〔プロローグ〕
突然空が開けた。
赤い夜だった。
息が乱れて心臓まで吐きそうだった。
腕を引かれたまま一気に階段を駆け上がる。
濃い闇に足下も定かでない。
頼りは目の前の、ほんの30分前に会ったばかりの、
僕の腕を取って走り出した、
まだ友達にもなっていない小さな背中だけ。
【惠/???】
「黒い王子様は女の子を連れて去るのだという」
【惠/???】
「とりわけ美しい女の子が選ばれる」
【惠/???】
「全部ネットの噂だ」
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
ネットで読んだんだけど呪いの王子様って本当の話?
もう一回読んでみようと思ったらもう無いね。誰か死ってる人いない?
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
それ吸血鬼の話じゃなかったっけ?
名前:名無しさん[ 投稿日:20XX/04/08
自分で探せage
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
女の子連れてくって聞いたけど
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
kwsk名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
ツレに聞いた話。
田松市の旧市街のどっかに封鎖されたビルがあるらしいんだけど…
同級生がそこにいって帰ってこなかったんだって
心配で見に行ったツレが出たの見たって
危険な場所(霊的にも地形的にも)だって
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
そこしってるwwwww
駅から10分ぐらいのところに住んでんだぜ
霊感ある友達が嫌な雰囲気だとか言ってたんだよな
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
つか、人身売買だろ
名前:名無しさん[ 投稿日:20XX/04/08
ネウヨ黙れ
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
山賊王に俺はなる!
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
誤爆?
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
だいたい連れて行くってどこにだよ
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
北の国
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
↑天才現る
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
↓次でボケて
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
マジ怖い話なんだけど・・・
上級生のヤバイグループが見たって。
真っ黒なライダースーツとメットで、
その時何人か死人が出て、生き残った子は、顔面蒼白で何も語らなかったらしい。
(というか全員震えて言葉を発することすら出来なかった)
その後も決して何も言わなかったんだって。
彼らが何を見たのか、どんなことが起こったのか。
未だに分からない・・・・・
名前:名無しさん[sage] 投稿日:20XX/04/08
>真っ黒なライダースーツとメットで、
王子関係ねーよ
他人を信じるなとしたり顔で言われたことがある。
信じる信じないと嘯いたところで、
それは選択肢のある状況での優雅な楽しみだ。
余暇みたいなものだ。
時と場合と状況が選択の余地を奪うことがある。
よくある。
【るい】
「早く早く! 何やってんの、急がないと死んじゃう!」
追いたてられていた。
泣きそうだ。
何でこんな目にあうのか。
気分は狩りだ。
それも狩られる獲物だ。
下への道はとっくになくて。
だから逃げる。
薄暗い廃ビルの中を、唯一の活路の上へと急ぐ。
【智】
「ちょ、ちょっと待って、待ってお願い! 痛い痛い痛い、
腕ちぎれちゃうの〜〜〜!!」
【るい】
「気合いで何とかせい!」
【智】
「物事は精神論より現実主義で!」
【るい】
「若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!」
【智】
「少年の大きな夢とは関係ないよ、この状況!!」
【るい】
「少女だっつーの!」
【智】
「あーうー」
涙声になった。
彼女は聞いてくれない。
肘からちぎれちゃいそうな力で、僕の腕を引いて、上へ上へ。
階段を蹴る。二段とばしが三段とばしに加速する。
何度も足がもつれそうになった。命にかかわる。
ラッセル車みたいに突っ走る彼女の腕は鋼鉄の綱だ。
転んでもきっとそのまま引きずられていく。
【智】
「きゃあーーーっ!!!」
【るい】
「根性っ!!!」
【智】
「部活は文化系がいいのぉ!」
【るい】
「薄暗い部屋の隅っこでちまちま小さくて丸っこい絵描いて
悦に入って801いなんてこの変態!」
【智】
「ものすごく偏見だあ!」
親戚にゴリラでもいそうな文化偏見主義者な彼女が、
ドアを蹴破った。
空が開けた。
狭く暗い廊下から転がるように飛び出たそこは――。
屋上。
ビルの頂。
とうに夕刻を過ぎた空は夜に蒼く、そのくせ、
下界から昇る緋の色を残骸のようにこびりつかせている。
赤い夜だ。
【るい】
「どうしよ、こっからどうする、どこいく?」
【智】
「そんなこと言われても」
来る前に考えておけと突っ込みたい。
逃げたはずが追い詰められた。
いよいよ泣きたい。
彼女は広くもなく寂れた屋上をうろつく。
警戒中の野良犬みたい。
あれだけ走って息一つきれていなかった。
こちらは肩まで弾ませている。
自分が文化人だとは思わないけど、
彼女が体育人であることは確実だ。
【智】
「他に階段は?」
【るい】
「あるわけないでしょ」
【智】
「非常階段」
【るい】
「6階から下は崩れてる」
【智】
「なんでそんな上に住んでたの!?」
【るい】
「高い方が気持ちいいもん!」
【智】
「馬鹿と煙!?」
【るい】
「馬鹿っていった! ちょっと成績悪かったからって馬鹿にして、この! とても人様には言えない成績だけどあえて言う勇気ぐらいあるよ!?」
【智】
「聞きたくありません」
切なさで一杯の願望を述べる。
欲しいのは解決方法であって、
個人の学業的悲劇の論述じゃなかったりする。
【るい】
「くそったれ……」
【智】
「女の子は言葉遣いに気をつけて」
【るい】
「おばさんくさいぞ」
彼女が歯がみする。
熊のように落ち着き無い。
そうこうしている一秒一秒に、
僕たちは少しずつ確実に逃げ場を失っていく。
終点は、ここだ。
天に近い行き止まり。戻る道もない。
異臭が鼻をつく。目の前が酸欠でくらくらする。
絶望が胸にしみてくる。
こんな場所で、こんな終わりなんて、
想像したこともなかった。
終わりはいつでも突然で予想外だ。
きっと世界は呪われている。
皮肉と裏切りとニヤニヤ笑い。
ぼくらはいつでも呪われている。
【智】
「――皆元さん!」
【るい】
「るいでいいよ」
【智】
「こういう状況で余裕あるんだね……」
【るい】
「余裕じゃなくてポリシー。
全てを脱ぎ捨てた人間が最後に手にするのはポリシーだけ」
よくわからない主張を力説。
【智】
「イデオロギーの違いは人間関係をダメにするよね」
ふんと鼻を鳴らされる。
破滅の前の精一杯の強がりで。
その強がりに薬をたらした。
【智】
「――あっちまで跳べると思う?」
指差したのは不確かな視界を隔てた向こう側。
隣のビルが朧に浮かぶ。
路地一つ挟んだ距離、フロア一つ分ほど頭が低い。
【るい】
「近くないね」
【智】
「…………無理か」
【るい】
「私より、あんた自分の心配したら」
【智】
「あんたじゃなくて、智」
【るい】
「…………」
【智】
「ポリシー」
やり返す。
るいが、ニヤリと口の端を持ち上げた。
見直したとでもいいたそうに。
【るい】
「――私から跳ぶわ。チャンスは一回」
【智】
「落ちたらどのみち死んじゃうよね」
【るい】
「1階に激突かあ」
【智】
「シャレ! それって洒落のつもり!?」
ブラックジョークには状況が悲しすぎです。
分かり易すぎる構図。
一度限りの綱渡り。
後くされのない脱出チャンス。
二度目に期待するのは最初から心得が違う。
高所恐怖症のけはないのに、屋上の縁から下を見ると足下が傾いた。
目眩。
視界がはっきりしないのが、
こんなにありがたいと思ったことはない。
【るい】
「ちょっとした高さだから、向こうの屋上まで跳べても、
下手な落ち方したらやっぱり死んじゃうわよ。
上手くいっても骨くらい折るかも」
【智】
「石橋は叩いて渡る主義なんだよね」
【るい】
「じゃあ、止めるか」
【智】
「でも、他に方法ないんだよね」
【るい】
「ふーん、見た目より思い切りいいんだ」
【智】
「おしとやかなのに憧れちゃう毎日で」
【るい】
「……いい? 焦んないこと。距離自体はたいしたことない。
普通に助走すれば跳べる。幅跳び思いだして」
保護者めいた顔をした。
やり直しの効かない特別授業。
【るい】
「じゃ、行くよ」
【智】
「ちょ、ちょっとまって、心の準備は!?」
【るい】
「女は度胸」
【智】
「ね…………」
【るい】
「なによ?」
【智】
「無事逃げられたら―――明日、買い物付き合って」
【るい】
「やだ」
即答。
【智】
「空気読めよ! 様式美くらい押さえてよ!」
【るい】
「明日のことなんて考えないポリシーなの」
【智】
「うわ、刹那的な生き様だ」
【るい】
「現在は一瞬にして過去になるのよ! 私たちに出来るのは、
ただ過ぎ去る前の一瞬一瞬を精一杯楽しく愚かしく無様に
生きることだけなんだから!」
【智】
「愚かしく無様なのはやだなあ」
【るい】
「人のポリシーに文句付けないよーに」
【智】
「文句付けられるようなポリシー持たないで」
熱を感じた。
頬が熱い。
視界の悪さと息の苦しさが一層倍になる。
時間がない。
【るい】
「いよいよヤバイね。心の準備は?」
【智】
「――いいよ」
本当はよくない。握る拳が汗ばむ。
深呼吸をする。
鉄さびめいた臭いの混じった酸素が肺を充たして、
頭の中をほんの少しだけクリアにする。
るいが、きゅっと僕の手を握った。
ほんの一部だけ触れ合った場所。
吹けば飛ぶような小さな面積から体温が伝わる。
胸の奥まで届く、熱。
【るい】
「跳べる?」
【智】
「跳べそう……なんとなく」
根拠はない。
できそうな気分だった。
【るい】
「先行くから」
返事くらいしたかった。
できることなら軽口をずっと叩いていたかった。
現実逃避という名の快楽から立ち返り。
世界の呪いと正面切って立ち向かう、その一瞬。
決断という地獄が口を開ける。
返事をする間もなく、るいが走る。
掌が離れていく。
ひどく傷つけられた気分になる。
買い物にいく気安さで、
彼女が縁へめがけて助走した。
跳んだ。
夜を横切る。
それは、とても綺麗な獣――――
月に吠える狼。
身体の機能を集約した一瞬に、
人間という不純物を吐きだした、混じりけのない生命と化す。
落下する勢いで隣の屋上に転がった。
るいは一挙動で立ち上がって、
こちらを向いて元気そうに手を振る。
骨くらい折れそうな感じだったのに、
どっかの科学要塞製超合金でできてるのかもしんない。
【るい】
「はやくーーーーー!!!」
今度は自分の番だ。
もう一度深呼吸する。
身体の隅々まで酸素を行き渡らせる。
何でもない距離だ。
授業なら跳べる距離だ。
違いは些細な一点だけだ。
夜の幅跳びの底は、20メートル下のコンクリート。
しくじれば死ぬ。間違いなく死ぬ。
やり直しの効かない、一度こっきりのジャンプ。
後ろ髪がちりちりとする。
――――追いついてきた。
走った。
呪いを振り切るように、跳躍する。
これまでの人生で一番の踏切。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光、何もかもが圧縮された刹那の秒間。
落ちる、という感覚さえもない。
1フロア分の高度差にショックを受けながら、
受け身も取れないで投げ出される。
感覚を置いてけぼりにした数秒が過ぎて。
ようやく意識できたのは、予想より少ない衝突と、
予想よりやわらかいコンクリートの屋上。
【智】
「……とってもやわやわ」
【るい】
「へへへ、ヤバかったよねー」
るい。
【智】
「受け止めて、くれたんだ」
【るい】
「トモ、あのまま落ちてたら頭ぶつけてたかも。
ほんと、ヤバかったよ。自分でわかんなかったろうけど」
視界が効かなかった。
だから、バランスを崩した。
地雷を踏みかけた寒気と逃げ延びた安堵がごちゃごちゃに
混じりながら追いついてきた。
いくつかの痛み、打撲、擦過――
気がつく。
コンクリートよりもずっとやわらかい、
るいの胸に顔を埋めて、
子供をあやすような掌を髪に感じている自分。
【智】
「あの、もう平気で、大丈夫で……」
【るい】
「へー、意外と体格いいんだね。もうちょい、細い系だと思ってた」
【智】
「け、怪我とかしなかった?」
【るい】
「みたまんま。私、頑丈なんだよね」
【智】
「無茶……するんだ、受け止めるなんて……
あんな高さから落ちてきたのに」
【るい】
「感謝するよーに」
貸したノートの取り立てでもする気楽さ。
なんでもないことのように。
いい顔で、るいは笑う。
今日会ったばかりの、まだ名前ぐらいしかしらないような
相手なのに。
自分が怪我をするとか思わなかったのか?
二人まとめて動けなくなったかも知れないのに?
虹彩が夜の緋を受けて七色に変わる。
間近からのぞき込んだそれは、
研磨された宝石ではなく、
川の流れに洗われ生まれた天然の水晶だ。
人の手を拒む獣のように、鋭く強い。
【智】
「あう」
【るい】
「むっ」
【智】
「にゃう!?」
ほっぺたを左右にひっぱられた。
【智】
「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
【るい】
「なんて顔してんのよ。せっかく助かったんだぞ」
【智】
「にゃおーん!」
【るい】
「感謝の言葉」
【智】
「……にゃにゃがとう(ありがとう)」
【るい】
「よろしい」
手を離す。るいがはね起きる。
伸びをするみたいに体を伸ばし、
肩を回して凝りを解す。
隣にぺたりと座り込んで、
さっきまでいたビルを眺めた。
【智】
「やっと――」
逃げ延びた、
そう思ったのに。
獰(どう)猛(もう)な音が近づいてくる。
下から上に。
腹の底が震えるような重低音。
一瞬なんなのかわからず、その正体に思い至った一瞬後になって、噛み合わなさに戸惑う。
エンジン音だ。
ビルの屋上、エンジン音、上がってくる――
違う絵柄のパズルのピースと同じ。
どこまでいっても余りが出る解答。
【智&るい】
「「な――――――ッッッ」」
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
エスプリの効いた冗談みたいな物体が、
目の前で長々とブレーキ音の尾を引いて横滑り。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
胡乱(うろん)な物体だった。
どうみても原付だった。
どこにでもある、町中を三歩歩けばいき当たりそうな、
テレビを一日眺めていればコマーシャルの一度や二度には
必ず出会うだろう。
成人式未満でも二輪運転免許さえ取れば、
購入運用可能な自走車両。
価格設定は12万以上25万以下。
ただ一点、ここが公道でも立体駐車場でもなく、
廃ビルの屋上だということをのぞけばありがちだ。
黒い原付――。
塗りつぶされそうな黒い車両の上に、
同じだけ黒いライダースーツとフルフェイスヘルメットが
乗っかっていた。
【智】
「――――」
緋の混じる夜。
影絵のような影がいる。
こちらを向く。
背筋によく響く、威嚇の唸りめいたエンジン音が、
赤と黒の混じった夜を裂く。
月の下。
手を伸ばしても届かない空に、ほど近い場所で。
――――――僕らは出会った。
【惠/???】
「黒い王子様は女の子を連れて去るのだという」
【惠/???】
「とりわけ美しい女の子が選ばれる」
【惠/???】
「全部ネットの噂だ」
〔拝啓母上様〕
拝啓、母上さま
おげんきですか。
今日の明け方、杉の梢に明るく光る星を探してみましたけれど、
昨今の都市部では杉も梢も絶滅危惧種でした。
星は光るのでしょうか、海は愛ですか。
いきなり方々にケンカ腰な気もいたしますね。
危ぶむなかれ危ぶめば道は無し、と偉い先生も申しました。
母上さま、私は元気です。
星も見えない環境砂漠な都会といえど住めば都。
新世紀の子供たちが受け継ぐべき美しい国は、
すでに書物と記録の中で跋扈するのみ。
残念ながら私も知りません。
美しい国。
なんとも無意味かつ曖昧なタームです。
詩的表現以上のレベルでデストピアが実在し得るかどうかから論議すべきではないでしょうか。
ネットも携帯もなかった時代こそ甘美である……と懐旧に胸を熱くするのは、時代と少しばかり歩調の合わないご年配の方のノスタルジーにお任せいたしましょう。
残す未練が無くなっていいと思います。
電磁波とダイオキシンにまみれても、生命は生き汚く生きてまいります。
ですが心も身体もゆとりを失えば痩せ細っていくのです。
アイニード、ゆとり。
ゆとり世代だけに、愛が時代に求められています。
愛の受容体である杉花粉は今日も元気です。
都会では絶滅危惧種のくせに繁殖欲旺盛なのはなんともいただけません。
人類の叡(えい)智(ち)はいつの日か花粉症を克服するのでしょうか。
それとも自然の獰(どう)猛(もう)を前に太古の人類がそうであったように膝を屈するのでしょうか。
さよなら夢でできた二十一世紀。
こんにちは閉じた呪いの新時代へようこそ。
さて、母上さま。
実は先日、新たに契約を取り交わしましたことをご報告いたします。
保証人としての母上さまに、ご許可をいただきたく、ここに一筆したためました。
保証人という単語の剣呑さに、エリマキトカゲのごとく立ち上がって威嚇する母上さまの顔が浮かびます。
保証人。なんと官能的な響きでしょう。
英語では Guarantor 。
ご心配なく。
保証人としての母上さまにご迷惑をおかけすることは、何一つございません。
金銭的な問題の発生する懸念は皆無なのです。
契約は極めて安価で行われたからです。
ロハ、なのです。
ただより高いものはない、なんて昔から言われたりしますよね……。
必要な契約であったことは疑う余地がありません。
いささか大げさな修辞を許していただけるのなら、
この混迷の新世紀を生き延びるために、
呪われた我と我が身と世界の全てと対峙するために、
理性の限界と権利の堕落と人間性の失墜に抵抗すべく、
人類の生み出した最大の発明の一つであるこの概念こそが、
パラダイムシフトとして要求された契約そのものでありました。
なんといいますか。
難解な語彙を蝟集すると適度に知的に見えるという、日本語体系のありがたみを噛みしめます。
母上さまの時代には、そのような利己主義に基づく概念を用いる必要など無かったのにとお嘆きでしょう。
過去こそ楽園であったのだと。
それは違います。
契約はありました。
いつでも、どこでも。
聖書時代の死海のほとりから、高度成長期の疑似共産主義の間隙に至るまで目に映らなかっただけで。
今や古き良き時代は標本となり残(ざん)滓(し)もとどめず、崩壊した旧制は懐疑と喪失を蔓延させるばかり。
過去的価値観には、はなはだ冷笑的になってしまう平成世代としましては、従ってこのような形での呉越同舟こそが望むべき最大公約数的妥協点といえるでしょう。
ご理解いただけますよう。
母上さま。
これまで同様、この手紙がお手元に届くことはないと存じてはいますが、新たに契約を取り交わしましたことをご報告いたします。
私たちは契約友情を締結いたしました。
母上さまへ
かしこ
〔本編の前の解説〕
【るい】
「生きるって呪いみたいなものだよね」
ようするに、これは呪いの話だ。
呪うこと。
呪いのこと。
呪われること。
人を呪わば穴二つのこと。
いつでもある。
どこにでもある。
数は限りなくある。
そんなありがちな呪いの話。
ちょうど空は灰色に重かった。
浮かれ気分に水を差すくらいにはくすんでいて、
前途を呪うには足りていない薄曇り。
【るい】
「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……」
【るい】
「それって、まったくの呪い。100パーセントの純粋培養、
これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、
ないない尽くしの呪いだよ」
【るい】
「そうは思わない?」
時々るいは饒舌(じょうぜつ)だ。
とかく気分屋で口より先に身体が動くのに、
どこかでスイッチの切り替わることがある。
とても不思議。
いつも通りの気安さで、まるで思いつきのように、
投げ捨てるみたいに、呪いの呪文を唱えていた。
思うに。
るいは、とっくに待ち合わせに飽きていた。
彼女は待つことを知らない。
昨日のことは忘れるし、
明日のことはわからない。
約束と指切りだけはしないのが、
皆元るいのたった一つの約束みたいなものだ。
軽くコンクリートの橋脚に背中を預けて、
座り込んで足をぶらぶらさせていた。
【花鶏】
「教養低所得者にしては含蓄のある」
【るい】
「日本語会話しろよ、ガイジン」
【花鶏】
「わたしはクォーターよ」
【こより】
「生きてるだけで丸儲けですよう」
【茜子】
「そうでもない」
【伊代】
「ああ、そうね、実は儲かってないのかも知れないわね。
利息もどんどん積もっていくし……」
【智】
「報われないんだ」
【るい】
「呪いだけに」
呪い――それはとても薄暗い言葉。
なんとなく、もにょる。
ロケーション的にはお似合いの場所。
田松市都心部を、
ていよく分断する高架下。
そこが僕らのたまり場に変身したのはつい最近だ。
待ち合わせを、ここと決めているわけではないけれど、
便利なのでよく使う。
【智】
「見通しはいまいち」
指で○を作る。
即席望遠鏡。
高架下のスペースから見上げる空の情景は、
景観としての雄大さに乏しい。
空貧乏。
胡乱(うろん)なる日々には相応しい眺めだ。
胡乱な日々と胡乱な場所。
息をするのも息苦しくて、右も左も薄汚れている。
天蓋の代わりに高くごつい高架、神殿の柱みたいな橋脚、
コンクリートの壁に描かれた色とりどりの神聖絵画ならぬ
ラクガキの数々。
「斑(ハン)虎(ゴ)露(ロ)死(シ)ッ!」
「Bi My Baby」
「あの野朗むかつくんだよ、ソウシのやつだ!」
猖獗(しょうけつ)極めた言葉の闇鍋の上で、
著作権にうるさそうな黒ネズミの肖像画が、
チェーンソー持ってメガネの鷲鼻を追いかけて回していた。
解読していればそれだけで日が暮れそう。
それはそれは胡乱な呪文の数々。
ときどき混じる誤字脱字が暗号めいてなおさら奇怪千万。
【花鶏】
「そういえば、最後に来たヤツ、遅刻だったわね?」
【智】
「今更追求なんだ……」
ちなみに最後は僕でした。
【花鶏】
「遅刻は遅刻。9分と17秒36」
【伊代】
「細かっ。秒より下まで数える? 普通」
【るい】
「普通じゃないよ。若白髪だし」
【花鶏】
「プラティナ・ブロンドと言いなさい」
【るい】
「プラナリア・ブロンソン?」
【茜子】
「プラナリアの千倍くらい頭良さそうな発言です」
【こより】
「扁形動物に大勝利ッスよ、るいセンパイ!」
【伊代】
「それ一億倍でも犬に負けると思うわよ」
【智】
「トンボだって、カエルだって、ミツバチだって、
生きてるんだから平気平気」
【伊代】
「意味不明だから……」
【花鶏】
「それで遅刻の弁明は?」
【智】
「ベンメイが必要なのですか」
【花鶏】
「遅刻の許容は契約条項に含まれてないわ。
一生は尊し、時間もまた尊し。物事はエレガントに」
【智】
「友情とは大らかなごめんなさい」
【茜子】
「ごめんで済んだら(ピーッ)ポくん要りません」
【智】
「さりげなく謝ったのに!」
【るい】
「友情って空しいよね」
【智】
「実は話せば長いことながら」
【るい】
「長いんだ」
【智】
「時計が遅れていたのです」
【伊代】
「え? 短いじゃない」
【茜子】
「ボケつぶし」
【伊代】
「え?」
【花鶏】
「なんて欺(ぎ)瞞(まん)的釈明」
【智】
「適度な嘘は人間関係を機能させる潤滑剤だよ」
【こより】
「センパイは堕落しました! 人間正直が一番ッス!」
【花鶏】
「……(冷笑)」
【茜子】
「……(嘲笑)」
【伊代】
「その純真な心を大切にね」
【こより】
「嫌なやつらでありますよ」
【智】
「そう、たとえばキミが結婚したとするよね」
【こより】
「いきなり結婚でありますか」
【こより】
「不肖この鳴滝めといたしましても、結婚なる人生の重大岐路
に到達するためには、センパイとのプラトニックな相互理解、
手を繋ぐ所からはじめたいところなのです!」
【伊代】
「女同士で結婚できませんッ」
【こより】
「大問題発見ッス!」
【花鶏】
「形式に拘る必要なんてないじゃない?」
【るい】
「……」
【茜子】
「……」
【智】
「たとえの話ですよ?」
【こより】
「センパイは、たとえ話で結婚するのですか!」
【茜子】
「泣く女の傍ら、ベッドでタバコ吸うタイプか」
【智】
「…………何の話だっけ?」
【るい】
「結婚じゃないの?」
【智】
「そう、結婚。キミは夫婦円満で何一つ不満はない」
【こより】
「悠々自適の毎日、エスタブリッシュメントです!」
【伊代】
「愛より地位か。リアルだねえ」
【るい】
「呪われた人生には夢も希望もないんだよ」
【智】
「でも、優しいだけの夫にちょっぴり充たされない。
唐突に禁忌を漂わせたレイプから恋愛な感じの俺を教えてやるぜが現れる」
【智】
「刹那的アバンチュールにキミが、くやしいデモ感じちゃうと
流された後、それを夫のひとに告げる?」
【こより】
「えーっと……」
【智】
「離婚訴訟で慰謝料取られたりして、片親になったのに行きずり男の子供抱えてシングルマザーになったりして、子供が聞き分けなくてブルーな老後になったりして」
【智】
「それでも正直に生きる?」
【こより】
「あーうー」
【智】
「僕らにとって適度な嘘は関係円滑化のためなのです」
【茜子】
「事例のチョイスが黒い」
【花鶏】
「男なんて生き物を信頼する方が間違いなのよ。
がさつで、乱暴で、騒々しくて、美しくない。
研究室で標本になるくらいでちょうどいい」
【伊代】
「ほら、空を見上げて。
いい天気だと思わない?」
【こより】
「すっかり薄曇りッスねー」
【るい】
「面子もそろったことだし、くりだそっか。
ゴミの山でたむろっててもやることないしね」
日が当たれば影ができる。
あやしい所在の一つや二つ、どこにでもある。
偉いひとたちが書類と書類の狭間に、
金にもならず、使い道もないからと忘れ去って幾年月。
地元の人間たちだけが、
塵芥の隙間に再発見して好き勝手に変成し直す、
胡乱な土地。
さて、なんと名付けよう?
日用ゴミから廃車までの万能廃物置き場?
息を殺していれば家賃のかからぬ密かな住居?
まっとうな性根は近づかない最底辺の集会場?
それとも、悪?
悪いもの、悪いこと、悪い出来事。
それらならいくらもありそうだ。
この世に善なるものとやらが本当にいるとしても、
ここなら席を譲って逃げ出していく。
パンドラの箱だ。
百災厄がきっとどこかに隠れている。
もっとも。
混沌が泡立つ中から選んで何か一つを取り出して、
それで本性がわかった気になったところで所詮は錯覚。
ここは街のガラクタ置き場。
世界を作るパズルのピースの流れ着く渚。
どのピースも足りていない。
噛み合うことのない、欠品づくしの破片たち。
けれど、ここには全てがある。
全ての死んだ一部、かつては生きていたものの残骸たち。
ここは、それら全てで、同時にそれ以上。
以下かも知れないけれど。
だから借り受けた。
ここは、僕ら六人の秘密の借用地。
野良犬っぽいのが皆元(みなもと)るい。
プラナリアンが花城(はなぐすく)花鶏(あとり)。
寸足らずが鳴滝(なるたき)こより。
舌先刃物なのが茅場(かやば)茜子(あかねこ)。
眼鏡おっぱいが白鞘(しらさや)伊代(いよ)。
【伊代】
「これも普段は目を逸らしてる文明の烙印ってやつなのよね」
【智】
「ニヒリストっぽくて格好いいと思う」
【茜子】
「あなたはマゾですね。了解です、記録しました」
【伊代】
「がうっ」
【茜子】
「吠えられました」
【こより】
「犬っぽいです」
【るい】
「犬の死体でも転がってそーな感じだわ、このあたり」
【花鶏】
「個人の趣味嗜好に異議を唱えるような無駄な労力を払おうとは思わないけれど、普遍的世界観と折り合わない死体愛好については隠蔽した方が身のタメよ」
【るい】
「趣味の悪さなら、あんたにゃ負けるよ」
【こより】
「火花が散ってるッス」
【智】
「えー、こほん。友情して大人になるために、みんなで死体でも
探しに行く?」
【茜子】
「レズにマゾに、今度はネクロファイルですか」
【伊代】
「はいはいはいはい! あなたたち、いい加減労力年金ばっか
納めてんじゃないわよッ」
【智】
「通訳プリーズ」
【茜子】
「無駄に暴れるなこの役立たずども」
【伊代】
「がうっ」
【智】
「どうして僕が吠えられるのかしらん」
【こより】
「さすがセンパイ、人望よりどりみどりッス!」
【智】
「ゆとりってだめだよね〜」
かくて日本語はその美しさを失っていく。
【花鶏】
「過去を嘆くより明日のこと」
【るい】
「明日の天気より今日のこと」
【伊代】
「刹那的だ……」
【茜子】
「考え無しです」
【るい】
「素直といってよ」
【花鶏】
「単細胞」
【こより】
「火花が散っているッスよ!」
頭の上を厳めしい高架が一直線に走っている。
世界に引かれた1本の黒い線のような。
ここは境界だ。
あらんかぎりを押し込んでごった煮にした暗がりが、
街の意味を分断している。
右には騒がしく乱雑な新市街、
左には置いてけぼりをくった旧市街。
綺麗な線ではない。
あちらに山が、こちらに谷が。
でこぼこと新旧入り交じった地域の濁り汁が、
得体の知れない空気になって左右の隙間に溜まっていく。
白でも黒でもない。
昼でも夜でもない。
右も左もない。
そういう曖昧な場所には、胡乱な輩が出入りする。
それはたとえば、
僕らのような――――――
【智】
「どこまでいこう?」
【茜子】
「ニュージーランド」
【智】
「まずは船を手に入れないとね」
【こより】
「そうそう、それよりなによりも!」
【智】
「やけにテンション高いね」
【こより】
「不肖鳴滝めのスペッシャルプレゼントのコーナー!!」
【るい】
「なにこれ、スプレー?」
【こより】
「拾う神のほうになってみました」
【伊代】
「拾ったものなんか大仰に配るんじゃないわよ」
【こより】
「ラッキーのお裾分けを」
【茜子】
「……随分残ってる」
【こより】
「そうッス。来る途中で道の端っこの方に――」
【花鶏】
「邪魔になってまとめて捨ててあったわけか」
【こより】
「――駐車してあったトラックの荷台に落ちていたッス」
【智】
「それは置いてたの」
泥ボーさんだ。
【こより】
「さすがはセンパイ! 物知りです!」
【智】
「悪いやつ」
【るい】
「いいじゃないの、細かいことは。
せっかくだから景気づけしよ」
【伊代】
「だから、いつもいつもあなたは大雑把すぎなのよ!
別に社会道徳とか講釈するつもりは無いけど、このへんの線引きが曖昧なままになってるといずれ…………ま、いいか」
こよりの秘密道具は使い古しの色とりどりなスプレー缶。
段ボールの小ぶりな箱にキッチリ詰まったそいつを、
るいは一つ適当にえらんで取り上げた。
真っ赤なキャップのついたスプレーが、
手から手にジャッグルされる。
【智】
「スプレーは釘できっちり穴あけてから、
分別ゴミでださないとだめだよ」
【るい】
「所帯くさいこといってないで、さ」
ケラケラと、るいは笑う。
スプレー噴射。
手加減もなく、目星もなく。
勢いまかせに適当に、
誰かが書いたラクガキを真っ赤なスプレーで上書きする。
【るい】
「どんなもん」
【こより】
「ほうほう〜♪」
得意満面な、るい。
変な虫がお腹の奥でざわつきだす。
楽しそう。
他の面子と顔を見合わせて、舌なめずり。
【伊代】
「ラクガキってロックよね」
【花鶏】
「反社会的行為っていいたいわけ?」
【茜子】
「レトリック的欺(ぎ)瞞(まん)」
ごちゃつきながら、手に手にスプレーを取り上げる。
薄汚れた壁。とっくに色とりどりの壁。
【智】
「なんて青春的カンバス」
【こより】
「わかりませんのですよ」
【智】
「悪いことしたいお年頃ってこと」
【こより】
「了解ッス!」
皆そろって悪い顔。
ニヤリと口元を三日月みたいにつり上げて。
【智】
「せーの――――」
僕らはみんな、呪われている。
だから――
これは呪いの話だ。
【るい】
「こんなとこかな?」
【茜子】
「むふ」
【こより】
「いい感じでサイコーッス!」
【伊代】
「悪党っぽいわね」
【花鶏】
「それじゃあ、くりだすわよ」
〔るいとの遭遇〕
――――あなたはスカートです。
それが母親の言いつけだった。
よく覚えている。
お前はスカートになるのだ…………
なんて
無体を命じられた……のではなかった。
履き物はスカートを愛用しなさいという道理。
日本語って難しい。
【智】
「やっぱり制服着替えてくればよかったかも」
学園帰りの制服の瀟洒(しょうしゃ)なスカートに、
ふわりと風をはらませながら、ほうと小さくため息をついた。
くるっと回ってみたり。
【智】
「むーん」
スカートはどうにも好きになれない。
足下がすーすー落ち着かないから。
それでも言いつけだからしかたない。
裳裾をなびかせ街を行く。
目指す目的地はもう少し先だ。
歩きだから距離がある。
灰色に重い空の下、しずしずと歩調に気をつかう。
心を静めておおらかに、かつ美しく。
走ったり慌てたりはもってのほか。
制服の裾がひるがえるのははしたない。
大声を出したりしてはいけません。
【智】
「僕らの学園、このあたりでも有名なんだよね」
ひとりごちる。
南聡学園。
進学校として名が通っている。
頭の良さよりも、学風校風の古くさいので有名というのが、
ちょっぴりいただけなかった。
ようするにお年寄りくさいのだけど、ここはウィットを効かせて、お嬢様っぽいのだと表現しておこう。
【智】
「……欺(ぎ)瞞(まん)的」
先生は揃ってお堅い。
学則は輪をかけてお堅い。
象が踏んでも壊れるかどうか怪しい。
古くさいメモ帳風の学生証を手の中で弄ぶ。
最近ではカード化されているところも多いというのに、
我が校ではアナログ全盛だ。
色気のない裏表紙に、学園での僕の立場が記述されている。
和(わ)久(く)津(つ)智(とも)。
学園2年生。
女子。
無味乾燥な文字の羅列。
誤ってはいないけど、正しくもない。
学生証の頁をめくって校則一覧を斜め読みする。
「バイトは禁止、買い食いは禁止、外出時は制服着用で、
夜は7時までには自宅に戻りましょう」
どこの大正時代か。
古典的すぎて半ば有名無実化している。
今時遵守する生徒は少数派で希少価値、絶滅危惧種だ。
二十一世紀に生きるゆとり世代は意外にたくましい。
建前本音を使い分け、二枚舌を三枚にして学園生活を生き延びる。
……困ったことに制服は有名だった。
こじゃれたデザインが人気の逸品。
マニアは垂涎、物陰では高値取引の南聡制服(女子)。
街を歩けば人目を引く。
南聡=お嬢様っぽい。
パブリックイメージは頑健なので、
ちょっと道徳の道を外れると悪目立ちする。
どんな経路で教師の耳に入らないとも限らない。
それは困る。すごく困る。
平日の、学園帰りの午後だ。
帰宅ラッシュにはまだ早い、
ひと気のまばらな駅前通りを南へ抜ける。
田松市の都心部は、駅を挟んでこちら側が若者向けの
明るいアーケード。
北には危険な夜の街へ通じる回廊がある。
線路のラインが色分けの境界線だ。
肩にかかった髪を後ろへかき上げながら、
こっそり買ったアイスクリームを一口かじった。
とっても甘味。
南聡の学則には、第九条学外平和健康推進法、通称平和健法がある。
買い食いを行うこと無く永久にこれを放棄するむね
定められているのだ。
……バレなきゃ罪じゃないよね。
ときおり学園帰りの学生とすれ違う。
視線を感じる。誰もがこちらを振り返る。
後ろから口笛が背中をくすぐる。
南聡の女学生で人目を引く美少女に感嘆している。
南聡の女学生――――僕のことだ。
人目をひく美少女――――僕のことだ。
【智】
「はぅ……っ」
なんと美しいコンボ。
繊細で薄幸そうで麗しいご令嬢……
というニーズに完璧応えている自分が憎い。
【智】
「んー、むー、ちょっとタイが曲がってる」
ファッションショップのショーウインドゥ。
飾ってある鏡に向かってニコリと笑顔。
タイを直してから、その場でくるり。
スカートの縁が円錐を描く。
とびっきりのお嬢様が優雅に微笑んでいた。
【智】
「かわいいー」
跳び上がる。
そんで激しく落ち込む。自己嫌悪。
拝啓 母上さま
おげんきですか。
母上さまの御言葉はいまも切磋琢磨しております。
日々筆舌に尽くしがたい苦難を前に、
心が折れんとすることもままありますが。
ときどきポプラの通りに明るく光る星を見て、
そっと涙を堪える私の弱さをお許しください。
スカートをひらひら。
アイスのコーンまで食べきって、
残った包み紙を丸めてこっそり道ばたへ。
悪の行為、ポイ捨て。
禁忌を犯す喜びに下腹部がドキドキする。
【智】
「…………危険な徴候」
自分を見つめ直したい衝動にかられた。
天下の公道で自問自答はいただけないので、
懺悔は目的を果たした後にする。
ポケットから几帳面に折りたたんだメモを取り出した。
ボールペンの走り書き。
自分の字だ。
電柱に打ち付けてある区画表示のプレートとメモの住所を見比べる。
【智】
「うー、むー」
目的地はもう少し先らしい。
母さんから手紙がきた。
母親は自分の子供をいつまでたっても子供扱いする。
大きくなっても小さくなっても子供は子供。
月一ペースの気苦労とお腹を痛めた分だけは、
何年経っても権利を主張する。
人は過去に生きている。
未来は遠く、現在にさえ届かない。
あらゆるものは一足遅れでやってくる。
人も、時間も、光も、音も、記憶も、心も。
世界は手遅れだ。
天の光は全て過去。
過去に生きる人間にとって、思い出はとても大切だ。
母上さま。
離ればなれで幾年月か。
時間はよく人を裏切る。
思い出は色褪せ、記憶はすり切れ、情報は劣化する。
白い肌と白い手くらいは覚えている。
細かいことは忘れてしまった。
困ることはないけれど寂しくなる。
線は細くて気苦労の多い母親だった。
ついでに過保護。
何かというと心配する人という印象が残っている。
石につまずいても、箸を落としても気苦労があった。
苦労性は肩が凝る。
胸のサイズに関係なく。
手紙はなるほど母上さまらしい。
心労と心痛。
文面のそこかしこから、
ひとりで暮らす我が子へかける、母性の香りが匂い立つ。
愛情溢れる母と子の交流史の一頁――――
些細な問題を考慮しなければ、
この手紙もそれだけのことで済んだ。
たった一つの小さな問題。
母上さまは、とっくの昔に天国へ行かれているのです。
天国だと思う。
自信は無いけれど。
恨みを買うようなひとではなかったと思う。
欲目は親ばかりにあるとは限らない。
小さい子供にとって親は全知全能の神にも等しい。
たまには悪魔になったり死神になったりする。
現実って救いがないな。
閑話休題。
恨みはどこでも売っている。
コンビニよりも手に入りやすい。
24時間年中無休。
2割3割はあたりまえの大バーゲン。
ドブにはまっても他人を恨めるのが人間という生き物だ。
外出契約書だと思って気軽にサインしたら、
地獄の一丁目に売り渡されることだってよくある話。
一応、母は天国にいるんだと思っておきたい。
あいにく幽霊と死後の世界は連絡先が不明なので、
きちんと確認はしていない。
死んだ母からの、手紙。
嘘のような本当の話。リアルのようなオカルトの話。
黄ばんだ便せんに真新しい封筒。
消印は先週。
県の中央郵便局のハンコが押されている。
幽霊にしてはせちがらい。
大まじめな話をすれば、
死んだ人間が墓から出てきて、
郵便ポストに手紙を突っ込んだりはするわけがない。
母の手紙を母の代わりに誰かが投函したのだろう。
オチがつきました。
天下太平。君子は怪力乱心を語らず。
つまらないというなかれ。
世の中はなるようにしかならないものなのだから。
手紙の内容――――
三つ折りの古紙には見覚えのある文字。
母の筆跡。
「皆元さんを頼りなさい」
聞き覚えのない後見人を過去から指名された。
住所と電話番号が記されていた。
【智】
「このあたりは――」
駅前から随分きた。
駅のこちら側でも中心部から離れれば胡乱になる。
様変わりして、人気も乏しくなる辺り。
めったに来ない場所だけに土地勘も働かない。
人やら獣やらゴミやらなにやら。
入り交じった臭いに鼻が曲がる。
廃ビル、空きビル、閉じたシャッター。
うらぶれたというよりうち捨てられた都市区画。
ここは街の残骸だ。
南聡の制服は水面の油みたいに浮き上がる。
とてもとても似合わない。
手紙にあった「皆元」という名に覚えは無かった。
母は頼れという。
その人物が、我が子の助けをしてくれるという。
助け、助力、意外な授かり物、後援――
【智】
「うっわー、なんとも怪しいよね……」
眉に唾つける。
そもそも差出人は誰なのか、
どこからこの手紙が来たのか。
疑問は山積みだ。
それでもだ。
困っているのを助けてくれるなら、
今すぐ僕を助けて欲しい。
何時でも困っている。
どこでも困っている。
さあさあ、すぐに。
過剰な期待をしてもはじまらない。
死んだ母のいわば遺言であるという――――
それだけの理由で連絡を取った。
それが先週のお話。
得にはならなくても、
何らかのコネにはなるかもしれないと、
その程度の計算は働かせた。
【???】
「皆元信悟でしたなら、亡くなっております」
連絡先にかけた電話の返事は
人生にまたひとつ教訓を与えてくれた。
過度の希望は絶望の卵。
【智】
「亡くなって……」
【???】
「はい、もう何年も前に」
【智】
「その、それはどういう事情で……?」
【???】
「あなた、どちらさま?」
疑り深そうな電話の主に、
これ以上ないくらい胡散臭がられながら、
深窓の令嬢的に根掘り葉掘りと問いただしてみた。
このままのオチではあまりに空しい。
ぶら下がったかいあってようやく聞き出したのは、
縁者がいるということだった。
おお、皆元さま。
どうして貴方は皆元様なの――?
悲恋に引き裂かれた恋人同士のように、
教わった住所を求めて裏通りを右に左に。
どんどん胡乱な方へと進んでいく。
いよいよ活気が失われる。
【智】
「最近の株価は空前の下げ幅だっけ?」
朝のメディアの空疎なあおりを反芻しながら、
ビル脇の電柱にあるプレートとメモの住所を見比べる。
この辺りだ。
背中を丸めて頭をたれた元気のないビルたちには、
取り壊し予定が看板になってかけられていた。
一面をまとめて均して、瓦礫の中から大きなものに
新生させるというお知らせだ。
【智】
「それはそれとして、ホントにここなの?」
住所のメモと現実を見比べる。
どうみても廃ビルだ。
色褪せたリノリウム、ひび割れたコンクリート、
壁面の窓ガラスは半分がた割れており、
かつては名付けられていたビルの名前はとっくに色褪せて読めない。
例えるなら、人間よりもゾンビの方が似合うくらいだ。
【智】
「えーっと…………」
ためらいと困惑。
突っ立っているとこの制服は目立つ。
物陰からの胡乱な視線にうなじが粟だった。
これ見よがしに廃ビルを不法占拠している連中も、
この辺りにはことかかない。
割れたガラスの後ろから、傾いた看板の影から、
裏路地に通じる薄汚れたビルの隙間から。
サバンナのウサギになった気分がする。
(…………いや〜ん)
じっとしているのも不安で、ビルへと踏み込んだ。
エレベーターは当たり前にご臨終していた。
くすんだ色のロビーの奥に、目ざとく見つけた階段を上る。
【智】
「みなもとさん……?」
フロアを昇る。
コンクリートの隙間をわたる夜風のような自分の足音が、
とてつもなく怖い。
恐る恐る声を出す。
低くこもった残響にびびる。
人の気配はないのに、
段ボールや一斗缶で一杯の部屋があったりした。
得体の知れないものを引き当てそうで、
しかたなく黙って上を目指した。
【智】
(ひ〜ん……)
半泣きだった。
甘い言葉につられて来たのがそもそも失敗だ。
早く帰った方がどう考えてもよさそうなのに、
ここまで来てしまうと手ぶらで帰るのは悔しい。
蟻地獄。
ギャンブルで身を持ち崩す人たちは、
こういう気分で道を踏み外すんだろうな、きっと。
【智】
「……皆元さん」
こんな場所を住処にしているという、問題の人物は、
どのような問題ある人格を抱えた人物なのだろう。
まともではない。まともなわけがない。
どうみても正規の物件とは思えない。
一瞬で16通りの可能性を検討して、
まとめて脳内イメージのゴミ箱へポイ。
ただひたすらに、ろくな考えが浮かばなかった。
どれか一つでも現実になったら、母の遺言を投げ捨てて、
回れ右して家に帰りたくなること請け合いです。
距離以上にくたびれて、一番上のフロアに到着する。
うち捨てられた廊下には明かりも無くて、
夜でもないのに暗がりが手招いている。
廃ビルには空っぽの部屋が多い。
扉もない。
この階はその意味ではまだ生きていた。
棺桶に片足突っ込んだ断末魔、みたいなものだけど。
【智】
「えーっと」
端から順番に中をのぞく。
壊れたドアのついた部屋を右回りでフロアを一巡り。
最後に生き残っているドアの前で腕組み思案した。
このドアは機能を残している。
生きている。
ドアらしきものではなくて、まだドアである。
【智】
「皆元……さん……?」
子ネズミっぽい恐る恐る。
場違いな制服で場違いなノック。
今日はいい具合にボタンの掛け違いが続く。
【智】
「おられませんかー、皆元さん……じゃなくてもいいですけど、
どなたかおられませんか?」
皆元さん以外が出たらまずいだろうと自分に突っ込む。
何気なくドアを押した。
あっさり開いた。
鍵はかかってない。
ほんの数センチばかり、
アンダーラインみたいなとば口を開けて差し招く。
【智】
「……どうする。黙って帰る? それが一番平穏無事だけど。
でもここまで来てそういうのってなんだよね」
【智】
「あのぉ、皆元さ……」
のそりと隙間からのぞき込む。
中も暗くてわからない。
おっかない。
ホッケーマスクの殺人鬼とか現れそうで――――
その時に。
いきなり出た。
【るい/???】
「ふんがーっ!!」
【智】
「にゃわ――――っ?!」
頭の横をかすめていった。
凶暴極まりない鈍器。
どこまでも鈍器。
果てしなく鈍器な鉄パイプ。
なんでいきなり鉄パイプ?
意味不明っ!
【るい/???】
「どりゃあーーっ!!」
【智】
「きゃわーーーーーーーーーーーっっ」
必ず当たって必ず殺す鉄パイプが、
目の前で惨殺確定と振りかぶられる。
闇より暗い黒色の影がのしかかってくる。
シルエットで見えないはずの相手の両の目が
炯々と光を放ってくり抜かれている。
スプラッタ映画の1シーンをイメージした。
生皮のマスクをかぶった殺人鬼がチェーンソーを振り上げる場面。
【智】
「はわわっわわっわわわ――――――」
【るい/???】
「…………あれ、女の子じゃない?」
気の抜けた声が、振り切れかけた正気の水位を水増しした。
凶悪な牙を振り上げる謎の狩猟生物を、
捕食対象としての弱々しさで確認する。
【智】
「……あれ?」
女の子だった。
【るい/???】
「なにやってんの、キミ、こんなところで。
ここはね、キミみたいなのが来るような場所じゃないよ。
一人歩きしてると取って食われちゃうわよ」
【智】
「……ええ、取って食われるところでした」
【るい/???】
「そっか、危機一髪だったんだ」
取って食いかけた相手に慰められる。
すれ違いコミュニケーション。
食うものと食われるものには断絶がある。
女の子が手を差し出した。
落ち着いて検分する。
相手は自分とさほど変わるとも思えない年頃だ。
柔らかい少女っぽさよりも、
野生の獣のようなしなやかさが瑞々しい。
【るい/???】
「どうしたの、ほら」
手が目の前に。
そういえば尻もちをついていた。
【るい/???】
「でも、無事そうでよかったよね」
【智】
「凶暴でした」
手を引かれて立ち上がる。
【るい/???】
「最近このあたりも質の悪い連中が増えてきてさ」
【智】
「とても恐ろしかった」
【るい/???】
「私が来たからには大丈夫だって」
【智】
「人間って悲しい生き物だなあ」
相互理解はまだまだ遠い。
【るい/???】
「ところで、こんなところでなにしてんの。
もしかして家出とか?」
【るい/???】
「そういうふうには見えないけど、
もしかすると大変ちゃん?
でもさ、ここ危ないのわかったでしょ」
【智】
「あの、」
【るい/???】
「人生安売りしちゃう前に家に帰った方が良いよ。
んー、なに?」
【智】
「ひとつ、質問よろしいですか」
【るい/???】
「いいよ」
【智】
「もしかして、皆元さん……?」
【るい/???】
「ごめんね〜。部屋の前でうろちょろしてたから、
きっとまた泥棒とかなんだろうって勘違いしちゃってさ」
【智】
「それで鉄パイプ」
【るい/???】
「脅し脅し、本気じゃないって」
【智】
「……」
【るい/???】
「……」
【智】
「…………嘘だ」(ボソッ)
【るい/???】
「人生先手必勝だと思わない?」
なにげにヤバイひとでした。
【智】
「それは是非とも僕以外のひとに」
【るい/???】
「それで、なんだっけ」
部屋は殺風景で大したもののない空間だ。
臭いも景色も外よりましだけど、
とっくの昔に息絶えた建物の残骸には違いない。
彼女の荷物は大きなボストンバッグと
肩からかけるスナップザックが転がっているだけ。
化石の上に間借りした仮宿だった。
【智】
「皆元さん?」
【るい】
「そだよ、皆元(みなもと)るい。るいでいいよ。
コーヒーくらいあるけど飲む?
缶だから心配しなくても大丈夫」
返事も待たず、目の前に缶コーヒー。
【智】
「ありがとうございます」
【るい】
「どういたしましてー。
お客人は歓迎しないとね」
【智】
「るいさん」
【るい】
「そうそう、そういう感じ。
もうちょっと後ろにイントネーション置いて」
なにげに注文が五月蠅かった。
【るい】
「そっちは、えーっと……」
【智】
「和久津智いいます。智恵の字をとって智」
【るい】
「頭良さそうな名前だ」
【智】
「るいさん」
【るい】
「ほいよ」
【智】
「捜してました。捜して歩きました。
とうとうこういうとこまできちゃいました」
そして死にかかった。涙なしでは語れない道のり。
【るい】
「さがしてたの、なんで?」
【智】
「なんでこんな侘びしい所にいるのかの方が素晴らしく疑問なんですけれど。現住所もなくて捜すの大変でした」
【るい】
「侘びしいというより汚い所」
【智】
「自分でいうかな」
【るい】
「なんの、住めば都」
【智】
「欺(ぎ)瞞(まん)的だと思います」
【るい】
「私、家なき子なんだよね」
【智】
「なんとなく名作風」
【るい】
「平たくいうと、自我の目覚めと家庭環境との軋轢に耐えかねて
自由を求めて跳躍する感じで」
【智】
「つまりは家出」
【るい】
「智ってヤな子だ」
【智】
「わりと口の減らない性分で」
立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿は百(ゆ)合(り)の花。
ただし喋らなければ――――という注釈は親しい某学友の弁による。
【るい】
「それで何だっけ?」
【智】
「なんでしょう?」
【るい】
「そこでボケるの!」
【智】
「実は捜してました」
【るい】
「なんで? なんか用事?」
【智】
「用事というのか…………」
用事はある。
捜していた。
皆元るい。
母が名指しした人物、
皆元信悟の娘にあたる。
当たるも八卦当たらぬも八卦。
ここまで辿り着いたは良いのだけれど。
【智】
「うーむー」
【るい】
「うーむー」
二人で額を寄せ合う。悩む。
どうやら付き合いはよさそうだ。
【るい】
「そんでさ、用事無いの?」
【智】
「そこが重要な問題点で」
どこから切り出すのか。
切り出せるのか。
オカルトな話は事態が面倒になる。
不案内な母で、
皆元某に頼れと一筆したためたものの、
何をどのように頼るべきかは示唆がない。
生前からどっか投げやりなひとだったしなあ……。
皆元信悟本人ならば問題もなく話は早いが。
すると父親の話を尋ねるべきか。
ここで話は複雑さを増す。
【智】
(お父さんのことについて教えてください)
【るい】
(どうして?)
尋ねられると困る。
実に困る。
人生に関わる。
恥ずかしがり屋の年頃としては、
根掘り葉掘り掘り返されたくないことは、
両手に余るくらい持ってるし。
【智】
「うーむー」
【るい】
「いつまで悩んでたらよか?」
【智】
「明日の朝くらいまで悩めばいいかも」
【るい】
「長いよっ」
【智】
「実は、その、それなんですが――――
るいさんのお父さんの事なんですけれど、」
切り出した。
【るい】
「なんだって」
びびって座ったまま後ずさりする。
るいが野良犬みたいに牙を剥く。
【るい】
「あんなヤツのことなんてッ!」
適当に踏みだしたらいきなり地雷が埋まってました。
導火線が一瞬で燃え上がる。
心の火の手が、るいの瞳に乗り移る。
野生の動物めいた瞳孔は、まるで不思議な宝石のよう。
怒りが笑いより美しい。
とても綺麗。
〔フライング・ハイ〕
【智】
「んむ?」
異臭がした。
まあ、ここ廃ビルだし異臭ぐらい……。
【智】
「…………ん、むむむ?」
ちょっと違和感。
気のせいかと首をひねる。
部屋が暗いのは、日の暮れた後の廃ビルにまともな明かりが
望めないから。
鼻の奥がむずつくのは、廃墟のどこかから饐えた臭いが
漂っているから。
どれも古い場所には付きものだ。
先入観のせいで今まで気がつかなかった。
【智】
「…………何か臭わない?」
【るい】
「それはなに、私がお風呂に入ってないとかそういうことですか!
ひどい、あんまりだ、女として私は死ねっていわれた!」
【るい】
「これでも公園の水道使ったり学園に潜り込んでシャワー借りたりして気は使ってるんだから!」
【智】
「かなり犯罪者だね」
【るい】
「ちょっと借りてるだけじゃない」
【智】
「不法侵入」
【るい】
「法律と女の子の臭いとどっちが優先されると思ってんの」
【智】
「女の子の臭いが優先されるという根拠を教えて欲しい」
【るい】
「それよりなんの話だっけ?」
【智】
「それそう、臭いの話だった」
【るい】
「ひどい、あんまりだ、女として私は死ねっていわれた!」
【智】
「ループした」
【るい】
「そんでなんの話だっけ」
【智】
「だから臭いの……」
【るい】
「ひどい、あんまりだ――」
【智】
「繰り返しギャグが通用するのは3度まで!」
関西ではそういうルールがあるそうだ。
【るい】
「えー、世知辛い世の中になったもんね」
【智】
「昔からそうなの。暗黙の了解ってヤツ」
【るい】
「昭和の伝統はわかんない。だって、私平成――」
【智】
「かあっ!」
咆えた。
【るい】
「なに?!」
【智】
「あなたは今地雷を踏もうとしました」
【るい】
「地雷? なによ、誕生日の話なんだけ――」
【智】
「かあっ!」
【るい】
「な、なにっ?!」
【智】
「もっと気をつけてくれないと困りますよ!」
エッジの上でダンスするのはマイナーの強みですが。
だからといって信管を叩いて不発弾をわざわざ爆発させるのは
愚か者のなせる技なのです。
【るい】
「そ……それで、なんの話だっけ」
【智】
「焦げ臭くない?」
やっと話が進んだ。
スタートに戻ったともいう。
【るい】
「焦げ臭い?」
【智】
「気のせいかな? さっきからそんな感じがして……」
彼女が鼻をひくつかせる。
目つきが違う。警戒心の強い動物をイメージする。
【るい】
「焦げてる――燃えてる?
何よこれ、近い……ウソ、ちょっとまじ?!」
窓際から外に身を乗り出して外を確かめる。
後を追って窓から外をのぞいて状況がわかる。
外が黒い。
夜以上に黒い。黒くて赤い。
黒いのは煙、赤いのは火の照り返し。
火事だ。
ビルの下の階が燃えていた。
【智】
「うそぉ……」
窓辺で佇んだまま、とっさに思考が停止する。
にへらと笑う。
人間予想をすっ飛んで困った事態に遭遇すると、
最初に漏れるのはやっぱり笑いだ。
【るい】
「何ヤッてんの、さっさと逃げるのよ!」
【智】
「にゃわ?!」
ホッペタを両手で挟まれる。
正気が戻ってきた。
火事。
しかもかなり火が回っている。
すぐに逃げないと取り返しがつかないくらい。
【るい】
「はやく、こっち! 走って急いでっ」
るいの行動は早かった。
手を引かれる。
引きずられながら部屋を飛び出す。
階段から下へ。
四段とばしで3階分を2分とかからず降下して――
【るい】
「どちくしょう、階段はだめだ……」
【智】
「あうう〜〜」
るいが吐き捨てる。
人力ジェットコースターに目を回し、
階段から吹き付ける熱気に酔う。
前髪が焦げてしまいそうな、
オレンジ色の炎の舌。
階段は下りられそうもない。
【智】
「他には?」
【るい】
「……こっち!」
【智】
「どっち?!」
るいが手を引く。
僕が引かれていく。
下ではなく、横ではなく、
非常階段でも、秘密の脱出路でもなく。
まるで悪い冗談のように。
彼女は上へと走り出した。
【るい】
「早く早く! 何やってんの、急がないと死んじゃう!」
【智】
「ちょ、ちょっと待って、待ってお願い! 痛い痛い痛い、
腕ちぎれちゃうの〜〜〜!!」
【るい】
「気合いで何とかせい!」
【智】
「物事は精神論より現実主義で!」
【るい】
「若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!」
【智】
「少年の大きな夢とは関係ないよ、この状況!!」
【るい】
「少女だっつーの!」
【智】
「あーうー」
【智】
「きゃあーーーっ!!!」
【るい】
「根性っ!!!」
【智】
「部活は文化系がいいのぉ!」
【るい】
「薄暗い部屋の隅っこでちまちま小さくて丸っこい絵描いて
悦に入って801いなんてこの変態!」
【智】
「ものすごく偏見だあ!」
片手でこっちを引きずり回す、
親戚にゴリラでもいそうな文化偏見主義者な彼女が
ドアを蹴破った。
時間が凝ってカビの生えた、閉じた薄暗い廊下から、
開いた夜の空の下へ。
るいが歯がみする。
熊のように落ち着き無くうろつく。
そうこうしている一秒一秒に、
僕たちは少しずつ確実に逃げ場を失っていく。
炎が追ってくる。
終点は、ここだ。
天に近い行き止まり。
戻る道もない。
異臭が鼻をつく。
目の前が酸欠でくらくらする。
絶望が胸にしみてくる。
こんな場所で、こんな終わりなんて、
想像したこともなかった。
終わりはいつでも突然で予想外だ。
きっと世界は呪われている。
皮肉と裏切りとニヤニヤ笑い。
ぼくらはいつでも呪われている。
届きっこない空を、
荒い息を弾ませながら見上げた。
時代のモニュメントじみた、
空っぽのビルの頂から。
【智】
「――皆元さん!」
【るい】
「るいでいいよ」
【智】
「こういう状況で余裕あるんだね……」
【るい】
「余裕じゃなくてポリシー。全てを脱ぎ捨てた人間が最後に手にするのはポリシーだけ」
よくわからない主張を力説。
【智】
「イデオロギーの違いは人間関係をダメにするよね」
ふんと鼻を鳴らされる。
破滅の前の精一杯の強がりで。
その強がりに薬をたらした。
【智】
「――あっちまで跳べると思う?」
指差したのは不確かな視界を隔てた向こう側。
隣のビルが朧に浮かぶ。
路地一つ挟んだ距離、フロア一つ分ほど頭が低い。
【るい】
「近くないね」
【智】
「…………無理か」
【るい】
「私より、あんた自分の心配したら」
【智】
「あんたじゃなくて、智」
【るい】
「…………」
【智】
「ポリシー」
【るい】
「――私から跳ぶわ。チャンスは一回」
僕らは走った。
呪いを振り切るように、跳躍する。
これまでの人生で一番の踏切。
耳元をすぎる風の音、
蕩けて流れていく夜の光、何もかもが圧縮された刹那の秒間。
落ちる、という感覚さえもない。
一瞬の視界にはただ夜ばかり。
すぐそこにあるはずの、
辿り着くべきビルの頂きを見失う。
赤い夜で塗りつぶされた。
世界は手探りだ。
隣り合っていても名も知らないビル。
呼ばれることのない名前は意味を喪失する。
何者でもない、あるだけのものは化石と同じだ。
街の化石。
時代の亡骸。
誰かの失敗の記念碑。
それは呪いになる。
根を張って、街の片隅を占有し続ける。
落下する。
1フロア分の高度差にショックを受けながら、
受け身も取れないで投げ出された。
感覚を置いてけぼりにした数秒が過ぎて。
ようやく意識できたのは、予想より少ない衝突と、
予想よりやわらかいコンクリートの屋上。
【智】
「……とってもやわやわ」
【るい】
「へへへ、ヤバかったよねー」
るい。
【智】
「受け止めて、くれたんだ」
【るい】
「トモ、あのまま落ちてたら頭ぶつけてたかも。
ほんと、ヤバかったよ。自分でわかんなかったろうけど」
視界が効かなかった。
だから、バランスを崩した。
地雷を踏みかけた寒気と逃げ延びた安堵がごちゃごちゃに
混じりながら追いついてきた。
いくつかの痛み、打撲、擦過――
気がつく。
コンクリートよりもずっとやわらかい、
るいの胸に顔を埋めて、
子供をあやすような掌を髪に感じている自分。
【智】
「あの、もう平気で、大丈夫で……」
【るい】
「へー、意外と体格いいんだね。もうちょい、細い系だと思ってた」
【智】
「け、怪我とかしなかった?」
【るい】
「みたまんま。私、頑丈なんだよね」
そういうタイプには見えない。
【智】
「無茶……するんだ、受け止めるなんて……
あんな高さから落ちてきたのに」
【るい】
「感謝するよーに」
貸したノートの取り立てでもする気楽さ。
なんでもないことのように。
いい顔で、るいは笑う。
今日会ったばかりの、まだ名前ぐらいしかしらないような
相手なのに。
自分が怪我をするとか思わなかったのか?
二人まとめて動けなくなったかも知れないのに?
虹彩が夜の緋を受けて七色に変わる。
間近からのぞき込んだそれは、
研磨された宝石ではなく、
川の流れに洗われ生まれた天然の水晶だ。
人の手を拒む獣のように、鋭く強い。
【智】
「あう」
【るい】
「むっ」
【智】
「にゃう?!」
ほっぺたを左右にひっぱられた。
【智】
「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
【るい】
「なんて顔してんのよ。せっかく助かったんだぞ」
【智】
「にゃおーん!」
【るい】
「感謝の言葉」
【智】
「……にゃにゃがとう(ありがとう)」
【るい】
「よろしい」
手を離す。
るいがはね起きる。
伸びをするみたいに体を伸ばし、
肩を回して凝りを解す。
隣にぺたりと座り込んで、
さっきまでいたビルを眺めた。
【智】
「やっと――」
逃げ延びた、
そう思ったのに。
重低音が這い上がってきた。
一瞬なんなのかわからず、
正体に思い至った後になって、
噛み合わなさに戸惑う。
エンジン音だ。
ビルの屋上、エンジン音、上がってくる――
違う絵柄のパズルのピースと同じ。
どこまでいっても余りが出る解答。
【智&るい】
「「な――――――ッッッ」」
困惑よりも鮮やかに、屋上に一つきりの、
ビル内部へ通じる扉が蹴破られた。
エスプリの効いた冗談みたいな物体が、
目の前で長々とブレーキ音の尾を引いて横滑り。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
胡乱な物体だった。
どうみても原付だった。
どこにでもある、町中を三歩歩けばいき当たりそうな、
テレビを一日眺めていればコマーシャルの一度や二度には
必ず出会うだろう。
成人式未満でも二輪運転免許さえ取れば、
購入運用可能な自走車両。
価格設定は12万以上25万以下。
ただ一点、ここが公道でも立体駐車場でもなく、
廃ビルの屋上だということをのぞけばありがちだ。
黒い原付――。
目の潰れそうに黒い車両の上に、
同じだけ黒いライダースーツとフルフェイスヘルメットが
乗っかっていた。
【智】
「――――」
緋の混じる夜。
影絵のような影がいる。
こちらを向く。
〔芳流閣、みたいな?〕
首の後ろがちりちりとする。
産毛が総毛立つ。
背筋によく響く、
威嚇の唸りめいたエンジン音が、
赤と黒の混じった夜を攪拌(かくはん)する。
月の下。
届かない空にほど近い場所。
たちの悪い都市伝説が目の前で形になる。
給水塔とパイプと錆びた鉄柵だけが飾る、
そっけなく廃ビルの屋上、そして原付と黒いライダー。
それは噂だ。
幾千もあり、幾万も消える、
小蠅と同じネットの馬鹿話。
黒いひとは黒い王子様。
その身に呪いを受けた黒い運命のひと。
それは吸血鬼。
それは殺し屋。
それは、女の子をどこかへ連れ去ってしまう
――とりわけ綺麗な女の子を。
語られては語り捨てられ消えていく物語。
緊張に乾いた口の中がひりひりする。
にしても。
【智】
「…………原付かあ」
もう少し、情緒というか、TPOというか。
ファッションにも気を遣って欲しいぞ、伝説。
と。
影が鬱陶しそうにヘルメットを脱いだ。
【智】
「あれ?」
そんなのでいいの?
もっともったいぶらないですか、ふつーは?
前置きもなく神秘のベールがはがされる。
詰め込まれていた髪が流れて落ちた。
月を映す瀧(たき)に似た、青白く染まる銀色の髪。
騒がしい夜がそこだけ回り道しそうな、
目に痛いほどの白。
【智】
「あ……」
あれれ?
【るい】
「――――どこの、女のひと?」
【智】
「心当たりアリマセン」
王子様は、お姫様だった。
鋭い目つきと国産品らしからぬ顔立ちが、
暗がりでもよく目立つ。
冷たいナイフの先のようなまなざしをする。
整っている分鋭くて、
触れようとするとその前に喉もとへぶすりと突き刺さりそうだ。
【花鶏/???】
「みつけた――――」
黒い都市伝説にしてはイメージの違う、
明かな女の子の声で、とてつもなく俗っぽい感情が叩きつけられる。
【智】
「……なんか怒ってない?」
【るい】
「トモの知り合い?」
【智】
「だから違います。王子様の携帯番号なんて知らない」
【るい】
「王子様? なにそれ……あれ、女の子じゃないの?」
【智】
「聞いたことない? ほら、都市伝説で……」
【花鶏/???】
「――わよ!」
原付が突っ込んできた。
【智&るい】
「「なわっ?!」」
跳んで避けた。
鼻先をテールランプがかすめて通る。
手加減無用の突っ込み具合だった。
狭い屋上を、黒い原付は殺人的な加速で横切った。
壁にぶつかる寸前で乱暴にブレーキを利かせ、
タイヤの痕をコンクリートに刻印しながら反転する。
【花鶏/???】
「……避けたわね」
【智】
「避けなきゃ死んでるよ!」
無体な苦情だった。
【花鶏/???】
「この無礼者」
【智】
「いやいや、それはどうですか……」
無体に加えて無礼者呼ばわりだ。
避けて無礼というとことは、礼を尽くすには一礼しながら
轢殺(れきさつ)されなくてはいけないのか。
【智】
「……人生は厳しい選択肢ばかりだ」
お時代的でお堅い我が母校では、初対面の相手にも礼を失することがないようにと常々いわれるのだけれど。
こういう不測の事態のマニュアルは与えてくれない。
【智】
「だからマニュアル型って片手落ちなんだよ」
愚痴愚痴と。
【花鶏/???】
「返してもらうわよ」
【智】
「まったく理解できません」
片手じゃなく両手オチくらい理解不能。
人とは日々己の限界と対話する生き物だ。
人類が獲得した言語というコミュニケーションツールの限界を
しみじみと痛感する。
【るい】
「……ほんとに心当たりないの?」
【智】
「そっちこそ、恨み買った覚えとかは?」
二人でこそこそと責任を押しつけ合う。
轢殺死体を増産したがる原付ライダーの恨みを買ってるという
立ち位置は……なんかやだ。
魂的にすんごく黒くて重い十字架。
【るい】
「恨み、恨み、恨み……恨みねえ……んー」
【るい】
「まあ、それはともかくとして」
【智】
「何故誤魔化すの!」
【るい】
「プライベートには口出しして欲しくない」
露骨に流された。
【智】
「円滑な社会を築くには情報の公開が必要だよ」
【るい】
「嘘も方便といいまして」
【智】
「はっきり嘘っていったー!」
【るい】
「あ、きた」
【智】
「ひゃわ!?」
闘牛みたいな勢いで単眼ライトが迫ってくる。
殺人原付。
【花鶏/???】
「返せーっ!」
逃げた。
【智&るい】
「「ひーーーっ」」
身に覚えのない罪だ。
不幸だ。呪われている。
【るい】
「階段!」
【智】
「ラジャー!」
生命危機に裏打ちされた以心伝心。
原付の蹴破った扉から、
下への階段に脱出を狙う。
罠だった。
逃げる場所が一カ所なんだから狙いうちなんて簡単だ。
原付は見事な先回り。
瞬間移動したみたいな位置取りで、
単眼ライトが僕の顔を睨みつける。
そこまでが、ほんの1秒。
足がすくむ。
その次の1秒。
風景がぐるりと回った。
感覚が遅れてやってくる。
倒れる前に顔が痛くなる。
前髪をサイドミラーがかすめていった。
るいに蹴られたらしい。
おかげで原付の衝突コースから弾き出されて地面に転がる。
【智】
「ぎゃぶ」
潰れたカエル風に呻く。
顔を上げると、
るいが腕を振りかぶっていた。
反撃のラリアット。
肘から先が見えない。
女の子の細腕が即席のハンマーと化す。
一瞬にすれ違う原付とるい。
必殺のラリアットは肩先をかすめただけだ。
なのに、
黒いライダーは進路の真反対にはねとばされた。
原付は真っ直ぐ走って壁にぶつかる。
――――――なんだそれ?
普通じゃない。
力じゃない。
おかしい。
はずれている。
【るい】
「――――ちっ」
るいが舌打ち。
ライダーは頭をかばって転がって、
そのままくるっと立ちあがる。
しぶとい……。
まともには食らっていなかったとしても。
それにしたって。
【花鶏/???】
「――この馬鹿力」
片膝をついたまま吐き捨てた。
対峙する。
距離を挟んで。
るいとライダーの視線が衝突する。
【るい】
「殺すよ」
〔気になるのは――〕
《るいのこと》
《レジェンドライダーに注目》
〔るいのこと〕
るいの顔はよく見えない。
ふたつの目だけが向かいのビルの火事を受けとめて、
炯々と光を放っている。
暗がりから睨む獣だ。
群れを率い、牙を研ぎ、
獲物を狙う肉食獣。
〔レジェンドライダーに注目〕
ライダーさんは針みたいな敵意の一方、
冷静に次の一手を思案している。
原付は、るいのずっと後方で、
ハンドルをおかしな方向に曲げて逆立ちしていた。
〔芳流閣、みたいな?〕
サイレンだ。
誰かが消防署に知らせたんだろう。
この辺りにだって普通に人は住んでいる。
すぐにこのあたりも野次馬と警察やらでいっぱいになる。
【るい】
「ちっ」
るいが僕の手を引いてきびすを返す。
戦線を放棄して逃走に移る。
平和主義には賛成です。
それにしたっていきなりだけど。
【智】
「ちょ、ちょっと――」
【智】
「どうしたの?!」
【るい】
「人が来る前に逃げないと」
【智】
「逃げるって、どうして」
【るい】
「警察に見つかったらヤバイでしょ」
【智】
「……そりゃ、不法侵入に不法占拠に家出っぽければね」
【るい】
「なんか言いたいことあんの?」
【智】
「とりあえず、僕は平気だから」
【るい】
「毒を食らわば皿までって言葉あるよね」
【智】
「……毒薬がいうこっちゃないと思う」
【るい】
「あー、それにしても火事だなんて。
荷物とか食器とか替えの服とか色々あったのに〜〜」
【智】
「ごまかした!」
【るい】
「ちょっとは憐れみと慈悲の心はないの?
生活用具のほとんどを失って、家からもたたき出された
可哀想な女の子が一人で苦しんでるのに」
【智】
「大変だなあ」
他人事風味で。
睨まれた。
怖かった。
【智】
「……とりあえず、どうするの?
警察がマズイんなら場所移そうか」
【るい】
「………………」
返事はなかった。
返事の代わりに。
【るい】
「きゅう」
るいは、倒れた。
【智】
「ちょ、ちょっと――――――?!」
〔一つ屋根の下〕
【るい】
「おー、これいける! ほうれん草のおひたしのさりげない塩味が上品で、新鮮な歯ごたえがしゃりしゃりと耳ざわりよく響き渡る感じ!」
【るい】
「卵焼きがプリチー! 焼き上がりはほんのりでべとつかなくて形もバッチし。ほかほかの猫マンマとの食い合わせが実にたまらなくて、私のお腹にキューンと訴える!」
【智】
「どこの美食な倶楽部の会員さん?」
そういえば、すべからくと耳ざわりって似てるよね。
どちらも誤読から、
本来とは違う使われ方が一般化してるあたり。
時間が経つと得てして最初の意味なんて忘れられてしまう。
【るい】
「二重丸をあげよう!!」
るいが、にまっと笑う。
お箸は持ったまま。
お行儀悪しで減点対象。
格好を崩して、がつがつとご飯をかき込んだ。
食べる。
健啖に食べる。
胃袋の底が抜けてるんじゃないかと思うくらいたらふく押し込む。
どんぶりだけでも3杯目。
さっきまで玄関で倒れていたイモムシと同一人物というのが
信じられない。
【るい】
「うまいぞーーーーーーーっ!!!」
左手のどんぶりが高く高くかかげられた。
背景に火山でも爆発しそう。
蛍光灯の後光を浴びて、それなりに光り輝くどんぶり。
いそいそと4杯目をよそぐ。
【智】
「3杯目にはそっとダシって知ってる?」
【るい】
「私、学ないんだよね」
【智】
「そうだろうと思ってた」
【るい】
「あ、これで最後なんだ……」
炊飯器の中が空っぽだった。
単純な計算だよワトソン君、食べたものは無くなってしまうんだ。
なんてことだ、そいつは新発見だよホームズ。
ちなみに僕は一口も食べてません。
【るい】
「最後………………」
世界の終わりくらい、
ものすごく悲しそうだった。
【智】
「……もう1回ご飯たく?」
【るい】
「えー、そんなの悪いよ、ダメだよ、
そこまでよばれたりなんてできないよ」
ものすごく嬉しそうだった。
なんとなく負け犬チックな気分でキッチンに立つ。
手早くお米を洗って炊飯器を早炊きにセット。
ぱんぱんと柏手を打たれる。
【智】
「なによ」
【るい】
「拝んでます」
手をあわせて伏拝されていた。
【るい】
「いやもう大助かり。ここだけの話なんだけど、
私、お腹すくと倒れちゃうんだよね」
【智】
「そんな漫画チックな体質、自慢げに告白されても困る」
【るい】
「死ぬかと思いました」
【智】
「僕は、ここに来るまでに何度も思いました」
【るい】
「そりゃ悲惨」
他人事のように述べる。
あの騒ぎの後――。
るいが倒れた。
どうしたのか、頭でも打ったのか、
実は黒いライダーの百歩歩くと心臓が
停止する必殺パンチが決まっていたのか。
【智】
「大丈夫?! ねえ、しっかり……しっかりしてって!」
【るい】
「お…………お腹、減った」
【智】
「ベタなオチだな、おい」
正解は空腹でした。
ガソリンの入ってない車は動かない。
お腹の減ったるいは動けない。
うんうん唸るグッタリした女の子を引っ張って、
途中でタクシーを拾って自分の部屋まで戻った。
ちょっと恥ずかしかったです。
【るい】
「ファミレスとかでもよかったんだけど」
【智】
「お金持ってるの?」
【るい】
「………………」
捨ててきた方が家庭平和のためだったろうか。
ファミレスを避けたのは虫の知らせもいいところだ。
食べ終わってお勘定になってから、
誰が払うのか血で血を争う不幸な結末になる可能性が
実に80パーセント。
【智】
「そんなに何も食べてなかったんだ、倒れるくらい」
【るい】
「毎日食費が馬鹿になんなくて……」
【智】
「ご飯がなければケーキでも食べればいいじゃない」
【るい】
「ケーキの方が高いよ、きっと」
【智】
「フランスのひとも罪だなあ」
【るい】
「人よりちょっと食べる体質だからって、
こんなにも生きにくい世の中に私は異議を唱えたい!」
起立、挙手、断固抵抗ストライキの構え。
ちょっと食べる体質。
【智】
「それってかなり控えめな表現だよね」
【るい】
「異議は認めません」
わりかし暴君だった。
【智】
「そんで、これからどうするの」
【るい】
「どうしよっかな」
【智】
「質問とか尋問とか事情聴取とか集中審議とか色々あるんだけど」
【るい】
「尋問か!」
【智】
「問い詰めとか」
【るい】
「もうちょい甘味のある方が」
【智】
「焼け出された身の上は甘くない」
【るい】
「寒い時代だよね……」
【智】
「まだ春だよ」
【るい】
「人の心のすきま風が身にしみる」
【智】
「おひつ空にするくらい食べたくせに」
【るい】
「で、次の、もう炊けた?」
朗らかにすり寄られた。
ほっぺたがぺったりくっつく。
尻尾を振って舐め出しそうな空気。
【智】
「まだです」
【るい】
「しゅーん」
【智】
「その前にシャワーしない? お互い真っ黒だし」
【るい】
「ほへー、よく気がつくね。智って嫁属性?」
【智】
「細かい気遣いは人間関係の潤滑油なのです」
【るい】
「むむむ、難易度高いこといわれた」
【智】
「わかんないだろうと思った」
【智】
「じゃあ、先にお風呂使ってよ」
【るい】
「えー、別にあとでいいよ。やっぱキミん家だし」
【智】
「そういうことだけ気つかわなくてもいいから。
ちょっとしか違わないんだし、さっさと汗流しちゃって。
僕はご飯の後片付けしてる」
【るい】
「…………片付けちゃうの?」
【智】
「…………今炊いてる」
【るい】
「うわーい」
喜色満面。
今にも踊り出しそうで、踊らない代わりに飛び上がって、
【るい】
「そんじゃ、ぱっとシャワー借りちゃう」
【智】
「はーい、ごゆっ――――」
脱いだ。
景気はよかった。
止めるまもなくワイシャツを脱ぎ散らかしてスカートを落とす。
【智】
「…………」
シャツの下は下着だった。
ぶらっと脱ぎ散らかした。
ブラだった。
手元に落ちてきた。
脱ぎたて。
【智】
「ほわた」
したっと履き捨てた。
下だった。
【智】
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
【るい】
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ?!!!!!」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【るい】
「な、なによ、突然大声だして?」
【智】
「ど、ど、ど、ど、ど、ど、ど」
【るい】
「トド?」
【智】
「どうして脱ぐのーーーーーー?!」
【るい】
「お風呂……」
【智】
「ここで脱いでどうするのーーーーー?!」
【るい】
「ど、どこで脱いでも一緒でしょ。
女同士だし、減るもんでもないし」
【智】
「減っちゃうのーーーーーーーーー!!!!」
【るい】
「…………」
るいが変なポーズで固まる。
猫騙しされた猫と同じだ。
隣近所の迷惑間違い無しの大声で、
配線がずれたらしい。
ごく自然に。
上から下へ目玉が動く。
意思は本能に逆らえない。
精神は肉体の玩具に過ぎないのだ。
視覚が対象を補足する。
白いうなじ、白い肩、白い胸――
よくしまった身体には贅肉らしいものはなく、
筋肉質というほどではないが鍛えられている。
機能としての完成系。
ある種の肉食獣をイメージさせる駆動体。
視線を引き寄せる磁力が強い。
さらに下へ。
新事実。着やせする形式だった。
〇八式ぼんきゅぼん。
殺人兵器級に出るところがでて引っ込むところが引っ込んでいる。
余所様の妬みとか嫉みとかやっかみとか歯ぎしりとかを
力任せに踏みにじるパワー。
【るい】
「……なに、いってんの?」
【智】
「は、はいっ!」
直立した。
不動だった。
頭のネジがストンと抜けて、
何が何だかわからない。
【るい】
「いやあ、だからさあ……」
【智】
「お、お、お――――――」
【るい】
「お?」
あっけらかんとした、るい。
あからさまで、開けっぴろげで、
真っ向すぎで。
ダメだと思うのに目を反らせない。
【智】
「おふろ、どうぞ」
【るい】
「うん? うん」
小さくなってバスルームの扉を指差す。
そっと示す。
事態の打開を図っての苦し過ぎる一手。
真っ赤になっているのがばれてないことを心底祈る。
【るい】
「……んじゃ、おさきにいただきます」
どうにも収まり悪そうに首を傾げながら、
白いおしりがお風呂に消えた。
【智】
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
冷蔵庫の角にがつがつ頭突きを決める。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け人という字を
掌に書いて飲み込んだら人生は幸福で
新たな世界がきっと開ける新世紀。
【智】
「よし、冷静に戻った!」
ぎゅっと拳を握りしめる。
ほのあったかい。
手の中に小さな布きれ。
上と下だった。
脱ぎたてピンクだった。
【智】
「にゅおにょわーーーーーーーーーーーー!」
【るい】
「そういえばさー、私の服……」
【智】
「……全部まとめて洗ってます」
【るい】
「さっすがトモちんよく気がつくー。いい奥さんになれるよね」
奥さんなんて、実に嬉しくありません。
【るい】
「そういえばさー、シャンプーと石けん……」
【智】
「そこにあるヤツ使っていいから。全部カラにしても問題なしで」
【るい】
「さっすがトモちん太っ腹ー。いい男つかまえられるよね」
いい男なんて、キャベツの芯ほどの価値もありません。
【智】
「ふんむ」
静かになったので思索にふける。
思考リソースを浪費していないと、
背中から聞こえてくるシャワーの音が
爆弾じみた破壊力で突き刺さる。
すぐそこに、女の子、
それも可愛い、しかも裸。
地雷だ。
【るい】
「ふんふんふん〜」
鼻歌まで聞こえてくる。
のんきの上に剛毅だ。
他人の縄張りには敏感かと思ったけど、
案外無頓着らしい。
【智】
「どうしたもんかなあ」
手と頭をマルチタスクで稼働させる。
食べ終わりの食器を水洗いしながら思考の原野を彷徨。
今日のひと騒動――
慌ただしい事実に優先順位を付ける。
確定していることとそうでないことに分割し、
それぞれ仮想の箱に放り込む。
関連性の直線を縦横にリンクさせてグループ化する。
母さんの手紙、るいの父親という人物、
その人物に関して複雑な感情を持っている(らしい)
るい、火事、黒い王子様はお姫様、そして轢殺されかかる。
【智】
「……刺激的な一日だったなあ」
【智】
「平穏無事と没個性を人生の理想にしたい。野良犬になるよりも、軒下で一日中寝てる飼い猫がいい」
【るい】
「そういえばさー」
【智】
「んにゅ」
【るい】
「一緒にはいろ」
【智】
「にゅにゅにゅにゅにゅ〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」
るいが手招きする。
脱衣所から身体半分つきだして、
おいでおいで。
【るい】
「トモっちも汗かいてんだし、一緒入った方がいいでしょ」
【智】
「よよよよよよよよ」
【るい】
「ヨヨ?」
【智】
「よくないよーっ!」
両手を真上に伸ばし、片足をあげる、
どこぞのお菓子メーカーさんご推薦っぽいポーズで錯乱する。
危険になる。
それなのに注視してしまう。
白とかピンクとか黒とか先っぽとか。
何もしていないのに、
いつの間にか後ろが断崖で退路がなくなっていた。
【智】
「きゃーきゃーきゃーきゃー」
【るい】
「いいじゃん。女同士なんだし、減るもんじゃないって」
【智】
「だから減っちゃうのーーーーーーーーー!!!!」
【るい】
「むお、なんかむかつく!」
【智】
「むかつかないむかつかない」
【るい】
「かくなる上は」
【智】
「上も下もないのお」
【るい】
「実・力・行・使」
【智】
「ひぃいぃーーーーーーーーっ」
るいが来た。
大魔神みたく肩で風きって迫ってくる。
手入れがぞんざいそうなわりには健気に育っている胸ミサイルが、たわわんと揺れた。
ピンク。
先っぽ。
【智】
「きゃあきゃあきゃあ」
【るい】
「えへへへへ、ここまできてうだうだいうんじゃねえ」
【智】
「やー、うは、や、やめてぇ、お願い許してぇ」
襲われる。
まずい、だめ、やめてやめて!
【るい】
「大人しくしやがれ、痛い目にあわないうちに脱いだ方が
身のためだぜぇ」
【智】
「きゃあ、きゃあ、きゃあ……だめえ、いやあ、よして、
結婚までは清らかな身体でいたいのぉ」
お願い許して堪忍して!
死んじゃう、僕死んじゃうからぁ……っ!
【るい】
「力で勝てると思ってやがんのか、ここまで来たんだ、
いいかげん諦めやがれえ!」
【智】
「おかあさーーーーーん!」
【智】
「……お願い、許して……」
【るい】
「ぬを」
涙目で懇願。
死ぬ気で抵抗したのにだめだった……。
汚されちゃった感じで力尽きる。
キッチンの床に押し倒されて、
右腕一本で縫い止められて。
熊とでも取っ組み合ってる気がした。
【智】
「僕、だめ、だから……」
喉に絡んで、
うまく声がでない。
乱れた服の裾から肌がもれるのを押しとどめようとして、
華奢な腕で自分を抱きしめた。
隠しきれない胸元から白い肌がのぞいてしまう。
【るい】
「を……」
生まれたままの格好のるいが、
のしかかっていた。
濡れ髪が額に張り付いている。
シャワーの雫を肌にまとわりつかせて、
すぐそこにある前髪から水滴が落ちてくる。
湿っぽい体温と石けんの匂い。
【るい】
「だ――」
【るい】
「だめ……て……」
なにやら剣呑な目つきをされる。
屍肉を目の前にした空腹のハイエナだった。
ちょっとちょっと……。
この局面でその目つきは。
意味不明な危機感に脊髄がちくちくする。
【智】
「その、僕……っ」
思考する。
思考せよ。
思考するとき。
この場を逃れる方法を――――!
このまま剥かれてお風呂に連れ込まれてしまったら、
僕の人生的な危機だ。
【智】
「ぼ、ぼく」
【るい】
「…………」
まな板の上の鯉気分で。
【智】
「……おっぱい、ちっちゃいから」
誤魔化す。
本当は胸なんてどっちでもいいんだけど……。
【るい】
「…………」
反応小。外しちゃったろうか?
【智】
「ひとに見られるの、恥ずかしくて……」
【るい】
「……ぁぅ……」
【るい】
「…………なんか、かわいい」
【るい】
「は、はわ?! ちょっと、なにいってんの私!
正気に戻れ、目を醒ませ!!」
なにやら、るいが苦悩しだした。
意味不明にぶるぶるかぶりを振っている。
意味不明度、幾何級数的に上昇。
それにしても生物学的神秘だ。
見た目の筋量から連想できない出力系。
実は骨格から異質な生物だとか、
背中にケダモノが宿ってるとか。
【智】
「……人間は考える葦である」
好奇心が刺激された。
手を伸ばして掴んでみる。
もにゅ。
【るい】
「にゃにゃ、にゃわ?!」
【智】
「やわらか手触り」
見た目同様十二分にやわらかい。
あのビルでもそうだった。ちょっと信じられない高出力系が、
この構造に隠されている。
【智】
「すごいね、人体」
【るい】
「そそそそそ、そーいう趣味、私ないから!!」
【智】
「は、はにゃ?」
掴んでいたのは、おっぱいだった。
【智】
「にゃーーーーーー!!!」
【智】
「あー、すっきりした」
お風呂に入ると疲労が節々からにじみ出てくる。
あがった瞬間一歩も動きたくなくなるくらいぼーっとつかっていると、大変な一日だったと実感がわいた。
恥ずかしいのでお風呂の中で着替えた。
【智】
「んで、どんな…………」
【るい】
「にゃわ、どっかした?」
ダイニングに戻る。
るいは、僕が貸したワイシャツ一枚羽織っただけの格好だった。
はいてなかった。
【智】
「あんの」
ロボっぽいぎこちなさで。
【るい】
「あいよ」
【智】
「なんで、履いてないの?」
【るい】
「洗濯してんでしょ。トモが洗ったんだし」
そうでした。
【智】
「替えとか」
【るい】
「荷物ほとんど燃えちゃった」
そうでした。
【智】
「ズボンとか」
【るい】
「面倒なんだよね、部屋でズボンとか履くの。ま、いいっしょ」
すごくよくないです。
地雷だと思ってたら核爆弾でした。
なまじ見えるか見えないかというフェチシズムと狙い澄ました
鉄壁のライン取りが危険度を急上昇させます。
白い布地の下に透ける色々なの、角度とか。
今ボタンの隙間から見えたのは確かにピンクだった気がする。
うなじとか太ももとかどうでもいいところが一々目に入ってきて
ワザとやってるのかと思う。
【るい】
「んでさ」
あぐらを組んでた足の位置を変えた。
見えた。
色々。
【るい】
「どったの、いきなりうずくまって?」
【智】
「どうしたのといわれても」
【るい】
「人と話するときはキチンと相手を見る!」
【智】
「ぎゃわっ」
首ごとグキッてされた。グキッて音した。本当にした。
【智】
「あう〜」
どうしても目にはいる。
見てはいけないと思っても超電磁の力で引き寄せられる。
考える。
ズボンを履かせる方法、下着を履かせる方法、
コンビニで下着を買ってくる方法、パジャマを貸して着せる方法。
【智】
「その……やっぱり部屋でも……裸って言うのは……」
【るい】
「すぐに乾くんでしょ、私の」
【智】
「うん」
【るい】
「それならいいじゃない、細かいことは」
細かいことなのか?
本当に良いのか?
そうだ、なんとなくいい気になってきた。
このまま素晴らしい世界に生きよう。
あなたの望むシャングリラへようこそ。
【智】
「……うん」
状況に流されて妥協的返答をする。
【るい】
「そういえば、トモってすっごい内股で座るんだ」
【智】
「人にはやるせない事情がいっぱいあるから……」
やるせなさすぎて、僕は僕が可哀想だ。
【るい】
「そんで、なんだっけ」
【智】
「そうだ、尋問!」
【るい】
「圧力的な単語だ」
【智】
「事情聴取」
【るい】
「警察っぽくて嫌だなー」
【智】
「我が儘度高っ」
【るい】
「それに事情っていわれても……なんの事情よ」
腕組みして、眉をよせて、ジト目をする。
【智】
「あの、黒い仮面のライダーは?」
【るい】
「悪の秘密結社と戦ってんのと違うかな」
【智】
「みつけたとかいってなかったっけ」
確かに言ったのだ。
みつけた、と。
僕か、るいか、あるいはその両方か。
彼女は捜していたのだ、
なんらかの理由で。
理由――。
原付で屋上まで上がってくる。
非常識な相手に追いかけられそうな、
その上、問答無用の轢殺死体にされかける、
そんな理由。
【るい】
「トモじゃないの?」
【智】
「平穏無事と没個性が生きる目標なんだよ」
あんな面白そうなものに心当たりはない。
【るい】
「没個性の方は、はなから無理っぽくないか、おい」
【智】
「目標は遠いほど価値があるって」
【るい】
「なんか難しいこといわれた」
【智】
「エセ哲学っぽい講釈はいいとして、るいは本当に心当たりとか買った恨みとか誰かを殴り殺して仇討ちされる思い出とかないの?」
【るい】
「……私をなんだとおもってんのよ?」
【智】
「…………」
言ったら怒りそうなので黙秘権を行使する。
【智】
「あの子、過激だったし、容赦なかったし、しかも狙ってたし……怨恨とか報仇とかそっち系の理由じゃないかと思うんだよね」
【るい】
「恨みかあ」
【智】
「逆恨みでも可」
【るい】
「まあ、たまに街でケンカしたりとか殴ったりとか蹴ったりとか投げたりとか捨てたりとか」
【智】
「………………たまに?」
【るい】
「………………たまに」
人生の不良債権が山積みだった。
【るい】
「んなこといっちゃって……トモは、どなの?」
【智】
「それって恨まれてるか話?」
【智】
「うーん、恨み恨まれ人生街道……」
【るい】
「世知辛い道行きだねえ」
【るい】
「ま、るいさんの眼鏡で見たところ、恨んでるひとはいんじゃないかって思うけど」
【智】
「そんなに悪そうにみえる?!」
金槌で殴られたくらいショックだ。
【るい】
「すっごくいい子に見える」
【智】
「もしかして誉め殺されている?」
【るい】
「人を恨むのってさ、善悪じゃないんだよね」
るいが膝を立てる。
見えそうで、見えない。
両手で足を抱いて丸くなった。
声のトーンが少しだけ落ちる。
それっぽっちで不思議なくらい華奢に感じた。
指先が床に頼りない模様を描く。
無意識っぽく。
きっと本人も気がついていない。
【るい】
「……いい人だから恨まれないとか、悪い奴だから恨まれるとか、そういうのって本当は違うでしょ」
【るい】
「よくても悪くても、原因があってもなくても、自分が知ってても知らなくても、お構いなしの関係なし」
【智】
「関係なし、か」
正そうとして恨むのではなく、
過ちに憎むのでもない。
差異にこそ怨恨は生成される。
理想との違い、自分との違い、
周囲との違い――あらゆる違いが引き金を落とす。
哀れな自己矛盾。
個性といい、自分自身という。
誰もが違いを求めるくせに、
誰も違いを受け入れられない。
感情の弾丸が飛ぶ先は最初から食い違っている。
【るい】
「人と違ったら違った分だけ恨まれ易くなるんだから。トモなんて、かぁいいから、知らないとこでどんだけ恨まれてたっておかしくないよ、きっと」
【智】
「やだなあ」
【るい】
「ストーカーに狙われたり」
【智】
「女の子でストーカーっていうのはどうなんだろう」
【るい】
「最近はそっちの趣味の子多いとかいわない?」
【智】
「理解できない」
【るい】
「……そうなんだ。トモは男の方がいいのか」
それも願い下げですけどね。
【智】
「ま、まさか!!」
震える手で、るいを指差す。
そう言えば、さっきの目つき……
るいにはそっちの趣味が――――!
