ぶはーっと鼻血を出しそうだった。
伊代の服を戻すことも思い浮かばず、
超高速で天井を向いた。
【智】
「はう……はううぅ……! は、はうぅ……!」
脳は言語野までめちゃめちゃで、人語が出てこない。
柔らかい感触が手に、まざまざと蘇ってくる。
僕がさっき撫でたりいろいろ触ったりしてたのは……!
【智】
「はううぅ……!!」
しかもさっき顔だと思って、
触って確かめた気がする。
顔の真ん中には、ちゃんとツンと
尖った鼻らしきものがあった。
でも、お、おっぱいには鼻などあるはずはなくて、
僕がつんつんと押したりしてみたそれは……!
【智】
「は、はうううぅぅぅ……!!」
目を瞑っても、
開いても、
何をしても、
伊代の胸の感触が手から消えない。
あ、あんなに柔らかいんだ……!
羊を数えても、かわりにヤギを数えても、
カモシカなんかを数えてみても、
頭の中に出てくるのは伊代のおっぱいばかり。
【智】
「ぜ、絶対眠れない……!!」
いつのまにか惠も寝息を立て始め……。
僕は朝が白むまでただ一人、
脳裏に踊るやわらか物体の幻影と戦いつづけたのだった。
〔眼鏡のお掃除講座〕
【智】
「チュンチュンがチュンチュン鳴いてる……」
犬のことをワンワンと呼ぶなら、
スズメのこともチュンチュンと呼んでいいと思う。
もちろん、一睡も出来なかった。
窓の外で空が白むのを見る。
【智】
「ねむい……」
【伊代】
「あら、もう起きてたの? 随分早起きなのね」
【智】
「い、伊代っ!」
伊代の顔を見た瞬間。
昨夜の感触がまざまざと手のひらによみがえってくる。
ふにふにとまるくて柔らかくて……!
【智】
「くぁぁ……!」
【伊代】
「どうしたの? 寝違えたとか?」
【智】
「なんでもありません!」
【伊代】
「ぅん?」
こよりや惠も起きてきた。
【こより】
「ふあ……んんんん〜っ! おはようございます! ともセンパイ、伊代センパイっ」
【惠】
「もう起きていたのか。こよりは朝から元気だね」
【こより】
「ハイ! 惠センパイもおはようであります!」
こよりの朝の挨拶に、
るいや花鶏も起きてきた。
下半身は毛布ですごくガードしているが、
徹夜の疲労で朝の男の子問題は起きていない。
こっそりと僕は安堵の息を吐いた。
【るい】
「お、みんなもう起きてたんだ。おはよ!」
【智】
「おはよう、るい」
【花鶏】
「うるさいわね……。朝くらいゆっくりさせろっての……」
【伊代】
「誰よりも早く、しかもベッドを占領して寝たくせに、起き抜けに言う言葉がそれか! ホントにもう……!」
【智】
「それより、今日は掃除するんでしょ?」
【花鶏】
「グウ……」
【伊代】
「それ明らかに寝たフリだから! あなたも掃除するのよ!」
【花鶏】
「ち……! 後で揉んでやる」
速攻寝たフリで逃げようとした花鶏を、
伊代が叩き起こす。
しぶしぶと言った様子で、
ようやく起きてくる花鶏。
【こより】
「がんばりますです!」
【るい】
「よっしゃ〜!」
こよりやるいの元気組は
すでにかなりやる気を出していた。
【るい】
「あれ? そういえばアカネはまだ起きてないの?」
【こより】
「まだこの中ですかね〜?」
クローゼットを開ける。
……無人。
【こより】
「き、消えた!!」
【伊代】
「ええ? トイレに出てるとか?」
【智】
「そ、そんなはずは……」
一睡も出来なかった僕に気づかれないよう
外に出て行くなんて、出来るはずがない。
でも、そんなことを言ったらやぶ蛇になるから、
言えるわけもなく……。
【伊代】
「でもトイレにしては、随分戻ってくるの遅いんじゃないかしら?」
【惠】
「迷ってるのか……おや? 下の引き出しが少し開いているよ」
惠の指摘で、
クローゼットの下の引き出しを開けてみる。
惠の下着に埋もれながら、
茜子がむりやり這いつくばって収まっていた。
【智】
「なにやっとんのん」
【茜子】
「……人体消失マジック」
【こより】
「どうやって自分で閉めたんです!?」
【茜子】
「マジック」
【伊代】
「なにふざけてるのよ……いいから、あなたも掃除するのよ」
【茜子】
「マジック……!」
茜子は再び元の引き出しの中に戻ろうとしたけど、
襟首を伊代にふんずかまえられて、
引っ立てられてしまった。
【智】
「さあ、みんな揃ったし、掃除始めよっか」
【伊代】
「掃除用具とか貸してもらえるかしら?
朝ごはんまでに一部屋くらい片付けられるでしょ」
【惠】
「道具なら佐知子に言うといい。案内しよう」
【るい】
「うし! 拭きまくるよー!」
【花鶏】
「面倒くせぇ」
【茜子】
「人類は早くメイドロボを発明すべき」
【伊代】
「さっさとついて来なさい!」
【花鶏&茜子】
「はぁ〜〜〜い」
浜江さんの視線にも幾分慣れた僕たちは、
朝食を戴いた後、昼の掃除に突入していた。
すでにるいの部屋の掃除は済ませてある。
汚れはけっこうなものだったが、
なにせ佐知子さん含めて8人掛りだ。
さほど大変な作業ではない。
【智】
「さて、次はどこにする?」
【伊代】
「そうね……、この二人の部屋を掃除しちゃうと、
あとサボりそうなんだけど」
【花鶏】
「サボらないサボらない。揉みしだかせてくれたら」
花鶏は素早く伊代の胸に飛びついた。
【伊代】
「寄るな、この変態なまけものダメ人間!」
【花鶏】
「げぶぅッ!」
まるで棒術使いのように、
伊代はモップのカウンターで花鶏を仕留める。
掃除したばかりの床に倒れる花鶏は、
どう見てもダメ人間だった。
【茜子】
「変態の上に、なまけものの没落貴族とは……」
【こより】
「花鶏センパイ……」
【花鶏】
「なにその憐れむような目!? こよりちゃんまで!?」
【智】
「可哀想だから、今度は花鶏の部屋を掃除してあげようよ」
【惠】
「それがいいね」
【花鶏】
「かわいそう!? どういう展開コレ!?」
花鶏の部屋は2階の一室で、
内装は惠の部屋とほぼ同じ。
しっかり南向きの窓に面した部屋を選んでいるところは、
花鶏らしかった。
【佐知子】
「窓の仕上げに新聞紙を使うなんて、はじめて知りました。
伊代さん、家事にお詳しいんですね。私なんか仕事でしてます
けど、まだまだです」
【伊代】
「そ、そんな……ちょっと家事が好きで、いろいろ調べてみたことがあるだけで……」
【智】
「照れない照れない」
伊代があんなに輝いてるのを初めて見た。
だらける花鶏と茜子を支配下に置き、僕らに的確に指示を下す!
前線指揮官・白鞘伊代。
もしくはできる嫁・白鞘伊代。
【こより】
「次は茜子センパイの部屋ですかね?」
【茜子】
「床を舐められるくらい綺麗にして下さい」
【伊代】
「あんたがするのよ!」
【茜子】
「おかしい、こんなはずでは……」
【惠】
「茜子は部屋をどこに決めたんだい?」
【茜子】
「屋根裏です。真夜中に上からガリガリと爪で引っ掻く音を
立てたり、床の穴から部屋を覗いて情事を目撃してしまったり
する予定です」
【花鶏】
「あんたはどっちかって言うと、曲者! って下から槍でブスリと刺されるのが似合ってると思う」
【茜子】
「曲者で〜す」
【智】
「そりゃまた、掃除大変そうな場所を……」
【伊代】
「とりあえず現場を見てみましょうか」
【智】
「これはひどい」
【茜子】
「諦めては駄目です。死力を尽くして戦うのです」
【伊代】
「だからあんたがやるの!」
【るい】
「持ってきたよ」
るいが掃除機を持って上がってくる。
るいが居なかったら、
掃除機を上げるだけでも一苦労だったろう。
【伊代】
「ありがとう。それじゃざっと掃除機かけて埃を取ってから、
あとはみんなでひたすら拭き掃除ね」
【こより】
「小坊主のようにあっちからこっちへ、こっちからあっちへダーって拭きまくりますよう!」
【るい】
「私、ベッド運んでくる」
【佐知子】
「私も手伝います」
【茜子】
「うむ。よろしく頼むぞ」
【智】
「なんで、こんなハードルの高い部屋を」
【伊代】
「あんたのバカチョイスのせいで苦労してるんだから、あんたが
一番働くのよ! ほら、雑巾とバケツ! キリキリ働け!」
【茜子】
「おれ、母ちゃんの奴隷じゃないっつーのー」
【伊代】
「そんな、劇場版でだけやたらいい人になるガキ大将の
真似しても駄目!」
【花鶏】
「おお、伊代がキレのいいツッコミをしている」
【智】
「今日の伊代は強いなあ」
屋根裏は汚れがすごい上に、
無駄にスペースが広い。
僕たちはお寺の小坊主のようにあっちこっちと
雑巾で往復し続けることになった。
やがて簡易ベッドを運んできたるいと佐知子さんも
戦列に加わって、合計7人で雑巾がけをする。
壮観な光景だ。
一人足りないのは僕が壁拭きをやっているからだ。
みんなと一緒に床拭きに参加すると、
ものすごくパンツが見えてしまうのである。
【智】
「僕には刺激が強すぎました」
男の目がないと思うと、
どこまでも無防備なのが女の子だ。
【伊代】
「え、何か言った?」
【智】
「いえ!」
【花鶏】
「ああん、ぶつかる〜」
【こより】
「うひえぇぇぇっ!? 花鶏センパイ、雰囲気出しながら、
キス顔で迫ってこないでくださいようぅっ!」
【花鶏】
「気にしない気にしない、一休み一休み」
【伊代】
「こらそこ! サボるな変態!」
すぐサボる茜子と花鶏。
伊代の監視のメガネが光る。
やっと花鶏をこよりから引き剥がしたと思ったら、
今度は茜子がコソコソと逃げ出そうとする。
【伊代】
「待ちなさい。こらっ、どこへ行く」
【茜子】
「うう、腰が痛いです。もうすぐ爆発します」
【伊代】
「うるさい。拭け」
【惠】
「破片は僕が回収してあげよう」
【茜子】
「うう、強制労働」
【智】
「伊代って、本当に家事とか好きなんだなあ」
【こより】
「嫁にしたい女ナンバー1って感じですね! ちなみに彼女に
したい女ナンバー1はたぶん、ともセンパイではないかと!」
【智】
「か、彼女……」
切なくなる。
【花鶏】
「愛人にしたい女ナンバー1は、こよりちゃんね」
【智】
「せめて妹と」
【茜子】
「玄関の置物にしたい女ナンバー1は茜子さんで」
【伊代】
「サボってると剥製にするわよ」
【花鶏&茜子】
「はぁ〜〜〜い」
茜子の部屋もようやく綺麗になった。
ぞろぞろと屋根裏から降りると、
下には浜江さんが待ち構えていた。
【浜江】
「伊代さん。でしたかね……」
【伊代】
「はっ、はい!? なんですか?」
唐突に名を呼ばれて硬直した伊代を、
浜江さんが穴を開けるほど見つめる。
【浜江】
「………………(ギロリ)」
【伊代】
「え……えと、あの……」
【浜江】
「あんたは若い子なのによう出来とる。感心した」
怒ったような口調でそれだけ言って、
浜江さんはすたすたと去っていった。
【智】
「今の……伊代、誉められた?」
【惠】
「ああ。浜江が人を誉めるなんて、きっと明日は霙(みぞれ)だと思うよ」
【伊代】
「こ、恐かった……」
雰囲気はとにかく恐いが、
案外いい人なのかもしれない。
【浜江】
「それから」
【伊代】
「びくぅッ!?」
浜江さんフェイント。
【浜江】
「惠さま、お昼の用意が出来ましたので」
【惠】
「わかった。さぁ、手を洗おうか」
【こより】
「心臓に悪いであります……!」
昨夜の夕食から、朝食、昼食まで
ごちそうになってしまった。
ちょっと図々しいかなとは思うのだけど、佐知子さんや惠が
引き止めるので、僕らはまだ屋敷の中をぶらぶらしている。
古めかしい本が沢山収められた書斎を見たり、
2階のバルコニーから景色も眺めたり。
伊代とともに屋敷内を一通り巡って、
再び玄関ホールへ戻ってくる。
【智】
「あ、佐知子さん。るいの奴、もう食べ終わりました?」
【佐知子】
「ええ。こよりちゃんの様子を見に行くって、部屋の方へ」
【伊代】
「本当に図々しくてごめんなさい。昨晩からご馳走になりっぱなしなのに、あんな無遠慮にいっぱい食べて……」
【佐知子】
「いいえ、浜江さんも『残すよりはいい』って言ってましたよ。
うふふ」
【伊代】
「なんか……本当にすみません」
【佐知子】
「惠さんも私たちも、屋敷ばかり大きくて寂しい暮らしですから。お客さんはいつでも歓迎しますよ」
佐知子さんは、僕らと会話しながら
玄関ホールの掃除を終える。
【伊代】
「お掃除、わたしたちも手伝います。他のところ掃除したついで
ですから」
【佐知子】
「いえ、そんなことをお願いするわけには……」
【智】
「気にしないで下さい。僕たちが好きでやるんですから。ね、伊代?」
【伊代】
「ええ、わたしお掃除とか好きですし。一緒にやりましょうよ」
【佐知子】
「そうですか? じゃあ、お言葉に甘えて……」
一通り佐知子さんの掃除コースをやっつけた頃には、
こよりとるいも降りてきた。
佐知子さんがお茶を用意すると、
気配を察知したのか、茜子と花鶏も現れる。
【佐知子】
「お二人の分もすぐに用意しますね」
【花鶏】
「ありがとうございます」
【茜子】
「茜子さんには、目玉が飛び出すくらい美味しいのをください」
【佐知子】
「精一杯おいしいお茶を入れますね」
【惠】
「佐知子、僕にはブルゴーニュのワインを」
【佐知子】
「お帰りなさい、惠さん。すぐにご用意しますね」
昼食のあと出かけていた惠も戻ってきて、
全員揃ってのお茶会となった。
佐知子さんによって、
てきぱきとティーセットが整えられる。
【智】
「惠のも普通のお茶なんだ(ほっ)」
【佐知子】
「惠さんは、いつもあんな仰りようですから」
【智】
「おかえり、惠。どこに行ってたの?」
【惠】
「少し、ね。友人を助けるためにレースに参加してきた」
【伊代】
「そんなのしょっちゅうある訳ないでしょ!」
【花鶏】
「なに、もしかして男?」
【伊代】
「ええっ! そ、そうなの!?」
【茜子】
「うろたえすぎ」
【伊代】
「う、う、う、うろたえてないわよ!」
惠にも言いたくないことくらいあるだろう。
僕はさりげなく惠に目配せをして、
話題を逸らした。
何気ないそぶりで外を見る。
【智】
「……それにしても、屋根裏とかまで綺麗にするとやっぱり外が
気になるね〜」
【るい】
「あ、そうだねー。なんか木とか草とかがモジャモジャーって
生えてて、外から見たら廃墟みたいだもんね」
【伊代】
「そうねぇ……、せっかくだからついでに庭も……」
【惠】
「伊代、庭は……」
伸ばした手が伊代を留めようとするが届かず、
伊代はガラス戸を開いて庭に一歩出る。
【伊代】
「道具さえあれば、全員がかりで2、3日でさっぱりできるんじゃない? 雑草を全部刈り取って、木もいくつか切り倒しちゃって……」
【浜江】
「いかん!!!!」
【伊代】
「きゃぅっ!!?」
窓ガラスがビリビリと振動しそうな大喝とともに、
どこから来たのか、庭の木々の間から浜江さんが現れた。
みんな驚いて声も出ない。
伊代なんて、驚きのあまりよろよろと退いて、
ガラス戸に寄りかかってしまっていた。
【浜江】
「この庭に触ってはいかん!!」
【るい】
「え、ちょ……なんで……」
【浜江】
「……………………」
ただでさえ恐い浜江さんの剣幕に、
るいでさえ何も言えなくなってしまう。
銀行強盗が向ける銃口みたいな圧迫感をもって、
浜江さんは全員を睨みつける。
そのまま、無言で通用口の方へ去ってしまった。
【佐知子】
「…………」
【惠】
「……すまない。浜江にも別に悪気はない」
【伊代】
「え、ええ」
【智】
「勝手に庭を弄ろうなんて言って悪かったよ。ごめん」
【惠】
「いや。この庭は……そう、先代の持ち主が大事にしていた庭
らしくてね。浜江も、迂闊に手は入れたくないらしいんだ」
【智】
「そっか」
【伊代】
「ごめんなさい、軽はずみなこと言って。わたしちょっと調子に
乗りすぎてたみたい」
【惠】
「そんなことはない。伊代ほど思慮深い人はそうはいないよ」
【伊代】
「そんなことないって……」
胸の中に何か重い塊があるような消化不良な感情はあったけれど、僕らは素直に引き下がった。
窓から見える景観はたしかに少し勿体ないが、
僕たち客分にそれをとやかく言う権利はない。
【こより】
「それにしても……浜江さんオソロシイであります……!
鳴滝、思わずチビるかと」
【花鶏】
「アレはわたしでも、さすがにコワイわ」
【惠】
「浜江は不器用でね」
【伊代】
「ええ……」
日も暮れ始めた頃。
【伊代】
「じゃあ、わたしたちそろそろ……」
【佐知子】
「あ、お帰りになるんですか?」
【智】
「はい。伊代とこよりは家族が居ますし。僕は……
家の片付けなんかもしないといけないし、学園もありますから」
【惠】
「そうかい? またいつでも来てくれると嬉しい」
【こより】
「ハイ! 毎日でも来ちゃいますよう。
そーだ! 高架下が潰れちゃったし、ココをニュー溜まり場に
するというのはいかがでありましょうかっ?」
【花鶏】
「わたしたちは出向く手間が省けていいわね。
あんまり篭もってたら、モヤシになりそうだけど」
【茜子】
「茜子さんは、元からもやしっ子なので無問題です」
【伊代】
「ちょっと勝手に……! そんなの迷惑になるに決まってる
でしょ! 毎日押しかけたりしたら騒がしくって仕方ないし、
それにご馳走になってばかりで……」
【惠】
「いや、静かすぎるよりはずっといいよ」
【智】
「ご馳走になってばかりで悪いっていうんならさ、
こんど僕と伊代で何か作って持ってこようか」
【るい】
「トモのごはんは、おいしいよ! うれしい!」
【こより】
「伊代センパイもいかにもお料理とか得意そうですよね。
オフクロの味〜って感じのをばんばん作りそうっす」
【伊代】
「普通のお料理がちょっとできるだけだってば……」
【惠】
「智と伊代の料理か。晩餐が楽しくなりそうだ」
【佐知子】
「私も楽しみです」
【智】
「それは良かった。浜江さんには及ばないけど、今度伊代と
相談して何か用意してみるよ」
【智】
「それじゃ、日が暮れたらまた昨日と同じになっちゃうんで、
そろそろ……」
【佐知子】
「是非またいらして下さい。
まだ明るいとは言っても寂しい道ですから、帰り道には
お気をつけて」
【惠】
「またいつでも来るといい」
【こより】
「ハイ! 少なくとも鳴滝は入り浸る予定であります!」
【伊代】
「うふふ、そうね。わたしも明日学園が終わったらまた来るわ。
あなたも来るでしょ?」
【智】
「もちろん」
【るい】
「んじゃね〜」
【茜子】
「道中、隕石に気をつけて」
【智】
「それ気をつけても避けられないから」
日が暮れる前でも、
不気味な静寂が漂っている。
一日中賑やかな屋敷の中にいて、
感覚が狂ってしまったのだろうか。
普段通りの帰り道が、とても寂しく感じる。
【智】
「行く時は伊代の家の前で待ち合わせしようか」
待ち合わせの相談もあらかた終わった頃に、
伊代の家が見えてきた。
こよりが腰をひねってクイっとターンする。
【こより】
「それでは! 鳴滝はここで失礼しますっ!」
【智】
「うん、また明日ね」
【伊代】
「気をつけてね」
【こより】
「うぃ〜」
ぶんぶんと両手を振ってから軽いジャンプと共に向き直ると、
あとは振り返らずにこよりは滑り出した。
【智】
「それじゃ僕もこれでね」
【伊代】
「あ、待って」
帰ろうとした僕を、伊代が引き止める。
【伊代】
「その……あの子の家にお料理持って行くって言ってたやつだけど。よかったら、明日一緒に材料買いに出かけない?」
【智】
「え……二人で?」
【伊代】
「うん。あ、無理だったらいいわよ!? 買い出しくらい一人でも行けるしね! それにわたしとあなたとじゃ買う物も違うだろうし、それにわたしに付き合ってたら、行く時間遅く……」
【智】
「行こうよ、伊代」
一瞬驚いた顔で固まった伊代の顔が、
みるみる嬉しそうな表情を作る。
【伊代】
「うん! 一緒に行きましょ!」
伊代と一緒に買い出しに行く。
ただそれだけのことに嬉しくなってる僕がいた。
僕はもしかしたら……
伊代のことが好きなのかもしれない。
友達としてよりも、
もっと深い意味で……。
【伊代】
「わたしは簡単な家庭料理しかできないから、普通のスーパー
でいいけど、あなたは?」
【智】
「ん、僕も普通のスーパーにあるもので作るよ。
最近は結構いろんな食材売ってるしね」
【伊代】
「そうね、わたしなんか知らない食材けっこうあるもの。
買いに行った時、わたしにも使えそうなの、なにか教えてね」
【智】
「いいよ、僕もそんなに詳しくないけど。あ、良かったら料理も
一緒にしよっか?」
【伊代】
「いいの? 二人でみんなへの差し入れを作るなんて、
なんか楽しそう」
なるべく異性として意識しないようにしながらも、
伊代と交わす一言一言に喜びを覚えてしまう。
まったく、重症だ。
いままでこんなことなかったのに……。
【伊代】
「じゃあ明日、学園が終わったら待ち合わせね」
【智】
「うん。楽しみにしてる」
【伊代】
「わたしも楽しみにしてる」
【智】
「それじゃあね、伊代」
【伊代】
「うん、バイバイ」
帰り道もずっと、
目蓋の裏には伊代の笑顔が消えなかった。
完全に日が落ちて暗い通りの雰囲気とは裏腹に、
足取りは軽くなる。
僕には呪いがあるけれど……。
――――このままじゃいけない。どうしようか?
そんな思いは悩みとして形を成す前にほどけて、
僕の顔は自然に綻んでいた。
〔伊代のお料理教室〕
【真耶/智】
「明日は、放課後に白鞘伊代と待ち合わせして会う」
【真耶/智】
「それから、二人して食料品を買いに行く」
僕は虚ろな目つきで、
正面を見据えたまま呟いていた。
ぴくりとも動かず、口が自然に
言葉を紡ぐように呟きつづける。
【真耶/智】
「和久津智の部屋に食材を運んで、二人で料理をする」
僕は目の前にじっと座る人を見下ろしていた。
声を掛けることも出来ず、
身じろぎすら出来ず見つめている。
【真耶/智】
「料理を持参して、二人は才野原惠の屋敷に来る」
ここはどこだろう?
自分がどこにいるのか理解できない。
僕は見下ろす。
言葉を紡ぐ人を見下ろす。
【真耶/智】
「皆元るい、花城花鶏、鳴滝こより、茅場茜子、才野原惠」
おかしい。
僕は端坐して、明日の予定を呟きつづけている。
僕は呟く人を、立って見下ろしている。
【真耶/智】
「それから、芳川佐知子、沖浜江らも加えて、皆で料理を楽しむ」
僕が僕を見ていた。
僕はただ立ち尽くすだけで、
同時に僕はただ座って明日の予定を淡々と述べている。
【真耶/智】
「そして、日が落ちる前に、才野原惠の家を後にする」
はじめて、座っている僕が動いた。
【真耶/智】
「…………」
粘土細工をねじるように、
ゆっくりと首が動いて、目が合った。
【智】
「…………」
瞳の奥を覗き込んだ瞬間、
理解できない慄然(りつぜん)たる思いが湧きあがった。
目は見開かれ口腔は乾き、
冷汗が全身から噴出す。
心臓の鼓動がどんどん大きな音になって、
鼓膜を激しく叩く。
肩の後ろが引き攣るような戦慄。
喉の奥から重い物が這い上がってくる。
異常な激しさで体が震え出し、
体の奥から搾り出された叫びが……!
【智】
「……ッ!!」
得体の知れない恐怖感に目覚めた。
ベッドを汗でぐっしょりと濡らしていた。
どうして恐かったのかはわからない。
僕が見たのは、ただもう一人の僕が、
今日の予定を話していただけだ。
感情と内容がリンクしない奇妙な夢だった。
【智】
「…………ふぅ」
時計に目をやると、
まだ学園に行くには早すぎる時間だった。
とはいえ、二度寝は危険だ。
やむなく僕はシャワーを浴びて汗を流しつつ、
眠気も払うことにした。
今日は伊代と買い物に行く。
楽しい予定のことを考えるうち、いつのまにか
奇妙な夢が胸に残した後味の悪さは消えていた。
はやく伊代に会いたかった。
学園が違うのをいいことに、
示し合わせて早退してしまった不良の僕たちだ。
【伊代】
「ご、ごめん〜! 待った、よね……。体調が悪いって言ったら
保健室に連れて行かれちゃって、なかなか抜け出せなくて……。
本当にごめん!」
待つこと数十分、顔いっぱいに
汗をかきながら伊代が走ってきた。
盛大に揺れる伊代のたわわなものを、
道行く男性陣がチラチラと見ている。
決して劣情がなくても、勝手に目が吸い寄せられるのは
同性として大変理解できる。
……のだけど、僕はさりげなく男たちの視線を
遮るような位置に立った。
嗚呼、独占欲……。
【伊代】
「本当にごめんね……、待ち合わせに遅れるのは絶対ダメだと
思ってメモも取ったし、携帯のアラームもセットしておいたん
だけど……」
【智】
「いいよ。すっごく伊代らしいし」
【伊代】
「なにそれ? どういう意味なの?」
【智】
「いいからいいから♪」
別にドジでもないし頭が悪いわけでもない。
仲間内では一番しっかりしてるし頭もいい方なのに、
常に一歩外してくるのはなぜだろう?
なぜかいつも要領が悪い。
伊代のそれは、なんというか「イケてない」としか
表現しにくいんだけど、むしろそこが伊代の魅力なんだと、
僕は感じてしまう。
【伊代】
「なんでそんなにニヤニヤしてるの……?」
【智】
「伊代だなぁ、と思って」
伊代が期待を裏切らないイケてなさを見せてくれたので、
余裕が持てた。
照れることなく伊代の手を握って大股に歩き出す。
【伊代】
「なにが……あっ、ちょっと!」
【智】
「はやく行こうよ! お料理する時間がなくなっちゃうよ」
デートっていうのは、こういう感じなのかな?
平日の昼下がり、スーパーはまだまだ全力ダッシュ
できるくらいに空いている。
だけど今は無理だった。
どういうノリでこうなったのか、
僕たちは腕を組んで、仲良し姉妹か、
付き合いたてのカップルのようにベタベタと歩いている。
もちろん、その実二人の関係は、
「仲の良い女友達」である。
【智】
「伊代、なに買おっか? 伊代はなに作るの!?」
【伊代】
「そうねえ……って、わたしから決めていいの?
被っちゃうと困るかもしれないわよ?」
【智】
「茜子が居たら『空気よめ』って言われてるね、今のは」
【伊代】
「え、なんで……!?」
【智】
「いいから、伊代なに作るのか教えてよっ?」
僕の方は、必要以上にテンションが
上がらざるを得ない状況だった。
なぜなら、何気なく腕を組んだせいで、
伊代のやわらかいものに、すごく二の腕が埋まってるからだ。
【伊代】
「う〜んそうねぇ。これが旬だから……これにしようかな……」
伊代は切り鮭を手にとって、思案している。
【智】
「……んーと、僕、実はマリネにしようかと思ってたの。被るかな」
【伊代】
「それって、どんなお料理?」
【智】
「ん、えーとマリネは……。まぁ南蛮漬けみたいなもんだよ」
【伊代】
「へぇ〜。それじゃ、わたしは別のにしようか」
そこでふと思った。
肝心の料理はどこでやろう?
本来なら惠の屋敷まで行って、
その場で料理した方が出来たてを供せてよいに決まってる。
【智】
「ねぇ、ところでお料理、どこでする……?」
【伊代】
「え? 彼女のお屋敷に行ってやるんじゃないの?」
【智】
「僕も最初はそう思ってたんだけどさ。あそこのキッチン、
使ったら浜江さんにものすごい怒られそうじゃない……?」
【伊代】
「あぁぁ……それはありそうね」
【智】
「だからさ、僕か伊代の家で作りおきの出来る料理を作って、
持っていったほうがいいかな〜って」
【伊代】
「たしかにあのお婆さん、怖いものね……。どうしよう、
わたしの家で作る?」
【智】
「僕の部屋のほうが近いから、そっちでどう?」
【伊代】
「あ、そうね。そうするわ」
部屋に女の子を誘う。
ちょっとばかり小躍りしたくなる。
なにより伊代と二人きりで居られるのが嬉しい。
僕の秘密――
危険なことは頭で理解しているのに、
1秒ごとにのめりこんでいく。
【智】
「じゃあ僕はラタトゥイユでも作るよ」
【伊代】
「……それもなに?」
【智】
「君はタイムスリップしてきたお武家さまか!」
【伊代】
「ご、ごめん、わたしよくある家庭料理しかわからなくて……」
【智】
「いや、ノリツッコミとか要求しないから、もうちょっと
軽快な反応しようよ、伊代……!」
【伊代】
「わかった。勉強してみるわ」
勉強するとか言ってる時点で、
何か間違ってる。
……でもまあ、非常に伊代らしいので
そのままにしておこう。
【伊代】
「私は被らないものにするわ。冷めてもおいしいヤツ」
【智】
「あとはどうする? るいの好物のちくマヨは作るとして」
るいの大好物――それは、ちくわの穴の中に
マヨネーズを詰めただけの物だ。
そんなのは料理とは言わないと思うけど、
本人が好きなんだからしょうがない。
【伊代】
「ふふっ、そんなの好きだなんてあの子……」
【智】
「こよりはわかりやすい子供舌だから、唐揚げとかかな。
伊代の料理もきっと喜ぶよ」
【伊代】
「なんだかこれって……」
【智】
「伊代?」
途切れた言葉のあとを追って振り向いたら、
鼻が触れそうな距離にはにかんだ笑みがあった。
【智】
「えと、な……なにかな?」
「新婚さん」などというワードが頭に浮かんだ。
【伊代】
「わたしたち、みんなのお母さんみたいよね?」
【智】
「うえ、え……? あ……あははは、そうだね、そうだね〜」
僕もお母さん。
なぜかガッカリ感が肩に重い、
一言だった。
【智】
「ハァ、お母さんか……」
【伊代】
「なに? お姉さんが良かった?」
買い物袋をぶら下げて、
伊代と二人の家路。
僕の部屋は今、準備万端だ。
いつどんな不意打ちでみんなに襲撃されてもボロが出ないよう、
すでに綺麗に片付けてある。
家事が好きと言っていただけあって、
伊代はやたら料理のことに詳しくて、
一人暮らしを続けている僕と妙に話が弾んだ。
伊代の知っている料理は、
本当に家庭でよく作られているような、
ありがちで当たり前の料理ばかり。
だけど、家族のない身である僕には、
それがとても暖かく感じられた。
【伊代】
「一人暮らしなのよね。どんな部屋なのか楽しみ」
【智】
「うーん、いちおう片付けてはいるけど……普通だよ?」
【伊代】
「片付いてなかったら、お礼に片付けぐらいするのに」
【智】
「………………」
ベッドの下に隠しておいた男の子の秘密のバイブルが、
帰ってきたらテーブルにきちんと整理されて詰まれていた――
そんなアリガチな光景が目に浮かぶ。
少なくとも僕のベッドの下にはそういうものは隠してないけど、
どんな拍子で他の物がものが見つかってしまうかわからない。
【智】
「……い、いや。至らないところがあったら言って! 言って
ください! 後学のためにも自分で片付けますので!」
【伊代】
「そう? でも……」
頭の中で、茜子が「空気読め」と呟いたような気がした。
【智】
「あーッと!」
慌ててなんとか話題をそらす。
【智】
「そうそう、そういえばさ、今日、変な夢を見たんだ」
【伊代】
「変な? どんな夢だったの?」
【智】
「なんか僕の目の前に人が座ってて、今日の僕の予定のことを
ぶつぶつ言ってるんだけど」
【智】
「その人がこっちを見たら、その人も僕だった」
【伊代】
「……よくわからない」
【智】
「僕もわからない」
【伊代】
「それって、あなたが二人居たっていうこと?」
【智】
「そう。それだけなんだけど、なんだかすごく怖くて、起きたら
汗びっしょりだった……」
【伊代】
「なんで怖かったのか不思議ね? 実はあなたは夢遊病患者で、
寝ている間に起き上がって鏡を見ながら、今日の予定を
呟いてたとか」
【智】
「いや、僕自身は立ってて、予定を言ってる方の僕は座ってたよ」
【伊代】
「じゃあ……幽体離脱?」
【智】
「え〜? 夢遊病の上に幽体離脱〜? 僕を変な病人にしないで〜」
【伊代】
「それじゃあアレは? 自分と同じ姿をした怪物とかいう……」
【智】
「ドッペルゲンガー?」
【伊代】
「それそれ。それが夜中に入ってきて、
家の中でぶつぶつ言ってたとか」
【智】
「怖いよそれ! ドッペルゲンガーって見たら死ぬって言うし!」
【伊代】
「なかなか都合のいい答はないわね」
そんなふうに会話を交わしながら、
ゆらゆら揺れる買い物袋を二度ほど持ち替えた頃、
ようやく僕のアパートが見えてきた。
【智】
「ほら、あそこ」
【伊代】
「え、どこ? どの部屋?」
【智】
「今から行くから」
【智】
「ただいまー」
【伊代】
「誰かいるの?」
【智】
「? 居ないよ? ただの習慣」
丁寧に靴をそろえて脱いでから上がりこむと、
伊代はきょろきょろと部屋の中を見渡した。
【智】
「何か面白いもの、ある?」
【伊代】
「ううん。片付けるとこなんかないじゃない」
【智】
「よかった。掃除奉行に合格点もらえちゃった」
キッチンに買い物袋の中身を取り出していく。
【智】
「まずは鯵(アジ)からかな〜」
【伊代】
「そうね。お魚はすぐ悪くなるから。あ、数多いと三枚におろすの大変ね。別のにすればよかったかな……」
【智】
「大丈夫、僕も手伝うし」
【伊代】
「ありがとう。ところでエプロンとかないの?」
【智】
「エプロンはないなあ」
【伊代】
「そう? じゃあ汚さないように気をつけてしないとね」
あれこれ物の場所を聞きながらキッチンを整えていく伊代に、
妄想エプロンを重ねてみる。
似合うだろうなー着せたいなー着て欲しいなー。
ちょっと目を閉じて、
イメージをより明確化することに挑戦してみる。
場所はこのキッチン。
伊代は包丁を片手にまな板に向かって立つ。
そう、エプロンはヘタにひらひらしたものより
シンプルな飾り気のないエプロンの方が、伊代には似合うだろう。
とんとんとネギを刻んでベタにみそ汁なんかを作る。
そしてその傍らには。
……同じくエプロン姿の僕が立っていた。
【智】
(ちがう! これちがう! 二人してお母さんしてどうするの!)
僕が妄想失敗して一人でヘコんでる間にも、
伊代は着々と準備を進めていた。
【伊代】
「お鍋これでいいの?」
【智】
「あ、うん。それそれ」
天ぷら鍋だ。
家庭とかいいな、と素直に思う。
元々あたたかい家庭には縁の薄い、
わりと寂しい人生だった。
父さんは仕事でいつも忙しく、
毎年数えるほどしか家に帰らないような人だった。
戸籍上の両親はいても、
ほとんど母親一人に育てられたようなものだ。
双子の姉がいたそうだけど、そちらの方は、
顔さえ覚えていない小さな頃に死んでしまったそうだ。
この呪いがある限り……結婚だって無理だろうから。
僕が伊代に惹かれるのは、どこか伊代の中に家庭の象徴を
見ているからなのかもしれない。
【伊代】
「さて、じゃあ、これ全部おろそっか」
【智】
「おっけー、手伝う」
【智】
「ねえ伊代。しょうゆとか酢とかは目分量なのに、なんで
砂糖だけすごくきっちり小さじで量るの?」
【伊代】
「砂糖は必ずきっちり量ることに決めてるの。だって砂糖は
危険なのよ!?」
伊代は自分ルールの多いキャラだ。
【智】
「またダイエットか!」
【伊代】
「そ、そんなこと言ってないでしょ! ほかにもあるじゃない……ほら糖尿病とか」
【智】
「糖尿病と糖分摂取は関係ないよ」
【伊代】
「……そうなの?」
それからも、伊代の奇妙な自分ルールは次々と発見された。
【伊代】
「最初の一匹は、そのまま味付けなしで食べてみることに
決めてるの」
【智】
「へぇ〜、素材の味?」
【伊代】
「一品作ったら水を一口、必ず飲むことにしてるの」
【智】
「へぇ〜」
【伊代】
「包丁を使うときは、右足をちょっと前に出すことにしてるの」
【智】
「へ、へぇ〜」
【伊代】
「油をひく時はこれぐらいかなって分出して、
それから三分の一くらい戻すようにしてるの」
【智】
「……へぇ〜」
謎の伊代ルール集。
夏休みになると、
一日ごとの予定を壁に貼ったりしてそう。
【智】
「伊代って妙なルールいっぱい持ってるね……」
【伊代】
「それぞれに意味があるんだってば!」
常人に理解できない意味に、
意味があるのかどうか。
【智】
「伊代ってさ、いっけん生真面目ないいんちょっぽいキャラなのに、実は常識とかには囚われない、なんか独自のルールで動いてるよね」
【伊代】
「常識なんて、意味ないでしょ?」
【智】
「あらかじめ作られた考え方やルールに従って動くのは楽だから、みんなそうするけどね」
【伊代】
「それじゃダメな時もあるわ……。常識とか法とか、そんな
あらかじめ作られたものでは、対処できる事態に限界がある」
【智】
「……何かあったの?」
【伊代】
「…………」
伊代の顔が翳る。
表れた感情は、怒りとも諦めとも戸惑いとも取れた。
【智】
「無理に話さなくてもいいけど」
【伊代】
「……あなたになら言ってもいいかなって思う。
あ、別に賛同してくれっていう意味じゃないから」
【伊代】
「わたしの話……聞いてくれる?」
【智】
「聞くよ」
【伊代】
「ありがと。ちょっと長いよ」
揚げた鯵を全部漬け汁に漬け終わると、
伊代は僕に向き直って語り始めた。
【伊代】
「実はわたしのお母さん、ある事故の後遺症があって、
家事が出来ない状態なの」
【智】
「それで伊代は家事が……」
【伊代】
「それはまあ、もともと好きなんだけどね」
【智】
「その事故って」
【伊代】
「交通事故。ほらあそこのスーパーの近くの角」
【智】
「ああ、あのミラーのない」
【伊代】
「歩いてたら曲がり角からバイクがすごいスピード飛び出してきて、手が電柱の間に挟まれて複雑骨折」
【伊代】
「それの後遺症で」
【智】
「そんなことが……」
【伊代】
「で、相手は未成年ってことで罪は軽いし、家出少年で当人にも
親の方にも損害賠償の支払能力がなくって……」
【智】
「……それで?」
【伊代】
「それだけ。わたしのお母さんは、手を潰されて結局そのまま……」
【伊代】
「あれからかな。決まりとか常識とか、信じられなくなったの」
【智】
「そんなことがあったんだ……。なんか……」
【伊代】
「いいって。わたしから話したんだし。それよりあなたは
どう思った? わたしの話。わたしはそれが聞きたい」
『本当に正しいこととは何なのか?』
自分と母親の不幸より、
伊代はその疑問に興味を向けている。
伊代のいささか反応が鈍い程の思慮深さは、
ここに端を発していたらしい。
【智】
「難しいよ、どこが間違っているのか、どうすれば正しくなるのか」
【伊代】
「あなたでも、やっぱり難しい?」
【智】
「僕は正しいことなんて好きじゃない。全員幸せにハッピーエンドが一番正しくても、現実にはそんなことはないから」
【伊代】
「平穏無事でいてくれれば、一番正しかった」
【智】
「きっと、それって一番難しい」
【智】
「だから、僕は正しいことは好きじゃない。
……正しいことを好きな伊代は……好きだけど」
【伊代】
「なにを言ってるんだか……」
さらりと流されて、
替わりに沈黙がきた。
なんとも気まずい。
結局それを打破したのも伊代だった。
【伊代】
「よし! お料理の続きしよっ! 早く作って早く行かないと
また帰れなくなっちゃうわ」
【智】
「……伊代にしてはうまく空気読んだね。えらいえらい」
【伊代】
「ちょっと、なによそれ!? 怒るわよ〜っ!?」
【智】
「わぁ〜っ! 巨乳さまのお怒りじゃ〜っ!」
【伊代】
「待ちなさいこら! あ、あ、あ! まだ熱い油もあるんだから
ホントに危ないってば〜っ!!」
惠の屋敷――食堂。
みんなが注視する中、僕と伊代は緊張の面持ちで、
鞄の中から密封容器を取りだした。
なかなかの自信作の数々だけど……
やっぱり少し不安になる。
【智】
「伊代」
【伊代】
「うん」
覚悟を決めて、テーブルの上に並べていく。
どん。
【るい】
「おお」
どん!
【るい】
「おおっ」
どんっ!
【るい】
「おおおおっ!」
目の色を変えたのは、主にるいだった。
【惠】
「へぇ、これは」
【佐知子】
「あら、どれもとってもおいしそう」
【浜江】
「ふむ……」
【伊代】
「わたしたちで作ってきたんです」
【智】
「浜江さんの料理には敵いませんけどね」
【伊代】
「お二人も、よろしかったらご一緒にいかがですか?」
【智】
「ぜひ、一緒に食べてもらいたいんです……いいよね、惠」
佐知子さんと浜江さんだってこの家の住人だ。
それに、僕らはずいぶんとお世話になっている。
どうせなら同席して、
一緒に僕らの料理を食べて欲しかった。
【惠】
「ああ、もちろん構わないよ」
【浜江】
「しかし惠さま。使用人が晩餐に同席するなど……」
【佐知子】
「浜江さん、お誘いを断るのもなんでしょう。
惠さんもああ言っておられますし、ご一緒しましょうよ」
【伊代】
「ぜひ」
浜江さんの焦がすような眼光にビビりつつも、
伊代が同席を頼む。
やがて、佐知子さんと一緒に浜江さんも、
しぶしぶと言った様子でテーブルについてくれた。
二人を加えると、食卓には9人も並んで、
ちょっとした会食気分になった。
【るい】
「ちくマヨがこんなに! こんなに……っ!」
【智】
「それるい用だから、ほとんど一人で食べていいよ。ペッパーマヨ、からしマヨ、わさびマヨ、明太子マヨとバリエーションもつけといたから」
【るい】
「わーい!」
るいがちくわにマヨネーズを詰めただけの物体に感動していると、こよりがいろいろな料理に興味を示して聞いてきた。
【こより】
「これは何でありますか〜っ?」
【智】
「それは鯵の南蛮漬け。鯵を唐揚げにして甘酸っぱい南蛮酢に
漬け込んでる。骨まで食べられるから、こより向けだと思うよ」
【こより】
「んじゃ、そっちは何です〜?」
【智】
「これはラタトゥイユ。夏野菜のトマト煮だよ。
チキンも入れてるけど主に花鶏対策」
【花鶏】
「よし」
【智】
「モッツァレラトマトも用意しといたから」
【花鶏】
「よし」
【智】
「あと茜子は何が好きなのかよくわからなかったんだけど……」
【茜子】
「茜子さんはラーメンが」
【伊代】
「さ、そろそろ食べましょうか」
【茜子】
「素流しか、この巨乳」
【伊代】
「何か言った?」
【茜子】
「何一つ申し上げておりません」
密閉容器に詰めた料理は惠の屋敷にあった皿に盛りかえると、
どれもこれも映えて、倍以上においしそうに見えた。
【惠】
「智、伊代、ありがとう。今夜は楽しい晩餐になりそうだ」
【るい】
「食べていい? もう食べていい?」
【こより】
「るいセンパイがもう限界なので、食べましょうよう!」
【伊代】
「ステイ!」
【るい】
「あぅ……」
【こより】
「あぅ……」
お預けを食ったるいとこよりが、
見ててかわいそうなくらいしょげる。
それを言った当人の伊代は、胸を張って瞑目し、パン!
と両手を胸の前で合わせた。
【伊代】
「いただきますしてからよ!」
【花鶏】
「……子供じゃないのよ」
【伊代】
「何か言った?」
【花鶏】
「よい香りですね、おほほ」
最後まで抵抗した花鶏を制圧して、みんなが手を合わせた。
僕もちょっと苦笑しながらも、給食みたいに手を合わせる。
これも多分、伊代の変なルールなんだろう。
【伊代】
「いただきます」
【みんな】
「いたーだきーます!」
飽食タイム。
【るい】
「んぐ、んむ、うまいよこれ、トモ! うまいよ、イヨ子!」
【伊代】
「あなたはマヨネーズをそのままチューブからちゅうーって
吸っても、同じ反応するでしょ!」
【るい】
「するかも」
【花鶏】
「するなよ」
【こより】
「伊代センパイの唐揚げは絶品ですよう! とくにこのカリカリのとこなんかほっぺたフリーフォールですよう!」
【佐知子】
「この鯵の南蛮漬けは伊代さんですか? お酢としょうゆと砂糖の配分が絶妙ですごくおいしいです」
【伊代】
「ふ、ふつうですって」
【惠】
「あまり料理の味はわからないんだけど、このラタトゥイユは
さっぱりとしていていい。智だね?」
【智】
「うん」
【花鶏】
「わたし対策と言っただけはあるわね。これはおいしいわ。
セロリとかクセのある野菜入れながら、こよりちゃんでも
食べられるようにアク抜きすごくしたでしょ」
【智】
「えへへ、それ配慮したのは伊代だよ。
僕はアクの強い野菜大丈夫だから」
【茜子】
「ペッターとぼよよんメガネの、
芸術的コンビネーションアタックか」
【るい】
「んむ、はむ、やっぱり……はぐ、トモは料理うまいねー!
イヨ子も料理上手で、おねいさんはシヤワセだよ!」
……そんな風にみんなといろいろ話しながらも。
僕と伊代は、さっきからずっと、
ある一人の人物に注意を払っていた。
【浜江】
「……………………」
浜江さんである。
ここに並んでいる料理はどれもうまくいった。
みんなにも誉められた。
けど……はっきり言って、浜江さんの料理には
とてもじゃないけど及ばない。
さすが料理を仕事にしてるだけはあるというか、
伊達に歳はとってないというか。
僕と伊代は、浜江さんがどういう反応をしてくれるかと、
ずっとドキドキしていたのだ。
その浜江さんが今食べているのは、
カプレーゼ――モッツァレラチーズと
トマトのサラダだ。
箸を置く音に、ビクンとする僕と伊代。
浜江さんがおもむろに、口を開いた。
【浜江】
「……ふむ」
【伊代】
「ど、どうですか……?」
【智】
「…………」
僕らは互いに顔を寄せ合って、
浜江さんに聴覚を集中させた。
ちなみにこれも、僕と伊代の合作だ。
いつもはオリーブオイルとレモン果汁でドレッシングを作る
ところを、伊代のアイデアでアップルビネガーに変えてみた。
伊代がダイエット用のリンゴ酢から、アップルビネガーを
思いついたのだ。恐るべし、ダイエットマニア……。
さて、浜江さんの反応は……。
【浜江】
「……オレガノが多い」
【智】
「さ、さすが……!」
【伊代】
「それ、入ってるハーブの一つなの?」
香り付けでほんのちょっと入れたオレガノを、
一発で言い当てた上に、量が多いとまで指摘してきた!
この人、昔はどこかの料理店で働いていたんじゃないだろうか?
【浜江】
「しかし」
【伊代】
「は、はいっ!?」
【浜江】
「りんご酢を使ったのは面白い。塩加減もいい」
【智】
「そ、それって……」
【惠】
「浜江はおいしい、と言ってるみたいだね」
【浜江】
「………………」
またも黙りこくってしまった浜江さんだけど、
他の料理にも箸を伸ばしてくれた。
大成功だ!
