〔プロローグ〕
突然空が開けた。
赤い夜だった。
息が乱れて心臓まで吐きそうだった。
腕を引かれたまま一気に階段を駆け上がる。
濃い闇に足下も定かでない。
頼りは目の前の、ほんの30分前に会ったばかりの、
僕の腕を取って走り出した、
まだ友達にもなっていない小さな背中だけ。
【惠/???】
「黒い王子様は女の子を連れて去るのだという」
【惠/???】
「とりわけ美しい女の子が選ばれる」
【惠/???】
「全部ネットの噂だ」
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
ネットで読んだんだけど呪いの王子様って本当の話?
もう一回読んでみようと思ったらもう無いね。誰か死ってる人いない?
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
それ吸血鬼の話じゃなかったっけ?
名前:名無しさん[ 投稿日:20XX/04/08
自分で探せage
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
女の子連れてくって聞いたけど
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
kwsk名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
ツレに聞いた話。
田松市の旧市街のどっかに封鎖されたビルがあるらしいんだけど…
同級生がそこにいって帰ってこなかったんだって
心配で見に行ったツレが出たの見たって
危険な場所(霊的にも地形的にも)だって
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
そこしってるwwwww
駅から10分ぐらいのところに住んでんだぜ
霊感ある友達が嫌な雰囲気だとか言ってたんだよな
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
つか、人身売買だろ
名前:名無しさん[ 投稿日:20XX/04/08
ネウヨ黙れ
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
山賊王に俺はなる!
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
誤爆?
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
だいたい連れて行くってどこにだよ
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
北の国
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
↑天才現る
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
↓次でボケて
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
マジ怖い話なんだけど・・・
上級生のヤバイグループが見たって。
真っ黒なライダースーツとメットで、
その時何人か死人が出て、生き残った子は、顔面蒼白で何も語らなかったらしい。
(というか全員震えて言葉を発することすら出来なかった)
その後も決して何も言わなかったんだって。
彼らが何を見たのか、どんなことが起こったのか。
未だに分からない・・・・・
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
>真っ黒なライダースーツとメットで、
王子関係ねーよ
他人を信じるなとしたり顔で言われたことがある。
信じる信じないと嘯いたところで、
それは選択肢のある状況での優雅な楽しみだ。
余暇みたいなものだ。
時と場合と状況が選択の余地を奪うことがある。
よくある。
【るい】
「早く早く! 何やってんの、急がないと死んじゃう!」
追いたてられていた。
泣きそうだ。
何でこんな目にあうのか。
気分は狩りだ。
それも狩られる獲物だ。
下への道はとっくになくて。
だから逃げる。
薄暗い廃ビルの中を、唯一の活路の上へと急ぐ。
【智】
「ちょ、ちょっと待って、待ってお願い! 痛い痛い痛い、
腕ちぎれちゃうの〜〜〜!!」
【るい】
「気合いで何とかせい!」
【智】
「物事は精神論より現実主義で!」
【るい】
「若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!」
【智】
「少年の大きな夢とは関係ないよ、この状況!!」
【るい】
「少女だっつーの!」
【智】
「あーうー」
涙声になった。
彼女は聞いてくれない。
肘からちぎれちゃいそうな力で、僕の腕を引いて、上へ上へ。
階段を蹴る。二段とばしが三段とばしに加速する。
何度も足がもつれそうになった。命にかかわる。
ラッセル車みたいに突っ走る彼女の腕は鋼鉄の綱だ。
転んでもきっとそのまま引きずられていく。
【智】
「きゃあーーーっ!!!」
【るい】
「根性っ!!!」
【智】
「部活は文化系がいいのぉ!」
【るい】
「薄暗い部屋の隅っこでちまちま小さくて丸っこい絵描いて
悦に入って801いなんてこの変態!」
【智】
「ものすごく偏見だあ!」
親戚にゴリラでもいそうな文化偏見主義者な彼女が、
ドアを蹴破った。
空が開けた。
狭く暗い廊下から転がるように飛び出たそこは――。
屋上。
ビルの頂。
とうに夕刻を過ぎた空は夜に蒼く、そのくせ、
下界から昇る緋の色を残骸のようにこびりつかせている。
赤い夜だ。
【るい】
「どうしよ、こっからどうする、どこいく?」
【智】
「そんなこと言われても」
来る前に考えておけと突っ込みたい。
逃げたはずが追い詰められた。
いよいよ泣きたい。
彼女は広くもなく寂れた屋上をうろつく。
警戒中の野良犬みたい。
あれだけ走って息一つきれていなかった。
こちらは肩まで弾ませている。
自分が文化人だとは思わないけど、
彼女が体育人であることは確実だ。
【智】
「他に階段は?」
【るい】
「あるわけないでしょ」
【智】
「非常階段」
【るい】
「6階から下は崩れてる」
【智】
「なんでそんな上に住んでたの!?」
【るい】
「高い方が気持ちいいもん!」
【智】
「馬鹿と煙!?」
【るい】
「馬鹿っていった! ちょっと成績悪かったからって馬鹿にして、この! とても人様には言えない成績だけどあえて言う勇気ぐらいあるよ!?」
【智】
「聞きたくありません」
切なさで一杯の願望を述べる。
欲しいのは解決方法であって、
個人の学業的悲劇の論述じゃなかったりする。
【るい】
「くそったれ……」
【智】
「女の子は言葉遣いに気をつけて」
【るい】
「おばさんくさいぞ」
彼女が歯がみする。
熊のように落ち着き無い。
そうこうしている一秒一秒に、
僕たちは少しずつ確実に逃げ場を失っていく。
終点は、ここだ。
天に近い行き止まり。戻る道もない。
異臭が鼻をつく。目の前が酸欠でくらくらする。
絶望が胸にしみてくる。
こんな場所で、こんな終わりなんて、
想像したこともなかった。
終わりはいつでも突然で予想外だ。
きっと世界は呪われている。
皮肉と裏切りとニヤニヤ笑い。
ぼくらはいつでも呪われている。
【智】
「――皆元さん!」
【るい】
「るいでいいよ」
【智】
「こういう状況で余裕あるんだね……」
【るい】
「余裕じゃなくてポリシー。
全てを脱ぎ捨てた人間が最後に手にするのはポリシーだけ」
よくわからない主張を力説。
【智】
「イデオロギーの違いは人間関係をダメにするよね」
ふんと鼻を鳴らされる。
破滅の前の精一杯の強がりで。
その強がりに薬をたらした。
【智】
「――あっちまで跳べると思う?」
指差したのは不確かな視界を隔てた向こう側。
隣のビルが朧に浮かぶ。
路地一つ挟んだ距離、フロア一つ分ほど頭が低い。
【るい】
「近くないね」
【智】
「…………無理か」
【るい】
「私より、あんた自分の心配したら」
【智】
「あんたじゃなくて、智」
【るい】
「…………」
【智】
「ポリシー」
やり返す。
るいが、ニヤリと口の端を持ち上げた。
見直したとでもいいたそうに。
【るい】
「――私から跳ぶわ。チャンスは一回」
【智】
「落ちたらどのみち死んじゃうよね」
【るい】
「1階に激突かあ」
【智】
「シャレ! それって洒落のつもり!?」
ブラックジョークには状況が悲しすぎです。
分かり易すぎる構図。
一度限りの綱渡り。
後くされのない脱出チャンス。
二度目に期待するのは最初から心得が違う。
高所恐怖症のけはないのに、屋上の縁から下を見ると足下が傾いた。
目眩。
視界がはっきりしないのが、
こんなにありがたいと思ったことはない。
【るい】
「ちょっとした高さだから、向こうの屋上まで跳べても、
下手な落ち方したらやっぱり死んじゃうわよ。
上手くいっても骨くらい折るかも」
【智】
「石橋は叩いて渡る主義なんだよね」
【るい】
「じゃあ、止めるか」
【智】
「でも、他に方法ないんだよね」
【るい】
「ふーん、見た目より思い切りいいんだ」
【智】
「おしとやかなのに憧れちゃう毎日で」
【るい】
「……いい? 焦んないこと。距離自体はたいしたことない。
普通に助走すれば跳べる。幅跳び思いだして」
保護者めいた顔をした。
やり直しの効かない特別授業。
【るい】
「じゃ、行くよ」
【智】
「ちょ、ちょっとまって、心の準備は!?」
【るい】
「女は度胸」
【智】
「ね…………」
【るい】
「なによ?」
【智】
「無事逃げられたら―――明日、買い物付き合って」
【るい】
「やだ」
即答。
【智】
「空気読めよ! 様式美くらい押さえてよ!」
【るい】
「明日のことなんて考えないポリシーなの」
【智】
「うわ、刹那的な生き様だ」
【るい】
「現在は一瞬にして過去になるのよ! 私たちに出来るのは、
ただ過ぎ去る前の一瞬一瞬を精一杯楽しく愚かしく無様に
生きることだけなんだから!」
【智】
「愚かしく無様なのはやだなあ」
【るい】
「人のポリシーに文句付けないよーに」
【智】
「文句付けられるようなポリシー持たないで」
熱を感じた。
頬が熱い。
視界の悪さと息の苦しさが一層倍になる。
時間がない。
【るい】
「いよいよヤバイね。心の準備は?」
【智】
「――いいよ」
本当はよくない。握る拳が汗ばむ。
深呼吸をする。
鉄さびめいた臭いの混じった酸素が肺を充たして、
頭の中をほんの少しだけクリアにする。
るいが、きゅっと僕の手を握った。
ほんの一部だけ触れ合った場所。
吹けば飛ぶような小さな面積から体温が伝わる。
胸の奥まで届く、熱。
【るい】
「跳べる?」
【智】
「跳べそう……なんとなく」
根拠はない。
できそうな気分だった。
【るい】
「先行くから」
返事くらいしたかった。
できることなら軽口をずっと叩いていたかった。
現実逃避という名の快楽から立ち返り。
世界の呪いと正面切って立ち向かう、その一瞬。
決断という地獄が口を開ける。
返事をする間もなく、るいが走る。
掌が離れていく。
ひどく傷つけられた気分になる。
買い物にいく気安さで、
彼女が縁へめがけて助走した。
跳んだ。
夜を横切る。
それは、とても綺麗な獣――――
月に吠える狼。
身体の機能を集約した一瞬に、
人間という不純物を吐きだした、混じりけのない生命と化す。
落下する勢いで隣の屋上に転がった。
るいは一挙動で立ち上がって、
こちらを向いて元気そうに手を振る。
骨くらい折れそうな感じだったのに、
どっかの科学要塞製超合金でできてるのかもしんない。
【るい】
「はやくーーーーー!!!」
今度は自分の番だ。
もう一度深呼吸する。
身体の隅々まで酸素を行き渡らせる。
何でもない距離だ。
授業なら跳べる距離だ。
違いは些細な一点だけだ。
夜の幅跳びの底は、20メートル下のコンクリート。
しくじれば死ぬ。間違いなく死ぬ。
やり直しの効かない、一度こっきりのジャンプ。
後ろ髪がちりちりとする。
――――追いついてきた。
走った。
呪いを振り切るように、跳躍する。
これまでの人生で一番の踏切。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光、何もかもが圧縮された刹那の秒間。
落ちる、という感覚さえもない。
1フロア分の高度差にショックを受けながら、
受け身も取れないで投げ出される。
感覚を置いてけぼりにした数秒が過ぎて。
ようやく意識できたのは、予想より少ない衝突と、
予想よりやわらかいコンクリートの屋上。
【智】
「……とってもやわやわ」
【るい】
「へへへ、ヤバかったよねー」
るい。
【智】
「受け止めて、くれたんだ」
【るい】
「トモ、あのまま落ちてたら頭ぶつけてたかも。
ほんと、ヤバかったよ。自分でわかんなかったろうけど」
視界が効かなかった。
だから、バランスを崩した。
地雷を踏みかけた寒気と逃げ延びた安堵がごちゃごちゃに
混じりながら追いついてきた。
いくつかの痛み、打撲、擦過――
気がつく。
コンクリートよりもずっとやわらかい、
るいの胸に顔を埋めて、
子供をあやすような掌を髪に感じている自分。
【智】
「あの、もう平気で、大丈夫で……」
【るい】
「へー、意外と体格いいんだね。もうちょい、細い系だと思ってた」
【智】
「け、怪我とかしなかった?」
【るい】
「みたまんま。私、頑丈なんだよね」
【智】
「無茶……するんだ、受け止めるなんて……
あんな高さから落ちてきたのに」
【るい】
「感謝するよーに」
貸したノートの取り立てでもする気楽さ。
なんでもないことのように。
いい顔で、るいは笑う。
今日会ったばかりの、まだ名前ぐらいしかしらないような
相手なのに。
自分が怪我をするとか思わなかったのか?
二人まとめて動けなくなったかも知れないのに?
虹彩が夜の緋を受けて七色に変わる。
間近からのぞき込んだそれは、
研磨された宝石ではなく、
川の流れに洗われ生まれた天然の水晶だ。
人の手を拒む獣のように、鋭く強い。
【智】
「あう」
【るい】
「むっ」
【智】
「にゃう!?」
ほっぺたを左右にひっぱられた。
【智】
「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
【るい】
「なんて顔してんのよ。せっかく助かったんだぞ」
【智】
「にゃおーん!」
【るい】
「感謝の言葉」
【智】
「……にゃにゃがとう(ありがとう)」
【るい】
「よろしい」
手を離す。るいがはね起きる。
伸びをするみたいに体を伸ばし、
肩を回して凝りを解す。
隣にぺたりと座り込んで、
さっきまでいたビルを眺めた。
【智】
「やっと――」
逃げ延びた、
そう思ったのに。
獰(どう)猛(もう)な音が近づいてくる。
下から上に。
腹の底が震えるような重低音。
一瞬なんなのかわからず、その正体に思い至った一瞬後になって、噛み合わなさに戸惑う。
エンジン音だ。
ビルの屋上、エンジン音、上がってくる――
違う絵柄のパズルのピースと同じ。
どこまでいっても余りが出る解答。
【智&るい】
「「な――――――ッッッ」」
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
エスプリの効いた冗談みたいな物体が、
目の前で長々とブレーキ音の尾を引いて横滑り。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
胡乱(うろん)な物体だった。
どうみても原付だった。
どこにでもある、町中を三歩歩けばいき当たりそうな、
テレビを一日眺めていればコマーシャルの一度や二度には
必ず出会うだろう。
成人式未満でも二輪運転免許さえ取れば、
購入運用可能な自走車両。
価格設定は12万以上25万以下。
ただ一点、ここが公道でも立体駐車場でもなく、
廃ビルの屋上だということをのぞけばありがちだ。
黒い原付――。
塗りつぶされそうな黒い車両の上に、
同じだけ黒いライダースーツとフルフェイスヘルメットが
乗っかっていた。
【智】
「――――」
緋の混じる夜。
影絵のような影がいる。
こちらを向く。
背筋によく響く、威嚇の唸りめいたエンジン音が、
赤と黒の混じった夜を裂く。
月の下。
手を伸ばしても届かない空に、ほど近い場所で。
――――――僕らは出会った。
【惠/???】
「黒い王子様は女の子を連れて去るのだという」
【惠/???】
「とりわけ美しい女の子が選ばれる」
【惠/???】
「全部ネットの噂だ」
〔拝啓母上様〕
拝啓、母上さま
おげんきですか。
今日の明け方、杉の梢に明るく光る星を探してみましたけれど、
昨今の都市部では杉も梢も絶滅危惧種でした。
星は光るのでしょうか、海は愛ですか。
いきなり方々にケンカ腰な気もいたしますね。
危ぶむなかれ危ぶめば道は無し、と偉い先生も申しました。
母上さま、私は元気です。
星も見えない環境砂漠な都会といえど住めば都。
新世紀の子供たちが受け継ぐべき美しい国は、
すでに書物と記録の中で跋扈するのみ。
残念ながら私も知りません。
美しい国。
なんとも無意味かつ曖昧なタームです。
詩的表現以上のレベルでデストピアが実在し得るかどうかから論議すべきではないでしょうか。
ネットも携帯もなかった時代こそ甘美である……と懐旧に胸を熱くするのは、時代と少しばかり歩調の合わないご年配の方のノスタルジーにお任せいたしましょう。
残す未練が無くなっていいと思います。
電磁波とダイオキシンにまみれても、生命は生き汚く生きてまいります。
ですが心も身体もゆとりを失えば痩せ細っていくのです。
アイニード、ゆとり。
ゆとり世代だけに、愛が時代に求められています。
愛の受容体である杉花粉は今日も元気です。
都会では絶滅危惧種のくせに繁殖欲旺盛なのはなんともいただけません。
人類の叡(えい)智(ち)はいつの日か花粉症を克服するのでしょうか。
それとも自然の獰(どう)猛(もう)を前に太古の人類がそうであったように膝を屈するのでしょうか。
さよなら夢でできた二十一世紀。
こんにちは閉じた呪いの新時代へようこそ。
さて、母上さま。
実は先日、新たに契約を取り交わしましたことをご報告いたします。
保証人としての母上さまに、ご許可をいただきたく、ここに一筆したためました。
保証人という単語の剣呑さに、エリマキトカゲのごとく立ち上がって威嚇する母上さまの顔が浮かびます。
保証人。なんと官能的な響きでしょう。
英語では Guarantor 。
ご心配なく。
保証人としての母上さまにご迷惑をおかけすることは、何一つございません。
金銭的な問題の発生する懸念は皆無なのです。
契約は極めて安価で行われたからです。
ロハ、なのです。
ただより高いものはない、なんて昔から言われたりしますよね……。
必要な契約であったことは疑う余地がありません。
いささか大げさな修辞を許していただけるのなら、
この混迷の新世紀を生き延びるために、
呪われた我と我が身と世界の全てと対峙するために、
理性の限界と権利の堕落と人間性の失墜に抵抗すべく、
人類の生み出した最大の発明の一つであるこの概念こそが、
パラダイムシフトとして要求された契約そのものでありました。
なんといいますか。
難解な語彙を蝟集すると適度に知的に見えるという、日本語体系のありがたみを噛みしめます。
母上さまの時代には、そのような利己主義に基づく概念を用いる必要など無かったのにとお嘆きでしょう。
過去こそ楽園であったのだと。
それは違います。
契約はありました。
いつでも、どこでも。
聖書時代の死海のほとりから、高度成長期の疑似共産主義の間隙に至るまで目に映らなかっただけで。
今や古き良き時代は標本となり残(ざん)滓(し)もとどめず、崩壊した旧制は懐疑と喪失を蔓延させるばかり。
過去的価値観には、はなはだ冷笑的になってしまう平成世代としましては、従ってこのような形での呉越同舟こそが望むべき最大公約数的妥協点といえるでしょう。
ご理解いただけますよう。
母上さま。
これまで同様、この手紙がお手元に届くことはないと存じてはいますが、新たに契約を取り交わしましたことをご報告いたします。
私たちは契約友情を締結いたしました。
母上さまへ
かしこ
〔本編の前の解説〕
【るい】
「生きるって呪いみたいなものだよね」
ようするに、これは呪いの話だ。
呪うこと。
呪いのこと。
呪われること。
人を呪わば穴二つのこと。
いつでもある。
どこにでもある。
数は限りなくある。
そんなありがちな呪いの話。
ちょうど空は灰色に重かった。
浮かれ気分に水を差すくらいにはくすんでいて、
前途を呪うには足りていない薄曇り。
【るい】
「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……」
【るい】
「それって、まったくの呪い。100パーセントの純粋培養、
これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、
ないない尽くしの呪いだよ」
【るい】
「そうは思わない?」
時々るいは饒舌(じょうぜつ)だ。
とかく気分屋で口より先に身体が動くのに、
どこかでスイッチの切り替わることがある。
とても不思議。
いつも通りの気安さで、まるで思いつきのように、
投げ捨てるみたいに、呪いの呪文を唱えていた。
思うに。
るいは、とっくに待ち合わせに飽きていた。
彼女は待つことを知らない。
昨日のことは忘れるし、
明日のことはわからない。
約束と指切りだけはしないのが、
皆元るいのたった一つの約束みたいなものだ。
軽くコンクリートの橋脚に背中を預けて、
座り込んで足をぶらぶらさせていた。
【花鶏】
「教養低所得者にしては含蓄のある」
【るい】
「日本語会話しろよ、ガイジン」
【花鶏】
「わたしはクォーターよ」
【こより】
「生きてるだけで丸儲けですよう」
【茜子】
「そうでもない」
【伊代】
「ああ、そうね、実は儲かってないのかも知れないわね。
利息もどんどん積もっていくし……」
【智】
「報われないんだ」
【るい】
「呪いだけに」
呪い――それはとても薄暗い言葉。
なんとなく、もにょる。
ロケーション的にはお似合いの場所。
田松市都心部を、
ていよく分断する高架下。
そこが僕らのたまり場に変身したのはつい最近だ。
待ち合わせを、ここと決めているわけではないけれど、
便利なのでよく使う。
【智】
「見通しはいまいち」
指で○を作る。
即席望遠鏡。
高架下のスペースから見上げる空の情景は、
景観としての雄大さに乏しい。
空貧乏。
胡乱(うろん)なる日々には相応しい眺めだ。
胡乱な日々と胡乱な場所。
息をするのも息苦しくて、右も左も薄汚れている。
天蓋の代わりに高くごつい高架、神殿の柱みたいな橋脚、
コンクリートの壁に描かれた色とりどりの神聖絵画ならぬ
ラクガキの数々。
「斑(ハン)虎(ゴ)露(ロ)死(シ)ッ!」
「Bi My Baby」
「あの野朗むかつくんだよ、ソウシのやつだ!」
猖獗(しょうけつ)極めた言葉の闇鍋の上で、
著作権にうるさそうな黒ネズミの肖像画が、
チェーンソー持ってメガネの鷲鼻を追いかけて回していた。
解読していればそれだけで日が暮れそう。
それはそれは胡乱な呪文の数々。
ときどき混じる誤字脱字が暗号めいてなおさら奇怪千万。
【花鶏】
「そういえば、最後に来たヤツ、遅刻だったわね?」
【智】
「今更追求なんだ……」
ちなみに最後は僕でした。
【花鶏】
「遅刻は遅刻。9分と17秒36」
【伊代】
「細かっ。秒より下まで数える? 普通」
【るい】
「普通じゃないよ。若白髪だし」
【花鶏】
「プラティナ・ブロンドと言いなさい」
【るい】
「プラナリア・ブロンソン?」
【茜子】
「プラナリアの千倍くらい頭良さそうな発言です」
【こより】
「扁形動物に大勝利ッスよ、るいセンパイ!」
【伊代】
「それ一億倍でも犬に負けると思うわよ」
【智】
「トンボだって、カエルだって、ミツバチだって、
生きてるんだから平気平気」
【伊代】
「意味不明だから……」
【花鶏】
「それで遅刻の弁明は?」
【智】
「ベンメイが必要なのですか」
【花鶏】
「遅刻の許容は契約条項に含まれてないわ。
一生は尊し、時間もまた尊し。物事はエレガントに」
【智】
「友情とは大らかなごめんなさい」
【茜子】
「ごめんで済んだら(ピーッ)ポくん要りません」
【智】
「さりげなく謝ったのに!」
【るい】
「友情って空しいよね」
【智】
「実は話せば長いことながら」
【るい】
「長いんだ」
【智】
「時計が遅れていたのです」
【伊代】
「え? 短いじゃない」
【茜子】
「ボケつぶし」
【伊代】
「え?」
【花鶏】
「なんて欺(ぎ)瞞(まん)的釈明」
【智】
「適度な嘘は人間関係を機能させる潤滑剤だよ」
【こより】
「センパイは堕落しました! 人間正直が一番ッス!」
【花鶏】
「……(冷笑)」
【茜子】
「……(嘲笑)」
【伊代】
「その純真な心を大切にね」
【こより】
「嫌なやつらでありますよ」
【智】
「そう、たとえばキミが結婚したとするよね」
【こより】
「いきなり結婚でありますか」
【こより】
「不肖この鳴滝めといたしましても、結婚なる人生の重大岐路
に到達するためには、センパイとのプラトニックな相互理解、
手を繋ぐ所からはじめたいところなのです!」
【伊代】
「女同士で結婚できませんッ」
【こより】
「大問題発見ッス!」
【花鶏】
「形式に拘る必要なんてないじゃない?」
【るい】
「……」
【茜子】
「……」
【智】
「たとえの話ですよ?」
【こより】
「センパイは、たとえ話で結婚するのですか!」
【茜子】
「泣く女の傍ら、ベッドでタバコ吸うタイプか」
【智】
「…………何の話だっけ?」
【るい】
「結婚じゃないの?」
【智】
「そう、結婚。キミは夫婦円満で何一つ不満はない」
【こより】
「悠々自適の毎日、エスタブリッシュメントです!」
【伊代】
「愛より地位か。リアルだねえ」
【るい】
「呪われた人生には夢も希望もないんだよ」
【智】
「でも、優しいだけの夫にちょっぴり充たされない。
唐突に禁忌を漂わせたレイプから恋愛な感じの俺を教えてやるぜが現れる」
【智】
「刹那的アバンチュールにキミが、くやしいデモ感じちゃうと
流された後、それを夫のひとに告げる?」
【こより】
「えーっと……」
【智】
「離婚訴訟で慰謝料取られたりして、片親になったのに行きずり男の子供抱えてシングルマザーになったりして、子供が聞き分けなくてブルーな老後になったりして」
【智】
「それでも正直に生きる?」
【こより】
「あーうー」
【智】
「僕らにとって適度な嘘は関係円滑化のためなのです」
【茜子】
「事例のチョイスが黒い」
【花鶏】
「男なんて生き物を信頼する方が間違いなのよ。
がさつで、乱暴で、騒々しくて、美しくない。
研究室で標本になるくらいでちょうどいい」
【伊代】
「ほら、空を見上げて。
いい天気だと思わない?」
【こより】
「すっかり薄曇りッスねー」
【るい】
「面子もそろったことだし、くりだそっか。
ゴミの山でたむろっててもやることないしね」
日が当たれば影ができる。
あやしい所在の一つや二つ、どこにでもある。
偉いひとたちが書類と書類の狭間に、
金にもならず、使い道もないからと忘れ去って幾年月。
地元の人間たちだけが、
塵芥の隙間に再発見して好き勝手に変成し直す、
胡乱な土地。
さて、なんと名付けよう?
日用ゴミから廃車までの万能廃物置き場?
息を殺していれば家賃のかからぬ密かな住居?
まっとうな性根は近づかない最底辺の集会場?
それとも、悪?
悪いもの、悪いこと、悪い出来事。
それらならいくらもありそうだ。
この世に善なるものとやらが本当にいるとしても、
ここなら席を譲って逃げ出していく。
パンドラの箱だ。
百災厄がきっとどこかに隠れている。
もっとも。
混沌が泡立つ中から選んで何か一つを取り出して、
それで本性がわかった気になったところで所詮は錯覚。
ここは街のガラクタ置き場。
世界を作るパズルのピースの流れ着く渚。
どのピースも足りていない。
噛み合うことのない、欠品づくしの破片たち。
けれど、ここには全てがある。
全ての死んだ一部、かつては生きていたものの残骸たち。
ここは、それら全てで、同時にそれ以上。
以下かも知れないけれど。
だから借り受けた。
ここは、僕ら六人の秘密の借用地。
野良犬っぽいのが皆元(みなもと)るい。
プラナリアンが花城(はなぐすく)花鶏(あとり)。
寸足らずが鳴滝(なるたき)こより。
舌先刃物なのが茅場(かやば)茜子(あかねこ)。
眼鏡おっぱいが白鞘(しらさや)伊代(いよ)。
【伊代】
「これも普段は目を逸らしてる文明の烙印ってやつなのよね」
【智】
「ニヒリストっぽくて格好いいと思う」
【茜子】
「あなたはマゾですね。了解です、記録しました」
【伊代】
「がうっ」
【茜子】
「吠えられました」
【こより】
「犬っぽいです」
【るい】
「犬の死体でも転がってそーな感じだわ、このあたり」
【花鶏】
「個人の趣味嗜好に異議を唱えるような無駄な労力を払おうとは思わないけれど、普遍的世界観と折り合わない死体愛好については隠蔽した方が身のタメよ」
【るい】
「趣味の悪さなら、あんたにゃ負けるよ」
【こより】
「火花が散ってるッス」
【智】
「えー、こほん。友情して大人になるために、みんなで死体でも
探しに行く?」
【茜子】
「レズにマゾに、今度はネクロファイルですか」
【伊代】
「はいはいはいはい! あなたたち、いい加減労力年金ばっか
納めてんじゃないわよッ」
【智】
「通訳プリーズ」
【茜子】
「無駄に暴れるなこの役立たずども」
【伊代】
「がうっ」
【智】
「どうして僕が吠えられるのかしらん」
【こより】
「さすがセンパイ、人望よりどりみどりッス!」
【智】
「ゆとりってだめだよね〜」
かくて日本語はその美しさを失っていく。
【花鶏】
「過去を嘆くより明日のこと」
【るい】
「明日の天気より今日のこと」
【伊代】
「刹那的だ……」
【茜子】
「考え無しです」
【るい】
「素直といってよ」
【花鶏】
「単細胞」
【こより】
「火花が散っているッスよ!」
頭の上を厳めしい高架が一直線に走っている。
世界に引かれた1本の黒い線のような。
ここは境界だ。
あらんかぎりを押し込んでごった煮にした暗がりが、
街の意味を分断している。
右には騒がしく乱雑な新市街、
左には置いてけぼりをくった旧市街。
綺麗な線ではない。
あちらに山が、こちらに谷が。
でこぼこと新旧入り交じった地域の濁り汁が、
得体の知れない空気になって左右の隙間に溜まっていく。
白でも黒でもない。
昼でも夜でもない。
右も左もない。
そういう曖昧な場所には、胡乱な輩が出入りする。
それはたとえば、
僕らのような――――――
【智】
「どこまでいこう?」
【茜子】
「ニュージーランド」
【智】
「まずは船を手に入れないとね」
【こより】
「そうそう、それよりなによりも!」
【智】
「やけにテンション高いね」
【こより】
「不肖鳴滝めのスペッシャルプレゼントのコーナー!!」
【るい】
「なにこれ、スプレー?」
【こより】
「拾う神のほうになってみました」
【伊代】
「拾ったものなんか大仰に配るんじゃないわよ」
【こより】
「ラッキーのお裾分けを」
【茜子】
「……随分残ってる」
【こより】
「そうッス。来る途中で道の端っこの方に――」
【花鶏】
「邪魔になってまとめて捨ててあったわけか」
【こより】
「――駐車してあったトラックの荷台に落ちていたッス」
【智】
「それは置いてたの」
泥ボーさんだ。
【こより】
「さすがはセンパイ! 物知りです!」
【智】
「悪いやつ」
【るい】
「いいじゃないの、細かいことは。
せっかくだから景気づけしよ」
【伊代】
「だから、いつもいつもあなたは大雑把すぎなのよ!
別に社会道徳とか講釈するつもりは無いけど、このへんの線引きが曖昧なままになってるといずれ…………ま、いいか」
こよりの秘密道具は使い古しの色とりどりなスプレー缶。
段ボールの小ぶりな箱にキッチリ詰まったそいつを、
るいは一つ適当にえらんで取り上げた。
真っ赤なキャップのついたスプレーが、
手から手にジャッグルされる。
【智】
「スプレーは釘できっちり穴あけてから、
分別ゴミでださないとだめだよ」
【るい】
「所帯くさいこといってないで、さ」
ケラケラと、るいは笑う。
スプレー噴射。
手加減もなく、目星もなく。
勢いまかせに適当に、
誰かが書いたラクガキを真っ赤なスプレーで上書きする。
【るい】
「どんなもん」
【こより】
「ほうほう〜♪」
得意満面な、るい。
変な虫がお腹の奥でざわつきだす。
楽しそう。
他の面子と顔を見合わせて、舌なめずり。
【伊代】
「ラクガキってロックよね」
【花鶏】
「反社会的行為っていいたいわけ?」
【茜子】
「レトリック的欺(ぎ)瞞(まん)」
ごちゃつきながら、手に手にスプレーを取り上げる。
薄汚れた壁。とっくに色とりどりの壁。
【智】
「なんて青春的カンバス」
【こより】
「わかりませんのですよ」
【智】
「悪いことしたいお年頃ってこと」
【こより】
「了解ッス!」
皆そろって悪い顔。
ニヤリと口元を三日月みたいにつり上げて。
【智】
「せーの――――」
僕らはみんな、呪われている。
だから――
これは呪いの話だ。
【るい】
「こんなとこかな?」
【茜子】
「むふ」
【こより】
「いい感じでサイコーッス!」
【伊代】
「悪党っぽいわね」
【花鶏】
「それじゃあ、くりだすわよ」
〔るいとの遭遇〕
――――あなたはスカートです。
それが母親の言いつけだった。
よく覚えている。
お前はスカートになるのだ…………
なんて
無体を命じられた……のではなかった。
履き物はスカートを愛用しなさいという道理。
日本語って難しい。
【智】
「やっぱり制服着替えてくればよかったかも」
学園帰りの制服の瀟洒(しょうしゃ)なスカートに、
ふわりと風をはらませながら、ほうと小さくため息をついた。
くるっと回ってみたり。
【智】
「むーん」
スカートはどうにも好きになれない。
足下がすーすー落ち着かないから。
それでも言いつけだからしかたない。
裳裾をなびかせ街を行く。
目指す目的地はもう少し先だ。
歩きだから距離がある。
灰色に重い空の下、しずしずと歩調に気をつかう。
心を静めておおらかに、かつ美しく。
走ったり慌てたりはもってのほか。
制服の裾がひるがえるのははしたない。
大声を出したりしてはいけません。
【智】
「僕らの学園、このあたりでも有名なんだよね」
ひとりごちる。
南聡学園。
進学校として名が通っている。
頭の良さよりも、学風校風の古くさいので有名というのが、
ちょっぴりいただけなかった。
ようするにお年寄りくさいのだけど、ここはウィットを効かせて、お嬢様っぽいのだと表現しておこう。
【智】
「……欺(ぎ)瞞(まん)的」
先生は揃ってお堅い。
学則は輪をかけてお堅い。
象が踏んでも壊れるかどうか怪しい。
古くさいメモ帳風の学生証を手の中で弄ぶ。
最近ではカード化されているところも多いというのに、
我が校ではアナログ全盛だ。
色気のない裏表紙に、学園での僕の立場が記述されている。
和(わ)久(く)津(つ)智(とも)。
学園2年生。
女子。
無味乾燥な文字の羅列。
誤ってはいないけど、正しくもない。
学生証の頁をめくって校則一覧を斜め読みする。
「バイトは禁止、買い食いは禁止、外出時は制服着用で、
夜は7時までには自宅に戻りましょう」
どこの大正時代か。
古典的すぎて半ば有名無実化している。
今時遵守する生徒は少数派で希少価値、絶滅危惧種だ。
二十一世紀に生きるゆとり世代は意外にたくましい。
建前本音を使い分け、二枚舌を三枚にして学園生活を生き延びる。
……困ったことに制服は有名だった。
こじゃれたデザインが人気の逸品。
マニアは垂涎、物陰では高値取引の南聡制服(女子)。
街を歩けば人目を引く。
南聡=お嬢様っぽい。
パブリックイメージは頑健なので、
ちょっと道徳の道を外れると悪目立ちする。
どんな経路で教師の耳に入らないとも限らない。
それは困る。すごく困る。
平日の、学園帰りの午後だ。
帰宅ラッシュにはまだ早い、
ひと気のまばらな駅前通りを南へ抜ける。
田松市の都心部は、駅を挟んでこちら側が若者向けの
明るいアーケード。
北には危険な夜の街へ通じる回廊がある。
線路のラインが色分けの境界線だ。
肩にかかった髪を後ろへかき上げながら、
こっそり買ったアイスクリームを一口かじった。
とっても甘味。
南聡の学則には、第九条学外平和健康推進法、通称平和健法がある。
買い食いを行うこと無く永久にこれを放棄するむね
定められているのだ。
……バレなきゃ罪じゃないよね。
ときおり学園帰りの学生とすれ違う。
視線を感じる。誰もがこちらを振り返る。
後ろから口笛が背中をくすぐる。
南聡の女学生で人目を引く美少女に感嘆している。
南聡の女学生――――僕のことだ。
人目をひく美少女――――僕のことだ。
【智】
「はぅ……っ」
なんと美しいコンボ。
繊細で薄幸そうで麗しいご令嬢……
というニーズに完璧応えている自分が憎い。
【智】
「んー、むー、ちょっとタイが曲がってる」
ファッションショップのショーウインドゥ。
飾ってある鏡に向かってニコリと笑顔。
タイを直してから、その場でくるり。
スカートの縁が円錐を描く。
とびっきりのお嬢様が優雅に微笑んでいた。
【智】
「かわいいー」
跳び上がる。
そんで激しく落ち込む。自己嫌悪。
拝啓 母上さま
おげんきですか。
母上さまの御言葉はいまも切磋琢磨しております。
日々筆舌に尽くしがたい苦難を前に、
心が折れんとすることもままありますが。
ときどきポプラの通りに明るく光る星を見て、
そっと涙を堪える私の弱さをお許しください。
スカートをひらひら。
アイスのコーンまで食べきって、
残った包み紙を丸めてこっそり道ばたへ。
悪の行為、ポイ捨て。
禁忌を犯す喜びに下腹部がドキドキする。
【智】
「…………危険な徴候」
自分を見つめ直したい衝動にかられた。
天下の公道で自問自答はいただけないので、
懺悔は目的を果たした後にする。
ポケットから几帳面に折りたたんだメモを取り出した。
ボールペンの走り書き。
自分の字だ。
電柱に打ち付けてある区画表示のプレートとメモの住所を見比べる。
【智】
「うー、むー」
目的地はもう少し先らしい。
母さんから手紙がきた。
母親は自分の子供をいつまでたっても子供扱いする。
大きくなっても小さくなっても子供は子供。
月一ペースの気苦労とお腹を痛めた分だけは、
何年経っても権利を主張する。
人は過去に生きている。
未来は遠く、現在にさえ届かない。
あらゆるものは一足遅れでやってくる。
人も、時間も、光も、音も、記憶も、心も。
世界は手遅れだ。
天の光は全て過去。
過去に生きる人間にとって、思い出はとても大切だ。
母上さま。
離ればなれで幾年月か。
時間はよく人を裏切る。
思い出は色褪せ、記憶はすり切れ、情報は劣化する。
白い肌と白い手くらいは覚えている。
細かいことは忘れてしまった。
困ることはないけれど寂しくなる。
線は細くて気苦労の多い母親だった。
ついでに過保護。
何かというと心配する人という印象が残っている。
石につまずいても、箸を落としても気苦労があった。
苦労性は肩が凝る。
胸のサイズに関係なく。
手紙はなるほど母上さまらしい。
心労と心痛。
文面のそこかしこから、
ひとりで暮らす我が子へかける、母性の香りが匂い立つ。
愛情溢れる母と子の交流史の一頁――――
些細な問題を考慮しなければ、
この手紙もそれだけのことで済んだ。
たった一つの小さな問題。
母上さまは、とっくの昔に天国へ行かれているのです。
天国だと思う。
自信は無いけれど。
恨みを買うようなひとではなかったと思う。
欲目は親ばかりにあるとは限らない。
小さい子供にとって親は全知全能の神にも等しい。
たまには悪魔になったり死神になったりする。
現実って救いがないな。
閑話休題。
恨みはどこでも売っている。
コンビニよりも手に入りやすい。
24時間年中無休。
2割3割はあたりまえの大バーゲン。
ドブにはまっても他人を恨めるのが人間という生き物だ。
外出契約書だと思って気軽にサインしたら、
地獄の一丁目に売り渡されることだってよくある話。
一応、母は天国にいるんだと思っておきたい。
あいにく幽霊と死後の世界は連絡先が不明なので、
きちんと確認はしていない。
死んだ母からの、手紙。
嘘のような本当の話。リアルのようなオカルトの話。
黄ばんだ便せんに真新しい封筒。
消印は先週。
県の中央郵便局のハンコが押されている。
幽霊にしてはせちがらい。
大まじめな話をすれば、
死んだ人間が墓から出てきて、
郵便ポストに手紙を突っ込んだりはするわけがない。
母の手紙を母の代わりに誰かが投函したのだろう。
オチがつきました。
天下太平。君子は怪力乱心を語らず。
つまらないというなかれ。
世の中はなるようにしかならないものなのだから。
手紙の内容――――
三つ折りの古紙には見覚えのある文字。
母の筆跡。
「皆元さんを頼りなさい」
聞き覚えのない後見人を過去から指名された。
住所と電話番号が記されていた。
【智】
「このあたりは――」
駅前から随分きた。
駅のこちら側でも中心部から離れれば胡乱になる。
様変わりして、人気も乏しくなる辺り。
めったに来ない場所だけに土地勘も働かない。
人やら獣やらゴミやらなにやら。
入り交じった臭いに鼻が曲がる。
廃ビル、空きビル、閉じたシャッター。
うらぶれたというよりうち捨てられた都市区画。
ここは街の残骸だ。
南聡の制服は水面の油みたいに浮き上がる。
とてもとても似合わない。
手紙にあった「皆元」という名に覚えは無かった。
母は頼れという。
その人物が、我が子の助けをしてくれるという。
助け、助力、意外な授かり物、後援――
【智】
「うっわー、なんとも怪しいよね……」
眉に唾つける。
そもそも差出人は誰なのか、
どこからこの手紙が来たのか。
疑問は山積みだ。
それでもだ。
困っているのを助けてくれるなら、
今すぐ僕を助けて欲しい。
何時でも困っている。
どこでも困っている。
さあさあ、すぐに。
過剰な期待をしてもはじまらない。
死んだ母のいわば遺言であるという――――
それだけの理由で連絡を取った。
それが先週のお話。
得にはならなくても、
何らかのコネにはなるかもしれないと、
その程度の計算は働かせた。
【???】
「皆元信悟でしたなら、亡くなっております」
連絡先にかけた電話の返事は
人生にまたひとつ教訓を与えてくれた。
過度の希望は絶望の卵。
【智】
「亡くなって……」
【???】
「はい、もう何年も前に」
【智】
「その、それはどういう事情で……?」
【???】
「あなた、どちらさま?」
疑り深そうな電話の主に、
これ以上ないくらい胡散臭がられながら、
深窓の令嬢的に根掘り葉掘りと問いただしてみた。
このままのオチではあまりに空しい。
ぶら下がったかいあってようやく聞き出したのは、
縁者がいるということだった。
おお、皆元さま。
どうして貴方は皆元様なの――?
悲恋に引き裂かれた恋人同士のように、
教わった住所を求めて裏通りを右に左に。
どんどん胡乱な方へと進んでいく。
いよいよ活気が失われる。
【智】
「最近の株価は空前の下げ幅だっけ?」
朝のメディアの空疎なあおりを反芻しながら、
ビル脇の電柱にあるプレートとメモの住所を見比べる。
この辺りだ。
背中を丸めて頭をたれた元気のないビルたちには、
取り壊し予定が看板になってかけられていた。
一面をまとめて均して、瓦礫の中から大きなものに
新生させるというお知らせだ。
【智】
「それはそれとして、ホントにここなの?」
住所のメモと現実を見比べる。
どうみても廃ビルだ。
色褪せたリノリウム、ひび割れたコンクリート、
壁面の窓ガラスは半分がた割れており、
かつては名付けられていたビルの名前はとっくに色褪せて読めない。
例えるなら、人間よりもゾンビの方が似合うくらいだ。
【智】
「えーっと…………」
ためらいと困惑。
突っ立っているとこの制服は目立つ。
物陰からの胡乱な視線にうなじが粟だった。
これ見よがしに廃ビルを不法占拠している連中も、
この辺りにはことかかない。
割れたガラスの後ろから、傾いた看板の影から、
裏路地に通じる薄汚れたビルの隙間から。
サバンナのウサギになった気分がする。
(…………いや〜ん)
じっとしているのも不安で、ビルへと踏み込んだ。
エレベーターは当たり前にご臨終していた。
くすんだ色のロビーの奥に、目ざとく見つけた階段を上る。
【智】
「みなもとさん……?」
フロアを昇る。
コンクリートの隙間をわたる夜風のような自分の足音が、
とてつもなく怖い。
恐る恐る声を出す。
低くこもった残響にびびる。
人の気配はないのに、
段ボールや一斗缶で一杯の部屋があったりした。
得体の知れないものを引き当てそうで、
しかたなく黙って上を目指した。
【智】
(ひ〜ん……)
半泣きだった。
甘い言葉につられて来たのがそもそも失敗だ。
早く帰った方がどう考えてもよさそうなのに、
ここまで来てしまうと手ぶらで帰るのは悔しい。
蟻地獄。
ギャンブルで身を持ち崩す人たちは、
こういう気分で道を踏み外すんだろうな、きっと。
【智】
「……皆元さん」
こんな場所を住処にしているという、問題の人物は、
どのような問題ある人格を抱えた人物なのだろう。
まともではない。まともなわけがない。
どうみても正規の物件とは思えない。
一瞬で16通りの可能性を検討して、
まとめて脳内イメージのゴミ箱へポイ。
ただひたすらに、ろくな考えが浮かばなかった。
どれか一つでも現実になったら、母の遺言を投げ捨てて、
回れ右して家に帰りたくなること請け合いです。
距離以上にくたびれて、一番上のフロアに到着する。
うち捨てられた廊下には明かりも無くて、
夜でもないのに暗がりが手招いている。
廃ビルには空っぽの部屋が多い。
扉もない。
この階はその意味ではまだ生きていた。
棺桶に片足突っ込んだ断末魔、みたいなものだけど。
【智】
「えーっと」
端から順番に中をのぞく。
壊れたドアのついた部屋を右回りでフロアを一巡り。
最後に生き残っているドアの前で腕組み思案した。
このドアは機能を残している。
生きている。
ドアらしきものではなくて、まだドアである。
【智】
「皆元……さん……?」
子ネズミっぽい恐る恐る。
場違いな制服で場違いなノック。
今日はいい具合にボタンの掛け違いが続く。
【智】
「おられませんかー、皆元さん……じゃなくてもいいですけど、
どなたかおられませんか?」
皆元さん以外が出たらまずいだろうと自分に突っ込む。
何気なくドアを押した。
あっさり開いた。
鍵はかかってない。
ほんの数センチばかり、
アンダーラインみたいなとば口を開けて差し招く。
【智】
「……どうする。黙って帰る? それが一番平穏無事だけど。
でもここまで来てそういうのってなんだよね」
【智】
「あのぉ、皆元さ……」
のそりと隙間からのぞき込む。
中も暗くてわからない。
おっかない。
ホッケーマスクの殺人鬼とか現れそうで――――
その時に。
いきなり出た。
【るい/???】
「ふんがーっ!!」
【智】
「にゃわ――――っ?!」
頭の横をかすめていった。
凶暴極まりない鈍器。
どこまでも鈍器。
果てしなく鈍器な鉄パイプ。
なんでいきなり鉄パイプ?
意味不明っ!
【るい/???】
「どりゃあーーっ!!」
【智】
「きゃわーーーーーーーーーーーっっ」
必ず当たって必ず殺す鉄パイプが、
目の前で惨殺確定と振りかぶられる。
闇より暗い黒色の影がのしかかってくる。
シルエットで見えないはずの相手の両の目が
炯々と光を放ってくり抜かれている。
スプラッタ映画の1シーンをイメージした。
生皮のマスクをかぶった殺人鬼がチェーンソーを振り上げる場面。
【智】
「はわわっわわっわわわ――――――」
【るい/???】
「…………あれ、女の子じゃない?」
気の抜けた声が、振り切れかけた正気の水位を水増しした。
凶悪な牙を振り上げる謎の狩猟生物を、
捕食対象としての弱々しさで確認する。
【智】
「……あれ?」
女の子だった。
【るい/???】
「なにやってんの、キミ、こんなところで。
ここはね、キミみたいなのが来るような場所じゃないよ。
一人歩きしてると取って食われちゃうわよ」
【智】
「……ええ、取って食われるところでした」
【るい/???】
「そっか、危機一髪だったんだ」
取って食いかけた相手に慰められる。
すれ違いコミュニケーション。
食うものと食われるものには断絶がある。
女の子が手を差し出した。
落ち着いて検分する。
相手は自分とさほど変わるとも思えない年頃だ。
柔らかい少女っぽさよりも、
野生の獣のようなしなやかさが瑞々しい。
【るい/???】
「どうしたの、ほら」
手が目の前に。
そういえば尻もちをついていた。
【るい/???】
「でも、無事そうでよかったよね」
【智】
「凶暴でした」
手を引かれて立ち上がる。
【るい/???】
「最近このあたりも質の悪い連中が増えてきてさ」
【智】
「とても恐ろしかった」
【るい/???】
「私が来たからには大丈夫だって」
【智】
「人間って悲しい生き物だなあ」
相互理解はまだまだ遠い。
【るい/???】
「ところで、こんなところでなにしてんの。
もしかして家出とか?」
【るい/???】
「そういうふうには見えないけど、
もしかすると大変ちゃん?
でもさ、ここ危ないのわかったでしょ」
【智】
「あの、」
【るい/???】
「人生安売りしちゃう前に家に帰った方が良いよ。
んー、なに?」
【智】
「ひとつ、質問よろしいですか」
【るい/???】
「いいよ」
【智】
「もしかして、皆元さん……?」
【るい/???】
「ごめんね〜。部屋の前でうろちょろしてたから、
きっとまた泥棒とかなんだろうって勘違いしちゃってさ」
【智】
「それで鉄パイプ」
【るい/???】
「脅し脅し、本気じゃないって」
【智】
「……」
【るい/???】
「……」
【智】
「…………嘘だ」(ボソッ)
【るい/???】
「人生先手必勝だと思わない?」
なにげにヤバイひとでした。
【智】
「それは是非とも僕以外のひとに」
【るい/???】
「それで、なんだっけ」
部屋は殺風景で大したもののない空間だ。
臭いも景色も外よりましだけど、
とっくの昔に息絶えた建物の残骸には違いない。
彼女の荷物は大きなボストンバッグと
肩からかけるスナップザックが転がっているだけ。
化石の上に間借りした仮宿だった。
【智】
「皆元さん?」
【るい】
「そだよ、皆元(みなもと)るい。るいでいいよ。
コーヒーくらいあるけど飲む?
缶だから心配しなくても大丈夫」
返事も待たず、目の前に缶コーヒー。
【智】
「ありがとうございます」
【るい】
「どういたしましてー。
お客人は歓迎しないとね」
【智】
「るいさん」
【るい】
「そうそう、そういう感じ。
もうちょっと後ろにイントネーション置いて」
なにげに注文が五月蠅かった。
【るい】
「そっちは、えーっと……」
【智】
「和久津智いいます。智恵の字をとって智」
【るい】
「頭良さそうな名前だ」
【智】
「るいさん」
【るい】
「ほいよ」
【智】
「捜してました。捜して歩きました。
とうとうこういうとこまできちゃいました」
そして死にかかった。涙なしでは語れない道のり。
【るい】
「さがしてたの、なんで?」
【智】
「なんでこんな侘びしい所にいるのかの方が素晴らしく疑問なんですけれど。現住所もなくて捜すの大変でした」
【るい】
「侘びしいというより汚い所」
【智】
「自分でいうかな」
【るい】
「なんの、住めば都」
【智】
「欺(ぎ)瞞(まん)的だと思います」
【るい】
「私、家なき子なんだよね」
【智】
「なんとなく名作風」
【るい】
「平たくいうと、自我の目覚めと家庭環境との軋轢に耐えかねて
自由を求めて跳躍する感じで」
【智】
「つまりは家出」
【るい】
「智ってヤな子だ」
【智】
「わりと口の減らない性分で」
立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿は百(ゆ)合(り)の花。
ただし喋らなければ――――という注釈は親しい某学友の弁による。
【るい】
「それで何だっけ?」
【智】
「なんでしょう?」
【るい】
「そこでボケるの!」
【智】
「実は捜してました」
【るい】
「なんで? なんか用事?」
【智】
「用事というのか…………」
用事はある。
捜していた。
皆元るい。
母が名指しした人物、
皆元信悟の娘にあたる。
当たるも八卦当たらぬも八卦。
ここまで辿り着いたは良いのだけれど。
【智】
「うーむー」
【るい】
「うーむー」
二人で額を寄せ合う。悩む。
どうやら付き合いはよさそうだ。
【るい】
「そんでさ、用事無いの?」
【智】
「そこが重要な問題点で」
どこから切り出すのか。
切り出せるのか。
オカルトな話は事態が面倒になる。
不案内な母で、
皆元某に頼れと一筆したためたものの、
何をどのように頼るべきかは示唆がない。
生前からどっか投げやりなひとだったしなあ……。
皆元信悟本人ならば問題もなく話は早いが。
すると父親の話を尋ねるべきか。
ここで話は複雑さを増す。
【智】
(お父さんのことについて教えてください)
【るい】
(どうして?)
尋ねられると困る。
実に困る。
人生に関わる。
恥ずかしがり屋の年頃としては、
根掘り葉掘り掘り返されたくないことは、
両手に余るくらい持ってるし。
【智】
「うーむー」
【るい】
「いつまで悩んでたらよか?」
【智】
「明日の朝くらいまで悩めばいいかも」
【るい】
「長いよっ」
【智】
「実は、その、それなんですが――――
るいさんのお父さんの事なんですけれど、」
切り出した。
【るい】
「なんだって」
びびって座ったまま後ずさりする。
るいが野良犬みたいに牙を剥く。
【るい】
「あんなヤツのことなんてッ!」
適当に踏みだしたらいきなり地雷が埋まってました。
導火線が一瞬で燃え上がる。
心の火の手が、るいの瞳に乗り移る。
野生の動物めいた瞳孔は、まるで不思議な宝石のよう。
怒りが笑いより美しい。
とても綺麗。
〔フライング・ハイ〕
【智】
「んむ?」
異臭がした。
まあ、ここ廃ビルだし異臭ぐらい……。
【智】
「…………ん、むむむ?」
ちょっと違和感。
気のせいかと首をひねる。
部屋が暗いのは、日の暮れた後の廃ビルにまともな明かりが
望めないから。
鼻の奥がむずつくのは、廃墟のどこかから饐えた臭いが
漂っているから。
どれも古い場所には付きものだ。
先入観のせいで今まで気がつかなかった。
【智】
「…………何か臭わない?」
【るい】
「それはなに、私がお風呂に入ってないとかそういうことですか!
ひどい、あんまりだ、女として私は死ねっていわれた!」
【るい】
「これでも公園の水道使ったり学園に潜り込んでシャワー借りたりして気は使ってるんだから!」
【智】
「かなり犯罪者だね」
【るい】
「ちょっと借りてるだけじゃない」
【智】
「不法侵入」
【るい】
「法律と女の子の臭いとどっちが優先されると思ってんの」
【智】
「女の子の臭いが優先されるという根拠を教えて欲しい」
【るい】
「それよりなんの話だっけ?」
【智】
「それそう、臭いの話だった」
【るい】
「ひどい、あんまりだ、女として私は死ねっていわれた!」
【智】
「ループした」
【るい】
「そんでなんの話だっけ」
【智】
「だから臭いの……」
【るい】
「ひどい、あんまりだ――」
【智】
「繰り返しギャグが通用するのは3度まで!」
関西ではそういうルールがあるそうだ。
【るい】
「えー、世知辛い世の中になったもんね」
【智】
「昔からそうなの。暗黙の了解ってヤツ」
【るい】
「昭和の伝統はわかんない。だって、私平成――」
【智】
「かあっ!」
咆えた。
【るい】
「なに?!」
【智】
「あなたは今地雷を踏もうとしました」
【るい】
「地雷? なによ、誕生日の話なんだけ――」
【智】
「かあっ!」
【るい】
「な、なにっ?!」
【智】
「もっと気をつけてくれないと困りますよ!」
エッジの上でダンスするのはマイナーの強みですが。
だからといって信管を叩いて不発弾をわざわざ爆発させるのは
愚か者のなせる技なのです。
【るい】
「そ……それで、なんの話だっけ」
【智】
「焦げ臭くない?」
やっと話が進んだ。
スタートに戻ったともいう。
【るい】
「焦げ臭い?」
【智】
「気のせいかな? さっきからそんな感じがして……」
彼女が鼻をひくつかせる。
目つきが違う。警戒心の強い動物をイメージする。
【るい】
「焦げてる――燃えてる?
何よこれ、近い……ウソ、ちょっとまじ?!」
窓際から外に身を乗り出して外を確かめる。
後を追って窓から外をのぞいて状況がわかる。
外が黒い。
夜以上に黒い。黒くて赤い。
黒いのは煙、赤いのは火の照り返し。
火事だ。
ビルの下の階が燃えていた。
【智】
「うそぉ……」
窓辺で佇んだまま、とっさに思考が停止する。
にへらと笑う。
人間予想をすっ飛んで困った事態に遭遇すると、
最初に漏れるのはやっぱり笑いだ。
【るい】
「何ヤッてんの、さっさと逃げるのよ!」
【智】
「にゃわ?!」
ホッペタを両手で挟まれる。
正気が戻ってきた。
火事。
しかもかなり火が回っている。
すぐに逃げないと取り返しがつかないくらい。
【るい】
「はやく、こっち! 走って急いでっ」
るいの行動は早かった。
手を引かれる。
引きずられながら部屋を飛び出す。
階段から下へ。
四段とばしで3階分を2分とかからず降下して――
【るい】
「どちくしょう、階段はだめだ……」
【智】
「あうう〜〜」
るいが吐き捨てる。
人力ジェットコースターに目を回し、
階段から吹き付ける熱気に酔う。
前髪が焦げてしまいそうな、
オレンジ色の炎の舌。
階段は下りられそうもない。
【智】
「他には?」
【るい】
「……こっち!」
【智】
「どっち?!」
るいが手を引く。
僕が引かれていく。
下ではなく、横ではなく、
非常階段でも、秘密の脱出路でもなく。
まるで悪い冗談のように。
彼女は上へと走り出した。
【るい】
「早く早く! 何やってんの、急がないと死んじゃう!」
【智】
「ちょ、ちょっと待って、待ってお願い! 痛い痛い痛い、
腕ちぎれちゃうの〜〜〜!!」
【るい】
「気合いで何とかせい!」
【智】
「物事は精神論より現実主義で!」
【るい】
「若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!」
【智】
「少年の大きな夢とは関係ないよ、この状況!!」
【るい】
「少女だっつーの!」
【智】
「あーうー」
【智】
「きゃあーーーっ!!!」
【るい】
「根性っ!!!」
【智】
「部活は文化系がいいのぉ!」
【るい】
「薄暗い部屋の隅っこでちまちま小さくて丸っこい絵描いて
悦に入って801いなんてこの変態!」
【智】
「ものすごく偏見だあ!」
片手でこっちを引きずり回す、
親戚にゴリラでもいそうな文化偏見主義者な彼女が
ドアを蹴破った。
時間が凝ってカビの生えた、閉じた薄暗い廊下から、
開いた夜の空の下へ。
るいが歯がみする。
熊のように落ち着き無くうろつく。
そうこうしている一秒一秒に、
僕たちは少しずつ確実に逃げ場を失っていく。
炎が追ってくる。
終点は、ここだ。
天に近い行き止まり。
戻る道もない。
異臭が鼻をつく。
目の前が酸欠でくらくらする。
絶望が胸にしみてくる。
こんな場所で、こんな終わりなんて、
想像したこともなかった。
終わりはいつでも突然で予想外だ。
きっと世界は呪われている。
皮肉と裏切りとニヤニヤ笑い。
ぼくらはいつでも呪われている。
届きっこない空を、
荒い息を弾ませながら見上げた。
時代のモニュメントじみた、
空っぽのビルの頂から。
【智】
「――皆元さん!」
【るい】
「るいでいいよ」
【智】
「こういう状況で余裕あるんだね……」
【るい】
「余裕じゃなくてポリシー。全てを脱ぎ捨てた人間が最後に手にするのはポリシーだけ」
よくわからない主張を力説。
【智】
「イデオロギーの違いは人間関係をダメにするよね」
ふんと鼻を鳴らされる。
破滅の前の精一杯の強がりで。
その強がりに薬をたらした。
【智】
「――あっちまで跳べると思う?」
指差したのは不確かな視界を隔てた向こう側。
隣のビルが朧に浮かぶ。
路地一つ挟んだ距離、フロア一つ分ほど頭が低い。
【るい】
「近くないね」
【智】
「…………無理か」
【るい】
「私より、あんた自分の心配したら」
【智】
「あんたじゃなくて、智」
【るい】
「…………」
【智】
「ポリシー」
【るい】
「――私から跳ぶわ。チャンスは一回」
僕らは走った。
呪いを振り切るように、跳躍する。
これまでの人生で一番の踏切。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光、何もかもが圧縮された刹那の秒間。
落ちる、という感覚さえもない。
一瞬の視界にはただ夜ばかり。
すぐそこにあるはずの、
辿り着くべきビルの頂きを見失う。
赤い夜で塗りつぶされた。
世界は手探りだ。
隣り合っていても名も知らないビル。
呼ばれることのない名前は意味を喪失する。
何者でもない、あるだけのものは化石と同じだ。
街の化石。
時代の亡骸。
誰かの失敗の記念碑。
それは呪いになる。
根を張って、街の片隅を占有し続ける。
落下する。
1フロア分の高度差にショックを受けながら、
受け身も取れないで投げ出された。
感覚を置いてけぼりにした数秒が過ぎて。
ようやく意識できたのは、予想より少ない衝突と、
予想よりやわらかいコンクリートの屋上。
【智】
「……とってもやわやわ」
【るい】
「へへへ、ヤバかったよねー」
るい。
【智】
「受け止めて、くれたんだ」
【るい】
「トモ、あのまま落ちてたら頭ぶつけてたかも。
ほんと、ヤバかったよ。自分でわかんなかったろうけど」
視界が効かなかった。
だから、バランスを崩した。
地雷を踏みかけた寒気と逃げ延びた安堵がごちゃごちゃに
混じりながら追いついてきた。
いくつかの痛み、打撲、擦過――
気がつく。
コンクリートよりもずっとやわらかい、
るいの胸に顔を埋めて、
子供をあやすような掌を髪に感じている自分。
【智】
「あの、もう平気で、大丈夫で……」
【るい】
「へー、意外と体格いいんだね。もうちょい、細い系だと思ってた」
【智】
「け、怪我とかしなかった?」
【るい】
「みたまんま。私、頑丈なんだよね」
そういうタイプには見えない。
【智】
「無茶……するんだ、受け止めるなんて……
あんな高さから落ちてきたのに」
【るい】
「感謝するよーに」
貸したノートの取り立てでもする気楽さ。
なんでもないことのように。
いい顔で、るいは笑う。
今日会ったばかりの、まだ名前ぐらいしかしらないような
相手なのに。
自分が怪我をするとか思わなかったのか?
二人まとめて動けなくなったかも知れないのに?
虹彩が夜の緋を受けて七色に変わる。
間近からのぞき込んだそれは、
研磨された宝石ではなく、
川の流れに洗われ生まれた天然の水晶だ。
人の手を拒む獣のように、鋭く強い。
【智】
「あう」
【るい】
「むっ」
【智】
「にゃう?!」
ほっぺたを左右にひっぱられた。
【智】
「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
【るい】
「なんて顔してんのよ。せっかく助かったんだぞ」
【智】
「にゃおーん!」
【るい】
「感謝の言葉」
【智】
「……にゃにゃがとう(ありがとう)」
【るい】
「よろしい」
手を離す。
るいがはね起きる。
伸びをするみたいに体を伸ばし、
肩を回して凝りを解す。
隣にぺたりと座り込んで、
さっきまでいたビルを眺めた。
【智】
「やっと――」
逃げ延びた、
そう思ったのに。
重低音が這い上がってきた。
一瞬なんなのかわからず、
正体に思い至った後になって、
噛み合わなさに戸惑う。
エンジン音だ。
ビルの屋上、エンジン音、上がってくる――
違う絵柄のパズルのピースと同じ。
どこまでいっても余りが出る解答。
【智&るい】
「「な――――――ッッッ」」
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
エスプリの効いた冗談みたいな物体が、
目の前で長々とブレーキ音の尾を引いて横滑り。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
胡乱な物体だった。
どうみても原付だった。
どこにでもある、町中を三歩歩けばいき当たりそうな、
テレビを一日眺めていればコマーシャルの一度や二度には
必ず出会うだろう。
成人式未満でも二輪運転免許さえ取れば、
購入運用可能な自走車両。
価格設定は12万以上25万以下。
ただ一点、ここが公道でも立体駐車場でもなく、
廃ビルの屋上だということをのぞけばありがちだ。
黒い原付――。
目の潰れそうに黒い車両の上に、
同じだけ黒いライダースーツとフルフェイスヘルメットが
乗っかっていた。
【智】
「――――」
緋の混じる夜。
影絵のような影がいる。
こちらを向く。
〔芳流閣、みたいな?〕
首の後ろがちりちりとする。
産毛が総毛立つ。
背筋によく響く、
威嚇の唸りめいたエンジン音が、
赤と黒の混じった夜を攪拌(かくはん)する。
月の下。
届かない空にほど近い場所。
たちの悪い都市伝説が目の前で形になる。
給水塔とパイプと錆びた鉄柵だけが飾る、
そっけなく廃ビルの屋上、そして原付と黒いライダー。
それは噂だ。
幾千もあり、幾万も消える、
小蠅と同じネットの馬鹿話。
黒いひとは黒い王子様。
その身に呪いを受けた黒い運命のひと。
それは吸血鬼。
それは殺し屋。
それは、女の子をどこかへ連れ去ってしまう
――とりわけ綺麗な女の子を。
語られては語り捨てられ消えていく物語。
緊張に乾いた口の中がひりひりする。
にしても。
【智】
「…………原付かあ」
もう少し、情緒というか、TPOというか。
ファッションにも気を遣って欲しいぞ、伝説。
と。
影が鬱陶しそうにヘルメットを脱いだ。
【智】
「あれ?」
そんなのでいいの?
もっともったいぶらないですか、ふつーは?
前置きもなく神秘のベールがはがされる。
詰め込まれていた髪が流れて落ちた。
月を映す瀧(たき)に似た、青白く染まる銀色の髪。
騒がしい夜がそこだけ回り道しそうな、
目に痛いほどの白。
【智】
「あ……」
あれれ?
【るい】
「――――どこの、女のひと?」
【智】
「心当たりアリマセン」
王子様は、お姫様だった。
鋭い目つきと国産品らしからぬ顔立ちが、
暗がりでもよく目立つ。
冷たいナイフの先のようなまなざしをする。
整っている分鋭くて、
触れようとするとその前に喉もとへぶすりと突き刺さりそうだ。
【花鶏/???】
「みつけた――――」
黒い都市伝説にしてはイメージの違う、
明かな女の子の声で、とてつもなく俗っぽい感情が叩きつけられる。
【智】
「……なんか怒ってない?」
【るい】
「トモの知り合い?」
【智】
「だから違います。王子様の携帯番号なんて知らない」
【るい】
「王子様? なにそれ……あれ、女の子じゃないの?」
【智】
「聞いたことない? ほら、都市伝説で……」
【花鶏/???】
「――わよ!」
原付が突っ込んできた。
【智&るい】
「「なわっ?!」」
跳んで避けた。
鼻先をテールランプがかすめて通る。
手加減無用の突っ込み具合だった。
狭い屋上を、黒い原付は殺人的な加速で横切った。
壁にぶつかる寸前で乱暴にブレーキを利かせ、
タイヤの痕をコンクリートに刻印しながら反転する。
【花鶏/???】
「……避けたわね」
【智】
「避けなきゃ死んでるよ!」
無体な苦情だった。
【花鶏/???】
「この無礼者」
【智】
「いやいや、それはどうですか……」
無体に加えて無礼者呼ばわりだ。
避けて無礼というとことは、礼を尽くすには一礼しながら
轢殺(れきさつ)されなくてはいけないのか。
【智】
「……人生は厳しい選択肢ばかりだ」
お時代的でお堅い我が母校では、初対面の相手にも礼を失することがないようにと常々いわれるのだけれど。
こういう不測の事態のマニュアルは与えてくれない。
【智】
「だからマニュアル型って片手落ちなんだよ」
愚痴愚痴と。
【花鶏/???】
「返してもらうわよ」
【智】
「まったく理解できません」
片手じゃなく両手オチくらい理解不能。
人とは日々己の限界と対話する生き物だ。
人類が獲得した言語というコミュニケーションツールの限界を
しみじみと痛感する。
【るい】
「……ほんとに心当たりないの?」
【智】
「そっちこそ、恨み買った覚えとかは?」
二人でこそこそと責任を押しつけ合う。
轢殺死体を増産したがる原付ライダーの恨みを買ってるという
立ち位置は……なんかやだ。
魂的にすんごく黒くて重い十字架。
【るい】
「恨み、恨み、恨み……恨みねえ……んー」
【るい】
「まあ、それはともかくとして」
【智】
「何故誤魔化すの!」
【るい】
「プライベートには口出しして欲しくない」
露骨に流された。
【智】
「円滑な社会を築くには情報の公開が必要だよ」
【るい】
「嘘も方便といいまして」
【智】
「はっきり嘘っていったー!」
【るい】
「あ、きた」
【智】
「ひゃわ!?」
闘牛みたいな勢いで単眼ライトが迫ってくる。
殺人原付。
【花鶏/???】
「返せーっ!」
逃げた。
【智&るい】
「「ひーーーっ」」
身に覚えのない罪だ。
不幸だ。呪われている。
【るい】
「階段!」
【智】
「ラジャー!」
生命危機に裏打ちされた以心伝心。
原付の蹴破った扉から、
下への階段に脱出を狙う。
罠だった。
逃げる場所が一カ所なんだから狙いうちなんて簡単だ。
原付は見事な先回り。
瞬間移動したみたいな位置取りで、
単眼ライトが僕の顔を睨みつける。
そこまでが、ほんの1秒。
足がすくむ。
その次の1秒。
風景がぐるりと回った。
感覚が遅れてやってくる。
倒れる前に顔が痛くなる。
前髪をサイドミラーがかすめていった。
るいに蹴られたらしい。
おかげで原付の衝突コースから弾き出されて地面に転がる。
【智】
「ぎゃぶ」
潰れたカエル風に呻く。
顔を上げると、
るいが腕を振りかぶっていた。
反撃のラリアット。
肘から先が見えない。
女の子の細腕が即席のハンマーと化す。
一瞬にすれ違う原付とるい。
必殺のラリアットは肩先をかすめただけだ。
なのに、
黒いライダーは進路の真反対にはねとばされた。
原付は真っ直ぐ走って壁にぶつかる。
――――――なんだそれ?
普通じゃない。
力じゃない。
おかしい。
はずれている。
【るい】
「――――ちっ」
るいが舌打ち。
ライダーは頭をかばって転がって、
そのままくるっと立ちあがる。
しぶとい……。
まともには食らっていなかったとしても。
それにしたって。
【花鶏/???】
「――この馬鹿力」
片膝をついたまま吐き捨てた。
対峙する。
距離を挟んで。
るいとライダーの視線が衝突する。
【るい】
「殺すよ」
〔気になるのは――〕
《るいのこと》
《レジェンドライダーに注目》
〔るいのこと〕
るいの顔はよく見えない。
ふたつの目だけが向かいのビルの火事を受けとめて、
炯々と光を放っている。
暗がりから睨む獣だ。
群れを率い、牙を研ぎ、
獲物を狙う肉食獣。
〔レジェンドライダーに注目〕
ライダーさんは針みたいな敵意の一方、
冷静に次の一手を思案している。
原付は、るいのずっと後方で、
ハンドルをおかしな方向に曲げて逆立ちしていた。
〔芳流閣、みたいな?〕
サイレンだ。
誰かが消防署に知らせたんだろう。
この辺りにだって普通に人は住んでいる。
すぐにこのあたりも野次馬と警察やらでいっぱいになる。
【るい】
「ちっ」
るいが僕の手を引いてきびすを返す。
戦線を放棄して逃走に移る。
平和主義には賛成です。
それにしたっていきなりだけど。
【智】
「ちょ、ちょっと――」
【智】
「どうしたの?!」
【るい】
「人が来る前に逃げないと」
【智】
「逃げるって、どうして」
【るい】
「警察に見つかったらヤバイでしょ」
【智】
「……そりゃ、不法侵入に不法占拠に家出っぽければね」
【るい】
「なんか言いたいことあんの?」
【智】
「とりあえず、僕は平気だから」
【るい】
「毒を食らわば皿までって言葉あるよね」
【智】
「……毒薬がいうこっちゃないと思う」
【るい】
「あー、それにしても火事だなんて。
荷物とか食器とか替えの服とか色々あったのに〜〜」
【智】
「ごまかした!」
【るい】
「ちょっとは憐れみと慈悲の心はないの?
生活用具のほとんどを失って、家からもたたき出された
可哀想な女の子が一人で苦しんでるのに」
【智】
「大変だなあ」
他人事風味で。
睨まれた。
怖かった。
【智】
「……とりあえず、どうするの?
警察がマズイんなら場所移そうか」
【るい】
「………………」
返事はなかった。
返事の代わりに。
【るい】
「きゅう」
るいは、倒れた。
【智】
「ちょ、ちょっと――――――?!」
〔一つ屋根の下〕
【るい】
「おー、これいける! ほうれん草のおひたしのさりげない塩味が上品で、新鮮な歯ごたえがしゃりしゃりと耳ざわりよく響き渡る感じ!」
【るい】
「卵焼きがプリチー! 焼き上がりはほんのりでべとつかなくて形もバッチし。ほかほかの猫マンマとの食い合わせが実にたまらなくて、私のお腹にキューンと訴える!」
【智】
「どこの美食な倶楽部の会員さん?」
そういえば、すべからくと耳ざわりって似てるよね。
どちらも誤読から、
本来とは違う使われ方が一般化してるあたり。
時間が経つと得てして最初の意味なんて忘れられてしまう。
【るい】
「二重丸をあげよう!!」
るいが、にまっと笑う。
お箸は持ったまま。
お行儀悪しで減点対象。
格好を崩して、がつがつとご飯をかき込んだ。
食べる。
健啖に食べる。
胃袋の底が抜けてるんじゃないかと思うくらいたらふく押し込む。
どんぶりだけでも3杯目。
さっきまで玄関で倒れていたイモムシと同一人物というのが
信じられない。
【るい】
「うまいぞーーーーーーーっ!!!」
左手のどんぶりが高く高くかかげられた。
背景に火山でも爆発しそう。
蛍光灯の後光を浴びて、それなりに光り輝くどんぶり。
いそいそと4杯目をよそぐ。
【智】
「3杯目にはそっとダシって知ってる?」
【るい】
「私、学ないんだよね」
【智】
「そうだろうと思ってた」
【るい】
「あ、これで最後なんだ……」
炊飯器の中が空っぽだった。
単純な計算だよワトソン君、食べたものは無くなってしまうんだ。
なんてことだ、そいつは新発見だよホームズ。
ちなみに僕は一口も食べてません。
【るい】
「最後………………」
世界の終わりくらい、
ものすごく悲しそうだった。
【智】
「……もう1回ご飯たく?」
【るい】
「えー、そんなの悪いよ、ダメだよ、
そこまでよばれたりなんてできないよ」
ものすごく嬉しそうだった。
なんとなく負け犬チックな気分でキッチンに立つ。
手早くお米を洗って炊飯器を早炊きにセット。
ぱんぱんと柏手を打たれる。
【智】
「なによ」
【るい】
「拝んでます」
手をあわせて伏拝されていた。
【るい】
「いやもう大助かり。ここだけの話なんだけど、
私、お腹すくと倒れちゃうんだよね」
【智】
「そんな漫画チックな体質、自慢げに告白されても困る」
【るい】
「死ぬかと思いました」
【智】
「僕は、ここに来るまでに何度も思いました」
【るい】
「そりゃ悲惨」
他人事のように述べる。
あの騒ぎの後――。
るいが倒れた。
どうしたのか、頭でも打ったのか、
実は黒いライダーの百歩歩くと心臓が
停止する必殺パンチが決まっていたのか。
【智】
「大丈夫?! ねえ、しっかり……しっかりしてって!」
【るい】
「お…………お腹、減った」
【智】
「ベタなオチだな、おい」
正解は空腹でした。
ガソリンの入ってない車は動かない。
お腹の減ったるいは動けない。
うんうん唸るグッタリした女の子を引っ張って、
途中でタクシーを拾って自分の部屋まで戻った。
ちょっと恥ずかしかったです。
【るい】
「ファミレスとかでもよかったんだけど」
【智】
「お金持ってるの?」
【るい】
「………………」
捨ててきた方が家庭平和のためだったろうか。
ファミレスを避けたのは虫の知らせもいいところだ。
食べ終わってお勘定になってから、
誰が払うのか血で血を争う不幸な結末になる可能性が
実に80パーセント。
【智】
「そんなに何も食べてなかったんだ、倒れるくらい」
【るい】
「毎日食費が馬鹿になんなくて……」
【智】
「ご飯がなければケーキでも食べればいいじゃない」
【るい】
「ケーキの方が高いよ、きっと」
【智】
「フランスのひとも罪だなあ」
【るい】
「人よりちょっと食べる体質だからって、
こんなにも生きにくい世の中に私は異議を唱えたい!」
起立、挙手、断固抵抗ストライキの構え。
ちょっと食べる体質。
【智】
「それってかなり控えめな表現だよね」
【るい】
「異議は認めません」
わりかし暴君だった。
【智】
「そんで、これからどうするの」
【るい】
「どうしよっかな」
【智】
「質問とか尋問とか事情聴取とか集中審議とか色々あるんだけど」
【るい】
「尋問か!」
【智】
「問い詰めとか」
【るい】
「もうちょい甘味のある方が」
【智】
「焼け出された身の上は甘くない」
【るい】
「寒い時代だよね……」
【智】
「まだ春だよ」
【るい】
「人の心のすきま風が身にしみる」
【智】
「おひつ空にするくらい食べたくせに」
【るい】
「で、次の、もう炊けた?」
朗らかにすり寄られた。
ほっぺたがぺったりくっつく。
尻尾を振って舐め出しそうな空気。
【智】
「まだです」
【るい】
「しゅーん」
【智】
「その前にシャワーしない? お互い真っ黒だし」
【るい】
「ほへー、よく気がつくね。智って嫁属性?」
【智】
「細かい気遣いは人間関係の潤滑油なのです」
【るい】
「むむむ、難易度高いこといわれた」
【智】
「わかんないだろうと思った」
【智】
「じゃあ、先にお風呂使ってよ」
【るい】
「えー、別にあとでいいよ。やっぱキミん家だし」
【智】
「そういうことだけ気つかわなくてもいいから。
ちょっとしか違わないんだし、さっさと汗流しちゃって。
僕はご飯の後片付けしてる」
【るい】
「…………片付けちゃうの?」
【智】
「…………今炊いてる」
【るい】
「うわーい」
喜色満面。
今にも踊り出しそうで、踊らない代わりに飛び上がって、
【るい】
「そんじゃ、ぱっとシャワー借りちゃう」
【智】
「はーい、ごゆっ――――」
脱いだ。
景気はよかった。
止めるまもなくワイシャツを脱ぎ散らかしてスカートを落とす。
【智】
「…………」
シャツの下は下着だった。
ぶらっと脱ぎ散らかした。
ブラだった。
手元に落ちてきた。
脱ぎたて。
【智】
「ほわた」
したっと履き捨てた。
下だった。
【智】
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
【るい】
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ?!!!!!」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【るい】
「な、なによ、突然大声だして?」
【智】
「ど、ど、ど、ど、ど、ど、ど」
【るい】
「トド?」
【智】
「どうして脱ぐのーーーーーー?!」
【るい】
「お風呂……」
【智】
「ここで脱いでどうするのーーーーー?!」
【るい】
「ど、どこで脱いでも一緒でしょ。
女同士だし、減るもんでもないし」
【智】
「減っちゃうのーーーーーーーーー!!!!」
【るい】
「…………」
るいが変なポーズで固まる。
猫騙しされた猫と同じだ。
隣近所の迷惑間違い無しの大声で、
配線がずれたらしい。
ごく自然に。
上から下へ目玉が動く。
意思は本能に逆らえない。
精神は肉体の玩具に過ぎないのだ。
視覚が対象を補足する。
白いうなじ、白い肩、白い胸――
よくしまった身体には贅肉らしいものはなく、
筋肉質というほどではないが鍛えられている。
機能としての完成系。
ある種の肉食獣をイメージさせる駆動体。
視線を引き寄せる磁力が強い。
さらに下へ。
新事実。着やせする形式だった。
〇八式ぼんきゅぼん。
殺人兵器級に出るところがでて引っ込むところが引っ込んでいる。
余所様の妬みとか嫉みとかやっかみとか歯ぎしりとかを
力任せに踏みにじるパワー。
【るい】
「……なに、いってんの?」
【智】
「は、はいっ!」
直立した。
不動だった。
頭のネジがストンと抜けて、
何が何だかわからない。
【るい】
「いやあ、だからさあ……」
【智】
「お、お、お――――――」
【るい】
「お?」
あっけらかんとした、るい。
あからさまで、開けっぴろげで、
真っ向すぎで。
ダメだと思うのに目を反らせない。
【智】
「おふろ、どうぞ」
【るい】
「うん? うん」
小さくなってバスルームの扉を指差す。
そっと示す。
事態の打開を図っての苦し過ぎる一手。
真っ赤になっているのがばれてないことを心底祈る。
【るい】
「……んじゃ、おさきにいただきます」
どうにも収まり悪そうに首を傾げながら、
白いおしりがお風呂に消えた。
【智】
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
冷蔵庫の角にがつがつ頭突きを決める。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け人という字を
掌に書いて飲み込んだら人生は幸福で
新たな世界がきっと開ける新世紀。
【智】
「よし、冷静に戻った!」
ぎゅっと拳を握りしめる。
ほのあったかい。
手の中に小さな布きれ。
上と下だった。
脱ぎたてピンクだった。
【智】
「にゅおにょわーーーーーーーーーーーー!」
【るい】
「そういえばさー、私の服……」
【智】
「……全部まとめて洗ってます」
【るい】
「さっすがトモちんよく気がつくー。いい奥さんになれるよね」
奥さんなんて、実に嬉しくありません。
【るい】
「そういえばさー、シャンプーと石けん……」
【智】
「そこにあるヤツ使っていいから。全部カラにしても問題なしで」
【るい】
「さっすがトモちん太っ腹ー。いい男つかまえられるよね」
いい男なんて、キャベツの芯ほどの価値もありません。
【智】
「ふんむ」
静かになったので思索にふける。
思考リソースを浪費していないと、
背中から聞こえてくるシャワーの音が
爆弾じみた破壊力で突き刺さる。
すぐそこに、女の子、
それも可愛い、しかも裸。
地雷だ。
【るい】
「ふんふんふん〜」
鼻歌まで聞こえてくる。
のんきの上に剛毅だ。
他人の縄張りには敏感かと思ったけど、
案外無頓着らしい。
【智】
「どうしたもんかなあ」
手と頭をマルチタスクで稼働させる。
食べ終わりの食器を水洗いしながら思考の原野を彷徨。
今日のひと騒動――
慌ただしい事実に優先順位を付ける。
確定していることとそうでないことに分割し、
それぞれ仮想の箱に放り込む。
関連性の直線を縦横にリンクさせてグループ化する。
母さんの手紙、るいの父親という人物、
その人物に関して複雑な感情を持っている(らしい)
るい、火事、黒い王子様はお姫様、そして轢殺されかかる。
【智】
「……刺激的な一日だったなあ」
【智】
「平穏無事と没個性を人生の理想にしたい。野良犬になるよりも、軒下で一日中寝てる飼い猫がいい」
【るい】
「そういえばさー」
【智】
「んにゅ」
【るい】
「一緒にはいろ」
【智】
「にゅにゅにゅにゅにゅ〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」
るいが手招きする。
脱衣所から身体半分つきだして、
おいでおいで。
【るい】
「トモっちも汗かいてんだし、一緒入った方がいいでしょ」
【智】
「よよよよよよよよ」
【るい】
「ヨヨ?」
【智】
「よくないよーっ!」
両手を真上に伸ばし、片足をあげる、
どこぞのお菓子メーカーさんご推薦っぽいポーズで錯乱する。
危険になる。
それなのに注視してしまう。
白とかピンクとか黒とか先っぽとか。
何もしていないのに、
いつの間にか後ろが断崖で退路がなくなっていた。
【智】
「きゃーきゃーきゃーきゃー」
【るい】
「いいじゃん。女同士なんだし、減るもんじゃないって」
【智】
「だから減っちゃうのーーーーーーーーー!!!!」
【るい】
「むお、なんかむかつく!」
【智】
「むかつかないむかつかない」
【るい】
「かくなる上は」
【智】
「上も下もないのお」
【るい】
「実・力・行・使」
【智】
「ひぃいぃーーーーーーーーっ」
るいが来た。
大魔神みたく肩で風きって迫ってくる。
手入れがぞんざいそうなわりには健気に育っている胸ミサイルが、たわわんと揺れた。
ピンク。
先っぽ。
【智】
「きゃあきゃあきゃあ」
【るい】
「えへへへへ、ここまできてうだうだいうんじゃねえ」
【智】
「やー、うは、や、やめてぇ、お願い許してぇ」
襲われる。
まずい、だめ、やめてやめて!
【るい】
「大人しくしやがれ、痛い目にあわないうちに脱いだ方が
身のためだぜぇ」
【智】
「きゃあ、きゃあ、きゃあ……だめえ、いやあ、よして、
結婚までは清らかな身体でいたいのぉ」
お願い許して堪忍して!
死んじゃう、僕死んじゃうからぁ……っ!
【るい】
「力で勝てると思ってやがんのか、ここまで来たんだ、
いいかげん諦めやがれえ!」
【智】
「おかあさーーーーーん!」
【智】
「……お願い、許して……」
【るい】
「ぬを」
涙目で懇願。
死ぬ気で抵抗したのにだめだった……。
汚されちゃった感じで力尽きる。
キッチンの床に押し倒されて、
右腕一本で縫い止められて。
熊とでも取っ組み合ってる気がした。
【智】
「僕、だめ、だから……」
喉に絡んで、
うまく声がでない。
乱れた服の裾から肌がもれるのを押しとどめようとして、
華奢な腕で自分を抱きしめた。
隠しきれない胸元から白い肌がのぞいてしまう。
【るい】
「を……」
生まれたままの格好のるいが、
のしかかっていた。
濡れ髪が額に張り付いている。
シャワーの雫を肌にまとわりつかせて、
すぐそこにある前髪から水滴が落ちてくる。
湿っぽい体温と石けんの匂い。
【るい】
「だ――」
【るい】
「だめ……て……」
なにやら剣呑な目つきをされる。
屍肉を目の前にした空腹のハイエナだった。
ちょっとちょっと……。
この局面でその目つきは。
意味不明な危機感に脊髄がちくちくする。
【智】
「その、僕……っ」
思考する。
思考せよ。
思考するとき。
この場を逃れる方法を――――!
このまま剥かれてお風呂に連れ込まれてしまったら、
僕の人生的な危機だ。
【智】
「ぼ、ぼく」
【るい】
「…………」
まな板の上の鯉気分で。
【智】
「……おっぱい、ちっちゃいから」
誤魔化す。
本当は胸なんてどっちでもいいんだけど……。
【るい】
「…………」
反応小。外しちゃったろうか?
【智】
「ひとに見られるの、恥ずかしくて……」
【るい】
「……ぁぅ……」
【るい】
「…………なんか、かわいい」
【るい】
「は、はわ?! ちょっと、なにいってんの私!
正気に戻れ、目を醒ませ!!」
なにやら、るいが苦悩しだした。
意味不明にぶるぶるかぶりを振っている。
意味不明度、幾何級数的に上昇。
それにしても生物学的神秘だ。
見た目の筋量から連想できない出力系。
実は骨格から異質な生物だとか、
背中にケダモノが宿ってるとか。
【智】
「……人間は考える葦である」
好奇心が刺激された。
手を伸ばして掴んでみる。
もにゅ。
【るい】
「にゃにゃ、にゃわ?!」
【智】
「やわらか手触り」
見た目同様十二分にやわらかい。
あのビルでもそうだった。ちょっと信じられない高出力系が、
この構造に隠されている。
【智】
「すごいね、人体」
【るい】
「そそそそそ、そーいう趣味、私ないから!!」
【智】
「は、はにゃ?」
掴んでいたのは、おっぱいだった。
【智】
「にゃーーーーーー!!!」
【智】
「あー、すっきりした」
お風呂に入ると疲労が節々からにじみ出てくる。
あがった瞬間一歩も動きたくなくなるくらいぼーっとつかっていると、大変な一日だったと実感がわいた。
恥ずかしいのでお風呂の中で着替えた。
【智】
「んで、どんな…………」
【るい】
「にゃわ、どっかした?」
ダイニングに戻る。
るいは、僕が貸したワイシャツ一枚羽織っただけの格好だった。
はいてなかった。
【智】
「あんの」
ロボっぽいぎこちなさで。
【るい】
「あいよ」
【智】
「なんで、履いてないの?」
【るい】
「洗濯してんでしょ。トモが洗ったんだし」
そうでした。
【智】
「替えとか」
【るい】
「荷物ほとんど燃えちゃった」
そうでした。
【智】
「ズボンとか」
【るい】
「面倒なんだよね、部屋でズボンとか履くの。ま、いいっしょ」
すごくよくないです。
地雷だと思ってたら核爆弾でした。
なまじ見えるか見えないかというフェチシズムと狙い澄ました
鉄壁のライン取りが危険度を急上昇させます。
白い布地の下に透ける色々なの、角度とか。
今ボタンの隙間から見えたのは確かにピンクだった気がする。
うなじとか太ももとかどうでもいいところが一々目に入ってきて
ワザとやってるのかと思う。
【るい】
「んでさ」
あぐらを組んでた足の位置を変えた。
見えた。
色々。
【るい】
「どったの、いきなりうずくまって?」
【智】
「どうしたのといわれても」
【るい】
「人と話するときはキチンと相手を見る!」
【智】
「ぎゃわっ」
首ごとグキッてされた。グキッて音した。本当にした。
【智】
「あう〜」
どうしても目にはいる。
見てはいけないと思っても超電磁の力で引き寄せられる。
考える。
ズボンを履かせる方法、下着を履かせる方法、
コンビニで下着を買ってくる方法、パジャマを貸して着せる方法。
【智】
「その……やっぱり部屋でも……裸って言うのは……」
【るい】
「すぐに乾くんでしょ、私の」
【智】
「うん」
【るい】
「それならいいじゃない、細かいことは」
細かいことなのか?
本当に良いのか?
そうだ、なんとなくいい気になってきた。
このまま素晴らしい世界に生きよう。
あなたの望むシャングリラへようこそ。
【智】
「……うん」
状況に流されて妥協的返答をする。
【るい】
「そういえば、トモってすっごい内股で座るんだ」
【智】
「人にはやるせない事情がいっぱいあるから……」
やるせなさすぎて、僕は僕が可哀想だ。
【るい】
「そんで、なんだっけ」
【智】
「そうだ、尋問!」
【るい】
「圧力的な単語だ」
【智】
「事情聴取」
【るい】
「警察っぽくて嫌だなー」
【智】
「我が儘度高っ」
【るい】
「それに事情っていわれても……なんの事情よ」
腕組みして、眉をよせて、ジト目をする。
【智】
「あの、黒い仮面のライダーは?」
【るい】
「悪の秘密結社と戦ってんのと違うかな」
【智】
「みつけたとかいってなかったっけ」
確かに言ったのだ。
みつけた、と。
僕か、るいか、あるいはその両方か。
彼女は捜していたのだ、
なんらかの理由で。
理由――。
原付で屋上まで上がってくる。
非常識な相手に追いかけられそうな、
その上、問答無用の轢殺死体にされかける、
そんな理由。
【るい】
「トモじゃないの?」
【智】
「平穏無事と没個性が生きる目標なんだよ」
あんな面白そうなものに心当たりはない。
【るい】
「没個性の方は、はなから無理っぽくないか、おい」
【智】
「目標は遠いほど価値があるって」
【るい】
「なんか難しいこといわれた」
【智】
「エセ哲学っぽい講釈はいいとして、るいは本当に心当たりとか買った恨みとか誰かを殴り殺して仇討ちされる思い出とかないの?」
【るい】
「……私をなんだとおもってんのよ?」
【智】
「…………」
言ったら怒りそうなので黙秘権を行使する。
【智】
「あの子、過激だったし、容赦なかったし、しかも狙ってたし……怨恨とか報仇とかそっち系の理由じゃないかと思うんだよね」
【るい】
「恨みかあ」
【智】
「逆恨みでも可」
【るい】
「まあ、たまに街でケンカしたりとか殴ったりとか蹴ったりとか投げたりとか捨てたりとか」
【智】
「………………たまに?」
【るい】
「………………たまに」
人生の不良債権が山積みだった。
【るい】
「んなこといっちゃって……トモは、どなの?」
【智】
「それって恨まれてるか話?」
【智】
「うーん、恨み恨まれ人生街道……」
【るい】
「世知辛い道行きだねえ」
【るい】
「ま、るいさんの眼鏡で見たところ、恨んでるひとはいんじゃないかって思うけど」
【智】
「そんなに悪そうにみえる?!」
金槌で殴られたくらいショックだ。
【るい】
「すっごくいい子に見える」
【智】
「もしかして誉め殺されている?」
【るい】
「人を恨むのってさ、善悪じゃないんだよね」
るいが膝を立てる。
見えそうで、見えない。
両手で足を抱いて丸くなった。
声のトーンが少しだけ落ちる。
それっぽっちで不思議なくらい華奢に感じた。
指先が床に頼りない模様を描く。
無意識っぽく。
きっと本人も気がついていない。
【るい】
「……いい人だから恨まれないとか、悪い奴だから恨まれるとか、そういうのって本当は違うでしょ」
【るい】
「よくても悪くても、原因があってもなくても、自分が知ってても知らなくても、お構いなしの関係なし」
【智】
「関係なし、か」
正そうとして恨むのではなく、
過ちに憎むのでもない。
差異にこそ怨恨は生成される。
理想との違い、自分との違い、
周囲との違い――あらゆる違いが引き金を落とす。
哀れな自己矛盾。
個性といい、自分自身という。
誰もが違いを求めるくせに、
誰も違いを受け入れられない。
感情の弾丸が飛ぶ先は最初から食い違っている。
【るい】
「人と違ったら違った分だけ恨まれ易くなるんだから。トモなんて、かぁいいから、知らないとこでどんだけ恨まれてたっておかしくないよ、きっと」
【智】
「やだなあ」
【るい】
「ストーカーに狙われたり」
【智】
「女の子でストーカーっていうのはどうなんだろう」
【るい】
「最近はそっちの趣味の子多いとかいわない?」
【智】
「理解できない」
【るい】
「……そうなんだ。トモは男の方がいいのか」
それも願い下げですけどね。
【智】
「ま、まさか!!」
震える手で、るいを指差す。
そう言えば、さっきの目つき……
るいにはそっちの趣味が――――!
【るい】
「ないないないないないないないない!」
身体全部で力説。
【智】
「ほっとしました」
【るい】
「困ったわね。どっちも心当たり無しなんだ」
レジェンドライダーブラックの正体は、
頑として不明のままだ。
【智】
「続きは明日にしよう。シャワー浴びたら疲れがドッと出た感じ」
まぶたが重い。
頭が接触不良でチカチカする。
【智】
「今日は泊まっていってよ」
【るい】
「いいの?!」
【智】
「他に行くあてとか」
【るい】
「ないない、全然ない、全部燃えてキレイさっぱり」
身軽さが素敵だ。
【るい】
「やったー、お布団のあるお泊まりダー!」
【智】
「お泊まり……」
単語を脳が咀嚼(そしゃく)する。
自分の発言した言語が、
致命的な切っ先になって自分の胸に突き刺さる一瞬。
我が家に、他人を泊めるという、事態。
危機管理の甘さがもたらした危機的状況に愕然とした。
【智】
「それって不味いよ!!」
【るい】
「なにが?」
きょとんとされる。
3秒で前言撤回するのは、
いくらなんでも気がとがめた。
その上、撤回すると放り出すことになる。
荷物もなく焼け出された家なし子を
危険な野獣のうろつく夜の荒野に投げ出して知らん顔。
いや、るいなら平気かも知れないけど。
良心がとがめた。
状況的に両親の方がとがめそうだ。
【智】
「いや、その、でも、ほら、女の子同士一つ屋根の下っていうのって、なんだか……」
【るい】
「なんかいいね、そういうの」
裏表のない顔で。
それで何も言えなくなった。
【智】
「………………そだね」
【るい】
「お泊まりかあ。なんか、わくわくする」
【智】
「なにがわくわく?」
【るい】
「初体験」
台詞でダメになりそう。
【るい】
「今までお泊まりとかしたことないんだよねー」
【智】
「そうなの……」
皆元るい。
変なやつだ。
家なき子の放浪者。
ベッドの上でクッションと遊びだす。
赤い夜の屋上で見た獣じみた眼をした生き物はどこにもいない。
どこにでもいそうな女の子が、
飾り気のないクッションを猫の子みたいに抱きしめている。
【るい】
「えへへへへ」
何が嬉しいのかニヤニヤ笑う。
【智】
「なによ?」
【るい】
「どきどき」
もっとダメになりそう。
【智】
「そんじゃ、お休みなさい」
【るい】
「えへへへへ」
【智】
「あの、さ」
【るい】
「なに?」
【智】
「一人、下に寝てもいいんじゃない?」
この部屋で寝る場所といえばベッドか床だ。
ソファーは使えない。
スプリングが壊れていて、
寝ると確実に身体が痛くなるからだ。
まさに絵に描いたソファーだ。
季節柄、床に寝ても問題はないはず。
【るい】
「いいじゃない、せっかくベッドあるんだから、平気でしょ、女の子同士なんだし、一緒に寝ても。私、ベッドひさしぶりなんだ」
【智】
「僕が下に――」
【るい】
「だめっ」
【智】
「ちょ、や、あかん、あかんの、ひっぱらないで〜」
【るい】
「なら、大人しくする」
【智】
「……はい」
【るい】
「ふかふかだあ」
【智】
「そりゃ、ベッドだから」
【るい】
「トモって感動が足りてない」
【智】
「人生なんて平穏無事が一番なの」
【るい】
「…………平穏無事か」
【智】
「まあ、それが一番大変なんだけど」
【るい】
「そだね」
【智】
「もう、きょうは寝よ。疲れちゃった」
【るい】
「うん」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【るい】
「あの、さ」
【智】
「…………」
【るい】
「トモって、なんか、かわいい」
【智】
「ぶっ」
【るい】
「やっぱ起きてた」
【智】
「はめられた!?」
【るい】
「へへへ」
【智】
「早く寝ないと……睡眠不足は美容の天敵」
【るい】
「ひさしぶりのベッド、なんだか寝つかれない」
【智】
「布団の方がいいなら」
【るい】
「……そういうんじゃないよ」
【るい】
「お布団のある生活って不思議だ」
【智】
「不思議じゃなくて普通だと思う……」
【るい】
「普通じゃなかったぞ」
【智】
「そっちが特別」
【るい】
「いっつも寝袋」
【智】
「女の子的に不都合っぽい」
【るい】
「むわ、また難しいこと言う」
【智】
「難しいんだ……」
【るい】
「家があるっていいなあ」
【智】
「るい、実家は……」
【るい】
「ないも同然」
【智】
「そう、なんだ……ごめん」
【るい】
「なにが? 別に本当のことだし。だから、ずっと放浪人生なの」
【智】
「この世は荒野っぽい」
【るい】
「あそこ、結構居心地よかったのになあ」
【智】
「あの廃ビル? 焼けちゃったね」
【るい】
「荷物だってそろえたのに。食器とか」
【智】
「バイタリティだなあ」
【るい】
「全部焼けちゃった……寝袋も持ってくるの忘れてたし」
【智】
「……明日からどうするの?」
【るい】
「んー、どうしよっかな」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【智】
「きゃわっ?!」
【るい】
「お、黄色い声」
【智】
「なにするのーっ」
【るい】
「指でツツー」
【智】
「そんなことはわかってます」
【るい】
「心温まるスキンシップ」
【智】
「温まらないよ、ゾクゾクだよ!」
【るい】
「心配しないでよ。私、そっちの趣味ないから」
【智】
「…………………………」
【るい】
「疑(うたぐ)るな」
【智】
「早く寝ようよぉ」
【るい】
「誰かと一緒に眠るってさ」
【智】
「……うん」
【るい】
「なんか変な気分」
【智】
「身の危険?!」
【るい】
「そっちじゃない」
【智】
「安心しました」
【るい】
「誰かがいるって、ほっとするかも」
【智】
「邪魔なだけだと思う」
【るい】
「そうかな?」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
音が途絶えて、真っ暗な部屋に自分以外の
体温と息づかいを感じながら、
ゆるい眠りの縁を漂泊する。
誰かの気配を部屋に感じるのは不思議だ。
縄張りを侵されている。
異物感と、違和感と、一滴の安堵。
どうして、ほっとするのか。
孤独ではないからか。
るいは先に眠ってしまった。
ずっと話していたそうだったのに、
いつの間にか自分だけ穏やかな寝息をたてている。
【智】
「自分ペースだなあ」
薄目で闇を透かす。
白い顔がびっくりするくらいに近い。
あまりに無防備な寝顔。
心臓が跳ねた。
【智】
「どうしようか、これから……きゃわ?!」
るいがしがみついてきた。
【智】
「にゃわ、にゃにゃわ、ちょ、ちょっとちょっと、ヤバイ、あぶない、それは危険なのーっ」
悲鳴。
反応無し。
眠っていた。
寝ぼけていた。
【るい】
「にゅー」
寝息が胸あたりから聞こえた。
ぎゅーとされる。抱き枕っぽく。
【智】
「にゃわ…………!」
心臓が不整脈みたいにガシガシいう。
シャツ一枚だけで下着も何もない身体の曲線が押しつけられてくる。
「ここ」にも「ここ」にもナニかが当たっていた。
こっちが胸でこっちが太ももで、腕と足を絡められて逃げられなくなった状態で、
意識を集中するともっと色々なモノが当たっているデフコン4状態がしっかりわかる。
【るい】
「んん……」
【智】
「にゃ、にゃ、にゃ、にゃ」
いつも使っているシャンプーの香りなのに、とても甘い。
混じった肌の匂いが鼻腔をおかしくする。
完全に寝ぼけていた。
寝相は悪かった。
すりすりされた。
人生の危機。
【智】
「きゃーーーーーーーーーーーー」
(平気でしょ、女の子同士なんだし、一緒に寝ても)
涙する。
平気じゃない、全然平気じゃないよ。
なぜならば!
――――僕は、女の子じゃないのだから。
〔後ろの彼はツンデレヒロイン〕
【ニュースキャスター:女性/ニュース】
「昨日午後6時頃、田松市でビル火災が発生しました。火災のあった地域は、中断している市の再開発指定区域でしたが、放置区画として問題になっており、」
【ニュースキャスター:男性の声1/ニュース】
「朝日です。現場付近に来ています。現在の時刻は午前7時。火災から一夜明けて、ここから見るとビルの無惨な姿がよくわかります」
【ニュースキャスター:男性の声1/ニュース】
「早期の消火には成功したものの、長らく無人区画として放置されてきたこの一帯には多数のホームレスが押し寄せており、問題を先送りにしてきた行政の怠慢が、」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「ようするに全ては政治の怠慢ちゅーことですわ」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「以前の市議会がどんぶり勘定でやらかした再開発計画がものの
見事に頓挫して以来、ほったらかしにしてたのは連中ですからな」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「はじまりもそうなら終わりもそう。とにかく政治家ちゅーのは
いい加減なもんですけれど、」
【智】
「とわっ!?」
空から落っこちた。
飛んでいられたのは夢の中だけだ。
おでこを打って引き戻され、居眠りから目が醒める。
【宮和】
「――にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました」
【宮和】
「見ると、もうじつに、金剛石や草のつゆやあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、」
【宮和】
「その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光のさした一つの島が見えるのでした」
【宮和】
「その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいいか、」
【宮和】
「すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした」
【智】
「はにゃ……」
ようするに授業中。
断線した記憶回路の再接続を見計らって、
真後ろの清廉な朗読が一区切りついた。
黒板を切り刻むチョークの切っ先がピタリと静止する。
教師の背中に睨まれた気がした。
【智】
「……ぁぅ」
【教師】
「冬篠さん、結構です。では、次の方」
【宮和】
「はい」
失態は見過ごされたようだ。
かくて優等生の看板は今日も維持される。
ほっと一息。
【宮和】
「珍しいですわ、和久津さまが授業中に違法行為だなんて」
【智】
「居眠りって違法だったんだ」
教師は見過ごしても、
後ろの席のチェックが厳しい。
【宮和】
「清く正しい和久津様が、違法なことごとに手を染められるには、やむにやまれぬ事情があろうかとお察しいたしますが」
【宮和】
「昨日は徹夜でどのような犯罪行為を?」
【智】
「僕ってそんなに怪しげなことしてんの!?」
【宮和】
「違法行為をなさるのは犯罪者の方なのでは」
【智】
「だから夜も違法なことをしているはず?」
【宮和】
「さすがは和久津さま。一を聞いて十を知るとは、
まさにあなたさまのためにあるような言葉なのですね」
後ろの席の冬篠宮和は大まじめだ。
普通の真面目とは毛色が違う。
マルチーズとマルチメディアくらい違う。
困ったことに本人的には本気の本気だ。
人呼んで、天才さん。
天災さんという噂もちらほら。
天災さんは成績勉学の類なら人後に落ちない。
孤高の優等生様も、天災さんの足下にしか及ばない。
【智】
「……珍しいね。宮が授業中に話しかけてくるなんて」
宮和は授業が好きだ。
勉強ではなく、知識を蒐集(しゅうしゅう)して頭の中に
並べるという行為が好きなのだ。
【宮和】
「和久津様の奇行に、謎を解明せよと指令を受けました」
【智】
「そんなヤバイ指令、誰から受けるの?」
【宮和】
「好奇心は猫を殺すのです」
【智】
「脅迫された……」
こそこそとハンカチで涎を拭う。
居眠りの証拠を隠滅し、
居住まいを正して背筋を伸ばす。
優等生のできあがり。
【教師】
「結構です。では、次は――――」
誰かが教科書の頁をめくる。
乾いた紙の音が波紋のように部屋に広がって凪ぐ。
黒い頭が規則正しく配列された教室は静かにすぎた。
教室の水面から、
自分がぽかりと浮かび上がる、
いつもの気分を咀嚼(そしゃく)する。
授業の内容は意味のない暗号で、
黒板には酔っぱらったミミズがのたうちまわっている。
教室と僕。水と油だ。
なのに、混じり合わない自分が、
代わりに作った優等生の仮面は、思いの外にできがよかった。
見抜いた人間は3人しかいない。
宮はその一人だ。
仮面は誰もがかぶる。
自分と世間の折衷点を定めてやっていく。
半分は本気で、半分は必要に迫られて。
折り合えない異物は排斥される。
集団の力学というものだ。
僕は地雷だった。
地雷であることを止められなかった。
和久津智。
南聡学園2年生『女子』。
生物学的には『男子』。
それが僕の秘密だ。
仮面の裏側だ。
死んだ母親の言いつけに従って、僕は男であることを隠して、
女の子の振りをして、世間を偽り生活している。
男の子のくせに、女の子の席に座っている。
学園の名簿や入学証明の書類には「女子」で記載されている。
学園のトイレは女の子の方に入る。
体育の授業は時々欠席する。
身体検査や水泳の類を如何にクリアするかは一大イベントだ。
世の中と人生には、
好き嫌いを越えてままならないことが山ほどある。
水は低きに流れる。
集団の力学は隙間をうかがい、常日頃から目を光らせている。
返す返すも残念なことに、揚げ足を取られる覚えは、
プレゼントで配りたいくらいあった。
細い綱を踏み外したら奈落の底へ一直線。
潜在的な異物が、
異物であることから逃れるための方法は二つしかない。
植物になるか。
空を飛ぶか。
【宮和】
「お顔が芳しくありませんわ」
【智】
「お顔の色が、です」
【宮和】
「宮にはわかってしまいました」
【宮和】
「お貸ししましょうか?」
宮がごそごそとカバンの中を探る。
ブルーな心配のされ方だ。
【智】
「持ってますから!」
【宮和】
「それはようございました」
ブルーブルーな気分で、
親の仇のようにノートを取る。
集中できない。
まぶたの裏に、裸Yシャツがベッドの上で
あぐらをかいて陣取っていた。
るい――どうしているだろう。
焼け出された家なき子。
これからどうするつもりなのか。
予定も計画もなにも考えてない様子。
気任せ風任せ。
どこまでも刹那的な、鉄砲玉。
【智】
「珍しいついでに聞くんだけれど」
【宮和】
「なんでしょうか」
【智】
「宮は、犬とか猫とか拾う方?」
【宮和】
「あわれで無様な野良犬に情けをかけたために、昨日の和久津さまは徹夜なさったのですか」
僕がとてつもない人でなしに聞こえる。
【智】
「日本語ってやだねえ」
【宮和】
「美しい言語でございます」
【智】
「ところで犬の話です」
【宮和】
「あわれで無様な」
【智】
「枕詞なんだ」
【宮和】
「お拾いになられたのですか」
皆元るい。
家を出る時にはまだ寝てたから、
起こさずに来た。
家を出るなら、鍵をかけてポストの中に
入れておいてくれと、合い鍵とメモを残してきた。
【智】
「……歯止めつけないとまずくなりそう」
成り行き任せの状況が成り行き任せに進行している。
【宮和】
「反省なさっておられるのですね」
【智】
「段ボール入りの犬とか拾ったら、宮はどうするの?」
【宮和】
「持ち帰ってご飯を食べさせて一緒にお風呂に入って洗ってから同じベッドでお休みしまして、起きたあとにネットで里親を捜すことにいたします」
【智】
「ものすごく具体的だ」
おまけにネットときた。
今日日珍しくもないが、宮和と電子世界では食い合わせが悪い。
鰻と梅干しだ。
【智】
「立ち位置のパブリックイメージってあるよね」
【宮和】
「私はパシフィックリーグのファンでございますよ」
【智】
「アナログに生きて」
【宮和】
「何の話題でしたでしょうか」
【智】
「犬の話」
【宮和】
「翌日登校しましたら、和久津様に犬を飼うことを勧めるために手段は選ばないことをお約束します」
心の底から朗らかに。
【智】
「そんなに僕に回したいのか!」
【宮和】
「水は低きに流れるものなのです」
【智】
「僕の方が低いんだね!?」
【宮和】
「言ってよろしいのですか」
【智】
「言わないでください、お願いですから」
【宮和】
「さようですか」
もの凄く残念そうにされた。
【宮和】
「本音はさておきまして」
【智】
「冗談と言うべきところじゃない?」
【宮和】
「犬をお拾いになられたのですね」
【智】
「……おおむね」
【宮和】
「さすがは和久津様です。孤高の秀才として高嶺の花と謳われながら、雨に濡れて痩せこけた野良犬を優しく抱き上げて連れ帰る、まさにツンデレの鑑」
【智】
「……どこから持ってきたの、その四文字熟語」
【宮和】
「ネットで、知人に、勧められました」
情報化社会の悪癖だ。
【智】
「勧められたって、四文字熟語?」
【宮和】
「成年向けゲームを」
【智】
「…………」
【宮和】
「…………」
【宮和】
「ぽっ」
楚々と赤面される。
楚々とされても、ツッコミどころが多すぎてどこから突っ込めばいいのか意味不明だ。
【智】
「……勧めるような、男の知り合い、いるんだ」
特殊系孤立主義者の宮が、そういう知り合いを持っているというのが、そもそも驚きだ。
【宮和】
「女の方ですよ」
【智】
「…………」
何年経っても、男の子には女の子がわからない。
【後輩1】
「先輩、さよならー」
【後輩2】
「失礼しまーす」
【智】
「ごきげんよう」
放課後。
脇を駆けていく下級生が慌ただしく頭を下げる。
背筋を伸ばす。
クールに受け流す。
きゃらきゃらとした黄色い声の春風。
優等生っぽく流れていく。
従容とした足取りは乱さない。
走るなんてもっての他。
金看板には制限が多い。
【宮和】
「今日はお急ぎなのですね」
【智】
「わっ」
宮が足音もなく出現する。
【智】
「いっつも心臓に悪い」
【宮和】
「体質なのです」
【智】
「……なにが体質?」
【宮和】
「それよりも」
【智】
「流された!」
【宮和】
「お急ぎでございますか」
【智】
「……事情がありますから」
不思議な鋭さが宮にはある。
外面を貫いて、洞察の手を伸ばす。
いつもよりほんの少しだけ早い足取りが、バレていた。
【宮和】
「さようでございました。和久津様はあわれで無様な野良犬をお拾いになっておられたのですね」
【智】
「本人には聞かせられないなあ」
もにょりながら、上から3番目の下駄箱を開ける。
【宮和】
「今日は控えめですのね」
本日の日課は3通だ。
色とりどりの柄の便せんが、下駄箱に収まった革靴の横にそっと忍ばせてある。
差出人は男子と女子がおおよそ半々。
中味は8:2の割合でラブレターと悪戯だ。
【智】
「哀しい」
【宮和】
「喜ぶべきものではないのですか」
【智】
「半月ほど前には、前世の恋人からお前を殺すって愛の告白をされたよ」
【宮和】
「素敵ですわ」
【智】
「そんな素敵がいいなら差し上げます」
【宮和】
「そういえば、和久津様はほとんど読まずに丸めてポイされておられますね」
【智】
「……何で知ってるの」
【宮和】
「愛の力ですわ」
哀っぽい。
僕は地雷で、地雷であることを止められない。
潜在的な異物が、異物であることから逃れるための方法は
二つしかない。
植物になるか。
空を飛ぶか。
つまり――、
目立たないようにひっそりするか。
振り切って高みに一人で胸を張るか。
選択肢はあっても、
得てして選べるほどの自由があるとは限らない。
人生は難題の連続だ。
【宮和】
「やはり和久津様はツンデレ様なのですね」
【智】
「様を付ければいいというものでもないです」
客観的に判断して、和久津智は「可愛い女の子」だった。
生物学的な差異は棚上げで。
没個性な一個人として植物のように穏やかに集団へ埋没するという、幸福かつ安易な選択肢がない。
宿命づけられていた孤高。
孤高というと聞こえがいいけれど、望まぬ孤高は孤立となにも
変わらない。
安直かつ危険な環境だった。
異者は、異なるという一点だけで排除の力学に晒される。
必要なのは溶け込むこと。
敵を作らず、味方を踏み込ませず。
二重スパイもカルト宗教の信者も、
秘密保有者の一番のハードルは、そこだ。
僕には、そこからさらにもう一つ。
目立たないという最善が不可能なら、
集団の力学に対抗し得る自衛力を確保しないといけない。
ステータスが必要だ。
クールで、孤高の、優等生。
【宮和】
「…………」
【智】
「どうかしたの?」
熱視線。
視殺されていた。
【宮和】
「見惚れておりました」
今にも殺しそうな視線だったけど。
【宮和】
「お美しいですわ、ツンデレ様」
【智】
「その名前やめてください。
四文字カナ名は安易なレッテル張りへの最短コースです」
【宮和】
「可愛いと思うのですが、ツンでデレ」
【智】
「デレがないです。ツンもあるかどうかわかんないです」
【宮和】
「難しいものでございますのね」
【智】
「難しいんだ……」
【宮和】
「和久津様のところになら、王子さまも現れそうでございますのに」
【智】
「王子さま」
白馬の王子さまに迎えられるところを想像してみた。
死にたくなった。
【智】
「願い下げです」
【宮和】
「残念ですわ。美しい方を連れ去るということですから、和久津様ならきっと選ばれるだろうと心待ちにしておりました」
【智】
「……? それは王子さま違うのでは」
身代金誘拐犯?
【宮和】
「ネットの巷にそのようなお話が。
黒い王子さまは女の方を連れ去るのだと」
都市伝説の方だった。
【智】
「黒いのは懲り懲りだよ。胸焼けがする」
【宮和】
「返す返すも残念でございます」
【智】
「……連れ去られて欲しいの?」
【宮和】
「言ってよろしいのですか」
ちなみに。
宮和はどこまでも真剣だ。
〔失われた伝説を求めて〕
昔々ではじまるお話の類だと、拾ってきたナニモノカは、
おじいさんが畑に出た隙に姿を消すことがままある。
一晩寝て起きて、学園という日常を通過して。
頭が冷えた後。
なにも言わずにふらりと彼女が去ってしまったら――
悩みが一つ消える。
皆元るい。
拾ってきた野良犬みたいに、
突然消えてしまってもおかしくない毛並み。
予定がない、未来がない、根っこがない、当然家もない。
一緒にいるとロクでもない事がやってくる。
火事にバイクに都市伝説に妖怪大食らい。
呪いの磁石はどちらだろう。
平和を希求した。
住み慣れた部屋の扉をくぐる。
惨殺現場になっていた。
【智】
「うわぁ」
玄関に、るいが死んでいる。
身体を無惨なくの字に曲げて、地面を掻いた指先が踏み込んだ足のちょうど手前で力尽きていた。
夏の終わりの蝉の死体を思い出す。
【智】
「……死んでる?」
【るい】
「わおん」
死体が情けなく吠えた。
【智】
「お腹減ったんだ?」
【るい】
「ばうばう……」
【るい】
「うまいぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
復活した。
乾燥ワカメ並みの復元率だ。
【智】
「ちょろい」
【るい】
「なんかいった?」
【智】
「とんでもありません。おいら神様です」
【るい】
「意味不明です」
【るい】
「なんて顔してんの。もしかして、お味噌汁にゴキブリでも入ってた? するとこれは危険な黒いミソスープ?! やばっ! でも、とっくに食べちゃったし……」
【智】
「わりと呆れてるんです」
【るい】
「なーんだ」
あっけらかんと食事再開。
図太い。
砂の山を削るみたいに山盛り白米が消えていく。
あの細い身体のどこに収まってるんだろう。
女の子には秘密が一杯だ。
【るい】
「もぎゅもぎゅもぎゅ(ホントに死ぬかと思いました)」
【智】
「食べながら喋らない」
【るい】
「もぎゅもぎゅもぎゅ」
……喋らなくなった。
【るい】
「ごちそうさまでした」
【智】
「おそまつさまでした」
るいが手を合わせて、感謝の祈り。
偶像扱いされた。
【るい】
「いんやー、トモちんご飯つくるの上手だから食が進んでしかたないよねー。太らないかどうか心配」
【智】
「あれだけ食べて太らないなら、そっちのが心配だって」
【るい】
「私、これでも無敵体質」
【智】
「漫画体質の間違い」
【るい】
「それはどうか」
【智】
「だいたい倒れるまでお腹減らさなくても、冷蔵庫開けて何か食べてればよかったのに」
【るい】
「私だってプライドあるっす。一宿一飯の恩義をあだで返すような真似はできんでげす」
出されたお米ならおひつを空にするのはOKらしい。
行動規定の基準が今ひとつ理解しがたい。
【智】
「どこの生まれなのかでげす」
【るい】
「げすげす」
高度に暴君的な胸をはる。
たわわ。
昨夜比1.5倍に実り多き秋。
【智】
「…………なんで、つけてないの?」
薄手の布地がいい感じに透けていた。
オブラート梱包生乳。
【るい】
「部屋ン中だと面倒だし」
【智】
「つけてください」
【るい】
「えー」
反論を黙殺する。
ベランダから出がけに干したブラを取ってきた。
手にしたピンクの布きれに複雑な所感を抱く。
女の子の格好をして世間を偽るのと、女の子の下着を洗って
差し出すのは違う。けたたましく違う。
【智】
「初体験……」
恥ずかしタームにどっきどき。
【智】
「にしても」
【智】
「……一人残して出たのはやばかったな」
半日を回顧して、わからないよう舌打ちした。
部屋に、るいを残して、外出した。
迂闊な。
部屋に来る友達なんて何年もいなかったから、そこまで気を
回さなかった。
他人は欺(ぎ)瞞(まん)できても生活は偽装はできない。
テリトリーでは無防備になる。
秘密の漏洩の危険性――。
探すつもりがなくても、何かの拍子に証拠が目に入ってしまう
ことだってある。
【智】
「ばれなかったみたいだし、ツキは残ってるか」
【るい】
「なんの話?」
【智】
「うんむ、焼き討ちされたりお犬様ひろったりっていうのは、
ツイているとは激しくいえない気が」
どっちかいうと悪運ぽいよ。
【るい】
「意味不明(ノイズ)な言動してるね、トモちん」
【智】
「人生とは一人孤独に受信するモノですから」
【るい】
「まあね」
るいにしては意外な返答がひとつ。
軽い調子の同意には、複雑な色が彩色されていた。
単純な賛同とも違う。
表現しがたい。
【智】
「とりあえず」
綱渡りはクリアした、今日の所は。
石橋を叩いて渡る主義でも、
足下が危ない橋だと気がつかなければ真っ逆さまだ。
知ること。
無知と未知が恐怖を産み落とす。
注意が必要だ。
手に汗を握りしめた。
布製の感触。
ブラだった。
【智】
「ぶらっ」
【るい】
「なにやってんの?」
【智】
「お、お手玉」
【るい】
「ブラジャーだっつーに」
【智】
「……はい、付けて」
差し出した。
【るい】
「キツクてめんどっちーのよね」
【智】
「キツいのですか」
【るい】
「サイズちっさいから」
【智】
「おっきーのすればいいじゃない」
【るい】
「そうすっと今度こっちが邪魔に」
両手で扇情的にすくい上げて、たわたわする。
Yシャツが内部から質量に圧迫され、これ見よがしに
テントを張っている。
【智】
「持てる者の傲慢だ!」
全国のプアーたちの代弁者として立ち上がるときが来た。
【智】
「格差社会打破! 怒れる乳(ニュー)エイジプワーたちよ、今こそ
全世界同時革命を!!」
【るい】
「押さえてんだけど健気に育つんだよね」
【智】
「邪悪なチチにはダイエット推奨」
【るい】
「食こそ我が喜び」
人は理解し合えないのココロ。
火花を散らし、アメリカンに拳をゴスゴスぶつけて合って対立する。
【るい】
「でも、食べると胸だけ増えるんだ、これがまた」
【智】
「殺されても文句の言えない体質」
【るい】
「だから無敵体質と」
【智】
「世界って残酷だなあ」
【るい】
「というわけだから」
【智】
「ダメ、付けないとダメ」
誤魔化されない。
【るい】
「……トモって、なに、もしかしてお堅いひと?」
【智】
「女の子たるもの、そのあたりはしっかりしないと」
ヤバイのです、主にこちらが。
【るい】
「しょぼん」
るいが尻尾を下げる。
肩を落として、見るからにしょぼくれて、
ぬぎっと脱いだ。
【智】
「にゃわっ」
【るい】
「うんしょっと」
【智】
「もももももももーちょっと行動にはタメが必要ですよ!」
【るい】
「思いついたら吉日で」
【智】
「それって刹那的なだけ……」
【るい】
「こうして、こうして、こうして」
【智】
「……」
大きなものを小さなケースに収めるテクニック講座。
いけない!