【るい】
「ないないないないないないないない!」
身体全部で力説。
【智】
「ほっとしました」
【るい】
「困ったわね。どっちも心当たり無しなんだ」
レジェンドライダーブラックの正体は、
頑として不明のままだ。
【智】
「続きは明日にしよう。シャワー浴びたら疲れがドッと出た感じ」
まぶたが重い。
頭が接触不良でチカチカする。
【智】
「今日は泊まっていってよ」
【るい】
「いいの?!」
【智】
「他に行くあてとか」
【るい】
「ないない、全然ない、全部燃えてキレイさっぱり」
身軽さが素敵だ。
【るい】
「やったー、お布団のあるお泊まりダー!」
【智】
「お泊まり……」
単語を脳が咀嚼(そしゃく)する。
自分の発言した言語が、
致命的な切っ先になって自分の胸に突き刺さる一瞬。
我が家に、他人を泊めるという、事態。
危機管理の甘さがもたらした危機的状況に愕然とした。
【智】
「それって不味いよ!!」
【るい】
「なにが?」
きょとんとされる。
3秒で前言撤回するのは、
いくらなんでも気がとがめた。
その上、撤回すると放り出すことになる。
荷物もなく焼け出された家なし子を
危険な野獣のうろつく夜の荒野に投げ出して知らん顔。
いや、るいなら平気かも知れないけど。
良心がとがめた。
状況的に両親の方がとがめそうだ。
【智】
「いや、その、でも、ほら、女の子同士一つ屋根の下っていうのって、なんだか……」
【るい】
「なんかいいね、そういうの」
裏表のない顔で。
それで何も言えなくなった。
【智】
「………………そだね」
【るい】
「お泊まりかあ。なんか、わくわくする」
【智】
「なにがわくわく?」
【るい】
「初体験」
台詞でダメになりそう。
【るい】
「今までお泊まりとかしたことないんだよねー」
【智】
「そうなの……」
皆元るい。
変なやつだ。
家なき子の放浪者。
ベッドの上でクッションと遊びだす。
赤い夜の屋上で見た獣じみた眼をした生き物はどこにもいない。
どこにでもいそうな女の子が、
飾り気のないクッションを猫の子みたいに抱きしめている。
【るい】
「えへへへへ」
何が嬉しいのかニヤニヤ笑う。
【智】
「なによ?」
【るい】
「どきどき」
もっとダメになりそう。
【智】
「そんじゃ、お休みなさい」
【るい】
「えへへへへ」
【智】
「あの、さ」
【るい】
「なに?」
【智】
「一人、下に寝てもいいんじゃない?」
この部屋で寝る場所といえばベッドか床だ。
ソファーは使えない。
スプリングが壊れていて、
寝ると確実に身体が痛くなるからだ。
まさに絵に描いたソファーだ。
季節柄、床に寝ても問題はないはず。
【るい】
「いいじゃない、せっかくベッドあるんだから、平気でしょ、女の子同士なんだし、一緒に寝ても。私、ベッドひさしぶりなんだ」
【智】
「僕が下に――」
【るい】
「だめっ」
【智】
「ちょ、や、あかん、あかんの、ひっぱらないで〜」
【るい】
「なら、大人しくする」
【智】
「……はい」
【るい】
「ふかふかだあ」
【智】
「そりゃ、ベッドだから」
【るい】
「トモって感動が足りてない」
【智】
「人生なんて平穏無事が一番なの」
【るい】
「…………平穏無事か」
【智】
「まあ、それが一番大変なんだけど」
【るい】
「そだね」
【智】
「もう、きょうは寝よ。疲れちゃった」
【るい】
「うん」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【るい】
「あの、さ」
【智】
「…………」
【るい】
「トモって、なんか、かわいい」
【智】
「ぶっ」
【るい】
「やっぱ起きてた」
【智】
「はめられた!?」
【るい】
「へへへ」
【智】
「早く寝ないと……睡眠不足は美容の天敵」
【るい】
「ひさしぶりのベッド、なんだか寝つかれない」
【智】
「布団の方がいいなら」
【るい】
「……そういうんじゃないよ」
【るい】
「お布団のある生活って不思議だ」
【智】
「不思議じゃなくて普通だと思う……」
【るい】
「普通じゃなかったぞ」
【智】
「そっちが特別」
【るい】
「いっつも寝袋」
【智】
「女の子的に不都合っぽい」
【るい】
「むわ、また難しいこと言う」
【智】
「難しいんだ……」
【るい】
「家があるっていいなあ」
【智】
「るい、実家は……」
【るい】
「ないも同然」
【智】
「そう、なんだ……ごめん」
【るい】
「なにが? 別に本当のことだし。だから、ずっと放浪人生なの」
【智】
「この世は荒野っぽい」
【るい】
「あそこ、結構居心地よかったのになあ」
【智】
「あの廃ビル? 焼けちゃったね」
【るい】
「荷物だってそろえたのに。食器とか」
【智】
「バイタリティだなあ」
【るい】
「全部焼けちゃった……寝袋も持ってくるの忘れてたし」
【智】
「……明日からどうするの?」
【るい】
「んー、どうしよっかな」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【智】
「きゃわっ?!」
【るい】
「お、黄色い声」
【智】
「なにするのーっ」
【るい】
「指でツツー」
【智】
「そんなことはわかってます」
【るい】
「心温まるスキンシップ」
【智】
「温まらないよ、ゾクゾクだよ!」
【るい】
「心配しないでよ。私、そっちの趣味ないから」
【智】
「…………………………」
【るい】
「疑(うたぐ)るな」
【智】
「早く寝ようよぉ」
【るい】
「誰かと一緒に眠るってさ」
【智】
「……うん」
【るい】
「なんか変な気分」
【智】
「身の危険?!」
【るい】
「そっちじゃない」
【智】
「安心しました」
【るい】
「誰かがいるって、ほっとするかも」
【智】
「邪魔なだけだと思う」
【るい】
「そうかな?」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
音が途絶えて、真っ暗な部屋に自分以外の
体温と息づかいを感じながら、
ゆるい眠りの縁を漂泊する。
誰かの気配を部屋に感じるのは不思議だ。
縄張りを侵されている。
異物感と、違和感と、一滴の安堵。
どうして、ほっとするのか。
孤独ではないからか。
るいは先に眠ってしまった。
ずっと話していたそうだったのに、
いつの間にか自分だけ穏やかな寝息をたてている。
【智】
「自分ペースだなあ」
薄目で闇を透かす。
白い顔がびっくりするくらいに近い。
あまりに無防備な寝顔。
心臓が跳ねた。
【智】
「どうしようか、これから……きゃわ?!」
るいがしがみついてきた。
【智】
「にゃわ、にゃにゃわ、ちょ、ちょっとちょっと、ヤバイ、あぶない、それは危険なのーっ」
悲鳴。
反応無し。
眠っていた。
寝ぼけていた。
【るい】
「にゅー」
寝息が胸あたりから聞こえた。
ぎゅーとされる。抱き枕っぽく。
【智】
「にゃわ…………!」
心臓が不整脈みたいにガシガシいう。
シャツ一枚だけで下着も何もない身体の曲線が押しつけられてくる。
「ここ」にも「ここ」にもナニかが当たっていた。
こっちが胸でこっちが太ももで、腕と足を絡められて逃げられなくなった状態で、
意識を集中するともっと色々なモノが当たっているデフコン4状態がしっかりわかる。
【るい】
「んん……」
【智】
「にゃ、にゃ、にゃ、にゃ」
いつも使っているシャンプーの香りなのに、とても甘い。
混じった肌の匂いが鼻腔をおかしくする。
完全に寝ぼけていた。
寝相は悪かった。
すりすりされた。
人生の危機。
【智】
「きゃーーーーーーーーーーーー」
(平気でしょ、女の子同士なんだし、一緒に寝ても)
涙する。
平気じゃない、全然平気じゃないよ。
なぜならば!
――――僕は、女の子じゃないのだから。
〔後ろの彼はツンデレヒロイン〕
【ニュースキャスター:女性/ニュース】
「昨日午後6時頃、田松市でビル火災が発生しました。火災のあった地域は、中断している市の再開発指定区域でしたが、放置区画として問題になっており、」
【ニュースキャスター:男性の声1/ニュース】
「朝日です。現場付近に来ています。現在の時刻は午前7時。火災から一夜明けて、ここから見るとビルの無惨な姿がよくわかります」
【ニュースキャスター:男性の声1/ニュース】
「早期の消火には成功したものの、長らく無人区画として放置されてきたこの一帯には多数のホームレスが押し寄せており、問題を先送りにしてきた行政の怠慢が、」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「ようするに全ては政治の怠慢ちゅーことですわ」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「以前の市議会がどんぶり勘定でやらかした再開発計画がものの
見事に頓挫して以来、ほったらかしにしてたのは連中ですからな」
【ニュースキャスター:男性の声2/ニュース】
「はじまりもそうなら終わりもそう。とにかく政治家ちゅーのは
いい加減なもんですけれど、」
【智】
「とわっ!?」
空から落っこちた。
飛んでいられたのは夢の中だけだ。
おでこを打って引き戻され、居眠りから目が醒める。
【宮和】
「――にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました」
【宮和】
「見ると、もうじつに、金剛石や草のつゆやあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、」
【宮和】
「その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光のさした一つの島が見えるのでした」
【宮和】
「その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいいか、」
【宮和】
「すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした」
【智】
「はにゃ……」
ようするに授業中。
断線した記憶回路の再接続を見計らって、
真後ろの清廉な朗読が一区切りついた。
黒板を切り刻むチョークの切っ先がピタリと静止する。
教師の背中に睨まれた気がした。
【智】
「……ぁぅ」
【教師】
「冬篠さん、結構です。では、次の方」
【宮和】
「はい」
失態は見過ごされたようだ。
かくて優等生の看板は今日も維持される。
ほっと一息。
【宮和】
「珍しいですわ、和久津さまが授業中に違法行為だなんて」
【智】
「居眠りって違法だったんだ」
教師は見過ごしても、
後ろの席のチェックが厳しい。
【宮和】
「清く正しい和久津様が、違法なことごとに手を染められるには、やむにやまれぬ事情があろうかとお察しいたしますが」
【宮和】
「昨日は徹夜でどのような犯罪行為を?」
【智】
「僕ってそんなに怪しげなことしてんの!?」
【宮和】
「違法行為をなさるのは犯罪者の方なのでは」
【智】
「だから夜も違法なことをしているはず?」
【宮和】
「さすがは和久津さま。一を聞いて十を知るとは、
まさにあなたさまのためにあるような言葉なのですね」
後ろの席の冬篠宮和は大まじめだ。
普通の真面目とは毛色が違う。
マルチーズとマルチメディアくらい違う。
困ったことに本人的には本気の本気だ。
人呼んで、天才さん。
天災さんという噂もちらほら。
天災さんは成績勉学の類なら人後に落ちない。
孤高の優等生様も、天災さんの足下にしか及ばない。
【智】
「……珍しいね。宮が授業中に話しかけてくるなんて」
宮和は授業が好きだ。
勉強ではなく、知識を蒐集(しゅうしゅう)して頭の中に
並べるという行為が好きなのだ。
【宮和】
「和久津様の奇行に、謎を解明せよと指令を受けました」
【智】
「そんなヤバイ指令、誰から受けるの?」
【宮和】
「好奇心は猫を殺すのです」
【智】
「脅迫された……」
こそこそとハンカチで涎を拭う。
居眠りの証拠を隠滅し、
居住まいを正して背筋を伸ばす。
優等生のできあがり。
【教師】
「結構です。では、次は――――」
誰かが教科書の頁をめくる。
乾いた紙の音が波紋のように部屋に広がって凪ぐ。
黒い頭が規則正しく配列された教室は静かにすぎた。
教室の水面から、
自分がぽかりと浮かび上がる、
いつもの気分を咀嚼(そしゃく)する。
授業の内容は意味のない暗号で、
黒板には酔っぱらったミミズがのたうちまわっている。
教室と僕。水と油だ。
なのに、混じり合わない自分が、
代わりに作った優等生の仮面は、思いの外にできがよかった。
見抜いた人間は3人しかいない。
宮はその一人だ。
仮面は誰もがかぶる。
自分と世間の折衷点を定めてやっていく。
半分は本気で、半分は必要に迫られて。
折り合えない異物は排斥される。
集団の力学というものだ。
僕は地雷だった。
地雷であることを止められなかった。
和久津智。
南聡学園2年生『女子』。
生物学的には『男子』。
それが僕の秘密だ。
仮面の裏側だ。
死んだ母親の言いつけに従って、僕は男であることを隠して、
女の子の振りをして、世間を偽り生活している。
男の子のくせに、女の子の席に座っている。
学園の名簿や入学証明の書類には「女子」で記載されている。
学園のトイレは女の子の方に入る。
体育の授業は時々欠席する。
身体検査や水泳の類を如何にクリアするかは一大イベントだ。
世の中と人生には、
好き嫌いを越えてままならないことが山ほどある。
水は低きに流れる。
集団の力学は隙間をうかがい、常日頃から目を光らせている。
返す返すも残念なことに、揚げ足を取られる覚えは、
プレゼントで配りたいくらいあった。
細い綱を踏み外したら奈落の底へ一直線。
潜在的な異物が、
異物であることから逃れるための方法は二つしかない。
植物になるか。
空を飛ぶか。
【宮和】
「お顔が芳しくありませんわ」
【智】
「お顔の色が、です」
【宮和】
「宮にはわかってしまいました」
【宮和】
「お貸ししましょうか?」
宮がごそごそとカバンの中を探る。
ブルーな心配のされ方だ。
【智】
「持ってますから!」
【宮和】
「それはようございました」
ブルーブルーな気分で、
親の仇のようにノートを取る。
集中できない。
まぶたの裏に、裸Yシャツがベッドの上で
あぐらをかいて陣取っていた。
るい――どうしているだろう。
焼け出された家なき子。
これからどうするつもりなのか。
予定も計画もなにも考えてない様子。
気任せ風任せ。
どこまでも刹那的な、鉄砲玉。
【智】
「珍しいついでに聞くんだけれど」
【宮和】
「なんでしょうか」
【智】
「宮は、犬とか猫とか拾う方?」
【宮和】
「あわれで無様な野良犬に情けをかけたために、昨日の和久津さまは徹夜なさったのですか」
僕がとてつもない人でなしに聞こえる。
【智】
「日本語ってやだねえ」
【宮和】
「美しい言語でございます」
【智】
「ところで犬の話です」
【宮和】
「あわれで無様な」
【智】
「枕詞なんだ」
【宮和】
「お拾いになられたのですか」
皆元るい。
家を出る時にはまだ寝てたから、
起こさずに来た。
家を出るなら、鍵をかけてポストの中に
入れておいてくれと、合い鍵とメモを残してきた。
【智】
「……歯止めつけないとまずくなりそう」
成り行き任せの状況が成り行き任せに進行している。
【宮和】
「反省なさっておられるのですね」
【智】
「段ボール入りの犬とか拾ったら、宮はどうするの?」
【宮和】
「持ち帰ってご飯を食べさせて一緒にお風呂に入って洗ってから同じベッドでお休みしまして、起きたあとにネットで里親を捜すことにいたします」
【智】
「ものすごく具体的だ」
おまけにネットときた。
今日日珍しくもないが、宮和と電子世界では食い合わせが悪い。
鰻と梅干しだ。
【智】
「立ち位置のパブリックイメージってあるよね」
【宮和】
「私はパシフィックリーグのファンでございますよ」
【智】
「アナログに生きて」
【宮和】
「何の話題でしたでしょうか」
【智】
「犬の話」
【宮和】
「翌日登校しましたら、和久津様に犬を飼うことを勧めるために手段は選ばないことをお約束します」
心の底から朗らかに。
【智】
「そんなに僕に回したいのか!」
【宮和】
「水は低きに流れるものなのです」
【智】
「僕の方が低いんだね!?」
【宮和】
「言ってよろしいのですか」
【智】
「言わないでください、お願いですから」
【宮和】
「さようですか」
もの凄く残念そうにされた。
【宮和】
「本音はさておきまして」
【智】
「冗談と言うべきところじゃない?」
【宮和】
「犬をお拾いになられたのですね」
【智】
「……おおむね」
【宮和】
「さすがは和久津様です。孤高の秀才として高嶺の花と謳われながら、雨に濡れて痩せこけた野良犬を優しく抱き上げて連れ帰る、まさにツンデレの鑑」
【智】
「……どこから持ってきたの、その四文字熟語」
【宮和】
「ネットで、知人に、勧められました」
情報化社会の悪癖だ。
【智】
「勧められたって、四文字熟語?」
【宮和】
「成年向けゲームを」
【智】
「…………」
【宮和】
「…………」
【宮和】
「ぽっ」
楚々と赤面される。
楚々とされても、ツッコミどころが多すぎてどこから突っ込めばいいのか意味不明だ。
【智】
「……勧めるような、男の知り合い、いるんだ」
特殊系孤立主義者の宮が、そういう知り合いを持っているというのが、そもそも驚きだ。
【宮和】
「女の方ですよ」
【智】
「…………」
何年経っても、男の子には女の子がわからない。
【後輩1】
「先輩、さよならー」
【後輩2】
「失礼しまーす」
【智】
「ごきげんよう」
放課後。
脇を駆けていく下級生が慌ただしく頭を下げる。
背筋を伸ばす。
クールに受け流す。
きゃらきゃらとした黄色い声の春風。
優等生っぽく流れていく。
従容とした足取りは乱さない。
走るなんてもっての他。
金看板には制限が多い。
【宮和】
「今日はお急ぎなのですね」
【智】
「わっ」
宮が足音もなく出現する。
【智】
「いっつも心臓に悪い」
【宮和】
「体質なのです」
【智】
「……なにが体質?」
【宮和】
「それよりも」
【智】
「流された!」
【宮和】
「お急ぎでございますか」
【智】
「……事情がありますから」
不思議な鋭さが宮にはある。
外面を貫いて、洞察の手を伸ばす。
いつもよりほんの少しだけ早い足取りが、バレていた。
【宮和】
「さようでございました。和久津様はあわれで無様な野良犬をお拾いになっておられたのですね」
【智】
「本人には聞かせられないなあ」
もにょりながら、上から3番目の下駄箱を開ける。
【宮和】
「今日は控えめですのね」
本日の日課は3通だ。
色とりどりの柄の便せんが、下駄箱に収まった革靴の横にそっと忍ばせてある。
差出人は男子と女子がおおよそ半々。
中味は8:2の割合でラブレターと悪戯だ。
【智】
「哀しい」
【宮和】
「喜ぶべきものではないのですか」
【智】
「半月ほど前には、前世の恋人からお前を殺すって愛の告白をされたよ」
【宮和】
「素敵ですわ」
【智】
「そんな素敵がいいなら差し上げます」
【宮和】
「そういえば、和久津様はほとんど読まずに丸めてポイされておられますね」
【智】
「……何で知ってるの」
【宮和】
「愛の力ですわ」
哀っぽい。
僕は地雷で、地雷であることを止められない。
潜在的な異物が、異物であることから逃れるための方法は
二つしかない。
植物になるか。
空を飛ぶか。
つまり――、
目立たないようにひっそりするか。
振り切って高みに一人で胸を張るか。
選択肢はあっても、
得てして選べるほどの自由があるとは限らない。
人生は難題の連続だ。
【宮和】
「やはり和久津様はツンデレ様なのですね」
【智】
「様を付ければいいというものでもないです」
客観的に判断して、和久津智は「可愛い女の子」だった。
生物学的な差異は棚上げで。
没個性な一個人として植物のように穏やかに集団へ埋没するという、幸福かつ安易な選択肢がない。
宿命づけられていた孤高。
孤高というと聞こえがいいけれど、望まぬ孤高は孤立となにも
変わらない。
安直かつ危険な環境だった。
異者は、異なるという一点だけで排除の力学に晒される。
必要なのは溶け込むこと。
敵を作らず、味方を踏み込ませず。
二重スパイもカルト宗教の信者も、
秘密保有者の一番のハードルは、そこだ。
僕には、そこからさらにもう一つ。
目立たないという最善が不可能なら、
集団の力学に対抗し得る自衛力を確保しないといけない。
ステータスが必要だ。
クールで、孤高の、優等生。
【宮和】
「…………」
【智】
「どうかしたの?」
熱視線。
視殺されていた。
【宮和】
「見惚れておりました」
今にも殺しそうな視線だったけど。
【宮和】
「お美しいですわ、ツンデレ様」
【智】
「その名前やめてください。
四文字カナ名は安易なレッテル張りへの最短コースです」
【宮和】
「可愛いと思うのですが、ツンでデレ」
【智】
「デレがないです。ツンもあるかどうかわかんないです」
【宮和】
「難しいものでございますのね」
【智】
「難しいんだ……」
【宮和】
「和久津様のところになら、王子さまも現れそうでございますのに」
【智】
「王子さま」
白馬の王子さまに迎えられるところを想像してみた。
死にたくなった。
【智】
「願い下げです」
【宮和】
「残念ですわ。美しい方を連れ去るということですから、和久津様ならきっと選ばれるだろうと心待ちにしておりました」
【智】
「……? それは王子さま違うのでは」
身代金誘拐犯?
【宮和】
「ネットの巷にそのようなお話が。
黒い王子さまは女の方を連れ去るのだと」
都市伝説の方だった。
【智】
「黒いのは懲り懲りだよ。胸焼けがする」
【宮和】
「返す返すも残念でございます」
【智】
「……連れ去られて欲しいの?」
【宮和】
「言ってよろしいのですか」
ちなみに。
宮和はどこまでも真剣だ。
〔失われた伝説を求めて〕
昔々ではじまるお話の類だと、拾ってきたナニモノカは、
おじいさんが畑に出た隙に姿を消すことがままある。
一晩寝て起きて、学園という日常を通過して。
頭が冷えた後。
なにも言わずにふらりと彼女が去ってしまったら――
悩みが一つ消える。
皆元るい。
拾ってきた野良犬みたいに、
突然消えてしまってもおかしくない毛並み。
予定がない、未来がない、根っこがない、当然家もない。
一緒にいるとロクでもない事がやってくる。
火事にバイクに都市伝説に妖怪大食らい。
呪いの磁石はどちらだろう。
平和を希求した。
住み慣れた部屋の扉をくぐる。
惨殺現場になっていた。
【智】
「うわぁ」
玄関に、るいが死んでいる。
身体を無惨なくの字に曲げて、地面を掻いた指先が踏み込んだ足のちょうど手前で力尽きていた。
夏の終わりの蝉の死体を思い出す。
【智】
「……死んでる?」
【るい】
「わおん」
死体が情けなく吠えた。
【智】
「お腹減ったんだ?」
【るい】
「ばうばう……」
【るい】
「うまいぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
復活した。
乾燥ワカメ並みの復元率だ。
【智】
「ちょろい」
【るい】
「なんかいった?」
【智】
「とんでもありません。おいら神様です」
【るい】
「意味不明です」
【るい】
「なんて顔してんの。もしかして、お味噌汁にゴキブリでも入ってた? するとこれは危険な黒いミソスープ?! やばっ! でも、とっくに食べちゃったし……」
【智】
「わりと呆れてるんです」
【るい】
「なーんだ」
あっけらかんと食事再開。
図太い。
砂の山を削るみたいに山盛り白米が消えていく。
あの細い身体のどこに収まってるんだろう。
女の子には秘密が一杯だ。
【るい】
「もぎゅもぎゅもぎゅ(ホントに死ぬかと思いました)」
【智】
「食べながら喋らない」
【るい】
「もぎゅもぎゅもぎゅ」
……喋らなくなった。
【るい】
「ごちそうさまでした」
【智】
「おそまつさまでした」
るいが手を合わせて、感謝の祈り。
偶像扱いされた。
【るい】
「いんやー、トモちんご飯つくるの上手だから食が進んでしかたないよねー。太らないかどうか心配」
【智】
「あれだけ食べて太らないなら、そっちのが心配だって」
【るい】
「私、これでも無敵体質」
【智】
「漫画体質の間違い」
【るい】
「それはどうか」
【智】
「だいたい倒れるまでお腹減らさなくても、冷蔵庫開けて何か食べてればよかったのに」
【るい】
「私だってプライドあるっす。一宿一飯の恩義をあだで返すような真似はできんでげす」
出されたお米ならおひつを空にするのはOKらしい。
行動規定の基準が今ひとつ理解しがたい。
【智】
「どこの生まれなのかでげす」
【るい】
「げすげす」
高度に暴君的な胸をはる。
たわわ。
昨夜比1.5倍に実り多き秋。
【智】
「…………なんで、つけてないの?」
薄手の布地がいい感じに透けていた。
オブラート梱包生乳。
【るい】
「部屋ン中だと面倒だし」
【智】
「つけてください」
【るい】
「えー」
反論を黙殺する。
ベランダから出がけに干したブラを取ってきた。
手にしたピンクの布きれに複雑な所感を抱く。
女の子の格好をして世間を偽るのと、女の子の下着を洗って
差し出すのは違う。けたたましく違う。
【智】
「初体験……」
恥ずかしタームにどっきどき。
【智】
「にしても」
【智】
「……一人残して出たのはやばかったな」
半日を回顧して、わからないよう舌打ちした。
部屋に、るいを残して、外出した。
迂闊な。
部屋に来る友達なんて何年もいなかったから、そこまで気を
回さなかった。
他人は欺(ぎ)瞞(まん)できても生活は偽装はできない。
テリトリーでは無防備になる。
秘密の漏洩の危険性――。
探すつもりがなくても、何かの拍子に証拠が目に入ってしまう
ことだってある。
【智】
「ばれなかったみたいだし、ツキは残ってるか」
【るい】
「なんの話?」
【智】
「うんむ、焼き討ちされたりお犬様ひろったりっていうのは、
ツイているとは激しくいえない気が」
どっちかいうと悪運ぽいよ。
【るい】
「意味不明(ノイズ)な言動してるね、トモちん」
【智】
「人生とは一人孤独に受信するモノですから」
【るい】
「まあね」
るいにしては意外な返答がひとつ。
軽い調子の同意には、複雑な色が彩色されていた。
単純な賛同とも違う。
表現しがたい。
【智】
「とりあえず」
綱渡りはクリアした、今日の所は。
石橋を叩いて渡る主義でも、
足下が危ない橋だと気がつかなければ真っ逆さまだ。
知ること。
無知と未知が恐怖を産み落とす。
注意が必要だ。
手に汗を握りしめた。
布製の感触。
ブラだった。
【智】
「ぶらっ」
【るい】
「なにやってんの?」
【智】
「お、お手玉」
【るい】
「ブラジャーだっつーに」
【智】
「……はい、付けて」
差し出した。
【るい】
「キツクてめんどっちーのよね」
【智】
「キツいのですか」
【るい】
「サイズちっさいから」
【智】
「おっきーのすればいいじゃない」
【るい】
「そうすっと今度こっちが邪魔に」
両手で扇情的にすくい上げて、たわたわする。
Yシャツが内部から質量に圧迫され、これ見よがしに
テントを張っている。
【智】
「持てる者の傲慢だ!」
全国のプアーたちの代弁者として立ち上がるときが来た。
【智】
「格差社会打破! 怒れる乳(ニュー)エイジプワーたちよ、今こそ
全世界同時革命を!!」
【るい】
「押さえてんだけど健気に育つんだよね」
【智】
「邪悪なチチにはダイエット推奨」
【るい】
「食こそ我が喜び」
人は理解し合えないのココロ。
火花を散らし、アメリカンに拳をゴスゴスぶつけて合って対立する。
【るい】
「でも、食べると胸だけ増えるんだ、これがまた」
【智】
「殺されても文句の言えない体質」
【るい】
「だから無敵体質と」
【智】
「世界って残酷だなあ」
【るい】
「というわけだから」
【智】
「ダメ、付けないとダメ」
誤魔化されない。
【るい】
「……トモって、なに、もしかしてお堅いひと?」
【智】
「女の子たるもの、そのあたりはしっかりしないと」
ヤバイのです、主にこちらが。
【るい】
「しょぼん」
るいが尻尾を下げる。
肩を落として、見るからにしょぼくれて、
ぬぎっと脱いだ。
【智】
「にゃわっ」
【るい】
「うんしょっと」
【智】
「もももももももーちょっと行動にはタメが必要ですよ!」
【るい】
「思いついたら吉日で」
【智】
「それって刹那的なだけ……」
【るい】
「こうして、こうして、こうして」
【智】
「……」
大きなものを小さなケースに収めるテクニック講座。
いけない!
見ては駄目だ!
相手が知らないことにつけ込んでなんてことを!
お前のしていることはノゾキや痴漢と同じなんだぞ!
この恥ずべき赤色やろうめ!
最低だ!
【るい】
「完成」
最後まで見てしまいました。
【るい】
「おっきいのも結構大変なのだよ」
【智】
「るいってナチュラルに恨み買うタイプだね、きっと」
【るい】
「別に自慢じゃないよ?」
【智】
「自分は、そういうのにこだわらない方ですけど」
【るい】
「さっき世界同時革命……」
【智】
「代弁者である僕と主体である私の間には超克なし得ぬ乖離(かいり)が存在するのであります」
【るい】
「むお」
クエスチョンマークをたくさん飛ばしていた。
扇情な生チチ。
女性らしいまろみとふくよかさを備えながら、類い希なる緊張に
よって黄金律の曲線を維持した天工の生み出した至高の逸品。
とっても美チチでした。
まあ、大したことはない。
だって見慣れているのだから。
学園でも、ほとんど毎日、
目撃する機会に遭遇する。
立場上、女の子なのだもんで。
日常と異常を区別するのは頻度の差でしかない。
どんな異常も繰り返せば日常化する。
慣れる。
女の子は異性の目がなければ、
あけっぴろげだ。
大口を開ける、スカートをばさばさする、
下品な話題でもりあがる、食うし出すし。
何年もの間、毎日直視してきた。
幻想の終焉と楽園の喪失。
大人への階段を一つ上ったのは、随分と前。
女の子には限らない。
誰だってそうだ。
他者の目に映る自分を大切にする。
装う。
世界にいるのがただ一人なら、
自分を律する必要がどこにあるだろう。
【るい】
「んにゃ、熱でもあるの、顔赤いよ?」
【智】
「ななななななんでもありませんからっ」
【るい】
「そ、そう」
【智】
「そう!」
それなのに、恥ずかしい。
学園の誰かを目撃するよりも、
ずっと羞恥心が刺激される。
付き合いの浅い相手というのが
脳内物質の分泌を促すのか。
物理的にも、すごく近い。
母上様、チチの悪魔は実在するのです。
【智】
「それよりも」
【るい】
「なによりも」
【智】
「昨日の話の続き」
【るい】
「話といってもたくさんありまして」
【智】
「るいのお父さんが」
【るい】
「死んどりますがな」
【智】
「お手紙の件で」
【るい】
「白山羊さんが食べちゃいました」
【智】
「……嫌いなんだ、お父さん」
【るい】
「好きか嫌いかっていうより……」
横座りに足を崩して、
後ろに手をついた。
目のやり場に困って視線を漂わせる。
るいは天井を見上げた。
天井でないどこかを見ていた。
【るい】
「どうでもいいのよ。親らしいことしてもらった記憶もないし、
気がついたら死んでたし」
【智】
「アバウトすぎだね」
【るい】
「トモのお母さんの手紙だっけ? どういう付き合いがあったのかわかんないけど、生きてても、手助けしてくれるような気の利くひとじゃなかったよ」
【るい】
「だいたいさ、何を助けてもらうのよ」
【智】
「……ひ、み、つ」
【るい】
「いーやーらーしー」
【智】
「なにがよ」
【るい】
「トモってエロいの」
【智】
「ちがうもん」
【るい】
「うちらの間で隠し事なんてさ」
背中をつつー。
【智】
「やうん、やん……そ、そんなこと言ったって、昨日会ったばかりだし……ぃっ」
【るい】
「連れないナー」
【智】
「……何か聞いてない、それっぽいこと?」
【るい】
「無理矢理話を戻したね」
【智】
「遺言とか資料とか貸金庫の鍵とかおかしな写真とか」
【るい】
「政治家の秘書が自殺しそうな事件の重要参考人っぽく?」
【智】
「そうそう、残り30分で現れて重要な手がかりを渡してくれる
感じで」
【るい】
「でも、その頃なら2回目の濡れ場はいるよね〜」
【智】
「どっちかいうと、主人公の手下の新米がいらない所に首突っ込んで消されたりして」
【るい】
「そんで怒りに火のついた健さんが
ドスもってカチコミにいっちゃうんだよね!」
【智】
「それサスペンスじゃないから」
【るい】
「私はそっちの方がいい」
タコチューみたい唇をにとがらせる。
人と人はますます解り合えないのココロ。
【智】
「るいさんは、単純明快人情主義と力の論理がお好みですか」
【るい】
「どっかんばっきんどごーんがいいっす」
【智】
「米の国だね」
【るい】
「そうだ、そんで思いだした!」
突然起立した。握った拳が震えていた。
【るい】
「何がむかつくってやっぱりあの黒塗りライダーが超ウゼーつーか、憤怒燃え立つ大地の炎よ復讐するんだハンムラビ法典って感じだと思わない?!」
時々やけに豊富になる語彙の数々は、るいのどこに格納されているんだろう。
【智】
「やっぱ胸かな」
【るい】
「あーいーつー」
業火をしょっていた。
轟々と聞こえない音で燃え上がり、
天をも突かんと紅蓮に染まる激情。
【るい】
「あいつのせいで、家はなくなる、荷物はなくなる、服まで
なくなる、教科書の類はまーどっちでもいいけども」
【智】
「ダメっこだ」
【るい】
「とーにーかーくっ」
【るい】
「全ての諸悪の根源はアイツっ。火事だってアイツの仕業だ。
そうだそうだ辻褄あうじゃない。謎は全て解けました。
犯人はア・ナ・タ!」
【るい】
「ポストが赤いのも救急車が白いのも私のお腹が減るのも全部全部アイツのせいっ」
決定した。
腹がくちたので断罪に走った。
善哉善哉。
裁きの神よ、ご笑覧あれ。
(誤字にあらず)
【智】
「ということは、るいさんや。どのようになさるのですか」
るいは、まっとうな返事もせずにニヤリと笑う。
【るい】
「行ってきます!」
きっと表情を引き締めたまま。
弾丸みたいに部屋を飛び出した。
部屋に平穏無事が戻ってくる。
【智】
「がんばってねー」
忌まわしき都市伝説に正義と論理の鉄槌を加えてください。
あ、やっぱり帰ってきた。
【智】
「おかえりなさい」
【るい】
「……服ください」
〔シティーハンター〕
街に出る。
るいの都市伝説探しに付き合って。
三角ビルのショーウィンドウ前を横切ると、
さび色の前衛彫像に見送られる。
【るい】
「トモって付き合いいいよね」
【智】
「そうかな」
【るい】
「だよだよ」
【智】
「学園ではクールな旅人のはず」
【るい】
「どっか旅行してんの?」
【智】
「素ボケ?」
【るい】
「なにが?」
素だった。
筋金を入れて鉄板補強したくらいのボケ体質だ。
【智】
「実は長い人生という旅路を……」
【るい】
「テツガクってヤツだね〜」
感心される。かえって肩身が狭い。
自分の弱みを攻め手に換える。手強い。
【るい】
「うん、これが友情ってやつですか」
【智】
「昨日会ったばかりですけど」
るいは、あてもなく流れていく。
風にまかせ、人混みにまかせ。
このまま先導を任せていると、
都市伝説との遭遇がいつになるかは、
神のみぞ知るだ。
困った。
傷つけ合うほど知り合ってはおらず、
見捨てていくほど薄情にもなれない。
それでも、猫の子と同じで、三日飼ったら情が移る。
昔の人はうまいことを言った。
【るい】
「一目惚れがあるんだから、一日でできる友情があってもいいと
思わない? 心は時間を超えていくんだよ」
いい台詞すぎて皮肉かと思う。
【智】
「情は情でも哀情」
【るい】
「愛っ!?」
たぶん字が違っている。
【智】
「あい違い」
【るい】
「あいあい」
【るい】
「そういえばさ、女の友情って男で壊れること多いんだって」
ねちっこい話題になった。
【智】
「いきなり壊れてどうするのさ」
女じゃないから大丈夫です。
【るい】
「形あるものは、どんなモノでも、いつか壊れるんだね」
【智】
「壮大な話だねえ」
友情に形はあるのか。
難しい命題だ。
【るい】
「投げやりだな、トモってば」
赤。
夕刻。
街は茜色にけぶる。
夜が近くなっても街は眠らない。
黄昏の霧にも負けない騒々しさ。
煮立った釜の中味はネオンと騒音と
得体の知れない鼻を刺す匂いと人の群れ。
昼間はいくらか強かった風もとっくに止んでいる。
赤。
歩道を歩いた。
街にはノスタルジーの色彩が君臨する。
夜までのつかの間にたちこめる移ろいの色だ。
夕映えがオレンジにしたクセの強い髪の毛先を、
るいは無心にいじっている。
【智】
「落ち着きない」
【るい】
「むお」
ふくれられた。
【るい】
「じっとしてるとダメになるんだよぅ」
【智】
「サメですか、きみは」
【るい】
「私はシャケの方が好きだなあ」
【智】
「誰が晩ご飯の話をしてるの」
【るい】
「してないんだ……」
腹ぺこ領域に踏み込んでいた。
燃費の悪いワガママなボディーだ。
二車線の車道を、
乗用車の列が途切れなく流れる。
店先からの音楽、人の会話、エンジン音――
いつ来ても意味をなさないノイズとノイズとノイズ。
熱にうかれたコンクリートと、冷たく堅い人間たち。
猥雑な街の夕暮れ。
街には秩序と混乱が平行する。
交点だからだ。
すれ違う、交差する、
ぶつかり合って跳ね飛んでいく。
人。物。情報。
生きているもの、死んでいるもの、
区別なく入力され、変換され、出力される。
流離し、漂泊する。
ときには絢爛、ときには退廃。
昼なお暗く、夜にも目映い。
これが駅向こうに回ると、
さらに大したものになる。
担任の古橋教諭が学生たちの出入りを見かけたら、
世を儚んで辞職を考えるだろう。
お堅い古橋教諭は、自分の子供に国営放送と
教育番組しか見せないのだと自慢していた。
子供は親を選べないという訓話だ。
【るい】
「うむー」
あくび混じりで猫みたいな伸びをした。
遊びに厭いた子供の風情。
【智】
「真剣ポイント略してSPが足りてないよ」
【るい】
「なにそれ」
【智】
「ステータス確認してください」
【るい】
「難しい……」
理由はわかってないが、
素直に頭を下げる、るいさんだ。
【智】
「ヤツを捜すんだよね」
【るい】
「おお、それそれ。
でもさ、どこにいるんだろう?」
真顔で質問される。
るいちゃん――あなたは、僕が考えているよりも、
ずっと大きく、そして恐ろしい。
【智】
「心当たりは?」
【るい】
「ないです」
【智】
「即答っ!」
【るい】
「自慢」
【智】
「してどうするの!」
【智】
「何をしにここまできたの!?」
【るい】
「……」
黙られた。
自動的だ。
感情のスイッチが行動力に直結している。
気軽に付き合うと、勢いに引っ張られてろくでもない目に
あわされるタイプだ。
本人はいたって平気で、近くにいるヤツがとばっちり同然に
火の粉をかぶる。
被害に遭いやすいのは、慎重派で考え込み易くて、
そのくせ情に流されちゃうようなやつ。
普段クールぶってると特に危険。
…………僕だ。
【智】
「こうときに客観的自己分析のできる性格が恨めしい……」
街路樹に顔を伏せて涙ぐむ。
【るい】
「どっかしたの、なんか顔色悪いよ? おしっこ?」
【智】
「不幸な未来予想図が目の前にありありとうかんで、
高確率で到達しかねない将来像に愕然としてます」
【るい】
「元気ださないとね」
大本の要因に投げやりなフォローをされる。
ドーパミンが分泌して幸せになれそう。
【智】
「夕焼けか……」
るいが足を止め、
寸時薄暮を仰ぎ見た。
街の空は狭い。
ビルとビルの谷間に
切り取られた窮屈な天蓋。
蒼穹とコンクリートの区分は、
この時間には朱に溶け落ちて曖昧になる。
混沌の海だ。
制服が二つ、
海を渡って旅をする。
大きな影を足から伸ばし、
アスファルトの歩道をローファーで蹴りながら。
日没と制服。
組み合わせに、
一種ばつの悪さがつきまとう。
制服が学生の証明だ。
黄昏れに追われて、
本来急ぐべき家路でなく、
立ち去るべき猥雑に混じりこむ。
禁忌を踏み越える瞬間の、怖れと歓喜。
冬の日の早朝、できたての薄氷を踏んで歩く時のような、
くすぐったさが胸中をくすぐる。
【るい】
「これからどーしよっか、迷っちゃうよねー」
【智】
「迷わない。捜します」
早速目的さえ忘れかけていた。
【智】
「コメ頭だね」
【るい】
「トリ頭じゃなくて?」
【智】
「すぐに忘れるのをトリ頭といいますが、もっとひどい忘れんぼ
さんはコメ頭といいます」
【るい】
「そのココロは」
【智】
「(にわ)トリのエサです」
【るい】
「念入りにバカにされるとむかつく」
【智】
「そんで手がかりとかないの?」
【るい】
「なぜ、私」
【智】
「僕には身に覚えがありません」
【るい】
「私もないよ!」
【智】
「忘れてるだけかも」
納豆みたいなべとつく視線で視姦。
【るい】
「そんなことは……ない……とはいえないかもしれないけど、そんなことはないと思いつつ、もしかしたらあるかもしれないけどやっぱりそんなことはないっぽいかも……」
責められたばかりなので弱気だった。
【智】
「論理的な解説プリーズ」
【るい】
「…………」
理詰めには弱い。
男らしく腕を組んで、しかつめらしい顔で、
るいはぶつぶつ呟きながら歩道を横断する。
どの角度から見ても危ない人だ。
他人のフリさせてくんないかな……。
駅にも近い繁華街。
夜も眠らない一角の騒々しさは、
ハンパ無い。
【智】
「どこかであの黒ライダーに会ったことは?」
【るい】
「屋上で」
【智】
「それより前に」
【るい】
「前…………?」
【花鶏/???】
(見つけた)
少なくとも、
あちらにとっては初対面じゃなかった。
どちらかが目標だった。
るいか、僕か。
僕には心当たりがないわけなので。
もっとも、すれ違っただけでも執着されて、
見ず知らずの相手に家まで押しかけられる世の中だ。
油断はできないけれど。
【るい】
「ある。見覚えある」
【智】
「あるの!?」
【るい】
「なんで驚くのかな?」
あるとは思わなかった。
あっても覚えてるとは思わなかった。
言語化すると血を見そうなので、
政治的ソフトランディングを試みる。
【智】
「思ったよりも早くわかりそうだなってリアクション」
にこやかに選挙運動。
【るい】
「ほー」
素直すぎるのは将来が心配だ。
【智】
「それで、どこで」
【るい】
「このあたり」
繁華街でもひときわ目立つ黄色い建物だった。
ちょっとした若者向けテナントビル。
記憶を刺激されて思いだしたらしい。
【るい】
「そうだ、たしかにアイツだった、
すっかり忘れてたけど間違いない、絶対そう!」
敵意をむき出しに、るいが歯を剥く。
【るい】
「三日ほど前だっけかな。このあたりで」
【智】
「跳び蹴り食らわした?」
【るい】
「なんで跳び蹴り」
【智】
「大外刈りとか、ジャイアントスイングとか、機嫌が悪かったから路地に連れ込んでいけないことをしたとか」
【るい】
「道でぶつかっただけ」
【智】
「……」
【るい】
「疑(うたぐ)るか」
【智】
「いえいえめっそうもない」
【智】
「しかしですね、るいさん。道ばたでぶつかったぐらいのことで
ですね、必ず殺すと書いて必殺な感じに追ってくるのはおかしくないですか」
【智】
「なんたって、いきなり屋上に原付で轢殺なんだよ?」
【るい】
「疑(うたぐ)ってる」
【智】
「いえいえめっそーもないです」
限りなく棒読みで。
【るい】
「あいつは心狭すぎ!!」
【智】
「心の面積を斟酌(しんしゃく)するより、別の理由を検討する方が健全だと、
僕は思うものです」
【るい】
「やっぱり疑(うたぐ)ってるーっ!」
【智】
「でもさ、いくらなんでも、ぶつかっただけで殺害しに来るなんてあると思う?」
【るい】
「ないかな」
【智】
「……事実は小説よりも奇なりとは言う」
推理小説なら即座に破り捨てられるつまらない動機だって、修羅の巷には氾濫している。
きっかけとも呼べないきっかけでスイッチが入れば、心という機能は理不尽に他者を攻撃する。
【智】
「困ったね」
【るい】
「困ったんだ」
【智】
「動機が突発的だと捜すのが面倒になるから」
あのヘルメットの下は、もっと理知的な、
よく切れる刃物を感じさせた。
根拠はないけど第一印象を信じてみる。
昔から勘はいい方だ。
【智】
「原付のナンバーは市内だったけど」
【るい】
「そんなのちゃんと見てたんだ……
すごーい」
暴君的な胸を揺らして感心された。
【智】
「なんで、持ち主わかるよ」
【るい】
「???」
【智】
「割と知られてないけど、陸運局いって書類書いてお金払ったら
個人情報教えてくれるんだよね」
【るい】
「んー、警察とかじゃなくても?」
【智】
「なくても」
【るい】
「……それって、指紋とられたり、忠誠の誓い要求されたりしなくても?」
【智】
「しなくても」
るいの眉が顔の真ん中によっていた。
納得のいかない気分を言語化しそこねている。
【智】
「手続きするとできることになってるんだよ」
【るい】
「……首輪付いてるみたいでうっとうしい」
【智】
「盗難車とかだとどうしようもないし、面倒だし、お金かかるから、
他に手がかりがあるならそっちからあたっても」
【るい】
「手がかりか」
【智】
「目立つ子だったよね」
銀色の長い髪。
月の雫によく似ていた。
敵意を溶かし込んだ深い瞳。
錐のように突き刺さる。
嫌いなタイプじゃない。
【るい】
「なんか、トモちん変な顔してる」
【智】
「変な顔といわれました」
【るい】
「カンガルーがカモノハシ狙ってるみたいな顔だね」
【智】
「僕って有袋類!?」
しかも肉食カンガルー絶滅種。
【るい】
「どーしようかな」
るいは、口ぐせのようにさっきから何度も繰り返し呟く。
深刻さはゼロ。
地図も持たずに海へ出るのに慣れた、
船乗りの気楽さだ。
【智】
「軽く捜してみようか」
決めるのが嫌なのか。
曖昧な態度にそんなことを思って、
妥協案を促した。
【智】
「見つかったらめっけ物くらいのノリで。目立つ相手だし、犯人は犯行現場に戻るともいうし」
【智】
「見つからなかったら、役所にいってお金を払う」
街は広い。
外見の差異など吸収してしまう。
二人で歩いたくらいで見つかる道理はなかった。
でも。
【智】
「…………」
心地よかったから。
後しばらくは、この知り合って間もない友人と、
他愛もない時間を潰していていたいと思う程度には。
【るい】
「お金は大事だな」
【るい】
「よし、捜そうっ」
【智】
「御意のままに」
見つけた/見つかった。
ばったり。
間違いない。
あのライダーブラックの中の人だ。
るいが以前にぶつかったという、
ちょうどその辺りだった。
【るい】
「ほんだわら――――っ!」
歯をきしる。
獲物を発見して野性に火がつく。
戦いの雄叫びは現代人には理解しがたい。
【花鶏/???】
「…………っ」
反応有り。
相手はわずかに柳眉(りゅうび)を逆立てる。
天下の公道で奇行に打って出ない分、
るいよりも良識はあるらしい。
人目のない屋上なら轢殺オッケーという非常識だけど。
切れそうなまなざしが刺さる。
冷たく光る銀のナイフ。
たとえ捜していなくても、
雑踏ですれ違っただけで目をひいたろう。
珍しい銀色の髪が毛先まで怒気をはらむ。
整った日本人らしからぬ顔立ちと身を包んだ高雅。
敵意を差し引いてもあまりある。
高価すぎて触れるのさえ躊躇(ちゅうちょ)してしまう宝物のよう。
【るい】
「見つけた、覚悟!」
【花鶏/???】
「――自分から出向いてくるとはいい覚悟ね」
【智】
「すでに僕って眼中無し?」
それにしても。
【智】
「もう少し面白みのある現実を請求したいよ」
事実は小説より奇なりというけれど。
それにつけてもあっけない。
面白みがあればあったで平穏が欲しくなるわけで、人間とはまことに度し難い生き物だ。
【花鶏/???】
「のこのこ現れるなんて殊勝な心がけだわ。
さあ、返してもらうわよ!」
【るい】
「借りはまとめて返してやるわい!」
【花鶏/???】
「借りてただけとはご挨拶ね、寸借詐欺ってわけ!?」
【るい】
「詐欺っていうか、ケンカ売ったでしょアンタわ!」
【智】
「会話が噛み合ってないよ」
小さくツッコミ。
二人とも、冷静な僕の言い分を聞いてくれない。
人の話を聞かないイズムの信奉者たちだ。
信念というのは厄介者だ。
ときに動力となり、
ときに変化を阻害する。
メリットとデメリット。
何にだって裏表はあるわけで。
【花鶏/???】
「どこにやったの!?」
【るい】
「どこにもやんねーっ」
【花鶏/???】
「――潰す」
【るい】
「やったらあ」
【花鶏/???】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉みあいに。
十も年老いた気分で鑑賞する。
もつれた糸を解くためには冒険が必要だ。
この暴風雨の中に徒(と)手(しゅ)空(くう)拳(けん)で乗り込まねばならない。
【智】
「まあ、二人ともオチツイテ。平和のタメに話し合おうじゃないか」
(脳内シミュレーションの結果)
【るい】
「うっさい!」
(脳内シミュレーションの結果)
【花鶏/???】
「死になさい!」
(脳内シミュレーションの結果)
死 亡 完 了。
確実すぎる未来予測に介入を躊躇(ためら)う。
この二人は、生物として対極だ。
対立するのは愛のように宿命だった。
昔の人はいいました。
人の恋路を邪魔する奴は、
馬に蹴られて死んじゃえ。
【智】
「ここはひとつ若いひと同士にまかせて」
【るい】
「なにを」
【花鶏/???】
「なんですって」
【智】
「聞いてないね」
【るい】
「ががががががががが」
【花鶏/???】
「だだだだだだだだだ」
揉めに揉めた。
【るい】
「――――」
【花鶏/???】
「――――」
そして膠着。
【るい】
「……!」
るいの頭の上に、唐突に豆電球が点灯した。
【花鶏/???】
「?」
いぶかしむ。
僕も。
【るい】
「勝った」
勝利宣言だった。
なぜ!?
るいが指さし指摘し、
黒ライダーの中身は目で追いかける。
【花鶏/???】
「…………っ!」
胸。
両腕で胸を抱えて後ろにとびすさった。
刺殺できそうなぐらいに視殺。
【るい】
「ふーんふんふんふん♪」
勝ち誇り。
えっ、そこなの!?
そりゃ確かに勝ってるんだけど!
【花鶏/???】
「く、ぬっ、ぐ!!」
【るい】
「ブイ」
【花鶏/???】
「だ、誰が」
【るい】
「にょほ、負け惜しみ」
【花鶏/???】
「きっ」
【智】
「……ものごっそ低次元のところで覇を競わない」
【るい】
「勝てば官軍」
【花鶏/???】
「だ、誰が負けたのよ!」
人類の許容限界ぎりぎりまで
真っ赤になって咆哮する。
負けず嫌いだった。
【花鶏/???】
「サイズがあればいいってもんじゃないのよ。
貴方のはエレガントさに欠けるわ」
嘲笑で。
【智】
「……そっちの話ですか」
【花鶏/???】
「他になんの話があるの!?」
手段のために目的を忘れるタイプだな、こいつ。
【智】
「話があるのは、どっちかいうとこっち?」
【花鶏/???】
「どっち?」
【智】
「あっち?」
【花鶏/???】
「わからないわ」
【智】
「僕も」
【花鶏/???】
「よく見ると可愛い顔してるのね」
唐突に。
片手で、おとがいを持ち上げられた。
【智】
「ほわ……」
むちゅう
【花鶏/???】
「…………」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
れろれろ
にゅるりん
んちゅう
ちゅぽん
【智】
「にょ」
【るい】
「……きす、した……」
奪われた。
公衆の面前で。
【智】
「にょわわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
【花鶏/???】
「うん、まったりとしてしつこくなく、それでいてコクがある。
悪くないわ」
【るい】
「なにやってんのーっ」
蹴った。
【花鶏/???】
「痛いわね、何するのよこの野蛮人!」
【るい】
「コッチノ台詞ダーーーーッ」
【智】
「きききききききき、」
【花鶏/???】
「キスくらいで大騒ぎしない、よくある話でしょ」
【智&るい】
「「あってたまるかーっ!!!」」
ハモる。
【智】
「キス、キスキスキスキス、キスされちゃった……」
【るい】
「オチツイテ、深呼吸して、ね、ね、ね」
【智】
「はじめてだったのに……」
【るい】
「大丈夫、女同士だからノーカンだって」
【智】
「舌いれられちゃったぁ(涙)」
【るい】
「…………じょ、上手だった?」
【花鶏/???】
「ごちそうさま」
【るい】
「容赦ないな、おい」
【花鶏/???】
「愛に禁じ手はないのよ、おわかり?」
【るい】
「まったくもってこれっぽっちも」
【花鶏/???】
「いやね、学のない人は」
【るい】
「ケンカ売ってる? 売ってるよね」
火花再燃。
【智】
「…………蛮族ですか、キミたちは」
ショックの海から必死に立ち上がる。
【るい&???】
「「こいつが」」
ハモる。
互いを指差して責任を押しつける。
呼吸は合っていた。
【るい】
「っていうか、トモだって他人事じゃないっしょ」
【智】
「おまけに愛の犠牲者……」
【花鶏/???】
「心を揺さぶるフレーズね」
【るい】
「とっても吐き気がするぞい」
【花鶏/???】
「悪阻(つわり)ね。妊娠でもしてるんじゃないの?」
【るい】
「これでも処女なりよ!」
【花鶏/???】
「品性のない物言いしかできない女は最悪だわ」
【るい】
「この女……殺るか、ここで」
【智】
「それよりも、なによりも」
【智】
「全ての戦闘行為の即時停止と使節団派遣による双方の意思疎通を求めるものであります」
胸に充ちる喪失の涙をこらえて、
停戦勧告を行う。
【るい】
「裏切るかっ!?」
るいの殺る気は燃えていた。
【智】
「裏切るというよりも」
【花鶏/???】
「愛の虜ね」
【るい】
「にょにわっ、愛なのか!?」
【智】
「あい違い」
【るい】
「……日本語難しい……」
【花鶏/???】
「……同意するわ……」
まれには気が合う。
【智】
「場所を変えてネゴしょう」
【るい】
「ぬな、話す事なんてあんの!?」
【花鶏/???】
「こと、ここにいたって必要なのは、妥協ではなく明確な決着。
対話ではなく武器を取るべき時よ」
【智】
「戦意よりもなによりも恥ずかしいのです……」
行き交う人が笑っている。
ちらりと流し目、含み笑い、呆れた顔。
しょんぼり肩をすくめた。
【花鶏/???】
「……そうね。キスしてもらったわけだし、デートくらいなら付き合ってあげるわ」
【智】
「ニュアンスの違いが日本語の難度を高くする」
【るい】
「殴って蹴って解決!」
【智】
「……僕の話聞いてた、ねえ?」
ようやく落ち着いた。
【智】
「僕は和久津智、こっちは」
【るい】
「るい、だ。べー」
舌を出す。
鼻の頭まで届きそうなくらい長い。
【花鶏】
「花鶏」
先を行く背中が名乗る。
くるりときびすを返す仕草は颯爽(さっそう)と。
薄いルージュを引いた唇が、
三日月の欠片みたいについっとあがる。
【花鶏】
「花城(はなぐすく)花鶏(あとり)よ」
見惚れた。
【るい】
「舌噛みそ」
情緒がなかった。
【花鶏】
「さっさと噛んだ方が人類のためだわね」
【るい】
「噛むぐらいなら、あんたを沈めて逃走する、べー」
微笑ましい女の子同士の交流に涙が止まらない。
【るい】
「ここでぶつかった」
【花鶏】
「貴方がぶつかってきた」
【るい】
「ケンカ売ってる? 売ってるんよね」
【花鶏】
「わたしの日本語がきちんと伝わっていてとても嬉しい」
【智】
「そういえばさ、黄色って警戒色なんだって。注意一秒怪我一生、青の次で赤の前。何が起こるか分からないから人生大切に」
【るい】
「先のことなんてわかんないぜい」
【花鶏】
「アニマルだわ」
【るい】
「欲望ケダモノ」
【花鶏】
「愛の狩人と呼んで」
放置しておくと際限なく揉める。
【智】
「それで、その時に?」
【花鶏】
「――こいつに、大事なバッグを盗まれたわ」
【るい】
「えん罪」
【花鶏】
「シラを切る」
【智】
「だから、るいを捜した?」
【花鶏】
「手間取ったわ。いざ捜し出したらビルが燃えてて近づけなかった。ビルの上から隣に跳び移る誰かが見えた。とりあえず屋上に急いだら神のお導き」
【るい】
「成り行きまかせかよ」
【花鶏】
「努力に世界が応えるのよ」
いい台詞では誤魔化されない。
【花鶏】
「返しなさいよ」
【るい】
「返せるわけねーでしょ!」
【花鶏】
「なんていいぐさ。人類最悪ね」
【るい】
「そんならアンタは人類サイテー」
【智】
「むう」
返せと迫り、知らぬと答える。
折れ合う優しさは1グラムもない。
【智】
「謎を解こう」
【花鶏】
「どうするの、名探偵?」
【智】
「花鶏さんは」
【花鶏】
「さん付けは嫌。花鶏と呼んで」
【智】
「……」
何となく躊躇(ちゅうちょ)。
【花鶏】
「呼んで」
【智】
「……花鶏さん」
【花鶏】
「呼び捨てで、親しそうに。できれば愛しそうに」
【るい】
「厚かましいぞ、ふしだら頭脳」
【智】
「花鶏」
花鶏がにんまり笑う。
冷たい口元に豊かな表情。
アンバランスなモザイクが一枚の絵のようにはまる。
【花鶏】
「それで」
【智】
「るいとは昨日あったばかりだけど、嘘をつくような子とは
思えないから」
【るい】
「うむ、さすがはトモちん」
【智】
「花鶏の大事なバッグを持ってるのが、るいじゃない可能性を
考えてみる」
【花鶏】
「最初の可能性は?」
【智】
「るいが嘘をついている?」
【るい】
「べー」
【智】
「花鶏は、どれくらい僕の言うことを信じてくれる?」
【花鶏】
「会ったばかりなのに、そんなこと」
戯れるように笑う。
突拍子もない申し出を、
蔑んでもいなければ、拒絶してもいない。
【智】
「だから訊いてる」
花鶏はきっと愉しんでいた。
【花鶏】
「――――そうね、キスしてくれた分、かしら」
【るい】
「したのはテメーだ」
【智】
「僕、昔から勘はいい方なんだよ」
はたして。
花鶏は呆れた。
楽しそうに口元を歪める。
【花鶏】
「論理的ではないことね、
そんな言い分を根拠にしろと言いたいわけ?」
【智】
「だから信用。水掛け論よりは前向きでしょ」
【花鶏】
「信用はできない」
直裁に切り落とされる。
【花鶏】
「でも、一時休戦ということなら、さっきのキスでチャラに
してあげる」
【るい】
「この胸なし女、むかつくっス」
【花鶏】
「わたしはちゃんとあるっての!
あんたが淫らにぼよんぼよん膨らんでるだけでしょっ!」
火花が散った。
【智】
「協調と信頼だけが人類を進歩させるんだよ」
【るい】
「……難しいこといわないでよね」
【智】
「難しいんだ……」
人類の夜明けは遠い。
【智】
「じゃあ、一時休戦で。
とりあえずの謎解きをするから、現場の話をして」
我ながら、名探偵なんて柄じゃないのに……。
【花鶏】
「わたしはこのあたりをぶらついてたの――」
【るい】
「そしたらこいつがぶつかって――」
【花鶏】
「肘を入れられた――」
【るい】
「蹴ってきやがったから――」
【智】
「あのー、もう少し慎みとか女らしさとか」
【るい&花鶏】
「「そういえば」」
【花鶏】
「朝だったから人気はなかったけど」
【るい】
「もう一人いてさ」
【花鶏】
「こいつと揉めてたら」
【るい】
「びびって逃げて」
脳細胞に喝をいれて思考する。
騒ぎを起こして逃げ出した後、バッグがないのに気がついた花鶏は猟犬みたいに飛んで戻った。
時間にしてほんの2〜3分。
けれど、どこにもブツはなし。
閑散とした早朝の街路に
ぽつんと花鶏は立ち尽くした。
可能性@ るいが拾って逃走
可能性A 花鶏が隠し持っている
可能性B 居合わせた人物Xの手に
可能性C 偶然通りがかった新たな人物が(以下略
消去法。
@とAはとりあえず消す。
【智】
「通りがかったのはどんな男?」
【花鶏】
「女よ」
【るい】
「ちっこいやつ」
【花鶏】
「あまりよく覚えていないけど」
【るい】
「んーとね、たしか髪の毛をこう、くるっとふたつ」
髪の毛をくるっとふたつ横でまとめて尻尾にしたような女の子が、目の前を通り過ぎた。
【智】
「くるっとふたつ?」
指差してみるが、後ろの二人は固まっていた。
【花鶏】
「……」
【智】
「……」
【るい&花鶏】
「「あいつだよ!!!」」
【智】
「ほえ?」
【こより/???】
「ほえ?」
【花鶏】
「待ちなさい!」
【るい】
「逃がさんぎゃあ!」
【こより/???】
「ほえええ!!」
【花鶏】
「大人しくしてれば、あまり痛くないようにしてあげる」
【るい】
「大丈夫、こわくない、たぶん」
どう考えても嘘に聞こえる。
虎と狼に挟まれた哀れな白ウサギは狩られる運命。
恐怖に顔を引きつらせ、混乱に鼻を啜って、
情け無用に飛びかかる二人の間を、するりと抜けた。
【智】
「お、やるもんだなあ」
感心感心。
【こより/???】
「ほええええええええ」
びびってるびびってる。
【花鶏】
「外した!?」
【るい】
「ちょこまかとすばしこいっ」
【花鶏】
「お待ちっ」
【こより/???】
「いやあああああ〜っ」
【るい】
「動くな!」
【こより/???】
「たわあああぁあ〜〜っ」
待てや動くなで相手が捕まるものならば、
渡る世間に警察なんていやしない。
逃げた。追った。
ウサギっこは、するりと抜けた。
追跡者たちを向いたまま、
伸びたかぎ爪の触れんとしたその先から、
風に柳のたとえのように。
インラインスケートだ。
小さな車輪のついた小さな靴が、
小さな躯を魔法のように機動する。
【こより/???】
「ひやぁあああぁっ」
逃げた。追った。
ウサギが逃げる。ふたつ尻尾をなびかせて。
猟犬が追う。
るいと花鶏の剣幕に、夕の雑踏は、
預言者の前の紅海もかくやと左右にわかれる。
小さな影が小さな肩越しに何度も後ろを振り返る。
血の出るような追っ手の顔が目に入る。
【こより/???】
「うわああああぁあぁあぁぁん〜っ」
泣き出した。
【智】
「悲劇だなあ」
悲劇もすぎれば喜劇に変わる。
喜劇も過ぎれば悲劇に堕する。
走る。跳ねる。尾をなびかせる。
幾度となくあわやのところを手がかすめる。
間一髪に遠ざかる。
【智】
「すんごい」
他人事のように拍手する。
【花鶏】
「まったくちょこまかと、手強いことね」
【智】
「小休止?」
【花鶏】
「狩りには根気が必要なのよ」
【智】
「悪びれないね」
負けず嫌いも筋金入りだ。
【智】
「ところで、るいは?」
【花鶏】
「優雅さに欠けるぶんだけ、体力は余っているようね」
るいは追っている。
人垣の向こうに見え隠れする。
曲芸仕立てのローラーブレード相手に、
門戸無用の一直線で突っかかる。
【るい】
「うららららららら――――――っ」
【こより/???】
「うわああああぁあぁあぁぁん〜っ」
壁があったら跳び越える。
人があったら轢いていく。
【智】
「典型的な目的と手段が転倒するタイプだね」
泣けてくる。
【花鶏】
「手間のかかるのが倍になるわ」
花鶏の方は、
るいよりも多少冷静だった。
【智】
「追いかけるの?」
【花鶏】
「大事なものを盗まれたんだもの」
【智】
「乙女のはーとだっけ」
【花鶏】
「それは貸金庫にしまってある」
【智】
「鍵付きなんですか」
【花鶏】
「乙女だけに」
【智】
「ついさっきいんわいなべーぜ≠」
【花鶏】
「乙女心は気まぐれなのよ」
【智】
「気まぐれと言うより身勝手という」
【花鶏】
「いい女は気ままですものね」
ものは言い様だった。
【智】
「男の子が同意するのか聞いてみたいですね」
【花鶏】
「淫猥で頭一杯の野獣どもに興味はないわ」
えーっと…………。
それって、なに、その、
まさかそっちの趣味なの?
そういえば、さっきのキスだって。
【智】
「僕、女の子ですよね」
【花鶏】
「何をわかりきったことを」
【智】
「キス、しちゃいました」
【花鶏】
「まだ唇が貴女のことを覚えているわ」
きれいな言い回しにすればいいってもんじゃないよ。
【智】
「……典雅(てんが)な嗜好でいらっしゃいます」
ものすごく複雑な気分だ。
【花鶏】
「お褒めにあずかり恐悦至極」
皮肉も通じない。
【智】
「うまく捕まりそう?」
【花鶏】
「……逃げ足は速いわね」
【智】
「捕まってもらわないと話がすすまないよね」
【花鶏】
「話よりも罪の報いを与えてやるわ」
酷薄に笑む。
さよなら、
対話と協調の日々。
こんにちわ、
暴力と断罪の新世紀。
【智】
「もう少し穏やかなところで、ぜひ」
【花鶏】
「目には目と鼻を歯には歯と口を罪には罰を10倍返しで」
【智】
「ハンムラビ決済は利息が高そうです」
【花鶏】
「ではね。また後でお話しましょ」
【智】
「ところで花鶏さん」
呼び止める。
【花鶏】
「花鶏」
添削が入った。
【智】
「……花鶏、行く前に携帯の番号教えて欲しいんだけど」
【花鶏】
「住所と誕生日とスリーサイズも教えてあげましょうか?」
【智】
「いりません」
【こより/???】
「うわああああぁぁぁん〜」
【こより/???】
「ひゃいぃぃいぃぃぃぃぃ〜っ」
【こより/???】
「あーーーーーーーーーーーーーん」(泣)
【こより/???】
「ひぃ、はあ、はひぃ、ひやあ……」
街の片隅で土下座していた。
謝罪ではなく疲れ果てて膝から砕ける。
どうやら逃げのびた。
神出鬼没の猟犬たちの息づかいは振り切った。
おめでとう自由の身。
空よ、私を祝え。
でも、一安心したせいで緊張の糸がぷっつり切れた。
弛緩は人生における大敵だ。
思わぬ落とし穴に足を取られるのは決まってこんな時。
【こより/???】
「……わたし……なんで、こんな……」
頭をぐりぐり回していた。
苦悩中らしい。
【こより/???】
「あにゃー」
見ていて飽きない小動物っぽさ。
愛玩系。
【智】
「あ、花鶏? 近くに、るいは? それなら一緒に。
赤いレンガ仕立てのビルが目印で」
【智】
「そう、ブロンズ像を右に曲がって……うん、見えるから、
三番道の裏手あたり……っていってわかる?
他にめぼしいものは―――」
手早く説明して携帯を切る。
【こより/???】
「…………」
見つめられていた。
熱視線に、花のほころぶような微笑を返す。
【こより/???】
「……う」
赤面されました。
携帯を閉じる。
従容と近づいた。
軽く顎を引いて、背筋を伸ばし、
肩で街の風を切る。
学園でなら、下級生たちが黄色い声援のひとつもよこしてくれる。
【こより/???】
「あ、あの……」
【智】
「なにか?」
いい感じで問い返す。
お姉様っぽく。
【こより/???】
「その……ぶしつけなんですけど、なんていうのか」
【智】
「なんでしょう」
【こより/???】
「……なにか、あります……?」
【智】
「何かといわれても」
【こより/???】
「そ、そーですよね、はははは……」
【智】
「ふふふふふふふふふ」
ひとしきりの乾いた笑いがぴたりと止んだ。
言語化し難い沈黙が漂う。
対峙した距離に圧縮された緊張に、
世界の歪む錯覚をする。
【こより/???】
「あ、あの」
【智】
「なぁに?」
【こより/???】
「ど、」
ウサギの女の子が唇を噛みしめた。
一瞬に逡巡(しゅんじゅん)と決意が交錯する。
一生に一度の大勝負に拳を固めて、続く言葉は。
【こより/???】
「どちらさまでしょーかっ!」
【智】
「……」
【こより/???】
「は、あわ、そじゃなくて……あの……」
ボロボロだ。
【こより/???】
「はぁ――――――……っ」
肺が口から出そうなため息をついた。
【智】
「若いうちからため息をついてはいけないわ」
【こより/???】
「そう……ですか。そうかも……」
【こより/???】
「はぁ――……」
【智】
「また」
【智】
「ため息ひとつで幸せひとつ、逃げちゃうっていうんだし」
【こより/???】
「逃げちゃうんですか」
【こより/???】
「じゃあ、わたしって……幸せ残ってないのかな。
あんなのに追っかけられたりするし」
【智】
「追いつ追われつが人の世の倣(なら)い」
【こより/???】
「生きにくい世間様です」
【智】
「まあまあ、悪いひとたちじゃないから(たぶん)」
【こより/???】
「……悪い人に見えました」
【智】
「心の病気みたいなものなのよ」
【こより/???】
「お病気なのですか」
【智】
「血が上ると周りが見えなくなっちゃう症候群」
【こより/???】
「重症であります……はぁ……」
【こより/???】
「…………」
おとがいに人差し指をあてて、
ウサギっこはなにやら目を彷徨わせた。
喉の奥に引っかかった小骨がちくりと痛んじゃった……
そんな顔で眉間に皺を寄せる。
【こより/???】
「そこの通りすがりの方、
つかぬ事をお伺いするのですが」
【智】
「名前は智、サイズは内緒」
【こより/???】
「……聞いてないですから」
【智】
「ナンパじゃない?」
【こより/???】
「……女の子同士で不毛です」
【智】
「愛に区別は――――」
花鶏のふしだらな顔を思い出す。
プルシアンブルーの気分。
【智】
「……愛は区別した方がいいですね」
【こより/???】
「愛とは区別からはじまるんです」
【智】
「存外深いな」
あなどれないヤツ。
【こより/???】
「ところで通りすがりの方」
【智】
「ナンパ?」
【こより/???】
「違います」
【智】
「そうですか」
【こより/???】
「質問が」
【智】
「どうぞなんなりと」
【こより/???】
「なにやら、いわれなく不穏な気配がするであります」
【智】
「ナイス直感」
【こより/???】
「…………」
【智】
「…………」
沈黙のうちに視線を交わす。
熱視線。
【こより/???】
「うわーん、やっぱりさっきの悪党の仲間なんだあぁ!!」
【智】
「大当たりぃ」
時間稼ぎをやめて拍手する。
アンコールには応えず、
ウサギっこは脱兎と逃げ出して、
二歩もいかずに凍りついた。
【こより/???】
「あ……っ、うそ」
逃げ場がない。どこにもない。
三番町は薄汚れた終点だ。
お嬢様なら近づかない吹きだまり。
怪しい店が軒を連ねて看板を掲げる。
幾つも路地が入り組んでいる。
行き止まりも多い。
ウサギ狩りにはうってつけ。
【こより/???】
「ま、まさか――」
【智】
「はーい、その通り。実は罠でしたー」
にこやかに種明かししてみます。
【智】
「ここまで逃げてくるように誘導したんですねー、もうびっくり。すぐ仲間が到着して君を組んずほぐれつにしてしまいまーす」
【智】
「ここまで来ればわかると思いますが、なんとっ!
今までの小粋な会話は全て時間稼ぎだったのです!!」
【こより/???】
「みゃわ」
衝撃の事実が鉄槌の勢いで打ち込まれる。
【智】
「くくくくく、随分と手間をかけさせてくれたけれど、これで
終わりね。お前はもはやジ・エンドっ!」
【智】
「餓えたケダモノどもの手でっ! 救われぬ新たな運命が!
お前に! 下されるのだッッ!!」
【智】
「さようなら明るく清純な人生、こんにちわ淫猥で甘美な堕落の日々……さあ、」
ついっと涙を拭うフリをして。
【智】
「僕とスイートなストロベリートークしましょう……あれ?」
たっぷりタメをつくって場を和ませようとした。
ウサギっ娘は話も聞かずに飛び出していた。
パニくったまま一目散に走る。
右はビル、前もビル、後ろには僕。
唯一空間の開かれた左側へ。
低い柵が行く手を阻んでいた。
腰よりちょい上の高さの鉄柵を、
映画の身ごなしで横っ飛びに跳び越える。
そこに。
着地するべき地面は無かった。
柵の向こうは土地が低い。
3メートルはある落差。
落ちる。
【こより/???】
「ぎゃわーっ」
【智】
「ちょ――――――っ」
【智】
「なにやってんのーっ!」
危ないところで襟首を捕まえた。
宙づりになったウサギは、
ひたすら混乱して暴れる。
ギリギリの一歩向こう側に
身体を乗り出した危険な姿勢。
目が眩むくらいの不安定だ。
【智】
「――――らめぇ、暴れちゃらめーっ、危ないから、ほんとに
とれちゃうからぁ!」
【こより/???】
「うあああああああ」
【智】
「だから動かないでぇ……動かないでじっとして……っ」
下まで3メートルとちょっと。
他人事なら小さな距離も、
直面するとゾッとする。
【こより/???】
「だめだめ、こんなのだめ、死んじゃう、落ちちゃうとれちゃうぅう」
【智】
「お、おちついて、はやく、何か掴んで!」
【こより/???】
「ぎゃぎゃぎゃーーーーんっ」
聞こえてない。
スケートで壁を蹴った。
魔法の靴が空回りする。
ローラーはまずいよね、
こういう場合。
バランスが、崩れた。
僕にしたって、どだい女の子ひとり支えられる姿勢では
なかったわけで。
【こより/???】
「――――っ」
【智】
「――――っ」
今度こそ落下。
【こより/???】
「は、あ、あれ、生きてる……わたし生きてる……!」
【智】
「あれくらいの高さだと簡単には死にません」
【こより/???】
「あぁ、生きてるって素晴らしいです……」
聞いてない。
下まで落ちればそこは裏路地。
裏の裏までやってくれば
ネオンも雑踏もとっくに彼方。
街の不純物とゴミの混じった腐敗臭と
こびり付いた汚れのせいで、ひときわ暗い。
空。
あそこから落ちたんだ……。
ほんの3メートルぽっちの高さの場所が、
上から見下ろしたときよりも遠かった。
【こより/???】
「ふにゃ」
頭の上からウサギっこが顔を寄せてきた。
【智】
「うわっ」
【こより/???】
「さっきの通りすがりの悪い人」
【智】
「通りすがりだけど悪くないひとです」
【こより/???】
「嘘つきです。わたし、騙されました!」
丸い眼を細めて、糾弾。
【智】
「生きるってコトはね、時には残酷な行いに手を染めなければ
いけないってことなんだ」
【こより/???】
「詭弁だ」
【智】
「方便といってください」
【こより/???】
「でも、助けてくれたんですね。
あそこから落ちて、もうダメって思ったのに……」
【智】
「いいひとですから」
【こより/???】
「……センパイは、わたしを捕まえてとても言えないようなことをするつもりなのですか?」
【智】
「なぜ先輩」
【こより/???】
「年上っぽいので」
【智】
「安易だなあ」
【こより/???】
「悩みを捨て去る、あんイズムを信奉中であります」
【智】
「苦悩は人生の糧だから大切にね」
【こより/???】
「クリーニングオスするッス」
【智】
「クーリングオフです」
【こより/???】
「みゅん……」
【こより/???】
「おっと、それよりも!」
【智】
「なによりも?」
【こより/???】
「助けてくれたのですね」
【こより/???】
「あまつさえ、不肖鳴滝(なるたき)めの身代わりに、下敷きになってくださったですね」
【智】
「…………」
尻に敷かれていた。
女性上位……。
ちょっとエッチだ。
この場合、僕も女性なんだけど。
形式上、彼女を助けたことになるらしい。
偶然のたまものだけど、
告白して感動巨編に水を差すのは止めておく。
真実は僕の心だけにしまっておこう。
【智】
「ウサギちゃんの可愛い顔に傷がついたら大変だものね」
優雅に、ウサギちゃんの乱れた髪を整えてあげる。
日々積み重なる方便の山。
【こより/???】
「きゅーん!」
【智】
「なにそのリアクション?」
【こより/???】
「感動してます」
【智】
「ごめん、でも、僕はもうだめみたい」
【こより/???】
「死んじゃだめ、死なないでセンパイぃ!!」
【智】
「無茶をいわないで。生まれてきたものはいつか死んでしまう。
でも、それは辛くても悲しいことじゃない。僕は来たところへ
帰るだけなんだから……」
【こより/???】
「らめ――っ」
涙ながらにすがりつかれた。
おもむろに身体を動かしてみる。
痛みはあるけど大きな怪我はなさそうだ。
わりと丈夫な我と我が身。
【智】
「そっか、下に何かあったんだ」
天然クッションのおかげで無事だったらしい。
二人で下敷きにしていた。
見知らぬ男だった。
気絶している。
【智】
「…………」
【こより/???】
「…………」
顔を上げた。
目の前にいた。
見知らぬ女の子だった。
大きいのと小さいの。
【こより/???】
「センパイ」
【智】
「なにかしら、あー、花子ちゃん」
【こより】
「花子ではありませぬ、鳴滝(なるたき)こよりです」
【智】
「じゃあ、こよりちゃん」
【こより】
「なんだかとっても投げやりですっ!」
【智】
「今はそんなこと問題じゃないと思う」
【こより】
「そうです。そうなのです。センパイ!」
【こより】
「……これって、もしかするとやらかしてしまったのでは?」
【智】
「やらかしたには違いないですが」
後ろにもいた。
見知らぬ男どもだった。
大きいのと小さいの。
腐肉をあさるのを邪魔された
ハイエナみたいな顔で、呆気にとられている。
男たちは早口に言葉を交わしていた。
【こより】
「なんていってるですか」
【智】
「中国……んと、広東語……かも」
【こより】
「センパイはバインバインです」
【智】
「たぶんバイリンガル」
【こより】
「そうッス、それッス」
大げさに感心して手を叩く。
緊張がほぐれたせいか、
ウサギっこの挙措は一々ハイだ。
【智】
「実はテンション系だったんだ」
驚きの新事実。
【こより】
「侮辱です。
不肖鳴滝め、常日頃から常住坐臥に真剣本気であります!」
【智】
「それはそれでタチが悪い」
【こより】
「それよりも何よりも、センパイ、ガイコク人間さんの言葉が
おわかりになるデスか?」
【智】
「言葉には気をつけてね。最近いろいろ厳しいから」
【こより】
「大丈夫ッス、カタカナですし」
【こより】
「そんでバイリンガルなのですね!」
【智】
「わからないから当てずっぽう」
【こより】
「わたしの感動を返してください」
【智】
「真実はいつだって残酷なんだ。
誰も皆そうやって大人の階段を上っていくの」
男どもからの敵意が痛い。
いやんな予感が止まらなかった。
言葉がわからなくても察しがつく。
こんな人気のない場所で、女の子を取り囲む理由は、
自己啓発セミナーの勧誘や新聞の販売ではないだろう。
【伊代/???】
「あ、あなたたち、早く逃げて!」
【こより】
「センパイ、なんか逃げろ言われてます」
【智】
「ニブチンは幸せに生きるための要諦ですね」
【こより】
「ふむふむ、勉強になるです」
【智】
「……これだもの」
いつの時代も天然ものは強い。
自然の素材が作るうま味に養殖ものでは対抗できない。
【こより】
「これとは、どれでありますか?」
【智】
「とりあえず、前かな」
男どもを刺激しないように立ち上がる。
早くても遅くてもいけない。
即席の後輩を、後ろ手で、
姉妹の方へおいやった。
不満げな顔のウサギちゃんに一瞬注意を向ける。
突っかけられた。
男は場慣れしていた。
素早い。右の手首を掴まれる。
背中にヒネリあげられたら勝負がつく。
多対一。
現実はシビアだ。
ドラマや映画のような鮮やかさはない。
反射的に足を払う。同時に腕を引く。
重心を失った力学が、
掴んだ手を軸に男の身体を半回転させる。
背中からコンクリートに落ちた。
【こより】
「おおー、センパイすごいっス! ミス拳法!」
ただの護身術です。
【智】
「ダメ、全然ダメ」
【こより】
「えー、すごいッスよ」
空気が変わる。
針のような敵意。
相手が女ばかりだと油断してる時が、
最初で最後の好機だったのに。
やるときは確実に、徹底的に。
半端に手を出すのは。
【男】
「…………ッ」
男が左肩を押さえて立ち上がる。
目つきが変わった。
【智】
「――――奥は?」
【こより】
「袋小路になってます」
【智】
「こまるよ、そんなことじゃ」
【こより】
「まったくっス」
これで逃げる選択肢はなくなった。
目の前の二人を何とかしなければ。
二人を引きつけられないか。
時間を稼ぐ方法はあるか。
他に仲間がいたらどうしよう。
【男】
「――――っ」
早口の異国の言葉。
意味不明な言語が断絶を色濃くしていた。
ポケットに手をつっこんだ。
刃物――――
【智】
「まずいかも」
身構える。
【伊代/???】
「……ッ」
ウサギっこより先に、
後ろの姉が言葉の意味に反応した。
きれいな眼鏡っこだ。
整った目鼻立ちは、花鶏と違って、
外に向かう華やかさには欠けている。
【伊代/???】
「だ、だから、早く逃げてっていったのに!」
叱る口調が背中から飛んでくる。
叱責の内容が「逃げなかったこと」だというのに、
状況を忘れて微苦笑がもれた。
【こより】
「逃げられる状況じゃ無かったッス」
【伊代/???】
「そ、そうだけど……っ」
【伊代/???】
「でも、そ、そうよ、それならわざわざ降ってこなくたって!」
【こより】
「事故だったッス」
【こより】
「不幸な出来事だったッス。でも、運命の出会いッス!
不肖鳴滝は、センパイオネーサマとの出会いのために
生まれてきたと知りました!」
【智】
「それはどーだろう」
【こより】
「うわ、ものすごく、つれないです!」
【伊代/???】
「な、なんなの、いったい……あなたたち……」
【茜子/???】
「……」
姉は常識的な反応が微笑ましい。
妹の方はちょっと変だ。
怯えてるのでもないし、
悲鳴をあげるでもない。
起伏の乏しい、大気めいた存在。
切りそろえられた前髪のせいで精緻な人形の印象がある。
【智】
「――――」
爪先が砂利を踏みにじる音。
男たちだ。
途端に空気が冷えた気がした。
腹腔に差し込まれるような、底冷えのする冷気。
どぎつい悪意が向けられる。
刃物と同じ見ただけでそうと知れる剣呑さを感じ取る。
さっきまでとは違う。
女と甘くみていない。
【智】
「……ッ」
温情のない、は虫類に似た目つき。
暴力の扱いに慣れた気配を身につけている。
【男】
「……」
顎をしゃくって、
一人が指示を出す。
無言で進行する事態が、
手慣れた具合を思い知らせる。
冷静に対処しても、しきれるかどうか。
相手が笑っている。
暖かみがなく、胸の悪くなる顔だ。
逃げる方策を練る。
逃走経路がない以上。
どうにかして、突破、しなければ。
せめて、後ろの三人を――、
【るい】
「どぉりゃあああああああああああああああ!!!」
るいが上から落ちてきた。
【るい】
「お・ま・た・せ!」
すっくと立つ、るい。
ぶい。
【智】
「――――」
呆気にとられて、口もきけない。
男二人は、るいの足下で転げ回っていた。
落下ではなく突撃だった。
雪崩式ラリアート。
無事ではすまない。
【るい】
「いんやあ、智ちん、やばかったねえ。上から危機一髪シーン目撃した時は、どーしようかと思ったよ。ま、発見したのはあのヤローだったんだけど」
頭上から、
花鶏が優雅に手を振る。
【るい】
「エロ魔獣もちったー役にたったわな」
【智】
「……助かった。いや、それよりも――」
【るい】
「んん〜?」
上から下まで。
るいを目線で辿る。
見る限り怪我はない。
【智】
「大丈夫? どっかぶつけてない? 折ったりは? 打ち身は
あとから来るけど――――」
【るい】
「なんだぁ、心配してくれたんだ」
【るい】
「これぐらい平気平気。るいさん、鋼の乙女だから」
【智】
「でも」
【るい】
「ちょ、ちょっと、顔こわいよぉ」
詰め寄る。
何事もない高さじゃなかった。
【智】
「!」
後ろだ。
男の片方が半身を起こしていた。
引き抜かれた手には小さな折りたたみのナイフ。
危険が膨れあがる。
ただの激発とは違う、
鋭利な指向性を持った憎悪。
意識と判断の隙間に滑り込む速さで、
無音の殺意が、るいの死角から閃い――――。
その顎先へ、コマ落としめいた、
旋回の遠心力をのせた爪先が合わさる。
【男1】
「ガッ」
路地の狭さを苦ともせず、
高くしなやかに上がる、るいの足。
かかとは肩より高かった。
敵意を扱うにも慣れがいる。
扱いかねれば沸騰する。
過剰にやりすぎるか、
それとも行為そのものに怯えて萎縮する。
刃物を突きつけられれば、
小さなものであれ、誰しも容易に冷静さを失う。
るいの敵意はぶれなかった。
牙のように冷酷に。
技術や体系を感じさせる動作ではないのに、
人体の最適解に基づいた挙動だ。
本能に訴える美しさだ。
蹴りこんだ瞬間はついに見えず、
男がビル壁に叩きつけられた姿だけで結果を知る。
【るい】
「平気っしょ?」
るいは汗一つ浮かべていない。
余裕ありあり。
男はぴくりとも動かなかった。
【こより】
「おー、すっごいッスッ!!」
【るい】
「まね」
素直すぎる称賛と返答。
複雑な安堵の息をつく。
【るい】
「そんで、なんで危機一髪?」
【智】
「それよりも……」
【るい】
「なによりも?」
【智】
「まず、こっから逃げ出そう」
【智】
「突き詰めると世の中は確率的なんだよね」
【るい】
「トモが呪文を唱えた……」
【こより】
「大丈夫であります! 不肖鳴滝めがかみ砕いて解説すると……」
【智】
「すると?」
【こより】
「つまり、世の中確率的ってことです!」
【伊代/???】
「かみ砕いてないわよ」
【こより】
「おううう……」
【智】
「要するに残酷な偶然の神様が支配してること」
【智】
「道ばたで1億円拾うのも、突然事故で大けがするのも、生まれてくるのも、死んじゃうのも」
【伊代/???】
「ただの偶然?」
【花鶏】
「つまらない考え方ね」
【るい】
「なんだと、エロ魔神」
【花鶏】
「エロは関係ないでしょ」
【智】
「花鶏は?」
【花鶏】
「わたしは運命を信じるわ」
【るい】
「乙女エロだな」
【花鶏】
「……だから、エロは関係ないでしょ、エロは」
【こより】
「運命って運命的な響きッス」
【伊代/???】
「……いやいや、それはどうなのよ」
【茜子/???】
「…………」
【智】
「運命があるなら、今の状況も運命?」
【花鶏】
「そうね。必然の出会いだったかも」
【智】
「是非とも道を示して欲しい」
【花鶏】
「つまらないことをわたしに訊かないでちょうだい」
【智】
「他に誰に訊けばいいのよ」
運命はどこいったんだ?
【花鶏】
「運命はね、自ら助けるものを助けるのよ」
【智】
「運命って厳しいんだね……」
要約するなら。
取っかかりは偶然だったらしい。
【伊代/???】
「わたしたち、別に姉妹じゃないから。だって別に似てないでしょ」
【智】
「それは……まあ、そうかな。あの、えーっと……」
彼女の名前は。
【智】
「名前、まだ……」
【伊代/???】
「これ」
わざわざ学生証を差し出された。
県下で有名な進学校だ。
見せびらかしたいんだろうか?
白鞘(しらさや)伊代(いよ)。
それが彼女の名前。
彼女が妹(嘘)とぶつかったのがそもそもの始まりだ。
見たときは追われていた。
どうみてもか弱く、
どう見ても逃げ切れそうになかった。
気がついたときには、
伊代は手を引いて走り出していた。
【るい】
「なんで?」
【伊代】
「だ、だって……っ」
目線を外した。
言葉にしにくそうに唇を噛み、
膝の上で組み合わせた手を何度もにぎにぎしている。
【伊代】
「……ほっとけなかったから」
不器用な返答。
【智】
「いいやつ」
【るい】
「いいやつだ」
【こより】
「いいやつッス」
【伊代】
「ッッッ」
伊代は赤信号のように点滅する。
居心地悪そうにしきりと眼鏡を直す。
田松市三区にある進学校の制服に詰め込まれているのは、
思いの外の正義感と不器用さだった。
委員長っぽい外見だと思ったら、
本当にそういうキャラらしい。
【智】
「正義派委員長純情派」
【伊代】
「……別に委員なんかしてないわよ?」
【智】
「素で返されましても」
【茜子/???】
「甘ちゃんさんは早死にするのです」
しんと場が冷める。
【こより】
「……容赦ないッス」
こっちの方は、普通に名乗った。
【茜子】
「茅場(かやば)茜子(あかねこ)」
ことの発端の方は、
どうにも一際の変わり種だ。
白い肌、そろえた前髪、無表情。
気配の薄さが、
見た目の人形っぽい雰囲気を強くしている。
小柄なこともあって、
最初はうんと年下かと思った。
実は二つばかり離れているだけだった。
芸は、毒舌、らしい。
おまけに、いつの間にか不細工な猫を抱えていた。
どこから生えたんだろう。
【花鶏】
「お人形かと思ったら意外に言うわね。無口なのより、
ずっと可愛いわ」
【るい】
「……とって食うんじゃないだろな」
茜子は、口が悪かった。
他人の反応をちらりと確かめる。
伊代は、舌鋒を気にした様子もなかった。
【茜子】
「私の戸籍上のファーザーが」
【伊代】
「義理のお父さん?」
【茜子】
「リアルファーザーです」
【るい】
「なんで但し書き?」
【茜子】
「縁切り終了済みです」
茜子の父親は借金を作って逃げ出した。
多重債権で首が回らなくなり、
家族を捨てるに至るまでは、ほんのひとまたぎ。
茜子は施設に送られた。
そのまま終わっていれば、
よくある不幸な話で済んだ。
不幸は、得てして次の不幸を呼ぶ。
呪いのように連鎖する。
不幸に陥ったものは、
そこから抜け出そうとあがく。
あたりまえに。
世界は気まぐれだ。
同時に無情に公平だ。
不幸を気遣ってはくれない。
不幸に陥ったものが、
不幸から抜け出すのは、
不幸であるが故に難しい。
焦る。
追い詰められて賭に出る。
ギャンブルで破産したものが、
最後の大ばくちと大穴に賭けるように。
当たり前に失敗する。
呪いだ。
茜子の父親は、呪いを踏んだ。
【茜子】
「あの人たちのお金がどうとか、持ち逃げしたとか、面子が
どうとか。面倒なので聞き流しました」
茜子にも飛び火した。
断片を聞くだけでもろくでもない火の粉だ。
【智】
「笑えない」
【るい】
「ま、父親なんてそんなもんよ」
こちらも一刀両断にする。
【智】
「あてにならないのは認める」
【花鶏】
「親はなくても子は育つ」
しみじみと、共感めいた空気が流れる。
【智】
「……あんまり嬉しくないよね、こういうのの共感は」
【るい】
「考えてもしかたないっしょ。泣いても笑っても親がアレでも、
私らみんな生きてるんだもん。生きてる以上はたくましく
生き抜くの」
【花鶏】
「珍しくも正論ね」
【るい】
「珍しいいうな」
【智】
「あんまり女の子っぽくないのが」
僕の幻想の残り香が五分刻みにされる。
うれしくない。
【るい】
「女は度胸」
【こより】
「センパイッ!」
【智】
「はい、こより君」
びしっと手が上がる。
鳴滝こより。
追われて逃げて捕まったウサギっこ。
小柄だった。
茜子よりもちっこくて細い。
最初は子供かと思ったけど、よく見れば細く伸びた足に色気の
片鱗くらいはうかがえる。
ウサギというより子犬のようにうるさかった。
無駄に元気が余っている。
小動物系とカテゴライズするのは卑近(ひきん)な気がする。
【こより】
「これからどうするでありますか!」
【花鶏】
「そうよ、もう逃がさないわよ!」
【こより】
「は、はひゃ」
花鶏が睨む。こよりがびびる。
猫とネズミの果たし合いっぽい力関係。
【るい】
「いいじゃない、そんな細かいこといちいち」
【智】
「……さすがにそれは大雑把すぎだよ」
るいは追いかけた理由も忘れていた。
【智】
「とにかく、逃げ出して落ち着くまでは一時休戦で」
【花鶏】
「休戦条約が多いわね」
【智】
「戦争は外交の手段です」
【花鶏】
「……ふん」
【伊代】
「それで?」
【智】
「なんとか、全員で、この場を逃げだす」
【花鶏】
「――でも」
花鶏が眉間に皺を作る。
そうだ。
現場を逃げ出した後、好きこのんで、
こんな場所に隠れ潜んだのは理由がある。
こんな場所……。
恥かしいので残念ながらお見せできませんが、
実は、その手のホテルなんです。
でっかいベッドとかあって。
すごく安っぽい作りになっていて。
シャワーとかテレビとかもあったりして。
皆、意識しないように目を逸らし合ったりしてるので、
一種独特の緊張感があったりします。
見ず知らずの男女が、あんなことやこんなことをしてるベッドとかお風呂がすぐ隣にあると思うと。
【智】
「まず、ここを早く出たいよね……」
さて、ここに逃げ込んだ理由。
さっきのヤツの仲間が、
僕らを捜していたからだ。
それらしい連中を見掛けた。
この一帯の歓楽街には日本人以外にもいろんな人種が入り
込んでいて、どいつもこいつも複雑なコミュニティーを
作っている。
部外者で一般人で、おまけにお嬢様系の僕の耳にも、
そういう噂が届くくらい、街の裏側の事情は物騒だ。
できれば一生関わり合いになりたくない。
茜子の父親が手を出したのは、
そのうちの中国人系グループのひとつらしい。
不良あがりのチンピラの機嫌を損ねたのとはわけが違う。
【るい】
「ぶちのめして突っ切っちゃえば」
【こより】
「ひぃ」
【伊代】
「女の子が無茶なこと言わないっ」
【智】
「なんでそんなに荒っぽくしたいかな」
【花鶏】
「脳みそ筋肉」
【るい】
「なんだと、エロス頭脳」
【花鶏】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
揉み合いに。
【智】
「なぜ揉めるのか」
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。この人たちはだいぶ頭悪いです」
【智】
「うん」
【伊代】
「いやそれ否定してあげなさいよ?」
【こより】
「センパイ!」
【智】
「はい、こより君」
【こより】
「警察さんとかのお世話になるのはいかがッスか!?」
【花鶏&るい】
「いやよ」「反対!」
揉み合いの途中で固まって、
そろって反対意見を出す。
妙なところでだけ息が合う。
【茜子】
「却下です」
【こより】
「茜子ちゃんもッスか!」
【るい】
「私、家出少女なんだかんね。家に連れ戻されたらやっかいでしょーがないつーの」
【花鶏】
「貴方の都合なんてしったこっちゃないわ」
【るい】
「ほほう」
【るい】
「んなこといって、あんただってヤなんじゃない。そういうのをね、同じ穴のムジナっていうんだよ」
【花鶏】
「わたしは、ああいった連中の力を借りるのが気にくわないだけよ。プライドの問題。エレガントではないわ」
【花鶏】
「追われて逃げ回るネズミのよーな、あなたと一緒にされては困るわね」
【るい】
「エレガントつーよりエレキングみたいな顔してるくせに」
【花鶏】
「意味はわからないけど馬鹿にされてるのはわかるわ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
さらに揉み合いに。
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。この人たちは犬猿(いぬさる)です」
【伊代】
「あなたはどうして?」
【茜子】
「…………」
【茜子】
「施設に戻りたくありません」
【伊代】
「戻りたくないって……」
【伊代】
「その、行くあてとかは……?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「あなたは、なにか考えある?」
【智】
「智でいいよ」
【伊代】
「…………」
【智】
「どうしたの?」
【伊代】
「と……いやいやいきなり名前なんて、変よ! うん。こういうのは少しずつ馴染み合って互いに親睦を深め合った結果に生まれる関係であって……」
【智】
「つまり僕らは仲間でもなんでもないぜ?」
【伊代】
「ご、ごめん! そういうんじゃなくて、ないんだけど」
【智】
「焦るところ、可愛い顔」
【伊代】
「…………」
【智】
「ひかないでください」
【伊代】
「……そういう趣味の人じゃないよね?」
警戒される。
【智】
「いいがかり」
【るい】
「そういう趣味のひとはこっちのエロガントだ」
【花鶏】
「差別発言で訴えるわよ」
【るい】
「警察はエレガントじゃねーじゃないのかよ?」
【花鶏】
「それはそれ、これはこれ」
【伊代】
「……なんて心いっぱいの棚」
【こより】
「?」
【茜子】
「…………」
おちびの二人は状況が飲み込めてない。
【智】
「……?