【智】
「やった! やったね、伊代!」
【伊代】
「うん! がんばった甲斐があったね!」
僕と伊代は手を取り合って、
ぴょんぴょん飛び跳ねそうな勢いで喜び合う。
正直、浜江さんに認めてもらうのは難しいと思ってたので、
もう嬉しくて仕方がない。
これを機会に浜江さんに料理をご教授願ったりできないだろうか?今度、惠にお願いしてみよう。
【るい】
「イヨ子もトモも食べないの? 全部食べちゃうよ〜?」
【こより】
「るいセンパイの場合は、本当に言ったままの意味で
全部食べるからコワイです」
【茜子】
「こんどは是非、そこのパクガツムシャモグ人(びと)の為に、
まんが肉を現実に作ってください」
【伊代】
「え? なにそれ?」
【智】
「なんだか変によく伸びる肉のことだよ」
【こより】
「原始人とか山賊が食べる肉であります!」
【伊代】
「ええ? 原始人? なんなのそれ?」
【花鶏】
「真ん中に骨を通したハムみたいな肉よ」
【伊代】
「そ、そんな肉あるの? それなんなのよ!?」
【茜子】
「まんが肉はみんなの心の中にあるのです……!」
【伊代】
「なんなの? なんなの!?」
【惠】
「はははは」
晩餐会の大成功に油断して、
結局今日も日が暮れるまで騒いでしまった。
【伊代】
「あれ、もうこんなに時間になってる!」
【こより】
「うは、またもや!」
【るい】
「お、みんな帰るの? うわ、もう夜の8時だ」
【智】
「まだ大丈夫……だよね? 急いで帰ろうか?」
慌てて帰ろうとすると、
惠が声をかけてくれた。
【惠】
「よかったら今日も泊まっていったらどうだい?
晩餐のお礼ということでどうかな」
【佐知子】
「お礼じゃなくても、いつでも歓迎ですけどね」
佐知子さんも笑って勧めてくれる。
惠の家は広くてみんなで集まれるから都合は
いいんだけど、いささか遠いのだけが欠点だった。
もし泊まっていいのなら、
ありがたいのはもちろんなんだけど……。
【智】
「どうする? 伊代、こより」
【伊代】
「う〜ん、わたしは……そうね……。今日は……う〜ん……」
【こより】
「鳴滝は泊まらせて戴きたい次第であります!
お泊まり大好きですよう!」
【惠】
「こよりは相変わらず決断が早いね」
【こより】
「えへへ〜。実は鳴滝もるいセンパイたちみたいに、
ここに寝泊まりしたいくらいなのであります」
【伊代】
「な、何よう。わたしだってすぐ決められるんだから……。
そ、そうね、今日は……う〜ん」
【智】
「じゃあ、今日は学園行って昼から買い出しに行って、
ちょっと疲れたから、僕もお世話になっちゃおっかな」
【惠】
「智も決まりだね」
【るい】
「イヨ子はどうすんの? もうちょっと、うんうん迷う?」
【伊代】
「き、決められるわよっ! ……そうね、今日は昼から買い出しに行ってちょっと疲れたし、わたしも……」
【佐知子】
「決まりですね?」
佐知子さんが微笑む。
後ろでは花鶏がだらしなくよだれを垂らしながら居眠りしていて、
茜子はスティックシュガーの袋を、意味不明なくらい真剣に振り回していた。
そういえば部屋はどうするんだろう?
るい、花鶏、茜子の部屋は掃除したけど、
僕たちの部屋はない。
また同室で寝ることになったら、前回の伊代のぽよぽよを
僕がぽよぽよな事件が、また勃発してしまうかもしれない。
あれは倫理的、感情的、男の子問題的にやばかった。
【智】
「でも、部屋は……」
【佐知子】
「それなら大丈夫です。またみなさんに泊まって貰えたらと思って、きちんと3部屋、片付けておきましたから」
【惠】
「佐知子がやってくれたんだ」
【こより】
「うは、さすが佐知子さん! 本物のメイドさんはやっぱりすごいですよう!」
【伊代】
「わたしたちの分の部屋まで……。
本当に重ね重ねご迷惑をお掛けしてすいません」
【佐知子】
「いいえ、わたしが好きでやったことですから」
【智】
「ありがとうございます」
部屋があるなら何一つ問題ない。
僕たちは一も二もなく、
今晩もお世話になることにした。
僕たちの部屋は2階の階段左側に、
まとめて三つ用意されていた。
【佐知子】
「それでは、わたしは1階の突き当たりの部屋にいます。
夜中に喉が渇いたりなにか用事があったりしたら、
遠慮なく起こしてくださいね」
【伊代】
「そんな。水くらい自分で汲みますよ」
【佐知子】
「そうですか? でも、遠慮しないでくださいね。
それじゃ、おやすみなさい」
【伊代】
「おやすみなさい。お世話になります」
【こより】
「おやすみなさ〜い」
【智】
「おやすみなさい。佐知子さん」
僕たちも手を振り合って僕、伊代、こよりの並びで
それぞれの部屋にわかれた。
こざっぱりと片付けられた部屋は、我が家ではないながらも
心地よく眠れそうだ。
今ごろになって、疲れを覚え始めた体をベッドに投げる。
惠や佐知子さん、浜江さんと知り合ってから、
今まで以上に日常が楽しくなった。
伊代とも、前よりもっと仲良くなれた。
友達――
それ以上にはなれないけれど、それでもいい。
呪いと想いを秤にかけて、
僕はどうすればいいのか?
どうするのが正しいのか?
正解なんてわからないけれど、
いつかきっとどうにかなる。
それも、そう遠くない未来に。
根拠のない希望的観測を自分勝手に信じるだけで、
口笛まで出てきそうだった。
明日も、楽しみだ。
【智】
「おやすみなさい」
一人呟いて、僕は軽くて心地よい布団をかぶった。
〔僕の責任〕
赤い!
赤い、赤い、赤い!
【智】
「どうして……、どうして……誰がッ!?」
吐き気を催すような生暖かい鉄の匂いが
鼻腔から入り込んできて、眩暈が視界を歪ませた。
どれだけ歪んだ視界の中でも、
見える光景の忌まわしさは変わらない。
【智】
「るい……こより、茜子、花鶏……!」
ぬるりとした液体が靴底を滑らせる。
鮮やか過ぎる赤が目に痛い。
【智】
「惠も……!」
赤い。
辺り一面真っ赤だった。
【智】
「……伊代……っ!!」
大地を彩る鮮烈な赤、
それは……血だ。
ぬらぬらといやらしく光を反射する赤い絨毯の上、
みんなの体が動かない肉袋になって転がっている。
【智】
「こんな、こんなことって……!」
すべての体が、
鋭利な刃物でボロボロになるまで壊されている。
だが、僕は何かがずれている気がしていた。
【智】
「いや、これは」
そうだ。
血が赤すぎる。
恐ろしい周囲の世界から気をそらすために、
努めて冷静に考える。
血液は空気に触れると、
急速に酸素と結びついて黒く変色する。
こんなに赤い血液が、
いつまでも血だまりを作っているはずがないんだ。
現実との違和感――
これは夢だ、
これはまた……。
【智】
「っ!」
曲がり角の向こうから気配がした。
水面下を魚影がよぎるみたいに、
赤すぎる血の表面を影が動いた。
【智】
「誰っ!?」
夢であるはずだ。
こんなに赤い血は考えられない。
それにこの場所はどこだ?
僕はどこからここに来た?
夢だ。
夢であるはずだ。
それなのに背筋を這い上がる戦慄を、
理屈で押し留めることができない。
誰かが……みんなを殺した誰かが
そばにいる……!
【智】
「ひッ……!」
血だまりに刃物の光が反射した気がした。
震え出す膝が留められなくなって、
足が言うことを聞かなくなる前に走り出す。
【智】
「逃げなきゃ……逃げなきゃ……! 殺される……!!」
見たこともない街並みの中を闇雲に走った。
どこに向かうのかはわからない。
とにかく少しでも速く、遠く、
ヤツから逃げなければならない!
【智】
「はぁ……ッ、はぁ……ッ! 助けて……助けて……っ!」
途切れそうに苦しい呼吸をしながらひたすらに走る。
やがて、道は唐突に袋小路になっていた。
【智】
「そんな……!」
引き返して別の道に……!
疲労のせいか恐怖のせいか、
そう思ったのに足が動かない。
袋小路を形作るのは高いビルで、
そのどれもが威圧的に聳え立ちながら、
僕の方にのしかかってくるようだった。
膝が震え出して、手も、体も震え出した。
歯がガチガチと激しく鳴って、
喋れば舌を噛み千切ってしまいそうだ。
【智】
「…………」
もはや逃げられない。
それならば待ち受けるしかない。
待ち受けて返り討ちに……みんなの仇を!
【智】
「……殺してやる……」
ぬるぬると滑るものを振り払い、
ぎゅっと強く握りなおした。
けれど、どれだけ待っても追っ手は現れない。
どこだ!?
どこからか、
滑稽な僕の姿をあざ笑っているのか!?
【智】
「殺してやる、殺してやる」
【智】
「殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる……!!」
震えは自然と治まっていた。
目の前に現れるどんな相手でも一突きで殺せるように、
僕は両手を前に出して身構える。
あれだけ走ったのに、
まだ血の匂いがついて来ていた。
さっきから手にまとわりつく、
ぬるぬるした感触が忌まわしかった。
【智】
「殺して、殺して、殺して、殺して……!!!!」
……待って。
僕は何を構えている?
両手で握り締めている……、
これはなんだ?
ぬるぬると滑る生臭い液体に覆われたこの柄は?
時折鋭い光を反射するこの刃は?
これは?
【智】
「こ、これ……そんな」
僕の手に握られているものは――
殺意を形にしたような鋭い刃だった。
刃は、ついさっき見た鮮やか過ぎる赤に彩られている。
刃先から柄までべっとりと血に塗れていた。
そしてそれを握る僕の手も!
【智】
「そんな、なんで……どうして僕が……!?」
手だけじゃない。
服も!
髪も!
顔も!
口の中さえ!
【智】
「うぷ……うぇ、ぉぐ……ぅえぇぇ……!」
抑えきれなくなった吐き気に身を任せると、
僕の口から赤いものが地面に滴った。
全身が血に塗れている!
返り血だ!
僕が……僕が……僕が……。
僕がみんなを……!!!!
【智】
「ぅあッ……!!!!」
エコーのように破砕音が反復する。
吐き気を催す目覚めが来た。
今日も最悪だ。
心地よかったはずのマットレスが、
不快な生暖かい汗に濡れていた。
夢からついてきた不快感が、
眉間あたりにわだかまる。
【伊代】
「あ、あなた……!!」
伊代が居る。
ぼやけていた視界がだんだん鮮明になって、
少しずつ状況が頭に入ってくる。
窓の外はまだ暗い。
伊代が立ちすくんでいた。驚いた顔。
足もとには、粉々に砕けたグラスと、
グラスを満たしていたであろう飛び散った水――
さっきの音の正体に思い当たる。
【伊代】
「あなた……その、その胸……!!」
【智】
「えッ!?」
汗まみれの体は、
服の前をはだけられている。
頭の中はまだ薄れぬ靄が立ち込めている。
のろのろと覚醒する意識のせいで、
うまく感情を発露させることができなかった。
【伊代】
「あ、あのわたし……隣から呻き声が聞こえたから……
お水を持ってきてあげようと思って、それで……!」
【智】
「……………………」
【伊代】
「あの、すごい汗だったから、苦しそうだったから、その……」
【智】
「……………………」
【伊代】
「服、緩めた方がいいかなと思って……わたし……!」
【智】
「………………見られた」
秘密を知られた。
呪いを、踏んだ。
淡々と結果だけが頭に入ってくる。
慌てて謝罪する伊代。
なだめればいいのか、
うろたえればいいのか……。
【伊代】
「わ、悪気はなかったの! 本当に……
ただ、ただ苦しそうだったから……」
夢で見た血を思わせる生ぬるい汗を背中に感じながら、
凍った時の中で伊代と見詰め合う。
今まで感じなかった温度と湿度が、
急に意識された。
伊代の頬を汗が伝って、
顎の先に珠を結ぶ……。
【佐知子】
「どうしたんですか? 何か割れる音がしましたけど……?」
【智】
「!」
【伊代】
「……っ!」
部屋の階が違うのに、佐知子さんが
さっきの音を聞きつけてやってきた。
【伊代】
「な、なんでもありません。わたしがちょっとグラスを
落としちゃって……!」
【佐知子】
「伊代さん?」
ドアノブが回るのを聞いて、
伊代が咄嗟に鍵をかけた。
【佐知子】
「智さん? 伊代さん?」
【伊代】
「大丈夫ですから。
それに今、あの……ちょっと着替え中なので……」
【智】
「伊代」
伊代と僕は目で会話する。
伊代は、僕の服をはだけて秘密を見た。
僕がずっとみんなに隠しつづけていた秘密を見た。
にも関わらず、伊代は僕を庇ってくれている。
【佐知子】
「でも破片とか片付けないと……」
【伊代】
「大丈夫ですから、本当に。掃除用具の場所もわかります。
後でわたしが片付けておきますから」
【智】
「伊代……ありがとう」
混乱は収まらず、為すべきことはわからない。
ただ湧いてきた思いのままに、
伊代にありがとうと言った。
【佐知子】
「……そうですか? それじゃ、私は戻りますね」
【伊代】
「はい、おやすみなさい。
夜中にお騒がせして、すみませんでした」
【智】
「おやすみなさい、佐知子さん……」
ドアの外、廊下を気配が遠ざかっていく。
施錠された部屋の中、
僕と伊代は取り残される。
【智】
「…………」
【伊代】
「……説明して……くれるわよね……?」
【智】
「説明しないわけにはいかない、でしょ?」
服の前を掻き合わせてから、
声を潜めて語り始める。
【智】
「その前に……最初にやっぱり謝らせて。ごめんなさい。
今まで騙しててごめん。ずっと嘘ついてて……ごめん」
【伊代】
「…………」
伊代は答えない。
許せるはずなど、
ないだろう。
僕は長らく自分を偽って、
みんなを騙して紛れ込んでいたのだ。
【智】
「『本当の性別を知られてはならない』
――これが僕の呪いだったんだ」
【伊代】
「…………あなた」
【智】
「言い訳だね。ずっと騙してたんだ」
【伊代】
「ちょ、ちょっと待って!」
【智】
「……いいよ。僕に言いたいことがあるなら、先にいくらでも」
ふるふると、伊代が首を振る。
【伊代】
「そうじゃなくて、深呼吸させて。やっぱり驚きすぎて、
よくわからなくなるから」
深呼吸して、表情を引き締めた。
【伊代】
「続き、どうぞ」
【智】
「うん」
覚悟を決める。
迷うことは一つもなかった。
どのみち呪いを踏んでしまった。
半分は投げやりだ。
【智】
「ごめん、ずっとみんなを騙してた。伊代にも黙ってた。
わかってたんだ。一緒にいたら、いつかこういう日が来るって。きっと遅いか早いかだった」
【伊代】
「…………」
口先の謝罪にどれだけの意味があるか。
辛さに目を閉じる。
汗に濡れた体が冷めて、寒気がした。
【智】
「ほんとはね、もっと早くに別れるつもりだった。
同盟とかさ、考えついたのも、僕がさっさと
一抜け出来るようにするためだったのに」
【伊代】
「あの時……っ」
【伊代】
「それって、わたしが……引き留めたから……?」
あの時。
同盟のことを思いついた後。
伊代と茜子と、並んで歩いて帰ったとき。
【智】
「……違う、と思う。
結局は突っぱねられなかった僕が悪かった。
伊代や茜子に関わらないって道もあったのに」
【智】
「全部そういうのを選べなかった僕のミスだ。
ツメが甘いって、よく言われるけど、まったくだ」
【智】
「そのせいで、いっぱい騙すことになっちゃった」
【伊代】
「そんなこと、言わなくたって……」
【智】
「本当のことだよ。
僕は嘘つきで、みんなを騙してた」
【智】
「それなのに甘えてたんだ。
だって、ずっと一人で生きてきたから。
はじめての、本当の友達だったから」
【智】
「一人でいるしかなかったんだ」
【智】
「父さんも母さんもいなくなって、
誰にも言えない秘密を抱えて、
世界全部を」
【智】
「嘘で誤魔化していかなくちゃだめだった。
嘘がばれると思ったら誰も信じるわけにはいかなかった」
【智】
「誰とでもうわべだけ付き合って、
誰にも深入りさせないようにした」
【智】
「好きだって言ってくれる子さえ、
必要以上に近づけないようにしてた」
【智】
「明るい未来なんか信じられないくせに、
死んじゃうのも怖くて嘘ばかりを選んだ。
ずっとそうやってきた」
【智】
「ずっとそうやっていくって思ってた」
【智】
「でも、違った。みんなと会って、
同じ痣と出会ったとき、どんな気持ちだったかわかる?」
【伊代】
「わかる……と思うわ」
噛みしめるような言葉だった。
【伊代】
「わたしだって同じ気持ちだったもの。
最初は意味がわからなかった。
すぐに嬉しくなった」
【伊代】
「自分だけじゃない、
自分のことをわかってくれる
誰かがいるのかも知れない……そう思った」
【伊代】
「でも、やっぱり信じられなかった」
【伊代】
「当たり前よね。
何年も何年も、私はひとりぼっちだったんだから、
今更誰かを信じるなんて無理だと思った」
【智】
「ごめん……本当に」
【伊代】
「何言ってるのよ!」
肩を掴まれてはっとする。
【伊代】
「あなた、呪いを……!」
【智】
「うん。呪いがどういう風に顕現するのかわからないけれど、
呪いを踏んだ以上、僕はもう命がないかもしれない」
【伊代】
「そんな……! わたしのせいで」
【智】
「伊代のせいじゃないよ。むしろ伊代は僕をもっと怒っていいと
思う。ずっと騙されてたんだから……」
伊代のせいでなどあるものか。
これは僕が招いた結果。
一から十まですべて僕のせいだ。
最悪だ。
大切な仲間たちを欺き続けた挙げ句に僕は死ぬ。
【伊代】
「怒るなんてっ」
【智】
「…………」
伊代は優しい。
その優しさに手を伸ばせない。
僕にそんな資格、あるはずがない。
【伊代】
「……そりゃちょっと……いえ、かなり驚いたけど……」
【智】
「友達だと思ってた相手が本当はずっと嘘をついてて、
男だったんだよ? みんなを騙して……友達みたいな顔
してたんだ」
【智】
「何も知らないみんなが明け透けに接してくれるのを、
いいように利用して、いろんなこと聞き出して……」
【智】
「気持ち悪いでしょ。もっと怒っていいんだ、伊代は。
みんなにもバラしていい。全部僕がいけなかったんだ。
自分の禁則もみんなの心も守れないで……」
【伊代】
「やめてよ!」
【智】
「だって事実だよ。嘘で塗り固めた自分のまま、必要以上に
みんなに近づいた。そのせいで……」
【伊代】
「落ち着いてってば!」
【智】
「でも」
叱られた子供みたいに俯く。
真剣な瞳で見つめられると、
何を言っていいのかわからなくなった。
【伊代】
「……それでもあなたは、あなたなのよ」
ずっと後ろめたさを感じていた。
中身のない雑談をする時も。
指先が偶然触れた時も。
同じ部屋で眠ったときも。
並んでキッチンに立った時も。
【智】
「伊代……」
自分の中に燻る、伊代への好意に気づいてからはなおさら。
一言話すたびに、重苦しいものが胸に溜まっていった。
逃げ出す機会は幾らでもあったのに、僕はそれをしなかった。
刹那的な享楽に浸って、いずれ来る事態から目を背け続けた。
僕は罰して欲しかったのかもしれない。
溜め込んでいた苦しみを、少しでも軽くする為に――
ここで伊代が僕を口汚く罵倒してくれれば、
僕の心は癒されるだろうか?
少なくとも虚無的な自己満足は得られるだろう。
呪いによる死が避けえぬ運命ならば、
これでもうあと幾ばくかのちに、
この命が尽きるならば。
このまま、どうしようもない
甘ったれのままでもいいんじゃないか?
伊代、それからるい。花鶏、こより、茜子。
惠も。佐知子さんや浜江さんにも。
嘘つきとしてみんなに口汚く罵って貰えば、
いっそ潔くこの世ともお別れできる……。
【智】
「僕を罰してよ。伊代……」
僕がらちもない自己洞察に浸る間に、
伊代の表情は、驚きと戸惑いから怒りへと変わっていた。
【伊代】
「……あなた」
【伊代】
「バカなこといわないで。
わたしたちのこと、こんなにしたのは
あなたでしょ」
【伊代】
「きちんと責任とりなさいよ。
発案者が最初に逃げ出してどうするの!」
【智】
「せ、せきにん……?」
【伊代】
「そうよ。
わたしはね、
いいえ、他のみんなもきっとそう」
【伊代】
「誰のことも信じられなかった。
あなたとは違ったかもしれないけど、
それでも信じられなかった」
【伊代】
「あたりまえよね」
【伊代】
「呪いがある。
呪いに縛られて一人になって、
呪いを知られるのが怖くて、信じられなくなって」
【伊代】
「そうやって、わたしたちは、
どんどんひとりぼっちになっていった。
でも……」
【伊代】
「でもね、あなたが信じさせてくれたわ」
【伊代】
「他のみんなも、あなたがいなかったら、
バラバラのまま」
【伊代】
「自分に得なんて何一つなかったのに、
あなた、いっぱい走ってくれた」
【伊代】
「でこぼこのわたしたちを引っ張って、
あのレースのゴールまで走っていったのは
誰でもない、あなたじゃない!」
【伊代】
「あの路地で追い詰められた時、
いきなり現れてわたしたちを助けたのは誰?」
【伊代】
「敵ばかりの夜の街で、
わたしたちの手を引いて逃げ出したのは誰?」
【伊代】
「呪われた世界をやっつけるだなんて、
大口叩いたのはどこの誰?」
【伊代】
「呪いを踏んで死の危険を身近に感じて、
自棄になってるでしょ!?」
【伊代】
「男でもなんでも、
あなたはわたしたちの……
わたしの大切な友達なのよ!?」
【智】
「…………」
伊代が本気で怒っている。
僕の願った断罪とは違った理由で。
【伊代】
「男か女か、そりゃ大事なことよ。あなたが嘘をつき続けて
わたしたちと一緒に居たのも、呪いだけを理由に正当化できる
ことじゃない」
【伊代】
「だけど、もう遅いのよ。遅すぎよ!」
【智】
「なにが……」
【伊代】
「とっくにわたしの中で、あなたの存在は大きくなってるのよ! 欠かせない心の一部になってるのよ! 今さら嘘ついてたくらいで突き放せると思う!?」
【伊代】
「怒らせて、見捨てさせて、自分勝手に一人で去ろうとしないで! 呪いがどんな形で現れるとしても、わたしは絶対あなたを
渡さないから……!」
【智】
「伊代……」
僕は、馬鹿だ。
自分のことばかり考えて。
僕は大切なことを忘れていた。
どうして僕が呪いを破る危険性を感じながらも、
伊代を好きになったか。
【伊代】
「あなたは、騙したくて騙したんじゃないでしょ?
あなたがそんなことする人じゃないことくらい、
わたし知ってるもの」
【伊代】
「それに不思議なことだけど……」
【智】
「不思議なこと?」
【伊代】
「なぜかしらね? わたし、いままでのこと思い返すほどに驚きが薄れていくの。この心境なんて言うのかしら?」
【伊代】
「『やっぱり』って言うのとも違う。どっちかと言うと
『ああ、良かった』って……」
【智】
「こんな僕でも、伊代は受け入れられるの?」
【伊代】
「受け入れる受け入れないじゃないわ。あなたはあなたのまま。
何も変わってないもの」
【智】
「……そっか」
何も変わってない、なんて。
染色体や体つきだけじゃない、
男と女には数限りない違いがあるというのに。
掃除当番の交代でも引き受けるみたいに気軽に言う。
【伊代】
「だから自暴自棄になんてならないで。呪いを踏んだ結果が
どんな風にやってくるのかわからないけど、抵抗できるだけ
抵抗するのが、あなたらしいんじゃないの」
【智】
「…………」
まったくだ。
僕は幼い頃に一度呪いを踏んで、
呪いによる死を乗り越えている。
記憶に残っているのは恐怖の断片のみだけれど、
確かに一度は乗り越えられたものなんだ。
【智】
「伊代が本当の僕を受け入れてくれるなら、呪いが来ても
戦える気がする」
僕を惹き付けていたのは伊代の優しさと、それから常識や
先入観に囚われずに本質を見ようとする目、なにより自分の
価値観をしっかり持っているところだった。
【智】
「伊代」
【伊代】
「…………」
僕はようやく放心から立ち直ると、
ベッドから身を起こして伊代に歩み寄る。
しかしその手を握ってお礼を言おうとしたら、
伊代は反射的に少し手を引いた。
熱いものにうっかり触ったみたいなポーズで、
お互いに顔を見合わせる。
【智】
「あ……」
【伊代】
「あ……ご、ごめん。
男の子だと思うと急に恥ずかしくなっちゃって……」
【智】
「う、うん。僕もごめん」
僕の手を取ろうか取るまいか、もじもじとする伊代を見てると、
僕まで恥ずかしくなってきた。
そういえば伊代に服の前を半ばはだけられたままだ。
【智】
「あ、えと、ボタンとめなきゃ……!」
【伊代】
「う、うん……」
ボタンをとめるところを隠そうとしたけど、
未練があって後ろを向く事ができず、
横を向いてチラチラと伊代の顔を見る。
もつれる指先では、なかなかボタンはとまらなかった。
【智】
「あ、あのさ、伊代」
【伊代】
「えっ!? な……なに?」
照れ隠しの為に、何でもいいから口を動かす。
【智】
「ぼ、僕ね、小さい頃に呪いを一度踏んだことがあるんだ」
【伊代】
「それ……大丈夫だったの?」
【智】
「うん。お父さんだったか、お母さんだったか、誰かに助けて
もらった気がするんだ。とにかくすごく怖くて、呪いから
助かった後もしばらく寝込んでた気がする」
【智】
「呪いはどんなモノだったのか、どうやって助かったのかは
覚えてない。だけど、必ず死ぬわけじゃないのは確かだよ」
【伊代】
「そうね……、現に今あなたが生きているんだから」
【智】
「うん。ただ、まだ呪いがどういう状況によって発動するのかが
判らないし、一応、僕が男の子だってことは……」
【伊代】
「うん。わかってる。あなたが、お、男の子だってことは……、
わたしと、あなただけの秘密……」
嘘を続ける。
生きるために。
秘密を伊代と共有して。
二人の秘密。
そのフレーズがなんだかとても恥ずかしくて、
思わず笑って誤魔化した。
【智】
「あ、あははははっ! な、なんか、そんな言い方すると
恥ずかしいね」
【伊代】
「え、そ……そう? や、やだ。思っても言わないでよ、
わたしまでなんだか恥ずかしくなっちゃう……」
【智】
「ご、ごめん……」
今はこれで充分。
生きる意志を、僕は固めた。
呪いと戦う。
【智】
「え、えと……」
【伊代】
「な、なにっ?」
【智】
「いや、呪いの対策……一緒に考えてくれない?」
【伊代】
「あ、あ……うん! そうしましょ、それがいいわ。
うん、それがいいわ!」
【智】
「うん、ありがと。それで、僕が呪いを踏んだことなんだけど」
【伊代】
「どうするの? みんなにも話す?」
【智】
「話そうと思う。僕は誰かに助けてもらった気がするって
言ったよね? ということは人の力を借りられるってこと。
だったら、みんなに力を貸して欲しいから」
【伊代】
「そうね、あなたが誰かに助けてもらったって言うのなら、
きっとわたしたちにも何か手伝えるのよね」
【智】
「たぶんね。だから呪いのことは話す。
だけど、僕の秘密のことはやっぱり伏せておいて欲しい」
【伊代】
「もう一度呪いを踏むことになるかもしれないしね……大丈夫、
きっとみんなわかってくれるわ」
【智】
「うん」
秘密を隠し続けるしかない僕に、
好意的に接してくれる伊代が心強かった。
呪いの不安よりもむしろ、
ずっと隠し続けてきた秘密を伊代が
共有してくれる安心感のほうが大きいくらいだ。
【伊代】
「じゃああなたは、呪いのことに決着が着くまで、なるべく一人にならないほうがいいわね」
【智】
「そうだね……。惠に僕たちも泊めて貰えるように頼んでみよう」
【伊代】
「それがいいと思うわ」
会話が途切れると夜の静寂が聞こえるようだった。
呪いの危険がどういうものなのかわからない以上、
僕たちに対策できることは今のところもうない。
【智】
「今日はもう遅いし、寝てあとは明日にしよう」
【伊代】
「ええ……、でももし夜の間に呪いの効果が現れたら?」
【智】
「それは……。でもずっと起きてるわけにもいかないから。
そんなことしてたら呪いの前に過労で死んじゃうよ」
【伊代】
「だったら……」
一度は触れ合い損ねた手を取って、
伊代が僕を真正面から見つめる。
【伊代】
「だったら、二人でいれば……もし何かあっても気づく確率が
高くなるんじゃない……?」
一拍かかって、言葉の意味を理解する。
それからさらに一拍の後に、顔が熱くなった。
【智】
「え、そ、それって……」
【伊代】
「わ、わたしもこの部屋で寝るわ……」
【智】
「いや、でも、それ」
【伊代】
「だっ、大丈夫よ!
ほ、ほら、前に泊まったときも一緒に寝たじゃない!」
【智】
「で、でもあの時は……っ」
惠の部屋にみんなで泊まった日のことを思い出す。
伊代の胸を触ってしまった、
いらぬ出来事まで思い出す。
心臓が胸から飛び出して、
どこかへ一人旅に出てしまいそうだった。
まともに伊代の顔を見るだけでも恥ずかしい。
それでいて目を離せない。
夜の闇が赤くなった顔を、
どうか隠してくれていますように。
【伊代】
「わ、わたしなら大丈夫だからっ。あなた、な、何もヘンなこと
したりしないでしょ……?」
【智】
「し、しないしない! しないよっ!!」
【伊代】
「わたし……あなたが心配だから……」
【智】
「伊代……」
結局伊代に押し切られて、
一緒にこの部屋で寝ることになった。
部屋にはベッドがわりになりそうなソファなんてない。
僕は床に寝ると言い張ったけれど、
それも伊代に却下されてしまった。
【伊代】
「近くにいるほうが、何かあった時に気づきやすいから」
【智】
「う、うん……」
伊代と二人、背中を向け合って
一つのベッドに横たわる。
ベッドは一人用で狭かったから、
背中と背中が触れていた。
緊張と恥ずかしさで、
とても眠れやしない。
そう思ったのだけど……触れ合った背中から伝わってくる
伊代の体温のおかげで、僕は不思議なほどに安らいだ。
緊張も恐れも、暖かい闇の中に溶けていく。
一人ではないということ――
それが、こんなにも暖かいものだったなんて。
【伊代】
「あったかいね……」
【智】
「……うん」
心地よいぬくもりに身を任せる。
僕は次第にまどろんで、大時計の次の時報を聞くより前に、
いつのまにか眠りについていた。
〔ノロイの襲来(伊代編)〕
【花鶏/???】
「ぎゃあぁぁあぁ〜〜っ!!!?」
悲鳴!
音がするくらい、バチっと目が開いた。
隣でほぼ同じタイミング、同じ動作で伊代もベッドから飛び起きる。
誰の悲鳴だ!?
昨日呪いを踏んでしまっただけに、僕らの心臓は驚きで
止まりそうだった。
【伊代】
「大丈夫!?」
【智】
「伊代は!?」
【伊代】
「わたしは大丈夫……あなたも平気なのね?」
【智】
「うん。さっきのは僕じゃない」
すると誰の!?
【智】
「行こう!」
【伊代】
「ええ!」
転がるように飛び出すと、こよりも部屋から出てきたところだった。
【智】
「こより! さっきの悲鳴聞いた!?」
【こより】
「え、ハイ。っていうかなんで伊代センパイとともセンパイ、
同じ部屋から?」
【伊代】
「そんなのあと! 行きましょ!」
【智】
「うん!」
【こより】
「あ……待って下さいよう!」
こよりを残して走り出すと、
1階への階段近くで、惠と茜子に会った。
【惠】
「伊代、智。さっきの聞いたかい?」
【茜子】
「下からだったみたいですが」
【智】
「わかった!」
二人が無事なのを見るや、
僕と伊代は手を取り合って階段に走る。
いったい何があったんだ!?
【佐知子】
「そんなに駆け下りると危ないですよ!」
【るい】
「トモ、イヨ子!」
【伊代】
「さっきの悲鳴、聞いたでしょ!?」
【智】
「1階からだよね!?」
【るい】
「花鶏の声みたいだった」
花鶏の部屋は西側廊下奥。
洋館の古い床板を軋ませて、
僕と伊代は走った。
まさか僕の踏んだ呪いが波及してしまったのか?!
ラグビー選手みたいにノブに飛びついて
ドアを引きあけ、僕らは部屋に飛び込んだ。
【智】
「花鶏っ!!」
見た瞬間、顔が青くなった。
花鶏が床にへたり込んで、窓の方を向いたまま
ガクガクと全身を異常なほど震わせている。
まさか、花鶏が……!
【伊代】
「大丈夫!? あなた、大丈夫なのっ!?」
【花鶏】
「あ……あ……、あ……!」
【智】
「花鶏っ! 花鶏っ、大丈夫っ!?」
【花鶏】
「ぅあ……あ……!」
触れるのが恐ろしいくらいに、
花鶏の体は震えていた。
後ろからは髪で見えないが、
顔も首筋も汗にまみれているに違いない。
【るい】
「花鶏はいったいどしたの!?」
【佐知子】
「だ、大丈夫ですか!?」
るいと佐知子さんもやってくる。
後ろからすぐに惠と茜子、
さらにこよりも追ってきていた。
【惠】
「いったい……!」
【伊代】
「あなた、大丈夫なの!? 何があったの!?」
【花鶏】
「び……が……!」
【智】
「え!?」
【花鶏】
「へびが……、蛇が、そこに……!」
【伊代】
「………………へ?」
【花鶏】
「ひぃっ! あいつ今こっち見たっ!?」
【智】
「あの……花鶏?」
【花鶏】
「し……舌なめずりしてるぅ〜っ!! わたしを狙ってるんだわ! 絶対狙ってるぅ〜っ!!」
【伊代】
「…………」
【智】
「…………」
ちろちろと舌を出す小さな蛇に怯えまくる花鶏を、
僕らが呆然と見ていると、庭の方から回ってきた浜江さんが現れる。
【浜江】
「何を騒々しい」
浜江さんは無造作に蛇をつまみ上げると、
ゴミでも捨てるみたいに藪の向こうに投げ捨ててしまった。
何事もなかったかのように、
浜江さんは行ってしまう。
【花鶏】
「………………」
【智】
「………………」
【伊代】
「………………」
10数秒間の時間停止のあと、
やっと安全を確認した花鶏は、
長く長く息を吐いてヘナヘナと脱力した。
【花鶏】
「はあぁぁぁぁ〜〜〜〜〜………………。た、たすかった」
【伊代】
「まったく朝から人騒がせね! あんなちっちゃい蛇、
しかも窓の向こうじゃないの!」
【花鶏】
「そ、そんなこと言ったって! どんなに頭が良くて綺麗で高貴な家柄の人間にだって、一つくらいは弱点があるもんでしょ!」
【茜子】
「変態で悪食の没落貴族にだって、一つくらいは
弱点があるものですね」
【花鶏】
「茅場……おまえ……おまえ……!」
【茜子】
「にょろにょろ〜、ああ恐ろしいにょろ。
おしっこ漏らしそうにょろ」
【花鶏】
「おま……覚えときなさいよ、茅場……っ!!」
【こより】
「う〜ん。頭が良くて綺麗で高貴な家柄かどうかは置いといて、
花鶏センパイにも弱点があったなんて」
【花鶏】
「こよりちゃんまでっ!!」
【こより】
「はううっ、犯されますようっ!?」
しかし。
花鶏があんなに蛇が苦手だったなんて驚いた。
なんか怖いもんナシっぽい感じなのに。
【智】
「まぁ……苦手なものは仕方ないけど……。ちっちゃくて
結構かわいかったと思うけどなあ」
【花鶏】
「ありえない! ヘビよ!? にょろにょろよ!? 脱皮よ!? ああもう言ってるだけで、鳥肌立ってくるっての!」
【るい】
「トモとかイヨ子とかこよりとかに、セクハラばっかりしてる
バチだよ」
【惠】
「朝から面白いね。花鶏は」
【伊代】
「もう……ホントに人騒がせなんだから……ふふっ」
【花鶏】
「ちょ、笑い事じゃないわよ!
わたし、もうちょっとで呪い踏むとこだったのよ!?」
【智】
「え?」
呪い――
その言葉が出たことで、みんなが集中した。
あの状況で踏むかもしれないなんて。
一体どんな呪いだ?
『蛇に触ってはいけない』――まさか?
『驚いてはいけない』――何回死ぬことか?
【智】
「…………」
そのうち、朧気ながらも答へと辿り着いた。
それはなんとも花鶏らしい。
ここに呪いがある。
誰かに助けを求めることを禁じる――呪いだ。
誰かを信じて助けを乞うこと。
誰かに救ってくれと願うこと。
縛られた心は孤独に耐えねばならない。
孤高の花冠を被り、高台に立つ。
繋ぐ手はなく、寂しさの年月に一人過ごす。
厳しい呪いだ。
信じられる誰かが出来るほどに、
花鶏は呪いへと近付いていく。
【るい】
「あんなちっこいヘビで、へるぷみーするほど怖がるなんて。
アカネに鍛えてもらったら?」
【こより】
「たしかに茜子センパイは動じない感じであります! たとえ、
花鶏センパイにオトコが出来たりしても驚かなさそうです」
【茜子】
「茜子さんを驚かそうと思ったら、あの怖いばあさんがウサ耳
つけて体操服着てトランペット吹きながらスケボー乗って
パラッパッパラーと華麗に登場くらいしないとダメです」
【惠】
「それは誰でも驚くな。はははは」
【花鶏】
「ちぇっ、笑い事じゃないっての!」
それでも花鶏は強く笑う。
普段通りの光景にふと気が緩んだ。
けれど、僕と伊代の胸には黒い影が沈殿している。
僕は昨日……
呪いを踏んだのだから――――
タイミングが掴めなくて、
僕らは呪いを踏んだことを言い損ねていた。
秘密を秘密にしたまま、呪いを踏んだことだけを告げるのは
難しいし、要らない不安を煽るのはどうかと思ったからだ。
みんなと一緒の部屋も居づらく、
二人してさりげなく僕の部屋に引っ込んだ。
【智】
「さて……、どうしようか。伊代?」
【伊代】
「そうね……。いつどういった形で起こるのかわからない呪いの
発現を、ただ待ちつづけるのは、精神衛生上良くないわね」
【智】
「とはいえ」
【伊代】
「どうしていいかわからないのが現状、っていうのも事実ね」
僕らに与えられている情報はあまりにも少ない。
記憶の糸を手繰る。
僕は幼い頃、
どういう状況で呪いを踏んで、
どういう状況で助けられた?
どういう状況で生き残った?
【智】
「………………」
思い出せない。
記憶はほとんどが灰色に塗りつぶされて、
空白も同然だった。
かすかに残った記憶の断片から窺えるのは、
黒い影の姿だけ。
【智】
「黒い、影……」
【伊代】
「それが、呪いの現れた姿なの?」
【智】
「かもしれない。そうじゃないかもしれない。
ただ、僕の記憶の中に残っている断片はそれだけなんだ」
【伊代】
「そう……」
僕の記憶の中にあるのは黒い影だけ。
それでどういう対策ができるだろう?
【智】
「でも、それだけだから……」
【伊代】
「難しいわね。目に見えるらしいってとこだけが手掛かりかしら?」
【智】
「相手は呪い……なんだよ? 物理法則も、僕らの常識も、
僕がかつて見た記憶さえ、アテにならないんじゃないかな」
【伊代】
「姿形もわからないってことね……」
事前に備えられることは何一つ思いつかなかった。
何をすればいいのかがわからない。
神経を張り詰めればいいのか、
体を休めればいいのかすらわからなかった。
【伊代】
「ねえ、あなた。こんなに……」
【智】
「なに? 伊代」
【伊代】
「こんなにつかみ所のないものが相手なら、わたしたち……、
むしろ今までと変わらない日常を過ごした方がいいんじゃない
かしら?」
【智】
「えぇ……!?」
伊代の意外な発言に、
僕は目を丸くする。
【伊代】
「わからないものに備えても苦しいだけ。無理に体を休めても
余計辛いだけ。それなら、今まで通り過ごすのが一番だと思うの」
【智】
「でも、そんな……」
僕は呪いを踏んだ。
死はごく間近で僕を狙っているはずだ。
そんな人間が今まで通りの日常を過ごす?
そんなことができるだろうか?
それに呪いへの警戒を忘れるなんて……。
【伊代】
「姿かたちもわからないなら、呪いなんてニュースに出てくる
殺人犯と変わらないと思わない?」
【智】
「…………」
【伊代】
「近くで交通事故が起こったらもうそこには近寄らない?
そんなことないわよね。危険なんてどこにでもある。
どんな時も、事故だって事件だって身近に存在し続ける」
【伊代】
「でもわたしたち、危険を恐れてずっと篭もっていることなんて
できないよね? いつ来るかわからない危険と戦うなら、
それ以上の強さを身につけなきゃ」
【伊代】
「そしてもっと、楽しまなきゃ。これから続くであろう日々を、
守りたいという想いを募らせなきゃ……!」
【智】
「伊代……。そう、そうか……そうだね」
【伊代】
「そうよ」
【智】
「やっぱり伊代はすごいよ。この状況でそんなことを考えられる
なんて。僕は目の前の呪いの危険にばかり囚われて、
ありもしない対策を考えて袋小路にはまってた」
【智】
「伊代の思索は自由だ。常識にも定石にも縛られない。
だから僕にたどり着けない答を見つけられる」
【伊代】
「そ、そんなことないって……。
わたし、なんでも自分で考えないと納得できないだけだから……」
【智】
「それが伊代の強さだよ」
【伊代】
「あなた……」
またもや昨日の一幕のように、僕らは見詰め合って赤くなって、
頭を沸騰させて立ち竦んだ。
【伊代】
「あっ、あ、あの、あの、あれよ! そうだ!」
【智】
「な……えっと、な、なに?」
【伊代】
「ほ、ほら! そう!
あのおばあさんに料理を教えてもらおうって言ってたじゃない!」
浜江さんに料理を習う。
それはたしかに魅力的だ。
あの浜江さんから料理を習えるとしたらなおさら。
浜江さんが首を縦に振ってくれるかどうかわからないけれど、
料理の手伝いだけでもさせて貰えないだろうか?
頼む価値はありそうだ。
【智】
「そっか。いいね、一緒に浜江さんに頼んでみようか?」
【伊代】
「ええ!」
【智】
「じゃあ、早速今からいこう!」
【伊代】
「うん。ちょっと怖いけど……ね」
【智】
「……惠にもついてきて貰った方がいいかな?」
【浜江】
「……その大根、全部かつら剥きに」
【智】
「ぜんぶっ!?」
【浜江】
「あんたはその黒オリーブ、全部すり潰す」
【伊代】
「なにこれ……なにに使うのこれ……」
惠の口添えを得るまでもなく、
浜江さんは快く(?)、
料理の手ほどき&手伝いをOKしてくれた。
お屋敷はさすがに厨房も広く、
まるで料理店並だった。
三人が料理に従事しても、まだまだ余裕がある。
【智】
「予想通りだけど……き、きびしいね……!」
【伊代】
「なんていうかほら、古代の兵士訓練法の……」
【智】
「えっと、スパルタ?」
【伊代】
「そうそう、わたしそれが……」
【浜江】
「早うする!」
【智&伊代】
「「は、はひっ!」」
浜江さんは予想通りのスパルタ教育で、僕たちはそれぞれ
大量の大根かつら剥き、大量の黒オリーブすり潰しという
体育会系のような作業を命じられていた。
浜江さんは僕らの作業を時々横目で見ながら、
自分の作業を黙々とこなしている。
【浜江】
「あ……これ!」
【智】
「なんです?」
【浜江】
「そんな持ち方だと、指が何本あっても足らん」
浜江さんが僕のそばに来て、手を取って直接かつら剥きの
正しいやり方を教えてくれる。
皺だらけの小さな手は、
思ったよりずっと暖かかった。
【智】
「ありがとうございます」
【浜江】
「……………………」
普段は能面のように表情の変わらない茜子でも、
慣れてくると意外と微妙に表情がわかるようになる。
浜江さんも、そういうタイプの人みたいだった。
無愛想な無表情の中に、
かすかにいろんな表情がある。
【浜江】
「その黒オリーブはケッパーとにんにく、
オリーブオイルと合わせる」
【伊代】
「はいっ! ええ、っと……!?」
僕らに単純な作業を命じながらも、
浜江さんは折々に料理のレクチャーもしてくれた。
浜江さんはかつて、
料理の仕事に就いてたんじゃないだろうか?
和食や中華はもちろんのこと、
フレンチやイタリアンの知識にも隙がない。
浜江さんの料理は、まさしく自在だった。
ぼそぼそと独り言のような口調ながら、
僕たちに作業を命じつつ細かいコツを教えてくれる。
【浜江】
「煮物は温度が低い方が味が入る。沸かしたらいかん」
【伊代】
「ぐつぐつ煮込むってイメージだけど、あれ間違いだったんですね」
【智】
「勉強になります」
浜江さんに持ち方を正されてからは、
かつら剥きもスイスイできるようになった。
これはおそらく大根のサラダになるのだろう。
浜江さんの背中に隠れて、
こっそり伊代と笑みを交わす。
鍋の中はなんだろう?
手を休めないままに覗き込もうとしたら、
指先に痛みが走った。
【智】
「痛つ……!」
【伊代】
「あら大丈夫?」
【浜江】
「よそ見するから……」
鍋から振り返って戒めようとした浜江さんが、
驚きに言葉を飲み込む。
包丁が異様な形に曲がって僕の指を切っていた。
僕の手元が滑ったんじゃない!
【伊代】
「きゃ……!!?」
【智】
「えぇッ!?」
そして、僕と伊代には見えてしまう――
シンクの排水溝から……、
細長い影のような手が伸びているのを!
危ないと考える余裕もなく包丁を投げ捨てた。
声もなく後じさる。
黒い手は、霧のように消えていた。
【智】
「今の黒い手……!」
【伊代】
「うん」
ついに呪いが目に見える形で現れた。
切れた指先から、血が雫となって落ちる。
【浜江】
「黒い手……? まさか……」
浜江さんには、
黒い手は見えなかったようだ。
あれが何なのかはわからないが、
呪いを背負ったものたちにしか見えないのかもしれない。
しかし、浜江さんは、どうも呪いのことを
知っているような口ぶりだ。
佐知子さんも、朝の花鶏の蛇騒ぎの時、
呪いの話に疑問を挟んでこなかった。
この屋敷の人たちは、呪いの存在をあらかじめ
惠から聞かされているのかもしれない。
【智】
「浜江さん、あなた呪いのこと……」
【伊代】
「危ないっ!」
伊代に急に手を引かれて体がよろめく。
視界の隅に食器棚のガラスに映る黒い影が見えた。
全身が真っ黒で、死そのものを思わせる髑髏の面が
嘲笑(あざわら)うかのようによぎる。
【智】
「あれが……ノロイ……!」
声を上げて大きな物音を立てているのに、
食堂の誰もやってこない。
すぐ隣の部屋、気づかないはずはないのに?
【伊代】
「きゃ……あ、あそこに……!」
【智】
「……っ!!」
息を飲んだ。
排水溝の奥深くから、
ゴボゴボと嫌悪感を催す水音が上がってくる。
一瞬視界の隅をよぎった髑髏面の黒い影が、
今度はずるり、ずるり、とシンクの中から這い出してくる……!
【ノロイ】
「……………………」
暗い眼窩を覗き込むと、
本能的な恐怖に総毛立つ戦慄を覚えた。
自身の体の一部を汚水のように滴らせながら、
ノロイの影はゆっくりとゆっくりと這い寄ってくる。
【伊代】
「に、逃げなきゃ!」
【智】
「……うん! 食堂に!」
死に魅入られていた意識を伊代の声に呼び戻されて、
食堂に向かって走り出した。
みんなの居る場所に行けば、
なんとかなるかもしれない!
【浜江】
「あんたら、いったい……!」
浜江さんにはノロイは見えていない。
ノロイも浜江さんに対しては見向きもしないようだった。
説明している暇はない。
【智】
「みんな! ノロイが……!!」
【伊代】
「…………えっ!?」
──食堂に向かって飛び出したはずなのに、
僕らはいつの間にかキッチンに戻っていた。
寒気がする。
浜江さんが、訝るような目つきで僕らを見る。
その傍らに髑髏面の黒い姿が、静かに佇立していた。
【智】
「逃げられない……!」
異常な事態に絶望する。
僕は、もはや一歩一歩歩み寄ってくるノロイを
呆然と見つめることしかできない。
あともう数歩……あの長い黒い手が僕に届いた時、
この命は尽きるのだろう。
黒い手が迫るごとに、
不思議なほどに恐怖感は薄れていった。
むしろ、この黒い手にかかることが
自分の正しい運命であるかのように思える。
この髑髏面の異形こそが、
僕に最後を与えるものだったんだ。
黒い手が伸びてくる。
あと数センチ、僕の命は残り何秒だろう?
瞑目して、終わりの瞬間を待つ。
ああ、とても安らかだ。
どうせ人間いつかは死ぬんだ。
苦しい病に侵されたり、
老いていく体を嘆いて死ぬより、
ずっといい――
僕はこの終わりを静かに受け入れよう。
目を開くと、目のないはずの髑髏と目があった気がした。
さぁ、その手で僕の命を……。
【伊代】
「何してるのよ! あなた呪いと戦うんじゃなかったの!?」
【智】
「……はッ!?」
長すぎる黒い爪が宙を掻く。
僕は寸前のところで身を引いていた。
【智】
「伊代、ごめん!」
【伊代】
「だって、あなたに一人でいかれたら……わたし……」
【智】
「ノロイが……!?」
心まで死にいざなう呪縛から逃れて安堵したのも束の間、
伊代から目を戻した瞬間に、ノロイは影も形もなく消えている。
依然として周囲の空気には
緊迫感が張りつめている。
ノロイは必ずまだどこかにいる。
慎重に下がって壁に背を預けた。
【智】
「くそ……、僕らの常識なんて何にも通じない!」
【伊代】
「気をつけて……」
【浜江】
「惠さまの言ってた、黒い影がおるんか……!」
【智】
「はい。でも僕を狙って……」
【智】
「……うぐッ!?」
【伊代】
「壁から!!」
背後の壁から生えた黒い腕が、
僕の首を掴む!
