〔プロローグ〕
突然空が開けた。
赤い夜だった。
息が乱れて心臓まで吐きそうだった。
腕を引かれたまま一気に階段を駆け上がる。
濃い闇に足下も定かでない。
頼りは目の前の、ほんの30分前に会ったばかりの、
僕の腕を取って走り出した、
まだ友達にもなっていない小さな背中だけ。
【惠/???】
「黒い王子様は女の子を連れて去るのだという」
【惠/???】
「とりわけ美しい女の子が選ばれる」
【惠/???】
「全部ネットの噂だ」
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
ネットで読んだんだけど呪いの王子様って本当の話?
もう一回読んでみようと思ったらもう無いね。誰か死ってる人いない?
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
それ吸血鬼の話じゃなかったっけ?
名前:名無しさん[ 投稿日:20XX/04/08
自分で探せage
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
女の子連れてくって聞いたけど
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
kwsk名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
ツレに聞いた話。
田松市の旧市街のどっかに封鎖されたビルがあるらしいんだけど…
同級生がそこにいって帰ってこなかったんだって
心配で見に行ったツレが出たの見たって
危険な場所(霊的にも地形的にも)だって
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
そこしってるwwwww
駅から10分ぐらいのところに住んでんだぜ
霊感ある友達が嫌な雰囲気だとか言ってたんだよな
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
つか、人身売買だろ
名前:名無しさん[ 投稿日:20XX/04/08
ネウヨ黙れ
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
山賊王に俺はなる!
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
誤爆?
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
だいたい連れて行くってどこにだよ
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
北の国
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
↑天才現る
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
↓次でボケて
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
マジ怖い話なんだけど・・・
上級生のヤバイグループが見たって。
真っ黒なライダースーツとメットで、
その時何人か死人が出て、生き残った子は、顔面蒼白で何も語らなかったらしい。
(というか全員震えて言葉を発することすら出来なかった)
その後も決して何も言わなかったんだって。
彼らが何を見たのか、どんなことが起こったのか。
未だに分からない・・・・・
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
>真っ黒なライダースーツとメットで、
王子関係ねーよ
他人を信じるなとしたり顔で言われたことがある。
信じる信じないと嘯いたところで、
それは選択肢のある状況での優雅な楽しみだ。
余暇みたいなものだ。
時と場合と状況が選択の余地を奪うことがある。
よくある。
【るい】
「早く早く! 何やってんの、急がないと死んじゃう!」
追いたてられていた。
泣きそうだ。
何でこんな目にあうのか。
気分は狩りだ。
それも狩られる獲物だ。
下への道はとっくになくて。
だから逃げる。
薄暗い廃ビルの中を、唯一の活路の上へと急ぐ。
【智】
「ちょ、ちょっと待って、待ってお願い! 痛い痛い痛い、
腕ちぎれちゃうの〜〜〜!!」
【るい】
「気合いで何とかせい!」
【智】
「物事は精神論より現実主義で!」
【るい】
「若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!」
【智】
「少年の大きな夢とは関係ないよ、この状況!!」
【るい】
「少女だっつーの!」
【智】
「あーうー」
涙声になった。
彼女は聞いてくれない。
肘からちぎれちゃいそうな力で、僕の腕を引いて、上へ上へ。
階段を蹴る。二段とばしが三段とばしに加速する。
何度も足がもつれそうになった。命にかかわる。
ラッセル車みたいに突っ走る彼女の腕は鋼鉄の綱だ。
転んでもきっとそのまま引きずられていく。
【智】
「きゃあーーーっ!!!」
【るい】
「根性っ!!!」
【智】
「部活は文化系がいいのぉ!」
【るい】
「薄暗い部屋の隅っこでちまちま小さくて丸っこい絵描いて
悦に入って801いなんてこの変態!」
【智】
「ものすごく偏見だあ!」
親戚にゴリラでもいそうな文化偏見主義者な彼女が、
ドアを蹴破った。
空が開けた。
狭く暗い廊下から転がるように飛び出たそこは――。
屋上。
ビルの頂。
とうに夕刻を過ぎた空は夜に蒼く、そのくせ、
下界から昇る緋の色を残骸のようにこびりつかせている。
赤い夜だ。
【るい】
「どうしよ、こっからどうする、どこいく?」
【智】
「そんなこと言われても」
来る前に考えておけと突っ込みたい。
逃げたはずが追い詰められた。
いよいよ泣きたい。
彼女は広くもなく寂れた屋上をうろつく。
警戒中の野良犬みたい。
あれだけ走って息一つきれていなかった。
こちらは肩まで弾ませている。
自分が文化人だとは思わないけど、
彼女が体育人であることは確実だ。
【智】
「他に階段は?」
【るい】
「あるわけないでしょ」
【智】
「非常階段」
【るい】
「6階から下は崩れてる」
【智】
「なんでそんな上に住んでたの!?」
【るい】
「高い方が気持ちいいもん!」
【智】
「馬鹿と煙!?」
【るい】
「馬鹿っていった! ちょっと成績悪かったからって馬鹿にして、この! とても人様には言えない成績だけどあえて言う勇気ぐらいあるよ!?」
【智】
「聞きたくありません」
切なさで一杯の願望を述べる。
欲しいのは解決方法であって、
個人の学業的悲劇の論述じゃなかったりする。
【るい】
「くそったれ……」
【智】
「女の子は言葉遣いに気をつけて」
【るい】
「おばさんくさいぞ」
彼女が歯がみする。
熊のように落ち着き無い。
そうこうしている一秒一秒に、
僕たちは少しずつ確実に逃げ場を失っていく。
終点は、ここだ。
天に近い行き止まり。戻る道もない。
異臭が鼻をつく。目の前が酸欠でくらくらする。
絶望が胸にしみてくる。
こんな場所で、こんな終わりなんて、
想像したこともなかった。
終わりはいつでも突然で予想外だ。
きっと世界は呪われている。
皮肉と裏切りとニヤニヤ笑い。
ぼくらはいつでも呪われている。
【智】
「――皆元さん!」
【るい】
「るいでいいよ」
【智】
「こういう状況で余裕あるんだね……」
【るい】
「余裕じゃなくてポリシー。
全てを脱ぎ捨てた人間が最後に手にするのはポリシーだけ」
よくわからない主張を力説。
【智】
「イデオロギーの違いは人間関係をダメにするよね」
ふんと鼻を鳴らされる。
破滅の前の精一杯の強がりで。
その強がりに薬をたらした。
【智】
「――あっちまで跳べると思う?」
指差したのは不確かな視界を隔てた向こう側。
隣のビルが朧に浮かぶ。
路地一つ挟んだ距離、フロア一つ分ほど頭が低い。
【るい】
「近くないね」
【智】
「…………無理か」
【るい】
「私より、あんた自分の心配したら」
【智】
「あんたじゃなくて、智」
【るい】
「…………」
【智】
「ポリシー」
やり返す。
るいが、ニヤリと口の端を持ち上げた。
見直したとでもいいたそうに。
【るい】
「――私から跳ぶわ。チャンスは一回」
【智】
「落ちたらどのみち死んじゃうよね」
【るい】
「1階に激突かあ」
【智】
「シャレ! それって洒落のつもり!?」
ブラックジョークには状況が悲しすぎです。
分かり易すぎる構図。
一度限りの綱渡り。
後くされのない脱出チャンス。
二度目に期待するのは最初から心得が違う。
高所恐怖症のけはないのに、屋上の縁から下を見ると足下が傾いた。
目眩。
視界がはっきりしないのが、
こんなにありがたいと思ったことはない。
【るい】
「ちょっとした高さだから、向こうの屋上まで跳べても、
下手な落ち方したらやっぱり死んじゃうわよ。
上手くいっても骨くらい折るかも」
【智】
「石橋は叩いて渡る主義なんだよね」
【るい】
「じゃあ、止めるか」
【智】
「でも、他に方法ないんだよね」
【るい】
「ふーん、見た目より思い切りいいんだ」
【智】
「おしとやかなのに憧れちゃう毎日で」
【るい】
「……いい? 焦んないこと。距離自体はたいしたことない。
普通に助走すれば跳べる。幅跳び思いだして」
保護者めいた顔をした。
やり直しの効かない特別授業。
【るい】
「じゃ、行くよ」
【智】
「ちょ、ちょっとまって、心の準備は!?」
【るい】
「女は度胸」
【智】
「ね…………」
【るい】
「なによ?」
【智】
「無事逃げられたら―――明日、買い物付き合って」
【るい】
「やだ」
即答。
【智】
「空気読めよ! 様式美くらい押さえてよ!」
【るい】
「明日のことなんて考えないポリシーなの」
【智】
「うわ、刹那的な生き様だ」
【るい】
「現在は一瞬にして過去になるのよ! 私たちに出来るのは、
ただ過ぎ去る前の一瞬一瞬を精一杯楽しく愚かしく無様に
生きることだけなんだから!」
【智】
「愚かしく無様なのはやだなあ」
【るい】
「人のポリシーに文句付けないよーに」
【智】
「文句付けられるようなポリシー持たないで」
熱を感じた。
頬が熱い。
視界の悪さと息の苦しさが一層倍になる。
時間がない。
【るい】
「いよいよヤバイね。心の準備は?」
【智】
「――いいよ」
本当はよくない。握る拳が汗ばむ。
深呼吸をする。
鉄さびめいた臭いの混じった酸素が肺を充たして、
頭の中をほんの少しだけクリアにする。
るいが、きゅっと僕の手を握った。
ほんの一部だけ触れ合った場所。
吹けば飛ぶような小さな面積から体温が伝わる。
胸の奥まで届く、熱。
【るい】
「跳べる?」
【智】
「跳べそう……なんとなく」
根拠はない。
できそうな気分だった。
【るい】
「先行くから」
返事くらいしたかった。
できることなら軽口をずっと叩いていたかった。
現実逃避という名の快楽から立ち返り。
世界の呪いと正面切って立ち向かう、その一瞬。
決断という地獄が口を開ける。
返事をする間もなく、るいが走る。
掌が離れていく。
ひどく傷つけられた気分になる。
買い物にいく気安さで、
彼女が縁へめがけて助走した。
跳んだ。
夜を横切る。
それは、とても綺麗な獣――――
月に吠える狼。
身体の機能を集約した一瞬に、
人間という不純物を吐きだした、混じりけのない生命と化す。
落下する勢いで隣の屋上に転がった。
るいは一挙動で立ち上がって、
こちらを向いて元気そうに手を振る。
骨くらい折れそうな感じだったのに、
どっかの科学要塞製超合金でできてるのかもしんない。
【るい】
「はやくーーーーー!!!」
今度は自分の番だ。
もう一度深呼吸する。
身体の隅々まで酸素を行き渡らせる。
何でもない距離だ。
授業なら跳べる距離だ。
違いは些細な一点だけだ。
夜の幅跳びの底は、20メートル下のコンクリート。
しくじれば死ぬ。間違いなく死ぬ。
やり直しの効かない、一度こっきりのジャンプ。
後ろ髪がちりちりとする。
――――追いついてきた。
走った。
呪いを振り切るように、跳躍する。
これまでの人生で一番の踏切。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光、何もかもが圧縮された刹那の秒間。
落ちる、という感覚さえもない。
1フロア分の高度差にショックを受けながら、
受け身も取れないで投げ出される。
感覚を置いてけぼりにした数秒が過ぎて。
ようやく意識できたのは、予想より少ない衝突と、
予想よりやわらかいコンクリートの屋上。
【智】
「……とってもやわやわ」
【るい】
「へへへ、ヤバかったよねー」
るい。
【智】
「受け止めて、くれたんだ」
【るい】
「トモ、あのまま落ちてたら頭ぶつけてたかも。
ほんと、ヤバかったよ。自分でわかんなかったろうけど」
視界が効かなかった。
だから、バランスを崩した。
地雷を踏みかけた寒気と逃げ延びた安堵がごちゃごちゃに
混じりながら追いついてきた。
いくつかの痛み、打撲、擦過――
気がつく。
コンクリートよりもずっとやわらかい、
るいの胸に顔を埋めて、
子供をあやすような掌を髪に感じている自分。
【智】
「あの、もう平気で、大丈夫で……」
【るい】
「へー、意外と体格いいんだね。もうちょい、細い系だと思ってた」
【智】
「け、怪我とかしなかった?」
【るい】
「みたまんま。私、頑丈なんだよね」
【智】
「無茶……するんだ、受け止めるなんて……
あんな高さから落ちてきたのに」
【るい】
「感謝するよーに」
貸したノートの取り立てでもする気楽さ。
なんでもないことのように。
いい顔で、るいは笑う。
今日会ったばかりの、まだ名前ぐらいしかしらないような
相手なのに。
自分が怪我をするとか思わなかったのか?
二人まとめて動けなくなったかも知れないのに?
虹彩が夜の緋を受けて七色に変わる。
間近からのぞき込んだそれは、
研磨された宝石ではなく、
川の流れに洗われ生まれた天然の水晶だ。
人の手を拒む獣のように、鋭く強い。
【智】
「あう」
【るい】
「むっ」
【智】
「にゃう!?」
ほっぺたを左右にひっぱられた。
【智】
「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
【るい】
「なんて顔してんのよ。せっかく助かったんだぞ」
【智】
「にゃおーん!」
【るい】
「感謝の言葉」
【智】
「……にゃにゃがとう(ありがとう)」
【るい】
「よろしい」
手を離す。るいがはね起きる。
伸びをするみたいに体を伸ばし、
肩を回して凝りを解す。
隣にぺたりと座り込んで、
さっきまでいたビルを眺めた。
【智】
「やっと――」
逃げ延びた、
そう思ったのに。
獰(どう)猛(もう)な音が近づいてくる。
下から上に。
腹の底が震えるような重低音。
一瞬なんなのかわからず、その正体に思い至った一瞬後になって、噛み合わなさに戸惑う。
エンジン音だ。
ビルの屋上、エンジン音、上がってくる――
違う絵柄のパズルのピースと同じ。
どこまでいっても余りが出る解答。
【智&るい】
「「な――――――ッッッ」」
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
エスプリの効いた冗談みたいな物体が、
目の前で長々とブレーキ音の尾を引いて横滑り。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
胡乱(うろん)な物体だった。
どうみても原付だった。
どこにでもある、町中を三歩歩けばいき当たりそうな、
テレビを一日眺めていればコマーシャルの一度や二度には
必ず出会うだろう。
成人式未満でも二輪運転免許さえ取れば、
購入運用可能な自走車両。
価格設定は12万以上25万以下。
ただ一点、ここが公道でも立体駐車場でもなく、
廃ビルの屋上だということをのぞけばありがちだ。
黒い原付――。
塗りつぶされそうな黒い車両の上に、
同じだけ黒いライダースーツとフルフェイスヘルメットが
乗っかっていた。
【智】
「――――」
緋の混じる夜。
影絵のような影がいる。
こちらを向く。
背筋によく響く、威嚇の唸りめいたエンジン音が、
赤と黒の混じった夜を裂く。
月の下。
手を伸ばしても届かない空に、ほど近い場所で。
――――――僕らは出会った。
【惠/???】
「黒い王子様は女の子を連れて去るのだという」
【惠/???】
「とりわけ美しい女の子が選ばれる」
【惠/???】
「全部ネットの噂だ」
〔拝啓母上様〕
拝啓、母上さま
おげんきですか。
今日の明け方、杉の梢に明るく光る星を探してみましたけれど、
昨今の都市部では杉も梢も絶滅危惧種でした。
星は光るのでしょうか、海は愛ですか。
いきなり方々にケンカ腰な気もいたしますね。
危ぶむなかれ危ぶめば道は無し、と偉い先生も申しました。
母上さま、私は元気です。
星も見えない環境砂漠な都会といえど住めば都。
新世紀の子供たちが受け継ぐべき美しい国は、
すでに書物と記録の中で跋扈するのみ。
残念ながら私も知りません。
美しい国。
なんとも無意味かつ曖昧なタームです。
詩的表現以上のレベルでデストピアが実在し得るかどうかから論議すべきではないでしょうか。
ネットも携帯もなかった時代こそ甘美である……と懐旧に胸を熱くするのは、時代と少しばかり歩調の合わないご年配の方のノスタルジーにお任せいたしましょう。
残す未練が無くなっていいと思います。
電磁波とダイオキシンにまみれても、生命は生き汚く生きてまいります。
ですが心も身体もゆとりを失えば痩せ細っていくのです。
アイニード、ゆとり。
ゆとり世代だけに、愛が時代に求められています。
愛の受容体である杉花粉は今日も元気です。
都会では絶滅危惧種のくせに繁殖欲旺盛なのはなんともいただけません。
人類の叡(えい)智(ち)はいつの日か花粉症を克服するのでしょうか。
それとも自然の獰(どう)猛(もう)を前に太古の人類がそうであったように膝を屈するのでしょうか。
さよなら夢でできた二十一世紀。
こんにちは閉じた呪いの新時代へようこそ。
さて、母上さま。
実は先日、新たに契約を取り交わしましたことをご報告いたします。
保証人としての母上さまに、ご許可をいただきたく、ここに一筆したためました。
保証人という単語の剣呑さに、エリマキトカゲのごとく立ち上がって威嚇する母上さまの顔が浮かびます。
保証人。なんと官能的な響きでしょう。
英語では Guarantor 。
ご心配なく。
保証人としての母上さまにご迷惑をおかけすることは、何一つございません。
金銭的な問題の発生する懸念は皆無なのです。
契約は極めて安価で行われたからです。
ロハ、なのです。
ただより高いものはない、なんて昔から言われたりしますよね……。
必要な契約であったことは疑う余地がありません。
いささか大げさな修辞を許していただけるのなら、
この混迷の新世紀を生き延びるために、
呪われた我と我が身と世界の全てと対峙するために、
理性の限界と権利の堕落と人間性の失墜に抵抗すべく、
人類の生み出した最大の発明の一つであるこの概念こそが、
パラダイムシフトとして要求された契約そのものでありました。
なんといいますか。
難解な語彙を蝟集すると適度に知的に見えるという、日本語体系のありがたみを噛みしめます。
母上さまの時代には、そのような利己主義に基づく概念を用いる必要など無かったのにとお嘆きでしょう。
過去こそ楽園であったのだと。
それは違います。
契約はありました。
いつでも、どこでも。
聖書時代の死海のほとりから、高度成長期の疑似共産主義の間隙に至るまで目に映らなかっただけで。
今や古き良き時代は標本となり残(ざん)滓(し)もとどめず、崩壊した旧制は懐疑と喪失を蔓延させるばかり。
過去的価値観には、はなはだ冷笑的になってしまう平成世代としましては、従ってこのような形での呉越同舟こそが望むべき最大公約数的妥協点といえるでしょう。
ご理解いただけますよう。
母上さま。
これまで同様、この手紙がお手元に届くことはないと存じてはいますが、新たに契約を取り交わしましたことをご報告いたします。
私たちは契約友情を締結いたしました。
母上さまへ
かしこ
〔本編の前の解説〕
【るい】
「生きるって呪いみたいなものだよね」
ようするに、これは呪いの話だ。
呪うこと。
呪いのこと。
呪われること。
人を呪わば穴二つのこと。
いつでもある。
どこにでもある。
数は限りなくある。
そんなありがちな呪いの話。
ちょうど空は灰色に重かった。
浮かれ気分に水を差すくらいにはくすんでいて、
前途を呪うには足りていない薄曇り。
【るい】
「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……」
【るい】
「それって、まったくの呪い。100パーセントの純粋培養、
これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、
ないない尽くしの呪いだよ」
【るい】
「そうは思わない?」
時々るいは饒舌(じょうぜつ)だ。
とかく気分屋で口より先に身体が動くのに、
どこかでスイッチの切り替わることがある。
とても不思議。
いつも通りの気安さで、まるで思いつきのように、
投げ捨てるみたいに、呪いの呪文を唱えていた。
思うに。
るいは、とっくに待ち合わせに飽きていた。
彼女は待つことを知らない。
昨日のことは忘れるし、
明日のことはわからない。
約束と指切りだけはしないのが、
皆元るいのたった一つの約束みたいなものだ。
軽くコンクリートの橋脚に背中を預けて、
座り込んで足をぶらぶらさせていた。
【花鶏】
「教養低所得者にしては含蓄のある」
【るい】
「日本語会話しろよ、ガイジン」
【花鶏】
「わたしはクォーターよ」
【こより】
「生きてるだけで丸儲けですよう」
【茜子】
「そうでもない」
【伊代】
「ああ、そうね、実は儲かってないのかも知れないわね。
利息もどんどん積もっていくし……」
【智】
「報われないんだ」
【るい】
「呪いだけに」
呪い――それはとても薄暗い言葉。
なんとなく、もにょる。
ロケーション的にはお似合いの場所。
田松市都心部を、
ていよく分断する高架下。
そこが僕らのたまり場に変身したのはつい最近だ。
待ち合わせを、ここと決めているわけではないけれど、
便利なのでよく使う。
【智】
「見通しはいまいち」
指で○を作る。
即席望遠鏡。
高架下のスペースから見上げる空の情景は、
景観としての雄大さに乏しい。
空貧乏。
胡乱(うろん)なる日々には相応しい眺めだ。
胡乱な日々と胡乱な場所。
息をするのも息苦しくて、右も左も薄汚れている。
天蓋の代わりに高くごつい高架、神殿の柱みたいな橋脚、
コンクリートの壁に描かれた色とりどりの神聖絵画ならぬ
ラクガキの数々。
「斑(ハン)虎(ゴ)露(ロ)死(シ)ッ!」
「Bi My Baby」
「あの野朗むかつくんだよ、ソウシのやつだ!」
猖獗(しょうけつ)極めた言葉の闇鍋の上で、
著作権にうるさそうな黒ネズミの肖像画が、
チェーンソー持ってメガネの鷲鼻を追いかけて回していた。
解読していればそれだけで日が暮れそう。
それはそれは胡乱な呪文の数々。
ときどき混じる誤字脱字が暗号めいてなおさら奇怪千万。
【花鶏】
「そういえば、最後に来たヤツ、遅刻だったわね?」
【智】
「今更追求なんだ……」
ちなみに最後は僕でした。
【花鶏】
「遅刻は遅刻。9分と17秒36」
【伊代】
「細かっ。秒より下まで数える? 普通」
【るい】
「普通じゃないよ。若白髪だし」
【花鶏】
「プラティナ・ブロンドと言いなさい」
【るい】
「プラナリア・ブロンソン?」
【茜子】
「プラナリアの千倍くらい頭良さそうな発言です」
【こより】
「扁形動物に大勝利ッスよ、るいセンパイ!」
【伊代】
「それ一億倍でも犬に負けると思うわよ」
【智】
「トンボだって、カエルだって、ミツバチだって、
生きてるんだから平気平気」
【伊代】
「意味不明だから……」
【花鶏】
「それで遅刻の弁明は?」
【智】
「ベンメイが必要なのですか」
【花鶏】
「遅刻の許容は契約条項に含まれてないわ。
一生は尊し、時間もまた尊し。物事はエレガントに」
【智】
「友情とは大らかなごめんなさい」
【茜子】
「ごめんで済んだら(ピーッ)ポくん要りません」
【智】
「さりげなく謝ったのに!」
【るい】
「友情って空しいよね」
【智】
「実は話せば長いことながら」
【るい】
「長いんだ」
【智】
「時計が遅れていたのです」
【伊代】
「え? 短いじゃない」
【茜子】
「ボケつぶし」
【伊代】
「え?」
【花鶏】
「なんて欺(ぎ)瞞(まん)的釈明」
【智】
「適度な嘘は人間関係を機能させる潤滑剤だよ」
【こより】
「センパイは堕落しました! 人間正直が一番ッス!」
【花鶏】
「……(冷笑)」
【茜子】
「……(嘲笑)」
【伊代】
「その純真な心を大切にね」
【こより】
「嫌なやつらでありますよ」
【智】
「そう、たとえばキミが結婚したとするよね」
【こより】
「いきなり結婚でありますか」
【こより】
「不肖この鳴滝めといたしましても、結婚なる人生の重大岐路
に到達するためには、センパイとのプラトニックな相互理解、
手を繋ぐ所からはじめたいところなのです!」
【伊代】
「女同士で結婚できませんッ」
【こより】
「大問題発見ッス!」
【花鶏】
「形式に拘る必要なんてないじゃない?」
【るい】
「……」
【茜子】
「……」
【智】
「たとえの話ですよ?」
【こより】
「センパイは、たとえ話で結婚するのですか!」
【茜子】
「泣く女の傍ら、ベッドでタバコ吸うタイプか」
【智】
「…………何の話だっけ?」
【るい】
「結婚じゃないの?」
【智】
「そう、結婚。キミは夫婦円満で何一つ不満はない」
【こより】
「悠々自適の毎日、エスタブリッシュメントです!」
【伊代】
「愛より地位か。リアルだねえ」
【るい】
「呪われた人生には夢も希望もないんだよ」
【智】
「でも、優しいだけの夫にちょっぴり充たされない。
唐突に禁忌を漂わせたレイプから恋愛な感じの俺を教えてやるぜが現れる」
【智】
「刹那的アバンチュールにキミが、くやしいデモ感じちゃうと
流された後、それを夫のひとに告げる?」
【こより】
「えーっと……」
【智】
「離婚訴訟で慰謝料取られたりして、片親になったのに行きずり男の子供抱えてシングルマザーになったりして、子供が聞き分けなくてブルーな老後になったりして」
【智】
「それでも正直に生きる?」
【こより】
「あーうー」
【智】
「僕らにとって適度な嘘は関係円滑化のためなのです」
【茜子】
「事例のチョイスが黒い」
【花鶏】
「男なんて生き物を信頼する方が間違いなのよ。
がさつで、乱暴で、騒々しくて、美しくない。
研究室で標本になるくらいでちょうどいい」
【伊代】
「ほら、空を見上げて。
いい天気だと思わない?」
【こより】
「すっかり薄曇りッスねー」
【るい】
「面子もそろったことだし、くりだそっか。
ゴミの山でたむろっててもやることないしね」
日が当たれば影ができる。
あやしい所在の一つや二つ、どこにでもある。
偉いひとたちが書類と書類の狭間に、
金にもならず、使い道もないからと忘れ去って幾年月。
地元の人間たちだけが、
塵芥の隙間に再発見して好き勝手に変成し直す、
胡乱な土地。
さて、なんと名付けよう?
日用ゴミから廃車までの万能廃物置き場?
息を殺していれば家賃のかからぬ密かな住居?
まっとうな性根は近づかない最底辺の集会場?
それとも、悪?
悪いもの、悪いこと、悪い出来事。
それらならいくらもありそうだ。
この世に善なるものとやらが本当にいるとしても、
ここなら席を譲って逃げ出していく。
パンドラの箱だ。
百災厄がきっとどこかに隠れている。
もっとも。
混沌が泡立つ中から選んで何か一つを取り出して、
それで本性がわかった気になったところで所詮は錯覚。
ここは街のガラクタ置き場。
世界を作るパズルのピースの流れ着く渚。
どのピースも足りていない。
噛み合うことのない、欠品づくしの破片たち。
けれど、ここには全てがある。
全ての死んだ一部、かつては生きていたものの残骸たち。
ここは、それら全てで、同時にそれ以上。
以下かも知れないけれど。
だから借り受けた。
ここは、僕ら六人の秘密の借用地。
野良犬っぽいのが皆元(みなもと)るい。
プラナリアンが花城(はなぐすく)花鶏(あとり)。
寸足らずが鳴滝(なるたき)こより。
舌先刃物なのが茅場(かやば)茜子(あかねこ)。
眼鏡おっぱいが白鞘(しらさや)伊代(いよ)。
【伊代】
「これも普段は目を逸らしてる文明の烙印ってやつなのよね」
【智】
「ニヒリストっぽくて格好いいと思う」
【茜子】
「あなたはマゾですね。了解です、記録しました」
【伊代】
「がうっ」
【茜子】
「吠えられました」
【こより】
「犬っぽいです」
【るい】
「犬の死体でも転がってそーな感じだわ、このあたり」
【花鶏】
「個人の趣味嗜好に異議を唱えるような無駄な労力を払おうとは思わないけれど、普遍的世界観と折り合わない死体愛好については隠蔽した方が身のタメよ」
【るい】
「趣味の悪さなら、あんたにゃ負けるよ」
【こより】
「火花が散ってるッス」
【智】
「えー、こほん。友情して大人になるために、みんなで死体でも
探しに行く?」
【茜子】
「レズにマゾに、今度はネクロファイルですか」
【伊代】
「はいはいはいはい! あなたたち、いい加減労力年金ばっか
納めてんじゃないわよッ」
【智】
「通訳プリーズ」
【茜子】
「無駄に暴れるなこの役立たずども」
【伊代】
「がうっ」
【智】
「どうして僕が吠えられるのかしらん」
【こより】
「さすがセンパイ、人望よりどりみどりッス!」
【智】
「ゆとりってだめだよね〜」
かくて日本語はその美しさを失っていく。
【花鶏】
「過去を嘆くより明日のこと」
【るい】
「明日の天気より今日のこと」
【伊代】
「刹那的だ……」
【茜子】
「考え無しです」
【るい】
「素直といってよ」
【花鶏】
「単細胞」
【こより】
「火花が散っているッスよ!」
頭の上を厳めしい高架が一直線に走っている。
世界に引かれた1本の黒い線のような。
ここは境界だ。
あらんかぎりを押し込んでごった煮にした暗がりが、
街の意味を分断している。
右には騒がしく乱雑な新市街、
左には置いてけぼりをくった旧市街。
綺麗な線ではない。
あちらに山が、こちらに谷が。
でこぼこと新旧入り交じった地域の濁り汁が、
得体の知れない空気になって左右の隙間に溜まっていく。
白でも黒でもない。
昼でも夜でもない。
右も左もない。
そういう曖昧な場所には、胡乱な輩が出入りする。
それはたとえば、
僕らのような――――――
【智】
「どこまでいこう?」
【茜子】
「ニュージーランド」
【智】
「まずは船を手に入れないとね」
【こより】
「そうそう、それよりなによりも!」
【智】
「やけにテンション高いね」
【こより】
「不肖鳴滝めのスペッシャルプレゼントのコーナー!!」
【るい】
「なにこれ、スプレー?」
【こより】
「拾う神のほうになってみました」
【伊代】
「拾ったものなんか大仰に配るんじゃないわよ」
【こより】
「ラッキーのお裾分けを」
【茜子】
「……随分残ってる」
【こより】
「そうッス。来る途中で道の端っこの方に――」
【花鶏】
「邪魔になってまとめて捨ててあったわけか」
【こより】
「――駐車してあったトラックの荷台に落ちていたッス」
【智】
「それは置いてたの」
泥ボーさんだ。
【こより】
「さすがはセンパイ! 物知りです!」
【智】
「悪いやつ」
【るい】
「いいじゃないの、細かいことは。
せっかくだから景気づけしよ」
【伊代】
「だから、いつもいつもあなたは大雑把すぎなのよ!
別に社会道徳とか講釈するつもりは無いけど、このへんの線引きが曖昧なままになってるといずれ…………ま、いいか」
こよりの秘密道具は使い古しの色とりどりなスプレー缶。
段ボールの小ぶりな箱にキッチリ詰まったそいつを、
るいは一つ適当にえらんで取り上げた。
真っ赤なキャップのついたスプレーが、
手から手にジャッグルされる。
【智】
「スプレーは釘できっちり穴あけてから、
分別ゴミでださないとだめだよ」
【るい】
「所帯くさいこといってないで、さ」
ケラケラと、るいは笑う。
スプレー噴射。
手加減もなく、目星もなく。
勢いまかせに適当に、
誰かが書いたラクガキを真っ赤なスプレーで上書きする。
【るい】
「どんなもん」
【こより】
「ほうほう〜♪」
得意満面な、るい。
変な虫がお腹の奥でざわつきだす。
楽しそう。
他の面子と顔を見合わせて、舌なめずり。
【伊代】
「ラクガキってロックよね」
【花鶏】
「反社会的行為っていいたいわけ?」
【茜子】
「レトリック的欺(ぎ)瞞(まん)」
ごちゃつきながら、手に手にスプレーを取り上げる。
薄汚れた壁。とっくに色とりどりの壁。
【智】
「なんて青春的カンバス」
【こより】
「わかりませんのですよ」
【智】
「悪いことしたいお年頃ってこと」
【こより】
「了解ッス!」
皆そろって悪い顔。
ニヤリと口元を三日月みたいにつり上げて。
【智】
「せーの――――」
僕らはみんな、呪われている。
だから――
これは呪いの話だ。
【るい】
「こんなとこかな?」
【茜子】
「むふ」
【こより】
「いい感じでサイコーッス!」
【伊代】
「悪党っぽいわね」
【花鶏】
「それじゃあ、くりだすわよ」
〔るいとの遭遇〕
――――あなたはスカートです。
それが母親の言いつけだった。
よく覚えている。
お前はスカートになるのだ…………
なんて
無体を命じられた……のではなかった。
履き物はスカートを愛用しなさいという道理。
日本語って難しい。
【智】
「やっぱり制服着替えてくればよかったかも」
学園帰りの制服の瀟洒(しょうしゃ)なスカートに、
ふわりと風をはらませながら、ほうと小さくため息をついた。
くるっと回ってみたり。
【智】
「むーん」
スカートはどうにも好きになれない。
足下がすーすー落ち着かないから。
それでも言いつけだからしかたない。
裳裾をなびかせ街を行く。
目指す目的地はもう少し先だ。
歩きだから距離がある。
灰色に重い空の下、しずしずと歩調に気をつかう。
心を静めておおらかに、かつ美しく。
走ったり慌てたりはもってのほか。
制服の裾がひるがえるのははしたない。
大声を出したりしてはいけません。
【智】
「僕らの学園、このあたりでも有名なんだよね」
ひとりごちる。
南聡学園。
進学校として名が通っている。
頭の良さよりも、学風校風の古くさいので有名というのが、
ちょっぴりいただけなかった。
ようするにお年寄りくさいのだけど、ここはウィットを効かせて、お嬢様っぽいのだと表現しておこう。
【智】
「……欺(ぎ)瞞(まん)的」
先生は揃ってお堅い。
学則は輪をかけてお堅い。
象が踏んでも壊れるかどうか怪しい。
古くさいメモ帳風の学生証を手の中で弄ぶ。
最近ではカード化されているところも多いというのに、
我が校ではアナログ全盛だ。
色気のない裏表紙に、学園での僕の立場が記述されている。
和(わ)久(く)津(つ)智(とも)。
学園2年生。
女子。
無味乾燥な文字の羅列。
誤ってはいないけど、正しくもない。
学生証の頁をめくって校則一覧を斜め読みする。
「バイトは禁止、買い食いは禁止、外出時は制服着用で、
夜は7時までには自宅に戻りましょう」
どこの大正時代か。
古典的すぎて半ば有名無実化している。
今時遵守する生徒は少数派で希少価値、絶滅危惧種だ。
二十一世紀に生きるゆとり世代は意外にたくましい。
建前本音を使い分け、二枚舌を三枚にして学園生活を生き延びる。
……困ったことに制服は有名だった。
こじゃれたデザインが人気の逸品。
マニアは垂涎、物陰では高値取引の南聡制服(女子)。
街を歩けば人目を引く。
南聡=お嬢様っぽい。
パブリックイメージは頑健なので、
ちょっと道徳の道を外れると悪目立ちする。
どんな経路で教師の耳に入らないとも限らない。
それは困る。すごく困る。
平日の、学園帰りの午後だ。
帰宅ラッシュにはまだ早い、
ひと気のまばらな駅前通りを南へ抜ける。
田松市の都心部は、駅を挟んでこちら側が若者向けの
明るいアーケード。
北には危険な夜の街へ通じる回廊がある。
線路のラインが色分けの境界線だ。
肩にかかった髪を後ろへかき上げながら、
こっそり買ったアイスクリームを一口かじった。
とっても甘味。
南聡の学則には、第九条学外平和健康推進法、通称平和健法がある。
買い食いを行うこと無く永久にこれを放棄するむね
定められているのだ。
……バレなきゃ罪じゃないよね。
ときおり学園帰りの学生とすれ違う。
視線を感じる。誰もがこちらを振り返る。
後ろから口笛が背中をくすぐる。
南聡の女学生で人目を引く美少女に感嘆している。
南聡の女学生――――僕のことだ。
人目をひく美少女――――僕のことだ。
【智】
「はぅ……っ」
なんと美しいコンボ。
繊細で薄幸そうで麗しいご令嬢……
というニーズに完璧応えている自分が憎い。
【智】
「んー、むー、ちょっとタイが曲がってる」
ファッションショップのショーウインドゥ。
飾ってある鏡に向かってニコリと笑顔。
タイを直してから、その場でくるり。
スカートの縁が円錐を描く。
とびっきりのお嬢様が優雅に微笑んでいた。
【智】
「かわいいー」
跳び上がる。
そんで激しく落ち込む。自己嫌悪。
拝啓 母上さま
おげんきですか。
母上さまの御言葉はいまも切磋琢磨しております。
日々筆舌に尽くしがたい苦難を前に、
心が折れんとすることもままありますが。
ときどきポプラの通りに明るく光る星を見て、
そっと涙を堪える私の弱さをお許しください。
スカートをひらひら。
アイスのコーンまで食べきって、
残った包み紙を丸めてこっそり道ばたへ。
悪の行為、ポイ捨て。
禁忌を犯す喜びに下腹部がドキドキする。
【智】
「…………危険な徴候」
自分を見つめ直したい衝動にかられた。
天下の公道で自問自答はいただけないので、
懺悔は目的を果たした後にする。
ポケットから几帳面に折りたたんだメモを取り出した。
ボールペンの走り書き。
自分の字だ。
電柱に打ち付けてある区画表示のプレートとメモの住所を見比べる。
【智】
「うー、むー」
目的地はもう少し先らしい。
母さんから手紙がきた。
母親は自分の子供をいつまでたっても子供扱いする。
大きくなっても小さくなっても子供は子供。
月一ペースの気苦労とお腹を痛めた分だけは、
何年経っても権利を主張する。
人は過去に生きている。
未来は遠く、現在にさえ届かない。
あらゆるものは一足遅れでやってくる。
人も、時間も、光も、音も、記憶も、心も。
世界は手遅れだ。
天の光は全て過去。
過去に生きる人間にとって、思い出はとても大切だ。
母上さま。
離ればなれで幾年月か。
時間はよく人を裏切る。
思い出は色褪せ、記憶はすり切れ、情報は劣化する。
白い肌と白い手くらいは覚えている。
細かいことは忘れてしまった。
困ることはないけれど寂しくなる。
線は細くて気苦労の多い母親だった。
ついでに過保護。
何かというと心配する人という印象が残っている。
石につまずいても、箸を落としても気苦労があった。
苦労性は肩が凝る。
胸のサイズに関係なく。
手紙はなるほど母上さまらしい。
心労と心痛。
文面のそこかしこから、
ひとりで暮らす我が子へかける、母性の香りが匂い立つ。
愛情溢れる母と子の交流史の一頁――――
些細な問題を考慮しなければ、
この手紙もそれだけのことで済んだ。
たった一つの小さな問題。
母上さまは、とっくの昔に天国へ行かれているのです。
天国だと思う。
自信は無いけれど。
恨みを買うようなひとではなかったと思う。
欲目は親ばかりにあるとは限らない。
小さい子供にとって親は全知全能の神にも等しい。
たまには悪魔になったり死神になったりする。
現実って救いがないな。
閑話休題。
恨みはどこでも売っている。
コンビニよりも手に入りやすい。
24時間年中無休。
2割3割はあたりまえの大バーゲン。
ドブにはまっても他人を恨めるのが人間という生き物だ。
外出契約書だと思って気軽にサインしたら、
地獄の一丁目に売り渡されることだってよくある話。
一応、母は天国にいるんだと思っておきたい。
あいにく幽霊と死後の世界は連絡先が不明なので、
きちんと確認はしていない。
死んだ母からの、手紙。
嘘のような本当の話。リアルのようなオカルトの話。
黄ばんだ便せんに真新しい封筒。
消印は先週。
県の中央郵便局のハンコが押されている。
幽霊にしてはせちがらい。
大まじめな話をすれば、
死んだ人間が墓から出てきて、
郵便ポストに手紙を突っ込んだりはするわけがない。
母の手紙を母の代わりに誰かが投函したのだろう。
オチがつきました。
天下太平。君子は怪力乱心を語らず。
つまらないというなかれ。
世の中はなるようにしかならないものなのだから。
手紙の内容――――
三つ折りの古紙には見覚えのある文字。
母の筆跡。
「皆元さんを頼りなさい」
聞き覚えのない後見人を過去から指名された。
住所と電話番号が記されていた。
【智】
「このあたりは――」
駅前から随分きた。
駅のこちら側でも中心部から離れれば胡乱になる。
様変わりして、人気も乏しくなる辺り。
めったに来ない場所だけに土地勘も働かない。
人やら獣やらゴミやらなにやら。
入り交じった臭いに鼻が曲がる。
廃ビル、空きビル、閉じたシャッター。
うらぶれたというよりうち捨てられた都市区画。
ここは街の残骸だ。
南聡の制服は水面の油みたいに浮き上がる。
とてもとても似合わない。
手紙にあった「皆元」という名に覚えは無かった。
母は頼れという。
その人物が、我が子の助けをしてくれるという。
助け、助力、意外な授かり物、後援――
【智】
「うっわー、なんとも怪しいよね……」
眉に唾つける。
そもそも差出人は誰なのか、
どこからこの手紙が来たのか。
疑問は山積みだ。
それでもだ。
困っているのを助けてくれるなら、
今すぐ僕を助けて欲しい。
何時でも困っている。
どこでも困っている。
さあさあ、すぐに。
過剰な期待をしてもはじまらない。
死んだ母のいわば遺言であるという――――
それだけの理由で連絡を取った。
それが先週のお話。
得にはならなくても、
何らかのコネにはなるかもしれないと、
その程度の計算は働かせた。
【???】
「皆元信悟でしたなら、亡くなっております」
連絡先にかけた電話の返事は
人生にまたひとつ教訓を与えてくれた。
過度の希望は絶望の卵。
【智】
「亡くなって……」
【???】
「はい、もう何年も前に」
【智】
「その、それはどういう事情で……?」
【???】
「あなた、どちらさま?」
疑り深そうな電話の主に、
これ以上ないくらい胡散臭がられながら、
深窓の令嬢的に根掘り葉掘りと問いただしてみた。
このままのオチではあまりに空しい。
ぶら下がったかいあってようやく聞き出したのは、
縁者がいるということだった。
おお、皆元さま。
どうして貴方は皆元様なの――?
悲恋に引き裂かれた恋人同士のように、
教わった住所を求めて裏通りを右に左に。
どんどん胡乱な方へと進んでいく。
いよいよ活気が失われる。
【智】
「最近の株価は空前の下げ幅だっけ?」
朝のメディアの空疎なあおりを反芻しながら、
ビル脇の電柱にあるプレートとメモの住所を見比べる。
この辺りだ。
背中を丸めて頭をたれた元気のないビルたちには、
取り壊し予定が看板になってかけられていた。
一面をまとめて均して、瓦礫の中から大きなものに
新生させるというお知らせだ。
【智】
「それはそれとして、ホントにここなの?」
住所のメモと現実を見比べる。
どうみても廃ビルだ。
色褪せたリノリウム、ひび割れたコンクリート、
壁面の窓ガラスは半分がた割れており、
かつては名付けられていたビルの名前はとっくに色褪せて読めない。
例えるなら、人間よりもゾンビの方が似合うくらいだ。
【智】
「えーっと…………」
ためらいと困惑。
突っ立っているとこの制服は目立つ。
物陰からの胡乱な視線にうなじが粟だった。
これ見よがしに廃ビルを不法占拠している連中も、
この辺りにはことかかない。
割れたガラスの後ろから、傾いた看板の影から、
裏路地に通じる薄汚れたビルの隙間から。
サバンナのウサギになった気分がする。
(…………いや〜ん)
じっとしているのも不安で、ビルへと踏み込んだ。
エレベーターは当たり前にご臨終していた。
くすんだ色のロビーの奥に、目ざとく見つけた階段を上る。
【智】
「みなもとさん……?」
フロアを昇る。
コンクリートの隙間をわたる夜風のような自分の足音が、
とてつもなく怖い。
恐る恐る声を出す。
低くこもった残響にびびる。
人の気配はないのに、
段ボールや一斗缶で一杯の部屋があったりした。
得体の知れないものを引き当てそうで、
しかたなく黙って上を目指した。
【智】
(ひ〜ん……)
半泣きだった。
甘い言葉につられて来たのがそもそも失敗だ。
早く帰った方がどう考えてもよさそうなのに、
ここまで来てしまうと手ぶらで帰るのは悔しい。
蟻地獄。
ギャンブルで身を持ち崩す人たちは、
こういう気分で道を踏み外すんだろうな、きっと。
【智】
「……皆元さん」
こんな場所を住処にしているという、問題の人物は、
どのような問題ある人格を抱えた人物なのだろう。
まともではない。まともなわけがない。
どうみても正規の物件とは思えない。
一瞬で16通りの可能性を検討して、
まとめて脳内イメージのゴミ箱へポイ。
ただひたすらに、ろくな考えが浮かばなかった。
どれか一つでも現実になったら、母の遺言を投げ捨てて、
回れ右して家に帰りたくなること請け合いです。
距離以上にくたびれて、一番上のフロアに到着する。
うち捨てられた廊下には明かりも無くて、
夜でもないのに暗がりが手招いている。
廃ビルには空っぽの部屋が多い。
扉もない。
この階はその意味ではまだ生きていた。
棺桶に片足突っ込んだ断末魔、みたいなものだけど。
【智】
「えーっと」
端から順番に中をのぞく。
壊れたドアのついた部屋を右回りでフロアを一巡り。
最後に生き残っているドアの前で腕組み思案した。
このドアは機能を残している。
生きている。
ドアらしきものではなくて、まだドアである。
【智】
「皆元……さん……?」
子ネズミっぽい恐る恐る。
場違いな制服で場違いなノック。
今日はいい具合にボタンの掛け違いが続く。
【智】
「おられませんかー、皆元さん……じゃなくてもいいですけど、
どなたかおられませんか?」
皆元さん以外が出たらまずいだろうと自分に突っ込む。
何気なくドアを押した。
あっさり開いた。
鍵はかかってない。
ほんの数センチばかり、
アンダーラインみたいなとば口を開けて差し招く。
【智】
「……どうする。黙って帰る? それが一番平穏無事だけど。
でもここまで来てそういうのってなんだよね」
【智】
「あのぉ、皆元さ……」
のそりと隙間からのぞき込む。
中も暗くてわからない。
おっかない。
ホッケーマスクの殺人鬼とか現れそうで――――
その時に。
いきなり出た。
【るい/???】
「ふんがーっ!!」
【智】
「にゃわ――――っ?!」
頭の横をかすめていった。
凶暴極まりない鈍器。
どこまでも鈍器。
果てしなく鈍器な鉄パイプ。
なんでいきなり鉄パイプ?
意味不明っ!
【るい/???】
「どりゃあーーっ!!」
【智】
「きゃわーーーーーーーーーーーっっ」
必ず当たって必ず殺す鉄パイプが、
目の前で惨殺確定と振りかぶられる。
闇より暗い黒色の影がのしかかってくる。
シルエットで見えないはずの相手の両の目が
炯々と光を放ってくり抜かれている。
スプラッタ映画の1シーンをイメージした。
生皮のマスクをかぶった殺人鬼がチェーンソーを振り上げる場面。
【智】
「はわわっわわっわわわ――――――」
【るい/???】
「…………あれ、女の子じゃない?」
気の抜けた声が、振り切れかけた正気の水位を水増しした。
凶悪な牙を振り上げる謎の狩猟生物を、
捕食対象としての弱々しさで確認する。
【智】
「……あれ?」
女の子だった。
【るい/???】
「なにやってんの、キミ、こんなところで。
ここはね、キミみたいなのが来るような場所じゃないよ。
一人歩きしてると取って食われちゃうわよ」
【智】
「……ええ、取って食われるところでした」
【るい/???】
「そっか、危機一髪だったんだ」
取って食いかけた相手に慰められる。
すれ違いコミュニケーション。
食うものと食われるものには断絶がある。
女の子が手を差し出した。
落ち着いて検分する。
相手は自分とさほど変わるとも思えない年頃だ。
柔らかい少女っぽさよりも、
野生の獣のようなしなやかさが瑞々しい。
【るい/???】
「どうしたの、ほら」
手が目の前に。
そういえば尻もちをついていた。
【るい/???】
「でも、無事そうでよかったよね」
【智】
「凶暴でした」
手を引かれて立ち上がる。
【るい/???】
「最近このあたりも質の悪い連中が増えてきてさ」
【智】
「とても恐ろしかった」
【るい/???】
「私が来たからには大丈夫だって」
【智】
「人間って悲しい生き物だなあ」
相互理解はまだまだ遠い。
【るい/???】
「ところで、こんなところでなにしてんの。
もしかして家出とか?」
【るい/???】
「そういうふうには見えないけど、
もしかすると大変ちゃん?
でもさ、ここ危ないのわかったでしょ」
【智】
「あの、」
【るい/???】
「人生安売りしちゃう前に家に帰った方が良いよ。
んー、なに?」
【智】
「ひとつ、質問よろしいですか」
【るい/???】
「いいよ」
【智】
「もしかして、皆元さん……?」
【るい/???】
「ごめんね〜。部屋の前でうろちょろしてたから、
きっとまた泥棒とかなんだろうって勘違いしちゃってさ」
【智】
「それで鉄パイプ」
【るい/???】
「脅し脅し、本気じゃないって」
【智】
「……」
【るい/???】
「……」
【智】
「…………嘘だ」(ボソッ)
【るい/???】
「人生先手必勝だと思わない?」
なにげにヤバイひとでした。
【智】
「それは是非とも僕以外のひとに」
【るい/???】
「それで、なんだっけ」
部屋は殺風景で大したもののない空間だ。
臭いも景色も外よりましだけど、
とっくの昔に息絶えた建物の残骸には違いない。
彼女の荷物は大きなボストンバッグと
肩からかけるスナップザックが転がっているだけ。
化石の上に間借りした仮宿だった。
【智】
「皆元さん?」
【るい】
「そだよ、皆元(みなもと)るい。るいでいいよ。
コーヒーくらいあるけど飲む?
缶だから心配しなくても大丈夫」
返事も待たず、目の前に缶コーヒー。
【智】
「ありがとうございます」
【るい】
「どういたしましてー。
お客人は歓迎しないとね」
【智】
「るいさん」
【るい】
「そうそう、そういう感じ。
もうちょっと後ろにイントネーション置いて」
なにげに注文が五月蠅かった。
【るい】
「そっちは、えーっと……」
【智】
「和久津智いいます。智恵の字をとって智」
【るい】
「頭良さそうな名前だ」
【智】
「るいさん」
【るい】
「ほいよ」
【智】
「捜してました。捜して歩きました。
とうとうこういうとこまできちゃいました」
そして死にかかった。涙なしでは語れない道のり。
【るい】
「さがしてたの、なんで?」
【智】
「なんでこんな侘びしい所にいるのかの方が素晴らしく疑問なんですけれど。現住所もなくて捜すの大変でした」
【るい】
「侘びしいというより汚い所」
【智】
「自分でいうかな」
【るい】
「なんの、住めば都」
【智】
「欺(ぎ)瞞(まん)的だと思います」
【るい】
「私、家なき子なんだよね」
【智】
「なんとなく名作風」
【るい】
「平たくいうと、自我の目覚めと家庭環境との軋轢に耐えかねて
自由を求めて跳躍する感じで」
【智】
「つまりは家出」
【るい】
「智ってヤな子だ」
【智】
「わりと口の減らない性分で」
立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿は百(ゆ)合(り)の花。
ただし喋らなければ――――という注釈は親しい某学友の弁による。
【るい】
「それで何だっけ?」
【智】
「なんでしょう?」
【るい】
「そこでボケるの!」
【智】
「実は捜してました」
【るい】
「なんで? なんか用事?」
【智】
「用事というのか…………」
用事はある。
捜していた。
皆元るい。
母が名指しした人物、
皆元信悟の娘にあたる。
当たるも八卦当たらぬも八卦。
ここまで辿り着いたは良いのだけれど。
【智】
「うーむー」
【るい】
「うーむー」
二人で額を寄せ合う。悩む。
どうやら付き合いはよさそうだ。
【るい】
「そんでさ、用事無いの?」
【智】
「そこが重要な問題点で」
どこから切り出すのか。
切り出せるのか。
オカルトな話は事態が面倒になる。
不案内な母で、
皆元某に頼れと一筆したためたものの、
何をどのように頼るべきかは示唆がない。
生前からどっか投げやりなひとだったしなあ……。
皆元信悟本人ならば問題もなく話は早いが。
すると父親の話を尋ねるべきか。
ここで話は複雑さを増す。
【智】
(お父さんのことについて教えてください)
【るい】
(どうして?)
尋ねられると困る。
実に困る。
人生に関わる。
恥ずかしがり屋の年頃としては、
根掘り葉掘り掘り返されたくないことは、
両手に余るくらい持ってるし。
【智】
「うーむー」
【るい】
「いつまで悩んでたらよか?」
【智】
「明日の朝くらいまで悩めばいいかも」
【るい】
「長いよっ」
【智】
「実は、その、それなんですが――――
るいさんのお父さんの事なんですけれど、」
切り出した。
【るい】
「なんだって」
びびって座ったまま後ずさりする。
るいが野良犬みたいに牙を剥く。
【るい】
「あんなヤツのことなんてッ!」
適当に踏みだしたらいきなり地雷が埋まってました。
導火線が一瞬で燃え上がる。
心の火の手が、るいの瞳に乗り移る。
野生の動物めいた瞳孔は、まるで不思議な宝石のよう。
怒りが笑いより美しい。
とても綺麗。
〔フライング・ハイ〕
【智】
「んむ?」
異臭がした。
まあ、ここ廃ビルだし異臭ぐらい……。
【智】
「…………ん、むむむ?」
ちょっと違和感。
気のせいかと首をひねる。
部屋が暗いのは、日の暮れた後の廃ビルにまともな明かりが
望めないから。
鼻の奥がむずつくのは、廃墟のどこかから饐えた臭いが
漂っているから。
どれも古い場所には付きものだ。
先入観のせいで今まで気がつかなかった。
【智】
「…………何か臭わない?」
【るい】
「それはなに、私がお風呂に入ってないとかそういうことですか!
ひどい、あんまりだ、女として私は死ねっていわれた!」
【るい】
「これでも公園の水道使ったり学園に潜り込んでシャワー借りたりして気は使ってるんだから!」
【智】
「かなり犯罪者だね」
【るい】
「ちょっと借りてるだけじゃない」
【智】
「不法侵入」
【るい】
「法律と女の子の臭いとどっちが優先されると思ってんの」
【智】
「女の子の臭いが優先されるという根拠を教えて欲しい」
【るい】
「それよりなんの話だっけ?」
【智】
「それそう、臭いの話だった」
【るい】
「ひどい、あんまりだ、女として私は死ねっていわれた!」
【智】
「ループした」
【るい】
「そんでなんの話だっけ」
【智】
「だから臭いの……」
【るい】
「ひどい、あんまりだ――」
【智】
「繰り返しギャグが通用するのは3度まで!」
関西ではそういうルールがあるそうだ。
【るい】
「えー、世知辛い世の中になったもんね」
【智】
「昔からそうなの。暗黙の了解ってヤツ」
【るい】
「昭和の伝統はわかんない。だって、私平成――」
【智】
「かあっ!」
咆えた。
【るい】
「なに?!」
【智】
「あなたは今地雷を踏もうとしました」
【るい】
「地雷? なによ、誕生日の話なんだけ――」
【智】
「かあっ!」
【るい】
「な、なにっ?!」
【智】
「もっと気をつけてくれないと困りますよ!」
エッジの上でダンスするのはマイナーの強みですが。
だからといって信管を叩いて不発弾をわざわざ爆発させるのは
愚か者のなせる技なのです。
【るい】
「そ……それで、なんの話だっけ」
【智】
「焦げ臭くない?」
やっと話が進んだ。
スタートに戻ったともいう。
【るい】
「焦げ臭い?」
【智】
「気のせいかな? さっきからそんな感じがして……」
彼女が鼻をひくつかせる。
目つきが違う。警戒心の強い動物をイメージする。
【るい】
「焦げてる――燃えてる?
何よこれ、近い……ウソ、ちょっとまじ?!」
窓際から外に身を乗り出して外を確かめる。
後を追って窓から外をのぞいて状況がわかる。
外が黒い。
夜以上に黒い。黒くて赤い。
黒いのは煙、赤いのは火の照り返し。
火事だ。
ビルの下の階が燃えていた。
【智】
「うそぉ……」
窓辺で佇んだまま、とっさに思考が停止する。
にへらと笑う。
人間予想をすっ飛んで困った事態に遭遇すると、
最初に漏れるのはやっぱり笑いだ。
【るい】
「何ヤッてんの、さっさと逃げるのよ!」
【智】
「にゃわ?!」
ホッペタを両手で挟まれる。
正気が戻ってきた。
火事。
しかもかなり火が回っている。
すぐに逃げないと取り返しがつかないくらい。
【るい】
「はやく、こっち! 走って急いでっ」
るいの行動は早かった。
手を引かれる。
引きずられながら部屋を飛び出す。
階段から下へ。
四段とばしで3階分を2分とかからず降下して――
【るい】
「どちくしょう、階段はだめだ……」
【智】
「あうう〜〜」
るいが吐き捨てる。
人力ジェットコースターに目を回し、
階段から吹き付ける熱気に酔う。
前髪が焦げてしまいそうな、
オレンジ色の炎の舌。
階段は下りられそうもない。
【智】
「他には?」
【るい】
「……こっち!」
【智】
「どっち?!」
るいが手を引く。
僕が引かれていく。
下ではなく、横ではなく、
非常階段でも、秘密の脱出路でもなく。
まるで悪い冗談のように。
彼女は上へと走り出した。
【るい】
「早く早く! 何やってんの、急がないと死んじゃう!」
【智】
「ちょ、ちょっと待って、待ってお願い! 痛い痛い痛い、
腕ちぎれちゃうの〜〜〜!!」
【るい】
「気合いで何とかせい!」
【智】
「物事は精神論より現実主義で!」
【るい】
「若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!」
【智】
「少年の大きな夢とは関係ないよ、この状況!!」
【るい】
「少女だっつーの!」
【智】
「あーうー」
【智】
「きゃあーーーっ!!!」
【るい】
「根性っ!!!」
【智】
「部活は文化系がいいのぉ!」
【るい】
「薄暗い部屋の隅っこでちまちま小さくて丸っこい絵描いて
悦に入って801いなんてこの変態!」
【智】
「ものすごく偏見だあ!」
片手でこっちを引きずり回す、
親戚にゴリラでもいそうな文化偏見主義者な彼女が
ドアを蹴破った。
時間が凝ってカビの生えた、閉じた薄暗い廊下から、
開いた夜の空の下へ。
るいが歯がみする。
熊のように落ち着き無くうろつく。
そうこうしている一秒一秒に、
僕たちは少しずつ確実に逃げ場を失っていく。
炎が追ってくる。
終点は、ここだ。
天に近い行き止まり。
戻る道もない。
異臭が鼻をつく。
目の前が酸欠でくらくらする。
絶望が胸にしみてくる。
こんな場所で、こんな終わりなんて、
想像したこともなかった。
終わりはいつでも突然で予想外だ。
きっと世界は呪われている。
皮肉と裏切りとニヤニヤ笑い。
ぼくらはいつでも呪われている。
届きっこない空を、
荒い息を弾ませながら見上げた。
時代のモニュメントじみた、
空っぽのビルの頂から。
【智】
「――皆元さん!」
【るい】
「るいでいいよ」
【智】
「こういう状況で余裕あるんだね……」
【るい】
「余裕じゃなくてポリシー。全てを脱ぎ捨てた人間が最後に手にするのはポリシーだけ」
よくわからない主張を力説。
【智】
「イデオロギーの違いは人間関係をダメにするよね」
ふんと鼻を鳴らされる。
破滅の前の精一杯の強がりで。
その強がりに薬をたらした。
【智】
「――あっちまで跳べると思う?」
指差したのは不確かな視界を隔てた向こう側。
隣のビルが朧に浮かぶ。
路地一つ挟んだ距離、フロア一つ分ほど頭が低い。
【るい】
「近くないね」
【智】
「…………無理か」
【るい】
「私より、あんた自分の心配したら」
【智】
「あんたじゃなくて、智」
【るい】
「…………」
【智】
「ポリシー」
【るい】
「――私から跳ぶわ。チャンスは一回」
僕らは走った。
呪いを振り切るように、跳躍する。
これまでの人生で一番の踏切。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光、何もかもが圧縮された刹那の秒間。
落ちる、という感覚さえもない。
一瞬の視界にはただ夜ばかり。
すぐそこにあるはずの、
辿り着くべきビルの頂きを見失う。
赤い夜で塗りつぶされた。
世界は手探りだ。
隣り合っていても名も知らないビル。
呼ばれることのない名前は意味を喪失する。
何者でもない、あるだけのものは化石と同じだ。
街の化石。
時代の亡骸。
誰かの失敗の記念碑。
それは呪いになる。
根を張って、街の片隅を占有し続ける。
落下する。
1フロア分の高度差にショックを受けながら、
受け身も取れないで投げ出された。
感覚を置いてけぼりにした数秒が過ぎて。
ようやく意識できたのは、予想より少ない衝突と、
予想よりやわらかいコンクリートの屋上。
【智】
「……とってもやわやわ」
【るい】
「へへへ、ヤバかったよねー」
るい。
【智】
「受け止めて、くれたんだ」
【るい】
「トモ、あのまま落ちてたら頭ぶつけてたかも。
ほんと、ヤバかったよ。自分でわかんなかったろうけど」
視界が効かなかった。
だから、バランスを崩した。
地雷を踏みかけた寒気と逃げ延びた安堵がごちゃごちゃに
混じりながら追いついてきた。
いくつかの痛み、打撲、擦過――
気がつく。
コンクリートよりもずっとやわらかい、
るいの胸に顔を埋めて、
子供をあやすような掌を髪に感じている自分。
【智】
「あの、もう平気で、大丈夫で……」
【るい】
「へー、意外と体格いいんだね。もうちょい、細い系だと思ってた」
【智】
「け、怪我とかしなかった?」
【るい】
「みたまんま。私、頑丈なんだよね」
そういうタイプには見えない。
【智】
「無茶……するんだ、受け止めるなんて……
あんな高さから落ちてきたのに」
【るい】
「感謝するよーに」
貸したノートの取り立てでもする気楽さ。
なんでもないことのように。
いい顔で、るいは笑う。
今日会ったばかりの、まだ名前ぐらいしかしらないような
相手なのに。
自分が怪我をするとか思わなかったのか?
二人まとめて動けなくなったかも知れないのに?
虹彩が夜の緋を受けて七色に変わる。
間近からのぞき込んだそれは、
研磨された宝石ではなく、
川の流れに洗われ生まれた天然の水晶だ。
人の手を拒む獣のように、鋭く強い。
【智】
「あう」
【るい】
「むっ」
【智】
「にゃう?!」
ほっぺたを左右にひっぱられた。
【智】
「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
【るい】
「なんて顔してんのよ。せっかく助かったんだぞ」
【智】
「にゃおーん!」
【るい】
「感謝の言葉」
【智】
「……にゃにゃがとう(ありがとう)」
【るい】
「よろしい」
手を離す。
るいがはね起きる。
伸びをするみたいに体を伸ばし、
肩を回して凝りを解す。
隣にぺたりと座り込んで、
さっきまでいたビルを眺めた。
【智】
「やっと――」
逃げ延びた、
そう思ったのに。
重低音が這い上がってきた。
一瞬なんなのかわからず、
正体に思い至った後になって、
噛み合わなさに戸惑う。
エンジン音だ。
ビルの屋上、エンジン音、上がってくる――
違う絵柄のパズルのピースと同じ。
どこまでいっても余りが出る解答。
【智&るい】
「「な――――――ッッッ」」
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
エスプリの効いた冗談みたいな物体が、
目の前で長々とブレーキ音の尾を引いて横滑り。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
胡乱な物体だった。
どうみても原付だった。
どこにでもある、町中を三歩歩けばいき当たりそうな、
テレビを一日眺めていればコマーシャルの一度や二度には
必ず出会うだろう。
成人式未満でも二輪運転免許さえ取れば、
購入運用可能な自走車両。
価格設定は12万以上25万以下。
ただ一点、ここが公道でも立体駐車場でもなく、
廃ビルの屋上だということをのぞけばありがちだ。
黒い原付――。
目の潰れそうに黒い車両の上に、
同じだけ黒いライダースーツとフルフェイスヘルメットが
乗っかっていた。
【智】
「――――」
緋の混じる夜。
影絵のような影がいる。
こちらを向く。
〔芳流閣、みたいな?〕
首の後ろがちりちりとする。
産毛が総毛立つ。
背筋によく響く、
威嚇の唸りめいたエンジン音が、
赤と黒の混じった夜を攪拌(かくはん)する。
月の下。
届かない空にほど近い場所。
たちの悪い都市伝説が目の前で形になる。
給水塔とパイプと錆びた鉄柵だけが飾る、
そっけなく廃ビルの屋上、そして原付と黒いライダー。
それは噂だ。
幾千もあり、幾万も消える、
小蠅と同じネットの馬鹿話。
黒いひとは黒い王子様。
その身に呪いを受けた黒い運命のひと。
それは吸血鬼。
それは殺し屋。
それは、女の子をどこかへ連れ去ってしまう
――とりわけ綺麗な女の子を。
語られては語り捨てられ消えていく物語。
緊張に乾いた口の中がひりひりする。
にしても。
【智】
「…………原付かあ」
もう少し、情緒というか、TPOというか。
ファッションにも気を遣って欲しいぞ、伝説。
と。
影が鬱陶しそうにヘルメットを脱いだ。
【智】
「あれ?」
そんなのでいいの?
もっともったいぶらないですか、ふつーは?
前置きもなく神秘のベールがはがされる。
詰め込まれていた髪が流れて落ちた。
月を映す瀧(たき)に似た、青白く染まる銀色の髪。
騒がしい夜がそこだけ回り道しそうな、
目に痛いほどの白。
【智】
「あ……」
あれれ?
【るい】
「――――どこの、女のひと?」
【智】
「心当たりアリマセン」
王子様は、お姫様だった。
鋭い目つきと国産品らしからぬ顔立ちが、
暗がりでもよく目立つ。
冷たいナイフの先のようなまなざしをする。
整っている分鋭くて、
触れようとするとその前に喉もとへぶすりと突き刺さりそうだ。
【花鶏/???】
「みつけた――――」
黒い都市伝説にしてはイメージの違う、
明かな女の子の声で、とてつもなく俗っぽい感情が叩きつけられる。
【智】
「……なんか怒ってない?」
【るい】
「トモの知り合い?」
【智】
「だから違います。王子様の携帯番号なんて知らない」
【るい】
「王子様? なにそれ……あれ、女の子じゃないの?」
【智】
「聞いたことない? ほら、都市伝説で……」
【花鶏/???】
「――わよ!」
原付が突っ込んできた。
【智&るい】
「「なわっ?!」」
跳んで避けた。
鼻先をテールランプがかすめて通る。
手加減無用の突っ込み具合だった。
狭い屋上を、黒い原付は殺人的な加速で横切った。
壁にぶつかる寸前で乱暴にブレーキを利かせ、
タイヤの痕をコンクリートに刻印しながら反転する。
【花鶏/???】
「……避けたわね」
【智】
「避けなきゃ死んでるよ!」
無体な苦情だった。
【花鶏/???】
「この無礼者」
【智】
「いやいや、それはどうですか……」
無体に加えて無礼者呼ばわりだ。
避けて無礼というとことは、礼を尽くすには一礼しながら
轢殺(れきさつ)されなくてはいけないのか。
【智】
「……人生は厳しい選択肢ばかりだ」
お時代的でお堅い我が母校では、初対面の相手にも礼を失することがないようにと常々いわれるのだけれど。
こういう不測の事態のマニュアルは与えてくれない。
【智】
「だからマニュアル型って片手落ちなんだよ」
愚痴愚痴と。
【花鶏/???】
「返してもらうわよ」
【智】
「まったく理解できません」
片手じゃなく両手オチくらい理解不能。
人とは日々己の限界と対話する生き物だ。
人類が獲得した言語というコミュニケーションツールの限界を
しみじみと痛感する。
【るい】
「……ほんとに心当たりないの?」
【智】
「そっちこそ、恨み買った覚えとかは?」
二人でこそこそと責任を押しつけ合う。
轢殺死体を増産したがる原付ライダーの恨みを買ってるという
立ち位置は……なんかやだ。
魂的にすんごく黒くて重い十字架。
【るい】
「恨み、恨み、恨み……恨みねえ……んー」
【るい】
「まあ、それはともかくとして」
【智】
「何故誤魔化すの!」
【るい】
「プライベートには口出しして欲しくない」
露骨に流された。
【智】
「円滑な社会を築くには情報の公開が必要だよ」
【るい】
「嘘も方便といいまして」
【智】
「はっきり嘘っていったー!」
【るい】
「あ、きた」
【智】
「ひゃわ!?」
闘牛みたいな勢いで単眼ライトが迫ってくる。
殺人原付。
【花鶏/???】
「返せーっ!」
逃げた。
【智&るい】
「「ひーーーっ」」
身に覚えのない罪だ。
不幸だ。呪われている。
【るい】
「階段!」
【智】
「ラジャー!」
生命危機に裏打ちされた以心伝心。
原付の蹴破った扉から、
下への階段に脱出を狙う。
罠だった。
逃げる場所が一カ所なんだから狙いうちなんて簡単だ。
原付は見事な先回り。
瞬間移動したみたいな位置取りで、
単眼ライトが僕の顔を睨みつける。
そこまでが、ほんの1秒。
足がすくむ。
その次の1秒。
風景がぐるりと回った。
感覚が遅れてやってくる。
倒れる前に顔が痛くなる。
前髪をサイドミラーがかすめていった。
るいに蹴られたらしい。
おかげで原付の衝突コースから弾き出されて地面に転がる。
【智】
「ぎゃぶ」
潰れたカエル風に呻く。
顔を上げると、
るいが腕を振りかぶっていた。
反撃のラリアット。
肘から先が見えない。
女の子の細腕が即席のハンマーと化す。
一瞬にすれ違う原付とるい。
必殺のラリアットは肩先をかすめただけだ。
なのに、
黒いライダーは進路の真反対にはねとばされた。
原付は真っ直ぐ走って壁にぶつかる。
――――――なんだそれ?
普通じゃない。
力じゃない。
おかしい。
はずれている。
【るい】
「――――ちっ」
るいが舌打ち。
ライダーは頭をかばって転がって、
そのままくるっと立ちあがる。
しぶとい……。
まともには食らっていなかったとしても。
それにしたって。
【花鶏/???】
「――この馬鹿力」
片膝をついたまま吐き捨てた。
対峙する。
距離を挟んで。
るいとライダーの視線が衝突する。
【るい】
「殺すよ」
〔気になるのは――〕
《るいのこと》
《レジェンドライダーに注目》
〔るいのこと〕
るいの顔はよく見えない。
ふたつの目だけが向かいのビルの火事を受けとめて、
炯々と光を放っている。
暗がりから睨む獣だ。
群れを率い、牙を研ぎ、
獲物を狙う肉食獣。
〔レジェンドライダーに注目〕
ライダーさんは針みたいな敵意の一方、
冷静に次の一手を思案している。
原付は、るいのずっと後方で、
ハンドルをおかしな方向に曲げて逆立ちしていた。
〔芳流閣、みたいな?〕
サイレンだ。
誰かが消防署に知らせたんだろう。
この辺りにだって普通に人は住んでいる。
すぐにこのあたりも野次馬と警察やらでいっぱいになる。
【るい】
「ちっ」
るいが僕の手を引いてきびすを返す。
戦線を放棄して逃走に移る。
平和主義には賛成です。
それにしたっていきなりだけど。
【智】
「ちょ、ちょっと――」
【智】
「どうしたの?!」
【るい】
「人が来る前に逃げないと」
【智】
「逃げるって、どうして」
【るい】
「警察に見つかったらヤバイでしょ」
【智】
「……そりゃ、不法侵入に不法占拠に家出っぽければね」
【るい】
「なんか言いたいことあんの?」
【智】
「とりあえず、僕は平気だから」
【るい】
「毒を食らわば皿までって言葉あるよね」
【智】
「……毒薬がいうこっちゃないと思う」
【るい】
「あー、それにしても火事だなんて。
荷物とか食器とか替えの服とか色々あったのに〜〜」
【智】
「ごまかした!」
【るい】
「ちょっとは憐れみと慈悲の心はないの?
生活用具のほとんどを失って、家からもたたき出された
可哀想な女の子が一人で苦しんでるのに」
【智】
「大変だなあ」
他人事風味で。
睨まれた。
怖かった。
【智】
「……とりあえず、どうするの?
警察がマズイんなら場所移そうか」
【るい】
「………………」
返事はなかった。
返事の代わりに。
【るい】
「きゅう」
るいは、倒れた。
【智】
「ちょ、ちょっと――――――?!」
〔一つ屋根の下〕
【るい】
「おー、これいける! ほうれん草のおひたしのさりげない塩味が上品で、新鮮な歯ごたえがしゃりしゃりと耳ざわりよく響き渡る感じ!」
【るい】
「卵焼きがプリチー! 焼き上がりはほんのりでべとつかなくて形もバッチし。ほかほかの猫マンマとの食い合わせが実にたまらなくて、私のお腹にキューンと訴える!」
【智】
「どこの美食な倶楽部の会員さん?」
そういえば、すべからくと耳ざわりって似てるよね。
どちらも誤読から、
本来とは違う使われ方が一般化してるあたり。
時間が経つと得てして最初の意味なんて忘れられてしまう。
【るい】
「二重丸をあげよう!!」
るいが、にまっと笑う。
お箸は持ったまま。
お行儀悪しで減点対象。
格好を崩して、がつがつとご飯をかき込んだ。
食べる。
健啖に食べる。
胃袋の底が抜けてるんじゃないかと思うくらいたらふく押し込む。
どんぶりだけでも3杯目。
さっきまで玄関で倒れていたイモムシと同一人物というのが
信じられない。
【るい】
「うまいぞーーーーーーーっ!!!」
左手のどんぶりが高く高くかかげられた。
背景に火山でも爆発しそう。
蛍光灯の後光を浴びて、それなりに光り輝くどんぶり。
いそいそと4杯目をよそぐ。
【智】
「3杯目にはそっとダシって知ってる?」
【るい】
「私、学ないんだよね」
【智】
「そうだろうと思ってた」
【るい】
「あ、これで最後なんだ……」
炊飯器の中が空っぽだった。
単純な計算だよワトソン君、食べたものは無くなってしまうんだ。
なんてことだ、そいつは新発見だよホームズ。
ちなみに僕は一口も食べてません。
【るい】
「最後………………」
世界の終わりくらい、
ものすごく悲しそうだった。
【智】
「……もう1回ご飯たく?」
【るい】
「えー、そんなの悪いよ、ダメだよ、
そこまでよばれたりなんてできないよ」
ものすごく嬉しそうだった。
なんとなく負け犬チックな気分でキッチンに立つ。
手早くお米を洗って炊飯器を早炊きにセット。
ぱんぱんと柏手を打たれる。
【智】
「なによ」
【るい】
「拝んでます」
手をあわせて伏拝されていた。
【るい】
「いやもう大助かり。ここだけの話なんだけど、
私、お腹すくと倒れちゃうんだよね」
【智】
「そんな漫画チックな体質、自慢げに告白されても困る」
【るい】
「死ぬかと思いました」
【智】
「僕は、ここに来るまでに何度も思いました」
【るい】
「そりゃ悲惨」
他人事のように述べる。
あの騒ぎの後――。
るいが倒れた。
どうしたのか、頭でも打ったのか、
実は黒いライダーの百歩歩くと心臓が
停止する必殺パンチが決まっていたのか。
【智】
「大丈夫?! ねえ、しっかり……しっかりしてって!」
【るい】
「お…………お腹、減った」
【智】
「ベタなオチだな、おい」
正解は空腹でした。
ガソリンの入ってない車は動かない。
お腹の減ったるいは動けない。
うんうん唸るグッタリした女の子を引っ張って、
途中でタクシーを拾って自分の部屋まで戻った。
ちょっと恥ずかしかったです。
【るい】
「ファミレスとかでもよかったんだけど」
【智】
「お金持ってるの?」
【るい】
「………………」
捨ててきた方が家庭平和のためだったろうか。
ファミレスを避けたのは虫の知らせもいいところだ。
食べ終わってお勘定になってから、
誰が払うのか血で血を争う不幸な結末になる可能性が
実に80パーセント。
【智】
「そんなに何も食べてなかったんだ、倒れるくらい」
【るい】
「毎日食費が馬鹿になんなくて……」
【智】
「ご飯がなければケーキでも食べればいいじゃない」
【るい】
「ケーキの方が高いよ、きっと」
【智】
「フランスのひとも罪だなあ」
【るい】
「人よりちょっと食べる体質だからって、
こんなにも生きにくい世の中に私は異議を唱えたい!」
起立、挙手、断固抵抗ストライキの構え。
ちょっと食べる体質。
【智】
「それってかなり控えめな表現だよね」
【るい】
「異議は認めません」
わりかし暴君だった。
【智】
「そんで、これからどうするの」
【るい】
「どうしよっかな」
【智】
「質問とか尋問とか事情聴取とか集中審議とか色々あるんだけど」
【るい】
「尋問か!」
【智】
「問い詰めとか」
【るい】
「もうちょい甘味のある方が」
【智】
「焼け出された身の上は甘くない」
【るい】
「寒い時代だよね……」
【智】
「まだ春だよ」
【るい】
「人の心のすきま風が身にしみる」
【智】
「おひつ空にするくらい食べたくせに」
【るい】
「で、次の、もう炊けた?」
朗らかにすり寄られた。
ほっぺたがぺったりくっつく。
尻尾を振って舐め出しそうな空気。
【智】
「まだです」
【るい】
「しゅーん」
【智】
「その前にシャワーしない? お互い真っ黒だし」
【るい】
「ほへー、よく気がつくね。智って嫁属性?」
【智】
「細かい気遣いは人間関係の潤滑油なのです」
【るい】
「むむむ、難易度高いこといわれた」
【智】
「わかんないだろうと思った」
【智】
「じゃあ、先にお風呂使ってよ」
【るい】
「えー、別にあとでいいよ。やっぱキミん家だし」
【智】
「そういうことだけ気つかわなくてもいいから。
ちょっとしか違わないんだし、さっさと汗流しちゃって。
僕はご飯の後片付けしてる」
【るい】
「…………片付けちゃうの?」
【智】
「…………今炊いてる」
【るい】
「うわーい」
喜色満面。
今にも踊り出しそうで、踊らない代わりに飛び上がって、
【るい】
「そんじゃ、ぱっとシャワー借りちゃう」
【智】
「はーい、ごゆっ――――」
脱いだ。
景気はよかった。
止めるまもなくワイシャツを脱ぎ散らかしてスカートを落とす。
【智】
「…………」
シャツの下は下着だった。
ぶらっと脱ぎ散らかした。
ブラだった。
手元に落ちてきた。
脱ぎたて。
【智】
「ほわた」
したっと履き捨てた。
下だった。
【智】
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
【るい】
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ?!!!!!」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【るい】
「な、なによ、突然大声だして?」
【智】
「ど、ど、ど、ど、ど、ど、ど」
【るい】
「トド?」
【智】
「どうして脱ぐのーーーーーー?!」
【るい】
「お風呂……」
【智】
「ここで脱いでどうするのーーーーー?!」
【るい】
「ど、どこで脱いでも一緒でしょ。
女同士だし、減るもんでもないし」
【智】
「減っちゃうのーーーーーーーーー!!!!」
【るい】
「…………」
るいが変なポーズで固まる。
猫騙しされた猫と同じだ。
隣近所の迷惑間違い無しの大声で、
配線がずれたらしい。
ごく自然に。
上から下へ目玉が動く。
意思は本能に逆らえない。
精神は肉体の玩具に過ぎないのだ。
視覚が対象を補足する。
白いうなじ、白い肩、白い胸――
よくしまった身体には贅肉らしいものはなく、
筋肉質というほどではないが鍛えられている。
機能としての完成系。
ある種の肉食獣をイメージさせる駆動体。
視線を引き寄せる磁力が強い。
さらに下へ。
新事実。着やせする形式だった。
〇八式ぼんきゅぼん。
殺人兵器級に出るところがでて引っ込むところが引っ込んでいる。
余所様の妬みとか嫉みとかやっかみとか歯ぎしりとかを
力任せに踏みにじるパワー。
【るい】
「……なに、いってんの?」
【智】
「は、はいっ!」
直立した。
不動だった。
頭のネジがストンと抜けて、
何が何だかわからない。
【るい】
「いやあ、だからさあ……」
【智】
「お、お、お――――――」
【るい】
「お?」
あっけらかんとした、るい。
あからさまで、開けっぴろげで、
真っ向すぎで。
ダメだと思うのに目を反らせない。
【智】
「おふろ、どうぞ」
【るい】
「うん? うん」
小さくなってバスルームの扉を指差す。
そっと示す。
事態の打開を図っての苦し過ぎる一手。
真っ赤になっているのがばれてないことを心底祈る。
【るい】
「……んじゃ、おさきにいただきます」
どうにも収まり悪そうに首を傾げながら、
白いおしりがお風呂に消えた。
【智】
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
冷蔵庫の角にがつがつ頭突きを決める。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け人という字を
掌に書いて飲み込んだら人生は幸福で
新たな世界がきっと開ける新世紀。
【智】
「よし、冷静に戻った!」
ぎゅっと拳を握りしめる。
ほのあったかい。
手の中に小さな布きれ。
上と下だった。
脱ぎたてピンクだった。
【智】
「にゅおにょわーーーーーーーーーーーー!」
【るい】
「そういえばさー、私の服……」
【智】
「……全部まとめて洗ってます」
【るい】
「さっすがトモちんよく気がつくー。いい奥さんになれるよね」
奥さんなんて、実に嬉しくありません。
【るい】
「そういえばさー、シャンプーと石けん……」
【智】
「そこにあるヤツ使っていいから。全部カラにしても問題なしで」
【るい】
「さっすがトモちん太っ腹ー。いい男つかまえられるよね」
いい男なんて、キャベツの芯ほどの価値もありません。
【智】
「ふんむ」
静かになったので思索にふける。
思考リソースを浪費していないと、
背中から聞こえてくるシャワーの音が
爆弾じみた破壊力で突き刺さる。
すぐそこに、女の子、
それも可愛い、しかも裸。
地雷だ。
【るい】
「ふんふんふん〜」
鼻歌まで聞こえてくる。
のんきの上に剛毅だ。
他人の縄張りには敏感かと思ったけど、
案外無頓着らしい。
【智】
「どうしたもんかなあ」
手と頭をマルチタスクで稼働させる。
食べ終わりの食器を水洗いしながら思考の原野を彷徨。
今日のひと騒動――
慌ただしい事実に優先順位を付ける。
確定していることとそうでないことに分割し、
それぞれ仮想の箱に放り込む。
関連性の直線を縦横にリンクさせてグループ化する。
母さんの手紙、るいの父親という人物、
その人物に関して複雑な感情を持っている(らしい)
るい、火事、黒い王子様はお姫様、そして轢殺されかかる。
【智】
「……刺激的な一日だったなあ」
【智】
「平穏無事と没個性を人生の理想にしたい。野良犬になるよりも、軒下で一日中寝てる飼い猫がいい」
【るい】
「そういえばさー」
【智】
「んにゅ」
【るい】
「一緒にはいろ」
【智】
「にゅにゅにゅにゅにゅ〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」
るいが手招きする。
脱衣所から身体半分つきだして、
おいでおいで。
【るい】
「トモっちも汗かいてんだし、一緒入った方がいいでしょ」
【智】
「よよよよよよよよ」
【るい】
「ヨヨ?」
【智】
「よくないよーっ!」
両手を真上に伸ばし、片足をあげる、
どこぞのお菓子メーカーさんご推薦っぽいポーズで錯乱する。
危険になる。
それなのに注視してしまう。
白とかピンクとか黒とか先っぽとか。
何もしていないのに、
いつの間にか後ろが断崖で退路がなくなっていた。
【智】
「きゃーきゃーきゃーきゃー」
【るい】
「いいじゃん。女同士なんだし、減るもんじゃないって」
【智】
「だから減っちゃうのーーーーーーーーー!!!!」
【るい】
「むお、なんかむかつく!」
【智】
「むかつかないむかつかない」
【るい】
「かくなる上は」
【智】
「上も下もないのお」
【るい】
「実・力・行・使」
【智】
「ひぃいぃーーーーーーーーっ」
るいが来た。
大魔神みたく肩で風きって迫ってくる。
手入れがぞんざいそうなわりには健気に育っている胸ミサイルが、たわわんと揺れた。
ピンク。
先っぽ。
【智】
「きゃあきゃあきゃあ」
【るい】
「えへへへへ、ここまできてうだうだいうんじゃねえ」
【智】
「やー、うは、や、やめてぇ、お願い許してぇ」
襲われる。
まずい、だめ、やめてやめて!
【るい】
「大人しくしやがれ、痛い目にあわないうちに脱いだ方が
身のためだぜぇ」
【智】
「きゃあ、きゃあ、きゃあ……だめえ、いやあ、よして、
結婚までは清らかな身体でいたいのぉ」
お願い許して堪忍して!
死んじゃう、僕死んじゃうからぁ……っ!
【るい】
「力で勝てると思ってやがんのか、ここまで来たんだ、
いいかげん諦めやがれえ!」
【智】
「おかあさーーーーーん!」
【智】
「……お願い、許して……」
【るい】
「ぬを」
涙目で懇願。
死ぬ気で抵抗したのにだめだった……。
汚されちゃった感じで力尽きる。
キッチンの床に押し倒されて、
右腕一本で縫い止められて。
熊とでも取っ組み合ってる気がした。
【智】
「僕、だめ、だから……」
喉に絡んで、
うまく声がでない。
乱れた服の裾から肌がもれるのを押しとどめようとして、
華奢な腕で自分を抱きしめた。
隠しきれない胸元から白い肌がのぞいてしまう。
【るい】
「を……」
生まれたままの格好のるいが、
のしかかっていた。
濡れ髪が額に張り付いている。
シャワーの雫を肌にまとわりつかせて、
すぐそこにある前髪から水滴が落ちてくる。
湿っぽい体温と石けんの匂い。
【るい】
「だ――」
【るい】
「だめ……て……」
なにやら剣呑な目つきをされる。
屍肉を目の前にした空腹のハイエナだった。
ちょっとちょっと……。
この局面でその目つきは。
意味不明な危機感に脊髄がちくちくする。
【智】
「その、僕……っ」
思考する。
思考せよ。
思考するとき。
この場を逃れる方法を――――!
このまま剥かれてお風呂に連れ込まれてしまったら、
僕の人生的な危機だ。
【智】
「ぼ、ぼく」
【るい】
「…………」
まな板の上の鯉気分で。
【智】
「……おっぱい、ちっちゃいから」
誤魔化す。
本当は胸なんてどっちでもいいんだけど……。
【るい】
「…………」
反応小。外しちゃったろうか?
【智】
「ひとに見られるの、恥ずかしくて……」
【るい】
「……ぁぅ……」
【るい】
「…………なんか、かわいい」
【るい】
「は、はわ?! ちょっと、なにいってんの私!
正気に戻れ、目を醒ませ!!」
なにやら、るいが苦悩しだした。
意味不明にぶるぶるかぶりを振っている。
意味不明度、幾何級数的に上昇。
それにしても生物学的神秘だ。
見た目の筋量から連想できない出力系。
実は骨格から異質な生物だとか、
背中にケダモノが宿ってるとか。
【智】
「……人間は考える葦である」
好奇心が刺激された。
手を伸ばして掴んでみる。
もにゅ。
【るい】
「にゃにゃ、にゃわ?!」
【智】
「やわらか手触り」
見た目同様十二分にやわらかい。
あのビルでもそうだった。ちょっと信じられない高出力系が、
この構造に隠されている。
【智】
「すごいね、人体」
【るい】
「そそそそそ、そーいう趣味、私ないから!!」
【智】
「は、はにゃ?」
掴んでいたのは、おっぱいだった。
【智】
「にゃーーーーーー!!!」
【智】
「あー、すっきりした」
お風呂に入ると疲労が節々からにじみ出てくる。
あがった瞬間一歩も動きたくなくなるくらいぼーっとつかっていると、大変な一日だったと実感がわいた。
恥ずかしいのでお風呂の中で着替えた。
【智】
「んで、どんな…………」
【るい】
「にゃわ、どっかした?」
ダイニングに戻る。
るいは、僕が貸したワイシャツ一枚羽織っただけの格好だった。
はいてなかった。
【智】
「あんの」
ロボっぽいぎこちなさで。
【るい】
「あいよ」
【智】
「なんで、履いてないの?」
【るい】
「洗濯してんでしょ。トモが洗ったんだし」
そうでした。
【智】
「替えとか」
【るい】
「荷物ほとんど燃えちゃった」
そうでした。
【智】
「ズボンとか」
【るい】
「面倒なんだよね、部屋でズボンとか履くの。ま、いいっしょ」
すごくよくないです。
地雷だと思ってたら核爆弾でした。
なまじ見えるか見えないかというフェチシズムと狙い澄ました
鉄壁のライン取りが危険度を急上昇させます。
白い布地の下に透ける色々なの、角度とか。
今ボタンの隙間から見えたのは確かにピンクだった気がする。
うなじとか太ももとかどうでもいいところが一々目に入ってきて
ワザとやってるのかと思う。
【るい】
「んでさ」
あぐらを組んでた足の位置を変えた。
見えた。
色々。
【るい】
「どったの、いきなりうずくまって?」
【智】
「どうしたのといわれても」
【るい】
「人と話するときはキチンと相手を見る!」
【智】
「ぎゃわっ」
首ごとグキッてされた。グキッて音した。本当にした。
【智】
「あう〜」
どうしても目にはいる。
見てはいけないと思っても超電磁の力で引き寄せられる。
考える。
ズボンを履かせる方法、下着を履かせる方法、
コンビニで下着を買ってくる方法、パジャマを貸して着せる方法。
【智】
「その……やっぱり部屋でも……裸って言うのは……」
【るい】
「すぐに乾くんでしょ、私の」
【智】
「うん」
【るい】
「それならいいじゃない、細かいことは」
細かいことなのか?
本当に良いのか?
そうだ、なんとなくいい気になってきた。
このまま素晴らしい世界に生きよう。
あなたの望むシャングリラへようこそ。
【智】
「……うん」
状況に流されて妥協的返答をする。
【るい】
「そういえば、トモってすっごい内股で座るんだ」
【智】
「人にはやるせない事情がいっぱいあるから……」
やるせなさすぎて、僕は僕が可哀想だ。
【るい】
「そんで、なんだっけ」
【智】
「そうだ、尋問!」
【るい】
「圧力的な単語だ」
【智】
「事情聴取」
【るい】
「警察っぽくて嫌だなー」
【智】
「我が儘度高っ」
【るい】
「それに事情っていわれても……なんの事情よ」
腕組みして、眉をよせて、ジト目をする。
【智】
「あの、黒い仮面のライダーは?」
【るい】
「悪の秘密結社と戦ってんのと違うかな」
【智】
「みつけたとかいってなかったっけ」
確かに言ったのだ。
みつけた、と。
僕か、るいか、あるいはその両方か。
彼女は捜していたのだ、
なんらかの理由で。
理由――。
原付で屋上まで上がってくる。
非常識な相手に追いかけられそうな、
その上、問答無用の轢殺死体にされかける、
そんな理由。
【るい】
「トモじゃないの?」
【智】
「平穏無事と没個性が生きる目標なんだよ」
あんな面白そうなものに心当たりはない。
【るい】
「没個性の方は、はなから無理っぽくないか、おい」
【智】
「目標は遠いほど価値があるって」
【るい】
「なんか難しいこといわれた」
【智】
「エセ哲学っぽい講釈はいいとして、るいは本当に心当たりとか買った恨みとか誰かを殴り殺して仇討ちされる思い出とかないの?」
【るい】
「……私をなんだとおもってんのよ?」
【智】
「…………」
言ったら怒りそうなので黙秘権を行使する。
【智】
「あの子、過激だったし、容赦なかったし、しかも狙ってたし……怨恨とか報仇とかそっち系の理由じゃないかと思うんだよね」
【るい】
「恨みかあ」
【智】
「逆恨みでも可」
【るい】
「まあ、たまに街でケンカしたりとか殴ったりとか蹴ったりとか投げたりとか捨てたりとか」
【智】
「………………たまに?」
【るい】
「………………たまに」
人生の不良債権が山積みだった。
【るい】
「んなこといっちゃって……トモは、どなの?」
【智】
「それって恨まれてるか話?」
【智】
「うーん、恨み恨まれ人生街道……」
【るい】
「世知辛い道行きだねえ」
【るい】
「ま、るいさんの眼鏡で見たところ、恨んでるひとはいんじゃないかって思うけど」
【智】
「そんなに悪そうにみえる?!」
金槌で殴られたくらいショックだ。
【るい】
「すっごくいい子に見える」
【智】
「もしかして誉め殺されている?」
【るい】
「人を恨むのってさ、善悪じゃないんだよね」
るいが膝を立てる。
見えそうで、見えない。
両手で足を抱いて丸くなった。
声のトーンが少しだけ落ちる。
それっぽっちで不思議なくらい華奢に感じた。
指先が床に頼りない模様を描く。
無意識っぽく。
きっと本人も気がついていない。
【るい】
「……いい人だから恨まれないとか、悪い奴だから恨まれるとか、そういうのって本当は違うでしょ」
【るい】
「よくても悪くても、原因があってもなくても、自分が知ってても知らなくても、お構いなしの関係なし」
【智】
「関係なし、か」
正そうとして恨むのではなく、
過ちに憎むのでもない。
差異にこそ怨恨は生成される。
理想との違い、自分との違い、
周囲との違い――あらゆる違いが引き金を落とす。
哀れな自己矛盾。
個性といい、自分自身という。
誰もが違いを求めるくせに、
誰も違いを受け入れられない。
感情の弾丸が飛ぶ先は最初から食い違っている。
【るい】
「人と違ったら違った分だけ恨まれ易くなるんだから。トモなんて、かぁいいから、知らないとこでどんだけ恨まれてたっておかしくないよ、きっと」
【智】
「やだなあ」
【るい】
「ストーカーに狙われたり」
【智】
「女の子でストーカーっていうのはどうなんだろう」
【るい】
「最近はそっちの趣味の子多いとかいわない?」
【智】
「理解できない」
【るい】
「……そうなんだ。トモは男の方がいいのか」
それも願い下げですけどね。
【智】
「ま、まさか!!」
震える手で、るいを指差す。
そう言えば、さっきの目つき……
るいにはそっちの趣味が――――!
【るい】
「ないないないないないないないない!」
身体全部で力説。
【智】
「ほっとしました」
【るい】
「困ったわね。どっちも心当たり無しなんだ」
レジェンドライダーブラックの正体は、
頑として不明のままだ。
【智】
「続きは明日にしよう。シャワー浴びたら疲れがドッと出た感じ」
まぶたが重い。
頭が接触不良でチカチカする。
【智】
「今日は泊まっていってよ」
【るい】
「いいの?!」
【智】
「他に行くあてとか」
【るい】
「ないない、全然ない、全部燃えてキレイさっぱり」
身軽さが素敵だ。
【るい】
「やったー、お布団のあるお泊まりダー!」
【智】
「お泊まり……」
単語を脳が咀嚼(そしゃく)する。
自分の発言した言語が、
致命的な切っ先になって自分の胸に突き刺さる一瞬。
我が家に、他人を泊めるという、事態。
危機管理の甘さがもたらした危機的状況に愕然とした。
【智】
「それって不味いよ!!」
【るい】
「なにが?」
きょとんとされる。
3秒で前言撤回するのは、
いくらなんでも気がとがめた。
その上、撤回すると放り出すことになる。
荷物もなく焼け出された家なし子を
危険な野獣のうろつく夜の荒野に投げ出して知らん顔。
いや、るいなら平気かも知れないけど。
良心がとがめた。
状況的に両親の方がとがめそうだ。
【智】
「いや、その、でも、ほら、女の子同士一つ屋根の下っていうのって、なんだか……」
【るい】
「なんかいいね、そういうの」
裏表のない顔で。
それで何も言えなくなった。
【智】
「………………そだね」
【るい】
「お泊まりかあ。なんか、わくわくする」
【智】
「なにがわくわく?」
【るい】
「初体験」
台詞でダメになりそう。
【るい】
「今までお泊まりとかしたことないんだよねー」
【智】
「そうなの……」
皆元るい。
変なやつだ。
家なき子の放浪者。
ベッドの上でクッションと遊びだす。
赤い夜の屋上で見た獣じみた眼をした生き物はどこにもいない。
どこにでもいそうな女の子が、
飾り気のないクッションを猫の子みたいに抱きしめている。
【るい】
「えへへへへ」
何が嬉しいのかニヤニヤ笑う。
【智】
「なによ?」
【るい】
「どきどき」
もっとダメになりそう。
【智】
「そんじゃ、お休みなさい」
【るい】
「えへへへへ」
【智】
「あの、さ」
【るい】
「なに?」
【智】
「一人、下に寝てもいいんじゃない?」
この部屋で寝る場所といえばベッドか床だ。
ソファーは使えない。
スプリングが壊れていて、
寝ると確実に身体が痛くなるからだ。
まさに絵に描いたソファーだ。
季節柄、床に寝ても問題はないはず。
【るい】
「いいじゃない、せっかくベッドあるんだから、平気でしょ、女の子同士なんだし、一緒に寝ても。私、ベッドひさしぶりなんだ」
【智】
「僕が下に――」
【るい】
「だめっ」
【智】
「ちょ、や、あかん、あかんの、ひっぱらないで〜」
【るい】
「なら、大人しくする」
【智】
「……はい」
【るい】
「ふかふかだあ」
【智】
「そりゃ、ベッドだから」
【るい】
「トモって感動が足りてない」
【智】
「人生なんて平穏無事が一番なの」
【るい】
「…………平穏無事か」
【智】
「まあ、それが一番大変なんだけど」
【るい】
「そだね」
【智】
「もう、きょうは寝よ。疲れちゃった」
【るい】
「うん」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【るい】
「あの、さ」
【智】
「…………」
【るい】
「トモって、なんか、かわいい」
【智】
「ぶっ」
【るい】
「やっぱ起きてた」
【智】
「はめられた!?」
【るい】
「へへへ」
【智】
「早く寝ないと……睡眠不足は美容の天敵」
【るい】
「ひさしぶりのベッド、なんだか寝つかれない」
【智】
「布団の方がいいなら」
【るい】
「……そういうんじゃないよ」
【るい】
「お布団のある生活って不思議だ」
【智】
「不思議じゃなくて普通だと思う……」
【るい】
「普通じゃなかったぞ」
【智】
「そっちが特別」
【るい】
「いっつも寝袋」
【智】
「女の子的に不都合っぽい」
【るい】
「むわ、また難しいこと言う」
【智】
「難しいんだ……」
【るい】
「家があるっていいなあ」
【智】
「るい、実家は……」
【るい】
「ないも同然」
【智】
「そう、なんだ……ごめん」
【るい】
「なにが? 別に本当のことだし。だから、ずっと放浪人生なの」
【智】
「この世は荒野っぽい」
【るい】
「あそこ、結構居心地よかったのになあ」
【智】
「あの廃ビル? 焼けちゃったね」
【るい】
「荷物だってそろえたのに。食器とか」
【智】
「バイタリティだなあ」
【るい】
「全部焼けちゃった……寝袋も持ってくるの忘れてたし」
【智】
「……明日からどうするの?」
【るい】
「んー、どうしよっかな」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【智】
「きゃわっ?!」
【るい】
「お、黄色い声」
【智】
「なにするのーっ」
【るい】
「指でツツー」
【智】
「そんなことはわかってます」
【るい】
「心温まるスキンシップ」
【智】
「温まらないよ、ゾクゾクだよ!」
【るい】
「心配しないでよ。私、そっちの趣味ないから」
【智】
「…………………………」
【るい】
「疑(うたぐ)るな」
【智】
「早く寝ようよぉ」
【るい】
「誰かと一緒に眠るってさ」
【智】
「……うん」
【るい】
「なんか変な気分」
【智】
「身の危険?!」
【るい】
「そっちじゃない」
【智】
「安心しました」
【るい】
「誰かがいるって、ほっとするかも」
【智】
「邪魔なだけだと思う」
【るい】
「そうかな?」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
音が途絶えて、真っ暗な部屋に自分以外の
体温と息づかいを感じながら、
ゆるい眠りの縁を漂泊する。
誰かの気配を部屋に感じるのは不思議だ。
縄張りを侵されている。
異物感と、違和感と、一滴の安堵。
どうして、ほっとするのか。
孤独ではないからか。
るいは先に眠ってしまった。
ずっと話していたそうだったのに、
いつの間にか自分だけ穏やかな寝息をたてている。
【智】
「自分ペースだなあ」
薄目で闇を透かす。
白い顔がびっくりするくらいに近い。
あまりに無防備な寝顔。
心臓が跳ねた。
【智】
「どうしようか、これから……きゃわ?!」
るいがしがみついてきた。
【智】
「にゃわ、にゃにゃわ、ちょ、ちょっとちょっと、ヤバイ、あぶない、それは危険なのーっ」
悲鳴。
反応無し。
眠っていた。
寝ぼけていた。
【るい】
「にゅー」
寝息が胸あたりから聞こえた。
ぎゅーとされる。抱き枕っぽく。
【智】
「にゃわ…………!」
心臓が不整脈みたいにガシガシいう。
シャツ一枚だけで下着も何もない身体の曲線が押しつけられてくる。
「ここ」にも「ここ」にもナニかが当たっていた。
こっちが胸でこっちが太ももで、腕と足を絡められて逃げられなくなった状態で、
意識を集中するともっと色々なモノが当たっているデフコン4状態がしっかりわかる。
【るい】
「んん……」
【智】
「にゃ、にゃ、にゃ、にゃ」
いつも使っているシャンプーの香りなのに、とても甘い。
混じった肌の匂いが鼻腔をおかしくする。
完全に寝ぼけていた。
寝相は悪かった。
すりすりされた。
人生の危機。
【智】
「きゃーーーーーーーーーーーー」
(平気でしょ、女の子同士なんだし、一緒に寝ても)
涙する。
平気じゃない、全然平気じゃないよ。
なぜならば!
――――僕は、女の子じゃないのだから。
〔後ろの彼はツンデレヒロイン〕
【ニュースキャスター:女性/ニュース】
「昨日午後6時頃、田松市でビル火災が発生しました。火災のあった地域は、中断している市の再開発指定区域でしたが、放置区画として問題になっており、」
【ニュースキャスター:男性の声1/ニュース】
「朝日です。現場付近に来ています。現在の時刻は午前7時。火災から一夜明けて、ここから見るとビルの無惨な姿がよくわかります」
【ニュースキャスター:男性の声1/ニュース】
「早期の消火には成功したものの、長らく無人区画として放置されてきたこの一帯には多数のホームレスが押し寄せており、問題を先送りにしてきた行政の怠慢が、」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「ようするに全ては政治の怠慢ちゅーことですわ」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「以前の市議会がどんぶり勘定でやらかした再開発計画がものの
見事に頓挫して以来、ほったらかしにしてたのは連中ですからな」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「はじまりもそうなら終わりもそう。とにかく政治家ちゅーのは
いい加減なもんですけれど、」
【智】
「とわっ!?」
空から落っこちた。
飛んでいられたのは夢の中だけだ。
おでこを打って引き戻され、居眠りから目が醒める。
【宮和】
「――にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました」
【宮和】
「見ると、もうじつに、金剛石や草のつゆやあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、」
【宮和】
「その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光のさした一つの島が見えるのでした」
【宮和】
「その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいいか、」
【宮和】
「すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした」
【智】
「はにゃ……」
ようするに授業中。
断線した記憶回路の再接続を見計らって、
真後ろの清廉な朗読が一区切りついた。
黒板を切り刻むチョークの切っ先がピタリと静止する。
教師の背中に睨まれた気がした。
【智】
「……ぁぅ」
【教師】
「冬篠さん、結構です。では、次の方」
【宮和】
「はい」
失態は見過ごされたようだ。
かくて優等生の看板は今日も維持される。
ほっと一息。
【宮和】
「珍しいですわ、和久津さまが授業中に違法行為だなんて」
【智】
「居眠りって違法だったんだ」
教師は見過ごしても、
後ろの席のチェックが厳しい。
【宮和】
「清く正しい和久津様が、違法なことごとに手を染められるには、やむにやまれぬ事情があろうかとお察しいたしますが」
【宮和】
「昨日は徹夜でどのような犯罪行為を?」
【智】
「僕ってそんなに怪しげなことしてんの!?」
【宮和】
「違法行為をなさるのは犯罪者の方なのでは」
【智】
「だから夜も違法なことをしているはず?」
【宮和】
「さすがは和久津さま。一を聞いて十を知るとは、
まさにあなたさまのためにあるような言葉なのですね」
後ろの席の冬篠宮和は大まじめだ。
普通の真面目とは毛色が違う。
マルチーズとマルチメディアくらい違う。
困ったことに本人的には本気の本気だ。
人呼んで、天才さん。
天災さんという噂もちらほら。
天災さんは成績勉学の類なら人後に落ちない。
孤高の優等生様も、天災さんの足下にしか及ばない。
【智】
「……珍しいね。宮が授業中に話しかけてくるなんて」
宮和は授業が好きだ。
勉強ではなく、知識を蒐集(しゅうしゅう)して頭の中に
並べるという行為が好きなのだ。
【宮和】
「和久津様の奇行に、謎を解明せよと指令を受けました」
【智】
「そんなヤバイ指令、誰から受けるの?」
【宮和】
「好奇心は猫を殺すのです」
【智】
「脅迫された……」
こそこそとハンカチで涎を拭う。
居眠りの証拠を隠滅し、
居住まいを正して背筋を伸ばす。
優等生のできあがり。
【教師】
「結構です。では、次は――――」
誰かが教科書の頁をめくる。
乾いた紙の音が波紋のように部屋に広がって凪ぐ。
黒い頭が規則正しく配列された教室は静かにすぎた。
教室の水面から、
自分がぽかりと浮かび上がる、
いつもの気分を咀嚼(そしゃく)する。
授業の内容は意味のない暗号で、
黒板には酔っぱらったミミズがのたうちまわっている。
教室と僕。水と油だ。
なのに、混じり合わない自分が、
代わりに作った優等生の仮面は、思いの外にできがよかった。
見抜いた人間は3人しかいない。
宮はその一人だ。
仮面は誰もがかぶる。
自分と世間の折衷点を定めてやっていく。
半分は本気で、半分は必要に迫られて。
折り合えない異物は排斥される。
集団の力学というものだ。
僕は地雷だった。
地雷であることを止められなかった。
和久津智。
南聡学園2年生『女子』。
生物学的には『男子』。
それが僕の秘密だ。
仮面の裏側だ。
死んだ母親の言いつけに従って、僕は男であることを隠して、
女の子の振りをして、世間を偽り生活している。
男の子のくせに、女の子の席に座っている。
学園の名簿や入学証明の書類には「女子」で記載されている。
学園のトイレは女の子の方に入る。
体育の授業は時々欠席する。
身体検査や水泳の類を如何にクリアするかは一大イベントだ。
世の中と人生には、
好き嫌いを越えてままならないことが山ほどある。
水は低きに流れる。
集団の力学は隙間をうかがい、常日頃から目を光らせている。
返す返すも残念なことに、揚げ足を取られる覚えは、
プレゼントで配りたいくらいあった。
細い綱を踏み外したら奈落の底へ一直線。
潜在的な異物が、
異物であることから逃れるための方法は二つしかない。
植物になるか。
空を飛ぶか。
【宮和】
「お顔が芳しくありませんわ」
【智】
「お顔の色が、です」
【宮和】
「宮にはわかってしまいました」
【宮和】
「お貸ししましょうか?」
宮がごそごそとカバンの中を探る。
ブルーな心配のされ方だ。
【智】
「持ってますから!」
【宮和】
「それはようございました」
ブルーブルーな気分で、
親の仇のようにノートを取る。
集中できない。
まぶたの裏に、裸Yシャツがベッドの上で
あぐらをかいて陣取っていた。
るい――どうしているだろう。
焼け出された家なき子。
これからどうするつもりなのか。
予定も計画もなにも考えてない様子。
気任せ風任せ。
どこまでも刹那的な、鉄砲玉。
【智】
「珍しいついでに聞くんだけれど」
【宮和】
「なんでしょうか」
【智】
「宮は、犬とか猫とか拾う方?」
【宮和】
「あわれで無様な野良犬に情けをかけたために、昨日の和久津さまは徹夜なさったのですか」
僕がとてつもない人でなしに聞こえる。
【智】
「日本語ってやだねえ」
【宮和】
「美しい言語でございます」
【智】
「ところで犬の話です」
【宮和】
「あわれで無様な」
【智】
「枕詞なんだ」
【宮和】
「お拾いになられたのですか」
皆元るい。
家を出る時にはまだ寝てたから、
起こさずに来た。
家を出るなら、鍵をかけてポストの中に
入れておいてくれと、合い鍵とメモを残してきた。
【智】
「……歯止めつけないとまずくなりそう」
成り行き任せの状況が成り行き任せに進行している。
【宮和】
「反省なさっておられるのですね」
【智】
「段ボール入りの犬とか拾ったら、宮はどうするの?」
【宮和】
「持ち帰ってご飯を食べさせて一緒にお風呂に入って洗ってから同じベッドでお休みしまして、起きたあとにネットで里親を捜すことにいたします」
【智】
「ものすごく具体的だ」
おまけにネットときた。
今日日珍しくもないが、宮和と電子世界では食い合わせが悪い。
鰻と梅干しだ。
【智】
「立ち位置のパブリックイメージってあるよね」
【宮和】
「私はパシフィックリーグのファンでございますよ」
【智】
「アナログに生きて」
【宮和】
「何の話題でしたでしょうか」
【智】
「犬の話」
【宮和】
「翌日登校しましたら、和久津様に犬を飼うことを勧めるために手段は選ばないことをお約束します」
心の底から朗らかに。
【智】
「そんなに僕に回したいのか!」
【宮和】
「水は低きに流れるものなのです」
【智】
「僕の方が低いんだね!?」
【宮和】
「言ってよろしいのですか」
【智】
「言わないでください、お願いですから」
【宮和】
「さようですか」
もの凄く残念そうにされた。
【宮和】
「本音はさておきまして」
【智】
「冗談と言うべきところじゃない?」
【宮和】
「犬をお拾いになられたのですね」
【智】
「……おおむね」
【宮和】
「さすがは和久津様です。孤高の秀才として高嶺の花と謳われながら、雨に濡れて痩せこけた野良犬を優しく抱き上げて連れ帰る、まさにツンデレの鑑」
【智】
「……どこから持ってきたの、その四文字熟語」
【宮和】
「ネットで、知人に、勧められました」
情報化社会の悪癖だ。
【智】
「勧められたって、四文字熟語?」
【宮和】
「成年向けゲームを」
【智】
「…………」
【宮和】
「…………」
【宮和】
「ぽっ」
楚々と赤面される。
楚々とされても、ツッコミどころが多すぎてどこから突っ込めばいいのか意味不明だ。
【智】
「……勧めるような、男の知り合い、いるんだ」
特殊系孤立主義者の宮が、そういう知り合いを持っているというのが、そもそも驚きだ。
【宮和】
「女の方ですよ」
【智】
「…………」
何年経っても、男の子には女の子がわからない。
【後輩1】
「先輩、さよならー」
【後輩2】
「失礼しまーす」
【智】
「ごきげんよう」
放課後。
脇を駆けていく下級生が慌ただしく頭を下げる。
背筋を伸ばす。
クールに受け流す。
きゃらきゃらとした黄色い声の春風。
優等生っぽく流れていく。
従容とした足取りは乱さない。
走るなんてもっての他。
金看板には制限が多い。
【宮和】
「今日はお急ぎなのですね」
【智】
「わっ」
宮が足音もなく出現する。
【智】
「いっつも心臓に悪い」
【宮和】
「体質なのです」
【智】
「……なにが体質?」
【宮和】
「それよりも」
【智】
「流された!」
【宮和】
「お急ぎでございますか」
【智】
「……事情がありますから」
不思議な鋭さが宮にはある。
外面を貫いて、洞察の手を伸ばす。
いつもよりほんの少しだけ早い足取りが、バレていた。
【宮和】
「さようでございました。和久津様はあわれで無様な野良犬をお拾いになっておられたのですね」
【智】
「本人には聞かせられないなあ」
もにょりながら、上から3番目の下駄箱を開ける。
【宮和】
「今日は控えめですのね」
本日の日課は3通だ。
色とりどりの柄の便せんが、下駄箱に収まった革靴の横にそっと忍ばせてある。
差出人は男子と女子がおおよそ半々。
中味は8:2の割合でラブレターと悪戯だ。
【智】
「哀しい」
【宮和】
「喜ぶべきものではないのですか」
【智】
「半月ほど前には、前世の恋人からお前を殺すって愛の告白をされたよ」
【宮和】
「素敵ですわ」
【智】
「そんな素敵がいいなら差し上げます」
【宮和】
「そういえば、和久津様はほとんど読まずに丸めてポイされておられますね」
【智】
「……何で知ってるの」
【宮和】
「愛の力ですわ」
哀っぽい。
僕は地雷で、地雷であることを止められない。
潜在的な異物が、異物であることから逃れるための方法は
二つしかない。
植物になるか。
空を飛ぶか。
つまり――、
目立たないようにひっそりするか。
振り切って高みに一人で胸を張るか。
選択肢はあっても、
得てして選べるほどの自由があるとは限らない。
人生は難題の連続だ。
【宮和】
「やはり和久津様はツンデレ様なのですね」
【智】
「様を付ければいいというものでもないです」
客観的に判断して、和久津智は「可愛い女の子」だった。
生物学的な差異は棚上げで。
没個性な一個人として植物のように穏やかに集団へ埋没するという、幸福かつ安易な選択肢がない。
宿命づけられていた孤高。
孤高というと聞こえがいいけれど、望まぬ孤高は孤立となにも
変わらない。
安直かつ危険な環境だった。
異者は、異なるという一点だけで排除の力学に晒される。
必要なのは溶け込むこと。
敵を作らず、味方を踏み込ませず。
二重スパイもカルト宗教の信者も、
秘密保有者の一番のハードルは、そこだ。
僕には、そこからさらにもう一つ。
目立たないという最善が不可能なら、
集団の力学に対抗し得る自衛力を確保しないといけない。
ステータスが必要だ。
クールで、孤高の、優等生。
【宮和】
「…………」
【智】
「どうかしたの?」
熱視線。
視殺されていた。
【宮和】
「見惚れておりました」
今にも殺しそうな視線だったけど。
【宮和】
「お美しいですわ、ツンデレ様」
【智】
「その名前やめてください。
四文字カナ名は安易なレッテル張りへの最短コースです」
【宮和】
「可愛いと思うのですが、ツンでデレ」
【智】
「デレがないです。ツンもあるかどうかわかんないです」
【宮和】
「難しいものでございますのね」
【智】
「難しいんだ……」
【宮和】
「和久津様のところになら、王子さまも現れそうでございますのに」
【智】
「王子さま」
白馬の王子さまに迎えられるところを想像してみた。
死にたくなった。
【智】
「願い下げです」
【宮和】
「残念ですわ。美しい方を連れ去るということですから、和久津様ならきっと選ばれるだろうと心待ちにしておりました」
【智】
「……? それは王子さま違うのでは」
身代金誘拐犯?
【宮和】
「ネットの巷にそのようなお話が。
黒い王子さまは女の方を連れ去るのだと」
都市伝説の方だった。
【智】
「黒いのは懲り懲りだよ。胸焼けがする」
【宮和】
「返す返すも残念でございます」
【智】
「……連れ去られて欲しいの?」
【宮和】
「言ってよろしいのですか」
ちなみに。
宮和はどこまでも真剣だ。
〔失われた伝説を求めて〕
昔々ではじまるお話の類だと、拾ってきたナニモノカは、
おじいさんが畑に出た隙に姿を消すことがままある。
一晩寝て起きて、学園という日常を通過して。
頭が冷えた後。
なにも言わずにふらりと彼女が去ってしまったら――
悩みが一つ消える。
皆元るい。
拾ってきた野良犬みたいに、
突然消えてしまってもおかしくない毛並み。
予定がない、未来がない、根っこがない、当然家もない。
一緒にいるとロクでもない事がやってくる。
火事にバイクに都市伝説に妖怪大食らい。
呪いの磁石はどちらだろう。
平和を希求した。
住み慣れた部屋の扉をくぐる。
惨殺現場になっていた。
【智】
「うわぁ」
玄関に、るいが死んでいる。
身体を無惨なくの字に曲げて、地面を掻いた指先が踏み込んだ足のちょうど手前で力尽きていた。
夏の終わりの蝉の死体を思い出す。
【智】
「……死んでる?」
【るい】
「わおん」
死体が情けなく吠えた。
【智】
「お腹減ったんだ?」
【るい】
「ばうばう……」
【るい】
「うまいぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
復活した。
乾燥ワカメ並みの復元率だ。
【智】
「ちょろい」
【るい】
「なんかいった?」
【智】
「とんでもありません。おいら神様です」
【るい】
「意味不明です」
【るい】
「なんて顔してんの。もしかして、お味噌汁にゴキブリでも入ってた? するとこれは危険な黒いミソスープ?! やばっ! でも、とっくに食べちゃったし……」
【智】
「わりと呆れてるんです」
【るい】
「なーんだ」
あっけらかんと食事再開。
図太い。
砂の山を削るみたいに山盛り白米が消えていく。
あの細い身体のどこに収まってるんだろう。
女の子には秘密が一杯だ。
【るい】
「もぎゅもぎゅもぎゅ(ホントに死ぬかと思いました)」
【智】
「食べながら喋らない」
【るい】
「もぎゅもぎゅもぎゅ」
……喋らなくなった。
【るい】
「ごちそうさまでした」
【智】
「おそまつさまでした」
るいが手を合わせて、感謝の祈り。
偶像扱いされた。
【るい】
「いんやー、トモちんご飯つくるの上手だから食が進んでしかたないよねー。太らないかどうか心配」
【智】
「あれだけ食べて太らないなら、そっちのが心配だって」
【るい】
「私、これでも無敵体質」
【智】
「漫画体質の間違い」
【るい】
「それはどうか」
【智】
「だいたい倒れるまでお腹減らさなくても、冷蔵庫開けて何か食べてればよかったのに」
【るい】
「私だってプライドあるっす。一宿一飯の恩義をあだで返すような真似はできんでげす」
出されたお米ならおひつを空にするのはOKらしい。
行動規定の基準が今ひとつ理解しがたい。
【智】
「どこの生まれなのかでげす」
【るい】
「げすげす」
高度に暴君的な胸をはる。
たわわ。
昨夜比1.5倍に実り多き秋。
【智】
「…………なんで、つけてないの?」
薄手の布地がいい感じに透けていた。
オブラート梱包生乳。
【るい】
「部屋ン中だと面倒だし」
【智】
「つけてください」
【るい】
「えー」
反論を黙殺する。
ベランダから出がけに干したブラを取ってきた。
手にしたピンクの布きれに複雑な所感を抱く。
女の子の格好をして世間を偽るのと、女の子の下着を洗って
差し出すのは違う。けたたましく違う。
【智】
「初体験……」
恥ずかしタームにどっきどき。
【智】
「にしても」
【智】
「……一人残して出たのはやばかったな」
半日を回顧して、わからないよう舌打ちした。
部屋に、るいを残して、外出した。
迂闊な。
部屋に来る友達なんて何年もいなかったから、そこまで気を
回さなかった。
他人は欺(ぎ)瞞(まん)できても生活は偽装はできない。
テリトリーでは無防備になる。
秘密の漏洩の危険性――。
探すつもりがなくても、何かの拍子に証拠が目に入ってしまう
ことだってある。
【智】
「ばれなかったみたいだし、ツキは残ってるか」
【るい】
「なんの話?」
【智】
「うんむ、焼き討ちされたりお犬様ひろったりっていうのは、
ツイているとは激しくいえない気が」
どっちかいうと悪運ぽいよ。
【るい】
「意味不明(ノイズ)な言動してるね、トモちん」
【智】
「人生とは一人孤独に受信するモノですから」
【るい】
「まあね」
るいにしては意外な返答がひとつ。
軽い調子の同意には、複雑な色が彩色されていた。
単純な賛同とも違う。
表現しがたい。
【智】
「とりあえず」
綱渡りはクリアした、今日の所は。
石橋を叩いて渡る主義でも、
足下が危ない橋だと気がつかなければ真っ逆さまだ。
知ること。
無知と未知が恐怖を産み落とす。
注意が必要だ。
手に汗を握りしめた。
布製の感触。
ブラだった。
【智】
「ぶらっ」
【るい】
「なにやってんの?」
【智】
「お、お手玉」
【るい】
「ブラジャーだっつーに」
【智】
「……はい、付けて」
差し出した。
【るい】
「キツクてめんどっちーのよね」
【智】
「キツいのですか」
【るい】
「サイズちっさいから」
【智】
「おっきーのすればいいじゃない」
【るい】
「そうすっと今度こっちが邪魔に」
両手で扇情的にすくい上げて、たわたわする。
Yシャツが内部から質量に圧迫され、これ見よがしに
テントを張っている。
【智】
「持てる者の傲慢だ!」
全国のプアーたちの代弁者として立ち上がるときが来た。
【智】
「格差社会打破! 怒れる乳(ニュー)エイジプワーたちよ、今こそ
全世界同時革命を!!」
【るい】
「押さえてんだけど健気に育つんだよね」
【智】
「邪悪なチチにはダイエット推奨」
【るい】
「食こそ我が喜び」
人は理解し合えないのココロ。
火花を散らし、アメリカンに拳をゴスゴスぶつけて合って対立する。
【るい】
「でも、食べると胸だけ増えるんだ、これがまた」
【智】
「殺されても文句の言えない体質」
【るい】
「だから無敵体質と」
【智】
「世界って残酷だなあ」
【るい】
「というわけだから」
【智】
「ダメ、付けないとダメ」
誤魔化されない。
【るい】
「……トモって、なに、もしかしてお堅いひと?」
【智】
「女の子たるもの、そのあたりはしっかりしないと」
ヤバイのです、主にこちらが。
【るい】
「しょぼん」
るいが尻尾を下げる。
肩を落として、見るからにしょぼくれて、
ぬぎっと脱いだ。
【智】
「にゃわっ」
【るい】
「うんしょっと」
【智】
「もももももももーちょっと行動にはタメが必要ですよ!」
【るい】
「思いついたら吉日で」
【智】
「それって刹那的なだけ……」
【るい】
「こうして、こうして、こうして」
【智】
「……」
大きなものを小さなケースに収めるテクニック講座。
いけない!
見ては駄目だ!
相手が知らないことにつけ込んでなんてことを!
お前のしていることはノゾキや痴漢と同じなんだぞ!
この恥ずべき赤色やろうめ!
最低だ!