ああ、この制服、知ってるんだ」
【伊代】
「そりゃあね。地元じゃ有名どこだし。
駅のこっちがわに来るようなひとじゃないんでしょ、あなた」
【智】
「厳しい学園だから、ばれたら即コレものじゃないかな」
すっぱりと首を切る手つき。
【智】
「でも、伊代も結構な進学校なんじゃ」
【伊代】
「ん、まあ、そうかな」
【智】
「厳しいところ?」
【伊代】
「繁華街には出入り禁止」
【るい】
「ありがち」
【伊代】
「後はネットも毛嫌い。
うちの学園、一昨年晒されて風評被害被ったからって」
【こより】
「あ、それ覚えてるッス!」
【智】
「教師の体罰問題だっけ? 風評だったんだ」
【伊代】
「事件は本当にあった。内情暴露がアップされたりで、先生何人かいなくなったりもしたし。ただ、余計な風評も多かった。個人情報流されたり」
【智】
「熱しやすく冷めやすいのがネットってやつで」
【るい】
「ネットってよーわからん」
【こより】
「るい姉さんは掲示板とか見ない口ですか?」
【るい】
「そもそもしない」
【智】
「回線もなさそうな家だったねえ」
【花鶏】
「原始人」
【るい】
「てめえが燃やしたんだろ」
【花鶏】
「いいがかりはやめなさい」
【伊代】
「こら、もー、揉み合ってないで!」
【智】
「すごく委員長っぽくてグー」
【伊代】
「わからないこと言ってないでよ……」
【智】
「とりあえず、逃げ出す方法を考えよう」
【伊代】
「あなたも警察とか嫌いなひとなんだ」
【智】
「好き嫌いよりは、やっぱり他人だからね」
【伊代】
「…………?」
治安機構の目的は治安を維持することで、
個人の事情を万全には斟酌(しんしゃく)してくれない。
権力の本質は暴力だ。
暴力的でなければ治安の維持など不可能なのだから。
個々の自由を切り売りすることが、
つまりは平穏無事な毎日の正体だ。
最近では線引きの問題も複雑怪奇になる一方。
立ち入り過ぎれば叩かれ、
手遅れになれば責められる。
個人の権利問題が絡むとさらに厄介になる。
解決すべき問題はそれこそ無数に生じるくせに、
人手というリソースは有限で、ともすれば叩かれさえする。
及び腰にもなろうというものだ。
【伊代】
「あてに出来ないってこと?」
【智】
「どれくらい関わってくれるかわかんないし、一時的にどうにかなっても長期的には無理だし、相手の神経逆撫でして余計な恨みかっても守ってくれないし」
何よりも。
【智】
「個人的に学園のこともあるし、警察沙汰って避けたい」
それが一番の理由で。
【智】
「ついで、さっき3人ほどのしちゃったでしょ」
【こより】
「すごかったッス」
【伊代】
「そうねぇ」
【智】
「表沙汰になると、のした連中につけ込まれるかも」
【伊代】
「…………」
【こより】
「でも、あれって正義の味方ッス。
悪い奴らをぶっ飛ばしただけじゃないですか!」
【智】
「世の中ってよくも悪くも公平だしね」
【伊代】
「つまるところは……」
【るい】
「自分の身は自分で守れってことじゃない」
ソファーでごろごろしながら、るいが一刀両断にした。
【花鶏】
「最低の気分だわ」
【るい】
「それはすごく嬉しいぞ」
【花鶏】
「あなたと意見が一致するなんて、
わたしの人生における最大の汚点だと思う」
【るい】
「人生この場で終わらせるか、この女」
【伊代】
「……ごめん」
【智】
「なにが?」
【伊代】
「…………」
【伊代】
「あなたたちに、とんでもない迷惑かけてる」
伊代は恐縮しきっていた。
いよいよ本格派委員長気質というやつか。
【智】
「……別に伊代の責任じゃないよ」
【伊代】
「でも」
【茜子】
「でももなにも、あなたは悪くありません」
【茜子】
「頭が悪かっただけです。
私なんかを助けたからこんなことになったのです」
【茜子】
「犯人は私でした。情けは人のためではなくて、自分のために
使いましょう。そんなことも気がつかないニブチンさんなので
人生の勝利はおぼつかないのです」
【茜子】
「判断ミス、ザマー」
【伊代】
「…………」
無表情に、茜子が笑う。
透きとおった、硬質なのに、
輪郭の曖昧な笑い。
【茜子】
「そういうわけなので……」
【茜子】
「……別に……そのひとは……悪くないです……」
それなのに、最後だけが、たどたどしい。
目眩がするほどの、純朴さ。
おかしかった。
【るい】
「ぷぶっ」
我慢できずに吹き出した。
るいだった。
【るい】
「くくくくく」
収まらないで笑い出した。
沈みかけていた空気が弛緩する。
救われた、と。
なぜか、思う。
【るい】
「平気平気、るいさん正義の味方だから、このくらいなら迷惑でもなんでもない」
るいらしい、
何一つ考えていない思いつきの返事。
頼もしい。
【花鶏】
「……わたしは、困ってる女の子には手を差し伸べる主義だから」
【智】
「僕の時は、手を差し伸べてくれませんでした」
【花鶏】
「その代わり唇を差し伸べたわ」
【智】
「……そうですか」
つくづく、僕は僕が可哀想だ。
【こより】
「…………」
【智】
「なんですか」
【こより】
「なんか……えっちい会話をしてる気がするであります」
【智】
「他意はありません(嘘)」
【こより】
「そんで、センパイはどーするですか」
【智】
「こよりんはどうしたいの?」
【こより】
「不肖、この鳴滝めはセンパイオネーサマと一心同体。一度は
捨てたこの命、生まれ変わった不死身の身体、地獄の底まで
おともする覚悟であります!」
【智】
「不死身ない不死身ない」
【こより】
「心意気だけ不死身なのです」
【智】
「正直でよろしい」
【智】
「それじゃあ」
【智】
「逃げ出す算段をしましょうか」
【こより】
「さーいえっさーっ!」
【伊代】
「あんたたち…………」
【智】
「細かいことは気にしなくていいよ。いやなら最初から見捨てて逃げ出してる。乗りかかった船には最後まで乗るのが趣味なんだ」
【伊代】
「……火傷しやすいタイプだったんだ」
【智】
「それで伊代の気が済まないようなら」
【智】
「貸しにしとくから、今度返してください。精神的に」
【伊代】
「…………」
言葉を探していた。
【伊代】
「……ありがとう」
結局は、まっすぐなものを選んだ。
返事を考えて。
笑む。
余計な装飾のない笑顔。
伊代が、ぎこちなく口元をほころばせた。
初めてみる表情。
【智】
「伊代は、笑ってる方がずっとかわいい」
【伊代】
「…………あなたは」
【智】
「なぁに」
【伊代】
「男だったら、きっと、ずるい男になってたと思う」
【智】
「むう」
複雑な感じにダメージを受ける。
【茜子】
「OK、茜子さん理解しました。あなたがたはどいつもこいつも
阿呆生物です」
【花鶏】
「どうだったの?」
【智】
「だめ」
【伊代】
「本当にいるの? どれがそうなの?」
【るい】
「あれ。
そういう臭いがする」
【こより】
「わかんないッス」
【花鶏】
「臭いでわかるなんてケダモノね」
【るい】
「役に立たないヘンタイ性欲よりマシだよ」
【花鶏】
「――ッッ」
【るい】
「――ッッ」
【茜子】
「いつもよりたくさん揉めております」
【伊代】
「だー、かー、らー!」
【智】
「おやめなさいって」
【花鶏】
「――――ッ」
【るい】
「――――ッ」
【るい】
「ん、ちょっとお待ちッ」
るいは、がしがしとぶっていた。不意に顔つきが変わる。
お尻に蹴りを入れていた花鶏が、その視線を追う。
【花鶏】
「なによ!?」
【るい】
「動いた……ッ、ばれた!
こっちへ、急いで」
【茜子】
「はぁ、はぁ……はぁ……」
【伊代】
「ひぃ……うひぃ……っ」
【こより】
「皆さん、お疲れしてますね」
体力底なしのるいの他は軒並み顎をだしている。
ひとり、こよりは元気がいい。
【伊代】
「しゃ、車輪付いてると楽そうね……」
【こより】
「コツはいるですよ」
【るい】
「あ〜、う〜」
るいがしゃがみ込む。
がっくり。
肩を落として尻尾を下げた負け犬の風情を漂わせる。
【花鶏】
「何事よ? 地雷でも踏んだの?」
【伊代】
「ここは、どこの前線なのよ……」
【智】
「……お腹減ったんだ」
【るい】
「みゅー」
涙目になっていた。
夕飯抜きで逃避行。
常人の3倍燃料効率の悪いるいにしてはよく保った。
【花鶏】
「お腹減って動けなくなるなんて、あきれるわね!」
力尽きたるいを高いところから傲岸不遜に
見下ろしつつ、力一杯花鶏は呆れる。
【るい】
「おぼえてろー」
すでに敗残兵の遠吠えだ。
【茜子】
「人生勝ち負けのひとたちを発見しました」
【こより】
「……現代の蛮族だ」
【智】
「さ、立って立って。もうちょっとだけがんばって無事に抜け出したら、たくさんご飯食べさせてあげるから」
【るい】
「…………ッ」
あれ、妙な反応?
【花鶏】
「でも、どうやって? どこでも目が光ってる。逃がしてくれそうにない」
【伊代】
「制服だし……」
【智】
「目立つよね」
【智】
「さてと、土地勘も人数も向こうの方が上だから」
【伊代】
「そんな簡単に……」
【智】
「まず事実を認めてから対策を」
【茜子】
「では、対策を。見事なヤツを」
【智】
「鋭意努力中だよ」
【茜子】
「ガギノドンに真空竜巻全身大爆発光線を喰らってくたばれ」
【智】
「その猫、そんな大技あるんだ」
【伊代】
「まぁ、代表は誰でも叩かれるものよね」
【智】
「総理大臣みたいなものか……というよりも、いつから代表?」
【伊代】
「パーティーの引率役」
【智】
「アルケミスト一人くらいいるといいかも」
【こより】
「洞窟行く前に穴掘りからッス!」
【智】
「もう少し安くなると嬉しい」
【花鶏】
「なんの話を」
【こより】
「ネトゲですです」
【智】
「ワールドオーダー、おもしろいよね」
【花鶏】
「低俗な娯楽に耽溺して」
【智】
「では、真面目に。どうしましょう」
【るい】
「やっぱり、ごはんのためには突破しか」
目つきが危険だった。
瞳の奥の水底に、手を出せば噛みつきそうな剣呑の色を揺らめかせている。
【智】
「戦争は最後の手段で」
【花鶏】
「知性派でいけそうなの?」
【智】
「国境地帯が紛争中」
【伊代】
「わたしたちが紛争当事者……」
【智】
「外国にぜひとも仲介役を」
【るい】
「外国って誰さ」
【智】
「そこが問題です」
【こより】
「どこッスか?」
【智】
「ここだよ、ここ」
【こより】
「??」
【伊代】
「……今そこにある危機にぼけなくていいから」
伊代のため息。
現実の重さを笑いで誤魔化す。
差し迫ったときにこそ冷静さが必要だ。
深呼吸して顔を再確認。
僕をいれて6人。
【こより】
「どったですか?」
【智】
「……ん、なんでもない」
ほうけていたのに、
目ざとく見つけられていた。
ささやかな驚き。
細かいことに気の回るタイプとは思わなかった。
知らなければ見えない、
知りあわなければわからない、
意外な部分は誰にでもある。
【智】
「だから、ホントになにもありません」
【こより】
「ん〜?」
疑っていた。
鼻先の触れそうな距離までしかめ面を寄せる。
【こより】
「ッッッ!」
真っ赤になって跳び退く。
【智】
「どうかした?」
【こより】
「えあ、いや、その、あー、なんといいますやら」
【こより】
「センパイの唇がすっごくやわらかそうで……」
【智】
「………………」
【伊代】
「だから、そっちの趣味はやめなさい、悪いことはいわないから」
【花鶏】
「新世界は見果てぬ楽園かもしれないわよ」
【るい】
「……魔界だっつーの」
【こより】
「はや?」
理解していない、こよりだ。
表情は万華鏡のようにくるくると変わる。
目を離した隙に違う顔をする。
見飽きない。
【智】
「こういうの……」
【花鶏】
「なによ?」
むず痒さにも似た感覚。
居心地がいい、というのか。
昨日今日であったばかりの、ろくに知りもしない誰かと、
こうして手を携えて危ない橋を渡りながら。
【智】
「馬鹿みたいだ」
【花鶏】
「はぁ? 何をすっとろいことをいってるの。危機感が足りて
いないわよ」
おしかりに尻尾を丸める。
【智】
「……とりあえず移動しよう。
人気のないところはかえって危険だし。
路地の多い西側からなら抜けられるかも」
先導する。
足音がついてくる。
確かな歩みに反比例して、不安の種が疼く。
自分の足跡を誰かが辿る。
怖い。
はじめての、意識。
自分の失敗は、全員の失敗へと伝染する。
病のように。呪いのように。
触れれば穢れていく。
靴底に入り込んだ見えない鉛が、
一歩ごとに重圧となって肩へ食い込んだ。
【智】
「……」
思い知る。
孤独は、自由でもある。
孤独でなくなることは、束縛されることだ。
【智】
「なに?」
【茜子】
「こーんな顔をしてました、ミス・不細工」
茜子が指で目尻をむにゅっと押し上げる。
狐顔――――酷い顔だ。
【智】
「……明日の実力テストの心配してた」
【伊代】
「無事に帰る心配しなさいって」
【智】
「それは大丈夫」
無理からの安請け合いのすぐ横を、
るいが抜けた。
【るい】
「こっちでいーんだよね?」
先頭に立つ。
【智】
「うん……」
【るい】
「よーし、いっちょいくぞーっ!」
気負いはない。
生まれながらの定位置のように。
ほんの少し自分の足の重さが消える。
重いものを、るいが肩代わりしてくれたんだろうか。
そんなふうに思うのはロマンチックが過ぎるか。
自分に小さく笑った。
肩で風切る、
るいの背を追いかける。
〔央輝登場〕
【るい】
「――――」
るいは立ち止まっていた。
【智】
「どう――――」
石段がある。
西側の高所へ抜ける、短く整備されたコンクリート製の
一段目に片足をかけたきり。
るいは精練されていた。
酷薄で鋭利な爪と牙で
武装した危険な駆動体。
威嚇の吠え声もあげずに睨む。
階段の頂きに少女がいた。
足を組んでいる。
石段に腰掛けているからだ。
【智】
「――――」
獣を幻視した。
階段の上に黒くうずくまった影は、
静寂と闇に充たされた森で出会う、
昔話の牙持つものに似ている。
人に一番近しい獣とよく似た姿をしているくせに、
危険と呼ばれ、外敵と見なされる。
剣呑な殺意を口の内側にぞろりと並べている。
そんな、獣。
彼女は睥睨していた。
【智】
「えーっと」
第一声。
【央輝/???】
「――――――く……くくっ」
うけた。
低く喉をならす。肩を軽く震わせて、
おかしくてたまらないというように。
こちらより高い位置だから判らなかったけれど、相手は随分と小柄で、見る限り年の頃もあまり変わらない。年下かもしれない。
【智】
「何かおかしかった?」
単刀直入に。
疲れで、頭を回すのが億劫だった。
【央輝/???】
「お前、自分でおかしいと思わなかったのか?」
【央輝/???】
「見ろよ。随分とうるさい連中が騒いでやがる」
今来た街の方へ顎をしゃくる。
【智】
「そうね、このご時世にマメな人たちだと思う」
【央輝/???】
「今夜は面倒事があったみたいだぜ」
【智】
「面倒事ならいつもあるんでしょ、この辺りなら」
ひゅう、と軽い口笛が応じる。
【央輝/???】
「やっぱりおかしなヤツだ」
【智】
「普通だよ」
【央輝/???】
「こんな騒ぎの晩に、こんな場所に、こんな人数でやってきて、
こんなにも呑気なやつをはじめて見た」
【花鶏】
「もっともだわ」
【茜子】
「このひと、きっと頭のネジが足りていないひとです」
【智】
「君らどっちの味方よ?」
ここまできてギャラリーにさえ嬲られる。
心底、僕は僕が可哀想だ。
【智】
「ところで、駅の反対の、平和なところまで帰りたいんだけど」
【央輝/???】
「普通に帰ればいい。街の中を通って」
【智】
「怖い人が多くて」
【央輝/???】
「誰彼構わず噛みつくわけでもないと思うぞ」
【智】
「そうなんだけど。気が弱くてか弱い女の子は、怖いところには
近づけないの」
くくっ、とまた笑われた。
【智】
「笑われるようなこと言ってるのかな」
【花鶏】
「5人に4人は笑うと思うわ」
【伊代】
「気が弱くてか弱い女の子は、そもそもこんなとこまで来ません」
【智】
「ごもっともです」
【智】
「それで、どっかに抜けられそうな場所があれば」
【央輝/???】
「――――なくはない」
【智】
「あるの?」
投げやりに聞いただけなのに、返答があった。
これって運命のもたらす救いの手?
蜘蛛の糸という気もヒシヒシしますが。
【央輝/???】
「聞きたいか?」
【智】
「うんうん、聞きたい」
【央輝/???】
「すると取り引きだな」
値踏みするような眼差し。
自分を上から下まで眺めてみる。
【智】
「見ての通り大したものはないんだけど」
交換は世界の原則だ。
質量がエネルギーに変わるように、
お金が今日の晩ご飯になるように。
【央輝/???】
「…………」
【智】
「なあに?」
【央輝/???】
「とぼけたヤツだな。こう言うとき、大抵のヤツはな、
幾らいるんですかって切り出すんだ」
【智】
「そういうのでよかった?」
お金がいるキャラには見えなかったので。
【央輝/???】
「いや」
引っかけ問題でした。
【智】
「どうしよう」
【央輝/???】
「つくづく妙なやつだ。いいさ、一つ貸しにしておく。
それで、どうだ?」
【智】
「…………ただより高いモノはない」
【央輝/???】
「道理を弁(わきま)えてるな。その通り。こいつは高い、高くつく」
【智】
「もう少しまからない?」
【央輝/???】
「バーゲンなら他を当たれ」
【智】
「せめてサービスを」
ちらりと後ろを確かめると、
どの顔も疲労の色が濃かった。
選択の余地は無さそうだ。
るいを見る。
一人だけ元気なるいは、
さっきから黙ったまま、
全身の毛を逆立てて警戒している。
純粋であることは感銘を与える。
世界は不純だからだ。
あらゆる要素は、生まれ落ちたその瞬間から、
不純物と結合を余儀なくされる。
観念と思索のうちにしか存在を
許されない完全なるもの。
理想としての純(じゅん)一(いつ)。
無限遠の距離が、
希求してたどり着けない人の心を、
感動で揺さぶるからだ。
るいは本能で世界を単純に色分けする。
敵と味方だ。
決まり切っていた返答を出すために深呼吸をした。
【るい】
「――――」
るいの足下で、砂利が踏みしめられる。
目つきが危険だった。
【智】
「一つだけ条件があるんだけど」
手を挙げて、発言する。
相手より、るいの機先を制する。
【央輝/???】
「言ってみろよ」
るいも、動きを止めた。
【智】
「…………僕が個人的に借りちゃうってことで、いい?」
【るい】
「トモ!」
【花鶏】
「あなた、何を勝手なこといってるの!」
【智】
「まあまあ」
【央輝/???】
「わかった、いいぜ。これはお前への貸しだ。あたしとお前の
個人的な契約だ」
【智】
「……そんで?」
【央輝/???】
「ここをまっすぐ行く。フェンスがあるから越える。右のビルの
隙間を抜けると昔の川だった場所が暗渠(あんきょ)になってる。そこを
抜けていけば、駅の反対にぐるっと回れる」
【智】
「了解っす」
先頭に立つ。
【伊代】
「ちょ、信用するの早すぎない!? もしも連中に――」
密告とかされたりしたら。
伊代が言葉の後ろ半分を飲み込む。
【智】
「その時は、強行突破しかないなあ」
【伊代】
「いい加減……」
どのみちどこかで賭けは必要だ。
【央輝/???】
「おい」
呼び止めて、投げつけられたのは、
ライターだった。
顔に飛んできたそれを受け止める。
オイルライター。結構いいヤツだ。
【智】
「にゃわ?」
【央輝/???】
「サービスが欲しいんだろ」
灯りの代わりということらしい。
【央輝/???】
「貸しを忘れるな」
【智】
「その件はいずれ。できれば精神的な方向で……」
〔バンド(群れ)になります〕
カーテンの隙間から光が差し込む。
安寧(あんねい)が揺すぶられ、今日も朝を迎えた。
いつものように。いつもと同じ目覚め。
一日の始まりに目に入ったのは。
おっきな、おっぱい。
【智】
「ッッッ!!」
るいが、人の頭を抱き枕に安眠していた。
タオルケットを蹴り飛ばす勢いで、
ベッドではなく床の上から飛び起きる。
るい、花鶏、伊代。
3人が床で川の字になっている。
自分を入れると字が余る。
足の踏み場もない惨状だ。
【智】
「朝…………」
ぼーっとする。
朝には、よく幻想の残り香が付きまとう。
甘美な夢の跡は、学園という現実的な
空間に閉じこめられて、ようやく消える。
夢は記憶の再構成という機能の余波だ。
断片に意味はない。
意味は夢を望むものが与える。
快楽にしろ、悪夢にしろ、現世では得難い幻想であるほどに
深く魂を捕らえて離さない。
【智】
「今日は、おせんちな朝だったり……」
おどけたふうに独りごち、
記憶の土壌を掘り起こす。
九死に一生を得た逃避行から一夜明け。
教えられた抜け道を通って駅の反対に出たころには、
時刻は深夜をまわり、終電もバスも尽きていた。
夜歩く体力も気力もすっかり底値。
鋭気を養う場所こそが必要だった。
しかたなく、最寄りで辿り着いたこの部屋に、
そろって雪崩れ込んで、死体のように朽ち果てたのだ。
花鶏流に言うなら、運命のもたらす必然のように。
【るい】
「んん、うむむ……」
悪戯心を刺激されました。
るいの寝顔を指でつつく。
【智】
「つんつん」
【るい】
「んにゅにゅ……」
無防備にすぎる百面相にしばし見入った。
大口を開ける笑い。酷薄な敵意。孤高。
どれもが、るいだった。
人間一人を構成する因子は複雑極まる。
るいが特別なんじゃなく、誰もがそうだ。
他に目覚める気配はない。
【智】
「女の子には、もう少し花のある情景を期待したいのです」
床に3人。
ベッドには、こより。
こちらは色気というより稚気である。
無防備な女の子が可愛いとは限らない。
茜子は孤独が好きらしくクローゼットの中に。
ちょっと意味不明だ。
異性に対して抱く夢想や憧憬(どうけい)。
異者だからこそ、あり得ない完全さを期待する。
そして、完全は観念の内にしかありえない。
過酷な現実に肩をすくめた。
起こさないように、のろくさと這い出す。
シャワーを浴びにいく。
【智】
「……誰か起きてきたら、やばい……かなぁ。
でも、昨日は一晩中走り回ったし、汗かいてるし……」
危険と秤にかける。
我慢はできそうにないや。
服を脱ごうと手をかけてから、
考え直す。
バスルームに持ち込んで脱いだ。
ワイシャツのボタンを外しかけたところで、一度も使ったことの
ないバスルームの鍵を落としておくことにした。
念には念。
【智】
「ふんふんふふん♪ 生き返るぅー」
予感的中。
【智】
「どちらさまですか」
【花鶏】
「……閉まってるわ」
【智】
「施錠してます」
【花鶏】
「どうして鍵なんてかけてるの?」
なにやらどす黒い情念が、
バスルームのドア越しに伝わってくる。
【智】
「どうしてガチャガチャしてるの」
【花鶏】
「一日のはじめにシャワーを浴びるのが習慣なのよ」
【智】
「いいよ、使って。僕が出たあとで」
【花鶏】
「たまには二人でお風呂も素敵じゃないかしら」
【智】
「僕は孤独を愛してるんだ」
【花鶏】
「それよりも人を愛しなさい」
【智】
「愛情過多な人生も問題あるかなあって」
【花鶏】
「大は小を兼ねるのよ」
【智】
「るいもおっきーけど、伊代も実はどーんだったね……」
【花鶏】
「素敵な黄金律だと思うわ」
【智】
「黄金のような一時を過ごしてます」
【花鶏】
「ここを開けて。わたしにも振る舞って」
【智】
「近頃はこのあたりも物騒で、
女の子を食べちゃう狼さんが出たりするから、だめです」
【花鶏】
「危険な時こそ友情が試されるのではなくて」
【智】
「おばあさんのお口が耳まで裂けてるのはどうしてですか」
【花鶏】
「つれないわね、赤ずきんちゃん」
諦めたのか、ハラス魔王の気配が遠ざかる。
【智】
「……寝たふりして狙ってたんだな」
油断も隙もない。
【教師】
「――政体には三つのものがあるとする。共和政、君主政そして専制政である。それぞれの本性を明らかにするとき、三つの事実を想定する」
【教師】
「共和政は人民に最高権力が委ねられており、君主政は権力がただ一人の手にあるものの制定された法のもとに統治される」
【教師】
「対して、専制政においてはこれを持つただ一人を制する術がなく、第一人者の理性と感情の赴くところのみが、」
生あくびを噛み殺した。
授業を進める小粋なチョークのリズムに普段より乗れず、肘杖をついて意味もなく外へと視線を漂泊させた。
碁盤目に区切られた座席の上に、
きれいに配置された学生たちの頭。
石の海だ。
黒く固い水面の向こう、窓を隔てて空がある。
時間の経過が、今日はひどく遅い。
放課後になる。
授業が終われば閑散とする。
祭りの後めいた空虚が、
主のいない座席の列の上を漂う。
【宮和】
「よだれ」
【智】
「はにゃ――」
口元を拭われる。
窓辺の席に陣取って、ゆるい風に巻かれながら、
いつの間にかうたた寝していた。
【宮和】
「起こしてしまいましたか」
【智】
「宮……」
唇に手を当てる。
優しい感触が残っている。
【智】
「あう」
【宮和】
「愛らしい寝顔でございました」
【智】
「はずかしいです……」
【宮和】
「花の蜜に誘われるように、つい唇の」
【智】
「奪われた?!」
【宮和】
「よだれをぬぐってしまいました」
【智】
「ごめん、ハンカチ汚させちゃった」
【宮和】
「和久津様のいけない寝顔が、他の方に見つからなくて
ようございました」
【智】
「宮には見つかりました」
【宮和】
「そして悪戯を」
【智】
「堪忍してください」
【宮和】
「今日だけは特別にそういたします」
【智】
「多謝」
【宮和】
「よいお日和ですのね」
宮和が細い首を傾けて、笑む。
小さな齧歯類を連想させる。
目をすがめて、雲の合間にのどかな風を見る。
【智】
「気持ちよかったから、つい、うたたねしてた。昨日はちょっと
寝不足気味だったから」
窓から入り込んだ、
ゆるい大気の流れが頬を撫でる。
見えない手に髪をまかせる。
【宮和】
「和久津さまは、ずるずるされなかったのですね」
【智】
「ずる休みのこと?」
【宮和】
「関西方面のスラングでございます」
【智】
「嘘だ、絶対に嘘だ」
【宮和】
「ずるずる」
くねくねした。
【智】
「……何をしてるの?」
【宮和】
「これが意外に、心地よくて。和久津さまもいかがですか」
いつまでもしていた。気に入ったらしい。
【智】
「ご遠慮」
【宮和】
「残念でございます」
【宮和】
「ずるずる」
【智】
「ずるはなしで……」
座ったまま、開いた窓枠に後頭部をのせる。
見上げた空に向かって、うんと伸び。
【花鶏】
「――盗まれた!?」
それは花鶏と呼ばれていたものだ。
今は花鶏ではない。
人の領域にはいない。
百歩譲っても鬼だか悪魔だかが相応しい。
【花鶏】
「盗んだのはあなたでしょ!」
牙が生えた。
角はとっくに生えていた。
【こより】
「盗んでないですようっ!」
こちらは半泣きだ。
証言はどこまでもすれ違う。
整理すれば事実は簡単だ。
数日前。
るいと花鶏が駅向こうで揉めた。
こよりが通りがかったのは偶然だった。
揉めたはずみで、こよりは突き飛ばされた。
【るい】
「……覚えてない」
【花鶏】
「記憶にないわ」
犯人たちの証言の信憑性はさておく。
容赦なく被害を拡散する悪魔たちに恐れを成して、こよりは
逃げ出した。
トラブルが発生した。
揉めたひょうしに花鶏はバッグを落とした。
こよりは逃げ出すときにそれを掴んだ。
持ち逃げするつもりはなかった。
こよりはパニくると周りが見えなくなるらしい。
【花鶏】
「バッグはどちらでもいいの!」
【智】
「高いんでしょ?」
【花鶏】
「高くても」
金銭に執着のない人はこれだから困る。
1円を笑う者は1円に泣く。
閑話休題。
こよりは気付いて呆然とした。
泥棒しちゃった。
唐突に訪れた初体験。
朝ベッドで目が覚めたら、
隣に見知らぬ男が寝てましたな心境。
ショックを受けて雑踏に立ち尽くした。
格好の獲物に見えたことだろう。
雑踏の中から男の手が伸びてきて――――。
【花鶏】
「そんな馬鹿みたいな話が」
【こより】
「あるです、ホントですぅ〜」
――――こよりは、バッグをひったくられた。
追う間もなく相手は街に飲まれて消えてしまった。
【智】
「事実は小説より奇なり」
【花鶏】
「きっ」
【伊代】
「混ぜっ返すとちゃぶ台返されるわよ」
【智】
「蛮族の方々が暴動起こすので止めてください」
【茜子】
「咀嚼(そしゃく)咀嚼ヤムヤム咀嚼」
【るい】
「トモのご飯はやっぱおいしいのうー」
【伊代】
「あなたたち本当にまとまり無いわね……」
こよりは焦った(本人談)。
【こより】
「なんとか探そうと……」
【智】
「してたんだ」
【こより】
「努力はしたんですけれど……」
【智】
「じゃあ、アソコにいたのは」
【こより】
「犯人は現場に戻るの法則ってありますよね」
【茜子】
「儚い期待を抱く夢見るガールは、さっさと目を醒ました方がいいと思います」
【こより】
「いじいじ」
膝を抱えて、床の上に「の」の字を書いてみたり。
【伊代】
「でも、戻ってきてるじゃない」
白い目の伊代が、こよりを指差す。
犯人、現場に戻る。
【智】
「そして、逃避行」
【こより】
「殺されるかと〜〜〜〜」
【るい】
「人聞きわるいぞぉ」
【智】
「無理はなかったと思うけど」
【花鶏】
「………………」
花鶏は打ちひしがれていた。
夢も希望も潰え去った負け犬を、高いところから傲岸に
見下ろしつつ、朝ご飯を満足いくまで飽食してから、
るいは告げた。
【るい】
「ザマー」
【花鶏】
「――――ッッ」
【るい】
「――――ッッ」
朝から揉めた。
【智】
「さてと」
【こより】
「センパイ、どちらへ」
【智】
「当然登校します。学生の本分は勉学です。今日は小テストあるし」
【伊代】
「わたしもそろそろ……と、あ……どう、しようかな」
伊代の眼鏡が逆光で白く曇る。
葛藤の汗が額を流れる。
茜子のことが、伊代の気がかりだ。
窮地は脱したから、後は放置して、
それでよしとできないタイプ。
自爆型の委員長気質だ。
石橋を叩いて渡りたがるくせに、一端乗ると船から下りる決断
ができなくて、一緒になって沈むタイプ。
【るい】
「ずるっちゃえば?」
【こより】
「それ、賛成!」
【伊代】
「それは許されないわ」
眼鏡が朝日を照り返し、
ギラリと良識の光を放った。
【伊代】
「非日常な事件にかまけて日常を乱したらいつまでたっても平和な日々には戻れないのよ。それどころか道を踏み外してどんどん悪い方向に行く」
【智】
「優等生的にずるはなしみたいだよ」
【茜子】
「では、社会秩序の歯車エリートである優等生さま、
いってらっしゃいませ」
【伊代】
「ん〜、なんだか気の重くなる比喩ね……」
【茜子】
「正直は茜子さんの美徳です」
【花鶏】
「…………ぎを」
猛獣が歯を軋らせるにも似た。
花鶏が顔を上げる。
目のある部分が爛々と怪しい光を放っていた。
【花鶏】
「対策会議を、するわ」
【智】
「待ち合わせ、か」
机の上にだらりと突っ伏す。
呟いた言葉がしこりになった。
形の合わないパズルのピースを無理からに詰めてしまったみたいに、みぞおちの辺りがぎこちない。
【宮和】
「今日はどうしてお残りに?」
【智】
「宮も珍しいね」
【宮和】
「わたくしは所用がございましたから」
【宮和】
「和久津さまは、いつも授業が終わると急いでお帰りになられますのに」
【智】
「ちょっとした約束があって、
一度帰っちゃうのも遠回りになるから――――」
しこりの正体に行き当たる。
約束。
待ち合わせ。
長いこと、学園の外で誰かと待ち合わせるような機会はなかった。
秘密がある、とはそういうことだ。
【宮和】
「はじめてですわね」
普段通りの宮和のやわらかさには、普段と違った春先めいた成分が含まれている気がした。
【智】
「なにが?」
【宮和】
「和久津さまとお知り合って以来、事情があると仰られることは何度もございましたけれど、約束があると伺ったのは今日が初めて」
【智】
「……そうだっけ」
放課後の教室に残っていると物寂しさが募る。
教室は喧噪と癒着している。
大勢がそこにある場は、必然騒々しさを宿す。
だが、永続はするものではない。
タイマー付きの時限爆弾だ。
時間が来れば終わる。
爆発の後には瓦解(がかい)が残留する。
不可分の要素の欠落は、
在りし時の「かつて」を連想させる分だけ、
より寂寞を強くした。
世界の中心に自分だけが置いていかれたような錯覚。
今は、ひとりではなく、二人だ。
【智】
「……」
誰かの存在。
たわいもない温度が胸に落ちてきた。
饒舌(じょうぜつ)だが口数は決して多くない宮和と共有する空間の、
奇妙な肌触りがなぜか心地よい。
【智】
「不思議空間」
【宮和】
「世界は不思議でいっぱいなのです」
【智】
「本当にそんな気がしてきた」
【宮和】
「世界の真理にアクセスされたのですね」
【智】
「……はじめて、か」
生き方と不可分に結びついた孤島の歩み。
【宮和】
「間違いはございません。記憶は一言一句の聞き漏らしもなく完璧です。わたくし、これでも学園最強の和久津さまストーカーを
自負しておりますから」
【智】
「是非ともしなくていいですから」
【宮和】
「お気に召しませんか」
【智】
「召すと思う宮の心が心配だ」
【宮和】
「ぽっ」
【智】
「なぜ頬を赤らめるの?!」
【宮和】
「内緒です」
【智】
「なぜ内緒っ?!」
【宮和】
「言ってよろしいのですか?」
【智】
「…………」
聞かせてくださいと決断するには、怖すぎた。
【智】
「ハァイ。今日の待ち合わせは……時間かかるから、場所を変えて? うん、いいけど……いえ、悪くないです。そういわれればそうだけど」
【智】
「ん、了解。バスが最寄りで、降りたら……わかった。
また連絡入れる」
【智】
「対策会議は花鶏の家で、か」
【こより】
「センパーイ、センパイセンパイ〜っ!」
【智】
「こんなところでなにをやっとんのねん」
【こより】
「不肖鳴滝め、センパイの登場をば、今か今かと待っておりましたのこころです」
【智】
「そこまで僕のことを……ういヤツ」
【こより】
「実はビビっておりました」
【智】
「根性なしだ」
【こより】
「見知らぬ土地は北風が強いッス!」
【智】
「どこの港町なのよ」
【こより】
「演歌なら鳴滝めにおまかせを!」
【智】
「いいからいくべし」
【こより】
「いくべしー」
【こより】
「センパイといっしょに、おーてて繋いで、らんらんらん♪」
【智】
「……恥ずかしいですッッ」
【こより】
「女は気合いでありますっ!」
【智】
「でかっ」
【こより】
「でかっ」
第一声。
花鶏の家は大きかった。
家では相応しくない。
邸宅と呼ぶ方がはまる。
厳つく高い門が、外界と内を峻別する建物。
こよりが尻尾を巻いて逃げ出したのもむべなるかな。
門とは境界である。
出入りするためにではなく、
通じる道を塞ぐために存在する。
威圧する機能こそ本性だ。
【智】
「女は?」
【こより】
「……気合いであります」
【智】
「敵は呑んでも飲まれるな」
【こより】
「押忍っ!」
【智】
「まずは1発っ」
【こより】
「ごめんくださいませー」
【智】
「落第ですね」
【花鶏】
「ようこそ、歓迎するわ」
お屋敷の中は、やっぱりお屋敷でした。
【こより】
「ほわー」
【花鶏】
「どうしたの?」
【こより】
「びっくりしてます……」
【智】
「制服じゃないのを目撃しました」
【こより】
「そうじゃなくて! まずは広さの方をびっくりするべきでは!」
【智】
「そういえば……花鶏、今日学園行った?」
【花鶏】
「普通に登校したけれど」
【智】
「よかった」
胸をなで下ろす。
【花鶏】
「行けるときには行くわよ」
【智】
「意外にマジメっこだったんだ。みんなズルズルいっちゃたんじゃないかって、ちょっとだけ心配に」
【花鶏】
「意外に苦労性なのね」
【智】
「気配り文化の国民ですから」
【花鶏】
「勉学は自分のためにするものだから。
わたし、他人の都合や社会秩序に興味はないの」
しれりと、肩にかかった髪を後ろにかき上げる。
【こより】
「それってワルってことですか?」
【花鶏】
「わがままってこと」
【智】
「自分でおっしゃいますね」
【花鶏】
「自己分析は正確に」
【智】
「いっそ横暴と」
他の面子は先に顔をそろえていた。
【るい】
「おーい」
るいは、高そうな椅子に窮屈そうに収まっていた。
手を振りながら飛んでくる。
【るい】
「あいたかったよー」
しがみつき。
【智】
「なになにどうしたの!?」
【茜子】
「人様のなわばりで気が立っているようです。ケダモノのように」
【るい】
「ぐしぐし」
【智】
「僕んちは平気だったのに」
【伊代】
「その子、大きな家は苦手なのかしら」
【智】
「わからないでもないんだけど……」
【伊代】
「なんていうか、場違い、な感じで」
伊代は苦笑いする。
【智】
「僕らで最後?」
【花鶏】
「そうよ。お茶をいれるわ。紅茶でよくて?」
【智】
「僕コーヒー」
【るい】
「お姉さん、コーラ」
【こより】
「渋いのは苦手ッス」
【伊代】
「えっ、他のもあるの? それじゃ緑茶……やっぱりほうじ茶で!」
【茜子】
「ひやしあめを」
【花鶏】
「全員紅茶ね」
花鶏が口を挟む余地のない目をして部屋を出た。
殺す気と書いて「ほんき」と読む。
【るい】
「ビッ○が、ペッ」
【伊代】
「えっ、本当は紅茶しか無いの? なんでみんないろんなの
頼んでたの?」
【智】
「素だったか。キャラが掴めて来た」
【茜子】
「掴めて来ました」
【伊代】
「なに、どういうこと?」
【るい】
「そういえば!」
るいが跳ねた。
【こより】
「ほえ、なんかありまして?」
【るい】
「あった。重大問題。晩ご飯どうしようか?」
【智】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
【こより】
「……」
掴むところしかないキャラだった。
【花鶏】
「わたしのバッグをどうするか」
【こより】
「弁済無理ですから〜!」
【伊代】
「せっかく集まってるなら、
この子のことも考えてあげたほうがいいんじゃないかしら」
【茜子】
「茜子さんは一人で強く生きて行くのです」
【智】
「カモがネギしょって厳しい世間にぱっくりと」
【るい】
「つか、よくも家焼いてくれやがったわね」
【花鶏】
「わたしがやったんじゃないって」
あのビル火災の原因は、周辺を根城にしてたホームレスの
失火らしいと、ニュースでやっておりました。
話題はとりとめがなく、
やくたいもなく続く。
雑多な言葉の意味もない連なりが、それなりに楽しくて、
知らぬ間に時間を浪費する。
果てしなく拡散する過程のどこかの時点で、
爪の先ほどのきっかけができた。
【伊代】
「問題を解決するためには」
伊代が眼鏡のフレームを指先で直す。
【伊代】
「問題を明確化すること」
常識的な見解を吐く。
自分が常識人であると、
ことさらに誇示するように。
得てして自己評価と世間の見方は
交差しないものである。
【花鶏】
「お茶が切れたわね」
【智】
「手伝うよ」
花鶏が部屋を中座する。
金魚のフンよろしく付き従う。
扉の外に出ると気圧された。
庶民離れした屋敷の気配。
価値は時に威圧感にすり替わる。
奇妙に古びた、それでいて何かの欠け落ちた廊下の印象。
夕暮れのオレンジに染められた風景画を想像する。
【智】
「家政婦さんとかいそうな家だよね」
【花鶏】
「いないわ。人嫌いなのよ」
手ずからお茶の用意をする花鶏の言葉の、
どこまでが本気かわからない。
近くにあった扉の一つをこっそり覗く。
手抜きみたいな、同じような部屋がある。
こんな部屋が幾つもある事実を驚くべきな気もしたり。
【智】
「大勢で押しかけちゃって、ご両親とかは」
【花鶏】
「親のことは気にしなくていい」
背中のままで切って捨てられた。
語気の壁が顔に当たる。
それ以上踏み込むことを拒絶する、
見えない柵が作られている。
【智】
「にしても、問題が解決しませんね」
【花鶏】
「別に、わたしは助けがいるわけじゃないから」
えー。
でも、最初に対策会議なんて言い出したのは?
【花鶏】
「手を貸して欲しいから迂遠に泣きついたとでも思ったの?」
【智】
「何を怒ってるんですか」
【花鶏】
「怒ってなんていないわ」
【智】
「なぜに怖い顔なんですか……」
【花鶏】
「わたしは普段通り。顔が怖く見えるのは、キミの心に
やましいことがあるからじゃなくて?!」
【智】
「なにも糾弾しなくても」
【花鶏】
「糾弾なんて、してないわ、断じて」
【智】
「ごめんなさい、全部僕が悪いです。信号が三原色なのも、救急車が白いのも僕のせいです」
尻尾を丸めてお手伝いに没頭する。
カップをそろえて並べる。
同じカップは人数分に足りてなかった。
申しわけに形を合わせた不釣り合いの器が、
不格好に輪を作る。
【智】
「ここはなに?」
【花鶏】
「テラスよ」
【智】
「見晴らしのいいところだね」
【花鶏】
「――――新事実の発掘くらい期待したわ」
花鶏が背を向けたままもらす。
声音は従容として干渉を拒絶する。
他人の心をのぞき込む術はない。
よく知る相手でさえ人の間にあるのは断絶だ。
数日の知己では埋められるはずもない。
【智】
「信頼は裏切られるためにあるんだよね」
【花鶏】
「存外後ろ向きなのね」
【智】
「多少は苦労が骨身に染みついてるから」
【花鶏】
「信じる力を信じないの?」
【智】
「信じるって素晴らしい言葉だよね。花鶏が言うと特に」
【花鶏】
「わたしは誰よりも信じてるっての」
【智】
「友情ってものを信頼できる? 親と子は無根拠に助け合うものだって感じてる? 十年経っても変わらない愛情があるって思う? 明日傘を忘れて出かけたら雨は降らないって信じてる?」
【花鶏】
「最後だけイエス」
【智】
「……なにを信じてるんですか」
【花鶏】
「わたしは、わたしを信じてるのよ」
【智】
「信じる心が力になるなら、神様だってお役後免だよ」
【花鶏】
「そうね。信じるなんて言葉では足りないわ。わたしは、わたしを信仰してる。本当に心の底から、これっぽっちの疑いもなく、ほんの些細な間違いもなく」
【花鶏】
「わたしの才能、わたしの未来、わたしの運命……全てがわたしの味方であることを」
見えないスポットライトが当たっていた。
ステージの上のオペラ歌手のように。
【花鶏】
「感心してるのね」
【智】
「あきれてるんだ」
【花鶏】
「人はわかりあえないものだわ」
【智】
「きれいにまとめてどーするの」
【花鶏】
「きれい事も時には重要ね」
【智】
「……ふむ」
【花鶏】
「どうかして?」
【智】
「どうか、言いますと?」
花鶏は、窓枠のチリを検分する姑さん風に眼を細める。
【花鶏】
「クレタ島の生き残りみたいな顔してる」
【智】
「それは嘘つきということですか」
【花鶏】
「心当たりは?」
【智】
「ありませんともありませんとも」
【花鶏】
「嘘つき村の住人なのね」
【智】
「そんな根も葉もない」
【花鶏】
「吐かせてみようか」
【智】
「ちょ、悪ふざけは……きゃわっ」
後ろから抱きすくめられた。
耳たぶにぬるい息がかかる。
【花鶏】
「細い腰……」
【智】
「ぎゃー!」
手が胸を狙ってきた。
必死になって身を守る。
【智】
「やめてよして堪忍して」
【花鶏】
「とっくにキスはすませた仲じゃない」
【智】
「やーの、それやーのぉ!
あぅん、耳はだめだめ、みみみみみみみみ」
耳たぶを甘噛みされる。
大事なところをカバーすると
それ以外がおざなりになる。
【花鶏】
「うふふふふふふ」
【智】
「ぎゃわーーーーーーっ」
【花鶏】
「胸は本当にちっさいみたいね」
【智】
「いやあああああああああああああああ」
足がもつれて床に転がった。
【こより】
「……何をやっておるですか」
こよりが不思議そうに見下ろしていた。
【花鶏】
「親睦を深めてるのよ」
【こより】
「なるほど」
【智】
「納得しないように!」
隙を見つけて、そそくさと距離を取る。
【花鶏】
「ちっ」
【こより】
「…………」
【智】
「どしたの」
ごにょごにょと、何か言いかけて、
こよりは失敗する。
自分でも処理できない感覚にもじもじしていた。
【こより】
「よくわかんないんですけど……」
【こより】
「なんか、どきどきする」
【智】
「考えるの禁止」
知られざる魔界の扉が目の前に。
【花鶏】
「教えてあげましょうか?」
【こより】
「ほえ」
こよりを引っ張って後ろに隠す。
悪魔の誘惑から、奪い取った。
【花鶏】
「邪魔するのね」
【智】
「正義の行為」
【こより】
「わかんないのです」
【智】
「……わかるの禁止」
世界には危険がいっぱいだ。
用意したお茶に全員が手を付けるのを待つ。
さらに一呼吸置いてから、口火を切った。
【智】
「そこで提案があります」
【伊代】
「どこからの続き?」
【るい】
「晩ご飯」
【茜子】
「食いしん坊弁慶」
【智】
「それ違う」
【花鶏】
「何の話だったかしら」
【智】
「問題の明確化から」
【伊代】
「そこからの続きなんだ」
【智】
「提案があると」
【花鶏】
「話の腰がよく折れるわね」
【智】
「折ってるのは君らです」
【こより】
「センパイ、腰を折るにはやっぱキャメルクラッチからッス」
【智】
「いやいやいやいや」
【伊代】
「もうボキボキね」
【智】
「そう思うなら少しは議事進行の手伝いを」
【伊代】
「他人の力をあてにしない」
【智】
「伊代って冷たい」
【茜子】
「人間フリーザー」
【伊代】
「な、なんということを」
【るい】
「そんで?」
仕切り直しに咳払いをしてから。
【智】
「現状、僕らはそれぞれやっかい事に面している。困ったトラブルを抱えてる。解決すべき事例が身近にある」
【智】
「たとえば、るいには家がない。茜子だって、最低でもほとぼりが冷めるまで帰れない」
【茜子】
「冷めても帰る気ナッシングです」
【智】
「花鶏には捜し物がある。伊代やこよりだって、
多かれ少なかれ巻き込まれたり責任を感じてたりする」
【智】
「問題は投げ出せない。そこから逃げられない。そこでの僕らの
思いは同じで、たったひとつ」
【智】
「早々に解決したい。
トラブルを処理して平穏無事な日常世界に帰還したい。
やっかい事を遠ざけて平和な安寧(あんねい)を呼び込みたい」
【伊代】
「そうね」
【智】
「だから――」
【るい】
「だから?」
【智】
「手を組もう」
【るい】
「……」
【花鶏】
「……」
【伊代】
「……」
【茜子】
「……」
【こより】
「手を、組む?」
【智】
「そう。手を組む。力を合わせる。
利害の一致で歩調を合わせて前に進む」
【茜子】
「意味不明です」
【智】
「意味もなにもそのままだよ。要するに、一人で解決できないから他人の力を借りようってこと」
【伊代】
「そんなこと言ったって……昨日会ったばかりよわたしたち」
【るい】
「はーい、私は一昨日」
【花鶏】
「大差なし」
【伊代】
「そんなので……」
【智】
「誰だって最初は初対面」
【智】
「なにも難しくないよ。信頼できる絆を結ぼうとか、そういうんじゃない。利害が一致する間だけ、力を合わせて進もうってこと」
【智】
「どのみち一人じゃ何ともならないんだから、それなら、少しは顔見知りの相手の力を借りる方がいいでしょ? もちろん他にあてがあるならそっちに頼ってもいいけど」
返事はない。
今日この場に未解決のまま問題を持ち込んだということが、
そもそも他のアテがない証明でもある。
人間関係の寂しい面子だ。
【花鶏】
「わたしは、一人でも、問題ない」
花鶏が肩にかかった髪を後ろに跳ね上げる。
優雅さに、ある種の剣呑な棘が見え隠れした。
矜持(きょうじ)か、高慢か。
差し伸べられる手をことさらに払いのける。
【智】
「それなら、手を貸して」
朗らかに。
【花鶏】
「わたしが? どうして?」
【智】
「そうね……僕が困ってるから、じゃだめ?」
【花鶏】
「……」
寸刻、おもしろい顔になった。
梅干しでも食べたみたいな酸っぱ顔。
【花鶏】
「まあ、智がそこまで頼むのなら、少しくらい助けて
あげなくもないわ」
【るい】
「えらそーに」
【花鶏】
「なにか?」
【智】
「ありがとう、花鶏」
【伊代】
「意外と姑息だな、こやつ」
花鶏が微笑し、るいが頬をふくらませ、伊代は目を線にする。
【智】
「さあ、どうしよう?」
【智】
「問題を解決するために問題を明確化する」
【智】
「僕らがすべきことはなに? 一人で悩んでいること?
解決できない事情にヒザを抱えて丸くなること?
後ろを向いて逃げ出すこと?」
【智】
「どれも違う。僕らがすることは、このトラブルを倒すこと。
八つに畳んでバラバラにして埋めてしまうこと。何事もない
毎日へと辿り着くこと」
【智】
「一人ではできない。一人では辿り着けない。だから手を組もう。打算でいい。合理で構わない。秤に乗らない友情を絆にするよりずっと確かで信頼できる」
【伊代】
「わかるけど、でも……」
【智】
「きれい事を言ってもいいけど、昨日今日会ったばかりの関係で、それは無理」
【るい】
「着飾った言葉より本音の方が好みかな」
【花鶏】
「同意するわ、残念だけど」
【茜子】
「助けた分だけ助けてくれるわけですね」
【こより】
「とりあえず、鳴滝めはセンパイとご一緒です!」
【智】
「つまり、これは同盟だ。破られない契約、裏切られない誓約、
あるいは互いを縛る制約でもある」
【智】
「僕たちは口約束をかわす、指切りをする、サインを交換し、
血判状に徴(しるし)を押して、黒い羊皮紙に血のインクでしたためる」
【智】
「一人で戦えないから力を合わせる。1本の矢が折れるなら5本
6本と束ねてしまえばいい。利害の一致だ。利用の関係だ」
【智】
「気に入らないところに目をつぶり、相手の秀でている部分の力を借りる。誰かの失敗をフォローして、自分の勝ち得たものを分け与える」
【智】
「誰かのためじゃなく自分のために、自身のために」
【智】
「僕たちはひとつの群れ≠ノなる。
群れはお互いを守るためのものなんだ」
〔僕のいどころ〕
静閑な住宅街。
緩い上り坂に夕映えが差しかかる。
伊代と茜子を誘って出向いた、
買い出しの帰り道だ。
【伊代】
「わたし、あなたに賛成したわけじゃないわよ」
伊代が言葉を投げてよこす。
僕と伊代の間に挟まった茜子の頭の上を、
見えない放物線が飛んできた。
【茜子】
「ニャーオ」
茜子が我関せずと鳴く。
左右の不穏など他人事で民家の塀へと手を振る。
【猫】
「にー」
野良猫がいる。
警戒心の強い野生のキジ猫が、
茜子には愛想良く返事をする。
【茜子】
「ニャウ」
【猫】
「みゅー」
【茜子】
「ニャーニャー、ゲゲッ」
ほんわか。
理解も出来ない鳴き声は会話を連想させた。
【智】
「なんて言ってるの?」
【茜子】
「吾輩は猫である」
キジトラはインテリらしかった。
三毛はフェミニストだうろか、
シャム猫ならどうか。
【伊代】
「ちょっと、わたしの話聞いてる?」
【智】
「テツガクテキ命題に耽溺して聞いていませんでした」
伊代の眼が細くなる。
危険水域が近づく。
見知らぬ人間関係は手探りだ。
二人いればお互いの距離が問題になる。
近すぎても遠すぎて関係には齟(そ)齬(ご)が生じてしまう。
最適の距離を測るには時間と経験が必要だ。
積み重ねだけが適切な空間を作りあげる。
眼鏡ごしの視線は、怒りめいた鋭利とも
時限爆弾じみた不機嫌とも異なっている。
きっと、伊代は困惑している。迷っている。
現状に。未来に。
未明の全てに。
【茜子】
「ニャーオ」
伊代は、茜子を気にかけていた。
茜子の方は――――意味不明だ。
奇怪で冒涜的で魚類とも頭足綱とも
人間ともつかない特徴を備えた
灰色の石で作られた置物風に。
意訳すると、キャラとしてわからない。
伊代と茜子。
感情のやり取りは一方的で、
なし崩しの関係性がとりあえず成立している。
それ以上でも以下でもなかった。
それでも初対面では姉妹に思えたものである。
【智】
「目が悪かったようです」
【伊代】
「わたしは、目が悪いから眼鏡かけてるんですけど!」
【智】
「そちらの話ではなく」
【伊代】
「じゃあ、なんの話なの!?」
【智】
「話してたのは伊代の方です」
【伊代】
「む、ぐ……っ」
脊髄反射で語気を荒げ、
荒げた分だけ自分の言葉に詰まる。
かといって、感情のままで押し切る無法に染まるには、
伊代は少しばかり理知的すぎる。
【智】
「賛成してないって?」
【伊代】
「ちゃんと聞いてたんじゃない!」
【智】
「嫌いな献立があるならいってくれればよかったのに」
【伊代】
「誰が夕食の話をしてますか」
【智】
「晩ご飯の話ではないと?」
両手にぶら下げた、
中味のつまったスーパーの袋をかかげる。
【智】
「キミの意見を聞かせてもらいたいのです」
【茜子】
「いちいち他人の顔色を伺わなければ生きていけない人間には、
生きてる価値がありません」
【智】
「ほめられた」
【伊代】
「貶(けな)されてるのよ」
【智】
「楽しいおしゃべりとユーモアは人生のエッセンス。
眉間にこーんな皺ばっか作っててもしかたないでしょ」
【茜子】
「……似てる」
【伊代】
「誰の真似かしら?」
【智】
「冗談はさておきまして」
【伊代】
「真面目な話、してもいいの?」
【智】
「はっ、不肖和久津智。
一命をなげうって真面目にお話させていただきます」
伊代が肩全体でため息をついた。
【伊代】
「……も、いいわ。好きにして」
【智】
「ちょっとドキドキする台詞かも」
【茜子】
「えろい人ですね。男の人相手に口にして、近づいて来たところを一撃するわけですか」
【智】
「どこの誘惑強盗なのさ」
【伊代】
「エロでもエラでもいいから……あのね、さっきの話、本気なの?」
【智】
「さっきというと」
【伊代】
「同盟だか連盟だか」
【智】
「同盟っていうとバタ臭くてやな感じ。そこはかとなく漂う
前世紀の香りが特に」
少女同盟。
30年くらい前の少女漫画のタイトルっぽい。
【伊代】
「レトロっぽい響きとは思うけど」
【智】
「まあ、最近は復古ムーブメントも需要あるみたいだから」
【伊代】
「いやね、年寄りのノスタルジーっぽいわ」
【茜子】
「若気の至りな暴論です」
【智】
「話がどんどんずれていくねえ」
【伊代】
「かあっ」
【智】
「……怒った」
【伊代】
「怒ります。すぐに話をはぐらかして」
【智】
「自分だってずらしてたくせに」
さらに怒るかと予想した。
伊代は怒らずにジト目で睨む。
【伊代】
「存外不真面目なのね」
【智】
「存外とはこれいかに」
【伊代】
「優等生みたいな顔してるくせに」
【智】
「これでも学園では、本当に優等生ですよ」
【伊代】
「それはそれは、ずいぶんと分厚い猫の毛皮をご用意なさって
おられることで」
【茜子】
「ニャ〜〜オ」
【智】
「そんな、誤解を招きそうな台詞を」
【伊代】
「――――本気なの?」
強引に話の筋を引き戻される。
鼻の触れそうな距離に伊代の顔が近づいた。
眼鏡の向こうで鼻息を荒くしている。
びっくりするくらい綺麗だった。
【智】
「……美人さん」
【伊代】
「な、なにいってんの、いきなり!? そんなことで矛先逸らせると思ってるの!」
一瞬で完熟トマトみたいに真っ赤に染まる。
【智】
「すぐ顔に出る」
【伊代】
「顔の話はいい」
【智】
「美人さんはほんと」
【伊代】
「世辞もいい」
【智】
「本気なんだけど」
【伊代】
「だからッ」
【智】
「……はい、一応本気です。目の前には問題がある。解決は避けて通れない。一人で無理なら他人の力を借りてでも解決しなくちゃいけない」
【智】
「でも、誰かに助けて貰うには代価が必要になる。その代わりに僕らは条約を結ぶ。お互いの力を利用して、問題の解決に尽力する」
【智】
「僕らの同盟。僕らの関係」
【智】
「きれい事の友情ゴッコより、
打算の方が信用できると思うんだけど」
【伊代】
「信用だってできるのかどうか……」
轡(くつわ)を並べて修羅場をくぐった。
連帯感めいた錯覚はある。
しかし、突き詰めるならそれっぽっちだ。
漠然とした印象と名前以外、
相手のことなど大して知ってさえいない。
【智】
「投資にはリスクがつきもので」
【伊代】
「別に、助けなんかなくても」
【智】
「一人よりはみんなの力で」
【茜子】
「友情・努力・勝利」
【伊代】
「少年漫画ロジックで物事なんか片付かない」
【智】
「あのね、伊代」
【伊代】
「……なによ」
【智】
「あるプロジェクトに参加する人数が増えるほど、
トラブルと問題の数は幾何級数的に増えていくんだよ」
【茜子】
「だめだめですね」
【智】
「あれ?」
【伊代】
「なにがいいたいわけよ」
【智】
「んーと……花鶏は賛成してくれたから、
2〜3日なら茜子ちゃん泊めてくれると思うよ」
対立事項についての妥協点を提示する。
さらに白い目をされた。
【伊代】
「こういうヤツだったとは……」
【茜子】
「最悪さんです」
【智】
「二人でそろって!?」
【伊代】
「そこまで見越して、あの子をたぶらかしたのね」
【智】
「人聞きの悪い」
【伊代】
「しかも色仕掛けで、ふしだらな」
【茜子】
「教育上不適切な欲情です」
【智】
「友情といって欲しいです。
家族に説明できないようなことはしてませんよ?」
【伊代】
「ノンケだとばかり……まさか、わたしのことまでそんな目で」
おっきな胸を両手で隠して後ずさる。
【智】
「何の話をしてるのかわかんない」
【伊代】
「しれっとした顔してるくせに姑息で」
【茜子】
「八方美人の気安いさんです。そのうち、友達と修羅場になって、通学路で刺されて人生エンドです」
【智】
「……そんな未来はやだな」
【伊代】
「やっぱり嘘つき村の住人ね」
【智】
「流行ってるの、それ」
【伊代】
「なにが?」
【智】
「なんでもないです」
【伊代】
「そつもないのね」
言葉の谷間をついた舌鋒(ぜっぽう)が、
意外な鋭さで突き刺さる。
いやに硬い表情をした伊代が、
眠そうな茜子の向こうからまなざしを送ってくる。
しっとりとした笑みを返す。
【智】
「なんのこと?」
【伊代】
「買い物に出かけるとき、わたしたちに声をかけたのが」
思いの外、伊代は聡(さと)い。
こちらの意図を読んでいた。
【伊代】
「元気二人組は最初からあなたの味方だし、あのクォーターも
たぶらかしてたみたいだし」
【智】
「後ろ半分だけ訂正して」
【伊代】
「わたしたちを説得すれば障害は無くなるものね」
【智】
「説得というか」
【伊代】
「そりゃ、たとえ何日かにしたってこの子を泊めてくれるっていうのは悪くない取り引きだとは思うけど」
【智】
「けど?」
【伊代】
「あの家にも、ご両親とか、いるんでしょ」
【智】
「そっちは問題ないと思う」
花鶏の反応を思い返す。
両親の話題を切り捨てるような、印象。
きっと、あの家で、
花鶏の両親のことがリスクになることはない。
【智】
「それにさ、僕らが助けてって泣きついたら、花鶏だって
助かるじゃない」
【伊代】
「なによ、それ」
【智】
「彼女、自分から助けてなんて言い出さないタイプだけど
一番人手は欲しいはずでしょ」
【伊代】
「………………」
【智】
「白い目を通り越して死んだ魚の目だね」
【伊代】
「うおの目にもなりますわ」
【茜子】
「鬼畜さんですね、茜子さん了解しました」
【智】
「……もそっと他の言い方はないですか」
【伊代】
「あきれたわ、今度こそ心の底からあきれ果てました、わたしは。こんな人だとは思わなかった」
【智】
「人間見た目で判断しちゃダメかも」
【伊代】
「貶(けな)してるのよ」
【智】
「……それはしたり」
【伊代】
「全部計算尽くで、たらし込んだんだ」
【智】
「ほんと人聞きが悪いです」
【伊代】
「本当のことばかりだから悪くない」
【智】
「どっちかというと、こっちは強奪された方」
【茜子】
「何を?」
茜子さんのシビアな突っ込み。
【智】
「………………色々」
【茜子】
「邪悪です」
烙印完成。
【伊代】
「それにしても」
【智】
「にしても?」
【伊代】
「晩ご飯の買い出しに行くことになるとは」
【智】
「あっさり全員泊めてくれるとは豪毅な話だよね」
【茜子】
「ブルジョア倒すべし」
【伊代】
「ファミレスとかでもよかったんじゃないの」
【智】
「外食すると高くつくし、節約しとかないと」
【伊代】
「吝嗇(りんしょく)家なんだ」
【智】
「これから何があるかわかんないから。同盟の運営資金は
可能な限り倹約で」
【茜子】
「暗黒宗教資本主義の走狗(そうく)なのですか」
【伊代】
「赤い会話ね」
【智】
「赤いのは流行らないんだよ、新世紀」
【伊代】
「泊めてもらうのは、家無しの二人だけでもよかったんじゃないの」
【智】
「そんな、猛獣の檻に生肉放置するような……
いや、どっちかいうと犬と猿を同じ庭で飼うというか……」
【伊代】
「なんの話をしてるのよ」
【智】
「今後の相談もしとかないと困るわけだから」
【伊代】
「利害の関係か」
【茜子】
「強く結ばれた山吹色の絆ですね」
【智】
「…………」
たかが色ひとつなのに、
ドス汚れた気がしてくるのはどうしてだろう。
頭の上の夕闇は、
夜に傾いてとっぷりと暗くなる。
暗い道を街灯がまたたいて照らす。
夜には灯りが必要だ。
手探りでは遠くまで歩いて行けない。
【伊代】
「わたしは、誰かに助けて欲しいなんて思わない」
【伊代】
「ひとりでできるし、やってきた」
【智】
「伊代が誰かを助けるのはありなんだ」
【茜子】
「……」
【伊代】
「そういう主義なのよ」
差し出された手を振り払い、自分の手を差し出す。
矜持(きょうじ)とも気高さともつかない。
これも我が儘に分類すべきか。
【伊代】
「一緒にやったってどうにかなるとも限らない」
【智】
「人数が足りないから、野球できないのが残念」
【茜子】
「バスケットはできますね」
【智】
「一人余っちゃいますよ」
【伊代】
「だからって」
【智】
「んとね。手を繋ぐのは解決じゃなくて開始。今までは
スタート位置にさえついてなかった」
【智】
「これからよってたかって、やっつける」
【茜子】
「……やっつけますか」
【伊代】
「なにと戦うのよ、魔王でも出てくるわけ?」
【智】
「呪われた世界を、やっつける」
きょとんとされる。
聞き慣れないフレーズに眉をひそめていた。
【伊代】
「呪い?」
【智】
「ずっと続く呪いみたいな、そんな気はしない?」
【伊代】
「なにが、よ」
【智】
「この世の中のこと全部」
【智】
「昨日のことはどうしようもない、先のことはわからない、
途中下車すると取り返しはつかない、立ち止まることさえ難しい」
【智】
「否が応でも歩き続けないといけない。どこかへ向かってるのか、とりあえず歩いてるだけか、それはそれぞれのことなんだけど」
【智】
「真っ直ぐでさえない、曲がりくねって足場の悪い、深い森と
薄暗い沼と荒れ果てた道行き」
【茜子】
「後ろ向き鬱思考来た」
【智】
「もうちょっと感想が別方向になりませんか。含蓄ある詩的表現に心うたれろとは言わないんだけど……」
【茜子】
「わかりました。拍手しますからお小遣いをください」
【智】
「生々しい等価交換ですね」
さもしさに嘆く。
感動を金額に換算するのは、
バラエティーの制作者だけで十分だ。
【伊代】
「呪われた、か」
【智】
「僕らはみんな呪われてるんだよ」
誰だって呪われている。
僕らはみんな呪われている。
呪われた道を、行く先もわからないまま歩いていく呪い。
【伊代】
「そうかもね」
珍しく素直な同意が返ってきた。
【伊代】
「それで、束になったからって、やっつけられるわけ?」
【智】
「少なくとも、昨日は、るいがいて助かったでしょ」
小細工のできる脳みそよりも、
拳骨一発の方が重要な場面は往々にしてある。
昨夜そうであったみたいに。
ひと一人は万能には足りない。
臨機と応変でもわたれない場所には、
適材と適所で埋め合わせをする必要がある。
一人で足りなければ二人で、
あるいはもっと大勢で。
人間が社会的な生き物である必要十分条件だ。
伊代の返事を待った。
明後日を向いたままだった。
どんな表情をしているのか。
見てみたい気もする。
花鶏の家がもう近い。
足を止める。
【智】
「返事、聞いていい?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「なによそれ?」
【智】
「好きなの、愛してる」
真摯に訴える。
絡み合う目と目。見つめ合い。
腐ったお肉でも見る目をされた。
【智】
「冗談です」
【伊代】
「……ほんとにノンケなんでしょうね?」
つついと横歩きで離れられた。
安全距離は二人分くらい。
【智】
「まったくもって、同性といちゃつく趣味はこれっぽっちも
ありませんから」
本当にない。
これっぽっちもない。
【伊代】
「コミュニケーションにおける言語の信憑性についての、
解釈と論理的整合性について」
【智】
「論文ぽいタイトルにしなくても」
【伊代】
「すぐに嘘つくひとは嫌い」
【智】
「失礼です、嘘つき呼ばわりするなんて」
【伊代】
「本当か、本当にひとつもついてないか」
【伊代】
「神にかけて誓える? 指きりできる?」
【茜子】
「『指(ゆび)切(きり)拳(げん)万(まん)』というのは、てめぇ嘘ついたら指ちょん切って
拳一万発食らわせてしかも針千本飲ますぞ、という意味です、
マメ知識」
【智】
「…………嘘も方便といいまして」
【茜子】
「弱気ですね」
【伊代】
「だめじゃない」
あきれ顔。
伊代は、肩を大きく落としてから、
暗い空へ向けて、はね上がるみたいな伸びをした。
【伊代】
「賛成はしない。けど、妥協はする」
【伊代】
「わたしは、ね」
【智】
「茜子は?」
【茜子】
「今夜は家に泊めてやるぜ、その代わりに大人しくしやがれゲヘヘヘへ、ということですか」
【智】
「全然違いますけど!」
【茜子】
「心配はご無用です。茜子さん、修羅の巷に孤独の一歩を
踏みだしたその夜に、最後の覚悟を決めてきましたから」
【智】
「決めなくていい決めなくていい」
【茜子】
「煮るなり焼くなり×××するなり、お好きにしてください」
【伊代】
「×××ってなによ……」
【智】
「あのね、そんな心配しなくても――――」
頭の後ろの方のどこかで、花鶏がニタリと笑っていた。
【智】
「あー、覚悟が決まってるのはイイコトだよね」
【茜子】
「……そういうのは茜子さん困ります」
【智】
「どっちなのよ」
【伊代】
「いいじゃないの、概ねはあなたの目論見通りなんでしょ」
【智】
「これまた人聞きの悪い」
【伊代】
「ま、そういうことにしておいてあげましょうか」
からかうような微笑。
【智】
「なら、伊代が黒で、茜子はピンクってことで」
【伊代】
「なによそれ」
【智】
「五人組だと色分けで役割分担が様式美なんだよ」
【伊代】
「またワケのわからんことを」
【智】
「るいが赤っぽいし、花鶏が青で、にぎやかしのこよりが黄色で」
【伊代】
「あんたはどこよ」
訊かれて、重大な問題を直視する。
〔僕のいるところはどこだろう?〕
《ここじゃない……》
《ここになら、あるんだろうか……》
〔僕のいどころ〕
忘れてたわけじゃない。
そもそも同盟のアイデアにしたって――
【智】
「…………僕は別口で」
【伊代】
「なによそれ」
繰り返された台詞は、
温度が5〜6度低かった。
【智】
「えーっと、僕の仕事は同盟締結までで」
【伊代】
「なによ、それ。大見得切った言い出しっぺが逃げ出そうっていう気?! みんなで力を合わせて魔王退治はどこいったのよ」
【智】
「やっつけるのは魔王じゃなく」
【伊代】
「そんなことはどうでもいいのよ!」
【茜子】
「あそび人ですか」
【智】
「ごめん、それよくわからない」
【茜子】
「さっさと賢者に転職しろってことです」
どこから繋げばいいのかわからない。
どこから反論するべきか難しい。
伊代が柳眉(りゅうび)を逆立てる。
茜子が糸引きそうな横目を送る。
【智】
「それは、その、なんと言いますか、あらゆる非難は甘んじて受けますが、人には人それぞれでやむにやまれぬ事情というものが往々にして」
【伊代】
「政治答弁でひとりで逃げられると思ってるの?!」
罪悪感から逃げをうった。
回り込まれた。
【智】
「そ、そんな、こと……」
【伊代】
「なによ、煮え切らないわね!
言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」
詰め寄ってくる。
口ごもる。
言いたい、
でも、言えない。
ダメなのだ。
本音を言えば、引っかかりは残る。
三日飼ったら情が移るのたとえのように。
茜子に引っかかって巻き込まれている伊代と同じに。
貸せる力があるなら貸してやりたい。
でも。
でも、が残る。
割り切れずに最後に余る。
どうしてもダメだ。
ここは退けない。退いてはいけない。
なぜならば――――。
バレてしまう。
誰かと並んで歩けば危険が増える。
身近に寄せるほど地雷になる。
危険はどこにでも潜んでいる。
どんな機会からでも違和感は忍び込んでくる。
それは、いずれだ。
いずれは、遅いか早いかだ。
すぐに追い詰められる。必ず誤魔化しきれなくなる。
危険すぎる綱渡りを試したいとは思わない。
【智】
「だから……」
だから。
【伊代】
「なんなのよ!」
遠ざけておかないと。
誰をも彼をも。
【智】
「絶対……絶対ダメなんだから!!」
〔牡丹の痣はないけれど〕
【智】
「絶対ダメなんだけど……」
つくねんとこぼれた言葉が天井に昇る。
花鶏の家は大きい。
お風呂も大きい。
個人邸宅には相応しくない。
ちょっとした銭湯か、寮の大浴場だ。
寮生の経験なんてないけれど。
【智】
「無駄な施設だなあ」
大きさは善行であるという、
そんな家訓があるものかどうなのかは、
面倒なので確かめなかった。
余りに余った湯船を一人で使う。
ゴージャス。
口まで沈んで、吐く。
無数の泡沫が弾けるように、
とりとめのない疑問が浮かんでは消える。
【智】
「どうしてこうなっちゃったのか」
検討中。
失敗の原因は意志の弱さか、
それとも議論上のミスか。
逃げるのにしくじった。
お泊まりすることになった。
ここまではいい。妥協の範囲だ。
お風呂に入る。
危機的状況だが、まあ、よしとする。
不作法だがタオルで隠したままお湯に入った。
素肌は頼りない。布きれ一枚の薄さが消えれば、
世界と対峙するのは自分自身。
その無防備さに愕然とする。
隠すことさえ許されない真正の姿。
【智】
「バレたら死んじゃう……」
誰もいないのにごく自然に丸くなる。
自分を隠すようにヒザを抱えた。
決定的瞬間の光景を想像するだけで死にそうになる。
針のむしろに等しい冷視と軽蔑と弾劾に、
踏みにじられる予想図は悲しすぎた。
本当の問題は、現在よりも未来にこそある。
どこまで。どうやって。
隠し通すことが出来るだろう。
【智】
「…………ぶくぶくぶくぶく」
潜行するほど懊悩する。
【茜子】
「広い」
【茜子】
「とてとて」
【茜子】
「よいしょ」
【智】
「あ、いらっしゃい」
【茜子】
「おじゃまします」
【智】
「…………」
【茜子】
「…………」
何気ない裸の挨拶。
ぎぎぎと骨の軋む音を
立てながら首を回して再確認。
白い肌。白い足。白い腰。
見つめ合う。
【智】
「ぎゃわ!」
【茜子】
「――――ッッ!」
何をそんなにというほどの反応だった。
茜子はゾンビと出会った犠牲者の顔で飛び退いた。
後ろから驚かされた猫そっくりの野生の瞬発力。
そして、着地に失敗。
【茜子】
「なう!」
【智】
「どじっこ……?」
意外な属性発覚か。
【茜子】
「ぷ、ぷはっ……く、な、ど、が、あ」
【智】
「まずは深呼吸して落ち着きなさい」
【茜子】
「どうして貴方がここに?!!」
【智】
「うっ、そ、それは――」
絶体絶命――を意識したが、
すぐに気がつく。
危機的状況は揺るがなくとも、
現時点で秘密は漏洩していないのだという大前提。
つまり。
この事態をありのままに判断するなら。
先にお風呂をいただいていた先輩キャラの後ろから、
知らず入ってきたチビキャラとの
裸コミュニケーションイベントフラグ。
【智】
「――別に、どうというわけではなく」
クールだ、クールになれ。
そうとわかれば冷静な対応が必要だ。
【智】
「先にお風呂をいただいてただけですけれど」
【茜子】
「出ます」
立ち上がる。全部見える。
【智】
「ぎゃわ」
【茜子】
「なんですか」
【智】
「そ、そんな、なにも、慌てて、でなくても、いっしょしても、
別に……」
錯乱して、よからぬ事を口走る。
出て行くのなら大人しく出てもらった方が、
あらゆる意味で助かるに決まってる。
【茜子】
「孤独が趣味です」
【智】
「す、崇高なご趣味を」
【茜子】
「わびです」
【智】
「違う気がする」
【茜子】
「そういう突っ込みを入れると、わびを入れさせますよ」
【智】
「ごめんなさい」
なぜに謝らねばならないのか。
謎だった。
【茜子】
「とにかく出ます」
【智】
「は、はい」
【茜子】
「孤独に一人で残り湯をこそこそ使うのが趣味ですから」
【智】
「何も言ってないです」
【花鶏】
「はぁい、いいつけ通りクリームとバターはちゃんとすり込んだかしら?」
【智】
「ぎゃあー!」
【茜子】
「――――ッッッ!」
慌てて肩まで湯船に沈んだ。
【花鶏】
「ずいぶんな悲鳴ね。猫が絞め殺されたみたい」
【智】
「なななななななななななな」
【花鶏】
「なにかしら」
【智】
「なんで裸なのぉ!」
【花鶏】
「お風呂ですもの」
実に当たり前でした。
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【智】
「ぎゃあー!」
茜子とはわけが違う。
花鶏は危険だ。
逃げ場を探す。
なかった。
目の前に裸。間違いなく裸。
これ見よがしに裸。
まったくの一糸まとわぬ全裸。
日本人離れした白い肌、繊細でしなやかで、
それでいてしっかりメリハリのついた身体。
【智】
「ぎゃあーぎゃあーぎゃあー」
全ては罠だった!
花鶏が熱心にお風呂を勧めてきて。
考え事してたから成り行きに任せていたら、
あっという間にこの窮地!
【花鶏】
「うるさいヤツね。いい加減覚悟を決めたら?」
【智】
「非処女になると人気落ちるから清い身体でいたいんですぅ」
【花鶏】
「最近はやらないわよ、そういうの」
【伊代】
「うわ……」
【るい】
「ひろいのお」
【こより】
「センパーイ」
【智】
「みぎゃー!!」
【茜子】
「!!!!!」
追加オーダーが発生しました。
春のオリジナルメニュー、
噂のビッグタックとダブルサンド、
それからポテトはSサイズで。
【智】
「みぎゃーみぎゃーみぎゃー」
警戒警報を発令。
色とりどりで目のやり場がない。
右にも左にも肌色。そうでなければ桜色。
はたまた黒。どっちにしてもどうしようもない。
危機的な状況が訪れていた。
【るい】
「何を鳴いてるの、トモちん」
屈託もなく。
ひときわ豊作な感じが目の前に来て揺れる。
【智】
「錯乱してます!」
【るい】
「……そう、なんだ」
【るい】
「お風呂まででっかいどーとは」
【花鶏】
「それならむしろ、お風呂だけ小さくして何の得があるのかを
訊きたいわ」
【こより】
「おー、銭湯来てる気分であります!」
【伊代】
「そこそこ、湯船で暴れない。お行儀悪いわよ」
【茜子】
「……ナイスお湯」
【智】
「三角形ABCを角Cが直角である直角三角形とするとき、角ABCのそれぞれの各辺の長さをabcとして、頂点Cから斜辺ABに対して垂線を下ろし」
【伊代】
「ほんといい気持ち……
こうしてると昨日のドタバタ騒ぎが嘘みたい」
【花鶏】
「せっかくだから、気は使わないでゆっくりしていらっしゃい。
ストレスは美容の大敵だし」
【こより】
「え、あ、わたし、なんかあるッスか?」
【こより】
「なんでヤバイ目つきを……」
【花鶏】
「失敬な子ね。美しいものを鑑賞する気高い心に、情欲の入る隙間はないのよ」
【茜子】
「……表情と言動が不一致してます」
【伊代】
「それよりも…………なにやってるの、二人して?」
【茜子】
「…………」
【智】
「自身を要素として含まない集合A、含む集合を集合Bとする場合、任意の集合Cは集合Aであるか、集合Bであるかのいずれかで、」
逃げ出す機を喪失した二人だった。
広漠たる湯船の園の、一番端の隅っこで、
左右に別れて孤独の時間を謳歌している。
示し合わせたような、
ヒザを抱えたダンゴ虫。
視界に肌色が入ってこないように背を向けて、
頭の温度を下げる呪文をひたすらに唱える。
茜子の趣味的問題はともかく。
こちらは人生がかかってる分だけ必死だ。
そうだ、天国と地獄は等価なのだ!
絶対的な幸福は絶対的であるが故に相対的な価値を失い、
終わり無く続くことで無限の苦痛へと堕落する!
僕は錯乱していた。
【こより】
「新しい人生哲学の模索ですか、センパイ」
【智】
「……お風呂でそんなことしない」
【るい】
「どうして隅っこにいるの?」
【茜子】
「狭くて暗くてちっちゃいところが好きなので」
【花鶏】
「こっちいらっしゃいな、背中流してあげるから」
【智】
「遠慮します」
【茜子】
「近寄ったら舌を噛みます」
【花鶏】
「二人とも、お堅すぎね」
【るい】
「智ってば、一緒にお風呂はいるのいやがるよ」
【茜子】
「……陰謀のにほいがする」
【智】
「そんなものはない」
あるのは陰謀じゃなくて秘密だ。
危険な隠蔽だ。
【伊代】
「照れくさいのはわからないでもないわ」
【るい】
「オッパイちっちゃいの気にしてた」
【茜子】
「……A?」
【花鶏】
「触った感じだとAAA」
【こより】
「問題ありませんであります!
こよりもペッタンコでありますッッ!」
【伊代】
「そんなことに胸はらなくても」
【こより】
「だめですか……やっぱし、ないと、人として生きていくには
まずいでありますか……」
【花鶏】
「いいじゃない、可愛らしいわ」
【こより】
「うひゃひゃひゃひゃ」
【花鶏】
「もう少しいい声をだして欲しい」
【こより】
「な、なにをするですか!?」
【花鶏】
「無邪気なスキンシップ」
【こより】
「な、なんかむしろ邪気が、あぅっ」
【花鶏】
「んふふ〜ん♪」
【こより】
「そ、そこはだめです、あうっ、や、あ、ちが、そこはちがぅう〜、きゃう」
【花鶏】
「うふふふ、可愛い子」
【こより】
「あ、あ、あ、あーーーーーーーッ」
あまりの暴挙に全員が我を忘れていた。
残念なことに、一番最初に我に返った。
【智】
「ナニヲシテオラレルノデスカ」
【花鶏】
「片仮名でクレームつけないで」
集団は秩序を失った時に効力を失う。
小さな悪は、見過ごせば大きな木に育ってしまう。
建物の窓が壊れているのを一つ放置すると、
他の窓もやがては全てが壊されるのだ。
【智】
「それで、一体何を」
【花鶏】
「セクハラ」
【智】
「正直ならいいってもんじゃないよ」
【こより】
「せんぱい〜〜〜」
背中にしがみつかれる。
【智】
「ぎゃわー」
【こより】
「お嫁に行きにくくなりそうなところさわられたです〜」
【智】
「ところってどこのこと!?」
【こより】
「せんぱいーせんぱいーせんぱいー!」
【智】
「触ってる触ってる今この瞬間に背中に何か触ってる!」
がくがくされる。
違う意味でがくがくになりそう。
【伊代】
「いつまでも何を騒いでいるのやら。まったくお子様たち
なんだから」
【るい】
「なるほど、たしかにこっちはお子様と違う」
【伊代】
「どこ見てるの……」
【るい】
「なんというけしからん乳」
【伊代】
「はしたない単語のままで」
【茜子】
「……浮いている」
【伊代】
「……だれのだって浮くわよ」
【こより】
「浮かないッス」
【茜子】
「……」(←賛成)
【花鶏】
「浮けばいいってものじゃないわ」
【るい】
「なんだ、浮かないのか」
【花鶏】
「………………なにも言ってないでしょ」
【こより】
「きっと空気か何かが中に――」
【伊代】
「そんなの入ってない」
【花鶏】
「でも、たしかに、これは、中々」
【伊代】
「目つき目つき」
【るい】
「触ってもいい?」
【伊代】
「あんたまでそっちの人か!?」
【るい】
「そういうわけじゃないんだけど、こんだけあると、
エアバックプニプニしてみたい」
【伊代】
「えあ……そういうのは自分ので好きなだけおやんなさい」
【るい】
「これは、今ひとつ迫力が」
いやいや、なかなかだったと思う。
【こより】
「センパイせんぱい、見るです、すごいッス」
【智】
「ソウデスカスゴイデスカ」
【こより】
「ほらほら、たぷたぷするー!」
【伊代】
「やめてやめて」
【智】
「タプタプデスカ」
【こより】
「ほらほら、見て見て」
首を捻られた。
【智】
「――――――ッッ」
【こより】
「見ました?!」
【智】
「見えちゃった……」
【こより】
「すごいでしょ?!」
【智】
「タシカニスゴイデス」
本能的に目を反らせない。
いよいよ危険です。
母上様。
死に場所が桃源郷というのは、
はたして幸運でしょうか、不運でしょうか。
【こより】
「なにくったらこういうのになるですか?」
【茜子】
「日夜もまれて」
【伊代】
「ふしだらなことは何もしてない」
【こより】
「もまれて大きくなるなら、わたしもセンパイにもまれたら!」
【伊代】
「……これこれ、そんな非生産的な」
【花鶏】
「そんなことならわたしがいくらでも揉んであげるわよ」
【こより】
「あー、いやー、それはちょっと……」
【伊代】
「根拠のない俗説を頭から信じない」
【こより】
「おっきくならないっすか……」
とてもとても残念そうに。
【伊代】
「そんなの、あと何年かしたら、ほっといても自然に大きく
なるわよ」
【こより】
「でも、違いすぎるこの現実」
【伊代】
「そりゃ、個人差は、あるかも、知れないけれど……」
個人差。
言葉の欺(ぎ)瞞(まん)の裏側が目の前に証明として並んでいる。
伊代>>>るい>>花鶏>茜子>>(越えられない壁)
>>こより。
【智】
「………………ぶくぶくぶく」
イケナイことを考えた。状況がさらにまずくなる。
【るい】
「沈んでる?」
【智】
「難しい年頃なので……」
【るい】
「おろ、これは――」
【花鶏】
「ん……ああ、それは痣(あざ)よ。模様みたいなおかしな形してるでしょ。でもね、それはいわば聖痕なのよ。わたしの家の先祖には代々あったんだけど、」
花鶏さんは、ひたっていた。
自慢のクラリネットを見せびらかす少年のようなまなざしで、
肩の濡れ髪を大仰にかきあげる。
痣(あざ)。
湯あたり寸前の脳みそに単語が忍び入ってくる。
痣――――。
【るい】
「それ、私もある」
【こより】
「ほんとだ」
いきなり、ありがたみのない展開になった。
【花鶏】
「――――待てや」
物言いがついた。
【花鶏】
「なによそれ」
【るい】
「なによってなんなのさ」
【花鶏】
「どこの盗作よ、親告罪だからってバカにしてると、著作権法違反で訴えるわよ」
【茜子】
「痣にそんなものはない」
【るい】
「文句あんのか」
【花鶏】
「ありすぎて並べてるだけで朝になるわよ」
【るい】
「ほほう」
ずいっと、るいが胸をつきだす。
挑発的なポーズだった。
大人しく鼻白んでいる花鶏ではなかった。
【花鶏】
「……ちょっと人より脂肪が余分についてると思って」
【茜子】
「微妙に逃げっぽい言動です」
【るい】
「みろ」
【花鶏】
「あんたの胸なんか見ても嬉しくない、こともないけど、
まあそれは置いておいて」
【るい】
「そっちじゃなくて、こっち」
そこには、痣がある。
花鶏が目を白黒させる。見入る。
自分のと見比べる。
見てるだけで楽しい万華鏡じみた百面相だ。
【花鶏】
「うそ」
【るい】
「ほんと」
花鶏が運命に破れた者の顔をしていた。
ここがお風呂でなければ、
跪いて過酷な天に怒りをぶつけていた感じの悲鳴。
【花鶏】
「ニェーッ!」
【こより】
「はーいはいはーい! 不肖鳴滝めにもあるでごわす!」
そのうえ追い打ち。
空気を読まない言動は、
無垢な分だけ傷口を深く抉る。
【こより】
「ほらッス」
【智】
「…………」
やたらと扇情的なポーズだった。
お風呂に腰掛けて片膝をたてる。
色香と呼ぶには未成熟だ。
脂肪の薄い腿から付け根へと至るラインも、
異性をあまり意識させることがない。
全部見えた。
【智】
「まだ、はえてないんだ」
【こより】
「う、ちょっと気にしてるのに」
【智】
「ぶくぶくぶくぶく」
ぽろりともらす自分の口が恨めしい。
【こより】
「ほら、ここ」
左の内股を指で示す。
また際どいところにあった。
白い肌に青白い痕が艶めかしい。
今は本人の素養と打ち消しあってただの痣だが、
数年も経てば、痣一つで男を手玉に取れてしまう、
無限の可能性が広がっている。
【花鶏】
「ほんとだ……」
【るい】
「へー、おんなじだねえ。擦ってもとれないし」
【こより】
「にゅにゅ、なんかくすぐったい」
【花鶏】
「なに、これ」
【伊代】
「なにとおっしゃいますと」
【花鶏】
「なによこれ、どういう詐欺よ!」
【るい】
「いきなり詐欺ときやがった」
【茜子】
「いつもより多くとばしております」
【こより】
「なんというできすぎた偶然!」
【花鶏】
「こんな偶然があってたまりますか!」
【こより】
「あわわ」
吠えられたこよりは、尻尾を丸めて、
るいの背中に隠れる。
偶然――。
こよりの言葉の通り、
出来すぎた可能性。
どんな希少な状況であれ、
確率的にあり得るならば出会ったとしても不思議はない。
1億回、1兆回に1度かぎりの出来事も、
今このときが1兆回目であれば成立してしまう。
だがしかし。
【花鶏】
「そっちの3人も!?」
【智】
「返事をしたら食い殺されそうです」
【花鶏】
「返事をしないなら今すぐ殺すわ」
花鶏は崖っぷちにいた。
自分で自分を追い詰めて煮詰まっている気が、
ひしひしとする。少なくとも僕に責任はないはずだ。
なのに、なぜ責め殺されなければならないのか。
【花鶏】
「あるの、ないの?」
【伊代】
「痣くらい、あるけど……」
【花鶏】
「ある!?」
【伊代】
「お、同じのかどうかなんてしらないわよ」
【花鶏】
「どうして!?」
【伊代】
「背中だからあんまり気にしたことない……きゃーっ!?」
花鶏がケダモノになって飛びかかった。
女の子二人が組んずほぐれつ。
もうちょっと夢のあるシチュエーションなら心温まるのに。
【花鶏】
「な、なななな」
背中を確かめる。
結果は訊ねるまでもなかった。
蒼白の花鶏がよろめきながら後ずさる。
【花鶏】
「きっ」
【茜子】
「ッッ!」
次の獲物は茜子だった。
【花鶏】
「大丈夫よ痛くしないから」
【茜子】
「おっぱいさわったら死んじゃいます!」
【花鶏】
「それ以外のところにしてあげる」
【茜子】
「一歩でも近づいたら舌も噛むです!」
【花鶏】
「うふふふふふふふ」
【花鶏】
「――――ッ」
【茜子】
「――――ッ」
茜子が逃げ出した。
後ろにダッシュ。
そして、足を滑らせる。
【茜子】
「きゅー……」
【花鶏】
「あった…………」
うつぶせに倒れた、お尻。
見えた。
やっぱり痣があった。
小ぶりで、白い、まろみの上。
記憶に焼き付いてしまった。
【花鶏】
「そんな……」
花鶏が、よろりと2〜3歩後ずさる。
【智】
「はっ!?」
甘美な一瞬を反芻している場合ではない。
高いところから花鶏がなにも言わずに見下ろしてた。
なにも言わなくても言いたいことがわかる。
繋がることのない心と心が、
この一瞬には確かに結ばれていた。
曰く、獲物と捕食者の強い絆。
【花鶏】
「あなたもなのね」
【智】
「ぎゃわー!」
抑揚のない言葉遣いがなおさら怖い。
食われる!