首を締めつつ、圧し掛かるように
髑髏の顔と黒い体が壁から染み出してくる。
【智】
「ぐうぅ……ッ! ん……ぅ……っ!」
【伊代】
「やめて! やめて!!」
伊代が僕を助けようと果敢にノロイに掴みかかるが、
その手は空しく素通りするばかりだった。
伊代が触れることすらできないのに、
ノロイの手は確実に僕の首をねじ曲げてくる。
体がくの字の曲げられて、
首を胸に向けて折られそうだった。
【智】
「うぐ……、ぐうぅぅ……ッ!!」
【伊代】
「やめて! やめてぇぇ……ッ!!」
頚骨がギシギシと軋んで、
だんだんと意識が遠くなってくる。
こ、このままじゃ……!
頚動脈が圧迫されて、
脳が酸欠状態になる。
視界が狭くなって、
ついに限界かと思われたその時――
【智】
「はァッ……はァッ……はァッ……! な、なにが……?」
唐突に首に食い込んでいたノロイの指がゆるむ。
【伊代】
「大丈夫っ!?」
ノロイはのろのろと僕の首から手を離すと、
だらりと手を下げて頭をもたげた。
首を捻じ曲げてキッチンの窓に顔を向ける。
そのままノロイは、
空気に溶けるように消えてしまった。
〔伊代とのH〕
実際にはおそらく数分――
感覚的には1時間以上も、
僕たちは恐怖の余波に身動きが取れなかった。
顔の表面をなまぬるい汗が流れて、
必死に背後の壁を掴んでいた手がわずかに痙攣した。
忘れていた呼吸を思い出す。
無意識に続けられていた呼吸は、
意識した途端に難しく感じられた。
そこに、ひょっこりと顔を出す。
【るい】
「……ごはん、まだ……?」
呪縛を破ったのは、るいの情けない声だった。
お行儀の悪いるいを追って、花鶏もやってくる。
【花鶏】
「この動物! おとなしく待ちなさいよ……って、
一体どうしたの?」
【花鶏】
「それで、結局何があったのよ?」
【智】
「実は昨日、僕は呪いを踏んじゃったんだ」
【こより】
「え、えええーっ!? ともセンパイ、それじゃ……!!」
【るい】
「ト、トモ、だいじょぶなのそれ!?」
【伊代】
「今さっきキッチンで、呪いの執行者……みたいなものに
襲われたわ。なんとか今回は助かったみたいだけど……」
【智】
「伊代に助けてもらったんだ。一人だったら危なかったと思う。
あの影みたいなのに捕まらなければ、とりあえずは大丈夫みたい
だよ」
【惠】
「呪いを踏んでも、即座に死亡するわけではなかったのか……」
一応すぐに死ぬわけじゃないことを伝えると、
みんなは胸をなでおろした。
【花鶏】
「その襲ってくる影っていうのは、どういうヤツなのよ」
【茜子】
「対処はできるのですか?」
【智】
「黒い影っていっても僕たちにそう見えるだけで、
もっと漠然とした存在なんだと思うよ」
【伊代】
「それからあの黒いの、わたしたち呪いを持った者にしか
見えない感じだったわね」
【智】
「浜江さんには見えなかったし、危害を加えられる様子も
なかったね」
【るい】
「やっつけられないの?」
【伊代】
「向こうからは触れられるけど、こっちからはダメで……
反撃は無理かも」
【惠】
「逃げ続けるしかないわけか……」
ノロイの影はいつ現れるのか、
どう言った手段で襲ってくるのかもわからない。
夜だからといって休ませてくれるはずもないし、
鍵も無意味だろう。
伊代の言うように対処できない相手なら、
日常を過ごしたほうがずっといいのだろうけど……。
実際に襲われた恐怖は、
僕の日常のイメージを掻き乱した。
【伊代】
「ともかく警戒の為に、みんなで一緒に居たほうがいいんじゃないかしら。呪いの姿が見えるのはわたしたちだけみたいだし」
【こより】
「ともセンパイはしばらくここに泊まり続けるってことですか? それなら鳴滝もご一緒します!!」
【伊代】
「もちろん、家の主の許可がないといけないけどね」
【惠】
「泊まってくれて構わない。智に危険が及んでいるならなおさらだ。いつまでも、好きなだけ」
ノロイに対して取れる唯一の防御は、
現れたノロイから逃げることだけだ。
現れたのを察知しなければ、
逃げようとすることもできない。
ノロイが見えるのは僕らだけ。
結果的に一番安全な場所は、
僕らが集う場所になる。
【智】
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうよ」
【るい】
「おーし、やる気出てきた!」
【こより】
「鳴滝も、微力ながら尽力する次第であります!」
警戒の為に、しばらくは惠の家に
揃って厄介になることとなった。
【浜江】
「惠さま、本当によろしいのですか?」
【惠】
「ああ。智の命に関わるかも知れないことだからね」
【浜江】
「しかしそれは……」
浜江さんは戸惑っている様子だった。
さっきの様子から見ると、惠から呪いのことを
多少なりとも聞かされているんだろう。
それなら、惠が巻き込まれるのではないかと
心配するのは、当然のことだ。
【惠】
「いいんだ。浜江は心配しなくていい」
惠はそれでも食い下がる浜江さんをなんとかなだめながら、
僕らを書斎に導いた。
もともと人には見せない大切な本をしまってあるのだろう、
屋敷の規模に見合っただけの大きな書斎だ。
ここに呪いに関する文献があるかもしれないと、惠はいう。
【浜江】
「……それでは失礼します。惠さま、くれぐれもご無理を
なさらないように」
【惠】
「ああ」
惠を止めるのをあきらめたのか、
浜江さんが慇懃(いんぎん)に礼をして退室する。
僕たちは、すぐに書斎の背表紙を目で追い始めた。
たしかに、それらしき書物もいくつか並んでいる。
【惠】
「現れたノロイからは逃げることしか出来ないが、呪いの解き方を探すことならできるだろう?」
【智】
「これは……、惠が集めたものなの?」
【惠】
「ここの書物は、以前からここにあったものだよ」
【伊代】
「助かるわね。これだけの揃えは、大きな街の図書館に行っても
なかなかないもの」
【こより】
「それじゃあ手分けしてみんなで調べましょう! とりあえず
鳴滝はこっちの本棚から」
【るい】
「難しい本とか自信ないから、ひとまず目星つけた本だけ集める」
【智】
「うん。あとでみんなで検討しよう」
「さぁ、調べるぞう!」とるいが腕まくりしたところで、
花鶏はふいにみんなに背を向ける。
【花鶏】
「わりといい揃えみたいね。でも、わたしは別に用があるから、
この場はみんなに任せて、ちょっと失礼するわ」
【るい】
「え? ちょっと花鶏! ここで一人でどっか行くとか、
おかしくない!?」
【花鶏】
「わたしは皆元と違って忙しいのよ。じゃ、ね」
【伊代】
「待ちなさいよあなた! 掃除をサボるくらいなら許すけど、
いくらなんでも薄情すぎるんじゃない!? いったいなんの
用があるのかだけでも言いなさいよ!」
【花鶏】
「プライベートだっての」
背中越しに手を振ると、
伊代の手を振り払って花鶏は出て行ってしまう。
【伊代】
「あんな薄情な子だったなんて……」
【こより】
「花鶏センパイ……」
【るい】
「いいよいいよ! 花鶏なんてほっとけば!」
【惠】
「そうだね。花鶏の事情はわからないが、今は智の呪いが優先だ」
【智】
「ありがとう。花鶏のことだから、きっとすぐ帰ってくるよ」
【るい】
「うし、じゃあ気を取り直して調べまくるぞー!」
【こより】
「おー!」
この書斎は図書館に比べると、
オカルト趣味的なあきらかにうさんくさい本がない分、
切り捨てられる本が少なかった。
ほとんど全部の本を、チェックする覚悟で
調べなければならないだろう。
呪いが解けるなら、それくらい安いものだ。
【伊代】
「ん……しょ。分厚い本、多いわね」
【智】
「あ、伊代、手伝うよ」
伊代を手伝おうとしてふと、
茜子が一人隅に黙然と佇んでいるのに気づいた。
【茜子】
「………………」
【智】
「茜子? どうしたのボーっとして」
【茜子】
「いえ、少し考え事を」
【伊代】
「その子がボーっとしてるのはいつもの事でしょ」
【茜子】
「失礼な。乳もげて死ねメス豚」
【伊代】
「な、なんですって!? この、この……!!」
【智】
「わーっ! 大事な本、投げちゃダメーっ!!」
【惠】
「ふふ、伊代はいつも面白いね」
【るい】
「イヨ子はナチュラルだからね」
【こより】
「本物だけが持つ輝きであります」
【伊代】
「面白くないわよ!!」
そんなやりとりを挟みながらも、
僕らは真面目に調査に取り組んだ。
感触は、ある。
今のところこの書斎の書物から得られたものは、
僕らがすでに知っていたこと、あるいは感覚的に
理解していたことの再確認に過ぎなかったが、
それらは決して無意味ではない。
それは、少なくともここにある書物が信用に
足るものだということの証明になるし、曖昧な部分を
潰していくことで見えるものだって出てくるはずだ。
【智】
「ふぅ……もう、こんな時間か」
【るい】
「だね〜。字いっぱい見てたら頭クラクラしてきた」
【こより】
「鳴滝もですよう。本は重いし」
【伊代】
「今日調べたことの要点を、ノートとかにまとめておいた方が
いいわね。新しい発見は、今のところほとんどないけど」
【るい】
「さすがいいんちょー」
【こより】
「これが伝説の予習復習というヤツであります!」
【伊代】
「こうやって一つ一つ積み重ねていった方が、結局は効率が
いいのよ? 意味もなく几帳面なんじゃなくて、合理的だって
こと、理解して欲しいわ」
【智】
「わかってるって。ノートはある? 明日買って来ようか?」
【伊代】
「そうね、でもこの近くにお店ってないのよね……」
【惠】
「それなら明日、佐知子に頼んでおこう」
【伊代】
「毎日買い出しに行ってるんだっけ。大変ね……」
【惠】
「この屋敷に毎日篭もっているよりは、気が晴れるものさ」
【智】
「それじゃ、おやすみ」
【惠】
「ああ、お休み」
【茜子】
「良い怪夢を」
【伊代】
「怪夢ってあなたね……」
茜子は屋根裏へ、惠は自室へ、
それぞれ帰っていく。
僕は伊代とこよりと一緒に、
突き当たりの三つ並んだ部屋に向かう。
呪いのことは話したが、
連日続く悪夢のことは話していなかった。
茜子のイメージする怪夢なら、意味不明でトリップ的ながら
それなりに楽しそうだが、僕の見る悪夢は言いようのない、
心の中で未知のなにかが蠢くような恐怖を孕んでいる。
また、今夜も見るのだろうか……。
【智】
「………………」
【こより】
「どうしたんです? ともセンパイ」
【智】
「いや」
【伊代】
「大丈夫よ。今日は結構疲れたし、きっとぐっすり眠れるわ」
【智】
「うん……」
【こより】
「ふむゅー?」
頭上にぽわんぽわんと疑問符を量産するこよりの頭を撫でて
ハテナたちを追い払うと、自分にあてがわれた部屋のノブに
手をかける。
【智】
「今日は余計なこと考えずに、すぐ寝ることにするよ。
おやすみ、こより、伊代」
【こより】
「んー? まぁ、おやすみなさいであります!」
【伊代】
「それが良いと思うわ。おやすみなさい」
電気をつけるのおっくうで、
窓からの月明かりを頼りにそのままベッドに向かう。
そのまま寝転がろうとして、
思い返してカーテンを引いた。
青褪めた月が、
不吉なものに見えたからだ。
心地よい暗闇と静寂に包まれてベッドに寝転がる。
着替えは……別に一日くらいいいだろう。
脱力して体の隅々までの体重をマットレスにあずけると、
心身の疲労がよくわかる。
眠りはすぐに訪れた。
夢だとはわかっていた。
【智】
「うぅ……、はぁ、はぁ……」
わかっていても苦しく、恐ろしい。
悪い夢は、呪いのようにこびり付く。
絡みついて離れない。
形のない泥濘に似た重いものに足を掴まれる。
喉の奥から絞られた息を漏らした。
ノロイに喉を掴まれた時の感触が蘇り、
全身の毛穴が戦慄に収縮する。
【智】
「はぁ、は、あぁ……はぁぁ……っ!」
苦しい、苦しい、苦しい……!
泥濘に足首と喉を捕らえられて身動きできない僕に、
さらに2本の手が伸びる。
その腕は曖昧な重さとしてではなく、
力強く僕の両肩を掴んだ。
夢の中の黒く渦巻く空間が揺れて、
吐き気がする。
違う。揺れているのは僕だ。
こんなにも重くどす黒いものに捕らえられているのに?
違う。
揺れているのは……、
【伊代】
「……夫!? 大丈夫なの!?」
【智】
「…………ぁ……、……伊代……」
現実の僕だ。
汗を吸って不快な感触となったベッドの上で、
僕は伊代に揺り起こされた。
【伊代】
「よかった……。起こすのも悪いと思ったんだけど
あんまりうなされてたから心配で」
【智】
「はぁ、はぁ……。はぁ……伊代……ありがと」
いくら連夜見ても、
悪夢に慣れることなんてない。
日中はいつ来るか分からないノロイの手を警戒し、
夜は悪夢に襲われる――
眠りさえ安らぎにならない日々。
冷たく重い泥濘から逃げ出しても、
まだ体は震えている。
【伊代】
「あなた、少し無理してるんじゃない?」
伊代の心遣いに、
僕は素直にうなずいた。
【智】
「うん…………」
昼間はまだいい。
みんなが居れば、
日常の裏側に恐怖を押しやっておける。
でも、夜、ベッドの上で孤独になると、
圧倒的な不安が僕を押し潰しにやってくる。
眠りに逃げても、
夢の中まで追いかけてくる。
【伊代】
「怖い……?」
怖くないと強がりたかった。
だけど、伊代になら偽る必要はない気もした。
【智】
「……うん……」
【伊代】
「…………」
髪を撫でる手はやさしかった。
震えはいつのまにか消えていた。
【智】
「正直なところ、一人になるとすごく、怖い」
【伊代】
「そうよね……。見るだけでも恐ろしい、得体の知れないものに
命を狙われて。その恐ろしさの半分でも、わたしが代わって
あげられたらいいのに」
悲しい事実だけれど、
人と人は断絶している。
どれだけ近づいても、
交じり合ったりすることはできない。
内なる恐怖には常に一人で向かい合わねばならない。
【伊代】
「夢の中でも、一緒にいてあげられればいいんだけど……」
【智】
「伊代って普段リアリストなのに、変なトコでろまんちっく」
【伊代】
「……いいじゃない。たまには」
【智】
「ありがとう」
【伊代】
「ふふ」
伊代は、ため息を吐き出すように笑った。
【智】
「伊代はもう、半分代わってくれてるよ」
【伊代】
「……どういうこと?」
伊代の手を掴んだ。
しなやかな手触りの細い指先。
少し骨張った尖った感触は、母を思わせる。
そこにいるという、実在の感覚。
夢じゃない。
たとえわずかな時間であっても、
たとえ一つにはなれなくても、
僕らは触れ合えると思う。
【智】
「伊代と居ると落ち着く」
【伊代】
「……ん、うん。わたしもあなたと居ると落ち着くわ。
でも……さっきのはどういう意味なの? 半分代わって
くれてるっていうのは……」
【智】
「そこは聞かないで、言葉の行間を読んで欲しかったんだけどな」
【伊代】
「ご、ごめん……ほんとにわたしそういうの鈍くて」
【智】
「伊代ってさ。なんか本当に『伊代』って感じだよね」
【伊代】
「それは個性的っていう評価として、受け取っていいの?」
【智】
「微妙にニュアンスは違うけどそんなとこ。
では、さっきの答あわせ」
いつまでも子供のように寝そべって
伊代に撫でられているのも恥ずかしかったので、
身を起こした。
これから自分がしようとしてることを考えて、
畏まって正座してみる。
【智】
「伊代、……突然ですが」
【伊代】
「な、なに? 急に改まって」
伊代も座り直して、
居住まいを正した。
ベッドの上、
正座で向かい合う二人は、
間違いなく滑稽だ。
【智】
「好きです」
【伊代】
「…………な!? な、な、なに!? なに言ってるのあなた!? ちょ……あの、なに!?」
【智】
「あんまり騒ぐと、こよりが起きるよ」
【伊代】
「でもっ! ……ぁ……ぁのでもあの、突然そんなこと……」
【智】
「突然ですがって、前置きしたよ」
手をついてずいと身を寄せると、
伊代は思わず逃げ腰になる。
伊代の顔は真っ赤だ。
でも、たぶん僕の方が赤い。
【智】
「それより……」
【伊代】
「な、なんですか……?」
【智】
「えっと僕、がんばって告白しましたので……
お返事を頂きたく……」
【伊代】
「え、えーと…………あの、えーと……心の準備が……」
【智】
「応でも否でも、返事が貰えないとフェアじゃないと思う」
【伊代】
「そ、それは確かにそうだけど……」
【伊代】
「…………うん、もう。あなた、答わかってて聞いてるでしょ?」
【智】
「そんなことないよ。でも、ごめんなさいされたら泣くかも」
【伊代】
「そんなこと……その……でも……」
【智】
「ちゃんと言って」
【伊代】
「……………………卑劣」
【智】
「生まれつきの嘘つきだし」
【伊代】
「……あの……わたしも、あなたのこと……好き……」
【智】
「ありがと」
生まれて初めて。
女の子から面と向かって、
男の子として好きと言われる。
予想以上に嬉しく、
そして恥ずかしい。
あらかじめ用意しておいたはずの言葉は、
頭の中でくしゃくしゃになってしまっていた。
【伊代】
「そ、それでさっきの半分……とかの答は?」
伊代が照れ隠しに聞く。
僕も照れの沈黙から脱するきっかけを貰って、
ちょっと助かった。
【智】
「伊代が好きでいてくれる分、僕の辛さも消えるから。
それって、辛いことの半分を伊代が持ってくれてるんだって……そういうふうには思えない?」
【伊代】
「そっか。そうかもね……」
【伊代】
「…………あっ! でもそれって、やっぱり最初からわたしの答
わかってて聞いたんじゃない!」
【智】
「そりゃ、まぁ一応……わぷっ!?」
逃げ腰になっていた伊代が姿勢を戻すと、
僕らの距離はかなり近かった。
あ、近い。
そう認識した途端、
伊代に抱き寄せられた。
【智】
「うわ、うわわ……」
伊代の体は、柔らかくて暖かい。
【伊代】
「じっとしてて」
【智】
「ん……んゅ……」
額に唇で触れられた。
熱い。
次いで、まぶたにも。
【伊代】
「まったく……」
【伊代】
「気がついたら好きになってたわ。
最初は悩んだわよ? 私が女の子に……なんて」
【智】
「伊代って誰かが彼氏いるとかいないとか、そういう話題に
すごい敏感だもんね」
【伊代】
「なにそれ?
わたしがまるでオトコ欲しくて仕方ないみたいじゃない!」
【智】
「うぐ……、他意はないです。ハイ」
ツッコミ代わりに、
伊代がぎゅうぎゅうと僕を抱いた。
僕の顔は、ものすごく柔らかい物体に沈む。
うう、柔らかい、いいにおい――
【智】
「僕だってすごく悩んだよ? 伊代のこと好きになっちゃったけど、なんていうか……一線越えると呪い踏んじゃうし」
【伊代】
「い、一線って……!!」
また伊代の腕に力がこもって、
埋もれてしまう。
窒息しそう。
でも幸せ。
死と隣り合わせの幸福は、どんどん女の子化しつつあった僕が、
本当は男である証拠だった。
【智】
「伊代、苦し、苦し……もっと」
つい本音が出てしまった。
【伊代】
「へ!? ちょ、あなた!?」
【智】
「すごく、伊代の匂いがします」
思い切り息を吸ってみる。
肺の中が、なんとも形容しがたい
女の子の匂いで満たされる。
【伊代】
「な、なに堪能してるのよ! もうっ!」
【智】
「あぅ……」
突き飛ばされた。
伊代の香りは、干した布団の匂いに似ている。
あれはいわゆるお日様の匂いなんかではなく、
本当はダニの死骸の匂いらしいけれど、
今はそんな豆知識はどこかへ投げ捨てておきたい。
【伊代】
「ふぅ……。やっぱり男の子なのね、あなた」
【智】
「えっと、自己の名誉の為に弁護しておくと、さっきのは決していやらしい気持ちからおこなった行為ではなく、ただ安堵できる感触と香りを求めた本能的行為であるということを、ご理解……」
【伊代】
「そんな、わたしみたいな回りくどい言い訳しなくていいの」
【智】
「……分かってらっしゃる」
自然に。
ただ傾けられた器から水がこぼれるのと等しく――
僕たちはどちらからともなく寄り添って、互いの手を握り合った。
【伊代】
「楽しくもあったけど、辛かった。あなたって優しいから」
【智】
「優しいとだめなんですか……」
猛々しくなければ、生きる資格はないのか?
【伊代】
「まあ、その……」
【智】
「その?」
【伊代】
「…………優しいならわたしだけに、……とか」
【智】
「…………」
暗がりなのに、伊代がトマトのように
熟れたのがよくわかった。
【伊代】
「な、なんてね、言ってみただけなの、そうなのよ」
【伊代】
「わかってるのよ。あなたってそういうのできないから、
だから……」
【伊代】
「だから」
【伊代】
「ん…………」
唇に、触れた。
触れるだけの、
とても長いキス。
やがて唇を離して、伊代が僕から視線をそらしながら、
なんだかすねたように口を開いた。
【伊代】
「……とっても憎らしかった」
【智】
「そう、なんだ……」
【伊代】
「自分がこんなにも独占欲強いだなんて知らなかったわ。
今までこんなこと、一度もなかったから……」
【伊代】
「みんなとあなたが楽しそうに話してる見るだけで、お腹の底が
すごく重くてイガイガした」
【伊代】
「仲間にまで嫉妬してる自分はとても嫌。こんなのちっとも
ロマンチックじゃない」
【伊代】
「苦しくて、悲しくて、厭わしくて」
【智】
「伊代……」
【伊代】
「でも、そんな気持ちが、大切にも思えたの」
【智】
「そんな気持ち、本当はない方が楽だったのに……?」
【伊代】
「そう。どうしてなのかな、よくわからないけど。苦しいのも、
悲しいのも、辛いのも、何もかも全部が大切に感じる」
【伊代】
「無駄かもしれない、何の役にも立たない、ただ邪魔なだけの
ものなのに」
【智】
「すごいね。これっぽっちも理屈が通らない」
また思い切り抱き寄せられる。
胸に顔を埋めながら、
優しい声を聞いた。
【伊代】
「理屈じゃないのよ、女は。ふふふ」
【智】
「やっぱり僕は男の子か……」
触れ、感じ、伝わる。
肌から聞こえる心臓の音が、
怯えていた身体の芯まで染み通る。
伊代がいた。
形のない甘い味わいに、
悪夢の残り香が散っていった。
【伊代】
「わたしは、あなたの立っている場所まではいけないわ」
【伊代】
「でも、こうやって傍にいる……」
【智】
「うん……」
【伊代】
「おちついた?」
恐怖はとうに去っていた。
伊代の胸にもっと顔を埋めてみた。
沈む沈む。
【智】
「とってもおっきいです」
【伊代】
「そ、それは、どうも」
頬が覚える。
薄衣一枚挟んだ向こうの、形と熱。
肌は冷たく、その芯は熱い。
【伊代】
「あ、あの、ねえ……」
【智】
「うん」
恥じらいと動揺をこね合わせて引きつった言葉。
乾いた返事を返したのは覚えている。
錯覚かもしれない。
ひからびた喉に、音は幾度もひっかかる。
【伊代】
「あの……、男の子ってやっぱり、胸とか触ったりしたいの……?」
魅惑的な言葉に息が詰まる。
【智】
「うん、したい……」
【伊代】
「えっ……と、さ、触ってみても……いい、けど。あなたなら」
【智】
「伊代」
【伊代】
「は、はい」
【智】
「胸に触るだけじゃなく、もっといろいろしたい」
【伊代】
「い、いろいろって!」
【智】
「伊代」
もう一度名前を呼ぶ。
【智】
「…………欲しいな」
長い逡巡をようやく飲み下し、
ようやくそう告げて――
【伊代】
「…………うん」
伊代もそれに、
うなずいてくれた――
別々である二人が、
繋がるための一つの手段。
幻想に過ぎなくてもいい。
僕らは、繋がる。
【伊代】
「ひゃ……ん……、い、いきなり……?」
【智】
「準備とか、わからないし……」
ふくよかな膨らみに手を沈める。
感触は他のものに例え辛い。
形を保っているのが不思議なくらいに柔らかかった。
【伊代】
「ひゃ……ふっ、くぅんん……」
むしろ液体に近い感触の中で、
指を動かす。
布越しにもわかるしっとりとした手触りの奥からは、
触れるたびにぬくもりが滲み出してきた。
【智】
「伊代が居れば……もう怖くないよ」
【伊代】
「ん……っ、はぁ、はぁ……呪い、も?」
【智】
「平気だよ……。たぶん」
手の平から伝わる官能的な衝動が、
思考をかき乱す。
会話はさほど深い意味を持たなかった。
【伊代】
「や、やあぁ……、胸そんなにいじられたら……なんか変な感じで……ふうぅ……、あふ、うぅ……」
豊かな胸を弄びながら、
再び口づける。
今度は深く。
【智】
「伊代……」
【伊代】
「ん……、ん、ちゅ、ん、んん……」
深く繋がるのは心だ。
短い口づけを繰り返し、
やがて唾液を帯びた唇を擦り合わせる。
【伊代】
「んにゅ、んっ、んは……はむ、ん……、ちゅ、ちゅ、ん……
んふぅ……んぅ、ん……」
衝動に誘われて互いを求めるうちに、
僕らはいつのまにか舌を絡ませる淫らな行為に没頭していた。
溜め込んでいた想いが深い分だけ……、
僕らは止まらない。
【伊代】
「ちゅる、ちゅぷ、れろ……ん、ふぅんっ、ん……んちゅ、んっ、はぁ……んぷ、にゅる……ちゅ……」
緊張で乾いた口の中で、唾液が粘つく。
普段なら不快なはずの粘り気を帯びた唾液も、
今の僕らには興奮を促す材料でしかなかった。
【伊代】
「ちゅるる……じゅぷ、ちゅ、んぷ……れろ、れろ……。
ぬろぉ……、ちゃぷ、ちゅぷ、ん……にゅぷ、んんん……っ」
舌を窄めて、伊代の口から唾液を吸い上げる。
じゅるじゅると音立てて吸うと、
僕の手の中で伊代の胸が震えた。
肩を掴んだ手が、爪を立ててくる。
微痛さえ、熱に混じれば心地よくなるものだ。
唇を離してかすれた声で囁きあう。
【伊代】
「ぷぁ……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………。はぁ、あ……、
な、なんか…… なんか……」
【智】
「んん……、なに?」
【伊代】
「な、なんか、その……すごく、上手なんだけど……」
【智】
「そ、そう……?」
【伊代】
「ちから、抜けて……はぁ、はぁ……」
キスだけで感じすぎて、腰が抜けたらしい。
【智】
「伊代が敏感なんじゃない?」
【伊代】
「し、知らないわよ……! は、はじめてなんだから……」
【智】
「そんなの、僕だって当然はじめてだけどさ」
【伊代】
「はじめてなのに上手だなんて……フェアじゃない。
わたしばっかりこんな……」
【智】
「そうでもないみたいだよ?」
下半身に強い強張りを感じる。
ベッドの端に腰掛けて、向かい合わせに伊代を招く。
腰に手を回して抱き寄せて、膝の上に腰掛けさせる。
【伊代】
「わ……硬いの……おなかのところに当たってる……」
【智】
「僕も伊代と同じくらい感じてるから」
【伊代】
「う、うん……。恥ずかしいけど、嬉しい」
破裂しそうな鼓動に耐えながら、
強く強く抱き合った。
伊代のぬくもりが僕に伝わり、
僕のぬくもりが伊代に伝わり、
二人の体温が同じになるまで。
【伊代】
「あなたの体温、伝わってくる……」
伊代の腰掛けた膝のあたり、
湯気を当てられたような熱さと湿り気を感じる。
僕らは理性を越えて触れ合いたいという、
生物の本能に興奮していた。
【伊代】
「こういう格好、昔映画で見たわ」
【智】
「美男美女が?」
【伊代】
「とっても格好よくて、こんなふうに恋してみたいなって」
【智】
「乙女の夢だったんだ。わかるかも」
【伊代】
「重くない?」
【智】
「現実は厳しいね」
【伊代】
「あう……」
【智】
「冗談だよ。伊代くらいなら大丈夫」
【伊代】
「……ほんとに?」
【智】
「この重みも心地いいよ」
【伊代】
「重いんじゃない……」
【智】
「ごめん。夢……叶わなかった?」
【伊代】
「わからないわ……。わたし、何ていうか、今……必死なの。
緊張してガチガチで、自分の身体なのにどうしていいのか
わからない」
【智】
「僕も同じだよ」
ブラの下にうっすらと肌が透けていた。
指先で肌をかすかに触れながら、後ろに手を回す。
【伊代】
「あ……ブラ……」
【智】
「外してもいいよね?」
【伊代】
「うん……、いいよ」
ホックに指をかけたけれど、見えないところではうまく外せない。
【伊代】
「取れない……? わたしが取ろうか?」
【智】
「ん……、もうちょっと」
女の子たちはみな簡単にコレを扱っていたのに、
いざ自分でやって見ると難しかった。
何度やってもブラがたわむだけで、
外れてくれない。
【智】
「ん……、これ難しいね」
【伊代】
「ふふふ。やっぱり男の子なんだ。こんなの簡単なのに」
もどかしい思いで指を動かしていると、
伊代が後ろ手に手を重ねてくれた。
しっとりとした、優しい手の感触。
【伊代】
「ほら、ここを持って、ひっぱる」
【智】
「あ……」
伊代の手にかかると、
手品みたいに簡単にホックは外れた。
ブラがゆるんで一気に伊代の胸の肉感が増す。
【智】
「やっぱり、すごく大きい」
【伊代】
「こっ、こんなの大きくたって、肩が凝るだけだってばぁ……」
ゆるんだブラの上から顔を埋めた。
さっきよりも膨らみを強く感じる。
伊代の体臭と混じった、お風呂上がりの石けんの匂いがした。
【伊代】
「ひゃう……っ、あう……。ああ、もぉう……そんなこと」
カップを上にずらす。
伊代の素肌が現れる。
視線を吸い取る白磁の色と桜色の突起。
解き放たれた反動で、水風船みたいに弾んだ。
【伊代】
「ふわ……あぅ…………っ」
伊代の胸は豊かで、柔らかで、大きくて…………
ありきたりな形容しか出てこない。
結局は口をついたのは、
なんの方便も混じらない見たままの感想だった。
【智】
「すごく、きれい」
【伊代】
「……はずかしくて、しにそう……」
【智】
「可愛いよ」
両手で膨らみを搾る。
震える先端を尖らせると、
伊代は苦しげな吐息を漏らした。
【伊代】
「んっ……、うんん……っ。はぁあぁぁうぅ…………
恥ずかしいよぉ……」
じかに触れた乳房は、何故だか衣服越しよりも冷たく感じた。
冷たい肌触りは熱の予兆を孕んでいる。
【伊代】
「んん……ん、あぅ……なんか……あなたの手、すごく熱い……」
【智】
「僕、体温上がってるかも」
【伊代】
「興奮してくれてるんだ……ふ、は、ぁ……」
力を入れると指が全部埋まる。
わたがしをつかんだような錯覚で、
柔らかな海にどこまでも沈む。
【伊代】
「くふぅん……、はぁ、はぁ……わたし……胸、めちゃくちゃに
揉まれてる……」
包まれて感じる確かな量感があった。
掌全部で、蠱惑的なかたまりをこねまわす。
【伊代】
「んんんっ……! あぅ……んんんうぅ……」
伊代は喉を鳴らして、僕の愛撫を恥じらいながら受け止めてくれる。
【智】
「なんか、すごい」
【伊代】
「んん、ふぅ……ん、んあうぅんん……手つき、すごくいやらしい……」
【智】
「だって、すごくて……」
好きな女の子の前だ。
精一杯虚勢を張っているつもりだったけれど、
緊張で頭がまわらない。
二人とも語彙が子供みたいだ。
この呪いの分だけ、女の子のことならどんな同世代の
男たちより詳しいはずだったのに。
【伊代】
「い、いたっ……!」
興奮で思わず手に力がこもってしまった。
伊代が息を詰める。
【智】
「ご、ごめん」
情けなく離した手のひらの下、
乳房にかすかな赤い指の跡がついていた。
【伊代】
「わたしこそごめん……。そんなに痛くなかったから……
ちょっとびっくりしただけだから、その……」
【智】
「ごめんね、今度は優しくするから」
【伊代】
「うん……。続けて」
もう一度両手で触れて、
優しく中央に寄せる。
深く刻まれた谷間に汗のつぶが浮いた。
それから力を緩めて開く。
【伊代】
「んん、ふ、あぅ……はっ……、あ……」
途切れがちな息づかい。
呼吸さえうまくできなくなってしまった。
【伊代】
「んくぅぅんん……はぁぁ……はふ、んっ、んふぅ……
はぁ、あうぅ…………」
指を白い肌に埋もれさせて、こねる。
溶けた飴のように形を変える胸の形を堪能した。
なめらかな肌に汗が浮き、
手のひらが吸い付いて離れない。
【伊代】
「……あう……ふぅ、も、もう……、そこばっかり……
そんなにぃ……」
答える余裕もない。
それなりの知識は持っていたはずなのに――
胸を焦がすこの感情の前では、
そんなものは無意味だった。
【伊代】
「ひぅんん……っ、あうぅ……、んっ、くふぅんん……なんか、
なんか、これ……しびれる……」
一心に、二つの柔らかなものを寄せて持ち上げる。
しばらく手の中で震わせたあと、落とす。
伊代の胸は、扇情的な艶を帯びて長く揺れた。
【伊代】
「あう、そんなに……強く、したら……わたしの胸……
つぶれちゃう……んんっ、ん……」
胸からの刺激に伊代が溶ける。
はじめての感覚に、伊代もどう反応していいのか
わからないのかもしれない。
【伊代】
「やぁ……んっ……だ、めぇ、おっぱい……だめえ」
熱病に浮かされたみたいに、
切れ切れに吐き出す吐息は色づいている。
両側から強く挟んで、
桜色の先端を親指で押した。
【伊代】
「ふぅ……く……っ、だめ、だめだめ……ふぅんっ、
だめ、なのに……」
指の腹でくりくりと先端を回しながら、
胸の肉全部を掬い上げるように尖らせる。
絞り上げられた先端は、
敏感さを増して切なげに震えた。
【伊代】
「も、だめ……んん、これ、だめ、ふあぁんんっ! こんなの、
わたし……おっぱい、だめになって……」
両手で胸を持ち上げながら口づける。
【智】
「ん…………」
【伊代】
「んんっ、ちゅ……ん、ん、んふあ……、んっ! ちゅ、んん……っ、んふぅ、ちゅ、ちゅ、ん……」
軽く口を吸いながら、
双丘を撫でさする。
唇を離すと、伊代は陶然として肌に熱と朱を差し、
僕のなすがままになった。
【伊代】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………もう、へんになりそう……
はあぅ……っ、んんうぅぅ…………」
過敏になった肌が快楽に震えていた。
白い肌を汗に濡らして、消え入りそうな声で胸を任せる。
【伊代】
「んんんうぅうぅぅ……っ! あう、はあぁぁぁ……、あ、
あふぅ……、はぁ、はぁ……」
量感も確かに揺れる膨らみの上で、
小さく息づくピンクの突起を指先でつまむ。
奥歯を噛んで背けた顔の頬を、
一滴の汗の珠が伝った。
【伊代】
「んくぅ……! はぁ、ぁ……ん……っ! そこ、だめ……、
そこは……あくっ、ん……しびれるぅ……っ」
つまんだ先を今度は押し込んで、
その上から自身の胸肉で包み込むように押さえる。
たわわな肉の中に埋没した敏感な部分を巻き込みながら、
手のうちに収まるよう胸全体を掴んでこねまわした。
【伊代】
「ん…………ッ、それ、あうぅ」
【智】
「伊代の乳首、ピンク色で尖ってて、すごく可愛い」
【伊代】
「やあぁぁ……、そこ……敏感だから……っ」
力をこめる。
埋まっていた乳首がぴんと立ち上がる。
羞恥に震える胸の先を、
舌ですくい上げた。
【伊代】
「く、んんっ……ひんっ! はぁふああぁあぁぁ……っ、あ、あうぅ、ふぅんんっ! くぅんん……」
尖らせた舌先で、
先端のまわりにくるりと輪を描く。
それから、れろんとじっくり舐めあげる。
【伊代】
「あ、ああ、んん、こ、こらぁ……そんなの、きゃうんっ!
舐めたり……あ、あ、あ……」
唾液にまみれた乳首が、
月明かりをうけててらてらと光る。
【智】
「今の伊代、すごくえっちな顔してるよ」
【伊代】
「はぅ……、あなたの……せいじゃない。……んっ、んんうぅっ!」
我慢がきかなくなって口をつける。
揺れる膨らみを唇でとらえた。
【伊代】
「んんっ、くぅ、ああうぅうっ! あ、はああぁぁ……、あうぅ、んくっ……!」
飲み込むように吸って、音を立てて離す。
卑猥な水音を響かせながら、何度も繰り返した。
【伊代】
「ふぁ、は、は、あぁうん……なんか、だめ、それだめ……、
だめぇ……っ」
快感から逃れるように腰がもがくけれど、
強く抱きしめた僕の腕がそれを阻む。
下からすくい上げれば量感を感じられる膨らみに、
軽く歯を立てて、肉の感触を口全体で確かめた。
【伊代】
「い、んんっ……!!」
【智】
「……痛かった?」
【伊代】
「少しだけ……。平気だから、続けて……」
【智】
「ごめん、加減とかわからなくて……」
【伊代】
「いいよ。わからない方が嬉しい。どうすればいいのか、
二人で一緒に覚えよう?」
【智】
「うん……」
幸い、痕はついていなかった。
伊代の胸の少しだけ赤くなっている場所を、
今度は丹念に舐めていく。
【伊代】
「んんっ、んんああぅ、は……っ」
【智】
「これなら痛くないでしょ」
【伊代】
「痛く、ない……あう、けど、けど、でも、あ、ああぁ……
くうぅぅんん……っ」
伊代の反応が一々愛おしい。
自分の行為が相手に繋がる。
【伊代】
「ちくび、舐めたりされると……しびれちゃうから……だめ……
はあぁぁぁ……」
【智】
「伊代……ん…………」
もう一度乳房を口に含んで、
優しく乳首を吸った。
【伊代】
「ひゃうぅんんっ!?」
電気でも流されたような慌ただしさで、
伊代は刺激から逃げようとする。
身体をよじる伊代を掴まえたまま、
夢中で吸った。
【智】
「伊代……伊代…………」
【伊代】
「だ、だめ……はあう……っ! くぅん、だめ、吸うのもだめ……だめぇ……」
強く乳首を吸いながら、
口の中の突起を舌で弾く。
【伊代】
「はぅっ、んんっ! それは、それ、ああ、だめ、しびれて……、わたし、ああっ、だめ、わたし……!」
意味をなさないことを言いながら、
必死でしがみついてくる。
闇雲な力で頭を抱かれて、
柔らかな海に顔が沈んだ。
【伊代】
「ああんん…………っ!!」
きゅっと太ももを強く閉じながら、
伊代が震えた。
【伊代】
「あ、は、はっ…………ぁ……はぁ…………ぁ……」
くったりと力が抜けた。
全身を弛緩させた伊代が体重を預けてきて、
汗の匂いが香る。
【智】
「伊代……?」
【伊代】
「……なんか、いま、痺れて、きて、力はいら……」
息を詰まらせながら、
伊代は恥じらい、告白する。
愛しい人が自分の行為に感じてくれることが、
こんなにも嬉しいことだったなんて。
【智】
「伊代……、好きだよ」
【伊代】
「……わたしも…………」
膝の上に、伊代の股間から滲み出したものが、
はしたない染みを広げる。
無意識なのだろう。
伊代は腰をくねらせて、
その部分を僕の膝へと擦り付けていた。
【智】
「伊代の気持ちいい場所、もっと覚えたいな」
【伊代】
「ふあっ、そ、そこは…………!」
茹だったような部分に手を伸ばそうとすると、
咄嗟に伊代が抵抗した。
両手を僕の手に添えて、
怯えた目で見つめる。
【伊代】
「んんぅぅ……」
【智】
「ここもだめなところ?」
【伊代】
「だ、だめ……じゃないけど……でも」
今さら止めるなんてできない。
伊代だって、僕と同じくらい火がついているのに……。
【智】
「もう痛くしないから」
【伊代】
「いたいとかじゃ、なくてぇ……あうぅ」
揺れる瞳を覗き込みながら、押さえる両手を押し切った。
ぐっしょりと濡れた下着の中心線を探して、指先を曲げる。
【伊代】
「ひぁ……! やあぁぁ……はずかしい、すごくはずかしい……」
スリットに沿って幾度か往復した後、
下着を寄せて指を滑り込ませる。
そこはひどく熱くなっていて、
想像したよりずっと柔らかで、
すーっと中ほどまで指が飲み込まれていた。
【伊代】
「はあぁ…………っ、あ…………」
【智】
「こんなに簡単に……入っちゃうんだ」
【伊代】
「んふ……っ、は……入ってきてる、あなたの指……んは……っ! は……ぁんん……」
今度はわずかな抵抗を感じながら、
二本目の指を入れる。
人差し指と中指で入口付近を抉った。
【伊代】
「んくぁ……ぁあんんん……っ!
そんなこと……したらぁ…………」
先端を沈めた二本の指を広げて、
狭い肉襞をほんの少しだけこじ開ける。
ぬちゃり、と肉襞が糸を引くのが、
指先の感覚で感じられた。
【伊代】
「ひ、広げないで、はう……、そんなの、恥ずかしくて……んっ、んんぅ……っ!」
熱く絡みつく肉の感触に夢中になって、
溺れるように指を動かした。
浅く、浅く、なんとか欲望を御して出入りさせながら、
襞の中を指の腹で確かめる。
【伊代】
「も、もう……っ、ゆび、許して……! だめ、こんなこと
されたら、わたし……んはあぁぁ……」
滴った蜜が足元を滑らせる。
こんなにも求められているのだ。
興奮で頭が焼き切れそうになった。
【智】
「い、伊代……」
【伊代】
「はあぁ……ぁう、んんぅ…………」
腰を寄せて、伊代のおへそのあたりに、
硬くなったモノを擦りつける。
意味するところを理解した伊代の顔が、
朱に染まった。
【智】
「伊代……もう、僕」
【伊代】
「はぁっ……はぁ、はぁ……ま、待って」
【智】
「待てないよ、だって」
【伊代】
「お願い。待って……」
【智】
「伊代っ」
両手で優しく僕の胸を押して、
伊代はいきり立った僕を押し止める。
だけどそれは拒絶ではなかった。
【伊代】
「今度は……わたしが。されっぱなしじゃフェアじゃないもの」
【智】
「伊代が、してくれるの……?」
こんな時にまで、フェアの好きな伊代だった。
骨の髄まで委員長気質というのか。
そんな伊代が可愛い。
伊代は染み出した蜜でぬめる僕の膝を滑り降りると、
カーペットに座り込んだ。
【伊代】
「えっと、それじゃ下ろすから……」
【智】
「う、うん」
パジャマの上からでも形がはっきり分かるほどになったモノを
前にして、緊張気味な手がズボンを下ろしていく。
そして下着までもずらすと、
それは勢いよく伊代の鼻先へと飛び出した。
【伊代】
「ひゃ……っ! うわ……こ、こんなに大きいんだ……」
【智】
「その……あんまり間近で見られると」
【伊代】
「でも」
おそるおそる触れてくる。
汗に濡れた手はひんやりとしていて、
触れるだけでも刺激的だった。
【伊代】
「ねぇ……」
鈍い快感に痺れていると、
斜め上を指す僕のモノに、
伊代はたぷたぷと揺れる胸を寄せてくる。
【伊代】
「胸……好きなんだよね?」
【智】
「え……、う、うん」
【伊代】
「それなら、胸でしてあげる……」
じわりじわりと反応を見ながら、
伊代が乳房で僕のモノを挟む。
たっぷりとした膨らみの中に包み込まれると、
もう昂ぶりで達してしまいそうだった。
【伊代】
「ん……しょ。うわ……ぴくぴくしてる」
【智】
「はぁ……っ」
硬く張り詰めたモノを挟んで、
伊代の胸が震えながら上下に動き始める。
思わず呼吸が乱れた。
【伊代】
「んっ、んっ……どう……? 気持ち、いい……?」
【智】
「うっ……、うん……。すごくいいよ」
【伊代】
「よかった……ん……んふ、ん」
愛らしく先端を尖らせた乳房が、
両側から僕を強く挟み込む。
豊かな胸の中は、僕のソレ全体を包んで
埋め尽くすに充分な大きさがあった。
【伊代】
「こう……かな。んっ、んっ、んっ」
わずかな隙間もなく包み込まれて、
ゆるやかにしごかれる。
ただでさえ強い快感を、
上目遣いで僕を見る伊代の健気な表情が倍加させた。
【伊代】
「その……、わたしがちゃんと気持ちよくできたら、そのまま胸に出しちゃっていいから……」
【智】
「う、うん……っ」
今にも達してしまいそうで、
決して絶頂には至らない快楽。
たぷたぷと、ゆっくり上下に移動する肉感の刺激が、
もどかしくもありながら、たまらなく気持ちいい。
【伊代】
「ん、ん、ん、ん……こんなのはどう、かな……」
懸命に僕の反応を探りながら、
今度は両の乳房を互い違いに動かす。
上下に乱れる乳房はあまりにも淫らで、
見ているだけでくらくらしてくる。
【伊代】
「えっと……この……あなたのこれ、どこが一番気持ちいい場所の……?」
【智】
「先のほう、かな」
【伊代】
「ん、わかった。それじゃ……」
こくん、と頷いて伊代が頭を垂れる。
【智】
「え…………、あ、ひぅっ……!」
【伊代】
「こうして……、舌で……ぺろ……」
腰が浮き上がるような刺激が唐突にきて、思わず高い声が漏れた。
【伊代】
「ぺろ……ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……ちゅる、れろれろ……
ぬろぉ……」
伊代が、僕の先端を舐めている。
豊かな胸で竿を挟み込みながら、伸ばした舌先でちろちろと
愛玩動物のように。
【伊代】
「ぺちゅ、ちゅむ、れろ、れろ……。んっ、ぴちゃ、ぴちゃ……」
頭がおかしくなりそうだった。
こんな快感……。
吹き飛ばされそうな感覚に、下腹が痙攣する。
【伊代】
「気持ち良さそうな顔してる……。れろ、れろ……」
伊代も惑いがなくなってきて、知識などないのに欲求の赴くままに僕を愛撫してくる。
自らの胸を掬い上げて挟みながら、僕の先端だけを露出させて、
それを口に含んだ。
【伊代】
「ん……、届くかな……。はぷっ、んちゅ、ちゅるる……ん……
どう? 気持ちいい……?」
口腔に含まれた先端に、舌がまとわり付いてくる。
【智】
「んっ、く……! よすぎる……くらい」
【伊代】
「じゃあ、もっとしてあげる……。あむ、じゅぷっ、ん……れる、んぷぷ……んっ、ん、んぷ、にゅちゅる……」
ふいに頭頂から、何かが抜ける感覚があった。
【智】
「く、あ…………」
【伊代】
「んぷ……んっ、じゅるるる」
直後に、腰が独りでに暴れる。
【智】
「ふあ……っ! んぅ……ぅ……っ!!」
【伊代】
「んぶっ……!? んんんっ!!!」
何度も腰が跳ねて、その度に精が飛び散った。
快感が波打って弾ける。
大量の白いものが、伊代の口に注がれる。
【伊代】
「ぷあっ! きゃっ、あ……、ふあっ」
【智】
「ご、ごめ……っ」
【伊代】
「あ、あ……いっぱい……。あなたの……いっぱい……」
止まらない精を受け止めきれなくなった伊代は唇を離し、
残った精がその顔を汚す。
口元と鼻梁を汚し眼鏡のレンズに張り付いて、
滴ったものが乳房の谷間に溜まった。
【智】
「伊代の胸と口が、気持ちよすぎて……!」
【伊代】
「気にしないで……。わたし、嬉しいんだから。
あなたがわたしのこと、こんなに感じてくれて……」
【伊代】
「ん……、綺麗にしてあげるね」
【智】
「ふぅ、ん……!」
顔中が精液にまみれてるのにも構わず、
伊代は再び快楽の余韻で震える僕のモノを口に含んだ。
舌を使って隅々まで舐め取りながら、
最後の一滴まで吸い上げる。
【伊代】
「ん……ちゅ、ちゅうぅ……、ちゅぷ、ん……ん……」
【智】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
口に含んだ粘液を飲み込むと、
伊代はにっこりと笑った。
射精したばかりのモノは、
いささかも衰える気配がなく、
その硬さと大きさを増している。
【智】
「伊代……今度はこっち」
【伊代】
「うん」
胸や顔に飛んだ粘液を軽くぬぐってあげてから、
手を貸して再び伊代を膝の上に引き上げる。
まろやかなおしりの下に手を回して
体重を支えながら性器同士を触れ合わせた。
【伊代】
「ふあ……い、入れちゃうの……?」
【智】
「もう我慢できない」
【伊代】
「……うぅぅ」
【智】
「やっぱり怖い?」
【伊代】
「こわいのは……大丈夫、あなただから……」
【智】
「じゃあ……」
【智】
「伊代のこと、僕のものにしてもいい?」
【伊代】
「うん……わかった……全部、あなたのものにして……」
愛しすぎて、抱きしめた。
恥ずかしい部分を不器用に擦り合わせて、
なんとか繋がろうとする。
なかなかうまく行かない。
【智】
「あ、あれ……」
【伊代】
「も、もうちょっと下の方……かな……」
離れたくない一心から上体を密着させているせいで、
肝心な部分がうまく見えない。
入口にあてがおうとしたものは何度も滑って、
割れ目にそってぬるん、と跳ねる。
【伊代】
「んんんっ! わ、わたし、もう少しおしり上げようか……?」
【智】
「うん……おねがい」
伊代が両足を僕の背中に回して力を込める。
体を挟み込む太ももが少し緊張して、
ふくよかなおしりを持ち上げる。
【伊代】
「ん……それじゃ、こう……」
割れ目にぴったりと竿を当てたまま、
伊代のおしりを持ち上げていくと、
やがて蜜の滴る秘めやかな穴に僕の先端がめり込んだ。
【伊代】
「ひあぁ……っ」
【智】
「ここだね」
回した手をゆっくりと引いて、
先端を割れ目に侵入していく。
今すぐ、ぬかるんだ入り口の奥まで突き入れたい。
そんな動物的な衝動よりも、
伊代を大切にしたい気持ちの方が強かった。
【智】
「ゆっくり、ゆっくり行くから……」
【伊代】
「ん……うん、でも、ん……っ、こ、怖い……。ふあ……」
両手で伊代の体重を支えて、
じりじりと張り詰めたモノを挿入していく。
押し開かれた肉襞から、
わずかに濁った蜜が糸を引いて滴り落ちる。
【伊代】
「く……ぅ、んっ……。は、入って……ん……っ」
逸る気持ちを抑えつけて、伊代の体を痛めないように優しく。
【伊代】
「あ、あぁ……っ、こ、これ……あ……あつい…………!」
熱い粘膜の中をこすりながら進んでいくと、
やがて抵抗に突き当たる。
これが伊代の純潔の証。
最後にもう一度確認する――
【智】
「行くよ、伊代」
【伊代】
「うん……。いいよ、来て……奥まで……」
処女膜を破ることが破瓜の痛みの主因ではないことを、
僕は知識として知っている。
それでも伊代は苦しむだろう。
思いを定めて進んだ。
【伊代】
「んくぁぁ……っ、あ……! んんん……っ、はぁっ、
ふ、深いぃ……こ、こんなに、こんなに入って……!