見ては駄目だ!
相手が知らないことにつけ込んでなんてことを!
お前のしていることはノゾキや痴漢と同じなんだぞ!
この恥ずべき赤色やろうめ!
最低だ!
【るい】
「完成」
最後まで見てしまいました。
【るい】
「おっきいのも結構大変なのだよ」
【智】
「るいってナチュラルに恨み買うタイプだね、きっと」
【るい】
「別に自慢じゃないよ?」
【智】
「自分は、そういうのにこだわらない方ですけど」
【るい】
「さっき世界同時革命……」
【智】
「代弁者である僕と主体である私の間には超克なし得ぬ乖離(かいり)が存在するのであります」
【るい】
「むお」
クエスチョンマークをたくさん飛ばしていた。
扇情な生チチ。
女性らしいまろみとふくよかさを備えながら、類い希なる緊張に
よって黄金律の曲線を維持した天工の生み出した至高の逸品。
とっても美チチでした。
まあ、大したことはない。
だって見慣れているのだから。
学園でも、ほとんど毎日、
目撃する機会に遭遇する。
立場上、女の子なのだもんで。
日常と異常を区別するのは頻度の差でしかない。
どんな異常も繰り返せば日常化する。
慣れる。
女の子は異性の目がなければ、
あけっぴろげだ。
大口を開ける、スカートをばさばさする、
下品な話題でもりあがる、食うし出すし。
何年もの間、毎日直視してきた。
幻想の終焉と楽園の喪失。
大人への階段を一つ上ったのは、随分と前。
女の子には限らない。
誰だってそうだ。
他者の目に映る自分を大切にする。
装う。
世界にいるのがただ一人なら、
自分を律する必要がどこにあるだろう。
【るい】
「んにゃ、熱でもあるの、顔赤いよ?」
【智】
「ななななななんでもありませんからっ」
【るい】
「そ、そう」
【智】
「そう!」
それなのに、恥ずかしい。
学園の誰かを目撃するよりも、
ずっと羞恥心が刺激される。
付き合いの浅い相手というのが
脳内物質の分泌を促すのか。
物理的にも、すごく近い。
母上様、チチの悪魔は実在するのです。
【智】
「それよりも」
【るい】
「なによりも」
【智】
「昨日の話の続き」
【るい】
「話といってもたくさんありまして」
【智】
「るいのお父さんが」
【るい】
「死んどりますがな」
【智】
「お手紙の件で」
【るい】
「白山羊さんが食べちゃいました」
【智】
「……嫌いなんだ、お父さん」
【るい】
「好きか嫌いかっていうより……」
横座りに足を崩して、
後ろに手をついた。
目のやり場に困って視線を漂わせる。
るいは天井を見上げた。
天井でないどこかを見ていた。
【るい】
「どうでもいいのよ。親らしいことしてもらった記憶もないし、
気がついたら死んでたし」
【智】
「アバウトすぎだね」
【るい】
「トモのお母さんの手紙だっけ? どういう付き合いがあったのかわかんないけど、生きてても、手助けしてくれるような気の利くひとじゃなかったよ」
【るい】
「だいたいさ、何を助けてもらうのよ」
【智】
「……ひ、み、つ」
【るい】
「いーやーらーしー」
【智】
「なにがよ」
【るい】
「トモってエロいの」
【智】
「ちがうもん」
【るい】
「うちらの間で隠し事なんてさ」
背中をつつー。
【智】
「やうん、やん……そ、そんなこと言ったって、昨日会ったばかりだし……ぃっ」
【るい】
「連れないナー」
【智】
「……何か聞いてない、それっぽいこと?」
【るい】
「無理矢理話を戻したね」
【智】
「遺言とか資料とか貸金庫の鍵とかおかしな写真とか」
【るい】
「政治家の秘書が自殺しそうな事件の重要参考人っぽく?」
【智】
「そうそう、残り30分で現れて重要な手がかりを渡してくれる
感じで」
【るい】
「でも、その頃なら2回目の濡れ場はいるよね〜」
【智】
「どっちかいうと、主人公の手下の新米がいらない所に首突っ込んで消されたりして」
【るい】
「そんで怒りに火のついた健さんが
ドスもってカチコミにいっちゃうんだよね!」
【智】
「それサスペンスじゃないから」
【るい】
「私はそっちの方がいい」
タコチューみたい唇をにとがらせる。
人と人はますます解り合えないのココロ。
【智】
「るいさんは、単純明快人情主義と力の論理がお好みですか」
【るい】
「どっかんばっきんどごーんがいいっす」
【智】
「米の国だね」
【るい】
「そうだ、そんで思いだした!」
突然起立した。握った拳が震えていた。
【るい】
「何がむかつくってやっぱりあの黒塗りライダーが超ウゼーつーか、憤怒燃え立つ大地の炎よ復讐するんだハンムラビ法典って感じだと思わない?!」
時々やけに豊富になる語彙の数々は、るいのどこに格納されているんだろう。
【智】
「やっぱ胸かな」
【るい】
「あーいーつー」
業火をしょっていた。
轟々と聞こえない音で燃え上がり、
天をも突かんと紅蓮に染まる激情。
【るい】
「あいつのせいで、家はなくなる、荷物はなくなる、服まで
なくなる、教科書の類はまーどっちでもいいけども」
【智】
「ダメっこだ」
【るい】
「とーにーかーくっ」
【るい】
「全ての諸悪の根源はアイツっ。火事だってアイツの仕業だ。
そうだそうだ辻褄あうじゃない。謎は全て解けました。
犯人はア・ナ・タ!」
【るい】
「ポストが赤いのも救急車が白いのも私のお腹が減るのも全部全部アイツのせいっ」
決定した。
腹がくちたので断罪に走った。
善哉善哉。
裁きの神よ、ご笑覧あれ。
(誤字にあらず)
【智】
「ということは、るいさんや。どのようになさるのですか」
るいは、まっとうな返事もせずにニヤリと笑う。
【るい】
「行ってきます!」
きっと表情を引き締めたまま。
弾丸みたいに部屋を飛び出した。
部屋に平穏無事が戻ってくる。
【智】
「がんばってねー」
忌まわしき都市伝説に正義と論理の鉄槌を加えてください。
あ、やっぱり帰ってきた。
【智】
「おかえりなさい」
【るい】
「……服ください」
〔シティーハンター〕
街に出る。
るいの都市伝説探しに付き合って。
三角ビルのショーウィンドウ前を横切ると、
さび色の前衛彫像に見送られる。
【るい】
「トモって付き合いいいよね」
【智】
「そうかな」
【るい】
「だよだよ」
【智】
「学園ではクールな旅人のはず」
【るい】
「どっか旅行してんの?」
【智】
「素ボケ?」
【るい】
「なにが?」
素だった。
筋金を入れて鉄板補強したくらいのボケ体質だ。
【智】
「実は長い人生という旅路を……」
【るい】
「テツガクってヤツだね〜」
感心される。かえって肩身が狭い。
自分の弱みを攻め手に換える。手強い。
【るい】
「うん、これが友情ってやつですか」
【智】
「昨日会ったばかりですけど」
るいは、あてもなく流れていく。
風にまかせ、人混みにまかせ。
このまま先導を任せていると、
都市伝説との遭遇がいつになるかは、
神のみぞ知るだ。
困った。
傷つけ合うほど知り合ってはおらず、
見捨てていくほど薄情にもなれない。
それでも、猫の子と同じで、三日飼ったら情が移る。
昔の人はうまいことを言った。
【るい】
「一目惚れがあるんだから、一日でできる友情があってもいいと
思わない? 心は時間を超えていくんだよ」
いい台詞すぎて皮肉かと思う。
【智】
「情は情でも哀情」
【るい】
「愛っ!?」
たぶん字が違っている。
【智】
「あい違い」
【るい】
「あいあい」
【るい】
「そういえばさ、女の友情って男で壊れること多いんだって」
ねちっこい話題になった。
【智】
「いきなり壊れてどうするのさ」
女じゃないから大丈夫です。
【るい】
「形あるものは、どんなモノでも、いつか壊れるんだね」
【智】
「壮大な話だねえ」
友情に形はあるのか。
難しい命題だ。
【るい】
「投げやりだな、トモってば」
赤。
夕刻。
街は茜色にけぶる。
夜が近くなっても街は眠らない。
黄昏の霧にも負けない騒々しさ。
煮立った釜の中味はネオンと騒音と
得体の知れない鼻を刺す匂いと人の群れ。
昼間はいくらか強かった風もとっくに止んでいる。
赤。
歩道を歩いた。
街にはノスタルジーの色彩が君臨する。
夜までのつかの間にたちこめる移ろいの色だ。
夕映えがオレンジにしたクセの強い髪の毛先を、
るいは無心にいじっている。
【智】
「落ち着きない」
【るい】
「むお」
ふくれられた。
【るい】
「じっとしてるとダメになるんだよぅ」
【智】
「サメですか、きみは」
【るい】
「私はシャケの方が好きだなあ」
【智】
「誰が晩ご飯の話をしてるの」
【るい】
「してないんだ……」
腹ぺこ領域に踏み込んでいた。
燃費の悪いワガママなボディーだ。
二車線の車道を、
乗用車の列が途切れなく流れる。
店先からの音楽、人の会話、エンジン音――
いつ来ても意味をなさないノイズとノイズとノイズ。
熱にうかれたコンクリートと、冷たく堅い人間たち。
猥雑な街の夕暮れ。
街には秩序と混乱が平行する。
交点だからだ。
すれ違う、交差する、
ぶつかり合って跳ね飛んでいく。
人。物。情報。
生きているもの、死んでいるもの、
区別なく入力され、変換され、出力される。
流離し、漂泊する。
ときには絢爛、ときには退廃。
昼なお暗く、夜にも目映い。
これが駅向こうに回ると、
さらに大したものになる。
担任の古橋教諭が学生たちの出入りを見かけたら、
世を儚んで辞職を考えるだろう。
お堅い古橋教諭は、自分の子供に国営放送と
教育番組しか見せないのだと自慢していた。
子供は親を選べないという訓話だ。
【るい】
「うむー」
あくび混じりで猫みたいな伸びをした。
遊びに厭いた子供の風情。
【智】
「真剣ポイント略してSPが足りてないよ」
【るい】
「なにそれ」
【智】
「ステータス確認してください」
【るい】
「難しい……」
理由はわかってないが、
素直に頭を下げる、るいさんだ。
【智】
「ヤツを捜すんだよね」
【るい】
「おお、それそれ。
でもさ、どこにいるんだろう?」
真顔で質問される。
るいちゃん――あなたは、僕が考えているよりも、
ずっと大きく、そして恐ろしい。
【智】
「心当たりは?」
【るい】
「ないです」
【智】
「即答っ!」
【るい】
「自慢」
【智】
「してどうするの!」
【智】
「何をしにここまできたの!?」
【るい】
「……」
黙られた。
自動的だ。
感情のスイッチが行動力に直結している。
気軽に付き合うと、勢いに引っ張られてろくでもない目に
あわされるタイプだ。
本人はいたって平気で、近くにいるヤツがとばっちり同然に
火の粉をかぶる。
被害に遭いやすいのは、慎重派で考え込み易くて、
そのくせ情に流されちゃうようなやつ。
普段クールぶってると特に危険。
…………僕だ。
【智】
「こうときに客観的自己分析のできる性格が恨めしい……」
街路樹に顔を伏せて涙ぐむ。
【るい】
「どっかしたの、なんか顔色悪いよ? おしっこ?」
【智】
「不幸な未来予想図が目の前にありありとうかんで、
高確率で到達しかねない将来像に愕然としてます」
【るい】
「元気ださないとね」
大本の要因に投げやりなフォローをされる。
ドーパミンが分泌して幸せになれそう。
【智】
「夕焼けか……」
るいが足を止め、
寸時薄暮を仰ぎ見た。
街の空は狭い。
ビルとビルの谷間に
切り取られた窮屈な天蓋。
蒼穹とコンクリートの区分は、
この時間には朱に溶け落ちて曖昧になる。
混沌の海だ。
制服が二つ、
海を渡って旅をする。
大きな影を足から伸ばし、
アスファルトの歩道をローファーで蹴りながら。
日没と制服。
組み合わせに、
一種ばつの悪さがつきまとう。
制服が学生の証明だ。
黄昏れに追われて、
本来急ぐべき家路でなく、
立ち去るべき猥雑に混じりこむ。
禁忌を踏み越える瞬間の、怖れと歓喜。
冬の日の早朝、できたての薄氷を踏んで歩く時のような、
くすぐったさが胸中をくすぐる。
【るい】
「これからどーしよっか、迷っちゃうよねー」
【智】
「迷わない。捜します」
早速目的さえ忘れかけていた。
【智】
「コメ頭だね」
【るい】
「トリ頭じゃなくて?」
【智】
「すぐに忘れるのをトリ頭といいますが、もっとひどい忘れんぼ
さんはコメ頭といいます」
【るい】
「そのココロは」
【智】
「(にわ)トリのエサです」
【るい】
「念入りにバカにされるとむかつく」
【智】
「そんで手がかりとかないの?」
【るい】
「なぜ、私」
【智】
「僕には身に覚えがありません」
【るい】
「私もないよ!」
【智】
「忘れてるだけかも」
納豆みたいなべとつく視線で視姦。
【るい】
「そんなことは……ない……とはいえないかもしれないけど、そんなことはないと思いつつ、もしかしたらあるかもしれないけどやっぱりそんなことはないっぽいかも……」
責められたばかりなので弱気だった。
【智】
「論理的な解説プリーズ」
【るい】
「…………」
理詰めには弱い。
男らしく腕を組んで、しかつめらしい顔で、
るいはぶつぶつ呟きながら歩道を横断する。
どの角度から見ても危ない人だ。
他人のフリさせてくんないかな……。
駅にも近い繁華街。
夜も眠らない一角の騒々しさは、
ハンパ無い。
【智】
「どこかであの黒ライダーに会ったことは?」
【るい】
「屋上で」
【智】
「それより前に」
【るい】
「前…………?」
【花鶏/???】
(見つけた)
少なくとも、
あちらにとっては初対面じゃなかった。
どちらかが目標だった。
るいか、僕か。
僕には心当たりがないわけなので。
もっとも、すれ違っただけでも執着されて、
見ず知らずの相手に家まで押しかけられる世の中だ。
油断はできないけれど。
【るい】
「ある。見覚えある」
【智】
「あるの!?」
【るい】
「なんで驚くのかな?」
あるとは思わなかった。
あっても覚えてるとは思わなかった。
言語化すると血を見そうなので、
政治的ソフトランディングを試みる。
【智】
「思ったよりも早くわかりそうだなってリアクション」
にこやかに選挙運動。
【るい】
「ほー」
素直すぎるのは将来が心配だ。
【智】
「それで、どこで」
【るい】
「このあたり」
繁華街でもひときわ目立つ黄色い建物だった。
ちょっとした若者向けテナントビル。
記憶を刺激されて思いだしたらしい。
【るい】
「そうだ、たしかにアイツだった、
すっかり忘れてたけど間違いない、絶対そう!」
敵意をむき出しに、るいが歯を剥く。
【るい】
「三日ほど前だっけかな。このあたりで」
【智】
「跳び蹴り食らわした?」
【るい】
「なんで跳び蹴り」
【智】
「大外刈りとか、ジャイアントスイングとか、機嫌が悪かったから路地に連れ込んでいけないことをしたとか」
【るい】
「道でぶつかっただけ」
【智】
「……」
【るい】
「疑(うたぐ)るか」
【智】
「いえいえめっそうもない」
【智】
「しかしですね、るいさん。道ばたでぶつかったぐらいのことで
ですね、必ず殺すと書いて必殺な感じに追ってくるのはおかしくないですか」
【智】
「なんたって、いきなり屋上に原付で轢殺なんだよ?」
【るい】
「疑(うたぐ)ってる」
【智】
「いえいえめっそーもないです」
限りなく棒読みで。
【るい】
「あいつは心狭すぎ!!」
【智】
「心の面積を斟酌(しんしゃく)するより、別の理由を検討する方が健全だと、
僕は思うものです」
【るい】
「やっぱり疑(うたぐ)ってるーっ!」
【智】
「でもさ、いくらなんでも、ぶつかっただけで殺害しに来るなんてあると思う?」
【るい】
「ないかな」
【智】
「……事実は小説よりも奇なりとは言う」
推理小説なら即座に破り捨てられるつまらない動機だって、修羅の巷には氾濫している。
きっかけとも呼べないきっかけでスイッチが入れば、心という機能は理不尽に他者を攻撃する。
【智】
「困ったね」
【るい】
「困ったんだ」
【智】
「動機が突発的だと捜すのが面倒になるから」
あのヘルメットの下は、もっと理知的な、
よく切れる刃物を感じさせた。
根拠はないけど第一印象を信じてみる。
昔から勘はいい方だ。
【智】
「原付のナンバーは市内だったけど」
【るい】
「そんなのちゃんと見てたんだ……
すごーい」
暴君的な胸を揺らして感心された。
【智】
「なんで、持ち主わかるよ」
【るい】
「???」
【智】
「割と知られてないけど、陸運局いって書類書いてお金払ったら
個人情報教えてくれるんだよね」
【るい】
「んー、警察とかじゃなくても?」
【智】
「なくても」
【るい】
「……それって、指紋とられたり、忠誠の誓い要求されたりしなくても?」
【智】
「しなくても」
るいの眉が顔の真ん中によっていた。
納得のいかない気分を言語化しそこねている。
【智】
「手続きするとできることになってるんだよ」
【るい】
「……首輪付いてるみたいでうっとうしい」
【智】
「盗難車とかだとどうしようもないし、面倒だし、お金かかるから、
他に手がかりがあるならそっちからあたっても」
【るい】
「手がかりか」
【智】
「目立つ子だったよね」
銀色の長い髪。
月の雫によく似ていた。
敵意を溶かし込んだ深い瞳。
錐のように突き刺さる。
嫌いなタイプじゃない。
【るい】
「なんか、トモちん変な顔してる」
【智】
「変な顔といわれました」
【るい】
「カンガルーがカモノハシ狙ってるみたいな顔だね」
【智】
「僕って有袋類!?」
しかも肉食カンガルー絶滅種。
【るい】
「どーしようかな」
るいは、口ぐせのようにさっきから何度も繰り返し呟く。
深刻さはゼロ。
地図も持たずに海へ出るのに慣れた、
船乗りの気楽さだ。
【智】
「軽く捜してみようか」
決めるのが嫌なのか。
曖昧な態度にそんなことを思って、
妥協案を促した。
【智】
「見つかったらめっけ物くらいのノリで。目立つ相手だし、犯人は犯行現場に戻るともいうし」
【智】
「見つからなかったら、役所にいってお金を払う」
街は広い。
外見の差異など吸収してしまう。
二人で歩いたくらいで見つかる道理はなかった。
でも。
【智】
「…………」
心地よかったから。
後しばらくは、この知り合って間もない友人と、
他愛もない時間を潰していていたいと思う程度には。
【るい】
「お金は大事だな」
【るい】
「よし、捜そうっ」
【智】
「御意のままに」
見つけた/見つかった。
ばったり。
間違いない。
あのライダーブラックの中の人だ。
るいが以前にぶつかったという、
ちょうどその辺りだった。
【るい】
「ほんだわら――――っ!」
歯をきしる。
獲物を発見して野性に火がつく。
戦いの雄叫びは現代人には理解しがたい。
【花鶏/???】
「…………っ」
反応有り。
相手はわずかに柳眉(りゅうび)を逆立てる。
天下の公道で奇行に打って出ない分、
るいよりも良識はあるらしい。
人目のない屋上なら轢殺オッケーという非常識だけど。
切れそうなまなざしが刺さる。
冷たく光る銀のナイフ。
たとえ捜していなくても、
雑踏ですれ違っただけで目をひいたろう。
珍しい銀色の髪が毛先まで怒気をはらむ。
整った日本人らしからぬ顔立ちと身を包んだ高雅。
敵意を差し引いてもあまりある。
高価すぎて触れるのさえ躊躇(ちゅうちょ)してしまう宝物のよう。
【るい】
「見つけた、覚悟!」
【花鶏/???】
「――自分から出向いてくるとはいい覚悟ね」
【智】
「すでに僕って眼中無し?」
それにしても。
【智】
「もう少し面白みのある現実を請求したいよ」
事実は小説より奇なりというけれど。
それにつけてもあっけない。
面白みがあればあったで平穏が欲しくなるわけで、人間とはまことに度し難い生き物だ。
【花鶏/???】
「のこのこ現れるなんて殊勝な心がけだわ。
さあ、返してもらうわよ!」
【るい】
「借りはまとめて返してやるわい!」
【花鶏/???】
「借りてただけとはご挨拶ね、寸借詐欺ってわけ!?」
【るい】
「詐欺っていうか、ケンカ売ったでしょアンタわ!」
【智】
「会話が噛み合ってないよ」
小さくツッコミ。
二人とも、冷静な僕の言い分を聞いてくれない。
人の話を聞かないイズムの信奉者たちだ。
信念というのは厄介者だ。
ときに動力となり、
ときに変化を阻害する。
メリットとデメリット。
何にだって裏表はあるわけで。
【花鶏/???】
「どこにやったの!?」
【るい】
「どこにもやんねーっ」
【花鶏/???】
「――潰す」
【るい】
「やったらあ」
【花鶏/???】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉みあいに。
十も年老いた気分で鑑賞する。
もつれた糸を解くためには冒険が必要だ。
この暴風雨の中に徒(と)手(しゅ)空(くう)拳(けん)で乗り込まねばならない。
【智】
「まあ、二人ともオチツイテ。平和のタメに話し合おうじゃないか」
(脳内シミュレーションの結果)
【るい】
「うっさい!」
(脳内シミュレーションの結果)
【花鶏/???】
「死になさい!」
(脳内シミュレーションの結果)
死 亡 完 了。
確実すぎる未来予測に介入を躊躇(ためら)う。
この二人は、生物として対極だ。
対立するのは愛のように宿命だった。
昔の人はいいました。
人の恋路を邪魔する奴は、
馬に蹴られて死んじゃえ。
【智】
「ここはひとつ若いひと同士にまかせて」
【るい】
「なにを」
【花鶏/???】
「なんですって」
【智】
「聞いてないね」
【るい】
「ががががががががが」
【花鶏/???】
「だだだだだだだだだ」
揉めに揉めた。
【るい】
「――――」
【花鶏/???】
「――――」
そして膠着。
【るい】
「……!」
るいの頭の上に、唐突に豆電球が点灯した。
【花鶏/???】
「?」
いぶかしむ。
僕も。
【るい】
「勝った」
勝利宣言だった。
なぜ!?
るいが指さし指摘し、
黒ライダーの中身は目で追いかける。
【花鶏/???】
「…………っ!」
胸。
両腕で胸を抱えて後ろにとびすさった。
刺殺できそうなぐらいに視殺。
【るい】
「ふーんふんふんふん♪」
勝ち誇り。
えっ、そこなの!?
そりゃ確かに勝ってるんだけど!
【花鶏/???】
「く、ぬっ、ぐ!!」
【るい】
「ブイ」
【花鶏/???】
「だ、誰が」
【るい】
「にょほ、負け惜しみ」
【花鶏/???】
「きっ」
【智】
「……ものごっそ低次元のところで覇を競わない」
【るい】
「勝てば官軍」
【花鶏/???】
「だ、誰が負けたのよ!」
人類の許容限界ぎりぎりまで
真っ赤になって咆哮する。
負けず嫌いだった。
【花鶏/???】
「サイズがあればいいってもんじゃないのよ。
貴方のはエレガントさに欠けるわ」
嘲笑で。
【智】
「……そっちの話ですか」
【花鶏/???】
「他になんの話があるの!?」
手段のために目的を忘れるタイプだな、こいつ。
【智】
「話があるのは、どっちかいうとこっち?」
【花鶏/???】
「どっち?」
【智】
「あっち?」
【花鶏/???】
「わからないわ」
【智】
「僕も」
【花鶏/???】
「よく見ると可愛い顔してるのね」
唐突に。
片手で、おとがいを持ち上げられた。
【智】
「ほわ……」
むちゅう
【花鶏/???】
「…………」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
れろれろ
にゅるりん
んちゅう
ちゅぽん
【智】
「にょ」
【るい】
「……きす、した……」
奪われた。
公衆の面前で。
【智】
「にょわわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
【花鶏/???】
「うん、まったりとしてしつこくなく、それでいてコクがある。
悪くないわ」
【るい】
「なにやってんのーっ」
蹴った。
【花鶏/???】
「痛いわね、何するのよこの野蛮人!」
【るい】
「コッチノ台詞ダーーーーッ」
【智】
「きききききききき、」
【花鶏/???】
「キスくらいで大騒ぎしない、よくある話でしょ」
【智&るい】
「「あってたまるかーっ!!!」」
ハモる。
【智】
「キス、キスキスキスキス、キスされちゃった……」
【るい】
「オチツイテ、深呼吸して、ね、ね、ね」
【智】
「はじめてだったのに……」
【るい】
「大丈夫、女同士だからノーカンだって」
【智】
「舌いれられちゃったぁ(涙)」
【るい】
「…………じょ、上手だった?」
【花鶏/???】
「ごちそうさま」
【るい】
「容赦ないな、おい」
【花鶏/???】
「愛に禁じ手はないのよ、おわかり?」
【るい】
「まったくもってこれっぽっちも」
【花鶏/???】
「いやね、学のない人は」
【るい】
「ケンカ売ってる? 売ってるよね」
火花再燃。
【智】
「…………蛮族ですか、キミたちは」
ショックの海から必死に立ち上がる。
【るい&???】
「「こいつが」」
ハモる。
互いを指差して責任を押しつける。
呼吸は合っていた。
【るい】
「っていうか、トモだって他人事じゃないっしょ」
【智】
「おまけに愛の犠牲者……」
【花鶏/???】
「心を揺さぶるフレーズね」
【るい】
「とっても吐き気がするぞい」
【花鶏/???】
「悪阻(つわり)ね。妊娠でもしてるんじゃないの?」
【るい】
「これでも処女なりよ!」
【花鶏/???】
「品性のない物言いしかできない女は最悪だわ」
【るい】
「この女……殺るか、ここで」
【智】
「それよりも、なによりも」
【智】
「全ての戦闘行為の即時停止と使節団派遣による双方の意思疎通を求めるものであります」
胸に充ちる喪失の涙をこらえて、
停戦勧告を行う。
【るい】
「裏切るかっ!?」
るいの殺る気は燃えていた。
【智】
「裏切るというよりも」
【花鶏/???】
「愛の虜ね」
【るい】
「にょにわっ、愛なのか!?」
【智】
「あい違い」
【るい】
「……日本語難しい……」
【花鶏/???】
「……同意するわ……」
まれには気が合う。
【智】
「場所を変えてネゴしょう」
【るい】
「ぬな、話す事なんてあんの!?」
【花鶏/???】
「こと、ここにいたって必要なのは、妥協ではなく明確な決着。
対話ではなく武器を取るべき時よ」
【智】
「戦意よりもなによりも恥ずかしいのです……」
行き交う人が笑っている。
ちらりと流し目、含み笑い、呆れた顔。
しょんぼり肩をすくめた。
【花鶏/???】
「……そうね。キスしてもらったわけだし、デートくらいなら付き合ってあげるわ」
【智】
「ニュアンスの違いが日本語の難度を高くする」
【るい】
「殴って蹴って解決!」
【智】
「……僕の話聞いてた、ねえ?」
ようやく落ち着いた。
【智】
「僕は和久津智、こっちは」
【るい】
「るい、だ。べー」
舌を出す。
鼻の頭まで届きそうなくらい長い。
【花鶏】
「花鶏」
先を行く背中が名乗る。
くるりときびすを返す仕草は颯爽(さっそう)と。
薄いルージュを引いた唇が、
三日月の欠片みたいについっとあがる。
【花鶏】
「花城(はなぐすく)花鶏(あとり)よ」
見惚れた。
【るい】
「舌噛みそ」
情緒がなかった。
【花鶏】
「さっさと噛んだ方が人類のためだわね」
【るい】
「噛むぐらいなら、あんたを沈めて逃走する、べー」
微笑ましい女の子同士の交流に涙が止まらない。
【るい】
「ここでぶつかった」
【花鶏】
「貴方がぶつかってきた」
【るい】
「ケンカ売ってる? 売ってるんよね」
【花鶏】
「わたしの日本語がきちんと伝わっていてとても嬉しい」
【智】
「そういえばさ、黄色って警戒色なんだって。注意一秒怪我一生、青の次で赤の前。何が起こるか分からないから人生大切に」
【るい】
「先のことなんてわかんないぜい」
【花鶏】
「アニマルだわ」
【るい】
「欲望ケダモノ」
【花鶏】
「愛の狩人と呼んで」
放置しておくと際限なく揉める。
【智】
「それで、その時に?」
【花鶏】
「――こいつに、大事なバッグを盗まれたわ」
【るい】
「えん罪」
【花鶏】
「シラを切る」
【智】
「だから、るいを捜した?」
【花鶏】
「手間取ったわ。いざ捜し出したらビルが燃えてて近づけなかった。ビルの上から隣に跳び移る誰かが見えた。とりあえず屋上に急いだら神のお導き」
【るい】
「成り行きまかせかよ」
【花鶏】
「努力に世界が応えるのよ」
いい台詞では誤魔化されない。
【花鶏】
「返しなさいよ」
【るい】
「返せるわけねーでしょ!」
【花鶏】
「なんていいぐさ。人類最悪ね」
【るい】
「そんならアンタは人類サイテー」
【智】
「むう」
返せと迫り、知らぬと答える。
折れ合う優しさは1グラムもない。
【智】
「謎を解こう」
【花鶏】
「どうするの、名探偵?」
【智】
「花鶏さんは」
【花鶏】
「さん付けは嫌。花鶏と呼んで」
【智】
「……」
何となく躊躇(ちゅうちょ)。
【花鶏】
「呼んで」
【智】
「……花鶏さん」
【花鶏】
「呼び捨てで、親しそうに。できれば愛しそうに」
【るい】
「厚かましいぞ、ふしだら頭脳」
【智】
「花鶏」
花鶏がにんまり笑う。
冷たい口元に豊かな表情。
アンバランスなモザイクが一枚の絵のようにはまる。
【花鶏】
「それで」
【智】
「るいとは昨日あったばかりだけど、嘘をつくような子とは
思えないから」
【るい】
「うむ、さすがはトモちん」
【智】
「花鶏の大事なバッグを持ってるのが、るいじゃない可能性を
考えてみる」
【花鶏】
「最初の可能性は?」
【智】
「るいが嘘をついている?」
【るい】
「べー」
【智】
「花鶏は、どれくらい僕の言うことを信じてくれる?」
【花鶏】
「会ったばかりなのに、そんなこと」
戯れるように笑う。
突拍子もない申し出を、
蔑んでもいなければ、拒絶してもいない。
【智】
「だから訊いてる」
花鶏はきっと愉しんでいた。
【花鶏】
「――――そうね、キスしてくれた分、かしら」
【るい】
「したのはテメーだ」
【智】
「僕、昔から勘はいい方なんだよ」
はたして。
花鶏は呆れた。
楽しそうに口元を歪める。
【花鶏】
「論理的ではないことね、
そんな言い分を根拠にしろと言いたいわけ?」
【智】
「だから信用。水掛け論よりは前向きでしょ」
【花鶏】
「信用はできない」
直裁に切り落とされる。
【花鶏】
「でも、一時休戦ということなら、さっきのキスでチャラに
してあげる」
【るい】
「この胸なし女、むかつくっス」
【花鶏】
「わたしはちゃんとあるっての!
あんたが淫らにぼよんぼよん膨らんでるだけでしょっ!」
火花が散った。
【智】
「協調と信頼だけが人類を進歩させるんだよ」
【るい】
「……難しいこといわないでよね」
【智】
「難しいんだ……」
人類の夜明けは遠い。
【智】
「じゃあ、一時休戦で。
とりあえずの謎解きをするから、現場の話をして」
我ながら、名探偵なんて柄じゃないのに……。
【花鶏】
「わたしはこのあたりをぶらついてたの――」
【るい】
「そしたらこいつがぶつかって――」
【花鶏】
「肘を入れられた――」
【るい】
「蹴ってきやがったから――」
【智】
「あのー、もう少し慎みとか女らしさとか」
【るい&花鶏】
「「そういえば」」
【花鶏】
「朝だったから人気はなかったけど」
【るい】
「もう一人いてさ」
【花鶏】
「こいつと揉めてたら」
【るい】
「びびって逃げて」
脳細胞に喝をいれて思考する。
騒ぎを起こして逃げ出した後、バッグがないのに気がついた花鶏は猟犬みたいに飛んで戻った。
時間にしてほんの2〜3分。
けれど、どこにもブツはなし。
閑散とした早朝の街路に
ぽつんと花鶏は立ち尽くした。
可能性@ るいが拾って逃走
可能性A 花鶏が隠し持っている
可能性B 居合わせた人物Xの手に
可能性C 偶然通りがかった新たな人物が(以下略
消去法。
@とAはとりあえず消す。
【智】
「通りがかったのはどんな男?」
【花鶏】
「女よ」
【るい】
「ちっこいやつ」
【花鶏】
「あまりよく覚えていないけど」
【るい】
「んーとね、たしか髪の毛をこう、くるっとふたつ」
髪の毛をくるっとふたつ横でまとめて尻尾にしたような女の子が、目の前を通り過ぎた。
【智】
「くるっとふたつ?」
指差してみるが、後ろの二人は固まっていた。
【花鶏】
「……」
【智】
「……」
【るい&花鶏】
「「あいつだよ!!!」」
【智】
「ほえ?」
【こより/???】
「ほえ?」
【花鶏】
「待ちなさい!」
【るい】
「逃がさんぎゃあ!」
【こより/???】
「ほえええ!!」
【花鶏】
「大人しくしてれば、あまり痛くないようにしてあげる」
【るい】
「大丈夫、こわくない、たぶん」
どう考えても嘘に聞こえる。
虎と狼に挟まれた哀れな白ウサギは狩られる運命。
恐怖に顔を引きつらせ、混乱に鼻を啜って、
情け無用に飛びかかる二人の間を、するりと抜けた。
【智】
「お、やるもんだなあ」
感心感心。
【こより/???】
「ほええええええええ」
びびってるびびってる。
【花鶏】
「外した!?」
【るい】
「ちょこまかとすばしこいっ」
【花鶏】
「お待ちっ」
【こより/???】
「いやあああああ〜っ」
【るい】
「動くな!」
【こより/???】
「たわあああぁあ〜〜っ」
待てや動くなで相手が捕まるものならば、
渡る世間に警察なんていやしない。
逃げた。追った。
ウサギっこは、するりと抜けた。
追跡者たちを向いたまま、
伸びたかぎ爪の触れんとしたその先から、
風に柳のたとえのように。
インラインスケートだ。
小さな車輪のついた小さな靴が、
小さな躯を魔法のように機動する。
【こより/???】
「ひやぁあああぁっ」
逃げた。追った。
ウサギが逃げる。ふたつ尻尾をなびかせて。
猟犬が追う。
るいと花鶏の剣幕に、夕の雑踏は、
預言者の前の紅海もかくやと左右にわかれる。
小さな影が小さな肩越しに何度も後ろを振り返る。
血の出るような追っ手の顔が目に入る。
【こより/???】
「うわああああぁあぁあぁぁん〜っ」
泣き出した。
【智】
「悲劇だなあ」
悲劇もすぎれば喜劇に変わる。
喜劇も過ぎれば悲劇に堕する。
走る。跳ねる。尾をなびかせる。
幾度となくあわやのところを手がかすめる。
間一髪に遠ざかる。
【智】
「すんごい」
他人事のように拍手する。
【花鶏】
「まったくちょこまかと、手強いことね」
【智】
「小休止?」
【花鶏】
「狩りには根気が必要なのよ」
【智】
「悪びれないね」
負けず嫌いも筋金入りだ。
【智】
「ところで、るいは?」
【花鶏】
「優雅さに欠けるぶんだけ、体力は余っているようね」
るいは追っている。
人垣の向こうに見え隠れする。
曲芸仕立てのローラーブレード相手に、
門戸無用の一直線で突っかかる。
【るい】
「うららららららら――――――っ」
【こより/???】
「うわああああぁあぁあぁぁん〜っ」
壁があったら跳び越える。
人があったら轢いていく。
【智】
「典型的な目的と手段が転倒するタイプだね」
泣けてくる。
【花鶏】
「手間のかかるのが倍になるわ」
花鶏の方は、
るいよりも多少冷静だった。
【智】
「追いかけるの?」
【花鶏】
「大事なものを盗まれたんだもの」
【智】
「乙女のはーとだっけ」
【花鶏】
「それは貸金庫にしまってある」
【智】
「鍵付きなんですか」
【花鶏】
「乙女だけに」
【智】
「ついさっきいんわいなべーぜ≠」
【花鶏】
「乙女心は気まぐれなのよ」
【智】
「気まぐれと言うより身勝手という」
【花鶏】
「いい女は気ままですものね」
ものは言い様だった。
【智】
「男の子が同意するのか聞いてみたいですね」
【花鶏】
「淫猥で頭一杯の野獣どもに興味はないわ」
えーっと…………。
それって、なに、その、
まさかそっちの趣味なの?
そういえば、さっきのキスだって。
【智】
「僕、女の子ですよね」
【花鶏】
「何をわかりきったことを」
【智】
「キス、しちゃいました」
【花鶏】
「まだ唇が貴女のことを覚えているわ」
きれいな言い回しにすればいいってもんじゃないよ。
【智】
「……典雅(てんが)な嗜好でいらっしゃいます」
ものすごく複雑な気分だ。
【花鶏】
「お褒めにあずかり恐悦至極」
皮肉も通じない。
【智】
「うまく捕まりそう?」
【花鶏】
「……逃げ足は速いわね」
【智】
「捕まってもらわないと話がすすまないよね」
【花鶏】
「話よりも罪の報いを与えてやるわ」
酷薄に笑む。
さよなら、
対話と協調の日々。
こんにちわ、
暴力と断罪の新世紀。
【智】
「もう少し穏やかなところで、ぜひ」
【花鶏】
「目には目と鼻を歯には歯と口を罪には罰を10倍返しで」
【智】
「ハンムラビ決済は利息が高そうです」
【花鶏】
「ではね。また後でお話しましょ」
【智】
「ところで花鶏さん」
呼び止める。
【花鶏】
「花鶏」
添削が入った。
【智】
「……花鶏、行く前に携帯の番号教えて欲しいんだけど」
【花鶏】
「住所と誕生日とスリーサイズも教えてあげましょうか?」
【智】
「いりません」
【こより/???】
「うわああああぁぁぁん〜」
【こより/???】
「ひゃいぃぃいぃぃぃぃぃ〜っ」
【こより/???】
「あーーーーーーーーーーーーーん」(泣)
【こより/???】
「ひぃ、はあ、はひぃ、ひやあ……」
街の片隅で土下座していた。
謝罪ではなく疲れ果てて膝から砕ける。
どうやら逃げのびた。
神出鬼没の猟犬たちの息づかいは振り切った。
おめでとう自由の身。
空よ、私を祝え。
でも、一安心したせいで緊張の糸がぷっつり切れた。
弛緩は人生における大敵だ。
思わぬ落とし穴に足を取られるのは決まってこんな時。
【こより/???】
「……わたし……なんで、こんな……」
頭をぐりぐり回していた。
苦悩中らしい。
【こより/???】
「あにゃー」
見ていて飽きない小動物っぽさ。
愛玩系。
【智】
「あ、花鶏? 近くに、るいは? それなら一緒に。
赤いレンガ仕立てのビルが目印で」
【智】
「そう、ブロンズ像を右に曲がって……うん、見えるから、
三番道の裏手あたり……っていってわかる?
他にめぼしいものは―――」
手早く説明して携帯を切る。
【こより/???】
「…………」
見つめられていた。
熱視線に、花のほころぶような微笑を返す。
【こより/???】
「……う」
赤面されました。
携帯を閉じる。
従容と近づいた。
軽く顎を引いて、背筋を伸ばし、
肩で街の風を切る。
学園でなら、下級生たちが黄色い声援のひとつもよこしてくれる。
【こより/???】
「あ、あの……」
【智】
「なにか?」
いい感じで問い返す。
お姉様っぽく。
【こより/???】
「その……ぶしつけなんですけど、なんていうのか」
【智】
「なんでしょう」
【こより/???】
「……なにか、あります……?」
【智】
「何かといわれても」
【こより/???】
「そ、そーですよね、はははは……」
【智】
「ふふふふふふふふふ」
ひとしきりの乾いた笑いがぴたりと止んだ。
言語化し難い沈黙が漂う。
対峙した距離に圧縮された緊張に、
世界の歪む錯覚をする。
【こより/???】
「あ、あの」
【智】
「なぁに?」
【こより/???】
「ど、」
ウサギの女の子が唇を噛みしめた。
一瞬に逡巡(しゅんじゅん)と決意が交錯する。
一生に一度の大勝負に拳を固めて、続く言葉は。
【こより/???】
「どちらさまでしょーかっ!」
【智】
「……」
【こより/???】
「は、あわ、そじゃなくて……あの……」
ボロボロだ。
【こより/???】
「はぁ――――――……っ」
肺が口から出そうなため息をついた。
【智】
「若いうちからため息をついてはいけないわ」
【こより/???】
「そう……ですか。そうかも……」
【こより/???】
「はぁ――……」
【智】
「また」
【智】
「ため息ひとつで幸せひとつ、逃げちゃうっていうんだし」
【こより/???】
「逃げちゃうんですか」
【こより/???】
「じゃあ、わたしって……幸せ残ってないのかな。
あんなのに追っかけられたりするし」
【智】
「追いつ追われつが人の世の倣(なら)い」
【こより/???】
「生きにくい世間様です」
【智】
「まあまあ、悪いひとたちじゃないから(たぶん)」
【こより/???】
「……悪い人に見えました」
【智】
「心の病気みたいなものなのよ」
【こより/???】
「お病気なのですか」
【智】
「血が上ると周りが見えなくなっちゃう症候群」
【こより/???】
「重症であります……はぁ……」
【こより/???】
「…………」
おとがいに人差し指をあてて、
ウサギっこはなにやら目を彷徨わせた。
喉の奥に引っかかった小骨がちくりと痛んじゃった……
そんな顔で眉間に皺を寄せる。
【こより/???】
「そこの通りすがりの方、
つかぬ事をお伺いするのですが」
【智】
「名前は智、サイズは内緒」
【こより/???】
「……聞いてないですから」
【智】
「ナンパじゃない?」
【こより/???】
「……女の子同士で不毛です」
【智】
「愛に区別は――――」
花鶏のふしだらな顔を思い出す。
プルシアンブルーの気分。
【智】
「……愛は区別した方がいいですね」
【こより/???】
「愛とは区別からはじまるんです」
【智】
「存外深いな」
あなどれないヤツ。
【こより/???】
「ところで通りすがりの方」
【智】
「ナンパ?」
【こより/???】
「違います」
【智】
「そうですか」
【こより/???】
「質問が」
【智】
「どうぞなんなりと」
【こより/???】
「なにやら、いわれなく不穏な気配がするであります」
【智】
「ナイス直感」
【こより/???】
「…………」
【智】
「…………」
沈黙のうちに視線を交わす。
熱視線。
【こより/???】
「うわーん、やっぱりさっきの悪党の仲間なんだあぁ!!」
【智】
「大当たりぃ」
時間稼ぎをやめて拍手する。
アンコールには応えず、
ウサギっこは脱兎と逃げ出して、
二歩もいかずに凍りついた。
【こより/???】
「あ……っ、うそ」
逃げ場がない。どこにもない。
三番町は薄汚れた終点だ。
お嬢様なら近づかない吹きだまり。
怪しい店が軒を連ねて看板を掲げる。
幾つも路地が入り組んでいる。
行き止まりも多い。
ウサギ狩りにはうってつけ。
【こより/???】
「ま、まさか――」
【智】
「はーい、その通り。実は罠でしたー」
にこやかに種明かししてみます。
【智】
「ここまで逃げてくるように誘導したんですねー、もうびっくり。すぐ仲間が到着して君を組んずほぐれつにしてしまいまーす」
【智】
「ここまで来ればわかると思いますが、なんとっ!
今までの小粋な会話は全て時間稼ぎだったのです!!」
【こより/???】
「みゃわ」
衝撃の事実が鉄槌の勢いで打ち込まれる。
【智】
「くくくくく、随分と手間をかけさせてくれたけれど、これで
終わりね。お前はもはやジ・エンドっ!」
【智】
「餓えたケダモノどもの手でっ! 救われぬ新たな運命が!
お前に! 下されるのだッッ!!」
【智】
「さようなら明るく清純な人生、こんにちわ淫猥で甘美な堕落の日々……さあ、」
ついっと涙を拭うフリをして。
【智】
「僕とスイートなストロベリートークしましょう……あれ?」
たっぷりタメをつくって場を和ませようとした。
ウサギっ娘は話も聞かずに飛び出していた。
パニくったまま一目散に走る。
右はビル、前もビル、後ろには僕。
唯一空間の開かれた左側へ。
低い柵が行く手を阻んでいた。
腰よりちょい上の高さの鉄柵を、
映画の身ごなしで横っ飛びに跳び越える。
そこに。
着地するべき地面は無かった。
柵の向こうは土地が低い。
3メートルはある落差。
落ちる。
【こより/???】
「ぎゃわーっ」
【智】
「ちょ――――――っ」
【智】
「なにやってんのーっ!」
危ないところで襟首を捕まえた。
宙づりになったウサギは、
ひたすら混乱して暴れる。
ギリギリの一歩向こう側に
身体を乗り出した危険な姿勢。
目が眩むくらいの不安定だ。
【智】
「――――らめぇ、暴れちゃらめーっ、危ないから、ほんとに
とれちゃうからぁ!」
【こより/???】
「うあああああああ」
【智】
「だから動かないでぇ……動かないでじっとして……っ」
下まで3メートルとちょっと。
他人事なら小さな距離も、
直面するとゾッとする。
【こより/???】
「だめだめ、こんなのだめ、死んじゃう、落ちちゃうとれちゃうぅう」
【智】
「お、おちついて、はやく、何か掴んで!」
【こより/???】
「ぎゃぎゃぎゃーーーーんっ」
聞こえてない。
スケートで壁を蹴った。
魔法の靴が空回りする。
ローラーはまずいよね、
こういう場合。
バランスが、崩れた。
僕にしたって、どだい女の子ひとり支えられる姿勢では
なかったわけで。
【こより/???】
「――――っ」
【智】
「――――っ」
今度こそ落下。
【こより/???】
「は、あ、あれ、生きてる……わたし生きてる……!」
【智】
「あれくらいの高さだと簡単には死にません」
【こより/???】
「あぁ、生きてるって素晴らしいです……」
聞いてない。
下まで落ちればそこは裏路地。
裏の裏までやってくれば
ネオンも雑踏もとっくに彼方。
街の不純物とゴミの混じった腐敗臭と
こびり付いた汚れのせいで、ひときわ暗い。
空。
あそこから落ちたんだ……。
ほんの3メートルぽっちの高さの場所が、
上から見下ろしたときよりも遠かった。
【こより/???】
「ふにゃ」
頭の上からウサギっこが顔を寄せてきた。
【智】
「うわっ」
【こより/???】
「さっきの通りすがりの悪い人」
【智】
「通りすがりだけど悪くないひとです」
【こより/???】
「嘘つきです。わたし、騙されました!」
丸い眼を細めて、糾弾。
【智】
「生きるってコトはね、時には残酷な行いに手を染めなければ
いけないってことなんだ」
【こより/???】
「詭弁だ」
【智】
「方便といってください」
【こより/???】
「でも、助けてくれたんですね。
あそこから落ちて、もうダメって思ったのに……」
【智】
「いいひとですから」
【こより/???】
「……センパイは、わたしを捕まえてとても言えないようなことをするつもりなのですか?」
【智】
「なぜ先輩」
【こより/???】
「年上っぽいので」
【智】
「安易だなあ」
【こより/???】
「悩みを捨て去る、あんイズムを信奉中であります」
【智】
「苦悩は人生の糧だから大切にね」
【こより/???】
「クリーニングオスするッス」
【智】
「クーリングオフです」
【こより/???】
「みゅん……」
【こより/???】
「おっと、それよりも!」
【智】
「なによりも?」
【こより/???】
「助けてくれたのですね」
【こより/???】
「あまつさえ、不肖鳴滝(なるたき)めの身代わりに、下敷きになってくださったですね」
【智】
「…………」
尻に敷かれていた。
女性上位……。
ちょっとエッチだ。
この場合、僕も女性なんだけど。
形式上、彼女を助けたことになるらしい。
偶然のたまものだけど、
告白して感動巨編に水を差すのは止めておく。
真実は僕の心だけにしまっておこう。
【智】
「ウサギちゃんの可愛い顔に傷がついたら大変だものね」
優雅に、ウサギちゃんの乱れた髪を整えてあげる。
日々積み重なる方便の山。
【こより/???】
「きゅーん!」
【智】
「なにそのリアクション?」
【こより/???】
「感動してます」
【智】
「ごめん、でも、僕はもうだめみたい」
【こより/???】
「死んじゃだめ、死なないでセンパイぃ!!」
【智】
「無茶をいわないで。生まれてきたものはいつか死んでしまう。
でも、それは辛くても悲しいことじゃない。僕は来たところへ
帰るだけなんだから……」
【こより/???】
「らめ――っ」
涙ながらにすがりつかれた。
おもむろに身体を動かしてみる。
痛みはあるけど大きな怪我はなさそうだ。
わりと丈夫な我と我が身。
【智】
「そっか、下に何かあったんだ」
天然クッションのおかげで無事だったらしい。
二人で下敷きにしていた。
見知らぬ男だった。
気絶している。
【智】
「…………」
【こより/???】
「…………」
顔を上げた。
目の前にいた。
見知らぬ女の子だった。
大きいのと小さいの。
【こより/???】
「センパイ」
【智】
「なにかしら、あー、花子ちゃん」
【こより】
「花子ではありませぬ、鳴滝(なるたき)こよりです」
【智】
「じゃあ、こよりちゃん」
【こより】
「なんだかとっても投げやりですっ!」
【智】
「今はそんなこと問題じゃないと思う」
【こより】
「そうです。そうなのです。センパイ!」
【こより】
「……これって、もしかするとやらかしてしまったのでは?」
【智】
「やらかしたには違いないですが」
後ろにもいた。
見知らぬ男どもだった。
大きいのと小さいの。
腐肉をあさるのを邪魔された
ハイエナみたいな顔で、呆気にとられている。
男たちは早口に言葉を交わしていた。
【こより】
「なんていってるですか」
【智】
「中国……んと、広東語……かも」
【こより】
「センパイはバインバインです」
【智】
「たぶんバイリンガル」
【こより】
「そうッス、それッス」
大げさに感心して手を叩く。
緊張がほぐれたせいか、
ウサギっこの挙措は一々ハイだ。
【智】
「実はテンション系だったんだ」
驚きの新事実。
【こより】
「侮辱です。
不肖鳴滝め、常日頃から常住坐臥に真剣本気であります!」
【智】
「それはそれでタチが悪い」
【こより】
「それよりも何よりも、センパイ、ガイコク人間さんの言葉が
おわかりになるデスか?」
【智】
「言葉には気をつけてね。最近いろいろ厳しいから」
【こより】
「大丈夫ッス、カタカナですし」
【こより】
「そんでバイリンガルなのですね!」
【智】
「わからないから当てずっぽう」
【こより】
「わたしの感動を返してください」
【智】
「真実はいつだって残酷なんだ。
誰も皆そうやって大人の階段を上っていくの」
男どもからの敵意が痛い。
いやんな予感が止まらなかった。
言葉がわからなくても察しがつく。
こんな人気のない場所で、女の子を取り囲む理由は、
自己啓発セミナーの勧誘や新聞の販売ではないだろう。
【伊代/???】
「あ、あなたたち、早く逃げて!」
【こより】
「センパイ、なんか逃げろ言われてます」
【智】
「ニブチンは幸せに生きるための要諦ですね」
【こより】
「ふむふむ、勉強になるです」
【智】
「……これだもの」
いつの時代も天然ものは強い。
自然の素材が作るうま味に養殖ものでは対抗できない。
【こより】
「これとは、どれでありますか?」
【智】
「とりあえず、前かな」
男どもを刺激しないように立ち上がる。
早くても遅くてもいけない。
即席の後輩を、後ろ手で、
姉妹の方へおいやった。
不満げな顔のウサギちゃんに一瞬注意を向ける。
突っかけられた。
男は場慣れしていた。
素早い。右の手首を掴まれる。
背中にヒネリあげられたら勝負がつく。
多対一。
現実はシビアだ。
ドラマや映画のような鮮やかさはない。
反射的に足を払う。同時に腕を引く。
重心を失った力学が、
掴んだ手を軸に男の身体を半回転させる。
背中からコンクリートに落ちた。
【こより】
「おおー、センパイすごいっス! ミス拳法!」
ただの護身術です。
【智】
「ダメ、全然ダメ」
【こより】
「えー、すごいッスよ」
空気が変わる。
針のような敵意。
相手が女ばかりだと油断してる時が、
最初で最後の好機だったのに。
やるときは確実に、徹底的に。
半端に手を出すのは。
【男】
「…………ッ」
男が左肩を押さえて立ち上がる。
目つきが変わった。
【智】
「――――奥は?」
【こより】
「袋小路になってます」
【智】
「こまるよ、そんなことじゃ」
【こより】
「まったくっス」
これで逃げる選択肢はなくなった。
目の前の二人を何とかしなければ。
二人を引きつけられないか。
時間を稼ぐ方法はあるか。
他に仲間がいたらどうしよう。
【男】
「――――っ」
早口の異国の言葉。
意味不明な言語が断絶を色濃くしていた。
ポケットに手をつっこんだ。
刃物――――
【智】
「まずいかも」
身構える。
【伊代/???】
「……ッ」
ウサギっこより先に、
後ろの姉が言葉の意味に反応した。
きれいな眼鏡っこだ。
整った目鼻立ちは、花鶏と違って、
外に向かう華やかさには欠けている。
【伊代/???】
「だ、だから、早く逃げてっていったのに!」
叱る口調が背中から飛んでくる。
叱責の内容が「逃げなかったこと」だというのに、
状況を忘れて微苦笑がもれた。
【こより】
「逃げられる状況じゃ無かったッス」
【伊代/???】
「そ、そうだけど……っ」
【伊代/???】
「でも、そ、そうよ、それならわざわざ降ってこなくたって!」
【こより】
「事故だったッス」
【こより】
「不幸な出来事だったッス。でも、運命の出会いッス!
不肖鳴滝は、センパイオネーサマとの出会いのために
生まれてきたと知りました!」
【智】
「それはどーだろう」
【こより】
「うわ、ものすごく、つれないです!」
【伊代/???】
「な、なんなの、いったい……あなたたち……」
【茜子/???】
「……」
姉は常識的な反応が微笑ましい。
妹の方はちょっと変だ。
怯えてるのでもないし、
悲鳴をあげるでもない。
起伏の乏しい、大気めいた存在。
切りそろえられた前髪のせいで精緻な人形の印象がある。
【智】
「――――」
爪先が砂利を踏みにじる音。
男たちだ。
途端に空気が冷えた気がした。
腹腔に差し込まれるような、底冷えのする冷気。
どぎつい悪意が向けられる。
刃物と同じ見ただけでそうと知れる剣呑さを感じ取る。
さっきまでとは違う。
女と甘くみていない。
【智】
「……ッ」
温情のない、は虫類に似た目つき。
暴力の扱いに慣れた気配を身につけている。
【男】
「……」
顎をしゃくって、
一人が指示を出す。
無言で進行する事態が、
手慣れた具合を思い知らせる。
冷静に対処しても、しきれるかどうか。
相手が笑っている。
暖かみがなく、胸の悪くなる顔だ。
逃げる方策を練る。
逃走経路がない以上。
どうにかして、突破、しなければ。
せめて、後ろの三人を――、
【るい】
「どぉりゃあああああああああああああああ!!!」
るいが上から落ちてきた。
【るい】
「お・ま・た・せ!」
すっくと立つ、るい。
ぶい。
【智】
「――――」
呆気にとられて、口もきけない。
男二人は、るいの足下で転げ回っていた。
落下ではなく突撃だった。
雪崩式ラリアート。
無事ではすまない。
【るい】
「いんやあ、智ちん、やばかったねえ。上から危機一髪シーン目撃した時は、どーしようかと思ったよ。ま、発見したのはあのヤローだったんだけど」
頭上から、
花鶏が優雅に手を振る。
【るい】
「エロ魔獣もちったー役にたったわな」
【智】
「……助かった。いや、それよりも――」
【るい】
「んん〜?」
上から下まで。
るいを目線で辿る。
見る限り怪我はない。
【智】
「大丈夫? どっかぶつけてない? 折ったりは? 打ち身は
あとから来るけど――――」
【るい】
「なんだぁ、心配してくれたんだ」
【るい】
「これぐらい平気平気。るいさん、鋼の乙女だから」
【智】
「でも」
【るい】
「ちょ、ちょっと、顔こわいよぉ」
詰め寄る。
何事もない高さじゃなかった。
【智】
「!」
後ろだ。
男の片方が半身を起こしていた。
引き抜かれた手には小さな折りたたみのナイフ。
危険が膨れあがる。
ただの激発とは違う、
鋭利な指向性を持った憎悪。
意識と判断の隙間に滑り込む速さで、
無音の殺意が、るいの死角から閃い――――。
その顎先へ、コマ落としめいた、
旋回の遠心力をのせた爪先が合わさる。
【男1】
「ガッ」
路地の狭さを苦ともせず、
高くしなやかに上がる、るいの足。
かかとは肩より高かった。
敵意を扱うにも慣れがいる。
扱いかねれば沸騰する。
過剰にやりすぎるか、
それとも行為そのものに怯えて萎縮する。
刃物を突きつけられれば、
小さなものであれ、誰しも容易に冷静さを失う。
るいの敵意はぶれなかった。
牙のように冷酷に。
技術や体系を感じさせる動作ではないのに、
人体の最適解に基づいた挙動だ。
本能に訴える美しさだ。
蹴りこんだ瞬間はついに見えず、
男がビル壁に叩きつけられた姿だけで結果を知る。
【るい】
「平気っしょ?」
るいは汗一つ浮かべていない。
余裕ありあり。
男はぴくりとも動かなかった。
【こより】
「おー、すっごいッスッ!!」
【るい】
「まね」
素直すぎる称賛と返答。
複雑な安堵の息をつく。
【るい】
「そんで、なんで危機一髪?」
【智】
「それよりも……」
【るい】
「なによりも?」
【智】
「まず、こっから逃げ出そう」
【智】
「突き詰めると世の中は確率的なんだよね」
【るい】
「トモが呪文を唱えた……」
【こより】
「大丈夫であります! 不肖鳴滝めがかみ砕いて解説すると……」
【智】
「すると?」
【こより】
「つまり、世の中確率的ってことです!」
【伊代/???】
「かみ砕いてないわよ」
【こより】
「おううう……」
【智】
「要するに残酷な偶然の神様が支配してること」
【智】
「道ばたで1億円拾うのも、突然事故で大けがするのも、生まれてくるのも、死んじゃうのも」
【伊代/???】
「ただの偶然?」
【花鶏】
「つまらない考え方ね」
【るい】
「なんだと、エロ魔神」
【花鶏】
「エロは関係ないでしょ」
【智】
「花鶏は?」
【花鶏】
「わたしは運命を信じるわ」
【るい】
「乙女エロだな」
【花鶏】
「……だから、エロは関係ないでしょ、エロは」
【こより】
「運命って運命的な響きッス」
【伊代/???】
「……いやいや、それはどうなのよ」
【茜子/???】
「…………」
【智】
「運命があるなら、今の状況も運命?」
【花鶏】
「そうね。必然の出会いだったかも」
【智】
「是非とも道を示して欲しい」
【花鶏】
「つまらないことをわたしに訊かないでちょうだい」
【智】
「他に誰に訊けばいいのよ」
運命はどこいったんだ?
【花鶏】
「運命はね、自ら助けるものを助けるのよ」
【智】
「運命って厳しいんだね……」
要約するなら。
取っかかりは偶然だったらしい。
【伊代/???】
「わたしたち、別に姉妹じゃないから。だって別に似てないでしょ」
【智】
「それは……まあ、そうかな。あの、えーっと……」
彼女の名前は。
【智】
「名前、まだ……」
【伊代/???】
「これ」
わざわざ学生証を差し出された。
県下で有名な進学校だ。
見せびらかしたいんだろうか?
白鞘(しらさや)伊代(いよ)。
それが彼女の名前。
彼女が妹(嘘)とぶつかったのがそもそもの始まりだ。
見たときは追われていた。
どうみてもか弱く、
どう見ても逃げ切れそうになかった。
気がついたときには、
伊代は手を引いて走り出していた。
【るい】
「なんで?」
【伊代】
「だ、だって……っ」
目線を外した。
言葉にしにくそうに唇を噛み、
膝の上で組み合わせた手を何度もにぎにぎしている。
【伊代】
「……ほっとけなかったから」
不器用な返答。
【智】
「いいやつ」
【るい】
「いいやつだ」
【こより】
「いいやつッス」
【伊代】
「ッッッ」
伊代は赤信号のように点滅する。
居心地悪そうにしきりと眼鏡を直す。
田松市三区にある進学校の制服に詰め込まれているのは、
思いの外の正義感と不器用さだった。
委員長っぽい外見だと思ったら、
本当にそういうキャラらしい。
【智】
「正義派委員長純情派」
【伊代】
「……別に委員なんかしてないわよ?」
【智】
「素で返されましても」
【茜子/???】
「甘ちゃんさんは早死にするのです」
しんと場が冷める。
【こより】
「……容赦ないッス」
こっちの方は、普通に名乗った。
【茜子】
「茅場(かやば)茜子(あかねこ)」
ことの発端の方は、
どうにも一際の変わり種だ。
白い肌、そろえた前髪、無表情。
気配の薄さが、
見た目の人形っぽい雰囲気を強くしている。
小柄なこともあって、
最初はうんと年下かと思った。
実は二つばかり離れているだけだった。
芸は、毒舌、らしい。
おまけに、いつの間にか不細工な猫を抱えていた。
どこから生えたんだろう。
【花鶏】
「お人形かと思ったら意外に言うわね。無口なのより、
ずっと可愛いわ」
【るい】
「……とって食うんじゃないだろな」
茜子は、口が悪かった。
他人の反応をちらりと確かめる。
伊代は、舌鋒を気にした様子もなかった。
【茜子】
「私の戸籍上のファーザーが」
【伊代】
「義理のお父さん?」
【茜子】
「リアルファーザーです」
【るい】
「なんで但し書き?」
【茜子】
「縁切り終了済みです」
茜子の父親は借金を作って逃げ出した。
多重債権で首が回らなくなり、
家族を捨てるに至るまでは、ほんのひとまたぎ。
茜子は施設に送られた。
そのまま終わっていれば、
よくある不幸な話で済んだ。
不幸は、得てして次の不幸を呼ぶ。
呪いのように連鎖する。
不幸に陥ったものは、
そこから抜け出そうとあがく。
あたりまえに。
世界は気まぐれだ。
同時に無情に公平だ。
不幸を気遣ってはくれない。
不幸に陥ったものが、
不幸から抜け出すのは、
不幸であるが故に難しい。
焦る。
追い詰められて賭に出る。
ギャンブルで破産したものが、
最後の大ばくちと大穴に賭けるように。
当たり前に失敗する。
呪いだ。
茜子の父親は、呪いを踏んだ。
【茜子】
「あの人たちのお金がどうとか、持ち逃げしたとか、面子が
どうとか。面倒なので聞き流しました」
茜子にも飛び火した。
断片を聞くだけでもろくでもない火の粉だ。
【智】
「笑えない」
【るい】
「ま、父親なんてそんなもんよ」
こちらも一刀両断にする。
【智】
「あてにならないのは認める」
【花鶏】
「親はなくても子は育つ」
しみじみと、共感めいた空気が流れる。
【智】
「……あんまり嬉しくないよね、こういうのの共感は」
【るい】
「考えてもしかたないっしょ。泣いても笑っても親がアレでも、
私らみんな生きてるんだもん。生きてる以上はたくましく
生き抜くの」
【花鶏】
「珍しくも正論ね」
【るい】
「珍しいいうな」
【智】
「あんまり女の子っぽくないのが」
僕の幻想の残り香が五分刻みにされる。
うれしくない。
【るい】
「女は度胸」
【こより】
「センパイッ!」
【智】
「はい、こより君」
びしっと手が上がる。
鳴滝こより。
追われて逃げて捕まったウサギっこ。
小柄だった。
茜子よりもちっこくて細い。
最初は子供かと思ったけど、よく見れば細く伸びた足に色気の
片鱗くらいはうかがえる。
ウサギというより子犬のようにうるさかった。
無駄に元気が余っている。
小動物系とカテゴライズするのは卑近(ひきん)な気がする。
【こより】
「これからどうするでありますか!」
【花鶏】
「そうよ、もう逃がさないわよ!」
【こより】
「は、はひゃ」
花鶏が睨む。こよりがびびる。
猫とネズミの果たし合いっぽい力関係。
【るい】
「いいじゃない、そんな細かいこといちいち」
【智】
「……さすがにそれは大雑把すぎだよ」
るいは追いかけた理由も忘れていた。
【智】
「とにかく、逃げ出して落ち着くまでは一時休戦で」
【花鶏】
「休戦条約が多いわね」
【智】
「戦争は外交の手段です」
【花鶏】
「……ふん」
【伊代】
「それで?」
【智】
「なんとか、全員で、この場を逃げだす」
【花鶏】
「――でも」
花鶏が眉間に皺を作る。
そうだ。
現場を逃げ出した後、好きこのんで、
こんな場所に隠れ潜んだのは理由がある。
こんな場所……。
恥かしいので残念ながらお見せできませんが、
実は、その手のホテルなんです。
でっかいベッドとかあって。
すごく安っぽい作りになっていて。
シャワーとかテレビとかもあったりして。
皆、意識しないように目を逸らし合ったりしてるので、
一種独特の緊張感があったりします。
見ず知らずの男女が、あんなことやこんなことをしてるベッドとかお風呂がすぐ隣にあると思うと。
【智】
「まず、ここを早く出たいよね……」
さて、ここに逃げ込んだ理由。
さっきのヤツの仲間が、
僕らを捜していたからだ。
それらしい連中を見掛けた。
この一帯の歓楽街には日本人以外にもいろんな人種が入り
込んでいて、どいつもこいつも複雑なコミュニティーを
作っている。
部外者で一般人で、おまけにお嬢様系の僕の耳にも、
そういう噂が届くくらい、街の裏側の事情は物騒だ。
できれば一生関わり合いになりたくない。
茜子の父親が手を出したのは、
そのうちの中国人系グループのひとつらしい。
不良あがりのチンピラの機嫌を損ねたのとはわけが違う。
【るい】
「ぶちのめして突っ切っちゃえば」
【こより】
「ひぃ」
【伊代】
「女の子が無茶なこと言わないっ」
【智】
「なんでそんなに荒っぽくしたいかな」
【花鶏】
「脳みそ筋肉」
【るい】
「なんだと、エロス頭脳」
【花鶏】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉み合いに。
【智】
「なぜ揉めるのか」
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。この人たちはだいぶ頭悪いです」
【智】
「うん」
【伊代】
「いやそれ否定してあげなさいよ?」
【こより】
「センパイ!」
【智】
「はい、こより君」
【こより】
「警察さんとかのお世話になるのはいかがッスか!?」
【花鶏&るい】
「いやよ」「反対!」
揉み合いの途中で固まって、
そろって反対意見を出す。
妙なところでだけ息が合う。
【茜子】
「却下です」
【こより】
「茜子ちゃんもッスか!」
【るい】
「私、家出少女なんだかんね。家に連れ戻されたらやっかいでしょーがないつーの」
【花鶏】
「貴方の都合なんてしったこっちゃないわ」
【るい】
「ほほう」
【るい】
「んなこといって、あんただってヤなんじゃない。そういうのをね、同じ穴のムジナっていうんだよ」
【花鶏】
「わたしは、ああいった連中の力を借りるのが気にくわないだけよ。プライドの問題。エレガントではないわ」
【花鶏】
「追われて逃げ回るネズミのよーな、あなたと一緒にされては困るわね」
【るい】
「エレガントつーよりエレキングみたいな顔してるくせに」
【花鶏】
「意味はわからないけど馬鹿にされてるのはわかるわ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
さらに揉み合いに。
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。この人たちは犬猿(いぬさる)です」
【伊代】
「あなたはどうして?」
【茜子】
「…………」
【茜子】
「施設に戻りたくありません」
【伊代】
「戻りたくないって……」
【伊代】
「その、行くあてとかは……?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「あなたは、なにか考えある?」
【智】
「智でいいよ」
【伊代】
「…………」
【智】
「どうしたの?」
【伊代】
「と……いやいやいきなり名前なんて、変よ! うん。こういうのは少しずつ馴染み合って互いに親睦を深め合った結果に生まれる関係であって……」
【智】
「つまり僕らは仲間でもなんでもないぜ?」
【伊代】
「ご、ごめん! そういうんじゃなくて、ないんだけど」
【智】
「焦るところ、可愛い顔」
【伊代】
「…………」
【智】
「ひかないでください」
【伊代】
「……そういう趣味の人じゃないよね?」
警戒される。
【智】
「いいがかり」
【るい】
「そういう趣味のひとはこっちのエロガントだ」
【花鶏】
「差別発言で訴えるわよ」
【るい】
「警察はエレガントじゃねーじゃないのかよ?」
【花鶏】
「それはそれ、これはこれ」
【伊代】
「……なんて心いっぱいの棚」
【こより】
「?」
【茜子】
「…………」
おちびの二人は状況が飲み込めてない。
【智】
「……?
ああ、この制服、知ってるんだ」
【伊代】
「そりゃあね。地元じゃ有名どこだし。
駅のこっちがわに来るようなひとじゃないんでしょ、あなた」
【智】
「厳しい学園だから、ばれたら即コレものじゃないかな」
すっぱりと首を切る手つき。
【智】
「でも、伊代も結構な進学校なんじゃ」
【伊代】
「ん、まあ、そうかな」
【智】
「厳しいところ?」
【伊代】
「繁華街には出入り禁止」
【るい】
「ありがち」
【伊代】
「後はネットも毛嫌い。
うちの学園、一昨年晒されて風評被害被ったからって」
【こより】
「あ、それ覚えてるッス!」
【智】
「教師の体罰問題だっけ? 風評だったんだ」
【伊代】
「事件は本当にあった。内情暴露がアップされたりで、先生何人かいなくなったりもしたし。ただ、余計な風評も多かった。個人情報流されたり」
【智】
「熱しやすく冷めやすいのがネットってやつで」
【るい】
「ネットってよーわからん」
【こより】
「るい姉さんは掲示板とか見ない口ですか?」
【るい】
「そもそもしない」
【智】
「回線もなさそうな家だったねえ」
【花鶏】
「原始人」
【るい】
「てめえが燃やしたんだろ」
【花鶏】
「いいがかりはやめなさい」
【伊代】
「こら、もー、揉み合ってないで!」
【智】
「すごく委員長っぽくてグー」
【伊代】
「わからないこと言ってないでよ……」
【智】
「とりあえず、逃げ出す方法を考えよう」
【伊代】
「あなたも警察とか嫌いなひとなんだ」
【智】
「好き嫌いよりは、やっぱり他人だからね」
【伊代】
「…………?」
治安機構の目的は治安を維持することで、
個人の事情を万全には斟酌(しんしゃく)してくれない。
権力の本質は暴力だ。
暴力的でなければ治安の維持など不可能なのだから。
個々の自由を切り売りすることが、
つまりは平穏無事な毎日の正体だ。
最近では線引きの問題も複雑怪奇になる一方。
立ち入り過ぎれば叩かれ、
手遅れになれば責められる。
個人の権利問題が絡むとさらに厄介になる。
解決すべき問題はそれこそ無数に生じるくせに、
人手というリソースは有限で、ともすれば叩かれさえする。
及び腰にもなろうというものだ。
【伊代】
「あてに出来ないってこと?」
【智】
「どれくらい関わってくれるかわかんないし、一時的にどうにかなっても長期的には無理だし、相手の神経逆撫でして余計な恨みかっても守ってくれないし」
何よりも。
【智】
「個人的に学園のこともあるし、警察沙汰って避けたい」
それが一番の理由で。
【智】
「ついで、さっき3人ほどのしちゃったでしょ」
【こより】
「すごかったッス」
【伊代】
「そうねぇ」
【智】
「表沙汰になると、のした連中につけ込まれるかも」
【伊代】
「…………」
【こより】
「でも、あれって正義の味方ッス。
悪い奴らをぶっ飛ばしただけじゃないですか!」
【智】
「世の中ってよくも悪くも公平だしね」
【伊代】
「つまるところは……」
【るい】
「自分の身は自分で守れってことじゃない」
ソファーでごろごろしながら、るいが一刀両断にした。
【花鶏】
「最低の気分だわ」
【るい】
「それはすごく嬉しいぞ」
【花鶏】
「あなたと意見が一致するなんて、
わたしの人生における最大の汚点だと思う」
【るい】
「人生この場で終わらせるか、この女」
【伊代】
「……ごめん」
【智】
「なにが?」
【伊代】
「…………」
【伊代】
「あなたたちに、とんでもない迷惑かけてる」
伊代は恐縮しきっていた。
いよいよ本格派委員長気質というやつか。
【智】
「……別に伊代の責任じゃないよ」
【伊代】
「でも」
【茜子】
「でももなにも、あなたは悪くありません」
【茜子】
「頭が悪かっただけです。
私なんかを助けたからこんなことになったのです」
【茜子】
「犯人は私でした。情けは人のためではなくて、自分のために
使いましょう。そんなことも気がつかないニブチンさんなので
人生の勝利はおぼつかないのです」
【茜子】
「判断ミス、ザマー」
【伊代】
「…………」
無表情に、茜子が笑う。
透きとおった、硬質なのに、
輪郭の曖昧な笑い。
【茜子】
「そういうわけなので……」
【茜子】
「……別に……そのひとは……悪くないです……」
それなのに、最後だけが、たどたどしい。
目眩がするほどの、純朴さ。
おかしかった。
【るい】
「ぷぶっ」
我慢できずに吹き出した。
るいだった。
【るい】
「くくくくく」
収まらないで笑い出した。
沈みかけていた空気が弛緩する。
救われた、と。
なぜか、思う。
【るい】
「平気平気、るいさん正義の味方だから、このくらいなら迷惑でもなんでもない」
るいらしい、
何一つ考えていない思いつきの返事。
頼もしい。
【花鶏】
「……わたしは、困ってる女の子には手を差し伸べる主義だから」
【智】
「僕の時は、手を差し伸べてくれませんでした」
【花鶏】
「その代わり唇を差し伸べたわ」
【智】
「……そうですか」
つくづく、僕は僕が可哀想だ。
【こより】
「…………」
【智】
「なんですか」
【こより】
「なんか……えっちい会話をしてる気がするであります」
【智】
「他意はありません(嘘)」
【こより】
「そんで、センパイはどーするですか」
【智】
「こよりんはどうしたいの?」
【こより】
「不肖、この鳴滝めはセンパイオネーサマと一心同体。一度は
捨てたこの命、生まれ変わった不死身の身体、地獄の底まで
おともする覚悟であります!」
【智】
「不死身ない不死身ない」
【こより】
「心意気だけ不死身なのです」
【智】
「正直でよろしい」
【智】
「それじゃあ」
【智】
「逃げ出す算段をしましょうか」
【こより】
「さーいえっさーっ!」
【伊代】
「あんたたち…………」
【智】
「細かいことは気にしなくていいよ。いやなら最初から見捨てて逃げ出してる。乗りかかった船には最後まで乗るのが趣味なんだ」
【伊代】
「……火傷しやすいタイプだったんだ」
【智】
「それで伊代の気が済まないようなら」
【智】
「貸しにしとくから、今度返してください。精神的に」
【伊代】
「…………」
言葉を探していた。
【伊代】
「……ありがとう」
結局は、まっすぐなものを選んだ。
返事を考えて。
笑む。
余計な装飾のない笑顔。
伊代が、ぎこちなく口元をほころばせた。
初めてみる表情。
【智】
「伊代は、笑ってる方がずっとかわいい」
【伊代】
「…………あなたは」
【智】
「なぁに」
【伊代】
「男だったら、きっと、ずるい男になってたと思う」
【智】
「むう」
複雑な感じにダメージを受ける。
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。あなたがたはどいつもこいつも
阿呆生物です」
【花鶏】
「どうだったの?」
【智】
「だめ」
【伊代】
「本当にいるの? どれがそうなの?」
【るい】
「あれ。
そういう臭いがする」
【こより】
「わかんないッス」
【花鶏】
「臭いでわかるなんてケダモノね」
【るい】
「役に立たないヘンタイ性欲よりマシだよ」
【花鶏】
「――ッッ」
【るい】
「――ッッ」
【茜子】
「いつもよりたくさん揉めております」
【伊代】
「だー、かー、らー!」
【智】
「おやめなさいって」
【花鶏】
「――――ッ」
【るい】
「――――ッ」
【るい】
「ん、ちょっとお待ちッ」
るいは、がしがしとぶっていた。不意に顔つきが変わる。
お尻に蹴りを入れていた花鶏が、その視線を追う。
【花鶏】
「なによ!?」
【るい】
「動いた……ッ、ばれた!
こっちへ、急いで」
【茜子】
「はぁ、はぁ……はぁ……」
【伊代】
「ひぃ……うひぃ……っ」
【こより】
「皆さん、お疲れしてますね」
体力底なしのるいの他は軒並み顎をだしている。
ひとり、こよりは元気がいい。
【伊代】
「しゃ、車輪付いてると楽そうね……」
【こより】
「コツはいるですよ」
【るい】
「あ〜、う〜」
るいがしゃがみ込む。
がっくり。
肩を落として尻尾を下げた負け犬の風情を漂わせる。
【花鶏】
「何事よ? 地雷でも踏んだの?」
【伊代】
「ここは、どこの前線なのよ……」
【智】
「……お腹減ったんだ」
【るい】
「みゅー」
涙目になっていた。
夕飯抜きで逃避行。
常人の3倍燃料効率の悪いるいにしてはよく保った。
【花鶏】
「お腹減って動けなくなるなんて、あきれるわね!」
力尽きたるいを高いところから傲岸不遜に
見下ろしつつ、力一杯花鶏は呆れる。
【るい】
「おぼえてろー」
すでに敗残兵の遠吠えだ。
【茜子】
「人生勝ち負けのひとたちを発見しました」
【こより】
「……現代の蛮族だ」
【智】
「さ、立って立って。もうちょっとだけがんばって無事に抜け出したら、たくさんご飯食べさせてあげるから」
【るい】
「…………ッ」
あれ、妙な反応?
【花鶏】
「でも、どうやって? どこでも目が光ってる。逃がしてくれそうにない」
【伊代】
「制服だし……」
【智】
「目立つよね」
【智】
「さてと、土地勘も人数も向こうの方が上だから」
【伊代】
「そんな簡単に……」
【智】
「まず事実を認めてから対策を」
【茜子】
「では、対策を。見事なヤツを」
【智】
「鋭意努力中だよ」
【茜子】
「ガギノドンに真空竜巻全身大爆発光線を喰らってくたばれ」
【智】
「その猫、そんな大技あるんだ」
【伊代】
「まぁ、代表は誰でも叩かれるものよね」
【智】
「総理大臣みたいなものか……というよりも、いつから代表?」
【伊代】
「パーティーの引率役」
【智】
「アルケミスト一人くらいいるといいかも」
【こより】
「洞窟行く前に穴掘りからッス!」
【智】
「もう少し安くなると嬉しい」
【花鶏】
「なんの話を」
【こより】
「ネトゲですです」
【智】
「ワールドオーダー、おもしろいよね」
【花鶏】
「低俗な娯楽に耽溺して」
【智】
「では、真面目に。どうしましょう」
【るい】
「やっぱり、ごはんのためには突破しか」
目つきが危険だった。
瞳の奥の水底に、手を出せば噛みつきそうな剣呑の色を揺らめかせている。
【智】
「戦争は最後の手段で」
【花鶏】
「知性派でいけそうなの?」
【智】
「国境地帯が紛争中」
【伊代】
「わたしたちが紛争当事者……」
【智】
「外国にぜひとも仲介役を」
【るい】
「外国って誰さ」
【智】
「そこが問題です」
【こより】
「どこッスか?」
【智】
「ここだよ、ここ」
【こより】
「??」
【伊代】
「……今そこにある危機にぼけなくていいから」
伊代のため息。
現実の重さを笑いで誤魔化す。
差し迫ったときにこそ冷静さが必要だ。
深呼吸して顔を再確認。
僕をいれて6人。
【こより】
「どったですか?」
【智】
「……ん、なんでもない」
ほうけていたのに、
目ざとく見つけられていた。
ささやかな驚き。
細かいことに気の回るタイプとは思わなかった。
知らなければ見えない、
知りあわなければわからない、
意外な部分は誰にでもある。
【智】
「だから、ホントになにもありません」
【こより】
「ん〜?」
疑っていた。
鼻先の触れそうな距離までしかめ面を寄せる。
【こより】
「ッッッ!」
真っ赤になって跳び退く。
【智】
「どうかした?」
【こより】
「えあ、いや、その、あー、なんといいますやら」
【こより】
「センパイの唇がすっごくやわらかそうで……」
【智】
「………………」
【伊代】
「だから、そっちの趣味はやめなさい、悪いことはいわないから」
【花鶏】
「新世界は見果てぬ楽園かもしれないわよ」
【るい】
「……魔界だっつーの」
【こより】
「はや?」
理解していない、こよりだ。
表情は万華鏡のようにくるくると変わる。
目を離した隙に違う顔をする。
見飽きない。
【智】
「こういうの……」
【花鶏】
「なによ?」
むず痒さにも似た感覚。
居心地がいい、というのか。
昨日今日であったばかりの、ろくに知りもしない誰かと、
こうして手を携えて危ない橋を渡りながら。
【智】
「馬鹿みたいだ」
【花鶏】
「はぁ? 何をすっとろいことをいってるの。危機感が足りて
いないわよ」
おしかりに尻尾を丸める。
【智】
「……とりあえず移動しよう。
人気のないところはかえって危険だし。
路地の多い西側からなら抜けられるかも」
先導する。
足音がついてくる。
確かな歩みに反比例して、不安の種が疼く。
自分の足跡を誰かが辿る。
怖い。
はじめての、意識。
自分の失敗は、全員の失敗へと伝染する。
病のように。呪いのように。
触れれば穢れていく。
靴底に入り込んだ見えない鉛が、
一歩ごとに重圧となって肩へ食い込んだ。
【智】
「……」
思い知る。
孤独は、自由でもある。
孤独でなくなることは、束縛されることだ。
【智】
「なに?」
【茜子】
「こーんな顔をしてました、ミス・不細工」
茜子が指で目尻をむにゅっと押し上げる。
狐顔――――酷い顔だ。
【智】
「……明日の実力テストの心配してた」
【伊代】
「無事に帰る心配しなさいって」
【智】
「それは大丈夫」
無理からの安請け合いのすぐ横を、
るいが抜けた。
【るい】
「こっちでいーんだよね?」
先頭に立つ。
【智】
「うん……」
【るい】
「よーし、いっちょいくぞーっ!」
気負いはない。
生まれながらの定位置のように。
ほんの少し自分の足の重さが消える。
重いものを、るいが肩代わりしてくれたんだろうか。
そんなふうに思うのはロマンチックが過ぎるか。
自分に小さく笑った。
肩で風切る、
るいの背を追いかける。
〔央輝登場〕
【るい】
「――――」
るいは立ち止まっていた。
【智】
「どう――――」
石段がある。
西側の高所へ抜ける、短く整備されたコンクリート製の
一段目に片足をかけたきり。
るいは精練されていた。
酷薄で鋭利な爪と牙で
武装した危険な駆動体。
威嚇の吠え声もあげずに睨む。
階段の頂きに少女がいた。
足を組んでいる。
石段に腰掛けているからだ。
【智】
「――――」
獣を幻視した。
階段の上に黒くうずくまった影は、
静寂と闇に充たされた森で出会う、
昔話の牙持つものに似ている。
人に一番近しい獣とよく似た姿をしているくせに、
危険と呼ばれ、外敵と見なされる。
剣呑な殺意を口の内側にぞろりと並べている。
そんな、獣。
彼女は睥睨していた。
【智】
「えーっと」
第一声。
【央輝/???】
「――――――く……くくっ」
うけた。
低く喉をならす。肩を軽く震わせて、
おかしくてたまらないというように。
こちらより高い位置だから判らなかったけれど、相手は随分と小柄で、見る限り年の頃もあまり変わらない。年下かもしれない。
【智】
「何かおかしかった?」
単刀直入に。
疲れで、頭を回すのが億劫だった。
【央輝/???】
「お前、自分でおかしいと思わなかったのか?」
【央輝/???】
「見ろよ。随分とうるさい連中が騒いでやがる」
今来た街の方へ顎をしゃくる。
【智】
「そうね、このご時世にマメな人たちだと思う」
【央輝/???】
「今夜は面倒事があったみたいだぜ」
【智】
「面倒事ならいつもあるんでしょ、この辺りなら」
ひゅう、と軽い口笛が応じる。
【央輝/???】
「やっぱりおかしなヤツだ」
【智】
「普通だよ」
【央輝/???】
「こんな騒ぎの晩に、こんな場所に、こんな人数でやってきて、
こんなにも呑気なやつをはじめて見た」
【花鶏】
「もっともだわ」
【茜子】
「このひと、きっと頭のネジが足りていないひとです」
【智】
「君らどっちの味方よ?」
ここまできてギャラリーにさえ嬲られる。
心底、僕は僕が可哀想だ。
【智】
「ところで、駅の反対の、平和なところまで帰りたいんだけど」
【央輝/???】
「普通に帰ればいい。街の中を通って」
【智】
「怖い人が多くて」
【央輝/???】
「誰彼構わず噛みつくわけでもないと思うぞ」
【智】
「そうなんだけど。気が弱くてか弱い女の子は、怖いところには
近づけないの」
くくっ、とまた笑われた。
【智】
「笑われるようなこと言ってるのかな」
【花鶏】
「5人に4人は笑うと思うわ」
【伊代】
「気が弱くてか弱い女の子は、そもそもこんなとこまで来ません」
【智】
「ごもっともです」
【智】
「それで、どっかに抜けられそうな場所があれば」
【央輝/???】
「――――なくはない」
【智】
「あるの?」
投げやりに聞いただけなのに、返答があった。
これって運命のもたらす救いの手?
蜘蛛の糸という気もヒシヒシしますが。
【央輝/???】
「聞きたいか?」
【智】
「うんうん、聞きたい」
【央輝/???】
「すると取り引きだな」
値踏みするような眼差し。
自分を上から下まで眺めてみる。
【智】
「見ての通り大したものはないんだけど」
交換は世界の原則だ。
質量がエネルギーに変わるように、
お金が今日の晩ご飯になるように。
【央輝/???】
「…………」
【智】
「なあに?」
【央輝/???】
「とぼけたヤツだな。こう言うとき、大抵のヤツはな、
幾らいるんですかって切り出すんだ」
【智】
「そういうのでよかった?」
お金がいるキャラには見えなかったので。
【央輝/???】
「いや」
引っかけ問題でした。
【智】
「どうしよう」
【央輝/???】
「つくづく妙なやつだ。いいさ、一つ貸しにしておく。
それで、どうだ?」
【智】
「…………ただより高いモノはない」
【央輝/???】
「道理を弁(わきま)えてるな。その通り。こいつは高い、高くつく」
【智】
「もう少しまからない?」
【央輝/???】
「バーゲンなら他を当たれ」
【智】
「せめてサービスを」
ちらりと後ろを確かめると、
どの顔も疲労の色が濃かった。
選択の余地は無さそうだ。
るいを見る。
一人だけ元気なるいは、
さっきから黙ったまま、
全身の毛を逆立てて警戒している。
純粋であることは感銘を与える。
世界は不純だからだ。
あらゆる要素は、生まれ落ちたその瞬間から、
不純物と結合を余儀なくされる。
観念と思索のうちにしか存在を
許されない完全なるもの。
理想としての純(じゅん)一(いつ)。
無限遠の距離が、
希求してたどり着けない人の心を、
感動で揺さぶるからだ。
るいは本能で世界を単純に色分けする。
敵と味方だ。
決まり切っていた返答を出すために深呼吸をした。
【るい】
「――――」
るいの足下で、砂利が踏みしめられる。
目つきが危険だった。
【智】
「一つだけ条件があるんだけど」
手を挙げて、発言する。
相手より、るいの機先を制する。
【央輝/???】
「言ってみろよ」
るいも、動きを止めた。
【智】
「…………僕が個人的に借りちゃうってことで、いい?」
【るい】
「トモ!」
【花鶏】
「あなた、何を勝手なこといってるの!」
【智】
「まあまあ」
【央輝/???】
「わかった、いいぜ。これはお前への貸しだ。あたしとお前の
個人的な契約だ」
【智】
「……そんで?」
【央輝/???】
「ここをまっすぐ行く。フェンスがあるから越える。右のビルの
隙間を抜けると昔の川だった場所が暗渠(あんきょ)になってる。そこを
抜けていけば、駅の反対にぐるっと回れる」
【智】
「了解っす」
先頭に立つ。
【伊代】
「ちょ、信用するの早すぎない!? もしも連中に――」
密告とかされたりしたら。
伊代が言葉の後ろ半分を飲み込む。
【智】
「その時は、強行突破しかないなあ」
【伊代】
「いい加減……」
どのみちどこかで賭けは必要だ。
【央輝/???】
「おい」
呼び止めて、投げつけられたのは、
ライターだった。
顔に飛んできたそれを受け止める。
オイルライター。結構いいヤツだ。
【智】
「にゃわ?」
【央輝/???】
「サービスが欲しいんだろ」
灯りの代わりということらしい。
【央輝/???】
「貸しを忘れるな」
【智】
「その件はいずれ。できれば精神的な方向で……」
〔バンド(群れ)になります〕
カーテンの隙間から光が差し込む。
安寧(あんねい)が揺すぶられ、今日も朝を迎えた。
いつものように。いつもと同じ目覚め。
一日の始まりに目に入ったのは。
おっきな、おっぱい。
【智】
「ッッッ!!」
るいが、人の頭を抱き枕に安眠していた。
タオルケットを蹴り飛ばす勢いで、
ベッドではなく床の上から飛び起きる。
るい、花鶏、伊代。
3人が床で川の字になっている。
自分を入れると字が余る。
足の踏み場もない惨状だ。
【智】
「朝…………」
ぼーっとする。
朝には、よく幻想の残り香が付きまとう。
甘美な夢の跡は、学園という現実的な
空間に閉じこめられて、ようやく消える。
夢は記憶の再構成という機能の余波だ。
断片に意味はない。
意味は夢を望むものが与える。
快楽にしろ、悪夢にしろ、現世では得難い幻想であるほどに
深く魂を捕らえて離さない。
【智】
「今日は、おせんちな朝だったり……」
おどけたふうに独りごち、
記憶の土壌を掘り起こす。
九死に一生を得た逃避行から一夜明け。
教えられた抜け道を通って駅の反対に出たころには、
時刻は深夜をまわり、終電もバスも尽きていた。
夜歩く体力も気力もすっかり底値。
鋭気を養う場所こそが必要だった。
しかたなく、最寄りで辿り着いたこの部屋に、
そろって雪崩れ込んで、死体のように朽ち果てたのだ。
花鶏流に言うなら、運命のもたらす必然のように。
【るい】
「んん、うむむ……」
悪戯心を刺激されました。
るいの寝顔を指でつつく。
【智】
「つんつん」
【るい】
「んにゅにゅ……」
無防備にすぎる百面相にしばし見入った。
大口を開ける笑い。酷薄な敵意。孤高。
どれもが、るいだった。
人間一人を構成する因子は複雑極まる。
るいが特別なんじゃなく、誰もがそうだ。
他に目覚める気配はない。
【智】
「女の子には、もう少し花のある情景を期待したいのです」
床に3人。
ベッドには、こより。
こちらは色気というより稚気である。
無防備な女の子が可愛いとは限らない。
茜子は孤独が好きらしくクローゼットの中に。
ちょっと意味不明だ。
異性に対して抱く夢想や憧憬(どうけい)。
異者だからこそ、あり得ない完全さを期待する。
そして、完全は観念の内にしかありえない。
過酷な現実に肩をすくめた。
起こさないように、のろくさと這い出す。
シャワーを浴びにいく。
【智】
「……誰か起きてきたら、やばい……かなぁ。
でも、昨日は一晩中走り回ったし、汗かいてるし……」
危険と秤にかける。
我慢はできそうにないや。
服を脱ごうと手をかけてから、
考え直す。
バスルームに持ち込んで脱いだ。
ワイシャツのボタンを外しかけたところで、一度も使ったことの
ないバスルームの鍵を落としておくことにした。
念には念。
【智】
「ふんふんふふん♪ 生き返るぅー」
予感的中。
【智】
「どちらさまですか」
【花鶏】
「……閉まってるわ」
【智】
「施錠してます」
【花鶏】
「どうして鍵なんてかけてるの?」
なにやらどす黒い情念が、
バスルームのドア越しに伝わってくる。
【智】
「どうしてガチャガチャしてるの」
【花鶏】
「一日のはじめにシャワーを浴びるのが習慣なのよ」
【智】
「いいよ、使って。僕が出たあとで」
【花鶏】
「たまには二人でお風呂も素敵じゃないかしら」
【智】
「僕は孤独を愛してるんだ」
【花鶏】
「それよりも人を愛しなさい」
【智】
「愛情過多な人生も問題あるかなあって」
【花鶏】
「大は小を兼ねるのよ」
【智】
「るいもおっきーけど、伊代も実はどーんだったね……」
【花鶏】
「素敵な黄金律だと思うわ」
【智】
「黄金のような一時を過ごしてます」
【花鶏】
「ここを開けて。わたしにも振る舞って」
【智】
「近頃はこのあたりも物騒で、
女の子を食べちゃう狼さんが出たりするから、だめです」
【花鶏】
「危険な時こそ友情が試されるのではなくて」
【智】
「おばあさんのお口が耳まで裂けてるのはどうしてですか」
【花鶏】
「つれないわね、赤ずきんちゃん」
諦めたのか、ハラス魔王の気配が遠ざかる。
【智】
「……寝たふりして狙ってたんだな」
油断も隙もない。
【教師】
「――政体には三つのものがあるとする。共和政、君主政そして専制政である。それぞれの本性を明らかにするとき、三つの事実を想定する」
【教師】
「共和政は人民に最高権力が委ねられており、君主政は権力がただ一人の手にあるものの制定された法のもとに統治される」
【教師】
「対して、専制政においてはこれを持つただ一人を制する術がなく、第一人者の理性と感情の赴くところのみが、」
生あくびを噛み殺した。
授業を進める小粋なチョークのリズムに普段より乗れず、肘杖をついて意味もなく外へと視線を漂泊させた。
碁盤目に区切られた座席の上に、
きれいに配置された学生たちの頭。
石の海だ。
黒く固い水面の向こう、窓を隔てて空がある。
時間の経過が、今日はひどく遅い。
放課後になる。
授業が終われば閑散とする。
祭りの後めいた空虚が、
主のいない座席の列の上を漂う。
【宮和】
「よだれ」
【智】
「はにゃ――」
口元を拭われる。
窓辺の席に陣取って、ゆるい風に巻かれながら、
いつの間にかうたた寝していた。
【宮和】
「起こしてしまいましたか」
【智】
「宮……」
唇に手を当てる。
優しい感触が残っている。
【智】
「あう」
【宮和】
「愛らしい寝顔でございました」
【智】
「はずかしいです……」
【宮和】
「花の蜜に誘われるように、つい唇の」
【智】
「奪われた?!」
【宮和】
「よだれをぬぐってしまいました」
【智】
「ごめん、ハンカチ汚させちゃった」
【宮和】
「和久津様のいけない寝顔が、他の方に見つからなくて
ようございました」
【智】
「宮には見つかりました」
【宮和】
「そして悪戯を」
【智】
「堪忍してください」
【宮和】
「今日だけは特別にそういたします」
【智】
「多謝」
【宮和】
「よいお日和ですのね」
宮和が細い首を傾けて、笑む。
小さな齧歯類を連想させる。
目をすがめて、雲の合間にのどかな風を見る。
【智】
「気持ちよかったから、つい、うたたねしてた。昨日はちょっと
寝不足気味だったから」
窓から入り込んだ、
ゆるい大気の流れが頬を撫でる。
見えない手に髪をまかせる。
【宮和】
「和久津さまは、ずるずるされなかったのですね」
【智】
「ずる休みのこと?」
【宮和】
「関西方面のスラングでございます」
【智】
「嘘だ、絶対に嘘だ」
【宮和】
「ずるずる」
くねくねした。
【智】
「……何をしてるの?」
【宮和】
「これが意外に、心地よくて。和久津さまもいかがですか」
いつまでもしていた。気に入ったらしい。
【智】
「ご遠慮」
【宮和】
「残念でございます」
【宮和】
「ずるずる」
【智】
「ずるはなしで……」
座ったまま、開いた窓枠に後頭部をのせる。
見上げた空に向かって、うんと伸び。
【花鶏】
「――盗まれた!?」
それは花鶏と呼ばれていたものだ。
今は花鶏ではない。
人の領域にはいない。
百歩譲っても鬼だか悪魔だかが相応しい。
【花鶏】
「盗んだのはあなたでしょ!」
牙が生えた。
角はとっくに生えていた。
【こより】
「盗んでないですようっ!」
こちらは半泣きだ。
証言はどこまでもすれ違う。
整理すれば事実は簡単だ。
数日前。
るいと花鶏が駅向こうで揉めた。
こよりが通りがかったのは偶然だった。
揉めたはずみで、こよりは突き飛ばされた。
【るい】
「……覚えてない」
【花鶏】
「記憶にないわ」
犯人たちの証言の信憑性はさておく。
容赦なく被害を拡散する悪魔たちに恐れを成して、こよりは
逃げ出した。
トラブルが発生した。
揉めたひょうしに花鶏はバッグを落とした。
こよりは逃げ出すときにそれを掴んだ。
持ち逃げするつもりはなかった。
こよりはパニくると周りが見えなくなるらしい。
【花鶏】
「バッグはどちらでもいいの!」
【智】
「高いんでしょ?」
【花鶏】
「高くても」
金銭に執着のない人はこれだから困る。
1円を笑う者は1円に泣く。
閑話休題。
こよりは気付いて呆然とした。
泥棒しちゃった。
唐突に訪れた初体験。
朝ベッドで目が覚めたら、
隣に見知らぬ男が寝てましたな心境。
ショックを受けて雑踏に立ち尽くした。
格好の獲物に見えたことだろう。
雑踏の中から男の手が伸びてきて――――。
【花鶏】
「そんな馬鹿みたいな話が」
【こより】
「あるです、ホントですぅ〜」
――――こよりは、バッグをひったくられた。
追う間もなく相手は街に飲まれて消えてしまった。
【智】
「事実は小説より奇なり」
【花鶏】
「きっ」
【伊代】
「混ぜっ返すとちゃぶ台返されるわよ」
【智】
「蛮族の方々が暴動起こすので止めてください」
【茜子】
「咀嚼(そしゃく)咀嚼ヤムヤム咀嚼」
【るい】
「トモのご飯はやっぱおいしいのうー」
【伊代】
「あなたたち本当にまとまり無いわね……」
こよりは焦った(本人談)。
【こより】
「なんとか探そうと……」
【智】
「してたんだ」
【こより】
「努力はしたんですけれど……」
【智】
「じゃあ、アソコにいたのは」
【こより】
「犯人は現場に戻るの法則ってありますよね」
【茜子】
「儚い期待を抱く夢見るガールは、さっさと目を醒ました方がいいと思います」
【こより】
「いじいじ」
膝を抱えて、床の上に「の」の字を書いてみたり。
【伊代】
「でも、戻ってきてるじゃない」
白い目の伊代が、こよりを指差す。
犯人、現場に戻る。
【智】
「そして、逃避行」
【こより】
「殺されるかと〜〜〜〜」
【るい】
「人聞きわるいぞぉ」
【智】
「無理はなかったと思うけど」
【花鶏】
「………………」
花鶏は打ちひしがれていた。
夢も希望も潰え去った負け犬を、高いところから傲岸に
見下ろしつつ、朝ご飯を満足いくまで飽食してから、
るいは告げた。
【るい】
「ザマー」
【花鶏】
「――――ッッ」
【るい】
「――――ッッ」
朝から揉めた。
【智】
「さてと」
【こより】
「センパイ、どちらへ」
【智】
「当然登校します。学生の本分は勉学です。今日は小テストあるし」
【伊代】
「わたしもそろそろ……と、あ……どう、しようかな」
伊代の眼鏡が逆光で白く曇る。
葛藤の汗が額を流れる。
茜子のことが、伊代の気がかりだ。
窮地は脱したから、後は放置して、
それでよしとできないタイプ。
自爆型の委員長気質だ。
石橋を叩いて渡りたがるくせに、一端乗ると船から下りる決断
ができなくて、一緒になって沈むタイプ。
【るい】
「ずるっちゃえば?」
【こより】
「それ、賛成!」
【伊代】
「それは許されないわ」
眼鏡が朝日を照り返し、
ギラリと良識の光を放った。
【伊代】
「非日常な事件にかまけて日常を乱したらいつまでたっても平和な日々には戻れないのよ。それどころか道を踏み外してどんどん悪い方向に行く」
【智】
「優等生的にずるはなしみたいだよ」
【茜子】
「では、社会秩序の歯車エリートである優等生さま、
いってらっしゃいませ」
【伊代】
「ん〜、なんだか気の重くなる比喩ね……」
【茜子】
「正直は茜子さんの美徳です」
【花鶏】
「…………ぎを」
猛獣が歯を軋らせるにも似た。
花鶏が顔を上げる。
目のある部分が爛々と怪しい光を放っていた。
【花鶏】
「対策会議を、するわ」
【智】
「待ち合わせ、か」
机の上にだらりと突っ伏す。
呟いた言葉がしこりになった。
形の合わないパズルのピースを無理からに詰めてしまったみたいに、みぞおちの辺りがぎこちない。
【宮和】
「今日はどうしてお残りに?」
【智】
「宮も珍しいね」
【宮和】
「わたくしは所用がございましたから」
【宮和】
「和久津さまは、いつも授業が終わると急いでお帰りになられますのに」
【智】
「ちょっとした約束があって、
一度帰っちゃうのも遠回りになるから――――」
しこりの正体に行き当たる。
約束。
待ち合わせ。
長いこと、学園の外で誰かと待ち合わせるような機会はなかった。
秘密がある、とはそういうことだ。
【宮和】
「はじめてですわね」
普段通りの宮和のやわらかさには、普段と違った春先めいた成分が含まれている気がした。
【智】
「なにが?」
【宮和】
「和久津さまとお知り合って以来、事情があると仰られることは何度もございましたけれど、約束があると伺ったのは今日が初めて」
【智】
「……そうだっけ」
放課後の教室に残っていると物寂しさが募る。
教室は喧噪と癒着している。
大勢がそこにある場は、必然騒々しさを宿す。
だが、永続はするものではない。
タイマー付きの時限爆弾だ。
時間が来れば終わる。
爆発の後には瓦解(がかい)が残留する。
不可分の要素の欠落は、
在りし時の「かつて」を連想させる分だけ、
より寂寞を強くした。
世界の中心に自分だけが置いていかれたような錯覚。
今は、ひとりではなく、二人だ。
【智】
「……」
誰かの存在。
たわいもない温度が胸に落ちてきた。
饒舌(じょうぜつ)だが口数は決して多くない宮和と共有する空間の、
奇妙な肌触りがなぜか心地よい。
【智】
「不思議空間」
【宮和】
「世界は不思議でいっぱいなのです」
【智】
「本当にそんな気がしてきた」
【宮和】
「世界の真理にアクセスされたのですね」
【智】
「……はじめて、か」
生き方と不可分に結びついた孤島の歩み。
【宮和】
「間違いはございません。記憶は一言一句の聞き漏らしもなく完璧です。わたくし、これでも学園最強の和久津さまストーカーを
自負しておりますから」
【智】
「是非ともしなくていいですから」
【宮和】
「お気に召しませんか」
【智】
「召すと思う宮の心が心配だ」
【宮和】
「ぽっ」
【智】
「なぜ頬を赤らめるの?!」
【宮和】
「内緒です」
【智】
「なぜ内緒っ?!」
【宮和】
「言ってよろしいのですか?」
【智】
「…………」
聞かせてくださいと決断するには、怖すぎた。
【智】
「ハァイ。今日の待ち合わせは……時間かかるから、場所を変えて? うん、いいけど……いえ、悪くないです。そういわれればそうだけど」
【智】
「ん、了解。バスが最寄りで、降りたら……わかった。
また連絡入れる」
【智】
「対策会議は花鶏の家で、か」
【こより】
「センパーイ、センパイセンパイ〜っ!」
【智】
「こんなところでなにをやっとんのねん」
【こより】
「不肖鳴滝め、センパイの登場をば、今か今かと待っておりましたのこころです」
【智】
「そこまで僕のことを……ういヤツ」
【こより】
「実はビビっておりました」
【智】
「根性なしだ」
【こより】
「見知らぬ土地は北風が強いッス!」
【智】
「どこの港町なのよ」
【こより】
「演歌なら鳴滝めにおまかせを!」
【智】
「いいからいくべし」
【こより】
「いくべしー」
【こより】
「センパイといっしょに、おーてて繋いで、らんらんらん♪」
【智】
「……恥ずかしいですッッ」
【こより】
「女は気合いでありますっ!」
【智】
「でかっ」
【こより】
「でかっ」
第一声。
花鶏の家は大きかった。
家では相応しくない。
邸宅と呼ぶ方がはまる。
厳つく高い門が、外界と内を峻別する建物。
こよりが尻尾を巻いて逃げ出したのもむべなるかな。
門とは境界である。
出入りするためにではなく、
通じる道を塞ぐために存在する。
威圧する機能こそ本性だ。
【智】
「女は?」
【こより】
「……気合いであります」
【智】
「敵は呑んでも飲まれるな」
【こより】
「押忍っ!」
【智】
「まずは1発っ」
【こより】
「ごめんくださいませー」
【智】
「落第ですね」
【花鶏】
「ようこそ、歓迎するわ」
お屋敷の中は、やっぱりお屋敷でした。
【こより】
「ほわー」
【花鶏】
「どうしたの?」
【こより】
「びっくりしてます……」
【智】
「制服じゃないのを目撃しました」
【こより】
「そうじゃなくて! まずは広さの方をびっくりするべきでは!」
【智】
「そういえば……花鶏、今日学園行った?」
【花鶏】
「普通に登校したけれど」
【智】
「よかった」
胸をなで下ろす。
【花鶏】
「行けるときには行くわよ」
【智】
「意外にマジメっこだったんだ。みんなズルズルいっちゃたんじゃないかって、ちょっとだけ心配に」
【花鶏】
「意外に苦労性なのね」
【智】
「気配り文化の国民ですから」
【花鶏】
「勉学は自分のためにするものだから。
わたし、他人の都合や社会秩序に興味はないの」
しれりと、肩にかかった髪を後ろにかき上げる。
【こより】
「それってワルってことですか?」
【花鶏】
「わがままってこと」
【智】
「自分でおっしゃいますね」
【花鶏】
「自己分析は正確に」
【智】
「いっそ横暴と」
他の面子は先に顔をそろえていた。
【るい】
「おーい」
るいは、高そうな椅子に窮屈そうに収まっていた。
手を振りながら飛んでくる。
【るい】
「あいたかったよー」
しがみつき。
【智】
「なになにどうしたの!?」
【茜子】
「人様のなわばりで気が立っているようです。ケダモノのように」
【るい】
「ぐしぐし」
【智】
「僕んちは平気だったのに」
【伊代】
「その子、大きな家は苦手なのかしら」
【智】
「わからないでもないんだけど……」
【伊代】
「なんていうか、場違い、な感じで」
伊代は苦笑いする。
【智】
「僕らで最後?」
【花鶏】
「そうよ。お茶をいれるわ。紅茶でよくて?」
【智】
「僕コーヒー」
【るい】
「お姉さん、コーラ」
【こより】
「渋いのは苦手ッス」
【伊代】
「えっ、他のもあるの? それじゃ緑茶……やっぱりほうじ茶で!」
【茜子】
「ひやしあめを」
【花鶏】
「全員紅茶ね」
花鶏が口を挟む余地のない目をして部屋を出た。
殺す気と書いて「ほんき」と読む。
【るい】
「ビッ○が、ペッ」
【伊代】
「えっ、本当は紅茶しか無いの? なんでみんないろんなの
頼んでたの?」
【智】
「素だったか。キャラが掴めて来た」
【茜子】
「掴めて来ました」
【伊代】
「なに、どういうこと?」
【るい】
「そういえば!」
るいが跳ねた。
【こより】
「ほえ、なんかありまして?」
【るい】
「あった。重大問題。晩ご飯どうしようか?」
【智】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
【こより】
「……」
掴むところしかないキャラだった。
【花鶏】
「わたしのバッグをどうするか」
【こより】
「弁済無理ですから〜!」
【伊代】
「せっかく集まってるなら、
この子のことも考えてあげたほうがいいんじゃないかしら」
【茜子】
「茜子さんは一人で強く生きて行くのです」
【智】
「カモがネギしょって厳しい世間にぱっくりと」
【るい】
「つか、よくも家焼いてくれやがったわね」
【花鶏】
「わたしがやったんじゃないって」
あのビル火災の原因は、周辺を根城にしてたホームレスの
失火らしいと、ニュースでやっておりました。
話題はとりとめがなく、
やくたいもなく続く。
雑多な言葉の意味もない連なりが、それなりに楽しくて、
知らぬ間に時間を浪費する。
果てしなく拡散する過程のどこかの時点で、
爪の先ほどのきっかけができた。
【伊代】
「問題を解決するためには」
伊代が眼鏡のフレームを指先で直す。
【伊代】
「問題を明確化すること」
常識的な見解を吐く。
自分が常識人であると、
ことさらに誇示するように。
得てして自己評価と世間の見方は
交差しないものである。
【花鶏】
「お茶が切れたわね」
【智】
「手伝うよ」
花鶏が部屋を中座する。
金魚のフンよろしく付き従う。
扉の外に出ると気圧された。
庶民離れした屋敷の気配。
価値は時に威圧感にすり替わる。
奇妙に古びた、それでいて何かの欠け落ちた廊下の印象。
夕暮れのオレンジに染められた風景画を想像する。
【智】
「家政婦さんとかいそうな家だよね」
【花鶏】
「いないわ。人嫌いなのよ」
手ずからお茶の用意をする花鶏の言葉の、
どこまでが本気かわからない。
近くにあった扉の一つをこっそり覗く。
手抜きみたいな、同じような部屋がある。
こんな部屋が幾つもある事実を驚くべきな気もしたり。
【智】
「大勢で押しかけちゃって、ご両親とかは」
【花鶏】
「親のことは気にしなくていい」
背中のままで切って捨てられた。
語気の壁が顔に当たる。
それ以上踏み込むことを拒絶する、
見えない柵が作られている。
【智】
「にしても、問題が解決しませんね」
【花鶏】
「別に、わたしは助けがいるわけじゃないから」
えー。
でも、最初に対策会議なんて言い出したのは?
【花鶏】
「手を貸して欲しいから迂遠に泣きついたとでも思ったの?」
【智】
「何を怒ってるんですか」
【花鶏】
「怒ってなんていないわ」
【智】
「なぜに怖い顔なんですか……」
【花鶏】
「わたしは普段通り。顔が怖く見えるのは、キミの心に
やましいことがあるからじゃなくて?!」
【智】
「なにも糾弾しなくても」
【花鶏】
「糾弾なんて、してないわ、断じて」
【智】
「ごめんなさい、全部僕が悪いです。信号が三原色なのも、救急車が白いのも僕のせいです」
尻尾を丸めてお手伝いに没頭する。
カップをそろえて並べる。
同じカップは人数分に足りてなかった。
申しわけに形を合わせた不釣り合いの器が、
不格好に輪を作る。
【智】
「ここはなに?」
【花鶏】
「テラスよ」
【智】
「見晴らしのいいところだね」
【花鶏】
「――――新事実の発掘くらい期待したわ」
花鶏が背を向けたままもらす。
声音は従容として干渉を拒絶する。
他人の心をのぞき込む術はない。
よく知る相手でさえ人の間にあるのは断絶だ。
数日の知己では埋められるはずもない。
【智】
「信頼は裏切られるためにあるんだよね」
【花鶏】
「存外後ろ向きなのね」
【智】
「多少は苦労が骨身に染みついてるから」
【花鶏】
「信じる力を信じないの?」
【智】
「信じるって素晴らしい言葉だよね。花鶏が言うと特に」
【花鶏】
「わたしは誰よりも信じてるっての」
【智】
「友情ってものを信頼できる? 親と子は無根拠に助け合うものだって感じてる? 十年経っても変わらない愛情があるって思う? 明日傘を忘れて出かけたら雨は降らないって信じてる?」
【花鶏】
「最後だけイエス」
【智】
「……なにを信じてるんですか」
【花鶏】
「わたしは、わたしを信じてるのよ」
【智】
「信じる心が力になるなら、神様だってお役後免だよ」
【花鶏】
「そうね。信じるなんて言葉では足りないわ。わたしは、わたしを信仰してる。本当に心の底から、これっぽっちの疑いもなく、ほんの些細な間違いもなく」
【花鶏】
「わたしの才能、わたしの未来、わたしの運命……全てがわたしの味方であることを」
見えないスポットライトが当たっていた。
ステージの上のオペラ歌手のように。
【花鶏】
「感心してるのね」
【智】
「あきれてるんだ」
【花鶏】
「人はわかりあえないものだわ」
【智】
「きれいにまとめてどーするの」
【花鶏】
「きれい事も時には重要ね」
【智】
「……ふむ」
【花鶏】
「どうかして?」
【智】
「どうか、言いますと?」
花鶏は、窓枠のチリを検分する姑さん風に眼を細める。
【花鶏】
「クレタ島の生き残りみたいな顔してる」
【智】
「それは嘘つきということですか」
【花鶏】
「心当たりは?」
【智】
「ありませんともありませんとも」
【花鶏】
「嘘つき村の住人なのね」
【智】
「そんな根も葉もない」
【花鶏】
「吐かせてみようか」
【智】
「ちょ、悪ふざけは……きゃわっ」
後ろから抱きすくめられた。
耳たぶにぬるい息がかかる。
【花鶏】
「細い腰……」
【智】
「ぎゃー!」
手が胸を狙ってきた。
必死になって身を守る。
【智】
「やめてよして堪忍して」
【花鶏】
「とっくにキスはすませた仲じゃない」
【智】
「やーの、それやーのぉ!
あぅん、耳はだめだめ、みみみみみみみみ」
耳たぶを甘噛みされる。
大事なところをカバーすると
それ以外がおざなりになる。
【花鶏】
「うふふふふふふ」
【智】
「ぎゃわーーーーーーっ」
【花鶏】
「胸は本当にちっさいみたいね」
【智】
「いやあああああああああああああああ」
足がもつれて床に転がった。
【こより】
「……何をやっておるですか」
こよりが不思議そうに見下ろしていた。
【花鶏】
「親睦を深めてるのよ」
【こより】
「なるほど」
【智】
「納得しないように!」
隙を見つけて、そそくさと距離を取る。
【花鶏】
「ちっ」
【こより】
「…………」
【智】
「どしたの」
ごにょごにょと、何か言いかけて、
こよりは失敗する。
自分でも処理できない感覚にもじもじしていた。
【こより】
「よくわかんないんですけど……」
【こより】
「なんか、どきどきする」
【智】
「考えるの禁止」
知られざる魔界の扉が目の前に。
【花鶏】
「教えてあげましょうか?」
【こより】
「ほえ」
こよりを引っ張って後ろに隠す。
悪魔の誘惑から、奪い取った。
【花鶏】
「邪魔するのね」
【智】
「正義の行為」
【こより】
「わかんないのです」
【智】
「……わかるの禁止」
世界には危険がいっぱいだ。
用意したお茶に全員が手を付けるのを待つ。
さらに一呼吸置いてから、口火を切った。
【智】
「そこで提案があります」
【伊代】
「どこからの続き?」
【るい】
「晩ご飯」
【茜子】
「食いしん坊弁慶」
【智】
「それ違う」
【花鶏】
「何の話だったかしら」
【智】
「問題の明確化から」
【伊代】
「そこからの続きなんだ」
【智】
「提案があると」
【花鶏】
「話の腰がよく折れるわね」
【智】
「折ってるのは君らです」
【こより】
「センパイ、腰を折るにはやっぱキャメルクラッチからッス」
【智】
「いやいやいやいや」
【伊代】
「もうボキボキね」
【智】
「そう思うなら少しは議事進行の手伝いを」
【伊代】
「他人の力をあてにしない」
【智】
「伊代って冷たい」
【茜子】
「人間フリーザー」
【伊代】
「な、なんということを」
【るい】
「そんで?」
仕切り直しに咳払いをしてから。
【智】
「現状、僕らはそれぞれやっかい事に面している。困ったトラブルを抱えてる。解決すべき事例が身近にある」
【智】
「たとえば、るいには家がない。茜子だって、最低でもほとぼりが冷めるまで帰れない」
【茜子】
「冷めても帰る気ナッシングです」
【智】
「花鶏には捜し物がある。伊代やこよりだって、
多かれ少なかれ巻き込まれたり責任を感じてたりする」
【智】
「問題は投げ出せない。そこから逃げられない。そこでの僕らの
思いは同じで、たったひとつ」
【智】
「早々に解決したい。
トラブルを処理して平穏無事な日常世界に帰還したい。
やっかい事を遠ざけて平和な安寧(あんねい)を呼び込みたい」
【伊代】
「そうね」
【智】
「だから――」
【るい】
「だから?」
【智】
「手を組もう」
【るい】
「……」
【花鶏】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
【こより】
「手を、組む?」
【智】
「そう。手を組む。力を合わせる。
利害の一致で歩調を合わせて前に進む」
【茜子】
「意味不明です」
【智】
「意味もなにもそのままだよ。要するに、一人で解決できないから他人の力を借りようってこと」
【伊代】
「そんなこと言ったって……昨日会ったばかりよわたしたち」
【るい】
「はーい、私は一昨日」
【花鶏】
「大差なし」
【伊代】
「そんなので……」
【智】
「誰だって最初は初対面」
【智】
「なにも難しくないよ。信頼できる絆を結ぼうとか、そういうんじゃない。利害が一致する間だけ、力を合わせて進もうってこと」
【智】
「どのみち一人じゃ何ともならないんだから、それなら、少しは顔見知りの相手の力を借りる方がいいでしょ? もちろん他にあてがあるならそっちに頼ってもいいけど」
返事はない。
今日この場に未解決のまま問題を持ち込んだということが、
そもそも他のアテがない証明でもある。
人間関係の寂しい面子だ。
【花鶏】
「わたしは、一人でも、問題ない」
花鶏が肩にかかった髪を後ろに跳ね上げる。
優雅さに、ある種の剣呑な棘が見え隠れした。
矜持(きょうじ)か、高慢か。
差し伸べられる手をことさらに払いのける。
【智】
「それなら、手を貸して」
朗らかに。
【花鶏】
「わたしが? どうして?」
【智】
「そうね……僕が困ってるから、じゃだめ?」
【花鶏】
「……」
寸刻、おもしろい顔になった。
梅干しでも食べたみたいな酸っぱ顔。
【花鶏】
「まあ、智がそこまで頼むのなら、少しくらい助けて
あげなくもないわ」
【るい】
「えらそーに」
【花鶏】
「なにか?」
【智】
「ありがとう、花鶏」
【伊代】
「意外と姑息だな、こやつ」
花鶏が微笑し、るいが頬をふくらませ、伊代は目を線にする。
【智】
「さあ、どうしよう?」
【智】
「問題を解決するために問題を明確化する」
【智】
「僕らがすべきことはなに? 一人で悩んでいること?