【るい】
「完成」
最後まで見てしまいました。
【るい】
「おっきいのも結構大変なのだよ」
【智】
「るいってナチュラルに恨み買うタイプだね、きっと」
【るい】
「別に自慢じゃないよ?」
【智】
「自分は、そういうのにこだわらない方ですけど」
【るい】
「さっき世界同時革命……」
【智】
「代弁者である僕と主体である私の間には超克なし得ぬ乖離(かいり)が存在するのであります」
【るい】
「むお」
クエスチョンマークをたくさん飛ばしていた。
扇情な生チチ。
女性らしいまろみとふくよかさを備えながら、類い希なる緊張に
よって黄金律の曲線を維持した天工の生み出した至高の逸品。
とっても美チチでした。
まあ、大したことはない。
だって見慣れているのだから。
学園でも、ほとんど毎日、
目撃する機会に遭遇する。
立場上、女の子なのだもんで。
日常と異常を区別するのは頻度の差でしかない。
どんな異常も繰り返せば日常化する。
慣れる。
女の子は異性の目がなければ、
あけっぴろげだ。
大口を開ける、スカートをばさばさする、
下品な話題でもりあがる、食うし出すし。
何年もの間、毎日直視してきた。
幻想の終焉と楽園の喪失。
大人への階段を一つ上ったのは、随分と前。
女の子には限らない。
誰だってそうだ。
他者の目に映る自分を大切にする。
装う。
世界にいるのがただ一人なら、
自分を律する必要がどこにあるだろう。
【るい】
「んにゃ、熱でもあるの、顔赤いよ?」
【智】
「ななななななんでもありませんからっ」
【るい】
「そ、そう」
【智】
「そう!」
それなのに、恥ずかしい。
学園の誰かを目撃するよりも、
ずっと羞恥心が刺激される。
付き合いの浅い相手というのが
脳内物質の分泌を促すのか。
物理的にも、すごく近い。
母上様、チチの悪魔は実在するのです。
【智】
「それよりも」
【るい】
「なによりも」
【智】
「昨日の話の続き」
【るい】
「話といってもたくさんありまして」
【智】
「るいのお父さんが」
【るい】
「死んどりますがな」
【智】
「お手紙の件で」
【るい】
「白山羊さんが食べちゃいました」
【智】
「……嫌いなんだ、お父さん」
【るい】
「好きか嫌いかっていうより……」
横座りに足を崩して、
後ろに手をついた。
目のやり場に困って視線を漂わせる。
るいは天井を見上げた。
天井でないどこかを見ていた。
【るい】
「どうでもいいのよ。親らしいことしてもらった記憶もないし、
気がついたら死んでたし」
【智】
「アバウトすぎだね」
【るい】
「トモのお母さんの手紙だっけ? どういう付き合いがあったのかわかんないけど、生きてても、手助けしてくれるような気の利くひとじゃなかったよ」
【るい】
「だいたいさ、何を助けてもらうのよ」
【智】
「……ひ、み、つ」
【るい】
「いーやーらーしー」
【智】
「なにがよ」
【るい】
「トモってエロいの」
【智】
「ちがうもん」
【るい】
「うちらの間で隠し事なんてさ」
背中をつつー。
【智】
「やうん、やん……そ、そんなこと言ったって、昨日会ったばかりだし……ぃっ」
【るい】
「連れないナー」
【智】
「……何か聞いてない、それっぽいこと?」
【るい】
「無理矢理話を戻したね」
【智】
「遺言とか資料とか貸金庫の鍵とかおかしな写真とか」
【るい】
「政治家の秘書が自殺しそうな事件の重要参考人っぽく?」
【智】
「そうそう、残り30分で現れて重要な手がかりを渡してくれる
感じで」
【るい】
「でも、その頃なら2回目の濡れ場はいるよね〜」
【智】
「どっちかいうと、主人公の手下の新米がいらない所に首突っ込んで消されたりして」
【るい】
「そんで怒りに火のついた健さんが
ドスもってカチコミにいっちゃうんだよね!」
【智】
「それサスペンスじゃないから」
【るい】
「私はそっちの方がいい」
タコチューみたい唇をにとがらせる。
人と人はますます解り合えないのココロ。
【智】
「るいさんは、単純明快人情主義と力の論理がお好みですか」
【るい】
「どっかんばっきんどごーんがいいっす」
【智】
「米の国だね」
【るい】
「そうだ、そんで思いだした!」
突然起立した。握った拳が震えていた。
【るい】
「何がむかつくってやっぱりあの黒塗りライダーが超ウゼーつーか、憤怒燃え立つ大地の炎よ復讐するんだハンムラビ法典って感じだと思わない?!」
時々やけに豊富になる語彙の数々は、るいのどこに格納されているんだろう。
【智】
「やっぱ胸かな」
【るい】
「あーいーつー」
業火をしょっていた。
轟々と聞こえない音で燃え上がり、
天をも突かんと紅蓮に染まる激情。
【るい】
「あいつのせいで、家はなくなる、荷物はなくなる、服まで
なくなる、教科書の類はまーどっちでもいいけども」
【智】
「ダメっこだ」
【るい】
「とーにーかーくっ」
【るい】
「全ての諸悪の根源はアイツっ。火事だってアイツの仕業だ。
そうだそうだ辻褄あうじゃない。謎は全て解けました。
犯人はア・ナ・タ!」
【るい】
「ポストが赤いのも救急車が白いのも私のお腹が減るのも全部全部アイツのせいっ」
決定した。
腹がくちたので断罪に走った。
善哉善哉。
裁きの神よ、ご笑覧あれ。
(誤字にあらず)
【智】
「ということは、るいさんや。どのようになさるのですか」
るいは、まっとうな返事もせずにニヤリと笑う。
【るい】
「行ってきます!」
きっと表情を引き締めたまま。
弾丸みたいに部屋を飛び出した。
部屋に平穏無事が戻ってくる。
【智】
「がんばってねー」
忌まわしき都市伝説に正義と論理の鉄槌を加えてください。
あ、やっぱり帰ってきた。
【智】
「おかえりなさい」
【るい】
「……服ください」
〔シティーハンター〕
街に出る。
るいの都市伝説探しに付き合って。
三角ビルのショーウィンドウ前を横切ると、
さび色の前衛彫像に見送られる。
【るい】
「トモって付き合いいいよね」
【智】
「そうかな」
【るい】
「だよだよ」
【智】
「学園ではクールな旅人のはず」
【るい】
「どっか旅行してんの?」
【智】
「素ボケ?」
【るい】
「なにが?」
素だった。
筋金を入れて鉄板補強したくらいのボケ体質だ。
【智】
「実は長い人生という旅路を……」
【るい】
「テツガクってヤツだね〜」
感心される。かえって肩身が狭い。
自分の弱みを攻め手に換える。手強い。
【るい】
「うん、これが友情ってやつですか」
【智】
「昨日会ったばかりですけど」
るいは、あてもなく流れていく。
風にまかせ、人混みにまかせ。
このまま先導を任せていると、
都市伝説との遭遇がいつになるかは、
神のみぞ知るだ。
困った。
傷つけ合うほど知り合ってはおらず、
見捨てていくほど薄情にもなれない。
それでも、猫の子と同じで、三日飼ったら情が移る。
昔の人はうまいことを言った。
【るい】
「一目惚れがあるんだから、一日でできる友情があってもいいと
思わない? 心は時間を超えていくんだよ」
いい台詞すぎて皮肉かと思う。
【智】
「情は情でも哀情」
【るい】
「愛っ!?」
たぶん字が違っている。
【智】
「あい違い」
【るい】
「あいあい」
【るい】
「そういえばさ、女の友情って男で壊れること多いんだって」
ねちっこい話題になった。
【智】
「いきなり壊れてどうするのさ」
女じゃないから大丈夫です。
【るい】
「形あるものは、どんなモノでも、いつか壊れるんだね」
【智】
「壮大な話だねえ」
友情に形はあるのか。
難しい命題だ。
【るい】
「投げやりだな、トモってば」
赤。
夕刻。
街は茜色にけぶる。
夜が近くなっても街は眠らない。
黄昏の霧にも負けない騒々しさ。
煮立った釜の中味はネオンと騒音と
得体の知れない鼻を刺す匂いと人の群れ。
昼間はいくらか強かった風もとっくに止んでいる。
赤。
歩道を歩いた。
街にはノスタルジーの色彩が君臨する。
夜までのつかの間にたちこめる移ろいの色だ。
夕映えがオレンジにしたクセの強い髪の毛先を、
るいは無心にいじっている。
【智】
「落ち着きない」
【るい】
「むお」
ふくれられた。
【るい】
「じっとしてるとダメになるんだよぅ」
【智】
「サメですか、きみは」
【るい】
「私はシャケの方が好きだなあ」
【智】
「誰が晩ご飯の話をしてるの」
【るい】
「してないんだ……」
腹ぺこ領域に踏み込んでいた。
燃費の悪いワガママなボディーだ。
二車線の車道を、
乗用車の列が途切れなく流れる。
店先からの音楽、人の会話、エンジン音――
いつ来ても意味をなさないノイズとノイズとノイズ。
熱にうかれたコンクリートと、冷たく堅い人間たち。
猥雑な街の夕暮れ。
街には秩序と混乱が平行する。
交点だからだ。
すれ違う、交差する、
ぶつかり合って跳ね飛んでいく。
人。物。情報。
生きているもの、死んでいるもの、
区別なく入力され、変換され、出力される。
流離し、漂泊する。
ときには絢爛、ときには退廃。
昼なお暗く、夜にも目映い。
これが駅向こうに回ると、
さらに大したものになる。
担任の古橋教諭が学生たちの出入りを見かけたら、
世を儚んで辞職を考えるだろう。
お堅い古橋教諭は、自分の子供に国営放送と
教育番組しか見せないのだと自慢していた。
子供は親を選べないという訓話だ。
【るい】
「うむー」
あくび混じりで猫みたいな伸びをした。
遊びに厭いた子供の風情。
【智】
「真剣ポイント略してSPが足りてないよ」
【るい】
「なにそれ」
【智】
「ステータス確認してください」
【るい】
「難しい……」
理由はわかってないが、
素直に頭を下げる、るいさんだ。
【智】
「ヤツを捜すんだよね」
【るい】
「おお、それそれ。
でもさ、どこにいるんだろう?」
真顔で質問される。
るいちゃん――あなたは、僕が考えているよりも、
ずっと大きく、そして恐ろしい。
【智】
「心当たりは?」
【るい】
「ないです」
【智】
「即答っ!」
【るい】
「自慢」
【智】
「してどうするの!」
【智】
「何をしにここまできたの!?」
【るい】
「……」
黙られた。
自動的だ。
感情のスイッチが行動力に直結している。
気軽に付き合うと、勢いに引っ張られてろくでもない目に
あわされるタイプだ。
本人はいたって平気で、近くにいるヤツがとばっちり同然に
火の粉をかぶる。
被害に遭いやすいのは、慎重派で考え込み易くて、
そのくせ情に流されちゃうようなやつ。
普段クールぶってると特に危険。
…………僕だ。
【智】
「こうときに客観的自己分析のできる性格が恨めしい……」
街路樹に顔を伏せて涙ぐむ。
【るい】
「どっかしたの、なんか顔色悪いよ? おしっこ?」
【智】
「不幸な未来予想図が目の前にありありとうかんで、
高確率で到達しかねない将来像に愕然としてます」
【るい】
「元気ださないとね」
大本の要因に投げやりなフォローをされる。
ドーパミンが分泌して幸せになれそう。
【智】
「夕焼けか……」
るいが足を止め、
寸時薄暮を仰ぎ見た。
街の空は狭い。
ビルとビルの谷間に
切り取られた窮屈な天蓋。
蒼穹とコンクリートの区分は、
この時間には朱に溶け落ちて曖昧になる。
混沌の海だ。
制服が二つ、
海を渡って旅をする。
大きな影を足から伸ばし、
アスファルトの歩道をローファーで蹴りながら。
日没と制服。
組み合わせに、
一種ばつの悪さがつきまとう。
制服が学生の証明だ。
黄昏れに追われて、
本来急ぐべき家路でなく、
立ち去るべき猥雑に混じりこむ。
禁忌を踏み越える瞬間の、怖れと歓喜。
冬の日の早朝、できたての薄氷を踏んで歩く時のような、
くすぐったさが胸中をくすぐる。
【るい】
「これからどーしよっか、迷っちゃうよねー」
【智】
「迷わない。捜します」
早速目的さえ忘れかけていた。
【智】
「コメ頭だね」
【るい】
「トリ頭じゃなくて?」
【智】
「すぐに忘れるのをトリ頭といいますが、もっとひどい忘れんぼ
さんはコメ頭といいます」
【るい】
「そのココロは」
【智】
「(にわ)トリのエサです」
【るい】
「念入りにバカにされるとむかつく」
【智】
「そんで手がかりとかないの?」
【るい】
「なぜ、私」
【智】
「僕には身に覚えがありません」
【るい】
「私もないよ!」
【智】
「忘れてるだけかも」
納豆みたいなべとつく視線で視姦。
【るい】
「そんなことは……ない……とはいえないかもしれないけど、そんなことはないと思いつつ、もしかしたらあるかもしれないけどやっぱりそんなことはないっぽいかも……」
責められたばかりなので弱気だった。
【智】
「論理的な解説プリーズ」
【るい】
「…………」
理詰めには弱い。
男らしく腕を組んで、しかつめらしい顔で、
るいはぶつぶつ呟きながら歩道を横断する。
どの角度から見ても危ない人だ。
他人のフリさせてくんないかな……。
駅にも近い繁華街。
夜も眠らない一角の騒々しさは、
ハンパ無い。
【智】
「どこかであの黒ライダーに会ったことは?」
【るい】
「屋上で」
【智】
「それより前に」
【るい】
「前…………?」
【花鶏/???】
(見つけた)
少なくとも、
あちらにとっては初対面じゃなかった。
どちらかが目標だった。
るいか、僕か。
僕には心当たりがないわけなので。
もっとも、すれ違っただけでも執着されて、
見ず知らずの相手に家まで押しかけられる世の中だ。
油断はできないけれど。
【るい】
「ある。見覚えある」
【智】
「あるの!?」
【るい】
「なんで驚くのかな?」
あるとは思わなかった。
あっても覚えてるとは思わなかった。
言語化すると血を見そうなので、
政治的ソフトランディングを試みる。
【智】
「思ったよりも早くわかりそうだなってリアクション」
にこやかに選挙運動。
【るい】
「ほー」
素直すぎるのは将来が心配だ。
【智】
「それで、どこで」
【るい】
「このあたり」
繁華街でもひときわ目立つ黄色い建物だった。
ちょっとした若者向けテナントビル。
記憶を刺激されて思いだしたらしい。
【るい】
「そうだ、たしかにアイツだった、
すっかり忘れてたけど間違いない、絶対そう!」
敵意をむき出しに、るいが歯を剥く。
【るい】
「三日ほど前だっけかな。このあたりで」
【智】
「跳び蹴り食らわした?」
【るい】
「なんで跳び蹴り」
【智】
「大外刈りとか、ジャイアントスイングとか、機嫌が悪かったから路地に連れ込んでいけないことをしたとか」
【るい】
「道でぶつかっただけ」
【智】
「……」
【るい】
「疑(うたぐ)るか」
【智】
「いえいえめっそうもない」
【智】
「しかしですね、るいさん。道ばたでぶつかったぐらいのことで
ですね、必ず殺すと書いて必殺な感じに追ってくるのはおかしくないですか」
【智】
「なんたって、いきなり屋上に原付で轢殺なんだよ?」
【るい】
「疑(うたぐ)ってる」
【智】
「いえいえめっそーもないです」
限りなく棒読みで。
【るい】
「あいつは心狭すぎ!!」
【智】
「心の面積を斟酌(しんしゃく)するより、別の理由を検討する方が健全だと、
僕は思うものです」
【るい】
「やっぱり疑(うたぐ)ってるーっ!」
【智】
「でもさ、いくらなんでも、ぶつかっただけで殺害しに来るなんてあると思う?」
【るい】
「ないかな」
【智】
「……事実は小説よりも奇なりとは言う」
推理小説なら即座に破り捨てられるつまらない動機だって、修羅の巷には氾濫している。
きっかけとも呼べないきっかけでスイッチが入れば、心という機能は理不尽に他者を攻撃する。
【智】
「困ったね」
【るい】
「困ったんだ」
【智】
「動機が突発的だと捜すのが面倒になるから」
あのヘルメットの下は、もっと理知的な、
よく切れる刃物を感じさせた。
根拠はないけど第一印象を信じてみる。
昔から勘はいい方だ。
【智】
「原付のナンバーは市内だったけど」
【るい】
「そんなのちゃんと見てたんだ……
すごーい」
暴君的な胸を揺らして感心された。
【智】
「なんで、持ち主わかるよ」
【るい】
「???」
【智】
「割と知られてないけど、陸運局いって書類書いてお金払ったら
個人情報教えてくれるんだよね」
【るい】
「んー、警察とかじゃなくても?」
【智】
「なくても」
【るい】
「……それって、指紋とられたり、忠誠の誓い要求されたりしなくても?」
【智】
「しなくても」
るいの眉が顔の真ん中によっていた。
納得のいかない気分を言語化しそこねている。
【智】
「手続きするとできることになってるんだよ」
【るい】
「……首輪付いてるみたいでうっとうしい」
【智】
「盗難車とかだとどうしようもないし、面倒だし、お金かかるから、
他に手がかりがあるならそっちからあたっても」
【るい】
「手がかりか」
【智】
「目立つ子だったよね」
銀色の長い髪。
月の雫によく似ていた。
敵意を溶かし込んだ深い瞳。
錐のように突き刺さる。
嫌いなタイプじゃない。
【るい】
「なんか、トモちん変な顔してる」
【智】
「変な顔といわれました」
【るい】
「カンガルーがカモノハシ狙ってるみたいな顔だね」
【智】
「僕って有袋類!?」
しかも肉食カンガルー絶滅種。
【るい】
「どーしようかな」
るいは、口ぐせのようにさっきから何度も繰り返し呟く。
深刻さはゼロ。
地図も持たずに海へ出るのに慣れた、
船乗りの気楽さだ。
【智】
「軽く捜してみようか」
決めるのが嫌なのか。
曖昧な態度にそんなことを思って、
妥協案を促した。
【智】
「見つかったらめっけ物くらいのノリで。目立つ相手だし、犯人は犯行現場に戻るともいうし」
【智】
「見つからなかったら、役所にいってお金を払う」
街は広い。
外見の差異など吸収してしまう。
二人で歩いたくらいで見つかる道理はなかった。
でも。
【智】
「…………」
心地よかったから。
後しばらくは、この知り合って間もない友人と、
他愛もない時間を潰していていたいと思う程度には。
【るい】
「お金は大事だな」
【るい】
「よし、捜そうっ」
【智】
「御意のままに」
見つけた/見つかった。
ばったり。
間違いない。
あのライダーブラックの中の人だ。
るいが以前にぶつかったという、
ちょうどその辺りだった。
【るい】
「ほんだわら――――っ!」
歯をきしる。
獲物を発見して野性に火がつく。
戦いの雄叫びは現代人には理解しがたい。
【花鶏/???】
「…………っ」
反応有り。
相手はわずかに柳眉(りゅうび)を逆立てる。
天下の公道で奇行に打って出ない分、
るいよりも良識はあるらしい。
人目のない屋上なら轢殺オッケーという非常識だけど。
切れそうなまなざしが刺さる。
冷たく光る銀のナイフ。
たとえ捜していなくても、
雑踏ですれ違っただけで目をひいたろう。
珍しい銀色の髪が毛先まで怒気をはらむ。
整った日本人らしからぬ顔立ちと身を包んだ高雅。
敵意を差し引いてもあまりある。
高価すぎて触れるのさえ躊躇(ちゅうちょ)してしまう宝物のよう。
【るい】
「見つけた、覚悟!」
【花鶏/???】
「――自分から出向いてくるとはいい覚悟ね」
【智】
「すでに僕って眼中無し?」
それにしても。
【智】
「もう少し面白みのある現実を請求したいよ」
事実は小説より奇なりというけれど。
それにつけてもあっけない。
面白みがあればあったで平穏が欲しくなるわけで、人間とはまことに度し難い生き物だ。
【花鶏/???】
「のこのこ現れるなんて殊勝な心がけだわ。
さあ、返してもらうわよ!」
【るい】
「借りはまとめて返してやるわい!」
【花鶏/???】
「借りてただけとはご挨拶ね、寸借詐欺ってわけ!?」
【るい】
「詐欺っていうか、ケンカ売ったでしょアンタわ!」
【智】
「会話が噛み合ってないよ」
小さくツッコミ。
二人とも、冷静な僕の言い分を聞いてくれない。
人の話を聞かないイズムの信奉者たちだ。
信念というのは厄介者だ。
ときに動力となり、
ときに変化を阻害する。
メリットとデメリット。
何にだって裏表はあるわけで。
【花鶏/???】
「どこにやったの!?」
【るい】
「どこにもやんねーっ」
【花鶏/???】
「――潰す」
【るい】
「やったらあ」
【花鶏/???】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉みあいに。
十も年老いた気分で鑑賞する。
もつれた糸を解くためには冒険が必要だ。
この暴風雨の中に徒(と)手(しゅ)空(くう)拳(けん)で乗り込まねばならない。
【智】
「まあ、二人ともオチツイテ。平和のタメに話し合おうじゃないか」
(脳内シミュレーションの結果)
【るい】
「うっさい!」
(脳内シミュレーションの結果)
【花鶏/???】
「死になさい!」
(脳内シミュレーションの結果)
死 亡 完 了。
確実すぎる未来予測に介入を躊躇(ためら)う。
この二人は、生物として対極だ。
対立するのは愛のように宿命だった。
昔の人はいいました。
人の恋路を邪魔する奴は、
馬に蹴られて死んじゃえ。
【智】
「ここはひとつ若いひと同士にまかせて」
【るい】
「なにを」
【花鶏/???】
「なんですって」
【智】
「聞いてないね」
【るい】
「ががががががががが」
【花鶏/???】
「だだだだだだだだだ」
揉めに揉めた。
【るい】
「――――」
【花鶏/???】
「――――」
そして膠着。
【るい】
「……!」
るいの頭の上に、唐突に豆電球が点灯した。
【花鶏/???】
「?」
いぶかしむ。
僕も。
【るい】
「勝った」
勝利宣言だった。
なぜ!?
るいが指さし指摘し、
黒ライダーの中身は目で追いかける。
【花鶏/???】
「…………っ!」
胸。
両腕で胸を抱えて後ろにとびすさった。
刺殺できそうなぐらいに視殺。
【るい】
「ふーんふんふんふん♪」
勝ち誇り。
えっ、そこなの!?
そりゃ確かに勝ってるんだけど!
【花鶏/???】
「く、ぬっ、ぐ!!」
【るい】
「ブイ」
【花鶏/???】
「だ、誰が」
【るい】
「にょほ、負け惜しみ」
【花鶏/???】
「きっ」
【智】
「……ものごっそ低次元のところで覇を競わない」
【るい】
「勝てば官軍」
【花鶏/???】
「だ、誰が負けたのよ!」
人類の許容限界ぎりぎりまで
真っ赤になって咆哮する。
負けず嫌いだった。
【花鶏/???】
「サイズがあればいいってもんじゃないのよ。
貴方のはエレガントさに欠けるわ」
嘲笑で。
【智】
「……そっちの話ですか」
【花鶏/???】
「他になんの話があるの!?」
手段のために目的を忘れるタイプだな、こいつ。
【智】
「話があるのは、どっちかいうとこっち?」
【花鶏/???】
「どっち?」
【智】
「あっち?」
【花鶏/???】
「わからないわ」
【智】
「僕も」
【花鶏/???】
「よく見ると可愛い顔してるのね」
唐突に。
片手で、おとがいを持ち上げられた。
【智】
「ほわ……」
むちゅう
【花鶏/???】
「…………」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
れろれろ
にゅるりん
んちゅう
ちゅぽん
【智】
「にょ」
【るい】
「……きす、した……」
奪われた。
公衆の面前で。
【智】
「にょわわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
【花鶏/???】
「うん、まったりとしてしつこくなく、それでいてコクがある。
悪くないわ」
【るい】
「なにやってんのーっ」
蹴った。
【花鶏/???】
「痛いわね、何するのよこの野蛮人!」
【るい】
「コッチノ台詞ダーーーーッ」
【智】
「きききききききき、」
【花鶏/???】
「キスくらいで大騒ぎしない、よくある話でしょ」
【智&るい】
「「あってたまるかーっ!!!」」
ハモる。
【智】
「キス、キスキスキスキス、キスされちゃった……」
【るい】
「オチツイテ、深呼吸して、ね、ね、ね」
【智】
「はじめてだったのに……」
【るい】
「大丈夫、女同士だからノーカンだって」
【智】
「舌いれられちゃったぁ(涙)」
【るい】
「…………じょ、上手だった?」
【花鶏/???】
「ごちそうさま」
【るい】
「容赦ないな、おい」
【花鶏/???】
「愛に禁じ手はないのよ、おわかり?」
【るい】
「まったくもってこれっぽっちも」
【花鶏/???】
「いやね、学のない人は」
【るい】
「ケンカ売ってる? 売ってるよね」
火花再燃。
【智】
「…………蛮族ですか、キミたちは」
ショックの海から必死に立ち上がる。
【るい&???】
「「こいつが」」
ハモる。
互いを指差して責任を押しつける。
呼吸は合っていた。
【るい】
「っていうか、トモだって他人事じゃないっしょ」
【智】
「おまけに愛の犠牲者……」
【花鶏/???】
「心を揺さぶるフレーズね」
【るい】
「とっても吐き気がするぞい」
【花鶏/???】
「悪阻(つわり)ね。妊娠でもしてるんじゃないの?」
【るい】
「これでも処女なりよ!」
【花鶏/???】
「品性のない物言いしかできない女は最悪だわ」
【るい】
「この女……殺るか、ここで」
【智】
「それよりも、なによりも」
【智】
「全ての戦闘行為の即時停止と使節団派遣による双方の意思疎通を求めるものであります」
胸に充ちる喪失の涙をこらえて、
停戦勧告を行う。
【るい】
「裏切るかっ!?」
るいの殺る気は燃えていた。
【智】
「裏切るというよりも」
【花鶏/???】
「愛の虜ね」
【るい】
「にょにわっ、愛なのか!?」
【智】
「あい違い」
【るい】
「……日本語難しい……」
【花鶏/???】
「……同意するわ……」
まれには気が合う。
【智】
「場所を変えてネゴしょう」
【るい】
「ぬな、話す事なんてあんの!?」
【花鶏/???】
「こと、ここにいたって必要なのは、妥協ではなく明確な決着。
対話ではなく武器を取るべき時よ」
【智】
「戦意よりもなによりも恥ずかしいのです……」
行き交う人が笑っている。
ちらりと流し目、含み笑い、呆れた顔。
しょんぼり肩をすくめた。
【花鶏/???】
「……そうね。キスしてもらったわけだし、デートくらいなら付き合ってあげるわ」
【智】
「ニュアンスの違いが日本語の難度を高くする」
【るい】
「殴って蹴って解決!」
【智】
「……僕の話聞いてた、ねえ?」
ようやく落ち着いた。
【智】
「僕は和久津智、こっちは」
【るい】
「るい、だ。べー」
舌を出す。
鼻の頭まで届きそうなくらい長い。
【花鶏】
「花鶏」
先を行く背中が名乗る。
くるりときびすを返す仕草は颯爽(さっそう)と。
薄いルージュを引いた唇が、
三日月の欠片みたいについっとあがる。
【花鶏】
「花城(はなぐすく)花鶏(あとり)よ」
見惚れた。
【るい】
「舌噛みそ」
情緒がなかった。
【花鶏】
「さっさと噛んだ方が人類のためだわね」
【るい】
「噛むぐらいなら、あんたを沈めて逃走する、べー」
微笑ましい女の子同士の交流に涙が止まらない。
【るい】
「ここでぶつかった」
【花鶏】
「貴方がぶつかってきた」
【るい】
「ケンカ売ってる? 売ってるんよね」
【花鶏】
「わたしの日本語がきちんと伝わっていてとても嬉しい」
【智】
「そういえばさ、黄色って警戒色なんだって。注意一秒怪我一生、青の次で赤の前。何が起こるか分からないから人生大切に」
【るい】
「先のことなんてわかんないぜい」
【花鶏】
「アニマルだわ」
【るい】
「欲望ケダモノ」
【花鶏】
「愛の狩人と呼んで」
放置しておくと際限なく揉める。
【智】
「それで、その時に?」
【花鶏】
「――こいつに、大事なバッグを盗まれたわ」
【るい】
「えん罪」
【花鶏】
「シラを切る」
【智】
「だから、るいを捜した?」
【花鶏】
「手間取ったわ。いざ捜し出したらビルが燃えてて近づけなかった。ビルの上から隣に跳び移る誰かが見えた。とりあえず屋上に急いだら神のお導き」
【るい】
「成り行きまかせかよ」
【花鶏】
「努力に世界が応えるのよ」
いい台詞では誤魔化されない。
【花鶏】
「返しなさいよ」
【るい】
「返せるわけねーでしょ!」
【花鶏】
「なんていいぐさ。人類最悪ね」
【るい】
「そんならアンタは人類サイテー」
【智】
「むう」
返せと迫り、知らぬと答える。
折れ合う優しさは1グラムもない。
【智】
「謎を解こう」
【花鶏】
「どうするの、名探偵?」
【智】
「花鶏さんは」
【花鶏】
「さん付けは嫌。花鶏と呼んで」
【智】
「……」
何となく躊躇(ちゅうちょ)。
【花鶏】
「呼んで」
【智】
「……花鶏さん」
【花鶏】
「呼び捨てで、親しそうに。できれば愛しそうに」
【るい】
「厚かましいぞ、ふしだら頭脳」
【智】
「花鶏」
花鶏がにんまり笑う。
冷たい口元に豊かな表情。
アンバランスなモザイクが一枚の絵のようにはまる。
【花鶏】
「それで」
【智】
「るいとは昨日あったばかりだけど、嘘をつくような子とは
思えないから」
【るい】
「うむ、さすがはトモちん」
【智】
「花鶏の大事なバッグを持ってるのが、るいじゃない可能性を
考えてみる」
【花鶏】
「最初の可能性は?」
【智】
「るいが嘘をついている?」
【るい】
「べー」
【智】
「花鶏は、どれくらい僕の言うことを信じてくれる?」
【花鶏】
「会ったばかりなのに、そんなこと」
戯れるように笑う。
突拍子もない申し出を、
蔑んでもいなければ、拒絶してもいない。
【智】
「だから訊いてる」
花鶏はきっと愉しんでいた。
【花鶏】
「――――そうね、キスしてくれた分、かしら」
【るい】
「したのはテメーだ」
【智】
「僕、昔から勘はいい方なんだよ」
はたして。
花鶏は呆れた。
楽しそうに口元を歪める。
【花鶏】
「論理的ではないことね、
そんな言い分を根拠にしろと言いたいわけ?」
【智】
「だから信用。水掛け論よりは前向きでしょ」
【花鶏】
「信用はできない」
直裁に切り落とされる。
【花鶏】
「でも、一時休戦ということなら、さっきのキスでチャラに
してあげる」
【るい】
「この胸なし女、むかつくっス」
【花鶏】
「わたしはちゃんとあるっての!
あんたが淫らにぼよんぼよん膨らんでるだけでしょっ!」
火花が散った。
【智】
「協調と信頼だけが人類を進歩させるんだよ」
【るい】
「……難しいこといわないでよね」
【智】
「難しいんだ……」
人類の夜明けは遠い。
【智】
「じゃあ、一時休戦で。
とりあえずの謎解きをするから、現場の話をして」
我ながら、名探偵なんて柄じゃないのに……。
【花鶏】
「わたしはこのあたりをぶらついてたの――」
【るい】
「そしたらこいつがぶつかって――」
【花鶏】
「肘を入れられた――」
【るい】
「蹴ってきやがったから――」
【智】
「あのー、もう少し慎みとか女らしさとか」
【るい&花鶏】
「「そういえば」」
【花鶏】
「朝だったから人気はなかったけど」
【るい】
「もう一人いてさ」
【花鶏】
「こいつと揉めてたら」
【るい】
「びびって逃げて」
脳細胞に喝をいれて思考する。
騒ぎを起こして逃げ出した後、バッグがないのに気がついた花鶏は猟犬みたいに飛んで戻った。
時間にしてほんの2〜3分。
けれど、どこにもブツはなし。
閑散とした早朝の街路に
ぽつんと花鶏は立ち尽くした。
可能性@ るいが拾って逃走
可能性A 花鶏が隠し持っている
可能性B 居合わせた人物Xの手に
可能性C 偶然通りがかった新たな人物が(以下略
消去法。
@とAはとりあえず消す。
【智】
「通りがかったのはどんな男?」
【花鶏】
「女よ」
【るい】
「ちっこいやつ」
【花鶏】
「あまりよく覚えていないけど」
【るい】
「んーとね、たしか髪の毛をこう、くるっとふたつ」
髪の毛をくるっとふたつ横でまとめて尻尾にしたような女の子が、目の前を通り過ぎた。
【智】
「くるっとふたつ?」
指差してみるが、後ろの二人は固まっていた。
【花鶏】
「……」
【智】
「……」
【るい&花鶏】
「「あいつだよ!!!」」
【智】
「ほえ?」
【こより/???】
「ほえ?」
【花鶏】
「待ちなさい!」
【るい】
「逃がさんぎゃあ!」
【こより/???】
「ほえええ!!」
【花鶏】
「大人しくしてれば、あまり痛くないようにしてあげる」
【るい】
「大丈夫、こわくない、たぶん」
どう考えても嘘に聞こえる。
虎と狼に挟まれた哀れな白ウサギは狩られる運命。
恐怖に顔を引きつらせ、混乱に鼻を啜って、
情け無用に飛びかかる二人の間を、するりと抜けた。
【智】
「お、やるもんだなあ」
感心感心。
【こより/???】
「ほええええええええ」
びびってるびびってる。
【花鶏】
「外した!?」
【るい】
「ちょこまかとすばしこいっ」
【花鶏】
「お待ちっ」
【こより/???】
「いやあああああ〜っ」
【るい】
「動くな!」
【こより/???】
「たわあああぁあ〜〜っ」
待てや動くなで相手が捕まるものならば、
渡る世間に警察なんていやしない。
逃げた。追った。
ウサギっこは、するりと抜けた。
追跡者たちを向いたまま、
伸びたかぎ爪の触れんとしたその先から、
風に柳のたとえのように。
インラインスケートだ。
小さな車輪のついた小さな靴が、
小さな躯を魔法のように機動する。
【こより/???】
「ひやぁあああぁっ」
逃げた。追った。
ウサギが逃げる。ふたつ尻尾をなびかせて。
猟犬が追う。
るいと花鶏の剣幕に、夕の雑踏は、
預言者の前の紅海もかくやと左右にわかれる。
小さな影が小さな肩越しに何度も後ろを振り返る。
血の出るような追っ手の顔が目に入る。
【こより/???】
「うわああああぁあぁあぁぁん〜っ」
泣き出した。
【智】
「悲劇だなあ」
悲劇もすぎれば喜劇に変わる。
喜劇も過ぎれば悲劇に堕する。
走る。跳ねる。尾をなびかせる。
幾度となくあわやのところを手がかすめる。
間一髪に遠ざかる。
【智】
「すんごい」
他人事のように拍手する。
【花鶏】
「まったくちょこまかと、手強いことね」
【智】
「小休止?」
【花鶏】
「狩りには根気が必要なのよ」
【智】
「悪びれないね」
負けず嫌いも筋金入りだ。
【智】
「ところで、るいは?」
【花鶏】
「優雅さに欠けるぶんだけ、体力は余っているようね」
るいは追っている。
人垣の向こうに見え隠れする。
曲芸仕立てのローラーブレード相手に、
門戸無用の一直線で突っかかる。
【るい】
「うららららららら――――――っ」
【こより/???】
「うわああああぁあぁあぁぁん〜っ」
壁があったら跳び越える。
人があったら轢いていく。
【智】
「典型的な目的と手段が転倒するタイプだね」
泣けてくる。
【花鶏】
「手間のかかるのが倍になるわ」
花鶏の方は、
るいよりも多少冷静だった。
【智】
「追いかけるの?」
【花鶏】
「大事なものを盗まれたんだもの」
【智】
「乙女のはーとだっけ」
【花鶏】
「それは貸金庫にしまってある」
【智】
「鍵付きなんですか」
【花鶏】
「乙女だけに」
【智】
「ついさっきいんわいなべーぜ≠」
【花鶏】
「乙女心は気まぐれなのよ」
【智】
「気まぐれと言うより身勝手という」
【花鶏】
「いい女は気ままですものね」
ものは言い様だった。
【智】
「男の子が同意するのか聞いてみたいですね」
【花鶏】
「淫猥で頭一杯の野獣どもに興味はないわ」
えーっと…………。
それって、なに、その、
まさかそっちの趣味なの?
そういえば、さっきのキスだって。
【智】
「僕、女の子ですよね」
【花鶏】
「何をわかりきったことを」
【智】
「キス、しちゃいました」
【花鶏】
「まだ唇が貴女のことを覚えているわ」
きれいな言い回しにすればいいってもんじゃないよ。
【智】
「……典雅(てんが)な嗜好でいらっしゃいます」
ものすごく複雑な気分だ。
【花鶏】
「お褒めにあずかり恐悦至極」
皮肉も通じない。
【智】
「うまく捕まりそう?」
【花鶏】
「……逃げ足は速いわね」
【智】
「捕まってもらわないと話がすすまないよね」
【花鶏】
「話よりも罪の報いを与えてやるわ」
酷薄に笑む。
さよなら、
対話と協調の日々。
こんにちわ、
暴力と断罪の新世紀。
【智】
「もう少し穏やかなところで、ぜひ」
【花鶏】
「目には目と鼻を歯には歯と口を罪には罰を10倍返しで」
【智】
「ハンムラビ決済は利息が高そうです」
【花鶏】
「ではね。また後でお話しましょ」
【智】
「ところで花鶏さん」
呼び止める。
【花鶏】
「花鶏」
添削が入った。
【智】
「……花鶏、行く前に携帯の番号教えて欲しいんだけど」
【花鶏】
「住所と誕生日とスリーサイズも教えてあげましょうか?」
【智】
「いりません」
【こより/???】
「うわああああぁぁぁん〜」
【こより/???】
「ひゃいぃぃいぃぃぃぃぃ〜っ」
【こより/???】
「あーーーーーーーーーーーーーん」(泣)
【こより/???】
「ひぃ、はあ、はひぃ、ひやあ……」
街の片隅で土下座していた。
謝罪ではなく疲れ果てて膝から砕ける。
どうやら逃げのびた。
神出鬼没の猟犬たちの息づかいは振り切った。
おめでとう自由の身。
空よ、私を祝え。
でも、一安心したせいで緊張の糸がぷっつり切れた。
弛緩は人生における大敵だ。
思わぬ落とし穴に足を取られるのは決まってこんな時。
【こより/???】
「……わたし……なんで、こんな……」
頭をぐりぐり回していた。
苦悩中らしい。
【こより/???】
「あにゃー」
見ていて飽きない小動物っぽさ。
愛玩系。
【智】
「あ、花鶏? 近くに、るいは? それなら一緒に。
赤いレンガ仕立てのビルが目印で」
【智】
「そう、ブロンズ像を右に曲がって……うん、見えるから、
三番道の裏手あたり……っていってわかる?
他にめぼしいものは―――」
手早く説明して携帯を切る。
【こより/???】
「…………」
見つめられていた。
熱視線に、花のほころぶような微笑を返す。
【こより/???】
「……う」
赤面されました。
携帯を閉じる。
従容と近づいた。
軽く顎を引いて、背筋を伸ばし、
肩で街の風を切る。
学園でなら、下級生たちが黄色い声援のひとつもよこしてくれる。
【こより/???】
「あ、あの……」
【智】
「なにか?」
いい感じで問い返す。
お姉様っぽく。
【こより/???】
「その……ぶしつけなんですけど、なんていうのか」
【智】
「なんでしょう」
【こより/???】
「……なにか、あります……?」
【智】
「何かといわれても」
【こより/???】
「そ、そーですよね、はははは……」
【智】
「ふふふふふふふふふ」
ひとしきりの乾いた笑いがぴたりと止んだ。
言語化し難い沈黙が漂う。
対峙した距離に圧縮された緊張に、
世界の歪む錯覚をする。
【こより/???】
「あ、あの」
【智】
「なぁに?」
【こより/???】
「ど、」
ウサギの女の子が唇を噛みしめた。
一瞬に逡巡(しゅんじゅん)と決意が交錯する。
一生に一度の大勝負に拳を固めて、続く言葉は。
【こより/???】
「どちらさまでしょーかっ!」
【智】
「……」
【こより/???】
「は、あわ、そじゃなくて……あの……」
ボロボロだ。
【こより/???】
「はぁ――――――……っ」
肺が口から出そうなため息をついた。
【智】
「若いうちからため息をついてはいけないわ」
【こより/???】
「そう……ですか。そうかも……」
【こより/???】
「はぁ――……」
【智】
「また」
【智】
「ため息ひとつで幸せひとつ、逃げちゃうっていうんだし」
【こより/???】
「逃げちゃうんですか」
【こより/???】
「じゃあ、わたしって……幸せ残ってないのかな。
あんなのに追っかけられたりするし」
【智】
「追いつ追われつが人の世の倣(なら)い」
【こより/???】
「生きにくい世間様です」
【智】
「まあまあ、悪いひとたちじゃないから(たぶん)」
【こより/???】
「……悪い人に見えました」
【智】
「心の病気みたいなものなのよ」
【こより/???】
「お病気なのですか」
【智】
「血が上ると周りが見えなくなっちゃう症候群」
【こより/???】
「重症であります……はぁ……」
【こより/???】
「…………」
おとがいに人差し指をあてて、
ウサギっこはなにやら目を彷徨わせた。
喉の奥に引っかかった小骨がちくりと痛んじゃった……
そんな顔で眉間に皺を寄せる。
【こより/???】
「そこの通りすがりの方、
つかぬ事をお伺いするのですが」
【智】
「名前は智、サイズは内緒」
【こより/???】
「……聞いてないですから」
【智】
「ナンパじゃない?」
【こより/???】
「……女の子同士で不毛です」
【智】
「愛に区別は――――」
花鶏のふしだらな顔を思い出す。
プルシアンブルーの気分。
【智】
「……愛は区別した方がいいですね」
【こより/???】
「愛とは区別からはじまるんです」
【智】
「存外深いな」
あなどれないヤツ。
【こより/???】
「ところで通りすがりの方」
【智】
「ナンパ?」
【こより/???】
「違います」
【智】
「そうですか」
【こより/???】
「質問が」
【智】
「どうぞなんなりと」
【こより/???】
「なにやら、いわれなく不穏な気配がするであります」
【智】
「ナイス直感」
【こより/???】
「…………」
【智】
「…………」
沈黙のうちに視線を交わす。
熱視線。
【こより/???】
「うわーん、やっぱりさっきの悪党の仲間なんだあぁ!!」
【智】
「大当たりぃ」
時間稼ぎをやめて拍手する。
アンコールには応えず、
ウサギっこは脱兎と逃げ出して、
二歩もいかずに凍りついた。
【こより/???】
「あ……っ、うそ」
逃げ場がない。どこにもない。
三番町は薄汚れた終点だ。
お嬢様なら近づかない吹きだまり。
怪しい店が軒を連ねて看板を掲げる。
幾つも路地が入り組んでいる。
行き止まりも多い。
ウサギ狩りにはうってつけ。
【こより/???】
「ま、まさか――」
【智】
「はーい、その通り。実は罠でしたー」
にこやかに種明かししてみます。
【智】
「ここまで逃げてくるように誘導したんですねー、もうびっくり。すぐ仲間が到着して君を組んずほぐれつにしてしまいまーす」
【智】
「ここまで来ればわかると思いますが、なんとっ!
今までの小粋な会話は全て時間稼ぎだったのです!!」
【こより/???】
「みゃわ」
衝撃の事実が鉄槌の勢いで打ち込まれる。
【智】
「くくくくく、随分と手間をかけさせてくれたけれど、これで
終わりね。お前はもはやジ・エンドっ!」
【智】
「餓えたケダモノどもの手でっ! 救われぬ新たな運命が!
お前に! 下されるのだッッ!!」
【智】
「さようなら明るく清純な人生、こんにちわ淫猥で甘美な堕落の日々……さあ、」
ついっと涙を拭うフリをして。
【智】
「僕とスイートなストロベリートークしましょう……あれ?」
たっぷりタメをつくって場を和ませようとした。
ウサギっ娘は話も聞かずに飛び出していた。
パニくったまま一目散に走る。
右はビル、前もビル、後ろには僕。
唯一空間の開かれた左側へ。
低い柵が行く手を阻んでいた。
腰よりちょい上の高さの鉄柵を、
映画の身ごなしで横っ飛びに跳び越える。
そこに。
着地するべき地面は無かった。
柵の向こうは土地が低い。
3メートルはある落差。
落ちる。
【こより/???】
「ぎゃわーっ」
【智】
「ちょ――――――っ」
【智】
「なにやってんのーっ!」
危ないところで襟首を捕まえた。
宙づりになったウサギは、
ひたすら混乱して暴れる。
ギリギリの一歩向こう側に
身体を乗り出した危険な姿勢。
目が眩むくらいの不安定だ。
【智】
「――――らめぇ、暴れちゃらめーっ、危ないから、ほんとに
とれちゃうからぁ!」
【こより/???】
「うあああああああ」
【智】
「だから動かないでぇ……動かないでじっとして……っ」
下まで3メートルとちょっと。
他人事なら小さな距離も、
直面するとゾッとする。
【こより/???】
「だめだめ、こんなのだめ、死んじゃう、落ちちゃうとれちゃうぅう」
【智】
「お、おちついて、はやく、何か掴んで!」
【こより/???】
「ぎゃぎゃぎゃーーーーんっ」
聞こえてない。
スケートで壁を蹴った。
魔法の靴が空回りする。
ローラーはまずいよね、
こういう場合。
バランスが、崩れた。
僕にしたって、どだい女の子ひとり支えられる姿勢では
なかったわけで。
【こより/???】
「――――っ」
【智】
「――――っ」
今度こそ落下。
【こより/???】
「は、あ、あれ、生きてる……わたし生きてる……!」
【智】
「あれくらいの高さだと簡単には死にません」
【こより/???】
「あぁ、生きてるって素晴らしいです……」
聞いてない。
下まで落ちればそこは裏路地。
裏の裏までやってくれば
ネオンも雑踏もとっくに彼方。
街の不純物とゴミの混じった腐敗臭と
こびり付いた汚れのせいで、ひときわ暗い。
空。
あそこから落ちたんだ……。
ほんの3メートルぽっちの高さの場所が、
上から見下ろしたときよりも遠かった。
【こより/???】
「ふにゃ」
頭の上からウサギっこが顔を寄せてきた。
【智】
「うわっ」
【こより/???】
「さっきの通りすがりの悪い人」
【智】
「通りすがりだけど悪くないひとです」
【こより/???】
「嘘つきです。わたし、騙されました!」
丸い眼を細めて、糾弾。
【智】
「生きるってコトはね、時には残酷な行いに手を染めなければ
いけないってことなんだ」
【こより/???】
「詭弁だ」
【智】
「方便といってください」
【こより/???】
「でも、助けてくれたんですね。
あそこから落ちて、もうダメって思ったのに……」
【智】
「いいひとですから」
【こより/???】
「……センパイは、わたしを捕まえてとても言えないようなことをするつもりなのですか?」
【智】
「なぜ先輩」
【こより/???】
「年上っぽいので」
【智】
「安易だなあ」
【こより/???】
「悩みを捨て去る、あんイズムを信奉中であります」
【智】
「苦悩は人生の糧だから大切にね」
【こより/???】
「クリーニングオスするッス」
【智】
「クーリングオフです」
【こより/???】
「みゅん……」
【こより/???】
「おっと、それよりも!」
【智】
「なによりも?」
【こより/???】
「助けてくれたのですね」
【こより/???】
「あまつさえ、不肖鳴滝(なるたき)めの身代わりに、下敷きになってくださったですね」
【智】
「…………」
尻に敷かれていた。
女性上位……。
ちょっとエッチだ。
この場合、僕も女性なんだけど。
形式上、彼女を助けたことになるらしい。
偶然のたまものだけど、
告白して感動巨編に水を差すのは止めておく。
真実は僕の心だけにしまっておこう。
【智】
「ウサギちゃんの可愛い顔に傷がついたら大変だものね」
優雅に、ウサギちゃんの乱れた髪を整えてあげる。
日々積み重なる方便の山。
【こより/???】
「きゅーん!」
【智】
「なにそのリアクション?」
【こより/???】
「感動してます」
【智】
「ごめん、でも、僕はもうだめみたい」
【こより/???】
「死んじゃだめ、死なないでセンパイぃ!!」
【智】
「無茶をいわないで。生まれてきたものはいつか死んでしまう。
でも、それは辛くても悲しいことじゃない。僕は来たところへ
帰るだけなんだから……」
【こより/???】
「らめ――っ」
涙ながらにすがりつかれた。
おもむろに身体を動かしてみる。
痛みはあるけど大きな怪我はなさそうだ。
わりと丈夫な我と我が身。
【智】
「そっか、下に何かあったんだ」
天然クッションのおかげで無事だったらしい。
二人で下敷きにしていた。
見知らぬ男だった。
気絶している。
【智】
「…………」
【こより/???】
「…………」
顔を上げた。
目の前にいた。
見知らぬ女の子だった。
大きいのと小さいの。
【こより/???】
「センパイ」
【智】
「なにかしら、あー、花子ちゃん」
【こより】
「花子ではありませぬ、鳴滝(なるたき)こよりです」
【智】
「じゃあ、こよりちゃん」
【こより】
「なんだかとっても投げやりですっ!」
【智】
「今はそんなこと問題じゃないと思う」
【こより】
「そうです。そうなのです。センパイ!」
【こより】
「……これって、もしかするとやらかしてしまったのでは?」
【智】
「やらかしたには違いないですが」
後ろにもいた。
見知らぬ男どもだった。
大きいのと小さいの。
腐肉をあさるのを邪魔された
ハイエナみたいな顔で、呆気にとられている。
男たちは早口に言葉を交わしていた。
【こより】
「なんていってるですか」
【智】
「中国……んと、広東語……かも」
【こより】
「センパイはバインバインです」
【智】
「たぶんバイリンガル」
【こより】
「そうッス、それッス」
大げさに感心して手を叩く。
緊張がほぐれたせいか、
ウサギっこの挙措は一々ハイだ。
【智】
「実はテンション系だったんだ」
驚きの新事実。
【こより】
「侮辱です。
不肖鳴滝め、常日頃から常住坐臥に真剣本気であります!」
【智】
「それはそれでタチが悪い」
【こより】
「それよりも何よりも、センパイ、ガイコク人間さんの言葉が
おわかりになるデスか?」
【智】
「言葉には気をつけてね。最近いろいろ厳しいから」
【こより】
「大丈夫ッス、カタカナですし」
【こより】
「そんでバイリンガルなのですね!」
【智】
「わからないから当てずっぽう」
【こより】
「わたしの感動を返してください」
【智】
「真実はいつだって残酷なんだ。
誰も皆そうやって大人の階段を上っていくの」
男どもからの敵意が痛い。
いやんな予感が止まらなかった。
言葉がわからなくても察しがつく。
こんな人気のない場所で、女の子を取り囲む理由は、
自己啓発セミナーの勧誘や新聞の販売ではないだろう。
【伊代/???】
「あ、あなたたち、早く逃げて!」
【こより】
「センパイ、なんか逃げろ言われてます」
【智】
「ニブチンは幸せに生きるための要諦ですね」
【こより】
「ふむふむ、勉強になるです」
【智】
「……これだもの」
いつの時代も天然ものは強い。
自然の素材が作るうま味に養殖ものでは対抗できない。
【こより】
「これとは、どれでありますか?」
【智】
「とりあえず、前かな」
男どもを刺激しないように立ち上がる。
早くても遅くてもいけない。
即席の後輩を、後ろ手で、
姉妹の方へおいやった。
不満げな顔のウサギちゃんに一瞬注意を向ける。
突っかけられた。
男は場慣れしていた。
素早い。右の手首を掴まれる。
背中にヒネリあげられたら勝負がつく。
多対一。
現実はシビアだ。
ドラマや映画のような鮮やかさはない。
反射的に足を払う。同時に腕を引く。
重心を失った力学が、
掴んだ手を軸に男の身体を半回転させる。
背中からコンクリートに落ちた。
【こより】
「おおー、センパイすごいっス! ミス拳法!」
ただの護身術です。
【智】
「ダメ、全然ダメ」
【こより】
「えー、すごいッスよ」
空気が変わる。
針のような敵意。
相手が女ばかりだと油断してる時が、
最初で最後の好機だったのに。
やるときは確実に、徹底的に。
半端に手を出すのは。
【男】
「…………ッ」
男が左肩を押さえて立ち上がる。
目つきが変わった。
【智】
「――――奥は?」
【こより】
「袋小路になってます」
【智】
「こまるよ、そんなことじゃ」
【こより】
「まったくっス」
これで逃げる選択肢はなくなった。
目の前の二人を何とかしなければ。
二人を引きつけられないか。
時間を稼ぐ方法はあるか。
他に仲間がいたらどうしよう。
【男】
「――――っ」
早口の異国の言葉。
意味不明な言語が断絶を色濃くしていた。
ポケットに手をつっこんだ。
刃物――――
【智】
「まずいかも」
身構える。
【伊代/???】
「……ッ」
ウサギっこより先に、
後ろの姉が言葉の意味に反応した。
きれいな眼鏡っこだ。
整った目鼻立ちは、花鶏と違って、
外に向かう華やかさには欠けている。
【伊代/???】
「だ、だから、早く逃げてっていったのに!」
叱る口調が背中から飛んでくる。
叱責の内容が「逃げなかったこと」だというのに、
状況を忘れて微苦笑がもれた。
【こより】
「逃げられる状況じゃ無かったッス」
【伊代/???】
「そ、そうだけど……っ」
【伊代/???】
「でも、そ、そうよ、それならわざわざ降ってこなくたって!」
【こより】
「事故だったッス」
【こより】
「不幸な出来事だったッス。でも、運命の出会いッス!
不肖鳴滝は、センパイオネーサマとの出会いのために
生まれてきたと知りました!」
【智】
「それはどーだろう」
【こより】
「うわ、ものすごく、つれないです!」
【伊代/???】
「な、なんなの、いったい……あなたたち……」
【茜子/???】
「……」
姉は常識的な反応が微笑ましい。
妹の方はちょっと変だ。
怯えてるのでもないし、
悲鳴をあげるでもない。
起伏の乏しい、大気めいた存在。
切りそろえられた前髪のせいで精緻な人形の印象がある。
【智】
「――――」
爪先が砂利を踏みにじる音。
男たちだ。
途端に空気が冷えた気がした。
腹腔に差し込まれるような、底冷えのする冷気。
どぎつい悪意が向けられる。
刃物と同じ見ただけでそうと知れる剣呑さを感じ取る。
さっきまでとは違う。
女と甘くみていない。
【智】
「……ッ」
温情のない、は虫類に似た目つき。
暴力の扱いに慣れた気配を身につけている。
【男】
「……」
顎をしゃくって、
一人が指示を出す。
無言で進行する事態が、
手慣れた具合を思い知らせる。
冷静に対処しても、しきれるかどうか。
相手が笑っている。
暖かみがなく、胸の悪くなる顔だ。
逃げる方策を練る。
逃走経路がない以上。
どうにかして、突破、しなければ。
せめて、後ろの三人を――、
【るい】
「どぉりゃあああああああああああああああ!!!」
るいが上から落ちてきた。
【るい】
「お・ま・た・せ!」
すっくと立つ、るい。
ぶい。
【智】
「――――」
呆気にとられて、口もきけない。
男二人は、るいの足下で転げ回っていた。
落下ではなく突撃だった。
雪崩式ラリアート。
無事ではすまない。
【るい】
「いんやあ、智ちん、やばかったねえ。上から危機一髪シーン目撃した時は、どーしようかと思ったよ。ま、発見したのはあのヤローだったんだけど」
頭上から、
花鶏が優雅に手を振る。
【るい】
「エロ魔獣もちったー役にたったわな」
【智】
「……助かった。いや、それよりも――」
【るい】
「んん〜?」
上から下まで。
るいを目線で辿る。
見る限り怪我はない。
【智】
「大丈夫? どっかぶつけてない? 折ったりは? 打ち身は
あとから来るけど――――」
【るい】
「なんだぁ、心配してくれたんだ」
【るい】
「これぐらい平気平気。るいさん、鋼の乙女だから」
【智】
「でも」
【るい】
「ちょ、ちょっと、顔こわいよぉ」
詰め寄る。
何事もない高さじゃなかった。
【智】
「!」
後ろだ。
男の片方が半身を起こしていた。
引き抜かれた手には小さな折りたたみのナイフ。
危険が膨れあがる。
ただの激発とは違う、
鋭利な指向性を持った憎悪。
意識と判断の隙間に滑り込む速さで、
無音の殺意が、るいの死角から閃い――――。
その顎先へ、コマ落としめいた、
旋回の遠心力をのせた爪先が合わさる。
【男1】
「ガッ」
路地の狭さを苦ともせず、
高くしなやかに上がる、るいの足。
かかとは肩より高かった。
敵意を扱うにも慣れがいる。
扱いかねれば沸騰する。
過剰にやりすぎるか、
それとも行為そのものに怯えて萎縮する。
刃物を突きつけられれば、
小さなものであれ、誰しも容易に冷静さを失う。
るいの敵意はぶれなかった。
牙のように冷酷に。
技術や体系を感じさせる動作ではないのに、
人体の最適解に基づいた挙動だ。
本能に訴える美しさだ。
蹴りこんだ瞬間はついに見えず、
男がビル壁に叩きつけられた姿だけで結果を知る。
【るい】
「平気っしょ?」
るいは汗一つ浮かべていない。
余裕ありあり。
男はぴくりとも動かなかった。
【こより】
「おー、すっごいッスッ!!」
【るい】
「まね」
素直すぎる称賛と返答。
複雑な安堵の息をつく。
【るい】
「そんで、なんで危機一髪?」
【智】
「それよりも……」
【るい】
「なによりも?」
【智】
「まず、こっから逃げ出そう」
【智】
「突き詰めると世の中は確率的なんだよね」
【るい】
「トモが呪文を唱えた……」
【こより】
「大丈夫であります! 不肖鳴滝めがかみ砕いて解説すると……」
【智】
「すると?」
【こより】
「つまり、世の中確率的ってことです!」
【伊代/???】
「かみ砕いてないわよ」
【こより】
「おううう……」
【智】
「要するに残酷な偶然の神様が支配してること」
【智】
「道ばたで1億円拾うのも、突然事故で大けがするのも、生まれてくるのも、死んじゃうのも」
【伊代/???】
「ただの偶然?」
【花鶏】
「つまらない考え方ね」
【るい】
「なんだと、エロ魔神」
【花鶏】
「エロは関係ないでしょ」
【智】
「花鶏は?」
【花鶏】
「わたしは運命を信じるわ」
【るい】
「乙女エロだな」
【花鶏】
「……だから、エロは関係ないでしょ、エロは」
【こより】
「運命って運命的な響きッス」
【伊代/???】
「……いやいや、それはどうなのよ」
【茜子/???】
「…………」
【智】
「運命があるなら、今の状況も運命?」
【花鶏】
「そうね。必然の出会いだったかも」
【智】
「是非とも道を示して欲しい」
【花鶏】
「つまらないことをわたしに訊かないでちょうだい」
【智】
「他に誰に訊けばいいのよ」
運命はどこいったんだ?
【花鶏】
「運命はね、自ら助けるものを助けるのよ」
【智】
「運命って厳しいんだね……」
要約するなら。
取っかかりは偶然だったらしい。
【伊代/???】
「わたしたち、別に姉妹じゃないから。だって別に似てないでしょ」
【智】
「それは……まあ、そうかな。あの、えーっと……」
彼女の名前は。
【智】
「名前、まだ……」
【伊代/???】
「これ」
わざわざ学生証を差し出された。
県下で有名な進学校だ。
見せびらかしたいんだろうか?
白鞘(しらさや)伊代(いよ)。
それが彼女の名前。
彼女が妹(嘘)とぶつかったのがそもそもの始まりだ。
見たときは追われていた。
どうみてもか弱く、
どう見ても逃げ切れそうになかった。
気がついたときには、
伊代は手を引いて走り出していた。
【るい】
「なんで?」
【伊代】
「だ、だって……っ」
目線を外した。
言葉にしにくそうに唇を噛み、
膝の上で組み合わせた手を何度もにぎにぎしている。
【伊代】
「……ほっとけなかったから」
不器用な返答。
【智】
「いいやつ」
【るい】
「いいやつだ」
【こより】
「いいやつッス」
【伊代】
「ッッッ」
伊代は赤信号のように点滅する。
居心地悪そうにしきりと眼鏡を直す。
田松市三区にある進学校の制服に詰め込まれているのは、
思いの外の正義感と不器用さだった。
委員長っぽい外見だと思ったら、
本当にそういうキャラらしい。
【智】
「正義派委員長純情派」
【伊代】
「……別に委員なんかしてないわよ?」
【智】
「素で返されましても」
【茜子/???】
「甘ちゃんさんは早死にするのです」
しんと場が冷める。
【こより】
「……容赦ないッス」
こっちの方は、普通に名乗った。
【茜子】
「茅場(かやば)茜子(あかねこ)」
ことの発端の方は、
どうにも一際の変わり種だ。
白い肌、そろえた前髪、無表情。
気配の薄さが、
見た目の人形っぽい雰囲気を強くしている。
小柄なこともあって、
最初はうんと年下かと思った。
実は二つばかり離れているだけだった。
芸は、毒舌、らしい。
おまけに、いつの間にか不細工な猫を抱えていた。
どこから生えたんだろう。
【花鶏】
「お人形かと思ったら意外に言うわね。無口なのより、
ずっと可愛いわ」
【るい】
「……とって食うんじゃないだろな」
茜子は、口が悪かった。
他人の反応をちらりと確かめる。
伊代は、舌鋒を気にした様子もなかった。
【茜子】
「私の戸籍上のファーザーが」
【伊代】
「義理のお父さん?」
【茜子】
「リアルファーザーです」
【るい】
「なんで但し書き?」
【茜子】
「縁切り終了済みです」
茜子の父親は借金を作って逃げ出した。
多重債権で首が回らなくなり、
家族を捨てるに至るまでは、ほんのひとまたぎ。
茜子は施設に送られた。
そのまま終わっていれば、
よくある不幸な話で済んだ。
不幸は、得てして次の不幸を呼ぶ。
呪いのように連鎖する。
不幸に陥ったものは、
そこから抜け出そうとあがく。
あたりまえに。
世界は気まぐれだ。
同時に無情に公平だ。
不幸を気遣ってはくれない。
不幸に陥ったものが、
不幸から抜け出すのは、
不幸であるが故に難しい。
焦る。
追い詰められて賭に出る。
ギャンブルで破産したものが、
最後の大ばくちと大穴に賭けるように。
当たり前に失敗する。
呪いだ。
茜子の父親は、呪いを踏んだ。
【茜子】
「あの人たちのお金がどうとか、持ち逃げしたとか、面子が
どうとか。面倒なので聞き流しました」
茜子にも飛び火した。
断片を聞くだけでもろくでもない火の粉だ。
【智】
「笑えない」
【るい】
「ま、父親なんてそんなもんよ」
こちらも一刀両断にする。
【智】
「あてにならないのは認める」
【花鶏】
「親はなくても子は育つ」
しみじみと、共感めいた空気が流れる。
【智】
「……あんまり嬉しくないよね、こういうのの共感は」
【るい】
「考えてもしかたないっしょ。泣いても笑っても親がアレでも、
私らみんな生きてるんだもん。生きてる以上はたくましく
生き抜くの」
【花鶏】
「珍しくも正論ね」
【るい】
「珍しいいうな」
【智】
「あんまり女の子っぽくないのが」
僕の幻想の残り香が五分刻みにされる。
うれしくない。
【るい】
「女は度胸」
【こより】
「センパイッ!」
【智】
「はい、こより君」
びしっと手が上がる。
鳴滝こより。
追われて逃げて捕まったウサギっこ。
小柄だった。
茜子よりもちっこくて細い。
最初は子供かと思ったけど、よく見れば細く伸びた足に色気の
片鱗くらいはうかがえる。
ウサギというより子犬のようにうるさかった。
無駄に元気が余っている。
小動物系とカテゴライズするのは卑近(ひきん)な気がする。
【こより】
「これからどうするでありますか!」
【花鶏】
「そうよ、もう逃がさないわよ!」
【こより】
「は、はひゃ」
花鶏が睨む。こよりがびびる。
猫とネズミの果たし合いっぽい力関係。
【るい】
「いいじゃない、そんな細かいこといちいち」
【智】
「……さすがにそれは大雑把すぎだよ」
るいは追いかけた理由も忘れていた。
【智】
「とにかく、逃げ出して落ち着くまでは一時休戦で」
【花鶏】
「休戦条約が多いわね」
【智】
「戦争は外交の手段です」
【花鶏】
「……ふん」
【伊代】
「それで?」
【智】
「なんとか、全員で、この場を逃げだす」
【花鶏】
「――でも」
花鶏が眉間に皺を作る。
そうだ。
現場を逃げ出した後、好きこのんで、
こんな場所に隠れ潜んだのは理由がある。
こんな場所……。
恥かしいので残念ながらお見せできませんが、
実は、その手のホテルなんです。
でっかいベッドとかあって。
すごく安っぽい作りになっていて。
シャワーとかテレビとかもあったりして。
皆、意識しないように目を逸らし合ったりしてるので、
一種独特の緊張感があったりします。
見ず知らずの男女が、あんなことやこんなことをしてるベッドとかお風呂がすぐ隣にあると思うと。
【智】
「まず、ここを早く出たいよね……」
さて、ここに逃げ込んだ理由。
さっきのヤツの仲間が、
僕らを捜していたからだ。
それらしい連中を見掛けた。
この一帯の歓楽街には日本人以外にもいろんな人種が入り
込んでいて、どいつもこいつも複雑なコミュニティーを
作っている。
部外者で一般人で、おまけにお嬢様系の僕の耳にも、
そういう噂が届くくらい、街の裏側の事情は物騒だ。
できれば一生関わり合いになりたくない。
茜子の父親が手を出したのは、
そのうちの中国人系グループのひとつらしい。
不良あがりのチンピラの機嫌を損ねたのとはわけが違う。
【るい】
「ぶちのめして突っ切っちゃえば」
【こより】
「ひぃ」
【伊代】
「女の子が無茶なこと言わないっ」
【智】
「なんでそんなに荒っぽくしたいかな」
【花鶏】
「脳みそ筋肉」
【るい】
「なんだと、エロス頭脳」
【花鶏】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉み合いに。
【智】
「なぜ揉めるのか」
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。この人たちはだいぶ頭悪いです」
【智】
「うん」
【伊代】
「いやそれ否定してあげなさいよ?」
【こより】
「センパイ!」
【智】
「はい、こより君」
【こより】
「警察さんとかのお世話になるのはいかがッスか!?」
【花鶏&るい】
「いやよ」「反対!」
揉み合いの途中で固まって、
そろって反対意見を出す。
妙なところでだけ息が合う。
【茜子】
「却下です」
【こより】
「茜子ちゃんもッスか!」
【るい】
「私、家出少女なんだかんね。家に連れ戻されたらやっかいでしょーがないつーの」
【花鶏】
「貴方の都合なんてしったこっちゃないわ」
【るい】
「ほほう」
【るい】
「んなこといって、あんただってヤなんじゃない。そういうのをね、同じ穴のムジナっていうんだよ」
【花鶏】
「わたしは、ああいった連中の力を借りるのが気にくわないだけよ。プライドの問題。エレガントではないわ」
【花鶏】
「追われて逃げ回るネズミのよーな、あなたと一緒にされては困るわね」
【るい】
「エレガントつーよりエレキングみたいな顔してるくせに」
【花鶏】
「意味はわからないけど馬鹿にされてるのはわかるわ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
さらに揉み合いに。
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。この人たちは犬猿(いぬさる)です」
【伊代】
「あなたはどうして?」
【茜子】
「…………」
【茜子】
「施設に戻りたくありません」
【伊代】
「戻りたくないって……」
【伊代】
「その、行くあてとかは……?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「あなたは、なにか考えある?」
【智】
「智でいいよ」
【伊代】
「…………」
【智】
「どうしたの?」
【伊代】
「と……いやいやいきなり名前なんて、変よ! うん。こういうのは少しずつ馴染み合って互いに親睦を深め合った結果に生まれる関係であって……」
【智】
「つまり僕らは仲間でもなんでもないぜ?」
【伊代】
「ご、ごめん! そういうんじゃなくて、ないんだけど」
【智】
「焦るところ、可愛い顔」
【伊代】
「…………」
【智】
「ひかないでください」
【伊代】
「……そういう趣味の人じゃないよね?」
警戒される。
【智】
「いいがかり」
【るい】
「そういう趣味のひとはこっちのエロガントだ」
【花鶏】
「差別発言で訴えるわよ」
【るい】
「警察はエレガントじゃねーじゃないのかよ?」
【花鶏】
「それはそれ、これはこれ」
【伊代】
「……なんて心いっぱいの棚」
【こより】
「?」
【茜子】
「…………」
おちびの二人は状況が飲み込めてない。
【智】
「……?
ああ、この制服、知ってるんだ」
【伊代】
「そりゃあね。地元じゃ有名どこだし。
駅のこっちがわに来るようなひとじゃないんでしょ、あなた」
【智】
「厳しい学園だから、ばれたら即コレものじゃないかな」
すっぱりと首を切る手つき。
【智】
「でも、伊代も結構な進学校なんじゃ」
【伊代】
「ん、まあ、そうかな」
【智】
「厳しいところ?」
【伊代】
「繁華街には出入り禁止」
【るい】
「ありがち」
【伊代】
「後はネットも毛嫌い。
うちの学園、一昨年晒されて風評被害被ったからって」
【こより】
「あ、それ覚えてるッス!」
【智】
「教師の体罰問題だっけ? 風評だったんだ」
【伊代】
「事件は本当にあった。内情暴露がアップされたりで、先生何人かいなくなったりもしたし。ただ、余計な風評も多かった。個人情報流されたり」
【智】
「熱しやすく冷めやすいのがネットってやつで」
【るい】
「ネットってよーわからん」
【こより】
「るい姉さんは掲示板とか見ない口ですか?」
【るい】
「そもそもしない」
【智】
「回線もなさそうな家だったねえ」
【花鶏】
「原始人」
【るい】
「てめえが燃やしたんだろ」
【花鶏】
「いいがかりはやめなさい」
【伊代】
「こら、もー、揉み合ってないで!」
【智】
「すごく委員長っぽくてグー」
【伊代】
「わからないこと言ってないでよ……」
【智】
「とりあえず、逃げ出す方法を考えよう」
【伊代】
「あなたも警察とか嫌いなひとなんだ」
【智】
「好き嫌いよりは、やっぱり他人だからね」
【伊代】
「…………?」
治安機構の目的は治安を維持することで、
個人の事情を万全には斟酌(しんしゃく)してくれない。
権力の本質は暴力だ。
暴力的でなければ治安の維持など不可能なのだから。
個々の自由を切り売りすることが、
つまりは平穏無事な毎日の正体だ。
最近では線引きの問題も複雑怪奇になる一方。
立ち入り過ぎれば叩かれ、
手遅れになれば責められる。
個人の権利問題が絡むとさらに厄介になる。
解決すべき問題はそれこそ無数に生じるくせに、
人手というリソースは有限で、ともすれば叩かれさえする。
及び腰にもなろうというものだ。
【伊代】
「あてに出来ないってこと?」
【智】
「どれくらい関わってくれるかわかんないし、一時的にどうにかなっても長期的には無理だし、相手の神経逆撫でして余計な恨みかっても守ってくれないし」
何よりも。
【智】
「個人的に学園のこともあるし、警察沙汰って避けたい」
それが一番の理由で。
【智】
「ついで、さっき3人ほどのしちゃったでしょ」
【こより】
「すごかったッス」
【伊代】
「そうねぇ」
【智】
「表沙汰になると、のした連中につけ込まれるかも」
【伊代】
「…………」
【こより】
「でも、あれって正義の味方ッス。
悪い奴らをぶっ飛ばしただけじゃないですか!」
【智】
「世の中ってよくも悪くも公平だしね」
【伊代】
「つまるところは……」
【るい】
「自分の身は自分で守れってことじゃない」
ソファーでごろごろしながら、るいが一刀両断にした。
【花鶏】
「最低の気分だわ」
【るい】
「それはすごく嬉しいぞ」
【花鶏】
「あなたと意見が一致するなんて、
わたしの人生における最大の汚点だと思う」
【るい】
「人生この場で終わらせるか、この女」
【伊代】
「……ごめん」
【智】
「なにが?」
【伊代】
「…………」
【伊代】
「あなたたちに、とんでもない迷惑かけてる」
伊代は恐縮しきっていた。
いよいよ本格派委員長気質というやつか。
【智】
「……別に伊代の責任じゃないよ」
【伊代】
「でも」
【茜子】
「でももなにも、あなたは悪くありません」
【茜子】
「頭が悪かっただけです。
私なんかを助けたからこんなことになったのです」
【茜子】
「犯人は私でした。情けは人のためではなくて、自分のために
使いましょう。そんなことも気がつかないニブチンさんなので
人生の勝利はおぼつかないのです」
【茜子】
「判断ミス、ザマー」
【伊代】
「…………」
無表情に、茜子が笑う。
透きとおった、硬質なのに、
輪郭の曖昧な笑い。
【茜子】
「そういうわけなので……」
【茜子】
「……別に……そのひとは……悪くないです……」
それなのに、最後だけが、たどたどしい。
目眩がするほどの、純朴さ。
おかしかった。
【るい】
「ぷぶっ」
我慢できずに吹き出した。
るいだった。
【るい】
「くくくくく」
収まらないで笑い出した。
沈みかけていた空気が弛緩する。
救われた、と。
なぜか、思う。
【るい】
「平気平気、るいさん正義の味方だから、このくらいなら迷惑でもなんでもない」
るいらしい、
何一つ考えていない思いつきの返事。
頼もしい。
【花鶏】
「……わたしは、困ってる女の子には手を差し伸べる主義だから」
【智】
「僕の時は、手を差し伸べてくれませんでした」
【花鶏】
「その代わり唇を差し伸べたわ」
【智】
「……そうですか」
つくづく、僕は僕が可哀想だ。
【こより】
「…………」
【智】
「なんですか」
【こより】
「なんか……えっちい会話をしてる気がするであります」
【智】
「他意はありません(嘘)」
【こより】
「そんで、センパイはどーするですか」
【智】
「こよりんはどうしたいの?」
【こより】
「不肖、この鳴滝めはセンパイオネーサマと一心同体。一度は
捨てたこの命、生まれ変わった不死身の身体、地獄の底まで
おともする覚悟であります!」
【智】
「不死身ない不死身ない」
【こより】
「心意気だけ不死身なのです」
【智】
「正直でよろしい」
【智】
「それじゃあ」
【智】
「逃げ出す算段をしましょうか」
【こより】
「さーいえっさーっ!」
【伊代】
「あんたたち…………」
【智】
「細かいことは気にしなくていいよ。いやなら最初から見捨てて逃げ出してる。乗りかかった船には最後まで乗るのが趣味なんだ」
【伊代】
「……火傷しやすいタイプだったんだ」
【智】
「それで伊代の気が済まないようなら」
【智】
「貸しにしとくから、今度返してください。精神的に」
【伊代】
「…………」
言葉を探していた。
【伊代】
「……ありがとう」
結局は、まっすぐなものを選んだ。
返事を考えて。
笑む。
余計な装飾のない笑顔。
伊代が、ぎこちなく口元をほころばせた。
初めてみる表情。
【智】
「伊代は、笑ってる方がずっとかわいい」
【伊代】
「…………あなたは」
【智】
「なぁに」
【伊代】
「男だったら、きっと、ずるい男になってたと思う」
【智】
「むう」
複雑な感じにダメージを受ける。
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。あなたがたはどいつもこいつも
阿呆生物です」
【花鶏】
「どうだったの?」
【智】
「だめ」
【伊代】
「本当にいるの? どれがそうなの?」
【るい】
「あれ。
そういう臭いがする」
【こより】
「わかんないッス」
【花鶏】
「臭いでわかるなんてケダモノね」
【るい】
「役に立たないヘンタイ性欲よりマシだよ」
【花鶏】
「――ッッ」
【るい】
「――ッッ」
【茜子】
「いつもよりたくさん揉めております」
【伊代】
「だー、かー、らー!」
【智】
「おやめなさいって」
【花鶏】
「――――ッ」
【るい】
「――――ッ」
【るい】
「ん、ちょっとお待ちッ」
るいは、がしがしとぶっていた。不意に顔つきが変わる。
お尻に蹴りを入れていた花鶏が、その視線を追う。
【花鶏】
「なによ!?」
【るい】
「動いた……ッ、ばれた!
こっちへ、急いで」
【茜子】
「はぁ、はぁ……はぁ……」
【伊代】
「ひぃ……うひぃ……っ」
【こより】
「皆さん、お疲れしてますね」
体力底なしのるいの他は軒並み顎をだしている。
ひとり、こよりは元気がいい。
【伊代】
「しゃ、車輪付いてると楽そうね……」
【こより】
「コツはいるですよ」
【るい】
「あ〜、う〜」
るいがしゃがみ込む。
がっくり。
肩を落として尻尾を下げた負け犬の風情を漂わせる。
【花鶏】
「何事よ? 地雷でも踏んだの?」
【伊代】
「ここは、どこの前線なのよ……」
【智】
「……お腹減ったんだ」
【るい】
「みゅー」
涙目になっていた。
夕飯抜きで逃避行。
常人の3倍燃料効率の悪いるいにしてはよく保った。
【花鶏】
「お腹減って動けなくなるなんて、あきれるわね!」
力尽きたるいを高いところから傲岸不遜に
見下ろしつつ、力一杯花鶏は呆れる。
【るい】
「おぼえてろー」
すでに敗残兵の遠吠えだ。
【茜子】
「人生勝ち負けのひとたちを発見しました」
【こより】
「……現代の蛮族だ」
【智】
「さ、立って立って。もうちょっとだけがんばって無事に抜け出したら、たくさんご飯食べさせてあげるから」
【るい】
「…………ッ」
あれ、妙な反応?
【花鶏】
「でも、どうやって? どこでも目が光ってる。逃がしてくれそうにない」
【伊代】
「制服だし……」
【智】
「目立つよね」
【智】
「さてと、土地勘も人数も向こうの方が上だから」
【伊代】
「そんな簡単に……」
【智】
「まず事実を認めてから対策を」
【茜子】
「では、対策を。見事なヤツを」
【智】
「鋭意努力中だよ」
【茜子】
「ガギノドンに真空竜巻全身大爆発光線を喰らってくたばれ」
【智】
「その猫、そんな大技あるんだ」
【伊代】
「まぁ、代表は誰でも叩かれるものよね」
【智】
「総理大臣みたいなものか……というよりも、いつから代表?」
【伊代】
「パーティーの引率役」
【智】
「アルケミスト一人くらいいるといいかも」
【こより】
「洞窟行く前に穴掘りからッス!」
【智】
「もう少し安くなると嬉しい」
【花鶏】
「なんの話を」
【こより】
「ネトゲですです」
【智】
「ワールドオーダー、おもしろいよね」
【花鶏】
「低俗な娯楽に耽溺して」
【智】
「では、真面目に。どうしましょう」
【るい】
「やっぱり、ごはんのためには突破しか」
目つきが危険だった。
瞳の奥の水底に、手を出せば噛みつきそうな剣呑の色を揺らめかせている。
【智】
「戦争は最後の手段で」
【花鶏】
「知性派でいけそうなの?」
【智】
「国境地帯が紛争中」
【伊代】
「わたしたちが紛争当事者……」
【智】
「外国にぜひとも仲介役を」
【るい】
「外国って誰さ」
【智】
「そこが問題です」
【こより】
「どこッスか?」
【智】
「ここだよ、ここ」
【こより】
「??」
【伊代】
「……今そこにある危機にぼけなくていいから」
伊代のため息。
現実の重さを笑いで誤魔化す。
差し迫ったときにこそ冷静さが必要だ。
深呼吸して顔を再確認。
僕をいれて6人。
【こより】
「どったですか?」
【智】
「……ん、なんでもない」
ほうけていたのに、
目ざとく見つけられていた。
ささやかな驚き。
細かいことに気の回るタイプとは思わなかった。
知らなければ見えない、
知りあわなければわからない、
意外な部分は誰にでもある。
【智】
「だから、ホントになにもありません」
【こより】
「ん〜?」
疑っていた。
鼻先の触れそうな距離までしかめ面を寄せる。
【こより】
「ッッッ!」
真っ赤になって跳び退く。
【智】
「どうかした?」
【こより】
「えあ、いや、その、あー、なんといいますやら」
【こより】
「センパイの唇がすっごくやわらかそうで……」
【智】
「………………」
【伊代】
「だから、そっちの趣味はやめなさい、悪いことはいわないから」
【花鶏】
「新世界は見果てぬ楽園かもしれないわよ」
【るい】
「……魔界だっつーの」
【こより】
「はや?」
理解していない、こよりだ。
表情は万華鏡のようにくるくると変わる。
目を離した隙に違う顔をする。
見飽きない。
【智】
「こういうの……」
【花鶏】
「なによ?」
むず痒さにも似た感覚。
居心地がいい、というのか。
昨日今日であったばかりの、ろくに知りもしない誰かと、
こうして手を携えて危ない橋を渡りながら。
【智】
「馬鹿みたいだ」
【花鶏】
「はぁ? 何をすっとろいことをいってるの。危機感が足りて
いないわよ」
おしかりに尻尾を丸める。
【智】
「……とりあえず移動しよう。
人気のないところはかえって危険だし。
路地の多い西側からなら抜けられるかも」
先導する。
足音がついてくる。
確かな歩みに反比例して、不安の種が疼く。
自分の足跡を誰かが辿る。
怖い。
はじめての、意識。
自分の失敗は、全員の失敗へと伝染する。
病のように。呪いのように。
触れれば穢れていく。
靴底に入り込んだ見えない鉛が、
一歩ごとに重圧となって肩へ食い込んだ。
【智】
「……」
思い知る。
孤独は、自由でもある。
孤独でなくなることは、束縛されることだ。
【智】
「なに?」
【茜子】
「こーんな顔をしてました、ミス・不細工」
茜子が指で目尻をむにゅっと押し上げる。
狐顔――――酷い顔だ。
【智】
「……明日の実力テストの心配してた」
【伊代】
「無事に帰る心配しなさいって」
【智】
「それは大丈夫」
無理からの安請け合いのすぐ横を、
るいが抜けた。
【るい】
「こっちでいーんだよね?」
先頭に立つ。
【智】
「うん……」
【るい】
「よーし、いっちょいくぞーっ!」
気負いはない。
生まれながらの定位置のように。
ほんの少し自分の足の重さが消える。
重いものを、るいが肩代わりしてくれたんだろうか。
そんなふうに思うのはロマンチックが過ぎるか。
自分に小さく笑った。
肩で風切る、
るいの背を追いかける。
〔央輝登場〕
【るい】
「――――」
るいは立ち止まっていた。
【智】
「どう――――」
石段がある。
西側の高所へ抜ける、短く整備されたコンクリート製の
一段目に片足をかけたきり。
るいは精練されていた。
酷薄で鋭利な爪と牙で
武装した危険な駆動体。
威嚇の吠え声もあげずに睨む。
階段の頂きに少女がいた。
足を組んでいる。
石段に腰掛けているからだ。
【智】
「――――」
獣を幻視した。
階段の上に黒くうずくまった影は、
静寂と闇に充たされた森で出会う、
昔話の牙持つものに似ている。
人に一番近しい獣とよく似た姿をしているくせに、
危険と呼ばれ、外敵と見なされる。
剣呑な殺意を口の内側にぞろりと並べている。
そんな、獣。
彼女は睥睨していた。
【智】
「えーっと」
第一声。
【央輝/???】
「――――――く……くくっ」
うけた。
低く喉をならす。肩を軽く震わせて、
おかしくてたまらないというように。
こちらより高い位置だから判らなかったけれど、相手は随分と小柄で、見る限り年の頃もあまり変わらない。年下かもしれない。
【智】
「何かおかしかった?」
単刀直入に。
疲れで、頭を回すのが億劫だった。
【央輝/???】
「お前、自分でおかしいと思わなかったのか?」
【央輝/???】
「見ろよ。随分とうるさい連中が騒いでやがる」
今来た街の方へ顎をしゃくる。
【智】
「そうね、このご時世にマメな人たちだと思う」
【央輝/???】
「今夜は面倒事があったみたいだぜ」
【智】
「面倒事ならいつもあるんでしょ、この辺りなら」
ひゅう、と軽い口笛が応じる。
【央輝/???】
「やっぱりおかしなヤツだ」
【智】
「普通だよ」
【央輝/???】
「こんな騒ぎの晩に、こんな場所に、こんな人数でやってきて、
こんなにも呑気なやつをはじめて見た」
【花鶏】
「もっともだわ」
【茜子】
「このひと、きっと頭のネジが足りていないひとです」
【智】
「君らどっちの味方よ?」
ここまできてギャラリーにさえ嬲られる。
心底、僕は僕が可哀想だ。
【智】
「ところで、駅の反対の、平和なところまで帰りたいんだけど」
【央輝/???】
「普通に帰ればいい。街の中を通って」
【智】
「怖い人が多くて」
【央輝/???】
「誰彼構わず噛みつくわけでもないと思うぞ」
【智】
「そうなんだけど。気が弱くてか弱い女の子は、怖いところには
近づけないの」
くくっ、とまた笑われた。
【智】
「笑われるようなこと言ってるのかな」
【花鶏】
「5人に4人は笑うと思うわ」
【伊代】
「気が弱くてか弱い女の子は、そもそもこんなとこまで来ません」
【智】
「ごもっともです」
【智】
「それで、どっかに抜けられそうな場所があれば」
【央輝/???】
「――――なくはない」
【智】
「あるの?」
投げやりに聞いただけなのに、返答があった。
これって運命のもたらす救いの手?
蜘蛛の糸という気もヒシヒシしますが。
【央輝/???】
「聞きたいか?」
【智】
「うんうん、聞きたい」
【央輝/???】
「すると取り引きだな」
値踏みするような眼差し。
自分を上から下まで眺めてみる。
【智】
「見ての通り大したものはないんだけど」
交換は世界の原則だ。
質量がエネルギーに変わるように、
お金が今日の晩ご飯になるように。
【央輝/???】
「…………」
【智】
「なあに?」
【央輝/???】
「とぼけたヤツだな。こう言うとき、大抵のヤツはな、
幾らいるんですかって切り出すんだ」
【智】
「そういうのでよかった?」
お金がいるキャラには見えなかったので。
【央輝/???】
「いや」
引っかけ問題でした。
【智】
「どうしよう」
【央輝/???】
「つくづく妙なやつだ。いいさ、一つ貸しにしておく。
それで、どうだ?」
【智】
「…………ただより高いモノはない」
【央輝/???】
「道理を弁(わきま)えてるな。その通り。こいつは高い、高くつく」
【智】
「もう少しまからない?」
【央輝/???】
「バーゲンなら他を当たれ」
【智】
「せめてサービスを」
ちらりと後ろを確かめると、
どの顔も疲労の色が濃かった。
選択の余地は無さそうだ。
るいを見る。
一人だけ元気なるいは、
さっきから黙ったまま、
全身の毛を逆立てて警戒している。
純粋であることは感銘を与える。
世界は不純だからだ。
あらゆる要素は、生まれ落ちたその瞬間から、
不純物と結合を余儀なくされる。
観念と思索のうちにしか存在を
許されない完全なるもの。
理想としての純(じゅん)一(いつ)。
無限遠の距離が、
希求してたどり着けない人の心を、
感動で揺さぶるからだ。
るいは本能で世界を単純に色分けする。
敵と味方だ。
決まり切っていた返答を出すために深呼吸をした。
【るい】
「――――」
るいの足下で、砂利が踏みしめられる。
目つきが危険だった。
【智】
「一つだけ条件があるんだけど」
手を挙げて、発言する。
相手より、るいの機先を制する。
【央輝/???】
「言ってみろよ」
るいも、動きを止めた。
【智】
「…………僕が個人的に借りちゃうってことで、いい?」
【るい】
「トモ!」
【花鶏】
「あなた、何を勝手なこといってるの!」
【智】
「まあまあ」
【央輝/???】
「わかった、いいぜ。これはお前への貸しだ。あたしとお前の
個人的な契約だ」
【智】
「……そんで?」
【央輝/???】
「ここをまっすぐ行く。フェンスがあるから越える。右のビルの
隙間を抜けると昔の川だった場所が暗渠(あんきょ)になってる。そこを
抜けていけば、駅の反対にぐるっと回れる」
【智】
「了解っす」
先頭に立つ。
【伊代】
「ちょ、信用するの早すぎない!? もしも連中に――」
密告とかされたりしたら。
伊代が言葉の後ろ半分を飲み込む。
【智】
「その時は、強行突破しかないなあ」
【伊代】
「いい加減……」
どのみちどこかで賭けは必要だ。
【央輝/???】
「おい」
呼び止めて、投げつけられたのは、
ライターだった。
顔に飛んできたそれを受け止める。
オイルライター。結構いいヤツだ。
【智】
「にゃわ?」
【央輝/???】
「サービスが欲しいんだろ」
灯りの代わりということらしい。
【央輝/???】
「貸しを忘れるな」
【智】
「その件はいずれ。できれば精神的な方向で……」
〔バンド(群れ)になります〕
カーテンの隙間から光が差し込む。
安寧(あんねい)が揺すぶられ、今日も朝を迎えた。
いつものように。いつもと同じ目覚め。
一日の始まりに目に入ったのは。
おっきな、おっぱい。
【智】
「ッッッ!!」
るいが、人の頭を抱き枕に安眠していた。
タオルケットを蹴り飛ばす勢いで、
ベッドではなく床の上から飛び起きる。
るい、花鶏、伊代。
3人が床で川の字になっている。
自分を入れると字が余る。
足の踏み場もない惨状だ。
【智】
「朝…………」
ぼーっとする。
朝には、よく幻想の残り香が付きまとう。
甘美な夢の跡は、学園という現実的な
空間に閉じこめられて、ようやく消える。
夢は記憶の再構成という機能の余波だ。
断片に意味はない。
意味は夢を望むものが与える。
快楽にしろ、悪夢にしろ、現世では得難い幻想であるほどに
深く魂を捕らえて離さない。
【智】
「今日は、おせんちな朝だったり……」
おどけたふうに独りごち、
記憶の土壌を掘り起こす。
九死に一生を得た逃避行から一夜明け。
教えられた抜け道を通って駅の反対に出たころには、
時刻は深夜をまわり、終電もバスも尽きていた。
夜歩く体力も気力もすっかり底値。
鋭気を養う場所こそが必要だった。
しかたなく、最寄りで辿り着いたこの部屋に、
そろって雪崩れ込んで、死体のように朽ち果てたのだ。
花鶏流に言うなら、運命のもたらす必然のように。
【るい】
「んん、うむむ……」
悪戯心を刺激されました。
るいの寝顔を指でつつく。
【智】
「つんつん」
【るい】
「んにゅにゅ……」
無防備にすぎる百面相にしばし見入った。
大口を開ける笑い。酷薄な敵意。孤高。
どれもが、るいだった。
人間一人を構成する因子は複雑極まる。
るいが特別なんじゃなく、誰もがそうだ。
他に目覚める気配はない。
【智】
「女の子には、もう少し花のある情景を期待したいのです」
床に3人。
ベッドには、こより。
こちらは色気というより稚気である。
無防備な女の子が可愛いとは限らない。
茜子は孤独が好きらしくクローゼットの中に。
ちょっと意味不明だ。
異性に対して抱く夢想や憧憬(どうけい)。
異者だからこそ、あり得ない完全さを期待する。
そして、完全は観念の内にしかありえない。
過酷な現実に肩をすくめた。
起こさないように、のろくさと這い出す。
シャワーを浴びにいく。
【智】
「……誰か起きてきたら、やばい……かなぁ。
でも、昨日は一晩中走り回ったし、汗かいてるし……」
危険と秤にかける。
我慢はできそうにないや。
服を脱ごうと手をかけてから、
考え直す。
バスルームに持ち込んで脱いだ。
ワイシャツのボタンを外しかけたところで、一度も使ったことの
ないバスルームの鍵を落としておくことにした。
念には念。
【智】
「ふんふんふふん♪ 生き返るぅー」
予感的中。
【智】
「どちらさまですか」
【花鶏】
「……閉まってるわ」
【智】
「施錠してます」
【花鶏】
「どうして鍵なんてかけてるの?」
なにやらどす黒い情念が、
バスルームのドア越しに伝わってくる。
【智】
「どうしてガチャガチャしてるの」
【花鶏】
「一日のはじめにシャワーを浴びるのが習慣なのよ」
【智】
「いいよ、使って。僕が出たあとで」
【花鶏】
「たまには二人でお風呂も素敵じゃないかしら」
【智】
「僕は孤独を愛してるんだ」
【花鶏】
「それよりも人を愛しなさい」
【智】
「愛情過多な人生も問題あるかなあって」
【花鶏】
「大は小を兼ねるのよ」
【智】
「るいもおっきーけど、伊代も実はどーんだったね……」
【花鶏】
「素敵な黄金律だと思うわ」
【智】
「黄金のような一時を過ごしてます」
【花鶏】
「ここを開けて。わたしにも振る舞って」
【智】
「近頃はこのあたりも物騒で、
女の子を食べちゃう狼さんが出たりするから、だめです」
【花鶏】
「危険な時こそ友情が試されるのではなくて」
【智】
「おばあさんのお口が耳まで裂けてるのはどうしてですか」
【花鶏】
「つれないわね、赤ずきんちゃん」
諦めたのか、ハラス魔王の気配が遠ざかる。
【智】
「……寝たふりして狙ってたんだな」
油断も隙もない。
【教師】
「――政体には三つのものがあるとする。共和政、君主政そして専制政である。それぞれの本性を明らかにするとき、三つの事実を想定する」
【教師】
「共和政は人民に最高権力が委ねられており、君主政は権力がただ一人の手にあるものの制定された法のもとに統治される」
【教師】
「対して、専制政においてはこれを持つただ一人を制する術がなく、第一人者の理性と感情の赴くところのみが、」
生あくびを噛み殺した。
授業を進める小粋なチョークのリズムに普段より乗れず、肘杖をついて意味もなく外へと視線を漂泊させた。
碁盤目に区切られた座席の上に、
きれいに配置された学生たちの頭。
石の海だ。
黒く固い水面の向こう、窓を隔てて空がある。
時間の経過が、今日はひどく遅い。
放課後になる。
授業が終われば閑散とする。
祭りの後めいた空虚が、
主のいない座席の列の上を漂う。
【宮和】
「よだれ」
【智】
「はにゃ――」
口元を拭われる。
窓辺の席に陣取って、ゆるい風に巻かれながら、
いつの間にかうたた寝していた。
【宮和】
「起こしてしまいましたか」
【智】
「宮……」
唇に手を当てる。
優しい感触が残っている。
【智】
「あう」
【宮和】
「愛らしい寝顔でございました」
【智】
「はずかしいです……」
【宮和】
「花の蜜に誘われるように、つい唇の」
【智】
「奪われた?!」
【宮和】
「よだれをぬぐってしまいました」
【智】
「ごめん、ハンカチ汚させちゃった」
【宮和】
「和久津様のいけない寝顔が、他の方に見つからなくて
ようございました」
【智】
「宮には見つかりました」
【宮和】
「そして悪戯を」
【智】
「堪忍してください」
【宮和】
「今日だけは特別にそういたします」
【智】
「多謝」
【宮和】
「よいお日和ですのね」
宮和が細い首を傾けて、笑む。
小さな齧歯類を連想させる。
目をすがめて、雲の合間にのどかな風を見る。
【智】
「気持ちよかったから、つい、うたたねしてた。昨日はちょっと
寝不足気味だったから」
窓から入り込んだ、
ゆるい大気の流れが頬を撫でる。
見えない手に髪をまかせる。
【宮和】
「和久津さまは、ずるずるされなかったのですね」
【智】
「ずる休みのこと?」
【宮和】
「関西方面のスラングでございます」
【智】
「嘘だ、絶対に嘘だ」
【宮和】
「ずるずる」
くねくねした。
【智】
「……何をしてるの?」
【宮和】
「これが意外に、心地よくて。和久津さまもいかがですか」
いつまでもしていた。気に入ったらしい。
【智】
「ご遠慮」
【宮和】
「残念でございます」
【宮和】
「ずるずる」
【智】
「ずるはなしで……」
座ったまま、開いた窓枠に後頭部をのせる。
見上げた空に向かって、うんと伸び。
【花鶏】
「――盗まれた!?」
それは花鶏と呼ばれていたものだ。
今は花鶏ではない。
人の領域にはいない。
百歩譲っても鬼だか悪魔だかが相応しい。
【花鶏】
「盗んだのはあなたでしょ!」
牙が生えた。
角はとっくに生えていた。
【こより】
「盗んでないですようっ!」
こちらは半泣きだ。
証言はどこまでもすれ違う。
整理すれば事実は簡単だ。
数日前。
るいと花鶏が駅向こうで揉めた。
こよりが通りがかったのは偶然だった。
揉めたはずみで、こよりは突き飛ばされた。
【るい】
「……覚えてない」
【花鶏】
「記憶にないわ」
犯人たちの証言の信憑性はさておく。
容赦なく被害を拡散する悪魔たちに恐れを成して、こよりは
逃げ出した。
トラブルが発生した。
揉めたひょうしに花鶏はバッグを落とした。
こよりは逃げ出すときにそれを掴んだ。
持ち逃げするつもりはなかった。
こよりはパニくると周りが見えなくなるらしい。
【花鶏】
「バッグはどちらでもいいの!」
【智】
「高いんでしょ?」
【花鶏】
「高くても」
金銭に執着のない人はこれだから困る。
1円を笑う者は1円に泣く。
閑話休題。
こよりは気付いて呆然とした。
泥棒しちゃった。
唐突に訪れた初体験。
朝ベッドで目が覚めたら、
隣に見知らぬ男が寝てましたな心境。
ショックを受けて雑踏に立ち尽くした。
格好の獲物に見えたことだろう。
雑踏の中から男の手が伸びてきて――――。
【花鶏】
「そんな馬鹿みたいな話が」
【こより】
「あるです、ホントですぅ〜」
――――こよりは、バッグをひったくられた。
追う間もなく相手は街に飲まれて消えてしまった。
【智】
「事実は小説より奇なり」
【花鶏】
「きっ」
【伊代】
「混ぜっ返すとちゃぶ台返されるわよ」
【智】
「蛮族の方々が暴動起こすので止めてください」
【茜子】
「咀嚼(そしゃく)咀嚼ヤムヤム咀嚼」
【るい】
「トモのご飯はやっぱおいしいのうー」
【伊代】
「あなたたち本当にまとまり無いわね……」
こよりは焦った(本人談)。
【こより】
「なんとか探そうと……」
【智】
「してたんだ」
【こより】
「努力はしたんですけれど……」
【智】
「じゃあ、アソコにいたのは」
【こより】
「犯人は現場に戻るの法則ってありますよね」
【茜子】
「儚い期待を抱く夢見るガールは、さっさと目を醒ました方がいいと思います」
【こより】
「いじいじ」
膝を抱えて、床の上に「の」の字を書いてみたり。
【伊代】
「でも、戻ってきてるじゃない」
白い目の伊代が、こよりを指差す。
犯人、現場に戻る。
【智】
「そして、逃避行」
【こより】
「殺されるかと〜〜〜〜」
【るい】
「人聞きわるいぞぉ」
【智】
「無理はなかったと思うけど」
【花鶏】
「………………」
花鶏は打ちひしがれていた。
夢も希望も潰え去った負け犬を、高いところから傲岸に
見下ろしつつ、朝ご飯を満足いくまで飽食してから、
るいは告げた。
【るい】
「ザマー」
【花鶏】
「――――ッッ」
【るい】
「――――ッッ」
朝から揉めた。
【智】
「さてと」
【こより】
「センパイ、どちらへ」
【智】
「当然登校します。学生の本分は勉学です。今日は小テストあるし」
【伊代】
「わたしもそろそろ……と、あ……どう、しようかな」
伊代の眼鏡が逆光で白く曇る。
葛藤の汗が額を流れる。
茜子のことが、伊代の気がかりだ。
窮地は脱したから、後は放置して、
それでよしとできないタイプ。
自爆型の委員長気質だ。
石橋を叩いて渡りたがるくせに、一端乗ると船から下りる決断
ができなくて、一緒になって沈むタイプ。
【るい】
「ずるっちゃえば?」
【こより】
「それ、賛成!」
【伊代】
「それは許されないわ」
眼鏡が朝日を照り返し、
ギラリと良識の光を放った。
【伊代】
「非日常な事件にかまけて日常を乱したらいつまでたっても平和な日々には戻れないのよ。それどころか道を踏み外してどんどん悪い方向に行く」
【智】
「優等生的にずるはなしみたいだよ」
【茜子】
「では、社会秩序の歯車エリートである優等生さま、
いってらっしゃいませ」
【伊代】
「ん〜、なんだか気の重くなる比喩ね……」
【茜子】
「正直は茜子さんの美徳です」
【花鶏】
「…………ぎを」
猛獣が歯を軋らせるにも似た。
花鶏が顔を上げる。
目のある部分が爛々と怪しい光を放っていた。
【花鶏】
「対策会議を、するわ」
【智】
「待ち合わせ、か」
机の上にだらりと突っ伏す。
呟いた言葉がしこりになった。
形の合わないパズルのピースを無理からに詰めてしまったみたいに、みぞおちの辺りがぎこちない。
【宮和】
「今日はどうしてお残りに?」
【智】
「宮も珍しいね」
【宮和】
「わたくしは所用がございましたから」
【宮和】
「和久津さまは、いつも授業が終わると急いでお帰りになられますのに」
【智】
「ちょっとした約束があって、
一度帰っちゃうのも遠回りになるから――――」
しこりの正体に行き当たる。
約束。
待ち合わせ。
長いこと、学園の外で誰かと待ち合わせるような機会はなかった。
秘密がある、とはそういうことだ。
【宮和】
「はじめてですわね」
普段通りの宮和のやわらかさには、普段と違った春先めいた成分が含まれている気がした。
【智】
「なにが?」
【宮和】
「和久津さまとお知り合って以来、事情があると仰られることは何度もございましたけれど、約束があると伺ったのは今日が初めて」
【智】
「……そうだっけ」
放課後の教室に残っていると物寂しさが募る。
教室は喧噪と癒着している。
大勢がそこにある場は、必然騒々しさを宿す。
だが、永続はするものではない。
タイマー付きの時限爆弾だ。
時間が来れば終わる。
爆発の後には瓦解(がかい)が残留する。
不可分の要素の欠落は、
在りし時の「かつて」を連想させる分だけ、
より寂寞を強くした。
世界の中心に自分だけが置いていかれたような錯覚。
今は、ひとりではなく、二人だ。
【智】
「……」
誰かの存在。
たわいもない温度が胸に落ちてきた。
饒舌(じょうぜつ)だが口数は決して多くない宮和と共有する空間の、
奇妙な肌触りがなぜか心地よい。
【智】
「不思議空間」
【宮和】
「世界は不思議でいっぱいなのです」
【智】
「本当にそんな気がしてきた」
【宮和】
「世界の真理にアクセスされたのですね」
【智】
「……はじめて、か」
生き方と不可分に結びついた孤島の歩み。
【宮和】
「間違いはございません。記憶は一言一句の聞き漏らしもなく完璧です。わたくし、これでも学園最強の和久津さまストーカーを
自負しておりますから」
【智】
「是非ともしなくていいですから」
【宮和】
「お気に召しませんか」
【智】
「召すと思う宮の心が心配だ」
【宮和】
「ぽっ」
【智】
「なぜ頬を赤らめるの?!」
【宮和】
「内緒です」
【智】
「なぜ内緒っ?!」
【宮和】
「言ってよろしいのですか?」
【智】
「…………」
聞かせてくださいと決断するには、怖すぎた。
【智】
「ハァイ。今日の待ち合わせは……時間かかるから、場所を変えて? うん、いいけど……いえ、悪くないです。そういわれればそうだけど」
【智】
「ん、了解。バスが最寄りで、降りたら……わかった。
また連絡入れる」
【智】
「対策会議は花鶏の家で、か」
【こより】
「センパーイ、センパイセンパイ〜っ!」
【智】
「こんなところでなにをやっとんのねん」
【こより】
「不肖鳴滝め、センパイの登場をば、今か今かと待っておりましたのこころです」
【智】
「そこまで僕のことを……ういヤツ」
【こより】
「実はビビっておりました」
【智】
「根性なしだ」
【こより】
「見知らぬ土地は北風が強いッス!」
【智】
「どこの港町なのよ」
【こより】
「演歌なら鳴滝めにおまかせを!」
【智】
「いいからいくべし」
【こより】
「いくべしー」
【こより】
「センパイといっしょに、おーてて繋いで、らんらんらん♪」
【智】
「……恥ずかしいですッッ」
【こより】
「女は気合いでありますっ!」
【智】
「でかっ」
【こより】
「でかっ」
第一声。
花鶏の家は大きかった。
家では相応しくない。
邸宅と呼ぶ方がはまる。
厳つく高い門が、外界と内を峻別する建物。
こよりが尻尾を巻いて逃げ出したのもむべなるかな。
門とは境界である。
出入りするためにではなく、
通じる道を塞ぐために存在する。
威圧する機能こそ本性だ。
【智】
「女は?」
【こより】
「……気合いであります」
【智】
「敵は呑んでも飲まれるな」
【こより】
「押忍っ!」
【智】
「まずは1発っ」
【こより】
「ごめんくださいませー」
【智】
「落第ですね」
【花鶏】
「ようこそ、歓迎するわ」
お屋敷の中は、やっぱりお屋敷でした。
【こより】
「ほわー」
【花鶏】
「どうしたの?」
【こより】
「びっくりしてます……」
【智】
「制服じゃないのを目撃しました」
【こより】
「そうじゃなくて! まずは広さの方をびっくりするべきでは!」
【智】
「そういえば……花鶏、今日学園行った?」
【花鶏】
「普通に登校したけれど」
【智】
「よかった」
胸をなで下ろす。
【花鶏】
「行けるときには行くわよ」
【智】
「意外にマジメっこだったんだ。みんなズルズルいっちゃたんじゃないかって、ちょっとだけ心配に」
【花鶏】
「意外に苦労性なのね」
【智】
「気配り文化の国民ですから」
【花鶏】
「勉学は自分のためにするものだから。
わたし、他人の都合や社会秩序に興味はないの」
しれりと、肩にかかった髪を後ろにかき上げる。
【こより】
「それってワルってことですか?」
【花鶏】
「わがままってこと」
【智】
「自分でおっしゃいますね」
【花鶏】
「自己分析は正確に」
【智】
「いっそ横暴と」
他の面子は先に顔をそろえていた。
【るい】
「おーい」
るいは、高そうな椅子に窮屈そうに収まっていた。
手を振りながら飛んでくる。
【るい】
「あいたかったよー」
しがみつき。
【智】
「なになにどうしたの!?」
【茜子】
「人様のなわばりで気が立っているようです。ケダモノのように」
【るい】
「ぐしぐし」
【智】
「僕んちは平気だったのに」
【伊代】
「その子、大きな家は苦手なのかしら」
【智】
「わからないでもないんだけど……」
【伊代】
「なんていうか、場違い、な感じで」
伊代は苦笑いする。
【智】
「僕らで最後?」
【花鶏】
「そうよ。お茶をいれるわ。紅茶でよくて?」
【智】
「僕コーヒー」
【るい】
「お姉さん、コーラ」
【こより】
「渋いのは苦手ッス」
【伊代】
「えっ、他のもあるの? それじゃ緑茶……やっぱりほうじ茶で!」
【茜子】
「ひやしあめを」
【花鶏】
「全員紅茶ね」
花鶏が口を挟む余地のない目をして部屋を出た。
殺す気と書いて「ほんき」と読む。
【るい】
「ビッ○が、ペッ」
【伊代】
「えっ、本当は紅茶しか無いの? なんでみんないろんなの
頼んでたの?」
【智】
「素だったか。キャラが掴めて来た」
【茜子】
「掴めて来ました」
【伊代】
「なに、どういうこと?」
【るい】
「そういえば!」
るいが跳ねた。
【こより】
「ほえ、なんかありまして?」
【るい】
「あった。重大問題。晩ご飯どうしようか?」
【智】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
【こより】
「……」
掴むところしかないキャラだった。
【花鶏】
「わたしのバッグをどうするか」
【こより】
「弁済無理ですから〜!」
【伊代】
「せっかく集まってるなら、
この子のことも考えてあげたほうがいいんじゃないかしら」
【茜子】
「茜子さんは一人で強く生きて行くのです」
【智】
「カモがネギしょって厳しい世間にぱっくりと」
【るい】
「つか、よくも家焼いてくれやがったわね」
【花鶏】
「わたしがやったんじゃないって」
あのビル火災の原因は、周辺を根城にしてたホームレスの
失火らしいと、ニュースでやっておりました。
話題はとりとめがなく、
やくたいもなく続く。
雑多な言葉の意味もない連なりが、それなりに楽しくて、
知らぬ間に時間を浪費する。
果てしなく拡散する過程のどこかの時点で、
爪の先ほどのきっかけができた。
【伊代】
「問題を解決するためには」
伊代が眼鏡のフレームを指先で直す。
【伊代】
「問題を明確化すること」
常識的な見解を吐く。
自分が常識人であると、
ことさらに誇示するように。
得てして自己評価と世間の見方は
交差しないものである。
【花鶏】
「お茶が切れたわね」
【智】
「手伝うよ」
花鶏が部屋を中座する。
金魚のフンよろしく付き従う。
扉の外に出ると気圧された。
庶民離れした屋敷の気配。
価値は時に威圧感にすり替わる。
奇妙に古びた、それでいて何かの欠け落ちた廊下の印象。
夕暮れのオレンジに染められた風景画を想像する。
【智】
「家政婦さんとかいそうな家だよね」
【花鶏】
「いないわ。人嫌いなのよ」
手ずからお茶の用意をする花鶏の言葉の、
どこまでが本気かわからない。
近くにあった扉の一つをこっそり覗く。
手抜きみたいな、同じような部屋がある。
こんな部屋が幾つもある事実を驚くべきな気もしたり。
【智】
「大勢で押しかけちゃって、ご両親とかは」
【花鶏】
「親のことは気にしなくていい」
背中のままで切って捨てられた。
語気の壁が顔に当たる。
それ以上踏み込むことを拒絶する、
見えない柵が作られている。
【智】
「にしても、問題が解決しませんね」
【花鶏】
「別に、わたしは助けがいるわけじゃないから」
えー。
でも、最初に対策会議なんて言い出したのは?
【花鶏】
「手を貸して欲しいから迂遠に泣きついたとでも思ったの?」
【智】
「何を怒ってるんですか」
【花鶏】
「怒ってなんていないわ」
【智】
「なぜに怖い顔なんですか……」
【花鶏】
「わたしは普段通り。顔が怖く見えるのは、キミの心に
やましいことがあるからじゃなくて?!」
【智】
「なにも糾弾しなくても」
【花鶏】
「糾弾なんて、してないわ、断じて」
【智】
「ごめんなさい、全部僕が悪いです。信号が三原色なのも、救急車が白いのも僕のせいです」
尻尾を丸めてお手伝いに没頭する。
カップをそろえて並べる。
同じカップは人数分に足りてなかった。
申しわけに形を合わせた不釣り合いの器が、
不格好に輪を作る。
【智】
「ここはなに?」
【花鶏】
「テラスよ」
【智】
「見晴らしのいいところだね」
【花鶏】
「――――新事実の発掘くらい期待したわ」
花鶏が背を向けたままもらす。
声音は従容として干渉を拒絶する。
他人の心をのぞき込む術はない。
よく知る相手でさえ人の間にあるのは断絶だ。
数日の知己では埋められるはずもない。
【智】
「信頼は裏切られるためにあるんだよね」
【花鶏】
「存外後ろ向きなのね」
【智】
「多少は苦労が骨身に染みついてるから」
【花鶏】
「信じる力を信じないの?」
【智】
「信じるって素晴らしい言葉だよね。花鶏が言うと特に」
【花鶏】
「わたしは誰よりも信じてるっての」
【智】
「友情ってものを信頼できる? 親と子は無根拠に助け合うものだって感じてる? 十年経っても変わらない愛情があるって思う? 明日傘を忘れて出かけたら雨は降らないって信じてる?」
【花鶏】
「最後だけイエス」
【智】
「……なにを信じてるんですか」
【花鶏】
「わたしは、わたしを信じてるのよ」
【智】
「信じる心が力になるなら、神様だってお役後免だよ」
【花鶏】
「そうね。信じるなんて言葉では足りないわ。わたしは、わたしを信仰してる。本当に心の底から、これっぽっちの疑いもなく、ほんの些細な間違いもなく」
【花鶏】
「わたしの才能、わたしの未来、わたしの運命……全てがわたしの味方であることを」
見えないスポットライトが当たっていた。
ステージの上のオペラ歌手のように。
【花鶏】
「感心してるのね」
【智】
「あきれてるんだ」
【花鶏】
「人はわかりあえないものだわ」
【智】
「きれいにまとめてどーするの」
【花鶏】
「きれい事も時には重要ね」
【智】
「……ふむ」
【花鶏】
「どうかして?」
【智】
「どうか、言いますと?」
花鶏は、窓枠のチリを検分する姑さん風に眼を細める。
【花鶏】
「クレタ島の生き残りみたいな顔してる」
【智】
「それは嘘つきということですか」
【花鶏】
「心当たりは?」
【智】
「ありませんともありませんとも」
【花鶏】
「嘘つき村の住人なのね」
【智】
「そんな根も葉もない」
【花鶏】
「吐かせてみようか」
【智】
「ちょ、悪ふざけは……きゃわっ」
後ろから抱きすくめられた。
耳たぶにぬるい息がかかる。
【花鶏】
「細い腰……」
【智】
「ぎゃー!」
手が胸を狙ってきた。
必死になって身を守る。
【智】
「やめてよして堪忍して」
【花鶏】
「とっくにキスはすませた仲じゃない」
【智】
「やーの、それやーのぉ!
あぅん、耳はだめだめ、みみみみみみみみ」
耳たぶを甘噛みされる。
大事なところをカバーすると
それ以外がおざなりになる。
【花鶏】
「うふふふふふふ」
【智】
「ぎゃわーーーーーーっ」
【花鶏】
「胸は本当にちっさいみたいね」
【智】
「いやあああああああああああああああ」
足がもつれて床に転がった。
【こより】
「……何をやっておるですか」
こよりが不思議そうに見下ろしていた。
【花鶏】
「親睦を深めてるのよ」
【こより】
「なるほど」
【智】
「納得しないように!」
隙を見つけて、そそくさと距離を取る。
【花鶏】
「ちっ」
【こより】
「…………」
【智】
「どしたの」
ごにょごにょと、何か言いかけて、
こよりは失敗する。
自分でも処理できない感覚にもじもじしていた。
【こより】
「よくわかんないんですけど……」
【こより】
「なんか、どきどきする」
【智】
「考えるの禁止」
知られざる魔界の扉が目の前に。
【花鶏】
「教えてあげましょうか?」
【こより】
「ほえ」
こよりを引っ張って後ろに隠す。
悪魔の誘惑から、奪い取った。
【花鶏】
「邪魔するのね」
【智】
「正義の行為」
【こより】
「わかんないのです」
【智】
「……わかるの禁止」
世界には危険がいっぱいだ。
用意したお茶に全員が手を付けるのを待つ。
さらに一呼吸置いてから、口火を切った。
【智】
「そこで提案があります」
【伊代】
「どこからの続き?」
【るい】
「晩ご飯」
【茜子】
「食いしん坊弁慶」
【智】
「それ違う」
【花鶏】
「何の話だったかしら」
【智】
「問題の明確化から」
【伊代】
「そこからの続きなんだ」
【智】
「提案があると」
【花鶏】
「話の腰がよく折れるわね」
【智】
「折ってるのは君らです」
【こより】
「センパイ、腰を折るにはやっぱキャメルクラッチからッス」
【智】
「いやいやいやいや」
【伊代】
「もうボキボキね」
【智】
「そう思うなら少しは議事進行の手伝いを」
【伊代】
「他人の力をあてにしない」
【智】
「伊代って冷たい」
【茜子】
「人間フリーザー」
【伊代】
「な、なんということを」
【るい】
「そんで?」
仕切り直しに咳払いをしてから。
【智】
「現状、僕らはそれぞれやっかい事に面している。困ったトラブルを抱えてる。解決すべき事例が身近にある」
【智】
「たとえば、るいには家がない。茜子だって、最低でもほとぼりが冷めるまで帰れない」
【茜子】
「冷めても帰る気ナッシングです」
【智】
「花鶏には捜し物がある。伊代やこよりだって、
多かれ少なかれ巻き込まれたり責任を感じてたりする」
【智】
「問題は投げ出せない。そこから逃げられない。そこでの僕らの
思いは同じで、たったひとつ」
【智】
「早々に解決したい。
トラブルを処理して平穏無事な日常世界に帰還したい。
やっかい事を遠ざけて平和な安寧(あんねい)を呼び込みたい」
【伊代】
「そうね」
【智】
「だから――」
【るい】
「だから?」
【智】
「手を組もう」
【るい】
「……」
【花鶏】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
【こより】
「手を、組む?」
【智】
「そう。手を組む。力を合わせる。
利害の一致で歩調を合わせて前に進む」
【茜子】
「意味不明です」
【智】
「意味もなにもそのままだよ。要するに、一人で解決できないから他人の力を借りようってこと」
【伊代】
「そんなこと言ったって……昨日会ったばかりよわたしたち」
【るい】
「はーい、私は一昨日」
【花鶏】
「大差なし」
【伊代】
「そんなので……」
【智】
「誰だって最初は初対面」
【智】
「なにも難しくないよ。信頼できる絆を結ぼうとか、そういうんじゃない。利害が一致する間だけ、力を合わせて進もうってこと」
【智】
「どのみち一人じゃ何ともならないんだから、それなら、少しは顔見知りの相手の力を借りる方がいいでしょ? もちろん他にあてがあるならそっちに頼ってもいいけど」
返事はない。
今日この場に未解決のまま問題を持ち込んだということが、
そもそも他のアテがない証明でもある。
人間関係の寂しい面子だ。
【花鶏】
「わたしは、一人でも、問題ない」
花鶏が肩にかかった髪を後ろに跳ね上げる。
優雅さに、ある種の剣呑な棘が見え隠れした。
矜持(きょうじ)か、高慢か。
差し伸べられる手をことさらに払いのける。
【智】
「それなら、手を貸して」
朗らかに。
【花鶏】
「わたしが? どうして?」
【智】
「そうね……僕が困ってるから、じゃだめ?」
【花鶏】
「……」
寸刻、おもしろい顔になった。
梅干しでも食べたみたいな酸っぱ顔。
【花鶏】
「まあ、智がそこまで頼むのなら、少しくらい助けて
あげなくもないわ」
【るい】
「えらそーに」
【花鶏】
「なにか?」
【智】
「ありがとう、花鶏」
【伊代】
「意外と姑息だな、こやつ」
花鶏が微笑し、るいが頬をふくらませ、伊代は目を線にする。
【智】
「さあ、どうしよう?」
【智】
「問題を解決するために問題を明確化する」
【智】
「僕らがすべきことはなに? 一人で悩んでいること?
解決できない事情にヒザを抱えて丸くなること?