はあぁぁあぁ…………っ」
五感が霞むような快楽に耐えながら、
僕は最後までペースを保って、伊代の一番奥まで到達した。
【智】
「伊代……奥まで、繋がったよ」
【伊代】
「あ……ぁ……っ! あ…………、はぁっ、はぁっ、あ…………、これで、わたし……」
【智】
「うん。僕たち、ひとつになれた」
【伊代】
「うれしい……あなた……」
繋がったまま、貪るように濃密なキスをした。
互いに舌で口の中を隅々まで舐めあい、唾液を混ぜて、
唇を擦り合わせる。
【伊代】
「んちゅ、ちゅ、んっ、んんっ! んは、ん、ちゅ、ちゅるんっ、んぷ、ぴちゅ、ちゅぷ……」
痕が残るほど強く抱きしめて、
短いキス、
長く濃密なキス、
織り交ぜて繰り返す。
腕の中のこの女の子が、
苦しいほどに愛しくなる。
【伊代】
「ちゅ、ちゅ、ちゅ……、ん……。ん……ん…………。はぁ、はぁ、はぁ……」
ようやく感情が落ち着いた頃には、繋がった部分も幾らか
馴染んだように思えた。
【智】
「どう? 伊代、痛い……?」
【伊代】
「少しだけ。ちょっとひりひりするところもあるけど、
平気だと思う……」
【智】
「動いても大丈夫、かな」
【伊代】
「……たぶん……」
濡れた瞳を見つめながら、
少しずつお互いの身体を徐々に揺さぶり始める。
【智】
「じゃあ、動かすね」
【伊代】
「あ、あ……あ……! わたしの中で……」
定まらぬ視線で伊代が腰をくねらせる。
愛蜜にまみれた複雑な柔肉が絡み付いて、
繋がった部分から息が詰まるほどの快感が這い上がってきた。
【智】
「伊代……っ!」
【伊代】
「くぅっ、うんっ、は、あ……あぁ……っ! あ、あなた……、
呼びたいよ、あなたの名前……あふぅんんっ、あなたの、
名前ぇ……」
名前を呼べないもどかしさに苦しみながら、
伊代は言葉の代わりに全身で応えてくれる。
肉襞の奥からは次々に新しい熱い蜜が溢れてきて、
ぎこちない挿入は滑らかになっていく。
【伊代】
「あ……こんな……っ! おなかのなか熱くて……っ、
はぁううぅうぅ……ひぅ、ん、くあぁぁんん……っ」
胸の谷間に顔を埋めて汗の匂いを肺いっぱいに吸い込み、
肉感的なおしりを持ち上げては落とす。
伊代の体重が移動するたび、先端から根元まで、
性器の全体が擦れ合って二人の快感が積み上げられた。
【伊代】
「あ、あ、あ、あ……っ! あなた、あなた、はあっ、
あぁぁあぁぁ……、んっ! くぅんん……」
溢れすぎた蜜に手が滑る。
【伊代】
「ひゃうぅんんっ!!」
伊代の蜜口が、勢いよく僕を飲み込んだ。
一気に奥深くまで繋がって、強すぎる快感にしばし二人とも
動けなくなる。
【智】
「く、んん……っ」
【伊代】
「あ、あ、ああっ、あ…………っ! はあ…………っ!」
強烈な性感の余波にうち震える伊代を気遣って、
しばし腰を止める。
顔に掛かる乱れ髪を払ってあげた。
【伊代】
「あ、あ、あ、あ……! おく……あ……!!」
【智】
「伊代、もっと伊代の可愛い声、聞かせて」
奥深く繋がった状態で、
今度は伊代の中すべてを捏ね回すように腰を回し始める。
ひとつ円を描くたびにぬちゃぬちゃと卑猥な水音がして、
繋がった性器の隙間から空気が混じって白濁した蜜が溢れた。
【伊代】
「ふうぅぅ……んんんっ、んんっ、んっ! ひ……んんっ」
腰を回す動きをそのままに、
再び伊代を持ち上げて上下の動きを加える。
突き上げる快楽をどこかへ逃がそうと、
伊代は首を振ってもがく。
【伊代】
「あ、ふあ……! あ……、おなかのなか、かき回さないで……
なか、あっ! はああぁ、あ……っ、わたしのなか……
あうぅ……っ、ふぅんん……っ」
喉から漏れ出す声は甘い響きを帯びていた。
伊代ももう、痛みは感じていないようだ。
【伊代】
「はっ、はっ、はっ、あ、あ、っ! あなた、あなたぁ……っ、
あなたの、奥まできてる……! わたしの、いちばん奥まで……、
きてる、よ……っ」
今まで抑えていた自分の腰を大胆に動かして、
間断なくぬかるみの中を往復する。
1度動かし始めれば、快感に導くままに独りでに腰は動いて、
何度も何度も激しく伊代の奥へと突き上げた。
【伊代】
「ひぃあぁぁあぁぁ……っ! だめ、こんな、だめ、あああっ! だめ、だめ……こんなのわたし、だめにぃぃ……っ」
マットレスが軋む音も、
背中に喰い込む爪ももう気にならない。
額の内側で白熱灯が激しく輝くみたいに、
意識が白く薄れていく。
もう、伊代と繋がった部分から来る快感しか無かった。
【伊代】
「ああっ、あ、あうぅんんん……っ! くっ、はあぁっ、
ふぅんっ! はぅ、ん、ふうぅぅんんん……っ」
思考を弄ぶ余裕などとうに消えて、
五感さえ霞む。
引き攣るような快楽が下腹で暴れまわって、
それは乱暴な動きとなって伊代の体の中をかき回した。
【伊代】
「あ、も、もうだめ……っ、わたしだめ……! わたし、
あなた……あっ、あ、ふああぁん……!」
首の後ろあたりで生まれた筋肉の緊張が、
にわかに体じゅうに行き渡って、
限界の訪れを知らせた。
【智】
「くぁ……!」
【伊代】
「ああぁ……っ! 離れないで……、だめ、だめ、このまま……っ、わたしも、もう……っ、んんんんっ、んっくうぅうぅぅぅ……
っ!!」
中に出すわけにはいかない。
頭の片隅にまだ理性の欠片は残っていたけれど、
しがみ付く伊代の足を振り払うことはできなかった。
抗えない大きな快楽の波が来て、
僕は深くまで繋がったまま、伊代の一番奥へと精を放つ。
【智】
「んん……っ、い、伊代……っ!!」
【伊代】
「はああぁあぁぁ……ああああ……っ、あ……ああ……っ!!
はあぁぁ……ぁぁぁ…………あぁ…………っ!!!!」
蠢く柔肉が、僕の精を残らず吸い上げていく。
それでも精は伊代の膣内へと収まりきらず、
だらだらと卑猥に漏れ滴った。
【伊代】
「あ……なか……熱いの、すごい……いっぱい……、あ、あ、
あ…………!!」
【智】
「ふぅ……っ! ふぅ……、んく……っ、ふぅ……ふうぅ…………」
力尽きて、性器で繋がったまま、
後ろへ倒れこむ。
伊代は僕の上でグッタリしていた。
僕の胸に押しつけられて潰れた伊代の胸から、
激しい鼓動が伝わってくる。
疲れきった腕で、
湿り気を帯びた伊代の髪を撫でた。
【伊代】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………あなたの……
わたしの中に……いっぱい…………」
【智】
「伊代……」
荒い呼吸を妨げないよう、
何度も軽いキスをする。
中に出してしまったのは望んでやったことではなかったけれど、
後悔はなかった。
これからの人生を、僕は伊代と生きる――
【伊代】
「はぁ、はぁ、はぁ…………」
【智】
「伊代……、愛してる」
【伊代】
「うん、わたしも……。わたしもいつか、名前であなたのこと
呼びたいな……」
ようやく唇を離して微笑みを交わしたところで、
そのまま僕らの意識は途切れた。
〔星の秘密〕
伊代の身じろぎで目がさめた。
どうやら、昨夜あのまま眠ってしまったみたいだ。
【伊代】
「……ごめんね、起こしちゃった?」
【智】
「ううん、それよりそろそろ起きて服着ないと」
【伊代】
「あっ、そ、そうね……」
今さらのように恥ずかしがって、伊代は布団に潜り込む。
本当に今更だけど、惠の家で……しちゃったんだ。
何とも複雑な気分になった。
【智】
「ま、済んだことは今更で」
伊代の髪に軽く口付けて布団を出て、
着替えるべく立ち上がった。
ベッドの上にそっと衣服を置いてあげる。
昨夜は疲労に任せて眠ってしまった。
他にも一つ大きなミスをした。
寝る前にシャワーを浴びておくべきだった。
【智】
「せっかくの……だったのに、かなり失敗」
げっそり。
【智】
「今ならまだ大丈夫。
みんなが起きる前に、シャワー貸してもらおうよ」
【伊代】
「…う…うん、そうね」
【智】
「どうしたの?」
【伊代】
「いえ、その……き、昨夜の、あなたので、髪が……」
【智】
「…………」
【伊代】
「…………」
二人して、真っ赤になってうつむいた。
どうにか誰にも見つからず朝のシャワーを済ませ、
昨日の続きを調べるために書斎へと赴く。
本当はまだ伊代と二人きりで居たかったけれど、
守らなければならない秘密もある。
探らねばならない謎もある。
あの時『ノロイ』は消えたが、
まだ僕が助かったという保証はどこにもないのだ。
伊代との時間は、すべてにカタがついてからだ。
書斎では、るいとこよりが待っていた。
【智】
「花鶏は?」
【るい】
「まだ帰ってきてない」
【伊代】
「こんな時にどうして……」
【こより】
「惠センパイも浜江おばあちゃんに呼ばれて。
今日は手伝えないかもって言ってました」
【智】
「そう……。じゃあここに居る四人とあと茜子だけだね」
【茜子】
「茜子さんはここに」
タイミングを計ったように現れる。
【茜子】
「一応顔は出します。これ以上人が欠けると士気に影響すると
思ったので。ただ茜子さんは今日は少し考えたいことが
あります」
【伊代】
「……考えたいことって?」
【茜子】
「秘密です」
【こより】
「茜子センパイ、いつにも増して謎めいてます」
【智】
「でも顔を出してくれたのは確かに良かったよ。
とりあえず四人で出来ることをしよう」
【るい】
「そだね」
【茜子】
「…………」
【智】
「よし、はじめようか」
茜子が書斎の椅子に座り込むと、
僕らはそれぞれに古い書物を手に取って調べ始めた。
仲間が二人欠けた状態での調査は、
集中力に欠けてはかどらない。
花鶏はどこへ行ったのだろう?
惠は何を知っているのだろう?
【茜子】
「……ここの書斎に古い本がたくさんあって、
たまたまその中に呪いに関する書物もある……
いくらなんでも、都合が良すぎませんか?」
【伊代】
「それ、どういうこと?
たまたまじゃないなら、そこに何か意味があるってことかしら」
【智】
「この屋敷そのものが、呪いと関係あるかもしれない……?」
【茜子】
「そうです。それに……」
【茜子】
「この屋敷の人は、それぞれに隠し事を幾つも持っています。
茜子さんにはわかってしまうのです」
【るい】
「それってもしかして、私のみたいな、アカネの『力』?」
【茜子】
「ビビビです。内容まではわかりませんが」
たとえば、古代の英雄のように。
徴のあるものが苦難と力を与えられるように。
たとえば、るいの持つ身体能力。
呪いの徴を持つ者は『才能』を持っている。
それぞれがどんな力を秘めているのかは、
推察するしかないのだけど。
『才能』があるから呪われたのか、呪いが『才能』を与えるのか。
僕にはよくわからない。
なぜなら、僕には『才能』がないからだ。
【智】
「茜子の『力』は――――心が、見える?」
【茜子】
「はい。大当たりの透け透けです」
【智】
「でも、僕の呪いは踏んでないわけだし……」
【茜子】
「聞いた。秘密系か、くくくく」
悪魔笑う。
茜子の力は、相手の考えを読み取れる程じゃなく、
高度な嘘発見器みたいなものか。
【智】
「この屋敷に隠し事があるのは薄々感じてたけど……
そう聞くと説得力あるね。わからないことが多すぎるし。
惠は呪いについて、僕らより多くを知っているとも思うし……」
【こより】
「だったら、惠センパイに頼んで……!」
僕の身を心配してすがり付いてくるこよりの頭を撫でて、
ゆっくりとかぶりを振った。
【智】
「惠にもきっと何か言えない理由があるんだ。
言えるようになった時は惠の方から言ってくれるよ。
だって、惠は僕たちの友達なんだから」
【こより】
「ともセンパイ……」
【伊代】
「あの子が教えてくれたんだから、やっぱり書斎に何か手掛かりがあるんだと思う。わたしたちに出来ることは、ここの本を調べることだけなのかも」
【智】
「せめて呪いから身を守る手段だけでも、
わかればいいんだけど……」
【るい】
「うぅ〜、あてのない調べ物って、むずかしいね」
書斎での調査は遅々としてはかどらない。
【伊代】
「あら……?」
【智】
「伊代? 何かあった?」
【伊代】
「うん、この本棚の奥……」
伊代が取った本の隙間から、
本棚の奥に一冊の古びたノートが
挟まっているのが見えた。
本を出し入れするうちに偶然奥に挟まってしまったのか、
それとも意図的に隠されていたのか。
【伊代】
「これ、何かしら?」
伊代がノートを、取り出した。
気分転換を兼ねて、場所を移してノートを検分する。
表紙には何も書いてない。
ノートは本棚の奥深くにあったので変色もなく、
いつ頃のものなのかは判断がつきかねた。
伊代は、乾いた音を立てるページを慎重にめくる。
【こより】
「伊代センパイ、みっ、見えませんよう〜」
【伊代】
「どうやらこの屋敷の持ち主の記したものみたい」
書体は流麗な行書のペン字で少々読みにくかったが、
なんとか読めるレベルだった。
【伊代】
「これ、呪いのことが書いてある! ここにある呪いっていうのが、わたしたちの呪いと同じものかどうかはわからないけど……
これを書いた人が呪いのことを独自に調べた記録みたい……!」
【智】
「この場所にあるんだから、僕らの呪いと同じものじゃないかな?」
特別な力を持つ、呪われた者たち――
その一族の末裔である一人が、さまざまな資料を集め、書物を漁り、
呪いと戦おうとした顛末が綴られている。
どうやらこの屋敷も、呪いの秘密を探る上で、
手に入れたものの一つのようだ。
筆者は記す。
『この家に残された情報はあまりにも少ない』
【伊代】
「ここ……これ何語? PA……? わからないわ」
【こより】
「あ、この後ろから2番目の字、顔文字の口のとこのアレですよね!」
【智】
「あ、そうだね。あとこの6番目のNの鏡文字……
これってロシア語だっけ?」
【るい】
「ロシア語はイクラしか知らない」
【智】
「イクラってロシア語だったんだ……」
【伊代】
「とにかく読めないけど、この『なにか』さえあればもっと詳しいことがわかるのに、みたいに読めるわね」
【るい】
「それってもしかして、花鶏のアレかな?」
【智】
「あの本!?」
るいの思考ルーチン、ロシア=花鶏。
単純な思いつきのようだけど、
どうも当たりな気がする。
【茜子】
「茜子さんと交換になりそうだった、あの本ですか……」
【伊代】
「まさか」
次のページをめくろうとした時――
【智】
「花鶏! 帰ってきてくれたんだ!」
【花鶏】
「当たり前じゃない……ハイこれ。おみやげ持ってきたわよ」
いきなり帰って、いきなり戻ってきた花鶏。
手に持っているのは、花鶏の家に古くから伝わるという古文書、
『ラトゥイリの星』。
その表紙に刻印されたタイトルは、紛れもなくつい今しがた
ノートで発見したロシア語と同じものだった。
【茜子】
「おかえり」
【花鶏】
「ただいま」
【伊代】
「……いや、おかえり、ただいまって!! もっと驚くところでしょ、ここ! その本! そのタイトル! その文字!」
【茜子】
「マスター・オブ・空気読めないにそんなこと言われましても」
【智】
「ミストレスじゃないかな」
【るい】
「誰か〜通訳〜」
【こより】
「クイーンのほうがかっこいいのでは!」
【伊代】
「なんでみんなしてそこでネタを引っ張るのよ!
今これ、すごい大発見でしょ!?」
【智】
「まぁまぁ。
花鶏が戻ってきてくれたのが、ものすごく嬉しかったものだから」
【茜子】
「そうなのです。嬉しくて死ぬ」
【るい】
「アカネのはすごいウソっぽい」
自分自身、呪いを踏みかけたせいか、なんだかんだいって花鶏も、
僕のことを心配してくれていたらしい。
【こより】
「あらためて。お帰りなさいです! 花鶏センパイ」
【花鶏】
「こよりちゃんはいい子ね〜。あとで濃密に愛してあげるからね〜」
【こより】
「……いらないですよう!」
【花鶏】
「口ではそんなこと言っても体は正直――」
【伊代】
「そんなこといってる場合じゃないわよ!」
【花鶏】
「チッ……なによ?
なにか『ラトゥイリの星』に関する発見でもあったわけ?」
花鶏にも、ノートの問題の謎文字を見せる。
【花鶏】
「たしかにロシア語ね。『ラトゥイリ・ズヴィェズダー』、
『ラトゥイリの星』って意味よ。この本のことで間違いないわ」
【伊代】
「ほんとにそうなのね。ならこの本さえあればわたしたち、
ノートを記した人に到達できなかった、呪いの秘密に
到達できるんじゃないかしら?」
【智】
「可能性はあるね。二つを突き合わせて調べてみよう」
【るい】
「なんか盛り上がってきた! おなか空くのも忘れちゃう」
【こより】
「う、うそッ!?」
【智】
「……なんか、幻聴が聞こえたような気がするんだけど……
気のせいかな?」
【花鶏】
「ありえない話するんじゃないわよ!
あんたがおなか空くの忘れたら、世界の食糧不足なんて
一挙に解決するじゃないの!?」
【伊代】
「あなたがそんなこと言い出すなんて……まさか明日、
槍でも降るんじゃないでしょうね?」
【茜子】
「むしろ、世界が滅亡で破滅な方に100点」
【るい】
「……みんな、おどろきすぎ」
ノートの内容を1ページずつ真剣に読みながら、
花鶏の訳を聞きつつ『ラトゥイリの星』の内容と
照らし合わせる。
【花鶏】
「わたしはロシアに住んでたわけじゃないし、
中味も難解な表現が多いわ。正直言って――」
【智】
「微妙ですか」
それでも。
断片的ながら、今まで僕らの知らなかった知識を得ることが出来た。
解釈が正しいという前提で、語られた物語をまとめれば。
それは、次のようになる――――――
呪いの受け手は八人である。
彼らは『八つ星』と呼ばれ、特別な力を持っていた。
彼らは『力』を持つがゆえに呪いを受けた。
何者が、どのような意図で?
それはわからない。
人智を超越した何者かの仕業、としか。
いずれにせよ。
『八つ星』の血筋は、代々呪いに苦しめられることになったのだ。
【智】
「……私に調べられるのは、現段階ではここまでだ。だが、
私はあの子たちが居る限り研究を続けるだろう。
私は妻との間に双子を授けてくれたことを、神に感謝する……」
声に出してノートを読み上げる。
小さな引っかかりを覚えた。
【智】
「双子……?」
【伊代】
「……見て、これ――」
ノートに最後に署名があった。
『和久津』……わくつ?
【智】
「双子……わくつ……そんな、まさか……」
【るい】
「これってトモの!?」
【伊代】
「それじゃ……これって、まさか……」
【智】
「父さん……」
他には考えられない。
双子の子供がいる和久津、
呪いに関わる和久津。
呪いと戦った和久津――
それは。
【智】
「そのノートを記したのは……たぶん、僕の父さんだ……」
後ずさる。
【るい】
「えっ、じゃあ、トモって双子だったの!?」
【智】
「姉さんが居た……らし……」
目眩が――――。
昔の話だ――――
両親健在の頃も、実際には母さん一人に
育てられたようなものだった。
父さんは一年中仕事で帰らないのもざらで、
その記憶も曖昧だ。
母さんが死んだ後、父さんの手配で預けられた親戚の家には、
年老いた遠縁のお爺さんだけ。
ほとんど一人で過ごしたけれど、
僕の呪いにはかえって都合が良かった。
父さんが死んだと親戚のひとから聞かされた時にも、
実感らしい実感がわかなかったのを覚えてる。
僕の記憶の中で、
父さんに関する思い出は希薄だ。
あの時折見る黒い影の記憶の、
僕をノロイから守ってくれた家族……。
その父さんが――――
呪いと、戦っていた?
【伊代】
「おちついた?」
【智】
「もう、大丈夫だよ……」
気がつくと、僕は椅子を連ねて作られた
即席のベッドに横になっていた。
さっき目眩を起こして倒れてしまったのだ。
我ながら混乱しすぎ。
【伊代】
「あまり大丈夫には見えないけど……」
【智】
「ちょっと驚いて……ぜんぜん予想もしてなかったし……」
【伊代】
「ノートを書いたのは、本当にあなたのお父さんなの?」
【茜子】
「呪いに関わっている人間で、和久津という珍しい名前が
二つも三つもいるというのは、考えがたいと思います」
【伊代】
「でも、じゃあ、それって、やっぱり、あなたを呪いから……」
【智】
「…………えっ」
そうだ。
父さんが呪いを解く研究をしていたのなら……。
それは、僕の呪いを解くためだったんじゃないだろうか?
そのために、僕と母さんと離れて?
たった一人で、この屋敷で?
【るい】
「そう……だったんだ」
るいの声が不思議に沈む。
でも、僕の頭はまだ混乱していて、
それを気遣う余裕もない。
【智】
「……うまく頭の整理がつかない。
父さんがここに居て、呪いの研究をしていて……」
【智】
「今の持ち主は誰? 屋敷の人たちは、呪いとは無関係なの?」
【花鶏】
「ここまでくれば無関係とは考え難いわね」
【こより】
「色んなことがわかった分だけ、逆にわからなくなったかんじです」
【伊代】
「呪いの解き方とかはぜんぜん出てこなかったし」
【花鶏】
「まだ『ラトゥイリの星』の解読がすごく断片的だから……。
それに、ノートにも意味不明な場所がいっぱいあるわ」
【伊代】
「そうね、辞書とか買った方がいいのかしら?」
【こより】
「翻訳サイトとかでちゃちゃっと出来ないんでありますか?」
【花鶏】
「これだけ古い書物だと、古語的な表現も多いだろうから、
かなりいいのを用意しないとダメね」
【こより】
「なるほろぉ……」
【智】
「…………考えることが多すぎるよ」
そんな風に頭を悩ませていると――
佐知子さんがやってきた。
【佐知子】
「良かった、花鶏さんも戻ってたんですね。
惠さんも戻ったので、そろそろ食事にしませんか」
【るい】
「確かに、腹が減ってはなにもできぬだよ」
【花鶏】
「なにもかも、できなくなるのかよ」
【こより】
「さっき、おなか空くのも忘れちゃうって言ってたの、
誰でしたっけ??」
【茜子】
「ふう……こうして世界は滅亡から救われたのでした」
【るい】
「ひどいや……」
夕食後、僕たちはそのまま食堂に残り、
惠たちに今日の出来事を報告した。
テーブルの上には、『ラトゥイリの星』と
僕の父さんのノート……。
僕ら七人はその周りを囲んで、腰掛けている。
【智】
「食事の時にも少し話したけど、見つかったノートって言うのが
これなんだ」
【惠】
「ふむ……」
二つの資料からわかったことを、惠にも話す。
惠がどこまで知っているのか、
それを知りたかったのもあった。
【惠】
「『ラトゥイリの星』……呪いの受け手は全部で八人、か」
重い沈黙と、思考。
珍しく惠が考え込んでいた。
いつものアルカイックスマイルも、
今ばかりは色褪せている。
こんな惠を見るのは、初めてだ。
長い静寂の後に、惠がその重い口を開いた。
【惠】
「ここに、その『八つ星』のほとんどが揃っているということに
なるのか」
【こより】
「鳴滝でしょ、ともセンパイでしょ、伊代センパイでしょ、
るいセンパイでしょ、それから茜子センパイ、花鶏センパイ、
惠センパイ……」
【伊代】
「ここに七人……あと一人いることになるわね」
【るい】
「会ってみたいもんだね」
【智】
「実は惠は、今言ったこと、前からほとんど知ってたんじゃないの?」
【惠】
「どうだろう?」
感情の読み取り難い惠の顔を、茜子が見る。
【茜子】
「半分知っていた、半分知らなかった……そんなところですか」
【惠】
「君がいると助かるよ」
茜子の『力』にも気づいたのか、
あるいは元から知っていたか。
【智】
「他に何を知ってるの?
惠が困ることじゃなければ教えて欲しい」
【惠】
「…………」
沈黙の中に惠は沈む。
嘘を言っても茜子に見破られるから
そうしたのだろう。
この屋敷に住んでいた以上、惠が僕らより呪いについて
知ってるのは、ほぼ間違いない。
では、なぜ……惠は話せないのか?
【惠】
「…………」
【智】
「…………」
沈黙の中、僕と惠の視線が交錯した。
話したいけれど話せないこと――
僕にも、痛いほど心当たりがあった。
伊代にこそ知られてしまったけれど、
僕だってみんなに隠し事をしている。
【智】
「……言えないことは言わなくていいよ、惠。
ただもし、何か言えることがあれば教えてよ」
【惠】
「……そうだな」
【惠】
「これは屋敷の持ち主から聞いた話だ」
【智】
「表札の……大貫って人?」
【惠】
「もう生きてはいないけどね。数年前に、大貫氏は和久津氏から
この屋敷を譲り受けたらしい」
【こより】
「ともセンパイのお父さんですね」
【智】
「惠は、最初から僕が、その人のむす……娘だってわかってたの?」
【惠】
「親類かも……くらいは考えていた」
【惠】
「話を戻すと……大貫氏は、最初からこの屋敷が呪いと関係があることを知っていたようだ。そして和久津氏の後を継いで、呪いのことを調べていた」
【花鶏】
「大貫家の誰かが、八人目の呪いの受け手だったの?」
【惠】
「それは違う。呪いの受け手は別にいるはずだ」
【伊代】
「それじゃ、その人はどうしてこの屋敷を……」
【惠】
「わからない。だが、僕が大貫氏に引き取られたのも、
おそらくは呪いを調べるためだったんだろう」
【茜子】
「…………」
惠の告白を聞いた後も、僕らは部屋に戻りがたく、
なんだかそのまま食堂に残り続けてしまった。
佐知子さんの出してくれたお茶を飲みながら、
雑談に興じる。
【こより】
「今日はなんか、頭使いすぎて疲れました〜」
【るい】
「私も私も」
今日も泊まりだ。
呪いから身を守るために。
【智】
「今日はありがとう、花鶏。あの本、取りに戻ってくれて」
【花鶏】
「お礼は肉体でいいわよっ!」
心を許した瞬間、風のような素早さで、
花鶏が僕の体をいじりに飛んできた。
【花鶏】
「さあ、パンツグショ濡れにしてあげる!
そのフラットで可愛らしい胸を思う存分…………!」
【るい】
「セクハラ制裁ちょーっぷ!」
【花鶏】
「ぎょぺっ!?」
半魚人的な悲鳴をあげて、花鶏は床に潰れる。
【るい】
「油断も隙もないっ、トモは私の!」
潰れて痙攣する花鶏から庇うように、
るいが僕を抱いた瞬間――
【伊代】
「わ、わたしのよっ!!!!」
伊代が敏感かつ過剰に反応した。
【るい】
「…………え?」
【智】
「えっと……伊代さん?」
【伊代】
「え……?」
大時計が時報を九つ打った。
と、その時報を待っていたかのように、
浜江さんが顔を出した。
【浜江】
「失礼します……もう9時でございます。
惠さま、お休みになられた方がよろしいのでは?」
【智】
「え、まだ9時ですよ?」
【惠】
「…………」
【浜江】
「惠さま」
【惠】
「……ごめんよ、浜江は古風でね。
9時になったらベッドに入れと、うるさいんだ」
【るい】
「へー、早寝早起き」
【花鶏】
「どういう洒落よそれは。……はあ、まあいいわ。
わたしも今日は疲れたし」
【こより】
「花鶏センパイはケンカ中の家に帰ってたんですもんね。
うむ、みんな寝るって聞いたら、鳴滝もニワカに眠くなって
きましたよう」
【惠】
「すまない。じゃあ今晩はこれで」
【伊代】
「え、ええ。そうね、今日はいろいろ調べものもしたし、
早めに休みましょうか」
【茜子】
「OK。惰眠には自信があります」
こうして僕らは、三々五々に
それぞれの部屋へと別れていった。
【るい】
「おやすみ〜」
【こより】
「センパイがた、おやすみなさいであります!」
【花鶏】
「ん」
【茜子】
「寝るときにパンツを履いて寝ると、寿命が縮むので気をつけて」
【伊代】
「迷信を捏造しない!」
【智】
「みんなおやすみ〜」
茜子がのろのろと屋根裏に潜り込むのを見届けると、
僕らもそれぞれの部屋に別れた。
【智】
「ふぅ、なんだか浜江さんに、急かされたみたいだったなぁ」
書斎をひっかき回して疲れてはいるけれど、
ベッドに寝転がってみてもなかなか眠りは訪れなかった。
諦めてすぐに電灯をつけ直し、
ぼんやりと天井を見つめる。
眠れば、また悪夢を見るかもしれない。
本当に眠くなってから、
一気に深く寝てしまいたいんだけど……。
【智】
「そうだ、書斎から何か本を借りてこようかな……」
活字を追っていれば、そのうち眠くなるだろう。
【伊代】
「ひゃっ!?」
【智】
「え、伊代?」
ドアを開けると、今まさに僕の部屋のドアノブを握ろうとしていた伊代が、びっくりして固まっていた。
【伊代】
「び、びっくりしたぁ……。どこか行くの? おトイレ?」
【智】
「ちょっと眠れないから、書斎で本でも借りて来ようかと思って。……ところで伊代は、僕になにか用?」
【伊代】
「いや、別に用ってほどじゃないんだけど……その……」
【智】
「えっと、夜這い?」
【智】
「あう!」
【伊代】
「殴るわよ!」
調子に乗ったら殴られた。
怒った伊代は、るいに次ぐ攻撃力を
秘めているので、注意が必要だ。
【智】
「いたた〜、殴ってから警告しないで……。
でもホントにどうしたの?」
【伊代】
「え、うん。ちょっと……ほら、呪いのことがあるから、
今日も一緒に居たほうがいいかなー……って……」
【智】
「やっぱり夜這い?」
【智】
「あうう!」
【伊代】
「縊(くび)り殺すわよ!!」
また殴られた。
なんというかこう、
ついいじりたくなってしまうミステリー。
【智】
「表現が過激です、伊代さん」
【伊代】
「あなたがふざけてばかりいるからでしょう!
ほんとにもう……心配してきたのに……」
【智】
「ごめんごめん。入って」
【伊代】
「本はいいの?」
【智】
「うん。伊代が来てくれたから」
【伊代】
「…………おじゃまします」
僕もなんだか恥ずかしい。
部屋で二人きりになると、昨夜のことがまざまざと
思い出されてしまい、顔から火が出そうだった。
目を合わせられない僕の手を、伊代が握ってくる。
横目で盗み見た伊代の顔も真っ赤だった。
【伊代】
「…………」
【智】
「…………」
かすかに汗ばんだ伊代の手の感触に、
思わずどきどきしてしまう。
部屋に入って手を繋いだまま、
二人とも何も言えなくなってしまっていた。
一応、オトコなんだし、ここは僕が何か
言ってあげないといけないのかな?
きゅっと伊代の手を握って、目を合わせる。
【智】
「えっ……と。じゃあ、ベッド入ろうか」
【伊代】
「えっ!!? ……あ、あ、うん。うん……。そ、そうね……」
緊張で固まってしまっているのか、伊代が手を離してくれないので、片手で器用に布団をめくる。
僕が片足をベッドに乗せて布団に潜り込もうとすると、
握った手の先で伊代がビクリと震えて、僕を止めた。
【伊代】
「あっ、あのっ!」
【智】
「な……なに?」
【伊代】
「あの……今日はまだ痛いから……」
【智】
「え、なにが……?」
【伊代】
「その……だからぁ……」
【智】
「……?」
【伊代】
「あの……だからその……! もう! 察してよぉ!」
【智】
「わからないってー」
【伊代】
「だっ、だから昨日のアレでまだアソコ痛いから、
今日はなしねって言ってるの!!」
【智】
「ぁ………………!」
【伊代】
「っっ……」
二人して、炊きたてごはんみたいに湯気を出した。
これまで女の子として生きてきた僕だけど、
やっぱり女の子ってむずかしい。
ここは素直に平謝りしておこう。
【智】
「ごめん……、空気読めてなかった」
【伊代】
「も、もぉ〜……。……うふふ」
【智】
「いいよ、何もしないから……
でも、それでも来てくれたんだね」
【伊代】
「え、う、うん……」
【智】
「心配してくれてありがとう」
【伊代】
「ううん」
はにかんで笑いあいながら、二人してベッドに潜る。
二人で入るベッドは、季節柄ちょっと暑かったけど、
それでも心地よかった。
【智】
「あんまり騒ぐとこよりが起きるかもしれないし……寝よっか」
【伊代】
「うん。おやすみ」
【智】
「おやすみ、伊代」
布団の中で小さなキスを交わす。
ただでさえ少し暑いのに、
僕たちは抱き合って眠った。
布団に潜ってすぐに、伊代は
安らかな寝息を立て始めた。
これじゃあ僕が安心して眠れるために来たのか、
自分が安心して眠るために来たのかわからない。
そんなことを思いながら伊代のやわらかな髪を撫でて
寝顔を見ていたら、僕も急に眠くなってきた。
もう眠ろう……。
【智】
「おやすみ……伊代……」
伊代が傍に居てくれれば、呪いも悪夢も怖くない。
目蓋を閉じるとすぐに、
僕の意識は眠りの中に落ちていった。
〔捜そう八人目〕
【智】
「伊代、おはよう」
【伊代】
「お、おはよう」
【こより】
「センパイがた、おはようであります!」
今日も伊代は早起きして、
こよりが起きる前に自分の部屋に戻っていた。
それぞれの自室から出てくると、
さりげない表情で朝の挨拶を交わす。
【こより】
「ところで、ともセンパイと伊代センパイ、
夜に二人でお話ししてませんでした?」
【伊代】
「し、してないわよ!? してないしてない」
【智】
「うんうん! 昨日は僕もすぐ寝たから!」
【こより】
「あれ〜? おかしいな〜夢かな〜?」
危ない危ない。
隣がこよりだったから助かったものの、もし茜子とかが
隣の部屋に居たら、たちまち昨日の行動を暴かれていただろう。
【智】
「それより下に行こうよ。朝食もできてるかも」
【こより】
「ハイ! 今日も朝から浜江さんのごはん、楽しみですよう!」
【伊代】
「とりあえず行きましょうか」
浜江さんのごはんはおいしくて、
朝からいきなり太らされてしまいそうだった。
みんなそれぞれにきっちりと朝ごはんを食べ過ぎて、
食器が片付けられた後のテーブルにそのまま陣取る。
【惠】
「それで? 今日はどうするんだい?」
【伊代】
「まずは辞書よね……電話で問い合わせていいのがなければ、
取り寄せを頼むことになるのかしら?」
【智】
「そうだね……でも、花鶏の言っているようなレベルの、
本格的なロシア語の辞書なんて、ここらへんの本屋じゃ
置いてないと思うな」
【伊代】
「となると、しばらくお預けになっちゃうのかしら?」
【花鶏】
「辞書さえあれば、翻訳もきっと、もう少し進むはずよ」
【智】
「でも……花鶏、本当にいいの? 花鶏は、呪いを解くのに……」
花鶏は、痣のことを『聖痕』と呼んだ。
どんな思い入れを込めてそう呼んでいるのか
……想像に難くはない。
いろいろと不便はしてるかもしれないけど、
呪わしいものとは、思っていないはずだ。
でも――
【花鶏】
「ふん」
花鶏は颯爽(さっそう)と胸を反らして笑った。
【花鶏】
「考え違いがあるわね、智」
【花鶏】
「記述が正しいのなら、この呪いは、わたしたちの『力』を妬んだ何かが負わせたモノ――」
【花鶏】
「なら、わたしは花城花鶏の名にかけて、
わたしに向けられた悪意を許しはしないわ」
【智】
「『力』あるが故に呪われた八人、か」
【こより】
「そんなの、やってられないですよね」
【花鶏】
「凡人のヒガミに付き合ってられるかっての」
【茜子】
「この場合、凡人の反語は変人ですな」
すると、僕はなんだろう。
呪いだけを持って『力』を持たない僕は。
【花鶏】
「それより智、呪いを踏んだ時に襲ってきた黒い影っていうのは、その後どうなの?」
【智】
「それが変なんだ、あの影、消えたきりもう現れなくて……」
【花鶏】
「あら? 変ね……呪いっていうぐらいだから、もっと
しつこい奴かと思ってたのに」
確かに花鶏の言うとおりだ。
一度襲ってくれば満足するような奴には見えなかったから。
もしそうなら、
僕は逃げ切れたことになるけど……。
逃げ切ったというよりは、呪いの執行も半ばに急に引き上げた
っていう感じだったから、どうにも助かったっていう実感が
湧かない。
いままさに、急にここで再び襲ってきたとしても
おかしくないような、そんな気がする。
【伊代】
「このまま、もう二度と出てこなければいいのに。
そうすれば、また今までみたいに……」
【智】
「いや、でももし本当に呪いが悪意の産物なら……いつまた
誰が踏むかもわからない。このままずっと放っておくわけには
いかないよ。呪いはやっぱり解くべきだと思う」
【こより】
「はいであります!」
【花鶏】
「まあ、悪くないわね」
【伊代】
「……そうよね」
【るい】
「呪いが解けたら……か、あんまり想像したことなかったけど」
以前は、あまり想像したことがなかった。
だけど今はありありと思い描ける。
この呪いが解けたなら、
もはや恐ろしい影に怯えることもない。
スカートを履く必要もない。
堂々と伊代と付き合うことができる。
【智】
「呪い、解けたらいいなぁ……」
【伊代】
「そうね。わたしも本当にそう思う」
【惠】
「そのことなんだが……」
椅子を少し引いて、惠が身を乗り出してきた。
普段は超然と構えている惠なのに、珍しいこともある。
【惠】
「呪いの受け手は八人とあった、そう言ってたね?」
【智】
「『ラトゥイリの星』にはそうだって」
【惠】
「ここには呪いの受け手の末裔が七人いる。まずは最後の
呪いの受け手……僕らの八人目を捜すというのはどうだろう?」
【るい】
「最後の痣を持つ八人目……たしかに興味あるかも」
【伊代】
「だけど、そんなのどうやって捜すの? 何の手掛かりもないのに」
【花鶏】
「全部で八人。ここに七人もいるなら、それは偶然じゃなくて
必然よ。もう一人も近くにいるって考えられない?」
【智】
「痣同士が引き合うとか、そういうやつ?」
そういえば、いずるさんもそんなことを言ってた。
事ここに至ればなるほどうなずける話ではあるが、
騙り屋の言葉だっただけに、今まですっかり忘れていた。
【花鶏】
「それは知らないけど、運命的なものは感じない?」
【智】
「花鶏らしいね。僕は運命って好きじゃないけど、何もない偶然で七人そろったっていうより、理由があるって考えた方が納得できるかな」
【こより】
「でも、運命、なんかかっこいーですよう!」
【惠】
「運命に意味があるのなら、僕らは八人目と出会うことが
できるだろう」
【惠】
「かつて呪いを受けた最初の八人――その末葉の全員が揃えば、呪いを解く鍵にも近づける……そうは感じないか?」
【惠】
「始まったのが八人ならば、終えるのもまた八人だと」
【智】
「…………」
惠の言葉はすべて憶測だ。
けど、予感めいたものを感じた。
八人目は――近くに居る。
信じたいてみたい言葉ではある。
果たして八人目は、如何なる人物なのだろうか?
【智】
「わかった。今は他に手掛かりもない。
僕たちで八人目の仲間を捜してみよう」
八人目を捜す──
カレハガという昆虫がいる。
生物の防御擬態の例として、
しばしば挙げられる昆虫だ。
彼らは枯れ葉そっくりの体をもち、
捕食者という危険から身を守るために擬態する。
僕らは呪いと特別な力という秘密を隠し、危険から身を守る
ために『普通』の人間に擬態して生活を送っている。
八人目の人物も、おそらく同じ。
彼ないし彼女は、呪いと力を隠して生活していることだろう。
枯葉の積もる秋の森で、カレハガを探すのは難しい。
僕らがそうであるように。
『普通』の人間が無数に闊歩するこの街で、
僕らは本当に八人目の人物を見つけることが出来るのだろうか?
【るい】
「ん、外ぶらぶらすんのもいいね。
空が晴れれば気も晴れる!っていう感じで」
【伊代】
「気分転換にはなるわね。でも、とりあえず出てきたはいいけど、どうやって捜すつもりなの? 街頭で順番に聞いていくわけにもいかないでしょ?」
【智】
「小細工をします、当然」
【智】
「それに――」
リーフフィッシュという淡水魚がいる。
同じく枯れ葉に擬態する生物として、アマゾン流域に生息する。
同じ枯れ葉への擬態でも、リーフフィッシュの擬態は
危険を避けるのが目的ではない。
それは攻撃擬態と呼ばれるもので、彼らは枯れ葉だと
油断して近づいた昆虫や小型の魚類を一飲みにしてしまう
恐ろしい捕食者なのだ。
【智】
「八人目が、僕らにとって友好的だという保証はどこにもない。
慎重に動かないとね」
【花鶏】
「たしかに。相手が猟奇殺人鬼じゃないって保障はない」
【こより】
「うえぇ、そう考えると恐ろしいです……」
【智】
「でも、またいつ『ノロイ』が来るかも知れない……」
【るい】
「あれから出ないなら、一度で満足したとか」
【茜子】
「なんにせよ急いだ方が良いです。それで、
我らが萌えっ子捜査官はどのような方針で捜査をしますか」
【智】
「まずはできるだけ、対象の特徴を割り出さないといけない」
【伊代】
「でも……会ったこともない相手の特徴なんてどうやって割り出すつもりなの? なんの情報もないのに」
【智】
「情報なら手元にあるよ。幸い、ここには八人中七人まで
呪われた者が揃ってるわけなので」
【茜子】
「この七人の共通点なら、八人目にも適用できると言うことですか」
【智】
「まずは、みんながこの田松市周辺に居るって言うのが
第一の特徴だね。他には何がある?」
僕なりに共通点はすでに割り出してあるが、
先に、みんなからの意見を募ってみる。
先入観がない方が、新たな切り口からの考えで
発見があるかもしれないからだ。
【るい】
「はい! みんな女の子!」
【智】
「あ、うん……、そうだね」
【伊代】
「…………」
いきなり来た。
もちろん来るとは予想していたけれど、
それは僕が実は男の子であるだけに共通点とは言えない。
八人目は男である可能性を、
僕と伊代だけでも念頭に置いておこう。
【智】
「他には?」
【茜子】
「みんなかわいい」
【花鶏】
「おまえが言うな!」
【こより】
「今、鳴滝は茜子センパイのこと、ちょっと尊敬しました」
【茜子】
「よし」
茜子の言葉は冗談っぽいが、実は意味があるかもしれない。
「みんなかわいい」
僕は男の子なので、できれば肯定したくはないんだけど。
【惠】
「それから痣だな。
伊代は、これで僕が仲間だと気づいたのだから」
【智】
「それが一番大きく判りやすい特徴だと思う。他にもまだ何かある?」
特には出てこない。やっぱりこんなところか……。
【智】
「それじゃあ今までのを総合すると」
【智】
「1.田松市周辺に住んでいる
2.女の子
3.体のどこかに同じ形の印がある」
【智】
「この3つかなぁ」
【茜子】
「4.かわいい」
【花鶏】
「まだ言うか」
【伊代】
「でもそれで何がわかるの? まさか通りすがりのひとたちを
片っ端から脱がして回るわけにも行かないでしょ?」
【花鶏】
「はい! はいはいはい! はいっ! そういうことなら、
この花鶏さんにおまかせよ!? 女の子を脱がして回れば
いいんでしょ!?」
【こより】
「花鶏センパイからケダモノの匂いがします〜っ!」
【智】
「ま、まぁそれは個人の責任の範囲で……」
花鶏が口説き落とした女の子を脱がしたら八人目でした――
そういう展開が、実は一番平和なのかもしれないけど。
【智】
「それより、ここからはネットが必要になるんだ。花鶏、
悪いんだけど、また家に帰って、ノートPC取ってきてくれない?」
【伊代】
「……ネット?」
久しぶりにファミレスに入ったのはいいけれど、
どのメニューを見ても、浜江さんの料理を思い出して見劣りする。
結果として僕と伊代は二人、ドリンクバーで粘るという
貧乏くさい客になっていた。
【こより】
「うぃ〜、ゲーセン回って参りました〜」
スケートのこよりが一番に帰ってきて、
その後ろから俊足のるいが戻ってくる。
【るい】
「本屋と近くのコンビニ行って来たよ〜」
【智】
「二人ともおかえり〜」
挨拶を交わしている間にも、惠が戻ってくる。
【惠】
「デパートにいくつか書いてきたよ」
【智】
「惠もおかえり」
花鶏と茜子はどうせダラダラ帰ってくるだろうから、
こっちはこっちで進めておこう。
【こより】
「伊代センパイの方はどうです?」
【伊代】
「……こんなところかしら」
花鶏が家から持ってきてくれたノートPCをくるりと回す。
ディスプレイに映っているのは、出来たてのホームページ。
伊代がさっき作ったものだ。
意外なことに、どんくさキャラのはずだった伊代は、
実はスーパーハッカー並みのPCの使い手だった。
本人曰く、おおよその道具は器用に扱えるとのこと。
それが伊代の『力』なのだろう。
【るい】
「なんもないよ?」
【智】
「これでいいんだ。田松市周辺で、
人の出入りの激しい場所に『痣』と同じ模様の落書きをする。
その下にこのページのアドレスを添えておく」
【惠】
「それで、そのページには?」
【智】
「メールアドレスを用意しておく。八人目の人物は、
自分しか知らないはずの痣と同じ模様のマークを見れば、
必ず何らかのメッセージを送ってくるだろう」
【こより】
「気になりますもんね。鳴滝でもそーします」
【智】
「でもすごいよね、伊代。自分のパソコンすら持ってないのに、
こんなになんでも出来るなんて」
【伊代】
「自分でもどうして出来るのかわからないのよ。さっきの説明だって、自分がなんでそんなことを知ってるのかわからないもの……。とにかく、わたしはこういう『力』を持っているのよ」
【惠】
「なるほど、それが伊代の『才能』だったのか」
【伊代】
「正直自分でもちょっと気持ちわるいから、パソコンは
使わないことにしてるのよ」
【こより】
「なんで、そこで使わないんですか伊代センパイ!