解決できない事情にヒザを抱えて丸くなること?
後ろを向いて逃げ出すこと?」
【智】
「どれも違う。僕らがすることは、このトラブルを倒すこと。
八つに畳んでバラバラにして埋めてしまうこと。何事もない
毎日へと辿り着くこと」
【智】
「一人ではできない。一人では辿り着けない。だから手を組もう。打算でいい。合理で構わない。秤に乗らない友情を絆にするよりずっと確かで信頼できる」
【伊代】
「わかるけど、でも……」
【智】
「きれい事を言ってもいいけど、昨日今日会ったばかりの関係で、それは無理」
【るい】
「着飾った言葉より本音の方が好みかな」
【花鶏】
「同意するわ、残念だけど」
【茜子】
「助けた分だけ助けてくれるわけですね」
【こより】
「とりあえず、鳴滝めはセンパイとご一緒です!」
【智】
「つまり、これは同盟だ。破られない契約、裏切られない誓約、
あるいは互いを縛る制約でもある」
【智】
「僕たちは口約束をかわす、指切りをする、サインを交換し、
血判状に徴(しるし)を押して、黒い羊皮紙に血のインクでしたためる」
【智】
「一人で戦えないから力を合わせる。1本の矢が折れるなら5本
6本と束ねてしまえばいい。利害の一致だ。利用の関係だ」
【智】
「気に入らないところに目をつぶり、相手の秀でている部分の力を借りる。誰かの失敗をフォローして、自分の勝ち得たものを分け与える」
【智】
「誰かのためじゃなく自分のために、自身のために」
【智】
「僕たちはひとつの群れ≠ノなる。
群れはお互いを守るためのものなんだ」
〔僕のいどころ〕
静閑な住宅街。
緩い上り坂に夕映えが差しかかる。
伊代と茜子を誘って出向いた、
買い出しの帰り道だ。
【伊代】
「わたし、あなたに賛成したわけじゃないわよ」
伊代が言葉を投げてよこす。
僕と伊代の間に挟まった茜子の頭の上を、
見えない放物線が飛んできた。
【茜子】
「ニャーオ」
茜子が我関せずと鳴く。
左右の不穏など他人事で民家の塀へと手を振る。
【猫】
「にー」
野良猫がいる。
警戒心の強い野生のキジ猫が、
茜子には愛想良く返事をする。
【茜子】
「ニャウ」
【猫】
「みゅー」
【茜子】
「ニャーニャー、ゲゲッ」
ほんわか。
理解も出来ない鳴き声は会話を連想させた。
【智】
「なんて言ってるの?」
【茜子】
「吾輩は猫である」
キジトラはインテリらしかった。
三毛はフェミニストだうろか、
シャム猫ならどうか。
【伊代】
「ちょっと、わたしの話聞いてる?」
【智】
「テツガクテキ命題に耽溺して聞いていませんでした」
伊代の眼が細くなる。
危険水域が近づく。
見知らぬ人間関係は手探りだ。
二人いればお互いの距離が問題になる。
近すぎても遠すぎて関係には齟(そ)齬(ご)が生じてしまう。
最適の距離を測るには時間と経験が必要だ。
積み重ねだけが適切な空間を作りあげる。
眼鏡ごしの視線は、怒りめいた鋭利とも
時限爆弾じみた不機嫌とも異なっている。
きっと、伊代は困惑している。迷っている。
現状に。未来に。
未明の全てに。
【茜子】
「ニャーオ」
伊代は、茜子を気にかけていた。
茜子の方は――――意味不明だ。
奇怪で冒涜的で魚類とも頭足綱とも
人間ともつかない特徴を備えた
灰色の石で作られた置物風に。
意訳すると、キャラとしてわからない。
伊代と茜子。
感情のやり取りは一方的で、
なし崩しの関係性がとりあえず成立している。
それ以上でも以下でもなかった。
それでも初対面では姉妹に思えたものである。
【智】
「目が悪かったようです」
【伊代】
「わたしは、目が悪いから眼鏡かけてるんですけど!」
【智】
「そちらの話ではなく」
【伊代】
「じゃあ、なんの話なの!?」
【智】
「話してたのは伊代の方です」
【伊代】
「む、ぐ……っ」
脊髄反射で語気を荒げ、
荒げた分だけ自分の言葉に詰まる。
かといって、感情のままで押し切る無法に染まるには、
伊代は少しばかり理知的すぎる。
【智】
「賛成してないって?」
【伊代】
「ちゃんと聞いてたんじゃない!」
【智】
「嫌いな献立があるならいってくれればよかったのに」
【伊代】
「誰が夕食の話をしてますか」
【智】
「晩ご飯の話ではないと?」
両手にぶら下げた、
中味のつまったスーパーの袋をかかげる。
【智】
「キミの意見を聞かせてもらいたいのです」
【茜子】
「いちいち他人の顔色を伺わなければ生きていけない人間には、
生きてる価値がありません」
【智】
「ほめられた」
【伊代】
「貶(けな)されてるのよ」
【智】
「楽しいおしゃべりとユーモアは人生のエッセンス。
眉間にこーんな皺ばっか作っててもしかたないでしょ」
【茜子】
「……似てる」
【伊代】
「誰の真似かしら?」
【智】
「冗談はさておきまして」
【伊代】
「真面目な話、してもいいの?」
【智】
「はっ、不肖和久津智。
一命をなげうって真面目にお話させていただきます」
伊代が肩全体でため息をついた。
【伊代】
「……も、いいわ。好きにして」
【智】
「ちょっとドキドキする台詞かも」
【茜子】
「えろい人ですね。男の人相手に口にして、近づいて来たところを一撃するわけですか」
【智】
「どこの誘惑強盗なのさ」
【伊代】
「エロでもエラでもいいから……あのね、さっきの話、本気なの?」
【智】
「さっきというと」
【伊代】
「同盟だか連盟だか」
【智】
「同盟っていうとバタ臭くてやな感じ。そこはかとなく漂う
前世紀の香りが特に」
少女同盟。
30年くらい前の少女漫画のタイトルっぽい。
【伊代】
「レトロっぽい響きとは思うけど」
【智】
「まあ、最近は復古ムーブメントも需要あるみたいだから」
【伊代】
「いやね、年寄りのノスタルジーっぽいわ」
【茜子】
「若気の至りな暴論です」
【智】
「話がどんどんずれていくねえ」
【伊代】
「かあっ」
【智】
「……怒った」
【伊代】
「怒ります。すぐに話をはぐらかして」
【智】
「自分だってずらしてたくせに」
さらに怒るかと予想した。
伊代は怒らずにジト目で睨む。
【伊代】
「存外不真面目なのね」
【智】
「存外とはこれいかに」
【伊代】
「優等生みたいな顔してるくせに」
【智】
「これでも学園では、本当に優等生ですよ」
【伊代】
「それはそれは、ずいぶんと分厚い猫の毛皮をご用意なさって
おられることで」
【茜子】
「ニャ〜〜オ」
【智】
「そんな、誤解を招きそうな台詞を」
【伊代】
「――――本気なの?」
強引に話の筋を引き戻される。
鼻の触れそうな距離に伊代の顔が近づいた。
眼鏡の向こうで鼻息を荒くしている。
びっくりするくらい綺麗だった。
【智】
「……美人さん」
【伊代】
「な、なにいってんの、いきなり!? そんなことで矛先逸らせると思ってるの!」
一瞬で完熟トマトみたいに真っ赤に染まる。
【智】
「すぐ顔に出る」
【伊代】
「顔の話はいい」
【智】
「美人さんはほんと」
【伊代】
「世辞もいい」
【智】
「本気なんだけど」
【伊代】
「だからッ」
【智】
「……はい、一応本気です。目の前には問題がある。解決は避けて通れない。一人で無理なら他人の力を借りてでも解決しなくちゃいけない」
【智】
「でも、誰かに助けて貰うには代価が必要になる。その代わりに僕らは条約を結ぶ。お互いの力を利用して、問題の解決に尽力する」
【智】
「僕らの同盟。僕らの関係」
【智】
「きれい事の友情ゴッコより、
打算の方が信用できると思うんだけど」
【伊代】
「信用だってできるのかどうか……」
轡(くつわ)を並べて修羅場をくぐった。
連帯感めいた錯覚はある。
しかし、突き詰めるならそれっぽっちだ。
漠然とした印象と名前以外、
相手のことなど大して知ってさえいない。
【智】
「投資にはリスクがつきもので」
【伊代】
「別に、助けなんかなくても」
【智】
「一人よりはみんなの力で」
【茜子】
「友情・努力・勝利」
【伊代】
「少年漫画ロジックで物事なんか片付かない」
【智】
「あのね、伊代」
【伊代】
「……なによ」
【智】
「あるプロジェクトに参加する人数が増えるほど、
トラブルと問題の数は幾何級数的に増えていくんだよ」
【茜子】
「だめだめですね」
【智】
「あれ?」
【伊代】
「なにがいいたいわけよ」
【智】
「んーと……花鶏は賛成してくれたから、
2〜3日なら茜子ちゃん泊めてくれると思うよ」
対立事項についての妥協点を提示する。
さらに白い目をされた。
【伊代】
「こういうヤツだったとは……」
【茜子】
「最悪さんです」
【智】
「二人でそろって!?」
【伊代】
「そこまで見越して、あの子をたぶらかしたのね」
【智】
「人聞きの悪い」
【伊代】
「しかも色仕掛けで、ふしだらな」
【茜子】
「教育上不適切な欲情です」
【智】
「友情といって欲しいです。
家族に説明できないようなことはしてませんよ?」
【伊代】
「ノンケだとばかり……まさか、わたしのことまでそんな目で」
おっきな胸を両手で隠して後ずさる。
【智】
「何の話をしてるのかわかんない」
【伊代】
「しれっとした顔してるくせに姑息で」
【茜子】
「八方美人の気安いさんです。そのうち、友達と修羅場になって、通学路で刺されて人生エンドです」
【智】
「……そんな未来はやだな」
【伊代】
「やっぱり嘘つき村の住人ね」
【智】
「流行ってるの、それ」
【伊代】
「なにが?」
【智】
「なんでもないです」
【伊代】
「そつもないのね」
言葉の谷間をついた舌鋒(ぜっぽう)が、
意外な鋭さで突き刺さる。
いやに硬い表情をした伊代が、
眠そうな茜子の向こうからまなざしを送ってくる。
しっとりとした笑みを返す。
【智】
「なんのこと?」
【伊代】
「買い物に出かけるとき、わたしたちに声をかけたのが」
思いの外、伊代は聡(さと)い。
こちらの意図を読んでいた。
【伊代】
「元気二人組は最初からあなたの味方だし、あのクォーターも
たぶらかしてたみたいだし」
【智】
「後ろ半分だけ訂正して」
【伊代】
「わたしたちを説得すれば障害は無くなるものね」
【智】
「説得というか」
【伊代】
「そりゃ、たとえ何日かにしたってこの子を泊めてくれるっていうのは悪くない取り引きだとは思うけど」
【智】
「けど?」
【伊代】
「あの家にも、ご両親とか、いるんでしょ」
【智】
「そっちは問題ないと思う」
花鶏の反応を思い返す。
両親の話題を切り捨てるような、印象。
きっと、あの家で、
花鶏の両親のことがリスクになることはない。
【智】
「それにさ、僕らが助けてって泣きついたら、花鶏だって
助かるじゃない」
【伊代】
「なによ、それ」
【智】
「彼女、自分から助けてなんて言い出さないタイプだけど
一番人手は欲しいはずでしょ」
【伊代】
「………………」
【智】
「白い目を通り越して死んだ魚の目だね」
【伊代】
「うおの目にもなりますわ」
【茜子】
「鬼畜さんですね、茜子さん了解しました」
【智】
「……もそっと他の言い方はないですか」
【伊代】
「あきれたわ、今度こそ心の底からあきれ果てました、わたしは。こんな人だとは思わなかった」
【智】
「人間見た目で判断しちゃダメかも」
【伊代】
「貶(けな)してるのよ」
【智】
「……それはしたり」
【伊代】
「全部計算尽くで、たらし込んだんだ」
【智】
「ほんと人聞きが悪いです」
【伊代】
「本当のことばかりだから悪くない」
【智】
「どっちかというと、こっちは強奪された方」
【茜子】
「何を?」
茜子さんのシビアな突っ込み。
【智】
「………………色々」
【茜子】
「邪悪です」
烙印完成。
【伊代】
「それにしても」
【智】
「にしても?」
【伊代】
「晩ご飯の買い出しに行くことになるとは」
【智】
「あっさり全員泊めてくれるとは豪毅な話だよね」
【茜子】
「ブルジョア倒すべし」
【伊代】
「ファミレスとかでもよかったんじゃないの」
【智】
「外食すると高くつくし、節約しとかないと」
【伊代】
「吝嗇(りんしょく)家なんだ」
【智】
「これから何があるかわかんないから。同盟の運営資金は
可能な限り倹約で」
【茜子】
「暗黒宗教資本主義の走狗(そうく)なのですか」
【伊代】
「赤い会話ね」
【智】
「赤いのは流行らないんだよ、新世紀」
【伊代】
「泊めてもらうのは、家無しの二人だけでもよかったんじゃないの」
【智】
「そんな、猛獣の檻に生肉放置するような……
いや、どっちかいうと犬と猿を同じ庭で飼うというか……」
【伊代】
「なんの話をしてるのよ」
【智】
「今後の相談もしとかないと困るわけだから」
【伊代】
「利害の関係か」
【茜子】
「強く結ばれた山吹色の絆ですね」
【智】
「…………」
たかが色ひとつなのに、
ドス汚れた気がしてくるのはどうしてだろう。
頭の上の夕闇は、
夜に傾いてとっぷりと暗くなる。
暗い道を街灯がまたたいて照らす。
夜には灯りが必要だ。
手探りでは遠くまで歩いて行けない。
【伊代】
「わたしは、誰かに助けて欲しいなんて思わない」
【伊代】
「ひとりでできるし、やってきた」
【智】
「伊代が誰かを助けるのはありなんだ」
【茜子】
「……」
【伊代】
「そういう主義なのよ」
差し出された手を振り払い、自分の手を差し出す。
矜持(きょうじ)とも気高さともつかない。
これも我が儘に分類すべきか。
【伊代】
「一緒にやったってどうにかなるとも限らない」
【智】
「人数が足りないから、野球できないのが残念」
【茜子】
「バスケットはできますね」
【智】
「一人余っちゃいますよ」
【伊代】
「だからって」
【智】
「んとね。手を繋ぐのは解決じゃなくて開始。今までは
スタート位置にさえついてなかった」
【智】
「これからよってたかって、やっつける」
【茜子】
「……やっつけますか」
【伊代】
「なにと戦うのよ、魔王でも出てくるわけ?」
【智】
「呪われた世界を、やっつける」
きょとんとされる。
聞き慣れないフレーズに眉をひそめていた。
【伊代】
「呪い?」
【智】
「ずっと続く呪いみたいな、そんな気はしない?」
【伊代】
「なにが、よ」
【智】
「この世の中のこと全部」
【智】
「昨日のことはどうしようもない、先のことはわからない、
途中下車すると取り返しはつかない、立ち止まることさえ難しい」
【智】
「否が応でも歩き続けないといけない。どこかへ向かってるのか、とりあえず歩いてるだけか、それはそれぞれのことなんだけど」
【智】
「真っ直ぐでさえない、曲がりくねって足場の悪い、深い森と
薄暗い沼と荒れ果てた道行き」
【茜子】
「後ろ向き鬱思考来た」
【智】
「もうちょっと感想が別方向になりませんか。含蓄ある詩的表現に心うたれろとは言わないんだけど……」
【茜子】
「わかりました。拍手しますからお小遣いをください」
【智】
「生々しい等価交換ですね」
さもしさに嘆く。
感動を金額に換算するのは、
バラエティーの制作者だけで十分だ。
【伊代】
「呪われた、か」
【智】
「僕らはみんな呪われてるんだよ」
誰だって呪われている。
僕らはみんな呪われている。
呪われた道を、行く先もわからないまま歩いていく呪い。
【伊代】
「そうかもね」
珍しく素直な同意が返ってきた。
【伊代】
「それで、束になったからって、やっつけられるわけ?」
【智】
「少なくとも、昨日は、るいがいて助かったでしょ」
小細工のできる脳みそよりも、
拳骨一発の方が重要な場面は往々にしてある。
昨夜そうであったみたいに。
ひと一人は万能には足りない。
臨機と応変でもわたれない場所には、
適材と適所で埋め合わせをする必要がある。
一人で足りなければ二人で、
あるいはもっと大勢で。
人間が社会的な生き物である必要十分条件だ。
伊代の返事を待った。
明後日を向いたままだった。
どんな表情をしているのか。
見てみたい気もする。
花鶏の家がもう近い。
足を止める。
【智】
「返事、聞いていい?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「なによそれ?」
【智】
「好きなの、愛してる」
真摯に訴える。
絡み合う目と目。見つめ合い。
腐ったお肉でも見る目をされた。
【智】
「冗談です」
【伊代】
「……ほんとにノンケなんでしょうね?」
つついと横歩きで離れられた。
安全距離は二人分くらい。
【智】
「まったくもって、同性といちゃつく趣味はこれっぽっちも
ありませんから」
本当にない。
これっぽっちもない。
【伊代】
「コミュニケーションにおける言語の信憑性についての、
解釈と論理的整合性について」
【智】
「論文ぽいタイトルにしなくても」
【伊代】
「すぐに嘘つくひとは嫌い」
【智】
「失礼です、嘘つき呼ばわりするなんて」
【伊代】
「本当か、本当にひとつもついてないか」
【伊代】
「神にかけて誓える? 指きりできる?」
【茜子】
「『指(ゆび)切(きり)拳(げん)万(まん)』というのは、てめぇ嘘ついたら指ちょん切って
拳一万発食らわせてしかも針千本飲ますぞ、という意味です、
マメ知識」
【智】
「…………嘘も方便といいまして」
【茜子】
「弱気ですね」
【伊代】
「だめじゃない」
あきれ顔。
伊代は、肩を大きく落としてから、
暗い空へ向けて、はね上がるみたいな伸びをした。
【伊代】
「賛成はしない。けど、妥協はする」
【伊代】
「わたしは、ね」
【智】
「茜子は?」
【茜子】
「今夜は家に泊めてやるぜ、その代わりに大人しくしやがれゲヘヘヘへ、ということですか」
【智】
「全然違いますけど!」
【茜子】
「心配はご無用です。茜子さん、修羅の巷に孤独の一歩を
踏みだしたその夜に、最後の覚悟を決めてきましたから」
【智】
「決めなくていい決めなくていい」
【茜子】
「煮るなり焼くなり×××するなり、お好きにしてください」
【伊代】
「×××ってなによ……」
【智】
「あのね、そんな心配しなくても――――」
頭の後ろの方のどこかで、花鶏がニタリと笑っていた。
【智】
「あー、覚悟が決まってるのはイイコトだよね」
【茜子】
「……そういうのは茜子さん困ります」
【智】
「どっちなのよ」
【伊代】
「いいじゃないの、概ねはあなたの目論見通りなんでしょ」
【智】
「これまた人聞きの悪い」
【伊代】
「ま、そういうことにしておいてあげましょうか」
からかうような微笑。
【智】
「なら、伊代が黒で、茜子はピンクってことで」
【伊代】
「なによそれ」
【智】
「五人組だと色分けで役割分担が様式美なんだよ」
【伊代】
「またワケのわからんことを」
【智】
「るいが赤っぽいし、花鶏が青で、にぎやかしのこよりが黄色で」
【伊代】
「あんたはどこよ」
訊かれて、重大な問題を直視する。
〔僕のいるところはどこだろう?〕
《ここじゃない……》
《ここになら、あるんだろうか……》
〔僕のいどころ〕
忘れてたわけじゃない。
そもそも同盟のアイデアにしたって――
【智】
「…………僕は別口で」
【伊代】
「なによそれ」
繰り返された台詞は、
温度が5〜6度低かった。
【智】
「えーっと、僕の仕事は同盟締結までで」
【伊代】
「なによ、それ。大見得切った言い出しっぺが逃げ出そうっていう気?! みんなで力を合わせて魔王退治はどこいったのよ」
【智】
「やっつけるのは魔王じゃなく」
【伊代】
「そんなことはどうでもいいのよ!」
【茜子】
「あそび人ですか」
【智】
「ごめん、それよくわからない」
【茜子】
「さっさと賢者に転職しろってことです」
どこから繋げばいいのかわからない。
どこから反論するべきか難しい。
伊代が柳眉(りゅうび)を逆立てる。
茜子が糸引きそうな横目を送る。
【智】
「それは、その、なんと言いますか、あらゆる非難は甘んじて受けますが、人には人それぞれでやむにやまれぬ事情というものが往々にして」
【伊代】
「政治答弁でひとりで逃げられると思ってるの?!」
罪悪感から逃げをうった。
回り込まれた。
【智】
「そ、そんな、こと……」
【伊代】
「なによ、煮え切らないわね!
言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」
詰め寄ってくる。
口ごもる。
言いたい、
でも、言えない。
ダメなのだ。
本音を言えば、引っかかりは残る。
三日飼ったら情が移るのたとえのように。
茜子に引っかかって巻き込まれている伊代と同じに。
貸せる力があるなら貸してやりたい。
でも。
でも、が残る。
割り切れずに最後に余る。
どうしてもダメだ。
ここは退けない。退いてはいけない。
なぜならば――――。
バレてしまう。
誰かと並んで歩けば危険が増える。
身近に寄せるほど地雷になる。
危険はどこにでも潜んでいる。
どんな機会からでも違和感は忍び込んでくる。
それは、いずれだ。
いずれは、遅いか早いかだ。
すぐに追い詰められる。必ず誤魔化しきれなくなる。
危険すぎる綱渡りを試したいとは思わない。
【智】
「だから……」
だから。
【伊代】
「なんなのよ!」
遠ざけておかないと。
誰をも彼をも。
【智】
「絶対……絶対ダメなんだから!!」
〔牡丹の痣はないけれど〕
【智】
「絶対ダメなんだけど……」
つくねんとこぼれた言葉が天井に昇る。
花鶏の家は大きい。
お風呂も大きい。
個人邸宅には相応しくない。
ちょっとした銭湯か、寮の大浴場だ。
寮生の経験なんてないけれど。
【智】
「無駄な施設だなあ」
大きさは善行であるという、
そんな家訓があるものかどうなのかは、
面倒なので確かめなかった。
余りに余った湯船を一人で使う。
ゴージャス。
口まで沈んで、吐く。
無数の泡沫が弾けるように、
とりとめのない疑問が浮かんでは消える。
【智】
「どうしてこうなっちゃったのか」
検討中。
失敗の原因は意志の弱さか、
それとも議論上のミスか。
逃げるのにしくじった。
お泊まりすることになった。
ここまではいい。妥協の範囲だ。
お風呂に入る。
危機的状況だが、まあ、よしとする。
不作法だがタオルで隠したままお湯に入った。
素肌は頼りない。布きれ一枚の薄さが消えれば、
世界と対峙するのは自分自身。
その無防備さに愕然とする。
隠すことさえ許されない真正の姿。
【智】
「バレたら死んじゃう……」
誰もいないのにごく自然に丸くなる。
自分を隠すようにヒザを抱えた。
決定的瞬間の光景を想像するだけで死にそうになる。
針のむしろに等しい冷視と軽蔑と弾劾に、
踏みにじられる予想図は悲しすぎた。
本当の問題は、現在よりも未来にこそある。
どこまで。どうやって。
隠し通すことが出来るだろう。
【智】
「…………ぶくぶくぶくぶく」
潜行するほど懊悩する。
【茜子】
「広い」
【茜子】
「とてとて」
【茜子】
「よいしょ」
【智】
「あ、いらっしゃい」
【茜子】
「おじゃまします」
【智】
「…………」
【茜子】
「…………」
何気ない裸の挨拶。
ぎぎぎと骨の軋む音を
立てながら首を回して再確認。
白い肌。白い足。白い腰。
見つめ合う。
【智】
「ぎゃわ!」
【茜子】
「――――ッッ!」
何をそんなにというほどの反応だった。
茜子はゾンビと出会った犠牲者の顔で飛び退いた。
後ろから驚かされた猫そっくりの野生の瞬発力。
そして、着地に失敗。
【茜子】
「なう!」
【智】
「どじっこ……?」
意外な属性発覚か。
【茜子】
「ぷ、ぷはっ……く、な、ど、が、あ」
【智】
「まずは深呼吸して落ち着きなさい」
【茜子】
「どうして貴方がここに?!!」
【智】
「うっ、そ、それは――」
絶体絶命――を意識したが、
すぐに気がつく。
危機的状況は揺るがなくとも、
現時点で秘密は漏洩していないのだという大前提。
つまり。
この事態をありのままに判断するなら。
先にお風呂をいただいていた先輩キャラの後ろから、
知らず入ってきたチビキャラとの
裸コミュニケーションイベントフラグ。
【智】
「――別に、どうというわけではなく」
クールだ、クールになれ。
そうとわかれば冷静な対応が必要だ。
【智】
「先にお風呂をいただいてただけですけれど」
【茜子】
「出ます」
立ち上がる。全部見える。
【智】
「ぎゃわ」
【茜子】
「なんですか」
【智】
「そ、そんな、なにも、慌てて、でなくても、いっしょしても、
別に……」
錯乱して、よからぬ事を口走る。
出て行くのなら大人しく出てもらった方が、
あらゆる意味で助かるに決まってる。
【茜子】
「孤独が趣味です」
【智】
「す、崇高なご趣味を」
【茜子】
「わびです」
【智】
「違う気がする」
【茜子】
「そういう突っ込みを入れると、わびを入れさせますよ」
【智】
「ごめんなさい」
なぜに謝らねばならないのか。
謎だった。
【茜子】
「とにかく出ます」
【智】
「は、はい」
【茜子】
「孤独に一人で残り湯をこそこそ使うのが趣味ですから」
【智】
「何も言ってないです」
【花鶏】
「はぁい、いいつけ通りクリームとバターはちゃんとすり込んだかしら?」
【智】
「ぎゃあー!」
【茜子】
「――――ッッッ!」
慌てて肩まで湯船に沈んだ。
【花鶏】
「ずいぶんな悲鳴ね。猫が絞め殺されたみたい」
【智】
「なななななななななななな」
【花鶏】
「なにかしら」
【智】
「なんで裸なのぉ!」
【花鶏】
「お風呂ですもの」
実に当たり前でした。
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【智】
「ぎゃあー!」
茜子とはわけが違う。
花鶏は危険だ。
逃げ場を探す。
なかった。
目の前に裸。間違いなく裸。
これ見よがしに裸。
まったくの一糸まとわぬ全裸。
日本人離れした白い肌、繊細でしなやかで、
それでいてしっかりメリハリのついた身体。
【智】
「ぎゃあーぎゃあーぎゃあー」
全ては罠だった!
花鶏が熱心にお風呂を勧めてきて。
考え事してたから成り行きに任せていたら、
あっという間にこの窮地!
【花鶏】
「うるさいヤツね。いい加減覚悟を決めたら?」
【智】
「非処女になると人気落ちるから清い身体でいたいんですぅ」
【花鶏】
「最近はやらないわよ、そういうの」
【伊代】
「うわ……」
【るい】
「ひろいのお」
【こより】
「センパーイ」
【智】
「みぎゃー!!」
【茜子】
「!!!!!」
追加オーダーが発生しました。
春のオリジナルメニュー、
噂のビッグタックとダブルサンド、
それからポテトはSサイズで。
【智】
「みぎゃーみぎゃーみぎゃー」
警戒警報を発令。
色とりどりで目のやり場がない。
右にも左にも肌色。そうでなければ桜色。
はたまた黒。どっちにしてもどうしようもない。
危機的な状況が訪れていた。
【るい】
「何を鳴いてるの、トモちん」
屈託もなく。
ひときわ豊作な感じが目の前に来て揺れる。
【智】
「錯乱してます!」
【るい】
「……そう、なんだ」
【るい】
「お風呂まででっかいどーとは」
【花鶏】
「それならむしろ、お風呂だけ小さくして何の得があるのかを
訊きたいわ」
【こより】
「おー、銭湯来てる気分であります!」
【伊代】
「そこそこ、湯船で暴れない。お行儀悪いわよ」
【茜子】
「……ナイスお湯」
【智】
「三角形ABCを角Cが直角である直角三角形とするとき、角ABCのそれぞれの各辺の長さをabcとして、頂点Cから斜辺ABに対して垂線を下ろし」
【伊代】
「ほんといい気持ち……
こうしてると昨日のドタバタ騒ぎが嘘みたい」
【花鶏】
「せっかくだから、気は使わないでゆっくりしていらっしゃい。
ストレスは美容の大敵だし」
【こより】
「え、あ、わたし、なんかあるッスか?」
【こより】
「なんでヤバイ目つきを……」
【花鶏】
「失敬な子ね。美しいものを鑑賞する気高い心に、情欲の入る隙間はないのよ」
【茜子】
「……表情と言動が不一致してます」
【伊代】
「それよりも…………なにやってるの、二人して?」
【茜子】
「…………」
【智】
「自身を要素として含まない集合A、含む集合を集合Bとする場合、任意の集合Cは集合Aであるか、集合Bであるかのいずれかで、」
逃げ出す機を喪失した二人だった。
広漠たる湯船の園の、一番端の隅っこで、
左右に別れて孤独の時間を謳歌している。
示し合わせたような、
ヒザを抱えたダンゴ虫。
視界に肌色が入ってこないように背を向けて、
頭の温度を下げる呪文をひたすらに唱える。
茜子の趣味的問題はともかく。
こちらは人生がかかってる分だけ必死だ。
そうだ、天国と地獄は等価なのだ!
絶対的な幸福は絶対的であるが故に相対的な価値を失い、
終わり無く続くことで無限の苦痛へと堕落する!
僕は錯乱していた。
【こより】
「新しい人生哲学の模索ですか、センパイ」
【智】
「……お風呂でそんなことしない」
【るい】
「どうして隅っこにいるの?」
【茜子】
「狭くて暗くてちっちゃいところが好きなので」
【花鶏】
「こっちいらっしゃいな、背中流してあげるから」
【智】
「遠慮します」
【茜子】
「近寄ったら舌を噛みます」
【花鶏】
「二人とも、お堅すぎね」
【るい】
「智ってば、一緒にお風呂はいるのいやがるよ」
【茜子】
「……陰謀のにほいがする」
【智】
「そんなものはない」
あるのは陰謀じゃなくて秘密だ。
危険な隠蔽だ。
【伊代】
「照れくさいのはわからないでもないわ」
【るい】
「オッパイちっちゃいの気にしてた」
【茜子】
「……A?」
【花鶏】
「触った感じだとAAA」
【こより】
「問題ありませんであります!
こよりもペッタンコでありますッッ!」
【伊代】
「そんなことに胸はらなくても」
【こより】
「だめですか……やっぱし、ないと、人として生きていくには
まずいでありますか……」
【花鶏】
「いいじゃない、可愛らしいわ」
【こより】
「うひゃひゃひゃひゃ」
【花鶏】
「もう少しいい声をだして欲しい」
【こより】
「な、なにをするですか!?」
【花鶏】
「無邪気なスキンシップ」
【こより】
「な、なんかむしろ邪気が、あぅっ」
【花鶏】
「んふふ〜ん♪」
【こより】
「そ、そこはだめです、あうっ、や、あ、ちが、そこはちがぅう〜、きゃう」
【花鶏】
「うふふふ、可愛い子」
【こより】
「あ、あ、あ、あーーーーーーーッ」
あまりの暴挙に全員が我を忘れていた。
残念なことに、一番最初に我に返った。
【智】
「ナニヲシテオラレルノデスカ」
【花鶏】
「片仮名でクレームつけないで」
集団は秩序を失った時に効力を失う。
小さな悪は、見過ごせば大きな木に育ってしまう。
建物の窓が壊れているのを一つ放置すると、
他の窓もやがては全てが壊されるのだ。
【智】
「それで、一体何を」
【花鶏】
「セクハラ」
【智】
「正直ならいいってもんじゃないよ」
【こより】
「せんぱい〜〜〜」
背中にしがみつかれる。
【智】
「ぎゃわー」
【こより】
「お嫁に行きにくくなりそうなところさわられたです〜」
【智】
「ところってどこのこと!?」
【こより】
「せんぱいーせんぱいーせんぱいー!」
【智】
「触ってる触ってる今この瞬間に背中に何か触ってる!」
がくがくされる。
違う意味でがくがくになりそう。
【伊代】
「いつまでも何を騒いでいるのやら。まったくお子様たち
なんだから」
【るい】
「なるほど、たしかにこっちはお子様と違う」
【伊代】
「どこ見てるの……」
【るい】
「なんというけしからん乳」
【伊代】
「はしたない単語のままで」
【茜子】
「……浮いている」
【伊代】
「……だれのだって浮くわよ」
【こより】
「浮かないッス」
【茜子】
「……」(←賛成)
【花鶏】
「浮けばいいってものじゃないわ」
【るい】
「なんだ、浮かないのか」
【花鶏】
「………………なにも言ってないでしょ」
【こより】
「きっと空気か何かが中に――」
【伊代】
「そんなの入ってない」
【花鶏】
「でも、たしかに、これは、中々」
【伊代】
「目つき目つき」
【るい】
「触ってもいい?」
【伊代】
「あんたまでそっちの人か!?」
【るい】
「そういうわけじゃないんだけど、こんだけあると、
エアバックプニプニしてみたい」
【伊代】
「えあ……そういうのは自分ので好きなだけおやんなさい」
【るい】
「これは、今ひとつ迫力が」
いやいや、なかなかだったと思う。
【こより】
「センパイせんぱい、見るです、すごいッス」
【智】
「ソウデスカスゴイデスカ」
【こより】
「ほらほら、たぷたぷするー!」
【伊代】
「やめてやめて」
【智】
「タプタプデスカ」
【こより】
「ほらほら、見て見て」
首を捻られた。
【智】
「――――――ッッ」
【こより】
「見ました?!」
【智】
「見えちゃった……」
【こより】
「すごいでしょ?!」
【智】
「タシカニスゴイデス」
本能的に目を反らせない。
いよいよ危険です。
母上様。
死に場所が桃源郷というのは、
はたして幸運でしょうか、不運でしょうか。
【こより】
「なにくったらこういうのになるですか?」
【茜子】
「日夜もまれて」
【伊代】
「ふしだらなことは何もしてない」
【こより】
「もまれて大きくなるなら、わたしもセンパイにもまれたら!」
【伊代】
「……これこれ、そんな非生産的な」
【花鶏】
「そんなことならわたしがいくらでも揉んであげるわよ」
【こより】
「あー、いやー、それはちょっと……」
【伊代】
「根拠のない俗説を頭から信じない」
【こより】
「おっきくならないっすか……」
とてもとても残念そうに。
【伊代】
「そんなの、あと何年かしたら、ほっといても自然に大きく
なるわよ」
【こより】
「でも、違いすぎるこの現実」
【伊代】
「そりゃ、個人差は、あるかも、知れないけれど……」
個人差。
言葉の欺(ぎ)瞞(まん)の裏側が目の前に証明として並んでいる。
伊代>>>るい>>花鶏>茜子>>(越えられない壁)
>>こより。
【智】
「………………ぶくぶくぶく」
イケナイことを考えた。状況がさらにまずくなる。
【るい】
「沈んでる?」
【智】
「難しい年頃なので……」
【るい】
「おろ、これは――」
【花鶏】
「ん……ああ、それは痣(あざ)よ。模様みたいなおかしな形してるでしょ。でもね、それはいわば聖痕なのよ。わたしの家の先祖には代々あったんだけど、」
花鶏さんは、ひたっていた。
自慢のクラリネットを見せびらかす少年のようなまなざしで、
肩の濡れ髪を大仰にかきあげる。
痣(あざ)。
湯あたり寸前の脳みそに単語が忍び入ってくる。
痣――――。
【るい】
「それ、私もある」
【こより】
「ほんとだ」
いきなり、ありがたみのない展開になった。
【花鶏】
「――――待てや」
物言いがついた。
【花鶏】
「なによそれ」
【るい】
「なによってなんなのさ」
【花鶏】
「どこの盗作よ、親告罪だからってバカにしてると、著作権法違反で訴えるわよ」
【茜子】
「痣にそんなものはない」
【るい】
「文句あんのか」
【花鶏】
「ありすぎて並べてるだけで朝になるわよ」
【るい】
「ほほう」
ずいっと、るいが胸をつきだす。
挑発的なポーズだった。
大人しく鼻白んでいる花鶏ではなかった。
【花鶏】
「……ちょっと人より脂肪が余分についてると思って」
【茜子】
「微妙に逃げっぽい言動です」
【るい】
「みろ」
【花鶏】
「あんたの胸なんか見ても嬉しくない、こともないけど、
まあそれは置いておいて」
【るい】
「そっちじゃなくて、こっち」
そこには、痣がある。
花鶏が目を白黒させる。見入る。
自分のと見比べる。
見てるだけで楽しい万華鏡じみた百面相だ。
【花鶏】
「うそ」
【るい】
「ほんと」
花鶏が運命に破れた者の顔をしていた。
ここがお風呂でなければ、
跪いて過酷な天に怒りをぶつけていた感じの悲鳴。
【花鶏】
「ニェーッ!」
【こより】
「はーいはいはーい! 不肖鳴滝めにもあるでごわす!」
そのうえ追い打ち。
空気を読まない言動は、
無垢な分だけ傷口を深く抉る。
【こより】
「ほらッス」
【智】
「…………」
やたらと扇情的なポーズだった。
お風呂に腰掛けて片膝をたてる。
色香と呼ぶには未成熟だ。
脂肪の薄い腿から付け根へと至るラインも、
異性をあまり意識させることがない。
全部見えた。
【智】
「まだ、はえてないんだ」
【こより】
「う、ちょっと気にしてるのに」
【智】
「ぶくぶくぶくぶく」
ぽろりともらす自分の口が恨めしい。
【こより】
「ほら、ここ」
左の内股を指で示す。
また際どいところにあった。
白い肌に青白い痕が艶めかしい。
今は本人の素養と打ち消しあってただの痣だが、
数年も経てば、痣一つで男を手玉に取れてしまう、
無限の可能性が広がっている。
【花鶏】
「ほんとだ……」
【るい】
「へー、おんなじだねえ。擦ってもとれないし」
【こより】
「にゅにゅ、なんかくすぐったい」
【花鶏】
「なに、これ」
【伊代】
「なにとおっしゃいますと」
【花鶏】
「なによこれ、どういう詐欺よ!」
【るい】
「いきなり詐欺ときやがった」
【茜子】
「いつもより多くとばしております」
【こより】
「なんというできすぎた偶然!」
【花鶏】
「こんな偶然があってたまりますか!」
【こより】
「あわわ」
吠えられたこよりは、尻尾を丸めて、
るいの背中に隠れる。
偶然――。
こよりの言葉の通り、
出来すぎた可能性。
どんな希少な状況であれ、
確率的にあり得るならば出会ったとしても不思議はない。
1億回、1兆回に1度かぎりの出来事も、
今このときが1兆回目であれば成立してしまう。
だがしかし。
【花鶏】
「そっちの3人も!?」
【智】
「返事をしたら食い殺されそうです」
【花鶏】
「返事をしないなら今すぐ殺すわ」
花鶏は崖っぷちにいた。
自分で自分を追い詰めて煮詰まっている気が、
ひしひしとする。少なくとも僕に責任はないはずだ。
なのに、なぜ責め殺されなければならないのか。
【花鶏】
「あるの、ないの?」
【伊代】
「痣くらい、あるけど……」
【花鶏】
「ある!?」
【伊代】
「お、同じのかどうかなんてしらないわよ」
【花鶏】
「どうして!?」
【伊代】
「背中だからあんまり気にしたことない……きゃーっ!?」
花鶏がケダモノになって飛びかかった。
女の子二人が組んずほぐれつ。
もうちょっと夢のあるシチュエーションなら心温まるのに。
【花鶏】
「な、なななな」
背中を確かめる。
結果は訊ねるまでもなかった。
蒼白の花鶏がよろめきながら後ずさる。
【花鶏】
「きっ」
【茜子】
「ッッ!」
次の獲物は茜子だった。
【花鶏】
「大丈夫よ痛くしないから」
【茜子】
「おっぱいさわったら死んじゃいます!」
【花鶏】
「それ以外のところにしてあげる」
【茜子】
「一歩でも近づいたら舌も噛むです!」
【花鶏】
「うふふふふふふふ」
【花鶏】
「――――ッ」
【茜子】
「――――ッ」
茜子が逃げ出した。
後ろにダッシュ。
そして、足を滑らせる。
【茜子】
「きゅー……」
【花鶏】
「あった…………」
うつぶせに倒れた、お尻。
見えた。
やっぱり痣があった。
小ぶりで、白い、まろみの上。
記憶に焼き付いてしまった。
【花鶏】
「そんな……」
花鶏が、よろりと2〜3歩後ずさる。
【智】
「はっ!?」
甘美な一瞬を反芻している場合ではない。
高いところから花鶏がなにも言わずに見下ろしてた。
なにも言わなくても言いたいことがわかる。
繋がることのない心と心が、
この一瞬には確かに結ばれていた。
曰く、獲物と捕食者の強い絆。
【花鶏】
「あなたもなのね」
【智】
「ぎゃわー!」
抑揚のない言葉遣いがなおさら怖い。
食われる!
【花鶏】
「どこにあるの!」
【智】
「まってまってまって!」
【花鶏】
「全部見せろ!」
【智】
「きゃーきゃーきゃー」
【花鶏】
「大人しくしなさい!」
【智】
「だめいけないわそれだけは堪忍してぇーっ」
死にものぐるいで抵抗する。
現実は厳しい。
湯船の中で、タオルで前を押さえたまま、
片手で出来ることなんて知れていた。
【花鶏】
「観念!」
【智】
「おたすけ!」
絶体絶命。
【るい】
「あーこらこら、どうどう」
【花鶏】
「な、離しなさい、こら!」
るいが羽交い締めに止めてくれた。
ほっと安堵にへたり込む。力が抜ける。
【るい】
「だから、おちつきなさいって。ほら、あれ」
右腕の後ろ側だ。
痣がある。
花鶏は目にした。
これで五つめの、自分と同じ痣。
【花鶏】
「どいつもこいつも――――」
【花鶏】
「ど、ど、どッッ……どういうことなのよーっ!?」
【るい】
「どうもこうも」
【花鶏】
「これは何かの間違い? どうしてこんなにぞろぞろと、これは罠、いえ、陰謀……そうよ、陰謀だわ! アポロだって月には着陸していないのよ!」
錯乱していた。
まあ、彼女の意見が、多かれ少なかれ、
全員の代弁なのは間違いなかった。
身体のどこかに同じ形をした痣のある6人。
偶然だなんて言ったら笑いがとれる。
今時なら週刊漫画の新連載でも、
もう少し気の利いた導入を心がけるんじゃなかろうか。
【智】
「あ、でも――」
頭に豆球。
ひらめいちゃいました。
花鶏が騒いで注意を引きつけてくれているじゃないですか。
ゴキブリの身ごなしで、
コソコソと湯船から上がる。
思った通り誰も注目しなかった。
人目の隙を縫って、気付かれないうちに、
そそくさとお風呂を出て行く。
【智】
「それじゃ、おさきにー」
【智】
「…………あー、死ぬかと思った」
〔約束しない人との対話〕
夜を見る。
テラスに出ると、
海原めいた高級住宅街の静けさが眼下に広い。
【るい】
「なにしてんのん?」
【智】
「ひまつぶし」
坂の上にある花鶏の家からは屋根の列が見渡せる。
街は遠かった。汚濁も遠かった。
清潔で、静閑で、
瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいが門を並べる。
切り離された聖域だ。
【るい】
「ひつまぶしって美味しいよね」
【智】
「入れ替わってる入れ替わってる」
【智】
「花鶏は?」
【るい】
「ふて腐れて自分の部屋に引っ込んで寝てた」
【智】
「子供ですね」
【るい】
「おこちゃまめ」
くすくす笑う。
一歩間違うと皮肉だが、
るいの物言いには裏がない。
素直な顔は端から見ていても気分がよくなる。
【智】
「ショックだったんだ」
聖痕と、花鶏は呼んだ。
どんな思い入れがあるのかは知らず、
どんなにか思い入れを込めていたかは想像できる。
信仰していた特別が、十把一絡げに量産されていたのは、
さぞかしカルチャーショックだったろう。
るいも黙りこくっていた。
腕を組んで、首を傾げている。
【智】
「悩んでる?」
あの痣のことを。
【るい】
「何を悩んだらいいかと」
考えてませんでした。
【智】
「だと思った……」
同じ痣がある。
偶然に出会った6人に、
偶然そろっていた痣。
笑いのとれる確率だ。
ジュブナイルかライトノベルの小説じゃあるまいし。
【智】
「るいにも昔からあった?」
【るい】
「よく覚えてないけど、ちっこいときからあったかな。昔は学校の着替えとかで、よくからかわれたりした」
僕の痣は生まれたときからあった。
生前の親の言葉を鵜呑みにするなら、そうだ。
右腕の後ろにある。
自分では見えにくい。
普段は気にしたこともない。
るいが脱いだ時、
そういえば変な模様を見た。
同じ痣だなんて思いもしなかったけど。
別に、白いたわたわで目がいっぱいに
なってたわけじゃない、たぶん……。
本当に痣なのか?
例えば入れ墨。
それともレーザー印刷。
ネイルアートならぬスキンアート。
痣であれ痣以外のものであれ、
明確な現実の前には、些細な違いだ。
収まりのいい解答が、あるにはある。
全ては偶然だ、と。
収まりというより投げやりだった。
空想をする。
見えない糸を手繰りながら、
僕らは集まる。
宿命のように運命のように。
そうやって、この場に、6人が――――
【るい】
「ぬふふふふふ」
【智】
「なんで笑い?」
【るい】
「なんとなく」
【智】
「いい加減だなあ」
【るい】
「痣のこと……」
【智】
「データが少なすぎてわかんない」
【るい】
「ちょこっとうれしい」
るいが、にへらとした顔。
【智】
「なんでですのん?」
【るい】
「変な痣だと思ってた。小さいときはバカにされたりしたことも
あったから、正直嫌いだった」
【るい】
「そのうちに諦めたんだよ」
諦め――。
ちくりと胸の奥で何かが痛んだ。
【るい】
「いつの間にか気にしなくなってた。あることも忘れるくらい、
どうでもよくなってたんだけど」
【るい】
「他にもいたんだね。どうしてこんな痣がそろってるのかわかんないけど……でも、私たち、同じなんだって思えた。同じ印がついてる。どこかで繋がってる感じがする」
【るい】
「もし、あの子たちと、今日ここで、こうやって逢うために、
この痣があったのなら」
【るい】
「そういうの、ちょこっとうれしいかも……」
【智】
「……そうかなあ」
【るい】
「そうだよ」
喉から出かかった言葉を飲み込む。
喜んでいるところに、
根拠もなく水を差すのも悪い。
あらかじめ決まっていた出会い、なんて。
そんなものがあるとして。
それは。
――――呪い。
宿命であれ運命であれ、結果の定められた道のり、
栄光の代価としての苦役、決まった道筋から逃げられない、
選ぶことさえ許されないのなら。
それがどれほどの栄華を約束するにせよ、
その名には「呪い」こそが相応しい。
悩んでも見当もつかない。
そもそも。
呪い、運命、宿命、前世。
それって、ちょっとおもしろおかしい素材過ぎだ。
真夏のオカルト番組で、お笑い担当のコメンテーターに馬鹿に
されるぐらいが指定席なのに。
【智】
「柳の下より今日のテーブル」
【るい】
「その心は?」
【智】
「さて、晩ご飯どうしよう」
【るい】
「ないのか!?」
【智】
「みんなで食べようと思って材料買ってきたんだけど、さすがに
家人がいないのにキッチン借りるのも」
【るい】
「やっぱりないのか!」
るいは棒立ちになった。世界の終わりと遭遇していた。
【智】
「しかたないから外食にしようか」
【るい】
「外食……」
うんうん唸る。葛藤する。
るいは食費の桁が違う。
外食すると、文字通り桁が違ってしまう。
【るい】
「るるる〜」
【智】
「にしても騒がしい一日だったねえ」
【るい】
「うんうん」
【智】
「……」
【るい】
「なによぉ」
【智】
「いい顔で笑ってる」
【るい】
「なわっ」
【智】
「楽しかった?」
【るい】
「…………まね」
【るい】
「なんかお祭りでもしてる気分」
【るい】
「ほら、なんせヤクザな生活してますし、仲間とか友達とか、
そういうのあんまりいなかったんだよね」
【智】
「後輩とかに好かれそうなタイプなのに」
【るい】
「んー、まあ、下駄箱に手紙入ってたり、校舎裏に呼び出されたりしたことは何回かあるんだけど」
ほのかなお話だった。
【智】
「相手は年下の?」
【るい】
「うん、女の子」
【智】
「…………」
ほのかじゃなくて切ない思い出だ。
【るい】
「私、不器用だし、気まぐれだし、怒りんぼだし……すぐ考え無しに突っ走っちゃうから、なんかのはずみで仲良くなっても、あんま長続きしないの」
【智】
「友情って信じる?」
【るい】
「…………信じたい」
夜風が梢を鳴らす音に、切ない言葉が混じる。
信じるでも、信じないでもなく。
信じたいと、るいは口にする。
それは願望だ。
か細くすがる希望だ。
あり得はしないと知っているから、
その裏返しにある無力な祈り。
【るい】
「私ってさ、ほんと単純だから、だから、信じたら――」
【るい】
「きっと、最後まで信じちゃうんだ」
【智】
「るいっぽい」
【るい】
「それってどんなの?」
考えて、言い換える。
【智】
「忠犬っぽい」
【るい】
「いいのか、悪いのか」
【智】
「誉め言葉です、たぶん」
【るい】
「うむ、誉められとく」
歯を見せて笑った。単純だ。
心地よい匂いに気がつく。
石けんと混じった、るいの体臭。
思いの外距離の近いことを意識する。
乾ききってない濡れ髪の無防備さに、
こっそりとドギマギしていた。
【智】
「僕らはさ、とりあえず友情からは、はじめない」
近さから気を逸らそうと、別の話題をふり直す。
友情ではなく、同盟から。
【るい】
「同盟か」
【智】
「相互条約からスタートで」
【るい】
「よくわかんない」
【智】
「ギブアンドテイクで助け合おう」
【るい】
「わかりやすくなった」
利用し、利用されることを互いに肯定する。
【るい】
「智、変なこと思いついたよね」
【智】
「変じゃないです。問題をまとめて解決するために知恵を絞ったんです。家がなかったり、ご飯がなかったり、トラブル多すぎるでしょ」
【るい】
「ご飯がないのは問題だ」
【智】
「元凶その一の自覚なさ過ぎ」
【智】
「あのね……だから、僕らは力を合わせて…………この、呪われた世界をやっつけるんだ」
呪い、呪い、呪い。
くめど尽きぬ泉のごとく、
後から後から湧きだす数多の呪いに充ち満ちた、
この世界を。
【るい】
「……呪われた世界をやっつける」
【智】
「そういえばさ、るいの返事は、まだ聞かせてもらってなかった
よね」
【るい】
「返事って?」
【智】
「これから一緒にやっていくのに、賛成? 反対?」
聞くまでもないとは思って流していたけれど。
最終の段取りに確認をする。
【るい】
「…………」
【智】
「るいはどうしたい?」
【るい】
「どう……」
【智】
「明日のこと、その先のこと、これからのこと」
【るい】
「………………」
【るい】
「わかんない」
【智】
「平然と暴言をかまされますね」
【るい】
「先のことなんて考えたこともない」
【智】
「いやいや、お待ちなさいって」
【るい】
「べーだっ」
舌を出された。
るいは不思議だ。
悪ガキみたいなノリの中に、
奇妙なくらい少女がいる。
【智】
「いきなり舌ですか」
【るい】
「私は何ンにも約束しない人なのだ」
【智】
「なんの自慢か」
【るい】
「しない自慢」
意味がよくわからない。
【智】
「約束しない人(じん)?」
【るい】
「そのとーり」
【智】
「指切りも? 口約束も? また明日のお別れも?」
【るい】
「そのとーり!」
【智】
「……どういうイズム?」
【るい】
「るいイズム」
暴君的な胸をはって断言する。
ちなみに、るいが暴君なので、
伊代の場合は宇宙意志だ。
花鶏サイズで自衛隊。
後の二人は……まあ、いいや。
【智】
「よくわかんないです」
【るい】
「そのとーり!!」
【るい】
「そうなの、まさにそこなの。明日のことはわかんない、明日が来るかもわかんない、そんな心配一々してもはじまんない。だから、人生はいつだって一期一会!」
【智】
「サムライヤンキース」
【るい】
「それが私のライフスタイル、人生設計。だから返事なんかして
やるもんか、べーっ!」
【智】
「…………」
論理的整合性を検討してみる。
途中でさじを投げた。
【智】
「やっぱりわからない」
【るい】
「考えるな、感じろ」
屁理屈なのか、我が儘なのか、
自分の生き様を断固として曲げない信念なのか。
余人の理解を超越した心根も、
貫き通せばそれはそれで美しい――
かどうかは解釈の分かれるところだろう。
【智】
「わかった、わかりました、いいです、それでいいです」
個人のライフスタイルに
ケチを付けてもはじまらない。
同盟に異を唱えてはいない。異議があるなら、
るいは後ろも見ずに飛び出して、きっとそのまま帰ってこない。
消極的賛成。
補足・アテにはしてもよさそう。
心メモにラベリングして貼り付けた。
今はそれで十分。
【智】
「とりあえず、今日から同盟はじめます」
夜を見上げて。
星の群れへと手を差し伸べるように、大きく万歳。
【智】
「るいちゃん、適当についてきてね」
【るい】
「べー」
【智】
「期待してるから」
【るい】
「べーべーんべー」
【智】
「今日はみんなでご飯食べよう!」
【るい】
「えいえいおー!」
本当の問題はここから。
はじめるのはなんだって簡単だ。
やり続けることが難しい。
やり続けて、そこで成果を出すことは、
さらにその何倍もハードルが高い。
そして、なによりも。
(さっさと段取りを付けて、
なるべく早めに手を引かないと……)
〔契約結びました(学園編)〕
【智】
「けれど彼女の願いが叶うことはありませんでした……と」
【宮和】
「珍しいお姿を発見いたしました」
【智】
「なぁに、スベスベマンジュウガニでもいた?」
【宮和】
「和久津さまがレポートを片付けておられます」
【智】
「学生の本分は勉学なんですよ」
シャーペンを指で弾いて、
手のひらの上でくるりと旋回させる。
何年か前に流行した。最近も再燃したという。
意味はないが、流行の多くは
意味などさして必要とはしない。
その瞬間の流行であること、
それ自体が意味だと言い換えても構わない。
ご多分に漏れずに覚えたモノで、さして難しいわけでもないのに、コツがわかっていなければ思いの外うまくいかないのでヤケになる。
要は、慣れだ。
日常といい、非日常という。
対比される両者の境界は、
平常から乖離(かいり)した距離の過多に尽きる。
もののとらえ方の問題でしかない。
慣れ親しんだ平常が移ろえばその定義も変化する。
【宮和】
「提出日の休み時間に、慌てて仕上げておられる姿というものは、初めて目にいたします」
回し損ねたペンが掌からこぼれた。
【宮和】
「優等生の霍(かく)乱(らん)」
【智】
「ひとを鬼かなにかみたいに……」
【宮和】
「いったん亀裂が入ると、たいそう脆いものなのです。かのダムと同じです」
【智】
「不気味な予言をせんでください」
【宮和】
「昨日はお忙しくて?」
【智】
「まあ、その、何かとばたばたと」
【宮和】
「多忙であるのはよいことですわ」
【智】
「縁側で猫でも抱いてるのが理想なんだけどね」
【宮和】
「忙しいうちが花とも申します」
とりたてての意味を持たない、
他愛もない戯れあい。
さりげなく触れ合い、
時間を費やす行為。
日常を意識する。
物語なら、振り返ってはじめて価値をみいだせる平穏な日々にこそ与えられる名であり、多くはその安らぎこそ価値あるものだと主張する。
現実には、どうだろう?
教室に踏みこむと、
日常のリズムに取り込まれる。
習慣のなせる技といえた。
もはや意識もしないほど深いレベルで、
学園は日常の一幕として組み込まれている。
【智】
「欺(ぎ)瞞(まん)に糊(こ)塗(と)された日常でも……」
【宮和】
「日常は欺(ぎ)瞞(まん)の上にしか成り立たないものです」
宮和はいつも唐突だ。
どこまでが計算しているのか、まるでわからない。
【智】
「宮、ときどき可愛いことを言う」
肘杖に頬をのせて、笑う。
【智】
「そういう宮は好き」
【宮和】
「本気にいたします」
【智】
「え、えと……」
墓穴。
【宮和】
「式場の予約は済んでおりますから」
【智】
「どういう手回し!」
【宮和】
「お色直しは3回で」
【智】
「しかも豪華だ!?」
【宮和】
「冗談でございます」
【智】
「目が怖かった。スッゴクコワカッタ」
【宮和】
「悩み事がお有りなのですね」
【智】
「人生とはこれすなわち苦悩」
【宮和】
「含蓄あるお言葉ですわ」
【智】
「幸せは一人でくるのに、不幸は友達と連れだってやってくる、
だった?」
【宮和】
「不幸さまは寂しんぼう、ですか」
【智】
「可愛く言っても嬉しくならない」
【宮和】
「そそりますね」
【智】
「何に猛(たけ)っているの!?」
【宮和】
「悩み事が数多いということですか」
【智】
「無理矢理話を戻された……」
【智】
「まあね。そのあたりも悩みの種。優等生としては、譲れない一線というものがあって……」
境界は、概して、目に映らない。
それでいて、ある。
様々な要因によって区分される自他の領海線だ。
【智】
「宮なら、どうする? たとえば、自分がいることが相手にとって何かのストレスになっちゃうような時」
【宮和】
「それはあれですか? 私は愛人の娘なのあのひとがお腹を痛めた子供じゃないわ、とかのお仲間でしょうか」
【智】
「そんな嫌すぎる例題ぽろっと出さないで!」
【宮和】
「そうですね、わたくしなら……やめます」
【智】
「やめるって、お別れしちゃうの? 家から出てく?」
【宮和】
「いいえ。気にするのをやめるので」
【智】
「気にしてるのは相手の方じゃ……」
【宮和】
「それは相手のご都合ですから」
【智】
「まあ、それは……相手は、きっと、いやだろうね」
【宮和】
「でしょうけれど、私は、私であることは止められませんから。
気にするのを止めて、それで別の問題が出てくるようでしたなら、またその時に改めて考えます」
突き放すような返答は、一面の真実の裏返しでもある。
【智】
「やっぱり、八方丸くなんて、都合のいい解答はそう簡単には
おちてないか」
【宮和】
「眉間に島が」
【智】
「きっと皺」
【宮和】
「そんなにお悩みになっては胃を悪くなさいます」
歳をとったら最初に胃腸を壊しそう。
考え込むのは昔からの悪いクセだ。
わかっていても、やめられない。
きっと、怖い。
見えないことが、恐ろしい。
ホラー映画に似ている。
チェンソーもった殺人鬼は脅威であっても恐怖ではない。
後ろから追いすがってくる姿は笑いさえ誘う。
恐怖とは、未知だ。
不明であること、見えざること、
曖昧であること。
真と偽の境界の揺らぎの中に怖さが潜んでいる。
手探りで進まなければならない、その瞬間――――
それが怖くて、幾度も幾度も考える。
可能性と過去の類例から、自分の持ち得る知識から、
来るべき未来像に懸命な接近を試みる。
【宮和】
「和久津さま。心塞ぎがちの貴方にこれを」
【智】
「文庫本?」
【宮和】
「日常的読書に愛用している書籍です。お貸しいたします」
【智】
「おもしろいの?」
【宮和】
「心洗われます」
【智】
「期待しちゃおう」
表紙をめくる。
魅惑の調教師・幸村大、
令嬢生徒会長肛姦補習授業。
官能小説だった。
【智】
「うりゃ」
投げ捨てた。
【宮和】
「ああ、なんという酷いことを」
【智】
「なんでこんなのが日常的読書なの!」
【宮和】
「こんなのではなくスターリン文庫の、」
【智】
「寒そうなレーベル名はどーでもよいです」
【宮和】
「繰り返し愛読を」
【智】
「なぜ繰り返す」
【宮和】
「心塞ぎがちの日々にはよろしいかと」
【智】
「いい台詞も台無しです!」
【智】
「しかも、外側にこんな、可愛い可愛いなカバーわざわざつけて……」
【宮和】
「学園でも日常的に読めるようにと」
【智】
「そういう気だけ使わないで……」
【宮和】
「お電話ですわ」
【智】
「まったく…………」
携帯の液晶を確認する。
花鶏からだった。
昨日、全員で携帯の番号とメアドの交換をした。
るいと茜子は携帯を持ってないことも発覚したりした。
【智】
「まったくの鉄砲玉……不便だから、今度プリペイド持たせるか
何かしよう」
【智】
「はぁい」
待った。返事がこなかった。
【智】
「はぁい?」
再度。こんどは『?』を語尾のニュアンスで付ける。
【花鶏】
『…………』
【智】
「……花鶏?」
【花鶏】
『別に、特に用があったわけじゃないわ』
【智】
「え、あ、そ、そうなの」
【花鶏】
『ええ、なんでもないのよ。まったく、つまらない電話』
【智】
「あ、はい?」
【花鶏】
『暇だったから、ちょっと時間が余ったの。だから電話してみた
だけよ。まったく度し難い』
【智】
「…………度し難いのですか?」
【花鶏】
『じゃあね、サヨナラ』
ツー・ツー・ツー・ツー。
【智】
「………………はい?」
猫騙しされた猫の気分。
〔どうしたんだろう?〕
《ただの気まぐれかなあ》
《なにかあったんだろうか》
〔契約結びました(学園編)〕
【宮和】
「どうなさったのですか」
【智】
「よくわかりません」
3限目がはじまる。
授業の内容は右から左に抜けた。
胃の下に石でも詰まってるみたいな不快感。
小気味よい白墨のリズムを断ち切って。
【智】
「先生――――」
挙手した。
【智】
「はぁい」
【こより】
『やほーでございます! こちら、こよりであります。
センパイにはご機嫌うるわしゅう……』
【智】
「挨拶はさておき」
【こより】
『なんでありますか』
【智】
「その前に確認を」
【こより】
『はっ、なんなりと』
【智】
「今、時間的に授業中じゃないの?」
【こより】
『…………』
【智】
「…………」
【こより】
『センパイ』
【智】
「なんざましょう」
【こより】
『……ジュギョウチュウとは美味しいでありますか?』
【智】
「この件については後ほど裁判で改めて」
【こより】
『釈明の機会を〜!!』
【智】
「長くなるかも知れないけど、身体に気をつけてね」
【こより】
『お慈悲〜』
【智】
「さて、こより君。
きみを一休のエージェントと見込んで指令を授けます」
【こより】
『おお、まさかそこまで認められていたとは!』
【智】
「(学園を)一休」
【こより】
『一級!』
【智】
「まあ、細かいことはいいか」
【こより】
『なにやら引っかかりを覚える今日この頃……』
【智】
「いつの日か、誤謬のないヤングでアダルトなレディーに
クラスチェンジしたら話してあげる」
【こより】
『らじゃーッス』
【智】
「そっちの現在地は……
なるほど、なら、悪いけど頼まれて欲しいんだけど」
【智】
「……そう、そう……確認を……たぶんそのあたりに。
いなかったらそれで問題なしだし。うん、こっちから携帯に
かけても出ないから」
【智】
「それで状況がわかったら、僕の携帯に」
【こより】
『万事了解でありますっ!』
【智】
「お手数取らせます。
あ……っと、帽子、あるならかぶっていった方がいいよ」
【こより】
『帽子?』
【智】
「ウサギさんだと目立つから」
授業再び。
トイレから戻ってきても教室に変化はない。
歯車の駆動音を連想させる授業の進行。
受験のための知識の錬成。
教師の解説を聞き流しながら、
こよりの連絡を待つ。
曖昧なまま待つ時間。
ひどく、長く、いらだつ。
気がつくとシャーペンで、ノートに「の」の字を刻んでいた。
授業を写し取った白い紙面に、いくつもの「の」が黒い染みになる。
【宮和】
「先生」
宮和が挙手した。
【先生】
「なんだ、冬篠?」
【宮和】
「和久津さまのご気分が優れないようですので、保健室に
お連れしたいと――――」
【智】
「宮、宮、宮和――」
【智】
「別に、どこも悪くは……」
【宮和】
「そうですか。では、どういたしましょう」
【智】
「…………」
【智】
「ごめんね、気を遣わせちゃって」
【宮和】
「ささいなことでございます」
【智】
「宮、思ってたよりも大胆な子だった。こういうことしでかす
タイプだったなんて」
【宮和】
「人は見掛けに寄らないものですわ」
【宮和】
「それで、どうされますか」
【智】
「……悪いけど、早退で。先生には」
【宮和】
「お伝えしておきます」
【智】
「感謝」
【宮和】
「和久津さまは生理痛でご帰宅なされましたと」
【智】
「ちょっとブルーかな……」
【宮和】
「やはりブルーなのですか」
【智】
「ブルー違いだと思うんだ」
【宮和】
「……お貸ししましょうか?」
【智】
「ナニオデスカ」
【宮和】
「愛用しております海外の鎮痛剤です。父の知人の製薬会社の方からいただいているのですが、これが効果抜群」
【智】
「いや別に」
【宮和】
「和蘭(オランダ)製、イタイノトンデケン」
【智】
「日本製だよ!」
【宮和】
「無念です……」
【智】
「じゃあ、宮。申し訳ないけど、後はよろしく」
【宮和】
「承りました」
【智】
「このお礼はあらためて」
【宮和】
「では、今度、わたくしとデートなど」
【智】
「オフィーリアのガトーショコラセットごちそうする」
【宮和】
「初めてですわ」
【智】
「……?」
【宮和】
「和久津さまが、お誘いを受けてくださったのは」
【智】
「そうだったかな……そうかも……」
【宮和】
「では、お覚悟のほどを」
【智】
「覚悟がいるデートなのですか!?」
【宮和】
「行ってらっしゃいませ」
【智】
「しかもなし崩しに誤魔化された!」
見送りの代わりに、宮和は深々と頭を垂れた。
〔花鶏の事情〕
【智】
「昨夜はあの騒ぎでしたので、今後の方針については、日を改めて打ち合わせをするとしまして」
【智】
「それまで行動はなるべく慎重に。慌てる帝国海軍は真珠湾、
という諺もあります」
【るい】
「なんかすごいぞ」
【こより】
「センパイ、学があるです!」
【茜子】
「人を信じる心が美しすぎて、茜子さん涙あふるる」
【智】
「一人で、先走って突っ込んでいっちゃうようなことのないように。くれぐれも」
【花鶏】
「ふんっ」
【花鶏】
「……ふん」
花鶏は隠れている。
無様だと思う。
汚濁の街で孤独に息を殺す。
古いビルの隙間を縫うように、
路地から路地へ、裏道へと移動する。
追われていた。
失策だった。
他人と歩調を合わせて、
じっと時を待つことに、花鶏は耐えられない。
元々これは花鶏個人の問題で、
赤の他人に手をだされる筋合いもない。
自分ひとりでできる。
過信があった。
矜持(きょうじ)があった。
油断があった。
一昨日の騒ぎで、
花鶏たちに煮え湯を飲まされた連中が、
自分を捜している可能性を警戒しなかった。
雑多な街だ。
大勢が交じれば区別はつかない。
いるかどうかもわからない相手に、
わざわざ人手を割くなんてバカのすることだ。
そう思うのが、花鶏の陥穽(かんせい)だ。
向こう側とこちら側。
境界を踏み越えれば世界が変わる。
世界とは、価値観だ。
駅のこちらと駅向こうでは、
街の理屈も別物だった。
ある世界では、面子というものが、
黄金よりも貴重になってしまうことだってあるのだから。
【花鶏】
「どうせ覚えて捜すのなら、殴ったヤツの顔を覚えてればいいのに……」
舌打ちする。
自分に置かれた状況が不条理に思えてくる。
なぜ、あのチチ女でなく自分がこんな目にあうのか。
花鶏は目立つ。
雑踏に混じっても、
油のように浮かび上がる。
昨日の今日とはいうものの、他の誰かであれば、
一日を街に埋もれて平穏無事に終えられたかも知れない。
追われたのは花鶏だからだ。
記憶に残ったのは花鶏だからだ。
花鶏で無くなる以外に避けようがない。
考えなくてもわかることに考えが及ばなかったのは、
花鶏にとっては、それがなんら特別ではないからだ。
自分で思うほどに、ひとは己を理解しない。
自分の物差しが特別だと意識するには、
他者と交差し、差異に苦悩する時間が必要になる。
【男】
「――――ッ」
【男】
「――――――」
【花鶏】
「ちっ」
声がする。
聞こえてくるのが日本語でなければ、
危険とみなして逆方向へと逃げる。
花鶏にはこの辺りの土地勘がない。
逃れるために移動するほど、
現在位置を見失い、さらに深みへ足を取られる。
悪循環だ。
【花鶏】
「ここ、どのあたりかしら」
独りごちても返事はなかった。
一人を意識する。
独りには慣れている。
花鶏は孤高の花だ。
高台に咲く。
世界を見下ろし、肩を並べるものなど無く、
足下を顧みることも知らない。
気まぐれに手を差し伸べることはあっても、
誰かに救われるなんて、考えただけでも――――
【花鶏】
「……怖気がする、死んじゃうわ」
慣れているはずの独りきりが、
裸で校庭に立っているような肌寒さに変わる。
頬を触る風はぬるく、いやな臭いがした。
行く先が見えないだけ不安は身の丈を増す。
連中に捕まったらどうなるのか、考察してみた。
さらにブルーになった。
どう控えめに推測しても、
笑えない展開になりそうなので、それ以上の追求を止める。
【花鶏】
「……X指定はわたしの担当じゃないのよ」
弱気の虫が忍び寄ってくる。
一人では駄目かも知れない。
こんなところに一人でいるのは寂しい。
誰かに一緒にいて欲しい。
この際だから、あの性悪乳オンナでも誰だって――――
ポケットの携帯電話が重みを増す。
開いて番号を打てば、それだけで繋がる小さな接点。
ギブアンドテイク。
同盟なのだと、智は言った。
お互いに利用し合い、助け合う。
助け合う――――?
花鶏は思う。
そんなことは、望まない。
必要ではない。
絶対に。
【花鶏】
「ひゃっ!?」
携帯がマナーモードで震動する。
【花鶏】
「…………」
智からの着信だった。
右手が強張る。
携帯を取る。カバーを開く。着信ボタンを押す。
たった三つの動作で声が聞こえる。
しばらく鳴って切れた。
最後まで取らなかった。
さっき、こっちからかけたのが、
そもそもの間違いだ。
あれは気の迷いだった。
助けが欲しかったんじゃない。
ただの、ほんのちょっとした気まぐれだったのだ。
手助けなんて、
これっぽっちも必要ない。
一人でやれる。
それを証明しなければない。
自分自身の手で。
簡単なことだ。
この街のどこかにいる、
盗んだ相手を捜して、見つけて。
アレを取り返す。
知識も技術も経験も不足しているが、
花鶏は達成をこれっぽっちも疑わない。
花鶏は信仰する。
信仰が可能性の隙間を埋めるのだ。
何もかもうまくいく。
そうでなければいけない。
痣の聖痕。
その運命を信じている。
幼い頃から、花鶏はそれに意味を見いだしてきた。
絶えていた徴(しるし)が、自分の元に返ってきたこと。
母にも、祖母にもなかった。
約束された運命だ。
なのに――――――
聖痕が増える。
増えれば聖ではなくなる。
俗に落ちる。
不安の種が身じろぎしていた。
運命の路が挫折しているのか。
進んだ道の先に約束の地などなく、実のところ、破滅こそが
あらかじめ用意されていた結末ではないのか。
信仰には形がない。
だからこそ強く、また脆い。
根拠は外ではなく内にある。
疑えばきりがない。
指の先を傷つけた小さな棘程度の猜(さい)疑(ぎ)が、
破綻の群れを呼び寄せることだってある。
【花鶏】
「あの牛チチッ!!」
八つ当たりに空き缶を蹴り飛ばした。
品性に欠ける行動は慎まねばならない。
でも止められない。
苛立っている。
移動しようとして、足音に気がついた。
まずい。
ビル影に飛び込んでやり過ごす。
心臓が早鐘を打つ。
こちらを見ている相手は、
誰でも敵に思えた。
いよいよまずい徴候だ。
疑心暗鬼の手が足下まで伸びてきている。
冷静さを失ったら最悪なのに、どうにもならない。
【花鶏】
「ッ!」
また来た。
携帯がマナーモードで震動する。
悩んだ。
怖ず怖ずとポケットに手を伸ばす。
ブルブルと催促するように携帯が震える。
液晶画面に面と向かって、固まる。
「智」
表示された文字。
強張った指でコンソールを開けた。
そして。
呼び出しが切れる。
【花鶏】
「な………………」
裏路地に静けさが戻ってきて。
【花鶏】
「なによそれは!」
一瞬で静寂は破壊される。
【花鶏】
「わたしが取る寸前に切れるなんてどういう了見よ! 処刑されたいわけ?!」
【花鶏】
「帰ったら、ただで済ませると思ってんの!」
リダイヤル。
智の携帯へ。
怒りにまかせて身体が動いた。
携帯が番号を読み取る。入力される。
電子音のテンポがひどく遅くてイライラする。
早くかけて。
さっさと呼び出して。
そうしたら、
そうしたら――――――
どうするつもりなんだろう。
怒りに充ちていた手から力が抜ける。
携帯は勝手に智の番号を呼び出しはじめる。
どうするつもりなんだろう。
どこまでも曖昧な気分のまま、携帯を耳に当てた。
ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー
【花鶏】
「な………………」
【花鶏】
「なんなのよそれは!」
通話中だった。
〔契約結びました(市街編)〕
【こより】
『センパイセンパイセンパイセンパイ!』
【智】
「センパイは1度でいいです」
【こより】
『どーしたらいいのかわかんないッス!』
【智】
「僕にもどーしたらいいのか」
【こより】
『神も仏も〜』
【智】
「だから状況を説明しなさい。
それがわかんないと、どーしようもないのです」
【こより】
『花鶏ネーサンが』
【智】
「見つけたの?!」
【こより】
『いい感じに』
【智】
「間違いなくって?」
【こより】
『ネーサン、目立ちますから』
【智】
「様子はどう?」
【こより】
『普段通りですけど』
【智】
「それは重畳(ちょうじょう)」
【こより】
『ただ追いかけられてるだけで』
【智】
「全然普段通りじゃないです!」
【こより】
『逃げてるみたいでぇ〜』
【智】
「他には?」
【こより】
『隠れてるみたいです』
【智】
「別視点から分析すればいいってモノじゃないよ!」
【こより】
『なんか、不味い空気になってる感じがヒシヒシと〜』
【智】
「そんなに?」
【こより】
『言語が危険な感じに怪しい、イケナイ方向性のひとたちと
3回くらいすれ違いましたです……』
【智】
「……なんとか花鶏を追いかけられない?」
【こより】
『駅向こうの、かなりマズイあたりに来てるです。これ以上、深度深いところへ突っ込んで行ったら、追いかけられないッス!』
【智】
「そこをなんとか」
【こより】
『それは死ねと〜』
【智】
「死んじゃうんだ……」
【こより】
『ウサギは一羽になると死んじゃうのデス……』
【智】
「……そうDEATHか」
【こより】
『どーしたらいいのか、どーすればいいのか……。
不肖鳴滝めは探偵失格でございますー』
【智】
「探偵じゃなくて偵察」
【こより】
『似たようなモノでは』
【智】
「一文字違いで大違い」
【こより】
『まだまだおいらは未熟……』
【智】
「それで」
【こより】
『合流しちゃうのは、鳴滝的にありですが』
【智】
「いや、それは……
カモがネギというか、地雷原に地雷見物というか」
【こより】
『???』
【智】
「とりあえず、こっちも向かってるから。援軍も連れて行くから、それまで危険なことには首を――――」
【こより】
『……………………』
【こより】
『あー、やっばーいっ!!』
【智】
「え、なに、ちょっと?!」
【こより】
『やば、すごくやばー、うー、やー、たーえーい、不肖鳴滝、
オンナは気合いで、やるときはやるでございまーす!!!』
【智】
「あ、ちょと、ちょっとまちなさ―――」
花鶏は追いつかれた。
静止画のように、男が二人。
肌がひりつく。
明らかに手慣れていた。
身のこなしが染みついた暴力を印象させる。
片手がポケットに収まっている。
何かを隠し持っているのだ。
鋭利で、剣呑な。
悪意が遅効性の毒物のように空気を侵していく。
相手は舌なめずりひとつしない。
かえってリアルな危機を感じさせた。
花鶏は、諦めるより憤った。
武器を探す。
棒きれ一つでもいい。
二人はいけない。やっかい事としても倍だが、
相手にすることを考えれば倍以上に危険だ。
役に立ちそうなのは、手持ちのカバンくらい。
【花鶏】
「まったくろくでもない……」
トラブルはくぐり抜けられる。
花鶏は運命を信仰する。
小さくささった不安の棘を飲み込んで。
相手が早口で何かをまくしたてた。
とても聞き取れないが、
恫喝か威嚇かのどちらかだ。
決まっている。
来る。
花鶏は目を丸くした。
【花鶏】
「ちょ、ちょっと待って!」
待つわけがない。
【花鶏】
「だから待てって!!」
男の手が鋭利な速度で動く。
それよりも一回り早かった。
【こより】
「きゃーーーーーーーっ、ちかんさーん!!!」
後ろから、こよりが右の男に体当たりした。
男がよろめく。
もう一人も注意がそれた。
花鶏は、こよりの方を向いた左の男の後頭部に、
カバンの角を叩きつける。
いい感じの手応え。
そのまま、バランスを崩している右の男に肩からぶつかって、
思い切って突き飛ばした。
隙間をこじ開けた。
逃げる。
【こより】
「花鶏センパイ!!」
二つおさげをなびかせたウサギっこが、
愛用のローラーブレードで追いついてきた。
【花鶏】
「あなたはっ」
【こより】
「よかったぁ〜、無事でなによりであります!」
【花鶏】
「無事じゃないわ! これからますます無事じゃなくなるわよ!」
【花鶏】
「ほら急いで! じっとしてたら捕まるわ!」
【こより】
「それはご容赦〜」
【花鶏】
「いやなら走れ」
【こより】
「あうー、どっちいけばいいッスか……」
【花鶏】
「……わからないわ」
【こより】
「無責任だー」
【花鶏】
「いいからこっち!」
【こより】
「あう、まってー!」
【花鶏】
「ちょっと、そっちだけ車輪付きなんてずるいわよ!!」
【こより】
「ずるい言われましても……」
【こより】
「ここ、どのあたりなんです?」
【花鶏】
「だからわからないと」
【こより】
「いよいよ無責任だ……」
【花鶏】
「それよりも、さっきの」
【こより】
「え、てへ、とにかくなんとかしないとって」
【花鶏】
「まあ、役には立ったわね」
【こより】
「お褒めにあずかり恐悦至極にございます」
【花鶏】
「でも、危ないことをして」
【こより】
「……初めてでした」
【こより】
「やりかたとか、全然わかんなくて……」
【花鶏】
「誰だって一度は通る路よ」
【こより】
「ちょっと違う気が……」
【花鶏】
「大したことなかったでしょ」
【こより】
「それは、まあ。なんか、思い切るまでが大変で、実際やってみると、ぱっと終わっちゃったっていうか」
【花鶏】
「案外気持ちよくて」
【こより】
「あううう」
【花鶏】
「ストレス解消にもいいかもね、大声」
【花鶏】
「…………無駄話してる暇はないか」
【こより】
「追ってくるですか?」
【こより】
「うむむ、この間からこういう人生が続いております」
【花鶏】
「二度あることは三度ある」
【こより】
「三度目の正直で遠慮したいであります」
【花鶏】
「仏の顔も三度までといって」
【こより】
「仏さまになるのですか」
【花鶏】
「熨(の)斗(し)つけて、ごめん被るわ」
【こより】
「そうだ、センパイにメール!」
【花鶏】
「智に……?」
【こより】
「コールサインは1041010で、ピンチなので
すぐ来てください!!」
【花鶏】
「……アテになるの?」
【こより】
「ここにはセンパイの命令できたんです」
【こより】
「花鶏センパイがやばそうなので、偵察して捜してと」
【花鶏】
「あいつ、そんなこと……」
【花鶏】
「…………」
【花鶏】
「ふん」
こよりからの連絡を待ちかねていた。
足は無駄に速くなる。
1分でも早く近づこうとする。
急ぐには走らなければならないが、
無闇に動いたところですれ違ってしまうと意味がない。
百も承知の上だった。
待つよりも動いている方が落ち着くのは、
何かをしている感覚が免罪符になるからだ。
無為に待つ方が、辛い。
携帯がメールを着信する。
待ちかねたものだった。
こよりからの連絡だ。
通話でもいいのにメールである。
合流成功。逃走中。
【智】
「安心する暇もないんだもんねえ……」
嘆く。
余裕があれば天を仰ぎたい。
折り返し、リダイヤル。
【智】
「……なぜにメール」
【こより】
『メールに心引かれる、こよりッス!』
【智】
「よくわからない」
【こより】
『字になった方が、心こもってる気がするわけなんです』
【智】
「複雑だ……」
【こより】
『世界の神秘ッス』
【智】
「花鶏は?」
【花鶏】
『……いるわ』
【こより】
『です』
【智】
「現在地は?」
【こより】
『お助け〜』
予想通り道に迷っていた。
どうすればいいだろう?
追いかけてる連中だって、公僕に睨まれるのは願い下げの筈だから、駅向こうまでなんとか逃げるのが一番だ。
状況を訊ね、合流する場所の指示をする。
こちらも向かう。
細い路から二人が転がり出てくるところだった。
【こより】
「センパイ〜〜〜!」
【智】
「よーしよしよし、なんとか生きてる? 怪我とかしてない?
そっちも大丈夫?」
【花鶏】
「私の心配するなんて、百年早いわね」
生きてるうちは無理っぽい。
【るい】
「へらず口女」
【花鶏】
「……どうして、こいつがいるわけよ!?」
【るい】
「こいつっていったよ、こいつ!」
右と左から問い詰められる。
花鶏ン家に茜子と一緒しててくれたので、
るいを捕まえることができた。
茜子も携帯持たない人だけど、花鶏の家の電話機は
ナンバーディスプレイなので、僕からの電話には出てくれる。
どっかに飛んでってたら、実にマズイところだった。
今度、絶対にプリペイド携帯持たせておいてやる。
【こより】
「それよりも、後ろから来るんですよーっ!」
こよりが泡を食って指差す。
追っ手だった。
【智】
「走れ!」
【こより】
「にゃわ〜」
幾つ目かの曲がり角を高速でカーブ。
前方不注意で制限速度をブッチぎっていたローラーこよりが、
通りすがりの無実な学生さんに右から追突した。
横転に巻き込まれた花鶏も足をもつれさせる。
【無実な学生の人】
「――ッ」
【花鶏】
「なにしてる、前見なさい、前を!」
【こより】
「申しわけ〜」
二人の後ろを、僕が追いかける。
何か踏んだような気もするが些細な問題だ。
事故った分だけ追いつかれる。
最後尾のるいが、追っ手の間を遮った。
【るい】
「――――」
追っ手は3人に増えている。
途中で合流したらしい。
るいが、僕らをかばう位置に立つ。
峻厳(しゅんげん)な殺意が、相手を貫く。
後ろから見ているだけで、
背中の産毛が総毛立つ。
相手は逡巡(しゅんじゅん)した。
るいの危険さを嗅ぎとるだけの鋭さを持っている。
それに、ここは人通りも、そこそこある場所だ。
手間取れば騒ぎになる。
判断が難しい。
車を呼んで強引に僕らを詰め込めば済むかも知れない。
【花鶏】
「……バイクに乗ってくればよかったわ」
【智】
「原付でしょ」
【花鶏】
「デカいのもあるわよ」
【こより】
「乗ってくればどうにかなりました?」
【花鶏】
「必殺技が使えるわ」
もの凄いフレーズが来た。
花鶏から聞くとさらにショックが大きい。
【智】
「必殺ナノデスカ」
【花鶏】
「片仮名の発音が気に入らないわね」
【こより】
「スゲーッス!」
こちらは素直に感心していた。
【智】
「今の瞳の輝きを忘れないでね」
【こより】
「了解であります!」
【智】
「それでどういう必殺?」
【花鶏】
「ヘヴィモータード・チャージング・アサルト。3人くらいなら
まとめて一撃よ」
【智】
「それ絶対轢いてるだけでしょ!?」
【花鶏】
「名前は今考えた」
想像よりも恐ろしいヤツだった。
考えてみると、最初の出会いで必殺技を受けそうになっていた。
【智】
「…………素敵な出会いでしたね」
【るい】
「それいただき」
るいの気配が緩む。
ちらりと肩越しに後ろを向いたのは、普段のるいだ。
【智】
「素敵出会い?」
【るい】
「その前のやつ」
【智】
「前というと……」
【るい】
「必殺」
バイク轢殺攻撃。
【智】
「そんなもの、いたただかれても」
【花鶏】
「あなた、免許持ってるの?」
【智】
「そういう問題でもない……」
【るい】
「そこで黙って見てなさい。世界がびびる、るいちゃん流必殺――――」
天に向かって高々と咆哮した。
路上駐車してある、誰かの原付のハンドルを掴んで。
【智】
「な、」
【花鶏】
「に、」
【るい】
「原付あたーーーーーーーーっく!!!!!」
丸ごと投げた。
【智】
「ぎゃわーーーっ???!!!!」
自転車ではない原付である。
持ち上げたのではなく投げつけた。
【るい】
「しねーーーーーーっ!!!!」
言われなくても当たると死ぬ。
ゆうに数メートルを飛翔した。
重量70キロの砲弾だ。
連中がびびった。
こっちまでびびった。
鋼の筋肉をまとったむくつけき2メートルの大男が、
パフォーマンスに持ち上げるのとはわけが違う。
空飛ぶ原付は連中の目の前で壮絶に着地した。
むしろ爆地。
示威効果としては十分すぎた。
蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。
後には大往生した原付の亡骸だけが残される。
どこの誰のものかは知らないけれど。
【るい】
「南無」
るいが手を合わせる。
貴重な犠牲であった、
キミのことは永遠に忘れない。
そう誓っているように見えなくもないが、
たぶん、気のせいだろう。
【るい】
「どんなもんすか、るいちゃんの新必殺技……って、なに
この白けた空気」
【花鶏】
「バカ力とは知ってたけれど……まさか、バケモノ力とは
思わなかったわよ」
【るい】
「感謝しろよな、こンちきしょうめ」
【智】
「すごいね、サイボーグ」
【るい】
「うち人間すから」
【こより】
「すげーですぅ〜〜っ!」
空気読まないこよりは、素直に驚嘆する。
〔契約結びました(ダークサイド編)〕
【智】
「ここまで逃げれば」
【こより】
「大丈夫なのですか!?」
【智】
「だいたい問題ないと思います」
【花鶏】
「走るわ汚れるわ、散々な一日だわ」
【智】
「誰のせいですか」
【花鶏】
「運命を恨みなさい」
やるせなかった。
お前なんか犬のウ×コ踏んじゃえ、運命。
【智】
「ひとりでやっちゃダメって念押ししなかったっけ?
どうしてさっさと走っちゃうかな」
【るい】
「チームワーク大切にしろつーの」
【花鶏】
「あなたに言われたくないわね」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
すぐに揉める。
【智】
「以後は謹んでください」
【花鶏】
「これは、わたしの問題だわ!」
【智】
「今は全員の問題なの、僕らは運命共同体なの!」
同盟。
互いを救う相互条約。
【花鶏】
「はん、運命共同体」
鼻で笑われる。
【智】
「それではお尋ねしますが、手がかりは?」
【花鶏】
「…………」
【智】
「捜し歩いて何か見つかった?」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「はーい、センパイ先生ー、質問があります!」
【智】
「どうぞ、こよりくん」
【こより】
「…………これからどうするですか」
【智】
「それなんだよね」
【花鶏】
「……本を、捜すに決まってるでしょ」
【智】
「本が、バッグの中味なんだ」
【花鶏】
「…………ええ、そうよ。花城の家に代々伝わる古い本、
大切な……大切な本なのよ」
さすがの花鶏も肩が落ちている。
ほんの心持ちだけど。
【智】
「闇雲に捜しても見つからないよ」
【こより】
「闇雲じゃなければ見つかるですか?」
【智】
「捜し方にもよるけど。盗まれたのは本。
とりあえず捨てられてるっていうの考えないでおくとすると……」
もし燃えるゴミと一緒に出されていたら、
ゲームオーバーだ。打つ手はない。
【智】
「そこで問題です。どうして他人のものを盗んだりするんでしょう?」
【るい】
「……それが欲しかったから」
【智】
「いい線です。ただ、今回はかなり偶然っぽいので違います」
【こより】
「……価値がありそうだから?」
【智】
「はい、正解です。10点獲得と次回のジャンプアップで+1」
【花鶏】
「それはつまり、本をお金に換えるということ?」
【智】
「本が入ってたとは思わなかっただろうね。高価そうなバッグ
だったから狙っただけで、本が入ってたのは成り行きだと思う」
【智】
「こうなると盗んだヤツが多少はモノを見る目があるか、とにかくどんなものでも換金しようと考えてくれる方に賭けるしかないんだけど」
【こより】
「古本屋さんに売っちゃったりするんですか?」
【智】
「馬鹿になんないんだよ、本。
稀覯本だったりすると、出るところに出たら――」
ゴニョゴニョ。
純真なこよりちゃんに、とある本のお値段を囁いてあげる。
【こより】
「きゅう」
目を回した。
【こより】
「そそそそそそ、そんなにお高いんですかッッッッ!!!」
【智】
「ピンキリだけども、ものによると……今のヤツのン倍」
【こより】
「ガクガク……」
憐れな小動物と化して怯えてた。
【花鶏】
「こそ泥風情が……」
【智】
「本当の、ただのひったくりとかなら、ボロの本なんか捨てちゃうかも知れないから、早く見つけて」
【花鶏】
「殺してやるわ」
本気だった。
相手の生命と未来のためにも、
捨ててないことをせつに祈らずにはいられない。
【こより】
「すると、古本屋さんとか調べれば手がかりが!」
【智】
「いやまあ、理屈はね」
【智】
「この場合は盗品だから、手慣れた相手なら、下手に足がつかないように、盗品を扱うような人間を間に挟んだりするかも……」
そんな物騒なところにツテはない。
盗品を扱うような連中なら、
一種のコミュニティーを持っているはずだ。
犯罪的なコミュニティーは当然排他的要素を強く持つ。
外部の人間が近づけるとは思えない。
まして――
【るい】
「?」
【こより】
「♪」
【花鶏】
「…………」
美少女軍団だ。
水と油だ。掃き溜めに鶴だ。
美人三姉妹で美術品を盗んで歩くのとは訳が違う。
悪目立ちして最初の三歩でばれてしまう。
【智】
「ただでさえ駅向こうに行くのがマズイのに、そんな所に近づけると思う? ツテもコネもなく」
目隠しして地雷原を突破するようなもので。
【るい】
「すると?」
【智】
「無理っぽいんだよね」
【花鶏】
「そんな――っ!」
花鶏が、珍しく臆面もない声を上げて、
【惠/???】
「案内しようか」
もうひとつ、知らない声が降ってきた。
低温なのによく通る、不思議な声の主は、
【智】
「……?」
見知らぬ学生さんだった。
詰め襟の制服が、上の道路から階段を降りてくる。
【花鶏】
「……誰? 知り合い?」
【智】
「うんにゃ」
【るい】
「右に同じ」
【こより】
「同意」
るいにチラリと目をやる。
それで伝わった。
るいは小さく肯く。
近くには、他の誰も潜んでいる気配はないらしい。
すると。
追っ手ではないみたい。
【智】
「どちらさまですか?」
【惠/???】
「なんだ、君は忘れてしまったのか。人の心は罪だね。こんなにも容易く他人を傷つける。僕は忘れがたく、こんなにも焦がれているというのに」
わー。
【智】
「――――っと、ごめんなさい! ちょっと思考を手放してた」
【花鶏】
「……いえ、私も今真っ白になってたわ」
【るい】
「ほへー」
【こより】
「ほへー」
るいとこよりは、まだ燃え尽きていた。
【花鶏】
「なにこれ。どういうの? なんとも珍しい手合いだけれど」
【智】
「や、やばい」
動揺した。
【花鶏】
「なにが、どう? 危険な相手なの? なにかあるの?」
【智】
「誰か知らないけどものすごくヤバイ。僕、こういうタイプとコミュニケーションするのは、想定したことがなかったんだッッ!」
右往左往。オロオロする。
【花鶏】
「……あなたが本音で慌てるのも初めて見るわね。案外イレギュラーには弱いのかしら」
相手が下までやってきた。
本能的にうなじの毛が逆立つ。
苦手なタイプだ。
おまけに……背が高い。
【智】
「……うらやましい」
【惠/???】
「それで、案内はいらないのかい?」
少年だ。
手の触れそうな場所にいるのに存在感が薄い。
独特の気配だ。
【こより】
「あう、きれー……」
【るい】
「えー、こよりん、あーいう青白いのがいいのー?」
正気づいたギャラリーが騒いでいた
こよりが乙女アイで見惚れている。
ハートが飛んでます。
まあ、たしかに。
こやつは美形キャラだ。
少女漫画っぽい、性別を感じさせない整った顔立ちは、
どこか人形めいて硬質だ。
【智】
「えっと、その、どちらさまでしたっけ?」
再度、質問。
【惠】
「才野原(さいのはら)惠(めぐむ)」
【惠】
「君の友達だよ」
友達宣言された。
才野原惠――
姓と名を別に検索しても記憶がない。
【智】
「覚えてないなあ。
もしかして、進級する前に同窓だったとか、そういうの?」
【こより】
「あ、さっきぶつかった人ッス」
【智】
「ぶつかった?」
【こより】
「そうです、さっき、るいネーサンがバイク投げするちょっと前に――」
【こより】
「にゃわ〜」
【無実な学生の人】
「――ッ」
【花鶏】
「なにしてる、前見なさい、前を!」
【こより】
「申しわけ〜」
【こより】
「飛び出して、通りすがりの無実の学生さんの脇腹に、勢い余って肘を一撃」
【惠】
「そういうことも、あったかも知れない」
【智】
「友達と全然違うだろ!」
出会ったばかりだよ!
変なヤツだと思ったら、
うんと変なヤツだった。
なぜ、どうして、僕の周りには、
こういう変人がより分けでやってくるのか。
神様がいるとすれば、
そいつはどうしようもなく性悪だ。
居場所を教えてくれないから、
胸ぐらをつかんで問いただすという小さな望みも叶わない。
【惠】
「すると、これから友達になるのかな」
【智】
「前後させたら大違いだ」
【惠】
「出会いは運命だという言葉もあるけど、君は信じない?」
【こより】
「うー……運命の出会い〜〜〜〜〜〜っ!!」
少女漫画なフレーズに、こよりが身もだえする。
こういうのを、リアルで耳にするとは思いもよらなかった。
【智】
「僕、リアリストですから、そういうのはちょっと……」
【こより】
「えー」
三角座りして土いじりしそうなぐらい残念がる。
【智】
「でも、とりあえず、そういうことならそれは、つまり、こよりが――」
一撃食らわせた、その帳尻合わせにきた?
【惠】
「その続きを覚えている?」
【智】
「続き?」
【惠】
「そう、ぶつかったその後に」
【智】
「後といえば――」
【無実な学生の人】
「――ッ」
【智】
「あ、踏んじゃった。ごめんなさーい!」
【るい】
「踏んだんだ」
【智】
「……………………」
確かに、踏んだ、気がする。
【惠】
「その時、運命を感じたんだ」
【智】
「そんな運命ゴミ箱に捨ててしまえ!!」
それは運命じゃなくて呪いだ、絶対。
【こより】
「そ、そ、そ、そ、それってもしかして――」
きゃんきゃんと嬉しそうに。
やめて、よして、後生だから。
お願いだからその先の、
呪われた言葉を口にしないで……。
【こより】
「恋っ!! では〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
【惠】
「そうかもし、」
【智】
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
台詞を断ち切って絶叫。
【るい】
「ど、どうしたの、トモちん。でっかいイヤン?」
【智】
「焦るな、静まれ、男に告白されるなんて何回もあったじゃないか。こんなことでめげてどうするの。今度のヤツはちょっとアレだっていうだけで、僕の心臓まだ動いているよお母さん……」
【こより】
「センパイ?」
【るい】
「どない?」
【智】
「ふひ、ひひひひひ、ひひひ、ひひっひ」
【こより】
「こわれちゃいました」
【花鶏】
「たく、この忙しいときにしようのない」
【花鶏】
「えと、才野原惠だったかしら」
【惠】
「ああ」
【花鶏】
「どこまで本気なのか知らないけれど、一つだけ、事前に
はっきりと、断っておくわ」
【花鶏】
「この子はわたしのものだから、あなたは手を引きなさい」
【智】
「そっちじゃないでしょ!」
【こより】
「あ、生き返った」
【花鶏】
「ちっ」
【智】
「ちっ、じゃなくて! 僕は誰のモノでもないですから!」
【花鶏】
「わたしのモノになるのはこれからだけど、遅いか早いかの
違いだから、大差ないでしょう」
大違いだ。
【惠】
「それで、どうする? 案内しようか」
そういえば、話の切り出しはそれだった。
【智】
「…………案内というと」
【惠】
「盗品を扱うような連中のコミュニティー、ツテがあるなら……と。君らが今話してたんだろう」
【こより】
「話は全部聞かせてもらったッスよ!」
【智】
「……今時珍しい刑事ドラマ技能の持ち主だなあ」
【惠】
「案内が必要だと」
【花鶏】
「――別に、わたしには、そんなもの必要じゃないわ」
妙なところで意固地な花鶏だった。
【惠】
「知ってそうな相手に心当たりは、あるかな。君たちを、そのひとのいそうなところに案内して、紹介するくらいしかできないけれど」
相手の方が好意的に無視してくれた。
【るい】
「これって渡りに船ってやつ?」
【こより】
「犬も歩けば棒に当たるです〜!」
【るい】
「当たったのは、こよりだし」
【こより】
「あうぅぅ、誉められてるのか怒られてるのか……」
【るい】
「でも、なんでゴキブリ噛みしめたような顔してるかな」
【智】
「してますか」
顔に出てたらしい。
【智】
「……本当に、案内してくれる?」
【惠】
「必要なら」
【惠】
「そのかわりに」
【智】
「…………」
言われるまでもない。
世界は契約と代価でできている。
【惠】
「実は……」
【惠】
「君のことが忘れられないんだ。でも、強引と言うのは趣味じゃ
ないから、友達からはじめてくれるかな」
わー。
【こより】
「きゃー!」
意識が戻った時、こよりはお星様を一面に飛ばしながら
くるくる回っていた。
【るい】
「……あーいうのの、どこがいいのか、私よくわかんない」
【花鶏】
「男なんてどれもダメに決まってるわ」
【智】
「…………」
【るい】
「トモ、返事してあげなさいよ。せっかくコクられてんだから」
【花鶏】
「意外……色恋絡むと、もっと不器用に逃げ出すキャラだと思ってたのに」
【るい】
「おあいにくさま。これでも告白だけは山ほどされたことあるんですよー、べーっ!」
るいが舌を出す。
告白だけは――すごい日本語の欺(ぎ)瞞(まん)を見た。
るいに告白したのは全員「女の子」だったというのを、
僕は聞かされたので知っている。
【花鶏】
「恋愛偏差値のお高いことで」
【るい】
「告白するのって凄くエネルギーいるんだよ。火がついちゃいそうなくらいに必死で、どーんと体当たりしてくるような感じ」
【るい】
「傍にいるだけで、全部をここに使ってるんだなぁっていうのが
わかっちゃう。だから、せめて、返事はちゃんとしてあげないと
ダメ」
百聞は一見にしかず。
出会ったばかりで愛を告白したにしては、どう見ても必死には
思えない男の子が、目の前で微笑している。
【惠】
「それで、どうかな」
夜になる。
人の川が街路を流れる。
街は交点だ。人と物が交差する。
繋がることはなく、触れ合って離れる。
街はひとの数だけの顔を持っているのかもしれない。
【智】
「どうして夜なの?」
【惠】
「夜でないと相手が現れない」
【智】
「そのあいてって、吸血鬼の親戚筋のひととか?」
【惠】
「勘がいいね。噂を聞いたことは?」
噂はしらないが、
どうやら本物の吸血鬼らしい。
とかくこの世は不思議だらけだ。
吸血鬼、黒いライダー、
花嫁を連れ去る王子様。
【惠】
「そういえば、これってふたりっきりになるのかな?」
【智】
「ブーッ!!
離れろ、近付くな、最短距離50センチ割り込み禁止!」
飛んで逃げた。
愛の語らいなんて断じてごめんだを示す、
両手で×マーク。
【惠】
「つれないね」
惠は肩をすくめもしない。
取り引きに応じて、
僕らは友達契約を結んだ。
最低の語感ですね、まったく。
引き替えに惠にツテを紹介してもらうことになった。
その、問題の相手は夜にしか現れないという。
【惠】
「二人で来ることにしたのは、どうして?」
当然、花鶏は来たがった。
るいも、行くとうるさかった。
【智】
「色々やっちゃったから目立ってるし、顔覚えられてたら余計な
騒ぎになりかねないし。この上物騒なことになったらとっても
困るし」
【智】
「ツテとの話がおかしな方向に流れても、僕ひとりの方がきっと
丸く収まるだろうから」
【惠】
「そうやって巻き込むのを避けるわけか。盗品の話、自分のことじゃないんだろう? なのに……興味深いね、君は」
【智】
「買いかぶらないでよ。僕は効率優先な人種なんだよ」
【惠】
「そういうことにしておこう」
前触れもなく惠が歩き出す。
【惠】
「そろそろ時間だ」
【智】
「どこまで行くの?」
【惠】
「半分は運任せだね」
【智】
「……案内じゃないんですか」
【惠】
「相手がいそうな場所は何ヶ所かある。しらみつぶしにする」
【智】
「どうせロクでもない場所なんだ……」
【惠】
「それはもう。ロクでもない相手がいる場所だから、ロクでもないと相場は決まってる」
聞くまでもなかった。
【惠】
「運が良ければ早めに見つかるだろう」
【智】
「悪ければ?」
【惠】
「いないだけだよ」
わかりやすかった。
【惠】
「運は良い方?」
【智】
「うんと悪い方」
【惠】
「悪運はついてるようだ」
惠に案内された三つ目の路地だった。
異臭が鼻をつく。
灯りのない路地裏に、
街の腐臭とも異なる、饐えた臭気がこもる。
顔をしかめた。
【惠】
「尹央輝(ゆんいぇんふぇい)?」
【央輝】
「誰かと思えば、才野原かよ。
相変わらずウロチョロと目障りなこったな」
路地裏に灯がはいる。
ライターの火だった。
黒い塊がいた。
黒いのは唾広の帽子と蝙蝠の羽めいたコート。
見た目だけならコスプレだが、同じ場所に居合わせるだけで、
肌のひりつく空気を身につけている。
狼が一目で獣だとわかるように、
これは危険だと説明されなくても理解できる。
【智】
「……ほえ?」
帽子の下から、ライターの火に爛々と
照る虹彩が睨みつけていた。
見覚えがあった。
【智】
「あれ、それってもしかして……?」
【惠】
「知ってるのかい」
【智】
「まあ、知り合い程度だけれど……」
尹央輝(ゆんいぇんふぇい)。
そういえば、あの時、名前を聞いていなかった。
【央輝】
「そいつは――?」
【惠】
「君に相談したいことがあるそうだ」
【央輝】
「相談?」
ナイフでくり抜いたような三日月の形に、
相手……央輝の口の端がつり上がる。
近くで見るとよくわかる。
央輝は随分ちっこい。
だが、小型でも刃物と同じだ。
以前にあったときとは違う、
針の刺さるような存在感。
危険な生き物だ。
【央輝】
「くくっ、あたしに相談か、詰まらない冗談を仕込むヤツだぜ」
【央輝】
「いいさ、聞くだけ聞いてやる。場所を変えるか」
央輝が路地を出る。
ライターの火が移動して、
奥にあった臭気の元を明らかにした。
男が二人倒れていた。
大の大人だ。
その男たちの吐いた血反吐の臭いだ。
【智】
「――――」
惠の袖を後ろから引く。
路地の奥を、黙って指で指す。
よくあることだと、惠は小さく肯いた。
【惠】
「注意するといい。央輝は気性が荒いんだ」
尹央輝といえば、その筋ではただならず名前を知られている有名人らしいが、その筋無関係な一般人の僕が聞いたこともないのは当たり前だった。
なんにでも境界はある。
一歩線を踏み越えれば、
そこは知られざる別世界。
央輝は危険な人間だった。
危険な人間の統率者でもあった。
央輝を直接知るものは少ないが、
代わりに、夜の街を伝説が流布していた。
曰く、吸血鬼。
曰く、ひと睨みで相手を殺す。
曰く、人を食っているのを見た。
央輝は、駅のこちら側に夜ごと繰り出す若い連中の、
カリスマとして君臨している、といわれても、
何となく凄そう、以外には実感が湧かないんだけど。
【智】
「こんな場所でいいの?」
【央輝】
「文句があるのか」
【智】
「ないない、ぜんぜんない」
夜の街に佇んで、缶コーヒーを片手に密談にふける。
下手な場所よりは、外の方がいいという。
まあ、下手な場所に連れて行かれても困るわけだし。
【智】
「そういえば、忘れてた。この前は、ありがとう」
央輝にお礼を言った。
追われていたとき、
逃げ道を教えてくれたのだし。
【央輝】
「……」
不思議そうな顔をされた。
水色のパンダとか、
その辺りの珍獣を見つけた顔だ。
【智】
「でも、話を聞く限り、央輝はあっち側の人じゃないの?
どうしてあの時は」
【央輝】
「ふん、ちょっとした気まぐれだ。貴様が気をまわすことじゃない」
物騒な社会には物騒なりのルールとか勢力争いとか、
あまり首突っ込みたくない事情があるのかも知れない。
【智】
「それならそれで、感謝」
【央輝】
「あれは貸しだ。いずれ取りたてる」
【智】
「ごもっともです」
【央輝】
「にしても、盗品の行方とはな! それも、あるのかないのかも
わからないモノを、わざわざ頼みにくるなんてな」
含み笑う。
【央輝】
「笑える話だ、こいつは。才野原、オマエ、ちゃんと教えてやったのか?」
【惠】
「彼女なら、わかっていると思うよ」
惠が流し目で促す。
表情が少なくて感情が読みにくかった。
【智】
「…………」
わかっている、とは思う。
どんなコミュニティーにでもルールがある。
そこに非合法の色がつくなら、
自らを維持するために、より排他的な、
より厳格なルールが必要だ。
求められるのは、契約と代価。
どこででも通用する、どこででも求められる。
それは普遍の法則だ。
【央輝】
「これを聞いてやったら、2度目だな。お前は2度あたしの前に
顔を出して、その度に面倒事を頼んできやがる」
【央輝】
「これが縁なら、糞くだらない縁にも程があるな。違うか?」
【智】
「なんとか、なるの?」
【惠】
「……」
【央輝】
「ならなくも、ない」
酷薄な顔。
【央輝】
「そいつが、あたしたちの仲間なら、話は早い。仲間でなくても、金に換えるためにどこかを通したなら、この街のことなら、必ずあたしの耳には入ってくる」
【央輝】
「だから、だ」
【央輝】
「あるなら、見つけてやってもいい」
背の低い央輝は僕を見上げる。
暗く沈んだ目だ。
3本目と4本目の肋骨の間に、音もなくスルリと滑り込んで
来そうな、薄く鋭利な尖った眼差し。
【智】
「ほんと?」
【央輝】
「…………オマエ、まともじゃないな」
なにやら、酷いことを言われている気がする。
【央輝】
「おい、才野原。そうなんだろ。こいつ、まともじゃねえんだろ?」
【惠】
「まともか否かの区別がつくのは、まともな人間だけじゃないかな」
【央輝】
「はっ、くだらねえ!
そんなもん、まともの保証は誰がつけてくれるってんだ?」
【惠】
「さあね」
くくっ、と央輝が喉に笑いをこもらせた。
【央輝】
「お嬢っぽいわりには、キモの座ったやつだな、お前」
【智】
「そうかな」
そうかもしれない。
【央輝】
「まあ、いいさ」
そうだとすれば、それは、きっと。
――――――――もっと恐ろしいものを知っているから。
【央輝】
「いいぞ。その本とかいうのは見つけてやる――――
あれば、だがな」
【智】
「ホン(本)ト!」
ちょっとしたシャレです。
【央輝】
「ああ」
聞き流された!
【央輝】
「どうした?」
【智】
「いえ、些細な失敗に打ちひしがれてます……」
【央輝】
「ふん。いいか、モノには価値がある。価値は交換できる。あたしが言ってることはわかるな」
【智】
「……僕の借り、二つ目ってことでいい?」
【央輝】
「はははっ! 聞いたかよ、才野原!」
力いっぱい笑われた。
【央輝】
「ここへ来て黙って『貸してくれ』だとよ。ふざけた玉だ、笑えるヤツだ! こりゃいい!」
【惠】
「いいのかい。その本、君のモノでもないのに。
君が借りておく必要はないんじゃないのかい?」
【智】
「借金はまとめておいた方が管理しやすいので」
央輝はまだ笑っていた。
ほっとくと夜明けまで笑われちゃってそうだった。
【央輝】
「ふ、ふふ、くくっ……いいさ、何かわかったら連絡してやる。
せいぜい首を長くして待ってろ」
唇がサメみたいにつり上がった。
俺様お前を丸かじり、といわれてるみたいで、
この先を思うととても悲しくなった。
携帯の番号を教えて、僕らは別れた。
【智】
「ローンで首が回らなくなったらどうしよう……」
茜子の父親も、
こんな感じでがんじがらまったのかも。
借金恐ろしい。
夜風がどうにも身に染みる。
【惠】
「央輝は、本当に、気性の荒いヤツだよ」
忠告らしかった。
しかも、かなり笑えない。
【智】
「あー、うー」
ひとしきり、天を仰いで嘆いた。
惠とも別れて、ひとり孤独な家路につく。
奇妙に胸が詰まった。
慣れている孤独が胸におちてくれない。
名付けがたい胸のにがりに首を傾げる。
【智】
「このところずっと騒がしかったから」
こういうのも寂しさというのかしらん。
そういえば、今頃どうしてるんだろう。
〔誰のことを考えよう?〕
《るいのことを考える》
《花鶏のことを考える》
《こよりのことを考える》
《伊代と茜子のことを考える》
〔るいのことを考える〕
あの暴食魔神はどうしてるだろう。
しばらくは花鶏が家に泊めてくれるから、
家なき子の宿無し問題は一時保留だ。
【智】
「……なにか方法を考えといた方がいいですね」
今の状況を解決したら、次の課題。
問題は際限なし、そろって難問、時間制限付き。
【智】
「そのうちハゲるかも……やだなあ」
部屋に辿り着いた時には深夜近かった。
扉の前に変なものがいた。
【るい】
「おかえんなさい!」
るいが膝を抱えてうずくまっていた。
【智】
「なにしてるの?」
【るい】
「待ってたの」
【智】
「花鶏ん家に……」
泊まってる筈では。
【るい】
「ノンノンノンノン」
指を立ててちくたく振って。
【るい】
「ついつい飛び出て来てしまいました」
【智】
「途中経過を端折りすぎです」
揉めたな。
きっと揉めたな。
そういう可能性は考慮しておくべきだった。
失策だ。
最近多いな、失策……ドラマの完璧軍師並に。
【るい】
「そんでトモちんのこと待ってた」
【智】
「……とりあえず、あがって」
【るい】
「わーい、お部屋だお部屋だ!」
小躍りしている。
計算してみた。
時間が遅いので、
バスも電車もとっくにない。
るいを泊めることで生じるマイナス要因(主に秘密発覚の可能性)と、るいを追い出すことで生じるプラス要因。
差し引きすると追い出す利益が大きすぎる。
季節柄寒くもないし、るいはバイタリティーなひとなので一日や
二日公園のベンチで寝泊まりしていただいてもまったく平気だ。
となれば結論は簡単。
【智】
「…………今日は泊まってっていいから」
【るい】
「わーい!」
弱いな、自分。
ご飯を食べてから、またしても、一緒に寝ることになった。
【るい】
「トモって優しいよね。ちゃんと泊めてくれるし」
【智】
「心的ストレスに弱いんだよね。胃腸とか」
心配性とも言う。
【るい】
「――――それで、今日はそれでどうだったの」
るいは、落ち着いた目をしていた。
津波がくる直前の海だ。
仲間を守るのと同じだけ、敵には容赦しない。
るいなりに、僕が一人で行ったのを心配しているらしい。
僕の返事一つで時限爆弾のスイッチが入る。
【智】
「運が良かったんだか、悪かったんだか。進展はあったから、明日みんなにもまとめて話すよ」
【るい】
「うまくいったんだったら、そんでいい」
【智】
「……うん」
どうか、このまま上手くいってくれますように。
〔花鶏のことを考える〕
【花鶏】
『どうだったの!?』
出るなりこれだ。
【智】
「ちょっと待って」
【花鶏】
『いいから早く答えなさい!』
【智】
「耳が痛くて声がきこえないから」
気を揉んでいるだろうと電話したのを、
ちょっぴり後悔。
【花鶏】
『…………』
【智】
「進展はあった」
【花鶏】
『別に、期待なんてしなかったわよ』
【智】
「でも、捜してくれることになった」
沈黙が落ちる。
花鶏の頭が高速で回転している。
【花鶏】
『必要ないのに』
【智】
「僕らが地道に捜すよりは、あてになるから」
【智】
「詳しくは明日話すから」
【花鶏】
『まあ、いいわ』
【智】
「じゃあね」
【花鶏】
『――――待って』
【智】
「なあに」
【花鶏】
『どうして……一人で行ったの?』
問い詰める口調じゃなくて。
それは押さえた怒りだった。
その矛先は、僕と花鶏で半分こだ。
一人で行くと最後まで譲らなかった僕、
それをとうとう論破できなかった自分。
【智】
「それは、別れ際に言った通り」
【花鶏】
『そんなことは聞いていない』
【智】
「……難しいね」
【花鶏】
『わたしは怒ってるのよ』
【智】
「声でわかります」
【花鶏】
『何故怒っているかもわかって?』
花鶏は予想している。
契約と代価だ。
それはどこにでもある構造だ。
常に適用される、普遍の約束事だ。
僕の借金が、花鶏を傷つける。
【智】
「わかりません」
【花鶏】
『わたしたちが、運命共同体だといったのは、あなたよ』
鼻で笑われた記憶があるんですけれど。
【智】
「同盟だけに」
【花鶏】
『…………いいわ。わたし、無駄なことはしない主義だから。
詳しい話は明日聞かせてもらう』
【智】
「イエスマム」
不機嫌そうな、短い沈黙。
黙ったまま電話を切られそうだった。
【花鶏】
『……他の連中に、伝えることは?』
予想は外れた。
【智】
「おやすみなさい」
【花鶏】
『芸のない』
【智】
「大衆に埋没する平凡な人生が理想です」
【花鶏】
『あなたには波瀾万丈が似合うわね』
いやだなあ。
【花鶏】
『……それじゃ、おやすみなさい』
返事も待たずに切れてしまった。
〔こよりのことを考える〕
【智】
「このまま無事に決着してくれると、こよりんも無駄に元気に
なるんだけどなあ」
ドタバタ騒ぎの発端を作ったことを、
アレはあれで負い目に感じている。
ときおり振る舞いが過剰なのは、
半分はそこが原因じゃないかと思う。
【智】
「もそっと落ち着いてもいいのに」
人間関係の交通整理。
同盟は結んだだけでは終わらない。
維持する方が難しい。
これが中々手間なのだった。
【智】
「ほう……」
小さくため息をついた。
〔伊代と茜子のことを考える〕
出会いを回想する。
【智】
「……危うい偶然だったなあ」
のっけから危機一髪の二人だった。
ほんの数分、あそこへ行くのが早いか遅いかしていれば、
今頃とてつもなくX指定なお話になっていたはずだ。
危機一髪は現在進行形で続いているけれど。
当事者である茜子。
当事者でない伊代。
茜子には選択の余地がないが、
伊代には、本当は僕らといる理由がない。
お人好し。いいやつ。委員長気質。
【智】
「いいやつほど損する世の中なのに……」
肩をすくめたはずなのに、なぜか足下が浮ついた。
どうして気分がよくなったのか。
わからないまま帰路についた。
〔るいのお出迎え〕
何の変哲もなく、進展もなく、穏やかに。
数日が過ぎる。
最近は平穏無事な日々の方が珍しく感じられる。
やだなあ……。
実は、一度だけ波風のたったことがありました。
央輝とお話した翌日のことだ。
【伊代】
「いや、なんといいますか」
【花鶏】
「……バカね」
【茜子】
「バカですね」
【こより】
「バカなのですか?」
【るい】
「うむむむむ」
央輝とのことを説明したら、
死ぬほどバカにされた。
自分から進んで他人の連帯保証人になるようなヤツは、
生きてる資格ナッシングです……
とまで言い切ったのは茜子さんでした。
……もう少し綺麗な言葉にして欲しい。
危険な賭けにあえて挑むのは、
勇気ではなく無謀と呼ぶんだってばよ、レディー。
とか。
花鶏は怒った。
どれだけ怒ったのかというと。
回想シーンにするのもちょっと躊躇(ためら)われるくらい。
主に花鶏の名誉のために。
人間がどこまで怪物に近づけるかという、
新たな可能性をかいま見た、気がする。
【智】
「はわ…………」
大きなあくび。
それらを除けば、
いたって長閑な日々だった。
今日もまた。
行き来の道のりも、授業も、
何事もなさ過ぎて眠気を誘う。
放課後になっても約束はない。予定もない。
ここんとこ、約束はトラブルと裏表だったけど……。
トラブル解決のために約束するのか、
約束するとトラブルが生まれるのか。
【後輩】
「さよならー」
【智】
「さよなら」
下級生が会釈して去っていく。
離れる背中に手を振りながら、
相手の名前も知らないことに微苦笑した。
こちらが覚えていなくても、
あちらは僕を知っている。
名前とセットにラベルされた優等生の姿を。
関係は、いつも相互的とは限らない。
【女生徒3】
「いくよー」
【女生徒4】
「わっせ、わっせ、わっせ、わっせ」
耳を澄ませば雑多な音。
授業を終えて帰るもの、部活にいそしむもの、
誰かとの約束に時間を振り分けるもの。
ひとの数だけの路。
ひとは繋がることはなく、
幾重にも交差するだけだ。
今日は宮和も先に帰ったらしい。
しんみり風情のまま行こうとする。とした。
【るい】
「おーい」
正門のあたり。
どわどわ手を振っていた。るいだった。
【智】
「な、なんで…………」
【女生徒1】
「まあ、騒がしい」
【女生徒2】
「どなた?」
【女生徒3】
「見覚えのない――」
【女生徒4】
「他校の生徒のようですけど」
注目を浴びていた。
白い目だった。
難儀なもので、
当のるいには柳に風である。
その手の悪意には鈍いたちなのだ。
【智】
「……」
悩む。
選択肢を脳内に並べる。
選ぶ。
他人のふりをすることにした。
君子危うきに近寄らず。
学園での生活には、ことさら波風を立てたくない。
今のるいは火災報知器みたいなものだし。
カバンを盾に顔を隠して、正門ならぬ裏門に。
【るい】
「おーいおーい、トモちーん!」
【智】
「ぶっ」
思いっきり名指しされる。
【女子生徒1】
「和久津様……?」
【女子生徒2】
「他の学園の方と……」
【女子生徒3】
「どうしてあんながさつそうな……」
【るい】
「トモちん、トモちん、トモちんー!」
しかも3回も反復。
【智】
「ノー…………」
疑惑の矢が背中に次々突き刺さる。
噂が醸成されている。
明日までには発酵して尾ひれとはひれがついて、
地上を二足で歩行している気がした。
【るい】
「トモち、」
【智】
「こっちへ!」
【るい】
「え、あの、そんなにひっぱんなくても」
【智】
「いいから、何もいわなくていいから、こっちこっち!」
【るい】
「なによー、そんなに引っ張らなくても」
校舎から離れた。
落ち着ける距離まで、
るいの手を引いて早足で歩く。
【智】
「ここまでくれば……ふー」
【るい】
「なんでタメ息つくのか」
【智】
「人生は、長い荒野の最果てを目指す旅に似てるのよって話はした?」
【るい】
「難しいことはわかんない」
明日には孵化してそうな噂に思考を巡らせる。
やめた。
未定のことに神経を使うのもほどほどにしておく。
明日は明日の風が吹く。
るいの好きそうな言葉だ。
【智】
「んで、なに」
【るい】
「なにとは」
【智】
「キミはなんで、わざわざ学園に来て、正門前で待ち伏せ襲撃
しましたか」
ほっぺを引っ張ってみた。
やわらかモチ。
【るい】
「みょー」
【智】
「変な顔」
【るい】
「みょーっ!」
解放する。
【るい】
「みょみょみょ、私のやわらかほっぺが……」
【智】
「そんでもって?」
【るい】
「実は、ちょっとした」
【智】
「ちょっとした?」
【るい】
「気の迷い」
【智】
「迷ってどうするの」
【智】
「……いいかげんだなあ」
【るい】
「いい加減って、ちょうどいいって意味だよね」
【智】
「微妙なニュアンスで日本語として成立してるあたり、
たち悪い感じ」
【るい】
「よくないか」
【智】
「良い悪いではなく」
【るい】
「何の話だっけ」
【智】
「僕に訊かれても困ります」
【るい】
「まあ、細かいことは気にしないで」
【智】
「しかもきれいにまとめた!」
【智】
「それにしても、よくこの学園知ってたね」
【るい】
「制服見たら有名なとこだったし、場所は前から知ってたから、
さっそく来てみました」
えっへんと、タイラント胸を張る。
大胆というか、無謀というか、無計画というか。
【智】
「電話ぐらいしてくれればよかったのに」
【るい】
「私、電話は苦手なんだよね」
プリペイドだけど携帯を渡してあるんだけどな。
携帯が必須アイテムの今時にしては、
なんとも前世紀的な意見を聞かされた。
【智】
「すれ違ってたかも」
【るい】
「るいさん、多少は考えたよ。早めに来て待ってたから」
【智】
「早めって、どれくらい?」
【るい】
「1時間くらい待ったかな」
【るい】
「どーしたの、変な顔になってる。会えたんだからノープロブレム。トモとはやっぱり赤い糸が絡まってるんだね」
【智】
「絡まったら人生間違いそう」
結ばれてる方がいくらかマシで。
それにしても、1時間……。
根拠もなく待ち続けるには長すぎるのに。
【智】
「ごめんね、待たせちゃって」
【るい】
「んもう、そんなの気にしないでよ。勝手に待ってただけじゃない。私の気まぐれ、いちいち気をつかってたら若ハゲ様になっちゃうぞ」
【智】
「すごくヤダ」
【るい】
「うむ。トモにはハゲ似合わない」
【智】
「ま、いいか。僕も、実は、るいに用事があったから」
【るい】
「用事? なになに」
身を乗り出してくる。いちいち楽しそう。
【智】
「大したことじゃないから後でいい。それよりも、これから
どーするの?」
【るい】
「どうもこうも、考えてない」
【智】
「ほんとに気まぐれだったんだ……」
【るい】
「るいネーサンに二言はない」
【智】
「二言ないのも時によりけり」
【るい】
「武士は食わねど高楊枝だぜ」
【智】
「用法が違う」
【るい】
「……トモちん、チェックが厳しい」
【智】
「突っ立ってても何だし、どっかいこうか」
【るい】
「デートだ!」
【智】
「…………」
デート。
複雑な単語に思いを馳せる。
にかり。るいが大口をあけて笑う。
下品に見えかねないところが、
愛嬌になる女の子だ。
【るい】
「んと、二人で?」
【智】
「そだね。他にも声かけてみようか」
【るい】
「んむんむ」
嬉しそうに肯いていた。
【るい】
「そういえば、トモはさ」
【るい】
「男の子とデートしたことある?」
【智】
「ありません」
悲しい質問をされた。
頼まれてもしたくない。
【るい】
「るい姉さんもないんだよ」
【智】
「なんとなく納得」
【るい】
「なんとなく、馬鹿にされてる気がする……」
待ち合わせ場所へ移動した。
【るい】
「そういえば、さっき言いかけてた智の用事ってなに?」
【智】
「……」
余りに明け透けな顔に気後れをする。
切りだし方を考える。切り出すべきかを悩む。
確かめておきたいことがあった。
【智】
「あのね、」
無心の目をのぞき込む。
首筋から肩のラインを追った。
女の子にしては骨格はしっかりしている。
しなやかに圧縮された機能を予感させる手足へと繋がる。
細身だが、見た目以上のポテンシャルを秘めた四肢。
ウエイトリフティングの世界記録はたしか200キロを超える。
たかだか70キロそこそこのバイクくらい、
軽々持ち運ぶ人間だって世の中にはいるわけだ。
だけど、そういう手合いは、
鎧の如き筋肉をまとった、むくつけき方々だ。
人間の出力は筋量から決定される。
だからといって筋肉だけを山ほど搭載して出力を増強しちゃうと、骨格の強度が保たなくなる。
人間はとても物理的だ。
ウエイトリフティングによる記録の数値は、
肉体に技術が加わって、ようやく達成可能な領域にあった。
バイク投げ――必殺技。
無造作に車体をまるごと引き抜く、力。
明らかに意味不明だった。
一子相伝の暗殺拳の伝承者で、普通は30パーセントしか使っていない肉体の力を全て引き出せるとか、そういう裏設定でもないと納得できません。
【智】
「質問があります。
答えたくなかったら答えなくていいんだけど……」
【るい】
「もって回ってるぞ」
【智】
「……ハニワ人類と昆虫人類と新しい血族のどれがいい?」
【るい】
「ハニワってなんだ?」
【智】
「とりあえず手近なところから」
【るい】
「……恐竜帝国」
【智】
「わりと渋いところだね」
【智】
「じゃあ、第2問」
【るい】
「まだあるか」
【智】
「るいは先祖に狼男とかいる?」
【るい】
「そんなのいねー」
【智】
「通りすがりの吸血鬼に血を吸われたとか」
【るい】
「あるわけねー」
【智】
「秘密結社に誘拐されて改造手術を……」
【るい】
「さっきから何の話をしてるかな」
迂回することはできなくなった。
【智】
「……バイク投げ」
【るい】
「すごいでしょ」
【智】
「あれってどういう……仕掛け?」
【るい】
「力持ち」
理由なんて知らないのか、言いたくないのか。
前置きもなく。
【るい】
「昔からそうなの」
るいの笑顔に影が混じる。
形は変わらないのに質量が失せて、
形ばかりの空疎な笑みには心の重さが足されていない。
【るい】
「ちっさい頃からね、ずっとそうなんだ。リクエストがあったら、もっとすごいことでもできちゃう」
【智】
「……もっとすごいんだ」
【るい】
「そのとーり。本気になるとすっごいぞ、るいさんは」
【るい】
「智は、そういうの、あんまし好きくない?」
【るい】
「そういうのって、やっぱり怖い?」
不意打ちだった。
怖い――
何を指して。
誰を指して。
るいにとって、どんな出来事が、
その言葉を選ばせたのか。
固い言葉は城塞じみて、その奥に眠るものに、
安易に触れられることを拒んでいる。
誰にでも、それはある。
触れられたくない場所、部分、心の一部。
時に痛みを、時に苦しみをもたらす、最奥の暗がり。
聖なる墓所。
想像は、できる。
秀でていることが、
常に称賛されるとは限らない。
他者との差異は、
安易に敵意へと化学反応する。
妬み、嫉み、恨み――
優れていることが招き寄せる薄汚れたもの。
ましてや、それが過剰であれば。
ひとは、理解できないものを恐怖する。
(――――怖い?)