後ろを向いて逃げ出すこと?」
【智】
「どれも違う。僕らがすることは、このトラブルを倒すこと。
八つに畳んでバラバラにして埋めてしまうこと。何事もない
毎日へと辿り着くこと」
【智】
「一人ではできない。一人では辿り着けない。だから手を組もう。打算でいい。合理で構わない。秤に乗らない友情を絆にするよりずっと確かで信頼できる」
【伊代】
「わかるけど、でも……」
【智】
「きれい事を言ってもいいけど、昨日今日会ったばかりの関係で、それは無理」
【るい】
「着飾った言葉より本音の方が好みかな」
【花鶏】
「同意するわ、残念だけど」
【茜子】
「助けた分だけ助けてくれるわけですね」
【こより】
「とりあえず、鳴滝めはセンパイとご一緒です!」
【智】
「つまり、これは同盟だ。破られない契約、裏切られない誓約、
あるいは互いを縛る制約でもある」
【智】
「僕たちは口約束をかわす、指切りをする、サインを交換し、
血判状に徴(しるし)を押して、黒い羊皮紙に血のインクでしたためる」
【智】
「一人で戦えないから力を合わせる。1本の矢が折れるなら5本
6本と束ねてしまえばいい。利害の一致だ。利用の関係だ」
【智】
「気に入らないところに目をつぶり、相手の秀でている部分の力を借りる。誰かの失敗をフォローして、自分の勝ち得たものを分け与える」
【智】
「誰かのためじゃなく自分のために、自身のために」
【智】
「僕たちはひとつの群れ≠ノなる。
群れはお互いを守るためのものなんだ」
〔僕のいどころ〕
静閑な住宅街。
緩い上り坂に夕映えが差しかかる。
伊代と茜子を誘って出向いた、
買い出しの帰り道だ。
【伊代】
「わたし、あなたに賛成したわけじゃないわよ」
伊代が言葉を投げてよこす。
僕と伊代の間に挟まった茜子の頭の上を、
見えない放物線が飛んできた。
【茜子】
「ニャーオ」
茜子が我関せずと鳴く。
左右の不穏など他人事で民家の塀へと手を振る。
【猫】
「にー」
野良猫がいる。
警戒心の強い野生のキジ猫が、
茜子には愛想良く返事をする。
【茜子】
「ニャウ」
【猫】
「みゅー」
【茜子】
「ニャーニャー、ゲゲッ」
ほんわか。
理解も出来ない鳴き声は会話を連想させた。
【智】
「なんて言ってるの?」
【茜子】
「吾輩は猫である」
キジトラはインテリらしかった。
三毛はフェミニストだうろか、
シャム猫ならどうか。
【伊代】
「ちょっと、わたしの話聞いてる?」
【智】
「テツガクテキ命題に耽溺して聞いていませんでした」
伊代の眼が細くなる。
危険水域が近づく。
見知らぬ人間関係は手探りだ。
二人いればお互いの距離が問題になる。
近すぎても遠すぎて関係には齟(そ)齬(ご)が生じてしまう。
最適の距離を測るには時間と経験が必要だ。
積み重ねだけが適切な空間を作りあげる。
眼鏡ごしの視線は、怒りめいた鋭利とも
時限爆弾じみた不機嫌とも異なっている。
きっと、伊代は困惑している。迷っている。
現状に。未来に。
未明の全てに。
【茜子】
「ニャーオ」
伊代は、茜子を気にかけていた。
茜子の方は――――意味不明だ。
奇怪で冒涜的で魚類とも頭足綱とも
人間ともつかない特徴を備えた
灰色の石で作られた置物風に。
意訳すると、キャラとしてわからない。
伊代と茜子。
感情のやり取りは一方的で、
なし崩しの関係性がとりあえず成立している。
それ以上でも以下でもなかった。
それでも初対面では姉妹に思えたものである。
【智】
「目が悪かったようです」
【伊代】
「わたしは、目が悪いから眼鏡かけてるんですけど!」
【智】
「そちらの話ではなく」
【伊代】
「じゃあ、なんの話なの!?」
【智】
「話してたのは伊代の方です」
【伊代】
「む、ぐ……っ」
脊髄反射で語気を荒げ、
荒げた分だけ自分の言葉に詰まる。
かといって、感情のままで押し切る無法に染まるには、
伊代は少しばかり理知的すぎる。
【智】
「賛成してないって?」
【伊代】
「ちゃんと聞いてたんじゃない!」
【智】
「嫌いな献立があるならいってくれればよかったのに」
【伊代】
「誰が夕食の話をしてますか」
【智】
「晩ご飯の話ではないと?」
両手にぶら下げた、
中味のつまったスーパーの袋をかかげる。
【智】
「キミの意見を聞かせてもらいたいのです」
【茜子】
「いちいち他人の顔色を伺わなければ生きていけない人間には、
生きてる価値がありません」
【智】
「ほめられた」
【伊代】
「貶(けな)されてるのよ」
【智】
「楽しいおしゃべりとユーモアは人生のエッセンス。
眉間にこーんな皺ばっか作っててもしかたないでしょ」
【茜子】
「……似てる」
【伊代】
「誰の真似かしら?」
【智】
「冗談はさておきまして」
【伊代】
「真面目な話、してもいいの?」
【智】
「はっ、不肖和久津智。
一命をなげうって真面目にお話させていただきます」
伊代が肩全体でため息をついた。
【伊代】
「……も、いいわ。好きにして」
【智】
「ちょっとドキドキする台詞かも」
【茜子】
「えろい人ですね。男の人相手に口にして、近づいて来たところを一撃するわけですか」
【智】
「どこの誘惑強盗なのさ」
【伊代】
「エロでもエラでもいいから……あのね、さっきの話、本気なの?」
【智】
「さっきというと」
【伊代】
「同盟だか連盟だか」
【智】
「同盟っていうとバタ臭くてやな感じ。そこはかとなく漂う
前世紀の香りが特に」
少女同盟。
30年くらい前の少女漫画のタイトルっぽい。
【伊代】
「レトロっぽい響きとは思うけど」
【智】
「まあ、最近は復古ムーブメントも需要あるみたいだから」
【伊代】
「いやね、年寄りのノスタルジーっぽいわ」
【茜子】
「若気の至りな暴論です」
【智】
「話がどんどんずれていくねえ」
【伊代】
「かあっ」
【智】
「……怒った」
【伊代】
「怒ります。すぐに話をはぐらかして」
【智】
「自分だってずらしてたくせに」
さらに怒るかと予想した。
伊代は怒らずにジト目で睨む。
【伊代】
「存外不真面目なのね」
【智】
「存外とはこれいかに」
【伊代】
「優等生みたいな顔してるくせに」
【智】
「これでも学園では、本当に優等生ですよ」
【伊代】
「それはそれは、ずいぶんと分厚い猫の毛皮をご用意なさって
おられることで」
【茜子】
「ニャ〜〜オ」
【智】
「そんな、誤解を招きそうな台詞を」
【伊代】
「――――本気なの?」
強引に話の筋を引き戻される。
鼻の触れそうな距離に伊代の顔が近づいた。
眼鏡の向こうで鼻息を荒くしている。
びっくりするくらい綺麗だった。
【智】
「……美人さん」
【伊代】
「な、なにいってんの、いきなり!? そんなことで矛先逸らせると思ってるの!」
一瞬で完熟トマトみたいに真っ赤に染まる。
【智】
「すぐ顔に出る」
【伊代】
「顔の話はいい」
【智】
「美人さんはほんと」
【伊代】
「世辞もいい」
【智】
「本気なんだけど」
【伊代】
「だからッ」
【智】
「……はい、一応本気です。目の前には問題がある。解決は避けて通れない。一人で無理なら他人の力を借りてでも解決しなくちゃいけない」
【智】
「でも、誰かに助けて貰うには代価が必要になる。その代わりに僕らは条約を結ぶ。お互いの力を利用して、問題の解決に尽力する」
【智】
「僕らの同盟。僕らの関係」
【智】
「きれい事の友情ゴッコより、
打算の方が信用できると思うんだけど」
【伊代】
「信用だってできるのかどうか……」
轡(くつわ)を並べて修羅場をくぐった。
連帯感めいた錯覚はある。
しかし、突き詰めるならそれっぽっちだ。
漠然とした印象と名前以外、
相手のことなど大して知ってさえいない。
【智】
「投資にはリスクがつきもので」
【伊代】
「別に、助けなんかなくても」
【智】
「一人よりはみんなの力で」
【茜子】
「友情・努力・勝利」
【伊代】
「少年漫画ロジックで物事なんか片付かない」
【智】
「あのね、伊代」
【伊代】
「……なによ」
【智】
「あるプロジェクトに参加する人数が増えるほど、
トラブルと問題の数は幾何級数的に増えていくんだよ」
【茜子】
「だめだめですね」
【智】
「あれ?」
【伊代】
「なにがいいたいわけよ」
【智】
「んーと……花鶏は賛成してくれたから、
2〜3日なら茜子ちゃん泊めてくれると思うよ」
対立事項についての妥協点を提示する。
さらに白い目をされた。
【伊代】
「こういうヤツだったとは……」
【茜子】
「最悪さんです」
【智】
「二人でそろって!?」
【伊代】
「そこまで見越して、あの子をたぶらかしたのね」
【智】
「人聞きの悪い」
【伊代】
「しかも色仕掛けで、ふしだらな」
【茜子】
「教育上不適切な欲情です」
【智】
「友情といって欲しいです。
家族に説明できないようなことはしてませんよ?」
【伊代】
「ノンケだとばかり……まさか、わたしのことまでそんな目で」
おっきな胸を両手で隠して後ずさる。
【智】
「何の話をしてるのかわかんない」
【伊代】
「しれっとした顔してるくせに姑息で」
【茜子】
「八方美人の気安いさんです。そのうち、友達と修羅場になって、通学路で刺されて人生エンドです」
【智】
「……そんな未来はやだな」
【伊代】
「やっぱり嘘つき村の住人ね」
【智】
「流行ってるの、それ」
【伊代】
「なにが?」
【智】
「なんでもないです」
【伊代】
「そつもないのね」
言葉の谷間をついた舌鋒(ぜっぽう)が、
意外な鋭さで突き刺さる。
いやに硬い表情をした伊代が、
眠そうな茜子の向こうからまなざしを送ってくる。
しっとりとした笑みを返す。
【智】
「なんのこと?」
【伊代】
「買い物に出かけるとき、わたしたちに声をかけたのが」
思いの外、伊代は聡(さと)い。
こちらの意図を読んでいた。
【伊代】
「元気二人組は最初からあなたの味方だし、あのクォーターも
たぶらかしてたみたいだし」
【智】
「後ろ半分だけ訂正して」
【伊代】
「わたしたちを説得すれば障害は無くなるものね」
【智】
「説得というか」
【伊代】
「そりゃ、たとえ何日かにしたってこの子を泊めてくれるっていうのは悪くない取り引きだとは思うけど」
【智】
「けど?」
【伊代】
「あの家にも、ご両親とか、いるんでしょ」
【智】
「そっちは問題ないと思う」
花鶏の反応を思い返す。
両親の話題を切り捨てるような、印象。
きっと、あの家で、
花鶏の両親のことがリスクになることはない。
【智】
「それにさ、僕らが助けてって泣きついたら、花鶏だって
助かるじゃない」
【伊代】
「なによ、それ」
【智】
「彼女、自分から助けてなんて言い出さないタイプだけど
一番人手は欲しいはずでしょ」
【伊代】
「………………」
【智】
「白い目を通り越して死んだ魚の目だね」
【伊代】
「うおの目にもなりますわ」
【茜子】
「鬼畜さんですね、茜子さん了解しました」
【智】
「……もそっと他の言い方はないですか」
【伊代】
「あきれたわ、今度こそ心の底からあきれ果てました、わたしは。こんな人だとは思わなかった」
【智】
「人間見た目で判断しちゃダメかも」
【伊代】
「貶(けな)してるのよ」
【智】
「……それはしたり」
【伊代】
「全部計算尽くで、たらし込んだんだ」
【智】
「ほんと人聞きが悪いです」
【伊代】
「本当のことばかりだから悪くない」
【智】
「どっちかというと、こっちは強奪された方」
【茜子】
「何を?」
茜子さんのシビアな突っ込み。
【智】
「………………色々」
【茜子】
「邪悪です」
烙印完成。
【伊代】
「それにしても」
【智】
「にしても?」
【伊代】
「晩ご飯の買い出しに行くことになるとは」
【智】
「あっさり全員泊めてくれるとは豪毅な話だよね」
【茜子】
「ブルジョア倒すべし」
【伊代】
「ファミレスとかでもよかったんじゃないの」
【智】
「外食すると高くつくし、節約しとかないと」
【伊代】
「吝嗇(りんしょく)家なんだ」
【智】
「これから何があるかわかんないから。同盟の運営資金は
可能な限り倹約で」
【茜子】
「暗黒宗教資本主義の走狗(そうく)なのですか」
【伊代】
「赤い会話ね」
【智】
「赤いのは流行らないんだよ、新世紀」
【伊代】
「泊めてもらうのは、家無しの二人だけでもよかったんじゃないの」
【智】
「そんな、猛獣の檻に生肉放置するような……
いや、どっちかいうと犬と猿を同じ庭で飼うというか……」
【伊代】
「なんの話をしてるのよ」
【智】
「今後の相談もしとかないと困るわけだから」
【伊代】
「利害の関係か」
【茜子】
「強く結ばれた山吹色の絆ですね」
【智】
「…………」
たかが色ひとつなのに、
ドス汚れた気がしてくるのはどうしてだろう。
頭の上の夕闇は、
夜に傾いてとっぷりと暗くなる。
暗い道を街灯がまたたいて照らす。
夜には灯りが必要だ。
手探りでは遠くまで歩いて行けない。
【伊代】
「わたしは、誰かに助けて欲しいなんて思わない」
【伊代】
「ひとりでできるし、やってきた」
【智】
「伊代が誰かを助けるのはありなんだ」
【茜子】
「……」
【伊代】
「そういう主義なのよ」
差し出された手を振り払い、自分の手を差し出す。
矜持(きょうじ)とも気高さともつかない。
これも我が儘に分類すべきか。
【伊代】
「一緒にやったってどうにかなるとも限らない」
【智】
「人数が足りないから、野球できないのが残念」
【茜子】
「バスケットはできますね」
【智】
「一人余っちゃいますよ」
【伊代】
「だからって」
【智】
「んとね。手を繋ぐのは解決じゃなくて開始。今までは
スタート位置にさえついてなかった」
【智】
「これからよってたかって、やっつける」
【茜子】
「……やっつけますか」
【伊代】
「なにと戦うのよ、魔王でも出てくるわけ?」
【智】
「呪われた世界を、やっつける」
きょとんとされる。
聞き慣れないフレーズに眉をひそめていた。
【伊代】
「呪い?」
【智】
「ずっと続く呪いみたいな、そんな気はしない?」
【伊代】
「なにが、よ」
【智】
「この世の中のこと全部」
【智】
「昨日のことはどうしようもない、先のことはわからない、
途中下車すると取り返しはつかない、立ち止まることさえ難しい」
【智】
「否が応でも歩き続けないといけない。どこかへ向かってるのか、とりあえず歩いてるだけか、それはそれぞれのことなんだけど」
【智】
「真っ直ぐでさえない、曲がりくねって足場の悪い、深い森と
薄暗い沼と荒れ果てた道行き」
【茜子】
「後ろ向き鬱思考来た」
【智】
「もうちょっと感想が別方向になりませんか。含蓄ある詩的表現に心うたれろとは言わないんだけど……」
【茜子】
「わかりました。拍手しますからお小遣いをください」
【智】
「生々しい等価交換ですね」
さもしさに嘆く。
感動を金額に換算するのは、
バラエティーの制作者だけで十分だ。
【伊代】
「呪われた、か」
【智】
「僕らはみんな呪われてるんだよ」
誰だって呪われている。
僕らはみんな呪われている。
呪われた道を、行く先もわからないまま歩いていく呪い。
【伊代】
「そうかもね」
珍しく素直な同意が返ってきた。
【伊代】
「それで、束になったからって、やっつけられるわけ?」
【智】
「少なくとも、昨日は、るいがいて助かったでしょ」
小細工のできる脳みそよりも、
拳骨一発の方が重要な場面は往々にしてある。
昨夜そうであったみたいに。
ひと一人は万能には足りない。
臨機と応変でもわたれない場所には、
適材と適所で埋め合わせをする必要がある。
一人で足りなければ二人で、
あるいはもっと大勢で。
人間が社会的な生き物である必要十分条件だ。
伊代の返事を待った。
明後日を向いたままだった。
どんな表情をしているのか。
見てみたい気もする。
花鶏の家がもう近い。
足を止める。
【智】
「返事、聞いていい?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「なによそれ?」
【智】
「好きなの、愛してる」
真摯に訴える。
絡み合う目と目。見つめ合い。
腐ったお肉でも見る目をされた。
【智】
「冗談です」
【伊代】
「……ほんとにノンケなんでしょうね?」
つついと横歩きで離れられた。
安全距離は二人分くらい。
【智】
「まったくもって、同性といちゃつく趣味はこれっぽっちも
ありませんから」
本当にない。
これっぽっちもない。
【伊代】
「コミュニケーションにおける言語の信憑性についての、
解釈と論理的整合性について」
【智】
「論文ぽいタイトルにしなくても」
【伊代】
「すぐに嘘つくひとは嫌い」
【智】
「失礼です、嘘つき呼ばわりするなんて」
【伊代】
「本当か、本当にひとつもついてないか」
【伊代】
「神にかけて誓える? 指きりできる?」
【茜子】
「『指(ゆび)切(きり)拳(げん)万(まん)』というのは、てめぇ嘘ついたら指ちょん切って
拳一万発食らわせてしかも針千本飲ますぞ、という意味です、
マメ知識」
【智】
「…………嘘も方便といいまして」
【茜子】
「弱気ですね」
【伊代】
「だめじゃない」
あきれ顔。
伊代は、肩を大きく落としてから、
暗い空へ向けて、はね上がるみたいな伸びをした。
【伊代】
「賛成はしない。けど、妥協はする」
【伊代】
「わたしは、ね」
【智】
「茜子は?」
【茜子】
「今夜は家に泊めてやるぜ、その代わりに大人しくしやがれゲヘヘヘへ、ということですか」
【智】
「全然違いますけど!」
【茜子】
「心配はご無用です。茜子さん、修羅の巷に孤独の一歩を
踏みだしたその夜に、最後の覚悟を決めてきましたから」
【智】
「決めなくていい決めなくていい」
【茜子】
「煮るなり焼くなり×××するなり、お好きにしてください」
【伊代】
「×××ってなによ……」
【智】
「あのね、そんな心配しなくても――――」
頭の後ろの方のどこかで、花鶏がニタリと笑っていた。
【智】
「あー、覚悟が決まってるのはイイコトだよね」
【茜子】
「……そういうのは茜子さん困ります」
【智】
「どっちなのよ」
【伊代】
「いいじゃないの、概ねはあなたの目論見通りなんでしょ」
【智】
「これまた人聞きの悪い」
【伊代】
「ま、そういうことにしておいてあげましょうか」
からかうような微笑。
【智】
「なら、伊代が黒で、茜子はピンクってことで」
【伊代】
「なによそれ」
【智】
「五人組だと色分けで役割分担が様式美なんだよ」
【伊代】
「またワケのわからんことを」
【智】
「るいが赤っぽいし、花鶏が青で、にぎやかしのこよりが黄色で」
【伊代】
「あんたはどこよ」
訊かれて、重大な問題を直視する。
〔僕のいるところはどこだろう?〕
《ここじゃない……》
《ここになら、あるんだろうか……》
〔僕のいどころ〕
忘れてたわけじゃない。
そもそも同盟のアイデアにしたって――
【智】
「…………僕は別口で」
【伊代】
「なによそれ」
繰り返された台詞は、
温度が5〜6度低かった。
【智】
「えーっと、僕の仕事は同盟締結までで」
【伊代】
「なによ、それ。大見得切った言い出しっぺが逃げ出そうっていう気?! みんなで力を合わせて魔王退治はどこいったのよ」
【智】
「やっつけるのは魔王じゃなく」
【伊代】
「そんなことはどうでもいいのよ!」
【茜子】
「あそび人ですか」
【智】
「ごめん、それよくわからない」
【茜子】
「さっさと賢者に転職しろってことです」
どこから繋げばいいのかわからない。
どこから反論するべきか難しい。
伊代が柳眉(りゅうび)を逆立てる。
茜子が糸引きそうな横目を送る。
【智】
「それは、その、なんと言いますか、あらゆる非難は甘んじて受けますが、人には人それぞれでやむにやまれぬ事情というものが往々にして」
【伊代】
「政治答弁でひとりで逃げられると思ってるの?!」
罪悪感から逃げをうった。
回り込まれた。
【智】
「そ、そんな、こと……」
【伊代】
「なによ、煮え切らないわね!
言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」
詰め寄ってくる。
口ごもる。
言いたい、
でも、言えない。
ダメなのだ。
本音を言えば、引っかかりは残る。
三日飼ったら情が移るのたとえのように。
茜子に引っかかって巻き込まれている伊代と同じに。
貸せる力があるなら貸してやりたい。
でも。
でも、が残る。
割り切れずに最後に余る。
どうしてもダメだ。
ここは退けない。退いてはいけない。
なぜならば――――。
バレてしまう。
誰かと並んで歩けば危険が増える。
身近に寄せるほど地雷になる。
危険はどこにでも潜んでいる。
どんな機会からでも違和感は忍び込んでくる。
それは、いずれだ。
いずれは、遅いか早いかだ。
すぐに追い詰められる。必ず誤魔化しきれなくなる。
危険すぎる綱渡りを試したいとは思わない。
【智】
「だから……」
だから。
【伊代】
「なんなのよ!」
遠ざけておかないと。
誰をも彼をも。
【智】
「絶対……絶対ダメなんだから!!」
〔牡丹の痣はないけれど〕
【智】
「絶対ダメなんだけど……」
つくねんとこぼれた言葉が天井に昇る。
花鶏の家は大きい。
お風呂も大きい。
個人邸宅には相応しくない。
ちょっとした銭湯か、寮の大浴場だ。
寮生の経験なんてないけれど。
【智】
「無駄な施設だなあ」
大きさは善行であるという、
そんな家訓があるものかどうなのかは、
面倒なので確かめなかった。
余りに余った湯船を一人で使う。
ゴージャス。
口まで沈んで、吐く。
無数の泡沫が弾けるように、
とりとめのない疑問が浮かんでは消える。
【智】
「どうしてこうなっちゃったのか」
検討中。
失敗の原因は意志の弱さか、
それとも議論上のミスか。
逃げるのにしくじった。
お泊まりすることになった。
ここまではいい。妥協の範囲だ。
お風呂に入る。
危機的状況だが、まあ、よしとする。
不作法だがタオルで隠したままお湯に入った。
素肌は頼りない。布きれ一枚の薄さが消えれば、
世界と対峙するのは自分自身。
その無防備さに愕然とする。
隠すことさえ許されない真正の姿。
【智】
「バレたら死んじゃう……」
誰もいないのにごく自然に丸くなる。
自分を隠すようにヒザを抱えた。
決定的瞬間の光景を想像するだけで死にそうになる。
針のむしろに等しい冷視と軽蔑と弾劾に、
踏みにじられる予想図は悲しすぎた。
本当の問題は、現在よりも未来にこそある。
どこまで。どうやって。
隠し通すことが出来るだろう。
【智】
「…………ぶくぶくぶくぶく」
潜行するほど懊悩する。
【茜子】
「広い」
【茜子】
「とてとて」
【茜子】
「よいしょ」
【智】
「あ、いらっしゃい」
【茜子】
「おじゃまします」
【智】
「…………」
【茜子】
「…………」
何気ない裸の挨拶。
ぎぎぎと骨の軋む音を
立てながら首を回して再確認。
白い肌。白い足。白い腰。
見つめ合う。
【智】
「ぎゃわ!」
【茜子】
「――――ッッ!」
何をそんなにというほどの反応だった。
茜子はゾンビと出会った犠牲者の顔で飛び退いた。
後ろから驚かされた猫そっくりの野生の瞬発力。
そして、着地に失敗。
【茜子】
「なう!」
【智】
「どじっこ……?」
意外な属性発覚か。
【茜子】
「ぷ、ぷはっ……く、な、ど、が、あ」
【智】
「まずは深呼吸して落ち着きなさい」
【茜子】
「どうして貴方がここに?!!」
【智】
「うっ、そ、それは――」
絶体絶命――を意識したが、
すぐに気がつく。
危機的状況は揺るがなくとも、
現時点で秘密は漏洩していないのだという大前提。
つまり。
この事態をありのままに判断するなら。
先にお風呂をいただいていた先輩キャラの後ろから、
知らず入ってきたチビキャラとの
裸コミュニケーションイベントフラグ。
【智】
「――別に、どうというわけではなく」
クールだ、クールになれ。
そうとわかれば冷静な対応が必要だ。
【智】
「先にお風呂をいただいてただけですけれど」
【茜子】
「出ます」
立ち上がる。全部見える。
【智】
「ぎゃわ」
【茜子】
「なんですか」
【智】
「そ、そんな、なにも、慌てて、でなくても、いっしょしても、
別に……」
錯乱して、よからぬ事を口走る。
出て行くのなら大人しく出てもらった方が、
あらゆる意味で助かるに決まってる。
【茜子】
「孤独が趣味です」
【智】
「す、崇高なご趣味を」
【茜子】
「わびです」
【智】
「違う気がする」
【茜子】
「そういう突っ込みを入れると、わびを入れさせますよ」
【智】
「ごめんなさい」
なぜに謝らねばならないのか。
謎だった。
【茜子】
「とにかく出ます」
【智】
「は、はい」
【茜子】
「孤独に一人で残り湯をこそこそ使うのが趣味ですから」
【智】
「何も言ってないです」
【花鶏】
「はぁい、いいつけ通りクリームとバターはちゃんとすり込んだかしら?」
【智】
「ぎゃあー!」
【茜子】
「――――ッッッ!」
慌てて肩まで湯船に沈んだ。
【花鶏】
「ずいぶんな悲鳴ね。猫が絞め殺されたみたい」
【智】
「なななななななななななな」
【花鶏】
「なにかしら」
【智】
「なんで裸なのぉ!」
【花鶏】
「お風呂ですもの」
実に当たり前でした。
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【智】
「ぎゃあー!」
茜子とはわけが違う。
花鶏は危険だ。
逃げ場を探す。
なかった。
目の前に裸。間違いなく裸。
これ見よがしに裸。
まったくの一糸まとわぬ全裸。
日本人離れした白い肌、繊細でしなやかで、
それでいてしっかりメリハリのついた身体。
【智】
「ぎゃあーぎゃあーぎゃあー」
全ては罠だった!
花鶏が熱心にお風呂を勧めてきて。
考え事してたから成り行きに任せていたら、
あっという間にこの窮地!
【花鶏】
「うるさいヤツね。いい加減覚悟を決めたら?」
【智】
「非処女になると人気落ちるから清い身体でいたいんですぅ」
【花鶏】
「最近はやらないわよ、そういうの」
【伊代】
「うわ……」
【るい】
「ひろいのお」
【こより】
「センパーイ」
【智】
「みぎゃー!!」
【茜子】
「!!!!!」
追加オーダーが発生しました。
春のオリジナルメニュー、
噂のビッグタックとダブルサンド、
それからポテトはSサイズで。
【智】
「みぎゃーみぎゃーみぎゃー」
警戒警報を発令。
色とりどりで目のやり場がない。
右にも左にも肌色。そうでなければ桜色。
はたまた黒。どっちにしてもどうしようもない。
危機的な状況が訪れていた。
【るい】
「何を鳴いてるの、トモちん」
屈託もなく。
ひときわ豊作な感じが目の前に来て揺れる。
【智】
「錯乱してます!」
【るい】
「……そう、なんだ」
【るい】
「お風呂まででっかいどーとは」
【花鶏】
「それならむしろ、お風呂だけ小さくして何の得があるのかを
訊きたいわ」
【こより】
「おー、銭湯来てる気分であります!」
【伊代】
「そこそこ、湯船で暴れない。お行儀悪いわよ」
【茜子】
「……ナイスお湯」
【智】
「三角形ABCを角Cが直角である直角三角形とするとき、角ABCのそれぞれの各辺の長さをabcとして、頂点Cから斜辺ABに対して垂線を下ろし」
【伊代】
「ほんといい気持ち……
こうしてると昨日のドタバタ騒ぎが嘘みたい」
【花鶏】
「せっかくだから、気は使わないでゆっくりしていらっしゃい。
ストレスは美容の大敵だし」
【こより】
「え、あ、わたし、なんかあるッスか?」
【こより】
「なんでヤバイ目つきを……」
【花鶏】
「失敬な子ね。美しいものを鑑賞する気高い心に、情欲の入る隙間はないのよ」
【茜子】
「……表情と言動が不一致してます」
【伊代】
「それよりも…………なにやってるの、二人して?」
【茜子】
「…………」
【智】
「自身を要素として含まない集合A、含む集合を集合Bとする場合、任意の集合Cは集合Aであるか、集合Bであるかのいずれかで、」
逃げ出す機を喪失した二人だった。
広漠たる湯船の園の、一番端の隅っこで、
左右に別れて孤独の時間を謳歌している。
示し合わせたような、
ヒザを抱えたダンゴ虫。
視界に肌色が入ってこないように背を向けて、
頭の温度を下げる呪文をひたすらに唱える。
茜子の趣味的問題はともかく。
こちらは人生がかかってる分だけ必死だ。
そうだ、天国と地獄は等価なのだ!
絶対的な幸福は絶対的であるが故に相対的な価値を失い、
終わり無く続くことで無限の苦痛へと堕落する!
僕は錯乱していた。
【こより】
「新しい人生哲学の模索ですか、センパイ」
【智】
「……お風呂でそんなことしない」
【るい】
「どうして隅っこにいるの?」
【茜子】
「狭くて暗くてちっちゃいところが好きなので」
【花鶏】
「こっちいらっしゃいな、背中流してあげるから」
【智】
「遠慮します」
【茜子】
「近寄ったら舌を噛みます」
【花鶏】
「二人とも、お堅すぎね」
【るい】
「智ってば、一緒にお風呂はいるのいやがるよ」
【茜子】
「……陰謀のにほいがする」
【智】
「そんなものはない」
あるのは陰謀じゃなくて秘密だ。
危険な隠蔽だ。
【伊代】
「照れくさいのはわからないでもないわ」
【るい】
「オッパイちっちゃいの気にしてた」
【茜子】
「……A?」
【花鶏】
「触った感じだとAAA」
【こより】
「問題ありませんであります!
こよりもペッタンコでありますッッ!」
【伊代】
「そんなことに胸はらなくても」
【こより】
「だめですか……やっぱし、ないと、人として生きていくには
まずいでありますか……」
【花鶏】
「いいじゃない、可愛らしいわ」
【こより】
「うひゃひゃひゃひゃ」
【花鶏】
「もう少しいい声をだして欲しい」
【こより】
「な、なにをするですか!?」
【花鶏】
「無邪気なスキンシップ」
【こより】
「な、なんかむしろ邪気が、あぅっ」
【花鶏】
「んふふ〜ん♪」
【こより】
「そ、そこはだめです、あうっ、や、あ、ちが、そこはちがぅう〜、きゃう」
【花鶏】
「うふふふ、可愛い子」
【こより】
「あ、あ、あ、あーーーーーーーッ」
あまりの暴挙に全員が我を忘れていた。
残念なことに、一番最初に我に返った。
【智】
「ナニヲシテオラレルノデスカ」
【花鶏】
「片仮名でクレームつけないで」
集団は秩序を失った時に効力を失う。
小さな悪は、見過ごせば大きな木に育ってしまう。
建物の窓が壊れているのを一つ放置すると、
他の窓もやがては全てが壊されるのだ。
【智】
「それで、一体何を」
【花鶏】
「セクハラ」
【智】
「正直ならいいってもんじゃないよ」
【こより】
「せんぱい〜〜〜」
背中にしがみつかれる。
【智】
「ぎゃわー」
【こより】
「お嫁に行きにくくなりそうなところさわられたです〜」
【智】
「ところってどこのこと!?」
【こより】
「せんぱいーせんぱいーせんぱいー!」
【智】
「触ってる触ってる今この瞬間に背中に何か触ってる!」
がくがくされる。
違う意味でがくがくになりそう。
【伊代】
「いつまでも何を騒いでいるのやら。まったくお子様たち
なんだから」
【るい】
「なるほど、たしかにこっちはお子様と違う」
【伊代】
「どこ見てるの……」
【るい】
「なんというけしからん乳」
【伊代】
「はしたない単語のままで」
【茜子】
「……浮いている」
【伊代】
「……だれのだって浮くわよ」
【こより】
「浮かないッス」
【茜子】
「……」(←賛成)
【花鶏】
「浮けばいいってものじゃないわ」
【るい】
「なんだ、浮かないのか」
【花鶏】
「………………なにも言ってないでしょ」
【こより】
「きっと空気か何かが中に――」
【伊代】
「そんなの入ってない」
【花鶏】
「でも、たしかに、これは、中々」
【伊代】
「目つき目つき」
【るい】
「触ってもいい?」
【伊代】
「あんたまでそっちの人か!?」
【るい】
「そういうわけじゃないんだけど、こんだけあると、
エアバックプニプニしてみたい」
【伊代】
「えあ……そういうのは自分ので好きなだけおやんなさい」
【るい】
「これは、今ひとつ迫力が」
いやいや、なかなかだったと思う。
【こより】
「センパイせんぱい、見るです、すごいッス」
【智】
「ソウデスカスゴイデスカ」
【こより】
「ほらほら、たぷたぷするー!」
【伊代】
「やめてやめて」
【智】
「タプタプデスカ」
【こより】
「ほらほら、見て見て」
首を捻られた。
【智】
「――――――ッッ」
【こより】
「見ました?!」
【智】
「見えちゃった……」
【こより】
「すごいでしょ?!」
【智】
「タシカニスゴイデス」
本能的に目を反らせない。
いよいよ危険です。
母上様。
死に場所が桃源郷というのは、
はたして幸運でしょうか、不運でしょうか。
【こより】
「なにくったらこういうのになるですか?」
【茜子】
「日夜もまれて」
【伊代】
「ふしだらなことは何もしてない」
【こより】
「もまれて大きくなるなら、わたしもセンパイにもまれたら!」
【伊代】
「……これこれ、そんな非生産的な」
【花鶏】
「そんなことならわたしがいくらでも揉んであげるわよ」
【こより】
「あー、いやー、それはちょっと……」
【伊代】
「根拠のない俗説を頭から信じない」
【こより】
「おっきくならないっすか……」
とてもとても残念そうに。
【伊代】
「そんなの、あと何年かしたら、ほっといても自然に大きく
なるわよ」
【こより】
「でも、違いすぎるこの現実」
【伊代】
「そりゃ、個人差は、あるかも、知れないけれど……」
個人差。
言葉の欺(ぎ)瞞(まん)の裏側が目の前に証明として並んでいる。
伊代>>>るい>>花鶏>茜子>>(越えられない壁)
>>こより。
【智】
「………………ぶくぶくぶく」
イケナイことを考えた。状況がさらにまずくなる。
【るい】
「沈んでる?」
【智】
「難しい年頃なので……」
【るい】
「おろ、これは――」
【花鶏】
「ん……ああ、それは痣(あざ)よ。模様みたいなおかしな形してるでしょ。でもね、それはいわば聖痕なのよ。わたしの家の先祖には代々あったんだけど、」
花鶏さんは、ひたっていた。
自慢のクラリネットを見せびらかす少年のようなまなざしで、
肩の濡れ髪を大仰にかきあげる。
痣(あざ)。
湯あたり寸前の脳みそに単語が忍び入ってくる。
痣――――。
【るい】
「それ、私もある」
【こより】
「ほんとだ」
いきなり、ありがたみのない展開になった。
【花鶏】
「――――待てや」
物言いがついた。
【花鶏】
「なによそれ」
【るい】
「なによってなんなのさ」
【花鶏】
「どこの盗作よ、親告罪だからってバカにしてると、著作権法違反で訴えるわよ」
【茜子】
「痣にそんなものはない」
【るい】
「文句あんのか」
【花鶏】
「ありすぎて並べてるだけで朝になるわよ」
【るい】
「ほほう」
ずいっと、るいが胸をつきだす。
挑発的なポーズだった。
大人しく鼻白んでいる花鶏ではなかった。
【花鶏】
「……ちょっと人より脂肪が余分についてると思って」
【茜子】
「微妙に逃げっぽい言動です」
【るい】
「みろ」
【花鶏】
「あんたの胸なんか見ても嬉しくない、こともないけど、
まあそれは置いておいて」
【るい】
「そっちじゃなくて、こっち」
そこには、痣がある。
花鶏が目を白黒させる。見入る。
自分のと見比べる。
見てるだけで楽しい万華鏡じみた百面相だ。
【花鶏】
「うそ」
【るい】
「ほんと」
花鶏が運命に破れた者の顔をしていた。
ここがお風呂でなければ、
跪いて過酷な天に怒りをぶつけていた感じの悲鳴。
【花鶏】
「ニェーッ!」
【こより】
「はーいはいはーい! 不肖鳴滝めにもあるでごわす!」
そのうえ追い打ち。
空気を読まない言動は、
無垢な分だけ傷口を深く抉る。
【こより】
「ほらッス」
【智】
「…………」
やたらと扇情的なポーズだった。
お風呂に腰掛けて片膝をたてる。
色香と呼ぶには未成熟だ。
脂肪の薄い腿から付け根へと至るラインも、
異性をあまり意識させることがない。
全部見えた。
【智】
「まだ、はえてないんだ」
【こより】
「う、ちょっと気にしてるのに」
【智】
「ぶくぶくぶくぶく」
ぽろりともらす自分の口が恨めしい。
【こより】
「ほら、ここ」
左の内股を指で示す。
また際どいところにあった。
白い肌に青白い痕が艶めかしい。
今は本人の素養と打ち消しあってただの痣だが、
数年も経てば、痣一つで男を手玉に取れてしまう、
無限の可能性が広がっている。
【花鶏】
「ほんとだ……」
【るい】
「へー、おんなじだねえ。擦ってもとれないし」
【こより】
「にゅにゅ、なんかくすぐったい」
【花鶏】
「なに、これ」
【伊代】
「なにとおっしゃいますと」
【花鶏】
「なによこれ、どういう詐欺よ!」
【るい】
「いきなり詐欺ときやがった」
【茜子】
「いつもより多くとばしております」
【こより】
「なんというできすぎた偶然!」
【花鶏】
「こんな偶然があってたまりますか!」
【こより】
「あわわ」
吠えられたこよりは、尻尾を丸めて、
るいの背中に隠れる。
偶然――。
こよりの言葉の通り、
出来すぎた可能性。
どんな希少な状況であれ、
確率的にあり得るならば出会ったとしても不思議はない。
1億回、1兆回に1度かぎりの出来事も、
今このときが1兆回目であれば成立してしまう。
だがしかし。
【花鶏】
「そっちの3人も!?」
【智】
「返事をしたら食い殺されそうです」
【花鶏】
「返事をしないなら今すぐ殺すわ」
花鶏は崖っぷちにいた。
自分で自分を追い詰めて煮詰まっている気が、
ひしひしとする。少なくとも僕に責任はないはずだ。
なのに、なぜ責め殺されなければならないのか。
【花鶏】
「あるの、ないの?」
【伊代】
「痣くらい、あるけど……」
【花鶏】
「ある!?」
【伊代】
「お、同じのかどうかなんてしらないわよ」
【花鶏】
「どうして!?」
【伊代】
「背中だからあんまり気にしたことない……きゃーっ!?」
花鶏がケダモノになって飛びかかった。
女の子二人が組んずほぐれつ。
もうちょっと夢のあるシチュエーションなら心温まるのに。
【花鶏】
「な、なななな」
背中を確かめる。
結果は訊ねるまでもなかった。
蒼白の花鶏がよろめきながら後ずさる。
【花鶏】
「きっ」
【茜子】
「ッッ!」
次の獲物は茜子だった。
【花鶏】
「大丈夫よ痛くしないから」
【茜子】
「おっぱいさわったら死んじゃいます!」
【花鶏】
「それ以外のところにしてあげる」
【茜子】
「一歩でも近づいたら舌も噛むです!」
【花鶏】
「うふふふふふふふ」
【花鶏】
「――――ッ」
【茜子】
「――――ッ」
茜子が逃げ出した。
後ろにダッシュ。
そして、足を滑らせる。
【茜子】
「きゅー……」
【花鶏】
「あった…………」
うつぶせに倒れた、お尻。
見えた。
やっぱり痣があった。
小ぶりで、白い、まろみの上。
記憶に焼き付いてしまった。
【花鶏】
「そんな……」
花鶏が、よろりと2〜3歩後ずさる。
【智】
「はっ!?」
甘美な一瞬を反芻している場合ではない。
高いところから花鶏がなにも言わずに見下ろしてた。
なにも言わなくても言いたいことがわかる。
繋がることのない心と心が、
この一瞬には確かに結ばれていた。
曰く、獲物と捕食者の強い絆。
【花鶏】
「あなたもなのね」
【智】
「ぎゃわー!」
抑揚のない言葉遣いがなおさら怖い。
食われる!
【花鶏】
「どこにあるの!」
【智】
「まってまってまって!」
【花鶏】
「全部見せろ!」
【智】
「きゃーきゃーきゃー」
【花鶏】
「大人しくしなさい!」
【智】
「だめいけないわそれだけは堪忍してぇーっ」
死にものぐるいで抵抗する。
現実は厳しい。
湯船の中で、タオルで前を押さえたまま、
片手で出来ることなんて知れていた。
【花鶏】
「観念!」
【智】
「おたすけ!」
絶体絶命。
【るい】
「あーこらこら、どうどう」
【花鶏】
「な、離しなさい、こら!」
るいが羽交い締めに止めてくれた。
ほっと安堵にへたり込む。力が抜ける。
【るい】
「だから、おちつきなさいって。ほら、あれ」
右腕の後ろ側だ。
痣がある。
花鶏は目にした。
これで五つめの、自分と同じ痣。
【花鶏】
「どいつもこいつも――――」
【花鶏】
「ど、ど、どッッ……どういうことなのよーっ!?」
【るい】
「どうもこうも」
【花鶏】
「これは何かの間違い? どうしてこんなにぞろぞろと、これは罠、いえ、陰謀……そうよ、陰謀だわ! アポロだって月には着陸していないのよ!」
錯乱していた。
まあ、彼女の意見が、多かれ少なかれ、
全員の代弁なのは間違いなかった。
身体のどこかに同じ形をした痣のある6人。
偶然だなんて言ったら笑いがとれる。
今時なら週刊漫画の新連載でも、
もう少し気の利いた導入を心がけるんじゃなかろうか。
【智】
「あ、でも――」
頭に豆球。
ひらめいちゃいました。
花鶏が騒いで注意を引きつけてくれているじゃないですか。
ゴキブリの身ごなしで、
コソコソと湯船から上がる。
思った通り誰も注目しなかった。
人目の隙を縫って、気付かれないうちに、
そそくさとお風呂を出て行く。
【智】
「それじゃ、おさきにー」
【智】
「…………あー、死ぬかと思った」
〔約束しない人との対話〕
夜を見る。
テラスに出ると、
海原めいた高級住宅街の静けさが眼下に広い。
【るい】
「なにしてんのん?」
【智】
「ひまつぶし」
坂の上にある花鶏の家からは屋根の列が見渡せる。
街は遠かった。汚濁も遠かった。
清潔で、静閑で、
瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいが門を並べる。
切り離された聖域だ。
【るい】
「ひつまぶしって美味しいよね」
【智】
「入れ替わってる入れ替わってる」
【智】
「花鶏は?」
【るい】
「ふて腐れて自分の部屋に引っ込んで寝てた」
【智】
「子供ですね」
【るい】
「おこちゃまめ」
くすくす笑う。
一歩間違うと皮肉だが、
るいの物言いには裏がない。
素直な顔は端から見ていても気分がよくなる。
【智】
「ショックだったんだ」
聖痕と、花鶏は呼んだ。
どんな思い入れがあるのかは知らず、
どんなにか思い入れを込めていたかは想像できる。
信仰していた特別が、十把一絡げに量産されていたのは、
さぞかしカルチャーショックだったろう。
るいも黙りこくっていた。
腕を組んで、首を傾げている。
【智】
「悩んでる?」
あの痣のことを。
【るい】
「何を悩んだらいいかと」
考えてませんでした。
【智】
「だと思った……」
同じ痣がある。
偶然に出会った6人に、
偶然そろっていた痣。
笑いのとれる確率だ。
ジュブナイルかライトノベルの小説じゃあるまいし。
【智】
「るいにも昔からあった?」
【るい】
「よく覚えてないけど、ちっこいときからあったかな。昔は学校の着替えとかで、よくからかわれたりした」
僕の痣は生まれたときからあった。
生前の親の言葉を鵜呑みにするなら、そうだ。
右腕の後ろにある。
自分では見えにくい。
普段は気にしたこともない。
るいが脱いだ時、
そういえば変な模様を見た。
同じ痣だなんて思いもしなかったけど。
別に、白いたわたわで目がいっぱいに
なってたわけじゃない、たぶん……。
本当に痣なのか?
例えば入れ墨。
それともレーザー印刷。
ネイルアートならぬスキンアート。
痣であれ痣以外のものであれ、
明確な現実の前には、些細な違いだ。
収まりのいい解答が、あるにはある。
全ては偶然だ、と。
収まりというより投げやりだった。
空想をする。
見えない糸を手繰りながら、
僕らは集まる。
宿命のように運命のように。
そうやって、この場に、6人が――――
【るい】
「ぬふふふふふ」
【智】
「なんで笑い?」
【るい】
「なんとなく」
【智】
「いい加減だなあ」
【るい】
「痣のこと……」
【智】
「データが少なすぎてわかんない」
【るい】
「ちょこっとうれしい」
るいが、にへらとした顔。
【智】
「なんでですのん?」
【るい】
「変な痣だと思ってた。小さいときはバカにされたりしたことも
あったから、正直嫌いだった」
【るい】
「そのうちに諦めたんだよ」
諦め――。
ちくりと胸の奥で何かが痛んだ。
【るい】
「いつの間にか気にしなくなってた。あることも忘れるくらい、
どうでもよくなってたんだけど」
【るい】
「他にもいたんだね。どうしてこんな痣がそろってるのかわかんないけど……でも、私たち、同じなんだって思えた。同じ印がついてる。どこかで繋がってる感じがする」
【るい】
「もし、あの子たちと、今日ここで、こうやって逢うために、
この痣があったのなら」
【るい】
「そういうの、ちょこっとうれしいかも……」
【智】
「……そうかなあ」
【るい】
「そうだよ」
喉から出かかった言葉を飲み込む。
喜んでいるところに、
根拠もなく水を差すのも悪い。
あらかじめ決まっていた出会い、なんて。
そんなものがあるとして。
それは。
――――呪い。
宿命であれ運命であれ、結果の定められた道のり、
栄光の代価としての苦役、決まった道筋から逃げられない、
選ぶことさえ許されないのなら。
それがどれほどの栄華を約束するにせよ、
その名には「呪い」こそが相応しい。
悩んでも見当もつかない。
そもそも。
呪い、運命、宿命、前世。
それって、ちょっとおもしろおかしい素材過ぎだ。
真夏のオカルト番組で、お笑い担当のコメンテーターに馬鹿に
されるぐらいが指定席なのに。
【智】
「柳の下より今日のテーブル」
【るい】
「その心は?」
【智】
「さて、晩ご飯どうしよう」
【るい】
「ないのか!?」
【智】
「みんなで食べようと思って材料買ってきたんだけど、さすがに
家人がいないのにキッチン借りるのも」
【るい】
「やっぱりないのか!」
るいは棒立ちになった。世界の終わりと遭遇していた。
【智】
「しかたないから外食にしようか」
【るい】
「外食……」
うんうん唸る。葛藤する。
るいは食費の桁が違う。
外食すると、文字通り桁が違ってしまう。
【るい】
「るるる〜」
【智】
「にしても騒がしい一日だったねえ」
【るい】
「うんうん」
【智】
「……」
【るい】
「なによぉ」
【智】
「いい顔で笑ってる」
【るい】
「なわっ」
【智】
「楽しかった?」
【るい】
「…………まね」
【るい】
「なんかお祭りでもしてる気分」
【るい】
「ほら、なんせヤクザな生活してますし、仲間とか友達とか、
そういうのあんまりいなかったんだよね」
【智】
「後輩とかに好かれそうなタイプなのに」
【るい】
「んー、まあ、下駄箱に手紙入ってたり、校舎裏に呼び出されたりしたことは何回かあるんだけど」
ほのかなお話だった。
【智】
「相手は年下の?」
【るい】
「うん、女の子」
【智】
「…………」
ほのかじゃなくて切ない思い出だ。
【るい】
「私、不器用だし、気まぐれだし、怒りんぼだし……すぐ考え無しに突っ走っちゃうから、なんかのはずみで仲良くなっても、あんま長続きしないの」
【智】
「友情って信じる?」
【るい】
「…………信じたい」
夜風が梢を鳴らす音に、切ない言葉が混じる。
信じるでも、信じないでもなく。
信じたいと、るいは口にする。
それは願望だ。
か細くすがる希望だ。
あり得はしないと知っているから、
その裏返しにある無力な祈り。
【るい】
「私ってさ、ほんと単純だから、だから、信じたら――」
【るい】
「きっと、最後まで信じちゃうんだ」
【智】
「るいっぽい」
【るい】
「それってどんなの?」
考えて、言い換える。
【智】
「忠犬っぽい」
【るい】
「いいのか、悪いのか」
【智】
「誉め言葉です、たぶん」
【るい】
「うむ、誉められとく」
歯を見せて笑った。単純だ。
心地よい匂いに気がつく。
石けんと混じった、るいの体臭。
思いの外距離の近いことを意識する。
乾ききってない濡れ髪の無防備さに、
こっそりとドギマギしていた。
【智】
「僕らはさ、とりあえず友情からは、はじめない」
近さから気を逸らそうと、別の話題をふり直す。
友情ではなく、同盟から。
【るい】
「同盟か」
【智】
「相互条約からスタートで」
【るい】
「よくわかんない」
【智】
「ギブアンドテイクで助け合おう」
【るい】
「わかりやすくなった」
利用し、利用されることを互いに肯定する。
【るい】
「智、変なこと思いついたよね」
【智】
「変じゃないです。問題をまとめて解決するために知恵を絞ったんです。家がなかったり、ご飯がなかったり、トラブル多すぎるでしょ」
【るい】
「ご飯がないのは問題だ」
【智】
「元凶その一の自覚なさ過ぎ」
【智】
「あのね……だから、僕らは力を合わせて…………この、呪われた世界をやっつけるんだ」
呪い、呪い、呪い。
くめど尽きぬ泉のごとく、
後から後から湧きだす数多の呪いに充ち満ちた、
この世界を。
【るい】
「……呪われた世界をやっつける」
【智】
「そういえばさ、るいの返事は、まだ聞かせてもらってなかった
よね」
【るい】
「返事って?」
【智】
「これから一緒にやっていくのに、賛成? 反対?」
聞くまでもないとは思って流していたけれど。
最終の段取りに確認をする。
【るい】
「…………」
【智】
「るいはどうしたい?」
【るい】
「どう……」
【智】
「明日のこと、その先のこと、これからのこと」
【るい】
「………………」
【るい】
「わかんない」
【智】
「平然と暴言をかまされますね」
【るい】
「先のことなんて考えたこともない」
【智】
「いやいや、お待ちなさいって」
【るい】
「べーだっ」
舌を出された。
るいは不思議だ。
悪ガキみたいなノリの中に、
奇妙なくらい少女がいる。
【智】
「いきなり舌ですか」
【るい】
「私は何ンにも約束しない人なのだ」
【智】
「なんの自慢か」
【るい】
「しない自慢」
意味がよくわからない。
【智】
「約束しない人(じん)?」
【るい】
「そのとーり」
【智】
「指切りも? 口約束も? また明日のお別れも?」
【るい】
「そのとーり!」
【智】
「……どういうイズム?」
【るい】
「るいイズム」
暴君的な胸をはって断言する。
ちなみに、るいが暴君なので、
伊代の場合は宇宙意志だ。
花鶏サイズで自衛隊。
後の二人は……まあ、いいや。
【智】
「よくわかんないです」
【るい】
「そのとーり!!」
【るい】
「そうなの、まさにそこなの。明日のことはわかんない、明日が来るかもわかんない、そんな心配一々してもはじまんない。だから、人生はいつだって一期一会!」
【智】
「サムライヤンキース」
【るい】
「それが私のライフスタイル、人生設計。だから返事なんかして
やるもんか、べーっ!」
【智】
「…………」
論理的整合性を検討してみる。
途中でさじを投げた。
【智】
「やっぱりわからない」
【るい】
「考えるな、感じろ」
屁理屈なのか、我が儘なのか、
自分の生き様を断固として曲げない信念なのか。
余人の理解を超越した心根も、
貫き通せばそれはそれで美しい――
かどうかは解釈の分かれるところだろう。
【智】
「わかった、わかりました、いいです、それでいいです」
個人のライフスタイルに
ケチを付けてもはじまらない。
同盟に異を唱えてはいない。異議があるなら、
るいは後ろも見ずに飛び出して、きっとそのまま帰ってこない。
消極的賛成。
補足・アテにはしてもよさそう。
心メモにラベリングして貼り付けた。
今はそれで十分。
【智】
「とりあえず、今日から同盟はじめます」
夜を見上げて。
星の群れへと手を差し伸べるように、大きく万歳。
【智】
「るいちゃん、適当についてきてね」
【るい】
「べー」
【智】
「期待してるから」
【るい】
「べーべーんべー」
【智】
「今日はみんなでご飯食べよう!」
【るい】
「えいえいおー!」
本当の問題はここから。
はじめるのはなんだって簡単だ。
やり続けることが難しい。
やり続けて、そこで成果を出すことは、
さらにその何倍もハードルが高い。
そして、なによりも。
(さっさと段取りを付けて、
なるべく早めに手を引かないと……)
〔契約結びました(学園編)〕
【智】
「けれど彼女の願いが叶うことはありませんでした……と」
【宮和】
「珍しいお姿を発見いたしました」
【智】
「なぁに、スベスベマンジュウガニでもいた?」
【宮和】
「和久津さまがレポートを片付けておられます」
【智】
「学生の本分は勉学なんですよ」
シャーペンを指で弾いて、
手のひらの上でくるりと旋回させる。
何年か前に流行した。最近も再燃したという。
意味はないが、流行の多くは
意味などさして必要とはしない。
その瞬間の流行であること、
それ自体が意味だと言い換えても構わない。
ご多分に漏れずに覚えたモノで、さして難しいわけでもないのに、コツがわかっていなければ思いの外うまくいかないのでヤケになる。
要は、慣れだ。
日常といい、非日常という。
対比される両者の境界は、
平常から乖離(かいり)した距離の過多に尽きる。
もののとらえ方の問題でしかない。
慣れ親しんだ平常が移ろえばその定義も変化する。
【宮和】
「提出日の休み時間に、慌てて仕上げておられる姿というものは、初めて目にいたします」
回し損ねたペンが掌からこぼれた。
【宮和】
「優等生の霍(かく)乱(らん)」
【智】
「ひとを鬼かなにかみたいに……」
【宮和】
「いったん亀裂が入ると、たいそう脆いものなのです。かのダムと同じです」
【智】
「不気味な予言をせんでください」
【宮和】
「昨日はお忙しくて?」
【智】
「まあ、その、何かとばたばたと」
【宮和】
「多忙であるのはよいことですわ」
【智】
「縁側で猫でも抱いてるのが理想なんだけどね」
【宮和】
「忙しいうちが花とも申します」
とりたてての意味を持たない、
他愛もない戯れあい。
さりげなく触れ合い、
時間を費やす行為。
日常を意識する。
物語なら、振り返ってはじめて価値をみいだせる平穏な日々にこそ与えられる名であり、多くはその安らぎこそ価値あるものだと主張する。
現実には、どうだろう?
教室に踏みこむと、
日常のリズムに取り込まれる。
習慣のなせる技といえた。
もはや意識もしないほど深いレベルで、
学園は日常の一幕として組み込まれている。
【智】
「欺(ぎ)瞞(まん)に糊(こ)塗(と)された日常でも……」
【宮和】
「日常は欺(ぎ)瞞(まん)の上にしか成り立たないものです」
宮和はいつも唐突だ。
どこまでが計算しているのか、まるでわからない。
【智】
「宮、ときどき可愛いことを言う」
肘杖に頬をのせて、笑う。
【智】
「そういう宮は好き」
【宮和】
「本気にいたします」
【智】
「え、えと……」
墓穴。
【宮和】
「式場の予約は済んでおりますから」
【智】
「どういう手回し!」
【宮和】
「お色直しは3回で」
【智】
「しかも豪華だ!?」
【宮和】
「冗談でございます」
【智】
「目が怖かった。スッゴクコワカッタ」
【宮和】
「悩み事がお有りなのですね」
【智】
「人生とはこれすなわち苦悩」
【宮和】
「含蓄あるお言葉ですわ」
【智】
「幸せは一人でくるのに、不幸は友達と連れだってやってくる、
だった?」
【宮和】
「不幸さまは寂しんぼう、ですか」
【智】
「可愛く言っても嬉しくならない」
【宮和】
「そそりますね」
【智】
「何に猛(たけ)っているの!?」
【宮和】
「悩み事が数多いということですか」
【智】
「無理矢理話を戻された……」
【智】
「まあね。そのあたりも悩みの種。優等生としては、譲れない一線というものがあって……」
境界は、概して、目に映らない。
それでいて、ある。
様々な要因によって区分される自他の領海線だ。
【智】
「宮なら、どうする? たとえば、自分がいることが相手にとって何かのストレスになっちゃうような時」
【宮和】
「それはあれですか? 私は愛人の娘なのあのひとがお腹を痛めた子供じゃないわ、とかのお仲間でしょうか」
【智】
「そんな嫌すぎる例題ぽろっと出さないで!」
【宮和】
「そうですね、わたくしなら……やめます」
【智】
「やめるって、お別れしちゃうの? 家から出てく?」
【宮和】
「いいえ。気にするのをやめるので」
【智】
「気にしてるのは相手の方じゃ……」
【宮和】
「それは相手のご都合ですから」
【智】
「まあ、それは……相手は、きっと、いやだろうね」
【宮和】
「でしょうけれど、私は、私であることは止められませんから。
気にするのを止めて、それで別の問題が出てくるようでしたなら、またその時に改めて考えます」
突き放すような返答は、一面の真実の裏返しでもある。
【智】
「やっぱり、八方丸くなんて、都合のいい解答はそう簡単には
おちてないか」
【宮和】
「眉間に島が」
【智】
「きっと皺」
【宮和】
「そんなにお悩みになっては胃を悪くなさいます」
歳をとったら最初に胃腸を壊しそう。
考え込むのは昔からの悪いクセだ。
わかっていても、やめられない。
きっと、怖い。
見えないことが、恐ろしい。
ホラー映画に似ている。
チェンソーもった殺人鬼は脅威であっても恐怖ではない。
後ろから追いすがってくる姿は笑いさえ誘う。
恐怖とは、未知だ。
不明であること、見えざること、
曖昧であること。
真と偽の境界の揺らぎの中に怖さが潜んでいる。
手探りで進まなければならない、その瞬間――――
それが怖くて、幾度も幾度も考える。
可能性と過去の類例から、自分の持ち得る知識から、
来るべき未来像に懸命な接近を試みる。
【宮和】
「和久津さま。心塞ぎがちの貴方にこれを」
【智】
「文庫本?」
【宮和】
「日常的読書に愛用している書籍です。お貸しいたします」
【智】
「おもしろいの?」
【宮和】
「心洗われます」
【智】
「期待しちゃおう」
表紙をめくる。
魅惑の調教師・幸村大、
令嬢生徒会長肛姦補習授業。
官能小説だった。
【智】
「うりゃ」
投げ捨てた。
【宮和】
「ああ、なんという酷いことを」
【智】
「なんでこんなのが日常的読書なの!」
【宮和】
「こんなのではなくスターリン文庫の、」
【智】
「寒そうなレーベル名はどーでもよいです」
【宮和】
「繰り返し愛読を」
【智】
「なぜ繰り返す」
【宮和】
「心塞ぎがちの日々にはよろしいかと」
【智】
「いい台詞も台無しです!」
【智】
「しかも、外側にこんな、可愛い可愛いなカバーわざわざつけて……」
【宮和】
「学園でも日常的に読めるようにと」
【智】
「そういう気だけ使わないで……」
【宮和】
「お電話ですわ」
【智】
「まったく…………」
携帯の液晶を確認する。
花鶏からだった。
昨日、全員で携帯の番号とメアドの交換をした。
るいと茜子は携帯を持ってないことも発覚したりした。
【智】
「まったくの鉄砲玉……不便だから、今度プリペイド持たせるか
何かしよう」
【智】
「はぁい」
待った。返事がこなかった。
【智】
「はぁい?」
再度。こんどは『?』を語尾のニュアンスで付ける。
【花鶏】
『…………』
【智】
「……花鶏?」
【花鶏】
『別に、特に用があったわけじゃないわ』
【智】
「え、あ、そ、そうなの」
【花鶏】
『ええ、なんでもないのよ。まったく、つまらない電話』
【智】
「あ、はい?」
【花鶏】
『暇だったから、ちょっと時間が余ったの。だから電話してみた
だけよ。まったく度し難い』
【智】
「…………度し難いのですか?」
【花鶏】
『じゃあね、サヨナラ』
ツー・ツー・ツー・ツー。
【智】
「………………はい?」
猫騙しされた猫の気分。
〔どうしたんだろう?〕
《ただの気まぐれかなあ》
《なにかあったんだろうか》
〔契約結びました(学園編)〕
【宮和】
「どうなさったのですか」
【智】
「よくわかりません」
3限目がはじまる。
授業の内容は右から左に抜けた。
胃の下に石でも詰まってるみたいな不快感。
小気味よい白墨のリズムを断ち切って。
【智】
「先生――――」
挙手した。
【智】
「はぁい」
【こより】
『やほーでございます! こちら、こよりであります。
センパイにはご機嫌うるわしゅう……』
【智】
「挨拶はさておき」
【こより】
『なんでありますか』
【智】
「その前に確認を」
【こより】
『はっ、なんなりと』
【智】
「今、時間的に授業中じゃないの?」
【こより】
『…………』
【智】
「…………」
【こより】
『センパイ』
【智】
「なんざましょう」
【こより】
『……ジュギョウチュウとは美味しいでありますか?』
【智】
「この件については後ほど裁判で改めて」
【こより】
『釈明の機会を〜!!』
【智】
「長くなるかも知れないけど、身体に気をつけてね」
【こより】
『お慈悲〜』
【智】
「さて、こより君。
きみを一休のエージェントと見込んで指令を授けます」
【こより】
『おお、まさかそこまで認められていたとは!』
【智】
「(学園を)一休」
【こより】
『一級!』
【智】
「まあ、細かいことはいいか」
【こより】
『なにやら引っかかりを覚える今日この頃……』
【智】
「いつの日か、誤謬のないヤングでアダルトなレディーに
クラスチェンジしたら話してあげる」
【こより】
『らじゃーッス』
【智】
「そっちの現在地は……
なるほど、なら、悪いけど頼まれて欲しいんだけど」
【智】
「……そう、そう……確認を……たぶんそのあたりに。
いなかったらそれで問題なしだし。うん、こっちから携帯に
かけても出ないから」
【智】
「それで状況がわかったら、僕の携帯に」
【こより】
『万事了解でありますっ!』
【智】
「お手数取らせます。
あ……っと、帽子、あるならかぶっていった方がいいよ」
【こより】
『帽子?』
【智】
「ウサギさんだと目立つから」
授業再び。
トイレから戻ってきても教室に変化はない。
歯車の駆動音を連想させる授業の進行。
受験のための知識の錬成。
教師の解説を聞き流しながら、
こよりの連絡を待つ。
曖昧なまま待つ時間。
ひどく、長く、いらだつ。
気がつくとシャーペンで、ノートに「の」の字を刻んでいた。
授業を写し取った白い紙面に、いくつもの「の」が黒い染みになる。
【宮和】
「先生」
宮和が挙手した。
【先生】
「なんだ、冬篠?」
【宮和】
「和久津さまのご気分が優れないようですので、保健室に
お連れしたいと――――」
【智】
「宮、宮、宮和――」
【智】
「別に、どこも悪くは……」
【宮和】
「そうですか。では、どういたしましょう」
【智】
「…………」
【智】
「ごめんね、気を遣わせちゃって」
【宮和】
「ささいなことでございます」
【智】
「宮、思ってたよりも大胆な子だった。こういうことしでかす
タイプだったなんて」
【宮和】
「人は見掛けに寄らないものですわ」
【宮和】
「それで、どうされますか」
【智】
「……悪いけど、早退で。先生には」
【宮和】
「お伝えしておきます」
【智】
「感謝」
【宮和】
「和久津さまは生理痛でご帰宅なされましたと」
【智】
「ちょっとブルーかな……」
【宮和】
「やはりブルーなのですか」
【智】
「ブルー違いだと思うんだ」
【宮和】
「……お貸ししましょうか?」
【智】
「ナニオデスカ」
【宮和】
「愛用しております海外の鎮痛剤です。父の知人の製薬会社の方からいただいているのですが、これが効果抜群」
【智】
「いや別に」
【宮和】
「和蘭(オランダ)製、イタイノトンデケン」
【智】
「日本製だよ!」
【宮和】
「無念です……」
【智】
「じゃあ、宮。申し訳ないけど、後はよろしく」
【宮和】
「承りました」
【智】
「このお礼はあらためて」
【宮和】
「では、今度、わたくしとデートなど」
【智】
「オフィーリアのガトーショコラセットごちそうする」
【宮和】
「初めてですわ」
【智】
「……?」
【宮和】
「和久津さまが、お誘いを受けてくださったのは」
【智】
「そうだったかな……そうかも……」
【宮和】
「では、お覚悟のほどを」
【智】
「覚悟がいるデートなのですか!?」
【宮和】
「行ってらっしゃいませ」
【智】
「しかもなし崩しに誤魔化された!」
見送りの代わりに、宮和は深々と頭を垂れた。
〔花鶏の事情〕
【智】
「昨夜はあの騒ぎでしたので、今後の方針については、日を改めて打ち合わせをするとしまして」
【智】
「それまで行動はなるべく慎重に。慌てる帝国海軍は真珠湾、
という諺もあります」
【るい】
「なんかすごいぞ」
【こより】
「センパイ、学があるです!」
【茜子】
「人を信じる心が美しすぎて、茜子さん涙あふるる」
【智】
「一人で、先走って突っ込んでいっちゃうようなことのないように。くれぐれも」
【花鶏】
「ふんっ」
【花鶏】
「……ふん」
花鶏は隠れている。
無様だと思う。
汚濁の街で孤独に息を殺す。
古いビルの隙間を縫うように、
路地から路地へ、裏道へと移動する。
追われていた。
失策だった。
他人と歩調を合わせて、
じっと時を待つことに、花鶏は耐えられない。
元々これは花鶏個人の問題で、
赤の他人に手をだされる筋合いもない。
自分ひとりでできる。
過信があった。
矜持(きょうじ)があった。
油断があった。
一昨日の騒ぎで、
花鶏たちに煮え湯を飲まされた連中が、
自分を捜している可能性を警戒しなかった。
雑多な街だ。
大勢が交じれば区別はつかない。
いるかどうかもわからない相手に、
わざわざ人手を割くなんてバカのすることだ。
そう思うのが、花鶏の陥穽(かんせい)だ。
向こう側とこちら側。
境界を踏み越えれば世界が変わる。
世界とは、価値観だ。
駅のこちらと駅向こうでは、
街の理屈も別物だった。
ある世界では、面子というものが、
黄金よりも貴重になってしまうことだってあるのだから。
【花鶏】
「どうせ覚えて捜すのなら、殴ったヤツの顔を覚えてればいいのに……」
舌打ちする。
自分に置かれた状況が不条理に思えてくる。
なぜ、あのチチ女でなく自分がこんな目にあうのか。
花鶏は目立つ。
雑踏に混じっても、
油のように浮かび上がる。
昨日の今日とはいうものの、他の誰かであれば、
一日を街に埋もれて平穏無事に終えられたかも知れない。
追われたのは花鶏だからだ。
記憶に残ったのは花鶏だからだ。
花鶏で無くなる以外に避けようがない。
考えなくてもわかることに考えが及ばなかったのは、
花鶏にとっては、それがなんら特別ではないからだ。
自分で思うほどに、ひとは己を理解しない。
自分の物差しが特別だと意識するには、
他者と交差し、差異に苦悩する時間が必要になる。
【男】
「――――ッ」
【男】
「――――――」
【花鶏】
「ちっ」
声がする。
聞こえてくるのが日本語でなければ、
危険とみなして逆方向へと逃げる。
花鶏にはこの辺りの土地勘がない。
逃れるために移動するほど、
現在位置を見失い、さらに深みへ足を取られる。
悪循環だ。
【花鶏】
「ここ、どのあたりかしら」
独りごちても返事はなかった。
一人を意識する。
独りには慣れている。
花鶏は孤高の花だ。
高台に咲く。
世界を見下ろし、肩を並べるものなど無く、
足下を顧みることも知らない。
気まぐれに手を差し伸べることはあっても、
誰かに救われるなんて、考えただけでも――――
【花鶏】
「……怖気がする、死んじゃうわ」
慣れているはずの独りきりが、
裸で校庭に立っているような肌寒さに変わる。
頬を触る風はぬるく、いやな臭いがした。
行く先が見えないだけ不安は身の丈を増す。
連中に捕まったらどうなるのか、考察してみた。
さらにブルーになった。
どう控えめに推測しても、
笑えない展開になりそうなので、それ以上の追求を止める。
【花鶏】
「……X指定はわたしの担当じゃないのよ」
弱気の虫が忍び寄ってくる。
一人では駄目かも知れない。
こんなところに一人でいるのは寂しい。
誰かに一緒にいて欲しい。
この際だから、あの性悪乳オンナでも誰だって――――
ポケットの携帯電話が重みを増す。
開いて番号を打てば、それだけで繋がる小さな接点。
ギブアンドテイク。
同盟なのだと、智は言った。
お互いに利用し合い、助け合う。
助け合う――――?
花鶏は思う。
そんなことは、望まない。
必要ではない。
絶対に。
【花鶏】
「ひゃっ!?」
携帯がマナーモードで震動する。
【花鶏】
「…………」
智からの着信だった。
右手が強張る。
携帯を取る。カバーを開く。着信ボタンを押す。
たった三つの動作で声が聞こえる。
しばらく鳴って切れた。
最後まで取らなかった。
さっき、こっちからかけたのが、
そもそもの間違いだ。
あれは気の迷いだった。
助けが欲しかったんじゃない。
ただの、ほんのちょっとした気まぐれだったのだ。
手助けなんて、
これっぽっちも必要ない。
一人でやれる。
それを証明しなければない。
自分自身の手で。
簡単なことだ。
この街のどこかにいる、
盗んだ相手を捜して、見つけて。
アレを取り返す。
知識も技術も経験も不足しているが、
花鶏は達成をこれっぽっちも疑わない。
花鶏は信仰する。
信仰が可能性の隙間を埋めるのだ。
何もかもうまくいく。
そうでなければいけない。
痣の聖痕。
その運命を信じている。
幼い頃から、花鶏はそれに意味を見いだしてきた。
絶えていた徴(しるし)が、自分の元に返ってきたこと。
母にも、祖母にもなかった。
約束された運命だ。
なのに――――――
聖痕が増える。
増えれば聖ではなくなる。
俗に落ちる。
不安の種が身じろぎしていた。
運命の路が挫折しているのか。
進んだ道の先に約束の地などなく、実のところ、破滅こそが
あらかじめ用意されていた結末ではないのか。
信仰には形がない。
だからこそ強く、また脆い。
根拠は外ではなく内にある。
疑えばきりがない。
指の先を傷つけた小さな棘程度の猜(さい)疑(ぎ)が、
破綻の群れを呼び寄せることだってある。
【花鶏】
「あの牛チチッ!!」
八つ当たりに空き缶を蹴り飛ばした。
品性に欠ける行動は慎まねばならない。
でも止められない。
苛立っている。
移動しようとして、足音に気がついた。
まずい。
ビル影に飛び込んでやり過ごす。
心臓が早鐘を打つ。
こちらを見ている相手は、
誰でも敵に思えた。
いよいよまずい徴候だ。
疑心暗鬼の手が足下まで伸びてきている。
冷静さを失ったら最悪なのに、どうにもならない。
【花鶏】
「ッ!」
また来た。
携帯がマナーモードで震動する。
悩んだ。
怖ず怖ずとポケットに手を伸ばす。
ブルブルと催促するように携帯が震える。
液晶画面に面と向かって、固まる。
「智」
表示された文字。
強張った指でコンソールを開けた。
そして。
呼び出しが切れる。
【花鶏】
「な………………」
裏路地に静けさが戻ってきて。
【花鶏】
「なによそれは!」
一瞬で静寂は破壊される。
【花鶏】
「わたしが取る寸前に切れるなんてどういう了見よ! 処刑されたいわけ?!」
【花鶏】
「帰ったら、ただで済ませると思ってんの!」
リダイヤル。
智の携帯へ。
怒りにまかせて身体が動いた。
携帯が番号を読み取る。入力される。
電子音のテンポがひどく遅くてイライラする。
早くかけて。
さっさと呼び出して。
そうしたら、
そうしたら――――――
どうするつもりなんだろう。
怒りに充ちていた手から力が抜ける。
携帯は勝手に智の番号を呼び出しはじめる。
どうするつもりなんだろう。
どこまでも曖昧な気分のまま、携帯を耳に当てた。
ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー
【花鶏】
「な………………」
【花鶏】
「なんなのよそれは!」
通話中だった。
〔契約結びました(市街編)〕
【こより】
『センパイセンパイセンパイセンパイ!』
【智】
「センパイは1度でいいです」
【こより】
『どーしたらいいのかわかんないッス!』
【智】
「僕にもどーしたらいいのか」
【こより】
『神も仏も〜』
【智】
「だから状況を説明しなさい。
それがわかんないと、どーしようもないのです」
【こより】
『花鶏ネーサンが』
【智】
「見つけたの?!」
【こより】
『いい感じに』
【智】
「間違いなくって?」
【こより】
『ネーサン、目立ちますから』
【智】
「様子はどう?」
【こより】
『普段通りですけど』
【智】
「それは重畳(ちょうじょう)」
【こより】
『ただ追いかけられてるだけで』
【智】
「全然普段通りじゃないです!」
【こより】
『逃げてるみたいでぇ〜』
【智】
「他には?」
【こより】
『隠れてるみたいです』
【智】
「別視点から分析すればいいってモノじゃないよ!」
【こより】
『なんか、不味い空気になってる感じがヒシヒシと〜』
【智】
「そんなに?」
【こより】
『言語が危険な感じに怪しい、イケナイ方向性のひとたちと
3回くらいすれ違いましたです……』
【智】
「……なんとか花鶏を追いかけられない?」
【こより】
『駅向こうの、かなりマズイあたりに来てるです。これ以上、深度深いところへ突っ込んで行ったら、追いかけられないッス!』
【智】
「そこをなんとか」
【こより】
『それは死ねと〜』
【智】
「死んじゃうんだ……」
【こより】
『ウサギは一羽になると死んじゃうのデス……』
【智】
「……そうDEATHか」
【こより】
『どーしたらいいのか、どーすればいいのか……。
不肖鳴滝めは探偵失格でございますー』
【智】
「探偵じゃなくて偵察」
【こより】
『似たようなモノでは』
【智】
「一文字違いで大違い」
【こより】
『まだまだおいらは未熟……』
【智】
「それで」
【こより】
『合流しちゃうのは、鳴滝的にありですが』
【智】
「いや、それは……
カモがネギというか、地雷原に地雷見物というか」
【こより】
『???』
【智】
「とりあえず、こっちも向かってるから。援軍も連れて行くから、それまで危険なことには首を――――」
【こより】
『……………………』
【こより】
『あー、やっばーいっ!!』
【智】
「え、なに、ちょっと?!」
【こより】
『やば、すごくやばー、うー、やー、たーえーい、不肖鳴滝、
オンナは気合いで、やるときはやるでございまーす!!!』
【智】
「あ、ちょと、ちょっとまちなさ―――」
花鶏は追いつかれた。
静止画のように、男が二人。
肌がひりつく。
明らかに手慣れていた。
身のこなしが染みついた暴力を印象させる。
片手がポケットに収まっている。
何かを隠し持っているのだ。
鋭利で、剣呑な。
悪意が遅効性の毒物のように空気を侵していく。
相手は舌なめずりひとつしない。
かえってリアルな危機を感じさせた。
花鶏は、諦めるより憤った。
武器を探す。
棒きれ一つでもいい。
二人はいけない。やっかい事としても倍だが、
相手にすることを考えれば倍以上に危険だ。
役に立ちそうなのは、手持ちのカバンくらい。
【花鶏】
「まったくろくでもない……」
トラブルはくぐり抜けられる。
花鶏は運命を信仰する。
小さくささった不安の棘を飲み込んで。
相手が早口で何かをまくしたてた。
とても聞き取れないが、
恫喝か威嚇かのどちらかだ。
決まっている。
来る。
花鶏は目を丸くした。
【花鶏】
「ちょ、ちょっと待って!」
待つわけがない。
【花鶏】
「だから待てって!!」
男の手が鋭利な速度で動く。
それよりも一回り早かった。
【こより】
「きゃーーーーーーーっ、ちかんさーん!!!」
後ろから、こよりが右の男に体当たりした。
男がよろめく。
もう一人も注意がそれた。
花鶏は、こよりの方を向いた左の男の後頭部に、
カバンの角を叩きつける。
いい感じの手応え。
そのまま、バランスを崩している右の男に肩からぶつかって、
思い切って突き飛ばした。
隙間をこじ開けた。
逃げる。
【こより】
「花鶏センパイ!!」
二つおさげをなびかせたウサギっこが、
愛用のローラーブレードで追いついてきた。
【花鶏】
「あなたはっ」
【こより】
「よかったぁ〜、無事でなによりであります!」
【花鶏】
「無事じゃないわ! これからますます無事じゃなくなるわよ!」
【花鶏】
「ほら急いで! じっとしてたら捕まるわ!」
【こより】
「それはご容赦〜」
【花鶏】
「いやなら走れ」
【こより】
「あうー、どっちいけばいいッスか……」
【花鶏】
「……わからないわ」
【こより】
「無責任だー」
【花鶏】
「いいからこっち!」
【こより】
「あう、まってー!」
【花鶏】
「ちょっと、そっちだけ車輪付きなんてずるいわよ!!」
【こより】
「ずるい言われましても……」
【こより】
「ここ、どのあたりなんです?」
【花鶏】
「だからわからないと」
【こより】
「いよいよ無責任だ……」
【花鶏】
「それよりも、さっきの」
【こより】
「え、てへ、とにかくなんとかしないとって」
【花鶏】
「まあ、役には立ったわね」
【こより】
「お褒めにあずかり恐悦至極にございます」
【花鶏】
「でも、危ないことをして」
【こより】
「……初めてでした」
【こより】
「やりかたとか、全然わかんなくて……」
【花鶏】
「誰だって一度は通る路よ」
【こより】
「ちょっと違う気が……」
【花鶏】
「大したことなかったでしょ」
【こより】
「それは、まあ。なんか、思い切るまでが大変で、実際やってみると、ぱっと終わっちゃったっていうか」
【花鶏】
「案外気持ちよくて」
【こより】
「あううう」
【花鶏】
「ストレス解消にもいいかもね、大声」
【花鶏】
「…………無駄話してる暇はないか」
【こより】
「追ってくるですか?」
【こより】
「うむむ、この間からこういう人生が続いております」
【花鶏】
「二度あることは三度ある」
【こより】
「三度目の正直で遠慮したいであります」
【花鶏】
「仏の顔も三度までといって」
【こより】
「仏さまになるのですか」
【花鶏】
「熨(の)斗(し)つけて、ごめん被るわ」
【こより】
「そうだ、センパイにメール!」
【花鶏】
「智に……?」
【こより】
「コールサインは1041010で、ピンチなので
すぐ来てください!!」
【花鶏】
「……アテになるの?」
【こより】
「ここにはセンパイの命令できたんです」
【こより】
「花鶏センパイがやばそうなので、偵察して捜してと」
【花鶏】
「あいつ、そんなこと……」
【花鶏】
「…………」
【花鶏】
「ふん」
こよりからの連絡を待ちかねていた。
足は無駄に速くなる。
1分でも早く近づこうとする。
急ぐには走らなければならないが、
無闇に動いたところですれ違ってしまうと意味がない。
百も承知の上だった。
待つよりも動いている方が落ち着くのは、
何かをしている感覚が免罪符になるからだ。
無為に待つ方が、辛い。
携帯がメールを着信する。
待ちかねたものだった。
こよりからの連絡だ。
通話でもいいのにメールである。
合流成功。逃走中。
【智】
「安心する暇もないんだもんねえ……」
嘆く。
余裕があれば天を仰ぎたい。
折り返し、リダイヤル。
【智】
「……なぜにメール」
【こより】
『メールに心引かれる、こよりッス!』
【智】
「よくわからない」
【こより】
『字になった方が、心こもってる気がするわけなんです』
【智】
「複雑だ……」
【こより】
『世界の神秘ッス』
【智】
「花鶏は?」
【花鶏】
『……いるわ』
【こより】
『です』
【智】
「現在地は?」
【こより】
『お助け〜』
予想通り道に迷っていた。
どうすればいいだろう?
追いかけてる連中だって、公僕に睨まれるのは願い下げの筈だから、駅向こうまでなんとか逃げるのが一番だ。
状況を訊ね、合流する場所の指示をする。
こちらも向かう。
細い路から二人が転がり出てくるところだった。
【こより】
「センパイ〜〜〜!」
【智】
「よーしよしよし、なんとか生きてる? 怪我とかしてない?
そっちも大丈夫?」
【花鶏】
「私の心配するなんて、百年早いわね」
生きてるうちは無理っぽい。
【るい】
「へらず口女」
【花鶏】
「……どうして、こいつがいるわけよ!?」
【るい】
「こいつっていったよ、こいつ!」
右と左から問い詰められる。
花鶏ン家に茜子と一緒しててくれたので、
るいを捕まえることができた。
茜子も携帯持たない人だけど、花鶏の家の電話機は
ナンバーディスプレイなので、僕からの電話には出てくれる。
どっかに飛んでってたら、実にマズイところだった。
今度、絶対にプリペイド携帯持たせておいてやる。
【こより】
「それよりも、後ろから来るんですよーっ!」
こよりが泡を食って指差す。
追っ手だった。
【智】
「走れ!」
【こより】
「にゃわ〜」
幾つ目かの曲がり角を高速でカーブ。
前方不注意で制限速度をブッチぎっていたローラーこよりが、
通りすがりの無実な学生さんに右から追突した。
横転に巻き込まれた花鶏も足をもつれさせる。
【無実な学生の人】
「――ッ」
【花鶏】
「なにしてる、前見なさい、前を!」
【こより】
「申しわけ〜」
二人の後ろを、僕が追いかける。
何か踏んだような気もするが些細な問題だ。
事故った分だけ追いつかれる。
最後尾のるいが、追っ手の間を遮った。
【るい】
「――――」
追っ手は3人に増えている。
途中で合流したらしい。
るいが、僕らをかばう位置に立つ。
峻厳(しゅんげん)な殺意が、相手を貫く。
後ろから見ているだけで、
背中の産毛が総毛立つ。
相手は逡巡(しゅんじゅん)した。
るいの危険さを嗅ぎとるだけの鋭さを持っている。
それに、ここは人通りも、そこそこある場所だ。
手間取れば騒ぎになる。
判断が難しい。
車を呼んで強引に僕らを詰め込めば済むかも知れない。
【花鶏】
「……バイクに乗ってくればよかったわ」
【智】
「原付でしょ」
【花鶏】
「デカいのもあるわよ」
【こより】
「乗ってくればどうにかなりました?」
【花鶏】
「必殺技が使えるわ」
もの凄いフレーズが来た。
花鶏から聞くとさらにショックが大きい。
【智】
「必殺ナノデスカ」
【花鶏】
「片仮名の発音が気に入らないわね」
【こより】
「スゲーッス!」
こちらは素直に感心していた。
【智】
「今の瞳の輝きを忘れないでね」
【こより】
「了解であります!」
【智】
「それでどういう必殺?」
【花鶏】
「ヘヴィモータード・チャージング・アサルト。3人くらいなら
まとめて一撃よ」
【智】
「それ絶対轢いてるだけでしょ!?」
【花鶏】
「名前は今考えた」
想像よりも恐ろしいヤツだった。
考えてみると、最初の出会いで必殺技を受けそうになっていた。
【智】
「…………素敵な出会いでしたね」
【るい】
「それいただき」
るいの気配が緩む。
ちらりと肩越しに後ろを向いたのは、普段のるいだ。
【智】
「素敵出会い?」
【るい】
「その前のやつ」
【智】
「前というと……」
【るい】
「必殺」
バイク轢殺攻撃。
【智】
「そんなもの、いたただかれても」
【花鶏】
「あなた、免許持ってるの?」
【智】
「そういう問題でもない……」
【るい】
「そこで黙って見てなさい。世界がびびる、るいちゃん流必殺――――」
天に向かって高々と咆哮した。
路上駐車してある、誰かの原付のハンドルを掴んで。
【智】
「な、」
【花鶏】
「に、」
【るい】
「原付あたーーーーーーーーっく!!!!!」
丸ごと投げた。
【智】
「ぎゃわーーーっ???!!!!」
自転車ではない原付である。
持ち上げたのではなく投げつけた。
【るい】
「しねーーーーーーっ!!!!」
言われなくても当たると死ぬ。
ゆうに数メートルを飛翔した。
重量70キロの砲弾だ。
連中がびびった。
こっちまでびびった。
鋼の筋肉をまとったむくつけき2メートルの大男が、
パフォーマンスに持ち上げるのとはわけが違う。
空飛ぶ原付は連中の目の前で壮絶に着地した。
むしろ爆地。
示威効果としては十分すぎた。
蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。
後には大往生した原付の亡骸だけが残される。
どこの誰のものかは知らないけれど。
【るい】
「南無」
るいが手を合わせる。
貴重な犠牲であった、
キミのことは永遠に忘れない。
そう誓っているように見えなくもないが、
たぶん、気のせいだろう。
【るい】
「どんなもんすか、るいちゃんの新必殺技……って、なに
この白けた空気」
【花鶏】
「バカ力とは知ってたけれど……まさか、バケモノ力とは
思わなかったわよ」
【るい】
「感謝しろよな、こンちきしょうめ」
【智】
「すごいね、サイボーグ」
【るい】
「うち人間すから」
【こより】
「すげーですぅ〜〜っ!」
空気読まないこよりは、素直に驚嘆する。
〔契約結びました(ダークサイド編)〕
【智】
「ここまで逃げれば」
【こより】
「大丈夫なのですか!?」
【智】
「だいたい問題ないと思います」
【花鶏】
「走るわ汚れるわ、散々な一日だわ」
【智】
「誰のせいですか」
【花鶏】
「運命を恨みなさい」
やるせなかった。
お前なんか犬のウ×コ踏んじゃえ、運命。
【智】
「ひとりでやっちゃダメって念押ししなかったっけ?
どうしてさっさと走っちゃうかな」
【るい】
「チームワーク大切にしろつーの」
【花鶏】
「あなたに言われたくないわね」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
すぐに揉める。
【智】
「以後は謹んでください」
【花鶏】
「これは、わたしの問題だわ!」
【智】
「今は全員の問題なの、僕らは運命共同体なの!」
同盟。
互いを救う相互条約。
【花鶏】
「はん、運命共同体」
鼻で笑われる。
【智】
「それではお尋ねしますが、手がかりは?」
【花鶏】
「…………」
【智】
「捜し歩いて何か見つかった?」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「はーい、センパイ先生ー、質問があります!」
【智】
「どうぞ、こよりくん」
【こより】
「…………これからどうするですか」
【智】
「それなんだよね」
【花鶏】
「……本を、捜すに決まってるでしょ」
【智】
「本が、バッグの中味なんだ」
【花鶏】
「…………ええ、そうよ。花城の家に代々伝わる古い本、
大切な……大切な本なのよ」
さすがの花鶏も肩が落ちている。
ほんの心持ちだけど。
【智】
「闇雲に捜しても見つからないよ」
【こより】
「闇雲じゃなければ見つかるですか?」
【智】
「捜し方にもよるけど。盗まれたのは本。
とりあえず捨てられてるっていうの考えないでおくとすると……」
もし燃えるゴミと一緒に出されていたら、
ゲームオーバーだ。打つ手はない。
【智】
「そこで問題です。どうして他人のものを盗んだりするんでしょう?」
【るい】
「……それが欲しかったから」
【智】
「いい線です。ただ、今回はかなり偶然っぽいので違います」
【こより】
「……価値がありそうだから?」
【智】
「はい、正解です。10点獲得と次回のジャンプアップで+1」
【花鶏】
「それはつまり、本をお金に換えるということ?」
【智】
「本が入ってたとは思わなかっただろうね。高価そうなバッグ
だったから狙っただけで、本が入ってたのは成り行きだと思う」
【智】
「こうなると盗んだヤツが多少はモノを見る目があるか、とにかくどんなものでも換金しようと考えてくれる方に賭けるしかないんだけど」
【こより】
「古本屋さんに売っちゃったりするんですか?」
【智】
「馬鹿になんないんだよ、本。
稀覯本だったりすると、出るところに出たら――」
ゴニョゴニョ。
純真なこよりちゃんに、とある本のお値段を囁いてあげる。
【こより】
「きゅう」
目を回した。
【こより】
「そそそそそそ、そんなにお高いんですかッッッッ!!!」
【智】
「ピンキリだけども、ものによると……今のヤツのン倍」
【こより】
「ガクガク……」
憐れな小動物と化して怯えてた。
【花鶏】
「こそ泥風情が……」
【智】
「本当の、ただのひったくりとかなら、ボロの本なんか捨てちゃうかも知れないから、早く見つけて」
【花鶏】
「殺してやるわ」
本気だった。
相手の生命と未来のためにも、
捨ててないことをせつに祈らずにはいられない。
【こより】
「すると、古本屋さんとか調べれば手がかりが!」
【智】
「いやまあ、理屈はね」
【智】
「この場合は盗品だから、手慣れた相手なら、下手に足がつかないように、盗品を扱うような人間を間に挟んだりするかも……」
そんな物騒なところにツテはない。
盗品を扱うような連中なら、
一種のコミュニティーを持っているはずだ。
犯罪的なコミュニティーは当然排他的要素を強く持つ。
外部の人間が近づけるとは思えない。
まして――
【るい】
「?」
【こより】
「♪」
【花鶏】
「…………」
美少女軍団だ。
水と油だ。掃き溜めに鶴だ。
美人三姉妹で美術品を盗んで歩くのとは訳が違う。
悪目立ちして最初の三歩でばれてしまう。
【智】
「ただでさえ駅向こうに行くのがマズイのに、そんな所に近づけると思う? ツテもコネもなく」
目隠しして地雷原を突破するようなもので。
【るい】
「すると?」
【智】
「無理っぽいんだよね」
【花鶏】
「そんな――っ!」
花鶏が、珍しく臆面もない声を上げて、
【惠/???】
「案内しようか」
もうひとつ、知らない声が降ってきた。
低温なのによく通る、不思議な声の主は、
【智】
「……?」
見知らぬ学生さんだった。
詰め襟の制服が、上の道路から階段を降りてくる。
【花鶏】
「……誰? 知り合い?」
【智】
「うんにゃ」
【るい】
「右に同じ」
【こより】
「同意」
るいにチラリと目をやる。
それで伝わった。
るいは小さく肯く。
近くには、他の誰も潜んでいる気配はないらしい。
すると。
追っ手ではないみたい。
【智】
「どちらさまですか?」
【惠/???】
「なんだ、君は忘れてしまったのか。人の心は罪だね。こんなにも容易く他人を傷つける。僕は忘れがたく、こんなにも焦がれているというのに」
わー。
【智】
「――――っと、ごめんなさい! ちょっと思考を手放してた」
【花鶏】
「……いえ、私も今真っ白になってたわ」
【るい】
「ほへー」
【こより】
「ほへー」
るいとこよりは、まだ燃え尽きていた。
【花鶏】
「なにこれ。どういうの? なんとも珍しい手合いだけれど」
【智】
「や、やばい」
動揺した。
【花鶏】
「なにが、どう? 危険な相手なの? なにかあるの?」
【智】
「誰か知らないけどものすごくヤバイ。僕、こういうタイプとコミュニケーションするのは、想定したことがなかったんだッッ!」
右往左往。オロオロする。
【花鶏】
「……あなたが本音で慌てるのも初めて見るわね。案外イレギュラーには弱いのかしら」
相手が下までやってきた。
本能的にうなじの毛が逆立つ。
苦手なタイプだ。
おまけに……背が高い。
【智】
「……うらやましい」
【惠/???】
「それで、案内はいらないのかい?」
少年だ。
手の触れそうな場所にいるのに存在感が薄い。
独特の気配だ。
【こより】
「あう、きれー……」
【るい】
「えー、こよりん、あーいう青白いのがいいのー?」
正気づいたギャラリーが騒いでいた
こよりが乙女アイで見惚れている。
ハートが飛んでます。
まあ、たしかに。
こやつは美形キャラだ。
少女漫画っぽい、性別を感じさせない整った顔立ちは、
どこか人形めいて硬質だ。
【智】
「えっと、その、どちらさまでしたっけ?」
再度、質問。
【惠】
「才野原(さいのはら)惠(めぐむ)」
【惠】
「君の友達だよ」
友達宣言された。
才野原惠――
姓と名を別に検索しても記憶がない。
【智】
「覚えてないなあ。
もしかして、進級する前に同窓だったとか、そういうの?」
【こより】
「あ、さっきぶつかった人ッス」
【智】
「ぶつかった?」
【こより】
「そうです、さっき、るいネーサンがバイク投げするちょっと前に――」
【こより】
「にゃわ〜」
【無実な学生の人】
「――ッ」
【花鶏】
「なにしてる、前見なさい、前を!」
【こより】
「申しわけ〜」
【こより】
「飛び出して、通りすがりの無実の学生さんの脇腹に、勢い余って肘を一撃」
【惠】
「そういうことも、あったかも知れない」
【智】
「友達と全然違うだろ!」
出会ったばかりだよ!
変なヤツだと思ったら、
うんと変なヤツだった。
なぜ、どうして、僕の周りには、
こういう変人がより分けでやってくるのか。
神様がいるとすれば、
そいつはどうしようもなく性悪だ。
居場所を教えてくれないから、
胸ぐらをつかんで問いただすという小さな望みも叶わない。
【惠】
「すると、これから友達になるのかな」
【智】
「前後させたら大違いだ」
【惠】
「出会いは運命だという言葉もあるけど、君は信じない?」
【こより】
「うー……運命の出会い〜〜〜〜〜〜っ!!」
少女漫画なフレーズに、こよりが身もだえする。
こういうのを、リアルで耳にするとは思いもよらなかった。
【智】
「僕、リアリストですから、そういうのはちょっと……」
【こより】
「えー」
三角座りして土いじりしそうなぐらい残念がる。
【智】
「でも、とりあえず、そういうことならそれは、つまり、こよりが――」
一撃食らわせた、その帳尻合わせにきた?
【惠】
「その続きを覚えている?」
【智】
「続き?」
【惠】
「そう、ぶつかったその後に」
【智】
「後といえば――」
【無実な学生の人】
「――ッ」
【智】
「あ、踏んじゃった。ごめんなさーい!」
【るい】
「踏んだんだ」
【智】
「……………………」
確かに、踏んだ、気がする。
【惠】
「その時、運命を感じたんだ」
【智】
「そんな運命ゴミ箱に捨ててしまえ!!」
それは運命じゃなくて呪いだ、絶対。
【こより】
「そ、そ、そ、そ、それってもしかして――」
きゃんきゃんと嬉しそうに。
やめて、よして、後生だから。
お願いだからその先の、
呪われた言葉を口にしないで……。
【こより】
「恋っ!! では〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
【惠】
「そうかもし、」
【智】
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
台詞を断ち切って絶叫。
【るい】
「ど、どうしたの、トモちん。でっかいイヤン?」
【智】
「焦るな、静まれ、男に告白されるなんて何回もあったじゃないか。こんなことでめげてどうするの。今度のヤツはちょっとアレだっていうだけで、僕の心臓まだ動いているよお母さん……」
【こより】
「センパイ?」
【るい】
「どない?」
【智】
「ふひ、ひひひひひ、ひひひ、ひひっひ」
【こより】
「こわれちゃいました」
【花鶏】
「たく、この忙しいときにしようのない」
【花鶏】
「えと、才野原惠だったかしら」
【惠】
「ああ」
【花鶏】
「どこまで本気なのか知らないけれど、一つだけ、事前に
はっきりと、断っておくわ」
【花鶏】
「この子はわたしのものだから、あなたは手を引きなさい」
【智】
「そっちじゃないでしょ!」
【こより】
「あ、生き返った」
【花鶏】
「ちっ」
【智】
「ちっ、じゃなくて! 僕は誰のモノでもないですから!」
【花鶏】
「わたしのモノになるのはこれからだけど、遅いか早いかの
違いだから、大差ないでしょう」
大違いだ。
【惠】
「それで、どうする? 案内しようか」
そういえば、話の切り出しはそれだった。
【智】
「…………案内というと」
【惠】
「盗品を扱うような連中のコミュニティー、ツテがあるなら……と。君らが今話してたんだろう」
【こより】
「話は全部聞かせてもらったッスよ!」
【智】
「……今時珍しい刑事ドラマ技能の持ち主だなあ」
【惠】
「案内が必要だと」
【花鶏】
「――別に、わたしには、そんなもの必要じゃないわ」
妙なところで意固地な花鶏だった。
【惠】
「知ってそうな相手に心当たりは、あるかな。君たちを、そのひとのいそうなところに案内して、紹介するくらいしかできないけれど」
相手の方が好意的に無視してくれた。
【るい】
「これって渡りに船ってやつ?」
【こより】
「犬も歩けば棒に当たるです〜!」
【るい】
「当たったのは、こよりだし」
【こより】
「あうぅぅ、誉められてるのか怒られてるのか……」
【るい】
「でも、なんでゴキブリ噛みしめたような顔してるかな」
【智】
「してますか」
顔に出てたらしい。
【智】
「……本当に、案内してくれる?」
【惠】
「必要なら」
【惠】
「そのかわりに」
【智】
「…………」
言われるまでもない。
世界は契約と代価でできている。
【惠】
「実は……」
【惠】
「君のことが忘れられないんだ。でも、強引と言うのは趣味じゃ
ないから、友達からはじめてくれるかな」
わー。
【こより】
「きゃー!」
意識が戻った時、こよりはお星様を一面に飛ばしながら
くるくる回っていた。
【るい】
「……あーいうのの、どこがいいのか、私よくわかんない」
【花鶏】
「男なんてどれもダメに決まってるわ」
【智】
「…………」
【るい】
「トモ、返事してあげなさいよ。せっかくコクられてんだから」
【花鶏】
「意外……色恋絡むと、もっと不器用に逃げ出すキャラだと思ってたのに」
【るい】
「おあいにくさま。これでも告白だけは山ほどされたことあるんですよー、べーっ!」
るいが舌を出す。
告白だけは――すごい日本語の欺(ぎ)瞞(まん)を見た。
るいに告白したのは全員「女の子」だったというのを、
僕は聞かされたので知っている。
【花鶏】
「恋愛偏差値のお高いことで」
【るい】
「告白するのって凄くエネルギーいるんだよ。火がついちゃいそうなくらいに必死で、どーんと体当たりしてくるような感じ」
【るい】
「傍にいるだけで、全部をここに使ってるんだなぁっていうのが
わかっちゃう。だから、せめて、返事はちゃんとしてあげないと
ダメ」
百聞は一見にしかず。
出会ったばかりで愛を告白したにしては、どう見ても必死には
思えない男の子が、目の前で微笑している。
【惠】
「それで、どうかな」
夜になる。
人の川が街路を流れる。
街は交点だ。人と物が交差する。
繋がることはなく、触れ合って離れる。
街はひとの数だけの顔を持っているのかもしれない。
【智】
「どうして夜なの?」
【惠】
「夜でないと相手が現れない」
【智】
「そのあいてって、吸血鬼の親戚筋のひととか?」
【惠】
「勘がいいね。噂を聞いたことは?」
噂はしらないが、
どうやら本物の吸血鬼らしい。
とかくこの世は不思議だらけだ。
吸血鬼、黒いライダー、
花嫁を連れ去る王子様。
【惠】
「そういえば、これってふたりっきりになるのかな?」
【智】
「ブーッ!!
離れろ、近付くな、最短距離50センチ割り込み禁止!」
飛んで逃げた。
愛の語らいなんて断じてごめんだを示す、
両手で×マーク。
【惠】
「つれないね」
惠は肩をすくめもしない。
取り引きに応じて、
僕らは友達契約を結んだ。
最低の語感ですね、まったく。
引き替えに惠にツテを紹介してもらうことになった。
その、問題の相手は夜にしか現れないという。
【惠】
「二人で来ることにしたのは、どうして?」
当然、花鶏は来たがった。
るいも、行くとうるさかった。
【智】
「色々やっちゃったから目立ってるし、顔覚えられてたら余計な
騒ぎになりかねないし。この上物騒なことになったらとっても
困るし」
【智】
「ツテとの話がおかしな方向に流れても、僕ひとりの方がきっと
丸く収まるだろうから」
【惠】
「そうやって巻き込むのを避けるわけか。盗品の話、自分のことじゃないんだろう? なのに……興味深いね、君は」
【智】
「買いかぶらないでよ。僕は効率優先な人種なんだよ」
【惠】
「そういうことにしておこう」
前触れもなく惠が歩き出す。
【惠】
「そろそろ時間だ」
【智】
「どこまで行くの?」
【惠】
「半分は運任せだね」
【智】
「……案内じゃないんですか」
【惠】
「相手がいそうな場所は何ヶ所かある。しらみつぶしにする」
【智】
「どうせロクでもない場所なんだ……」
【惠】
「それはもう。ロクでもない相手がいる場所だから、ロクでもないと相場は決まってる」
聞くまでもなかった。
【惠】
「運が良ければ早めに見つかるだろう」
【智】
「悪ければ?」
【惠】
「いないだけだよ」
わかりやすかった。
【惠】
「運は良い方?」
【智】
「うんと悪い方」
【惠】
「悪運はついてるようだ」
惠に案内された三つ目の路地だった。
異臭が鼻をつく。
灯りのない路地裏に、
街の腐臭とも異なる、饐えた臭気がこもる。
顔をしかめた。
【惠】
「尹央輝(ゆんいぇんふぇい)?」
【央輝】
「誰かと思えば、才野原かよ。
相変わらずウロチョロと目障りなこったな」
路地裏に灯がはいる。
ライターの火だった。
黒い塊がいた。
黒いのは唾広の帽子と蝙蝠の羽めいたコート。
見た目だけならコスプレだが、同じ場所に居合わせるだけで、
肌のひりつく空気を身につけている。
狼が一目で獣だとわかるように、
これは危険だと説明されなくても理解できる。
【智】
「……ほえ?」
帽子の下から、ライターの火に爛々と
照る虹彩が睨みつけていた。
見覚えがあった。
【智】
「あれ、それってもしかして……?」
【惠】
「知ってるのかい」
【智】
「まあ、知り合い程度だけれど……」
尹央輝(ゆんいぇんふぇい)。
そういえば、あの時、名前を聞いていなかった。
【央輝】
「そいつは――?」
【惠】
「君に相談したいことがあるそうだ」
【央輝】
「相談?」
ナイフでくり抜いたような三日月の形に、
相手……央輝の口の端がつり上がる。
近くで見るとよくわかる。
央輝は随分ちっこい。
だが、小型でも刃物と同じだ。
以前にあったときとは違う、
針の刺さるような存在感。
危険な生き物だ。
【央輝】
「くくっ、あたしに相談か、詰まらない冗談を仕込むヤツだぜ」
【央輝】
「いいさ、聞くだけ聞いてやる。場所を変えるか」
央輝が路地を出る。
ライターの火が移動して、
奥にあった臭気の元を明らかにした。
男が二人倒れていた。
大の大人だ。
その男たちの吐いた血反吐の臭いだ。
【智】
「――――」
惠の袖を後ろから引く。
路地の奥を、黙って指で指す。
よくあることだと、惠は小さく肯いた。
【惠】
「注意するといい。央輝は気性が荒いんだ」
尹央輝といえば、その筋ではただならず名前を知られている有名人らしいが、その筋無関係な一般人の僕が聞いたこともないのは当たり前だった。
なんにでも境界はある。
一歩線を踏み越えれば、
そこは知られざる別世界。
央輝は危険な人間だった。
危険な人間の統率者でもあった。
央輝を直接知るものは少ないが、
代わりに、夜の街を伝説が流布していた。
曰く、吸血鬼。
曰く、ひと睨みで相手を殺す。
曰く、人を食っているのを見た。
央輝は、駅のこちら側に夜ごと繰り出す若い連中の、
カリスマとして君臨している、といわれても、
何となく凄そう、以外には実感が湧かないんだけど。
【智】
「こんな場所でいいの?」
【央輝】
「文句があるのか」
【智】
「ないない、ぜんぜんない」
夜の街に佇んで、缶コーヒーを片手に密談にふける。
下手な場所よりは、外の方がいいという。
まあ、下手な場所に連れて行かれても困るわけだし。
【智】
「そういえば、忘れてた。この前は、ありがとう」
央輝にお礼を言った。
追われていたとき、
逃げ道を教えてくれたのだし。
【央輝】
「……」
不思議そうな顔をされた。
水色のパンダとか、
その辺りの珍獣を見つけた顔だ。
【智】
「でも、話を聞く限り、央輝はあっち側の人じゃないの?
どうしてあの時は」
【央輝】
「ふん、ちょっとした気まぐれだ。貴様が気をまわすことじゃない」
物騒な社会には物騒なりのルールとか勢力争いとか、
あまり首突っ込みたくない事情があるのかも知れない。
【智】
「それならそれで、感謝」
【央輝】
「あれは貸しだ。いずれ取りたてる」
【智】
「ごもっともです」
【央輝】
「にしても、盗品の行方とはな! それも、あるのかないのかも
わからないモノを、わざわざ頼みにくるなんてな」
含み笑う。
【央輝】
「笑える話だ、こいつは。才野原、オマエ、ちゃんと教えてやったのか?」
【惠】
「彼女なら、わかっていると思うよ」
惠が流し目で促す。
表情が少なくて感情が読みにくかった。
【智】
「…………」
わかっている、とは思う。
どんなコミュニティーにでもルールがある。
そこに非合法の色がつくなら、
自らを維持するために、より排他的な、
より厳格なルールが必要だ。
求められるのは、契約と代価。
どこででも通用する、どこででも求められる。
それは普遍の法則だ。
【央輝】
「これを聞いてやったら、2度目だな。お前は2度あたしの前に
顔を出して、その度に面倒事を頼んできやがる」
【央輝】
「これが縁なら、糞くだらない縁にも程があるな。違うか?」
【智】
「なんとか、なるの?」
【惠】
「……」
【央輝】
「ならなくも、ない」
酷薄な顔。
【央輝】
「そいつが、あたしたちの仲間なら、話は早い。仲間でなくても、金に換えるためにどこかを通したなら、この街のことなら、必ずあたしの耳には入ってくる」
【央輝】
「だから、だ」
【央輝】
「あるなら、見つけてやってもいい」
背の低い央輝は僕を見上げる。
暗く沈んだ目だ。
3本目と4本目の肋骨の間に、音もなくスルリと滑り込んで
来そうな、薄く鋭利な尖った眼差し。
【智】
「ほんと?」
【央輝】
「…………オマエ、まともじゃないな」
なにやら、酷いことを言われている気がする。
【央輝】
「おい、才野原。そうなんだろ。こいつ、まともじゃねえんだろ?」
【惠】
「まともか否かの区別がつくのは、まともな人間だけじゃないかな」
【央輝】
「はっ、くだらねえ!
そんなもん、まともの保証は誰がつけてくれるってんだ?」
【惠】
「さあね」
くくっ、と央輝が喉に笑いをこもらせた。
【央輝】
「お嬢っぽいわりには、キモの座ったやつだな、お前」
【智】
「そうかな」
そうかもしれない。
【央輝】
「まあ、いいさ」
そうだとすれば、それは、きっと。
――――――――もっと恐ろしいものを知っているから。
【央輝】
「いいぞ。その本とかいうのは見つけてやる――――
あれば、だがな」
【智】
「ホン(本)ト!」
ちょっとしたシャレです。
【央輝】
「ああ」
聞き流された!
【央輝】
「どうした?」
【智】
「いえ、些細な失敗に打ちひしがれてます……」
【央輝】
「ふん。いいか、モノには価値がある。価値は交換できる。あたしが言ってることはわかるな」
【智】
「……僕の借り、二つ目ってことでいい?」
【央輝】
「はははっ! 聞いたかよ、才野原!」
力いっぱい笑われた。
【央輝】
「ここへ来て黙って『貸してくれ』だとよ。ふざけた玉だ、笑えるヤツだ! こりゃいい!」
【惠】
「いいのかい。その本、君のモノでもないのに。
君が借りておく必要はないんじゃないのかい?」
【智】
「借金はまとめておいた方が管理しやすいので」
央輝はまだ笑っていた。
ほっとくと夜明けまで笑われちゃってそうだった。
【央輝】
「ふ、ふふ、くくっ……いいさ、何かわかったら連絡してやる。
せいぜい首を長くして待ってろ」
唇がサメみたいにつり上がった。
俺様お前を丸かじり、といわれてるみたいで、
この先を思うととても悲しくなった。
携帯の番号を教えて、僕らは別れた。
【智】
「ローンで首が回らなくなったらどうしよう……」
茜子の父親も、
こんな感じでがんじがらまったのかも。
借金恐ろしい。
夜風がどうにも身に染みる。
【惠】
「央輝は、本当に、気性の荒いヤツだよ」
忠告らしかった。
しかも、かなり笑えない。
【智】
「あー、うー」
ひとしきり、天を仰いで嘆いた。
惠とも別れて、ひとり孤独な家路につく。
奇妙に胸が詰まった。
慣れている孤独が胸におちてくれない。
名付けがたい胸のにがりに首を傾げる。
【智】
「このところずっと騒がしかったから」
こういうのも寂しさというのかしらん。
そういえば、今頃どうしてるんだろう。
〔誰のことを考えよう?〕
《るいのことを考える》
《花鶏のことを考える》
《こよりのことを考える》
《伊代と茜子のことを考える》
〔るいのことを考える〕
あの暴食魔神はどうしてるだろう。
しばらくは花鶏が家に泊めてくれるから、
家なき子の宿無し問題は一時保留だ。
【智】
「……なにか方法を考えといた方がいいですね」
今の状況を解決したら、次の課題。
問題は際限なし、そろって難問、時間制限付き。
【智】
「そのうちハゲるかも……やだなあ」
部屋に辿り着いた時には深夜近かった。
扉の前に変なものがいた。
【るい】
「おかえんなさい!」
るいが膝を抱えてうずくまっていた。
【智】
「なにしてるの?」
【るい】
「待ってたの」
【智】
「花鶏ん家に……」
泊まってる筈では。
【るい】
「ノンノンノンノン」
指を立ててちくたく振って。
【るい】
「ついつい飛び出て来てしまいました」
【智】
「途中経過を端折りすぎです」
揉めたな。
きっと揉めたな。
そういう可能性は考慮しておくべきだった。
失策だ。
最近多いな、失策……ドラマの完璧軍師並に。
【るい】
「そんでトモちんのこと待ってた」
【智】
「……とりあえず、あがって」
【るい】
「わーい、お部屋だお部屋だ!」
小躍りしている。
計算してみた。
時間が遅いので、
バスも電車もとっくにない。
るいを泊めることで生じるマイナス要因(主に秘密発覚の可能性)と、るいを追い出すことで生じるプラス要因。
差し引きすると追い出す利益が大きすぎる。
季節柄寒くもないし、るいはバイタリティーなひとなので一日や
二日公園のベンチで寝泊まりしていただいてもまったく平気だ。
となれば結論は簡単。
【智】
「…………今日は泊まってっていいから」
【るい】
「わーい!」
弱いな、自分。
ご飯を食べてから、またしても、一緒に寝ることになった。
【るい】
「トモって優しいよね。ちゃんと泊めてくれるし」
【智】
「心的ストレスに弱いんだよね。胃腸とか」
心配性とも言う。
【るい】
「――――それで、今日はそれでどうだったの」
るいは、落ち着いた目をしていた。
津波がくる直前の海だ。
仲間を守るのと同じだけ、敵には容赦しない。
るいなりに、僕が一人で行ったのを心配しているらしい。
僕の返事一つで時限爆弾のスイッチが入る。
【智】
「運が良かったんだか、悪かったんだか。進展はあったから、明日みんなにもまとめて話すよ」
【るい】
「うまくいったんだったら、そんでいい」
【智】
「……うん」
どうか、このまま上手くいってくれますように。
〔花鶏のことを考える〕
【花鶏】
『どうだったの!?』
出るなりこれだ。
【智】
「ちょっと待って」
【花鶏】
『いいから早く答えなさい!』
【智】
「耳が痛くて声がきこえないから」
気を揉んでいるだろうと電話したのを、
ちょっぴり後悔。
【花鶏】
『…………』
【智】
「進展はあった」
【花鶏】
『別に、期待なんてしなかったわよ』
【智】
「でも、捜してくれることになった」
沈黙が落ちる。
花鶏の頭が高速で回転している。
【花鶏】
『必要ないのに』
【智】
「僕らが地道に捜すよりは、あてになるから」
【智】
「詳しくは明日話すから」
【花鶏】
『まあ、いいわ』
【智】
「じゃあね」
【花鶏】
『――――待って』
【智】
「なあに」
【花鶏】
『どうして……一人で行ったの?』
問い詰める口調じゃなくて。
それは押さえた怒りだった。
その矛先は、僕と花鶏で半分こだ。
一人で行くと最後まで譲らなかった僕、
それをとうとう論破できなかった自分。
【智】
「それは、別れ際に言った通り」
【花鶏】
『そんなことは聞いていない』
【智】
「……難しいね」
【花鶏】
『わたしは怒ってるのよ』
【智】
「声でわかります」
【花鶏】
『何故怒っているかもわかって?』
花鶏は予想している。
契約と代価だ。
それはどこにでもある構造だ。
常に適用される、普遍の約束事だ。
僕の借金が、花鶏を傷つける。
【智】
「わかりません」
【花鶏】
『わたしたちが、運命共同体だといったのは、あなたよ』
鼻で笑われた記憶があるんですけれど。
【智】
「同盟だけに」
【花鶏】
『…………いいわ。わたし、無駄なことはしない主義だから。
詳しい話は明日聞かせてもらう』
【智】
「イエスマム」
不機嫌そうな、短い沈黙。
黙ったまま電話を切られそうだった。
【花鶏】
『……他の連中に、伝えることは?』
予想は外れた。
【智】
「おやすみなさい」
【花鶏】
『芸のない』
【智】
「大衆に埋没する平凡な人生が理想です」
【花鶏】
『あなたには波瀾万丈が似合うわね』
いやだなあ。
【花鶏】
『……それじゃ、おやすみなさい』
返事も待たずに切れてしまった。
〔こよりのことを考える〕
【智】
「このまま無事に決着してくれると、こよりんも無駄に元気に
なるんだけどなあ」
ドタバタ騒ぎの発端を作ったことを、
アレはあれで負い目に感じている。
ときおり振る舞いが過剰なのは、
半分はそこが原因じゃないかと思う。
【智】
「もそっと落ち着いてもいいのに」
人間関係の交通整理。
同盟は結んだだけでは終わらない。
維持する方が難しい。
これが中々手間なのだった。
【智】
「ほう……」
小さくため息をついた。
〔伊代と茜子のことを考える〕
出会いを回想する。
【智】
「……危うい偶然だったなあ」
のっけから危機一髪の二人だった。
ほんの数分、あそこへ行くのが早いか遅いかしていれば、
今頃とてつもなくX指定なお話になっていたはずだ。
危機一髪は現在進行形で続いているけれど。
当事者である茜子。
当事者でない伊代。
茜子には選択の余地がないが、
伊代には、本当は僕らといる理由がない。
お人好し。いいやつ。委員長気質。
【智】
「いいやつほど損する世の中なのに……」
肩をすくめたはずなのに、なぜか足下が浮ついた。
どうして気分がよくなったのか。
わからないまま帰路についた。
〔るいのお出迎え〕
何の変哲もなく、進展もなく、穏やかに。
数日が過ぎる。
最近は平穏無事な日々の方が珍しく感じられる。
やだなあ……。
実は、一度だけ波風のたったことがありました。
央輝とお話した翌日のことだ。
【伊代】
「いや、なんといいますか」
【花鶏】
「……バカね」
【茜子】
「バカですね」
【こより】
「バカなのですか?」
【るい】
「うむむむむ」
央輝とのことを説明したら、
死ぬほどバカにされた。
自分から進んで他人の連帯保証人になるようなヤツは、
生きてる資格ナッシングです……
とまで言い切ったのは茜子さんでした。
……もう少し綺麗な言葉にして欲しい。
危険な賭けにあえて挑むのは、
勇気ではなく無謀と呼ぶんだってばよ、レディー。
とか。
花鶏は怒った。
どれだけ怒ったのかというと。
回想シーンにするのもちょっと躊躇(ためら)われるくらい。
主に花鶏の名誉のために。
人間がどこまで怪物に近づけるかという、
新たな可能性をかいま見た、気がする。
【智】
「はわ…………」
大きなあくび。
それらを除けば、
いたって長閑な日々だった。
今日もまた。
行き来の道のりも、授業も、
何事もなさ過ぎて眠気を誘う。
放課後になっても約束はない。予定もない。
ここんとこ、約束はトラブルと裏表だったけど……。
トラブル解決のために約束するのか、
約束するとトラブルが生まれるのか。
【後輩】
「さよならー」
【智】
「さよなら」
下級生が会釈して去っていく。
離れる背中に手を振りながら、
相手の名前も知らないことに微苦笑した。
こちらが覚えていなくても、
あちらは僕を知っている。
名前とセットにラベルされた優等生の姿を。
関係は、いつも相互的とは限らない。
【女生徒3】
「いくよー」
【女生徒4】
「わっせ、わっせ、わっせ、わっせ」
耳を澄ませば雑多な音。
授業を終えて帰るもの、部活にいそしむもの、
誰かとの約束に時間を振り分けるもの。
ひとの数だけの路。
ひとは繋がることはなく、
幾重にも交差するだけだ。
今日は宮和も先に帰ったらしい。
しんみり風情のまま行こうとする。とした。
【るい】
「おーい」
正門のあたり。
どわどわ手を振っていた。るいだった。
【智】
「な、なんで…………」
【女生徒1】
「まあ、騒がしい」
【女生徒2】
「どなた?」
【女生徒3】
「見覚えのない――」
【女生徒4】
「他校の生徒のようですけど」
注目を浴びていた。
白い目だった。
難儀なもので、
当のるいには柳に風である。
その手の悪意には鈍いたちなのだ。
【智】
「……」
悩む。
選択肢を脳内に並べる。
選ぶ。
他人のふりをすることにした。
君子危うきに近寄らず。
学園での生活には、ことさら波風を立てたくない。
今のるいは火災報知器みたいなものだし。
カバンを盾に顔を隠して、正門ならぬ裏門に。
【るい】
「おーいおーい、トモちーん!」
【智】
「ぶっ」
思いっきり名指しされる。
【女子生徒1】
「和久津様……?」
【女子生徒2】
「他の学園の方と……」
【女子生徒3】
「どうしてあんながさつそうな……」
【るい】
「トモちん、トモちん、トモちんー!」
しかも3回も反復。
【智】
「ノー…………」
疑惑の矢が背中に次々突き刺さる。
噂が醸成されている。
明日までには発酵して尾ひれとはひれがついて、
地上を二足で歩行している気がした。
【るい】
「トモち、」
【智】
「こっちへ!」
【るい】
「え、あの、そんなにひっぱんなくても」
【智】
「いいから、何もいわなくていいから、こっちこっち!」
【るい】
「なによー、そんなに引っ張らなくても」
校舎から離れた。
落ち着ける距離まで、
るいの手を引いて早足で歩く。
【智】
「ここまでくれば……ふー」
【るい】
「なんでタメ息つくのか」
【智】
「人生は、長い荒野の最果てを目指す旅に似てるのよって話はした?」
【るい】
「難しいことはわかんない」
明日には孵化してそうな噂に思考を巡らせる。
やめた。
未定のことに神経を使うのもほどほどにしておく。
明日は明日の風が吹く。
るいの好きそうな言葉だ。
【智】
「んで、なに」
【るい】
「なにとは」
【智】
「キミはなんで、わざわざ学園に来て、正門前で待ち伏せ襲撃
しましたか」
ほっぺを引っ張ってみた。
やわらかモチ。
【るい】
「みょー」
【智】
「変な顔」
【るい】
「みょーっ!」
解放する。
【るい】
「みょみょみょ、私のやわらかほっぺが……」
【智】
「そんでもって?」
【るい】
「実は、ちょっとした」
【智】
「ちょっとした?」
【るい】
「気の迷い」
【智】
「迷ってどうするの」
【智】
「……いいかげんだなあ」
【るい】
「いい加減って、ちょうどいいって意味だよね」
【智】
「微妙なニュアンスで日本語として成立してるあたり、
たち悪い感じ」
【るい】
「よくないか」
【智】
「良い悪いではなく」
【るい】
「何の話だっけ」
【智】
「僕に訊かれても困ります」
【るい】
「まあ、細かいことは気にしないで」
【智】
「しかもきれいにまとめた!」
【智】
「それにしても、よくこの学園知ってたね」
【るい】
「制服見たら有名なとこだったし、場所は前から知ってたから、
さっそく来てみました」
えっへんと、タイラント胸を張る。
大胆というか、無謀というか、無計画というか。
【智】
「電話ぐらいしてくれればよかったのに」
【るい】
「私、電話は苦手なんだよね」
プリペイドだけど携帯を渡してあるんだけどな。
携帯が必須アイテムの今時にしては、
なんとも前世紀的な意見を聞かされた。
【智】
「すれ違ってたかも」
【るい】
「るいさん、多少は考えたよ。早めに来て待ってたから」
【智】
「早めって、どれくらい?」
【るい】
「1時間くらい待ったかな」
【るい】
「どーしたの、変な顔になってる。会えたんだからノープロブレム。トモとはやっぱり赤い糸が絡まってるんだね」
【智】
「絡まったら人生間違いそう」
結ばれてる方がいくらかマシで。
それにしても、1時間……。
根拠もなく待ち続けるには長すぎるのに。
【智】
「ごめんね、待たせちゃって」
【るい】
「んもう、そんなの気にしないでよ。勝手に待ってただけじゃない。私の気まぐれ、いちいち気をつかってたら若ハゲ様になっちゃうぞ」
【智】
「すごくヤダ」
【るい】
「うむ。トモにはハゲ似合わない」
【智】
「ま、いいか。僕も、実は、るいに用事があったから」
【るい】
「用事? なになに」
身を乗り出してくる。いちいち楽しそう。
【智】
「大したことじゃないから後でいい。それよりも、これから
どーするの?」
【るい】
「どうもこうも、考えてない」
【智】
「ほんとに気まぐれだったんだ……」
【るい】
「るいネーサンに二言はない」
【智】
「二言ないのも時によりけり」
【るい】
「武士は食わねど高楊枝だぜ」
【智】
「用法が違う」
【るい】
「……トモちん、チェックが厳しい」
【智】
「突っ立ってても何だし、どっかいこうか」
【るい】
「デートだ!」
【智】
「…………」
デート。
複雑な単語に思いを馳せる。
にかり。るいが大口をあけて笑う。
下品に見えかねないところが、
愛嬌になる女の子だ。
【るい】
「んと、二人で?」
【智】
「そだね。他にも声かけてみようか」
【るい】
「んむんむ」
嬉しそうに肯いていた。
【るい】
「そういえば、トモはさ」
【るい】
「男の子とデートしたことある?」
【智】
「ありません」
悲しい質問をされた。
頼まれてもしたくない。
【るい】
「るい姉さんもないんだよ」
【智】
「なんとなく納得」
【るい】
「なんとなく、馬鹿にされてる気がする……」
待ち合わせ場所へ移動した。
【るい】
「そういえば、さっき言いかけてた智の用事ってなに?」
【智】
「……」
余りに明け透けな顔に気後れをする。
切りだし方を考える。切り出すべきかを悩む。
確かめておきたいことがあった。
【智】
「あのね、」
無心の目をのぞき込む。
首筋から肩のラインを追った。
女の子にしては骨格はしっかりしている。
しなやかに圧縮された機能を予感させる手足へと繋がる。
細身だが、見た目以上のポテンシャルを秘めた四肢。
ウエイトリフティングの世界記録はたしか200キロを超える。
たかだか70キロそこそこのバイクくらい、
軽々持ち運ぶ人間だって世の中にはいるわけだ。
だけど、そういう手合いは、
鎧の如き筋肉をまとった、むくつけき方々だ。
人間の出力は筋量から決定される。
だからといって筋肉だけを山ほど搭載して出力を増強しちゃうと、骨格の強度が保たなくなる。
人間はとても物理的だ。
ウエイトリフティングによる記録の数値は、
肉体に技術が加わって、ようやく達成可能な領域にあった。
バイク投げ――必殺技。
無造作に車体をまるごと引き抜く、力。
明らかに意味不明だった。
一子相伝の暗殺拳の伝承者で、普通は30パーセントしか使っていない肉体の力を全て引き出せるとか、そういう裏設定でもないと納得できません。
【智】
「質問があります。
答えたくなかったら答えなくていいんだけど……」
【るい】
「もって回ってるぞ」
【智】
「……ハニワ人類と昆虫人類と新しい血族のどれがいい?」
【るい】
「ハニワってなんだ?」
【智】
「とりあえず手近なところから」
【るい】
「……恐竜帝国」
【智】
「わりと渋いところだね」
【智】
「じゃあ、第2問」
【るい】
「まだあるか」
【智】
「るいは先祖に狼男とかいる?」
【るい】
「そんなのいねー」
【智】
「通りすがりの吸血鬼に血を吸われたとか」
【るい】
「あるわけねー」
【智】
「秘密結社に誘拐されて改造手術を……」
【るい】
「さっきから何の話をしてるかな」
迂回することはできなくなった。
【智】
「……バイク投げ」
【るい】
「すごいでしょ」
【智】
「あれってどういう……仕掛け?」
【るい】
「力持ち」
理由なんて知らないのか、言いたくないのか。
前置きもなく。
【るい】
「昔からそうなの」
るいの笑顔に影が混じる。
形は変わらないのに質量が失せて、
形ばかりの空疎な笑みには心の重さが足されていない。
【るい】
「ちっさい頃からね、ずっとそうなんだ。リクエストがあったら、もっとすごいことでもできちゃう」
【智】
「……もっとすごいんだ」
【るい】
「そのとーり。本気になるとすっごいぞ、るいさんは」
【るい】
「智は、そういうの、あんまし好きくない?」
【るい】
「そういうのって、やっぱり怖い?」
不意打ちだった。
怖い――
何を指して。
誰を指して。
るいにとって、どんな出来事が、
その言葉を選ばせたのか。
固い言葉は城塞じみて、その奥に眠るものに、
安易に触れられることを拒んでいる。
誰にでも、それはある。
触れられたくない場所、部分、心の一部。
時に痛みを、時に苦しみをもたらす、最奥の暗がり。
聖なる墓所。
想像は、できる。
秀でていることが、
常に称賛されるとは限らない。
他者との差異は、
安易に敵意へと化学反応する。
妬み、嫉み、恨み――
優れていることが招き寄せる薄汚れたもの。
ましてや、それが過剰であれば。
ひとは、理解できないものを恐怖する。
(――――怖い?)
【智】
「んー、るいらしいかなって思う」
【るい】
「うむ?」
【智】
「なんか、もの凄いの、るいっぽい」
【るい】
「…………」
目をしばたいた。
【るい】
「そういうのは、はじめて言われた」
【るい】
「トモ、やっぱりちょっと変なひとだよね」
【智】
「変か」
【るい】
「変だ」
【智】
「んー、そういうのって、やっぱり怖い?」
訊いてみた。
笑われた。
今度は心の入った顔で。
【るい】
「うんにゃ、トモらしいかなって思う」
【智】
「なら、いいかな」
【るい】
「そだね」
【智】
「それに、助けられたし」
【るい】
「そんなの、仲間を助けるのは当たり前じゃない」
これまた、るいらしい返事だった。
思わず口元がほころぶ。
さて、すぐに皆やってくる。
今日はどこへ出かけようか。
〔僕らはみんな呪われている〕
最初に花鶏が疑義を唱えた。
【花鶏】
「――――どういうことなのかしら?」
多かれ少なかれ全員の意見だった。
花鶏は言葉で僕を、視線はるいを射る。
運よくか、それとも悪くか、暇つぶしの欠員は無く、
全員がそろった後で、るいが先頭をきって歩き出した。
理由のある集まりではなかったし、
どこに行くのでも、構いはしなかったのだけれど。
【花鶏】
「なに、ここ?」
町外れの廃ビルの中です。
元は何のビルだったのかはわからない。
今ではただの廃墟になっている。
いや、そんなことを訊いてるんじゃないんだろうけど。
るいが、僕らを連れてきたのはここだった。
どうして、わざわざこんな所にやってくるの?
こっちだって教えて欲しい。
【智】
「るい?」
【るい】
「んと――」
先ほどから3度。
同じように問い、
同じように言い淀まれる。
るいっぽくない態度だ。
花鶏の水位がさらに下がる。
いよいよ危険なものを感じて、
伊代に救いを求めると、肩をすくめられた。
【伊代】
「薬なし……っていうよりも、わたしも同感」
【茜子】
「茜子さん、飽きました」
【智】
「こよちゃんは?」
【こより】
「あー、こよりめは別に……
でも、何かあるならお早めにいって欲しいのです……」
るいは、最初からここに連れてくるのが目的だった。
今日、わざわざ誘いに来たのも。
るいはしゃがみ込んでいる。
微妙に苛ついている。
ざらついた感情は、
理解しない仲間には向かない。
うまくステップを踏めない自分をもどかしがる、
そんなベクトルに近い。
【智】
「んー」
全員を呼びたかったのか。
それなら電話で約束するか、
説明するか、方法はいくらだってある。
今日だって、連絡もなく僕を待っていた。
すれ違ったらどうするつもりだったんだろう。
るいが、何も事情を話さない理由にもなっていない。
もって回った迂遠なやり口だ。
迂遠というより意味不明だ。
【花鶏】
「どうするの?」
怒っていらっしゃる。当然か。
【智】
「……いいです。よろしい。わかりました」
これは、つまり――――
るいには、答えられない事情が、ある?