スーパーハッカーな感じで、我こそは電脳世界の神っ!
みたいに君臨したら、すっごいすっごいかっこいいのに〜」
【伊代】
「興味ないわよ……。第一フェアじゃないわ」
伊代は本当に損な性格だ。
すごい力を持ってるしスタイルも抜群だし、
これは僕の贔屓目かもしれないけど、顔もかわいいし。
長所をもっと前面に押し出して使っていけば、伊代なら、
かなりやりたい放題ゴージャス過剰な人生を謳歌できるだろうに。
【花鶏】
「そのおっぱいだけでも活かすべきよ、ホント」
【茜子】
「ようやく帰還できました」
花鶏と茜子も帰ってくる。
この二人は仲がいいのか悪いのか、
よくわからないコンビだ。
【るい】
「遅いよ、二人とも」
【智】
「おかえり花鶏、茜子」
【茜子】
「途中、空中から巨大なちくわが降ってきて、その中に閉じ込められたので遅くなりました。ですよね、性欲姫」
【花鶏】
「奇想天外すぎて、話を合わせられないわ」
【伊代】
「もう……あなたたち、本当にちゃんと書いてきたんでしょうね!? 二人ともいいかげんなんだから……!」
わけのわからない言い訳はサラリと無視すると、茜子は
ニヤリと笑って花鶏から携帯を受け取った。
【花鶏】
「失礼ね、ちゃんと書いてきたわよ」
【茜子】
「フフフ、そんなこともあろうかと写真を撮っておきました。
存分にご覧あれ」
東側のコンビニ。
西側のコンビニ。
駅の掲示板。
【智】
「怪奇写真……」
【茜子】
「失礼な僕っこめ」
それぞれの場所に書かれた、
『痣』と同じ模様の落書きが写真に収められている。
全部の写真に茜子がよくわからないポーズで
一緒に映ってるのが謎だ。
【智】
「ありがと。これで餌は仕掛け終わった。
あとは魚が寄ってくるのを待つだけだよ」
【惠】
「さすがは智だ。これは、必要最小限のリスクと労力で
八人目を捜し出す手段だろうね」
【智】
「そ、そんなにすごいものじゃないって」
遅れてやってきた二人に、こよりが要点を説明する。
要は落書きが餌で、サイトが釣り竿というわけだ。
【花鶏】
「へぇ。でもこれ、関係ない連中がメッセージを送ってくる可能性もあるのよね?」
【智】
「それはしょうがないよ。メッセージの内容から絞り込んで、
あとは虱(しらみ)潰しになるね」
【智】
「あと、伊代にはもう一つやってもらった。
ネットでこの田松市の噂を集めてもらってる」
【伊代】
「匿名掲示板に話を振っただけだけどね」
【智】
「特別な力があるなら、噂になることもあるだろう。現に……」
【伊代】
「ほら。ここの『田松市には無名の凄まじい女フードファイターがいるらしい』ってあるでしょ」
みんなの顔が一斉に同じ方を見た。
【るい】
「なに?」
【惠】
「なるほど、るいの『力』は大食だったのか」
【伊代】
「いや、それは違うんだけど」
曰く。
「田松市には吸血鬼が出るらしい」
曰く。
「睨むだけで人を操る魔眼らしい」
曰く。
「実際に自殺させられた人もいるらしい」
曰く。
「なんでも言うことを聞く兵隊を率いているらしい」
ノイズの多い噂の中から、
脈のありそうな情報を整理したのがこれだ。
【智】
「魔眼の吸血鬼…………? それってもしかして……」
【伊代】
「どうかしたの、変な顔して?」
【智】
「なんでもないよ。それより、これが本当に八人目を指していると仮定しての話になるけど……相手は相当ヤバそうだね」
【伊代】
「そして、これが今回問題にしたいメールよ。
今朝アドレスの方に来たの」
メールの内容は簡単なものだった。
【智】
「――――――――なるほど、本物かも」
「痣について、話がある」
後は時間と場所が指定してあった。
『痣』という一言に信憑性があった。
僕らはたしかに、痣と同じ模様の落書きはしたけど、
『痣』という言葉は出していない。
このメールを差し出した相手はつまり、
あの模様を見て呪いの『痣』だと判った人物なのだ。
【智】
「メールの差出人と噂の人物が同じなら、八人目は、
本当に危険な相手かも知れない」
【るい】
「う……そんな相手なら、無理に捜さなくてもいいんじゃないの?」
【こより】
「睨むだけで殺す、なんて……」
【智】
「ネットの噂の信憑性なんてないに等しいけど、痣を持ってるなら、僕らの仲間だっていう可能性は高いと思う。
【智】
「ただ、そうなると僕ら同様の『力』を持ってる筈だから…………
みんな、どうする……?」
【伊代】
「危険があるなら、これ以上のことは避けるほうが
いいんじゃないかしら」
【花鶏】
「賛成。この噂が本当なら、会えたってロクな奴じゃないでしょ」
【こより】
「そうですよう。やめときましょう!」
そんな風に、大勢が慎重論に傾きかけたその時――
【惠】
「いや反対だな」
一人、惠が反対意見を唱えた。
茜子が目を細める。
【茜子】
「…………ほう」
【惠】
「智の意見はどうなのかな?」
【智】
「僕にはあまり余裕がないよ。一度『ノロイ』からは逃げられたし、あれ以来現れない。逃げ切ったのかもしれないけど、また来るかも知れない。不安が在る以上は、少しでも早く呪いを解きたい」
いまだに呪いの秘密については謎のままだ。
僕だけではなく、みんなも……
そして伊代だって、いつ呪いを踏むとも限らない。
【惠】
「なるほど。では、問題の八人目についてだが」
【惠】
「まず第一に、仮にその八人目に本当に睨んだだけで相手を殺す力があったとしても、無差別に殺しているわけじゃないだろう」
【惠】
「第二に、こちらの情報は漏れない前提で餌を仕掛けていたはず。接触しない限り、僕らは向こうにとっては単なる雑踏の中の一人に過ぎない」
【惠】
「第三に、相手が危険な存在ならば、なおさら正体を把握しておく必要があるとは考えられないか? 以上が反対の理由だ」
【智】
「……なるほど。実はリスクはほとんどないし、接触するかどうかは別として、把握しておく意味はあるってことだね」
【惠】
「そうだ」
【るい】
「でも……」
【惠】
「相手に目星をつけたら物陰から窺うだけでいい」
【こより】
「まぁ……それならだいじょぶ……かも?」
惠の言うことはもっともだ。
相手が危険な存在ならば、事前に知っておいた方が
安全なのは言うまでもない。
落石注意の看板を立てるようなものだ。
【茜子】
「では、相手が本当に呪い持ちかどうかの最終確認は、
茜子さんがします」
【るい】
「アカネ、危ないってば!」
【茜子】
「大丈夫です。茜子さん作詞作曲の名曲『呪いのテーマ』を
歌いつつ前を横切って、表情に反応が出ればそれが該当者です」
【伊代】
「もうちょっとマシな方法はないの、あなた」
【こより】
「でも、意外とうまく行きそうな気もしますね、それ」
【花鶏】
「わたしはどっちかと言うと、八人目よりその歌の方に
興味あるわね」
【るい】
「でも……」
【智】
「るい、ここは茜子を信じよう。僕らは相手を確認するだけだし、相手には僕らを敵視する理由がない。茜子が歌いながら前を歩くだけだしさ」
【るい】
「トモがいいなら……」
【智】
「よし、決まった。今夜、メールの主と会おう」
メールの主が指定した約束の場所は、
繁華街のど真ん中だった。
危険な相手と思われる以上、
警戒はいくらしてもし足りない。
だが、その夜は相手の方が一枚上手だった。
【るい】
「待って!」
るいの警戒心は僕らの中でも随一だ。
野性的と言ってもいい。
疑問を感じるより先に、緊張が走った。
【るい】
「囲まれてるよ。……ぜったいヤバい相手」
先に罠を張っていたのか。
【こより】
「えぇっ、ま、まさか……その相手って……」
噂に囁かれる田松市の吸血鬼は、睨むだけで人を操り、
従えたものを兵隊として率いているという。
【智】
「まさか、本当に……!」
【茜子】
「本当にそこまで強力すぎる力が存在しますか……?」
【惠】
「何者なんだ? いざとなったら、力ずくで突破するしか……」
【るい】
「いや、来た――」
唐突に力強い手で、
背後から肩を捕まれた。
【央輝/???】
「騒ぐな!」
気づいた時にはもう遅い。
雑踏の中、いつのまにか路地の入り口や店舗の店先、
あらゆるところに僕たちを狙う目が光っていた。
【智】
「く……! お前たちこそ一体……」
歯噛みしながら振り向くと――
意外な……でも、見知った顔が、そこにいた。
【智】
「え…………!?」
【央輝】
「――――」
【智】
「央輝!?」
【央輝】
「オマエらだったとはな」
クセなのか、央輝はプッシュ式のライターを
何度も何度もカチカチと押している。
部下たちはみな近くに待機しており、
合図一つでいつでも乗り込んで来られる状態だ。
【智】
「僕も驚いたよ。こんな形で再会することになるなんて……。
でも、噂を聞いたとき、うすうすは予想してたんだ」
【央輝】
「……あたしもだ」
なるほど。
僕たちが見つかったのは、
僕がいたからだ。
央輝は僕の顔を知ってるし、八人目が央輝なら、
彼女には今回の一件を、最初から僕の仕業と疑う理由が
きちんとある。
【央輝】
「質問がある。答えによってはすぐにお別れだ。意味はわかるな?」
【こより】
「と、ともセンパイ……」
【智】
「穏やかじゃないね。それで聞きたいことって何?」
【央輝】
「どうしてあんなことをした?
オマエ、意味がわかってるのか!?」
あんなこと。
『痣』を書いて回ったこと以外には考えられない。
【智】
「自分の行動の意味は理解してるつもりだよ、央輝」
【央輝】
「はぐらかすな! 状況をわかってるのか?
今すぐその余裕ぶった口を聞けなくしてやってもいいんだぞ?」
【伊代】
「あなた、ここは素直に言うことを聞いたほうが……」
【智】
「それもわかってるよ。伊代」
【央輝】
「こいつ…………」
央輝が怒っている理由は一つしかない。
痣の事が広まれば困ることになるからだ。
つまり、
尹央輝は、八人目の人物だ――
茜子の『力』を借りるまでもない。
【智】
「なるほどね」
季節はずれのコートにつば広の帽子、
まるで日光を避けるようないでたちは、まさしく『吸血鬼』。
実際に日光を避けているのかもしれない。
それが央輝の呪いなのか……。
さらに従えている部下たち。
央輝を見る目には恐怖が見え隠れしていた。
大の男たちを従え、怖れさせるだけの「何か」を、
央輝は小さな身体に隠しているはずだ。
【央輝】
「何とか言ったらどうだ」
おそらく央輝は、呪いの秘密がばれることを恐れて
僕たちを捕らえた。
部下たちを下がらせたことから、呪いのことは
部下たちにも知らせていないに違いない。
それなら……。
【智】
「央輝。ここにいる七人は全員、君と同じ呪いを負った人間だよ」
【央輝】
「なに……! 全員……、ここにいる全員だと?
オマエだけじゃなく、ほかの六人も全員そうだったのか!?」
【惠】
「智、軽率だぞ。彼女が呪い持ちであるという証拠はない」
声を荒げた惠が僕を睨みつける。
【智】
「うん。証拠はない。でも……そうなんでしょ? 央輝」
【央輝】
「………………」
あのパルクールレースのさなか、
土壇場で一瞬躊躇した央輝。
あの時央輝は、僕が呪い持ちであることに気づいたんだ。
破れていた袖を思い出す。
おそらく、もっとも決定的な、
僕らに共通する特徴を見つけたから。
「痣」だ。
【央輝】
「……オマエに隠しても意味はなさそうだな。そのとおり。
あたしは呪いを受けている。オマエら全員の印を見せろ。
そうしたら、あたしのも見せてやろう」
【智】
「おっけー。みんな、見せてあげようよ」
【伊代】
「え……そ、そうね。仲間だもんね」
【央輝】
「同類ではあっても仲間じゃない。勘違いするな」
【るい】
「ほら、私のは右おっぱいだぞ」
るいがいきなり豊かな胸をぽろりと出した。
瞬間、目の前が真っ暗になる。
【伊代】
「……ダメ」
【智】
「…………」
とっても無情。
伊代の焼きもちは、かわいいんだけど。
【こより】
「鳴滝は太ももであります!」
【伊代】
「……ダメよ」
花鶏や茜子も見せ終わって、次は伊代の番だ。
【伊代】
「あ、次わたしね。わたしは背中」
伊代に続いて僕も呪いの印を見せる。
あとはこっちは惠だけだ。
【伊代】
「どうしたの? ほら、あなたは脇腹でしょ。見せてあげて」
【惠】
「……あ、ああ。見てくれ」
全員の痣を確認し終えた央輝は、
最後にもう一度じっくりとみんなの顔を睨みつける。
そしてようやく、自分の服の前をはだけた。
【央輝】
「よく見ろ。これがあたしの印だ」
その左肩には、見紛う事なき呪われた者の刻印が捺されている。
【伊代】
「間違いないわね。でもまさか、あの時のあなたがわたしたちと
同じ呪い持ちの人間だったなんて」
【央輝】
「まさかオマエらが全員そうだったとはな」
【惠】
「やはり八人目か……とうとう……」
【智】
「ん? 惠、どうしたの?」
【惠】
「いや」
【惠】
「……なんでもない。こんなにも簡単に見つかったことに驚いた
だけだ。もしかすると、呪いには呪いを負った者たち同士を
近づける力があるのかもしれないな」
【伊代】
「なるほど、そうね。みんなが田松市に居たのもそのせいかも
しれないわね」
八人目は見つかった。
思っていたよりもずっと簡単に。
今は、央輝をどうするか、だ。
茜は目立たない角度から央輝の顔を観察して、
考えを読み取ろうとしている。
【央輝】
「呪いを負った人間がこんなに居たとは……」
【智】
「央輝。呪いを持っている人間は全部で八人。
つまりここにいるみんなですべてだ」
央輝の目が細められた。
噛み付きそうな瞳。
【央輝】
「……オマエ、他にも知ってるのか」
【智】
「あの時レースで賭けた本、あれと僕の父さんの残した手記がある。どちらも呪いについての情報が記されている」
【央輝】
「あれか……。ふん、あの時そのまま貰っておくべきだったな」
【智】
「解読して二つを照らし合わせれば、もっといろんな事が
わかるかもしれない」
【智】
「たとえば、呪いを解く方法とか」
【央輝】
「………………」
【智】
「………………」
【伊代】
「わたしたちは今、みんなで呪いを解く手段を探しているわ。
あなたにも協力して欲しいの。そして、何か知ってることが
あれば教えて欲しいのよ」
【智】
「同じ呪われた者として、央輝の呪いの秘密は絶対漏らさない。
だから、協力してくれないかな」
【央輝】
「…………」
しばらく央輝は考えていた。
コキリと首を鳴らして手を伸ばす。
【央輝】
「連絡先を寄越せ。気が向けば連絡する」
【智】
「僕の携帯でいいよ。番号は前のまま」
【央輝】
「ふん。お前に関わると、いつも余計な手間ばかり増える」
【智】
「ごめんね、相性悪くって」
【伊代】
「あの……」
【央輝】
「…………」
【伊代】
「連絡、待ってるから」
【央輝】
「期待はするな」
央輝はコートを翻して背を向けた。
仲間ではなく、同類と央輝は言った。
それでもいい。
痣が僕らを繋いでいる。
類で友なんだから――
最後にもう一度連絡して欲しい旨を告げると、
僕らはうるさそうに追い払われた。
〔央輝との会合〕
その日は朝から雲行きが怪しかった。
曇り空が運んでくるのは雨と相場が決まっている。
だが、その雲がもたらしたのは待望の来訪者だ。
【央輝】
「……」
約束どおり惠の家へやってきた央輝は、
待ちきれずに飛び出してきた僕たちを
一通り見渡し、複雑な表情を浮かべた。
【伊代】
「来てくれたのね、嬉しいわ。わたし、きっと来てくれると
思ってたの」
【るい】
「おお、いえんふぇーだ!」
【こより】
「待ってました、いぇんふぇーセンパイ! いえんふい?
ゆえんふぃー? なんか、言い辛いですね〜」
【央輝】
「央輝だ!」
【茜子】
「茜子さんはぞんざいに大歓迎しますよ。イラハーイ」
【花鶏】
「ま、わたしも歓迎するわ。特にその……こよりちゃんよりも
なお平らかな胸のあたりとか、超絶大歓迎!」
【央輝】
「………………」
歓迎の波状攻撃に、立ち尽くしていた央輝は、うんざりした顔だ。
【佐知子】
「ようこそ、惠さんの新しいお友達ですね。すぐにお茶を
入れますから。あ、そのコートと帽子、お預かりいたしますね」
【央輝】
「こ、こら! 触るな! このままでいい!」
【佐知子】
「そうですか? わかりました」
【智】
「待ってたよ、央輝」
【惠】
「客人として、心から歓迎するよ」
【央輝】
「様子を見に来ただけだ。仲間になるつもりはないからな」
【智】
「まあ、些細なことはいいから、話は中で……」
【央輝】
「聞いてるのか!? あたしはオマエらと馴れ合うつもりは……!」
【茜子】
「早く来い、怪奇乳無し女」
【央輝】
「お、おま……ッ!」
【花鶏】
「幻のAAAってヤツかしら」
【央輝】
「AAはあるッ!!」
【伊代】
「あの子たちの言うこと、いちいち気にしてたら駄目よ?」
【智】
「うんうん。ここの紅茶はすごくおいしいんだよ」
【智】
「さあ。気を取り直して、お茶しよう」
【智】
「佐知子さんが用意してくれてるよ。ここのお茶はすごく美味しいんだから」
【央輝】
「クソっ……! なんであたしがこんな目に……!」
凶暴で危険な狼も、人里に出ればワンワン扱いだった。
ついに呪われた者の末裔八人全員が集った。
【智】
「これではじめて全員が揃ったわけだね……
軽く自己紹介でもしようか」
【央輝】
「子供の集まりじゃないんだぞ」
【伊代】
「いいじゃない、お互いに知っておいた方がいいと思うわ。
まず、わたしから。あとは今座ってる配置で、時計まわりに
しましょうか」
【茜子】
「オッケー了解仕切り魔め」
【伊代】
「誰かがまとめないと進まないでしょ!」
【伊代】
「……こほん」
伊代はひとつ咳をすると、立ち上がってペコリとお辞儀した。
【伊代】
「では改めまして。わたしは…………わたしは……ぁ……」
【智】
「白鞘伊代」
【伊代】
「……です」
【花鶏】
「見ての通りいつも要領の悪い子よ。
でもおっぱいのもみ心地は特筆に価するわ」
【央輝】
「なんだ? それがオマエの呪いなのか?」
自分から一番手をやると言っておいて、
いきなり呪いで名乗れないとか、いくらなんでも伊代すぎる。
これは央輝も不自然だと気づいて当然だった。
【伊代】
「あ、えっとわたしの呪いは……」
【智】
「待って」
ぼくらはみんな、呪われている。
呪いの怖さを他の誰よりも知っている。
それでも、普段の僕らが、お互いの呪いについて
話し合うことは滅多にない。
言葉に出してしまうと、せっかく眠っている呪いを、わざわざ
揺すり起こしているような、ぞっとする気分を味わうからだ。
だから、僕らは、呪いについてだけは、
遠巻きに眺めるようなそんな真似をしてしまう。
【智】
「『力』のことはみんな話す。でも呪いのことは言わないでおこう。命に関わることだし。もし分かっても確認はしないということで……」
【智】
「それでいいよね? 央輝」
【央輝】
「いいだろう。悪くない」
それに、踏まれた呪いは僕らを殺す。
ルールを知っていれば、相手に呪いを踏ませることは、
その気になれば簡単だ。
どれだけ親しい間柄でも、簡単に自分を殺す方法を
知られてしまうのは恐ろしい。
【伊代】
「呪い自体には触れないということで……『力』の方は、これ説明しにくいんだけど、えっと……知恵の輪が解けたり、パソコンが使いこなせたりするんだけど……」
【央輝】
「い……イライラするヤツだな……!」
カチカチカチカチと神経質に、央輝がライターのボタンを押す。
そのうち何か投げつけそうだ。
【智】
「『道具を使いこなす力』?」
【伊代】
「そ、そうそう!
だからパソコンみたいな用途の広い道具だと、かなりなんでも
できるの。気持ち悪いからあんまり使ってないけどね」
【央輝】
「はじめて銃を手にしても確実に的をブチ抜けるのか?
危ない『力』だな」
【伊代】
「当てるのには、わたしの技量とかも必要だから、そんなに上手くいくとは限らないわよ」
【こより】
「ほええ〜、そういう『力』だったんですね〜。びっくりですよう」
【智】
「じゃあ、次は僕だね。僕は和久津智。それで能力なんだけど……僕にあるのは呪いだけで、特別な『力』の方はないんだ」
【央輝】
「『力』がない? オマエ、ふざけるなよ」
【智】
「ふざけてないから、僕も困ってるんだよ」
【伊代】
「え、そうだったんだ!? でも嘘じゃないわ。だってこの子、
こんなことで嘘ついたりしないもの。わたしたちしばらく一緒にここで生活もしたし、この子のことなら……」
【央輝】
「オマエは黙ってろ」
【伊代】
「うぅぅ」
【智】
「文献には『特別な力があるから呪われた』ってあったし、もしかしたら僕にも何か『力』があるのかもしれない。だけど、少なくとも僕は自分の『力』を知らないから使えないんだ」
【央輝】
「『力』はあるのに使えない、か。本当なら傑作だが」
なおもその目は僕を疑っている。
当然予想された事態だけど、
これはなんとか信じてもらうしかない。
【惠】
「それは奇妙だな、智。君は本当に何の『力』もないのか?」
惠は珍しく真剣な表情だ。
何かを考え込んでいるような、そんな風情。
【智】
「残念だけどね。でも、央輝に僕が呪いを負った者であることを
証明することはできるよ」
【央輝】
「勿体つけるな」
【智】
「僕は、ついこの間、呪いを踏んだんだ」
【央輝】
「な……に!?」
目に見えてうろたえる。
央輝も呪い、即、死だと考えてたようだ。
【央輝】
「どうして生きてるんだ!? 呪いを踏んだとき、
一体何が起こるんだ!?」
【智】
「黒い、恐ろしい影が現れて殺しに来るんだ。一度僕は襲われて、その時はなぜかわからないけど、偶然助かった。また来るかもしれない。だからそれまでに僕は呪いを解かないといけないんだ」
【伊代】
「わたしも一緒に居て、影を見たわ。ここでお料理をしてる
おばあさんも居合わせたんだけど、呪いを負ってない者には
見えないみたいだった」
央輝は目を細めて軽く舌打ちすると、
ライターを数度カチカチと鳴らして椅子にもたれた。
小柄な身を沈み込ませて、大振りに足を組む。
【央輝】
「嘘にしては出来が悪すぎる。本当らしいな」
【智】
「信じてくれてありがとう。それでは僕の自己紹介はここまで。
次はるいだよ」
【るい】
「私は皆元るい。
能力は速く走ったりすごい力を出したりする『力』」
【花鶏】
「身体能力の一時的な強化……くらい言えっての」
【るい】
「うん、まぁそのシンタイなんとか。使うとすごくおなかが
減るから、ご飯どきまで見せられないけど」
【惠】
「なるほど、エネルギー保存則か。
不思議なところだけ物理法則が適用されていて面白いな」
【智】
「ほんと、マンガみたいな体質だよね」
【茜子】
「ミスはらぺこの体内には『るいぶくろ』とかが詰まってるに
違いありません」
【央輝】
「単純な『力』か。シンプルだが強力だな」
るいの自己紹介が終わると、今度はこよりが
ぴょこんっと挙手しながら勢いよく立ち上がった。
【こより】
「そりでは続いて鳴滝こよりです!」
【花鶏】
「ろりっこちゃんであります」
【茜子】
「まだ生えてないであります」
【こより】
「は、生えてますようっ! やわ毛ですけど……」
【央輝】
「い、いいから続けろ! 能力はなんだ!」
いじられた本人のこよりより、
央輝の方が顔を赤くしている。
花鶏が、悪魔のように舌なめずりしている。
花鶏の魔の手から守ってあげないと……。
【こより】
「あ、鳴滝のは『運動の再現』であります!」
【央輝】
「運動の再現……なんだ、それは?」
【こより】
「うい、やって見ますね。んじゃ央輝センパイ、ちょっと紙に字
書いてみてください」
いそいそと伊代がメモを用意してきて、央輝とこよりに手渡す。
央輝は思いのほか、というよりも驚くほど達筆だった。
【智】
「うわ、央輝、達筆だね」
【央輝】
「知るか! それで何をするんだ?」
【こより】
「そりでは鳴滝も失礼して。うにゃうにゃうにゃ〜……っと、
このとおり!」
掲げた紙には、央輝の字をコピーしたようにしか見えない、
そっくりそのままの字が書かれていた。
使いづらいけれど、使いようによっては便利な『力』だ。
【惠】
「なるほど、それが運動の再現か」
【央輝】
「ふん、珍しい芸だな」
次は花鶏。
【花鶏】
「わたしは花城花鶏。『力』は『思考の加速』よ」
【央輝】
「思考の加速……役には立ちそうにないな。
ハッ、暗算でもやって見せるか?」
【花鶏】
「可愛くない貧乳ね。わかってるの? この場であんたがナイフで襲ってきても、わたしにはあんたがほとんど止まってるみたいに見えるのよ?」
【央輝】
「試してみるか」
【花鶏】
「――前は、決着つける前にお流れだったわね」
血塗れ武闘派二人が暗雲を醸し出す。
【伊代】
「ちょ、ちょっと! いきなりケンカしないでよ! あなたたち大人気ないわよ! せっかく親睦を深めるためにこうしてみんなで自己紹介してるんだから、ここはとりあえず仲良く……」
【央輝】
「わかったわかった! わかったからオマエは黙れ!
オマエの話を聞いてると血管が切れそうだ」
【伊代】
「うぅぅ」
【智】
「伊代、ナイス仲裁」
2回もいらない子扱いされてヘコんだ伊代の頭を、なでなでする。
結果的には、央輝も花鶏もおとなしくなってくれたようなので、
結果オーライだろう。
次は茜子だ。
【るい】
「次はアカネ……あれ?」
【茜子】
「ばかめ、茜子さんはここだ。バァァ〜ン」
央輝と花鶏のやりとりに気をとられていた隙に、
茜子はすばやく移動していた。
いつのまにか僕の後ろにしゃがみ込んで、
ブサイクな猫と遊んでいる。
【こより】
「お〜、ジャパニーズ・ニンジュツですね!
意味もなくすばやいところがすごいですよう」
【茜子】
「イエース。よって次はボク女2号、GO」
わざと順番を入れ替えた?
茜子のことだから単なる気まぐれかもしれないけれど、
なりゆきを見守ることにしよう。
【惠】
「いいだろう。僕の能力は才野原惠、名前は……」
【央輝】
「ちょっと待て! 能力がサイノハラ……どういうことだ」
【惠】
「気にしないでくれ。名前は『戦闘能力』だ。
どんな相手と争っても決して負けることがない」
【茜子】
「………………」
前から思っていたことだが、
惠の言動には少しおかしなところがある。
それが惠の呪いのせい、なんだろうとは思うけど。
【央輝】
「戦闘能力か。決して負けないとは大した自信だな」
【惠】
「試してくれても構わない」
【央輝】
「……やるか?」
【伊代】
「だから、どうしてあなたたちはケンカしようとするの!
そんなことしても意味ないでしょ! 本当に……」
【央輝】
「はッ!!」
【花鶏】
「――惠ッ!」
『加速』した花鶏が、ミリ秒単位の反射で
伊代の服を掴んで制止した。
つんのめった伊代の鼻先をかすめて、
央輝の放った凶器が惠に走る。
【伊代】
「……に、ッッ、な、なにが、どうなったの?」
【惠】
「伊代、すまない。信用して貰うには手っ取り早いと思ったんだ」
薄く笑う惠が、顔の前で握った手を開く。
そこには央輝のライターが握られていた。
【央輝】
「へらず口を叩くだけはあるな」
【惠】
「タバコは体に悪い。ほどほどにした方がいい」
【央輝】
「余計なお世話だ」
投げ返されたライターを受け取ると、
央輝は不満げに口もとを歪めた。
【こより】
「ほっ。良かった〜、投げたのはライターだったんですね」
【花鶏】
「違うわよ。後ろの壁」
【こより】
「うひっ!!」
惠の背後の壁には、ライターと同時に放たれたナイフが
深々と突き立っていた。
惠がライターをかわしていれば、ナイフが突き立ったのは
その顔だった、というわけだ。
【惠】
「この呪いの力が生まれた遥か昔には、役に立った能力なんだろう。だが、現代では無用の長物だ」
【央輝】
「ふん。甘ちゃんどもの寝言だな。そういう力が役に立つ場所も
世界も、世の中には幾らでもあるぞ」
【智】
「と、とりあえずは、次を」
【るい】
「んじゃ、次はイェンふぇーだね」
【央輝】
「…………」
【茜子】
「いやん、見つめないで下さい」
【央輝】
「ふん」
央輝は、自分より後の順番になるよう
移動した茜子を一瞥した。
茜子のボーっとした顔を見ると鼻先で笑う。
【央輝】
「あたしは尹央輝だ。
オマエら、調べまわってたんなら知ってるんじゃないのか?
あたしの『力』……」
【こより】
「睨んだだけで相手を操っちゃうっていう、
アレでありますか……!?」
鋭い目が全員を威圧する。
【智】
「あの噂、本当だったんだ」
【伊代】
「自殺までさせられるって言う……! や、やだ、睨まないでよ」
【央輝】
「ははは、そうだ。あたしの『力』は『魔眼』!
ひと睨みで相手を、自分の命でも喜んで捨てる奴隷に変える。
オマエらもビルから飛び降りたくなかったら気をつけるんだな」
【るい】
「イェンふぇー、仲間までおどかすなって!」
睨むだけで自在に操り、命まで奪うことができる『力』――
いくらなんでも強力すぎる。
【茜子】
「………………」
ふと気がついて、後ろの茜子を見る。
【央輝】
「あたしはオマエらの仲間になる気はない。気に入らないヤツは
始末する。わかったら、オマエらも態度を改めるんだな!」
【茜子】
「はい、改めます。でもその能力、嘘です」
【央輝】
「なんだとオマエ……ッ!!」
笑いそうになる。
茜子はこの確認のために、こっそり移動して
順番を入れ替えたんだろう。
【茜子】
「さて、自己紹介します。
私は茅場茜子、『力』は『人の心を読む』」
【央輝】
「オ、オマエ……ッ! それであたしの後に……!」
【茜子】
「やーい、ひっかかった」
【央輝】
「こいつ……ッ!!
あたしをコケにしてタダで済むと思うなよッ!」
【智】
「ちょ、ちょっと、落ち着いて、央輝!」
【茜子】
「べー」
順番を入れ替えて嘘を見破ったのは、茜子ナイス。
けど、こう、もう少し後の事を考えて
行動してくれたらいいのに……。
【智】
「お願いだから落ち着いて! 茜子はいつもこんなので、
特に悪気はないから!!」
【伊代】
「そ、そうよ! それに嘘をついたのはあなたで、あなたの方に非があるでしょ? もともと『力』を教えあうルールなんだから、嘘をついたあなたを指摘したあの子を怒るのは筋違い……」
【央輝】
「わかった! わかったから!! とりあえず、オマエだけは黙れ!」
【伊代】
「うぅぅ」
【るい】
「イヨ子はよく頑張ったよ。うんうん」
【惠】
「では、本当の力は?」
【央輝】
「…………」
【茜子】
「…………」
央輝はもう一度、茜子を一瞥した。
しっかりと監視されているのを見て、
諦めたように手足を投げ出して、椅子に沈んだ。
【央輝】
「あたしの本当の『力』は『感情の増幅』。
目を合わせた相手のその時の感情を増幅する『力』だ」
【智】
「なるほど。だからそうやって、先に威圧しておいて怯えさせて、それを増幅するんだ?」
【央輝】
「そうだ」
【央輝】
「……クソッ! なんでこんな目に……」
ため息をつく央輝。
もっとも、言うほど嫌がっているようには
見えないのが不思議だ。
一通り説明が終わった。
茜子がなにやら考えているようだった。
【智】
「茜子、どうかしたの?」
【茜子】
「現在整理中です。まとまったら報告します」
【智】
「うん、わかった」
茜子には、茜子の考えがあるのだろう。
先ほどのやり取りでも……いや呪いについて
調べ始めた頃から、茜子の様子は少しおかしかった。
【智】
「じゃあ、ここからは僕が説明するね」
そう言って、僕はこれまでに判っていることを、
央輝にもわかるようにもう一度話した。
僕たちにとっては、今までの復習。
呪いの受け手は全部で八人。
彼らはそれぞれ『力』を持っていたが、
その『力』故に呪われた。
呪ったものが何者なのかはわからない。
八人は呪いの束縛に苦しみながらも、
生き延び、代々力と呪いを伝えてきた。
呪いの受け手の血筋の末裔――おそらくそれが僕らだ。
【花鶏】
「わたしたちの『才能』と『呪い』は、別ということよね?」
【智】
「調べたことが確かならね」
【こより】
「呪い、解いちゃったらどーなるでありますか?」
【智】
「たぶん、『力』だけは残って……それが『八つ星』の
本来の姿なんだと思う」
【央輝】
「ふん、悪くない話だな」
【花鶏】
「当たり前といえば、当たり前の結末だけどね」
話を続ける。
連綿と続いた呪いの受け手たちの血筋。
呪いに苦しんだ彼らの中には、呪いについての知識を集めたり、
呪いを打ち破る方法を探した者も当然いる。
僕の父もその一人だ。
花鶏の先祖は呪いの知識として『ラトゥイリの星』を遺した。
父の手記と『ラトゥイリの星』を合わせて解読すれば、
呪いの謎に迫ることが出来るだろう。
もしかすると、
呪いを解く方法だってわかるかも知れない。
【央輝】
「まだ、ほとんど何もわかってないわけだ」
【智】
「全部で八人とわかっただけでも進歩だよ」
【央輝】
「まあな。それに、この呪いが誰かのかけたものだとわかったのは収穫だ。手ぶらでは帰れんからな」
自己紹介と呪いに関する情報の統合は予想外に時間が
かかって、それは僕ら――央輝を除く僕らにとって、
好都合な結果になった。
【央輝】
「………………」
カチカチ。
央輝は神経質にライターの火を明滅させている。
相当短気な性格らしい。
伊代と二人きりで部屋に閉じ込めたら、
明日には伊代か央輝のどっちかが死んでそうだ。
【佐知子】
「もう少しですから、待っていてくださいねー」
【央輝】
「バカか! これがメシを待ってるように見えるかッ!」
【智】
「浜江さんの料理食べたら、残ってよかったって絶対思うよ」
【るい】
「おばあちゃんの作る食べ物、すっごくおいしいって!
絶対気に入るから」
【央輝】
「クソ……なんでこんな……」
【伊代】
「コンビニのお弁当だけだと栄養が偏っちゃうわよ?
サプリメントとかで補充することもできるけど、
食事から栄養を摂った方が自然でいいと思うわ」
【央輝】
「知るか!! だからオマエは黙れ!」
【伊代】
「うぅぅ」
【智】
「よしよし」
もっとも、惠の屋敷の近所には、
コンビニなんて全然ないけど……。
時間が遅かったこともあって、
僕らは央輝を無理矢理夕食に付き合わせることにした。
実は僕らは、最初からそのつもりだったりした。
都合が悪くなければ、このままここに泊まらせることも企んでいる。
惠も承諾してくれているから、し放題だ。
【こより】
「ところで佐知子さん、惠センパイはどうしたんです?」
【佐知子】
「惠さんは大切な用があるので少し出かけてます。
たぶん、戻るのは明日になるんじゃないかと……」
【こより】
「ほえー、泊まりで用事でありますか。ご苦労さまであります」
【智】
「なんか主の惠がいないのに、
僕らで食卓囲んじゃっていいのかなぁ?」
【佐知子】
「惠さんから、みなさんを丁重に持てなすように言われてますから……さあ、準備できましたよ」
ようやく料理が出揃った。
【智】
「さあ、央輝、召し上がれ!」
【智】
「ほんとにおいしいんだよ。浜江さんの料理」
【央輝】
「知るか。料理なんて食えれば十分だ…………」
央輝は箸を持ったまま、最後の抵抗を試みている。
ここで食べたら、負けたような気がするのだろう。
その瞬間を見逃さぬよう、全員で注視してしまう。
【央輝】
「く……」
みんなの無言の圧力に耐えかねて、
仕方なく央輝は料理に箸をつける。
【央輝】
「ん………………」
途端に、央輝の悪態が止まった。
【全員】
「じ〜……」
【央輝】
「………………」
【全員】
「じ〜……」
最初の一口を食べてからは、黙々と食べ続けている。
全員に注目されていても、もう気にならないらしい。
いつも間にか、ガツガツと貪るようになっていく。
……央輝、いいもの食べてなさそうだからなあ。
【智】
「おいしいでしょ?」
【央輝】
「…………なっ!?」
【央輝】
「し、知るか! 喰ってる時に話し掛けるな!!」
【智】
「ごめんね」
【智】
「でも、浜江さんの料理は本当においしいよね」
【央輝】
「お前は、いつもへらへらと……」
【智】
「そういえば、レースの時は、もっと伝法な感じだったのに、
こっちのほうが素なんだ?」
【央輝】
「ふん、好きに考えろ」
【佐知子】
「浜江さん、あまり表に出しませんけど、本当は皆さんに食べて
貰って喜んでるんですよ? 惠さんが、あまり味にこだわりの
ない方ですから……」
【るい】
「毎日こんなの食べてるのに、勿体ないよね」
【佐知子】
「惠さんは固形バランス栄養食とかサプリメントとかで
済ませるのが好きで……。いつも、ちゃんと食べるよう
お願いしているんですけどね」
【伊代】
「そうですよね。いくら栄養だけは取れると言っても、やっぱり
自然な食事から摂取しないと、きっとどこかで無理がくると
思います」
【花鶏】
「そういう自然信仰のバカっぽい主婦思想は置いとくとしても、
ココの料理にはケチをつける要素がないわ」
【伊代】
「バカっぽいって……」
【央輝】
「あたしは気に入らない。こんなバカみたいにデカイ屋敷で、
豪勢な食事して……これだから金持ちは嫌いだ」
【智】
「央輝、ここは惠の後見人の物なんだ」
【伊代】
「……詳しい事情は知らないけれど、ご両親のない彼女は
後見人の方の、呪いの研究の為に引き取られたらしいわ」
【央輝】
「…………そうか」
それまでは、意図的に苛立ちを露わに
していた央輝だったけど……。
惠の境遇を聞いた途端、その表情からは険が消えた。
【こより】
「たしか大貫さんとか言ってましたね。
もう亡くなってるらしいですケド……」
【央輝】
「大貫……聞き覚えがあるな」
【るい】
「イェンふぇー、知ってるの?」
【央輝】
「央輝だ。大貫の名前は知っている。
何年か前に先物取引でいきなり大儲けして、黒い噂の
たった男だ。何かとよからぬ話も多かった」
【央輝】
「物騒な連中に探りを入れられて大人しくなったと思ってたが、
そうか、死んでいたのか……」
【智】
「…………」
知らず知らずのうちに、
惠の居ない空席の方へと視線が向いた。
央輝が唇をつり上げる。
僕を見る。
揶揄するような、切り付けるような。
【智】
「なに?」
【央輝】
「そういう男に引き取られた、いい歳の娘がどういう目にあうか、想像できるか?」
【伊代】
「なにをいってるのよ、あなたはっ!」
伊代が椅子をがならせて立ち上がる。
【央輝】
「一般論……ってやつだ」
【央輝】
「世の中、お前らみたいな甘チャンの知らないことも山ほどある」
【央輝】
「それに、ヤツ……どこまで信用できるか、怪しくなってきたな」
【智】
「大丈夫。僕は惠のことを信じてるから」
【智】
「親がどうあれ惠は惠だよ。
それに、以前どういうことがあったのかは知らないけど、
今の惠は僕らの友達だから」
空白の席に眼差しを投げかける。
このあまりに広く虚ろな屋敷で、
惠はどんな人生を送ってきたのだろう。
寂しげに沈黙する空席に、
惠の心が透けて見えるような気がした。
【央輝】
「この、バカが……」
【央輝】
「この、バカがッッ!!」
帰ろうとする央輝を、僕らはよってたかって引き止めていた。
【央輝】
「必要ならまた来る! だから離せ!」
【こより】
「そんなこと言わずに〜、央輝センパイ〜」
【花鶏】
「一晩でおしりでもイケるようにしてあげるわよ」
【茜子】
「今帰ると、家に鶏肉の霊が出ますよ。あとフリカケの霊も」
【央輝】
「楽しくない! いらん! 知らん!!」
両腕にぶら下がったみんなを、
ぐぬぬぬ……と引きずりながら歩く央輝の1歩前で、
茜子がいつものごとくよくわからないことを言って撹乱する。
伊代だけは後ろでオロオロしていた。
【伊代】
「え、えっと、わた……」
【央輝】
「オマエは黙れ!」
【伊代】
「うぅぅ」
【央輝】
「そもそもオマエらのいる場所では安心して寝られない!」
【こより】
「カギ掛かりますから、大丈夫ですよ」
【央輝】
「窓のある部屋はダメだ!
それにオマエらがうるさいと寝られない!」
【るい】
「窓なしで静かな部屋もあるよ」
【央輝】
「オマエら、まさか最初から……!」
【智】
「実は最初から泊まってもらうために、よさげな部屋を
いくつか掃除しておいたのでした」
【央輝】
「き、貴様は、いつもいつも!」
【智】
「お互い呪い持ち同士だし。仲間じゃなくても親交を深めるのは
悪くないと思う」
【佐知子】
「ここは街中から遠くて不便ですし、お部屋も用意して
ありますから。惠さんの許可も貰ってありますし」
【伊代】
「あ、あの、泊まっていきましょ?」
【央輝】
「クソ……! 来るんじゃなかった……!」
央輝はとうとう、抵抗をやめて力を抜いた。
【央輝】
「いいから、離せ。もう、無理に逃げたりしない」
【智】
「え? 泊まってってくれるの?」
【央輝】
「ふん……!
どうせオマエら、無理にでも泊まらせるつもりなんだろ?」
【智】
「まあね」
【央輝】
「仕方ないから、泊まってやる。だがコイツらはうるさすぎる! こんなデカイ屋敷なら、離れとか蔵とかないのか?」
【智】
「大丈夫だって。ちゃんと誰の部屋からも遠い静かな部屋、
用意してあるから」
【央輝】
「……何でもいいから、早く部屋に案内してくれ」
【智】
「キャラじゃないのって大変だね」
【央輝】
「人ごとみたいに…っ」
【智】
「ねえ、央輝」
僕より小柄な、ずっと剣呑な少女に呼びかける。
【智】
「ここにいる僕らは、みんな呪い持ちだよ。
他の誰にもわからない気持ちを、僕らは最初から分かち合ってる」
【央輝】
「……」
【智】
「……仲良く、なれないかな?」
央輝は答えなかった。
一番端の部屋に消える寸前に。
【央輝】
「ふざけるな、バカ」
短い言葉がようやく届いた。
〔大貫屋敷奇譚〕
夜毎の悪夢は消えた。
毎夜、一緒にベッドに入ってくれる
伊代のおかげかも知れない。
でも、問題もあった。
【伊代】
「き、キスだけっていったのに、キスだけっていったわ!
さ、触っちゃだめっていったでしょ、人様の家なのよ、
ふしだら禁止なんだから!!」
【智】
「ちょ、ま、だから、それは勢いで……」
【伊代】
「ばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかぁ」
【智】
「だめ、大声出したら、こよりに聞こえちゃう!」
【智】
「だ、だいたい、伊代だって途中まで、ノリノリだったじゃな……」
【伊代】
「ばっ………………ばかぁああああああ!!!!」
色々と大変な毎日だった。
【こより】
「受け取って参りましたッ!」
【るい】
「すっごく分厚い本……人殺せそう」
【花鶏】
「皆元なら、タクアンでも人殺せるから」
ついに取り寄せ注文で、ようやく心待ちにしていた
「ロシア語のすごい辞書」が届いた。
【智】
「これでばんばん解読だよ!」
【伊代】
「あの本さえ解読できれば、呪いの避け方や解き方も
きっと判るのよね。わたし、みんなの名前呼んでみたい」
【央輝】
「本当にこの呪いは解けるのか……?」
央輝は文句をいいながらも、
僕らに付き合ってくれている。
呪いの解除方法にも興味あるのだろうが、
それ以外にも何かありそうな気がする。
屋敷自体を調べてる素振りもあった。
どうやら彼女は、独自の目的のために
動いていると考えた方が良さそうだ。
書店の袋を破り捨てると、すぐに日本語と併記して、
あの僕らを幻惑する鏡文字混じりのアルファベットが現れる。
1ページ開いてみる。
【智】
「こ、これは……!」
くらくらっ……!
さっぱりわからなくて気が遠くなる。ロシア語は強敵だ。
すぐに諦めて、辞書を花鶏に手渡した。
【智】
「花鶏、おねがい……」
【花鶏】
「最初からわたしに任せとけばいいのよ。
代わりにあとで太もも舐めさせてね」
【智】
「そんなあっさりとアブノーマルなお願いされても!?」
【央輝】
「それが呪いについて書いてある本なのか?」
【るい】
「そう。花鶏の家に昔から伝わってる本だって」
【こより】
「『ラトゥイリの星』でしたっけ?
花鶏センパイ、その本いったいどんな内容なのでありますか?」
【花鶏】
「表面上は詩篇や幻想物語っぽく書いてあるわ。わたしの一族の人間が、今までロクに調べようとしなかったのも、そのせいだと思う。ただの読み物と思われてたのね」
【こより】
「ほっほーぅ」
【花鶏】
「だけど大お爺さまは、この本には絶対秘密があると言い残し
ておられた。だから、わたしはこの本を大事に抱えてきたわ」
【智】
「僕らがこうして調査できるのも、大お爺さまのおかげだね」
【花鶏】
「ええ。わたしは大お爺さまを心から崇拝してるわ。この呪いの
問題が片付いたらわたし、ズファロフ家と花城家の末裔として
必ず家を再興してみせる」
普段は不真面目な花鶏も、曾祖父と家柄の話になった時だけ
は真面目だ。
惠の大きな屋敷に触発されたのもあるかもしれないが、
花鶏の祖先への思いは本物だった。
【花鶏】
「あった。これ、手記にあった『八つ星』って下りよ」
『ラトゥイリの星』は一見すると物語や詩の体裁を取っていて、
呪いの秘密を書いたようには見えない。
それを解読する役に立つのが、父さんの遺してくれた手記だ。
僕たちの呪いに関して記された書物で多く用いられる、
隠語や暗喩の真意についても言及されている。
【花鶏】
「……夜より深き影の海より むら雲払いて出ずる為
八つ星たちは供みな連れて ラトゥイリ目指して羽ひらく」
【智】
「なんで古語っぽく訳すの」
【花鶏】
「雰囲気出るでしょ?」
余裕があって結構なこと。
【伊代】
「どう言う意味なの? 普通の詩にしか聞こえないけど……」
【智】
「『影の海』って言うのは呪いのことで、『八つ星』って言うのは、僕ら痣を持つ八人のことらしいけど……」
【こより】
「なぞなぞみたいですねぇ。でも影の海が呪いなら、
そこから出るっていうのは、呪いを解くってことですよね?」
【智】
「そうだろうね。供みな連れて、って言うのは……
呪いを解くには八人全員が必要ってことなのかな」
【花鶏】
「どうやらそうみたいね。あちこちに『八つ星すべて』とか
『欠く事能わぬ』とか書いてあるし」
【茜子】
「呪いを解く条件の一つは、知らぬ間にクリアしてた
ということですね」
【央輝】
「肝心の呪いを解く方法は書いてないのか?」
【花鶏】
「落ち着きなさい。それからラトゥイリって言うのは、
呪いの大元のことを示してるみたい。そこでないと
呪いは解けないということらしいわ」
【智】
「たぶんこの屋敷か、この屋敷の近くのどこか、だよね。
どこかにラトゥイリと呼ばれた特別な場所があるのかな」
【こより】
「それは虱(しらみ)潰しに、足で探し回るしかないですかねぇ」
【るい】
「なんかこう、呪文とか唱えたりしないの? で、ブワーって
光って『呪いを解きたくば私を倒すがよい!』みたいな」
花鶏がパラパラと『ラトゥイリの星』を繰る。
【花鶏】
「あー、ここ。ここ難解なのよね……。
ずいぶん古めかしい言い回しみたいだし、隠語だらけで」
【こより】
「鳴滝たちには翻訳は手伝えないので、精一杯応援しますよ!