【智】
「んー、るいらしいかなって思う」
【るい】
「うむ?」
【智】
「なんか、もの凄いの、るいっぽい」
【るい】
「…………」
目をしばたいた。
【るい】
「そういうのは、はじめて言われた」
【るい】
「トモ、やっぱりちょっと変なひとだよね」
【智】
「変か」
【るい】
「変だ」
【智】
「んー、そういうのって、やっぱり怖い?」
訊いてみた。
笑われた。
今度は心の入った顔で。
【るい】
「うんにゃ、トモらしいかなって思う」
【智】
「なら、いいかな」
【るい】
「そだね」
【智】
「それに、助けられたし」
【るい】
「そんなの、仲間を助けるのは当たり前じゃない」
これまた、るいらしい返事だった。
思わず口元がほころぶ。
さて、すぐに皆やってくる。
今日はどこへ出かけようか。
〔僕らはみんな呪われている〕
最初に花鶏が疑義を唱えた。
【花鶏】
「――――どういうことなのかしら?」
多かれ少なかれ全員の意見だった。
花鶏は言葉で僕を、視線はるいを射る。
運よくか、それとも悪くか、暇つぶしの欠員は無く、
全員がそろった後で、るいが先頭をきって歩き出した。
理由のある集まりではなかったし、
どこに行くのでも、構いはしなかったのだけれど。
【花鶏】
「なに、ここ?」
町外れの廃ビルの中です。
元は何のビルだったのかはわからない。
今ではただの廃墟になっている。
いや、そんなことを訊いてるんじゃないんだろうけど。
るいが、僕らを連れてきたのはここだった。
どうして、わざわざこんな所にやってくるの?
こっちだって教えて欲しい。
【智】
「るい?」
【るい】
「んと――」
先ほどから3度。
同じように問い、
同じように言い淀まれる。
るいっぽくない態度だ。
花鶏の水位がさらに下がる。
いよいよ危険なものを感じて、
伊代に救いを求めると、肩をすくめられた。
【伊代】
「薬なし……っていうよりも、わたしも同感」
【茜子】
「茜子さん、飽きました」
【智】
「こよちゃんは?」
【こより】
「あー、こよりめは別に……
でも、何かあるならお早めにいって欲しいのです……」
るいは、最初からここに連れてくるのが目的だった。
今日、わざわざ誘いに来たのも。
るいはしゃがみ込んでいる。
微妙に苛ついている。
ざらついた感情は、
理解しない仲間には向かない。
うまくステップを踏めない自分をもどかしがる、
そんなベクトルに近い。
【智】
「んー」
全員を呼びたかったのか。
それなら電話で約束するか、
説明するか、方法はいくらだってある。
今日だって、連絡もなく僕を待っていた。
すれ違ったらどうするつもりだったんだろう。
るいが、何も事情を話さない理由にもなっていない。
もって回った迂遠なやり口だ。
迂遠というより意味不明だ。
【花鶏】
「どうするの?」
怒っていらっしゃる。当然か。
【智】
「……いいです。よろしい。わかりました」
これは、つまり――――
るいには、答えられない事情が、ある?
【智】
「るい」
るいは、怒られてシュンとしている犬だった。
【るい】
「……」
これは信頼についての問題だ。
難しく困難な命題だった。
【智】
「あと10分でいい?」
【るい】
「…………」
雨に濡れた子犬みたいな目をしてる。
とりあえずは、肯定と受け取ろう。
【智】
「よろし。あと10分待って、何もなければ」
【るい】
「……」
【智】
「どったの?」
【るい】
「怒ったりしないんだ」
空飛ぶ象と遭遇したような顔。
【智】
「変な顔」
【るい】
「トモの方がよっぽど変だと思う」
【智】
「そうかしら」
自覚はあまりない。
自分の物差しは、得てして自分ではわからない。
【花鶏】
「彼女が変だ、というところには同意するわ」
【伊代】
「ま、そうね」
【茜子】
「……」
【智】
「僕らの信頼はどこに行きましたか」
【花鶏】
「利害の一致とか言ってたのはどこの誰?」
【こより】
「センパイ、不肖鳴滝めは、どんなときでもセンパイの味方で
ございます! 変でもよいではありませんか!」
【智】
「まず変を否定してください」
【こより】
「こよりは正直だけが生き甲斐なので」
【智】
「キミは弟子失格」
【こより】
「お情け〜」
【伊代】
「大人げないわね、全会一致よ」
【智】
「数の暴力ですね」
【茜子】
「マイノリティーな負け犬さんの遠吠えは耳に心地いいです。
もっと言ってください」
ひたすら黒い茜子さんだ。
【るい】
「あのね、トモ。私さ、ダメなの。根本的に身勝手なんだよね。
周りを見ないっていうか。普段から考えなしだしさ、たまに
わかんないことしだすし……」
【智】
「今みたいに?」
【るい】
「今みたいに」
自覚はあるらしい。
【るい】
「今までもね、たまに、なにかの弾みで仲良くなった子とかいて、しばらく一緒にいたりするんだけど、結局怒らせちゃうんだよね」
【花鶏】
「気持ちはわかるわ」
【伊代】
「……シビアな突っ込みはおやめなさい」
【るい】
「智は、怒らないね。変なの。すごく変なの。私、自覚あるんだけど。怒りそうなこと、怒られるようなこと、怒り出してもしかたないようなこと、してると思う」
【花鶏】
「まったくだわ」
【こより】
「ネーサン厳しいッス……」
想像をする。
気ままな風のように掴みがたい女の子の姿。
どこまでも無軌道に、
どこまでも身勝手に、飛び回る。
追いつけないことは――
鳥を見上げるように、憧れにも変わる。
わからないことは――
見えないこと、理解不能であること。
不可解は、怖れに繋がる。
わからないことが怖いから、
見えないものに理由を求める。
【智】
「いまね、考えてるんだ」
【伊代】
「……んと、怒らない理由を?」
【智】
「そうじゃなくて、るいが考えてることを」
信頼は相互的だ。
一方的に支払うだけだと、
すぐに萎えてしまう。
心を通貨にした取り引き。
言葉は心を代替する。
言葉足らずな、るい。
レートは食い違う。売買は成立しない。
考えても、やっぱり、るいの考えはわからなかった。
人は繋がらない。
他人の心なんて、魔法使いでもなければわかるはずもない。
仕草やわずかな断片から心を読み解く術は、あるにはある。
でも、それには時間が必要だ。
相手を理解するための時間と、積み重ねた信頼が。
【花鶏】
「何かの罠だったらどうするの?」
【伊代】
「罠って、あなたね……」
【智】
「それは大丈夫」
【るい】
「信じてくれるんだ?」
【智】
「るいはハメるほど頭よくないと思うから」
【茜子】
「それはつまり、この巨乳はバカ巨乳だということですね」
【るい】
「信じ方が嬉しくない」
【花鶏】
「なるほど」
【こより】
「納得しました!」
【伊代】
「それなりに酷いわね、あなたたち」
【智】
「それなりが一番ひどいんじゃないですか?」
【茜子】
「5分が経過しました」
そして彼女が現れた。
【るい】
「遅いよ、いずるさん。なかなか来ないから、私、死んじゃうかと思ったんだから」
【いずる】
「遅くないね。ちゃんと約束もしてないんだ、私にしてはサービス過剰だよ。わざわざ来てやっただけでも十二分におつりが来て小銭が余って困るじゃないか」
【智】
「知ってるひと?」
【るい】
「待ち人だったり」
にへらと照れ笑い。
【るい】
「あのね、前に訳ありで知り合ったひと。名前はね――」
【いずる】
「蝉丸(せみまる)いずる」
相手は、目をほんのちょっと細めた。
無遠慮な感じで上から下まで眺められる。
何かを探るように、測るように。
ちょい引く。
【いずる】
「ふむ、なかなか……はじめまして、よろしく」
【茜子】
「かなかなかなかな」
茜子が鳴いた。
【伊代】
「蝉が違いそうよ」
【茜子】
「無念なり」
蝉丸。
名前は変だった。
古風だ、くらいが精々の誉めようだ。
花城だか花鶏だかとタメをはるぐらいには変な名前だった。
【花鶏】
「何かよからぬ事を考えているようね」
【智】
「ないない、断じてない」
悪口には鼻のきく花鶏だ。
【智】
「それにしても」
うわ、うさんくさ……。
たぶん、後ろのひとたちも、一部の隙もない全会一致で。
【茜子】
「うわ、うさんくさ」
【智】
「……口に出しちゃうんだ」
【茜子】
「ため込むのはストレスの元になりますから」
健康的な信念だった。
【いずる】
「ごあいさつだねえ。まあ、しかたがない。そこの皆元くん、
どうせ何も言ってないんだろうし。どっちみち、うさんくさい
商売なのは本当だしね」
【智】
「自覚あるんだ……」
さっきのお返しに、ぶしつけな感じでジロジロ見返す。
第一印象は、変な和服の若い美人。
温度の低いつり目が性悪のキツネを連想させる。
【智】
「どういうひと?」
【るい】
「んーと、変人で」
【智】
「それは見ればなんとなく」
【るい】
「不審人物で…………専門家、かな」
【智】
「専門にもピンからキリマデあるよね」
【るい】
「おかしな、ことの、専門家…………怪獣退治とか」
怪獣……それはそれはトンデモだ。
【智】
「どこの科学特捜隊の方?」
【いずる】
「別に退治はしないよ。本業は、語り屋といって」
【智】
「うわ、うさんくさ(棒読み)」
【いずる】
「まったくだねえ」
【智】
「自分で切り返されても」
面の皮の厚い人種らしい。
【いずる】
「心配は無用だよ。中味もそこそこだから」
中味まで、うさんくさいらしい。
【智】
「…………」
悩む。
るいに無言で問いかける。
手を合わせて拝まれた。
無言でお願いのポーズ。
後ろの面子を振り返ってみた。
判断やいかに、のジェスチャー。
悩むまでもなく一部の隙もない全会一致で。
面倒だから白紙委任する、のジェスチャー。
【智】
「………………いいかげんだ」
どいつもこいつも。
【いずる】
「なるほど。私は語り屋なわけだけれど、君は面倒屋なんだな」
そんな面倒、ものすごく願い下げだ。
【智】
「もの凄く色々と不本意なんですけど、一応のコンセンサスが
取れましたので」
【智】
「謎の専門家の、えーと…………お蝉さん? それとも、
いずるさん?」
【いずる】
「おをつけるのかい。また古風だね。和服だから時代劇っぽく
するのもわからなくはないんだが。短くするのも、今ひとつ
語呂はよくない気がするけれど」
【智】
「些細なことはさておいて」
【いずる】
「呼び名というのは些細じゃないよ。名は体を表すという諺もあるくらいでね。昔話というのは大概名前が重要な役割を担うだろう」
【智】
「じゃあ、いずるさん。いの一番の疑問なんですけど」
【いずる】
「それは一言だね」
質問の中味を言葉にする前に、小さく薄く笑みが浮かぶ。
低温で、硬質の、色の薄い微笑。
【いずる】
「私の仕事はね、語ることだよ」
まんまだ。
【智】
「騙る?」
【いずる】
「語る」
【いずる】
「まあ、どっちでもいいか。あまり変わらないし」
【智】
「変わらないと困るよ!」
【いずる】
「違わないんだよ。言葉というのは、それはもう嘘つきだ。
嘘も方便と言うだろ」
【茜子】
「智さん、お好きな言葉です」
【智】
「初対面のひとがいるのに、人聞き悪いこといわないで」
言葉――。
ようするに、それは本質とは違う、本質の代用だ。
言語は方便だ。
百万言を重ねても、本質そのものには到達しない。
【智】
「でも、それって方便じゃなくて詭弁の類」
【いずる】
「一文字しか変わらないじゃないか」
【智】
「一文字違えば大違いだ!」
【いずる】
「ま、語りも騙りも同じものだよ。理屈も方便。とりあえずの
辻褄が合ってれば問題なし」
【智】
「煙に巻かれてる気がします、このあたりにヒシヒシと」
頭の上で、ぐるぐるっと指を回す。
【いずる】
「もちろん、煙に巻いてるんだよ」
【智】
「悪びれろよ、この霊能者は」
【智】
「んで……今日はなんのご用で」
ご用というより誤用な感じ。
【いずる】
「呼ばれたから来たんだ。
呼ばれたのが私で、呼んだのはそこの皆元くん」
【智】
「るいの知り合いなんですよね」
【いずる】
「袖すり合うも多生の縁くらいにはね」
【るい】
「どんな縁でも多少は縁があるって話だよね」
【智】
「たぶんちがう」
正しくは、多生の縁=前世で縁があった、です。
【るい】
「嘘っ」
【智】
「本当」
【るい】
「教わったのに!?」
【智】
「誰に?」
るいが、いずるを指差す。
【るい】
「私、嘘つかれたのか!」
【いずる】
「前世なんていい加減なものを説明の根拠にしてるんだから、
解釈はアバウトでいいんだよ」
美しい日本語に謝って欲しい。
【智】
「嘘つき型の人間だね」
【茜子】
「茜子さんももう一人知ってます」
【伊代】
「わたしもわたしも」
友情のない仲間であった。
【いずる】
「人聞きの悪い。自慢じゃないが、仕事で騙したことは一度もない。勝手に騙されるやつはいるけどね」
【智】
「まんま詐欺師の言い分ですな」
【るい】
「あのさ」
ついついと、後ろから、るいが袖を引いた。
【るい】
「あれでも一応、私の恩人なんで……」
るいの腰が微妙に低いのは、義理と人情らしい。
【智】
「……どういう恩人?」
【るい】
「前にね、変な事件に巻き込まれた時に助けてもらって」
【智】
「帰省の途中で立ち寄った港町の住人は、みな特徴的な顔立ちをしていて、魚の腐ったような匂いが町全体にたちこめていて……」
【るい】
「なにそれ?」
【智】
「まあ、違うか、違うよね」
【智】
「変な事件か。……妖怪ハンターか怪奇探偵みたく、古文書を取り出しておかしな儀式でもして怪事件を解決してくれるとか?」
【いずる】
「それはダメだね、役割分担に棲み分けがあるし。私は解決役
じゃなく、ヒント係だよ」
神秘主義から卑近(ひきん)な世界へ表現が滑落した。
【智】
「できれば雰囲気を大事にしてください」
【いずる】
「ゲーム機は何か持ってるかな、凶箱とか。RPGはやる?
ちょっと昔の……最近のでもいいのかな。まあ、毎年目が回る
くらいゲームも出るからねえ」
【智】
「卑近(ひきん)すぎて目が眩みそう」
【いずる】
「いるだろ、村人Aとか」
【いずる】
「話しかけると会話ができる。どこぞの大学の地下に銀の門の鍵が隠されてるとか、なんとか、そういう感じのやくたいもないヒントを出す。そういうのさ」
【いずる】
「それで、語り屋、とか名乗ることにしてる」
【伊代】
「……とかってなによ、とかって」
【いずる】
「まあ、何でもいいからね」
【智】
「名前が重要とか、さっき聞かされた」
【いずる】
「時と場合によりけりだね」
アバウトだ。単にいい加減ともいう。
【智】
「やっぱり騙り屋だ」
かつかつかつと、足音がする。
和服の分際で足下は、ごついジャングルブーツだ。
情緒のない靴先が間近までやってきた。
いずるさん。背は高い。
うらやましい…………。
目線が上なのは、身長の気になる身の上としては
気分的によろしくありません。
表情の読みにくい瞳がのぞき込んでくる。
触れるほど近いのに気配が薄い。
陶器みたいに堅くて冷たい。
【いずる】
「語り屋だから語るんだよ。君らが持ってるフラグに合わせて
ヒントを出すんだ。そこからどうするかは君ら次第、まったく
もって好きにすればいい」
【茜子】
「……どうせならペロリと答を教えてくれれば手間が省けます」
【いずる】
「それは無理無理、無理なんだよおちびちゃん」
【いずる】
「答なんてあってないようなものだから。どうしたいのか、何を
したいのか、何を支払うのか。その時々ですぐに変わってしまうのが答だろ」
【智】
「ますます詭弁っぽくなったな」
【いずる】
「とりあえず仕事をしようか。こうしてだべってるのも悪くないけれど、こうしてばかりだとヒントにならない」
【花鶏】
「今のお話だけでお腹いっぱいよ、わたしは」
【いずる】
「請け負っていることだから、そういうわけにも行かないんだよ。これも渡世の義理というやつだねえ」
これまた古風な言い回しだ。
【いずる】
「さあ、語ろうか」
【智】
「何を」
【いずる】
「それだよ。簡単だよ。これから語るのは」
そうして、三日月みたいに口元を歪めて。
【いずる】
「呪いのお話」
告げた。
【智】
「――――――」
呪い。
一言で、魔法のように音が途絶える。
斜陽の入り込む無音の廃墟。
誰かがそっと息を飲む。
ありがちな言葉、幾度も繰り返した言葉。
いかさま師なら、タタリがあるぞと脅すように。
使い古された古くさい呪文が毒素に変わる。
静かに着実に心という領域を侵略する。
【いずる】
「そう、呪いの話。呪うこと、呪われること、呪われた世界のお話」
【いずる】
「まあ、便宜上の区別だから、そこまで気にすることはないんだが」
【智】
「……まったくもって嘘くさい」
【いずる】
「嘘みたいな話だからねえ」
いずるさんは、ほんの寸時、何かを思案する。
【いずる】
「手近なところから行こうか。順番の方がいいだろう。今日は頼まれたんだよね。以前にした話をもう1度してくれるようにってね」
【智】
「るいから? 何の話を――」
【いずる】
「痣」
ぶすりと刺さる。
後方で、さざ波めいた気配の動き。
警戒とも敵意とも興味ともつかない感情の周波数が、
人数分、目の前の怪しい人物に流れていく。
【智】
「……」
目を凝らす。見極めようとする。
痣のことは、るいから聞いたのか。
ようやく腑に落ちた。
るいの意図がつかめた。
僕らの確率異常の痣について。
奇妙な縁を語らせるための、語り屋。
【いずる】
「君、目つきが悪くなったな」
【智】
「怪しいひとには身構えくらいするでしょ」
【いずる】
「いやいや、君は『こっち側』のタイプだな。
嘘が得意で、誤魔化しと騙しとで人生をやりくりする」
そんなの言われたら、僕がものすごく悪人みたいだ。
【いずる】
「私のいうことなんて鵜呑みにできない? まったくもって。
メディアにはリテラシーを心がけないとな」
【いずる】
「――――『でも、知りたい』」
図星。
痣――――。
奇妙すぎて手がかりがない。
手探りをするにも床の位置くらいは知っておきたい。
だから、よけいに注意が必要だ。
欲しいものを目の前に並べられた時が、一番危険。
【いずる】
「依頼の分だけ語ってあげよう。それでどうするかは勝手にすればいい。ヒントは所詮ヒントだ。解釈はご自由に。あとは若い二人におまかせで」
【智】
「二人じゃないけど……」
【いずる】
「なるほど、痣は6つだったかい」
6つの痣。6人の痣。
それは繋がりか、それとも奇縁と呼ぶべきか。
【智】
「そこまで話したんだ……」
【るい】
「まだ」
【いずる】
「察しがよくないと他人をかたれないからね」
【智】
「今騙るっていったでしょ、絶対」
【るい】
「私が知り合った時に、ちょっぴり聞かされたことがあるんだけど、その時は話半分だったんだ」
【るい】
「変な事件の後だったから、言われたことを全然信じられなかったわけじゃないんだけど、よくわからなかった。信じてもどうしようもなかったし」
【るい】
「私、馬鹿だから……」
【るい】
「でも、今なら違う気がする」
【いずる】
「パーティープレイか、いいねえ。力を合わせて悪い魔王を倒すには、友情とアイテムと経験値が不可欠だ」
俗な喩えも極まれりだなあ。
【智】
「いいです、わかりました、了解です。
そういうことなら、ヨタ話じゃない方を語ってくださいな」
【智】
「……この痣が、どういうのかって」
【いずる】
「呪いだね」
毒の言葉が繰り返される。
背中に見えない氷柱がそっと忍び入ってくる。
呪い。呪い。呪い。
とてもとても忌まわしいこと。
誰かが呪う。憎悪で。誰かを呪う。
怨恨で。呪われる。いつまでも呪われる。
――――腹の底まで冷えていく。
【いずる】
「簡単に信用しないんじゃなかったかな」
【智】
「――――」
想像だけが先走る。それではすっかり妄想だ。
自分自身で自分を縛る落とし穴。
【智】
「それで、そうだとすると、誰が……」
呪っているのか。
あえて疑念を言葉にしてみた。
言葉にした分だけ見えない呪縛の緩む気がする。
【いずる】
「そんなことはどっちだっていいんだよ。さして重要なところじゃないんだし」
えっ、そうなの? そういうものなの?
【智】
「よくわかんないんですけど」
【いずる】
「誰が祟ってるとか、恨みだとか辛みだとか、龍神様のお怒りだ
とか、30年前に騙されて死んだ若い夫婦がいるんだとか、
そういうのはどっちだっていいんだって」
【智】
「そういうのが、呪い、なんじゃないの?」
【いずる】
「そういうのは全部動機」
【いずる】
「動機は動機。これから語るのは、呪い。そんなに曖昧じゃない、もっともっとありがちでわかりやすくてはっきりしてる、仕組みの話だよ」
【いずる】
「こうすれば、こうなる。そういうのが仕組みさ」
仕組み――
鍵を回すと扉が開く。
スイッチを入れるとテレビがつく。
入力と出力の関係だ。定められた手順と結果だ。
【いずる】
「なぜどうして……なんて言い出すからわかりにくくなる。
区別がつかなくなって混乱する」
【いずる】
「液晶テレビが映る仕組みを知ってるかい? 知らなくても使う分には問題ないだろう。しかも、誰が使ったって基本は同じだ」
【智】
「それが、呪い……」
【いずる】
「そう、それが、呪い」
そして、この痣は。
【いずる】
「そういうものなんだよ」
【智】
「そういうのって……あるものなの?」
一周回って基本的な疑問にたどり着く。
呪いが、仕組みだ。
それが定義なら、とりあえず納得しておくとして。
その一番根本的な部分。
そういう仕組みが。
不思議、怪異、超自然、魔法。
そんなものが――
【いずる】
「ちなみに、自分が呪われている心当たりは?」
【智】
「そんなの、あると、思う?」
表情は、変えなかったと思う。
【いずる】
「なるほど痛そうな話だねえ」
透かし見るような、いやな顔。
【智】
「僕、何も言ってないんだけど」
【いずる】
「結構結構、結構で毛だらけ」
【茜子】
「猫を灰だらけにするのは虐待だと思います」
【伊代】
「……誰もそんなこと言ってないわよ」
【いずる】
「気分がいいから、もう少し話を続けてもいいかい?」
【智】
「別に続けなくてもいいんだけど」
【いずる】
「本当に?」
いやな性格だ。
前世はいじめっ子だったに決まってる。
【智】
「…………どういう気分?」
【いずる】
「ネズミを苛める猫の気分」
【いずる】
「さて、仕組みといったってピンキリだから、それがどんな仕組みかは何とも言えない。語り得ないものには沈黙を。わからないことをこれ見よがしに語るのは範疇外だ」
【いずる】
「でもまあ、あれだね、どうやら地雷っぽいねえ」
【智】
「地雷というと」
【いずる】
「昔話によくあるやつ。大仰な言い方をしちゃうと、なにか禁忌を犯すと災いが起きる……かな」
【いずる】
「踏んだらお終い、だから地雷」
【智】
「それだと本当に呪いじゃないの!」
【いずる】
「だから呪いなんだって」
心底どちらでもよさそうに。
【智】
「……そういうのって、どうにかならないの?」
【いずる】
「どうでもいいんじゃなかったっけ」
【智】
「………………心底どうでもいいけど、たまには聞いてみようかなって思うこともあるわけだから」
【いずる】
「どうにかといっても色々あるけど」
【智】
「たとえば」
【いずる】
「確実に死ぬようにして欲しいとか」
誰が頼むんだよ!
【智】
「そんな特殊例、大まじめに講釈されても困る」
【いずる】
「一般的なヤツの方が好みかな」
【智】
「呪い……なら解くとかできないの?」
一般的そうなところを。
【いずる】
「そういう、魔法とか超能力みたいな要求は通らない」
【智】
「………………」
今、なにか、すごく理不尽なことを言われた気がする。
呪い。呪い。呪い。
それこそ魔法とか超能力とか、
そういう類のいい加減な駄話をしてるんじゃなかったっけ。
【いずる】
「まあ、仕組みなだけに、仕組みがわかれば解体もできる……
かもしれない」
【智】
「そういう地味っぽいのじゃなくて、小(コ)宇(ス)宙(モ)を感じて相手がわかるとか、この魔力の残(ざん)滓(し)は悪しきサソリ魔人の仕業だとか」
【いずる】
「そんな、エセ霊能者のお告げじゃないんだから」
どこがどう違うのか、わかるように説明してほしい。
【智】
「つまり……?」
【いずる】
「原因がわかれば結果もわかる」
【智】
「ここへきて一般論かよ」
【いずる】
「少年漫画の王道パターンっていうのはね、
普遍的に使われやすいからパターンになるわけだよ」
一般論は最強よ、と言いたいらしい。
【いずる】
「喜ばしくも、おおかたの呪いは解除方法とセットだ」
【智】
「そういうヒントを先に言って欲しかった」
【智】
「そういうのを調べたければ?」
【いずる】
「仕組みがわからないと」
堂々巡りだろ、それじゃあ……。
【智】
「わかれば何とかなる?」
【いずる】
「ま、死んだら解除とかいうのもよくある」
【智】
「何ともならないとの一緒だよ」
【いずる】
「ままならないものだね、世の中は」
【智】
「綺麗にまとめるな」
【いずる】
「ヒント係に過剰に期待されても困るな。村人Aは勇者の一行が
魔王と戦うのに手を貸したりしないんだし」
【智】
「最近のなら、ちゃんと声援ぐらい送ってくれる」
【いずる】
「声援でよければいくらでも」
にこやかな作り笑いで両手を広げるポーズ。
うわ、むかつく。
【いずる】
「漫画じゃないんだ。古美術商に身をやつした何でも屋の便利
キャラがパワーアップの修行方法とアイテムくれるのとは
ワケが違うんだから、過度な期待はしないように」
【智】
「漫画みたいなこと言ってるでしょ!」
【茜子】
「追い詰められてる人間の、表層が剥離されて本性の露呈する感じの焦りが、茜子さん的にはとっても素敵です」
【こより】
「しどい……」
【いずる】
「まずは泥にまみれて一歩一歩あくせくやってれば、その一歩
はただの一歩でも、人類にとっての偉大な一歩になるかもね」
【智】
「人類この際関係ない」
二の腕を、痣の有る場所を、
無意識に握りしめる。
掌の熱が奪われて冷たくなる。
それは気のせいだ。
呪いという便利な言葉がつくる錯覚でしかない。
【智】
「痣が、こんなにも身近に集まるのはどういう訳で」
【いずる】
「しったこっちゃない」
【智】
「投げやりダー」
片仮名っぽく抗議。
【いずる】
「理由はあるかも知れないし、単に確率の問題かも知れない。
起こりえる可能性があるなら、どんなに希少な可能性であれ、
遅かれ早かれ起きるわけだから」
【智】
「例えば、理由があるとすれば……一般論的に?」
【いずる】
「ほら、その手の奴同士は引かれ合うっていう」
俗な理由だなあ。
ぐるぐる回る。考えがまとまらない。
方便と詭弁と騙りを頂点にした直角三角形が、幾つも幾つも
回っている。
【いずる】
「これで一通りの話のは終了だ。後は好きにすればいい」
【智】
「散々騙り倒してなんて無責任……」
【いずる】
「ヒント係は聞かれたことを語るのがお仕事なんだよ。
魔王を倒すなりサブイベントで経験値を稼ぐなり、
これからどうするかはパーティーのお仕事だろ」
【智】
「このままだと途中で全滅したりして」
【いずる】
「人生はリセット効かないから、慎重なプレイお勧め」
【いずる】
「じゃあ、そういうことで。これ、名刺」
【智】
「………………………………」
梅干し食べた顔になった。
もの凄く一般論的社会人の、誰でも持ってる必須アイテムが、
呪いのアイテムに思える。
【いずる】
「変な顔だねえ」
【智】
「なにゆえ名刺」
【いずる】
「仕事人にはいるだろ」
【智】
「あってどうにかなる仕事なわけ?」
【いずる】
「様式美なんだから受け取っておいたらいいんだよ。
君も細かいことに拘るねえ。そのうち胃腸悪くすると予言
しちゃおうか」
初対面の人間にまで胃腸の心配をされた。
つくづく僕は、僕が可哀想だ。
名刺はぞんざいな作りだった。
蝉丸いずる。
銘がうってあり、携帯の番号が載ってるだけ。
【智】
「TPOはもうちょい考えて欲しい」
いずるさん、笑いもせずに踵を返す。
るいと二言三言言葉を交わす。
るいが背負ったカバンから、変な形のヌイグルミを取り出した。
カエルとサカナとナメクジを足して3で割ったような形容しがたい忌まわしきものだ。
【るい】
「…………はい」
【いずる】
「ごちそうさま」
ヌイグルミが手渡される間、るいは、かなり真剣な葛藤を、
見ていておもしろくなるくらい続けていた。
【智】
「なにをなさっているんですか」
【るい】
「お別れ…………」
死にそうな顔だった。
【いずる】
「契約だからね。なんだってタダじゃないんだ。タダより高いものはないなんていうわけだし、代価を取ってる分だけ良心的だとは思わないか」
契約と代価。
【智】
「村人Aは話すボタンでヒントくれるのに」
概ねはロハで。
【いずる】
「村人Aがダメなら、町の隅の占い師で」
【こより】
「それ、使ったことありません!」
【いずる】
「私は使うな。ゲームのテキストは全部見る主義だから。イベントクリア後に村人の台詞メッセージ変わったりすると、結構感動するよねえ」
よほど村人が好きなんだな。
【いずる】
「縁があったから呼び出されたけど、契約は契約でまた別の話。
かたった分だけもらい受ける。大事なモノと引き替える。
それが昔からの決まりごとだろ」
【智】
「それって魔女の理屈だろ」
そのうちに、声とか目とか取っていかれそうだ。
【いずる】
「ちょっとした違いだねえ」
そうして、彼女は、冷たく喉をならした。
2時間ほど経過しました。
【智】
「2時間ほど経過しました」
【伊代】
「それは誰に対して何をいってるの?」
【智】
「困難な質問を……」
【伊代】
「困難なんだ」
デートが終わって解散とはならない。
さっきの言葉の余熱が燻る、やりとりの少ない時間。
なのに、離れがたい。
呪い。
歪な言葉が後ろから追ってくる。
そんな気がする。
【るい】
「さよなら、瑠璃っち……」
【茜子】
「なんですか」
【るい】
「不眠の夜を慰める、かわいい抱き枕だったのに」
かわいい……だったかなぁ、あれ。
【智】
「さて。そろそろ落ち着いたところで」
【茜子】
「なんですか」
【智】
「採決を取ろうかな、○×クイズで」
【こより】
「センパイ民主主義なんですね〜」
【智】
「同盟だけに、個々の利害を尊重したいですから」
【花鶏】
「……」
【智】
「花鶏さん?」
【花鶏】
「これまでの華麗な人生であの手のやからに3回ほどあったことがあるけれど、どいつもこいつも最初と最後に言うことは同じなのよ。知っていて?」
【智】
「そういうのと会う機会のある華麗な人生とはこれいかに」
【るい】
「カレーっぽい人生だ」
【花鶏】
「どいつもこいつも、貴方は呪われているからはじまって、貴方の努力次第です……で終わるわけ」
【智】
「いかにもだね」
【茜子】
「騙される阿呆の頭が悪い世の中です」
いい感じで笑う。
【伊代】
「そういえば、人の夢って書いて儚いって字になるのよね」
【智】
「……天然?」
【伊代】
「な、なによ」
【智】
「それよりもなによりも……それで、解答の方は?」
【伊代】
「……6人で民主主義だと、半分のとき、どうするの?」
【智】
「厳しい時に厳しいところつくなあ」
【伊代】
「最初のルールを定義しておかないと、後々揉めることになって、余計に面倒になると思うの。そう思わない?」
【智】
「場を読むことをしてください。あー、でも、そういうときは…………どうしようか…………」
【茜子】
「考え足りないさんですね」
【花鶏】
「……白紙」
花鶏は解答を拒否る。
【花鶏】
「鳩が豆鉄砲くらったような顔してるけれど、なにか言いたいことがあるの?」
【智】
「ちょっと予想外だったかな。
花鶏ならコンマ5秒で袖にすると思ってたから」
痣を、聖痕と花鶏は呼んだ。
呪いだと、いずるは笑った。
【智】
「素敵に折り合いそうにないし」
【るい】
「まず、トモはどうっしょ?」
【伊代】
「言い出しっぺだし」
【茜子】
「風見鶏の退路は断つべきだと思います」
【こより】
「そりはあまりにひどい……」
視線が集まる。
唇に人差し指を当てて、思案のポーズ。
突拍子もない話を信じるか?
先ず大前提。
呪いがあるのかないのか。
僕らは顔を見合わせたりもしなかった。
【智】
「…………」
見回す。
思い思いの表情の薄氷の下、
どろりとしたものが、横たわっていた。
――――――――――恐怖。
そうなんだ、そういうことなんだ。
やっとわかった。
同盟だけじゃない同類。
類は友なり、だ。
僕らはみんな、呪われている。
【智】
「はじめて……」
出会った。
【智】
「……なんとなく、今夜だけは、運命とやらを信じてもいい
気がする」
【智】
「あくまでも今夜限定で」
【花鶏】
「寂しい人生だわね」
【智】
「リアリストですから」
運命が本当にあるのなら、きっと神様は大忙しだ。
だけど、神さまは、
得てして僕らが生きてる間は何もしてくれない。
では、これは――――運命?
【智】
「……冗談じゃないです」
呟く。
気安く運命なんて言葉は使いたくない。
同じ痣と同じ……呪い。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「…………」
【伊代】
「…………」
【茜子】
「…………」
僕らは語らない。言葉にはしない。
でも、伝わる。
類は友。
【智】
「これは、呪いの印だそうな」
【茜子】
「呪いの輪」
【伊代】
「いやな輪ね……」
僕らは、なんとなく。
輪になった。
【智】
「この世界には、不思議がいっぱいかも」
【花鶏】
「……不思議、ね」
【智】
「出会いって、運命じゃなくても、奇跡だと思わない?」
【こより】
「恥ずかしい台詞〜〜〜〜〜〜ぅ!」
嬉しそうに身もだえ。
【智】
「……ねえ、自由になりたい?」
【るい】
「自由に……?」
【茜子】
「なにからですか」
【智】
「そうだなあ。なんでもかんでも……束縛から、壁から、亀裂から、閉じこめるものから、呪いから」
【智】
「――――僕は、なりたいな」
〔群れの掟〕
【智】
「うにゅ……もう、朝っすか。まだもうちょい……」
【智】
「あう、こんな時間かあ……」
【智】
「ん? メール来てる。誰から……」
【智】
「………………央輝」
【花鶏】
「いつまでここにいるつもり?」
【智】
「指定の時間まではまだ余裕があるでしょ。
いそいでいっても待ち惚け食らうだけじゃないの」
街はざわついている。
人が多いのは夕方だからだ。
雑踏を横目に、ガードレールに腰を預ける。
待ち合わせたときから、花鶏はずっとこんな調子だ。
カリカリ焼き。
こんがり風味に焦っている。
焦っている花鶏の隣で、僕も真剣に苦悩していた。
重要な問題だった。
【花鶏】
「それで、どうなの?」
【智】
「それなんだけど。ミントとチョコレート、花鶏はどっちがお好み?」
デコピンされた。
【智】
「前頭葉がいたい」
【花鶏】
「誰がアイスクリームの話をしてるっての! だいたい、
いつの間に買ってきたわけ」
【智】
「おひとつプレゼント」
【花鶏】
「緊張が足りてない」
【智】
「何もしないで怠惰に過ごす1分1秒が、貴重な僕らの青春です」
【花鶏】
「青春というのはね、浪費と読むのよ」
【智】
「浪費するより株で一山って感じだと思うよ、花鶏の場合」
【花鶏】
「青春資産の運用を相談してるんじゃないの」
央輝からメールが届いた。
今朝のことだ。
『捜し物の件で逢いたい』
実用本位のシンプルさがらしい。
【智】
「最近学んだんだけど、お肌と人生には潤いが必要なんだって。
下着もきつすぎると美容に悪いしさ。ちょっと変人のクラス
メートが言ってたよ」
【花鶏】
「貴方が真面目なのか不真面目なのか、時々判断に困るわ」
花鶏にじっと見られる。
瞬きもしない、後頭部まで抜けそうな凝視。
【花鶏】
「最初の印象だと、もっと真面目でお固くて、後ろ向きな子だと
思った」
【智】
「後ろ向きは正解……でもないか。○でも×でもないから、
さんかく。部分正解で3点」
【花鶏】
「たちの悪いやつ」
【智】
「じゃあ、僕がチョコレートで」
ミントを差し出す。
【花鶏】
「……甘いわね」
花鶏は、食べるには食べた。
【花鶏】
「……わたしだと目立つって、貴方、言ってなかったかしら?」
【智】
「あっちの指定なんだよね。当事者連れてくるように。ここいらは央輝のテリトリーらしいし、今回は大丈夫っぽい」
【花鶏】
「望むところよ」
【智】
「……不用意な戦いは避けてね」
【花鶏】
「自衛のための戦争は避けて通れないわ」
【智】
「憎悪の連鎖で、歴史の道路は真っ赤に舗装されてるなあ」
【花鶏】
「右の頬を叩かれて左の頬を出すような狂った平和主義なら、
願い下げよ」
【智】
「まあ、わざわざ呼んだって事は進展があったってことだから……」
【花鶏】
「本当に来るの?」
【智】
「たぶん」
【花鶏】
「たぶん!」
【智】
「僕に怒っても解決しないのです……」
【花鶏】
「そうね、そうなのね、そんなことはわかっているのよ。でも、
人間は理性だけの生き物じゃないわ、それが問題でしょ、だから世界は救われないのが決まっているの!」
花鶏はせっぱ詰まっていた。
ずっと花鶏が捜している、
大切な、持ち去られたもの。
その手がかりが目の前にある。
【智】
「気負うのはわかるけど、焦っても意味がないから、どっしり
構えよう」
【花鶏】
「……罠ってことは?」
【智】
「準備はしてるし」
【るい】
『こちらスネーク』
【智】
「今のところ異常なし。そっちでも何かあったら教えて」
【るい】
『特になし』
【智】
「じゃあ、よろしく」
確認の電話を切る。
最終兵器乙女が近くに待機している。
【花鶏】
「不用意な戦いは避けるんじゃないの?」
【智】
「自衛力の確保だから」
無抵抗主義と性善説は信用しないことに決めてる。
【花鶏】
「そいつが来たとして……」
【花鶏】
「ただより高いものはないわよ」
責める目で睨まれた。
今度バカなことをしでかしてわたしのプライドに傷をつけたら、
ベッドに縛り付けて朝までイケナイことをしてやるから覚悟なさい――と目で言っていた。
人生の危機だ。
人生以外にも色々と危機だけど……。
【智】
「……あの場合、あれが最善の……」
聞こえないように小声で弁明。
聞こえないと意味ないか。
【花鶏】
「なにか?」
【智】
「なんでもないです」
アイスを食べる。
【花鶏】
「――――――」
【智】
「なに? じっと人の顔見て」
【花鶏】
「やっぱりチョコがいいわ」
【智】
「もう半分食べちゃった」
【花鶏】
「大丈夫」
むちう
キスされた。
いきなりの強奪だ。
公衆の面前で。
道行く人たちがひたすら見ないふり。
ジタバタ。
ダメです。
舌を入れられた。
全部確かめられて、絡められて、甘噛みされて、
くすぐられて、吸われて、おまけに飲まされたりなんかして!
ぽん(という感じ)
【花鶏】
「ふう」
【智】
「……あ、あ、あ、あ、あ、あ」
【花鶏】
「やっぱり甘いわね、チョコ」
【智】
「あーい」
涙。
【花鶏】
「そいつ、本当に来るかしら」
【智】
「こっちに来ないで近寄らないでエロ魔神禁止」
【花鶏】
「青春の弾けるような女の子同士の間にある、友情からほんの半歩踏みだした加減がフェティシズムを煽りかねない、ちょっとしたスキンシップじゃないの」
【智】
「ディープだったよ?!」
【花鶏】
「友情は深刻ね」
【智】
「舌までつかったよ!」
【花鶏】
「コミュニケーションよ」
【智】
「半径2メートル以内に近付いたら、花鶏が足下に人生の全て
を投げ出して諦めるまで、くすぐり倒すから」
【花鶏】
「…………いいかも」
逆効果でした。
【央輝】
「えらく時間には正確じゃないか」
央輝だった。
以前と同じ、ゾッとする空気をまとわりつかせている。
【央輝】
「正確なのは、まあ美点だな」
ニヤリ。
くわえていたタバコを捨てる。
【智】
「お出ましはいっつも唐突だね」
【央輝】
「お前らと違って、考え無しに夜歩きするような、呆けた生活は
してないんでな」
3度目の邂逅(かいこう)。
以前と同じ黒い姿だ。
【花鶏】
「それで、メールの主旨は?」
花鶏が、沸点ギリギリの声を出す。
【央輝】
「……こいつが持ち主か?」
【智】
「さようで」
【央輝】
「捜し物は見つかった。こいつで間違いないか?」
ぞろりとしたコートの下から一冊の本を取り出す。
【花鶏】
「それっ!」
(1秒)
【智】
「早っ」
花鶏が反応した。
では間違いなく本物らしい。
あれを花鶏がずっと捜していたのか。
ちょい疑問。
そんなに価値のある本なの?
【花鶏】
「返しなさい!」
【智】
「しかも即断」
駆け寄った花鶏がはっしとつかむ。
素早い。
央輝と花鶏が、本の両端で綱引き。
【央輝】
「がっつくな。みっともないぜ」
左手一本で、器用に新しいタバコをくわえ、火を点ける。
きゅっと唇がつり上がった。
それは噂のままの顔だ。
吸血鬼。
【央輝】
「取り引きだ」
【智】
「取り引き……っすか」
反復してみる。口の中で咀嚼(そしゃく)する。
【花鶏】
「……謝礼が必要というなら、用意するわ」
ギリギリと、本が軋む。
大切な本なら大切に扱おうよ、花鶏さん。
【央輝】
「1億」
【花鶏】
「智、今すぐスコップ買ってきなさい!
こいつを始末して埋めるから!!」
【智】
「おーい」
どっちもどこまで本気なのか読みにくい。
【央輝】
「ふん、金はいらん。代わりのものを引き渡せ。そしたら、
こいつはすぐにくれてやる」
花鶏の鼻先を爪先がかすめた。
ほとんどノーモーションから放たれた。
央輝の蹴りだ。
花鶏は本から手を離していた。
前髪がわずかだけ乱れる。
それだけだ。
【央輝】
「ひゅー」
口笛は掛け値無しの称賛の音色だ。
央輝は当てる気だった。
当たったらただでは済まなかった。
相手の事なんて気遣いもしない、Vナイフと同じ剣呑な一撃を、
花鶏は瞬きひとつせずに避けた。
【花鶏】
「――あたしは、右の頬を打たれたら、腕ごと叩き折ってやる
主義なの」
【智】
「打たれてないよ」
場を和ませる努力。
【花鶏】
「おわかり?」
【央輝】
「気が合うな、あたしもだ」
無視気味です。
両方とも血液がニトログリセリンだ。
【智】
「かーっとっ!!!」
映画監督風に、
二人の間に割ってはいる。
【花鶏】
「邪魔を、しないで」
【智】
「いやあ、せっかく取り引きいってるんだから」
【智】
「それで、さっきの話の続きは?」
花鶏の前を右に左に塞ぎつつ、訊ねる。
【央輝】
「茅場とかいう男の娘、お前の手元にいるんだろう」
【智】
「茅場…………茜子?」
【央輝】
「そいつと交換だ」
【智】
「………………」
【花鶏】
「智」
【智】
「それは、つまり、央輝は……茜子を追いかけてた連中の仲間ってわけじゃないけど、恩を売りたいか、義理があるかどっちかなんだ」
【央輝】
「……一々小知恵の回るやつだ」
央輝の気配が緩む。
剣呑なままでは取り付く島もないので、
まずは一手がうまく進んだ。
【花鶏】
「どういう意味なの?」
普段の花鶏なら気がつきそうなモノなのに、
本が目の前でやっぱり気が回らないらしい。
【智】
「茜子を捜してる連中は僕らの素性を知らない。
知ってるなら強硬手段だって取りかねない連中だし」
【智】
「央輝が連中の仲間なら、僕らと茜子が一緒にいたことはとっくに伝わってて、事態はもっと悪くなってる」
茜子はカードだ。
有用な質札、恩と義理を買い取る通貨だ。
【花鶏】
「はんっ」
【智】
「茜子が必要な理由、聞いていい?」
【央輝】
「そいつの親父が、くだらねえ男の面子を潰した。大層ロクでもないヤツでな、性根が腐ってる上に執念深くてサディストときた」
低く笑う。
【智】
「ほんとにろくでもないなぁ」
世の中、知らない方がいいことはたくさんある。
【央輝】
「その馬鹿は、今まで一度も相手を逃がしたことがないのが取り柄で、それで面目を保って商売をしてる。逃げられたらあがったりだ。わかるか?」
【央輝】
「そいつの親父はうまくやった。今のところ逃げのびてる。
尻尾を掴まれてもいない。そうなると――」
面子の分だけ娘にカタをつけてもらう、と。
【智】
「……それ、困るよ」
【央輝】
「あたしの知ったことか。どうだ、取引としては上等だろう。元々無関係の女……そいつ一人を引き渡せば、大事なお宝は手元に戻ってくる。契約と代価――――ふん、ありきたりな結末だ」
【花鶏】
「………………」
【智】
「だめ」
即断で。
【央輝】
「情けは人のためならず、とかいう諺があるんだろ、この国にはな」
【智】
「だから、人の為じゃなくて、自分の為だよ」
【智】
「今は、ちょっと、その子と運命共同体っていうの、やってるから……だからダメ」
【央輝】
「運……なんだ? よくわからん」
複雑な日本語はダメらしい。
【央輝】
「お前には貸しがあるぞ」
痛いところを突かれた。
獲物を狙う肉食獣の顔だった。
【智】
「それを言われるとなんなんだけど」
央輝には余裕がある。
ということは、央輝の重要度として、茜子はどっちでもいい程度の位置づけらしい。
【智】
「わかりやすいところでいうと、んー……義兄弟の杯?」
【花鶏】
「……姉妹、でしょ」
些細な問題はさておいて。
【央輝】
「はん。身内にしたか」
央輝の世界観的に、こちらの方が伝わりやすかった。
【央輝】
「そうなると、どうするかな」
こっちの足元を見たニヤニヤ笑い。
話がどんどん斜めの方向へ飛んでいく。
打つ手を間違えると取り返しがつかない。
というよりも。
手札がなかった。
央輝は、僕たちが茜子と一緒にいると確信した。
その話を、さっきの話の最低男のところへ
持っていかれるだけで、進退窮まる。
【智】
「……あ、でも時間の問題か……」
【花鶏】
「?」
一緒にいるところや制服は見られてるんだし、
しらみつぶしにされたら、遠からず足はついちゃいそう。
【智】
「あー、うー」
【花鶏】
「真面目にしなさいよ」
【智】
「……うん」
ぐるぐるぐるぐる。
頭を回す。頭が回る。
解決策が思いつかない。
【央輝】
「お前、茅場の娘とは、以前から知り合いってわけじゃなかったんだよな」
【智】
「ま、ね……」
後悔。
同盟で処理するには危険すぎる爆弾だったか。
今更取り返しはつかない。
茜子を大人しく引き渡したりすると、夜ごと悪夢にうなされそうだし、枕元に化けて出られて夜通し悪口を聞かされたりなんかすると、衝動的に練炭でも買いたくなりそう。
【央輝】
「お前、馬鹿か?」
【花鶏】
「この子は馬鹿よ」
【智】
「…………そこはフォローしてよ、運命共同体」
【花鶏】
「あなたとわたしは、同じ路線のバスに乗り合わせただけよ」
ここぞと言うときには冷たい花鶏だった。
【智】
「お互い、どこで飛び降りるかが問題だね」
【花鶏】
「最後まで残ってるヤツは馬鹿を見る」
【智】
「花鶏の好きな映画はさぞかしブラックなんだろうな」
くくっ、と央輝が低く笑う。
【央輝】
「いいぞ、別の条件にしてやる」
【智】
「ほんと!?」
【央輝】
「レースに出ろ」
【智】
「………………」
何それ。
モノ質と引き替えにレースに出て勝利せよ!
それ、どこのハリウッド映画?
【智】
「僕、免許とか持ってないけど……」
【央輝】
「図太い返事だ」
【智】
「お褒めに預かり光栄です」
【花鶏】
「棒読みよ」
【央輝】
「パルクールレース……車は使わない。そいつに出て勝負しろ。あたしたちが主催してるヤツだ。勝てば、このボロ本は返してやる」
【央輝】
「それに、茅場の娘の件、話をつけてやってもいい」
【智】
「えうっ?」
渡りに船な申し出だった。
それだけに素直に受け取れない。
教訓――人は信じるべからず、
ただより高いモノはない。
【智】
「それって、その、どういう……」
【央輝】
「条件は、お前も出ること。それと、お前らが負けたときは――」
【智】
「負けた、ときは…………?」
ごくり。
【央輝】
「お前は、あたしのモノだ」
【智】
「…………………………………………はい?」
耳が遠くなった。
いやだなあ、まだ若いつもりなのに。
年齢って気がつくときてるから。
【央輝】
「お前は、あたしの、奴隷だ」
【智】
「奴隷」
【央輝】
「奴隷」
復唱する。
幻聴じゃない、聞き間違いじゃない、
冗談って言う顔じゃあ断じてない。
【智】
「ひぃいいぃぃぃいぃ――――――――――――――」
【花鶏】
「ちょ、ちょっと!」
【央輝】
「お前が負けたら、煮るなり焼くなり犯るなり、あたしの気の向くままにさせてもらう」
「焼く」の次の「やる」の漢字を教えて欲しい!
僕の思い違いだと証明して欲しい!!
【智】
「そ、そそそそそそそそそそ」
そんなことされたら。
人生の危機。
死ぬ。絶対に、今度こそ死んじゃう!
【央輝】
「あたしは優しくないぜ」
【智】
「ぎゃあーーーーーーーーーーーっ」
【花鶏】
「腹は立つけど……気持ちはわかるわ!」
【智】
「わかんなくていいよ!!」
血の叫び。
これだから!
色々と趣味がお花畑の人は!
【央輝】
「で、どうする?」
決断の時、来たる。
〔こより、逃げ出した後〕
【伊代】
「それで?」
【智】
「それで、とは」
【伊代】
「聞いてるのは、わたしで、答えるのはあなたです」
伊代がメガネのフレームを指先で押し上げた。冷淡に。
ごまかしで誤魔化せそうにない白い目だった。
【智】
「……契約を、しました」
尋問は熾烈を極めた。
昨夜のことを、
洗いざらいゲロさせられる僕だった。
【伊代】
「それは聞いた」
【智】
「勝負をして、勝てば全部チャラになる。負けたら……
ちょっと借金生活みたいな」
【こより】
「なして、センパイが愛奴生活に突入なのですか?」
【伊代】
「愛奴……」
【智】
「こやつ、悪い言葉を……」
こよりは接触悪そうに首を傾げている。
問われて、考える。
なして。
【智】
「…………なしてでしょう?」
難問だった。
【茜子】
「アホですね」
【花鶏】
「馬鹿なのよ」
【智】
「二人がかりで、あまりにあまりな言いぐさ」
【花鶏】
「もう少し頭のいいやつだと思ってたのに、とんだ見込み違いもあったもんだわ!」
【智】
「見込んでてくれた?」
【花鶏】
「……些末な部分はどうでもよい」
【智】
「前途は多難かも知れないけど、勝てば最寄り問題の大半が一気にチャラになるんですよ、花鶏さん」
【智】
「これって一発逆転鉄板レースで、
女房を質にいれてでも賭けるしかないんじゃありませんこと?」
【こより】
「ざわ……ざわ……」
【るい】
「おお、格好よいぞトモっち」
【伊代】
「こらこら、借金で身を持ち崩すオッサンの台詞だ、あれは」
伊代が肘で小突く。
るいは「にゃう?」と悩む。
【茜子】
「質というより自分が死地です」
【こより】
「うまいなあ」
【智】
「(男には)いかねばならぬ時もあるのです」
立場が複雑だ。
【茜子】
「一撃必殺もよろしいですが、茜子さんの問題に、
勝手にずかずか入り込まないでください」
刺々しく冷たい断罪。
針のむしろの気配。
【智】
「そんなこと言ったって、入り込んで解決するための同盟なんだよ!」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「同盟は、結構として」
花鶏が鼻の触れそうなところに来た。仁王立ち。
背が高いので見下ろされる。
くく……っ。
【智】
「……叩きますか?」
噛みつかれそうだ。
【花鶏】
「馬鹿がうつるから叩かない」
【るい】
「うつるんだ!」
【伊代】
「鵜呑みにするなと……」
【花鶏】
「わたしたちは同盟で結ばれている、わたしたちはお互いに手だてを貸し合う、わたしたちは互いを利用し合う、わたしたちは互いを裏切らない――――それが、あなたの言い分よね?」
【智】
「そです」
【花鶏】
「だからといって、どうして、負けたときの代価に、
あなたを差し出すなんて意味不明な条件を飲むわけ!?」
【智】
「話の流れというか、選択の余地がなかったというか……その場で聞いてたんだから知ってるでしょ。リスクとメリットのコントロールを秤にかけたら、いい感じで」
【花鶏】
「わからないこといわないで」
【智】
「……なんでそんなに怒るのかしら」
【花鶏】
「怒ってないわ」
【智】
「えー」
【花鶏】
「怒ってません」
【智】
「ごめんなさい」
無様に平身低頭した。
【るい】
「愛奴?」
【智】
「もう少し言葉を選んで」
【るい】
「メイド?」
【智】
「メイドを甘く見るなぁっ!」
【るい】
「なにその思い入れ」
男は誰しもメイドに心惹かれるのです。
【智】
「……と、とりあえず、負けたら、そういう契約」
【こより】
「センパイ、ドナドナです〜」
こよりが目頭を押さえた。
もらい泣きする。
【智】
「涙無しでは語れないね……」
【茜子】
「だから、あなたはアホなのです」
【智】
「そんなに強調しなくったって」
【花鶏】
「馬鹿にしてっ!」
花鶏が爆発した。
怯えた。
嵐はいなしつつ過ぎ去るまで頭を下げて待つ。
呪われた世界に平穏な毎日を生きるための、
この僕の処世術だ。
【智】
「……馬鹿にはしてない」
上目遣いに、弁明を試みる。
【花鶏】
「してる。今もしてる。そうやって、人畜無害そうな顔して、
心の底で、わたしのことを馬鹿にしてっ!」
【智】
「話を聞いてよ」
【花鶏】
「なら、どうして、あんな約束するの?!」
【智】
「それは、成り行き――」
【花鶏】
「わたし一人じゃどうにもならないと思ってるんでしょ! 正しい答がわかってるのは自分だけだと思ってるんでしょ!」
【花鶏】
「自分がやらなくちゃ、
どうせ上手くいきっこないと思ってるんでしょ!?」
【花鶏】
「赤の他人の身代わりになって自己犠牲するのが性分なわけ!? 馬鹿にして、馬鹿にして、馬鹿にして!
同情なんてまっぴらごめんだわ!」
叩きつけられる言葉。
花鶏の後ろで、伊代と茜子が沈黙している。
無言の賛同。
――――自分なら正しい答が出せる。
それはごう慢だ。
同盟。
僕らは手を結ぶ。
それは一つに繋がることを意味しない。
バラバラのまま。
束ねて、利用し合う。
世の中には、正しい答なんて、ありはしないのだ。
正解ではなく最善があるばかり。
解けない方程式、円周率と同じで割り切れない。
【伊代】
「でも、あの黒いヤツ、そういう趣味だったんだ」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「ふむ」
【伊代】
「な、なによぉ、皆だって考えたでしょ!」
伊代は空気が読めない。
【智】
「せっかく真面目だったのに」
全員で、もにょった。
【花鶏】
「もういいわ」
【こより】
「あう、こわい……」
【花鶏】
「今更賭けを取り消すっていったって、アイツにも通用しない
でしょうし」
【智】
「だねー」
【茜子】
「……」
【智】
「ごめんなさい」
【花鶏】
「それで、どうするつもりなの?」
【智】
「当事者としては、選べる選択肢は一つだけ」
正解を探す。
方程式を解くように。
【智】
「勝てばいいんだよ」
腹が減っては戦ができない。
料理は、キッチンを借りて、
主に僕が作ったりした。
材料は、花鶏の家に来る途中で買っておいた、
質より量を重視した色々を元にしたカレーです。
【るい】
「ぐおー」
【こより】
「がつがつ」
【茜子】
「がっつかないでください、この餓鬼めらが」
【花鶏】
「ちょっと、飛ばさないでよ!」
【るい】
「ぬの?」
【伊代】
「落ち着かない風景ね……」
獣のごとく飽食した。
【こより】
「それで、なんでしたっけ」
【智】
「パルクールレース」
【伊代】
「それって車とかバイクとか……
ちょっと、わたし免許とかもってないわよ」
【智】
「それは僕がもうやった」
パルクールレース。
レースといっても免許不要。
基本は自分の二本の足を使う。
参加者はゴールを目指して、ひたすら街を駆け抜ける。
チェックポイントに先に到着したり、トリックを決めたり
すると賞金が出る。
今回は4人1チームで競う。
【茜子】
「駅伝的なヤツですか」
【智】
「思いっきり俗に言うと、そうかな」
ただし、いくらか物騒な。
チェックポイントを通れば途中の経路は問わない。
ランナー同士なら、相手への妨害行為も認められている。
【花鶏】
「きな臭い話になってきたわね」
【智】
「ネット配信したりして、賭けとかやってるそうな」
【伊代】
「変に今風ね……」
【智】
「どこでもインフラは変化しますので」
【こより】
「そんで、誰がでるですか」
【智】
「勝てそうな面子をよっていこう。まずは……」
【智】
「やっぱり、るいちゃんか」
【るい】
「先のことなんてわかんない」
【智】
「こんな時にも約束しない人!?」
【伊代】
「いきなり挫折してるじゃない」
るいは複雑な表情だった。
複雑すぎてどういう顔なのか読み取れないくらい。
【茜子】
「時間の無駄です。二番手を決めましょう」
【伊代】
「ちょっと、一番手決まってないのに……」
【茜子】
「平気です」
【智】
「わかりました。先へ進めます」
【花鶏】
「信用するっていいたいの? バカもいよいよ極まれりね。
まあ、いいわ」
【智】
「次は……」
【花鶏】
「わたしが出るわ」
【こより】
「花鶏センパイ」
【花鶏】
「自分のことなら自分の力で勝ち取る。わたしには同情も助けも
いらない」
花鶏は硬質だ。
強く儚く高く咲く。
触れれば崩れそうなほど繊細で。
どこまでも花鶏は花鶏だった。
【伊代】
「ねえ、あなた」
【花鶏】
「ええ、わかってるわ。無茶はするなって言いたいんでしょう」
【伊代】
「じゃなくて、これ、チーム戦だからあなた一人だと勝てないんじゃないかしら」
水差しまくり発言だ。
【花鶏】
「……」
【智】
「すごいなあ」
伊代は素だ。
狙ってないだけに一種の才能だ。
水を差す天才。
【伊代】
「ほんとのこと言っただけじゃない……」
だんだんキャラが見えてくる。
人間なんて閉じた筺と同じで、
蓋を開けないと中味はわからない。
【智】
「深い」
【茜子】
「何を一人で納得しているのですか」
【智】
「乙女強度から考えて、三人目は僕が。
自分の身の安全は自分で守ることにする」
【伊代】
「いや、だから、なにそれ」
【智】
「なにとは」
【伊代】
「なんとか強度」
【智】
「だいたい普通だと百万乙女前後で」
【伊代】
「はあ」
【智】
「るいは、でも一千万乙女な感じで」
伊代は最後まで納得いかない顔をしていた。
【智】
「最後の一人は――」
【茜子】
「茜子さんが出ます」
【智】
「えう」
むせかける。
【伊代】
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと!」
【茜子】
「なんですか」
【伊代】
「聞いてなかったの!? 体力勝負なのよ!
ギャンブルの馬役で、妨害アリなんていう際物なの!」
【茜子】
「わかってます」
【伊代】
「わかってない、わかってないわよ!
あなた……ねえ、そっちもなんとか言ってあげてよ」
【伊代】
「この子みたいな体力お化けならともかく、あなたみたいな
細っこいのが出て行ったって怪我するだけだって! いいえ、
怪我じゃすまないかも……っ」
【るい】
「なんかすごい言われよう」
【茜子】
「私、わかってます」
【伊代】
「わかってない!」
【茜子】
「わかってないのは、あなたです」
【伊代】
「……ッッ」
衝突する。
人形じみていても茜子は人間だから。
行きずりの絆で繋がっただけの他人同士。
意見が違えばぶつかり合う。
【茜子】
「これは、私の問題です。他の誰の問題でもない、私のことです。私が追われて、私に降りかかったことです。私が自分で出るのは責任です」
鋼のような決意。
【智】
「…………」
茜子の顔を見ながら思案する。
【智】
「ところで、こよりちゃん」
【こより】
「はいです、センパイっ!」
【智】
「最後のメンバー、キミでいい?」
【こより】
「……………………はい?」
固まった。
【智】
「最後は、こよりん」
【こより】
「ッッッ!?」
ムンクの叫びのポーズ。
【こより】
「はい〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
【こより】
「そそそそそそそ、それはどういうことでありありありあり、
ありーでう゛ぇるまっくす!!」
【智】
「全面的に違ってる」
【こより】
「そ……そんなの……困るです……すごく困りますぅ!」
【茜子】
「待ってください! これは、私のことです!」
茜子が、珍しく激しく噛みついてくる。
【茜子】
「私のことなのに、どうして、そのミニウサギを」
【智】
「これは同盟だから」
【茜子】
「わかりません」
【智】
「僕らは力を貸しあう。僕らは利用し合う。誰かの問題は全員の
問題。それでなくちゃ同盟の意味もないでしょ。そうすること
だけが、ちっぽけな僕らの解決の手段」
【智】
「一番しなくちゃいけないことはなんだと思う?」
【茜子】
「一番………………」
【智】
「勝たなくちゃ、色んなモノに。躓いてらんない。意地とか、
責任とか、誰の事だとか。そんなことには躓いてらんない。
どうしてって? 負けちゃったら終わりだから」
【智】
「負けたら、後はない。二度目がやってくるかどうかもわからない。世界は一度きりなんだ。セーブもロードも通用しない」
【智】
「突き抜けて自己満足で納得するのもいいけど、
それで納得するよりは、勝って幸せになろうよ」
【茜子】
「幸せ、なんて」
【茜子】
「なれると思うんですか」
肩をすくめた。
【智】
「なれる、」
【智】
「と思う。難易度はかなり高いけど、力を合わせれば、みんなで
戦えば、いつかはきっと」
【茜子】
「……呪われてる」
自嘲じみていた。
人生まで、全部ひっくるめて投げ捨てるような、
希少価値の表情だった。
【茜子】
「呪われているのに、追いかけられるのに、
幸せになんてたどり着けません」
いやな空気になった。
欺(ぎ)瞞(まん)の下にあるのは畏れと不安。
呪い。呪い。呪い。
いつでもどこでも背中にぴったり張り付いた言葉。
それは、どこにでもある。
生きることには畏れと不安がつきものだから。
【智】
「そのために……僕らはそのために同盟を結んだんだ。
一人だと無理だから、一人だと足りないから、一人にできる
ことには限りがあるから」
【智】
「だから手を結ぶ、利用し合う」
【伊代】
「…………それで、今回の勝負、勝てると思うの?」
【智】
「人事を尽くして天命を待ちます」
【花鶏】
「天命だなんてらしくないこと」
【智】
「根性で解決するとは思わないけどね」
【花鶏】
「それは冷静な判断ね」
【智】
「なんといってもドナドナの運命がかかってるから。
勝たないことには」
愛奴隷一直線。
【茜子】
「でも、だからって、私……」
問い@
幸せになれると思いますか?
解答
なれると思います。
【智】
「なんとかなるって」
希望は欺(ぎ)瞞(まん)的だ。
信じていなくても言葉にできる。
そして。
言葉は欺くためにあるのだから。
【智】
「それでどうですか、こよりん?」
【こより】
「鳴滝が……やるですか……?」
【智】
「ごめん、他にいなくって」
悪いとは思うけど、選択の余地がない。
モノは試しで残りの面子を検討してみる。
伊代、こより、茜子。
【智】
「……やっぱりキミだけが勝利の鍵です」
【るい】
「残りの二人は?」
【智】
「小利の餓鬼とでもいいますか」
【るい】
「わからぬ」
日本語には秘密がいっぱい。
【智】
「ごめん、この通り。無事に終わったら、代わりに何でも
お礼するから」
【こより】
「でもでも、こよりが出るということは、戦うということですよね?」
【智】
「まあね」
【こより】
「走るだけじゃなくて、妨害っていうと、かなりシャレにならない事態が予想されたりするんですよね?」
【智】
「そうね」
【こより】
「相手は、その、あっち系の本物で、これっぽっちも冗談通じないような気がするんですけど」
【智】
「こよりちゃん、鋭いね」
【こより】
「……」
【智】
「……」
【こより】
「いやあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
泣かれた。
【こより】
「酷いッス、酷すぎます! いくらセンパイでも、
この仕打ちはあまりにあまりで……」
我ながら同意見だ。
【智】
「どうしても、だめ?」
【こより】
「平和主義者の小娘にナニヲキタイスルノデスカ」
【智】
「伊代は、意外と部のキャプテンやってたりとか」
【伊代】
「わ、わたし?!」
【伊代】
「1年だけ、お茶漬けフリカケのおまけカードで占いをする部
の部長をしたことあるけど……」
【智】
「……ごちそうさまでした」
なんだよ、その部は!
そんな得体の知れない部、存在自体おかしいだろ。
【花鶏】
「で、どうするわけ?」
【智】
「それなら、」
どうしよう……。
【智】
「頭数だけそろえても、勝ち手がないと……」
【茜子】
「ドナドナ」
【るい】
「ドナドナかあ」
切なくなる。
【こより】
「……わかりました。センパイを市場に連れて行かれるわけにはいきません。わたしが……出ればいいんですよね?」
【智】
「結構無茶な話だったかなぁ」
【伊代】
「今になって考えなくてもそうでしょ」
【智】
「ほんとにいいの、こよちん?」
【こより】
「うす。しかた……ないです。他に道はないのです」
【るい】
「そのとーり。女は度胸っ」
ぱんぱんと、こよりの背中を景気よく叩いた。
【花鶏】
「歪んだ価値観だわね」
【るい】
「ほほう」
【花鶏】
「なによ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
今日も今日とて揉める。
それでも――――
とりあえず面子はそろった。
翌日。
授業はサボりました。
優等生失格の烙印がついちゃいそうだ。
朝から街をうろついた。
るいを誘って。
腕をくんで、てくてく歩く。
【るい】
「これってデートっすか」
【智】
「んなことしてたらサボった意味がないわいな」
【るい】
「デートじゃないのけ?」
【智】
「なんて小春日和なヘッド」
【るい】
「そろそろ春っつーより初夏って感じの季節、女の子同士のデートもいいよねぇ〜」
デートしつこい。
【智】
「これは下見です」
シティマップを片手に。
パルクールレースでは、ランナーは市街の指定された
チェックポイントを指定の順番で通過すればよい。
コース選択は自由。
たとえば空を飛ぶのも自由。
できるもんなら。
央輝に確認したところ、
こよりのローラーブレードは使って構わないということだ。
チームはランナーが4人。
チェックポイントは20カ所。
分散したポイントに、どれだけ速くたどり着けるのか、
タイムロスを減らせるのか。
ライン取りが重要になる。
【智】
「実際走っててポイントわからなくなったりしたら、そういうのもまずいよね」
【るい】
「まずいか」
【智】
「なんせ、僕がドナドナだけに」
【るい】
「たしかにマズイ」
魂的に危機一髪だ。
【るい】
「なんでもトモは細かいね」
【智】
「白鳥は優雅に浮かんでるだけに見えて、水の下で必死に
バタ足してるもんなの。不断の努力とその成果。これぞ
勝ってナンボの和久津流」
【智】
「人事を尽くして天命を待つ……ってことは、人事尽くさないと
応えてくれないのが天命っていう性悪狐の正体なので、日夜努力の毎日なのです」
性悪度でいうと、いずるさんに一脈通じる。
【るい】
「そういうのって、どーっていって、ばーってやって、どがーんてかましたら」
【るい】
「普通はなんとかならんのけ?」
【智】
「なるか!」
【智】
「抽象的すぎて意味不明です!」
【るい】
「なんとなくフィーリングで、ぱーっと」
【智】
「……るいってさ、そういう、感覚で物事やっちゃう方?」
【るい】
「おうさ」
【智】
「これだからっ、特化した才能の上にあぐらをかいて世間を
軽くみてるヤツは!」
嫉妬に燃えた。
【るい】
「その分頭使うのは苦手だけど」
【智】
「いびれー(※歪型レーダーグラフの略、才能特化型な人種を表現するスラング)だね」
典型的な、できる子理論の人生。
ある分野において、くめど尽きせぬ才能過ぎて、
矮小な常人の苦労が理解できてない。
そういうひといるんだよねー。
自転車に乗れるようになった子供が、
どうして今まで出来なかったのかわからなくなるのに似ている。
【智】
「……人間同士って解り合えないんだなあって、すごくすごく思う」
【るい】
「トモはすぐ難しいこと言う」
【智】
「考えててもしかたがない」
【るい】
「ほほう、するってーと」
とにかく実地で検分に。
【智】
「いこう」
【るい】
「いこう」
そういうことになった。
行ってきた。
【智】
「あいやー! 疲れましたー!!」
【智】
「思ったより大変でした」
【るい】
「そんで、どんなもんかね、手応えは?」
感想はたくさんあるが、
あえて四文字で表すなら。
【智】
「前途多難」
【るい】
「勝利の鍵は?」
【智】
「…………あるのかな?」
ドナドナが近くなった気がする。
さて。
飛ぶように日付が過ぎて――
今宵は前夜。
いよいよ明日がレースの当日。
慌ただしいと月日が経つのが速い。
1クリックで1週間とか。
それぐらい速い。
【智】
「決戦の時はきたれり!!」
と、うたいあげるような、
燃えテンションが不足していた。
拳を突き上げる役がいない。
【智】
「体育会系成分が不足してる」
【花鶏】
「汗臭そう……」
【智】
「偏見だ」
【花鶏】
「そういうの、近付いただけで妊娠するわ」
差別と偏見はこうして広まる。
様式美と蔑まれようとも、
メンタル設計に鼓舞が占める位置は重要なのだ。
【伊代】
「結局あの子が一番手で出そうね」
【智】
「ひとは信じ合わないと」
他人事のように。
【智】
「こよりんはダメです」
【こより】
「あー、うー、やー」
こよりは、部屋の隅でガタガタと震えていた。
生ける屍のごとし。
【伊代】
「本番に弱いタイプみたいねえ」
【智】
「女の子らしい、戦いには向かぬ優しい心の持ち主だから」
【るい】
「私らも女の子」
最終兵器乙女、皆元るい。
【智】
「分を弁(わきま)えないと」
【るい】
「馬鹿にされてる気がする」
さて。
ここは、かつて花鶏ん家の一室だった、
今は、乙女同盟パルクールレース対策本部。
歴史の大河の果てに、
この部屋が獲得した名称である。
戒名だってある。
※刑事ドラマなんかで捜査本部出入り口に掲示する「○○捜査本部」というヤツ。
お手製の垂れ幕がかかっていた。
字は伊代が入れた。
花鶏は最後まで抵抗した。
素直じゃない。
【花鶏】
『お断りよ!』
【智】
『ここは形から入ると言うことで』
【花鶏】
『穢れる!』
【智】
『どうしても』
【花鶏】
『然り』
【智】
『わかりました。では、同盟憲章第2条に基づいて――』
多数決を取った。
同盟だけに、意見対立は多数決でもって民主的に解決する。
垂れ幕一つあってもなくても同じだが。
形から入りたい時もある。
花鶏を困らせると、わりと面白そうだし。
【智】
『賛成多数につき、』
【花鶏】
『卑怯者!』
【智】
『最近よく言われます』
【智】
『これでも普段は品行方正』
【伊代】
『騙りね』
【智】
『……騙るのは、いかがわしいひとだけでいいよ』
【伊代】
『やっぱり、わりと似たベクトルの生き物なのかも』
いやなベクトルだ。
【花鶏】
「勝ち目は?」
【智】
「4、6くらいで」
【伊代】
「……6割で負けちゃうんだ」
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「な、なんで睨むのよぉ……」
どこまでも空気の読めない伊代だった。
【智】
「せめて4割も勝てるの! とか、
味方の士気を鼓舞するような言動をよろしく」
【伊代】
「士気だなんて、精神論よ」
【智】
「病は気からっていうでしょ」
信じれば変わる、
諦めなければ勝てる――。
呪われた世界に蔓延する、
数多の欺(ぎ)瞞(まん)の最たるものだ。
精神論はスタート地点でしかない。
戦いは問答無用。
堅く冷たく揺るがぬ力学で形作られる。
【智】
「知恵と力と友情と、最後が勇気」
【こより】
「あうぅ」
こよりが頭を抱えた。
すっくと立ち上がる。
【こより】
「…………顔洗ってくるデス」
マシンのようにひび割れた声で。
【智】
「大丈夫? ひとりで行ける? 顔が紫色だけど」
【こより】
「紫色だと画面に出せませんね」
【智】
「……わりと余裕ある?」
【こより】
「手首切りたい……」
【智】
「ヤバイ目をしていうな」
【こより】
「いってきます」
【智】
「大丈夫かな」
【茜子】
「この期に及んで大丈夫だなんて、脳に蛆がわいてますね」
【伊代】
「……やっぱり怖いわよ」
伊代が肩を落とす。
小さくなる。
【伊代】
「ほんと、怖い。胃のあたり重いし。わたしは出ないからいくらか楽だけど、明日負けたら、負けちゃったら……そう思ったら、
あの子の気持ち、少しはわかる」
あと十数時間すれば。
決する。
勝者と敗者に別れる。
敗者は強奪される。
代価を。
【智】
「もっと力抜いて。よしんば明日負けたって……」
失うモノは。
一冊の本。
茜子と僕。
【智】
「大丈夫だから」
少なくとも伊代は。
【伊代】
「だから……それだから、よけいに……」
視線が彷徨う。所在なく。
伊代は、傷ついていた。
【伊代】
「わたしもおトイレいってくる……」
逃げるように。
【智】
「むう、人間心理は複雑です」
無傷でいられる事への後ろめたさが、
伊代を抉っている。
リスクは持たない。レースにも出ない。
伊代だけが。
それを承知の同盟だ。
それぞれの置かれた状況や条件は異なっている。
違うモノだから、同じにはなれない。
違っても、リスクを共有し、力を合わせる。
差異はでる。
完全な平等は完全な平和と同じくらいの幻だから。
そこに苛立って。
不完全であることに。
完璧でないことに。
憤る。
【智】
「…………可愛いヤツ」
【るい】
「うにゅ? なんでトモちん、難しい顔してんの」
【智】
「るいは簡単そう」
【るい】
「???」
理解してなかった。
【伊代】
「ねえあの子、いる?」
伊代が戻ってきた。
【智】
「あの子?」
【伊代】
「オチビ」
【智】
「さっき顔を洗いに……っていうか、伊代こそ会わなかったの、
お手洗いで」
【花鶏】
「そういえば、随分経つのに戻ってこないなんて……ちょっと
遅すぎるわね」
【伊代】
「いなかったわよ」
【るい】
「テラスで頭冷やしてるとか?」
【伊代】
「気になって、ざっと見てきたんだけど……あの子、どこにも
いないのよ」
【茜子】
「…………」
胃の下あたりが、ざわざわした。
【智】
「それって、ちょっとマズイっぽいかも……」
花鶏の家中を手分けして捜した。
どこにも、こよりはいなかった。
【伊代】
「これってもしかして」
【智】
「…………逃げた?」
これは、予想外。
簡単にいうと……
最悪だ。
〔団結、もう一度〕
手分けして捜すことにした。
花鶏の家の近辺をしらみつぶしに。
土地勘はないだろうから、
遠くに行ってないと踏んだ。
【智】
「いた?」
【花鶏】
「いいえ」
【伊代】
「こっちにもいなかった。まったくどこいったのかしら」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「プレッシャーに弱そうなタイプだものね」
【伊代】
「じゃあ、ほんとに……」
対策を検討する。
【花鶏】
「見当たらなかったわね。
じゃあ、もう尻尾巻いてどこか遠くに……?」
【智】
「でも、バスだってない時間だし」
時間はとっくに22時を回っていた。
バスはおろか、この辺りだと、
タクシーだってつかまえるのは一苦労だ。
電車の駅までは大概遠い。
【智】
「でも、まずいよ、まずいですよ。明日は本番なのに……
このままだととんでもないことになっちゃうよぉ!!」
【茜子】
「こいつ、普段姑息な分だけ、予期せぬトラブルに弱い雑魚ですか」
【伊代】
「なにその一番の小者設定」
【智】
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
頭を抱える。
ごろごろと床の上を転がり回る。
こよりがいないとメンバーが足りない。
戦わずして不戦敗。
そんな馬鹿な!
他に手は……?
例えば、代理をたてるとか。
【伊代】
『ファイトー☆』
【茜子】
『いっぱーつ☆』
【智】
「……………………ッッ」
見果てぬ文系世界が広がっている。
先行き真っ暗。
【茜子】
「人の顔を見てげっそりするのは失礼生物です」
【智】
「ごめんなさい」
土下座する。
【茜子】
「謝るよりも今すべきことは」
【智】
「そうだよ戦わないと、今そこにある危機と! 捜そう、もっと
捜そう、それに……夜にひとりほっつき歩いてたら危ない」
【伊代】
「そ、そうね。なにせあの子だし」
【るい】
「もういい」
冷たく。
るいが目をせばめる。
不在の何者かを睨むように。
おっ?
なんか、予期せぬ反応だ。
【智】
「いい、とは?」
【るい】
「ほっとけばいい」
【智】
「…………」
ものすごく意表を突かれた。
るいが、そういうこと言うなんて。
【るい】
「裏切ったんだ」
【智】
「あの、ちょっと、るい……?」
怖い顔。
今にも噛みつきそうだった。
純粋で、それだけに強固な生き物が居る。
【るい】
「裏切ったんだ」
るい……。
静かな裁定、本気の目だ。
【るい】
「どうして裏切るの?」
【智】
「裏切ったなんて、大げさな」
【るい】
「信じたなら裏切るな」
苛烈(かれつ)な二分法。
白と黒。善と悪。敵と味方。
るいは世界を二つに分けようとする。
信じることと裏切ること。
【智】
「それは、違うよ」
【るい】
「違わない!」
【智】
「違わないことない!」
こんなにも強い言葉をぶつけ合うのは初めてだ。
るいが睨んでくる。
視線だけで火傷しちゃいそう。
【るい】
「だって、逃げたじゃない。仲間を裏切った! 嘘をついて、
自分だけで!」
【智】
「そんなことない、僕は信じてる!」
【るい】
「――――っ」
信じる?
誰が、そんなこというわけ?
【智】
「僕は、こよりのこと信じてる。怖くて逃げ出したかも知れない
けど、こよりは僕らを裏切ったりしない。ほんのちょっと怯えて、
自分を見失っただけで」
【智】
「だから、きっと僕らと一緒に、明日は走ってくれるって信じてる」
僕は、誰も信じない。
信じるなんて間違っている。
心は天性の裏切り者だ。
何度でも繰り返す。
他人を裏切り、自分を裏切る。
嘘をついて、欺いて、
本当のことさえ言えないのに。
自分の心ひとつ信じられないのに。
見えない他人の心を信じることが出来るの?
【智】
「…………だから、今は全員で、こよりのこと、もう一度
捜してみようよ」
――――――――出来るわけがないじゃないか。
【智】
「……るいのヤツは?」
【伊代】
「部屋で待ってる、ですって」
【智】
「そっか」
まあ、しかたないか。
るいに、あんな面があったなんて思いもよらなかった。
【智】
「じゃあ、手分けして捜そう」
【伊代】
「わたしは、あっちを」
【茜子】
「茜子さんはこっちから」
散っていく。
【智】
「花鶏は――――」
【花鶏】
「信じてる……ね」
からかうような物言いだった。
【智】
「なんだよ」
【花鶏】
「あら、いつもよりかなり余裕無いのね」
【智】
「悪かったね」
【花鶏】
「そういう素の顔も可愛いわよ」
……誉められても嬉しくない。
【花鶏】
「鳴滝を信じてる?」
【智】
「そういった」
【花鶏】
「本当に?」
【智】
「なによ」
【花鶏】
「物事を考えるっていうのは、疑うってことでしょ」
そう、だ。
【花鶏】
「知恵の実の悲劇というわけね」
【智】
「……持って回った言い方するね」
【花鶏】
「そういうときもあるわ」
【智】
「そうだよ。僕は、いつも疑うところから始めるんだ。どんな事がありえるか。どんな失敗が成立するか」
世界を、常識を、友情を、信頼を、自分自身を。
他人なんて、一番信用できない。
【花鶏】
「今回はびっくりしてたわね」
【智】
「予想外のことなんて、いくらもあるから」
知恵の限界。
思考を繰り返しても、限界がある。
人間には完全な未来なんてわからない。
【智】
「……るいがあんなに怒るなんて」
【花鶏】
「そうね」
人ひとりにしたって、本当の心は量りがたいんだと、
いやというほど思い知らされる。
【花鶏】
「それでどうするの?」
【智】
「どうするもなにも、こよりを捜す。言ったとおりだよ。そんなに遠くまで行ってないと思うし」
【花鶏】
「そうね。でも、問題はその後でしょ」
見つけたとして――――――
本当はわかっていた。
こよりが逃げ出すのは当たり前だ。
理由がないから。
るいにも、花鶏にも、茜子にもある、トラブル。
同盟をあてにしなければならない理由。
【智】
「どうにもならなかったら…………」
【花鶏】
「ならなかったら?」
こよりには理由がない。
あるのは負い目だ。
花鶏の本を失った原因であるという後ろめたさ。
わかっていて、こよりを利用した。
その方が都合がいいから。
【智】
「うんにゃ、どうにもならない退路はなし。諦観するのは最後の
武器。僕の売買権がかかってますので死にものぐるいでなんとかします」
【花鶏】
「背水の陣だわ」
【智】
「余裕のある人生をギブミー」
【花鶏】
「昔の人は偉いわね。そういうあなたに、含蓄のあるお言葉を
プレゼント。曰く」
【花鶏&智】
「「自業自得」」
【智】
「ハモってどうする」
【花鶏】
「自分でわかってるだけに、あなたの不幸も根が深いわね」
【智】
「行ってきます」
【花鶏】
「わたしはあっちを捜すわ。
でも、その前に、よければ聞かせてくれない?」
【智】
「なに? 僕にわかることなら」
【花鶏】
「貴方にしか、わからないわよ」
ころころと、花鶏は笑った。
【花鶏】
「あなた、本当に、信じられなかったの?」
【智】
「――――っ」
きっと顔に出た。
本心を言い当てられた。
誰のことも、僕は信じてなんていないんだと。
でも、それなのに。
花鶏はそれを揶揄する。
まるで。
僕の、本当が――――だと、いうように。
【智】
「…………」
花鶏のその問いに、
とうとう僕は答えられなかった。
ほどなくして発見した。
【智】
「みーつけた!」
【こより】
「あう」
ライオンと鬼ごっこをする
カピバラみたいな顔で、こよりは動揺した。
バス停近くだ。
花鶏の家に初めて来たときに遭遇したあたり。
こよりは右往左往する。
右へちょろちょろ、左へちょろちょろ。
【智】
「なにやっとんのねん」
【こより】
「……逃げてますです」
【智】
「そうなの?」
どこにも行ってないけど?
【こより】
「…………見つかってしまいました」
覇気がない。
【智】
「なんたること、僕の知ってるこよりんはもっと腹の底から
声をだす女の子だったぞ!」
【茜子】
「そんなの無理に決まってます」
【智】
「余計な突っ込み入れなくていいから」
茜子だった。
どっから出たんだ。
わざわざ邪魔しに来たのか?
【茜子】
「…………」
【智】
「何を無表情に百面相してるの?」
【茜子】
「あなたは前を向いて説得にせいをだしてればいいです」
【智】
「図星」
【茜子】
「ビッチ」
舌先のキレが悪い。
こよりがどうするかは、そのまま茜子の未来を左右する。
おきものっぽくても不安は感じているだろう。
茜子の調子がいまいちな理由を、論理的に説明することができる。
でも。
それでいいのか。それだけなのか。
無表情な顔からは何も読み取れない。
【こより】
「無理……です」
【智】
「だから」
【こより】
「絶対無理、レースなんて無理、戦ったり競争したりぶつかったりするのなんて絶対無理です!」
半泣きだ。
【智】
「まあ、そこんとこ無理とは承知の上なのです。
他に選択の余地がかなり厳しい人材のインフレ」
【智】
「こよりも、花鶏助ける時は、がんばったでしょ」
【こより】
「あのときは無我夢中でしたから……」
【智】
「今は?」
【こより】
「…………」
【智】
「怖いんだ」
【こより】
「こわい、です」
こっくり。肯く。
【こより】
「ものすごく怖いです! 考えただけで、足震えてきて、立ってるのだって無理で、何も考えられなくなって息苦しくって……」
こよりは馬鹿だ。
怖いなら逃げればいい。
追いつけないくらい遠くまで。
他人のことなんて考えず。
誰だって自分が一番可愛い。
どんな献身も、崇高な自己犠牲も、
最後まで突きつめてしまえば自分のための行いなのだし。
それなのに、こんなところにいて。
【智】
「痛いかもしんないしね」
【こより】
「そういうのじゃありません!」
【智】
「……んと、すると?」
【こより】
「あー、その……怪我したり、怖いひとと面と向かったり、
そういうのも十分怖いは怖いんですけど……」
正直者だ。
【智】
「こよりだけじゃなくて、誰だって怖いよ」
【こより】
「……るいセンパイとか、平気そうです」
【智】
「あれは特殊例」
【こより】
「わたし、そんなふうになれない」
【智】
「ならなくてもいいよ。こよりはこよりで、るいじゃないんだから」
【こより】
「…………」
【こより】
「でも、わたしが負けたら、センパイが売られるんですよ!?」
なるほど。
こよりが怖がっているのはそこだったのか。
【智】
「…………だから?」
【こより】
「……(こっくり)」
【智】
「自信はない?」
【こより】
「全然ないです」
傷つくことよりも、もっと怖いこと。
自分のせいで誰かが傷つくこと。
何かが失われてしまうこと。
責任の重みだ。
背中に背負った、
見えないものの重さを怖れている。
【智】
「いいこだね、こよりん」
本当は必要ないものさえ背負い込んで。
本当に逃げ出すことさえできないで。
【こより】
「………………」
だから、精一杯の嘘をつく。
【智】
「大丈夫だよ。出ても十分やれる。勝てるって。
こよりのローラーブレード、すごく上手だし。自信持っていい」
【こより】
「そんなの理由になりません。そういうのとは違うじゃないですか。走るだけじゃなくて、誰かと戦ったりするんですよ。誰かを押しのけて勝たないとだめなんですよ!」
【こより】
「全然……違ってる……っ」
競うことに向かない人種というのはいる。
戦い、傷つけあい、奪い合うこと。
【智】
「たしかに、そういうのは気構えの問題かもね」
【こより】
「わたし、そういうの向いてない。
ケンカしたり、勝ち負けがシビアだったり、そういうのやです」
ウサギは神経質な生き物だ。
争いには向かない。
【智】
「別に必殺技使えとかはいってない」
【こより】
「人前で使うの、恥ずかしいですから……」
戦うことを怖れるのは、優しさだ。
でも。
争うこと――――。
それはどこにでもある。
普通に生活をしていても、
競ったり、争ったりすることは幾らでもある。
呪いのように付きまとう。
いつだって席の数は決まっている。
誰かが座れば誰かが振り落とされる。
競って、邪魔して、譲って、争って。
価値観はぶつかり合い、利害は衝突し合う。
終わりのない椅子取りゲーム。
それが世界の正体なのだから。
【こより】
「わたしが失敗したら…………」
【智】
「そういうの、気にするなっていっても、ダメだよね」
【こより】
「無茶いいっこです」
【こより】
「センパイは残酷です。わたしにそんな責任押しつけるのは
ひどすぎです。ほら、ドキドキしてます。心臓今にも栓が
抜けちゃいそう……」
おかしい言い回しをする。
【智】
「それはしかたないよ」
【智】
「それは、どこにでもあることなんだから」
見えない責任。
繋がり。
連鎖。
キミとボク。
自分の行動の結果が、誰かの人生を左右する。
重い事実だ。
それは、本当に、どこにでもある。
見ないふりをしているだけだ。
見てしまうと成り立たない。
他人の生命の重さに潰される。
でも、それを拒絶するのなら。
何一つできない。
自分が生きていくことさえもできなくなる。
人知れぬ砂漠の奥にでも孤独な庵を構えて、
一生引きこもるしかないのかも。
【こより】
「そう、かもしれないですけど……」
【智】
「何をやっても、どこかで、なにかで、他人のことを左右しちゃうんだよ。そうなっちゃう。それがイヤなら、本当にひとりでいないと……」
【こより】
「そんなの! そんなの……無理……」
ウサギさんは人恋しい生き物だ。
孤独には耐えきれずに死んでしまう。
【智】
「それにさ、今からだと、逃げちゃってもあんましかわんないよ」
【智】
「こよりがいないと、代役頼むわけだし。それってつまり、
こよりが」
【こより】
「……逃げちゃったから?」
【智】
「責任の重さとしたら同じでしょ」
【こより】
「それは、そーですけど、実際にやって負けたら……」
【智】
「六分の一」
【こより】
「なんですか、いきなり?」
【智】
「責任の重さ」
【こより】
「6人いるから……?」
【智】
「うん。そういうのが同盟だよ。僕らは一個の生き物、ひとつの
チーム、まとまった群れ。メリットを分かち合うかわりに、
リスクも分散して共有する」
【智】
「こよりが失敗してダメになったとしても、それは、こよりだけの責任じゃない。みんなの責任」
【こより】
「そんなの……」
【こより】
「わたしが上手くできなかったら、それで迷惑かかるのは
同じことです」
【智】
「いまさらそんなこと、いいっこなし」
【智】
「同盟を結ぶときに、そういうのは覚悟完了してる」
【こより】
「わたし、ちゃんと考えたことなかった……」
【智】
「契約って恐ろしいね。いつだって一番重要なことは、読めない
くらいちっちゃな文字で、契約書の隅っこにこっそり書いて
あるんだよ」
【こより】
「悪徳キャッチセールスみたいッス」
【智】
「タダより高いモノはないって言うでしょ。メリットだけ手に
はいるなんて上手い話は転がってません。責任だって背負い
込むのは当たり前」
【智】
「だから、こよりが考えてるようなことは、そんなこと一々
気にしたりしないよーに」
【智】
「安心して。
こよりが失敗して負けちゃっても、僕は恨んだりしないから」
じっと、目を合わせる。
【智】
「茜子さんも何とか言ってやって」
【茜子】
「え、えうっ!?」
振られるとは思わなかったらしい。
面白いくらいに狼狽した。
【茜子】
「あ、あ、あ、あの、の……」
【智】
「いつもの毒舌はどこいったの」
【茜子】
「ビッチは黙れ」
ひどい……。
【茜子】
「……っ」
茜子が深呼吸して。
【茜子】
「ふぁいとー!」
【智】
「……………………」
【茜子】
「ちゃ、ちゃんと言いましたから」
ぷいっと横を向いた。
【こより】
「……………………」
こよりも眼をぱちくりさせていた。
長いことそうしていた気がする。
本当は、ほんの1〜2分のことだったろう。
【こより】
「…………逃げられないんですね」
【智】
「呪われてるからね」
【こより】
「逃げても逃げられない。捕まっちゃう。やっつけるしかない」
【智】
「呪われた人生だね」
【智】
「でも、誰だって呪われてるんだよ」
色んなモノから。
僕らはみんな呪われている。
【こより】
「それなら、しかたないですね……」
【智】
「しかたない」
こよりが立ち上がった。
長い時間をかけて。
背筋を伸ばして、前を向いて。
【こより】
「こより、いきます」
【智】
「よろしい」
【智】
「性能の差が戦力の決定的な違いじゃないと、是非とも教えて
欲しいな」
空には月。
とても静かで、とても綺麗。
3人で戻った。
他の連中は、一足先に戻っていたらしい。
【こより】
「ご迷惑……」
深々と頭を下げる。
【伊代】
「……まあ、いいんじゃない。外回りで疲れたでしょ。
今日はもう休んで、明日に備えよ」
【花鶏】
「明日じゃないわよ。日付変わってるから」
深夜を過ぎていた。
【智】
「前夜にこれとは、なんという逆境……」
【こより】
「あーうー」
責任を感じていた。
【伊代】
「戦う前から負けてどうすんのよ!」
【こより】
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜」
責任に押しつぶされかけていた。
【智】
「なんの。逆境こそ我らが糧」
あと、一つ、解決することがありましたね。
部屋の奥から、のっそりと動く。
【るい】
「……………………いい」
すれ違い様。
【こより】
「がんばりますです!」
こよりは、ほんのちょっと涙ぐんでいた。
【智】
「感謝」
るいの背中に手を合わせて拝む。
これで、後は明日……。
もとい。
もはや今日だ。
逃げられない、避けられない、勝つしかない。
全てを得るか、一文無しか。
運命は二つに一つ。
決戦の日、いよいよ来たるっ!!
〔パルクールレース〕
夕焼けの赤が染みる。
街が塗り替えられる時刻。
もうすぐ運命のレースが始まる。
駅のすぐ近く、歓楽街のスタート地点。
高鳴る心臓を押さえながら、
その瞬間を待ちわびていた。
右を見た。
雑踏、雑踏、雑踏。
左を見た。
雑踏×6。
【智】
「帰宅ラッシュとぶち当たり」
【央輝】
「その方が盛り上がるんだ」
央輝はビル影に埋もれる。出てこない。
本当に吸血鬼を連想する。
【智】
「薄暗いところが好きとか」
【央輝】
「よくわかるな」
本当にそうだった。
カサカサしたのが親友かもしんない。
【央輝】
「不測の障害が多いほど勝負が荒れて盛り上がる」
【智】
「目立つかも……」
【央輝】
「ギャラリーが足りないか?」
【るい】
「聞きたいことがあるんだけど」
るいが割り込む。
あいも変わらぬ怖いモノ知らずだ。
【るい】
「どうして制服なの?」
それは僕も気になってた。
レースの前に、当日は制服を着てくるように指定された。
普通、レースのランナーっていったら、なんというのか、
もそっとそれっぽい格好するもんじゃないですか?
【央輝】
「制服の方が男の観客にウケが良いんだよ」
【智】
「ウケ……」
【央輝】
「制服は浪漫だそうだ」
なるほど!
わかる、わかるぞ、その気持ちは!
でも、この場合、僕が着ないといけないわけですから、
魂的にペルシアンブルーな感じに落ち込みそう。
【央輝】
「たくっ、クズどもの考えることはよくわからん」
クズ扱いだった……。
【伊代】
「脳腐れ……脳腐れだわ……っ!」
【茜子】
「人として生きてる価値がありません」
【智】
「……本当に困ったものですね」
とても本音は口には出せない。
代わりに、自分のスカートの端をつまんで持ち上げる。
ぴらり。
【央輝】
「サービス精神旺盛だな」
【智】
「下はスパッツはいてます」
完全防備。
当方(ら)に女の慎みの用意有り。
【智】
「でも、その、僕とか制服だと色々まずいんだけど。たしかネットで流してるんでしょ?」
【智】
「教師にばれちゃったりすると、
停学とか退学とか呼び出しとか不測の事態に……」
【央輝】
「心配いらん」
【智】
「なにやら隠された秘密が?」
【央輝】
「明日からあたしのモノだから、つまらないことは考えるな」
【こより】
「こっちが負けてからいってください!」
こよりが僕の腕を掴んで、
央輝から引きはがした。
【央輝】
「安心しろ。
ネットの配信先は、メンバーシップのアングラサイトだ」
【智】
「一応ばれる心配はない、といいたい……?」
いやあ、でも、街中走り回るんだから、
見てる人いるかもしれないわけで……。
【央輝】
「漏れるときは漏れる」
やっぱり。
【智】
「安心できないネット社会……」
高速インフラの新時代を嘆くのだった。
時間を確認する。
スタートまで、まだいくらか余裕がある。
いっそ早く始まってくれた方が、
余計なことを考えなくても済む分だけ気楽ではある。
暇があるとついつい考え込んじゃいそう。
【智】
「みなさん」
円陣を組んで。
雑踏近くなので、わりと人目が痛かったけど。
ここは様式美として必要だ。
【智】
「個々に、精一杯頑張る方向で」
【こより】
「気楽な感じッスね」
【智】
「気合いだけ空回りさせてもお寒いご時世だからねー」
スポ根が受けない時代になった。
【伊代】
「今更ナイーブなのも受けないわよ」
【智】
「じゃあシティ派で」
【るい】
「じゃあ、なのか」
【伊代】
「結局出るなら最初からそういえばいいのに」
【智】
「個人のポリシーは尊重する方向で」
【伊代】
「ところで、シティ……ってどういうのをいうの?」
乙女の疑問。
【智】
「それは、当然、決まってますけれど……シティ派っぽい感じ」
【伊代】
「惰弱だ」
【智】
「外来語には弱いんですよ」
【花鶏】
「…………」
【智】
「どうかしたの?
さっきからあり得ないくらい大人しいんですけど」
【花鶏】
「別に」
……やっぱり、なにか変だ。
いつもの花鶏なら、あり得ないくらいというのは
どういうことかしら、とかなんとかきそうなのに。
【智】
「別にって、なんか調子悪そうだよ?
顔赤いし、目もはれぼったい感じがするし……」
いやな予感が。
まさか、ここへ来て更なるトラブル?
天は我に七難八苦を与え給う?
【花鶏】
「あ、だめ、大丈夫だから、いいからって」
【智】
「動かないで」
おでこをくっつける。
【智】
「……………………熱っぽい」
【智】
「え……………………?」
えーーーーーーーーーー!!!!!
まじでぇ!?
【こより】
「ひええええぇっ!?」
絶望の悲鳴。
【伊代】
「な、なによそれ、こと、ここに至って!」
【茜子】
「……もしかすると、昨日の夜出歩いたせいで風邪……とかですか?」
【花鶏】
「違う」
【智】
「でも、熱っぽい」
【花鶏】
「……来ちゃったの」
【智】
「誰が?」
【こより】
「あ、あやや」
【伊代】
「ひぃ」
【智】
「?」
わからない。
【るい】
「そっか、生理か」
【智】
「なんですと」
こめかみをハンマーで不意打ちされた気分。
【花鶏】
「今週は大丈夫だと思ってたけど、狂ったみたい」
【智】
「ちょっとまって、そ、そ、そ、そ、それって……」
【花鶏】
「だから風邪とかじゃないわ。平気よ。わたしって重い方だから、ちょっと調子悪くなるけど」
【智】
「全然平気じゃないよぉ!!」
花鶏が横目で睨む。
【こより】
「…………これってどうなりますか?」
【智】
「マズイデスヨ」
片仮名になった。
追い詰められた心境で。
花鶏は主戦力だ。
それが使えないということになると……。
直前になって角落ち将棋。
【智】
「ああ、ドナドナの歌が聞こえて来た……」
【こより】
「なんて遠い目、センパイが錯乱してます!」
【るい】
「心配むよー」
【智】
「……どういう根拠のない自信で、それほど偉そうにされますか?」
【るい】
「平気平気。るいさん一人で3人分!!!」
断言。
たしかに、るいなら一人で3人分だろう。
【智】
「でも、これ、区間リレーなんだよね」
るいが無敵超人でも、一人では勝てない集団競技。
チームプレイと総合戦力が物をいう。
ここへ来てこれ、この逆境。
最後まで、これは、まさに――――
呪われた世界来たれり!!
熊のようにうろつく。
状況打開の方策がない。
【智】
「あー、うー」
どうしたら。
一体全体どうしたら……。
花鶏はそれでも走ると力説してるけど、
見る限り、かなり無理っぽい。
すると、選手交代しかないのか。
でも、直前で交代だといって、
央輝が許すだろうか?