【智】
「るい」
るいは、怒られてシュンとしている犬だった。
【るい】
「……」
これは信頼についての問題だ。
難しく困難な命題だった。
【智】
「あと10分でいい?」
【るい】
「…………」
雨に濡れた子犬みたいな目をしてる。
とりあえずは、肯定と受け取ろう。
【智】
「よろし。あと10分待って、何もなければ」
【るい】
「……」
【智】
「どったの?」
【るい】
「怒ったりしないんだ」
空飛ぶ象と遭遇したような顔。
【智】
「変な顔」
【るい】
「トモの方がよっぽど変だと思う」
【智】
「そうかしら」
自覚はあまりない。
自分の物差しは、得てして自分ではわからない。
【花鶏】
「彼女が変だ、というところには同意するわ」
【伊代】
「ま、そうね」
【茜子】
「……」
【智】
「僕らの信頼はどこに行きましたか」
【花鶏】
「利害の一致とか言ってたのはどこの誰?」
【こより】
「センパイ、不肖鳴滝めは、どんなときでもセンパイの味方で
ございます! 変でもよいではありませんか!」
【智】
「まず変を否定してください」
【こより】
「こよりは正直だけが生き甲斐なので」
【智】
「キミは弟子失格」
【こより】
「お情け〜」
【伊代】
「大人げないわね、全会一致よ」
【智】
「数の暴力ですね」
【茜子】
「マイノリティーな負け犬さんの遠吠えは耳に心地いいです。
もっと言ってください」
ひたすら黒い茜子さんだ。
【るい】
「あのね、トモ。私さ、ダメなの。根本的に身勝手なんだよね。
周りを見ないっていうか。普段から考えなしだしさ、たまに
わかんないことしだすし……」
【智】
「今みたいに?」
【るい】
「今みたいに」
自覚はあるらしい。
【るい】
「今までもね、たまに、なにかの弾みで仲良くなった子とかいて、しばらく一緒にいたりするんだけど、結局怒らせちゃうんだよね」
【花鶏】
「気持ちはわかるわ」
【伊代】
「……シビアな突っ込みはおやめなさい」
【るい】
「智は、怒らないね。変なの。すごく変なの。私、自覚あるんだけど。怒りそうなこと、怒られるようなこと、怒り出してもしかたないようなこと、してると思う」
【花鶏】
「まったくだわ」
【こより】
「ネーサン厳しいッス……」
想像をする。
気ままな風のように掴みがたい女の子の姿。
どこまでも無軌道に、
どこまでも身勝手に、飛び回る。
追いつけないことは――
鳥を見上げるように、憧れにも変わる。
わからないことは――
見えないこと、理解不能であること。
不可解は、怖れに繋がる。
わからないことが怖いから、
見えないものに理由を求める。
【智】
「いまね、考えてるんだ」
【伊代】
「……んと、怒らない理由を?」
【智】
「そうじゃなくて、るいが考えてることを」
信頼は相互的だ。
一方的に支払うだけだと、
すぐに萎えてしまう。
心を通貨にした取り引き。
言葉は心を代替する。
言葉足らずな、るい。
レートは食い違う。売買は成立しない。
考えても、やっぱり、るいの考えはわからなかった。
人は繋がらない。
他人の心なんて、魔法使いでもなければわかるはずもない。
仕草やわずかな断片から心を読み解く術は、あるにはある。
でも、それには時間が必要だ。
相手を理解するための時間と、積み重ねた信頼が。
【花鶏】
「何かの罠だったらどうするの?」
【伊代】
「罠って、あなたね……」
【智】
「それは大丈夫」
【るい】
「信じてくれるんだ?」
【智】
「るいはハメるほど頭よくないと思うから」
【茜子】
「それはつまり、この巨乳はバカ巨乳だということですね」
【るい】
「信じ方が嬉しくない」
【花鶏】
「なるほど」
【こより】
「納得しました!」
【伊代】
「それなりに酷いわね、あなたたち」
【智】
「それなりが一番ひどいんじゃないですか?」
【茜子】
「5分が経過しました」
そして彼女が現れた。
【るい】
「遅いよ、いずるさん。なかなか来ないから、私、死んじゃうかと思ったんだから」
【いずる】
「遅くないね。ちゃんと約束もしてないんだ、私にしてはサービス過剰だよ。わざわざ来てやっただけでも十二分におつりが来て小銭が余って困るじゃないか」
【智】
「知ってるひと?」
【るい】
「待ち人だったり」
にへらと照れ笑い。
【るい】
「あのね、前に訳ありで知り合ったひと。名前はね――」
【いずる】
「蝉丸(せみまる)いずる」
相手は、目をほんのちょっと細めた。
無遠慮な感じで上から下まで眺められる。
何かを探るように、測るように。
ちょい引く。
【いずる】
「ふむ、なかなか……はじめまして、よろしく」
【茜子】
「かなかなかなかな」
茜子が鳴いた。
【伊代】
「蝉が違いそうよ」
【茜子】
「無念なり」
蝉丸。
名前は変だった。
古風だ、くらいが精々の誉めようだ。
花城だか花鶏だかとタメをはるぐらいには変な名前だった。
【花鶏】
「何かよからぬ事を考えているようね」
【智】
「ないない、断じてない」
悪口には鼻のきく花鶏だ。
【智】
「それにしても」
うわ、うさんくさ……。
たぶん、後ろのひとたちも、一部の隙もない全会一致で。
【茜子】
「うわ、うさんくさ」
【智】
「……口に出しちゃうんだ」
【茜子】
「ため込むのはストレスの元になりますから」
健康的な信念だった。
【いずる】
「ごあいさつだねえ。まあ、しかたがない。そこの皆元くん、
どうせ何も言ってないんだろうし。どっちみち、うさんくさい
商売なのは本当だしね」
【智】
「自覚あるんだ……」
さっきのお返しに、ぶしつけな感じでジロジロ見返す。
第一印象は、変な和服の若い美人。
温度の低いつり目が性悪のキツネを連想させる。
【智】
「どういうひと?」
【るい】
「んーと、変人で」
【智】
「それは見ればなんとなく」
【るい】
「不審人物で…………専門家、かな」
【智】
「専門にもピンからキリマデあるよね」
【るい】
「おかしな、ことの、専門家…………怪獣退治とか」
怪獣……それはそれはトンデモだ。
【智】
「どこの科学特捜隊の方?」
【いずる】
「別に退治はしないよ。本業は、語り屋といって」
【智】
「うわ、うさんくさ(棒読み)」
【いずる】
「まったくだねえ」
【智】
「自分で切り返されても」
面の皮の厚い人種らしい。
【いずる】
「心配は無用だよ。中味もそこそこだから」
中味まで、うさんくさいらしい。
【智】
「…………」
悩む。
るいに無言で問いかける。
手を合わせて拝まれた。
無言でお願いのポーズ。
後ろの面子を振り返ってみた。
判断やいかに、のジェスチャー。
悩むまでもなく一部の隙もない全会一致で。
面倒だから白紙委任する、のジェスチャー。
【智】
「………………いいかげんだ」
どいつもこいつも。
【いずる】
「なるほど。私は語り屋なわけだけれど、君は面倒屋なんだな」
そんな面倒、ものすごく願い下げだ。
【智】
「もの凄く色々と不本意なんですけど、一応のコンセンサスが
取れましたので」
【智】
「謎の専門家の、えーと…………お蝉さん? それとも、
いずるさん?」
【いずる】
「おをつけるのかい。また古風だね。和服だから時代劇っぽく
するのもわからなくはないんだが。短くするのも、今ひとつ
語呂はよくない気がするけれど」
【智】
「些細なことはさておいて」
【いずる】
「呼び名というのは些細じゃないよ。名は体を表すという諺もあるくらいでね。昔話というのは大概名前が重要な役割を担うだろう」
【智】
「じゃあ、いずるさん。いの一番の疑問なんですけど」
【いずる】
「それは一言だね」
質問の中味を言葉にする前に、小さく薄く笑みが浮かぶ。
低温で、硬質の、色の薄い微笑。
【いずる】
「私の仕事はね、語ることだよ」
まんまだ。
【智】
「騙る?」
【いずる】
「語る」
【いずる】
「まあ、どっちでもいいか。あまり変わらないし」
【智】
「変わらないと困るよ!」
【いずる】
「違わないんだよ。言葉というのは、それはもう嘘つきだ。
嘘も方便と言うだろ」
【茜子】
「智さん、お好きな言葉です」
【智】
「初対面のひとがいるのに、人聞き悪いこといわないで」
言葉――。
ようするに、それは本質とは違う、本質の代用だ。
言語は方便だ。
百万言を重ねても、本質そのものには到達しない。
【智】
「でも、それって方便じゃなくて詭弁の類」
【いずる】
「一文字しか変わらないじゃないか」
【智】
「一文字違えば大違いだ!」
【いずる】
「ま、語りも騙りも同じものだよ。理屈も方便。とりあえずの
辻褄が合ってれば問題なし」
【智】
「煙に巻かれてる気がします、このあたりにヒシヒシと」
頭の上で、ぐるぐるっと指を回す。
【いずる】
「もちろん、煙に巻いてるんだよ」
【智】
「悪びれろよ、この霊能者は」
【智】
「んで……今日はなんのご用で」
ご用というより誤用な感じ。
【いずる】
「呼ばれたから来たんだ。
呼ばれたのが私で、呼んだのはそこの皆元くん」
【智】
「るいの知り合いなんですよね」
【いずる】
「袖すり合うも多生の縁くらいにはね」
【るい】
「どんな縁でも多少は縁があるって話だよね」
【智】
「たぶんちがう」
正しくは、多生の縁=前世で縁があった、です。
【るい】
「嘘っ」
【智】
「本当」
【るい】
「教わったのに!?」
【智】
「誰に?」
るいが、いずるを指差す。
【るい】
「私、嘘つかれたのか!」
【いずる】
「前世なんていい加減なものを説明の根拠にしてるんだから、
解釈はアバウトでいいんだよ」
美しい日本語に謝って欲しい。
【智】
「嘘つき型の人間だね」
【茜子】
「茜子さんももう一人知ってます」
【伊代】
「わたしもわたしも」
友情のない仲間であった。
【いずる】
「人聞きの悪い。自慢じゃないが、仕事で騙したことは一度もない。勝手に騙されるやつはいるけどね」
【智】
「まんま詐欺師の言い分ですな」
【るい】
「あのさ」
ついついと、後ろから、るいが袖を引いた。
【るい】
「あれでも一応、私の恩人なんで……」
るいの腰が微妙に低いのは、義理と人情らしい。
【智】
「……どういう恩人?」
【るい】
「前にね、変な事件に巻き込まれた時に助けてもらって」
【智】
「帰省の途中で立ち寄った港町の住人は、みな特徴的な顔立ちをしていて、魚の腐ったような匂いが町全体にたちこめていて……」
【るい】
「なにそれ?」
【智】
「まあ、違うか、違うよね」
【智】
「変な事件か。……妖怪ハンターか怪奇探偵みたく、古文書を取り出しておかしな儀式でもして怪事件を解決してくれるとか?」
【いずる】
「それはダメだね、役割分担に棲み分けがあるし。私は解決役
じゃなく、ヒント係だよ」
神秘主義から卑近(ひきん)な世界へ表現が滑落した。
【智】
「できれば雰囲気を大事にしてください」
【いずる】
「ゲーム機は何か持ってるかな、凶箱とか。RPGはやる?
ちょっと昔の……最近のでもいいのかな。まあ、毎年目が回る
くらいゲームも出るからねえ」
【智】
「卑近(ひきん)すぎて目が眩みそう」
【いずる】
「いるだろ、村人Aとか」
【いずる】
「話しかけると会話ができる。どこぞの大学の地下に銀の門の鍵が隠されてるとか、なんとか、そういう感じのやくたいもないヒントを出す。そういうのさ」
【いずる】
「それで、語り屋、とか名乗ることにしてる」
【伊代】
「……とかってなによ、とかって」
【いずる】
「まあ、何でもいいからね」
【智】
「名前が重要とか、さっき聞かされた」
【いずる】
「時と場合によりけりだね」
アバウトだ。単にいい加減ともいう。
【智】
「やっぱり騙り屋だ」
かつかつかつと、足音がする。
和服の分際で足下は、ごついジャングルブーツだ。
情緒のない靴先が間近までやってきた。
いずるさん。背は高い。
うらやましい…………。
目線が上なのは、身長の気になる身の上としては
気分的によろしくありません。
表情の読みにくい瞳がのぞき込んでくる。
触れるほど近いのに気配が薄い。
陶器みたいに堅くて冷たい。
【いずる】
「語り屋だから語るんだよ。君らが持ってるフラグに合わせて
ヒントを出すんだ。そこからどうするかは君ら次第、まったく
もって好きにすればいい」
【茜子】
「……どうせならペロリと答を教えてくれれば手間が省けます」
【いずる】
「それは無理無理、無理なんだよおちびちゃん」
【いずる】
「答なんてあってないようなものだから。どうしたいのか、何を
したいのか、何を支払うのか。その時々ですぐに変わってしまうのが答だろ」
【智】
「ますます詭弁っぽくなったな」
【いずる】
「とりあえず仕事をしようか。こうしてだべってるのも悪くないけれど、こうしてばかりだとヒントにならない」
【花鶏】
「今のお話だけでお腹いっぱいよ、わたしは」
【いずる】
「請け負っていることだから、そういうわけにも行かないんだよ。これも渡世の義理というやつだねえ」
これまた古風な言い回しだ。
【いずる】
「さあ、語ろうか」
【智】
「何を」
【いずる】
「それだよ。簡単だよ。これから語るのは」
そうして、三日月みたいに口元を歪めて。
【いずる】
「呪いのお話」
告げた。
【智】
「――――――」
呪い。
一言で、魔法のように音が途絶える。
斜陽の入り込む無音の廃墟。
誰かがそっと息を飲む。
ありがちな言葉、幾度も繰り返した言葉。
いかさま師なら、タタリがあるぞと脅すように。
使い古された古くさい呪文が毒素に変わる。
静かに着実に心という領域を侵略する。
【いずる】
「そう、呪いの話。呪うこと、呪われること、呪われた世界のお話」
【いずる】
「まあ、便宜上の区別だから、そこまで気にすることはないんだが」
【智】
「……まったくもって嘘くさい」
【いずる】
「嘘みたいな話だからねえ」
いずるさんは、ほんの寸時、何かを思案する。
【いずる】
「手近なところから行こうか。順番の方がいいだろう。今日は頼まれたんだよね。以前にした話をもう1度してくれるようにってね」
【智】
「るいから? 何の話を――」
【いずる】
「痣」
ぶすりと刺さる。
後方で、さざ波めいた気配の動き。
警戒とも敵意とも興味ともつかない感情の周波数が、
人数分、目の前の怪しい人物に流れていく。
【智】
「……」
目を凝らす。見極めようとする。
痣のことは、るいから聞いたのか。
ようやく腑に落ちた。
るいの意図がつかめた。
僕らの確率異常の痣について。
奇妙な縁を語らせるための、語り屋。
【いずる】
「君、目つきが悪くなったな」
【智】
「怪しいひとには身構えくらいするでしょ」
【いずる】
「いやいや、君は『こっち側』のタイプだな。
嘘が得意で、誤魔化しと騙しとで人生をやりくりする」
そんなの言われたら、僕がものすごく悪人みたいだ。
【いずる】
「私のいうことなんて鵜呑みにできない? まったくもって。
メディアにはリテラシーを心がけないとな」
【いずる】
「――――『でも、知りたい』」
図星。
痣――――。
奇妙すぎて手がかりがない。
手探りをするにも床の位置くらいは知っておきたい。
だから、よけいに注意が必要だ。
欲しいものを目の前に並べられた時が、一番危険。
【いずる】
「依頼の分だけ語ってあげよう。それでどうするかは勝手にすればいい。ヒントは所詮ヒントだ。解釈はご自由に。あとは若い二人におまかせで」
【智】
「二人じゃないけど……」
【いずる】
「なるほど、痣は6つだったかい」
6つの痣。6人の痣。
それは繋がりか、それとも奇縁と呼ぶべきか。
【智】
「そこまで話したんだ……」
【るい】
「まだ」
【いずる】
「察しがよくないと他人をかたれないからね」
【智】
「今騙るっていったでしょ、絶対」
【るい】
「私が知り合った時に、ちょっぴり聞かされたことがあるんだけど、その時は話半分だったんだ」
【るい】
「変な事件の後だったから、言われたことを全然信じられなかったわけじゃないんだけど、よくわからなかった。信じてもどうしようもなかったし」
【るい】
「私、馬鹿だから……」
【るい】
「でも、今なら違う気がする」
【いずる】
「パーティープレイか、いいねえ。力を合わせて悪い魔王を倒すには、友情とアイテムと経験値が不可欠だ」
俗な喩えも極まれりだなあ。
【智】
「いいです、わかりました、了解です。
そういうことなら、ヨタ話じゃない方を語ってくださいな」
【智】
「……この痣が、どういうのかって」
【いずる】
「呪いだね」
毒の言葉が繰り返される。
背中に見えない氷柱がそっと忍び入ってくる。
呪い。呪い。呪い。
とてもとても忌まわしいこと。
誰かが呪う。憎悪で。誰かを呪う。
怨恨で。呪われる。いつまでも呪われる。
――――腹の底まで冷えていく。
【いずる】
「簡単に信用しないんじゃなかったかな」
【智】
「――――」
想像だけが先走る。それではすっかり妄想だ。
自分自身で自分を縛る落とし穴。
【智】
「それで、そうだとすると、誰が……」
呪っているのか。
あえて疑念を言葉にしてみた。
言葉にした分だけ見えない呪縛の緩む気がする。
【いずる】
「そんなことはどっちだっていいんだよ。さして重要なところじゃないんだし」
えっ、そうなの? そういうものなの?
【智】
「よくわかんないんですけど」
【いずる】
「誰が祟ってるとか、恨みだとか辛みだとか、龍神様のお怒りだ
とか、30年前に騙されて死んだ若い夫婦がいるんだとか、
そういうのはどっちだっていいんだって」
【智】
「そういうのが、呪い、なんじゃないの?」
【いずる】
「そういうのは全部動機」
【いずる】
「動機は動機。これから語るのは、呪い。そんなに曖昧じゃない、もっともっとありがちでわかりやすくてはっきりしてる、仕組みの話だよ」
【いずる】
「こうすれば、こうなる。そういうのが仕組みさ」
仕組み――
鍵を回すと扉が開く。
スイッチを入れるとテレビがつく。
入力と出力の関係だ。定められた手順と結果だ。
【いずる】
「なぜどうして……なんて言い出すからわかりにくくなる。
区別がつかなくなって混乱する」
【いずる】
「液晶テレビが映る仕組みを知ってるかい? 知らなくても使う分には問題ないだろう。しかも、誰が使ったって基本は同じだ」
【智】
「それが、呪い……」
【いずる】
「そう、それが、呪い」
そして、この痣は。
【いずる】
「そういうものなんだよ」
【智】
「そういうのって……あるものなの?」
一周回って基本的な疑問にたどり着く。
呪いが、仕組みだ。
それが定義なら、とりあえず納得しておくとして。
その一番根本的な部分。
そういう仕組みが。
不思議、怪異、超自然、魔法。
そんなものが――
【いずる】
「ちなみに、自分が呪われている心当たりは?」
【智】
「そんなの、あると、思う?」
表情は、変えなかったと思う。
【いずる】
「なるほど痛そうな話だねえ」
透かし見るような、いやな顔。
【智】
「僕、何も言ってないんだけど」
【いずる】
「結構結構、結構で毛だらけ」
【茜子】
「猫を灰だらけにするのは虐待だと思います」
【伊代】
「……誰もそんなこと言ってないわよ」
【いずる】
「気分がいいから、もう少し話を続けてもいいかい?」
【智】
「別に続けなくてもいいんだけど」
【いずる】
「本当に?」
いやな性格だ。
前世はいじめっ子だったに決まってる。
【智】
「…………どういう気分?」
【いずる】
「ネズミを苛める猫の気分」
【いずる】
「さて、仕組みといったってピンキリだから、それがどんな仕組みかは何とも言えない。語り得ないものには沈黙を。わからないことをこれ見よがしに語るのは範疇外だ」
【いずる】
「でもまあ、あれだね、どうやら地雷っぽいねえ」
【智】
「地雷というと」
【いずる】
「昔話によくあるやつ。大仰な言い方をしちゃうと、なにか禁忌を犯すと災いが起きる……かな」
【いずる】
「踏んだらお終い、だから地雷」
【智】
「それだと本当に呪いじゃないの!」
【いずる】
「だから呪いなんだって」
心底どちらでもよさそうに。
【智】
「……そういうのって、どうにかならないの?」
【いずる】
「どうでもいいんじゃなかったっけ」
【智】
「………………心底どうでもいいけど、たまには聞いてみようかなって思うこともあるわけだから」
【いずる】
「どうにかといっても色々あるけど」
【智】
「たとえば」
【いずる】
「確実に死ぬようにして欲しいとか」
誰が頼むんだよ!
【智】
「そんな特殊例、大まじめに講釈されても困る」
【いずる】
「一般的なヤツの方が好みかな」
【智】
「呪い……なら解くとかできないの?」
一般的そうなところを。
【いずる】
「そういう、魔法とか超能力みたいな要求は通らない」
【智】
「………………」
今、なにか、すごく理不尽なことを言われた気がする。
呪い。呪い。呪い。
それこそ魔法とか超能力とか、
そういう類のいい加減な駄話をしてるんじゃなかったっけ。
【いずる】
「まあ、仕組みなだけに、仕組みがわかれば解体もできる……
かもしれない」
【智】
「そういう地味っぽいのじゃなくて、小(コ)宇(ス)宙(モ)を感じて相手がわかるとか、この魔力の残(ざん)滓(し)は悪しきサソリ魔人の仕業だとか」
【いずる】
「そんな、エセ霊能者のお告げじゃないんだから」
どこがどう違うのか、わかるように説明してほしい。
【智】
「つまり……?」
【いずる】
「原因がわかれば結果もわかる」
【智】
「ここへきて一般論かよ」
【いずる】
「少年漫画の王道パターンっていうのはね、
普遍的に使われやすいからパターンになるわけだよ」
一般論は最強よ、と言いたいらしい。
【いずる】
「喜ばしくも、おおかたの呪いは解除方法とセットだ」
【智】
「そういうヒントを先に言って欲しかった」
【智】
「そういうのを調べたければ?」
【いずる】
「仕組みがわからないと」
堂々巡りだろ、それじゃあ……。
【智】
「わかれば何とかなる?」
【いずる】
「ま、死んだら解除とかいうのもよくある」
【智】
「何ともならないとの一緒だよ」
【いずる】
「ままならないものだね、世の中は」
【智】
「綺麗にまとめるな」
【いずる】
「ヒント係に過剰に期待されても困るな。村人Aは勇者の一行が
魔王と戦うのに手を貸したりしないんだし」
【智】
「最近のなら、ちゃんと声援ぐらい送ってくれる」
【いずる】
「声援でよければいくらでも」
にこやかな作り笑いで両手を広げるポーズ。
うわ、むかつく。
【いずる】
「漫画じゃないんだ。古美術商に身をやつした何でも屋の便利
キャラがパワーアップの修行方法とアイテムくれるのとは
ワケが違うんだから、過度な期待はしないように」
【智】
「漫画みたいなこと言ってるでしょ!」
【茜子】
「追い詰められてる人間の、表層が剥離されて本性の露呈する感じの焦りが、茜子さん的にはとっても素敵です」
【こより】
「しどい……」
【いずる】
「まずは泥にまみれて一歩一歩あくせくやってれば、その一歩
はただの一歩でも、人類にとっての偉大な一歩になるかもね」
【智】
「人類この際関係ない」
二の腕を、痣の有る場所を、
無意識に握りしめる。
掌の熱が奪われて冷たくなる。
それは気のせいだ。
呪いという便利な言葉がつくる錯覚でしかない。
【智】
「痣が、こんなにも身近に集まるのはどういう訳で」
【いずる】
「しったこっちゃない」
【智】
「投げやりダー」
片仮名っぽく抗議。
【いずる】
「理由はあるかも知れないし、単に確率の問題かも知れない。
起こりえる可能性があるなら、どんなに希少な可能性であれ、
遅かれ早かれ起きるわけだから」
【智】
「例えば、理由があるとすれば……一般論的に?」
【いずる】
「ほら、その手の奴同士は引かれ合うっていう」
俗な理由だなあ。
ぐるぐる回る。考えがまとまらない。
方便と詭弁と騙りを頂点にした直角三角形が、幾つも幾つも
回っている。
【いずる】
「これで一通りの話のは終了だ。後は好きにすればいい」
【智】
「散々騙り倒してなんて無責任……」
【いずる】
「ヒント係は聞かれたことを語るのがお仕事なんだよ。
魔王を倒すなりサブイベントで経験値を稼ぐなり、
これからどうするかはパーティーのお仕事だろ」
【智】
「このままだと途中で全滅したりして」
【いずる】
「人生はリセット効かないから、慎重なプレイお勧め」
【いずる】
「じゃあ、そういうことで。これ、名刺」
【智】
「………………………………」
梅干し食べた顔になった。
もの凄く一般論的社会人の、誰でも持ってる必須アイテムが、
呪いのアイテムに思える。
【いずる】
「変な顔だねえ」
【智】
「なにゆえ名刺」
【いずる】
「仕事人にはいるだろ」
【智】
「あってどうにかなる仕事なわけ?」
【いずる】
「様式美なんだから受け取っておいたらいいんだよ。
君も細かいことに拘るねえ。そのうち胃腸悪くすると予言
しちゃおうか」
初対面の人間にまで胃腸の心配をされた。
つくづく僕は、僕が可哀想だ。
名刺はぞんざいな作りだった。
蝉丸いずる。
銘がうってあり、携帯の番号が載ってるだけ。
【智】
「TPOはもうちょい考えて欲しい」
いずるさん、笑いもせずに踵を返す。
るいと二言三言言葉を交わす。
るいが背負ったカバンから、変な形のヌイグルミを取り出した。
カエルとサカナとナメクジを足して3で割ったような形容しがたい忌まわしきものだ。
【るい】
「…………はい」
【いずる】
「ごちそうさま」
ヌイグルミが手渡される間、るいは、かなり真剣な葛藤を、
見ていておもしろくなるくらい続けていた。
【智】
「なにをなさっているんですか」
【るい】
「お別れ…………」
死にそうな顔だった。
【いずる】
「契約だからね。なんだってタダじゃないんだ。タダより高いものはないなんていうわけだし、代価を取ってる分だけ良心的だとは思わないか」
契約と代価。
【智】
「村人Aは話すボタンでヒントくれるのに」
概ねはロハで。
【いずる】
「村人Aがダメなら、町の隅の占い師で」
【こより】
「それ、使ったことありません!」
【いずる】
「私は使うな。ゲームのテキストは全部見る主義だから。イベントクリア後に村人の台詞メッセージ変わったりすると、結構感動するよねえ」
よほど村人が好きなんだな。
【いずる】
「縁があったから呼び出されたけど、契約は契約でまた別の話。
かたった分だけもらい受ける。大事なモノと引き替える。
それが昔からの決まりごとだろ」
【智】
「それって魔女の理屈だろ」
そのうちに、声とか目とか取っていかれそうだ。
【いずる】
「ちょっとした違いだねえ」
そうして、彼女は、冷たく喉をならした。
2時間ほど経過しました。
【智】
「2時間ほど経過しました」
【伊代】
「それは誰に対して何をいってるの?」
【智】
「困難な質問を……」
【伊代】
「困難なんだ」
デートが終わって解散とはならない。
さっきの言葉の余熱が燻る、やりとりの少ない時間。
なのに、離れがたい。
呪い。
歪な言葉が後ろから追ってくる。
そんな気がする。
【るい】
「さよなら、瑠璃っち……」
【茜子】
「なんですか」
【るい】
「不眠の夜を慰める、かわいい抱き枕だったのに」
かわいい……だったかなぁ、あれ。
【智】
「さて。そろそろ落ち着いたところで」
【茜子】
「なんですか」
【智】
「採決を取ろうかな、○×クイズで」
【こより】
「センパイ民主主義なんですね〜」
【智】
「同盟だけに、個々の利害を尊重したいですから」
【花鶏】
「……」
【智】
「花鶏さん?」
【花鶏】
「これまでの華麗な人生であの手のやからに3回ほどあったことがあるけれど、どいつもこいつも最初と最後に言うことは同じなのよ。知っていて?」
【智】
「そういうのと会う機会のある華麗な人生とはこれいかに」
【るい】
「カレーっぽい人生だ」
【花鶏】
「どいつもこいつも、貴方は呪われているからはじまって、貴方の努力次第です……で終わるわけ」
【智】
「いかにもだね」
【茜子】
「騙される阿呆の頭が悪い世の中です」
いい感じで笑う。
【伊代】
「そういえば、人の夢って書いて儚いって字になるのよね」
【智】
「……天然?」
【伊代】
「な、なによ」
【智】
「それよりもなによりも……それで、解答の方は?」
【伊代】
「……6人で民主主義だと、半分のとき、どうするの?」
【智】
「厳しい時に厳しいところつくなあ」
【伊代】
「最初のルールを定義しておかないと、後々揉めることになって、余計に面倒になると思うの。そう思わない?」
【智】
「場を読むことをしてください。あー、でも、そういうときは…………どうしようか…………」
【茜子】
「考え足りないさんですね」
【花鶏】
「……白紙」
花鶏は解答を拒否る。
【花鶏】
「鳩が豆鉄砲くらったような顔してるけれど、なにか言いたいことがあるの?」
【智】
「ちょっと予想外だったかな。
花鶏ならコンマ5秒で袖にすると思ってたから」
痣を、聖痕と花鶏は呼んだ。
呪いだと、いずるは笑った。
【智】
「素敵に折り合いそうにないし」
【るい】
「まず、トモはどうっしょ?」
【伊代】
「言い出しっぺだし」
【茜子】
「風見鶏の退路は断つべきだと思います」
【こより】
「そりはあまりにひどい……」
視線が集まる。
唇に人差し指を当てて、思案のポーズ。
突拍子もない話を信じるか?
先ず大前提。
呪いがあるのかないのか。
僕らは顔を見合わせたりもしなかった。
【智】
「…………」
見回す。
思い思いの表情の薄氷の下、
どろりとしたものが、横たわっていた。
――――――――――恐怖。
そうなんだ、そういうことなんだ。
やっとわかった。
同盟だけじゃない同類。
類は友なり、だ。
僕らはみんな、呪われている。
【智】
「はじめて……」
出会った。
【智】
「……なんとなく、今夜だけは、運命とやらを信じてもいい
気がする」
【智】
「あくまでも今夜限定で」
【花鶏】
「寂しい人生だわね」
【智】
「リアリストですから」
運命が本当にあるのなら、きっと神様は大忙しだ。
だけど、神さまは、
得てして僕らが生きてる間は何もしてくれない。
では、これは――――運命?
【智】
「……冗談じゃないです」
呟く。
気安く運命なんて言葉は使いたくない。
同じ痣と同じ……呪い。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「…………」
【伊代】
「…………」
【茜子】
「…………」
僕らは語らない。言葉にはしない。
でも、伝わる。
類は友。
【智】
「これは、呪いの印だそうな」
【茜子】
「呪いの輪」
【伊代】
「いやな輪ね……」
僕らは、なんとなく。
輪になった。
【智】
「この世界には、不思議がいっぱいかも」
【花鶏】
「……不思議、ね」
【智】
「出会いって、運命じゃなくても、奇跡だと思わない?」
【こより】
「恥ずかしい台詞〜〜〜〜〜〜ぅ!」
嬉しそうに身もだえ。
【智】
「……ねえ、自由になりたい?」
【るい】
「自由に……?」
【茜子】
「なにからですか」
【智】
「そうだなあ。なんでもかんでも……束縛から、壁から、亀裂から、閉じこめるものから、呪いから」
【智】
「――――僕は、なりたいな」
〔群れの掟〕
【智】
「うにゅ……もう、朝っすか。まだもうちょい……」
【智】
「あう、こんな時間かあ……」
【智】
「ん? メール来てる。誰から……」
【智】
「………………央輝」
【花鶏】
「いつまでここにいるつもり?」
【智】
「指定の時間まではまだ余裕があるでしょ。
いそいでいっても待ち惚け食らうだけじゃないの」
街はざわついている。
人が多いのは夕方だからだ。
雑踏を横目に、ガードレールに腰を預ける。
待ち合わせたときから、花鶏はずっとこんな調子だ。
カリカリ焼き。
こんがり風味に焦っている。
焦っている花鶏の隣で、僕も真剣に苦悩していた。
重要な問題だった。
【花鶏】
「それで、どうなの?」
【智】
「それなんだけど。ミントとチョコレート、花鶏はどっちがお好み?」
デコピンされた。
【智】
「前頭葉がいたい」
【花鶏】
「誰がアイスクリームの話をしてるっての! だいたい、
いつの間に買ってきたわけ」
【智】
「おひとつプレゼント」
【花鶏】
「緊張が足りてない」
【智】
「何もしないで怠惰に過ごす1分1秒が、貴重な僕らの青春です」
【花鶏】
「青春というのはね、浪費と読むのよ」
【智】
「浪費するより株で一山って感じだと思うよ、花鶏の場合」
【花鶏】
「青春資産の運用を相談してるんじゃないの」
央輝からメールが届いた。
今朝のことだ。
『捜し物の件で逢いたい』
実用本位のシンプルさがらしい。
【智】
「最近学んだんだけど、お肌と人生には潤いが必要なんだって。
下着もきつすぎると美容に悪いしさ。ちょっと変人のクラス
メートが言ってたよ」
【花鶏】
「貴方が真面目なのか不真面目なのか、時々判断に困るわ」
花鶏にじっと見られる。
瞬きもしない、後頭部まで抜けそうな凝視。
【花鶏】
「最初の印象だと、もっと真面目でお固くて、後ろ向きな子だと
思った」
【智】
「後ろ向きは正解……でもないか。○でも×でもないから、
さんかく。部分正解で3点」
【花鶏】
「たちの悪いやつ」
【智】
「じゃあ、僕がチョコレートで」
ミントを差し出す。
【花鶏】
「……甘いわね」
花鶏は、食べるには食べた。
【花鶏】
「……わたしだと目立つって、貴方、言ってなかったかしら?」
【智】
「あっちの指定なんだよね。当事者連れてくるように。ここいらは央輝のテリトリーらしいし、今回は大丈夫っぽい」
【花鶏】
「望むところよ」
【智】
「……不用意な戦いは避けてね」
【花鶏】
「自衛のための戦争は避けて通れないわ」
【智】
「憎悪の連鎖で、歴史の道路は真っ赤に舗装されてるなあ」
【花鶏】
「右の頬を叩かれて左の頬を出すような狂った平和主義なら、
願い下げよ」
【智】
「まあ、わざわざ呼んだって事は進展があったってことだから……」
【花鶏】
「本当に来るの?」
【智】
「たぶん」
【花鶏】
「たぶん!」
【智】
「僕に怒っても解決しないのです……」
【花鶏】
「そうね、そうなのね、そんなことはわかっているのよ。でも、
人間は理性だけの生き物じゃないわ、それが問題でしょ、だから世界は救われないのが決まっているの!」
花鶏はせっぱ詰まっていた。
ずっと花鶏が捜している、
大切な、持ち去られたもの。
その手がかりが目の前にある。
【智】
「気負うのはわかるけど、焦っても意味がないから、どっしり
構えよう」
【花鶏】
「……罠ってことは?」
【智】
「準備はしてるし」
【るい】
『こちらスネーク』
【智】
「今のところ異常なし。そっちでも何かあったら教えて」
【るい】
『特になし』
【智】
「じゃあ、よろしく」
確認の電話を切る。
最終兵器乙女が近くに待機している。
【花鶏】
「不用意な戦いは避けるんじゃないの?」
【智】
「自衛力の確保だから」
無抵抗主義と性善説は信用しないことに決めてる。
【花鶏】
「そいつが来たとして……」
【花鶏】
「ただより高いものはないわよ」
責める目で睨まれた。
今度バカなことをしでかしてわたしのプライドに傷をつけたら、
ベッドに縛り付けて朝までイケナイことをしてやるから覚悟なさい――と目で言っていた。
人生の危機だ。
人生以外にも色々と危機だけど……。
【智】
「……あの場合、あれが最善の……」
聞こえないように小声で弁明。
聞こえないと意味ないか。
【花鶏】
「なにか?」
【智】
「なんでもないです」
アイスを食べる。
【花鶏】
「――――――」
【智】
「なに? じっと人の顔見て」
【花鶏】
「やっぱりチョコがいいわ」
【智】
「もう半分食べちゃった」
【花鶏】
「大丈夫」
むちう
キスされた。
いきなりの強奪だ。
公衆の面前で。
道行く人たちがひたすら見ないふり。
ジタバタ。
ダメです。
舌を入れられた。
全部確かめられて、絡められて、甘噛みされて、
くすぐられて、吸われて、おまけに飲まされたりなんかして!
ぽん(という感じ)
【花鶏】
「ふう」
【智】
「……あ、あ、あ、あ、あ、あ」
【花鶏】
「やっぱり甘いわね、チョコ」
【智】
「あーい」
涙。
【花鶏】
「そいつ、本当に来るかしら」
【智】
「こっちに来ないで近寄らないでエロ魔神禁止」
【花鶏】
「青春の弾けるような女の子同士の間にある、友情からほんの半歩踏みだした加減がフェティシズムを煽りかねない、ちょっとしたスキンシップじゃないの」
【智】
「ディープだったよ?!」
【花鶏】
「友情は深刻ね」
【智】
「舌までつかったよ!」
【花鶏】
「コミュニケーションよ」
【智】
「半径2メートル以内に近付いたら、花鶏が足下に人生の全て
を投げ出して諦めるまで、くすぐり倒すから」
【花鶏】
「…………いいかも」
逆効果でした。
【央輝】
「えらく時間には正確じゃないか」
央輝だった。
以前と同じ、ゾッとする空気をまとわりつかせている。
【央輝】
「正確なのは、まあ美点だな」
ニヤリ。
くわえていたタバコを捨てる。
【智】
「お出ましはいっつも唐突だね」
【央輝】
「お前らと違って、考え無しに夜歩きするような、呆けた生活は
してないんでな」
3度目の邂逅(かいこう)。
以前と同じ黒い姿だ。
【花鶏】
「それで、メールの主旨は?」
花鶏が、沸点ギリギリの声を出す。
【央輝】
「……こいつが持ち主か?」
【智】
「さようで」
【央輝】
「捜し物は見つかった。こいつで間違いないか?」
ぞろりとしたコートの下から一冊の本を取り出す。
【花鶏】
「それっ!」
(1秒)
【智】
「早っ」
花鶏が反応した。
では間違いなく本物らしい。
あれを花鶏がずっと捜していたのか。
ちょい疑問。
そんなに価値のある本なの?
【花鶏】
「返しなさい!」
【智】
「しかも即断」
駆け寄った花鶏がはっしとつかむ。
素早い。
央輝と花鶏が、本の両端で綱引き。
【央輝】
「がっつくな。みっともないぜ」
左手一本で、器用に新しいタバコをくわえ、火を点ける。
きゅっと唇がつり上がった。
それは噂のままの顔だ。
吸血鬼。
【央輝】
「取り引きだ」
【智】
「取り引き……っすか」
反復してみる。口の中で咀嚼(そしゃく)する。
【花鶏】
「……謝礼が必要というなら、用意するわ」
ギリギリと、本が軋む。
大切な本なら大切に扱おうよ、花鶏さん。
【央輝】
「1億」
【花鶏】
「智、今すぐスコップ買ってきなさい!
こいつを始末して埋めるから!!」
【智】
「おーい」
どっちもどこまで本気なのか読みにくい。
【央輝】
「ふん、金はいらん。代わりのものを引き渡せ。そしたら、
こいつはすぐにくれてやる」
花鶏の鼻先を爪先がかすめた。
ほとんどノーモーションから放たれた。
央輝の蹴りだ。
花鶏は本から手を離していた。
前髪がわずかだけ乱れる。
それだけだ。
【央輝】
「ひゅー」
口笛は掛け値無しの称賛の音色だ。
央輝は当てる気だった。
当たったらただでは済まなかった。
相手の事なんて気遣いもしない、Vナイフと同じ剣呑な一撃を、
花鶏は瞬きひとつせずに避けた。
【花鶏】
「――あたしは、右の頬を打たれたら、腕ごと叩き折ってやる
主義なの」
【智】
「打たれてないよ」
場を和ませる努力。
【花鶏】
「おわかり?」
【央輝】
「気が合うな、あたしもだ」
無視気味です。
両方とも血液がニトログリセリンだ。
【智】
「かーっとっ!!!」
映画監督風に、
二人の間に割ってはいる。
【花鶏】
「邪魔を、しないで」
【智】
「いやあ、せっかく取り引きいってるんだから」
【智】
「それで、さっきの話の続きは?」
花鶏の前を右に左に塞ぎつつ、訊ねる。
【央輝】
「茅場とかいう男の娘、お前の手元にいるんだろう」
【智】
「茅場…………茜子?」
【央輝】
「そいつと交換だ」
【智】
「………………」
【花鶏】
「智」
【智】
「それは、つまり、央輝は……茜子を追いかけてた連中の仲間ってわけじゃないけど、恩を売りたいか、義理があるかどっちかなんだ」
【央輝】
「……一々小知恵の回るやつだ」
央輝の気配が緩む。
剣呑なままでは取り付く島もないので、
まずは一手がうまく進んだ。
【花鶏】
「どういう意味なの?」
普段の花鶏なら気がつきそうなモノなのに、
本が目の前でやっぱり気が回らないらしい。
【智】
「茜子を捜してる連中は僕らの素性を知らない。
知ってるなら強硬手段だって取りかねない連中だし」
【智】
「央輝が連中の仲間なら、僕らと茜子が一緒にいたことはとっくに伝わってて、事態はもっと悪くなってる」
茜子はカードだ。
有用な質札、恩と義理を買い取る通貨だ。
【花鶏】
「はんっ」
【智】
「茜子が必要な理由、聞いていい?」
【央輝】
「そいつの親父が、くだらねえ男の面子を潰した。大層ロクでもないヤツでな、性根が腐ってる上に執念深くてサディストときた」
低く笑う。
【智】
「ほんとにろくでもないなぁ」
世の中、知らない方がいいことはたくさんある。
【央輝】
「その馬鹿は、今まで一度も相手を逃がしたことがないのが取り柄で、それで面目を保って商売をしてる。逃げられたらあがったりだ。わかるか?」
【央輝】
「そいつの親父はうまくやった。今のところ逃げのびてる。
尻尾を掴まれてもいない。そうなると――」
面子の分だけ娘にカタをつけてもらう、と。
【智】
「……それ、困るよ」
【央輝】
「あたしの知ったことか。どうだ、取引としては上等だろう。元々無関係の女……そいつ一人を引き渡せば、大事なお宝は手元に戻ってくる。契約と代価――――ふん、ありきたりな結末だ」
【花鶏】
「………………」
【智】
「だめ」
即断で。
【央輝】
「情けは人のためならず、とかいう諺があるんだろ、この国にはな」
【智】
「だから、人の為じゃなくて、自分の為だよ」
【智】
「今は、ちょっと、その子と運命共同体っていうの、やってるから……だからダメ」
【央輝】
「運……なんだ? よくわからん」
複雑な日本語はダメらしい。
【央輝】
「お前には貸しがあるぞ」
痛いところを突かれた。
獲物を狙う肉食獣の顔だった。
【智】
「それを言われるとなんなんだけど」
央輝には余裕がある。
ということは、央輝の重要度として、茜子はどっちでもいい程度の位置づけらしい。
【智】
「わかりやすいところでいうと、んー……義兄弟の杯?」
【花鶏】
「……姉妹、でしょ」
些細な問題はさておいて。
【央輝】
「はん。身内にしたか」
央輝の世界観的に、こちらの方が伝わりやすかった。
【央輝】
「そうなると、どうするかな」
こっちの足元を見たニヤニヤ笑い。
話がどんどん斜めの方向へ飛んでいく。
打つ手を間違えると取り返しがつかない。
というよりも。
手札がなかった。
央輝は、僕たちが茜子と一緒にいると確信した。
その話を、さっきの話の最低男のところへ
持っていかれるだけで、進退窮まる。
【智】
「……あ、でも時間の問題か……」
【花鶏】
「?」
一緒にいるところや制服は見られてるんだし、
しらみつぶしにされたら、遠からず足はついちゃいそう。
【智】
「あー、うー」
【花鶏】
「真面目にしなさいよ」
【智】
「……うん」
ぐるぐるぐるぐる。
頭を回す。頭が回る。
解決策が思いつかない。
【央輝】
「お前、茅場の娘とは、以前から知り合いってわけじゃなかったんだよな」
【智】
「ま、ね……」
後悔。
同盟で処理するには危険すぎる爆弾だったか。
今更取り返しはつかない。
茜子を大人しく引き渡したりすると、夜ごと悪夢にうなされそうだし、枕元に化けて出られて夜通し悪口を聞かされたりなんかすると、衝動的に練炭でも買いたくなりそう。
【央輝】
「お前、馬鹿か?」
【花鶏】
「この子は馬鹿よ」
【智】
「…………そこはフォローしてよ、運命共同体」
【花鶏】
「あなたとわたしは、同じ路線のバスに乗り合わせただけよ」
ここぞと言うときには冷たい花鶏だった。
【智】
「お互い、どこで飛び降りるかが問題だね」
【花鶏】
「最後まで残ってるヤツは馬鹿を見る」
【智】
「花鶏の好きな映画はさぞかしブラックなんだろうな」
くくっ、と央輝が低く笑う。
【央輝】
「いいぞ、別の条件にしてやる」
【智】
「ほんと!?」
【央輝】
「レースに出ろ」
【智】
「………………」
何それ。
モノ質と引き替えにレースに出て勝利せよ!
それ、どこのハリウッド映画?
【智】
「僕、免許とか持ってないけど……」
【央輝】
「図太い返事だ」
【智】
「お褒めに預かり光栄です」
【花鶏】
「棒読みよ」
【央輝】
「パルクールレース……車は使わない。そいつに出て勝負しろ。あたしたちが主催してるヤツだ。勝てば、このボロ本は返してやる」
【央輝】
「それに、茅場の娘の件、話をつけてやってもいい」
【智】
「えうっ?」
渡りに船な申し出だった。
それだけに素直に受け取れない。
教訓――人は信じるべからず、
ただより高いモノはない。
【智】
「それって、その、どういう……」
【央輝】
「条件は、お前も出ること。それと、お前らが負けたときは――」
【智】
「負けた、ときは…………?」
ごくり。
【央輝】
「お前は、あたしのモノだ」
【智】
「…………………………………………はい?」
耳が遠くなった。
いやだなあ、まだ若いつもりなのに。
年齢って気がつくときてるから。
【央輝】
「お前は、あたしの、奴隷だ」
【智】
「奴隷」
【央輝】
「奴隷」
復唱する。
幻聴じゃない、聞き間違いじゃない、
冗談って言う顔じゃあ断じてない。
【智】
「ひぃいいぃぃぃいぃ――――――――――――――」
【花鶏】
「ちょ、ちょっと!」
【央輝】
「お前が負けたら、煮るなり焼くなり犯るなり、あたしの気の向くままにさせてもらう」
「焼く」の次の「やる」の漢字を教えて欲しい!
僕の思い違いだと証明して欲しい!!
【智】
「そ、そそそそそそそそそそ」
そんなことされたら。
人生の危機。
死ぬ。絶対に、今度こそ死んじゃう!
【央輝】
「あたしは優しくないぜ」
【智】
「ぎゃあーーーーーーーーーーーっ」
【花鶏】
「腹は立つけど……気持ちはわかるわ!」
【智】
「わかんなくていいよ!!」
血の叫び。
これだから!
色々と趣味がお花畑の人は!
【央輝】
「で、どうする?」
決断の時、来たる。
〔こより、逃げ出した後〕
【伊代】
「それで?」
【智】
「それで、とは」
【伊代】
「聞いてるのは、わたしで、答えるのはあなたです」
伊代がメガネのフレームを指先で押し上げた。冷淡に。
ごまかしで誤魔化せそうにない白い目だった。
【智】
「……契約を、しました」
尋問は熾烈を極めた。
昨夜のことを、
洗いざらいゲロさせられる僕だった。
【伊代】
「それは聞いた」
【智】
「勝負をして、勝てば全部チャラになる。負けたら……
ちょっと借金生活みたいな」
【こより】
「なして、センパイが愛奴生活に突入なのですか?」
【伊代】
「愛奴……」
【智】
「こやつ、悪い言葉を……」
こよりは接触悪そうに首を傾げている。
問われて、考える。
なして。
【智】
「…………なしてでしょう?」
難問だった。
【茜子】
「アホですね」
【花鶏】
「馬鹿なのよ」
【智】
「二人がかりで、あまりにあまりな言いぐさ」
【花鶏】
「もう少し頭のいいやつだと思ってたのに、とんだ見込み違いもあったもんだわ!」
【智】
「見込んでてくれた?」
【花鶏】
「……些末な部分はどうでもよい」
【智】
「前途は多難かも知れないけど、勝てば最寄り問題の大半が一気にチャラになるんですよ、花鶏さん」
【智】
「これって一発逆転鉄板レースで、
女房を質にいれてでも賭けるしかないんじゃありませんこと?」
【こより】
「ざわ……ざわ……」
【るい】
「おお、格好よいぞトモっち」
【伊代】
「こらこら、借金で身を持ち崩すオッサンの台詞だ、あれは」
伊代が肘で小突く。
るいは「にゃう?」と悩む。
【茜子】
「質というより自分が死地です」
【こより】
「うまいなあ」
【智】
「(男には)いかねばならぬ時もあるのです」
立場が複雑だ。
【茜子】
「一撃必殺もよろしいですが、茜子さんの問題に、
勝手にずかずか入り込まないでください」
刺々しく冷たい断罪。
針のむしろの気配。
【智】
「そんなこと言ったって、入り込んで解決するための同盟なんだよ!」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「同盟は、結構として」
花鶏が鼻の触れそうなところに来た。仁王立ち。
背が高いので見下ろされる。
くく……っ。
【智】
「……叩きますか?」
噛みつかれそうだ。
【花鶏】
「馬鹿がうつるから叩かない」
【るい】
「うつるんだ!」
【伊代】
「鵜呑みにするなと……」
【花鶏】
「わたしたちは同盟で結ばれている、わたしたちはお互いに手だてを貸し合う、わたしたちは互いを利用し合う、わたしたちは互いを裏切らない――――それが、あなたの言い分よね?」
【智】
「そです」
【花鶏】
「だからといって、どうして、負けたときの代価に、
あなたを差し出すなんて意味不明な条件を飲むわけ!?」
【智】
「話の流れというか、選択の余地がなかったというか……その場で聞いてたんだから知ってるでしょ。リスクとメリットのコントロールを秤にかけたら、いい感じで」
【花鶏】
「わからないこといわないで」
【智】
「……なんでそんなに怒るのかしら」
【花鶏】
「怒ってないわ」
【智】
「えー」
【花鶏】
「怒ってません」
【智】
「ごめんなさい」
無様に平身低頭した。
【るい】
「愛奴?」
【智】
「もう少し言葉を選んで」
【るい】
「メイド?」
【智】
「メイドを甘く見るなぁっ!」
【るい】
「なにその思い入れ」
男は誰しもメイドに心惹かれるのです。
【智】
「……と、とりあえず、負けたら、そういう契約」
【こより】
「センパイ、ドナドナです〜」
こよりが目頭を押さえた。
もらい泣きする。
【智】
「涙無しでは語れないね……」
【茜子】
「だから、あなたはアホなのです」
【智】
「そんなに強調しなくったって」
【花鶏】
「馬鹿にしてっ!」
花鶏が爆発した。
怯えた。
嵐はいなしつつ過ぎ去るまで頭を下げて待つ。
呪われた世界に平穏な毎日を生きるための、
この僕の処世術だ。
【智】
「……馬鹿にはしてない」
上目遣いに、弁明を試みる。
【花鶏】
「してる。今もしてる。そうやって、人畜無害そうな顔して、
心の底で、わたしのことを馬鹿にしてっ!」
【智】
「話を聞いてよ」
【花鶏】
「なら、どうして、あんな約束するの?!」
【智】
「それは、成り行き――」
【花鶏】
「わたし一人じゃどうにもならないと思ってるんでしょ! 正しい答がわかってるのは自分だけだと思ってるんでしょ!」
【花鶏】
「自分がやらなくちゃ、
どうせ上手くいきっこないと思ってるんでしょ!?」
【花鶏】
「赤の他人の身代わりになって自己犠牲するのが性分なわけ!? 馬鹿にして、馬鹿にして、馬鹿にして!
同情なんてまっぴらごめんだわ!」
叩きつけられる言葉。
花鶏の後ろで、伊代と茜子が沈黙している。
無言の賛同。
――――自分なら正しい答が出せる。
それはごう慢だ。
同盟。
僕らは手を結ぶ。
それは一つに繋がることを意味しない。
バラバラのまま。
束ねて、利用し合う。
世の中には、正しい答なんて、ありはしないのだ。
正解ではなく最善があるばかり。
解けない方程式、円周率と同じで割り切れない。
【伊代】
「でも、あの黒いヤツ、そういう趣味だったんだ」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「ふむ」
【伊代】
「な、なによぉ、皆だって考えたでしょ!」
伊代は空気が読めない。
【智】
「せっかく真面目だったのに」
全員で、もにょった。
【花鶏】
「もういいわ」
【こより】
「あう、こわい……」
【花鶏】
「今更賭けを取り消すっていったって、アイツにも通用しない
でしょうし」
【智】
「だねー」
【茜子】
「……」
【智】
「ごめんなさい」
【花鶏】
「それで、どうするつもりなの?」
【智】
「当事者としては、選べる選択肢は一つだけ」
正解を探す。
方程式を解くように。
【智】
「勝てばいいんだよ」
腹が減っては戦ができない。
料理は、キッチンを借りて、
主に僕が作ったりした。
材料は、花鶏の家に来る途中で買っておいた、
質より量を重視した色々を元にしたカレーです。
【るい】
「ぐおー」
【こより】
「がつがつ」
【茜子】
「がっつかないでください、この餓鬼めらが」
【花鶏】
「ちょっと、飛ばさないでよ!」
【るい】
「ぬの?」
【伊代】
「落ち着かない風景ね……」
獣のごとく飽食した。
【こより】
「それで、なんでしたっけ」
【智】
「パルクールレース」
【伊代】
「それって車とかバイクとか……
ちょっと、わたし免許とかもってないわよ」
【智】
「それは僕がもうやった」
パルクールレース。
レースといっても免許不要。
基本は自分の二本の足を使う。
参加者はゴールを目指して、ひたすら街を駆け抜ける。
チェックポイントに先に到着したり、トリックを決めたり
すると賞金が出る。
今回は4人1チームで競う。
【茜子】
「駅伝的なヤツですか」
【智】
「思いっきり俗に言うと、そうかな」
ただし、いくらか物騒な。
チェックポイントを通れば途中の経路は問わない。
ランナー同士なら、相手への妨害行為も認められている。
【花鶏】
「きな臭い話になってきたわね」
【智】
「ネット配信したりして、賭けとかやってるそうな」
【伊代】
「変に今風ね……」
【智】
「どこでもインフラは変化しますので」
【こより】
「そんで、誰がでるですか」
【智】
「勝てそうな面子をよっていこう。まずは……」
【智】
「やっぱり、るいちゃんか」
【るい】
「先のことなんてわかんない」
【智】
「こんな時にも約束しない人!?」
【伊代】
「いきなり挫折してるじゃない」
るいは複雑な表情だった。
複雑すぎてどういう顔なのか読み取れないくらい。
【茜子】
「時間の無駄です。二番手を決めましょう」
【伊代】
「ちょっと、一番手決まってないのに……」
【茜子】
「平気です」
【智】
「わかりました。先へ進めます」
【花鶏】
「信用するっていいたいの? バカもいよいよ極まれりね。
まあ、いいわ」
【智】
「次は……」
【花鶏】
「わたしが出るわ」
【こより】
「花鶏センパイ」
【花鶏】
「自分のことなら自分の力で勝ち取る。わたしには同情も助けも
いらない」
花鶏は硬質だ。
強く儚く高く咲く。
触れれば崩れそうなほど繊細で。
どこまでも花鶏は花鶏だった。
【伊代】
「ねえ、あなた」
【花鶏】
「ええ、わかってるわ。無茶はするなって言いたいんでしょう」
【伊代】
「じゃなくて、これ、チーム戦だからあなた一人だと勝てないんじゃないかしら」
水差しまくり発言だ。
【花鶏】
「……」
【智】
「すごいなあ」
伊代は素だ。
狙ってないだけに一種の才能だ。
水を差す天才。
【伊代】
「ほんとのこと言っただけじゃない……」
だんだんキャラが見えてくる。
人間なんて閉じた筺と同じで、
蓋を開けないと中味はわからない。
【智】
「深い」
【茜子】
「何を一人で納得しているのですか」
【智】
「乙女強度から考えて、三人目は僕が。
自分の身の安全は自分で守ることにする」
【伊代】
「いや、だから、なにそれ」
【智】
「なにとは」
【伊代】
「なんとか強度」
【智】
「だいたい普通だと百万乙女前後で」
【伊代】
「はあ」
【智】
「るいは、でも一千万乙女な感じで」
伊代は最後まで納得いかない顔をしていた。
【智】
「最後の一人は――」
【茜子】
「茜子さんが出ます」
【智】
「えう」
むせかける。
【伊代】
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと!」
【茜子】
「なんですか」
【伊代】
「聞いてなかったの!? 体力勝負なのよ!
ギャンブルの馬役で、妨害アリなんていう際物なの!」
【茜子】
「わかってます」
【伊代】
「わかってない、わかってないわよ!
あなた……ねえ、そっちもなんとか言ってあげてよ」
【伊代】
「この子みたいな体力お化けならともかく、あなたみたいな
細っこいのが出て行ったって怪我するだけだって! いいえ、
怪我じゃすまないかも……っ」
【るい】
「なんかすごい言われよう」
【茜子】
「私、わかってます」
【伊代】
「わかってない!」
【茜子】
「わかってないのは、あなたです」
【伊代】
「……ッッ」
衝突する。
人形じみていても茜子は人間だから。
行きずりの絆で繋がっただけの他人同士。
意見が違えばぶつかり合う。
【茜子】
「これは、私の問題です。他の誰の問題でもない、私のことです。私が追われて、私に降りかかったことです。私が自分で出るのは責任です」
鋼のような決意。
【智】
「…………」
茜子の顔を見ながら思案する。
【智】
「ところで、こよりちゃん」
【こより】
「はいです、センパイっ!」
【智】
「最後のメンバー、キミでいい?」
【こより】
「……………………はい?」
固まった。
【智】
「最後は、こよりん」
【こより】
「ッッッ!?」
ムンクの叫びのポーズ。
【こより】
「はい〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
【こより】
「そそそそそそそ、それはどういうことでありありありあり、
ありーでう゛ぇるまっくす!!」
【智】
「全面的に違ってる」
【こより】
「そ……そんなの……困るです……すごく困りますぅ!」
【茜子】
「待ってください! これは、私のことです!」
茜子が、珍しく激しく噛みついてくる。
【茜子】
「私のことなのに、どうして、そのミニウサギを」
【智】
「これは同盟だから」
【茜子】
「わかりません」
【智】
「僕らは力を貸しあう。僕らは利用し合う。誰かの問題は全員の
問題。それでなくちゃ同盟の意味もないでしょ。そうすること
だけが、ちっぽけな僕らの解決の手段」
【智】
「一番しなくちゃいけないことはなんだと思う?」
【茜子】
「一番………………」
【智】
「勝たなくちゃ、色んなモノに。躓いてらんない。意地とか、
責任とか、誰の事だとか。そんなことには躓いてらんない。
どうしてって? 負けちゃったら終わりだから」
【智】
「負けたら、後はない。二度目がやってくるかどうかもわからない。世界は一度きりなんだ。セーブもロードも通用しない」
【智】
「突き抜けて自己満足で納得するのもいいけど、
それで納得するよりは、勝って幸せになろうよ」
【茜子】
「幸せ、なんて」
【茜子】
「なれると思うんですか」
肩をすくめた。
【智】
「なれる、」
【智】
「と思う。難易度はかなり高いけど、力を合わせれば、みんなで
戦えば、いつかはきっと」
【茜子】
「……呪われてる」
自嘲じみていた。
人生まで、全部ひっくるめて投げ捨てるような、
希少価値の表情だった。
【茜子】
「呪われているのに、追いかけられるのに、
幸せになんてたどり着けません」
いやな空気になった。
欺(ぎ)瞞(まん)の下にあるのは畏れと不安。
呪い。呪い。呪い。
いつでもどこでも背中にぴったり張り付いた言葉。
それは、どこにでもある。
生きることには畏れと不安がつきものだから。
【智】
「そのために……僕らはそのために同盟を結んだんだ。
一人だと無理だから、一人だと足りないから、一人にできる
ことには限りがあるから」
【智】
「だから手を結ぶ、利用し合う」
【伊代】
「…………それで、今回の勝負、勝てると思うの?」
【智】
「人事を尽くして天命を待ちます」
【花鶏】
「天命だなんてらしくないこと」
【智】
「根性で解決するとは思わないけどね」
【花鶏】
「それは冷静な判断ね」
【智】
「なんといってもドナドナの運命がかかってるから。
勝たないことには」
愛奴隷一直線。
【茜子】
「でも、だからって、私……」
問い@
幸せになれると思いますか?
解答
なれると思います。
【智】
「なんとかなるって」
希望は欺(ぎ)瞞(まん)的だ。
信じていなくても言葉にできる。
そして。
言葉は欺くためにあるのだから。
【智】
「それでどうですか、こよりん?」
【こより】
「鳴滝が……やるですか……?」
【智】
「ごめん、他にいなくって」
悪いとは思うけど、選択の余地がない。
モノは試しで残りの面子を検討してみる。
伊代、こより、茜子。
【智】
「……やっぱりキミだけが勝利の鍵です」
【るい】
「残りの二人は?」
【智】
「小利の餓鬼とでもいいますか」
【るい】
「わからぬ」
日本語には秘密がいっぱい。
【智】
「ごめん、この通り。無事に終わったら、代わりに何でも
お礼するから」
【こより】
「でもでも、こよりが出るということは、戦うということですよね?」
【智】
「まあね」
【こより】
「走るだけじゃなくて、妨害っていうと、かなりシャレにならない事態が予想されたりするんですよね?」
【智】
「そうね」
【こより】
「相手は、その、あっち系の本物で、これっぽっちも冗談通じないような気がするんですけど」
【智】
「こよりちゃん、鋭いね」
【こより】
「……」
【智】
「……」
【こより】
「いやあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
泣かれた。
【こより】
「酷いッス、酷すぎます! いくらセンパイでも、
この仕打ちはあまりにあまりで……」
我ながら同意見だ。
【智】
「どうしても、だめ?」
【こより】
「平和主義者の小娘にナニヲキタイスルノデスカ」
【智】
「伊代は、意外と部のキャプテンやってたりとか」
【伊代】
「わ、わたし?!」
【伊代】
「1年だけ、お茶漬けフリカケのおまけカードで占いをする部
の部長をしたことあるけど……」
【智】
「……ごちそうさまでした」
なんだよ、その部は!
そんな得体の知れない部、存在自体おかしいだろ。
【花鶏】
「で、どうするわけ?」
【智】
「それなら、」
どうしよう……。
【智】
「頭数だけそろえても、勝ち手がないと……」
【茜子】
「ドナドナ」
【るい】
「ドナドナかあ」
切なくなる。
【こより】
「……わかりました。センパイを市場に連れて行かれるわけにはいきません。わたしが……出ればいいんですよね?」
【智】
「結構無茶な話だったかなぁ」
【伊代】
「今になって考えなくてもそうでしょ」
【智】
「ほんとにいいの、こよちん?」
【こより】
「うす。しかた……ないです。他に道はないのです」
【るい】
「そのとーり。女は度胸っ」
ぱんぱんと、こよりの背中を景気よく叩いた。
【花鶏】
「歪んだ価値観だわね」
【るい】
「ほほう」
【花鶏】
「なによ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
今日も今日とて揉める。
それでも――――
とりあえず面子はそろった。
翌日。
授業はサボりました。
優等生失格の烙印がついちゃいそうだ。
朝から街をうろついた。
るいを誘って。
腕をくんで、てくてく歩く。
【るい】
「これってデートっすか」
【智】
「んなことしてたらサボった意味がないわいな」
【るい】
「デートじゃないのけ?」
【智】
「なんて小春日和なヘッド」
【るい】
「そろそろ春っつーより初夏って感じの季節、女の子同士のデートもいいよねぇ〜」
デートしつこい。
【智】
「これは下見です」
シティマップを片手に。
パルクールレースでは、ランナーは市街の指定された
チェックポイントを指定の順番で通過すればよい。
コース選択は自由。
たとえば空を飛ぶのも自由。
できるもんなら。
央輝に確認したところ、
こよりのローラーブレードは使って構わないということだ。
チームはランナーが4人。
チェックポイントは20カ所。
分散したポイントに、どれだけ速くたどり着けるのか、
タイムロスを減らせるのか。
ライン取りが重要になる。
【智】
「実際走っててポイントわからなくなったりしたら、そういうのもまずいよね」
【るい】
「まずいか」
【智】
「なんせ、僕がドナドナだけに」
【るい】
「たしかにマズイ」
魂的に危機一髪だ。
【るい】
「なんでもトモは細かいね」
【智】
「白鳥は優雅に浮かんでるだけに見えて、水の下で必死に
バタ足してるもんなの。不断の努力とその成果。これぞ
勝ってナンボの和久津流」
【智】
「人事を尽くして天命を待つ……ってことは、人事尽くさないと
応えてくれないのが天命っていう性悪狐の正体なので、日夜努力の毎日なのです」
性悪度でいうと、いずるさんに一脈通じる。
【るい】
「そういうのって、どーっていって、ばーってやって、どがーんてかましたら」
【るい】
「普通はなんとかならんのけ?」
【智】
「なるか!」
【智】
「抽象的すぎて意味不明です!」
【るい】
「なんとなくフィーリングで、ぱーっと」
【智】
「……るいってさ、そういう、感覚で物事やっちゃう方?」
【るい】
「おうさ」
【智】
「これだからっ、特化した才能の上にあぐらをかいて世間を
軽くみてるヤツは!」
嫉妬に燃えた。
【るい】
「その分頭使うのは苦手だけど」
【智】
「いびれー(※歪型レーダーグラフの略、才能特化型な人種を表現するスラング)だね」
典型的な、できる子理論の人生。
ある分野において、くめど尽きせぬ才能過ぎて、
矮小な常人の苦労が理解できてない。
そういうひといるんだよねー。
自転車に乗れるようになった子供が、
どうして今まで出来なかったのかわからなくなるのに似ている。
【智】
「……人間同士って解り合えないんだなあって、すごくすごく思う」
【るい】
「トモはすぐ難しいこと言う」
【智】
「考えててもしかたがない」
【るい】
「ほほう、するってーと」
とにかく実地で検分に。
【智】
「いこう」
【るい】
「いこう」
そういうことになった。
行ってきた。
【智】
「あいやー! 疲れましたー!!」
【智】
「思ったより大変でした」
【るい】
「そんで、どんなもんかね、手応えは?」
感想はたくさんあるが、
あえて四文字で表すなら。
【智】
「前途多難」
【るい】
「勝利の鍵は?」
【智】
「…………あるのかな?」
ドナドナが近くなった気がする。
さて。
飛ぶように日付が過ぎて――
今宵は前夜。
いよいよ明日がレースの当日。
慌ただしいと月日が経つのが速い。
1クリックで1週間とか。
それぐらい速い。
【智】
「決戦の時はきたれり!!」
と、うたいあげるような、
燃えテンションが不足していた。
拳を突き上げる役がいない。
【智】
「体育会系成分が不足してる」
【花鶏】
「汗臭そう……」
【智】
「偏見だ」
【花鶏】
「そういうの、近付いただけで妊娠するわ」
差別と偏見はこうして広まる。
様式美と蔑まれようとも、
メンタル設計に鼓舞が占める位置は重要なのだ。
【伊代】
「結局あの子が一番手で出そうね」
【智】
「ひとは信じ合わないと」
他人事のように。
【智】
「こよりんはダメです」
【こより】
「あー、うー、やー」
こよりは、部屋の隅でガタガタと震えていた。
生ける屍のごとし。
【伊代】
「本番に弱いタイプみたいねえ」
【智】
「女の子らしい、戦いには向かぬ優しい心の持ち主だから」
【るい】
「私らも女の子」
最終兵器乙女、皆元るい。
【智】
「分を弁(わきま)えないと」
【るい】
「馬鹿にされてる気がする」
さて。
ここは、かつて花鶏ん家の一室だった、
今は、乙女同盟パルクールレース対策本部。
歴史の大河の果てに、
この部屋が獲得した名称である。
戒名だってある。
※刑事ドラマなんかで捜査本部出入り口に掲示する「○○捜査本部」というヤツ。
お手製の垂れ幕がかかっていた。
字は伊代が入れた。
花鶏は最後まで抵抗した。
素直じゃない。
【花鶏】
『お断りよ!』
【智】
『ここは形から入ると言うことで』
【花鶏】
『穢れる!』
【智】
『どうしても』
【花鶏】
『然り』
【智】
『わかりました。では、同盟憲章第2条に基づいて――』
多数決を取った。
同盟だけに、意見対立は多数決でもって民主的に解決する。
垂れ幕一つあってもなくても同じだが。
形から入りたい時もある。
花鶏を困らせると、わりと面白そうだし。
【智】
『賛成多数につき、』
【花鶏】
『卑怯者!』
【智】
『最近よく言われます』
【智】
『これでも普段は品行方正』
【伊代】
『騙りね』
【智】
『……騙るのは、いかがわしいひとだけでいいよ』
【伊代】
『やっぱり、わりと似たベクトルの生き物なのかも』
いやなベクトルだ。
【花鶏】
「勝ち目は?」
【智】
「4、6くらいで」
【伊代】
「……6割で負けちゃうんだ」
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「な、なんで睨むのよぉ……」
どこまでも空気の読めない伊代だった。
【智】
「せめて4割も勝てるの! とか、
味方の士気を鼓舞するような言動をよろしく」
【伊代】
「士気だなんて、精神論よ」
【智】
「病は気からっていうでしょ」
信じれば変わる、
諦めなければ勝てる――。
呪われた世界に蔓延する、
数多の欺(ぎ)瞞(まん)の最たるものだ。
精神論はスタート地点でしかない。
戦いは問答無用。
堅く冷たく揺るがぬ力学で形作られる。
【智】
「知恵と力と友情と、最後が勇気」
【こより】
「あうぅ」
こよりが頭を抱えた。
すっくと立ち上がる。
【こより】
「…………顔洗ってくるデス」
マシンのようにひび割れた声で。
【智】
「大丈夫? ひとりで行ける? 顔が紫色だけど」
【こより】
「紫色だと画面に出せませんね」
【智】
「……わりと余裕ある?」
【こより】
「手首切りたい……」
【智】
「ヤバイ目をしていうな」
【こより】
「いってきます」
【智】
「大丈夫かな」
【茜子】
「この期に及んで大丈夫だなんて、脳に蛆がわいてますね」
【伊代】
「……やっぱり怖いわよ」
伊代が肩を落とす。
小さくなる。
【伊代】
「ほんと、怖い。胃のあたり重いし。わたしは出ないからいくらか楽だけど、明日負けたら、負けちゃったら……そう思ったら、
あの子の気持ち、少しはわかる」
あと十数時間すれば。
決する。
勝者と敗者に別れる。
敗者は強奪される。
代価を。
【智】
「もっと力抜いて。よしんば明日負けたって……」
失うモノは。
一冊の本。
茜子と僕。
【智】
「大丈夫だから」
少なくとも伊代は。
【伊代】
「だから……それだから、よけいに……」
視線が彷徨う。所在なく。
伊代は、傷ついていた。
【伊代】
「わたしもおトイレいってくる……」
逃げるように。
【智】
「むう、人間心理は複雑です」
無傷でいられる事への後ろめたさが、
伊代を抉っている。
リスクは持たない。レースにも出ない。
伊代だけが。
それを承知の同盟だ。
それぞれの置かれた状況や条件は異なっている。
違うモノだから、同じにはなれない。
違っても、リスクを共有し、力を合わせる。
差異はでる。
完全な平等は完全な平和と同じくらいの幻だから。
そこに苛立って。
不完全であることに。
完璧でないことに。
憤る。
【智】
「…………可愛いヤツ」
【るい】
「うにゅ? なんでトモちん、難しい顔してんの」
【智】
「るいは簡単そう」
【るい】
「???」
理解してなかった。
【伊代】
「ねえあの子、いる?」
伊代が戻ってきた。
【智】
「あの子?」
【伊代】
「オチビ」
【智】
「さっき顔を洗いに……っていうか、伊代こそ会わなかったの、
お手洗いで」
【花鶏】
「そういえば、随分経つのに戻ってこないなんて……ちょっと
遅すぎるわね」
【伊代】
「いなかったわよ」
【るい】
「テラスで頭冷やしてるとか?」
【伊代】
「気になって、ざっと見てきたんだけど……あの子、どこにも
いないのよ」
【茜子】
「…………」
胃の下あたりが、ざわざわした。
【智】
「それって、ちょっとマズイっぽいかも……」
花鶏の家中を手分けして捜した。
どこにも、こよりはいなかった。
【伊代】
「これってもしかして」
【智】
「…………逃げた?」
これは、予想外。
簡単にいうと……
最悪だ。
〔団結、もう一度〕
手分けして捜すことにした。
花鶏の家の近辺をしらみつぶしに。
土地勘はないだろうから、
遠くに行ってないと踏んだ。
【智】
「いた?」
【花鶏】
「いいえ」
【伊代】
「こっちにもいなかった。まったくどこいったのかしら」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「プレッシャーに弱そうなタイプだものね」
【伊代】
「じゃあ、ほんとに……」
対策を検討する。
【花鶏】
「見当たらなかったわね。
じゃあ、もう尻尾巻いてどこか遠くに……?」
【智】
「でも、バスだってない時間だし」
時間はとっくに22時を回っていた。
バスはおろか、この辺りだと、
タクシーだってつかまえるのは一苦労だ。
電車の駅までは大概遠い。
【智】
「でも、まずいよ、まずいですよ。明日は本番なのに……
このままだととんでもないことになっちゃうよぉ!!」
【茜子】
「こいつ、普段姑息な分だけ、予期せぬトラブルに弱い雑魚ですか」
【伊代】
「なにその一番の小者設定」
【智】
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
頭を抱える。
ごろごろと床の上を転がり回る。
こよりがいないとメンバーが足りない。
戦わずして不戦敗。
そんな馬鹿な!
他に手は……?
例えば、代理をたてるとか。
【伊代】
『ファイトー☆』
【茜子】
『いっぱーつ☆』
【智】
「……………………ッッ」
見果てぬ文系世界が広がっている。
先行き真っ暗。
【茜子】
「人の顔を見てげっそりするのは失礼生物です」
【智】
「ごめんなさい」
土下座する。
【茜子】
「謝るよりも今すべきことは」
【智】
「そうだよ戦わないと、今そこにある危機と! 捜そう、もっと
捜そう、それに……夜にひとりほっつき歩いてたら危ない」
【伊代】
「そ、そうね。なにせあの子だし」
【るい】
「もういい」
冷たく。
るいが目をせばめる。
不在の何者かを睨むように。
おっ?
なんか、予期せぬ反応だ。
【智】
「いい、とは?」
【るい】
「ほっとけばいい」
【智】
「…………」
ものすごく意表を突かれた。
るいが、そういうこと言うなんて。
【るい】
「裏切ったんだ」
【智】
「あの、ちょっと、るい……?」
怖い顔。
今にも噛みつきそうだった。
純粋で、それだけに強固な生き物が居る。
【るい】
「裏切ったんだ」
るい……。
静かな裁定、本気の目だ。
【るい】
「どうして裏切るの?」
【智】
「裏切ったなんて、大げさな」
【るい】
「信じたなら裏切るな」
苛烈(かれつ)な二分法。
白と黒。善と悪。敵と味方。
るいは世界を二つに分けようとする。
信じることと裏切ること。
【智】
「それは、違うよ」
【るい】
「違わない!」
【智】
「違わないことない!」
こんなにも強い言葉をぶつけ合うのは初めてだ。
るいが睨んでくる。
視線だけで火傷しちゃいそう。
【るい】
「だって、逃げたじゃない。仲間を裏切った! 嘘をついて、
自分だけで!」
【智】
「そんなことない、僕は信じてる!」
【るい】
「――――っ」
信じる?
誰が、そんなこというわけ?
【智】
「僕は、こよりのこと信じてる。怖くて逃げ出したかも知れない
けど、こよりは僕らを裏切ったりしない。ほんのちょっと怯えて、
自分を見失っただけで」
【智】
「だから、きっと僕らと一緒に、明日は走ってくれるって信じてる」
僕は、誰も信じない。
信じるなんて間違っている。
心は天性の裏切り者だ。
何度でも繰り返す。
他人を裏切り、自分を裏切る。
嘘をついて、欺いて、
本当のことさえ言えないのに。
自分の心ひとつ信じられないのに。
見えない他人の心を信じることが出来るの?
【智】
「…………だから、今は全員で、こよりのこと、もう一度
捜してみようよ」
――――――――出来るわけがないじゃないか。
【智】
「……るいのヤツは?」
【伊代】
「部屋で待ってる、ですって」
【智】
「そっか」
まあ、しかたないか。
るいに、あんな面があったなんて思いもよらなかった。
【智】
「じゃあ、手分けして捜そう」
【伊代】
「わたしは、あっちを」
【茜子】
「茜子さんはこっちから」
散っていく。
【智】
「花鶏は――――」
【花鶏】
「信じてる……ね」
からかうような物言いだった。
【智】
「なんだよ」
【花鶏】
「あら、いつもよりかなり余裕無いのね」
【智】
「悪かったね」
【花鶏】
「そういう素の顔も可愛いわよ」
……誉められても嬉しくない。
【花鶏】
「鳴滝を信じてる?」
【智】
「そういった」
【花鶏】
「本当に?」
【智】
「なによ」
【花鶏】
「物事を考えるっていうのは、疑うってことでしょ」
そう、だ。
【花鶏】
「知恵の実の悲劇というわけね」
【智】
「……持って回った言い方するね」
【花鶏】
「そういうときもあるわ」
【智】
「そうだよ。僕は、いつも疑うところから始めるんだ。どんな事がありえるか。どんな失敗が成立するか」
世界を、常識を、友情を、信頼を、自分自身を。
他人なんて、一番信用できない。
【花鶏】
「今回はびっくりしてたわね」
【智】
「予想外のことなんて、いくらもあるから」
知恵の限界。
思考を繰り返しても、限界がある。
人間には完全な未来なんてわからない。
【智】
「……るいがあんなに怒るなんて」
【花鶏】
「そうね」
人ひとりにしたって、本当の心は量りがたいんだと、
いやというほど思い知らされる。
【花鶏】
「それでどうするの?」
【智】
「どうするもなにも、こよりを捜す。言ったとおりだよ。そんなに遠くまで行ってないと思うし」
【花鶏】
「そうね。でも、問題はその後でしょ」
見つけたとして――――――
本当はわかっていた。
こよりが逃げ出すのは当たり前だ。
理由がないから。
るいにも、花鶏にも、茜子にもある、トラブル。
同盟をあてにしなければならない理由。
【智】
「どうにもならなかったら…………」
【花鶏】
「ならなかったら?」
こよりには理由がない。
あるのは負い目だ。
花鶏の本を失った原因であるという後ろめたさ。
わかっていて、こよりを利用した。
その方が都合がいいから。
【智】
「うんにゃ、どうにもならない退路はなし。諦観するのは最後の
武器。僕の売買権がかかってますので死にものぐるいでなんとかします」
【花鶏】
「背水の陣だわ」
【智】
「余裕のある人生をギブミー」
【花鶏】
「昔の人は偉いわね。そういうあなたに、含蓄のあるお言葉を
プレゼント。曰く」
【花鶏&智】
「「自業自得」」
【智】
「ハモってどうする」
【花鶏】
「自分でわかってるだけに、あなたの不幸も根が深いわね」
【智】
「行ってきます」
【花鶏】
「わたしはあっちを捜すわ。
でも、その前に、よければ聞かせてくれない?」
【智】
「なに? 僕にわかることなら」
【花鶏】
「貴方にしか、わからないわよ」
ころころと、花鶏は笑った。
【花鶏】
「あなた、本当に、信じられなかったの?」
【智】
「――――っ」
きっと顔に出た。
本心を言い当てられた。
誰のことも、僕は信じてなんていないんだと。
でも、それなのに。
花鶏はそれを揶揄する。
まるで。
僕の、本当が――――だと、いうように。
【智】
「…………」
花鶏のその問いに、
とうとう僕は答えられなかった。
ほどなくして発見した。
【智】
「みーつけた!」
【こより】
「あう」
ライオンと鬼ごっこをする
カピバラみたいな顔で、こよりは動揺した。
バス停近くだ。
花鶏の家に初めて来たときに遭遇したあたり。
こよりは右往左往する。
右へちょろちょろ、左へちょろちょろ。
【智】
「なにやっとんのねん」
【こより】
「……逃げてますです」
【智】
「そうなの?」
どこにも行ってないけど?
【こより】
「…………見つかってしまいました」
覇気がない。
【智】
「なんたること、僕の知ってるこよりんはもっと腹の底から
声をだす女の子だったぞ!」
【茜子】
「そんなの無理に決まってます」
【智】
「余計な突っ込み入れなくていいから」
茜子だった。
どっから出たんだ。
わざわざ邪魔しに来たのか?
【茜子】
「…………」
【智】
「何を無表情に百面相してるの?」
【茜子】
「あなたは前を向いて説得にせいをだしてればいいです」
【智】
「図星」
【茜子】
「ビッチ」
舌先のキレが悪い。
こよりがどうするかは、そのまま茜子の未来を左右する。
おきものっぽくても不安は感じているだろう。
茜子の調子がいまいちな理由を、論理的に説明することができる。
でも。
それでいいのか。それだけなのか。
無表情な顔からは何も読み取れない。
【こより】
「無理……です」
【智】
「だから」
【こより】
「絶対無理、レースなんて無理、戦ったり競争したりぶつかったりするのなんて絶対無理です!」
半泣きだ。
【智】
「まあ、そこんとこ無理とは承知の上なのです。
他に選択の余地がかなり厳しい人材のインフレ」
【智】
「こよりも、花鶏助ける時は、がんばったでしょ」
【こより】
「あのときは無我夢中でしたから……」
【智】
「今は?」
【こより】
「…………」
【智】
「怖いんだ」
【こより】
「こわい、です」
こっくり。肯く。
【こより】
「ものすごく怖いです! 考えただけで、足震えてきて、立ってるのだって無理で、何も考えられなくなって息苦しくって……」
こよりは馬鹿だ。
怖いなら逃げればいい。
追いつけないくらい遠くまで。
他人のことなんて考えず。
誰だって自分が一番可愛い。
どんな献身も、崇高な自己犠牲も、
最後まで突きつめてしまえば自分のための行いなのだし。
それなのに、こんなところにいて。
【智】
「痛いかもしんないしね」
【こより】
「そういうのじゃありません!」
【智】
「……んと、すると?」
【こより】
「あー、その……怪我したり、怖いひとと面と向かったり、
そういうのも十分怖いは怖いんですけど……」
正直者だ。
【智】
「こよりだけじゃなくて、誰だって怖いよ」
【こより】
「……るいセンパイとか、平気そうです」
【智】
「あれは特殊例」
【こより】
「わたし、そんなふうになれない」
【智】
「ならなくてもいいよ。こよりはこよりで、るいじゃないんだから」
【こより】
「…………」
【こより】
「でも、わたしが負けたら、センパイが売られるんですよ!?」
なるほど。
こよりが怖がっているのはそこだったのか。
【智】
「…………だから?」
【こより】
「……(こっくり)」
【智】
「自信はない?」
【こより】
「全然ないです」
傷つくことよりも、もっと怖いこと。
自分のせいで誰かが傷つくこと。
何かが失われてしまうこと。
責任の重みだ。
背中に背負った、
見えないものの重さを怖れている。
【智】
「いいこだね、こよりん」
本当は必要ないものさえ背負い込んで。
本当に逃げ出すことさえできないで。
【こより】
「………………」
だから、精一杯の嘘をつく。
【智】
「大丈夫だよ。出ても十分やれる。勝てるって。
こよりのローラーブレード、すごく上手だし。自信持っていい」
【こより】
「そんなの理由になりません。そういうのとは違うじゃないですか。走るだけじゃなくて、誰かと戦ったりするんですよ。誰かを押しのけて勝たないとだめなんですよ!」
【こより】
「全然……違ってる……っ」
競うことに向かない人種というのはいる。
戦い、傷つけあい、奪い合うこと。
【智】
「たしかに、そういうのは気構えの問題かもね」
【こより】
「わたし、そういうの向いてない。
ケンカしたり、勝ち負けがシビアだったり、そういうのやです」
ウサギは神経質な生き物だ。
争いには向かない。
【智】
「別に必殺技使えとかはいってない」
【こより】
「人前で使うの、恥ずかしいですから……」
戦うことを怖れるのは、優しさだ。
でも。
争うこと――――。
それはどこにでもある。
普通に生活をしていても、
競ったり、争ったりすることは幾らでもある。
呪いのように付きまとう。
いつだって席の数は決まっている。
誰かが座れば誰かが振り落とされる。
競って、邪魔して、譲って、争って。
価値観はぶつかり合い、利害は衝突し合う。
終わりのない椅子取りゲーム。
それが世界の正体なのだから。
【こより】
「わたしが失敗したら…………」
【智】
「そういうの、気にするなっていっても、ダメだよね」
【こより】
「無茶いいっこです」
【こより】
「センパイは残酷です。わたしにそんな責任押しつけるのは
ひどすぎです。ほら、ドキドキしてます。心臓今にも栓が
抜けちゃいそう……」
おかしい言い回しをする。
【智】
「それはしかたないよ」
【智】
「それは、どこにでもあることなんだから」
見えない責任。
繋がり。
連鎖。
キミとボク。
自分の行動の結果が、誰かの人生を左右する。
重い事実だ。
それは、本当に、どこにでもある。
見ないふりをしているだけだ。
見てしまうと成り立たない。
他人の生命の重さに潰される。
でも、それを拒絶するのなら。
何一つできない。
自分が生きていくことさえもできなくなる。
人知れぬ砂漠の奥にでも孤独な庵を構えて、
一生引きこもるしかないのかも。
【こより】
「そう、かもしれないですけど……」
【智】
「何をやっても、どこかで、なにかで、他人のことを左右しちゃうんだよ。そうなっちゃう。それがイヤなら、本当にひとりでいないと……」
【こより】
「そんなの! そんなの……無理……」
ウサギさんは人恋しい生き物だ。
孤独には耐えきれずに死んでしまう。
【智】
「それにさ、今からだと、逃げちゃってもあんましかわんないよ」
【智】
「こよりがいないと、代役頼むわけだし。それってつまり、
こよりが」
【こより】
「……逃げちゃったから?」
【智】
「責任の重さとしたら同じでしょ」
【こより】
「それは、そーですけど、実際にやって負けたら……」
【智】
「六分の一」
【こより】
「なんですか、いきなり?」
【智】
「責任の重さ」
【こより】
「6人いるから……?」
【智】
「うん。そういうのが同盟だよ。僕らは一個の生き物、ひとつの
チーム、まとまった群れ。メリットを分かち合うかわりに、
リスクも分散して共有する」
【智】
「こよりが失敗してダメになったとしても、それは、こよりだけの責任じゃない。みんなの責任」
【こより】
「そんなの……」
【こより】
「わたしが上手くできなかったら、それで迷惑かかるのは
同じことです」
【智】
「いまさらそんなこと、いいっこなし」
【智】
「同盟を結ぶときに、そういうのは覚悟完了してる」
【こより】
「わたし、ちゃんと考えたことなかった……」
【智】
「契約って恐ろしいね。いつだって一番重要なことは、読めない
くらいちっちゃな文字で、契約書の隅っこにこっそり書いて
あるんだよ」
【こより】
「悪徳キャッチセールスみたいッス」
【智】
「タダより高いモノはないって言うでしょ。メリットだけ手に
はいるなんて上手い話は転がってません。責任だって背負い
込むのは当たり前」
【智】
「だから、こよりが考えてるようなことは、そんなこと一々
気にしたりしないよーに」
【智】
「安心して。
こよりが失敗して負けちゃっても、僕は恨んだりしないから」
じっと、目を合わせる。
【智】
「茜子さんも何とか言ってやって」
【茜子】
「え、えうっ!?」
振られるとは思わなかったらしい。
面白いくらいに狼狽した。
【茜子】
「あ、あ、あ、あの、の……」
【智】
「いつもの毒舌はどこいったの」
【茜子】
「ビッチは黙れ」
ひどい……。
【茜子】
「……っ」
茜子が深呼吸して。
【茜子】
「ふぁいとー!」
【智】
「……………………」
【茜子】
「ちゃ、ちゃんと言いましたから」
ぷいっと横を向いた。
【こより】
「……………………」
こよりも眼をぱちくりさせていた。
長いことそうしていた気がする。
本当は、ほんの1〜2分のことだったろう。
【こより】
「…………逃げられないんですね」
【智】
「呪われてるからね」
【こより】
「逃げても逃げられない。捕まっちゃう。やっつけるしかない」
【智】
「呪われた人生だね」
【智】
「でも、誰だって呪われてるんだよ」
色んなモノから。
僕らはみんな呪われている。
【こより】
「それなら、しかたないですね……」
【智】
「しかたない」
こよりが立ち上がった。
長い時間をかけて。
背筋を伸ばして、前を向いて。
【こより】
「こより、いきます」
【智】
「よろしい」
【智】
「性能の差が戦力の決定的な違いじゃないと、是非とも教えて
欲しいな」
空には月。
とても静かで、とても綺麗。
3人で戻った。
他の連中は、一足先に戻っていたらしい。
【こより】
「ご迷惑……」
深々と頭を下げる。
【伊代】
「……まあ、いいんじゃない。外回りで疲れたでしょ。
今日はもう休んで、明日に備えよ」
【花鶏】
「明日じゃないわよ。日付変わってるから」
深夜を過ぎていた。
【智】
「前夜にこれとは、なんという逆境……」
【こより】
「あーうー」
責任を感じていた。
【伊代】
「戦う前から負けてどうすんのよ!」
【こより】
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜」
責任に押しつぶされかけていた。
【智】
「なんの。逆境こそ我らが糧」
あと、一つ、解決することがありましたね。
部屋の奥から、のっそりと動く。
【るい】
「……………………いい」
すれ違い様。
【こより】
「がんばりますです!」
こよりは、ほんのちょっと涙ぐんでいた。
【智】
「感謝」
るいの背中に手を合わせて拝む。
これで、後は明日……。
もとい。
もはや今日だ。
逃げられない、避けられない、勝つしかない。
全てを得るか、一文無しか。
運命は二つに一つ。
決戦の日、いよいよ来たるっ!!
〔パルクールレース〕
夕焼けの赤が染みる。
街が塗り替えられる時刻。
もうすぐ運命のレースが始まる。
駅のすぐ近く、歓楽街のスタート地点。
高鳴る心臓を押さえながら、
その瞬間を待ちわびていた。
右を見た。
雑踏、雑踏、雑踏。
左を見た。
雑踏×6。
【智】
「帰宅ラッシュとぶち当たり」
【央輝】
「その方が盛り上がるんだ」
央輝はビル影に埋もれる。出てこない。
本当に吸血鬼を連想する。
【智】
「薄暗いところが好きとか」
【央輝】
「よくわかるな」
本当にそうだった。
カサカサしたのが親友かもしんない。
【央輝】
「不測の障害が多いほど勝負が荒れて盛り上がる」
【智】
「目立つかも……」
【央輝】
「ギャラリーが足りないか?」
【るい】
「聞きたいことがあるんだけど」
るいが割り込む。
あいも変わらぬ怖いモノ知らずだ。
【るい】
「どうして制服なの?」
それは僕も気になってた。
レースの前に、当日は制服を着てくるように指定された。
普通、レースのランナーっていったら、なんというのか、
もそっとそれっぽい格好するもんじゃないですか?
【央輝】
「制服の方が男の観客にウケが良いんだよ」
【智】
「ウケ……」
【央輝】
「制服は浪漫だそうだ」
なるほど!
わかる、わかるぞ、その気持ちは!
でも、この場合、僕が着ないといけないわけですから、
魂的にペルシアンブルーな感じに落ち込みそう。
【央輝】
「たくっ、クズどもの考えることはよくわからん」
クズ扱いだった……。
【伊代】
「脳腐れ……脳腐れだわ……っ!」
【茜子】
「人として生きてる価値がありません」
【智】
「……本当に困ったものですね」
とても本音は口には出せない。
代わりに、自分のスカートの端をつまんで持ち上げる。
ぴらり。
【央輝】
「サービス精神旺盛だな」
【智】
「下はスパッツはいてます」
完全防備。
当方(ら)に女の慎みの用意有り。
【智】
「でも、その、僕とか制服だと色々まずいんだけど。たしかネットで流してるんでしょ?」
【智】
「教師にばれちゃったりすると、
停学とか退学とか呼び出しとか不測の事態に……」
【央輝】
「心配いらん」
【智】
「なにやら隠された秘密が?」
【央輝】
「明日からあたしのモノだから、つまらないことは考えるな」
【こより】
「こっちが負けてからいってください!」
こよりが僕の腕を掴んで、
央輝から引きはがした。
【央輝】
「安心しろ。
ネットの配信先は、メンバーシップのアングラサイトだ」
【智】
「一応ばれる心配はない、といいたい……?」
いやあ、でも、街中走り回るんだから、
見てる人いるかもしれないわけで……。
【央輝】
「漏れるときは漏れる」
やっぱり。
【智】
「安心できないネット社会……」
高速インフラの新時代を嘆くのだった。
時間を確認する。
スタートまで、まだいくらか余裕がある。
いっそ早く始まってくれた方が、
余計なことを考えなくても済む分だけ気楽ではある。
暇があるとついつい考え込んじゃいそう。
【智】
「みなさん」
円陣を組んで。
雑踏近くなので、わりと人目が痛かったけど。
ここは様式美として必要だ。
【智】
「個々に、精一杯頑張る方向で」
【こより】
「気楽な感じッスね」
【智】
「気合いだけ空回りさせてもお寒いご時世だからねー」
スポ根が受けない時代になった。
【伊代】
「今更ナイーブなのも受けないわよ」
【智】
「じゃあシティ派で」
【るい】
「じゃあ、なのか」
【伊代】
「結局出るなら最初からそういえばいいのに」
【智】
「個人のポリシーは尊重する方向で」
【伊代】
「ところで、シティ……ってどういうのをいうの?」
乙女の疑問。
【智】
「それは、当然、決まってますけれど……シティ派っぽい感じ」
【伊代】
「惰弱だ」
【智】
「外来語には弱いんですよ」
【花鶏】
「…………」
【智】
「どうかしたの?
さっきからあり得ないくらい大人しいんですけど」
【花鶏】
「別に」
……やっぱり、なにか変だ。
いつもの花鶏なら、あり得ないくらいというのは
どういうことかしら、とかなんとかきそうなのに。
【智】
「別にって、なんか調子悪そうだよ?
顔赤いし、目もはれぼったい感じがするし……」
いやな予感が。
まさか、ここへ来て更なるトラブル?
天は我に七難八苦を与え給う?
【花鶏】
「あ、だめ、大丈夫だから、いいからって」
【智】
「動かないで」
おでこをくっつける。
【智】
「……………………熱っぽい」
【智】
「え……………………?」
えーーーーーーーーーー!!!!!
まじでぇ!?
【こより】
「ひええええぇっ!?」
絶望の悲鳴。
【伊代】
「な、なによそれ、こと、ここに至って!」
【茜子】
「……もしかすると、昨日の夜出歩いたせいで風邪……とかですか?」
【花鶏】
「違う」
【智】
「でも、熱っぽい」
【花鶏】
「……来ちゃったの」
【智】
「誰が?」
【こより】
「あ、あやや」
【伊代】
「ひぃ」
【智】
「?」
わからない。
【るい】
「そっか、生理か」
【智】
「なんですと」
こめかみをハンマーで不意打ちされた気分。
【花鶏】
「今週は大丈夫だと思ってたけど、狂ったみたい」
【智】
「ちょっとまって、そ、そ、そ、そ、それって……」
【花鶏】
「だから風邪とかじゃないわ。平気よ。わたしって重い方だから、ちょっと調子悪くなるけど」
【智】
「全然平気じゃないよぉ!!」
花鶏が横目で睨む。
【こより】
「…………これってどうなりますか?」
【智】
「マズイデスヨ」
片仮名になった。
追い詰められた心境で。
花鶏は主戦力だ。
それが使えないということになると……。
直前になって角落ち将棋。
【智】
「ああ、ドナドナの歌が聞こえて来た……」
【こより】
「なんて遠い目、センパイが錯乱してます!」
【るい】
「心配むよー」
【智】
「……どういう根拠のない自信で、それほど偉そうにされますか?」
【るい】
「平気平気。るいさん一人で3人分!!!」
断言。
たしかに、るいなら一人で3人分だろう。
【智】
「でも、これ、区間リレーなんだよね」
るいが無敵超人でも、一人では勝てない集団競技。
チームプレイと総合戦力が物をいう。
ここへ来てこれ、この逆境。
最後まで、これは、まさに――――
呪われた世界来たれり!!
熊のようにうろつく。
状況打開の方策がない。
【智】
「あー、うー」
どうしたら。
一体全体どうしたら……。
花鶏はそれでも走ると力説してるけど、
見る限り、かなり無理っぽい。
すると、選手交代しかないのか。
でも、直前で交代だといって、
央輝が許すだろうか?
よしんば、それが通じたとしても。
【智】
「でも、手持ちのカードで花鶏と交代させられるのは――」
伊代か、茜子か。
【智】
「……………………」
ドナドナめがけて一直線。
気分的には、もはや最終コーナー残り150メートル。
二人とも、ランナーとしてはブルーデー花鶏とどっちがマシか、
丙丁つけがたい文系的強者だ。
【智】
「と、とりあえず、主催者への言い訳を考えて、
せめて選手交代だけでも認めてもらわないと……」
【惠】
「困り顔だね」
聞き覚えのある声。
【智】
「……どっからでて来たの?」
惠だった。
以前もいきなり降ってわいた。
どこにでも出る。
黒くてカサカサするのと似てる。
【惠】
「しばらくご無沙汰だったね」
【智】
「僕の質問に答えろ」
惠相手だと容赦の無くなる僕だ。
【惠】
「このあたりをテリトリーにしているんだ」
【智】
「そっちも央輝の同類みたいなもんなのか」
【惠】
「さて、僕のことよりも、君のことじゃないか。どうやら
トラブルがあったんだね?」
【智】
「なんでわかるの!?」
【惠】
「予知能力がある」
へー。
素で言われてしまいました。
もう1回。
【智】
「へー」
【惠】
「笑ったね」
【智】
「笑いました。笑いましたとも。なんでしたら、お腹抱えて
笑いましょうか? 僕はリアリストなんですよ」
【惠】
「不思議は信じない方かな?」
【智】
「手品と魔法を混同しないだけだよ。
『未来がわかる』っていうのは、いくら何でも嘘度が高過ぎ」
【智】
「そうだ、こんなことしてる場合じゃないよ!」
話の主題を思い出す。
【惠】
「それなんだけれど。
今、君たちのことが、ちょっとした話題になっているんだ」
【智】
「……急ぐのでお付き合いの話でしたら日を改めて」
【惠】
「彼女……央輝が配信してるサイト。美少女戦隊だったかな」
なにその、いかがわしさ満点のフレーズ。
【惠】
「君たちのチームのことだよ」
己のあずかり知らぬところで、いやなキャッチコピーで
売り出されていた。
【智】
「…………そういう売り出しはやだな」
【惠】
「それで、どういうトラブル?」
今度はこちらのターンだ、と言うように。
【智】
「…………」
【惠】
「僕が力になれるかも知れないし、なれないかも知れない」
【智】
「なられても困る。愛の告白困る。
ピュアでプラトニックな関係で結婚するまではいたいの」
【惠】
「友達からはじめるという約束をしたのに」
【智】
「……本気でそういうお付き合いなら」
これっぽっちも安心できない。
いきなりの愛戦士だから、
それも、終始このローテンションな顔で。
【智】
「――――――そ、そうだ!」
人生の断崖絶壁三歩手前で閃いた。
いや、しかし、それはあまりにも…………。
でも、他に取れる手段は――――
他の手段を無理矢理考える。
37通りの方法を考察して、全部実現性の乏しさに
泣く泣く心ゴミ箱に破棄して捨てた。
【智】
「うわーん!!!」
現実の無情さに、僕は泣いた。
【智】
「というわけで、補欠と交代します」
【花鶏】
「どういうわけなの?」
ベタな返しだ。
【智】
「かくかくしかじか」
ベタっぽく。
便利ワードを使って説明する。
【花鶏】
「わたしは、まだ走れるわ!」
【智】
「予想通り、熱血スポ根モノできたね」
【花鶏】
「前にも言ったはずよ! これはわたしの問題なの。わたしが戦うべきことだわ。ちょっと調子悪くなったくらいで、そんなことくらいで、止められる問題じゃないの!!」
【智】
「これは同盟の問題でもあるから」
感情よりも実利優先で。
【智】
「花鶏ひとりがどうにかすべき問題じゃないし、どうにかしていい問題じゃない。手を繋いでる分リスクも共有してるんだ」
【智】
「僕にだって言う権利はある」
【花鶏】
「…………言ってくれる」
【智】
「矜持(きょうじ)も信念も思想も正しさも、必要なのはそんなものじゃない。勝つこと。僕らが勝つこと。やっつけること。そのためなら僕はなんだってするよ」
【花鶏】
「前向きな卑劣漢はタチが悪い」
【智】
「後ろ向きに卑怯よりは救いがあると思うんだ」
【智】
「1パーセントでも勝率を上げるためには、今は、花鶏が出るよりこっちの方が役に立つ。だから、僕は花鶏を下ろして取っ替える」
【花鶏】
「…………立つの?」
【智】
「…………立つよね?」
怖ず怖ずと。
【惠】
「それなりに」
代走ランナー(予定)の惠は、いつも通りの、本音が読めない
ローテンションで軽く肯く。
【るい】
「ここへ来て傭兵か」
【智】
「逆境の中生き残るには、手段を選べない貧しい国々」
【こより】
「このレース、怖い話ですよ?」
【惠】
「知らなかったな」
【るい】
「いいの、トモチン?」
【智】
「いやあ、正直微妙なんだけど、全然良くないんだけど、
なんといっても選択肢が少ないから、僕たち」
貧困にあえぐ発展途上国くらい
選択できる手段がない。
苦肉の策である。
とにかく、こやつを代走にしなければ、
残るメンバーは文系ソリューション。
【るい】
「なんかすごいよね。進む度にトラブる人生ゲーム級」
【智】
「僕の理想は植物のように穏やかな人生」
【伊代】
「無理だと思うわ」
【花鶏】
「…………わかったわ。でもね、智」
【智】
「はい」
【花鶏】
「これは、ひとつ貸しよ」
【智】
「借りじゃないんだ……」
世知辛い世の中だった。
【智】
「そういえば、これで、せっかくのフレーズがダメになったなあ」
【伊代】
「フレーズって何よ」
【智】
「美少女戦隊」
【こより】
「なんです、それ」
【智】
「僕らは広大なネットの海で、そのように呼ばれ、崇め奉られて
いるのだ」
嘘である。
【花鶏】
「ブルーになるわね、そのタイトルは」
ブルーデーだけに。
【智】
「まったくもって」
前触れもなく。
【惠】
「才野原惠」
名乗る。
名前はとっくに知っている。
あらためての自己紹介は開始の合図だった。
刻限が来た。
夕闇の赤色を、ビル影に抱かれて避けながら、
央輝は冷淡に笑んでいた。
これで状況は、引き返せない折り返し点を過ぎた。
ここから先の結末は二つに一つ。
問答無用な二分法。
勝利か敗北か。全てか無か。中途半端はない。
いよいよ、
レースが始まる――――――
チームは4人。
最初はるい、次は花鶏の予定が惠に。
央輝はメンバー変更による代走を、
くわえタバコでニヤリと笑って許してくれた。
【智】
「あっさりだ」
【央輝】
「メンバー交代を禁止した方がよかったか?」
【智】
「禁止された時にどうやって言いくるめるか、必死に頭を
悩ませてたのに」
【央輝】
「ひゃははっ」
お腹を抱える。
そんなにツボだったのか。
【央輝】
「やっぱり、オマエは怖いモノ知らずだな。この街で、あたしが
なんて呼ばれてるのか、知らないわけじゃないんだろ?」
【智】
「饅頭怖いのは、るいの専売特許で十分。僕は世の中怖いモノ
だらけだよ」
【央輝】
「あたしが見るところ、お前の方がよっぽどたちが悪いな。
知らないから怖がらない頭の悪い馬鹿ってのはいくらもいるが、
知っていて怖れないひねくれ者は滅多にいない」
【智】
「……吸血鬼、だっけ?」
噂をいくつも耳にした。
央輝は夜の闇を住処にする。
央輝に呼び出しを受けた家出娘が、
それきり二度と姿を見せなくなった。
血をすする。
日の光を浴びると死んでしまう。
などなど……。
【智】
「ひと睨みで相手を殺す、とかいうのもあったかな」
邪眼伝説。
正体が吸血鬼なら、殺すんじゃなくて惑わすのでは。
【央輝】
「お前は、本当に、見た目よりずっと面白いヤツだな」
【智】
「そういう言われ方は傷つくかも……」
【央輝】
「気に入ったんだよ」
央輝の爪が、ついっと、僕のあご先を持ち上げる。
白い喉をさらけ出す瞬間、ほんの少しドキリとした。
はたして。
央輝は笑った、
のか、どうなのか、
よくわからない微妙な表情。
間近にいる央輝は小さく細い。
ガラス細工のように儚く映る。
なのに、二歩離れれば尖った威圧感が肌を刺す。
【央輝】
「時間が来る。はじまる。そうしたら――」
今度は、はっきりと笑った。
獰猛に。
【央輝】
「お前は、すぐに、あたしのモノだ」
伊代たちは、ここで待機する。
央輝がナシをつけている、
会員制クラブかなにか、それらしい場所だった。
こういう場所、今まで入ったこと無いから
よくわからないけど、なかなかに高級そう。
【智】
「高いんだろうね、こういう場所だと……」
【伊代】
「さあ?」
こっちも、こういうところは初心(うぶ)だ。
【伊代】
「それで、あなたたちは……」
【智】
「もうすぐ、それぞれのスタートのポイントに行きます」
各ランナーのスタートするポイントは、
当然ながら、街中に散っている。
【智】
「心配しなくても、最初はるいだから、ランナーとしてのスペックは圧勝してるはず」
【伊代】
「じゃあ、勝てる?」
【智】
「……マシンの性能差が戦力の決定的差ではないことを教えてやる」
【伊代】
「教えてどうするのよ」
【こより】
「こわいッス〜〜〜〜〜」
背中にしがみついてきた。
【智】
「覚悟だ、覚悟があれば超えられる」
【智】
「あとね、それから……」
【伊代】
「まだなにか? 貴方もそろそろ行くんでしょ」
【智】
「今日、ここに来る前にした相談、覚えてる?」
【伊代】
「相談……」
【智】
「忘れてる」
【花鶏】
「仕掛けの話ね……」
ソファーを借りて横になったまま花鶏が呻く。
【伊代】
「ああっ!」
来る前に相談しておいた。
央輝と、茜子の父親が砂をかけた相手との力関係は、
正直よくわからない。
今回のゲームでチャラにできるからには、
隅に置けない関係があるのは間違いないんだけど。
でも、ただのレースじゃない。
たちの悪いギャンブルでもあった。
レースの勝敗に賭けがされていて、お金が動く。
かなりの額だ。
面子とお金。
危険な代物だ。
命より重くなったりもする。
そんなものが二つもそろって、
正々堂々と勝負をしてくれるのを信じるほどには、
僕は素直になれない。
【伊代】
「でも、まさか……」
【智】
「伊代ちゃんのお人好し」
【智】
「オッズは見た?」
【伊代】
「どうなの?」
【智】
「そりゃもう大穴ですよ」
レースに参加するのは、
僕らのチームと相手のチームの二つだけだ。
相手は何度もレース経験のある玄人さん。
こちらは素人もど素人。
しかも美少女軍団だ。
【智】
「女の子ばっかで侮ってるだろうけど、るいが飛ばして慌てるはず」
るいちゃん、無敵超人だから。
うむむ、オーダーを間違ったかなぁ……。
妨害ありのハードなゲームだ。
切り札を先に切ったのは、
最初に差を広げておきたかったからだ。
接戦になるのはよろしくない。
花鶏はともかく、こよりはマズイ。
走るならまだしも、潰し合いになると、ボロが出る。
なので、我らが美少女軍団チームの戦略は、
先行逃げ切りを重視した。
その分、手の内を早くにさらけ出してしまう。
ギリギリまで実力を隠しておいて、
ラスト2ページの見開きで大逆転という、
少年漫画な展開は難しい。
なにせ美少女軍団チームはインスタントだ。
経験値ないし、チームワークもいまいち。
【智】
「うわあ」
【こより】
「なんか絶望の声が」
【智】
「こんな勝負に勝つ気で挑んだ自分の無謀さに、
今更ながらにびびってるところ!」
【こより】
「ほんといまさらダー」
投げやりなテンションだった。
【こより】
「もはや勝負ははじまっておるです。かくなる上は一億総玉砕あるのみ!」
こよりんにスイッチが入る。燃えていた。
燃え尽きる前のロウソクのように。
【智】
「おお、昨日しゃっぽを脱いで逃走したマンモーニ(ママっこ)とはひと味もふた味も違う頼もしいお言葉。背負った子に教わるとはまさにこのこと」
【こより】
「ふふふふ、女子三日あわざれば刮目せよなのです」
【智】
「一日も経ってないけどね」
央輝がやってきた。
指を鳴らして仲間を呼ぶ。
そいつが持ってきたシティマップが、
僕らにも手渡される。
【るい】
「こいつはなんじゃんよ」
【智】
「マップですよ、皆元さん」
【るい】
「見ればわかるっす」
【央輝】
「今回のマップだ」
【智】
「地図は前にももらわなかったっけ?」
【央輝】
「コレは現場で使う用だ」
【智】
「赤の○がチェックポイントで、こっちの☆印が交代地点ってわけ?」
【るい】
「なるほどー」
いよいよ伸るか反るか。
身売りの運命が決定される。
【智】
「実は、僕、ギャンブルって得意じゃないんだよね」
【るい】
「ほほう、女は飲む撃つ買うじゃろー」
【智】
「……何を買うのよ」
意味知ってて言ってるのか。
【るい】
「えとー、巫女ーお茶の間ショッピング……?」
【智】
「なによ、そのフェチっぽいテレビシリーズ」
【茜子】
「るいさん世界は平和です」
【花鶏】
「……ギャンブルが嫌いなくせに、
渡る橋はずいぶんと危ないところばかりなのね」
花鶏は濡れタオルを額にソファーに伏せっている。
【智】
「病人のくせにアトリンが虐める」
【こより】
「おー、よしよし」
【伊代】
「……不思議だ」
【るい】
「なにが?」
【伊代】
「イヤ、アレが唸ってるのに、貴方が静かなんて」
【るい】
「私、弱いものイジメはしない主義」
胸をはる。
揺らす。
【花鶏】
「……二重にむかつくわ」
そうだろう、そうだろう。
【伊代】
「あのね、あなたたち、状況わかってるの? 緊張感持たないと、どうなっても知らないわよ!」
伊代の眼鏡がキラリと光る。
逆光で下が見えないあたり、演出過多だ。
【智】
「座の空気を和らげようと、ねー」
【こより】
「ねー」
こよりと手を繋ぐ。
【智】
「それはともかくとして」
【智】
「本音をいうと、僕は勝つのが好きなんです。勝利の味をしゃぶり尽くしたいんです。1階でLVあげて、ニンジャにクラスチェンジしてゴブリン倒すとか、そういう感じの」
【智】
「圧倒的な力と陰湿な策略で、よわっちー虫けらを高笑いしながらぷちっとか、特に好き」
【こより】
「わりと最低だ、このひと」
【茜子】
「美少女軍団一番の小者は、一番手でがんばってください」
【智】
「心温まる励ましありがとう。でもアンカー」
【智】
「それで質問なんですが、央輝さん」
細々と指示を出していた央輝が振り向く。
【央輝】
「なんだ」
【智】
「スタートは同じで、ポイント通ればコースは自由。
さてここで問題です」
【智】
「……邪魔OKってことだけど、いつもはどれくらい邪魔するの?」
【央輝】
「ルールブックは読み込んだか?」
【智】
「ルールブック? ああ、あのミニコミ誌。保険の契約書くらいのつもりで読みました、読み込みました。あんまり細かい説明してなかったけど」
【央輝】
「イイコトを教えてやる」
ちょいちょいと指で呼ばれた。
【央輝】
「あたしは血を見るのが好きなんだ」
唇が耳まで裂けた、気がした。
【智】
「最悪だ」
がっくり膝から崩れる。
冗談ならタチが悪いし、本気なら始末に悪い。
【央輝】
「せいぜいあがけよ。ルートは自由でも最短のコース取りは限られる。どうやったって、一度や二度はぶつかることになるからな」
【央輝】
「地図見たくらいじゃ、最短ラインなんてわからんだろうがな。
こればっかりは経験が物を言う」
【智】
「大層なハンデだなあ」
【央輝】
「元々そういう賭けだ。勝てば借りがチャラになる。なら、
多少不利なのは当たり前だろうが」
【智】
「経験値の高い方が勝つ、ですか」
概ね正しい。
強いて、あと一つ勝つために必須なものをあげるとすると。
【智】
「面の皮の厚さかな」
【こより】
「?」
ランナーの各所定位置への配置予定時刻になった。
チェックポイントに移動する。
【智】
「それじゃあ、後で」
【花鶏】
「勝った後で……」
【るい】
「先のことはわかんない」
【智】
「大変そうだなあ」
【こより】
「悩みを捨て去る、あんイズム! 鳴滝のオススメですよう!」
【伊代】
「気楽なのね」
【智】
「深刻よりいいと思うよ」
【惠】
「面白いね。やっぱり、君は」
【茜子】
「…………」
悲喜こもごも。
美少女軍団プラス1。
この期に及んでも、団結はいまいち。
【伊代】
「ホントに行っちゃった」
【花鶏】
「こっちは3人で居残りか……」
【茜子】
「残りものには福があるそうです」
【花鶏】
「土壇場で、こんな屈辱っ」
【伊代】
「……出たかったの?」
【花鶏】
「当たり前でしょ! わたしの問題なのよ。それを、他人に取って代わられる口惜しさ、貴方にはわからないでしょうね」
【伊代】
「……怖くないの?」
【花鶏】
「こわい?」
【伊代】
「レースもそう、黒いヤツの仲間連中もそう……
街で最初に追いかけられたとき、わたしはすごく怖かった」
【伊代】
「どんなバカなことだって起こるんだって思ってたのに、いざとなったら身動きひとつできないくらい震えが来たのよ。あなた、本当によくやるわ」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「負けるのはごめんだわ」
【伊代】
「あなたとか、あの体力バカとかなら、それでいいんでしょうね。でも……わたしは違う。わたしは普通よ。怖くてできない」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「普通なら、さっさと別れればよかったのよ。今からだって遅くはないわ、見捨てて逃げ出せばいい。高笑いして見送ってあげるから」
【花鶏】
「普通だなんていってるくせに、のこのこついてくるのは
どういうつもりかしら」
【伊代】
「……手を引くなんてできないわ」
【花鶏】
「それなら諦めるのね。逃げ出すこともできない、覚悟もない。
意味のない後悔を延々繰り返すくらいなら、逃げる方がまだ潔い」
【花鶏】
「………………ぷはぁっ」
【花鶏】
「話すぎたわ。頭痛がぶり返した」
【茜子】
「自爆マニアめ」
【伊代】
「………………」
【伊代】
「それにしても、ここは、いかがわしいお店ね」
【伊代】
「繁華街の奥のお店とは」
【花鶏】
「尹の関係のお店で、今日はメンバーシップオンリーらしいわ……」
【伊代】
「……お店って、あの子、わたしたちとたいして歳も変わらない筈なのに、いったいどんなことやってるのよ」
【茜子】
「秘密がムゲン」
【花鶏】
「ちょっとは落ち着きなさいよ。
貧乏揺すり、鬱陶しいし響くから……」
【伊代】
「わたし、こういうお店ははじめてなのよ……」
【花鶏】
「よかったわね、経験できて」
【伊代】
「そんな経験、ちっとも……っ」
【花鶏】
「だから少し静かにしてちょうだい、頭に響く……」
【伊代】
「あ、その、ごめんなさい……」
【茜子】
「お水です」
【花鶏】
「спасибо(ありがとう)」
【茜子】
「他の人たちはどうなってますか?」
【伊代】
「なによそれ」
【花鶏】
「ノートPC。わたしのよ。
ここで繋げば見れるってきいたから持ってきた」
【茜子】
「映像きちゃないですね」
【花鶏】
「ネット配信用にビットレート下げてるし。見てると頭イタイし、管理はあなたたちに任すわ」
【茜子】
「映りました。ちゃんと顔はわかりますね」
【伊代】
「あの子…………」
【茜子】
「…………トモ・ザ・アホーは今世紀決定版バカです」
【伊代】
「でもあの子、成績は悪くないらしいわよ。わりと名門通ってるし」
【茜子】
「はい生理痛、ツッコミどうぞ」
【伊代】
「え?」
【花鶏】
「誰かこのメガネを黙らせろ……」
【伊代】
「減らず口だけは、どこまでも元気なのね、あなた」
【茜子】
「世の中で一番大事なモノはなんだと思います?」
【花鶏】
「誇り」
【伊代】
「……正しさ」
【茜子】
「ブッブーです。正解は利害」
【茜子】
「私は知ってます。誰だってそうなんです。それに色々な名前を付けてごまかしたりするけれど、それは得か損かっていうそれだけです」
【茜子】
「家族も夫婦もラバーズもフレンズも、赤の他人同士となにも変わりません」
【茜子】
「私たちだって利害で結ばれてます」
【茜子】
「誰だって、いざとなったら逃げ出します」
【茜子】
「親子だって、手に余ったら手を切るんです」
【伊代】
「そんな……」
【茜子】
「魔女だって、言われたことはありますか?」
【伊代】
「な、何よそれ、ひどい!!」
【茜子】
「ひどくないです」
【茜子】
「猫は猫です。犬と狼は似てても違うものなんです。
魔女はやっぱり魔女です。魔女に向かって魔女というのは
酷くも何でもないです」
【茜子】
「そうじゃないですか?」
【伊代】
「……自分をそういうふうに言わないで」
【茜子】
「私のこと、何も知らないくせに。
そんなふうに言うのはやめてください」
【伊代】
「…………っ」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「そうよ、そうよね。わかってる。ほんとは、あなたのことなんて何も知らない。でもね、知らないのが当たり前よ。他人のことなんてわからないんだから」
【茜子】
「まあ、当たり前はそうですね」
【伊代】
「何を考えてるのかわからない。基準もない。誰も何も正しくない。今は良くても、明日には変わってしまうかも知れない」
【伊代】
「誰のこともわからない、先のこともわからない、なにもどれも
わからない。世の中なんてわからないことだらけ」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「今の白鞘は、悪くないわよ」
【伊代】
「……わからないことだらけなのに、誰も守ってくれない」
【伊代】
「だから、自分のことは自分でしなくちゃ、自分で守らなくちゃ。世界も社会も他人もなにも、どうせわかりっこないんだから、
自分を守るのは自分だけよ」
【伊代】
「………………」
【伊代】
「……なんで……なんだろう、なんでそうなってるんだろ」
【伊代】
「バカは損するようになってるのよ。厄介を自分で背負い込んで
足をすべらせるような子は、遅かれ早かれ世間の荒波に揉まれて死ぬわ」
【茜子】
「特に、自分が頭良いとか思ってるヤツに限って、特大級の
墓穴っちですね」
【花鶏】
「思うに」
【花鶏】
「やっぱり一番頭悪いのは智ね」
【花鶏】
「自分からしゃしゃり出てきて穴に入るんだから」
【伊代】
「……賛成」
【茜子】
「異議無し」
【伊代】
「要領悪いのよ、きっと」
【茜子】
「頭の容量足りてないだけだと思います」
【智】
「っくしゅん」
不意にくしゃみをする。
自分のスタートポイントで配置についている。
僕の競争パートナー、敵チームの最終走者は、
なんと央輝だった。
敵チームが、実は央輝のチームだと教わったのは、
今日になってからだ。
【央輝】
「走る前から風邪か? 倒れたらそんときは、お前の明日は
うるわしの生活だぜ」
空を仰いで、げっそり。
【智】
「麗しくない麗しくない。人は奴隷として生きるにあらず。
荒野にボロ着でも自由に生きたい」
【央輝】
「はっ」
すがめた目が見下げ果てていた。
【央輝】
「明日食うものの心配もしなくてすむ連中の戯れ言だ、そんなのはな。首輪よりも自由がいい、心に錦で肩で風切って生きていくか」
冷たい敵意の刃先が鋭い。
【央輝】
「冷たい雨に打たれながら眠ったことは? 三日ぶりの晩飯代わりに大きなネズミをかじったことは?」
【央輝】
「水の代わりに泥を啜って這い回ったことは? 一枚の硬貨のために血塗れになって争ったことは?」
【央輝】
「何もかも捨ててもどうにもならない、死んだ方がいいって本当に心から思ったことは、お前、あるか?」
【央輝】
「自由と鎖を秤にかけるのは、秤に両方が乗る場合だけだ」
【智】
「……キミは、ある?」
【央輝】
「さあな」
央輝が口元を歪める。
笑いと呼ぶには空っぽで、酷く虚無的だった。
【央輝】
「ヨタ話をしてていいのか。ほら、スタートだ。見てみろよ。
はじまったぞ」
すぐ間近に路駐されてるバンの中。
央輝の仲間がノートPCをガチガチやっている。
モニターにネットからの映像が映っている。
【智】
「るい……」
ファーストランナーはスタートを切っていた。
画像の中で、るいが疾走している。
最初から飛ばしているようだ。
るいの姿は、あっというまにカメラの視野から消えてなくなった。
【伊代】
「見てみて、ほら見て、さっき映ったわ。ほらほらこれこれ!」
【茜子】
「すごくうるさいです」
【花鶏】
「見てるわよ。子供じゃあるまいし、はしゃぎ過ぎだわ。
大声出さないでくれる、頭に響くっていったでしょ……」
【伊代】
「う……ごめん……」
【伊代】
「そ、その、薬は飲んだの……?」
【花鶏】
「ちゃんと飲んだわよ。そのうち落ち着く」
【伊代】
「あなたもこっちで座ればいいのに」
【茜子】
「狭いです」
【伊代】
「二人くらい大丈夫でしょ」
【茜子】
「いやらしい」
【伊代】
「な、なにいってんの、その子じゃないんだから!」
【花鶏】
「ダイエットしないと駄目なんじゃない?」
【伊代】
「……ダイエットならしてるわよ!
わたしくらいの体型で○×キロなら普通でしょ!!」
【花鶏】
「○×!?」
【茜子】
「……普通じゃない」
【伊代】
「え、うそ!??」
【花鶏】
「普通じゃないわ」
【伊代】
「で、でも、わたし……違う、そんなに太ってない……」
【茜子】
「世界の終わり〜♪」
【伊代】
「きゃ、うひゃひゃひゃ、どこサワってんの?!」
【花鶏】
「……エアバッグが重すぎるみたいね」
【伊代】
「だ、だれがエアバッグか」
【茜子】
「また映った」
【伊代】
「どれ……あの子ったら……」
【花鶏】
「……無駄に元気そうね」
【るい】
「だっしゃー」
【るい】
「つかさ、いったいどこが最短コースだったっけ。
トモはたしかこっちって」
【るい】
「おお、そうそう。ここのビルに入って一気に階段を駆け上がって」
【るい】
「フロアに出て3つ目の扉をくぐって」
【OLの京子さん】
「いらっしゃいませ。お客様はどちらから、」
【るい】
「あー、平気平気ちょっとごめんくらさい」
【OLの京子さん】
「あ、あの、お客様、そちらは窓しか」
【るい】
「よっこらしょ」
【OLの京子さん】
「お、おきゃくさまぁっ、ここは5階で!?」
【京子さんの上司】
「おーい、京子君。ちょっとお茶貰える?」
【るい】
「うわ、こりゃひどいや。つか足場もあんなんだし。下見に来たときに言ってやればよかったな。なんでこういう高くてヤバイとこ通らせるのかな、うちのトモちんは」
【OLの京子さん】
「おおおおおおおお、おきゃくさまあ!?」
【るい】
「せーの」
【OLの京子さん】
「わー!」
【るい】
「わーーーーーい」
【OLの京子さん】
「と、とんだ……?」
【智】
「また映った」
【央輝】
「今回はえらくカメラのあるところ通らないな」
【央輝】
「それにしてもいい勝負じゃないか。どういうルートだったのかわからないが。たしかに手札の一つや二つ仕込みもしないで勝負は受けないってわけか」
ご名算。
用意したのは、るい用の特別ルート。
ビルの上からちょっとショートカットするコース。
【央輝】
「うちの連中はゲームに慣れてる。コースだって勝手知ったる自分の庭だ。あの女がいくらゴリラでもそう簡単にはいかないと思ったが」
【智】
「るいちゃん、最終兵器乙女だかんね」
ビルからビルをひとっ跳び。
ハイジャンプは経験済みなのだ。
【智】
「ゴリラなんて聞いたら怒るだろうなあ」
【智】
「おわ、ハイジャンプ!」
なに今のものすごいのっ!?