【花鶏】
「どこにあるの!」
【智】
「まってまってまって!」
【花鶏】
「全部見せろ!」
【智】
「きゃーきゃーきゃー」
【花鶏】
「大人しくしなさい!」
【智】
「だめいけないわそれだけは堪忍してぇーっ」
死にものぐるいで抵抗する。
現実は厳しい。
湯船の中で、タオルで前を押さえたまま、
片手で出来ることなんて知れていた。
【花鶏】
「観念!」
【智】
「おたすけ!」
絶体絶命。
【るい】
「あーこらこら、どうどう」
【花鶏】
「な、離しなさい、こら!」
るいが羽交い締めに止めてくれた。
ほっと安堵にへたり込む。力が抜ける。
【るい】
「だから、おちつきなさいって。ほら、あれ」
右腕の後ろ側だ。
痣がある。
花鶏は目にした。
これで五つめの、自分と同じ痣。
【花鶏】
「どいつもこいつも――――」
【花鶏】
「ど、ど、どッッ……どういうことなのよーっ!?」
【るい】
「どうもこうも」
【花鶏】
「これは何かの間違い? どうしてこんなにぞろぞろと、これは罠、いえ、陰謀……そうよ、陰謀だわ! アポロだって月には着陸していないのよ!」
錯乱していた。
まあ、彼女の意見が、多かれ少なかれ、
全員の代弁なのは間違いなかった。
身体のどこかに同じ形をした痣のある6人。
偶然だなんて言ったら笑いがとれる。
今時なら週刊漫画の新連載でも、
もう少し気の利いた導入を心がけるんじゃなかろうか。
【智】
「あ、でも――」
頭に豆球。
ひらめいちゃいました。
花鶏が騒いで注意を引きつけてくれているじゃないですか。
ゴキブリの身ごなしで、
コソコソと湯船から上がる。
思った通り誰も注目しなかった。
人目の隙を縫って、気付かれないうちに、
そそくさとお風呂を出て行く。
【智】
「それじゃ、おさきにー」
【智】
「…………あー、死ぬかと思った」
〔約束しない人との対話〕
夜を見る。
テラスに出ると、
海原めいた高級住宅街の静けさが眼下に広い。
【るい】
「なにしてんのん?」
【智】
「ひまつぶし」
坂の上にある花鶏の家からは屋根の列が見渡せる。
街は遠かった。汚濁も遠かった。
清潔で、静閑で、
瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいが門を並べる。
切り離された聖域だ。
【るい】
「ひつまぶしって美味しいよね」
【智】
「入れ替わってる入れ替わってる」
【智】
「花鶏は?」
【るい】
「ふて腐れて自分の部屋に引っ込んで寝てた」
【智】
「子供ですね」
【るい】
「おこちゃまめ」
くすくす笑う。
一歩間違うと皮肉だが、
るいの物言いには裏がない。
素直な顔は端から見ていても気分がよくなる。
【智】
「ショックだったんだ」
聖痕と、花鶏は呼んだ。
どんな思い入れがあるのかは知らず、
どんなにか思い入れを込めていたかは想像できる。
信仰していた特別が、十把一絡げに量産されていたのは、
さぞかしカルチャーショックだったろう。
るいも黙りこくっていた。
腕を組んで、首を傾げている。
【智】
「悩んでる?」
あの痣のことを。
【るい】
「何を悩んだらいいかと」
考えてませんでした。
【智】
「だと思った……」
同じ痣がある。
偶然に出会った6人に、
偶然そろっていた痣。
笑いのとれる確率だ。
ジュブナイルかライトノベルの小説じゃあるまいし。
【智】
「るいにも昔からあった?」
【るい】
「よく覚えてないけど、ちっこいときからあったかな。昔は学校の着替えとかで、よくからかわれたりした」
僕の痣は生まれたときからあった。
生前の親の言葉を鵜呑みにするなら、そうだ。
右腕の後ろにある。
自分では見えにくい。
普段は気にしたこともない。
るいが脱いだ時、
そういえば変な模様を見た。
同じ痣だなんて思いもしなかったけど。
別に、白いたわたわで目がいっぱいに
なってたわけじゃない、たぶん……。
本当に痣なのか?
例えば入れ墨。
それともレーザー印刷。
ネイルアートならぬスキンアート。
痣であれ痣以外のものであれ、
明確な現実の前には、些細な違いだ。
収まりのいい解答が、あるにはある。
全ては偶然だ、と。
収まりというより投げやりだった。
空想をする。
見えない糸を手繰りながら、
僕らは集まる。
宿命のように運命のように。
そうやって、この場に、6人が――――
【るい】
「ぬふふふふふ」
【智】
「なんで笑い?」
【るい】
「なんとなく」
【智】
「いい加減だなあ」
【るい】
「痣のこと……」
【智】
「データが少なすぎてわかんない」
【るい】
「ちょこっとうれしい」
るいが、にへらとした顔。
【智】
「なんでですのん?」
【るい】
「変な痣だと思ってた。小さいときはバカにされたりしたことも
あったから、正直嫌いだった」
【るい】
「そのうちに諦めたんだよ」
諦め――。
ちくりと胸の奥で何かが痛んだ。
【るい】
「いつの間にか気にしなくなってた。あることも忘れるくらい、
どうでもよくなってたんだけど」
【るい】
「他にもいたんだね。どうしてこんな痣がそろってるのかわかんないけど……でも、私たち、同じなんだって思えた。同じ印がついてる。どこかで繋がってる感じがする」
【るい】
「もし、あの子たちと、今日ここで、こうやって逢うために、
この痣があったのなら」
【るい】
「そういうの、ちょこっとうれしいかも……」
【智】
「……そうかなあ」
【るい】
「そうだよ」
喉から出かかった言葉を飲み込む。
喜んでいるところに、
根拠もなく水を差すのも悪い。
あらかじめ決まっていた出会い、なんて。
そんなものがあるとして。
それは。
――――呪い。
宿命であれ運命であれ、結果の定められた道のり、
栄光の代価としての苦役、決まった道筋から逃げられない、
選ぶことさえ許されないのなら。
それがどれほどの栄華を約束するにせよ、
その名には「呪い」こそが相応しい。
悩んでも見当もつかない。
そもそも。
呪い、運命、宿命、前世。
それって、ちょっとおもしろおかしい素材過ぎだ。
真夏のオカルト番組で、お笑い担当のコメンテーターに馬鹿に
されるぐらいが指定席なのに。
【智】
「柳の下より今日のテーブル」
【るい】
「その心は?」
【智】
「さて、晩ご飯どうしよう」
【るい】
「ないのか!?」
【智】
「みんなで食べようと思って材料買ってきたんだけど、さすがに
家人がいないのにキッチン借りるのも」
【るい】
「やっぱりないのか!」
るいは棒立ちになった。世界の終わりと遭遇していた。
【智】
「しかたないから外食にしようか」
【るい】
「外食……」
うんうん唸る。葛藤する。
るいは食費の桁が違う。
外食すると、文字通り桁が違ってしまう。
【るい】
「るるる〜」
【智】
「にしても騒がしい一日だったねえ」
【るい】
「うんうん」
【智】
「……」
【るい】
「なによぉ」
【智】
「いい顔で笑ってる」
【るい】
「なわっ」
【智】
「楽しかった?」
【るい】
「…………まね」
【るい】
「なんかお祭りでもしてる気分」
【るい】
「ほら、なんせヤクザな生活してますし、仲間とか友達とか、
そういうのあんまりいなかったんだよね」
【智】
「後輩とかに好かれそうなタイプなのに」
【るい】
「んー、まあ、下駄箱に手紙入ってたり、校舎裏に呼び出されたりしたことは何回かあるんだけど」
ほのかなお話だった。
【智】
「相手は年下の?」
【るい】
「うん、女の子」
【智】
「…………」
ほのかじゃなくて切ない思い出だ。
【るい】
「私、不器用だし、気まぐれだし、怒りんぼだし……すぐ考え無しに突っ走っちゃうから、なんかのはずみで仲良くなっても、あんま長続きしないの」
【智】
「友情って信じる?」
【るい】
「…………信じたい」
夜風が梢を鳴らす音に、切ない言葉が混じる。
信じるでも、信じないでもなく。
信じたいと、るいは口にする。
それは願望だ。
か細くすがる希望だ。
あり得はしないと知っているから、
その裏返しにある無力な祈り。
【るい】
「私ってさ、ほんと単純だから、だから、信じたら――」
【るい】
「きっと、最後まで信じちゃうんだ」
【智】
「るいっぽい」
【るい】
「それってどんなの?」
考えて、言い換える。
【智】
「忠犬っぽい」
【るい】
「いいのか、悪いのか」
【智】
「誉め言葉です、たぶん」
【るい】
「うむ、誉められとく」
歯を見せて笑った。単純だ。
心地よい匂いに気がつく。
石けんと混じった、るいの体臭。
思いの外距離の近いことを意識する。
乾ききってない濡れ髪の無防備さに、
こっそりとドギマギしていた。
【智】
「僕らはさ、とりあえず友情からは、はじめない」
近さから気を逸らそうと、別の話題をふり直す。
友情ではなく、同盟から。
【るい】
「同盟か」
【智】
「相互条約からスタートで」
【るい】
「よくわかんない」
【智】
「ギブアンドテイクで助け合おう」
【るい】
「わかりやすくなった」
利用し、利用されることを互いに肯定する。
【るい】
「智、変なこと思いついたよね」
【智】
「変じゃないです。問題をまとめて解決するために知恵を絞ったんです。家がなかったり、ご飯がなかったり、トラブル多すぎるでしょ」
【るい】
「ご飯がないのは問題だ」
【智】
「元凶その一の自覚なさ過ぎ」
【智】
「あのね……だから、僕らは力を合わせて…………この、呪われた世界をやっつけるんだ」
呪い、呪い、呪い。
くめど尽きぬ泉のごとく、
後から後から湧きだす数多の呪いに充ち満ちた、
この世界を。
【るい】
「……呪われた世界をやっつける」
【智】
「そういえばさ、るいの返事は、まだ聞かせてもらってなかった
よね」
【るい】
「返事って?」
【智】
「これから一緒にやっていくのに、賛成? 反対?」
聞くまでもないとは思って流していたけれど。
最終の段取りに確認をする。
【るい】
「…………」
【智】
「るいはどうしたい?」
【るい】
「どう……」
【智】
「明日のこと、その先のこと、これからのこと」
【るい】
「………………」
【るい】
「わかんない」
【智】
「平然と暴言をかまされますね」
【るい】
「先のことなんて考えたこともない」
【智】
「いやいや、お待ちなさいって」
【るい】
「べーだっ」
舌を出された。
るいは不思議だ。
悪ガキみたいなノリの中に、
奇妙なくらい少女がいる。
【智】
「いきなり舌ですか」
【るい】
「私は何ンにも約束しない人なのだ」
【智】
「なんの自慢か」
【るい】
「しない自慢」
意味がよくわからない。
【智】
「約束しない人(じん)?」
【るい】
「そのとーり」
【智】
「指切りも? 口約束も? また明日のお別れも?」
【るい】
「そのとーり!」
【智】
「……どういうイズム?」
【るい】
「るいイズム」
暴君的な胸をはって断言する。
ちなみに、るいが暴君なので、
伊代の場合は宇宙意志だ。
花鶏サイズで自衛隊。
後の二人は……まあ、いいや。
【智】
「よくわかんないです」
【るい】
「そのとーり!!」
【るい】
「そうなの、まさにそこなの。明日のことはわかんない、明日が来るかもわかんない、そんな心配一々してもはじまんない。だから、人生はいつだって一期一会!」
【智】
「サムライヤンキース」
【るい】
「それが私のライフスタイル、人生設計。だから返事なんかして
やるもんか、べーっ!」
【智】
「…………」
論理的整合性を検討してみる。
途中でさじを投げた。
【智】
「やっぱりわからない」
【るい】
「考えるな、感じろ」
屁理屈なのか、我が儘なのか、
自分の生き様を断固として曲げない信念なのか。
余人の理解を超越した心根も、
貫き通せばそれはそれで美しい――
かどうかは解釈の分かれるところだろう。
【智】
「わかった、わかりました、いいです、それでいいです」
個人のライフスタイルに
ケチを付けてもはじまらない。
同盟に異を唱えてはいない。異議があるなら、
るいは後ろも見ずに飛び出して、きっとそのまま帰ってこない。
消極的賛成。
補足・アテにはしてもよさそう。
心メモにラベリングして貼り付けた。
今はそれで十分。
【智】
「とりあえず、今日から同盟はじめます」
夜を見上げて。
星の群れへと手を差し伸べるように、大きく万歳。
【智】
「るいちゃん、適当についてきてね」
【るい】
「べー」
【智】
「期待してるから」
【るい】
「べーべーんべー」
【智】
「今日はみんなでご飯食べよう!」
【るい】
「えいえいおー!」
本当の問題はここから。
はじめるのはなんだって簡単だ。
やり続けることが難しい。
やり続けて、そこで成果を出すことは、
さらにその何倍もハードルが高い。
そして、なによりも。
(さっさと段取りを付けて、
なるべく早めに手を引かないと……)
〔契約結びました(学園編)〕
【智】
「けれど彼女の願いが叶うことはありませんでした……と」
【宮和】
「珍しいお姿を発見いたしました」
【智】
「なぁに、スベスベマンジュウガニでもいた?」
【宮和】
「和久津さまがレポートを片付けておられます」
【智】
「学生の本分は勉学なんですよ」
シャーペンを指で弾いて、
手のひらの上でくるりと旋回させる。
何年か前に流行した。最近も再燃したという。
意味はないが、流行の多くは
意味などさして必要とはしない。
その瞬間の流行であること、
それ自体が意味だと言い換えても構わない。
ご多分に漏れずに覚えたモノで、さして難しいわけでもないのに、コツがわかっていなければ思いの外うまくいかないのでヤケになる。
要は、慣れだ。
日常といい、非日常という。
対比される両者の境界は、
平常から乖離(かいり)した距離の過多に尽きる。
もののとらえ方の問題でしかない。
慣れ親しんだ平常が移ろえばその定義も変化する。
【宮和】
「提出日の休み時間に、慌てて仕上げておられる姿というものは、初めて目にいたします」
回し損ねたペンが掌からこぼれた。
【宮和】
「優等生の霍(かく)乱(らん)」
【智】
「ひとを鬼かなにかみたいに……」
【宮和】
「いったん亀裂が入ると、たいそう脆いものなのです。かのダムと同じです」
【智】
「不気味な予言をせんでください」
【宮和】
「昨日はお忙しくて?」
【智】
「まあ、その、何かとばたばたと」
【宮和】
「多忙であるのはよいことですわ」
【智】
「縁側で猫でも抱いてるのが理想なんだけどね」
【宮和】
「忙しいうちが花とも申します」
とりたてての意味を持たない、
他愛もない戯れあい。
さりげなく触れ合い、
時間を費やす行為。
日常を意識する。
物語なら、振り返ってはじめて価値をみいだせる平穏な日々にこそ与えられる名であり、多くはその安らぎこそ価値あるものだと主張する。
現実には、どうだろう?
教室に踏みこむと、
日常のリズムに取り込まれる。
習慣のなせる技といえた。
もはや意識もしないほど深いレベルで、
学園は日常の一幕として組み込まれている。
【智】
「欺(ぎ)瞞(まん)に糊(こ)塗(と)された日常でも……」
【宮和】
「日常は欺(ぎ)瞞(まん)の上にしか成り立たないものです」
宮和はいつも唐突だ。
どこまでが計算しているのか、まるでわからない。
【智】
「宮、ときどき可愛いことを言う」
肘杖に頬をのせて、笑う。
【智】
「そういう宮は好き」
【宮和】
「本気にいたします」
【智】
「え、えと……」
墓穴。
【宮和】
「式場の予約は済んでおりますから」
【智】
「どういう手回し!」
【宮和】
「お色直しは3回で」
【智】
「しかも豪華だ!?」
【宮和】
「冗談でございます」
【智】
「目が怖かった。スッゴクコワカッタ」
【宮和】
「悩み事がお有りなのですね」
【智】
「人生とはこれすなわち苦悩」
【宮和】
「含蓄あるお言葉ですわ」
【智】
「幸せは一人でくるのに、不幸は友達と連れだってやってくる、
だった?」
【宮和】
「不幸さまは寂しんぼう、ですか」
【智】
「可愛く言っても嬉しくならない」
【宮和】
「そそりますね」
【智】
「何に猛(たけ)っているの!?」
【宮和】
「悩み事が数多いということですか」
【智】
「無理矢理話を戻された……」
【智】
「まあね。そのあたりも悩みの種。優等生としては、譲れない一線というものがあって……」
境界は、概して、目に映らない。
それでいて、ある。
様々な要因によって区分される自他の領海線だ。
【智】
「宮なら、どうする? たとえば、自分がいることが相手にとって何かのストレスになっちゃうような時」
【宮和】
「それはあれですか? 私は愛人の娘なのあのひとがお腹を痛めた子供じゃないわ、とかのお仲間でしょうか」
【智】
「そんな嫌すぎる例題ぽろっと出さないで!」
【宮和】
「そうですね、わたくしなら……やめます」
【智】
「やめるって、お別れしちゃうの? 家から出てく?」
【宮和】
「いいえ。気にするのをやめるので」
【智】
「気にしてるのは相手の方じゃ……」
【宮和】
「それは相手のご都合ですから」
【智】
「まあ、それは……相手は、きっと、いやだろうね」
【宮和】
「でしょうけれど、私は、私であることは止められませんから。
気にするのを止めて、それで別の問題が出てくるようでしたなら、またその時に改めて考えます」
突き放すような返答は、一面の真実の裏返しでもある。
【智】
「やっぱり、八方丸くなんて、都合のいい解答はそう簡単には
おちてないか」
【宮和】
「眉間に島が」
【智】
「きっと皺」
【宮和】
「そんなにお悩みになっては胃を悪くなさいます」
歳をとったら最初に胃腸を壊しそう。
考え込むのは昔からの悪いクセだ。
わかっていても、やめられない。
きっと、怖い。
見えないことが、恐ろしい。
ホラー映画に似ている。
チェンソーもった殺人鬼は脅威であっても恐怖ではない。
後ろから追いすがってくる姿は笑いさえ誘う。
恐怖とは、未知だ。
不明であること、見えざること、
曖昧であること。
真と偽の境界の揺らぎの中に怖さが潜んでいる。
手探りで進まなければならない、その瞬間――――
それが怖くて、幾度も幾度も考える。
可能性と過去の類例から、自分の持ち得る知識から、
来るべき未来像に懸命な接近を試みる。
【宮和】
「和久津さま。心塞ぎがちの貴方にこれを」
【智】
「文庫本?」
【宮和】
「日常的読書に愛用している書籍です。お貸しいたします」
【智】
「おもしろいの?」
【宮和】
「心洗われます」
【智】
「期待しちゃおう」
表紙をめくる。
魅惑の調教師・幸村大、
令嬢生徒会長肛姦補習授業。
官能小説だった。
【智】
「うりゃ」
投げ捨てた。
【宮和】
「ああ、なんという酷いことを」
【智】
「なんでこんなのが日常的読書なの!」
【宮和】
「こんなのではなくスターリン文庫の、」
【智】
「寒そうなレーベル名はどーでもよいです」
【宮和】
「繰り返し愛読を」
【智】
「なぜ繰り返す」
【宮和】
「心塞ぎがちの日々にはよろしいかと」
【智】
「いい台詞も台無しです!」
【智】
「しかも、外側にこんな、可愛い可愛いなカバーわざわざつけて……」
【宮和】
「学園でも日常的に読めるようにと」
【智】
「そういう気だけ使わないで……」
【宮和】
「お電話ですわ」
【智】
「まったく…………」
携帯の液晶を確認する。
花鶏からだった。
昨日、全員で携帯の番号とメアドの交換をした。
るいと茜子は携帯を持ってないことも発覚したりした。
【智】
「まったくの鉄砲玉……不便だから、今度プリペイド持たせるか
何かしよう」
【智】
「はぁい」
待った。返事がこなかった。
【智】
「はぁい?」
再度。こんどは『?』を語尾のニュアンスで付ける。
【花鶏】
『…………』
【智】
「……花鶏?」
【花鶏】
『別に、特に用があったわけじゃないわ』
【智】
「え、あ、そ、そうなの」
【花鶏】
『ええ、なんでもないのよ。まったく、つまらない電話』
【智】
「あ、はい?」
【花鶏】
『暇だったから、ちょっと時間が余ったの。だから電話してみた
だけよ。まったく度し難い』
【智】
「…………度し難いのですか?」
【花鶏】
『じゃあね、サヨナラ』
ツー・ツー・ツー・ツー。
【智】
「………………はい?」
猫騙しされた猫の気分。
〔どうしたんだろう?〕
《ただの気まぐれかなあ》
《なにかあったんだろうか》
〔契約結びました(学園編)〕
【宮和】
「どうなさったのですか」
【智】
「よくわかりません」
3限目がはじまる。
授業の内容は右から左に抜けた。
胃の下に石でも詰まってるみたいな不快感。
小気味よい白墨のリズムを断ち切って。
【智】
「先生――――」
挙手した。
【智】
「はぁい」
【こより】
『やほーでございます! こちら、こよりであります。
センパイにはご機嫌うるわしゅう……』
【智】
「挨拶はさておき」
【こより】
『なんでありますか』
【智】
「その前に確認を」
【こより】
『はっ、なんなりと』
【智】
「今、時間的に授業中じゃないの?」
【こより】
『…………』
【智】
「…………」
【こより】
『センパイ』
【智】
「なんざましょう」
【こより】
『……ジュギョウチュウとは美味しいでありますか?』
【智】
「この件については後ほど裁判で改めて」
【こより】
『釈明の機会を〜!!』
【智】
「長くなるかも知れないけど、身体に気をつけてね」
【こより】
『お慈悲〜』
【智】
「さて、こより君。
きみを一休のエージェントと見込んで指令を授けます」
【こより】
『おお、まさかそこまで認められていたとは!』
【智】
「(学園を)一休」
【こより】
『一級!』
【智】
「まあ、細かいことはいいか」
【こより】
『なにやら引っかかりを覚える今日この頃……』
【智】
「いつの日か、誤謬のないヤングでアダルトなレディーに
クラスチェンジしたら話してあげる」
【こより】
『らじゃーッス』
【智】
「そっちの現在地は……
なるほど、なら、悪いけど頼まれて欲しいんだけど」
【智】
「……そう、そう……確認を……たぶんそのあたりに。
いなかったらそれで問題なしだし。うん、こっちから携帯に
かけても出ないから」
【智】
「それで状況がわかったら、僕の携帯に」
【こより】
『万事了解でありますっ!』
【智】
「お手数取らせます。
あ……っと、帽子、あるならかぶっていった方がいいよ」
【こより】
『帽子?』
【智】
「ウサギさんだと目立つから」
授業再び。
トイレから戻ってきても教室に変化はない。
歯車の駆動音を連想させる授業の進行。
受験のための知識の錬成。
教師の解説を聞き流しながら、
こよりの連絡を待つ。
曖昧なまま待つ時間。
ひどく、長く、いらだつ。
気がつくとシャーペンで、ノートに「の」の字を刻んでいた。
授業を写し取った白い紙面に、いくつもの「の」が黒い染みになる。
【宮和】
「先生」
宮和が挙手した。
【先生】
「なんだ、冬篠?」
【宮和】
「和久津さまのご気分が優れないようですので、保健室に
お連れしたいと――――」
【智】
「宮、宮、宮和――」
【智】
「別に、どこも悪くは……」
【宮和】
「そうですか。では、どういたしましょう」
【智】
「…………」
【智】
「ごめんね、気を遣わせちゃって」
【宮和】
「ささいなことでございます」
【智】
「宮、思ってたよりも大胆な子だった。こういうことしでかす
タイプだったなんて」
【宮和】
「人は見掛けに寄らないものですわ」
【宮和】
「それで、どうされますか」
【智】
「……悪いけど、早退で。先生には」
【宮和】
「お伝えしておきます」
【智】
「感謝」
【宮和】
「和久津さまは生理痛でご帰宅なされましたと」
【智】
「ちょっとブルーかな……」
【宮和】
「やはりブルーなのですか」
【智】
「ブルー違いだと思うんだ」
【宮和】
「……お貸ししましょうか?」
【智】
「ナニオデスカ」
【宮和】
「愛用しております海外の鎮痛剤です。父の知人の製薬会社の方からいただいているのですが、これが効果抜群」
【智】
「いや別に」
【宮和】
「和蘭(オランダ)製、イタイノトンデケン」
【智】
「日本製だよ!」
【宮和】
「無念です……」
【智】
「じゃあ、宮。申し訳ないけど、後はよろしく」
【宮和】
「承りました」
【智】
「このお礼はあらためて」
【宮和】
「では、今度、わたくしとデートなど」
【智】
「オフィーリアのガトーショコラセットごちそうする」
【宮和】
「初めてですわ」
【智】
「……?」
【宮和】
「和久津さまが、お誘いを受けてくださったのは」
【智】
「そうだったかな……そうかも……」
【宮和】
「では、お覚悟のほどを」
【智】
「覚悟がいるデートなのですか!?」
【宮和】
「行ってらっしゃいませ」
【智】
「しかもなし崩しに誤魔化された!」
見送りの代わりに、宮和は深々と頭を垂れた。
〔花鶏の事情〕
【智】
「昨夜はあの騒ぎでしたので、今後の方針については、日を改めて打ち合わせをするとしまして」
【智】
「それまで行動はなるべく慎重に。慌てる帝国海軍は真珠湾、
という諺もあります」
【るい】
「なんかすごいぞ」
【こより】
「センパイ、学があるです!」
【茜子】
「人を信じる心が美しすぎて、茜子さん涙あふるる」
【智】
「一人で、先走って突っ込んでいっちゃうようなことのないように。くれぐれも」
【花鶏】
「ふんっ」
【花鶏】
「……ふん」
花鶏は隠れている。
無様だと思う。
汚濁の街で孤独に息を殺す。
古いビルの隙間を縫うように、
路地から路地へ、裏道へと移動する。
追われていた。
失策だった。
他人と歩調を合わせて、
じっと時を待つことに、花鶏は耐えられない。
元々これは花鶏個人の問題で、
赤の他人に手をだされる筋合いもない。
自分ひとりでできる。
過信があった。
矜持(きょうじ)があった。
油断があった。
一昨日の騒ぎで、
花鶏たちに煮え湯を飲まされた連中が、
自分を捜している可能性を警戒しなかった。
雑多な街だ。
大勢が交じれば区別はつかない。
いるかどうかもわからない相手に、
わざわざ人手を割くなんてバカのすることだ。
そう思うのが、花鶏の陥穽(かんせい)だ。
向こう側とこちら側。
境界を踏み越えれば世界が変わる。
世界とは、価値観だ。
駅のこちらと駅向こうでは、
街の理屈も別物だった。
ある世界では、面子というものが、
黄金よりも貴重になってしまうことだってあるのだから。
【花鶏】
「どうせ覚えて捜すのなら、殴ったヤツの顔を覚えてればいいのに……」
舌打ちする。
自分に置かれた状況が不条理に思えてくる。
なぜ、あのチチ女でなく自分がこんな目にあうのか。
花鶏は目立つ。
雑踏に混じっても、
油のように浮かび上がる。
昨日の今日とはいうものの、他の誰かであれば、
一日を街に埋もれて平穏無事に終えられたかも知れない。
追われたのは花鶏だからだ。
記憶に残ったのは花鶏だからだ。
花鶏で無くなる以外に避けようがない。
考えなくてもわかることに考えが及ばなかったのは、
花鶏にとっては、それがなんら特別ではないからだ。
自分で思うほどに、ひとは己を理解しない。
自分の物差しが特別だと意識するには、
他者と交差し、差異に苦悩する時間が必要になる。
【男】
「――――ッ」
【男】
「――――――」
【花鶏】
「ちっ」
声がする。
聞こえてくるのが日本語でなければ、
危険とみなして逆方向へと逃げる。
花鶏にはこの辺りの土地勘がない。
逃れるために移動するほど、
現在位置を見失い、さらに深みへ足を取られる。
悪循環だ。
【花鶏】
「ここ、どのあたりかしら」
独りごちても返事はなかった。
一人を意識する。
独りには慣れている。
花鶏は孤高の花だ。
高台に咲く。
世界を見下ろし、肩を並べるものなど無く、
足下を顧みることも知らない。
気まぐれに手を差し伸べることはあっても、
誰かに救われるなんて、考えただけでも――――
【花鶏】
「……怖気がする、死んじゃうわ」
慣れているはずの独りきりが、
裸で校庭に立っているような肌寒さに変わる。
頬を触る風はぬるく、いやな臭いがした。
行く先が見えないだけ不安は身の丈を増す。
連中に捕まったらどうなるのか、考察してみた。
さらにブルーになった。
どう控えめに推測しても、
笑えない展開になりそうなので、それ以上の追求を止める。
【花鶏】
「……X指定はわたしの担当じゃないのよ」
弱気の虫が忍び寄ってくる。
一人では駄目かも知れない。
こんなところに一人でいるのは寂しい。
誰かに一緒にいて欲しい。
この際だから、あの性悪乳オンナでも誰だって――――
ポケットの携帯電話が重みを増す。
開いて番号を打てば、それだけで繋がる小さな接点。
ギブアンドテイク。
同盟なのだと、智は言った。
お互いに利用し合い、助け合う。
助け合う――――?
花鶏は思う。
そんなことは、望まない。
必要ではない。
絶対に。
【花鶏】
「ひゃっ!?」
携帯がマナーモードで震動する。
【花鶏】
「…………」
智からの着信だった。
右手が強張る。
携帯を取る。カバーを開く。着信ボタンを押す。
たった三つの動作で声が聞こえる。
しばらく鳴って切れた。
最後まで取らなかった。
さっき、こっちからかけたのが、
そもそもの間違いだ。
あれは気の迷いだった。
助けが欲しかったんじゃない。
ただの、ほんのちょっとした気まぐれだったのだ。
手助けなんて、
これっぽっちも必要ない。
一人でやれる。
それを証明しなければない。
自分自身の手で。
簡単なことだ。
この街のどこかにいる、
盗んだ相手を捜して、見つけて。
アレを取り返す。
知識も技術も経験も不足しているが、
花鶏は達成をこれっぽっちも疑わない。
花鶏は信仰する。
信仰が可能性の隙間を埋めるのだ。
何もかもうまくいく。
そうでなければいけない。
痣の聖痕。
その運命を信じている。
幼い頃から、花鶏はそれに意味を見いだしてきた。
絶えていた徴(しるし)が、自分の元に返ってきたこと。
母にも、祖母にもなかった。
約束された運命だ。
なのに――――――
聖痕が増える。
増えれば聖ではなくなる。
俗に落ちる。
不安の種が身じろぎしていた。
運命の路が挫折しているのか。
進んだ道の先に約束の地などなく、実のところ、破滅こそが
あらかじめ用意されていた結末ではないのか。
信仰には形がない。
だからこそ強く、また脆い。
根拠は外ではなく内にある。
疑えばきりがない。
指の先を傷つけた小さな棘程度の猜(さい)疑(ぎ)が、
破綻の群れを呼び寄せることだってある。
【花鶏】
「あの牛チチッ!!」
八つ当たりに空き缶を蹴り飛ばした。
品性に欠ける行動は慎まねばならない。
でも止められない。
苛立っている。
移動しようとして、足音に気がついた。
まずい。
ビル影に飛び込んでやり過ごす。
心臓が早鐘を打つ。
こちらを見ている相手は、
誰でも敵に思えた。
いよいよまずい徴候だ。
疑心暗鬼の手が足下まで伸びてきている。
冷静さを失ったら最悪なのに、どうにもならない。
【花鶏】
「ッ!」
また来た。
携帯がマナーモードで震動する。
悩んだ。
怖ず怖ずとポケットに手を伸ばす。
ブルブルと催促するように携帯が震える。
液晶画面に面と向かって、固まる。
「智」
表示された文字。
強張った指でコンソールを開けた。
そして。
呼び出しが切れる。
【花鶏】
「な………………」
裏路地に静けさが戻ってきて。
【花鶏】
「なによそれは!」
一瞬で静寂は破壊される。
【花鶏】
「わたしが取る寸前に切れるなんてどういう了見よ! 処刑されたいわけ?!」
【花鶏】
「帰ったら、ただで済ませると思ってんの!」
リダイヤル。
智の携帯へ。
怒りにまかせて身体が動いた。
携帯が番号を読み取る。入力される。
電子音のテンポがひどく遅くてイライラする。
早くかけて。
さっさと呼び出して。
そうしたら、
そうしたら――――――
どうするつもりなんだろう。
怒りに充ちていた手から力が抜ける。
携帯は勝手に智の番号を呼び出しはじめる。
どうするつもりなんだろう。
どこまでも曖昧な気分のまま、携帯を耳に当てた。
ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー・ツー
【花鶏】
「な………………」
【花鶏】
「なんなのよそれは!」
通話中だった。
〔契約結びました(市街編)〕
【こより】
『センパイセンパイセンパイセンパイ!』
【智】
「センパイは1度でいいです」
【こより】
『どーしたらいいのかわかんないッス!』
【智】
「僕にもどーしたらいいのか」
【こより】
『神も仏も〜』
【智】
「だから状況を説明しなさい。
それがわかんないと、どーしようもないのです」
【こより】
『花鶏ネーサンが』
【智】
「見つけたの?!」
【こより】
『いい感じに』
【智】
「間違いなくって?」
【こより】
『ネーサン、目立ちますから』
【智】
「様子はどう?」
【こより】
『普段通りですけど』
【智】
「それは重畳(ちょうじょう)」
【こより】
『ただ追いかけられてるだけで』
【智】
「全然普段通りじゃないです!」
【こより】
『逃げてるみたいでぇ〜』
【智】
「他には?」
【こより】
『隠れてるみたいです』
【智】
「別視点から分析すればいいってモノじゃないよ!」
【こより】
『なんか、不味い空気になってる感じがヒシヒシと〜』
【智】
「そんなに?」
【こより】
『言語が危険な感じに怪しい、イケナイ方向性のひとたちと
3回くらいすれ違いましたです……』
【智】
「……なんとか花鶏を追いかけられない?」
【こより】
『駅向こうの、かなりマズイあたりに来てるです。これ以上、深度深いところへ突っ込んで行ったら、追いかけられないッス!』
【智】
「そこをなんとか」
【こより】
『それは死ねと〜』
【智】
「死んじゃうんだ……」
【こより】
『ウサギは一羽になると死んじゃうのデス……』
【智】
「……そうDEATHか」
【こより】
『どーしたらいいのか、どーすればいいのか……。
不肖鳴滝めは探偵失格でございますー』
【智】
「探偵じゃなくて偵察」
【こより】
『似たようなモノでは』
【智】
「一文字違いで大違い」
【こより】
『まだまだおいらは未熟……』
【智】
「それで」
【こより】
『合流しちゃうのは、鳴滝的にありですが』
【智】
「いや、それは……
カモがネギというか、地雷原に地雷見物というか」
【こより】
『???』
【智】
「とりあえず、こっちも向かってるから。援軍も連れて行くから、それまで危険なことには首を――――」
【こより】
『……………………』
【こより】
『あー、やっばーいっ!!』
【智】
「え、なに、ちょっと?!」
【こより】
『やば、すごくやばー、うー、やー、たーえーい、不肖鳴滝、
オンナは気合いで、やるときはやるでございまーす!!!』
【智】
「あ、ちょと、ちょっとまちなさ―――」
花鶏は追いつかれた。
静止画のように、男が二人。
肌がひりつく。
明らかに手慣れていた。
身のこなしが染みついた暴力を印象させる。
片手がポケットに収まっている。
何かを隠し持っているのだ。
鋭利で、剣呑な。
悪意が遅効性の毒物のように空気を侵していく。
相手は舌なめずりひとつしない。
かえってリアルな危機を感じさせた。
花鶏は、諦めるより憤った。
武器を探す。
棒きれ一つでもいい。
二人はいけない。やっかい事としても倍だが、
相手にすることを考えれば倍以上に危険だ。
役に立ちそうなのは、手持ちのカバンくらい。
【花鶏】
「まったくろくでもない……」
トラブルはくぐり抜けられる。
花鶏は運命を信仰する。
小さくささった不安の棘を飲み込んで。
相手が早口で何かをまくしたてた。
とても聞き取れないが、
恫喝か威嚇かのどちらかだ。
決まっている。
来る。
花鶏は目を丸くした。
【花鶏】
「ちょ、ちょっと待って!」
待つわけがない。
【花鶏】
「だから待てって!!」
男の手が鋭利な速度で動く。
それよりも一回り早かった。
【こより】
「きゃーーーーーーーっ、ちかんさーん!!!」
後ろから、こよりが右の男に体当たりした。
男がよろめく。
もう一人も注意がそれた。
花鶏は、こよりの方を向いた左の男の後頭部に、
カバンの角を叩きつける。
いい感じの手応え。
そのまま、バランスを崩している右の男に肩からぶつかって、
思い切って突き飛ばした。
隙間をこじ開けた。
逃げる。
【こより】
「花鶏センパイ!!」
二つおさげをなびかせたウサギっこが、
愛用のローラーブレードで追いついてきた。
【花鶏】
「あなたはっ」
【こより】
「よかったぁ〜、無事でなによりであります!」
【花鶏】
「無事じゃないわ! これからますます無事じゃなくなるわよ!」
【花鶏】
「ほら急いで! じっとしてたら捕まるわ!」
【こより】
「それはご容赦〜」
【花鶏】
「いやなら走れ」
【こより】
「あうー、どっちいけばいいッスか……」
【花鶏】
「……わからないわ」
【こより】
「無責任だー」
【花鶏】
「いいからこっち!」
【こより】
「あう、まってー!」
【花鶏】
「ちょっと、そっちだけ車輪付きなんてずるいわよ!!」
【こより】
「ずるい言われましても……」
【こより】
「ここ、どのあたりなんです?」
【花鶏】
「だからわからないと」
【こより】
「いよいよ無責任だ……」
【花鶏】
「それよりも、さっきの」
【こより】
「え、てへ、とにかくなんとかしないとって」
【花鶏】
「まあ、役には立ったわね」
【こより】
「お褒めにあずかり恐悦至極にございます」
【花鶏】
「でも、危ないことをして」
【こより】
「……初めてでした」
【こより】
「やりかたとか、全然わかんなくて……」
【花鶏】
「誰だって一度は通る路よ」
【こより】
「ちょっと違う気が……」
【花鶏】
「大したことなかったでしょ」
【こより】
「それは、まあ。なんか、思い切るまでが大変で、実際やってみると、ぱっと終わっちゃったっていうか」
【花鶏】
「案外気持ちよくて」
【こより】
「あううう」
【花鶏】
「ストレス解消にもいいかもね、大声」
【花鶏】
「…………無駄話してる暇はないか」
【こより】
「追ってくるですか?」
【こより】
「うむむ、この間からこういう人生が続いております」
【花鶏】
「二度あることは三度ある」
【こより】
「三度目の正直で遠慮したいであります」
【花鶏】
「仏の顔も三度までといって」
【こより】
「仏さまになるのですか」
【花鶏】
「熨(の)斗(し)つけて、ごめん被るわ」
【こより】
「そうだ、センパイにメール!」
【花鶏】
「智に……?」
【こより】
「コールサインは1041010で、ピンチなので
すぐ来てください!!」
【花鶏】
「……アテになるの?」
【こより】
「ここにはセンパイの命令できたんです」
【こより】
「花鶏センパイがやばそうなので、偵察して捜してと」
【花鶏】
「あいつ、そんなこと……」
【花鶏】
「…………」
【花鶏】
「ふん」
こよりからの連絡を待ちかねていた。
足は無駄に速くなる。
1分でも早く近づこうとする。
急ぐには走らなければならないが、
無闇に動いたところですれ違ってしまうと意味がない。
百も承知の上だった。
待つよりも動いている方が落ち着くのは、
何かをしている感覚が免罪符になるからだ。
無為に待つ方が、辛い。
携帯がメールを着信する。
待ちかねたものだった。
こよりからの連絡だ。
通話でもいいのにメールである。
合流成功。逃走中。
【智】
「安心する暇もないんだもんねえ……」
嘆く。
余裕があれば天を仰ぎたい。
折り返し、リダイヤル。
【智】
「……なぜにメール」
【こより】
『メールに心引かれる、こよりッス!』
【智】
「よくわからない」
【こより】
『字になった方が、心こもってる気がするわけなんです』
【智】
「複雑だ……」
【こより】
『世界の神秘ッス』
【智】
「花鶏は?」
【花鶏】
『……いるわ』
【こより】
『です』
【智】
「現在地は?」
【こより】
『お助け〜』
予想通り道に迷っていた。
どうすればいいだろう?
追いかけてる連中だって、公僕に睨まれるのは願い下げの筈だから、駅向こうまでなんとか逃げるのが一番だ。
状況を訊ね、合流する場所の指示をする。
こちらも向かう。
細い路から二人が転がり出てくるところだった。
【こより】
「センパイ〜〜〜!」
【智】
「よーしよしよし、なんとか生きてる? 怪我とかしてない?
そっちも大丈夫?」
【花鶏】
「私の心配するなんて、百年早いわね」
生きてるうちは無理っぽい。
【るい】
「へらず口女」
【花鶏】
「……どうして、こいつがいるわけよ!?」
【るい】
「こいつっていったよ、こいつ!」
右と左から問い詰められる。
花鶏ン家に茜子と一緒しててくれたので、
るいを捕まえることができた。
茜子も携帯持たない人だけど、花鶏の家の電話機は
ナンバーディスプレイなので、僕からの電話には出てくれる。
どっかに飛んでってたら、実にマズイところだった。
今度、絶対にプリペイド携帯持たせておいてやる。
【こより】
「それよりも、後ろから来るんですよーっ!」
こよりが泡を食って指差す。
追っ手だった。
【智】
「走れ!」
【こより】
「にゃわ〜」
幾つ目かの曲がり角を高速でカーブ。
前方不注意で制限速度をブッチぎっていたローラーこよりが、
通りすがりの無実な学生さんに右から追突した。
横転に巻き込まれた花鶏も足をもつれさせる。
【無実な学生の人】
「――ッ」
【花鶏】
「なにしてる、前見なさい、前を!」
【こより】
「申しわけ〜」
二人の後ろを、僕が追いかける。
何か踏んだような気もするが些細な問題だ。
事故った分だけ追いつかれる。
最後尾のるいが、追っ手の間を遮った。
【るい】
「――――」
追っ手は3人に増えている。
途中で合流したらしい。
るいが、僕らをかばう位置に立つ。
峻厳(しゅんげん)な殺意が、相手を貫く。
後ろから見ているだけで、
背中の産毛が総毛立つ。
相手は逡巡(しゅんじゅん)した。
るいの危険さを嗅ぎとるだけの鋭さを持っている。
それに、ここは人通りも、そこそこある場所だ。
手間取れば騒ぎになる。
判断が難しい。
車を呼んで強引に僕らを詰め込めば済むかも知れない。
【花鶏】
「……バイクに乗ってくればよかったわ」
【智】
「原付でしょ」
【花鶏】
「デカいのもあるわよ」
【こより】
「乗ってくればどうにかなりました?」
【花鶏】
「必殺技が使えるわ」
もの凄いフレーズが来た。
花鶏から聞くとさらにショックが大きい。
【智】
「必殺ナノデスカ」
【花鶏】
「片仮名の発音が気に入らないわね」
【こより】
「スゲーッス!」
こちらは素直に感心していた。
【智】
「今の瞳の輝きを忘れないでね」
【こより】
「了解であります!」
【智】
「それでどういう必殺?」
【花鶏】
「ヘヴィモータード・チャージング・アサルト。3人くらいなら
まとめて一撃よ」
【智】
「それ絶対轢いてるだけでしょ!?」
【花鶏】
「名前は今考えた」
想像よりも恐ろしいヤツだった。
考えてみると、最初の出会いで必殺技を受けそうになっていた。
【智】
「…………素敵な出会いでしたね」
【るい】
「それいただき」
るいの気配が緩む。
ちらりと肩越しに後ろを向いたのは、普段のるいだ。
【智】
「素敵出会い?」
【るい】
「その前のやつ」
【智】
「前というと……」
【るい】
「必殺」
バイク轢殺攻撃。
【智】
「そんなもの、いたただかれても」
【花鶏】
「あなた、免許持ってるの?」
【智】
「そういう問題でもない……」
【るい】
「そこで黙って見てなさい。世界がびびる、るいちゃん流必殺――――」
天に向かって高々と咆哮した。
路上駐車してある、誰かの原付のハンドルを掴んで。
【智】
「な、」
【花鶏】
「に、」
【るい】
「原付あたーーーーーーーーっく!!!!!」
丸ごと投げた。
【智】
「ぎゃわーーーっ???!!!!」
自転車ではない原付である。
持ち上げたのではなく投げつけた。
【るい】
「しねーーーーーーっ!!!!」
言われなくても当たると死ぬ。
ゆうに数メートルを飛翔した。
重量70キロの砲弾だ。
連中がびびった。
こっちまでびびった。
鋼の筋肉をまとったむくつけき2メートルの大男が、
パフォーマンスに持ち上げるのとはわけが違う。
空飛ぶ原付は連中の目の前で壮絶に着地した。
むしろ爆地。
示威効果としては十分すぎた。
蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。
後には大往生した原付の亡骸だけが残される。
どこの誰のものかは知らないけれど。
【るい】
「南無」
るいが手を合わせる。
貴重な犠牲であった、
キミのことは永遠に忘れない。
そう誓っているように見えなくもないが、
たぶん、気のせいだろう。
【るい】
「どんなもんすか、るいちゃんの新必殺技……って、なに
この白けた空気」
【花鶏】
「バカ力とは知ってたけれど……まさか、バケモノ力とは
思わなかったわよ」
【るい】
「感謝しろよな、こンちきしょうめ」
【智】
「すごいね、サイボーグ」
【るい】
「うち人間すから」
【こより】
「すげーですぅ〜〜っ!」
空気読まないこよりは、素直に驚嘆する。
〔契約結びました(ダークサイド編)〕
【智】
「ここまで逃げれば」
【こより】
「大丈夫なのですか!?」
【智】
「だいたい問題ないと思います」
【花鶏】
「走るわ汚れるわ、散々な一日だわ」
【智】
「誰のせいですか」
【花鶏】
「運命を恨みなさい」
やるせなかった。
お前なんか犬のウ×コ踏んじゃえ、運命。
【智】
「ひとりでやっちゃダメって念押ししなかったっけ?
どうしてさっさと走っちゃうかな」
【るい】
「チームワーク大切にしろつーの」
【花鶏】
「あなたに言われたくないわね」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
すぐに揉める。
【智】
「以後は謹んでください」
【花鶏】
「これは、わたしの問題だわ!」
【智】
「今は全員の問題なの、僕らは運命共同体なの!」
同盟。
互いを救う相互条約。
【花鶏】
「はん、運命共同体」
鼻で笑われる。
【智】
「それではお尋ねしますが、手がかりは?」
【花鶏】
「…………」
【智】
「捜し歩いて何か見つかった?」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「はーい、センパイ先生ー、質問があります!」
【智】
「どうぞ、こよりくん」
【こより】
「…………これからどうするですか」
【智】
「それなんだよね」
【花鶏】
「……本を、捜すに決まってるでしょ」
【智】
「本が、バッグの中味なんだ」
【花鶏】
「…………ええ、そうよ。花城の家に代々伝わる古い本、
大切な……大切な本なのよ」
さすがの花鶏も肩が落ちている。
ほんの心持ちだけど。
【智】
「闇雲に捜しても見つからないよ」
【こより】
「闇雲じゃなければ見つかるですか?」
【智】
「捜し方にもよるけど。盗まれたのは本。
とりあえず捨てられてるっていうの考えないでおくとすると……」
もし燃えるゴミと一緒に出されていたら、
ゲームオーバーだ。打つ手はない。
【智】
「そこで問題です。どうして他人のものを盗んだりするんでしょう?」
【るい】
「……それが欲しかったから」
【智】
「いい線です。ただ、今回はかなり偶然っぽいので違います」
【こより】
「……価値がありそうだから?」
【智】
「はい、正解です。10点獲得と次回のジャンプアップで+1」
【花鶏】
「それはつまり、本をお金に換えるということ?」
【智】
「本が入ってたとは思わなかっただろうね。高価そうなバッグ
だったから狙っただけで、本が入ってたのは成り行きだと思う」
【智】
「こうなると盗んだヤツが多少はモノを見る目があるか、とにかくどんなものでも換金しようと考えてくれる方に賭けるしかないんだけど」
【こより】
「古本屋さんに売っちゃったりするんですか?」
【智】
「馬鹿になんないんだよ、本。
稀覯本だったりすると、出るところに出たら――」
ゴニョゴニョ。
純真なこよりちゃんに、とある本のお値段を囁いてあげる。
【こより】
「きゅう」
目を回した。
【こより】
「そそそそそそ、そんなにお高いんですかッッッッ!!!」
【智】
「ピンキリだけども、ものによると……今のヤツのン倍」
【こより】
「ガクガク……」
憐れな小動物と化して怯えてた。
【花鶏】
「こそ泥風情が……」
【智】
「本当の、ただのひったくりとかなら、ボロの本なんか捨てちゃうかも知れないから、早く見つけて」
【花鶏】
「殺してやるわ」
本気だった。
相手の生命と未来のためにも、
捨ててないことをせつに祈らずにはいられない。
【こより】
「すると、古本屋さんとか調べれば手がかりが!」
【智】
「いやまあ、理屈はね」
【智】
「この場合は盗品だから、手慣れた相手なら、下手に足がつかないように、盗品を扱うような人間を間に挟んだりするかも……」
そんな物騒なところにツテはない。
盗品を扱うような連中なら、
一種のコミュニティーを持っているはずだ。
犯罪的なコミュニティーは当然排他的要素を強く持つ。
外部の人間が近づけるとは思えない。
まして――
【るい】
「?」
【こより】
「♪」
【花鶏】
「…………」
美少女軍団だ。
水と油だ。掃き溜めに鶴だ。
美人三姉妹で美術品を盗んで歩くのとは訳が違う。
悪目立ちして最初の三歩でばれてしまう。
【智】
「ただでさえ駅向こうに行くのがマズイのに、そんな所に近づけると思う? ツテもコネもなく」
目隠しして地雷原を突破するようなもので。
【るい】
「すると?」
【智】
「無理っぽいんだよね」
【花鶏】
「そんな――っ!」
花鶏が、珍しく臆面もない声を上げて、
【惠/???】
「案内しようか」
もうひとつ、知らない声が降ってきた。
低温なのによく通る、不思議な声の主は、
【智】
「……?」
見知らぬ学生さんだった。
詰め襟の制服が、上の道路から階段を降りてくる。
【花鶏】
「……誰? 知り合い?」
【智】
「うんにゃ」
【るい】
「右に同じ」
【こより】
「同意」
るいにチラリと目をやる。
それで伝わった。
るいは小さく肯く。
近くには、他の誰も潜んでいる気配はないらしい。
すると。
追っ手ではないみたい。
【智】
「どちらさまですか?」
【惠/???】
「なんだ、君は忘れてしまったのか。人の心は罪だね。こんなにも容易く他人を傷つける。僕は忘れがたく、こんなにも焦がれているというのに」
わー。
【智】
「――――っと、ごめんなさい! ちょっと思考を手放してた」
【花鶏】
「……いえ、私も今真っ白になってたわ」
【るい】
「ほへー」
【こより】
「ほへー」
るいとこよりは、まだ燃え尽きていた。
【花鶏】
「なにこれ。どういうの? なんとも珍しい手合いだけれど」
【智】
「や、やばい」
動揺した。
【花鶏】
「なにが、どう? 危険な相手なの? なにかあるの?」
【智】
「誰か知らないけどものすごくヤバイ。僕、こういうタイプとコミュニケーションするのは、想定したことがなかったんだッッ!」
右往左往。オロオロする。
【花鶏】
「……あなたが本音で慌てるのも初めて見るわね。案外イレギュラーには弱いのかしら」
相手が下までやってきた。
本能的にうなじの毛が逆立つ。
苦手なタイプだ。
おまけに……背が高い。
【智】
「……うらやましい」
【惠/???】
「それで、案内はいらないのかい?」
少年だ。
手の触れそうな場所にいるのに存在感が薄い。
独特の気配だ。
【こより】
「あう、きれー……」
【るい】
「えー、こよりん、あーいう青白いのがいいのー?」
正気づいたギャラリーが騒いでいた
こよりが乙女アイで見惚れている。
ハートが飛んでます。
まあ、たしかに。
こやつは美形キャラだ。
少女漫画っぽい、性別を感じさせない整った顔立ちは、
どこか人形めいて硬質だ。
【智】
「えっと、その、どちらさまでしたっけ?」
再度、質問。
【惠】
「才野原(さいのはら)惠(めぐむ)」
【惠】
「君の友達だよ」
友達宣言された。
才野原惠――
姓と名を別に検索しても記憶がない。
【智】
「覚えてないなあ。
もしかして、進級する前に同窓だったとか、そういうの?」
【こより】
「あ、さっきぶつかった人ッス」
【智】
「ぶつかった?」
【こより】
「そうです、さっき、るいネーサンがバイク投げするちょっと前に――」
【こより】
「にゃわ〜」
【無実な学生の人】
「――ッ」
【花鶏】
「なにしてる、前見なさい、前を!」
【こより】
「申しわけ〜」
【こより】
「飛び出して、通りすがりの無実の学生さんの脇腹に、勢い余って肘を一撃」
【惠】
「そういうことも、あったかも知れない」
【智】
「友達と全然違うだろ!」
出会ったばかりだよ!
変なヤツだと思ったら、
うんと変なヤツだった。
なぜ、どうして、僕の周りには、
こういう変人がより分けでやってくるのか。
神様がいるとすれば、
そいつはどうしようもなく性悪だ。
居場所を教えてくれないから、
胸ぐらをつかんで問いただすという小さな望みも叶わない。
【惠】
「すると、これから友達になるのかな」
【智】
「前後させたら大違いだ」
【惠】
「出会いは運命だという言葉もあるけど、君は信じない?」
【こより】
「うー……運命の出会い〜〜〜〜〜〜っ!!」
少女漫画なフレーズに、こよりが身もだえする。
こういうのを、リアルで耳にするとは思いもよらなかった。
【智】
「僕、リアリストですから、そういうのはちょっと……」
【こより】
「えー」
三角座りして土いじりしそうなぐらい残念がる。
【智】
「でも、とりあえず、そういうことならそれは、つまり、こよりが――」
一撃食らわせた、その帳尻合わせにきた?
【惠】
「その続きを覚えている?」
【智】
「続き?」
【惠】
「そう、ぶつかったその後に」
【智】
「後といえば――」
【無実な学生の人】
「――ッ」
【智】
「あ、踏んじゃった。ごめんなさーい!」
【るい】
「踏んだんだ」
【智】
「……………………」
確かに、踏んだ、気がする。
【惠】
「その時、運命を感じたんだ」
【智】
「そんな運命ゴミ箱に捨ててしまえ!!」
それは運命じゃなくて呪いだ、絶対。
【こより】
「そ、そ、そ、そ、それってもしかして――」
きゃんきゃんと嬉しそうに。
やめて、よして、後生だから。
お願いだからその先の、
呪われた言葉を口にしないで……。
【こより】
「恋っ!! では〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
【惠】
「そうかもし、」
【智】
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
台詞を断ち切って絶叫。
【るい】
「ど、どうしたの、トモちん。でっかいイヤン?」
【智】
「焦るな、静まれ、男に告白されるなんて何回もあったじゃないか。こんなことでめげてどうするの。今度のヤツはちょっとアレだっていうだけで、僕の心臓まだ動いているよお母さん……」
【こより】
「センパイ?」
【るい】
「どない?」
【智】
「ふひ、ひひひひひ、ひひひ、ひひっひ」
【こより】
「こわれちゃいました」
【花鶏】
「たく、この忙しいときにしようのない」
【花鶏】
「えと、才野原惠だったかしら」
【惠】
「ああ」
【花鶏】
「どこまで本気なのか知らないけれど、一つだけ、事前に
はっきりと、断っておくわ」
【花鶏】
「この子はわたしのものだから、あなたは手を引きなさい」
【智】
「そっちじゃないでしょ!」
【こより】
「あ、生き返った」
【花鶏】
「ちっ」
【智】
「ちっ、じゃなくて! 僕は誰のモノでもないですから!」
【花鶏】
「わたしのモノになるのはこれからだけど、遅いか早いかの
違いだから、大差ないでしょう」
大違いだ。
【惠】
「それで、どうする? 案内しようか」
そういえば、話の切り出しはそれだった。
【智】
「…………案内というと」
【惠】
「盗品を扱うような連中のコミュニティー、ツテがあるなら……と。君らが今話してたんだろう」
【こより】
「話は全部聞かせてもらったッスよ!」
【智】
「……今時珍しい刑事ドラマ技能の持ち主だなあ」
【惠】
「案内が必要だと」
【花鶏】
「――別に、わたしには、そんなもの必要じゃないわ」
妙なところで意固地な花鶏だった。
【惠】
「知ってそうな相手に心当たりは、あるかな。君たちを、そのひとのいそうなところに案内して、紹介するくらいしかできないけれど」
相手の方が好意的に無視してくれた。
【るい】
「これって渡りに船ってやつ?」
【こより】
「犬も歩けば棒に当たるです〜!」
【るい】
「当たったのは、こよりだし」
【こより】
「あうぅぅ、誉められてるのか怒られてるのか……」
【るい】
「でも、なんでゴキブリ噛みしめたような顔してるかな」
【智】
「してますか」
顔に出てたらしい。
【智】
「……本当に、案内してくれる?」
【惠】
「必要なら」
【惠】
「そのかわりに」
【智】
「…………」
言われるまでもない。
世界は契約と代価でできている。
【惠】
「実は……」
【惠】
「君のことが忘れられないんだ。でも、強引と言うのは趣味じゃ
ないから、友達からはじめてくれるかな」
わー。
【こより】
「きゃー!」
意識が戻った時、こよりはお星様を一面に飛ばしながら
くるくる回っていた。
【るい】
「……あーいうのの、どこがいいのか、私よくわかんない」
【花鶏】
「男なんてどれもダメに決まってるわ」
【智】
「…………」
【るい】
「トモ、返事してあげなさいよ。せっかくコクられてんだから」
【花鶏】
「意外……色恋絡むと、もっと不器用に逃げ出すキャラだと思ってたのに」
【るい】
「おあいにくさま。これでも告白だけは山ほどされたことあるんですよー、べーっ!」
るいが舌を出す。
告白だけは――すごい日本語の欺(ぎ)瞞(まん)を見た。
るいに告白したのは全員「女の子」だったというのを、
僕は聞かされたので知っている。
【花鶏】
「恋愛偏差値のお高いことで」
【るい】
「告白するのって凄くエネルギーいるんだよ。火がついちゃいそうなくらいに必死で、どーんと体当たりしてくるような感じ」
【るい】
「傍にいるだけで、全部をここに使ってるんだなぁっていうのが
わかっちゃう。だから、せめて、返事はちゃんとしてあげないと
ダメ」
百聞は一見にしかず。
出会ったばかりで愛を告白したにしては、どう見ても必死には
思えない男の子が、目の前で微笑している。
【惠】
「それで、どうかな」
夜になる。
人の川が街路を流れる。
街は交点だ。人と物が交差する。
繋がることはなく、触れ合って離れる。
街はひとの数だけの顔を持っているのかもしれない。
【智】
「どうして夜なの?」
【惠】
「夜でないと相手が現れない」
【智】
「そのあいてって、吸血鬼の親戚筋のひととか?」
【惠】
「勘がいいね。噂を聞いたことは?」
噂はしらないが、
どうやら本物の吸血鬼らしい。
とかくこの世は不思議だらけだ。
吸血鬼、黒いライダー、
花嫁を連れ去る王子様。
【惠】
「そういえば、これってふたりっきりになるのかな?」
【智】
「ブーッ!!
離れろ、近付くな、最短距離50センチ割り込み禁止!」
飛んで逃げた。
愛の語らいなんて断じてごめんだを示す、
両手で×マーク。
【惠】
「つれないね」
惠は肩をすくめもしない。
取り引きに応じて、
僕らは友達契約を結んだ。
最低の語感ですね、まったく。
引き替えに惠にツテを紹介してもらうことになった。
その、問題の相手は夜にしか現れないという。
【惠】
「二人で来ることにしたのは、どうして?」
当然、花鶏は来たがった。
るいも、行くとうるさかった。
【智】
「色々やっちゃったから目立ってるし、顔覚えられてたら余計な
騒ぎになりかねないし。この上物騒なことになったらとっても
困るし」
【智】
「ツテとの話がおかしな方向に流れても、僕ひとりの方がきっと
丸く収まるだろうから」
【惠】
「そうやって巻き込むのを避けるわけか。盗品の話、自分のことじゃないんだろう? なのに……興味深いね、君は」
【智】
「買いかぶらないでよ。僕は効率優先な人種なんだよ」
【惠】
「そういうことにしておこう」
前触れもなく惠が歩き出す。
【惠】
「そろそろ時間だ」
【智】
「どこまで行くの?」
【惠】
「半分は運任せだね」
【智】
「……案内じゃないんですか」
【惠】
「相手がいそうな場所は何ヶ所かある。しらみつぶしにする」
【智】
「どうせロクでもない場所なんだ……」
【惠】
「それはもう。ロクでもない相手がいる場所だから、ロクでもないと相場は決まってる」
聞くまでもなかった。
【惠】
「運が良ければ早めに見つかるだろう」
【智】
「悪ければ?」
【惠】
「いないだけだよ」
わかりやすかった。
【惠】
「運は良い方?」
【智】
「うんと悪い方」
【惠】
「悪運はついてるようだ」
惠に案内された三つ目の路地だった。
異臭が鼻をつく。
灯りのない路地裏に、
街の腐臭とも異なる、饐えた臭気がこもる。
顔をしかめた。
【惠】
「尹央輝(ゆんいぇんふぇい)?」
【央輝】
「誰かと思えば、才野原かよ。
相変わらずウロチョロと目障りなこったな」
路地裏に灯がはいる。
ライターの火だった。
黒い塊がいた。
黒いのは唾広の帽子と蝙蝠の羽めいたコート。
見た目だけならコスプレだが、同じ場所に居合わせるだけで、
肌のひりつく空気を身につけている。
狼が一目で獣だとわかるように、
これは危険だと説明されなくても理解できる。
【智】
「……ほえ?」
帽子の下から、ライターの火に爛々と
照る虹彩が睨みつけていた。
見覚えがあった。
【智】
「あれ、それってもしかして……?」
【惠】
「知ってるのかい」
【智】
「まあ、知り合い程度だけれど……」
尹央輝(ゆんいぇんふぇい)。
そういえば、あの時、名前を聞いていなかった。
【央輝】
「そいつは――?」
【惠】
「君に相談したいことがあるそうだ」
【央輝】
「相談?」
ナイフでくり抜いたような三日月の形に、
相手……央輝の口の端がつり上がる。
近くで見るとよくわかる。
央輝は随分ちっこい。
だが、小型でも刃物と同じだ。
以前にあったときとは違う、
針の刺さるような存在感。
危険な生き物だ。
【央輝】
「くくっ、あたしに相談か、詰まらない冗談を仕込むヤツだぜ」
【央輝】
「いいさ、聞くだけ聞いてやる。場所を変えるか」
央輝が路地を出る。
ライターの火が移動して、
奥にあった臭気の元を明らかにした。
男が二人倒れていた。
大の大人だ。
その男たちの吐いた血反吐の臭いだ。
【智】
「――――」
惠の袖を後ろから引く。
路地の奥を、黙って指で指す。
よくあることだと、惠は小さく肯いた。
【惠】
「注意するといい。央輝は気性が荒いんだ」
尹央輝といえば、その筋ではただならず名前を知られている有名人らしいが、その筋無関係な一般人の僕が聞いたこともないのは当たり前だった。
なんにでも境界はある。
一歩線を踏み越えれば、
そこは知られざる別世界。
央輝は危険な人間だった。
危険な人間の統率者でもあった。
央輝を直接知るものは少ないが、
代わりに、夜の街を伝説が流布していた。
曰く、吸血鬼。
曰く、ひと睨みで相手を殺す。
曰く、人を食っているのを見た。
央輝は、駅のこちら側に夜ごと繰り出す若い連中の、
カリスマとして君臨している、といわれても、
何となく凄そう、以外には実感が湧かないんだけど。
【智】
「こんな場所でいいの?」
【央輝】
「文句があるのか」
【智】
「ないない、ぜんぜんない」
夜の街に佇んで、缶コーヒーを片手に密談にふける。
下手な場所よりは、外の方がいいという。
まあ、下手な場所に連れて行かれても困るわけだし。
【智】
「そういえば、忘れてた。この前は、ありがとう」
央輝にお礼を言った。
追われていたとき、
逃げ道を教えてくれたのだし。
【央輝】
「……」
不思議そうな顔をされた。
水色のパンダとか、
その辺りの珍獣を見つけた顔だ。
【智】
「でも、話を聞く限り、央輝はあっち側の人じゃないの?
どうしてあの時は」
【央輝】
「ふん、ちょっとした気まぐれだ。貴様が気をまわすことじゃない」
物騒な社会には物騒なりのルールとか勢力争いとか、
あまり首突っ込みたくない事情があるのかも知れない。
【智】
「それならそれで、感謝」
【央輝】
「あれは貸しだ。いずれ取りたてる」
【智】
「ごもっともです」
【央輝】
「にしても、盗品の行方とはな! それも、あるのかないのかも
わからないモノを、わざわざ頼みにくるなんてな」
含み笑う。
【央輝】
「笑える話だ、こいつは。才野原、オマエ、ちゃんと教えてやったのか?」
【惠】
「彼女なら、わかっていると思うよ」
惠が流し目で促す。
表情が少なくて感情が読みにくかった。
【智】
「…………」
わかっている、とは思う。
どんなコミュニティーにでもルールがある。
そこに非合法の色がつくなら、
自らを維持するために、より排他的な、
より厳格なルールが必要だ。
求められるのは、契約と代価。
どこででも通用する、どこででも求められる。
それは普遍の法則だ。
【央輝】
「これを聞いてやったら、2度目だな。お前は2度あたしの前に
顔を出して、その度に面倒事を頼んできやがる」
【央輝】
「これが縁なら、糞くだらない縁にも程があるな。違うか?」
【智】
「なんとか、なるの?」
【惠】
「……」
【央輝】
「ならなくも、ない」
酷薄な顔。
【央輝】
「そいつが、あたしたちの仲間なら、話は早い。仲間でなくても、金に換えるためにどこかを通したなら、この街のことなら、必ずあたしの耳には入ってくる」
【央輝】
「だから、だ」
【央輝】
「あるなら、見つけてやってもいい」
背の低い央輝は僕を見上げる。
暗く沈んだ目だ。
3本目と4本目の肋骨の間に、音もなくスルリと滑り込んで
来そうな、薄く鋭利な尖った眼差し。
【智】
「ほんと?」
【央輝】
「…………オマエ、まともじゃないな」
なにやら、酷いことを言われている気がする。
【央輝】
「おい、才野原。そうなんだろ。こいつ、まともじゃねえんだろ?」
【惠】
「まともか否かの区別がつくのは、まともな人間だけじゃないかな」
【央輝】
「はっ、くだらねえ!
そんなもん、まともの保証は誰がつけてくれるってんだ?」
【惠】
「さあね」
くくっ、と央輝が喉に笑いをこもらせた。
【央輝】
「お嬢っぽいわりには、キモの座ったやつだな、お前」
【智】
「そうかな」
そうかもしれない。
【央輝】
「まあ、いいさ」
そうだとすれば、それは、きっと。
――――――――もっと恐ろしいものを知っているから。
【央輝】
「いいぞ。その本とかいうのは見つけてやる――――
あれば、だがな」
【智】
「ホン(本)ト!」
ちょっとしたシャレです。
【央輝】
「ああ」
聞き流された!
【央輝】
「どうした?」
【智】
「いえ、些細な失敗に打ちひしがれてます……」
【央輝】
「ふん。いいか、モノには価値がある。価値は交換できる。あたしが言ってることはわかるな」
【智】
「……僕の借り、二つ目ってことでいい?」
【央輝】
「はははっ! 聞いたかよ、才野原!」
力いっぱい笑われた。
【央輝】
「ここへ来て黙って『貸してくれ』だとよ。ふざけた玉だ、笑えるヤツだ! こりゃいい!」
【惠】
「いいのかい。その本、君のモノでもないのに。
君が借りておく必要はないんじゃないのかい?」
【智】
「借金はまとめておいた方が管理しやすいので」
央輝はまだ笑っていた。
ほっとくと夜明けまで笑われちゃってそうだった。
【央輝】
「ふ、ふふ、くくっ……いいさ、何かわかったら連絡してやる。
せいぜい首を長くして待ってろ」
唇がサメみたいにつり上がった。
俺様お前を丸かじり、といわれてるみたいで、
この先を思うととても悲しくなった。
携帯の番号を教えて、僕らは別れた。
【智】
「ローンで首が回らなくなったらどうしよう……」
茜子の父親も、
こんな感じでがんじがらまったのかも。
借金恐ろしい。
夜風がどうにも身に染みる。
【惠】
「央輝は、本当に、気性の荒いヤツだよ」
忠告らしかった。
しかも、かなり笑えない。
【智】
「あー、うー」
ひとしきり、天を仰いで嘆いた。
惠とも別れて、ひとり孤独な家路につく。
奇妙に胸が詰まった。
慣れている孤独が胸におちてくれない。
名付けがたい胸のにがりに首を傾げる。
【智】
「このところずっと騒がしかったから」
こういうのも寂しさというのかしらん。
そういえば、今頃どうしてるんだろう。
〔誰のことを考えよう?〕
《るいのことを考える》
《花鶏のことを考える》
《こよりのことを考える》
《伊代と茜子のことを考える》
〔るいのことを考える〕
あの暴食魔神はどうしてるだろう。
しばらくは花鶏が家に泊めてくれるから、
家なき子の宿無し問題は一時保留だ。
【智】
「……なにか方法を考えといた方がいいですね」
今の状況を解決したら、次の課題。
問題は際限なし、そろって難問、時間制限付き。
【智】
「そのうちハゲるかも……やだなあ」
部屋に辿り着いた時には深夜近かった。
扉の前に変なものがいた。
【るい】
「おかえんなさい!」
るいが膝を抱えてうずくまっていた。
【智】
「なにしてるの?」
【るい】
「待ってたの」
【智】
「花鶏ん家に……」
泊まってる筈では。
【るい】
「ノンノンノンノン」
指を立ててちくたく振って。
【るい】
「ついつい飛び出て来てしまいました」
【智】
「途中経過を端折りすぎです」
揉めたな。
きっと揉めたな。
そういう可能性は考慮しておくべきだった。
失策だ。
最近多いな、失策……ドラマの完璧軍師並に。
【るい】
「そんでトモちんのこと待ってた」
【智】
「……とりあえず、あがって」
【るい】
「わーい、お部屋だお部屋だ!」
小躍りしている。
計算してみた。
時間が遅いので、
バスも電車もとっくにない。
るいを泊めることで生じるマイナス要因(主に秘密発覚の可能性)と、るいを追い出すことで生じるプラス要因。
差し引きすると追い出す利益が大きすぎる。
季節柄寒くもないし、るいはバイタリティーなひとなので一日や
二日公園のベンチで寝泊まりしていただいてもまったく平気だ。
となれば結論は簡単。
【智】
「…………今日は泊まってっていいから」
【るい】
「わーい!」
弱いな、自分。
ご飯を食べてから、またしても、一緒に寝ることになった。
【るい】
「トモって優しいよね。ちゃんと泊めてくれるし」
【智】
「心的ストレスに弱いんだよね。胃腸とか」
心配性とも言う。
【るい】
「――――それで、今日はそれでどうだったの」
るいは、落ち着いた目をしていた。
津波がくる直前の海だ。
仲間を守るのと同じだけ、敵には容赦しない。
るいなりに、僕が一人で行ったのを心配しているらしい。
僕の返事一つで時限爆弾のスイッチが入る。
【智】
「運が良かったんだか、悪かったんだか。進展はあったから、明日みんなにもまとめて話すよ」
【るい】
「うまくいったんだったら、そんでいい」
【智】
「……うん」
どうか、このまま上手くいってくれますように。
〔花鶏のことを考える〕
【花鶏】
『どうだったの!?』
出るなりこれだ。
【智】
「ちょっと待って」
【花鶏】
『いいから早く答えなさい!』
【智】
「耳が痛くて声がきこえないから」
気を揉んでいるだろうと電話したのを、
ちょっぴり後悔。
【花鶏】
『…………』
【智】
「進展はあった」
【花鶏】
『別に、期待なんてしなかったわよ』
【智】
「でも、捜してくれることになった」
沈黙が落ちる。
花鶏の頭が高速で回転している。
【花鶏】
『必要ないのに』
【智】
「僕らが地道に捜すよりは、あてになるから」
【智】
「詳しくは明日話すから」
【花鶏】
『まあ、いいわ』
【智】
「じゃあね」
【花鶏】
『――――待って』
【智】
「なあに」
【花鶏】
『どうして……一人で行ったの?』
問い詰める口調じゃなくて。
それは押さえた怒りだった。
その矛先は、僕と花鶏で半分こだ。
一人で行くと最後まで譲らなかった僕、
それをとうとう論破できなかった自分。
【智】
「それは、別れ際に言った通り」
【花鶏】
『そんなことは聞いていない』
【智】
「……難しいね」
【花鶏】
『わたしは怒ってるのよ』
【智】
「声でわかります」
【花鶏】
『何故怒っているかもわかって?』
花鶏は予想している。
契約と代価だ。
それはどこにでもある構造だ。
常に適用される、普遍の約束事だ。
僕の借金が、花鶏を傷つける。
【智】
「わかりません」
【花鶏】
『わたしたちが、運命共同体だといったのは、あなたよ』
鼻で笑われた記憶があるんですけれど。
【智】
「同盟だけに」
【花鶏】
『…………いいわ。わたし、無駄なことはしない主義だから。
詳しい話は明日聞かせてもらう』
【智】
「イエスマム」
不機嫌そうな、短い沈黙。
黙ったまま電話を切られそうだった。
【花鶏】
『……他の連中に、伝えることは?』
予想は外れた。
【智】
「おやすみなさい」
【花鶏】
『芸のない』
【智】
「大衆に埋没する平凡な人生が理想です」
【花鶏】
『あなたには波瀾万丈が似合うわね』
いやだなあ。
【花鶏】
『……それじゃ、おやすみなさい』
返事も待たずに切れてしまった。
〔こよりのことを考える〕
【智】
「このまま無事に決着してくれると、こよりんも無駄に元気に
なるんだけどなあ」
ドタバタ騒ぎの発端を作ったことを、
アレはあれで負い目に感じている。
ときおり振る舞いが過剰なのは、
半分はそこが原因じゃないかと思う。
【智】
「もそっと落ち着いてもいいのに」
人間関係の交通整理。
同盟は結んだだけでは終わらない。
維持する方が難しい。
これが中々手間なのだった。
【智】
「ほう……」
小さくため息をついた。
〔伊代と茜子のことを考える〕
出会いを回想する。
【智】
「……危うい偶然だったなあ」
のっけから危機一髪の二人だった。
ほんの数分、あそこへ行くのが早いか遅いかしていれば、
今頃とてつもなくX指定なお話になっていたはずだ。
危機一髪は現在進行形で続いているけれど。
当事者である茜子。
当事者でない伊代。
茜子には選択の余地がないが、
伊代には、本当は僕らといる理由がない。
お人好し。いいやつ。委員長気質。
【智】
「いいやつほど損する世の中なのに……」
肩をすくめたはずなのに、なぜか足下が浮ついた。
どうして気分がよくなったのか。
わからないまま帰路についた。
〔るいのお出迎え〕
何の変哲もなく、進展もなく、穏やかに。
数日が過ぎる。
最近は平穏無事な日々の方が珍しく感じられる。
やだなあ……。
実は、一度だけ波風のたったことがありました。
央輝とお話した翌日のことだ。
【伊代】
「いや、なんといいますか」
【花鶏】
「……バカね」
【茜子】
「バカですね」
【こより】
「バカなのですか?」
【るい】
「うむむむむ」
央輝とのことを説明したら、
死ぬほどバカにされた。
自分から進んで他人の連帯保証人になるようなヤツは、
生きてる資格ナッシングです……
とまで言い切ったのは茜子さんでした。
……もう少し綺麗な言葉にして欲しい。
危険な賭けにあえて挑むのは、
勇気ではなく無謀と呼ぶんだってばよ、レディー。
とか。
花鶏は怒った。
どれだけ怒ったのかというと。
回想シーンにするのもちょっと躊躇(ためら)われるくらい。
主に花鶏の名誉のために。
人間がどこまで怪物に近づけるかという、
新たな可能性をかいま見た、気がする。
【智】
「はわ…………」
大きなあくび。
それらを除けば、
いたって長閑な日々だった。
今日もまた。
行き来の道のりも、授業も、
何事もなさ過ぎて眠気を誘う。
放課後になっても約束はない。予定もない。
ここんとこ、約束はトラブルと裏表だったけど……。
トラブル解決のために約束するのか、
約束するとトラブルが生まれるのか。
【後輩】
「さよならー」
【智】
「さよなら」
下級生が会釈して去っていく。
離れる背中に手を振りながら、
相手の名前も知らないことに微苦笑した。
こちらが覚えていなくても、
あちらは僕を知っている。
名前とセットにラベルされた優等生の姿を。
関係は、いつも相互的とは限らない。
【女生徒3】
「いくよー」
【女生徒4】
「わっせ、わっせ、わっせ、わっせ」
耳を澄ませば雑多な音。
授業を終えて帰るもの、部活にいそしむもの、
誰かとの約束に時間を振り分けるもの。
ひとの数だけの路。
ひとは繋がることはなく、
幾重にも交差するだけだ。
今日は宮和も先に帰ったらしい。
しんみり風情のまま行こうとする。とした。
【るい】
「おーい」
正門のあたり。
どわどわ手を振っていた。るいだった。
【智】
「な、なんで…………」
【女生徒1】
「まあ、騒がしい」
【女生徒2】
「どなた?」
【女生徒3】
「見覚えのない――」
【女生徒4】
「他校の生徒のようですけど」
注目を浴びていた。
白い目だった。
難儀なもので、
当のるいには柳に風である。
その手の悪意には鈍いたちなのだ。
【智】
「……」
悩む。
選択肢を脳内に並べる。
選ぶ。
他人のふりをすることにした。
君子危うきに近寄らず。
学園での生活には、ことさら波風を立てたくない。
今のるいは火災報知器みたいなものだし。
カバンを盾に顔を隠して、正門ならぬ裏門に。
【るい】
「おーいおーい、トモちーん!」
【智】
「ぶっ」
思いっきり名指しされる。
【女子生徒1】
「和久津様……?」
【女子生徒2】
「他の学園の方と……」
【女子生徒3】
「どうしてあんながさつそうな……」
【るい】
「トモちん、トモちん、トモちんー!」
しかも3回も反復。
【智】
「ノー…………」
疑惑の矢が背中に次々突き刺さる。
噂が醸成されている。
明日までには発酵して尾ひれとはひれがついて、
地上を二足で歩行している気がした。
【るい】
「トモち、」
【智】
「こっちへ!」
【るい】
「え、あの、そんなにひっぱんなくても」
【智】
「いいから、何もいわなくていいから、こっちこっち!」
【るい】
「なによー、そんなに引っ張らなくても」
校舎から離れた。
落ち着ける距離まで、
るいの手を引いて早足で歩く。
【智】
「ここまでくれば……ふー」
【るい】
「なんでタメ息つくのか」
【智】
「人生は、長い荒野の最果てを目指す旅に似てるのよって話はした?」
【るい】
「難しいことはわかんない」
明日には孵化してそうな噂に思考を巡らせる。
やめた。
未定のことに神経を使うのもほどほどにしておく。
明日は明日の風が吹く。
るいの好きそうな言葉だ。
【智】
「んで、なに」
【るい】
「なにとは」
【智】
「キミはなんで、わざわざ学園に来て、正門前で待ち伏せ襲撃
しましたか」
ほっぺを引っ張ってみた。
やわらかモチ。
【るい】
「みょー」
【智】
「変な顔」
【るい】
「みょーっ!」
解放する。
【るい】
「みょみょみょ、私のやわらかほっぺが……」
【智】
「そんでもって?」
【るい】
「実は、ちょっとした」
【智】
「ちょっとした?」
【るい】
「気の迷い」
【智】
「迷ってどうするの」
【智】
「……いいかげんだなあ」
【るい】
「いい加減って、ちょうどいいって意味だよね」
【智】
「微妙なニュアンスで日本語として成立してるあたり、
たち悪い感じ」
【るい】
「よくないか」
【智】
「良い悪いではなく」
【るい】
「何の話だっけ」
【智】
「僕に訊かれても困ります」
【るい】
「まあ、細かいことは気にしないで」
【智】
「しかもきれいにまとめた!」
【智】
「それにしても、よくこの学園知ってたね」
【るい】
「制服見たら有名なとこだったし、場所は前から知ってたから、
さっそく来てみました」
えっへんと、タイラント胸を張る。
大胆というか、無謀というか、無計画というか。
【智】
「電話ぐらいしてくれればよかったのに」
【るい】
「私、電話は苦手なんだよね」
プリペイドだけど携帯を渡してあるんだけどな。
携帯が必須アイテムの今時にしては、
なんとも前世紀的な意見を聞かされた。
【智】
「すれ違ってたかも」
【るい】
「るいさん、多少は考えたよ。早めに来て待ってたから」
【智】
「早めって、どれくらい?」
【るい】
「1時間くらい待ったかな」
【るい】
「どーしたの、変な顔になってる。会えたんだからノープロブレム。トモとはやっぱり赤い糸が絡まってるんだね」
【智】
「絡まったら人生間違いそう」
結ばれてる方がいくらかマシで。
それにしても、1時間……。
根拠もなく待ち続けるには長すぎるのに。
【智】
「ごめんね、待たせちゃって」
【るい】
「んもう、そんなの気にしないでよ。勝手に待ってただけじゃない。私の気まぐれ、いちいち気をつかってたら若ハゲ様になっちゃうぞ」
【智】
「すごくヤダ」
【るい】
「うむ。トモにはハゲ似合わない」
【智】
「ま、いいか。僕も、実は、るいに用事があったから」
【るい】
「用事? なになに」
身を乗り出してくる。いちいち楽しそう。
【智】
「大したことじゃないから後でいい。それよりも、これから
どーするの?」
【るい】
「どうもこうも、考えてない」
【智】
「ほんとに気まぐれだったんだ……」
【るい】
「るいネーサンに二言はない」
【智】
「二言ないのも時によりけり」
【るい】
「武士は食わねど高楊枝だぜ」
【智】
「用法が違う」
【るい】
「……トモちん、チェックが厳しい」
【智】
「突っ立ってても何だし、どっかいこうか」
【るい】
「デートだ!」
【智】
「…………」
デート。
複雑な単語に思いを馳せる。
にかり。るいが大口をあけて笑う。
下品に見えかねないところが、
愛嬌になる女の子だ。
【るい】
「んと、二人で?」
【智】
「そだね。他にも声かけてみようか」
【るい】
「んむんむ」
嬉しそうに肯いていた。
【るい】
「そういえば、トモはさ」
【るい】
「男の子とデートしたことある?」
【智】
「ありません」
悲しい質問をされた。
頼まれてもしたくない。
【るい】
「るい姉さんもないんだよ」
【智】
「なんとなく納得」
【るい】
「なんとなく、馬鹿にされてる気がする……」
待ち合わせ場所へ移動した。
【るい】
「そういえば、さっき言いかけてた智の用事ってなに?」
【智】
「……」
余りに明け透けな顔に気後れをする。
切りだし方を考える。切り出すべきかを悩む。
確かめておきたいことがあった。
【智】
「あのね、」
無心の目をのぞき込む。
首筋から肩のラインを追った。
女の子にしては骨格はしっかりしている。
しなやかに圧縮された機能を予感させる手足へと繋がる。
細身だが、見た目以上のポテンシャルを秘めた四肢。
ウエイトリフティングの世界記録はたしか200キロを超える。
たかだか70キロそこそこのバイクくらい、
軽々持ち運ぶ人間だって世の中にはいるわけだ。
だけど、そういう手合いは、
鎧の如き筋肉をまとった、むくつけき方々だ。
人間の出力は筋量から決定される。
だからといって筋肉だけを山ほど搭載して出力を増強しちゃうと、骨格の強度が保たなくなる。
人間はとても物理的だ。
ウエイトリフティングによる記録の数値は、
肉体に技術が加わって、ようやく達成可能な領域にあった。
バイク投げ――必殺技。
無造作に車体をまるごと引き抜く、力。
明らかに意味不明だった。
一子相伝の暗殺拳の伝承者で、普通は30パーセントしか使っていない肉体の力を全て引き出せるとか、そういう裏設定でもないと納得できません。
【智】
「質問があります。
答えたくなかったら答えなくていいんだけど……」
【るい】
「もって回ってるぞ」
【智】
「……ハニワ人類と昆虫人類と新しい血族のどれがいい?」
【るい】
「ハニワってなんだ?」
【智】
「とりあえず手近なところから」
【るい】
「……恐竜帝国」
【智】
「わりと渋いところだね」
【智】
「じゃあ、第2問」
【るい】
「まだあるか」
【智】
「るいは先祖に狼男とかいる?」
【るい】
「そんなのいねー」
【智】
「通りすがりの吸血鬼に血を吸われたとか」
【るい】
「あるわけねー」
【智】
「秘密結社に誘拐されて改造手術を……」
【るい】
「さっきから何の話をしてるかな」
迂回することはできなくなった。
【智】
「……バイク投げ」
【るい】
「すごいでしょ」
【智】
「あれってどういう……仕掛け?」
【るい】
「力持ち」
理由なんて知らないのか、言いたくないのか。
前置きもなく。
【るい】
「昔からそうなの」
るいの笑顔に影が混じる。
形は変わらないのに質量が失せて、
形ばかりの空疎な笑みには心の重さが足されていない。
【るい】
「ちっさい頃からね、ずっとそうなんだ。リクエストがあったら、もっとすごいことでもできちゃう」
【智】
「……もっとすごいんだ」
【るい】
「そのとーり。本気になるとすっごいぞ、るいさんは」
【るい】
「智は、そういうの、あんまし好きくない?」
【るい】
「そういうのって、やっぱり怖い?」
不意打ちだった。
怖い――
何を指して。
誰を指して。
るいにとって、どんな出来事が、
その言葉を選ばせたのか。
固い言葉は城塞じみて、その奥に眠るものに、
安易に触れられることを拒んでいる。
誰にでも、それはある。
触れられたくない場所、部分、心の一部。
時に痛みを、時に苦しみをもたらす、最奥の暗がり。
聖なる墓所。
想像は、できる。
秀でていることが、
常に称賛されるとは限らない。
他者との差異は、
安易に敵意へと化学反応する。
妬み、嫉み、恨み――
優れていることが招き寄せる薄汚れたもの。
ましてや、それが過剰であれば。
ひとは、理解できないものを恐怖する。
(――――怖い?)
【智】
「んー、るいらしいかなって思う」
【るい】
「うむ?」
【智】
「なんか、もの凄いの、るいっぽい」
【るい】
「…………」
目をしばたいた。
【るい】
「そういうのは、はじめて言われた」
【るい】
「トモ、やっぱりちょっと変なひとだよね」
【智】
「変か」
【るい】
「変だ」
【智】
「んー、そういうのって、やっぱり怖い?」
訊いてみた。
笑われた。
今度は心の入った顔で。
【るい】
「うんにゃ、トモらしいかなって思う」
【智】
「なら、いいかな」
【るい】
「そだね」
【智】
「それに、助けられたし」
【るい】
「そんなの、仲間を助けるのは当たり前じゃない」
これまた、るいらしい返事だった。
思わず口元がほころぶ。
さて、すぐに皆やってくる。
今日はどこへ出かけようか。
〔僕らはみんな呪われている〕
最初に花鶏が疑義を唱えた。
【花鶏】
「――――どういうことなのかしら?」
多かれ少なかれ全員の意見だった。
花鶏は言葉で僕を、視線はるいを射る。
運よくか、それとも悪くか、暇つぶしの欠員は無く、
全員がそろった後で、るいが先頭をきって歩き出した。
理由のある集まりではなかったし、
どこに行くのでも、構いはしなかったのだけれど。
【花鶏】
「なに、ここ?」
町外れの廃ビルの中です。
元は何のビルだったのかはわからない。
今ではただの廃墟になっている。
いや、そんなことを訊いてるんじゃないんだろうけど。
るいが、僕らを連れてきたのはここだった。
どうして、わざわざこんな所にやってくるの?
こっちだって教えて欲しい。
【智】
「るい?」
【るい】
「んと――」
先ほどから3度。
同じように問い、
同じように言い淀まれる。
るいっぽくない態度だ。
花鶏の水位がさらに下がる。
いよいよ危険なものを感じて、
伊代に救いを求めると、肩をすくめられた。
【伊代】
「薬なし……っていうよりも、わたしも同感」
【茜子】
「茜子さん、飽きました」
【智】
「こよちゃんは?」
【こより】
「あー、こよりめは別に……
でも、何かあるならお早めにいって欲しいのです……」
るいは、最初からここに連れてくるのが目的だった。
今日、わざわざ誘いに来たのも。
るいはしゃがみ込んでいる。
微妙に苛ついている。
ざらついた感情は、
理解しない仲間には向かない。
うまくステップを踏めない自分をもどかしがる、
そんなベクトルに近い。
【智】
「んー」
全員を呼びたかったのか。
それなら電話で約束するか、
説明するか、方法はいくらだってある。
今日だって、連絡もなく僕を待っていた。
すれ違ったらどうするつもりだったんだろう。
るいが、何も事情を話さない理由にもなっていない。
もって回った迂遠なやり口だ。
迂遠というより意味不明だ。
【花鶏】
「どうするの?」
怒っていらっしゃる。当然か。
【智】
「……いいです。よろしい。わかりました」
これは、つまり――――
るいには、答えられない事情が、ある?
【智】
「るい」
るいは、怒られてシュンとしている犬だった。
【るい】
「……」
これは信頼についての問題だ。
難しく困難な命題だった。
【智】
「あと10分でいい?」
【るい】
「…………」
雨に濡れた子犬みたいな目をしてる。
とりあえずは、肯定と受け取ろう。
【智】
「よろし。あと10分待って、何もなければ」
【るい】
「……」
【智】
「どったの?」
【るい】
「怒ったりしないんだ」
空飛ぶ象と遭遇したような顔。
【智】
「変な顔」
【るい】
「トモの方がよっぽど変だと思う」
【智】
「そうかしら」
自覚はあまりない。
自分の物差しは、得てして自分ではわからない。
【花鶏】
「彼女が変だ、というところには同意するわ」
【伊代】
「ま、そうね」
【茜子】
「……」
【智】
「僕らの信頼はどこに行きましたか」
【花鶏】
「利害の一致とか言ってたのはどこの誰?」
【こより】
「センパイ、不肖鳴滝めは、どんなときでもセンパイの味方で
ございます! 変でもよいではありませんか!」
【智】
「まず変を否定してください」
【こより】
「こよりは正直だけが生き甲斐なので」
【智】
「キミは弟子失格」
【こより】
「お情け〜」
【伊代】
「大人げないわね、全会一致よ」
【智】
「数の暴力ですね」
【茜子】
「マイノリティーな負け犬さんの遠吠えは耳に心地いいです。
もっと言ってください」
ひたすら黒い茜子さんだ。
【るい】
「あのね、トモ。私さ、ダメなの。根本的に身勝手なんだよね。
周りを見ないっていうか。普段から考えなしだしさ、たまに
わかんないことしだすし……」
【智】
「今みたいに?」
【るい】
「今みたいに」
自覚はあるらしい。
【るい】
「今までもね、たまに、なにかの弾みで仲良くなった子とかいて、しばらく一緒にいたりするんだけど、結局怒らせちゃうんだよね」
【花鶏】
「気持ちはわかるわ」
【伊代】
「……シビアな突っ込みはおやめなさい」
【るい】
「智は、怒らないね。変なの。すごく変なの。私、自覚あるんだけど。怒りそうなこと、怒られるようなこと、怒り出してもしかたないようなこと、してると思う」
【花鶏】
「まったくだわ」
【こより】
「ネーサン厳しいッス……」
想像をする。
気ままな風のように掴みがたい女の子の姿。
どこまでも無軌道に、
どこまでも身勝手に、飛び回る。
追いつけないことは――
鳥を見上げるように、憧れにも変わる。
わからないことは――
見えないこと、理解不能であること。
不可解は、怖れに繋がる。
わからないことが怖いから、
見えないものに理由を求める。
【智】
「いまね、考えてるんだ」
【伊代】
「……んと、怒らない理由を?」
【智】
「そうじゃなくて、るいが考えてることを」
信頼は相互的だ。
一方的に支払うだけだと、
すぐに萎えてしまう。
心を通貨にした取り引き。
言葉は心を代替する。
言葉足らずな、るい。
レートは食い違う。売買は成立しない。
考えても、やっぱり、るいの考えはわからなかった。
人は繋がらない。
他人の心なんて、魔法使いでもなければわかるはずもない。
仕草やわずかな断片から心を読み解く術は、あるにはある。
でも、それには時間が必要だ。
相手を理解するための時間と、積み重ねた信頼が。
【花鶏】
「何かの罠だったらどうするの?」
【伊代】
「罠って、あなたね……」
【智】
「それは大丈夫」
【るい】
「信じてくれるんだ?」
【智】
「るいはハメるほど頭よくないと思うから」
【茜子】
「それはつまり、この巨乳はバカ巨乳だということですね」
【るい】
「信じ方が嬉しくない」
【花鶏】
「なるほど」
【こより】
「納得しました!」
【伊代】
「それなりに酷いわね、あなたたち」
【智】
「それなりが一番ひどいんじゃないですか?」
【茜子】
「5分が経過しました」
そして彼女が現れた。
【るい】
「遅いよ、いずるさん。なかなか来ないから、私、死んじゃうかと思ったんだから」
【いずる】
「遅くないね。ちゃんと約束もしてないんだ、私にしてはサービス過剰だよ。わざわざ来てやっただけでも十二分におつりが来て小銭が余って困るじゃないか」
【智】
「知ってるひと?」
【るい】
「待ち人だったり」
にへらと照れ笑い。
【るい】
「あのね、前に訳ありで知り合ったひと。名前はね――」
【いずる】
「蝉丸(せみまる)いずる」
相手は、目をほんのちょっと細めた。
無遠慮な感じで上から下まで眺められる。
何かを探るように、測るように。
ちょい引く。
【いずる】
「ふむ、なかなか……はじめまして、よろしく」
【茜子】
「かなかなかなかな」
茜子が鳴いた。
【伊代】
「蝉が違いそうよ」
【茜子】
「無念なり」
蝉丸。
名前は変だった。
古風だ、くらいが精々の誉めようだ。
花城だか花鶏だかとタメをはるぐらいには変な名前だった。
【花鶏】
「何かよからぬ事を考えているようね」
【智】
「ないない、断じてない」
悪口には鼻のきく花鶏だ。
【智】
「それにしても」
うわ、うさんくさ……。
たぶん、後ろのひとたちも、一部の隙もない全会一致で。
【茜子】
「うわ、うさんくさ」
【智】
「……口に出しちゃうんだ」
【茜子】
「ため込むのはストレスの元になりますから」
健康的な信念だった。
【いずる】
「ごあいさつだねえ。まあ、しかたがない。そこの皆元くん、
どうせ何も言ってないんだろうし。どっちみち、うさんくさい
商売なのは本当だしね」
【智】
「自覚あるんだ……」
さっきのお返しに、ぶしつけな感じでジロジロ見返す。
第一印象は、変な和服の若い美人。
温度の低いつり目が性悪のキツネを連想させる。
【智】
「どういうひと?」
【るい】
「んーと、変人で」
【智】
「それは見ればなんとなく」
【るい】
「不審人物で…………専門家、かな」
【智】
「専門にもピンからキリマデあるよね」
【るい】
「おかしな、ことの、専門家…………怪獣退治とか」
怪獣……それはそれはトンデモだ。
【智】
「どこの科学特捜隊の方?」
【いずる】
「別に退治はしないよ。本業は、語り屋といって」
【智】
「うわ、うさんくさ(棒読み)」
【いずる】
「まったくだねえ」
【智】
「自分で切り返されても」
面の皮の厚い人種らしい。
【いずる】
「心配は無用だよ。中味もそこそこだから」
中味まで、うさんくさいらしい。
【智】
「…………」
悩む。
るいに無言で問いかける。
手を合わせて拝まれた。
無言でお願いのポーズ。
後ろの面子を振り返ってみた。
判断やいかに、のジェスチャー。
悩むまでもなく一部の隙もない全会一致で。
面倒だから白紙委任する、のジェスチャー。
【智】
「………………いいかげんだ」
どいつもこいつも。
【いずる】
「なるほど。私は語り屋なわけだけれど、君は面倒屋なんだな」
そんな面倒、ものすごく願い下げだ。
【智】
「もの凄く色々と不本意なんですけど、一応のコンセンサスが
取れましたので」
【智】
「謎の専門家の、えーと…………お蝉さん? それとも、
いずるさん?」
【いずる】
「おをつけるのかい。また古風だね。和服だから時代劇っぽく
するのもわからなくはないんだが。短くするのも、今ひとつ
語呂はよくない気がするけれど」
【智】
「些細なことはさておいて」
【いずる】
「呼び名というのは些細じゃないよ。名は体を表すという諺もあるくらいでね。昔話というのは大概名前が重要な役割を担うだろう」
【智】
「じゃあ、いずるさん。いの一番の疑問なんですけど」
【いずる】
「それは一言だね」
質問の中味を言葉にする前に、小さく薄く笑みが浮かぶ。
低温で、硬質の、色の薄い微笑。
【いずる】
「私の仕事はね、語ることだよ」
まんまだ。
【智】
「騙る?」
【いずる】
「語る」
【いずる】
「まあ、どっちでもいいか。あまり変わらないし」
【智】
「変わらないと困るよ!」
【いずる】
「違わないんだよ。言葉というのは、それはもう嘘つきだ。
嘘も方便と言うだろ」
【茜子】
「智さん、お好きな言葉です」
【智】
「初対面のひとがいるのに、人聞き悪いこといわないで」
言葉――。
ようするに、それは本質とは違う、本質の代用だ。
言語は方便だ。
百万言を重ねても、本質そのものには到達しない。
【智】
「でも、それって方便じゃなくて詭弁の類」
【いずる】
「一文字しか変わらないじゃないか」
【智】
「一文字違えば大違いだ!」
【いずる】
「ま、語りも騙りも同じものだよ。理屈も方便。とりあえずの
辻褄が合ってれば問題なし」
【智】
「煙に巻かれてる気がします、このあたりにヒシヒシと」
頭の上で、ぐるぐるっと指を回す。
【いずる】
「もちろん、煙に巻いてるんだよ」
【智】
「悪びれろよ、この霊能者は」
【智】
「んで……今日はなんのご用で」
ご用というより誤用な感じ。
【いずる】
「呼ばれたから来たんだ。
呼ばれたのが私で、呼んだのはそこの皆元くん」
【智】
「るいの知り合いなんですよね」
【いずる】
「袖すり合うも多生の縁くらいにはね」
【るい】
「どんな縁でも多少は縁があるって話だよね」
【智】
「たぶんちがう」
正しくは、多生の縁=前世で縁があった、です。
【るい】
「嘘っ」
【智】
「本当」
【るい】
「教わったのに!?」
【智】
「誰に?」
るいが、いずるを指差す。
【るい】
「私、嘘つかれたのか!」
【いずる】
「前世なんていい加減なものを説明の根拠にしてるんだから、
解釈はアバウトでいいんだよ」
美しい日本語に謝って欲しい。
【智】
「嘘つき型の人間だね」
【茜子】
「茜子さんももう一人知ってます」
【伊代】
「わたしもわたしも」
友情のない仲間であった。
【いずる】
「人聞きの悪い。自慢じゃないが、仕事で騙したことは一度もない。勝手に騙されるやつはいるけどね」
【智】
「まんま詐欺師の言い分ですな」
【るい】
「あのさ」
ついついと、後ろから、るいが袖を引いた。
【るい】
「あれでも一応、私の恩人なんで……」
るいの腰が微妙に低いのは、義理と人情らしい。
【智】
「……どういう恩人?」
【るい】
「前にね、変な事件に巻き込まれた時に助けてもらって」
【智】
「帰省の途中で立ち寄った港町の住人は、みな特徴的な顔立ちをしていて、魚の腐ったような匂いが町全体にたちこめていて……」
【るい】
「なにそれ?」
【智】
「まあ、違うか、違うよね」
【智】
「変な事件か。……妖怪ハンターか怪奇探偵みたく、古文書を取り出しておかしな儀式でもして怪事件を解決してくれるとか?」
【いずる】
「それはダメだね、役割分担に棲み分けがあるし。私は解決役
じゃなく、ヒント係だよ」
神秘主義から卑近(ひきん)な世界へ表現が滑落した。
【智】
「できれば雰囲気を大事にしてください」
【いずる】
「ゲーム機は何か持ってるかな、凶箱とか。RPGはやる?