よしんば、それが通じたとしても。
【智】
「でも、手持ちのカードで花鶏と交代させられるのは――」
伊代か、茜子か。
【智】
「……………………」
ドナドナめがけて一直線。
気分的には、もはや最終コーナー残り150メートル。
二人とも、ランナーとしてはブルーデー花鶏とどっちがマシか、
丙丁つけがたい文系的強者だ。
【智】
「と、とりあえず、主催者への言い訳を考えて、
せめて選手交代だけでも認めてもらわないと……」
【惠】
「困り顔だね」
聞き覚えのある声。
【智】
「……どっからでて来たの?」
惠だった。
以前もいきなり降ってわいた。
どこにでも出る。
黒くてカサカサするのと似てる。
【惠】
「しばらくご無沙汰だったね」
【智】
「僕の質問に答えろ」
惠相手だと容赦の無くなる僕だ。
【惠】
「このあたりをテリトリーにしているんだ」
【智】
「そっちも央輝の同類みたいなもんなのか」
【惠】
「さて、僕のことよりも、君のことじゃないか。どうやら
トラブルがあったんだね?」
【智】
「なんでわかるの!?」
【惠】
「予知能力がある」
へー。
素で言われてしまいました。
もう1回。
【智】
「へー」
【惠】
「笑ったね」
【智】
「笑いました。笑いましたとも。なんでしたら、お腹抱えて
笑いましょうか? 僕はリアリストなんですよ」
【惠】
「不思議は信じない方かな?」
【智】
「手品と魔法を混同しないだけだよ。
『未来がわかる』っていうのは、いくら何でも嘘度が高過ぎ」
【智】
「そうだ、こんなことしてる場合じゃないよ!」
話の主題を思い出す。
【惠】
「それなんだけれど。
今、君たちのことが、ちょっとした話題になっているんだ」
【智】
「……急ぐのでお付き合いの話でしたら日を改めて」
【惠】
「彼女……央輝が配信してるサイト。美少女戦隊だったかな」
なにその、いかがわしさ満点のフレーズ。
【惠】
「君たちのチームのことだよ」
己のあずかり知らぬところで、いやなキャッチコピーで
売り出されていた。
【智】
「…………そういう売り出しはやだな」
【惠】
「それで、どういうトラブル?」
今度はこちらのターンだ、と言うように。
【智】
「…………」
【惠】
「僕が力になれるかも知れないし、なれないかも知れない」
【智】
「なられても困る。愛の告白困る。
ピュアでプラトニックな関係で結婚するまではいたいの」
【惠】
「友達からはじめるという約束をしたのに」
【智】
「……本気でそういうお付き合いなら」
これっぽっちも安心できない。
いきなりの愛戦士だから、
それも、終始このローテンションな顔で。
【智】
「――――――そ、そうだ!」
人生の断崖絶壁三歩手前で閃いた。
いや、しかし、それはあまりにも…………。
でも、他に取れる手段は――――
他の手段を無理矢理考える。
37通りの方法を考察して、全部実現性の乏しさに
泣く泣く心ゴミ箱に破棄して捨てた。
【智】
「うわーん!!!」
現実の無情さに、僕は泣いた。
【智】
「というわけで、補欠と交代します」
【花鶏】
「どういうわけなの?」
ベタな返しだ。
【智】
「かくかくしかじか」
ベタっぽく。
便利ワードを使って説明する。
【花鶏】
「わたしは、まだ走れるわ!」
【智】
「予想通り、熱血スポ根モノできたね」
【花鶏】
「前にも言ったはずよ! これはわたしの問題なの。わたしが戦うべきことだわ。ちょっと調子悪くなったくらいで、そんなことくらいで、止められる問題じゃないの!!」
【智】
「これは同盟の問題でもあるから」
感情よりも実利優先で。
【智】
「花鶏ひとりがどうにかすべき問題じゃないし、どうにかしていい問題じゃない。手を繋いでる分リスクも共有してるんだ」
【智】
「僕にだって言う権利はある」
【花鶏】
「…………言ってくれる」
【智】
「矜持(きょうじ)も信念も思想も正しさも、必要なのはそんなものじゃない。勝つこと。僕らが勝つこと。やっつけること。そのためなら僕はなんだってするよ」
【花鶏】
「前向きな卑劣漢はタチが悪い」
【智】
「後ろ向きに卑怯よりは救いがあると思うんだ」
【智】
「1パーセントでも勝率を上げるためには、今は、花鶏が出るよりこっちの方が役に立つ。だから、僕は花鶏を下ろして取っ替える」
【花鶏】
「…………立つの?」
【智】
「…………立つよね?」
怖ず怖ずと。
【惠】
「それなりに」
代走ランナー(予定)の惠は、いつも通りの、本音が読めない
ローテンションで軽く肯く。
【るい】
「ここへ来て傭兵か」
【智】
「逆境の中生き残るには、手段を選べない貧しい国々」
【こより】
「このレース、怖い話ですよ?」
【惠】
「知らなかったな」
【るい】
「いいの、トモチン?」
【智】
「いやあ、正直微妙なんだけど、全然良くないんだけど、
なんといっても選択肢が少ないから、僕たち」
貧困にあえぐ発展途上国くらい
選択できる手段がない。
苦肉の策である。
とにかく、こやつを代走にしなければ、
残るメンバーは文系ソリューション。
【るい】
「なんかすごいよね。進む度にトラブる人生ゲーム級」
【智】
「僕の理想は植物のように穏やかな人生」
【伊代】
「無理だと思うわ」
【花鶏】
「…………わかったわ。でもね、智」
【智】
「はい」
【花鶏】
「これは、ひとつ貸しよ」
【智】
「借りじゃないんだ……」
世知辛い世の中だった。
【智】
「そういえば、これで、せっかくのフレーズがダメになったなあ」
【伊代】
「フレーズって何よ」
【智】
「美少女戦隊」
【こより】
「なんです、それ」
【智】
「僕らは広大なネットの海で、そのように呼ばれ、崇め奉られて
いるのだ」
嘘である。
【花鶏】
「ブルーになるわね、そのタイトルは」
ブルーデーだけに。
【智】
「まったくもって」
前触れもなく。
【惠】
「才野原惠」
名乗る。
名前はとっくに知っている。
あらためての自己紹介は開始の合図だった。
刻限が来た。
夕闇の赤色を、ビル影に抱かれて避けながら、
央輝は冷淡に笑んでいた。
これで状況は、引き返せない折り返し点を過ぎた。
ここから先の結末は二つに一つ。
問答無用な二分法。
勝利か敗北か。全てか無か。中途半端はない。
いよいよ、
レースが始まる――――――
チームは4人。
最初はるい、次は花鶏の予定が惠に。
央輝はメンバー変更による代走を、
くわえタバコでニヤリと笑って許してくれた。
【智】
「あっさりだ」
【央輝】
「メンバー交代を禁止した方がよかったか?」
【智】
「禁止された時にどうやって言いくるめるか、必死に頭を
悩ませてたのに」
【央輝】
「ひゃははっ」
お腹を抱える。
そんなにツボだったのか。
【央輝】
「やっぱり、オマエは怖いモノ知らずだな。この街で、あたしが
なんて呼ばれてるのか、知らないわけじゃないんだろ?」
【智】
「饅頭怖いのは、るいの専売特許で十分。僕は世の中怖いモノ
だらけだよ」
【央輝】
「あたしが見るところ、お前の方がよっぽどたちが悪いな。
知らないから怖がらない頭の悪い馬鹿ってのはいくらもいるが、
知っていて怖れないひねくれ者は滅多にいない」
【智】
「……吸血鬼、だっけ?」
噂をいくつも耳にした。
央輝は夜の闇を住処にする。
央輝に呼び出しを受けた家出娘が、
それきり二度と姿を見せなくなった。
血をすする。
日の光を浴びると死んでしまう。
などなど……。
【智】
「ひと睨みで相手を殺す、とかいうのもあったかな」
邪眼伝説。
正体が吸血鬼なら、殺すんじゃなくて惑わすのでは。
【央輝】
「お前は、本当に、見た目よりずっと面白いヤツだな」
【智】
「そういう言われ方は傷つくかも……」
【央輝】
「気に入ったんだよ」
央輝の爪が、ついっと、僕のあご先を持ち上げる。
白い喉をさらけ出す瞬間、ほんの少しドキリとした。
はたして。
央輝は笑った、
のか、どうなのか、
よくわからない微妙な表情。
間近にいる央輝は小さく細い。
ガラス細工のように儚く映る。
なのに、二歩離れれば尖った威圧感が肌を刺す。
【央輝】
「時間が来る。はじまる。そうしたら――」
今度は、はっきりと笑った。
獰猛に。
【央輝】
「お前は、すぐに、あたしのモノだ」
伊代たちは、ここで待機する。
央輝がナシをつけている、
会員制クラブかなにか、それらしい場所だった。
こういう場所、今まで入ったこと無いから
よくわからないけど、なかなかに高級そう。
【智】
「高いんだろうね、こういう場所だと……」
【伊代】
「さあ?」
こっちも、こういうところは初心(うぶ)だ。
【伊代】
「それで、あなたたちは……」
【智】
「もうすぐ、それぞれのスタートのポイントに行きます」
各ランナーのスタートするポイントは、
当然ながら、街中に散っている。
【智】
「心配しなくても、最初はるいだから、ランナーとしてのスペックは圧勝してるはず」
【伊代】
「じゃあ、勝てる?」
【智】
「……マシンの性能差が戦力の決定的差ではないことを教えてやる」
【伊代】
「教えてどうするのよ」
【こより】
「こわいッス〜〜〜〜〜」
背中にしがみついてきた。
【智】
「覚悟だ、覚悟があれば超えられる」
【智】
「あとね、それから……」
【伊代】
「まだなにか? 貴方もそろそろ行くんでしょ」
【智】
「今日、ここに来る前にした相談、覚えてる?」
【伊代】
「相談……」
【智】
「忘れてる」
【花鶏】
「仕掛けの話ね……」
ソファーを借りて横になったまま花鶏が呻く。
【伊代】
「ああっ!」
来る前に相談しておいた。
央輝と、茜子の父親が砂をかけた相手との力関係は、
正直よくわからない。
今回のゲームでチャラにできるからには、
隅に置けない関係があるのは間違いないんだけど。
でも、ただのレースじゃない。
たちの悪いギャンブルでもあった。
レースの勝敗に賭けがされていて、お金が動く。
かなりの額だ。
面子とお金。
危険な代物だ。
命より重くなったりもする。
そんなものが二つもそろって、
正々堂々と勝負をしてくれるのを信じるほどには、
僕は素直になれない。
【伊代】
「でも、まさか……」
【智】
「伊代ちゃんのお人好し」
【智】
「オッズは見た?」
【伊代】
「どうなの?」
【智】
「そりゃもう大穴ですよ」
レースに参加するのは、
僕らのチームと相手のチームの二つだけだ。
相手は何度もレース経験のある玄人さん。
こちらは素人もど素人。
しかも美少女軍団だ。
【智】
「女の子ばっかで侮ってるだろうけど、るいが飛ばして慌てるはず」
るいちゃん、無敵超人だから。
うむむ、オーダーを間違ったかなぁ……。
妨害ありのハードなゲームだ。
切り札を先に切ったのは、
最初に差を広げておきたかったからだ。
接戦になるのはよろしくない。
花鶏はともかく、こよりはマズイ。
走るならまだしも、潰し合いになると、ボロが出る。
なので、我らが美少女軍団チームの戦略は、
先行逃げ切りを重視した。
その分、手の内を早くにさらけ出してしまう。
ギリギリまで実力を隠しておいて、
ラスト2ページの見開きで大逆転という、
少年漫画な展開は難しい。
なにせ美少女軍団チームはインスタントだ。
経験値ないし、チームワークもいまいち。
【智】
「うわあ」
【こより】
「なんか絶望の声が」
【智】
「こんな勝負に勝つ気で挑んだ自分の無謀さに、
今更ながらにびびってるところ!」
【こより】
「ほんといまさらダー」
投げやりなテンションだった。
【こより】
「もはや勝負ははじまっておるです。かくなる上は一億総玉砕あるのみ!」
こよりんにスイッチが入る。燃えていた。
燃え尽きる前のロウソクのように。
【智】
「おお、昨日しゃっぽを脱いで逃走したマンモーニ(ママっこ)とはひと味もふた味も違う頼もしいお言葉。背負った子に教わるとはまさにこのこと」
【こより】
「ふふふふ、女子三日あわざれば刮目せよなのです」
【智】
「一日も経ってないけどね」
央輝がやってきた。
指を鳴らして仲間を呼ぶ。
そいつが持ってきたシティマップが、
僕らにも手渡される。
【るい】
「こいつはなんじゃんよ」
【智】
「マップですよ、皆元さん」
【るい】
「見ればわかるっす」
【央輝】
「今回のマップだ」
【智】
「地図は前にももらわなかったっけ?」
【央輝】
「コレは現場で使う用だ」
【智】
「赤の○がチェックポイントで、こっちの☆印が交代地点ってわけ?」
【るい】
「なるほどー」
いよいよ伸るか反るか。
身売りの運命が決定される。
【智】
「実は、僕、ギャンブルって得意じゃないんだよね」
【るい】
「ほほう、女は飲む撃つ買うじゃろー」
【智】
「……何を買うのよ」
意味知ってて言ってるのか。
【るい】
「えとー、巫女ーお茶の間ショッピング……?」
【智】
「なによ、そのフェチっぽいテレビシリーズ」
【茜子】
「るいさん世界は平和です」
【花鶏】
「……ギャンブルが嫌いなくせに、
渡る橋はずいぶんと危ないところばかりなのね」
花鶏は濡れタオルを額にソファーに伏せっている。
【智】
「病人のくせにアトリンが虐める」
【こより】
「おー、よしよし」
【伊代】
「……不思議だ」
【るい】
「なにが?」
【伊代】
「イヤ、アレが唸ってるのに、貴方が静かなんて」
【るい】
「私、弱いものイジメはしない主義」
胸をはる。
揺らす。
【花鶏】
「……二重にむかつくわ」
そうだろう、そうだろう。
【伊代】
「あのね、あなたたち、状況わかってるの? 緊張感持たないと、どうなっても知らないわよ!」
伊代の眼鏡がキラリと光る。
逆光で下が見えないあたり、演出過多だ。
【智】
「座の空気を和らげようと、ねー」
【こより】
「ねー」
こよりと手を繋ぐ。
【智】
「それはともかくとして」
【智】
「本音をいうと、僕は勝つのが好きなんです。勝利の味をしゃぶり尽くしたいんです。1階でLVあげて、ニンジャにクラスチェンジしてゴブリン倒すとか、そういう感じの」
【智】
「圧倒的な力と陰湿な策略で、よわっちー虫けらを高笑いしながらぷちっとか、特に好き」
【こより】
「わりと最低だ、このひと」
【茜子】
「美少女軍団一番の小者は、一番手でがんばってください」
【智】
「心温まる励ましありがとう。でもアンカー」
【智】
「それで質問なんですが、央輝さん」
細々と指示を出していた央輝が振り向く。
【央輝】
「なんだ」
【智】
「スタートは同じで、ポイント通ればコースは自由。
さてここで問題です」
【智】
「……邪魔OKってことだけど、いつもはどれくらい邪魔するの?」
【央輝】
「ルールブックは読み込んだか?」
【智】
「ルールブック? ああ、あのミニコミ誌。保険の契約書くらいのつもりで読みました、読み込みました。あんまり細かい説明してなかったけど」
【央輝】
「イイコトを教えてやる」
ちょいちょいと指で呼ばれた。
【央輝】
「あたしは血を見るのが好きなんだ」
唇が耳まで裂けた、気がした。
【智】
「最悪だ」
がっくり膝から崩れる。
冗談ならタチが悪いし、本気なら始末に悪い。
【央輝】
「せいぜいあがけよ。ルートは自由でも最短のコース取りは限られる。どうやったって、一度や二度はぶつかることになるからな」
【央輝】
「地図見たくらいじゃ、最短ラインなんてわからんだろうがな。
こればっかりは経験が物を言う」
【智】
「大層なハンデだなあ」
【央輝】
「元々そういう賭けだ。勝てば借りがチャラになる。なら、
多少不利なのは当たり前だろうが」
【智】
「経験値の高い方が勝つ、ですか」
概ね正しい。
強いて、あと一つ勝つために必須なものをあげるとすると。
【智】
「面の皮の厚さかな」
【こより】
「?」
ランナーの各所定位置への配置予定時刻になった。
チェックポイントに移動する。
【智】
「それじゃあ、後で」
【花鶏】
「勝った後で……」
【るい】
「先のことはわかんない」
【智】
「大変そうだなあ」
【こより】
「悩みを捨て去る、あんイズム! 鳴滝のオススメですよう!」
【伊代】
「気楽なのね」
【智】
「深刻よりいいと思うよ」
【惠】
「面白いね。やっぱり、君は」
【茜子】
「…………」
悲喜こもごも。
美少女軍団プラス1。
この期に及んでも、団結はいまいち。
【伊代】
「ホントに行っちゃった」
【花鶏】
「こっちは3人で居残りか……」
【茜子】
「残りものには福があるそうです」
【花鶏】
「土壇場で、こんな屈辱っ」
【伊代】
「……出たかったの?」
【花鶏】
「当たり前でしょ! わたしの問題なのよ。それを、他人に取って代わられる口惜しさ、貴方にはわからないでしょうね」
【伊代】
「……怖くないの?」
【花鶏】
「こわい?」
【伊代】
「レースもそう、黒いヤツの仲間連中もそう……
街で最初に追いかけられたとき、わたしはすごく怖かった」
【伊代】
「どんなバカなことだって起こるんだって思ってたのに、いざとなったら身動きひとつできないくらい震えが来たのよ。あなた、本当によくやるわ」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「負けるのはごめんだわ」
【伊代】
「あなたとか、あの体力バカとかなら、それでいいんでしょうね。でも……わたしは違う。わたしは普通よ。怖くてできない」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「普通なら、さっさと別れればよかったのよ。今からだって遅くはないわ、見捨てて逃げ出せばいい。高笑いして見送ってあげるから」
【花鶏】
「普通だなんていってるくせに、のこのこついてくるのは
どういうつもりかしら」
【伊代】
「……手を引くなんてできないわ」
【花鶏】
「それなら諦めるのね。逃げ出すこともできない、覚悟もない。
意味のない後悔を延々繰り返すくらいなら、逃げる方がまだ潔い」
【花鶏】
「………………ぷはぁっ」
【花鶏】
「話すぎたわ。頭痛がぶり返した」
【茜子】
「自爆マニアめ」
【伊代】
「………………」
【伊代】
「それにしても、ここは、いかがわしいお店ね」
【伊代】
「繁華街の奥のお店とは」
【花鶏】
「尹の関係のお店で、今日はメンバーシップオンリーらしいわ……」
【伊代】
「……お店って、あの子、わたしたちとたいして歳も変わらない筈なのに、いったいどんなことやってるのよ」
【茜子】
「秘密がムゲン」
【花鶏】
「ちょっとは落ち着きなさいよ。
貧乏揺すり、鬱陶しいし響くから……」
【伊代】
「わたし、こういうお店ははじめてなのよ……」
【花鶏】
「よかったわね、経験できて」
【伊代】
「そんな経験、ちっとも……っ」
【花鶏】
「だから少し静かにしてちょうだい、頭に響く……」
【伊代】
「あ、その、ごめんなさい……」
【茜子】
「お水です」
【花鶏】
「спасибо(ありがとう)」
【茜子】
「他の人たちはどうなってますか?」
【伊代】
「なによそれ」
【花鶏】
「ノートPC。わたしのよ。
ここで繋げば見れるってきいたから持ってきた」
【茜子】
「映像きちゃないですね」
【花鶏】
「ネット配信用にビットレート下げてるし。見てると頭イタイし、管理はあなたたちに任すわ」
【茜子】
「映りました。ちゃんと顔はわかりますね」
【伊代】
「あの子…………」
【茜子】
「…………トモ・ザ・アホーは今世紀決定版バカです」
【伊代】
「でもあの子、成績は悪くないらしいわよ。わりと名門通ってるし」
【茜子】
「はい生理痛、ツッコミどうぞ」
【伊代】
「え?」
【花鶏】
「誰かこのメガネを黙らせろ……」
【伊代】
「減らず口だけは、どこまでも元気なのね、あなた」
【茜子】
「世の中で一番大事なモノはなんだと思います?」
【花鶏】
「誇り」
【伊代】
「……正しさ」
【茜子】
「ブッブーです。正解は利害」
【茜子】
「私は知ってます。誰だってそうなんです。それに色々な名前を付けてごまかしたりするけれど、それは得か損かっていうそれだけです」
【茜子】
「家族も夫婦もラバーズもフレンズも、赤の他人同士となにも変わりません」
【茜子】
「私たちだって利害で結ばれてます」
【茜子】
「誰だって、いざとなったら逃げ出します」
【茜子】
「親子だって、手に余ったら手を切るんです」
【伊代】
「そんな……」
【茜子】
「魔女だって、言われたことはありますか?」
【伊代】
「な、何よそれ、ひどい!!」
【茜子】
「ひどくないです」
【茜子】
「猫は猫です。犬と狼は似てても違うものなんです。
魔女はやっぱり魔女です。魔女に向かって魔女というのは
酷くも何でもないです」
【茜子】
「そうじゃないですか?」
【伊代】
「……自分をそういうふうに言わないで」
【茜子】
「私のこと、何も知らないくせに。
そんなふうに言うのはやめてください」
【伊代】
「…………っ」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「そうよ、そうよね。わかってる。ほんとは、あなたのことなんて何も知らない。でもね、知らないのが当たり前よ。他人のことなんてわからないんだから」
【茜子】
「まあ、当たり前はそうですね」
【伊代】
「何を考えてるのかわからない。基準もない。誰も何も正しくない。今は良くても、明日には変わってしまうかも知れない」
【伊代】
「誰のこともわからない、先のこともわからない、なにもどれも
わからない。世の中なんてわからないことだらけ」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「今の白鞘は、悪くないわよ」
【伊代】
「……わからないことだらけなのに、誰も守ってくれない」
【伊代】
「だから、自分のことは自分でしなくちゃ、自分で守らなくちゃ。世界も社会も他人もなにも、どうせわかりっこないんだから、
自分を守るのは自分だけよ」
【伊代】
「………………」
【伊代】
「……なんで……なんだろう、なんでそうなってるんだろ」
【伊代】
「バカは損するようになってるのよ。厄介を自分で背負い込んで
足をすべらせるような子は、遅かれ早かれ世間の荒波に揉まれて死ぬわ」
【茜子】
「特に、自分が頭良いとか思ってるヤツに限って、特大級の
墓穴っちですね」
【花鶏】
「思うに」
【花鶏】
「やっぱり一番頭悪いのは智ね」
【花鶏】
「自分からしゃしゃり出てきて穴に入るんだから」
【伊代】
「……賛成」
【茜子】
「異議無し」
【伊代】
「要領悪いのよ、きっと」
【茜子】
「頭の容量足りてないだけだと思います」
【智】
「っくしゅん」
不意にくしゃみをする。
自分のスタートポイントで配置についている。
僕の競争パートナー、敵チームの最終走者は、
なんと央輝だった。
敵チームが、実は央輝のチームだと教わったのは、
今日になってからだ。
【央輝】
「走る前から風邪か? 倒れたらそんときは、お前の明日は
うるわしの生活だぜ」
空を仰いで、げっそり。
【智】
「麗しくない麗しくない。人は奴隷として生きるにあらず。
荒野にボロ着でも自由に生きたい」
【央輝】
「はっ」
すがめた目が見下げ果てていた。
【央輝】
「明日食うものの心配もしなくてすむ連中の戯れ言だ、そんなのはな。首輪よりも自由がいい、心に錦で肩で風切って生きていくか」
冷たい敵意の刃先が鋭い。
【央輝】
「冷たい雨に打たれながら眠ったことは? 三日ぶりの晩飯代わりに大きなネズミをかじったことは?」
【央輝】
「水の代わりに泥を啜って這い回ったことは? 一枚の硬貨のために血塗れになって争ったことは?」
【央輝】
「何もかも捨ててもどうにもならない、死んだ方がいいって本当に心から思ったことは、お前、あるか?」
【央輝】
「自由と鎖を秤にかけるのは、秤に両方が乗る場合だけだ」
【智】
「……キミは、ある?」
【央輝】
「さあな」
央輝が口元を歪める。
笑いと呼ぶには空っぽで、酷く虚無的だった。
【央輝】
「ヨタ話をしてていいのか。ほら、スタートだ。見てみろよ。
はじまったぞ」
すぐ間近に路駐されてるバンの中。
央輝の仲間がノートPCをガチガチやっている。
モニターにネットからの映像が映っている。
【智】
「るい……」
ファーストランナーはスタートを切っていた。
画像の中で、るいが疾走している。
最初から飛ばしているようだ。
るいの姿は、あっというまにカメラの視野から消えてなくなった。
【伊代】
「見てみて、ほら見て、さっき映ったわ。ほらほらこれこれ!」
【茜子】
「すごくうるさいです」
【花鶏】
「見てるわよ。子供じゃあるまいし、はしゃぎ過ぎだわ。
大声出さないでくれる、頭に響くっていったでしょ……」
【伊代】
「う……ごめん……」
【伊代】
「そ、その、薬は飲んだの……?」
【花鶏】
「ちゃんと飲んだわよ。そのうち落ち着く」
【伊代】
「あなたもこっちで座ればいいのに」
【茜子】
「狭いです」
【伊代】
「二人くらい大丈夫でしょ」
【茜子】
「いやらしい」
【伊代】
「な、なにいってんの、その子じゃないんだから!」
【花鶏】
「ダイエットしないと駄目なんじゃない?」
【伊代】
「……ダイエットならしてるわよ!
わたしくらいの体型で○×キロなら普通でしょ!!」
【花鶏】
「○×!?」
【茜子】
「……普通じゃない」
【伊代】
「え、うそ!??」
【花鶏】
「普通じゃないわ」
【伊代】
「で、でも、わたし……違う、そんなに太ってない……」
【茜子】
「世界の終わり〜♪」
【伊代】
「きゃ、うひゃひゃひゃ、どこサワってんの?!」
【花鶏】
「……エアバッグが重すぎるみたいね」
【伊代】
「だ、だれがエアバッグか」
【茜子】
「また映った」
【伊代】
「どれ……あの子ったら……」
【花鶏】
「……無駄に元気そうね」
【るい】
「だっしゃー」
【るい】
「つかさ、いったいどこが最短コースだったっけ。
トモはたしかこっちって」
【るい】
「おお、そうそう。ここのビルに入って一気に階段を駆け上がって」
【るい】
「フロアに出て3つ目の扉をくぐって」
【OLの京子さん】
「いらっしゃいませ。お客様はどちらから、」
【るい】
「あー、平気平気ちょっとごめんくらさい」
【OLの京子さん】
「あ、あの、お客様、そちらは窓しか」
【るい】
「よっこらしょ」
【OLの京子さん】
「お、おきゃくさまぁっ、ここは5階で!?」
【京子さんの上司】
「おーい、京子君。ちょっとお茶貰える?」
【るい】
「うわ、こりゃひどいや。つか足場もあんなんだし。下見に来たときに言ってやればよかったな。なんでこういう高くてヤバイとこ通らせるのかな、うちのトモちんは」
【OLの京子さん】
「おおおおおおおお、おきゃくさまあ!?」
【るい】
「せーの」
【OLの京子さん】
「わー!」
【るい】
「わーーーーーい」
【OLの京子さん】
「と、とんだ……?」
【智】
「また映った」
【央輝】
「今回はえらくカメラのあるところ通らないな」
【央輝】
「それにしてもいい勝負じゃないか。どういうルートだったのかわからないが。たしかに手札の一つや二つ仕込みもしないで勝負は受けないってわけか」
ご名算。
用意したのは、るい用の特別ルート。
ビルの上からちょっとショートカットするコース。
【央輝】
「うちの連中はゲームに慣れてる。コースだって勝手知ったる自分の庭だ。あの女がいくらゴリラでもそう簡単にはいかないと思ったが」
【智】
「るいちゃん、最終兵器乙女だかんね」
ビルからビルをひとっ跳び。
ハイジャンプは経験済みなのだ。
【智】
「ゴリラなんて聞いたら怒るだろうなあ」
【智】
「おわ、ハイジャンプ!」
なに今のものすごいのっ!?
カメラ正面だし。
揺れたし回っちゃってます。
【智】
「だからあれほどヒモ太ブラを着けろと……ッッ」
あれ……?
下着は昨日洗濯機してた。
しばらく花鶏の家に泊まり込んでるし、
洗濯当番は僕だったから覚えてる。
ブラっとしたやつの代わりは
持ってなかったような。
洗ったヤツを出した覚えはありません。
(※洗濯当番は僕です、常に)
もしかしてノーブラ!?
なんという神の領域。
【央輝】
「なにやってんだ、お前は?」
【智】
「いやその、ちょっと今まずいので……」
もじもじと。
主に身体の一部分がマズイです。
【央輝】
「得難いコース取りをしやがるな」
【智】
「乙女兵器特設コースはちょっとシャレがききませんよ」
常人には高確率で無理だ。
【智】
「妨害って直接殴ったりは禁止なんだよね」
【央輝】
「ゲームだからな。血を見るのは結構だが、ただの殴り合いになるなら最初からそうする」
サドっぽく笑われた。
【央輝】
「ヤバイ連中が多いから、どうかするとどうかなるが、そういうのも盛り上げにはちょうどいい」
【智】
「できれば遠慮したいナー」
【央輝】
「怪我をさせたらペナルティーだ、一応な」
ものすごくどうでもよさそうに。
【智】
「美少女軍団なんだから加減してよ……」
【央輝】
「この国には男女平等ってのがあるんだろ」
いよいよどっちでも良さそうに耳をほじる。
【智】
「時には思いだそう古き良き時代のレトロな文化」
【央輝】
「このままじゃ、追いつけないな」
【智】
「あ、ゴミ箱ぶつけた!?」
相手の方が、だ。
るいがゴミまみれ。
【央輝】
「挑発して心理的に追い詰める手だ」
【智】
「……武器はありなんだっけ、説明だとかなり曖昧に書いてあったけど?」
【央輝】
「たまたま持っていたビールビン、たまたま落ちていたゴミ箱、
たまたま近くにあったプラカード、更には相手がしていた
ネクタイ……」
【智】
「いやいやいやいや」
全力で否定。
【央輝】
「おいおい、お前の仲間、足が止まってるぞ?」
るいが固まっていた。
【智】
「こりはヤバイかも」
ぷち、とかいう音がモニターごしに聞こえる。
【るい】
「たまたま落ちていた、」
【るい】
「120ccのバイクーッッ!!!!!」
【智】
「…………」
【央輝】
「…………」
【智】
「……たまたまってことでいい?」
【伊代】
「……あれ、落ちてたっていうの?」
【花鶏】
「駐車してあったのよ」
【茜子】
「ぐろ」
【花鶏】
「なんて泥臭い」
【茜子】
「泥臭いというよりもきっとゴミ臭いです、反吐のように」
【伊代】
「さすがにこれはペナルティーなんじゃ……」
【茜子】
「直接攻撃してないからセーフで」
【伊代】
「……いいのかおい」
【央輝】
「どのあたりが美少女軍団だ」
ぼそっと。
【智】
「………………見た目?」
異論は認める。
【央輝】
「本物のゴリラかアレは」
【智】
「ゴリラよりはレア度が高いと思います」
あっちも絶滅危惧種だけど。
【智】
「あれ、そっちのヤツ起き上がった。元気だなぁ。やっぱり倒れた」
【央輝】
「避けたときに捻ったか何かだな。あのゴリラも、直接ぶちあてなかっただけ、加減はしたらしいな」
【智】
「るいちゃんにも理性はありました」
なけなしですが。
それにしたって。
本当に頑張ってくれている。
るいには意味がないことなのに。
同盟だ。
名前を付けて結びつく。
そうでなければ結びつけない。
なぜなら。
秘密があるから。
呪い――。
【智】
「でも、利害は」
なくても。
きっと、るいは走る。
理屈を抜きにして。
【るい】
「ぶえっくしゅん」
【るい】
「うぐ、ぐす」
【るい】
「風邪かなあ」
【智】
「るいって、ホントにバカだねぇ」
今、僕はとても楽しい。
【伊代】
「体力屋、随分頑張るわね」
【花鶏】
「脳まで筋肉細胞でできてるせいじゃないかしら」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「……?」
【伊代】
「……ナプキン貸そうか?」
【花鶏】
「誰がそういう話をしてるの!」
【伊代】
「あ、でも、なんか難しい顔してたから……」
【花鶏】
「ちょっと気にかかることがあっただけ」
【伊代】
「病人は頭使わず大人しくしてたほうがいいわよ?」
【花鶏】
「大人しくしてられるわけないでしょうに。
何度も言ってるでしょう。これは元々わたしの問題なのよ」
【るい】
「ターッチ」
【惠】
「たしかに」
【るい】
「それから一言言っとくけど」
【るい】
「私、まだそっちを信用したわけじゃないから」
【惠】
「負けるためにここにいると?
僕が、央輝のスパイだって言いたいわけだ」
【るい】
「みんないっぱいがんばってる」
【るい】
「私バカだから、そっちが何考えてるのかなんてわかんない。
けど――」
【惠】
「怖い顔だ。キミは本当に獣のようだね。優しく、鋭くて、純粋で」
【惠】
「指切りをしようか?」
【るい】
「指切り嫌いだから」
【惠】
「安心するといいよ。僕は、彼女とは友達以上になりたいんだ」
【央輝】
「二番手が出たぞ。ふん、そっちがリードしてやがる」
モニターは惠の俯瞰を映している。
一番手は予想以上に上手くいった。
問題はここから。
急あつらえのピンチヒッター。
ろくな仕込みもしていない。
【智】
「あーうー」
策士、策がなければただの人。
【惠】
「どうかな」
【惠】
「…………」
【惠】
「さすがに央輝の仲間だけのことはある。予想より早くついてくる。これだと、そのうち並ばれるかもしれないな」
【惠】
「いや、運命ほどには早くないかな」
【惠】
「君が、僕に付いてこれるといいが」
【伊代】
「え、今どっから出たの?」
【茜子】
「代理の変態生物……善戦、してますね」
【伊代】
「変態は、ないんじゃない」
【茜子】
「そうですね。では、変質者生物くらいで」
【伊代】
「生物つけても柔らかくなってない」
【花鶏】
「うー、またあだまがいだい…………」
【智】
「……そっちと知り合いだったよね」
【央輝】
「才野原か、ああ、多少は付き合いがある」
【智】
「聞いていい?」
【央輝】
「いけ好かないが役に立つ……そういうやつだ。それ以上は知ったこっちゃない」
【央輝】
「世の中の人間には三種類ある。役に立つヤツと、立たないヤツと、邪魔なヤツだ」
【央輝】
「邪魔なヤツは敵だ、敵は殺す」
首の後ろがちりつく。
むき出しの殺意。
刃物の鋭利ではなく、それは牙だ。
やわらかな喉に噛みつき引き裂くための。
【央輝】
「……お前、本当に妙なヤツだな」
【智】
「何が?」
【央輝】
「お前はそっち側の人間だ。わかるだろ。お前はこっちにはいない」
【央輝】
「誰だって赤い血の流れる同じ人間……なんてお題目があるが、
嘘っぱちだ。線があるんだよ。そっちとこっちは違うんだ」
【央輝】
「見えない、だが、深く、はっきりとした。境目だ。犬と狼の。
どんなにでかくなったって犬は犬、首輪を付けても狼は犬には
なれない」
【央輝】
「お前は犬っころだ、ただの犬っころだ。なのに、面白い。
どこにでもいる犬っころとは違う」
【央輝】
「最初に会ったときからそうだった。へらへらしやがって」
【智】
「……へらへらとは、酷いおっしゃりよう……」
【央輝】
「それなのに、壊れない」
帽子の下からのぞく、央輝の目が細くなる。
【央輝】
「普通のヤツはビビるんだ。あたしの近くに来ればな。犬だって
鼻が利く、自分の持ってない牙と爪がある相手のことは黙って
たってわかる」
【央輝】
「お前はしぶとい、腹が据わってやがる」
【央輝】
「どうして怖がらない?」
【智】
「……央輝を……?」
【央輝】
「他のことも全部ひっくるめて、だ」
鼻の頭が触れるほど間近に来た。
頭の上を見下ろせるほど小柄な尹。
ほとんど物理的な圧力が吹き付けてくる。
央輝が身につけている息苦しいほどの剣呑さは、
血の匂いをイメージさせる。
奇しくも彼女自身が言葉にしたように。
犬と狼。
悲劇的にステージが異なっている。
【智】
「買いかぶらないでよ。怖いにきまってるんだから、当たり前に。こういうのは虚勢っていうの」
【央輝】
「そうだな。確かにお前は怖がってないわけじゃない、そのあたりは人並みだ」
【智】
「……わかる……?」
【央輝】
「鼻が利くんだよ、狼だからな」
【央輝】
「お前が知ってるのは耐える術だ。しぶとく、頑丈に、壊れることなく、生き延びるための知恵だ」
【智】
「…………」
【央輝】
「誉めてるんだぜ?」
悪い大人のような、濁った笑い。
【智】
「ありがと」
誉められたので、お礼を言う。
知恵。
知っているのは、ささやかなこと。
諦めという名の知恵。
日々が不安定だという事実を納得する諦観。
偶然が支配する。
この世界のどんなものをも支配するのは、空の上にいて見えない誰かの寝ぼけ眼な思いつきで、汗水たらした努力も日々磨き抜いた叡(えい)智(ち)も、無意味に無情に押し流してしまう。
すぐ足下に恐怖があること。
それを知っているから。
耐えられる。
【智】
「…………それよりゲームは?」
話題を引き戻す。
【央輝】
「お楽しみだ」
【伊代】
「あいつ、中々カメラの範囲にでてこないわ」
【茜子】
「それはどういうことですか」
【伊代】
「コース取りが変なんだと思うけど」
【茜子】
「映った」
【花鶏】
「さっきより差が詰まってるわね……」
【茜子】
「それでもまだリードしてます」
【惠】
「…………」
【通行人】
「あ、なんだ、このやろうっ。
いきなり走ってきてぶつかりやがって!」
【寡黙な会社員】
「……」
【2年目のOL】
「きゃー、いたーい!」
【酒屋の店主】
「おまえ、ちょっと待てぇ!」
【惠】
「今日も騒がしいね」
惠のリードが詰まっていく。
【央輝】
「経験値の差がものをいってるってわけだ」
【智】
「そっちのひとは慣れてるんだっけ」
【央輝】
「ゲームの経験が豊富だからな。が、才野原のやつも予想以上だ。土地に詳しい。こっちの知らない妙な抜け道を幾つも使ってるようだ」
モニターに惠の姿。
雑踏を流れに逆らって突き抜ける。
予想外なことにリードしていた。
距離は小さいが、一度も抜かれていない。
【智】
「…………っ」
繁華街の人混みを横断し、
ビルの中をくぐり抜け、赤信号を飛び越える。
頑張って頑張って頑張って。
声援を送る。
予定は全部狂う。
計画は破れる、予告は失われる、未来は変わる。
ただの一つも叶わない思惑。
どれだけ賢しく小細工を弄しても、世界は罠を飛びこえて、
後ろから急所を刺しにやってくる。
偶然と呪いでできた、この小さくて醜い世界に生きる、
僕らの持つ知恵の限界。
それを日々思い知りながら。
【智】
「…………頑張って…………」
信じていいのか?
言葉よりもずっと難しい。
信頼、友情、絆。
世間的に尊ばれる無私の絆。
言葉にすれば希薄になって消えてしまいそうになる。
本当は、誰も信じられない。
信じることは、命を落とすこと、だから。
【智】
「や……っ!?」
【伊代】
「……このまま勝ってくれる? 信じていいの?」
【茜子】
「人の善意を鵜呑みにすると足下すくわれます」
【伊代】
「そうね、そうだと思う。でも……だから……それでも正しい事っていうのは、人の中にしかないんだと思う……」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「あー、頭痛い…………」
【伊代】
「お?」
【智】
「止まった!?」
惠が動かない。
【智】
「ゴールはすぐそこなのに!」
【央輝】
「…………」
後ろから追いついてくる。
まずい。
こよりにはリードが必要なのに。
ちっちゃなウサギがチームの一番の弱点だ。
惠……。
【伊代】
「……ッ!」
【茜子】
「動きませんね」
【伊代】
「まさか、そんなの、ここまできて!」
【花鶏】
「…………」
【惠】
「…………」
【尹チームの二番手】
「――――――っ」
【尹チームの二番手】
「ぬぐぁっ!?」
【智】
「……ッッ」
蹴った!?
たまたま落ちていた(?)
看板を蹴って吹っ飛ばした。
相手を坂道の下までたたき落とす。
【花鶏】
「思いの外過激なヤツだったわけね…………」
【伊代】
「ちょ、あーいうのはありなわけっ!?」
【茜子】
「直接攻撃じゃないので、ルール的にはオッケーです」
【伊代】
「乳ゴリラといい、あいつといい……
き、禁止されてなきゃ正しいってわけじゃないんだから」
【茜子】
「勝てば官軍」
【央輝】
「…………武闘派だな」
呆れていた。
【智】
「ごめんなさい」
這い蹲りそうな勢いで。
美少女軍団、名前負け……。
【智】
「ルール的には……?」
るいのやったのより、ボーダーなんじゃ。
【央輝】
「盛り上がってるな」
【智】
「なにが……?」
【央輝】
「オッズ」
パルクールレースは賭けの対象にされている。
最終的な勝敗の他に、各プレイヤーのトリックや、
区間での勝敗などにも賭けがある。
らしい。
【智】
「盛り上がってるから問題なし?」
【央輝】
「今のところは」
【央輝】
「これで、またお前たちがリードした」
【智】
「余裕あるね、二連戦で負けてるのに」
【央輝】
「それくらいはハンデにくれてやる」
戯れるように鼻をつままれた。
【央輝】
「お前たちこそ大丈夫か? 三番手はネックなんだろ」
見抜かれる。
【智】
「あれでも、うち一番の逃げ上手なんだよ」
【央輝】
「勝負でモノを言うのは力や技術より先に、気合いだ」
【智】
「少年漫画みたいなことを」
【央輝】
「意志だ。力も技術も、意志がなければなにもならない。
泳げるやつでも手を動かさなければ沈んでいく」
央輝がつまらなそうに吐き捨てる。
精神力は最初の前提だ。
愛と勇気と根性でラスボスは倒せないが、
愛と勇気と根性がなければ冒険の旅に出られない。
【央輝】
「追い詰められたのが犬なら戦えるが、ウサギはどうだろうな。
逃げるだけのウサギは、エサだな」
ウサちゃん……。
【央輝】
「武闘派美少女軍団か」
【央輝】
「面白みはあるな。
いいさ、あたしが勝ったら、せいぜい上手く使ってやる」
【智】
「ひとつだけお願いが……」
【央輝】
「言ってみろ」
【智】
「武闘派美少女軍団っていう、泥臭い名前、なんとかならない
かしら……?」
【央輝】
「ならない」
【惠】
「あとは任せるよ」
【こより】
「ひゃう〜」
【惠】
「君は自分のできることを果たせばいい。僕がそうしたように」
【こより】
「あー、うー、たー」
【こより】
「と、とりあえず、こより行きます……」
【こより】
「いー、うー」
【こより】
「あ〜〜〜〜! やっぱり、こういうの、こよりには向かないですです……」
【こより】
「王子様王子様……」
【こより】
「どうかわたしを守ってください。か弱いこよりを地獄の黙示録に放り込んじゃったりする血も涙もないセンパイめに、どうか天の裁きをお下しください〜(>_<)」
【こより】
「にゃわ〜〜〜」
【こより】
「このまま最後まで何事もありませんよーにー」
【伊代】
「さっきからキョロキョロしてどうしたのよ。病人は大人しくって何度……そ、それとも頭痛がひどいの?」
【花鶏】
「妙な連中がこっちを見てたわ……」
【伊代】
「それは妙な連中くらい掃いて捨てるくらいいるでしょうよ。
わたしたち、妙な連中のまっただ中にいるんだし」
【伊代】
「それに、どちらかっていったら、わたしたちの方がここだと
目立つんじゃない? 制服なのよ、しかも、」
【茜子】
「美少女軍団」
【伊代】
「いやな名前ね」
【花鶏】
「さっきから3回も、こっちを……」
【伊代】
「興味本位じゃないの、目立ってるんだから」
【花鶏】
「智が言ったこと、もう忘れたの?」
【伊代】
「あ、で、でも、だからって……」
【花鶏】
「……智に連絡は?」
【茜子】
「つきません。ランナーは携帯持ってませんから」
【花鶏】
「こういうのは智の領分でしょうに……」
【茜子】
「どいつなのですか?」
【花鶏】
「あいつ」
【茜子】
「そんなに?」
【花鶏】
「わからないわ。女の勘よ」
【花鶏】
「でも、こんなところで台無しにされたくない」
【茜子】
「台無し」
【茜子】
「…………皆、がんばっていますよね」
【花鶏】
「自分のことだからよ」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「どうかしたの、あなた?」
【茜子】
「行ってきます」
【伊代】
「ちょ、なにするつもりなの!?」
【茜子】
「確かめてきます」
【伊代】
「なに危ないことしようとしてるの! それに、あなたが行って
どうにかなるもんじゃないでしょう!!」
【茜子】
「……なります」
【伊代】
「な、なにいってんの」
【茜子】
「これは元々私のことです。そこの白髪の言う通りです、
なにもせずに結果だけ受け取るわけにはいきません」
【茜子】
「ある阿呆がいいました。私たちは同盟だって」
【茜子】
「利害の一致だ、力を合わせる」
【茜子】
「手を出された分だけ手を貸し付けます。無担保貸し付けは
ノーセンキューです。私たちは五分と五分ですから」
【花鶏】
「いい覚悟ね。そういうの素敵だと思う」
【伊代】
「で、でも、その、どうやって……」
【茜子】
「大丈夫」
【花鶏】
「なにをするの?」
【茜子】
「魔法を使います、魔女だけに」
【伊代】
「魔法……?」
【茜子】
「呪文はパピプペポ多めで」
【智】
「よい感じでリードが広がってるけど、いいの」
こよりがバタバタと踏ん張っている。
【央輝】
「ここまで競るとはな」
【智】
「手段を選ばず勝ってますから」
問題は我らが三番手。
こよりはプレッシャーに弱い。
接戦になったらまずかった。
先にどれだけリードを開けられるか。
惠に助けられた。
暴力勝ちだったけど……。
【智】
「…………にょほ」
惠が真剣に助けてくれたことが、
ちょっと嬉しい。
【智】
「あの告白だけなんとかなってくれれば……」
人生とはままならない。
【央輝】
「最後までこのままいけばな」
手慰みか、ライターを擦る。
【智】
「どういう意味?」
【央輝】
「大した意味はない」
【央輝】
「どこにでもトラブルはある、そうだろ」
不安をつつかれる。
【央輝】
「それに最後は、あたしとお前だ、これくらいハンデがあった方が盛り上がる」
【智】
「僕は手段を選ばず勝ちに行きますよ」
【央輝】
「ルールは覚えてるな?」
【智】
「そりゃあもう」
借金の契約書くらいの勢いで目を通した。
【央輝】
「もう一つイイコトを教えてやる」
【央輝】
「あたしも手段は選ばない主義だ」
【茜子】
「!!!!!!!!!」
【伊代】
「どうしたの、面白い顔して?」
【茜子】
「!!!!!!!!!!」
【花鶏】
「焦ってるんじゃないの、それ……」
【伊代】
「これが……そうなの?」
【茜子】
「ぐぎっ」
【伊代】
「ぎゃー」
【茜子】
「大変です」
【伊代】
「わ、わたしの指が大変なことに……」
【花鶏】
「ちょっと、響くから大声だして揺らさないでって……」
【茜子】
「ウサッギーが狙われています」
【伊代】
「なによそれ?! どういうこと」
【茜子】
「詳しくはわかりませんけど」
【花鶏】
「わからないのにどうしてわかる?」
【茜子】
「それはともかく」
【花鶏】
「流すのね」
【茜子】
「たぶん、ズルを」
【花鶏】
「イカサマ……?」
【茜子】
「それ」
【伊代】
「なんですって?」
【花鶏】
「智の言ってた通りなわけ……当たり前か。ギャンブルですものね、大金が動くならなんでもありよね」
【伊代】
「ルールなんて知ったこっちゃない、世の中勝った方の勝ち……」
【花鶏】
「ばれなければ、そういうものよ」
【花鶏】
「裏側をぐるっと回してぶっすり」
【伊代】
「…………っ」
【花鶏】
「どうやって、鳴滝を狙うの?」
【茜子】
「それはちょっと……」
【伊代】
「わからないことが多いわね」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「何か証拠は? あなたの勘違いってことはない?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「信じ、られるの……?」
【花鶏】
「…………」
【茜子】
「……証拠はありません。信じてもらう以外にないです、なにも」
【伊代】
「どう、するのよ?」
【花鶏】
「…………いいわ、信じよう」
【伊代】
「ちょ、いいかげん過ぎない!? 根拠もなしに!」
【花鶏】
「悩んでる時間もないわ。なにか仕掛けてくるなら、鳴滝が
走り終えるまでだから、一分一秒を争う」
【伊代】
「それは、そうだけど……」
【花鶏】
「とりあえず問いただしてやるわ」
【伊代】
「あ、ちょ、ちょっと、あんた病人……」
【茜子】
「行っちゃいました」
【伊代】
「やっぱり、あの日で頭に血が足りてない」
【茜子】
「血が上ってるのでは」
【伊代】
「……えっと、あのね」
【茜子】
「なんでしょう」
【伊代】
「さっきは怒鳴ってごめんなさい。八つ当たりだった」
【茜子】
「……正直生物」
【伊代】
「何か言った?」
【茜子】
「別に」
【花鶏】
「だめだわ、ぜんぜん取り合いやがらない。らちがあかない、ああ、頭が痛い……」
【茜子】
「ミニマムは今どこに?」
【伊代】
「現在地は配信してるカメラのフレーム外」
【茜子】
「相手の方はほとんど映ってるのに、どうして私たちの方は
映らないんですか?」
【伊代】
「ウチの詐欺師のルート指定がデタラメだからよ。
通れないようなとこばかり指定してたじゃないの?」
【こより】
「すーいすーいすーい」
【こより】
「あう〜、なんかトイレの窓ってばっちー気がしますよ〜。
スカート汚れたらどーしよー。もうちょい女の子っぽいルート
お願いしたかったり……」
【こより】
「センパイ……もしかして、
鳴滝はセンパイに恨まれておりますか……」
【こより】
「もう少しマシな道……ちちちちちち(泣)」
【伊代】
「さっきこのカメラに映ってたから、地図で言うと、ここからここまでのどこかにいると思う」
【茜子】
「そういえば、陰険姑息貧乳と一緒に下見にいったら、げっそり
して帰ってきてました」
【花鶏】
「あんなローラー着けてて、よくそーいう、わけのわかんないとこ通れるものね……」
【伊代】
「……あんた達、二人がかりで追いかけ回したんでしょ?」
【花鶏】
「そういうこともあったわね」
【茜子】
「時間がありません」
【花鶏】
「鳴滝に連絡は……?」
【伊代】
「だから、ランナーは携帯を持ってない」
【花鶏】
「智も駄目か……」
【花鶏】
「智なら尹に談判してなんとか……」
【伊代】
「……どうするの?」
【花鶏】
「智のところまで連絡をつけにいけば」
【茜子】
「その間に、ろりりんの方が」
【花鶏】
「でも、鳴滝の方は居場所もわからないわ」
【茜子】
「ルートはわかります」
【伊代】
「そうよ、中間のポイントで待ってればどう?」
【花鶏】
「それまでにやられてたら」
【伊代】
「う〜〜〜〜〜」
【伊代】
「…………時間、ないわ。あの子を追っかけるしか」
【花鶏】
「どうするつもり? 方法がなければ絵に描いた餅よ」
【伊代】
「そういえば! あなた、バイクは?」
【花鶏】
「乗ってきてる」
【伊代】
「それで直接」
【花鶏】
「鳴滝がどこにいるのかが……」
【伊代】
「それは教える」
【花鶏】
「だから、どうやって」
【伊代】
「それは任せて」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「…………本当に任せていいのね。
言い出した以上責任は取ってもらうわよ」
【伊代】
「自分で言ったことと決めたことは守る主義なのよ」
【花鶏】
「あなたも大概身勝手だこと……」
【茜子】
「お互い様の身勝手様々」
【花鶏】
「言っておくけれど。わたしは誰にも頼らない、誰の力も借りない、助けを願ったりしない」
【伊代】
「助けるんじゃないわ、きっと。わたしたちは同盟なんでしょう?」
【花鶏】
「契約と代価ね。対等の関係。いいわ、居場所は携帯で連絡を。
わたしは行くわ」
【茜子】
「……身体の方は?」
【花鶏】
「まかせておきなさい」
【伊代】
「よろしく。じゃあ、後で」
【花鶏】
「そうね、後で。何もかも上手く片付いてから」
【茜子】
「それで、ピン髪の居場所は?」
【伊代】
「今から調べる」
【茜子】
「……そんなこといってたら」
【伊代】
「大丈夫。今の世の中、オンラインのやつが町中にあるんだから、なんとかなる」
【伊代】
「……たぶんだけどね。上手くいったら拍手喝采」
【茜子】
「本当におまかせしても大丈夫そうですね」
【伊代】
「ちょ、あなた、どこいくの」
【茜子】
「花鶏さんを手伝ってきます。病気のときは桃缶な感じで」
【伊代】
「わからない、そのたとえはちょっとわかんない」
【茜子】
「行って参ります」
【花鶏】
「ちょっと、わたしは急いでるの。邪魔をしないで」
【花鶏】
「退かないつもり? それともホントに邪魔だてするの?」
【花鶏】
「……あなた、どなた?」
【花鶏】
「そういえば見張りがいたんだったわ。
わたしたちが妙なことしそうなら、引き留める役ってわけね」
【花鶏】
「ゲームの決着がつくまでは、こっちに下手な手出しをすると尹が怒るんじゃないかしら? あの子、話の筋の通し方には、うるさそうだったけれど」
【花鶏】
「ふーん、言葉がわからないのかと思ったけれど、こっちの言うことはわかってるみたいね。それでも退かないつもりらしいけど、こっちも急ぎなの」
【花鶏】
「…………手段は選ばないって顔ね。そう、そういう事ならこっちもこっちでそのつもりになるわ。後悔する前に、手早く言っておいてあげるけれど」
【花鶏】
「後ろが危ないわよ」
【花鶏】
「消火器で殴るなんて、やるわね」
【茜子】
「今日は特急です」
【花鶏】
「お前は、いいからそのまま寝てなさい」
【茜子】
「平成残酷物語」
【花鶏】
「大丈夫、峰打ちよ」
【茜子】
「峰関係ないと思います」
【花鶏】
「ああもう頭いたい……いくわよ、茅場」
【茜子】
「はい」
【智】
「流れがなんだか変な気が」
【央輝】
「まだそっちのリードはあるな」
【智】
「そうなんだけど」
こよりがビルから飛び出してくる。
インラインスケートでするする走る。
出口で住人とすれ違い、危うくニアミス。
くるり。回避。
【央輝】
「うまいもんだな」
腕を組む。
思いの外順調に行ってるせいだろうか、逆に不安をかきたてられる。
【智】
「……がんばれ、こよりん」
【こより】
「ひふー、はふー、はひっ、はひ、ひー」
【こより】
「せんぱ〜い」
【こより】
「鳴滝は死んじゃいそうでございますー」
【花鶏】
「白鞘はなんて?」
【茜子】
「地図だと3dのあたりの交差点の裏側を通過」
【花鶏】
「それってどのあたり?」
【茜子】
「たぶん、そこ右です」
【花鶏】
「たぶん」
【茜子】
「おそらく」
【花鶏】
「スピード出すからしっかりつかまってないと落ちるわよ」
【茜子】
「スピード違反は犯罪者です」
【花鶏】
「わたしの法はわたしだけよ」
【茜子】
「社会的不適合者の台詞ですね」
【茜子】
「ところで、茜子さん、一つ質問があります」
【花鶏】
「なにかしら」
【茜子】
「たしか、愛馬は原付だと聞いた覚えが」
【花鶏】
「原付だったわ」
【茜子】
「これは、はっきり言ってドデカイン」
【花鶏】
「うふ、ふふふふふ…………」
【茜子】
「こけたら起こせなさそう」
【花鶏】
「………………ッッ」
【茜子】
「マジか、そうなのか。
つか、なんで、そんなもの持ってるのか、この人」
【花鶏】
「人には戦わないといけないときがあるのよ!」
【茜子】
「我が身に余る力を得ようとして滅びるのは悪役のサガ」
【花鶏】
「いいから早くつかまりなさい! 死ぬ覚悟で飛ばすんだから!」
【茜子】
「………………」
【茜子】
「はい」
【花鶏】
「いつも手袋してるのね」
【茜子】
「愛してますの」
【花鶏】
「そう」
【花鶏】
「それよりも、一体どうやって、鳴滝を狙うつもりなのかしら」
【茜子】
「くわしくは……」
【花鶏】
「わからない、か」
【茜子】
「でも、たぶん……事故、みたいな感じで」
【花鶏】
「みたい?」
【茜子】
「たぶん」
【花鶏】
「色々とよくわからないものなのね」
【茜子】
「ごめんなさい」
【花鶏】
「…………」
【茜子】
「なにか?」
【花鶏】
「素直に謝るところは初めて聞いたわ」
【茜子】
「……忘れました」
【花鶏】
「そう」
【茜子】
「ベレー帽が謝るところ、聞いたことないです」
【花鶏】
「頭を下げるくらいなら相手を殺るわ」
【茜子】
「本気ですか」
【花鶏】
「でも、事故か。いよいよ冗談ごとですまなくなってきたわね」
【茜子】
「消火器殴打は冗談で済むでしょうか」
【花鶏】
「たぶん」
【茜子】
「あてにならない」
【花鶏】
「えーっとどこかしら。こっちのルートは、智がかなりアドリブ
利かしてるわけだから、動きは読みにくいだろうし」
【花鶏】
「どれくらいやるつもりかしら……?」
【茜子】
「死ぬとかじゃ、ないと思いますけど」
【花鶏】
「たぶん?」
【茜子】
「はい」
【花鶏】
「そういうことなら一番いいのは……?」
【茜子】
「ムギュー」
【花鶏】
「交通事故!」
【茜子】
「事故りました」
【花鶏】
「大きな事故は必要ない。死んだりしたら後が面倒だし、
邪魔するつもりだけなら骨の一本でも折れば」
【花鶏】
「あっち側に、鳴滝の居場所がわかる位置で、大きめの道、車……バイクでいい、たぶんバイクが入れて、絶対に通過するような――」
【茜子】
「道の区別がつかないです」
【花鶏】
「大きめの道を教えて、先回りして合流できそうな」
【茜子】
「えーと、えーと、えーと」
【花鶏】
「あー、もう、こよりちゃんの今の居場所は!?」
【央輝】
「またチビうさが見えなくなったな」
ライターを放り投げて弄ぶ。
余裕。
こっちがかなり有利なのに焦りもしない。
【智】
「そだね」
こよりはカメラマンが追えないところを走っている。
下見に来たとき、泣き出した場所を走らせてます。
僕は鬼か!?
まあ、しかたない。
他に勝ち目がなかったし。
鬼にもなろう、悪魔にも堕ちよう。
策というより駄策の類。
奇策というよりイカサマだ。
【智】
「ごめんね、こよりん」
手を合わせて、無事を祈る。
【こより】
「ふーいー、もーちょいだー」
【こより】
「こより選手、最後のラストスパートです。ゴール周辺では押し寄せた一億七千万の大観衆が歓呼の声で出迎えております」
【こより】
「ビバー!!!!!」
【こより】
「ん?」
【こより】
「にょ、にょわ――――――――」
【こより】
「――――――――わわわわわわわあああああああって、あれ、
花鶏センパイに茜子センパイ!?」
【茜子】
「間一髪だったのです」
【こより】
「うは、でっかいバイク……あれれ、わたし何でこんな所に、
いえ、それよりも」
【こより】
「気のせいかもしんないのですけど、今し方なんか、もう1台
バイクが突っ込んできて、バーンと炎が燃えて交通事故の
走馬燈が一生分キラキラ巡って」
【こより】
「果てし無き、流れのはてに……麗しの白馬の王子様が約束通り迎えに来てくれたりした感じがしてましたけど……」
【花鶏】
「轢かれかけたのは本当よ」
【こより】
「ほ、ほえ?」
【花鶏】
「危機一髪だったのを、かっさらって助けたの」
【こより】
「それって映画のヒロインみたいッス〜!」
【花鶏】
「わかってないわね」
【茜子】
「ヒロインになるなら、テキサス・チェーンソーとか、
茜子さんお勧めです」
【こより】
「なんかおいしそーです!」
【茜子】
「きっと(チビうさは)おいしいですね」
【茜子】
「ところでひき逃げ未遂犯は?」
【花鶏】
「逃げたわね、当たり前だけど」
【茜子】
「そうですか。では、こよりん生物。お話があります」
【こより】
「うす、こよりんです。大人の都合により20歳です!!」
【茜子】
「あなたが危機一髪です」
【こより】
「はい?」
あ、見えた。
【智】
「こよりんだ、リードのまま来た!」
【央輝】
「ふん」
【こより】
「ひい、ひい、ひしいいいい」
【智】
「燃えてるなあ」
【央輝】
「せっぱ詰まってるんじゃないか?」
【智】
「こよりー、こっちこっち、早くタッチー!」
【こより】
「うひひひひひひひいひひひひひひひ」
【智】
「笑いながらゴールインなんて、もしかして余裕でした?」
【こより】
「心底死ぬかと思ったです!!!」
胸ぐらを掴まれました。
【智】
「そ、それはご無事で何よりです……」
すごくびびる。
【こより】
「実は花鶏センパイと茜子センパイが、」
【智】
「んじゃ、華麗にラストを決めてくるからね」
向こうの央輝がスタートする前に、
ちょっとでもリードを広げておきたい。
【こより】
「あ、お話……」
【智】
「また後で」
【こより】
「…………はい、わかりました。センパイ、鳴滝待ってますから。また後ほど」
【伊代】
『あの子は無事についてアンカーが出たわ』
【茜子】
「…………だそうです」
【花鶏】
「それは、なによりね……」
【伊代】
『んで、白頭は?』
【茜子】
「女としての人生の苦役がぶり返して伏せっています」
【伊代】
『お大事に』
【茜子】
「あとは智さんが」
【伊代】
『無事に勝ってくれれば良いんだけどね……』
【花鶏】
「ここまでして、負けたら、あとで、ただじゃおかないわよ……」
夜がくる。
陽が落ちる。
吸血鬼が後ろからやってくる。
尹央輝。
【智】
「うう……」
速いよ。
夜の街がざわめく。
パルクールレース。
コースは街で、そこにあるのはどれもこれも障害物だ。
【智】
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
自分の息づかいに混じる、別のリズム。
【央輝】
「ふっ……ふっ……ふっ」
央輝は着実に距離を詰めてくる。
夜がそんなに得意なのか。
ホントに本物の吸血鬼ですか!?
表通りの人の流れをかき分ける。
ぶつかり、とびのき、逃げ回って。
後ろから怒鳴り声。
ネオンが煌めく。派手な音楽が充ちる。
帰宅の人の列に割り込んで。
流れる車の横に並ぶ。
非常階段から飛び降りる。
ごろごろ転がって立ち上がる。
実際に走ってみないとわからない。
普通の持久走や短距離よりも消耗する。
体力以上に精神力が。
【智】
「ペースを、保って、なんとか」
障害物もコースもばらばら。
ビルを上って下りたりもする。
日が暮れていた。
視界がぐっと悪くなる。
どうしても乱れるペースをどうやって保つか。
【智】
「ひゃ」
ぞっとした。
聞こえるはずのない足音が確かに聞こえた。
央輝が近い。
姿は見えない。
夜は彼女の世界だ。
本物の牙を持つ生き物が棲む。
僕らは昼の生き物だ。犬と狼は違うモノだ。
狼は死に絶えた。
この国ではそういうことになっている。
でも彼らは生きている。
知らないだけで。
彼らの世界で。
【智】
「あー」
追いつかれるのはマズイ。
増速。
【智】
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ」
走る。走る。走る。
ハシゴを登る。
螺旋階段を駆け下りる。
エレベーターを途中で下りて、
踊り場の窓から外の屋根伝いに雨樋を滑り降り、
お隣のビルの屋上へジャンプする。
路地の上、ビルの間を幅跳びする。
下から猫が見上げながら、
尻尾を振ってニャーと鳴いた。
夜を駆け抜ける。
夜に生きる狼の真似をして。
ガードレールを横っ飛びに飛び越えて、ポーズを付ける。
余裕があるとトリックが入る。
加点プラス5。
【智】
「あとどれくらいだっけ……」
【央輝】
「三分の一くらいだ」
【智】
「ぎゃわっ!!」
ビル壁面に作られた非常用の螺旋階段の中程。
央輝と遭遇した。
【智】
「どっから生えたの、早すぎるよ!!」
泣きを入れる。
非常階段を央輝は上へ、
こちらは下へすれ違う。
屋上には途中のチェックポイントが。
距離差はほとんど縮まっている。
体力にはそこそこの自信があったのに。
小さな央輝は小さな巨人だ。
【智】
「おにょれ、このままでなるものか。ファイト一発……」
相手は瞬発力がある。
細く華奢なくせに肉薄してくる。
軽量だから加速が良いのか。
【智】
「このままだと、おいつかれちゃう……」
【智】
「なんていうか、愛奴の未来が見えてきた感じ」
キラキラと。
【智】
「いや〜〜〜〜〜〜ん」
走りながら天を仰いだ。
マジ、負けるわけにはいかんとです。
全員でがんばったのに。
ここまできたのに。
僕が足を滑らせてお終いなんて以ての外だ。
責任は感じなくていいから。
こよりを籠絡するときに、自分で言った。
詭弁だ。
関わる全員に責任を負う。
それが手を繋ぐことの代償だ。
美しくも残酷な戒めだった。
【智】
「ほぁ、ほぁ、ほぁぁっ、ほあたぁっ」
路地を抜ける。
裏道を通る。
坂道を全力疾走で転がる。
ひょいと見上げた。
古ビルの上に浮かぶ月を、黒い影が横切った。
蝙蝠みたいにビルからビルへ跳ぶ。
本物の吸血鬼――。
【智】
「尹央輝……」
顔も見えない距離で確信する。
まずい。
正規のルートより一見遠回りに見える。
どういうルート通られてるのかわかんないけど。
けど、央輝に敵に塩を贈る趣味なんてあるわけがないから、
あれはリスクを犯す価値のあるショートカットだ。
【智】
「……あぇいぅ」
まずさ百倍。
こうなると、最大のネックは僕になる。
るいみたいな乙女力も、
こよりみたいなムーンライトウサギパワーも持ってない。
【智】
「ぎにゃーっ!!!!」
叫んだ。
呪われた未来がすぐそこに。
【るい】
「私、信じてる」
【惠】
「宿命というのは振り切れないんだよ、いくら走ってもね」
【伊代】
『現実って、やっぱり厳しいかも……』
【茜子】
「だそうです。聞こえてますか?」
【花鶏】
「聞きたくないわ」
【こより】
「ふれー、ふれー、センパーイ♪」
央輝がいた。
ほんのちょっと先行されている。
向こうのペースは落ちている。
【智】
「はは、やっぱ無理した分だけ疲れてますね、明智君……」
追う。
距離が詰まらない。
離されないだけで精一杯。
【智】
「ひぃ、ひっ、ひぃぃ」
こっちのペースも落ちていた。
足も手も重い。
理屈に合わない間尺に合わない打つ手がない。
どうした、打つ手は終わりか?
終わりだ、万策尽きた、全部なくなった。
帽子の中に残りはなかった。
種のなくなった手品師と失敗した詐欺師くらい
惨めな生き様はそうないと思う。
コースは終盤。
物理的にショートカットもないのなら。
ここからは地力の勝負。
疲労で足がもつれた。
【智】
「あいどぅー!」
暗黒の未来を嘆く叫びを。
電柱にすがる。
休む間もなく走行再開。
【央輝】
「ふん」
笑われた。
こっちの状態を見透かされてる。
勝ち目が遠のく。
よろしくない人生だった。
情けなくって、厳しくて、未来がなくて。
ずっと嘘をつかなくちゃいけない、そんな日々。
狭苦しく孤独な道のりを考えて考えて考え抜いて一歩一歩前進
しても、世界はいつでも片手間の戯れにテーブルをひっくり
返して嘲笑(あざわら)う。
偶然と不幸が幸運にすり替わる。
気がつけばいつだって薄暗い。
――――――――どうして僕だったんだろう。
それは夜眠る前に、何度となく繰り返した答のない問い。
呪われた人生。
どうして僕を選んだのか。
他の誰でもよかったのに。
ペースが乱れて息苦しい。
足だけを動かしてとりあえず前に。
走馬燈のように苦悩が巡る。
やだなあ。
この若さで走馬燈とか。
別に死ぬわけじゃないんだし。
央輝は善人には見えないけれど、
そこそこ僕のこと大事に重宝してくれるかも……。
囚われて。
塞がれて。
繋がれて。
その程度じゃないか。
どのみち呪われた人生なら。
何一つ得るものもなく、孤独に歩む。
呪い。
呪い呪い呪い。
いずるさん。
いかがわしい女の人が、愉しそうに嘯く。
僕も囁く。
呪い。
その忌まわしい言葉を。
ずっと一人でいた。
誰にも心は許せない。
誰かといると気が休まらない。
孤独な部屋の小さなベッドの上に帰ってきて、
夜一人になるとほっとする。
誰もいなくて安心する。
いない方がいい、だって秘密があるんだから。
呪われているんだから。
後ろを見る。
夜だけがあって何も見えない。
呪いは、きっとどこまでも追ってくる。
逃げてもいつかは追いつかれるんじゃないだろうかと、
ことある毎に振り返る、そんな生き方をしなくちゃいけない。
【智】
「はぁ、ひぃ」
前へ走る。
央輝の背中を目指して。
どうやっても追いつけない。
こんなに息を乱して走っているのに。
速度では変わらないのにライン取りが違う。
人生の道か。
狼と犬の差は、遺伝子レベルで超えられない。
【智】
「――――ッッ」
長い階段が目の前に。
行く手を阻む壁のように。
ゴールへの最後の障害物だ。
心臓が壊れそう。
とにかく考えるのをやめて走る。
【智】
「すごい……」
央輝は凄い。
体格は絶対的に恵まれてない。
小柄な女の子。
物理的限界がある。
それなのに。
ここまで走る。
るいみたいな馬鹿馬鹿しいぐらいの違いがないのが、
かえって見えない努力を意識させた。
じりじりと引き離されていく。
【智】
「にゃーっ!!」
やけになる。
二段飛ばしで駆け上がる。
転んだ。
全力疾走していたのでごろごろと。
【智】
「にゃあああああ!!!!」
階段から落ちる。
下にはゴミ置き場が。
落着。
ゴミ塗れに。
【智】
「な……るほど……最後にはゴミまみれになる人生か……」
上手いことをいってみる。
【央輝】
「どうする?」
階段の半ばで央輝が待っていた。
口元に冷笑を。
高いところから傲岸に見下ろす。
選択肢を突きつけてくる。
続けるか、否か。
犬は犬、狼は狼。
生きる世界が違う分、勝ち目がない。
負傷リタイヤはどうだ?
【智】
「は、は、は…………」
弱い考えが足首を掴んでいる。
考えるのは僕の悪い癖だ。
夜の道は見えないから恐ろしい。
でも。
見えすぎることも恐ろしい。
諦観と停滞。
1パーセントをゼロにするのは弱い心だ。
考えすぎれば道がふさがる。
ほら、こうやって考える。
わかっているのに止められない。
知恵の呪い。
誰だって、きっと、呪われている。
足の力が抜ける。
このままへたり込んでしまえば、きっと楽だ。
呪いが僕の足を掴んで……。
愛奴隷。悪くないかも。
(呪われた世界を――)
【智】
「…………っ」
萎えかかった足を気力で支えた。
ビルの壁にすがりついて、
潰されたカエルみたいな不格好で立ち上がる。
腕も足も脇腹も肩も首も。
どこもかしこも痛みに軋む。
気を抜けばそれっきり起き上がれない。
もう止めろと理性が警報を鳴らしていた。
だって勝ち目はない。
このまま続けても勝機なんて億に一つ。
白黒はついた。
ここで仰向けに倒れて。
諦めて。
――――――――立て
自分の中の何かが命じる。
どうにもならないのに投げ出せない。
それは答を探す行為ではなく、
わかりきった結末へと辿り着くための愚かな前進。
なのに。
【智】
「……まっ…………たく……」
どういうわけか、
最近はいっぱいっぱいな事ばかりだ。
星の巡りでも悪いのか。
【るい】
(――――若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!)
夢も希望も最初からあるもんか。
僕らはみんな呪われている。
震える足で。
一歩。
【花鶏】
(――――赤の他人の身代わりになって自己犠牲するのが
性分なわけ!?)
冗談じゃない、
マゾっぽい趣味は願い下げだ。
立つのは自分のために、自身のために。
負ければ身売りの運命なんだから。
もう一歩。
【茜子】
(――――茜子さんの問題に、勝手にずかずか入り込まないで
ください)
まったく同感だ。
他人のことなんてわかりはしないのに。
いつだって知ったふうな口を叩いて。
足がもつれる。
それでも三歩目。
【伊代】
(……ほっとけなかったから)
なんて曖昧で胡乱な理由。
見えないもの、
在るかどうかもわからないもの。
そんな、頼りないものを頼りにするのか。
【智】
「……できるわけ……ないでしょ……っ」
四歩目と五歩目を踏みだして。
早く逃げ出そうと思ってた。
それなのに、こんなところまでやってきた。
どこで選択肢を間違ったんだろう。
【こより】
(――――逃げても逃げられない。捕まっちゃう。やっつける
しかない)
逃げられない。捕まっちゃう。
いつでも最後は追いつかれる。
それなら、いっそ。
(呪われた世界を――)
どうするんだっけ?
世界を。
一人じゃなくて。
皆で。
【智】
「はぁ、はぁ、はぁ」
あぁ。
はじめて出会った。
あの痣と。
あれは……。
聖徴(せいちょう)といい、烙印という。
【智】
「……僕たち、同じ……」
同じ徴を持っている。
ようやく出会えた、孤独ではなくなる、
一緒にいてくれる誰か。
【智】
「せっかく、なのに……」
負けるのか?
(呪われた世界をやっつけよう)
約束したんだっけ。
言ったのは僕だ。
るいは関係ないのに力を貸してくれた。
こよりは泣きながらでも参加した。
伊代はいいやつだし。
花鶏や茜子だって。
ちょっとだけ、力がわいた気がする。
あまり感じたことのない力。
自分以外の誰かがいるから。
こういうのは、なんていうんだっけ?
少年漫画が好きそうなやつ。
見えないモノにつく名前。
そう、
同盟だ。
【智】
「…………まだまだ」
【央輝】
「しぶといな」
【智】
「条約が……あって……やめると……きっとひどい目に……」
【央輝】
「今にも倒れそうじゃないか」
【智】
「そっちも、実は苦しいでしょ……」
【央輝】
「…………」
無表情。
カマかけだったのに。
答えないってことは図星なのか。
普段の央輝なら、きっと、
この程度では引っかからない。
疲労で判断力が鈍っている。
【智】
「……体格的な限界ってあるだろうしね」
央輝の体つきはアスリートみたいな鍛え方はしてない。
瞬発力があっても持久力は苦しいと見た。
【智】
「ひとつ……聞いていい……?」
【央輝】
「いいぞ」
【智】
「女の子を、さ……愛奴にして、どーすんの……? その……
いかがわしいお仕事でもさせるの?」
それは何が何でも遠慮させて。
【央輝】
「決まってる。あたしがいかがわしいことをするんだよ」
【智】
「……………………」
悪くないかも。
いやいやいや。
【智】
「……生命の危機だね」
バレちゃうし。
【央輝】
「安心しろ、血は吸わない」
【智】
「自分のために最善の努力を」
【央輝】
「手札は尽きてるくせに」
【智】
「人事を尽くした努力が足りなければ、埋めるものはただひとつ
…………」
ぐっと、天を掴むように拳を突き上げて。
【智】
「根性で勝負!」
【央輝】
「ここ一番で精神論か」
鼻で笑われた。
【智】
「まあ、そういうことにしといてよ」
ラストスパート。
【るい】
「来た――」
ゴールのポイント。
【るい】
「ともー、がんばーっ!!!!」
るいがいた。
先回りですか、どこまで体力あるんだ、
あの乳怪獣は……。
死ぬほど元気そうに手を振っている。
…………ちょとむかつく。
【智】
「智ちん、いきまーすっ!」
【央輝】
「しぶといヤツが!」
パッシングする。
【央輝】
「なにを!」
【智】
「まだまだあ」
【央輝】
「……こ、こいつっ」
ペースを乱して、
央輝のやつがつんのめる。
【智】
「ちゃーんす!!」
【央輝】
「く、くそが……くそくそっ!」
死にものぐるいで抜きつ抜かれつ。
ダッシュ。
ゴールは目の前。
体力は底値いっぱい。
【央輝】
「やろう……っ!!」
央輝が増速する。こっちもする。
【央輝】
「ど……どこに、こんな体力が、残って……やがったんだ……っ」
さすがに央輝が焦る。
【智】
「根性ですっ!!」
【央輝】
「根性で……そんなばかな……」
心理的揺さぶり。
【智】
「仲間と繋がった心の力は無限なのです!!!!」
【央輝】
「ば、ばかな…………」
まったく馬鹿げてます。
ノリと精神論とクサイ台詞で押し切るには、
僕は神経が細かすぎる。
そういうのは、るいの領域だ。
ごめんね、央輝。
実はまだ奥の手があったんだ。
最後ではなく、最初のカード。
出す前から伏せていたから、
央輝にだって予想がつかない。
央輝は女で、僕は男。
ズルっぽい……というより、しっかりズルです。
男女の体力差を央輝は計算できてない。
【央輝】
「く、うくく、くあ……っ」
央輝がたじろいだ。
歩調が乱れる。
【智】
「ぷくくくくっ、どうやら貴様の負けのようだな!!」
悪役の台詞だ。
疲労の極でハイになっていた。
一気に追い抜こうとする。
ここまでに何度も央輝が勝つチャンスはあった。
こっちを甘く見た分、つけいる隙ができた。
【央輝】
「…ぐ…くぁ……っ」
【智】
「ひまらー……(いまだー……)」
いよいよ呂律がまわらない
あとビル二つ。
勝てる、と思った。
そこで。
央輝は壁に寄りかかった。
限界っぽく。
終わりか。
長かった戦いにもようやく決着の時が。
【智】
「とどめぇっ!!!」
刹那。
【央輝】
「――殺す」
凄み。
刺すような眼差しが背中まで抜ける。
本気の目。
睨まれた。
殺される。
ほんの一瞬、本気でびびる。
【智】
「……あ?」
冷静になれば、それはただの脅しだ。
そんなことをすればゲームが台無しなんだから。
ここまできて、それはない。
央輝という人間に合わない。
のに。
【央輝】
「恐れ入ったよ、ここまでやるとは思わなかった。
もう一つ、いいことを教えといてやる」
【央輝】
「あたしは、負けるのが、嫌いだ……っ」
心臓が早鐘を打つ。
足が震える。
なに。
怖い。
目の前の相手が。
どうしてこんなものがいるのか。
【央輝】
「噂を聞いたろ?」
【智】
「……え、あ、あ」
殺される。
殺されて殺される。
殺されて殺されて、
それでも足りなくて殺される。
ここにこうしていたら。
だめだ。
逃げよう逃げよう逃げよう。
足が動かない。
萎縮して固定される。
蛇に睨まれたカエルは、
きっとこんな気分を味わいながら、
真っ赤な口に呑まれてしまう。
丸くなって何も見ないで聞こえないで――。
【智】
「あ」
【央輝】
「ルールの通り、指一本触れてないぜ……」
【央輝】
「だが、こいつでゲームオーバーだ。しばらくそうしてろ。
そうすれば……」
【央輝】
「――――――っ!?」
恐怖が消えた。
年末の換気扇をつけ置きしてさっと拭き取ったように、
今の今まで胸を潰しそうになっていた感情が消え失せる。
【智】
「……………………あれ?」
【央輝】
「お前!」
央輝がせっぱ詰まっていた。
たぶん、消えたのはそのせいだ。
【央輝】
「おまえ、そんな」
央輝が顔色を変えて凝視している。
僕を。
正しくは、僕の腕を。
さっき階段から落ちたときに、制服が破れたらしい。
痣が見えていた。
【央輝】
「いや、でも」
【央輝】
「それは……その痣、まさか……お前……お前ら、そうなのか!?」
動揺している。
考える。
つまりこれは。
【智】
「いざ、さらばー!」
大チャンスでした。
【央輝】
「あ、テメエぇっ!!」
ブッチぎった。
央輝が取り込んでいる隙に、
最後の最後のラストスパート。
死ぬほど走る。
【央輝】
「ま、まて……っ」
【智】
「待てない!」
【央輝】
「ひ、ひきょう……」
【智】
「卑怯未練はいいっこなし!」
【央輝】
「とにかく…ま、待て……!」
【智】
「絶対待てません!!!」
さっきのは何が起こったのか。
意味不明だ。
央輝が何か仕掛けた。
それは確実だけど。
わからないので考えるのをやめる。
今は勝たなくちゃ。
もう一度、さっきのやつが来たら、
今度こそ逃げられない。
残り1分もない時間の勝負。
だから走る。
【央輝】
「ま、」
【智】
「もう、」
【央輝】
「くおぉー」
【智】
「ちょっとー」
【央輝】
「くのーーーーーーっっ」
【智】
「たーーーーーーーっっ!!!!!!!!!!」
ゴールイン――――――――――――――。
〔エピローグとプロローグ〕
時刻は深夜を回っていた。
【央輝】
「約束通り、返してやる」
【智】
「返すだけじゃなくて……」
レースには勝った。
無事に……まあ、かなり無事じゃなく。
転んだ怪我の治療をめぐって、
るいたちから大層なお小言の一悶着が
あったことだけはいっておこう。
(※ちなみに僕は頑として譲らず、一人で薬を塗った)
【花鶏】
「やったあーーーっ!」
クリスマスプレゼントをもらった子供みたいに飛び跳ねる。
最近の子供は飛び跳ねないかも知れないけど。
【花鶏】
「本、本、本、わたしの星、帰ってきたわ! やっと帰って
きた、長かった、苦しかった、戦いの日々だった!!」
【智】
「いやもうまったく」
【智】
「これで茜子も」
【央輝】
「今回の件では自由だ。追うヤツは居なくなる。
あたしが責任を持つ」
【智】
「自由の身です」
【茜子】
「あ、は……はい」
実感がわきやがらないご様子。
【智】
「僕も自由の身」
愛奴隷危機一髪。
【花鶏】
「それはそれで惜しかったかも」
【こより】
「見てみたかったのです」
【智】
「君たち君たち」
【央輝】
「それから」
央輝が肩をすくめる。続きがあった。
【央輝】
「イカサマの件についてはあたしのミスだ。謝っておく」
【智】
「央輝はタイプじゃないと思った」
【央輝】
「買いかぶりだな。今回はゲームだったからだ。必要なら騙しも
殺しもする。嘘もつく」
それは本当だろう。
【央輝】
「奴らには始末をつけさせる」
【こより】
「結果的になにごともなかったので、ほどほどでいいのです……」
【智】
「当事者がこのように」
【央輝】
「奴らは、あたしの顔を潰した。それなりの代償は必要だ」
【智】
「嘘は央輝もつくんでしょ」
【央輝】
「そうだ。素人相手に底を見られるような仕込みをするのは、
あたしの顔を潰すにも程がある」
逆の意味だった。
【智】
「いやな世界だね」
央輝はタバコをくわえて火を点ける。
唇を歪めた。
ほんの一瞬、人生に膿み疲れた老人のような顔を
見たような気がした。
【央輝】
「まったくだ。この腐れ切った世の中は、骨の随まで
呪われてるんだよ」
イヤなフレーズに。
【智】
「そだね」
軽く相づちをうった。
央輝とはそれで別れた。
――――――僕らは自由になった。
【こより】
「これからどうするんですか」
【智】
「お家に帰ります」
【こより】
「あう、そうではなくて……」
【茜子】
「私たち」
【伊代】
「……どうするの、これから?」
同盟。
とりあえず所定の成果を得ました。
目の前のことを一つ二つ。
【るい】
「やっつけたしねー」
【智】
「やっつけた」
【花鶏】
「呪われた世界、だったかしら?」
【茜子】
「やっつけましたか?」
【智】
「そうねえ……」
ぼやく。
うんとのびをすると、
身体中がボキボキと音をたてる。
【智】
「たぶん、まだまだ」
たとえるなら、
魔王の七大軍団の、
最初の幹部を倒したくらい。
【こより】
「ほんでは、戦わないといけませんね」
【るい】
「やる気だね、こよりん」
【こより】
「こよりん、燃えております!」
【智】
「萌え〜」
【伊代】
「なにかいかがわしい感じに」
【るい】
「なんで?」
【伊代】
「なんでだかわからないけど……」
【智】
「印象差別だ」
【伊代】
「むう」
【花鶏】
「それで、どうするの」
とりあえず。
【智】
「やっぱりお家に帰りたい……」
【るい】
「まあね」
【こより】
「そっすね」
【花鶏】
「そりゃね」
【伊代】
「まあ」
【茜子】
「です」
一斉に賛成した。
【智】
「あーと、今更なんだけど惠がいない……まだお礼を」
【るい】
「気がついたらいなかった」
【茜子】
「神出鬼没キャラ」
【こより】
「危なくなったらタキシード来てお助けに来てくれるかも」
【伊代】
「あー、似合うかも〜」
【るい】
「それならニーさん〜で、イキなり現れる方が」
【茜子】
「兄弟愛キャラ」
【花鶏】
「姉妹愛の方がいいわ」
【智】
「そふ凛子ちゃんに怒られたって知らないよ」
ちゃらちゃらと話題が弾む。
当人不在のまま。
次に会えたらキチンとお礼をしないと。
惠がいなかったら、
新しい人生が開かれるところだった。
【こより】
「お礼考えないとだめですよねー」
【伊代】
「まあ、大丈夫じゃないかしら」
【るい】
「にゃも?」
【伊代】
「……だって、恋、したんだって……」
【智】
「ぶぅっ」
何もしてないのにむせる。
視線が、色々なものの含まれた視線が、同情とか困惑とか
少女漫画チックなキラキラビームとか入り交じったやつが、
背中に一杯突き刺さった。
【智】
「思い出させないでよ!」
悪夢の告白。
【伊代】
「……まあ、変人だけど顔いいし……」
【こより】
「も、もしかして、これを切っ掛けにして恋の炎〜」
【茜子】
「じゃーんじゃかじゃーん、じゃーんじゃかじゃーん」
【智】
「絶対ありません!!!」
【るい】
「そうだそうだ!!
あんな白っぽいの、トモちんに絶対断じて似合わない!」
【伊代】
「……男と女なんて何が切っ掛けで恋愛に発展するかわかんないっていうし……」
【智】
「ない、断じてない」
あってたまるか。
【花鶏】
「一晩くらい付き合ってあげたら? 泣いて感謝されるんじゃないかしら」
【智&るい】
「「まっぴらだ!!!」」
【るい】
「だいたい、アンタはトモ狙ってんじゃないのか、このエロス頭脳」
【花鶏】
「男の一人や二人に目くじらを立てるほど、わたしの了見は
狭くないわよ」
【花鶏】
「それに、乱暴な男に傷ついた智を、後で優しく慰めてあげるの。新しい恋の足音が聞こえてくる気がしない?」
【智】
「そっちもまっぴらごめん」
【こより】
「お、センパイ、そういえばの二乗です!」
【智】
「なんですか」
【こより】
「お家帰るにも、
すでにバスも電車もなかりにけりないまそかり……」
【智】
「たぶん、全然間違ってる」
【こより】
「あうー」
【智】
「そういえば、電車もないね」
【花鶏】
「それは最悪」
【伊代】
「まだこれから歩くわけ……」
【智】
「無理無理無理無理死んじゃうよ」
【るい】
「近くでどっか休めるところを」
【茜子】
「ファミルィーレストラントなど」
【智】
「どこでもいいんだけど――――」
見上げれば夜空。
空には月と星が。
気分がいい。
今夜はずっとこうやって、
空を見ながら歩いていてもいい。
【智】
「明日はどうしようか」
もう今日だけれど。
一つのことが終わった後。
新しく何かの始まる、始めなくてはならなくなる日に。
【るい】
「明日のことはわかんない」
るいが呟く。
まったくだ。
明日のことはわからない。
それが呪いだ。
僕らはきっと呪われている。
誰もがきっと呪われている。
そんなどうでもいい話をしながら、
僕らは夜通し歩き続けた。
ぼくらはみんな、呪われている。
みんなぼくらに、呪われている。
【るい】
「生きるって呪いみたいなものだよね」
【るい】
「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……」
【るい】
「それって、まったくの呪い。100パーセントの純粋培養、これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、ないない尽くしの呪いだよ」
【るい】
「そうは思わない?」
これは呪いの話だ。
呪うこと。
呪いのこと。
呪われること。
人を呪わば穴二つのこと。
いつでもある。
どこにでもある。
数は限りなくある。
ちょうど空は灰色に重かった。
浮かれ気分に水を差すくらいにはくすんでいて、
前途を呪うには足りていない薄曇り。
【智】
「むふ」
それでも僕らはやってくる。
約束もなくても。
明日のことがわからなくても。
同じ場所から空を見上げる。
【るい】
「こんなとこかな?」
【茜子】
「むふ」
【こより】
「いい感じでサイコーッス!」
【伊代】
「悪党っぽいわね」
【花鶏】
「それじゃあ、くりだすわよ」
【智】
「北北西に進路をとれ」
--------------------------------------------------▼ 個別ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》各ルートフラグのチェック
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》初回プレイの時
--------------------------------------------------◆ るいルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・茜子=+4 の時
--------------------------------------------------◆ 茜子ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・るい=+2 の時
--------------------------------------------------◆ るいルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・花鶏=+2 の時
--------------------------------------------------◆ 花鶏ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・伊代=+2 の時
--------------------------------------------------◆ 伊代ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・こより=+2 の時
--------------------------------------------------◆ こよりルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》上記条件以外の場合
--------------------------------------------------◆ るいルート
〔僕らの日々(花鶏編)〕
赤の線を切るか、それとも青の線を切るか。
映画の爆弾処理なんかで、よく見るシーンだ。
でも、あれはあくまで場面を盛り上げるための演出であって、
現実では普通、あんな状況はあり得ないらしい。
爆弾に液体窒素を吹きかけて冷却し、バッテリーの起電力を
奪い、爆弾の機能を停止させるのがセオリーなんだと、
以前、宮和に聞いたことがある。
宮和がなんでそんなことを知っていたのか、
なんてことはさておいて。
失敗したら爆発するなんて、そんなのは危険すぎる賭けだ。
色気はないけど、誰だって現実的に対処する方を選ぶだろう。
でも……この広い世の中には、液体窒素だけでは処理できない、
セオリーの通用しない爆弾だって存在するんだってことを、
僕は知ってしまった。
たとえば、今、目の前にあるヤツ――――
表通りのど真ん中だった。
人の流れだって多い。最悪だ。
【こより】
「隊長! これ以上の接近は危険です!」
【智】
「しかし、このまま放置するわけには……ッッ」
【るい】
「こうなったら遠くから射撃で爆発させるしか……」
【伊代】
「そんなことして甚大な被害が出たらどうするの! 慎重にコトを運んだほうがいいわ」
じりじりとした焦燥感が胸を灼く。
知らず汗が頬を伝う。
僕らが配備についてから、すでに無力な数十分が経過つつある。
【智】
「調査班、どう? 動かせそう?」
【茜子】
「近づくと即死です」
【るい】
「おし。こうなったら私が持ち上げて、爆発する前に投げ……」
――その時、爆弾が動いた!
緊張が全身の筋肉を瞬時に収縮させ痙攣する。
【花鶏】
「うへへへ……もう濡れ濡れじゃないの、体は正直……むにゃむにゃ…………」
爆弾が寝返りをうって、よだれを垂らす。
踏み出そうとしたるいの足は、寸前のところで、
こよりに止められていた。
【るい】
「あ、危なかった……!」
【こより】
「だいじょぶですか、るいセンパイ!」
恐怖で息が上がっていた。
【花鶏】
「さぁ、ぱんつ脱ぎ脱ぎしましょうね……じゅるじゅる、おっぱいおいしそうだわ……むにゃむにゃ……」
【茜子】
「乳(にゅー)エイジテロ屋は死ねばいいのに」
【智】
「頼むから起きてください」
泣きそうになる。
ほんのちょっと目を離して、
みんなでアーケードのウインドウを賑やかした隙だった。
気がつくと、花鶏は電柱にすがりついて居眠りしていた。
【智】
「ホント、器用だよね……」
仕方がないので起こそうとしたら、襲いかかってきた。
【智】
「ホント、すごく器用だよね……」
行き交う人の奇異の目が、とっても痛い。
【こより】
「花鶏センパイ、本当にどこでもすぐ寝ますよね」
とっても呑気に。
【伊代】
「しっ! 音に反応して襲いかかってくるわよ!」
まさに恐怖のエロゾンビ。
【るい】
「いっそ殺っちゃえば」
【茜子】
「頭潰せば死にやがるぜ」
【智】
「世界平和を大切にね……」
【花鶏】
「むにゃ……まだピンク色なのね……かわいい……、んむ……むにゅ……」
【茜子】
「相変わらず怖気を震うほど不穏当な発言です」
結局、花鶏は起きなかった。
人目を避けるため、全員が決死の覚悟で、
花鶏を担いで走って逃げた。
【智】
「でも、いい場所あったよね」
ベッドタウンなんかにありがちな、
テナントのロクに入ってないビルだった。
土地をキープするのが主目的なのか、
1階にこじんまりとした自然素材インテリア雑貨の店が
収まっている以外は、2階に眼科があるだけ。
近頃は安全管理のうるさい屋上も期待通りに解放されていて、
ここまで入り込むことが出来た。
【伊代】
「ほんとにこの子、どうにかならないのかしら」
隅っこに放り出されたまま、花鶏はまだ眠っている。
【こより】
「花鶏センパイって静かにしてれば美人だし、頭もいいし、しかもロシア系クォーターなんてカッコイイですよう!」
【智】
「そりゃ、いいとこのお嬢様だしね……」
幸せそうな顔で眠る花鶏を見ながら、思わずため息が出てしまう。
【伊代】
「このどこでも寝るクセさえなければ」
【るい】
「変な野菜ばっか食べる悪食じゃなければ」
【こより】
「あとレズレズじゃなければ」
【茜子】
「さらにエロエロじゃなければ」
【智】
「欠点だらけ人(じん)だ」
まあ、欠落こそ人間の証明なんだけどね。
【伊代】
「放送できないような言葉を、すぐ公道で口にするのも問題よね」
【こより】
「人前でぱんつの中にまで手を突っ込んでくるのも、問題ですよね」
【智】
「こなれて来たせいか、日増しにハードコアに……」
最初はただの百合百合と思ってました。
実際は生まれてこのかた見たこともないほどの……。
【茜子】
「捕食対象を名前で、非捕食対象を苗字で呼ぶ露骨な差別も
問題です」
【こより】
「ちょっと勘弁して欲しいですよう……」
最近の茜子は苗字で、こよりはちゃん付けだ。
【るい】
「あと、すぐ人をバカにするよね」
欠点を挙げ始めると、キリがない。
ダメな人度がどこまでも高くなる。
【花鶏】
「さっきから、人が寝てるのをいいことに、大陰口大会?」
いつの間にか、不機嫌全開といった顔で、花鶏が上体を
起こしていた。
【伊代】
「あ、いえ別に悪口言ってたわけじゃないのよ、ほんと!
ね、みんな、そうでしょ?」
【花鶏】
「あー?」
【こより】
「こ、こわいですよう! ちょっと花鶏センパイの話をしてただけですってばー!」
【るい】
「えろいとか変態とか本当のことしか言ってないって」
【智】
「るいちゃん、超正直……」
【花鶏】
「皆元! あんた、わたしにケンカ売ってんの!?
尻子玉抜くわよ!? バイブで」
【るい】
「ぬぁにっ」
【花鶏】
「なんだとっ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
揉み合いに。
【智】
「平和だねえ」
【花鶏】
「一人だけ無実面しおってからに!」
るいと謎のロシア拳法の構えで戦っていた花鶏の首が、
グリッとこっちを向いた。
キュピーンと恐ろしい光を放って目が光る。
一瞬、有名な悪魔祓いの映画で首が180度回転する、
あの恐ろしいシーンを連想してしまって、背筋に怖気が走る。
【花鶏】
「皆元いぢっても楽しくないわ、智ちゃん! 代わりに我が供物となれぇーっ!!」
【智】
「きゃーっ!?」
【花鶏】
「ぶぎゅる」
るいちゃんパンチ。
花鶏が虫けらのように潰される。
【智】
「助かった……」
反射的に可愛い悲鳴を出すまでに成長した自分に
軽く自己嫌悪を覚えつつも、ホッと安堵の息を吐く。
花鶏に襲われたりしたら、
僕は呪いを踏んで死んじゃうかもしれないから。
【智】
「でも、花鶏、大丈夫?
るいの力で殴られたりしたら、さすがに……」
【るい】
「峰打ちじゃ」
【智】
「峰ないよ」
【茜子】
「死んだな」
【花鶏】
「痛い……」
【茜子】
「……チッ、生きてやがった」
【花鶏】
「ひどいわ。寝てる間に陰口を叩かれるような陰湿極まりない
イジメを受けたのに、なんでこんな仕打ちを……後頭部痛い」
怨念と邪念のこもった視線が、空間に瘴気を振りまいていた。
【伊代】
「だから、本当に悪口を言ってたわけじゃないのよ? ただちょっと、あなたのこういう所は直すべきなんじゃないか、とか意見を出しあっていただけで……」
【茜子】
「通訳:『この変態寝てる間にシメちまおうぜ』」
【花鶏】
「ち……ちきしょう! 愛の性差別反対だわ!」
【こより】
「鳴滝めは、被害者の友の会会員ですよう!」
【智】
「同性でも、えっちなことには相手の同意を得てください。今回は自業自得です」
【茜子】
「通訳:『変態レズ強姦魔はドブにはまれ』」
【花鶏】
「智やこよりちゃんまで……! おかしいわ、わたし、学園じゃ
モテモテなのよ!? 三歩下がってついてくる奴が、唸るほど
いるのよ!」
【花鶏】
「それなのに、隠しても隠しきれない、押さえても溢れ出てしまうような、そんなわたしの魅力が、あなたたちにはなんでわからないの!?」
蘇った花鶏が、お嬢様にあるまじき
下品なガニ股で、手をワキワキさせる。
花城家はかつて大層な名家だったが、今ではすっかり
落ちぶれてしまい、昔ほど裕福でもないらしい。
でも、ご先祖様が今の花鶏を見たら、
それもさもありなんと天を仰ぐことだろう。
【るい】
「百歩譲って百合百合は許すとしても、花鶏が相手はあり得ない」
【花鶏】
「わたしだって皆元相手はあり得ないわよ。……で? 誰だったらOKなの?」
【るい】
「ん〜…………トモ、とか」
【智】
「え、ぼ、僕!?」
【るい】
「うん。トモならお嫁さんにしたら、ごはんが毎日おいしそーだ!」
【智】
「お嫁さん=飯炊きメイド!?」
【るい】
「どっちも!」
ほとんど体当たりで、後ろから思いっきり抱きつかれた。
るいの張りのある膨らみが、僕の背中で音が鳴るかと思うほど
の勢いで弾む。
【智】
「る、るい、いろいろ苦し……」
るいってば、無防備すぎ!
【花鶏】
「皆元にしては、案外目が高いじゃない。この中でランクをつけるなら、確実にトップはわたしで、次はこよりちゃんか智よね。
おっぱいも捨てがたいけど」
【伊代】
「なによ、おっぱいって……え!? もしかしてわたしのコト!?」
【花鶏】
「あなた以外に誰がいるのよ?」
【伊代】
「ひど……わたしの価値っていったい……」
【こより】
「ん〜でも、鳴滝も、花鶏センパイの線はないですね……エロいし。強いて選ぶならやっぱり、ともセンパイになるかなぁ」
【花鶏】
「なんでわたしはないのよ!」
【伊代】
「ないわね。同性愛に走るつもりなんてさらさらないけど、わたしも誰か選べって言われたら、あなたたちと同じ選択をするわ」
【智】
「ええ!? 伊代まで!?」
【るい】
「でしょ、でしょ?
イヨ子もこよりも、トモならオッケーだよね」
【こより】
「ですね〜」
【花鶏】
「なんで、どうして、わたしはないの!?」
【花鶏】
「そりゃあ確かに、智はいいわよ!? なだらかな胸、プリティな顔、愛らしい仕草、すべてがお姉さまのはしたない股間を直撃するような子だけど!!」
【智】
「もう少しお嬢様な表現プリーズ」
【こより】
「エロ頭脳ッス」
【るい】
「アカネも、このエロスになんとか言ってやって!」
【茜子】
「この無差別リビドーエロリスト」
【花鶏】
「無差別じゃないわよ。
少なくとも、皆元と茅場は眼中にないもの」
優雅な仕草で、肩にかかった髪を背中に払う。
【伊代】
「あのねえ、その子の言ってる無差別っていうのは、対象のことじゃなくて、場所を選ばないっていう意味に決まってるじゃない」
あいからず、伊代はいけてない発言。
【こより】
「茜子センパイは、選ぶなら誰なんです?」
【茜子】
「茜子さんはもちろん……」
どう答えるのか。
茜子の解答に、みんなの興味が集まる。
【茜子】
「ヂョレゲ・地獄松毛根子(じごくまつげねこ)さん・フロム・ヘルです」
【るい】
「誰」
【こより】
「です?」
【花鶏】
「それ」
【伊代】
「意味」
【智】
「わかりません」
【茜子】
「奇跡の5段ツッコミですか。超かっこいいことされました」
【花鶏】
「しかもフロム・ヘル……」
【茜子】
「……………………」
意味不明発言のせいで冷たい仕打ちを受けた茜子は、
屋上のすみっこに離れていき、一人置物と化してしまった。
一方こちらでは、花鶏の怨念が呪いの渦を巻いている。
【花鶏】
「いいのよ、いいのよ。どうせわたしは変態よ。えろえろよ。
愛は学園でいただくわ。その代わり、性欲はココで満たして
やるんだから!」
【智】
「性欲の方こそ、学園で、ぜひ」
タイトル、淫乱お嬢様、魅惑のレスボス調教。
……エロス。
【伊代】
「ここは人気の無い場所だからまだいいとしても、あなたは大通りでも平気でエロ発言するんだもの。その辺、ちゃんと時と場所をわきまえてもらわないと……」
【こより】
「場所関係ないですから! エロス公言ダメですよう!」
【るい】
「そうだそうだ!」
【花鶏】
「うるさいわね。大体、皆元はいらないわ。可愛くないから。
あんたはあっちで茅場と一緒に置物になってなさい」
【茜子】
「カモン、おいでよ置物ワールド」
隅から手招き。
【るい】
「ベーだ! このえろえろバカの無差別なんとか! 私のほうが、おっぱいおっきーよーだ!」
【花鶏】
「はッ! あんた、あたしの成績知ってて言ってるの?
動物レベルの寝言にいちいち反応するのもバカらしいわ!」
そう、とんでもないアホの子に見えるけど、
花鶏はその実、トップクラスの学業成績を収めていたりする。
【るい】
「むか、誰が動物か! せーよく丸出しの猛獣め!」
【花鶏】
「エロスは、人間の知性と理性が生み出した至宝よ!」
【茜子】
「ウェルカム、楽しい置物ワールド×2」
【るい】
「年中発情期!」
【花鶏】
「脳みそ筋肉女!」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
揉めに揉めた。
犬猿の仲。氷炭相容れず。竜虎相打つ。
るいと花鶏は磁石の同極同士のように反発する。
平和利用したら、安価なリニアモーターカーが
実現するかもかもしれない。
【るい】
「あの夜のビルでの決着、まだ着いてなかったよね!」
【花鶏】
「面白いわねぇ。せいぜい気持ちよくしてあげるわ……!」
【智】
「ちょっと! ちょっと待ってよ!」
今日は行くところまで行きそうな気配。
さすがにまずいので、割って入る。
【花鶏】
「智までコイツの味方するの!?」
【智】
「そうじゃなくてさ……」
噛み付くような花鶏の視線を受け止めながら。
【智】
「たしかにさ、花鶏は人としてダメなとこも一杯あるよ。かなり
あるよ」
【花鶏】
「こいつから死なすか」
【智】
「でも、そういうのも含めて、僕は花鶏のことが好きだよ」
【花鶏】
「………………」
謎のロシア拳法を構えていた花鶏の腕が、ゆっくりと下がった。
頬に、紅が乗る。
【花鶏】
「智……」
軽く頬を染めていた朱が、
だんだんと顔全体にまわり、
頭からピーっと蒸気が噴出する感じで、
だらりと下がっていたはずの腕が、
瞬時にケダモノのように持ち上がり、
【花鶏】
「と、智ぉーっ! 二人で快楽の彼方へーっ!!」
【智】
「ぎゃわあああああああああ!!!?」
跳びかかってきた狼を咄嗟にかわす。
しかし、花鶏は急に止まれない。
僕の背後には、屋上の柵があった。
この柵、さほど高くない……。
【花鶏】
「わっとっとっと……!」
【智】
「あ、花鶏!?」
勢い余って、花鶏が柵を乗り越えそうに!?
【智】
「ぎゃわあああああああああっ!!!?」
【花鶏】
「し、死ぬ! 死ぬ!」
【智】
「らめ〜〜〜〜っ!!」
寄ってたかって、花鶏の腕に足に飛びついた。
【花鶏】
「ううう、一瞬、死ぬかと思ったわ……」
【るい】
「1回死んだら、ヘンタイ治ったかも知れないのに」
【花鶏】
「うっさいわね! 大体、あんたのせいでまだ後頭部が痛いのよ!」
【智】
「人はそれを自業自得という……」
汗だくになって花鶏を救出した後、しばらく屋上でへばっていた。
冷えていくコンクリートの感触を味わっている間に、
いつしか空には星が散り始める。
楽しい時は、過ぎるのも速い。
【智】
「ああ、もうこんな時間か。そろそろお開きかな?」
【るい】
「おなか減った〜」
【こより】
「そうですね〜。じゃあ、帰りましょう〜」
【智】
「花鶏の始末に困って避難しただけだったけど、なんか結構いい場所だったね」
【花鶏】
「始末ってなによ」
【伊代】
「本当ね。わたしの家のすぐ近くなのに、こんなところがあるなんて知らなかったわ」
【智】
「え? そうなの? そんなに近いんだ?」
【伊代】
「ええ、すぐそこ。見えるわよ」
【こより】
「鳴滝もわりと近いとこに住んでるのであります!
ついーっと滑れば5分とかかりません」
【茜子】
「たまり場にするのが吉。そして夜な夜なこの屋上でUFOを
呼ぶのです。ベントラーベントラー」
【智】
「たまり場か……いいね。こんな条件なかなかないし。僕の家からだとそこそこ距離はあるけど」
【花鶏】
「わたしの家の方が、たぶん遠いわ」
花鶏はバイクを近くに止めていた。
屋上で出会った轢殺(れきさつ)スクーターとは違う、ドデカインだ。
颯爽(さっそう)とまたがるその姿は、実に様になっていて、格好いい。
【智】
「制服で乗るの、非お勧め」
【るい】
「うわ、こいつ一人だけバイクで帰るつもりだ」
【花鶏】
「3人乗りは不可能だもの」
【智】
「こんなおっきーの乗れるんだ?」
【花鶏】
「……あたりまえよ」
【茜子】
「ぷくくくく」
【智】
「?」
【茜子】
「茜子さんはカゴに」
【花鶏】
「カゴなんかどこにあんのよ!」
【智】
「るいと茜子、まだ花鶏の家にいるんだっけ」
【花鶏】
「そうよ。なんでよりによって、泊まってるのがこのいらない子
二人なんだか。智やこよりだったら大歓迎なのに」
【伊代】
「本当に良かったわ。一緒に寝泊まりなんかしたら、間違いなく
襲われるもの。案外世の中って、うまく出来てるって思う」
【るい】
「不純同性交遊なんて、超不純だ」
【花鶏】
「はン。とにかく。わたしは、コ・レ、で帰るから」
ニヤリと悪い笑みを浮かべてハンドルの辺りをノックする。
【花鶏】
「あんたらは歩いて帰って来なさい。エサはあげるわ」
ぶーぶー言う、るいを無視して、エンジンをかける花鶏。
【るい】
「またどうせ、セロリごはんじゃないの〜!?」
【こより】
「な、なんです!? セロリごはん! その聞いただけで口の中がうじゅうじゅ〜ってなりそうな恐怖物体は!」
【茜子】
「経口式の地獄です」
【智】
「じごく……」
【花鶏】
「おいしいわよ! 先入観でマズいと思ってるだけじゃないの? ふん、いいのよ、欲しくないなら食べなくても。そこいらの雑草でも食べていればいいじゃない」
【るい】
「うぅ、いざとなったら智にねだるもん」
【伊代】
「たしかにネーミングはとてもおいしそうには思えないけど、
先入観で物を考えるのは確かに良くないわね。セロリに対する
認識を一度クリアして改めて、」
【茜子】
「では帰りましょう、すぐに」
【るい】
「ぶらぶら歩いて帰るか」
【こより】
「ういうい! 鳴滝もそろそろシツレイするであります!」
【伊代】
「あん……まだ言いかけだったのに……」
【智】
「セロリごはん……新たな味覚にもちょっと興味あるから、今度
食べさせてよ」
【花鶏】
「いいわ。そのかわり智を食べさせてね」
【智】
「なんという不等価交換……」
【花鶏】
「あら、そうね、失礼。智の操の価値はもっと高かったわ」
【智】
「そーゆー評価のされ方もどうかと思う……」
花鶏はハンドルを握って背を向けた。
メットは被らないつもりらしい。
【花鶏】
「そうそう、わたしはちょっと寄るとこあって遅くなるから。
ほら」
【茜子】
「キャッチ」
投げて寄越した家の鍵を、茜子が受ける。
【るい】
「寄るってどこ行くの?」
【花鶏】
「ふふふ、ひ・み・つ」
いかがわしい感じ。
【花鶏】
「じゃあね!」
ひとつ大きくエンジンをふかす。バイクは滑るように走り出した。
残光を受けてなびく美しい銀髪に、しばし見とれる。
後ろ姿は見る間に遠ざかって、彼方の角を曲がって消えた。
夜になっても街は明るく騒がしい。
みんなと別れて、一人で歩む帰り道。
なるべく、人通りの多い、明るい道を選んで通る。
女の子一人の夜道は危険がいっぱいだから。
【智】
「むーん」
すっかり女の子化しつつある自分に苦悩。
アヒルのように唇を尖らせて、上目遣いに夜空を見た。
独り静かに学園に通っていた頃の方が、ずいぶん平和だった。
孤高の優等生の仮面をつけてさえいれば、
僕は自分を保っていられた。
まあ、中には宮みたいなよくわからないのもいるけど、
アレは、まぁアレだ、アレなんです。
同盟――――
呪われ六人娘の一人としてつるむようになってから、
僕の平和は、じわりじわりと浸食され溶解されつつある。
美少女五人に囲まれて過ごす毎日……。
世の男たちならば、こんな桃源郷、望んだところで
そうそう手に入れられるものではないだろう。
となると、僕は信じられないぐらいに
恵まれた立場にいることになる。
【智】
「でも、なんかそういう感じがしないんだよね」
ため息。それこそが問題だ。
もちろん、みんなと一緒にいるのは楽しいし、
平和じゃないけど幸せな気分でいっぱいだ。
でも、女の子に囲まれてウハウハ〜、なんて気分とは違う。
それはひとえに、僕が女の子たちに囲まれている男として
ではなく、女の子たちの一員としてみんなとつきあっている
からなんじゃないだろうか?
みんなからどう思われてるかとか、
客観的な状況がどうかとかじゃなくて、
僕がそのつもりでいるかどうかという点で。
失われていく男性としての自分を危ぶむ気持ちすら生まれてこない。
このままでは――
【智】
「趣味じゃない、趣味じゃない……ハズなのに……」
特殊な悩みを持て余す。
沈む気分に引きずられるように、空を見ていた視線が地に落ちた。
【花鶏】
「なーに? そのヘコんだ顔」
聞きなれた声に呼び止められる。
【智】
「え? 花鶏?」
どこかで着替えたのか、ちゃんとライダースーツを
着込んで、メットも胸元に抱えている。
僕の横に並んで、バイクを止める花鶏。
寄り道からの帰りだろうか?
【智】
「今から帰るとこ?」
【花鶏】
「寄り道は今から。智、乗りなさいよ」
花鶏は髪を揺らして、顎で後ろのシートを指した。
【智】
「もしかして……送ってくれるの?」
【花鶏】
「そ。愛の押し売り。うへへへ」
【智】
「送り狼怖い」
軽口を叩きながらも、本気で警戒するわけでもなく、
好意に甘えることにする。
家が遠いって言ったから、気を使ってくれたのかな?
思ったよりも優しい一面に、ちょっと花鶏を見る目が変わる。
【智】
「ありがとう」
後部座席にまたがり、花鶏の腰に手を回す。
う〜ん、近頃すっかり女の子しちゃってるとは言え、
やっぱり僕は男の子。
女の子の腰につかまるのは、なんだかかなり気恥ずかしい。
照れ隠しに、ちょっと花鶏に訊いてみる。
【智】
「もしかして、はじめから乗せてくれるつもりだったの?」
【花鶏】
「当然よ」
【智】
「なら、さっきはなんであんな風に?」
【花鶏】
「みんながいたもの。乙女の恥じらいに決まってるじゃない」
【智】
「おーとーめー?」
【花鶏】
「ちゃんと処女だっての」
もっと照れちゃう告白だった。
【智】
「ホントに女の子専門なんだ……」
【花鶏】
「さ、出すわよ、しっかり掴まって!」
【智】
「え? わわっ!」
【花鶏】
「もっとしっかりつかまらないと、危険が危ないわよ!」
言って、一気にアクセルをふかす。
体が後ろに引かれる感じ。
振り落とされないように、花鶏の腰にしっかり掴まる。
心地よい風を頬に受け、バイクは滑り出した。
風は、花鶏の髪の匂いがした。
心地よい僅かな時間はすぐに過ぎ、気がつけば
アパートの前に到着だ。
【智】
「ありがと。楽できちゃった」
【花鶏】
「いえいえ、どう致しまして姫君」
【智】
「姫君って……」
複雑にもにょる。
【智】
「良かったら、上がってお茶でも飲んでいく?」
【花鶏】
「あら。一人暮らしのうら若き娘の部屋に、わたしなんかを入れてもいいの? 智がわたしのお茶請けになっちゃうわよ?」
【智】
「……やっぱり帰ってください」
【花鶏】
「あはは、つれないのね!」
花鶏が髪を掻き上げる。
プラチナブロンドが風に舞い、
アパートの明かりを反射してキラキラと散った。
【花鶏】
「じゃ、代わりに明日どこか行かない? 二人きりで」
【智】
「それってデートのお誘い?」
【花鶏】
「そ。なかなか嬉しかったのよ? わたしのことを好きだって
言ってくれたの。それが、わたしの望んでるみたいな意味じゃ
なかったとしてもね」
【智】
「襲わないなら」
襲われたら、比喩抜きで死んじゃうから。
【花鶏】
「安心していいわよ。
本命にはね、なかなか手が出せないモンなのよ」
【智】
「本命デスカ」
レズっこプリンセスの直球大本命宣言。
相変わらず冗談なのか本気なのかわからないけど、
好きって言われたら普通悪い気はしない。
でも、なんだかとっても複雑で、思わず
片仮名が口をついて出ちゃう。
男として言われるのなら、これほど
うれしいことはないんだけどなぁ。
【花鶏】
「わたしの中ランクでは、今まではこよりちゃんがトップだった
んだけど、今日ので智が一気にのし上がったわ」
【花鶏】
「もうムラムラ来たもの! 今すぐ手篭めにして、可愛い声で
鳴かせたいと思ったわ!」
【智】
「もう少し言葉を選んで欲しい……」
【花鶏】
「あはは、冗談よ、冗談。それじゃ、明日迎えに来るわ。じゃあね!」
【智】
「気をつけて〜」
【花鶏】
「ええ、愛してるわよ。智! チュッ!」
大きく優雅な投げキッス。
なんだか映画の1シーンみたいで、すごく様になってた。
そのまま軽く手を振って、花鶏はあっさりと走り去る。
【智】
「どこまで冗談で、どこから本気なんだか……」
ぷうっ、と頬を膨らませて、腰に手をあてる。
遠ざかる花鶏の背中を見送ってから、部屋へと戻る。
階段を上る足取りが、なぜだかすごく軽かった。
〔騙り屋対談(花鶏編)〕
【智】
「は〜い」
フローリングの床をスリッパで走る。
パタパタ。
なんとも女の子的な擬音だ。
複雑な所感を抱く。
【花鶏】
「おまたせ」
玄関を開くと、迎えに来た花鶏が立っていた。
【智】
「早かったね。花鶏ってよく寝るから、昼ごろ来るかと思ってた」
【花鶏】
「ああ、あれは……あれは、そう言うんじゃないのよ」
【智】
「そう言うんじゃない?」
【花鶏】
「もう、そんなことはいいから! 早く出かけましょ。せっかく
智と甘いひとときを過ごすチャンスなのに、時間がどんどん
過ぎてしまうわ。それとも着替える? 体操服とかに」
【智】
「君のフェチシズムの幅広さに脱帽」
【花鶏】
「メイド服とかも着せてみたいわ」
【智】
「このままでいいです。……あ、でも、バイクだっけ? だったらパンツルックのほうがいいかな?」
【花鶏】
「今日は歩きよ。智と並んで歩きたくて」
何気なく手を取られて、一瞬ドキッと胸が鳴る。
花鶏の手は、白い肌のイメージ通りにひんやりしていた。
【花鶏】
「行きましょ」
【智】
「あ、うん」
強く手を握られて引かれる。
なんかドキドキしています。
【花鶏】
「ほら、足下、気をつけなさいよ?」
何もかも逆だ。
バイクで送ってもらって、デートに誘われて、手を引かれて……。
黒いライダーは、やはり王子様だったらしい。
『黒い王子様』の逆エスコート。
【智】
「……不甲斐ない」
涙目になる。
男の子的アイデンティティークライシス。
……まあ、不思議と嫌な気はしない。
【花鶏】
「なにか言ったかしら?」
【智】
「襲われないか心配だと」
【花鶏】
「本命には、なかなか手が出せないって言ったでしょ?」
【智】
「ホントに?」
【花鶏】
「ホントホント。この目が嘘を言ってる目に見える?」
【智】
「見えます」
【花鶏】
「即答か! 山芋入れるわよ!!」
【智】
「……花鶏の頭の中は、いつもそういうマニアックなエロい
イメージで満ちてるの?」
【花鶏】
「うん」
【智】
「即答か!」
親しくならないと、わからない事はたくさんある。
楽しくも疲れる一日になりそうだった。
【智】
「やぁの、やぁの、それやぁの! らめぇー、ぎゃわあああああああああああああああああ」
【智】
「契約違反!」
花鶏を振り切るように、足を速めて逃げ出す。
【花鶏】
「ベッドでの口約束なんて信じるから」
早歩きで追走してくる。
【智】
「ベッド共にしてない!」
この事態は予想通りではあった。
昨日の約束は濡れた半紙よりも簡単に破られ、
花鶏のセクハラ・コンビネーションにさらされる。
【智】
「普通、公衆の面前でスカートの中に頭つっこむ?!」
いくらなんでも、真昼間の街中で
いきなり襲い掛かるのは勘弁して貰いたい。
【花鶏】
「ブルマ防御してたんだからいいじゃない」
【智】
「論点が違うよ!」
【花鶏】
「今度は人気のない暗がりでやることにするわ」
【智】
「余計悪い!」
【花鶏】
「あはははは、やっぱり智はいぢると可愛いわね」
【智】
「……デコピンしちゃうよ、しちゃうよ?」
【花鶏】
「あぁん、優しくしてぇ〜」
【智】
「恥ずかしくなる声出すな!」
逆すぎる。
本来なら、こっちが襲う側で、
可愛い可愛いと相手を赤面させるはずなのに。
毎度のことながら弄ばれてしまう。
これを楽しいと感じてしまう僕は、女の子どころか、
マではじまる特殊性癖な属性を身につけつつあるという
ことなのだろうか?
ブルーブルーな気分。
【花鶏】
「智は可愛いわね」
ニヤニヤ笑い。
ネズミをからかう猫じみた顔も、花鶏には魅力だ。
でも、もしも――――
仮定の世界に、ふと思う。
『呪い』が存在しなければ。
僕が普通にありがちな男の子であったなら。
――――――――――花鶏は僕をどう思うだろうか?
いや……。
たぶん花鶏は、男の子の僕には目もくれないだろう。
僕と花鶏が今、こうしてふざけ合う関係でいられるのも、
すべては『呪い』があったから。
『呪い』。
僕らはみんな、呪われている。
呪われた束縛に縛られている。
呪いと、呪いの証のこの痣(あざ)が、僕ら六人を結びつけた。
僕らの人生を阻む障害物。
でも、僕らを結びつけた絆でもある。
いったいなんなんだろう……。
【いずる/???】
「こんにちは、面倒屋さん。本日はお日柄もよく」
いかがわしい呼び名でテンプレ挨拶されて、我に返った。
【智】
「……胡散臭い呼び方しないで」
げっそりする。
振り向いた先には、やはり胡散臭い人がいた。
【智】
「いずるさん、奇遇ですね」
蝉丸いずる。
るいに紹介された人。呪いのことを知ってる人。
自称語り屋とかたっていた。胡散臭い。
【花鶏】
「こいつ、この間の霊能者モドキじゃないの」
モドキというか、そのまんまと言いますか。
【花鶏】
「しっしっ、今忙しいのよ。あんたみたいな霊能者モドキの相手をしてる暇はないわ!」
【いずる】
「ほう……面倒屋くん、今日はデートかい? 彼女連れとは
隅におけないな」
【花鶏】
「……中々見る目があるわね」
【智】
「ないよ!」
【花鶏】
「なによ、デートじゃない」
花鶏に胸ぐらを掴まれた。暴力反対。
【智】
「僕ら女同士なのに、一目で彼女連れって即答する目は、きっと
腐ってます」
【花鶏】
「真実だわ」
【智】
「こっちにも即答された!」
【花鶏】
「とにかく」
花鶏が派手和服のいずるさんを冷視する。
【花鶏】
「邪魔しないでもらえる? 今いいところなの」
【智】
「あ、ちょっと待って……」
【いずる】
「ふむ? そっちの彼女はどうやら、馬に蹴られてしまえ扱いの
ようだけど、君の方は何やらご用がお有りかな?」
今、出来た。
他に知ってそうな人の心当たりもなかった。
【智】
「呪いのことで、もう少し聞きたいことがあるんだけど?」
【花鶏】
「呪いじゃないわ。わたしの恋人なら聖痕と呼びなさい」
【智】
「まだ清い関係では」
【花鶏】
「些末な問題ね」
【智】
「些末違う!」
……お嫁さんにされてしまう日も、
そう遠いことではないかもしれない。
僕は男の子なんだけど。
【いずる】
「夫婦で見解の相違があるようだね。『呪い』と『聖痕』か……
なるほどなるほど。意見の不一致による家庭内不和は、子供
のためにもよろしくないので、早期の和解をお勧めするよ」
【智】
「子供いないよ!」
【花鶏】
「見た目より話のわかるヤツだったのね」
……お母さんにされてしまう日も、
そう遠いことではないかもしれない。
僕は男の子なんだけど。
【いずる】
「よろしいよろしい、本日はお招き預かりありがとうございます。御成婚のご祝儀に、些末なことごとでよいのなら語って差し上げるのも悪くない」
【智】
「お悔やみな気分だ」
【いずる】
「それでも用はあるんだろう? さあ、語ろうか」
【いずる】
「………………で、何をかな?」
【智】
「先に聞いてよ……」
ちょっとばっかし、げんなりする。
前にも言ってたから、さては決め台詞なんだな。
【智】
「それじゃあ、手近なところで呪いを解く方法を」
【いずる】
「即物的だねえ」
【花鶏】
「なに言ってるのよ、智」
氷柱色のまなざしが、僕を射抜く。
数瞬前まではたしかに花鶏の瞳にあった戯れた色が、
本気の静けさに取って代わられている。
【智】
「…………だから、解く方法」
掴みかかられたわけでもないのに、かえって気圧される。
【花鶏】
「聖痕を解いて、どうするつもり?」
【智】
「だって、僕にはあれは、やっぱり――――」
『聖痕』と花鶏は呼ぶ。
『呪い』と僕は吐き捨てる。
それは、背中に貼りついた黒い影だ。
目の前を塞いで進めなくする。
【いずる】
「離婚調停なら、大塚(おおつか)ビルの網乾(あもし)弁護士事務所がお勧め」
【花鶏】
「黙ってなさい!」
【花鶏】
「智、あなたは、あれが呪いだって、あの痣が呪われた代物だって、だから消す方法を探すって、そう言いたいわけ? このわたしの目の前で」
激発に途惑う。
花鶏は痣を誇っている、信仰している。
それでも突発に過ぎた。
【いずる】
「区別はないよ、同じモノだからねえ」
【智】
「え?」
【花鶏】
「何の話を……」
【いずる】
「悪魔は元々はなんだか知ってるかい。異端の神様さ、自分と波長の合わないやつに、後ろ指差して悪魔呼ばわりしてやるわけだ」
【いずる】
「場所が変わり人が変われば、彼も立派な神様だったのさ。
まあ負けちゃったから、立派ではなくなったけれど」
【いずる】
「隅に追いやられた神様ってやつは、そりゃあ惨めなもんだから
ねえ」
神と悪魔が同じように。
聖痕も呪いも変わらない、と――。
全ては見る方向の問題に過ぎないのだと。
【智】
「だそうですが」
【花鶏】
「ふん」
胸を張る。鼻を鳴らす。
花鶏にとって、やっぱり『聖痕』なんだろう。
僕にとっては、やっぱり『呪い』であるように。
だからと言ってあきらめるわけにはいかない。
【智】
「僕の呪いは一生の問題なんだから」
【いずる】
「誰のだって一生の問題だよ。自分を切り売りするわけにもいかないんだ。上手く付き合う方法を考えた方が建設的だと思うけど」
【智】
「付き合える相手と付き合えない相手がいる」
このままじゃ、好きな女の子に告白だってできやしない。
【いずる】
「その枷(かせ)から逃れるために、君は呪いを解きたいと」
【智】
「うん」
【花鶏】
「智、あなたが呪いを解くということは……」
花鶏と目が合う。
鋭く強い目が一歩も引かずに立ちはだかっている。
【いずる】
「意見の不一致は深刻だね」
【智】
「……家庭内問題は家庭で考えるから、そっちはそっちの商売を
してよ」
【いずる】
「それならこれはどうだい。あの皆元くんの話」
【智】
「それって、るいの力の話?」
るいの、異常な力を思い出す。
バイクですら投げ飛ばす、オリンピック選手にもムリなあの怪力。
【いずる】
「さて、ここに普通じゃないことが二つある。どちらも稀少、
どちらも異常。一つなら100万分の1でも、二つ重なる
確率はほとんどゼロだ」
【いずる】
「こんな確率異常は許すべきかな?」
理解する。
呪いとあの力が関係あると言いたいのか。
考えてみると、今まで思いつかなかった自分の方がどうかしている。簡単な方程式だ。
おかしなことが二つ、別々にあるというよりも、
同じ根っこだとする方が説明は簡単だ。
そうだとすると。
他のみんなにも、るいのような『力』があるのか?
【いずる】
「仕組みがわかれば呪いは解ける、その仕組みを探る、
手がかり足がかりにはなるかもさ」
【智】
「……王子様のキスで解ければいいのに」
【花鶏】
「お姫様ならいるわよ」
……たぶん花鶏は、僕のことを指して言ってるんだろうけど、
僕にとっては花鶏の方がお姫様な訳で。
でも、今の僕では、花鶏の王子様にはなれない。
【いずる】
「じゃあ、デートの邪魔をして悪かったね。
せいぜい楽しむといい」
【智】
「あ……」
呼び止める間もなく、いずるさんは登場したときと同様に、
唐突に去っていってしまった。せわしない人だな。
気を取り直して、花鶏の方に向き直る。
【智】
「聞いていい?」
【花鶏】
「なによ」
【智】
「花鶏が痣を『聖痕』って呼ぶ理由」
【花鶏】
「…………」
【智】
「理由があるんでしょ。ただの痣を、『聖痕』なんて仰々しく
呼んだりしないと思うし」
【花鶏】
「……ねえ、智。わたしたちは特別だと思わない?」
【智】
「特別って言うと?」
【花鶏】
「在るじゃない。それぞれ生まれ持った『才能』」
【智】
「……やっぱり花鶏にも、みんなにも、あるんだね。るいの力と
同じようなのが」
【花鶏】
「わたしはこの痣と『才能』を、選ばれた証だと信じているわ」
【智】
「だから『聖痕』って呼ぶんだ?」
【花鶏】
「そうよ」
花鶏は信仰している。
『呪い』と『才能』――それがコインの裏表だと。
痣(あざ)は呪いではなく力の徴(しるし)。
束縛は力を得る代価。
だから、『呪い』を解けば『才能』も失われる。
聖から俗へ。
選ばれた身の上から、ただの人へ。
【花鶏】
「だから、あなたが呪いを解きたいとしても、わたしには協力するつもりはないし、呪いを解くという行為には興味がないの」
【花鶏】
「だいたい、あなたにだって何かの『才能』はあるんでしょう? それを捨ててもいいの?」
【智】
「……ないよ」
【花鶏】
「え? ……なにが?」
【智】
「だから、『才能』」
それが、僕と花鶏の、決定的な違い……。
以前にいきなり寝だした花鶏を運び込んだ屋上は、
すっかり僕らの溜まり場として定着していた。
空がぽかっと抜けてて気持ちがいいし、
いつも無人だし、いい風も吹く。
人間は意外と勘違いしやすい。
見当違いを見当違いに信じ込んだりする。
呪いが枷と思っているのは、僕だけなのか。
なにしろ僕は、呪いだけしか負っていない。
【るい】
「それで、何の話なの?」
【智】
「呪いの話だよ。
僕たちの呪いに、解く方法があるかも知れないっていうこと」
【るい】
「呪い、解けるの!?」
期待を持たせすぎても、落胆が大きくなるだけだ。
なんてことを言いながら、自分でも期待しちゃってるんだけど。
【智】
「かもしれないっていうだけ、だけどね」
【茜子】
「…………」
るいは聞くまでもなく呪いを解くのが嬉しそうだった。
呪いのせいで、さんざんイヤな思いをしてきた。
だけど……茜子なんかは、無表情の仮面と沈黙の向こうに
真意を隠したままだった。
やはりみんなが一様に呪いを解きたいと
願っているわけではないのかもしれない。
【るい】
「やった! すごいよ! それで、方法はわからないの!?」
【花鶏】
「これは、呪いではないの。スティグマなの」
その言葉に、みんなが花鶏の方を見る。
花鶏はその誰とも目を合わそうとはせず、そのまま空を見ていた。
【花鶏】
「聖痕。聖なる傷痕。神が真の聖者の肉体にのみ示すという印」
花鶏は空を見たまま答える。
【花鶏】
「みんなにも在るんでしょう? 生まれ持った特別な『才能』が」
予想通り、反論はあがらない。
沈黙は肯定だ。
【るい】
「わたしは……」
例えば、るいの「力」。
馬鹿げた身体能力。笑いさえこぼれる無敵超人ぶり。
常識の範疇の力自慢とは桁が違う。
【こより】
「ありますよう!」
こよりがうれしそうにブンブンと両手を振るう。
【こより】
「こよりは人の動きをまねることが出来るであります!