がんばれ〜!」
【花鶏】
「全裸で応援してくれたら、すごいがんばれるんだけど?」
【こより】
「えーと、がんばれ〜」
【茜子】
「ほれ、巨乳も協力してあげてください」
【伊代】
「この子に裸見せて、仕事がはかどるわけないでしょ!」
【央輝】
「おい、冗談はやめて、さっさと調べたらどうだ。
同性愛なんて冗談でも気持ち悪い」
【智】
「……僕を愛奴にしようとしたくせに」
【央輝】
「何かいったか?」
【智】
「まさか、とんでもない」
【花鶏】
「わたしはいつでも本気よ? 試してみる?」
【央輝】
「…………寄らんでいい!」
解読する手掛かりがないか、手記の中を探す。
指でページを繰っていくうち、
ひとつのページがめくり切れずに空振りした。
【智】
「あれ……」
【伊代】
「あなた、そのページ」
見るとさまざまな単語がメモしてあったページの一つが、
一部破り取られていた。
【智】
「破り取られてる……!」
【花鶏】
「ちょっとどういうこと?
最初見つけた時は破れてるページなんかなかったでしょ?」
【央輝】
「おい、誰が破ったんだ!? 何が目的だ?」
【るい】
「待ってよ、私たちが破るわけないじゃない!
みんな呪いを解きたいって言ってるのに!」
【こより】
「でも……こんなの、自然に破れたりしませんよね……?」
【茜子】
「呪い持っちーズに妨害する意味はなし、かと言ってばーさんと
メイドがこんなことする意味がありますか?」
【智】
「…………」
昨日は夕食のあとも少しこの手記を眺めていたので、
その時点ではまだページは破られていなかったことがわかってる。
だとすると、夜の間か、朝食の間か……。
【花鶏】
「嫌なタイミングで、嫌な記述見つけたんだけど、どう思う?」
【智】
「……言ってみて」
【花鶏】
「意訳すると『呪いを解くことを望まない意思が常に存在する』」
【智】
「……………………」
呪いを解くことを望まない意思が常に存在する――
【智】
「花鶏は、いると思う?」
【花鶏】
「妨害者……みたいなものがいる可能性――
そうね、呪いなんて荒唐無稽なのが現実にあるんだもの」
【花鶏】
「秘密に近付いた者の前に現れる守護者――
なんていうのがいても不思議じゃないわね」
【智】
「ファラオの呪いだね、まるで」
【るい】
「なにそれ?」
【茜子】
「エジプトの王さまのお墓を荒らしたヤツは、祟りによって
殺されるというイカス伝説」
【こより】
「はわわわわわわわわ……」
ページの破り取られた部分が、あの時キッチンで見た
『ノロイ』の黒い手の形に見えてくる。
【こより】
「『意思』……って、呪いの元凶みたいなのが、呪いを解かせないようにするってことですか? このお屋敷の呪いとか……」
【智】
「…………屋敷の」
花鶏のいうように、呪いが実在する以上、
どんな超現実的な可能性も否定できない。
【智】
「ここが呪いの重要な一部で、呪いを守るために、屋敷そのものが悪意を持って僕らを妨害しようとしてる――――?」
【佐知子】
「お茶を入れましたので、みなさん、一息ついたらどうですか?」
【智】
「佐知子さん、ありがとう」
全員で平静を装った。
破られたノート……
少なくとも誰かが、それとも何かが、
僕らを妨害しようとしているのは確かだ。
いたずらに不安を煽ってもしょうがない。
今はまだ、佐知子さんたちには、この事は伏せておくことにする。
【佐知子】
「それじゃ、わたしはお掃除して来ますから、
おかわりが欲しい時は呼んでくださいね」
【伊代】
「そんな、おかわりくらい自分で入れますから」
【佐知子】
「私お茶を淹れるの好きですから。遠慮なく頼んでくださいね? それでは」
佐知子さんがキッチンに戻る。
入れ違いに、昨日から出かけていた惠が戻ってきた。
【惠】
「昨日は済まなかった。浜江から聞いたよ。辞書が届いたんだって?」
【智】
「惠、実はそれに関係することなんだけど……」
【惠】
「これは……いったい……」
ページの一部を破り取られた手記を見て、惠も驚愕していた。
【惠】
「誰が、何のために……?」
【央輝】
「オマエじゃないのか」
【るい】
「イェンふぇー!!」
【央輝】
「ふん。確かにこいつより、後から来たあたしの方が、
ずっと怪しいしな」
【こより】
「そ、そんなこと言ってないですよう。
央輝センパイだって呪いは解きたいはずですもん」
【茜子】
「では失礼して。ページ破った人、手ー挙げて〜」
不意打ちで質問しておいて、やる気のなさそうな目でみんなの顔を覗き込んでくる。
仲間を疑う気はないけれど、こうして茜子の能力で簡単なチェックができるならやっておいてもいいだろう。
【茜子】
「…………この中には居ない……ように思えます」
【央輝】
「思える、っていうのは何だ?」
【花鶏】
「こいつの能力は心を読む『力』だけど、万能じゃない。たぶん
表情とかの微妙な差を無意識下で処理してるんだと思うわ」
【花鶏】
「だから特殊な反応をする人間や、付き合いの短い人間の心は、
わからないこともある」
【茜子】
「ピクチャー・オブ・ドラゴンの眼球を欠くという奴です」
【智】
「画竜点睛の睛は眼球じゃないと思う」
【伊代】
「そんなことより!
ほら、調べて判ったことを言わないとダメでしょ」
【こより】
「ういっす。では不肖、鳴滝がかいつまんで説明しますね」
【こより】
「呪いを解くには八人全員が必要で、大元の場所でないと
ダメらしいのであります」
【惠】
「なるほど、八つの星……
痣が集まらないと、呪いは解けないようになっていたんだね」
【茜子】
「…………」
【智】
「?」
茜子がちらりと僕に目配せした。なんだ?
まさか、今の惠の言葉に嘘があるのか?
それは……?
【こより】
「それでこっからがホラーっぽいんですけど、なんか『呪いを解くのを望まない意思』が必ずあるって本に書かれてたんですよう。それで屋敷そのものの呪いじゃないかって!」
【惠】
「そんなことまで書かれていたのか……! 星の書には!」
こよりの話は少なからず、惠に衝撃を与えたようだった。
呪いが存在して、自分たちに人と違う特別な才能が備わっている。
それらを理解していても、超自然的な存在が、直接自分たちに
悪意を持って関わってくるというのは、また別の話だ。
【花鶏】
「でも本当にここが呪いの大元なの?
屋敷そのものの呪い……って言うのは
どうもイマイチ頭にすっと入ってこないのよね」
【惠】
「おそらく間違いないだろう。和久津氏も大貫氏も、その為に
この土地をキープしていたに違いない」
【伊代】
「屋敷の呪い……っていうか祟りって言うか。そういうのは
どうなの? 今までにこの屋敷で不思議なことがあったりとか、そういうのはなかったの?」
【惠】
「聞いたことがないな。これは僕の推測だが……」
【央輝】
「言えよ」
【惠】
「……星がここに揃ったことが原因なんじゃないか?」
央輝が来て、はじめて八つの痣が揃った。
ページが破り取られていることが判ったのは、その翌朝だ。
たしかに八人が揃った途端に不思議なことが始まっている。
【茜子】
「それではここに集まってる状態を止めてみては?」
【央輝】
「あたしが帰ればいいのか? しかしあたしが来てすぐに
起こったことだ、ここで帰ると疑いを持たれそうだな?」
【るい】
「疑ってたりなんかしない! みんなだって……」
【央輝】
「オマエはおめでたい奴だな」
【智】
「……今のところ危険はないし、もう少し様子を見てみるって
言うのでどうかな? 茜子」
【茜子】
「それでもいいと思います」
【伊代】
「とりあえずは様子を見て……もし、深刻な危険があるようなら」
【惠】
「呪いを解くことと、『ノロイ』から逃げ続けること、
どちらが安全か選ぶことになるね」
【智】
「うん……」
どちらが賢い選択か?
屋敷の祟り――望まない意思。
みんなに危険が及ぶようなら、呪いを解くのを諦めることも
考えるべきなのか。
気がつくと紅茶はすっかり冷めていた。
喉もカラカラに渇いている。
喉を潤すために、僕は冷め切った紅茶を一気に流し込んだ。
【智】
「……ふぅ」
【佐知子】
「お掃除済みましたよ。
みなさん、お茶のおかわり淹れましょうか?」
【伊代】
「あ、いえ。ごちそうさまでした」
【佐知子】
「それじゃティーカップ、片付けてしまいますね」
佐知子さんは手馴れた手つきで、
ティーカップをトレイに乗せていく。
飲み残しのある者はみな、僕と同じように
冷めた紅茶を一息に煽った。
【惠】
「そうだ、佐知子。この屋敷で何か不思議な……そう例えば、
ひとりでに物が動いたりするなんてことを聞いたことがないかい?」
【佐知子】
「なんです? 怪談にはまだ季節がちょっと早いんじゃないですか? そういう話はわたしより浜江さんに聞いたほうがご存知だと思いますよ」
【惠】
「そうか。そうだな」
【伊代】
「今度、あのお婆さんにも聞いてみましょうか」
【智】
「伊代は浜江さん苦手なのに大丈夫?」
【伊代】
「だ、大丈夫よ。ちょっと質問するだけなんだから。
そうよ、ちょっと質問するだけ……」
あのメデューサも裸足で逃げ出す浜江さんの睨みは、
怯えるなと言うほうが無理な話だ。
ひょっとすると央輝の眼力より怖いかもしれない。
【佐知子】
「はい、花鶏さんもカップ下さいね。それから茜子さんも…………」
一瞬、佐知子さんの姿勢に違和感を覚えた。
【佐知子】
「きゃっ!!」
佐知子さんの体が、ゆっくりと傾いで前にのめる。
空気を掴もうと手が伸びて、片手につまんでいた
ティーカップが回転しながら宙に舞った。
トレイに集められていたカップもそれぞれに浮き上がって、
一瞬後に砕ける気配を蓄える。
佐知子さんが倒れる。
その先には、茜子が居た。
【茜子】
「…………!!」
【惠】
「佐知子!」
佐知子さんが倒れる。
倒れる先に茜子が居る。
茜子の上に佐知子さんが倒れる。
佐知子さんが茜子に触れる。
茜子の呪い――――
それは『他人と触れてはならない』こと。
茜子が肌を見せないのも、手袋を四六時中つけているのも、
眠るときにクローゼットに隠れるのも、他人と触れないためだ。
倒れる佐知子さん。
思考はのろのろとしか進まない。
茜子が佐知子さんに触れてしまったら。
――――――茜子が危ない!
【智】
「茜子っ!!」
遅すぎる思考で反応する遥か前。
花鶏が的確に茜子の衣服の袖だけを掴み、
佐知子さんの肌が露出した部分と茜子の
唯一露出している顔が触れないように引く。
『思考加速』の――――
紅茶に濡れた陶器の破片が散らばり、
いくつもの細かい光を撒く。
カップの割れる音は長く尾を引いて響き、それが完全に
静かになってからも、僕らは静寂の中に閉じ込められていた。
心臓の鼓動の音をいくつか数えたとき、
荒い呼吸が止まった時間を再び動かし始める。
【茜子】
「はぁッ、はぁッ、はぁッ、はぁッ……!!」
【花鶏】
「……セーフ」
はじめて見る茜子の、心底から恐怖した顔。
間髪の差で、花鶏は茜子を救っていた。
【佐知子】
「だ、大丈夫ですか……!?」
【茜子】
「はぁ……はぁ……! はぁ……ッ!!」
【るい】
「だいじょぶ!? アカネ、だいじょぶ!?」
【花鶏】
「大丈夫よ。ちゃんと助けたわ」
【伊代】
「呪いのことは知ってるんですよね。
この子の呪いは、人に触れるのは……だから……」
【佐知子】
「そ、そうだったんですか。私、もう少しで……!」
【智】
「佐知子さんのせいじゃありません。単なる事故ですから」
触れないよう慎重に、佐知子さんが立ち上がる。
茜子はまだ激しい動悸が治まらず、
浅い呼吸を繰り返していた。
【茜子】
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
【伊代】
「無事で良かったわ……本当に。もしもこんなことで
呪いを踏んでしまっていたらと思うと……」
【惠】
「良かった……本当に……良かった……!!」
ようやく茜子が落ち着いたところで、
事の成り行きを腕組みで眺めていた央輝が口を開いた。
【央輝】
「単なる事故じゃないみたいだぞ」
【智】
「どういう、ことなの」
【央輝】
「見ろ」
央輝の指す先。
ちょうど佐知子さんのつまずいた辺りを見ると、
絨毯の一部分が不自然に盛り上がっていた。
【こより】
「めくって見ましょうか。ぺろり」
こよりが絨毯の端を摘み上げて、
問題の膨らみの部分までをめくる。
【こより】
「なんですかね。ちょっと見て見ま……ひぇッ!」
【るい】
「こより、どしたの!?」
【こより】
「あ……あれ……」
手に取って調べようとしてこよりが取り落としたものは、
少し床を転がったあとで止まった。
【伊代】
「うわ……これ、人形の首……」
絨毯の下から出てきたそれは、
古びた日本人形の首だった。
こんなものが、前から絨毯の下にあったなんて考えられない。
いつのまに……どうしてこの場所にきたのか。
偶然? そうは思えない。
佐知子さんをつまずかせて、
茜子に呪いを踏ませようとしたとしか……!
【茜子】
「本当に……屋敷の祟りがあるというのですか」
【こより】
「こ、ここここコワイですよう! センパイ〜っ!」
【伊代】
「まさか、そんなのって……っ」
呪いの秘密は、俄かに不吉な影に覆われた。
何らかの悪意が働いている。
それが屋敷の祟りであると断定するのはまだ尚早。
かと言って、誰がこんなことをするのか?
【智】
「まだ原因を探れる段階じゃないと思うんだ」
【央輝】
「あんなことまでされて」
央輝は茜子に視線を投げる。
茜子はようやく落ち着いていたが、いつものような余裕は
感じられなかった。
【央輝】
「オマエ、黙ってるつもりか?」
【茜子】
「私は……わかりません」
【央輝】
「死に掛けたんだぞ! このままでいいのか!」
【茜子】
「あれはおそらく警告です。
迂闊に探ればもっと直接的な害が及ぶかも知れません……」
【央輝】
「ちッ」
本気で相手が――相手と呼べるものがいるのかはわからないが――こちらに呪いを踏ませる気があるなら、もっと手段はあっただろう。
警告というのは納得できる見解だ。
【伊代】
「あなたが、仲間のことを大切に思ってくれてるのが分かったのは嬉しいわ。でも、今はひとまず冷静になって、これからどういう風に動いていくか……」
【央輝】
「仲間じゃない」
【伊代】
「どう呼んでも構わないけど、やっぱり、あなたがみんなのことを考えてくれてるのは嬉しいわ」
【央輝】
「……いちいち、くどいヤツだ」
馬鹿正直すぎるけど、これが伊代だ。
【こより】
「それで結局どうするんです? やっぱり様子見ですか?」
【智】
「そのつもり。ただ、父さんの手記は、書斎に戻すかわりに
僕が管理しようと思う」
【惠】
「ふむ。それの所有権は君にあると考えるのが妥当だ。
君が思うようにするといい」
【花鶏】
「『ラトゥイリの星』は、わたしが守るわ」
【央輝】
「ここまで来て様子見とは……悠長なことだな」
【るい】
「トモとアカネが、それでいいって言うなら。
でも、みんなちゃんと用心しないと……」
【こより】
「相手がもし屋敷の祟りだと、用心とか意味ないかも知れない
ですケド……」
【智】
「用心しておいて損はないよ。
呪いに襲われたって逃げ切れることもあるんだから」
〔二つ星の再会〕
幸い昨夜は何事もなかった。
【伊代】
「あれ、どこか出かけるの?」
今日も調査の為に皆が会した食堂に、
鞄を持って現れたのは花鶏だ。
【花鶏】
「違うわよ。本にもしものことがあったら大お爺さまに顔向け
出来ないもの。これから鞄に入れてわたしが持ち歩く」
【伊代】
「あなた、その本とひいお爺さんのことになると、人が変わるわね」
【るい】
「おし! じゃあ今日もがんばって調べよう!」
【こより】
「サー・イエス・サー! 本日も呪いリサーチ作戦開始であります!」
【花鶏】
「調べるのはわたしよ」
【央輝】
「オマエら、遊んでる場合じゃないだろ」
【伊代】
「そうよ。どうしてあなたたちはこんな時にそんなに陽気で
いられるの? もっと目前の問題をちゃんと意識して……」
【央輝】
「うるさい! オマエは同意するな!」
【伊代】
「うぅぅ」
【智】
「よしよし」
【茜子】
「この方がいいんです。気が、紛れますから」
【惠】
「…………」
【花鶏】
「この一節もダメかぁ」
【智】
「うん……。やっぱり破られたページの部分が足りなくて肝心の
とこが分からない」
外堀は常に少しずつ埋まっていくが、
どこまで行っても核心には近づけない。
ちょうど遠くに目的地を見ながら、
ぐるぐると道に迷ってるような状態だった。
【こより】
「結局分かったのは、呪いを解くには痣を持った八つの呪いの末裔全員が必要なことと、特定の場所でないと呪いは解けないこと、だけですかー」
進展のない作業ほど辛いものはない。
休憩も長くなりがちだった。
【伊代】
「方法は破られたページのせいで隠蔽されてるとしても、
屋敷の祟り……みたいなことについては何か書いてないの?」
【花鶏】
「いや、普通にないでしょ。ロシアで書かれた本なのよ」
【智】
「屋敷というより呪いの大元の場所、呪いを解く為の場所って
考えても、それに関する記述はないね」
【惠】
「この呪いは遥か昔から綿々と継がれてきたもの。
呪いを解くという段階にここまで近づいたのは、僕たちが初めてかもしれない」
【央輝】
「だから誰も祟りのことは知らない、か」
何かが引っかかる。
人間の範疇をぎりぎり外れる特別な『力』、禁止する呪い、
どちらも確かに常識はずれの物だ。
でも、屋敷の祟りなんてのは何か違わないだろうか?
【るい】
「分からないことは、悩んでも分からないって。
あ……でも、書斎とかもっと調べれば、そのノートみたいなのが、まだどっかにあるかも」
【智】
「……そうだね。この屋敷が呪いの大元に関係ある場所なら、
他にも関連する文献があってもおかしくない」
【花鶏】
「ふぅ。じゃ、わたしも休憩。仕舞ってくるわ」
花鶏が頑丈そうな鞄に『ラトゥイリの星』を仕舞いに行く。
花鶏のように本そのものが大事な場合は仕方ないけれど、
こっちのノートは、コピーを一冊用意しておいた方が
管理が楽かもしれない。
でもこの家、近くにコンビニないんだっけ……。
【智】
「じゃあ、僕も鞄取ってくる」
【伊代】
「ええ、その方がいいわね」
ドアに手をかけたところで、僕は花鶏の喉から奇妙な叫びが漏れるのを聞いた。
最初、誰もが気づかなかった。
花鶏だけが、開けようとした鞄がわずかに
動いていることに気づいた。
疑問を感じながらも、花鶏は『ラトゥイリの星』を手に鞄を開く。
【花鶏】
「ひ……ッ!!」
ぬらりとした光沢を持った細長いものが、
鞄から現れる。
花鶏の声で振り返った僕には、
一瞬場違いなそれが何なのかわからなかった。
【花鶏】
「ひぁ……あ……!! あああああ……ッ!!!」
誰よりも早く、花鶏だけが状態を把握した。
鞄から現れたのは、
嫌らしく光る鱗の体を持つ数匹の蛇だ。
思考を加速する『力』があるがゆえに……。
花鶏は一秒未満で、鞄から蛇が出てきた異常な事態を把握し、
それが自分の苦手なものであることを理解し、恐怖した。
【花鶏】
「ひあぁぁぁ……!! ぅあ……! あ……ぁ……!!!!」
パニックになって思考は暴走し目まぐるしく動くけれど、
体はその思考に追いつかない。
1センチでもよい、おぞましくうねるそれから
離れようとしてもがく。
体は空しく床にへたり込んだまま。
【央輝】
「ちッ!」
やっとみんなの思考が追いつき始めたところで、
央輝のナイフが煌いた。
ナイフが1匹の首を刎ねる。
【花鶏】
「ああ……あああ! ああああああああ!!」
違う! ダメだ。
もはや蛇を全部殺してもダメだ。
殺してもダメだ!
殺してもダメなんだ!
――花鶏を止めないと!
【こより】
「あ、あ、あ、花鶏センパイ!」
【伊代】
「な……ど、どうして、そんなところに蛇が……!」
今は、茜子を助けてくれた花鶏の思考加速には頼れない。
僕が、このどうしようもなく鈍重な頭で
なんとかしなければならない。
どうやって。
どうやって?
どうやって!
【智】
「るい! 花鶏を殴って! おもっきり!」
【るい】
「なんかわかんないけど、うりゃっ!!」
【花鶏】
「きゅう」
容赦ないるいの拳が、花鶏を殴り飛ばす。
ぐったりと倒れる花鶏。
花鶏の体は蛇の方へ転がったけれど、
るいの一撃で昏倒しているのでもはや関係ない。
意識さえなければ、花鶏は呪いを踏まないはずだ。
【智】
「止められた……?」
【伊代】
「間に合った……?」
ぐったりとした花鶏を転がして、央輝が蛇を無造作に掴んで
窓の外に捨てる。
【央輝】
「説明しろ」
【智】
「今の――花鶏が呪いを踏みかけたんだ」
【央輝】
「また呪いか……クソッ」
いきなりの怪異は、前よりももっと明確に害意の感じられるものだ。
【伊代】
「ちょ……見て、壁」
【智】
「えっ?」
【こより】
「ひぃっ……!」
【るい】
「うわ……これ、なに……」
壁を見て息を飲む。
そこには、黒い焦げ跡の手形が、天井から花鶏のすぐ間際まで
迫っていた。
【智】
「呪い……」
【茜子】
「……危なかったですね」
【惠】
「……………………」
思い出すだけで、心胆に氷を
投げ込まれたような思いに体が震える。
あとわずかに反応が遅れていれば、
花鶏は呪いを踏んでいた。
【央輝】
「どうするつもりだ? まだ様子を見るか」
苛立ちを抑えられない央輝が、
ライターをカチカチと鳴らす。
【惠】
「やはり、ここに集まっている状態が危険なんじゃないか?」
八人全員居るのがまずいのか?
今回のは茜子の時のような警告じゃない。
壁に痕をつけたのは呪いの力だ。
アレに掴まっていたら、
花鶏もあの影に追われていたかもしれない。
【茜子】
「今回は助かりました。しかし、次も助かるという保障は
ありません」
【るい】
「花鶏……だいじょぶかな? ホントにあれはセーフだったのかな?」
【こより】
「き、きっと大丈夫ですよう! 鳴滝もセンパイがたも、
ともセンパイの言ってた黒い影とか見てないですもん!」
【智】
「僕が呪いを踏んだ時は、その場で『ノロイ』が現れたわけじゃ
ない。花鶏には誰か付いていてあげた方がいいと思う」
【花鶏】
「…………」
花鶏はまだ目覚めないままだ。
それがるいの一撃のせいならばいいが、
すでに呪いの影響が何らかの形で出ている可能性もある。
心配だった。
(花鶏は私が看てるから)
るいがそんな風に目配せしてくる。
たしかに、るいなら『ノロイ』には手が出せなくても、
花鶏を背負って逃げ出すくらいはできる。
【伊代】
「それにしても、一度みんなが集まってる状態をやめるとしたら……どうするの?」
【智】
「わかった。僕と伊代とこよりは一旦帰ろう」
【央輝】
「あたしは残る。疑われるのは癪だからな」
【惠】
「央輝、君も危険を感じたら、いつでもここを離れたほうがいい。命の危険を考えると、どれだけ慎重に行動しても慎重すぎるということはない」
【央輝】
「危険の判断くらい、自分でできる」
【伊代】
「しばらく帰ってないし、一度帰った方がいいかもね。でも、
もし、わたしたちが帰ってもまだ祟りが起きたとしたら……」
【こより】
「伊代センパイ怖いこと言わないでくださいよう。一人で家に居る時に何か起こったりしたら、鳴滝びびって泣いちゃいますよう」
【惠】
「何かが起きるとしてもこの屋敷で――だろう」
【智】
「万が一何かが起きたらいつでも連絡して。
出来る限り早く駆けつけるから」
【智】
「伊代」
【伊代】
「え?」
誰も見ていないのを確認して、手を引いた。
【智】
「こっちへ」
【伊代】
「ど、どうしたの?」
【智】
「先に二人だけで話したいことがあるんだ」
【伊代】
「……何の話なの? みんなに秘密にしないといけない話?」
【智】
「そう。今夜帰るって言ったの、あれは嘘だよ」
【伊代】
「ええっ? いったいどうしてそんな……!」
【智】
「しっ! そんな声出したら、埃だらけの部屋に入った
意味がないよ」
【伊代】
「ご、ごめん」
伊代はこういう子だ。
相手が花鶏や茜子なら、打ち合わせなしでもうまく合わせて
くれるだろうけど、伊代相手だと打ち合わせが必須だ。
伊代はきっと嘘をつくのがすごくヘタだろうから。
【智】
「僕は一連の出来事の原因、祟りと人為、半々くらいの確率だと
思ってる」
【伊代】
「…………そうね。みんなを疑うのは嫌だけど、
そんなこと言ってられないものね」
【智】
「だから、僕たちは夜になったら帰るフリをして、
内緒で屋敷に戻る」
【伊代】
「どこに隠れるつもりなの?」
【智】
「庭ならどこでも隠れられるよ。ちょっと蛇とか出るみたいだけど、我慢して外から屋敷を監視してみようと思うんだ」
【伊代】
「でも……そんなの毎晩続けられないでしょ?
一晩で、そううまく必要なものを目撃できるかしら……?」
【智】
「相手がもし人間なら、狙うのは人よりも『ラトゥイリの星』だと思う。動くなら、花鶏が弱ってる今だよ」
花鶏はまだ目覚めない。
きっとショックで心身ともに疲弊したんだろう。
時間が経てば花鶏が回復する。
相手が動くなら早い内、たぶん今夜だ。
【伊代】
「最初に狙われたのも、あなたの父さんの手記だったもんね。
それならあの子を狙ったのも、最初から本が目当て……?」
【智】
「そこまではわからないけど。茜子から嘘を読む余裕を奪って、
花鶏を弱らせて、本命の本を奪う」
【智】
「僕がもし手段を選ばず『ラトゥイリの星』を奪うならそうする」
【伊代】
「怖いこと言わないでよ。あなたが相手だったら、
わたし正直どうしていいかわからないわ」
【智】
「大丈夫、僕は伊代のずっと味方だよ。だって伊代は僕の……」
勢いでそこまで喋って、
急に気恥ずかしくなった。
恋人? 大切な人?
どんな言葉を選んでも恥ずかしいので、
代わりに伊代の手を握った。
【伊代】
「……うん」
【智】
「伊代……」
【伊代】
「あ…………ん……」
伊代の腰を抱き寄せてキスをする。
たとえこの先どんな事態になったとしても、
伊代だけは僕が命がけで守ろう。
唇を重ねながら、そんな噴出すくらい
恥ずかしいことを考えていた。
【智】
「……戻ろうか」
【伊代】
「……うん」
【伊代】
「本当に大丈夫?
もし体調が悪いようなら病院に行った方がいいんじゃない?」
【花鶏】
「大丈夫だっての。いたた、喋ると頭痛い……」
せっかくの浜江さんの料理もろくに味が分からないままに
夕食を済ませて、僕らは玄関ドアの前に立った。
花鶏もなんとか起きて、見送りに来てくれている。
【智】
「るい、屋敷の方も気をつけてね。何が起こるかわからないから。惠も、央輝も」
【るい】
「ありがと」
【央輝】
「………………」
【惠】
「これで何事も起こらなくなればいいが」
辺りはすでに薄闇に包まれ始めていて、
呪いのことがなくても不気味な雰囲気だった。
今日はこよりには一人で帰ってもらうことになる。
名残は惜しいけどなるべく早く出ないと。
【こより】
「ところで茜子センパイはどうしたんでありますか?」
【るい】
「ん〜、なんか一人で考えたいことがあるって」
【智】
「そう……。あの事があってから茜子も元気ないし、
あんまり一人で悩まないように気を掛けてあげてね」
【伊代】
「それじゃ、そろそろ行きましょうか?」
僕と伊代は停めっぱなしだった自転車を押して、
こよりはいつものインラインスケートで体を滑らせる。
【惠】
「気をつけて」
【智】
「そっちもね」
このへんでそろそろいいだろう。
【智】
「ストップ」
【こより】
「ふぇっ、何です?」
【伊代】
「この子には話すのね?」
【智】
「うん。こよりなら大丈夫だろう」
【こより】
「何の話でありますか?」
交互に見上げながら柔らかく首を傾げるこよりに、
計画の内容を話す。
【こより】
「ほぉぉ……、そんな計画が」
【智】
「――だから僕たちはこっそり屋敷に戻るつもりなんだ。
今日はこより、伊代の自転車に乗って帰ってよ。
僕のはどこかこのへんに停めとけばいいから」
【伊代】
「わたしの自転車乗れる? サドル下げようか?」
【こより】
「平気ですよう! 鳴滝、そこまでチビッコじゃないですから。
それにしても屋敷にこっそり戻るなんて、センパイがた、
大丈夫なんですか?」
【智】
「相手が人間なら庭に隠れるから見つからないと思うし、
相手が祟りなら、こよりが帰ってるから八人は居ないし」
こよりを安心させるための方便だ。
見つからない保障はないし、八人揃ったことが
祟りの原因というのは推測にすぎない。
【こより】
「う〜ん、そですねー。ともセンパイが大丈夫って言うなら
大丈夫かな?」
【伊代】
「なるべく気をつけるわ。あなたも帰り道気をつけて」
【こより】
「ハイ! 鳴滝はぴゃーっと帰ってすぐ寝ます!」
僕は自転車を、ガードレール脇に停める。
【智】
「じゃあこより、僕たちは行くよ」
【こより】
「了解であります! 鳴滝は作戦の成功を祈ってます!」
さぁ、戻ろう。
僕たちはこれからいったい、
何を見てしまうことになるのか……。
危険とは違う不安が、僕の胸を灰色の靄(もや)で覆っていた。
屋敷の庭に潜む。
密かに浜江さんが手入れしているのか、
思いのほか虫は少なかった。
藪蚊にかなりひどい目に合わされることは、
十二分に覚悟していたんだけど。
【智】
「…………」
【伊代】
「…………」
潜み始めてどれだけ経ったか……。
そろそろ退屈してきていた僕らの目を醒まさせたのは、
注目していた屋敷とは違う場所からの物音だった。
【智】
「伊代」
【伊代】
「うん」
気配を窺う。
物音がしたのは、この庭のどこかだ。
近いか? いや、まだ大丈夫。
下生えの疎になっているところを選んで足を置き、
音を立てないよう体を運ぶ。
【智】
「…………」
相手は気配を殺す気はないようだった。
僕たちの存在に気づいてない証拠と言える。
伊代に頷くと、このまま相手の様子を窺う意思を伝えた。
風向きが変わって、俄かに木々がざわめく。
葉擦れに紛れて木の陰から陰へ、少しずつ気配に忍び寄る。
【智】
「っ……!」
【伊代】
「ぇ……!?」
大きな木の陰から顔を出したところで、
びっくりして顔を引っ込めた。
浜江さんだ。
辺りはもうすっかり夜。なぜこんな時間に?
この草木のはびこる庭を横切って、どこへ行くのだろう?
浜江さんの遠ざかる背中を覗きながら、
十分に距離を取って伊代と相談することにした。
いくら庭が広いといっても、見失う事はないだろう。
【智】
「浜江さん……?」
【伊代】
「そういえばあのおばあさん、よく庭をうろついてるわよね」
確かにいくらか思い当たる節がある。
しばしば浜江さんが、庭から戻ってくる姿を見かけた。
【伊代】
「でもこの庭……手入れされてるようにはとても見えないけど」
【智】
「……妙だね。屋敷を掃除した時に庭に立ち入ろうとしたら、
浜江さん変に怒ってたし……」
【浜江】
「いかん!!!!」
【伊代】
「きゃぅっ!!?」
あの時、浜江さんをフォローしたのは、惠だった。
惠は庭にはなにもないと言ってたし、
佐知子さんだってそう言っていた。
【智】
「伊代、どう思う?」
【伊代】
「わからないわ。この庭、何を隠してるのかしら……」
【智】
「そこへ至る道がまったく整備されてない。
意図的に隠してるんだろうね。この屋敷の住人全員で」
【伊代】
「でも、何を?」
【智】
「確かめよう」
浜江さんを追って庭の奥へ分け入る。
こんなにも広い敷地があったのかと驚かされた。
浜江さんの踏み跡を辿っていくと、
次第に木々だけが立ち並び雑草が処理された場所に出る。
小さな離れがあった。
目立たず小さな作りの建物は、
庭の木々に埋もれてしまえば目立たない。
【智】
「これを、みんなで、隠してたんだ……」
【伊代】
「どうして……?」
【伊代】
「待って、おばあさんが誰かと話してない?」
草木のざわめきを透かして耳を澄ます。
ごく微かにではあるが、
離れの方から話し声が聞こえる気がした。
【智】
「誰かと会ってるの……?」
【伊代】
「出てくるわ。やり過ごしましょ」
離れから出てきた浜江さんは、
再び草木の生い茂る庭を通って屋敷に帰っていく。
死角から顔を盗み見たけれど、
やはり浜江さんの表情は読み取れなかった。
ここからはもう屋敷は見えない。
屋敷を監視するという本来の意図とは外れてしまったけれど、
今はこっちが気になる。
【智】
「やりすごしたって事は、伊代も行くつもりなんだね?」
【伊代】
「もちろん。もう退けないでしょ?
それにあなた、ここでわたしが危ないから帰りましょなんて
言ったら、『空気よめ』って言うでしょ?」
【智】
「あはは、言うかも。それじゃ、中の人に気づかれないように
こっそり行って見ようか」
【伊代】
「ええ」
思えばあれが伊代と仲良くなる
きっかけだったかもしれない。
いつだったか古典のノートを借りた。
御簾(みす)、とでも呼ぶのだったか。
ちょうどあの古典の時代に存在した、貴族がその顔を
見せないで庶民と謁見するために用いた室内につける簾(すだれ)。
それがあった。
【智】
「……」
【伊代】
「…………」
確実にこの向こうに人が居る。
御簾の前に置かれた食事が教えてくれている。
御簾の向こうを窺い知ることはできない。
離れには明かり取りの窓もあるようだが、
そのすべては暗幕のような厚い布で塞がれていた。
この中に、いったい誰がいるのだろう?
思い切ってこちらから声をかけるべきか、
それとも今はこのまま帰って惠に問いただすべきか……。
【智】
「っ!!」
【伊代】
「ぇっ!?」
反射的に止めたけど、
静寂の中に十分に音は響いてしまった。
誰からのメールかを確認する余裕はない。
どうして電源を切っておかなかったのか……!
悔やんでももう遅い。
コイツが勝手に、僕の迷いに決断を下してくれたわけだ。
御簾の向こうで気配が動いて、誰何の声がする。
【真耶/???】
「そこに居るのは誰…………?」
【智】
「ぼ、僕は……」
若い女性の声。
誰だろう?
もはや偽ってもどうにもならない。
【智】
「僕は惠の友達で、和久津智と言います。あなたは一体……」
僕の言葉が終わらないうちに衣擦れの音がして、
向こう側の人物が御簾を持ち上げてその姿を見せた。
【真耶/???】
「智……」
【智】
「え………………!?」
【伊代】
「ええ……っ!!!?」
【真耶/???】
「智……、やっと、来てくれた……」
【智】
「え………………」
驚きに思考を根こそぎ奪い取られて、
しばらくまともな声さえ出せなかった。
【伊代】
「うそ、同じ顔…………!」
【真耶/???】
「ふ……」
まるでそこに鏡があるかのように。
御簾の向こうから現れた離れの主は、
僕とまったく同じ顔を持っていた。
【真耶/???】
「智……。言わなくてもわたしのこと、わかるでしょう?」
【智】
「ま、さか……」
僕と寸分たがわぬ顔を持ったこの人は――
他にいったいどんな可能性が考えられる?
答は一つしかない。
【智】
「姉……さん…………!?」
【伊代】
「うそ……」
【真耶】
「会いたかったわ、智……」
そこにいるのは、死んでいるはずの僕の双子の姉さん、
和久津真耶だった。
【伊代】
「本当にあなたのお姉さんなの!? だって、死んだって……!」
【智】
「姉さん……なんだよね」
すぅと目が細められて、刃のように光った。
僕と同じ顔のはずが、
ずっと艶めいた唇が嫣然と笑みを作る。
【真耶】
「そうよ、智……。わたしはあなたの双子の姉、真耶」
【智】
「生きて、たんだ。…………どうして今まで……」
違う。聞きたいのはそんなことじゃない。
聞かなければならないことがあるはずだ。
あったはずだ。
姉さんはどうして生きていた?
なぜ死んだことになっていた?
どういう経緯でこの離れに?
そして、なぜこの屋敷の人たちは
姉さんの存在を隠していた……?
頭が働かない。
【智】
「惠は気づいていたはずだ……! どうして、惠……!」
【伊代】
「こんなことって。わたし、何をどう考えればいいのかもう……」
ここにかつて父さんが住んでいた。
何か理由があって、父さんが
姉さんの存在を隠したのか?
父さんのことはほとんど知らないし、
姉さんは今はじめて会ったばかりだ。
僕の両親はどうして、
僕と姉さんを分けて育てた?
【真耶】
「わたしがこの隠された離れに居て、存在も秘密にされているのは、わたしが人に会いたくないから」
【伊代】
「自分で望んでここにいるって言うことですか?」
【智】
「ずっとこの離れで」
食事も御簾の手前に置いてあった。
浜江さんはこの御簾の向こうの姉さんの顔を
見たことがないのかもしれない。
それならば僕の顔を見て
驚かなかったことにも納得が行く。
惠も最初は……僕が双子の姉がいると
告白するまでは知らなかったのだろう。
しかし、ずっと誰にも会わずに生きるなんて……。
【真耶】
「ふう……」
うろたえ混乱する僕らの思いなどまるで意に介さず、
姉さんが湿り気のあるため息をつく。
この余裕、別に軟禁されてたわけじゃないのか。
姉さんが御簾の向こうから、這い出して擦り寄ってくる。
吐息は、不自然に甘い香りがした。
【真耶】
「ねぇ、智?」
【智】
「え、何、姉さん」
【真耶】
「その女は誰なの……?」
今までの声とまるで違う、驚くほど冷たい声だった。
伊代を見る目は侮蔑すら滲ませている。
【智】
「彼女は白鞘伊代。えっと、伊代は僕の……」
【伊代】
「か、彼女です!!」
【智】
「い、伊代ぉ……」
【伊代】
「だ、だってあなたのご家族でしょ!
ちゃんとご挨拶しとかないといけないじゃない!?
あの、お姉さんよろしくお願いします」
【真耶】
「へぇ……」
どうやら姉さんは伊代が気に召さないようだ。
伊代は僕が言うのも何だけど、
はっきりいってどんくさくていつも一歩イケてない子だ。
かと言って馬鹿でもドジでもないのだが、
そこは長い付き合いがないとわからない。
ともかく神秘的なものを感じていた姉さんに、
そんな人間的な感情を認められたことで、
僕は少し安堵を感じていた。
【智】
「まぁ、伊代のことはおいおい……。
それより、姉さんはいつからここの離れに?」
【真耶】
「……………………」
姉さんは僕の問いかけを片耳に聞きながら、
舐めるように伊代の全身を見る。
【伊代】
「あの、えっと……。どうも……」
【真耶】
「………………智」
伊代の情けない挨拶を無視して、
姉さんは僕に擦り寄ってくる。
【智】
「ちょ、ちょっと姉さん?」
兄弟姉妹というものを知らない僕には、
これが姉弟の親愛の情を表現する行為なのかはわからない。
けれど、相手が自分と同じ顔なだけに、
湧き上がる感情は複雑なものだった。
【真耶】
「智、呪いを解く方法は、この屋敷内に隠されているわ」
【智】
「え!? 姉さん、呪いのことも知ってるの!?」
【真耶】
「ええ……。だってわたしも、呪いを負っているから……」
【伊代】
「あなたもそうだったんですか!?」
【真耶】
「ふぅん、その女も呪われた存在なのね……」
姉さんの矛先が伊代に向く。
【智】
「姉さんが……呪いを……?」
【智】
「でも、それって、おかしい……」
呪いの痣は……8個のはずだ。
るい、花鶏、こより、伊代、茜子、惠、央輝。
それに、僕。
【智】
「痣は8個じゃないの? 他にも六人、仲間がいるんだ。
全員痣を持った……姉さんを入れたら九人に」
【真耶】
「智、呪われた血筋は八つで正しいわ。でも、わたしたちは双子、特別な存在なの……」
【智】
「特別……?」
【真耶】
「ふふ……わたしたち呪いの受け手の持つ呪いと『力』は、
元々女にしか顕れない……でも、わたしたちは双子で生まれた」
【真耶】
「智……弟であるあなたには、男には本来でないはずの呪いの痣が現れた……」
【智】
「そ、それって……だからなの、そうなのか」
呪いしかなく、『力』を持たない、この僕。
それは僕が男だからだ。
女だけが持つ『力』は最初から持たず、でも、
どういう手違いか呪いだけを与えられて生まれた。
【伊代】
「ねえ、大丈夫……?」
【智】
「平気、うん……大丈夫だよ」
【智】
「……姉さん、さっき、呪いを解く方法がこの屋敷にあるって
言ってたけど……それを知ってるの?」
【真耶】
「ふふふ、智……。 わたしの『力』なら
『呪いを解く方法を知ることが出来る』わ……」
【智】
「本当に!? それなら……」
【真耶】
「今はまだ無理よ。もう少し、時間が必要」
【真耶】
「……浜江が戻ってきたわ。智、スープを取って?」
【智】
「え、スープ……?」
浜江さんに見つかるのがまずいなら、
いち早く逃げないといけないのだけど……。
場違いな言葉に惑いながら、スープの皿を手渡す。
【真耶】
「窓から逃げて。
それから、わたしと会ったことは絶対に惠には秘密……」
【智】
「でも、姉さんをこんなところに一人では……」
【真耶】
「だめ……今はまだだめ……わたしたちが会ったことを
惠に知られてはいけない……だから……」
スープ皿を受け取った姉さんは、窓にかけられた厚い布をめくると、窓を開いて屋外にスープを捨てた。なるほど、食事をした形跡を作るというわけか。
【智】
「わかった。誰にも言わないよ」
【真耶】
「そこの女も」
【伊代】
「は、はい。秘密にします」
【真耶】
「ふぅ…………」
ようやく僕にも下生えを踏む浜江さんの足音が聞こえてきた。
会ったことを秘密にするなら、逃げないとまずい。
【智】
「伊代、行こう」
【伊代】
「うん。それじゃ、失礼します」
【智】
「姉さん。また会いにくるから」
【真耶】
「……ええ。嬉しいわ、智……」
【智】
「今日はもう帰ろう。今から家に戻れば、少しだけど眠れる」
【伊代】
「そうね。驚きすぎて眠れないかもしれないけど」
窓からこっそりと闇の中に抜け出すと、
姉さんは窓を閉め御簾を元通り下ろして浜江さんを迎えた。
様子は見えないが、声だけは聞こえる。
【真耶】
「……ふぅ、食欲がないのよ……」
【浜江】
「しかし」
【真耶】
「冷めても食べられそうなものだけ残して下げて頂戴。
食べられそうになったら食べてみるわ」
【浜江】
「……畏まりました」
捨てられたスープの跡につま先で土を掛けて隠す。
姉さんが生きていた。
姉さんもまた呪いを持つ身だった。
姉さんは僕らと会った事を惠に秘密にして欲しいと言う。
惠はなぜ姉さんの存在を隠していたのか。
惠と姉さんの関係は?
【智】
「あ、ちょっと、まって……」
八つの星の末裔、
八人の呪いの受け手の末裔――。
双子の僕らが同じ呪いを受けたとすると。
僕と姉さんの呪いは、同じ束縛を与える筈だ。
【伊代】
「……なによ、ひとの顔ジロジロ見て」
僕はともかく、伊代と会ったということは、
姉さんも呪いを踏んでしまったということか!?
でも、それにしては静かすぎるし。
姉さんにも呪いを踏んだような素振りはなかった。
謎・秘密・疑問――――
解らないことが多すぎる。
【智】
「僕の自転車しかないから、二人乗りで帰ろう。送るよ」
【伊代】
「ええ、ありがとう」
わからないことだらけだったけど……。
なにより、僕は死んだはずの姉さんと
再会できたことが嬉しかった。
〔八人目の正体〕
ゆるゆると瞼を持ち上げる。
見慣れた天井、そして部屋。
【智】
「……そうか。自分の部屋だっけ」
時刻はすでに昼前。
外の強い日差しがカーテンを通り抜けて、
柔らかに部屋を照らしている。
寝る前に枕元に用意した水のペットボトルが、
隙間からの光で輝いて見えた。
悪夢は見なかった。
うなされて目覚めた時の為に、
水を用意しておいたのだけど。
【智】
「んく……ん……。おいしい」
一晩放置されていた水はぬるかったけれど、
起き抜けの水分はとてもおいしく感じる。
一人で眠っても悪夢は見なかった。
惠の屋敷に居た頃は、伊代がついていてくれるから
眠れるのだと思っていたけれど……。
もしかしたら、あの僕が二人になったりする夢は、
姉さんが近くに居たからなのかもしれない。
双子の間に不思議な繋がり……
なんて話は飽きるくらいに聞いたけど、
我がことになると笑えない。
呪いだって双子だから背負ったわけだし。
だからこその、力を持たない呪われし者だ。
【智】
「はう……」
ため息をついた。
難問の答が出れば、真相はいつだって肌寒い。
結局、僕はどこまでいっても半端者らしい。
嘘つきにもなりきれない。
女の子でもいられない。
たぶん、姉さんの力を借りて、このまま呪いが解ければ、
みんなは束縛のない八つ星の力を取り戻す。
僕だけ、そこからあぶれて落ちる。
とばっちり……。
悪い言い方をするのなら、
僕は姉さんのとばっちりで呪いを受け取ったわけか。
些細な手違いと間違いに行く末を左右される。
躓いて転ぶのと同じで、救いのないお話。
どこまでいっても呪われている。
【智】
「でも、姉さんが生きてた、生きててくれた」
僕の家族。
誰もいなくなってしまったはずの、
たった一人の血を分けた人。
一緒に過ごした記憶もない姉さんだけど。
生きていてくれて嬉しかった。
思い出がないのなら、これから重ねていけばいい。
この小さな部屋で、二人で。
【智】
「でも、なんであんな不吉な夢ばっかりだったんだろ……。
やっぱり呪いとも関係があるのかな」
慌てて女の子武装を整えて、玄関に走る。
【智】
「はぁ〜い!」
用心のためにチェーンまでかけたドアを、
もどかしく開いた。
【伊代】
「うふふ、朝から来ちゃった」
思わず目をしばたたく。
陽光よりも伊代の笑顔の方が眩しかった。
【智】
「びっくりした。おはよう伊代」
【伊代】
「おはよう。どう、ちゃんと眠れた?」
【智】
「うん。ぐっすり。やっぱりあの悪夢はたまたまだったのかな?」
伊代を部屋に招きいれて、
ベッドに並んで腰掛ける。
僕と伊代の間には、
気恥ずかしさ分の距離があった。
【伊代】
「でも元気そうでよかった。昨日はいろんなコトがあったじゃない。実はちょっと心配してたの。あなたの家に泊まればよかったかなーって。呪いのこともあるし」
昨日は姉さんのことがあって、
そんなことまで考えが及ばなかった。
あの後僕は伊代を自転車の後ろに乗せて家まで送り、
そのまま自分の部屋へ帰ってすぐに寝たんだ。
【智】
「それ惜しかったなぁ。ここに泊まってくれたら、
伊代と二人きりだったのに。今日にでも泊まっていく?」
【伊代】
「ば、バカ! そういうことは呪いのことや、あなたのお姉さんのことが解決してからでしょ! わたしたちが……その、一緒に
寝てる間に、誰かにもしものことがあったりしたら!」
【智】
「わ、伊代大胆。僕、そんなことぜーんぜん言ってないよ」
【伊代】
「え? な、何言ってるのよ、こら! わ、わ、わたしだって
ただ一緒に寝るって言っただけでっ! 本当よ!?」
【智】
「うんうん。でも呪いのこと、他いろいろなこと、全部解決できるよう僕たちで頑張ろう。全部が終わったら、伊代ともう一度……」
【伊代】
「ばっ!? ……バカ……」
【伊代】
「バカね…………。もう……」
すべてが、片づいたら……
【智】
「そのため……ってワケじゃないけど。呪いのこと、
本当にどうする?」
【伊代】
「そ、そうね。本当に関係なしにしても、
呪いのことはどうするのか、ちゃんと考えないといけないわよね」
【智】
「うん。それでさ、姉さんのことなんだけど……」
【伊代】
「その……あれは、本当にあなたの姉さんなの? 同じ顔してたし、それだけでも疑う余地なんてないのかも知れないけど」
【智】
「正直、顔も覚えてないんだ。ずっと死んだと思ってた。
あの家にいたってことは、父さんは知ってたんだろうけど」
【伊代】
「お父さんからは、何か?」
【智】
「それもあまり。父さんは忙しい人で、ほとんど顔を合わせることも無かったんだ。僕の家には母さんしかいないようなものだったよ」
【伊代】
「…………ごめんなさい。つまらないこと聞いて」
【智】
「いいんだ。それよりも姉さんのことだけど」
姉さんは会ったことを惠に秘密にしてくれと言っていた。
【智】
「姉さんのことは、約束通り惠には秘密。
それから、みんなに口止めするのも難しいと思うから、
当分は僕と伊代だけの秘密にして欲しい」
【伊代】
「そうね……あの子にだけ秘密にするのも何か後ろめたいしね……」
【智】
「みんなには、呪いを解く方法が確実に存在するとわかったこと、方法ももうすぐ解りそうなこと、その二つだけ話せばどうかな」
【伊代】
「でも本当にあなたのお姉さん、呪いの解き方までわかるのかしら?」
【智】
「どうだろう。姉さんは自分の力でわかるって言ってたけど……」
【智】
「それに姉さんの呪いのこともあるし」
【伊代】
「お姉さんの?」
【智】
「僕が双子で同じ呪いを持ってるなら――」
【伊代】
「あ、わたしが昨夜会った時に呪いを……わ、わたし、
あなただけじゃなく、お姉さんまで……っ」
【智】
「落ち着いて。姉さんも慌てて無かったし……」
【伊代】
「それって……どうしてだか呪いを踏まなかったってこと?」
【智】
「わからないよ。そういう事ってあると思う?」
【伊代】
「せ、セーフ、とか?」
【智】
「嘘くさい」
【伊代】
「…………そうよね」
【智】
「僕が踏んだ呪いのこともあるし、まだよくわかってない事が
多過ぎる。でも、万一姉さんが踏んでしまったんなら尚更
時間がない」
【智】
「この呪いを、必ず解いてやる」
【伊代】
「うん、協力する。絶対この呪いを解きましょう。
でも、方法を知ってるのは……」
【智】
「姉さん……だけど」
姉さんは時間がかかる、とも言っていた。
どういう手段を取るのかはわからないが……。
【伊代】
「それから気になるのは、やっぱり妨害ね……。
祟りなのか人為なのか、まだ判断が付かないけど」
もしも人為だとしたら、僕らが呪いの手がかりに近づいたことが
犯人に知れたら危険だ。
【智】
「あまりいいやり方じゃないけど、一人ずつ監視するしか」
【伊代】
「ちょっと待って?」
【智】
「ん、なに?」
【伊代】
「わたし、ずっと疑問に思ってたことがあったの。
あなたのお姉さんの話を聞いてからなんだけど……」
伊代の言いたいことと、
僕の考えてることは同じだろうか?