ちょっと昔の……最近のでもいいのかな。まあ、毎年目が回る
くらいゲームも出るからねえ」
【智】
「卑近(ひきん)すぎて目が眩みそう」
【いずる】
「いるだろ、村人Aとか」
【いずる】
「話しかけると会話ができる。どこぞの大学の地下に銀の門の鍵が隠されてるとか、なんとか、そういう感じのやくたいもないヒントを出す。そういうのさ」
【いずる】
「それで、語り屋、とか名乗ることにしてる」
【伊代】
「……とかってなによ、とかって」
【いずる】
「まあ、何でもいいからね」
【智】
「名前が重要とか、さっき聞かされた」
【いずる】
「時と場合によりけりだね」
アバウトだ。単にいい加減ともいう。
【智】
「やっぱり騙り屋だ」
かつかつかつと、足音がする。
和服の分際で足下は、ごついジャングルブーツだ。
情緒のない靴先が間近までやってきた。
いずるさん。背は高い。
うらやましい…………。
目線が上なのは、身長の気になる身の上としては
気分的によろしくありません。
表情の読みにくい瞳がのぞき込んでくる。
触れるほど近いのに気配が薄い。
陶器みたいに堅くて冷たい。
【いずる】
「語り屋だから語るんだよ。君らが持ってるフラグに合わせて
ヒントを出すんだ。そこからどうするかは君ら次第、まったく
もって好きにすればいい」
【茜子】
「……どうせならペロリと答を教えてくれれば手間が省けます」
【いずる】
「それは無理無理、無理なんだよおちびちゃん」
【いずる】
「答なんてあってないようなものだから。どうしたいのか、何を
したいのか、何を支払うのか。その時々ですぐに変わってしまうのが答だろ」
【智】
「ますます詭弁っぽくなったな」
【いずる】
「とりあえず仕事をしようか。こうしてだべってるのも悪くないけれど、こうしてばかりだとヒントにならない」
【花鶏】
「今のお話だけでお腹いっぱいよ、わたしは」
【いずる】
「請け負っていることだから、そういうわけにも行かないんだよ。これも渡世の義理というやつだねえ」
これまた古風な言い回しだ。
【いずる】
「さあ、語ろうか」
【智】
「何を」
【いずる】
「それだよ。簡単だよ。これから語るのは」
そうして、三日月みたいに口元を歪めて。
【いずる】
「呪いのお話」
告げた。
【智】
「――――――」
呪い。
一言で、魔法のように音が途絶える。
斜陽の入り込む無音の廃墟。
誰かがそっと息を飲む。
ありがちな言葉、幾度も繰り返した言葉。
いかさま師なら、タタリがあるぞと脅すように。
使い古された古くさい呪文が毒素に変わる。
静かに着実に心という領域を侵略する。
【いずる】
「そう、呪いの話。呪うこと、呪われること、呪われた世界のお話」
【いずる】
「まあ、便宜上の区別だから、そこまで気にすることはないんだが」
【智】
「……まったくもって嘘くさい」
【いずる】
「嘘みたいな話だからねえ」
いずるさんは、ほんの寸時、何かを思案する。
【いずる】
「手近なところから行こうか。順番の方がいいだろう。今日は頼まれたんだよね。以前にした話をもう1度してくれるようにってね」
【智】
「るいから? 何の話を――」
【いずる】
「痣」
ぶすりと刺さる。
後方で、さざ波めいた気配の動き。
警戒とも敵意とも興味ともつかない感情の周波数が、
人数分、目の前の怪しい人物に流れていく。
【智】
「……」
目を凝らす。見極めようとする。
痣のことは、るいから聞いたのか。
ようやく腑に落ちた。
るいの意図がつかめた。
僕らの確率異常の痣について。
奇妙な縁を語らせるための、語り屋。
【いずる】
「君、目つきが悪くなったな」
【智】
「怪しいひとには身構えくらいするでしょ」
【いずる】
「いやいや、君は『こっち側』のタイプだな。
嘘が得意で、誤魔化しと騙しとで人生をやりくりする」
そんなの言われたら、僕がものすごく悪人みたいだ。
【いずる】
「私のいうことなんて鵜呑みにできない? まったくもって。
メディアにはリテラシーを心がけないとな」
【いずる】
「――――『でも、知りたい』」
図星。
痣――――。
奇妙すぎて手がかりがない。
手探りをするにも床の位置くらいは知っておきたい。
だから、よけいに注意が必要だ。
欲しいものを目の前に並べられた時が、一番危険。
【いずる】
「依頼の分だけ語ってあげよう。それでどうするかは勝手にすればいい。ヒントは所詮ヒントだ。解釈はご自由に。あとは若い二人におまかせで」
【智】
「二人じゃないけど……」
【いずる】
「なるほど、痣は6つだったかい」
6つの痣。6人の痣。
それは繋がりか、それとも奇縁と呼ぶべきか。
【智】
「そこまで話したんだ……」
【るい】
「まだ」
【いずる】
「察しがよくないと他人をかたれないからね」
【智】
「今騙るっていったでしょ、絶対」
【るい】
「私が知り合った時に、ちょっぴり聞かされたことがあるんだけど、その時は話半分だったんだ」
【るい】
「変な事件の後だったから、言われたことを全然信じられなかったわけじゃないんだけど、よくわからなかった。信じてもどうしようもなかったし」
【るい】
「私、馬鹿だから……」
【るい】
「でも、今なら違う気がする」
【いずる】
「パーティープレイか、いいねえ。力を合わせて悪い魔王を倒すには、友情とアイテムと経験値が不可欠だ」
俗な喩えも極まれりだなあ。
【智】
「いいです、わかりました、了解です。
そういうことなら、ヨタ話じゃない方を語ってくださいな」
【智】
「……この痣が、どういうのかって」
【いずる】
「呪いだね」
毒の言葉が繰り返される。
背中に見えない氷柱がそっと忍び入ってくる。
呪い。呪い。呪い。
とてもとても忌まわしいこと。
誰かが呪う。憎悪で。誰かを呪う。
怨恨で。呪われる。いつまでも呪われる。
――――腹の底まで冷えていく。
【いずる】
「簡単に信用しないんじゃなかったかな」
【智】
「――――」
想像だけが先走る。それではすっかり妄想だ。
自分自身で自分を縛る落とし穴。
【智】
「それで、そうだとすると、誰が……」
呪っているのか。
あえて疑念を言葉にしてみた。
言葉にした分だけ見えない呪縛の緩む気がする。
【いずる】
「そんなことはどっちだっていいんだよ。さして重要なところじゃないんだし」
えっ、そうなの? そういうものなの?
【智】
「よくわかんないんですけど」
【いずる】
「誰が祟ってるとか、恨みだとか辛みだとか、龍神様のお怒りだ
とか、30年前に騙されて死んだ若い夫婦がいるんだとか、
そういうのはどっちだっていいんだって」
【智】
「そういうのが、呪い、なんじゃないの?」
【いずる】
「そういうのは全部動機」
【いずる】
「動機は動機。これから語るのは、呪い。そんなに曖昧じゃない、もっともっとありがちでわかりやすくてはっきりしてる、仕組みの話だよ」
【いずる】
「こうすれば、こうなる。そういうのが仕組みさ」
仕組み――
鍵を回すと扉が開く。
スイッチを入れるとテレビがつく。
入力と出力の関係だ。定められた手順と結果だ。
【いずる】
「なぜどうして……なんて言い出すからわかりにくくなる。
区別がつかなくなって混乱する」
【いずる】
「液晶テレビが映る仕組みを知ってるかい? 知らなくても使う分には問題ないだろう。しかも、誰が使ったって基本は同じだ」
【智】
「それが、呪い……」
【いずる】
「そう、それが、呪い」
そして、この痣は。
【いずる】
「そういうものなんだよ」
【智】
「そういうのって……あるものなの?」
一周回って基本的な疑問にたどり着く。
呪いが、仕組みだ。
それが定義なら、とりあえず納得しておくとして。
その一番根本的な部分。
そういう仕組みが。
不思議、怪異、超自然、魔法。
そんなものが――
【いずる】
「ちなみに、自分が呪われている心当たりは?」
【智】
「そんなの、あると、思う?」
表情は、変えなかったと思う。
【いずる】
「なるほど痛そうな話だねえ」
透かし見るような、いやな顔。
【智】
「僕、何も言ってないんだけど」
【いずる】
「結構結構、結構で毛だらけ」
【茜子】
「猫を灰だらけにするのは虐待だと思います」
【伊代】
「……誰もそんなこと言ってないわよ」
【いずる】
「気分がいいから、もう少し話を続けてもいいかい?」
【智】
「別に続けなくてもいいんだけど」
【いずる】
「本当に?」
いやな性格だ。
前世はいじめっ子だったに決まってる。
【智】
「…………どういう気分?」
【いずる】
「ネズミを苛める猫の気分」
【いずる】
「さて、仕組みといったってピンキリだから、それがどんな仕組みかは何とも言えない。語り得ないものには沈黙を。わからないことをこれ見よがしに語るのは範疇外だ」
【いずる】
「でもまあ、あれだね、どうやら地雷っぽいねえ」
【智】
「地雷というと」
【いずる】
「昔話によくあるやつ。大仰な言い方をしちゃうと、なにか禁忌を犯すと災いが起きる……かな」
【いずる】
「踏んだらお終い、だから地雷」
【智】
「それだと本当に呪いじゃないの!」
【いずる】
「だから呪いなんだって」
心底どちらでもよさそうに。
【智】
「……そういうのって、どうにかならないの?」
【いずる】
「どうでもいいんじゃなかったっけ」
【智】
「………………心底どうでもいいけど、たまには聞いてみようかなって思うこともあるわけだから」
【いずる】
「どうにかといっても色々あるけど」
【智】
「たとえば」
【いずる】
「確実に死ぬようにして欲しいとか」
誰が頼むんだよ!
【智】
「そんな特殊例、大まじめに講釈されても困る」
【いずる】
「一般的なヤツの方が好みかな」
【智】
「呪い……なら解くとかできないの?」
一般的そうなところを。
【いずる】
「そういう、魔法とか超能力みたいな要求は通らない」
【智】
「………………」
今、なにか、すごく理不尽なことを言われた気がする。
呪い。呪い。呪い。
それこそ魔法とか超能力とか、
そういう類のいい加減な駄話をしてるんじゃなかったっけ。
【いずる】
「まあ、仕組みなだけに、仕組みがわかれば解体もできる……
かもしれない」
【智】
「そういう地味っぽいのじゃなくて、小(コ)宇(ス)宙(モ)を感じて相手がわかるとか、この魔力の残(ざん)滓(し)は悪しきサソリ魔人の仕業だとか」
【いずる】
「そんな、エセ霊能者のお告げじゃないんだから」
どこがどう違うのか、わかるように説明してほしい。
【智】
「つまり……?」
【いずる】
「原因がわかれば結果もわかる」
【智】
「ここへきて一般論かよ」
【いずる】
「少年漫画の王道パターンっていうのはね、
普遍的に使われやすいからパターンになるわけだよ」
一般論は最強よ、と言いたいらしい。
【いずる】
「喜ばしくも、おおかたの呪いは解除方法とセットだ」
【智】
「そういうヒントを先に言って欲しかった」
【智】
「そういうのを調べたければ?」
【いずる】
「仕組みがわからないと」
堂々巡りだろ、それじゃあ……。
【智】
「わかれば何とかなる?」
【いずる】
「ま、死んだら解除とかいうのもよくある」
【智】
「何ともならないとの一緒だよ」
【いずる】
「ままならないものだね、世の中は」
【智】
「綺麗にまとめるな」
【いずる】
「ヒント係に過剰に期待されても困るな。村人Aは勇者の一行が
魔王と戦うのに手を貸したりしないんだし」
【智】
「最近のなら、ちゃんと声援ぐらい送ってくれる」
【いずる】
「声援でよければいくらでも」
にこやかな作り笑いで両手を広げるポーズ。
うわ、むかつく。
【いずる】
「漫画じゃないんだ。古美術商に身をやつした何でも屋の便利
キャラがパワーアップの修行方法とアイテムくれるのとは
ワケが違うんだから、過度な期待はしないように」
【智】
「漫画みたいなこと言ってるでしょ!」
【茜子】
「追い詰められてる人間の、表層が剥離されて本性の露呈する感じの焦りが、茜子さん的にはとっても素敵です」
【こより】
「しどい……」
【いずる】
「まずは泥にまみれて一歩一歩あくせくやってれば、その一歩
はただの一歩でも、人類にとっての偉大な一歩になるかもね」
【智】
「人類この際関係ない」
二の腕を、痣の有る場所を、
無意識に握りしめる。
掌の熱が奪われて冷たくなる。
それは気のせいだ。
呪いという便利な言葉がつくる錯覚でしかない。
【智】
「痣が、こんなにも身近に集まるのはどういう訳で」
【いずる】
「しったこっちゃない」
【智】
「投げやりダー」
片仮名っぽく抗議。
【いずる】
「理由はあるかも知れないし、単に確率の問題かも知れない。
起こりえる可能性があるなら、どんなに希少な可能性であれ、
遅かれ早かれ起きるわけだから」
【智】
「例えば、理由があるとすれば……一般論的に?」
【いずる】
「ほら、その手の奴同士は引かれ合うっていう」
俗な理由だなあ。
ぐるぐる回る。考えがまとまらない。
方便と詭弁と騙りを頂点にした直角三角形が、幾つも幾つも
回っている。
【いずる】
「これで一通りの話のは終了だ。後は好きにすればいい」
【智】
「散々騙り倒してなんて無責任……」
【いずる】
「ヒント係は聞かれたことを語るのがお仕事なんだよ。
魔王を倒すなりサブイベントで経験値を稼ぐなり、
これからどうするかはパーティーのお仕事だろ」
【智】
「このままだと途中で全滅したりして」
【いずる】
「人生はリセット効かないから、慎重なプレイお勧め」
【いずる】
「じゃあ、そういうことで。これ、名刺」
【智】
「………………………………」
梅干し食べた顔になった。
もの凄く一般論的社会人の、誰でも持ってる必須アイテムが、
呪いのアイテムに思える。
【いずる】
「変な顔だねえ」
【智】
「なにゆえ名刺」
【いずる】
「仕事人にはいるだろ」
【智】
「あってどうにかなる仕事なわけ?」
【いずる】
「様式美なんだから受け取っておいたらいいんだよ。
君も細かいことに拘るねえ。そのうち胃腸悪くすると予言
しちゃおうか」
初対面の人間にまで胃腸の心配をされた。
つくづく僕は、僕が可哀想だ。
名刺はぞんざいな作りだった。
蝉丸いずる。
銘がうってあり、携帯の番号が載ってるだけ。
【智】
「TPOはもうちょい考えて欲しい」
いずるさん、笑いもせずに踵を返す。
るいと二言三言言葉を交わす。
るいが背負ったカバンから、変な形のヌイグルミを取り出した。
カエルとサカナとナメクジを足して3で割ったような形容しがたい忌まわしきものだ。
【るい】
「…………はい」
【いずる】
「ごちそうさま」
ヌイグルミが手渡される間、るいは、かなり真剣な葛藤を、
見ていておもしろくなるくらい続けていた。
【智】
「なにをなさっているんですか」
【るい】
「お別れ…………」
死にそうな顔だった。
【いずる】
「契約だからね。なんだってタダじゃないんだ。タダより高いものはないなんていうわけだし、代価を取ってる分だけ良心的だとは思わないか」
契約と代価。
【智】
「村人Aは話すボタンでヒントくれるのに」
概ねはロハで。
【いずる】
「村人Aがダメなら、町の隅の占い師で」
【こより】
「それ、使ったことありません!」
【いずる】
「私は使うな。ゲームのテキストは全部見る主義だから。イベントクリア後に村人の台詞メッセージ変わったりすると、結構感動するよねえ」
よほど村人が好きなんだな。
【いずる】
「縁があったから呼び出されたけど、契約は契約でまた別の話。
かたった分だけもらい受ける。大事なモノと引き替える。
それが昔からの決まりごとだろ」
【智】
「それって魔女の理屈だろ」
そのうちに、声とか目とか取っていかれそうだ。
【いずる】
「ちょっとした違いだねえ」
そうして、彼女は、冷たく喉をならした。
2時間ほど経過しました。
【智】
「2時間ほど経過しました」
【伊代】
「それは誰に対して何をいってるの?」
【智】
「困難な質問を……」
【伊代】
「困難なんだ」
デートが終わって解散とはならない。
さっきの言葉の余熱が燻る、やりとりの少ない時間。
なのに、離れがたい。
呪い。
歪な言葉が後ろから追ってくる。
そんな気がする。
【るい】
「さよなら、瑠璃っち……」
【茜子】
「なんですか」
【るい】
「不眠の夜を慰める、かわいい抱き枕だったのに」
かわいい……だったかなぁ、あれ。
【智】
「さて。そろそろ落ち着いたところで」
【茜子】
「なんですか」
【智】
「採決を取ろうかな、○×クイズで」
【こより】
「センパイ民主主義なんですね〜」
【智】
「同盟だけに、個々の利害を尊重したいですから」
【花鶏】
「……」
【智】
「花鶏さん?」
【花鶏】
「これまでの華麗な人生であの手のやからに3回ほどあったことがあるけれど、どいつもこいつも最初と最後に言うことは同じなのよ。知っていて?」
【智】
「そういうのと会う機会のある華麗な人生とはこれいかに」
【るい】
「カレーっぽい人生だ」
【花鶏】
「どいつもこいつも、貴方は呪われているからはじまって、貴方の努力次第です……で終わるわけ」
【智】
「いかにもだね」
【茜子】
「騙される阿呆の頭が悪い世の中です」
いい感じで笑う。
【伊代】
「そういえば、人の夢って書いて儚いって字になるのよね」
【智】
「……天然?」
【伊代】
「な、なによ」
【智】
「それよりもなによりも……それで、解答の方は?」
【伊代】
「……6人で民主主義だと、半分のとき、どうするの?」
【智】
「厳しい時に厳しいところつくなあ」
【伊代】
「最初のルールを定義しておかないと、後々揉めることになって、余計に面倒になると思うの。そう思わない?」
【智】
「場を読むことをしてください。あー、でも、そういうときは…………どうしようか…………」
【茜子】
「考え足りないさんですね」
【花鶏】
「……白紙」
花鶏は解答を拒否る。
【花鶏】
「鳩が豆鉄砲くらったような顔してるけれど、なにか言いたいことがあるの?」
【智】
「ちょっと予想外だったかな。
花鶏ならコンマ5秒で袖にすると思ってたから」
痣を、聖痕と花鶏は呼んだ。
呪いだと、いずるは笑った。
【智】
「素敵に折り合いそうにないし」
【るい】
「まず、トモはどうっしょ?」
【伊代】
「言い出しっぺだし」
【茜子】
「風見鶏の退路は断つべきだと思います」
【こより】
「そりはあまりにひどい……」
視線が集まる。
唇に人差し指を当てて、思案のポーズ。
突拍子もない話を信じるか?
先ず大前提。
呪いがあるのかないのか。
僕らは顔を見合わせたりもしなかった。
【智】
「…………」
見回す。
思い思いの表情の薄氷の下、
どろりとしたものが、横たわっていた。
――――――――――恐怖。
そうなんだ、そういうことなんだ。
やっとわかった。
同盟だけじゃない同類。
類は友なり、だ。
僕らはみんな、呪われている。
【智】
「はじめて……」
出会った。
【智】
「……なんとなく、今夜だけは、運命とやらを信じてもいい
気がする」
【智】
「あくまでも今夜限定で」
【花鶏】
「寂しい人生だわね」
【智】
「リアリストですから」
運命が本当にあるのなら、きっと神様は大忙しだ。
だけど、神さまは、
得てして僕らが生きてる間は何もしてくれない。
では、これは――――運命?
【智】
「……冗談じゃないです」
呟く。
気安く運命なんて言葉は使いたくない。
同じ痣と同じ……呪い。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【こより】
「…………」
【伊代】
「…………」
【茜子】
「…………」
僕らは語らない。言葉にはしない。
でも、伝わる。
類は友。
【智】
「これは、呪いの印だそうな」
【茜子】
「呪いの輪」
【伊代】
「いやな輪ね……」
僕らは、なんとなく。
輪になった。
【智】
「この世界には、不思議がいっぱいかも」
【花鶏】
「……不思議、ね」
【智】
「出会いって、運命じゃなくても、奇跡だと思わない?」
【こより】
「恥ずかしい台詞〜〜〜〜〜〜ぅ!」
嬉しそうに身もだえ。
【智】
「……ねえ、自由になりたい?」
【るい】
「自由に……?」
【茜子】
「なにからですか」
【智】
「そうだなあ。なんでもかんでも……束縛から、壁から、亀裂から、閉じこめるものから、呪いから」
【智】
「――――僕は、なりたいな」
〔群れの掟〕
【智】
「うにゅ……もう、朝っすか。まだもうちょい……」
【智】
「あう、こんな時間かあ……」
【智】
「ん? メール来てる。誰から……」
【智】
「………………央輝」
【花鶏】
「いつまでここにいるつもり?」
【智】
「指定の時間まではまだ余裕があるでしょ。
いそいでいっても待ち惚け食らうだけじゃないの」
街はざわついている。
人が多いのは夕方だからだ。
雑踏を横目に、ガードレールに腰を預ける。
待ち合わせたときから、花鶏はずっとこんな調子だ。
カリカリ焼き。
こんがり風味に焦っている。
焦っている花鶏の隣で、僕も真剣に苦悩していた。
重要な問題だった。
【花鶏】
「それで、どうなの?」
【智】
「それなんだけど。ミントとチョコレート、花鶏はどっちがお好み?」
デコピンされた。
【智】
「前頭葉がいたい」
【花鶏】
「誰がアイスクリームの話をしてるっての! だいたい、
いつの間に買ってきたわけ」
【智】
「おひとつプレゼント」
【花鶏】
「緊張が足りてない」
【智】
「何もしないで怠惰に過ごす1分1秒が、貴重な僕らの青春です」
【花鶏】
「青春というのはね、浪費と読むのよ」
【智】
「浪費するより株で一山って感じだと思うよ、花鶏の場合」
【花鶏】
「青春資産の運用を相談してるんじゃないの」
央輝からメールが届いた。
今朝のことだ。
『捜し物の件で逢いたい』
実用本位のシンプルさがらしい。
【智】
「最近学んだんだけど、お肌と人生には潤いが必要なんだって。
下着もきつすぎると美容に悪いしさ。ちょっと変人のクラス
メートが言ってたよ」
【花鶏】
「貴方が真面目なのか不真面目なのか、時々判断に困るわ」
花鶏にじっと見られる。
瞬きもしない、後頭部まで抜けそうな凝視。
【花鶏】
「最初の印象だと、もっと真面目でお固くて、後ろ向きな子だと
思った」
【智】
「後ろ向きは正解……でもないか。○でも×でもないから、
さんかく。部分正解で3点」
【花鶏】
「たちの悪いやつ」
【智】
「じゃあ、僕がチョコレートで」
ミントを差し出す。
【花鶏】
「……甘いわね」
花鶏は、食べるには食べた。
【花鶏】
「……わたしだと目立つって、貴方、言ってなかったかしら?」
【智】
「あっちの指定なんだよね。当事者連れてくるように。ここいらは央輝のテリトリーらしいし、今回は大丈夫っぽい」
【花鶏】
「望むところよ」
【智】
「……不用意な戦いは避けてね」
【花鶏】
「自衛のための戦争は避けて通れないわ」
【智】
「憎悪の連鎖で、歴史の道路は真っ赤に舗装されてるなあ」
【花鶏】
「右の頬を叩かれて左の頬を出すような狂った平和主義なら、
願い下げよ」
【智】
「まあ、わざわざ呼んだって事は進展があったってことだから……」
【花鶏】
「本当に来るの?」
【智】
「たぶん」
【花鶏】
「たぶん!」
【智】
「僕に怒っても解決しないのです……」
【花鶏】
「そうね、そうなのね、そんなことはわかっているのよ。でも、
人間は理性だけの生き物じゃないわ、それが問題でしょ、だから世界は救われないのが決まっているの!」
花鶏はせっぱ詰まっていた。
ずっと花鶏が捜している、
大切な、持ち去られたもの。
その手がかりが目の前にある。
【智】
「気負うのはわかるけど、焦っても意味がないから、どっしり
構えよう」
【花鶏】
「……罠ってことは?」
【智】
「準備はしてるし」
【るい】
『こちらスネーク』
【智】
「今のところ異常なし。そっちでも何かあったら教えて」
【るい】
『特になし』
【智】
「じゃあ、よろしく」
確認の電話を切る。
最終兵器乙女が近くに待機している。
【花鶏】
「不用意な戦いは避けるんじゃないの?」
【智】
「自衛力の確保だから」
無抵抗主義と性善説は信用しないことに決めてる。
【花鶏】
「そいつが来たとして……」
【花鶏】
「ただより高いものはないわよ」
責める目で睨まれた。
今度バカなことをしでかしてわたしのプライドに傷をつけたら、
ベッドに縛り付けて朝までイケナイことをしてやるから覚悟なさい――と目で言っていた。
人生の危機だ。
人生以外にも色々と危機だけど……。
【智】
「……あの場合、あれが最善の……」
聞こえないように小声で弁明。
聞こえないと意味ないか。
【花鶏】
「なにか?」
【智】
「なんでもないです」
アイスを食べる。
【花鶏】
「――――――」
【智】
「なに? じっと人の顔見て」
【花鶏】
「やっぱりチョコがいいわ」
【智】
「もう半分食べちゃった」
【花鶏】
「大丈夫」
むちう
キスされた。
いきなりの強奪だ。
公衆の面前で。
道行く人たちがひたすら見ないふり。
ジタバタ。
ダメです。
舌を入れられた。
全部確かめられて、絡められて、甘噛みされて、
くすぐられて、吸われて、おまけに飲まされたりなんかして!
ぽん(という感じ)
【花鶏】
「ふう」
【智】
「……あ、あ、あ、あ、あ、あ」
【花鶏】
「やっぱり甘いわね、チョコ」
【智】
「あーい」
涙。
【花鶏】
「そいつ、本当に来るかしら」
【智】
「こっちに来ないで近寄らないでエロ魔神禁止」
【花鶏】
「青春の弾けるような女の子同士の間にある、友情からほんの半歩踏みだした加減がフェティシズムを煽りかねない、ちょっとしたスキンシップじゃないの」
【智】
「ディープだったよ?!」
【花鶏】
「友情は深刻ね」
【智】
「舌までつかったよ!」
【花鶏】
「コミュニケーションよ」
【智】
「半径2メートル以内に近付いたら、花鶏が足下に人生の全て
を投げ出して諦めるまで、くすぐり倒すから」
【花鶏】
「…………いいかも」
逆効果でした。
【央輝】
「えらく時間には正確じゃないか」
央輝だった。
以前と同じ、ゾッとする空気をまとわりつかせている。
【央輝】
「正確なのは、まあ美点だな」
ニヤリ。
くわえていたタバコを捨てる。
【智】
「お出ましはいっつも唐突だね」
【央輝】
「お前らと違って、考え無しに夜歩きするような、呆けた生活は
してないんでな」
3度目の邂逅(かいこう)。
以前と同じ黒い姿だ。
【花鶏】
「それで、メールの主旨は?」
花鶏が、沸点ギリギリの声を出す。
【央輝】
「……こいつが持ち主か?」
【智】
「さようで」
【央輝】
「捜し物は見つかった。こいつで間違いないか?」
ぞろりとしたコートの下から一冊の本を取り出す。
【花鶏】
「それっ!」
(1秒)
【智】
「早っ」
花鶏が反応した。
では間違いなく本物らしい。
あれを花鶏がずっと捜していたのか。
ちょい疑問。
そんなに価値のある本なの?
【花鶏】
「返しなさい!」
【智】
「しかも即断」
駆け寄った花鶏がはっしとつかむ。
素早い。
央輝と花鶏が、本の両端で綱引き。
【央輝】
「がっつくな。みっともないぜ」
左手一本で、器用に新しいタバコをくわえ、火を点ける。
きゅっと唇がつり上がった。
それは噂のままの顔だ。
吸血鬼。
【央輝】
「取り引きだ」
【智】
「取り引き……っすか」
反復してみる。口の中で咀嚼(そしゃく)する。
【花鶏】
「……謝礼が必要というなら、用意するわ」
ギリギリと、本が軋む。
大切な本なら大切に扱おうよ、花鶏さん。
【央輝】
「1億」
【花鶏】
「智、今すぐスコップ買ってきなさい!
こいつを始末して埋めるから!!」
【智】
「おーい」
どっちもどこまで本気なのか読みにくい。
【央輝】
「ふん、金はいらん。代わりのものを引き渡せ。そしたら、
こいつはすぐにくれてやる」
花鶏の鼻先を爪先がかすめた。
ほとんどノーモーションから放たれた。
央輝の蹴りだ。
花鶏は本から手を離していた。
前髪がわずかだけ乱れる。
それだけだ。
【央輝】
「ひゅー」
口笛は掛け値無しの称賛の音色だ。
央輝は当てる気だった。
当たったらただでは済まなかった。
相手の事なんて気遣いもしない、Vナイフと同じ剣呑な一撃を、
花鶏は瞬きひとつせずに避けた。
【花鶏】
「――あたしは、右の頬を打たれたら、腕ごと叩き折ってやる
主義なの」
【智】
「打たれてないよ」
場を和ませる努力。
【花鶏】
「おわかり?」
【央輝】
「気が合うな、あたしもだ」
無視気味です。
両方とも血液がニトログリセリンだ。
【智】
「かーっとっ!!!」
映画監督風に、
二人の間に割ってはいる。
【花鶏】
「邪魔を、しないで」
【智】
「いやあ、せっかく取り引きいってるんだから」
【智】
「それで、さっきの話の続きは?」
花鶏の前を右に左に塞ぎつつ、訊ねる。
【央輝】
「茅場とかいう男の娘、お前の手元にいるんだろう」
【智】
「茅場…………茜子?」
【央輝】
「そいつと交換だ」
【智】
「………………」
【花鶏】
「智」
【智】
「それは、つまり、央輝は……茜子を追いかけてた連中の仲間ってわけじゃないけど、恩を売りたいか、義理があるかどっちかなんだ」
【央輝】
「……一々小知恵の回るやつだ」
央輝の気配が緩む。
剣呑なままでは取り付く島もないので、
まずは一手がうまく進んだ。
【花鶏】
「どういう意味なの?」
普段の花鶏なら気がつきそうなモノなのに、
本が目の前でやっぱり気が回らないらしい。
【智】
「茜子を捜してる連中は僕らの素性を知らない。
知ってるなら強硬手段だって取りかねない連中だし」
【智】
「央輝が連中の仲間なら、僕らと茜子が一緒にいたことはとっくに伝わってて、事態はもっと悪くなってる」
茜子はカードだ。
有用な質札、恩と義理を買い取る通貨だ。
【花鶏】
「はんっ」
【智】
「茜子が必要な理由、聞いていい?」
【央輝】
「そいつの親父が、くだらねえ男の面子を潰した。大層ロクでもないヤツでな、性根が腐ってる上に執念深くてサディストときた」
低く笑う。
【智】
「ほんとにろくでもないなぁ」
世の中、知らない方がいいことはたくさんある。
【央輝】
「その馬鹿は、今まで一度も相手を逃がしたことがないのが取り柄で、それで面目を保って商売をしてる。逃げられたらあがったりだ。わかるか?」
【央輝】
「そいつの親父はうまくやった。今のところ逃げのびてる。
尻尾を掴まれてもいない。そうなると――」
面子の分だけ娘にカタをつけてもらう、と。
【智】
「……それ、困るよ」
【央輝】
「あたしの知ったことか。どうだ、取引としては上等だろう。元々無関係の女……そいつ一人を引き渡せば、大事なお宝は手元に戻ってくる。契約と代価――――ふん、ありきたりな結末だ」
【花鶏】
「………………」
【智】
「だめ」
即断で。
【央輝】
「情けは人のためならず、とかいう諺があるんだろ、この国にはな」
【智】
「だから、人の為じゃなくて、自分の為だよ」
【智】
「今は、ちょっと、その子と運命共同体っていうの、やってるから……だからダメ」
【央輝】
「運……なんだ? よくわからん」
複雑な日本語はダメらしい。
【央輝】
「お前には貸しがあるぞ」
痛いところを突かれた。
獲物を狙う肉食獣の顔だった。
【智】
「それを言われるとなんなんだけど」
央輝には余裕がある。
ということは、央輝の重要度として、茜子はどっちでもいい程度の位置づけらしい。
【智】
「わかりやすいところでいうと、んー……義兄弟の杯?」
【花鶏】
「……姉妹、でしょ」
些細な問題はさておいて。
【央輝】
「はん。身内にしたか」
央輝の世界観的に、こちらの方が伝わりやすかった。
【央輝】
「そうなると、どうするかな」
こっちの足元を見たニヤニヤ笑い。
話がどんどん斜めの方向へ飛んでいく。
打つ手を間違えると取り返しがつかない。
というよりも。
手札がなかった。
央輝は、僕たちが茜子と一緒にいると確信した。
その話を、さっきの話の最低男のところへ
持っていかれるだけで、進退窮まる。
【智】
「……あ、でも時間の問題か……」
【花鶏】
「?」
一緒にいるところや制服は見られてるんだし、
しらみつぶしにされたら、遠からず足はついちゃいそう。
【智】
「あー、うー」
【花鶏】
「真面目にしなさいよ」
【智】
「……うん」
ぐるぐるぐるぐる。
頭を回す。頭が回る。
解決策が思いつかない。
【央輝】
「お前、茅場の娘とは、以前から知り合いってわけじゃなかったんだよな」
【智】
「ま、ね……」
後悔。
同盟で処理するには危険すぎる爆弾だったか。
今更取り返しはつかない。
茜子を大人しく引き渡したりすると、夜ごと悪夢にうなされそうだし、枕元に化けて出られて夜通し悪口を聞かされたりなんかすると、衝動的に練炭でも買いたくなりそう。
【央輝】
「お前、馬鹿か?」
【花鶏】
「この子は馬鹿よ」
【智】
「…………そこはフォローしてよ、運命共同体」
【花鶏】
「あなたとわたしは、同じ路線のバスに乗り合わせただけよ」
ここぞと言うときには冷たい花鶏だった。
【智】
「お互い、どこで飛び降りるかが問題だね」
【花鶏】
「最後まで残ってるヤツは馬鹿を見る」
【智】
「花鶏の好きな映画はさぞかしブラックなんだろうな」
くくっ、と央輝が低く笑う。
【央輝】
「いいぞ、別の条件にしてやる」
【智】
「ほんと!?」
【央輝】
「レースに出ろ」
【智】
「………………」
何それ。
モノ質と引き替えにレースに出て勝利せよ!
それ、どこのハリウッド映画?
【智】
「僕、免許とか持ってないけど……」
【央輝】
「図太い返事だ」
【智】
「お褒めに預かり光栄です」
【花鶏】
「棒読みよ」
【央輝】
「パルクールレース……車は使わない。そいつに出て勝負しろ。あたしたちが主催してるヤツだ。勝てば、このボロ本は返してやる」
【央輝】
「それに、茅場の娘の件、話をつけてやってもいい」
【智】
「えうっ?」
渡りに船な申し出だった。
それだけに素直に受け取れない。
教訓――人は信じるべからず、
ただより高いモノはない。
【智】
「それって、その、どういう……」
【央輝】
「条件は、お前も出ること。それと、お前らが負けたときは――」
【智】
「負けた、ときは…………?」
ごくり。
【央輝】
「お前は、あたしのモノだ」
【智】
「…………………………………………はい?」
耳が遠くなった。
いやだなあ、まだ若いつもりなのに。
年齢って気がつくときてるから。
【央輝】
「お前は、あたしの、奴隷だ」
【智】
「奴隷」
【央輝】
「奴隷」
復唱する。
幻聴じゃない、聞き間違いじゃない、
冗談って言う顔じゃあ断じてない。
【智】
「ひぃいいぃぃぃいぃ――――――――――――――」
【花鶏】
「ちょ、ちょっと!」
【央輝】
「お前が負けたら、煮るなり焼くなり犯るなり、あたしの気の向くままにさせてもらう」
「焼く」の次の「やる」の漢字を教えて欲しい!
僕の思い違いだと証明して欲しい!!
【智】
「そ、そそそそそそそそそそ」
そんなことされたら。
人生の危機。
死ぬ。絶対に、今度こそ死んじゃう!
【央輝】
「あたしは優しくないぜ」
【智】
「ぎゃあーーーーーーーーーーーっ」
【花鶏】
「腹は立つけど……気持ちはわかるわ!」
【智】
「わかんなくていいよ!!」
血の叫び。
これだから!
色々と趣味がお花畑の人は!
【央輝】
「で、どうする?」
決断の時、来たる。
〔こより、逃げ出した後〕
【伊代】
「それで?」
【智】
「それで、とは」
【伊代】
「聞いてるのは、わたしで、答えるのはあなたです」
伊代がメガネのフレームを指先で押し上げた。冷淡に。
ごまかしで誤魔化せそうにない白い目だった。
【智】
「……契約を、しました」
尋問は熾烈を極めた。
昨夜のことを、
洗いざらいゲロさせられる僕だった。
【伊代】
「それは聞いた」
【智】
「勝負をして、勝てば全部チャラになる。負けたら……
ちょっと借金生活みたいな」
【こより】
「なして、センパイが愛奴生活に突入なのですか?」
【伊代】
「愛奴……」
【智】
「こやつ、悪い言葉を……」
こよりは接触悪そうに首を傾げている。
問われて、考える。
なして。
【智】
「…………なしてでしょう?」
難問だった。
【茜子】
「アホですね」
【花鶏】
「馬鹿なのよ」
【智】
「二人がかりで、あまりにあまりな言いぐさ」
【花鶏】
「もう少し頭のいいやつだと思ってたのに、とんだ見込み違いもあったもんだわ!」
【智】
「見込んでてくれた?」
【花鶏】
「……些末な部分はどうでもよい」
【智】
「前途は多難かも知れないけど、勝てば最寄り問題の大半が一気にチャラになるんですよ、花鶏さん」
【智】
「これって一発逆転鉄板レースで、
女房を質にいれてでも賭けるしかないんじゃありませんこと?」
【こより】
「ざわ……ざわ……」
【るい】
「おお、格好よいぞトモっち」
【伊代】
「こらこら、借金で身を持ち崩すオッサンの台詞だ、あれは」
伊代が肘で小突く。
るいは「にゃう?」と悩む。
【茜子】
「質というより自分が死地です」
【こより】
「うまいなあ」
【智】
「(男には)いかねばならぬ時もあるのです」
立場が複雑だ。
【茜子】
「一撃必殺もよろしいですが、茜子さんの問題に、
勝手にずかずか入り込まないでください」
刺々しく冷たい断罪。
針のむしろの気配。
【智】
「そんなこと言ったって、入り込んで解決するための同盟なんだよ!」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「同盟は、結構として」
花鶏が鼻の触れそうなところに来た。仁王立ち。
背が高いので見下ろされる。
くく……っ。
【智】
「……叩きますか?」
噛みつかれそうだ。
【花鶏】
「馬鹿がうつるから叩かない」
【るい】
「うつるんだ!」
【伊代】
「鵜呑みにするなと……」
【花鶏】
「わたしたちは同盟で結ばれている、わたしたちはお互いに手だてを貸し合う、わたしたちは互いを利用し合う、わたしたちは互いを裏切らない――――それが、あなたの言い分よね?」
【智】
「そです」
【花鶏】
「だからといって、どうして、負けたときの代価に、
あなたを差し出すなんて意味不明な条件を飲むわけ!?」
【智】
「話の流れというか、選択の余地がなかったというか……その場で聞いてたんだから知ってるでしょ。リスクとメリットのコントロールを秤にかけたら、いい感じで」
【花鶏】
「わからないこといわないで」
【智】
「……なんでそんなに怒るのかしら」
【花鶏】
「怒ってないわ」
【智】
「えー」
【花鶏】
「怒ってません」
【智】
「ごめんなさい」
無様に平身低頭した。
【るい】
「愛奴?」
【智】
「もう少し言葉を選んで」
【るい】
「メイド?」
【智】
「メイドを甘く見るなぁっ!」
【るい】
「なにその思い入れ」
男は誰しもメイドに心惹かれるのです。
【智】
「……と、とりあえず、負けたら、そういう契約」
【こより】
「センパイ、ドナドナです〜」
こよりが目頭を押さえた。
もらい泣きする。
【智】
「涙無しでは語れないね……」
【茜子】
「だから、あなたはアホなのです」
【智】
「そんなに強調しなくったって」
【花鶏】
「馬鹿にしてっ!」
花鶏が爆発した。
怯えた。
嵐はいなしつつ過ぎ去るまで頭を下げて待つ。
呪われた世界に平穏な毎日を生きるための、
この僕の処世術だ。
【智】
「……馬鹿にはしてない」
上目遣いに、弁明を試みる。
【花鶏】
「してる。今もしてる。そうやって、人畜無害そうな顔して、
心の底で、わたしのことを馬鹿にしてっ!」
【智】
「話を聞いてよ」
【花鶏】
「なら、どうして、あんな約束するの?!」
【智】
「それは、成り行き――」
【花鶏】
「わたし一人じゃどうにもならないと思ってるんでしょ! 正しい答がわかってるのは自分だけだと思ってるんでしょ!」
【花鶏】
「自分がやらなくちゃ、
どうせ上手くいきっこないと思ってるんでしょ!?」
【花鶏】
「赤の他人の身代わりになって自己犠牲するのが性分なわけ!? 馬鹿にして、馬鹿にして、馬鹿にして!
同情なんてまっぴらごめんだわ!」
叩きつけられる言葉。
花鶏の後ろで、伊代と茜子が沈黙している。
無言の賛同。
――――自分なら正しい答が出せる。
それはごう慢だ。
同盟。
僕らは手を結ぶ。
それは一つに繋がることを意味しない。
バラバラのまま。
束ねて、利用し合う。
世の中には、正しい答なんて、ありはしないのだ。
正解ではなく最善があるばかり。
解けない方程式、円周率と同じで割り切れない。
【伊代】
「でも、あの黒いヤツ、そういう趣味だったんだ」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【こより】
「…………」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「ふむ」
【伊代】
「な、なによぉ、皆だって考えたでしょ!」
伊代は空気が読めない。
【智】
「せっかく真面目だったのに」
全員で、もにょった。
【花鶏】
「もういいわ」
【こより】
「あう、こわい……」
【花鶏】
「今更賭けを取り消すっていったって、アイツにも通用しない
でしょうし」
【智】
「だねー」
【茜子】
「……」
【智】
「ごめんなさい」
【花鶏】
「それで、どうするつもりなの?」
【智】
「当事者としては、選べる選択肢は一つだけ」
正解を探す。
方程式を解くように。
【智】
「勝てばいいんだよ」
腹が減っては戦ができない。
料理は、キッチンを借りて、
主に僕が作ったりした。
材料は、花鶏の家に来る途中で買っておいた、
質より量を重視した色々を元にしたカレーです。
【るい】
「ぐおー」
【こより】
「がつがつ」
【茜子】
「がっつかないでください、この餓鬼めらが」
【花鶏】
「ちょっと、飛ばさないでよ!」
【るい】
「ぬの?」
【伊代】
「落ち着かない風景ね……」
獣のごとく飽食した。
【こより】
「それで、なんでしたっけ」
【智】
「パルクールレース」
【伊代】
「それって車とかバイクとか……
ちょっと、わたし免許とかもってないわよ」
【智】
「それは僕がもうやった」
パルクールレース。
レースといっても免許不要。
基本は自分の二本の足を使う。
参加者はゴールを目指して、ひたすら街を駆け抜ける。
チェックポイントに先に到着したり、トリックを決めたり
すると賞金が出る。
今回は4人1チームで競う。
【茜子】
「駅伝的なヤツですか」
【智】
「思いっきり俗に言うと、そうかな」
ただし、いくらか物騒な。
チェックポイントを通れば途中の経路は問わない。
ランナー同士なら、相手への妨害行為も認められている。
【花鶏】
「きな臭い話になってきたわね」
【智】
「ネット配信したりして、賭けとかやってるそうな」
【伊代】
「変に今風ね……」
【智】
「どこでもインフラは変化しますので」
【こより】
「そんで、誰がでるですか」
【智】
「勝てそうな面子をよっていこう。まずは……」
【智】
「やっぱり、るいちゃんか」
【るい】
「先のことなんてわかんない」
【智】
「こんな時にも約束しない人!?」
【伊代】
「いきなり挫折してるじゃない」
るいは複雑な表情だった。
複雑すぎてどういう顔なのか読み取れないくらい。
【茜子】
「時間の無駄です。二番手を決めましょう」
【伊代】
「ちょっと、一番手決まってないのに……」
【茜子】
「平気です」
【智】
「わかりました。先へ進めます」
【花鶏】
「信用するっていいたいの? バカもいよいよ極まれりね。
まあ、いいわ」
【智】
「次は……」
【花鶏】
「わたしが出るわ」
【こより】
「花鶏センパイ」
【花鶏】
「自分のことなら自分の力で勝ち取る。わたしには同情も助けも
いらない」
花鶏は硬質だ。
強く儚く高く咲く。
触れれば崩れそうなほど繊細で。
どこまでも花鶏は花鶏だった。
【伊代】
「ねえ、あなた」
【花鶏】
「ええ、わかってるわ。無茶はするなって言いたいんでしょう」
【伊代】
「じゃなくて、これ、チーム戦だからあなた一人だと勝てないんじゃないかしら」
水差しまくり発言だ。
【花鶏】
「……」
【智】
「すごいなあ」
伊代は素だ。
狙ってないだけに一種の才能だ。
水を差す天才。
【伊代】
「ほんとのこと言っただけじゃない……」
だんだんキャラが見えてくる。
人間なんて閉じた筺と同じで、
蓋を開けないと中味はわからない。
【智】
「深い」
【茜子】
「何を一人で納得しているのですか」
【智】
「乙女強度から考えて、三人目は僕が。
自分の身の安全は自分で守ることにする」
【伊代】
「いや、だから、なにそれ」
【智】
「なにとは」
【伊代】
「なんとか強度」
【智】
「だいたい普通だと百万乙女前後で」
【伊代】
「はあ」
【智】
「るいは、でも一千万乙女な感じで」
伊代は最後まで納得いかない顔をしていた。
【智】
「最後の一人は――」
【茜子】
「茜子さんが出ます」
【智】
「えう」
むせかける。
【伊代】
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと!」
【茜子】
「なんですか」
【伊代】
「聞いてなかったの!? 体力勝負なのよ!
ギャンブルの馬役で、妨害アリなんていう際物なの!」
【茜子】
「わかってます」
【伊代】
「わかってない、わかってないわよ!
あなた……ねえ、そっちもなんとか言ってあげてよ」
【伊代】
「この子みたいな体力お化けならともかく、あなたみたいな
細っこいのが出て行ったって怪我するだけだって! いいえ、
怪我じゃすまないかも……っ」
【るい】
「なんかすごい言われよう」
【茜子】
「私、わかってます」
【伊代】
「わかってない!」
【茜子】
「わかってないのは、あなたです」
【伊代】
「……ッッ」
衝突する。
人形じみていても茜子は人間だから。
行きずりの絆で繋がっただけの他人同士。
意見が違えばぶつかり合う。
【茜子】
「これは、私の問題です。他の誰の問題でもない、私のことです。私が追われて、私に降りかかったことです。私が自分で出るのは責任です」
鋼のような決意。
【智】
「…………」
茜子の顔を見ながら思案する。
【智】
「ところで、こよりちゃん」
【こより】
「はいです、センパイっ!」
【智】
「最後のメンバー、キミでいい?」
【こより】
「……………………はい?」
固まった。
【智】
「最後は、こよりん」
【こより】
「ッッッ!?」
ムンクの叫びのポーズ。
【こより】
「はい〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
【こより】
「そそそそそそそ、それはどういうことでありありありあり、
ありーでう゛ぇるまっくす!!」
【智】
「全面的に違ってる」
【こより】
「そ……そんなの……困るです……すごく困りますぅ!」
【茜子】
「待ってください! これは、私のことです!」
茜子が、珍しく激しく噛みついてくる。
【茜子】
「私のことなのに、どうして、そのミニウサギを」
【智】
「これは同盟だから」
【茜子】
「わかりません」
【智】
「僕らは力を貸しあう。僕らは利用し合う。誰かの問題は全員の
問題。それでなくちゃ同盟の意味もないでしょ。そうすること
だけが、ちっぽけな僕らの解決の手段」
【智】
「一番しなくちゃいけないことはなんだと思う?」
【茜子】
「一番………………」
【智】
「勝たなくちゃ、色んなモノに。躓いてらんない。意地とか、
責任とか、誰の事だとか。そんなことには躓いてらんない。
どうしてって? 負けちゃったら終わりだから」
【智】
「負けたら、後はない。二度目がやってくるかどうかもわからない。世界は一度きりなんだ。セーブもロードも通用しない」
【智】
「突き抜けて自己満足で納得するのもいいけど、
それで納得するよりは、勝って幸せになろうよ」
【茜子】
「幸せ、なんて」
【茜子】
「なれると思うんですか」
肩をすくめた。
【智】
「なれる、」
【智】
「と思う。難易度はかなり高いけど、力を合わせれば、みんなで
戦えば、いつかはきっと」
【茜子】
「……呪われてる」
自嘲じみていた。
人生まで、全部ひっくるめて投げ捨てるような、
希少価値の表情だった。
【茜子】
「呪われているのに、追いかけられるのに、
幸せになんてたどり着けません」
いやな空気になった。
欺(ぎ)瞞(まん)の下にあるのは畏れと不安。
呪い。呪い。呪い。
いつでもどこでも背中にぴったり張り付いた言葉。
それは、どこにでもある。
生きることには畏れと不安がつきものだから。
【智】
「そのために……僕らはそのために同盟を結んだんだ。
一人だと無理だから、一人だと足りないから、一人にできる
ことには限りがあるから」
【智】
「だから手を結ぶ、利用し合う」
【伊代】
「…………それで、今回の勝負、勝てると思うの?」
【智】
「人事を尽くして天命を待ちます」
【花鶏】
「天命だなんてらしくないこと」
【智】
「根性で解決するとは思わないけどね」
【花鶏】
「それは冷静な判断ね」
【智】
「なんといってもドナドナの運命がかかってるから。
勝たないことには」
愛奴隷一直線。
【茜子】
「でも、だからって、私……」
問い@
幸せになれると思いますか?
解答
なれると思います。
【智】
「なんとかなるって」
希望は欺(ぎ)瞞(まん)的だ。
信じていなくても言葉にできる。
そして。
言葉は欺くためにあるのだから。
【智】
「それでどうですか、こよりん?」
【こより】
「鳴滝が……やるですか……?」
【智】
「ごめん、他にいなくって」
悪いとは思うけど、選択の余地がない。
モノは試しで残りの面子を検討してみる。
伊代、こより、茜子。
【智】
「……やっぱりキミだけが勝利の鍵です」
【るい】
「残りの二人は?」
【智】
「小利の餓鬼とでもいいますか」
【るい】
「わからぬ」
日本語には秘密がいっぱい。
【智】
「ごめん、この通り。無事に終わったら、代わりに何でも
お礼するから」
【こより】
「でもでも、こよりが出るということは、戦うということですよね?」
【智】
「まあね」
【こより】
「走るだけじゃなくて、妨害っていうと、かなりシャレにならない事態が予想されたりするんですよね?」
【智】
「そうね」
【こより】
「相手は、その、あっち系の本物で、これっぽっちも冗談通じないような気がするんですけど」
【智】
「こよりちゃん、鋭いね」
【こより】
「……」
【智】
「……」
【こより】
「いやあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
泣かれた。
【こより】
「酷いッス、酷すぎます! いくらセンパイでも、
この仕打ちはあまりにあまりで……」
我ながら同意見だ。
【智】
「どうしても、だめ?」
【こより】
「平和主義者の小娘にナニヲキタイスルノデスカ」
【智】
「伊代は、意外と部のキャプテンやってたりとか」
【伊代】
「わ、わたし?!」
【伊代】
「1年だけ、お茶漬けフリカケのおまけカードで占いをする部
の部長をしたことあるけど……」
【智】
「……ごちそうさまでした」
なんだよ、その部は!
そんな得体の知れない部、存在自体おかしいだろ。
【花鶏】
「で、どうするわけ?」
【智】
「それなら、」
どうしよう……。
【智】
「頭数だけそろえても、勝ち手がないと……」
【茜子】
「ドナドナ」
【るい】
「ドナドナかあ」
切なくなる。
【こより】
「……わかりました。センパイを市場に連れて行かれるわけにはいきません。わたしが……出ればいいんですよね?」
【智】
「結構無茶な話だったかなぁ」
【伊代】
「今になって考えなくてもそうでしょ」
【智】
「ほんとにいいの、こよちん?」
【こより】
「うす。しかた……ないです。他に道はないのです」
【るい】
「そのとーり。女は度胸っ」
ぱんぱんと、こよりの背中を景気よく叩いた。
【花鶏】
「歪んだ価値観だわね」
【るい】
「ほほう」
【花鶏】
「なによ」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
今日も今日とて揉める。
それでも――――
とりあえず面子はそろった。
翌日。
授業はサボりました。
優等生失格の烙印がついちゃいそうだ。
朝から街をうろついた。
るいを誘って。
腕をくんで、てくてく歩く。
【るい】
「これってデートっすか」
【智】
「んなことしてたらサボった意味がないわいな」
【るい】
「デートじゃないのけ?」
【智】
「なんて小春日和なヘッド」
【るい】
「そろそろ春っつーより初夏って感じの季節、女の子同士のデートもいいよねぇ〜」
デートしつこい。
【智】
「これは下見です」
シティマップを片手に。
パルクールレースでは、ランナーは市街の指定された
チェックポイントを指定の順番で通過すればよい。
コース選択は自由。
たとえば空を飛ぶのも自由。
できるもんなら。
央輝に確認したところ、
こよりのローラーブレードは使って構わないということだ。
チームはランナーが4人。
チェックポイントは20カ所。
分散したポイントに、どれだけ速くたどり着けるのか、
タイムロスを減らせるのか。
ライン取りが重要になる。
【智】
「実際走っててポイントわからなくなったりしたら、そういうのもまずいよね」
【るい】
「まずいか」
【智】
「なんせ、僕がドナドナだけに」
【るい】
「たしかにマズイ」
魂的に危機一髪だ。
【るい】
「なんでもトモは細かいね」
【智】
「白鳥は優雅に浮かんでるだけに見えて、水の下で必死に
バタ足してるもんなの。不断の努力とその成果。これぞ
勝ってナンボの和久津流」
【智】
「人事を尽くして天命を待つ……ってことは、人事尽くさないと
応えてくれないのが天命っていう性悪狐の正体なので、日夜努力の毎日なのです」
性悪度でいうと、いずるさんに一脈通じる。
【るい】
「そういうのって、どーっていって、ばーってやって、どがーんてかましたら」
【るい】
「普通はなんとかならんのけ?」
【智】
「なるか!」
【智】
「抽象的すぎて意味不明です!」
【るい】
「なんとなくフィーリングで、ぱーっと」
【智】
「……るいってさ、そういう、感覚で物事やっちゃう方?」
【るい】
「おうさ」
【智】
「これだからっ、特化した才能の上にあぐらをかいて世間を
軽くみてるヤツは!」
嫉妬に燃えた。
【るい】
「その分頭使うのは苦手だけど」
【智】
「いびれー(※歪型レーダーグラフの略、才能特化型な人種を表現するスラング)だね」
典型的な、できる子理論の人生。
ある分野において、くめど尽きせぬ才能過ぎて、
矮小な常人の苦労が理解できてない。
そういうひといるんだよねー。
自転車に乗れるようになった子供が、
どうして今まで出来なかったのかわからなくなるのに似ている。
【智】
「……人間同士って解り合えないんだなあって、すごくすごく思う」
【るい】
「トモはすぐ難しいこと言う」
【智】
「考えててもしかたがない」
【るい】
「ほほう、するってーと」
とにかく実地で検分に。
【智】
「いこう」
【るい】
「いこう」
そういうことになった。
行ってきた。
【智】
「あいやー! 疲れましたー!!」
【智】
「思ったより大変でした」
【るい】
「そんで、どんなもんかね、手応えは?」
感想はたくさんあるが、
あえて四文字で表すなら。
【智】
「前途多難」
【るい】
「勝利の鍵は?」
【智】
「…………あるのかな?」
ドナドナが近くなった気がする。
さて。
飛ぶように日付が過ぎて――
今宵は前夜。
いよいよ明日がレースの当日。
慌ただしいと月日が経つのが速い。
1クリックで1週間とか。
それぐらい速い。
【智】
「決戦の時はきたれり!!」
と、うたいあげるような、
燃えテンションが不足していた。
拳を突き上げる役がいない。
【智】
「体育会系成分が不足してる」
【花鶏】
「汗臭そう……」
【智】
「偏見だ」
【花鶏】
「そういうの、近付いただけで妊娠するわ」
差別と偏見はこうして広まる。
様式美と蔑まれようとも、
メンタル設計に鼓舞が占める位置は重要なのだ。
【伊代】
「結局あの子が一番手で出そうね」
【智】
「ひとは信じ合わないと」
他人事のように。
【智】
「こよりんはダメです」
【こより】
「あー、うー、やー」
こよりは、部屋の隅でガタガタと震えていた。
生ける屍のごとし。
【伊代】
「本番に弱いタイプみたいねえ」
【智】
「女の子らしい、戦いには向かぬ優しい心の持ち主だから」
【るい】
「私らも女の子」
最終兵器乙女、皆元るい。
【智】
「分を弁(わきま)えないと」
【るい】
「馬鹿にされてる気がする」
さて。
ここは、かつて花鶏ん家の一室だった、
今は、乙女同盟パルクールレース対策本部。
歴史の大河の果てに、
この部屋が獲得した名称である。
戒名だってある。
※刑事ドラマなんかで捜査本部出入り口に掲示する「○○捜査本部」というヤツ。
お手製の垂れ幕がかかっていた。
字は伊代が入れた。
花鶏は最後まで抵抗した。
素直じゃない。
【花鶏】
『お断りよ!』
【智】
『ここは形から入ると言うことで』
【花鶏】
『穢れる!』
【智】
『どうしても』
【花鶏】
『然り』
【智】
『わかりました。では、同盟憲章第2条に基づいて――』
多数決を取った。
同盟だけに、意見対立は多数決でもって民主的に解決する。
垂れ幕一つあってもなくても同じだが。
形から入りたい時もある。
花鶏を困らせると、わりと面白そうだし。
【智】
『賛成多数につき、』
【花鶏】
『卑怯者!』
【智】
『最近よく言われます』
【智】
『これでも普段は品行方正』
【伊代】
『騙りね』
【智】
『……騙るのは、いかがわしいひとだけでいいよ』
【伊代】
『やっぱり、わりと似たベクトルの生き物なのかも』
いやなベクトルだ。
【花鶏】
「勝ち目は?」
【智】
「4、6くらいで」
【伊代】
「……6割で負けちゃうんだ」
【智】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「な、なんで睨むのよぉ……」
どこまでも空気の読めない伊代だった。
【智】
「せめて4割も勝てるの! とか、
味方の士気を鼓舞するような言動をよろしく」
【伊代】
「士気だなんて、精神論よ」
【智】
「病は気からっていうでしょ」
信じれば変わる、
諦めなければ勝てる――。
呪われた世界に蔓延する、
数多の欺(ぎ)瞞(まん)の最たるものだ。
精神論はスタート地点でしかない。
戦いは問答無用。
堅く冷たく揺るがぬ力学で形作られる。
【智】
「知恵と力と友情と、最後が勇気」
【こより】
「あうぅ」
こよりが頭を抱えた。
すっくと立ち上がる。
【こより】
「…………顔洗ってくるデス」
マシンのようにひび割れた声で。
【智】
「大丈夫? ひとりで行ける? 顔が紫色だけど」
【こより】
「紫色だと画面に出せませんね」
【智】
「……わりと余裕ある?」
【こより】
「手首切りたい……」
【智】
「ヤバイ目をしていうな」
【こより】
「いってきます」
【智】
「大丈夫かな」
【茜子】
「この期に及んで大丈夫だなんて、脳に蛆がわいてますね」
【伊代】
「……やっぱり怖いわよ」
伊代が肩を落とす。
小さくなる。
【伊代】
「ほんと、怖い。胃のあたり重いし。わたしは出ないからいくらか楽だけど、明日負けたら、負けちゃったら……そう思ったら、
あの子の気持ち、少しはわかる」
あと十数時間すれば。
決する。
勝者と敗者に別れる。
敗者は強奪される。
代価を。
【智】
「もっと力抜いて。よしんば明日負けたって……」
失うモノは。
一冊の本。
茜子と僕。
【智】
「大丈夫だから」
少なくとも伊代は。
【伊代】
「だから……それだから、よけいに……」
視線が彷徨う。所在なく。
伊代は、傷ついていた。
【伊代】
「わたしもおトイレいってくる……」
逃げるように。
【智】
「むう、人間心理は複雑です」
無傷でいられる事への後ろめたさが、
伊代を抉っている。
リスクは持たない。レースにも出ない。
伊代だけが。
それを承知の同盟だ。
それぞれの置かれた状況や条件は異なっている。
違うモノだから、同じにはなれない。
違っても、リスクを共有し、力を合わせる。
差異はでる。
完全な平等は完全な平和と同じくらいの幻だから。
そこに苛立って。
不完全であることに。
完璧でないことに。
憤る。
【智】
「…………可愛いヤツ」
【るい】
「うにゅ? なんでトモちん、難しい顔してんの」
【智】
「るいは簡単そう」
【るい】
「???」
理解してなかった。
【伊代】
「ねえあの子、いる?」
伊代が戻ってきた。
【智】
「あの子?」
【伊代】
「オチビ」
【智】
「さっき顔を洗いに……っていうか、伊代こそ会わなかったの、
お手洗いで」
【花鶏】
「そういえば、随分経つのに戻ってこないなんて……ちょっと
遅すぎるわね」
【伊代】
「いなかったわよ」
【るい】
「テラスで頭冷やしてるとか?」
【伊代】
「気になって、ざっと見てきたんだけど……あの子、どこにも
いないのよ」
【茜子】
「…………」
胃の下あたりが、ざわざわした。
【智】
「それって、ちょっとマズイっぽいかも……」
花鶏の家中を手分けして捜した。
どこにも、こよりはいなかった。
【伊代】
「これってもしかして」
【智】
「…………逃げた?」
これは、予想外。
簡単にいうと……
最悪だ。
〔団結、もう一度〕
手分けして捜すことにした。
花鶏の家の近辺をしらみつぶしに。
土地勘はないだろうから、
遠くに行ってないと踏んだ。
【智】
「いた?」
【花鶏】
「いいえ」
【伊代】
「こっちにもいなかった。まったくどこいったのかしら」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「プレッシャーに弱そうなタイプだものね」
【伊代】
「じゃあ、ほんとに……」
対策を検討する。
【花鶏】
「見当たらなかったわね。
じゃあ、もう尻尾巻いてどこか遠くに……?」
【智】
「でも、バスだってない時間だし」
時間はとっくに22時を回っていた。
バスはおろか、この辺りだと、
タクシーだってつかまえるのは一苦労だ。
電車の駅までは大概遠い。
【智】
「でも、まずいよ、まずいですよ。明日は本番なのに……
このままだととんでもないことになっちゃうよぉ!!」
【茜子】
「こいつ、普段姑息な分だけ、予期せぬトラブルに弱い雑魚ですか」
【伊代】
「なにその一番の小者設定」
【智】
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
頭を抱える。
ごろごろと床の上を転がり回る。
こよりがいないとメンバーが足りない。
戦わずして不戦敗。
そんな馬鹿な!
他に手は……?
例えば、代理をたてるとか。
【伊代】
『ファイトー☆』
【茜子】
『いっぱーつ☆』
【智】
「……………………ッッ」
見果てぬ文系世界が広がっている。
先行き真っ暗。
【茜子】
「人の顔を見てげっそりするのは失礼生物です」
【智】
「ごめんなさい」
土下座する。
【茜子】
「謝るよりも今すべきことは」
【智】
「そうだよ戦わないと、今そこにある危機と! 捜そう、もっと
捜そう、それに……夜にひとりほっつき歩いてたら危ない」
【伊代】
「そ、そうね。なにせあの子だし」
【るい】
「もういい」
冷たく。
るいが目をせばめる。
不在の何者かを睨むように。
おっ?
なんか、予期せぬ反応だ。
【智】
「いい、とは?」
【るい】
「ほっとけばいい」
【智】
「…………」
ものすごく意表を突かれた。
るいが、そういうこと言うなんて。
【るい】
「裏切ったんだ」
【智】
「あの、ちょっと、るい……?」
怖い顔。
今にも噛みつきそうだった。
純粋で、それだけに強固な生き物が居る。
【るい】
「裏切ったんだ」
るい……。
静かな裁定、本気の目だ。
【るい】
「どうして裏切るの?」
【智】
「裏切ったなんて、大げさな」
【るい】
「信じたなら裏切るな」
苛烈(かれつ)な二分法。
白と黒。善と悪。敵と味方。
るいは世界を二つに分けようとする。
信じることと裏切ること。
【智】
「それは、違うよ」
【るい】
「違わない!」
【智】
「違わないことない!」
こんなにも強い言葉をぶつけ合うのは初めてだ。
るいが睨んでくる。
視線だけで火傷しちゃいそう。
【るい】
「だって、逃げたじゃない。仲間を裏切った! 嘘をついて、
自分だけで!」
【智】
「そんなことない、僕は信じてる!」
【るい】
「――――っ」
信じる?
誰が、そんなこというわけ?
【智】
「僕は、こよりのこと信じてる。怖くて逃げ出したかも知れない
けど、こよりは僕らを裏切ったりしない。ほんのちょっと怯えて、
自分を見失っただけで」
【智】
「だから、きっと僕らと一緒に、明日は走ってくれるって信じてる」
僕は、誰も信じない。
信じるなんて間違っている。
心は天性の裏切り者だ。
何度でも繰り返す。
他人を裏切り、自分を裏切る。
嘘をついて、欺いて、
本当のことさえ言えないのに。
自分の心ひとつ信じられないのに。
見えない他人の心を信じることが出来るの?
【智】
「…………だから、今は全員で、こよりのこと、もう一度
捜してみようよ」
――――――――出来るわけがないじゃないか。
【智】
「……るいのヤツは?」
【伊代】
「部屋で待ってる、ですって」
【智】
「そっか」
まあ、しかたないか。
るいに、あんな面があったなんて思いもよらなかった。
【智】
「じゃあ、手分けして捜そう」
【伊代】
「わたしは、あっちを」
【茜子】
「茜子さんはこっちから」
散っていく。
【智】
「花鶏は――――」
【花鶏】
「信じてる……ね」
からかうような物言いだった。
【智】
「なんだよ」
【花鶏】
「あら、いつもよりかなり余裕無いのね」
【智】
「悪かったね」
【花鶏】
「そういう素の顔も可愛いわよ」
……誉められても嬉しくない。
【花鶏】
「鳴滝を信じてる?」
【智】
「そういった」
【花鶏】
「本当に?」
【智】
「なによ」
【花鶏】
「物事を考えるっていうのは、疑うってことでしょ」
そう、だ。
【花鶏】
「知恵の実の悲劇というわけね」
【智】
「……持って回った言い方するね」
【花鶏】
「そういうときもあるわ」
【智】
「そうだよ。僕は、いつも疑うところから始めるんだ。どんな事がありえるか。どんな失敗が成立するか」
世界を、常識を、友情を、信頼を、自分自身を。
他人なんて、一番信用できない。
【花鶏】
「今回はびっくりしてたわね」
【智】
「予想外のことなんて、いくらもあるから」
知恵の限界。
思考を繰り返しても、限界がある。
人間には完全な未来なんてわからない。
【智】
「……るいがあんなに怒るなんて」
【花鶏】
「そうね」
人ひとりにしたって、本当の心は量りがたいんだと、
いやというほど思い知らされる。
【花鶏】
「それでどうするの?」
【智】
「どうするもなにも、こよりを捜す。言ったとおりだよ。そんなに遠くまで行ってないと思うし」
【花鶏】
「そうね。でも、問題はその後でしょ」
見つけたとして――――――
本当はわかっていた。
こよりが逃げ出すのは当たり前だ。
理由がないから。
るいにも、花鶏にも、茜子にもある、トラブル。
同盟をあてにしなければならない理由。
【智】
「どうにもならなかったら…………」
【花鶏】
「ならなかったら?」
こよりには理由がない。
あるのは負い目だ。
花鶏の本を失った原因であるという後ろめたさ。
わかっていて、こよりを利用した。
その方が都合がいいから。
【智】
「うんにゃ、どうにもならない退路はなし。諦観するのは最後の
武器。僕の売買権がかかってますので死にものぐるいでなんとかします」
【花鶏】
「背水の陣だわ」
【智】
「余裕のある人生をギブミー」
【花鶏】
「昔の人は偉いわね。そういうあなたに、含蓄のあるお言葉を
プレゼント。曰く」
【花鶏&智】
「「自業自得」」
【智】
「ハモってどうする」
【花鶏】
「自分でわかってるだけに、あなたの不幸も根が深いわね」
【智】
「行ってきます」
【花鶏】
「わたしはあっちを捜すわ。
でも、その前に、よければ聞かせてくれない?」
【智】
「なに? 僕にわかることなら」
【花鶏】
「貴方にしか、わからないわよ」
ころころと、花鶏は笑った。
【花鶏】
「あなた、本当に、信じられなかったの?」
【智】
「――――っ」
きっと顔に出た。
本心を言い当てられた。
誰のことも、僕は信じてなんていないんだと。
でも、それなのに。
花鶏はそれを揶揄する。
まるで。
僕の、本当が――――だと、いうように。
【智】
「…………」
花鶏のその問いに、
とうとう僕は答えられなかった。
ほどなくして発見した。
【智】
「みーつけた!」
【こより】
「あう」
ライオンと鬼ごっこをする
カピバラみたいな顔で、こよりは動揺した。
バス停近くだ。
花鶏の家に初めて来たときに遭遇したあたり。
こよりは右往左往する。
右へちょろちょろ、左へちょろちょろ。
【智】
「なにやっとんのねん」
【こより】
「……逃げてますです」
【智】
「そうなの?」
どこにも行ってないけど?
【こより】
「…………見つかってしまいました」
覇気がない。
【智】
「なんたること、僕の知ってるこよりんはもっと腹の底から
声をだす女の子だったぞ!」
【茜子】
「そんなの無理に決まってます」
【智】
「余計な突っ込み入れなくていいから」
茜子だった。
どっから出たんだ。
わざわざ邪魔しに来たのか?
【茜子】
「…………」
【智】
「何を無表情に百面相してるの?」
【茜子】
「あなたは前を向いて説得にせいをだしてればいいです」
【智】
「図星」
【茜子】
「ビッチ」
舌先のキレが悪い。
こよりがどうするかは、そのまま茜子の未来を左右する。
おきものっぽくても不安は感じているだろう。
茜子の調子がいまいちな理由を、論理的に説明することができる。
でも。
それでいいのか。それだけなのか。
無表情な顔からは何も読み取れない。
【こより】
「無理……です」
【智】
「だから」
【こより】
「絶対無理、レースなんて無理、戦ったり競争したりぶつかったりするのなんて絶対無理です!」
半泣きだ。
【智】
「まあ、そこんとこ無理とは承知の上なのです。
他に選択の余地がかなり厳しい人材のインフレ」
【智】
「こよりも、花鶏助ける時は、がんばったでしょ」
【こより】
「あのときは無我夢中でしたから……」
【智】
「今は?」
【こより】
「…………」
【智】
「怖いんだ」
【こより】
「こわい、です」
こっくり。肯く。
【こより】
「ものすごく怖いです! 考えただけで、足震えてきて、立ってるのだって無理で、何も考えられなくなって息苦しくって……」
こよりは馬鹿だ。
怖いなら逃げればいい。
追いつけないくらい遠くまで。
他人のことなんて考えず。
誰だって自分が一番可愛い。
どんな献身も、崇高な自己犠牲も、
最後まで突きつめてしまえば自分のための行いなのだし。
それなのに、こんなところにいて。
【智】
「痛いかもしんないしね」
【こより】
「そういうのじゃありません!」
【智】
「……んと、すると?」
【こより】
「あー、その……怪我したり、怖いひとと面と向かったり、
そういうのも十分怖いは怖いんですけど……」
正直者だ。
【智】
「こよりだけじゃなくて、誰だって怖いよ」
【こより】
「……るいセンパイとか、平気そうです」
【智】
「あれは特殊例」
【こより】
「わたし、そんなふうになれない」
【智】
「ならなくてもいいよ。こよりはこよりで、るいじゃないんだから」
【こより】
「…………」
【こより】
「でも、わたしが負けたら、センパイが売られるんですよ!?」
なるほど。
こよりが怖がっているのはそこだったのか。
【智】
「…………だから?」
【こより】
「……(こっくり)」
【智】
「自信はない?」
【こより】
「全然ないです」
傷つくことよりも、もっと怖いこと。
自分のせいで誰かが傷つくこと。
何かが失われてしまうこと。
責任の重みだ。
背中に背負った、
見えないものの重さを怖れている。
【智】
「いいこだね、こよりん」
本当は必要ないものさえ背負い込んで。
本当に逃げ出すことさえできないで。
【こより】
「………………」
だから、精一杯の嘘をつく。
【智】
「大丈夫だよ。出ても十分やれる。勝てるって。
こよりのローラーブレード、すごく上手だし。自信持っていい」
【こより】
「そんなの理由になりません。そういうのとは違うじゃないですか。走るだけじゃなくて、誰かと戦ったりするんですよ。誰かを押しのけて勝たないとだめなんですよ!」
【こより】
「全然……違ってる……っ」
競うことに向かない人種というのはいる。
戦い、傷つけあい、奪い合うこと。
【智】
「たしかに、そういうのは気構えの問題かもね」
【こより】
「わたし、そういうの向いてない。
ケンカしたり、勝ち負けがシビアだったり、そういうのやです」
ウサギは神経質な生き物だ。
争いには向かない。
【智】
「別に必殺技使えとかはいってない」
【こより】
「人前で使うの、恥ずかしいですから……」
戦うことを怖れるのは、優しさだ。
でも。
争うこと――――。
それはどこにでもある。
普通に生活をしていても、
競ったり、争ったりすることは幾らでもある。
呪いのように付きまとう。
いつだって席の数は決まっている。
誰かが座れば誰かが振り落とされる。
競って、邪魔して、譲って、争って。
価値観はぶつかり合い、利害は衝突し合う。
終わりのない椅子取りゲーム。
それが世界の正体なのだから。
【こより】
「わたしが失敗したら…………」
【智】
「そういうの、気にするなっていっても、ダメだよね」
【こより】
「無茶いいっこです」
【こより】
「センパイは残酷です。わたしにそんな責任押しつけるのは
ひどすぎです。ほら、ドキドキしてます。心臓今にも栓が
抜けちゃいそう……」
おかしい言い回しをする。
【智】
「それはしかたないよ」
【智】
「それは、どこにでもあることなんだから」
見えない責任。
繋がり。
連鎖。
キミとボク。
自分の行動の結果が、誰かの人生を左右する。
重い事実だ。
それは、本当に、どこにでもある。
見ないふりをしているだけだ。
見てしまうと成り立たない。
他人の生命の重さに潰される。
でも、それを拒絶するのなら。
何一つできない。
自分が生きていくことさえもできなくなる。
人知れぬ砂漠の奥にでも孤独な庵を構えて、
一生引きこもるしかないのかも。
【こより】
「そう、かもしれないですけど……」
【智】
「何をやっても、どこかで、なにかで、他人のことを左右しちゃうんだよ。そうなっちゃう。それがイヤなら、本当にひとりでいないと……」
【こより】
「そんなの! そんなの……無理……」
ウサギさんは人恋しい生き物だ。
孤独には耐えきれずに死んでしまう。
【智】
「それにさ、今からだと、逃げちゃってもあんましかわんないよ」
【智】
「こよりがいないと、代役頼むわけだし。それってつまり、
こよりが」
【こより】
「……逃げちゃったから?」
【智】
「責任の重さとしたら同じでしょ」
【こより】
「それは、そーですけど、実際にやって負けたら……」
【智】
「六分の一」
【こより】
「なんですか、いきなり?」
【智】
「責任の重さ」
【こより】
「6人いるから……?」
【智】
「うん。そういうのが同盟だよ。僕らは一個の生き物、ひとつの
チーム、まとまった群れ。メリットを分かち合うかわりに、
リスクも分散して共有する」
【智】
「こよりが失敗してダメになったとしても、それは、こよりだけの責任じゃない。みんなの責任」
【こより】
「そんなの……」
【こより】
「わたしが上手くできなかったら、それで迷惑かかるのは
同じことです」
【智】
「いまさらそんなこと、いいっこなし」
【智】
「同盟を結ぶときに、そういうのは覚悟完了してる」
【こより】
「わたし、ちゃんと考えたことなかった……」
【智】
「契約って恐ろしいね。いつだって一番重要なことは、読めない
くらいちっちゃな文字で、契約書の隅っこにこっそり書いて
あるんだよ」
【こより】
「悪徳キャッチセールスみたいッス」
【智】
「タダより高いモノはないって言うでしょ。メリットだけ手に
はいるなんて上手い話は転がってません。責任だって背負い
込むのは当たり前」
【智】
「だから、こよりが考えてるようなことは、そんなこと一々
気にしたりしないよーに」
【智】
「安心して。
こよりが失敗して負けちゃっても、僕は恨んだりしないから」
じっと、目を合わせる。
【智】
「茜子さんも何とか言ってやって」
【茜子】
「え、えうっ!?」
振られるとは思わなかったらしい。
面白いくらいに狼狽した。
【茜子】
「あ、あ、あ、あの、の……」
【智】
「いつもの毒舌はどこいったの」
【茜子】
「ビッチは黙れ」
ひどい……。
【茜子】
「……っ」
茜子が深呼吸して。
【茜子】
「ふぁいとー!」
【智】
「……………………」
【茜子】
「ちゃ、ちゃんと言いましたから」
ぷいっと横を向いた。
【こより】
「……………………」
こよりも眼をぱちくりさせていた。
長いことそうしていた気がする。
本当は、ほんの1〜2分のことだったろう。
【こより】
「…………逃げられないんですね」
【智】
「呪われてるからね」
【こより】
「逃げても逃げられない。捕まっちゃう。やっつけるしかない」
【智】
「呪われた人生だね」
【智】
「でも、誰だって呪われてるんだよ」
色んなモノから。
僕らはみんな呪われている。
【こより】
「それなら、しかたないですね……」
【智】
「しかたない」
こよりが立ち上がった。
長い時間をかけて。
背筋を伸ばして、前を向いて。
【こより】
「こより、いきます」
【智】
「よろしい」
【智】
「性能の差が戦力の決定的な違いじゃないと、是非とも教えて
欲しいな」
空には月。
とても静かで、とても綺麗。
3人で戻った。
他の連中は、一足先に戻っていたらしい。
【こより】
「ご迷惑……」
深々と頭を下げる。
【伊代】
「……まあ、いいんじゃない。外回りで疲れたでしょ。
今日はもう休んで、明日に備えよ」
【花鶏】
「明日じゃないわよ。日付変わってるから」
深夜を過ぎていた。
【智】
「前夜にこれとは、なんという逆境……」
【こより】
「あーうー」
責任を感じていた。
【伊代】
「戦う前から負けてどうすんのよ!」
【こより】
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜」
責任に押しつぶされかけていた。
【智】
「なんの。逆境こそ我らが糧」
あと、一つ、解決することがありましたね。
部屋の奥から、のっそりと動く。
【るい】
「……………………いい」
すれ違い様。
【こより】
「がんばりますです!」
こよりは、ほんのちょっと涙ぐんでいた。
【智】
「感謝」
るいの背中に手を合わせて拝む。
これで、後は明日……。
もとい。
もはや今日だ。
逃げられない、避けられない、勝つしかない。
全てを得るか、一文無しか。
運命は二つに一つ。
決戦の日、いよいよ来たるっ!!
〔パルクールレース〕
夕焼けの赤が染みる。
街が塗り替えられる時刻。
もうすぐ運命のレースが始まる。
駅のすぐ近く、歓楽街のスタート地点。
高鳴る心臓を押さえながら、
その瞬間を待ちわびていた。
右を見た。
雑踏、雑踏、雑踏。
左を見た。
雑踏×6。
【智】
「帰宅ラッシュとぶち当たり」
【央輝】
「その方が盛り上がるんだ」
央輝はビル影に埋もれる。出てこない。
本当に吸血鬼を連想する。
【智】
「薄暗いところが好きとか」
【央輝】
「よくわかるな」
本当にそうだった。
カサカサしたのが親友かもしんない。
【央輝】
「不測の障害が多いほど勝負が荒れて盛り上がる」
【智】
「目立つかも……」
【央輝】
「ギャラリーが足りないか?」
【るい】
「聞きたいことがあるんだけど」
るいが割り込む。
あいも変わらぬ怖いモノ知らずだ。
【るい】
「どうして制服なの?」
それは僕も気になってた。
レースの前に、当日は制服を着てくるように指定された。
普通、レースのランナーっていったら、なんというのか、
もそっとそれっぽい格好するもんじゃないですか?
【央輝】
「制服の方が男の観客にウケが良いんだよ」
【智】
「ウケ……」
【央輝】
「制服は浪漫だそうだ」
なるほど!
わかる、わかるぞ、その気持ちは!
でも、この場合、僕が着ないといけないわけですから、
魂的にペルシアンブルーな感じに落ち込みそう。
【央輝】
「たくっ、クズどもの考えることはよくわからん」
クズ扱いだった……。
【伊代】
「脳腐れ……脳腐れだわ……っ!」
【茜子】
「人として生きてる価値がありません」
【智】
「……本当に困ったものですね」
とても本音は口には出せない。
代わりに、自分のスカートの端をつまんで持ち上げる。
ぴらり。
【央輝】
「サービス精神旺盛だな」
【智】
「下はスパッツはいてます」
完全防備。
当方(ら)に女の慎みの用意有り。
【智】
「でも、その、僕とか制服だと色々まずいんだけど。たしかネットで流してるんでしょ?」
【智】
「教師にばれちゃったりすると、
停学とか退学とか呼び出しとか不測の事態に……」
【央輝】
「心配いらん」
【智】
「なにやら隠された秘密が?」
【央輝】
「明日からあたしのモノだから、つまらないことは考えるな」
【こより】
「こっちが負けてからいってください!」
こよりが僕の腕を掴んで、
央輝から引きはがした。
【央輝】
「安心しろ。
ネットの配信先は、メンバーシップのアングラサイトだ」
【智】
「一応ばれる心配はない、といいたい……?」
いやあ、でも、街中走り回るんだから、
見てる人いるかもしれないわけで……。
【央輝】
「漏れるときは漏れる」
やっぱり。
【智】
「安心できないネット社会……」
高速インフラの新時代を嘆くのだった。
時間を確認する。
スタートまで、まだいくらか余裕がある。
いっそ早く始まってくれた方が、
余計なことを考えなくても済む分だけ気楽ではある。
暇があるとついつい考え込んじゃいそう。
【智】
「みなさん」
円陣を組んで。
雑踏近くなので、わりと人目が痛かったけど。
ここは様式美として必要だ。
【智】
「個々に、精一杯頑張る方向で」
【こより】
「気楽な感じッスね」
【智】
「気合いだけ空回りさせてもお寒いご時世だからねー」
スポ根が受けない時代になった。
【伊代】
「今更ナイーブなのも受けないわよ」
【智】
「じゃあシティ派で」
【るい】
「じゃあ、なのか」
【伊代】
「結局出るなら最初からそういえばいいのに」
【智】
「個人のポリシーは尊重する方向で」
【伊代】
「ところで、シティ……ってどういうのをいうの?」
乙女の疑問。
【智】
「それは、当然、決まってますけれど……シティ派っぽい感じ」
【伊代】
「惰弱だ」
【智】
「外来語には弱いんですよ」
【花鶏】
「…………」
【智】
「どうかしたの?
さっきからあり得ないくらい大人しいんですけど」
【花鶏】
「別に」
……やっぱり、なにか変だ。
いつもの花鶏なら、あり得ないくらいというのは
どういうことかしら、とかなんとかきそうなのに。
【智】
「別にって、なんか調子悪そうだよ?
顔赤いし、目もはれぼったい感じがするし……」
いやな予感が。
まさか、ここへ来て更なるトラブル?
天は我に七難八苦を与え給う?
【花鶏】
「あ、だめ、大丈夫だから、いいからって」
【智】
「動かないで」
おでこをくっつける。
【智】
「……………………熱っぽい」
【智】
「え……………………?」
えーーーーーーーーーー!!!!!
まじでぇ!?
【こより】
「ひええええぇっ!?」
絶望の悲鳴。
【伊代】
「な、なによそれ、こと、ここに至って!」
【茜子】
「……もしかすると、昨日の夜出歩いたせいで風邪……とかですか?」
【花鶏】
「違う」
【智】
「でも、熱っぽい」
【花鶏】
「……来ちゃったの」
【智】
「誰が?」
【こより】
「あ、あやや」
【伊代】
「ひぃ」
【智】
「?」
わからない。
【るい】
「そっか、生理か」
【智】
「なんですと」
こめかみをハンマーで不意打ちされた気分。
【花鶏】
「今週は大丈夫だと思ってたけど、狂ったみたい」
【智】
「ちょっとまって、そ、そ、そ、そ、それって……」
【花鶏】
「だから風邪とかじゃないわ。平気よ。わたしって重い方だから、ちょっと調子悪くなるけど」
【智】
「全然平気じゃないよぉ!!」
花鶏が横目で睨む。
【こより】
「…………これってどうなりますか?」
【智】
「マズイデスヨ」
片仮名になった。
追い詰められた心境で。
花鶏は主戦力だ。
それが使えないということになると……。
直前になって角落ち将棋。
【智】
「ああ、ドナドナの歌が聞こえて来た……」
【こより】
「なんて遠い目、センパイが錯乱してます!」
【るい】
「心配むよー」
【智】
「……どういう根拠のない自信で、それほど偉そうにされますか?」
【るい】
「平気平気。るいさん一人で3人分!!!」
断言。
たしかに、るいなら一人で3人分だろう。
【智】
「でも、これ、区間リレーなんだよね」
るいが無敵超人でも、一人では勝てない集団競技。
チームプレイと総合戦力が物をいう。
ここへ来てこれ、この逆境。
最後まで、これは、まさに――――
呪われた世界来たれり!!
熊のようにうろつく。
状況打開の方策がない。
【智】
「あー、うー」
どうしたら。
一体全体どうしたら……。
花鶏はそれでも走ると力説してるけど、
見る限り、かなり無理っぽい。
すると、選手交代しかないのか。
でも、直前で交代だといって、
央輝が許すだろうか?