このインラインスケートも、うまい人のを見てトレース
してるんですよう!」
【伊代】
「わたしは……なんて言ったらいいのかしら? 道具のシステムがわかるのよね。たいていの道具は、初見でも使うことが出来るわ」
【茜子】
「茜子さんは、人の心が読めるのです。エロ大帝の頭の中が
年中ピンク色なことなど、すべてお見通しです」
【茜子】
「敢えて言っておきましょう。茜子さんは魔女なのです」
尋常でない告白が続く。
でも、みんなは別に動揺の色を見せていない。
【智】
「やっぱりみんなあるんだね。るいの力と同じようなのが」
【花鶏】
「そうよ。選ばれた『才能』」
【るい】
「うわ〜、ホント、みんなにもあるんだね、特殊な力が……
自分だけが変わった奴じゃないんだって、なんだか安心した」
【花鶏】
「でも……」
【智】
「……うん」
花鶏のよこす視線に、僕は力なくうなずくことしかできない。
【智】
「あのね……僕にはないんだ。そんな、『才能』」
思い当たる節がない。
文武両道の優等生ではあるけれど。
【智】
「呪いだけしかないんだよね。なぜか」
【るい】
「うそ……」
【智】
「花鶏の『才能』も、みんなみたく、普通じゃないんでしょ?」
【花鶏】
「もちろん。選ばれた『才能』ですもの」
【智】
「いずるさんが言ってた。『呪い』と『才能』を同時に持った例がこれだけ重なるのは、確率で考えたらあり得ないって」
【茜子】
「偶然ではなく、必然であると?」
【智】
「そう、根っこは同じなのかもしれない」
【伊代】
「裏と表ってことかしら?
そうね、その考え方はフェアかも知れないわ」
【伊代】
「『呪い』と引き替えの『才能』……どちらにより価値があると
みなすのかで、束縛と感じるか、聖痕とするかの差が生まれるんだわ」
【こより】
「どっちが表でどっちが裏かわかりませんよう」
【るい】
「悪モンが裏で、いいモンが表に決まってる」
【智】
「でも、僕にないってことは」
『呪い』と『才能』は別物か?
【花鶏】
「あることに気がついてないだけじゃないの?」
【るい】
「どこかで落っことしちゃったとか」
【茜子】
「あなたの落とした『才能』は、この金の『才能』ですか、
銀の『才能』ですか?」
【茜子】
「ああ、嘘をつきましたか。だから『才能』を奪われたんですね」
【智】
「それなら『なんで?』なんて頭悩ませてないし」
僕はいつでも嘘つきだ。
でも、このままじゃたぶん、一生嘘つきのまま。
それがイヤなら、呪いを解いてしまうしかない。
でも。
『呪い』と『才能』が裏表なら、
みんなは素直に呪いを解こうとするだろうか?
呪いを解いたら、みんな全員、
呪いも才能もなくなっちゃうかもしれないのに……。
【智】
「ままならないなあ、世の中」
僕は肩で小さく嘆息した。
〔呪いを解きましょう〕
【智】
「ふぅ…………むずかしいね」
チャイムが鳴るまで、残すところあと10数分。
昼食後の気だるい午後の授業中、僕はぽつりと呟いた。
一応うちも進学校だけど、授業が難しいと感じたことはない。
結局勉強なんてものは積み重ね。
部分ごとの難易度はたいしたことがないものがほとんどだ。
時間さえかければ、大抵は解決できる。
ところが、人の心というのはそうも行かない。
むしろ積み重ねるほどに難しくなる。
崩れないよう、平坦なブロックを選んで積み上げているつもり
だったのに、いつのまにか三角や丸の不安定なブロックが
紛れ込んでいて、積み上げた全体をぐらつかせる。
【智】
「…………」
呪いなんて枷でしかないと思っていた。
みんなもそう思っているのだと思っていた。
だけど、花鶏は自分は違うという。
花鶏は、どうして呪いを枷に感じないのか?
もし枷に感じているのだとしても、どうして
それを守ろうとするのか?
それほどまでに、呪いと共に与えられた力が大切なのか?
一人で考えても答は出ない。
おそらく花鶏に聞いても、答は返ってこないだろう。
作り物の鐘の音が、僕の思考を遮った。
ここから見える別棟のてっぺんには、いかにも
「お上品な学園です」と吹聴するかのような、
立派な鐘がぶら下がっている。
だけど、今鳴ったチャイムは電子音だ。
よく聞けば判る。気にしなければ判らない。
あの鐘が音を奏でない虚飾に過ぎないことを知ったのは、
すでに1年目が終わろうとしている頃だった。
【教師】
「……では本日はここまで。号令をお願いします」
【宮和】
「はい」
【宮和】
「起立……、礼」
【智】
「…………ぶッ!?」
窓の外を見て、思わず噴出した。
【教師】
「……どうかしましたか? 和久津さん」
【宮和】
「どうかなさいましたか? 和久津さま」
窓の外で、見覚えのあるライダースーツが手を振っていた。
どう考えても花鶏!
なんでこんなとこまで来てるんだ?!
【智】
「い、いえ! 何でもありません」
例えば、これがこよりとかだったら、なにも問題はない。
伊代でも問題ない。
るいは多少難あるキャラクターだが、まぁ問題ない。
茜子もギリギリセーフだとしておこう。
だけど、これは花鶏なのだ。
狼だ。ウルフだ。
危険に満ちたビジョンが想像に……!
【教師】
「そうですか? それではみなさん、さようなら」
【智】
「ふうぅ……」
幸い、花鶏の存在は誰にも気づかれていないようだった。
先生が教室を出たところでやっと胸を撫で下ろす。
さて、これで一安心。
鞄を引っ掴んで、素早く花鶏を人目のない所に誘導……
と思ったのだが――
【宮和】
「時に和久津さま、あの方はどなたでございましょう?」
しっかりと面倒な相手に見られていた。
【宮和】
「ご愛人ですか?」
【智】
「違います」
「どちらが『たち』で、どちらが『ねこ』なのですか?」
と、どこから仕入れてきたのか判らない怪しげな質問をしてくる
宮をかわし、しとやかさの範疇からはみ出ないように、急いで
花鶏のバイクに飛び乗った。
方向はどっちでもよかった。
とにかく同級生のサーチ範囲外へ!
【智】
「ここまで来れば、さすがに大丈夫だよね……」
【花鶏】
「なによ、人を危険人物みたいに」
【智】
「違うという理由を二百字以内でどうぞ」
やって来たのは、人の気配のない高架下。
道は繋がっているものの、車も人も通らない。
それなのにスペースだけは無駄に広がっていて、
粗大ゴミの不法投棄によるちょっとした山が出来ていた。
【花鶏】
「やあね。同級生の前で、智にイタズラすると思った?」
【智】
「さすがにしないか」
【花鶏】
「するつもりだったわよ」
【智】
「やる気まんまんだ!」
【花鶏】
「だってみんなの見てる前でしっかりツバ付けとかないと、他の女の子に取られちゃいそうだもの」
【智】
「普通、女の子は女の子に手を出しません」
【花鶏】
「後ろの席の子、普通ではないように見えたけど?」
【智】
「……目、いいね。花鶏」
続ければ続けるほど花鶏の術中に
はまっていってしまうような気がする。
【智】
「ところでさ、花鶏。呪いのことなんだけど……」
【花鶏】
「やめてよ。せっかく智と人気のない場所で二人きりなのに」
学園で教科書を開きながら、ふと気づいたのだ。
花鶏のあの本――
【智】
「教えて欲しいんだ。あの本……花鶏の大切にしてるあの本って、呪いに関係ある本なんでしょう?」
花鶏の目が、すっと細くなった。
【花鶏】
「……そうよ。だけどそれを知ってどうするつもり?」
【智】
「…………」
肯定はしてくれたが、花鶏はこの話題を露骨に嫌がった。
本当のところ、僕だって嫌だ。
呪いに関して、僕と花鶏の思想は食い違っていた。
こんな空気が悪くなる話題より、もっと別の話をした方が
楽しいに決まってる。
だけど、呪いを解く手段があるというのなら、
その手がかりである可能性があるのなら、
その本のことを僕は是非とも知らねばならなかった。
単純に死の危険を回避する為でもある。
みんなを騙し続けるのをやめる為でもある。
【智】
「呪いを解きたいんだ、僕は」
【花鶏】
「わたしは解きたくないわ。それで終了じゃないの?」
『呪い』も『才能』も、元は同じ物なのかもしれない。
『呪い』を解けば、『才能』も失われるかもしれない。
それは、花鶏にとって許されることではないのだろう。
でも……。
【智】
「でも、呪いは、死の危険性を孕んでる」
【花鶏】
「承知の上よ」
僕の言葉は、嘘と言い訳だ。
死の可能性は呪いを解くための口実に過ぎない。
この問題の実像はもっと単純だ。
僕は呪いを解きたい、花鶏は解きたくない。
二人の願望は真正面から相克していて、
相容れる余地がまったくない。
【智】
「そんなに『才能』が大事なの!?」
【花鶏】
「ええ、大事よ。わたしにとってはね」
【智】
「なんで?
呪いも才能も捨てて、普通の人として生きていけば……」
【花鶏】
「平常に飼いならされることは堕落だわ」
【智】
「花鶏の言ってること、わからないよ……」
【花鶏】
「あなたには解らないでしょうね」
【智】
「他の人にない才能があるからって、それにすがりついて、でも
そういうのってどうかと思う」
【花鶏】
「どう思われようと知ったことではないわ。
わたしにはこの才能が必要なの。手放すつもりはないわ」
【花鶏】
「勘違いしてもらっては困るわ。聖痕と言ったでしょ? 誰にでも与えられるようなものでは、これはないの」
【智】
「それはちょっと……言いたくはないけど、傲慢な考え方じゃないかな? 偶然才能を持っているからと言って、他の人より優れてるだなんて……」
【花鶏】
「それのどこが悪いというの? だからこそ、わたしはそれに
見合うだけの役割を果たさなければならないのよ!
ズファロフ家と花城家のためにもわたしは……」
【男】
「あーっと……」
あわやケンカ寸前のところを中断してくれたのは、
冴えない風貌の男だった。
【男】
「あー、ははは。なんかお話中ごめんね。
俺、こういう者なんだけど。……あれ、どこだったかな?」
男は安物の腕時計をカチャカチャと鳴らしながら、
忙しなく体中のポケットを裏返してなにかを探す。
でも、しばらく待ってもなにも出てこなかった。
【男】
「あれ? ごめん。いやー、名刺切らしちゃったみたいだ。
しかたない、俺は三宅。しがない記者をやっている者でね」
【智】
「…………?」
【花鶏】
「…………」
もともと僕と花鶏は、別にケンカしたくてしてるわけではない。
だから、目の前にあまりにも胡散臭い男が現れてくれたお陰で、
瞬時に同調することができた。
男の話を聞き流しつつ、目配せで会話する。
【三宅】
「記者なんて、聞こえはいいけどピンキリでね。
俺はもう末端の末端、食っていくのがやっとみたいな感じだよ」
【智】
「はぁ……」
記者などと名乗るクセに名刺はない。
こっちが取り込んでる状態だったのに、躊躇なく話しかけてきた。
最初から誰かに話を聞くつもりなら、
こんな人気のない道をうろつくだろうか?
だいたいもう夕刻前だ。
この時間までに誰にも話しかけなかったのか?
僕たちが一番最初の相手なのか?
もしも誰かに一度でも話しかけていたならば、
ない名刺を探すなどという行為はないはずだ。
ならば……?
【三宅】
「ああ、こんな話してもしょうがないな。つい、グチが出ちゃったみたいだ。実はなんでもゲージュツの秋とか言ってまぁ、
そういう感じの特集を組むんだけど」
【花鶏】
「…………」
だけど、身分を偽るのに
こんな胡散臭い格好のままで近づくだろうか?
花鶏の目は警戒しろと言っている。
【三宅】
「急に記事がちょっと足りなくなって、美術的価値のある古い建物のコラムでも書けっつーことになってね。このヘン割と古い屋敷とか残ってるでしょ?」
【智】
「そうですね。戦災から焼け残った区域が旧市街として残ってるとか聞いたことあります」
急な話なら名刺がないのも、時間帯が変なのも、一応説明が付く。
もう少し話を聞いてみよう。
【三宅】
「えーと、なんだったかな……。そうそう、大貫邸ってとこに行ったんだけど、取材拒否されちゃってね。他にもそういう建物あれば教えて欲しいんだけど……」
美術的価値のある古い建物なら、花鶏の家が
そういう条件に当てはまりそうだ。
だけど、話が出来すぎてやしないか?
【花鶏】
「知ってるわよ。わたしの家、旧市街の洋館だから」
【三宅】
「へぇ! そりゃ……」
僕の目を受け止めた花鶏の顔は、余裕だった。
たとえこの男が怪しい奴でも大丈夫、
この男程度ならどうにでもなる。そういう意味なのか?
【花鶏】
「案内するわ。智、あなたも来るわよね?」
【智】
「もちろん」
三宅と名乗る記者の闖入のせいで、
図らずも花鶏の家に行くことになった。
ちょうどいい。
あの本をもう一度見る機会があるかもしれない。
【花鶏】
「バイクは……押して行くしかないわね。
大丈夫、そんなに遠くはないわ」
【三宅】
「ごめんねー、助かるよ」
帰りは何時になるだろう?
夕飯の食材の買い出しを少し心配しつつ、
すでに歩き始めていた花鶏に並んだ。
〔花城邸物語〕
花鶏の家は相変わらず大きかった。
厳つく高い門が、外界と内を峻別する建物。大豪邸。
来訪者を威圧する門をくぐり、扉が開かれる。
【るい】
「おかえり〜」
【茜子】
「よくぞ生きて戻った」
そうか、この二人、花鶏の家に常駐してるんだっけ。
【花鶏】
「ただいま。来客付きよ」
【智】
「おじゃま〜」
【るい】
「おー、智ー! と……、誰そのおっちゃん」
【三宅】
「お、おっちゃん……。俺まだおっちゃんじゃない歳のつもり
なんだけどな……」
【茜子】
「たしかにおっちゃんは酷い。ここは『翁』でどうですか」
【智】
「翁……」
【三宅】
「えー……えっと、ところでこの二人は?」
【花鶏】
「我が家のメイドよ。わたしの身の回りの世話をさせているわ」
【るい】
「な! 誰が……!」
即答だ。
二人が家なしでここに居候してる……
などの理由を説明するといろいろ面倒だし、
その必要もないだろうから、嘘をついていた方がいい。
その嘘をカバーしつつ、見栄も張りつつ、
るいの自尊心も傷つけるあたりがさすがは花鶏だ。
【智】
「まぁまぁ、ここは大人しく」
【るい】
「うむにゅ……」
【茜子】
「メイドの茜子さんです。マスターの身辺警護を担当してます」
【三宅】
「メイドなのに護衛……?」
【茜子】
「最近のメイドはそういうものなんです。カタナとかも使います」
【智】
「気にしないで下さい。彼女のセリフはいろんな意味ですごい高度なので……」
【花鶏】
「そいつは置物みたいなものだから。ま、適当に家の中を
案内するわ」
【三宅】
「あ、ああ。ありがとう……」
5人で花鶏の屋敷の中を徘徊する。
【るい】
「んで、その人は誰なの?」
【智】
「記者の人。ゲージュツの秋で、美術的価値のある建物を取材するんだって」
【るい】
「ほへー」
【三宅】
「よろしくね。メイドさん」
【るい】
「…………」
【花鶏】
「よろしくね〜、メ・イ・ドさん」
【るい】
「――――っ」
睨み合う。暗雲出る。
【茜子】
「暴食魔人は怪力メイド役でおねがいします。岩石とか投げて敵を撃退してください」
【智】
「だから、なんでメイドなのに戦うのよ」
花鶏の案内で、応接室からバルコニー、
浴室なんかを適当に見せる。
三宅さんは新しい部屋を見るたびに、いちいちメモを
取りながら細部の造作に感嘆の声を漏らしていた。
【三宅】
「こりゃ見事だ。屋敷の大きさだけなら大貫邸のほうがすごいけど、内部の装飾はこっちの方が見事だね。洋風の建築と日本古来の建築技術が融合した感じがいい」
【花鶏】
「たいしたことないわよ」
【三宅】
「いやいや、さぞかし名のある名家の邸宅なんじゃないの?
良ければ由来なんかを聞かせてくれると、記事としても厚みが
出るんだけど」
【花鶏】
「そうねぇ……」
【智】
「それ、僕も聞きたいな。花鶏ってロシア系クォーターだとは
聞いたけど、家のこととか知らないから」
【花鶏】
「そうね……」
【智】
「ね、花鶏の家ってどういう経緯で、ロシアと日本で結びついたの?」
【花鶏】
「わたしには、日本の花城家とロシアのズファロフ家、二つの血が流れているわ。わたしも詳しい経緯は知らないけど」
【花鶏】
「当時の花城家当主の祖父がロシアを訪ねたときに祖母と
知り合って、日本まで連れて帰って結婚したって話よ」
【るい】
「へぇ〜、なんか……いいね」
当時はまだ、海外にも気軽には
行けない時代だったんじゃないだろうか。
国際結婚に至るまでには、相当の苦労があったに違いない。
【智】
「ロマンチックだよね。国境を越えた結婚なんて。さぞかし
大恋愛だったんだろうね」
【三宅】
「いいねぇ。記事としても絶対受けるよ。日本とロシア、遠く海を隔てた愛の遺したもの……これだ」
【花鶏】
「花城家も元々は華族だったの。祖父の代にはすっかり落ちぶれてしまっていたのだけれども」
【花鶏】
「でも、ズファロフ家との婚姻でなんとか持ち直したのよ。
この屋敷も、ズファロフ家の資産があったからこそ建てられた
ものだし」
【花鶏】
「わたしの曾祖父、ズファロフ家のセルゲイ・アレクサンドローヴィチ・ズファロフはとても立派な人物だったわ。高潔で商才に優れ、貴族としても高い階級にあったのよ」
【三宅】
「へぇ! それじゃ、花鶏ちゃんはロシアの貴族の末裔なんだ。
すごいじゃないか。道理で立派なお屋敷のはずだ」
【花鶏】
「今となっては名ばかりのただの一般人よ。わたしの両親は
この屋敷だってじきに売り払うつもりだもの」
【三宅】
「そんな勿体無い。こんなに立派なのに」
【智】
「…………」
なるほど、それで花鶏の両親はここで暮らしてないわけだ。
誇り高い花鶏のことだ。学園が近いのを口実に
ここで一人、意地を張ってるのかもしれない。
【三宅】
「いや勿体無いなぁ、文化財に指定されてもおかしくない屋敷だし、由来だって詳細を調べてプレートにすれば、展示することだってできそうなのに」
その後も屋敷を巡りながら、三宅さんは
しきりに「勿体ない、勿体ない」と繰り返した。
僕だって勿体ないと思うけど、これだけの屋敷を管理していくのは、いまの花鶏の家の経済状況では辛いのかもしれない。
売りに出すという花鶏の両親の考えは、しごく自然なものだし、
仕方のない選択なのかもしれない。
【花鶏】
「所詮、没落した家よ。……今はね」
【茜子】
「今は?」
【花鶏】
「わたしが再興して見せる。わたしはこの大お爺さまの肖像画に、そう誓ったのよ」
【智】
「これが花鶏のひいお爺さんの……」
花鶏の気高さは、この人から受け継いだものなのだろう。
そこには、頑迷なまでの強固な意志――
それが服を着ているかのような男性が描かれていた。
スラヴ系の、部分部分に赤みを帯びた白い肌と、
彫りの深い顔立ち。
花鶏と同じ銀色の美しい髪と、その強い意志を表すかのような、
髭の下で一文字にキッと引き結ばれた口もと。
【花鶏】
「大お爺さま。花鶏は必ずやズファロフ家を、花城家を、
再び世に誇れる家にしてみせますわ」
【智】
「花鶏もいろいろがんばってるんだね」
【るい】
「ほんと。花鶏ってただのえろえろだと思ってたのに」
【茜子】
「淫猥な上にグランパ・コンプレックスなのが判明しました」
【花鶏】
「茅場、今日の晩ごはんは、もやしの根っこと卵のカラの炒めもので決定ね」
【茜子】
「出た、メイドいびり」
曾祖父の肖像画を見つめる花鶏の顔は、
澄んだ水色の瞳の中に厳しさを孕んでいた。
花鶏がどうしてたった一人で家にこだわるのかは知らない。
だけど、その決意は生易しいものではないことが感じ取れた。
【三宅】
「この肖像画も当時の名家の風格を湛えてるいい絵だ。是非記事に使わせて貰うよ。今度カメラマンを連れてくるから、撮影許可を貰えるかな?」
【花鶏】
「……ありがとう。この絵の価値を認めてくださるのなら、
撮影だってもちろん許可するわ」
花鶏自身やこの屋敷のことを持ち上げるような台詞には全然
動じなかった花鶏なのに、この時は初めて嬉しそうな表情を見せた。
ひいお爺さんの絵を褒められたのが、よほどうれしかったんだろう。
【智】
「花鶏って、ひいお爺さんのこと、本当に尊敬してるんだね」
【花鶏】
「ええ。大お爺さまは、わたしの目指す唯一の理想よ」
【智】
「そうなんだ」
【三宅】
「……さて、ネタの方はこれぐらいでいいかな。そろそろ
失礼するよ。今日は取材に応じてくれてありがとう。
こりゃとてもいい記事になりそうだ」
【花鶏】
「花城家のためにも、いい記事にしないと許さないわよ」
【三宅】
「ははは、もちろん。じゃあ後日、またカメラマンを連れて撮影に伺うんで、その時はまたよろしく」
そう言って三宅さんは、次回の来訪の
約束を取り付けて帰って行った。
どうやら、本当に普通の記者さんだったらしい。
よけいな取り越し苦労だったか……。
あとには僕ら四人――
【智】
「ねえ、花鶏……」
三宅さんが居たせいで聞けなかったことを聞いてみる。
【智】
「花鶏の呪いっていうのは、どっちの家から受け継いだものなの?」
【花鶏】
「ズファロフ家よ」
呪いを負っていたのは曾祖母なのだと、
花鶏は説明を加えた。
【るい】
「ロシアにも呪いってあったんだ?」
【花鶏】
「みたいね」
ロシアの方の家系から継いだ呪い――
【智】
「道理で、呪いに関するロシア語の本が存在するわけだ」
【るい】
「え、本って?」
【茜子】
「茜子さんと一緒に、あのパルクールレースで賭けられていた、
あの本のことですね」
【智】
「そう、その本だよ!」
花鶏は肖像画のほうを振り返って見上げると、
そのまま肩を竦めた。
【花鶏】
「……いいわ、見せてあげる」
花鶏はいつも大切に持ち歩いているあの本を取り出した。
【智】
「『ラトゥイリの星』、か……」
【るい】
「これ、私たちの呪いのことが書いてる本だったんだ?」
【花鶏】
「ええ。相当古いロシア語で書かれてるから、
わたしにもほとんど読めないけどね」
ロシアにおける古文みたいなものなのかな?
でも、花鶏で読めないのなら、ロシア語が
ちんぷんかんぷんの僕らになんて、当然読めるはずもない。
でも、読めはしなくても、表紙を撫でるだけで、
なぜか感情を揺り動かされてしまう。
この中に呪いを解く鍵があるかも知れないって考えるだけで……。
【智】
「呪いを解く気はないから、
花鶏はこれを解読する気もないんだよね?」
【花鶏】
「そういうこと。
これは大お爺さまの形見として大切にしてるのよ」
【智】
「そっか……」
【茜子】
「陰険姑息女は……呪いを解きたいのですか?」
【智】
「当然だよ。
でも、この本は花鶏の本なんだし、その当人が呪いを解きたく
ないって言っている以上、僕にはどうすることも出来ない」
【花鶏】
「この家の再興の為だもの。わたしが呪いを解かない理由は」
【るい】
「力を使ってお金を稼いだりするってこと?」
【花鶏】
「それもある。だけどそれだけじゃないわ」
花鶏は、僕が触れていた『ラトゥイリの星』の背表紙に、
指同士が触れないギリギリの位置で手を置いた。
【花鶏】
「この特別な力と聖痕は、わたしがズファロフ家の末裔である
証だもの」
【智】
「……でも花鶏の両親は、この屋敷を処分しようと思ってるんだ
よね」
【花鶏】
「させないわ。父と母は一般人と同じような、
普通の暮らしなんて物を望んでるのよ」
【花鶏】
「そんなの、認めない! 『普通』に甘んじた瞬間から、
人は堕落していくんだもの!」
【茜子】
「上しか見ないつもりですか」
たしかに花鶏の言うことにも一理ある。
パルクールレースの一件を思い返した。
シャレでは済まない本気の勝負。
だけど、僕らがもしも『普通』の人だったら……。
あんな刺激的な経験は、きっと出来なかったに違いない。
生まれたときから呪いを負っていた僕たちは、
『普通』を知らない。
高齢者の自殺の原因のほとんどは、
生活苦でも病苦でもなく、『退屈』だと言う。
呪いあるいは聖痕を失った『普通』の日々は、
もしかすると死よりも苦しい退屈の連続なのかもしれない。
【るい】
「でも、ずっとひたすら上り続けるのって辛くない?」
【花鶏】
「……皆元なら、家を飛び出しての廃ビル暮らしなんて底辺を
経験してるから、意外とわたしと解り合えるかと思ってたん
だけど……」
【るい】
「あれは……そういうんじゃないよ」
【智】
「まあ、呪いを解くには全員一度に解かないとダメって決まった
わけでもないし、どちらにしろ解き方がわからないんなら、
今はどうしようもないよね」
【智】
「でも、花鶏が家の再興を本気で目指してるっていうことだけは、よくわかった。もし僕らに手伝えることがあったら、遠慮無く
言ってよ」
ラトゥイリの星の上、僕と花鶏の指先が触れた。
でも、花鶏はスッとその指を離す。
【花鶏】
「……協力なんて、いらないわ」
【智】
「なんで……? 花鶏はすぐそうやって、なんでも一人でやろうとするよね」
【るい】
「そーだよ! せっかくトモが親切で言ってるのに」
【茜子】
「一匹狼気取りですか」
【花鶏】
「余計なお世話よ。知ってると思うけど、わたしってプライド
高いから。助けを求めるなんて、自分自身が許せないだけよ」
少し笑いながらそう言ったけど、
その瞳はなぜか、寂しさを湛えているようにも見えた。
【花鶏】
「まあ、あんたたちの手を煩わせるまでもないってことよ。
心配ご無用だわ」
花鶏がそう言う以上、僕たちが親切を押しつけることは
出来なかった。
【花鶏】
「送るわ」
花鶏にまた、そう持ちかけられた。
促されるままにうなずいて、複雑な心境でバイクの後ろに乗る。
るいと茜子も、花鶏との距離を測りかねたのか、
見送りは玄関までだったから、僕たちは二人っきりだ。
【花鶏】
「はい、ヘルメット」
【智】
「あれ? 予備のメットとかあったんだ?」
【花鶏】
「買ったのよ。智送り用」
【智】
「え……ホント? そんな、わざわざ……」
【花鶏】
「本当に決まってるじゃない。わたしの智へのラヴがどれほど濃厚なのか、わかった? わかったんなら、大人しく後ろに乗るの!」
花鶏がまだ秘密にしていることは、きっとまだまだあるに違いない。
僕らとは、考え方で行き違う部分もある。
【智】
「う、うん……。なんか、ありがと」
だけど、やっぱり花鶏は花鶏だ。
どうしても憎めないし、理解してあげたいとも思う。
【花鶏】
「ねえ、智もさ、バイクの免許取らない?」
【智】
「免許とってもバイク買うお金なんて無いよ」
【花鶏】
「そんなもの、わたしがいくらでも貸してあげるわよ」
【智】
「バイク貸してくれるの?
でもそれじゃ、花鶏が乗れなくなっちゃうよ」
【花鶏】
「大丈夫、わたしは智の後ろに乗るから」
【智】
「おお、花鶏を乗せて二人乗りか〜……」
女の子を後ろに乗せて、バイクの二人乗り。
しかも相手は、他ならない花鶏で……。
思わずその光景を想像しちゃって、ちょっとニヤリとしてしまう。
なんか、わりといい気もする。
【智】
「……いいかも」
【花鶏】
「おし! 揉み放題!」
【智】
「わ! やっぱりそんなワナが!
くそ〜、死んでも免許なんて取らないからね!」
【花鶏】
「なんでよ〜!? キャンセル無しよ!
キャンセル料は、智の処女膜1枚!!」
【智】
「あげないよ! クーリングオフ期間!!」
【花鶏】
「ちぇ〜」
そもそも膜とかないし!!
あってもあげないし!!
【花鶏】
「あはは、まあいいわ。そろそろ出るから、掴まってて」
【智】
「うん」
【花鶏】
「でも、わたしが貰うまで大事に取っておいてね? 膜」
【智】
「あげないってば!!」
行き違いなんて些細なことだ。
時が経てば、どうしてこんなことで悩んだのかすら
思い出せないほど、簡単に解決するに違いない。
その証拠に、二人での家路はとても楽しいものとなった。
〔惠との再会〕
【こより】
「へぇ〜、取材なんてなんかかっこいいですねぇ〜!」
【伊代】
「雑誌とかに載るの? それだったら発売日調べとくけど」
【花鶏】
「いらないわよ。そんなたいしたもんじゃないもの」
ちなみに昨日の取材の話を持ち出したのは花鶏。
無関心なフリしていても、自尊心をくすぐられるのに弱いのが
花鶏の可愛いところだ。
【るい】
「ホントはウチを褒められて嬉しいくせに」
【茜子】
「通訳:『没落貴族が夢見んな』」
【花鶏】
「この皆元、あんた居候の分際で……ッ!」
【るい】
「なんでここでその話が出てくるんだよ!」
【花鶏】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉めに揉めた。
【智】
「そうだ花鶏、撮影の日は決まったの!?」
【花鶏】
「え? ううん、まだよ」
【こより】
「カメラマンとか来るんですか? たーのしみですね〜。その日は鳴滝も見に行っていいですか?!」
【伊代】
「やめなさいよ、みっともない……」
【花鶏】
「いいわよ〜。可愛い可愛いこよりちゃんが写れば、
ヨダレものの記事になるわ。ノーブラに白のタンクトップ着て、乳首立ててから来てね♪」
【こより】
「……やっぱり行くの止めました」
【花鶏】
「乳首に絆創膏貼っていいから!」
【茜子】
「余計マニアックになってます」
相変わらず、花鶏はどこまで本気でどこから冗談なのかわからない。
全部本気かもしれない可能性もあるのが、花鶏の恐ろしいところだ。
【智】
「それにしても、三宅さんが最初に取材断られた屋敷って、
どうして断ったりしたんだろうね?
屋敷の中見せるくらい、どうってことないのに」
【花鶏】
「大貫邸とか言ったわね……。
たしかわたしの屋敷よりデカイとかなんとか……」
【茜子】
「きっと忌まわしい秘密があるのです」
【るい】
「死体隠してるとか!」
【伊代】
「それはないでしょ、ほら屋敷の中がすごく散らかってるとかじゃないの? 部屋数が多いと片付けだって大変だし。わたしなんか普通の家だけど、やっぱり土日とかはついつい……」
【こより】
「いやいや! きっと過激派テロリストのアジトとかなんですよう! 改造銃とか密輸拳銃とかいっぱいあるかもしれないですよ!」
【智】
「プラスチック爆弾とか?」
【こより】
「ですです!」
【るい】
「ミサイルとかも!」
【こより】
「み、みさいるは……」
【茜子】
「メーサー砲とかも」
【こより】
「メーサーは出力が確保できないですよう!」
【智】
「架空の兵器だってトコに突っ込もうよ」
【花鶏】
「ま、なんにせよ、後ろ暗いところがあるのは間違いないわね! デカけりゃ偉いってもんじゃないわよ!」
【伊代】
「何気にすごく気にしてるんじゃない」
【花鶏】
「うっさいわね! 乳搾るわよ!? 特濃ミルクたっぷり!」
【伊代】
「出るかっ!」
花鶏は憤然と腕を組み、思いっきり忌々しげな顔で鼻息を荒くした。
三宅さんの前ではあれだけ平然としてたクセに、
その実かなり屋敷の大きさで負けたことを気にしてたらしい。
まぁ、花鶏の屋敷より大きな家なんて、テレビぐらいでしか
見たことないし、育った屋敷なら愛着もあるだろうから、
花鶏の思いも無理からぬ事なのかもしれない。
【智】
「気になるんなら大貫邸、ちょっと見に行ってみようか?」
【花鶏】
「いいわね! ピンポンダッシュでもしてやるわ!」
【伊代】
「子供じゃないんだから」
【こより】
「でも、その大貫邸って、いったいどこにあるんです?」
あてどなく市中をさまよう僕たち。
変な子揃いなので、みんなでうろうろするだけでも
十分に楽しめるのが良い所だったりする。
それに、花鶏の家より大きなお屋敷っていうのは、
ぜひ一度見てみたいし。
【るい】
「どこだどこだ、どこどこだ〜」
【茜子】
「万策尽きた。諦めるしか」
【智】
「早いよ! まだ何もしてないよ!
……でも、三宅さんに聞いとけば良かったね。名刺もなかった
から連絡先もわからないし……」
【るい】
「おなかすいてきたよーーー」
【花鶏】
「皆元も、たまには食べ物以外のことも喋ったら?」
【るい】
「なんだと!?」
【花鶏】
「脳みそまで胃袋だって言ってんの!」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
揉めに揉めた。
【こより】
「どこか高いところに登れば見えるのでは!」
【茜子】
「ここはダウジングで探しましょう」
【伊代】
「あなたたち、もう少し常識で考えなさいよ!
こういう場合は、交番でお巡りさんに道を尋ねるのが
正しい解決方法じゃないの!?」
【こより】
「みんな多分、伊代センパイがそう言ってくれるの待ってました」
【伊代】
「え、なに? それどういう意味?」
【智】
「伊代はよくがんばった」
バカ話をしながらも、僕たちは最初から交番に向かって歩いていた。
例によって空気読めてなかったのは伊代だけだったってわけ。
【茜子】
「あ、交番です。変態姑息貧乳は、変態の罪と姑息の罪と貧乳の罪で自首してきてください」
【智】
「しません!」
【るい】
「あれ? なんかお巡りさんたち、妙に忙しそうだね?」
【こより】
「きっとテロでも起きたのであります! 大貫邸の爆弾が!」
【花鶏】
「おのれ大貫家めぇ……見つけたらこっそり庭に
ミント植えてやるわ」
【智】
「ミントだめ! すごい繁殖する! 庭埋まる!」
【茜子】
「人生に全く必要のないムダ知識。へえへえへえ〜」
【伊代】
「ついて行けなくなってきた……」
伊代がそろそろ、つっこみエネルギーを失ってきている。
この場合、むしろ主役は伊代なんだけど、それがわからないのが
伊代の伊代たる所以なんだろうなぁ。
【るい】
「誰かお巡りさんに、屋敷の場所を聞いてみる?」
【花鶏】
「そうね、警官だって男だもの、こういう場合は美少女の方が
情報を引き出しやすいわ。さあ、行きなさい! GO!」
【茜子】
「了解しました」
【花鶏】
「待て待て」
美少女というワードが出た瞬間、誰を指名するよりも早く
動き出した茜子の襟首を、花鶏が慌てて捕まえる。
【花鶏】
「この話の流れで、茅場になるワケないっての」
【茜子】
「チョーク、チョーク」
【花鶏】
「こういう時はもちろん、男を惑わすプリティフェイス! タイニーな胸に秘められた魅力が、今放たれる! さぁ、いきなさい!」
【花鶏】
「智!」
【智】
「ぼ……僕ッスか〜っ!!?」
【こより】
「まずは入口のガラス戸にぶつかれば、ツカミはバッチリです!」
【茜子】
「ウッフーン、アッハーンでOK。余裕」
【伊代】
「えっと、がんばってね?」
【智】
「素で応援しないで!?」
どうにか大貫邸の位置を聞き出して、
交番で見せてもらった地図を携帯で撮影。
地図を頼りにえんえんと歩くと、
どんどんと猫くらいしかいないような寂しい場所に行き着いた。
【智】
「この辺のはずなんだけどな〜」
【伊代】
「あー、えーっと……目的の苗字の表札なんて
どこにもなかったわよね?」
【こより】
「表札出てない家もけっこうありますしねー」
【花鶏】
「あーハラ立つ。遠すぎだっての!
足だるいのも大貫ってヤツのせいだわ」
【るい】
「私、もうペコペコだよ……」
僕らはだんだんと猫背になって、
表札をじろじろ探りながら歩く不審人物になっていた。
【こより】
「…………そういえば、表札で大貫を探さずに、
大きい屋敷を探せばいいのでは?」
【伊代】
「あ……」
【智】
「あ……」
【茜子】
「天才現る ↑」
こよりの当を得た指摘に、我に返ったみんなが視線をあげると、
やたら大きな洋館はすぐに見つかった。
【こより】
「これはおっきい……!」
こよりが見上げて感嘆する。見上げすぎてひっくり返りそうだった。
花鶏の屋敷よりも大きい屋敷なんて、初めて見た――
思わず声に出して、そう言いそうになったけど……
慌てて口をつぐんで閉ざす。
【花鶏】
「……なんか見つかったら見つかったで、ますますハラ立つわね」
花鶏の機嫌は、ますます悪い。
門の前まで行って見ると、なるほど庭木の枝に隠れて
見えにくい部分に、『大貫』と書かれた表札がかかっていた。
【るい】
「あ、これオオヌキって読むんだ」
【花鶏】
「皆元、アンタってば……」
【るい】
「な、なんだよ! その哀れむような目は!」
門の前に立って見上げれば、洋館の大きさは
あっけに取られるほどだった。
外交官邸か聖堂か、重要文化財に
指定されていてもなんら不思議はない。
敷地はもちろんのこと、屋敷自体の広さも
明らかに花鶏の屋敷より勝っていて……。
怖くてそっちを向きたくなかったけど、花鶏のこめかみに
血管が走る音が聞こえそうだった。
【伊代】
「すごいわね……こんなに立派な洋館、わたし今までテレビでも
見たことないわ」
【伊代】
「取材拒否したっていうことは、たぶん個人の所有物で指定文化財じゃないのよね。もったいない……これは国の文化財として保存すべきよ」
【花鶏】
「びきびきびき…………!」
く、空気読んで伊代! 頼むから!
無垢なる放火魔・伊代が、火にジェット燃料を
注いだせいで、花鶏はもう相当に危険な状態だった。
【智】
「あ、花鶏、落ち着いて……」
【花鶏】
「あああ、もうハラ立つわ! こうなったらほんとにピンポンダッシュしてやるわ!」
【智】
「や、やめようよ」
【花鶏】
「いいや! もうやると決めたわ!」
【智】
「伊代止めて、こより止めて、るい止めて、茜子止めて……」
【伊代】
「わたし、そこの角曲がったとこで待ってるから」
【こより】
「鳴滝の力では及びません……! 鳴滝も伊代センパイと一緒に
待ってますよう!」
【るい】
「お腹空きすぎて……」
【茜子】
「ピンポンしてインターホンに話しかけてから逃げてください」
ダメだ! 頼りにならないよ、この子たち!
【花鶏】
「智は付き合うわよね? せーのでピンポン押して逃げるわよぉ〜」
【智】
「うう、僕は今まさに逃げたい……」
花鶏に腕をしっかと捕まえられていては、
もはや逃げることも叶わない。
白いハンカチを振るジェスチャーとともに、
みんなが曲がり角まで逃げていく。
【花鶏】
「せーので押して走るわよ!」
【智】
「うぅ、僕はいったい何をしてるんだろう……」
ピンポンダッシュ――
言うまでもなく、それはピンポン+ダッシュの合成語である。
発する電子音から通称ピンポンと呼ばれる民家のインターホンを押し、住人が現れる前にダッシュして索敵外まで逃げ去る行為だ。
ぶっちゃけていえば、定番の悪戯。
子供が良くやって、捕まって怒られてる。
【花鶏】
「行くわよ? いい? …………せーーのっ!!!」
【惠/???】
「はい」
インターホンを押した瞬間、すぐ背後から声がかかった――
【智&花鶏】
「「ビビクゥッ!!?」」
僕たちは全身の皮膚が縮むくらいビックリして……
そのときたしかに、10センチは飛び上がった。
【惠/???】
「僕の家に用かな」
あああああ!
【智】
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさい!」
【花鶏】
「げ、うえヤバ、うェ……………………って?」
【惠/???】
「……おや、君たちは?」
【智】
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさ……………って、へ?」
【惠/???】
「まさか、君たちが訪ねてくるとはね」
僕らを飛び上がらせた声の主は、意外にも見知った顔だった。
【花鶏】
「えっと……確か」
【智】
「才野原……惠」
【惠】
「覚えていてくれたんだ? 君たちとはあの時以来かな?」
急遽参加できなくなった花鶏の代わりに、パルクールレースの
助っ人を務めてくれた彼、才野原惠だ。
【智】
「や、やぁ……。惠がちょうど帰ってきてくれて良かったよ……」
【花鶏】
「そ、そうね!
もうちょっとで入れ違いになるところだったわー!
あはは、あはははは!」
【惠】
「そうなのかい?」
【智】
「こ、この辺って不案内だから、探すの苦労したよ」
【花鶏】
「あ、あなたの家……調べるのも大変だったわ」
よく考えたら惠のことはほとんど何も知らないんだ。
こんな大きな屋敷に住んでることも、
なぜ表札が大貫になっているのかも知らなかった。
花鶏は今、僕と同じく、猛烈な勢いで
惠の家をわざわざ調べてまで訪ねた理由を捏造していることだろう。
【惠】
「……おや?」
やっぱりさすがに気づかれた……。
惠の視線の先、向こうの曲がり角。
隠れてこちらを覗いているるいたちの姿が、
残念ながら丸見えだった。
仕方がない。あきらめて嘆息する。
【智】
「みんな〜、こっち〜」
みんなをこっちへ手招きした。
【惠】
「みんなお揃いかい? 君たちは仲がいいんだね」
【智】
「まぁ、そこそこね……。
お〜い、みんな、もう大丈夫だからおいでよ!」
【惠】
「少し上がっていくかい? お茶でも用意させよう」
【智&花鶏】
「「喜んで!」」
即座に応じた。
これでまた、理由の捏造に使える時間が少し延びるからね。
大きな屋敷は、建物の中もすごかった。
全体的に薄暗く、手入れが行き届いていない感はあるけれど、
大貫邸は大きいだけじゃなく、細部の装飾も細やかで、
見事な造りをしている。
【惠】
「………………」
玄関をくぐると、振り返りもせず無言で歩く惠の後を、
カルガモのヒナのようにぞろぞろとつき従う。
玄関ホールから階段を上って2階へ。
惠はすぐそばの部屋に入った。
何も考えずについて行く。
【惠】
「………………」
部屋の中は引っ越したての新居みたいに、ほとんどなんの
調度品もなかった。
こんな生活感のない部屋で、本当に寝起きしてるのだろうか?
というよりも、こんな部屋に連れてこられて、
僕たちはいったいどうすればいいんだろう?
【智】
「えっと、惠?」
【惠】
「おや? みんなついて来ていたのか」
【花鶏】
「いや、普通ついて行くでしょ」
【惠】
「そうかな? 仕方ない。
悪いけど、そこで少し待っていてくれないか?」
【智】
「う、うん」
待つのは大歓迎だ。まだここを訪ねた理由を考えていない。
どういう理由なら自然だろう?
ちょっと顔を見たくなった?
そんなことでわざわざ家を調べてまで来るかな?
ストーカーじゃあるまいし。
惠を知ってる子から偶然、家を教えてもらったから、
とかはどうかな?
いや……ヘタな嘘は、すぐにボロが出そうだ。
マズいな……マズすぎる!
まさか、デカイ屋敷が癪なので、ピンポンダッシュでも
してやろうと思ったなんて、正直に言えるはずもない。
花鶏は思いついたかな……。
【智】
「ん〜ん?」
【花鶏】
「ブルブルブル」
ダメだ……!
惠と僕らの接点なんて、あのパルクールレースぐらいしかない。
……そうか、あの時のお礼を言う為に
訪ねてきたというのはどうだろう?
間が開きすぎてる上に手ぶらなのは
ちょっと不自然だけど、おおむね問題ないはずだ。
これだ!
思わずグッと拳を握って顔を上げたら、
目の前で惠が服を脱いでいた。
【智】
「ふぇ……あ……!?」
【惠】
「なんだい?」
【花鶏】
「あ、あんたいきなり何脱ぎだしてんのよ!
わたしオトコの裸なんかに興味ないわよっ!?」
花鶏の正直すぎる問題発言。でも、惠は泰然と構えていた。
後ろでこよりやるいが「うっきゃー!?」と叫ぶのも
どこ吹く風で、むしろ口元に薄い笑みすら浮かべている。
【惠】
「……男に見えるかい?」
【智】
「……………………んふぇ?」
【花鶏】
「………………え…………?」
僕らが思わず目を覆うのも構わず振り返った惠は、
スラリとした伸びやかな体にシンプルなデザインのブラが……。
【智】
「え、あれ? ブラ!?」
【花鶏】
「あ、あんた女だったの!? って言うかそれ……」
女の子の体だと言うのにまじまじと見てしまった。
花鶏が指差す先、
わき腹のあたりに、見覚えのあるものがあったからだ。
それは、僕らみんなの体に刻まれたものと同じ。
……呪いの印だった。
【全員】
「「「「「「ええええええ〜〜〜〜っ!!?」」」」」」
【惠】
「はは、まさか男だと思われていたとはね」
【花鶏】
「いや、今驚いてるのソコじゃないでしょ!
ソコも驚いたけどっ!」
【智】
「め、惠って、意外と天然なんだね……」
【惠】
「そうかな?
まぁ、込み入った話はお茶でも飲みながらにしないか?」
惠の屋敷では、若い女の人とお婆さんが二人、
メイドとして働いていた。
メイドだなんて、大豪邸ならではだろう。
食堂に通された僕らは、楽しくテーブルを囲みながら、
香りよい紅茶をいただいた。
【茜子】
「天然メガネ巨乳にライバル出現。不思議キャラ王座から転落寸前」
【伊代】
「不思議キャラはあなたでしょ!」
【こより】
「二人とも、自覚がないって恐ろしいッス」
【るい】
「んむ……ん、そうだね。はむ、んぐ」
【花鶏】
「やめい! お茶請けを全力でむさぼるのはやめい!」
流れ的に、僕らがどうしてここを訪ねたのかに関しては
うまくスルーできそうだったけど、惠も僕らの仲間と解った以上、
呪いのことは話さなければならない。
惠はどこまで知ってるんだろう?
【智】
「惠……実は僕らは、君の体にある痣の意味を知ってるんだ」
【惠】
「……どういうことかな?」
【智】
「僕らにも、その印があるんだ」
【惠】
「な…………そ、それは本当かい?」
さすがの惠も、少し驚いた顔をした。
【花鶏】
「嘘をつくなら、もっとマシな嘘つくわよ」
【惠】
「それもそうだね……僕ら、というのは。
もしかして君たち全員なのかい?」
僕らが惠の呪いの印に驚いたのと同じように、
惠もまた僕らが呪いを負っていることに驚いているようだった。
あの時すでに僕らのことを知っていて近づいた……
というのは考えすぎだったか。
【伊代】
「ええ、みんなそれぞれに別々の呪いを背負ってるわ。あなたも
その印……何か呪いによって禁じられてることがあるんでしょ?」
【茜子】
「それから、特別な力もある」
【惠】
「…………」
惠は答えなかったが、沈黙には肯定が含まれているような気がする。
たぶん呪いは生死を左右するものだけに、話しにくいのだろう。
【智】
「呪いの内容は話さなくていいよ。無理に話すものでもないしね」
【惠】
「ふむ……」
【智】
「実は、大きな洋館を取材したいっていう記者さんが花鶏の屋敷に来てさ。花鶏の屋敷の前に、ここの屋敷の取材を断られたって聞いたもんだから、興味を持ってね」
【惠】
「ああ……この屋敷は、広さの割に使用人の数が少ないから、
手入れが行き届いてなくてね。取材はちょっと」
【るい】
「んぐんぐ……もしかしてここ、メグムとメイドさんたちの三人だけで住んでるの? ……もったいないね、ふがんぐ……」
【惠】
「そうでもないんじゃないかな?」
【茜子】
「…………」
茜子が訝るように惠を見ていた。
なにか、嘘が混じっているのかもしれない。
【智】
「茜子、詮索するのはよそう。今は、惠が僕らと同じ呪いを負った仲間だってわかっただけで十分だよ」
【茜子】
「そうですか。レズのエサAがそう言うのなら」
【こより】
「その呼称はさすがにどうです……?」
【茜子】
「それなら言っておきましょう。
茜子さんは、人の心を読む力を持っています」
【伊代】
「あなた……」
茜子が、面と向かって自分の能力を告白した。
惠はあごを引いて少し考える。
茜子と他のメンバーの顔をゆっくりと見回して、少し考え込んだ。
【惠】
「……力と呪いの内容は話せないが、僕の話せることなら話そう」
【智】
「構わないよ。こっちも話せる話はしておこうか」
そこで気がついた。
惠が絶対に知らない情報を、僕たちは持っている。
【智】
「でも、そうなると……」
花鶏の方を、ちょっと窺う。
【花鶏】
「……本のことも話さないといけないわね」
花鶏は腕組みして言う。
呪いのことを話せば、呪いの解ける可能性を話せば、
惠との関係が複雑になるかもしれない。
だけど同じ呪いを負っている以上、
惠にだけ伏せているわけにはいかないだろう。
【智】
「話したほうがいいとは思うけど、花鶏はいいの?」
【惠】
「本……? パルクールレースの時の、あの本かい?」
【花鶏】
「そう。そうね……これはわたしが話すわ」
組んでいた腕を解いて、しなやかな指先をテーブルに這わせた。
一瞬視線を逸らして最後の微かな躊躇を捨ててから、
花鶏は語り始める。
【花鶏】
「惠、あの時取り戻した本は、わたしたちの呪いに関わる本よ。
呪いと力の意味……もしかすると、呪いを解く手段さえも書いてあるかもしれないわ」
【惠】
「呪いを解く手段が……?!」
わずかに身を乗り出す惠。あきらかに、興味を持ったみたいだった。
惠の反応に、花鶏の指先にかすかな力がこもる。
【花鶏】
「そうなの……あなたもやっぱり、呪いを解きたいクチなのね?」
【惠】
「おや、まるで君は、呪いを解きたくないような口ぶりだね?」
【花鶏】
「ええ。わたしにとっては力も呪いも、大切なものだから。
力は特別である特権。呪いは特別である証。呪いは枷なんかじゃないわ。わたしにとっては聖痕なのよ」
【智】
「ごめんね、惠。僕たちも正直、意見がまとまっていないんだ。
僕は呪いを解きたいって思ってるんだけどね。
花鶏と違って、僕にとっての呪いは、やっぱり枷だから」
【花鶏】
「惠、あなたも同じ痣を持ってる。だから話した。
あなたはどう? 呪いについてどう思う?」
【惠】
「…………」
【こより】
「べ、別に結論を急がなくても……よろしいんじゃないカト……」
緊張した空気に耐えかねたこよりが、口を出した。
【智】
「そうだね、今は惠にもこのことを知っておいて貰うだけでも
十分なんじゃないかな?」
【惠】
「……確かに、なかなか難しい問題かもしれない」
【茜子】
「でも、本当は答えは決まってるんじゃないですか?」
【惠】
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
【花鶏】
「そう。ま、それでいいわ。今すぐどうこうって訳じゃないしね」
【るい】
「呪いはイヤだけど、慣れたらわりとどうにでもなるし」
【惠】
「……君はとても前向きだ」
ともかく、惠も呪いを負っている以上、僕らの仲間だ。
だったら……。
【智】
「ねえ、惠。僕たち最近、街中の雑居ビルの屋上に溜まってるからさ。良かったら今度おいでよ。……って言っても、場所が説明しにくいな?」
【花鶏】
「あっちに出てきた時に、電話して貰えば?」
【智】
「そうだね。じゃあ惠、良かったら僕に電話してよ。
結構いつでもいるから」
【惠】
「君の友情に感謝を」
思いがけず真剣な話になってしまった。
テーブルの紅茶はもう冷めていたけれど、それでも
口に含むと上質な香りが感情をリラックスさせてくれた。
〔取材をしましょう〕
いよいよ今日は、花鶏の屋敷の撮影の日。
三宅さんは、相変わらずの無精ひげを生やしたままでやって来た。
【智】
「で、なんで僕まで呼ばれたの……?」
【花鶏】
「美少女が写ってるほうがいいでしょ?」
【三宅】
「ははは、そうだなぁ。
ここは可愛い女の子ばっかり揃ってるから、取材も楽しいよ」
【茜子】
「美少女、美少女」
呪いでもかけそうな妙なポーズで、
美少女アピールしようとする茜子。
【花鶏】
「黙れメイド!
……ところで、カメラマンを連れてくる予定じゃなかったの?
姿が見えないみたいだけど、今日も一人なのかしら?」
【三宅】
「いやそれなんだけど、実は運悪くダンスの撮影とバッティング
しちゃってね。あっちは被写体が動くもんだから、プロのカメラ
マンじゃないと撮れないって言われて」
三宅さんは申し訳なさそうに頭をかいた。
【三宅】
「だから、動かない建物は俺が自分で撮影することになっちゃったんだよ。ゴメンねー、なんか貧乏くさいとこ見せちゃって」
【るい】
「おっちゃん、自分で写真撮るんだ?」
【智】
「るい……お兄さんは言い過ぎでも、せめて三宅さんって
呼んであげようよ……」
【三宅】
「たはは……俺もそろそろそんな歳だよ」
しかし、一度は納得したけれど、やっぱりこの三宅という記者は
胡散臭い。
本当に記者なのだろうか?
名刺も出さないし、カメラマンも連れてこない。
もしかしてすべて虚言なのでは、とも思わせる。
【三宅】
「仕方ないね、人間、あきらめが肝心だ。まあ、俺でもそれなりに写真は撮れるから」
【智】
「カメラのことは詳しくないですけど、高価そうなカメラですね」
これであきらかに安物のカメラなんかを持っていたら、
露骨に怪しいんだけど。
三宅さんの持って来たカメラは、見るからに高価そうな
本格的一眼レフだった。
衣服も腕時計も、機能や見た目より値段の安さで決めているような
風貌の中で、かえってそのカメラは浮いて見えた。
花鶏も察しかねているようだ。
【三宅】
「先輩記者のお古でね。安く譲ってもらったんだ。俺も使えるってだけで詳しくは無いけど、けっこう高性能らしいよ?」
【三宅】
「あ、それからこれ、名刺……前回は切らしてたからね」
手渡されたのは、今度こそ名刺だった。
三宅康博――一応名前を聞いたことのある
大衆向け雑誌社に所属している記者らしい。
住所や連絡先なども記してあるし、名刺はプリンターでつくった
ような偽物には見えなかった。
考えすぎか……。
【三宅】
「それじゃあ、さっそく撮っていくよ。
まずはあの肖像画からにしよう」
【智】
「あ、荷物運ぶの手伝いますよ」
【三宅】
「ありがとう」
【三宅】
「ところで……」
撮影もあらかた終えて、荷物を仕舞い始めた三宅さんが、
何気なく呟いた。
【三宅】
「実は少し、ズファロフ家のことを調べてみたんだけど、
おもしろいことが判ったよ」
【花鶏】
「面白いこと?」
花鶏が少し、眉をひそめる。
【三宅】
「ズファロフ家はなんでも、現地では魔女の血筋と呼ばれてた
そうじゃないか。どこか他の国からフラリとやってきて、
ロシアのその土地に住みついたとか」
【三宅】
「不思議な力で見る見るうちに財を成して、とうとう貴族にまで
なったと言われてるね」
魔女か……その話が本当なら、もしかしてズファロフ家というのは、ロシアが起源の家じゃなかったのかもしれない。
魔女とされたのも、閉鎖的な田舎社会にありがちな、
余所者に対するレッテルっぽいし。
【花鶏】
「ロシアの魔女? わたしがバーバ・ヤーガの娘だって?」
【三宅】
「花城家のことも調べたよ。悪いとは思ったんだけど、
どうも記者っていうのは気になると止まらなくてね」
【花鶏】
「…………」
【三宅】
「花城家にも怪しげな話が残ってる。大昔の当主が呪術とかの
オカルトに傾倒して、古書や骨董の収集に熱中した挙句に、
発狂して自殺を遂げたとか」
【三宅】
「ほんとは国際結婚もロマンチックなものなんかじゃなくて、
そういうオカルトが裏に潜んでるんじゃないのかい?」
しばらく真剣な目で三宅さんを見ていた花鶏は、やがて笑った。
【花鶏】
「あはは、もしかしてあなた、そんな戯言を本気で信じてるの?」
【三宅】
「それだけじゃない。たとえばそこの二人、
ほんとはメイドじゃないだろう?」
【智】
「…………」
冴えない風貌に反して、思いのほか鋭い。
これは本物の記者であった方が、かえってヤバイかも知れない。
僕らは呪いと特別な能力を持っている。
もし記事になんかされてしまったら、
どんなことになるかわからない。
【三宅】
「茜子ちゃん、不思議な力があるって噂されていて、
魔女呼ばわりされてるらしいじゃないか。
魔女って呼ばれるのは、良くある話なのかい?」
【三宅】
「それにるいちゃんは、中学の時に短距離で超高校生級の記録を
出したらしいね。そのくせ、その直後から突然ばったりと
スポーツ全般から身を引いてる」
【るい】
「そんなことまで調べたんだ……?」
【三宅】
「悪いとは思ったんだけどね」
【茜子】
「なるほど。それで、もしわたしが本物の魔女なら、どうしますか? 今までずっと隠していたことを考えれば、それを知った者はただでは済まないと思いますが……」
【三宅】
「お、おいおい……まさか俺を呪い殺したりするつもりかい……?」
おそらく、この人は調べた情報を鵜呑みにして、
オカルト的な現象を信じ込んでいる訳じゃないだろう。
なにか……どこかで確信するような証拠をつかんでいるんだ。
こうなったらもう、隠そうとする行為は
余計な好奇心を煽るだけになる。
【智】
「花鶏、るい、茜子……これ以上隠すのは、
かえって逆効果だと僕は思う」
【るい】
「うん……」
【茜子】
「そうですね」
【花鶏】
「ま、仕方ないわね」
【三宅】
「やっぱり……君たちは……」
【智】
「三宅さん。あなたに僕たちの秘密をお話しします。
今まで誰にも話したことのない話です」
【智】
「ただし、この話は絶対に他へ漏らさないで下さい。
記事にするなどもっての他です。もしも約束を破った場合は……」
【智】
「あなたは、魔女の力を身を以て知ることになります」
【三宅】
「あ、ああ……約束する」
三宅さんが唾を嚥下する音が聞こえた。
【智】
「呪いと力の関係は、僕たちにもまだわかりませんけど……」
能力の内容、呪いの内容は伏せたまま、その二つが僕らに
備わっていることを簡単に三宅さんに話す。
ただ念のために、ここに居る四人以外の仲間の存在は秘しておいた。
メモを取り出そうとしていた三宅さんの手を、控えめに制す僕。
【智】
「メモは……」
【三宅】
「ああ、済まない。つい習慣でね……」
三宅さんは、苦笑いしながらメモを引っ込めた。
【三宅】
「……すると君たちは、常識を超えた特別な力を持っているかわりに、呪いで行動を制限されているんだね」
【智】
「はい」
【三宅】
「驚いた。かなりの確信は持ってはいたけれど、
改めて聞くとやっぱりね……」
【花鶏】
「で、知的好奇心とやらは満たされたかしら?」
【三宅】
「ははは、キツいな。調べた資料は他の記者仲間にバレないようにするし、記事にもしない。約束する」
【茜子】
「当然です。約束遵守・オア・ダイ」
【三宅】
「個人的な好奇心から、ついつい突っ込んで調べてしまったのは
確かだけど、聞いてしまった以上は俺もできるだけ力になりたい」
【三宅】
「俺も記者だ。
調べものとかで、きっと君たちの助けになれると思うよ」
【るい】
「ふうん。三宅のおっちゃんて、案外いいヤツ?」
【三宅】
「善人でありたいとは願ってるよ。現実は凡人だけどね。はははは」
意外にも三宅さんは僕たちに好意的で、協力さえ持ちかけてくれた。
最悪の場合は茜子の言うような脅迫をしなければならないと
思っていたので、これは予想外のとてもありがたいことだ。
【三宅】
「俺はもっと過去の伝承なんかを調べてみようと思う。君たちに
なぜそんな力があるのか、力があるのは4人だけなのか……。
君たちだって気になるだろう?」
【智】
「そうですね……。僕たちは今まで日々生きていくので精一杯で、呪いや力のある理由までは考えたことがなかったかも」
【三宅】
「起源を調べれば君たちの力をもっと役立てる方法や、呪いを避ける方法もわかるかも知れない。もちろん仕事をしながら片手間にしかできないけど、それでも俺なりに調べてみるよ」
【智】
「ありがとうございます。でも……どうしてそこまでしてくれるんです?」
率直な疑問をぶつけると、三宅さんは真剣だった表情を崩して
恥ずかしげに頭を掻いた。
【三宅】
「いや……、やっぱりほら、男なら可愛い女の子たちのことは
ほっとけないだろ? なんて、あははは……」
【花鶏】
「ふふ、言っとくけどわたしは男には興味ないから」
花鶏さん、爆弾発言は相手を選んでしゃべってください……。
【三宅】
「それじゃ何かわかったら連絡するよ。君たちのほうでもなにか
俺に話せることができたら、遠慮無くいつでも教えて欲しい。
そのほうが調べもはかどると思うからね」
【花鶏】
「ま、期待はしてないわ」
【三宅】
「ははは……、おっと忘れてた。
記事のほうが出来たときも連絡するから。
こっちが本当の目的だったの、危うく忘れるとこだったよ」
【茜子】
「茜子さんは全国から貢物が殺到するような超絶美少女として
紹介しておいてください」
【るい】
「んじゃ、私は天才試食人で!」
【花鶏】
「試食人て、なによそれ……わたしのことは、ロシア貴族と日本の華族の血を引く金髪碧眼の美貌のお嬢様として書きなさいよ」
【智】
「ぼ、僕は普通で……」
【三宅】
「なるべくご希望に添えるようにするよ。それじゃ」
【るい】
「ばいばい、三宅のおっちゃん」
そういい残して、三宅さんは帰っていった。
花鶏の曾祖父セルゲイの肖像画の下、僕たちは改めて考える。
僕たちはあまりにも自分たちのことを知らない。
【智】
「ねぇ、ズファロフ家って、どういう家柄だったの?」
【花鶏】
「あいつの言った通り、魔女の生まれる家と言われてたらしいわ。オカルトに傾倒していた花城家がいろいろ伝承を調べているウチに、いつの間にかロシアにまで至って、やっとたどり着いた先」
【花鶏】
「祖父がわざわざロシアまで出向いて、本物の魔女の血族の娘……
つまり、呪いの力を持った祖母と血縁関係を結んで、花城家は
ついに本物の力を手に入れたのよ」
【花鶏】
「結局、時代の流れには勝てなくて、今は見ての通りに
落ちぶれてるけど……」
【智】
「そっか。それが花鶏が呪いを消したくない理由なんだ?」
【花鶏】
「ま、ね。魔女の娘の誇りってやつ?」
花鶏は、特別な力を持って生まれるべく、生まれた子なんだ。
特別であることは、花鶏にとって自分を構成する重要な要素で、
同時に誇りでもある。
特別な要素を切り捨てて『普通』になった自分なんて、
花鶏には考えられないのだろう。
そんなことになれば、自分にすらなんの価値も
見いだせなくなってしまうのだろう。
【花鶏】
「わたしは曾祖父セルゲイを尊敬してるわ。崇拝してると言ってもいい。魔女迫害の世相をものともせず、力と呪いを持っていた曾祖母プラスコーヴィヤと結婚した」
【花鶏】
「そして臆することなく力を用いて財を成した。やがてロシアでの弾圧が厳しくなると、花城家と自分の娘に血縁を結ばせて、異郷の地日本へ旅立つことも辞さなかった」
【花鶏】
「わたしはバーバ・ヤーガの娘であることを誇りに思ってるのよ」
バーバ・ヤーガ。
それはたしか、ロシアの伝承にしばしば現れる魔女だ。
深い森の奥、雌鶏の足の上に立つ小屋に住み、人々から
敬われると同時に恐れられた魔女。
【智】
「……花鶏は一人じゃないからさ、僕たちに力になれることがあったらなんでも言ってよ。滅多に役に立たないかも知れないけど」
【花鶏】
「じゃあ一晩……!」
【智】
「えっちなことはダーメ!!」
【花鶏】
「い〜や! 絶対食う。智とこよりちゃんだけはわたしが貰うわ! ブルジョアになってハーレムに置いてあげるから!」
【るい】
「こらっ! トモに手を出すな!」
【茜子】
「特殊な恋のバトル」
【花鶏】
「ふん! 見てなさい? ぜったい智は将来、よだれ垂らしながらわたしのペニバンをおねだりするようになるんだから」
【智】
「それじゃただの変態だよ……!」
僕こそ将来は呪いを解いて、花鶏を逆に……。
いやいやいやいや!
何でそうなるんだ?
……自分が花鶏に少しずつ惹かれていることに、
僕はようやく気づいた。
〔感染する呪い?〕
照りつける日差しが多少きつくても、
ここは風通しがいいお陰で、いつも涼しい。
本当にいい場所を見つけたものだ。
僕らはすっかり溜まり場として定着したビルの屋上で、
今日も今日とてたむろっていた。
【智】
「前に言ってた花鶏の屋敷の取材、この間来たんだよ」
【こより】
「うは、ともセンパイ行ったんですか? ずるいですよう」
【花鶏】
「私が呼んだのよ。妻ですって」
【智】
「嘘言わない! ……でその時なんだけど、実は――」
【茜子】
「我々のシークレットぢからが、記者にバレてしまいました」
どう切り出そうか躊躇した隙に、すばやく直球な発言を
茜子にされてしまった。
【伊代】
「え……そ、それちょっとどういうことなの!? 大丈夫なの?! 記者の人になんて秘密がばれたりしたら、わたしたちどうなるか……!」
【るい】
「多分、大丈夫」
【智】
「誰にも言わないって約束してくれたからね。それに、バラしたらタダじゃおかないって、さんざん脅かしておいたし」
【こより】
「だいじょぶならいいんですケド……」
あのときは、正直に話してしまう以外に
方法はなかったんだから、しょうがない。
【智】
「それに、あの場所に居た僕、花鶏、るい、茜子の四人の事しか
教えてないから。もし万が一なにかあったとしても、こよりと
伊代のことは秘密にしてあるから、安心してよ」
【伊代】
「そうは言われてもね……自分たちだけが安全だからって
安心できるほど、自己中にはなりきれないわ」
【茜子】
「胸だけ女は、世界の中心でおっぱいと叫ぶわけですね」
【伊代】
「叫びません!」
【るい】
「おっちゃん、私たちになんでこんな力があるのか、
調べてみるって言ってた」
【花鶏】
「ま、わたしたちが調べられることなんて限られてるし、
学園生は学園生らしく、遊んで勉強してえっちして報告を
待つことにしましょ」
【こより】
「えっちしてるのは花鶏センパイだけですよう!」
【花鶏】
「何言ってんの、わたし、もうすごくご無沙汰なのよ?!
本命のために女の子遊びを控えてるんだから」
【茜子】
「ちなみに本命は……」
【花鶏】
「智とこよりちゃんとおっぱいに決まってるじゃない。
あ、あと智の学園の子も可愛かったわね♪」
【智】
「宮まで!?」
【こより】
「3人もいるのは本命って言いません! ぶー!」
【伊代】
「誰か、おっぱいしか価値を認められてない、
可哀想なわたしをフォローして……」
【花鶏】
「あら、もちろんぱんつの中にも興味あるわよ?」
【伊代】
「フォローになってない!!」
秘密は確かに三宅さんにバレてしまったけれど、
僕らの日常はまるで変わりがなかった。
【るい】
「花鶏の屋敷の敷地って広いしさ、いろいろ掘ってみたら、
財宝とか出ない?」
重苦しい話はいつのまにか脇へ流されて、
僕たちはいつものバカ話に興じている。
いつしか話題は「花鶏を如何にして再びリッチ貴族にするか?」
にすり替わってしまっていた。
【花鶏】
「財宝って。あんた犬?」
【るい】
「温泉とかも出るかも」
【こより】
「いやいや、やっぱりここは全財産をいきなり宝くじにつぎ込んで、のるかそるかのロマンをですよう!」
【智】
「それ、リッチ貴族になる確率より、路頭に迷う確率の方がはるかに高いよ?」
【茜子】
「ネットオークションで賢者の石を買って、金を作り出すというのはいかがでしょう?」
【花鶏】
「錬金術とかファンタジーすぎだわ」
【伊代】
「えっと……」
【るい】
「賞金狙いでクイズ番組に出てみたら、大当たりするかも」
【智】
「優勝しないと意味無いけどね。まずムリだ」
【こより】
「お馬さんに賭けるのはどうですか!
ビギナーズラックって言いますし、最初から全額張っちゃうと、男らしいですよう!」
【花鶏】
「男じゃない」
【茜子】
「ネットオークションで魔法のランプを買って……」
【智】
「ネットオークション万能説!?」
【茜子】
「こするのは得意かと思ったんですが」
【花鶏】
「智の股間こすって魔神が出るのなら、
いくらでもこすってみるのに」
【智】
「出ない。絶対出ない。試さないで」
花鶏にこすられたりしたら、別の魔神が登場してしまいそうだ。
予想通りまともな案は一つとして出てこない。
【伊代】
「あの……」
【こより】
「う〜ん。じゃあマンション麻雀とか?」
【智】
「こより、いい加減ギャンブルから離れて」
【こより】
「そんな、ギャンブルはロマンですよう!」
お〜い……。
こよりがギャンブル好きだったなんて、ちょっと意外だった。
【こより】
「じゃあ、ともセンパイには、なにか他にいいアイディアが
あるんですか?」
【智】
「そうだなぁ……」
少し考えてみる。
花鶏はもともと頭が切れるし、思考回路は感度良好だ。
問い詰められても戸惑わずに対応できる筈だ。
それを活かす方向はどうだろう?
【智】
「花鶏なら会話を武器にすることができるから、健康食品の
販売なんかはどうかな? まずはネットではじめて、軌道に
乗ったら本を出して、最終目標はテレビへの進出」
【智】
「商品は別になんでもいいよ。珍しいキノコか何かを適当に
加工して特許を取って、お金に困ってる医師資格者にはした金を握らせて名前だけ借りて、推薦文を書いてもらって……」
【るい】
「それ、もしかしてもしかしなくても詐欺なんじゃ……」
【こより】
「そんなの、特許とか取れるんですか?!」
【智】
「特許の認可なんていいかげんなもんみたいだからね。
アメリカなんかじゃ、近年になっても永久機関に
特許がおりてたりするよ」
【智】
「あくまで商品には薬効を書かずに、ネットや著作で
『患者の体験談』とか『〜に効くと言われている』って書くんだ」
【智】
「普通、食品は薬効を謳うことができないけど、ネットや著作で
なら表現の自由が保障されてるからね。花鶏ならクォーターっ
てことで見た目にもインパクトあるし、たぶん……」
【花鶏】
「智、黒すぎる!」
わりと青い顔で花鶏が僕の肩に手を置いていた。
【るい】
「こうなったら、ツチノコを探しに行くしか!
世紀の大発見に、テレビが押しかけてくるかも!」
【こより】
「いやいやここは、もうラスベガスまで行くしかありませんです! 777でジャンジャンバリバリですよう!」
【茜子】
「ネットオークションで、穴の開いた柄杓を……」
【伊代】
「関係ないでしょ!!」
今までずっと口を挟むことができなかった伊代が、
とうとう我慢しきれず割って入ってきた。
【伊代】
「ふぅ……あのねえ……」
言う。
絶対に空気読めない発言をする。
【伊代】
「お金なんて、みんなが欲しがってるものでしょ?
そんなに稼ぎたいのなら、突飛なこと考えてないで、ちゃんと
就職してまじめに働くのが一番なんじゃないの!?」
【伊代】
「そんなの、フェアじゃないわよ!!」
【智】
「ほら」
【花鶏】
「ふぅ…………」
【るい】
「うぅ…………」
【こより】
「むぅ…………」
【茜子】
「んむ…………」
【伊代】
「な、なに? なんなのその反応? わたしの言ったこと、
フェアよね? 間違ってないわよね? やっぱり人間、
地道にコツコツやっていくのが……」
【智】
「……伊代」
あまりのイケてさなに硬直していた体を動かし、
花鶏は伊代の肩に手を置いた。
【花鶏】
「今そういう話してないから」
着信音に携帯を取り出して確認する。
【智】
「あ、惠だ……はい、和久津です。……ああ、来てくれたんだ。
……うん……うん。その近くのビルだよ。今、行くから、
その辺で待ってて」
【花鶏】
「惠?」
【智】
「ちょっと下まで迎えに行ってくるよ」
【惠】
「やぁ、招待ありがとう」
【智】
「こちらこそ。来てくれて嬉しいよ」
【こより】
「大かんげー! って、いきたいところなんですケド、
まずはあの事を話すんですよね?」
【智】
「そうだね。まずはそれからだ」
【惠】
「なんの話かな?」
【智】
「この間、記者の人が花鶏の屋敷を取材に来たんだけど、
そのときに……」
【茜子】
「我々のシークレットぢからが記者にバレてしまいました」
またちょっと考えた隙に、茜子に先回りされてしまった。
【惠】
「なんだって? それは……」
やはり惠も、呪いのことを知られるのはマズかったみたいで、
かなり困惑した表情を見せた。
【智】
「大丈夫、その場に居合わせた僕と花鶏、るい、茜子の四人のことしか話してないから、とりあえずは安心して」
【智】
「でも、そういうことがあったってことは、一応知らせておかないといけないと思って」
【惠】
「…………」
【るい】
「三宅のおっちゃんは秘密にする、協力するって言ってたから、
きっと大丈夫」
【惠】
「いや……あの記者はなにかひっかかる。
あまり気を許さない方がいいんじゃないのかな?」
そういえば、惠の方は、取材を断ったんだっけ。
手入れが行き届いてないからって言ってたけど、
あれ、言い訳だったんだ?
【るい】
「協力してくれるって言ってるのに、疑うのは良くないって!」
【花鶏】
「皆元、落ち着け」
るいの信じたいっていう気持ちもわかるけれど、惠の警告も当然だ。
僕らだって一応信用はしたけれど、完全に気を許したわけじゃない。
【智】
「…………」
それは僕ら同士にも言えることだ。
互いの能力と呪いの束縛について、
僕らにはまだ判っていないことが多すぎる。
調べようにも、調べる方法が見当付かない。
結局、なれ合っているように見えて、
その実お互いの距離を測りかねているというのが現状だ。
【智】
「惠、忠告ありがとう。るいの言う通り、人を疑うのは
あまりいいことじゃなけど、頭の隅には置いとくよ」
【惠】
「ああ、それがいい」
【伊代】
「むずかしいわね……。人との付き合い方って」
【るい】
「うーん……。ホントにむずかしい」
今の僕には、昔のように
一人で生きていく強さが残っているだろうか?
僕にはもう、孤高を気取る余裕はない。
仲間たちに恵まれて、すっかり弱くなってしまった。
【惠】
「そうだな、みんなにも僕の知っていることを話しておこう」
【花鶏】
「聞きたいわね」
【惠】
「昔、呪いを調べていた人が聞いた話なんだが、この呪いは人から人へ伝染するものらしい。『呪いに触れたものも呪われる』
『呪いを移してはならない』」
【花鶏】
「ロシアの家に伝わる古い伝承にもその手の話を聞いたことがあるわ。へー、『呪いに触れたものも呪われる』『呪いを移してはならない』……か」
【こより】
「両方で伝わってるのなら、信憑性ありますよねー、センパイ!」
【智】
「僕も聞いたことがある。民俗学とかだけど。
わりとポピュラーなネタじゃないかな」
【惠】
「実際に目で見たわけではないから、半信半疑ではあるんだがね」
【智】
「呪いの伝染か……そういう経験とか、そんな話を
聞いたりしたことって、みんなはある?」
【るい】
「ないよ。呪いが風邪みたいにうつったりしたら、
学園とか行ってられないしね」
【こより】
「鳴滝も、そんな話聞いたことないですよう」
【茜子】
「茜子さんも同様です」
【伊代】
「わたしもないわね……。
その伝承が本当なら、特別な条件が揃えば移るのかしら?」
【智】
「なにかで移るとしたらヤな話だなあ」
別々のルートで二人に同じ伝承が伝わっているということは、
すべてが真実ではないにせよ、何かしらの真実を含んでいる
可能性は高いんじゃないか?
【花鶏】
「その話の真偽はともかく。
もう少し具体的な内容はどうなのよ?」
【花鶏】
「たとえば、呪いの束縛を破って死んだ時に、
まわりの人にも被害が及ぶのかとか……」
【花鶏】
「それとも、わたしたちの持っている呪いと力が、
別の人間にコピーされるとか……」
【惠】
「複写ではなく、移動ということも考えられる」
【智】
「『呪いを人に移してはならない』って言う言葉の意味も、
いろんな受け取り方ができるんだ……」
周囲の人に呪いの被害を振りまいてはならないという意味なのか?
呪いと才能を安易に人に分け与えてはならないという意味なのか?
それとも、他人に呪いを押し付けてはならないという意味なのか?
【智】
「呪いが……人から人へ移動する……か」
【智】
「……あれ?」
そこまで考えて、僕は今までずっと疑問だったことを思い出した。
【智】
「ねえ、惠。実は僕は……僕だけはみんなと違って、
呪いは負っているけれど、特別な力はないんだ」
【惠】
「力がない? それは確かなのかい?」
【花鶏】
「らしいのよね。最初はわたしも、力は持ってるけれど使い方が
わからないだけ、なんだと思ってたんだけど……」
それに、ここにいるメンバーは、僕を除けばみんな女の子だ。
呪いは、女の子にしかうつらない?
なら、なぜ僕は男なのに、呪いを持っている?
【智】
「もしかして僕の呪いは……誰かから移されたものなのかも……」
だから、そんな考えが浮かんでしまう。
【惠】
「まさか……」
【るい】
「トモは呪いを押し付けられただけってこと? そんなのひどい」
【花鶏】
「そういう可能性があるっていうだけよ。でも、それなら確かに、呪いしかない理由は説明できるわね……」
【こより】
「ホントにそんなこと出来るんでしょーか……。
出来たら……すごくコワイです」
【伊代】
「ちょっと待って。もしそれが本当だったら、今もどこかに、
あなたに呪いを押し付けた、能力だけを持った人間が居るって
ことよね? それって……」
【茜子】
「その人間が、この中にいる可能性もあります」
【花鶏】
「茅場、あんた……」
【惠】
「………………」
茜子のガラス球のような無機質な瞳が、順番にみんなの顔を探る。
一同に緊張が走る。
たしかに僕たちは、互いの呪いを完全には把握してない。
あまり考えたくない事だけど、誰かが呪いだけを僕に押し付けて、実は呪いを持っていないのに、のうのうとこの場に混じってるっていうことも考えられる。
【茜子】
「…………」
【智】
「どう? 茜子。そんな人、この中には居なかったよね?」
信じたいから、疑いたくないから、暗に答を決めて訊く。
【茜子】
「……はい。茜子さん自身が嘘をついてない限りは」
【こより】
「こ、コココワイこと言わないで下さいよう!
もう、茜子センパイ〜!」
茜子の呪いは、人に触れてはいけないという束縛……だろう。
いつも手袋を身につけて、手袋越しでも人に触れる時は慎重だ。
嘘とは思えない。
ふいに、胸の底から湧き上がる憤りと不安を感じた。
呪いを人に移すことは可能なのか?
だとしたら、それをやったのは誰だ?
僕たちに互いを疑わせるようなことをするのは、誰だ?
【智】
「真偽を確かめないと。誰かが僕に呪いを押し付けたのなら、
その人物を捜さなきゃ」
【花鶏】
「山ほどお礼しないといけないわね……」
【惠】
「…………」
【伊代】
「まずは、そんな方法が本当にあるのかどうかを確かめるために、あなたの本を一度ちゃんと調べた方が良さそうね。なにか書いてある可能性も有るんでしょ?」
【るい】
「イヨ子は真面目だねー」
【こより】
「不安を残したままじゃ、精神衛生上良くないですもんね。
鳴滝もがんばります」
【茜子】
「…………」
人に呪いを移して自分だけが助かろうなんて気は、さらさらない。
だけど、方法が存在するのかどうかだけは確かめなくちゃ。
いくつもの不安を抱えながら、僕は指先に
『ラトゥイリの星』の表紙の感触を思い出していた。
〔消えた本〕
あれから、僕らの放課後は『ラトゥイリの星』を
調べることに費やされていた。
かなり古い言い回しのロシア語で書かれているらしく、
普通の辞書には載ってないような古語も多く使われている上に、
意図的に謎めいた言い回しを使っているところも沢山あった。
花鶏もクォーターとは言え、日本生まれの日本育ち、
ロシア語は多少読めるという程度だ。
図書館の辞書を用いても、作業は遅々として進まなかった。
【花鶏】
「あーっ! やっぱダメ。もっといい辞書がないとダメだわ!
明日にでも取り寄せないと」
【智】
「花鶏、あんまり根詰めないほうがいいよ」
【こより】
「お力になれず申し訳ない次第であります……」
【伊代】
「仕方ないわよ、ロシア語なんてわたしたち、触れる機会すら無かったもの。いきなり辞書だけで訳せ、なんて言われても……」
【花鶏】
「しかもこれ、ロシアの古典よ? 中でも難解なヤツ。
わたしだってもともと、ロシア語は辞書無しじゃ一般的な単語がいくつかわかる程度だし……」
分厚い辞書を閉じるとバタン、と重い音がした。
図書館でも滅多に使われることがない本なのだろう、
乾いた埃が舞って、傍らに立っていた茜子が
ケホケホとわざとらしい咳払いをした。
疲労が色濃くにじみ出た吐息を吐いて、花鶏は首を鳴らす。
【るい】
「あんまムリしないほうがいいよ。
なんかぜんぜん役に立たない私が言うのもなんだけどさ、
今すぐどうこうって事態じゃないんだし」
【智】
「そうだよ。呪いを押し付ける手段があるかもって言うのは不気味だけど、今のところ生死に関わったりはしてないわけだし」
【花鶏】
「ふぅ……。でも、なんかハラが立つのよね」
【伊代】
「たしかに、人に呪いを押し付けて、自分は能力を使ってのうのうと生きてる人物がいるなんて思うと、憤る気持ちは解るわ。
だけど今のあなた、見るからに疲れてるもの」
【花鶏】
「そうじゃないわ。選ばれた者の印を安易に捨てる……
それが許せないのよ」
【茜子】
「変人理論ですね」
【こより】
「茜子センパイが言うことじゃないと思います」
毎日のようにここに集まって『ラトゥイリの星』を
調べてはいるけれど、読むのはほぼ花鶏だけだ。
僕らは見守り、花鶏の訳に一言二言見解を述べることしかできない。
しかもるいや茜子に聞いた話だと、花鶏は家に帰っても部屋に
篭もって調べたり考えたり、ずっとこの本に掛かり切りらしい。
今度の休みあたり、一度みんなで休憩を入れたほうがいいだろう。
【智】
「……ねぇ、花鶏。今度の休みに……」
【花鶏】
「…………すぅ、すぅ…………」
【智】
「あれ……?」
話題が途切れたほんの少しの沈黙の間に、
花鶏はテーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。
【伊代】
「寝ちゃったみたいね……」
【智】
「そっとしておいてあげようか」
傷まないよう、腕の下からそっと『ラトゥイリの星』を
抜き取って、花鶏の傍らに置く。
花鶏も疲れているんだ。
しばらく眠らせてあげよう。
【花鶏】
「すぅ……すぅ…………」
静かな図書館の中、花鶏の規則正しい寝息が聞こえている。
僕らは花鶏を起こしてしまわないように
そっと椅子をひいて、少し離れたテーブルに移動した。
【智】
「花鶏……疲れてたんだね」
【るい】
「それもあると思うけど、たぶんそれ、花鶏の力のせいだ」
【こより】
「え? るいセンパイ、それってどういうことです?」
【るい】
「私のおなかが減るのってさ、力のせいなんだよね」
【智】
「そうだったの?!」
【茜子】
「またご冗談を」
【るい】
「力を使うと、その分おなかが減るんだ。だから花鶏もたぶん
そうなんじゃないかな……」
るいの能力は、身体能力の強化なのだろう。
あのバカ力を出すためにエネルギーを使うと、
そのぶん体がカロリーを要求する……ということか。
そんな、一部分だけ常識的にされても困るんだけど。
すると花鶏の能力は、なにか頭を使う力なのか。
呪いの内容を聞くのは憚られるけど、能力のことなら……。
今度また、花鶏に聞いてみることにしよう。
【智】
「そっか……それで花鶏って、よく居眠りするんだ」
【こより】
「呪いがあるだけでもタイヘンなのに、力にもいろんな欠点が
あって、本当にタイヘンですよね」
【るい】
「そだねぇ。花鶏もこだわるのをやめて、呪いを解く方法を
探したほうがいいと思うんだけど」
【智】
「呪いを人に移す方法なんて、本当にあるのかな……」
【茜子】
「言い出したのはブルマ娘ですよ」
【智】
「そうなんだけど……って、なんで僕がブルマはいてること
知ってるの!?」
【茜子】
「そこのスリーピングライオンに武勇伝を聞かされまして」
【智】
「秘密っていったのに!?」
眠る花鶏を見る。
バカなことやったと思ったら急に真面目になって、
真面目になったと思ったら急に居眠りして。
本当に眼が離せない。
【伊代】
「呪いをあなたに押し付けた人物がいるとして……
見つけたらどうするつもりなのかしらね、あの子」
【智】
「それもそうだね。たとえば僕の呪いを押し付け返したとしても、相手が同じ手段を持ってるんなら、キリがないし」
【こより】
「ですね〜。
もしかしたら、すっごい怖い相手かも知れませんよう……」
【茜子】
「本気でやるつもりなら、呪いを返してすぐ呪いを踏ませれば
始末できますが?」
【るい】
「さすがに殺しちゃうのは、ちょっと……」
たぶん、こうして呪いを押し付ける方法を探すよりも、
呪いを解いてしまう方法を探す方がずっといい。
花鶏にも、それは解ってるはずなんだけど。
【伊代】
「そういえばあなた、あの子にさっき何を言いかけてたの?」
【智】
「ああ。今度の休みあたりちょっと休憩して、
みんなで遊びに行こうかって思って」
【るい】
「息抜きは重要だ!」
【智】
「うん」
【こより】
「たまにはパーッと、遊園地なんかで遊びまくったりするのも
いーですよう!」
【伊代】
「そうねえ、久しぶりに絶叫マシンとかに乗って、
キャーキャー言ったりしてみたいかも」
【るい】
「お、意外。イヨ子ってもっと、ババくさく観覧車でボーっと
したりするのが好きかと思ってた」
【伊代】
「ババくさ……って失礼ね! まだ若いのよ!?
だいたいあなたのほうが一つ年上でしょ!」
つい忘れちゃうけど、るいって実は最年長だ。
【智】
「そっかぁ、ジェットコースターは苦手だけど、
遊園地は確かにいいかもね」
【茜子】
「全部の着ぐるみの中の人を激写しましょう」
【伊代】
「中の人は居ないことになってるのよ?
ほら、あの黒いネズミとか」
【るい】
「え? それってミ……」
【こより】
「るいセンパイ、そのネズミは危険であります!」
【智】
「その話題を出せるのは、伊代の特権だよ!」
うっかり話題に出すと黒服が夜中に
家にやってくるっていう都市伝説すらある、
あの恐ろしい夢の国の話で盛り上がっていると……。
【花鶏】
「ん……、あれ、わたし寝てた……?」
花鶏が目を覚ましてしまった。
【智】
「うん、よく眠ってたから起こすの忍びなくて。
ゴメン、騒がしかった?」
【花鶏】
「別に……ずいぶん盛り上がってたみたいだけど、何の話?
またわたしの悪口じゃないでしょうねぇ?」
【智】
「違うって。今度の休みにでも、みんなでどこかへ――」
【花鶏】
「……あら?」
急に花鶏が、辺りを見回し始めた。
【花鶏】
「ねえ、『ラトゥイリの星』、どこかにやった?」
【智】
「え………………?」
みんなが一斉に花鶏の方を見た。
花鶏の脇に置いてあったはずの本が、消えている。
眠っている花鶏の手の下からそっとどけて、
傍らにおいたはずなのに……。
『ラトゥイリの星』は、机の上から忽然と消え失せていた。
みんなの反応から事態を読み取った花鶏の顔が、
にわかに険しくなる。
【花鶏】
「まさか……ないの!?」
【智】
「さ、捜そう!」
みんな慌てて席を立った。
【花鶏】
「ない! ない!」
テーブルの下はすぐに見た。
ない。
すぐ近くのテーブルにもない。
図書館の本と間違って片付けられた可能性も考えて、
館員の人にも聞いてみたけど、それもなかった。
それどころか、このテーブルに近づく人さえ見ていないって……。
――盗まれた。
【花鶏】
「そんな、わたしの……大お爺さまの大切な本が……!」
館内の誰も、僕たちも、花鶏の方に
注意を払っていない時を見計らって――
素早く、確実に。
最初から狙っていたとしか思えない。
通りすがりに高価そうな本を奪っただけの犯人じゃない。
盗んだ相手は、確実に『ラトゥイリの星』がなんであるかを
把握している……!
【智】
「ごめん、花鶏……! 僕らが目を離したせいで……」
【花鶏】
「ど、どうしてくれるのよ!! だから本当は、こんなところに持って来たくなかったのよ!! あの本がわたしにとってどれだけ
大切なものなのか、あなたたちはわかってるの?!」
【伊代】
「そんな……ショックなのはわかるけど、人を責めても……」
【花鶏】
「わかってないわよ!! わたしの目の前で堂々とかすめ盗られるなんて……あなたたちは、なんにもわかってないわよ!!」
【こより】
「あ、花鶏センパイ……犯人を捜しましょう。
と、とりあえず警察に……」
【るい】
「きっとまだ近くにいるよ!
もしかしたらまだ図書館の中にいるかも!」
【花鶏】
「まだ……図書館の中に……?」
花鶏の目の色が変わった。
【花鶏】
「そ、そうよ!
もしかするとあなたたちの中の誰かが盗ったのかもしれない……」
【智】
「あ、花鶏!?」
絶望から猜疑へ。
花鶏はもうすっかりパニクってて、
少しでも疑える者は疑わざるを得ないのだろう。
【るい】
「なんで!? 私たちが盗る訳ない!
花鶏の大切にしてる本だって、みんな知ってるのに!」
【こより】
「そうですよう! そんなことするわけないですって!」
【花鶏】
「あの本があれば呪いを誰かに押し付けることができる……
盗る理由なら、十分あるでしょ」
一度そう考えてしまったら、
もうどんどん悪い方向に考えが行ってしまうのか。
【伊代】
「あなた本当にわたしたちの事を疑ってるの……?
わたしたちがあなたから本を盗んで、誰かに呪いを押し付けて
自分だけ助かろうと考えてるなんて、本気で思ってるの……?」
【花鶏】
「もしそうじゃないとしても! あの本には、呪いを解く方法の
手がかりも書いてあるのよ!? でも、本の持ち主であるわたしが呪いを解くのを拒んでたから……」
【花鶏】
「だったら、わたしから本を盗んでしまえばいいと考える人間が
いたとしても、おかしくないわ!!」
【るい】
「ひどいよ、友達を疑うなんて!」
花鶏の疑いに、るいは涙さえ浮かべていた。
るいは、誰よりも仲間を信じることを大切にする。
仲間から疑われることほど辛いことはないだろう。
【花鶏】
「うるさいうるさいうるさい! 盗ってないって言うのなら、
証拠を見せて! ……いいえ、わたしが一人ずつ、
隠し持ってないか確認するわ!」
【智】
「花鶏、落ち着いて! 冷静に考えて!
僕たちがそんなことするはずないってことぐらい……」
【茜子】
「……無駄です。完全にパニックに陥ってしまっていますから。
頭の中、真っ白になってます」
【智】
「花鶏……」
茜子がそう言うのなら、間違いないんだろう。
言葉で言っても、解ってくれる状態じゃないんなら……。
【智】
「みんな、ごめん。
ここはひとまず、花鶏を納得させるためにも……」
【るい】
「……トモがそう言うんなら……」
【こより】
「しょうがないですよね……」
【花鶏】
「大お爺さま、ごめんなさい……。わたしが油断したばかりに。
わたしが気を許したばかりに! わたしが、愚かだったばかりに……。ごめんなさい、ごめんなさい、大お爺さま……!」
うわ言のように曾祖父への謝罪を繰り返しながら、
仲間の一人一人を調べる花鶏に対して……。
誰一人として、かける言葉をみつけることはできなかった。
全員の持ち物をテーブルの上に広げさせて調べつくして、それでも『ラトゥイリの星』がないことわかると、花鶏はみんなに詫びる余裕もなく、すぐさま図書館中を捜し始めた。
僕らも花鶏のために、図書館中を走り回る。
しかしやっぱり……『ラトゥイリの星』は見つからない。
【智】
「ごめん……僕がいけなかったんだ。
花鶏を起こさないようにすることしか気が回らなくて」
【智】
「離れたテーブルに移動して……。
『ラトゥイリの星』からうっかり目を離してしまった」
【花鶏】
「…………」
不審な目を向けられるのもかまわずに、
図書館に来ていた人たちに片端から聞いてまわった。
館員の人にも、何度も何度もしつこく聞いてみた。
でも、誰も『ラトゥイリの星』のことなんて知らなかった。
【花鶏】
「…………」
花鶏の顔は、もう真っ青だった。
可哀想すぎて、見ていられない。
あの本が、花鶏にとってどれほど大切なものだったのかを、
僕は知っていたのに。
内容の価値以上の、大切な、大切な形見。
【智】
「ごめん……花鶏、本当にごめん……」
僕は本当に申し訳なくて、花鶏にひたすら謝り続ける。
【るい】
「謝る必要ない! トモが悪いわけじゃないでしょ!
私たちだってたしかに不注意だったけど、
花鶏も寝てたんだから!」
るいが、キッと険のある顔で花鶏を睨んだ。
【智】
「そんなの、責められないよ。不可抗力だったんだし」
【るい】
「でも……!」
【智】
「いいんだ、みんなで捜そう。花鶏、あんまり思い詰めないで。
見つかるかどうかはわからないけど、僕たちも全力つくすから」
【花鶏】
「いらないわ!」
花鶏はキッと僕らを睨む。
【花鶏】
「人の協力なんて不要よ! わたし一人で捜すことにするわ!」
【智】
「そんな、花鶏……」
【花鶏】
「たとえ同じ呪いを背負った仲間でも、あなたたちとわたしは考え方が違ったんだわ。容易く気を許したわたしが、バカだった……」
【るい】
「花鶏! それは、いくらなんでもひどい言いぐさだ!」
【智】
「待って、るい! 落ち着いて! 花鶏も!」
言葉を選んでる余裕なんてないっていうのは、
わかってるんだけど……。
【花鶏】
「わたしは落ち着いてるわ。自分の過ちがなんだったかも
理解してるし、これから何をすべきかもわかってる。
だから一人で捜すのよ」
【こより】
「あ、花鶏センパイぃ……」
【花鶏】
「それじゃ」
いつもあれだけ可愛がっていたこよりの手さえ振り解いて、
花鶏は一人で行ってしまう。
誰も後を追えなかった。
【智】
「………………」
下唇を噛む。
立ち去る花鶏の背中に、僕は声すらかけられなかった。
〔犯人は誰だ?〕
翌日。
学園が終わった後、惰性で溜まり場に集まった
僕らの中に、花鶏の姿は無かった。
【智】
「花鶏、来ないね」
【るい】
「うん……」
昨日は、花鶏が帰った後もさんざんみんなで図書館内を
捜し回ったんだけど、やはり『ラトゥイリの星』は
みつからなかった。
【茜子】
「そこの大食いは帰ってから、『ちょっと言い過ぎた』などと
青春ドラマ的謝罪をしましたが、レズ女は部屋に篭もったままで返事すらなく」
【こより】
「花鶏センパイ、きっとあの本を本当に大事にしてたからショック、だったんですね……」
【伊代】
「あの子があんなに動転してるところなんて、初めて見たわ」
あれだけ捜して見つからなかったのだから、
単なる紛失という線はもはや考えられない。
誰かが花鶏を見張っていて、隙を突いて盗んだのだろう。
【智】
「盗まれた本を捜すなんて、いくら僕たちに特別な力があっても
難しすぎるよね……」
【るい】
「花鶏……元に戻って欲しいな」
【こより】
「警察に届けても相手が隠し持っている限りは、
出てこないですもんね……。
鳴滝はもう、どうしていいのかわからないです」
【伊代】
「でも、もし相手が高価な古書として売り払うつもりなら、
古書店をマークすれば見つけられる可能性はあるわね。
ネットを介して買取をやってる店を調べてみましょうか?」
【智】
「お願い。伊代にしかできないことだよ、それ」
【茜子】
「では、茜子さんは近場の古書店などで聞き込みをしてみましょう。たとえ口止めされていても、わたしならわかりますから」
【るい】
「……花鶏、可哀想だよね。あんなに大事にしてた本なんだから」
疑われたことであれだけ憤慨していたのに、
るいはやっぱり仲間思いのいい子だった。
僕らのことをまだ疑い遠ざけている花鶏のことを、
本気で心配している。
でも確かに、責任の一旦は確実に
僕らにあるのだから、しょうがない。
僕らは僕らに出来ることをしよう。
【伊代】
「あなたって、本当にお人よしなのね……。
わたし一人だったら、もう絶対に愛想尽かしてたかも」
【茜子】
「まったくです。あの疑心暗鬼withエロスめ」
【智】
「しょうがないよ。みんなも見たでしょ?
あんなに動転してたんだ、何を言い出したとしても
おかしくなかったと思う」
【こより】
「たしかに、もし鳴滝が花鶏センパイと同じ立場だったら……
同じコトをしてたかもしれないですよう……」
こよりの言う通りだ。花鶏はあまりのショックで、
誰かにネガティブな感情をぶつけずには居られなかったんだと思う。
【智】
「よし、僕もるいを見習って、花鶏に会いに行ってみる。
たとえ本が見つからなくても、仲直りだけはしたいから」
このままの雰囲気をズルズルと引きずるのだけは、
絶対にイヤだ。
【こより】
「ともセンパイが行くのなら、鳴滝も行きます。
鳴滝じゃ本捜しの役には立ちませんから」
【智】
「うん、一緒に行こう」
【るい】
「そうだね。よくケンカもするけど、やっぱり花鶏は
大事な友達だから」
【伊代】
「それじゃあ、わたしたちは本捜しに専念するわ。こういうのって、期間が開けば開くほど見つかりにくくなると思うし」
【茜子】
「見つかる公算は少ないですが」
【智】
「任せる。絶対、花鶏も喜ぶと思うし」
【こより】
「鳴滝たちにもなにか手伝えることが出来たら、どんどん言って
くださいです! パシリでも肩もみでもなんでもしますから!」
こよりが小さな拳にぐっと力を込める。
見つかるかどうかはわからないけど、最大限の努力はしよう。
もしそれでも見つからなかったときは……
花鶏がそのショックから立ち直れるように、
僕らみんなで慰めてあげよう。
【るい】
「んじゃ、花鶏と話してくる。
イヨ子、アカネ、本捜しがんばってね」
【伊代】
「がんばってみるわ」
【茜子】
「期待せずに待っていてください」
本捜し組と別れた僕たちは早速、花鶏の屋敷へとやってきた。
でも……。
【智】
「…………あれ?」
まだ、るいも茜子も帰ってきてないのに、
施錠されたドアは頑なに閉ざされていて、
インターホンに応じる気配もなかった。
【智】
「花鶏ー! いるんでしょーっ?」
花鶏は完全に屋敷の中に閉じ篭もってしまっていた。
【智】
「…………」
【るい】
「花鶏ーっ! 入れて! トモとこよりも連れてきた!」
2度、3度とインターホンを押す。
でも、反応がない。
【こより】
「花鶏センパイ、出かけちゃってるんですかね?」
【るい】
「いや、バイクが置いてあったし、それはないと思う」
【こより】
「じゃあ、寝ちゃってるんですかね……」
【智】
「花鶏! 話したいことがあるんだ!
起きてるなら出てきて話を聞いてよ!」
【るい】
「おーい! 花鶏ってばー!!」
【こより】
「花鶏センパーイっ!」
そんなふうにさんざん玄関口で呼びかけていると……。
やがて屋敷の中から物音が聞こえて、
不機嫌を隠そうともしない花鶏が現れた。
【るい】
「あ、花鶏、やっと出てきてくれた」
【花鶏】
「大声で呼ばなくても聞こえてるわよ……」
【智】
「花鶏、昨日は本当にゴメン。いま、茜子と伊代が
あの本を捜すためにがんばってくれてるから……」
【花鶏】
「…………」
花鶏の反応は冷たかったけれど、僕は続けた。
【智】
「伊代はネットから、茜子は足で古書店を回って、
買い取られてないか調べるために動いてくれてる。
犯人が本を売り払えばすぐに見つかるよ」
【花鶏】
「…………」
僕らが頑張っている事実を伝えることで、
少しでも僕らの気持ちを花鶏に伝えることが出来れば……。
そう思って言ったのに。
しかし、花鶏は黙って眉をひそめただけだった。
【智】
「花鶏?」
【こより】
「花鶏センパイ……?」
【るい】
「花鶏、どしたの?」
【花鶏】
「あんたたち、本気で犯人があの本を売り払うと思ってるの?」
花鶏の押し殺した声に、僕らは返す言葉もない。
【花鶏】
「売却なんて、あり得ないわ。そもそも知名度は皆無に等しい本なのよ? 花城家の者と、わたしから本のことを聞いた者以外に、あの本の価値を認める者なんて、この世にはいないわ」
【花鶏】
「売るために盗むなんて、考えがたい。犯人は最初から、あの本の内容が目当てだったに決まっているわ。そう、呪いの秘密が……」
仲間を傷つけ、希望を壊し、自分さえも傷つける。
苛立ったるいが、声を荒げた。
【るい】
「花鶏!」
【智】
「るい、いいよ」
僕はそっとるいを押しとどめた。
僕たちは仲直りに来たんだ。
花鶏の態度が冷たくても、ここで争ってたら意味がない。
【智】
「……花鶏、それは僕にもわかってるよ。僕だけじゃない。
今一生懸命本を捜してくれている伊代だって茜子だって、
そんなことはわかってるよ……」
【花鶏】
「……………………」
【智】
「でも、それでも花鶏のために何かしてあげたくて、二人は頑張ってくれてるんだ。伊代は本当は力を使うのが嫌いだし、茜子は足で捜し物をするような体力のある子じゃないのに、それでも……」
【花鶏】
「協力はいらないと、言ったでしょう?」
【るい】
「花鶏ッ! せっかく二人が花鶏のためにやってくれてるのに!!」
【こより】
「るいセンパイ、落ち着いてください。
今怒ったら、もう花鶏センパイと仲直りできないですから……」
【るい】
「…………」
こよりに止められて無言で引き下がったけれど、
るいの拳は固く握り締められて震えていた。
【智】
「たとえ見つからなくたって、する必要はある。
だって、花鶏の為に何かしたいんだ。僕たちがしたいんだ」
【花鶏】
「無駄よ! 意味のない行為だわ!」
【智】
「意味はあるよ。目的は本を見つける事だけじゃないから」
とにかく今は、説得しないと。
きっと花鶏だって、本気で僕たちを疑ってるわけじゃないんだ。
なにか別の理由があるから、こんなにも頑なに
僕らの協力を断るんだと、僕は信じたい。
【智】
「花鶏はさっき、本の存在を知ってるのは花城家の者と、花鶏から本のことを聞いた人間くらいしか居ないって言ったね?」
【智】
「……それなら、本を盗むような人間の心当たりは、
自ずと絞られるんじゃないかな?」
【花鶏】
「……自分たちが怪しいってことを、ことさらに強調したいわけ?」
【こより】
「花鶏センパイ、それはもう図書館で確認したじゃないですか……」
【花鶏】
「…………いや、そうね」
花鶏は急に、なにかに気づいたようだった。
僕たちから視線を外し、あごに手を当てて考え込む。
【花鶏】
「もしかすると、あいつかもしれないわ」
【るい】
「あいつ……?」
【花鶏】
「最初から胡散臭いと思ってたのよね……。屋敷を取材したい
だなんて、結局はわたしに近づくための口実だったのかしら……チッ、あんな男に!!」
【智】
「まさか……三宅さんのことを疑ってるの?!」
【花鶏】
「なによ、悪い? 智だって、疑ってたじゃない!
取材なんて、きっと全部嘘なのよ。でなければ、
あんなに簡単に呪いに気づくはずがないわ!!」
【花鶏】
「最初から知ってて近づいたんだと考えれば、
つじつまは合うでしょう!?」
【智】
「そんな…………」
最初は僕も確かに、三宅さんを胡散臭いと感じていた。
不自然な時間に不自然な場所に現れ、
あまりにも都合良く僕たちに洋館の場所を訪ねた。
邸宅の取材でも、実にうまく花鶏の自尊心をくすぐって。
来なかったカメラマン……呪いの存在への確信めいた口ぶり……。
怪しい点をあげれば、キリがない。
だけど、呪いを調べるのに協力してくれるって言った
あの言葉のすべてが、本当に嘘だったんだろうか?
大体、僕らを欺くために近づくのならば、見るからに胡散臭い
あの外見ぐらいは、整えるんじゃないだろうか?
それとも、もしかしてそこが逆に狙いだったのか……?
【るい】
「花鶏ぃ!」
今度こそ本当に怒ってしまったるいが、
ほとんど跳びかかるようにして花鶏の胸倉を掴んだ。
【るい】
「今度は三宅のおっちゃんを疑うつもり!?
いい加減にしなよッ!!」
るいの言葉は、僕をも鋭く貫いた。
花鶏の意見には一理あると、僕も思ってしまったから。
でも、今それを口にすることは出来ない。
【花鶏】
「何もかも信じたからと言って、それだけでうまく行くほど、
この世の中は甘くないのよ!?」
【るい】
「友達疑って、たった一人で生きていくつもり!?」
【花鶏】
「信じあって助け合う仲間なんてただのきれい事よ!
わたしは一人でも生きていける! 誰の助けもいらないわ!」
【るい】
「バカッ!! 花鶏の……バカッ!!」
【こより】
「やめてください!! 二人とも!!」
激した声で激しく言い争う二人に、
割って入ったのはこよりだった。
小さく頼りないこよりの手に押し留められて、
二人はしぶしぶ顔を背け合う。
【花鶏】
「ふん…………」
【るい】
「バカ…………花鶏は、バカだ……」
視線を合わそうとしないものだから、
花鶏の感情は読めなかったけど。
行き場のない怒りを拳に込めて肩を震わせるるいは、
目元に涙さえ浮かべていた。
けんかばかりの二人だけど、いつものは所詮じゃれ合いだ。
でも、今回の仲違いは……見ているのが辛かった。
【智】
「……こより、二人を止めてくれてありがとう」
僕が止めてたら、余計にこじれてたから。
おそらく花鶏に味方して……。
【こより】
「そ、そんな、なんか夢中で飛び出ちゃっただけですよう……。
ホラ、後から足元ガクガクです。ガクガクガクガク」
わざと大げさに内股になって膝を震わせる
こよりの仕草の、なんと可愛いことか。
ささくれだったみんなの心を慰めてくれる。
花鶏だけは背を向けて黙りこくっているけれど、
場の空気はたしかにしっかり和らいだ。
【智】
「よし、このままじゃ、るいも花鶏も納得できないよね。
三宅さんに確認を取ろう」
【るい】
「トモ……」
【智】
「花鶏、聞いたよね? 三宅さんの名刺を見て電話を掛けよう。
事の真偽を確認しよう」
【花鶏】
「…………」
【智】
「疑わずにいられないなら、疑う余地を消せばいい。そうでしょ?」
【花鶏】
「一人でやるわ。助けは要らない」
言うと思った。
どうやら花鶏は、助けられるのを頑なに拒んでいる節がある。
【智】
「花鶏を助ける為ばっかりじゃないよ。僕たちにも取り戻したい
ものがあるんだ。花鶏の『ラトゥイリの星』と同じくらい
大切なものが」
【花鶏】
「……なんの話?」
【智】
「僕たちは、あの屋上に花鶏を取り戻したいんだ」
照れ隠しに、少し肩をすくめて見せる。
いつもの得意の嘘じゃない。心の底からの、想い。
【智】
「やっぱりみんな揃ってないと盛り上がらないし、さ!」
【花鶏】
「…………」
【智】
「…………」
しばらく無言で見つめ合う。
でも、僕がいつまでたっても目をそらすそぶりがないことを悟ると、やがて花鶏はあきらめたように薄く笑った。
【花鶏】
「勝手にすればいいわ」
【智】
「うん♪ そうさせてもらう」
るいと花鶏はまた衝突するかも知れないし、
万が一の場合はこよりに危険がありすぎる。
伊代と茜子には一応古書店の調査を続行して貰って、
僕と花鶏は二人だけで動くことになった。
【花鶏】
「さて……この名刺、本物かしら?」
【智】
「電話すればわかることだよ」
名刺を見ながら、11桁の携帯番号を打ち込んでいく。
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【智】
「…………出ないね」
【花鶏】
「嘘の番号だったのか、ただ出られないだけなのか……。
雑誌社の方に直接かけてみれば、わかることよ」
【智】
「番号、調べてみよう」
名刺に書いてあった雑誌社に電話をかけてみると、三宅さんは
確かにそこで仕事をするフリーの記者だということがわかった。
でも、雑誌社の方でも数日前から三宅さんに
連絡がつかないのだという。
連絡がつかないなんて……。
【智】
「なにがあったんだろう……」
【花鶏】
「直接行くしかないわね」
【智】
「そうだね。電話口ではさすがに住所までは聞き出せなかったけど、雑誌社に出向いてこの名刺を見せれば、たぶん教えてくれるよ」
本当に三宅さんが犯人だったのかどうかは、まだ判らない。
でも、僕と花鶏の中でふくれあがった疑念は、
時間が経つごとにどんどん大きくなっていく。
たとえば、最初からあの本の所在を探していて、
僕らが持っているんじゃないかと怪しんで
取り入って来たんだとしたら?
あるいは、どういう経緯でか、
花鶏が持っていることを知ったんだとしたら?
それでもまだ、一縷の望みを託してる。
心のどこかに、三宅さんを信じたいっていう気持ちが残ってる。
【智】
「もし三宅さんが犯人だったとしたら……」
【花鶏】
「まだそんなこと言ってるの? ここまで怪しい条件が出揃ってて、アイツを信じなきゃいけない理由なんてないでしょ?」
【智】
「まだ確実じゃない。
でも、もし三宅さんが本当に犯人なんだとしたら……」
自宅への乗り込みは、間違いなく危険を伴うことになる。
【花鶏】
「……自分の身は自分で守りなさいよ」
【智】
「花鶏こそ」
【花鶏】
「わたしを誰だと思ってるの?」
【智】
「そういう台詞、やっぱり花鶏らしいや」
【花鶏】
「うるさいっての」
覚悟を決めた。
〔三宅の死〕
雑誌社で名刺を見せて事情を話すと、
三宅さんの住所は意外なほどあっさりと教えてもらえた。
【花鶏】
「なによ? 『貸していた大切な資料が急に必要になったんだけど、連絡が取れなくなって困ってる』っていう言い訳は」
【智】
「資料は資料でしょ?」
【花鶏】
「嘘つき村の住人の面目躍如ね」
【智】
「それは言わない約束で」
オフィスにたまたまいたイラスト担当者の手による、
妙に出来のいい地図付きだ。
【智】
「わりと遠いね。バイクで行くの?」
【花鶏】
「ええ、後ろに乗せてあげるわ。
やっぱりわたし、智には弱いのよね」
【智】
「あはは、どうもありがとうございます。
他に何か用意していくものはないかな?」
【花鶏】
「そうね……あんな冴えないヤツでも男だもの。
なにか対抗するための手段は用意して行った方がいいわね」
【智】
「うん……」
二人がかりでもつらいかもしれない。
僕は本当は男の子だから、普通の女の子よりは力があるけれど……
誰かと取っ組み合いの格闘をする自信はまるでないし。
第一、それで呪いを踏んでしまったりしたら、元も子もない。
るいがいれば心強いんだけど……るいの心境を慮ると
それは難しいし、なにより花鶏が他人の協力を拒むだろう。
しかも、もしかするとあるいは、相手は僕らの知らない
未知の能力を持っているかもしれないんだ。
『呪い』と共にある、花鶏たちのような人知を超えた『才能』が。
あまり物々しいのも問題だけど、
少しは何かを用意をしていった方がいいだろう。
【智】
「痴漢撃退用の催涙スプレーぐらいは持っていった方がいいかな? バイクもあるし、時間さえ稼げば逃げることはできるはずだし」
【花鶏】
「こっちが犯罪者扱いになっても面白くないものね。それで行くわ」
【智】
「あ、痴漢撃退スプレーも、実は携帯してると軽犯罪になるから、あんまり見せちゃダメだよ?」
【花鶏】
「なにそれ? 防犯グッズが犯罪になるの?
おっぱいが聞いたら怒りそうな話ね……フェアじゃないわって」
【智】
「言えてる。他には……それぐらいでいっか」
【花鶏】
「ええ……急ぐわよ。時間を掛けすぎたら、わたしたちが雑誌社に押しかけたことがバレて、逃げられるかもしれないもの」
……花鶏の中じゃもう、三宅さんはすっかり容疑者になっていた。
スプレーを二人で1つだけ用意して、
僕たちはバイクを目的地へと飛ばした。
花鶏の腰に手を回して二人乗りしながらでは、
風のせいで会話もままならない。
【智】
「…………」
みんなには一応、三宅さんの自宅に
乗り込む旨の連絡は入れておいた。
もし万が一のことがあっても、僕らが戻ってこなかったら
警察へ連絡が行くように。
伊代とこよりに電話をかけて、
いっしょにいた携帯なき子の二人とも話をする。
【るい】
『うまく言えないけど……とにかく、がんば』
【こより】
『鳴滝はその記者さんのことよく知りませんケド、
犯人じゃないといいですね』
【茜子】
『あのヒゲヒゲ記者とは二度しか会ってないので、
茜子さんにも真意はよくわかりません。
ですが、胡散臭いのは誰の目にも明らかでした』
【伊代】
『たとえ相手を信じてるにしても、用意周到すぎて困ることはないわ。でも、くれぐれも注意は怠らないで。もし相手が犯人だって言うことになったら、なによりすぐに警察に連絡すること』
みんなの激励や忠告が、僕たちを心強くしてくれた。
【花鶏】
「…………」
腰に回した腕越しに、花鶏の緊張が伝わってくる。
地図に記されていたランドマークの、緑色をした書店の看板が、
僕らの脇を飛ぶように行き過ぎた。
目的の場所は、もうすぐそこだった。
【花鶏】
「へぇ……」
花鶏の洩らした感嘆には、「意外」という声音がこもっていた。
三宅さんの住むマンションは、あの冴えない風貌からは
想像もつかないくらい、瀟洒(しょうしゃ)な作りの建物だった。
レンガを模したタイルを敷き詰めたエントランスホールに
踏み込むと、上は吹き抜けになっていて、空が見える。
ホール内に木が植えられているのも、
全体の雰囲気をスマートにしていた。
【智】
「けっこういい感じのとこだね」
【花鶏】
「本人のナリはアレなのに、さすが美術特集の担当に選ばれるだけのことはあるってとこかしら?」
【智】
「そこは信用してるんだ?」
【花鶏】
「茅場が『嘘は言ってなかった』って言ってたでしょ?」
【智】
「そこは信用してるんだ」
同じ台詞なのに、込められた意味は全然違う。
なんだか少し、ホッとした。
花鶏は何も、仲間を心から疑ってるわけじゃないんだ……。
【智】
「三宅さんの部屋は、302号室か」
【花鶏】
「……3階ね」
このマンションは、ワンフロアに
2部屋ずつしかない細長い造りになっている。
すべての部屋が多くの窓に面しているのはいいんだけど、
反面、敷地自体が狭いのと外観を重視した設計のせいで、
エレベーターがみあたらなかった。
【智】
「あそこだね」
【花鶏】
「…………」
構造上、エントランスホールからすべての部屋が見える。
目指す三宅さんの部屋を見上げた。
窓は厚めのカーテンで締め切られていて、中を窺うことはできない。
階段を登って、直接行くしかなさそうだ。
【智】
「行こうか」
【花鶏】
「ええ」
スプレー缶を懐に隠し持ち、
そろそろと足音を忍ばせながら階段を登っていく。
たった3階登るだけなのに、不自然なほどに僕らは疲れて、
ようやく302号室の前にやってきた。
ドア越しに様子を窺ってみたけど、中の気配は探れない。
【智】
「なんか緊張する」
【花鶏】
「わたしが前に立つわ」
【智】
「花鶏は万が一の時のために、後ろでスプレー構えてて。
逃げるときも、バイクを運転できる花鶏の方が
先に逃げられるほうがいいし」
【花鶏】
「……悪くないフォーメーションね。わかった、任せて」
少し深呼吸をしてリラックス。
指先をインターホンにあてて、グッとボタンを押し込んだ。
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
――返答がない。
しばらくの静寂のあと、僕はもう一度、インターホンを押そうした。
その時――
室内で異変が起こった。
【花鶏】
「何!? 今の音!!」
【智】
「ガラスが割れた音みたいだったけど……」
激しい音に続いて、今まで静かだった部屋の中が
俄かに騒がしくなる。
次々にガラスが割れる音が鳴り響き、
室内からはドタバタと暴れ回る音までする。
切れ切れに、三宅さんの叫び声まで聞こえてきた。
【三宅】
『ば、化物っ! なんで俺を!!』
上ずった叫び声に、尋常でない事態を悟る。
【智】
「化物って?!」
【花鶏】
「中で何か……!!」
【智】
「三宅さん! 三宅さん! どうしたんですかっ?!」
何度も何度もインターホンを押す。
聞こえてないのか、聞こえていても余裕がないのか、
呼びかけには応答がない。
【三宅】
『く、来るなっ! 俺のそばに寄るなぁッ!!』
【智】
「三宅さん! 僕です! 智です!! 開けてください!!」
【花鶏】
「いったい何が起こってるの?!」
【三宅】
『なんで俺なんだよ! お前、一体何なんだ?!』
叫び声は、だんだん悲鳴に変わってくる。
この中では今、間違いなくなにか異常な出来事が起こっている!
【智】
「三宅さん! 開けてください!! ここを開けてくださいッ!!」
インターホンを押すのがもどかしくなって、
拳でドンドンとドアを叩く。
それでもドアは開かない。
【智】
「くそ、やっぱり鍵がかかってる」
あわよくば開いていないかと期待したけど……
世の中そんなにうまくいかない。
【智】
「三宅さん! 三宅さん! どうしたんですか!? いったい何が起きてるんです!?」
僕らの言葉は届かない。
三宅さんは騒音の中で叫び続ける。
【三宅】
『俺は関係ねえ! 殺さないでくれ! なんで俺なんだよォッ!!』
【花鶏】
「殺さないでって……まさか、誰かに?!」
【智】
「三宅さん!! 誰かいるんですか!?
開けてください! ドアを開けてください!!」
映画みたいに体当たりでドアをこじ開ける
なんて芸当は、実際には出来ない。
どうすればいいんだ……?!
【三宅】
『来るなッ! 化物ッ! く、来るなァッ!!』
化物!?
三宅さんは今、このドアの向こうで
いったい何に襲われているんだ!?
一瞬、『呪い』という単語が頭をよぎる。
【智】
「三宅さんッ!! 三宅さんッ!」
【花鶏】
「開けなさい!!」
三宅さんが絶叫した!
やがて息が上がってまともに声も出せなくなった三宅さんが、
一際大きな叫び声をあげる。
【三宅】
『来るな! 来るなッ! 来るな…………ッ!
うわああぁぁぁぁぁーーー…………ッ!!!!』
【智】
「三宅さんッ!?」
………………。
大きな叫びを最後に、室内はパッタリと静かになってしまった。
あれほど騒がしかった物音も止んで、
三宅さんの声ももう聞こえない。
まさか……。
【智】
「み、三宅さん……?」
【花鶏】
「ちょっと、冗談じゃないわよ……」
恐る恐る声を掛けても返事がない。
【智】
「三宅さん! 三宅さん! 返事をしてください!」
いくら呼びかけても、返事がない。
【智】
「どうしよう……」
管理人さんに事情を説明して中に?