【智】
「呪いを解くためには、『八つの星』の末裔が全員、集まらないといけない。八つの、『力』と『痣』を持った女性。つまり、
姉さんがいないと呪いは解けない……」
【伊代】
「そうよね? ということは……」
【智】
「惠は、姉さんのことを最初から知っていた。この屋敷に居たんだから当然だよね。惠にとって姉さんは、最初から『八つの星』の一つだったんだ」
この屋敷、かつては僕の父さんの物だった屋敷のことを、
僕たちよりもよく知ってる惠が、この屋敷に隠されていた
姉さんの呪いや才能を知らない方が不自然だ。
【智】
「もう少し整理してみるよ――」
惠は最初から僕を和久津の人間らしいと思っていた。
惠自身がそういってる。
惠は僕が『男の子』であることを知らないから、和久津という
名前を聞いても、痣があるのを知った時点では『八つの星』の
一つに数えたはずだ。
でも、僕が双子の片割れと知ったときに、
姉さんと同じ星に数えたんだろう。
惠が、呪いを解くためには八人必要であると驚いたとき、
茜子が目配せしていた。
もし、この言葉が嘘なら……
惠は最初から知っていたということか?
【智】
「僕たちに、姉さんの存在を知らせないと言うことは、その上で、八人の呪いを負った者が揃わないことを知っていた?」
【伊代】
「それって、暗に呪いを解くのを妨害しているってことじゃない?」
【智】
「まさか、惠が一連のことを?」
【伊代】
「考えたくはないけど、ね」
でも、僕が双子と告白した後に、
九人目……本当の八人目を捜そうと進めたのも惠だ。
腑に落ちないことだらけだ。
惠が僕らが呪いを解こうとするのを妨害していた?
でも、なぜ?
そもそも惠の呪いは一体どういうものなんだろう。
【智】
「でも、惠は、姉さんがあの場にいたことを隠していた……」
【智】
「姉さんも惠には秘密にしろと言ってた」
【伊代】
「八人が揃ってるせいで祟りが起きた、って言い出したのも、
あの子だったわね……」
思い出すほどに疑念は確信に近くなる。
僕が双子だと告白したときに考え込んでいた様子。
惠が別行動を取り出したのは、央輝と会ってから。
僕たちに妨害が及んだのも、惠が別行動を取り出してから。
惠はもはや呪いが解かれるのに猶予がないと考えて、
妨害に出た……。
惠はなにか僕らにわからない理由があって、
呪いを解かせまいとしているんじゃないだろうか?
【智】
「惠……」
【伊代】
「………………」
僕たちの目の前に建っていたのは、余りにも仰々しい、
時代から取り残されたような明治風の日本式洋館だった。
【惠】
「ようこそ、君たちを歓迎する」
【惠】
「運命に意味があるのなら、
僕らは八人目と出会うことができるだろう」
【惠】
「かつて呪いを受けた最初の八人――その末葉の全員が揃えば、呪いを解く鍵にも近づける……そうは感じないか?」
【惠】
「始まったのが八人ならば、終えるのもまた八人だと」
惠は、限りなく『呪いを解くことを望まない意思』に思える。
ではなぜ惠は、呪いの秘密が隠された屋敷に
僕たちを迎え入れたのか……?
ではなぜ惠は、『八つ星』が全て揃わないことを知っていて、
最後の一人を捜させるように仕向けたのか……?
〔未来を視る〕
惠と話をしなければならない。
できればみんなのいる前で話をした方がいいだろう。
【智】
「こよりも呼んで、惠に会いに行こう」
【伊代】
「そうね。あの子と直接話し合って見るしかないわね」
こよりを呼ぼうと携帯を取り出す。
未読メールが一通あることに気がついた。
そういえば、これは離れで姉さんに
気づかれた時のメールだ。
【智】
「あの時のメール見るの忘れてたよ。誰からだろ――――花鶏だ。珍しいね」
【伊代】
「ちゃんと回復したって報告かな」
件名は「見解」。
よくわからない。
メールを開いてみて驚いた。
【智】
「これ、花鶏からじゃないよ。
茜子が、花鶏の携帯を借りて出したんだ」
【伊代】
「ますます珍しいじゃない。いったいどんな内容なの?」
[From]花鶏
[Sub.]見解
茜子さんです。
ずっと考えていたことがあったのですが、言います。
私の力ではあの男装女の言葉だけ、
嘘か本当か判りづらいです。
嘘に包まれた本当が見抜けません。
だから、今までの私の、あの男装女のウソ発見器結果は
確実ではありません。
ただ、これだけは言っておきます。
あの男装女から悪意は感じません。以上です
息もできずに読み終えてから、
伊代にもその文面を見せた。
【伊代】
「それで……ずっとわからなかったの?」
【智】
「惠の言動は、元から少しおかしなところがある。
そういう呪いなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。とにかくそのせいで、茜子は惠の心がうまく読めなかったんだ」
惠には茜子の『力』が及んでいない。
言葉の中に隠された『嘘』と『本当』――
【伊代】
「あの子がわたしたちの妨害をしてたのは、ほとんど決まりね……」
【智】
「でも、茜子が悪意は感じられないって言ってる。
きっと事情があるんだ」
【伊代】
「そうだと嬉しいわね。わたしもあの子が、わたしたちに
悪意を持ってるなんて思えない。あの子と直接話して
はっきりさせなくちゃ」
【智】
「行こう、伊代」
【伊代】
「ええ」
ようやく慣れてきたこの厳めしい館の外見が、
再び不気味な威圧感を持って見える。
この屋敷には、いったいどんな奇怪な秘密が
隠されているのだろう?
すべては惠の口から聞くしかない。
【こより】
「どしたんです、センパイがた? な〜んか険しい目つきですよう?」
【伊代】
「あら、ごめんね。少し考え事してたの。早く入りましょ」
【こより】
「ふむ〜?」
こよりにもまだ惠のことは話していない。
やはり、みんなの居るところで話し合った方がいいだろう。
惠……。
祈るような気持ちで、僕は門の中へ踏み込む。
【るい】
「わ! トモとイヨ子とこよりーっ!」
神妙な面持ちで敷居を跨いだ僕たちを迎えたのは、
弾丸のように走ってきた、るいだった。
遅れてすぐにみんなもやってくる。
【智】
「ど、どしたの?」
【るい】
「大変なの! すっごい大変なの!」
【こより】
「な、何がでありますか? るいセンパイ!?」
【花鶏】
「惠が倒れたわ」
【伊代】
「なんですって!? 大丈夫なの!?」
【茜子】
「大丈夫には見えません。むしろ、かなり危ないかと」
惠が……倒れた?
惠もまた屋敷の祟りを受けて?
一連の妨害の犯人というのは間違いだったのか?
【央輝】
「死ぬかもな」
【こより】
「そ、そんな! 惠センパイが!」
【智】
「これも祟りなの……!」
【伊代】
「考えるのは後にしましょ! 今は友達を看病する方が大事だわ」
【智】
「僕も行く!」
部屋には嫌な匂いが漂っていた。
病人独特の匂いと、生臭い血の匂い。
【佐知子】
「ああ、みなさん来てくれたんですか……」
【浜江】
「惠さま……お可哀想に」
惠は、布団もかぶらずにベッドに倒れていた。
衣服には自ら吐いた血が、点々と付着している。
咳き込むたびに赤い飛沫が散る。
浅い息は喉の奥に粘つく泡の音がしていた。
【惠】
「ゲホッゲホッ! ぐぅ……、はぁ、はぁ……、ぁ……」
【智】
「惠!」
【伊代】
「吐血してるじゃない! 大丈夫!?
早く病院に連れて行かないと! 苦しさを和らげる薬かなにか
ないんですか!?」
【佐知子】
「そ、それは……」
【浜江】
「…………」
佐知子さんや浜江さんにすがりつく伊代を、惠が止める。
その口元は血に濡れていたが、微笑んでいるようにも見えた。
【惠】
「い、いいんだ。伊代……ゲホッ!
き……来てくれて嬉しいよ……。だけどこれは、ゲホッゲホッ!
度々ある、たいしたことない発作なんだ……だから……」
【伊代】
「たいしたことないわけないでしょ! 血を吐いてるのに!
救急車は呼んだんですか!? 持病なら、どうして薬を
用意してないんです!?」
【佐知子】
「惠さんが、必要ないからと……」
【伊代】
「これが、薬も救急車も必要ないように見えますか!?
この子が死んでもいいんですか!? あなたたちが
呼ばないのなら、わたしが……!!」
【惠】
「伊代、やめてくれないか……」
携帯から119を押そうとした伊代を、惠が再び止める。
【惠】
「ぐ……死ぬ病気じゃ……ない。必ず……明日にでも治る。
だから……はぁ、はぁっ……」
【るい】
「メグムぅ!」
【こより】
「惠センパイ、病院行った方がいいですって、絶対!」
【智】
「惠!」
【伊代】
「どうして止めるの!? あなたには慣れた発作かもしれないけど、万が一ってことがあるでしょ!? わたしは無理やりにでも、
あなたを病院に行かせないといけない!」
強引にでも救急車を呼ぼうとした伊代を
押し留めたのは、佐知子さんと浜江さんだった。
【浜江】
「………………」
浜江さんが無言で首を振る。
【佐知子】
「どうか……一日だけでいいんです。様子を見てください。
必ず一日で治りますから。病院に行くのはそのあとで……」
【伊代】
「そんなこと言って、もし手遅れになったら
どうするつもりなんですかっ!?」
【佐知子】
「その時は私も死にます」
【伊代】
「な…………!!」
乱暴すぎる言葉に、伊代のみならず絶句する。
浜江さんを見ても、その表情は真剣そのものだった。
【惠】
「佐知子……、ありがとう……」
【佐知子】
「いえ……」
【惠】
「みんな。心配してくれるのなら、今だけは、
どうか一人にして欲しいんだ……」
【智】
「………………」
【伊代】
「心配だわ……」
【花鶏】
「でも、あそこまで言われてしまってはね」
【智】
「惠は本当に大丈夫なのかな。これが祟りの発現によるものなら、惠は……」
当事者を含む三人に懇願されては、
僕らが食い下がるのも限界がある。
とにかく一日だけ様子を見て、快方に向かわないようなら
すぐに病院へ行く約束だけをして、僕らは廊下に出た。
【るい】
「でも、さっちーもハマさんも、大丈夫だって言ってたから。あの二人、たぶん私たちより、メグムのことよく分かってると思う」
暗い表情の僕と伊代を、
るいがなぐさめてくれる。
仲間を疑うことを知らない、
るいだからできることだった。
【伊代】
「そうね……。今は、信じるのが一番ね」
【智】
「ありがと、るい。僕もそう思うことにするよ」
僕も、惠を信じることにした。
惠が呪いを解かせまいと考えているのはほぼ確実だ。
だけど、今までの一連の『祟り』を作り出していたかどうかは、
まだわからない。
仮にそれらも惠の仕業だったとしても、
きっと惠にはやむにやまれぬ事情があるんだ。
【智】
「伊代、みんなにはまだ、僕たちの考えは話さないでおこうと
思うんだ」
【伊代】
「あの子自身が居ないとね……。
早く回復してくれればいいんだけど」
【智】
「…………」
僕らのたどり着いた考えは、まだ伏せておく。
惠本人が真意を話せない状態で、
先入観からの敵意を惠に抱いて欲しくないからだ。
早く回復して欲しいという伊代の言葉に、僕は頷きかねた。
もちろん惠には元気になってほしい。
だけど、惠に真実を尋ねるのも怖かった。
【茜子】
「居ますか?」
【智】
「いるよ。でも、ごめん。
今は惠のことは話したくないんだ……」
【茜子】
「………………」
ドアを開けると、ノックしたまま立ち尽くした茜子が居た。
【智】
「ごめん」
【茜子】
「…………いえ」
【伊代】
「後で必ずちゃんと話す機会をつくるから、ごめんね。
今は、ごめん」
【茜子】
「わかります」
惠を信じたい。
僕と伊代は床を踏む己のつま先を見つめながら、静かに茜子の脇を通り抜けた。
誰もが惠のことを心配しているせいで、
気づかれる心配はなかった。
多少の後ろめたさを感じながら庭に分け入る。
まだ振り返れば屋敷の2階が見える。
そこに惠は病に臥せっているのだろう。
【智】
「先に姉さんに確認を取ろう。姉さんが知っていることを……」
【伊代】
「それから、呪いを解く方法も。
あの子の病が呪いや祟りの一部ってことも考えられるし」
【智】
「うん……」
そこからは無言になって、
下生えを踏む音だけを聞ききながら歩いた。
やがて、ないはずの離れが再びそこに見えてくる。
むせ返るような、
毒花のような甘い香り。
この前、姉さんから香った不自然なほど甘い匂い……
それが離れの全体に漂っている。
【真耶】
「智……。また来てくれたのね、嬉しいわ……」
【智】
「姉さん」
姉さんの殊更にゆったりした態度が、
逸る気持ちをさらに掻き立てる。
焦ったところで何ができるわけでもないのに、
気持ちはどんどん空回りしていた。
【真耶】
「……でも。またその女が一緒なのね……」
【伊代】
「ご、ごめんなさい。
せっかくの姉弟水入らずの再会を、いつも邪魔してしまって……」
【智】
「姉さん! 今はそれどころじゃないんだ。惠が病気で倒れた。
ひどい発作で吐血してる」
それを聞くと姉さんは、
目を細めて白い指先で唇を撫でた。
【真耶】
「……ふぅん…………? それは……運がないわね、惠……。
でも惠の発作はいつもの事よ。じき収まるわ」
【伊代】
「あの子、大丈夫なんですね。良かった」
【智】
「それを聞いて安心したよ。ありがとう、姉さん。
それが一つ目の用だったんだ。そして、もうひとつの用は……」
【智】
「呪いのことで、姉さんが知ってることを……」
【智】
「そのまえに、まず、姉さん……この前に伊代と会ったとき、
呪いを踏んだりしてないよね!?」
【真耶】
「智……。そうね、あなたが不安になるのもわかる。
でも……心配はいらないわ」
【智】
「本当に……? じゃあ、姉さんの呪いは……僕とは……?」
【真耶】
「そんなことよりも……呪いの解き方……でしょう」
姉さんは甘い香りのする吐息を、
ゆっくり細く長く吐きながら瞑目した。
【智】
「わかるの!?」
【真耶】
「智……呪いを解くには……八つの呪い持ちの、末裔全てが
集まらなくてはならない……」
【真耶】
「私と智の痣は双子特有の物で和久津の一つ……でも……」
【真耶】
「本来は勘定にはいらないトモの星でも……私は……
トモの分を一つとして、呪いを解く方法を知っているの……」
【智】
「それは、つまり……」
【真耶】
「ふふ、わたしの『力』、見せてあげる……」
呟いて水の中にゆらめくように立ち上がる。
開いた瞳の色は変じていた。
【智】
「姉さんの、『力』?」
色彩が変化しているのではない。
瞳の中に映るもの、脳へと伝えられる光の情報が、
僕たちの見る景色とは異なるものになっている。
【真耶】
「はぁぁ……、ぁ…………、ぁ……」
【伊代】
「………………」
言葉もなく見守る。
やがて異質な眼の色は薄らいで消えて、
その顔に謎めいた笑みが浮かんだ。
【真耶】
「……智、明日の朝、街中のあるビルに行きなさい。
そうねぇ……その女の家から近いはずよ。
1階にはインテリアの店がある、2階には眼科がある……」
【智】
「ど、どういうこと? いきなり……?」
【伊代】
「わたしの家の近くって言っても、どのビルのことか
わからないですよ」
【真耶】
「あなたたちは見つけられるはずよ……。行けばわかるわ……」
見つけることはできるかもしれない。
足で探すのは辛くても、伊代にネットから探して貰えば、
さほどの苦労はないように思える。
【智】
「それが姉さんの能力と、どう関係してるの?」
【真耶】
「わたしの『力』は――」
ずい、と間近まで顔を寄せてくる。
吐息が顔に触れた。
【真耶】
「わたしの力は……、『未来を見る』力……」
【伊代】
「それって未来……予知……本当なんですか…!?」
【智】
「それって……姉さんはそこで何かが起こるのを知っている。
だから、僕たちにそこへ行けっていうこと?」
【真耶】
「そうよ……。あとは自分の目で確かめなさい……」
【智】
「………………」
【智】
「わかったよ。そこへ行けばいいんだね」
【真耶】
「ええ。そこで起こることを見てどうするか。
そして、八つの痣のこと……。智、あなたに任せるわ……」
姉さんは、もう一度声なく笑った。
双子の姉弟という関係でそのような表現が許されるなら、
姉さんの笑みは淫らだった。
【智】
「姉さん、僕と一緒にここを出よう」
【真耶】
「智……。今はまだ駄目よ……そんなことをすれば惠に知られてしまう。今はこの離れの外には……出られない。全部何もかもが終わったら……その時は一緒にここを出ましょう……」
食堂に戻ると一番に聞こえたのは、カチカチという
ライターの音だった。
【央輝】
「………………」
苛立っているのは央輝だけじゃない。
惠が苦しんでいるのに、なにも出来ないのは辛いことだ。
【伊代】
「あの子の容態は……変わらないのね」
【こより】
「ハイ……」
僕たちは、みんなに秘密で抜け出していた負い目もある。
沈黙が辛かった。
【花鶏】
「智たちは今日はどうするの?
祟りの可能性を考えるなら今日も帰る?」
【こより】
「できれば惠センパイのそばに居てあげたいですケド……」
空気の重さを敏感に読んだ花鶏が話題の口火を
切ってくれたおかげで、ライターの音は止まった。
【るい】
「全員そろってたら、タタリのせいで病気が悪化するかもしんない。それなら……」
【こより】
「一人でも帰った方がいいですか……?」
【央輝】
「祟りなんて嘘くさいと思ってたが、分からなくなってきたな」
【茜子】
「…………」
姉さんの指示したビルに行かねばならない。
姉さんの存在を秘密にする約束がある以上、
ビルにも僕と伊代だけで行くしかない。
伊代に小さく頷く。
【智】
「わかった。今日も帰るよ。今八人がここに揃っている状態は危険なのかもしれないし。遅くなっても明日の昼にはまた来るから」
【伊代】
「わたしもそうする。悔しいけど、今あの子にしてあげられることは、わたしにはないもの……」
【こより】
「鳴滝は……」
【智】
「こよりは心配ならみんなと一緒にここに居てもいいよ。
僕と伊代は少し調べたいこともあるんだ」
【伊代】
「あなた、あのノートPCここに置いたままよね?
今日一日でいいから貸してくれない?」
【花鶏】
「? いいわよ」
【伊代】
「ありがとう」
【花鶏】
「貸すのはいいわ。でも……」
まるで怪談を語るように息を潜めて、花鶏が囁いた。
【花鶏】
「『Artifact』っていう名前のフォルダは
絶対開かないでよ……!?」
みんなの意識が一斉に集中して、受け取る伊代も
思わずゴクリと喉を鳴らす。
【伊代】
「…………なにが入ってるの?」
【花鶏】
「エロ画像」
【伊代】
「誰が開くかッ!!!!」
【央輝】
「こ、この変態が!」
【茜子】
「出た。天駆けるエロスの旗手」
【るい】
「あはは、さすが花鶏」
【こより】
「じ、自分の写真が入ってないかが、激しく不安であります!」
【智】
「僕も不安です」
ひとしきりみんなで笑ってから、ノートPCを受け取ると、
伊代は花鶏ににっこりと微笑んだ。
【伊代】
「……ほんとに、ありがとう」
【花鶏】
「ふふ、少しは空気読めるようになったじゃない」
ほんのわずかだけ安らいだ気持ちで、惠の家を後にした。
〔裁く剣〕
時間は掛かったが、
目的のビルを特定することはできた。
昨夜は伊代を僕の家に泊めて、ネットを使って
目的のビルを突き止めて、朝までのわずかな時間を眠った。
【智】
「自然素材インテリアの店エルム、ここだね」
【伊代】
「住所も間違いないわ。
ここでわたしたち、何を見るのかしら……?」
テナントのほとんど入っていない、経営破綻寸前、
あるいは土地取りの為だけのビル。
薄暗い2階は、やっているのかも
わからない眼科だけがあって、
3階は真っ暗だった。
暗闇に沈む階段は、鉄扉で終わっている。
屋上に続く扉のようだ。
【智】
「ここ……?」
【伊代】
「待って! 何か聞こえない?」
錆の浮いたノブに伸ばした手を止める。
【智】
「誰かいる……」
伊代の言葉通り、
耳を澄ませば屋上から声がする。
微かにしか聞こえない声を聞く為に、その声の主の姿を見る為に、
体重と手の力を使ってゆっくりとドアに隙間をあけた。
【智】
「…………!」
【伊代】
「っ……!!」
息を呑む音を堪え切れたかどうか。
幸運にも屋上に吹く強い風の音が、
僕らの気配を消してくれていた。
【ゴトウ/男】
「キサマ、どういうつもりだ」
【惠】
「神というものが存在し、裁きをその御手で下してくれるならば、それはどれだけ素晴らしいことだろうか?」
惠……!!
病で臥せっていたはずの惠がいる!
衣服の裾をなぶる強風の中、黒いコートを羽織った惠は、
見るからにカタギとは思えないスーツの男と向かい合っていた。
【伊代】
「あの子、いったい何の話を……」
【智】
「姉さんは見て考えろって言ってた。もう少し様子を見よう」
惠と男のやりとりは続く。
【惠】
「神話に語られるように、罪深き者たちには神自らが雷の剣を
振るって、その命を奪い去る……」
【ゴトウ/男】
「おい! 馬鹿にしてるのか!」
【惠】
「ならば奪おう。神の雷を真似るが如く。その黒く醜い魂を……!」
【ゴトウ/男】
「ぅあッ!?」
閃光が閃いた。
それが金属の煌きだと気づいたのは一瞬後だ。
惠が隠し持った刃で、不意打ちに男の胸を切り裂いていた!
【智】
「っ……!」
【伊代】
「な……!!」
場面が場面なら失笑さえ生んだだろう。
惠の手にした刃物は、
屋敷の玄関ホールに飾られていた洋剣だった。
まるで演劇だ。
だが刃は本物。
斜めに切り裂かれた傷から、
男のシャツに赤い染みが広がる。
驚愕と恐怖に痛みなど感じる余裕もなく、
男は後ずさった。
【ゴトウ/男】
「な、なんなんだ……! お、おい! 何が……何が望みだ!? 言え、言ってくれ……!!」
恐怖に慌てふためく男に惠が迫る。
手には血濡れた剣。
瞳は薄く開かれて冷たく光るようで、
歩みは鋼鉄のように冷たかった。
【惠】
「望み……、僕の望みか……」
【ゴトウ/男】
「そうだ! 金か!? そ、それとも…………」
男の言葉に耳を傾けた惠が、
わずかに剣を握る手から力を抜く。
その瞬間を逃さず、男の手がスーツの内ポケットに伸びた。
【ゴトウ/男】
「死ね!!」
飛び散る赤い液体が強い風に散らされて、
朝の光を乱反射させた。
【ゴトウ/男】
「ぐぁ………………!」
銃を握って突き出した男の手は、
引き金に力を込めたまま凍りついている。
――痙攣する男の首を剣が貫いていた。
【惠】
「……ただ、平穏な日々があればそれでいい……」
扉を……閉めた。
【智】
「………………………………」
【伊代】
「っ……………………」
どくどくどくどく――
煩いくらいに心臓が鳴る。
何だ、あれは?
僕たちは何を見たんだ?
【智】
「…………はぁ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
遅れて息が荒くなる。
【伊代】
「なんなの……どうして、なんで……あの子、なぜ……
あの子……どうしてあんな……!」
言葉を組み立てられない。
傾いた積み木のように、どれだけ慎重に言葉を
積み上げようとしても支離滅裂に崩れて転がった。
【智】
「はぁ、はぁ……! い、伊代……!」
【伊代】
「あなた……、わたし……」
何を見たのかすら正しく理解できない。
金属の閃き、赤の飛沫。
わからない。わからない!
【智】
「逃げよう!」
【伊代】
「はぁ、はぁ……! に、逃げ……!」
訳もわからないままに飛び出した。
足音を気にする余裕もない。
頭のつむじから顔から背中から、
不快きわまる油汗が噴出していた。
逃げないと! 逃げないと!
逃げる理由はわからない。
わからなくていい。
怖い!
怖い!!
怖い!!!
【智】
「伊代! 伊代! はやく、もっとはやく!」
【伊代】
「な……なんなの……!? 今の……!?」
【智】
「いいからっ!」
転げ落ちるように階段を下りて、
ビルから飛び出す。
足音は強風が消してくれた。
後付けでそう信じる。
逃げる。
逃げる。
逃げる。
それでどうなるのかなんて考えられない。
信じたくない。
僕らは何を見た!?
何も見ていない!!
逃げるんだ!
【智】
「はやく、はやく、少しでも遠く……どこかぁ……
どこでもいいから!」
【伊代】
「待って、待って、一人にしないで……! 怖い、怖いの、
助けてぇ……!」
助けを求める足は、無意識に仲間たちを探した。
気がつくと僕たちは、
惠の屋敷の傍までやってきている。
【智】
「はぁ、はぁ、はぁ……」
【伊代】
「はぁっ、はぁっ…………」
惠はまだ戻っていないはずだ。
だが、ここに戻ってどうなる?
【智】
「ふうぅ……ふぅぅぅ……。ふぅ、ふうぅ……」
深く息をして酸素が体の隅々に行き渡るうち、
徐々に思考する勇気が戻ってくる。
そうだ、姉さんだ。
姉さんが、これを見せた……!
【智】
「伊代、僕たちは……どうすればいいんだろう?」
【伊代】
「わからない、わからないわ……。あの子、どうして……
どうして人殺……し」
伊代の発した最後の一音、「し」の音が、
脳裏に「死」という字になって広がった。
暴れだそうとする心臓を、胸に爪を立てて抑える。
【智】
「惠に……惠と……惠と話をするしかない」
【伊代】
「あの子と何の話をするの? 何の話ができるの!?」
【智】
「姉さんは見てどうするか決めろと言った。
だけど僕には決められない。だから、惠に直接聞く……!」
【伊代】
「わたし、怖い……」
【智】
「僕も怖いよ……」
るいからも連絡がない。
惠は誰にも気づかれることなく屋敷を抜け出し、
そしてあの男を「■」した。
気づかれずに部屋に戻る手段もあるに違いない。
【智】
「ここで待とう。ここで惠を待つ。
惠に……すべてを聞く」
【伊代】
「それしかないわね……。それしかないのね……。
うん、わかった。わたし、最後まであの子の話を聞くわ。
それがどんな話であっても……」
【智】
「お願い、僕も惠と話すのはすごく怖いから。
一緒に聞いて、伊代……」
【伊代】
「ええ……」
風向きのせいか、
遠くから離れの甘い香りが香る気がした。
惠を待つ。
それ以上のことはもう、何一つ考えられなかった。
〔流された血〕
風の強い日だった。
時折強い風が吹き抜けて、
朝靄を吹き飛ばしていく。
僕らは風の生まれる方向を向いて、
ただ待っていた。
【智】
「……」
【伊代】
「……」
まっすぐに道を見据えると、この道はこんなにもまっすぐ
続いていたのかと感心する。
道の彼方から、一歩一歩冷たい足取りで
歩いてくる黒影があった。
【智】
「惠……」
一匹の猫が道を横切った。
他に動くものは、朝靄に煙る大気だけ。
その歩みを速めることも遅らせることもなく、
惠はただ歩いてくる。
視線を己の内側に向けて、
深く物思いに耽りながら。
【伊代】
「………………」
伊代の喉が動いて、唾を飲む音が聞こえた。
それほど辺りは静かだったのだろう。
かすかな音に惠がこちらに気づく。
【惠】
「……智」
【智】
「惠」
霧に近い靄の立ち込める道を挟んで、
僕らは向かい合う。
髪を振って伊代が両手を広げた。
【伊代】
「どうして!? あなた、どうしてなの!?」
【惠】
「…………」
【智】
「見たんだ。あの屋上で……」
惠の表情は動かず、かわりに微かに
腕の筋肉が動いたように見えた。
手の先には握った剣。
鞘に収められた刀身には、今もあの男の血が
こびりついているのだろうか。
構えようとする動きでなく、それは剣の重みを
今はじめて意識して、取り落とすまいとした動きに見えた。
【惠】
「智、伊代……」
【伊代】
「わたしたちも信じたくない。でも、見てしまったの。
だから教えて。あなたが、どうしてあんなことをしなくては
ならなかったのか?」
【智】
「そうだよ、どうして……! なにか理由が……
理由があるんでしょ!? そういってよ!!」
惠は歩みを止めない。
手から剣を提げたまま、無造作に
僕らに向けて歩いてくる。
【惠】
「そうか……見たのか……。はは、見てしまったのか……」
惠との距離はもう僅かだ。
惠が嗤う。
【智】
「惠!」
【惠】
「教えてくれ。どうして今朝、あんな場所に居た?」
【伊代】
「言われたのよ。離れに居た、あの人に……」
【智】
「姉さんと会った。姉さんの予知の『力』で、あの時刻、
あの場所へ行くように言われたんだ。そこで起こることを見て、
どうするか? それは僕が決めろって」
【惠】
「……とんだ予知だな」
【伊代】
「どういうこと?」
【惠】
「誰にも見られずに殺すべき時と場所を確実に知りたければ、
どうすればいい?」
【智】
「まさか、惠は、姉さんの予知であの場所に……?」
【伊代】
「あの人が出した指示だったの……!?
いったい、あなたとあの人の関係は……」
ふふ、と口元に笑みを零しながら、
惠は僕らの脇を通り過ぎた。
髪を躍らせて振り返る。
【智】
「惠!」
【惠】
「……中で話そうじゃないか」
振り返らず、惠はそのまま屋敷の門をくぐった。
食堂のテーブルの上には、わずかに
鞘を走らせた剣が置かれている。
あのビルからここまでのどこで処置を施したのか、
血は綺麗に洗い落とされていた。
【るい】
「ウソ! メグムがそんなことするはずない!」
【智】
「………………」
仲間を信じ続けるるいに、ひとつひとつ僕らの推理の
過程を説明していくのはとても辛い行為だ。
だけど、放棄することはできない。
【智】
「まず、茜子は惠の言葉だけ、嘘か本当か判別しにくい」
【こより】
「え……、な、なんですかそれ……」
【茜子】
「彼女は……嘘をつくことに僅かな動揺も躊躇もない。
私の『力』はそういった微かな反応から心を読むので、
動かない心は読めません」
【花鶏】
「……それから?」
【智】
「次に、この屋敷の庭にはないはずの、『離れ』があった」
【るい】
「うそ……、さっちーもハマさんも何にもないって……」
【央輝】
「グルだったってことだ」
【伊代】
「どういう事情があったのかはわからない。
でも、わたしたちは、その離れに実際行ったから……」
【惠】
「………………」
沈黙が1秒続くごとに、
空気の重みが増していくようだ。
言葉を紡ぐのをやめたら、
そこで押しつぶされてしまう。
【智】
「そこに、死んだと聞かされていた僕の双子の姉さん、真耶が居た」
【こより】
「ともセンパイの……お姉さん……?」
【智】
「そう。そして姉さんも僕らと同じ呪いを持った人間だったんだ」
【伊代】
「つまり、わたしたちが八人目を探し始める前から、
すでに八人はここに揃っていたということ」
【央輝】
「なんだと……全部で八人じゃなかったのか」
【惠】
「それには僕も驚いたよ……。『ラトゥイリの星』の記述に
間違いとはね。央輝、君は九人目だ」
【花鶏】
「全部で九人……」
花鶏が『ラトゥイリの星』を抱きしめる。
央輝の手はライターを鳴らそうと胸の前に浮かんだまま、
そこで止まっていた。
【智】
「いや……居ないはずの九人目は僕なんだ。これはまた後で詳しく話す。今重要なのは……最後の八人目は姉さんで、惠が姉さんを匿ってたということ……」
【るい】
「どうしてっ! メグム、なんでよ? なんでそんなこと!?」
どうして――――
るいの言葉は全員の代弁だ。
どうして僕らを偽っていたのか。
どうして呪いを解く邪魔をするのか。
惠だって呪いに苦しめられているはずなのに。
正しい答がわからない。
【惠】
「どうしてだと思う?」
【茜子】
「呪いを解かれたくないからですね。理由まではわかりませんが」
【惠】
「そうだ。ここまで言えば君だって分かるだろう? 今までの妨害はすべて僕がやったんだよ! 祟りなんて在るものか。在るのはただ、醜い裏切りだったというわけだ!」
【るい】
「そんな、メグム……! なんで、なんで……!!」
【智】
「それから僕と伊代は惠にすべてを問いただそうと思った。
だけど、その日に惠は急な病に倒れたんだ」
【伊代】
「病気が回復したのはよかったわ。本当にそう思う。だけど……」
死相さえ見えたあれだけの発作でありながら、治療をする
わけでもなく、朝には快癒していたのは極めて不自然だった。
仮病になどは到底見えなかった。
どういう秘密があるのかはわからない。
ただ、考えられることはある…………。
あの病気も奇妙だった。
死相さえ見えた発作だったのに、医者にもかからず、
朝には快癒していた。
【智】
「僕らは離れに行って、再び姉さんに知っていることを尋ねた」
【智】
「姉さんはその時、『力』を見せてくれた。
姉さんの『力』は、『予知』の力だった」
【智】
「『力』を示して、翌朝とあるビルに行くように指示された。
そこで、僕らは……」
【伊代】
「………………」
鎮痛な面持ちで、伊代は刃に目を向ける。
その柄を惠が掴んだ。
禍々しい刀身を抜き放ち、天を指して掲げる。
【惠】
「そうだ! 君たちは見た……」
【こより】
「ひっ!」
【智】
「僕たちは……惠が、人を殺すのを見た」
震えだす体を止められない。
目を閉じれば瞼の裏に鮮血の赤が蘇りそうで、
瞬きすら恐ろしかった。
【るい】
「な、なんで……?
メグム、なんでそんなこと……、わけわかんない!
わけわかんない! なんでそんなこと……!」
【花鶏】
「人殺……し……」
【央輝】
「……オマエ、一体何者だ」
驚き怯えるみんなを見下ろす惠が、微かに痛みに耐える
ような表情を浮かべたのは、僕の希望が見せた幻だろうか。
刹那浮かんだ表情をかき消して、惠は笑い始める。
【惠】
「はははは、はははははは!」
【惠】
「そうだ! 今まで幾つもの命がこの剣に奪われた。
覚えているかい? 先月この近くであったという殺人を?」
連続詐欺犯が殺された事件。
凶器は刃渡り30センチ以上の刃物だった。
【惠】
「それから……僕の後見人、大貫氏は死んだと言ったね」
【伊代】
「あなた、まさかその人も……」
たぶん、大貫という男は、僕の父さんの死後、
この館と一緒に姉さんを手に入れた。
大貫が先物取引でいきなり荒稼ぎをしたというのは、
姉さんに予知の『力』を使わせていたのだろう。
【惠】
「真耶が予知の『力』を使って、完全犯罪の計画を組み立てた。
簡単だったよ、あの男は死んでしかるべき人間の屑だ」
惠の言葉を遮って、花鶏が
テーブルに両手を叩き付けた。
【花鶏】
「あんたの犯罪自慢なんて聞きたくないわ!
それであんたはどうするつもり! 何がしたいの!!」
【智】
「花鶏……」
【惠】
「僕が君たち全員を殺して、口を塞ぐとでも思ったかい?」
【央輝】
「ふざけるな! そんなことさせるか!」
【惠】
「僕の目的は、あくまで最初から決まっている。わかるだろう?」
では、本当にそうなのか。
呪いを解こうとすることを阻む意思。
惠こそが、
――――――――――――呪いの守護者
【智】
「惠――――」
【智】
「どうして呪いを守るの?」
呪い。
僕らの敵、僕らの障害。
惠は呪いを解くのを阻もうとしている。
惠も痣を持つ『八つ星』の一つだ。
呪いに苦しめられているはずなのに。
【伊代】
「どうして……人を殺すの?」
伊代がもう一つの疑問を引き継ぐ。
他者を傷つける。
生命を奪う。
惠は許されざる行為に手を染める。
なのに微笑っている。
以前と何一つ変わりなく。
【惠】
「人間の屑を始末するのに理由が必要かな」
惠は、二番目の問いにだけ言葉を返した。
【茜子】
「嘘です。あなたは今はじめて動揺しました。
あなたが自分の殺人に動揺を覚えていることに、
私は安心しました」
【惠】
「ふ……、理由はどうでもいい。とにかく呪いは解かせない。
君たちが呪いを解かないことに同意すればそれでよし。
もしも、同意しないならば……」
声高に語っていた惠の声が、失速して途切れた。
みんなを睥睨していた眼からも力が消えて、
ふと、惠は視線を逸らす。
【惠】
「……この屋敷も無人になるだろう」
【花鶏】
「あんたが行方をくらますってこと?
そうすれば、全員が揃うことは決してない。
だから呪いは解けない、って」
【央輝】
「呪いを解かないなんて、同意できるわけないだろ!」
【るい】
「理由も何もわからずに、同意もなにも……!」
僕は、自分が惠の知らないことを知っていることに気づいた。
【智】
「…………?」
それは小さな手札だ。
不明のまま推移する状況へ打ち込む小さなくさびだ。
【茜子】
「……どうしたんです?」
茜子が僕の顔を見る。
僕が何かに気づいたことは伝えられる。
それ以上の仔細は表情だけでは無理だ。
伊代を見る。
【伊代】
「あなたはそれでいいの?
人殺しをして、仲間たちから悪く思われたまま去って、
また一人になって……」
伊代は心の命じるままに惠に語りかけている。
惠は冷笑の仮面を被って感情を切り捨てていた。
伊代の言葉は惠まで届かない。
【智】
「惠が逃げても、僕たちは呪いを解くことができる」
【惠】
「なに……!?」
惠の真意はわからない。
でも、惠は自分がいなければ呪いが解けないと考えている。
呪いを解くには八つ星の末裔『全員』が必要だと思っている。
【智】
「惠、姉さんが方法を知ってる。
僕を入れた『八人』で呪いを解くことができる。
姉さんが僕に教えてくれた」
【茜子】
「なるほど。あなたはどういう形であれ、
わたしたちと決着をつけるしかない……」
【智】
「だから……」
【智】
「だから答えて、惠! せめて理由を――」
【惠】
「……真耶のヤツ…………!」
歯が軋む音が聞こえて、惠の顔が怒りに歪む。
【惠】
「そんな秘密を……今まで隠して……!!
最初から裏切るつもりだったのか!!」
【智】
「違う、姉さんはきっとそんなつもりじゃ……!」
【惠】
「僕は逃げることさえ許されないのか? 僕は、誰か一人の命を……!」
【浜江】
「惠さま! 真耶さまが……!!」
緊迫した空気を、闖入者が砕いた。
浜江さんだ。
【惠】
「浜江! 真耶のことは口にするなと……!」
【浜江】
「真耶さまが……真耶さまが……」
【浜江】
「……亡くなられました」
【智】
「え…………!!」
姉さんが死んだ。
やっと会えた姉さんが死んだ。
【智】
「嘘だ!」
誰よりも早く飛び出して走った。
【智】
「嘘だ……嘘だ……」
浜江さんがそんな嘘を言うことに、なんの意味がある?
意味があるはずがない。
認めたくなかった。
鋭い葉が体を切るのも構わず、庭を走る。
甘い香り。
離れが近い。
また、血だ。
もうこの赤は見たくない。
血はもう見たくない……。
【智】
「姉さん…………!」
昨日言葉を交わしたばかりの姉さんは、
この世界から隔絶された離れで、一夜にして
無残な骸に変じていた。
おびただしい血が、
姉さんを赤い水溜まりに沈めている。
血の流れ出す源は、胸に刻まれた深い刃の痕……。
【智】
「惠、姉さんまで!」
……いや、違う。
惠が姉さんを殺すのは不可能だ。
姉さんはまだ殺されて、
さほど時間が経っていない。
惠はあのビルで殺人を犯し、
それからずっと僕らの目の前に居た。
【智】
「姉さん……、誰が……! 一体誰がこんなことを……!」
甘い香りに鉄臭い血の匂いが入り混じる部屋。
呆然と立ち尽くした。
主が居なくなっただけで、
部屋は途端に荒れ果てて見えた。
もう、何をすればいいのかわからない。
放心してただ部屋を眺める。
ああ、甘い香りはあの香炉から出ていたのか。
ああ、姉さんはあの文机で書き物や食事をしていたのか。
ああ、姉さんはここで暮らしていたんだ……。
【智】
「姉さん…………」
知らぬ間に流れていた涙を一滴ぬぐって、
文机の上のノートを手に取る。
日記帳だろうか。ここに僕の知らなかった姉さんの
暮らしてきた日々が書かれているに違いない……。
日記帳の表紙を優しく撫でて、離れを出る。
呪いのこと、惠のこと、
もう僕にはすべてどうでもいいように思えていた。
離れを出ると、そこには佐知子さんが一人、僕を待っていた。
【佐知子】
「智……さん……」
【智】
「佐知子さん……? ……その服っ!」
衣服が血にまみれている。
なによりその手には、赤く血塗られた剣があった。
玄関ホールにあった一対の剣のもう一つ。
【智】
「佐知子さん……、佐知子さんが!?」
【佐知子】
「真耶さんは誰にも会おうとしなくて、わたし、初めて顔を
見たんです……! 本当なんです!」
【智】
「佐知子さん、一体何を……!?」
【佐知子】
「まさか、真耶さんがあなたの姉さんだったなんて……」
【智】
「佐知子さんが……姉さんを……殺したの……?」
【佐知子】
「真耶さんが居たらっ! 惠さんの呪いが解かれてしまう……
だめなんです! 惠さんは、惠さんは……!!」
【智】
「どういうことなの!? 佐知子さん!」
【佐知子】
「あああぁぁ…………! わたし、わたしは……!」
【佐知子】
「皆さんが……皆さんが悪いんです。
呪いを……呪いを解こうとさえしなければ……」
【佐知子】
「わたしが……、わたしが人形やヘビで……警告を……
なんで諦めてくれなかったんです!!!」
【智】
「人形……ヘビ……、
じゃあ、祟りは全部佐知子さん、
あなただったのか……!」
【智】
「どうして……
茜子も……花鶏も……
一歩間違えたら死ぬところだったのに!」
【佐知子】
「ええ……ええ、ええ、わたしです」
【佐知子】
「警告のつもりだった……、
そこまでするつもりはなかった……」
【佐知子】
「あなたたちの呪いが……そんなことまでは……」
【佐知子】
「でも、あれで、
あなたたちが諦めてくれたらと……!!」
なんてことだ。
館の祟りも、佐知子さんの仕業だったのか。
あの佐知子さんの……。
そうか。
全部見えない影、わからないからの怖さ……。
偶然に作り出された罠。
茜子の呪いも、花鶏の呪いも、
佐知子さんは知ってるはずがない。
千切られたノート……
転んだ足下に不気味な人形の首……
カバンの中にヘビ……
それだけ取り出せば、ただ不気味なだけの脅しが、
僕らにとっては致命傷になった。
でも――――
思考がぐるぐると巡る。
どうして、佐知子さんが……あの佐知子さんが……。
祟りが脅しでも、姉さんを殺した。
惠の……ために……?
ザク、ザク、ザク、と下生えを踏みしめる足音が迫ってくる。
惠――。
【惠】
「佐知子、お前は何もしていない。真耶を殺したのは僕だ」
〔剣ふたつ〕
【惠】
「真耶を殺したのは、僕だ」
出し抜けに告げた。
【佐知子】
「惠さん、わたしは……」
【智】
「惠……、何を言ってるの!?」
【惠】
「聞いての通りだよ」
【智】
「わけがわからないよ! 佐知子さんも、惠もっ!」
【佐知子】
「…………」
目の前の佐知子さんは、血濡れた剣を握っていた。
可能か不可能かなんて論じるまでもない。
姉さんが死んだ。
殺された。
殺したのは佐知子さんだ。
館の祟りも佐知子さんの仕業らしい。
何もかもが呪いを守るため?
そこまでするのはどうして?
理解の外だ。
どこに感情をぶつければいいのかさえわからない。
その感情が、悲しみなのか怒りなのかもわからない。
【智】
「君はずっと僕らと一緒にあの部屋に居たじゃない!
惠に姉さんを殺すのは不可能だよ!」
【惠】
「不可能でもいいじゃないか?」
【智】
「何言ってるの!? いい訳ない!
もう……訳が分からないよ!!」
【惠】
「真耶を殺したのは、僕だ」
惠は繰り返す。
惠の動機を用意するだけならば簡単。
呪いを解くことを阻むには、
姉さんを始末するのが一番だ。
だが、どうして佐知子さんが?
考えを組み立てようとしても、
血の赤い色がイメージの上にちらつく。
考えられない!!
【惠】
「真耶を殺したのが僕なら、すべてはシンプルに片がつく。
そう思わないか」
【智】
「…………っ」
目の前の惠に怒りをぶつけられれば、
どんなに楽だったろう。
血に濡れた剣を奪い取って、
激情のままに襲い掛かることが出来たならば!
――できない。
たとえば本当に惠が姉さんを殺したのだとしても。
あるいは惠が佐知子さんに命じたのだとしても。
何かが違う……。
繋がらない……。
できない……。
【智】
「惠がすべての黒幕? 僕らが惠を倒せばハッピーエンド?
そんなわけないじゃないか!!」
【惠】
「智、さっきの話を聞いていただろう。この剣は何人もの命を奪ってきた。あのビルが最初でもなく、最後でもない。そこに、またひとつ奪われた命が加わった。それっぽっちのことだよ」
【智】
「納得できないよ、惠! ちゃんと説明してよ!」
【惠】
「残念だけど、そうはいかない」
【智】
「惠っ!!」
俄かに足音が迫ってきて、佐知子さんが身構えた。
その手から剣がこぼれた。
【佐知子】
「惠さん! 逃げて……逃げて下さい!
今ならもう呪いを解くことはできませんから……!」
【惠】
「一人で行くには、この世界は寂しすぎるとは思わないか」
惠に遅れて、みんなもやって来ていた。
取り乱した声。
怒りの声。
惠は佐知子さんを庇うように立つ。
【伊代】
「その剣……!! あなたが……」
【こより】
「さ、佐知子さん……!?」
【るい】
「さっちー、なんで……メグムも、なんで……!?」
口々に言う。
【央輝】
「やっぱりオマエら、全員グルだったんだな」
【花鶏】
「最初からずっと踊らされてたっての……?」
央輝や花鶏の言う通り、
すべて最初から仕組まれたことだったのか?