よしんば、それが通じたとしても。
【智】
「でも、手持ちのカードで花鶏と交代させられるのは――」
伊代か、茜子か。
【智】
「……………………」
ドナドナめがけて一直線。
気分的には、もはや最終コーナー残り150メートル。
二人とも、ランナーとしてはブルーデー花鶏とどっちがマシか、
丙丁つけがたい文系的強者だ。
【智】
「と、とりあえず、主催者への言い訳を考えて、
せめて選手交代だけでも認めてもらわないと……」
【惠】
「困り顔だね」
聞き覚えのある声。
【智】
「……どっからでて来たの?」
惠だった。
以前もいきなり降ってわいた。
どこにでも出る。
黒くてカサカサするのと似てる。
【惠】
「しばらくご無沙汰だったね」
【智】
「僕の質問に答えろ」
惠相手だと容赦の無くなる僕だ。
【惠】
「このあたりをテリトリーにしているんだ」
【智】
「そっちも央輝の同類みたいなもんなのか」
【惠】
「さて、僕のことよりも、君のことじゃないか。どうやら
トラブルがあったんだね?」
【智】
「なんでわかるの!?」
【惠】
「予知能力がある」
へー。
素で言われてしまいました。
もう1回。
【智】
「へー」
【惠】
「笑ったね」
【智】
「笑いました。笑いましたとも。なんでしたら、お腹抱えて
笑いましょうか? 僕はリアリストなんですよ」
【惠】
「不思議は信じない方かな?」
【智】
「手品と魔法を混同しないだけだよ。
『未来がわかる』っていうのは、いくら何でも嘘度が高過ぎ」
【智】
「そうだ、こんなことしてる場合じゃないよ!」
話の主題を思い出す。
【惠】
「それなんだけれど。
今、君たちのことが、ちょっとした話題になっているんだ」
【智】
「……急ぐのでお付き合いの話でしたら日を改めて」
【惠】
「彼女……央輝が配信してるサイト。美少女戦隊だったかな」
なにその、いかがわしさ満点のフレーズ。
【惠】
「君たちのチームのことだよ」
己のあずかり知らぬところで、いやなキャッチコピーで
売り出されていた。
【智】
「…………そういう売り出しはやだな」
【惠】
「それで、どういうトラブル?」
今度はこちらのターンだ、と言うように。
【智】
「…………」
【惠】
「僕が力になれるかも知れないし、なれないかも知れない」
【智】
「なられても困る。愛の告白困る。
ピュアでプラトニックな関係で結婚するまではいたいの」
【惠】
「友達からはじめるという約束をしたのに」
【智】
「……本気でそういうお付き合いなら」
これっぽっちも安心できない。
いきなりの愛戦士だから、
それも、終始このローテンションな顔で。
【智】
「――――――そ、そうだ!」
人生の断崖絶壁三歩手前で閃いた。
いや、しかし、それはあまりにも…………。
でも、他に取れる手段は――――
他の手段を無理矢理考える。
37通りの方法を考察して、全部実現性の乏しさに
泣く泣く心ゴミ箱に破棄して捨てた。
【智】
「うわーん!!!」
現実の無情さに、僕は泣いた。
【智】
「というわけで、補欠と交代します」
【花鶏】
「どういうわけなの?」
ベタな返しだ。
【智】
「かくかくしかじか」
ベタっぽく。
便利ワードを使って説明する。
【花鶏】
「わたしは、まだ走れるわ!」
【智】
「予想通り、熱血スポ根モノできたね」
【花鶏】
「前にも言ったはずよ! これはわたしの問題なの。わたしが戦うべきことだわ。ちょっと調子悪くなったくらいで、そんなことくらいで、止められる問題じゃないの!!」
【智】
「これは同盟の問題でもあるから」
感情よりも実利優先で。
【智】
「花鶏ひとりがどうにかすべき問題じゃないし、どうにかしていい問題じゃない。手を繋いでる分リスクも共有してるんだ」
【智】
「僕にだって言う権利はある」
【花鶏】
「…………言ってくれる」
【智】
「矜持(きょうじ)も信念も思想も正しさも、必要なのはそんなものじゃない。勝つこと。僕らが勝つこと。やっつけること。そのためなら僕はなんだってするよ」
【花鶏】
「前向きな卑劣漢はタチが悪い」
【智】
「後ろ向きに卑怯よりは救いがあると思うんだ」
【智】
「1パーセントでも勝率を上げるためには、今は、花鶏が出るよりこっちの方が役に立つ。だから、僕は花鶏を下ろして取っ替える」
【花鶏】
「…………立つの?」
【智】
「…………立つよね?」
怖ず怖ずと。
【惠】
「それなりに」
代走ランナー(予定)の惠は、いつも通りの、本音が読めない
ローテンションで軽く肯く。
【るい】
「ここへ来て傭兵か」
【智】
「逆境の中生き残るには、手段を選べない貧しい国々」
【こより】
「このレース、怖い話ですよ?」
【惠】
「知らなかったな」
【るい】
「いいの、トモチン?」
【智】
「いやあ、正直微妙なんだけど、全然良くないんだけど、
なんといっても選択肢が少ないから、僕たち」
貧困にあえぐ発展途上国くらい
選択できる手段がない。
苦肉の策である。
とにかく、こやつを代走にしなければ、
残るメンバーは文系ソリューション。
【るい】
「なんかすごいよね。進む度にトラブる人生ゲーム級」
【智】
「僕の理想は植物のように穏やかな人生」
【伊代】
「無理だと思うわ」
【花鶏】
「…………わかったわ。でもね、智」
【智】
「はい」
【花鶏】
「これは、ひとつ貸しよ」
【智】
「借りじゃないんだ……」
世知辛い世の中だった。
【智】
「そういえば、これで、せっかくのフレーズがダメになったなあ」
【伊代】
「フレーズって何よ」
【智】
「美少女戦隊」
【こより】
「なんです、それ」
【智】
「僕らは広大なネットの海で、そのように呼ばれ、崇め奉られて
いるのだ」
嘘である。
【花鶏】
「ブルーになるわね、そのタイトルは」
ブルーデーだけに。
【智】
「まったくもって」
前触れもなく。
【惠】
「才野原惠」
名乗る。
名前はとっくに知っている。
あらためての自己紹介は開始の合図だった。
刻限が来た。
夕闇の赤色を、ビル影に抱かれて避けながら、
央輝は冷淡に笑んでいた。
これで状況は、引き返せない折り返し点を過ぎた。
ここから先の結末は二つに一つ。
問答無用な二分法。
勝利か敗北か。全てか無か。中途半端はない。
いよいよ、
レースが始まる――――――
チームは4人。
最初はるい、次は花鶏の予定が惠に。
央輝はメンバー変更による代走を、
くわえタバコでニヤリと笑って許してくれた。
【智】
「あっさりだ」
【央輝】
「メンバー交代を禁止した方がよかったか?」
【智】
「禁止された時にどうやって言いくるめるか、必死に頭を
悩ませてたのに」
【央輝】
「ひゃははっ」
お腹を抱える。
そんなにツボだったのか。
【央輝】
「やっぱり、オマエは怖いモノ知らずだな。この街で、あたしが
なんて呼ばれてるのか、知らないわけじゃないんだろ?」
【智】
「饅頭怖いのは、るいの専売特許で十分。僕は世の中怖いモノ
だらけだよ」
【央輝】
「あたしが見るところ、お前の方がよっぽどたちが悪いな。
知らないから怖がらない頭の悪い馬鹿ってのはいくらもいるが、
知っていて怖れないひねくれ者は滅多にいない」
【智】
「……吸血鬼、だっけ?」
噂をいくつも耳にした。
央輝は夜の闇を住処にする。
央輝に呼び出しを受けた家出娘が、
それきり二度と姿を見せなくなった。
血をすする。
日の光を浴びると死んでしまう。
などなど……。
【智】
「ひと睨みで相手を殺す、とかいうのもあったかな」
邪眼伝説。
正体が吸血鬼なら、殺すんじゃなくて惑わすのでは。
【央輝】
「お前は、本当に、見た目よりずっと面白いヤツだな」
【智】
「そういう言われ方は傷つくかも……」
【央輝】
「気に入ったんだよ」
央輝の爪が、ついっと、僕のあご先を持ち上げる。
白い喉をさらけ出す瞬間、ほんの少しドキリとした。
はたして。
央輝は笑った、
のか、どうなのか、
よくわからない微妙な表情。
間近にいる央輝は小さく細い。
ガラス細工のように儚く映る。
なのに、二歩離れれば尖った威圧感が肌を刺す。
【央輝】
「時間が来る。はじまる。そうしたら――」
今度は、はっきりと笑った。
獰猛に。
【央輝】
「お前は、すぐに、あたしのモノだ」
伊代たちは、ここで待機する。
央輝がナシをつけている、
会員制クラブかなにか、それらしい場所だった。
こういう場所、今まで入ったこと無いから
よくわからないけど、なかなかに高級そう。
【智】
「高いんだろうね、こういう場所だと……」
【伊代】
「さあ?」
こっちも、こういうところは初心(うぶ)だ。
【伊代】
「それで、あなたたちは……」
【智】
「もうすぐ、それぞれのスタートのポイントに行きます」
各ランナーのスタートするポイントは、
当然ながら、街中に散っている。
【智】
「心配しなくても、最初はるいだから、ランナーとしてのスペックは圧勝してるはず」
【伊代】
「じゃあ、勝てる?」
【智】
「……マシンの性能差が戦力の決定的差ではないことを教えてやる」
【伊代】
「教えてどうするのよ」
【こより】
「こわいッス〜〜〜〜〜」
背中にしがみついてきた。
【智】
「覚悟だ、覚悟があれば超えられる」
【智】
「あとね、それから……」
【伊代】
「まだなにか? 貴方もそろそろ行くんでしょ」
【智】
「今日、ここに来る前にした相談、覚えてる?」
【伊代】
「相談……」
【智】
「忘れてる」
【花鶏】
「仕掛けの話ね……」
ソファーを借りて横になったまま花鶏が呻く。
【伊代】
「ああっ!」
来る前に相談しておいた。
央輝と、茜子の父親が砂をかけた相手との力関係は、
正直よくわからない。
今回のゲームでチャラにできるからには、
隅に置けない関係があるのは間違いないんだけど。
でも、ただのレースじゃない。
たちの悪いギャンブルでもあった。
レースの勝敗に賭けがされていて、お金が動く。
かなりの額だ。
面子とお金。
危険な代物だ。
命より重くなったりもする。
そんなものが二つもそろって、
正々堂々と勝負をしてくれるのを信じるほどには、
僕は素直になれない。
【伊代】
「でも、まさか……」
【智】
「伊代ちゃんのお人好し」
【智】
「オッズは見た?」
【伊代】
「どうなの?」
【智】
「そりゃもう大穴ですよ」
レースに参加するのは、
僕らのチームと相手のチームの二つだけだ。
相手は何度もレース経験のある玄人さん。
こちらは素人もど素人。
しかも美少女軍団だ。
【智】
「女の子ばっかで侮ってるだろうけど、るいが飛ばして慌てるはず」
るいちゃん、無敵超人だから。
うむむ、オーダーを間違ったかなぁ……。
妨害ありのハードなゲームだ。
切り札を先に切ったのは、
最初に差を広げておきたかったからだ。
接戦になるのはよろしくない。
花鶏はともかく、こよりはマズイ。
走るならまだしも、潰し合いになると、ボロが出る。
なので、我らが美少女軍団チームの戦略は、
先行逃げ切りを重視した。
その分、手の内を早くにさらけ出してしまう。
ギリギリまで実力を隠しておいて、
ラスト2ページの見開きで大逆転という、
少年漫画な展開は難しい。
なにせ美少女軍団チームはインスタントだ。
経験値ないし、チームワークもいまいち。
【智】
「うわあ」
【こより】
「なんか絶望の声が」
【智】
「こんな勝負に勝つ気で挑んだ自分の無謀さに、
今更ながらにびびってるところ!」
【こより】
「ほんといまさらダー」
投げやりなテンションだった。
【こより】
「もはや勝負ははじまっておるです。かくなる上は一億総玉砕あるのみ!」
こよりんにスイッチが入る。燃えていた。
燃え尽きる前のロウソクのように。
【智】
「おお、昨日しゃっぽを脱いで逃走したマンモーニ(ママっこ)とはひと味もふた味も違う頼もしいお言葉。背負った子に教わるとはまさにこのこと」
【こより】
「ふふふふ、女子三日あわざれば刮目せよなのです」
【智】
「一日も経ってないけどね」
央輝がやってきた。
指を鳴らして仲間を呼ぶ。
そいつが持ってきたシティマップが、
僕らにも手渡される。
【るい】
「こいつはなんじゃんよ」
【智】
「マップですよ、皆元さん」
【るい】
「見ればわかるっす」
【央輝】
「今回のマップだ」
【智】
「地図は前にももらわなかったっけ?」
【央輝】
「コレは現場で使う用だ」
【智】
「赤の○がチェックポイントで、こっちの☆印が交代地点ってわけ?」
【るい】
「なるほどー」
いよいよ伸るか反るか。
身売りの運命が決定される。
【智】
「実は、僕、ギャンブルって得意じゃないんだよね」
【るい】
「ほほう、女は飲む撃つ買うじゃろー」
【智】
「……何を買うのよ」
意味知ってて言ってるのか。
【るい】
「えとー、巫女ーお茶の間ショッピング……?」
【智】
「なによ、そのフェチっぽいテレビシリーズ」
【茜子】
「るいさん世界は平和です」
【花鶏】
「……ギャンブルが嫌いなくせに、
渡る橋はずいぶんと危ないところばかりなのね」
花鶏は濡れタオルを額にソファーに伏せっている。
【智】
「病人のくせにアトリンが虐める」
【こより】
「おー、よしよし」
【伊代】
「……不思議だ」
【るい】
「なにが?」
【伊代】
「イヤ、アレが唸ってるのに、貴方が静かなんて」
【るい】
「私、弱いものイジメはしない主義」
胸をはる。
揺らす。
【花鶏】
「……二重にむかつくわ」
そうだろう、そうだろう。
【伊代】
「あのね、あなたたち、状況わかってるの? 緊張感持たないと、どうなっても知らないわよ!」
伊代の眼鏡がキラリと光る。
逆光で下が見えないあたり、演出過多だ。
【智】
「座の空気を和らげようと、ねー」
【こより】
「ねー」
こよりと手を繋ぐ。
【智】
「それはともかくとして」
【智】
「本音をいうと、僕は勝つのが好きなんです。勝利の味をしゃぶり尽くしたいんです。1階でLVあげて、ニンジャにクラスチェンジしてゴブリン倒すとか、そういう感じの」
【智】
「圧倒的な力と陰湿な策略で、よわっちー虫けらを高笑いしながらぷちっとか、特に好き」
【こより】
「わりと最低だ、このひと」
【茜子】
「美少女軍団一番の小者は、一番手でがんばってください」
【智】
「心温まる励ましありがとう。でもアンカー」
【智】
「それで質問なんですが、央輝さん」
細々と指示を出していた央輝が振り向く。
【央輝】
「なんだ」
【智】
「スタートは同じで、ポイント通ればコースは自由。
さてここで問題です」
【智】
「……邪魔OKってことだけど、いつもはどれくらい邪魔するの?」
【央輝】
「ルールブックは読み込んだか?」
【智】
「ルールブック? ああ、あのミニコミ誌。保険の契約書くらいのつもりで読みました、読み込みました。あんまり細かい説明してなかったけど」
【央輝】
「イイコトを教えてやる」
ちょいちょいと指で呼ばれた。
【央輝】
「あたしは血を見るのが好きなんだ」
唇が耳まで裂けた、気がした。
【智】
「最悪だ」
がっくり膝から崩れる。
冗談ならタチが悪いし、本気なら始末に悪い。
【央輝】
「せいぜいあがけよ。ルートは自由でも最短のコース取りは限られる。どうやったって、一度や二度はぶつかることになるからな」
【央輝】
「地図見たくらいじゃ、最短ラインなんてわからんだろうがな。
こればっかりは経験が物を言う」
【智】
「大層なハンデだなあ」
【央輝】
「元々そういう賭けだ。勝てば借りがチャラになる。なら、
多少不利なのは当たり前だろうが」
【智】
「経験値の高い方が勝つ、ですか」
概ね正しい。
強いて、あと一つ勝つために必須なものをあげるとすると。
【智】
「面の皮の厚さかな」
【こより】
「?」
ランナーの各所定位置への配置予定時刻になった。
チェックポイントに移動する。
【智】
「それじゃあ、後で」
【花鶏】
「勝った後で……」
【るい】
「先のことはわかんない」
【智】
「大変そうだなあ」
【こより】
「悩みを捨て去る、あんイズム! 鳴滝のオススメですよう!」
【伊代】
「気楽なのね」
【智】
「深刻よりいいと思うよ」
【惠】
「面白いね。やっぱり、君は」
【茜子】
「…………」
悲喜こもごも。
美少女軍団プラス1。
この期に及んでも、団結はいまいち。
【伊代】
「ホントに行っちゃった」
【花鶏】
「こっちは3人で居残りか……」
【茜子】
「残りものには福があるそうです」
【花鶏】
「土壇場で、こんな屈辱っ」
【伊代】
「……出たかったの?」
【花鶏】
「当たり前でしょ! わたしの問題なのよ。それを、他人に取って代わられる口惜しさ、貴方にはわからないでしょうね」
【伊代】
「……怖くないの?」
【花鶏】
「こわい?」
【伊代】
「レースもそう、黒いヤツの仲間連中もそう……
街で最初に追いかけられたとき、わたしはすごく怖かった」
【伊代】
「どんなバカなことだって起こるんだって思ってたのに、いざとなったら身動きひとつできないくらい震えが来たのよ。あなた、本当によくやるわ」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「負けるのはごめんだわ」
【伊代】
「あなたとか、あの体力バカとかなら、それでいいんでしょうね。でも……わたしは違う。わたしは普通よ。怖くてできない」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「普通なら、さっさと別れればよかったのよ。今からだって遅くはないわ、見捨てて逃げ出せばいい。高笑いして見送ってあげるから」
【花鶏】
「普通だなんていってるくせに、のこのこついてくるのは
どういうつもりかしら」
【伊代】
「……手を引くなんてできないわ」
【花鶏】
「それなら諦めるのね。逃げ出すこともできない、覚悟もない。
意味のない後悔を延々繰り返すくらいなら、逃げる方がまだ潔い」
【花鶏】
「………………ぷはぁっ」
【花鶏】
「話すぎたわ。頭痛がぶり返した」
【茜子】
「自爆マニアめ」
【伊代】
「………………」
【伊代】
「それにしても、ここは、いかがわしいお店ね」
【伊代】
「繁華街の奥のお店とは」
【花鶏】
「尹の関係のお店で、今日はメンバーシップオンリーらしいわ……」
【伊代】
「……お店って、あの子、わたしたちとたいして歳も変わらない筈なのに、いったいどんなことやってるのよ」
【茜子】
「秘密がムゲン」
【花鶏】
「ちょっとは落ち着きなさいよ。
貧乏揺すり、鬱陶しいし響くから……」
【伊代】
「わたし、こういうお店ははじめてなのよ……」
【花鶏】
「よかったわね、経験できて」
【伊代】
「そんな経験、ちっとも……っ」
【花鶏】
「だから少し静かにしてちょうだい、頭に響く……」
【伊代】
「あ、その、ごめんなさい……」
【茜子】
「お水です」
【花鶏】
「спасибо(ありがとう)」
【茜子】
「他の人たちはどうなってますか?」
【伊代】
「なによそれ」
【花鶏】
「ノートPC。わたしのよ。
ここで繋げば見れるってきいたから持ってきた」
【茜子】
「映像きちゃないですね」
【花鶏】
「ネット配信用にビットレート下げてるし。見てると頭イタイし、管理はあなたたちに任すわ」
【茜子】
「映りました。ちゃんと顔はわかりますね」
【伊代】
「あの子…………」
【茜子】
「…………トモ・ザ・アホーは今世紀決定版バカです」
【伊代】
「でもあの子、成績は悪くないらしいわよ。わりと名門通ってるし」
【茜子】
「はい生理痛、ツッコミどうぞ」
【伊代】
「え?」
【花鶏】
「誰かこのメガネを黙らせろ……」
【伊代】
「減らず口だけは、どこまでも元気なのね、あなた」
【茜子】
「世の中で一番大事なモノはなんだと思います?」
【花鶏】
「誇り」
【伊代】
「……正しさ」
【茜子】
「ブッブーです。正解は利害」
【茜子】
「私は知ってます。誰だってそうなんです。それに色々な名前を付けてごまかしたりするけれど、それは得か損かっていうそれだけです」
【茜子】
「家族も夫婦もラバーズもフレンズも、赤の他人同士となにも変わりません」
【茜子】
「私たちだって利害で結ばれてます」
【茜子】
「誰だって、いざとなったら逃げ出します」
【茜子】
「親子だって、手に余ったら手を切るんです」
【伊代】
「そんな……」
【茜子】
「魔女だって、言われたことはありますか?」
【伊代】
「な、何よそれ、ひどい!!」
【茜子】
「ひどくないです」
【茜子】
「猫は猫です。犬と狼は似てても違うものなんです。
魔女はやっぱり魔女です。魔女に向かって魔女というのは
酷くも何でもないです」
【茜子】
「そうじゃないですか?」
【伊代】
「……自分をそういうふうに言わないで」
【茜子】
「私のこと、何も知らないくせに。
そんなふうに言うのはやめてください」
【伊代】
「…………っ」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「そうよ、そうよね。わかってる。ほんとは、あなたのことなんて何も知らない。でもね、知らないのが当たり前よ。他人のことなんてわからないんだから」
【茜子】
「まあ、当たり前はそうですね」
【伊代】
「何を考えてるのかわからない。基準もない。誰も何も正しくない。今は良くても、明日には変わってしまうかも知れない」
【伊代】
「誰のこともわからない、先のこともわからない、なにもどれも
わからない。世の中なんてわからないことだらけ」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「今の白鞘は、悪くないわよ」
【伊代】
「……わからないことだらけなのに、誰も守ってくれない」
【伊代】
「だから、自分のことは自分でしなくちゃ、自分で守らなくちゃ。世界も社会も他人もなにも、どうせわかりっこないんだから、
自分を守るのは自分だけよ」
【伊代】
「………………」
【伊代】
「……なんで……なんだろう、なんでそうなってるんだろ」
【伊代】
「バカは損するようになってるのよ。厄介を自分で背負い込んで
足をすべらせるような子は、遅かれ早かれ世間の荒波に揉まれて死ぬわ」
【茜子】
「特に、自分が頭良いとか思ってるヤツに限って、特大級の
墓穴っちですね」
【花鶏】
「思うに」
【花鶏】
「やっぱり一番頭悪いのは智ね」
【花鶏】
「自分からしゃしゃり出てきて穴に入るんだから」
【伊代】
「……賛成」
【茜子】
「異議無し」
【伊代】
「要領悪いのよ、きっと」
【茜子】
「頭の容量足りてないだけだと思います」
【智】
「っくしゅん」
不意にくしゃみをする。
自分のスタートポイントで配置についている。
僕の競争パートナー、敵チームの最終走者は、
なんと央輝だった。
敵チームが、実は央輝のチームだと教わったのは、
今日になってからだ。
【央輝】
「走る前から風邪か? 倒れたらそんときは、お前の明日は
うるわしの生活だぜ」
空を仰いで、げっそり。
【智】
「麗しくない麗しくない。人は奴隷として生きるにあらず。
荒野にボロ着でも自由に生きたい」
【央輝】
「はっ」
すがめた目が見下げ果てていた。
【央輝】
「明日食うものの心配もしなくてすむ連中の戯れ言だ、そんなのはな。首輪よりも自由がいい、心に錦で肩で風切って生きていくか」
冷たい敵意の刃先が鋭い。
【央輝】
「冷たい雨に打たれながら眠ったことは? 三日ぶりの晩飯代わりに大きなネズミをかじったことは?」
【央輝】
「水の代わりに泥を啜って這い回ったことは? 一枚の硬貨のために血塗れになって争ったことは?」
【央輝】
「何もかも捨ててもどうにもならない、死んだ方がいいって本当に心から思ったことは、お前、あるか?」
【央輝】
「自由と鎖を秤にかけるのは、秤に両方が乗る場合だけだ」
【智】
「……キミは、ある?」
【央輝】
「さあな」
央輝が口元を歪める。
笑いと呼ぶには空っぽで、酷く虚無的だった。
【央輝】
「ヨタ話をしてていいのか。ほら、スタートだ。見てみろよ。
はじまったぞ」
すぐ間近に路駐されてるバンの中。
央輝の仲間がノートPCをガチガチやっている。
モニターにネットからの映像が映っている。
【智】
「るい……」
ファーストランナーはスタートを切っていた。
画像の中で、るいが疾走している。
最初から飛ばしているようだ。
るいの姿は、あっというまにカメラの視野から消えてなくなった。
【伊代】
「見てみて、ほら見て、さっき映ったわ。ほらほらこれこれ!」
【茜子】
「すごくうるさいです」
【花鶏】
「見てるわよ。子供じゃあるまいし、はしゃぎ過ぎだわ。
大声出さないでくれる、頭に響くっていったでしょ……」
【伊代】
「う……ごめん……」
【伊代】
「そ、その、薬は飲んだの……?」
【花鶏】
「ちゃんと飲んだわよ。そのうち落ち着く」
【伊代】
「あなたもこっちで座ればいいのに」
【茜子】
「狭いです」
【伊代】
「二人くらい大丈夫でしょ」
【茜子】
「いやらしい」
【伊代】
「な、なにいってんの、その子じゃないんだから!」
【花鶏】
「ダイエットしないと駄目なんじゃない?」
【伊代】
「……ダイエットならしてるわよ!
わたしくらいの体型で○×キロなら普通でしょ!!」
【花鶏】
「○×!?」
【茜子】
「……普通じゃない」
【伊代】
「え、うそ!??」
【花鶏】
「普通じゃないわ」
【伊代】
「で、でも、わたし……違う、そんなに太ってない……」
【茜子】
「世界の終わり〜♪」
【伊代】
「きゃ、うひゃひゃひゃ、どこサワってんの?!」
【花鶏】
「……エアバッグが重すぎるみたいね」
【伊代】
「だ、だれがエアバッグか」
【茜子】
「また映った」
【伊代】
「どれ……あの子ったら……」
【花鶏】
「……無駄に元気そうね」
【るい】
「だっしゃー」
【るい】
「つかさ、いったいどこが最短コースだったっけ。
トモはたしかこっちって」
【るい】
「おお、そうそう。ここのビルに入って一気に階段を駆け上がって」
【るい】
「フロアに出て3つ目の扉をくぐって」
【OLの京子さん】
「いらっしゃいませ。お客様はどちらから、」
【るい】
「あー、平気平気ちょっとごめんくらさい」
【OLの京子さん】
「あ、あの、お客様、そちらは窓しか」
【るい】
「よっこらしょ」
【OLの京子さん】
「お、おきゃくさまぁっ、ここは5階で!?」
【京子さんの上司】
「おーい、京子君。ちょっとお茶貰える?」
【るい】
「うわ、こりゃひどいや。つか足場もあんなんだし。下見に来たときに言ってやればよかったな。なんでこういう高くてヤバイとこ通らせるのかな、うちのトモちんは」
【OLの京子さん】
「おおおおおおおお、おきゃくさまあ!?」
【るい】
「せーの」
【OLの京子さん】
「わー!」
【るい】
「わーーーーーい」
【OLの京子さん】
「と、とんだ……?」
【智】
「また映った」
【央輝】
「今回はえらくカメラのあるところ通らないな」
【央輝】
「それにしてもいい勝負じゃないか。どういうルートだったのかわからないが。たしかに手札の一つや二つ仕込みもしないで勝負は受けないってわけか」
ご名算。
用意したのは、るい用の特別ルート。
ビルの上からちょっとショートカットするコース。
【央輝】
「うちの連中はゲームに慣れてる。コースだって勝手知ったる自分の庭だ。あの女がいくらゴリラでもそう簡単にはいかないと思ったが」
【智】
「るいちゃん、最終兵器乙女だかんね」
ビルからビルをひとっ跳び。
ハイジャンプは経験済みなのだ。
【智】
「ゴリラなんて聞いたら怒るだろうなあ」
【智】
「おわ、ハイジャンプ!」
なに今のものすごいのっ!?
カメラ正面だし。
揺れたし回っちゃってます。
【智】
「だからあれほどヒモ太ブラを着けろと……ッッ」
あれ……?
下着は昨日洗濯機してた。
しばらく花鶏の家に泊まり込んでるし、
洗濯当番は僕だったから覚えてる。
ブラっとしたやつの代わりは
持ってなかったような。
洗ったヤツを出した覚えはありません。
(※洗濯当番は僕です、常に)
もしかしてノーブラ!?
なんという神の領域。
【央輝】
「なにやってんだ、お前は?」
【智】
「いやその、ちょっと今まずいので……」
もじもじと。
主に身体の一部分がマズイです。
【央輝】
「得難いコース取りをしやがるな」
【智】
「乙女兵器特設コースはちょっとシャレがききませんよ」
常人には高確率で無理だ。
【智】
「妨害って直接殴ったりは禁止なんだよね」
【央輝】
「ゲームだからな。血を見るのは結構だが、ただの殴り合いになるなら最初からそうする」
サドっぽく笑われた。
【央輝】
「ヤバイ連中が多いから、どうかするとどうかなるが、そういうのも盛り上げにはちょうどいい」
【智】
「できれば遠慮したいナー」
【央輝】
「怪我をさせたらペナルティーだ、一応な」
ものすごくどうでもよさそうに。
【智】
「美少女軍団なんだから加減してよ……」
【央輝】
「この国には男女平等ってのがあるんだろ」
いよいよどっちでも良さそうに耳をほじる。
【智】
「時には思いだそう古き良き時代のレトロな文化」
【央輝】
「このままじゃ、追いつけないな」
【智】
「あ、ゴミ箱ぶつけた!?」
相手の方が、だ。
るいがゴミまみれ。
【央輝】
「挑発して心理的に追い詰める手だ」
【智】
「……武器はありなんだっけ、説明だとかなり曖昧に書いてあったけど?」
【央輝】
「たまたま持っていたビールビン、たまたま落ちていたゴミ箱、
たまたま近くにあったプラカード、更には相手がしていた
ネクタイ……」
【智】
「いやいやいやいや」
全力で否定。
【央輝】
「おいおい、お前の仲間、足が止まってるぞ?」
るいが固まっていた。
【智】
「こりはヤバイかも」
ぷち、とかいう音がモニターごしに聞こえる。
【るい】
「たまたま落ちていた、」
【るい】
「120ccのバイクーッッ!!!!!」
【智】
「…………」
【央輝】
「…………」
【智】
「……たまたまってことでいい?」
【伊代】
「……あれ、落ちてたっていうの?」
【花鶏】
「駐車してあったのよ」
【茜子】
「ぐろ」
【花鶏】
「なんて泥臭い」
【茜子】
「泥臭いというよりもきっとゴミ臭いです、反吐のように」
【伊代】
「さすがにこれはペナルティーなんじゃ……」
【茜子】
「直接攻撃してないからセーフで」
【伊代】
「……いいのかおい」
【央輝】
「どのあたりが美少女軍団だ」
ぼそっと。
【智】
「………………見た目?」
異論は認める。
【央輝】
「本物のゴリラかアレは」
【智】
「ゴリラよりはレア度が高いと思います」
あっちも絶滅危惧種だけど。
【智】
「あれ、そっちのヤツ起き上がった。元気だなぁ。やっぱり倒れた」
【央輝】
「避けたときに捻ったか何かだな。あのゴリラも、直接ぶちあてなかっただけ、加減はしたらしいな」
【智】
「るいちゃんにも理性はありました」
なけなしですが。
それにしたって。
本当に頑張ってくれている。
るいには意味がないことなのに。
同盟だ。
名前を付けて結びつく。
そうでなければ結びつけない。
なぜなら。
秘密があるから。
呪い――。
【智】
「でも、利害は」
なくても。
きっと、るいは走る。
理屈を抜きにして。
【るい】
「ぶえっくしゅん」
【るい】
「うぐ、ぐす」
【るい】
「風邪かなあ」
【智】
「るいって、ホントにバカだねぇ」
今、僕はとても楽しい。
【伊代】
「体力屋、随分頑張るわね」
【花鶏】
「脳まで筋肉細胞でできてるせいじゃないかしら」
【茜子】
「……」
【花鶏】
「……?」
【伊代】
「……ナプキン貸そうか?」
【花鶏】
「誰がそういう話をしてるの!」
【伊代】
「あ、でも、なんか難しい顔してたから……」
【花鶏】
「ちょっと気にかかることがあっただけ」
【伊代】
「病人は頭使わず大人しくしてたほうがいいわよ?」
【花鶏】
「大人しくしてられるわけないでしょうに。
何度も言ってるでしょう。これは元々わたしの問題なのよ」
【るい】
「ターッチ」
【惠】
「たしかに」
【るい】
「それから一言言っとくけど」
【るい】
「私、まだそっちを信用したわけじゃないから」
【惠】
「負けるためにここにいると?
僕が、央輝のスパイだって言いたいわけだ」
【るい】
「みんないっぱいがんばってる」
【るい】
「私バカだから、そっちが何考えてるのかなんてわかんない。
けど――」
【惠】
「怖い顔だ。キミは本当に獣のようだね。優しく、鋭くて、純粋で」
【惠】
「指切りをしようか?」
【るい】
「指切り嫌いだから」
【惠】
「安心するといいよ。僕は、彼女とは友達以上になりたいんだ」
【央輝】
「二番手が出たぞ。ふん、そっちがリードしてやがる」
モニターは惠の俯瞰を映している。
一番手は予想以上に上手くいった。
問題はここから。
急あつらえのピンチヒッター。
ろくな仕込みもしていない。
【智】
「あーうー」
策士、策がなければただの人。
【惠】
「どうかな」
【惠】
「…………」
【惠】
「さすがに央輝の仲間だけのことはある。予想より早くついてくる。これだと、そのうち並ばれるかもしれないな」
【惠】
「いや、運命ほどには早くないかな」
【惠】
「君が、僕に付いてこれるといいが」
【伊代】
「え、今どっから出たの?」
【茜子】
「代理の変態生物……善戦、してますね」
【伊代】
「変態は、ないんじゃない」
【茜子】
「そうですね。では、変質者生物くらいで」
【伊代】
「生物つけても柔らかくなってない」
【花鶏】
「うー、またあだまがいだい…………」
【智】
「……そっちと知り合いだったよね」
【央輝】
「才野原か、ああ、多少は付き合いがある」
【智】
「聞いていい?」
【央輝】
「いけ好かないが役に立つ……そういうやつだ。それ以上は知ったこっちゃない」
【央輝】
「世の中の人間には三種類ある。役に立つヤツと、立たないヤツと、邪魔なヤツだ」
【央輝】
「邪魔なヤツは敵だ、敵は殺す」
首の後ろがちりつく。
むき出しの殺意。
刃物の鋭利ではなく、それは牙だ。
やわらかな喉に噛みつき引き裂くための。
【央輝】
「……お前、本当に妙なヤツだな」
【智】
「何が?」
【央輝】
「お前はそっち側の人間だ。わかるだろ。お前はこっちにはいない」
【央輝】
「誰だって赤い血の流れる同じ人間……なんてお題目があるが、
嘘っぱちだ。線があるんだよ。そっちとこっちは違うんだ」
【央輝】
「見えない、だが、深く、はっきりとした。境目だ。犬と狼の。
どんなにでかくなったって犬は犬、首輪を付けても狼は犬には
なれない」
【央輝】
「お前は犬っころだ、ただの犬っころだ。なのに、面白い。
どこにでもいる犬っころとは違う」
【央輝】
「最初に会ったときからそうだった。へらへらしやがって」
【智】
「……へらへらとは、酷いおっしゃりよう……」
【央輝】
「それなのに、壊れない」
帽子の下からのぞく、央輝の目が細くなる。
【央輝】
「普通のヤツはビビるんだ。あたしの近くに来ればな。犬だって
鼻が利く、自分の持ってない牙と爪がある相手のことは黙って
たってわかる」
【央輝】
「お前はしぶとい、腹が据わってやがる」
【央輝】
「どうして怖がらない?」
【智】
「……央輝を……?」
【央輝】
「他のことも全部ひっくるめて、だ」
鼻の頭が触れるほど間近に来た。
頭の上を見下ろせるほど小柄な尹。
ほとんど物理的な圧力が吹き付けてくる。
央輝が身につけている息苦しいほどの剣呑さは、
血の匂いをイメージさせる。
奇しくも彼女自身が言葉にしたように。
犬と狼。
悲劇的にステージが異なっている。
【智】
「買いかぶらないでよ。怖いにきまってるんだから、当たり前に。こういうのは虚勢っていうの」
【央輝】
「そうだな。確かにお前は怖がってないわけじゃない、そのあたりは人並みだ」
【智】
「……わかる……?」
【央輝】
「鼻が利くんだよ、狼だからな」
【央輝】
「お前が知ってるのは耐える術だ。しぶとく、頑丈に、壊れることなく、生き延びるための知恵だ」
【智】
「…………」
【央輝】
「誉めてるんだぜ?」
悪い大人のような、濁った笑い。
【智】
「ありがと」
誉められたので、お礼を言う。
知恵。
知っているのは、ささやかなこと。
諦めという名の知恵。
日々が不安定だという事実を納得する諦観。
偶然が支配する。
この世界のどんなものをも支配するのは、空の上にいて見えない誰かの寝ぼけ眼な思いつきで、汗水たらした努力も日々磨き抜いた叡(えい)智(ち)も、無意味に無情に押し流してしまう。
すぐ足下に恐怖があること。
それを知っているから。
耐えられる。
【智】
「…………それよりゲームは?」
話題を引き戻す。
【央輝】
「お楽しみだ」
【伊代】
「あいつ、中々カメラの範囲にでてこないわ」
【茜子】
「それはどういうことですか」
【伊代】
「コース取りが変なんだと思うけど」
【茜子】
「映った」
【花鶏】
「さっきより差が詰まってるわね……」
【茜子】
「それでもまだリードしてます」
【惠】
「…………」
【通行人】
「あ、なんだ、このやろうっ。
いきなり走ってきてぶつかりやがって!」
【寡黙な会社員】
「……」
【2年目のOL】
「きゃー、いたーい!」
【酒屋の店主】
「おまえ、ちょっと待てぇ!」
【惠】
「今日も騒がしいね」
惠のリードが詰まっていく。
【央輝】
「経験値の差がものをいってるってわけだ」
【智】
「そっちのひとは慣れてるんだっけ」
【央輝】
「ゲームの経験が豊富だからな。が、才野原のやつも予想以上だ。土地に詳しい。こっちの知らない妙な抜け道を幾つも使ってるようだ」
モニターに惠の姿。
雑踏を流れに逆らって突き抜ける。
予想外なことにリードしていた。
距離は小さいが、一度も抜かれていない。
【智】
「…………っ」
繁華街の人混みを横断し、
ビルの中をくぐり抜け、赤信号を飛び越える。
頑張って頑張って頑張って。
声援を送る。
予定は全部狂う。
計画は破れる、予告は失われる、未来は変わる。
ただの一つも叶わない思惑。
どれだけ賢しく小細工を弄しても、世界は罠を飛びこえて、
後ろから急所を刺しにやってくる。
偶然と呪いでできた、この小さくて醜い世界に生きる、
僕らの持つ知恵の限界。
それを日々思い知りながら。
【智】
「…………頑張って…………」
信じていいのか?
言葉よりもずっと難しい。
信頼、友情、絆。
世間的に尊ばれる無私の絆。
言葉にすれば希薄になって消えてしまいそうになる。
本当は、誰も信じられない。
信じることは、命を落とすこと、だから。
【智】
「や……っ!?」
【伊代】
「……このまま勝ってくれる? 信じていいの?」
【茜子】
「人の善意を鵜呑みにすると足下すくわれます」
【伊代】
「そうね、そうだと思う。でも……だから……それでも正しい事っていうのは、人の中にしかないんだと思う……」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「あー、頭痛い…………」
【伊代】
「お?」
【智】
「止まった!?」
惠が動かない。
【智】
「ゴールはすぐそこなのに!」
【央輝】
「…………」
後ろから追いついてくる。
まずい。
こよりにはリードが必要なのに。
ちっちゃなウサギがチームの一番の弱点だ。
惠……。
【伊代】
「……ッ!」
【茜子】
「動きませんね」
【伊代】
「まさか、そんなの、ここまできて!」
【花鶏】
「…………」
【惠】
「…………」
【尹チームの二番手】
「――――――っ」
【尹チームの二番手】
「ぬぐぁっ!?」
【智】
「……ッッ」
蹴った!?
たまたま落ちていた(?)
看板を蹴って吹っ飛ばした。
相手を坂道の下までたたき落とす。
【花鶏】
「思いの外過激なヤツだったわけね…………」
【伊代】
「ちょ、あーいうのはありなわけっ!?」
【茜子】
「直接攻撃じゃないので、ルール的にはオッケーです」
【伊代】
「乳ゴリラといい、あいつといい……
き、禁止されてなきゃ正しいってわけじゃないんだから」
【茜子】
「勝てば官軍」
【央輝】
「…………武闘派だな」
呆れていた。
【智】
「ごめんなさい」
這い蹲りそうな勢いで。
美少女軍団、名前負け……。
【智】
「ルール的には……?」
るいのやったのより、ボーダーなんじゃ。
【央輝】
「盛り上がってるな」
【智】
「なにが……?」
【央輝】
「オッズ」
パルクールレースは賭けの対象にされている。
最終的な勝敗の他に、各プレイヤーのトリックや、
区間での勝敗などにも賭けがある。
らしい。
【智】
「盛り上がってるから問題なし?」
【央輝】
「今のところは」
【央輝】
「これで、またお前たちがリードした」
【智】
「余裕あるね、二連戦で負けてるのに」
【央輝】
「それくらいはハンデにくれてやる」
戯れるように鼻をつままれた。
【央輝】
「お前たちこそ大丈夫か? 三番手はネックなんだろ」
見抜かれる。
【智】
「あれでも、うち一番の逃げ上手なんだよ」
【央輝】
「勝負でモノを言うのは力や技術より先に、気合いだ」
【智】
「少年漫画みたいなことを」
【央輝】
「意志だ。力も技術も、意志がなければなにもならない。
泳げるやつでも手を動かさなければ沈んでいく」
央輝がつまらなそうに吐き捨てる。
精神力は最初の前提だ。
愛と勇気と根性でラスボスは倒せないが、
愛と勇気と根性がなければ冒険の旅に出られない。
【央輝】
「追い詰められたのが犬なら戦えるが、ウサギはどうだろうな。
逃げるだけのウサギは、エサだな」
ウサちゃん……。
【央輝】
「武闘派美少女軍団か」
【央輝】
「面白みはあるな。
いいさ、あたしが勝ったら、せいぜい上手く使ってやる」
【智】
「ひとつだけお願いが……」
【央輝】
「言ってみろ」
【智】
「武闘派美少女軍団っていう、泥臭い名前、なんとかならない
かしら……?」
【央輝】
「ならない」
【惠】
「あとは任せるよ」
【こより】
「ひゃう〜」
【惠】
「君は自分のできることを果たせばいい。僕がそうしたように」
【こより】
「あー、うー、たー」
【こより】
「と、とりあえず、こより行きます……」
【こより】
「いー、うー」
【こより】
「あ〜〜〜〜! やっぱり、こういうの、こよりには向かないですです……」
【こより】
「王子様王子様……」
【こより】
「どうかわたしを守ってください。か弱いこよりを地獄の黙示録に放り込んじゃったりする血も涙もないセンパイめに、どうか天の裁きをお下しください〜(>_<)」
【こより】
「にゃわ〜〜〜」
【こより】
「このまま最後まで何事もありませんよーにー」
【伊代】
「さっきからキョロキョロしてどうしたのよ。病人は大人しくって何度……そ、それとも頭痛がひどいの?」
【花鶏】
「妙な連中がこっちを見てたわ……」
【伊代】
「それは妙な連中くらい掃いて捨てるくらいいるでしょうよ。
わたしたち、妙な連中のまっただ中にいるんだし」
【伊代】
「それに、どちらかっていったら、わたしたちの方がここだと
目立つんじゃない? 制服なのよ、しかも、」
【茜子】
「美少女軍団」
【伊代】
「いやな名前ね」
【花鶏】
「さっきから3回も、こっちを……」
【伊代】
「興味本位じゃないの、目立ってるんだから」
【花鶏】
「智が言ったこと、もう忘れたの?」
【伊代】
「あ、で、でも、だからって……」
【花鶏】
「……智に連絡は?」
【茜子】
「つきません。ランナーは携帯持ってませんから」
【花鶏】
「こういうのは智の領分でしょうに……」
【茜子】
「どいつなのですか?」
【花鶏】
「あいつ」
【茜子】
「そんなに?」
【花鶏】
「わからないわ。女の勘よ」
【花鶏】
「でも、こんなところで台無しにされたくない」
【茜子】
「台無し」
【茜子】
「…………皆、がんばっていますよね」
【花鶏】
「自分のことだからよ」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「どうかしたの、あなた?」
【茜子】
「行ってきます」
【伊代】
「ちょ、なにするつもりなの!?」
【茜子】
「確かめてきます」
【伊代】
「なに危ないことしようとしてるの! それに、あなたが行って
どうにかなるもんじゃないでしょう!!」
【茜子】
「……なります」
【伊代】
「な、なにいってんの」
【茜子】
「これは元々私のことです。そこの白髪の言う通りです、
なにもせずに結果だけ受け取るわけにはいきません」
【茜子】
「ある阿呆がいいました。私たちは同盟だって」
【茜子】
「利害の一致だ、力を合わせる」
【茜子】
「手を出された分だけ手を貸し付けます。無担保貸し付けは
ノーセンキューです。私たちは五分と五分ですから」
【花鶏】
「いい覚悟ね。そういうの素敵だと思う」
【伊代】
「で、でも、その、どうやって……」
【茜子】
「大丈夫」
【花鶏】
「なにをするの?」
【茜子】
「魔法を使います、魔女だけに」
【伊代】
「魔法……?」
【茜子】
「呪文はパピプペポ多めで」
【智】
「よい感じでリードが広がってるけど、いいの」
こよりがバタバタと踏ん張っている。
【央輝】
「ここまで競るとはな」
【智】
「手段を選ばず勝ってますから」
問題は我らが三番手。
こよりはプレッシャーに弱い。
接戦になったらまずかった。
先にどれだけリードを開けられるか。
惠に助けられた。
暴力勝ちだったけど……。
【智】
「…………にょほ」
惠が真剣に助けてくれたことが、
ちょっと嬉しい。
【智】
「あの告白だけなんとかなってくれれば……」
人生とはままならない。
【央輝】
「最後までこのままいけばな」
手慰みか、ライターを擦る。
【智】
「どういう意味?」
【央輝】
「大した意味はない」
【央輝】
「どこにでもトラブルはある、そうだろ」
不安をつつかれる。
【央輝】
「それに最後は、あたしとお前だ、これくらいハンデがあった方が盛り上がる」
【智】
「僕は手段を選ばず勝ちに行きますよ」
【央輝】
「ルールは覚えてるな?」
【智】
「そりゃあもう」
借金の契約書くらいの勢いで目を通した。
【央輝】
「もう一つイイコトを教えてやる」
【央輝】
「あたしも手段は選ばない主義だ」
【茜子】
「!!!!!!!!!」
【伊代】
「どうしたの、面白い顔して?」
【茜子】
「!!!!!!!!!!」
【花鶏】
「焦ってるんじゃないの、それ……」
【伊代】
「これが……そうなの?」
【茜子】
「ぐぎっ」
【伊代】
「ぎゃー」
【茜子】
「大変です」
【伊代】
「わ、わたしの指が大変なことに……」
【花鶏】
「ちょっと、響くから大声だして揺らさないでって……」
【茜子】
「ウサッギーが狙われています」
【伊代】
「なによそれ?! どういうこと」
【茜子】
「詳しくはわかりませんけど」
【花鶏】
「わからないのにどうしてわかる?」
【茜子】
「それはともかく」
【花鶏】
「流すのね」
【茜子】
「たぶん、ズルを」
【花鶏】
「イカサマ……?」
【茜子】
「それ」
【伊代】
「なんですって?」
【花鶏】
「智の言ってた通りなわけ……当たり前か。ギャンブルですものね、大金が動くならなんでもありよね」
【伊代】
「ルールなんて知ったこっちゃない、世の中勝った方の勝ち……」
【花鶏】
「ばれなければ、そういうものよ」
【花鶏】
「裏側をぐるっと回してぶっすり」
【伊代】
「…………っ」
【花鶏】
「どうやって、鳴滝を狙うの?」
【茜子】
「それはちょっと……」
【伊代】
「わからないことが多いわね」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「何か証拠は? あなたの勘違いってことはない?」
【茜子】
「…………」
【伊代】
「信じ、られるの……?」
【花鶏】
「…………」
【茜子】
「……証拠はありません。信じてもらう以外にないです、なにも」
【伊代】
「どう、するのよ?」
【花鶏】
「…………いいわ、信じよう」
【伊代】
「ちょ、いいかげん過ぎない!? 根拠もなしに!」
【花鶏】
「悩んでる時間もないわ。なにか仕掛けてくるなら、鳴滝が
走り終えるまでだから、一分一秒を争う」
【伊代】
「それは、そうだけど……」
【花鶏】
「とりあえず問いただしてやるわ」
【伊代】
「あ、ちょ、ちょっと、あんた病人……」
【茜子】
「行っちゃいました」
【伊代】
「やっぱり、あの日で頭に血が足りてない」
【茜子】
「血が上ってるのでは」
【伊代】
「……えっと、あのね」
【茜子】
「なんでしょう」
【伊代】
「さっきは怒鳴ってごめんなさい。八つ当たりだった」
【茜子】
「……正直生物」
【伊代】
「何か言った?」
【茜子】
「別に」
【花鶏】
「だめだわ、ぜんぜん取り合いやがらない。らちがあかない、ああ、頭が痛い……」
【茜子】
「ミニマムは今どこに?」
【伊代】
「現在地は配信してるカメラのフレーム外」
【茜子】
「相手の方はほとんど映ってるのに、どうして私たちの方は
映らないんですか?」
【伊代】
「ウチの詐欺師のルート指定がデタラメだからよ。
通れないようなとこばかり指定してたじゃないの?」
【こより】
「すーいすーいすーい」
【こより】
「あう〜、なんかトイレの窓ってばっちー気がしますよ〜。
スカート汚れたらどーしよー。もうちょい女の子っぽいルート
お願いしたかったり……」
【こより】
「センパイ……もしかして、
鳴滝はセンパイに恨まれておりますか……」
【こより】
「もう少しマシな道……ちちちちちち(泣)」
【伊代】
「さっきこのカメラに映ってたから、地図で言うと、ここからここまでのどこかにいると思う」
【茜子】
「そういえば、陰険姑息貧乳と一緒に下見にいったら、げっそり
して帰ってきてました」
【花鶏】
「あんなローラー着けてて、よくそーいう、わけのわかんないとこ通れるものね……」
【伊代】
「……あんた達、二人がかりで追いかけ回したんでしょ?」
【花鶏】
「そういうこともあったわね」
【茜子】
「時間がありません」
【花鶏】
「鳴滝に連絡は……?」
【伊代】
「だから、ランナーは携帯を持ってない」
【花鶏】
「智も駄目か……」
【花鶏】
「智なら尹に談判してなんとか……」
【伊代】
「……どうするの?」
【花鶏】
「智のところまで連絡をつけにいけば」
【茜子】
「その間に、ろりりんの方が」
【花鶏】
「でも、鳴滝の方は居場所もわからないわ」
【茜子】
「ルートはわかります」
【伊代】
「そうよ、中間のポイントで待ってればどう?」
【花鶏】
「それまでにやられてたら」
【伊代】
「う〜〜〜〜〜」
【伊代】
「…………時間、ないわ。あの子を追っかけるしか」
【花鶏】
「どうするつもり? 方法がなければ絵に描いた餅よ」
【伊代】
「そういえば! あなた、バイクは?」
【花鶏】
「乗ってきてる」
【伊代】
「それで直接」
【花鶏】
「鳴滝がどこにいるのかが……」
【伊代】
「それは教える」
【花鶏】
「だから、どうやって」
【伊代】
「それは任せて」
【茜子】
「…………」
【花鶏】
「…………本当に任せていいのね。
言い出した以上責任は取ってもらうわよ」
【伊代】
「自分で言ったことと決めたことは守る主義なのよ」
【花鶏】
「あなたも大概身勝手だこと……」
【茜子】
「お互い様の身勝手様々」
【花鶏】
「言っておくけれど。わたしは誰にも頼らない、誰の力も借りない、助けを願ったりしない」
【伊代】
「助けるんじゃないわ、きっと。わたしたちは同盟なんでしょう?」
【花鶏】
「契約と代価ね。対等の関係。いいわ、居場所は携帯で連絡を。
わたしは行くわ」
【茜子】
「……身体の方は?」
【花鶏】
「まかせておきなさい」
【伊代】
「よろしく。じゃあ、後で」
【花鶏】
「そうね、後で。何もかも上手く片付いてから」
【茜子】
「それで、ピン髪の居場所は?」
【伊代】
「今から調べる」
【茜子】
「……そんなこといってたら」
【伊代】
「大丈夫。今の世の中、オンラインのやつが町中にあるんだから、なんとかなる」
【伊代】
「……たぶんだけどね。上手くいったら拍手喝采」
【茜子】
「本当におまかせしても大丈夫そうですね」
【伊代】
「ちょ、あなた、どこいくの」
【茜子】
「花鶏さんを手伝ってきます。病気のときは桃缶な感じで」
【伊代】
「わからない、そのたとえはちょっとわかんない」
【茜子】
「行って参ります」
【花鶏】
「ちょっと、わたしは急いでるの。邪魔をしないで」
【花鶏】
「退かないつもり? それともホントに邪魔だてするの?」
【花鶏】
「……あなた、どなた?」
【花鶏】
「そういえば見張りがいたんだったわ。
わたしたちが妙なことしそうなら、引き留める役ってわけね」
【花鶏】
「ゲームの決着がつくまでは、こっちに下手な手出しをすると尹が怒るんじゃないかしら? あの子、話の筋の通し方には、うるさそうだったけれど」
【花鶏】
「ふーん、言葉がわからないのかと思ったけれど、こっちの言うことはわかってるみたいね。それでも退かないつもりらしいけど、こっちも急ぎなの」
【花鶏】
「…………手段は選ばないって顔ね。そう、そういう事ならこっちもこっちでそのつもりになるわ。後悔する前に、手早く言っておいてあげるけれど」
【花鶏】
「後ろが危ないわよ」
【花鶏】
「消火器で殴るなんて、やるわね」
【茜子】
「今日は特急です」
【花鶏】
「お前は、いいからそのまま寝てなさい」
【茜子】
「平成残酷物語」
【花鶏】
「大丈夫、峰打ちよ」
【茜子】
「峰関係ないと思います」
【花鶏】
「ああもう頭いたい……いくわよ、茅場」
【茜子】
「はい」
【智】
「流れがなんだか変な気が」
【央輝】
「まだそっちのリードはあるな」
【智】
「そうなんだけど」
こよりがビルから飛び出してくる。
インラインスケートでするする走る。
出口で住人とすれ違い、危うくニアミス。
くるり。回避。
【央輝】
「うまいもんだな」
腕を組む。
思いの外順調に行ってるせいだろうか、逆に不安をかきたてられる。
【智】
「……がんばれ、こよりん」
【こより】
「ひふー、はふー、はひっ、はひ、ひー」
【こより】
「せんぱ〜い」
【こより】
「鳴滝は死んじゃいそうでございますー」
【花鶏】
「白鞘はなんて?」
【茜子】
「地図だと3dのあたりの交差点の裏側を通過」
【花鶏】
「それってどのあたり?」
【茜子】
「たぶん、そこ右です」
【花鶏】
「たぶん」
【茜子】
「おそらく」
【花鶏】
「スピード出すからしっかりつかまってないと落ちるわよ」
【茜子】
「スピード違反は犯罪者です」
【花鶏】
「わたしの法はわたしだけよ」
【茜子】
「社会的不適合者の台詞ですね」
【茜子】
「ところで、茜子さん、一つ質問があります」
【花鶏】
「なにかしら」
【茜子】
「たしか、愛馬は原付だと聞いた覚えが」
【花鶏】
「原付だったわ」
【茜子】
「これは、はっきり言ってドデカイン」
【花鶏】
「うふ、ふふふふふ…………」
【茜子】
「こけたら起こせなさそう」
【花鶏】
「………………ッッ」
【茜子】
「マジか、そうなのか。
つか、なんで、そんなもの持ってるのか、この人」
【花鶏】
「人には戦わないといけないときがあるのよ!」
【茜子】
「我が身に余る力を得ようとして滅びるのは悪役のサガ」
【花鶏】
「いいから早くつかまりなさい! 死ぬ覚悟で飛ばすんだから!」
【茜子】
「………………」
【茜子】
「はい」
【花鶏】
「いつも手袋してるのね」
【茜子】
「愛してますの」
【花鶏】
「そう」
【花鶏】
「それよりも、一体どうやって、鳴滝を狙うつもりなのかしら」
【茜子】
「くわしくは……」
【花鶏】
「わからない、か」
【茜子】
「でも、たぶん……事故、みたいな感じで」
【花鶏】
「みたい?」
【茜子】
「たぶん」
【花鶏】
「色々とよくわからないものなのね」
【茜子】
「ごめんなさい」
【花鶏】
「…………」
【茜子】
「なにか?」
【花鶏】
「素直に謝るところは初めて聞いたわ」
【茜子】
「……忘れました」
【花鶏】
「そう」
【茜子】
「ベレー帽が謝るところ、聞いたことないです」
【花鶏】
「頭を下げるくらいなら相手を殺るわ」
【茜子】
「本気ですか」
【花鶏】
「でも、事故か。いよいよ冗談ごとですまなくなってきたわね」
【茜子】
「消火器殴打は冗談で済むでしょうか」
【花鶏】
「たぶん」
【茜子】
「あてにならない」
【花鶏】
「えーっとどこかしら。こっちのルートは、智がかなりアドリブ
利かしてるわけだから、動きは読みにくいだろうし」
【花鶏】
「どれくらいやるつもりかしら……?」
【茜子】
「死ぬとかじゃ、ないと思いますけど」
【花鶏】
「たぶん?」
【茜子】
「はい」
【花鶏】
「そういうことなら一番いいのは……?」
【茜子】
「ムギュー」
【花鶏】
「交通事故!」
【茜子】
「事故りました」
【花鶏】
「大きな事故は必要ない。死んだりしたら後が面倒だし、
邪魔するつもりだけなら骨の一本でも折れば」
【花鶏】
「あっち側に、鳴滝の居場所がわかる位置で、大きめの道、車……バイクでいい、たぶんバイクが入れて、絶対に通過するような――」
【茜子】
「道の区別がつかないです」
【花鶏】
「大きめの道を教えて、先回りして合流できそうな」
【茜子】
「えーと、えーと、えーと」
【花鶏】
「あー、もう、こよりちゃんの今の居場所は!?」
【央輝】
「またチビうさが見えなくなったな」
ライターを放り投げて弄ぶ。
余裕。
こっちがかなり有利なのに焦りもしない。
【智】
「そだね」
こよりはカメラマンが追えないところを走っている。
下見に来たとき、泣き出した場所を走らせてます。
僕は鬼か!?
まあ、しかたない。
他に勝ち目がなかったし。
鬼にもなろう、悪魔にも堕ちよう。
策というより駄策の類。
奇策というよりイカサマだ。
【智】
「ごめんね、こよりん」
手を合わせて、無事を祈る。
【こより】
「ふーいー、もーちょいだー」
【こより】
「こより選手、最後のラストスパートです。ゴール周辺では押し寄せた一億七千万の大観衆が歓呼の声で出迎えております」
【こより】
「ビバー!!!!!」
【こより】
「ん?」
【こより】
「にょ、にょわ――――――――」
【こより】
「――――――――わわわわわわわあああああああって、あれ、
花鶏センパイに茜子センパイ!?」
【茜子】
「間一髪だったのです」
【こより】
「うは、でっかいバイク……あれれ、わたし何でこんな所に、
いえ、それよりも」
【こより】
「気のせいかもしんないのですけど、今し方なんか、もう1台
バイクが突っ込んできて、バーンと炎が燃えて交通事故の
走馬燈が一生分キラキラ巡って」
【こより】
「果てし無き、流れのはてに……麗しの白馬の王子様が約束通り迎えに来てくれたりした感じがしてましたけど……」
【花鶏】
「轢かれかけたのは本当よ」
【こより】
「ほ、ほえ?」
【花鶏】
「危機一髪だったのを、かっさらって助けたの」
【こより】
「それって映画のヒロインみたいッス〜!」
【花鶏】
「わかってないわね」
【茜子】
「ヒロインになるなら、テキサス・チェーンソーとか、
茜子さんお勧めです」
【こより】
「なんかおいしそーです!」
【茜子】
「きっと(チビうさは)おいしいですね」
【茜子】
「ところでひき逃げ未遂犯は?」
【花鶏】
「逃げたわね、当たり前だけど」
【茜子】
「そうですか。では、こよりん生物。お話があります」
【こより】
「うす、こよりんです。大人の都合により20歳です!!」
【茜子】
「あなたが危機一髪です」
【こより】
「はい?」
あ、見えた。
【智】
「こよりんだ、リードのまま来た!」
【央輝】
「ふん」
【こより】
「ひい、ひい、ひしいいいい」
【智】
「燃えてるなあ」
【央輝】
「せっぱ詰まってるんじゃないか?」
【智】
「こよりー、こっちこっち、早くタッチー!」
【こより】
「うひひひひひひひいひひひひひひひ」
【智】
「笑いながらゴールインなんて、もしかして余裕でした?」
【こより】
「心底死ぬかと思ったです!!!」
胸ぐらを掴まれました。
【智】
「そ、それはご無事で何よりです……」
すごくびびる。
【こより】
「実は花鶏センパイと茜子センパイが、」
【智】
「んじゃ、華麗にラストを決めてくるからね」
向こうの央輝がスタートする前に、
ちょっとでもリードを広げておきたい。
【こより】
「あ、お話……」
【智】
「また後で」
【こより】
「…………はい、わかりました。センパイ、鳴滝待ってますから。また後ほど」
【伊代】
『あの子は無事についてアンカーが出たわ』
【茜子】
「…………だそうです」
【花鶏】
「それは、なによりね……」
【伊代】
『んで、白頭は?』
【茜子】
「女としての人生の苦役がぶり返して伏せっています」
【伊代】
『お大事に』
【茜子】
「あとは智さんが」
【伊代】
『無事に勝ってくれれば良いんだけどね……』
【花鶏】
「ここまでして、負けたら、あとで、ただじゃおかないわよ……」
夜がくる。
陽が落ちる。
吸血鬼が後ろからやってくる。
尹央輝。
【智】
「うう……」
速いよ。
夜の街がざわめく。
パルクールレース。
コースは街で、そこにあるのはどれもこれも障害物だ。
【智】
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
自分の息づかいに混じる、別のリズム。
【央輝】
「ふっ……ふっ……ふっ」
央輝は着実に距離を詰めてくる。
夜がそんなに得意なのか。
ホントに本物の吸血鬼ですか!?
表通りの人の流れをかき分ける。
ぶつかり、とびのき、逃げ回って。
後ろから怒鳴り声。
ネオンが煌めく。派手な音楽が充ちる。
帰宅の人の列に割り込んで。
流れる車の横に並ぶ。
非常階段から飛び降りる。
ごろごろ転がって立ち上がる。
実際に走ってみないとわからない。
普通の持久走や短距離よりも消耗する。
体力以上に精神力が。
【智】
「ペースを、保って、なんとか」
障害物もコースもばらばら。
ビルを上って下りたりもする。
日が暮れていた。
視界がぐっと悪くなる。
どうしても乱れるペースをどうやって保つか。
【智】
「ひゃ」
ぞっとした。
聞こえるはずのない足音が確かに聞こえた。
央輝が近い。
姿は見えない。
夜は彼女の世界だ。
本物の牙を持つ生き物が棲む。
僕らは昼の生き物だ。犬と狼は違うモノだ。
狼は死に絶えた。
この国ではそういうことになっている。
でも彼らは生きている。
知らないだけで。
彼らの世界で。
【智】
「あー」
追いつかれるのはマズイ。
増速。
【智】
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ」
走る。走る。走る。
ハシゴを登る。
螺旋階段を駆け下りる。
エレベーターを途中で下りて、
踊り場の窓から外の屋根伝いに雨樋を滑り降り、
お隣のビルの屋上へジャンプする。
路地の上、ビルの間を幅跳びする。
下から猫が見上げながら、
尻尾を振ってニャーと鳴いた。
夜を駆け抜ける。
夜に生きる狼の真似をして。
ガードレールを横っ飛びに飛び越えて、ポーズを付ける。
余裕があるとトリックが入る。
加点プラス5。
【智】
「あとどれくらいだっけ……」
【央輝】
「三分の一くらいだ」
【智】
「ぎゃわっ!!」
ビル壁面に作られた非常用の螺旋階段の中程。
央輝と遭遇した。
【智】
「どっから生えたの、早すぎるよ!!」
泣きを入れる。
非常階段を央輝は上へ、
こちらは下へすれ違う。
屋上には途中のチェックポイントが。
距離差はほとんど縮まっている。
体力にはそこそこの自信があったのに。
小さな央輝は小さな巨人だ。
【智】
「おにょれ、このままでなるものか。ファイト一発……」
相手は瞬発力がある。
細く華奢なくせに肉薄してくる。
軽量だから加速が良いのか。
【智】
「このままだと、おいつかれちゃう……」
【智】
「なんていうか、愛奴の未来が見えてきた感じ」
キラキラと。
【智】
「いや〜〜〜〜〜〜ん」
走りながら天を仰いだ。
マジ、負けるわけにはいかんとです。
全員でがんばったのに。
ここまできたのに。
僕が足を滑らせてお終いなんて以ての外だ。
責任は感じなくていいから。
こよりを籠絡するときに、自分で言った。
詭弁だ。
関わる全員に責任を負う。
それが手を繋ぐことの代償だ。
美しくも残酷な戒めだった。
【智】
「ほぁ、ほぁ、ほぁぁっ、ほあたぁっ」
路地を抜ける。
裏道を通る。
坂道を全力疾走で転がる。
ひょいと見上げた。
古ビルの上に浮かぶ月を、黒い影が横切った。
蝙蝠みたいにビルからビルへ跳ぶ。
本物の吸血鬼――。
【智】
「尹央輝……」
顔も見えない距離で確信する。
まずい。
正規のルートより一見遠回りに見える。
どういうルート通られてるのかわかんないけど。
けど、央輝に敵に塩を贈る趣味なんてあるわけがないから、
あれはリスクを犯す価値のあるショートカットだ。
【智】
「……あぇいぅ」
まずさ百倍。
こうなると、最大のネックは僕になる。
るいみたいな乙女力も、
こよりみたいなムーンライトウサギパワーも持ってない。
【智】
「ぎにゃーっ!!!!」
叫んだ。
呪われた未来がすぐそこに。
【るい】
「私、信じてる」
【惠】
「宿命というのは振り切れないんだよ、いくら走ってもね」
【伊代】
『現実って、やっぱり厳しいかも……』
【茜子】
「だそうです。聞こえてますか?」
【花鶏】
「聞きたくないわ」
【こより】
「ふれー、ふれー、センパーイ♪」
央輝がいた。
ほんのちょっと先行されている。
向こうのペースは落ちている。
【智】
「はは、やっぱ無理した分だけ疲れてますね、明智君……」
追う。
距離が詰まらない。
離されないだけで精一杯。
【智】
「ひぃ、ひっ、ひぃぃ」
こっちのペースも落ちていた。
足も手も重い。
理屈に合わない間尺に合わない打つ手がない。
どうした、打つ手は終わりか?
終わりだ、万策尽きた、全部なくなった。
帽子の中に残りはなかった。
種のなくなった手品師と失敗した詐欺師くらい
惨めな生き様はそうないと思う。
コースは終盤。
物理的にショートカットもないのなら。
ここからは地力の勝負。
疲労で足がもつれた。
【智】
「あいどぅー!」
暗黒の未来を嘆く叫びを。
電柱にすがる。
休む間もなく走行再開。
【央輝】
「ふん」
笑われた。
こっちの状態を見透かされてる。
勝ち目が遠のく。
よろしくない人生だった。
情けなくって、厳しくて、未来がなくて。
ずっと嘘をつかなくちゃいけない、そんな日々。
狭苦しく孤独な道のりを考えて考えて考え抜いて一歩一歩前進
しても、世界はいつでも片手間の戯れにテーブルをひっくり
返して嘲笑(あざわら)う。
偶然と不幸が幸運にすり替わる。
気がつけばいつだって薄暗い。
――――――――どうして僕だったんだろう。
それは夜眠る前に、何度となく繰り返した答のない問い。
呪われた人生。
どうして僕を選んだのか。
他の誰でもよかったのに。
ペースが乱れて息苦しい。
足だけを動かしてとりあえず前に。
走馬燈のように苦悩が巡る。
やだなあ。
この若さで走馬燈とか。
別に死ぬわけじゃないんだし。
央輝は善人には見えないけれど、
そこそこ僕のこと大事に重宝してくれるかも……。
囚われて。
塞がれて。
繋がれて。
その程度じゃないか。
どのみち呪われた人生なら。
何一つ得るものもなく、孤独に歩む。
呪い。
呪い呪い呪い。
いずるさん。
いかがわしい女の人が、愉しそうに嘯く。
僕も囁く。
呪い。
その忌まわしい言葉を。
ずっと一人でいた。
誰にも心は許せない。
誰かといると気が休まらない。
孤独な部屋の小さなベッドの上に帰ってきて、
夜一人になるとほっとする。
誰もいなくて安心する。
いない方がいい、だって秘密があるんだから。
呪われているんだから。
後ろを見る。
夜だけがあって何も見えない。
呪いは、きっとどこまでも追ってくる。
逃げてもいつかは追いつかれるんじゃないだろうかと、
ことある毎に振り返る、そんな生き方をしなくちゃいけない。
【智】
「はぁ、ひぃ」
前へ走る。
央輝の背中を目指して。
どうやっても追いつけない。
こんなに息を乱して走っているのに。
速度では変わらないのにライン取りが違う。
人生の道か。
狼と犬の差は、遺伝子レベルで超えられない。
【智】
「――――ッッ」
長い階段が目の前に。
行く手を阻む壁のように。
ゴールへの最後の障害物だ。
心臓が壊れそう。
とにかく考えるのをやめて走る。
【智】
「すごい……」
央輝は凄い。
体格は絶対的に恵まれてない。
小柄な女の子。
物理的限界がある。
それなのに。
ここまで走る。
るいみたいな馬鹿馬鹿しいぐらいの違いがないのが、
かえって見えない努力を意識させた。
じりじりと引き離されていく。
【智】
「にゃーっ!!」
やけになる。
二段飛ばしで駆け上がる。
転んだ。
全力疾走していたのでごろごろと。
【智】
「にゃあああああ!!!!」
階段から落ちる。
下にはゴミ置き場が。
落着。
ゴミ塗れに。
【智】
「な……るほど……最後にはゴミまみれになる人生か……」
上手いことをいってみる。
【央輝】
「どうする?」
階段の半ばで央輝が待っていた。
口元に冷笑を。
高いところから傲岸に見下ろす。
選択肢を突きつけてくる。
続けるか、否か。
犬は犬、狼は狼。
生きる世界が違う分、勝ち目がない。
負傷リタイヤはどうだ?
【智】
「は、は、は…………」
弱い考えが足首を掴んでいる。
考えるのは僕の悪い癖だ。
夜の道は見えないから恐ろしい。
でも。
見えすぎることも恐ろしい。
諦観と停滞。
1パーセントをゼロにするのは弱い心だ。
考えすぎれば道がふさがる。
ほら、こうやって考える。
わかっているのに止められない。
知恵の呪い。
誰だって、きっと、呪われている。
足の力が抜ける。
このままへたり込んでしまえば、きっと楽だ。
呪いが僕の足を掴んで……。
愛奴隷。悪くないかも。
(呪われた世界を――)
【智】
「…………っ」
萎えかかった足を気力で支えた。
ビルの壁にすがりついて、
潰されたカエルみたいな不格好で立ち上がる。
腕も足も脇腹も肩も首も。
どこもかしこも痛みに軋む。
気を抜けばそれっきり起き上がれない。
もう止めろと理性が警報を鳴らしていた。
だって勝ち目はない。
このまま続けても勝機なんて億に一つ。
白黒はついた。
ここで仰向けに倒れて。
諦めて。
――――――――立て
自分の中の何かが命じる。
どうにもならないのに投げ出せない。
それは答を探す行為ではなく、
わかりきった結末へと辿り着くための愚かな前進。
なのに。
【智】
「……まっ…………たく……」
どういうわけか、
最近はいっぱいっぱいな事ばかりだ。
星の巡りでも悪いのか。
【るい】
(――――若いうちから夢なくしたらツマんない大人になるよ!)
夢も希望も最初からあるもんか。
僕らはみんな呪われている。
震える足で。
一歩。
【花鶏】
(――――赤の他人の身代わりになって自己犠牲するのが
性分なわけ!?)
冗談じゃない、
マゾっぽい趣味は願い下げだ。
立つのは自分のために、自身のために。
負ければ身売りの運命なんだから。
もう一歩。
【茜子】
(――――茜子さんの問題に、勝手にずかずか入り込まないで
ください)
まったく同感だ。
他人のことなんてわかりはしないのに。
いつだって知ったふうな口を叩いて。
足がもつれる。
それでも三歩目。
【伊代】
(……ほっとけなかったから)
なんて曖昧で胡乱な理由。
見えないもの、
在るかどうかもわからないもの。
そんな、頼りないものを頼りにするのか。
【智】
「……できるわけ……ないでしょ……っ」
四歩目と五歩目を踏みだして。
早く逃げ出そうと思ってた。
それなのに、こんなところまでやってきた。
どこで選択肢を間違ったんだろう。
【こより】
(――――逃げても逃げられない。捕まっちゃう。やっつける
しかない)
逃げられない。捕まっちゃう。
いつでも最後は追いつかれる。
それなら、いっそ。
(呪われた世界を――)
どうするんだっけ?
世界を。
一人じゃなくて。
皆で。
【智】
「はぁ、はぁ、はぁ」
あぁ。
はじめて出会った。
あの痣と。
あれは……。
聖徴(せいちょう)といい、烙印という。
【智】
「……僕たち、同じ……」
同じ徴を持っている。
ようやく出会えた、孤独ではなくなる、
一緒にいてくれる誰か。
【智】
「せっかく、なのに……」
負けるのか?
(呪われた世界をやっつけよう)
約束したんだっけ。
言ったのは僕だ。
るいは関係ないのに力を貸してくれた。
こよりは泣きながらでも参加した。
伊代はいいやつだし。
花鶏や茜子だって。
ちょっとだけ、力がわいた気がする。
あまり感じたことのない力。
自分以外の誰かがいるから。
こういうのは、なんていうんだっけ?
少年漫画が好きそうなやつ。
見えないモノにつく名前。
そう、
同盟だ。
【智】
「…………まだまだ」
【央輝】
「しぶといな」
【智】
「条約が……あって……やめると……きっとひどい目に……」
【央輝】
「今にも倒れそうじゃないか」
【智】
「そっちも、実は苦しいでしょ……」
【央輝】
「…………」
無表情。
カマかけだったのに。
答えないってことは図星なのか。
普段の央輝なら、きっと、
この程度では引っかからない。
疲労で判断力が鈍っている。
【智】
「……体格的な限界ってあるだろうしね」
央輝の体つきはアスリートみたいな鍛え方はしてない。
瞬発力があっても持久力は苦しいと見た。
【智】
「ひとつ……聞いていい……?」
【央輝】
「いいぞ」
【智】
「女の子を、さ……愛奴にして、どーすんの……? その……
いかがわしいお仕事でもさせるの?」
それは何が何でも遠慮させて。
【央輝】
「決まってる。あたしがいかがわしいことをするんだよ」
【智】
「……………………」
悪くないかも。
いやいやいや。
【智】
「……生命の危機だね」
バレちゃうし。
【央輝】
「安心しろ、血は吸わない」
【智】
「自分のために最善の努力を」
【央輝】
「手札は尽きてるくせに」
【智】
「人事を尽くした努力が足りなければ、埋めるものはただひとつ
…………」
ぐっと、天を掴むように拳を突き上げて。
【智】
「根性で勝負!」
【央輝】
「ここ一番で精神論か」
鼻で笑われた。
【智】
「まあ、そういうことにしといてよ」
ラストスパート。
【るい】
「来た――」
ゴールのポイント。
【るい】
「ともー、がんばーっ!!!!」
るいがいた。
先回りですか、どこまで体力あるんだ、
あの乳怪獣は……。
死ぬほど元気そうに手を振っている。
…………ちょとむかつく。
【智】
「智ちん、いきまーすっ!」
【央輝】
「しぶといヤツが!」
パッシングする。
【央輝】
「なにを!」
【智】
「まだまだあ」
【央輝】
「……こ、こいつっ」
ペースを乱して、
央輝のやつがつんのめる。
【智】
「ちゃーんす!!」
【央輝】
「く、くそが……くそくそっ!」
死にものぐるいで抜きつ抜かれつ。
ダッシュ。
ゴールは目の前。
体力は底値いっぱい。
【央輝】
「やろう……っ!!」
央輝が増速する。こっちもする。
【央輝】
「ど……どこに、こんな体力が、残って……やがったんだ……っ」
さすがに央輝が焦る。
【智】
「根性ですっ!!」
【央輝】
「根性で……そんなばかな……」
心理的揺さぶり。
【智】
「仲間と繋がった心の力は無限なのです!!!!」
【央輝】
「ば、ばかな…………」
まったく馬鹿げてます。
ノリと精神論とクサイ台詞で押し切るには、
僕は神経が細かすぎる。
そういうのは、るいの領域だ。
ごめんね、央輝。
実はまだ奥の手があったんだ。
最後ではなく、最初のカード。
出す前から伏せていたから、
央輝にだって予想がつかない。
央輝は女で、僕は男。
ズルっぽい……というより、しっかりズルです。
男女の体力差を央輝は計算できてない。
【央輝】
「く、うくく、くあ……っ」
央輝がたじろいだ。
歩調が乱れる。
【智】
「ぷくくくくっ、どうやら貴様の負けのようだな!!」
悪役の台詞だ。
疲労の極でハイになっていた。
一気に追い抜こうとする。
ここまでに何度も央輝が勝つチャンスはあった。
こっちを甘く見た分、つけいる隙ができた。
【央輝】
「…ぐ…くぁ……っ」
【智】
「ひまらー……(いまだー……)」
いよいよ呂律がまわらない
あとビル二つ。
勝てる、と思った。
そこで。
央輝は壁に寄りかかった。
限界っぽく。
終わりか。
長かった戦いにもようやく決着の時が。
【智】
「とどめぇっ!!!」
刹那。
【央輝】
「――殺す」
凄み。
刺すような眼差しが背中まで抜ける。
本気の目。
睨まれた。
殺される。
ほんの一瞬、本気でびびる。
【智】
「……あ?」
冷静になれば、それはただの脅しだ。
そんなことをすればゲームが台無しなんだから。
ここまできて、それはない。
央輝という人間に合わない。
のに。
【央輝】
「恐れ入ったよ、ここまでやるとは思わなかった。
もう一つ、いいことを教えといてやる」
【央輝】
「あたしは、負けるのが、嫌いだ……っ」
心臓が早鐘を打つ。
足が震える。
なに。
怖い。
目の前の相手が。
どうしてこんなものがいるのか。
【央輝】
「噂を聞いたろ?」
【智】
「……え、あ、あ」
殺される。
殺されて殺される。
殺されて殺されて、
それでも足りなくて殺される。
ここにこうしていたら。
だめだ。
逃げよう逃げよう逃げよう。
足が動かない。
萎縮して固定される。
蛇に睨まれたカエルは、
きっとこんな気分を味わいながら、
真っ赤な口に呑まれてしまう。
丸くなって何も見ないで聞こえないで――。
【智】
「あ」
【央輝】
「ルールの通り、指一本触れてないぜ……」
【央輝】
「だが、こいつでゲームオーバーだ。しばらくそうしてろ。
そうすれば……」
【央輝】
「――――――っ!?」
恐怖が消えた。
年末の換気扇をつけ置きしてさっと拭き取ったように、
今の今まで胸を潰しそうになっていた感情が消え失せる。
【智】
「……………………あれ?」
【央輝】
「お前!」
央輝がせっぱ詰まっていた。
たぶん、消えたのはそのせいだ。
【央輝】
「おまえ、そんな」
央輝が顔色を変えて凝視している。
僕を。
正しくは、僕の腕を。
さっき階段から落ちたときに、制服が破れたらしい。
痣が見えていた。
【央輝】
「いや、でも」
【央輝】
「それは……その痣、まさか……お前……お前ら、そうなのか!?」
動揺している。
考える。
つまりこれは。
【智】
「いざ、さらばー!」
大チャンスでした。
【央輝】
「あ、テメエぇっ!!」
ブッチぎった。
央輝が取り込んでいる隙に、
最後の最後のラストスパート。
死ぬほど走る。
【央輝】
「ま、まて……っ」
【智】
「待てない!」
【央輝】
「ひ、ひきょう……」
【智】
「卑怯未練はいいっこなし!」
【央輝】
「とにかく…ま、待て……!」
【智】
「絶対待てません!!!」
さっきのは何が起こったのか。
意味不明だ。
央輝が何か仕掛けた。
それは確実だけど。
わからないので考えるのをやめる。
今は勝たなくちゃ。
もう一度、さっきのやつが来たら、
今度こそ逃げられない。
残り1分もない時間の勝負。
だから走る。
【央輝】
「ま、」
【智】
「もう、」
【央輝】
「くおぉー」
【智】
「ちょっとー」
【央輝】
「くのーーーーーーっっ」
【智】
「たーーーーーーーっっ!!!!!!!!!!」
ゴールイン――――――――――――――。
〔エピローグとプロローグ〕
時刻は深夜を回っていた。
【央輝】
「約束通り、返してやる」
【智】
「返すだけじゃなくて……」
レースには勝った。
無事に……まあ、かなり無事じゃなく。
転んだ怪我の治療をめぐって、
るいたちから大層なお小言の一悶着が
あったことだけはいっておこう。
(※ちなみに僕は頑として譲らず、一人で薬を塗った)
【花鶏】
「やったあーーーっ!」
クリスマスプレゼントをもらった子供みたいに飛び跳ねる。
最近の子供は飛び跳ねないかも知れないけど。
【花鶏】
「本、本、本、わたしの星、帰ってきたわ! やっと帰って
きた、長かった、苦しかった、戦いの日々だった!!」
【智】
「いやもうまったく」
【智】
「これで茜子も」
【央輝】
「今回の件では自由だ。追うヤツは居なくなる。
あたしが責任を持つ」
【智】
「自由の身です」
【茜子】
「あ、は……はい」
実感がわきやがらないご様子。
【智】
「僕も自由の身」
愛奴隷危機一髪。
【花鶏】
「それはそれで惜しかったかも」
【こより】
「見てみたかったのです」
【智】
「君たち君たち」
【央輝】
「それから」
央輝が肩をすくめる。続きがあった。
【央輝】
「イカサマの件についてはあたしのミスだ。謝っておく」
【智】
「央輝はタイプじゃないと思った」
【央輝】
「買いかぶりだな。今回はゲームだったからだ。必要なら騙しも
殺しもする。嘘もつく」
それは本当だろう。
【央輝】
「奴らには始末をつけさせる」
【こより】
「結果的になにごともなかったので、ほどほどでいいのです……」
【智】
「当事者がこのように」
【央輝】
「奴らは、あたしの顔を潰した。それなりの代償は必要だ」
【智】
「嘘は央輝もつくんでしょ」
【央輝】
「そうだ。素人相手に底を見られるような仕込みをするのは、
あたしの顔を潰すにも程がある」
逆の意味だった。
【智】
「いやな世界だね」
央輝はタバコをくわえて火を点ける。
唇を歪めた。
ほんの一瞬、人生に膿み疲れた老人のような顔を
見たような気がした。
【央輝】
「まったくだ。この腐れ切った世の中は、骨の随まで
呪われてるんだよ」
イヤなフレーズに。
【智】
「そだね」
軽く相づちをうった。
央輝とはそれで別れた。
――――――僕らは自由になった。
【こより】
「これからどうするんですか」
【智】
「お家に帰ります」
【こより】
「あう、そうではなくて……」
【茜子】
「私たち」
【伊代】
「……どうするの、これから?」
同盟。
とりあえず所定の成果を得ました。
目の前のことを一つ二つ。
【るい】
「やっつけたしねー」
【智】
「やっつけた」
【花鶏】
「呪われた世界、だったかしら?」
【茜子】
「やっつけましたか?」
【智】
「そうねえ……」
ぼやく。
うんとのびをすると、
身体中がボキボキと音をたてる。
【智】
「たぶん、まだまだ」
たとえるなら、
魔王の七大軍団の、
最初の幹部を倒したくらい。
【こより】
「ほんでは、戦わないといけませんね」
【るい】
「やる気だね、こよりん」
【こより】
「こよりん、燃えております!」
【智】
「萌え〜」
【伊代】
「なにかいかがわしい感じに」
【るい】
「なんで?」
【伊代】
「なんでだかわからないけど……」
【智】
「印象差別だ」
【伊代】
「むう」
【花鶏】
「それで、どうするの」
とりあえず。
【智】
「やっぱりお家に帰りたい……」
【るい】
「まあね」
【こより】
「そっすね」
【花鶏】
「そりゃね」
【伊代】
「まあ」
【茜子】
「です」
一斉に賛成した。
【智】
「あーと、今更なんだけど惠がいない……まだお礼を」
【るい】
「気がついたらいなかった」
【茜子】
「神出鬼没キャラ」
【こより】
「危なくなったらタキシード来てお助けに来てくれるかも」
【伊代】
「あー、似合うかも〜」
【るい】
「それならニーさん〜で、イキなり現れる方が」
【茜子】
「兄弟愛キャラ」
【花鶏】
「姉妹愛の方がいいわ」
【智】
「そふ凛子ちゃんに怒られたって知らないよ」
ちゃらちゃらと話題が弾む。
当人不在のまま。
次に会えたらキチンとお礼をしないと。
惠がいなかったら、
新しい人生が開かれるところだった。
【こより】
「お礼考えないとだめですよねー」
【伊代】
「まあ、大丈夫じゃないかしら」
【るい】
「にゃも?」
【伊代】
「……だって、恋、したんだって……」
【智】
「ぶぅっ」
何もしてないのにむせる。
視線が、色々なものの含まれた視線が、同情とか困惑とか
少女漫画チックなキラキラビームとか入り交じったやつが、
背中に一杯突き刺さった。
【智】
「思い出させないでよ!」
悪夢の告白。
【伊代】
「……まあ、変人だけど顔いいし……」
【こより】
「も、もしかして、これを切っ掛けにして恋の炎〜」
【茜子】
「じゃーんじゃかじゃーん、じゃーんじゃかじゃーん」
【智】
「絶対ありません!!!」
【るい】
「そうだそうだ!!
あんな白っぽいの、トモちんに絶対断じて似合わない!」
【伊代】
「……男と女なんて何が切っ掛けで恋愛に発展するかわかんないっていうし……」
【智】
「ない、断じてない」
あってたまるか。
【花鶏】
「一晩くらい付き合ってあげたら? 泣いて感謝されるんじゃないかしら」
【智&るい】
「「まっぴらだ!!!」」
【るい】
「だいたい、アンタはトモ狙ってんじゃないのか、このエロス頭脳」
【花鶏】
「男の一人や二人に目くじらを立てるほど、わたしの了見は
狭くないわよ」
【花鶏】
「それに、乱暴な男に傷ついた智を、後で優しく慰めてあげるの。新しい恋の足音が聞こえてくる気がしない?」
【智】
「そっちもまっぴらごめん」
【こより】
「お、センパイ、そういえばの二乗です!」
【智】
「なんですか」
【こより】
「お家帰るにも、
すでにバスも電車もなかりにけりないまそかり……」
【智】
「たぶん、全然間違ってる」
【こより】
「あうー」
【智】
「そういえば、電車もないね」
【花鶏】
「それは最悪」
【伊代】
「まだこれから歩くわけ……」
【智】
「無理無理無理無理死んじゃうよ」
【るい】
「近くでどっか休めるところを」
【茜子】
「ファミルィーレストラントなど」
【智】
「どこでもいいんだけど――――」
見上げれば夜空。
空には月と星が。
気分がいい。
今夜はずっとこうやって、
空を見ながら歩いていてもいい。
【智】
「明日はどうしようか」
もう今日だけれど。
一つのことが終わった後。
新しく何かの始まる、始めなくてはならなくなる日に。
【るい】
「明日のことはわかんない」
るいが呟く。
まったくだ。
明日のことはわからない。
それが呪いだ。
僕らはきっと呪われている。
誰もがきっと呪われている。
そんなどうでもいい話をしながら、
僕らは夜通し歩き続けた。
ぼくらはみんな、呪われている。
みんなぼくらに、呪われている。
【るい】
「生きるって呪いみたいなものだよね」
【るい】
「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……」
【るい】
「それって、まったくの呪い。100パーセントの純粋培養、これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、ないない尽くしの呪いだよ」
【るい】
「そうは思わない?」
これは呪いの話だ。
呪うこと。
呪いのこと。
呪われること。
人を呪わば穴二つのこと。
いつでもある。
どこにでもある。
数は限りなくある。
ちょうど空は灰色に重かった。
浮かれ気分に水を差すくらいにはくすんでいて、
前途を呪うには足りていない薄曇り。
【智】
「むふ」
それでも僕らはやってくる。
約束もなくても。
明日のことがわからなくても。
同じ場所から空を見上げる。
【るい】
「こんなとこかな?」
【茜子】
「むふ」
【こより】
「いい感じでサイコーッス!」
【伊代】
「悪党っぽいわね」
【花鶏】
「それじゃあ、くりだすわよ」
【智】
「北北西に進路をとれ」
--------------------------------------------------▼ 個別ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》各ルートフラグのチェック
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》初回プレイの時
--------------------------------------------------◆ るいルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・茜子=+4 の時
--------------------------------------------------◆ 茜子ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・るい=+2 の時
--------------------------------------------------◆ るいルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・花鶏=+2 の時
--------------------------------------------------◆ 花鶏ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・伊代=+2 の時
--------------------------------------------------◆ 伊代ルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》フラグ・こより=+2 の時
--------------------------------------------------◆ こよりルート
--------------------------------------------------▼ 《条件分岐》上記条件以外の場合
--------------------------------------------------◆ るいルート
〔新しい日々(るい編)〕
【こより】
「気持ちいっすね〜センパイ!」
騒々しい街に、こよりが跳ねた。
路地裏からはそろそろ春が終わる。
国道の彼方からは夏の足音が近付いてくる。
季節の変わり目だった。
そこかしこで看板やキャッチコピーが切り替わっている。
【智】
「平和だねー」
季節と同じに、変化は僕らにもやってきた。
僕らは街に出る。
集まるべき理由も目的もないけれど、
ふらりと集まり、ぶらりと出かけて時間を費やす。
六人で。
【こより】
「スカイがスカイブルーですよっ!」
健康的なふくらはぎの筋肉が、くっ、と膨らんで、
インラインスケートが軽やかに滑る。
きれいなS字を描いて振り返った。
こよりの顔は、空と同じくらい輝いていた。
髪が躍るたびに煌きがこぼれる。
【るい】
「ふんと、快晴っ! て感じだね〜」
【花鶏】
「ま、ね」
【伊代】
「そこそこ雲があるから、これは快晴っていうよりも晴れが正しいんじゃない?」
【茜子】
「空気よめ」
こういうのも悪くない日々だった。
こよりが晴れの空に向けて一本指を立てる。
【こより】
「そーだ! 鳴滝いいこと思いつきましたよ!」
【智】
「ん、なに?」
【こより】
「この六人娘にチーム名とか付けません!?」
【るい】
「お、いーねー!」
【花鶏】
「ふっ(嘲笑)」
【伊代】
「なによそれ、子供じゃないんだから」
【こより】
「鳴滝はまだまだ子供ちゃんですよー」
【花鶏】
「わたしはもう子供じゃないフケ顔ちゃんだって言いたいわけ……?」
【花鶏】
「指2本入れるわよ!?」
【こより】
「ひえっ!? 性的虐待反対でありますっ!」
【智】
「こらこら」
【こより】
「助けてともセンパイるいセンパぁ〜イ! ふぁーん!」
【るい】
「よーしよしよしよしよし」
目を×にしたこよりが、るいの元に逃げて来た。
ホントに小動物みたいな子だ。
るいがふしふしと頭じゅう顔じゅう撫でるのに、
目を細めてされるがままになっている。
【花鶏】
「ひっど。こよりがわたしのことフケ顔だって。
伊代は垂れ乳だって」
【伊代】
「なっ、あの子そんなこと言ってなかったでしょ!」
【花鶏】
「いいのよ? わたしは小さくて可愛い子が好きだけど、
このたわわな……たわわな……たわわな……っ!」
【花鶏】
「おっぱいでもい・い・の・よ」
【伊代】
「あんっ!? も、もうコラ! 何するのよ怒るわよ、ひぇっ!? ちょ、や、やめてってば……っ」
凄腕エージェントのような素早さでバックを取る。
花鶏が伊代の豊かな胸をもみ始める。
【るい】
「おーおー、やっぱしイヨ子のおっぱいはでっかいね〜。やっぱり牛乳とか毎日飲んでんのかな?」
【智】
「…………」
【るい】
「トモ?」
【智】
「えっ、あっ!? あ、あはは……どうだろー……」
危ない。
はじめてみる壮大なスケールの胸ダンスに、
圧倒されてしまった。
服に隠れてわかりにくいけど、
実はるいも結構ある。
これが踊るとき、いかなるスペクタクルが展開されるのか。
【伊代】
「ちょっと、も、もう〜! 笑ってないで助けてよぉ〜っ!」
【茜子】
「言葉では抵抗しつつも、花鶏の細い指が胸に食い込むたびに官能を感じ、下半身を炙る燠火のような疼きに悶えてしまう伊代なのであった」
【伊代】
「誰が悶えるかっ!」
【茜子】
「秘裂をしとどに濡らしてしまう伊代なのであった?」
【伊代】
「余計わるいから!」
【るい】
「あははー」
【伊代】
「この……離せ!」
【花鶏】
「ぐぇ……!」
好き放題に胸部を蹂躙されていた伊代が、
みぞおちへのわりとエグい肘打ちで脱出して来た。
【伊代】
「はぁ、はぁ……」
【伊代】
「そ、そういえばホラ! さっきチーム名とか言ってたけど、
あなたは何かアイデアあるの?」
【こより】
「ピンク・ポッチーズとか!」
最低だ。
【伊代】
「ヤよ! そんな卑猥っぽい名前!」
【こより】
「カワイイのに〜。じゃあ、るいセンパイなんか無いです?」
【るい】
「う〜ん、ピーナッツ!」
【智】
「いやそれかぶってるから」
【るい】
「ピーナツ食べたかったんだよ。でも何とかぶってんの?」
【伊代】
「ほらあの……白い犬が居て、ちょっとハゲっぽい子が居て……」
【こより】
「はいはい次ー! じゃあ茜子センパイは?」
【茜子】
「黒夜叉六鬼衆」
【智】
「どこの忍者よ」
【こより】
「茜子センパイに聞いたのがマチガイでした!」
【るい】
「トモはなんかないの?」
【智】
「野良犬6匹っぽいから、シックスドッグスとか」
【花鶏】
「セックス&ドラッグスのほうがいいんじゃない?」
【こより】
「なかなか良い案って無いでありますなー」
【花鶏】
「さらっと流してると、すりこぎ入れるわよ」
【こより】
「せめて処女ソーシツは人間相手がいいです〜っ!」
【智】
「伊代はなんかないの?」
【伊代】
「わ、わたしに振らないでよ!」
【るい】
「素晴らしい・おっぱいの・白鞘伊代の団で、略してSO……」
【伊代】
「却下却下! はい次!」
【茜子】
「裏甲賀・般若党」
【智】
「だからなんで忍者なのよ」
他愛のない時間の積み重なり。
穏やかで、間延びした。
平和な時間。
「○×って、そういうキャラだったのか!?」
驚くことも多い。
どんなにキレイにお化粧しても、
近くからならアラがわかる。
鎧で固めても隙間が見える。
それが馴れ合うということだと発見したのは、
つい最近。
それもまた悪くない日々だ。
僕らは時間を重ねながら、
少しずつ、互いの距離を近づけていく。
ある統計学の報告によると、女の子たちが3人以上集まれば、
9割以上の確率で恋のハナシになるという。
【花鶏】
「いまなら誰でも先着1名、わたしのベッドの仔猫ちゃんに
してあげるわよ」
【全員】
「いらない」
この瞬間、僕らの心は固く結ばれていた。
【花鶏】
「はや」
花鶏は趣味を隠さない。
彼女はいいとして、他の面子は、
案外カレシ持ちとかだったりしないのだろうか?
【智】
「みんなカレシとかいないの?」
【るい】
「いぬ。飽きっぽいしねー」
以前にも聞いた。
【伊代】
「オトコなんて居なくても生きていけるわよ……!」
伊代の目はちょっと本気だった。
もうちょっとそのキャラをなんとかすれば、
伊代は結構モテるんじゃないかと思う。
【茜子】
「この茜子さんが、男とデートしているところが想像できるとでも?」
【智】
「僕も居ないんだけどね」
居たらエライことだ。
【智】
「あれ? そういえば、こよりは?」
【こより】
「ふっふーん。実は鳴滝は幼少のミギリ、『おおきくなったら、けっこんしようね』って約束した王子さまがいるですよ」
【智】
「王子さま」
えらいフレーズだった。
【こより】
「お兄ちゃんなのです」
【花鶏】
「そのいたいけな犯罪ボディーで毎晩男にいぢられてるの!?」
【智】
「声でかいよ」
【こより】
「いやー、それがもう全然会ってなくて、顔もちゃんと覚えてないというオチでありました」
【茜子】
「はい、妄想妄想」
【こより】
「ひどっ!?」
茜子の残酷発言。
こよりの目尻から涙がぴぴっと飛んだ。
【花鶏】
「泣かなくていいのよ?