いや、三宅さんが『化物』と呼んだ得体の知れない相手が、
まだ中に居るかもしれない。
最悪の事態を予想しながら、携帯を取り出す。
【智】
「こんな事態で警察に電話することになるなんて……」
【花鶏】
「あいつ、中で死んでんじゃないでしょうね……」
【智】
「や、やめてよ……」
一番考えたくないことだった。
震える手で、押しにくい携帯の小さなボタンを操り、
あらかじめ登録しておいた地元の派出所の番号を呼び出す。
【花鶏】
「待って! なんか下が騒がしいわよ?」
発信ボタンを押そうとしたところで、
ようやく僕らは、下の方で騒ぎが起きていることに気がついた。
【警官】
「それであなたがたは、早く資料を返してもらいたいのに
連絡が付かないので、わざわざここまでやって来た、と」
【智】
「はい。雑誌社の人に住所を訊きました。
問い合わせてもらえばわかります」
警察は、僕らが呼ぶまでもなくやって来た。
下での騒ぎに階段を降りた僕たちを待っていたのは……。
変わり果てた三宅さんの無残な姿だった。
【花鶏】
「まさか……」
どうやら、最後の叫び声を上げながら、
三宅さんは窓から落ちたらしい。
地上3階からなら、運が良ければ骨折程度で
済んでいたかもしれないけど……。
地面が固かったのと、落ちるときの体勢が、三宅さんの命を奪った。
【警官】
「あなたがたがちょうどこのドアの前に来た時に、
室内で騒ぎが起こった……そうですね?」
【智】
「はい」
【花鶏】
「そうです」
【警官】
「わかりました。ドアは施錠されたままでしたし、あなたがたに
特に容疑がかかるとか、そういったことはありません。
これはあくまで形式です。すいませんね」
【智】
「いえ……」
警官がドアを破って部屋に突入した時、
室内には化物も何もいなかったらしい。
ただガラスの割れた窓から入る風を受けて、
カーテンが揺らめいていただけだって聞いた。
部屋の出入口は、三宅さんが落ちた窓を除けば、玄関の他にはない。
その玄関のドアには、僕らがずっと立っていたのだから……。
三宅さんを殺した犯人は、いったいどこから逃げたんだろう?
【花鶏】
「あいつは……あの記者は、誰に殺されたんです?」
怪物の正体をはかりかねて、花鶏が警官に尋ねる。
【警官】
「いえ、まだ部屋を調べただけで捜査は始まってもいませんし、
検死の結果だってしばらくかかりますから。しかし……」
【智】
「なにかわかっていることがあるのなら、教えてください!」
【警官】
「うーん……」
人の良さそうな警官は、親族でもない僕らに言ってよいものか、
悩みながらあごを撫でる。
【花鶏】
「些細なことでもかまいません」
【警官】
「しかし……」
言い淀む警官。
と、別の警官がやってきて、その警官に耳打ちした。
部屋の調査が終わったらしい。
みるみるうちに、僕たちを取り調べていた警官の表情が険しくなる。
【警官】
「……部屋の中から、ドラッグが押収されたそうです」
【智】
「え……!?」
警官の言葉に、一瞬耳を疑う。
【警官】
「これは、ドラッグ服用の幻覚による自殺、という線で落ち着き
そうですね。もちろん、検死結果が出ないとわかりませんが」
【智】
「ドラッグって……」
【警官】
「部屋中のガラス……特に鏡を全部たたき割っていたようです。
完全に錯乱してたんでしょう。鏡に映る自分の姿が化け物に
見える幻覚っていうのは、十分にあり得る話ですしね」
【花鶏】
「じゃあ、あの叫び声は、全部幻覚のせいだったと……?」
【智】
「三宅さんが、ドラッグ……」
【警官】
「これはどうやら、事件じゃなくて自殺の線だな」
別の警官の呟きが耳に入った。
自殺……そうなのか?
【智】
「花鶏……」
花鶏とヒソヒソ声で話し合う。
目の前が、赤黒く忌まわしい闇に塗り込められたみたいだった。
あの恐慌の叫びは、すべてドラッグが見せた
幻覚のせいだったというのか……。
狂乱のさなかの室内を想像してみる。
ドラッグを服用した三宅さんが、幻覚に怯えて叫び声を上げながら、
一人部屋中のガラスを割って暴れ回る……。
【智】
「三宅さん……」
僕たちの声は、錯乱状態の三宅さんには届かなかった。
最後には、存在しない怪物に怯えて悲鳴を上げながら、
窓から身を投げて……。
本当に、それだけの事件なんだろうか?
なにか、しっくりこない。
【智】
「詳しいことが判ったら、教えてもらえますか……?」
【警官】
「そうですね……故人のお知り合いの方なら、
話せる範囲でならお教えすることができると思いますよ」
【智】
「ありがとうございます」
捜査が進めば、なにか別の新事実が明らかになるかもしれない。
それが僕らにとってなんの役に立つのかはわからないけど……。
【警官】
「それでは、私はこれで……」
【花鶏】
「あ……そ、そうだ! 忘れていました!」
軽く会釈して持ち場に戻ろうとした警官を、
花鶏が慌てて呼び止めた。
【警官】
「なにか?」
【花鶏】
「本は……本はありませんでしたか?」
【警官】
「本?
……ああ、その記者に貸していたという資料のことですか?」
【智】
「はい。どうしても必要なんです。
そのために、僕たちはわざわざ……」
【警官】
「どんな本でしょう?」
【花鶏】
「かなり装丁の古い本で、表紙にはキリル文字……
ロシア語でタイトルが書いてあります。
見た目は英語のアルファベットでPat……」
部屋の中を調べていた警官の方を
チラリと見たけど、首を横に振られてしまった。
【警官】
「……なかったみたいですね。わかりました。もし見つかったら、すぐに連絡しましょう。一応証拠品になるので、すぐにご返却
できるかどうかはわかりませんが」
【花鶏】
「……連絡、待っていますわ」
盗んだ本なら、簡単に見つかるような場所には隠さないだろう。
多分、今見つからなくても、後々発見される可能性は十分に
あり得る。
でも……こんな事件があったせいなのか。
僕にはなぜか、ここにあの本はないという漠然とした予感があった。
【警官】
「それでは、私はそろそろ持ち場に戻らないといけないので」
【智】
「はい。お引き留めして申し訳ありませんでした」
【花鶏】
「………………」
今は、花鶏を慰める言葉はみつからなかった。
警官と別れた後、少し時間が経って落ち着いてくると……。
【智】
「ねえ、花鶏……」
僕の中に、良からぬ想像が首をもたげてきた。
目を閉じて、記憶を確かめる。
【智】
「……本当にただの幻覚だったのかな?」
最初のガラスが割れる音は、三宅さんが
悲鳴を上げるよりも先に聞こえた。
三宅さんが『化物!』と叫ぶよりも先に……。
【智】
「もしかして、誰かが……何かが、窓ガラスを割って部屋に
入って来たんじゃ?」
三宅さんが『化物』と呼んだ何か、が。
【花鶏】
「あなたも、自殺じゃないと思ってるのね?」
【智】
「花鶏も……?」
【花鶏】
「ええ……」
不吉な言葉が、僕たちの中に甦った。
呪いは、人から人に伝染する――
〔迫る危機〕
ビル屋上のたまり場には、久しぶりに花鶏も含めた
みんなが集まった。
でも……かつての楽しさは、残滓さえも見つからない。
【るい】
「三宅のおっちゃん……。結構いいヤツっぽかったのに……」
ほとんど繋がりはなかったとはいえ、
知人の死は、僕たちに大きな衝撃を与えた。
そこに呪いが関係しているかも知れないとなれば、なおさらに。
【茜子】
「でも、違法薬物を持っていたのです。
本性はどんな人物だったやら」
【るい】
「だったら、死んでも良かったって言うの?!」
【伊代】
「ちょ、ちょっとちょっと! この子は悪くないでしょ!」
【伊代】
「知り合いがあんな事になって辛いのはわかるけど、
今はそれより本当に記者さんの……事故に呪いが関係をしてる
のかどうかを考えましょうよ」
【るい】
「うん……」
事故。
そう、三宅さんの死は、警察に事故として処理された。
検死の結果、やはり体内からドラッグが検出されたらしい。
現場であの警官に聞いた通り、
幻覚を見て錯乱し、挙げ句の果てに転落死――
そういう判断が下されたのだ。
【こより】
「それで、あの……なんか聞きにくいんですケド……」
【智】
「……うん、なかったんだ」
【花鶏】
「『ラトゥイリの星』は、見つからなかった……」
『ラトゥイリの星』は結局、三宅さんの部屋からも
発見されることはなかった。
三宅さんが犯人ではなかったのか、
それとも三宅さんが『化物』と呼んだ何かが持ち去ったのか……。
【伊代】
「わたしたちも一応古書店をマークし続けてるけど、
やっぱりそれらしい本が買い取られたっていう情報はないわね」
【茜子】
「もともとこちらは保険です。見つかる期待はほとんどありません」
【智】
「面倒なこと頼んでごめんね」
【伊代】
「気にしないで」
花鶏の表情は険しい。
これでまた、『ラトゥイリの星』の行方が
完全にわからなくなってしまったのだ。
一時は確信に近い期待をしていただけに、
落胆の度合いは察して余りある。
【こより】
「それにしても、記者さんが『化物!』って叫んでたのが
気になりますよう……」
【るい】
「トモが言う通り、呪いが伝染したのかな……」
【こより】
「呪いを持ってない人間に、呪いの秘密を話しちゃったせいとか、ないですよね?」
【智】
「どうなんだろう、そんなことあるかな?」
【花鶏】
「ともかく、呪いが伝染したって可能性そのものは否定できないわ」
【伊代】
「そうね。そしてもし呪いが伝染して、人ひとりを殺してしまったっていうのなら……わたしたちは本当に急いで、あの本を捜さなきゃならないと思う」
【智】
「……呪いを解くかどうかは別としても、真相を調べないとね」
【花鶏】
「でも、手がかりがなさ過ぎるわ……」
みんなの気分が一度に沈んでしまうと、
浮上するのはなかなか難しくなる。
空気が重かった。
いつもならこんな時、花鶏がふざけて場を
盛り上げてくれるんだけど、今そんな余裕は欠片もない。
【るい】
「あ、そういえばさ……」
るいが思い出したように口を開いた。
【るい】
「メグムはどしたの? あれから一回も会ってないよね?」
そういえば、この屋上で『ラトゥイリの星』を
調べることを決めたあの日以来、惠の姿を見かけてない。
【こより】
「連絡は入れたんですケド、なんか繋がらなくて」
【るい】
「そっか。んじゃしょうがないね、あははは……。
ああ、なんかおなかすいたなぁ……」
話題はすぐに途切れてしまって、また沈黙が訪れる。
【智】
「えっと、それじゃるいのエネルギー補給の為に、
みんなで何か食べに行こうか?」
【るい】
「私お金ぜんぜん持ってないけど」
【こより】
「るいセンパイにゴハンを奢(おご)るのは自殺行為であります!
鳴滝がるいセンパイに上げられるのはガムとかだけですよ!」
【伊代】
「あ、それじゃわたし家が近いから、何か軽いもの用意して
来ようか? たしか冷凍庫に冷ごはんがいくらかあったと
思うから、レンジで温めて……」
【花鶏】
「…………ねえ」
盛り上がりかけたみんなを、花鶏が静かに制して聞いた。
【花鶏】
「本当に、あの日から誰も惠に会ってないの?」
【伊代】
「え……? 会ってないけど……?」
花鶏の目に暗い光が灯る。
【るい】
「会ってない」
【こより】
「鳴滝も会ってないですね」
【茜子】
「会ってません」
【智】
「僕も……会ってないけど……」
花鶏の言葉の意味に、僕も気づいてしまった。
ここにいる六人や、三宅さんの他に、
あの本の存在と意味を知っているのは、いったい誰だ?
【花鶏】
「迂闊だったわ……どうして気づかなかったのかしら……」
【るい】
「なに? メグムがどうかしたの?」
【花鶏】
「皆元、あんたって本当に無邪気で、バカで……
疑うことを知らないのね……」
【るい】
「? なに言ってんの、花鶏……?」
【花鶏】
「もともと呪いのことを知っていて、あの本の意味も知ってる」
【花鶏】
「どういう呪いを負っているかは秘密。どういう能力を持っているかも秘密。……あいつより怪しい奴なんて、他に居ないじゃない」
止めなきゃ、と思った時にはもう遅かった。
【るい】
「何?! 今度はメグムを疑うの?! 仲間じゃなかったの?!」
【智】
「るい! 落ち着いて!」
【花鶏】
「怪しいのは事実よ。大体、同じ呪われた人間だという根拠は、
今のところ痣だけじゃない。あれが偽装したものじゃないという証拠は……」
【るい】
「メグムはそんなんじゃない! まだあんまり話したことないけど、メグムは私たちと同じ呪いを背負った仲間なんでしょ?! 友達なんでしょ?!」
【花鶏】
「……だから、疑うってことを知らないお子様は嫌いなのよ」
【るい】
「花鶏はおかしい!!」
【花鶏】
「おかしいと思うのなら、好きなだけ思うといいわ。
でも、客観的に状況を吟味すれば、惠が怪しいことは、
誰の目にも明らかじゃない」
【伊代】
「あなたの言っていることはわからないでもないけど……
でも、それだけで友達を疑うのはちょっと……」
【こより】
「鳴滝も、惠センパイがそんなことするとは思えない……んです
ケド……」
伊代やこよりの言葉にも、力はこもっていない。
惠のこと、るいほど手放しで信用しているわけではないのだろう。
でも、言葉の上では、信用したいと口にする。
【花鶏】
「…………」
煩わしい――
そんな負の感情をあらわにして、花鶏は目を細めた。
【智】
「花鶏……たしかに花鶏の言うことは一理あるかもしれないけど、みんなの前でわざわざ言うことじゃないよ……」
【花鶏】
「………………」
僕の言葉にも花鶏は答えず、ただ目を逸らした。
【智】
「花鶏」
【花鶏】
「…………解ってるわよ。そんなこと」
なおも声をかける僕に吐き捨てるように言い残すと、
花鶏は一人屋上を出ていってしまう。
【智】
「花鶏! 待ってよ!」
【茜子】
「待ちなさい、そこのお人よしブルマ」
【智】
「…………茜子?」
【茜子】
「しばらく一人にしておいた方がいいのではないですか?」
【伊代】
「こんなことは言いたくないけど……いくら余裕がないって
言っても、あの子の最近の言動、さすがに目に余るわ」
【伊代】
「あなたがかばうから大目に見てるけど……あまり甘やかしすぎるのはどうかと思う」
【こより】
「しばらくすれば花鶏センパイも、きっと落ち着きますよう。
……たぶん」
【るい】
「…………」
言ってることはそれぞれに違っても、次々に知人や友人を
疑う花鶏に、みんながあまり良い感情を抱いていないのは
明らかだった。
惠は僕らと同じ呪いを負った仲間……しかも同年代の女の子だ。
まだまだ互いのことはあまり知らないけれど、みんな無意識に
友達意識を持ち始めていた。
でも状況的には、惠に怪しいところがあるのは確かだった。
それを否定できないからこそ、
疑ってしまいそうになる自分が許せないからこそ……反感を覚える。
みんなは無意識のうちに、惠を疑う自分を、
花鶏に重ねて見ているのだろう。
【智】
「ダメだ、ほっとけないよ。
花鶏って一人で無茶するの好きだからさ」
僕だって惠を疑うことは気が引ける。
たとえ状況的に、惠が怪しいことを否定できないとしても、だ。
間違いであって欲しい。
僕らの見当違いであって欲しい。
【智】
「惠が無実だってコトを証明するためにも……
僕は花鶏に協力するよ」
【茜子】
「前にも一度言いましたが、もう一度言っておきます。
あなたは阿呆です」
【智】
「ほんとにそう思うよ」
【茜子】
「……あの変態はお任せしますので」
【智】
「うん」
花鶏の後を追う前に、最後にもう一度振り返ると、
みんなの表情は優しさを孕んだ苦笑に変わっていた。
るいさえも。
やっぱりなんだかんだ言っても、みんな花鶏が心配なんだ。
【智】
「みんな……」
急いで追いかけよう。
あの危なっかしい一匹狼を支えてやろう。
【花鶏】
「協力は不要だって言ったでしょ?」
【智】
「僕も惠の事を信じたいからね。みんなからも、惠の無実を
証明して欲しいって頼まれたんだ。別に、花鶏が行かなくても
行くつもりだから、協力する訳じゃないよ?」
【花鶏】
「智……あなたやっぱり、口から先に生まれてきたクチでしょ?」
【智】
「さあ? 聞いた事ないから知らないけど」
【花鶏】
「バカ……」
やがて僕と花鶏は、惠の屋敷に到着した。
【花鶏】
「きっと居ないわ。でなければ、引き篭もってる」
【智】
「まだ、惠が犯人と決まったわけじゃないよ?」
【花鶏】
「でも、最も怪しい」
【智】
「どれだけ確率が高くても、100%じゃない」
姿の見えない相手に憤りはやる花鶏の手綱を握りながら、
惠の屋敷を見上げる。
人の気配があまりにも少ない大きな建造物は、
不気味な寂しさを纏っている。
そこに疑惑が重なれば、なおさらだ。
【花鶏】
「この目で確かめるわ」
【智】
「…………」
インターホンに指を伸ばそうとして、
ふと、三宅さんの部屋に乗り込んだときのことが記憶に甦る。
思わず押す手を躊躇(ためら)った。
【花鶏】
「……わたしが押す」
僕の気持ちを察したのか、花鶏がかわりにボタンを押した。
花鶏に迷いや戸惑いはない。
花鶏は、強いな……。
【佐知子/メイド】
「はい、どちらさま……あら?」
出てきたのは、前に訪ねた時にお茶を出してくれた、
あの若くて柔らかい家政婦さんだった。
僕たちの姿を見ると、いそいそと門を開けてくれる。
【佐知子/メイド】
「お待たせしました。惠さんのお友達の方々ですね?」
【智】
「はい」
【花鶏】
「友達かどうかはまだわからない」
【智】
「……花鶏」
家政婦さんに気づかれないように、花鶏を軽く肘で突く。
【花鶏】
「…………」
躊躇がないのは良くても、
花鶏は同時に余裕もなくしてしまっている。
やはり僕が付いてきて正解だった。
花鶏一人だったら、どんな騒ぎになったかわからない。
【智】
「えっと、惠にちょっと聞きたい事があって、
携帯も繋がらないから来てみたんですけど」
【佐知子/メイド】
「ああ、そうですか……
すみません、実は私たちも困ってたところなんです」
【花鶏】
「どういうこと?」
【佐知子/メイド】
「実は惠さん、昨日から屋敷に戻ってなくて。私たちも何度か連絡を入れているんですけど、こちらもずっと繋がらなくて……」
【花鶏】
「なんですって?」
花鶏の声が堅くなる。
惠が居ない。しかも昨日から……。
だけどまだ、それだけじゃ何も判らない。
惠は別に小さな子供じゃない。
外泊くらいしてもなんの不自然もないはずだ。
【智】
「いきなり外泊したりすることは、惠にはよくあることなんですか?」
【佐知子/メイド】
「もともと気まぐれな方なので……。
でも、いつもはこちらから連絡すると繋がるんですけどね」
【花鶏】
「…………」
【智】
「なにか行き先に心当たりはありませんか?
普段外泊する先とか……」
【佐知子/メイド】
「私たちもあまり深くは干渉しないよう言われてますから、
詳しい行き先はちょっと……」
【智】
「そうですか……」
惠が出かけているなら仕方ない。
連絡が付かないのは気になるけれど、
家がわかっているんだからまた後日来ればいいかな。
収穫がなかった旨を、みんなに連絡しておこう。
【花鶏】
「……本当は居るんじゃないの?」
【佐知子/メイド】
「え……?」
花鶏の言葉に、携帯を取り出そうとした手を止める。
【智】
「花鶏、何言って……」
【花鶏】
「中に匿ってるんじゃないの? 直接確認させて」
【佐知子/メイド】
「え、ちょっと困ります。そんな惠さんが居ないときに勝手に……」
【花鶏】
「信用出来ないわ。中を調べさせて」
【佐知子/メイド】
「や、やめてください! 本当に困ります!
惠さんは居ませんから!」
【花鶏】
「じゃあ見せてもかまわないじゃない!
なにか見られて困るようなことでもあるの!?」
【佐知子/メイド】
「な、何言ってるんですか!
隠してるとかそういう問題じゃないでしょう?!」
【智】
「花鶏! 待って、花鶏!!」
何もかもが疑わしく見えるのか、花鶏は家政婦さんを強引に
押し退けてまで屋敷の中を調べようとする。
止めないと……!
【花鶏】
「留守っていうのが嘘じゃない保証がどこにあるのよ!
どう考えても惠が一番怪しいのよ?!」
【花鶏】
「この屋敷の中に『ラトゥイリの星』があるかも知れないのに、
このまま引き返せるワケないわ! グズグズしてる間に、
他の場所に隠されたりしたら……!!」
【智】
「だからって!」
【佐知子/メイド】
「ほ、ほんとに困ります!
怪しいとか一体なんの話してるんですか?!」
屋敷の入口で揉めていると、
騒ぎを聞きつけて老家政婦がやってくる。
【浜江/老婆】
「なにを騒がしい!」
こっちは結構なお年寄りで、老人らしくお堅い口調で詰問してくる。
【佐知子/メイド】
「浜江さん! ……あっ! ちょ、ちょっと!!
待って待って!!」
若い家政婦が老家政婦に気を取られている隙に、
花鶏が無理やり屋敷の中に入ろうとしていた。
【智】
「花鶏、ダメだよ!!」
【花鶏】
「惠が居ないか確かめるだけよ!」
【浜江/老婆】
「惠さまはおらん」
門をすり抜け、玄関に向かう花鶏の前に、
今度は老婆が立ちはだかった。
この間訪ねた時にはチラッと見かけただけだったけど、
見ると老いた顔にも強い意志が見て取れる。
【花鶏】
「直接この目で確かめさせて貰うわ!」
【浜江/老婆】
「おらんと言うとるッ!!!」
【花鶏】
「…………」
【浜江/老婆】
「惠さまはおらん。
用が在るなら帰り次第、佐知子さんに連絡させる」
【智】
「ほら花鶏、帰ろう。きっとすぐに帰ってくるよ」
【花鶏】
「智、あなたはわたしの邪魔をしに来たの? 冷静に考えなさいよ。なにも疚しいことがないなら、見られたって別に構わないはずでしょ? 口先だけの言葉なんて、信用できるわけないじゃない!」
【智】
「冷静になるのは花鶏だよ! 隠し事なんてなくても、いきなり
押しかけてきた人に家の中を見せるなんて、普通しないよ!
プライベートくらいあって当然でしょ!」
【花鶏】
「なんで……なんで智まで……!
わたしは、大お爺さまの本を取り戻さなきゃならないのよ!」
激昂した花鶏の目は、ほとんど怒りの色に染まっていた。
図書館の時と一緒だ……完全に冷静さを失ってしまってる。
花鶏があの本をどれだけ大切にしていたのか、
曾祖父への尊敬の念がどれだけ深いのかを、改めて思い知らされる。
【智】
「大切な本がなくなって辛いのはわかるけど、花鶏、
今日は出直そうよ……」
【花鶏】
「く…………」
【智】
「…………」
言葉に耳を傾けられなくなっている花鶏を
どう説得すべきか考えあぐねていたその時――。
僕の携帯がメールの着信を知らせた。
【智】
「…………ぁ、誰だろ……」
憤りの矛先を惑わせている花鶏の表情をチラリと見て、
視線から逃れるように携帯を確認する。
【智】
「…………惠、からだ」
【花鶏】
「えっ!?」
【佐知子/メイド】
「惠さんが連絡を?」
件名を見て、眉を顰める。
【智】
「え……『気をつけろ』っていったい……?」
焦る指先で、メールの本文を開いた。
メールが開くまでのほんの1秒にも満たないラグに、
不安が胸の中で膨張する。
【花鶏】
「あいつは? あいつは何て?!」
【智】
「…………『誰かに、狙われてる』って…………」
【花鶏】
「え………………?」
いつのまにか鼓動は早くなり、内側から
膨れ上がった不安に胸が張り裂けそうだった。
【智】
「惠を……捜さないと!」
【花鶏】
「…………そうね」
三宅さんを手に掛けた何者かが、今度は惠を狙っているのか?
【佐知子/メイド】
「い……いったい何が起こってるんですか……?」
【浜江/老婆】
「…………」
【智】
「お騒がせしてすみませんでした。多分、惠が危険です。
僕らは今から惠を捜しに行きます。もしこちらに惠から
連絡があったら、すぐに報せて下さい!」
【佐知子/メイド】
「は、はい」
【智】
「まずは花鶏の屋敷にバイクを取りに戻ろう。
街中を走ってでも、早く惠を見つけないと!」
【花鶏】
「え、ええ……」
【智】
「花鶏!」
しばらく呆然としていたけど、僕の声に
ハッとあげたその顔は、いつもの花鶏に戻っていた。
【花鶏】
「……わ、解ったわ。智、走るわよ!」
【智】
「うん!」
二人の家政婦さんに取り急ぎの別れを告げると、
僕らは転がるように走り出した。
今度こそ、最悪の事態を防がなければ!
〔惠の死〕
軽快な速度で疾走するバイクの後ろに乗りながら、
僕は胸を掻き毟りたい程の焦りを感じていた。
『誰かに、狙われている』
惠からのメールには、たしかにそう書かれてあった。
誰に? 惠はいったい誰に狙われている?!
三宅さんも、死の直前には数日間連絡がつかなかったという。
それは何者かに狙われているのを意識して、
部屋に閉じこもっていたからではなかったのか?
おそらく、相手は同じ――
常に後手後手に回らされている。
相手のあざ笑う声が聞こえてくるようだった。
そもそも相手は人間なのか?
三宅さんが叫んだ『化物』という言葉の意味を、
僕らはまだ量りかねている。
【智】
「やっぱり、伝染する呪いが一人歩きをしているのか……!」
見えざる恐怖を追い抜くために、花鶏のバイクは疾走する。
花鶏がいやがるのも無視して、みんなにも協力を頼んだ。
伊代に中継役を頼んで、伊代の携帯からそれぞれ報告をもらう。
【こより】
『惠センパイの行きそうなところ訪ねたんですけど、居ません!』
【智】
「そう。ありがと」
【茜子】
『デパート内、駅、放送まで頼みました。居ません』
【智】
「そっか。こっちも頑張る」
【伊代】
『居ないわ……。人通りの多い道をひたすら周ってるけど、
居ればあの子なら目立つはずなのに』
【智】
「こっちもダメ。オフィス街のほうも行って見るよ」
【るい】
『ダメ! ティッシュとかチラシとか配ってる人とかに
聞きまくってるんだけど……』
【智】
「ありがと。また連絡入れる」
誰一人として収穫なし……。
惠の行方は、杳としてしれなかった。
【花鶏】
「くっ……! ここもダメ! 次、行くわよ!」
【智】
「うん……みんなの方もダメだったって。屋敷にも帰ってないみたいだし……惠の行きそうな所が他にないか聞いてみたけど、もう思い当たる場所はないって」
惠は見つからない。
焦燥感は限界を超えていて、苛つきに手が震えるほどだった。
【花鶏】
「どこでもいい! とにかく走り回るわよ!」
【智】
「うん、今はそれしかない!」
惠からメールを受け取ったのがお昼過ぎ。
でも、すでに日が傾き始めていた。
惠は見つからない。
連絡もつかない。
【智】
「惠……」
【花鶏】
「…………」
夜になれば、捜すのはさらに困難になる。
それまでに惠を見つけなければならない。
ならない……んだけど、すでに僕たちは疲れていた。
田松市内から捜索範囲をひと回り、ふた回りと拡大してるけど、
これ以上捜索範囲を広げてもキリがない。
【智】
「惠を……見つけないと」
【花鶏】
「あとはどこを捜せば……。
もう一度全部回り直してみるしかないのかしら?」
主要な場所を回り直すのもこれで何度目か。
惠には、他に友達と呼べる相手もいないようで、
行くあての見当が付けがたいのも問題だった。
何度も何度も同じことを考えすぎて、
だんだんと思考も麻痺して鈍ってきている。
惠はどこだ、どこにいる?
なにか、得体の知れないものに追われてるのなら、
いったいどこに逃げる……?
【智】
「三宅さんの時は、ドア一枚隔てたところに居たのに何もできなかった……惠は、惠だけは、なんとしても助けないと……!」
【花鶏】
「ええ。あいつを助けて本も取り戻すわ。さ、休憩終わり!
行くわよ智、乗って」
花鶏に促され、疲れた頭と体に鞭を打つ。
【智】
「うん。それじゃ今度は、さっきと逆の道から行……」
出発しようとした僕らの目の前を、
不吉な赤い光が走って過ぎた。
【花鶏】
「救急車……まさか……」
【智】
「そ、そんな……」
胸騒ぎがする。まさか、関係ないとは思うけど……。
【智】
「気になる……花鶏、追おう」
【花鶏】
「……もし智の予想通りなら、追ってももう……」
【智】
「それでも」
【花鶏】
「OK。あのサイレンを追っかける」
【智】
「惠……無事で居てよ……」
夕日と交じり合う回転灯の光を追って、花鶏はアクセルを全開に。
ただひたすらに、惠の無事を祈りながら、僕らは走った。
鳴り響くサイレンのお陰で、追跡は容易だった。
【花鶏】
「止まった……」
救急車が停止したのは、昼時にはかなりの賑わいを見せる、
何の変哲もない飲食店の立ち並ぶ繁華街だった。
少し離れた場所にバイクを止めて、
走って現場に近づきながら、野次馬越しに様子を窺う。
【智】
「誰か、倒れてる……」
【花鶏】
「……」
野次馬たちのせいで良く見えないが、
誰かが倒れているのだけは確かだった。
【智】
「すいません、すいません!」
人を押し退けながら近づいていくうちにも、
救急車に乗り込んだ応急治療チームが動いていた。
まだよく見えない。
【花鶏】
「通して!」
【智】
「すいません、その人を知ってるかも知れないんです!」
さらに人をかき分けて、最前列まで飛び出した。
今まさに救急車へ運び込まれようとしているストレッチャー――
上には毛布がかぶせられていたが、
はみ出た腕は血まみれで、惨状の様子がありありと伝わってきた。
思わず足が竦んで止まる。
【智】
「ぅ…………」
【花鶏】
「…………」
飛び出してきた僕たちに、救急隊員が気がついた。
【救急隊員】
「もしかして、お知り合いの方ですか?」
【智】
「……わかりません。……確認してもいいですか」
【救急隊員】
「そうですか。では……どうぞご確認下さい」
【花鶏】
「…………」
【智】
「はい……」
恐怖にも似た嫌な予感を必死で押さえつけながら、
顔までかけられた毛布の端を、震える手でなんとか掴む。
そうしなければ暴れだしてしまうとでも言うかのように、
胸を手で強く押さえながら、ゆっくりと、ゆっくりとめくった。
髪の毛が見える。
反射的に体が強張る。
髪の毛はべっとりと赤く染まっていて、
毛布の下からは篭もった匂いがして……。
【智】
「…………」
怖じ気づいて動かなくなってしまった手を
無理やりに動かして、一気に毛布を剥ぐ。
【花鶏】
「…………ッ!!」
あらわになったその顔は、一瞬、惠に見えなかった。
頭から流れた血で真っ赤に染まってて、
なんだか面相が違って見える。
でも、似ていた。髪型も一緒だし、
服装もいつも惠が着ていたあの制服と同じで……。
息をしている様子は……なかった。
生きているわけが……なかった。
【花鶏】
「そんな……」
僕たちは惠の顔をそれほどまじまじと見てきた訳でもないから、
目をつむってるとなんだか別人みたいに見えてしまう。
確認するかのように花鶏の方を見る。
花鶏も青ざめた表情で、でも唇をかみしめながら僕にうなずいた。
首を横に振って欲しかった……
でも、花鶏にもこの人が惠に見えたのか……。
【智】
「あとは……」
【花鶏】
「ええ……」
僕と花鶏は、その人の服の裾をめくって、脇腹を確認した。
【智】
「あっ…………!!」
【花鶏】
「く…………!」
少し抉れてて醜く変質してたけど、
そこには確かに……僕たちをつなぐ、あの痣があった。
……間違いなかった。
こんな痣が、そうそうあるわけがない。
この人は……惠に間違いない。
【智】
「惠……」
【花鶏】
「惠……ね」
【救急隊員】
「お知り合いの方ですか?」
【智】
「友人、です……」
僕らは惠を助けられなかった。
誰かに狙われていると、惠は助けを求めていたのに!
僕らを呼んでいたのに!!
嗚咽に似た声が漏れて震えだす肩は、
どれだけ力を入れても止まらなかった。
【智】
「惠…………!! どうして……どうしてぇ…………」
【花鶏】
「…………」
震える肩に手を置いたのは、救急隊員の人だった。
【救急隊員】
「お知り合いの方でしたら、病院へご同行願えますか?」
【智】
「はい……」
【智】
「僕が救急車に乗るから、花鶏は追いかけてきてくれる?」
花鶏は無言で頷く。
【智】
「惠は、どうして……」
【救急隊員】
「通報して下さった方によると、そこのビルの屋上から
飛び降りたそうで……」
救急車に乗り込む直前、指さされるままに見上げたビルは、
なんの変哲もない、飲食店が幾つか入ってるビルの一つに
過ぎなかった。
もちろん、屋上に飲食店なんてない。
惠に用のありそうな場所には見えなかった。
どうして惠は、こんなビルの屋上にわざわざ登って、
そこから飛び降りたりしたんだ?
……決まっている。
誰かに、
あるいは「何か」に、
惠は――。
人をビルに登らせて、そこから飛び降りさせるなんて、
常識的には不可能なんだから。
呪いだ……惠は呪いのせいでこんなことに……。
病院までの車内は慌ただしさが占領していたけど……それでも僕は、頭の中をぐるぐる回る思考を止めることは出来なかった。
到着した病院のロビーで力なく座る僕を我に返らせたのは、
沈痛な面もちの看護師だった。
【看護師】
「先生がお呼びです」
花鶏とともに呼び出された先で聞かされた事実は、
わかっていたこととはいえ、さらに僕らを打ちのめした。
【智】
「惠は、やっぱり……ダメでしたか……」
【看護師】
「お辛いとは思いますが、ご家族の連絡先を……」
【智】
「……はい」
少しでも気を緩めれば嗚咽が漏れそうになる。
震える口でどうしようもないやるせなさを堪えながら、
僕は惠の家人のことなどを説明した。
【智】
「みんなにも……連絡しないと……」
自分でも、声が震えているのがわかる。
でも、止められない……。
そんな僕を、花鶏がそっと制してくれた。
【花鶏】
「……智、落ち着いて。わたしが代わりに連絡するわ」
【智】
「花鶏……」
花鶏が病院の公衆電話で電話を掛けている間……。
僕はただ、唇をかみしめて俯いていることしかできなかった。
【花鶏】
『惠が死んだわ』
それ以上は語らず、花鶏はみんなを呼びだした。
【佐知子/メイド】
「本日はお訪ねいただき、誠にありがとうございます。
惠さんもきっと喜んでいると思います」
【智】
「惠は……」
【佐知子/メイド】
「惠さんは、自室に……なにぶんご家族も既に居ませんし。
お身体の弱かった方ですから、万が一時にも通夜や葬儀は絶対にしないようにと、以前から言い含められていましたし……」
【佐知子/メイド】
「でも……せめて今日だけでも、この屋敷で眠らせてあげたかったので……」
【智】
「そうですか………………」
なにか語尾を取り繕おうとして言葉を探したけれど、
その先はなにも出てこなかった。
そんなふうに言い含めていたなんて……惠は、いつ自分が
呪いに殺されてもおかしくないって悟っていたのか……。
なにも言えない僕らをそこに残して、
家政婦さんは中に帰ろうとする。
【智】
「……あのっ!」
耐えきれなくなって、家政婦さんを呼び止めた。
【智】
「惠に……会わせて貰えませんか……」
【佐知子/メイド】
「…………すいません。今はそっとしておいて下さい……。
ごめんなさい」
【智】
「あ……ごめん……な……さい」
【佐知子/メイド】
「失礼します」
また僕は何も言うことが出来ず、今度こそ屋敷の門は閉ざされた。
中からは物音一つ聞こえて来ず、もう明かりさえ漏れて来ない。
屋敷まで死んでしまったみたいだった。
【智】
「ぅ…………惠……」
【伊代】
「あなたが悪いわけじゃないわ……。あまり思いつめないで」
【茜子】
「…………」
【るい】
「ううぅ……、メグムぅ、なんで、なんれメグムがぁ……うぅぅ
……えぅ、うぅぅ…………」
【こより】
「る、るいセンパイ……泣かないで下さいよぅ……。
鳴滝まで涙が止まらなくなっちゃいますよぅぅ…………」
自分の携帯に目を落とす。
『誰かに狙われている』
惠からの最後のメッセージが、今もそこに残っていた。
惠……君はいったい、誰に狙われたんだ?
なぜ、狙われたんだ……?
【花鶏】
「……くッ!」
苛立ちまぎれに、花鶏が自分のバイクを蹴り飛ばす。
これ以上、交わすべき言葉も見つからなかった。
すっかり日も落ちて暗い夜道、挨拶もせずに僕らは別れる。
家へ。
それぞれの家へ――
今夜僕は、多分泣くだろう。
〔悲嘆と孤独〕
次の日。
誰よりも仲間の死を悲しんでいたるいが心配だったので、
僕は伊代、こよりと共に、花鶏の屋敷を訪ねた。
影の中に暗い傷みを引きずる僕らに、屋上のあの場所は眩しすぎる。
この古びた館の中の方が、心の傷を癒すにはいいだろう。
チャイムを押すと、るいと茜子が僕らを迎えてくれた。
さすがに堪えたのか、花鶏は自室に篭もったままで降りてこない。
【るい】
「トモ、こより、イヨ子……ありがと……」
そう言うるいは、顔も声も全然大丈夫じゃなかった。
今にも泣きそうな鼻声……
昨夜は泣きはらしたのか、目の周りが今も真っ赤だった。
【伊代】
「こんな時に無理な話だけど……元気出してね? ずっと落ち込んだままだと体に悪いわ。もしこれであなたまで倒れちゃったら、わたしたち……」
【こより】
「そうですよう……。るいセンパイが萎びてると、
みんな萎びちゃいます」
【茜子】
「そうです。胃袋おばけが萎びていいのは、おなかが減った時だけのはずです」
【るい】
「ごめん」
むんっ、と元気のある様を見せようとしたるいのポーズは、
やっぱり弱々しかったけれど……。
きっとるいなら立ち直れるだろう。
るいが立ち直って元気になれば、
たぶん僕たちみんなも元気になれる。そんな気がした。
惠のことはとても悲しいけど、
いつまでも悲しんでばかりいるわけにはいかない。
【智】
「なにか食べれば元気出る?」
【るい】
「たぶん……」
【智】
「僕の作る料理で元気出るんなら、いくらでも作るけど……」
【伊代】
「それなら、わたしも何か手伝うから、みんなで軽いパーティーにしましょ?」
【るい】
「え? 本当?」
【伊代】
「前に言ってた息抜きに遊園地っていうのは、ちょっとさすがに
気分じゃないけど、お食事会くらいならね」
【こより】
「いーですね〜。鳴滝も手伝いますよう! じゃがいも洗ったり
さつまいも洗ったり、えーとほうれん草洗ったりするであります!」
【茜子】
「茜子さんも手伝いましょう。首がもげるほど美味な奇跡の超料理を披露します」
【伊代】
「あ、あなたほんとに料理とかできるの……?」
【茜子】
「出た。失礼発言」
【こより】
「伊代センパイ、それより首がもげる方にツッコんで下さい」
【智】
「あはは、茜子の料理も楽しみにしてる。
みんなでおいしいもの作って食べて、元気になろうよ」
【智】
「るいは、なにとなにが好物なの?」
【るい】
「えっとえっと、ちくマヨでしょ、ちくマヨでしょ、あとちくマヨ!」
【智】
「なにそれ?」
【るい】
「うん。ちくわの穴にマヨネーズ詰めたやつ!」
【智】
「……るいにはなにも作ってあげない」
【るい】
「ええええ!? なんで〜!?」
騒ぎを聞きつけたのか、花鶏が降りてきた。
【るい】
「あ、花鶏〜っ。トモったらひどいんだよ!」
【智】
「ヒドイのはどっちだ! 料理人に対する存在自体冒涜め!」
【花鶏】
「………………」
花鶏は黙り込んだままだった。
【智】
「……花鶏?」
花鶏の様子がおかしいのに、みんなすぐに気づいた。
僕らを怖い顔で凝視しながら……やがて花鶏は、口を開いた。
【花鶏】
「……もう一度確認するわ。この中で『ラトゥイリの星』の
ことを誰かに話した事がある人は、本当に居ないのね?」
【智】
「…………」
盛り上がっていた楽しい空気は、花鶏の一言で凍り付いてしまった。
そうか……花鶏はまだ、こだわっていたんだ。
僕は解っていたのに……
惠の死のショックで、そのことをすっかり失念してた。
花鶏の執念は、知り合いの死ぐらいで揺らぐような
甘い物じゃなかったんだ。
でも……。
みんなが悲しんでいるときにそんな話を持ち出すのは、
いくらなんでも配慮が足りなさすぎる。
空気が読めない発言は伊代の特権だと思っていたけど。
今ここで一番空気が読めていないのは、花鶏の方だった。
【花鶏】
「わたしに心当たりがあるのは、あの二人だけだったわ。
でもあの二人が違うのなら……あなたたちの誰かが洩らした
としか考えられないのよ!」
【こより】
「花鶏センパイ……もうその話は……」
【花鶏】
「生きてる人間であの本のことを知ってる者は、もう居ないのよ! だから絶対にこの中に……」
【るい】
「花鶏ィッ!!」
だしぬけに、るいが花鶏に殴りかかった。
拳が風を切る。
【花鶏】
「…………何するのよ!」
かすった拳で僅かに頬を切りながらも、
花鶏はるいの拳をかわしていた。
避けられたるいの拳は、壁に亀裂を走らせるほどだった。
『才能』を用いた、るいの本気の一撃――
それをかわすことができたのもまた、花鶏の『才能』のお陰――
花鶏のそれは、思考の速度を加速させるものらしい。
【るい】
「こんな時にまだ仲間を疑うなんて! 花鶏は最低だ!!」
【花鶏】
「でも、結局、本も犯人も見つかってないのよ!?
わたしにとって、あの本はそれほど大切なものなのよ!!」
それは解ってる。解ってるけど……。
【こより】
「でも……」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「……亡くなった人を静かに悼むくらいは、してもいいんじゃないかしら」
いきなり殴りかかったるいもやり過ぎかも知れないけれど……。
もはや誰も、花鶏を庇ってはくれなかった。
【花鶏】
「っ………………」
みんなの目が花鶏を疎んじていた。
理屈に筋が通っているだけでは、
他者の感情を割り切ることはできない。
繋がらない人と人。
花鶏の理も、感情が形作っている。
大切な本を取り戻したいっていう想い――
目の前で二人の命を奪った犯人を突き止めたいっていう想い――
僕らは互いに感情をぶつけ合う。
【花鶏】
「あなたはどうなの? 智……」
【智】
「…………僕は」
僕は花鶏の味方でありたい。
でも、みんなの気持ちもよくわかる。
なにより、感情を処理しきれないのは、
今の僕もみんなと一緒だった。
【智】
「……もう忘れよう。花鶏」
【花鶏】
「智まで…………」
【智】
「僕らが『ラトゥイリの星』を追うたびに、人の命が失われた。
このまま続ければ、もっと被害が出るかも知れない」
【花鶏】
「脅し? それとも警告?」
【るい】
「花鶏ッ! なんでそんなこと言うの?!
トモがせっかく花鶏のこと心配してくれてるのに!!」
【花鶏】
「…………」
【智】
「……ごめん、今のは方便なんだ。本当を言うと、もう花鶏に、
あの本のことは諦めて欲しい……」
【花鶏】
「智、あなた……」
花鶏の力にはなりたい。
でも、そのせいで花鶏がみんなを疑うような台詞を口にして、
不和の中心になってしまうのは……。
僕には正直、辛すぎる。
昨夜は僕も泣いた。
友達が死んだんだ。
それもただの友達じゃない。
同じ呪いを背負って、秘密を共有した仲間だったんだ。
ここにいるみんな、誰もが心に深い傷を負ったはずだ。
みんな疲れ果てている。
とにかく今は忘れて、休んで、それから楽しんで、
傷を癒さなければ参ってしまう。
花鶏みたいに……強くはなれない……。
【智】
「花鶏、もうやめようよ……」
【伊代】
「あの本があなたにとってどれだけ大切なものだったのか、
わたしたちには解らないわ。でももう、やめましょう?
命や友達よりも大切なものじゃないでしょう?」
【こより】
「花鶏センパイ、鳴滝はもう……イヤですよう……」
【花鶏】
「……そうよね、あなたたちには、わたしの気持ちなんて解らないわよね……」
【茜子】
「解っています。あなたも、わたしたちが疲れ切ってることは
解っているのでしょう?」
【花鶏】
「…………」
【るい】
「こんな時にまだみんなを疑うようなことを口にして……。本に
こだわって……。三宅のおっちゃんやメグムが、可哀そうだ……」
【花鶏】
「何を言ってるの? こんな時だからでしょ!? 二人も死んだ
からでしょ!? 犯人は本を盗んだ相手……それに、もしか
したら智に呪いを押し付けた奴かも知れないのよ!?」
誰も己の言葉を理解してくれない状況に、花鶏は苛立つ。
【花鶏】
「惠も、あの三宅って記者も、二人ともわたしと智の目の前で
死んだわ! ほんのわずかに手の届かない所で……!
相手はわたしたちの動きを見てるのよ!」
【花鶏】
「そんな奴に、あの本を渡したままになんてしておけないわ!」
でも、今度ばかりは、いくら僕でも、
花鶏をかばいきれなかった……。
【智】
「違う……違うんだよ、花鶏。
いまはそんなことを言ってるわけじゃないんだよ……」
【伊代】
「相手がいるかどうかもわからないのよ? あなた、得体の
知れない形のない呪いを追ってるだけかも知れないのよ?」
【花鶏】
「でも、少なくとも本を盗んだ相手は存在するわ!
わたしはそれを突き止めるために!!」
【るい】
「それだって、関係ない人が盗んだのかも知れないじゃない!」
【花鶏】
「それはあり得ないって、何度説明したら解るのよ!」
【るい】
「決め付けすぎだ!
花鶏だって、なんでも解るわけじゃないでしょ!?」
【花鶏】
「だから確かめるんじゃない! 協力なんて、いらないわ!
わたしは一人で、絶対にあの本を取り戻すわ!」
【るい】
「なんでも一人一人って! 結局花鶏は、友達よりも本のほうが
大事なんだ! 一生一人で本読んでればいい!」
【花鶏】
「皆元…………ッ!!」
みんなの忠告を聞こうともしない花鶏に苛立って、
るいがとうとうキツい言葉をこぼしてしまった。
【こより】
「る、るいセンパイ、花鶏センパイ……」
そこからはもう、売り言葉に買い言葉だった。
【花鶏】
「わたしを邪魔するつもり!? ……まさか、
あんたが盗んだんじゃないでしょうねッ!?」
【るい】
「なん……だとぉ……!」
刃のような言葉に斬りつけられて、
るいが歯を剥いて怒りをあらわにした。
【智】
「るい! 怒るのはもっともだけど、暴力はダメだよ!」
【こより】
「るいセンパイ、抑えてください!」
【るい】
「ううぅ…………!!」
心底からの怒りを漲らせて、
るいは燃え立つような目で花鶏を睨み付ける。
花鶏も劣らぬ怒りをもって、るいを睨み返す。
【伊代】
「ふ……二人とも落ち着いて……。お互いに謝って……お願い……」
【るい】
「やだよ!」
【花鶏】
「ふん!」
【茜子】
「無理ですよ」
間に立って、なんとかこの場だけでも収めようとする伊代の言葉も、まるで効果がなかった。
二人の怒気に挟まれて、伊代はおろおろするばかり。
【智】
「花鶏、みんなもうやめようって言ってるんだ。
なんとか本を諦められないの?」
【花鶏】
「…………大お爺さまの大切な本だから」
【智】
「それはわかるけど、だけど……」
【るい】
「もういいよ、トモ!」
頑なな花鶏をなんとか宥めようとする僕を、るいが遮った。
【るい】
「私、ここから出て行く!」
【こより】
「そんな、るいセンパイ!? それじゃあ、一体ドコへ!?」
【るい】
「わかんない……でも、どんなとこも、ここよりマシだ!」
【花鶏】
「勝手にすれば?」
【るい】
「…………ッ!!」
【こより】
「ま、待ってくださいよう! るいセンパイぃ!」
そう言ってるいは、一度も振り返らずに屋敷を出て行ってしまった。
るいに懐いていたこよりが、その背中を追っていく。
【智】
「あ、花鶏! 止めなくていいの!?」
【花鶏】
「どうして?」
【智】
「今止めないと、もう取り返しのつかないことになるよ?!」
【花鶏】
「……仕方ないわ」
とりつく島もないとは、まさにこのことだ。
殊更に冷たい態度を取る花鶏に手を出しあぐねていると、
次に動いたのは茜子だった。
【茜子】
「では、茜子さんも去ります。妥当な選択だと思いますので」
【花鶏】
「…………」
【智】
「茜子……」
茜子も一礼すると、とうとう屋敷を出て行ってしまった。
【伊代】
「あの子……帰る家なんてないのに……どうするのかしら?」
【智】
「花鶏! こんなのって……!!」
【花鶏】
「ほっとけば?」
後には僕と花鶏、伊代だけが残されて……。
うっかり鍋を空焚きしたときみたいな、息苦しい空気に包まれた。
居心地の悪さに耐えかねた伊代が、花鶏に見つかっては
困るとでも言うかのように、そっと僕の肩をたたく。
【伊代】
「……わたしたちも、行きましょ……」
【智】
「…………」
思えば僕たちは、幼い頃から呪いというものを背負っていて、
他人とは深いところまで解り合うことは出来ず、
常に孤独を抱えて生きて来た。
そんな僕たちがこうして偶然にも出会って、
そして集まって、理解しあって……。
明日の約束を交わさずとも良好な関係を続けてこられたのは、
むしろ奇跡だったのだ。
楽しかった日々も、我に返れば砂上の楼閣……。
ほんの微かな衝撃で、脆くも崩れ去ってしまうものに過ぎなかった。それでも僕は、一縷の希望を込めて花鶏を見る。
【花鶏】
「…………」
でも花鶏は、僕たちから完全に興味をなくしたように、
一人深くソファーに身を沈めていた。
【伊代】
「ねぇ……」
【智】
「…………」
もう一度伊代に声を掛けられて、僕は仕方なく頷く。
今の花鶏に、かける言葉は見つからない。
しばらく、一人にしておいてあげよう。
僕にも、休息が必要だから……。
去り際に振り返ると、花鶏の屋敷は
物音一つしない静寂に包まれていた。
この屋敷はこんなに静かな場所だったんだ……。
そして静かな屋敷の中には、花鶏が一人残された。
花城花鶏は、皆の去った部屋でただ一人、考えに沈んでいた。
【花鶏】
「わたしが欲しいのは、何?」
口に出してから、思考を伴って、もう一度同じ言葉をなぞる。
【花鶏】
「わたしが本当に欲しいものは、何?」
【花鶏】
「大お爺さま。わたしは自分がどうすればいいのか……
わからなくなってしまいました」
曾祖父セルゲイ・アレクサンドローヴィチ・ズファロフの
肖像画には、暖かい表情などない。
【花鶏】
「大お爺さまは、いつも鋭い目つきで冷厳とわたしを見下ろして
いるだけ……」
【花鶏】
「でも、幼い頃のわたしには、大お爺さまの肖像画だけが心の支えだった……」
特別な力と呪いを持っていたがゆえに、
本当に親密な交友関係を結んだことがなかった。
零落してゆく家は両親を日々の生活に追いたて、
ゆっくりと傾いで色あせていく空虚な屋敷の中で、
花鶏は孤独な少女時代を送った。
【花鶏】
「誰を頼るわけにもいかなかった……」
【花鶏】
「自分一人で強くなり、自分一人の力で立つしかなかった……」
【花鶏】
「幼い頃は、それが辛いときもあったわ。
一人でいることに耐えられないこともあった」
【花鶏】
「だから……わたしは誓ったの」
遠い異郷ロシアで一代で財産と地位を築き上げたという
偉大な曾祖父、セルゲイの肖像画に誓ったのだ。
【花鶏】
「自分は決して負けない、と……」
【花鶏】
「大お爺さまはいつもそうやって見下ろすだけ……」
【花鶏】
「でも、それでも、大お爺さまの肖像画に誓うだけで十分だった」
【花鶏】
「絶対にくじけぬと誓うことで、幼いわたしは自分を支えた。
強くなることが出来た」
【花鶏】
「でも……成長するに従って、わたしはもう、肖像画だけを支えにすることは出来なくなっていった……」
流れ星を見つけて、無邪気に夢を願うことが出来たのは、
幼い間だけだった。
人は歳を経て知恵をつけると共に、
夢を失って具体的なものを求めるようになる。
【花鶏】
「だからわたしは、いつしかズファロフ家の栄華の再興を目指す
ようになった」
【花鶏】
「一代で財産を築き上げ、家を再興することを夢見て……」
かつて曾祖父が成し遂げた、その偉業。
【花鶏】
「現代でそれを成すのは、大お爺さまの時代よりも遥かに難しいわ」
【花鶏】
「けれど、その困難を成し遂げようという強い意志が、
今のわたしの新たな支えとなった……」
【花鶏】
「そしてわたしには――」
【花鶏】
「大お爺さまの偉業をなぞるに足る、選ばれた者の証がある」
『聖痕』などという表現は、自分でも大げさだと思う。
何年か前に、辞書から引っぱり出してきたその単語。
【花鶏】
「本当は、一人で生きていけるって……
自分になら、家の再興も可能だって……
自身にそう信じ込ませるのに、都合のいい素材だっただけ……」
【花鶏】
「だから、大げさでもいい」
【花鶏】
「わたしが特別であることは、間違いなく事実なのだから……」
【花鶏】
「この身には、刻まれた『聖痕』と『才能』がある」
そっと左腕を撫でる。痣のある辺り。
【花鶏】
「だから、わたしは一人でも生きていけるはずだった……」
なのに……。
花鶏は、同じ特別な『才能』を持った仲間たちと、
出会ってしまった。
【花鶏】
「きっとわたしは、期待してしまったのね……
少し疲れていたのかしら?」
友達ごっこは、確かに楽しかった……。
【花鶏】
「でも、どこまで行っても所詮、それは友達ごっこでしかなかったのよ……」
【花鶏】
「最後には結局、一人で立たなければならない事実に、
変わりはない」
【花鶏】
「わたしが本当に欲しかったものは……」
花鶏が本当に欲しかったものは……。
【花鶏】
「一人であることの誇り――」
誰にも頼らず、自分一人で歩いていくことができるという、
孤高の誇り――
【花鶏】
「だから、これでいい」
屋敷の物音に耳をすませる。
るいや茜子がいた時には、煩わしいほどに騒がしかったのに。
みんなが集まりやってきて、嫌になるほど賑やかだったのに。
もう……何も、聞こえない。
また、一人に戻ってしまった……。
【花鶏】
「でも、これでいい」
【花鶏】
「このまま誰かと一緒に居たら、わたしはいつか誰かを頼って
しまうから……」
【花鶏】
「わたしは今までも一人でやってきた。これからも、一人でやっていくだけ」
元通りになっただけだ。
【花鶏】
「わたしは取り戻す」
【花鶏】
「『ラトゥイリの星』を……」
ぐっと伸びをして勢い良くソファーを叩くと、
ついでに自分の真面目腐った表情も叩き壊した。
【花鶏】
「化物だろうが呪いだろうが……この花城花鶏を怒らせた奴に、
目に物見せてやるわ」
【花鶏】
「絶対に取り戻してやるから!!」
さっそく外出の支度を整えようと鏡を覗き込んだ時には、
すでにいつもの不敵な笑みが甦っていた。
〔あなたをお助けします〕
和久津智はお堅い学園として知られる南聡学園の中でも、
模範的な優等生の一人だ。
今日も予鈴15分前には登校して自分の席に着き、
居眠りすることもなく真面目に授業を受けた。
授業が終われば学友たちに丁寧に会釈をしてから、
寄り道することもなく真面目に家に帰る。
今までずっとやってきたことだった。
【智】
「ふぅ」
ほんとに、今までよくやって来たものだ。
思わずカバンを振り回したくなるのをぐっと堪えて、
1歩1歩ゆったりと淑やかに歩いて、
まだ日も落ちないうちに家へ帰ってきた。
こんな時間に帰ってくるのは久しぶりだった。
【智】
「宿題しよ……」
することもないのでノートなんか広げてみたけれど、
全身を雑巾みたいに絞っても、やる気は一滴も出てこなかった。
【智】
「宿題やめ……」
漫画はあんまり持っていないし、
この間買ったミステリー小説でも読もうか。
【智】
「わ……」
ハズレだった。
5ページ読んで読む気をなくし、本を閉じて資源ゴミへ。
仕方ないので、今度はテレビでもつけてみる。
画面に映ったのは、バラエティ番組だった。
見たことはあるけど名前を知らない二人組のお笑い芸人が、
激辛料理の早食いに挑戦している最中だった。
【芸人A】
「ひぃ、これ、辛っ! まじ辛っ! 辛いってこれまじ!」
【芸人B】
「いたたた、舌痛い痛い! げほっ、げほっ!」
わざとらしい誇張したリアクションを生暖かい目で見ていると、
芸人の片割れが悶え苦しみながら口の中の物を撒き散らした。
そこへ、やたらでかいゴシック体の文字で、
あまりの辛さに悶絶!!
テロップが出たとたん、瞬時に見る気をなくしてテレビを消した。
【智】
「……げっそり」
あのバラエティ番組のテロップって、
どうにかならないものかな……。
「ここで笑ってください」っていうプラカードを
掲げられているようで、激しく興がそがれてしまう。
【智】
「……することがなくなっちゃった」
この部屋はこんなにも退屈だったのかと
今更ながらに気づいて、なんだか驚いてしまう。
ほんとに、今までよくやって来たものだ。
【智】
「……晩ごはんでも作ろ」
時間的にはかなり早すぎるけど、
その分時間を掛けて掛けて掛けまくって、
究極のメニューで美食家たちを唸らせるのだ。
【智】
「冷蔵庫には、なにがあったかな?」
……びっくりするほど何もなかった。
ほとんど空っぽの庫内で、ちくわが寂しく凍えている。
そういえばるいは、ちくわにマヨネーズ詰めただけのものが
大好きって言ってたなぁ……。
【智】
「ちくマヨだっけか?」
にるにるっとマヨネーズをちくわに入れて、完成!
3秒間クッキングだ。
【智】
「はむ……」
食べてみると、ちくわとマヨネーズを合わせた、
あまりにもそのまんまの味がした。
こんなのが大好きだなんて、変わってる。
るいだけじゃない。みんな変わり者ばっかりだった。
みんな……。
【智】
「…………」
みんなで料理を作って盛り上がろうとか、
そんな話をしたのを思い出した。
それは多分、とても楽しいだろう。
…………。
【智】
「……やっぱり諦めきれないよ」
小さいときにテレビで、線の細い外国人の男の人が
テーブルの上にトランプで塔を組み上げるのを見たことがある。
トランプなんて、ただのペラペラの紙かプラスチックだ。
どう見ても立ちそうにないもので易々と塔を組み上げる
男の人を見てびっくりした僕は、すぐに真似をしてみた。
何度も何度も失敗した。
結局、すぐに飽きてしまって、
トランプの塔を積み上げることは出来なかった。
トランプの塔は、見た目よりずっと崩れ易いものだったってことだ。
僕らの関係は、トランプを積み上げて作ったその塔
みたいに、風が吹くだけで崩れ去てしまうような
脆いものだったのかもしれない。
でも――
【智】
「それでも僕たちは、間違いなく本物の仲間だったはずなんだ」
崩れ去ってしまったトランプは、バラバラに床に散らばって
しまったけれど、もう一度組み上げれば再び塔を成す。
ならば僕がそれをしよう。
それがどれだけ困難でも、
何度でも挑戦しよう。
そう――
【智】
「花鶏が『ラトゥイリの星』を取り戻すために
努力をするのなら……」
【智】
「僕はあの楽しかった日々を取り戻すために努力をしよう」
【智】
「奇跡のような僕たちの関係を、もう一度組み上げて見せよう!」
思い立った僕は、ちくわを口に咥えたまま、
すぐに出かける支度をする。
【智】
「まずはトランプ一段目――――」
確実に居場所がわかる伊代の家に行くことにした。
電話を掛けると、
1コール終わるか終わらないかの素早さで伊代が出た。
どうやら伊代も、一人で家で腐ってたみたいだ。
呼び出しにはすぐに応じてくれて、伊代の家から
すぐ近いこともあって、僕らはいつもの屋上で落ち合った。
【伊代】
「よくやる……としか言えないわね」
僕の話を聞いた伊代は、口ではそんなふうに言ったけど……
どこかうれしそうだった。
【智】
「でも未練あるでしょ?」
【伊代】
「それはもちろん。毎日楽しかったわよ、あのバカな子たちと
いると。今日久しぶりにまっすぐ家に帰ったら、することが
なさ過ぎて驚いちゃったわ」
【智】
「それ、僕もいっしょだ」
並んで屋上の柵に掴まりながら、ぼんやりと夕日を眺める。
伊代は苦笑を浮かべていた。
【伊代】
「でも、さすがに当分は無理なんじゃない? あの子……あの子が本に拘り続けてる限り、どうしようもないと思う。本が見つかるか、あの子が諦めるかするまでは……」
【智】
「花鶏は諦めないと思うよ。それに……」
【智】
「こんなこと言うと花鶏に怒られるだろうから……秘密ね?」
【伊代】
「なに? 一体」
【智】
「僕はもう、『ラトゥイリの星』は見つからないような気がしてるんだ。伊代はどう思う?」
【伊代】
「そうね……」
二人して吐いたため息は、夕暮れの風に紛れて空に消えた。
今となっては、なんの手がかりも残されていない。
警察でさえ、盗まれたものを取り戻すのは
とても難しいらしいのだから。
まさか一人一人持ち物検査するわけにもいかず、
出来ることと言えば僕らがやったように売却をチェックするくらい。
職務質問の時に偶然所持品から見つかったり、
別件逮捕で取り調べたら家の中から出てきたとか、
そういうのはあるかもしれないけど……。
そんな手段は、僕らには望むべくもない。
【智】
「たとえ僕らがみんなで協力しても、本はもう見つからないと思う」
【伊代】
「でしょうね」
【智】
「でも、花鶏が諦めるとも思えないでしょ?」
【伊代】
「どうしてあの子があんなにあの本にこだわるのかは
知らないけど……」
【智】
「それは多分、花鶏のアイデンティティーだからじゃないかな」
おそらく、自分の痣を『聖痕』と呼ぶのと、
同じような理由に違いない。
【智】
「でもまあ、理由なんてなくても、花鶏は諦めないよ。
伊代だって、花鶏がそういう子だって解ってるでしょ?」
【伊代】
「ふふ…………かもね」
伊代は肩をすくめて僕に向き直る。
風になぶられて、くせっ毛が踊っていた。
【伊代】
「それで?」
【智】
「みんなをもう一度集めて話をする。どういう風に折り合いをつけるかはわからないし、折り合いなんてつかないかもしれないけど」
【智】
「本のことは抜きにしても、僕たちがまた友達になることはできると思うんだ」
【伊代】
「……わかった。ほんと、よくやるわね。あなた」
【智】
「えへへ」
【伊代】
「えへへ、じゃないでしょ……でもあなたがそう言うのなら、
わたしも協力は惜しまないわ。
何か力になれることがあったら遠慮なく言って?」
【伊代】
「みんながまた集まることになったら、わたしも必ず来るから……
絶対に呼んでね」
【智】
「ありがと、伊代。それじゃあ、僕いくよ」
【伊代】
「……あ、ちょっと。せっかくここまで来たんだから、
ウチに寄ってく? お茶くらいなら出すわよ」
いかにも伊代らしい台詞だった。
でも、僕は首を横に振る。
【智】
「ありがとう。でも、急ぎたいんだ。関係の修復は早いほうが
いいと思うし、これからこよりやるいや茜子にも会ってみる。
あんまり遅くなると良くないし、もう行かなきゃ」
【伊代】
「そう? それじゃ……気をつけてね」
【智】
「うん。それじゃ、また」
手を振りながら、伊代はクスリと笑って見せた。
【伊代】
「ほんとに……よくやるわね」
伊代の家から、こよりの家は近い。
場所も知っていたので、次に訪ねるのはこよりの家にした。
ところが――
【智】
「居ないなぁ……」
こよりはるいを心配してたので、
るいにくっついてて帰ってないのかも知れない。
【智】
「ん〜、ダメかぁ」
こよりの携帯にもかけてみたけど、
電波が届かない場所にあるか、
電源が入っていません。
もしるいにくっついて行ってるのなら、
どうせ一緒にどこかの廃墟へ潜り込んでいるのだろう。
まぁ、こよりとるいは、もう一度みんなで集まると言えば
必ず来てくれるはずだ。
それは、信頼に近い確信。
【智】
「とりあえず二人は後回し、と」
続いて目指したのは、茜子。
……なんだけど、茜子の居場所がまるでわからない。
伊代にTELして聞いてみる。
【智】
「茜子の家って知らない?」
【伊代】
『知らないわ。
珍しい苗字だから調べれば見つけられるかもしれないけど……』
【智】
「うーん」
そういえば、茜子がパルクールレースの騒動に巻き込まれたのも、家庭にいろいろ問題があったせいだったことを思い出す。
あのときは、施設に預けられてたとかも言ってた。
今はどうなんだろう?
誰も茜子の家のことは知ってそうにないけど、
帰れる家はあるんだろうか?
もっとも、たとえあるとしても、きっと茜子のことだから、
夜遅くまで路地裏をうろついているに違いない。
今ならどこかの路地裏で茜子を見つけられるかも?
【智】
「頃合いもちょうどいいし、あそこの子に案内をお願いして
みようかな」
ちょうどその辺をウロウロしていた
色白の猫に目をつけて、追跡を開始する。
ぴよんと立てたしっぽからして、機嫌も良いみたいだ。
たぶんこの猫について行けばいいだろう。
【智】
「だいたい2メートル以上離れとくといいんだっけ……。
5メートルくらいは余裕持っとこうかな?」
【猫】
「にゃー」
白猫が振り返ってにゃあと鳴く。
猫の表情はイマイチわからないけど、柔和っぽい顔つき。
逃げる様子は無さそうだ。ついて行こう。
あのスマイルに騙された……。
相当ひどい目にあった……。
ズリズリと服を擦る狭い道は通るわ、
フェンスの上は歩くわ、
人様の家の庭を横切るわ……。
途中いきなり猛烈に走り出したので必死になって追いかけたら、
追いついた先で捕まえた虫で遊んでたり……。
とにかく僕は引き離されないように、
白猫の示すあらゆる試練に耐え抜いて、
ついに目的の場所にやってきた。
【猫】
「にゃー」
【智】
「にゃー」
そう、ここがあの、猫集会の現場です。
【茜子】
「ボンソワール。遅かったですね、メガロガルガン」
何をしてるのかよくわからない猫たちの集会に、
さっきの白い子も混じっていく。
猫たちはそれぞれてんでバラバラの方向を向いてなんとなく座り、別ににゃーにゃーと鳴きかわすでもない。
その不思議空間の中心に、
ごく当然のような顔をして、
茜子は座っていた。
【智】
「なぜに猫にフランス語?」
【茜子】
「まぁ、なんて大きな猫ですこと、シルブプレ」
【智】
「シルブプレは『ちょっとすいません』みたいな意味だから」
【茜子】
「にゃー」
鳴いてごまかされた。
あんまり近づいて猫たちが逃げ出すと悪いので、
僕は充分に距離を取って立ち止まる。
数匹の猫たちがしっぽで軽く反応しただけで、
ほとんど僕に注意を払うものは居なかった。
【茜子】
「紹介しましょう。こちら、わたしの下僕のガギノドン。
そして右から同志メガロガルガン、同志デスエンペラー三世、
同志メギラス、同志ザグド星人……」
【智】
「ちょっと待って、星人てなに?」
【茜子】
「名前ですが何か?」
【智】
「…………」
【茜子】
「ソビエトロシアでは、猫が茜子さんを撫でる!」
意味不明な言葉を吐きながら、茜子はガギノドンを撫でた。
ガギノドンは地味に嫌そうな顔をしつつも抵抗しなかった。
【智】
「……それにしても、茜子が見つかって良かったよ」
【茜子】
「まったく、よく見つけましたね。ストーカーですか?」
【智】
「メガロガルガンのストーキングならした。辛かった」
【茜子】
「同志たち、本日の議題はストーカー対策です」
メガロガルガンなんてよく一回で覚えたものだ。
我ながらけっこうえらい。
どこの社会でも名前を早く覚えるのは円滑な人間関係に大切だから、このペースなら僕は猫社会でもうまくやっていけるだろう。
【智】
「それより話したいことがあるんだ、茜子」
【茜子】
「……なるほど」
【智】
「えっと……まだ話してないけど?」
【茜子】
「行間を読みました。つまり猫ストーカーは、
みんなで集まってキャッキャウフフしたい、と」
通じていた。
話し言葉に行間も何もあったものではないが、
茜子には人の心を読む力がある。
【智】
「……なるほど。言わなくてもわかるんだね」
【茜子】
「付き合いが深いですから」
【智】
「それで、茜子はどう?」
【茜子】
「もう一度言っておきましょうか。あなたは阿呆です」
【智】
「うん」
【茜子】
「あのレズを引っ張ってこれたら、その時は呼んでください。
茜子さんはだいたいここで同志たちと会議をしてますから」
【智】
「茜子……ありがと!
明日さっそく花鶏のとこに行ってみるよ!」
わかりやすく顔を輝かせた僕を見て、珍しく茜子が笑った。
【智】
「あ、それからるいとこよりが、またどっかの廃墟に潜り込んでるみたいで行方がわからないんだ。見つけたら教えてよ」
【茜子】
「わかりました」
これで茜子も確保した。
るいとこよりが見つからない以上、次は花鶏を説得する番だ。
翌日。
授業が終わるやいなや、僕は宮やなんかのいろんな追撃を
華麗にかわして、すばやく学園の勢力圏内から離脱した。
今日は花鶏を口説きに行く日だ。
時間はあればあるほどいい。
【智】
「とはいえ、キンチョーするなぁ……」
花鶏の屋敷の前まで来て、深呼吸した。
例えるなら、学校を休んだ好きな娘の家に、
プリントを持って訪ねる子供みたいな心境だった。
何回もインターホンを押そうとしては、躊躇った。
【智】
「ええい、深呼吸だ! スーッ、ハーッ、スーッ、ハーッ」
僕の心臓は、いつのまに
こんなに小さくなってしまったんだろう?
【智】
「んんんん…………よし、えいっ!」
勢いをつけて、体当たりするみたいな調子でボタンを押した。
チャイムの音を耳にして、また心臓がバクバク鳴り出す。
花鶏はどんな顔して出てくるだろう?
迷惑そうな顔をするだろうか?
それとも、顔を合わせるのすら嫌がるだろうか?
そんな緊張を限界まで抱いていた僕を出迎えてくれたのは……。
意外そうな顔をした花鶏だった。
【花鶏】
「智……どうしたの?」
【智】
「あ、あはは……こんにちわ……」
【花鶏】
「ん……」
花鶏は僕を招き入れながらも、
背を向けた隙に一生懸命冷たい表情を作ったようだった。
それが作り物であることは、僕にだってすぐわかる。
花鶏もやっぱり、一人でいることに寂しさを感じていたんだ。
ホッとしたら急に元気が出てきた。
【智】
「花鶏っ、今日ヒマ?」
【花鶏】
「ひ、暇じゃないわよ。
わたしは本を……『ラトゥイリの星』を捜さないと……」
【智】
「ほんの少しも時間取れない?」
【花鶏】
「少しって……」
【智】
「ちょっとだけだからさ!」
【花鶏】
「な、なんの用なの? わたしは『ラトゥイリの星』を盗んだ
犯人を捜さなきゃならないのよ。それに智だって、まだ完全に
信用したわけじゃ……」
【智】
「ね、花鶏! ちょっと遊びに行かない?」
【花鶏】
「…………はぁ……?」
【花鶏】
「ちょ、ちょっと、どこ連れて行くのよ!?」
【智】
「ん〜、どこ行こ?」
みんなで行くはずだった息抜き。
二人だけになってしまったけれど、精一杯楽しもうと思った。
思い切って花鶏と手をつないでみたりもする。
女の子をしてるがゆえの役得だ。
【花鶏】
「わ、わ!?」
さすがの花鶏も、ドギマギしている。
みんなと行く予定を立てたのは遊園地だったけれど、
放課後に行くにはちょっと大がかりすぎる。
街中で遊びまわるぐらいしかできないか……。
前に花鶏に誘われて、二人でデートした日のことを思い出す。
【智】
「とりあえずブラブラしよっ」
【花鶏】
「用があるんじゃなかったの!?」
【智】
「いつぞやのデエトのおかえしに、誘ってみた次第であります」
【花鶏】
「ほぁ…………………………?」
花鶏はしばらく、呆けた顔をして止まっていた。
やがてみるみるうちに、色づけされていくみたいに精彩を取り戻す。
むしろ喜びを隠すのに苦労してるみたいな、変な顔だった。
【花鶏】
「な、なんでこんなタイミングで……」
【智】
「いいから行こうよ!」
「イヤ?」なんて意地悪な質問はしない。
花鶏がそういうのが苦手だっていうのは、
よくわかってるつもりだ。
【花鶏】
「ちょっと、引っ張らなくてもついて行くっての!!」
今日一番大切なことは、花鶏に僕たちと過ごす日々が
何より楽しいものだったことを思い出してもらうこと。
今の花鶏は『自分は一人でも生きていける、平気だ』
なんて思ってるのかも知れないけれど。
きっと、僕が花鶏を必要としてるのと同じくらい、
花鶏も僕たちを必要としてくれているんだと思う。
それに理由なんて抜きにしても、
なんだか楽しい一日になりそうだった。
【智】
「ほら花鶏あれ、あの白い猫」
【花鶏】
「あれがどうかしたの?」
【智】
「あの猫、メガロガルガンって名前なんだよ。茜子の仲間の一匹」
【花鶏】
「あいかわらずバカね、茅場は。あはは」
【メガロガルガン】
「にゃー」
メガロガルガン(呼びにくい)は、一声鳴いて駆け出してしまった。
肩をすくめて見合わせる顔は、自然な笑みを湛えている。
あっちこっちと走り回って、僕らは一緒に遊びまくった。
甘いもの嫌いのるいがいるときは食べられなかった、
スティックスイーツの店なんかに行ってみたりした。
野菜好きの花鶏は、そこでもパンプキンなんとかを
選んでたりしてて、思わず笑っちゃう。
最初は戸惑っていた花鶏も、だんだん楽しんでくれて、
今では僕とこうして笑顔を見せ合っている。
がんばって誘ってみて、正解だったみたいだ。
【智】
「ね、花鶏、次どこ行く?」
【花鶏】
「そうねぇ……智のオススメのスポットはないの?
こうロマンティックで、思わずちゅっちゅーてしたくなるような」
【智】
「はは……ちゅっちゅーはいいとして、どこかあったかなぁ?」
首を捻って考える。
どこかあったろうか?
街中のたいていの場所は、荒らした事があるから。
荒らしてないところと言えば、
各々の学園の勢力圏か……市の境に近い旧市街の果てだけど。
あそこには惠の屋敷があるし、できれば今は近づきたくなかった。
じゃあどこに行こう?
いつもの屋上溜まり場で日光浴でもする? それとも。
【花鶏】
「隙あり!!」
【智】
「ふやぁっ!?」
【花鶏】
「おおおおぉ……、このソリッド感……! そしてこのソリッド感……!」
【智】
「や、やめれーっ!」
気を抜いた瞬間、しわりしわりと
湿り気を帯びたえろい手つきで胸をまさぐられた!
これで今日、もう十……何回目?
【花鶏】
「いたたた……! 打撃、きつい、いたい、あたま!」
【智】
「カタコトになっても、ダメなものはダメ!」
常に体の前で両手を合わせてしとやかポーズを取っているので、
下の方は今のところ狙われていない。
【花鶏】
「ちょっとくらい、いいじゃない。減るもんじゃなし」
【智】
「減るよ! 1−1=0! 0は無で消滅でヴォイドでヌルで、
宇宙の3ケルビンより冷たいんだよ!」
【花鶏】
「へんなところに知識つかわないでいいから」
ゾッとする。
言葉を一杯費やしたけど、これは笑い事でもなんでもないのだ。
もし僕の秘密の妖精境……その、
ヴェールに包まれた下半身の辺りをまさぐられたりでもしたら、
正体がバレて呪いが発動→そのまま死亡
なんて笑えない流れができあがっちゃう。
【花鶏】
「それで? どこ行くかは決まった? ホテル? 温泉? ホテル? 公衆トイレ? ホテル? カラオケボックス?」
【智】
「そのラインナップだと、全部に邪悪な気配を感じる!」
【花鶏】
「気持ちいいわよ? すごく」
【智】
「さりげなく温泉もトイレもカラオケボックスも気持ちいいかも
しれないけど、そういう問題じゃない!」
【花鶏】
「ちえ〜」
本当はこんなことしてる場合じゃない。
本来の目的はまだ話すきっかけがつかめないし、花鶏の
言う通り今も『ラトゥイリの星』を持った何者かが僕らを
狙ってるかも知れないし。
でも、だからこそ――
僕は花鶏と今を楽しみたい。
【智】
「そうだな〜」
花鶏にバックを取らせないように警戒しながら、
もう一度暮れ始めた空を仰ぐ。
そういえば、遊園地の他には、
お料理&お食事会なんかを予定してたっけ。
【智】
「花鶏、うち来る?」
【花鶏】
「いいのっ!?」
【智】
「そこ! よだれを垂らさない!」
【花鶏】
「おお、智の匂いがする……!」
【智】
「襲ったらドライヤーと一緒にお風呂に入れるよ」
【花鶏】
「それ、死ぬって」
デートのシメにファミレスってのは、いくらなんでも締まらない。
自宅で女の子の手料理っていうのなら、バッチリだろう。
強いて問題を挙げるとするなら……
料理をするのは僕で、僕が男の子であるっていうことくらい。
【花鶏】
「綺麗な部屋ねぇ、さすが清楚系。あ、荷物ここでいい?」
【智】
「うん。そこのカウンターに乗せといて」
二人して買い出しも済ませてきた。
花鶏の好みが介在してるので、セロリにピーマン、ズッキーニ
といった、子供の嫌いそうな野菜が食材の大半を占めている。
【智】
「う〜ん、メニュー考えないで買っちゃったなぁ。
花鶏はなにかこれで、食べたい料理とかあった?」
【花鶏】
「え? サラダ……とか?」
【智】
「うん。聞いた僕がバカだった」
【花鶏】
「なによ、失礼ね」
ピリピリした空気なんて当然ないし、戸惑いも消えている。
二人の関係は、『ラトゥイリの星』がなくなる前と
同じ状態に戻ったみたいだった。
でも……これじゃダメなんだ。
こんなの、一時凌ぎに過ぎない。
ちゃんと花鶏と話をして、みんなとの間を取り持って、
全員での話し合いの場を持たないと……。
【智】
「ね……、花鶏?」
【花鶏】
「なぁに、智ちゃん?
自分の肉体をメインディッシュにしてくれる気になった?」
【智】
「しないよ! ……っと、あの……あのさ、本のことなんだけど」
【花鶏】
「あ〜ぁ、なんかおなか空いて来ちゃったわ。
なんの話か知らないけど、ご飯の後にしない?」
【智】
「そ、そうだねっ。スティックスイーツ買って食べただけだもんね。うん、すぐ支度するよ」
【花鶏】
「期待してるわ。智の手料理」
簡単にはぐらかされてしまった。
無理もない。
僕も花鶏も二人とも、出来ればその話はしたくない。
話し合えば絶対に意見は衝突する。
かりそめであっても、今のこの楽しい時間を壊したくない。
【智】
「花鶏も手伝ってよ。二人でお料理なんていうのも楽しいよ?」
【花鶏】
「そうねぇ……?
ん〜、わたしはやらなきゃいけないことがあるからパス」
【智】
「え、そう……? じゃあ、うん。僕一人でやる」
花鶏は手ぶらだし、僕の家でやることなんて一体
何があるんだろう?
首を傾げたけど、まずは料理に集中することにした。
サラダは一品作るとして、カポナータかマリネか……
ポトフにセロリを入れるのも香りが良くていい。
手軽に速く作るなら野菜をガーリックとアンチョビで炒めて、
ブラックペッパーを利かせる方が良さそうだ。
でも花鶏って、ニンニクで口が臭くなったりするの嫌いそうだしなぁ。
聞いてみよう。
【智】
「花鶏って、ニンニクとか大丈夫〜?」
【花鶏】
「ビクッ!?」
振り返ると、花鶏が思いっきり僕の部屋を物色していた。
……やらなきゃいけないことって、それか!!
【花鶏】
「な、なにかしら?」
【智】
「いいからこっちへ来い」
【花鶏】
「いやぁ、犯さないでぇ〜」
【智】
「花鶏は強制労働の刑だよ! はい、そこのタマネギ全部剥いて!」
【花鶏】
「え〜〜〜〜」
【智】
「きりきり働けぇい!」
【花鶏】
「は、はいっ! ……おかしい、こんなはずでは……」
【智】
「口より手を動かす!」
【花鶏】
「エウ〜」
まったく、油断も隙もありゃしない。
花鶏は意外に料理に慣れていたので、
二人して下ごしらえから仕上げまでの作業を行った。
もっと人数が居たら凝った料理をやるのもいいんだけれど、
今日は二人だけだし、手早く出来上がるものにした。
【花鶏】
「それじゃ、いただくわね」
【智】
「どぞどぞ」
【花鶏】
「ん……」
料理を口に入れた花鶏を見守る。
調理中は「後の楽しみに」と、花鶏は一切味見をしなかったのだ。
【智】
「どう? おいしい?」
【花鶏】
「お……いける! これおいしいわ!」
【智】
「良かった。
花鶏って食べ物に独特のコダワリありそうだったから……」
るいと違って……
出掛かったその言葉を、なんとかグビッと飲み込んだ。
今はるいたちのことは口に出さない方が良い。
今だけは――
このささやかで楽しい二人だけの時間を、壊したくなかったから。
【花鶏】
「おいしかったわ。ごちそうさま」
【智】
「お粗末さま」
【花鶏】
「セロリとズッキーニで中華が来るとは思ってもみなかったわ。
中華料理ってなんか脂っこいし、メチャクチャに炒めるだけってイメージがあったから……でも、悪くないものね」
【智】
「中華料理好きの人に失礼だよ」
【花鶏】
「居ないから問題なーし。
でもウワサには聞いてたけど、智って本当に料理うまいのね。
花嫁修業でもしてるのか? この!」
【智】
「一人暮らしで自炊するうちになんかハマっちゃって……。
最初はトーストとかばっかりだったんだけどね」
未だに僕は、肝心な話を切り出せてない。
【花鶏】
「これならすぐに嫁になれるわね。
わたしの嫁!」
【智】
「無理だから! 花鶏は女の子だから!」
【花鶏】
「あら、海外のどこだったかなら、女同士の結婚も可能よ?」
【智】
「その為にビザを取るの?」
【花鶏】
「わたしはやる女よ?」
【智】
「たしかに花鶏は、犯る女だけどね……」
いつまでたっても本題を切り出せないまま、
すでに窓の外は夕闇が迫ってきていた。
花鶏も帰らなくてはならないだろう。
その前に言わなくては……。
【智】
「花鶏、話したいことがあるんだ」
【花鶏】
「……そろそろ帰ろうかしら」
【智】
「花鶏……」
【花鶏】
「…………」
改まった態度で、二人して向かい合った。
用意してあったはずの言葉は、喉に引っかかって出てこない。
その言葉の向こうに、せっかくの楽しい時間が壊れてしまう、
そんな予感が潜んでいたから。
だけど、それを乗り越えないことには……。
【智】
「花鶏……えっと、もう遅いし」
【花鶏】
「ええ……そうね、帰らないと」
【智】
「良かったら……泊まっていく?」
【花鶏】
「え……、ええええええ!?」
気がつくと、そんなことを口走っていた。
花鶏も驚いて、ポカンと口を開けている。
僕自身も、驚いた。
【智】
「えっとほら……、えーと、ベッドは花鶏が使っていいから……
とか……」
【花鶏】
「あ、え……うん」
いつもの花鶏なら一緒にベッドで! とヨダレを垂らすところ
だけど、さすがに唐突で気恥ずかしいのか、花鶏も戸惑い気味
だった。
【智】
「あ、家に電話とかしなくて大丈夫……?」
【花鶏】
「ん、大丈夫……」
僕は何を言ってるんだろう?
自分でも何をしようとしてるのかよくわからないまま、
胸の鼓動だけが加速していくのを感じていた。
〔花鶏とのH(未遂編)〕
どういうわけか花鶏を泊めることになってしまった。
いや、僕がしてしまったのだ。
泊めることによって時間が増えれば、
みんなとのことを説得するための時間が増える。
そのはずなんだけど……なぜか未だに、切り出せない。
【智】
「花鶏、シャワーとか……良かったら使って?」
【花鶏】
「いい。なんか疲れちゃったから、朝に借りるわ……」
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
なんなんだ、この空気は……。
僕は女の子なのに……。
そりゃ、花鶏は女の子が好きな困った性癖の持ち主だけど、
性別がバレれば呪いを踏んでしまう僕が、花鶏になにか
出来るはずなんてないんだから。
【智】
「じゃあ……もう寝る?」
【花鶏】
「そ、そうね。まだちょっと早いけど」
ちょっとなんてものじゃない。まだ夜の8時だ。早すぎる。
普段なら殴っても蹴っても襲ってくるセクハラ魔の花鶏が、
こんなにしおらしいのが、僕を余計に惑わせる。
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【花鶏】
「安心していいわよ。
本命にはね、なかなか手が出せないモンなのよ」
【智】
「本命デスカ」
僕が本命なんて宣言していたことを、タイミング悪く思い出す。
これってつまり、いま花鶏も
僕と同じくらいドキドキしてるってことなのかな……?
【智】
「え、えと、それじゃ……」
【花鶏】
「そうね、もう寝ましょ。……ベッド、智が使ったら?」
【智】
「いい、いいよ。僕はいつも使ってるから!」
【花鶏】
「……そう?」
わけのわからない理由だけど、花鶏は納得してくれた。
花鶏に着替えがないので僕だけ着替えるのもおかしいし、
そもそも花鶏の見てる前で着替えるわけにもいかない。
仕方なく僕らは、二人ともそのままの格好で横になった。
制服の生地がゴワゴワする。
【花鶏】
「……智ってさ、なーんか可愛いわよね?」
【智】
「その言葉、いろんな意味で不安になるかも」
薄闇の向こう、ベッドの上から花鶏の息遣いが落ちてくる。
まず第一に、花鶏に可愛いと言われてるのが不安だ。
第二に、男の子の僕が可愛いって言われてることが不安だ。
第三に、どんな形であれ
花鶏の好意を嬉しく思っちゃう僕が不安だ。
【花鶏】
「ふふふ。わたし、智かあの本かだったら、智の方を取るかも?」
【智】
「……花鶏からその話、切り出してくれるんだ?」
『ラトゥイリの星』――
ずっと僕が切り出し損ねていた話題を、
花鶏が自分から切り出してくれるとは思わなかった。
【花鶏】
「最初からその話をするのが目的だったんでしょ?」
【智】
「うん……」
【花鶏】
「でも智は……目的の話よりも、わたしと楽しい時間を過ごす方を取ってくれた……のよね?
これってちょっと、自意識過剰かしら?」
【智】
「そんなことないよ。だいたい正解」
【花鶏】
「そお? じゃ、結構、脈アリ?」
【智】
「えへへ、そうかも」
『ラトゥイリの星』と僕なら、花鶏は僕を選ぶ――
いつもの冗談だろうか?
それとも、本を追うことを諦めてでも、
僕らとの関係を選んでもいいっていう意思を語った?
【智】
「……じゃあ花鶏、僕か本か選んでみて?」
【花鶏】
「今選べって? ……智にしては思い切ったこと言うわね。
でもわたしは、迷わず智を取るわ」
【智】
「ほんと?」
【花鶏】
「その代わり、毎晩腰が抜けるまでいろいろさせてね?」
【智】
「………………それはダメ……!」
【花鶏】
「ちえ〜」
【智】
「あはは」
【花鶏】
「あははは」
笑っていたら、妙なドキドキも落ち着いてきた。
花鶏の姿が見えないせいもあるだろう。
【智】
「ねぇ、花鶏?」
【花鶏】
「なに、智」
【智】
「僕、みんなとまた友達として集まって遊びたいな」
【花鶏】
「…………」
【智】
「るいやこより、伊代、茜子……みんなやっぱり、花鶏のことを
待ってるよ。僕たちってデコボコメンバーだけど、結構うまく
やって来たと思うしさ」
【智】
「実はもう、みんなには話をつけてあるんだ。みんなで関係を修復するための集まりを持とうって……花鶏もそこに、来て欲しい」
【花鶏】
「…………」
【智】
「それから……本のこと諦めろなんて、僕には言えないけど」
【智】
「……あの本、多分もう見つからないと思う」
【花鶏】
「………………」
大丈夫だと思って口にしてみたけれど、
思いの他それは僕の心に痛かった。
継ぐべき先が出てこないうちに、
花鶏にイニシアティブを取られてしまう。
【花鶏】
「……わたし、もう寝てるから」
【智】
「…………」
僕の話を聞こうとはしてくれたけど、
やっぱり花鶏はあの本を諦め切れていないんだ……。
僕と本のどっちを取るかって……
それもやっぱり冗談だったのかな?
【智】
「ねぇ、花鶏?」
【花鶏】
「……わたしはもう寝てるっての」
【智】
「さっきの、僕のもただの寝言だから」
【花鶏】
「…………」
やがて寝息が、訪れた。
【花鶏】
「ぎええええぇえぇぇぇ!!」
【智】
「ふへぇ……?」
怪鳥のような叫び声と狂乱の破壊音に、夢の中から浮上する。
花鶏……そういえば泊めたんだっけ。
【智】
「何してるの……?」
【花鶏】
「何これ?! 何この展開?! 花鶏×智じゃなくて智×花鶏?! それとも誘い受けに生えてくる展開?! 突然智がえろい目つきで焦らすセリフとか言い始めるの?!」
【智】
「な、何言って……?」
だんだんと視界にかかった薄靄が薄れてくると、
部屋の惨状が目に入って来た。
カーテンはフックが引きちぎられ、観葉植物はブチまけられ、
ガラスのコップは粉砕されてる。
さらにトースターは叩き落とされて金網が飛び出し、何故か
部屋の真ん中に僕の靴が一足落ちてる上に、キッチンでは
床で小麦粉とサラダ油がいい感じに混ぜ合わされていた。
【智】
「こ、これ、一体何事なの!?」
【花鶏】
「あわべりぇふふぇれはひゃふぇほえぇえげえぇぇ!!」
【智】
「花鶏っ!?」
何語ッ!? と思いながら飛び起きたら、
足がひっかかっていきなり転倒しそうになった。
【智】
「わわっ!」
【花鶏】
「揺れた! 風もないのにぷるぷると!」
なんとか両手を泳がせてバランスを保ち、
こけるのを防いだところで、花鶏の視線の先に気がついた。
【智】
「え…………!?」
というか、視線の先以外にも、自分の全身の異常に気がついた。
【智】
「ええええええええええええええぇぇぇぇぇッ!!!!?」
相当脱がされてる!!!!!
上半身は前がはだけて下着もめくられ、
下半身に至っては全部まとめて足首まで下ろされてた。
【花鶏】
「は、は、生える展開とか、そんなの聞いてないっての!」
【智】
「ちょ、あ、え? これ? えええ……!?」
【花鶏】
「うわぁっ、また揺れたっ!?」
【智】
「きゃあああああぁぁぁ……!?」
【花鶏】
「ひえええええええぇぇぇぇ!!」
【智】
「はぁ、はぁ、はぁ……」
【花鶏】
「あのホラ、夜這いじゃなくって、朝這い?」
【智】
「花鶏っ!!」
【花鶏】
「ごっ、ごめんなさいぃぃ!!」
思いっきり、襲われかけていた。
慌ててスカートとぱんつを引き上げて、
花鶏をこっぴどく叱りつける。
【智】
「気を許した僕がバカだった!」
【花鶏】
「ひっ」
【智】
「この変態!」
【花鶏】
「う」
【智】
「この性欲のカタマリ!」
【花鶏】
「ぐうぅ」
いろいろ言って息切れして、落ち着いてから気がついた。
【智】
「あ……僕、呪いを……」
花鶏に男だってことがばれてしまった……。
僕は、呪いを踏んでしまった……!
【花鶏】
「やっぱりそれ、呪いだったのね?」
【智】
「うん……」
僕が呪いを踏んだというのに、花鶏は意外にも平然としている。
呪いを踏むことは死に繋がるって知っているはずなのに……。
【智】
「あ、花鶏、僕は呪いを踏んで……!」
【花鶏】
「さっき聞いた」
【智】
「…………」
【花鶏】
「死ななかったじゃない? それってラッキーって言わない?」
【智】
「それはっ! ……そう、だけど」
【花鶏】
「ま、呪いによる死ってのがどういう形で現れるのか、
わたしたちは誰もちゃんと知らないから、なんとも言えない
けどね」
【花鶏】
「どうやら呪いを踏んだから即死、ってことじゃないことだけは
確かみたいね」
【智】
「…………」
安心してよいものだろうか?
でも、現に僕は生きているわけで……。
【花鶏】
「……ふぅぅ〜む……」
気がつくと、花鶏が僕の股間の辺りをものすごく凝視していた。
【智】
「ど、どこ見てるの!?」
【花鶏】
「股間」
【智】
「そ、そんなはっきり! スカート越しでも恥ずかしいってばぁ!」
【花鶏】
「それ、どうやって生やしたの?」
【智】
「生やしたとかじゃなくて、僕は元々!」
【花鶏】
「あはは、わかってるってば。でもずっと性別を偽らなきゃ
ならなかったなんて、苦労したんじゃない?」
【智】
「それはもちろん……大変苦労致しました」
【花鶏】
「大変だったわね。でも、これからはわたしが力になるわ」
【智】
「花鶏……」
僕の手を握る花鶏の手が温かい。
【花鶏】
「そのスカートとブルマの下に、ずっと抑え難いものを抑え込んで来たのね……」
【智】
「…………?」
【花鶏】
「熱く猛々しい若い性を抑えきれずに、悶々とした日々を
過ごしてきたのね!」
【智】
「あ、花鶏?」
【花鶏】
「大丈夫、すぐ本を取り戻して呪いを解く方法を探してあげるわ。わたしが協力すればすぐよ!」
【花鶏】
「でもその前に」
【智】
「えっ、えっ……?!」
花鶏がペロリと舌なめずりした瞬間、
ものすごく嫌な予感がした。
一歩退こうとしたそこに、花鶏が飛びかかって来た!
【花鶏】
「わたし、智ならいける! 男も試して見るわ!」
【智】
「いやあぁぁぁぁっ?!」
これなんて言うの?!
なんて言うの?!
【智】
「あ、花鶏、やめ……ぁっ!」
【花鶏】
「女は止まらないのよ!」
これっていわゆる、逆レイ……
【智】
「ぷわぁっ!」
実に的確に足を引っ掛けられて、
僕は簡単にベッドに押し倒されてしまった。
すぐさま花鶏の体がのしかかって来て、
その柔らかな感触に、僕は抵抗の意思を奪われる。
【花鶏】
「智……いいでしょ……?」
【智】
「それ、どっちかと言うと、本来僕が聞くべきなんじゃ……」
【花鶏】
「同性じゃないし、愛情もあるし、何も問題ないでしょ?」
【智】
「でも……」
花鶏に襲われるたび、本来の性別を明かすことができれば
立場が変わると思っていた。
でも、現実はコレだ。
花鶏はまったく怯まない。
【花鶏】
「わたし智のこと、かなり本気で好きよ」
【智】
「あ、花鶏……」
【花鶏】
「智はわたしのこと、どう思ってる……?」
【智】
「えと、えと……」
【智】
「んんっ!?」
【花鶏】
「ん……ちゅ……」
強引に唇を奪われた。
水気を含めばそのまま溶けてしまいそうな感触が触れる。
女の子の唇って、柔らかい。
【花鶏】
「智……」
【智】
「ほぁ……」
聞いておいて、僕の気持ちを答える隙を与えない。
だけど、僕だって花鶏は――好きだ。
いつからかはわからないけど、だんだん花鶏のことが気になる
ようになってきて……それ以上は考えるまいとして来た。
【花鶏】
「胸、触ってみる? ちょっとくらいなら触ったこともあるかもしれないけど、しっかり触ったことってないでしょ?」
【智】
「い、いいの?」
【花鶏】
「ふふっ、わたしが襲ってるのよ?」
花鶏の手が僕の手に重ねられて、二人の体の隙間に持っていかれる。
制服に皺を寄せながらすべり込んだそこで、
僕の手に花鶏の胸が押し付けられた。
【花鶏】
「ん……、女の子の胸って、すごく柔らかいでしょ……?」
【智】
「うわ……、う、うん……これ……」
【花鶏】
「今まで見る機会はいっぱいあったけど、
おあずけばっかりで辛かったんじゃないの?」
【智】
「僕は、そんな……」
【花鶏】
「ほら、もっと好きなように弄っていいのよ」
【智】
「ふぁ、ふあぁ……」
【花鶏】
「ん……んふふ、智、可愛い……」
まるで自分でするみたいに、花鶏は僕の手に胸を触らせる。
服の表面を撫でるような動きから、
少しずつ力がこもって胸を弄び始める。
【智】
「や、やわらかいよ。花鶏……」
【花鶏】
「ふぅ、ん……でしょ?
もっといろいろ、触っていいわよ……ん……」
【智】
「でも、花鶏……」
【花鶏】
「遠慮しないの。わたしわりと本気で智のこと好きだから。
それともこういうの、イヤ?」
【智】
「それは……」
こんなナリをしてはいるけど、僕だって健全な男の子だ。
女の子の体に興味がないわけはない。
だけどこう、向こうから迫られると
どうも調子が狂うというかなんというか……。
そこでふと思う。
じゃあ、こちらからも反撃すれば?
【智】
「じゃあ、もう遠慮しないよ?」
【花鶏】
「くふ……っ、ぁは……」
【智】
「花鶏、可愛い声」
花鶏にされるがままになっていた手を自分で動かし始め、
魅惑的なふくらみを手のひらで転がした。
内心「うわー! うわー!」と叫びながらなんだけど、
なんとかそれっぽく表面を取り繕いつつ。
【花鶏】
「んふ……、やるじゃない。智がノってきてくれて嬉しいわ。
ん……わたしも萌えてきた」
【智】
「今の漢字、なんか違わない?」
【花鶏】
「合ってるわよ。うふふ」
【智】
「ふあっ、み、耳は……!」
男の子との経験はなくても、やっぱり花鶏は百戦錬磨、
さすがは白百合の女王様。
ぬらりとした感触が耳に入ってきたと思ったら、
花鶏の舌だった。
ぞくぞくと背筋に感じたことのない震えが駆け上る。
【智】
「ま、負けないんだから……っ」
【花鶏】
「あん……っ、そんなムキになる智、初めて見た。ますます惚れそ」
もう場の雰囲気に乗って、悪乗りした。
普段の僕からは考えられないくらいに大胆になっていた。
多分花鶏に、いいように乗せられてる。
でも、それでも構わない。
【花鶏】
「ふぁ……、はぁ、はぁ……。気持ちいいよ、智の手」
少し乱暴なくらい胸を揉みしだきながら、さっきまで体の横で
縮こまっていた片手を花鶏のおしりに回す。
女の子のおしりはこんなにもふくよかなものだったのかと
感動しながら、こちらも強めに撫で回した。
【花鶏】
「ね、智。キス……」
【智】
「あ、うん」
僕の中にあるキスのイメージ通りに、目を閉じる。
今度は奪われるばかりじゃなく、僕からも進んで唇を重ねた。
【花鶏】
「ちゅ……、ん……」
【智】
「ん……」
【花鶏】
「ん……んふふ」
【智】
「んんん〜っ!?」
びっくりして目を開く。
かなり強引に、花鶏の舌が、口の中に侵入して来た。
どうしていいのか判らずに戸惑う僕の口の中を、
頭をとろかすような感触が蹂躙する。
【花鶏】
「ちゅ、ん……、ちゅぷ、ちゅるる……、ん、んちゅ、ぬろ……ん、れろ、れろぉ……、ちゅ、んちゅ、じゅるる、ちゅっ、ちゅぷ、ちゅるる……っ」
【智】
「ん……んんんっ、んんっ」
【花鶏】
「んちゅ、んっ、んふふふ……。んは……」
ずるりと口腔から抜けていく舌の感触が、僕の体を震わせる。
唇が離れる時に、粘ついた唾液の橋が僕の口の周りに垂れて来た。
【花鶏】
「智もわたしの口の中でれろれろする? キスって気持ちいいわよ?」
【智】
「じゃ、じゃあ、もう一回……!」
【花鶏】
「智からキスをおねだりされることに成功」
【智】
「そんなの、ずる……んんっ」
【花鶏】
「んちゅる……」
もう一度唇を合わせる。
花鶏の言うがままに操られるのはちょっと悔しいけれど、
このままだとまた好き勝手に口の中を侵略されるので、
こちらも舌を入れてやる。
【花鶏】
「んっ、ふぅ……んっ! ちゅ、ぬちゅる……、ちゅ、ちゅる、くぷ、ふぁ……、ん、ちゅぷぷ……、ん、ぬりゅ、ちゅ、ちゅぷ、ぬろぉ……」
【智】
「ん、んん……っ」
それは性的な、いわゆる下半身への刺激とは
まるで方向性の違う快感だった。
どちらかというと冬の夜、あたたかい布団にくるまれる感覚に近い。
まどろみながら眠るように頭の芯が麻痺して、
口の中で糸を引く水音だけに聴覚が支配される。
【花鶏】
「ちゅ、ん……。ちゅぷ、ぷちゅる、ん……、れろ、ぬりゅ……ん、ちゅ、んふふ……。ん、んん……」
花鶏の細い指が僕の体を優しく撫でる。
口の中で蠢く舌の感覚が相まって、それは僕の意識を朦朧とさせた。
とても、気持ちいい……。
【花鶏】
「ちゅ、ちゅ、ちゅ……。ん……ふぁ……うふふふ」
【智】
「ぁ……」
【花鶏】
「結構ハマるでしょ?」
【智】
「ぅ…………ぅん」
花鶏から口を離されて、思わず名残惜しそうな声を出してしまう。
どれだけ頑張っても、やっぱりペースは花鶏のものだった。
【花鶏】
「智、そろそろ服……脱いでみようか?」
【智】
「…………」
ぽーっとする頭で、こくりと頷いた。
もうどうやっても、頬の紅潮は隠せない。
【花鶏】
「脱がしてあげる!」
【智】
「ゃっ! あ、花鶏ダメ! 自分で脱ぐからぁっ!」
【花鶏】
「あー、もうだめだわこれ! 智カワイすぎる!
智のアレ、もっかいちゃんと見せなさい!」
【智】
「ぃやあぁぁ〜っ!?」
【智】
「うぅ……、はづかしぃ……」
結局全部脱がされてしまった。
あられもない姿でベッドに転がされる。
【花鶏】
「わたしも脱いだでしょ? おあいこだっての」
【智】
「お、おあいことかじゃなくって!」
ただでさえ脱がされて恥ずかしいのに、
目の前には隠す気などまるでない花鶏の体。
立場上、女の子の体は幾度か拝見する機会には恵まれていた
けれど、ロシア系クォーターだという花鶏の肌は、今まで
見たこともないほど白かった。
白い肌だけでもクラクラする魅力なのに、
胸の先端のところとか……下、とか……!
【智】
「あぅぅ〜……」
【花鶏】
「ね、見せなさいよ、智の! わたしのも見せてあげるからさ……」
【智】
「は、恥ずかしいってばぁ」
きっとイニシアティブを握られているからなのだろう。
こんなに恥ずかしいのはリードされっぱなしのせいに違いない。
イニシアティブを奪い返して花鶏を攻める立場になれば、
僕だって、きっと!
【花鶏】
「見せなさぁ〜い。ぺろ〜ん」
【智】
「ひゃうっ!」
攻め手を考えあぐねていたら、いきなり胸に舌を這わされた。
【花鶏】
「オトコでも胸って気持ちいいの?
んふふ、これはやりやすいわねぇ〜」
【智】
「ちょ、花鶏待って……ひぁんっ」
【花鶏】
「れろれろ〜……。あ〜、可愛い〜!
これがオトコとか本当に信じられない。
うん、智は女の子よ。たとえ生えてても!」
【智】
「なに言ってるの花鶏、そんな、ふぁっ! はぅぅ……っ」
【花鶏】
「ムダな抵抗はやめなさい。くふふ。ぺろ、ぷちゅ、ちゅっ、ん〜……、ちゅぱっ。ちゅ、ちゅ、ぷちゅる……」
【智】
「んんん〜……っ」
情け無用で、花鶏は手と口を使って僕の乳首を愛撫してくる。
すりすりとこすれ合って心地よい太ももと、時折
おなか辺りに触れる、かすかにしこった花鶏の乳首が、
僕からすっかり抵抗の意思を奪い去った。
【花鶏】
「それっ! ご対面〜♪」
【智】
「ぁぁぁぅぁぅ……っ」
快感に力が抜けた隙を突いて、
必死で最後の砦を守っていた両手が取り払われた。
まじまじと見られてしまう僕の秘密……。
【花鶏】
「うわ、これはグロい」
【智】
「ひ、ひどい……。辱められた……」
【花鶏】
「ごめんごめん。智のだもんね。
えっとこれもやっぱり、舐めたりするのよね……?」
これ「も」?
……あまり考えないようにした。
【智】
「そうすることも、あるようです……」
【花鶏】
「でも、さすがに舐めるのは抵抗があるわ……。手で我慢してね」
【智】
「うぅ……。もう僕の自尊心はミンチに」
【花鶏】
「あとで丸めてハンバーグにしてあげるからっ♪」
表情は嬉々としながらも、その手つきは引き気味で、
花鶏は僕の下半身で固くなっているモノに触れてきた。
ちょうど珍しい昆虫でも見つけたかのようだった。
こんなにも僕は萎縮しているのに、そこだけは
熱い猛々しさをアピールしているのが恥ずかしい。
【花鶏】
「コレってどうしたらいいの? 握るの?」
【智】
「ぅあっ……!」
花鶏は優しく握っただけだったけど、
僕は喉から体の中身が出ちゃいそうなくらい反応した。
【花鶏】
「うわビクビクしてる……。それからどうするのコレ……?」
【智】
「そ、そんなこと聞かれても……」
【花鶏】
「えーっと、本当は女の子のアレに入れるんだから……
あ、上下に擦ったらいいのかな?」
【智】
「そゆこと口にしないで……」
【花鶏】
「想像しちゃう? えいえいえい」
裸の花鶏に握られた状態で、そんなことを
言われたら、想像しない方が無理だ。
頭を沸騰させながらそう思っていたら、
いきなりすごい勢いで、花鶏が僕のモノを擦り始めた。
【智】
「ひたたたたっ! ちょ、ちょっと花鶏!」
【花鶏】
「えっ、あっ、ゴメン! 痛かった?」
驚いた花鶏は慌てて手を止める。
【智】
「そんな乱暴にしたら痛いって!」
【花鶏】
「ごめんね〜、わたし女の子専門だからオトコのはどうしたらいいのかよく解らなくて。固いし結構大丈夫なのかなって思ったんだけど……」
【智】
「意外にそれも、デリケートなのです……」
【花鶏】
「そうねえ、女の子みたいに勝手にぬるぬるにならないものね、
オトコは。だから舐めるのか、なるほど、なるほど……」
そこで一人すごく納得されても困る。
放置された僕のモノは痛かったとは言え、
花鶏の手で加えられた刺激の余波で、ひくひくと震えていた。
【花鶏】
「でもコレ舐めるのはどう考えても無理だわ。グロいし。
だから優しく……」
【智】
「ぁ……そんな……、は……はぁ、はぁ……っ」
今度は優しく、触れるか触れないかの力で
皮膚の表面をかすかに撫でるような刺激が来た。
【花鶏】
「これはいいのね? 気持ちよかったらガマンせず声出すのよ? そっちのほうがもっと気持ちよくなるから。うふふふ」
【智】
「ゃ……んんっ」
男の子のモノをまともに見るのは初めてとは言え、
女の子同士でのえっちに慣れているだけはあった。
花鶏の微妙な力加減に、僕は女の子みたいな
高い声を洩らしてしまう。
【花鶏】
「あは♪ 慣れてきたわ。
オトコのほうが感じるとこ全部見えてる分、女の子より簡単かも」
【智】
「あうぅ、いいようにされてる……っ、ひんんっ」
【花鶏】
「濡れてこないのは面白くないけど、悪くないわね。
ふふ、ほれほれ」
手馴れてきた花鶏は、さらにリズムに変化をつけてくる。
予想しないタイミングで刺激が来るたびに、僕の腰は飛び上がった。
【花鶏】
「それそれ。がんばって声堪えちゃって。可愛いわ、智」
【智】
「ぅぁ……んっ、くぅぅ……っ! ぁ、花鶏ぃ……」
【花鶏】
「んふふ、先のほうとかも弄ったほうがいいのかしら?」
ふと思いついて先端にも手を添えてくる。
【智】
「ひぅっ! くは……、ぁっ! だ、だめ、花鶏っ」
【花鶏】
「やっぱり、ここも弄ったほうがいいのね?」
【智】
「ぁふ……んんっ! あ、花鶏、僕もう、だ……ダメ……!」
次第に意思とは関係なく腰が暴れだしそうになって、
まともに呼吸するのも難しくなってくる絶頂の間際。
【花鶏】
「あ、それはだめ」
花鶏は突然、あっさりと愛撫の手を止めた。
【智】
「へ……ふえぇ……?」
【花鶏】
「ふぅ、間に合った。よかったよかった」
【智】
「ちょ、ちょっと花鶏……こ、こんなトコで止めるなんて、
ひ、ひどいよ……っ!」
【花鶏】
「あは、イキたかった? でもだーめ」
【智】
「そんなぁ……」
【花鶏】
「だってオトコって女の子みたいに何回もイケないんでしょ?
それぐらいわたしでも知ってるわよ。
だから本番の為に取っとかないと」
【智】
「ほんばん……」
ほんばん……。
本番!
【智】
「ほ、本番っていうともちろん、その、僕のを、花鶏の……!」
【花鶏】
「ええ、当然わたしオトコは初めてだけど……智なら」
【智】
「花鶏……」
えっちな事には慣れてると言っても、
花鶏だって初めてなのだ。
柄にもなく少しはにかんで笑う花鶏が、
たまらなく可愛く思える。
【智】
「花鶏、僕も花鶏に……してあげたい」
【花鶏】
「智……」
【花鶏】
「ぁ……、そんなにじっくり見ちゃダメよ……恥ずかしいって」
【智】
「おあいこ」
【花鶏】
「く、さすが智……あ、コラ広げるな……ふぁ……」
好奇心と欲望の赴くままに
複雑に皺の寄った花鶏のその部分を広げる。
にちゃ……と粘液が指の間に糸を引いた。
これは思いのほか、クるものがある。
【智】
「花鶏も見られるのは恥ずかしいんだ?」
【花鶏】
「女の子同士だったら見慣れてるからじろじろ見ないもの。
だから、そんな……ちょっと智ぉっ」
【智】
「そうだね。僕も男の子に間近で見られたとしても、
やっぱり恥ずかしいと思う」
【花鶏】
「ん……んぅ……」
そうは言いながらも、花鶏の中を食い入るように凝視していた。
別に花鶏にいじわるをしたくてそんなことをしてるつもりはない。
これが動物的な本能というものなのか、
どうしても目を離すことが出来ないだけだった。
【智】
「花鶏の体臭を濃くして、
ちょっと甘くしたみたいな匂いがする……」
【花鶏】
「体臭とか……智って結構ヘンタイ……?」
【智】
「花鶏がしょっちゅう襲い掛かってくるからでしょ!」
やがて開いて中を見るだけでは我慢できなくなってきた。
指、入れたりしてもいいのかな?
【智】
「花鶏の中、触るよ」
【花鶏】
「ん……っ!」
花鶏の全身がピクリと震えて、細い顎が持ち上がる。
確認を取るとまたリードを奪われそうなので、
言うなり指を花鶏の中に滑り込ませた。
【花鶏】
「ぁあ……っ、と、智……っ! んぅ、ふぁ……」
その部分はぴったりと閉じているみたいに見えたので、
とりあえず一本の指をゆっくりと奥に入れる。
肉壁はすでに愛液にぬかるんでいたけれど、
奥のほうに指が到達するとそこにはさらに多くの蜜が溜まっていた。
【花鶏】
「んは……、はぁ、は……あふ、ん……。智、必死な顔してる……んっ、んは……ぁ……」
【智】
「だ、だって初めてだもん」
【花鶏】
「いいよ。可愛い、もっとして……。そういうの好きだから」
【智】
「…………」
こんなことしながら思うことじゃないけれど、少しむっとした。
花鶏は余裕を持ちすぎだ。
【智】
「……花鶏は男の子は僕が初めてでも、今まで何人もの女の子と
こういうことして来たんだよね?」
【花鶏】
「あっ、ちょっと強いって……んんっ! なに、智? 妬いてるの……? はぁ、あ……んくぅ……ん」
少し乱暴かもしれない動きで、花鶏の中で指を蠢かせる。
【智】
「そうだよ……っ」
【花鶏】
「んっ! はぁ、はぁ……、実は智に入れ込み始めてからは、
ずっと我慢してたり……」
熱い息交じりにそんなことを言われて、
僕は思わず花鶏の顔を覗き込んだ。
【智】
「えっ、ほんと?」
【花鶏】
「ふふ、だから智に泊まっていいなんて言われてもうガマン
できなくてね〜。まさかオトコだとは思わなかったけど」
【智】
「そう……だったんだ」
本命だって言われたこともあった。
今はこうしてえっちなことをしている。
それでも僕は頭のどこかで、花鶏は遊び半分だ、なんて思っていた。
実はそうじゃないのかもしれない。
【花鶏】
「これでも結構、マジ惚れなのよ? わたし基本的にはカワイイ
のが好きだけどさ。みんなの為に一人でがんばっちゃう所とか、
結構かっこいいとか思ったわ」
【花鶏】
「男の子だってわかった後でもね」
【智】
「それは……アリガト」
照れて思わずカタカナになる。
だけど冷静になって考えれば、僕がみんなの仲を取り持とうと
奔走したことに、花鶏は好意的な感情を持ってくれているって
ことだ。
【花鶏】
「それより、指入れたままなんだけど……、な、なんか
ムズムズするわ」
そういえば呆然として忘れていたけれど、
ずっと花鶏の中に指を入れたままだった。
ふやけ始めている指を焦って引き抜く。
【智】
「うわ、ご、ごめん!」
【花鶏】
「ふぁっ!!」
勢い良く引き抜き過ぎて、花鶏は不意打ちを食らったみたいだった。
強い刺激に、花鶏が可愛い悲鳴をあげる。
僕は謝意を抱くよりも、むしろ興奮してしまった。
【智】
「ごめんね。でも花鶏、すごく可愛い……」
【花鶏】
「はぁ、はぁ……あは。わたし攻め専門なんだけどな。
智にされるのは、いいかも」
そろそろ僕は限界だった。
いきり立つ本能の欲望に、下半身が痛いくらいに張り詰めている。
【智】
「花鶏……」
ベッドに手をついて、僕は花鶏に圧し掛かる。
【花鶏】
「そ、そうね……。そろそろ……してみる……?」
【智】
「うん……。僕、花鶏に……入れたい」
【花鶏】
「そう面と向かって言われると、すっごいドキドキするわ」
手を添えて先端を花鶏の入口に導く。
蜜でぬめる感触に触れて、息が震えた。
【花鶏】
「あ……」
【智】
「行くよ、花鶏」
【花鶏】
「ん……ゆっくりするのよ」
【智】
「うん……」
慎重に衝動を抑えながら、そうっと腰を進める。
【花鶏】
「ぅわ……」
僕が進んだ分だけ、花鶏の腰が引けていた。
【智】
「花鶏、逃げないで」
【花鶏】
「いや、だって怖いわよ。痛いって言うし……」
さらに腰を進める。
【花鶏】
「ぁ……」
またずりずりと花鶏が後退する。
興奮して凝視していた僕らの繋がるべき部分から花鶏の顔に
視線を移すと、花鶏は同じ場所をすっかり怖じ気づいた表情で
見つめていた。
花鶏のこんな表情……初めて見た。
【智】
「花鶏」
【花鶏】
「あ、うん……。頭ではわかってるんだけど、
どうも体が勝手に逃げちゃって……」
【智】
「じゃあ、こうする」
【花鶏】
「あっ!」
両手でしっかりと腰を掴まえると、反射的に花鶏の全身が震えた。
こんなに怯えた花鶏も……初めて見た。
【智】
「行くよ……?」
【花鶏】
「ん……っ」
花鶏を掴まえたまま、さらに腰を進める。
【花鶏】
「ひ、痛っ!」
【智】
「もう少し……!」
【花鶏】
「痛っ! 痛いい痛い! 痛ぁっ!」
まだ3センチくらいしか入っていない。
もっと深く繋がろうと腰を突き出したけど、花鶏は暴れて抵抗した。
【智】
「もう少しだから、我慢して、花鶏……っ!」
【花鶏】
「ひッ、痛いってぇ! 無理! これ、痛っ! 痛い痛い!
ちょっと智、痛いってばぁっ!」
【智】
「あ、花鶏、暴れないで」
【花鶏】
「無理! こんなの我慢できるわけないっての! 痛い、痛い!
抜きなさい! 早く、早くぅ……っ!!」
【智】
「………………」
目に涙を溜めながらどんどん叩いて暴れる花鶏を
無理やりに貫くわけにも行かず、僕は渋々腰を引いた。
初めての時は痛いっていうのは有名だけど……
そんなに痛いものなんだ。
【花鶏】
「はぁ、はぁ、はぁ……。裂けるかと思ったわ……」
【智】
「そんなに痛いなんて……ごめん。
それじゃもっと良くほぐしてから」
【花鶏】
「あー、パス! やっぱオトコは無理だわ、わたし」
【智】
「え、ちょっと。パスって!?」
【花鶏】
「智のこと好きだけど……ごめん。とりあえず今日はパスで」
【智】
「花鶏!?」
【花鶏】
「変な汗かいちゃったから、シャワー貸りるわね」
【智】
「ここで放置ぷれい!?」
限界まで張り詰めた僕のモノだけが、空しく上を向いている。
するりと腕をすり抜けてシャワーに向かう花鶏の背中を……
ただただ呆然と見守ることしか出来なかった。
【智】
「…………」
浴室からはシャワーの水音が聞こえる。
僕はベッドに放置されたまま。
【智】
「はう……」
あんなところで寸止めカラテされても、僕のアレは
フルコンタクト試合に向けて臨戦状態のままだ。
こんなの、そう簡単に収まりがつくはずもない。
【花鶏】
「智も入る〜?」
【智】
「いや、いい……」
【花鶏】
「そうお〜?」
花鶏と一緒にシャワーなんて、大変魅力的なお誘いなんだけど
……その果てに待っているのは、残酷無比なお預けタイムだ。
今でさえ、張り詰めすぎて痛いっていうのに……。
【智】
「…………」
シャワー音を聞きながら服を着る気力も湧かずに放心していると、
ふと、ベッドの上に脱ぎ捨てられたままの花鶏の下着が目に入った。
【花鶏】
「ごめんね〜、でも安心して。わたしこれからも智一筋だから〜。あはは」
【智】
「う、うん…………」
生返事をしながら、なんとなく花鶏のぱんつを手に取る。
真ん中の大切ラインの辺りに、花鶏の蜜の跡がぬるりとついていた。
【智】
「こ、これは………………」
ひとりでに股間に手が伸びる。
【智】
「花鶏、まだ出てこないよね……?」
【花鶏】
「あ〜、気持ちよかった。智も……あれ? いい匂い」
【智】
「あ、う、うん! ちょっと消臭剤をね! 撒いたんだ!