一対の剣。
一振りは佐知子さんの足元に。
もう一振りは惠の手の中に。
剣を手にした二人が、すべてを動かしていたというのか。
【惠】
「佐知子! 行くぞ!」
【佐知子】
「は、はい!」
【智】
「惠待ってッ!」
惠が身を翻して、佐知子さんと共に走り出す。
【央輝】
「……ッッ」
空を見上げ、央輝が一瞬躊躇した。
【央輝】
「クソッ、ここまできて逃がすかッ!」
迷いを振り切って、追った。
【るい】
「メグム、待って! 説明してくんなきゃわかんないよ!!」
【花鶏】
「こよりちゃん! あの二人に追わせて回り込むわよ!」
【こより】
「は、ハイ! 花鶏センパイ!」
草木を荒らして、央輝たちが惠を追う。
僕には追うことが出来なかった。
緩慢な動作で、姉さんの血に濡れた剣を拾う。
【智】
「………………」
【伊代】
「…………こんな時、名前が呼べればいいんだけど」
【智】
「伊代……」
伊代のほかには、茜子が残っていた。
自らの足では、惠を追えないと判断したのだろうか。
【茜子】
「追わなくていいのですか?」
【智】
「……わからない」
わからない。
わからない。
わからない。
こればっかりだ……。
惠が何をしたかったのか、
僕は何をしたいのか?
わからない。
【伊代】
「取りあえず、お姉さんを……。
あのままにしておくのは可哀想だわ」
【智】
「……そうだね」
ちゃんとしたことをしてあげる余裕はないけれど、姉さんの衣服を整えて血をぬぐい、離れに布団を延べて横たえた。
姉さんの命を奪った剣も、洗い清めて傍らに置く。
【智】
「…………」
【伊代】
「せっかく再会できたのに、こんなことになってしまって……」
【智】
「伊代、ありがとう。僕は大丈夫……」
いろいろなことが一度にありすぎて、涙も出てこない。
場違いな冷静さで、僕はもう目覚めない姉さんを見下ろす。
【茜子】
「あれはその人が書き遺したものですか」
茜子が文机を指差した。
そこには姉さんの日記帳がある。
【智】
「……うん。たぶんね。ここにいたのは姉さんだけだから」
【茜子】
「その本の中身、見たほうがいいと思います」
【伊代】
「あの人、何かをあなたの為に書き遺してるかしら……?」
【智】
「…………」
姉さんの体温の残滓を探すように、ゆっくりと表紙をめくる。
日記帳の中は、奇妙な文章で満たされていた。
【伊代】
「これ、日付が」
【智】
「未来の日記……」
【伊代】
「予知の『力』でこれを記していたの?
……みんなのこれからの未来が書いてある……」
パラパラとページをめくると、
僕ら全員の未来がそれぞれかなりの分量記されていた。
姉さんがどういう目的でこれらを記したのかは、
今となっては知るすべもない。
未来は僕らが自分で作るべきものだ。
ここは見るべきじゃない。
【智】
「ここ見ない方が……良さそうだ」
【伊代】
「ええ」
【茜子】
「自分の死をも予知していたのでしょうか。
それなら必ず何か言葉を遺しているはずです」
【智】
「最後の方を……」
かなりのページを飛ばして、残りページが3分の1を
切ろうかとするところで白紙のページが現れた。
少し戻る。
姉さんの手によって記された最後のページ。
【智】
「…………」
明らかに字が乱れていた。
茜子の言うように、姉さんは自分の死を知ってしまったのだろう。
異能の示す残酷な未来に、寒気を覚える。
【真耶】
「もう間に合わない」
書き出しはそう始まっていた。
【真耶】
「まさかあの女が。もう少しで智と一緒に。誰にも邪魔されることのない、ずっとずっと長く続く幸せな日々を手に入れられたはずなのに……」
【真耶】
「何もかもがお終い。これだけ未来が見えることに苦しんできたのに、最後はこの『力』はわたしを救ってくれない」
【真耶】
「もうじきすべてを失うわたしに残された数少ない救いは、
智が必ずこの書付を見るのがわかっていること」
【真耶】
「智、わたしの可愛い弟。愛しい子。
わたしはあなたにせめてもの言葉を残す」
もはや変えられない未来を幻視して、
唇を噛む姉さんが見えるようだ。
かつて姉さんは死んだと聞かされていた。
寂しさから亡き姉に焦がれることはあったけれど、
それは想像の中の姉にすぎない。
僕と違って姉さんは、ずっとこの離れで
僕のことを待っていたんだ。
ただ一人の理解者として。
血のつながりだけじゃない。
同じく呪いを持ち、同じ顔をした自分の半身を、
姉さんは待ち続けていたんだ。
やっと会えた時の喜びはどれほどだったろう。
それなのに。
【智】
「…………姉さん……」
【伊代】
「自分の死を視ながら、あなたの為に
最期の言葉を遺してくれたのね……」
【茜子】
「視(み)えてしまうということは、時としてとても辛いことです」
姉さんの書置きは続く。
【真耶】
「ただ、あなたとわたしの未来を紡ぐため、わたしは真実の全てを告げられなかった。それが心残りでならない」
真実の全て――
姉さんは、まだ僕に教えていないことが?
それは……?
【真耶】
「智。あなたとわたしが双子として生まれてしまったがために、
あなたも呪いを持って生まれてしまった」
【真耶】
「先に、あなたには呪いしかないといったけど、わたしが死ぬ今、力と呪いはこれからあなたが持つことになります。
それが双子の……」
【茜子】
「あなたに、予知の力が」
【真耶】
「ここからの未来は入り組み過ぎていて、もうわたしには
見通すことができない。しかし、あなたなら見えるはず」
【真耶】
「智、あなたなら未来を見ることができるはず」
そこで、唐突に姉さんの字は終わっていた。
日記帳には血の一滴も飛んでいない。
姉さんはこれを記している最中に襲われたのではなく、
おそらく最期の瞬間を予期して丁寧に筆を置いた。
この御簾の前に端座して死を受け入れたのだろう。
【智】
「………………」
僕に姉さんの持っていた力が受け継がれている。
それは本当なのだろうか?
実感はないが予感はあった。
ただ漠然と。
何かが見える気がする。
【茜子】
「おそらく、使えば使うほど力は馴染む。
あなたは見たくもない未来を、これから見るようになる」
【智】
「それでも、見ないと。みんなは惠に追いつけない。
惠はどこかで僕を待っているんだ」
【伊代】
「わかるのね、もう」
【智】
「これは僕の単なる予想。だけど自信はある。
惠のところに僕が行かないと……」
【伊代】
「あの子のことは止めてあげたい。でも、あなたには行って欲しくない。どうすればいいのかしらね? こんな矛盾した気持ちに整理をつけられない時は……」
【茜子】
「ボク女2号……惠の心も入り組んで矛盾に満ちていました。
誰かに決着をつけて貰いたがっています」
【智】
「僕もどうしたいのかはまだよくわからないよ。ただ、惠に会う。あとはそこで考えるよ」
【伊代】
「…………そうね。このままには出来ないもんね」
【智】
「うん」
もはや息をしない姉さんに視線を落とす。
予知……『未来を視る』力。
使い方なんてわからない。
伊代だって『力』を使ったとき、なんで自分が
そんなことができるのかわからないと言っていた。
そういうものなのだろう。
方法なんて知らなくても、望めば自ずから力は発揮される気がした。
【智】
「姉さん……」
祈るように目を閉じた。
惠は、どこ?
意識の奥、姉さんの姿へと問いかける。
こめかみがヒヤリと冷えるような感覚が起こって、
頭の内部に熱が集まる。
惠はどこで僕を待つ……?
惠と繋がるこの街のいくつかの場所が、次々と脳裏に映し出される。
この屋敷。
違う。
るいがベースを演奏していた通り。
違う。
かたつむりを見つけた辻。
違う。
閉ざされた高架下。
違う。
央輝たちとのレースのスタート地点。
違う。
惠が剣を振るったあのビルの上……。
あそこだ。
【智】
「――惠は、今朝僕らが行ったあのビルの屋上で待ってる」
【智】
「行こう。惠のもとへ」
【伊代】
「わたしもついて行くわ。わたしじゃ何もできないし言えないかもしれないけど、大事なのはそういうことじゃないと思うから」
【智】
「うん。伊代が一緒だと嬉しい」
【茜子】
「場所を教えてください。茜子さんはみんなを集めてきます。
それでいいですね」
【智】
「おねがい」
姉さんの日記帳を閉じて、
何気なく片割れの剣を手に取った。
衣服の中に隠すように携帯して立ち上がる。
【智】
「姉さん、さよなら」
最後に姉さんに声を掛けると、
僕たちは離れの戸を閉ざした。
勝手に体を運ぶエレベーターが、
このビルになくてよかったと思う。
踏み出す足の一歩ごとに意思の力を込め、
僕は階段を踏みしめる。
段数を数えながら惠を想った。
【伊代】
「あの子っていつも一人でいて、寂しいくせにそれを意思表示
できないで。ほっとけなかったのよね」
【智】
「惠は不器用だから。
不器用さに関しては伊代も負けてないと思うけどね」
【伊代】
「そうね。そういうとこわかるから、余計ほっとけなかったのかも。わたしが無理にあの子に関わりを持とうとしたのはいけなかったのかしら?」
踏み込まなければ、
呪いの秘密に近づくことはなかった。
惠の殺人も知らないでいられたし、
姉さんだって死ぬことはなかった。
それでも否定する。
【智】
「そんなこと、ないと思うよ。たとえ惠の言葉のほとんどに、
常に嘘が含まれているような状態だったとしても……」
【智】
「僕らが感じていた惠と居た時の楽しさは、惠だって感じてたと
思うから」
【伊代】
「そうね、そうだと良いわね。……ううん、きっとそう。
楽しい時に寂しいふりをするのは簡単でも、寂しい時に
楽しいふりをするのってむずかしいもの」
【智】
「うん。きっと惠と僕たちが過ごした時間は本物だったよ」
【伊代】
「過去形じゃないわ。今だって終わってない」
【智】
「そうだね」
あの楽しかった瞬間のひとつひとつは、
すべて本物だった。
惠は僕たちの大切な友達だ。
だからこそ、行かなくちゃ。
3階にたどり着き、真っ暗な廊下を渡る。
突き当たりを曲がった。
最後の階段がある。
ほんの数段登れば扉だ。
その向こうに惠がいる。
風は凪いでいた。
早朝の強い風が嘘のようだ。
下から聞こえる街の喧騒はあまりに遠い。
この場所だけが、現実から切り離されたようだった。
【惠】
「ずいぶん、早かったね」
【智】
「姉さんが教えてくれたんだ」
手すりに持たれて空を仰いだまま、惠は僕らを迎えた。
やはり惠は、僕たちを待っていたんだ。
【惠】
「双子故に……真耶が死んで予知の『力』は智に移ったと
考えるんだが、どうだい?」
【伊代】
「だから待っていたのね。どこに行っても、必ず行く先が
見えるはずだから」
【惠】
「ははははっ」
唐突に惠が笑う。
【惠】
「このまま去っても良かった。むしろこのまま去るべきだった。
だけど、智と伊代にだけは、最後にお別れをしなければならないと思ったんだ」
【智】
「待っていてくれて嬉しいよ。僕には、まだ惠に訊かなくちゃ
いけないことがたくさんあるから」
【伊代】
「わたしには喜んでいいのかどうかわからないわね。
みんなは、どうしたの?」
【惠】
「佐知子は逃がした。みんなは振り切ったよ」
他のメンバーはともかく、
るいの足をよく振り切れたものだ。
惠は、僕たちの知らない幾つもの技術を習得しているのだろう。
人の命を、奪うために。
【伊代】
「ねぇ、あなた。止めることは出来ないの」
【惠】
「出来るさ」
【惠】
「君たちが僕を止めるか、僕が君たちを止めるか」
【智】
「握手して仲直り、なんていかないのはわかってるつもり」
【伊代】
「わからないわ。何もかもわからない。正しくないことだけは
わかるのに……」
【惠】
「守る者と打ち破ろうとする者。なんて在り来たりの闘争だろう」
惠と僕、二人は鏡のように向かい立つ。
惠が顔の前に剣を立てて、ずらりと刀身を抜き放った。
【惠】
「さぁ、この舞台に幕を引く為に、共に終曲を踊ろう」
日差しを反射して撒き散らされる銀光は、僕の目を幻惑する。
自分の手の中にも同じ剣があることを思い出した。
柄を握る。
僕たちはこんな街中の単なる雑居ビルの屋上で、
二振りの剣を手に何をするつもりなのか?
まるで悲劇になりそこねた喜劇だ。
【智】
「こんなことをする意味なんてあるの?」
剣を握りしめ、問いかける。
【惠】
「智が勝てば、全てを話してあげるよ」
【智】
「…………この場所で、君は人を殺してた」
【惠】
「この剣に命を奪われたのは、すべて生きるに価しない悪人
ばかりだ。法の及ばない悪を裁く……それが僕のしてきた事」
【智】
「惠……君のいうことは、僕にはちっともわからない」
【智】
「このまま、何もかも曖昧なまま、君を行かせたくない」
【智】
「だから、僕は惠を止める」
惠は凄絶な笑みで答える。
【惠】
「ひとつ聞かせてくれないか、智、伊代。
正義とはなんだろう?」
正義――――
曖昧な言葉を曖昧に問いかけてくる。
道徳を踏まえることか。
法律を守ることか。
権威に従うことか。
どれも、きっと正しくない。
正しさなんて答はない。
それは線引き次第で幾らでも変わる。
【伊代】
「それは……確かに、法律に従ったからって、正義には
ならないけど……でも……っ」
【智】
「正義って言うのは、その時代や社会において多くの人が
望むことだよ」
【惠】
「ははは、らしくないな。そんな模範解答は!
僕たち呪われた者たちこそ『多くの人』に含まれない、
虐げられる少数ではないのかな」
【智】
「ごめんね。本当は優等生なんだ」
【伊代】
「何言ってるのよ、こんな時に」
冗談を交わしても笑えなかった。
大股に一歩、惠が踏み出してくる。
【惠】
「誰かが彼らを裁かなければ、より大勢が苦しんだだろう。
多くの人は、この正義を望むんじゃないのかな」
先月殺害されたという連続詐欺犯。
暴力団グループの一人だった男。
姉さんの力を、金の為に使わせていた大貫氏。
惠が刃を振るわなければ、今より多くの涙が流されたの
だろうか?
【惠】
「……ある非道な男がいてね。その男は忌まわしい手口によって
一つの家庭を破滅させた」
【惠】
「両親の末路がどうなったのかは知らない。
ただ、娘だけは男に捕らえられて夜の街に働きに出された」
【智】
「…………」
【惠】
「その男が殺されたのは偶然だ。娘はほとんど感情を失いかけていた。完全に壊れてしまう前に救い出せたのは幸運だった」
【伊代】
「それは……?」
【惠】
「佐知子だ。弟と妹が居たらしいが、助けられたのは
佐知子だけだった」
唐突な思い出話。
ここにも一人、惠の裁きで救われた者が居た。
佐知子さん――
にこやかな笑顔の裏に、凄惨な過去を隠していた。
【智】
「佐知子さん……、それで佐知子さんは惠の為に」
【惠】
「この手は、今までどれだけの血に塗れただろう。
だが、それは本当にいけないことなのかな」
答えられない。
法も正しさも、彼らは後ろからやってくる。
誰かが傷つき、血を流し、倒れた後で。
血は拭われ、洗い落とされ、平穏が来る。
では、傷ついた人たちは?
救われない。
傷ついた身体も、流された血も、失われた命も。
法と正しさでは救われない。
だから惠は自らの正義で裁く。
まだ犯されぬ罪を、犯される前に。
【伊代】
「あなたの行為を肯定するのは間違っていると思う。でも……」
【伊代】
「でもわたし、どこかでそういう行いを人知れず行う者こそが、
本物の正義だと言う気もする。あなたのような存在がいることを、心のどこかで望んでいたのかも――」
不完全な人間の作り出す、不完全なシステムたち。
社会は複雑で、罪とそれ以外の線引きは曖昧だ。
届かない場所は常にある。
惠はそこに自分の線を引く。
【智】
「伊代……」
【惠】
「僕のことを理解してくれて嬉しいよ、伊代。
君はいつも本当に優しい。覚えているかい?
あの雨の日、傘をくれたこと」
【伊代】
「………………」
思い出を辿る。
初対面には顔が引き攣った。
パルクールレースでは助けられた。
もう一度出会って、仲間だと知った。
不思議だけど面白い一面を見て、ずっと親しみが湧いた。
みんなと真剣に呪いについて調べた。
そして……。
【智】
「惠、僕は楽しかったよ」
【惠】
「智、僕は悲しかったよ」
【惠】
「本当に……夢見るほどに。ふふふ」
【惠】
「僕たちは孤独だ。
君ならわかるだろう。
呪いが僕たちを世界と別つから」
【智】
「……別たれているから、自分の好きにしてもいいって言うつもり?」
【惠】
「独善と善に、どれほどの違いがあるだろう。
それでどうする、智。
君は僕を否定するか。伊代のように僕を認めるか」
【智】
「やっぱり惠は嘘つきだ」
【智】
「君はまだ何も本当のことを言ってない。
なのに、そんな曖昧な理屈で、僕まで誤魔化すつもりなの?」
惠は凄惨に微笑する。
【智】
「――――――」
【智】
「僕は言ったはずだよ。わからないまま君を行かせられない。
だから、惠を止める」
【惠】
「なるほど、智らしい。美しい答だよ。
さぁ、僕の相手をしてくれ!」
言い終えると共に光が跳んだ。
惠の体が躍動する。
【伊代】
「きゃぁッ!」
【智】
「んっ!」
刃が閃く。
反射光の軌跡が、弧を描いて襲い掛かる!
咄嗟に突き出した手の先、剣の鞘が刃を止めていた。
細かな飾り彫りに刃の痕が穿たれる。
体で受ければ、ただでは済まない一撃。
【惠】
「智、君も刃を抜いたらどうだい? はは、それを持ってきたのは、最初からこうなるのが判っていたからなんだろう?」
本気で刃を振るう覚悟が、自分にあるとは思えない。
ただ少しでも軽くする為に鞘を捨てた。
【智】
「惠っ! 君の本当に望んでいたものはなんなんだ!!」
【惠】
「ただ……、平穏な日々」
楽しかった日々を懐かしむように、
惠の目が細められる。
それでも切っ先は落ちることなく、
僕らは古代ローマの剣闘士のように刃を持って対峙した。
【伊代】
「あなたたち、こんなこと馬鹿げてるわ! そんな殺し合いに
なんの意味があるのよ!」
【惠】
「伊代、君はどちらかの名前を呼んでしまわないように
気をつけておいた方がいい。君がこんなところで呪いの手に
捕まるのはとても悲しいことだから……」
【伊代】
「わたしのことより……!!」
【惠】
「はッ!」
【智】
「くぅっ!」
影を滑らせて、惠の剣が飛び掛かる。
空を薙いで火花と共に斬撃を散らした。
【惠】
「こんな気分は何年ぶりだろう。だから智、せめて楽しもう」
【智】
「惠……!!」
鋭い踏み込みから掬い上げる剣を受けると、
高い金属音が響いて手が痺れる。
開いた守りに突き刺さる切っ先は上体でかわした。
【伊代】
「やめて、やめてよ!」
伊代の声さえ遠い。
まわりの現実はもっともっと遠くて、
ここにはまるでリアリティの欠片も残っていない。
【惠】
「はッ! 打ってこないのかい!?」
【智】
「出来る訳ないよ!」
横(よこ)薙(な)ぎの剣を弾く。
惠の斬撃は途切れない。
【惠】
「んっ! はっ! はぁーッ!!」
【智】
「くぁっ! ん……!!」
1合、2合と火花を散らして、僕と惠は踊る。
刃が欠けないのは、惠が斬撃に全力を込めていないからだ。
僕に手加減しているわけじゃない。
これら薙ぎの剣は全部フェイントなんだ。
とどめを刺す気になったら、惠は必ず突いてくる。
【智】
「はぁッ!!」
【惠】
「んんッ! ……ふふふ、『視(み)える』んだね? 智」
気がつくと、次々に惠の剣を捌いていた。
姉さんの遺した『力』……。
【惠】
「智ッ!」
【智】
「くッ!」
刃が来るはずの場所に剣を合わせる。
また火花が散った。
【惠】
「楽しいよ。とても楽しいよ、智ッ!」
【智】
「どうしてかな、僕も楽しい……気がするよ!」
コンクリートを踏む靴底がキュっと音を立てて、
煌きながら汗が散る。
まるでテニスの試合でもしてるみたいだ。
【惠】
「智! 僕たちはある意味でよく似ていて、そして、正反対にいる。コインの裏と表のように」
【智】
「それはどういう意味? やはり解り合えた? それとも最後まで解り合えなかった!?」
【惠】
「さあね!」
二振りの剣から撒き散らされる光と、繰り返される金属音。
白昼夢のような世界に酩酊を覚える。
【智】
「ん……っ、はぁッ!」
【惠】
「威嚇で僕が怯むとでも!?」
【智】
「んくッ」
見え透いたフェイントは容易くかわされる。
足元を掬う一撃に再び飛び退いて、なんとかバランスを保つ。
【惠】
「智、もっと楽しもうじゃないか!」
踊るように振るう惠の剣。
視(み)えているからこそ捌(さば)けるが、
追い詰められればそうも行かない。
円を描いて動き出す。
【惠】
「追い詰められるのを避けるつもりかい?」
【智】
「惠にも予知能力があるんじゃない?」
【惠】
「ははは、そうかも知れない……なッ!」
【智】
「ぐぅ……ッ!」
鼻先をかすめる一撃に仰け反る。
さらにもう一閃。
弾きながら下がる。
【惠】
「いつまでそうして守り続ける!?」
【智】
「わからないよ!」
【惠】
「智、打って来いッ!!」
知らず落ちてきていた僕の剣先を弾いて、矢のような刺突が来る。
全力で床を蹴った僕の衣服を、切っ先が裂いていった。
【伊代】
「ねえっ!」
伊代が叫ぶ。
だけど、その声はやはり遠い。
【惠】
「止めないでくれ、伊代。僕たちは……」
【伊代】
「ええ、もう止めないわ。止めたって聞かないでしょ?
わたしにも、これがあなたたちにとって必要なんだってことが
解るから……」
【智】
「伊代……!」
伊代と言葉を交わしながらも、互いの剣は止まらない。
軌跡の円弧を打ち合わせて、幾たびも高らかに剣を響かせる。
或いは跳び、
或いは疾り。
身体の限界を超えて、刃を振るった。
【伊代】
「ただこれだけは言わせて。あなた……」
その一言にはっとした。
遠かった伊代の言葉がすっと心に透き通ってくる。
【伊代】
「たとえどんな結果になっても、わたしが抱きしめてあげるから」
【智】
「伊代、ありがとう」
伊代の心が繋がる。
刃が間近の空気を裂くたびに、冷えていった胸の奥に暖かいものが広がるようだった。
【惠】
「智! 君が羨ましいよ。受け入れてくれる友がいるのは
素晴らしいことだ!」
【智】
「僕たちは、惠も受け入れてるつもりだけど!?」
【惠】
「それは無理だ。
人は……死に近すぎるものを受け入れられない」
【智】
「それでもッ!」
それでも惠を受け入れる。
だが受け入れてどうする?
たとえ僕たちを欺いたことを赦し、
姉さんの死を赦したとしても、
まだ足りない。
誰が裁く?
どうすれば裁ける? 赦せる?
僕はどうする?
迷宮に落ち込みそうになった思考を、物音が引き戻した。
【るい】
「メグム! トモ!!」
【智】
「みんな……!」
るいを先頭に、みんなが屋上にやってきた。
最後尾には、みんなを連れてきてくれた茜子がいる。
みんなが来てくれた。
みんなさえ来てくれれば……。
あるいは惠を止められるかも……!
【伊代】
「危ないっ!!!」
【惠】
「智、楽しかったよ」
伊代の声に弾かれて体が動いた。
しなやかに筋肉を躍らせて、惠が渾身の突きを放ってくる!
ただもう、無我夢中で手を突き出した。
………………。
【智】
「っ………………」
刃に照り返す光は銀色から黄金色の間、
さまざまに微細な色彩を混ぜて綺麗だった。
強い陽光に熱せられた空気が地面のそばで揺れる。
遠い下界の喧騒。
風。
惠の髪が揺れた。
世界から音が消えて、
静謐(せいひつ)の瞬間が支配する。
時までも停滞した。
手に、重い感触。
【惠】
「………………っは」
………………。
音が蘇り、時間は歩みを取り戻す。
コンクリートに、滑り込んだ二人の足が長い跡をつけていた。
埃っぽく乾いた屋上のコンクリート。
そこに、赤いものが滴る。
【智】
「惠……! 惠…………!!!!」
僕の手の中で剣が、惠の胸を深く貫いていた。
【伊代】
「ひ……っ!」
伊代の息を呑む音が一番早かった。
名を呼ぶことができないせいで、言葉を選ばなかった伊代が
誰よりも迷いなく反応できたのだろう。
【るい】
「メグムっ!」
【央輝】
「オマエ……ッ!」
【こより】
「惠センパイ!? ともセンパイ!?」
口々に驚き叫びながら駆け寄ってくる。
僕は怯えるように柄から手を離す。
振り返ると、みんながスローモーションに見えた。
【花鶏】
「あんたたち……なんてこと……!」
【茜子】
「こんな……、どうして……」
みんなが来てくれた。
みんなが来てくれた、のに。
【惠】
「うぐ……ッ! ぐ……、と、智……」
【智】
「……………………惠!!」
血の流れ出る胸を押さえながら、
よろめく足取りで惠はビルの隅の方へ近づいていく。
刺してしまった。
僕は惠の胸を! 凶器で貫いてしまった!
皮を裂き、肉を突き破り、血を溢れ出させる。
怖気立つような感触が手に蘇る。
全身が震えた。
【惠】
「……こ、これでいい……」
転々と赤い滴りを残しつつ、惠は不確かな足を送る。
どうしようもなく体が震えて、惠の側に辿りつけない。
声を出すのがやっとだった。
【智】
「めぐ……む……?」
【惠】
「……智……、本当に……楽しかった」
惠の手が手すりに掛かった。
ぐ、と肩が持ち上がって、片手に体重が乗る。
【伊代】
「ちょ、ちょっとあなた……っ! 待って! ダメッ!!!」
伊代が走る。
だけど。
【惠】
「伊代、かたつむりはどこへ行けばいいのだろう?」
伊代の指先は惠の衣服の裾に微かに触れたのみで、
空しく宙を掻いた。
惠の体が大きく傾いた。
【智】
「惠ーーーーーっ!!!!」
二振りの剣を抱いたまま、
惠はビルの向こうへと落ちていった。
〔夢の終わり〕
盛夏の近づく季節の中、
強い陽光が屋敷を照らしていた。
屋敷の塀越しに見える草木はいよいよ繁茂して、
あの離れを包み込んでいることだろう。
【浜江】
「…………」
浜江さんが門を閉ざす。
あの日から3週間経つ。
あれからすぐに僕らはビルを駆け下りたけど……。
下に、惠の姿はなかった。
胸に剣を受け、屋上からまっさかさまに
落ちてもなお、命があったのか?
あるいは呪いや祟りといった見えざる手に、
その骸までもがさらわれたのか?
とにかくそこに残されていたのは、
大量に飛び散った血の跡だけだった。
【智】
「最近、暑くなったね」
【伊代】
「そうね……」
僕たちは、惠を捜さなかった。
ただそうした方がいいと感じたからだ。
それにあの傷ではもう……。
考えないでおく。
惠はまるでそこに居なかったように消え失せて、
佐知子さんの行方も、最早わからなかった。
数日間、僕は心を喪ったように呆然と過ごした。
この手に残る剣の感触。
怯える僕の傍らに、ずっと付き添ってくれたのは伊代だ。
悪夢に怯えたあの夜のように、
僕を支え続けてくれた。
ほとんど覚えていないままに、
姉さんの葬儀も済ませた。
親族も居ない、寂しい葬儀だった。
【茜子】
「暴食女帝は今はどこで暮らしてるんですか」
【るい】
「私? また廃墟暮らし。今度は工場でね。すっごく広いよ……
すっごく暑いけど」
【こより】
「るいセンパイから、逞しい野生の息吹を感じますよう」
【花鶏】
「土下座して頼めばまた泊めてやらないでもないけど」
ほんの少し、翳りを残した表情で近況など語る。
花鶏は両親と和解して家に帰り、
茜子も居候を続けている。
るいだけがまた野宿に戻った。
飽きた、というのがその理由だそうだ。
まだ傷は癒えないけれど、
着実に僕らはまた歩き始めていた。
次の季節が来るころには、
きっと憂いを吹き飛ばして笑うことができる。
いつもは水泳授業の誤魔化しに頭を悩ませる季節が、
今年は楽しみだった。
【智】
「夏、早く来るといいね」
【伊代】
「そうね……、海にでも行きたい気分……」
【智】
「海はちょっと……僕が水着、無理でさ」
【伊代】
「あ……そうだったわね」
可笑しくなって少し笑顔を浮かべたけれど、
笑い声までは出なかった。
僕らから少し離れた場所、
庭から伸びた枝葉が作る木陰の下で一人立つ央輝。
物憂げに屋敷を眺めていた。
【央輝】
「……………………」
僕たちもつられて屋敷を見る。
隅々まで頭に思い描くことができた。
花鶏が蛇に怯えていた1階の部屋。
その続きにある玄関ホール近くのるいの部屋。
廊下の隅にあるのは、佐知子さんと浜江さんの部屋だ。
2階には僕と伊代とこよりの部屋が三つ並んでいる。
それから屋根裏の茜子の部屋。
そして、惠の部屋。
【智】
「僕たちはこの屋敷で、どれくらい過ごしたのかな」
【伊代】
「だいたい、1週間くらいかな」
【智】
「そっか。意外と短かったんだね」
【伊代】
「そう。そうね…………」
1週間という日々。
長かったのか、短かったのか。
気の早い蝉が数匹、庭の木立で鳴いている。
惠も姉さんも佐知子さんも、
みんな居なくなってしまった。
もはやこの屋敷には誰も居ない。
今はまだ僕らの過ごした痕跡があるだろうけれど。
それも、やがて消える。
音を立てて、門が閉ざされた。
これでもう、僕らがこの屋敷に踏み込むことは決してない。
主を失った屋敷は今、静かに閉ざされる。
低く穏やかな声だった。
最初、その声がどこから発しているのか、
僕は気づかなかった。
屋敷にあてていた目を、
目眩くまぶしい光の中に彷徨わせて見つけた。
浜江さんだった。
【浜江】
「理由は私にもわからん」
聞くものも確かめず語り始める。
【浜江】
「惠さまが、呪いを守ろうとしておったのは知っていた」
浜江さんに向かい合ったり、
そばへ寄ったり、あるいは屋敷を見つめたまま。
みんなはそれぞれの方法で浜江さんの言葉へ耳を傾けた。
【浜江】
「佐知子が惠さまに助けられたのはあんたらも聞いたとおり。
『屋敷の祟り』とやらも、惠さまの身を……呪いのことを案じた佐知子が勝手にしたことじゃろう」
【浜江】
「あの子は惠さまに深く深く恩義を感じとって、それこそ、
命も惜しまんほどだった」
【浜江】
「私自身も、惠さまのもとで働くことに誇りを覚えとった。
元の主の大貫さまは、自分の利益しか考えんお方で、
あの方が亡くなられた時は正直ほっとした」
【智】
「でも……、大貫氏は惠と僕の姉さんが手にかけたって……」
【浜江】
「本当は……私らも薄々感づいとった。
ただ、あの当時、お二人は大貫さまに道具みたいに扱われて」
【浜江】
「大貫さま以前のことは私も詳しくは知らんが、真耶さまは
ずっと離れに閉じ込められておった」
【浜江】
「惠さまはまだお若いのに奴隷みたいに働かされとった。
もしかしたら、惠さまは大貫さまの為に人を殺めることも
してきたかも知れん」
【浜江】
「人を殺めるのはそりゃあいけないことだ。
だが、大貫さまが亡くなった時、私はわからんようになって
しもうてな……」
浜江さんが何歳になるのか、僕は知らない。
けれど、僕より遥かに長い時間を生きて、
いくつもの思慮を重ねてきただろうことは確かだ。
人を殺すのはいけないこと。
改めて考えるまでもない。
そんな当たり前のはずのことが、揺らいだ。
【伊代】
「その気持ち、わかります」
みんなの気持ちを伊代が代弁する。
僕たちも同じ思いだったから。
【浜江】
「思えば私が見て見ぬ振りをしたのが、いかんかったのかも知れん」
浜江さんの口は、きっと一文字に引き結ばれていた。
この人は頑なに信じている。
自分の信じた惠という主は、
決して間違っていなかったと。
本当に正しいのは何か。
僕たちは判断するすべを持たない。
もしも浜江さんが大貫氏の事件を告発していたならば、
今ここにある結果は変わっていただろうか?
わからない。
【智】
「浜江さん。僕にはどうしてもわからないことがあるんです」
【浜江】
「………………」
何も言わず、浜江さんは目で問いかける。
もともと饒舌なたちではなかった。
【智】
「守らないといけないいくつもの秘密を抱えながら、
惠はどうして僕たちをこの屋敷に招いたんでしょうか?」
あの日、居場所を奪われた僕らを招待したのは惠だ。
断ることは簡単だった。
そしらぬ顔をしていれば良かった。
それなのにどうして?
今でもわからない。
惠は僕らにもたくさんの嘘を重ねた。
冗談のように、全てを隠すベールのように。
言葉はいつも曖昧だった。
それなのに…………
その紗幕の内側へ、この始まりと終わりの屋敷に、
わざわざ招き入れたのは何故だろう。
危険なことはわかりきっていたはずなのに。
【浜江】
「惠さまの本心は、惠さまにしかわからん。
ただ、私はあんなに楽しそうな惠さまを見たのは初めてだった」
【智】
「…………」
【浜江】
「呪われた身……ずっと惠さまは孤独だった。
私や佐知子はいたが、あの館と同じにやはり寂しくはあったろう」
【浜江】
「自由に……なることを、望んでおられたのかもしれん……」
自由。
何から自由になりたかったんだろう。
呪いからか。呪いの守護者であることか。
それとも……。
結局、惠は、本当のことを何一つ告げることなく消えてしまった。
人と人は繋がらない。
友情も愛情も信頼も、その間を埋めることはできない。
どこか宙ぶらりんの気分で空を見上げた。
【智】
「惠」
浜江さんがひとつ、ふたつと咳をした。
喉の奥で苦しげな音を立てる、老人の咳だった。
【伊代】
「………………」
呪いを守る自分、
秘密を抱える自分、
人の命を奪う自分。
惠は、どうしようもなく歪んで行く自分を、
僕たちに止めて欲しかったのかもしれない。
そのために僕たちは招待されたんじゃないだろうか?
最後の白昼の屋上で剣を交えた、冗談みたいな時間。
胸に剣を受けた惠の姿を思い出す。
裁かれるために触れ合ったのか。
それとも。
【智】
「惠っ! 君の本当に望んでいたものはなんなんだ!!」
【惠】
「ただ……、平穏な日々」
平穏な日々……僕らにとっては呪いのない日々がまさにそうだろう。
そして……惠はただ……寂しかったのかもしれない。
浜江さんがいくつもの皺の刻まれたその手で、
屋敷の門に錠前を下ろす。
もう一度僕は、屋敷を振り仰いだ。
『かたつむりはどこへ行けばいいのだろう?』
あの雨の夜、語り合ったこと。
僕たちは住処を追われ滅び行くかたつむりのようだ、
と惠は言った。
呪いという印で隔絶されて、
人の世からはぐれて。
安息の場も見つけられず、街に迷って。
逃げる先さえなかった僕たち。
それでも生きていける、そう言ったのは僕と伊代だ。
惠は民家の壁に逞しく生きるかたつむりを見つけて、笑った。
【智】
「惠……」
単なる僕の希望であるかもしれない。
だけど僕は、これが姉さんの『力』が見せる幻視であればいいと
願う。
惠は、どこかで今も生きている気がした。
惠――
かたつむりだって、どこかで必ず生きていけるよ。
すべて居場所を失ったとしても、
必ずどこかで生きていけるよ。
だから。
だからいつか……。
【伊代】
「それじゃ……これでお別れですね」
伊代は寂しげな、だけど感情をうまく表せない下手糞な笑顔で
笑った。
【浜江】
「ああ。あんたも、達者で」
【るい】
「ハマさん! 言いたいことたくさんあるけど、
私口べただから……だから……さよなら!!」
るいは、こみ上げる思いを抑えきれずに、涙声で叫んだ。
【浜江】
「あんたの食べっぷりは本当に良かった」
【央輝】
「……世話になった」
央輝は、目を合わせることを恐れるように。
【こより】
「浜江さん! お元気でっ! ほんとにほんとに、どうかずっと
お元気でっ!!」
こよりは自らの元気を、
この孤独な老婆に分け与えるように。
【花鶏】
「お世話になりました。この恩はいつか然るべき形でお返しさせていただきたいと思います」
花鶏は、最後まで精一杯気取って。
【茜子】
「これからは猫を飼って暮らすと吉です。
猫は地上最強生物ですから」
茜子は飽くまで自分なりの優しさで。
【智】
「本当に、本当にお世話になりました。浜江さん、さようなら……」
尽きせぬ思いを一言に託して告げる。
【伊代】
「本当にお世話になりました。さようなら……お元気で」
【浜江】
「…………」
浜江さんが、深く深く頭を下げる。
それは惠のための祈りにも見えた。
空が青く抜けていく。
日々いや増す日差しを受けて、
庭の木立はより繁茂していくことだろう。
誰も居ない屋敷で、
静かな時間だけが積み重ねられて。
やがてあの離れも木々の中に埋もれる。
僕たちが綺麗にした屋敷の部屋も、
また新たに埃が積もっていく。
古びていく館の中に置き去りにした想い出を、
門扉と共に鍵をかけて。
僕たちは行く。
来るべき夏とその先へ。
さようなら、惠――
〔届きますように〕
一山に積んだの本。
背表紙が見えている本が5冊、
背表紙が隠されている本が3冊。
【伊代】
「ふぅ〜………………」
僕は伊代と二人で図書館に来ていた。
見せてる5冊は勉強用、
隠している残りの3冊はダイエット関係だ。
いつものことである。
どんなにダイエットのことを調べても、伊代にとって理想の答は
見つからないらしく、さっきからページは止まったままで生暖かい息を吐いてばかりいた。
【伊代】
「ふぅ〜………………」
家が近いこともあってこれまでもしばしば利用してきたけれど、
最近利用客は減ってる気がする。
現代人の本離れ。
運営者ならぬ僕とて寂しさを覚えるものだ。
【智】
「ねぇ、伊代。
伊代も簡単な調べものならネットですればいいのに」
彼女は天才ハッカーなアナログお嬢さんなので。
【伊代】
「いいの! 本が好きなのよ」
足繁く図書館に通うのだ。
【智】
「なにかと損な性格してるなあ」
【伊代】
「それに……ここまで来た方があなたに会えるし」
【智】
「え……えと。い、いやぁ、照れてしまいます〜」
手痛い反撃を被った。
大きなダメージに僕の顔が、
警告灯のように赤くなる。
【伊代】
「ねぇ、……」
【智】
「な、なに?」
二人だけの呼びかけだった。
無言の場所には僕の名前が入る。
名前を呼んで貰えないことは寂しくもあるが、
呪いがある以上仕方がない。
呪いを解く手段はすでに失われてしまった。
だけど、もう僕たちは呪いを解くことを追求しなかった。
【伊代】
「わたし、まだ考えてるの」
【智】
「……惠のこと?」
表情からそう察する。
瞳の中には懐かしさ、悲しさ、寂しさ、
いろいろなものが入り混じっていた。
【伊代】
「あの子のしてたことって、本当に悪いことだったのかな。
本当に正しいことって、なんなのかな?」
僕も考えた。
手に残った剣の感触が消えるまで
悩み続けて、自分なりに出した答がある。
【智】
「……正解なんて、ないんだと思うよ」
本当に正しいこと。
そんなものは存在しないのだ。
だから、僕たちは自分が信じた正しいことをするしかない。
【智】
「どれが最高の方法かなんて誰にもわからない」
【智】
「伊代がどれだけ本を読んでも、最高のダイエット法が
見つからないのと一緒だよ」
【伊代】
「そこでダイエットの話はないでしょ!!」
テーブルから立ち上がって過剰反応する伊代が、
大きな声を出してしまったことに気づいて、
気まずそうに周りを見回す。
暇そうな図書館には騒ぎを注意する人も見当たらなかった。
【智】
「何度も言ってるけど、伊代はダイエットの必要なんかないってば」
【伊代】
「あなたは楽観的なのよ! これは恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい問題なのよ! わずかな油断が、致命的な破局を生みかねない事態もあるんだから!」
【智】
「恐ろしい強調し過ぎ。
伊代はそのままで十分、すごく可愛いって言ったんだよ」
【伊代】
「え、な、ちょ、ななな、な、なに!?」
仕返し成功。
今度は伊代の顔が赤く点灯した。
【智】
「ふふふふ」
【伊代】
「し、仕返しのつもり!? もう!」
テーブルを挟んでいるせいで、
届かないパンチを伊代が放ってくる。
腰が入ってないので、
猫がエサをねだってるみたいだった。
しかし侮ってはならない。
本気を出した伊代は恐ろしいのだ。
花鶏をブチのめし、大怪獣るいですら
轟沈させる爆発力を秘めた女、それが伊代だ。
【伊代】
「こら! こら! もうっ!」
【智】
「ごめんごめ〜ん」
僕らがじゃれ合っていると、図書館を図書館とも思わぬ
いつもの連中が、足音も高らかにやってきた。
【るい】
「トモとイヨ子、はっけ〜ん!」
るいにまとわり付くようにこより、続いてのそりと茜子、
一番後ろにはニヤニヤ笑う花鶏が居た。
【こより】
「最近二人でこそこそ会っててあやしいですよう!」
【茜子】
「デキてるのか」
【花鶏】
「そういう時は、ちゃんとプロのわたしも混ぜなさいよぉ〜?」
花鶏が手をワキワキさせながら襲い掛かってきた。
【智】
「僕と伊代はそゆのじゃないって〜!」
【伊代】
「ちょっと、ここ図書館よっ!?」
【花鶏】
「白状しなさい。わが組織にはポリグラフ装置もあるのよ」
【茜子】
「ポリグラフでーす」
【こより】
「鳴滝も微力ながら、協力いたしますよっ!」
【るい】
「おもしろそうだから、私もやるよ〜」
僕らはサファリパークの肉食獣コーナーに
投げ入れられた肉塊のようにもみくちゃにされる。
【智】
「わわ、うひっ! 今舐めたの花鶏でしょ!!」
【伊代】
「ちょ、ちょっとメガネ歪む、メガネ歪むってば〜っ!!」
こよりはともかく、るいの怪力はやばい。
あと、花鶏の指先もやばい。
【花鶏】
「解剖調査よ!」
【こより】
「サー・イエス・サー!」
【るい】
「さー・いえす・さー!」
【智】
「ちょ、解剖関係ないし!!」
【伊代】
「こら、いきなりスカートの中に攻めてくるなッ!」
もはやそこが図書館であったことなど頭からかき消えて、
のたうちまわりながらもがいていると、ぬうっと目の前に
茜子が現れた。
【茜子】
「ポリグラフでーす」
いわゆる嘘発見器、ポリグラフ的能力を持つ茜子による尋問に
かかったら、僕と伊代がこっそり付き合ってることがバレてしまう。
芋づる式に僕の性別までバレてしまったら、
恥ずかしいどころか死んでしまう!
こ、この平和な日常に潜むおぞましき死の恐怖!
僕は、かび臭く忌まわしい遥か深遠の地底より伸びる
名状し難き陰鬱な死の化身の触手が這いずる身の毛もよだつ
物音を耳にして総身が粟(あわ)立つような慄然(りつぜん)たる思いに……!!
【茜子】
「どきどき茜子さん神判〜」
こ、こんなホラー妄想をしている場合ではない!
知恵と勇気で、目前に迫る破滅を回避しなければ。
【智】
「そ、そうだ! 駅の裏に潰れた携帯屋があったでしょ?
あそこ新しい食べ物屋さんになったんだよ」
【るい】
「……お?」
るいの手が止まった。
チャンスだ。
【智】
「あとパフェあるよ! すごいの!」
【こより】
「……ほほーっ?」
こよりも機能停止。
茜子はどうすればいいのか、
さっぱりわからない。
だが、花鶏さえ止めれば!
【智】
「さらにそこのウェイトレスの子、すごく可愛いよ!
しかもメイド風の服でスカートすごい短いの!」
【花鶏】
「……ほぉ……!」
花鶏の手も止まった!
こ、これで……。
ついに解放されたと思っていた僕を、
最強の手が捕まえる。
【智】
「ええっ!?」
【伊代】
「ちょっとそれ、詳しく聞かせて貰いたいわね……!」
【智】
「ちょ、伊代!? く、首しまるよ……!」
【伊代】
「すごく可愛いって? スカートすごい短いって……!?」
【智】
「違……、ここ、そういう反応するところと……違……!!」
【茜子】
「おお、ボクっ娘の顔面が今、レッドからパープルへ」
【智】
「ぐええ」
伊代! 伊代!
本当に、本当に……!
空気読め!!!!
もう一度名状し難い死の囁きを聞きかけたところで、
どうにか僕は解放された。
顔色も元に戻った。
図書館を抜け出すと外は快晴。
伊代のメガネは真上からの陽光を受けて、
眩しそうに煌いた。
【こより】
「それでそれで、目標のお店は何時の方向に位置しているので
ありますか!」
【智】
「ん、あっちだよ」
【伊代】
「あなたはボックス席の奥よ!? わかった!?」
【智】
「重々承知しております」
【花鶏】
「本当に怪しいわねあんたたち……」
【るい】
「何食べようかな。今日はあんまり食欲ないんだけど」
【茜子】
「嘘つくな」
こよりが優美な曲線を描いて滑り出した。
人通りの多い道でも、
こよりのスケートは自在に走り回る。
【こより】
「でも毎日図書館とかお店とか行くのも大変ですね〜。
なんか新しい溜まり場、確保しないと」
【るい】
「う〜ん、私の家なんかどう?」
【伊代】
「私の家って、それ廃工場でしょ! もうちょっとまともな家
探しなさいよ……、年頃の女の子なんだからそのへんの事、
もうちょっとちゃんと考えていかないとあなた……」
【茜子】
「くどくど大魔委員長が出たぞー」
【花鶏】
「大魔委員長って何よ」
【智】
「地獄が王制じゃなくて委員制っていう新しい設定だね」
目的の店は駅裏、駅の階段を上って回ってもいいけど、
踏み切りを渡って行ったほうが楽だ。
るいやこよりは階段でもなんでもるんるん上っていくが、
伊代や茜子がへばってしまう。
【智】
「あ、これ……」
【るい】
「どしたの、トモ?」
【こより】
「なんでありますか?」
【智】
「ん、ちょっと。踏み切り渡ってすぐのとこだから先に行ってて」
【茜子】
「OK。では茜子さんたちは目的地もわからないまま全速力で
あてもなく進んで、みんな散り散りバラバラに」
【伊代】
「ゆっくり行けばいいでしょ! なんでそこで急ぐのよ!」
【花鶏】
「それじゃ行ってるわよ? そこの胃袋女がよだれ垂らしてるし」
【智】
「うん。すぐ追いつく」
みんなの賑やかな背中が遠ざかるのを見てから、
僕は駅前まで少し戻る。
そこには誰が利用してるとも知れない掲示板があった。
【智】
「……これ、まだ消されずに残ってたんだ」
央輝を探すときに書き入れた、
僕たちが持つ呪いの痣。
コンビニのなんかはいつのまにか
全部消されていたけれど、ここだけはまだ残っていたんだ。
僕は痣のマークの下に書いてある
Webアドレスを消して、新たな言葉を書き入れる。
懐かしい友達のことを思い出しながら――
【伊代】
「……みんな待ってるわよ? 何してるの?」
僕が一人掲示板に文字を書き込んでいると、
伊代が戻ってきてくれた。
伊代はメガネを直しながら、
僕の書き込んだものを覗き込む。
【伊代】
「…………これ」
【智】
「うん」
そこには僕が、いつかこれを読んでくれればいいなと、
友達に宛てて書いた言葉があった。
こんな掲示板の落書き、
いつまで残っているかわからない。
だけど、きっと。
届けばいいと願う。
孤独な僕らの孤独な友達。
寂しさが僕らを繋いだのか。
あの日々の記憶が夢のようによぎる。
惠、佐知子さん、それに…………。
【伊代】
「思いだしてる?」
【智】
「短い間に色々なことがあった」
【伊代】
「お姉さんのこと、残念だったわね……」
【智】
「正直、姉弟っていってもほとんど覚えてなかったから。
そんなには辛くない……」
でも、姉さんは僕をずっと見ていてくれた。
待っていてくれた。
【智】
「辛くないのが辛いって、あるんだね、伊代」
【伊代】
「…………」
【智】
「生きていてくれたら……これからたくさん色んなことを
したかった。今までの分まで」
伊代が寄り添って、
黙って手を握ってくれる。
そのぬくもりに、手のひらをすり抜けていった
たくさんのものを思う。
惠、佐知子さん、それに姉さん。
あの屋敷での、幻のような幸せな日々。
すれ違った僕らの間に、ほんの一瞬でも、
重なった心があったと思いたい。
夏の近い空の下。
ここはどこまでも呪われた場所だ。
正しさを求めても答はなく、
差し伸べる手は最後まで届かない。
【伊代】
「届くといいわね」
この言葉が届くかどうか、
今の僕は姉さんの『力』で知ることができる。
でも確かめないでおこう。
未来は知らないままでいよう。
僕は伊代と顔を見合わせて微笑み、
ただ信じることにした。
大切な友達にこの思いが届くことを。
『惠へ、僕たちは元気にやっています』