こよりちゃんの純潔はわたしが貰ってあげるからね」
【るい】
「セクハラー、さいあくー」
【こより】
「ふえ〜〜〜ん!」
【伊代】
「それで、今日はどっかいくあては?」
【智】
「なくはない」
【茜子】
「いずこへ」
【智】
「探検隊」
ベッドタウンなんかにありがちな、
テナントのロクに入ってないビルだった。
土地をキープするのが主目的なのか、
1階にこじんまりとした自然素材インテリア雑貨の店が
収まっている以外は、2階に眼科があるだけ。
あとはどの部屋も空き室のままで、
3階に至っては照明すら灯ってなかった。
近頃は安全管理のうるさい屋上も
期待通りに解放されていた。
真っ暗な廊下から鉄扉を押し開く。
夕凪の柔らかい風と赤い光が僕たちを出迎える。
【るい】
「ナイスタイミーン」
【花鶏】
「ふぅん。悪くない眺めじゃない?」
【智】
「うん、きれい」
以前から、ここに目星をつけてたんだけど、
思ってたよりも、ずっといいたまり場にできそうだ。
【こより】
「そっすねぇ〜」
でこぼこの地平線に、
肥大した黄金色の日輪が沈む。
階下の街には、少しずつ夜の闇を
拒絶する明かりが灯り始めていた。
【茜子】
「あの夕陽の向こうには、晴れた空の明日が待っているのです」
【伊代】
「明日も、晴れたらいいね」
【智】
「そうだねー……」
時折どこかの窓が強烈な反射を投げかけてくる。
僕たちは、錆びの浮いた鉄柵に思い思いの姿勢で
もたれながら、呆然と夕焼け空を眺めていた。
なんでもない夕暮れが、ある種の奇跡に見える。
紅い空気が、音もなく僕たちの間を流れていく。
時が停滞したような、落ち着いた世界。
【智】
「きれい……」
【こより】
「ともセンパイは時々、いきなりおとめちっくですね」
【智】
「ふふふふ」
夕焼けの空は田舎より都会のほうが赤い。
都会のほうが、人間活動による排気ガスや
舞い上がった塵埃などの微粒子が多いからだ。
地表に向かって斜めに入射する太陽光は、
長い距離を進むうちに、空気中の微粒子によって散らされる。
最後には波長の長い赤い光だけが届く。
だから、人間の多い都心部のほうが、
空はより赤く灼け付くのだ。
以上、夕焼けマメ知識。
【るい】
「ところでねぇ、トモ?」
【智】
「ん〜?」
【るい】
「おなかすいた……!」
いつの間にか、るいがダメになっていた。
静かな屋上に、おなかの音がいい感じで響く。
【花鶏】
「雰囲気ブチ壊しね」
【茜子】
「奴の名は爆食王ルイ1世、おなかの虫は時と場合を選びません」
【こより】
「フランスとか治めてそう」
【智】
「でも確かにちょっと、おなかすいたね」
【るい】
「ちょっとじゃないよ……も、もうダメ……」
【花鶏】
「遭難したら真っ先に死ぬわね」
【るい】
「たべもの……ください……ガクリ」
都会で遭難しそうだった。
ポケットを探ってみる……るいのエサになりそうなものは入っていなかった。
それに、るいは甘味嫌いだからなぁー。
【こより】
「はい! るいセンパイの迫力のリアルおなかサウンドを
聞いてたら、鳴滝もコバラがすいてきたであります!」
【茜子】
「茜子さんはその点、空気中から窒素を吸収して光合成により養分を得るシステムが体内に発達しているので、空腹など生まれてこの方、感じたこともないです」
【伊代】
「ふーん。じゃあ、あんたはいらないわね?」
【茜子】
「なんナリか?」
【智】
「ナリ?」
【伊代】
「わたしの家、ここからすぐ近くだからさ。なんか食べ物調達して来てあげようかなって思ったんだけど」
【茜子】
「ば、バカな! 急に光合成システムがシンタックス・エラーを!」
【るい】
「ぁぅ……ぁ……」
【智】
「それより患者の体温が下がってるよ。死ぬよ」
【伊代】
「わかったわ。じゃあ、少し行ってくるから」
【こより】
「不肖、この鳴滝もお伴致しまっす!」
【花鶏】
「行ってら」
【茜子】
「つまり、この必殺技を使うと一撃で野犬を粉々に……」
【伊代】
「ただいま」
出掛けに「ほら、そこ」と指差していたので、
本当にかなり近かったのだろう。
茜子の意味不明の話を聞いていると、
ほどなくして伊代とこよりが戻ってきた。
【こより】
「補給部隊とうちゃーく」
こよりの手に、食糧と思しき袋がぶら下がっている。
【るい】
「うう、おなかと背中が夢のコラボレーションを実現する
とこだったよ」
【智】
「おかえりー」
【こより】
「食べ物ですぞ。配給ですぞ」
こよりが、なにやらあったかいアルミホイルの包みを配っていく。
【るい】
「ありがとー」
【智】
「ありがと。伊代、これ手作りっぽいけどなんなの?」
答えを聞く前に、るいや花鶏がホイルを剥いていた。
ちゃんと茜子にもあげている。
伊代はいいやつだ。
【るい】
「おお、白おにぎりだ!」
【伊代】
「も、文句言わないでよね。
簡単に作れるものがそれくらいしか無かったんだから……」
【花鶏】
「しかも手作り。どこのママか」
【こより】
「ママっていうより、おふくろって感じ?」
【茜子】
「さすが巨乳」
せっかく食料提供したのにいじられる伊代。
いいやつは損するものなのだ。
【るい】
「んむ……でもこれ、いけるよ! むぐ……こういうシンプルなのも味わい深……はむ……んっ! いなあ」
【伊代】
「食べてからしゃべりなさいよ。行儀悪いわよまったく……」
なんだかんだ言いながら、みんなで頬張る。
具もなんにも入ってないただの塩おにぎりだけど、
何故だかとてもおいしかった。
みんなの食べるさまをなんとなく眺めていると、
ふと伊代の手元に目が止まる。
【智】
「あれ? 伊代のだけなんかちっちゃくない?」
【伊代】
「げふっ!! な……そんなことないわよ普通よっ!!」
【茜子】
「ははぁ、察するにD・I・E・T……ダイエットですな?」
【伊代】
「そんなんじゃないったら。たまたまよ、たまたま!」
【花鶏】
「大丈夫よ、伊代。あなたの体重のほとんどは、その豊満な
おっぱいが原因だから」
【智】
「ほんとに大丈夫だって。伊代はスタイルいいって」
【こより】
「そうですよう。だからもっとパクガツモシャーッって喰って、
鳴滝の2倍の体重を目指しましょう!」
【伊代】
「こいつ……っ! ちょっと軽いからって調子に乗るな!」
【こより】
「うわーん、ぶったー!」
夕暮れ、ビルの屋上でおにぎり食べて騒ぐ。
なにをしてるのやらさっぱりって感じだけど、
最高に楽しいと思える瞬間。
僕たちは、少なからず孤独だ。
呪い。
不吉なキーワードに追い立てられる。
今は、仲間がいる。
類で友だ。
こんな簡単なことで、日々が楽しくなる。
【るい】
「ところで伊代、まだおかわりある?」
【花鶏】
「あなたまだ食べるの?」
とりあえず、はらぺこ少女るいは、
誰よりも幸せな模様だった。
空は赤みも失せ果てて、濃紺に変わっていた。
星はほとんど見えない。
星たちは夕陽の赤い焔に焼き尽くされた。
光っているのは僅かな生き残りだけだ。
そんな、街の神話を空想してみたりもする。
【こより】
「そろそろお帰りの時間……」
【伊代】
「そうね。わたしもそろそろ」
【るい】
「ん」
【花鶏】
「風、出てきた」
【茜子】
「茜子さんも、名誉会長としてニャーどもの集会に顔を出さねば
ならぬのです」
【智】
「じゃあ、帰ろっか?」
【こより】
「そっすね〜」
屋上からビル内に戻って地上へ。
日が落ちると、もともと二つしかないテナントからも
気配が消えて、見上げたビルは廃墟そのものだった。
国道あたりをバイクの轟音が遠ざかっていく。
地上は街灯で完全に守られて、
どこにも闇の付け入る隙はない。
闇も静寂もない夜だった。
【智】
「では、解散ー」
【花鶏】
「じゃね」
【こより】
「センパイがた、ばいばいであります!」
【茜子】
「サラバイなのです」
【伊代】
「うん、じゃあまた」
【るい】
「じゃあバイバーイ!」
【るい】
「歯ぁ磨けよ? 宿題やったか? 風呂入れよ? それじゃあ……また明……」
【るい】
「っ……!」
るいは誰よりも仲間を大切にする、
別れの挨拶は誰より長い。
それが唐突に止まる。
るいは怯えたような表情で固まっていた。
【智】
「…………」
場が凍る。
奇妙なことに、
誰一人として疑問を浮かべたりしない。
るいの突然の硬直が意味することに、
全員が、なんとなく心当たりがあるからだ。
【るい】
「たはは……」
怯えを隠すための照れ笑い。
静寂には苦味があった。
【るい】
「どしたの、みんな……」
【花鶏】
「……別に」
【るい】
「じゃ、バイバイー……」
控えめに手を振った。
僕たちはそれぞれの巣へと帰っていく。
闇の落ちた街路に消えていく後姿は、
誰の姿も頼りなく見えた。
一人になって、空を見る。
動き出した風が集めたのか。
墨色の雲が集まっていて、月も朧げに光るだけ。
【智】
「寒……くはないか」
一人の夜の帰り道。
実際の気温より、冬の夜の幻が満ちているようで、
思わず寒さを口走りそうになる。
寒くはなかった。
だけど、なんとなく肩を抱いて歩く。
【智】
「るい」
あれが、そうだ。
僕らの後ろに居るモノだ。
誰も語りはしなかったけれど、気がついていた。
――――――呪い。
それがおそらく、るいの『呪い』。
それは、一瞬たりとも休むことなく僕らを見ている。
眠ることなくすぐ傍にいる。
ニヤニヤ笑って僕らを縛る。
いつでもどこでも。
僕らはみんな、呪われている。
喩え話ではなく、あやふやな信仰でもなく。
確かな現実として。
間違いのない事実として。
呪いは仕組みだと、以前に言われた。
【るい】
(それじゃあ、また明日)
そんな、ささやかなことを、当たり前の挨拶を禁ずる。
それが、るいを苦しめている『呪い』。
僕らを苦しめているモノ。
【智】
「……やっぱり不便だよね」
自分のスカートをつまんで、ヒラヒラと振ってみた。
〔騙り屋対談(るい編)〕
【智】
「黒いのが! 黒いのがいるよ!」
【智】
「おうちの屋根にいるよ……天井の隅にいるよ……窓の外にいるよ……」
【智】
「ベッドの下にいるよ……お風呂の中にいるよ……テレビの後ろにいるよ……玄関の外にいるよ……!」
僕は幼かった。
何かにひどく怯えている。
【女】
「あなた……この子、呪いを……!」
【男】
「智、しっかりしろ! 智!」
【智】
「鏡の中にいるよ……おトイレにいるよ……ご本の中にいるよ……タンスの下にいるよ……お外の道にいるよ……すぐ、そこにもいるよ……!」
【智】
「僕の、あたまの中にもいるよ! 黒いのがいるよ! 黒いのが! 黒いのがいるよ!」
あたりの景色はとりとめのない色彩に霞んで見えない。
傍らに立つ影だけが意識できた。
【女】
「しっかりして智! もう大丈夫よ! 大丈夫だから!」
【男】
「この子に死なれるわけにはいかない」
誰かが僕を囲んで呼びかけていた。
必死に呼びかける声。
すぐ近くから聞こえるのに、どこか遠い声だった。
誰でもいい、助けて欲しい。
恐怖に縛られた体を動かして、
なんとか声の主に手を伸ばそうとする。
あやふやな空気の中をまさぐる僕の手が、
誰にも届かないうちに止まった。
……寒気。
待て、目を凝らせ。
待て、もう一度よく見てみろ。
待て、■と■……だけじゃない。
【智】
「黒いのがいるよ!」
気付いた瞬間、黒い影は一気に僕に迫る。
細かな線虫が這い登るような怖気が全身を包み込む。
激しい震えに身体がちぎれそうになる。
【智】
「黒いのがぁぁぁっ!!!」
不吉な闇が視界一杯に広がって――――
【智】
「うわあぁぁァァッ!!!」
夢中で伸ばした腕は、
布団を遠くはじき飛ばしていた。
闇から抜け出したそこは、朝だ。
揺れるカーテンの隙間から漏れる光線が、
布団からもうもうと立つ埃に、その姿を露わにしていた。
【智】
「はぁ、はぁ……はぁ……!」
胸のあたりに冷気を帯びた闇がわだかまっている。
シーツとシャツが、冷汗にまみれて不快だった。
胸に手を当てて、呼吸を整えた。
闇が夢の残(ざん)滓(し)に過ぎないと体が理解するには、
まだしばらくかかる。
【智】
「呪い、か」
幼い頃の夢。
言葉で言い表せない恐怖の塊……黒い影の夢。
濡れたシャツを着替えてから、
部屋の空気を入れ替え、軽い朝食を取る。
トーストを一口齧るごとに闇は薄らいでいった。
タイマーが切れるとパンが飛び出すタイプのトースター。
なぜだか僕は、子供の頃からどうしてもこれが欲しくて、
幾度も母にねだったような記憶がある。
母の返事はいつも同じで、オーブントースターがあるから
必要ないという、すげないものだった。
一人暮らしを始めた時に、なによりも一番にこれを買った。
それこそベッドや洗濯機よりも先に買った。
初めてこいつから焼いたパンが飛び出してきた時。
ああ、僕はこれから一人で暮らしていくんだ、
そう思ったものだ。
そのトースターが焼いたパンを、また一口齧る。
大丈夫。
ここは僕の買ったトースターのある、
現実の僕の部屋だ。
窓の外には、昨日の夕陽が予言した晴れやかな空が広がっていた。
【智】
「晴れてよかった」
もう、部屋のどこにも闇は居なかった。
朝食を終え食器類を片付けて、
パチ、パチと室内の電気を消していく。
お出かけ準備は万全。
鏡の前での最終チェックも忘れない。
【智】
「うん、女の子女の子♪」
最近ますます己の女の子化が進んでいる気がする。
ちょっとスマイルってみる。
きらりん。
いい感じだ。
このままでは本来のオトコノコとしての自我を見失ってしまいそうなのだけど、ほぼ完全にオンナノコしてるのは、ある意味で都合がいい。
【智】
「ああ、フクザツな僕のジレンマ〜」
軽く髪を整えて、靴を履く。
手ぶらでいいだろう。
荷物はポケットに携帯だけ。
平日だ。
優等生としては登校するのが正しいけれど、
今日は、少しばかり出かけるところがある。
【智】
「よし」
【智】
「じゃあ、行ってきます」
誰もいない部屋に小さく声を投げて、勢いよく玄関のドアを開く。
ゴッ
【智】
「あ、あれ?」
勢いよく玄関のドアを開……。
ゴッ
【智】
「あれれ?」
勢いよく玄関の(略。
ゴッ、ゴッ、ゴッ
勢いよく玄関のドアが開かない。
何かが引っかかってるみたいだ。
瞑目して、ちょっとドアの外の状況をイメージしてみる。
うむむむ……。
きっと、また隣がゴミ袋を積み上げて、
それが崩れてきているに違いない。
【智】
「今度こそ管理人さんに言ってやる!」
前々から迷惑を蒙っていたのだが、
二の足を踏んでいるのには理由があった。
透明のポリ袋ごしに見えるゴミの中身が、
エロ漫画雑誌で、しかも内容が女装少年もの。
人生の危機を感じた。
うん、まじこわい。
もしかしたら呪いより怖いかも知れない。
【智】
「とりあえずもうちょっとガマンしてみるかー……」
ズリズリと無理やり押してドアを開く。
【智】
「あれ?」
【るい】
「うぅ……おなかすいた……。そのうえ擦り剥いた……うぅ……」
ドアにひっかかってるのは、るいだった。
はらぺこモードに入っている。
【茜子】
「ヨウ、寂しかったかい仔猫ちゃん。茜子さんが朝から怪奇ボク女に宇宙の秘密を教えに来てやりましたベイベー」
【智】
「あ、茜子も来てたの?」
【茜子】
「花鶏もあるでよベイベー」
無表情のまま微妙なボケをする茜子をスルー。
傍らに、花鶏が両手を合わせて頬に当て、
安眠の見本のような姿勢で変に行儀よく眠っていた。
【花鶏】
「ZZZ……」
【茜子】
「ベイベー」
なにこの状況……場がカオスすぎる。
茜子に説明を求めても無駄だろうし。
【智】
「…………」
【茜子】
「今日は、茜子さんワイルド路線で決めてみました。
10万段階評価でさあー、レッツ採点」
【智】
「ごめ。今日はちょと行くトコあるから」
【茜子】
「放置プレイ来た」
【智】
「あ、部屋入ってていいよ。
冷蔵庫の中のものも、るいに与えていいから」
【茜子】
「ふむ」
茜子にカギを投げる。
すれ違い、僕はそのまま階段に向かう。
今日は予定を優先だ。
室内の防備も問題なし。
以前、るいを泊めることになった時以来、
テリトリーの防備も怠らないよう注意している。
こんなこともあろうかと、というヤツだ。
何もかもが巧妙に隠されている。
【茜子】
「では仕方ない。さぁ野郎ども、怪奇ボク女の住処を侵略ですよ。潰せ、壊せ、破壊せよ」
【花鶏】
「ZZZ……」
【るい】
「し、死む……」
本当に大丈夫なのかな……。
不吉な声を背後に聞きながらも、
僕は階段を下りて朝の街に歩き出して行った。
以前もらった名刺に携帯の番号が載っていた。
かける、約束をする。
気が滅入る。
嘘つき村の住人とお話しするのは神経に負担が大きい。
【智】
「他に当てもないしねー」
独り言がポテンと落ちて転がった。
優等生の分際で学園をズルズルっているのには、
それ相応の理由がある。
――――――『呪い』。
僕と僕らの人生の障害物である。
コレともう少し真剣に取り組んでみよういうのが、
本日のテーマだ。
僕だけのことなら、嘆く、諦めるくらいで終了だけど。
そうも言ってられなくなった。
群れになった。
他人と繋がるというのは、
自由には生きていけなくなるということだ。
【智】
「あ、居た」
ものすごい目立つ。
【智】
「いずるさーん」
【いずる】
「おはよう、面倒屋さん」
振り向いたその姿は、やはり猛烈にうさんくさい。
【智】
「本日はお日柄もよく」
【いずる】
「そうだねぇ、初夏の空だねえ。頬くすぐる薫風(くんぷう)が心地よい季節の訪れを告げているねえ」
【智】
「まあ天気の話をしに来たわけじゃないんだけど」
【いずる】
「とりあえず天気の話から入るなんて、まあ英国式な。ところで
英国人が列つくって天気の話から長話をするっていう例え、アレはどうしていつも肉屋の前の列なんだろうねえ」
【智】
「そういえばたしかに肉屋のイメージが……いや、そうじゃなくて本題入っていい?」
【いずる】
「向こうは食べ物が不味いらしいねぇ。
世界一不味いって評価もあるとかないとか」
ぜんぜん聞いてない。
仕方がないので勝手に語る。
【智】
「呪いのことで、もう少し聞きたいことがあるんだ。その、呪いを解く方法っていうのに、せめて手がかり足がかり」
【いずる】
「私は語り屋だよ。『屋』だからね」
タダじゃなんにも教えられないと。
騙り屋のクセに。
【智】
「そこをなんとか」
【いずる】
「それは駄目だね。こっちも仕事だ、現金掛け値なし」
【智】
「現金じゃないでしょ。だいたい、るいからもぎ取った気持ち悪いぬいぐるみがなんの収入になるのよ」
【いずる】
「もぎ取ったとはご挨拶だ。ああいうものにどんな価値があるのかは教えられないね。企業秘密って奴さ」
【智】
「それじゃ……僕の持ってるもので何かない?」
【いずる】
「ないね。ないない。絶対ない」
【智】
「そんな、聞きもしないで」
【いずる】
「だいたい呪いを解くのも簡単じゃない。
寺院でお金払ってはい解けたというわけにはいかない」
【いずる】
「本当に呪いを解きたいのかい? その枷(かせ)とともに失われるものだってあるかもしれない。それでも? 本当に?」
子供を怯えさせるような口ぶり。
どこからどう見ても仕事する人の態度じゃない。
【智】
「失われるって、一体何が」
【いずる】
「そんなこと、私が知るはずないよ」
【智】
「投げやりダー」
【智】
「それでも呪いを解きたいんだ。相応のリスクは受け入れる」
【いずる】
「リスクが何かもわからないのに?
どんな大切なものを要求されるかもわからないのに?」
【智】
「必要なんだ。どうしても」
みんなのことを思い浮かべる。
『呪い』――――――
僕らはみんな、呪われている。
呪われた証の痣(あざ)を僕らは持っている。
呪いというのは、禁だ。
何かを禁じる。
例えば。
僕なら「男だとばれてはいけない」。
四六時中女の子の格好をして、女の子のフリをして、
学園にも色々やって女の子として入学したりしてるのは、
僕にそういう趣味があるからじゃない。
禁を破れば呪われる。
本当に、掛け値無しに、冗談抜きに、生命に関わる。
だからだ。
おそらく。
それは、るいたちも同じはずだ。
それぞれに科せられた禁がどういうものであるかは
まだ推測することしかできないけれど。
それぞれが枷(かせ)を負っている。
【いずる】
「おや長考だねえ」
【智】
「ちょっと整理するから静かにしてて」
では、どうして僕は呪いを解きたい?
チラリとるいの顔が脳裏をかすめた。
【智】
「僕らの呪い情報を話します。それじゃ足りない?」
【いずる】
「君たちの情報を聞いて私がどうする?
業者に売って顧客リストに呪い情報でも追加して貰おうか?」
【智】
「てっきり、妖怪研究家と怪奇愛好家の合わせ技みたいなものだと思ってた」
【いずる】
「話を聞くだけでも価値を見いだせる人種、と?
ま、聞くだけ聞いて、お代になるかどうか見積もりする
ことならできる」
【智】
「見積もりでも代金取るつもりでは」
【いずる】
「いい勘をしている」
最低だ、このアコギな商売人。
【いずる】
「足りなけりゃ、あとで足りない分、何か払ってくれればいいさ。どうだい? どうするね」
【智】
「納得いかない」
足元を見られてるのかどうかすらわからない。
【いずる】
「嫌なら止めても構わない。誰も止めやしない。私と君は今日は
偶然街で出会って天気の話をしました。それだけだ」
【智】
「むう」
おなかを押したら音が鳴る人形みたいな、情けない声が出た。
レートが分からないので駆け引きのしようもない。
僕らの呪いの情報と言っても、本当は、
自分で知ってることなんてほとんどない。
前払いなら足りないと言われるのがオチだ。
余計なことまで話さなくてはいけなくなる。
【智】
「きゅう」
また僕が鳴っていると、騙り屋が大きく1歩近づいて来た。
【いずる】
「そうだ。いいこと思いついたよ。これはいい」
【智】
「静かにしててって言ってるのに」
【いずる】
「君のどうしても呪いを解きたい理由……それを代金にしようじゃないか」
【智】
「プライベートだよ!」
【いずる】
「それを教えたら、ヒント出す気になっちゃうかも?」
騙り屋じゃなくノゾキ屋だった。
【いずる】
「そうそう、こういうのがこの仕事の面白さなんだよ」
【智】
「性悪だ」
【いずる】
「よく言われるよ。それで、どうする?」
どうする? と来た。
選択肢はないぞと言ってるようなものだ。
【智】
「――わかったよ。ただ、禁則にひっかかるので焦点はぼかすけど」
【いずる】
「オーケーオーケー、火中に飛び込んでまで呪いを解きたい、
さぁて気になるその理(ワ)由(ケ)や如何に」
いじめっ子だ。
呪いが解けたら、
いつか物陰から生卵をぶつけよう。
ようするに、この性格悪でうさんくさい騙り屋の
腹黒い部分を満足させてやればいいのだ。
どうせ呪いが解ければ金(こん)輪(りん)際(ざい)会わない。
聞くは一瞬の恥、聞かぬは一生の枷(かせ)!
思い切る。
【智】
「え、えと、れ、恋愛関係の理由です……」
喋る瞬間に、やわらか感触が頭をよぎった。
惠の顔もよぎった。
危機感と、その他いろいろなものが僕の口を滑らせた。
【智】
「だから……その、呪いが弊害になるっていうか、
なんていうか……」
【いずる】
「…………」
【智】
「まだ、そうなるかどうかはわからないんだけど、最初の一歩を
踏み出すか決めるにも、呪いが邪魔になるっていうか……」
【いずる】
「ぶはははは!」
【智】
「……………………」
すごい笑われた。
無難に普通に友人関係って言っとけば良かった。
生卵の上にミルクとパルメザンチーズも投げつけて、
人間カルボナーラにしてやる。
【智】
「……それだけ笑ったんならちゃんと話してよね」
【いずる】
「ああ、本当に久しぶりにお腹の底から笑ったよ。よろしい。
さあ、語ろうか」
【いずる】
「で、聞きたいのはなんだい。男の子の気を惹く方法かい」
【智】
「違うだろ!」
これ以上男の子の気を惹いてどうする。
【いずる】
「そうそう、呪いの解き方の手がかり足がかりだった。
仕組みがわかれば解き方もわかるかもと言ったろう」
【智】
「うん」
【いずる】
「呪いは仕組みだ。機械みたいなものさ」
【いずる】
「つまり、すごい弾幕撃って来るボスは、コアを壊せば
だいたい死ぬもんだ」
【智】
「卑近(ひきん)すぎて、やな喩えだなあ」
【智】
「ゲームみたいな話ばっかり出すんだったら、使ったら呪いを
解けるアイテムとかないの?」
【いずる】
「そういうのはお門違いだよ。それに前にも言ったろ。
君がマンション住まいだとする。君の部屋の鍵で隣の部屋の
鍵は開くかい」
【智】
「マスターキーは」
【いずる】
「そうだねぇ、マスターキーもこの世のどこかにはあるかも知れない。けれど、少なくとも、私は見たことも聞いたことも無いね」
【智】
「ままならないなあ」
【いずる】
「世の中はままならないんだよ」
【智】
「一般論でキレイにまとめるな」
同じ手には乗せられない。
【いずる】
「隣の部屋の鍵だって、あるかどうかもわからない。最初から
ないかもしれない。誰かに頼ってばかりいるより、自分の手で
取り組んでみようとは考えないのかい」
【智】
「……正論っぽいけど、ヒント屋の人が言っていいセリフじゃない」
【いずる】
「ふむ、なかなか冷静だね」
【智】
「というか、また前回と堂々巡りしてる。
先払いで料金払ったんだからちゃんと仕事してよ!」
【いずる】
「無い袖は振れないって知ってるか? からっぽのボトルを逆さまにして、どれだけ振っても、どんな液体も一滴だって出てきやしないんだ。腕が疲れるだけだよ」
【智】
「ごたくは結構」
【いずる】
「それならこれはどうだい。あの皆元くんの話」
変わった。
目つきも声のトーンも。
やっと本題に来たというわけだ。
【いずる】
「皆元くんの異常な力……細腕繁盛記どころの話じゃない。あの腕なら、ショボくれた旅館だって超高級なラグジュアリーホテルになってしまう」
【智】
「……るいの力のことも知ってるんだ」
【いずる】
「前にも関わったっていったろう。それに、彼女、隠さないからね」
【智】
「……それで?」
【いずる】
「そういうことさ。あれはおかしいんだよ」
【智】
「だからどういうこと!?」
【いずる】
「普通じゃないこと……君らにはあるだろ? 言わないとわからないような、察しの悪い君でもないんじゃないか」
理解する。
呪いとあの力が関係あると言いたいのか。
考えてみると、今まで思いつかなかった自分の方が
どうかしている。
簡単な方程式だ。
おかしなことが二つ、別々にあるというよりも、
同じ根っこだとする方が説明は簡単だ。
【いずる】
「仕組みがわかれば呪いは解ける。
その仕組みを探る、手がかり足がかりくらいあるかもさ」
【智】
「うーん…………」
【いずる】
「それじゃ、また縁があればってことで」
見るからにうさんくさい人は、その粘っこい話の運びとは裏腹に
あまりにもあっさりと。
スタスタと歩み去ってしまった。
なんだこれは。
【智】
「ただい……ま……」
【るい】
「おおっトモ! おかえり〜」
【茜子】
「おぅぁえぃなぁーい」
【花鶏】
「なにそれ」
【茜子】
「発音が面倒なので手を抜いてみました」
【智】
「…………」
意味がわからない。
さっきまで、意味がわからない相手に
悪戦苦闘して来たというのに。
なんとか話を繋いで、よくわからないながらも
どうやら呪いを解けないこともないらしい。
とはいえ簡単には行かないようなので、またいずれ。
そのくらいの心境までには持ってきたというのに。
部屋の中は意味がわからない状態になっていた。
【智】
「なにこれ」
【茜子】
「祭りの後」
【るい】
「それよりトモ、そろそろごはんにしようよ! ちょうどいいよ!」
【花鶏】
「そうね。わたしもそろそろ何か食べたいかも」
【智】
「いや、そうじゃなくてですね……」
涙を誘うほどに部屋は荒れ果てている。
【智】
「どうやったらこんなに荒らせるの? 人の部屋」
【茜子】
「よし、再現VTRを」
【るい】
「おっけー」
【智】
「やらなくていいから!」
【花鶏】
「言っとくけど、わたしはそのバカ二人みたいに暴れたりしてないわよ」
【智】
「止めなかったのも同罪! さっさとみんな片付ける!」
【るい】
「ごはん……」
【花鶏】
「めんどい」
【茜子】
「死んでも嫌です」
動く気配すらない。
るいはわんこポーズでゴハンをねだるだけ、
花鶏は優雅に寝転がったまま、
茜子は謎のポーズを取ってゆっくりと回転していた。
【智】
「使えない……」
【るい】
「トモ、ごはんは?」
【智】
「片付けてからっ!!」
自分の手で、悲しみの荒野となった世界を癒しに掛かる。
金(こん)輪(りん)際(ざい)、留守にこいつらを入れるのはやめようと誓った。
【花鶏】
「智、あなたいい嫁になるわよ。わたしの」
【茜子】
「あとこのドッグの良い飼い主にも」
【るい】
「ごはん……」
ごはんは全員フリカケと白湯だけの刑。
〔野良犬ベーシスト〕
放課後の帰路。
ぶらんぶらんとカバンを揺らしながら歩く。
ここのところ、僕も隙が多くなってしまった。
私生活の変化が注意力を鈍らせている。
気をつけないと思わぬところで足をすくわれるかも。
【智】
「もちっと空気キャラの練習しないとね〜」
学園生活は息の詰まることが多くて困る。
同世代の目も何かとあるし。
女の子やって行くのも、日々大変になっていく。
こないだだって、しつっこい男にビンタ飛ばしたら
なんかヒロイン扱いされて目立っちゃったし。
【智】
「……あれ? なにあれ?」
街角に、ちょっとした人だかりが出来ている。
ギャラリーの中心から聞こえてくるのは、
太い弦をはじく低音の音色。
ベースだ。
悪くないリズム……、ん、なかなかいい。
路上演奏も良し悪しで、ひどいのはもう騒音そのもの!
って感じなのだけど、これはなかなか。
エレキだから音を出すだけならわりと簡単だけど、
それでもベースの弦は太くて、ピック無しで
しっかりした音を出すのは結構指が痛かったりする。
【智】
「この音は……指かな?」
力強く四弦を弾いて、しっかりとした音を奏でている。
指の力から考えて男だろうか。
【智】
「どれどれ〜……」
ふくらはぎに力を入れて爪先立つ。覗いて見た。
【智】
「えっ! あれっ!? るい!?」
路上のベーシストは、るいだった。
イメージしていたよりずっと繊細な、
るいの指が、ベースの太い弦を爪弾く。
左手はフレットの上を踊るように動き回って、
シンプルなメロディを作っていた。
どこにこんな楽器を隠し持ってたのかわからないけど、腕は確かだ。
【智】
「うわ、まじ巧いし。
ただのはらぺこ無双キャラじゃなかったのか……!」
【伊代】
「わたしも驚いた。あの子、あんな特技があるなんて」
【智】
「あ、伊代も来てたんだ?」
振り返る。伊代の後には、他のメンバーも集まっていた。
【こより】
「おっすであります! 鳴滝も、驚いたですよ〜。隠し芸ですよ、潜在必殺技ですよ〜」
【茜子】
「ガギノドン(猫)も驚愕のあまり目を丸くしております」
【花鶏】
「そいつめちゃくちゃ寝てるじゃない」
器用にスケートでスピンしつつ、手振りも加えて騒ぐこより。
寝こけているブサイクな猫をなでりなでりする茜子。
傍らには、半身で腕を組む花鶏も居た。
しばし音色に聞き入る。
やがて最後の一音のエコーが途切れると、
ギャラリーたちの拍手が起こった。
【智】
「演奏終わったみたいだよ」
演奏が終わると、刳り貫きタイプの
ベースケースに小銭が稼がれていた。
るいは、そそくさとベースを仕舞い始める。
るいを取り囲んでいたギャラリーは、
一人また一人と街角へと散って行く。
やがて残ったのはいつものメンバー、僕たちだ。
【こより】
「るいセンパーイ!」
こよりが手を振る。
るいは立ち上がって駆け寄ってくる。
今見たばっかりだけど、どうにも不思議だ。
目の前の、るいのイメージと、
さっきの名ベーシストの演奏が繋がらない。
接触不良な脳内回線をいじくりながら、
とりあえず、るいを誉めてみることにする。
【智】
「るい、巧いじゃない!? こんな技隠してたなんて」
【るい】
「トモっ!」
【智】
「え、るい!?」
るいが、そのままの勢いでいきなり抱きついて来た。
そして開口一番。
【るい】
「トモの家に置いて〜っ!」
るいは相変わらず家なき子だ。
とりあえず、僕らの同盟憲章に従って、
るいたち行き場なしこちゃんたちは、
花鶏の家に泊めてもらっている。
一生お世話になることも出来ないから、
早晩何とかしなければ……。
そんなことを考えていた、その矢先の変事。
るいの言い分はこうだ。
【るい】
「花鶏の家の食べ物、変なものばっかなんだよ!?」
対する花鶏の言い分はこう。
【花鶏】
「なに? 人の好物にケチつけないでくれる!?」
二人の意見を総合する。
どうやら食事の嗜好の違いが、るいが、
広い花城邸を出てウチに来たがっている理由のようだ。
【るい】
「ぜったい舌おかしい! あんな食事マゾだ、修行だ」
【花鶏】
「なんでもマヨネーズかけて食べるヤツに言われたくないっての」
るいは、マヨ好きだった。
わりと辟易するものがある。
唐揚げや卵焼きはまあいい。
でもシチューにマヨネーズはさすがにどうよ?
とは言え、花鶏は花鶏で変人だからなあ……。
そこで思い当たる。
そういえばもう一人、
花城邸に厄介になってる人間が居た。
【智】
「茜子、花鶏の家の料理ってヤバイの?」
【茜子】
「普通ですよ。セロリライスとか」
【伊代】
「ぶっ!?」
今なんかありえないこと言った!?
【こより】
「うええ……花鶏センパイなんですかそれぇ〜。
聞いただけで口の中が気持ち悪くなりましたよう」
子供舌のこよりが露骨にイヤそうな顔をする。
伊代も、メガネから持ち上がったハの字の眉で、
るいへの同情の意を表していた。
【伊代】
「それは確かに……。ちょっと可哀想かもね……」
【るい】
「そうなんだよ〜、あんなの食べてるからヘンタイになるんだよ〜!」
【花鶏】
「おいしいじゃないセロリ。ねぇ茅場?」
茜子に同意を求めながらも、
花鶏の目からは威嚇光線がビリビリ出ている。
【茜子】
「はい、食べることが可能です」
【智】
「それって、おいしくないって言ってるんじゃ」
【茜子】
「ばかな、なぜわかった。エスパーですか」
【花鶏】
「こいつ……!」
花鶏の舌に味方はいなかった。
腕組みをした上の肩が少し悔しげに尖っていた。
【るい】
「だからトモのとこに置いてよ〜」
【智】
「う〜ん……」
泊めるのは危険が大きい。
るいは義理堅いしノリもいい、いいやつだ。
だけど、僕の正体がばれれば生命危機だ。
いや……呪われなくても生命が危機しそうな気もするけど。
るいを泊めた日の事を思い出す。
ドタバタしたけど結構楽しかった。
好意的な回想をしていると、
るいの裸体がホワホワンと脳裏によみがえって来た。
カーッと顔が熱くなる前に、必死で脳内映像を消す!!
【智】
「や、やっぱり泊めるのはキツいけど、ごはんなら作って
あげるよ〜」
【るい】
「おおっ! トモのごはんかー、
今日のところはそれで手を打つかなー」
まだ不満をたっぷり咥えた花鶏が口を挟んで来た。
【花鶏】
「別に未練はないけど、わたしの趣味にケチがついたのは、
ちょっと納得いかないわね」
【花鶏】
「智の料理、わたしにもごちそうしてくれる?」
【智】
「いいけど」
納得するために、味覚勝負をしたいらしい。
以前にも何度か花鶏の家で作ったことがあるにはあるが、
その時は質より量だった。
【こより】
「鳴滝もともセンパイのお料理食べたいですっ!」
こよりも食いついて来た。
【伊代】
「そうね。わたしも興味あるかも。
おいしかったらレシピとかも教えて欲しいし」
【茜子】
「茜子さんに食べ物を与えると徳ポイントが上昇します」
大漁。
釣れすぎだ。
【智】
「徳ポイントはどうでもいいとして。
みんなも来ると、かなーり狭くなると思うけど……」
【茜子】
「ひいぃ、徳システムを舐めていますね。徳を上げておかないと最終ルートへの道が開けなくて、後で枕を涙で濡らしまくることになりますよ」
【伊代】
「なんの話か知らないけど、ウソつくな」
【るい】
「あれ? ウソなの?」
【こより】
「るいセンパイは、せめて茜子センパイだけでも疑うことを
覚えたほうがいいですよぅー」
ゾロゾロ。
みんなを自宅へと招待する流れになってしまった。
先頭を歩きながら首をちょっとひねる。
さぁーて、何作ろっかなぁー。
部屋はぎゅうぎゅう詰めになった。
以前この面子で、ここに泊まった時もたいがい狭かった。
当時は仲間未満の関係だったけど。
【智】
「人数多いしパスタでいいかな〜?」
【るい】
「おー」
シェフ呼ばわりされながら料理を始める。
花鶏がベッドに腰掛けて、
るいはフローリングにあぐらをかいていた。
伊代はテーブルを挟んで、るいの向かいに正座、
こよりはるいの娘みたいに足の内側に小さく収まっている。
茜子はというと、来るなり省スペース運動と
称してベッドの下に潜ってしまっている。
幸い、僕の部屋のベッドの下は、
秘密アイテムの隠し場所にはなっていないので問題はなかった。
【智】
「んーと……」
味付けを考える。
るいの大味な趣味に合わせるなら、ベーコンとキノコ三種あたりを具にして、バター醤油味でも付ければいい。
こよりも大体そんな感じでいいのだろう。
茜子はわからないとして、おしゃれっぽい味の好きそうな花鶏や、結構料理とか得意そうな伊代がいるのが問題だ。
【智】
「よっし」
ここは、ちょっとオシャレっぽいソースで気取ってみることにする。
スパゲッティを、普段はカレーぐらいにしか使わない大鍋でゆでながら、常温のフライパンにオリーブオイルをたっぷりめに注ぐ。
弱火で着火して半分に切って種を抜いた鷹の爪、
それからガーリック・スライスを投入。
まずは焦らずゆっくりと放置していい香りが出るまで待つ。
【こより】
「おおっ、なんかいい香りがして来ましたよ!」
【るい】
「おなかすいた〜」
そこへケイパー(オシャレ食材その1)と
ブラックオリーブ(オシャレ食材その2)の
みじん切りを投入、弱火のまま熱していく。
ここにもオシャレくさい言葉を使うなら、
みじん切りじゃなくてコンカッセ?
でもそれフランス語か?
イタリア語ではなんて言うんだろう?
【伊代】
「あら、なんか不思議な香りがするわね」
【るい】
「おなかすいた〜」
アンチョビフィレー(オシャレ食材その3)をさらに投入し、
アンチョビが溶けるまで、これもゆっくりと熱する。
そろそろアルデンテにゆで上がったパスタをザルにあけたら、
あとでソースに使うための茹で汁を捨てないで取っておく。
アンチョビがいい感じになってきたら、次は白ワインだ。
火力を少し上げて、フライパンに白ワインを注ぐ。
ここでフレンチの達人! っぽく火でも出したら
かっこいいんだけどここでは必要ないんで、そういう演出はガマン。
大人しく中火よりやや強めの火で、アルコールを飛ばしていく。
【花鶏】
「これは……白ワイン?」
【るい】
「おなかすいた〜」
アルコール臭が消えてきたら、
次はトマトピューレ。
軽く混ぜ合わせて、
取っておいたパスタの茹で汁を加える。
沸騰してきたら、ちょっと味見だ。
【智】
「うん、おいしい。ちょっと塩かな?」
【るい】
「おなかすいたよ……」
塩をほんの気持ち足したら、出来上がったソースを
パスタとからめ合わせて、後は少し煮立てるだけ。
子供舌のこよりでも食べられる。
濃い味の好きな、るいでも大丈夫。
それでいて、花鶏の趣味もカバーしつつ、
伊代が知らなさそうなレシピ。
さらに……。
……茜子はよくわからないから、まあいいか。
【智】
「完・成っ!」
ぺかー!
スパゲッティ・プッタネスカだ!
ちなみに由来はよくわからないが、
イタリア語で娼婦風スパゲッティという意味である。
【智】
「できたよ〜」
【るい】
「おおおおおーっ!」
完成宣言にヨダレを垂らさんばかりで、
るいが食いついてくる。
なにぶん一人暮らしで、食器には余裕がない。
おしゃれスパゲッティは、
大皿1つと小皿2つに分けて盛ることになった。
見映えは良くないけど仕方ない。
【花鶏】
「あら、これポモドーロ……じゃないわね?」
【伊代】
「へぇ……わたし、スパゲッティはケチャップで炒めるのしか
知らないから……」
【智】
「うん。プッタネスカ。なんでも、娼婦風って意味らしいよ」
完成の声に反応して、茜子もベッドの下から出てくる。
【茜子】
「貧乳ボク女は一晩おいくらですか」
【智】
「10万〜」
【花鶏】
「買ったッッ!!!!」
【智】
「……ド、ドルで……!」
【花鶏】
「ドルか」
真顔だ。
本日レートで計算していた。
【花鶏】
「ネパールルピーとかにならない?」
【智】
「なりません!」
【茜子】
「さすがだぜ大悪魔セクハラー。目がマジでした」
【こより】
「食べていいですか!? 食べていいですか!? 鳴滝はもう……もう……!」
【こより】
「って、るいセンパイもう食べてるーっ!」
るいのことをネーサンでなく、
センパイと呼ぶようになったのは、いつからだったろう。
小さな変化はいくつでも、どこにでも見いだせる。
【るい】
「もう……はぐ、食べ、はむ……!」
【伊代】
「食べるか喋るかどっちかにしなさいってば」
誰よりもはやくプッタネスカの皿にガッついた。るい。
一口食べるやいなや顔を上げた。
ちょっとトマトソースの付いた口元で、ずずいと僕に迫ってくる。
強く強く僕の両手を取る。
【智】
「るい……な、何?」
ヘッドバットの距離だったが、るいは口をちゅっと尖らせた。
【るい】
「これは、お・れ・い☆」
【智】
「えあ……、ほへ?」
反射で、顔が爆発したみたいに赤くなった。
冗談だって言うのはわかってるハズなんだけど!
けど!
【こより】
「うは、ともセンパイ赤くなった! かわいい〜」
【茜子】
「プリティー過剰」
肩を引かれた。
花鶏だった。
むちう
キスされた。ディープだった。
【智】
「んむ〜〜っ!?」
【伊代】
「ちょちょちょちょ、ちょっとあなたっ!?」
【こより】
「ともセンパイが性的にピンチですーっ!?」
【花鶏】
「ん……んむ……ちゅ……んふ、ん……ふ……れろれろぉ、ちゅぷ、ぷちゅる、ちゅっ、ん……ちゅるる……んふ、ん、ちうぅぅ……ちゅっ、れる、はふ、んちゅぅ……」
ディープすぎ!!
【花鶏】
「ちゅ……ん……ぷぁ……」
【花鶏】
「ん……ごち」
【智】
「ふは、あ……あう……あうあう……!」
さめざめと肩を震わせて床に崩れる僕を、
花鶏は愛妾のように抱き寄せる。
ペロリと唇を舐めてから、るいにニヤリと笑う。
【花鶏】
「智は、渡さないわよ?」
【るい】
「な……この……くぅぅ、むっかぁーっ! このヘンタイ!
このセクハラレズ! あとえっと……えっと……アカネ援護!」
【茜子】
「この淫蜜乱れ百合」
るいと花鶏が対峙していた。
僕はそのままふにゃふにゃと倒れてしまう。
【智】
「はうぅ……」
【伊代】
「だいじょうぶー……?」
伊代が介抱してくれた。
【こより】
「ともセンパイがオーバーヒートしてる〜っ!」
【花鶏】
「――――っ」
【るい】
「――――っ」
竜虎相打つ。犬猿の仲。氷炭相容れず。
ぶつかり合う視線に火花が散る。
【花鶏】
「どうせ食べ物が目当てのクセに」
【るい】
「むむむ……じゃあ花鶏は何目当てなのよ!?」
【花鶏】
「肉体」
即答。
【伊代】
「おいおい」
【るい】
「ダメダメ! そんなのダメーーーーー!」
【花鶏】
「フフフ、恋愛は自由なのよ?
他人がとやかく言うモノじゃないわ」
自信ありげだ。
【こより】
「ふぉぉっ、花鶏センパイすっかり悪の女帝になってます!
えっちぃ衣装でムチとか振りそうです!」
【茜子】
「今夜もまた、誰かが命を落とす……!」
【伊代】
「落とさないし夜じゃない」
【るい】
「このインミツなんとかーっ!!」
【花鶏】
「こよりちゃんも智も伊代のおっぱいも、全部
わたしのものよーっ!!」
花鶏とるいが暴れ出して、ただでさえ手狭な
部屋は見る見るめちゃくちゃになっていく。
それを止める気力も無い。
伊代の膝枕でぐったりするばかり。
【智】
「……………………」
宴終わって。
際限なくヒートアップするかに見えた混乱は、
ついにキレた暴走伊代に仕切られて強制撤収という形で終息した。
一撃でるいを仕留めた伊代アッパー、数秒で花鶏を落とした
伊代ベアハッグ(なぜか花鶏は微妙に幸せそうだった)は、
今後も伝説として語り継がれるだろう。
【智】
「……せっかく昨日キレイに片付けたのに……ううぅ……」
無惨な部屋の惨状を残して帰った面々。
るいだけが一人で残っている。
散歩待ちの犬のような目で、僕を見ていた。
ポーズもわんこ座り。
ぶんぶんと振る尻尾があっても違和感は無さそうだった。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
なんとしても帰らないつもりか。
そんなに花鶏のとこに泊まるのがイヤなのか。
悲しそうな顔をしてみる。
ニュアンス:可哀想だけど、拾ってやれないんだよ。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
キツい目をしてみる。
ニュアンス:汚らしい犬だねまったく! シッシッ!
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
真剣な眼差しを向けてみる。
ニュアンス:大丈夫。おまえならきっと一人で生きていけるさ……!
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【智】
「……わかった! わかったよ、わかったよぅ。いいよ、るいなら」
【るい】
「ほんと!」
るいの頭に見えない耳がピーンと立った。
わかりやすいなぁ……もう……。
【智】
「ただし寝るトコは別だからね!!」
【るい】
「おし、やった! さすがトモ! 頼れる後輩を持って
おねいさんはシヤワセだわ」
ついこの間、発覚したのだ。
実は、るいの方が1年上だった。
人は見かけによらない。
【智】
「掃除とかも受け持ってよね」
【るい】
「あう……そんな、先のことを言われても……」
るいは口ごもる。
呪い――――――
そうだ、罠はどこにでも潜んでいる。
これも。
【智】
「……まあ、いいや。好きにして」
投げやりな感じでフォローをいれた。
【るい】
「にひ」
【智】
「調子いいなぁもう……」
るいは、にかりと笑う。
僕は、これでも小さい頃から、今までずっと女の子をやって来た。
以前と同じ轍は踏まない。
片付けを済ませた後、入浴タイムを華麗に切り抜ける。
お着替えもクリア。
この分だと、しばらくなら、るいとの生活もうまく
やれそうな気もする。
【るい】
「でさ、花鶏って、ごはん食べながらとかでも寝るんだよ。
アカネがおでこにニンジン貼り付けても起きないの」
【智】
「あはは、夜更かしでもしてるのかね〜?」
【るい】
「さぁーぁ? みんな、変なの揃いだよね」
【智】
「たしかにー」
そろそろいい時間だった。
これからは、なるべく、るいより早く起きないと
マズイことがありそうだ。
るいは、とんでもなく早起きか、昼過ぎまでぐーぐー寝てるか、
どっちかの極端なタイプっぽい。
こっちには身支度もイロイロあるから、
ゆっくり寝ててくれるとありがたいんだけど。
【智】
「るい、そろそろ寝ようよ」
【るい】
「あー、そだねー。……ふあ……寝る話したら急に眠くなって来た」
【智】
「便利な体」
前回、抱き枕にされた失敗を思い浮かべる。
アレはマズイ。
あらゆる意味でマズイ。
まず柔らかい。
マズイ。
そしていい匂い。
マズイ。
とはいえ、女の子を床で寝かせるのも気が引ける。
【智】
「るいがベッド使っていいから」
【るい】
「トモはどこで寝るの?」
【智】
「下でタオルケットで寝るから」
【るい】
「えー、悪いってそれ。一緒に寝ようよう」
【智】
「暑苦しいからヤダ」
【るい】
「じゃ、じゃあ私下でいいって! いや流石に泊めて貰った上に、ベッドまで占領するのは悪いよ」
予想通りの展開だ。どうするか?
固い床の方が好き?
この季節は床で寝ることにしてる?
それともナントカ美容健康法?
考えた末に妥協案を提示した。
【智】
「えーと……じゃあ交代制。今日は、るいがベッドってことでどう?」
【るい】
「一緒に寝ればいいのに〜。
女同士なのに、トモってヘンなとこ照れるんだから」
【智】
「ダーメ!」
【るい】
「……家無しだからって、気使ってくれなくていいよ」
【智】
「べ、別にるいの為に寝るとこ分けてるわけじゃないんだからね!」
【るい】
「そういうの、ツンデレっていうんでしょ」
こいつも悪い言葉を仕入れていた。
【智】
「るい、おやすみ」
【るい】
「うん。おやすみ」
カーテンの隙間から漏れ入る月の光は弱々しく、
明かりを失った部屋は途端に真っ暗になる。
薄闇に、デジタル時計の文字だけが淡く発光していた。
明日のことは、また明日考えよう。
息苦しさに目覚めた。
るいがいた。
【智】
「…………」
ベッドから転がり落ちてきたらしい。
るいは、またもや、僕を抱き枕にする。
抱き枕が無いと寝られない人なのか。
【智】
「マズイ……これマズイって言ってるのに……!!」
るいの髪と胸のあたりから、
いい匂いが香ってくる。
同じ石けんにシャンプー、トリートメント使ってるのに、
なんでこんないい匂いなんだろう?
女の子だからか?
これが本物と偽物の差なのか?
思考がすぐに引き戻された。
ぎゅうぎゅうと押し当てられる柔らかい二つのかたまり。
【智】
「ね……眠れないよぅ〜……」
波乱な生活の予感がする……。
〔遺産を巡って〕
【智】
「ねむい……」
このところ、1日おきに眠かった。
【るい】
「トモって、床で寝た時いつも寝不足じゃない? だからベッドで一緒に寝たらいいって」
そうじゃない、ものすごくそうじゃないんだ!
第2次抱き枕事件から、僕は、
るいをずっと床寝に強制してやろうと決心した。
結局実行できなかった。
どうしても、女の子を床で寝かせるのに気が引けたからだ。
へたれだなあ……。
【智】
「いいんだ……いいんだ……」
【るい】
「ん〜?」
るいをベッドにすると、必ず落ちてくる。
抱き枕にされる。
わざとやってるのか!?
一度問い詰めてみたい。
眠れない奇数日の事情だ。
【智】
「ごはんできたよ」
【るい】
「おトモや、いつも済まないねぇ」
【智】
「おとっつぁん、それは言わない約束だよ」
ここはどこの町人長屋だ?
【るい】
「んじゃ、戴きますー」
【智】
「どーぞー」
今日の朝ご飯は、作りおきの
ハンバーグ種を使ったロコモコ。
平皿に盛ったごはんに、ハンバーグと
目玉焼きとグリーンサラダなどを乗せて、
グレイビーソースをかける。
なにもかもぐちゃぐちゃに
混ぜて食べるのが、本場の食べ方だ。
るいはマヨネーズもたっぷりかける。
いいのか、それ?
僕一人ならいつもトーストとサラダで済ませるが、
るいは白いごはんが無いとダメな子だった。
【るい】
「うまい! うまいよこれ! トモやっぱり天才だよ!」
がつがつ食べる。
【智】
「マヨかけすぎ」
ハワイの郷土料理らしいけど、
実にるい向けの料理だと思ったので作ってみた。
案の定ウケた。
健康を考えて、ハンバーグに高野豆腐が
混ぜてあるのは、るいにはナイショだ。
【るい】
「こんなおいしい料理食べたことないー」
【智】
「だったらマヨをやめなさい」
【るい】
「合うよ?」
【智】
「むぅ……」
僕の料理がうまいのか
マヨネーズがうまいのかどっちだ?
納得いかない顔をして唸っていると、
るいが箸を置いてこっちを見ていた。
【るい】
「そういえば……トモってさぁ?」
【智】
「なに?」
僕もなんとなく箸を置く。
【るい】
「トモって、家族いないの?」
ああ……。
なるほど、当然の疑問だ。
誰も帰ってこない。
家族からの電話の一度もない。
この部屋の家賃や電話、食費などの雑費は、父さんが死んだ時
に残していた少しばかりの資産と、親戚のひとに出してもらっ
ているお金で、まかなっている。
卒業したら働いて返すという約束だ。
親切にしてくれる親戚がいても、
呪いのせいで親密にはなれない。
心苦しいけれど仕方がない。
以前は、死んでしまった両親を恨みもした。
【智】
「ウチも、るいと一緒で家族は居ないよ。みんな死んじゃった」
【るい】
「あー……やっぱそうか」
るいを見る。
あの廃ビル暮らし。
文字通りの一人で生きてきた、
るいの逞しさに、驚嘆を禁じえない。
【るい】
「実は……私も、両親は居ないんだけど……」
るいの父親が死んだのは知っている。
母親の話は初めて聞かされた。
【智】
「けど?」
申し訳無さそうにるいが言い淀む。
【るい】
「本当はさ、叔父さん夫婦が後見として、私を家に引き取ってくれてるんだ」
【智】
「え、じゃあどうして……」
るいと出会った廃ビル。
どんな事情が、るいにあんな暮らしを強要していたのだろう。
【るい】
「別に隠してるつもりはなかったんだよ。
ただ、言う機会がなかったっていうか……実は……」
タイミング悪く携帯が鳴る。
しかたない。
【智】
「……ごめ。ちょっと出る」
【るい】
「ん……」
見慣れない番号な気もしたが、よく確認もせずに携帯を開いた。
【智】
「もしもし……」
【興信所の人/???】
「そちらのお宅に、皆元るいさんはいらっしゃいますか?」
【智】
「は……?」
名乗りもせずに、いきなり聞いてきた。
しかも、るいがここに居ることを知ってる?
【るい】
「――――っ!」
るいが、僕の手から携帯を奪い取った。
切る。
【智】
「え、ちょっとるい!?」
【るい】
「ゴメン。心当たりあるんだ」
どうやらワケありだった。
【るい】
「今のはきっと、私のこと調べてる興信所からだよ」
興信所。
降って湧くような非日常的タームだ。
【智】
「どういうこと……?」
【るい】
「うん……トモには、もっと早くに話すべきだったね」
【るい】
「実はさ……」
【るい】
「さっきも言ったけど、私の親は両方とも死んじゃってるんだけどさ。父親がちょっとした資産家……ってやつだったの」
【るい】
「でまぁ……バカみたいな話なんだけど、遺産のことで親戚と揉めて」
【智】
「その、るいの後見になったっていう叔父さんと? でも、るいのお父さんなんだったら、当然、るいにも相続権あるんじゃ……」
【るい】
「そうかもね」
るいは天井を仰ぎ見る。
【るい】
「なんかさ。人間なんて、お金が絡むとカンタンにダメになっちゃうみたいだよ?」
乾いた笑いだ。はじめて見る顔だった。
【智】
「…………」
母親の死後。
るいは親戚に引き取られた。
元々親戚仲のいい方ではなかったが、
それでも表面的な繋がりはあった。
だが、るいの父の死後、彼に多額の遺産があると
知った親戚たちの態度は一変して……。
家出、か。
【るい】
「あ、そんなに大した額でもないんだよ? 小金持ちって程度だよ。別に何億えーん、なんてあるワケじゃないんだ」
【るい】
「でもさ……」
【智】
「父さんが残してくれたんでしょ? だったら」
【るい】
「……あんなの父親じゃないよ」
ヒヤリとする。
瞳の奥に、凶暴な感情が
音もなく身じろぎしていた。
険のある視線はすぐに消える。
るいは済まなさそうな表情を作った。
るいと父親の間には、反射的に怒りを
見せてしまうほどの確執があるのだろうか。
【るい】
「ごめんね。別にトモが悪いワケじゃないのに」
【るい】
「とにかくさ、色々あって……
父親とはうまく行ってなかったんだよ」
【るい】
「だけどさ? やっぱり、ホラ、お金はいるでしょ。あはは」
るいの乾いた笑いは、自嘲を孕んでいる。
【るい】
「いつまでも、トモのお世話になってるワケにも行かないしさ?」
【智】
「そう、だね」
詮索はしないでおこうと思う。
秘密も隠し事もどこにでもある。
仲間も親子も友人も、
全てを他人にさらけ出したりはしない。
人が、繋がることはない。
会話が途切れて、るいが再び箸を取った。
すっかり冷めてしまったロコモコを一口食べる。
【るい】
「あ〜あ、冷めちゃったよ。もったいない」
【智】
「……レンジで温めなおそうか?」
【るい】
「うん! ……ありがと」
るいの遺産問題、僕なりに協力してみよう。
別に、早くに出て行って欲しいわけじゃないけど。
困った時には手を貸し合う、利用し合う。
それが僕らの同盟だ。
僕らが僕らをはじめた時からの、
変わらない約束事だから。
【るい】
「トモーっ! 走れ走れ〜!」
【智】
「そんな大声出さなくてもいいのに」
信号の点滅する横断歩道を走って渡る。
るいが意味もなくハイタッチで迎えてくれた。
学園の授業を適当に済ませて、放課後。
目指すは大型ブックストアだ。
【るい】
「ここ、ここ」
【るい】
「あんま入ったことないけど、
マニアックな本も揃ってるって話だよ」
【智】
「普通の本でいいっす」
目指すのは法律関係の本だ。
遺産問題。
法律絡みだけに、問題をやっつけるにも知識がいる。
無知なままだと返り討ちに遭う。
まずは手近なところから勉強を。
大きな本屋に共通して見られる、
妙にきれいな自動ドアを潜って店内へ。
入口付近の雑誌コーナーには
学生たちが群がっていた。
小説コーナー、実用書コーナーと、
奥へ進むにつれて人はまばらになる。
目当ての法律関係の書籍が
配置されているのは、ほぼ最奥。
宗教書や哲学書なんかの近くに置かれているあたり、
需要が少ないのが露骨にわかる。
【智】
「心当たりは?」
【るい】
「私にわかると思う?」
【智】
「期待はしてなかった」
【るい】
「正直でよろしい」
適当な本を手に取った。
クラっと来そうになる細かい字が、
びっしり書かれていた。
【智】
「ん〜……!」
【るい】
「ん〜……!」
数秒後。
【智】
「わかんね〜……!」
【るい】
「わかんね〜……!」
暗号すぎる。
【智】
「もうちょっと敷居の低そうな本をプリーズ」
【るい】
「うんうん。これはレベルが高すぎ」
本の海を渡るようにコーナーを彷徨う。
比較的組し易そうな相手として、
「こんな時どうしよう?」的シリーズの、
遺産問題編みたいなのも見つけた。
でも、イマイチ。
突っ込んだ話に入ると、すぐ「弁護士か司法書士に相談を」
と続いていて、ご丁寧に連絡先まで付記してある。
家出娘に無茶を言う。
【るい】
「飽きた」
【智】
「どれも似たようなことしか書いてないね」
【るい】
「トモちん、こういうの全然なの?」
【智】
「僕のは生兵法と素人知識。実際には一言一句で変わっちゃうのが法律だから、もそっと知識仕入れとかないと」
【智】
「でも、るい?」
【るい】
「うにゅ?」
【智】
「実子のるいには、普通に相続権はあるはずだから、キチンと主張すれば、」
【るい】
「遺産ってお金の他にもあるでしょ」
【智】
「家とか?」
【るい】
「うん、まぁ、家とか、ちゃんと価値のあるモノならいいんだけど」
【るい】
「親戚の連中は、私が子供だと思って甘く見て……父親の蒐集(しゅうしゅう)してた、価値のよくわからないモノとかを押し付けようとしてるんだよね」
【るい】
「そんで、これは価値のあるものだー、お金と等しい価値だーって言い張って、私にお金を回さないつもりなわけ」
るいは金銭に執着するタイプではないけれど、
先立つものが必要なのも事実だった。
よって、正当な取り分を確保する。
それが今回の大目標。
【智】
「難しい」
【るい】
「私、家出するはめになって、世間的に印象も悪いしさ。こっちの意見はなんにも通らないっぽい」
その遺品に価値が無いことを認めさせて、
正当な遺産を貰うにはどうすればいいか。
【智】
「こうなったら直接行ってみようか」
世間がダメなら、直談判か。
もしかしたら、お互いわだかまってるだけという可能性が
無いでもない。
他人の善意に期待するほどバカなことはないけれど。
【るい】
「ムリムリムリリリ!! 私本気でケンカして出てきたんだから!」
【智】
「僕も付いて行くから」
【るい】
「…………」
【るい】
「……トモって、いい子だよね」
【智】
「な、なにそれ?」
【るい】
「ま、るいねいさんは気まぐれってこと」
ぶらりと、るいが向きを変えた。
どうやら行く気になってくれたらしい。
直接対決を挑む。
やって来ました、るいが引き取られたお家。
電車で30分ほどの距離にあった。
……緊張。
るいも隣で強張っている。
インターフォンは通話用の受話器が
取り付けられていないタイプなのか、
それとも単に使わないだけなのか。
反応が無い。
しばらく待つ。
他人の善意に期待するのはバカだ。
わかっているのに、淡い期待を抱く。
血の繋がり。
【智】
「家族、か……」
口の中だけで呟く。
僕には、そういうものは、いない。
両親はとっくに喪っているし、親戚だって疎遠だ。
るいは、僕とは違う。
僕のように、誰をも遠ざける必要はない。
いや……理由があったとしても。
せめて家族とくらいは――――。
よしんば本物の家族のように暮らしていくことは
できないとしても、わざわざ家族同士で争ったり
する必要はないと思う。
甘いか?
感情移入しすぎてる感がアリアリ。
まずいなあ。
【るいの叔母】
「……何か用なの」
待ちくたびれた頃、ようやく鍵を開ける音がした。
チェーンロック分の隙間から顔を覗かせた中年の女の人は、
るいの叔母を名乗るにはあまりにも酷薄な目をしていた。
似ていない。
最初に抱いた印象がそれだ。
【智】
「あの……」
【るいの叔母】
「あなたは誰なのよ」
これはダメだ。
ダメだ。
さっきから己の甘さを指摘していた、
こめかみの部分が、自嘲混じりに諦めろと告げている。
【智】
「僕は、るいの友達です」
【るい】
「久子さん。今日は父の遺産のことで話に来たんだ。一度ちゃんと話をしたいと思って」
【るい】
「この子は私の友達で、私、法律とか疎いから、付き添いで
来てくれたんだ」
【るいの叔母】
「…………」
チェーンロックを外す気配はまるで無く、
細い目はさらに細められた。
敵を観察する目だ。
【智】
「るいは故人の実子だから、正当な相続権があるはずです。もちろん遺品なんかの問題もありますが、せめて均等な分割を……」
【るいの叔母】
「……そういう話は家庭裁判所でします。帰ってください」
【智】
「でも、せめて話……」
目の前で、無感情にドアが閉まった。
乾いた鍵をかける音。
【智】
「…………」
何も言えない。
【るい】
「やっぱり、来るんじゃなかった……」
【智】
「…………用意してた言葉だった」
【るい】
「……」
るいの叔母は、おそらく、その手の法律に
詳しい人間から助言を受けている。
返答は最初から用意されてた。
余計なことは言わない。
必要にして最低限。
こういった場合、口を滑らせたようなことが、
不利な言質になってしまったりするからだ。
るいの顔が沈む。
【るい】
「ちくしょう」
なにか方法はあるか。
弁護士とか、裁判とか?
僕らには人を雇うだけのお金だってないし、
社会的な立場にしたって全然だ。
どうにも難しい。
【るい】
「ちくしょう」
るいが歯噛みする。
半ば、最初からわかっていたことなのに辛かった。
家族なのに。
血が繋がっているのに――。
笑ってしまいそうになった。
るいが家出したのに、警察に捜索届けも出さず、
興信所に行状を見張らせて遺産を奪おうとする連中。
和解できればだなんて、甘すぎるにも程がある。
どうしようもなく甘すぎ。
僕は馬鹿だ。
馬鹿だ!
【智】
「ごめんね、変に期待させちゃったかもしれないね」
【るい】
「な……なに言ってんの。トモのせいのわけないじゃん。
トモ悪くないよ。なんにも悪くないよ」
【智】
「本当に甘かった。勝手に想像して、るいが家族に受け入れられればいいだなんて、思って……」
【るい】
「トモは悪くないったら!!」
るいの目から一筋の雫が流れていた。
海の底で密やかに育まれた
真珠のように、綺麗な雫だった。
【るい】
「…………」
【るい】
「あの、ありがと……いっしょに来てくれて……」
【智】
「……言い出したの、僕じゃないか」
背中から抱きしめられた。
るいの香りだ。
【るい】
「私……諦めないよ」
どうするのが一番正しいのか。
わからなくなる。
これは壊れた方程式だ。
何を代入しても解けやしない。
るいと、あの冷たい目の叔母たちを
無理やり繋げて、つぎはぎの家族にする。
るいを助けて、彼らに勝つ。
きっとどちらも正しくない。
もっと根っこのところが、何かが、壊れている。
【るい】
「私、諦めない」
【智】
「るい……」
それでも僕は。
ただこの少女の、愛すべき友人の味方をしよう。
正しいか、正しくないのか。
それがわからなくても。
僕らは群れだ。
お互いを守り合う約束をした。
仲間を守る。
それは僕らの唯一の正義だ。
きっと、僕らは、はぐれてる。
呪われている。
この社会から、普通から、あるがままから。
抱かれるままだった僕は、るいの肩に手を回す。
【智】
「るい、帰ろう」
るいの心の中で育まれた真珠は、
僕の肩の上、衣服に染み込んで消えた。
〔三宅登場(るい編)〕
【智】
「じゃあ、今日は早めにお開きってことで。またね!」
【花鶏】
「ん」
【るい】
「ヘソ出して寝るなよーっ!」
【こより】
「ういー、了解であります! 失礼するであります!」
【茜子】
「今日は国際猫サミットに出ないと行けないので、茜子さんも素早く帰ります」
【伊代】
「じゃあね。みんな、また」
【伊代】
「……あ、誰か明日の天気予報知ってる?」
夕暮れ、手を振り合って別れた仲間たち。
それぞれの住処に足を向ける。
ひとまずは、仲間たちと過ごす日常に戻った。
るいの親戚と遺産の問題は一時保留だ。
なにせ手の出しようがない。
であるならば。
うじうじ悩むより、今を楽しむのが和久津流。
今が楽しくなくて明日を楽しくできるはずがない。
明日の為に今日を生きる生き方は、流儀に合わなかった。
【智】
「僕も結構刹那的なんだな……」
予測はしても期待はしない。
予想はするけど希望は抱かない。
言葉にすると、刹那的じゃなく後ろ向きだ……。
呪われた身の上だけに、未来の人生設計について、
どんどん先行き細くなるのが根本の問題です。
【るい】
「トモ、今日の晩ごはんなにー?」
こっちも違う意味で刹那的。
【智】
「冷蔵庫の中も少なくなって来たし、スーパー寄って行こうよ。
今ならタイムサービスで、おニクとかも安くなってると思う」
【るい】
「おーおー。トモは賢い嫁じゃのう。良妻ケンボじゃのう!」
【智】
「まだ処女ッス」
処女……とは違うか。
恥ずかしい告白をさせられている気分になる。
深く考えまい。
るいが僕の頭をわしわしと撫でてくる。
るいが同居を始めてから、そろそろ2週間になる。
生活の諸問題もだんだん慣れてきた。
関係は概ね良好。
【智】
「ところでさ、るいの好きな物ってなに?」
なんなら、今日はるいの好物で食卓をそろえてもいい。
それで機嫌を直してくれるなら、奮発するのも悪くない。
【るい】
「一番好きなのか……えーっと、そう! あれだっ、ちくマヨ!!」
【智】
「ちくま……よ?」
キラキラした目で謎の単語。
【るい】
「うん。ちくわの穴にマヨネーズ詰めたやつ!」
味付け関係ないよ。
【智】
「そんなのが一番なのか、君ってやつは」
料理人の存在意義を貶(おとし)める、マヨラー滅ぶべし。
【るい】
「おいしいんだって! 本当」
るいのマヨネーズへの情熱は聞き流した。
向かいから、冴えない風貌の男が歩いてきた。
衣服は上も下も皺が寄っていて、
腕には一目で安物とわかる腕時計。
靴は毛羽立つほど履き古されている。
何気なく道を空けるために路側帯を出る。
【智】
「……?」
【るい】
「どしたの、トモ?」
【智】
「前」
るいも気づいた。
隣で敵意に近い緊張感が膨れ上がる。
男は僕らと同じ様に路側帯を外れて来た。
るいは、野生の獣と同じで警戒心が強い。
仲間にはとことん気安いが、それ以外には、
たとえ近所のコンビニ店員にだって警戒を解かない。
男は、僕たちの真正面に歩いて来る。
わざわざ道を塞ぐ。
何のために?
訝しむ。
相手は遠出してきた服装には見えなかった。
手ぶらで、小さな荷物すらない。
あと15メートルほど。
観察する。
年の頃は20代後半から30代前半ぐらい。
気弱そうな垂れ目は、一見した限り剣呑さとは無縁だ。
男が足を速める様子はない。
警戒するのは過剰かと思う。
何かで不機嫌な男が、か弱い女の子とみて突っかかってくるだけのことかもしれない。
でも、そうじゃないかも知れない。
僕らが、歓楽街の物騒な連中と、わりとシャレにならないもめ事を起こしたのは、忘れるほど昔の話でもなかった。
あと10メートル。
男の体格を見る。
猫背、痩せ型、筋肉質ではない。
このまま行くことにした。
まかり間違えて、相手が因縁でもつけてきたら。
僕は、るいが殺人犯になっちゃわないように、心配することになるだろう。
今にも飛び出しそうな、るい。
上着の裾をつかんで、それを制止しながら、
そのままのペースで歩く。
5メートル。
【男】
「すみません……人を捜してるんですけど……」
そこで男が話し掛けてきた。
頼りない声だった。
【智】
「……どんな人ですか?」
【男】
「あー、背の低い女の子でー……」
るいは警戒を解かない。
【智】
「写真とか無いんですか?」
【男】
「あっ……と……ココだったかな? あれ……」
ゴソゴソと体じゅうのポケットを裏返しにして探し出す。
裏返したポケットからはクシャクシャのレシートや、
ガスの切れたライターが出てくる。
なんだか、頼りない感じだ……。
しばらく体じゅうを探し回って、ようやく男は胸ポケットの手帳に挟んだ写真を見つけた。
【男】
「あーあー、あったあった。ゴメンゴメン。これ、この子なんだけど……」
【智】
「――――」
【るい】
「……こより?」
【男】
「そう、そういう名前。鳴滝こよりっていう……もしかして、
知ってる?」
しまった。
るいが思わず漏らしたのを聞き咎められた。
男の取り出した写真には、こよりが写っている。
インラインスケートを履いて惰性で滑りながら、
ちょっとこっちを振り返る仕草。
間違いなく、こよりだ。
【智】
「…………」
学園帰りで制服のままなのは痛い。
その分素性を誤魔化せない。
考えて、結論した。
【智】
「この子に、何かご用ですか?」
問い 戦争で勝つために重要なものを二つあげよ。
答え 補給と情報。
【男】
「いや、どうも。俺は三宅。しがない記者をやってるんだ」
【智】
「へぇ……記者」
何が起こっているのかわからないと、
対策だって立てられない。
情報が必要だった。
しつこく付きまとわれたりすると面倒だし。
るいチャンが切れて、暴行事件とか起こしちゃうと、
とてもとても笑えないし。
場所を変えて話の続きをすることになった。
駅前のファミレスだ。
なんでも、この男の人が奢(おご)ってくれるらしい。
るいが本気になったら心底後悔するだろう。
【るい】
「…………」
名刺は出てこない。
るいは相変わらず警戒を解かなかった。
【三宅】
「あー、食べちゃっていいよ先に。冷めるとおいしくないしね。
ははゴメンゴメン」
【るい】
「…………」
【智】
「食べなよ、るい。僕も食べるよ」
【るい】
「……うん」
【三宅】
「よし、んじゃ俺も……あーゴメン、俺このフォークとナイフっていうのがニガテでね、ハシ貰えないかなー」
るいの警戒心剥き出しの目に気付かないのか、
三宅と名乗った記者はヘラヘラと笑っている。
るいが、ポテトとベーコンのマヨチーズ焼き
(マヨネーズ多め)を食べ始める。
僕の注文はスコッチエッグと水菜のシーザーサラダ。
味はファミレスのわりには悪くない。
三宅……さん、と呼んでおこう。
三宅さんはミートソーススパゲッティの上にチキンカツを乗せて、
さらにその上にチェダーチーズを置いたとんでもなくカロリーの高そうなメニュー。
受け取った割り箸で食べ始めた。
テーブルに置かれた写真のこよりに、点々とソースが飛ぶ。
【智】
「それで……こよりに何の用なんですか?」
切り出してみた。
三宅さんは箸を止めて、紙ナプキンでいいかげんに口を拭う。
左頬のあたりに少しソースが残っていた。
【三宅】
「ああ、お姉さんに頼まれてね」
【智】
「姉さん?」
【三宅】
「ああ、小夜里ちゃんにね。しばらく帰ってないからって……」
【智】
「お姉さんって……こよりのお姉さんですか?」
【三宅】
「……そうだよ?
あれ。もしかして、お姉さん居るの知らなかったかな?」
【三宅】
「鳴滝小夜里、こよりちゃんに似て綺麗な子だよ」
初耳だ。
【三宅】
「ホントだよ、ほら……えっと、どこだったかな……あーこれこれ、ほら、小夜里ちゃんの名刺」
胸ポケットから取り出した名刺には折り目がついていた。
CAコーポレーション、鳴滝小夜里。
家族。
こよりの、家族。
下腹部のあたりがもぞもぞする。
生理かしらん……。
【智】
「やだなあ」
【三宅】
「……なんかいったかい?」
【智】
「いえいえ」
自分の名刺も無い男が、人捜しの為に偽造名刺を作るというのもピントのずれた話だ。
すると本物か。
【智】
「お姉さんが、捜してる?」
【三宅】
「そうなんだよ」
値踏みする。
切ないまでに頼りない。
この男よりは、茜子のガギノドンの方が、
まだしも危険度は高そうだ。
目つきが思いの外真剣だった。
本気で、こよりを捜そうとしている。
もう一つ。
こちらを子供と侮っている空気がない。
女だと軽く見ているわけでもない。
【智】
「むー」
思案のしどころだ。
他のことならともかく、家族のことだ。
【智】
「…………わかりました」
【智】
「明日、僕たちの溜まり場に案内します。そこに、こよりも含めて、いつも、みんな居ますから」
るいに、チラリと横目を向ける。
無言のままだ。
何も言わないということは、とりあえず肯定らしい。
【智】
「うん」
【三宅】
「こりゃどうも。お招きありがとうございます」
るいも多少は緊張を解いたらしい。
料理の皿もほとんどカラになっていた。
【智】
「三宅さんは、どうしてこよりの……」
【三宅】
「あ、ところで」
【智】
「はい」
【三宅】
「るいちゃんは、もしかして皆元信悟さんの娘さんなのかな?」
【るい】
「……ゃないよ」
【三宅】
「え?」
【るい】
「あんなの父親じゃないよ!」
テーブルを叩く。
勢い余って立ち上がる。
ファミレス中の視線を磁石のように集めた。
【智】
「…………」
気まずい沈黙。
るいに父親のことは禁句だ。
【智】
「あの、るいの父は……」
【三宅】
「あー、ゴメンゴメン。実は亡くなったのも家庭事情が複雑なのも知ってるんだ。実は、るいちゃんのことを調べてた興信所の男と顔見知りでね」
【智】
「――――――」
眼を細くする。
思いの外、知っている。
【智】
「興信所が、プライバシー情報漏らしていいんですか?」
声のトーンが落ちた。
相手は気がつかなかった。
【三宅】
「金払いが悪いらしくてね。なんでも、実子のるいちゃんから遺産をもぎとろうとしてるっていう話じゃないか。ヒドイ話だよね」
【三宅】
「しかも、話は家庭裁判所でって、突っぱねられたんだって?」
【るい】
「そうだよ」
【るい】
「弁護士雇うお金なんてないし」
【三宅】
「そりゃそうか。そういうのなら……そうだね、タダってワケには行かないけど、分配される遺産の1割もくれれば後見人を請け負うようなヤツ、世の中いくらでもいるさ」
【三宅】
「そういうヤツを捜してみちゃどうだい? なんなら、紹介してもいいよ。何人かその手の知り合いもいるし。法律にもそれなりに詳しいヤツさ」
【三宅】
「あ、ごめん……つい余計な口だしちゃった。見ず知らずの、
今会ったばかりのヤツなんて信用できないよね」
【三宅】
「俺、よく編集長に怒られるんだよね。
お前は余計なことに首突っ込みすぎる……ってさ」
頼りない見た目。
意外に博識で人脈がある。
これが推理小説なら、
真犯人候補の筆頭に来そうだ。
どこまで信用したモノか。
【智】
「ありがとうございます」
【るい】
「……ありがとう」
るいの目が緩んでいた。
それなりには信用したらしい。
【三宅】
「イヤははは! まだ何にもしてないから! お礼を言われるのは早すぎるってば」
【三宅】
「ま、明日はよろしくお願い。待ち合わせはココの前でいいかな?」
【智】
「はい、それで」
【三宅】
「うわ、こりゃヒド……すごい」
翌日、いつもの溜まり場。
店舗の入った1階2階は普通のビルだが、
無人の3階からは、ハグレモノたちの領域だ。
壁を埋め尽くすラクガキは、
動物たちの行うマーキングのようなものだ。
自分たちの安心できる領域を作る、ナワバリのしるし。
【智】
「そこ、こないだ手すり壊しちゃったから気をつけて」
【三宅】
「ああ……ありがとう」
ビルの惨状にいささか引き気味についてくる。
時間を確かめる。
とっくに、みんな待っている頃だ。
【智】
「いいね?」
【るい】
「……」
反対意見はなし。
【智】
「それでは……僕らの溜まり場へご招待」
扉を開いて、三宅さんを先に通す。
みんなの小さな声。
三宅さんの背中を押しながら屋上へ出た。
【智】
「みんな、おはよー」
とりあえず、第一声。
【伊代】
「誰この人?」
【三宅】
「……というわけで、ご紹介に預かりました三宅です。よろしく」
【三宅】
「や、どうもどうも」
ズボンで手を拭いてから、順番に握手を求めていく。
【茜子】
「っ……」
自分の番になって、茜子は戸惑った。
手袋を確認してから指先で小さな握手を交わした。
【三宅】
「よろしく?」
【茜子】
「茅場、茜子さんです。よろしく……」
人に触れない。
それが、茜子の呪いなのだと思う。
茜子はいつも手袋を外さない。
僕の部屋に来た時も、
わざわざベッドの下に潜り込む。
【智】
「茜子、だいじょうぶ?」
【茜子】
「……はい」
そうして、三宅さんはやっと本題を切り出した。
【三宅】
「こよりちゃん。お姉さんが、会社のほうに一度顔を出して欲しいと言ってるんだよ。俺は、それを伝えるよう頼まれてね」
【こより】
「お姉ちゃんが……」
【花鶏】
「ふぅん」
【伊代】
「あなた、お姉さんなんて居たのね」
全員初耳らしい。
こよりの反応を見るかぎり、姉は本物で間違いない。
【三宅】
「ああ、キミも知らなかったんだ。ええと……そういえばキミだけ名前を教えてもらってないね?」
【伊代】
「あ、あ……あの、わたしは……」
【智】
「伊代です。伊代」
フォローする。
【伊代】
「…………です」
名前。
多分そこに、伊代の呪いがある。
伊代の呪いは、おそらく他の誰より隠すのが難しい。
だから、伊代は人と距離を置く。
近づけない。
ある意味、僕に似ている。
【三宅】
「へえ……伊代ちゃんか。なに伊代ちゃんって言うの?」
【伊代】
「え……えっと……白い、鞘って書いて……」
【智】
「白鞘です。白鞘伊代」
まずい。
伊代の反応を不自然がっている。
あたりまえだけど。
茜子の手袋は潔癖症で通るとしても、伊代は不自然過ぎる。
【三宅】
「伊代ちゃんは人見知りなのかな? その制服、たしかこのへんの学園だよね。なんてとこだっけ?」
【伊代】
「そ、それは……」
【智】
「伊代の学園は」
【三宅】
「どうして智ちゃんが全部代わりに説明するんだい?」
【智】
「いいでしょう、細かいことは」
伊代と三宅さんの間に割ってはいる。
【三宅】
「いやぁ、さすがに細かくは、」
【智】
「色々、ありますから」
言葉を途中で遮る。
声のトーンが無闇に落ちる。
苛立ちの矛先は、相手ではなく自分だ。
自分の迂闊さを呪っていた。
わざわざここに連れてくる必要はなかったのに。
こよりだけ呼び出すなり、いくらでも方法はあったのに。
自分を笑ってやりたい致死性のミス。
我ながら馬鹿馬鹿しいくらいの平和ボケ。
仲間が出来て、日々の楽しさについつい浮かれて――
そんなこと、はじめてだったから……。
そのせいで「外敵」への警戒を怠るなんて。
僕らは最初から外れてる。
僕らはみんな、呪われている。
群れでいる時こそ、一番気をつけるべきだった。
一人なら、自分一人の失敗で済む。
群れでは、自分だけでは済まなくなる。
【三宅】
「………………」
眉をしかめる。訝しんでいた。
予想される、ごく一般的な反応。
どうしよう……。
今更、単に遠ざければ、それで済むだろうか。
この人は、こよりの姉さんの知り合いでもある。
少なくとも、こより姉が、こよりへの伝言を
頼むくらいには信用している相手だ。
そういう人を、力ずくでたたき出すわけにも、
……いかないし……。
そもそも呼んだのは僕なんだから、
それって、あまりにあまりな酷い話だ。
【伊代】
「あ、あのわたしは……」
【こより】
「三宅さん! 伊代センパイは自分で言えないんです、
だからあんまり……!」
【るい】
「こよりッ!!」
【こより】
「あ…………」
【花鶏】
「……ちっ」
こよりが慌てて口を噤む。
もう遅い。
結果的に、るいの怒気を孕んだ声が場の異常さを
決定的なものにしてしまった。
【智】
「るい」
【るい】
「だってぇ……」
【伊代】
「ごめん……わたしのせいで……」
【智】
「伊代のせいじゃないよ」
【三宅】
「……なにか、理由……秘密かな……あるみたいだね?」
問われた。
意外に真面目な問いかけぶりだ。
必要以上に踏み込んでこないが、
そう簡単には引き下がってくれない空気がある。
記者といった。
海千山千、生き馬の目を抜く業界でやっていくには、
やはり、それなりのものがいるらしい。
【智】
「んー」
うまい言い訳を考える。
伊代の奇行を説明できて、るいのことを納得させられて、
茜子とか他の要因をなし崩しにする、魔法の言葉。
一応、このひとにとって、僕らは、
こよりの友人という位置づけだ。
簡単に引き下がらないのは、
三宅さんなりの責任感なのかも知れない。
「よからぬことに関わっているんじゃあるまいか?」
大人には大人の苦労と心配がある。
そこには同情の一つもしないでもない。
そんな気苦労全く見当外れです……と、
言い切れないあたり、僕も相当肩身が狭い。
実際、央輝たちと絡んだ時は危機一髪の連続だった。
こよりん、随分酷使したし。
【智】
「実は」
【三宅】
「……実は?」
息を呑む気配。
【智】
「僕ら、みんな呪われてるんです」
【花鶏】
「ぶっ」
花鶏が噴き出した。
るいは動物みたいに低く唸った。
伊代の眼鏡がずるっと落ちる。
こよりんはその場で転んだ。
茜子さんは「あなたの脳みそは蛆がわいてます。取り外して洗濯機にかけるのお勧めです。バーカ」と無言のまま仰っていた。
【三宅】
「……………………呪い」
【智】
「そう、呪われてるんです。
ちょっとした奇行は全部呪いのせいなんです」
【智】
「どうかすると生命が危険だったりするんで、詳しくは話せませんけど。だから、気にしたり問い詰めたりはしないでください」
正直こそが、僕の人生で最大の武器だ!
いやまあ……。
そんな嘘八百を並べてるから、
嘘つき村の住人扱いされるんだろうけど。
別に、事情を相談しようとか、このひとは信頼できるとか、
その手の馬鹿馬鹿しいことは考えてない。
他人の善意はあてにしない主義だ。
ただより高いモノはない。
しかし、前提条件を全部クリアできるうまい言い訳なんて、
さすがに即興では思いつかなかった。
ならば真実を。
事実は小説より奇なり。
一言半句の嘘偽りも混じらない、
完全無欠の真実を告白しよう。
冷静になって考えてみるとだ、そんな荒唐無稽、
あまりの支離滅裂、信じるバカがどこにいるのか?
【三宅】
「そうか……そんなに大変な事情があったなんて……」
【三宅】
「知らなくて俺、ゴメン! 悪かったよ。悪気は無かったんだ」
【智】
「…………………………」
バカ発見。
【智】
「えーーーーーーーっ!?」
【三宅】
「……どう、したの?」
【智】
「そこなの!? そういう反応なの?」
【三宅】
「そ、そう……だけど……」
いや、ちょっと待てよ!
それはおかしいだろ。
あんた、いったい、どこの正直村の住人なんだよ!
るいだって、もうちょっとは人を疑ったり……
まあ、そこは怪しいポイントではあるけれど。
でもさ。
【智】
「あんた、正気か!? 脳腐ってるんじゃないの!」
【三宅】
「……なんか……俺、ひどいこといわれてる……?」
【茜子】
「馬脚を現しました」
【花鶏】
「主に智がね」
【伊代】
「こういう切り返しに案外弱いのよ、ウチの姑息貧乳」
くそ。
どうしたら、いいんだ!?
予想外というより、予測の死角。
初球ボールから入る所を、
意表をついてど真ん中に直球を投げ込んだら、
真っ正面からバカ正直に打ち返された。
方便で、子供の戯言にとりあえず話を合わせておこう、
といった風情じゃなかった。
信じていない――わけじゃないのだ。
それだけに困る。
小細工しなかった分だけ、次の一手が出てこない。
【三宅】
「……嘘なのかい?」
【智】
「いえ……いや、その、もちろん本当……」
狼狽して、さらによからぬことを口走った。
いよいよ窮地。
【三宅】
「俺みたいな、こういう商売をしてるとね……
たまにはそういうこともあったりするわけでさ……」
【三宅】
「まあ、なんていうのか。そうだねえ、世の中ってのは、
思ったよりもずーっと不思議に出来てるんだよね」
【智】
「………………はあ」
そんなのでいいのか?
【三宅】
「詳しいことはわからないけど、その呪いを解く方法とか……
ないのかい? ああ、そうだな……そんなの知ってたらとっくに
やってるか……」
【智】
「はあ…………」
なにを言うべきかわからなくて、
負け犬ぽい感じの目をしながら、
適当に相づちを挟んでいく。
【三宅】
「いや。とにかく、俺も何かわかったら知らせるよ。
キミたちの呪いについて」
三宅さんは、自分のペースで勝手にまくし立て、
勝手に納得しながら、何度も何度も肯いてた。
自分が何をどう答えたモノか、よく覚えていない。
多分、どうでもいい生返事だけ返してたんだろう。
【三宅】
「いいっていいって! まさかキミたちからお金取るわけに
いかないし、仕事の片手間にやるのが精一杯だよ。期待は
しないでくれよ?」
【るい】
「三宅さん」
【三宅】
「ん?」
【るい】
「あんた、いい人だね」
【三宅】
「…………」
【三宅】
「…………ハハハ、ハハハハハハ! こりゃ……どうも」
【三宅】
「いや、まいったねこれは。カワイイ女の子たちに頼られるってのはいい気分だよ! はははは。せいぜい首を長くして待っててよ」
だらしなく笑う。
他の面子は、少し引いて遠巻きに見ている。
どいつもこいつも、この正直星人を扱いかねていた。
胡散臭いのか、案外タダの馬鹿なのか。
判断しかねている。
【るい】
「あははは」
とりあえず、るいは素直だった。
〔全国第一回呪い対策会議〕
すっかり夜も更けた。
こよりは姉さんからの伝言を受け取り、
三宅さんは仕事があるからと慌ただしく去り。
やがて時間が来て、僕らも帰路につく。
【るい】
「♪」
【智】
「…………」
るいは上機嫌だった。
僕は不機嫌だった。
呪い。
無関係の一般人が関わったことで、
呪いの不自由さを強く意識する。
もしもこの呪いが無かったら。
【るい】
「どったの?」
【智】
「いや、別に」
もしもこの呪いがなかったら、僕とるいは、
どんな風に出会って、あるいは出会わなかったろうか?
呪いのないIFの世界。
僕は手を組んで一つ伸びをする。
足を速めて数歩前に出た。
後手に組みなおして振り返る。
【智】
「るい」
【るい】
「なんか、真面目顔」
【智】
「僕は、呪いを解く方法を探すことにする」
キチンと言葉にするのは初めてだ。
僕らはみんな、呪われている。
僕らは呪いに囚われている。
それは、最大にして、最後の敵だ。
僕らの群れの、最初からいて最後まで付きまとう、
恐ろしくて掴み所のない影だ。
【るい】
「これが、呪いだよね」
るいが、制服の上から自分の胸に手を当てる。
手のひらの下は、ちょうど、あの痣がある位置だ。
【智】
「呪いの徴(しるし)、だね」
【るい】
「トモにも、呪い、あるよね」
【智】
「そりゃね」
【るい】
「でも、トモのは、まだわかんない」
呪いは孤独だ。
たった独りの呪いだ。
【智】
「そ、それは…………」
――――――――最初は強迫観念だった。
物心つく頃に、第一の恐怖が生まれる。
最初は針の先のような小さな痛みだ。
それは日々着実に大きく育ち、
痣がはっきりとした色と形を備える頃に完成する。
呪いの束縛。
してはいけない。
それをすれば逃げられない。
踏んでしまえば、黒く深い恐怖が追ってくる。
恐怖だけが強く根づく。
それを避け続けなければならないと。
でも。
そのうちに決定的で破滅的な経験をする。
どれほど注意深く生きても完全にはいかない。
落とし穴はどこにでもある。
だから、いつかは踏む。
呪いを、だ。
結局遅いか早いかで。
そして悟る。
私は呪われてる、と。
小さい時分から、僕にスカートを履かせていた母は、
そのうち僕がこうなることを予想していたんだろう。
そうでなかったら、さすがに恨んじゃうしな…………。
【るい】
「裸とか……あ、ごめん……」
ぼくらはみんな、呪われている。
呪いの怖さを他の誰よりも知っている。
けれど僕らが、お互いの呪いについて話し合うことは滅多にない。
言葉に出してしまうと、せっかく眠っている呪いを、
わざわざ揺すり起こしているような、ぞっとする気分を
味わうからだ。
だから、僕らは、呪いについてだけは、
遠巻きに眺めるようなそんな真似をしてしまう。
【智】
「……ごめんね」
【るい】
「いいって。類は友なんでしょ」
笑顔が辛い。
踏まれた呪いは僕らを殺す。
ルールを知っていれば、相手に呪いを踏ませることは、
その気になれば簡単だ。
どれだけ親しい間柄でも、
簡単に自分を殺す方法を知られてしまうのは恐ろしい。
【智】
「…………」
聞けば、るいは話してくれるだろう。
だけど――
僕は、みんなとは違ってる。
僕は最初から偽りだ。
僕の呪いは全てを隠し、偽る呪い。
親しい仲間も、信じたい誰かも、騙し、誤魔化し、偽る。
嘘つき村の住人だ。
僕の呪いは、男だというのを隠すこと。
僕の呪いを見抜いた仲間は一人もいない。
当たり前だ。
るいも、他のみんなも、僕が男だなんて、
そんなこと想像さえもしていないから。
だから、わからない。
僕の呪いが知られるときは、呪いの破れるときでもある。
つまり――――死ぬ――――時だ。
救われない。
【るい】
「でも、いいよ」
るいが追いついてきて、僕の肩を乱暴に抱く。
【るい】
「私、トモのこと信じてる!」
【智】
「るい」
るいには、指切りも約束もない。
一緒に呪いを解く方法を探そうと、誓いもしない。
きっと。
そのあたりに、るいの呪いが眠っているんだろう。
怖れがあって。
でも、希望があった。
『もしかしたら』にすぎない、か細い糸だけど。
それでも。
僕たちは顔を見合わせて笑った。
今にも呪いが解けそうな、そんな気分だった。
翌日。
第1回呪い討論会が開催された。
【花鶏】
「なんでまたこのゴミ山なのよ……」
【伊代】
「わたしは、ゴミを捨てるのにお金を取る法律のほうに
やっぱり問題があると思うわ」
誰もそんな話はしていない。
【るい】
「この仏像とか誰が捨てたんだろ」
【こより】
「あ、ともセンパイ、このソファは、まだまだ現役いけそう
であります!」
【茜子】
「でも裏にびっしりと蟲がついてます」
【こより】
「うひぇえぇぇぇ〜っ!!?」
【智】
「ついてないついてない」
今日は休日だった。
屋上の溜まり場周辺は人の出入りが多かった。
ここなら寂れている分、静かで落ち着ける。
高架下の、秘密の借用地。
不法投棄された粗大ゴミの山を横目に見ながら、
ラクガキだらけの壁に並んでもたれた。
ソファや謎の電気機器、ブラウン管の割れたテレビなどが積まれ、かなり高価だったであろう大型冷蔵庫が開け放たれたまま転がっている。
【花鶏】
「……で、智はどういう話がしたいわけ?」
【智】
「うん」
言葉は用意してあった。
【智】
「僕は呪いを解きたい。その方法があるなら探したい」
【智】
「……んで、その前に、みんなが呪いのことどう思ってるのかな……って」
それぞれの思案顔。
どの顔も、ずっと呪いを抱えて生きてきた。
呪いについて考えたことがないはずはない。
【るい】
「絶対重いよ」
るいが胸を張る。
その胸と、どっちが重いだろう。
【こより】
「そりゃ、ないほうがいいデスけど……」
【智】
「うん。たしかに呪いを解けば、何かペナルティが
あるかもしれない」
以前に、いずるさんから聞かされた話の内容は、一通り全員に
伝えてある。
【智】
「誰が、どうして、この呪いがかけたのかもわかってない。
元凶の『何か』があるとして、その意思を曲げて解こうとすれば、リスクだってあるかもしれない」
しれない、しれない……。
自分で言ってて、仮定ばかりだ。
【伊代】
「わたしも解放されるものなら解放されたいけど、危ない橋を
渡ってまでっていうのは……」
【伊代】
「……このままでも生きていけるし」
こよりと伊代は煮え切らない。
腰を曲げてみんなのほうを見た。
あとの二人はどうだろう。
【智】
「茜子は?」
【茜子】
「私は……このままでいいです」
茜子は、いつもの調子と違って冷たい答えを返した。
あの、自分のことをさん付けで呼ぶ
丁寧なのかどうかわからない口調ですらない。
【るい】
「みんなどうして? 呪い、辛くないの!?」
【こより】
「たしかに楽じゃないです。でもやっぱり」
【伊代】
「ハイ消えました……そんなふうに簡単に呪いが消えるなら消したいわ。でも未知なものだし不安じゃない? 呪いに関わるなんて」
【伊代】
「この呪いを解く為に、何か犠牲を払ったり危険を冒したり、
そういう可能性を考えると、わたしは躊躇(ためら)う……」
【智】
「……茜子と、こよりと伊代の意見はわかった」
【智】
「あとは」
花鶏は話に乗ってこない。
さっきからずっと無言。
正面を向いたまま壁にもたれていた。
目を細くして、高架下を抜けて白い空を見ている。
【智】
「花鶏?」
【花鶏】
「言ったでしょ? これは、わたしにとってはスティグマで、
呪いではないの」
みんなが花鶏を見る。
花鶏はその誰とも目を合わそうとはせず、そのまま空を見ていた。
【るい】
「スティ……グマ?」
【花鶏】
「聖痕。聖なる傷痕。神が真の聖者の肉体にのみ示すという印」
【伊代】
「それって痣のことじゃ……」
花鶏は空を見たまま答える。
【花鶏】
「わたしたちは特別な存在だと思わない?」
【花鶏】
「……在るでしょう?