プシューって!」
【花鶏】
「ああ、えっちの時の汗の匂いって残るもんね」
……やってしまった。
自分がまさかこれほど変態的なもので
興奮できるとは思いませんでした……。
【花鶏】
「替えのぱんつ、持って来なかったのは失敗だったわね」
【智】
「え、ぱ、ぱんつ!!?」
【花鶏】
「ん? 濡れちゃったもの」
【智】
「あ、そう!? そうだね! 困るね!」
花鶏の下着を手に、シャワー音の向こうの
花鶏の肢体を思い浮かべながら。
うぅ、悲しい自己処理……。
消臭もしたし、ティッシュはクローゼットに隠した。
絶対バレないはずだけども。
【花鶏】
「智もシャワー浴びてきたら? べたべたするでしょ?」
【智】
「うん、そうする……」
心よりも萎れたそれを、
両手で全力隠しながら、僕は浴室に向かった。
あぅ、性春のバカ……。
それから僕らは衣服を整えて、髪なんかも綺麗にセットした。
【花鶏】
「すごいわね……そのカッコしてると、どこからどう見ても女の子」
【智】
「うん……」
今日は徒歩だし、湿ったぱんつを履くのは気持ち悪いと言って、
花鶏は今、ぱんつを履いてない状態だ。
記念にと言って、ぱんつはベッドにそのままだけど……
これを僕にどうしろって言うの?
【花鶏】
「今日のことはわたしと智の秘密。それでいいのよね?」
【智】
「あ、うん。たまたま呪いは何も起きなかったけど、
どういう条件でそうなったのかわからないから……」
【花鶏】
「わかったわ。じゃ、わたしそろそろ帰るから。みんなを集める
算段ができるまで待ってるわ。本はもちろん諦めないけど、
智の為に皆元たちとも話してあげる」
【智】
「うん……」
【花鶏】
「じゃ、ね。智。愛してる」
【智】
「ぁ…………」
突然の軽いキスに顔を上げると、少し照れた花鶏の笑顔があった。
【花鶏】
「それじゃ」
【智】
「あ、うん! 花鶏、僕も好きだよ」
【花鶏】
「うふふふ、これで相思相愛」
照れ隠しに笑うと、花鶏は扉の向こうに消えた。
明るい外とのコントラストで薄暗く感じる玄関に佇んで、
僕は指先で自分の唇に触れる。
僕はたぶん、少し救われた。
〔揺らぐ絆〕
僕は生きている。
花鶏が帰ってからしばらくして、呆然としたまま眠って、爆睡して
目が覚めたらベッドから花鶏の匂いが微かに香って来て……。
その時ようやく実感した。
【智】
「生きてる――!!」
どうして呪いが発動しなかったんだろう?
なにか僕の知らない特別な例外でもあったのかな?
たとえば、呪い持ち同士ならセーフとか……?
他の誰かにも秘密を話せば確かめられるけど……
効くかどうかわからない毒薬を飲んでみる真似はできない。
【智】
「本当に、どうして平気なんだろう……?」
【智】
「……ま、いっか」
ともかく平気なのはいいことだ。生きてるって素晴らしい。
花鶏のあっさりした反応に乗せられてしまったのか、
僕は意外とすんなり現状を納得することができた。
別に悪いことが起きたわけじゃない。
せっかく生きてるんだから、僕は生きてる自分を楽しむ方向へと
思考を切り替えることにした。
【智】
「まずは花鶏とみんなの仲直り……」
みんなの顔と花鶏の顔を思い浮かべて考える。
みんなと花鶏の仲を……。
花鶏の仲……。
花鶏の……。
花鶏の、中……?
花鶏のあの部分に自分の秘密のモノが入りかけた情景が
フラッシュバックした。
【智】
「だ、だめだ。ここにいると思い出しちゃう……」
湯気のあがる頭を掻き掻き、出かける支度を整えた。
まずは登校だ。
今度も10コール待ってみた。
さっきから30分置きに電話を掛けている。
【智】
「こより、一体どこに居るんだろ?」
いつものようにそれなりに学業をこなした後、
僕は後回しにしていたるいとこよりの居場所捜しを再開していた。
家出娘のるいは、現代の若者とは思えない携帯なき子なので、
こよりの携帯に掛けてるんだけど……。
何回かけてもかからない。
電池が切れてるのかもしれないけど……
むしろ、妙な廃墟なんかに潜り込んでいて、
電波が繋がらなくなってる可能性の方が高い。
でも、ずっとそんなとこに居るハズもないから……。
【智】
「何度か電話を掛けてれば、
いつかは繋がると思ってたんだけどなぁ?」
他のみんなは……花鶏ですら、また集まることを約束してくれた。
【智】
「あとはこよりとるいだけなのに……」
伊代にでも聞いてみようか?
早速いつもの屋上の溜まり場に向かう。
【伊代】
「結局、電話はまだ繋がらないのね? あの二人に限って、心配はないと思うけど……これまでの事もあるし、あんまり見つからないようなら少し心配よね」
【智】
「うん」
【伊代】
「わたしもこの前あの子の家に行ってみたんだけど……ご家族の方に聞いたら、なんでも友達の家にしばらく泊まるって言ってたらしいわ。あの二人が一緒にいるのは、間違いないみたい」
伊代はどうやら、わざわざこよりの家を訪ねてくれていたようだ。
【智】
「ありがとう、伊代。……そっか、こよりは家に帰ってないのか。じゃあ、やっぱりるいと一緒に、どこかで野宿してるんだね」
【伊代】
「間違いないと思う。わたしこれから学園に行ってネットを
使わせてもらうわ。この近くで二人が野宿できそうな場所が
ないか、わかるかもしれないから」
【智】
「お願い。僕はちょっと足で捜してみるから」
【伊代】
「わかったわ。それらしいとこが見つかり次第、連絡する」
【智】
「随分ひさしぶりでも、体が覚えてるもんだね」
遠出をするには電車がいる立地だし、学則で登下校には使えない。
これで買い物に行ったら荷物のせいでバランスを崩し、
転んで卵が大変なことになってしまって……。
そんな理由でずいぶん長い間封印していた自転車を、
久しぶりに引っ張り出して来て乗った。
足で捜す。その為だ。
【智】
「と言っても、見当もつかないなぁ?
るいってば、どんな場所でも生きて行けそうだから……」
街の中をあちこち走る。
やっぱり、歩くよりずいぶん楽ちんだ。
ちょっと休憩に、街角で自転車を止めた。
慎重に内股で降りる。
降りる時にスカートが危険なのも、
僕が自転車を封印している理由の一つ。
【智】
「花鶏に手伝ってもらうのは無理だろうし、
茜子だけを頼りにするわけにはいかないし……」
次はどこを捜そうか?
【智】
「あ、ちょうどいいところに地図があった」
違反駐輪の移動先を示した地図だけど、
周囲を把握するぐらいの役には立つ。
眺めながら次なる目的地を考えてみる。
そういえば、図書館の裏の道をまっすぐ行った辺りに
工場があったような……?
ポケットの中から、携帯が着信を知らせる。
【智】
「あ、伊代? もしもし」
【伊代】
『もしもし!? あの子は見つかった?!』
なんだか声が、せっぱ詰まってる。
【智】
「ううん、まだだけど……どうしたの?」
【伊代】
『そうなの、大変なのよ! その子が事故に遭っちゃって!!』
【智】
「えっ、事故? その子ってどの子!?」
【伊代】
『だから、その……あ〜! も〜! 電話じゃ話しにくいから
病院に来て!!』
【智】
「病院!? 下澤医院でいいの?」
【伊代】
『違う! えっと、もっと大きい病院!』
【智】
「田松病院だね? わかった、すぐ行くよ」
【伊代】
『うん、詳しい話はそこで!』
携帯を片手で仕舞いながら、僕は再び自転車に跨った。
――――怪我をしたのは、るいだった。
幸いなことに、命に別状はなかった。
といっても、それは頑丈さがとりえのるいだったからの話で、
大怪我には変わりない。
しばらくは絶対安静の面会謝絶らしい。
僕たちは仕方なく病院を後にした。
【智】
「無事で良かった……でも、いったい何があったの?」
【花鶏】
「……智の予想どおり、皆元は野宿生活してたらしいわ。
駅向こうの工場の、倉庫に隠れてね」
【智】
「やっぱり……さっき捜しに行こうって思ってた場所だよ、そこ」
【伊代】
「そうなの? その工場で事故に遭ったのよ。工場の側面についてた非常階段が突然外れて、落ちてきたんだって……」
【智】
「そんなことって……」
【花鶏】
「錆びによる老朽化だろうって話だったけど……思うわよね?
そんなこと、本当にあるのかって」
【智】
「…………」
工場のことは良く知らないけど、ビルやマンションの側面に
しばしば取り付けられている金属製の非常階段を思い浮かべる。
あれが、落ちてくる……。
【智】
「そんなの……相当の重量なんじゃないの!?」
【伊代】
「ええ……こういうのは気が引けるけど、正直、死んでもおかしくなかった事故よ。たぶんあの力のおかげで助かったんだと思う」
【茜子】
「……ムテキボディで、良かったです。本当に」
【花鶏】
「非常時の避難経路として造られたはずの階段が、ある日突然、
何の前触れもなく倒壊する……」
【花鶏】
「運動神経だけはいい皆元ですら、
避けられないような突然さで……」
【花鶏】
「……智は、どう思う? この事故」
【智】
「どう思うって……」
呪いだ。
考えをめぐらす前に出てきた単語が、それだった。
【智】
「…………いくらなんでも、不自然すぎる……」
【花鶏】
「わたしもそう思うわ。これは呪いなんだって」
【智】
「でも、今までずっと呪いに触れずに生きてこられたるいが、
うっかり呪いを踏んじゃうなんて……」
【花鶏】
「あの記者と惠は、うっかり失敗なんてした?」
【智】
「え…………」
花鶏の言葉を、理解する。
もしかしてるいは、もう少しで
三人目の被害者になるところ……だった?!
ようやく薄らぎ始めていた三宅さんと惠の死の痛みが、
再び胸に甦ってきた。
痛みのすぐそばには、恐怖もこびり付いている。
【花鶏】
「きっと本を奪った奴が……」
【智】
「今度はるいが、誰かに呪いを移されたって言うの?!」
【伊代】
「自分で呪いを踏んだ可能性もあるし、考え難いけど非常階段
が本当に偶然に壊れた可能性も無いとは言い切れないけど……」
【茜子】
「…………」
【智】
「…………」
【智】
「るいは……やっぱり呪いに殺されかけたのかな?」
俯いて考え込む。
【智】
「って、あれ?」
そういえば……
今までるいのことに動転して気がつかなかったけど……。
【智】
「…………伊代、ねえ、こよりがいない。こよりはどうしたの?」
【伊代】
「だからわたしも、見つけたかどうか、携帯であなたに
聞いたんじゃない……」
【智】
「え!? 一緒じゃなかったの!?」
【伊代】
「そうみたいなの。事故の現場に駆けつけた救急隊員の人も、
そんな子は見てないって」
【智】
「そっか、こよりは事故には巻き込まれなかったんだ……」
そう安堵しながら……でも、今度は別の疑問が首をもたげる。
【智】
「友達の家にしばらく泊まるって……こよりがそう言ってたって、ご家族の方から聞いたんだよね? 伊代は」
【伊代】
「え、ええ」
若い女の子にしては無茶なことを言ってるようだけど、呪いという特殊な背景を負った家なら、娘の言葉を了承したとしても不思議はない。
【智】
「でも……じゃあ、こよりはどこへ泊まってたんだろう?」
【花鶏】
「そうね、呪いのことがある以上、
普通の学園の友達の家だとは考えにくいし……」
【茜子】
「野生児と一緒にいたのは、間違いないと思いますが?」
【智】
「じゃあ、るいが事故にあったとき、
なんでこよりは一緒に居なかったんだろう?」
【花鶏】
「…………」
こよりは、事故の直前まではるいの傍に居たはずだ。
なのに、なぜ大怪我を負ったるいを見捨てて逃げたのか?
どうして逃げなきゃならなかったのか?
誰がるいに呪いを負わせたのか?
まさか、こよりが……?
そんなこと、あるはずが……!
あのいつも元気で可愛い、しょっちゅうケンカする
るいと花鶏のことを気遣っていたこよりが。
誰よりもるいに懐いていたこよりが?
【花鶏】
「あの子が皆元に呪いを負わせて、逃げたのかもしれないわね」
【智】
「そんなことは……ッ!」
【花鶏】
「あくまで予想よ。ただ、疑われてもしょうがないと思うわ」
【智】
「でも……」
【伊代】
「あなた……」
【茜子】
「…………」
伊代や茜子も、花鶏に返す言葉を何も持たなかった。
返せなかった理由は、おそらく僕のそれと同じ。
ほんの一瞬だったとしても、
それぞれにこよりを疑ってしまったからだ――
〔疑惑の行く末〕
なんの当てもないまま、お互いの理由も確認しないまま、
僕と花鶏はこよりを捜していた。
るいの容態も気になるけれど、こよりのことは放っておけない。
【智】
「るいとこよりの間に、いったい何が……」
【花鶏】
「それを、聞くつもりなの?」
二人の間に何があったのか?
花鶏と僕の想像は重なっている部分もあり、異なる部分もある。
【智】
「いや、独り言」
【花鶏】
「……そうよね」
こよりがるいに呪いを押し付けた可能性は……
無いとは言い切れない。
ただ、最も信じたくない、あってはならない予測だった。
花鶏も同じことを願っていると信じたかった。
【智】
「二人だけで、こよりを見つけられるのかな?」
心細さを、少し覚える。
警察の力を借りることも考えた。
こよりの両親には、るいの事故のことは知らされていない。
るいとこよりが同行していたことや、るいの事故のことを
知らせれば……こよりの両親ならば、捜索願いを出すかも
しれない。
【花鶏】
「大丈夫、見つけるわ」
花鶏がこよりを疑っている。
こよりについて語り合えば、僕らはまた衝突するだろう。
こよりが見つかったとき、僕らはどうする?
今は……。
こよりを捜そう。
長い沈黙を挟んで、僕は答えた。
【智】
「そうだね、見つけよう」
【花鶏】
「ええ」
残念だけど……伊代と茜子は協力してくれなかった。
伊代はもし最悪のケース……こよりが僕らの敵と呼べる立場の
人間だった場合、自分でどうすればいいのかわからないから……
そう言って、謝っていた。
茜子はなにも言わなかったから、その真意は知れない。
ただ拒絶の意を示しただけだ。
とにかく僕らは二人きりなのだ。
こよりを捜さねばならない。
最初は気のせいかと思ったけど、地面に一滴の雫の跡を見た
直後、髪を濡らす水の感触がやってきた。
突然の雨。
今は緩やかだったけど、次第に激しさを増す気配が、
雲の裏側に隠れていた。
【智】
「わ……降ってきた。天気予報なんて見てる余裕なかったからなぁ」
【花鶏】
「歩きで良かったわね。どうする? どこかで傘、買う?」
【智】
「ん〜……しばらくこのまま、濡れて歩こう」
【花鶏】
「そうね。それもいいかも」
暖かい雨。
街全体がシャワールームになったと思えばいい。
肌に貼り付く衣服と髪は気になるけれど、
思い切って濡れてしまえば、それはそれで不思議な開放感がある。
【智】
「高架下に行ってみようか? 今のこよりに宿がないなら、
雨宿りしてるかもしれないし」
【花鶏】
「ええ。それまで小降りでいてくれたらいいんだけど」
雲の中の人は結構、無情だった。
バケツをひっくり返したような雨、とは、
こういうのを言うんだろう。
【智】
「わ、いきなり来た!」
【花鶏】
「この……っ、もうちょっと待てっての!」
大股に歩けばほんの10歩ちょっと、高架下に潜り込む直前で、
バケツは盛大にひっくり返された。
無意味と知りつつ手のひらを頭上にかざし、
屋根のある場所まで走りこむ。
【智】
「ふぃー、濡れた濡れた。あとちょっとだったのに」
【花鶏】
「天気も気が利かないわね。ここに飛び込んだ直後にザーッ
だったら、わたしらだって拍手くらいあげるのに」
【智】
「雲の中の人にも、いろいろ事情があるんだよ」
歩くと靴の中がくっちゃくっちゃと鳴る。
盛大に濡れてしまった。
【智】
「しばらくここで雨宿りだね」
【花鶏】
「ええ」
ちらりと花鶏の横顔を盗み見る。
花鶏は雨粒を透かして曇り空を見つめていた。
水に濡れていつもよりさらに白くなった花鶏の肌に、
張り付いた髪から珠を結んだ雨露が伝う。
嘘みたいに綺麗な横顔だった。まるで作り物のよう……。
いつだったか、世界史の授業中に、日本人とロシア人のハーフ
はハーフの中でも一番綺麗な顔立ちの子が産まれる、なんて
聞いた気がする。いや、フランスの間違いだったかな?
【花鶏】
「……?」
【智】
「あ、ちょっと肌寒いね」
【花鶏】
「そうね……」
花鶏と目が合った。
他愛ない言葉でごまかして、視線を地面に落として俯く。
ところどころに泥の溜まった汚い地面に、
雨がいくつもの波紋を、飽くことなく描き続けている。
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
花鶏との距離は保ってたけど、
体の重心は相手のほうの足へ置いていた。
花鶏も同じように見える。
僕たちの距離は微妙だ。
呪いのこと、こよりのこと、
いろいろなものが歩み寄る一歩を妨げている。
僕はもう、花鶏に対して自分が抱いている感情を、
はっきりと自認していた。
あの花鶏によって強引に為された、えっち未遂事件のこともある。
だけど今の僕たちは、雨に濡れた体を寄せ合い
暖めあうこともできないような、そんな微妙な関係で……。
【智】
「……あれ」
【花鶏】
「なに?」
雨粒を幾つ数えたか。
泥の溜まったくぼみに、見覚えのある轍を見つけた。
【智】
「あれ、スケートの跡じゃない?」
【花鶏】
「そうみたいね……」
【智】
「雨、止むまで待つ?」
【花鶏】
「待ってられない」
【智】
「うん。じゃあ、行こう」
【花鶏】
「ええ」
また意味のない手のひら傘をかざしながら、
水溜まりを踏んで駆け出した。
アスファルトの川を幾つも飛び越えて、泥から泥へ。
ひび割れたアスファルトの隙間から漏れ出した土が、
飛び飛びに轍を繋いでいた。
【智】
「途切れたかな……」
【花鶏】
「こっち」
【智】
「あった?」
時に見失いながらもまた見出して、
僕らは真新しいスケートの跡を追う。
それはやがて、街外れの高架下から街中に立ち戻る。
整備されて土の見えない道路が現れてからは、
雨で民家の花壇から漏れた土が、轍を追うのに協力してくれた。
【智】
「こんなところ……?」
やがて轍は、岐路とてない一本道の中ほどで唐突に折れて、
商店と商店の間に入り込む。
【花鶏】
「隠れ家発見ってとこね」
【智】
「うん……」
重くなって肌にまとわりつく衣服をさばきながら、
狭い路地に入り込む。
そこには、捨てられた立て看板やペットボトル、
その他のガラクタを組み合わせて作られた建造物があった。
【智】
「秘密基地?」
【花鶏】
「今時、秘密基地でもないでしょ」
【智】
「まあ、僕も作った経験は無いから現物見るのは初めてだけど
……昭和のかほりがする」
時代錯誤もいいところ。
犬小屋よりはわずかに大きい、
辛うじて人間がしゃがんで雨露をしのげる程度だ。
確実に中から人の気配がする。
僕らが近づいたところで、先に内側から人が現れた。
【茜子】
「……本日は足元の悪い中ご来場下さいまして、
まことにありがとうございます」
茜子だった。
【花鶏】
「いるの?」
【茜子】
「います」
【智】
「いるんだ?」
【茜子】
「います」
茜子がここに居て、中にはこよりが居るという。
茜子はこよりを匿っていた。そういうことだろうか?
【智】
「説明してもらえるのかな?」
【茜子】
「むずかしい質問ですね」
【花鶏】
「なに? あんたらグルだったとか?」
【智】
「花鶏! なにもそんなこと言わなくても」
【茜子】
「そうですね。そういう展開ならメイドの土産に教えてやろう
フハハ、みたいな事も言えますが……」
【智】
「違うんだ?」
【茜子】
「違います」
【智】
「あ」
今わずかに、秘密基地の中からこよりが覗いた。
【花鶏】
「居るのは本当みたいね。ここから見られず逃げ出すのも無理だし、時間稼ぎってわけでもない、か」
【茜子】
「これは厳しい推測で」
【花鶏】
「あんたはこっちの考えが読める。こっちはあんたの考えを予想
するしかないのよ。これはかなりのハンディキャップ・マッチ
だと思わない?」
【茜子】
「はい。茜子さん、まじ最強」
茜子は何を考えているのだろう?
【智】
「茜子、どうしてこよりを匿っていたの?」
【茜子】
「頼まれたからです」
【花鶏】
「協力を持ちかけられたってこと? あんたが仲間だと、
嘘をつくには最高のアドバンテージだしね」
【こより】
「わ、わたしは嘘なんかっ!」
狙ってか狙わずか、花鶏の挑発的なセリフに、
こよりが思わず飛び出してきた。
【花鶏】
「出てきたわね」
【智】
「久しぶりだね、こより。元気だった?」
【こより】
「あぅ……」
【茜子】
「…………」
出てきたはいいものの、続ける言葉がなくて下唇を噛む。
【花鶏】
「どういうことなのか説明してもらおうかしら」
【こより】
「…………」
【智】
「こよりを信じてるよ、僕は。だから理由を話して?」
【花鶏】
「皆元が死にそうな怪我を負ったこと、見逃すつもり?」
【智】
「『僕は』信じてるんだ」
【花鶏】
「お人よし……」
【茜子】
「……心の準備期間くらいは稼いだつもりです。
話すなら自分から話したほうがいいかと」
【こより】
「茜子センパイ……、ともセンパイ……」
唇を震わせて上目遣いで逡巡していたこよりは、
弱気を追い払うように頭を振って、きっ、と歯を食いしばった。
そして、小さな声で語り出した。
【こより】
「鳴滝は……るいセンパイについて行ったんです」
【花鶏】
「それは知ってる。だから……」
【智】
「花鶏、聞こう」
【花鶏】
「……ん」
相手から話を聞きだしたい時は、
静かに待つべきだと何かで読んだ事がある。
じっと黙ってこよりの話を聞こう。
【こより】
「るいセンパイ、鳴滝に野宿だとキツイだろうって、
まともな屋根のあるところを探してくれて……」
【茜子】
「…………」
【こより】
「それで、あの工場に決めたんです。
当然、人の土地だから、こっそり潜り込んで」
【こより】
「普段使ってなさそうな倉庫の鍵を壊して、その中を宿にしようってことになったんですけど……運悪くるいセンパイが留守の時に工場全体の見回りの人が来ちゃって……」
【こより】
「鳴滝、じっと隠れてたんですけど見つかっちゃって……。
すごい大声で誰だ、って怒鳴られて怖くなって……」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「それで慌てて逃げ出して、裏口から出ちゃったんです」
【こより】
「皆さんもお気づきと思いますけど、鳴滝の呪いは、『通った事のない扉を開いてはいけない』んです……」
【智】
「え? それじゃ呪いを踏んだのは……こよりの方だったの!?」
【こより】
「ハイ。いきなり工場のガラス窓が一斉に割れて、点検の人が驚いてる隙に逃げ出そうとしました。でもそこに、あの恐ろしい黒い影が出たんです」
黒い影。
そんな形で呪いは現れるのか……。
僕は子供の頃に呪いを一度踏んでいるけれど、
恐怖のあまりか記憶はおぼろげだった。
【こより】
「目の前に髑髏面の黒い人型が出て来て、もう足が震えて一歩
も動けませんでした。そこへ急にギギッて大きな音がして、
あの非常階段が倒れてきたんです」
【花鶏】
「ちょっと待って!? じゃあ、皆元はどうして!?」
【こより】
「るいセンパイが鳴滝を助けてくれたんです。
ちょうど帰ってきたるいセンパイが、すごい速さで走ってきて、
鳴滝を突き飛ばして……」
【智】
「それでるいは……」
【こより】
「ハイ……。血が……たくさん出てました。
るいセンパイが死んじゃったのかと思って怖くなって、
それで逃げ出しちゃって……」
【智】
「そうだったんだ……」
【花鶏】
「…………」
その場にはまだ、その黒い影も居たのだろう。
こよりが逃げ出したのも、無理からぬことだと思う。
【茜子】
「一人に大怪我させて満足したのか、それからその黒い影は現れてません」
【こより】
「でもっ!
わたし、逃げ出しちゃったのが情けなくて、怖くて…………」
【こより】
「ごめんなさい! 本当に、本当にごめんなさい!
謝ってもしょうがないことだと思いますケド、
でも……ごめんなさい……。本当に……ごめんなさい」
こよりは泥だらけになるのも構わず、
路地裏の汚い地面に膝をついて頭を下げた。
【こより】
「ごめんなさい……。許してください。ごめんなさい……
ごめんなさい……。ごめん、なさい……」
長い髪に枯れ草やゴミが付着する。
泣きながら謝り続けるこよりの上に、雨は絶え間なく降りかかった。
【智】
「良かった……」
【こより】
「……ともセンパイ……?」
僕は安堵のため息とともに心からそう言った。
もはや決して許されることはないと思っていたのか、
こよりが怯えながら顔を上げる。
【智】
「こよりがるいを傷つけたわけじゃなくて、本当に良かった」
【こより】
「でも……」
【智】
「るいのところに行ってあげてよ。まだベッドから起き上がれ
ない状態みたいだけど、きっとこよりの安否は一番知りたい
はずだから」
【こより】
「で、でもぉ……」
【智】
「大丈夫だよ。るいはきっと元気になる。頑丈だけがとりえだもん、心配する必要はないよ!」
【こより】
「うぅ……わかりました。鳴滝、るいセンパイに謝りに行きます」
こよりも心を決めたらしい。
【智】
「それがいいよ。るいは絶対怒ったりしないから」
【茜子】
「確かに、あの暴食動物がそんなことで怒るとは思えません」
【こより】
「ハイ……。鳴滝、キチンと謝ってきます!」
【智】
「茜子だって許してくれてたから、こうして匿ってたんでしょ? 大丈夫だよ。みんなこよりのこと信じてるから!」
【茜子】
「だから、ここで隠れていても意味がないと忠告したのに」
【こより】
「ごめんなさい、茜子センパイ」
【智】
「これからみんなで、病院に行ってみようか?
るいの目が覚めてたら、もしかすると会えるかも知れない」
とはいえ、びしょびしょで病院を訪ねるのも良くないか。
シャワーでも浴びて服を着替えないと。
さっきから黙っている花鶏を見る。
そうだ、花鶏の屋敷のお風呂を借りれば。
【智】
「ねぇ花鶏、これから花鶏の家のシャワー貸してよ。
軽くシャワー浴びてからでも間に合うと思うし」
【花鶏】
「……わたしはまだ、信用したわけじゃないから」
【智】
「え、花鶏……だってこよりは……」
花鶏の言葉に、僕はとまどう。
たしかに、みんなあれだけこよりを疑ってしまったんだ……
今更あっさり信用しようと言っても、そう簡単にはいかない
のかもしれない。
でも……。
【花鶏】
「たとえ皆元が違うと言っても、無実を証明する方法はないもの。わたしにはどうしても信用できない。わたしの本は失われたままだし、犯人の見当はまだ付かないのよ?」
【こより】
「あ、花鶏センパイ……」
【智】
「だけど……」
【花鶏】
「ごめんなさい。今日のところは、わたし帰るわ」
冷厳な瞳で言い放つと、返答も待たずに花鶏は踵を返した。
【智】
「花鶏!」
背中にかけた僕の声にも、花鶏は振り向かなかった。
〔花鶏とのH(完遂編)〕
こよりの疑惑は晴れた。
僕はそう言い切る。
【看護師】
「当分は絶対安静ですけど、順調に回復には向かっています。
安心して下さい」
【智】
「そうですか。良かった……」
【伊代】
「良かったわね。大事がなくて」
【こより】
「ハイ、伊代センパイ!」
【茜子】
「この分なら、物が食べられるようになったら、
すぐに復活するでしょう」
【智】
「るいだもんね。やっぱりとにかく食べてないとるいじゃない」
【伊代】
「うふふ、それはひどいんじゃない? でもたしかに、どんな栄養点滴よりごはんを食べるほうが元気になるっていうから、今は食べられるようになるのが一番ね」
【こより】
「ですよう! 鳴滝、るいセンパイの回復を祝う為に、
ちょっとしたお料理とかベンキョーしてみますです!」
【茜子】
「そして猛毒失敗料理でトドメを刺す、と」
【智】
「大丈夫。僕が教えてあげるって」
るいの容態も見通しは明るい。
残る問題は……花鶏だけだ。
【智】
「るいが起きられるようになった時、僕らがみんな揃ってれば
きっと喜ぶと思う。だから」
【智】
「だから前に話したみんなの仲直りの為の集まり、
るい抜きで先にやらない?」
【こより】
「でも、花鶏センパイが……」
【茜子】
「あのクソ意固地変態は、エサをぶら下げても来るとは思えません」
【伊代】
「そりゃあ……わたしもあの子の退院祝いをみんなで出来ればいいとは思うけど……。今のあの子の様子じゃ、無理じゃないかしら?」
【伊代】
「無理して引っ張り出してきても、傷口を広げることになり兼ね
ないんじゃない?」
諸手を挙げて賛同してくれる者は一人も居ない。
花鶏のあの態度を見れば、当然だ。
せっかく少しは心を開いてくれたって思ったのに……。
だけど――
【智】
「僕が花鶏を説得してみる。出来るかはわからないけどね。
とにかく明日、いつもの場所で。いいよね?」
【こより】
「鳴滝は行きます!」
【伊代】
「その言葉を信用するのなら、きっと大切な集まりに
なるんでしょ? わたしだって行くわよ、もちろん」
【茜子】
「わかりました。茜子さんも誰が来るよりも早く行って、
誰も来ないうちに帰りましょう」
【伊代】
「それ意味ないから!
もう……何ふざけたことばかり言ってるのかしら」
【茜子】
「軽いジョークにいちいち突っ込むな、巨乳メガネ」
【伊代】
「な、な、この……!!
だいたいあなたがいつもいつもそうやって……!」
【智】
「はいはい、続きは明日やろうよ」
こうやってふざけ合う仲間の話に、明日は花鶏も加わって欲しい。
そうすればあとは、るいの傷が治るのを待つだけだ。
【伊代】
「……そうね。必ず行くわ」
【茜子】
「はい。全裸で行きます」
【伊代】
「っ……!」
【こより】
「伊代センパイ、いちいち突っ込んでたら終わらないですよう! じゃあ、また明日!」
【智】
「うん。また明日」
【茜子】
「次回をお楽しみに」
空じゅうの空気を攪拌(かくはん)するみたいに、ブンブンと手を振って別れた。
花鶏には夜、電話をしよう。
その日、屋上には風がなかった。
停滞した空気を揺らしてやって来たのは、伊代だった。
【伊代】
「ごめん、遅くなって。図書室の整理が長引いちゃってね」
【智】
「図書委員だったんだ?」
【伊代】
「違うけど?」
【茜子】
「またこのメガネ巨乳は……」
どうせ最後に使ったのは自分だから、
自分で整理して帰るのが道理、とかそんな理由だろう。
【こより】
「とにかく待ってましたよう!」
【伊代】
「ごめんなさい。……それで、あの子は?
姿が見えないみたいだけど?」
花鶏の姿を捜して見回す。
【こより】
「まだ、なんです」
【智】
「夜に電話はしたんだけどね……」
【茜子】
「首尾は?」
【智】
「電話をとった時には返事をしたんだけど」
それ以降はどんな形の説得にも一言も返事をくれなかったから……。
【茜子】
「ダメジャン」
【智】
「でも、それでも、花鶏は来てくれるよ」
【茜子】
「…………」
あの時、僕と花鶏の心はきっと繋がったと思うから。
花鶏は僕のことを、友達以上の意味で好きだと言ってくれた。
僕だって花鶏が好きだ。友達以上の意味で。
だから僕は、花鶏を信じる。
【こより】
「そ、そーですよっ! 待ちましょう待ちましょう! 超気長に」
【伊代】
「ええ、そうね……。気長に待ちましょうか。
この場所、居心地いいし」
【茜子】
「3年は軽い」
【智】
「…………」
待った。
待った……。
待った…………。
それでも、花鶏はやって来なかった。
【伊代】
「ねえ、わたし、思うんだけど……」
伊代がポツリと、思いを漏らした。
【伊代】
「あの子がどうしても本を諦められないなら……
わたしたちも付き合うしかないんじゃないかしら?」
【智】
「僕たちが花鶏を諦めないみたいに?」
【こより】
「花鶏センパイとるいセンパイ、よくケンカしてたけど、
本当は仲良かったはずですよね?」
【茜子】
「それはどうだか。でも欠員が出て一番ヘコむのは貪婪暴食族です」
【智】
「そうだよね……たとえもう『ラトゥイリの星』が見つからないとしても……僕らはこれからも捜し続けようか」
【伊代】
「ええ、あの子の気が済むまで」
【こより】
「花鶏センパイが永遠に諦めないなら、もう本捜しを
ライフワークにする勢いで!」
【茜子】
「花鶏婆さんや、らとういりの星とやらは見つかったかのう〜
プルプル。……笑える未来です」
そんな話をしているうちにも、次第に時間は過ぎてゆき、
陽が翳るのに比例して僕らの口数は少なくなっていった。
止まっていた風も動き出して、僕らの髪をなびかせる。
【こより】
「来ませんね……花鶏センパイ」
【伊代】
「せっかく、わたしたちがとことん協力する気になったのに……
もうちょっとだけでいいから、わたしたちのことも察して欲しいわね……」
【茜子】
「おまえが言うな」
【智】
「もう一度、電話してみる」
【こより】
「ハイ。智センパイ、おねがいします」
路地裏での一件があったので話しにくいのだろう。
こよりはおずおずと側に寄り添って来て、
僕が携帯を取り出す動作を見つめていた。
あの現場に居なかった伊代のほうが、本当は適任なのかも?
そうも思ったけれど、僕はやはり発信履歴から
花鶏の名を選び出した。
【智】
「出てくれるといいけど」
1コール、2コール。
【茜子】
「……」
誰も喋らない。
5コール、6コール。
【伊代】
「寝てるのかしら……」
花鶏はいつだってなかなか出ない。
9コール、10コール。
【智】
「…………」
秘密を共有したこと、互いに好意を確認しあったこと。
あの時たしかに、僕と花鶏の心は繋がった――
それは自惚れだったんだろうか?
14コール、15コール……
【智】
「…………」
あきらめて、僕はとうとう電話を切った。
【こより】
「ともセンパイ……き、きっと、寝ちゃってるだけですよう!
ほら、花鶏センパイっていつもすぐ寝ちゃうし!」
【伊代】
「そうよ。きっと家で寝てるわ。でもあの子、いつもマナーモードにしないから、起きないのは変ね……?」
【茜子】
「まじ空気よめ、巨乳メガネ」
花鶏……。
【智】
「ありがと、みんな」
【こより】
「え、えへへへへへ、えへへへ! だいじょぶですよう!」
【こより】
「花鶏センパイ、ともセンパイにベタ惚れじゃないですか!
イザとなったらともセンパイが色仕掛けでちらちら〜んで
行けますって!」
【智】
「そうだといいんだけどね……」
【伊代】
「今日は無理でも、一度あの子の屋敷にみんなで押しかけるくらいの荒療治もした方がいいかもね。素直になれない子だし」
【茜子】
「巨乳戦士イケテナイオーのクセにいい事を言います。
また今度あの屋敷を強襲、制圧するということでどうです?
貧乳戦士ブルマイザー」
【智】
「ブルマ言わないで! ……でも、いいかもね。そのうちみんなで行こう。るいが起き上がれるようになってからでもいいし」
【伊代】
「イケテ……何よその名前! もうちょっとマシなネーミング
できないの? いつもいつも……」
【こより】
「あははは、相変わらずキレの悪いツッコミ、ご苦労様であります!」
暗かった空気は笑いに吹き飛ばされて、
誰もが自然と笑みを浮かべていた。
みんなで行けば、花鶏だって応じないわけにはいかないだろう。
花鶏も決して、みんなと縁を切りたいわけじゃないはずだ。
もし本当に、僕たちともう会いたくないのなら、
電話を取ってキッパリと断ればいいんだから。
【こより】
「ところで茜子センパイ。その○○戦士シリーズ、
鳴滝なら何になるんです?」
【茜子】
「危険戦士ツルペティアン」
【こより】
「危険って何ですそれ?! だいたいぺったんは茜子センパイ
も大して変わらないじゃないですか! ねぇ、ともセンパイ」
【智】
「ま、まぁそうだね……」
【伊代】
「胸なんか大きくても肩凝るだけよ?
出来るんならみんなに分けてあげたいぐらいだわ」
【茜子】
「今こいつがものすごくムカつくこと言った」
【こより】
「伊代センパイは今、ものすごく多くの敵を作りました」
【伊代】
「え? え? なに? 言うばっかりで本当に胸を分けるなんて
できないから? あれ? ごめん。あれ?」
【智】
「伊代、傷口を広げるのはやめよう」
【伊代】
「なんで?」
空気よめ。
みんなが揃うには二人足りなかったけれど、
僕たちはかつてのように笑いあって別れることができた。
自室の鍵を探しながら、アパートの階段を登る。
みんなと手を振りながら、僕はひとつの決意を固めた。
花鶏との話は僕が付けよう。
もう一度僕と花鶏、二人で。
【智】
「……花鶏」
【花鶏】
「ぁ…………」
最後の一段を登り終えて覗いたアパートの廊下――
僕の部屋の前には、花鶏が立っていた。
【智】
「入ってよ」
【花鶏】
「ええ」
花鶏を招き入れて。ベッドに座らせる。
もしかして花鶏……夕方からずっと待っていたのか?
【花鶏】
「…………」
自分でやって来たのに、花鶏は何も言わない。
言葉にしにくい想いを、胸の中で持て余しているんだろうか。
茜子のような力は、僕にはない。
花鶏の心を、そのまま読み取ることはできない。
【智】
「花鶏」
【花鶏】
「……」
人と人は通じ合えない。
だから、自分の想いを言葉にする。
【智】
「花鶏、みんなで決めたんだ。『ラトゥイリの星』が見つかるまで、どれだけかかってもずっと花鶏に協力し続けるって」
【花鶏】
「みんな……?」
【花鶏】
「……へぇ。そうなの……」
すぐに隠されたけれど、僕の目には一瞬、
花鶏の顔に浮かんだ嬉しそうな表情が焼きついた。
明らかに感情を隠そうとしている。
理由はわからないけれど。
それは花鶏とは思えない、不器用な隠し方だった。
【智】
「永遠に見つからなくても、花鶏の気が済むまでみんなで付き合うよ。たとえ大きな危険があったとしても……」
【花鶏】
「どういう風の吹き回し? あれだけみんなでわたしに
『ラトゥイリの星』を諦めさせようとしてたのに」
【智】
「徒労かもしれないとか、危険かもしれないとかそういうことより……花鶏の方が大切だから」
【花鶏】
「何をいまさら……」
【智】
「……あと、僕が個人的に花鶏が好きだから。えへへ」
【花鶏】
「な…………!」
【花鶏】
「……バカじゃないの」
今度もヘタクソな演技で無愛想ぶってみせようとしてたけど……。
【花鶏】
「ぷっ……あははは!」
顔を背けた向こうで、花鶏はついに吹き出した。
【花鶏】
「はははは……何が『えへへ』よ、オトコのクセに!
マニアックな色仕掛けのつもり!? もう……押し倒すわよ! あははは!」
【智】
「むぅ〜! 笑うなんてひどいよ! 僕の女の子的仕草は、
カメレオンの体色変化と同じような、生存のための技術
なんだからね!」
【花鶏】
「技術!? 技術!! おもしろ発言出た! あははは、ほんとに可愛いわ智って! あははは!」
【智】
「花鶏だって、僕が男の子だってずっと気づかなかったくせに〜っ! あははは」
二人で両足をバタバタ動かして声を上げて笑った。
頭の中をからっぽにして、胸の中の陰鬱も悩みも吐き出しながら
笑い尽くして、息切れしてもなお止まらず笑い続ける。
腹筋が痙攣して痛くなるまで笑う。
花鶏が真面目な顔で、まっすぐ僕と目を合わせてきた。
【花鶏】
「智。わたしも智のこと、好き」
【智】
「うん……」
吸い寄せられるようにお互いの顔が近づいたけれど、
口づけには至らなかった。
【花鶏】
「わたし、もう一人、本のことを知ってる人間を思い出したわ」
【智】
「え……、誰なの!?」
【花鶏】
「あいつ。茅場の身柄をかけてわたしたちが勝負した……」
【智】
「あのコートの……!?」
名前はたしか、尹央輝(ユン・イェンフェイ)。
確かに彼女はあの時、『ラトゥイリの星』を手にしている。
名前が日本語じゃなかったのもあって、
央輝のことは印象強く憶えていた。
たしかに、一度は手放しておきながら、あとからその価値に
気づいたという可能性も、無いとは言い切れない。
【智】
「でもそんな……
無関係な人間が、あの本の価値に気づくなんてことある?」
【花鶏】
「無関係だと、どうしてわかるの?」
【智】
「それは……」
パルクールレースのゴール直前、彼女は何かを見て
一瞬躊躇したかのように動きを止めた。
もしかして、僕の痣に驚いたんじゃないのか?
【花鶏】
「あの本の存在を知っている者は、もう他には居ないはずなのよ」
【智】
「確かに、その可能性は考えられるね。でも……」
央輝は明らかに表の世界の住人じゃない。
関わり合いになるのは危険が伴う。
【花鶏】
「危険なのはわかってる。でも、わたしは行くわ」
【智】
「うん。だから僕もついて行く」
【花鶏】
「智、本気?」
【智】
「もちろん。僕はもう、花鶏にとことん付き合うって決めたから」
【花鶏】
「へぇ……可愛いばっかりじゃなくて、
けっこうカッコイイところもあるんだ?」
【智】
「男の子ですから」
アップで花鶏の笑顔を見る。
【花鶏】
「智、キスしてもいい?」
【智】
「……うん。僕も、したい」
今度こそ、僕たちの唇は触れ合った。
【花鶏】
「ん、ん……。智……、ちゅ……ん」
【智】
「ん…………」
互いの唇をついばみながら、ベッドへと倒れこむ。
この前はほとんど一方的に襲われてしまったけど、それはあまりに唐突で心の準備が出来ていなかったからだ。
【花鶏】
「ん……ちゅ、ん……んふっ、ん……ん……」
僕にも男の子のプライドというものが一応ある。
迷いや照れを振り切る為にも、思い切って
自分から手を伸ばして、花鶏の胸に触れる。
【花鶏】
「ん……んは……嬉しい。今日は、自分から求めてくれるのね?」
【智】
「うん……花鶏の胸、やわらかいね」
衣服の下、僕の手の動きのままに、
程よい弾力をもったふくらみが震えた。
【花鶏】
「ふぅ、ん……。あんまり大きくないけど、形にはわりと自信あるのよ……ん……智……」
自信がある、と言われても、花鶏以外の
女の子の胸なんか、触ったこともない。
形がいいのかどうかはわからないけれど、
この魅惑的な感触は確実なものだった。
【花鶏】
「んっ……! はぁ、はぁ……前と違って今日の智、
積極的……ぁ……ん……、はふ……」
【智】
「僕は男の子なんだって、花鶏にちゃんと知って欲しいから」
【花鶏】
「はぁ……ぁ……、ん、知ってるってば……。この前アレ、
見るどころか、いろいろしたじゃない……」
【智】
「あとそうやって、花鶏がずっと余裕なのもシャクなんだ」
もっと激しく、もっと積極的に。
焦燥感に駆られるように、衣服の中に手を滑り込ませる。
【花鶏】
「はぁぁ……あ……、智ぉ……。
じ、実はそんなに余裕じゃないのよ、わたし……」
【智】
「うそ」
僕は嫉妬してる。
こうして花鶏が余裕で僕をあしらえるようになるまでに
触れ合ってきた女の子たちに。
【花鶏】
「はん……っ、わたしさ……見栄っ張りだから……んぁ……はぁ、はぁ……智、ブラの中に手、入れてみて……」
【智】
「…………」
なにか口にすれば恥ずかしくなってしまいそうで、
僕は無言のままブラの下に手を差し入れた。
【花鶏】
「んん……っ」
いつのまにか地肌はしっとりと湿り気を帯びていた。
少し固くなった先端を手のひらに包み込みながら、
直に花鶏の胸を愛撫する。
【花鶏】
「ふぁ……ぁ……っ、ん……。胸に手押し当ててみて……聞こえるでしょ? わたしの鼓動……はぁ、はぁ……はふ、ん……」
力を込めてふくらみを押しつぶすと、
思いのほか手の平が沈み込んだ。
胸の奥、花鶏の中心に触れる。
【智】
「…………すごくドキドキしてる」
【花鶏】
「うん……」
子供みたいな無邪気な笑顔で微笑まれた。
胸がドキンと高鳴って、僕の脈拍は
簡単に花鶏のそれを追い抜いてしまう。
【花鶏】
「相手が智だからよ?」
【智】
「花鶏……」
【花鶏】
「ん……。もっとキスして。ん……んっ、んふ、ちゅ、ん……もっと、んん……んちゅ、ん……ふぅっ、ん、ん……」
【智】
「ん、花鶏……ん……っ」
花鶏の舌先が、僕の唇をくすぐった。
自分から舌を差し入れようとせず、僕のを招いている。
【花鶏】
「ん、んんっ! んふぅ……ん、ちゅる、んちゅ、ん……」
求められるまま求めるままに、
花鶏の口の中へとぬるりと舌を伸ばす。
花鶏は高い声をあげて、敏感に反応してくれた。
【花鶏】
「ぬろ……ちゅぷ、んん……ふぁ……っ! はぷ、ん……ちゅぷ、ん、んん……っ、れる、ちゅぷ、れろ、れろ……ん、ん……んん……」
熱い唾液の海が僕を迎えて、
とろけるような甘い痺れが頭を満たした。
頭の中が溶け出して、舌先で唾液とともに
花鶏と混じり合ってしまいそうだった。
【花鶏】
「んっ! んふぅ……、ちゅるる……ん、れろ、れろ、ん、れろぉ……、んっ、んん……んぷ、ん……」
胸をまさぐりながら、舌で濃密にじゃれ合う。
唾液を混ぜあいながら、花鶏の方が
ほんの少し体温が高いことを知った。
【花鶏】
「ん、ちゅ、ちゅる……ぬちゅ、ちゅぷ、ん……んふ……ん……んふぁぁ…………」
唇を離すと、混ぜあっていた唾液がお互いの口からこぼれる。
恍惚とした目で、花鶏が僕を見た。
【花鶏】
「ん……ふあ……っ! ともぉ……っ」
ブラの下、まわりの肉を巻き込みながら、
固くなった花鶏の乳首を二本指で強めに挟む。
【花鶏】
「あふんん……っ!」
下唇を噛みながら花鶏が甘い声で鳴いた。
もはや今の花鶏に余裕は見えない。
僕の愛撫ひとつひとつに敏感に反応する仕草のすべてが、
愛おしくて堪らない。
【花鶏】
「はぁっ……ぁ、んっ! 智……は、あんんっ、そんなつままないで……んは……ぁ……」
【智】
「花鶏、可愛いよ……」
【花鶏】
「可愛いなんて……わたし、んっ、そんなキャラじゃないって……ぁ……は、んふぅ……」
不意に刺激が来て、腰がビクリと大きく跳ねる。
熱くてしなやかな花鶏の指が、
スカートの上から僕の股間をさすっていた。
【花鶏】
「智……、ともぉ……。んっ、はぁ、はぁ……ぁ……っ、はう、ん……。智のここ、ものすごく熱くなってる」
【智】
「うん……僕も花鶏の……」
触りたい。
片手をスカートの中に忍ばせて、そっと花鶏の大事な部分に触れる。
【花鶏】
「はぁ……っ、智の……ゆび……」
最初触れたとき、かすかに湿っていると思った。
筋にそって指を滑らせると、下着ごしに
指をぬめらせるほどの蜜が染み出してくる。
【花鶏】
「んくぅ……っ! はぁ、はあぁ……、智……、いいよ。
はぁ、はぁ、はぁ……」
【智】
「こんなに……ぬるぬるだ」
【花鶏】
「んふふ……前の時はこんなにならなかったのにね」
染み出した蜜のせいで下着はぴったりと張り付き、
手探りでも花鶏がわかる。
僕はもうすっかり夢中になって、
花鶏の細かいところまで、隅々を指でなぞった。
【花鶏】
「ふぁ……、はぁ、は……あ……、あふ……。智……、
わたしもう、布ごしじゃ我慢出来ない……」
【智】
「同感。そろそろ……」
【花鶏】
「え、きゃ……っ!?」
花鶏の両足を掴んで、不意打ちに花鶏を裏返した。
【花鶏】
「え、や……、わたしが智のを……してあげようと……」
【智】
「今日は僕がするの。花鶏はまた今度ね?」
じたばたする花鶏を海老反りに押さえつけて、
欲求の赴くままにぬかるんだ下着に顔を埋めた。
【花鶏】
「ちょっ、あんんっ! こ、こんな格好やだってば! ちょっと智ぉ……んん……っ! やだってば……んっ、はぁ……」
【智】
「顔真っ赤にしてる花鶏なんて、初めて見たかも」
あたふたする可愛い花鶏を眺めながら、
舌先を伸ばして秘部を舐める。
【花鶏】
「んは……ぁ……、んっ! いやぁ……、はぁ、はぁ、んく……んうぅ……っ」
布越しでも感じるらしく、舌の蠢きに合わせて
悩ましい声が返ってくる。
もっともっと感じさせてあげる為に、そこに直接触れたかった。
【智】
「パンツ、脱がすよ?」
【花鶏】
「ふ、普通の格好でしよ?
これはちょっと、いくらわたしでも……っ」
下着を下ろすために手を離したら、
さっと逃げられてしまいそうだった。
せっかくだから、もう少し花鶏をいじめたい。
いや、可愛がりたい。
いつものおかえしだ。
【智】
「そうだ。いいこと思いついた♪ ……はむ」
【花鶏】
「ふゃぁ……っ!」
歯を立てないように、花鶏の柔肉に深くかぶりつく。
【花鶏】
「んっ、んんうぅ……っ! ぁは……あぁ……っ」
そのまま、パンツの生地だけをうまく口に挟む。
【智】
「ん〜♪」
【花鶏】
「やっ、やあぁ……」
口だけで下着を下ろすと、布地に包まれていた白くて丸いおしりと、
蜜に濡れて光る花鶏の女の子の部分が露わになった。
【智】
「花鶏の中、ぬるぬるしたのが溜まってる……」
【花鶏】
「んん〜……。今日の智、いつになくいじわる……」
【智】
「今日の花鶏は、いつもより可愛いよ」
とろとろに濡れたそこを、顔よりも高く持ち上げる。
【花鶏】
「もう……やっぱり智の本性は、前向きな卑怯者だったのね」
【智】
「花鶏は強引で勝気だから、僕みたいなのがちょうどいいって」
【花鶏】
「………………そうかも。智、大好き」
【智】
「僕も好きだよ、花鶏」
互いの愛情を確認しあってから、
僕はひくひくと痙攣する花弁へと舌を伸ばした。
【花鶏】
「ふあっ! 智、ともぉ……あっ、んんっ! はぁ、はぁ、ぁ……、んんんんっ」
犬や猫が水を飲むときみたいに、ぴちゃぴちゃと
音を立てて花鶏のそこを舐める。
どれだけ舌先で掻き出しても、
蜜は枯れることなく奥から奥から湧き出てきた。
【花鶏】
「ふっ、くうぅ……っ! はぁ、あっ、んんぅうぅぅ……っ!
んっ! くふうぅぅ……」
舌先だけではもう満足できない。
思い切り顔を押し付けて、舌全体を花鶏の中にぬるりと挿入した。
【花鶏】
「ひゃんんっ! はっ、あ、あっ! いっ、いいよ……智……
んっ! はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
【智】
「…………」
波打って脈打つ花鶏の中で舌を回しながら、
上唇を上げて淫核も口の中に含んだ。
【花鶏】
「んっ、んん……! んはっ、あ、あ、ぁ……ふぁぁんんっ!
はぁ、はぁ……、智、智……っ!」
内側から舌を添えて強く吸い上げる。
蜜がじゅるじゅると卑猥な音を立て、秘肉が激しく震えた。
【花鶏】
「はあぁぁ……っ!! と、智、そんな吸ったら……
わ、わたしっ! んくっ、は、は、はんん……っ!」
花鶏の腰が何度も跳ね上がり、独りでに快感を求めるようにくねる。
構わず淫核を吸いながら、舌全体で花鶏の中を捏ね回し続けた。
【花鶏】
「も、もう……っ、わたし……わたし……っ!
くる、くる……っ、んんんん…………っ!!」
高揚が頂点に達するほんの少し手前、
花鶏は腰をガクガクと揺らして暴れる。
絶頂を迎えるにわずかに足りない、最後の一押し――
【智】
「ん……」
【花鶏】
「くうぅんんんんん………………っ!!」
淫核を甘噛みすると、とても高い声で泣きながら震えた。
【花鶏】
「ん……んぁ……は……、は……ぁ……っ、あ……」
僕が舌の動きを止めた後も、
花鶏はしばらく全身を緊張させて痙攣していた。
【花鶏】
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……はぁ……はぁ……、
はぁ……、ぁ……」
締め付ける柔肉の力が緩んでから、ゆっくりと舌を引き抜く。
小刻みに開閉するその部分からは、淫らな粘液が糸をひいて滴った。
【花鶏】
「はぁ、はぁ……、はぁ……はぁ……、ふぅ、ふうぅぅ……」
花鶏はまだ呼吸を整えられていない。
それは判っているのだけど、
さっきから僕は、自身の衝動を抑えきれなくなっていた。
【智】
「花鶏……」
【花鶏】
「んっ、んく……と、智ぉ……」
ずっとスカートによって隠され続けてきた
僕の男の子の部分は、すでに痛いほど張り詰めていた。
ずっと押さえつけていた花鶏の足を離して、
おもむろにそれを取り出す。
【花鶏】
「あ……、はぁ……はぁ……。智……」
花鶏はもう逃げなかった。
僕は全身で花鶏に圧し掛かりつつ、
猛り立ったモノを割れ目に沿って押し付ける。
【智】
「花鶏、僕もう……挿れたい」
【花鶏】
「ちょ、ちょっと、もう少し……」
胸をそっと押して、花鶏が僕を留める。
【智】
「待てないよ……」
【花鶏】
「はぁ、はぁ……智ぉ…………」
この前の未遂から、何度思い出してしまっただろう。
夜毎に花鶏の痴態が僕を悩ませ続けてきた。
欲望に素直になるのが恥ずかしくて、
おくびにも出さず秘して来たけれど……、
【智】
「花鶏と、ひとつになりたい」
【花鶏】
「智…………」
自分の好きな女の子と、もう少しで結ばれるというところで
お預けを食ったのだから、それも当然だろう。
【花鶏】
「ん、ふぅ、ふぅぅ……。わかったわ。智、挿れても…………」
【智】
「うん……」
花鶏は自ら足を抱えて僕を迎えてくれる。
痛いかもしれない。
震えるほどの自制でもって腰を抑えながら、
僕はゆるゆると花鶏の中に入っていった。
【花鶏】
「あ……ぁ…………。智……入って……来る……」
【智】
「ふぁ……、熱い……」
半ばまで繋がったところで、花鶏の様子を窺う。
【花鶏】
「平気……痛くてもいいから。わたしの奥まで……」
【智】
「わかった。じゃあ、行くよ」
【花鶏】
「ん…………っ!」
ぎゅっと絞るような抵抗を掻き分け、力強く腰を進める。
【花鶏】
「ぁ、ぁああぁぁ…………っ」
さらに体重をかけて深く。
泡だった蜜が、僕のモノに押しのけられて溢れる。
【花鶏】
「んく……っ! くあぁ、ぁぁぁぁ……っ!」
両手で強く腰を引き寄せて、二人はやっと一番深くまで繋がった。
【花鶏】
「あ……ぁ……、んは……、んん……っ」
【智】
「入ったよ……花鶏……」
【花鶏】
「うん……わかる。はぁ、はぁ……、智がわたしの奥に
当たってるの、わかるよ……」
痛みのせいか緊張のせいか、花鶏の中はさきほど舌を入れた時とは比べ物にならないほど、強く僕を締め付けていた。
ただ握りつぶすような乱暴な感触とは違う。
ほんの少しでも花鶏が身じろぎするたびに、
背中に震えるような快感が僕を襲った。
【智】
「花鶏……だいじょうぶ? 痛くない?」
【花鶏】
「痛い……、けど大したことない……」
【智】
「よ〜くほぐしてから挿れると、ほとんど痛くないって聞いてたんたけど……なんか、ガマン出来なくって……ごめん」
【花鶏】
「うふふ、いいよ。痛くない初体験より、智がそうやって
必死でわたしを求めてくれるほうが……嬉しい!」
【智】
「花鶏……」
【花鶏】
「ガマン、出来ないの……よね? 動いていいよ……」
【智】
「うん。なるべく優しくする」
【花鶏】
「はぁぁ……っ、ぁ…………んふっ、くんん……」
しっかりと腰を支えながら、慎重に腰を動かし始める。
花鶏を傷めないようにするのはもちろんだけど、
大きく動けば僕の方がすぐにも達してしまいそうだった。
【花鶏】
「んぁ……はぁ……っ、あぅんん……っ。い、痛いけど……なんかちょっといい……。中から熱いのが伝わってきて……ん……っ!」
呼吸をゆっくりと。
一呼吸ごとに合わせて、花鶏の中へ挿入を繰り返す。
突き入れるたび僕のモノを挟み込む柔肉からは、
かすかに血の混じった蜜が流れていった。
【花鶏】
「あは……っ、は、んんっ! ん……くっ! な、中で智が動いてる……。これって初めての感覚……かな……? あは」
【智】
「花鶏の中も動いてるよ……っ。にゅるにゅるって……すごく……気持ちいい……」
【花鶏】
「はぁ、はぁ……わかるよ。んんんっ! だ、だって智、
すごく気持ち良さそうな顔してるから……はふ……っ、
んっ、くぅんん……っ」
リズムを掴みながら少しずつ腰の動きを早める。
歯を食いしばって快感に耐えつつ、いくらかでも
花鶏が気持ちよくなれるやり方を探しながら。
【花鶏】
「はんんっ、あ、あ……っ! 智、智……っ、くふうぅ……、
んっ、んんんんっ! あふ、ぅんん……熱いよぉ……」
【智】
「いい場所とかあったら……言って?
もっともっと気持ちよくなって欲しいから……」
【花鶏】
「んっ! はあぁ……はあぁぁぁ……。充分、きもちいいよ……。智の固いのがわたしの中……全部いっぺんにこすって……っ、
ひんっ、ぁ……、ふあぁぁ……」
男に興味がないと言って憚らなかった花鶏が――
男と知ってもなお僕を女の子みたいに扱ってきた花鶏が――
僕のモノを受け入れて、切なげな声で喘いでいる。
【花鶏】
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あ……っ!
はふ、ふぁあぁぁっ、はぁ、はぁ、はぁ……あんんっ」
興奮が理性から手綱を奪い取って、
いつしか激しく腰を打ち付けていた。
ぱちゅっ、ぱちゅっ、と水音を弾けさせ、
腰をぶつけるたびに花鶏の胸が震える。
【花鶏】
「あっ、あっ! と、智ぉ……っ! あつい、中……すごくあついよぉ……、んんんん……っ、ふああ、あ、あ、あはあぁぁ……っ!」
初めて受け入れた男のそれに激しく中を掻き回され、
花鶏の性器周辺は熱を帯びてピンク色に染まっていた。
真っ白な肌の中、顔とその部分だけが
色を帯びているのが堪らなく可愛い。
【花鶏】
「ふあっ、あっ、あっ! 智、智……あんんっ! 初めて……
こんなの……初めて……、熱くて、熱くてぇぇ……っ」
【智】
「花鶏っ、花鶏……っ!」
できれば共に絶頂を迎えたい。
そういう思いはあったけれど、意識して自分を制御する余裕なんて、僕には一切なかった。
【花鶏】
「くううぅぅ……っ!! あっ、あっ、奥まで届いてるよ……っ、奥が、奥がいいの……智ぉぉ……っ」
女の子たちとの淫核をこする刺激にはいくぶん慣れているのかも
しれないけど、内側からの刺激は初めてなのだろう。
僕は腰の振り幅を大きくして、先端から根元まで
全体を使って、花鶏の中を激しく往復する。
【花鶏】
「はっ、あっ、はっ、はあぁあぁぁっ! くうぅぅぅんん……っ、いい、智、いいよ、智ぉ……きもちいぃよぉぉ……っ」
二人で気持ちよくなることだけを考えて、
ただひたすらに深い挿入を繰り返す。
ぶつかったりすれ違ったりもしたけれど、
今二人は確実に、心までひとつに繋がっていた。
【花鶏】
「あっ! んくっ、はあぁぁっ、あ、あ、あ、あっ!
智、とも、ともぉ……っ、もう、わたし熱くてっ、もう……っ」
足を抱えていた手を離して、花鶏がしがみ付いてくる。
急に締めつけが強くなったと思ったら、独りでに腰が暴れて、
そろそろ限界が近いことを悟る。
【花鶏】
「も、もうダメ……っ! 智、わたしと一緒に……っ、
ああぁんんっ! イク、イク、イク、イクゥ…………っ!」
【智】
「行くよ、花鶏っ! 行くよ、行くよ……っ!!」
下腹の辺りまで、すでに絶頂は訪れていた。
全力で耐えながら、ギリギリの瞬間まで
めちゃくちゃに激しく腰を打ち付けて最後の往復をする。
【花鶏】
「はぁあぁっ! はぁっ、あ、んくぅぅう……っ、も、もうダメ、もう限界、智、智、智ぉ……はやく来てぇ……っ!」
【智】
「ぁ……花鶏……っ!!」
射精の瞬間、ほとんど突き飛ばすように、
なんとかそれを引き抜いた。
【花鶏】
「あ……っ、あああ………………っ、あ……あああ………………っ! あ……………………っ!!!!」
全身を震わせる花鶏に向かって、白いものが振りかかって付着する。
虚脱して初めて、室内に満ちた淫靡な性の匂いに気づいた。
【花鶏】
「あ…………っ、はぁぁ…………、は、あ…………、はぁ……、
はぁ……、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………っ」
【智】
「はぁ、はぁ……あとり…………」
力という力が抜け切って、僕は花鶏の傍らへ倒れこむ。
隣で花鶏が足を投げだす音がした。
【智】
「花鶏……」
【花鶏】
「はぁ、はぁ、はぁ……はぁ…………。はぁ……、
智…………ん……ちゅ…………」
二人とも呼吸が苦しいくせに、貪るようにキスをした。
不恰好に息継ぎを繰り返しながら、何度も何度もキスをする。
【花鶏】
「ん……ふっ、はぁ、はぷ……ん、ん……、はぁ、はぁ、はぁ……ん、ちゅ、んん……」
ひとしきりキスをして、頭を持ち上げるだけの力さえ尽きた
僕たちは、ぐったりとベッドに倒れて微笑みあった。
【花鶏】
「はぁ、はぁ……智……」
【智】
「うん?」
【花鶏】
「わたし、智と一つになれて……本当に嬉しかった……」
【智】
「これからも僕たちはひとつだよ……」
【花鶏】
「…………」
僕の手を、花鶏の白くて綺麗な手が握る。
【花鶏】
「……そうね。ずっと、これからも」
【智】
「うん…………」
浅い呼吸を繰り返しながら見つめ合う。
互いの瞳だけを一心に見つめながら、
いつしか二人の意識は闇に溶けていった。
〔央輝との取引〕
【智】
「ん…………」
すでにスズメの声は過ぎている。
カーテンの隙間から差し込む光は、
いつのまにか昼のものに近づいていた。
昨日はあのまま、花鶏と一緒にベッドで眠った。
二人で眠るベッドはとても暖かくて、
小さい頃以来の、深く安らかな眠りを得た。
衣服をまとっていなくても、ベッドの中はまだ暖かい。
このままさらに午睡を楽しみたかったけれど……
眠りの誘惑に打ち勝って身を起こした。
【智】
「花鶏……?」
傍らに眠っていたはずの花鶏がいない。
シャワーか手洗いかと思ったけれど、衣服もない。
【智】
「花鶏?!」
不安を覚えて玄関に走ると、やはり靴も消えていた。
【智】
「花鶏……」
家に帰っただけかも知れない。
なぜだろう、とても嫌な予感がする。
わたしは人気のない高架下、尹央輝と向かい合っていた。
ああいった連中の根城は知っていた。
そこに行って下っ端を締め上げれば、ボスへの道は
割と簡単に開ける。
ただ、簡単な分、それだけリスクは……。
【央輝】
「用は何だ。さっさと言え」
【花鶏】
「本を……あんたが本を持っているんでしょ!?」
【央輝】
「本? 何のことだ」
【花鶏】
「もうあんたしか考えられないのよ。タダとは言わないわ。
返しなさい」
【央輝】
「何のことだと言ってる!!」
さっきからカチカチ鳴っている音の正体に気づいた。
央輝が持っている安物のプッシュ式ライターだ。
何度も何度も、央輝は苛立ちの数だけボタンを叩く。
【花鶏】
「『ラトゥイリの星』よ。あの時パルクールレースに賭けた本……」
【央輝】
「なんだと……?」
ライターの音が止まる。
ボタンは押し下げられたままになって、
央輝の手元の空気を焦がした。
【花鶏】
「パルクールレースにはわたしたちが勝った。
あとから盗むのは汚いんじゃないの?!
それとも最初からそのつもりだったっての?!」
【央輝】
「妙な言いがかりをつけるのもいい加減にしろ!」
距離を詰めてきた。
央輝の片手はライターを握り、
もう片方の手は無造作にぶら下げられている。
たとえコートの中に銃やナイフがあっても、思考を加速する
わたしの力があれば、それらはまったく意味を持たない。
【花鶏】
「あの本の意味に気づいたんでしょ? 呪いの秘密が知りたいなら解読に協力してもいい。わたしはあの本の正当な継承者だから、あんたたちより多くのことを知ってるわよ?」
ゆっくりとした足取りで、もう一歩距離を詰める。
【央輝】
「呪いだと……?」
【花鶏】
「あんたにもあるんでしょ? 痣が!」
推測だ。たがそうじゃないとあの本を欲しがる理由が分からない。
距離を詰めるべきか、つま先で躊躇するわたしの前で、
央輝は身じろぎ一つしなかった。
ただ目だけが動く。
【央輝】
「…………」
【花鶏】
「呪いを解きたいなら、わたしの協力を受けても
損はしないはずよ……!」
意を決して踏み出した一歩。
しかし二歩目は央輝の含み笑いに止められた。
【央輝】
「……ふふふふ」
【央輝】
「呪いの秘密を記した書物、呪いを解く手段さえもが
書かれた本……『ラトゥイリの星』か」
【花鶏】
「どこまで知ってるのよ?
わたしに返せば、もっと多くの事がわかるわよ?」
【央輝】
「すでに必要なことはすべて聞いた。オマエの助けは必要ない」
【花鶏】
「何ですって! あんた……っ!」
思わず感情的になって、央輝に飛びかかる。
【央輝】
「舐めるなッ!!」
央輝のブーツが力強くアスファルトを踏み、
燃え立つような眼光がわたしを貫いた。
思わず足が止まる。
【央輝】
「素人が、図に乗るなよ……!」
央輝の背後、物陰から、影に溶けていた気配が動き始める。
【花鶏】
「く…………」
あっという間に、わたしは央輝の背後の者たちに
行く手を遮られていた。
また、だ。
僕はまた、この街を走っている。
このところ、街中を走ってばかりだ。
ある時は自分の足で、ある時は花鶏のバイクで、
そしてまたある時は引っ張り出してきた自転車で。
【智】
「花鶏……」
いいかげん、足に筋肉がついてしまったかも知れない。
……なんて無意味なことを、頭はぼんやり考えている。
目は、ただひたすらに花鶏を捜していた。
心まで傾ければ、緊迫に押しつぶされてしまう。
【智】
「花鶏……!」
嫌な予感は的中した。
花鶏は家に帰ってなかった。携帯も通じない。
【智】
「もっと早くに、気づくべきだった……!」
昨日の花鶏の態度は、どこかおかしかった。
おそらく、一人で央輝の許へ向かったに違いない。
でも、なぜ?
みんなも協力するって言ったのに……。
行くなら僕も一緒にって言ったのに!
【智】
「どうして一人で行っちゃうんだ……!」
央輝はどこにいる?
花鶏には、行くべき場所が最初から判っていたのだろうか?
花鶏にわかったのなら、僕にだって捜せるはずだ。
花鶏は、どうやって央輝の居場所を見つけた?
【智】
「もしもし、伊代?」
【伊代】
『どうしたの? 今日はわたし、部屋の片付けするつもりだから、みんなのとこには……』
花鶏はまだ見つかっていない。
だんだん動かなくなってきた足を休めるために、立ち止まった。
焦燥感だけが胸の中で暴れだして、闇雲に体を動かそうとする。
【智】
「花鶏が一人で行っちゃったんだ! 本を捜しに行ったんだと思う。どこに行ったか捜せない!?」
【伊代】
『え、ええっ!? 捜せないって言われても……わたしも行ったほうが良い? 片付けとかいつでもできるから、自転車出して……』
【智】
「そうじゃなくて! ほら、花鶏の携帯って確かGPS付いてた
でしょ? 伊代の能力でネットから捜したりできない?」
【伊代】
『え、G……って地図とか出るやつ? え、えっとどうすればいいのかしら。レーダーみたいな機能があるの? 携帯持って行けばいいのかな?』
【智】
「……伊代、部屋の片付けがんばって」
【伊代】
『え、な、なに?』
電話を切った。
伊代にGPSの説明をしてる余裕はない。
疲れ切った足を無理やり動かして、僕はまた走り出した。
当てもなく走ることの無意味さを悟りながら、
雑踏をかきわけて街を走る。
いつかの路地裏に流れ着いた。
【茜子】
「ほう」
茜子は相変わらず表情を動かさない。
【智】
「たぶん央輝のところに行ったんだと思う。
相手が相手だけに心配なんだ」
【茜子】
「あの変態は……いつもクールぶってるくせに」
【智】
「僕も冷静で居られなくなってる。だから冷静な茜子の意見が聞きたかったんだ。それに茜子なら、この街の裏側に僕より詳しいんじゃない?」
【茜子】
「茜子さんはあの連中に一度拉致されそうになってます。
あまり連中の居場所に近寄らないようにしてるので」
【智】
「そっか……」
茜子の父親の作った借金が原因だった。
パルクールレースの時のことを思い出す。
賭に勝って自由を手にしたとはいえ、
やはり央輝たちと関わり合いになるのは、
なるべく避けたいのだろう。
【茜子】
「ただ、避けるためにいくらかは動向は掴んでいます。
連中は街の表にはあまり出てきません。おそらく、
繁華街と旧市街との境あたりに根城があるかと」
【智】
「ありがと。行ってみる!」
【智】
「花鶏……」
茜子の言葉のままに旧市街のほうへやって来た。
もちろん何の手がかりもない。
花鶏の姿が都合よく見つかるわけもない。
何度も何度も、道行く人影の中に花鶏の姿を求めた。
【智】
「足、動かない……」
銀髪の人影などいるはずもない。
膝がうまく曲がらない。膝から下が動かない。
これが、足が棒の様になったっていう状態、なのか?
【智】
「花鶏を捜さないと……」
意思だけは前を向いているけれど、
一旦立ち止まった足はもう動かなかった。
そうだ、電話……。
【智】
「こよりに電話しよう」
【こより】
『あ、ともセンパイ、聞きましたよう! 花鶏センパイが一人で
行っちゃったって……』
【智】
「聞いたんだ?」
【こより】
『ハイ。伊代センパイから電話があって……』
鈍感でいつも一歩イケてない伊代だけど、
こういうところだけは本当に丁寧だった。
【智】
「そっか。説明しなくてよくて助かる。茜子に聞いて高架下のほうまでは来たんだけど、どこ行けばいいかわからなくてさ……」
【こより】
『うにゅ……』
こよりに聞いても、央輝の居場所を知るわけないことなんて
わかってる。
【智】
「うん、ごめん。こよりに聞いてもわからないよね」
【こより】
『ごめんなさい。鳴滝も捜しに行きたいんですけど、
今、病院に来てて……』
電話の向こうでガサガサと騒音がして、こよりの声が遠ざかる。
【るい】
『トモ! 花鶏のバカが一人で行っちゃったって?!』
【智】
「るい!? もう起きられるの?!」
【るい】
『ホントになんで一人で行っちゃうのかな、あいつ〜っ!
トモがこんなに必死で捜してるのに!』
【こより】
『ちょっと、るいセンパイぃ!』
【るい】
『ああもう!
花鶏の首根っこ、トモが捕まえておかなくちゃダメだ!』
驚きだ。
あんなにヒドイ怪我をしてたるいが、
もう電話で話が出来るだなんて。
【智】
「るい、大丈夫なの?」
【るい】
『いやもう、ベッドに寝すぎで体痛くてさぁ。
まだ松葉杖ないと歩けないんだけどね』
【看護師】
『皆元さん! また勝手に抜け出して!』
【るい】
『あ……』
しかも、もう立って歩いて、
勝手にベッドを抜け出すまでに回復したらしい。
これでるいのことは一安心だ。
【看護師】
『皆元さん、お部屋に戻りますよ!』
【るい】
『うえ〜……』
【こより】
『そ、そゆことなので一旦シツレイします!
また電話しますので!』
【智】
「うん。ありがと、がんばるよ」
電話を切る。
るいは無事だった。
こよりとの間に確執を生むこともなかったようだ。
二人は元の通り、姉妹のように仲のいい関係を失ってはいない。
【智】
「花鶏を捜さないと」
安堵がもう一度、僕に走る力をくれた。
手がかりがなくても、僕は走り続けないと。
指先一つ動かせないで、その場に射止められていた。
【花鶏】
「…………」
思考を加速するまでもない。
バカみたいに突っ掛かっても、勝ち目がないのは明らかだ。
ただ、相手方は前方に固まったまま。
こちらを取り囲む動きを見せないところを見ると、
追い払うことだけが目的らしい。
【央輝】
「帰れ」
引き下がれるわけがない。
目の前に『ラトゥイリの星』があるかも知れないのに。
【花鶏】
「わたしを今帰したら後悔するわよ?」
【央輝】
「ふん、焦りが顔に出てるぞ」
【花鶏】
「その本だけあっても呪いは解けない。他にも必要なものがあるわ」
【央輝】
「それはこちらで調べる。オマエは必要ない」
【花鶏】
「モノじゃない。わたしの家に口伝でだけ伝えられている情報よ」
【央輝】
「苦し紛れのデマカセに聞こえるな」
ブラフにも乗ってこない。
どうすればいい?
ここは一旦諦めて引き返し、
こいつらと対等に取引が出来る条件を考える?
でも……そもそもこいつは、何者だ?
どういう背景で部下を使役している?
どんな条件ならこいつと渡り合える?
【央輝】
「話は終わりか?」
【花鶏】
「…………」
坂道を転がるように自然に加速していく思考を
自制しながら、央輝の目を見る。
そこには圧倒的な自信が宿っていた。
目を合わせればこっちの自信がもぎ取られてしまいそうなほど。
思わず目を逸らそうとした時、央輝が身じろぎした。
どうやら電話のようだった。
【花鶏】
「……取れば?」
【央輝】
「…………」
央輝の目線が、わたしから携帯電話へと移された。
電話の相手が、こいつの背景を知る手がかりになるに違いない。
僅かな反応も見逃さないように、表情の動きを真剣に見守る。
【央輝】
「…………」
動揺がかすかに見えた。
電話の相手は誰だ?
【央輝】
「……はい。問題ありません。……はい」
【花鶏】
「…………」
あの狂犬みたいな目をしたやつが敬語を話してるなんて滑稽だった。
なにかの組織と、繋がってるっていう訳か。
【央輝】
「……それから、呪いに関する書物の情報を得ました。
はい。そうです」
【花鶏】
「呪い……?」
ちらりと央輝がこちらを見る。
相手は呪いの存在を知っているというの?
わたしたちの他にも呪いのことを
知っている集団が存在するとでも?!
【央輝】
「は……? しかし、それは?!」
電話の向こうからの言葉が、央輝を大きく動揺させた。
何かを命じられたのか。
内容までは読みきれない。
【央輝】
「も、申し訳ありません。実行します。……はい。解りました」
【花鶏】
「……終わったの?」
【央輝】
「ああ」
通話を終えた央輝の目線には、
何故か先ほどまでの刺すような鋭さは失われていた。
その目に宿る曖昧な感情は……何だろうか?
〔呪いの踏み方講座〕
【花鶏】
「……それで? 取引は続けるの?」
【央輝】
「それはできない」
央輝の言葉は、不思議と沈んでいる。
電話の相手と何を話したというのだろう?
【花鶏】
「……解ったわ。それなら今日は本を諦める。もう一度、
そっちが納得する条件で取引が出来るよう考えるわ」
【央輝】
「それも、できない」
【花鶏】
「……どういうこと?
取引に応じるつもりは、ハナからないっての?!」
【央輝】
「いや……」
コートの裾が翻ると、央輝はもう背を向けていた。
もはや用はないとでも言うつもりか。
【花鶏】
「ちょっと、話の途中よ!」
【央輝】
「すまんが、オマエとはもう話したくない」
【花鶏】
「待ちなさいよ!」
追いすがろうとしたわたしの前に、男たちが影を作る。
無理やりにでもこいつらをかわして捕まえてやろうか?
わたしの力があれば、
こんな鈍重な男たちをすり抜けて前に出るのは容易い。
もし、あいつのコートや帽子と言った不自然な格好が、
呪いの禁を守るためのものだとすれば……。
【央輝】
「…………しろ」
普通ならば聞き漏らしていたかもしれない。
たとえ耳が音を捉えたとしても、言葉として理解できるほどに
はっきりとは聞き取れなかったかもしれない。
しかし思考を加速しようと意識を研ぎ澄ませていたわたしには、
そのかすかな空気の振動が言葉として把握できた。
「こいつを始末しろ」
今、央輝は確かにそう言った。
【花鶏】
「始末って……!」
央輝は振り返らない。
【央輝】
「手早く片付けろ。報告は後で聞く」
【花鶏】
「ちょっと、冗談!」
【男たち】
「……………………」
今まで央輝への道をふさぐだけだった男たちが、
無言で威圧しながら一気に取り囲んでくる。
冗談、なんて本当は思っていない。
最初から危険なんて承知していた。
驚いたのは、最初は央輝に
そんな敵意は到底見て取れなかったからだ。
呪いのことを聞いた時など、
一瞬その目に同類を見つけたような安堵さえ見えたのに……。
【花鶏】
「くそ……!」
頭の中でなにか光るものが回転するイメージ。
それは徐々に光を増しながら、回転速度を速めていく。
光の回る速度とともに、わたしの思考は加速していく。
誰かが央輝に命じたのだ。
呪いに関わる者を始末するように。
そいつはさっきの電話で今まで知らなかった情報を得て、
わたしを始末するように命じたんだ。
もはや危険はわたしだけの問題じゃない。
きっと、みんなも狙われてしまう。
わたしはなんとしてもこの場所から逃げ延びなければならない。
【男】
「オラァッ!」
右手に回り込んだ男が殴りかかってきた。
肩の高さまで持ち上げた拳を、粗暴な力だけで打ち下ろす動き。
幸い相手に格闘技の心得はないようだった。
【花鶏】
「んっ……!」
棒と化したように身を倒し、かわす。
今のプレッシャーで完全に加速が始まった。
わたしの頭の中だけが超高速で動き出し、
世界のすべてが水没したかのようにゆっくりとした動きになる。
こんなスローモーション、当たるはずがない!
【男】
「抵抗するな!」
服の皺の移動さえ見える世界の中で、
男の言葉は依然として人間の言葉として認識できる。
時間が遅くなっているのではない。
わたしの頭の中だけが加速しているんだ。
【花鶏】
「当たら……」
【男】
「この女ッ!」
男の拳に血管が浮き出た。
手首、下腕、上腕、力が伝わっていく。
衣服の下で方が動いて肘を引く。
男が歯を食いしばって拳から全身へ力を込めた。
空中で停止したようにも見える小さな繊維は
男の服がほころびたものか。ゆっくりと回転する繊維を
跳ね飛ばして男の拳がわたしの顔へ向けて進んでくる。
【花鶏】
「……ないっての!」
首を傾けるだけで充分!
耳のそばを通る男の腕が激しく風を切った。
見る。その重心。無理に体重の掛かった重い足を狙う必要はない。
空振りに半ば浮き上がった後ろ足を軽く蹴り上げた。
【男】
「うわッ!?」
バランスを崩された男がたたらを踏んで、倒れる。
【花鶏】
「言っとくけどわたし、ちょっとスゴイわよ?」
不敵な笑みも見せてやる。
周りを取り囲む男たちの重心が変わったことを、
それぞれの踵の指す方向から知った。
囲んで、一気に掛かってくる狙いだ。
【男】
「どうせ逃げられん。無駄な抵抗はするな」
【男】
「足掻けば足掻くほど苦しむことになるぞ」
じり……、と靴底がアスファルトを擦る音がする。
話しかけながら気づかれないように距離を詰める気か。
無意味だ。
わたしには全員の足の位置と服の動きと表情の変化を
すべて同時に観察しながら、自分の次の一手を計算し、
あとでどう智に謝るか考える余裕さえある!
【花鶏】
「だからって諦めるのは性に合わないのよ!!」
【男】
「バカが!」
飛びかかる男の腕の下、身を沈めて入り込む、
足元に掴みかかったもう一人、手の甲を狙って踏みつけた。
見える、見える、見える!
相手は6人、でも止まってる奴らなんて数に入らない。
【男】
「うらァッ!」
綺麗な動きなんて考えてない。
先に動いた男たちにぶつかるのも構わず
もう一人の男が飛びかかってくる。
骨ばった手をさらに筋張らせて、僅かに右手を左手より前に出して、
わたしの衣服一部分でも掴めればいいと伸ばしてくる。
大きくかわす必要はない。ほんの少し、つかませてやればいいのだ。
相手が衣服に触れて反射的に手を握ろうとした
その瞬間、わずかに身をそらす。
何人いても楽勝だ。
【花鶏】
「ふぅ、ふぅ……!」
そう思わないとやってられない。
わたしのこの力、早くなるのは頭だけ。
体は自分の思考にまるで追いついて来ないのだから。
【智】
「あ……!!」
花鶏の「あ」まで言いかけて口をつぐむ。
予想だにしない形で、僕は花鶏を見つけた。
数人の男たちに囲まれて、襲われている。
央輝の部下と考えるのが自然だろう。
考える――
咄嗟に口をつぐんだのは正解だった。
無駄に声を出してどたばた駆け寄ったところで、
僕に悪漢をなぎ倒せるわけもない。
乱戦の中、相手の人数さえ満足に数えられない僕と違って、
花鶏はおそらくその『才能』で思考を加速して、
一人一人の動きを確認しながら確実にかわしている。
だけどそれでできることは、避け続けることだけ。
反応速度こそ超人的に上昇しても、
花鶏の肉体はただの女の子のそれに過ぎない。
では、僕に出来ることは?
【智】
「慎重に忍び寄って、花鶏と一緒に逃げる隙を作る……」
ここで取り出したのはスプレー缶。
なにも髪にフローラルの香りをさせながら近づくわけじゃない。
三宅さんの家に突入する際に用意した、痴漢撃退スプレー――
まともに顔に浴びせれば、どんな巨漢もしばらくは無力化できる。
問題は、スプレーは一つ、相手はいっぱい。
【智】
「でも、花鶏を助けないと」
気分は猫科。
あんまり緊張しすぎちゃいけない。
柱の陰を味方にして、こっそりと忍び寄って、
飛び込んでスプレー乱射!
乱戦状態への攻撃は味方を巻き込むことがあるが、
花鶏にそれは当てはまらない。
花鶏なら、どれだけ僕が不意打ちしても、
充分に反応して避けてくれるはずだ。
【智】
「…………」
一番近くの柱の裏、張り付いた。
まだ明るいのによく近づけたものだ。
疲れきっていたはずの足は、花鶏の姿を見た途端、
活力を取り戻していた。
この身のこなし、明日から忍者を目指そうか……
なんて冗談も思いつく。
よし!
覚悟を決めて、飛び出した。
【智】
「えいっ!!」
【花鶏】
「智っ!?」
【男たち】
「おわッ!? な、なんだッ!?」
トウガラシの香り。
【男】
「くそッ! こいつら!!」
【男】
「逃がすなッ!」
直接浴びてないこっちも、刺激臭がきつい。
花鶏はいったい、どこからこんなものを買ってきたんだ?
【智】
「逃げるよ!」
【花鶏】
「わお、王子様登場?」
【智】
「逃ーげーるーよ!」
【花鶏】
「わかってる!」
【男】
「逃がすかッ!」
スプレーの効きが浅かった男たちの一人が飛びかかってくるが、
一人二人なら花鶏がさばける。
【花鶏】
「だから当たらないっての」
まるで最初から相手の動きが見えてるみたいに
簡単に避けると、的確に相手の重心を崩す。
おまけにちょっと、スプレーをお見舞いしてやる。
【智】
「見逃して!」
【男】
「ぐぁ……ああっ!」
【花鶏】
「意外に非情」
【智】
「喋ってる場合じゃないってば!」
このまま逃げ出せる……そう思っていた。
だけど――
【央輝】
「おい! オマエらッ!!!!」
僕たちは振り返ってしまった。
事態の異常を察して戻ってきた、央輝の大声。
【央輝】
「見ろッ! オマエらは絶対に逃げられない。ここで死ぬんだ。
どれだけ足掻いても無駄だ。すべて、すべてが無駄だ……!」
ライターを点火する。
その炎が視界の隅で揺らめいた。
央輝の目から視線を逸らすことができない。
【智】
「こ、これ……なんで……」
【花鶏】
「く……こいつ……! やっぱり……!」
これが央輝の『才能』……?
やっぱり央輝も、僕らと同じ
呪いと『才能』を負った人間だったんだ。
どういう力なのか具体的にはわからない。
しかし、説明のつかない怯えが、
冷たい指のように全身に食い込んでくる。
【央輝】
「できれば、直接手は下したくなかった」
【智】
「うく……、これ、なに……!?」
【花鶏】
「どうして……!!」
底冷えする冷気にも似た怯えに、体が縛られる。
スプレーに怯んだ男たちも、一人ずつ立ち直って来ていた。
【央輝】
「正直オマエを始末するのは気が進まなかったが」
【智】
「うぐッ……! がふ…………」
部下の拳が、臓物の形を変えるほどにめり込む。
食道を逆流した吐瀉物が、口の中を気味の悪い味で満たした。
【央輝】
「あたしはコケにされるのが嫌いなんだよ」
【花鶏】
「と、智は関係無いでしょ?! 特別な力だってないんだし!」
【男】
「こいつ、今更バカじゃないのか? オラッ!」
【智】
「げふッ……!」
花鶏も僕も、羽交い締めに捕らえられていた。
拳やつま先が、何度となく執拗に僕の腹に叩き込まれる。
すでに外傷の痛みじゃない。
内臓へ響く痛みが意識を奪いかけていた。
【花鶏】
「ちょ、ちょっと! なんで智を……!!」
【男】
「気絶すんなよ!!」
【智】
「ぐうぅ……っ!」
また一撃が打ち込まれた。
もうそれが拳なのか蹴りなのかもわからない。
痛みで朦朧として、視界にも靄が掛かり始めている。
【央輝】
「オマエ、呪いの秘密を知ってるって言ったよな? 話せ」
【花鶏】
「どうせ殺す気なんでしょ! なんであんたたちに
手土産残してやらなきゃならないのよ!」
【央輝】
「正直、できればこんなことはしたくない。
今までいろんな汚いことにも手を染めてきたが、ここまで
後味が悪いのは初めてだ。だから、さっさと話せ」
【男】
「楽に死ぬか苦しんで死ぬか、
選ばせてやるって言ってるんだよッ!」
【智】
「ぐぁ……ッ! ぁ…………」
口の中に血の味が広がった。
このまま、死ぬ――という実感が沸々と湧いてくる。
るいや、こよりや、伊代や、茜子……
みんなは泣いてくれるだろうか……?
【央輝】
「おい。そのくらいにしろ!」
【男】
「は、はい」
央輝は自分の行為に苦味を覚えているようだった。
さりとて、その手を引っ込めるような心積もりは見られない。
離れた場所に落ちた痴漢撃退スプレーの缶が、
風で転がり音を立てる。
【央輝】
「話せ」
【花鶏】
「く……ちきしょう……! こんな……、こんな……!」
【央輝】
「気は進まんが、必要とあればあたしは手加減なんかしない。
だから、早く言え」
【花鶏】
「…………」
気を逸らす方法はあるか?
逃げ出す手段はあるか?
あるいは人を呼ぶ手段は?
この道は、こいつらの仲間が間違いなく封鎖してるだろう。
誰も来ない。偶然の助けはありえない。
あきらめかけたその時。
花鶏が小さく笑みを浮かべた。
【花鶏】
「しょうがないわね。わたしもできれば、こんなことは
したくなかったんだけど……」
【央輝】
「おい、おかしな真似はするなよ?」
さりげない動作で、花鶏は左腕を撫でながら僕を見た。
あの痣のある位置。
痣、呪い……。
【智】
「花鶏……まさか!?」
イヤな予感が、背筋を走る。
そして花鶏は、口を開いた。
【花鶏】
「助けて。誰でもいいから、智を助けて」
どこかでガラスの割れる音がした。
【央輝】
「……おい?」
【男】
「……は、何を言い出すかと思えば……」
【花鶏】
「助けて! 智を! わたしも! 誰か助けて!
お願いだから助けて! 助けて! 助けて! 助けて!!」
【男】
「ははは、聞いたか?」
【男】
「叫んだって、誰にも聞こえねえよ!」
冷徹に央輝に従っていた男たちが、
突然の花鶏の冷静さを欠いた行動に笑い声を上げた。
笑い取るのが目的なら大成功だけど……。
【央輝】
「オマエ、まさか……」
央輝が何かに気づいた。
【花鶏】
「智を! わたしを! ここから助けてッ!!」
ガラスの割れる音がする度に……。
背筋を冷たい何かで捕まれるような、ゾクリとした感覚が走った。
【男】
「もう少し骨のあるヤツだと思っていたんだが」
【男】
「これなら心置きなく始末できる」
男たちは異変に何一つ気付かない。
ただ一人、央輝だけが表情を引きつらせている。
【花鶏】
「わたしも何が起こるのか、よく知らないんだけど……」
【央輝】
「オマエ、呪いを…………うわッ!?」
【智】
「…………!」
死ぬより怖い――
そんなものが本当にあることを、僕は生まれて初めて今知った。
【花鶏】
「へ、へぇ……。ここまで直接的なのが来るなんて……!」
忽然と風を巻いて現れた異形の影が、すぐ間近に立っていた。
暗い眼窩に魂の深みを覗き込まれる。
胸の裡に底冷えのする冷気がとぐろを巻いた。
直感的に把握する。
【智】
「これが……ノロイだ!」
【央輝】
「こ、こんな……! こんなモノが……!! こんな……!」
央輝が狼狽する。
【男】
「央輝! どうしたんだ!?」
【男】
「おい! しっかりしろ!」
男たちには見えていない。
恐怖に覚醒した頭が、花鶏の動きを追っていた。
【花鶏】
「んっ!」
【男】
「うッ!?」
羽交い締めにしていた男の手をすり抜け、
容赦なく膝頭で男の金的を蹴り潰す。
央輝の目の呪縛も消えていた。
【花鶏】
「退けっての」
【男】
「ふざけるなッ!」
避けたとも見えず、拳は花鶏を掠める。
【花鶏】
「邪魔!」
【男】
「おわッ!?」
【男】
「くそ!!」
僕に暴行を加えていた男の重心を、手の一突きで手品みたいに崩し、
僕を拘束してる男をも瞬間的に処理してみせた。
【智】
「すごい!」
【花鶏】
「当然! さ、智! 逃げるわよ!!」
【智】
「うん!」
央輝の『視線』さえなければ、逃げ切れる!
【智】
「あれどうやったの? びっくりロシア魔術の超ショーカン魔法?」
【花鶏】
「呪いを踏んでみただけ」
【智】
「そんな無茶なっ!!」
僕の時は何も起きなかったのに……。
疲れきって痛めつけられた体は、思いのほか自由に動く。
今頃僕の脳は、脳内麻薬をこれでもかというほど
出しまくってるに違いない。
【花鶏】
「爆弾投げて逃げるくらいしかなかったのよ。
それより、あの先にバイクがあるわ。そこまで」
【智】
「うん。走ろう!」
〔契約と代価〕
蹴飛ばす。
スタンドを蹴って、花鶏はシートに飛び乗った。
【花鶏】
「智」
【智】
「うん」
【男】
「待てェッ!」
男たちの手が宙を泳いで、僕の髪の毛を掴み損ねた。
【花鶏】
「メットないけど」
【智】
「メットでノロイは防げないよ」
一つしかないメットを、花鶏にかぶせる。
エンジン音が唸りだして、体が後ろに引っ張られる。
空気が動き出す。
【智】
「るい、もうベッドを抜け出せるくらい元気になってたよ」
【花鶏】
「……そう」
【智】
「逃げ切れる?」
【花鶏】
「逃げ切る」
花鶏と僕の勝算。
確率を計算しても勝率は上がらない。
すぐにエンジン音と風の音で、お互いの言葉は聞こえなくなった。
把握はできないけど、確実に、居る。
【智】
「聞こえる!?」
【花鶏】
「…………」
疾走するバイクの上では、
激しい風のせいで、互いの言葉は届かない。
僕たちを乗せたバイクは、無言のまま街を突っ切っていく。
ノロイは追って来ている――
どういう方法かはわからないけど、危険な存在の接近を、
本能的な何かが察知していた。
とはいえ、まずは常識の中に存在している
央輝とその部下たちを振り払わねばならない。
運転は花鶏に任せて、僕は反射物を利用して背後に目を光らせた。
【智】
「…………あ、あれ……!」
【花鶏】
「ん」
抱きついた腰を揺すって、届かない言葉を伝える。
花鶏の返答は聞こえなかったが、
メットがわずかに動いたことで花鶏の返事は理解できた。
【智】
「…………」
カーブを曲がる時、カーブミラーの中に
髑髏面のノロイが映りこんでいた。
追って来ている。
【智】
「また!」
【花鶏】
「ええ……」
今度は商店のショーウィンドウ。
得体の知れない手段をもって、
ノロイはこのバイクを追って来ている!
スピードをどれだけ上げても関係がなかった。
常に行く先々のどこかに、不吉な髑髏が映りこんでいる。
真っ暗な眼窩で、僕らを睨めつけている!!
【花鶏】
「まずいわね……!」
【智】
「スピードでは引き離せないよ! 何か考えないと!」
激しい風と花鶏のヘルメットのせいで、互いの言葉は届いていないが、
なんとなくその意思は感じ取れた。
手の触れた部分から花鶏のいろいろな思いが伝わる。
またそこに!
すれ違う違法駐車のボンネットに影が居た。
そこにも!
追い抜いた別のバイクの車体に!
そして、ついには影は、僕たちに直接手を伸ばして来た。
【智】
「花鶏!!」
【花鶏】
「んっ!」
冗談みたいな光景に寒気がする。
大仰に車体を倒して、停まった車を避けた。
その窓からゆらゆらと揺れる細長い黒い手が伸びていたのだ。
【ドライバー】
「危ないだろ、バカヤロウ!!」
【花鶏】
「知ってるわよ!」
遠ざかるドライバーに怒鳴られながらも、
滅茶苦茶にスピードを上げて走り続ける。
スピードを上げることが、果たして
ノロイから逃げることに繋がっているのかはわからない。
けれど、背後からは常に、全身の毛が逆立つような、
見えない恐怖が感じられた。
【智】
「このまま走っても逃げ切れるとは思えない……」
一人呟いて考える。
こよりはノロイから一度助かった。
僕も幼い頃、一度ノロイから逃げおおせた記憶がある。
こよりは、るいがかわりに瀕死の重傷を負って助かった。
幼い頃に死に掛けたからこそ、僕も呪いの束縛を厳守してきたんだ。
つまり、僕か花鶏かのどちらかが死ぬような目に遭えば、
もう一人は助かる――そういうことなのか?
でも、狙って、死なない程度に死に掛けるなんて、
そんな冗談みたいな……。
【花鶏】
「しっかり掴まってなさい!」
【智】
「わ、わわっ!」
もう一度派手なカーブを切って、車体が大きく傾いた。
慌てて、花鶏の腰に回した腕を強める。
バイクは交通量の多い表通りから逃げて、住宅地へと入り込んだ。
その時、全身を悪寒が駆け抜けた。
【智】
「あ、花鶏っ! ヘルメットに!!」
花鶏のヘルメットに、ノロイの影が映りこんでいる!
【智】
「今、僕が……」
【花鶏】
「ちょっと?!」
バランスを取るために、花鶏の胸の辺りに手を回した。
疾走するバイクの後部座席で身を起こす。
なんとかヘルメットのベルトを……!
【智】
「ヘルメットに、ノロイが……!!」
【花鶏】
「え!?」
声が届いたかは判らない。
花鶏の背中を這い登るように首もとに手を伸ばして、
ベルトの留め具に触れる。
間近にあるヘルメットの中で、ノロイの影が僕を睨んだ。
【智】
「うわッ!」
【花鶏】
「くぅ……ッ!」
何もない平坦な道で、唐突にハンドルがぐらつく。
これもきっとノロイの仕業だ。
【智】
「花鶏! もう少しがんばって!」
振り落とされそうになった体を立て直し、
もう一度ベルトに手を伸ばす。
もはや冷気を帯びたノロイの視線も、
恐怖を呼び起こすには至らない。
こんなにも外しにくい物だったのかと焦りながら、
手探りで外そうと試みる。
【智】
「外れたっ!」
【花鶏】
「んっ」
後ろから花鶏のヘルメットを脱がせて投げ捨てた。
うるさい音を立てて背後に転がっていくヘルメット。
銀髪が風にほどかれて流れる。
花鶏の髪の匂いが、一瞬僕の鼻をかすめて過ぎた。
【智】
「振り切れた……!?」
【花鶏】
「まだみたい!」
顔を寄せて大声を出せば、辛うじて声が聞こえた。
顎で示す先を見て愕然とする。
今度はバイクのミラーに影が映っていた。
【花鶏】
「ハ、ハンドルが!」
【智】
「わぁっ!」
見えない手に捕まえられて、ハンドルが生き物のように暴れる。
蛇行するバイク。
【智】
「ブレーキは?!」
【花鶏】
「かけてる! 全然だめ!!」
【智】
「もう飛び降りるしか!」
【花鶏】
「危ないって!」
【智】
「このままの方が危ない!」
【花鶏】
「ひっ!?」
ミラーの中から細長い手が伸びてくる。
限界だ。
【智】
「なんとかスピード落とせない!?」
【花鶏】
「坂道登れば!」
視界の隅をゴミの山が掠める。
【智】
「どこかゴミ袋めがけて飛び降りよう!」
アクション映画で、吹っ飛んだ先に
やたらダンボールやゴミ袋があるっていうアレ。
今日がゴミの収集日だったことに感謝!!
【花鶏】
「そこの坂道!」
【智】
「うん! そこで!」
おあつらえ向きに、三叉路の角にゴミ袋がかためて置いてあった。
危ないのは当たり前。
あれに目掛けて、一緒に跳ぶ!
【智】
「行くよ!」
【花鶏】
「ええ!」
【智&花鶏】
「「せーのっ!!」」
鼻をつく生ゴミの匂い。
ドラマみたいに、布きればっかりつまってるわけじゃない。
顔を上げて最初に見えたのは、乗り手のないバイクがゆらゆらと
揺れながら、ひとりでに坂を登っていく不気味な光景だった。
【智】
「花鶏……大丈夫?」
【花鶏】
「そこそこ」
二人とも全身擦り傷だらけだった。
油断なくあたりの様子を窺う。
曲がり角のカーブミラーにも、民家の窓にも影はない。
小さな水溜りにも、ゴミ袋の表面にも、ノロイの姿はなかった。
【智】
「逃げ切った……のかな?」
【花鶏】
「たぶん……」
二人とも無事。
二人とも無事だった!
さっきの危ういバイクからの飛び降りで、ノロイは諦めたのか?
【智】
「助かった……のかな? 疲れた……」
【花鶏】
「ほんとに……もう体じゅう痛いし」
【智】
「……あはははは」
【花鶏】
「ふふふ、あはははは」
【智】
「あははは、はっ、痛っ! 痛い、ホントに体じゅう痛いよ。
あはははは!」
【花鶏】
「あははは! 笑いすぎると肋骨折れるわよ、
もう折れてるかも知れないけど! あははは!」
足はくたくた、腕もくたくた。
頭はクラクラするし、何発も殴られたお腹も痛い。
全身ボロボロだ。
だけど、笑いが出た。
【智】
「あははは、ほんとに、無茶しすぎだよ! あははは!」
【花鶏】
「文句つけるのは、他の手を考えてからにしろっての! あはは!」
本格的に肋骨が痛くなってきたところで、
なんとか笑いを押さえ込む。
今なら聞けるだろう。
【智】
「花鶏の呪いって、結局何だったの?」
【花鶏】
「ああ、それね。『他人に助けを求めてはならない』。
これがわたしの呪いよ」
【智】
「それじゃ」
花鶏が何かにつけてみんなの協力を拒んだのは――
すべての不審が、僕の中で氷解した。
花鶏のすべてが、許せる気がした。
【花鶏】
「そんなの、なんの束縛にもならないって思ってたわ。
自分一人で何でもやっていけるってね。わたし、顔も頭もいいし。おまけに特別な『才能』だってあるし」
【花鶏】
「でも最近、ちょっと辛かったわ。イライラするくらい」
【智】
「花鶏が助けなんか求めなくても、僕は……」
【花鶏】
「ふふ、相変わらず可愛いこと言ってくれるわね、智は。
でも誰かと近づきすぎたら、ふとした拍子に……」
【花鶏】
「ほんのふとした拍子に、その手を求めてしまいそうで……」
【智】
「花鶏……」
【花鶏】
「プライドもあったもの……ふふっ。さ、帰りましょ」
【智】
「……そうだね。シャワーとか浴びたい」
手を貸しあって、僕らは立つ。
助けなんて求める必要はない。
互いに通じていれば。
【花鶏】
「そうか! 智が今、凄くいいこと言った!」
【智】
「え、なに? なぜか嫌な予感がするよ」
【花鶏】
「シャワーをっ! 一緒にっ!! わたしが智の可憐な肉体を隅から隅まで素手で洗ってあげる! それはもう穴という穴まで!!」
【智】
「だ、だめだよ〜!!」
【花鶏】
「ケチケチしないで!
わたしたち男女だし、一発ヤッた仲だし、無問題(モーマンタイ)でしょ!」
【智】
「ヤッたって、それ下品……」
笑いながら花鶏のセクハラを逃れようとして、笑顔が凍りついた。
坂道の上から猛スピードでトラックが走って来る!
【智】
「花鶏ッ!!!!」
【花鶏】
「きゃっ!?」
計算も何もない。無我夢中で手を伸ばして花鶏を突き飛ばす。
雪崩のように迫るトラックを止めるすべなどない。
突っ込んでくるトラックと、道の端へ転がる花鶏が、
スローモーションで見えた。
花鶏の思考を加速する能力っていうのは、こんな感じなんだろうか。
避けようとする意思は生まれてこずに、かわりにそんな意味のない
想像が脳裏をかすめる。
最後の瞬間、誰も居ない運転席が見えた。
ノ・ロ・イ――――
……………………。
【花鶏】
「と、智………………」
……………………。
【花鶏】
「ちょっと、智、こんなのなしでしょ? ねぇ……」
……………………。
【花鶏】
「ねぇ、智!? こんな……最後の最後で、なんて……」
……………………。
【花鶏】
「智! ねぇ智!! 起きてよ! 返事してよ!!
こんなの無いわよ! 智! 智ってばぁ……っ!!!」
【花鶏】
「お願い……起きてよ智……! 『ラトゥイリの星』も諦める……家の再興だってもうどうでもいい。だから智ぉ……っ!」
……………………。
【花鶏】
「こんなの……酷過ぎるって…………。こんなの……」
【花鶏】
「智ぉぉぉ………………っ!!!!」
……………………。
………………。
…………。
〔もう一度はじめます〕
埃交じりの朝日が、窓の形を床に映していた。
【花鶏】
「わたしの呪いは人に助けを求めてはならないというものだった」
【花鶏】
「自分にはそんなもの、枷(かせ)にならないと信じて生きてきた。
怖いものなどありはしないと」
央輝は呪いの具現を目の当たりにして手を引いたのか、
あるいはあの時の取引がブラフに過ぎなかったことに
気づいたのか……
この屋敷まで押しかけてくることはなかった。
【花鶏】
「ある時、わたしに怖いものが生まれた」
【花鶏】
「それは大した警戒もなく、
わたしの懐に擦り寄ってくる仲間たちだった」
結局、『ラトゥイリの星』の消息は掴めないまま。
央輝の話も、おそらく情報を引き出す為のブラフだったのだろう。
お互い様だったというわけだ。
【花鶏】
「最初は調子を合わせていればいいと思った。
ふざけて、バカのフリをして」
【花鶏】
「でもいつのまにか……自分でも気づかないうちに、わたしは
みんなを信頼し始めていた。それこそ何の警戒もなく、心の
内を話してしまうほどに」
【花鶏】
「わたしにはそれが恐ろしかった……」
ノロイに襲われてから一週間――
あの事故を引き起こして満足したのか、
ノロイの影はあれ以来姿を見せていない。
助かったのだと……本能的に感じていた。
【花鶏】
「いずれわたしはみんなを頼るようになって、弱くなって、
そうして呪いを踏んで死んでしまうような、情けない人間に
変わってしまうんじゃないかと……」
残ったのは、大きな傷――
【花鶏】
「わたしが、弱くなることを恐れずにみんなを信頼できたら……
こんな事態は招かずに済んだかも知れないのに!」
【花鶏】
「わたし、わたしは……」
【智】
「もういいよ。花鶏」
僕は生きていた。
男であることを隠さねばならない僕の呪いを知っていたから、
花鶏は救急車を呼ばず、みんなに電話して助けを求め、
なんとか屋敷まで運んでくれたらしい。
【花鶏】
「智…………」
花鶏は気づいていないみたいだけど……以前の花鶏なら、みんなに電話して助けを求めるなんて、確実に呪いを踏む行為だったんじゃないだろうか?
【智】
「花鶏も僕も生き残ったんだから……」
でも、呪いは別に発動しなかった。
【智】
「これで良かったんだよ」
多分その時の花鶏は、助けを求めたつもりなんて、
これっぽっちも無かったんだろう。
大変な目に合っている仲間を、みんなで助けることは、
当たり前のことなんだから。
花鶏も、他のみんなも、そう思ってたから――
だから、呪いは発動しなかったんじゃないかって……
僕はそう、考えてる。
【花鶏】
「……うん」
本当のところは、誰にもわからないけどね。
ただ、僕も花鶏も、相変わらず呪いに捕らわれてる。
そのことを、本能的に察してる。
僕は相変わらず男であることをみんなに隠し続けなければ
ならないし、花鶏は誰にも助けを求めることができない。
【花鶏】
「窓際、行こうか?」
ただ、花鶏は確実に前と感じが変わってきた。
今までは、一人で立つことにこだわるあまり、
虚勢を張り過ぎてたところがあったけど……。
仲間で信頼し合うことを当たり前に受け入れるだけの、
余裕が生まれていた。
【智】
「そうだね、お日様に当たりたい」
もしかすると花鶏の呪いは、
助けを求める行為そのものが禁則なんじゃなくて、
助けて欲しいとすがってしまう弱さ……あるいは、
助けを求めてしまったという敗北感が、
呪いの発動のキーになっているのかもしれない。
【花鶏】
「じゃあ、押すわね」
だとしたら、これは良い傾向なのかもしれない。
僕らは花鶏を信じ、花鶏も僕らを信じる。
そうして仲間で生きてゆくんだ……。
これで花鶏も、少しは肩の力を抜けるだろう。
【智】
「お願い」
カラカラと音を立てて、車輪が転がる。
【花鶏】
「ちょっと待ってて、窓を開けるわ」
……僕はあの事故で、片腕と両足に酷い怪我を負った。
そのほかにもいろいろ大変なことになっていたようだけど、
花鶏がツテで呼んだ外科医の人は、この屋敷のベッドで
服を着せたまま、僕に治療を施してくれたそうだ。
【智】
「あ、窓はそのままでいいよ。朝の風は……傷に沁みるから」
【花鶏】
「そっか。ごめん」
【智】
「気にしなくていいよ」
腕も足も、治るまでには半年かかるか、一年かかるか、
わからないと宣告された。
でも、それでも別に構わない。
ノロイに襲われて死にそうになったんだから、
生きてただけでもラッキーだと思う。
それに、治らないわけじゃない。
リハビリさえ頑張れば、きっと元通りの生活に戻れる。
【花鶏】
「智……わたしが面倒、見てあげるから」
責任を感じた花鶏は、僕を屋敷に引き取って、
車椅子を押しながら、朝から晩まで僕の世話をしてくれている。
もう少し良くなれば、付き合ってもらって、
リハビリも始めるつもりだ。
【智】
「花鶏、たまには出かけたほうが良くない? 買い出し以外は
ずっと僕に付きっきりでしょ? もやしみたいになっちゃうよ?」
【花鶏】
「いいの。智がいれば、それだけで……」
【智】
「本…………もう、捜さなくていいの?」
【花鶏】
「……もういらないわ、あんな本」
みんなの協力を拒んだのは、呪いの為だった。
でもたった一人で危険を冒してまで
あの本を捜し続けようとしたのは、何故なのか?
花鶏には、呪いを解く気はなかったはずなのに……。
【智】
「花鶏、聞いていい?」
【花鶏】
「なぁに?」
思えば僕との出会いも、
花鶏があの本を捜しに来たのがきっかけだった。
【智】
「どうして花鶏はあの本を、あんなに必死で捜し続けたの?」
【花鶏】
「……支えだったのよ」
【智】
「支え?」
【花鶏】
「そう。支え。わたし、親にも友達にも
助けを求められなかったから」
重い荷物を一緒に運んでもらう。
勉強を教えてもらう。
高いところの物を取ってもらう。
そんな当たり前のことも人に頼めなかった花鶏は、
とても孤独な少女だったのだろう。
【花鶏】
「わたしには誇り高いズファロフ家と花城家の血に連なる者の
証として、『ラトゥイリの星』と、この身にかけられた呪い
こそが大切な支えだったのよ」
【智】
「そっか……孤独、だったんだ?」
【花鶏】
「そうね。でも大きくなるにつれて、プライドばっかり高くなって」
【智】
「花鶏はプライドに見合うかっこいい女の子に成長したと思うけど?」
【花鶏】
「かっこ悪いわよ。最低ね。
自分の臆病のせいで、智や皆元を傷つけて……」
【花鶏】
「みんなわたしのせいなのよ。かっこいいワケないじゃない。
最低よ。わたしなんか、最低……!」
【智】
「花鶏、ちょっと屈んで」
【花鶏】
「……うん」
【花鶏】
「ん…………」
短いキスを交わして、花鶏の頭を膝の上に抱き寄せた。
朝日の光そのものから紡ぎだされたみたいな、
美しい銀の髪を撫でる。
【智】
「もう、一人じゃないよ……これからは、僕が
花鶏の支えになるから」
【花鶏】
「うん…………」
【花鶏】
「うん…………うん………………っ」
しばしの間、静かな部屋にかすかなすすり泣きが響いた。
今までそんなに気にしたこともなかったけれど、
日光を浴びるというのは心地よいものだった。
大怪我で強制引き篭もりになったせいで、初めてわかるこの喜び。
【花鶏】
「平気なの? 外出ても痛くなったりしないの?」
【智】
「ん、大丈夫。あったかい時間なら平気なんだ。それより、
花鶏こそまだ目が赤いけど、みんなにバレたりしない?」
【花鶏】
「こんなの、智にバイブでヒィヒィ泣かされたとか
言えばいいじゃない」
【智】
「ぜ・ん・ぜ・ん良くないよ!!!」
【花鶏】
「あははは。バレないって、あいつらバカだから」
【智】
「もう〜」
昼食を済ませて、ようやく花鶏も落ち着いたので、
僕らは気分転換にるいのお見舞いに行くことにした。
じっとしていられないるいの事だ、
娯楽の少ない病院では、さぞかし退屈してることだろう。
それに病院食じゃぜんぜん足りなくて、
近頃は天保の大飢饉のイメージイラストくらい飢えてるらしい。
【智】
「るい、元気かなあ?」
【花鶏】
「治ってもないのに暴れて、またぶっ倒れてるかもね」
【るい】
「むむ、いくらなんでもそんなバカじゃないって!」
【智】
「あはは、ごめんごめん……って、るい!?」
あまりにも自然に会話に紛れ込んできたのは、そのご本人だった。
【伊代】
「おとなしくしてなきゃダメって何度も言ってるのに。
この子ったら、やれおなかがすいただの、やれ寝てるの飽きた
だの、何かにつけて病院抜け出して……」
【るい】
「だいじょぶだってば〜」
【こより】
「ともセンパイこそだいじょぶでありますか? 今から鳴滝たち、ともセンパイのお見舞いに行こうとしてたんですケド」
【智】
「僕たちも、るいのお見舞いに行こうとしてたところだよ」
【茜子】
「堪え性のないはしたないメス犬どもです」
みんなも一緒だった。
思わず顔がほころぶ。
【花鶏】
「でも、あんた本当にどういう体してるの? 最初見たときは
死んだかと思ったくらいひどいことになってたのに」
【るい】
「ん〜? ごはん食べてたらすぐ治るって」
【茜子】
「死体の口にマヨネーズたらしても生き返りそうです」
【こより】
「るいセンパイならあるかも!!」
【伊代】
「あるわけないでしょ! 不謹慎ネタ禁止!」
互いに目的地を失った僕たちは、
つま先の向きを揃えて当てもなく街を歩き出した。
【伊代】
「あなた、足はどうなの?」
【智】
「ん、もう少ししたら、リハビリ始めるよ。
時間はかかるかもしれないけど、花鶏が協力してくれるから
大丈夫」
【茜子】
「うえ、のろけられました」
【るい】
「トモならきっと、大丈夫かな?
ほらほら、私だってこんなに元気になったしさ!」
るいがぴょんぴょん飛び跳ねてみせる。
もう痛いところすらないようだ。
こんなの、ノロイだって殺せやしない。
【花鶏】
「智をあんたみたいな野蛮人と一緒にしないでよね! 智は繊細で敏感で、感じ易くてそれでいて夜は大胆なのよ!?」
【智】
「最後のほう関係ないよ、それ!」
【こより】
「どんな局面でもエロネタをねじ込んでくるガッツは、
尊敬に値すると思います!」
【花鶏】
「でしょー?」
【伊代】
「褒めてないから」
茜子がふいに足を止めて、みんなが振り返った。
【茜子】
「……呪いとは何だったのでしょう?」
【花鶏】
「…………」
【智】
「なんだろうね。襲ってくる影は見たけど、どうしてそんなものがあるのか、なぜ僕たちがそれを負っているのかは……結局わからないよ」
それは誰にも解らない。
もしかすると解る手がかりになったかも知れない本も、
今は失われてしまった。
【茜子】
「わからなくても、受け入れて行きますか」
【智】
「うん」
【茜子】
「それなら、いいんです」
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
いろいろな事がありすぎて、
たった一言の返事以上は、言葉にならなかった。
呪いは今も僕たちそれぞれの身に刻み付けられている。
誰もが沈黙する。
交わされる言葉はないけれど、もはや僕たちは
言葉を費やして互いを探り合う必要はないのだ。
【花鶏】
「……そうだ。久しぶりのあの屋上、行きたいわ」
【こより】
「おおっ、なんか花鶏センパイらしからぬ提案ですけど、
いいですねー! 見晴らし、見晴らし!」
沈黙に耐えかねていたこよりが、花鶏の提案に飛びつく。
あの屋上、あそこにみんなで行けばさぞ気分がいいだろう。
【伊代】
「でも車椅子はどうするの? あそこエレベーターとかないし、
見晴らしだけならデパートの屋上にでも行けば……」
【茜子】
「バカおっぱい、まじ空気よめ」
【るい】
「3階でしょ? 私が持ち上げて運ぼうか?」
【花鶏】
「んっ!? ダメ、智はわたしが運ぶわ!」
【るい】
「なんで? 私なら楽勝なのに」
【伊代】
「そうよ、あなたの力じゃ車椅子ごと人ひとり持ち上げるなんて
……」
【花鶏】
「わたしが運ぶったら、わたしが運ぶの!!」
【こより】
「あ、花鶏センパイが可愛いよう……」
【茜子】
「純愛ですな」
【花鶏】
「うっさい黙れ死ね」
照れくさいけど、花鶏の気持ちがとても嬉しい。
いつまでも花鶏に負担をかけられない。
リハビリをがんばって、早く一人で歩けるようになろう。
たとえどれだけ掛かっても……。
【智】
「ありがと、花鶏。でもるいも手伝ってあげてね?」
【るい】
「先のことなんてわかんないよ」
【花鶏】
「全く刹那的な動物……」
最高の見晴らしを作ったのは、たぶん天気や時間帯じゃない。
【こより】
「久しぶりに登りましたケド、
やっぱりここいいポイントですよね〜」
【るい】
「そうだね〜。あと何かおいしいものでもあれば、最高なんだけど」
【花鶏】
「あんたは……」
【るい】
「トモ運ぶの手伝ってあげたでしょー」
【智】
「花鶏、座ったら?」
【花鶏】
「そうね」
青春ドラマを気取って横一列に並んでみた。
服が汚れることなんて気にしないで、
柵にもたれてみんなで空を見上げる。
上を歩けそうな雲がゆったりと流れていた。
本当に気分がいい。
【茜子】
「やっとここに戻ってこれました」
【伊代】
「本当、いろいろあったわね。しばらくゆっくりしたいわ」
【花鶏】
「賛成。少なくとも智がリハビリ始められるくらいまではね」
いろいろな事があった。
それでいて何もかもわからないままだ。
どうして『ラトゥイリの星』はなくなったのか?
三宅さんや惠は……どうして死んだのか?
それが呪いと関係があったのかどうかすらわからない。
【智】
「ゆっくりやるよ。傷の痛みが和らぐまで休んで、
それからリハビリ」
【花鶏】
「智の面倒はわたしが見るわよ! 特に皆元なんかたまーに、
たまーにチラッと現れるだけでいいわよ」
【るい】
「うがーーっ!!」
【こより】
「来るなとは言わないのが優しさであります」
【茜子】
「ところでツンデレ百合姫純愛派は、あの本捜しは
もういいのですか」
【智】
「それ、僕もさっき聞いたよ」
花鶏と目配せをして笑う。
【花鶏】
「もういいのよ。家の再興ももうどっちでもいいわ」
【るい】
「ええええ!? らしくないなぁ。あれだけこだわってたのに、
ホントにいいの?」
【こより】
「そうですよう! 鳴滝たちも、とことんつきあうって決めたのに! 協力しますよう!」
【伊代】
「あの本自体は戻ってこないとしても、世界中の古書を扱ってる店に検索をかければ、写本とか見つかったりするかもしれないわよ? 諦めることもないんじゃないの?」
少し嬉しそうに花鶏はかぶりを振る。
【花鶏】
「いいのよ、もう。今の私には、本が無くても……」
【智】
「もう必要無いんだよね? 家の再興までは諦めなくていいと、
僕は思うけど」
【花鶏】
「ええ、そうね……でもそれは、智がいてくれるから」
【茜子】
「もしかして『智が生きていてくれたら、わたしもう何も
いらないっ! ブッチュー!』とかいう恥ずかしいオチですか」
【こより】
「なななな! ついにともセンパイは、花鶏センパイの毒牙に
かかってしまったのですか!」
【るい】
「私が入院してる隙に……!」
【伊代】
「手足が不自由なところを……。可哀想に……」
【智】
「そ、そんなことされてないってば!」
【こより】
「あーやーしー!」
【るい】
「あーやーしー!」
【伊代】
「はっきり言って二人の態度はすごく怪しいわね」
【茜子】
「どうやら快楽をもって洗脳されたようですね」
【智】
「ち、違うってば! ねぇ、花鶏!?」
【花鶏】
「……………………」
【智】
「……花鶏?」
いつのまにか花鶏は、僕の膝に寄りかかるように
静かな寝息を立てていた。
僕はそっと手を伸ばして、顔にかかった髪を払ってあげる。
【伊代】
「寝ちゃったのね。車椅子を運ぶなんて無茶するから」
【こより】
「花鶏センパイもきっと疲れてますし、そっとしときましょうか」
【るい】
「そうだね。私たちももうしばらく、ここでぼ〜〜っとしよ」
【茜子】
「猫ライクな時間を」
【智】
「みんなで、ゆっくりしようか」
ゆっくり、ゆっくりと流れていく雲を眺める。
しばらくはゆっくりしよう。
しばらくはただ、ゆっくりと。雲のように。
その後のことは、花鶏が目覚めてから考えることにしよう。