カメラ正面だし。
揺れたし回っちゃってます。
【智】
「だからあれほどヒモ太ブラを着けろと……ッッ」
あれ……?
下着は昨日洗濯機してた。
しばらく花鶏の家に泊まり込んでるし、
洗濯当番は僕だったから覚えてる。
ブラっとしたやつの代わりは
持ってなかったような。
洗ったヤツを出した覚えはありません。
(※洗濯当番は僕です、常に)
もしかしてノーブラ!?
なんという神の領域。
【央輝】
「なにやってんだ、お前は?」
【智】
「いやその、ちょっと今まずいので……」
もじもじと。
主に身体の一部分がマズイです。
【央輝】
「得難いコース取りをしやがるな」
【智】
「乙女兵器特設コースはちょっとシャレがききませんよ」
常人には高確率で無理だ。
【智】
「妨害って直接殴ったりは禁止なんだよね」
【央輝】
「ゲームだからな。血を見るのは結構だが、ただの殴り合いになるなら最初からそうする」
サドっぽく笑われた。
【央輝】
「ヤバイ連中が多いから、どうかするとどうかなるが、そういうのも盛り上げにはちょうどいい」
【智】
「できれば遠慮したいナー」
【央輝】
「怪我をさせたらペナルティーだ、一応な」
ものすごくどうでもよさそうに。
【智】
「美少女軍団なんだから加減してよ……」
【央輝】
「この国には男女平等ってのがあるんだろ」
いよいよどっちでも良さそうに耳をほじる。
【智】
「時には思いだそう古き良き時代のレトロな文化」
【央輝】
「このままじゃ、追いつけないな」
【智】
「あ、ゴミ箱ぶつけた!?」
相手の方が、だ。
るいがゴミまみれ。
【央輝】
「挑発して心理的に追い詰める手だ」
【智】
「……武器はありなんだっけ、説明だとかなり曖昧に書いてあったけど?」
【央輝】
「たまたま持っていたビールビン、たまたま落ちていたゴミ箱、
たまたま近くにあったプラカード、更には相手がしていた
ネクタイ……」
【智】
「いやいやいやいや」
全力で否定。
【央輝】
「おいおい、お前の仲間、足が止まってるぞ?」
るいが固まっていた。
【智】
「こりはヤバイかも」
ぷち、とかいう音がモニターごしに聞こえる。
【るい】
「たまたま落ちていた、」
【るい】
「120ccのバイクーッッ!!!!!」
【智】
「…………」
【央輝】
「…………」
【智】
「……たまたまってことでいい?」
【伊代】
「……あれ、落ちてたっていうの?」
【花鶏】
「駐車してあったのよ」
【茜子】
「ぐろ」
【花鶏】
「なんて泥臭い」
【茜子】
「泥臭いというよりもきっとゴミ臭いです、反吐のように」
【伊代】
「さすがにこれはペナルティーなんじゃ……」
【茜子】
「直接攻撃してないからセーフで」
【伊代】
「……いいのかおい」
【央輝】
「どのあたりが美少女軍団だ」
ぼそっと。
【智】
「………………見た目?」
異論は認める。
【央輝】
「本物のゴリラかアレは」
【智】
「ゴリラよりはレア度が高いと思います」
あっちも絶滅危惧種だけど。
【智】
「あれ、そっちのヤツ起き上がった。元気だなぁ。やっぱり倒れた」
【央輝】
「避けたときに捻ったか何かだな。あのゴリラも、直接ぶちあてなかっただけ、加減はしたらしいな」
【智】
「るいちゃんにも理性はありました」
なけなしですが。
それにしたって。
本当に頑張ってくれている。
るいには意味がないことなのに。
同盟だ。
名前を付けて結びつく。
そうでなければ結びつけない。
なぜなら。
秘密があるから。
呪い――。
【智】
「でも、利害は」
なくても。
きっと、るいは走る。
理屈を抜きにして。
【るい】
「ぶえっくしゅん」
【るい】
「うぐ、ぐす」
【るい】
「風邪かなあ」
【智】
「るいって、ホントにバカだねぇ」
今、僕はとても楽しい。
【伊代】
「体力屋、随分頑張るわね」
【花鶏】
「脳まで筋肉細胞でできてるせいじゃないかしら」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「……?」
【伊代】
「……ナプキン貸そうか?」
【花鶏】
「誰がそういう話をしてるの!」
【伊代】
「あ、でも、なんか難しい顔してたから……」
【花鶏】
「ちょっと気にかかることがあっただけ」
【伊代】
「病人は頭使わず大人しくしてたほうがいいわよ?」
【花鶏】
「大人しくしてられるわけないでしょうに。
何度も言ってるでしょう。これは元々わたしの問題なのよ」
【るい】
「ターッチ」
【惠】
「たしかに」
【るい】
「それから一言言っとくけど」
【るい】
「私、まだそっちを信用したわけじゃないから」
【惠】
「負けるためにここにいると?
僕が、央輝のスパイだって言いたいわけだ」
【るい】
「みんないっぱいがんばってる」
【るい】
「私バカだから、そっちが何考えてるのかなんてわかんない。
けど――」
【惠】
「怖い顔だ。キミは本当に獣のようだね。優しく、鋭くて、純粋で」
【惠】
「指切りをしようか?」
【るい】
「指切り嫌いだから」
【惠】
「安心するといいよ。僕は、彼女とは友達以上になりたいんだ」
【央輝】
「二番手が出たぞ。ふん、そっちがリードしてやがる」
モニターは惠の俯瞰を映している。
一番手は予想以上に上手くいった。
問題はここから。
急あつらえのピンチヒッター。
ろくな仕込みもしていない。
【智】
「あーうー」
策士、策がなければただの人。
【惠】
「どうかな」
【惠】
「…………」
【惠】
「さすがに央輝の仲間だけのことはある。予想より早くついてくる。これだと、そのうち並ばれるかもしれないな」
【惠】
「いや、運命ほどには早くないかな」
【惠】
「君が、僕に付いてこれるといいが」
【伊代】
「え、今どっから出たの?」
【茜子】
「代理の変態生物……善戦、してますね」
【伊代】
「変態は、ないんじゃない」
【茜子】
「そうですね。では、変質者生物くらいで」
【伊代】
「生物つけても柔らかくなってない」
【花鶏】
「うー、またあだまがいだい…………」
【智】
「……そっちと知り合いだったよね」
【央輝】
「才野原か、ああ、多少は付き合いがある」
【智】
「聞いていい?」
【央輝】
「いけ好かないが役に立つ……そういうやつだ。それ以上は知ったこっちゃない」
【央輝】
「世の中の人間には三種類ある。役に立つヤツと、立たないヤツと、邪魔なヤツだ」
【央輝】
「邪魔なヤツは敵だ、敵は殺す」
首の後ろがちりつく。
むき出しの殺意。
刃物の鋭利ではなく、それは牙だ。
やわらかな喉に噛みつき引き裂くための。
【央輝】
「……お前、本当に妙なヤツだな」
【智】
「何が?」
【央輝】
「お前はそっち側の人間だ。わかるだろ。お前はこっちにはいない」
【央輝】
「誰だって赤い血の流れる同じ人間……なんてお題目があるが、
嘘っぱちだ。線があるんだよ。そっちとこっちは違うんだ」
【央輝】
「見えない、だが、深く、はっきりとした。境目だ。犬と狼の。
どんなにでかくなったって犬は犬、首輪を付けても狼は犬には
なれない」
【央輝】
「お前は犬っころだ、ただの犬っころだ。なのに、面白い。
どこにでもいる犬っころとは違う」
【央輝】
「最初に会ったときからそうだった。へらへらしやがって」
【智】
「……へらへらとは、酷いおっしゃりよう……」
【央輝】
「それなのに、壊れない」
帽子の下からのぞく、央輝の目が細くなる。
【央輝】
「普通のヤツはビビるんだ。あたしの近くに来ればな。犬だって
鼻が利く、自分の持ってない牙と爪がある相手のことは黙って
たってわかる」
【央輝】
「お前はしぶとい、腹が据わってやがる」
【央輝】
「どうして怖がらない?」
【智】
「……央輝を……?」
【央輝】
「他のことも全部ひっくるめて、だ」
鼻の頭が触れるほど間近に来た。
頭の上を見下ろせるほど小柄な尹。
ほとんど物理的な圧力が吹き付けてくる。
央輝が身につけている息苦しいほどの剣呑さは、
血の匂いをイメージさせる。
奇しくも彼女自身が言葉にしたように。
犬と狼。
悲劇的にステージが異なっている。
【智】
「買いかぶらないでよ。怖いにきまってるんだから、当たり前に。こういうのは虚勢っていうの」
【央輝】
「そうだな。確かにお前は怖がってないわけじゃない、そのあたりは人並みだ」
【智】
「……わかる……?」
【央輝】
「鼻が利くんだよ、狼だからな」
【央輝】
「お前が知ってるのは耐える術だ。しぶとく、頑丈に、壊れることなく、生き延びるための知恵だ」
【智】
「…………」
【央輝】
「誉めてるんだぜ?」
悪い大人のような、濁った笑い。
【智】
「ありがと」
誉められたので、お礼を言う。
知恵。
知っているのは、ささやかなこと。
諦めという名の知恵。
日々が不安定だという事実を納得する諦観。
偶然が支配する。
この世界のどんなものをも支配するのは、空の上にいて見えない誰かの寝ぼけ眼な思いつきで、汗水たらした努力も日々磨き抜いた叡(えい)智(ち)も、無意味に無情に押し流してしまう。
すぐ足下に恐怖があること。
それを知っているから。
耐えられる。
【智】
「…………それよりゲームは?」
話題を引き戻す。
【央輝】
「お楽しみだ」
【伊代】
「あいつ、中々カメラの範囲にでてこないわ」
【茜子】
「それはどういうことですか」
【伊代】
「コース取りが変なんだと思うけど」
【茜子】
「映った」
【花鶏】
「さっきより差が詰まってるわね……」
【茜子】
「それでもまだリードしてます」
【惠】
「…………」
【通行人】
「あ、なんだ、このやろうっ。
いきなり走ってきてぶつかりやがって!」
【寡黙な会社員】
「……」
【2年目のOL】
「きゃー、いたーい!」
【酒屋の店主】
「おまえ、ちょっと待てぇ!」
【惠】
「今日も騒がしいね」
惠のリードが詰まっていく。
【央輝】
「経験値の差がものをいってるってわけだ」
【智】
「そっちのひとは慣れてるんだっけ」
【央輝】
「ゲームの経験が豊富だからな。が、才野原のやつも予想以上だ。土地に詳しい。こっちの知らない妙な抜け道を幾つも使ってるようだ」
モニターに惠の姿。
雑踏を流れに逆らって突き抜ける。
予想外なことにリードしていた。
距離は小さいが、一度も抜かれていない。
【智】
「…………っ」
繁華街の人混みを横断し、
ビルの中をくぐり抜け、赤信号を飛び越える。
頑張って頑張って頑張って。
声援を送る。
予定は全部狂う。
計画は破れる、予告は失われる、未来は変わる。
ただの一つも叶わない思惑。
どれだけ賢しく小細工を弄しても、世界は罠を飛びこえて、
後ろから急所を刺しにやってくる。
偶然と呪いでできた、この小さくて醜い世界に生きる、
僕らの持つ知恵の限界。
それを日々思い知りながら。
【智】
「…………頑張って…………」
信じていいのか?
言葉よりもずっと難しい。
信頼、友情、絆。
世間的に尊ばれる無私の絆。
言葉にすれば希薄になって消えてしまいそうになる。
本当は、誰も信じられない。
信じることは、命を落とすこと、だから。
【智】
「や……っ!?」
【伊代】
「……このまま勝ってくれる? 信じていいの?」
【茜子】
「人の善意を鵜呑みにすると足下すくわれます」
【伊代】
「そうね、そうだと思う。でも……だから……それでも正しい事っていうのは、人の中にしかないんだと思う……」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「あー、頭痛い…………」
【伊代】
「お?」
【智】
「止まった!?」
惠が動かない。
【智】
「ゴールはすぐそこなのに!」
【央輝】
「…………」
後ろから追いついてくる。
まずい。
こよりにはリードが必要なのに。
ちっちゃなウサギがチームの一番の弱点だ。
惠……。
【伊代】
「……ッ!」
【茜子】
「動きませんね」
【伊代】
「まさか、そんなの、ここまできて!」
【花鶏】
「…………」
【惠】
「…………」
【尹チームの二番手】
「――――――っ」
【尹チームの二番手】
「ぬぐぁっ!?」
【智】
「……ッッ」
蹴った!?
たまたま落ちていた(?)
看板を蹴って吹っ飛ばした。
相手を坂道の下までたたき落とす。
【花鶏】
「思いの外過激なヤツだったわけね…………」
【伊代】
「ちょ、あーいうのはありなわけっ!?」
【茜子】
「直接攻撃じゃないので、ルール的にはオッケーです」
【伊代】
「乳ゴリラといい、あいつといい……
き、禁止されてなきゃ正しいってわけじゃないんだから」
【茜子】
「勝てば官軍」
【央輝】
「…………武闘派だな」
呆れていた。
【智】
「ごめんなさい」
這い蹲りそうな勢いで。
美少女軍団、名前負け……。
【智】
「ルール的には……?」
るいのやったのより、ボーダーなんじゃ。
【央輝】
「盛り上がってるな」
【智】
「なにが……?」
【央輝】
「オッズ」
パルクールレースは賭けの対象にされている。
最終的な勝敗の他に、各プレイヤーのトリックや、
区間での勝敗などにも賭けがある。
らしい。
【智】
「盛り上がってるから問題なし?」
【央輝】
「今のところは」
【央輝】
「これで、またお前たちがリードした」
【智】
「余裕あるね、二連戦で負けてるのに」
【央輝】
「それくらいはハンデにくれてやる」
戯れるように鼻をつままれた。
【央輝】
「お前たちこそ大丈夫か? 三番手はネックなんだろ」
見抜かれる。
【智】
「あれでも、うち一番の逃げ上手なんだよ」
【央輝】
「勝負でモノを言うのは力や技術より先に、気合いだ」
【智】
「少年漫画みたいなことを」
【央輝】
「意志だ。力も技術も、意志がなければなにもならない。
泳げるやつでも手を動かさなければ沈んでいく」
央輝がつまらなそうに吐き捨てる。
精神力は最初の前提だ。
愛と勇気と根性でラスボスは倒せないが、
愛と勇気と根性がなければ冒険の旅に出られない。
【央輝】
「追い詰められたのが犬なら戦えるが、ウサギはどうだろうな。
逃げるだけのウサギは、エサだな」
ウサちゃん……。
【央輝】
「武闘派美少女軍団か」
【央輝】
「面白みはあるな。
いいさ、あたしが勝ったら、せいぜい上手く使ってやる」
【智】
「ひとつだけお願いが……」
【央輝】
「言ってみろ」
【智】
「武闘派美少女軍団っていう、泥臭い名前、なんとかならない
かしら……?」
【央輝】
「ならない」
【惠】
「あとは任せるよ」
【こより】
「ひゃう〜」
【惠】
「君は自分のできることを果たせばいい。僕がそうしたように」
【こより】
「あー、うー、たー」
【こより】
「と、とりあえず、こより行きます……」
【こより】
「いー、うー」
【こより】
「あ〜〜〜〜! やっぱり、こういうの、こよりには向かないですです……」
【こより】
「王子様王子様……」
【こより】
「どうかわたしを守ってください。か弱いこよりを地獄の黙示録に放り込んじゃったりする血も涙もないセンパイめに、どうか天の裁きをお下しください〜(>_<)」
【こより】
「にゃわ〜〜〜」
【こより】
「このまま最後まで何事もありませんよーにー」
【伊代】
「さっきからキョロキョロしてどうしたのよ。病人は大人しくって何度……そ、それとも頭痛がひどいの?」
【花鶏】
「妙な連中がこっちを見てたわ……」
【伊代】
「それは妙な連中くらい掃いて捨てるくらいいるでしょうよ。
わたしたち、妙な連中のまっただ中にいるんだし」
【伊代】
「それに、どちらかっていったら、わたしたちの方がここだと
目立つんじゃない? 制服なのよ、しかも、」
【茜子】
「美少女軍団」
【伊代】
「いやな名前ね」
【花鶏】
「さっきから3回も、こっちを……」
【伊代】
「興味本位じゃないの、目立ってるんだから」
【花鶏】
「智が言ったこと、もう忘れたの?」
【伊代】
「あ、で、でも、だからって……」
【花鶏】
「……智に連絡は?」
【茜子】
「つきません。ランナーは携帯持ってませんから」
【花鶏】
「こういうのは智の領分でしょうに……」
【茜子】
「どいつなのですか?」
【花鶏】
「あいつ」
【茜子】
「そんなに?」
【花鶏】
「わからないわ。女の勘よ」
【花鶏】
「でも、こんなところで台無しにされたくない」
【茜子】
「台無し」
【茜子】
「…………皆、がんばっていますよね」
【花鶏】
「自分のことだからよ」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「どうかしたの、あなた?」
【茜子】
「行ってきます」
【伊代】
「ちょ、なにするつもりなの!?」
【茜子】
「確かめてきます」
【伊代】
「なに危ないことしようとしてるの! それに、あなたが行って
どうにかなるもんじゃないでしょう!!」
【茜子】
「……なります」
【伊代】
「な、なにいってんの」
【茜子】
「これは元々私のことです。そこの白髪の言う通りです、
なにもせずに結果だけ受け取るわけにはいきません」
【茜子】
「ある阿呆がいいました。私たちは同盟だって」
【茜子】
「利害の一致だ、力を合わせる」
【茜子】
「手を出された分だけ手を貸し付けます。無担保貸し付けは
ノーセンキューです。私たちは五分と五分ですから」
【花鶏】
「いい覚悟ね。そういうの素敵だと思う」
【伊代】
「で、でも、その、どうやって……」
【茜子】
「大丈夫」
【花鶏】
「なにをするの?」
【茜子】
「魔法を使います、魔女だけに」
【伊代】
「魔法……?」
【茜子】
「呪文はパピプペポ多めで」
【智】
「よい感じでリードが広がってるけど、いいの」
こよりがバタバタと踏ん張っている。
【央輝】
「ここまで競るとはな」
【智】
「手段を選ばず勝ってますから」
問題は我らが三番手。
こよりはプレッシャーに弱い。
接戦になったらまずかった。
先にどれだけリードを開けられるか。
惠に助けられた。
暴力勝ちだったけど……。
【智】
「…………にょほ」
惠が真剣に助けてくれたことが、
ちょっと嬉しい。
【智】
「あの告白だけなんとかなってくれれば……」
人生とはままならない。
【央輝】
「最後までこのままいけばな」
手慰みか、ライターを擦る。
【智】
「どういう意味?」
【央輝】
「大した意味はない」
【央輝】
「どこにでもトラブルはある、そうだろ」
不安をつつかれる。
【央輝】
「それに最後は、あたしとお前だ、これくらいハンデがあった方が盛り上がる」
【智】
「僕は手段を選ばず勝ちに行きますよ」
【央輝】
「ルールは覚えてるな?」
【智】
「そりゃあもう」
借金の契約書くらいの勢いで目を通した。
【央輝】
「もう一つイイコトを教えてやる」
【央輝】
「あたしも手段は選ばない主義だ」
【茜子】
「!!!!!!!!!」
【伊代】
「どうしたの、面白い顔して?」
【茜子】
「!!!!!!!!!!」
【花鶏】
「焦ってるんじゃないの、それ……」
【伊代】
「これが……そうなの?」
【茜子】
「ぐぎっ」
【伊代】
「ぎゃー」
【茜子】
「大変です」
【伊代】
「わ、わたしの指が大変なことに……」
【花鶏】
「ちょっと、響くから大声だして揺らさないでって……」
【茜子】
「ウサッギーが狙われています」
【伊代】
「なによそれ?! どういうこと」
【茜子】
「詳しくはわかりませんけど」
【花鶏】
「わからないのにどうしてわかる?」
【茜子】
「それはともかく」
【花鶏】
「流すのね」
【茜子】
「たぶん、ズルを」
【花鶏】
「イカサマ……?」
【茜子】
「それ」
【伊代】
「なんですって?」
【花鶏】
「智の言ってた通りなわけ……当たり前か。ギャンブルですものね、大金が動くならなんでもありよね」
【伊代】
「ルールなんて知ったこっちゃない、世の中勝った方の勝ち……」
【花鶏】
「ばれなければ、そういうものよ」
【花鶏】
「裏側をぐるっと回してぶっすり」
【伊代】
「…………っ」
【花鶏】
「どうやって、鳴滝を狙うの?」
【茜子】
「それはちょっと……」
【伊代】
「わからないことが多いわね」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「何か証拠は? あなたの勘違いってことはない?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「信じ、られるの……?」
【花鶏】
「…………」
【茜子】
「……証拠はありません。信じてもらう以外にないです、なにも」
【伊代】
「どう、するのよ?」
【花鶏】
「…………いいわ、信じよう」
【伊代】
「ちょ、いいかげん過ぎない!? 根拠もなしに!」
【花鶏】
「悩んでる時間もないわ。なにか仕掛けてくるなら、鳴滝が
走り終えるまでだから、一分一秒を争う」
【伊代】
「それは、そうだけど……」
【花鶏】
「とりあえず問いただしてやるわ」
【伊代】
「あ、ちょ、ちょっと、あんた病人……」
【茜子】
「行っちゃいました」
【伊代】
「やっぱり、あの日で頭に血が足りてない」
【茜子】
「血が上ってるのでは」
【伊代】
「……えっと、あのね」
【茜子】
「なんでしょう」
【伊代】
「さっきは怒鳴ってごめんなさい。八つ当たりだった」
【茜子】
「……正直生物」
【伊代】
「何か言った?」
【茜子】
「別に」
【花鶏】
「だめだわ、ぜんぜん取り合いやがらない。らちがあかない、ああ、頭が痛い……」
【茜子】
「ミニマムは今どこに?」
【伊代】
「現在地は配信してるカメラのフレーム外」
【茜子】
「相手の方はほとんど映ってるのに、どうして私たちの方は
映らないんですか?」
【伊代】
「ウチの詐欺師のルート指定がデタラメだからよ。
通れないようなとこばかり指定してたじゃないの?」
【こより】
「すーいすーいすーい」
【こより】
「あう〜、なんかトイレの窓ってばっちー気がしますよ〜。
スカート汚れたらどーしよー。もうちょい女の子っぽいルート
お願いしたかったり……」
【こより】
「センパイ……もしかして、
鳴滝はセンパイに恨まれておりますか……」
【こより】
「もう少しマシな道……ちちちちちち(泣)」
【伊代】
「さっきこのカメラに映ってたから、地図で言うと、ここからここまでのどこかにいると思う」
【茜子】
「そういえば、陰険姑息貧乳と一緒に下見にいったら、げっそり
して帰ってきてました」
【花鶏】
「あんなローラー着けてて、よくそーいう、わけのわかんないとこ通れるものね……」
【伊代】
「……あんた達、二人がかりで追いかけ回したんでしょ?」
【花鶏】
「そういうこともあったわね」
【茜子】
「時間がありません」
【花鶏】
「鳴滝に連絡は……?」
【伊代】
「だから、ランナーは携帯を持ってない」
【花鶏】
「智も駄目か……」
【花鶏】
「智なら尹に談判してなんとか……」
【伊代】
「……どうするの?」
【花鶏】
「智のところまで連絡をつけにいけば」
【茜子】
「その間に、ろりりんの方が」
【花鶏】
「でも、鳴滝の方は居場所もわからないわ」
【茜子】
「ルートはわかります」
【伊代】
「そうよ、中間のポイントで待ってればどう?」
【花鶏】
「それまでにやられてたら」
【伊代】
「う〜〜〜〜〜」
【伊代】
「…………時間、ないわ。あの子を追っかけるしか」
【花鶏】
「どうするつもり? 方法がなければ絵に描いた餅よ」
【伊代】
「そういえば! あなた、バイクは?」
【花鶏】
「乗ってきてる」
【伊代】
「それで直接」
【花鶏】
「鳴滝がどこにいるのかが……」
【伊代】
「それは教える」
【花鶏】
「だから、どうやって」
【伊代】
「それは任せて」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「…………本当に任せていいのね。
言い出した以上責任は取ってもらうわよ」
【伊代】
「自分で言ったことと決めたことは守る主義なのよ」
【花鶏】
「あなたも大概身勝手だこと……」
【茜子】
「お互い様の身勝手様々」
【花鶏】
「言っておくけれど。わたしは誰にも頼らない、誰の力も借りない、助けを願ったりしない」
【伊代】
「助けるんじゃないわ、きっと。わたしたちは同盟なんでしょう?」
【花鶏】
「契約と代価ね。対等の関係。いいわ、居場所は携帯で連絡を。
わたしは行くわ」
【茜子】
「……身体の方は?」
【花鶏】
「まかせておきなさい」
【伊代】
「よろしく。じゃあ、後で」
【花鶏】
「そうね、後で。何もかも上手く片付いてから」
【茜子】
「それで、ピン髪の居場所は?」
【伊代】
「今から調べる」
【茜子】
「……そんなこといってたら」
【伊代】
「大丈夫。今の世の中、オンラインのやつが町中にあるんだから、なんとかなる」
【伊代】
「……たぶんだけどね。上手くいったら拍手喝采」
【茜子】
「本当におまかせしても大丈夫そうですね」
【伊代】
「ちょ、あなた、どこいくの」
【茜子】
「花鶏さんを手伝ってきます。病気のときは桃缶な感じで」
【伊代】
「わからない、そのたとえはちょっとわかんない」
【茜子】
「行って参ります」
【花鶏】
「ちょっと、わたしは急いでるの。邪魔をしないで」
【花鶏】
「退かないつもり? それともホントに邪魔だてするの?」
【花鶏】
「……あなた、どなた?」
【花鶏】
「そういえば見張りがいたんだったわ。
わたしたちが妙なことしそうなら、引き留める役ってわけね」
【花鶏】
「ゲームの決着がつくまでは、こっちに下手な手出しをすると尹が怒るんじゃないかしら? あの子、話の筋の通し方には、うるさそうだったけれど」
【花鶏】
「ふーん、言葉がわからないのかと思ったけれど、こっちの言うことはわかってるみたいね。それでも退かないつもりらしいけど、こっちも急ぎなの」
【花鶏】
「…………手段は選ばないって顔ね。そう、そういう事ならこっちもこっちでそのつもりになるわ。後悔する前に、手早く言っておいてあげるけれど」
【花鶏】
「後ろが危ないわよ」
【花鶏】
「消火器で殴るなんて、やるわね」
【茜子】
「今日は特急です」
【花鶏】
「お前は、いいからそのまま寝てなさい」
【茜子】
「平成残酷物語」
【花鶏】
「大丈夫、峰打ちよ」
【茜子】
「峰関係ないと思います」
【花鶏】
「ああもう頭いたい……いくわよ、茅場」
【茜子】
「はい」
【智】
「流れがなんだか変な気が」
【央輝】
「まだそっちのリードはあるな」
【智】
「そうなんだけど」
こよりがビルから飛び出してくる。
インラインスケートでするする走る。
出口で住人とすれ違い、危うくニアミス。
くるり。回避。
【央輝】
「うまいもんだな」
腕を組む。
思いの外順調に行ってるせいだろうか、逆に不安をかきたてられる。
【智】
「……がんばれ、こよりん」
【こより】
「ひふー、はふー、はひっ、はひ、ひー」
【こより】
「せんぱ〜い」
【こより】
「鳴滝は死んじゃいそうでございますー」
【花鶏】
「白鞘はなんて?」
【茜子】
「地図だと3dのあたりの交差点の裏側を通過」
【花鶏】
「それってどのあたり?」
【茜子】
「たぶん、そこ右です」
【花鶏】
「たぶん」
【茜子】
「おそらく」
【花鶏】
「スピード出すからしっかりつかまってないと落ちるわよ」
【茜子】
「スピード違反は犯罪者です」
【花鶏】
「わたしの法はわたしだけよ」
【茜子】
「社会的不適合者の台詞ですね」
【茜子】
「ところで、茜子さん、一つ質問があります」
【花鶏】
「なにかしら」
【茜子】
「たしか、愛馬は原付だと聞いた覚えが」
【花鶏】
「原付だったわ」
【茜子】
「これは、はっきり言ってドデカイン」
【花鶏】
「うふ、ふふふふふ…………」
【茜子】
「こけたら起こせなさそう」
【花鶏】
「………………ッッ」
【茜子】
「マジか、そうなのか。
つか、なんで、そんなもの持ってるのか、この人」
【花鶏】
「人には戦わないといけないときがあるのよ!」
【茜子】
「我が身に余る力を得ようとして滅びるのは悪役のサガ」
【花鶏】
「いいから早くつかまりなさい! 死ぬ覚悟で飛ばすんだから!」
【茜子】
「………………」
【茜子】
「はい」
【花鶏】
「いつも手袋してるのね」
【茜子】
「愛してますの」
【花鶏】
「そう」
【花鶏】
「それよりも、一体どうやって、鳴滝を狙うつもりなのかしら」
【茜子】
「くわしくは……」
【花鶏】
「わからない、か」
【茜子】
「でも、たぶん……事故、みたいな感じで」
【花鶏】
「みたい?」
【茜子】
「たぶん」
【花鶏】
「色々とよくわからないものなのね」
【茜子】
「ごめんなさい」
【花鶏】
「…………」
【茜子】
「なにか?」
【花鶏】
「素直に謝るところは初めて聞いたわ」
【茜子】
「……忘れました」
【花鶏】
「そう」
【茜子】
「ベレー帽が謝るところ、聞いたことないです」
【花鶏】
「頭を下げるくらいなら相手を殺るわ」
【茜子】
「本気ですか」
【花鶏】
「でも、事故か。いよいよ冗談ごとですまなくなってきたわね」
【茜子】
「消火器殴打は冗談で済むでしょうか」
【花鶏】
「たぶん」
【茜子】
「あてにならない」
【花鶏】
「えーっとどこかしら。こっちのルートは、智がかなりアドリブ
利かしてるわけだから、動きは読みにくいだろうし」
【花鶏】
「どれくらいやるつもりかしら……?」
【茜子】
「死ぬとかじゃ、ないと思いますけど」
【花鶏】
「たぶん?」
【茜子】
「はい」
【花鶏】
「そういうことなら一番いいのは……?」
【茜子】
「ムギュー」
【花鶏】
「交通事故!」
【茜子】
「事故りました」
【花鶏】
「大きな事故は必要ない。死んだりしたら後が面倒だし、
邪魔するつもりだけなら骨の一本でも折れば」
【花鶏】
「あっち側に、鳴滝の居場所がわかる位置で、大きめの道、車……バイクでいい、たぶんバイクが入れて、絶対に通過するような――」
【茜子】
「道の区別がつかないです」
【花鶏】
「大きめの道を教えて、先回りして合流できそうな」
【茜子】
「えーと、えーと、えーと」
【花鶏】
「あー、もう、こよりちゃんの今の居場所は!?」
【央輝】
「またチビうさが見えなくなったな」
ライターを放り投げて弄ぶ。
余裕。
こっちがかなり有利なのに焦りもしない。
【智】
「そだね」
こよりはカメラマンが追えないところを走っている。
下見に来たとき、泣き出した場所を走らせてます。
僕は鬼か!?
まあ、しかたない。
他に勝ち目がなかったし。
鬼にもなろう、悪魔にも堕ちよう。
策というより駄策の類。
奇策というよりイカサマだ。
【智】
「ごめんね、こよりん」
手を合わせて、無事を祈る。
【こより】
「ふーいー、もーちょいだー」
【こより】
「こより選手、最後のラストスパートです。ゴール周辺では押し寄せた一億七千万の大観衆が歓呼の声で出迎えております」
【こより】
「ビバー!!!!!」
【こより】
「ん?」
【こより】
「にょ、にょわ――――――――」
【こより】
「――――――――わわわわわわわあああああああって、あれ、
花鶏センパイに茜子センパイ!?」
【茜子】
「間一髪だったのです」
【こより】
「うは、でっかいバイク……あれれ、わたし何でこんな所に、
いえ、それよりも」
【こより】
「気のせいかもしんないのですけど、今し方なんか、もう1台
バイクが突っ込んできて、バーンと炎が燃えて交通事故の
走馬燈が一生分キラキラ巡って」
【こより】
「果てし無き、流れのはてに……麗しの白馬の王子様が約束通り迎えに来てくれたりした感じがしてましたけど……」
【花鶏】
「轢かれかけたのは本当よ」
【こより】
「ほ、ほえ?」
【花鶏】
「危機一髪だったのを、かっさらって助けたの」
【こより】
「それって映画のヒロインみたいッス〜!」
【花鶏】
「わかってないわね」
【茜子】
「ヒロインになるなら、テキサス・チェーンソーとか、
茜子さんお勧めです」
【こより】
「なんかおいしそーです!」
【茜子】
「きっと(チビうさは)おいしいですね」
【茜子】
「ところでひき逃げ未遂犯は?」
【花鶏】
「逃げたわね、当たり前だけど」
【茜子】
「そうですか。では、こよりん生物。お話があります」
【こより】
「うす、こよりんです。大人の都合により20歳です!!」
【茜子】
「あなたが危機一髪です」
【こより】
「はい?」
あ、見えた。
【智】
「こよりんだ、リードのまま来た!」
【央輝】
「ふん」
【こより】
「ひい、ひい、ひしいいいい」
【智】
「燃えてるなあ」
【央輝】
「せっぱ詰まってるんじゃないか?」
【智】
「こよりー、こっちこっち、早くタッチー!」
【こより】
「うひひひひひひひいひひひひひひひ」
【智】
「笑いながらゴールインなんて、もしかして余裕でした?」
【こより】
「心底死ぬかと思ったです!!!」
胸ぐらを掴まれました。
【智】
「そ、それはご無事で何よりです……」
すごくびびる。
【こより】
「実は花鶏センパイと茜子センパイが、」
【智】
「んじゃ、華麗にラストを決めてくるからね」
向こうの央輝がスタートする前に、
ちょっとでもリードを広げておきたい。
【こより】
「あ、お話……」
【智】
「また後で」
【こより】
「…………はい、わかりました。センパイ、鳴滝待ってますから。また後ほど」
【伊代】
『あの子は無事についてアンカーが出たわ』
【茜子】
「…………だそうです」
【花鶏】
「それは、なによりね……」
【伊代】
『んで、白頭は?』
【茜子】
「女としての人生の苦役がぶり返して伏せっています」
【伊代】
『お大事に』
【茜子】
「あとは智さんが」
【伊代】
『無事に勝ってくれれば良いんだけどね……』
【花鶏】
「ここまでして、負けたら、あとで、ただじゃおかないわよ……」
夜がくる。
陽が落ちる。
吸血鬼が後ろからやってくる。
尹央輝。
【智】
「うう……」
速いよ。
夜の街がざわめく。
パルクールレース。
コースは街で、そこにあるのはどれもこれも障害物だ。
【智】
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
自分の息づかいに混じる、別のリズム。
【央輝】
「ふっ……ふっ……ふっ」
央輝は着実に距離を詰めてくる。
夜がそんなに得意なのか。
ホントに本物の吸血鬼ですか!?
表通りの人の流れをかき分ける。
ぶつかり、とびのき、逃げ回って。
後ろから怒鳴り声。
ネオンが煌めく。派手な音楽が充ちる。
帰宅の人の列に割り込んで。
流れる車の横に並ぶ。
非常階段から飛び降りる。
ごろごろ転がって立ち上がる。
実際に走ってみないとわからない。
普通の持久走や短距離よりも消耗する。
体力以上に精神力が。
【智】
「ペースを、保って、なんとか」
障害物もコースもばらばら。
ビルを上って下りたりもする。
日が暮れていた。
視界がぐっと悪くなる。
どうしても乱れるペースをどうやって保つか。
【智】
「ひゃ」
ぞっとした。
聞こえるはずのない足音が確かに聞こえた。
央輝が近い。
姿は見えない。
夜は彼女の世界だ。
本物の牙を持つ生き物が棲む。
僕らは昼の生き物だ。犬と狼は違うモノだ。
狼は死に絶えた。
この国ではそういうことになっている。
でも彼らは生きている。
知らないだけで。
彼らの世界で。
【智】
「あー」
追いつかれるのはマズイ。
増速。
【智】
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ」
走る。走る。走る。
ハシゴを登る。
螺旋階段を駆け下りる。
エレベーターを途中で下りて、
踊り場の窓から外の屋根伝いに雨樋を滑り降り、
お隣のビルの屋上へジャンプする。
路地の上、ビルの間を幅跳びする。
下から猫が見上げながら、
尻尾を振ってニャーと鳴いた。
夜を駆け抜ける。
夜に生きる狼の真似をして。
ガードレールを横っ飛びに飛び越えて、ポーズを付ける。
余裕があるとトリックが入る。
加点プラス5。
【智】
「あとどれくらいだっけ……」
【央輝】
「三分の一くらいだ」
【智】
「ぎゃわっ!!」
ビル壁面に作られた非常用の螺旋階段の中程。
央輝と遭遇した。
【智】
「どっから生えたの、早すぎるよ!!」
泣きを入れる。
非常階段を央輝は上へ、
こちらは下へすれ違う。
屋上には途中のチェックポイントが。
距離差はほとんど縮まっている。
体力にはそこそこの自信があったのに。
小さな央輝は小さな巨人だ。
【智】
「おにょれ、このままでなるものか。ファイト一発……」
相手は瞬発力がある。
細く華奢なくせに肉薄してくる。
軽量だから加速が良いのか。
【智】
「このままだと、おいつかれちゃう……」
【智】
「なんていうか、愛奴の未来が見えてきた感じ」
キラキラと。
【智】
「いや〜〜〜〜〜〜ん」
走りながら天を仰いだ。
マジ、負けるわけにはいかんとです。
全員でがんばったのに。
ここまできたのに。
僕が足を滑らせてお終いなんて以ての外だ。
責任は感じなくていいから。
こよりを籠絡するときに、自分で言った。
詭弁だ。
関わる全員に責任を負う。
それが手を繋ぐことの代償だ。
美しくも残酷な戒めだった。
【智】
「ほぁ、ほぁ、ほぁぁっ、ほあたぁっ」
路地を抜ける。
裏道を通る。
坂道を全力疾走で転がる。
ひょいと見上げた。
古ビルの上に浮かぶ月を、黒い影が横切った。
蝙蝠みたいにビルからビルへ跳ぶ。
本物の吸血鬼――。
【智】
「尹央輝……」
顔も見えない距離で確信する。
まずい。
正規のルートより一見遠回りに見える。
どういうルート通られてるのかわかんないけど。
けど、央輝に敵に塩を贈る趣味なんてあるわけがないから、
あれはリスクを犯す価値のあるショートカットだ。
【智】
「……あぇいぅ」
まずさ百倍。
こうなると、最大のネックは僕になる。
るいみたいな乙女力も、
こよりみたいなムーンライトウサギパワーも持ってない。
【智】
「ぎにゃーっ!!!!」
叫んだ。
呪われた未来がすぐそこに。
【るい】
「私、信じてる」
【惠】
「宿命というのは振り切れないんだよ、いくら走ってもね」
【伊代】
『現実って、やっぱり厳しいかも……』
【茜子】
「だそうです。聞こえてますか?」
【花鶏】
「聞きたくないわ」
【こより】
「ふれー、ふれー、センパーイ♪」
央輝がいた。
ほんのちょっと先行されている。
向こうのペースは落ちている。
【智】
「はは、やっぱ無理した分だけ疲れてますね、明智君……」
追う。
距離が詰まらない。
離されないだけで精一杯。
【智】
「ひぃ、ひっ、ひぃぃ」
こっちのペースも落ちていた。
足も手も重い。
理屈に合わない間尺に合わない打つ手がない。
どうした、打つ手は終わりか?
終わりだ、万策尽きた、全部なくなった。
帽子の中に残りはなかった。
種のなくなった手品師と失敗した詐欺師くらい
惨めな生き様はそうないと思う。
コースは終盤。
物理的にショートカットもないのなら。
ここからは地力の勝負。
疲労で足がもつれた。
【智】
「あいどぅー!」
暗黒の未来を嘆く叫びを。
電柱にすがる。
休む間もなく走行再開。
【央輝】
「ふん」
笑われた。
こっちの状態を見透かされてる。
勝ち目が遠のく。
よろしくない人生だった。
情けなくって、厳しくて、未来がなくて。
ずっと嘘をつかなくちゃいけない、そんな日々。
狭苦しく孤独な道のりを考えて考えて考え抜いて一歩一歩前進
しても、世界はいつでも片手間の戯れにテーブルをひっくり
返して嘲笑(あざわら)う。
偶然と不幸が幸運にすり替わる。
気がつけばいつだって薄暗い。
――――――――どうして僕だったんだろう。
それは夜眠る前に、何度となく繰り返した答のない問い。
呪われた人生。
どうして僕を選んだのか。
他の誰でもよかったのに。
ペースが乱れて息苦しい。
足だけを動かしてとりあえず前に。
走馬燈のように苦悩が巡る。
やだなあ。
この若さで走馬燈とか。
別に死ぬわけじゃないんだし。
央輝は善人には見えないけれど、
そこそこ僕のこと大事に重宝してくれるかも……。
囚われて。
塞がれて。
繋がれて。
その程度じゃないか。
どのみち呪われた人生なら。
何一つ得るものもなく、孤独に歩む。
呪い。
呪い呪い呪い。
いずるさん。
いかがわしい女の人が、愉しそうに嘯く。
僕も囁く。
呪い。
その忌まわしい言葉を。
ずっと一人でいた。
誰にも心は許せない。
誰かといると気が休まらない。
孤独な部屋の小さなベッドの上に帰ってきて、
夜一人になるとほっとする。
誰もいなくて安心する。
いない方がいい、だって秘密があるんだから。
呪われているんだから。
後ろを見る。
夜だけがあって何も見えない。
呪いは、きっとどこまでも追ってくる。
逃げてもいつかは追いつかれるんじゃないだろうかと、
ことある毎に振り返る、そんな生き方をしなくちゃいけない。
【智】
「はぁ、ひぃ」
前へ走る。
央輝の背中を目指して。
どうやっても追いつけない。
こんなに息を乱して走っているのに。
速度では変わらないのにライン取りが違う。
人生の道か。
狼と犬の差は、遺伝子レベルで超えられない。
【智】
「――――ッッ」
長い階段が目の前に。
行く手を阻む壁のように。
ゴールへの最後の障害物だ。
心臓が壊れそう。
とにかく考えるのをやめて走る。
【智】
「すごい……」
央輝は凄い。
体格は絶対的に恵まれてない。
小柄な女の子。
物理的限界がある。
それなのに。
ここまで走る。
るいみたいな馬鹿馬鹿しいぐらいの違いがないのが、
かえって見えない努力を意識させた。
じりじりと引き離されていく。
【智】
「にゃーっ!!」
やけになる。
二段飛ばしで駆け上がる。
転んだ。
全力疾走していたのでごろごろと。
【智】
「にゃあああああ!!!!」
階段から落ちる。
下にはゴミ置き場が。
落着。
ゴミ塗れに。
【智】
「な……るほど……最後にはゴミまみれになる人生か……」
上手いことをいってみる。
【央輝】
「どうする?」
階段の半ばで央輝が待っていた。
口元に冷笑を。
高いところから傲岸に見下ろす。
選択肢を突きつけてくる。
続けるか、否か。
犬は犬、狼は狼。
生きる世界が違う分、勝ち目がない。
負傷リタイヤはどうだ?
【智】
「は、は、は…………」
弱い考えが足首を掴んでいる。
考えるのは僕の悪い癖だ。
夜の道は見えないから恐ろしい。
でも。
見えすぎることも恐ろしい。
諦観と停滞。
1パーセントをゼロにするのは弱い心だ。
考えすぎれば道がふさがる。
ほら、こうやって考える。
わかっているのに止められない。
知恵の呪い。
誰だって、きっと、呪われている。
足の力が抜ける。
このままへたり込んでしまえば、きっと楽だ。
呪いが僕の足を掴んで……。
愛奴隷。悪くないかも。
(呪われた世界を――)
【智】
「…………っ」
萎えかかった足を気力で支えた。
ビルの壁にすがりついて、
潰されたカエルみたいな不格好で立ち上がる。
腕も足も脇腹も肩も首も。
どこもかしこも痛みに軋む。
気を抜けばそれっきり起き上がれない。
もう止めろと理性が警報を鳴らしていた。
だって勝ち目はない。
このまま続けても勝機なんて億に一つ。
白黒はついた。
ここで仰向けに倒れて。
諦めて。
――――――――立て
自分の中の何かが命じる。
どうにもならないのに投げ出せない。
それは答を探す行為ではなく、
わかりきった結末へと辿り着くための愚かな前進。
なのに。
【智】
「……まっ…………たく……」
どういうわけか、
最近はいっぱいっぱいな事ばかりだ。
星の巡りでも悪いのか。
【るい】
(――――若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!)
夢も希望も最初からあるもんか。
僕らはみんな呪われている。
震える足で。
一歩。
【花鶏】
(――――赤の他人の身代わりになって自己犠牲するのが
性分なわけ!?)
冗談じゃない、
マゾっぽい趣味は願い下げだ。
立つのは自分のために、自身のために。
負ければ身売りの運命なんだから。
もう一歩。
【茜子】
(――――茜子さんの問題に、勝手にずかずか入り込まないで
ください)
まったく同感だ。
他人のことなんてわかりはしないのに。
いつだって知ったふうな口を叩いて。
足がもつれる。
それでも三歩目。
【伊代】
(……ほっとけなかったから)
なんて曖昧で胡乱な理由。
見えないもの、
在るかどうかもわからないもの。
そんな、頼りないものを頼りにするのか。
【智】
「……できるわけ……ないでしょ……っ」
四歩目と五歩目を踏みだして。
早く逃げ出そうと思ってた。
それなのに、こんなところまでやってきた。
どこで選択肢を間違ったんだろう。
【こより】
(――――逃げても逃げられない。捕まっちゃう。やっつける
しかない)
逃げられない。捕まっちゃう。
いつでも最後は追いつかれる。
それなら、いっそ。
(呪われた世界を――)
どうするんだっけ?
世界を。
一人じゃなくて。
皆で。
【智】
「はぁ、はぁ、はぁ」
あぁ。
はじめて出会った。
あの痣と。
あれは……。
聖徴(せいちょう)といい、烙印という。
【智】
「……僕たち、同じ……」
同じ徴を持っている。
ようやく出会えた、孤独ではなくなる、
一緒にいてくれる誰か。
【智】
「せっかく、なのに……」
負けるのか?
(呪われた世界をやっつけよう)
約束したんだっけ。
言ったのは僕だ。
るいは関係ないのに力を貸してくれた。
こよりは泣きながらでも参加した。
伊代はいいやつだし。
花鶏や茜子だって。
ちょっとだけ、力がわいた気がする。
あまり感じたことのない力。
自分以外の誰かがいるから。
こういうのは、なんていうんだっけ?
少年漫画が好きそうなやつ。
見えないモノにつく名前。
そう、
同盟だ。
【智】
「…………まだまだ」
【央輝】
「しぶといな」
【智】
「条約が……あって……やめると……きっとひどい目に……」
【央輝】
「今にも倒れそうじゃないか」
【智】
「そっちも、実は苦しいでしょ……」
【央輝】
「…………」
無表情。
カマかけだったのに。
答えないってことは図星なのか。
普段の央輝なら、きっと、
この程度では引っかからない。
疲労で判断力が鈍っている。
【智】
「……体格的な限界ってあるだろうしね」
央輝の体つきはアスリートみたいな鍛え方はしてない。
瞬発力があっても持久力は苦しいと見た。
【智】
「ひとつ……聞いていい……?」
【央輝】
「いいぞ」
【智】
「女の子を、さ……愛奴にして、どーすんの……? その……
いかがわしいお仕事でもさせるの?」
それは何が何でも遠慮させて。
【央輝】
「決まってる。あたしがいかがわしいことをするんだよ」
【智】
「……………………」
悪くないかも。
いやいやいや。
【智】
「……生命の危機だね」
バレちゃうし。
【央輝】
「安心しろ、血は吸わない」
【智】
「自分のために最善の努力を」
【央輝】
「手札は尽きてるくせに」
【智】
「人事を尽くした努力が足りなければ、埋めるものはただひとつ
…………」
ぐっと、天を掴むように拳を突き上げて。
【智】
「根性で勝負!」
【央輝】
「ここ一番で精神論か」
鼻で笑われた。
【智】
「まあ、そういうことにしといてよ」
ラストスパート。
【るい】
「来た――」
ゴールのポイント。
【るい】
「ともー、がんばーっ!!!!」
るいがいた。
先回りですか、どこまで体力あるんだ、
あの乳怪獣は……。
死ぬほど元気そうに手を振っている。
…………ちょとむかつく。
【智】
「智ちん、いきまーすっ!」
【央輝】
「しぶといヤツが!」
パッシングする。
【央輝】
「なにを!」
【智】
「まだまだあ」
【央輝】
「……こ、こいつっ」
ペースを乱して、
央輝のやつがつんのめる。
【智】
「ちゃーんす!!」
【央輝】
「く、くそが……くそくそっ!」
死にものぐるいで抜きつ抜かれつ。
ダッシュ。
ゴールは目の前。
体力は底値いっぱい。
【央輝】
「やろう……っ!!」
央輝が増速する。こっちもする。
【央輝】
「ど……どこに、こんな体力が、残って……やがったんだ……っ」
さすがに央輝が焦る。
【智】
「根性ですっ!!」
【央輝】
「根性で……そんなばかな……」
心理的揺さぶり。
【智】
「仲間と繋がった心の力は無限なのです!!!!」
【央輝】
「ば、ばかな…………」
まったく馬鹿げてます。
ノリと精神論とクサイ台詞で押し切るには、
僕は神経が細かすぎる。
そういうのは、るいの領域だ。
ごめんね、央輝。
実はまだ奥の手があったんだ。
最後ではなく、最初のカード。
出す前から伏せていたから、
央輝にだって予想がつかない。
央輝は女で、僕は男。
ズルっぽい……というより、しっかりズルです。
男女の体力差を央輝は計算できてない。
【央輝】
「く、うくく、くあ……っ」
央輝がたじろいだ。
歩調が乱れる。
【智】
「ぷくくくくっ、どうやら貴様の負けのようだな!!」
悪役の台詞だ。
疲労の極でハイになっていた。
一気に追い抜こうとする。
ここまでに何度も央輝が勝つチャンスはあった。
こっちを甘く見た分、つけいる隙ができた。
【央輝】
「…ぐ…くぁ……っ」
【智】
「ひまらー……(いまだー……)」
いよいよ呂律がまわらない
あとビル二つ。
勝てる、と思った。
そこで。
央輝は壁に寄りかかった。
限界っぽく。
終わりか。
長かった戦いにもようやく決着の時が。
【智】
「とどめぇっ!!!」
刹那。
【央輝】
「――殺す」
凄み。
刺すような眼差しが背中まで抜ける。
本気の目。
睨まれた。
殺される。
ほんの一瞬、本気でびびる。
【智】
「……あ?」
冷静になれば、それはただの脅しだ。
そんなことをすればゲームが台無しなんだから。
ここまできて、それはない。
央輝という人間に合わない。
のに。
【央輝】
「恐れ入ったよ、ここまでやるとは思わなかった。
もう一つ、いいことを教えといてやる」
【央輝】
「あたしは、負けるのが、嫌いだ……っ」
心臓が早鐘を打つ。
足が震える。
なに。
怖い。
目の前の相手が。
どうしてこんなものがいるのか。
【央輝】
「噂を聞いたろ?」
【智】
「……え、あ、あ」
殺される。
殺されて殺される。
殺されて殺されて、
それでも足りなくて殺される。
ここにこうしていたら。
だめだ。
逃げよう逃げよう逃げよう。
足が動かない。
萎縮して固定される。
蛇に睨まれたカエルは、
きっとこんな気分を味わいながら、
真っ赤な口に呑まれてしまう。
丸くなって何も見ないで聞こえないで――。
【智】
「あ」
【央輝】
「ルールの通り、指一本触れてないぜ……」
【央輝】
「だが、こいつでゲームオーバーだ。しばらくそうしてろ。
そうすれば……」
【央輝】
「――――――っ!?」
恐怖が消えた。
年末の換気扇をつけ置きしてさっと拭き取ったように、
今の今まで胸を潰しそうになっていた感情が消え失せる。
【智】
「……………………あれ?」
【央輝】
「お前!」
央輝がせっぱ詰まっていた。
たぶん、消えたのはそのせいだ。
【央輝】
「おまえ、そんな」
央輝が顔色を変えて凝視している。
僕を。
正しくは、僕の腕を。
さっき階段から落ちたときに、制服が破れたらしい。
痣が見えていた。
【央輝】
「いや、でも」
【央輝】
「それは……その痣、まさか……お前……お前ら、そうなのか!?」
動揺している。
考える。
つまりこれは。
【智】
「いざ、さらばー!」
大チャンスでした。
【央輝】
「あ、テメエぇっ!!」
ブッチぎった。
央輝が取り込んでいる隙に、
最後の最後のラストスパート。
死ぬほど走る。
【央輝】
「ま、まて……っ」
【智】
「待てない!」
【央輝】
「ひ、ひきょう……」
【智】
「卑怯未練はいいっこなし!」
【央輝】
「とにかく…ま、待て……!」
【智】
「絶対待てません!!!」
さっきのは何が起こったのか。
意味不明だ。
央輝が何か仕掛けた。
それは確実だけど。
わからないので考えるのをやめる。
今は勝たなくちゃ。
もう一度、さっきのやつが来たら、
今度こそ逃げられない。
残り1分もない時間の勝負。
だから走る。
【央輝】
「ま、」
【智】
「もう、」
【央輝】
「くおぉー」
【智】
「ちょっとー」
【央輝】
「くのーーーーーーっっ」
【智】
「たーーーーーーーっっ!!!!!!!!!!」
ゴールイン――――――――――――――。
〔エピローグとプロローグ〕
時刻は深夜を回っていた。
【央輝】
「約束通り、返してやる」
【智】
「返すだけじゃなくて……」
レースには勝った。
無事に……まあ、かなり無事じゃなく。
転んだ怪我の治療をめぐって、
るいたちから大層なお小言の一悶着が
あったことだけはいっておこう。
(※ちなみに僕は頑として譲らず、一人で薬を塗った)
【花鶏】
「やったあーーーっ!」
クリスマスプレゼントをもらった子供みたいに飛び跳ねる。
最近の子供は飛び跳ねないかも知れないけど。
【花鶏】
「本、本、本、わたしの星、帰ってきたわ! やっと帰って
きた、長かった、苦しかった、戦いの日々だった!!」
【智】
「いやもうまったく」
【智】
「これで茜子も」
【央輝】
「今回の件では自由だ。追うヤツは居なくなる。
あたしが責任を持つ」
【智】
「自由の身です」
【茜子】
「あ、は……はい」
実感がわきやがらないご様子。
【智】
「僕も自由の身」
愛奴隷危機一髪。
【花鶏】
「それはそれで惜しかったかも」
【こより】
「見てみたかったのです」
【智】
「君たち君たち」
【央輝】
「それから」
央輝が肩をすくめる。続きがあった。
【央輝】
「イカサマの件についてはあたしのミスだ。謝っておく」
【智】
「央輝はタイプじゃないと思った」
【央輝】
「買いかぶりだな。今回はゲームだったからだ。必要なら騙しも
殺しもする。嘘もつく」
それは本当だろう。
【央輝】
「奴らには始末をつけさせる」
【こより】
「結果的になにごともなかったので、ほどほどでいいのです……」
【智】
「当事者がこのように」
【央輝】
「奴らは、あたしの顔を潰した。それなりの代償は必要だ」
【智】
「嘘は央輝もつくんでしょ」
【央輝】
「そうだ。素人相手に底を見られるような仕込みをするのは、
あたしの顔を潰すにも程がある」
逆の意味だった。
【智】
「いやな世界だね」
央輝はタバコをくわえて火を点ける。
唇を歪めた。
ほんの一瞬、人生に膿み疲れた老人のような顔を
見たような気がした。
【央輝】
「まったくだ。この腐れ切った世の中は、骨の随まで
呪われてるんだよ」
イヤなフレーズに。
【智】
「そだね」
軽く相づちをうった。
央輝とはそれで別れた。
――――――僕らは自由になった。
【こより】
「これからどうするんですか」
【智】
「お家に帰ります」
【こより】
「あう、そうではなくて……」
【茜子】
「私たち」
【伊代】
「……どうするの、これから?」
同盟。
とりあえず所定の成果を得ました。
目の前のことを一つ二つ。
【るい】
「やっつけたしねー」
【智】
「やっつけた」
【花鶏】
「呪われた世界、だったかしら?」
【茜子】
「やっつけましたか?」
【智】
「そうねえ……」
ぼやく。
うんとのびをすると、
身体中がボキボキと音をたてる。
【智】
「たぶん、まだまだ」
たとえるなら、
魔王の七大軍団の、
最初の幹部を倒したくらい。
【こより】
「ほんでは、戦わないといけませんね」
【るい】
「やる気だね、こよりん」
【こより】
「こよりん、燃えております!」
【智】
「萌え〜」
【伊代】
「なにかいかがわしい感じに」
【るい】
「なんで?」
【伊代】
「なんでだかわからないけど……」
【智】
「印象差別だ」
【伊代】
「むう」
【花鶏】
「それで、どうするの」
とりあえず。
【智】
「やっぱりお家に帰りたい……」
【るい】
「まあね」
【こより】
「そっすね」
【花鶏】
「そりゃね」
【伊代】
「まあ」
【茜子】
「です」
一斉に賛成した。
【智】
「あーと、今更なんだけど惠がいない……まだお礼を」
【るい】
「気がついたらいなかった」
【茜子】
「神出鬼没キャラ」
【こより】
「危なくなったらタキシード来てお助けに来てくれるかも」
【伊代】
「あー、似合うかも〜」
【るい】
「それならニーさん〜で、イキなり現れる方が」
【茜子】
「兄弟愛キャラ」
【花鶏】
「姉妹愛の方がいいわ」
【智】
「そふ凛子ちゃんに怒られたって知らないよ」
ちゃらちゃらと話題が弾む。
当人不在のまま。
次に会えたらキチンとお礼をしないと。
惠がいなかったら、
新しい人生が開かれるところだった。
【こより】
「お礼考えないとだめですよねー」
【伊代】
「まあ、大丈夫じゃないかしら」
【るい】
「にゃも?」
【伊代】
「……だって、恋、したんだって……」
【智】
「ぶぅっ」
何もしてないのにむせる。
視線が、色々なものの含まれた視線が、同情とか困惑とか
少女漫画チックなキラキラビームとか入り交じったやつが、
背中に一杯突き刺さった。
【智】
「思い出させないでよ!」
悪夢の告白。
【伊代】
「……まあ、変人だけど顔いいし……」
【こより】
「も、もしかして、これを切っ掛けにして恋の炎〜」
【茜子】
「じゃーんじゃかじゃーん、じゃーんじゃかじゃーん」
【智】
「絶対ありません!!!」
【るい】
「そうだそうだ!!
あんな白っぽいの、トモちんに絶対断じて似合わない!」
【伊代】
「……男と女なんて何が切っ掛けで恋愛に発展するかわかんないっていうし……」
【智】
「ない、断じてない」
あってたまるか。
【花鶏】
「一晩くらい付き合ってあげたら? 泣いて感謝されるんじゃないかしら」
【智&るい】
「「まっぴらだ!!!」」
【るい】
「だいたい、アンタはトモ狙ってんじゃないのか、このエロス頭脳」
【花鶏】
「男の一人や二人に目くじらを立てるほど、わたしの了見は
狭くないわよ」
【花鶏】
「それに、乱暴な男に傷ついた智を、後で優しく慰めてあげるの。新しい恋の足音が聞こえてくる気がしない?」
【智】
「そっちもまっぴらごめん」
【こより】
「お、センパイ、そういえばの二乗です!」
【智】
「なんですか」
【こより】
「お家帰るにも、
すでにバスも電車もなかりにけりないまそかり……」
【智】
「たぶん、全然間違ってる」
【こより】
「あうー」
【智】
「そういえば、電車もないね」
【花鶏】
「それは最悪」
【伊代】
「まだこれから歩くわけ……」
【智】
「無理無理無理無理死んじゃうよ」
【るい】
「近くでどっか休めるところを」
【茜子】
「ファミルィーレストラントなど」
【智】
「どこでもいいんだけど――――」
見上げれば夜空。
空には月と星が。
気分がいい。
今夜はずっとこうやって、
空を見ながら歩いていてもいい。
【智】
「明日はどうしようか」
もう今日だけれど。
一つのことが終わった後。
新しく何かの始まる、始めなくてはならなくなる日に。
【るい】
「明日のことはわかんない」
るいが呟く。
まったくだ。
明日のことはわからない。
それが呪いだ。
僕らはきっと呪われている。
誰もがきっと呪われている。
そんなどうでもいい話をしながら、
僕らは夜通し歩き続けた。
ぼくらはみんな、呪われている。
みんなぼくらに、呪われている。
【るい】
「生きるって呪いみたいなものだよね」
【るい】
「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……」
【るい】
「それって、まったくの呪い。100パーセントの純粋培養、これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、ないない尽くしの呪いだよ」
【るい】
「そうは思わない?」
これは呪いの話だ。
呪うこと。
呪いのこと。
呪われること。
人を呪わば穴二つのこと。
いつでもある。
どこにでもある。
数は限りなくある。
ちょうど空は灰色に重かった。
浮かれ気分に水を差すくらいにはくすんでいて、
前途を呪うには足りていない薄曇り。
【智】
「むふ」
それでも僕らはやってくる。
約束もなくても。
明日のことがわからなくても。
同じ場所から空を見上げる。
【るい】
「こんなとこかな?」
【茜子】
「むふ」
【こより】
「いい感じでサイコーッス!」
【伊代】
「悪党っぽいわね」
【花鶏】
「それじゃあ、くりだすわよ」
【智】
「北北西に進路をとれ」
--------------------------------------------------▼ 個別ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》各ルートフラグのチェック
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》初回プレイの時
--------------------------------------------------◆ るいルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・茜子=+4 の時
--------------------------------------------------◆ 茜子ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・るい=+2 の時
--------------------------------------------------◆ るいルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・花鶏=+2 の時
--------------------------------------------------◆ 花鶏ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・伊代=+2 の時
--------------------------------------------------◆ 伊代ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・こより=+2 の時
--------------------------------------------------◆ こよりルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》上記条件以外の場合
--------------------------------------------------◆ るいルート
〔僕らの日々(こより編)〕
狼と羊とその他の仲間たちは、
今日も目的もなく街をブラついている。
【花鶏】
「うふふふ、今日もすてきな午後ね」
【こより】
「ひ、ひえっ!? いいいいいいきなりぱんつの中に手を
入れないで下さい、花鶏センパイ〜っ!!」
狼はもちろん花鶏のことだ。
小さくて可愛い女の子が好みと公言して憚らない花鶏は、
最近は僕らメンバーの中でもこよりが特にお気に入りらしい。
日々かなり激しいセクハラを繰り返している。
【るい】
「ヘンタイ。こよりは保護動物なんだぞ」
【茜子】
「イリオモテキノボリコヨリ、哺乳綱単孔目ヤマコヨリ科コヨリ属、野性絶滅種です」
【智】
「単孔目ていうのがかなりマニアックだ」
【伊代】
「じゃあ今ここにいるのは飼育されてるのね」
半トリップ状態の花鶏はみんなの言葉など聞いていない。
【花鶏】
「ああっ、さらさらのこよりちゃんのおしり……まるで
白桃のよう……!」
【花鶏】
「触りたいわ、舐めたいわ、ローションまみれにしたいわ!」
【こより】
「最後のがアダルトすぎますっ! と、ともセンパぁ〜イ、
オタスケ〜!」
インラインスケートを履いた
こよりの移動は、ついーっとなめらかだ。
S字を描いて僕の後ろに滑り込んでくる。
【智】
「よしよし。僕の後ろにいれば大丈夫だよ」
【こより】
「ともセンパイ〜」
手をワキワキさせた花鶏が、じわりじわりと近寄ってくる。
目つきはまさに獲物を狙う肉食動物のそれだ。
【花鶏】
「フフフ、智、あなたでもいいのよ。そのフラットな胸のあたりがこう……わたしの飽くなき劣情をかきたてる!」
【智】
「み、見境なしとはっ! こより、一緒に威嚇しよ!」
【こより】
「ハイ! ともセンパイ!」
【智】
「わうわう」
【こより】
「わうわう」
僕とこよりはわんこポーズで花鶏に吼える。
【るい】
「トモとこより、かわいい」
【伊代】
「それって逆効果なんじゃないの?」
【花鶏】
「ぐ……あ……ッ! がは……ッ!?」
しかし、僕とこよりの合体ワンワン威嚇は花鶏に効果テキメン
だった。
【伊代】
「効いてるっ!?」
【智】
「わうわう」
【こより】
「わうわう」
【花鶏】
「も……萌え死ぬ……っ! や、やめ……! ぐええ……がはっ!」
【花鶏】
「あばばばば……、そ、それ! それ! ずる……い……!
グアァァァ……ッ」
花鶏は悶えすぎてぐったりと力尽きた。
【こより】
「目標、沈黙〜!」
【茜子】
「さすがはマダガスカルの孔明と言われたボク女」
【智】
「それすごい頭のいい猿くらいにしか感じない」
その後も花鶏が襲い来るたびにワンワン作戦を発動、
何回やっても花鶏は聖水をかけられた悪魔のように
もがき苦しむのだった。
そうのこうのするうちに、僕たちは
テナントがスカスカのビルを発見した。
目指すは屋上、こうした古いビルは
義務付けられた屋上の施錠が為されていない場合も多い。
あっても3、4桁のダイヤル錠なら、
時間さえかければ簡単に開けることが出来る。
具合のいい溜まり場を確保するのが目的だった。
ついー、ついーっとこよりが滑っていく。
【こより】
「おお〜。施錠なし、確認であります!」
【るい】
「やった!」
陰気な光が漏れる2階の眼科の前をすり抜けて、
電灯さえ灯されてない廊下を渡った3階の奥。
埃っぽい階段を少し昇った先が、錆びついた鉄扉で終わっていた。
こよりの報告通り施錠はない。
【智】
「お、やったね〜」
【花鶏】
「それにしてもあなたたち、そうやって立つと本当の姉妹みたいね」
【こより】
「そうかニャ〜?」
【智】
「そうかニャ〜?」
二人でタイミングを合わせて、にゃんにゃんポーズをしてみる。
花鶏には効果的だった。
【花鶏】
「うお……お……!」
【智】
「発見者のこよりが、新天地の第一歩を踏むパイオニア大臣」
【こより】
「あ、鳴滝がですか? え〜と……」
何故かこよりは扉の前でもじもじと戸惑っている。
どうしたんだろう?
【伊代】
「どうしたの? やっぱり鍵、ついてる?」
【こより】
「いえ……そういうワケじゃないんですけど……その……」
【るい】
「うん?」
【茜子】
「魯鈍極まる貧乳丸顔チビは、パイオニア大臣の役職をリコール
すべきです」
【こより】
「たはは……。そゆワケで、パイオニア大臣の後釜はともセンパイにお譲りします。どぞ、どぞ……」
【智】
「? ……まぁ、いいけど?」
こよりが妙なところを遠慮するので、
僕はひんやりと冷たいノブを握った。
やはり施錠はない。
【智】
「わぁ」
風圧がすごい力で抵抗する。
体全体で扉を押すように開くと、一気に屋上へと吸い出された。
【こより】
「おっおー、見晴らし良好! これは本年度グッド溜まり場賞受賞間違いなしと思われ!」
【るい】
「わ、ホントだ。こりはいいねえ〜」
風が強かったのは扉のところだけ。
いざ屋上に踏み込むと、風は柔らかく流れていて心地よかった。
【智】
「風もいい感じだし、ラッキーだね」
【伊代】
「ここ、わたしの家のすぐ近くなのよ。こんなところあるの
知らなかったわ」
【花鶏】
「風通しいいからかしら? 掃除してないっぽいのにわりと綺麗ね」
花鶏はさっそく鉄柵にもたれて座り込む。
【茜子】
「電波もよく届きそうです」
【花鶏】
「茅場は頭にアンテナ生やしたらどう? 似合うわよ」
【こより】
「ハイ! 鳴滝はパラボラがいいと思うであります!」
【伊代】
「首、疲れるわよ」
【茜子】
「耳につけるドライヤーのような形状のアンテナを検討中です」
【智】
「そんなアンテナあるの……?」
他愛のない会話に興じながら風の間に指を透していたら、ふと喉の渇きを覚えた。
【智】
「そういえばこより、喉渇かない?」
【こより】
「ハイ、ともセンパイ! 鳴滝も水分不足を感じてたところで
あります」
【るい】
「私はおなかもすいたよ……」
【花鶏】
「年中食べてるわね」
【るい】
「体質だもん」
【伊代】
「でも喉は確かに渇いたわね。わたしが家からなにか持って
来ようか? 今はノンカロリー飲料しかないけど」
【茜子】
「こ、ここにダイエット中の巨乳がいるぞー!」
【伊代】
「うっさいわね! なんであんたそんなに細いのよ……! 顔は
そうでもないクセに……」
【茜子】
「ロボット超人ですから」
【花鶏】
「超人だったのか」
伊代の家がどれくらい近いのか知らないけれど、
わざわざ家まで戻って持ってきてもらうのも悪い。
それに、ダイエット飲料ってそれほど安くないと思うし、
伊代に悪い。
【智】
「家まで戻ってもらうのは悪いからいいよ。近くの自販機で
みんなの分買って来ようよ」
【こより】
「ういうい〜。鳴滝もなんだか甘いものが欲しい気分ですー」
【るい】
「たべもの……」
【伊代】
「そこのはらぺこはいいとして、どうするの? みんなで買いに
行く?」
みんなで行くのも悪くない。
だけどここが屋上なのがよろしくない所だった。
せっかく落ち着いたところで、またぞろぞろ連れ立って
下まで降りるのは、どうにもテンポが悪い。
【こより】
「はいはいはーーーい!! この鳴滝が、先のパイオニア大臣辞任の責任を取って買ってくるッス!!」
さっきの微妙な空気を気にしてか、こよりが元気よく挙手する。
いざ腰を落ち着けてみると、みんな下まで降りるのが
面倒くさい様子で、その提案に否定的な者は誰もいない。
【智】
「よし、こよりを新たにパシリ大臣に任命する!!」
こよりはみんなから小銭を集めると、
屋上でくるっと1回ターンして敬礼を決めた。
【こより】
「それでは不肖、パシリ大臣鳴滝こより、飲料およびるいセンパイ用の糧食を調達してくるであります!」
【智】
「行ってらっしゃーい」
元気に駆け出していく。
どうやらこよりは、パシリ大臣に適任だったようだ。
陽が傾ぎ、あたりには薄闇が広がり始める――
【るい】
「もう……ゴマでもいいから……」
夕陽のおとないが近い。
こよりはまだ戻って来なかった。
【伊代】
「おかしいわね。わりと近くに自販機あるんだけど……」
【花鶏】
「迷子?」
【茜子】
「いや、パシリ大臣による小銭横領事件かも知れません」
【智】
「いやいや、800円ちょっとのために友達なくすヤツはいない
でしょ」
まださほど時間がたったわけじゃない。
だけど、こよりの家もここからわりと近い場所にあるという。
目的の販売機も知ってると言っていた。
それにしては妙に遅いと思う。
空の色が変わり始めたせいか、少し気になった。
【伊代】
「どうしたの? 急に立って」
【智】
「うん、ちょっとこよりの様子を見てくる」
【花鶏】
「妹が心配になった?」
【茜子】
「あのチビッコが一人で缶を6個持つために、三面六臂の姿に変幻して戻ってきても困りますしね」
【智】
「阿修羅こよりはちょっと見てみたいけど、迎えに行ってくるよ」
伊代から販売機の位置を聞いて、僕は小走りに屋上を出た。
赤みを帯び始めた街を早足に行くと、販売機はすぐに見つかった。
【智】
「あれ……ここじゃないのかな?」
こよりの姿がない。
近くにもう一つ販売機があるのだろうか?
伊代に聞いてみよう。
携帯を取り出した時、向こうの筋を滑っていくこよりの姿が見えた。
【智】
「こよりー!」
【こより】
「あ、あれ? ともセンパイ〜?」
見間違えるはずもない。やっぱりこよりだった。
すぐに交互に足を繰り出して、こちらにやって来た。
【こより】
「もしかして鳴滝遅かったですか?」
【智】
「うん。それもあるけど、缶持つの手伝おうかなって」
【こより】
「うは、ありがとうございます〜」
こよりを見ていると簡単そうに見えるけど、
このインラインスケートというヤツ、最初は足を
上げることすらできないぐらい、結構むずかしいものらしい。
こよりはそのスケートの不安定な足のまま、
器用にペコリと頭を下げた。
【智】
「でも何してたの、こより? 自販機、ここにあるのに?」
【こより】
「あう、それは……」
すぐ傍らに、真新しい真っ白な販売機がある。
【智】
「こより?」
【こより】
「あの、実は……」
こよりが俯く。
【こより】
「この自販機、新しくなってたんです。それで……」
【智】
「え、どういうこと?」
【こより】
「…………」
こよりは俯いたまま、無言でモジモジと身体を震わせるだけ。
それを見て、僕はすぐにピンときた。
【智】
「呪い……」
【こより】
「…………」
今度の無言は肯定の無言だ。
こよりの呪い――
僕にはおおよその見当がついていた。
花鶏の家に初めて行ったとき――
さっきの屋上の扉――
そして、自販機――
見ると、取出口に透明のプラスチック板で作られたフタがある。
こんなものさえ開けられないのだろう。
こよりの呪いはおそらく、
『通ったことのない扉は開けない』だと思う。
僕の呪いのようにうっかりと破ることはなさそうだが、
とても不便な呪いだ。
【智】
「わかった……。こより、もうなにも言わなくていいよ。
僕が開けるから、さっさと買って帰ろうよ」
【こより】
「と、ともセンパーイ」
どうやらお互いの考えが通じたようだ。ちょっと、感激。
【智】
「さてどうする? なに買ってく?」
【こより】
「そうですね〜? せっかくだからコレと、コレと……」
【智】
「うわ、まずそう」
【こより】
「ともセンパイ! 時代はマズ飲料ですよ! 特にほらこの
『ドロっと! 凝縮モロヘイヤ』というのが実にヤバげ!」
【智】
「じゃああとこれにしよう。『新食感・寒天レモン』」
【こより】
「うはぁ〜、新食感ってのが想像つかないですね〜」
いたずら心いっぱいに、こよりと二人で
マズそうな飲み物ばかりを選んで買う。
蛍光グリーンの危なげな色のドリンクや、ヤケクソで
フレーバーを入れすぎた感じのドリンクなどをチョイスした。
適当に分け合って回し飲みしよう。
【智】
「あと、るいには……」
幸いこの自販機にはチョコも売っていた。
るいは甘いものが嫌いとか言ってた気もするけれど、
さしあたってるいにはこれを与えておこう。
【智】
「よし、帰ろうこより」
【こより】
「はーい」
【智】
「花鶏にも言われたけど、こよりって妹みたいな感じがする」
【こより】
「えへへ、鳴滝は実は本当のお姉ちゃんがいるのです。だから
妹属性あるのかも」
【智】
「へぇ〜、今度会ってみたいなぁ〜」
【こより】
「お姉ちゃん、会社の方が忙しくて鳴滝もほとんど会えません
けどね」
街並みが燃え上がる落日の赤に染まる。
すいすいと自在に曲線を描くこよりの隣、
僕は炭酸飲料を振らないよう気をつけて道を急いだ。
【伊代】
「わたしこれ!」
買って来たドリンクを広げた瞬間、みんながヤバげなドリンクに
不満の声を上げるよりも早く、伊代の手が疾った。
『新食感・寒天レモン』の下に書かれた、
体の中からダイエット……とかいう文字が、
瞬時に伊代の手に隠れる。
【茜子】
「紫電の腕(かいな)がブタ用ドリンクを掠め取りました」
【伊代】
「ぶ……ぶた……! この……!!」
【智】
「はい、るいにはこれ」
【るい】
「うう……甘いものきらい……。でも……あむ……」
チョコを渡す。
背に腹は代えられないのか、受け取ってすぐに食べ始めた。
【智】
「よい子だ」
【花鶏】
「センスに欠けるラインナップね」
【こより】
「鳴滝スペシャルチョイスです〜っ!」
【智】
「とりあえず、僕はこれ」
【花鶏】
「じゃあわたし、このモロヘイヤでいいわ」
【るい】
「ん、これ」
【茜子】
「茜子さんにはこれが相応しい」
【こより】
「じゃ、鳴滝はこれを頂戴いたします!」
みんな乾杯よろしく、一斉に口をつける。
【全員】
「ぶっ! マズッ!」
珍しく、僕たち全員の意見が一致する。
そして、すぐさま各ジュースの品評会で盛り上がった。
いつのまにやら、いい感じに日も落ちて星も出始めた。
【茜子】
「――ダイエットにお熱な淫乱巨乳委員長は放っておいて、では、そろそろ帰りましょう」
【るい】
「だね。でも花鶏、よくあれ最後まで飲めたねー」
【花鶏】
「だから、おいしいってば!」
そろそろ解散だ。
【こより】
「それじゃ、センパイがた! また、です!」
【智】
「気をつけてね」
【るい】
「トモこそ! トモは可愛いから襲われるぞ〜?」
【智】
「怖いこと言わないでよ〜」
手を振り合ってそれぞれの帰り道に別れる。
花鶏の家に泊めてもらってるるいや茜子に対して、
帰り道までモロヘイヤ汁の弁護をする花鶏の声が印象的だった。
〔語り屋対談(こより編)〕
寝覚めは快適のはずだった。
今時珍しくなってきたポップアップ・トースターで焼いたトースト
と、簡単なサラダで朝食を採りながら、酸味の少ないクリアタイプ
のアップルジュースを飲む。
【智】
「…………」
ジュースの紙パックに描かれたりんごが、
爽やかな朝に一つの気がかりを投げかける。
ちょうどこれと同じジュースの缶タイプのものを昨日見た。
こよりと行った自動販売機だ。
こよりも呪いに苦しんでいる。
もし本当に、『通ったことのない扉は開けない』
という呪いだとしたら、普通の生活に、
さまざまな制約を施すにちがいない。
まず一人ではどこへも行けない。
【智】
「そういえばこより、お姉さんがいるって言ってたな」
パンを一口かじる。
小麦本来の優しい甘味を味わいながら、
僕は昔聞いた話をぼんやりと思い浮かべていた。
母さんから聞いた話。
僕にも昔、姉が居たという。しかも双子の姉だ。
過去形なのは、今はもう居ないから。
幼くして死んでしまったのか、一緒に生まれたはずなのに
僕には姉の記憶は残っていなかった。
写真も見た事がない。
この話をすると母さんはいつも寂しく笑った。
姉は何か、悲しい死を迎えたのかも知れない。
自分と同じ日に生まれた血を分けた存在が、
今はもう居ないというのは不思議な感覚だ。
会ったこともない相手なので、寂しいというのはちょっと違う。
うまい言葉が見つからない。
姉さんのことを話した時のこよりの優しい笑み――
もしも生きていてくれたなら――――
大切にしたかった。
弟として、いろいろ姉さんに孝行をしてあげたかった……。
【智】
「ごちそうさま」
軽い食事を終えて、食器を片付ける。
昨日、花鶏に僕とこよりが姉妹みたいだと言われたことを思い出す。
それも悪くない。
死んだ姉さんのかわりに、こよりを妹みたいに可愛がってあげよう。
こよりも僕になついてくれているし、
何より元気なこよりと遊んでいると、
考え込みがちな僕もいつも楽しくなれる。
不思議な制約の呪いで、僕よりもずっと不自由なこより。
なんとかしてあげることは出来ないものだろうか?
僕自身も、この呪いから逃れることができるなら逃れたい。
【智】
「なんなんだろう。この、呪いって……」
電話を掛けてみようと思ったのは、自然な成り行きだった。
るいに引き合わされた、見た目も中身もたっぷりと怪しい、
あの女性。
語り屋と名乗っていた。
呪いについてどうにかする、と言ったら手がかりは
今のところあの人しかいない。
【智】
「そういえば、名刺をもらってたっけ」
財布の中にしまい込んでいた名刺を取り出して、電話を掛ける。
でも……。
【智】
「……あれ?」
呼び出し音はかかるんだけど、いっこうに出る気配がない。
切る。
また掛ける。
出ない。
そんなことを、休み時間の度に繰り返して。
いずるさんはいっこうに電話に出てくれなかった。
留守電にすらならないから、伝言も残せない。
着信履歴は残るだろうけど……
向こうから折り返し掛けて来る望みも薄いだろう。
【智】
「ただでさえ話が面倒なんだから、
せめて会うのに手間掛けさせないで欲しいなぁ」
学園からの帰り道、クラスメイトのサーチ範囲内から離脱して……
でもどうすればいいのかわからなくて、途方に暮れる。
会いたいのに、会えない。名刺を見てため息をつく。
蝉丸いずるという名前と、携帯電話の番号だけ。
住所でも書いてあれば別なのに、これでは携帯電話以外に
連絡を取る手段がない。
【智】
「るいに聞いてみたほうがいいかな」
るいは今時携帯を持たない野生っ子だ。
渡したプリペイド携帯も、
何日も経たないうちに粉砕してしまった。
るいが呼び出せるのだから、語り屋さんはどこか定位置で
遭遇できるモンスターのはずだ。
問題は、携帯ないっ子への連絡の方だった。
家ない子のるいは、
現在花鶏の家に飼われて居る。
そこに居てくれますように。
【花鶏】
『智、どうしたの』
【智】
「るいは?」
【花鶏】
『まだ帰ってないけど。何か用?』
【智】
「まだなんだ。ちょっとあの語り屋の人の居場所知らないかなと、思ったんだけど」
【花鶏】
『騙り屋にまた会うの? ま、帰ってきたら連絡させるわ』
【智】
「うん」
ありがとう、と続けて電話を切ろうとしたところで声を掛けられた。
【いずる/???】
「そこな人、女難の相が出ておりまするぞ」
【智】
「ビクッ!!」
女難!?
心臓をばっくんばっくんさせながら振り返ると、
捜していた騙り屋が居た。
電話の向こうで、花鶏が怪訝な声を出す。
【花鶏】
『智……?』
【智】
「居たよ。うさんくさい人」
【花鶏】
『見つかったの? それじゃ皆元に連絡入れさせなくていいわね』
【智】
「うん。それじゃ、ありがとう」
電話を切ってから抗議する。
相手は尋ね人、蝉丸いずるその人だった。
【智】
「いきなり、女難ってどういうことよ!」
【いずる】
「ははは、女難くらいしか占いっぽい言い回しを知らなくてねえ。死相のほうが良かったかい?」
【智】
「もっと悪い」
【智】
「でも、ちょうど良かった。捜してたから」
【いずる】
「あなたから私を捜したい、何かを訊ねたい、そんなオーラが出ておりましたぞ」
【智】
「占い師の真似ごとはもういい」
【いずる】
「そうかい? サイドビジネスにどうかと考えたんだけどね」
【智】
「いずるさんじゃ、うさんくさ過ぎて商売にならないよ。それで、聞きたいことがあるんだけど」
【いずる】
「呪いのこと」
口の端をつり上げ笑われる。
【智】
「まぁ……、そうなんだけどさ」
わかって当たり前だ。
こんなのコールドリーディングですらない。
【いずる】
「前にお代の分は全部喋ったよ。私はね。それに」
【いずる】
「君も語り屋から語りを買おうって言うんなら、それなりに
それなりなものをそれなりに」
【智】
「あのるいの変なぬいぐるみが、それなりにそれなりなもの
だったんだ?」
【いずる】
「そのとおり。物の価値なんて持つ人によって変わるものさ」
【智】
「そんなの解ってるつもりだけど」
たしかるいは瑠璃っちとか呼んでた。
珍しい、見たことも無いぬいぐるみではあったけれど、
あれにどんな価値があるのかなんて見当もつかない。
あのぬいぐるみに相当するようなものを僕が持ってるだろうか?
【智】
「じゃあ、何が欲しいの」
【いずる】
「何が欲しいのと来たか。こりゃまた単刀直入な」
【智】
「二人して回りくどいこと言い合っても、話進まないしね」
【いずる】
「君の持ってるものに欲しいものなんかない、と私が答えたら
どうするね? 君は」
またこんなことを言う。
【智】
「それはどうしようもないかな」
【いずる】
「尤(もっと)もだ。なら、そうならないようにそっちから渡すものを
決めたらどうだい」
【智】
「こっちから? 相場も分からないのに交渉できないって」
【智】
「まず聞くだけ聞いてよ。それで答の価値を教えて欲しいな」
【いずる】
「なるほど見積もりか」
【智】
「今時、見積もりで代金取らないよね?」
【いずる】
「弁護士なんかは、相談だけでがっぽり取っちまうけどねえ?」
いつまで経っても話が進まない。
ぬらりひょんってこういう感じの妖怪なんだろうか?
この人自体、半分妖怪みたいな感じだけど……。
とにかく聞いてみよう。
【智】
「みんな呪いの束縛で苦しんでるんだ。呪いの解き方について、
何かほんの少しでも手がかりになることがあれば教えてよ」
【いずる】
「ふうん? 今までずっと背負って生きて来たのに、いざ解けるかもとなると急に邪魔になった。それとも何か解きたい理由が?」
【智】
「両方かなぁ」
【いずる】
「ま、とにかくその質問ならお代はいらないね」
【智】
「え……どうして?」
【いずる】
「仮に解答があったとしたら、とてもじゃないけど君には
支払えない……だろう?」
腹が立つくらい嬉しそうな顔だった。
【智】
「喜ばないで下さい」
【いずる】
「おお、可哀そう可哀そう!」
【智】
「…………」
もし妖怪ポストを見つけたら、
この人を退治してくれるよう頼んでおこう。
【いずる】
「不満そうだねえ」
【智】
「すこぶる不満です」
【いずる】
「ならひとつだけヒントだ。皆元くんには異常な力がある。他の人にあったとしても……それは不思議かい?」
【智】
「……?」
るいの力?
原付を放り投げた異常なまでの力。確かにあれはおかしい。
聞かれたくないようだったので追求はしなかったけれど、
「そういう体質」では済まされないレベルの力だった。
人の枠から外れた特別な力――
そんな……似たような力が。
【智】
「るい以外のみんなにも?」
考えられないこともない。
恐ろしい呪い、奇妙な痣(あざ)、どちらも不思議な共通点だ。
これだけ不思議なことが揃って僕らに共通しているならば、
特別な力なんていう不思議なものも共通であって然るべき
かもしれない。
でも、僕は?
【智】
「少なくとも僕には特別な力なんてない……」
【いずる】
「おや? じゃあ見当違いだったかね。ま、一度冷静になって、
最初から全部整理して考えることだ」
【智】
「もしかしてあてずっぽうだったとか?」
【いずる】
「語りは最初からあてずぽうさ。
意味を決めるのは聞くお客、私はせいぜい語るだけ」
【智】
「真剣に考えたのに」
目線を空に向けながら、すっとぼけられた。
【いずる】
「ふふふ、さっきのは私から悩める少女への餞別にしといてやるよ。じゃ、私もあんまり遊んでられないから、そろそろ帰ることにしましょうかね」
【智】
「餞別って……」
話は終わった、とばかりに一方的に切り上げて
いずるさんは背を向ける。
【智】
「適当に言っただけのくせに」
すでに歩み去りながら、頭の上に挙げた手がひらひらと振られた。
まったく。
ため息だだ漏れ。
追いかけて文句を言う気にもなれない。
【智】
「ふう……特別な力、か」
念のためこよりにでも聞いてみよう。
くるり、くるり。
【こより】
「すい〜っ、すい〜っ」
くるくるり。
【こより】
「すいすい〜」
こよりはさっきから僕と車止めのポールを使って、
せわしなく8の字にスラロームをしている。
【智】
「それで、どう? こよりは思い当たる?」
こよりは目線をこっちに向けても
危なげなくスラロームを続けられる。
いつも履いてるスケートだが、
これは相当うまいんじゃないだろうか。
【こより】
「実は、あるのです」
【智】
「そうだよね、やっぱり特別な力なんてないよね……
ってあるの!?」
【こより】
「へっへっへ〜。実はるいセンパイみたいな大技じゃないですケド、鳴滝も必殺技を持ってるのであります」
【智】
「ほんとに? ほんとにあるの!?」
【こより】
「ハイ! では、ちょっと実演してみましょー」
ぱちぱちぱちぱち。
驚いてうまく返事できないまま、なんとなくで拍手する。
【こより】
「そうですね〜。そりではあの人をご覧ください!」
【智】
「どの人?」
【こより】
「ふふふ、行きますよう」
答えず、いきなりこよりは妙な動きを始めた。
両手を広げて、何もないところに
まるで壁があるように……パントマイム?
それで気づいた。
こよりとまったく同じ動きをしている人がいる。
ビルの窓掃除の人だった。
【智】
「うまい! 隠し芸だね」
【こより】
「えへへ〜」
【智】
「でもパントマイムは特別な力って程じゃないんじゃ? ん?
ひょっとして……」
【こより】
「はい、鳴滝はどんな動きでも見たら、録画再生のようにぴったり再生できるのであります」
【智】
「え?」
一度見た動きを完全に再現する。
そんなことができるならば、それはるいの力にも匹敵する
特別な能力だ。
【こより】
「このスケートもすごーくうまい人がやってるのを見て『覚えた』んです。さっきの掃除の人の動きも、目をつぶっても寝転がっても何回でも再現できますよ、忘れないかぎり!」
【智】
「それは……特別だ」
さしずめ『運動の再現能力』――
ダンス選手権とかに出れば、
かなり好成績を収められるかもしれない。
【こより】
「ただ動きをマネするだけなんで、短距離走の選手のマネとか
しても途中で足がついていかなくてコケちゃいますけど」
【智】
「動きをトレースするだけなんだね」
それでも凄い。
人間の条件はそれぞれ大きく違ってる。
体格、骨格、筋肉…………
様々な違いを補正して再現する。
【こより】
「ですです」
こよりが妙にスケートがうまいのも、
そういう力があったからというわけか。
しかしまさか、こよりにまでそんな特殊な力があるとは……。
これは他のみんなにもあると考えたほうがいいのかも。
思えば、思い当たる節はいくつかある。
【智】
「まさか本当にこよりにも力があるなんて……。そんな力、るいとこよりだけじゃなく、みんなにもあるのかもね」
【こより】
「かもしれませんね〜! あ、ともセンパイはどんな必殺技を
隠してるんでありますか!?」
【智】
「いや、僕はなんにもないんだけど」
【こより】
「あやや。ともセンパイのことだから、すっごいの隠してるかと
思ったんですケド」
【智】
「う〜ん、気づいてないだけかも知れないけど、やっぱり僕には
何もないと思うよ」
【こより】
「ある日突然ともセンパイもズキュゥゥゥンッ!って目覚めると
鳴滝は信じてます!」
みんなにも力があるとするなら、
僕の例外にはどんな意味があるのだろう?
呪いの仕組みを解き明かすヒントになるだろうか?
【智】
「もしかしたらその特別な力と呪いの関係が、呪いを解く鍵になるかもしれない」
【こより】
「呪いを解く方法ですか〜。鳴滝は別にこの呪いはあっても
構いませんけどね!」
ころころと笑いながら擦り寄ってくる。
ラブリー動物だ。
【智】
「よしよし」
【こより】
「きゅ〜」
撫でると鳴いた。
しかし、『通ったことのない扉は開けない』という呪い――
ついこの間も難儀したばかりなのに。
不便でないはずがないのに。
【智】
「呪いがあっても構わないって、どうして? 前も自販機で
困ってたのに」
【こより】
「それはともセンパイが助けてくれました! これからも鳴滝が
困ってる時は、ともセンパイがきっと助けてくれますから。
だから鳴滝は平気なのであります!」
【智】
「う〜ん? 不便だと思うけどなあ」
【こより】
「そうでもないです。イイこともあるんですってば」
【智】
「そんなもんかな」
【こより】
「そんなもんなのであります」
一人ではどこへも行けない束縛だというのに、
こよりは平気だと言う。
それどころかイイこともあるという。
この束縛を、こよりは僕らとの目に見えない繋がりを
補強するものとして捉えているのかもしれない。
憶測することはできる。
けれどこよりの心は、一人で生きることに慣れすぎた僕には
把握しきれない、なにかを孕んでいるように思えた。
【智】
「あってもいい、ってことはなくてもいいんだよね?」
【こより】
「ん〜、どうでしょう?」
【智】
「万が一のこともあるし、呪いは解けるなら解いたほうが、僕は
いいと思うな」
【こより】
「ですかね……ですよね」
【智】
「というわけで僕は、これから呪いの解き方を調べるべく、解呪
大作戦を展開する予定であります。こよりは協力してくれる?」
【こより】
「それはもちろんっ! 鳴滝は御用と在らばいつでもともセンパイにお供致す所存でございますよう!」
こよりは別にいいというけれど、やるだけやってみよう。
無理なら無理でいい。できるところまで調べてみよう。
解けるならこんな呪いなど解いてしまいたい。
スカートからそろそろ卒業してもいい頃だ。
〔色仕掛け大作戦〕
約束などないけれど、みんなはやっぱりここに来ていた。
放課後の溜まり場の一つである屋上。いつのも面々。
【智】
「でさ、呪いの手がかりって、これぐらいしかなくて」
僕はわざわざ家の中を捜し回って見つけた、
件の死んだ母からの手紙を持ってきた。
手紙は母の形見として持ってきた時代ものの文箱に直し込まれて
いて、見つけるのに2時間もかかってしまった。
寝る直前に捜し始めたせいで若干寝不足だ。
【こより】
「うわぁ、なんだかミステリーですね、怪奇ですね〜」
【伊代】
「本当にあなたの死んだお母さんからの手紙なの? 誰かの
いたずらじゃないの?」
署名は和久津美保代。
小さい頃の僕が、漢字が6文字もあってかっこいい、
と言っていた名前。
僕の字にとてもよく似た母の文字だった。
【智】
「紙もずいぶん古いし、字もやっぱり母さんの字だよ。
どういうツテかわからないけど、昔の手紙が誰かによって
届けられたんだと思う」
【花鶏】
「で、それに皆元の父親を頼るように書いてあった、と」
【茜子】
「ブルマ女とニーソ女の両親は交友があったのですか?」
【智】
「わからない。
……ってなんで僕がブルマ履いてること知ってるの!?」
【花鶏】
「水色は濡れたとき染みが見えやすいからオススメよ」
【智】
「そんなこと聞いてないよ!」
【伊代】
「で、どうなのあなたは? 何か心当たりないの?」
【るい】
「…………わからない。本人は死んでるし、私は知らない」
【智】
「そっかー……」
るいは、らしくない暗い顔で答えた。
たしかに頼れと指名された当人がいないのではどうしようもない。
それによく考えれば、るいだって呪いのことで少なからず
不自由を味わっているはずだ。何か知っていたら、とっくに
教えてくれているだろう。
【智】
「ほんの少しでもいい、みんな何か知らないかな?
いずるさんは呪いは解けないものでもないって言ってた。
僕は可能ならこの呪いのことをもっと調べてみたい」
【伊代】
「わたしは……何も聞いたことないわ。わたしの家はごく普通の
家庭だから、珍しい記録とかも残ってないし……」
【茜子】
「茜子さんのメモリにも何も該当データがありません」
【花鶏】
「わたしも知らないわ」
【こより】
「鳴滝も……何も」
【智】
「やっぱり……」
まったく期待してなかったわけじゃないが、
ある程度は予想通りの反応だった。
さて、これから何を調べていこうか……?
【智】
「うん。なんかいきなり変なこと聞いてごめん。
僕、もうちょっとだけ自分でいろいろ調べてみるよ」
【こより】
「はい。鳴滝は呪いはこのままでも別にいいですけど、
ともセンパイのお願いならなんでも手伝いますから。
ばんばん言ってくれると嬉しいです」
【智】
「ありがとう。こより」
どこから手を付けたらいいかも分からないけれど、
まずは調べものの定番、図書館でも当たってみよう。
【智】
「今日も静かだなあ」
というわけで図書館にやって来た。
なにもオカルト関係の本を探しに来たわけじゃない。
僕ら呪い持ちの仲間は6人。
これだけの人数の特殊な人間がこの街に集まっているのだ。
地域に関係があるかもしれない、というのが僕の予測だ。
この街と周辺の歴史や伝承を調べる。
もしかしてみんなのような、呪いと特別な力をワンセットで
持った人間が居たという説話が残っているかもしれない。
そこから呪いの解き方へ繋げられるかはわからないが、
ひとまず調べてみることにした。
【智】
「……さーて、ばりばり読みますか」
伸びをしてから、積み上げた資料の一つに手をつけた。
【智】
「………………」
かれこれ3時間になる。
【智】
「飽きた……! ね、眠いよ……!」
最初の方こそ案外おもしろい説話とかが載ってて興味深く
読めたけど、4冊目あたりからはもう内容がすべてどれかの
本に重複していて、とにかく退屈極まりない。
学園の授業でもここまで眠くはならないだろうという
驚異の催眠ブックたち。
おなかの中のお昼ごはんが、
またいい感じに睡魔をけしかけてくる。
もうやたら豪華装丁の表紙を見るだけで、
あくびが無限に出てくるようになっていた。
【智】
「ふあ……ふあぁ……。あ?」
古い書物を見て思い出した。
そういえば花鶏が怪しげな古い本を大切にしてたよな?
【智】
「もしかしてあれってメチャクチャ怪しいんじゃないの?」
呪われた家系に代々伝わる秘密の古文書。
かなりアリだ。
図書館のエントランス付近のベンチに腰掛けて
花鶏に電話をかける。
10コール、そろそろ諦めようかと思った時、
花鶏の声が応対した。
【花鶏】
『智? どうしたの?』
【智】
「あ、実は聞きたいことがあってさ。ほらあの僕たちが出会う
きっかけになった古い本。花鶏が大事にしてたやつ……」
【花鶏】
『ああ、あれ? あれは花城家秘伝、レズ用四十八手スーパー
テクニカルガイドブックよ』
【智】
「嘘だよ! だいたい結構分厚かったよ、あの本」
【花鶏】
『裏四十八手も載ってるのよ』
【智】
「そんなこと言わないで教えてよ〜」
【花鶏】
『えっ、レズ用四十八手を教えてほしいの?
いいわよ、ベッドでみっちりねっちょり教えてあげる』
【智】
「違うってば! あの本、本当はいったい何の本なの?」
【花鶏】
『レズ用四十八手スーパーテクニカルガイドブックって言ってる
でしょ。あの女帝エカチェリーナも愛読したという百合界の
奥義書よ? ロシアでベストセラーよ?』
【智】
「……何か見られると困ることでもあるの?」
【花鶏】
『あ、あ〜! 急に激しくおなかが痛くなって来た。あー痛い。
痛いわ〜。と、いうわけでわたしこれから寝るわ。じゃ!』
【智】
「あ、あ、花鶏ぃ〜!?」
切られてしまった。
怪しいなんてもんじゃない。
だけどどうして花鶏がそこまで内容を隠すのかが謎だ。
呪いと関係あるのかはまだわからないが、
非常に興味が湧いて来てしまった。
僕の呪いに関しての調査は、
1日目にしてさっそく足踏みの結果となった。
しかしやっぱり釈然としないものがある。
花鶏の本だ。
どう考えても何か隠している。
あの本が呪いへの手がかりに繋がるかどうか、
現段階では判断する術はない。
あれだけ高価そうな古い本だから可能性はあるだろう……
そのくらいのいい加減な推量でしかない。
そこで考えた。
判らないならば、なんとか花鶏から内容を聞き出してやろう。
呪いと関係があればそれでよし、
関係なくても僕の知的好奇心が満たされるというわけだ。
【智】
「とはいえ、花鶏は強敵だよな。見せないと言ったら泣いても
怒鳴っても絶対見せてくれないと思う。そこで今回助っ人として来ていただいたのが、僕の自慢の妹、鳴滝こよりくんです」
【こより】
「鳴滝こよりで〜す、ぱちぱちぱち〜!」
【智】
「僕は花鶏のあの本の内容が知りたいんだよ。こよりは一時期
だけど手にしたことあったよね。中身は見てないの?」
【こより】
「いや、それがもう、鳴滝もあっというまに盗られちゃいましたから、中を見る暇なんてぜんぜん。それに表紙もなんかへんな宇宙語みたいな字が書いてあったのです」
【智】
「うーん、それたぶんロシア語だよ……」
これはますます厄介なことになった。
【智】
「僕のわかるロシア語なんて、ハラショーくらいのものだしなあ」
【こより】
「ハラショーでありますか〜」
【智】
「花鶏に隙を作って本の内容を盗み見ても、ロシア語なんて
読めないから、理解できないし……」
【こより】
「ネットに翻訳サイトがあるかすらも怪しいですしね〜」
【智】
「そうだね。あっても露から英ってとこだね」
英語ならなんとか読めないでもないけれど、盗み見の隙に
ロシア語を記憶して書き写すというのが至難すぎる。
やっぱり花鶏に教えてもらわないと。
【智】
「なんとか花鶏から内容を聞き出す、いい手段はないかなぁ」
【こより】
「う〜んむ……あっ! 今なんか降りてきました!」
【智】
「アイデアの神が!?」
【こより】
「ハイっ! 花鶏センパイの弱点をピンポイントで攻撃する奇策であります!」
【智】
「ほんと!?」
【こより】
「ともセンパイ、ちょっとお耳を拝借」
こよりが寄って来たので、
少し姿勢を低くしてこよりが僕の耳に届くようにする。
甘酸っぱいような、こよりの匂いがした。
【こより】
「ごにょごにょの、ごにょごにょであります。さらに
ごにょごにょの、ごにょごにょを超ごにょごにょして……!」
【智】
「……ええーっ!?」
【こより】
「これなら花鶏センパイは楽勝ですって!」
【智】
「いや……たしかに楽勝だと思うけど……ホントにやるの?」
【こより】
「花鶏センパイにはこれが一番効果的ですってー」
倫理的な問題を除けばたしかに完璧だ。
花鶏はこれなら確実に落ちる。
どんな拷問をするよりも確実だろう。
ただ、僕がこれは……いいの?
本当にいいの?
【こより】
「ともセンパイなら楽勝ですよう!」
【智】
「らくしょう…………」
背に腹は代えられない……。
やって来ました、花城邸。
対花鶏決戦兵器をボストンバッグに詰め込んで。
げっそり。
【こより】
「ともセンパイ〜、腰が引けてますよう」
【智】
「うう……、二重三重に人間として踏み外していってる気がする
……!」
【こより】
「特殊任務ですよっ、工作兵ですよっ!
敵将校はわれら平べっ隊のイリョクにイチコロですよう!」
【智】
「素敵滅法で目が眩みますよう……」
【花鶏】
「あらぁー、こよりちゃんに智ちゃぁーん。わたしに愛撫されに
来たの?」
【智】
「その話はノチホド……!」
【こより】
「ま、とにかく中入れてください。はやくはやく!」
【花鶏】
「なに? いったいなに?」
疑問符を乗せた花鶏の背中をぐいぐい押して、
勝手にどんどん上がり込む。
幸い花鶏ひとりのようだった。
いい意味でもわるい意味でもチャンスだ。
【こより】
「というわけで、しばし部屋をお借り致します!」
【智】
「気をしっかり保て……がんばれ僕……!」
【花鶏】
「あ、ちょっとあなたたち……!」
花鶏を残して僕らは隣室に飛び込んだ。
【花鶏】
「なにこれ? なにこのイベント?」
かくて僕らは決戦兵器に身を固めた。
戦闘準備は万全だ。
【こより】
「開けますよ? いいですね、ともセンパイ?」
【智】
「ごく……! いいよ。もう覚悟を決めたよ」
【こより】
「では、行きます!」
【こより&智】
「「お姉さまぁ〜〜っ♪」」
【花鶏】
「ブばッ!!?」
花鶏が飲んでいた野菜ジュースを盛大に吹き散らした。
作戦名『お願い、お姉様! 色仕掛け大作戦』――――
こうかは ばつぐんだ!
【こより】
「お姉さまぁ〜。こより、あの本のこと教えてほしいですぅ〜」
【智】
「お、お姉さまぁ〜。智もあの本の内容、教えてほしい……ですぅ」
こよりはアグレッシブ極まる態度で、
スクール水着を装着している。
先年、前線で戦ってた時のものだッ!
【こより】
「花鶏お姉さまぁ〜」
【花鶏】
「こ、こよりちゃん……!」
花鶏はマンガチックに鼻血を垂らしていた。
人間って、本当に興奮すると鼻血出すんだ!
こよりに専用の赤い特殊バックパックを装備する
という作戦も検討されたが、あまりに危険な
その兵装が条約禁止兵器のため実現はしなかった。
幻となった超兵器に敬礼。
【花鶏】
「し、死ぬっ! 死ぬっ!」
花鶏は立ったまま悶え転がっていた。
僕はさすがに水着姿はいろいろとまずいので、
メイド服を用意した。
こよりは、多少マニアックな方が花鶏のニーズに合致するに
違いないという意見だったので、和タイプ。
なんだか大正の香り漂う、着物の上にエプロンを着るアレだ。
【智】
「お、お姉さま……」
【花鶏】
「ふおぉっ、こっちも来たーっ!?」
反応は良好だ。
ここはチャンスとばかりに、
僕もこよりに教えられた通りのセリフを言う。
【智】
「花鶏お姉さま。わたし……お姉さまのロザリオが欲しい」
【花鶏】
「ぶっはァぁぁ〜ッ!? あげる! あげる!
ロザリオ入れてあげる!」
【智】
「い、いや、入れないで……!」
なんだかわからないけど、異常に効果的だったようだ。
【こより】
「お姉さま、こよりにいろいろ教えてぇ?」
【智】
「お、お姉さまぁ……」
【花鶏】
「ハァハァ……! わ、わかったわ。可愛いあなたたたたたちの
頼みですもの。お姉さまがなんでも教えてあげるわ……!」
【智】
「『た』がすごい多いです、お姉さま」
【こより】
「それじゃあお姉さま、あのご本のこと、こよりに教えて
くださぁい」
【花鶏】
「あの本はね、『ラトゥイリの星』と言って、わたしの家に
代々伝わる本なのよぉ」
【智】
「そ、それで!?」
【花鶏】
「中身は一見幻想物語だけど、実はわたしや智ちゃんこよりちゃんの呪いに関係する秘密が書かれているのよ」
やっぱりあの本は、呪いと関係ある本だった!
【こより】
「あのご本、こよりたちに貸してください、お姉さまぁ」
【智】
「お姉さまぁ」
【花鶏】
「ふお……そんなダブルで密着……! え、でもあの本は
大お爺さまの……」
【花鶏】
「ハッ! 大お爺さま!!」
部屋の壁に、水色の目で睨みつける
銀髪の老人――花鶏の曾祖父の肖像画があった。
その油絵の具の目と目があった瞬間、でろでろの無脊椎動物の
ようになっていた花鶏にまっすぐな脊椎が復活する。
【こより】
「お、お姉さま?」
【智】
「どうしたのですか? 花鶏お姉さま」
【花鶏】
「も、申し訳ありませんでした大お爺さま! この花城花鶏、
花城家とズファロフ家の血を引く者にあるまじき失態を!」
【智】
「……花鶏?」
【花鶏】
「もうちょっとで騙されるところだったわ。偉大なるわたしの
曾祖父、セルゲイ・アレクサンドローヴィチ・ズファロフの遺産、
『ラトゥイリの星』を他人に貸すなんてもってのほかよ!」
どうやら花鶏は、尊敬する曾祖父の肖像画を見て
正気に戻ってしまったようだ。
【こより】
「お、お姉さま、そんなこと言わずに〜」
【花鶏】
「ダメといったらダメ! あれは大切な本よ! 内容も教えないわ!」
【こより】
「……ちッ。失敗です、ともセンパイ〜」
【花鶏】
「ああっ、今舌打ちしたわね!? この! あどけない体に悪魔の心! 今からいけない仔猫ちゃん教育用おしおきベッドで5時間に及ぶ調きょ……いやいや、教育をしてあげるわ!」
【智】
「今なんか違うこと言いかけたよ!」
【こより】
「た、助けて下さい、ともセンパイ〜っ!」
【花鶏】
「こら、待ちなさい! 指2本くらいじゃ済まさないわよ!」
花鶏を本気にさせてしまったようだ。
怪しい手つきをしながら、らんらんと光る目で迫ってくる。
こわい。
【智】
「こより! ここはひとまず撤退だよ!」
【こより】
「は、ハイ! ともセンパイ!」
作戦は半分成功、半分失敗。
収穫はあったので良しとする。
ともかく、今は逃げるのが優先だ。
【花鶏】
「待てこらぁ〜っ!!」
【こより】
「うひえぇぇ〜〜っ!!!
花鶏センパイ、目が怖いですよう〜っ!」
僕とこよりは着替え直す間もなく、
スクール水着と和装メイドの変なコンビで逃げ帰ることとなった。
花鶏は悶えるのに体力を消耗していたのか、追ってはこなかった。
僕とこよりはひとまず僕の部屋に戻って来た。
【智】
「とりあえず僕は着替えたけど、こよりも着替えた?」
【こより】
「うい〜、着替えましたよ」
バスルームを出る。
【こより】
「ともセンパイって恥ずかしがりなんですね。女の子同士だから
一緒に着替えてもいいのに」
【智】
「い、いやぁ〜……」
女の子同士じゃないからいろいろと問題なのだ。
うん。やっぱり呪いは解かないといけないな。
【智】
「それにしても怖かったよ。取って喰われるかと」
【こより】
「ほんとです! 花鶏センパイもう、目が捕食者のそれでしたよう! 女郎蜘蛛でしたよう!」
【智】
「あはは……。でもどうする? あの『ラトゥイリの星』とかいう本、写本とかないのかな?」
あの様子だと、これからいくら頼んでも
花鶏は本を見せてくれそうにない。
聞いたこともないマイナーな本だし、
出版とかはされてなさそうだ。
となると、手に入れるには
写本が存在する可能性に賭けるしかない。
【こより】
「う〜。でもあの本、すごく高そうでしたよう?」
【智】
「それはほら、出世払いでなんとか……」
値段のことも問題だが、入手方法を確保するのも困難だ。
おそらく輸入でしか手に入らない。
【智】
「お金のことがなんとかなっても、見つけるのは難しそうだね……」
【こより】
「う〜ん。実は鳴滝のお姉ちゃんは貿易関係の会社に勤めてる
んです。もしかしたら見つけられることがあるかも……」
【智】
「え、それ本当!? じゃあこより、なんとかお姉さんに頼んで
みてくれないかな?」
【こより】
「はう、他でもない、ともセンパイの頼みだから鳴滝がんばります。でもあんまり期待はしないでくださいね?」
【智】
「うん、うん! もともとどうにも手の施し様のない問題だもの。わずかでも可能性があったらありがたいよ」
貿易会社に勤めてるからって、海外からなんでも探して
輸入できるわけじゃないのは承知してる。
それでも僕たちが個人で手に入れようとするよりは、
ずっと目的のものを見つけられる可能性が高いだろう。
「不可能」が「不可能じゃないかも」に変わった程度だけど、
まあ気長に待ってみることにする。
【こより】
「小夜里お姉ちゃん……」
天井に視線を向けて思案を巡らせていると、
視界の隅でこよりの顔がわずかに曇った気がした。
【智】
「こより? どうしたの?」
【こより】
「あ……、いえいえいえいえ! そいじゃあ鳴滝、ちょっと
がんばってみます!」
気のせいだったのか、表情の曇りは
素早い魚影のように、すぐにこよりの表面から消えた。
元通り、曇りひとつない笑顔がそこにはある。
【智】
「うん。ありがと、こより。期待しないように待ってる」
【こより】
「ハイ!」
元気よく答えたこよりの頭を強めに撫でてあげる。
髪をくしゃくしゃにされながらも気持ちよさそうに目を細める
こよりには、先ほどの翳りのかけらを見つけることはできなかった。
〔ピースキーパー誕生〕
【クラスメイト1】
「和久津さん、さよなら」
【クラスメイト2】
「さようなら」
【智】
「さよなら」
控えめに挨拶して、帰り道が同じ方向になるクラスメイトが
居なくなるように道を曲がっていく。
学園は面倒だ。はやいとこ卒業したい。
学園という場所は男と女の間にはっきりと線を引いてわけて
いるので、僕には非常に過ごし難い場所なのだ。
どうでもいい教室での席の位置までも、
男は偶数列、女は奇数列などと決まっていたりする。
「どちらでもない」僕は、いつも女の子を演じることに神経を
すり減らしていた。
【智】
「ふぅ、ほんとに疲れるよう〜」
やっと人通りが減ってきた。
今のところ水泳の授業は全部休むという手段によって
事なきを得ているけれど、いつ体育教師に呼び出し補習を
食うかわかったものじゃない。
その時はどうしよう?
えっと、防水のまえばりとかの導入を検討したほうが
いいのかな……?
【智】
「あ〜ん! 深みにはまっていく〜っ!」
【こより】
「深みにはまるってなんのことですか? ともセンパイ」
【智】
「まえばりのことだよ〜」
【こより】
「マエバリ?」
【智】
「こより?」
【こより】
「まえばりこより?」
【智】
「って、いつのまにーっ!?」
僕がまえばりについて深い思索を行っている間に、
音もなくこよりが出現していた。
【こより】
「ともセンパイ! おっすであります! ……で、まえばりが
どうしたんですか?」
【智】
「いやいや、なんでもないなんでもない! それよりこよりの
学園ってこっちじゃないよね?」
【こより】
「あ、ハイ。実はともセンパイを捜してついーっとやって来た
んです。あれからお姉ちゃんに電話してみたんですよ」
【智】
「どうだった?」
【こより】
「写本、探しといてあげるって言ってくれました! それで、
その代わりといったらアレなんですけど……」
【智】
「……?」
いつもの溜まり場にいつものメンバーが集う。
【伊代】
「うーん、なんか怪しいと思わない? どうしてわたしたちに
頼むのかしら?」
【花鶏】
「警察に頼むわね。普通は」
その代わり、と言ったのはちょっとした頼まれ事だった。
紛失したものを捜して欲しい――
珍しいものなので盗まれたのかも知れない。
そんな物捜しの頼みだった。
頼まれた経緯については伏せてある。
【るい】
「そんな、疑ったらこよりが可哀想だよ。こよりのお姉ちゃん
なんだから、大丈夫だって」
【智】
「たしかに警察に頼まないのは不思議だけど、僕も大丈夫だと
思うな」
【こより】
「るいセンパイ、ともセンパイ〜」
【こより】
「鳴滝、実はお姉ちゃんに会うのはすっごくすっごく久し振りなのです。それにお姉ちゃんから頼られるなんて初めてだから……!」
【こより】
「もう、鳴滝ひとりでもがんばっちゃいますから!」
【茜子】
「つまり今の言葉を要約すると、わたしはシスコンです、という
意味ですね」
【こより】
「シスコン上等ですよう! 鳴滝はお姉ちゃん大好きですから〜!」
【花鶏】
「近親レズは、流石にわたしもどうかと思うわ」
【伊代】
「好きイコール肉体関係しかないの? あなたは」
たしかに伊代と花鶏の言うとおり、妙な部分もなくはない。
だけどこよりのお姉さんが、こよりを騙すメリットがあるだろうか?
しかも頼むのはただの捜し物だ。
【智】
「ここは好意的に考えてさ、最近疎遠だったこよりのお姉さんが
こよりと接点を取り戻すために頼みごとをした、っていう解釈で
どうかな?」
【るい】
「お、それいいよね」
【花鶏】
「解釈というのは救いがないわね」
【伊代】
「納得できるようなできないような……やっぱり何か怪しいと
思うけど」
【智】
「とりあえず、僕は手伝うよ」
【るい】
「こよりは私の仲間だもん」
【こより】
「うは、ありがとうございますー!」
すんなりとは納得いかない。
ただ、大好きなお姉さんから頼られてはしゃいでいるこよりを
見ていると、どうしても手伝ってあげたくなる。
【茜子】
「どのみち詳細は聞きますよね? 茜子さんは詳細データを
分析してから手伝うか決めることにします」
【伊代】
「そうね。あなた、珍しくまともなこと言うじゃない。わたしも
そうするわ」
【花鶏】
「じゃ、わたしもそれで」
【るい】
「みんな疑り深いぞ」
【花鶏】
「少しは疑うことを覚えろ」
本当に珍しい茜子の建設的な発言により、
どうやら方針は決まったようだ。
【こより】
「じゃあ鳴滝がお姉ちゃんの会社に行って、いろいろ細かいコト
聞いてきますね! うわ〜、お姉ちゃん久しぶりだなぁ〜。
もうすっごいすっごい楽しみです!」
【智】
「こより一人じゃ何かと不便だよね? 僕もついて行くよ」
こよりの呪いに気を遣って、名乗りを上げた。
【こより】
「うわ、ともセンパイありがとうございます! ともセンパイも
お姉ちゃんと同じくらい大好きですーっ!」
【花鶏】
「なるほど、そうやって好感度を稼ぐのね」
【智】
「こらこら」
無数の鏡面が、僕たちの影を背後にいくつも作っていた。
単純な直方体ではない、複雑で近未来的なデザイン。
鏡の塔、といった印象の建造物が、
CAコーポレーションの企業ビルだった。
【智】
「なんか……緊張するね」
【こより】
「ともセンパイが緊張してちゃ、鳴滝もガッチガチになっちゃい
ますよう。実は鳴滝、お姉ちゃんと会うの2年ぶりなんです。
うう〜、また緊張してきた」
【智】
「2年間も会ってなかったんだ?」
こよりのお姉さん、鳴滝小夜里さんが勤める
貿易会社CAコーポレーション。
企業の権威がそのまま具現化したような鏡の塔は、
前に立つ僕らを無言で威圧する。
自分たちの見慣れた世界とは、
根本的に異なるルールで支配された空間。
異世界に乗り込むようなものだ。
緊張するなというのは無理な話だった。
【こより】
「でもお姉ちゃん、なんでわざわざ会社のビルにわたしたちを
呼んだんですかねー?」
【智】
「さぁ……、もしかしたら捜し物が会社と関係してるのかも」
憶測をいくら述べたって始まらない。
僕とこよりは世界を隔てるガラスのドアを潜った。
通されたのは簡素な応接室だった。
落ち着かない僕らは、洒落たデザインの椅子に浅く腰掛けて待つ。
【小夜里】
「お待たせ」
【こより】
「お姉ちゃん!」
ほどなくして現れた女性。
シックなスーツに身を包み、落ち着いた雰囲気。
いや、落ち着いた雰囲気というよりもむしろ物事に無感動な
淡白さがある。
冷淡という言葉を使っても良さそうな印象を受けた。
【小夜里】
「そちらは?」
【こより】
「あ、この人はともセンパイ……いつもわたしに優しくして
くれてる先輩だよ!」
今にもお姉さんの胸に飛びつきそうなこよりの態度を受け流し
ながら、小夜里さんは僕を見る。
考えの読めない目をしていた。
こよりに聞いた話では、かなり年が離れているという。
知的で、落ち着いていて、『大人』で。
いろいろな部分において妹のこよりとは対照的な女性だった。
【智】
「はじめまして。和久津智と言います。こよりの友達で、今回の
捜し物を僕も手伝おうと思うので、詳しい話を聞かせて貰いに
来ました」
【小夜里】
「そう。私はこよりの姉の小夜里です。妹がお世話になっている
みたいで」
【智】
「いえ、こちらこそ」
【小夜里】
「それじゃこより、本題だけど……」
【こより】
「その前にお姉ちゃん」
【小夜里】
「……なに?」
【こより】
「こないだの誕生日プレゼント、ありがとう! とってもいい匂いの香水だったよ」
【こより】
「わたしにはまだちょっとオトナっぽすぎる感じだけど、わたし、早くお姉ちゃんみたいなかっこいいオトナの女になってあの香水使うから。ありがとうね、お姉ちゃんっ」
【小夜里】
「………………」
小夜里さんは発する言葉を決めあぐねるように
少し驚いた顔をして、それから初めて笑った。
【小夜里】
「ふふふ、そうね。
こよりもあの香水が早く似合うようになるといいわね」
紛れもなくそれは、姉が妹を慈しむ微笑みだった。
どうやら僕たちの危惧は杞憂だったみたいだ。
【智】
「それで、捜し物ってどういうものなんです?」
【こより】
「そでした。どういうものなの? お姉ちゃん」
す、と1枚の写真がテーブルに差し出される。
【小夜里】
「これよ」
身を乗り出して写真を一緒に覗き込んだ。
【こより】
「ペン……?」
そう見える。
【智】
「これは……ペンですか?」
【小夜里】
「社長のものなんだけど、海外の珍しいものらしくてね。
大事にしてたのよ。この写真は、購入する時にカタログ代わりに相手方から貰ったものよ」
【智】
「へぇ……」
海外製の珍しいペン。
社長のコレクションだから会社に呼び出された。
警察を呼ばないのは、物がペンという他愛ないものだからだろうか?
たしかに警察は余程のことがない限り、
窃盗品に対しては積極的には動いてくれない。
たとえ、そのペンがかなりの高価なものであったとしても、
所詮はペンだ。
なんとなく流れが見えてきた気がする。
【こより】
「でも捜すって言っても、この写真1枚じゃどうしていいか
わかんないよ、お姉ちゃん」
【智】
「そうですね、何か手がかりはないんでしょうか?」
【小夜里】
「社長はいつもそれを持ち歩いてたので、紛失したのは外。さらに社長はかならず車で移動するので、紛失する可能性のある箇所は、乗り降りする場所だけに限定できるわ」
小夜里さんはなめらかな口調で、的確に分析に基づいた推理を
述べる。どうやらかなり頭の切れる人のようだ。
【小夜里】
「可能性の高いのは2箇所。1箇所は社長の自宅。もう1箇所は
昼食に出かけるガストロノミー・ビル。この2箇所周辺でしか、
社長が物を紛失する機会はないわ」
【小夜里】
「さらに、社長は自宅で紛失に気づいた。もちろんすぐに家の周辺は調べたらしいわ。紛失場所はガストロノミー・ビルの周辺だと確定してしまっていいと思う」
【智】
「ガストロノミー・ビルってたしか、料理店が沢山入ってるビル
ですよね」
【こより】
「あ、知ってます! 鳴滝の学園の近くですよう、それ。世界中の料理が食べられるーとか言って、いろんな国の料理を出す店舗がいっぱい入ってるトコ」
【小夜里】
「ええ。そこのエジプト料理を出すハトシェプストという店に、
社長はよく行っているわ」
【智】
「なるほど……。つまり僕たちの足がかりとなるのは、そのビル
周辺の聞き込みってわけですね」
【小夜里】
「そうなりそうね」
【智】
「となると紛失の時間帯は昼……ですね」
【小夜里】
「智さん……よね。あなた、頭の回転が速いわね。助かるわ」
【智】
「いえ」
こよりの学園の近くだ、
周辺のことはこよりに聞いたほうが良いだろう。
時間帯は昼、もしガストロノミー・ビル周辺にも飲食店が散在しているなら、その時昼食目当ての学園生が沢山居たかもしれない。
【智】
「こより、そのビルの近くって学園生向けの安い店はある?」
【こより】
「あ、けっこうありますよ! ラーメン屋さんとかジューススタンドとか。ウチの学園は学食があんまりおいしくないんで、みんなその辺に出て行ってゴハン食べるんです」
【小夜里】
「なるほど。
それなら学園生の誰かが見てる確率が高いというわけね」
【智】
「です。社長さんの車種と色は?」
【小夜里】
「ふふ……、本当に頭の回転が速いのね。シトロエンCX、
色はシャンパンゴールドよ」
【智】
「シトロエン……フランスの車でしたっけ? わかりました。
ネットから写真を確保して見ます」
【こより】
「ほえ〜ともセンパイ、刑事さんみたいですね! こう、萌えデカ! って感じですよう!」
【智】
「も、萌えって」
【小夜里】
「ふふふ、こより。変わらないわね」
【こより】
「お姉ちゃんは前あった時より、ずっとオトナっぽくなってるよ。かっこいい!」
【小夜里】
「そう? それはありがとう。じゃあこの捜し物、
お願いできるかしら」
【智】
「あ……」
【こより】
「もっちろん!」
【小夜里】
「じゃあ、お願いするわね、こより。……智さん、何か?」
【智】
「あ、いえ、何でもないです」
【小夜里】
「そう?」
【こより】
「そうだ、お姉ちゃん! お休みはいつなの?
わたし、久しぶりにお姉ちゃんと一緒にゴハン食べたいよ!
あと、それから、それから……」
2年ぶりだと言っていた。
シスコンと揶揄されても大好きだと公言できる姉に久しぶりに
会えたのだ、こよりのはしゃぎようは無理もない。
本当は警察には届け出たのか、
なぜ一学園生に過ぎない僕やこよりに頼んだのか、
もう一度確認したかったのだが聞きそびれてしまった。
ともかく、小夜里さんからこよりへの親愛の想いは本物に見えたという事だけを、花鶏や伊代には言おう。
【るい】
「ずるずる……、はふ……ほれで? ん……結局、イヨ子たちは
どうするの?」
【伊代】
「あなた、食べながら話すのやめなさいよ! 汁飛ぶでしょ!
しかもそれ色付きなんだから、被弾したら被害甚大なのよ!」
【るい】
「ずるずるずるっ……、はふ……だって冷めるじゃん」
ガストロノミー・ビルのはす向かいに位置するラーメン店
「こな屋亭」のカウンターに、僕らはずらりと並んでいた。
現場の下見ついでに何か食べようということで、放課後
みんなでやって来たのだが、価格設定の高さにすぐさま撤退。
結果、この辺りの学園生ご用達なラーメン屋に流れ込んだわけだ。
カレーラーメンなんてジャンクなメニューがあるところが、
いかにも学園生向けという感じだ。
【茜子】
「怪しさゲージはまだほとんどフルボルテージ状態です。
ですが、それはたぶんラーメン屋に来て丼モノを食べる
腐れ外道も同じはずです」
僕だけ丼を食べていた。
だって食べたかったんだもん。
【智】
「麻婆丼食べたくらいで腐れ外道」
【花鶏】
「その腐れ外道が引き受けると言ってるわ。
怪しいけど大丈夫、ってことじゃないの」
【茜子】
「そう思います」
【伊代】
「そうねぇ。ペン捜しくらいならやってあげてもいいかしらね」
【花鶏】
「じゃ、決まり?」
花鶏は冷やしサラダラーメンだった。
野菜好き過ぎ!!
【こより】
「ずるずる……っ、んぐ。
うわ、ありがとうございます、センパイがた!」
【伊代】
「あなたも食べてからにしなさいってば! まったくもう……
どうしてこの子たちはこんなに行儀が悪いのかしら」
こよりはみそラーメン、伊代はベーシックなラーメンだった。
【るい】
「あ、私も麻婆丼追加」
【花鶏】
「まだ食うのか、こいつは!」
るいはすでにラーメン2杯目だ。
いったいあの体のどこに、こんな大量の食べ物が入るんだろう?
【茜子】
「ラーメン屋でラーメン以外を食べる奴は腐れ外道です。
便器に吐き出されたタンカスにも劣る人間のクズです」
【智】
「なんでそこまで……!」
【こより】
「そういう茜子センパイは何頼んだんです?」
【茜子】
「醤油、麺カタメ、揚げネギ味玉」
【こより】
「こんなところにラーメンマニアがいた……!」
とりあえずみんな引き受けるという方向で固まったのはいいが、
捜索の定番……聞き込みというのが意外とむずかしい。
【伊代】
「普通に聞いてまわったらいいと思ってたんだけど、そうでもないのね……」
【花鶏】
「そんな街頭アンケートみたいなことしたら、盗ったヤツにバレる
っての」
そうなのだ。
学園生がいっぱいの場所で起こったであろう窃盗なのだが、
目撃者を訊ねて回れば、捜している人間がいるということを
犯人に感づかれてしまうかもしれない。
【こより】
「こんな時、本物のデカの人はどうするんでしょうね?」
【茜子】
「普通に聞いて回るでしょう」
【智】
「そうだね。本物の警察ならそれで犯人が逃げ出してくれれば
御の字。追跡班を出して、犯人を捕らえればいい」
【るい】
「で、追い詰めた犯人とばっきゅんばっきゅん銃撃戦!!」
銃撃戦は別として、
本物の警察の組織力があるなら捜査方法はそれでいい。
だけど、僕らはたった6人なのだ。
【智】
「……駐車場はどう?
あの車、珍しいから駐車場の管理人さんが何か覚えてるかも」
【花鶏】
「アリね」
【こより】
「うい〜! それじゃ、まずはビルの地下駐車場、
行ってみましょー!」
ネットから確保したシトロエンCXの写真を見せて聞いてみた。
でも、答えは「見てない」の一言だった。
【こより】
「うっう〜、うまく行かないもんですね。ともセンパイ〜」
【智】
「でもその日、ビルは混雑してたっていってたよね」
【るい】
「別の駐車場に行ったってコトかな?」
【花鶏】
「ありえる。フランスの外車を乗り回すようなオヤジなら、
ビル地下の無料駐車場なんかに拘らないでしょ」
近くに有料駐車場はあったろうか。
こよりなら、土地勘があるかもしれない。
【智】
「こより、この辺に他の駐車場ってない?」
【こより】
「ちゅ、駐車場ですか〜? うーん、鳴滝、車に乗らないので
駐車場は意識したことがありませんですよう」
【茜子】
「役立たずが」
【こより】
「ひどっ!?」
【伊代】
「えっと……携帯からネットで地図って見れたわよね? たしか」
【智】
「あ、あるね。伊代調べてよ」
【伊代】
「うん。やってみる」
──しばらくして。
月々210円の地図検索サービスが示した駐車場を、僕らは実際に足で発見した。
【こより】
「コイン駐車場ですねー。管理人さんいませんねー」
【伊代】
「この駐車場以外は結構遠くなるから、たぶんここに停めたと
思うんだけど」
【智】
「ふぅん……」
かつて農地であったことを想像させる、民家とビルの間に
ぽっかり開いた空き地をただ舗装しただけの青空駐車場。
もともとの土地の持ち主が管理を諦めて、
コイン駐車場の会社と契約をしたというところだろう。
この手の駐車場は、管理会社が一括で巡回して
清掃などの管理および料金の回収を行う。
実際に停車された車とその運転者を見るものは居ないということだ。
【花鶏】
「目撃者は望めないわね」
【るい】
「ふんとにうまく行かないもんだね〜。社長さんもペンぐらい
新しいの買えばいいのに」
【茜子】
「そうは問屋が卸さないのがマニアの世界なのです」
【智】
「落とし物とそれを拾った人を見た人がいるとすれば、通行人か
隣接する民家とかビルの人くらいかなぁ? まわりの人に聞いてみる?」
【るい】
「お、ちょうど隣の家の人、帰ってきたよ」
男子学園生が隣家の前で、ポケットを探っているところだった。
こよりと同じ学園の生徒だろうか。
【こより】
「あの〜、ちょっとそこの人〜」
こよりがついーっと近づいていく。
振り返った男子生徒は背中を丸めて人と視線を合わせない。
陰気な風貌の持ち主だった。
【男子生徒】
「……あ……、な、なんで鳴滝がここに……」
【こより】
「あ、あー!」
【智】
「知り合いなの?」
【こより】
「ハイ。同じクラスの…………誰だっけ?」
【男子生徒】
「う……上村だよ……。なんだよ……、な、何か用かよ」
ただ単に同じクラスである、というそれだけの知り合いらしい。
こよりが名前すら覚えてないところをみると、
クラスでも地味な存在なのだろう。
【こより】
「あー、ウエムラね。ウエムラウエムラ〜、覚えとく。
それより私たち、今落とし物を捜してるの」
【上村】
「……落とし物……!? し……、知らねぇよ」
心当たりがない人間の反応には見えない……が、証拠は何もない。
【茜子】
「嘘をついてますね」
上村くんは、ビクッと身体を震わせる。
こういう場の駆け引き特有のブラフか?
いや、茜子の表情は真剣そのものだ。
うすうす気づいてはいたが、茜子は人の心を読むことが
出来るのだろう。
どこまで読めるのかは判らない。
僕がまだ呪いを踏んでないことを考えると、
僕の正体がバレるほど、深く読めはしないようだ。
【こより】
「まずは、この車を見たことあるかどうかを……」
こよりがシトロエンの写真を見せようとした時、
【茜子】
「それより、そいつのポケット」
指摘を受け、上村くんは無意識に右手を胸ポケットにあてた。
そこには、あのペンの上端が覗いていた。
【るい】
「あーっ! それ! そのペンだよ!」
【伊代】
「それだわ! 写真のペンに間違いない」
【上村】
「ひっ!? こ、これは僕が買った……」
【花鶏】
「それ、輸入モンの珍しいペンだってさ。外車を乗り回す社長が
わざわざ取り戻したいと思ってるペンよ? あんたに買えるわけない」
見えている部分はほんの上端だけだ。
だが、茜子と花鶏の言葉が鋭く相手の心をえぐった。
上村くんは、目に見えて動揺している。
【上村】
「う……! こ、これは……その……」
【こより】
「上村、それ返してよ。なんか大事なものらしいからさ」
【上村】
「い……イヤだっ! これは僕が……っ!」
【るい】
「あっ、逃げた!」
【智】
「上村くん!」
上村くんは、大事そうに胸のペンを押さえながら走り出した。
バタバタとうるさい走り方で逃げ足は遅い。
通りではなく路地の方に逃げた。
【智】
「追いかけよう!」
【花鶏】
「当たり前!」
【茜子】
「路地裏は茜子さんのホームグラウンドなのです。追い詰めて
なぶり殺しなのです。ケヒ、ケヒヒヒ」
【伊代】
「殺さなくていいから! あと何その笑いかた!?」
姿は見失ったけど、下手な走り方のせいで足音が聞こえる。
路地に入り込み、ビルの裏に回って汚い水溜まりを跳び越える。
もう一度角を曲がればもう、逃げていく上村くんの背中が見えた。
【智】
「待って! 上村くん!」
路地の行く先は、背の高いフェンスで終わっていた。
【上村】
「ひ……!」
上村くんの背がフェンスに当たる。
今からフェンスを乗り越えて逃げ切るのはもう無理だ。
【こより】
「追い詰めたよー! さぁ、そのペン返してもらうからね」
【上村】
「く……くそ……! これがないと……これがないと……僕は……。くそ……っ!」
こよりが詰め寄る。
上村くんは観念して胸ポケットのペンを取り出した。
【上村】
「はは……。ははは……」
そのペンを両手で持って、上村くんはこよりに向ける。
写真では判らなかったけど、妙なペンだ。
そして気づく。ペンの先端がおかしい。
そういえばこのペンはシャーペンだっけ? ボールペンだっけ?
それとも……?
どんなペンにしても先端の穴が大きすぎた。
【こより】
「それ、お姉ちゃんの会社の社長さんのものなんだよ。お姉ちゃんも困っててさ。だから返してよ」
【上村】
「わ……渡さないっ!!」
【智】
「こより、危ない!」
こよりが危ない! そう思ったときには走り出していた。
何がどう危ないのかはよくわからない。
ただ、瞬時に首筋に電気が走るような予感を感じただけだった。
【上村】
「く、来るなッ!」
【花鶏】
「智!?」
【智】
「んッ!」
【上村】
「うわぁっ!?」
突然突進してきた僕に驚いた上村くんが、ペンを僕に向ける。
その手を刈り取るように蹴り上げる。
わずかに届かなかった。
【花鶏】
「ブルマ丸見え」
【智】
「きゃっ!? じゃなくてっ、るい!!」
【るい】
「うぉりゃーーー!」
るいの体に力が火のようにみなぎる。
ぐん、と動きが加速して、上村くんが動く間もなく、
るいの手がペンを弾き飛ばした。
【るい】
「ばっきゅん!!」
空中で回転するペンが、路地裏に差す細い日光に煌めく。
【茜子】
「……確保」
転がったペンを茜子が押さえていた。
回収したペンは、その形とは似ても似つかぬ別の代物だった。
【こより】
「こ、こんなものが……あるなんて……!」
【花鶏】
「怪しい怪しいとは思ってたけど、ここまでとはね」
ペンに見えたそれは、
ペン型に偽装された拳銃――ペン・ガンだった。
向けられたのはペン先などではなく、銃口だったのだ。
思い出す。
よくよく考えると、小夜里さんは一度も
写真に写ったそれをペンだとは明言していない。
海外から輸入した珍しいもの。
それだけだ。
ずっと「それ」と呼称していた。
【るい】
「ケーサツに連絡できないはずだよ」
【智】
「ホントに」
【茜子】
「まんまと騙されましたね」
ペン・ガンを奪われた途端に大人しくなった上村くんは、
伊代の説教を受けていた。
【上村】
「ご、ごめんなさい……僕、たまたま拾って……」
【伊代】
「たまたま拾ってもずっと持ってたでしょ! 拾ったものは
交番に届けなさいって学園で習わなかったの? 言い訳しない!
だいたいこんな危ないもの、持っててもいい事ないわ」
【上村】
「ぼ、僕、その……」
【伊代】
「……どうしたの? なんでも聞いてあげるから言ってみて」
【上村】
「僕……帰り道によく絡まれて……お、お金を取られて……だから……だから……っ!」
【伊代】
「…………恐喝に遭ってたのね。それで、その銃を持ってたら
絡まれても大丈夫って……そう、思ったのね?」
【上村】
「は、はい……」
伊代が背を丸める上村くんに視線の高さを合わせて、
その頬に手を当てた。
【伊代】
「あなたがそれを使ってしまう前に、止めることが出来て
良かったわ……。もし、それを一度使ってしまったら、
もう、あなたは後戻りできなくなっていた」
【上村】
「………………」
【伊代】
「今度また恐喝にあったら、わたしたちに言いなさい?
きっとなんとかしてあげるから」
【上村】
「は、はい……。ご、ごめんなさいお姉さん……! すいません
でしたっ!」
【伊代】
「……よく出来ました。ちゃんと謝れて、偉いわ」
【智】
「……伊代」
【伊代】
「ええ」
伊代の顔が微笑んでいた。
振り返ればみんな、まんざらでもない顔をしている。
【こより】
「なーんかちょっとヤバかったですケド、こういうのも悪くない
かも知れませんね! センパイ」
【智】
「うん。結構いいね」
【花鶏】
「ま、たまにはこんなピースキーパー気取りも」
【るい】
「悪くない悪くない! あ〜、いい仕事したからおなか減ったよ!」
【こより】
「いいですね!こう、人知れず都市の闇を駆ける正義の
チーム『ピンク・ポッチーズ』とか!」
【伊代】
「なによその卑猥なチーム名! やめてよね」
【茜子】
「では、正義のチーム『死冥流六凶星』で」
【智】
「それどう聞いてもものすごい悪そうだから」
『子供』社会の裏の問題を解決するチーム。
僕たちにはきっと向いているだろう。
僕たちは呪いのせいで、普通の社会からはちょっとあぶれているし、イザという時はるいやこよりの特別な力だってある。
毎日が刺激的になるのは大歓迎だ。
いいと思う。
ただやっぱり、小夜里さんには
一度話をつけに行かなければならないだろう。
なにせ拳銃だ。小口径の偽装拳銃とは言え、死ぬ可能性もあった。
このままうやむやにすることは出来ない――
みんなには内緒のままやって来た。
僕とこより。
なぜペン・ガンなんてものを捜させたのか。
そもそもどうやって手に入れたのか。
こよりは、お姉ちゃんにも事情があったに違いないと言ったけれど、このままにしておいては、きっと姉妹の間に溝を作ることになる。
だから僕は、こよりと一緒に再び鏡の塔へとやって来たのだ。
CAコーポレーション。
【智】
「行こう、こより」
【こより】
「は、はい。ともセンパイ……」
【小夜里】
「ご苦労様。助かったわ」
小夜里さんは、ペン・ガンを無言でテーブルに置いても、
眉ひとつ動かさず綺麗な顔のままだった。
【智】
「……どういうことですか?」
【こより】
「…………」
知っていて僕らに頼んだのだ。
説明する必要はないだろう。
【小夜里】
「あれはただの社長のコレクションよ」
【智】
「密輸品だから、銃だから、警察に連絡できなかったわけですよね」
【小夜里】
「ええ。そうよ」
その表情をなんとかして動かしたかった。
小夜里さんはさらりと言ってのける。
前に見せたこよりへの親愛の情さえ偽物だったというのだろうか。
【智】
「……危険でした。無事だったから良かったものの、大怪我を
してた可能性もある……!」
【こより】
「と、ともセンパイ!」
知らず荒くなった語気にこよりが慌てる。
だけど、これは聞いておかないといけない事だ。
【小夜里】
「………………」
【智】
「銃なんですよ? 小夜里さん、こよりにもしものことがあったらどうするつもりだったんですか!?」
【こより】
「と、ともセンパイ! やめてくださいっ!」
【智】
「こより……?」
【こより】
「やめてください……! 本当に、本当に久しぶりにお姉ちゃんに会えたんです……。こんなのイヤ……」
【小夜里】
「…………」
【智】
「こより……」
【こより】
「わたしホラ、大丈夫だったから。みんなも怪我してないから。ね? お姉ちゃん、気にしないで……」
こよりが下手な作り笑いを浮かべる。
こよりは臆病な性格だけど、人間関係にまで
臆病ではなかったはずなのに。
今、こよりは久しぶりに繋がったお姉さんとの
縁が切れることを心から恐れていた。
【小夜里】
「……こよりと、あなたを含むメンバーなら万に一つも失敗は
ないと思ってたわ。それで不足かしら?」
【智】
「妹を信じていたと、そう言う意味ですか?」
【こより】
「お姉ちゃん、ともセンパイぃ……」
【智】
「ごめん、こより」
ひとはルールにあわせて変貌する。
僕たちも成長して社会の中に入れば、こんなにも得体の
知れない『大人』という生き物に変貌してしまうのだろうか。
その眼を覗き込んでも、小夜里さんの考えはまったく見えなかった。
【小夜里】
「……そうそう、頼まれていた『ラトゥイリの星』の写本のこと
だけど」
【こより】
「あ……」
こよりが僕の方を見る。
そう言えば、今回の依頼は元々、
写本を捜してくれる見返りに依頼されたような物だった。
しかし……。
【小夜里】
「悪いわね。私なりに手を尽くしてみたのだけど、どこにも無い
みたいなの」
【こより】
「やっぱり、そうなんだ……」
元々、わずかな可能性にかけたお願いだったんだし、
それもしょうがない。
どうやったら僕たちにかかった呪いが解けるのか……
それについては、なにかほかの方法を模索するしかない。
第一、こんな仕打ちを受けた後だ……僕にはもう、
こよりのお姉さんを頼る気はすっかり無くなっていた。
【小夜里】
「できるだけ気に掛けるようにしてみるから、もし見つかったら
連絡するわ」
【こより】
「ありがとう、お姉ちゃん!」
無邪気に笑うこよりが、なんだか痛ましく思えた。
【小夜里】
「代わりと言ったら何だけど、今回の仕事の報酬を支払うわ」
小夜里さんが一枚の紙を取り出し、何か書き付ける。
小切手だった。
【小夜里】
「10万くらいでいいかしら」
【こより】
「ええ!? お、お姉ちゃん!? そ、そそんなの受け取れないよ! 姉妹なのにお金なんて……!」
【小夜里】
「あなたたちは仕事を果たしたから、報酬を受け取る正当な権利があるわ」
【こより】
「で、でもわたし、そんなつもりで引き受けたんじゃ……!」
小夜里さんの渡そうとする小切手を、こよりが拒絶する。
当然だ。あの小切手を受け取ってしまったら、
この姉妹の関係は決定的に変化してしまう。
だいたい我慢の限界だった。
お金でなんでも解決できるといわんばかりの、
こよりのお姉さんの態度にだ。
【智】
「こより、もう帰ろう」
【小夜里】
「どうして?」
【智】
「僕たち、『子供』ですから」
【こより】
「ともセンパイ……」
椅子から立ち上がりもしない小夜里さんを残して、
僕はこよりの手を引いて応接室を出る。
【こより】
「あ、あ、お姉ちゃん! また……電話してもいい?」
【小夜里】
「……いつでも」
僕の手に逆らって、こよりがお姉さんにかけた言葉だった。
〔ピンクが行く〕
その日、こよりは大きな箱を抱いて、
ヨロヨロと溜まり場へやって来た。
【智】
「わ。こより、なにそれ!?」
【こより】
「わかりませ〜ん!」
【伊代】
「なんだかわからないものを、どこから持ってきたのよ?」
【茜子】
「新手の自爆テロとかそういうアレですか」
こよりの抱えた大箱にるいが近寄っていく。
【るい】
「くんくん……、なんか甘い匂いがするよ」
【茜子】
「TNT火薬は甘い匂いがするともいいます」
【こより】
「ほら、こないだの上村ですよ〜。お礼だって」
【智】
「ああ、上村くん! じゃあケーキとかかな」
【花鶏】
「開けてみたら?」
【こより】
「ハイ! よい……しょっ」
大きな箱を置いて汗をかいてもいない額を拭うと、
こよりはさっそく蓋に手をかけた。
【こより】
「やや、これは〜!」
【智】
「わ、すごいおいしそう。プチケーキアソートだよ。なんか
こういうのって嬉しいな」
【花鶏】
「へぇ、冴えない顔のわりにやるじゃない。
あのウエムラとかいうの」
【茜子】
「おや、ここに一輪の薔薇&メッセージ・カードのようなものが。見ると吉」
【伊代】
「……なにかしら?」
二つ折りのメッセージカードを開いてみる。
【上村】
「メガネのお姉さまへ」
【花鶏】
「……伊代目当てだったか」
【伊代】
「え、えぇ〜っ!?」
上村くんのちょっとヤバめの目つきを思い出して、
伊代が露骨に嫌そうな顔をする。
【こより】
「うは、伊代センパイ! これは愛の告白ですよう!
どうしますどうします〜!?」
【智】
「どうするの〜?」
【伊代】
「こ、困るわこんなの……!
悪い子じゃないと思うけど、正直ちょっと……」
【るい】
「イヨ子はああいうのを世話するの、好きなクセに〜」
【茜子】
「『あなたって本当にわたしが居ないとダメなのね』とか言いつつ抱き寄せて頭をなで、巨乳を押し付けて誘惑する作戦に決まってます」
【伊代】
「しない! しないわよ! ほ、本当に困るわ……」
【花鶏】
「ま、まだ実際告白が書かれてたワケじゃないし」
【伊代】
「うぅ〜ん……」
【こより】
「とりあえず、食べましょー食べましょー!」
【智】
「食べましょー食べましょー」
【るい】
「ケーキよりちくわが良かったよ……」
【花鶏】
「お礼にちくわを送ってくるヤツはいない」
前回のペン・ガン騒動と上村くんのケーキで味を占めた僕たち
は、街の裏側でピースキーパー活動を続けることに決めた。
微妙に怪しげな美少女軍団、街に蠢く。
【伊代】
「迷子の猫を捜して欲しい、ですって。どうする?」
【茜子】
「すべてのニャーは茜子さんの眷属です。助けねば」
【花鶏】
「まだ年端も行かぬ少女に夜の悦びを教えて欲しい、とかはないの?」
【智】
「ないない」
ネット上に1つの掲示板をこっそりと用意しただけ。
にも関わらず、妖怪ポストか八丁堀か、それとも
赤いチョークでXYZか――依頼は次々に舞い込んだ。
【茜子】
「ガギノドン、メガロガルガン、デスエンペラー三世、行け」
【こより】
「茜子センパイ、なんですかその名前〜」
【茜子】
「まじかっこいい。うっとり」
茜子の使役する3匹の猫が、すばやく路地裏に入り込んでいった。
【智】
「すごい、ちゃんと言うこと聞いてるよ」
【るい】
「話できるの? できるの?」
3匹を追って路地に入る。
目標の猫は茶色のトラ、名前はペソ。
茜子のペットに負けず劣らず変な名前だが、
呼ぶとニャーと答えるという。
【伊代】
「え、えっと誰か名前呼んでみてよ」
【花鶏】
「いやよ、恥ずかしい」
【こより】
「あそっか、伊代センパイはダメなんでしたっけ。ペソ〜、ペソ〜」
みんなもうすうす伊代の呪いに気づいていた。
伊代の呪いは、『固有名詞を喋ってはいけない』んだろうと。
だから伊代はみんなの名前を呼んだことも、
そして自分の名前すら名乗ったこともない。
【智】
「ペソー」
【るい】
「ペソー、出て来ーい。しいたけあるよー」
【茜子】
「何故しいたけ」
るいは茜子にツッコミを入れさせるという快挙をなしたものの、
ペソはそう簡単には見つからない。
【こより】
「あ、あの猫帰ってきましたよ」
【智】
「ガギノドン……、だったっけ?」
【茜子】
「そのとおり! さぁガギノドン報告を……どうぞ!」
【ガギノドン】
「ニャー」
茜子がガギノドンを抱き上げて、耳を寄せる。
なにぶん茜子のことだから本当に意味がわかってるのかは
怪しいけど、猫が本当に好きなのは見て取れた。
『人間に直接触れることが出来ない』
――これが茜子の呪いなのだろう。
だからいつも手袋を着用しているのだと思う。
人と触れ合えない分、猫を撫でて愛でているのだ。
【茜子】
「ふむ……ふむ……、税関を……? ふむ……クアラルンプールで……ふむ……」
【智】
「この猫はどこまで行って来たの!?」
【花鶏】
「そもそも猫に税関は関係あるのか」
後でも猫の声が聞こえた。
【ねこ】
「うにゃっ、うにゃにゃっ!」
【るい】
「だ、だめだよ! このしいたけはペソ用なんだから!」
もの好きな猫に、るいのしいたけが襲撃を受けていた。
ねこじゃらしライクにしいたけに飛びつく猫。
【ねこ】
「うにゃにゃーっ!」
【るい】
「だめだっていってるのに!」
路地裏でしいたけを振り回するいの姿もシュールだ。
そもそもなんでしいたけを持ってきたのかが、さっぱりわからない。
【こより】
「あれ……その猫……?」
【伊代】
「茶色のトラ猫……?」
しいたけにじゃれているレアな猫は、まさしくペソだった!
【智】
「ペソ!」
【ペソ】
「ニャー?」
【るい】
「おおっ、ペソだったの? じゃあしいたけ食べるか〜」
【茜子】
「しいたけを食べるなんて、猫にして猫に在らず」
【花鶏】
「それよりクアラルンプールはどうした」
【ペソ】
「にゃっ」
【るい】
「あ、こら!」
気を抜いた隙に、ペソはしいたけをるいの手から奪って逃げ出す。
身軽にブロック塀に飛び乗って、その上を走り出した。
【智】
「うわ、逃げた!」
【こより】
「鳴滝が追います! にゃーにゃー!」
こよりはにゃーにゃー鳴いてみせると、四つんばいになり、
まるで猫そのもののように身軽で安定した動きで
ブロック塀の上を走り出す。
脱ぎ捨てたスケート靴が乱暴に落ちてきた。
【ペソ】
「にゃっ! にゃにゃっ!」
猫の動きでもトレースできるらしい。
同じ動きで逃げるペソと追うこより、
体が大きい分こよりのほうが速い。
【こより】
「はい、掴まえたにゃ〜! ペソー、大人しくすれ〜」
【ペソ】
「ニャ、ニャ〜……」
ペソが観念したように耳をへたりと垂れる。
妙に人間臭い猫だった。
それからも僕たちは能力を使ったり使わなかったりで、
いろんな事件を解決したりしなかったりした。
ある時は赤い装飾品で統一した『レッド』を名乗る
カラーギャングの一団の横暴をちょっと黙らせたり。
ある時は警察官でありながら、補導と称して女の子に
キワドイ撮影を強要していた変態警官にお灸を据えたり。
またある時は巷でウワサの都市伝説の真相を確かめたり。
僕たちの活動は多岐に及んでいた。
そもそもの発端は、僕たちにかかった呪いを解こうと
いろいろ調べ始めたことだったのに。
その過程で、こよりのお姉さんから
最初の依頼を受けることになって……。
でもいまじゃ、忌避しようとしていたその能力を使って
依頼を次々解決していくのが、どうにも楽しかった。
【少女】
「あ、ありがとうございました。どうお礼をしたら……」
【こより】
「お礼は気持ち次第で充分ですよう! また何か困ったことがあれば、わたしたち『ピンク・ポッチーズ』におまかせ!」
【伊代】
「だからその卑猥な名前、やめてって言ってるでしょ!」
【花鶏】
「そうね、伊代は黒ずんでるもんね」
【茜子】
「なるほど、ブラック・ポッチーズ」
【伊代】
「黒ずんでないわよ!!」
【少女】
「は、はぁ……」
【智】
「怖がらないでいいからね?」
この『ピンク・ポッチーズ』がどこをどう巡ったものか。
女ばかりの謎チームは、『ピンク』という、カラーギャングの
一種みたいな物として囁かれるようになっていた。
今度は僕らが都市伝説だ。
【花鶏】
「『ピンク』……なら悪くないかもね」
【るい】
「でも私たち、別にピンクのアイテムで統一してないよ?」
【茜子】
「それが逆に正体不明のチームを作るのです」
【こより】
「おーおー! 正体不明のチーム『ピンク』! かっちょいいですよう! ミステリアスですよう!」
しかし、『ピンク』の評判は――僕たちの予測が及ばない
ところまで広まっていた。
見た目は冴えない男だった。
皺の寄った服装に安物の腕時計、痩せ型で猫背、
背丈は高くもなく低くもなく。
その人は三宅と名乗った。
【三宅】
「や、どうもはじめまして。俺は三宅。いやいや、怪しいモンじゃないよ。君たち『ピンク』の活動を、ちょっと小耳に挟んだもんでね」
【智】
「はぁ」
また一つの依頼を適当に片付けて、
特にすることもなくみんなでブラついていた時だった。
見知らぬ男に呼び止められて当惑する。
【智】
「僕たちになにか」
【三宅】
「そう! そうそう。こいつを先に言うべきだったな。
俺は記者なんだ」
【こより】
「なんです〜? わたしたちを何か取材でもするのでありますか〜?」
【三宅】
「ああ。人知れず街の闇で活躍する謎の女の子たち六人の
チーム『ピンク』。いいよ、すごくいい」
【花鶏】
「なに、このエロ写真家みたいなおじさま?」
【るい】
「う〜、露骨に怪しー」
【こより】
「そんなぁ、悪い人じゃなさそうですよう」
野犬のようなるいは、初めて会う相手にはいつも必要以上に
警戒する。気安いこよりとは対照的だ。
【三宅】
「ははは、参ったな。君たちの活躍を取材したくて来たんだけど……だめかな?」
【伊代】
「取材……くらいならいいんじゃないの? ねえ? わたしたちがどういうことして来たのかとか、そういうの話したりするくらい構わないと思うけど」
【茜子】
「くどいです。要約するとインチョモドキはオッケーという意味
ですね」
【伊代】
「取材くらい受けたらどうかしらっていう提案であって……」
【智】
「僕もいいよ。取材なんて面白そう」
【こより】
「鳴滝もおっけーであります! 鳴滝たちの超活躍を新聞?
雑誌? ネット記事? に、もうばんばん掲載でみんなで
スーパーヒロインですよう!」
【るい】
「私はどうでもイイ……」
【花鶏】
「ま、取材なんて悪い気はしないわね」
三宅さんとの出会いはそんな感じだった。
【三宅】
「はは〜ぁ、それで?」
【茜子】
「そこで茜子さんが壊滅超神天輪覇を繰り出し、相手は
粉みじんです。血の海です。オゥ、ブラッディー・シー」
【伊代】
「ウソを言わないの!」
【るい】
「そのカイメツなんとかっていうの、見てみたい」
三宅さんは気さくないい人で、僕たちの『ピンク』としての
放課後ピースキーパー活動を追って取材を続けてくれている。
お礼はオゴリの外食だ。
駅前のファミレスは意外に味が良くて話も弾んだ。
【ウェイトレス】
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
【るい】
「ポテマヨチーズ焼き、2つ! ライスの大、2つ! えーとあと、ウインナー盛り合わせ、2つ!」
【こより】
「るいセンパイ、そ、それは食べ過ぎなのでは」
【三宅】
「ははは、いいっていいって。こよりちゃんはどうする?」
【こより】
「え、えーとじゃあ……、鳴滝はハンバーグセット、ごはん付きでー! あ……、あとでパフェも頼んでもいいでありますか!?」
【三宅】
「ああ、いいよ」
【智】
「じゃあ僕はフェトチーネ・ボンゴレベルデで」
【花鶏】
「わたしはコブ・サラダね」
【伊代】
「えっと、じゃあわたしはうどん……。あ、やっぱりそばで!
おそばって太らないって言うわよね?」
【茜子】
「では茜子さんはふぐ刺しで」
【智】
「そんなのあったっけ!?」
【茜子】
「メニューをもっと見るが良いです。グハハ、馬鹿めが」
本当にメニュー豊富な店だった。
【三宅】
「ところで……君たちに不思議な噂をいくつか聞くんだけど……」
【こより】
「不思議なウワサ?」
【智】
「……どういう話ですか?」
【三宅】
「まぁ、なんだか突拍子もない話なんだけど、君たちの噂を追って行くと、いろんな妙な話に出くわすんだよね」
【るい】
「………………」
るいが警戒している。
花鶏の目つきも少し変わっていた。
僕だって穏やかじゃない。
【三宅】
「なんでも、5桁もあるダイヤル錠を数秒で開けたとか、女の子が手で車を押して動かしたとか、睨んだだけで人を操ったとか、
人の心を読むとか……」
いくつか関係ないものもあるけれど、
それらはるいやこよりの特殊な力のことだろう。
僕たちは漠然と把握してはいるが、
お互い同士にもその能力と呪いを説明し合っていない。
三宅さんは僕らの活動もバックアップしてくれるし、
こうしてよくごはんも奢(おご)ってくれる。
だけど、本当に信用してしまっていいのだろうか?
【智】
「……あはは、そんなのいいかげんなウワサですよ」
花鶏が小さく息を吐くのが聞こえた。
【花鶏】
「そうね。マンガじゃあるまいし」
【茜子】
「学園異能バトルものじゃあるまいし」
それを聞くと三宅さんは肩をすくめて、胸ポケットから皺の寄った写真を出してきた。
【三宅】
「でも俺、写真撮っちゃったんだよね……」
【こより】
「こ、これ……! るいセンパイ……」
るいが背の高いフェンスを軽々と飛び越える
瞬間を捉えたものだった。
オリンピック選手なみの跳躍力。
だけどるいの体はそんな筋肉質にはとても見えない。
【三宅】
「隠さないといけないことなのかな? もし本当に君たちに特異な力があるなら、それを利用してもっと……」
【るい】
「そんなの、ないから! 私たち普通だし!」
【こより】
「るいセンパイ〜……」
るいは力強く否定したけれど、これでは逆効果だ。
三宅さんは僕らに秘密があることを、強く確信したことだろう。
【三宅】
「俺のこと、そんなに信用できないかな?」
【伊代】
「…………」
今ここで、話すか話さないかを相談することはできない。
相談することが秘密の存在を肯定することになるからだ。
ならばどうするか?
【智】
「……良く撮れてますけど、偶然フェンスが高く見えるだけじゃ
ないですか? ねぇ、茜子?」
茜子の顔を見る。
【茜子】
「面白いネタ振りです」
アイデアは通じたみたいだった。
心を読む力を持つ茜子相手なら、声を出さずとも
ある程度の意思疎通ができる。
茜子に全員の考えを読んでもらって、みんなの総意を測ってみる。
【三宅】
「俺、このフェンスも捜してみたよ。すげえ高いフェンスだった。あれは俺みたいな運動不足だったら登るだけでも疲れる。それを跳びこえてるんだ」
【智】
「その時は足場があったのかも」
【茜子】
「………………」
僕が時間を稼ぎながら、茜子がみんなの考えを視る。
【伊代】
「な、なによあなた? いきなり人の顔を覗き込んで……?」
【茜子】
「空気よめ」
【こより】
「この写ってるフェンスって、どこのものでしたっけ?」
【三宅】
「国道を越えたオフィス街の辺りだよ。ねぇ、話してくれないかな? 俺みたいなのでも一応記者で顔は広いから。何か力になれるかも知れないし」
三宅さんを完全に信用したわけじゃないけれど、
僕は能力のことは明かしてしまっても構わないと思っていた。
より知られてはならない呪いの事を隠す為だ。
【こより】
「ともセンパイ、話してもいいんじゃ……?」
【るい】
「こよりッ!」
【こより】
「ひっ!」
うっかり秘密の存在を漏らしてしまったこよりを、るいが叱責する。
そろそろ茜子はみんなの考えを視てくれただろうか。
【智】
「大丈夫。おいで、こより。るいも落ち着いて」
【るい】
「でもぉ……」
【こより】
「ともセンパイ〜……。鳴滝、むつかしいこと解らなくてごめん
なさい……」
【智】
「気にしなくていいよ。それで茜子……どうだった?」
【茜子】
「マル3、バツ3です」
【伊代】
「いったいなんの話してるの……?」
【智】
「多数決だよ。同票だったら否決にしようと思ってたけど、
もう秘密があるのは判っちゃったし、話してもいいよね?」
【花鶏】
「……なるほど? コイツにわたしたちの考え読ませて、多数決
取ったって?」
茜子の能力について言及している。花鶏は賛成という意味だろう。
【智】
「るいも……いいよね?」
【るい】
「う〜……。イマイチおっちゃんは信用できないけど、トモが
いいなら……」
【智】
「うん。あと一人の反対は誰?」
【伊代】
「ん……わたし、かな? 信用できるとかじゃなくて、わたしは
秘密にするっていうルールだと思ってたから。みんなの合意の
上なら、例外も認められると思う」
【智】
「うん」
【三宅】
「どうやら、『心を読む』……なんて言うのまで本当みたいだね……」
話を集めた三宅さん自身も半信半疑だったのだろう。
僕たちがそれぞれの能力を語りだすのを見て、
大きく身を乗り出して来た。
【茜子】
「まず、茜子さんはさっき使った心を読む力です。エスパーです」
【るい】
「私はそのおっちゃんが写真に撮ったヤツね。力が強くなったり
足が速くなったりするの」
【こより】
「鳴滝は人の動きをぴったりトレースできます。ダンスチームとかにこっそり混じったりできますよ」
【花鶏】
「わたしは頭の中だけ加速できる。そうね、間違い探しとか得意よ?」
【伊代】
「わたしは……なんて言うのかな……?
道具のシステムを理解する、というか……どんな道具でも
使い方がわかるんです。あ、ダイヤル錠開けたのはわたし」
三宅さんはみんなの言葉を、1つ1つメモに書き留めていく。
【三宅】
「それで……智ちゃんは?」
【智】
「僕は……ありません」
【三宅】
「え? なに、智ちゃんだけは、普通の一般人なんだ?」
【智】
「そういうことになりますね」
本当は呪いを負っているが、呪いのことは生死に関わる。
伏せておくべきだろう。
【こより】
「ともセンパイはチーム『ピンク』の参謀官であります!」
【智】
「こより、ありがと」
【こより】
「えへへぇ〜」
【三宅】
「へぇ……、驚いたよ。超能力……とかそんなのが実在したなんて」
【花鶏】
「あっさり信じていいの?」
【伊代】
「こら、目上の人なんだから敬語を……」
【花鶏】
「うっさいわね! ……で、どうなの?」
【三宅】
「嘘なのかい?」
【花鶏】
「…………案外食えないオヤジなんじゃない? ホントに話して
良かったの? 智」
この人が信用できるかどうかは判らない。
僕にできることは秘密にしてくれるよう、
約束を取り付けることだけだ。
【智】
「三宅さん。信用してお話ししました。このことは秘密にして
おいて欲しいんです。もし記事になったりしたら、僕たちに
とって好ましくないことになります」
【三宅】
「それは、どうして? 超能力を持った女の子、なんてセンセーショナルだよ。テレビにだって出られる。秘密にする理由は?」
【智】
「お話しできません」
【三宅】
「へぇ。何かワケありなんだね」
【智】
「そうです。衆目に晒されるのがイヤ……とかよりも、もっと重大な理由で僕たちは能力のことを秘密にしないといけないんです。わかって下さい」
能力のことが公になれば、いずれ僕らは詳しく調査を受ける。
呪いのこともバレてしまうだろう。
呪いの秘密が知られてしまえば、秘密そのものが呪いに触れる。
僕はその時点でアウト、僕以外のみんなだって
秘密を知る人たちに生殺与奪の権を握られてしまうことになる。
【三宅】
「わかった。わかったよ。秘密は守る」
【こより】
「わ、三宅のお兄さん、ありがとうですっ!」
【三宅】
「噂のほうも俺がなんとかするよ。『超能力のトリックを暴く!』……みたいな記事でね」
【智】
「……ありがとうございます」
【るい】
「お……おっちゃん、案外いいヤツなんだね!」
【伊代】
「こら! だから目上の人には敬語を使わないとだめだって……」
【三宅】
「ははは、言葉はどっちでもいいよ。俺みたいなだらしない男は
いつまで経っても子供みたいなもんさ。それより、ちょっと
おっちゃんやオヤジは傷つくなぁ……」
三宅さんは秘密を守ってくれるばかりか、噂として広まって
しまっている僕たちの能力の存在も誤魔化してくれるという。
秘密を話したのは正解だったかもしれない。
三宅さんが本当に僕らに協力してくれるなら、秘密を持つ僕たちにとって、情報操作をしてくれる記者という存在は大きな助けとなる。
【るい】
「おっちゃん……じゃあ、おいちゃん?」
【智】
「るい、そこはお兄さんって言うとこだよ」
【るい】
「じゃあ、にーちゃんで」
【花鶏】
「じゃあわたしは、おじさま、に」
【三宅】
「おじさまは若くなった感じしないけど……まぁいいか」
【茜子】
「茜子さんは、兄者、と呼ぶことにします」
呪いのことはバレなかったし、三宅さんも協力してくれるという。
ともかく安堵、安堵だ。
〔孤独な呪い〕
ピースキーパー活動へのお礼が、溜まり場に並べられている。
そのほとんどは、ごくつまらないものだ。
【伊代】
「このクッキー食べましょうよ。誰からのお礼か知らないけど」
【るい】
「甘いのはいらない」
【こより】
「うは、すごくありがちなお礼ですね!
でもなかなかいい香りであります!」
【花鶏】
「あら、そっちはブーケ?」
【茜子】
「すごいです。ザ・雑草」
【こより】
「この花、道路のはじとかに、時々生えてますよね〜!」
よくある缶入りのクッキー。
雑草みたいな花束。
だけど、そんなもので充分だった。
こうして並べてみると結構面白いし、
そもそも僕たちはお礼が欲しくて頑張ってるんじゃない。
【るい】
「あ、これお金入ってる」
【智】
「また返しに行かないとね」
【花鶏】
「は、貰っときゃいいのに」
【こより】
「そういうワケにもいかないですよう!」
ときどきこうして封筒に入れたお金を添えて渡してくる人が
居るけれど、それらはすべて返しに行っていた。
たしかに花鶏の言うとおり貰ってしまってもいいとも思うんだけど、いつか報酬の内容で依頼を受けるか判断するようになっていくのが怖かった。
利益を得るためじゃない。
自分たちが楽しむためにやってるんだ。
利益の為に動くようになったとき、
僕たちはきっと日々を楽しめなくなる。
『大人』になってしまう。
目元だけがこよりに似た、『大人』の女性の姿が浮かんだ。
【こより】
「ともセンパイ? どーしたんでありますか?」
【智】
「ん……ちょっと小夜里さんのこと考えてた」
【こより】
「あう……」
【るい】
「こよりのお姉ちゃんがどうかしたの?」
【花鶏】
「姉が妹を夜毎どのように可愛がるのか、興味あるわね」
みんなの興味が、一斉にこより姉妹に向いた。
【こより】
「あう……実はあれからまだ1回も会ってないんです……」
【智】
「小夜里さんって、ずっと家には帰ってないの?」
【こより】
「ハイ……」
【智】
「話せる内容なら聞かせてよ。知らない人の問題でも解決しちゃう僕たちだから、こよりの問題なら全力でがんばるよ!」
【るい】
「うんうん! 私たちに話してみるといいって!」
【こより】
「ともセンパイ、るいセンパイ〜」
走ってきたこよりが、僕の手を自分の頭に乗せる。
【智】
「ん、なに? こより」
【こより】
「このほうがなんか安心するんです」
【智】
「そう? じゃ、これでいい?」
【こより】
「うい、です」
僕が頭を軽く撫でてあげると、こよりの打ち明け話が始まった。
【こより】
「昔のお姉ちゃんは、頭が良くて綺麗で優しくて……いつもお姉
ちゃんにべったりだった鳴滝を、面倒がらずに可愛がってくれ
てたんです」
頭が良くて綺麗なのは、今も昔と変わらない。
だけど、小夜里さんからは優しさが抜け落ちてしまった。
メリットとデメリットをいつも天秤にかける冷徹さの色が、
その目には沈着していた。
【こより】
「鳴滝のお姉ちゃんは、4年前ぐらいから……変わっちゃったん
です」
【こより】
「それで、2年前にはついにあの会社に入って……
お父さんお母さんともケンカ別れみたいな感じで家を出て……」
【るい】
「え、そこからずっとお姉ちゃんとは会ってなかったの?」
【こより】
「ハイ。ともセンパイの頼まれ事があったんで、勇気を出して
お姉ちゃんに電話したんです。今まではずっと電話をしても
忙しいから……ってすぐ切られちゃってたんですケド」
【こより】
「『ラトゥイリの星』っていう本の写本を捜してて、お姉ちゃん
なら捜せないかなって聞いてみたら、仕事のついでに捜しといてあげるって言ってくれて……」
【花鶏】
「なっ、そんなの捜そうとしてたの!?」
【智】
「まあ、その話は後で……」
【こより】
「それで何回か電話を重ねるうち、お姉ちゃんから逆にお願い
されて……ほらアレですよ! ペン捜しの時の」
【るい】
「ばっきゅんばっきゅんの時だね」
【智】
「…………」
ペンではなく、ペンシル型拳銃。
こよりは無意識にお姉さんを庇おうとしているようだ。
【こより】
「あの時ともセンパイには2年ぶりって言いましたケド、ホントはもう4年間、まともにお姉ちゃんと会って話するなんか出来なかったんです」
【こより】
「だからもうわたし、嬉しくて嬉しくて……えへへ……」
【伊代】
「良かったじゃない……。あの時はちょっと銃にびっくりしたけど、それであなたとお姉さんの縁が戻ったんなら良かったと思うわ」
【こより】
「ハイ! 相変わらず電話してもほとんどお話はしてくれません
ケド、やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんのままでした」
一緒に会った僕は、その冷徹さに目を遮られて、
小夜里さんの優しさをほとんど見ることはできなかった。
だけど一瞬見せたこよりへの目、
あれは紛れもなく姉が妹を慈しむ目だった。
それを見たからこそ、僕は怪しいペン捜しの
お願いを引き受けたのだ。
【智】
「こよりの誕生日には欠かさずプレゼントを送ってくれるって
言ってたよね? やっぱり小夜里さんはこよりのこと、大切に
思ってるみたいだね」
【こより】
「ハイ。鳴滝はお姉ちゃんからのプレゼント、毎年すっごく
すっごく楽しみにしてます! でも……」
【こより】
「でもホントはやっぱり……プレゼントなんかなくていいから、
一緒に暮らして欲しいです……」
【智】
「こより……」
【こより】
「あ、あはは! ぜーたくですよね、そんなの! わたしだけ
お姉ちゃんがいて、しかも毎年プレゼントまで貰ってるのに。
ぜーたくな娘でごめんなさい! えへへへ」
たしかに姉妹兄弟がいるのは、このメンバーの中ではこよりだけだ。
るいや僕、茜子は家族さえ居ない。
だけど、妹が姉と暮らしたいと願う――
それだけのことが贅沢な望みだろうか?
何が小夜里さんを変えたというのだろう?
【智】
「小夜里さんは、どうして変わってしまったの?」
【こより】
「…………」
ぬくもりを求めるようにこよりが身を寄せてくる。
【こより】
「たぶん、ですケド……」
【こより】
「呪い……のせいだと思うんです」
【智】
「呪いのせいで……?」
【こより】
「ハイ。お母さんから聞いた話です」
僕は父さんのことを覚えていない。
花鶏の家には行ったけど、両親には会ったことがない。
るいと茜子は、僕と同じで親無し同然だ。
伊代やこよりの両親は、どうなってるんだろう?
【こより】
「わたしの家は、お母さんが呪われ筋という古い家柄でした。
呪われ筋というのは、たまに、わたしみたいな……痣を持った
子供……呪い持ちが生まれてくるんだそうです」
【こより】
「お母さんの頃には、しばらく呪い持ちは生まれていなかったこともあって、安心してたんです。自分たちは呪いから解放されたんだって……」
【こより】
「センパイたちのお家はどうだったんですか……?」
【智】
「僕も母さんから呪いのことを聞いたけど。でも、両親とも
死んじゃってるから詳しいことはなにも……」
【こより】
「あ、そーでした。ともセンパイはお父さんお母さん居ないん
でしたっけ……」
【こより】
「花鶏センパイや伊代センパイのところは?」
【伊代】
「うちは……お母さんがそういう血筋の出でね、私に痣が出たときに色々と聞かされた」
【花鶏】
「花城の本家は、その昔には代々聖痕を持つ者をだしていた家系よ。ここしばらくは顕れなかった。私で三代ぶり」
【智】
「んーと……呪われた血筋みたいなものがあって、代々痣を持った女の子が生まれる……みたいな感じかな。でも、呪いを持つのって女の子ばっかりなの?」
僕は男だ。
僕の母さんに呪いが在ったかはわからない。
それとも、死んでしまった父さんが、
実は僕と同じ呪いを負っていた?
わからない。
何故――
仲間で僕だけが、どうして男なんだろう?
【こより】
「それは……よくわかんないですけど……」
【智】
「ごめんね、話の腰おっちゃって。続けて」
【こより】
「はい……幼馴染みだったお父さんとお母さんが結婚して、
お姉ちゃんが産まれました。お姉ちゃんには、家族中大喜び
でした。やっぱり、呪いはいなくなっていたって」
ずっと呪いから逃れたいと思い続けて。
しばらく現れなかった呪いの痣が
小夜里さんにもなかったから。
――――――信じてしまった。
今度こそ自分たちは、
古い呪いから解放されたんだと。
けれど。
【こより】
「お母さんも安心して……わたしを産んだそうですが、
わたしには……痣が……」
【智】
「………………」
世界は裏切る。
いつでも、何度でも。
信じることが絶望の種になる。
世界はやっぱり呪われている。
どこまで行っても救われない。
【こより】
「それでお父さんとお母さんたちは相談して、お姉ちゃんには呪いのことを秘密にすると決めたんだそうです」
【こより】
「妹のわたしが呪い持ちということ、自分が呪い持ちの家系だなんてどれほどショックなことかわからない、それに外にもれたら
どんな奇異の目で見られるかも……」
呪い。呪い。呪い。
徴(しるし)があろうと、なかろうと。
呪いに触れれば汚れずにはいられない。
自分だけが救われたと悔いるのか、
自分以外が汚れていると恨むのか。
どちらにしても、暗い呪いは心の奥に根を下ろす。
【花鶏】
「わからないヤツは、最初から知らない方がいいのよ。
そいつは選ばれなかった。それだけの話」
【こより】
「鳴滝は小さい時にお母さんから呪いのこと教えてもらって、
これはお姉ちゃんには絶対に秘密にしないといけないって
厳しく言われてて」
【こより】
「それでも鳴滝、呪いのせいで、一人じゃどこにも行けませんから、ちょうど今ともセンパイにくっ付いてまわってるみたいに、ずーっとお姉ちゃんの後を追いかけてたんです」
【智】
「その頃はお姉さんもこよりに優しかったんだね」
普通の、仲のよい姉妹……。
【こより】
「ハイ! とっても優しくて綺麗で頭が良くてかっこいいお姉
ちゃんです」
【こより】
「わたしが自分のこと鳴滝、鳴滝って苗字で言うのも、小さい時に『お姉ちゃんの妹なんだぞ〜』って、周りの子に自慢したかったからなのであります」
【智】
「でも、どうして」
【こより】
「それが……ある日突然……その日はちょうど鳴滝の誕生日だったんですけど……お姉ちゃんがいきなり冷たくなって、ついて来ないで、とか言われて……」
【伊代】
「そんな突然、どうしてなの?」
【こより】
「鳴滝にはわからないです。もういつまでも子供じゃないんだから自立しなきゃダメ、とか言われて……。いきなりで……わけわからなくて……」
呪いの事を知らない姉は、なんでも自分を頼りにする妹に
不安を覚えたのだろうか?
このままではこの子はダメになると。
だから突き放さなければならないと。
だとすれば、それは――呪いが生んだ不幸な誤解だろう。
【智】
「こより……」
【こより】
「あの頃は鳴滝、泣いてばっかりだったですケド、今はセンパイがたがいるからだいじょぶです! お姉ちゃんとも会えましたし!」
小夜里さんは今でも呪いのことを知らないままなのだろうか?
教えることで姉妹の絆が戻るなら、秘密を明かしたっていい。
しかし、こよりの呪いを明かせば、僕たちの呪いの存在も
知られてしまう……それは僕の呪いの……。
それでも……僕はこよりと小夜里さんに、
もう一度仲良くなって欲しい。
だって、お互いたった一人の姉妹じゃないか。
血が繋がってたって、人と人は簡単に解り合えない。
身近にいたって相手の心は見えない。
こよりと小夜里さんのように、
すれ違ってしまうことだってある。
でも……何度だってやり直しは出来るはずだ。
同じ家族だったなら、仲のいい姉妹だったなら、
きっともう一度分かり合うことができるはずだ。
僕は、こよりと小夜里さんの仲をなんとか修復してあげたかった。
日も落ちてみんなと別れた帰り道。
僕はこよりを家まで送ろうと一緒に歩いていた。
【こより】
「そういえばともセンパイって……お料理超絶大得意なんですよね?」
【智】
「うん? 超絶って程じゃないけどお料理は好きだよ」
【こより】
「うは、いいなぁ〜。鳴滝のお母さん、あんまり料理得意じゃないのですよう」
【智】
「僕で良かったらこよりにお料理、教えてあげようか?」
【こより】
「ぶるぶるぶるぶる! わたし、食べるひと、センパイ、作るひと! 鳴滝、ともセンパイの手料理を食してみたいであります!」
【智】
「あはは、そっちでもいいよ。
今度こよりだけにこっそり食べさせてあげる」
【こより】
「おほ? なんで秘密なんです?」
【智】
「るいを呼ぶと高くつくから〜」
【こより】
「るいセンパイ、ブラック・ホールですからねぇ」
こよりがついーっと8の字を描いて、僕のまわりを回る。
こうして話してると本当の妹が出来たみたいで、
こよりが可愛くて仕方なかった。とにかく構ってあげたくなる。
【智】
「ねぇ、こより?」
【こより】
「はふ? なんです、ともセンパイ〜」
【智】
「僕にも昔、双子の姉さんが居たらしいんだ」
【こより】
「えっ!? ……らしい、っていうのは」
【智】
「うん、死んじゃったみたい。僕もぜんぜん覚えてない」
【こより】
「そうだったんですか……」
写真さえ見た事がない姉さんは、
母さんの話の中だけに存在する人だった。
自分と同じ日に生まれた姉が居たなんて事が
不思議でしょうがなくて、幼い日の僕は、
何度も双子の姉との暮らしを空想したものだ。
【智】
「もし姉さんが生きてたら、僕は姉さんととっても仲良くしたい。だからさ、僕はこよりと小夜里さんの関係もなんとかしてあげたいんだ」
【こより】
「ともセンパイ……」
こよりがキュ……とスケートにブレーキをかけて、僕の手を取る。
小さくて柔らかい手だった。
【こより】
「鳴滝、お姉ちゃんも大好きだけど、ともセンパイも大好きです。むしろ、ともセンパイも、わたしのお姉ちゃんになって欲しい
です!」
姉を亡くした僕を気遣ってくれている。
こよりは優しい子だった。
【智】
「あはは、それいいね。その時は僕が次女?」
【こより】
「ハイ! 鳴滝、両手にお姉ちゃん計画であります!」
【智】
「あははは、なにそれ。ヘンなの」
【こより】
「えへへ……。なんかわたし、ともセンパイのことずっとずっと
昔から知ってる気がします」
何となくいい感じだ。ゆっくりと歩いていこう。
こよりを家に送り届けて、一人の帰り道。
手にはまだこよりの髪の感触が残っていた。
【智】
「僕がこよりの……お姉ちゃんか。ふふふふ」
女の子やるのも悪くない、なんて思う。
夜も更けてきた。
チラチラと明滅する街灯は、頼りない明かりしか
もたらしてくれない。
女の子してるから、僕だって夜の一人歩きは物騒なのだ。
【智】
「たしか……このへん曲がったら、近道で帰れたような?」
1つ角を折れると、運良く見覚えのある通りに入った。
こよりの家の周辺は住宅地だ。
連なるブロック塀に挟まれた道を僕は歩いていく。
古い住宅地には行き止まりが多いものだ。
方角はあっちのはずだから、と見当をつけて曲がっていくと、
三方を家に囲まれた行き止まりに突き当たる、そんな体験は
しばしばあると思う。
【智】
「あれ……あの公園……?」
薄暗い電灯を頼りにちょうどいい曲がり道を探していると、
住宅地の中にぽつんと公園があった。
──僕はこの公園を知っている。
立ち尽くし一人泣きじゃくる少女の姿がオーバーラップした。
【智】
「ここは……?」
地理として知っているだけじゃない。
この公園で遊んだことがある。
僕の生まれ育った家は、
ここからさほど遠くない。
子供の足では遠いけれど、
決して来られないわけじゃない。
そんな微妙な距離。
呪いを背負った僕は、近所付き合いを出来るだけ避ける為、
自宅の近くはあまり彷徨かないように言われてきた。
【智】
「そうか……」
この場所は何か、大切な記憶と繋がっている。
ずっと昔から僕はこの場所を知っているんだ。
ずっと昔から……昔から……。
砂場、滑り台、ブランコ、すべて知っている。
今は白いベンチが置かれているけど、あの場所には確か
木で出来た小さなシーソーがあったはずだ。
記憶が濁る。
何かを忘れている気がした。
手を伸ばし、泥の中をかき回す。
濁った水の底にきらめくものが見えた気がした。
【智】
「…………」
記憶の中で少女が泣く。
その少女は誰だ?
僕がまだ小さかった頃、この公園で一緒に居た少女は誰だ?
【こより】
「えへへ……。なんかわたし、ともセンパイのことずっとずっと
昔から知ってる気がします」
幼い頃に出会った、いつも泣いていた少女。
優しかった姉に突き放されて、いつも泣いていたこより。
僕がまだ実家に住んでいた頃。
すべての時期が重なる。
【智】
「こより……?」
奔流のように記憶が溢れ出した。
僕とこよりは幼馴染みだった。
さっきから脳裏をかすめる映像は、
幼き日の僕とこよりの姿だった。
ただ泣きじゃくるだけの内気な少女と、今の元気なこよりが
繋がらなくて、今の今まで思い出せなかったんだ。
こよりと妙に気が合うのもうなずける。
他のみんなより、僕とこよりはずっと長い付き合いだったんだ。
こよりが「昔から知ってる気がします」と言ったのは、
まさしく昔から知っていたからだったというわけだ。
【智】
「こよりに話したらびっくりするだろうな……。ふふふ」
こよりと昔話で盛り上がる様を想像して、思わず笑みがこぼれる。
幼い頃に会っていた二人が、成長して互いに気づかずに
友達になっていたなんてとっても不思議だ。
きっとこのことを話せば、こよりともっと仲良くなって、
本物の姉妹みたいになれるだろう。
【智】
「………………?」
……そういえば、どうして僕はこよりと会わなくなったんだろう?
何かまだ思い出せてないことがある。
こよりと遊んだ記憶よりもっと重要な何か。
もどかしい。
あの頃のこよりは大人しい子だったけど、
僕はこよりと仲が良かったはずだ。
どうして何年間も会わなくなったんだろう?
【智】
「……っ……!」
意識の底からさらに黒い澱が沸き上がる。
急に視界が暗くなって足もとがよろめいた。
ブロック塀に手を付いて体を支えても、膝の震えが止まらない。
肩に冷たい指が食い込むような悪寒を感じた。
怖い、寒い、吐き気がする。
【智】
「はぁ……はぁ……。お、思い出したよ……!」
呪いだ。
僕はこよりに自分の正体を明かし、一度呪いで死にかけた。
僕の心に常に潜んでいる呪いへの絶対的な恐怖は、
この時の体験に起因するものだった――
こよりは、僕が男であることを知っている……!
こよりとの楽しい昔話の想像は、見る間に音を失い、
色を失って錆び付き朽ちて消えた。
こよりのあの頃の記憶と、現在の僕を繋いではならない。
「ずっとずっと昔から知ってる気がします」
声の調子か、かすかな面影か、髪を撫でる手の感触か。
僕と付き合ううちに、こよりは昔の記憶を思い出しかけている。
こよりがそれを思い出すということは、
すなわち僕が呪いを踏むということだ。
思い出の僕がこよりの中に蘇れば、過去と入れ替わるように
今の僕は呪われる。
……こよりが僕を思い出さないよう、距離を置かないと。
【智】
「……こより……」
幼いこよりを突き放した、小夜里さんのことに考えが及ぶ。
いつも泣いていたこより。
小夜里さんと居た頃は、
今みたいにこよりは笑っていたんだろうか?
僕までこよりを突き放すのか?
また、こよりを泣かせるのか……?
【智】
「呪いのせいだ……!」
心苦しいけれど、すべては呪いのせいだ。
とても辛いことだろう。
けれど、これからはなるべくこよりと距離を置いていくしかない。
震えの止まらない肩を抱いて、僕は孤独な家路を辿った。
呪いは孤独だ――
〔黒い王子さま〕
【花鶏】
「ちょ、これはいくらなんでもパスでしょ」
またバカバカしい依頼が来て、花鶏は露骨に嫌な顔をした。
都市伝説の真偽の追求第2弾――
【こより】
「『黒い王子さま』ですよう!? 今、チマタの女の子たちで
いちばんホットな噂ですよう!?」
【花鶏】
「迷信よ」
【智】
「それを言い出すと、我々も多分に迷信キャラですが」
【花鶏】
「だいいち王子様ってとこがいやだわ! 黒い美王女様とか
だったら受けるのに」
【智】
「そっちか」
女の子たちの間でしか広まってない胡散臭い都市伝説の類の一つ。
『黒い王子様』に選ばれた一人の女の子は、どこか知らない世界に招待されて、王子さまと共に永遠の時を過ごすのだという。
僕も宮和に「和久津様なら選ばれる」なんて言われたことがある。
そんな得体の知れないものに選ばれても嬉しくない。
そもそも僕は女の子じゃないし……。
【伊代】
「前のこの手の調査も、なんだかぐだぐだで終わったでしょう? もうこれからはこういう根も葉もない噂みたいなのは断った方がいいんじゃないかしら……」
方向性は違うが、それぞれに現実主義なところのある伊代と花鶏はあきらかに乗り気じゃない。
対して、何事も面白さ優先のるいやこよりは、
大変に乗り気だった。
おまけに、なんだかよくわからない事が好きな茜子も
乗り気の様子だ。
【茜子】
「うおおー、ミステリー、やってやるぜー。やる気満ち溢れてきたー」
【るい】
「ウワサの中の王子さまがホントに居るらしいなんて、
面白いじゃん!」
【こより】
「ですよねっ! 興味沸きまくりですよう!?」
【茜子】
「つっこみ無しですか」
正義と秩序をお題目に掲げるほどには暇人じゃない。
趣味的、大いに享楽的なのがこの活動の主旨だ。
何人もが目撃したという『黒い王子様』――――
怪しい都市伝説の同類として、好奇心を刺激された。
不可思議仲間のシンパシーだ。
火のないところに煙は立たないの喩えもある。
胡乱な噂に意外な正体がついてきてもおかしくない。
【智】
「うん、そうだね。面白そう。これは別に危険なんてないと思うし、花鶏と伊代はパスでもいいんじゃない?」
【こより】
「あ、そーですね〜。ウワサを聞いてまわるだけですしね」
【花鶏】
「まあ適当にがんばって。わたしは美少女採集でもするわ」
【伊代】
「そうね……じゃぁ、みんながんばって。ネットとか使う時は
わたしに言ってくれたら、それくらいは手伝うから」
【るい】
「うんうん! でも一体ドコにいるんだろ?」
【こより】
「捜査の基本は足であります! とにかく行ってみましょうー!」
【智】
「そうだね、行って見ようか」
【茜子】
「OK、わかりました。茜子さんは星辰の位置から独自の判断法で捜します」
僕らは4人で、散歩みたいにぶらぶらと歩き出した。
とりあえず噂の一番飛び交っている学園周辺を聞いてまわったが、どれもこれも眉唾な話ばかりでまともな収穫がない。
【智】
「これはさ、追跡調査をしたらいいんじゃないかな?」
【こより】
「ツイセキちょーさ……? ですか?」
【智】
「うん。一人に噂を聞いたら、その人は誰から聞いたのかを聞いて、どんどん辿っていく。ウワサの出所に繋がったら、そこがゴールだよ」
【るい】
「おーおー! さすがトモはサンボだね!」
【こより】
「モンゴル相撲じゃないですよう! 参謀官殿ですよう!」
【茜子】
「そしてマダガスカルの孔明ですよう」
【智】
「まだ言うか」
【るい】
「あれ? サンボー、サンボー……覚えた」
覚えてるんだかさらに誤解してるんだかわからない。
さて、追跡調査ならわりと時間がかかりそうだ。
伊代に頼んで、ネットからの情報収集も平行して進めようか……。
まったりと計画を練っていると、茜子が手を挙げた。
【茜子】
「はい」
【智】
「はい、茜子さん」
【茜子】
「デンジャー危険もないことですし、2チームに分けることを提案します」
【こより】
「それいいですね。刑事は二人組で動くものですし!」
【智】
「いいね。じゃあ二手に分かれようか」
【るい】
「じゃあ……チーム分けはどうする?
トモとこより&私とアカネ?」
【こより】
「鳴滝はともセンパイとタッグだと嬉しいであります!
えへへへ」
【智】
「…………」
楽しい時間に、忘れかけていた呪いのことを思い出した。
こよりの記憶は僕の正体に近づいている。
だから……僕はこよりと距離を……。
【智】
「ん……悪いけど、僕はるいと組むよ」
【こより】
「え……? ふええぇ〜!?
どうしてでありますか、ともセンパイ〜!?」
僕とチームを組めないだけで泣きそうな顔をしてくれる。
呪いのことさえなければ、
今すぐこよりの頭をくしゃくしゃに撫でて、
さっきの言葉を取り消したかった。
【るい】
「なして私?」
【智】
「えっと……ほら、年少組と年長組だよ」
【茜子】
「…………?」
【こより】
「ど、どうしてもダメでありますか?」
ごめん。
謝りたいけれど、今謝れば僕はずるずるとこよりとの関係を続けて……そして、こよりはいつの日にか、僕のことを思い出すだろう。
命に関わることだ、仕方ない……。
【智】
「これも作戦なんだよ。だから、わがまま言わないで聞き分けてよ」
【こより】
「んぅ……わかりました。ともセンパイは鳴滝のもう一人のお姉
ちゃんですから、ちゃんと言うこと聞きます」
なんて、なんて、忌わしい……!
生まれてから今までの一生の中で、これほど呪いの存在を
恨んだことはなかった。
自分が苦しむだけならいい、そう思って耐えてきたのに……。
【智】
「うん、それだよ。『黒い王子様』っていうの。それの噂について何か知らない?」
【るい】
「う……。し、知らない……?」
見ず知らずの人に異常に警戒心の強いるいは、
まともに聞き込めてなかった。
塞ぎ込みたい気分なのに、相棒がまったく使い物にならないから、話を聞いてまわるのは僕だ。
でも、こうやって聞き込みしてるうちに少しは気が晴れた。
自分の力の及ばない事をいつまでも悩んでも仕方ない。
【女子生徒A】
「え〜? 『黒い王子さま』?
私、郊外の古い洋館に住んでるって誰かに聞いたことあるよ」
【女子生徒B】
「あ、それ私も知ってるー! 廃墟みたいな洋館から、夜な夜な
全身黒ずくめの超かっこいい男の人が出てきて、どこかに消え
るって話!」
【るい】
「それだよ!」
【女子生徒A】
「なになに!? 『黒い王子さま』のホンモノ捜してるの!?」
【智】
「うん、実はそうなんだ」
【女子生徒B】
「じゃあさ、見つけたら『黒い王子さま』撮って写メで送ってよ! これ、私のアドだから」
【智】
「おっけー。見つけたら写真撮らせてもらうよー」
【女子生徒A】
「がんばってね〜」
手を振り合って、知らない学園の生徒の子と別れた。
【智】
「るい、捜しに行こうか」
【るい】
「そだね」
古い洋館……なんて花鶏の家くらいだと思っていたけれど、
どうやらこの街にはそんな建物が他にもあるみたいだ。
暇さえあれば街をぶらついている僕たちだ。
行ったことのない場所なんて限られている。
郊外で古い建物の残ってそうな場所、
なおかつ僕らの行ったことのない界隈を探して歩くと、
廃墟のような洋館というやつはほどなくして見つかった。
【智】
「間違いなく、これだね」
【るい】
「うん。すごい。でかい……」
花鶏の屋敷とはまた違った雰囲気のものものしい洋館だった。
上端に侵入者を拒む針を備えた黒鉄の門に、
庭の植物の蔦(つた)が絡まり伸びている。
スモークを炊けば、そのままホラーか
ミステリー映画のオープニングになりそうだ。
【智】
「やっぱり廃墟……なのかな?」
【るい】
「私だったら少なくとも、こんなトコに住むのはヤダよ」
【智】
「僕は廃ビルよりはこっちのほうがいいかな……」
そんなやりとりをしていると、洋館の方で動きがあった。
【るい】
「誰か出てくる!」
【智】
「噂の中心人物かも。ちょっと隠れて見てみよう」
【るい】
「うん」
現れた洋館の主は、スラリとした格好で全身を黒く染めていた。
よく見れば、季節外れのコートをまとっている。
遠目にはよくわからないが、
美男子なのだと言われればそう見えた。
【智】
「まさか……本当に『黒い王子様』?」
【るい】
「わ! い、行っちゃう!」
曲がり角に消えた黒い影を追いかける。
【惠/???】
「君たちは、僕を追いかけてどうするつもりかな?」
【智】
「わっ」
【るい】
「うひゃっ!」
洋館の主は角を曲がったすぐそこで、
後ろを向いたまま僕たちを待ち構えていた。
どうやら最初から感づかれていたようだ。
慌てて頭を下げる。
【智】
「あ、あのすいません! 尾行するような真似して……!」
【るい】
「ええっ、ちょっとトモ! アイツだよ! 助っ人のひと!」
【智】
「え……? 助っ人?」
顔を上げて僕も驚いた。
振り返った『黒い王子様』は、僕らも知っている人物だったからだ。
【惠】
「……君は……?」
【智】
「惠!?」
才野原惠。
黒い。そして、王子様というのもなんとなく理解できた。
キャラが非常にそれっぽい。
【惠】
「はは、これはなんて巡りあわせだろう? これも星の導き
なんだろうか」
【智】
「ひさし……ぶりですね」
ぎこちない挨拶。
【るい】
「メグムが『黒い王子様』だったの!?」
【惠】
「話が見えないな。智、良ければ君が説明してくれないかい?」
意外すぎる再会に驚いたのは、僕たちだけじゃないみたいだ。
僕は手短に今のピースキーパー活動と、
ちょうど取り組んでいた都市伝説の真相調査について説明する。
【智】
「『黒い王子様』って都市伝説の発祥を追ってて、それがあの洋館だって判って……」
【惠】
「それで、この黒いコート? このコートはちょっとした
験担ぎでね、たまに着ていくんだ」
【惠】
「しかし、王子様か。それは興味深い話だ。……ついて来るといい。話のオチを見たければね」
【るい】
「へ? オチ?」
導かれるままに僕とるいは惠の後について行く。
寂しい通りをいくつか曲がると、
今度はさらに人気のない路地に入って行く。
【智】
「ど、どこへ行くの?」
【惠】
「ふふふ……怖じけずいたのかい?」
【智】
「そ、そういうわけじゃないけど……」
路地を分け入った先に、ちょうど隣の家から伸びた木の枝が張り出して、すべての面した家の窓から視線が遮られている場所があった。
住宅街の中の、ちょっとした死角。
【惠】
「ここなら……人目はないか」
惠が周りを見回して一人頷く。
【智】
「一体僕たちに何を見せてくれるの? 『黒い王子様』の話は誤解だってわかったからもう別に……」
【惠】
「ふふふ、見ておいて損はないと思うよ」
そう言うと惠は突然背を向けて、目の前でコートを、
そして服を脱ぎ出した!
案外恥ずかしがり屋なるいが、慌てて両手で顔を覆う。
【るい】
「うわ、うわ……!」
【智】
「ちょ、ちょっと惠!?」
男の裸は別に自分ので見慣れてるので、それに相手は男で
自分から脱いでるんだから、だけど僕は女の子だから……!?
えーと、この場合はどうすればいいんだ!?
慌てればいいのか普通にしてればいいのかと僕が悩んでいる間にも、惠はスルスルと服を脱ぎ捨てて下着姿になっていく。
やがて身を包む黒い服を脱ぎ捨てると、
惠は男にしては肌理細かで白い背中にブラの紐が……。
ん!? ブラ!?
【るい】
「あ、あれれ!? メグムって女の子だったの!?」
【智】
「うわ、うわ……!」
完全に下着姿になった惠がこっちを振り返る。
今度は僕が恥ずかしがる番だった。
【惠】
「これでも王子様に見えるかい?」
【智】
「わ、わかった! わかったよ! 何も脱がなくてもいいのに〜」
【るい】
「女の子だよ? トモ、なんで慌ててんの?」
女の子だからだよ〜っ!
という叫びは心の中に閉じ込めて、
なんとか平静を装わないといけない。
【智】
「だ、だって一応見えてないっても外だしさ。
こんなとこで女の子が服脱ぐのはよくないって!」
【惠】
「ははは、これはご忠告ありがとう。智は貞淑なレディなんだね」
【るい】
「トモ、ガード固いし」
あたりまえです。
見ちゃダメだ、見ないとダメだ、見たい(?)と複雑な葛藤に
耐え、なんとか普通っぽく惠を見ていると、それが目に止まった。
【智】
「ちょっと待って、惠、その痣……!」
なめらかな白い肌の上、わき腹のあたりに一際目立つものがあった。
呪いの刻印。
まぎれもなく同じ痣だった。
【るい】
「それって智や私にもあるヤツ!? ってことはメグムも!?」
【智】
「君も呪いを負っていたの!?」
【惠】
「はは、想像におまかせするよ」
口ではそううそぶいているけど、その痣だけは、惠が僕らと
同じ宿命を背負った存在であることを雄弁に物語っていた。
僕たち六人だけだと思っていた呪いを背負った存在が、
他にも居たなんて。
不思議でもあり、なんとなく嬉しくもあった。
【智】
「惠も仲間だったなんて嬉しいよ。これからは同じ呪いっ子、
僕っ子として仲良くしよう? よろしく!」
【るい】
「メグムはなんかヘンな奴なのに気安い感じがしてたんだ。
仲間が増えてうれしい!」
僕とるいが同時に握手の手を差し出した。
普段のるいは、宅配のおじさんにだって警戒する生き物だ。
それがこんなにも気安くうち解ける。
呪いで繋がった、奇妙な僕ら――――
惠は差し出された二本の手に、
意外そうに目をしばたたかせていた。
それから、古代ギリシアの彫刻に似た静かな微笑を浮かべる。
【惠】
「……よろしく」
重ねられた惠の手は、想像していたよりもずっと暖かかった。
洋館は見つけた。だけど『黒い王子様』は居なかった。
そういう旨の電話を入れて、僕たちは溜まり場へ。
僕たち、には惠も含まれている。
【智】
「新しい仲間を見つけたなんて言ったら、みんなびっくりするかな?」
【るい】
「絶対するって! あ、花鶏には気をつけなよ? あいつセクハラレズだから!」
【惠】
「はは、せいぜい気をつけることにするよ」
ついでに、道々みんなのことを紹介しておく。
【智】
「伊代はいつもズレたイケてない発言するけど大目に見てあげてね」
【るい】
「アカネ……茜子はいつも変なことばっかり言ってるけど、
あんまり気にしないほうがいいよ」
【智】
「こよりは……」
【智】
「……………………」
こより。
僕の大切な可愛い妹のような存在。
僕の幼馴染み。
そして、僕の正体を知っている相手……。
【るい】
「トモ?」
【智】
「ああ、ごめん。こよりは……可愛がってあげてね」
【惠】
「にぎやかだね。みんな楽しそうだ」
予告もなしに惠を連れて行った。
みんなの反応は、予想通り面白かった。
【惠】
「やあ。僕の名前は覚えてくれているかな?」
【伊代】
「あ、あなたどうしてここに? どういうことなの? そもそも
その子とあなたって、どういう関係なの? まさか」
【花鶏】
「智! もしかしてコイツの淫猥な誘惑に負けて、可憐な純潔を
……っ!?」
【智】
「ちがうちがう!」
【花鶏】
「都市伝説の調査に行ったのと、こいつを連れて来んのがどう
繋がるのよ」
【惠】
「2つの問題は、実は1つだったようだね。実は僕が、夜な夜な
可愛い子たちをさらっていく『黒い王子様』だったのさ」
【智】
「こらこら。みんなが本気にしたらどうするの!」
【茜子】
「あ、茜子さんの不思議キャラの座が危うい……!」
茜子の目が、わずかに見開かれたように見えた。
【智】
「『黒い王子様』の噂をたどっていったら、惠にたどり着いちゃってね。しょせん、都市伝説の正体なんてこんなものっていうことかな」
【伊代】
「ということは、やっぱり噂は噂でしかなかったっていうこと
かしら?」
【智】
「そういうこと。でもね驚くのはまだまだ早いよ。実はね……」
みんな一体、どんな反応をするのかな?
内心、笑いをかみ殺しながら、惠の秘密を明かす。
【智】
「惠はね、僕たちの仲間なんだ。同じ……痣を持った」
【るい】
「トモも私も、実際に見たんだ。というわけで、メグムも
仲間入り〜」
【伊代】
「それ本当なの!?
わたしたち以外にも……呪われている人が居たなんて」
【花鶏】
「へぇ。じゃ、まだ他にもいるかも知れないわね」
【こより】
「あ……ともセンパイ、それで惠センパイと一緒に……」
【惠】
「ご招待ありがとう。ここはいいね……。賑やかで、とても楽しい場所だよ。束の間、咎人(とがびと)たる己をさえ忘れそうになる」
【るい】
「メグム、自己紹介とかなんか、ないの?」
【惠】
「自己紹介か……そうだね。名前はヒーリング、趣味は才野原惠、特技は空を見ること、かな?」
【伊代】
「それってあべこべなんじゃないの?」
【惠】
「気にしたら負けだよ」
【茜子】
「ますます不思議キャラの座が危ない」
【花鶏】
「ふ〜ん。才野原……って呼ばせていただくことにするわ」
どうにも真面目なのか冗談なのかわからない妙な発言の多い
惠だけど、みんなはどうやら受け入れてくれたみたいだ。
【智】
「前から思ってたんだけど、
惠って真面目なのかふざけてるのかよくわからないよね」
【惠】
「どうかな? 真面目にふざけているだけなのかもしれない」
そういう返事の仕方からして、よくわからない。
でもまあ、せめてあの告白まがいだけでも、
ふざけて言ったことなんだと宣言して欲しいなぁ。
僕の心の平穏のためにも……。
【るい】
「あ、そだ! 歓迎会とかないのけ」
【伊代】
「それならあの記者さんも呼んで、新メンバーのお披露目会って
ことにすればどうかな」
【茜子】
「またあの兄者にたかる気ですか」
【伊代】
「べ、べつにそういうつもりじゃなかったんだけど……」
【智】
「どう? 惠、これから時間ある?」
【惠】
「いや、せっかくだけど、今日はこれからメルボルンに用事があるから……」
【智】
「メルボルン!?」
あからさまに嘘っぽいけど……。
【智】
「じゃあ送っていくよ。いきなりこんなとこ連れてきちゃったし」
【惠】
「いいのかい? 妹君は智を待っていたみたいだけど」
【こより】
「………………」
極力僕は気にしないようにしていた。
こよりはずっと塞ぎ気味で、僕に不安げな視線を何度も送っていた。
こよりは怯えている。
ずっとくっついてまわっていた僕に、いきなり拒絶されたから。
僕も今まで通りこよりと一緒に居たいけれど、叶わないことだ。
こよりには少しずつ、この距離に慣れてもらうしかない。
るいも居るし、花鶏だってこよりのことを気にかけてくれている。
きっと大丈夫だろう……。
【智】
「ん……、大丈夫だよね。こより?」
【こより】
「……ハイ。るいセンパイに構ってもらいますから」
【るい】
「くちゃくちゃ〜」
【こより】
「にゃむ〜」
【智】
「じゃあ、行って来るよ。行こう、惠」
【惠】
「……ふっ」
心中の苦しさを隠して、僕は惠に微笑んだ。
〔亀裂〕
あれからずっと、僕はこよりとの距離を保って過ごしていた。
僕にできるのはみんなと居る時の場を楽しくして、
こよりの気が紛れるよう間接的に働きかけることだけだ。
【智】
「あれ、今日は暑いからこっちだと思ったのにな」
待ち合わせなんてしなくてもいつもみんな一緒だったのに、
僕の来た高架下には誰一人いなかった。
溜まり場マーク2、高架下。
ここは日陰になるので、今日みたいに日差しがきつい日は
こっちで日が翳るまで過ごすのが僕らの習慣だった。
【智】
「ここに居ないということは、みんな街のどこかでぶらぶらしてるのかな……?」
うまく盛り上がらない気分を持て余していると、
見覚えのある姿が目に止まった。
【智】
「惠」
【惠】
「ああ……智。今日は一人なのかい?」
【智】
「今から合流しに行くトコだよ。惠も一緒にどう?」
【惠】
「ん……そうだね、この前の埋め合わせをするのもいいかも
しれないな?」
【智】
「よかった。じゃあ今日は暑いから、
早くみんなと合流してどこかで涼もうよ」
【惠】
「ああ、確かに今日は暑い」
溜まり場向かっていると、次々と仲間が集結してくる。
向かう場所は皆一緒だ。
【るい】
「お、トモだ。おーす!」
【智】
「やっと見つけたよ。おーす!」
【こより】
「ともセンパイ……」
【智】
「…………」
【こより】
「あ、あの、おっすであります……」
不安げな表情でこよりが駆け寄ってきた。
なんとか優しい姉に戻ってもらおうと努力していた、
幼い日のこよりが思い浮かぶ。
互いの距離を測りきれないのは僕も同じだ。
なにも、冷たく突き放す必要はないはずだ。
【智】
「ふふ、こより。おっす」
【こより】
「ほわ……、ともセンパイ〜!」
ただ、昔の想い出に、こよりを近づけてはいけないだけだ。
駆け寄ってきたこよりの頭を撫でる。
ほんの数日ぶりだけど、それは懐かしい感触だった。
【惠】
「この来訪は、この前の埋め合わせになるかな?」
【伊代】
「もちろん。じゃあ今日こそ記者さんを呼んで、お披露目会を
兼ねた歓迎会をしましょうよ」
【こより】
「わかりました!
それじゃあ鳴滝が三宅のお兄さんに電話しますね!」
こよりが自主的に挙手する。
おや? こよりはあの記者の電話番号を知っているのか。
ぼくが冷たい態度を取っている間に、
連絡を取り合っていたらしい。
ちくっと胸が痛む。僕は本当に自分勝手だ。
【智】
「じゃ、おねがい」
だが、これでいい。
人数が多くなってこよりがみんなと等しく仲良く接する限り、
きっと今の僕は想い出と結びつかない。
【こより】
「もしもし、三宅のお兄さんですか〜?」
こよりが電話を掛けている間にも話題は弾む。
必然的に話題は新参者の惠を中心としたものになった。
【智】
「惠ってさ、あの屋敷に家族と住んでるの?」
【惠】
「いや? あそこに住んでいるわけじゃない」
【るい】
「え、じゃあどこに住んでるの?」
【惠】
「あそこだよ」
惠が指差した先には送電用の天高い鉄塔があった。
黒々とそびえる骨組みだけの鉄の塔で、
屋根や壁どころかまともな足場さえない。
そもそもあれって高電圧が流れてることもあるんじゃなかったっけ?
【るい】
「ええ〜!? あれに住んでるの!? うわ、ちょーかっこいいよ、すごい! 私も住んでみたいよ〜!」
【智】
「惠、それウソでしょ」
【惠】
「はは、そうかもしれないね」
【るい】
「えー、騙されたのかー!?」
【智】
「あははは、こんなので騙されるのは、るいだけだって」
【伊代】
「ふふふ、意外に面白いこと言う人なのね」
【惠】
「よく、そう言われるかな?」
伊代の言う通りちょっと意外だった。
惠は一風変わってるけど、生真面目なタイプだと思ってたのに。
生真面目でももちろん仲間には変わりないけれど、
こんな冗談のわかる楽しい相手ならなおさら大歓迎だ。
そこへ、三宅さんへの電話を終えたこよりが、会話に合流する。
【こより】
「ともセンパイ、三宅のお兄さん、来れますって!
溜まり場へ差し入れ持って来てくれるらしいですよっ」
【智】
「あははは! ああ、こより。惠がとっても面白いんだよ」
【惠】
「どうやら智にはいたく気に入られてしまったみたいだね」
【るい】
「ヒドイよ騙して〜! 私すぐなんでも信じるんだから〜!」
そう言うるいも、本気では怒っていない。
惠みたいな仲間が増えて本当に嬉しかった。
他にもこんな仲間がいるんだろうか?
だとしたらすごく嬉しい。
もっと仲間が増えれば、呪いの束縛による孤独さえ
忘れてしまえそうだった。
【智】
「るいはちょっとは疑うこと覚えたほうがいいよ〜! 惠も手加減してあげてね?」
【惠】
「ふふふ……」
だけど僕はこの時気づかなかった。
こよりがこの楽しい空気に、
疎外感を感じているっていうことを……。
【こより】
「ともセンパイ、惠センパイと……すごく、仲がいいんですね……」
【智】
「もちろん。惠は僕たちの仲間だもの」
【こより】
「…………」
言葉を失ったこよりが、僕に腕を絡めてくる。
この距離は危ない。
僕にわかるのはそれだけだった。
これ以上こよりと近づいてしまうと危ない。
体温から、感触から、こよりが僕のことを思い出したらどうする?
匂いから思い出したら?
見上げた角度の顔から思い出すこともあるかもしれない。
その時僕に待っているのは……呪いだ。
だからこの距離は危ない。
【智】
「こより、歩き難いよ」
【こより】
「…………んぅ……」
こよりがぷぅ、と膨れる。
ひどいことをした。
けれど、助かったと思った。
こよりがもし上目遣いに僕を見て、どうして急に自分を
避けるようになったのか聞いてきたら……。
【智】
「…………」
僕は危なかっただろう。
涙を流してこよりを抱き上げて、今までのことを謝ってすべてを
打ち明けてしまったかもしれない。
自分の命と、こよりの心。
どちらが大切かなんてどうして比べることができる?
今の僕には、かつて小夜里さんが願ったように、
こよりの自立を祈るしか出来なかった。
【伊代】
「だめよ、この道も結構交通量多いんだから。腕なんか組んだら
危ないでしょ?」
【花鶏】
「ふうん?」
伊代の見当違いな発言が、僕の心を少しだけ癒してくれる。
こよりを突き放して惠と並んで歩く僕の背中を、
花鶏が思案顔で見つめていた。
いつもより1人多い7人の溜まり場に三宅さんが加わると、
そこは8人の大所帯となった。
横一列に柵にもたれるのも不自然なので、
僕らは思い思いの場所に佇んでいる。
【三宅】
「やぁどうも。今日は新メンバーのお披露目会兼、歓迎会
なんだって?」
【伊代】
「そうなんです。こっちの……」
【こより】
「惠……才野原惠センパイであります。ともセンパイと……
とっても仲がいいです」
ちら、とこよりが僕を盗み見る。
僕は気づかないフリをする。
こよりは新たな依存の相手として三宅さんを選ぶのだろうか?
妹のような存在が離れていくのは少し寂しいけれど、
こよりが立ち直ってくれるならそれでいいと思うしかない。
【三宅】
「よろしく。俺は三宅。
聞いてるとは思うけど、しがない貧乏記者をやってるんだ」
【惠】
「よろしく」
三宅さんと惠が、とりあえず握手を交わす。
【茜子】
「ここに8人も集まるのは怪現象です。茜子さんが証拠写真を
収めておきましょう」
【るい】
「記念写真かぁ、アカネもタマにはいいこと言うなぁ」
【茜子】
「失敬な、茜子さんは常にナイスワード連発です。というわけで
怪奇ボク女は、そのカメラ付き携帯を貸すと吉」
【智】
「あ、そか。茜子って携帯持ってないんだよね。
それじゃあ、はい」
茜子が携帯のカメラを構えるさまは、なかなか変な感じで面白い。
そういえば携帯を持ってない茜子に、
カメラのセルフタイマーの操作なんてわかるのだろうか。
【智】
「茜子、わかる?」
【伊代】
「なんならわたしがやろうか? 携帯で写真なんて撮ったこと
ないけど、判ると思うし」
道具を理解する能力を持った伊代が交代を申し出ようとしたところで、いきなり茜子が早撃ちガンマンのように携帯を構えた。
【茜子】
「ふふ、不意打ち成功です」
【伊代】
「あ、あ〜! 変な顔撮ったでしょ、あなた!」
【るい】
「うわ、私いま、目も口も半開きだった!」
【三宅】
「俺も目つぶってたかも」
【こより】
「茜子センパイ、本当に解るんですか〜?」
【茜子】
「もちろん今いじくりまわして解りました。それでは15秒後……です」
三宅さんの差し入れを台にして、
器用に携帯をセットした茜子が走ってくる。
【惠】
「3、2、1……」
写真は、今日という日を最高の想い出に代えるような素晴らしい
出来だった。
女の子たちは人数が多くなると、
小さいグループに分かれて行動したがるもの。
今まで僕が女の子としてうまく生きるために、
行ってきた人間観察から得たひとつの法則だ。
ここでも、その法則が観測されている。
【るい】
「それでさ、花鶏のんトコの食べ物おかしいんだよ!
なんかセロリとかピーマンとかモロヘイヤとか、
変な野菜ばっかなんだよ」
【惠】
「カロテン、食物繊維、ビタミン類が豊富だ。いいじゃないか」
【るい】
「そ、そういうんじゃなくてさ。もっとこう、タマゴッとか、
ウインナーッとかをケチャップとかマヨとかでもりもり
食べたいの!」
【智】
「惠の言うとおりだよ。るいはたくさん食べるんだから、
コレステロールとか考えたほうがいいって」
【るい】
「たくさん食べるからこそ、味は深刻な問題なんだよ〜!」
僕はるいと惠、洋館の前で出会った三人で雑談に興じていた。
るいは気安く楽しい相手だし、惠は落ち着いていて知識も多く
話していて面白い。
向こうでは三宅さんを中心に、伊代とこよりが
いろんな相談を持ち掛けていた。
【伊代】
「本当にわたし困ってるんです……。だからと言ってプレゼントを断って突き返すのも悪いし、わたしもうどうしたらいいか……」
【こより】
「上村、相当伊代センパイに入れ込んでるみたいですよ」
【こより】
「携帯の待ち受けも伊代センパイの顔だし、かけもしないのに
伊代センパイと同じ型のメガネ買ったらしいし、ウワサでは
自作の伊代センパイ抱き枕も〜……」
【伊代】
「いやあぁぁぁぁ〜……」
【三宅】
「ああ……そういうのはやっぱりハッキリ断ったほうがいいよ。
気を持たせても逆に悪いからねえ」
【伊代】
「一度は断ったんですけど……優しく言い過ぎたのかしら」
【三宅】
「それなら彼氏を作っちゃえばどうだい? 伊代ちゃんみたいに
可愛い子なら簡単だろう?」
【伊代】
「え……あ、そんな……可愛いなんて。いや、そりゃこないだ
芸能人に似てるなんて言われたりもしたけど……でも、そんな
……えへへへ……」
いつのまにか伊代とこよりは、
三宅さんとずいぶん親しげに話していた。
伊代はもともと件のペン・ガン少年上村くんに辟易して、
三宅さんみたいな『大人』の男の人に憧れていたみたいだけど、
こよりの行動は僕のせいだろう。
三宅さんは僕と違って、ちゃんと男の姿をした男の人だ。
こよりは三宅さんに好意を抱いているのだろうか……。
残った花鶏と茜子の異色コンビは、
僕らとこよりたちのグループを言葉少なく見つめていた。
【花鶏】
「………………」
【茜子】
「………………」
【花鶏】
「……どう思う?」
【茜子】
「……わかりません」
互いにほとんど言葉は発しないが、
時おり目で会話しているように見える。
僕らの会話もネタが少し尽きて、るいが三宅さんの差し入れに
手を伸ばし始めても、まだ三宅さんを中心としたグループは
賑やかだった。
【こより】
「それより鳴滝の話も聞いて下さいよう〜!」
【三宅】
「なんだい?」
【こより】
「あの、ともセンパイと惠センパイって……付き合ってると思い
ます……?」
僕に関する相談だった。
しかも、僕と惠が付き合ってる!?
一瞬こよりが僕が男だということに
気づいたのかと思ったけれど、それは違った。
僕と同様、何気なくこよりの声が
聞こえてしまった惠が耳打ちしてくる。
【惠】
「彼女は僕をなんだと思ってるんだろうねえ」
【智】
「王子様じゃないかな……」
なにせ元『黒い王子様』だけに。
そういえば、惠が実は女性だって、
みんなに言うのをすっかり忘れてた。
初対面の時の告白まがいもあって
勘違いされたままなのか。
しまったな、タイミングを逸してしまうと
妙に言い出しにくい。
【三宅】
「あー、智ちゃんみたいな賢い子は、彼みたいなクールなタイプに弱いからね。あるかも」
【こより】
「そうですか……」
【伊代】
「な、なになに? あの二人そういう関係なの!?」
【三宅】
「今は違っても遠くない未来そうなる気がするね」
【こより】
「やっぱり……」
三宅さんの差し入れはサンドイッチだった。
コンビニやスーパーで売ってるような大量生産ものじゃなく、
職人さんがお店で焼いてるちゃんとしたパン屋で買ってきたものだ。
きっとおいしいのだろうけど、今の僕には味はわかりそうにない。
【茜子】
「その畜肉と植物を挟んだパン、茜子さんも戴きますよ」
【花鶏】
「マズそうな言い方ね。ズッキーニの入ってるヤツないの?」
茜子と花鶏もサンドイッチをつまみにやってきた。
【惠】
「彼女たちも呼んだほうがいいんじゃないかい?」
【智】
「そうだね。
おーい、三宅さんや伊代たちも一緒に食べませんかー?」
【三宅】
「あ、そうだね。じゃあそろそろ……」
【こより】
「なんで鳴滝の名前を呼んでくれないんですかっ!!?」
唐突な大声だった。
こよりが僕を睨みつけている。
その目は潤み、慣れない怒声の余韻に体が震えている。
【智】
「こより……別に、わざとじゃ……」
【こより】
「いいですもん! もう、ともセンパイなんか惠センパイと
イチャイチャしてればいいんです!」
言われてみれば、肩が触れそうなほどすぐ傍に、惠が居た。
完全に誤解されている。
【智】
「こより、それは誤解だよ。別に僕は」
【こより】
「いいんです!」
【惠】
「…………」
こよりが三宅さんの腕にぎゅっと抱きついた時、
僕の胸がちくりと痛んだ。
【こより】
「あっち行きましょう、三宅のお兄さん! もっともっと鳴滝と
お話ししてください!」
強引に三宅さんを引っ張って行こうとするこよりを、
伊代が止める。
【伊代】
「ちょ、ちょっとあなた!
今はわたしが相談に乗ってもらってるのよ!?」
【こより】
「伊代センパイには上村がいるじゃないですか? あれだけ
一途なんだから付き合ってあげたらいいじゃないですか!?」
【伊代】
「な……! わたし困ってるってずっと言ってるのに!」
【智】
「ちょっと待ってよ、こより」
【こより】
「ともセンパイは黙っててください!」
【智】
「こより……」
ついさっきまでは、みんながみんな最高の仲間だったはずなのに。
仲間たちの最高の瞬間が、今もまだ僕の携帯に写真として残されているはずなのに。
気づかないうちに生じた亀裂は、
思いのほか大きく広がり始めていた。
【花鶏】
「……あいつらっ」
【茜子】
「やめましょう。余計ややこしくなるだけです」
三宅さんを挟んでのいきなりのケンカに、イラついた花鶏が
割って入ろうとするが、茜子が静かに制した。
【伊代】
「あ、あなただって依存したいだけなら、お姉さんのところへ
行けばいいでしょう!?」
【こより】
「お姉ちゃんは関係ないですッ!」
伊代とこよりの口論は続いていた。
行き場を失った怒りを持て余した花鶏が、
探るような目で僕を見る。
【花鶏】
「っ…………」
【智】
「………………」
……僕は目を逸らした。
この事態を引き起こしたのは僕だ。
だけど、呪いに縛られた僕に何ができる?
誰かに打ち明ける行為が、そのまま束縛を破ることになる呪い――
そんな呪いを背負った僕は、孤独から逃れることができない。
みんなの気持ちに亀裂が入るのは辛い。
なにより、こよりが離れていくのが辛い。
それでも、呪いを破る危険は冒せない。
たとえば僕がすべてをこよりに打ち明けて、謝って、
抱きしめて、その髪をくしゃくしゃに撫でてあげて……。
もしそれで僕が死んでしまったりしたら、
こよりは喜ぶだろうか?
こうする他ないんだ……。
【るい】
「トモ? こより、どうしたの……?」
【智】
「知らないよ……」
心配げに声をかけてくれるるいからも目を逸らす。
偽りを抱えた僕は、誰とも目を合わせることができなかった。
【茜子】
「……ボク女、耳を」
【智】
「茜子……?」
うな垂れる僕の耳に茜子が口を寄せてくる。
こんな僕に何を言おうというのだろう。
【茜子】
「気をつけたほうがいいです」
茜子は妙なことを言った。
……まさか、惠のことをまだ疑ってるのだろうか?
僕の疑念を知ってか知らずか、茜子は言葉を続ける。
【茜子】
「あの記者からは沢山の嘘と悪意を感じます。あなたが気を
つけてください」
【智】
「え……三宅さ……」
【茜子】
「声に出さないで」
【智】
「…………」
そんな、ばかな……?
三宅さんが何か良からぬことを企んでいるというのだろうか?
茜子は無言で頷く。
【三宅】
「ほら、みんなびっくりしてるよ。いや、まいったな……
こよりちゃんも伊代ちゃんも落ち着いて……」
茜子には、人の心を視るような類の力があるらしい。
その力に、間違いがあるとは思えない。
嘘を言ってるわけでもないだろう。
僕は改めて、自分の目で三宅さんを見る。
【三宅】
「そうそう、ほら、とりあえず握手して。いやー、焦ったよ
ほんとに! モテる男は辛いなぁ〜、なんて。はははは」
力なき僕の目には、その姿は良い相談役のお兄さんとしか
映らなかった。
〔こよりの冒険〕
土曜日、昼間での授業が終わって、下校途中の鳴滝は、
ずーっとモヤモヤとしています。
【こより】
「ともセンパイ、どうしていきなりわたしのコト避けるように
なったんだろ……」
いいですもん! とみんなの前で大声を出したものの、
やっぱりともセンパイと離れるのはイヤです。
るいセンパイも優しいし、三宅のお兄さんも優しい、だけど
ともセンパイは鳴滝にとって特別です。
どうしてなのかわからないケド、ともセンパイといるだけで
とっても落ち着いて、それからなんだか幸せになって。
鳴滝は、意味もなくテンションが上がってしまうのです。
【上村】
「お、おい、鳴滝。これ……また伊代さんに……」
【こより】
「惠センパイとすっごく仲いいみたいだし……。
カレシができると、妹は邪魔になっちゃうのかな……」
【上村】
「お……鳴滝?」
鳴滝は別に、惠センパイのこと、キライじゃないです。
あんまりちゃんとお話ししたことないですケド、
ともセンパイの好きな人だったらきっといい人に決まってます。
妹として、ともセンパイ……もう一人のお姉ちゃんが幸せになる
のは喜んであげないとイケナイのはわかってるんです。
だけどだけど……
ともセンパイと惠センパイがいっしょにいると、なんだか鳴滝は
モヤモヤしてしまってどうしても落ち着かないのです。
【上村】
「お、おい……! こここないだのぼ、僕の手作りメガネケース
……ちゃ……ちゃんと渡してっ、くれたのか?」
【こより】
「ふぅぅ。鳴滝こよりはダメな妹であります……」
【上村】
「聞いて……るのか?」
三宅のお兄さんによると、ともセンパイと惠センパイは
付き合ってるみたいです。
惠センパイはたしかにカッコいいし頭もいいみたいだから、
ともセンパイが好きになるのもムリないと思います。
それなのにどうしても鳴滝は納得できません……。
ともセンパイはわたしにとってなにか特別で、
譲れない人なんです。
なにがどう特別なのかはわからないですケド、
まるでずっと小さい時から知ってるみたいな気がして。
【上村】
「こ、今度バイト代が入ったら服をプ、プレゼントしたいんだよ。だから……サ、サイズとか聞いといてくれよ……。ス……ススススススリーサイズ……とか……」
【こより】
「ふぇ……ひっ……。んぅ……ともセンパイぃ……」
【上村】
「い、い伊代さんて……む、むむむむむむ胸……す、すすごいよな……。あ……あの胸に抱かれながら叱られたい……!」
いきなりしゃくりあげてしまいました。
ともセンパイのことを考えると、ふいに心が言うこと聞かなく
なって泣き出しそうになっちゃうんです。
いつのまにかわたしの中で、本当のお姉ちゃんよりも、
ともセンパイのほうが大切になってるみたいで……。
ともセンパイに……頭撫でて欲しいです。
髪がくしゃくしゃになるくらい、撫でて欲しいです。
ともセンパイのあったかくて優しい手で、
また撫でて欲しいです……。
【上村】
「お、おい鳴滝! ききき聞いてるのか!?」
【こより】
「……うるさいなぁ!
伊代センパイもうプレゼントしないでって言ってたよ!
伊代センパイは上村なんてタイプじゃないって!」
【上村】
「そ、そんな……!」
怒鳴りつけて上村を置き去りにして行きます。
八つ当たりみたいで悪いな、とは思いますケド、伊代センパイの
ためでもあります。
ケンカしちゃった伊代センパイへの
埋め合わせになるといいな……。
駆け出そうとしたら携帯が鳴りました。
開けると、ともセンパイとおそろいのストラップが揺れます。
【三宅】
『もしもし、こよりちゃん?』
【こより】
「あ……ああ、三宅のお兄さん。なんでありますか?」
【三宅】
『ちょっと個人的に会いたいんだ。時間取れないかな』
三宅のお兄さん、個人的に会いたいなんて、
なんの用なんでしょうか?
待ち合わせ場所には、いつもと同じ気さくな微笑を浮かべた
三宅のお兄さんが待っていました。
【三宅】
「や〜ぁ、こよりちゃん」
【こより】
「三宅のお兄さん、おっすであります。待ちました?」
【三宅】
「いや」
【こより】
「今日はいったいどうしたんです〜?
鳴滝だけ呼び出したりして、何の用でありますか?」
【三宅】
「別に? 可愛いこよりちゃんとちょっと二人きりで会いたく
なっただけだよ」
【こより】
「わ……それってもしかして、おデートってヤツですか?」
【三宅】
「ははは、そうとも言うね」
鳴滝みたいな『子供』とデートなんて、
三宅のお兄さん、どこまで本気かわかりません。
だけどなぜか鳴滝には、ナイショで男の人と二人きりで会うことは、ともセンパイへの裏切りに思えました。
ともセンパイは女の子なのにどうしてでしょう?
ここに来る前に、ともセンパイに電話してみました。
繋がりませんでした。
ともセンパイも、今ごろ惠センパイと二人きりで
会ってるのかも知れません。
【三宅】
「ん……こよりちゃん、なんかいい匂いするね。もしかして香水?」
【こより】
「あ、ハイ。お姉ちゃんに貰った香水なんです」
【三宅】
「いつもはつけてないよね? もしかして俺の為かな……なんて、はははは」
【こより】
「あはは……別にそーゆーワケじゃないです」
【三宅】
「ざーんねん! 聞かなきゃよかったよ。
そうすればもう少し自惚れてられたのになぁ」
【こより】
「えへへへ」
三宅のお兄さんに合わせて笑ってみたけれど、
心まで楽しくすることができません。
ともセンパイと一緒なら、
寂しい時でも楽しくなれるのに。
ともセンパイ……。
ともセンパイ、今なにしてるかな……?
【こより】
「………………」
【三宅】
「こよりちゃん?」
【こより】
「あ、いえいえ! 鳴滝こより、異常なしであります!」
鳴滝の頭に浮かんだのは、惠センパイと楽しそうに話す
ともセンパイの姿でした。
……裏切りじゃない。
わたしだけが悪いんじゃない。
【こより】
「……ひぇっ?」
そう思ったとき、鳴滝の肩に
三宅のお兄さんの大きな手が回されました。
【三宅】
「ちょっと歩こうか」
【こより】
「……は、ハイ! そうですね、行きましょ〜!」
いきなり回された手に少し驚いたけれど、
なんとか平静を装うことができました。
それから、三宅のお兄さんと一緒に街を歩きました。
日が暮れてからは、三宅のお兄さんの知り合いの方がやって
いるダイニングバーで晩ごはんを奢ってもらいました。
お酒も少し、飲みました。
【こより】
「はう……ほんのちょっと貰っただけなのに、頭があったかくなってほわほわします〜」
【三宅】
「それじゃあ少し、休んでいこうか?」
【こより】
「は、ハイ〜。そうして戴けると、ありがたい限りであります〜」
また三宅のお兄さんの手が肩に回されても、
今度はもう驚いたりしません。
だけど三宅のお兄さんがどこに向かっているのかに気づいた時、
わたしは震えてしまいました。
【こより】
「ホ……ホテル……」
【三宅】
「部屋を取ってあるから」
三宅のお兄さんの肩を抱く手の力が強くなりました。
入ろうとしているのは、見た感じは露骨なラブホテルでは
なかったですケド、こんな時間から向かうということは……
やっぱりそういうことなんでしょうか?
三宅のお兄さんの横顔を見てみました。
日が落ちて街明かりに照らされた三宅のお兄さんの顔は、
なんだかいつもと違う印象を受けます。
わたしは、この人に抱かれるんでしょうか……?
怖いです。
【こより】
「………………」
──それでもいい。
お酒で少しぼうっとした頭でそう思いました。
ともセンパイも、きっと今ごろ惠センパイと
楽しくやってるに違いないです。
むしろ大好きなともセンパイと並んで立つには、
鳴滝もオトナにならないといけないのかもしれません。
…………。
もしかしたら、ヤケになっているのかもしれません。
鳴滝は自分の気持ちが見えないまま、
ぐっと震えを堪えて三宅のお兄さんに歩みを合わせました。
あらかじめ部屋を取っておいたみたいで、三宅のお兄さんは
フロントでカードキーを受け取ると、鳴滝を連れてエレベーター
で5階まで上がりました。
エレベーターを降りて、薄暗い廊下を進んで、
カードキーでドア開けて……。
開いた部屋の中には、ベッドが見えました。
【こより】
「あの、三宅のお兄さん……」
【三宅】
「入りなよ」
なんとなく逆らえない雰囲気に、鳴滝が先に部屋の中に入ると、
三宅のお兄さんは後ろ手にドアを閉めて、チェーン代わりの
ガードアームまでかけました。
これで、締め切った部屋に二人きり……。
【こより】
「あ、あの、三宅のお兄さん。
鳴滝ちょっと疲れちゃったので……」
【三宅】
「うるせぇな、後でたっぷり休ませてやるよ」
【こより】
「み、三宅のお兄さん……? きゃ……!」
三宅のお兄さんの態度がおかしいと気づいたのは、いきなり口調が変わって、べたべたと鳴滝の体を触り始めた時でした。
ゴツゴツとした『大人』の男の人の手が、
無遠慮に肩や腰を触ってきます。
【こより】
「三宅のお兄さん、い、いったいどうしたんですか?
な、なにが……」
【三宅】
「企業のヤツらが取引を蹴りやがったんだよ!
独自調査を行うのであなたの情報はもう必要ないだとよ!
ふざけやがって!!」
【こより】
「いったい……なんの……、……い、痛っ!」
ついに三宅のお兄さんの手が胸を乱暴にまさぐってきて、
鳴滝は必死で三宅のお兄さんの手を振りほどきました。
【こより】
「なんの話をしてるですか!?
三宅のお兄さん、おかしいですよ!
いったいどうしちゃったんですか!?」
【三宅】
「騒ぐなッ! だから腹いせに、ヤツらがご執心のオマエらを
売り飛ばしてやるんだよ。その前にすこぉし、味見はさせて
貰うけどな……!」
【こより】
「ひ……イヤ……!」
後ずさるとベッドにぶつかりました。
【こより】
「えっ?」
ベッドに誰か……寝てる?
捲れた掛け布団から覗いた顔は眼鏡をかけていて、
鳴滝には見覚えがありました。
【こより】
「い、伊代センパイ!?」
布団を引き剥がすと、伊代センパイが手足を拘束され、
猿轡(さるぐつわ)を噛まされて眠ってました。
【こより】
「い、伊代センパイに何したんですか……!?」
【三宅】
「何にもしてねぇよ、今はまだな。俺はロリコンじゃないから
あっちはお楽しみに取ってあるんだよ。すげえ胸だからな。
へへへへ……!」
【こより】
「や、やめてください……! 触らないで……!」
【三宅】
「最初は痛いからクスリ飲ませてやるって、ホラ! コイツを
飲めばすぐに気持ちよくなって、オマエみたいなガキでも
自分から腰を振るようになるぜ!!」
三宅のお兄さんの手には、3粒ほどの白い錠剤が――――
もしそれを飲まされたりしたら、もうわたしは
わたしじゃなくなってしまうんでしょうか?
【こより】
「やだ……やだ……っ! やめてください……来ないで……!」
【三宅】
「手間かけさせるな! 今から逃げられるわけねぇだろ!
諦めろ!」
【こより】
「やだ……! やめて! 助けてぇーっ!」
大声を出して、傍にある物を手当たりしだいに投げつけました。
野球選手のフォームとかをトレースすれば、強力で正確に物を
投げることができるハズなんですケド……
どうしてもうまくできませんでした。
ただただ、慌てて物を投げるだけ……。
投げた携帯が顔に当たると、三宅のお兄さんはものすごい顔で
ツバを飛ばして怒り始めました。
【三宅】
「ってぇな! このクソガキがッ!
お前はクスリなしでメチャクチャに犯して、壊してやる!」
【こより】
「やだ……やだぁ……! 怖い、助けて……怖いよう……!」
【三宅】
「声出すな! おとなしくしろッ!」
ベッドを廻って逃げても部屋の奥に追い詰められるだけ。
窓がすぐ近くにあったけれど、ここはホテルの5階。
逃げ場はどこにもありません。
鳴滝がバカでした。
何も考えずに、感情に任せて行動して。
【三宅】
「観念したか? 自分で脱げばクスリを飲ませてやるぜ……!
ははははは!」
【伊代】
「……………………」
伊代センパイは睡眠薬で深く眠らされているみたいで、
ぴくりとも動きません。
三宅のお兄さんがゆっくりと回り込んできて、
わたしは壁際に追い詰められていってしまいます。
もう、後がありません。
助けて……。
誰か、助けて……。
【こより】
「助けて、ともセンパイ……っ!!」
〔ヒーロー(?)はピンチの時にやってくる〕
土曜日、昼間での授業が終わって、下校途中の僕は
ずーっとモヤモヤとしていた。
【智】
「茜子の言ってたこと、本当なのかな……?」
茜子は、三宅さんが僕たちを騙してる、
陥れようとしてるなんて言っていた。
本当だろうか?
こよりと伊代は、かなり三宅さんを慕っていた。
もし茜子の言っていることが本当なら、危ない気がする。
こよりとは今は話しにくいので、伊代に電話を掛けてみた。
【智】
「………………」
15コールほど待ってみたが、伊代は出なかった。
伊代はいつも携帯電話を手もとに置いていて、
掛かってくると即座に応対するタイプだ。
なにか取り込み中だったとしても、伊代の性格からして
鳴っている携帯をそのままに放置できるとは思えない。
考えすぎだろうか?
だけど胸騒ぎがする。
心配だ。
三宅さんについて調べよう。
そう思った時には、僕の足は自然に速まり、
いつしか駆け出していた。
三宅さんの悪意と嘘。
真偽を確かめねばならない。
でも、どうやって確かめればいい?
特別な力のない人間には、心の中を窺い知ることなんてできない。
それなら行動を追うしかないだろう。
【智】
「三宅さん……」
記者だと名乗っていたが、記事はネット上のものしか
僕らは確認したことがない。
そういえば、三宅さんは一度も名刺を出さなかった。
いったいどこの会社で原稿を書いているのかもわからない。
住所も知らない。
フルネームさえ聞いたことがなかった。
考えれば考えるほど、さまざまな情報が意図的に隠蔽されて
いるような気がしてきた。手がかりがない。
【智】
「そうだ、電話は……?」
携帯を開いて、三宅さんから掛かってきた時の
着信をチェックする。
……すべて非通知になっていた。
発信者非通知設定をして掛けてきているのか、
それとも公衆電話から掛けているのか……。
三宅さんへお披露目会兼、歓迎会への招待の電話を掛けたのは
こよりだった。こよりは三宅さんの番号を知っている。
これらが意味することは……。
ますます不安がつのる。
が、いずれにしても電話を掛けるすべもないことが
わかっただけだった。
あてもないのにじっとしていることもできず、
街の中をひとり闇雲に巡った。
当然、三宅さんも伊代もこよりも見つからない。
歩き疲れて立ち止まったところで
「ペットの迷子、浮気調査、人捜し」と書かれた看板が目に入った。
いざとなれば興信所に……?
だめだ。
そんなお金は用意できそうにない。
では警察に?
いや、まだ三宅さんは何かをしたわけじゃない。
民事不介入の警察は助けにならないだろう。
警察が動いてくれる時はすでに何かが起こったあと……
それではもう遅すぎる。
そう理解しながらも、行く先の定まらない足は
警察署に向いていた。
【智】
「こんなところに来てもどうしようもない。
こよりに……電話を……」
携帯を取り出したところで、
警察署から出てくる靴音に意識が向いた。
しきりにメモを取りながら、
早足でかかとの音を高く響かせる女性。
年のころは30代前半だろうか。
控えめに女性を主張するファッションに、
比較的歩きやすいヒールの短い靴。
記者だ。
直感的にそう思った。
【智】
「あの、すみません。記者の方ですよね?」
【女性記者】
「え……そうだけど、何か?」
個人個人の仲が友好的かは別として、
記者というものは横の繋がりが広いと聞く。
他に手はないし、三宅さんのことを聞いてみよう。
【智】
「急に呼び止めてすいません。
少し教えていただきたいことがあって」
【女性記者】
「はい?」
取り出しかけていた携帯を開いて写真を表示させる。
溜まり場で集合写真を撮った時、不意打ち気味に茜子が撮った
1枚目の写真だ。
デタラメな写真と思いきや、
それは三宅さんの顔だけを的確にアップで捉えていた。
茜子はあの携帯のカメラを構える時に、
三宅さんの悪意に気づいたのかもしれない。
【智】
「この記者の人……名前は三宅と言います。
この人のこと、何かご存知ないですか?」
【女性記者】
「……あら、どうしてあなたみたいな子が、三宅のことを?」
【智】
「知ってるんですか!?」
【女性記者】
「ええ、知ってるわ。三宅康博、28歳。フリーの記者。
他にもいっぱい知ってるわよ?」
【智】
「教えてください!」
話を請うと、女性記者は今までの三宅さんへの不満を
一気に吐き出すようにぺらぺらと三宅さんの悪評を喋り始めた。
【女性記者】
「記者仲間での評判は最低。
ヘラヘラ笑いながら平気で次々嘘をついて、
事件の取材では隙あらば関係者に強請りをかける」
【女性記者】
「報道規制を無視して警察に止められた記事をスッパ抜いたせいで、犯人が逃げてしまったこともあったわね」
【女性記者】
「噂じゃあのときは犯人と繋がりがあって、犯人を逃がすためにわざと記事で警察の情報を流したんじゃないかって言われてるわ。あいつのことだから、それぐらいやりかねないわ」
【女性記者】
「最近は『ピンク』とかいう女の子たちのチーマーみたいなのの
記事をよく書いてたけど……あの子たち今ごろ、犯られちゃってるかもね」
【女性記者】
「あら……? もしかしてあなた、『ピンク』のメンバーの子
じゃないの?」
【智】
「そ、そうです! 友達が危ないかもしれないんです!」
この人の言葉をそのまま鵜呑みにすることは出来ないけど、
茜子の感じた「嘘と悪意」が本物だということは確信できた。
こよりが、伊代が……危ない。
携帯のディスプレイに映っていた三宅さんの顔が消え、
着信画面が映し出された。
【智】
「すいません、出ます」
【女性記者】
「ええ」
花鶏からだ。
【智】
「もしもし。花鶏?」
【花鶏】
『ついさっき、こよりがあの記者のオヤジに肩を抱かれて駅前の
ホテルに入って行くのを見たわ』
【智】
「ええっ!? どうして止めてくれなかったの!?」
【花鶏】
『それはあんたの役目でしょ!
入るのを見たのはたった今よ。急げばまだ間に合うかもね』
【智】
「…………ありがとう、花鶏」
【花鶏】
『こんなことなら、さっさとこよりちゃん、喰っとけばよかったわ。それじゃ』
それだけ告げて、花鶏は一方的に電話を切った。
暗に急げ、と言ってるのだろう。
【女性記者】
「なんか、大変なことになってるみたいね」
【智】
「友達が危ないんです。僕、行かなきゃ!
あの、ありがとうございました」
【女性記者】
「どういたしまして。アイツ、シメちゃってよ」
【智】
「そのつもりです」
記者の女性に礼を告げ、僕は花鶏に聞いたホテルに向けて走った。
どんな事態になってるかわからない。
るいか惠に応援を求めるか?
だが、電話を掛ける時間も惜しかった。
人通りの増え始めた土曜日の夜の街を、人をかき分けて走る。
間に合うか?
違う――――
【智】
「間に合わせるッ!」
件のホテルはすぐに見つかった。
ビジネスホテルとシティホテルの境界あたりに分類される、
比較的大規模のホテル。
息を整える暇も惜しんで、エントランスに飛び込んでロビーへと
向かう。
【智】
「はぁ……はぁ……はぁ……! こより……!」
息苦しいけど、そんなのかまってられない。
少しでも休んだりしたら、こよりはその間に僕よりも
もっと苦しくて辛い目に合わされてしまうかもしれないのだ。
間に合わなかったら、というネガティブな考えは、
走ってるうちに切り捨ててきた。
唾を飲み込んでむりやり荒い息を抑え、フロントの係を捉まえた。
【智】
「すいません、三宅康博という人がどの部屋に泊まってるか教えてもらえませんか!?」
【フロント係】
「申し訳ありません。そういった事はお教えするわけには……」
【智】
「急いでるんですッ!」
【智】
「……い、いや、すいません」
激しそうになる自分を諌めて冷静になる。
1秒を惜しんで1分を無駄にしていては意味がない。
【智】
「康博さんとは友人なんです。泊まってるからおいでって言われたんですけど、部屋番号は聞き忘れるし電話は繋がらないしで……」
【フロント係】
「………………」
露骨に僕を訝る目。
無理もないだろう。
【智】
「あ、えーとホラ。この写真見てください。この男の人です。
僕の後ろに立ってる人」
わざと思い出したフリをして、溜まり場での集合写真を見せた。
これで友人だと言うことを信じてくれるだろうか。
【フロント係】
「……ああ、これは失礼しました。三宅様なら505号室にご宿泊なさっております。必要でございましたらここからお呼び出しの放送をすることも出来ますが?」
【智】
「ああ、いえ。直接行きますので。ありがとうございました」
5階。
ちょうどエレベーターのドアが閉まるところだった。
飛びつくようにボタンを押してドアを開ける。
上昇するエレベータの中で呼吸を整え、拳の握り具合を確かめた。
【智】
「こより……今行くから……!」
エレベーターを出た隣が508号室、
三部屋先に505号室はあった。
ひとつ咳払いをして声帯の調子を確かめる。
ドアを軽くノックしたあと、
ぐっと喉に力を入れて男っぽい声を出した。
【智】
「ルームサービスです。
ご注文の軽食セットをお届けに上がりました」
【三宅】
「はぁ? んなもん頼んでない!」
憎悪に血管が浮き上がる。
部屋の中から聞こえた三宅さんの声は、
調子も口調もまったく違ってた。
ずっと僕らは騙されていたんだ。
【こより】
「助けて! 助けて下さい! 助けて!!」
【智】
「こよりっ!!」
中からこよりの助けを求める声が聞こえた。
こよりがここにいる!
【智】
「クソッ! 開けろ! ここを開けろ!」
どれだけ乱暴にドアを叩いても、それが開くはずはない。
ドア1枚を隔てた向こうで、
こよりが助けを求めているというのに。
【三宅】
「お、お前は誰だ!? ホテルの人間を呼ぶぞ!?」
【智】
「呼んでみろよ!!」
ドアの向こうからは争う物音が聞こえる。
ここは5階だ。窓からの侵入は無理。
施錠はオートロックで鍵はカードキー。こじ開けるのも無理。
どうにかしてこのドアを開けるすべはないのか……?
【こより】
「助けて下さい! お願いします!
この男の人に襲われてるんです! 助けて! 助けてっ!」
【三宅】
「黙れッ!」
【こより】
「きゃぅッ!」
【智】
「こより!!」
こよりに手をあげたのか!?
【智】
「開けろぉッ!!」
【三宅】
「うるせえッ!」
【伊代】
「んんーーッ!!」
【三宅】
「うわっ!? こ、こいつ! いつのまに」
【こより】
「伊代センパイ!?」
伊代もいる!
声からして猿轡をかまされているのだろう。
ドタドタと激しく争う物音が聞こえるが、
どうすることも出来なかった。
伊代はおそらく縛られている。
二人にこのドアを開けられるか……!
歯噛みして、手に浮いた汗を握り締める。
【智】
「こより! なんとかここを開けて!!」
【こより】
「ともセンパイ!? ともセンパイなんですか!?」
【三宅】
「こいつ……! 邪魔するなッ!」
【伊代】
「んぐぅっ!」
【智】
「伊代!」
頼む、こより……!
このドアを!
【こより】
「い、今開けます!」
【三宅】
「このガキ!!」
一歩身を避けると、駆け寄る足音と共にドアが開かれた。
内側からはガードアームを外すだけで開くオートロック・ドアが
幸いしたのだろう。
【こより】
「ともセンパイ!!」
【智】
「こより!」
飛びついてくるこよりを抱きとめて、ついに三宅と対峙する。
もう、『三宅さん』なんて呼ぶ必要はない。
こいつは悪徳記者の、人間のクズの三宅だ。
伊代は猿轡の他に手足も拘束されていて、
殴られたのかベッドに倒れかかっていた。
【伊代】
「んん……」
うめき声を上げる。どうやら意識はあるようだ。
あの姿で三宅に応戦してくれた伊代に感謝したいが、
すべては後だ。
【三宅】
「な、なんだよ、オマエかよ。驚かせやがって」
二人に着衣の乱れはない。
まだ何もされてはいないだろう。
僕は間に合ったんだ。
後はもうこいつを黙らせるだけだ……!
【三宅】
「へへ、小娘が3人になったところで何が出来る?
オマエもついでに犯して……」
【智】
「黙れ!」
開き直ってヘラヘラと笑うその顔に、
躊躇なく、腰を入れた拳を叩き込む!
【三宅】
「ぐわぁッッッ!!」
殴った自分でもびっくりするぐらい勢いよく、
三宅が吹っ飛んだ。
【智】
「絶対、許さない……!!」
部屋の中へ飛び込み、追い打ちをかける。
僕はもう、完全に頭に血が上っていた。
僕が我を取り戻したのは、顔面パンチのあと、数発のケリを入れて、
三宅が身動きとれなくなってからだった。
【智】
「伊代、大丈夫?」
伊代の猿轡を外し、拘束も解いてあげた。
【伊代】
「くは……。はぁ……はぁ……、ありがとう」
地面に転がっていた三宅は、伊代を縛ってた拘束具を使って
身動きがとれないようにふん縛る。
僕を女の子と侮っていたからか、
あるいは僕の怒りが頂点に達していたからか……。
いくら不意打ちとはいえ、
『大人』の男の人相手によく勝てたと思う。
【三宅】
「く、くそ……! オマエらどうするつもりだ!?」
ようやく動けるようになってきたのか、
往生際の悪さを見せる三宅。
【智】
「さぁ、どうしよう?」
【こより】
「ともセンパイ……、ともセンパイ……」
こよりはさっきからずっと僕の腕にぎゅっとしがみついて、
まったく離れようとしない。
そんなこよりを、僕はもう退けなかった。
こんな事態が起こったのは僕のせいだ。僕が遠ざけたりしたから、こよりはこんな危険な目に遭ってしまったんだ。
こよりが昔のことを思い出して記憶が戻れば、
僕の命が危ないのはわかってる。
だけどもう、僕はこよりを危険な目に遭わせたくなかった。
【三宅】
「オマエら……こ、これは立派な傷害罪だぞ! 俺にはコネもあるから、オマエらを犯罪者にすることだって出来るんだからな!!」
【智】
「うるさいよ!!」
【三宅】
「ひッ!」
顔面すぐ横の床を強く蹴りつけて、三宅を威圧する。
こういう手合いは、いくら暴力で
痛めつけたって、なかなか反省しない。
いつまでも根に持って、いつか仕返ししようと隙を窺い続けるに
違いない。
ならば、二度と僕たちに手出しする気を無くさせてやる。
【智】
「バッグの中に薬品が2種類ほどあったよ。違法のものだよね?」
【三宅】
「そ、そんなもん、金さえ出せば誰でも買える!」
【智】
「へぇ……。でも没収しとく。指紋もついてるだろうし」
【三宅】
「そ、そうだ! オマエら俺と手を組めよ!
オマエらの特別な力と、俺のコネがあれば……!」
この男は何を言ってるんだろう。
手を組め?
バカにするのもいいかげんにして欲しい。
冷めた目で見下す。
【智】
「……そうだよ。
僕らに特別な力があるのを、あんたはよく知ってるよね?」
【智】
「覚えとけ! 僕らはあんたみたいな人間のクズを社会から
抹殺するのなんて容易いんだ!!」
【伊代】
「わたしがあなたの違法取引の証拠や個人情報をハックして、
あらゆる新聞社や雑誌社に流すから。もう記者としては生きて
いけないと思ったほうがいいわ」
【三宅】
「う……そ、そんな……!」
【智】
「こよりはあんたの筆跡を完全にコピーできる。嘘のサインで
契約を結んで、5千万ほど借金を作ってあげようか?」
【こより】
「………………」
【三宅】
「や、やめてくれ! そんなことされたら、どうやって生きて
いけばいいんだよ! 死んじまうよ!」
手足を拘束されたまま、床に転がって命乞いをする。
醜い姿だった。
こんなヤツを親切な人と慕っていたなんて……。
【智】
「……二度と僕らの前に顔を見せるな。記事も書くな」
【三宅】
「わ、わかった! 約束する! だから許してくれ、お願いだ! 金も出す! いくらだ? いくら欲しい!?」
【智】
「欲しくなったら自分で取るからいいよ。
……行こ、こより、伊代」
【こより】
「ともセンパイ……」
【伊代】
「そうね。顔も見たくない……」
なおも騒ぐ三宅に薬品を嗅がせて拘束を解くと、
僕たちはホテルの部屋を出た。
ドアノブには「起こさないでください」のプレートを吊しておく。
目が覚めたら勝手に逃げ出すだろう。
【智】
「さぁ……帰ろう」
小刻みに震えるこよりの手を、強く握りしめた。
〔あの時の王子様〕
【智】
「本当に大丈夫? 伊代、無理しないほうがいいよ」
【伊代】
「わたしは大丈夫。
ほとんど寝てただけだし、服も脱がされてないし……それより
今は、その子についててあげて」
【こより】
「伊代センパイ……」
ホテルを出てからの帰り道、こよりはずっと僕の腕にすがりついて離そうとしなかった。
瞳は揺れて僕を見上げ、時折かすかに震えている。
ホテルでの恐怖が、遅れて何倍にもなって戻ってきたのだろう。
伊代のほうだって、表面上は平気な素振りをしているけど……。
あんな目に遭って平気なはずがないのに、こよりの状態を見て
強がってみせてるに違いない。
さりげなく気を使ってくれる伊代に、
僕は心の中で何度も礼を告げた。
【伊代】
「あ、わたしの家、ここだから。送ってくれてありがとう」
【智】
「ううん、当然だよ……ゆっくり休んでね」
【伊代】
「ええ、まだ薬の眠気が少し残ってるから、すぐに寝るわ。
それじゃあ、助けに来てくれてありがとう。本当に助かった」
【智】
「うん、じゃあまた。
元気になったら溜まり場にも顔を出してよ。
みんなには僕から電話しとくから」
【伊代】
「ええ、わかったわ。じゃあ」
そう言って、伊代は家の中へと入っていった。
こよりはなおも僕の腕を離そうとしない。
【こより】
「んぅ…………、ともセンパイ……」
このままこよりを一人にすることなんて、出来なかった。
僕は意を決して、こよりを誘った。
【智】
「こより……。僕の部屋、来る?」
【こより】
「……ほ、ホントですか……! 行きます、行きます!
嬉しいです、ともセンパイ……!」
泣きそうな声を出して、僕の腕に全身を擦りつけるように
しがみついてくる。
肌を通して伝わってくるその体温が、
今はたまらなく愛おしい。
【智】
「じゃあ、行こう。
落ち着くまでずっと一緒に居てあげるから」
【こより】
「は、ハイ!」
もはや呪いへの恐怖など消えていた。
僕が今望むこと、それはこの僕にすがる小さな少女の心を癒し、
守ることだけだった。
部屋に着いても、こよりは僕の腕を離そうとしなかった。
まるでこれを離した瞬間、何もない孤独な空間に
取り残されてしまうとでも言うかのように。
【智】
「こより、大丈夫?」
【こより】
「ハイ……」
こよりは僕の問いかけに対して最小限の言葉で答えるだけで、
それ以上は何も言おうとしなかった。
二人並んで、部屋の壁にもたれる。
こよりはただひたすら僕の体温を求めるだけだ。
静寂に耐えられなくなって、僕は花鶏と茜子に
お礼の電話をしてないことを思い出した。
【智】
「あ、そだ。花鶏と茜子に電話するよ。
僕があそこへ行けたのは二人のお陰だから」
【こより】
「ん……ハイ。ともセンパイ」
【智】
「こより、ちょっと携帯を出したいんだけど」
【こより】
「あ……!」
ポケットから携帯を取り出そうとわずかに腕を動かしただけで、
こよりがビクッと震える。
ホテルでの恐怖と相まって、再び突き放されることをこよりは
極度に恐れている。
【智】
「ん、わかった。そのままでいいよ」
【こより】
「あう……、ごめんなさい」
【智】
「大丈夫。こよりが落ち着くまで、とことん付き合うからさ」
【こより】
「…………」
反対側の腕でなんとかポケットから携帯を取り出すと、
僕は二人へ電話を掛けた。
二人への電話は、すぐに終わらせた。
必要最低限の無事の報告だけして「くわしくはまた今度」と
電話を切る。
僕の意識が少しでも他に向くと、こよりが潤んだ目で見つめて
くるから、長い話は出来なかったのだ。
花鶏も茜子も、異口同音に「心配などしていなかった」と言って
たけど、そんなはずはない。
電話越しに聞こえる声の端々には、心からの安堵がこぼれていた。
自分たちに電話などするより、
隣にいる少女のことを気に掛けてやれ――
そう言われた気分だった。
【智】
「こより」
【こより】
「……っ!」
ずっと僕の腕にすがりついているというのに、僕が頭を撫でて
あげようと軽く触れただけで、こよりは過敏に反応した。
【智】
「……大丈夫?」
【こより】
「は、ハイ……」
それきり、こよりはまた黙ってしまう。
仕方ないので、僕もこよりと同じ方を向いて壁にもたれかかった。
【智】
「………………」
【こより】
「………………」
静かな部屋の中、こよりと僕の息遣いだけが聞こえる。
すがりつく腕越しに、高めの体温と鼓動までもが感じ取れた。
確かに言葉などいらないのかもしれない。
【智】
「………………」
【こより】
「………………」
こよりが肩に頭を預けてくる。
僕もこよりの方に首を倒し、その柔らかな髪の感触を頬に感じる。
こよりからは甘い香りがした。
小夜里さんのコロンと同じ香り。
誕生日に貰った香水をつけてみたのだろう。
こよりの小さな冒険、『大人』への背伸びは、
手ひどい裏切りによって滅茶苦茶にされた。
結果を思えば、今こよりから香るこの芳香は痛々しい。
【こより】
「…………やっぱり」
【智】
「え?」
【こより】
「やっぱり、『大人』は信じられません…………」
【智】
「こより……」
やっとこよりが自分から呟いた言葉がそれだった。
かつて姉に見放され、一度は僕に突き放され、
そしてアイツに裏切られ傷つけられた。
傷だらけの少女が辿りついた結論が、その一言だ。
【智】
「こより……!」
【こより】
「あ……、ともセンパイ……」
堪らなくなって、僕はこよりに捉えられたその腕ごと
こよりを引き寄せて、強く抱きしめた。
大切な少女の髪を優しく撫でる。
『大人』になろうと背伸びして傷つくなら、
いつまでも『大人』になんてならなくていい。
『子供』のままでいい。
こよりが誰かに依存することでしか生きていけないなら、
ずっと僕がその役目を引き受けよう。
【智】
「こより……大丈夫だよ。僕がずっと……
ずっとずっとそばに居てあげるから……」
【こより】
「………………」
腕の中のこよりが僕の目を覗き込んでくる。
不安、悲しみ、疑い……。
そんな色が、こよりの目の中に見える。
自分から求めてすがりつくのは安心できるが、
相手から引き寄せられ抱かれることには不安を覚える……。
純真な少女の瞳を猜疑に染めた三宅が憎かった。
【こより】
「……ともセンパイ、無理しないで下さい」
【智】
「え……?」
【こより】
「ともセンパイも、こんなダメな鳴滝を慰めてるより、惠センパイと居たほうがホントはいいんじゃないですか……?」
【智】
「そ、そんなことは……」
【こより】
「ウソなんてつかなくてもいいです。離してください」
こよりが僕から離れようと、身をよじり始めた。
そうか……まだ誤解を解いていないのをすっかり忘れてた。
【智】
「ダメだ、こより、離すわけにはいかないよ」
【こより】
「もう、いいですから……。鳴滝は一人で、大丈夫ですから……」
やっとこよりがちゃんと喋ってくれた。
それだけで僕は嬉しくなって、こよりをより強く抱きしめる。
【智】
「ううん、離さないよ。だってそれは誤解だから」
【こより】
「……誤解って……?」
【智】
「あいつに何を吹き込まれたのか知らないけど、僕と惠は別に
付き合ったりなんてしてないよ。 それに、ふふっ……」
【こより】
「え? ど、どうしたんですか? ともセンパイ!?」
【智】
「惠って……女の子だよ。あんなカッコしてるけどさ」
数拍おいて、こよりの目がゆっくり見開かれた。
驚いた小動物みたいだ。
【こより】
「え……ええ〜っ!?
そ、そんな、そんなの一度も聞いてませんよう!」
【智】
「ごめん。ホラ、普通は人を紹介するときに、
わざわざ性別なんて言わないしさ」
【こより】
「そ、それはそうですケド」
【智】
「間違いないよ。るいもそのことは知ってるから、信用してよ」
【こより】
「あう……ハイ……」
おとなしくなったこよりを再び抱きしめる。
今度こそこよりは、素直に僕に甘えてきてくれた。
【智】
「僕はこよりを誰よりも大切に思ってるよ。
もう絶対、冷たくしたりしないから。ずっと一緒だから」
【こより】
「ともセンパイ……!」
こよりはしがみついていた僕の腕を離し、
僕の体を這い登るようにして、首へ腕を回してきた。
いくら姉妹でもさすがにこれは近すぎなんじゃないの……
と思い始めたとき、こよりが言った。
【こより】
「ともセンパイ。惠センパイは女の子だからともセンパイと
付き合うことはない……ってさっき言いましたよね?」
【智】
「うん? 言ったけど……?」
【こより】
「だとしたらわたし、少しおかしいのかも知れません」
【智】
「え……」
こよりが、そのまま顔を寄せてくる。
友達の距離を越えて姉妹の距離、姉妹の距離をさらに越えて……。
こよりが目蓋を閉じた。
それはキスの距離だ。
僕は……拒まなかった。
【こより】
「ん……」
【智】
「……」
こよりの唇は、クリームで出来た洋菓子のように甘くとろけて
僕の頭を痺れさせる。
唇をついばみ合うことさえしない、
何度も唇の表面を擦り合わせるだけの幼いキス。
【こより】
「ん……ともセンパイ……、……ん……」
だけど、その小さな面積のふれあいは、
僕らに大きな影響をもたらした。
記憶。
忘れかけていた、忘れようとしていた邂逅の記憶が
奔流となって流れ込んでくる。
おそらく今この時、僕とこよりの心は唇で接続されて、
過去の同じ記憶を見ていた。
幼い日の記憶。
住宅地の只中の公園。
姉に突き放されて一人、公園で泣いていた少女。
灼熱の太陽が照りつける真夏の昼間だった。
クラクラするような暑熱と、耳を聾する
アブラゼミの合唱が現実感を狂わせる。
そこに、一人の『少女』が現れた。
呪いのせいで自らを偽り続け、自分を見失いかけた『少女』。
幼き日、二人はそこで確かに出会った。
【智】
「こんにちは……。どうしてないてるの……?」
【こより】
「えぐ、うぅ……ひっく、うんん……ぐす……」
【智】
「だいじょうぶ? なかないで」
【こより】
「ふえぇ……! あう……おねえちゃんがぁ……」
【智】
「おねえさん? きみのおねえさんがどうかしたの?」
【こより】
「おねえちゃんが……もう、ついてくるなって……
ひっく、うぅ……えぐ……あうぅ」
【智】
「ひとり……なんだ」
【こより】
「ううぅ、おねえちゃん……」
【智】
「ぼくもさ、ひとりなんだ。ともだちになろうよ」
【こより】
「ともだち……?」
【智】
「うん。ぼくは『とも』。きみは?」
【こより】
「こより……」
【智】
「そっか。じゃあ、こより、これからなかよくしようね!」
【こより】
「………………うん!」
それから人気のない公園で二人っきりで遊ぶようになった。
年下のこよりの遊びに合わせるのは簡単じゃなかった。
それでも、この少女といるときは、
自分を無理に偽らなくていい分、気楽だったのだ。
【こより】
「そういえば、ともはどうしておんなのこなのに、
じぶんのこと『ぼく』っていうの?」
【智】
「それは……」
【こより】
「おしえて? ねぇ、おしえてっ?」
この少女になら教えてもいいと思った。
孤独を分かち合って過ごす大切な友達を、騙し続けるのは
嫌だった。
【智】
「それは……、りゆうがあってこんなかっこうをしてるけど、
ぼくはほんとうはおとこのこなんだ」
【こより】
「え……ほんと!」
【智】
「ほんとだよ」
【こより】
「じゃあわたし、おおきくなったらとものおよめさんになる!」
【智】
「ええっ!?」
幼い『こより』はまだ、結婚というものの意味をちゃんと理解して
いないようだったけど、『とも』は少女の素直な好意が嬉しかった。
【智】
「……わかった。じゃあ、おおきくなったら、けっこんしようね!」
【こより】
「やくそくだよっ!」
【智】
「うん!」
真昼の公園で小さな小指同士が絡み、幼い約束を結んだ。
この時『とも』は、この少女となら未来を共に過ごせると
確かに思った。
──しかし。
直後に僕は、束縛を破ったせいで
呪いによって生死の境をさ迷うことになる。
死の淵で見た恐ろしい影の記憶。
恐怖のあまり、心が記憶を拒否した。
僕は、公園に行かなくなった。
そのまま、『少女』と少女は離れ離れになる……。
唇を離した瞬間、こよりはぱっちりと目を開いた。
【こより】
「あ、あの……! ともセンパイ!!」
【こより】
「鳴滝、思い出しました! ぜんぶ思い出しました!
ともセンパイは、ともセンパイは……っ!」
【智】
「こより、ダメ!!」
止められない。
今さら止めてももう遅いのか。
幼いあの日、少女に秘密を明かしてしまった時から、
僕の運命はもう定められていたのか。
幼くして死ぬはずだった僕に、
呪いはわずかな猶予を与えたに過ぎなかったのか。
もう、どうしようもない……。
【こより】
「ともセンパイは、あの時の……わたしの大好きだったお兄ちゃんですよねっ!?」
突然の激しい羽音に、こよりも僕も気をとられた。
窓の外、どこからか飛び立った沢山のカラスの羽音が
一瞬部屋の中の空気を震わせた。
今のは呪いの警告だろうか。
再び束縛を破った僕に対する死の宣告なのだろうか?
呪いを破ってしまった。
僕は、死ぬかもしれない。
【智】
「こより、聞いて欲しいことがあるんだ」
【こより】
「ともセンパイ……?」
キスの興奮で頬を染めたこよりが可愛かった。
今初めて僕は、こよりを妹としてではなく一人の女の子として
強く意識している。
長い時を経て、再びめぐり合った大切な少女。
その少女と築くべき未来を、僕は奪われようとしている。
【智】
「こよりの言う通り、僕は本当は男の子だよ。
それにあの公園で昔こよりと約束をしたのも僕」
【こより】
「よ、良かったです! それならわたし……!」
こよりの嬉しそうな声が辛かった。
再会と共に僕は別れを告げなければならない。
こよりの顔を見るのが辛くて抱きしめた。
【こより】
「あ……ともセンパイ……。嬉しいです……」
【智】
「こより、聞いて。
僕がどうして女の子のフリをしていたのか。
どうしてみんなを騙しつづけないといけなかったのか」
【こより】
「……?」
驚いて顔を見ようとするこよりを、強く抱きしめて離さない。
こよりの顔を見てしまえば、真実を告げようとする意志が
挫けそうだった。
この命のあるうちにすべてを話さなければならない――
【智】
「呪いだよ。ずっと秘密にしてた僕の呪いは、『本当の性別を知られてはならない』というものだった。だから僕は女の子の格好をして生活していたんだ」
【こより】
「え、そ、それじゃあ……」
【智】
「うん。僕は今、呪いを踏んだ。
僕はたぶん……死ぬと思う」
苦渋を搾り出すように真実を告げると、
僕は抱きしめていた手を緩めた。
【こより】
「そ、そんなぁっ!」
僕を見上げるこよりの目は、すでに涙に潤んでいる。
【こより】
「や、やっと会えたのに! 小さい頃、落ち込んでた鳴滝を元気
づけてくれた、大好きなお兄ちゃん……!」
【こより】
「すぐに会えなくなって顔とか名前とかは忘れちゃったけど、
ずっと結婚してくれるって約束だけは覚えて信じてました。
わたし、いつかきっと迎えに来てくれると信じてたんです!」
【智】
「こより……」
【こより】
「だからその日からは明るく生きようと決めました。お兄ちゃんが迎えにきてくれたとき、落ち込んでたら嫌われちゃうと思って……! お兄ちゃんはわたしの王子さまだったんです!」
【こより】
「わたしのこと妹みたいに可愛がってくれるともセンパイがいて、そのセンパイの正体があの時の王子さまで……なんだかおとぎ話みたいで……魔法みたいで……!」
【智】
「………………」
【こより】
「キス……して、抱きしめられて……すっごくすっごく嬉しかったのに! もうすぐ呪いで死んじゃうなんて……、そ、そんなのあんまりです! ともセンパイぃ……」
【こより】
「な、なんとかしてください! いつも頭のいいともセンパイが
みんなを助けてくれるみたいに、なんか、なんか……!
ふえぇぇ……」
こよりの目に溜まっていた涙は、ついに表面張力の限界を
超えて流れ出した。
こよりの顔がすぐに涙でくしゃくしゃになる。
【智】
「僕だって死にたくないよ……。だけど、こればかりは、
どうしていいのかもわからない……」
【こより】
「そんなぁ……、イヤですよぅ……! えぐ、うぅ、ともセンパイが死んじゃうなんて、イヤですよう……! ひぇんぱいぃ……、うええぇぇぇぇぇぇ…………」
【智】
「………………」
【こより】
「うわあぁぁぁぁぁぁ……! ああぁぁぁぁぁぁ…………っ!
ともセンパイ、センパイぃ……!!」
【智】
「……こより、愛してる」
【こより】
「わあぁぁぁぁぁぁぁ……っ! うわあぁぁぁぁぁ……!!」
泣きじゃくるこよりを優しく胸に抱きしめた。
僕だって辛いけれど、涙を流すのは堪えた。
僕はこよりの王子さまなんだから。
死ぬのはもちろん嫌だけど、
それよりもこよりを残して去ることが耐えられない。
……なんとか、生き延びてみせる。
大切な少女の温もりを全身で感じながら、僕はそう心に強く
決意した。
【こより】
「うわあぁぁぁぁ……っ! ああぁぁぁぁぁぁ……!」
【智】
「こより……!」
だけど、その決意を約束として口にすることまでは出来なくて……。
僕はただ、こよりを強く胸に抱きつづけた。
〔よくなつきます〕
首から十字架、お守り、数珠、鏡、さらには怪しげな魔除け人形を
ぶらさげて、ベッドの上にちょこんと座らされた。
ベッドには台所にあったハーブの中から、魔除けっぽい香りのする
葉っぱがいくつか置かれてある。
ベッドの周りにはもちろん盛り塩。
そして、そんな大魔除け祭なベッドの周りを周回警護するのは、
こより。
頭にナベをかぶり、右手に包丁、左手にアイロンを構えた
戦士スタイルだ。
【智】
「こより〜、ベッドから降りていい?」
【こより】
「だ、ダメですよう! おトイレだったら仕方ないですケド……!」
【智】
「ちょっと喉渇いたから、お茶かなんか飲みたいなって」
【こより】
「鳴滝に任せてください!」
こよりがすっ飛んでいって、冷蔵庫からペットボトルの紅茶を
持ってくる。
もう数日こんな生活をしていた。
こよりは、電話こそ一応入れたものの、家にもずっと帰っていない。
もちろん呪い対策だ。
この中のどれが効果を発揮しているのか、それともどれも
効果を発揮していないのかわからないけれど、とにかく僕は
まだ生きていた。
【智】
「んく……んく……。はふ、ありがと」
【こより】
「いえ! ともセンパイの為ですもん!」
だけど、そろそろこの生活も疲れてきた。
慣れとは恐ろしいもので、こんな滑稽な状況で数日間生活を
していると、呪いによる死への恐怖も麻痺してきてしまうのだ。
今の僕には、呪いへの恐怖より、むしろベッドに座りっぱなしで
体が痛いことのほうが重要な問題だった。
【智】
「ふぅ……ねぇ、こより」
【こより】
「今度はなんです!? 鳴滝、ともセンパイの為だったらなんだって用意しちゃいますから! 何でも言ってください!」
【智】
「いやさ、これ……もういいよ」
そういって首に掛けられた大量の魔除けグッズを外す。
特に鏡と謎の人形が重くて、首が凝って仕方なかったのだ。
【こより】
「あああっ!? だ、ダメですよう!
いつどんな風に呪いが来るかわからないんですから〜っ!!」
守られる立場から一転、守る立場に立ったこよりは、
思いのほか強かった。
こんな可愛らしい少女にも、
母性本能というやつがある証拠なんだろうか。
ただただ僕の腕にすがって泣いていたのが嘘のように強い
意志を持ってどんどん行動し、実際の効果はどうあれ、
現在のこの厳重警戒態勢を作り上げたのだ。
今も、僕の一見軽率な行動も叱ろうとしてくれている。
だけど、僕だってちゃんと考えているんだ。
【智】
「こよりが僕のこと、必死で守ろうとしてくれてるのはすごく
嬉しいよ。でも、ちょっと思いついたことがあるんだ」
【こより】
「あ……あ……諦めたりしないで下さいね!? ともセンパイが
死んじゃったら、鳴滝も死んじゃいますからっ!」
【智】
「大丈夫、そうじゃないから。これは僕の仮説なんだけど……」
【こより】
「うい?」
【智】
「昔、こよりとあの公園で、その……約束したことがあったよね」
【こより】
「ハイ! 鳴滝はともセンパイと結婚の約束をしました!」
僕が恥ずかしくてぼやかしたところを、わざわざ復唱してくれる。
恥ずかしいけど、こよりの真っ直ぐな好意は嬉しかった。
【智】
「あの時、僕はこよりに秘密を明かした。つまり一度呪いを踏ん
だんだ。詳しくは覚えてないけれど、あのあと僕は呪いで死に
かけてる」
【こより】
「えっ! そ、そうだったんですか……!」
【智】
「その時はお父さんとお母さん……あと誰かに助けてもらった気がするんだけど、とにかくその時に、こよりはすでに僕が男であることを知ったはずなんだ」
【こより】
「……どういう意味です?」
【智】
「忘れていただけで、僕はこよりとの間ではすでに一度呪いを
踏んだっていう事実があるでしょ?」
【智】
「つまり、僕の呪いは『本当の性別を知られる』こと自体が
アウトで、すでにバレている相手にもう一度知られたとしても、
それはセーフなのかもしれない」
【智】
「だからこないだバレちゃっても、実はもう大丈夫だったんじゃ
ないかな」
【こより】
「つまり、ともセンパイの呪いは相手が一人につき一回しか発動
しない……ってコトですか?」
【智】
「たぶん……だけどね。あくまで推測」
【智】
「知られた瞬間に呪いが発動するみたいだし、もう知ってる相手には『バレる』ことはないんじゃない? でないと、母さん相手とかにも発動するでしょ?」
【智】
「すでに知っていたら関係ないんじゃないかって。こよりは
『知った』んじゃなくて『思い出した』だけだからね」
【こより】
「ほわ……なんかナットクできる気もします!」
【智】
「これだけ経ってもなにも起こらないんだから、もう平気だよ。
きっと……ううん、絶対大丈夫」
大丈夫……その言葉は、こよりに言い聞かせるとともに、
自分にも向けた言葉だった。
【こより】
「ホントに……ホントに……、もう大丈夫なんですよね!?
ともセンパイ死んじゃったりしないですよね!?」
【智】
「大丈夫だよ。だから……おいで、こより」
【こより】
「は、ハイっ! 大好きです! ともセンパイっ!!」
盛り塩もハーブも蹴っ飛ばして、
こよりが僕めがけて飛び込んでくる。
包丁もアイロンも持ったまま!
【こより】
「ともセンパイ〜っ!!」
【智】
「う、うわ! こより! 包丁! 包丁!!」
すんでのところでかわした。
もうちょっとで、呪いじゃなくこよりに殺されてしまうところ
だった。
【智】
「あ、あぶないなぁ……!」
【こより】
「えへへへ……ごめんなさい」
ナベをかぶったままの頭をコツンと叩くと、こよりは可愛らしい
舌をペロリと出した。
塩を掃除機で吸い込んで、ハーブも処分した。
お守りの類は下手に処分するとバチが当たりそうだったので、
とりあえずクローゼットに収めておいた。
【こより】
「ともセンパイ、ともセンパイっ! ごはんにします? それともお風呂にします〜?」
【智】
「こより、それよりさ……」
【こより】
「え、ええ〜っ!? それってもしかして、『わ・た・し』とか
言うヤツですか〜っ!?」
【智】
「じゃなくて!」
厳重警戒態勢は解かれたものの、こよりは未だに家に帰らず、
僕の家に寝泊まりしていた。
さすがに寝床は別だし、僕としてもこよりと一緒なのは嬉しい
のだけど、やっぱり家に帰らないのはマズいんじゃなかろうか?
【智】
「こより、家に帰ったほうがよくない? ご両親も心配してると
思うけど……」
【こより】
「いーえ! 鳴滝は帰りません!」
今までのこよりなら「帰った方がいい」と言われただけで
泣き顔を見せただろうけど、今のこよりは違う。
【こより】
「だってだって……鳴滝とともセンパイは、
ふーふでありますからっ!」
『けっこんのやくそく』をしたお兄ちゃんと運命の再会を果たした
こよりは、すっかり花嫁気分なのだった。
【智】
「あはは……。まぁ、僕もこよりと居られるのは嬉しいけど……
ちゃんと電話くらいは掛けてあげてね?」
【こより】
「ハイ! ……で、先にどっちにします? お風呂か、ごはんか、そ、それとも!?」
【智】
「それともはいいから! ん……じゃあごはんが食べたいな。
おなか空いたし」
【こより】
「サー・イエス・サー! それでは不肖、鳴滝こよりがお料理
工作兵を拝命いたしますっ!」
【智】
「え、こよりってお料理できたの?」
【こより】
「ぜんぜん!!」
自信満々なこよりの解答に、思わずずっこける。
【智】
「それなら僕が作るって。
こより、前に僕の手料理食べたいって言ってたじゃない」
【こより】
「ダメですよう! だって鳴滝はともセンパイのお嫁さんですから、お料理くらいしないといけないです」
【智】
「ムリしなくてもいいのに……。でも、せっかくだからこよりの
手料理食べさせてもらおうかな?」
【こより】
「ハイ! ともセンパイはベッドでごろごろうだうだしながら
待っててください! あ……そだ!」
【智】
「ん、なに?」
【こより】
「エプロンありません? こうヒラヒラしてて、新妻!って感じの!」
【智】
「僕、一応男の子なので、ヒラヒラエプロンは……」
【こより】
「うぐ、無念! それでは、調理作戦を敢行してくるであります!」
こよりはビシっと敬礼すると、戦陣に臨むかのように両手を握ってズンズンとキッチンへ向かった。
不安だけどちょっと楽しみでもある。
はてさて、一体どんなごはんを食べさせてもらえるのやら……?
【こより】
「完成いたしましたであります!」
【智】
「おお〜。ぱちぱちぱちぱち」
喜色満面でこよりが持ってきた大皿には……予想通りというか
なんというかな物体が乗っていた。
まず麺――たぶんパスタ。
そして、青い。
【智】
「…………青い!?」
【こより】
「さぁっ! どうぞです! 召し上がってください!」
【智】
「いや待って、その前に、これはなんていう料理……?」
【こより】
「え、料理名でありますか? う〜ん、強いて名づけるなら……
『青いファンタジー』とでも!」
【智】
「カクテル!? カクテルなの!?」
【こより】
「やっぱり主婦はこう、余りもの食材を賢く使わないといけないじゃないですか〜。だから冷蔵庫にあった残っている食材をばんばん入れてみたんですよう!」
この青は、去年の夏に買った
ブルーハワイのカキ氷シロップの色らしい。
甘いのか? スパゲッティなのに!?
そもそもあったかいよ!?
あと上に乗ってるのは何だろう……。
食べかけだったチョコと、クリームチーズと、
マヨネーズのようにかかってるのはこれ、コンデンスミルク?
【智】
「しょ、食材がこよりらしいチョイスだね……」
【こより】
「甘いの大好きですから!」
見た目はやばいが、甘いもので統一してあるなら、
頭さえ切り替えればなんとか食べられるかもしれない。
これは温かいケーキなんだ……パスタだってスポンジだって
小麦粉なんだから大丈夫、食べられる、大丈夫……。
【智】
「で、では、いただきます……」
【こより】
「ハイ!」
食べられる、食べられる、と言い聞かせながら
真っ青なスパゲッティを口に運んだ。
【智】
「ンぶふっ!!」
【こより】
「と、ともセンパイっ!?」
無理でした!
温められたことによって、ブルーハワイシロップの人工的な香りが何倍にも強化され、さらに溶けかけたチョコとコンデンスミルクの甘味が喉に灼け付く。
突如として現れる食卓の上の人外魔境……!
【智】
「……こより……、た、食べてみて……」
【こより】
「ハイ、では鳴滝もひとくち……」
おそらく味見という行為をしていないであろうこよりが、
限りなく青いスパゲッティを躊躇なく口に入れる。
【こより】
「ンぶふっ!!」
こよりの鼻から、スパゲッティの麺がはみ出した。
【智】
「……こより、君はよくやったよ……」
【こより】
「げほ、げほっ! ……す、スパゲッティの英霊に、黙祷!」
呪いの方は平気でも、このままじゃこよりに殺されそうだ。
今晩のごはんはとりあえず僕が作って、これから少しずつ
こよりにもお料理を教えてあげよう。
ちょっとだけ、これからのこよりとの二人暮らしを
妄想してしまっている僕だった。
僕が用意したごはんを美味しく食べて、そろそろお風呂……
と思っているとインターホンが鳴る。
こよりがてれってーとすばやく玄関に走っていった。
【こより】
「はいはいは〜い!」
ドアを開いて現れたのは、るいに伊代、花鶏、茜子……
仲間の面々だった。 惠まで来てくれている。
【るい】
「こより、だいじょぶ……?」
【伊代】
「あれから溜まり場にも顔を出さないからわたしたち心配で………。もしかしてまだ落ち込んでるんじゃないかと思ってみんなと一緒にお見舞いに来てみたんだけど……」
【こより】
「わわ、センパイがた! わざわざありがとうございます〜!」
【智】
「わ、みんな来てくれたの? 嬉しいよ。そこじゃなんだから、
狭いけど上がっていってよ」
【花鶏】
「そうさせて貰うわ」
【惠】
「お言葉に甘えさせて貰おうかな?」
総勢7人でワンルームに上がりこむと、
部屋は一気にぎゅうぎゅう詰めになった。
【茜子】
「茜子さんはベッドの下を貰いますよ」
僕とこよりは二人寄り添って壁にもたれている。
【伊代】
「でも良かったわ、元気そうで」
【こより】
「ハイ! ともセンパイのおかげで、鳴滝は今はもう必要以上に
元気でありますっ!」
【智】
「伊代こそ大丈夫だった? こっちもいろいろあって連絡とか
出来なくて心配してたんだけど」
【伊代】
「ええ……、わたしは大丈夫。あの時も言ったけど、
寝てただけだから」
【るい】
「それにしてもアイツ、そんな悪いヤツだったなんて! 私も
一発ブン殴ってやりたかった」
【こより】
「それなら、ともセンパイがかっこよく決めてくれましたよう! こう、パンチキックの雨あられ〜って感じで!」
【惠】
「ほう、智はそんな特技も隠し持ってたのか。格闘技でも修めて
いたのかい?」
【智】
「そ、そんなんじゃないよ。あの時は本気で怒ってたから、ただ
もうがむしゃらにやっただけで……」
【惠】
「それでも大切な人を守れたのなら、それは本物の力だよ」
【智】
「も、もう……誉めすぎだよ〜」
【こより】
「んん……っ! ともセンパイはすっごいんですから!
ね〜、ともセンパイ?」
【智】
「こ、こより?」
惠と親しげに話す僕を敏感に察知したこよりが、
いつも以上にべたべたしてくる。
壁にもたれて座る僕の首に腕を回して半ば体を重ね、
足までちょっと絡めてくる。
仲良し姉妹っていうよりは、
なんだかアヤシイ愛人関係みたいな……。
【花鶏】
「こ、こよりちゃんっ……智……っ!」
ほら! 花鶏が鼻息荒くしてるって!
視線で合図を送るけど、こよりは合図を理解した上で
もっとべたべたくっついてくる。
【茜子】
「ボク女貧乳タイプは、いつのまに『姉』から『お姉さま』に
クラスチェンジしましたか」
【花鶏】
「その体勢……智が受けなの!? こよりちゃん攻め!?
こ、こよりちゃんが攻めならわたし、受けになることを考えてもいい……!」
【智】
「もう〜! そんなんじゃないってば!
こよりもなんとか言ってよ〜」
【こより】
「えへへ、鳴滝はともセンパイが大好きです」
【花鶏】
「ぐ、ぐわ……!」
【惠】
「ははは、形はどうあれ妹君を大切に扱ってあげるといいよ」
【智】
「惠まで〜!」
みんなが帰ってから交代でお風呂に入った。
後で入った僕があがってくると、こよりが濡れた頭にタオルを
乗せて考え込んでいる。
【智】
「こより、いったいどうしたの? 難しい顔して」
【こより】
「ふーふの未来を見つめているんです」
【智】
「!??」
いきなり謎めいたことを口走る。
【こより】
「早くも鳴滝は自分が恋愛的にピンチであることを悟ってしまったのです」
【智】
「な、何言ってるのこより……僕はちゃんと……」
【こより】
「やっぱり惠センパイは強敵です。
惠センパイとともセンパイはやっぱりすごく仲がいい」
【智】
「そんなことないって……。惠とは友達だよ」
最初の出会いは最悪だったけど。
【こより】
「そーゆーのが不倫のきっかけになるんです!」
【智】
「不倫って! こより〜」
【こより】
「最初、鳴滝は惠センパイは男、ともセンパイは女だと思って
ました。ところが、ともセンパイに惠センパイは女の子だよっ
て教えてもらって一度ひと安心しました」
【智】
「う……」
気づかれた。
【こより】
「でも実はともセンパイは男の人だったんです。
つまり、惠センパイは女、ともセンパイは男……」
【こより】
「ともセンパイ女&惠センパイ男、と思ってたら、
ともセンパイ男&惠センパイ女、でした」
【こより】
「結局二人は男女の関係のままなんですよう!
事態は変わってないんです!」
【智】
「それはそうだけどぉ……!」
【こより】
「ふーふのピンチです! このままでは成田離婚ですよう!
恋愛的なピンチですよう!」
【こより】
「はやくともセンパイをガッチリ…………あっ……!」
いきなり慌て始めたこよりは、同じくいきなり黙りこくった。
心なしか頬が赤い。
【智】
「こより、どうしたの……?」
【こより】
「ごはんも食べたし、お風呂も入ったし……次は、次は……」
【こより】
「わ、わ、わわわわわ『わ・た・し』をっ!」
【智】
「ええーっ!? こ、こより!?」
【こより】
「と、ともセンパイ! わたしたちはふーふですから、やっぱり
ふーふの夜の営みをしないといけないんだと思います!
だから、だから……っ!」
こよりがキューっと目を閉じて僕に身を預けてきた。
夜の営み!?
こよりと僕が一緒にベッドに入って、
こよりのふ、服を脱がして……そして……!
【智】
「だ、だだだだダメだよ! ま、まだまだ僕たちにはそんなの
早いってば〜!」
想像してしまって、こよりよりもっと真っ赤になってしまった。
だけどこよりは引かない。
【こより】
「じゃあ、いつになったらしてくれます!?」
【智】
「そんなのわかんないよぉ〜!」
慌てて、辛うじて拒否したけれどこよりは挫けない。
【智】
「今日はもう、とりあえず寝ようよ。ね? ね?」
【こより】
「いいえ! 鳴滝はともセンパイのハートをガッチリキャッチ
しないといけないんです!」
【智】
「だ、大丈夫! それなら大丈夫!
僕はこよりのこと大好きだから! 愛してるよ、こより」
僕必死。
【こより】
「ほわ……、鳴滝もともセンパイのこと大好きです……。
で、でも鳴滝はもっとともセンパイのそばに!」
【智】
「そ、その問題については後日前向きに検討したいと考えて
おりますので、本日はどうかご容赦のほどを!」
【こより】
「そんな政治家みたいなこと言っても!」
【智】
「今日はとりあえず寝よ? ね? 今日はいいでしょ?」
合掌して拝んで懇願する。
【こより】
「う〜、ともセンパイ〜。鳴滝はあきらめませんから!
女の意地にかけて、いずれ必ずともセンパイと〜!」
【智】
「もう寝ようよぉ〜!」
こよりをなんとか説得して別々の寝床に入ったあとも、
僕の頭はこよりとの夜を想像してしまって止まらない。
これから、眠れない日が続きそうだった。
〔こより・オンスロート!〕
もともと僕は硬めのベッドが好きだ。
小さい頃は実家で畳の上に薄い布団を敷いて眠っていた
というのもある。
だから床で寝るのも、ここ数日ですっかり慣れた。
最初の2〜3日は背中にあたる感触が硬かったり、ベッドの
上のこよりの寝息が気になって眠れなかったりしたものだが、
最近はもう朝までグッスリ眠れるようになっていた。
それにしても今夜は涼しい。
なんだか特に下のほうが涼しい気が……。
【こより】
「そーっと、そーっと……」
【智】
「むにゃ……」
下半身の辺りがどんどん涼しくなってくる。
こよりの声が聞こえた気がしたけれど、
眠くてよくわからなかった。
【こより】
「うは……! これがともセンパイの……! うわぁ……」
【智】
「ん……」
【こより】
「け……結構カワイイかも……。そ、そーっと、そーっと……」
気になったので、眠気と戦いながら薄目を開けてみる。
こよりが居た。
なにやら僕の足もとに座り込んで、
おっかなびっくり手を伸ばしている。
【こより】
「よ、よし! ではまずちょっと触ってみるであります……!」
【智】
「んにゅ……」
【こより】
「えい!」
なんだろうこれ……微妙に心地よい圧迫感を感じる。
目覚めかけていた意識が、ごく弱い快感によって
眠気に沈みそうになった。
【智】
「ん……」
なんだかわからないけど、涼しいし気持ちいいしで、
今日はよく眠れそう……。
【こより】
「ぎ…………ぎゃあわああああああああ」
【こより】
「う、うひえぇぇぇぇ〜っ! なんかおっきくなったぁーっ!!?」
【智】
「ううん……」
【こより】
「と、とりあえず今夜はここまでです! 戦略的撤退〜っ!!」
なにか夜中にこよりが騒いでた気がするけど、
たぶん暗いままトイレに行こうとしてコケたとかだろう。
今日はグッスリ眠れました。
それでは、また明日。
今夜は、気温はさほど高くないけど、湿度が高くて寝苦しかった。
【智】
「んん……」
【こより】
「昨夜に引き続き、今夜も作戦を続行であります。ふーふの未来を守るため、鳴滝こよりは戦います!」
【智】
「むにゅ……ん……」
【こより】
「おおっと、静かに静かに……。
ではまず、そーっとそーっと装甲を……」
今夜もまた下半身の辺りが涼しくなってきた。
どこかから隙間風が吹いてるのかな?
今は涼しいからいいけど、冬までになんとかしないと……。
そんなことをボンヤリと考えるが、半分以上寝てる意識では
それ以上の思考はできなかった。
【こより】
「昨夜はちょっと意外な伏兵に驚いてしまいましたが、今度は
だいじょぶです。ま、まずはちょっと握ってみましょ〜……」
【こより】
「えい!」
【智】
「んぅ……」
【こより】
「うっはぁ〜……手の中でおっきくなっていく感触が〜……。
それに、熱くなって、硬くなってきて……」
昨晩と同じように、涼しさの次は下半身に微妙な気持ちよさが
訪れる。
さっきのは隙間風としても、これはなんなんだろう……。
【こより】
「はふ……、なんだか性的な匂いもして……
鳴滝も昂ぶってきたかもしれません。
た、たしかコレって、舐めたりするんですよね……?」
【こより】
「そーっとそーっと……ん、ぺろ……」
【智】
「ふあ!?」
瞬間、電撃のような快感が腰から頚椎までを駆け上った。
【こより】
「うえっ! これ、へ、変な味ですよう〜っ! げほ!
げほげほっ!」
【智】
「ん…………こより……?」
【こより】
「う、うわ! ともセンパイ……!」
いきなりのこよりの大騒ぎに、眠りを妨げられて起き上がる。
黒いカサカサ虫でも出たのかな……。
【こより】
「あ、あのコレはその!
ともセンパイとふーふとして夜の営みをするために……!」
……下半身に何も履いていない。
つまり丸出し。
しかもさっきの妙な気持ちよさで、
ソレは出力80%くらいの形状に進化していた。
【智】
「ナニをしとんのん」
【こより】
「…………ナニです」
理解にしばらく時間がかかった。
【智】
「……うわあぁぁぁぁぁ〜っ!!?」
な、何してるのこより!?
つまりこれは、こよりが僕のパンツを脱がせて、アレを……!
【智】
「こよりぃ〜!! 何してるの〜!!」
慌ててパンツを上げながらも、こよりを睨みつける。
大きくなってしまってては威厳がないので、ソコはタオルケットで
うまく隠した。
【こより】
「と、ともセンパイ! だからこれはふーふとして夜の営みを」
【智】
「まだ早いって言ったでしょ! ダメダメ、ぜーったいダメ!
こんなのダメだよ!!」
【こより】
「じゃあ、いつになったらいいんです!?」
【智】
「それは……わからないけど、とにかくまだ早いよ!」
【こより】
「でもそれじゃあ」
下半身が反応してしまってるせいか、こよりのしおらしい仕草に
ドキっとしてしまう。
でもとにかくダメ!
え……えっちなんて、僕とこよりはまだまだ……!
【智】
「だ、ダメなものはダメなの! さ、ちゃんと寝て!」
【こより】
「あう……ごめんなさい……」
【智】
「もう〜……こよりは臆病なんだか積極的なんだか……」
こよりをベッドの上に寝かせて、頭の上まで布団を被せた。
【智】
「いい? ちゃんと寝ないとダメだよ?」
【こより】
「あう……ハイ、ともセンパイ」
いきなりこよりがとんでもないコトをしてびっくりしたけど、
いつかは僕らもそういうことするのかな?
なんて考えてたらなかなか寝付けなくなってしまった。
ちょっと寝不足になるかも知れないけど、
明日は特に予定もないから大丈夫だろう。
外から聞こえる車のエンジン音も途切れた深夜、
僕はようやく眠りにつくことができた。
それでは、また明日。
今夜はとても暑い熱帯夜で……って!
【こより】
「ん……じゅるっ、ちゅぱ、じゅばぱぱぱっ! ぬろ……じゅぷ、じゅぷ、ちゅうぅ……ちゅぽんっ! ちゅぱっ、ちゅぱっ、じゅるるる、じゅぶ、ちゅぷ、れろ、ん……ちゅぷぷぷ……」
【智】
「うわああぁぁ…………あふぁっ!?」
尋常じゃない気持ちよさに目覚めると、
こよりが僕のモノを咥えて、ものすごい勢いで吸っていた!
一気に眠気は吹き飛んで意識が覚醒するけれど、
今度はあまりの気持ちよさに朦朧としてしまう。
【こより】
「んぱ……、あ、ともセンパイ、起きました?」
【智】
「こ、こより! ダメって言ったのに…………くはぁっ!?」
【こより】
「じゅぷぷぷ……、ちゅばっ、ちゅぱっ、ん……、ちゅる、くちゅ、ぺちゅ……んちゅる、ちゅうう……ちゅぱっ!」
【智】
「ちょ、ちょっとこより……!」
【こより】
「ちゅうぅぅ……ちゅぱっ、ちゅぱっ! じゅるるるるっ、ちゅ、ちゅ、ずずずず、じゅるじゅるじゅぶぶ、じゅぱっ!」
【智】
「あふ……ひぁ……っ!」
口の中を真空にして強く吸い上げたと思ったら、
こんどは唾液たっぷりにじゅるじゅると空気ごと僕のモノを吸う。
こよりの小さな口が僕のモノを咥えているという映像と、
とんでもない快楽で頭が痺れてしまって考えられない。
他の人にして貰ったことなんてあるはずないけど、
これってめちゃくちゃ巧いんじゃないの!?
【こより】
「んぷ……ちゅるっ。……えへへへ、これって気持ちいいんですか? ともセンパイ?」
【智】
「それはもう……じゃなくて!」
【こより】
「うい?」
【智】
「なんでこんな巧……いやいや、どこでこんなこと覚えたの!? こより!」
もしかしてこよりはこう見えて男性経験豊富で、
いやまさかそんな!?
でも近頃の子は進んでるって言うから、もしかしたら……
いやいやいや!
【こより】
「ふふふ、それは…………じゃーん!」
【智】
「そ、それはっ!」
それはその昔、僕がただ一度だけ興味本位で買った
アダルトDVDだった。
なにぶん女の子やってるのでレンタルはしにくく、
通販で買ったはいいが、一度だけ見たっきりだ。
【こより】
「鳴滝は早退して、ともセンパイが学園から帰ってくるまでの間にこれを見て、この中で女の人がやってたワザをコピーしたのです!」
【智】
「それってもしかして、こよりの……!?」
【こより】
「ハイ! やっぱり才能は活かさないと、と思いまして!」
【智】
「こ、こんなとこで活かさなくても〜!」
部屋にあがるなりベッドの下に潜った茜子にも発見され
なかったのに、こよりにどうして発見できたんだろう?
相当厳重に隠してあった。
かさばるケースは躊躇なく捨て、不織布ケースに移して
「恐怖の妖怪大事典」に挟んでおいたのに。
……まぁ、こよりなら純粋に妖怪大事典を見たがることも
あるか……。
【こより】
「というわけで、失礼して……ちゅうぅ……ん、じゅるじゅるじゅる、ちゅぶ、ぺちゅ、ちゅるるっ、んふ、ん……」
再びこよりが僕のモノを咥えて吸い始める。
先端の部分を口に含んで、唾液とともに激しく音立てて吸い
ながら、根元には手を添えてリズムを変えてしごいてくる。
【智】
「くぁ……!」
【こより】
「じゅるじゅるじゅるじゅる……んく、ちゅるる、ちゅうぅぅ……ちゅぽんっ! はふ、ともセンパイ……んちゅ、ぺろ、れろ、
ちゅう〜……」
【智】
「こ、こより! そんなにしたら……で、出ちゃうよ!」
【こより】
「んは……あ……だ、ダメですそれはっ!
ふーふなんだからちゃんと、最後までしないと……!」
【智】
「こ、こより!?」
先走りの液で糸を引くそれから口を離すと、
こよりは僕の上に跨ってきた。
【こより】
「ちゃんと……最後まで全部……ん……っ!」
こよりがパンツの股の部分をずらして、
固く閉じた幼い少女の部分を露出させる。
息を飲むほど淫靡な光景だった。
いつも見慣れたこよりが、いつもの服装で、最も隠さなければ
ならない秘密の部分だけを露出させている。
なんてイヤらしい……。
そうしてこよりは、僕のモノを掴んで先端を自分の性器の
入口にあてがうと、ゆっくりと腰をおろしてきた。
【こより】
「ん……んんっ! 痛……っ! ん……、痛、いっ!
んんん、んんぅ……」
小さな入口に先端を押し付けて、そのまま腰を降ろそうとする
のだが、こよりは痛がるばかりで一向に腰は降ろせなかった。
【こより】
「んんっ! 痛いぃ……、あうぅ……。入りません……」
【智】
「……こより」
こよりの痛がるさまを見るうち、
僕のモノも萎れてしまう。
それもそのはず、こよりのそこはほとんど濡れておらず、
そのままでの挿入は相当の痛みが伴うはずだった。
ムキになってがんばってはいるけど、やっぱりこよりは
こういう方面の知識は疎いみたいだ。
姉あるいは兄としてよりも、
恋人として安心する自分に気づいて内心苦笑する。
なんだかんだ言いつつ、僕もこよりを
自分だけのものにしたいと思っていたのだ。
【こより】
「こ、こんなハズでは〜……!」
【智】
「こより、そんなに焦って無理しなくていいからさ。
今夜はとりあえず寝ようよ」
【こより】
「うぅ……、戦略的撤退でありますっ!」
言うなりこよりはベッドに潜り込んでしまった。
あれだけすごいことをした後だというのに、
ものの一分もしないうちに安らかな寝息を立て始める。
僕はというと、まったく眠れなかった。
目をつぶれば浮かぶのは、僕のモノを一生懸命吸う姿、
パンツをずらして露出したこよりの可愛い割れ目――
今ごろになって、下半身が熱く張り詰めてくる。
【智】
「ううっ、眠れないよ……」
結局その日は明け方近くまでひとり床に寝転がって、
悶々と過ごすはめになった。
楽しいんだかキツいんだかわからない生活。
僕の体と理性と、どっちが先に参るだろう?
とりあえず、また明日。
今夜は……。
【智】
「うわぁあぁ……!? ……あふ……あ……!」
こよりは日に日にレベルアップしていた。
この場合は勉強熱心な妹を喜ぶべきなのかどうか?
【こより】
「じゅるるる……っ! ん……めろ、ちゅ、ん……はふ、ちゅぱっ、ちゅぱっ、ちゅうぅ……ちゅ、ちゅ、ん、んふ……」
【智】
「こ、こより……っ!」
いいところまで攻めつつ最後の一手でつまずいたこよりは、
昨夜よりもっと大胆になっていた。
今夜は最初から下を脱いでいて、
僕のモノを咥えながら自分の股間をまさぐっている。
【こより】
「ん、くふ……へんぱぁい……ちゅるる、ん、くふぅ……ちゅぱっ、ちゅるる……ちゅぅぷん! じゅる、じゅぶ、じゅぷぷぷ……、ん、んんっ! ちゅうぅ……」
下半身への刺激と、そのとんでもない光景に、僕も激しく反応
してしまった。
股間から背筋まですべての筋肉が張りつめる。
【智】
「こ、こより、ちょ、ちょっと!」
【こより】
「んっ!、ちゅぷ、ぺちゅ、くふぅ……きょ、今日こそともセンパイと……はぷ……ん、ちゅうぅ……ちゅぱっ! じゅぱ、ちゅぱ、ちゅるる、ぺちゅ、じゅぶぶぶぶっ」
【智】
「くあ……こより……!」
容赦ない口技に理性は敗北寸前。なによりこよりの股間から
聞こえる水気を含んだ淫らな音が耳に毒だった。
それにしても口技のほうはDVDからのトレースとしても、
自分の慰める手の動きはどうも初めてとは思えない。
こよりの口を止めるためにも聞いてみることにした。
【智】
「と、ところでこより……、いつのまに自分のを指で……
するなんて覚えたの?」
【こより】
「ちゅ、んっ……! はぁ、はふぅ……こ、コレですか?
わりと最近……、ともセンパイのトコで一緒に暮らすようになってからですよう……、ふあぁっ! あ、あう……」
こよりみたいな可愛い子が、僕の部屋で
こっそり一人でしていたなんて……。
僕の問いに答えるべくこよりの口が離れたにも関わらず、
僕は想像でさらに興奮してしまう。
【こより】
「あ、ご心配なく。オカズはともセンパイですから!」
【智】
「おかずって……」
か、可愛いなあもう!
策士策に溺れるというか、愛に溺れるというか。
余計に僕が昂ぶってしまったところへ、
こよりが再び僕を咥え込んだ。
【こより】
「ともセンパイ……はぷ、ちゅぷぷ……ん、ちゅう、ちゅ、んふ……ちゅぱっ、ぺちゅる、じゅる、あっ、んんっ! んふぅ」
精神的なものが引き金となって、僕はもう破裂寸前だ。
【こより】
「ちゅ、んっ! はあぁぁ……、ともしぇんぱいぃ……! んぷ、ちゅるる……ちゅ、はぷ、じゅるじゅるじゅるじゅるっ!」
【智】
「こ、こより、僕……もうっ……! だ、だから……」
【こより】
「ちゅぶぶぶ、ちゅう、ちゅ、ちゅぱっ、ちゅぱっ! ん、あんんっ、ふあぁっ……! ともセンパイ、ともセンパイ、わたし、も、
もう……っ!」
ついに我慢の限界を超えて敗北宣言しようとした時、
こよりが僕のモノを放して大きく仰け反った。
【こより】
「も、もうダメですぅぅ……っ! ふああぁぁあぁぁぁぁぁんんん……っ!!!」
背筋を弓なりに逸らせてビクビクと全身を痙攣させ、
くてっと傍らに倒れるこより。
【智】
「あ、あれ……? こより……?」
【こより】
「はぁ、はぁ……はぁ……はぁ…………、すうぅ……」
そのまま、僕のふとももを枕にスヤスヤと寝入ってしまった。
どうやら僕のを舐めたり吸ったりしてるうちに自分の方が
盛り上がってきて、一人で達してしまったらしい。
【智】
「こ、こよりさーん!?」
安らかな顔で眠るこよりのすぐ側には、ひどい寸止めで
天井を指したままビクビクと脈打つ僕のモノ。
な、生殺し……!!
おしりを丸出しにしたまま眠るこよりをそっとふとももから
退けて、タオルケットを掛けてあげた。
この大変なことになってる自分のモノをどうしよう……。
むなしく自分で処理しようかとも思ったけど、
床で一人眠るこよりを見て諦めた。
添い寝してあげよう。
こうして僕らの貞操は、両者にとって不本意な形で
今日も守られたのだった。
それでは、また明日。
【智】
「うわあぁぁあぁ……っ!?」
おとといより昨日、昨日より今日、日進月歩の熱烈アタックを
続けるこよりは、ついに強行手段を取ろうとしていた。
【こより】
「んぐ……っ! と、ともセンパイ……っ、鳴滝はもうっ、
ガマンできません……っ!」
今夜も気づかない間に僕の下半身は剥き出しにされており、
すでにそれは硬く上を向いていた。
こよりはもう、なんとか僕をその気にさせようとするのをやめて
いきなり上に跨り、今まさに無理やりに僕を迎え入れようとして
いた。
【こより】
「ぐうぅ……、い……痛……っ! くあ……いッ……!
い、痛くても……いいです……! わたし……んんんっ!」
こよりの性器は、僕のモノのわずかな先端を受け入れただけで、
それ以上の挿入はとても無理に思えた。
すでにかすかに出血していて、
まだ幼いそこは何度も何度も小刻みに震えている。
【智】
「こより! む、無理だよ! 血が……」
【こより】
「イヤです、イヤですよぅ……! わたし、ともセンパイと一緒になりたい……痛くてもいいんです、ガマンします……っ!
だ、だから……んっ、んぐぅ……っ!」
目にいっぱいに涙を溜めて、それでもこよりは
無理に僕と繋がろうとする。
結合部に血が滲む。
こんな状況なのに、僕は先端部分をこよりのぬめる肉に包まれて、
快感を感じてしまっている。
ソレは僕の意思に反して、硬さと太さを増していくばかりだった。
【智】
「こより、血が……血が出てるよ。こんな無茶は……!」
【こより】
「痛くてもいいんですっ! んっ……、ひぐ……っ!
ど、どうして入らないの……? んぅ……く……っ」
焦ったこよりは少し腰を持ち上げて、勢いをつけて腰を落とした。
【こより】
「んんっっ……!!!!」
【こより】
「いッ……た……っ!! 痛……っ、痛……っ!
痛い痛い、痛いぃ……っ」
それでも、結合はわずかに数ミリ進んだだけだった。
先端に感じるこよりの奥は、まるでその先などないかのように
きつく固く閉じていて、全てが入るとはとても思えない。
【こより】
「ど……どうして入らないのぉ……、痛いよぉ……ひぐ、んっ、
あうぅ……うぅぅ……」
【智】
「こ、こより……!」
【こより】
「ひっく、えぅ……んんうぅ……。……ふえええええぇぇ〜………っ!! ともセンパぁイぃぃ〜……っ」
痛みと挫折で、ついにこよりは泣き出してしまった。
【こより】
「うええぇぇぇぇぇ〜……!
ともセンパイ、ともセンパぁイいぃぃ〜……っ!!」
【智】
「……おいで、こより」
【こより】
「ともセンパイ、センパぁイぃ……! わたし、わたし、
ともセンパイのこと好きで、だから、だからぁ……っ!」
僕が呪いを踏んでしまった時と同じように泣きじゃくるこよりを、
僕は再び胸に抱きしめた。
【こより】
「ともセンパイいぃぃ……っ! ともセンパぁイいいぃぃぃ……っ!!」
【智】
「こより、焦らなくていいんだ」
僕の胸を濡らして泣きつづけるこよりの髪を梳いてあげる。
あの時は、希望が見えなかった。
今まで、僕の先に見えるものは、赤黒く不安なもので
塗り込められていたけれど……。
でも、今は違う。
それに手が届くかどうかはわからない。
でも、手を伸ばすべき先だけは見える。
未来だ。
呪いによって幸せからはぐれた
幼い日の僕たちが誓い合った未来――
【こより】
「ひぐ……えっく、わたし、不安なんです……!
お姉ちゃんも、ともセンパイも……どんどん『大人』になっちゃって……、わたしだけ『子供』のまんまで……だから……」
【智】
「こより、……ん」
【こより】
「ん……っ!? ……ん……ん……」
不器用な言葉を持て余すこよりの口を、唇で塞いだ。
口づけたままに小さな体のぬくもりと鼓動を感じる。
やがて、ゆっくりと唇を離して正面から見つめた。
【智】
「ねぇ、こより……しようか?」
【こより】
「は、は、はははは……ハイっ! ともセンパイっ!」
【こより】
「うは、うは……。こ、これはさすがに恥ずかし……はぁ、はぁ……。 ともセンパイぃ、そんな間近でジロジロ……明るいですしぃ……」
【智】
「こよりだって、僕にしたじゃないか。だから、これはお返しだよ」
こよりは焦っていた。
僕は怯えていた。
それぞれ前と後を向いていただけで、二人は同じ場所に立っていた。
僕だってこよりが僕を求めているのと同じくらい、
こよりを求めている。
体の奧から沸いてくる欲求のままに舌を伸ばした。
【こより】
「ふえぇっ!? あく……っ! ん……はうぅ……」
なめらかな肌に一本皺が寄っただけのような
こよりの幼い性器を、舌でなぞる。
ぷっくりと盛り上がった二つの肉が迫る割れ目の奥に、
僕を受け入れる為のこよりの女の子の部分があるのだ。
【智】
「こよりのここ、すごく可愛いよ」
【こより】
「あうぅ……、実況しないで下さいよう……ふあぁぁ〜……っ」
無理に舌でそれを割ることはせず、一筋の溝にそって下から上へ、唾液を舌にまとわせるようにして舐め上げる。
割れ目の上端にある小さな淫核目がけて何度も何度も舐め上げた。
【こより】
「ふあぁぁ……、ふああぁぁぁ……。ともセンパイが鳴滝の、
舐めてくれてる……! んっ、んんん……っ!」
舌の動きに合わせて、こよりが背筋をよじるように震える。
長年女の子として生きてはきたけれど、女の子の体のことで
解ることはあまりにも少なかった。
【こより】
「は……っ! く、んんっ、ふあぁぁ……。嬉しいです、
嬉しいです……ともセンパぁイぃぃ……あうぅ……」
今こよりは僕がこよりにされていた時と似たような快感に
震えているのだろうか。
隙間なく閉じていた割れ目が潤みを帯び、少しずつ開いてくる。
【智】
「舌、少し入れてみるよ?」
さっきまで自分の性器が押し当てられていた部分だ、
と意識しながらも舌を差し入れた。
【こより】
「ふえっ!? えっ!? …………っ!! ……ぁ……っ!」
声にならない声とともに、こよりのおしりが浮く。
【智】
「こより、痛くない?」
【こより】
「は、ハイ。痛くはない……です……ん……くあっ!
ん〜っ、ん……はうぅぅ……」
こよりと僕はこうやって解り合っていく。
こよりなら痛いと素直に言ってくれるだろう。
【こより】
「はあぁぁ……はあぁぁぁ……。ともセンパイの舌が入って
来ちゃって……ぁんっ! な、中でクネクネしてるぅ……」
淫核ごとこよりの性器を口に含んで、差し込んだ舌をくねらせる。
じたばたと膝を動かしてこよりはもがいたけれど、
決して「痛い」と言うことはなかった。
【智】
「逃げないで」
【こより】
「は、ハイ……っ、わかりました……あはっ!
ともセンパイぃ……んっ、ふああぁ……」
そうは言いつつも逃げていく腰を、がっちりと両腕で固定して、
股間に顔を埋めていく。
【こより】
「あうぅ……っ! あーっ、あぁーっ!
ともセンパイ、ともセンパイ、じんじんしますぅ……っ!」
徐々に異物を受け入れるための潤滑油が滲んで来た。
顔が蜜にまみれることも躊躇せず、
肉豆を口に含んで舌ではじいてみる。
【こより】
「ひゃうっ!!? ……っあ! きゃうぅ……っ!
んっ、んんっ! ああああ、んんんんんん……っ」
愛撫の目標を肉豆に移した途端に、こよりの反応が大きくなった。淫核への刺激は、十分に効果的みたいだ。
もしかすると、こよりはまだ、性器の中への刺激を快感に
変えにくいのかも知れない。
【こより】
「はぁぁっ、あっ! ともセンパイぃ、そこ、そこっ、
気持ちいいれすぅ……っ! あぅぅっ」
この後、挿入まで行くかどうかはこよりの反応を見ながら決める
として、まずは僕の手で一度絶頂を迎えさせてあげたいと思った。
僕の下半身は、自分の体の一部と思えないほどに
熱く硬くなっている。
【こより】
「じ、自分でするのとぜんぜん違うんですっ、ともセンパイがしてくれてると思うと、そ、それだけで……わたし……っ!」
いつの間にか部屋には甘酸っぱいこよりの体臭が濃密に漂っている。
【こより】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ、あ……くんんっ!
はふ、ともセンパイぃ……っ、ふあ、ふああぁぁ……っ!」
街はもう寝静まって物音ひとつしない。
静かな部屋の中、ぴちゃぴちゃと間断なく性器を舐める音だけ
が響いた。
【こより】
「んっ、はうぅ……、はぁ、はぁぁ……。ともセンパイ、
センパイ……はあぁ……あっ、は……んく……っ」
次第にこよりの中から、その幼い割れ目に
不似合いなほど蜜が漏れてくる。
最初は閉じていたそこも緩んできて、呼吸するように
ヒクヒクと喘いで内側を覗かせている。
【こより】
「んっ! はぁ、はぁっ、ともセンパイ……わたし、もうっ!
もう……もう……っ! ともしぇんぱぁいぃ……、
もうらめですぅ……っ!!」
こよりが本能の命じるままに、自ら腰をくねらせて悶え始めた。
僕はもう一度こよりの華奢な腰を捕らえ、
淫核を中心に口全体を使って愛撫を続ける。
【こより】
「ともセンパイ、しぇんぱい、せんぱいぃ……っ!!」
大きく腰が跳ねて、やわらかい太ももが僕の頬を強く挟んだ。
【こより】
「ふあああぁぁぁあぁぁぁ…………っ!!!!」
どうやら、達したみたいだ。
くたり、と脱力して深い息をつき始める。
【こより】
「はふ……ふぅぅ……はぁ、はぁ……。……すうぅ……すうぅぅ……」
【智】
「こより、寝ちゃダメだよ」
【こより】
「……ふえ……? ともしぇんぱい……?」
絶頂に達すると寝てしまうらしいこよりを、
僕は優しく揺り起こした。
まだ目の焦点の合わないこよりの手をそっと握って、
僕のモノに触れさせる。
【こより】
「あ……っ、ともセンパイ……すごい、熱い……!」
【智】
「今夜こそ最後までするって言ったよね? ……今夜は、僕も
満たされるまで寝かさないよ」
こよりがぎゅっと股を閉じて、太ももをすり合わせた。
【こより】
「は、ハイっ! ともセンパイっ! ……嬉しいです」
【智】
「もう少し、足開いて……」
【こより】
「も、もっとですかぁ〜? 恥ずかしいですよぅ……」
再びこよりの性器の目の前に陣取って、じっくりと観察する。
一度達したとは言え、淫核への愛撫で達しただけだ。
こよりの可愛いここに僕のモノを挿れて、二人が繋がるためには、もっとしっかりとほぐさないと。
【智】
「とりあえず、小指挿れるよ」
【こより】
「ハイ……、ん……んん……っ」
第二関節まではぬるりと簡単に入るけれど、そこから先は
小指でさえ少し抵抗があった。
入り組んできつく締まった肉壁をほじるように、
ゆっくりと指を進めて根元まで小指を挿れる。
【こより】
「ん……は……っ、あ……入ってく……あ・……」
【智】
「痛くない?」
【こより】
「ん……っ、ハイ、だいじょぶです……! あふぅぅ……」
ゆるゆると幾度か出し入れを繰り返して、
こよりが痛がらないことを確認して小指を抜いた。
【こより】
「ふうぅ……っ!」
【智】
「次、人差し指挿れるから。痛かったら言ってね」
【こより】
「ハイ……っ! あく……、ともセンパイの指が……あ……っ!」
熱い蜜と肉の海の中、人差し指を泳がせるみたいに奥へ進めた。
【こより】
「はあぁ……はあぁ……っ、ん……んく……っ」
【智】
「痛くない?」
【こより】
「は、ハイ……っ、小指より……太くて、関節のでこぼこが……
あっ! はぁ、はぁ……」
これもゆっくりと出し入れしてから抜いた。
【こより】
「はぅ……っ! ともセンパぁイ……、あ……あ……
ふああぁぁ……」
ぬるぬると指を締めつける感触だけでも理性が弾け飛びそう
なのに、ほんの少し動かすたびにこよりがどうしようもなく
可愛い声を上げる。
自制しながら、こよりを慣らしていくのは、予想外の重労働だった。
【智】
「次、中指挿れるよ」
【こより】
「ハイ……、うぅ……なんかものすごく恥ずかしいですよぅ……
あんん……っ! あ……長い……はうぅぅぅ……っ」
一番長い指である中指で、また少しこよりの奥を開拓した。
指の先端が行き止まりらしきものに触れる。
【こより】
「んっ……あ、あ……! ともセンパイの中指が……
すごく中まで来ちゃってます……んっ、くうぅ……」
これが処女膜なのだろうか?
これから僕が自分のモノでこれを貫くのだと思うと、
愛しさが溢れそうになってドキドキした。
強い刺激を与えてこよりを傷めないよう慎重に中指を抜いて、
今度は親指を割れ目にあてがった。
【智】
「次は、親指を挿れるからね。僕、指は細めだけど、
親指はやっぱり他の指より太いから……」
【こより】
「お、親指ですかぁ!? はう……ハイ……、だ、だいじょぶです、挿れてください……」
【智】
「ガマンして、男の子のは中指より長いし、親指より太いから……」
親指の腹で割れ目を押し開いて、つぷり……と中へ埋めていく。
【こより】
「ふうぅぅぅ……っ! ふ、太……んんっ!」
【智】
「こより、痛くない? 大丈夫?」
【こより】
「は……ハイぃっ、い、痛くは………ないですっ!
ぁはっ、ぁ……っ! んんっ」
小指を挿入するだけでふるふると震えていたこよりの中に、
自分の親指が奥まで入っている光景は、僕を無条件に興奮させる。
もっと触りたい。
根元まで押し込んで、こよりの中を触ってみる。
【こより】
「ん……っ! いた……」
【智】
「ゴメン、痛かった?」
【こより】
「ハイ少しだけ……。はふ……おしり側のほう、
押されると痛いみたいです……」
【智】
「わかった。じゃあお腹のほう……」
【こより】
「はっ、はっ……くふあ……っ! そっち……! っあ!!」
空気をすくうように手を反して、
こよりのおなか側を指の腹でこする。
つぶつぶとした部分があった。
ひとつひとつの起伏を潰すみたいにこすると、
こよりが堪えきれずに声を漏らす。敏感なようだ。
【こより】
「んんっ……! はふ……、ふぅ、ふうぅぅ…………」
自分のモノがこの部分とこすれ合う感触を想像し、
頭がかあっと熱くなった。
まだダメだ。自制しないと……!
【智】
「指、二本入れてみるね……」
腰の辺りを撫でつつ優しく話し掛けてから、親指を抜いた。
【こより】
「くふうぅ……、あ……はぁ、はぁ、……はぁ……。
に……二本……?」
【智】
「挿れるよ」
【こより】
「んん……っ! はあぁ……」
恥じらいと刺激に身を震わせるこよりの腰を押さえながら、
まず人差し指を少し入れて……。
【智】
「もう一本」
あとから中指もねじ込んだ。
【こより】
「はぁ、はぁ、ともセンパイぃ……。んっ! ん゛んんんぁ〜……っ!!! ふ、太……きつ、きつ、苦し……いぃぃ……っ!」
とても入りそうになく見えた入口に、指は滑り込んでしまう。
入口は輪ゴムで締め付けられているような強い抵抗があった。
【智】
「大丈夫……?」
【こより】
「あぐ……く……、くうぅぅ……は、ハイ。平気です……平気です……! 挿れる時きつかっただけで……、動かしてもだいじょぶですから……っ」
【智】
「うん」
こよりの反応を気にしながら引き抜く。
【こより】
「ふうぅ……あ、は、はあぁぁ……っ、ともセンパぁイ……」
また挿れる。
【こより】
「ふぅっ! く、はああぁ……、んっ、んんんっ!」
引き抜く。
【こより】
「あ、はあぁ……うぅ……っ! くは……ん、はぁ、はぁ、
はぁ……」
また挿れる。
【こより】
「んくうぅ……っ! こ、腰……抜けちゃいそうれす……はっ! あはぁぁ……」
【智】
「こより、そのままで聞いて」
中指と人差し指の位置を入れ替えた。
【こより】
「ふえ……? き、聞くってっ、あんんっ!
頭ぽうっとしちゃってわからないですよう……っ!」
【智】
「はじめてのえっちが痛いって言うのは、処女膜が破れるからじゃない……らしい」
【こより】
「はふ、は……ど、どういう……うぅうぅぅんん……っ!」
ゆるやかに指を回したり往復させたりしながら、僕は話し続ける。
【智】
「痛い痛いって聞いて緊張して固まっているところに、
無理やり挿れるから痛いんだって」
【こより】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。と、ともセンパイ、どうしてそんなこと知って………あっ、あうぅ……っ! んんんん……っ!」
中で指を動かしながら親指で肉豆をこすって、
こよりの疑問を消した。
僕は女の子で男の子だから、いろいろなことが
気になってしまうこともあるのだ。
【智】
「だからさ。こよりが僕を信じてくれれば、
はじめてでもきっと痛みは少ないはずなんだ」
【こより】
「はっ、あうぅ……。そ、それならだいじょぶです。
鳴滝はともセンパイのこと、信じてますから…………んふぁぁっ」
出来るだけ奥まで入れて、中で指を少し開いてみる。
二指の間、ほんのわずかな隙間から透明な蜜が
押し出されてこぼれた。
気がつくと、最初は本当にギリギリだったこよりの中で、
二本の指をスムースに往復させられるようになっていた。
【こより】
「あ……あ……あ……、ともセンパイのこと大好きですから……
信じてますから……あくぅ……っ! ううぅうぅぅ……」
そろそろ……大丈夫なんじゃないだろうか?
引き抜く指にこよりの中のとろけた襞と蜜がまとわりついてきて、
ぬちゅ……と淫らな音と共に糸を引いた。
【こより】
「はあぁぁぁ……っ! あ……と、ともセンパぁイ……」
頼りなく胸の前で両手を握りながら、熱っぽい目で
こよりが見つめてくる。
腕立て伏せの要領で、こよりの肩の上に手をついて見下ろした。
見つめ合う瞳が揺れている。
【智】
「こより、そろそろ……いいかな……」
【こより】
「あ……、は……ハイ……。わたし、いよいよともセンパイと……はぁ……はぁ……」
【智】
「それじゃ力を抜いて、……挿れるよ……?」
【こより】
「あ、待ってください、ともセンパイ……、あの、抱っこして
欲しいです……」
まさに腰を進めようとしたとき、
こよりが上体を起こして抱きついてくる。
僕はこみ上げる愛しさに微笑んで、こよりを抱き上げた。
【こより】
「ちゅ、ちゅ……ん……ちゅる、ちゅ……ん……。ともセンパイ……ちゅ、ちゅ……」
ベッドに座り込んだ僕と向かい合わせに膝を付いて、
こよりが座る。
何度もキスを交わしながら、子供をあやすみたいに
こよりの体を抱き上げた。
密着した状態でこよりの腰を少し落とし、僕の先端を
こよりの割れ目にあてがう。
【こより】
「ちゅ……んっ……! んふあ……、さわってるぅ……」
【智】
「こより、大丈夫?」
【こより】
「は、ハイ……、ともセンパイがいっぱいしてくれましたから……」
【智】
「それじゃあ……」
【こより】
「ハイ。ともセンパイ、来て下さい……」
こよりは目をぎゅっと閉じて抱きついてくる。
顔に押し当てられたこよりの胸は、膨らみこそまだ無いものの
柔らかくて気持ちよかった。
いよいよこよりと繋がる。
抱きしめて支えていた腕を、こよりの体ごとゆっくりと降ろした。
【智】
「行くよ」
【こより】
「んっ、んんんっ! くうぅぅ…………っ!!」
先端の膨らみが肉襞を押し開いてこよりの中に侵入する。
無意識に逃れようともがく腰を抱きしめたまま、
僕はさらにゆっくり、ゆっくりとこよりを降ろしていった。
【こより】
「んは、はああぁぁ……っ! は、入って……ともセンパイが
入って……っ、ああぁ……っ!」
そして指でほぐした部分のもっとも奥に突き当たった。
これを貫いて、初めて二人は繋がれる。
【智】
「こより」
【こより】
「あ……ともセンパイ……。ハイ、そのまま……来て下さい……
わたしの奥まで……」
腕に、力を込めた。
【こより】
「ん゛…………ッ!! っあ……!」
【智】
「く……」
こよりの苦悶のうめきに耐えながら、その小さな体を抱き寄せると、二人の繋がった部分から純潔の証が一筋流れた。
【智】
「……こより、全部入ったよ」
【こより】
「はぁ……はぁ……。ともセンパイ……わたし、やっと」
【智】
「うん」
【こより】
「嬉しいです……。これでやっと、わたし……ともセンパイと
一つになれた……」
【智】
「僕も嬉しいよ。こより」
【こより】
「んん……ちゅ……」
キスするために体を少し動かすと、こよりの中に入った部分が
ぬめる肉壁でこすられて震えが走った。
まだ傷むであろうこよりのために我慢しているけれど、
本当は我慢し切れない程、こよりの中で動きたかった。
【こより】
「んは……、ともセンパイのが鳴滝の中でうにうにしてます……」
【智】
「こよりの中、すごく気持ちよくて……っ、こよりは……
やっぱり痛い……?」
【こより】
「ともセンパイのこと信じてたら……ほとんど痛くなかったです。それより、なんか嬉しすぎて……えへへ、よくわかんないです……」
腕の中ではにかむ少女が、この世の何よりも大切に思えた。
幼い子供はふと人ならざる者の声を聞いたり、
未来が見えたりするという。
幼い日の僕が公園で少女と交わした約束は、
何も気まぐれではなかったのかも知れない。
あの日の僕には、こよりという少女と歩む僕の未来が
見えていたのかも知れない。
生まれながらの呪いのせいで嫌っていた『宿命』、『運命』、
そんな言葉さえ祝福したかった。
【智】
「こより……動いても大丈夫?」
【こより】
「……ハイ。鳴滝のこと、いっぱいいっぱい愛してください……!」
【智】
「わかった。やさしくするから」
向かい合って座ったまま、こよりの体を揺すって動き始める。
【こより】
「ふあ……あ……っ、ともセンパイ……センパイぃ……」
元からきつかったこよりの中が、さらに収縮して
僕を締めつけてくる。
【智】
「く……すごく……きつくて気持ちいいよ……」
【こより】
「はぁっ……はぁっ……、わ、わたしもきついです……
うぐ……ともセンパぁイ……っ! ん、んん……っ」
浅い挿入を繰り返すたび、僕の先端は指で確かめた
こよりのさまざまな部分とこすれ合った。
指でほぐした時のこよりの反応を思い出しながら、
少しずつ丁度いい動き方を探っていく。
【こより】
「んっ……うんん……っ! はぅ、んっ、はうぅぅ……
はぁ、はぁ……んんん、んんんん〜……っ」
やがて上下にこよりを持ち上げるよりも、膝の上で
こよりの腰を前後に揺さぶったほうがいい事に気がついた。
【智】
「こより、腰落として……」
【こより】
「きゃうっ!? ふああぁ……っ! はぅんんっ、こ、こすれますぅ、あっ! と、ともセンパぁイ、それ、ひゃんんっ!」
竿の部分が肉豆とこすれて、こよりの声が
1オクターブ跳ね上がった。
こよりも甘い声を漏らしてくれて、嬉しさとともに
抑えきれない興奮がこみ上げる。
【こより】
「はぁ……はぁ……ともセンパイぃ……せんぱいぃ……、
あぅんんっ、は……んん〜っ、ふうぅぅ……」
おしりの方を押すと痛いと言っていたので、浅め浅めに。
半分から七分程度の挿入だったけれど、強く締めつける襞を
蜜と共にかき分け、にゅるにゅると動く快感は、震えるほどに
気持ちよかった。
【こより】
「あっ! んはあぁ……、ふあ、ふあ、ふあぁ……あ、んんっ! ともしぇんぱいぃぃ……」
【智】
「こより、もっと繋がろう」
【こより】
「んっ、んんん〜……っ!!」
もう少し深く繋がるためにこよりを抱き寄せる。
今度は僕のモノが真上を向くようにして、
こよりと下腹部を密着させた。
【こより】
「っ…………! ……っあ! ぅにゃ……はぁぁ……っ!
うぅうぅぅんん……」
未開拓の奥の窄まりを押し割って深い挿入をしても、
こよりはもう苦しそうな声は出さなかった。
むしろ甘くとろけるような、僕の脳をとろけさせてしまうような
甘え声を漏らしてくれる。
【智】
「こより……もっとこよりが欲しいよ……!」
【こより】
「ん……ふぇ……? ふえぇ……っ!? んふあぁ……っ」
愛情と性欲が、胸の炉で高熱の炎を上げているみたいだった。
欲望のままこよりを押し倒した。
【こより】
「きゃふっ! あ、あ……ともセンパイ……?」
【智】
「行くよ、一番根元まで……」
【こより】
「え、え……まだ奥まで……、ふぅうぅぅんん……っ!」
腰を思い切り押し付けて、こよりの一番奥まで挿入する。
最後の理性で痛みがないか、こよりに確認した。
【智】
「はぁ、はぁ………、こより、痛くない……?」
【こより】
「あ……は……、は、ハイ……だいじょぶです、ともセンパイ、
もう痛さとか……わからないですから……」
こよりの笑みが最後の理性を破壊する。
そこからはもう、動物になって僕は腰を動かしつづけた。
【こより】
「あっ、あっ、あっ、はあぁっ! ともセンパイぃ……っ!
わたし、奥、そんな、センパイぃぃ……っ!」
最初は締まり過ぎで痛いほどだったこよりの中も、
少しずつ馴染んできて絶妙な快感を生むようになっていく。
【こより】
「はあぁ……、あ、ああぁ……っ! ともセンパイぃ、せんぱいぃぃ……っ! ふぅんんんっ、んっ! んんん〜……っ」
蜜の量も増している気がした。
もはや自分を律することが出来ない僕は、今のこよりの切れ切れの鳴き声が痛みからのものではないと信じるしかない。
肋骨の形を調べるように、こよりの薄い胸に手を這わせる。
【こより】
「ふああぁ……あ……ともセンパイ、もっと触ってください……。センパイの手、すごくあったかいです……っ! んんっ」
【智】
「こより……こより……っ!」
二人の結合部からは、ぱちゅっ、ぱちゅっ、と
水気と肉の衝突音がしていた。
膝を立て足を伸ばし、また膝を立て、全身を捩ってずるずると
もがきながら後退していくこよりに、僕は追いすがるように
のしかかる。
【こより】
「はあっ……っく! すご、ともセンパイが……っ、わたしの中
出たり入ったりしてぇぇ……っ、ふあぁぁ……!」
上の方から挿入を始めて、途中で急激に角度を変える。
じゅぷっ! じゅぷっ! と殊更に音を立てて、
こよりのまだ幼い肉穴を貪った。
【こより】
「あふぅ……!! は、あ、んんんっ! はぁっ、はぁっ!
わたし、わたし、わけわかんなく、なりそうで……っ!
あぁっ、んんんんん……っ!」
【智】
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!
こより、逃げないで……っ!」
【こより】
「ふうんんんぁ……あ……、む、むりですようぅ……っ!
腰が勝手にぃ……っ! ひんんっ!」
逃げるのは初めての感覚への無意識の反応なのだ、
と理解しながらも声を掛ける。
抑えきれない声に息も絶え絶えになりつつも、
こよりは応えてくれた。
【こより】
「あっ、んんっ! ともセンパイ、もっと近く来て下さい……
わたし、こうやって足……っあ! 足を……んんっ!」
隠していた男の本性を剥き出しにしてのしかかる僕の背中に、
こよりの華奢な腕と足が絡む。
瞬間、本能を愛情が凌駕して、こよりの背中の下に
両腕を差し入れた。
【智】
「こより……! 好きだよ、好きだよ……! こより……!」
【こより】
「わ、わたしもです。ともセンパイ、だいすき……っ!
ん……ちゅ、ちゅ、ん……んんぅうぅぅ……ちゅうぅ……」
無理な体勢でもいい、激しくこよりの中を往復しながら
抱き寄せてキスをした。
こよりの口に舌を入れて、口の中をくまなく舐めまわす。
【こより】
「んんっ!? んっ……んちゅ、ちゅる、ぺちゅる、ちゅぷ、
ちゅぅ……ん、ん、ふあ……ちゅ、ん……」
はじめての濃密なキスだ。
自分でも経験がないほど大きくなったソレに、
膣内を絶え間なく擦られるこより。
僕は構わず唾液を絡め合わせていった。
【こより】
「ぷちゅ、ちゅ、れろれろ……ちゅぷ……んふぅ……んっ! ふうぅ……ひぇんぱい……ん、ん……んふ、ちゅ……」
こよりが欲しい。
すべてが欲しい。
もっともっとこよりのすべてが欲しい。
【こより】
「んっ、んっ、んっ、んはっ! はぁ……っ、ん、ちゅ、ん……れる、ちゅる、ぷちゅ……ん……ん……っ」
全身でこよりを感じながら、深く深く挿入を繰り返す。
気がつくとこよりと変わらないほど、自分の息も上がっている。
切れ切れに声まで漏らしていた。
【智】
「ん……は……、は……こより……こより……!」
【こより】
「ふあ、あ……っ! んん〜、ん、んんんん〜っ! くふあぁあぁぁ……、ひぇんぱいぃぃ……っ! ふあ、あっ、んっ、んっ!」
限界が近いことに気づいたのは、
もう射精寸前になってからだった。
中に出すわけにはいかない、
そうは思うけれど腰は止められそうにない。
【こより】
「ふゃっ、んぁっ、く、んんっ! はうぅ、ともひぇんぱい、
もうらめです……わらし、もう……っ! はうぅぅ……」
稲妻より鋭い痺れが背筋を駆け上る。
後頭部のあたりで白い光が何度も瞬いた。
【こより】
「もうらめ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!
ともひぇんぱい、ひぇんぱぁぁいい……っ!! ふああぁんんっ」
射精の瞬間、歯を食いしばって引き抜こうとする僕の腰に、
強くこよりの足が絡んだ。
【智】
「くぁ……っ!!」
【こより】
「ふあぁぁあぁぁぁあぁぁんんんんん〜……っ!!」
快感は爆発する瞬間、目を閉じて顎を仰け反らせた。
白い精を放つ腰が、強すぎる快感をさらに求めるかのように、
勝手に幾度もこよりの奥を打つ。
【こより】
「あ……あっ、あ……! あ……あ……っ!」
二度三度と脈打って、すべての精をこよりの一番奥へと吐き出した。
それから僕は、真正面からこよりの目を見つめる。
【智】
「こ、こより……、僕、中に……!」
【こより】
「はふ、あふ……はぁ、はぁ……だいじょぶです……
ともセンパイ……」
こよりへの愛情に嘘はない。
だけど、僕たちに子供が育てられるか?
自分のしてしまった事に慄きながらも、股間のモノはこよりの中
でまだ硬くそそり立ち、心のどこかで僕は動物の本能に根ざした
昂ぶりを感じていた。
【こより】
「だいじょぶな理由があるんです、ともセンパイ」
今さら抜いても仕方ないと割り切って、繋がったまま重なり合って荒い息を整えていたら、こよりが不意に語り出した。
こよりの鼓動を聞きながら、この格好のまま社会人か……
どんな仕事がいいだろうか……なんて子育ての現実まで
考え始めていたところだった。
【智】
「え……今なんて言ったの? こより」
【こより】
「ふあっ、だ、ダメですって動いたらぁ……。
んっ、まだびりびりきてるんですからぁ……」
それは意外というか不意打ちというか、予想だにしないオチだった。
【智】
「ほんとに……?」
【こより】
「ハイ、まだですからっ♪」
ホントに? っていうかこより、今いくつだっけ?
いくつかの疑問が去来するけれど、こんなところで嘘なんかついても意味がない。
こよりがそう言うからには本当なんだろう。
【こより】
「ちょっと遅いけど心配ないって、保健のセンセも言ってました
から。えへへ、まだこどもちゃんなんです」
【智】
「そこはかとないザイアク感……!」
【こより】
「いーじゃないですか♪ ともセンパイ♪」
こよりはまだ『子供』だから大丈夫、僕も仕事につかなくていい、
……僕も『子供』のままでいい。
なるほど、いーじゃないですか?
【智】
「まぁ、はじまる年齢には、かなり個人差あるって言うからね」
【こより】
「ハイ、むしろ有効利用を考えていきたいと思っているであります!」
【智】
「ゆ、有効利用って」
すなわちこよりは、まだなのだ。アレが……。
その時のために、お赤飯の炊き方でも調べとこうか……。
【こより】
「ふああぁ………。鳴滝、なんか眠くなっちゃいました」
【智】
「もうすぐ明け方だよ。少し寝ようか」
【こより】
「ハイ。あ……今日はこのままで……」
【智】
「ん」
こよりが僕を離してくれないので、繋がったまま眠ることにする。
こよりを抱き上げて僕とこよりの上下だけを入れ替えた。
男の子は起きる時大きくなってしまうのだが、その時はその時だ。
【こより】
「はふ……ともセンパイ……、大好き……」
【智】
「うん。布団、かけるよ」
【こより】
「ハイ、ともセンパイ」
胸でこよりが眠るまで待った。
カーテンの隙間から見える空は、いつの間にか白み始めていた。
〔ラブぢからです!〕
体が揺さぶられる感触で目がさめた。
まどろんだかどうか、ほんの僅かな睡眠しか取れていない気がする。
閉じた目蓋ごしにまばゆい光を感じながら体を動かそうとすると、
おなかの辺りに鈍い痛みがあった。
そういえば繋がったまま寝たはずなのに、
こよりだけがすでに起き出している。
朝になって僕のアレがナニして、それでこよりは
目がさめちゃったのかもしれない。
【こより】
「ともセンパイっ! 起きてください、もうお昼ですよ〜ぅ!
スカイはスカイブルーでサンビームもサンサンです!」
【智】
「ぅ……こよりぃ……」
【こより】
「鳴滝がお昼ご飯も用意しましたっ! 早く起きてくださいよう!」
こよりに腕を引っ張られると、おなかの筋肉がビクっと収縮した。
筋肉痛だ。
【智】
「いたた……っ、元気だなぁこより……」
【こより】
「ともセンパイおなか痛いんですか?」
【智】
「いや、筋肉痛……」
【こより】
「きんにくつう……? あ、えっともしかして……」
【智】
「うん、あの……あれで……」
【こより】
「も、もう〜っ! ともセンパイがいきなり、
あんなに激しくするからですようっ!」
【智】
「あはは……ゴメン……いててっ」
単なる筋組織の炎症以上の意味を持つ、甘い痛みだった。
確かに昨日僕とこよりは愛し合い、身も心も繋がった。
【こより】
「とにかく早く起きてくださいっ! お昼ご飯食べて出かけますよ」
【智】
「いつつ……ありがとう。……って、ちょっと待って!?
こよりがお昼ご飯!?」
甘い想いに浸る間もなく、僕はこよりの言葉が意味することに
気がついてしまった。
こよりが、お昼ご飯を、作ったって!?
この間の恐怖が再びよみがえる。
『青いファンタジー』なる真っ青で甘く熱い
怪奇なスパゲッティ……。
あのアンダルシアの空のような鮮烈なブルーと、
食卓に出現した新しい地獄のような味……。
名前まで覚えていた僕は、かなりエライと思う。
今朝は甘口いちごスパゲッティでも食べさせられるのか!?
【智】
「こ、こより、僕オナカ、へらない。食べ物、いらない。
本当、本当!」
【こより】
「そんなカタコトになってまで怯えなくてもいーじゃないですかぁ! お昼はシリアルだから、ノープロブレムですよう!」
【智】
「……へ、シリアル?」
そういえば、キッチンに買い置きしてあったっけ……。
【智】
「よかった……命拾いした……」
カルシウムが不足しがちな日本人の朝食に!
牛乳をかけるだけで理想的な栄養バランス!
人類の文明は偉大だと思った。
この間まで、裏切りに落ち込んだり、僕と惠のことを誤解して
妬いていたりしていたのに……。
まるで、そんなことなど無かったかのように振る舞っている。
もう、ちょっとおかしいくらい元気。
【こより】
「はやくー、はやくー!
ともセンパイ、なんかヘンな格好で走ってますよ?」
【智】
「だから筋肉痛なんだって……!」
せっかく、僕の好きなドライ・フルーツの入ったシリアルだった
のに、牛丼屋のような早食いを要求されて……。
食後の身だしなみチェックもままならず、
早々に家の外へと引っ張り出された。
【こより】
「昼まで寝てたんですから、急がないとダメですようー!」
【智】
「日本人はもっとゆったりと生きるべきだよ〜!」
そう言えばインラインスケートを履いた
こよりを見るのも久しぶりだ。
両手をぶんぶん振りながら、ついーっとスライド移動。
やっぱり、この方がこよりらしい。
【智】
「よく考えたらこよりだけ車輪付きだよ、ずるいよ。
もっとゆっくり〜。スピード落とせ〜」
【こより】
「ともセンパイも買ったらどうです? わっか付き靴。二人でついついーっと街を走れば、話題の美少女姉妹になれるかも!」
【智】
「そんなの目指さなくていいって! いつつ……」
右に左に引っ張られながらヘロヘロと走る。
でも本当は僕だって楽しみだ。
すっかり久しぶりな気がするあの場所で、みんなと会おう。
【るい】
「おそい!」
【智】
「うへ……ごめん」
【こより】
「鳴滝がせっかくみなさんに連絡したのに、ともセンパイが
ヘロヘロ歩きしかできないから遅れたんですよう!」
【智】
「だ、だって〜」
筋肉痛の理由が理由だけに申し開きもできない。
【花鶏】
「罰としてわたしと入浴する刑」
【こより】
「それは却下ですっ!」
【茜子】
「では替わりにカンディルと一緒に入浴する刑で」
【伊代】
「……何それ?」
【茜子】
「アマゾンに住むナマズの一種で、膣や肛門から体内に侵入して
内臓を食い破るとかなんとか」
【茜子以外】
「「「「「痛うぇあっ!?」」」」」
全員で一斉に股間を押さえる。
僕だけ反射的に後ろを押さえたけど、
どうやら気づかれなかったようだ。
【こより】
「却下! それも却下です!
それより伊代センパイ。もうだいじょぶですか?」
【伊代】
「もちろんよ、ありがとう。あなたも大丈夫みたいね?」
【こより】
「もちろんですよう!」
今のこよりには、伊代のことを心配する余裕まであった。
もう僕がこよりのことを心配する必要は、まったくないみたいだ。
僕たちの心はもう繋がっているから。
【こより】
「それより、あれから依頼のほう、ありました!?」
【智】
「え、依頼って?」
【るい】
「下町ヒロイン活動だね!」
【茜子】
「下町のナポレオンみたいですな」
【花鶏】
「なによ、それ?」
【智】
「ははは、まあこのところ、それどころじゃなかったからねえ」
【伊代】
「本当に。しばらく活動できる状態じゃなかったから、一応掲示板の方には休止の案内出してたのよ?」
【伊代】
「で、昨日久しぶりに携帯でチェックしてみたら、もうスパムな
書き込みだらけになっちゃってて……」
【智】
「ああ、よくあるよくある」
【るい】
「それで? 今日はなんもなし?」
【伊代】
「ひとつだけ。『休止と告知されていましたが、どうしても解決いただきたい問題があって、失礼を承知で書き込みました』って。礼儀正しい人よね」
【花鶏】
「そんなのはどうでもいいじゃないの! で、内容はなんなの!?」
相変わらずのテンポの悪さに、むしろなんだかホっとする。
これでこそ伊代だ。
【伊代】
「なによ! 久しぶりなんだから、やっぱりこういう礼儀正しい人の依頼のほうが安心でしょ!?」
【智】
「礼儀正しいヤツほど裏でナニをしてるかわかんない」
【茜子】
「茜子さん、心当たりが即アリアリです」
風当たりが冷たかった。
【智】
「まぁ、とりあえず内容教えてよ。内容如何によっては、
いくら礼儀正しい人の依頼でも応じられない場合もあるし」
【伊代】
「うん、内容は……」
依頼の内容はこうだ。
受験を控えた姉が、ストレスからノイローゼ気味で
万引き常習犯になっている。
どうか止めて欲しい。
つまり、店なり警察なりに姉が捕まってしまう前に、
僕たちでなんとか止めさせればいいというわけだ。
【るい】
「カンタンだよ」
【茜子】
「どのくらいカンタンかと言うと、我々でなくてもできるくらい
カンタン」
その気になれば誰でもできそうな内容ではある。
だけどこよりは、やる気全開だった。
【こより】
「やりましょう! 鳴滝はゼヒとも助けてあげたいです!」
依頼者の名前は、MINA。
本名かどうかは知らないが、おそらく女の子。
依頼者は、姉を助けたいと願う妹……おそらくこよりには、
自分と姉との関係がだぶって見えたのだろう。
【智】
「そうだね。確かに僕たちでなくてもできるけど、
やってあげようよ」
【花鶏】
「ふぅ、そうね。肩慣らしには丁度いいかも」
【るい】
「どんな子かなぁ?」
【こより】
「……茜子センパイと伊代センパイは?」
【茜子】
「茜子さんも反対とは言ってません」
【伊代】
「あ、わたしは最初からやるつもりだもの」
【こより】
「じゃあ、決まりですねっ! うっし、復帰第一弾ガンバルぞぉ〜!」
網は文具コーナーのある書店に張られた。
この場所を選んだ理由。
MINA……美奈さんから聞いた、お姉さん……
和美さんの行動範囲内であること。
店舗の構造上、本は盗み難く、CDコーナーには防犯シールが
貼ってあるから万引きはまず無理……
それなのに、店員の監視が甘いということ。
必然的に、狭い文具コーナーからしか万引きは出来ないので、
僕らの監視が楽になるということ。
加えて、ここはるいの通う学園のすぐ近くらしい。
地の利も充分だった。
【こより】
「来ました!」
こよりが、預かっていた和美さんの写真と見くらべながら、
ターゲットの到着を告げた。
いよいよ作戦開始だ。
【智】
「伊代、監視カメラは大丈夫?」
【伊代】
「ええ、ちょっと干渉して、文具コーナーを死角にしてある」
花鶏がわざわざ自宅からノートPCを持参して、
伊代に使わせていた。
伊代の能力で、お店の監視システムにネットから侵入して、
セキュリティを少し誤魔化しているらしい。
【花鶏】
「茅場、行くわよ」
【茜子】
「OK」
こっそりと和美さんの後ろについて、
文具コーナーへと向かう花鶏と茜子。
現行犯で捕らえるためではない。
現行犯で捕らえるためならば、出口で見張っていれば充分だ。
目的は店員の注意を引いて、
『ターゲットの万引きを成功させる』ことにある。
店員に見つけさせずに、僕たちが捕らえるための
いくつもの仕掛けだった。
【和美】
「………………」
ターゲットは、文具コーナーに出てキョロキョロと辺りを窺う。
店員の動向や、監視カメラの向きを、慎重に測っている。
やる気だ。
【るい】
「カズミちゃんだっけ? ミナちゃんの言ってたのに間違いないね。あの子、万引きなんてしそうに見えないのに……」
【智】
「だから余計危ないんだと思うよ」
【伊代】
「むずかしいわね……」
【こより】
「あっ! ともセンパイ、今!」
たしかに見た。
花鶏と茜子が店員に面倒な質問をしている間に、ターゲットは文具コーナーの下の方にあったカッターをカバンの中に落としこんだ。
【智】
「先に出よう」
【こより】
「ハイ!」
出口に先回りして、ターゲットを待ち伏せる。
右側にるい。左側に僕とこよりと伊代。
スペック差を考慮した分け方だ。
花鶏と茜子は、ターゲットの後ろについて
一緒にお店から出てくる算段。
三方から囲む作戦だ。
【伊代】
「来たわよ」
【智】
「うん」
ターゲットが店内から出てくる。
るいにジェスチャーで合図を送って、大きなガラスの自動ドアの
前に立ちふさがった。
【智】
「…………」
【伊代】
「…………」
【こより】
「止まってください!」
うろたえてターゲットが立ち止まる。
僕たちが前を塞ぐのに合わせて、花鶏と茜子が
和美さんの後ろに立って、退路を断った。
【和美】
「な、なんですかあなたたち?」
【るい】
「ミナちゃんが心配してるよ……って言ったらわかるかな?」
【和美】
「美奈……妹の知り合いなんですか?」
【花鶏】
「いいからさっき盗ったモノを、カバンの中から出しなさい」
【茜子】
「カッターです。出してください」
【和美】
「な……なんで……! あなたたち、誰なんですか!?」
もともと真面目そうな子だし、罪悪感も抱えていたのだろう。
僕たちの追及に、和美さんは真っ青になってうろたえた。
瞳は揺れ、唇が震える。
まるで、和美さんの方が被害者になったみたいだった。
【智】
「そんなに怯えないで欲しい。僕たちは妹さんに頼まれて……」
【和美】
「っ……!!」
僕の言葉にも耳を貸さず、和美さんはいきなり走り出した。
【伊代】
「あっ」
【こより】
「ちょっと、和美さん!」
こよりと伊代の間をすり抜け、専用駐車場内を、
車と車の間を縫って逃げようとする。
【るい】
「逃げるなー!」
【和美】
「ひっ!!」
るいが片手をついて車を跳びこえて、和美さんの前に回りこんだ。
【智】
「わあ! るい、それは逆効果だって……」
るいの人間離れした運動能力に、すっかり怯えてしまう和美さん。
これじゃあ、どっちが犯罪を犯した側なのかわからない。
なりふり構わず逃げ始める。
【和美】
「た、たすけて……っ」
【智】
「待ってください!」
制止の声も届かない。
和美さんは何事かと立ち止まる人々を突き飛ばし、必死の
形相で目の前の道路へ飛び出していく。
【こより】
「赤! 赤!」
信号は赤……和美さんには、見えてないのか!?
【花鶏】
「ちょっとあんたっ!」
宅配会社のトラックが突っ込んでくる!
【智】
「あぶないッ!」
クラクションが薄暮の街に響き渡り、思わず目を覆った。
トラックが走り去る音。
おそるおそる顔を上げると……。
【和美】
「…………っ」
和美さんは道の向こう側で、僕たちの方におびえた目を向けていた。
どうやら無事だったみたいだ。
【伊代】
「良かった……」
【智】
「ムチャするなぁ……。最悪の事態にならなくて良かったよ」
【茜子】
「復帰からいきなり人殺しになりそうな瞬間でした」
【こより】
「逃げられたけど、無事で良かったですよう……!」
赤信号の向こう側、和美さんがその先の角を
曲がっていく後ろ姿が見えた。
【るい】
「あっちは住宅地。道ややこしいよ」
【智】
「そりゃまずいね。手分けして追うしかないか」
花鶏がトントンと爪先でアスファルトを叩く。
【こより】
「あ、信号変わりますよ! 追跡開始であります!!」
やたらと長く感じられた信号が青に変わった瞬間、
僕らはレースみたいに飛び出した。
【花鶏】
「わたし、こっちいってみる」
【智】
「伊代も行ってあげて。二人居たほうがいい」
【伊代】
「わかったわ」
花鶏と伊代が右手の道に走る。
るいの言葉通り複雑に入り組んだ住宅地。
無計画な宅地造成で作られた旧市街時代の遺物だ。
いくつもの袋小路を有した道は追う者に有利だが、入り組んだ道は単純に速度で勝っても、いつまで経っても追いつけない可能性がある。
【るい】
「わたしは一人でだいじょぶ! このへん知ってるし」
【智】
「了解。茜子は一応ここ抑えてて」
【茜子】
「拠点確保ですね。
もやしっ子の茜子さんを走らせない百合姉はえらいです。
万引き犯妹に連絡でも入れておきます」
【智】
「おねがい。携帯持ってなかったよね?
必要なら僕の携帯使って」
茜子に携帯を渡す。念のための待機だ。
【るい】
「じゃ!」
るいが正面の道を行った。
【こより】
「それでは鳴滝とともセンパイがあっちですね!」
【智】
「うん。早く捕まえてあげないと危険かもしれない」
もともとノイローゼ気味で、逃避のために行っていた万引きだ。
本人も相当悩んでいたに違いない。
僕たちに逃避していた自分の弱さを暴かれて、
それで怯えて逃げ出した。
このまま逃がしてしまうと、最悪罪の重さに耐えかねて、
自殺でもしかねない。
【智】
「こっちじゃないのかな」
【こより】
「るいセンパイが見つけてくれてたら一番確実なんですけど」
るいがターゲットを逃がすようなことは、まずない。
【智】
「かわいそうに。るいに追いかけられるなんて……」
もし自分がるいから逃げる立場だったら……
そんなの、まず無理だ。想像するだけでもゾッとする。
【こより】
「花鶏センパイと伊代センパイはどうでしょう?」
【智】
「そっちも、たぶん大丈夫だと思う」
伊代はちょっと頼りないところがあるけど、あの三宅のヤツの
一件で、意外に土壇場に強いことがわかった。
花鶏のサポートがあれば大丈夫だろう。
【智】
「あ、行き止まり……あっちに回ろう」
【こより】
「ハイ!」
もし僕たちが見つけたら、僕が頑張らないと。
気を引き締めて日暮れの住宅地を走る。
【こより】
「どっち行きます!?」
【智】
「う〜ん……、分かれよう」
【こより】
「ええっ、別行動ですか!?」
【智】
「茜子の所に戻られるのが一番危ないんだ。
茜子一人じゃ抑えきれない。それに……」
【こより】
「ともセンパイ!
今なにか向こうで犬がすごく吠えてなかったですか!?」
理由は知らないけど、
犬は怯えて走る人間にはなぜか吠える。
【智】
「くそ、どっちだ……!」
【こより】
「わたし、右行ってみます!」
【智】
「おねがい! 僕はまっすぐ行く!」
こよりと二手に分かれて走る。
門の前、唸り声を上げる犬の前を通った。
さっきの犬か? 和美さんはこっちにいるのか?
【智】
「あ!」
居た!
【智】
「和美さん!」
【和美】
「ひっ! こ、来ないで……!」
【智】
「待ってください!」
声を掛けても止められない。
もうすっかり恐慌状態に陥ってしまっている。
たぶん、本人も経験したことがないほどの速さで
走っているんじゃないか?
距離を縮められない。
【こより】
「ともセンパイ! 和美さん!」
【智】
「こより!」
その時、向こうをぐるりと回ってきたこよりが、正面から現れた。
挟み撃ちにされた和美さんは、足をもつれさせながら
見知らぬ民家の門柱にもたれる。
【和美】
「魔が差しただけなの……本当なの!
誰にも言わないで、許して……!」
叫びながら、カバンの中に手を突っ込んで、必死に探っている。
その声は、必死だ……。
【こより】
「和美さん、落ち着いて下さい」
【智】
「僕たちは別にあなたを……」
【和美】
「来ないでっ!」
ヒステリックな叫びとともにカバンを投げつけてきた。
僕の腕に当たって、新品の消しゴムやらボールペンやらが
地面にぶちまけられる。
【和美】
「来ないで……来ないで……っ!」
手にしたものを、僕たちの方に向ける。
大きな昆虫が威嚇するような音を立てて、飾り気のない刃が伸びる。
さっき盗んだカッターだった。
【和美】
「ち、近づかないで……! 私に構わないで……!」
【智】
「と、とにかく落ち着いて下さいっ!」
なんとかなだめようしてみるけど、和美さんの心には届かない。
前と後ろ、僕たち二人を交互に警戒しながら、
及び腰でカッターを構える。
近づけば確実に振り回してくるだろう。
カッターとはいえ、当たり所が悪ければ大怪我をする。
それよりもなによりも、もし僕かこよりのどちらかが怪我を
してしまったら、和美さんの心には表面上の傷よりもずっと
深い傷跡が残ることになる。
【智】
「和美さん、どうか落ち着いて下さい。
そんなもの仕舞ってください!」
【和美】
「どうして……どうして、みんな私を責めるの……!?」
【こより】
「と、ともセンパイぃ〜……」
こよりが助けを求めるような目で僕を見ながら、
情けない声を出す。
僅かな逡巡の末、和美さんの目は自分の背後、
こよりの方をキッとにらんだ。
カッターの切っ先がこよりに向く。
【智】
「危ない!」
小さいこより相手なら突破できると思ったのか!
【和美】
「退いてッ!!」
和美さんがスカートを翻す。
街灯を反射してカッターが鈍く光ったかと思うと、
鋭い角度でこよりを襲った。
【こより】
「えっ!?」
【智】
「こよりっ!!」
惨事を覚悟した瞬間――
こよりが突然、別人のような体裁きで動いた。
【こより】
「……っとと、はぁーっ!!」
【和美】
「あ、ああ……っ!?」
振るわれた刃の円弧を掠め、こよりは和美さんの手を絡めて
その身を流していた。
一挙動で手首を極めて、いとも簡単にカッターを奪う。
【こより】
「観念するでありますよ!」
唖然とする……。
【智】
「な、なにその瞬間の神業ーっ!?」
【こより】
「テレビでやってた護身術であります!」
こよりの能力、運動パターンのトレース。
別人のような動きではない。
まさしく『別人の動き』だったのだ。
茜子のところに戻った僕たちは、みんなとようやく合流した。
るいは走りすぎで隣町まで行ってしまってたようだけど、
ようやく戻ってきて空腹にダウンしていた。
【るい】
「う、うぅ……走ったらおなかすいたよ……」
すっかり観念した和美さんは、座り込んでうなだれている。
【和美】
「……ごめんなさい……」
【智】
「いや、別に僕たちはあなたを責めるつもりはないんです。
ただ、妹さんに頼まれただけで……」
【伊代】
「妹さん、あなたのこと本気で心配してましたよ?
一度、ちゃんと話をしてあげてみたらどうです?」
【和美】
「…………」
【花鶏】
「まったく、こよりちゃんを傷つけていたら、タダじゃ置かないところだったわよ? こよりちゃんの才能に、せいぜい感謝することね!」
【智】
「いやほんと、すごかったんだから! 目にもとまらぬ早業って、ああいうのを言うんだね!」
【茜子】
「ワーキャーピーピーきゅんきゅん言ってるだけの生物かと思っていました」
【こより】
「えっへっへ、鳴滝はともセンパイへのラヴぢからで
パゥワーアップしたのですよう!」
【花鶏】
「ラヴ!?
やっぱりこよりちゃんが攻めなの!? 智が受けなの!?」
【智】
「し、姉妹愛だよぅ〜」
【和美】
「ふふ……姉妹愛、か……」
僕たちの気の抜けるようなやりとりにあきれてしまったのだろう、
今までずっと緊張状態だった和美さんが、ようやくリラックスしてくれた。
【智】
「妹さん、本当に心配してましたよ?」
【和美】
「……ええ。私、美奈に謝らないと」
【伊代】
「行きましょうか」
茜子が先ほどのブックストアに、すでに美奈さんを
呼んであるとのことだった。
【こより】
「あ、あれ……痛、痛たっ!?」
【智】
「こより?」
歩き出そうとした途端、こよりの体が傾いだ。
あわてて肩を支える。
【智】
「大丈夫? どうしたの?」
【こより】
「いつつ……、さっきので足挫いちゃったみたいです」
【智】
「え? あんなに華麗な動きだったのに?」
【こより】
「だからです。鳴滝のアレは動きをコピーするだけなんで、
鳴滝のスペック超えた動きとかすると傷めちゃう時があるんですよう……」
【智】
「なるほど……動きが凄すぎると、かえって体がついてこない
ワケね」
【こより】
「そうなんです」
【花鶏】
「ああ、それなら皆元におぶってもらえば……」
【るい】
「うぅ……ごはん……」
【茜子】
「超使い物になりません」
るいは街中で遭難しかけていた。
【智】
「いいよ。僕がおぶってあげる」
【こより】
「うは、いいんですか? ともセンパイ、ありがとうございます〜!」
こよりはうれしそうに僕の背中に飛び乗ってくる。
まだ少し腹筋が傷むけど、その体重は幸せな重さだった。
心地よい体温……背中に当たるのが、まだささやかだけど小さな二つのふくらみだと気がついて、僕はちょっとドギマギする。
ううう……しまった、早計だったかな……。
美奈さんは、ブックストアで僕たちを待っていた。
【美奈】
「お姉ちゃん……っ!」
【和美】
「美奈……ごめんなさい」
駆け寄ってくる美奈さんを、和美さんは
カバンを取り落として抱き留める。
【和美】
「ごめんなさい、ごめんなさい……! 美奈に心配かけて、
私……バカだった」
【美奈】
「お姉ちゃん」
【和美】
「う……、本当に……私」
【美奈】
「いいの。これからは辛い時は、一人で悩まずにわたしに言って……グチぐらいいくらでも聞くし、相談にも乗るから……」
【和美】
「美奈、ごめん……ごめん……!」
和美さんは、美奈さんの胸で泣き出してしまう。
だけど、人前で泣けるのは信頼の証だ。
この二人はこれからはきっと解り合って行けるだろう。
【伊代】
「あの、良かったらこれ……ハンカチ使って?」
【和美】
「あ、ああ……ありがとうございます」
伊代からハンカチを受け取り、和美さんが目元を拭う。
【こより】
「うは、これでめでたしめでたしですねっ」
【美奈】
「はい。本当に……ありがとうございます」
【和美】
「私ももう一度、真面目に受験と向き合ってみます。本当に自分に必要なのは何か、何を頑張るべきなのかをもう一度考え直して……」
【智】
「お二人が理解し合えば、きっと未来は開けると思います。
頑張って下さい」
【美奈&和美】
「ありがとうございます」
【こより】
「てへへ……」
二人して頭を下げられて、僕たちはちょっと照れてしまう。
微妙に視線をそらして頭を掻いたり。
ちょっといい雰囲気の中、るいだけが
コンビニで買ったおにぎりを貪り喰っていた。
花鶏がそれを見とがめる。
【花鶏】
「ちょっと、そこの雰囲気台無し女!
そういえば、あなたも受験生だったんじゃないの!?」
【るい】
「あむっ、んぐ……んえ?」
【和美】
「え? そちらの方も、私と同級なんですか?」
【智】
「うん、そういえばそうだ、るいも受験生じゃないか。
毎日ブラブラしてて大丈夫なの?」
【るい】
「私に進学できるアタマがあると思う?」
【智】
「……おもわない」
この前、検索サイトで遊ぶという遊びを
学園でやったのを思い出した。
参加する人はみんな二つの単語を入力してアンド検索をする。
ヒット数が少ない人が勝ちだけど、0件になったら負け。
できるだけ無関係そうな単語二つを入力するのがコツである。
その時は宮和が『ワイマール憲法 みそ漬け』という
絶妙なセンスの検索で2件という低ヒットを叩き出し、
優勝していた。
『るい 受験』
これなら1件ヒットを出して、勝てそうな気がする。
【和美】
「あはは……」
【茜子】
「あなたも、ウチのあほの子くらい気楽になると吉です」
【伊代】
「それは気楽になりすぎだと思う」
【るい】
「人間、食べ物さえあればなんとかなるって」
【花鶏】
「それは皆元だけよ!」
【和美】
「うふふふ……そうですね。
私ももっと気楽に構えてみようと思います」
【美奈】
「ありがとうございます。それにしても……
さすがネットでも噂の『ピンク』のメンバーですね。
取材まで来てて、ビックリしました」
【智】
「え? 取材?」
【美奈】
「知らなかったんですか? だって、さっきそこの建物の上から、写真撮ってた人がいましたけど?」
【智】
「知らなかった……」
取材なんて、聞いてない。
三宅のように、知らないうちに、
つきまとっているヤツがいるのか?
【花鶏】
「妙ね、それ」
【伊代】
「ネットで話題なら写真とか撮られてもおかしくはないけど、
無断で、しかも建物の上から隠れてなんて」
【美奈】
「え、どういうことですか?」
【茜子】
「そのカメラ小僧は、正体不明アンノウン存在ということです」
祝勝モードに、水を差されてしまった気分だ。
誰だ? 目的はなんだ?
【智】
「どんな人だったかわかります?」
【美奈】
「えっと……遠くて良くわかりませんでした。あそこの階段の踊り場に三脚を立ててて、こう大きな望遠レンズで……」
【智】
「そうですか……教えてくれてありがとう。あ、別に気にしなくて良いですよ。僕たちも今後気をつけてみます」
【美奈】
「あ、はい」
【和美】
「ありがとうございました」
【智】
「うん、さようなら。二人とも、仲良くね〜!」
美奈さんや和美さんたちの後ろ姿が見えなくなった途端、
僕たちの間に緊張感が戻ってきた。
【智】
「やっぱり気になるね」
美奈さんたちに余計な心配をかけないよう、
口ではああ言ったけど……。
ネットで聞いた話を生で見に行くっていう野次馬とは、
明らかに様子が違う。
高い位置からの望遠撮影なんて、明らかに隠れるためだ。
しかも三脚……本格的すぎる。
【こより】
「いわゆる、『ヲチ』とか言うヤツですか?」
【智】
「わからない。だけど、調べる必要がありそうだね」
【るい】
「絶対、怪しいよ」
【こより】
「何者なんでしょ……」
撮影くらい構わないけれど、僕たちは呪いという秘密を抱える身だ。
誰かがまた僕らの秘密を探ってるのかもしれないと思うと、
不安がつのる。
僕たちは呪われた存在だ。
他人は信用できない。
【花鶏】
「………………」
花鶏が難しい顔をして考えを巡らせていた。
るいが黙って拳を固めていた。
自分たちの身は、自分たちで守らなければならない。
僕たち野良犬の能力という牙は、
その為に与えられた物なのかも知れなかった。
〔裏切り〕
【花鶏】
「ははは、このわたしに反応できない球があるとでも
思ってんの!?」
確かに花鶏の防御は完璧だった。
【智】
「な、なんでその球に追いつけるの!?」
おそらく……いや、たぶん間違いなく、
花鶏は思考加速の能力を使っていた。
でなければ、そんなに球技が得意そうでもないのに、
こんな風にあらゆる球に反応することなんて出来るはずもない。
【花鶏】
「オホホホホ! わたしに勝とうなんて、百年早いのよ!」
【智】
「ズ、ズルいや!」
こよりの案内で来た、田松市市民体育センター。
そんな場所があるのも知らなかった僕らだが、こよりの行きつけの場所らしい。
こよりはここで、うまい人が滑るのをトレースして
インラインスケートを覚えたのだと言う。
【るい】
「トモっ」
【智】
「んっ!」
【こより】
「うひっ」
【花鶏】
「無駄無駄ァっ! こよりちゃんはサーブだけでいいのよ〜」
僕たちは何故かそこで熱い卓球勝負を繰り広げていた。
ダブルスで花鶏&こよりチームと、智&るいチームの対決だ。
【茜子】
「もやしっ子とどんくさい子は見学です」
【伊代】
「どんくさい子言うな! しかし、じゃんけんで決まったにしては、うまいチーム分けになったわねぇ。なかなか楽しめるわ」
【茜子】
「いえ、これはおそらく、あのエロスの女帝が変態性愛の為に、
ジャンケンで能力まで使って、強引にあのチームを作ったのです」
ジャンケンなのにフェアーじゃない。
思考加速によってミリ秒単位の後出し……花鶏が負ける
要因なんてどこにも見当たらない。そんなのインチキだ!!
こよりはサーブ以外はさっぱりだが、花鶏がほとんど完全な防御。まさに脅威だった。
が――
【智】
「るいっ、来たっ!」
【るい】
「おらぁ〜、ばっきゅん!!」
【こより】
「ひえぇっ」
【花鶏】
「くぁっ……! は、反応できない……!」
るいの弾丸のようなスマッシュが、花鶏のラケットを
すり抜けていく。
【智】
「見たか! るいの必殺弾丸スマッシュ!」
いくら高速で思考できても、るいの力任せの剛速球には
体のほうが追いつかない。
【伊代】
「じゃあこれで8−8ね。サーブ交代」
卓球のサービスは、2本交代。一方がサーブばっかり
打つような事態だけは避けられるんだけど……。
逆にいえば、2本ごとに相手にサーブ権を
渡さなければならないことになる。
【茜子】
「出た。サーブの悪魔」
【花鶏】
「ふふふ、さあこよりちゃん。また魔球を見せておやりなさい」
【こより】
「ういっす! 了解であります!」
【智】
「またこよりのサーブかぁ〜」
【るい】
「トモ、気をつけて!」
るいのサーブは勿論凄まじいのだが、こよりのはそれに
輪をかけた恐怖のサーブなのだ。
いくら花鶏の防御が完璧に近いとはいえ、ほぼ一人で戦って
いる花鶏チームと僕らのチームが同点なのは、こよりのサーブ
に秘密がある。
【こより】
「ほおおぉっ、秘技・セイリングプリンスぅッ!!」
【るい】
「うえっ、曲がった!」
【智】
「反応できないよう!」
天井サーブ、という技がある。
サーブの時、通常は軽く球を投げ上げて打つが、天井サーブは
これを天井近くまで高く投げる。
高く投げ上げた分落下速度が加速してサーブのキレが増し、
相手はタイミングを計り難くなるのだ。
大会ではそれなりに使用率も高い技らしいが、もちろん非常に
打ちにくく、なかなか素人に打てたものではない。
【伊代】
「これで8−9ね」
【茜子】
「魔球は……実在した!」
王子サーブ、という技がある。
大阪は王子卓球センターで生まれたという幻の技だ。
落ちてくる球にタイミングを合わせて自分もしゃがみ込みつつ、
ラケットの縁ギリギリで打つ。強烈な回転がかかって打球が
カーブして予想外の場所に飛んでくる。
当然そんなすごい球を打てる人は滅多にいない。
【智】
「ズ、ズルい……!」
【花鶏】
「情け無用よ」
【こより】
「次、行きますよう〜」
こよりがトスを天井近く、実に7メートルほども投げ上げた。
そして高速で落下してくる球に合わせて、縦に切るような動きで
魔性のサーブを打つ!
【こより】
「セイリングぅプリーンスっ!!」
【るい】
「また曲がった!」
【智】
「ぜんぜん反応できないよう!」
セイリング=天井、プリンス=王子。
天井サーブと王子サーブを組み合わせた魔球、
それが秘技・セイリングプリンスなのだ!
オリンピックかなにかの中継を見てコピーした技と見て間違いない。
【伊代】
「これで8−10ね。サーブ交代」
【茜子】
「これでハラペコがサーブ2本とも取っても、
次の魔球を防げなければデュースに突入ということです」
卓球は11点先取。10−10でデュースになり、
そこからのサーブは1本ごとに交代になる。
【智】
「るい、頼むよ!」
【るい】
「おう!」
【花鶏】
「片方止めたら勝ったも同然よ!」
【こより】
「うぬぬぬー、鳴滝もがんばります!」
なお、僕らは別に意味もなく卓球に熱中しているわけではない。
閑散とした卓球場でそれぞれの能力を派手に使い、件の謎の
カメラマンを誘き寄せるのが目的だった。
さっき伊代が合図してきたから、すでにどこかにカメラマンが
来ていることは間違いない。
『ピンク』としての活動でもないのに、僕らについて来ている
時点で、僕らを探っているのは確定だ。
まあ、ストーカーまがいのコアなファンという可能性は否定
できないけど……怪しすぎることには変わりない。
自然に試合を終わらせて、解散したフリをして尾行する、
というのが、今回の作戦だ。
【智】
「るい! いけ!」
でも、今はとにかく、目の前の勝負だ。
罠のために始めたこととはいえ、このまま負けたら悔しすぎる。
【るい】
「くのっ!」
【こより】
「うひょっ」
【花鶏】
「無駄無駄無駄無駄!」
【智】
「んっ」
【こより】
「ふえっ」
【花鶏】
「無駄ァッ!」
【るい】
「あっ!」
【智】
「あ〜っ!」
るいと僕の守備範囲を隙間を、むなしく球がすり抜けていく。
平凡なレシーブだけど、花鶏の粘り勝ちだった。
【伊代】
「終了〜。ゲームセットね」
【茜子】
「勝者は、チーム・生えてないと野獣〜」
【花鶏】
「ふ、他愛もない」
【こより】
「生えてないは、さすがに言い過ぎですよう……」
【るい】
「ぐあー、負けたー! 不覚!!」
【智】
「おそるべしセイリングプリンス!
るいがいるから勝てると思ったんだけどな〜!」
デュースに突入したものの、こよりの魔球サーブに
ことごとく翻弄されて……。
【智】
「最後のるいのサーブを返されたのが、敗因だったなぁ」
【るい】
「ううう……ごめん」
【こより】
「えっへっへ〜、罰ゲームですよ? ともセンパイ、るいセンパイ」
【智】
「うえっ、そんなのあるの!?」
【花鶏】
「当然。敗者にはそれ相応の罰がもたらされるのが勝負ってものよ」
【伊代】
「そういえば決めてなかったわね、そのへん。
後付けで罰を決めるのはちょっと公平じゃないから、
わたしたちが代わりに罰を決めましょうか?」
【るい】
「そんなことより、おなかペコペコ……」
【智】
「またか」
るいも力の使いすぎで、腹ぺこ魔神になっている。
花鶏も、そろそろ能力の反動が出て、いきなり寝始めてしまう
かもしれない。
これが力に対する代償……
なんとか、早めに解散しないといけないな。
【茜子】
「それでは、勝者チームがそれぞれ1個だけ、負け犬どもに、
命令をできるという定番のものでどうですか?」
【伊代】
「あなたにしてはまともな意見ね。それでいいんじゃないかしら」
【花鶏】
「ほんとに!? ほんとに!? それでいいの!?」
【智】
「性的な命令はゆるしてっ」
【こより】
「じゃあじゃあじゃあじゃあ!」
花鶏がフハッと正義妖怪のように鼻息を荒くしたところで、
こよりが前に出た。
【こより】
「鳴滝がともセンパイに命令したいであります!」
【花鶏】
「え、え〜……? 皆元に命令しても楽しくない〜。
せっかく智に裸エプロンで料理させて、後ろからアレとかコレとかソレとかスペクタクルな予定だったのに!」
【伊代】
「はいはい。ちょうどその組み合わせなら、どうせ一緒に生活してるみたいだし、家に帰ってからでもできるわよね? じゃあ、罰ゲームは各自実行ということで。そろそろ解散にしましょう」
【茜子】
「出た、仕切り」
【智】
「でも、ちょうどいいよ。るいも飢え始めたしさ」
【るい】
「なに食べよっかなぁ……」
そう言いながら、みんなに目配せして合図を送る。
そろそろ本来の目的に戻るべきだ。
センター内は明るいのでフラッシュは光らなかったけど、
試合の間に撮影は何枚もされてるだろう。
手筈はすでに決めてある。
【智】
「じゃあ、僕たちは夕飯の支度あるから先に帰るね。
行こ、こより」
わざとらしく、大きな声で言う。
こよりもそれに合わせてくれた。
【こより】
「あ、ハイです、ともセンパイ。そいではセンパイがた、
鳴滝たちはお先に失礼するであります!」
【るい】
「うい〜」
【伊代】
「それじゃあまた明日。あ、それでわたしたちはこの後……」
【花鶏】
「余計なこと言わないの!」
もしかして、会話も何らかの手段で聞かれているかも知れない。
ついつい喋りかけた伊代の口を、花鶏が人差し指を立てて塞いだ。
カメラマンに狙いを悟られないように、僕たちはみんなと別れる。
しばらく家路を辿ってから曲がり角で振り返った。
【智】
「居ない……ね?」
【こより】
「みたいですね。戻りましょうか」
【智】
「うん」
向こうではみんなが場所を移動して、なんとなく時間を
潰してくれている。
「こっちはOK」
伊代にメールを送った。
「到着。カメラマン、確認したよ」
もう一度メールを打つ。
案の定、カメラを持った不審者が、物陰からみんなをマーク
していた。
目立たないジャケットに帽子とサングラスの格好は個性がなく、
かえって機械的な怖さを感じさせる。
【こより】
「ともセンパイ、みんな解散するみたいですよ?」
【智】
「カメラマンから目を離さないで」
声は聞こえないけれど、手を振り合って、伊代が花鶏邸
居候チームに別れを告げる。
カメラマンは花鶏たちのチームを追った。
【智】
「ふふふ、予想通り」
僕たちは、そのカメラマンのさらに後を追う。
【こより】
「後ろには気をつけてないみたいですね」
【智】
「尾行されるのには慣れてないんだな……何者だろう」
尾行の方も巧妙というわけじゃなかった。
一度気がつけば、どこから見てるのか丸わかりだ。
記者とか探偵の類とも思えない。
誰が、なんのために僕らを探っているのだろう?
やがて花鶏たちが家路のコースに入ったのを確認すると、
カメラマンは尾行をやめてカメラを仕舞う。
ここからが僕らの本番だ。
【智】
「どこに行くんだろうね」
【こより】
「あっちは……オフィス街ですか?」
カメラマンは国道を越えオフィス街に入っていく。
夕暮れを過ぎたオフィス街に人影は無く、いくつものビルが
墓標のような静謐とともに僕たちを見下ろしていた。
巨大な墓地に似たガラスと石の谷間を陰気な街灯が照らす中、
カメラマンを追って人気の少ない道を歩く。
【こより】
「………………」
こよりの表情を盗み見た。
感情の動きは見えない。
僕は不安を抱いている。
……カメラマンの行く先について、一つの疑惑が浮かんでしまった。
【智】
「まさか……」
でも、そんな僕の疑惑を肯定するかのように、カメラマンの
通る道は、いつか来た道をたどってゆく。
見覚えのあるカード会社の看板を見上げつつ、交差点を渡る。
やがて、疑惑は現実のものとなってしまった。
【智】
「こより」
【こより】
「………………」
そびえる鏡の塔は、薄暮の中でなお、僕たちを威圧していた。
CAコーポレーション――
こよりのお姉さんの勤める会社だった。
カメラマンがCAコーポレーションのビルに入っていったのを
見届けてすぐ、僕らは惠も含めたみんなに報告メールを送った。
程なくして返ってきたみんなからの返答は、各々に言葉を
選んだ跡が見て取れたけど、最終的には僕たち二人に任せる
という内容で意見が一致していた。
【智】
「惠からも返信あったよ。こよりに……
やっぱり僕たちに任せるって」
【こより】
「……ですよね」
こよりのお姉さんはあの会社――CAコーポレーションにおいて、
それなりに重要なポストにいるらしい。
そうなると、今回のことともおそらく、いやまず間違いなく無関係
ではないだろう。
みんなもどうやら、同じ推測に至ったみたいだった。
【智】
「やっぱりね……」
【こより】
「鳴滝にもわかります。お姉ちゃんが関わってるのは間違いないって」
こよりのお姉さん――小夜里さんが関わっている。
それはもはや、否定しようがない。
当然、能力のことも知られていると考えた方がいいだろう。
小夜里さんは、いつの間に能力のことに気づいていたのだろう?
いずれにせよ、呪いの秘密を探られることは、僕にとっては
死の危険にさらされているも同然だった。
言い辛いことだけど、こよりに話さないわけにはいかなかった。
【智】
「こより、言い難いことなんだけど……」
【こより】
「言ってください。
鳴滝はともセンパイの言葉なら受け入れられますから」
【智】
「こより……これは、あくまで僕の私見だよ?」
【こより】
「ハイ」
【智】
「この一件、小夜里さんが関わっているというより、
小夜里さんが指示した可能性の方が高いと思う」
【こより】
「…………」
ペン・ガンの事件を思い出す……。
また、お姉さんに裏切られるかもしれない。
かつて姉に見放されて泣いていた少女にとって、
苛酷すぎる可能性だった。
理由はわからない。
小夜里さんはどうやって僕らの秘密の手がかりを得たんだろう?
秘密裏に秘密を探って、それを一体どうするつもりなんだろう?
……わからないことばかりだった。
【智】
「こより、どうする?」
こよりに尋ねる。
今やこよりは、僕にとって最も大切な存在になっていた。
三宅の裏切りからやっと立ち直ったこよりが、また落ち込む
んじゃないか……そんな不安に襲われる。
だけど、ずっと目を瞑っているわけには行かないのだ。
虚構の安寧(あんねい)に順応して生きるには、僕たちはあまりに野性だった。
【こより】
「わたし、行きます」
こよりが顔を上げる。
決意に満ちた顔はすぐに僕に向けられて破顔した。
【こより】
「鳴滝はともセンパイに強さを貰いましたから!
もう逃げたりしませんから!」
【智】
「こより……」
【こより】
「わたし、お姉ちゃんに直接聞きに行きます。どうしてわたしたちを監視してたのか? わたしたちをどうするつもりなのか?」
かつては、パルクールレースを目前に逃げ出したこともあった。
でも、あの時の臆病な少女はもう、ここには居ない。
こよりは、目の前の問題と向き合うだけの力を手に入れていた。
それは僕が与えた力か?
違う。
こよりに元からあったものだ。
むしろ力を貰ったのは僕のほうかもしれない。
勘ぐって、予測して、未来に怯えることはやめよう。
あるがままを受け入れて、強く生きていこう。
【智】
「こより、僕もついて行くよ」
【こより】
「嬉しいです」
今は何も考えない。
とにかく、正面切って聞きに行こう。
アポイントメントも取らずにいきなり会社を訪ねたのに、
名乗っただけで、僕たちは何も聞かれることなくすんなりと
応接室に通された。
【こより】
「…………」
【智】
「…………」
隣には緊張した面持ちのこより。
【小夜里】
「…………」
【宇田川】
「そう固くならずに、リラックスしてくれていいんだよ」
向かいには小夜里さんと……見た目は若いが不健康な印象を
受ける中年の男。
宇田川与志夫――男は、この会社の社長だと名乗った。
【小夜里】
「用があるんでしょう?」
【こより】
「お姉ちゃん……」
何も聞かずに通した上に、社長まで現れた。
聞かずとも答は出てしまったわけだ。
【宇田川】
「CAコーポレーションのCAって言うのは、ケイクス&エールの略でね。つまりケーキとエール、菓子と酒って意味だ。シェイクスピアだよ。人生の最高の快楽は、菓子と酒だってね。くくく」
【小夜里】
「社長!」
【宇田川】
「最後まで言わせろよ。私は快楽主義者なんだよ。楽しいことこそこの世で一番大切なんだ。わかるだろう? だからもっとリラックスして。辛気臭いのは嫌いなんだよ」
【智】
「…………」
ひッ、ひッ、と喉の奥に吸い込む耳障りな息を混ぜながら、
一人場違いに楽しげに語る。
なにがシェイクスピアだ。
昔の偉大な作家の名前を口にすれば、自分まで偉くなった気で
いるのか。
でも、いら立って言葉を遮ろうとしたその時……
僕より早くこよりが口を開いた。
【こより】
「お姉ちゃん。わたしたちのこと、監視してたよね?」
【宇田川】
「ふん……」
【小夜里】
「…………」
一瞬の沈黙。
もともと聞くまでもないのだが、こよりは敢えて口に出して
確認をした。
【宇田川】
「ははは、ひははは……」
宇田川だけが笑い出した。小夜里さんは僅かに目を細めただけ。
【小夜里】
「……そのとおりよ。私はあなたたちに監視をつけていた」
【こより】
「やっぱり……」
【智】
「どうしてですか?」
【小夜里】
「…………」
小夜里さんが、伺うかのようにチラリと宇田川を見た。
宇田川は肩をすくめる。
【宇田川】
「その件は最初から鳴滝君に任せてる。君が説明するといい」
【小夜里】
「では……あなたたちの呪いの能力の秘密を探るためよ」
【こより】
「お姉ちゃん、知ってたの……!?」
こよりは驚いていた。
僕には半ば予想通りだ。
やはり、小夜里さんは気がついていた。
こよりの両親が隠していたはずの呪いの秘密。
小夜里さんは、どうやって知ったのか?
今は何処まで知っているのか?
藪蛇になりかねないので迂闊なことは聞けない。
種明かしは、小夜里さんが自分から始めてくれた。
【小夜里】
「ずっと隠されていたものね。
つい最近まで呪いなんて知らなかったし、
あると言われても信じなかったと思うわ」
【こより】
「どうしてわかったの!?」
【智】
「いつ知ったんですか」
【小夜里】
「私たちに協力しなさい」
【こより】
「……え……?」
小夜里さんは僕たちの質問を無視した上に、開き直って協力を
持ちかけてきた。
小夜里さんは眉一つ動かさなかった。
この人は……本当にこよりのお姉さんなのだろうか……?
【智】
「研究材料になれってことですか?」
【小夜里】
「違うわ。あなたたちにも恩恵がある」
【宇田川】
「おいおい、面白いな。ははは」
【智】
「面白くなんかありません!」
宇田川に敵意の目を向ける。
しかし、それは癇に障る薄笑いで受け止められた。
【智】
「くっ……!」
小夜里さんはそんなやり取りには目もくれず、まるで予め
台本が存在している舞台であるかのように語り始めた。
【小夜里】
「私と家族の間には、どこかほんの僅かな溝が常にあった。
薄紙を1枚差し挟めるかどうかといったような、かすかな溝……」
【小夜里】
「長く私は気づかなかったわ。当然のことよね。
なぜなら溝を作っていたのは、私が存在することさえ知らない
謎めいた秘密だったのだから……」
【こより】
「呪い……」
【小夜里】
「不明瞭な違和感から逃げるよう、私は家を出たわ。
違和感の雨の中、私はこの会社という軒先に逃げ込んだ。
逃げる先はどこでも良かった」
【小夜里】
「私は今度こそ違和感のない居場所を手に入れるため、
機械のように働いた。企業、そこは明確な世界だった。
利潤という数値を上げればいいもの」
【小夜里】
「不明瞭なもののない、とてもシンプルな世界だったわ」
【宇田川】
「はは、確かに鳴滝君は優秀な社員だよ」
小夜里さんの目は誰も見ていなかった。
その目はどこに向けられているのか……。
ただこよりだけが、その視線の先を追うことが
出来ているように見えた。
【小夜里】
「貿易の仕事に携わるようになって、海外の珍しい書物などに
触れる機会も増えた。そんなとき、私はとある書物の写本に
出会った」
【小夜里】
「そこで私は、私だけ隠された家族の秘密を知ったのよ。
私だけがずっと目を塞がれていた事実を……」
【小夜里】
「小さい頃に妹の……こよりの肌に見つけた痣――その痣が
呪われた徴なんだと、私の家が呪われた血筋なんだと、
その時になってようやく理解した」
【こより】
「お姉ちゃん……」
【智】
「その本っていうのは、まさか……」
小夜里さんが呪いの秘密を知った書物――
僕たちの呪いについて記された書物なんて、
一つしか思い浮かばない。
【宇田川】
「ラトゥイリ・ズヴィェズダー。ロシア語だかウクライナ語だかで、『ラトゥイリの星』って意味だったかなぁ。コレクターとしては原本が欲しいんだけど、見つからなくてねぇ」
【智】
「捜したのに見つからなかったなんて、最初から全部、
嘘だったんですね……」
写本は実はあったんだ。くやしくて、歯がみする。
【小夜里】
「あなたたちが『ラトゥイリの星』の写本のことを聞いてきた
時は驚いたわ。だけど、それをきっかけにこよりと付き合い
のある人間を調べたのよ」
【こより】
「そんな」
【小夜里】
「茅場茜子、才野原惠、白鞘伊代、花城花鶏、皆元るい、そして
こより。あなたたち六人はみな、不思議な束縛と能力を持つ
存在だった」
【智】
「…………」
どうやら能力を持たず、誰にも呪いを明かしていない僕は
カウントされていないらしい。
これで僕はひとまず、生命の危機を回避できたわけだけど……
依然事態は芳しくない。
【宇田川】
「才野原惠の能力が不明でねえ。データがコンプリートできなくて困ってるんだよ。なあ、教えてくれないかな?」
【智】
「知りませんよ。知ってても言いません!」
【宇田川】
「君は和久津智とか言う名前だったかなぁ?
君は部外者みたいだから帰ってもいいんだよ」
【智】
「何を……!」
【小夜里】
「……社長」
【宇田川】
「おっと済まない。ははは、続けてくれ、鳴滝君」
僕たちでさえ知らない惠の呪いまで知っていた。
いつから監視されていたのだろう。
知らない間に、どこまで、どれくらい?
見えない機械の一部分になっていた……そんな不快感がした。
はきそうに胸が悪い……。
だけど、僕らのことを気にもとめない大きな機械、大きな
ローラーが、石ころのように僕らを擦り潰す。
『大人』とか『社会』とか、色々な名前のついたローラーだった。
大きければ何をしても良いのか、
小さいものは踏みつぶされるだけなのか。
力があれば――――
【智】
「ひどいですよ、小夜里さん……。自分の妹を利用するなんて……」
【小夜里】
「そんなことはないわ。調査はこよりを含む、あなたたちのため
でもあるのだから」
【こより】
「お姉ちゃんは……なんのためにわたしたちのこと調べてるの……?」
【小夜里】
「言ったでしょう?
企業というのは、シンプルなルーチンで動いてるの」
ペン・ガンの一件の時にも感じたことだけど……
僕には小夜里さんという人間がわからなかった。
この人と僕たちの理屈は、根本的なところから相容れない。
どんな理由があれば、自分の妹を企業のために利用することが
正当化されるというのか?
何を考えているのかわからない。
表情も変えず語る小夜里さんには、しかし同様に僕らの憤りは
見えないのかも知れなかった。
【こより】
「いったい何のこと……?」
【小夜里】
「あなたたちの不思議な能力と束縛の秘密を解明し、
その商業的価値を調べる。それが目的よ」
【宇田川】
「うまく束縛と能力を分離して能力だけ利用できるようになって
みろ、すごいセンセーショナルだぞ? 『超能力売ります』! ははは、かなりいいと思わないか!?」
【小夜里】
「研究に協力すれば相応の報酬は支払うわ。研究が進めば、
あなたたちもそれぞれの力を残したまま、束縛だけを解除
できるかもしれない。損は無いはずよ」
【小夜里】
「その上で、もう一度言うわ」
小夜里さんが視線を戻し、僕たちに目を合わせてくる。
【小夜里】
「私たちに協力しなさい」
【こより】
「…………」
【智】
「…………」
そんな、お金のためにモルモットになるようなことなんて……
もちろん、受け入れたくはなかった。
だけど、僕には答えられないことだ。
呪いが知られていないからという理由ばかりではない。
これはこよりと小夜里さんの、二人の問題でもあるからだ。
【智】
「こより……」
【こより】
「あ……ともセンパイ……」
こよりになにがしかの力を与えられたら……そう願って、
密かにその手を握る。
小さな愛しい手が、僕の手をしっかりと握り返してくれた。
【こより】
「お姉ちゃん……」
【宇田川】
「もちろん協力するよな?
そうだなぁ、研究のための出社は週3でいい。月に15万で
どうだ? こんなワリのいいアルバイトはないよな?」
【小夜里】
「こより、あなたのためでもあるのよ」
ペラペラとよく喋る宇田川を無視して、
こよりと小夜里さんは正面から向かい合う。
しっかりと握り合った手を通して、こよりの迷いが伝わってくる。
こよりは……お姉さんの申し出を受け入れるかもしれない。
ずっと慕いつづけてきたお姉さんなんだ。
研究に協力すれば、これからは一緒に居られる。
共通の目的を持てる。
それに、手段に問題があるとはいえ、こよりの為――というのは
あながち嘘でもないのだ。
【こより】
「お姉ちゃん……!」
こよりの目に、決意の光がともった。
【こより】
「わたし、お姉ちゃんには協力できない」
背筋を伸ばし、凛とした声で、そう告げる。
【宇田川】
「なんだって? 正気か?」
【智】
「こより……!」
【小夜里】
「…………」
小夜里さんはそれでも感情を動かさない。
【小夜里】
「……そう」
【こより】
「帰りましょう、ともセンパイ!」
【智】
「うん……」
こよりの選択は嬉しかった。
だけど……本当に、これでよかったんだろうか?
僕は、去り際にもう一度、小夜里さんの方を振り返った。
でも、相変わらず小夜里さんの表情からは、何を考えているか
読み取れなかった。
結局、僕は最後までこの人を理解できなかった……。
エントランスを出るときに、社員の一人にメモを手渡された。
「気が変わったら連絡するように。 小夜里」
【こより】
「っ……」
言葉にならない息を噛む。
こよりはメモを握りつぶした。
【智】
「こより……」
【こより】
「連絡なんて……」
するはずがない。
握りつぶした手を、ゆっくりと開いて、
クシャクシャになったメモを地面に投げ捨てる。
【こより】
「お姉ちゃん……」
その行為に力を使いきったみたいに……。
メモを捨てた途端、こよりは力なくうな垂れてしまった。
小夜里さんの申し出を毅然とした態度できっぱりと断った強さも、
ここまでだった。
【こより】
「4年ぶりにお姉ちゃんと話が出来て……、
また少しずつ仲良くしていけると思ったのに……」
【智】
「…………」
【こより】
「利用されてただけなんて、そんなの、ないですよね……」
【智】
「……ごめん。僕が写本のことを頼んだりしたから……」
【こより】
「ともセンパイのせいじゃありません!
でも……わたしにはお姉ちゃんが悪いとも言えません」
たしかに小夜里さんだって悩んだはずだ。
妹に課せられた呪いを知って。
そして、それとは知らずにかつて妹を捨てた自分を思って。
だから呪いの研究をしたのかもしれない。
呪いと能力の利用法を模索し、会社の利潤を追求しつつその秘密を探るというもの……合理的ではあると思う。
そう理解はできるけれど……納得は出来なかった。
【こより】
「協力、断っちゃって……わたし、またお姉ちゃんに
捨てられちゃいました……」
【智】
「こより……」
僕らの正義と理屈は相容れない。
すれ違う。
どちらがより正しい選択か。
訊けば誰かが答えてくれるだろうか?
【智】
「こより、僕がいるよ」
【こより】
「ともセンパイぃ……」
【智】
「……帰ろう。一緒に」
【こより】
「ハイ……」
小夜里さんは『大人』なんだろう。
それなら、僕たちは『子供』で構わない。
決められないことは決めなくていい。
ただ、合理に誇りまで奪われないように胸を張って歩けばいい。
それが今の僕たちの守れる、ごく小さな正義だった。
〔美しき日々の崩壊〕
くすんだ金属の色をした雲が淀んでいる。
空に近い屋上に立っても、光は届いてくれない。
この手で雲をかき分けて、せめて太陽だけでも
明るく輝かせたかった。
【こより】
「………………」
僕らの溜まり場の一つである屋上――
バラバラの方向を向いた視線は一つとして交わらない。
みんなには呼び出しのメールで、簡単な顛末は報告してある。
でも、CAコーポレーションでの小夜里さんとのやりとりの
ことは、とてもじゃないけど携帯メールには書ききれなくて……。
だから僕らはこれから、みんなに詳しいことを語らなきゃいけない。
でも、こよりはさっきから一言も喋れないでいる。
こよりの沈黙が一秒積み重なるたびに、語られない顛末が
陰鬱なものであることがみんなに伝わっていく……。
【智】
「こより、僕がかわりに話そうか?」
【こより】
「……ハイ……。ごめんなさい、お願いします……」
最終的な決断を下したのがこよりであっても、
僕だって同じ想いだった。
誰より傷ついているのはこよりだ。
僕が代わりに語ってあげるべきだろう。
【智】
「じゃあ、僕が代わりに話すよ……みんな、聞いて欲しい」
【るい】
「私たちを監視してたのがこよりのお姉ちゃんの会社だったって、ホントなの……?」
るいの不安げな瞳。
誰より信頼を重んじるるいは、自分の問いかけを
否定して欲しかっただろう。
【智】
「……うん。ずっと……監視して僕たちのこと調べてたんだって」
【るい】
「そ……なんだ」
【伊代】
「わたしたちのことを調べてたって、一体何を?
何のために監視していたの?」
【花鶏】
「わたしたち六……いえ、七人が他の人と違うところ……
そんなの一つしかないでしょ」
【智】
「そう。呪いと能力についてだよ」
【茜子】
「それはどこまで知られてるんですか?」
【智】
「ほとんど全部、みたい。僕たちでさえ知らない惠の呪いまで知ってそうな口ぶりだった」
【惠】
「僕のことまで……」
【智】
「ただ……なんの能力もない僕は、無関係だと思われてるみたい」
【茜子】
「ふむ」
【るい】
「そんな、全部調べられてたなんて……」
【こより】
「………………」
みんなの顔に、怯えと憤りのない交ぜになった表情が
浮かんで消える。
またしても裏切られたという事実に、どういう感情で反応して
いいのかさえ解らなくなっていた。
【花鶏】
「問い詰めたの?」
【智】
「問い詰めるまでもなく、開き直って協力しなさいって言われたよ。呪いと能力を研究して、能力だけを商業利用する手段を探るって」
【智】
「協力すればお金を払う。
僕たちの呪いも解けるかもしれないって……」
【こより】
「お姉ちゃん、昔のお姉ちゃんと別人みたいでした……。
冷たくて、怖くて……」
【伊代】
「断ったのね」
【智】
「……うん」
一瞬重なった伊代の視線が逃げていく。
その目は、わたしたちは一体誰を信じればいいのだろう、
そう問い掛けていた。
【るい】
「………………」
【花鶏】
「はっ、なによそれ」
【伊代】
「わたし、わからなくなっちゃったわ……」
るいは、裏切られたような気持ちを感じているんだろうけど、
その怒りをこよりにぶつけることも出来ず、ただ黙り込んだ。
花鶏は無理に肩をすくめて、白けてみせる。
伊代は答のない考えに、沈むことしかできなかった。
茜子と惠は沈黙を守り続けていたけど……多かれ少なかれ、
僕たちと同じ気持ちでいるに違いない。
重苦しい空気と挫折感が、僕たちから活力も言葉も奪っていく。
【伊代】
「……なにかしら」
伊代の携帯から、メールの着信を告げるメロディが、
言葉のない屋上に響いた。
【伊代】
「あ……。どうしてこんな時に……」
小さく呟いて、そのまま携帯を閉じる。
【こより】
「どうしたんですか? 伊代センパイ」
【伊代】
「ん、わたしたちへの依頼のメール。
でも、みんなそんな気分じゃないわよね……」
【こより】
「そうですね……」
【茜子】
「わたしたちは、すべて踊らされてたんじゃないでしょうか」
【花鶏】
「最初の頼まれ事もおかしかったわよね。ペンシル型拳銃の
こと、伏せててさ」
【るい】
「私たちを試すためだったって言うの!?」
【伊代】
「考えられるわね……またたく間に広まったわたしたちチームの
ウワサ。次々に舞い込んだ手ごろな依頼」
【伊代】
「すべてわたしたちに能力を使わせて調べるためだったのかもって考えると、つじつまが合わない?」
【こより】
「そんな……。でも……」
こよりも、小夜里さんを庇いきれなくなっていた。
一つを疑えば、なにもかもが疑わしく思えてくる。
そういえば、こよりから聞いた三宅の――
【三宅】
「企業のヤツらが取引を蹴りやがったんだよ!」
三宅の言ってた企業というのは、
CAコーポレーションだったんじゃないのか?
はじめは三宅に調べさせておいて、途中から独自に調査を
続けた可能性は十分考えられた。
あの、『黒い王子様』の調査の依頼も、惠と僕らを
引き合わせるための謀略だったのかもしれない。
『黒い王子様』の調査の依頼は、惠と僕らを引き合わせて
秘密を喋らせるための謀略ではなかったのか?
……疑い始めると、きりがない。
【こより】
「もう、おしまいですね。楽しかったけど」
【智】
「こより……?」
【こより】
「わたしたちのチームは……『ピンク』は、もう解散……
ですよね……」
【伊代】
「あなた……」
【花鶏】
「く……」
【茜子】
「茜子さんも、わりと楽しかったですよ」
【るい】
「………………」
誰にも止められない。
正体不明、女の子たちだけの秘密のチーム。
人知れず社会の闇で悩める少年少女たちを救う……。
そんな冗談みたいな、ちょっとステキな僕たちのチーム。
でも、もう続けることはできない。
『ピンク』は、今日、ここに解散する……。
美しく楽しかった日々は崩壊した。
思い出はことごとく裏切りの泥をつけられて、記憶の中に
残骸となって転がる。
あの日々が僕らに残したものは、いったいなんだったんだろう。
【智】
「っ………………!」
やり場のない気持ちに、ぶつける先のない拳が震える。
沈んだ心を抱えたまま過去を振り返っても、見つけられるのは
挫折感だけだった。
残骸にすがりつきたかったのか、それとも新しい何かを
作りたかったのか……。
僕たちのチームが事実上解散してから、数日後。
溜まり場だった屋上には、僕とこよりだけが居た。
【こより】
「とうとう、伊代センパイまで顔を出してくれなくなっちゃいましたね」
【智】
「仕方ないよ。ここには、なにもないから」
裏切りに挫折した七人。
最初に花鶏が来なくなって……。
一人、また一人と減っていった。
伊代だけは家が近いこともあって、
こまめに顔を出してくれていたんだけど……。
それも途絶えてしまった。
【こより】
「ふう……」
人間は思い出を辿る時、上を見る。
だから、僕もこよりも空を見た。
ちょっと偽善的だけど、楽しい日々だった。
【智】
「そういえばさ、あの伊代にご執心だった彼、どうしたの?」
【こより】
「上村ですか? お金使い込みすぎて沈静気味だけど、
またがんばってるみたいですよ」
【智】
「あはは、でも実らなさそうだね。
伊代ってしっかりした人のほうが好みそうだもん」
【こより】
「わかりませんよ? ちっちゃい頃に結婚の約束をしたお兄ちゃんとか、同じ女の子のハズのセンパイ相手の恋とかも、叶っちゃったりすることがあるんですから」
【智】
「あはは……」
【智】
「おいで、こより」
【こより】
「うにゅ」
こよりを抱き寄せて、髪を撫でる。
【智】
「いろいろあったよね。なんか赤いコスチュームで統一した危ない人たちとやりあったりさ」
【こより】
「カラーギャングの時ですね。あれはさすがに怖かったです。
るいセンパイが鉄パイプを簡単にねじ曲げたら、あっさり
びびっちゃってましたケド」
【智】
「うんうん。でも思えばさ、あの『レッド』とか名乗ってた連中とやりあったからこそ、僕らは『ピンク』って呼ばれるようになったのかも」
【こより】
「あ、そっすね。ホントは『ピンク・ポッチーズ』なのに」
【智】
「その名前だけは、未だにどうかと思うけど……」
すべて過ぎた話だ。
今に繋がるものは何も無かった。
律儀な伊代が掃除していったのか、
溜まり場にはもう夢のかけらも残っていない。
【こより】
「やっぱりここ、いい風吹きますね」
【智】
「うん……」
言葉も尽きて、僕はただこよりの髪を梳く。
二人きりだけど、いいムードになったりすることはなかった。
笑いあうみんなの姿が風景に重なる。
ここは、この場所は、僕たち七人みんなの場所だから、
二人だけの場所にはしたくなかった。
二人になりたければ、家に帰ればいい。
だから僕たちはここでは、「みんなの前の二人」以上の距離に
近づくことはなかった。
【こより】
「あ、電話……」
こよりが携帯を取り出す。
ディスプレイを見て、少し驚いた顔。
一瞬僕を見て、それから俯いて、こよりは通話ボタンを押した。
【智】
「………………」
【こより】
「もしもし……」
電話からの言葉を聞いて、こよりの口元に力がこもる。
奥歯を噛みしめていた。
【こより】
「……ないよ。ごめん」
そのまま通話を切った。
【智】
「……もしかして、小夜里さん?」
【こより】
「ハイ、お姉ちゃんです。考え直す気はないかって……」
【智】
「そっか」
それ以上、どちらも言葉が見つからなくて、互いに身を寄せた。
【こより】
「お姉ちゃん……」
小夜里さんの思考に少しでも歩み寄ることができないか、
できるだけ感情を捨てて論理で考えてみる。
僕たちには呪いがある。
調査をしたのだから、呪いを踏めば命に危険が及ぶことも、
小夜里さんは知っているはずだ。
だけど、研究に協力しろという。
僕たちに危険な依頼を受けさせて、その力を試したりもした。
それはなんのためだ?
呪いと能力、この自然の枠からはみ出した力を利用して、
そこから利潤を生むためだ。
【智】
「思うんだけど……やっぱり小夜里さんは、こよりのためを
思って動いてるような気がする」
【こより】
「わたしもそう思います」
小夜里さんは、こよりを呪いから解き放ってあげようと
しているんじゃないだろうか?
呪いのことを本格的に研究するにはお金が必要で、
商業利用の前提でもなければそのお金を動かせないのだろう。
でも、もしそうだとしても……理解は出来るけれど、
どうしても納得はできなかった。
小夜里さんは、助けてやるかわりにモルモットになれと
言っているのだ。
【こより】
「それでもわたしは……お姉ちゃんの考えは受け入れられません。……だってわたしは、『子供』ですから」
【智】
「僕も『子供』だよ」
すれ違っていると思う。
それでも、どうすることも出来ないんだ。
こよりが自分の肩を抱きながら、僕に頭を預けてきた。
こよりはこれからどうするんだろう。
孤独に怯えるこより。
一人では生きられないこより。
それでも、理屈じゃない何かを選んだこより。
溜まり場からの帰り道。
戯れにいつもとは違う道を通って、あの懐かしい公園を訪れた。
【こより】
「この公園、懐かしいですね」
【智】
「うん」
何気なく公園に入って、二人でベンチに腰掛ける。
公園の中に、人影はなかった。
【智】
「…………」
【こより】
「…………」
静寂に身を置いたまま、人気のない公園を眺める。
幼き日の僕とこよりが見えるようだ。
僕たちのはじまりは、この場所からだった。
小さなこよりが僕を見て駆けて来る。
まだスケートを履いてないこよりだ。
こよりは不思議な子だった。
何を教えても器用にこなす。
ブランコだって初めから上手に漕いだし、ボール遊びも
男の子の僕に劣らない巧さだった。
それなのに、自分で新しいことを思いついた時は、
なににつけても必ず失敗した。
一人ではどこへも出かけようとせず、いつもじっと僕を待っていて、なにか新しい遊びをする時も、必ずまず僕にやってくれるよう頼んだ。
思えば、それは束縛と呪いに形作られたものだったのだ。
誰かに誘ってもらわなければ何処へもいけない、
『通ったことのない扉を開けない』呪い――
誰かの動きをコピーするように真似る、『運動の再現能力』。
こよりを孤独にしたのも呪いなら、誰かに頼らなければ
生きられなくしたのも呪いだ。
だけど、僕がこよりと出会ったのもまた呪いが縁で……。
【智】
「僕、そろそろ帰るよ」
【こより】
「…………」
控えめに声をかける。
みんなバラバラになった。
はじまったのがこの場所からなら、
終わるのもこの場所かも知れない。
そんなことを思ったのか、
僕はこよりの手を取らずにベンチを立った。
ここからなら、こよりの家に帰るほうがずっと近い。
僕の呪いのことで、こよりはずっと家に帰っていない。
一人暮らしの友達を看病してる、なんて誤魔化してたみたいだけど、そろそろ無理が出てくるはずだ。
こよりは、自分の家に帰ったほうがいい。
そうだ。別に終わりじゃない。
別に帰ったからといって、もう会えないわけじゃない。
一歩を踏み出した。
【こより】
「ともセンパイ……」
【智】
「…………」
こよりが僕の袖を掴んでいた。
僕は振り返って、こよりと言葉にならない会話を交わす。
【こより】
「帰りましょう、ともセンパイ」
【智】
「…………そうだね」
こよりが軽く跳んで、僕の横に。
そして、二人は並んで歩き出した。
【智】
「今日は帰ってゆっくりしようか」
【こより】
「ハイ。おなかも空きました」
胸の奥でわだかまっていた不安が溶けていく。
やはり僕は、こよりとの関係まで終わってしまうことを
恐れていたんだ。
こよりは家に帰らない。
僕もそれを、咎めない。
今の僕たちには、お互いが必要だった。
〔大人の理屈 子供の誇り〕
【こより】
「ともセンパイセンパイっ! 鳴滝の新作メニューです!
ともセンパイのアドバイスを取り入れて、今、新たな次元へ!」
【智】
「おおっ、不安と期待が僕の胸の中で軽やかなデュオを奏でるよ!」
【こより】
「不安はいらないですから! 食べてください、食べてください!」
【智】
「オッケー、続きはモノを食べてから!」
【こより】
「ハイ! それでは……こいつでありますっ、バァァーン!!」
【智】
「こ、これはぁ……っ!!」
【智】
「……なに?」
僕たちは、多少無理をしていた。
ことさらにはしゃいで明るく振る舞う。
もはや思い出しかないあの屋上には、通いつめる意味を
見出せなくなった。
電話こそ入れているが、こよりはあれからも家に帰らないで、
二人だけの生活が続いている。
【智】
「じゃ、いただきまーす……」
【智】
「ンぶふっ!!」
【こより】
「ともセンパイ〜っ!!?」
だけど、僕たちは傷ついたままじゃなかった。
カラ元気だったそれは、次第に本物の陽気に変わりつつある。
閉塞しているけれど楽しい日々だった。
【智】
「こよりも食べてみて……」
【こより】
「えっと、ハイ。それでは謹んで………」
【こより】
「ンぶふっ!!」
今の僕たちには、互いに互いが必要だ。
一人では立てないほどに弱ってしまったのかもしれない。
僕たちが向かい合って立つには、
『大人』たちの世界から吹く風は強すぎる。
だから僕たちは支えあうのだ。
一人では無理でも、二人居れば立っていられる。
【智】
「で、これはなんなの?」
【こより】
「やっぱり主婦はこう、余りもの食材を賢く使わないといけないじゃないですか〜。だから冷蔵庫にあった残っている食材をばんばん入れてみたんですよう!」
【智】
「それは前に聞いた」
一人になると俯いているこより。
こよりを慰めるすべを持たない僕。
解決なんてない問題。
正体不明、女の子だけのチーム『ピンク』のように、
困っている僕たちを助けてくれる人はいないんだろうか?
今の僕たちにこそ、助けが必要なのに……
『ピンク』はもう、いない。
【こより】
「そうですね〜、強いて名づけるなら『黒いエベレスト』とでも!」
【智】
「ぼ、僕にはとても登頂できない! 遭難しちゃうよう!」
【こより】
「だいじょぶです。鳴滝もムリですからっ!」
僕たちにできることは目を逸らすことだけ。
目前に差し迫らない問題からは目を逸らす。
そうして麻薬代わりに日々を明るく過ごすのだ。
未来よりも、その時その時の瞬間を愛せるのは『子供』の特権だ。愚かでいい。『子供』でもいい。
この一度しかない瞬間をより輝かせるために、
僕らは誇りをもって、瞬間を誰よりも楽しむのだ。
【智】
「ねえ、こより」
【こより】
「なんです?」
【智】
「みんな……どうしてるかな……?」
【こより】
「……そうですね」
僕たちは逃げているだけなのかもしれない。
だから二人ともみんなのことが気にかかっても、
会いたいとは口にしなかった。
呪いのこと、『大人』の理屈のこと、ままならない世界のこと。
色々なものに裏切られて、でもそれらは僕たちの手では
どうにもならなくて。
逃げるのは……いけないことだろうか?
二人が沈黙したところに、場違いに明るい着信音が鳴った。
こよりの背がびくりと震える。
その反応を見ただけで、誰からの電話か判ってしまった。
……小夜里さんだ。これで何度目だろう。
【こより】
「はい……」
【小夜里】
『こより、気は変わったかしら』
【こより】
「変わらないよ、お姉ちゃん」
【小夜里】
『研究に協力すれば、私たちにとってもあなたたちにとっても有益になる。どうしてわからないの?』
【こより】
「ごめん……。もう、放っておいて欲しい」
こよりの意志は、もう変わらない。
そのことは小夜里さんだって気づいているはずだ。
それなのにどうして何度もこんな電話を掛けてくるのだろう。
どうしてそっとしておいてくれないのだろう。
【小夜里】
『本当にあなたのためなのよ、こより。安全と自由は保障するわ。だから……』
【こより】
「……ごめんなさい」
【小夜里】
『こより……』
【こより】
「ごめんなさい」
【小夜里】
『………………』
【こより】
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
【小夜里】
『………………そう』
それ以上はなにも言わずに、小夜里さんは電話を切った。
【智】
「こより……、大丈夫?」
【こより】
「ハイ、鳴滝には……ともセンパイが居ますから……」
いつの間にそんなに時間が経ったのか……
こよりの作った黒々とした謎の料理はすっかり冷めて
しまっていた。
落ち込んでいても仕方ない。
僕たちの選択は日々を楽しむことだったはずだ。
【智】
「ん……よし! じゃあ改めて僕がごはん作るよ!
こよりも手伝って? 教えてあげるから!」
【こより】
「あ、ハイっ! ともセンパイのスキルを盗んでやります!」
【智】
「トレースばっかりじゃダメだよ? 応用できなくなるから」
【こより】
「う、う〜……。ともセンパイは、むずかしいことを言います」
正直、面倒な下ごしらえをする気力もないし、簡単な料理にしよう。たしかまだベーコンがあったかな……。
【智】
「こより、グリーンサラダ作るから、とりあえずキャベツの千切りしてくれる?」
【こより】
「了解であります!
これはともセンパイの動きを真似るだけだから簡単であります!」
【智】
「まぁ、千切りなんてただの慣れだからトレースでもいいや」
ベーコンとジャガイモ、タマネギなんかの常備野菜を刻んで
卵で巻いて、スパニッシュオムレツにしよう。
ちょっと手抜き料理っぽいけど、作りおきのトマトソースと
モッツァレラチーズでも乗せれば、それらしく仕上がるだろう。
【智】
「うん、キャベツは水にさらして。メインはスパニッシュオムレツにするよ。あとは……オニオンコンソメスープでいいかな〜」
【こより】
「おおっ、スパニッシュでありますか? フラメンコですねっ」
【智】
「そんなにフラメンコでもないけど、簡単な料理だからこよりにもすぐ……」
玄関のほうで重い音がした。
オムレツの具にする野菜を選ぶ手を止めて、僕とこよりは振り返る。
【智】
「なんか今、妙におっきい郵便来たね」
【こより】
「鳴滝がちょっと見てきます〜」
【智】
「なんだろう。僕も行くよ」
1センチ以上は厚みがあるだろうか。
B5サイズの茶封筒ははちきれそうなほど中身を詰められていて、こよりの手にはずしりと重そうだった。
差出人どころか宛名も書いていない。
もちろん切手も貼られていない。
【こより】
「これ、なんでしょう……?」
【智】
「…………」
漠然とした嫌な予感がする。
宛名がないなら、郵便ではない。
何者かが僕の部屋の前までやって来て、
直接郵便受けに投函したことになる。
【こより】
「えっと、とりあえず開けて見…………、あっ……!」
封筒からこぼれたものが床に散らばる。
写真だった。
【智】
「あれ?」
写っていた被写体には、みんな見覚えがあった。
街頭でベースを弾くるい。
野良猫を率いて路地裏を覗き込む茜子。
ファミレスで粘る伊代。
バス停で眠りこける花鶏。
屋敷から彼方を見つめる惠。
買い物帰りの僕とこより……。
何気ない写真ばかりだった。
思いがけず今のみんなの姿が見られて、懐かしさを覚える。
だけど……。
【智】
「あれ?」
それら写真から感じる違和感に、僕の心が次第に警鐘を
鳴らし始めた。
別に、変な写真じゃない。着替えシーンとかの恥ずかしい写真
という言うわけでもないし、いつも見ている、ごくごく普通の、
普段のみんなの何気ない生活の1ページ。
なのに……。
【智】
「!? そうか!?」
不自然なぐらいの自然さだった!
いつも通り過ぎる、みんなの姿。
一人のときや、仲間と一緒の時だけにしか見せない表情。
カメラレンズを意識していない。
この写真を撮ったのは、誰だ!?
【こより】
「え、これ………これって……!」
こよりもようやく、その写真の異常さに気がついたようだ。
【こより】
「まさか!?」
【智】
「ああ、僕たちは……」
【智】
「僕たちは、監視されている……!」
【こより】
「そんな……またあのカメラマン……!?」
【智】
「いや、あの人とは限らない。別人かもしれない。
でも、もっと悪いケースも考えられる。複数人を使って、
僕ら全員を監視してる可能性だって……」
とにかく僕らは、監視されているのだ。
それだけは、間違いようのない事実。
【こより】
「うぅぅ……」
【智】
「しかも送りつけてくるなんて」
見せつけるようにこの写真束を寄越した。
【智】
「なんて卑怯な……」
これじゃあ、脅しと変わらない。
奥歯をかみしめる。
先ほどの電話は、こちらの意志の最終確認だったのか?
こうしておいて、ショックを受けたところに……。
あらかじめこの写真を用意しておいて、
電話を掛け断らせてから投函する。
そして……。
【こより】
「お、お姉ちゃん……!」
ディスプレイには「お姉ちゃん」の文字が光っていた。
やはり電話してきた。
無記名でこんな写真を送りつけ、そしらぬ顔で電話してくる。
写真のことを聞いてもとぼけるに違いない。
【智】
「こんなのって……」
【こより】
「………………ひどい」
【智】
「……こより」
こよりは無言でお姉さんからの電話を切った。
そしてそのまま、電源を切る。
【こより】
「ひどい、ですよね。こんなのって……」
脱力してぶら下がった手から、携帯がこぼれ落ちた。
煮えたぎるような怒りを感じながら、僕は強引にこよりを
抱き寄せる。
力、立場、人数。
そして金。
相手はそういったものを手に、僕らを簡単に蹂躙してくる。
横暴だ。
嘘ばっかりだった。
こよりのことを考えてるなんて言っておいて、
こんな手段まで取ってくるなんて。
今度こそ何もかもに裏切られた気分だった。
感情を殺して、理屈を受け入れて、僅かでも歩み寄ろうと
努力した自分が馬鹿だった。
逃げた自分さえ愚かしく思える。
悪意に背を向けて楽しく過ごそうとした日々は茶番だった。
なんて醜い、なんて忌まわしい世界。
震えるほど力を込めて牙を剥いた。
【智】
「くそっ……!!」
【こより】
「あれ?」
抱きすくめられていたこよりが、急に身じろぎする。
【こより】
「と、ともセンパイ……あれ……」
【智】
「こより?」
【こより】
「こ、この……この写真……!!」
こよりは床に座り込み、写真束に埋もれた中から
1枚の写真を取り出す。
写真を見て凍りついた。
【智】
「これ……」
【こより】
「ハイ。この部屋ですよね……!」
この部屋の室内が撮影されている。
窓の外からのショットだ。
【智】
「くっ!」
窓に走って僅かなカーテンの隙間を閉めた。
電気も落とす。
相手が意図せずとも、僕は監視者に正体を見られれば
呪いを踏むことになる。
万が一写真に撮られ、企業によって呪いの内容が明らかにされれば、何人にこの秘密が知られることになる?
二重、三重どころではなく、多重に呪いを踏むことになって、
確実な死が訪れるだろう。
【智】
「このまま監視が続けば……いつか僕の正体はバレてしまう」
【こより】
「ともセンパイ……!」
僕は呪いと能力を持ったメンバーとは認識されていない。
この部屋が撮影されたのは、あくまでこよりの私生活を
捉えるためだ。
つまり、こよりと一緒にいる限り、僕の命は常に危機にさらされる。
離れれば、助かる。
それじゃあ。
また、こよりを遠ざけるのか?
自分だけ助かるために?
【智】
「いや……」
そんな馬鹿なこと、二度と繰り返すつもりはない。
【智】
「決めた……僕は、決めたよ!」
【智】
「二度と僕たちに手を出せないようにしてやる! 皆だって必ず
力を貸してくれる。ヤツらが欲しがっている『特別な能力』の
恐ろしさを見せてやるんだ」
【智】
「社長の持っていた密輸入品のペンシル型拳銃。この汚いやり口……っ! きっとまだまだ黒い部分は隠れてるに決まってる。
僕たちの手でそれを暴いて、潰してやる!」
【こより】
「ともセンパイ……」
【智】
「これが現実的だとか合理的だとか言うのか!?
結局は自分たちの利益を追求してるだけじゃないか!
最初からこうするつもりだったんだ!」
【こより】
「………………」
立ち竦んだまま、暴れ出しそうな怒りを吐き出した。
歯止めが利かなかった。
【智】
「こよりは腹が立たないのか!? 僕たちはエサで釣られそうに
なって、エサを蹴ったら今度は脅されてるんだ! こんなことが
許せるか!?」
【こより】
「……やめて下さい、ともセンパイ……」
こよりはどうして僕を止めるんだ?
こよりはこんな仕打ちを受け入れられるのか?
【智】
「こよりのためだって言ってたクセに! 小夜里さんの気持ちを考えようとした僕が馬鹿だったよ! 許せないよ! 小夜里さんなんて自分のことしか考えてないただの……っ!」
【こより】
「やめて下さいっ!!」
【智】
「ぁ………………」
【智】
「…………」
こよりの声で、我に返った。
こよりを責めてるわけじゃないのに、
こんなことで熱くなってどうするんだ。
【智】
「ごめん……辛いのはこよりも同じだね」
【こより】
「いえ……」
こよりは忌まわしい写真を捨てて立ち上がり、僕の手を取る。
【こより】
「怒らないで聞いて下さい、ともセンパイ」
【智】
「……なに?」
僕の手に触れるこよりの手は、かすかに震えている。
こよりを安心させるよう、もう一つの手を上から重ねた。
【こより】
「やっぱりお姉ちゃんはわたしのこと、考えてくれてると
思うんです……」
【智】
「……それは……っ!」
【こより】
「聞いて下さい」
【智】
「…………」
こよりの口調には有無を言わせぬものがあった。
それを言わせるのはなんだ。
おそらく確信だ。
姉妹だからわかる心なのかもしれない。
【こより】
「あの写真が届く前に掛けて来た電話、最後に切る時……」
こよりが僕の手を胸元に引き寄せて、正面から見つめてくる。
【こより】
「お姉ちゃん、とっても悲しそうな声だったんです! お姉ちゃんだって、本当はこんなことしたくなかったと思うんです!」
【智】
「………………」
【こより】
「本当に、悲しそうだったんです……」
【智】
「…………そっか」
最後通牒だったのだ。
このシナリオは最初から決まっていたことで、小夜里さんは
きっと最後のチャンスを与えようとしてくれたんだろう。
僕には双子の姉が居たという。
姉さんは僕に似ていただろうか――――
それとも似ていなかっただろうか――――
どんな声をしていただろうか――――
どんな性格をしていただろうか――――
どんな風に笑っただろうか――――
どんな癖があっただろうか――――
幼いうちに死んだという、
顔もろくに覚えていない姉さん。
もしも、生きていてくれたのなら
……大切にしたかった。
こよりが姉さんを大事に思うのは、
わかるような気がする。
【智】
「こよりは……やっぱり小夜里さんのことが大切なんだね」
【こより】
「ハイ……。お姉ちゃんは、わたしたちにこんなひどいことを
しました。そもそも、わたしたちの呪いのことを暴いたのも
お姉ちゃんだと思います」
【こより】
「報いを受けるのは当然なのかも知れません。……でも!」
【智】
「…………」
【こより】
「やっぱり、大切なわたしの、お姉ちゃんなんです……」
【智】
「そうか……」
僕たちがあの会社に痛手を負わせるには、不正を暴いて法の裁きを受けさせるしかないだろう。
だが、そんなことをすれば小夜里さんも当然逮捕される。
そうなればこよりの両親だって悲しむだろう。
この世界にも呪いがかけられているのだと思った。
してはならないことが多すぎる。
僕たちにはできないことが多すぎる。
怒りに身を任せることすらできないで、ままならない世界の只中で、僕たちは無力に立ち尽くした。
〔少女の選択〕
ベッドの上で、置き去りにされたこよりの携帯が死んでいる。
小夜里さんからの最後通牒があったあの日から、
電源は一度もいれられていない。
その隣では、僕の携帯も死んでいた。
こよりが携帯の電源を切ったままにしていたら、どうやって
調べたのか、僕の携帯にまで掛かってきたのだ。
動きと声の軌跡がなかった。
部屋は死んでいる。
殺されてしまったのだ。
【智】
「…………」
【こより】
「…………」
その死んでしまった部屋の中、僕らは食事を摂っていた。
気力も湧かない。
トーストと、ハムとレタスのサラダ。簡素な食事だった。
ハムはこの前買ってきたお気に入りのメーカーのハムだったはずだ。
だけど、部屋と同じように死んでいる僕らには、
味なんて感じられなかった。
【こより】
「……ごちそうさまでした」
【智】
「……」
こよりが、朝食の大半を残して手を止める。
食欲なんて湧くはずもなかった。
【智】
「食欲ないのは僕も同じ。でも、食べた方がいい」
【こより】
「……でも」
【智】
「こよりに倒れられたら、辛い」
【こより】
「ともセンパイ……。ハイ、わかりました。食べます……」
【智】
「うん……」
味のない食事を胃の中に詰め込む。
今の僕たちの生活は、食事という作業以外はただ抱き合って
呆然と過ごすだけだった。
死んでいるような僕たちだったけど、やっぱり生きている。
篭もりきりでは生きていくことは出来ないのだ。
【智】
「早く済ませて帰ってあげないと……」
元気のないこよりをベッドに寝かせて、
僕は一人外へ買い出しに出かけた。
家から出るときも監視の目があった。
僕が視線を向けると途端に物陰に隠れたけれど、間違いない。
ずっと監視の目は張り付いたままなのだ。
厳重に戸締まりをして、どこにも視線の入り込む余地がないよう
カーテンも閉めてきた。
アパートの周りも巡って壁越し盗聴用のコンクリートマイク等が
仕掛けられていないか、調べてまわった。
それでも隣室に仕掛けられていたとしたらどうしようもない。
これからは会話にも気をつけなければならないだろう。
買い物カゴを手に食料品売り場を歩いていた僕の目に、
お菓子売り場が見えた。
なんとかこよりを元気づけたい。
【智】
「こよりって甘いお菓子とか好きだよね。
好きな食べ物なら食べられるかも」
お菓子なんかで機嫌がよくなるような『子供』とは思わない。
だけど、カロリーを摂取してくれればそれでいい。
炭水化物か、糖分か……とにかくエネルギーになるものを
摂らないと体が持たないだろう。
【智】
「どっちにしようかな……」
一つはクランチ入りのストロベリーチョコレート。
僕も好きなチョコだ。
こよりと二人で分け合って食べる光景を想像する。
もう一つはロングセラー菓子の『えのきの山』、
期間限定のハッサク味だ。
たしか前こよりが食べてみたいと言っていたはず。
買っていけば喜んでくれるかもしれない。
空中で迷ったまま、僕の手は止まった。
【智】
「………………」
欲しいものが二つあって、どっちも欲しい!
と、だだをこねるのは『子供』だ。
それぞれの長所と短所を考慮して、
片方に決められるのは『大人』だ。
『子供』――である僕は思う。
CAコーポレーションの横暴を止めること。
こよりと小夜里さんの訣別を防ぐこと。
【智】
「なんとか、両立させることはできないのかな……」
たぶん、小夜里さんは正しい。
呪いと能力の研究は、
元を正せばやっぱりこよりの為なのだ。
こよりを呪いから解き放ってあげたいという
思いもあるだろう。
同時に、自分にとって理解不能な呪いという要素をこよりから
取り除きたいという思いもあるだろう。
小夜里さんは長く呪いという違和感に苦しめられてきた。
それを取り除きたいと思ってることは間違いない。
しかし、研究というのは一人でできるものじゃない。
人数を動かすにはお金が必要だ。そして、商業利用という
目的でもなければ、お金を動かすことなどできないのだ。
小夜里さんは、呪いを研究すること、僕たちの思いを守ること、
二つを秤にかけたのだろう。
そうして小夜里さんは、合理を取って感情を捨てたのだ。
【智】
「………………」
メリットとデメリットを計算して、合理的に利益を追求する。
『大人』なら当然のことなのかもしれない。
【智】
「よし、両方買おうっと」
僕は買い物カゴに両方のお菓子を入れる。
こよりと小夜里さんの問題も、
こんな風に両方取ることができれば簡単なのに。
【智】
「こより、ただいま〜」
なるべく明るい声をかける。
答が出ないまま、こよりの待つ部屋へと帰った。
部屋は妙に静かだった。
【智】
「こより……?」
こよりが居ない。
どこを捜しても居なかった。
ベッドには僕の携帯だけが残されている。
【智】
「あれ?」
なんで、僕の携帯しか無いんだろう?
【智】
「こよりの携帯は?」
それが意味することに気がついて、愕然とする。
【智】
「まさか!?」
外に出て行ったのか?
しつこく監視されているというのに。
あんな脅迫まがいの写真束を寄越してきた相手だ。
どんな手に出てくるか判らないというのに。
【智】
「こより……っ!!」
携帯を拾い上げてポケットに入れると、
僕はあわてて家を飛び出した。
こよりを捜して走りまわるのはこれで何度目だっけ?
何も考えずに走った。
汗だくになって息が切れても走りつづける。
こよりが危ないのかどうかも本当のところは良くわからない。
走りながら気がついた。
僕がこれだけ必死で走っているのには別の理由があった。
僕にはこよりが必要なんだ。
こよりが傍らに居てくれないと、あの笑顔を見せてくれないと、
僕は呪いに満ちた世界に立ち向かうことができない。
【智】
「いない……」
【智】
「ここにもいないか……」
【智】
「溜まり場にもいない、家にも帰ってない……」
街じゅうを駆けずり回ったように思う。
暗い予想を並べる前に、習慣で出掛けに
ポケットにねじ込んできたものを思い出した。
【智】
「そうだ。電話……」
随分とひさしぶりに、携帯に電源を入れる。
着信履歴、38件。
履歴を表示してみると、小夜里さんからが2回、非通知が1回、
花鶏からが1回、惠からが1回、残りはすべて伊代だった。
【智】
「伊代はわかるけど、花鶏や惠からも掛かって来てたなんて……」
みんなのところにもあの写真が届いたのかも知れない。
いや、そうに違いない。
少し悩んだ末、伊代に電話をかけることにした。
僕にできない相談をするなら、おそらく伊代にだろう。
こよりから何か聞いているかも知れない。
【智】
「……」
【伊代】
『は、はい!』
伊代はいつも電話に出るのが早いけど、
今日はいつにも増して早かった。たったの1コール。
【伊代】
『あ、あなた! どうして電話に出ないのよ! 変な写真の束、
あなたのところにも届いてるんでしょ!?他の子たちのところ
にも届いたって……!』
【智】
「来たよ。でも、その話は後で。
今はそれより、こよりを捜してるんだ!」
【伊代】
『え……っ、あの子がどうかしたの?』
【智】
「突然居なくなっちゃったんだ。心当たりない?」
【伊代】
『いいえ……。こっちには来てないわ。他のみんなは当たったの?』
【智】
「まだだよ」
【伊代】
『わかった。わたしが連絡回してみる。あなた、捜し回ってる
ところなんでしょ? そのまま心当たりある場所捜してて。
何かわかり次第、連絡するわ』
【智】
「ありがとう、伊代」
【伊代】
『うん。それじゃ』
【智】
「うん」
電話を切って、さて考える。
心当たりのある場所を巡り終えたから電話したのだ。
他にどこを捜せばいい?
こよりの行きそうなところは?
呪いのせいで、こよりが一人で行ける場所は限られている。
扉を開けない呪いがある以上、遠くへは行ってないだろう。
ひとつひとつ、こよりと行った場所を思い出していく。
【智】
「まさか」
思い当たる場所があった。
でもまさか?
【智】
「こより、まさか一人で……」
脳裏に鏡張りのビルが立ち上がる。
電源を切ったままだったはずの、こよりの携帯が
なくなっていた理由にも思い当たった。
こよりは、たった一人で小夜里さんと話をつけに
行ったのだろうか?
あの臆病な、いつも一人では居られなかったこよりが……。
【智】
「でももう、そこしか考えられない」
僕は疲れた足に鞭打って、再び走り出す。
【智】
「もしもし」
【伊代】
『あの子、誰の家にも行ってないって』
目の前にはCAコーポレーションのビルがある。
全面鏡張りのビルは相変わらず前に立つものを威圧していた。
【智】
「そう、ありがとう。でも、どこに行ったのかわかる気がするよ」
【伊代】
『え? どういうこと? あなた今どこにいるの?』
【智】
「今から行ってみる。それじゃ」
【伊代】
『え……?』
電話を切った。
ビルの前にはそれまで居なかったガードマンが詰めていた。
すでに僕たちが報復を考えることも見透かされているらしい。
【ガード】
「ちょっと君、何の用だい?」
【智】
「鳴滝小夜里さんに会わせて下さい」
【ガード】
「約束のない人は誰も通さないように言われてる。残念だけど、
一度電話をして約束を取り付けてからにしてくれ」
電話なんてかけたって対応してくれないに決まってる。
彼らにとって、僕は部外者の役立たず、邪魔者でしかないんだから。
でも、このまま放っておく訳にはいかない。
相手はこよりの大好きなお姉ちゃんだし、このままだと僕に
危険が及ぶかもしれない。
それを悩んだこよりが研究に協力してしまうかもしれない……!
こよりの手を、そんなふうに汚させるわけにはいかない。
【智】
「通してください! 友達が、こよりが、お姉さんの小夜里さんを訪ねて来てるはずなんです!」
【ガード】
「駄目なものは駄目だ。
どんな理由があっても、俺が許可できることじゃない」
【智】
「なら一瞬、よそ見をしてくれるだけで良いんです!
直接話をしないと……!」
【ガード】
「わからない子だな。駄目だと言ってるだろう!」
そんな風に押し問答をしてる中、ビル内から誰かが
出てくるのが見えた。
【智】
「こより!」
沈んだ表情の、こより。
【こより】
「あ……ともセンパイ」
【智】
「こより………………!」
名前を呼んだ沈黙の中にはいくつもの言葉があった。
どうして一人で行ったの。
何を話したの。
いきなり出て行くなんて。
捜したんだよ。
みんなにも心配かけた。
…………。
【こより】
「……ごめんなさい。心配かけてしまって……」
【智】
「…………」
それらの言葉は、暗く沈んだこよりの顔を見た瞬間、
声に出されることなく消えた。
【智】
「こより、帰ろうか?」
【こより】
「ハイ……」
家に帰るまでこよりは一言も口をきかなかった。
よろめくような足取りで玄関を上がり、ベッドに腰掛けさせる。
【こより】
「………………」
こよりが自分から話してくれるまで、辛抱強く待った。
帰り道には考えていた伊代への連絡も忘れて、
ただ呆然とこよりの顔を見つめた。
窓の外、太陽の角度が目に見えて変わるほどの間――
飽きもせずにこの愛しい少女の顔の造形ひとつひとつを
眺めていたら、ぽつりと小さな声が聞こえた。
【こより】
「……ダメでした」
【智】
「え?」
思わず聞き返すと、古い機械がゆっくりと起動するように
こよりの目に光が戻って、その口が言葉を紡ぎだした。
【こより】
「話は……まるで聞いてもらえませんでした」
【智】
「…………」
【こより】
「一方的に研究の意味とか、価値の可能性とか話されて……」
【こより】
「わたし、そんなことを聞きに来たんじゃない! そんな話をしに来たんじゃない!……って、お姉ちゃんに言ったのに」
【こより】
「お姉ちゃんには、わたしの言葉がぜんぜん届かないんです。
企業を味方につけることの有利さ、それによって得られる利益、ずっとそんな話を聞かされて」
【こより】
「最後にはお姉ちゃん小切手を出してきて、無理やりお金を
渡されました……」
こよりの片目から透き通った涙が一粒だけ零れた。
【智】
「こより……」
【こより】
「ともセンパイとはじめてあの公園で会う前の、まだわたしがホントにちっちゃかった頃、お姉ちゃんは本当に優しかったんです」
【こより】
「わたしとお姉ちゃんはその頃から性格はぜんぜん違いました。
お姉ちゃんはいつもしっかりしてて冷静で。わたしはずっと
おどおどしてて、お姉ちゃんについていくばっかりでした」
【こより】
「ともセンパイ。昔、駅前のデパートで火事騒ぎがあったの
覚えてます?」
【智】
「え? ああ……」
たしかに覚えがあった。
デパートの中から黒煙が立ちのぼって、不安げに人々が
取り巻いていた。
結局は鎮火されて大した被害もなかったというけれど、
いつも民家の向こうに見えていた大きなデパートから
煙が上がるのは不気味な光景だった。
【こより】
「わたし、あの時デパートに居たんです。お母さんが買い物をする間、わたしとお姉ちゃんは屋上のペットショップに行ってて……」
【こより】
「ちょっとお姉ちゃんがトイレに行った間に火事が起きて、
わたし、怖くなって闇雲に逃げ出してしまったんです」
【智】
「それで」
【こより】
「そのせいでお姉ちゃんとはぐれて……避難誘導のアナウンスも聞かずに逃げようとしたら、いつも乗ってたエスカレーターは止まってるし、エレベーターも止まってるし」
【こより】
「仕方なく階段に行ったら、もうほとんどの人は避難した後で
まわりにはわたししか居なくて……そして、階段の前には
見たこともない扉が閉まってたんです」
【智】
「防火扉……」
『通ったことのない扉を開けない』――呪い。
呪いを課せられたこよりには、馴染みの場所でも
いきなり牢獄に変貌することがある。
こよりにとって、このときの体験はさぞかし大きなトラウマ
になっているんだろう。でなければ、あんなにも一人になる
ことを怖がるはずがない。
【こより】
「ハイ。当然、わたしには開けません。実際は火事も大したことなかったし、時間だってそんなに経ってなかったのかも知れません」
【こより】
「だけどわたし、すごく怖くなって、ここのまま死んじゃうのかと思って、見たこともない大きな扉にもたれてわんわん泣きました」
【こより】
「でも、突然後から扉が押し開かれて転げちゃいました。
涙でべちゃべちゃの顔で起き上がると、お姉ちゃんが
立ってました」
【こより】
「それで言うんです。『こより、早く逃げよう』って……」
想像の中の幼いこよりと、今のこよりが重なった。
二人のこよりが同時に目元の涙を拭う。
【こより】
「そっけないですよね。こっちは死ぬかと怯えてたのに。
思えば昔から、お姉ちゃんはちょっと不器用だったのかも
知れません」
【こより】
「それでも本当に優しいお姉ちゃんで、わたし、大好き
だったんです……。なのに……」
【こより】
「わたしたち、どこですれ違っちゃったんでしょうね……」
【智】
「………………」
小夜里さんとの想い出話を語り終えたこよりは、
悲しげな微笑みさえ浮かべていた。
こんなに深い思いを込めて想い出を語れる姉妹が、
どうして分かり合えないのだろう。
世界はいつもままならない。
苛立ちをぶつける先も見つからなかった。
震えるこよりのその手には、小切手が握りしめられている。
【こより】
「姉が妹にお金を渡して協力を持ちかけるなんて……。
おかしいですよね……こんなの……」
こよりが、キッと視線を上げて僕を見た。
僅かな瞬間に、こよりの顔は変わっていた。
瞳には強い意志の光が灯り、その拳は決然たる思いを込めて
握られている。
こよりが急に大人びて見える。
こよりは、決断をしようとしていた。
【こより】
「わたし、決めました。お姉ちゃんと……戦います」
ある種の神聖さすら感じさせるその姿は、あまりにも気高くて。
抱きしめることもできずに、僕はただ、力強く頷いた。
〔野良犬たち〕
薄暗い高架下を選んで、僕らはコンクリートの冷たい感触で
背中を支えていた。
ゴミ捨て場。町に空いた空隙。
人の寄り付かないこの場所は、さりとて植物が繁茂するには
環境が厳しく、虫たちの姿さえなかった。
仲間たちの誇りを守るために、僕らは『大人』の理屈の支配
する社会に背を向けた。
暗闇を這いずることを決めた僕らには、
明るい日の差す屋上は眩しすぎる。
ゴミの転がる高架下がお似合いだった。
錆びたフェンスとコンクリートで出来た、この葬る死者とて
無き墓場には、明るい朝の光も届かない。
望まぬ牙を持って生まれ、牙を持て余す野良犬たちは、
ここを集うべき場所に定めた。
【智】
「ゆっくり待とうか」
【こより】
「はい。わたし、みんな必ず来ると信じてます」
そういえば……ふと思う。
こよりが自分のことを苗字で呼ぶのを止めたのは、
いつ頃からだったか。
それは……こよりの姉からの自立の証なのだろうか。
【智】
「成長……なんだろうな」
【こより】
「はい?」
【智】
「ううん、なんでもない」
あの写真は、みんなのところにも送られていたらしい。
大きな花鶏の家や惠の家は、敷地内にまで侵入されたという。
許せなかった。
報復なんて意味がないことは解ってる。
でも、その意味のないことをするのが『子供』だ。
ただ静かに、愚かしい誇りを胸に、僕らは報復の意志を研ぐ。
やがて、まず、薄汚れた姿のるいが現れた。
【るい】
「……イヨ子に会ったよ。やるんだね」
【こより】
「はい」
るいは気だるげに腰を下ろす。
【智】
「それにしてもどうしたの。えらく汚れて」
【るい】
「花鶏が居なくなって。居づらくなって、また外で暮らしてたんだ」
【こより】
「花鶏センパイが?」
【るい】
「ああ。あいつ、あの会社についたのかもしれない!」
【智】
「まさか……。いくら花鶏が実利主義っぽいからって……」
花鶏が向こうについたかも知れないという可能性よりも、
るいが仲間だった相手を簡単に疑うことの方が衝撃だった。
無論、その瞳を見れば、本心からの発言ではないことは
わかるんだけど。
監視の目を遮るもののない野外生活をしていたるいは、
かなりひどい目にあったのだろう……。
誰よりも仲間を一途に信じられるのが、るいだったのに……。
【智】
「花鶏は来るよ」
【るい】
「…………」
ほどなくして、次に現れたのは伊代だった。
【伊代】
「こんにちは。久しぶりね」
【智】
「伊代、連絡任せてごめん」
伊代は気難しい顔をしたまま腕を組んで、コンクリートに
もたれることなく落ち着く場所を決めた。
そしてこよりに訊ねかける。
【伊代】
「あなた、本当に覚悟は出来たのね? お姉さんと対峙することを選べば、わたしたちはこれから同じ呪いを持った仲間以外は、
誰も受け入れられなくなるかもしれない――」
【伊代】
「社会からはみ出して生きて行くことになる。それでもいいのね?」
【こより】
「はい。決心は変わりません」
こよりの決心を確認すると、伊代は生真面目な表情を崩して、
一度だけ笑顔を見せた。
【伊代】
「あなたがそれを選べるなら、わたしから言うことはないわ」
【智】
「伊代、気遣ってくれてありがとう」
【伊代】
「ううん、いいのよ」
こよりの気持ちにしか触れなかったけれど、伊代だって、
語り尽くせないほど多くの葛藤を越えてここに来たのだろう。
伊代はいつだって優しい。
次いで現れたのは茜子だった。
相変わらず無表情で、不細工な猫を抱いている。
【茜子】
「……お待たせしました」
【るい】
「アカネどこに行ってたの?」
【茜子】
「わたしは、家に帰りました。夜だけ雨風を凌げる寝床を求めて。帰りたくはなかったですが、外で生きられるほどの逞しさは
ありませんでした」
【智】
「…………」
心を直接視る茜子に言葉は必要ない。
目線を交わすだけで僕たちの思いは伝わっただろう。
それでも、敢えて茜子はこよりに一言を添えた。
【茜子】
「……血の繋がりなんて、さほど大切なものじゃないですから」
【こより】
「茜子センパイ、ありがとうございます」
茜子は僕とるいを一瞥してから、
捨てられた冷蔵庫の上を軽く払って腰掛けた。
【智】
「これで五人」
【こより】
「みんな来てくれます」
花鶏は来ないかもしれない――
だけど、僕らは一言も口にせず待ち続けた。
頭上まで昇り始めた太陽が、アスファルト付近の大気に
昼の気配を少しずつ注ぎはじめる頃、花鶏は悠然と現れた。
【るい】
「来ないかと思ったよ」
【花鶏】
「ふん……」
【智】
「僕は来ると思ってたよ」
花鶏はるいの言葉を黙殺し、遅れたことに悪びれた様子を
見せることもなく、堂々とコンクリートに背を預けた。
少し瞑目した後、花鶏は目蓋を少し持ち上げて言う。
【花鶏】
「確かにわたしは現実主義者よ。だけど、自分と仲間の顔に泥を塗ったヤツらに尻尾を振るほど、プライドが低いと思ってたの?」
【伊代】
「あなたには無理でしょうね」
【花鶏】
「あいつらに協力を申し出て、ビルの中と研究施設の中を調べた。そのあと姿をくらますの大変だったってーの。智たちが動かないなら一人でもやるつもりだったわ」
【茜子】
「ふふ……、さすが雌狼」
あの時街の裏側で出会った六人は、再びここに揃った。
だけど、僕らは待ちつづける。
ここでまだ待つことに本当に意味があるのか
疑わしくなってきた頃――
ふと、茜子の手から猫が逃げ出した。
少し駆けて振り返り、「にゃあ」と鳴いた。
行ってもいいのか? それは問い掛けてるように見えた。
【茜子】
「…………」
茜子が頷くと、今度はもう振り返らずに、猫は何処へともなく
走り去る。何かの兆しだったのかもしれない。
猫の姿が見えなくなったのと入れ替わるように、
靴音が聞こえてきた。
【惠】
「随分と待たせてしまったみたいだね」
【智】
「惠……」
最後にやって来たのは惠だった。
長く伸びた影法師のようなスラリとした肢体を無造作に運び、
惠は僕らと向かい合うように立つ。
【惠】
「僕はここに来るべきじゃなかったのかもしれない……
だけど今は、この胸のうちで叫ぶ名も知れぬものの声に
従うのも悪くないだろう」
【こより】
「来てくれて嬉しいです。惠センパイ」
こよりが惠の手を取った。
僕との関係を誤解したせいで、一度は敵視までしてた相手
だというのに。
その惠の手を、こよりは自ら取り、受け入れた。
【惠】
「そうか。君たちなら、受け入れてくれるんだね……」
【智】
「受け入れるよ。僕たちは同じ、生まれながらの迷い子だから」
【るい】
「そうだよ。私たちには、もう私たちだけが信じられる味方なんだ」
【伊代】
「そうね。社会は、『大人』たちは……あまりにも汚くて、わたしにはもう何も信じられない」
【花鶏】
「同じ呪いを受けた仲間ならば、裏切らない」
【茜子】
「そして、裏切ることができない」
【こより】
「惠センパイ。わたしたちは、惠センパイにどんな過去や秘密が
あろうと受け入れます」
【惠】
「そう……。そうか……」
社会からはぐれた野良犬たちには、仲間なんてポジティブな言葉はそぐわない。
同類、群れ、そんな表現が妥当だろう。
呪いの力は、僕らを簡単に殺すけど。
同じ呪いを背負った仲間同士、それが僕たちの結びつきも強くする。
どんなに狭い居場所でも、ここには僕たちの居場所がある。
僕たちは呪いという、血よりも濃密な鎖で互いに縛り付けられて
いるのだから。
【伊代】
「盟約を結びましょう。社会を敵に回すには、わたしたちは余りにも少ない。これ以上一人でも欠けることは出来ないわ」
【茜子】
「どうするのですか」
【花鶏】
「一人ずつ、自分の呪いを告白する。呪いを知られていれば、
もう裏切ることは出来ない」
【るい】
「告白……」
【こより】
「待ってください! ともセンパイの呪いは、人に話すだけで
踏んでしまう……」
【智】
「こより、大丈夫だよ」
庇おうとしてくれたこよりを留めた。
皆が集まって向かい合い、神妙な顔を見せる。
【伊代】
「まずわたし。わたしの呪いは『固有の名を呼んではならない』」
固有名詞を言えない呪い――
人とのコミュニケーションを阻害する呪い――
大切な人の名前すら、呼べない呪い――
【花鶏】
「わたしは『他者に助けを求めてはならない』。
わたしはこの呪いを受けていることを誇りに思ってるわ」
誰にも弱みを見せられない呪い――
自身にすら弱みを見せられない呪い――
永遠に、一人で悩まねばならない呪い――
【るい】
「私の呪いは『人と約束を結んではならない』」
誰とも未来の約束を交わせない呪い――
その日その日のあるがままだけを生きねばならない呪い――
未来の夢を、描けない呪い――
【茜子】
「私は『人に直接触れてはならない』という呪いです。
私を殺すのは簡単ですよ」
人との距離に常に怯えねばならない呪い――
人肌の温もりを理解できない呪い――
母のぬくもりさえ、知ることができない呪い――
【こより】
「わたしは……『通ったことのない扉は開けない』。
そんな呪いです」
一人ではどこへも行けない呪い――
日常に潜む牢獄に怯える呪い――
誰かに依存しなければ、生きられない呪い――
こよりまで順々にそれぞれの呪いを告げ終えて、流れが途切れる。
【こより】
「ともセンパイ、やっぱり……」
【智】
「いや、次は僕が言おう」
【惠】
「………………」
みんなの視線を感じる。
もちろん、呪いの内容は告げることはできないけど……。
【智】
「僕の呪いは、やはり言うことができない。呪いの内容を話すことが、そのまま呪いを踏むことに繋がるから。だけど……」
【智】
「実は僕は幼い頃、呪いの秘密を知られて呪いを踏んだことがあるんだ。生死の境をさ迷ったらしいけど、その時はなんとか助かって呪いを乗り越えることができた」
【智】
「そして、その時の僕の秘密を知ったのは……こよりなんだ」
【伊代】
「それって本当なの……!?」
【こより】
「はい。だからわたしは、ともセンパイと暮らしても大丈夫
だったんです」
【るい】
「なるほどね。私が泊まったとき、やたら困ってたのはそういう
ワケなんだ」
【茜子】
「呪いの内容まではわかりませんが、言ってることが嘘でないことは私にはわかります」
【花鶏】
「茅場が言うなら……いいか。じゃあ最後は惠、あなただけよ」
惠は全員の視線を受け止めても、超然とした態度を崩さなかった。
ゆったりとした足取りで歩き、なぜか茜子の前に立った。
【惠】
「茜子、君の能力は心を読むことだったね。見たところ思考をそっくり読むことは出来ないが、イエス・ノー、その程度なら確実にわかるようだ」
【茜子】
「おおむねその通りです」
『黒い王子様』、と誤解された惠だ。
惠はさながら本物の貴公子のように茜子の前に膝を折って、
茜子の手を取り、手袋越しに手の甲に口づけた。
【花鶏】
「いったい何を……」
周囲を無視して、惠は茜子に語る。
【惠】
「エピメデスのパラドックスは知っているかい?」
【茜子】
「…………?」
【惠】
「クレタ人のある預言者は言った。『クレタ人は嘘つきである』と」
【茜子】
「…………」
惠も茜子も、互いにその瞳の奥を覗き込もうとしている
ように見えた。
しばらくその姿勢で固まってたかと思うと、
惠はもう一度茜子に語りかけた。
【惠】
「僕は君に、自分の呪いを明かすつもりはないよ」
【茜子】
「…………なるほど」
それが二人のやりとりのすべてだった。
立ち上がった惠は、どことなく晴れやかな顔をしていた。
【伊代】
「ちょっと、言うつもりはないってどういうことなの?
わたしたち全員が明かしたのに、あなただけ明かさないのは
フェアじゃないんじゃない?」
【こより】
「伊代センパイっ、惠センパイにもきっと、ともセンパイと
同じように呪いの内容を言えない理由があるんですよう!」
【茜子】
「待って……」
惠の謎めいた言葉を受け取った茜子が、惠を糾弾しようとした
伊代を止める。
惠と茜子はどうやら、僕らには判らない方法で何かを
交わしたようだった。
【茜子】
「惠さんの呪いは、私が確かに聞きました」
【智】
「茜子の力がないと伝えられない呪いなんだね。
僕はこれでいいと思う」
【伊代】
「そうなの……。まぁ、あなたがいいって言うなら」
【こより】
「わたしもいいと思います」
【花鶏】
「たしかに、薄情な茅場がさほど付き合いも深くない相手のために嘘を吐くとは思えないものね」
【るい】
「アカネが言うなら」
七人が七人とも、互いを群れの一員と認めた瞬間だった。
それ以上の何を誓い合うでもなく、僕らは歩き出す。
【智】
「行こう」
【こより】
「はい」
それぞれの足取りで、同じ方向へ。
野良犬たちは歩き出す。
【るい】
「私たちのプライドって、結構高い買い物なんだよね」
【花鶏】
「ツケを払って貰うわ」
【茜子】
「払えない分はセオリー通りに、身体で払って貰いましょうか」
【伊代】
「わたしたちのルールは、わたしたちで守らせるしかないわ」
【惠】
「愚かでもいい、今はこの崇高な感情に身を任せるのも悪くない」
相談、打ち合わせ、作戦会議――名前なんて、どうでもいいけど。そのどれもが、僕たちには必要がなかった。
野良犬の群れに、計画や作戦なんてあるものか。
ただ怒りのままに吠え猛り、引き裂き、噛み付き、暴れるだけだ!
〔狂犬のように〕
日没前の赤い空だった。
一足一足を、アスファルトに伸びた影に沈めながら歩む。
休日……黄昏色の無人オフィス街を歩む七人は、
ちょっとしたファンタジーだった。
【智】
「敵の城が見えてきたね」
【こより】
「ハイ、いよいよ状況開始であります」
準備など何一つしなかったが、軽口を叩く余裕だけは持ってきた。
威圧的にそびえる鏡の塔も、見慣れれば大した事はない。
見上げるとビルの鏡面には夕空が映っていた。
鏡の中で雲が流れていく。
見つめていると、ビルが空に存在しているようにさえ見えた。
空中に浮かぶ敵ボスの城。まさにファンタジーだ。
だけどこっちは、本物の呪い持ちだ。
非現実の度合いなら負けていない。
むしろ楽勝だ。そう思えた。
【花鶏】
「まずはわたしが行く。あんたらは裏へ」
【るい】
「まかせる」
一度は協力するフリをして取り入ったという花鶏は、
平然とビルの正面入口に向かっていった。
ガードマンと二言三言を交わす花鶏を横目で見ながら、
僕たちは通用口を求めて裏へと回る。
裏手に回ると、壮麗なビルの化けの皮は一瞬にして剥がれた。
見える場所にしか金を掛けない徹底した合理主義。
威圧的な外観は、まさしく取引相手を威圧する為のものだった
というわけだ。
【伊代】
「ここが通用口ね」
見つけた通用口は、僕らが根城にしていたあの屋上へのドアにもましてみすぼらしい……ただでさえぞんざいな塗りのペンキが、さらに剥げて錆び付いたドアだった。
そんなドアにも関わらず、IDカードによる電子ロックは
しっかりと取り付けられている。
裏口に外観は必要ないが、セキュリティは必要ってわけだ。
まさに実用性重視。
【こより】
「伊代センパイ、これは開けられないんですか?」
【伊代】
「ちょっと無理ね。配線を繋いで直接データを送り込めれば出来ると思うけど、わたしに出来るのは出来上がってる装置を使うことだけだから」
【茜子】
「素直に万年発情変態白髪女を待ちましょう」
【智】
「こんどそれ、花鶏の前で言ってみて欲しいな」
IDカード式の電子ロックは厳重だが、花鶏のことだ。
中でうまく立ち回って、じきに内側から開けてくれることだろう。
【惠】
「乗り込んで、そのあとはどうする?」
【るい】
「ラスボスは塔の最上階に居るもんだって!」
【こより】
「ボスは59階じゃなかったですか?」
【花鶏】
「なによくわからない話してんのよ。行くわよ」
【智】
「よし。みんな、暴れるよ」
【こより】
「ういっす! 総員、吶喊!」
花鶏が開けてくれたドアから、ビル内に忍び込む。
正面突破こそ避けたものの、すぐに感づかれるだろう。
【伊代】
「あっちにエレベーターがあるわよ」
【花鶏】
「ダメ。階段にまわる」
【るい】
「そうだよ。上行ってドアが開いた途端、ばばばばばばばーって
蜂の巣にされちゃう」
【智】
「まあ……、さすがに蜂の巣はないと思うけど、
途中で電源切られたらかっこ悪いしね」
エレベーターホールを素通りして奥へ。
【こより】
「あっちですよね」
緑色の非常灯を頼りに階段へ向かう。
この一階で僕たち以外が動く気配が確実に感じられた。
こちらから感じられるということは、向こうも同じ気配を感じているのかもしれない。
階段が見えた時、同時に足音も聞こえた。
【智】
「やばい。下がる?」
【惠】
「いや、時間が経つほど余計危険になる。
突破した方がいいんじゃないかな?」
【るい】
「強行突破、いい事言うね。シンプルなの好きだよ」
そのまま僕らは進み、階段の前でガードマンとはち合わせた。
【ガードマン】
「君たち、一体ここで何をしているんだ!?」
【茜子】
「社内見学でーす」
【ガードマン】
「そんな話は聞いて……」
【るい】
「うりゃぁッ!!」
【ガードマン】
「うわッ!?」
るいの凶暴な体当たりを受けて、中年のガードマンは
哀れ一撃で意識を奪った。
ただの警備会社の雇われガードマンだろうけど、
ここは僕らの目的の犠牲になっていただくとしよう。
【智】
「よし、このまま上へ」
【花鶏】
「待って。ビルの制御室がこの向こうにあるわ。先にそっちへ」
【伊代】
「そういう場所があると、わたしが助かるわ」
騒ぎを聞きつけられたのか、曲がり角から一人の社員が顔を出した。
怪しげな美少女7人(−1)と、昏倒するガードマン……。
【社員】
「え……ちょっと、何……!?」
【茜子】
「社内見学でーす」
【社員】
「うわあぁぁ……! だ、誰かっ!!」
【惠】
「すまないね」
敏速に反応した惠が駆け寄り、
半歩踏み出した足裏を軸にして旋廻する。
【社員】
「う……!」
背中ごしに飛び出した足が、正確に相手のみぞおちを捉えていた。後回し蹴りではなく、裏からの足刀蹴り。
しかし、そんな惠の華麗なフォームに見とれている暇はなかった。
【ガードマン】
「おい、君たち! 大人しくしなさい!」
【ガードマン】
「警察に通報するぞ!」
【智】
「してみてよ?」
ガードマンが3人、あわてて駆けてくる。
通報するならすればいい。もとよりそれが目的だ。
叩いたら埃が出すぎて窒息死しそうなこの会社、雇われガードマンとはいえ、警察に通報するとは考えがたい。
【るい】
「うぉぉぉぉぉーーー! 覚悟しろー!」
咆哮したるいが、一番ガタイのいいガードマンに向かって走る。
【智】
「あとの二人は、惠と僕でなんとかするか」
【惠】
「左の方は任せたよ」
二人に心配はない。
僕があと一人を始末すればいいわけだが、言うは易く行なうは難し。
【ガードマン】
「君たち! 何のつもりだ!?」
【智】
「秘密。冥途の土産を教えると負けフラグが立っちゃうからっ!」
【ガードマン】
「大人しくするんだ!」
相手は別に僕たちを殺しに来てるわけじゃない。
両手をゾンビみたいに伸ばして、動きを止めようと
掴みかかってくる。
左足を半歩前へ。武道家気取りの半身の構えだ。
【智】
「おじさん。手つきがいやらしいよ」
【ガードマン】
「大人をからかうのもいい加減にしろ!」
ガードマンの手が、前に出た僕の左肩を掴んだ。
【こより】
「ともセンパイ!」
すかさず右手を肩にかかった相手の手に重ね、
同時に左腕を外側から絡める!
【智】
「大丈夫」
相手の片手を取った状態で背面に廻り、前足で膝裏に蹴りを入れる。
【ガードマン】
「あっ!」
カクン、と膝が曲がったときには、
もう相手の片腕を背中にねじ上げていた。
【ガードマン】
「い、痛たたたっ!!」
【智】
「ごめんね」
【ガードマン】
「ぎゃあぁぁっ!!」
腕を極めたまま勢いをつけて上体を振り、肩を脱臼させた。
ちょっと酷いけれど、戦力は減らしていかないといけない。
頭に打撃を加えたり、首を絞めたりするよりはよほど安全だろう。
【こより】
「おおお、さすがともセンパイです! お見事です!」
【智】
「へへへ、こういうのちょっとかじったことがありまして。
一身上の都合で、痴漢にあうと生死に関わるもので」
【こより】
「うへ、そりゃタイヘン……」
僕が相手を片付ける頃には、るいと惠はとうに始末を終えていた。
【智】
「二人とも頭打って伸びてるみたいだけど、大丈夫?」
【惠】
「延髄が僕の足に求愛して来てね。心配は無いだろう」
【るい】
「ん? こっちも多分生きてるよ。痙攣してるもん」
【伊代】
「大丈夫かしら? そういうときって呼吸が自分でうまくできなくなるから、長続きすると脳の酸素が足りなくなって、ちょっと危ないことになることがあるって聞いたことが……」
【茜子】
「空気よめ」
【花鶏】
「それより、制御室はこっちよ!」
花鶏に促されて、僕たちはビル内を走った。
露骨な警報は鳴り響かないけど、僕らの侵入はすでにビル中に
知れ渡っているだろう。
【花鶏】
「あそこ、制御室よ!」
【茜子】
「隣の部屋に守衛室と書いてあるように見えますが……」
僕たちを待ちかまえていたかのように、守衛室の扉が開く。
【こより】
「お出迎えご苦労労さまですね〜」
【智】
「頼んでないのに」
でも、なかなか飛び出して来ないのは、
僕たちがここに来ることが判ってたからなのか。
出入口はすべて、ここでロックされたのかもしれない。
さて、何が待ち構えていることやら?
【るい】
「何人来たって、へっちゃらだよ!」
右手をぶんぶん振り回するいの前、守衛室から現れたのは、
明らかにヤバそうな四人組だった。
【警棒の男】
「お前ら、ここがどんな場所かわかって踏み込んで来たのか?
オイ」
筋骨逞しい男たちは、手に手に伸縮式の特殊警棒を握っていた。
一振りすると、空気を裂く音とともに、50センチくらいの
長さに伸長される。
さっきのガードマンたちとは比較にならない威圧感。
余裕をもって距離を詰めてくる。
【警棒の男】
「始末していいと言われてる。警察は来ないぞ」
【伊代】
「ちょっとこれ、いくらなんでも……」
【花鶏】
「反則じゃないのこれ」
どこの特殊部隊?
軽口を叩く余裕もない。
しかもこいつらは、僕らを捕らえても警察に突き出す気なんて
まるでないようだ。
殴って、徹底的に痛めつけて、意識を奪って、閉じ込めて……。
その後は考えたくもなかった。
【こより】
「と、ともセンパイ、どうしましょう!?」
【智】
「なんにも思いつかない。茜子は?」
【茜子】
「死んだふりとか」
要するに絶体絶命。
るいや惠がいくら強くても、相手はどう見ても殴り合いのプロ。
しかも4人も居る。
この状況で僕にできることは一つしかなかった。
こよりと抱き合って怯えるふりをしながら、こっそりとおしりの
ポケットに手を伸ばす。
手探りで携帯電話のボタンを手探りする。
電話する先は……警察だ。
こっちから通報してやる。
警察が来れば、最悪のケースだけは避けられるはず。
【るい】
「こんのぉッ!」
【惠】
「やめろ! 勝ち目がない!!」
惠の制止も聞かずに飛びかかったるいは、
4本の警棒の打撃に歓迎される。
【るい】
「あぐっ!!」
【警棒の男】
「かなりいい運動神経だ。だがやっぱり素人だな」
【惠】
「立てるか……!」
【るい】
「ううぅ……なん、とか……」
るいを助け起こして、じりじりと下がる。
男たちのリーダーは、自分の手の平を警棒で叩きながら、
余裕の足取りで距離を縮めてきた。
【こより】
「ともセンパイ、どうしましょう〜っ!?」
【智】
「時間を稼いで!!」
市内の警察署の電話番号なんてわからない。
携帯からの110番通報は状況によって他県に繋がったりする上に、位置特定が難しいというけれど、今はのんきに電話帳を開く余裕なんてなかった。
ポケットから少し携帯をはみ出させて開く。
少しでも気付かれにくくするために、ボタンの部分を残して
ポケットに戻した。
自分の背面、しかも上下逆。それでもメールを使い慣れた指が
キーの位置を覚えていた。
左下、上、上、右下。
これでかかったはずだ。
【警棒の男】
「裏口も正面入口もロックした。逃げ場はないぞ」
【惠】
「くそ!」
惠が相手の警棒を持った手に向けて、鋭い蹴りを放つ。
【警棒の男】
「うっ! こいつ!」
相手は警棒を取り落としたが、惠の足は逃さなかった。
足首を捕まえて勢いよくねじる。
【惠】
「ああっ!」
【警棒の男】
「こっちはいい動きだったな。だが、所詮は蟷螂(とうろう)の斧」
膝の関節で嫌な音を立てながら、惠が倒れた。
男は悠然と警棒を拾いなおす。
本当に、まったく歯が立たない。
【伊代】
「た、立って……!
どうすれば……一体どうすればいいの……!?」
110番なんか掛けたことがない。
どれくらいで警察が応答してくれるかわからないので、
だいたい5コール分くらい待つ。
仮にも緊急連絡用の110番だ。
無言電話みたいでもそんなにすぐは切らないだろう。
【花鶏】
「くそ……やりすぎだっての」
確実に電話が通じているであろう瞬間まで待って、
携帯を一気に引き抜いて口もとに持って行った。
【智】
「田松市、CAコーポレーションビルです!」
【警棒の男】
「このアマ!!」
【智】
「い゛ぁッ!!」
警棒で指を殴られて、携帯が飛ぶ。
遅れて指を、火で焼かれるような激痛が襲う。
【智】
「くうぅ……!」
【こより】
「だいじょぶですか!? ともセンパイ!!」
【智】
「そ、それより逃げないと!!」
逃げられるかわからない、だけど可能性は作った。
あとは逃げ回るしかない。
【茜子】
「それも無理みたいですよ」
傷む手を押さえて走り出そうとしたが、
力を込めた足の筋肉がみるみる萎えていく。
背後から足音が聞こえてきたからだ。
まさか、守衛室が他にもあったのか?
ものものしい警備にも程がある!
前にも後にも、右や左や上下にだって逃げ場はない。
たとえ後で警察が到着しても、それまでに僕たちはどこかへ
監禁されて、110番は誤報として処理されるだろう。
もう、ダメか……!
【警棒の男】
「誰だ!? こいつらの仲間が居たのか!?」
【央輝/???】
「今だけな」
【智】
「えっ!?」
警棒の男の意外な反応に、驚いて振り返る。
そこに居た人物は、警備員たちよりも、僕らをもっと驚かせた。
【智】
「央輝!!」
【央輝】
「理由があってオマエたちを助ける。理由は聞くな」
漆黒の唾広帽子と蝙蝠の羽めいたコート――尹央輝だった。
央輝を含めて、僕らは全部で8人。
だが、倍の人数になったとしてもこいつらに勝てるのだろうか?
【警棒の男】
「たかが一人増えたところで何ができる?
ふん、全員二度と自分の足で歩けなくしてやる……!」
リーダーの号令で、警棒の男たちがじりじりと迫ってくる。
威圧感に冷たい汗が出た。
警察への通報によってタイムリミットを設けられた彼らは、
もはやただ迅速に僕たちを始末するつもりだ。
迸るような殺気だった。
【央輝】
「オマエらはクズだ。オマエらが何人居ても無意味だ」
央輝は男たちが迫ってくるのを見て、逆に踏み出した。
中国人は全員カンフーが使えるなんていうのは妄想だ。
黒人が全員リズム感がいいわけじゃない。
イタリア人が全員好色なわけでもない。
アメリカ人が全員ポテトに山ほどケチャップを
かけるのが好きなわけでもない……よね?
カンフーが使える中国人より、むしろカンフーが使えない
中国人のほうが圧倒的に多いのだ。
緊張をごまかすために、花鶏の真似してすごい速さで考えた。
だけど、否応なく心音は跳ね上がっていく。
央輝、一体なにをするつもりなんだ……!
襲い来る警棒が今まさに打ち下ろされようとした時、
央輝はコートの中から手を出した。
【央輝】
「おい」
手に握られていたのは、安物のプッシュ式ライター。
ボタンを押し込んで小さな火を灯し、央輝は呟いたのだ。
【警棒の男】
「何を」
【央輝】
「見ろ」
【警棒の男】
「………………っ!」
一体何が起こったのか、警棒の男たちの手が止まる。
緊張が沈黙となって充満し、突然男たちの顔から大量の汗が
吹き出した。
ついで全身がガタガタと震え出し、顔は恐怖にまみれ、
手からは警棒がこぼれ落ちる。
【央輝】
「今のうちに片付けるぞ。さっさとしろ」
何が起こったのか判らない……。
【智】
「まさか……」
もしかして、レースの時に僕が体験した、あの不思議な力か!?
僕が呆然としている間に、るいと惠が一人ずつ取り押さえ、
残りの二人を央輝が改造スタンガンで昏倒させた。
るいと惠に押さえられた二人は、やがて異常な恐怖から
立ち直ったけど、それも順次電撃によって意識を奪われる。
【伊代】
「い、今の……一体……?」
伊代が驚くのも無理もない。
みんながいきなりのことに驚愕していた。
そんな中、こよりだけが央輝に話し掛ける。
【こより】
「ありがとうございました! アウトローな道を選んだので畳の上では死ねないつもりでしたケド、スタート早々ゲームオーバーになっちゃうところでした!」
【央輝】
「あの時のチビか……。いい顔になった」
央輝だって十分に背が低い。
ほんの僅かな身長差でこよりをチビ呼ばわりするなんて、
と可笑しくなった時、ふと思いついた。
【智】
「そうか、その『力』――」
【こより】
「どうしたんです? ともセンパイ」
【智】
「央輝、君も僕たちの同類だったんだね?」
【央輝】
「ん……意味がわからんな?」
央輝は答えない。
でも、それを追求するよりも、今は急ぐべきことがあった。
高度なハイテクとシステム――それは時には仇となる。
【伊代】
「2階より上の電子ロックつきのドアは、全部こっちからロック
したわ。どうする? このまま警察を待つの?」
占拠した制御室から、ビル内のセキュリティすべてを
伊代が支配下に置いた。
部屋の片隅には、この制御室の管理を任されていたらしい
貧相な顔の小男が怯えていた。
【智】
「このまま警察を待てば、とりあえず僕らはここを無事出ることができる。でもそれだけだ。ここの会社の秘密は守られるだろうし、僕らは傷害罪だ」
【こより】
「それはいけてないです。なんかこう、倉庫っぽいのは
ないんですかねえ」
【央輝】
「そこの男に聞いたらどうだ」
【伊代】
「って言うかあなた、通用口はロックされてたのに
どうやって入って来たの?」
【央輝】
「答える必要はない」
さっきの正体不明の能力を使ったということだろうか?
謎だらけの央輝だが、味方と言ってくれている今は心強い。
【花鶏】
「ともかくここまで来た以上、この会社の化けの皮を剥いでやらないと。茅場、そいつからなんか聞き出しなさい」
【茜子】
「OK。茜子さんが異端審問官も裸足で逃げ出す尋問を披露します」
茜子が口だけで笑いながら小男に近づいてく。
男は怯えて身じろぎしたが、逃げ場はどこにもなかった。
【智】
「別に茜子は痛めつけたりしないから大丈夫だよ」
【こより】
「場合によっては痛めつけられるより怖いけどね」
【茜子】
「よーしよしよしよしよし。怖くない、怖くないですよー」
【小男】
「…………」
怯える男は、小柄な体をさらに小さくして床にへたり込む。
【茜子】
「さて。このビルに見つかるとまずいような倉庫などはありますか?」
【小男】
「そ、そんなものは……ねぇ」
茜子の目が、男の心の中までも覗き込む。
【茜子】
「あるそうです」
【小男】
「な、なにを!?」
【茜子】
「それでは、その倉庫は上の階ですか」
【小男】
「だ、だからそんなものはねぇ……って言ってるだろう!」
【茜子】
「なるほど。上ではないそうです」
【小男】
「こ、こいつ……いったい、なにを言ってるんだ!?」
男の表情が、目に見えて恐怖の色に染まる。
【るい】
「おっちゃん、正直になったほうがいいよ。嘘つきはよくない。
うんうん」
【茜子】
「もしかして、地下とかがありますか」
【小男】
「お、俺は何も知らない! 俺に何を聞いても無駄だ!」
【茜子】
「地下があるみたいですよ」
【小男】
「ひ……っ!」
【茜子】
「さぁ、どんどん聞いてみましょうか……?」
結局、茜子の異端審問官も裸足で逃げ出す尋問に屈した男は、
泣き叫ぶように自分から地下倉庫への道を口走った。
エレベーターの中、操作パネルを開いて現れたスリットに、
一部の社員しか持っていない特別なIDカードを通す。
【こより】
「大丈夫なんですか? 伊代センパイ」
【伊代】
「よくわからないけど、合ってるみたいよ」
ピ……と小さい電子音が鳴って、エレベーターが下降し始める。
カードはさっきの小男のカードを取り上げて、制御室の
カードリーダー・ライターでデータを改竄したものだ。
【こより】
「わたし、伊代センパイはさまざまな面で自分の長所を生かせずに損してると思うであります! 主に胸のあたりなど!」
【花鶏】
「その長所を今度わたしがたっぷりと味わってあげるわ」
【伊代】
「いらないわよ! ほっといてよ!」
【央輝】
「……こういう連中なのか?」
【惠】
「ああ、そうなんだ。楽しいだろ?」
足もとが浮き上がる感覚を経て、エレベーターは停止した。
階数表示は1階で停止したまま。
鈍重な動作ドアが開くと、一切の装飾がない
無骨な空間が広がっていた。
【智】
「ここが、隠されていた地階」
【こより】
「せま……って、これ開くのかな?」
地階はエレベーターの室内と同じ程度の広さしかなく、
背後にはエレベーター、あとは三方向はすべて
のっぺりとした壁に囲まれていた。
ただ、前方の壁にドアと思しき部分がある。
それにはノブも引き手もなく、鍵穴さえない。
【るい】
「んっ、開かない」
当然、手の平をついてスライドさせようとしても開かない。
【伊代】
「ここも電子ロックだとは思うんだけど、
制御室からここのドアには干渉できなかったわ」
【花鶏】
「隠し部屋なんだから当然でしょうね」
【智】
「もしかして……これかな?」
【こより】
「ともセンパイ、わかりました?」
ドアの横にあるメッシュになった部分、
これがマイクになってるんじゃないだろうか。
【智】
「これ、声紋認証じゃない? 凝ったものつけてるなぁ……」
【伊代】
「入力装置がマイクだけじゃ、わたしにはどうにもならないわよ?」
【央輝】
「壊せないのか?」
【惠】
「無理だろうね。その音、かなりの厚さがある」
【茜子】
「つまり超無駄足だったというわけですか」
【智】
「ここまで来て……」
やがて警察がやってくる。
でも、今ここを開くことが出来ないなら、なんとか警察に
この中を調査させるように仕向けることはできないだろうか?
社長の持つ銃を発見させればあるいは……。
今からではもう間に合わないかもしれない、
別方向の手段を模索し始めた時、こよりが言った。
【こより】
「わたしが、開けます」
【智】
「こより?」
【伊代】
「どうやって開けるつもりなの?」
【こより】
「わたしが、お姉ちゃんの喉の動きをトレースして同じ声を
出します。わたしとお姉ちゃん、姉妹ですからやっぱり
見えない部分も似てると思いますし」
【こより】
「それに、わたし小さい時からずっとお姉ちゃんのこと見てたから、どんな仕草でもトレースできます。やってみたことないけど、
声だって多分――」
見えない部分も似ている……。
体の中、見えない部分まで似ている姉妹なのに、
どうしてその心は似なかったんだろう。
生まれ育った環境の僅かな違いが、
こんな取り返しのつかない違いを生んでしまったのだろうか。
あるいは本当は、心まで似ているのかもしれない。
ただほんの少しすれ違っただけで……。
この姉妹の違いは、たった一つの、
しかし大きな違いなのかも知れなかった。
それは、呪い――
【こより】
「うまく行ったらご喝采、それでは……開けます」
【こより】
「『鳴滝、小夜里です』」
一拍を置いて電子音が応答した後、ドアは自動的に開かれた。
【智】
「開いた……」
【こより】
「入りましょうか」
庫内に入ると、棚の上に木箱やダンボールが整然と積み上げられた広い空間が広がっていた。
試みにダンボールの一つを開けてみると、
それぞれに思いつく限りの密輸品が詰められている。
この企業が手を染めている不正は密輸ばかりではないだろうけど、ここの倉庫が暴かれれば、あとは勝手に警察が余罪を追及してくれることだろう。
【るい】
「うわ、銃もあるよ。1個もらっとく?」
【花鶏】
「やめときなさい」
【茜子】
「こっちにはご禁制のエロリ写真集が」
【花鶏】
「戴きましょう」
【こより】
「シークレットな倉庫も解放したし、そろそろ逃げましょうか、
ともセンパイ?」
【智】
「そうだね。そろそろ」
さっきの声紋認証ドアの向こうから、エレベーターの停止音がした。
【るい】
「誰!?」
【伊代】
「いつのまにエレベーターが移動してたの!?」
そういえば静かなエレベーターだった。
いつの間にか上から呼ばれて、誰かを乗せて降りてきたのだろう。
【茜子】
「次から次へと面倒ですね」
【央輝】
「まったくだ」
息を飲んでドアが開くのを待つ。
警察にしてはまだ早いし、静か過ぎた。
伊代は制御室からすべてのドアをロックしたと言っていた。
ならば、今このドアの向こうにいる人物は、制御室からの操作より強い権限をもったカードを所持しているということだ。
つまり……。
【こより】
「…………」
【智】
「…………」
そして、ドアが開いた。
【宇田川】
「面倒なのはお前たちだ! なんてことをしてくれたんだ、
警察が……! 警察が来てしまう……!」
【小夜里】
「………………」
声紋認証のドアを開いて現れたのは、
社長の宇田川と小夜里さんだった。
【こより】
「お姉ちゃん!」
【小夜里】
「…………」
【宇田川】
「おっと、大人しくしろ! もう逃げるしかない。
だが腹いせにお前たちを殺してやる……」
【央輝】
「お前みたいなクズに何ができる?」
【智】
「央輝、だめっ!」
飛び出そうとした央輝は、僕が止めるまでもなく、
その場に釘付けにされた。
宇田川の手の中、銀色に光るものがこちらを睨みつけていた。
それは、僕らが前に一度、対峙した武器だった。
【伊代】
「あ、あのときの……!」
【宇田川】
「そうだ、ペンシル型拳銃。前から人間相手に使ってみたかったんだよ……。言ったろ? 俺は快楽主義者だって!」
【るい】
「こいつ……!」
【花鶏】
「飛びかかんないでよ? デリンジャー弾だって、警棒とは
ワケが違うんだから」
どこかからサイレンが聞こえてきた。
僕が通報した内容なら、サイレンを鳴らして突っ走ってくるほどのこととは思えない。
近隣住民が騒ぎに気づいて通報したのかもしれなかった。
いくらここが隠されたフロアだと言っても、警察が本気になって
調査を始めれば、見つかるのは時間の問題だろう。
まずい――
サイレンを耳にした宇田川の顔が、興奮にみるみる赤く染まり、
目が鬼のように吊りあがった。
銃口は、間近にいるこよりへと向けられる。
こいつは本当に撃つ……!
【宇田川】
「死ねっ!!」
宇田川の指に力が篭もり、引き金を引いた。
【こより】
「きゃあっ!!」
【智】
「こよりっ!!!」
ペン・ガンが火を噴き、銃声が空気を震わせた!
無骨なコンクリートの床に、赤い血が広がる……!
こよりは!?
――無事だ。撃たれていない。
ではこの血は……。
【こより】
「惠センパイっ!!?」
【惠】
「う…………」
【るい】
「ちょ、ちょっとメグム!!」
発砲の瞬間、惠はとっさに飛び出して、こよりの代わりに
銃弾をその身に受けていた。
他の誰も動けなかったのに……。
るいが咄嗟に惠の体を受け止めるが、その顔からは見る間に
生気が失われつつあった。
【智】
「惠っ!!」
【こより】
「惠センパイ! しっかりして下さい! 惠センパイっ!!」
心臓こそ外れているものの、銃弾は惠の胸の中心を穿っていた。
嘘みたいに大きな傷が胸に開き、どくどくと鮮血が流れ出している。
【宇田川】
「当たった! 当たった! ははは、改造ホローポイント弾だから、当たったら間違いなく死ぬぞ! 内臓はぐちゃぐちゃだな!
はははは!」
【智】
「こいつっ!!」
【宇田川】
「ぐわッ!!」
下衆の笑い声を上げる宇多川を、力任せに殴りつけた。
銀色の凶器が飛ぶ。
【惠】
「ふ、ふふ……心配しなくてもいいから……。それより、銃を……」
【こより】
「は、ハイっ!!」
口から血の泡を吐きながらも、惠は意識を保ち続けていた。
惠の言葉にはじかれて、こよりがペン・ガンに走る。
コンクリートの床をかするように手を伸ばす。
あと、3センチ。すぐ目の前まで手を伸ばしたところで、
ペン・ガンは別の手に拾い上げられた。
【こより】
「お、お姉ちゃん……!!」
【小夜里】
「こより……」
小夜里さんは、自分の血を分けた妹に――
その銃口を突きつけた。
〔姉と妹〕
【小夜里】
「こんなことをして、あなたに何の得があるの?」
【こより】
「得なんかないよ」
死をもたらす武器を向けたまま、姉妹は語り合う。
小夜里さんは冷たい視線でまっすぐにこよりを見下ろし、
こよりはそれを従容として受け止めていた。
【小夜里】
「馬鹿ね、こんな無意味なことをして。自分たちまで罪になるのに」
【こより】
「構わない」
【小夜里】
「わたしたちの研究に協力していれば、何もかもがうまく行ったはずなのに」
【こより】
「そうかもしれないね」
【小夜里】
「なら、どうして?」
【こより】
「それでいいと思えなかったんだよ」
【小夜里】
「…………」
コンクリートには、惠の血が少しずつ広がっていた。
早く手当てをしなければならないのに、誰も動くことができない。
空調のない地下倉庫はじっとりと暑く、汗で張り付いた髪が
不快だった。
【こより】
「たしかにお姉ちゃんの言うとおり、わたしたちがこの会社の実験台になって呪いと特別な力を売り物にすれば、わたしたちの呪いは解けたかもしれないね」
【こより】
「でも、それって違うと思うの、お姉ちゃん。うまく言えないけど、損得とか、有利不利とかより……もっと大事なことがあるって、わたしは思ったんだよ」
姉と過ごした幼少の頃から、初めて僕と出会ったこと、同じ
呪いを背負った仲間たちを得たこと、僕と愛し合ったこと、
そして姉に裏切られたこと……。
無数の想いを込めて、こよりは語る。
小夜里さんも同じだったのかもしれない。
こよりと過ごした時間の幾つもの想いが、その瞳に去来した。
【小夜里】
「……まったく、あなたはいつまでたっても『子供』ね」
聞き終えて、小夜里さんはため息とともにその言葉を吐く。
【こより】
「うん……そうだね。お姉ちゃんは立派な『大人』だと思う」
【小夜里】
「………………」
【こより】
「………………」
静まり返った部屋の中、惠の口から漏れる水音まじりの
苦しげな息だけが、時間の経過を証明していた。
にわかに地上階が騒がしくなる。
ついに警察が乗り込んできたようだった。
もう幾ばくも時間はない。
まだ逃げられる方法はあるだろうか?
あるいは諦めて投降すれば、惠は助けてもらえるだろうか?
さまざまな計算を巡らせても、こよりに銃が向けられている限り、
誰も動くことができなかった。
【こより】
「お姉ちゃん……」
【小夜里】
「…………」
花鶏が苛立ちに舌打ちする。
るいは惠の傷を見つめ、歯噛みしている。
伊代はただ拳を握り締め、央輝は目を逸らしたまま
沈黙を守っている。
惠は幾度目かの粘ついた咳をする。
るいの服に惠の血が飛んだ。
僕も動けない。
だが──
【茜子】
「その銃……」
【小夜里】
「動かないで」
茜子が一歩踏み出した。
小夜里さんは牽制するように、銃口をこよりに向けなおす。
けれども茜子は怯まなかった。
【茜子】
「その銃には、もう弾は入っていません」
【小夜里】
「…………!!」
茜子は敢えて一歩を踏み出すことで、小夜里さんの反応から
残弾の有無を計るという賭けに出たのだった。
どうやら、最初から一発しか装填されていなかったらしい。
宇田川は予備の銃弾を持っていたかもしれないが、
それは小夜里さんの手にはなかった。
【小夜里】
「くっ!」
小夜里さんは、残弾がないことを看破されたペン・ガンを投げ捨て、こよりの頬を張った。
【こより】
「………………」
こよりは微笑んでいた。
泣きもせず、怒りもせず、ただ悲しげな笑顔で姉を見つめた。
【こより】
「お姉ちゃん……」
【小夜里】
「………………」
ねじれの位置。
三次元上に存在する平行でない二本の直線がどこまで伸ばしても決して交差しない位置関係であることを、そう呼ぶ。
おそらく始点がまずかっただけなんだ。
『大人』の理屈と『子供』の誇り。二本の直線は、
どこまで伸ばしても決して交わることができなかった。
姉と妹の想いが、なすすべなくすれ違う。
【こより】
「わたしたち、どうして分かり合えなかったんだろうね……」
【小夜里】
「………………」
銃が失われても、しばらく呆然と止まっていた僕を動かしたのは、
花鶏の声だった。
【花鶏】
「こっちに非常口っぽいのがあるわ! そのオヤジもここから
逃げるつもりだったみたいね」
【伊代】
「出口があるのね!? 早く逃げないとわたしたちまで警察に
捕まるわ!」
【るい】
「早く逃げないと、メグムが死んじゃうよ!」
呪縛は解けたが、僕はまだこよりと小夜里さんのことを
見つめていた。
【小夜里】
「…………」
【こより】
「…………」
【小夜里】
「……本当に」
【こより】
「お姉ちゃん?」
【小夜里】
「……本当にあなたは……いつまでたっても『子供』ね……」
こよりの頬を張った手は、力も意志も失って、
ガクリと力なく垂れ下がった。
苦笑いするような表情を一瞬見せて、小夜里さんは
こよりに背を向ける。
【央輝】
「おい、オマエら! 置いていくぞ!」
【智】
「こより、小夜里さん……」
小夜里さんはまだだらしなくうめいている宇田川を捨て置いて、
エレベーターに戻ろうとする。
【こより】
「お姉ちゃん! どこ行くの!?」
【小夜里】
「こより。少し早いけど、誕生日プレゼントよ」
【こより】
「え……?」
【小夜里】
「わたしが時間を稼いであげるから、その間にあなたたちは非常口から逃げなさい」
【こより】
「………………」
【智】
「小夜里さん、あなたは……」
【小夜里】
「私は私が正しいと思っていた。あなたたちはあなたたちが
正しいと思っていた。それだけよ」
ドアを潜るとき、最後に小夜里さんはこよりに向けて呟いた。
【小夜里】
「こより……元気で……ね」
【こより】
「お姉ちゃん……」
あとはもう立ち止まることなく、小夜里さんはドアの向こうに
消えた。
【智】
「こより……」
【こより】
「……ともセンパイ、行きましょう」
こよりはもう、振り返らなかった。
僕としっかり手を繋いで、走り出す。
都会の空に、すっかり陽は落ちて、星が瞬いていた。
僕たちはビルとビルに囲まれた路地裏で、夜闇に身を潜める。
【智】
「助か……った?」
地下倉庫に設けられた非常用通路を抜けた先がここだった。
【智】
「惠は大丈夫!?」
【るい】
「わかんない……!」
るいに背負われた状態で、惠はまだ笑ってみせる。
【惠】
「……心配しなくていい……」
【智】
「でも」
【こより】
「惠センパイ! 喋っちゃダメですよう!」
【央輝】
「今は逃げるのが先だ。ついて来いっ!」
地下を通ったので距離感はわからないが、
CAコーポレーションビルからはそんなに離れていないはずだ。
今は、逃げなければ……。
【茜子】
「当てはあるのですか?」
【央輝】
「ある」
【花鶏】
「とりあえずあんたについて行くわ」
【伊代】
「でもあなた……どうしてわたしたちに味方してくれるの?」
【央輝】
「…………」
伊代の疑問に、央輝はしばらく沈黙したあと、
吐き捨てるように言った。
【央輝】
「今だけだ」
僕たちは街の闇に消える。
〔自由と暗闇の中へ〕
それからしばらくたった頃……。
巷にこんなウワサが立ち始めた。
【女子生徒】
「知ってる? 『ピンク』っていう女の子ばっかりのチームのこと」
【美奈】
「え……? 解散したんじゃなかったの……?」
【女子生徒】
「あっ、あなた詳しいのね! それがまた再結成して活動してるらしくてさ。わたしちょっと深刻に頼みたいことあるんだけど……」
【美奈】
「わたし、会ったことあるよ」
【女子生徒】
「ほんとにっ?」
女の子ばかり六人だか七人だか八人だかのチームが、社会の
闇で『子供』たちの世界の問題を人知れず解決しているという。
お礼は気持ちで充分。
――ただし金では動かない。
ウワサでは、別にピンクのアイテムで統一してるわけじゃ
ないらしい。
じゃあなんで『ピンク』なの?
誰も知らない。
知られちゃいけない……わけでもない。
さらにウワサでは、少し前に女の子たちの間で騒がれた
『黒い王子様』さえ、そのメンバーに入ってるのだという。
女の子ばっかりのチームじゃなかったの?
それもよくわからない。
【こより】
「おおおお……っ! 高い、高いですよ、ともセンパイ!」
【智】
「ビルの屋上だからね〜」
そのウワサの当の本人たちは、ビルの屋上から街を見下ろしていた。
【伊代】
「落ち着かないわ……」
【るい】
「なんで? 風もいいし見晴らしもいいよ?」
【花鶏】
「下界を見下ろすってのはいい気分よね。
あとは両側に美少女を侍らせばっ!」
【こより】
「うひぇっ!?」
【智】
「きゃうっ!?」
【茜子】
「出た、大悪魔セクハラー・スカイハイ」
あの後、CAコーポレーションは密輸入の証拠を押さえられ、
その他もろもろの余罪も追及されて即座に業務停止となった。
しばらくは警察によってビルが管理されていたが、やがて
捜査がひと段落つくと、オフィス街にそびえ立つ鏡の塔は、
真新しい廃ビルと化した。
ハイテクなセキュリティ管理を過信したのか、ビルのロックなどはそのままで、改竄した最高権限IDカードを一枚くすねたままの僕らは、こうして自由に出入りしていたりする。
ただし、ドアの施錠は電池式なので動いているが、
エレベーターは動かない。
つまり、上り下りはシティ登山。
足腰が鍛えられること、この上ない。
【るい】
「もうお昼だよ。おなかすいたよ〜〜〜〜〜」
【こより】
「おじいちゃん、さっき食べたでしょ」
【智】
「もうおじいちゃんたらボケちゃって」
【るい】
「おじいちゃんじゃないっ! おなか減った〜、痩せる〜、しぬ〜、このままじゃファラオになっちゃうよう〜」
【伊代】
「あなたねぇ、もうちょっと省エネできないの?
エコロジー精神が足りないと専制君主は務まらないわよ?」
【花鶏】
「絶・対、下まで買い物行くの付き合ったりしないから」
【茜子】
「いっそこの屋上で農業を営めばどうかと」
【るい】
「それ、いいね〜」
【智&こより】
「いいの!?」
小夜里さんは、やはり逮捕された。
遠巻きに見にいったこよりの家は薄暗く見えて、
家全体から陰気な気配が漂っていた。
もう、帰れない。
住み慣れたあの屋上の溜まり場も、高架下も……人々に近すぎた。
下界を見下ろすと、昼休みを迎えたオフィス街を闊歩する人々が豆粒よりも小さく見えた。
僕たちはもう、道行くあの人々と同じ世界には生きられない。
僕らは所詮、呪われた身なのだ。
かわりに、自由と誇りを手に入れた。
呪われた身でもいい。
仲間がいる。
社会の闇は、僕たちを受け入れてくれる。
【惠】
「ここはいいねぇ。賑やかで、とても楽しい場所だ」
【智】
「……死にかけた人とは思えない台詞だよね」
惠はあのとき、死んでもおかしくないほどの重傷を
たしかに負っていた。
でも、「コイツのことは任せろ」という央輝とその仲間たちに
連れて行かれて数日後……。
心配していた僕たちの前に、惠は何事もなかったように現れた。
もしかすると、それが惠の能力なのかもしれない。
なんにせよ、無事だったら、それでいい……。
【こより】
「惠センパイ、それって、あの溜まり場に初めて来た時も
言ってませんでした?」
【惠】
「場所というのは、なにも地図上の座標ばかりを指すわけじゃ
ないのさ」
今や惠も、僕たち野良犬の群れの一員として行動を共にしていた。
馴れ合いを嫌う央輝は、僕たちのチームとは直接繋がって
ないけれど、今でも街の裏側でしばしば顔を合わせる。
相変わらず目つきは怖くて無愛想だけど、頼りになる友達だ。
社会からあぶれた僕たちは、社会の裏側に生きる。
大丈夫、今までだってうまくやって来た。
これからだって、うまくやっていける。
【こより】
「ともセンパイ」
【智】
「こより、おいで」
【こより】
「うにゅ」
抱き寄せてその頭をくしゃくしゃ撫でると、こよりは目を細めて
僕に頭をすり寄せて来た。
僕にはこよりがいる。
他の仲間の誰よりも、その一点で救われている。
こよりの重さを両腕に感じながら、眼下に街を見下ろした。
僕らは孤独だ。
あの街に囚われていた頃も、この頂きから見下ろす今も。
繋がる術のない人と人。
こよりと小夜里さんがそうであったように。
血の繋がりさえ優しさを保証しない。
思い合うことさえ救いにならない。
だから、僕らは身を寄せる。
群れになる。
手を繋ぐより強い絆で、嵐の中を超えていくため。
【こより】
「『群れ』ですか」
【智】
「そう、友達よりも近くて、仲間よりも強い」
【智】
「そんで、僕らはつがいの『群れ』」
【こより】
「にゃう〜ん」
頬をすり寄せてくる愛しい少女の暖かさが、
孤独な世界を癒してくれる。
正しさと過ち。愛情とごう慢。喜びと悲しみ。
『大人』たちの嘘が創り出す、区別の付かない曖昧さに
背を向けて、僕らは生きると誓った。
【花鶏】
「ちょっとそこ密着しすぎ!! 密着するなら、間にわたしを!」
【るい】
「お米は炊くのがタイヘンだし……作るならトマトの方が
いいかもね。マヨにも合うし」
【茜子】
「茜子さんは目を改造してレーザーを撃ちたいです。地上に向けてぶっ放し、みゅいーん、人がゴミのようにチュボーン」
【伊代】
「いろいろな方面での危ない思想を披瀝(ひれき)するのはいいから、
それよりこれを見てよ」
呼ばれて伊代の携帯のディスプレイをみんなで覗き込む。
最近はたしかに大きくなったけど、所詮は携帯のディスプレイ
……みんなの顔は、お餅みたいにぎゅうぎゅうにくっついた。
【伊代】
「ほら、覚えてる? 前に活動してた時にやりあった
カラーギャングの連中」
【花鶏】
「ああ、『レッド』とか名乗ってたダッサいヤツらね」
【茜子】
「ほほう、面子を潰されたから我々に復讐を企てている、と」
【るい】
「暴れ回るのも悪くない気分だね!」
【惠】
「その人たちは退屈しのぎになる相手なのかい?」
【智】
「さあ? でも……」
たしかに、ちょっと暴れたい気分。
来いよ、相手になってやる。
なんてね。
【こより】
「うし! そいじゃあ、次なるピンク・ポッチーズの活動は
『レッド』とのガチバトルで決定〜っ!!」
【伊代】
「だからその卑猥な名前、やめてってば!」
【智】
「よし! じゃあこより、今度は武術の達人シリーズ中国拳法編のビデオ見て、あの『発勁(はっけい)』とかいうの、本当にできるかトレースしてみようよ!」
【こより】
「おおお、さすがはともセンパイ!
ロマンダダ漏れまくりであります!」
軽口を叩きあいながらも目は獣のそれで、僕たちは下界を睥睨する。
表の世界はお前たちにあげよう。
その代わり、裏の世界は僕たちが貰う。
常識なんかで人を縛らない街の裏側は、無法ではあれ
もっと人間味に溢れた正義が存在する。
あるいは、そんな場所でなら。
『女同士』の僕とこよりだっていつかは結ばれることが
できるかもしれない。
それぞれの想いを笑い声に混ぜて空に投げながら、
野良犬の群れは、人知れず闇へと消える――