それぞれみんな、生まれ持った、『才能』……」
反論はあがらない。
それは肯定だ。
ある意味で、予想していた。
例えば、るいの「力」。馬鹿げた身体能力。
笑いさえこぼれる無敵超人ぶり。
常識の範疇の力自慢とは桁が違う。
るいの「力」は理屈に合わない。
間尺に合わない。どうにもこうにも壊れている。
【智】
「やっぱりみんなあるんだね。るいの力と同じようなのが」
【花鶏】
「そうよ。選ばれた『才能』」
【るい】
「そっか。そうなんだ、ホントにみんなあるんだね……なんか自分だけじゃないって安心した」
【智】
「だから?」
【花鶏】
「だから、よ。少なくとも、わたしはね」
――――――――『呪い』と『才能』。
それは、きっとコインの裏表だ。
呪いを解けば、才能も失われる……かも知れない。
聖から俗へ。
選ばれた身の上から、ただの人へ。
花鶏は転落を拒む。
【智】
「あー、でもさ」
【花鶏】
「なにかしら」
【智】
「ないんだけど」
【花鶏】
「なにがよ」
【智】
「僕、『才能』」
思い当たる節がない。
文武両道の優等生ではあるけれど。
【智】
「その、花鶏の才能ってのも、るいみたく、普通じゃないんでしょ」
【花鶏】
「選ばれた才能ですもの」
呪いの裏側なら、それはそうだろう。
それとも呪いの方が裏なのか?
どちらしても、秤の端に呪いと釣り合うくらいでなければ、
そんなものは選ばれた『才能』とは呼ぶ価値がない。
【智】
「こよちんも、伊代も、茜子も?」
それぞれに頷かれる。
【智】
「やっぱりないよ、そういう特殊スキル。僕は」
無能者か。
優等生として久しく聞いてなかったフレーズだ。
人一倍呪われてるくせに無能者……。
色々な意味で切なくなってきた。
【花鶏】
「あら……きっと何かあるはずよ。この選ばれた者の証……
痣があるんだから」
【智】
「……気づいてない、だけなのかな?」
【花鶏】
「痣や才能だけじゃない。呪いは、わたしたちの特別の証明。
わたしはそう考える」
【こより】
「花鶏センパイ……?」
【花鶏】
「反対よ。わたしは」
【花鶏】
「わたしは聖痕を消すつもりはない。これは、わたしが……
選ばれた証だから」
花鶏にとって、呪いは呪いではない。
自らが特別であるがゆえに、逆説的に欠けた部分。
まさしく聖痕と呼ぶのが相応しい。
【伊代】
「ねえ、聖痕って言ったわよね。わたしまだ解らない事があるの」
【伊代】
「呪いが失われれば『利得』も失われるかもしれない。それは解るわ。メリットとデメリットがワンセットになってるって言うのはフェアだし」
花鶏が『才能』と呼んだものを、伊代は『利得』と呼んだ。
【智】
「でも、さっきも言ったけど……みんなのような特別な力だか才能だか、僕にはないよ」
【るい】
「料理じゃないの?」
【智】
「それはナイ」
【花鶏】
「…………」
沈黙。
再び沈黙を破ったのは伊代だった。
【伊代】
「……それなら、こういう考え方はできない?
利得と呪いに因果関係はない」
【こより】
「二つはぜんぜん関係ないもので、呪いは呪い、力は力、たまたま両方持ってるのが、わたしたちってコトですか?」
【伊代】
「フェアじゃないけどね」
【花鶏】
「…………」
それが真実なら、呪いを解くのに
デメリットは無くなるだろう。
言外に、伊代はそう言ったけれど、
花鶏の目は冷ややかな光を湛えたままだ。
確かに……それだとちょっと都合良すぎだし。
【こより】
「そういえば、ともセンパイのだけ……どっちもわかんないですけど?」
どっちも。
コインの裏表の――――『呪い』と『才能』。
こよりは僕の呪いのことを考えている。
やめてやめて。
それって、ばれると終わりなんだから。
【るい】
「私も知らない」
【伊代】
「ずっと、そこの貧乳ん家に居候してるのよね」
【るい】
「オーイエース!」
【伊代】
「それで、わからないの?」
【るい】
「……おーいえーす」
【伊代】
「なにか行動がおかしいことは?」
【るい】
「んー……………………」
上を向いて考えている。
【るい】
「一緒にお風呂はいってくれない」
【智】
「…………」
皆は核心に触れるつもりはないが、
それでも推測のネタを仕入れたいのだろう。
その証拠に、僕には全く話を振ってこない。
わかってはいても、かさぶたを一枚一枚
剥がされる気分でいたたまれない。
【茜子】
「お肌絡みでは」
【花鶏】
「でも、一緒にお風呂なら、わたしの家で全員入ったあの時に」
【こより】
「こよりもいました!」
きょしゅっと挙手。
【伊代】
「そういえばそうね」
茜子にちらりと目を向ける。
【伊代】
「お触り系、とか」
自分で言って、ちょっと照れている。
そういうのは茜子の方だ。
四六時中手袋を填めて、肌に触れられるのを断じて拒む。
【花鶏】
「それなら調査済み」
【智】
「調査じゃないよ!」
キスまでされました。
それも3回も。
【智】
「………………うぐぐぐ」
【花鶏】
「キーワード系?」
【茜子】
「陰険姑息貧乳がしゃべれなくなったら、
商売あがったりで首くくるしかありませんのでは」
【花鶏】
「おかしな呪い持ちね」
酷い言われようだ。
ここまで言われてしまう、僕は僕が可哀想だ。
【智】
「そういう花鶏だって」
【花鶏】
「わたし……わたしがなによ?」
【智】
「花鶏の呪いだけ、僕にも見当がつかない」
るいのも、茜子のも、伊代のも、こよりのも。
僕には見当がついている。
花鶏のだけがわからない。
花鶏の呪いは、僕とある意味で似ている。
一見では、普通に生活するのに何一つ不自由がなさそうなもの、だ。
【花鶏】
「言わないわよ」
花鶏はそれを誇らしげに、口の端をついっとつり上げて。
【智】
「僕だって言いたくない」
言ったらダメなんだから。
【花鶏】
「…………不思議ね。あなたが一番特別だわ。
わたしたちの誰とも違う。どれとも違っている」
【花鶏】
「なのに痣がある。とても不思議」
鋭かった。
僕は違う。違っている。
最初の一点から違っている。
とくに意識せず、茜子のほうに視線が行く。
流した視線の先、まっすぐに茜子が僕の顔を見ていた。
【茜子】
「…………」
【智】
「…………?」
【花鶏】
「智、あなた」
花鶏が僕を指差した。
【花鶏】
「わたしの言いたいこと、わかるわよね?」
【智】
「…………疑ってるんだ」
【花鶏】
「呪いを解きたいという、あなたの言うことをそのまま受け取るには、あなたには見えないことが多すぎるわ」
ビックリするくらい、突き放した目つき。
他のみんなが疑惑の石を投げてよこす。
花鶏の言葉が招いた、ほんの小さな疑いの波紋。
本当に、ささやかで、小さなモノだ。
でも――――
チクリと胸を刺す。
針の先ほどの痛みに耐えかねる。
花鶏の言ったことは、どうしようもなく真実だった。
僕だけが違っている。
たくさんの秘密と嘘を重ねている。
仲間だと呼ぶひとたちを騙し続ける。
類と友とさえ呼びがたい。
自然と肩から力が抜けた。
うな垂れた。
【伊代】
「ちょ……」
僕の反応に、伊代が狼狽する。
花鶏の言葉を否定すれば、きっとそれで済んだ。
いつもと同じに笑い飛ばせば、
適当な言葉を連ねて誤魔化してしまえば。
無言は肯定だ。
疑いを僕自身が正当化する。
それを否定するだけの気力が、今は出てこない。
高架下に重い沈黙が垂れ込める。
【るい】
「花鶏ィッ!!!!」
るいだった。
怒声に驚いて目を上げる。
るいが花鶏の胸ぐらを掴んですごい目で睨んでいた。
今にも殴りかかりそうな勢い。
【るい】
「なんで仲間を信用できないんだよッ!!
トモには言えない理由があるって言ってるじゃんかッ!!!」
るいの目に涙が滲んでいる。
花鶏は突然のことにほとんど反応出来ないでいた。
あまりに突発的だった。
どういうスイッチが、どこで入ったのか。
【るい】
「信じてあげなよ! それでも仲間!? ヒドいよ!!
トモは悪くないよ!」
【るい】
「トモだってっ……!!」
【るい】
「……トモだって隠したくないに決まってるよ……!
言えるなら話したいに決まってるよ……!」
【るい】
「……ひとりは……辛いんだから……」
るいの手が、花鶏から離れてぶらさがった。
花鶏の、睫毛(まつげ)の長い瞼(まぶた)が悲しげに臥せられる。
【花鶏】
「……そうね。言い過ぎたわ」
互いに目を逸らした。
花鶏の悔恨は本物だった。
けれど、場の空気は、僕がみんなの間に
わずかな亀裂をつくってしまったことを感じさせた。
最低の気分で帰路についた。
【るい】
「トモ、あんなの気にすんな!」
そう言ってくれるのは、とても心強い。
伊代やこよりも、助けが必要なことが
あったら遠慮はいらないと言ってくれた。
だけど、花鶏はそのまま、
ずっと思案顔のまま黙っていた。
茜子も一言も言ってくれなかった。
【るい】
「ご機嫌が辛いときは、
美味しい世界と遭遇すると幸せになれる伝説」
【智】
「お腹へったんだね……」
るいは殊更に明るい声を出して、僕を励ましてくれる。
まだ一人になったわけじゃない。
るいが居た。
みんなとだって決別したわけじゃない。
たとえ今は意見が分かれているのだとしても。
【智】
「とりあえず、どうやったら呪いが解けるのかだけ調べて、
方法がわかったら、みんなでもう一回相談してみる」
【るい】
「トモは、トモがしたいようにすればいいよ……」
【るい】
「おねいさんは少々納得いかないけど」
【智】
「花鶏だって、きっと悪気はないと思うから」
〔踏まれた呪い〕
【るい】
「んでも、アテはあるの?」
【智】
「ないかも」
【るい】
「ないんだ」
本格的に調査を開始する。
今までに得た足がかりは、呪いと力には関係がありそう、
そんな頼りないものだけだ。
こんなもの、体重をかけて崖登りをしたら、
健康飲料のCM風に転落するのは間違いなし。
あとの手がかりは、せいぜい痣の形ぐらい。
痣というには、
いかにも記号じみた形をしている。
宇宙怪獣の足跡か、獣の顔か、
それとも爪の痕……。
似たものを探してみる。
【るい】
「ない〜」
【智】
「ない〜」
【るい】
「ない〜」
【智】
「ない〜」
【るい】
「ない〜」
【智】
「ない〜」
【るい】
「そろそろお食事がおいしくなる時間(キリリ)」
【智】
「簡単に見つかるとは思いませんでしたが、ほんのちょっぴり
偶然に期待してました」
なにせ、偶然で六人そろったぐらいだから。
【智】
「まあ、闇雲に探しても手がかりがあるわけないか。
でもさ、るいだって当事者なんだよ? そんなんでいいの?」
【るい】
「やっぱり私はこれからのことより今優先。
明日はどうなるかなんてわからない、のるいさんだ」
【智】
「で、今一番必要なものは食べ物と」
【るい】
「!!!」
目を輝かせる。
この動物、ペットとして売り出したら受けるだろうなあ。
【智】
「わかった。それじゃコンビニでエサを調達してきてあげよう」
【るい】
「わおーん!」
闇雲な手がかりを求めるのではダメだ。
対象を限定して、ピンポイントな攻撃を検討してみる。
まずは、場所よりも人間だ。
コミュニケーションによる状況進展を模索する。
花鶏こより伊代茜子は除外するとして、
僕の交友関係で怪しい知り合いリスト。
その1、蝉丸いずる (あまり出会いたくない)
その2、尹央輝 (わりと出会いたくない)
その3、才野原惠 (かなり出会いたくない)
その4、冬篠宮和 (ある意味出会いたくない)
【智】
「……なぜか誰と出会ってもいいことが起きる気がしない」
すばらしく交友関係が歪んでいた。
【智】
「突きつけられた現実に心が折れそうです」
【るい】
「歩いてるだけで敵が出るなんてRPGみたいだね」
【智】
「しかも全部中ボス級。レベル上げも出来やしない」
重要アイテムのあるダンジョンも助言をくれる神官も
見つからない放浪者となっていると、いつのまにか、
随分と外れた辺りまでやって来ていた。
【智】
「おっと、昼間とは言えこれ以上怪しい界隈に分け入るのは
マズイね」
【るい】
「戻る?」
【智】
「そうだね、戻ろう」
踵を返して気づく。
開発から取り残された街の一角、くすんだ建物の中に
ぽっかりと空いた更地があった。
【るい】
「そういえばここ、麗しの我が家があったトコだ」
確かに見覚えがあった。
この辺りを、おっかなびっくり随分歩かされたのだ。
【智】
「麗しくはなかったと思うけど」
【るい】
「崩れたビル跡、すっかり片付けられてるね。瓦礫掘ったら、
いっこくらい家具とか無事なの出てくるかもと思ったのに」
【智】
「ここに来たのが、始まりだった」
感慨深い。
わずかな日々で、必要以上に修羅場を潜ってしまった。
【るい】
「なんで訪ねてきたんだったっけ」
【智】
「ん、そうだ。あの手紙」
【るい】
「手紙?」
忘れていた。
母上様からの手紙だ。
そこには、亡きるいの父、皆元信悟氏を
頼るようにとしたためられていたのだった。
部屋に戻ったころには夜だった。
件の、母からの手紙を捜す。
これでも部屋は小綺麗に片付ける方だ。
どこかに片付けた記憶はないけど、捨てた記憶もない。
最近のゴタゴタ続きで失われた可能性もあった。
【智】
「あ……あったよ……」
部屋中引っかき回した挙げ句、発見。
【るい】
「お?」
死んだ母からの手紙は、母の形見として持ってきた
時代ものの文箱に、わざわざ直し込まれていた。
まったく無意識。
【智】
「ほら見てこれ」
手紙の内容を、るいにも見せる。
困ったことがあった時は、この人を訪ねるように。
指示されている人物は、るいの父親だ。
るいと僕を繋いだ手紙。
【るい】
「コレって手がかりなん?」
素朴な疑問。
【るい】
「呪いの『の』の字もないけど」
【智】
「まあ、母上様は僕の呪いのことはご存じのようでしたので……」
【智】
「この期におよんで、困ったら頼れというからには、
それ絡みではないかと」
【るい】
「わりといい加減っす」
【智】
「しかし、他に手がかりは無いわけでして……」
背に腹は代えられぬのだ。
【智】
「さて、これによりますと、
るいのお父さんが何か知っていたって風に読める」
【るい】
「それは……トモの言うことでも反対だよ」
【智】
「るいが、お父さんのこと快く思ってないのは知ってるけど。もしかしたら、呪いのこと、何か調べてたのかも知れないじゃない?」
【るい】
「あるわけない」
一刀両断。
【智】
「調べてみる価値はあると思う。だって、るいのお父さんと母さんの接点、呪いくらいしか思いつかないし」
【るい】
「あいつがそんなことするわけない……
トモはあいつを知らないからそんなこと言うんだ!」
意固地な、るいネーサンだった。
【智】
「なんでそう決め付けるの!?」
るいの顔には怒りと痛みが滲んでいた。
【智】
「……ごめん」
るいとまでケンカしたくない。
大人しく尻尾を丸めました。
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
沈黙が少し苦い。
【智】
「……もうこんな時間だし、先にごはんにしよう」
【るい】
「…………」
ごはんなのに沈んでいる。重症だ。
【智】
「今日は、るいの好きなちくマヨとマヨから揚げ目玉焼き丼
作ってあげる」
【るい】
「…………」
【智】
「たまには料理でも手伝ってくれない?」
【るい】
「…………」
反応なし。
方針を転換する。
【智】
「その、僕が悪かったから……機嫌直してよ」
【智】
「ねえってば」
【智】
「このとおり」
るいを伏拝む。男にはやらねばならないときがある。
片目を開いて、るいを見る。
【智】
「るい様〜っ!」
【るい】
「…………様はいまいち」
【智】
「はあ?」
【るい】
「…………」
【智】
「るいっち」
【るい】
「……」
【智】
「るい…びとん」
【るい】
「……#」
【智】
「るいたん」
【るい】
「がうっ」
【智】
「……るい、先輩」
【るい】
「〜〜〜♪」
わかりやすい、るいだった。
とりあえず機嫌を直してくれた。
食べ物に釣られたわけじゃない。
僕の意図を汲んでくれた。
ケンカなんてしたくない。
るいも僕と同じだった。
【智】
「ははっ。よろしくお願いいたします、るい先輩」
へへーっとオーバーアクションで平伏する。
【るい】
「うむ、苦しゅうない!」
微笑みを交換。
気心が知れる、というのはこういうのを言うのだろう。
というより、知れすぎです。
以前は野良犬みたいだった、るい。
大雑把で親しげなのに、どこかに微妙な壁があった。
それが今では。
油断しすぎて、すっかり室内犬。
【るい】
「じゃあ、るいセンパイ、今日はご機嫌だから特別サービスで」
【るい】
「明日一日だけ、トモのお当番手伝って進ぜ……」
【智】
「やめろっ!!!」
――――――――――――遅い。
突如として、るいを映していた鏡が、
渾身の拳を打ちつけたように砕け散る。
フローリングに飛び散る破片。
大きな破片の一つが、三角形の中に、驚いたるいの顔を映す。
何も触れていない。
「特別に明日一日だけ手伝って進ぜ……」
「特別に明日一日だけ」
「明日一日だけ」
「明日」
「明日」
「明日」
未来の約束。
ささやかな、ほんの小さな約束。
【るい】
「わ……わた、わた……」
恐怖で濁って凍りついた目で。
【るい】
「私……、呪いを……!」
【智】
「るい!!」
駆け寄って抱きしめた。
青ざめた顔で震えている。
【るい】
「呪いが……、私……」
【智】
「るい、しっかりして!!」
取り乱して目を泳がせる、るい。
真正面から見つめた。
呪いの恐ろしさは僕も知っている。
るいの恐怖が目を通じて伝わってきた。
胸の内側にひやりとした金属片を落とし込まれたように、
恐怖がじわじわと体を冷やしていく。
【るい】
「怖い……、怖いよ……!
死にたくない……、わたし死にたくないよ……!」
【智】
「るい……!!」
秒針の音が神経を逆撫でる。
るいの震えは止まらない。
どれだけ強く抱きしめても駄目だった。
るいの歯がカチカチと鳴り、
縋りついた爪が僕の背に血を滲ませた。
他人には絶対に説明できない本能的な恐怖が、
るいを怯えさせている。
あの、るいを。
どんなときにも、いつも笑って、
先頭きって飛び込んでいく彼女を。
僕は知っている。
その恐怖を。
全てを覚えていなくても、それだけは忘れなかった。
たぶん、るいも知っている。
そして生き延びた。
僕も、るいも。
一度は、以前は……。
この恐怖を刻みつけられたその時、僕らはかろうじて生き延びた。
今度はどうだ?
何が起こる?
呪いは何をする?
いったいどんなことが起きるんだ……?
生き延びることができるのか?
ただ息を潜めるしかできない。
………………。
…………。
……。
吐き気がするほど重い沈黙の時間が流れた。
【るい】
「……死にたくないよ……」
【智】
「…………」
…………何も起きない。
今のはギリギリセーフ、なのか?
【智】
「鏡が割れたのは、警告だったのかな……?」
【るい】
「トモぉ……」
【智】
「……大丈夫……、もう大丈夫だよ。るい」
気休め。
だけど、黒い影の夢の中で母が僕を
安心させようとした言葉を、るいに繰り返した。
【智】
「大丈夫……、大丈夫だよ……」
【るい】
「トモ……」
【智】
「今のはきっとギリギリのところでセーフだったんだ。
今のはノロイさんからの厳重注意だよ。だから、これから
また気をつけていこうよ」
【るい】
「ホントに……?」
【智】
「本当だよ。大丈夫だよ」
嘘をつくより、怯えるるいを見るほうが苦しかった。
【るい】
「私は……死なない?」
【智】
「……死なないよ」
……死なせない。
【智】
「絶対に、大丈夫だから」
繰り返し、るいに魔法の呪文をかける。
大丈夫、と。
抱き合ったまま長い時間が過ぎた。
それ以上のことは、やはり何も起こらなかった。
さっきのは本当にただの警告だったのかもしれない。
今回は助かったのかもしれない。
けれど。
あの鏡が割れたのは、どう考えても普通の出来事じゃなかった。
確実に異常な気配を感じた。
【智】
「僕が、呪いを解くから」
こんなことで。
こんな……こんなわけのわからないルールで死ぬなんて……!
怯えと激しい憤り。
力づけるためにももう一度繰り返す。
るいと、自分を。
【智】
「僕が、るいを自由にしてあげる」
【るい】
「トモ……」
今回のことで僕の決意は固まった。
みんなに電話を掛けて事の次第を簡潔に話した。
るいが呪いを踏みかけたこと。
【花鶏】
『――――それで』
【智】
「やっぱり決めた。僕は、こんなモノは認められない」
【智】
「たとえ、みんなの協力が得られなかったとしても、この理不尽なルールを受け入れるつもりはない」
【智】
「自分だって死にたくないし、誰も死なせたくない」
【智】
「それが、僕の心からの願いだよ」
〔ノロイの襲来(るい編)〕
時間がなかった。
目覚ましのデジタル表示は、
深夜近くにさしかかっていた。
じりじりと、胸の奥を炙られるのに似た焦り。
どうする?
【智】
「きまってる。やれることは全部する。何でもする。最優先すべきものは――――」
時間だ。
黄金よりも貴重な、一分一秒。
【智】
「もしもし、あの、和久津です。こよりの友達の」
番号を貰っといてよかった。
携帯には三宅さんの番号が表示されている。
電話をかけるには非常識な時間だが、良識を踏まえて行動するには、状況に余裕がなさ過ぎだ。
他人の善意はあてに出来ない。
他人の心を信用すると救われない。
わかってる。
つい甘くなってミスを重ねた。
事ここに至る前に方法はあったはずだ。
誰かを信じようとして、誰かと一緒にいて、
僕はその分隙を作った。
ここから先はミスの許されない、
マラソンじみたゴール不明の詰め将棋だ。
【三宅】
『んぁあ、トモちゃんか。覚えてるよ。名前と顔を覚えるのは記者の大事なお仕事の一つだからね。ハハハ』
【智】
「すいません、こんな時間に」
【三宅】
『いいよいいよ。記者ってのは昼夜関係ない仕事だし。君は、
他ならない、こよりちゃんの友達だ……んで、どうしたの?』
まずは一手。
なによりも人手が欲しい。
なさ過ぎる手がかりのうちでは最大のモノ、
るいのお父さんを調べること。
調べると大仰にいっても、ツテも技術もないのが自分だ。
こういうときは思う。
何かぱっとわかる『才能』でもあればいいのに――。
聖痕と花鶏は呼ぶ。
僕にとっては『呪い』以下だ。
爪の先ほども役に立たないくせに、
人生の邪魔だけはイヤになるほどしてくれる。
【智】
「るいのお父さんのことが知りたいんですけど、どうにか
なりませんか?」
【三宅】
『……へぇ? 皆元氏の……
んー、それって、君の言ってた呪いがどうこうとかいう……?』
【智】
「はっきりとはわからないんですけど」
るいの親戚の協力は得られそうにないし。
昔の人はうまいことを言った。
餅は餅屋に。
【三宅】
『いいよ。手伝うよ、呪いには個人的な興味もあるしね。
それに、カワイイ女の子の頼みごとは断れない』
可愛い女の子。
もにょりたくなるフレーズだ。
【三宅】
『何かわかったら連絡するよ。えっと……この番号でいいのかな』
【智】
「ありがとうございます」
電話を切って、るいにウインクする。
まずは一手だ。
とはいうものの。
時間の猶予はさほどなく、
相手の王将の位置も不明。
前提だけみると、典型的な負けフラグ……。
【智】
「だから、僕は逆転勝利希望じゃなくて……」
僕の期待に応えるような、こう、相手を踏みにじりながら
楽勝できるようなシチュエーションは、
中々に巡ってこないのだった。
二手目。
【智】
「そうですか……、ありがとうございました」
【男】
「お役に立てたかどうかわからないが。親戚の方々によろしく」
すでに幾度めかの同じ言葉を継げて部屋を出た。
資産家だったという、るいの父。
仕事上の関係者を手当たり次第にあたってみる。
仕事先の連絡簿なんかも、るいの父親の遺品には
残っているんだろうけど、それは親戚のひとたちに
押さえられていて手が出せない。
【智】
「わかったのはるいの父さんの趣味だけか――」
るいの覚えている範囲で、るいの父さんと個人的な
交流があったという人たちを選んで当たる。
【るい】
「ロクに家にも帰らずにやってたのが、ガラクタ集めだったなんて……」
【智】
「本当に、それだけだったのかな?」
ガラクタ……。
古書、古美術などの骨董を蒐集(しゅうしゅう)が趣味の人だった。
海外からもいろいろと取り寄せて、収入の多くを費やしていた。
骨董の買い入れ先にも電話など入れてみた。
ずいぶん熱心な蒐集家だったらしい。
【智】
「しかたない、後ろめたいけど友情に頼ろう」
【るい】
「後ろめたいのか」
【智】
「……この間、ケンカしたじゃないですか」
原因は僕だ。
【るい】
「…………」
考えていた。
済んだことはくよくよ考えない。
昨日のことはさっぱり流しちゃう、るいだ。
【るい】
「どうすんのだ」
【智】
「一番、取り付きやすそうな人を狙います」
善人で、世話好きで、頼まれるといやと言えない。
【るい】
「トモのことか!」
僕もそういうふうに思われていたのか。
それじゃあ面倒過ぎて泣きたくなる。
本当の本当に面倒屋だ。
【智】
「伊代だよ……」
携帯を開いてグループ検索。
「同類」とだけ書かれたグループを選ぶ。
上から2番目に白鞘伊代の名前があった。
発信。
【伊代】
『ゴホッ、ケホ……ん……、んん! ……あ、ごめん。
もしもし何……?』
【智】
「伊代? ……なんかすごい声になってるよ」
【伊代】
『なんか……ゲホゲホッ、風邪移されちゃったみたいで……』
【伊代】
『ど……ゴホッ…どしたの……ケホッケホッ……
たしか、呪いのことをこの間……』
【智】
「いいよ、お大事に。ちょっと頼みたいことがあったんだけど、
大したことじゃないから。風邪よくなったら電話してよ。
その時またお願いする」
【るい】
「イヨ子、風邪なの?」
【智】
「そうみたい」
【伊代】
『ごめんね』
【智】
「うん。それじゃ……おやすみ、お大事に」
電話を切る。
風邪じゃ仕方無い。
【智】
「伊代、結構ひどそうだった」
【るい】
「そっかー。
イヨ子って神経質だからすぐ風邪とかひきそうだもんね」
【智】
「誰かに移されたらしいよ」
携帯の液晶にメール・マークが点灯していた。
三宅さんからメールだ。
記者業の片手間の調査、ってやつの報告だった。
見た目よりマメで真面目なひとなのか?
呪い――――
子供の戯言かオカルト寸前の出来事に、
思いの外真摯な対応をしてくる。
内容は僕らの調べたものと変わらない。
本職だけあって、もう少し突っ込み、
整理されたものになっていた。
皆元信悟。
るいの父親は、ある時期から骨董品の蒐集に没頭をはじめる。
コレクションの中には、けっこうな価値の品もあるらしい。
まあ、古美術商になりたいわけじゃないから、
この辺りはすっぱり流すとして……
ちなみに、その蒐集品は、現在、るいの親戚たちの管理に
入っていて見ることも出来そうにない、と付け足されていた。
【智】
「いい感じに手詰まりになってきたな」
【るい】
「トモって、いっつも危機一髪だね」
今回せっぱ詰まってるは、あなたの方なんですよ、
皆元るい子さん……。
仕事で近くに行くので会わないか。
そういう連絡が三宅さんから来た。
まあ、そうだな。
一度、顔を合わせて話はしておこう。
【三宅】
「やあ、トモちゃん。どうも遅くなってゴメンね」
【智】
「あれ? 新しい時計ですか」
【三宅】
「あ、へー。目ざといねえ。ちょっとした仕事で臨時収入があってね、前から欲しかったの、買っちゃったんだよ」
メディア関係の人って、
外見いい加減でもそれなりに高給取りなのか?
やたら高そうなお時計。
思わず「お」をつけてしまいたくなるブランド物。
国営放送の職員とか年収ものすごいって聞くし。
ちょっぴりルサンチマンが刺激される。
【智】
「今日はみんなチーズですね」
【るい】
「あ、トモのゴルゴンゾウとかいうのもチーズだったんだ?」
ゴルゴン象。
体を鋼鉄の鎧で覆われた象がギリシャの神殿を叩き壊し、
鼻から火炎を噴出するようなイメージが浮かんだ。
【智】
「……ゴルゴンゾーラだよ」
ファルファッレのゴルゴンゾーラソース。
蝶の形をしたショートパスタに
チーズソースを絡めたものだ。
るいのはこないだと同じ、ポテトとベーコンの
マヨチーズ焼き(マヨネーズ多め)、が二つ。
三宅さんはチーズハンバーグと
目玉焼きのプレートメニューだった。
【智】
「それ、手が逆ですよ」
【三宅】
「あっれ、こっち? 左手のフォークで食べるの? やりづらいな……」
【三宅】
「参ったな。俺このフォークとナイフって奴はどうも昔から
苦手で……っとと!」
失敗。フォークが落ちる。
店員さんが小走りにやってくる。
足もと転がってきたフォークを拾おうと、僕は身をかがめた。
スカートに気を使いながら身を倒し、
頭をるいの膝に預けてテーブルの下を見た。
【智】
「――――――――」
時間が止まる。
骨の髄から熱という熱が消えていく。
言葉は代替物だ。
百万言を重ねても本質に届かない。
それを語るには、人の言語では遠すぎる。
ずるりと動く。
四人掛けのテーブルの裏側に貼りついていた。
暗がりを滑るように。
それは、どろりと溶けた冷たい鉄。
触れれば腐る汚濁の精髄(せいずい)。
音もなく這い寄る足のない蜘蛛。
居るはずのない、あるはずがないもの。
まるで影だ。
身体は黒い。
髑髏の面。
テーブルの裏に身を屈め、
蜘蛛のように張り付いている。
本能が警鐘を鳴らす。
総毛立つような戦慄が全身を震わせる。
テーブルを蹴っ飛ばす。
派手に飛び散った料理と食器が豪快な音を立てる。
【三宅】
「――!?」
ワケのわからない顔をする。
僕だってわからない。
わかるように説明もできない。
機敏に跳んで地に這った。
るいを「それ」が見る。
【るい】
「きゃあああぁっ!?」
るいにも見えた。
細長い手足を弾ませる気配。
それが「呪い」だ。
目に映る「呪い」、形になった「呪い」。
――――――呪い――――――
ノロイ、だ
【三宅】
「お、おいっ! ちょっと!」
割り箸を持って来てくれた店員さんを突き飛ばし、
るいの手を引いて出口目掛けて飛び出した。
〔ノロイの襲来の続き(るい編)〕
【るい】
「トモ、あいつ……ッ」
【智】
「考えるな!」
千切れるくらいに強く、るいの腕を引く。
考えるより早くに足を動かして。
座席から転がり落ちた。
通路にはみ出していた子供用補助椅子を蹴り飛ばした。
ただただ走る。
後ろで誰かの悲鳴があがる。
振り返る余裕はない。
闇雲に外へ飛び出した。
どうする!?
【三宅】
「……! ……!!」
三宅さん。
ガラス窓を叩いて僕らに何かを叫ぶ。
その背後に。
黒い影がにじり寄る。
――――――――――――ノロイ
肩に手がかかる……と思った。
黒い腕は三宅さんの肩をすり抜けて、
腹のあたりから、こちらに向かって伸びてくる。
【智】
「……ッ」
【るい】
「――――!」
三宅さんの背中から、ずるりと体内に潜り込む。
突き抜けた不吉な顔が、彼の胸からぽっこりと生える。
【三宅】
「っ……! ……!!」
三宅さんはノロイにその身を貫かれながら、
何ひとつ、何がおこっているのかもわかっていない。
ガラスを叩いている。
ノロイの背骨がたわむ。
蛇を思わせる動きで肢体をくねらせて、三宅さんをすり抜けて、
そのままガラス窓もすり抜けて――――
【るい】
「あいつ……出てくるっ!?」
【智】
「こっちだっ!!」
造作も無くガラスを通り抜けてきた。
テーブルの裏に張り付いていた。
ノロイ、呪い……
物理法則も意味を持たない。
そんなもの当たり前じゃないか。
相手は呪いなんだから。
でも。
ひとではない呪詛。
そんなモノから逃げ切れるのか?
【るい】
「殺されちゃうよ……!」
僕よりずっと足が速いはずの、るいの手を引いて。
一瞬たりとも休まずに足を動かす。
少しでも考える時間が欲しい。
時間を稼ぐためには走るしかない。
心が削れる。
骨が軋る。
肉が剥がれる。
肌が灼ける。
すれ違うまわりの人は、
誰もがそろって奇異の顔。
僕らにばかり注目する。
誰もノロイを見ていない。
【智】
「――――――ッ」
こいつは僕らにしか見えてない。
こんなにも大勢いるのに。
こんなにもきらびやかな街の光のまっただ中で。
周りにあるのは無関心。
人形と同じで役には立たない。
誰一人として繋がっていない。
誰も僕らに手を差し伸べない。
葬儀で棺を見送る弔問客にも似た人の列。
その間をかき分けて走る。
棺は僕らだ。
僕らは呪われている。
僕らは最初から死人と同じだ。
呪われたモノとそうでない者を分ける境界線。
目に見えないけれど確かにある黒い線。
内と外は区別される。
誰も外を見てくれない。
誰も内を見ようとしない。
切り離された世界の外側で、
心臓の破れそうな息苦しさに喘ぐ。
背後にヒヤリとした感触。
背中を黒い腕が掠めた。
産毛が逆立つ。
夢中で走った。
ボクラハ ミンナ 呪ワレテイル
二人っきりの逃避行だ。
都会のまっただ中で、
眩暈のしそうな孤独に抱かれながら。
痛み。
痛み。
痛み。
身体中が痛む。
足が痛む。
肺が痛む。
筋肉が痛む。
頭が痛む。
心臓が痛む。
痛みよりも恐怖に追われる。
振り向けばそこにいる。
それが怖くて確かめることもできない。
アレが怖い。
死よりも怖い。
死ぬことの方がずっといい。
アレにつかまるくらいなら、
このまま二人で――――
ぞっとした。
何よりも自分の諦めに吐き気を催す。
諦めてどうする。
一人なら諦めればそれで済む。
僕が僕を殺して消えてしまったとしても、
それは僕の愚かさと力の無さだ。
笑って済む。
今は手を引いて走り出した。
すぐ後ろには、るいがいる。
掴んだ手から体温が伝わる。
地を蹴れば彼女の存在がわかる。
諦めてたまるか……。
とにかく走って赤信号に当たれば曲がる。
駅前の道、交通量の多さがもどかしかった。
このままじゃ本格的にヤバい。
振り返ればスピードが落ちる。
速度を殺さないように逃げ続けながら、
カーブミラーを利用して背後を覗いた。
【智】
「――いないっ!?」
背後の道に異形の姿はない。
追っ手を見失った。
どこだ……?
逃げ切ったはずはない。
まだ漠然とした焦燥感が胸の奥にあった。
どこにいるんだ……?
数瞬の後、るいが悲鳴を上げた。
【るい】
「きゃあっ!! トモ、下に!!」
【智】
「ひっ!」
道路の排水溝を塞ぐ格子状の蓋、
その下に居た。
蜘蛛のように張り付いて、
ありえない速さで追いかけてくる。
壁も大きさも意味が無い。
暗渠(あんきょ)の無い方向に逃げても無駄。
どっちに逃げればいい?
逃げる方向に意味はあるのか?
【るい】
「手がっ……!」
通るはずの無い格子の隙間から、
黒い手が伸びてくる。
るいの手を強く引いて逃げた。
3本以上の手が格子から伸びていた。
るいの足首を捕らえ損ねた手が、
水草のように揺れる。
掴まれてはいけない。
本能が警告する。
『死』――――――――――――――――――――
誰に言われなくても理解する。
捕まったら死ぬ。
【智】
「くそ……っ!」
【るい】
「このままじゃ、逃げ切れないよ……!」
息が切れて、
スピードが落ちてきていた。
るいの足がもつれかける。
あの、るいが、消耗している。
摩耗しているのは身体よりも心だ。
恐怖が染み込んで肉と骨を噛み削る。
カリカリカリカリ。
やせっぽっちのネズミのように。
カリカリカリカリ。
暗がりから嘲笑(あざわら)う細い顔。
ノロイは、まだ、ぴたりと僕らの背後から追ってくる。
【るい】
「この、ままじゃ……っ」
【智】
「…………っ!」
そうだ。
気がついてしまった……っ!
るいの顔をまじまじとのぞき込む。
引きつった、笑っているとも泣いているとも区別が付かない
追い詰められた表情で、るいが顔をくしゃくしゃにしていた。
引きつった…………。
やっぱりだ。
るいも気がついた。
ノロイが追ってるのは、るいだけだ。
僕に対しては一度も黒い手は伸びてこない。
呪いを踏んだものだけを処刑しに来るってことか……。
【るい】
「アイツが追ってるのは私だよ!」
るいが吼える。
自分を諦めろっていいたいのか。
【智】
「わかってるよ!」
でも、るいを置いていけるわけないじゃないか!
ふっと、るいが優しい笑みを見せた。
一瞬思考が凍りつく。
るいは何かするつもりだ!
【るい】
「……ありがと。だから……」
るいが、
【るい】
「だから私が……」
地面を蹴って、
【るい】
「置いてくっから……っ!!」
【智】
「るいっ!」
僕の手を振り切って前に出る。
短距離のスプリンターよりまだ早い。
追いつけない。
【智】
「ま――――!」
るいはどんどん加速する。
【るい】
「これなら……っ!」
【智】
「るい、ダメだよッ!」
るいが走る。
るいはノロイを振り切ろうとしている。
だけど。
そんなことで逃げられるのか?
どれほど走っても自分の影を振り切れないように。
るいが、どんなに速くたって――――!
【智】
「待って、待ってるい!! ダメだっ!
逃げ切れない……っ!!」
どれだけ足を動かしても、常人の僕には追いつけない。
ぐんぐんと、るいの背中が遠くなる。
姿こそ見えないが、ノロイの気配は、
確実に、るいの背後に迫っていた。
ダメだ。このままじゃダメだ。
るいを止めないと、捕まってしまう。
るいを、止めないと!
なんでもいいから、どうやってでも、
るいを! 今すぐに……っ!!
【青年】
「うわっ! っぅ……お、おい、ちょっと!?」
【智】
「ごめんなさいっ!」
信号待ちの青年をいきなり蹴り倒して、自転車を奪った。
後ろから罵声を浴びながらペダルを蹴って走り出す。
立ち漕ぎでスピードを上げながら、角を曲がった。
るいの背中を追いかける。
【智】
「もっと……っ! もっと速く走らないと……っ!!」
追いつけない、か……ッ!
チェーンを軋らせながら加速する。
少し、るいの背中が近づいた気がした。
暴れ出しそうなハンドルを押さえつけながら、力強くペダルを
踏み込む。
【智】
「るいーっ!!!」
これならいける。
あと少し。
なのに――――
目の前の光景にハッとした。
るいの行く手に踏み切り。
その踏み切りは、列車の接近を告げる
警告ランプが点滅しているにも関わらず、
警報が鳴っていない。
あたりの音がすべて消えたみたいだった。
遮断機も下りない。
いつの間にかノロイの威圧感は消えていた。
【智】
「あ…………」
来る。
音の無い、不気味な列車の気配が近づいてくる。
るいは止まらなかった。
そのままの速さで、
踏み切りに向かって走っていく……!
【智】
「るい! 止まって! 待って、お願い止まってぇ!!」
るいは振り返りもしない。
自分の風を切る音で僕の声も聞こえないのか、
それとも、るいの周りの音さえも消えてしまっているのか。
【智】
「るい止まれぇぇーッ!!」
届かない。
目には見えない境界線が引かれてしまったように。
僕の声はるいに届かない。
自転車を蹴り捨てる。
転がるように車道の真ん中に着地して、
地面を踏むと同時に走り出す。
【智】
「るいっ!」
――――もう走ったって追いつかない。
それでも走った。
誰か助けて!
誰でもいいから、
るいを助けて……っ!
るいが死ぬ。
一瞬、列車に引き裂かれるるいの姿が脳裏を掠めた。
殺される。
そんなこと、絶対に許せるはずがない!
【智】
「るいッ!!」
──止めなくちゃ。
列車が来る。
るいが踏み切りに飛び込むまでに、あとほんの一呼吸。
時間にして、わずかに数秒。
5秒より多く、10秒ほどもない時間。
僕が止めなければ、るいは死ぬ。
どうすればいい?
どうすれば止められる?
考える余裕さえ与えられない、その一瞬。
追い詰められたからこそ、
何一つ持たない徒(と)手(しゅ)空(くう)拳(けん)で、
胸いっぱいに大きく息を吸い込んだ。
【智】
「止まれバカッ!! この大喰らいッ!!!」
【智】
「コラ止まれェーッ!! 死ぬぞぉぉッ!!」
【智】
「止まれって言ってるだろこのバカァーーッ!!
晩ごはん抜きにするぞォォォーーーーーッ!!!!!!」
突如として戻ってくる音。
叩きつけるような轟音が耳を打った。
列車が突進してくる。
【智】
「………………っ!?」
るい、は――――――――――――――――
【智】
「るい!」
残り半歩のところで振り返っていた。
ポニーテールの毛先だけを列車が跳ね飛ばしていく。
【るい】
「…………トモ」
通過する列車。
その上に、暗い眼窩の奥で僕らを見つめる、
髑髏面のノロイが手形のようにへばりついてた。
【智】
「………………」
ノロイはそのまま戻ってこなかった。
根拠は説明できないけど、助かったのだと感じる。
【るい】
「助かった……のかな?」
【智】
「たぶん」
るいにも根拠は説明できない。
そんな気がする。
少なくとも、今のアレは去ったのだと、
言葉にしなくてもわかる。
【るい】
「トモ……!」
駆け寄って来た。
るいが、痛いくらいの力で抱きついてくる。
痛みはあったけれど、
るいの暖かさが心地よい。
【智】
「る、るい……、痛いよ……」
【るい】
「トモ……トモ……っ!」
僕の声も耳に入らないように、
るいは夢中ですがりついてくる。
【るい】
「怖かったよ……本当に怖かったよ……」
【るい】
「でも、トモのお陰で助かった。トモが居なかったら私、
アイツに殺されてた」
【智】
「うん……、うん……」
怖かった。
ほら、僕も同じだよ。
今もこんなに胸がドキドキしている。
僕からも腕を回して、
るいの髪を撫でた。
すっかりほつれた髪を優しく梳く。
【るい】
「ありがとう、トモ……」
【るい】
「トモ……トモ……、ありが……っ」
涙声になった。
つられて泣いた。
お互いの肩に顔を埋める。
【智】
「るい……、良かった……」
るいの強すぎる抱擁が、
遅れてやって来た震えを止めてくれるようだった。
〔ノロイがきたりて笛を吹く〕
かなりの距離を走っていた。
全身は嫌な汗にまみれている。
【三宅】
「ハァッ……ハァッ…………、ハァッ……ハァッ……ハァッ………!」
こんなに走ったのは学生時代のマラソン大会以来か。
あの頃だってだらだらと体を流していただけで、
本気で走ったことなんてなかった。
【三宅】
「ハァッ……! ハッ、ハァ…………ッ! ハァ……ハァッ……!」
呼吸のリズムが乱れてくる。
夜の街を、ただ闇雲に走ってきた。
あまりなじみの無い通りだ。
自分のいる場所は
とっくによくわからなくなっている。
嘘みたいに人の気配がなくなっている。
【三宅】
「ハァ……ッ、ハァッ……ハ…ハァッ……、あ……ぅ!」
怯えた目で見上げる。
躍動する影。
ビルの上からビルの上、
非常階段から別のビルの非常階段へ、
空中を獣のように跳躍して追ってくる。
昔、虎だかヒョウだかわからない、
大きな猫科の動物に襲われる夢を見たことがある。
夢で見たオレンジ色の野獣は、
強靭な筋肉をしならせて、
大地を削り取るようして駆けた。
影が跳ぶ。
似ていた。
全身がバネのようにたわんで、
一つ力を入れるたびに凶暴に跳躍する。
「跳ぶ」よりも、「飛ぶ」方が相応しい。
嘘だ。
そんなものが居るはずない。
昨日飲み過ぎたから、きっと悪い夢だ……。
一つ隣の通りから夜遊び連中の笑い声が聞こえて来た。
あっちの通りには深夜営業のバーが並んでいるようだ。
後悔していた。
あの通りを走っていれば!
人目の多い場所へ逃げていれば!
あいつも追って来れなかったかもしれない。
俺以外の人間に目を向けたかもしれない。
【三宅】
「ハァ……ハァ…………、ハァッ…………!」
向かいの通りの青いネオンの看板。
こちらにまで光を投げかけていた。
ネオンチューブで書かれた筆記体の店名。
裏側からではその店名は読めないが、
早朝まで営業しているレストランらしかった。
一際高いビルの上に影が立つ。
背後に光る青いライトが、
影の姿を照らし出した。
髑髏面の黒い人型――――――
【三宅】
「ひぃぃぃぃぃぃぃいいぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
あれは何だ!?
どうして、
一体全体どうして俺を追ってくるんだ!
わからない。
わからないわからないわからない。
【三宅】
「あひぃいぃぃいいいいいいいぃぃっ!」
ひたすらに走る。
何もわからないのに、
ただ怖くって走り続ける。
止まれ、これ以上走らないでくれ!
身体が俺に悲鳴を上げる。
長らく縁の無かった激しい運動のせいで、
全身の筋肉が切り刻まれる。
だが、聞いていられない。
もっと走らないと死ぬんだよッ!!
俺は体を説得する。
いや、恫喝する。
恐怖に駆られて、
転がるように足をもつれさせながら、
少しでも前に逃れようとする。
また後ろを振り返った。
さっきから振り向く回数が増えている。
無意識のうちに、何度も振り返って、
少しでも速度を落として筋肉を休めようとしているのだ。
夜を飛ぶ影。
駅前のファミレスでの一件を思い出した。
いきなりテーブルを
蹴り飛ばして逃げ出した女の子たち。
あとで電話がかかってきて、訊ねてみると、
髑髏面の黒い影が居たとかよくわからないことを言った。
それこそが呪いなのだと。
黒い痩身に髑髏の面。
これが、そうなのか!?
あの時、あの連中が見たものなのか!?
呪いは本当だったのか?
【三宅】
「どうし、て……なんで……俺……を、追って……
く、来るん……だ……ぁッ!?」
呂律が回らない。
視界が酸欠で真っ赤になる。
心臓が破裂しそうなのに、
ひたすらに逃げる。
―――――――――コイツハ一体ナンナンダ
腕も満足に上がらない。
【三宅】
「ハァ……ハ…………、ハァァ……ッハァ…………どこ……
追って…………」
そうだ、あそこへいこう。
あそこまでいけば大丈夫だ。
道幅の広い道路を跨げば、
あいつの移動するビルが途切れるはずだ。
そうしたら……
そう信じてここまで逃げつづけてきた。
なのに。
どこまで逃げても広い道は現れない。
迷っているように、巡っているように。
【三宅】
「く……そっ、なめ……や……てっ!」
やり場のない怒りが、
疲れきった体に力を呼び起こした。
手近な場所に目星をつける。
……あった。
解放されたままの暗い入口。
今時でない古い体裁の雑居ビル。
各テナントに施錠がなされるだけで、
中は自由に移動できる、マンションと大差ない構造だ。
アイツはビルの上からこっちを見ている。
なら、ビルの中に逃げ込めば。
アイツからは見えなくなる。
【三宅】
「ハァッ……ハァッ……、ハァッ、ハァッ……っ」
猛烈に喉が渇いていた。
唾を飲み込んで。
壁を背に身体を預けて呼吸を整える。
安心など出来るはずがなかった。
相手は得体の知れないバケモノだ。
【三宅】
「……追ってきたら……絶対、やつが……そした……」
埃っぽい床に荒い息を吐いていると、
足元に消火器を見つけた。持ち上げる。
少々重いが充分振り上げられる重さだ。
この重さがかえって頼もしい。
武器。
そうだ!
あのバケモノを、
こいつで返り討ちにしてやる!
ビルの入口は一つだ。
影が現れれば、
いつでも打ちかかれるように待機する。
待つ、待つ、待つ……。
………………。
まだ影は現れない。
頬をなまぬるい汗が伝って、
憔悴した顎に珠を結んだ。
【三宅】
「まだかよ……!」
まだ現れない。
疲れきった体に消火器の重さが
じわじわと効いてくる。
どれくらい経ったのか?
そういえば……。
携帯電話。
焦って気が回らなかった。
は、はははは、はは…………。
誰かに……でも、誰に……?
呪い?
そんな、あんな、でも……誰に?
警察?
呪いに追いかけられてるからって……?
は、はは…………。
誰が、そんな話……でも……。
………………。
くそ、ヤツはまだこないのかよ!
もう一度唾を飲み込んで、
腕時計を確認した。
ついこの間、奮発して買った高価な時計。
そのガラス面に――――。
【???】
「………………」
【三宅】
「ひッ!?」
髑髏の顔が映っていた。
声を上げるよりも早く、
夢で見た獣のような素早さで、
黒い腕が蛇のように首筋に絡みついてきた。
【三宅】
「うわあァアァァアァァァァァーーーーーッ!!!!」
〔三宅の訃報〕
【るい】
「平和だー」
【智】
「んだんだ」
るいが殊更に戯けるのに、
軽く相づちを打つ。
最近調査の方に目立った進展は無かった。
簡単にわかるとは思ってなかったんだけど、
難しい現実を突きつけられると、げっそりする。
【智】
「ぬおー」
【るい】
「なんか、気の抜けた顔してる」
緊張の反動というヤツだ。
現れたノロイを逃れた。
なにしろ助かったわけなのですよ。
次現れたらと不安な日々を最初は過ごしたけれど、
以来、何事もなくて。
身構えていた分空気が抜けた。
おかげですっかりグータラモードだ。
【るい】
「ここんトコ、三宅のおっちゃんにも連絡つかないね」
【智】
「おっちゃんはヒドいかも。きっと三十路前だろうし」
【るい】
「おっちゃんだよね」
女の子って、時々残酷だと思う。
ファミレスでの一件のあと、
すぐに詫びの連絡を入れた。
それ以後は留守電に繋がるばかりだ。
【るい】
「おシゴト、忙しいのかな〜?」
【智】
「かも」
【るい】
「ねえ、トモ」
【智】
「何かしら」
【るい】
「……誰もいないね」
溜まり場は……。
無人だった。
【智】
「……そだね」
呪いについての議論を交わしてから、
一度もここに顔を出していなかった。
なんとなく顔を合わせづらくて、
足が遠のいた。
久しぶりに来てみると。
誰もいない。
壊れた日常の化石が、
ビル風に乾いた音を立てる。
【智】
「ねぇ、るい?」
【るい】
「んー?」
並んで鉄柵にもたれた。
見下ろす街は昼下がりの喧騒を醸している。
【智】
「みんなと会いたかったね」
【るい】
「そだねー……」
鉄柵に身を預けて風に髪を委ねる。
風は強め。
地上4階相当。
たいした高さでもないが、
地上とは空気が違った。
背後の物音に振り返る。
【智】
「茜子」
【るい】
「……来たんだ!」
開いたドアから現れたのは茜子だ。
一人だった。
【茜子】
「面白いものを拾いました」
風を受けてバサバサと騒ぐ新聞を差し出してくる。
茜子の表情は読めない。
【智】
「なに……、これ……」
【茜子】
「……」
【るい】
「うそ……」
新聞に三宅さんの顔写真が載っていた。
楕円形の枠に収まった、頼りない顔。
記事は、三宅さんの変死を報じていた。
【るい】
「こんな……うそだよ……。おっちゃん……!」
【茜子】
「私も驚きました」
るいにはショックが大きかったらしく、
鉄柵を背にうずくまってしまった。
力の入らない指で記事を読み返す。
それはこんな話だ――――
三宅さんは、深夜2時過ぎ、自宅付近で走っているところを
近隣の住人に目撃された。
コンビニの配送トラックにクラクションを浴びながら、
道路を突っ切って、そのまま通りを西へ走り去った。
そこからの目撃者はない。
その後、自宅から4キロも離れた街外れの雑居ビルで、
工事現場等で用いられる警戒ロープを使って、縊死。
自殺ではないかと見られているが、動機は不明。
ビル据え付けの消火器を足場に使ったとのことだ。
【茜子】
「変じゃないですか」
【るい】
「…………」
記事は「警察は自殺と他殺の両面から捜査を行う」と
お決まりの文句で締められてはいる。
【智】
「…………まさか」
【茜子】
「心当たり」
【智】
「わからない。でも――――」
記事をもう一度よく読む。
深夜2時過ぎ、自宅付近で走っていた。
トラックの罵声を浴びながら道路を突っ切って走った。
自宅から4キロ離れた雑居ビルで変死。
健康的にマラソンが日課だった人には見えなかった。
深夜にぶらりと歩いて行くには半端な距離だ。
あの人だって車くらい持ってるだろうし。
走って……どうしてわざわざ。
トラックとニアミスってことは、
車道に飛び出したとか?
かなり慌ててたのか、
それとも酒にでも酔ってたのか。
泥酔してたとかの記述はなかった。
慌てる理由、走る理由。
例えば、追いかけられて――――
【智】
「――――――――――ノロイ」
【るい】
「……そ、んな」
軽い咳とともに足音が階段を昇ってきた。
【伊代】
「ケホッ、あの記者さんが死んだって……、ねぇ、いったい
どういうことなの!?」
伊代だった。
【智】
「風邪、もういいんだ」
【伊代】
「わたし、熱が38度未満の時は休むのは二日までって
決めてるから……って、それどころじゃないでしょ!」
【智】
「そですね。じゃあ、とりあえず、これ……」
新聞を差し出す。
伊代の顔から
みるみる生気が失われていく。
【茜子】
「さっきの話、続きを言って下さい」
【伊代】
「さっきの話ってなんのこと?」
【智】
「かなり荒唐無稽で突拍子もないけど」
【茜子】
「荒唐無稽とか突拍子もないとか天地無用とか、今更そんなこと
言われても困ってしまいます」
それもそうだ。
僕らはそもそも荒唐無稽だ。
【るい】
「トモ……!」
【智】
「大丈夫。それに、茜子たちにも関係あるし」
【智】
「前に連絡入れたよね? るいが呪いを踏みかけたっていうの」
【茜子】
「聞きました」
【伊代】
「たしかいきなり鏡が割れたとか……」
【智】
「うん。でも、問題はその後で――――」
【るい】
「……ノロイが……来た……っ」
るいの声にあるのは恐怖だ。
誰でもない、あの、るいが怖がっている。
伊代と茜子の顔が緊張する。
実際に現れた呪いの話――――
他人事じゃない。
それはいつ自分に降りかかってもおかしくない。
僕らはみんな、呪われている。
怖いはずだ、同じ呪いを背負っている以上。
でも、それだけに話さないで済むことでもなかった。
【智】
「現れた呪いは、黒い影の怪物……みたいなのだった。
あれが呪いだとして、だけど」
そこは間違いないと、本当は思う。
【るい】
「ドクロの顔をした、すごく怖いヤツだったんだ……」
【伊代】
「そんなに……はっきりとした呪いが……」
【茜子】
「………………」
【智】
「僕らにしか見えないみたいだった。僕とるいにしか、
他のひとには全然、すぐ近くにいても気がつかなくて」
誰も手を差し伸べてさえくれない。
水と油のように、
街という湖面の上に浮かび上がって。
【智】
「どこまでも僕らを追ってきた。壁も道もお構いなしで」
話しているだけであの時の恐怖が蘇ってくる。
背中を冷たい汗が流れ落ちた。
【るい】
「トモが、助けてくれたんだ。トモが居なかったら私……」
【智】
「運がよかったんだよ」
【伊代】
「それって、でも……ゴホンッ」
【伊代】
「ごめん……それで、あなたたちは助かったのね?」
【智】
「そうだよ」
伊代が胸を撫で下ろした。
呪いは、ほんの些細な不注意で踏んでしまう。
助かる可能性が存在することは、
それがどんなに少ない望みでも安堵をもたらす。
【伊代】
「そ……その、あとは……?」
【智】
「うんにゃ。それ以来出てきてない。だから」
【伊代】
「ちゃんと逃げ切れた?」
心底嬉しそうに。
【智】
「まあ、だと……思ってたんだけど……」
【茜子】
「続きがあると」
【智】
「その場に三宅さんも一緒に居たんだよ。僕たち以外には見えなかったノロイだから、てっきり、僕らにしか影響ないって考えてた」
るいを見る。
【伊代】
「え、それって、どういう……?」
【智】
「まって、深呼吸して」
【伊代】
「ここへ来てなによ!」
【智】
「まだこれって推測だし、僕の思いつきだし、証拠何もないし、
荒唐無稽っていうより状況証拠以下だから」
【智】
「予断は禁物、可能性の一つとして検討を」
【伊代】
「だから落ち着けと?」
その通り。
【智】
「で、話の続きなんだけど」
伊代の深呼吸を待つ。
るいと茜子も付き合っていた。
深呼吸乙女。
胸のサイズが、特大・大・小。
【智】
「お花畑……」
【茜子】
「目つきがアトリンみたいです」
【智】
「…………気のせいです」
咳払いして、話題を戻す。
【智】
「記事だけ読むと、三宅さん、まるで何かに追いかけられて
逃げ出したみたいでさ」
【伊代】
「借金取り?」
【智】
「うわ、それありそう」
【茜子】
「不倫相手」
【智】
「たとえが黒い」
人間なら、黒くてもいいけれど。
【るい】
「ちょ……それ、まさか……っ!」
【るい】
「まって……いや、そうだ! あのファミレスからノロイが出てきた時……おっちゃんの体をすり抜けて……あいつが……!」
るいの言葉に恐ろしい光景を思い出す。
三宅さんの体とガラス窓をすり抜けて追ってきた、
髑髏面の異形の影。
【伊代】
「そんな…………関係ない人が巻き込まれて、わたしたちの呪いに殺されるなんてありえるの?」
【智】
「ほら、荒唐無稽だろ」
るいが歯がみしてうな垂れる。
震えるような思い。
軽口を叩いても、
背筋を冷たくする戦慄が消えない。
僕らが追われたように、
あのひとも追われたとしたら?
考え過ぎか。
それとも…………。
放心した伊代の手から、
風が新聞紙を奪い取っていく。
ビル風に煽られて飛び去った新聞紙の向こうで、
茜子が遠くを見ていた。
【智】
「三宅さん……」
死。
知った人間の誰かが、
唐突に居なくなる。
空虚を抱くほどの仲とは違っていたけれど。
【茜子】
「……風邪は人に移すと治るっていいますよね」
見透かすように茜子が一人ごちた。
風邪――――。
いい喩えだ。
るいは助かった。
それは単に偶然と幸運のなせる技だろうか。
それとも何か理由があるのか。
たとえば、
「他の誰かに呪いを移せば自分は助かる」
というような。
【伊代】
「記者さんが死んだのも、ここと同じようなビルだったのかしら」
ちょうどこの溜まり場と似た雑居ビル。
人通りも失せた真夜中、
三宅さんは一人追い詰められて死んだ。
思わず嫌な想像をしてしまう。
【茜子】
「空気よめ。……と、言いたいところですが」
【伊代】
「あ……」
相変わらず読めない人の伊代っちだった。
【智】
「出ようか」
【るい】
「うん」
【伊代】
「……ごめんなさい」
外はまだまだ明るい。
解散には早いはずの時間だけど、
今日は遊びまわる気にはなれない。
【智】
「ふう」
ため息。
【るい】
「トモ、なんかさ」
るいが耳をそばだてる。
緊張している。
僕も見回した。
街。
なんだろう?
普段より重苦しい。
冷たく濁った湖の底に居るみたい。
根拠のない所感を抱く。
【智】
「なんか……おかしい」
【るい】
「やっぱし」
【茜子】
「剣呑です。ニャーどもおかしいいうてます」
いうんだ……。
【伊代】
「え……なに? どういうこと?」
茜子も違和感を感じていた。
伊代はやっぱり鈍かった。
るいが全身の毛を逆立てている。
警戒してる。
【るい】
「なん、だろう、なんていうのか」
【るい】
「……街が、ざわついてる感じ……」
【智】
「……」
【智】
「今日はもう……帰ろうか」
【茜子】
「賛同します。このままだと茜子さんもストレスの重圧にガラスのハートがブロークン10秒前なのです」
【伊代】
「じゃあ、お開きね」
それぞれの言葉で小さく別れを告げた。
各々の巣へと戻っていく。
僕はるいと肩を並べて帰路についた。
一体全体、何が起こっているんだろう?
いつもより遥かに早いはずの帰路が、
何故か、今日は薄暗く感じた。
〔るいの告白〕
数日は、またたく間に。
一時のダラケモードも吹き飛んで、
働きバチのようにあくせくと動き回る。
【智】
「海外の骨董の仕入先とは連絡取れなかったけど、かわりに
遺品の一部が見れそうだよ」
呪いについて。
ここは、調査と漢字二文字にしておくと
格好よさげだ。
呪いの調査。
……ずっと思ってたんだけど、しみじみ見つめ直すと、
それだけでものすごくブルーになれる。
荒唐無稽+理性用語。
「×(ぺけ)ファイル」とか「事件記者コニャック」さんとか
「怪騎士大作戦」風のフレーズだった。
こんなにブルーになる組み合わせは中々ない。
女の子デーの気分がわかるくらい。
【るい】
「うん……」
るいは、あれ以来ずっと元気がないままだ。
三宅さんの変死。
僕たちの呪いが、
他人を巻き込んでしまったのかも知れないという
漠然とした不安。
【智】
「三宅さんのこと、やっぱりショックだった?」
【るい】
「…………」
【智】
「るいのせいじゃないよ。元気出して」
【るい】
「……ありがと」
るいは水をやり忘れた花のように萎れたまま。
やっぱり、重い、よねえ……。
【智】
「そうですか。どうも、ありがとうございます」
【智】
「はい、はい……わかりました。お伺いします。
ありがとうございました。はい、それでは、失礼します」
待っていた電話だった。
柔和そうな老人の声は、市の図書館から。
【智】
「るい、見られるって。なにか手がかりになる物があるといいね」
【るい】
「うん……」
なんでも。
生前、るいの父さんが、蒐集品の一部から
貴重な古書を図書館に寄贈していたらしい。
問い合わせてみると、まだ未整理のため書架には並んでないが、
見せてあげることは出来るという。
寄贈してくれた故人の縁者というのも大きかった。
まあ、呪いの手がかりがあるかどうかは怪しいけど。
【智】
「お昼までまだ時間あるからさ、すぐに行こうよ。図書館」
家に閉じこもって、ブラックオーラに包まれているよりは
よかろうと、手を引いて誘う。
【るい】
「…………」
【智】
「るい?」
【るい】
「…………」
押しても引いても動こうとしない。
【智】
「どしたのるい?」
【るい】
「……やだ」
【智】
「調子が悪いなら……いいよ。休んでて」
【智】
「僕一人で行って来るからさ」
【るい】
「やめときなよ。行っても無駄だよ」
投げ捨てるような声。
突破口も手がかりもない調査への徒労感、
目の前に現れた呪いへの恐怖と重圧、
三宅さんの死への、漠然とした不安と後ろめたさ……。
それプラス父親へのわだかまり。
積み重なったものが、
渾然一体になって爆発する。
【るい】
「もういいよ。どうせ、どうにもならないんだから」
【智】
「行って見ないとわからないって」
【るい】
「わかるよ。無駄だってば」
不毛な会話だ。
るいと話してるとは思えない。
【智】
「……でもさ、他に手がかりが無いんだし、とりあえずダメもとでいいから……」
【るい】
「あんなヤツのこと調べても意味ないって」
座り込んでそっぽを向きながら言った。
亡き父に向けたはずの悪意が、
刺々しい態度になって僕にまで向いてくる。
どうして、るいがそこまで父親を憎むのかわからない。
【智】
「意味がないかどうかは調べてから判断すれば……」
【るい】
「意味ないってば」
さすがに少しカチンと来た。
ケンカしたくないとは思いながらも語気が荒くなる。
【智】
「じゃあどうするの!?」
【るい】
「そんなのわからないよッ!!!」
振り返ったるいがテーブルに拳を叩きつけた。
無意識か、それとも突発的な激情か。
本気の力だった。
一撃で、テーブルがまっぷたつになった。
【男】
「いきなり何? 家の中で素振りとかおかしいんじゃないの?
ほんとに……」
【智】
「本当にすみませんでした。今度からは外でしますから……
すみませんでした」
【男】
「あたりまえだよ。こっちは忙しいんだから……」
ぶつぶつ言いながら帰って行った。
隣人だ。
さっき、るいがテーブルを叩き割った大音を聞きつけて
怒鳴り込んできた。
【るい】
「…………」
米つきバッタのような平謝りで、隣人にお引き取り願い、
部屋に戻ると、るいはまだ背を向けて座り込んでいた。
傍らには壊れたテーブルの残骸。
【智】
「じゃあ僕……行ってくるから」
今はそっとしておこう。
図書館までさほど距離はない。
昼時までに戻ってくればいいだろう。
【るい】
「……待って」
【智】
「なに?」
ドアノブに手を掛けて、体を半分玄関の外に
送り出したところで呼び止められた。
内心、ほっとした。
るいが声を掛けてくれることを期待して、
のろのろと出発の支度をしていた。
【るい】
「ごめん、私が悪かったよ」
【るい】
「長い話になるからさ。座ってよ、トモも」
【智】
「……うん」
靴を脱いで、ベッドに腰掛けた。
るいの斜め後ろ。
きっと、るいは顔を見られていないほうが
話しやすいだろうと思ったから。
【るい】
「……私の家、さ。私が小さい頃はすっごい恵まれた家だったんだ」
【るい】
「そこそこお金持ちだったし、両親も仲良かったし……イワユル
明るい家庭ってやつだったんだ。幸せだったよ?」
【智】
「うん」
【るい】
「友達とかは……あんまり……楽しくなかった。なんていうか……
いじめられてて」
【るい】
「今思うと、それも呪いのせいでさ……私、変な子だったから……」
【智】
「わかるよ」
僕だって呪いを背負って生きてきた。
僕らは同じだ。
類で友だ。
【るい】
「でも、帰る場所があったから私は平気だった。
あの頃は父親も優しくて、お母さんもいつも笑ってて……
家に帰ればいつでも安心できた」
【るい】
「だから、いつでも幸せだったんだよ。
それっぽっちのことかもしんないけど、とても……」
【るい】
「でも」
【智】
「なにがあったの?」
【るい】
「その日のことは……よく覚えてない」
【るい】
「なんかの病気になって寝込んだの。よっぽどヒドかったのか、
記憶がハッキリしてない」
【るい】
「とにかく母さんが必死で看病してくれて」
【智】
「…………」
【るい】
「その時を境にね、父親、帰ってこなくなったんだ」
【智】
「えと……るいが病気の時に……?」
【るい】
「そう。理由は知らない。知りたくもない」
自分の愛娘が病気で苦しんでいる時に?
るいのお父さんが帰らなくなったのは、
骨董集めの趣味がこうじたせいだとか聞いたけど。
その頃に趣味をはじめたんだとしても、
そんな時に、よりにもよって――?
【智】
「それまでは……父さんは優しかったんだ」
【るい】
「そうだよ。だからその時、私は病気を必死で治そうと
がんばったんだ」
【るい】
「病気が治ったら……きっと父親も帰ってきて、お母さんも元気になるって思ったから」
【るい】
「それまでみたいに幸せな家に戻るんだって思ったから」
【智】
「…………」
【るい】
「だけど、私の病気が治っても、あいつは帰ってこなかった。
病気なんて関係なかった」
【るい】
「結局あいつの気まぐれだったんだ。お金だけ送って寄越して、
帰って来なくなったんだから」
【るい】
「それでね……その頃から……私のお母さん、ほとんど喋らなく
なっちゃった……」
不在の父。
暗い食卓。
るいは家にも居場所を失った。
友達も、家も、両親も、
誰も手を差し伸べてくれない。
孤独な世界だ。
それでも。
るいは強かった。
るいの明るさは強さの証明だから。
よくもまあ……。
僕には無理だ。
僕なら出来ない。
きっと、そんなふうには生きていけない。
【るい】
「私がね、どれだけ父親のことを聞いても、お母さん……
いつか帰ってくるからって……寂しそうに笑うだけだった」
【るい】
「それからしばらく荒れててさ、ケンカもいっぱいした。
ケンカするの簡単だよ。私、負けないからさ」
【智】
「るい……」
呪いと才能。
それは捩れた告白だった。
ぐるりと回って表も裏もわからなくなる。
最初は、決してケンカに負けることが出来ない力こそ、
るいの痛みだったはずなのに。
【るい】
「それから……何年か経ってさ」
るいは大きく伸びをして、
僕の顔を下から覗いた。
その目に涙は無かった。
るいは、本当に強い。
【るい】
「1回だけ……1回だけお母さんが、私を強く怒ったことが
あったんだ」
るいの瞳の中、
過去の記憶が蘇る。
【るい】
「私がさ、はじめて父親の事、激しく罵った日にね……お母さん、私を引っぱたいて……」
【るい】
「父さんは今もあなたを愛してる。必ず帰って来るって、すぐ帰ってきて、私たちを前よりも幸せにしてくれるって……お父さんが帰ってくるまでは、わたしがずっと一緒にいてあげるって……」
【るい】
「……その後何日もしないうちに、お母さん、病気で死んじゃったんだけど」
るいの目の色が変わった。
過去を見ていた瞳が今を見始める。
過去を懐かしむ追慕から、
今なお引き摺る憎しみの色に。
【るい】
「その時も、あいつは戻らなかった。
毎月カネだけ律儀に寄越して……最低だ……最低のヤツだよ」
【るい】
「親戚はあんなだったしさ。お母さんのお葬式済ませたけど、
昔の友達って人たちが、ほんの何人か来ただけ」
【るい】
「寂しいお葬式だった。父親が許せなかった。親戚たちも
許せなかった。もう誰も信用できないと思った」
【るい】
「だから私は誓ったの」
【るい】
「誰もいなくなった斎場で。お母さんがいなくなった場所の前で」
憎しみの暗い光が灯っていた。
どこへ向ければいいのかすらわからない、
感情の澱。
こんな目を、るいにして欲しくなかった。
【智】
「るい……もういいよ」
るいは止まらない。
【るい】
「この敵ばっかの世界で、私は絶対一人でも生き抜いていくって!
誰にも潰されないって!」
【るい】
「絶対に、絶対に絶対に、絶対に……誰もいなくっても、
私一人でも、世界中で私一人だけになっても、負けない、
負けてやらない、生きていくって決めたんだ!!」
それは、るいに出来るたった一つの約束だ。
自分との約束。
るいの呪いは、
いわば孤独の呪いだ。
他者を介さなければ、
るいの呪いは、るいを苛まない。
たった一人なら、孤独でいるのなら、
誰とも言葉を交わさないのなら。
でも、それは現実的には、
ひどく難しいことだ。
それに――――
たとえ、それが可能であったとしても。
それは、ひどく悲しいことだ。
【るい】
「世間は敵ばっかなんだ! だから私はもっと強くならないと
いけない! 一人で生きていけるように……ならないと……!」
【るい】
「世界で人間全部が私の敵になっても、生き抜いて行けるくらい、私、強くならないと……いけない……っ」
握り締めた拳から血が流れていた。
自分の爪でその手を傷つけている。
歩み寄って、るいの頭を撫でた。
【るい】
「ちくしょう……ちくしょう…………っ」
涙の代わりに、やり場のない憎しみの断片が、
幾つも幾つもこぼれていく。
【智】
「もう、いいんだ」
僕は、いつまでも、
その髪を撫で続けていた。
るいは吶々(とつとつ)と語り続ける。
母親が死んだ後、
しばらくは一人の生活が続いた。
恨みながら、それでも父の寄越す金で
生活を続けていたらしい。
子供だったるいには、
憎くても他に方法はなかった。
ある日、母親の死を真似るように、
唐突に、るいの父親も死んでしまった。
交通事故だったらしい。
その後、叔父夫婦に引き取られてからは、
僕の知る通りだ。
遺産争い、家出、廃ビル暮らし。
そして……、
僕らと出会った。
【智】
「……ふうん、そういうことがあったんだ」
【るい】
「あいつの事故は天罰だよ」
【智】
「るい……」
悲しいほどに一途な憎悪だ。
【るい】
「本当はお金が欲しいんじゃないんだ、遺産のコト」
急に話題が変わった。
【智】
「……え?」
【るい】
「そんなの無くても、生きていこうと思ったら生きていけるから。私はやってけるから」
【るい】
「でも……くやしくて……」
悔しい、か。
わかってしまった。
これは、るいの復讐だ。
父親への、親戚連中への、
自分を裏切った何もかもへの。
裏切り――――
るいは、そこに過剰反応する。
以前、こよりが逃げ出したとき。
少し前に、花鶏が僕を疑ったとき。
ニトログリセリンと同じく唐突な爆発の理由が、
なんとなく理解できた。
るいは「信じること」を信仰しようとする。
そこから一切の不純物を排斥する。
完全な信頼は、
あらゆる疑問を差し挟む余地がない。
完全であるというのは、
そういうことだから。
裏切りへの否定、
自分を裏切った全てへの反発――
でも。
そんなものはあり得ない。
世界は最初から不純を孕んでいる。
完全は空想の中にしか育たない。
どれだけ親しくても、
どれだけ傍にいても、信じ合っても。
他人の心はわからない。
嘘も方便――という。
だって。
他でもない、誰でもない、この僕が、僕自身が、
るいのことを仲間の誰よりも最初から騙してる。
はじめて会ったときから、
最初に彼女の綺麗な目を見たその瞬間から、
今までずっと。
今この時にも騙し続けている……。
【るい】
「うん。…………でも、最近は……ホントは、そういうの、
どうでもいいかもって思ってたとこだったんだけど……」
【智】
「え、遺産いらないの!?」
【るい】
「うん。父親は今でも恨んでるけど……でも、お金は…………
欲しい人がいるんなら、私は別に……」
【智】
「でも……」
【るい】
「ごはんさえ、おなかいっぱい食べられたら、あんまりお金
無くても人生結構楽しいよ。今は、トモや……こよりとか、
みんなも居るから」
【智】
「…………」
それは、るいが、孤独な世界に佇まなくても
よくなったということなんだろう。
一人ではなくなったから。
僕らという群れ。
一人ではなくなって、
誰かと一緒にいるから。
利害から始まった、
僕たちの同盟。
それでも。
僕らは、寂しくはなくなった。
強さで寂しさに耐えられたとしても、
寂しさそのものが消えるわけじゃない。
誰かといること、言葉を交わすこと、
触れ合うこと、笑いあうこと、
隣同士で肩を並べて、夜通し街を歩くこと……。
そんな小さな時間の積み重ねが、僕らを救う。
それは、きっと、たった一つの処方箋。
孤独という呪いを打ち破る、
最初で最後の魔法の薬だ。
【智】
「そっか」
【るい】
「うん」
【智】
「……るいのコト、今までよりずっとわかった気がする」
【るい】
「それはよろしゅうございました」
やっとるいが笑う。
僕も自然に笑みがこぼれた。
【智】
「るい」
伸ばした僕の手を、
るいがすぐに握ってくれる。
【智】
「仲直り」
【るい】
「……仲違いなんてしてないよ」
【智】
「でもさ」
【るい】
「うにゅ?」
【智】
「遺産。るいがいらなくても、僕がなんとかしてあげる。遺産は
貰っといて、どうしてもいらないって言うんなら、みんなで遊ぶのに使えばいいでしょ」
それは、僕の、精一杯の約束だ。
【るい】
「あはは、トモって、そういうとこでセコびっちー」
【智】
「僕もできるだけ協力するから、だから」
言葉を飲み込む。
言えない。ここまでだ。
これ以上は口にだせない。
(だから、一緒に頑張ろう。
るいも呪いのこと調べるの協力して欲しいんだ)
未明の約束。
明日の誓い。
おそらく――。
そこに、るいの呪いはあるのだから。
未来はいつだって彼女の敵だ。
まだ見ぬ世界が、るいの手足を掴んで離さない。
いいだろう。
それなら、代わりに約束するのは僕だ。
僕がこれからは、
るいの未来を全部肩代わりしてやる。
【るい】
「だから?」
【智】
「…………だから、ご機嫌、治りました?」
腰は低めで。
【るい】
「うん! だいじょぶだいじょぶ! もう大丈夫だよ。
トモに全部話したらスッキリした」
【智】
「よーし、よしよし」
【るい】
「にひ」
僕たちはもう一度手を握り合って力をこめる。
るいの握力は痛いくらいだったけど、
このくらい強く握ってくれるほうが安心だった。
【るい】
「トモ、今日はなんか……ありがと」
やっぱり、るいは笑っている方がいい。
〔バレちゃった!?〕
ジリリリリリリリリリリリ…………!!
けたたましいベルの音が耳元でする。
薄目を開きかけてふと思った。
【智】
「あれれ……うちの目覚まし、ベルじゃないよ〜……?」
【るい】
「……りりりりりりりりりり〜っ!!」
るいだった。
【智】
「朝からうるさいよぅ……、もぅ〜……」
【るい】
「にひひ。ねえ、今日、あちしは登校してくっけど、
トモはどーすんの?」
【智】
「んゅ〜……? めずらしいね……今日は、るいが一般人なこと
いってる……」
【るい】
「実はやばいの。サボりすぎ」
【智】
「人それを自業自得という……」
ベッドと床の交代制寝床システム。
昨日は僕がベッドだった。
夜中にトイレに立った後、るいが寝ぼけて
ベッドに潜り込んで来たのでなし崩しになった。
るいは、上にしてやると下に落ちてくるし、
下にすると夜中に上に潜り込んでくる。
朝には枕を並べていたことが何回もある。
【智】
「そのうち、致命傷になりそうです……」
ふかふかと良い匂い。
朝の女の子の体臭は危険度が高い。
特に、身体の一部分に。
【るい】
「なんかいった?」
【智】
「うにゃ……」
生返事をして、
ベッドの中でダンゴ虫になる。
眠たいのもあるけれど、るいが起きてるので
気づかれないように丸くなりました。
男の子の朝事情は複雑なんです。
【智】
「ねみー……」
寝不足だった。
るいのせいだ。
るいは寝床に潜り込むと、
ひとを抱き枕にする。必ずする。
ぎゅーっとしたり、擦り擦りしたりする。
抱き枕が無いと生きていけない人種、
ダキマクランだ。
いずるさんに契約代価で支払った不気味なヌイグルミは、
本当に愛用の抱き枕だったようだ。
【智】
「………………」
え、そうすると、僕ってアレの代用なの?
それはそれで複雑だ。
【るい】
「トモってさ、ほんと、オッパイちっちゃいよねー」
【智】
「ぶっ」
目が冷めた(※誤字にあらず)。
【智】
「触ったのか!?」
【るい】
「えう、あー……ちょこっとだ……」
【智】
「かぁつ!」
威嚇する。
【るい】
「きゃうん」
【智】
「お触り禁止! おっぱいは特にっていってあるっしょ!」
【るい】
「で、でも、そりゃ、ちっちゃいけど、そこまで」
【智】
「持てる者のごう慢!!」
憤怒に変わる。
いや、別に僕は持ってなくても
全然いいんだけど。
そうなんだけど……
最近、自分のメンタリティと
アイデンティティが心配だ。
【智】
「とにかくダメ。今後は……」
触られてばれちゃうと困るから。
今後は二度としない約束――と口にしかけて固まる。
約束。
そんなこと、るいには出来ない。
気を抜くと、ちょっとしたところに落とし穴がある。
るいが、勢いで返事をしてしまったら……。
呪い。
どこまでも僕らの背中に貼りついて離れてくれない。
【智】
「…………僕が先に起きます」
【るい】
「トモ、普段は早起きなのにねー」
寝不足が誰のせいだと思っているのか。
【るい】
「まだ顔が半分以上寝てるよ」
【智】
「今日は遅刻する……ねむいから……」
外面優等生の面影もないな、自分……。
【るい】
「こ、こら! 私の朝ごはんはっ!?」
【智】
「ごはん……炊いてあるから……。
かめんやいだーフリカケたまご味で食べて……」
【るい】
「も〜〜〜〜」
るいが、もぞもぞとベッドを出る。
るいがぶらっと着替える。
景気よく脱ぐ。
ぶらっとブラをつけて。
したっとパンツはく。
ちなみに、寝るときはいてないんです。
あれ、どうにかしてくんないと、
そのうち、僕が死んじゃうだろうな、きっと……。
【るい】
「完成!」
無敵超人るい、登校バージョンだ。
寝ぼけ眼で全部見ちゃった……。
【るい】
「いっちきまーす!」
【智】
「いってらっしゃいませー」
なんとなく。
【智】
「新婚さん気分」
女の子同士でなければなあ………。
ちゃんと登校した。
遅刻したので宮和に首を傾げられた。
ブルーデーでしたと言い訳したら、
女の子アイテムをたくさんいただいて
とってもブルーにされた。
【るい】
「ういーっす」
【智】
「ういーっす」
【智&るい】
「でーん!」
下校途中で、るいと合流。
意味のないハイタッチをした。
あの日、すべてを吐き出してから、るいは僕にたいして、
ほとんど絶対的な信頼を置くようになっていた。
妄信――。
そんな言葉さえ浮かぶ。
【るい】
「ねぇトモ。塩味のついてるゆで卵ってあるでしょ?
あれどうなってるの?」
るいは仲間と認めた相手以外には心を許さない。
困っている相手なら猫でも助けるくせに、
普段はコンビニ店員にすら噛み付きそうな用心深さ
――というより人見知りは鉄壁だ。
それは、るいの境遇を考えれば仕方のないことか。
それでも救いはある。
僕らがいることで、
るいは孤独ではなくなったから。
【るい】
「塩いっぱい入れて茹でたことあるんだ。
ぜんぜん味ついてなかったよ? なんで?」
【智】
「ああ……それは」
【智】
「雌鳥に塩味のエサをいっぱい食べさせるんだよ」
だから他愛ない嘘でからかったりもする。
【るい】
「へぇ〜! あ、でもそれってニワトリが塩分の採り過ぎで病気になったりしないの?」
【智】
「うん。だから動物愛護団体から非難されてるんだ」
【るい】
「やっぱりトモは物知りだね〜っ」
【智】
「どうして信じるかな?」
本当は希塩酸で
殻をあらかじめ処理してゆで卵をつくる。
家庭で作る場合は、生卵を酢に漬けてから
濃い塩水で茹でることで作ることが可能だ。
実は僕も昔、調べて作ったことがあった。
【るい】
「なに〜っ、嘘かっ!」
二人で出かけた買い物の帰り道。
るいが部屋に来る前はなかった楽しさに
夢中になる。
頭を抱えて逃げた。
当然追いつかれてポカリとやられるのだが、
楽しいのでついやってしまう。
【るい】
「……ふふふ」
ところが、今日は制裁はこなかった。
【智】
「……な、なにその気持ち悪い反応」
【るい】
「ん〜ん! なんか、トモといると楽しいなって」
【智】
「ツッコミがないと落ち着きません」
【るい】
「えへへ。あのさ、私」
【るい】
「私さぁ……、トモのことかなり好きみたい……」
【智】
「……!」
不意打ちだった。
きゅうっと倒れそうになる。
両手を使ってあたふたと取り乱す。
湯に突っ込んだ温度計みたいに下から顔が赤くなる。
警笛付きで耳から蒸気が出そうだ。
【るい】
「トモ?」
【智】
「あーあーあーあーあー」
どこまでも直球に弱い僕だ。
【智】
「!」
はたっ。
気がつく。
まて、ちょっとまて。
重要なことを忘れているぞ、僕。
【智】
「なに言ってるのもう!? 花鶏じゃあるまいしっ!」
【るい】
「え、あ……あはは! そ、そゆのじゃないって!
えへ、えへへへへ……」
【智】
「も、もう〜。いきなりやめてよ〜。あれだよ、そう、ヘンタイ! ヘンタイだよ! きもいきもーいっ!」
【るい】
「むっか! 待てい後輩〜っ!!」
照れ隠しにるいをヘンタイ呼ばわりして逃げるも、
身体能力の差を見せ付けられて簡単に捕まった。
だっこを嫌がる猫のようにじたばたするけど、るいの腕力からは
逃げられない。
【智】
「ふえ〜っ、おたすけ〜っ!」
背一杯おどけながら、
跳ねる心臓をなだめようとする。
焦った。
いきなり女の子スキーになられたら動揺する。
もしかすると正体ばれたのかとさえ思った。
でも…………。
何よりも、僕を慌てさせたのは、
るいの言葉を素直に喜んでしまった自分自身だ。
るい。
名前を呟く。
胸が苦しくて、心臓が早鐘を打つ。
ほら、こんなにも嬉しい。
応えたかった。
答なんて決まっていた。
でも、応えられない。
【るい】
「へへへーっ、もっとべたべたしようぜトモぉ〜!
友達だろ〜っ!」
後からぎゅっと抱きついてくる。
宣言どおりにべたべたする。
おまけに頬ずりされた。
匂いまで嗅がれてしまった。
【るい】
「トモの体ってなんか独特なニオイがするね」
オトコノコだから体臭が違うのは当然……
と思うのだがそれどころじゃない。
背中からとはいえ、上から下までピッタリと、
るいの体が密着して来ている。
【智】
「あ〜〜〜〜〜〜〜う〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
おもいっきり押し当てられている。
最近の食生活改善でちょっと拡張乳になっている。
しかも生足状態だった。
二人ともスカートなので、足と足が無遠慮にフリクションして、
新世紀を開くくらいロックでトロピカルだった。
僕は錯乱しつつあった。
こ、この人は危険だ……。
こよりの言葉を借りるなら、まさに
「性的にぴんちです〜っ!」といったところ。
【智】
「だ、ダメだよっ!」
頭がパンクする寸前で、るいの腕から逃げ出した。
【智】
「も、もうそろそろ帰って晩ごはんの支度しないとっ!」
【るい】
「へ? まだ5時になったばっかくらいだよ?」
【智】
「え、えーとほら何? アレだよ、今日はシチューなんだ!
じっくりコトコト煮込んだ100時間かけたコクまろシチュー
なんだよ!」
【るい】
「おお〜っ。100時間はさすがに無いと思うけど、
おいしそうだね」
【智】
「え、えへへへ。楽しみにしてていいからね」
なんとか逃げ出す。
るいからも、
自分の想いからも。
救われない。
呪いだ。
僕を縛る、
偽りと欺瞞の呪い。
もうずっと一緒にやってきた呪いが、
かつてなく重い。
どうすれば、
この呪いは解けるんだろう……。
「じっくりコトコト煮込んだ100時間かけたコクまろシチュー」
は、実際には約1時間で出来た。
本当はまだあと2時間煮込むつもりだったんだけど、
るいがよだれを垂らしながら横からじっと凝視しだしたので、
仕方なく切り上げた。
【るい】
「おいしかった。まんぞくまんぞく。ぐぅ〜」
食べるやいなやゴロゴロと床に転がる。
その場で寝る気全開だ。
【智】
「食べてすぐ寝るとウシ乳病になるよ」
【るい】
「むにゅ……さすがにそりは騙されない……」
るいのバカ食いも常人離れしている。
バケモノ食いだ。
バケモノ力と一脈通じるものがある。
【智】
「んと、消費するエネルギーが多いからたくさん食べないといけなくて、その分胃はすごい勢いで食料を消化して栄養に変えて……」
【智】
「でも、胃の大きさは限度があるから、すぐにエネルギーを
使い切っちゃって、るいはお腹が減るとあっという間に
動けなくなってしまう……?」
医学とか科学をバカにするな、
という感じの仕組みを妄想する。
呪いと裏表の才能に、
科学とか通用するのか?
【智】
「関係あってもなくても、大食らいくらいなら、お金以外は
問題ないけど」
…………つまり、
お金の問題はあるんですけどね。
どこまでいっても世知辛い世の中だった。
【るい】
「むにゅ……すか〜っ……」
本格的に寝始めていた。
起こすのもかわいそうなので、
一人寂しくお皿を洗ってしまうことにする。
【智】
「ふんふ〜ん♪ るんるる〜ん♪」
鼻歌を歌いながら、
シンクのまわりに小さなシャボンを飛ばす。
僕は洗い物が結構好きなたちだった。
うふっ、新妻気分☆
【智】
「いやな気分だ…………」
【るい】
「すぴ〜……くぅ〜……」
洗い物が終わって戻ってみると、
熟睡中。
【智】
「当分起きそうにないなあ。
じゃあ、今の内にお風呂済ませてしまお」
るいとの共同生活で一番困難なこと、
それが入浴だ。
細々と着替えとか添い寝とかもあるんですが。
おトイレに生理用品の買い置き並べるようになったのも、
地味にブルーになったりするんだけど。
とにかく、お風呂の話だ。
なにしろどっちが入るにしても困る。
僕が見られたら、困る。
呪いを破ることになって、僕の人生終了だ。
いや、呪いなくても人生終了って気がするな。
その場で、るいに殺されるかも……。
るいが裸のまま出てきたら、別の意味ですごく困る。
危機一髪だ。
【智】
「問題山積み過ぎ」
ため息。
とりあえず、まずは命の洗濯を。
お風呂は危険だ。
シャワーを浴びながらもの想う。
ここで、るいもお風呂に……。
【智】
「………………………………」
このごろずっとそうだった。
僕は本格的に参っちゃったのだろうか?
それ以前の問題も多々ある気もする。
僕は「オンナノコ」だけど、
ごく正常な「オトコノコ」なのだ。
年頃の男の子が一つ屋根の下に、
それも、おっぱいの大きくてかわいい――――。
まあ、この際、おっぱいはおいといて。
年頃の男の子が、いい感じに参っている相手の女の子と
一つ屋根の下にいて。
それも相手は自分のことを女の子だと信じていて、
とかく無防備に見せたり、脱いだり、
ひっついたりしてきて。
【智】
「拷問だよ…………」
衝動的に真っ赤な衝撃がどうかして自制心が
どうかなっちゃわないのは、幸か不幸か呪いのせいだ。
【智】
「そのうちに、まかり間違って、僕の自制心がちょっと
お出かけムードになったりしたら……」
死。
冗談でなく物理的に確実に死ぬ。
【智】
「――――――ノロイ」
あの時、追ってきたノロイ。
一度は逃げられた。
だからといって、
今度も生き延びられるとは限らない。
【智】
「まあ、僕がるいを押し倒したりするの無茶だけど」
無茶というより、
物理的に無理です。
逆はともかく。
【智】
「本当のところ、僕は……るいのことをどう思ってるんだろう……」
そして、るいは。
るいは僕のことをどう思っているんだろう?
行き止まりの思考はすぐに仮定の世界に逃げたがる。
もし、この呪いがなかったら?
もしも、この呪いがなくて、僕とるいが出会っていたら?
それは、類でも友でもなければ、ということだ。
意味のない仮定だ。
【智】
「……呪いのせいで、るいと出会ったんだってば」
独り言は湯気に曇ったバスルームに反響して、自分の耳に
返ってきた。
【智】
「……………………」
体でも洗ってサッパリしよう。
【智】
「……あれ? 石けんない」
るいが来て消費量が増えたから、すぐに無くなってしまうのだ。
幸いにも買い置きはある。
【智】
「今度から毎朝みとこ」
浴室前のラックに手を伸ばした。
【るい】
「あ、トモお風呂あがった? 次、私……」
【智】
「るい、おはよ……」
るいだった。
【るい】
「…………………………………………」
【智】
「――――――――――――――――」
るい、だった。
………………!!!!!!!!!!!
!!!!!!
!!!!
ッッ! ! ! ! ! !
すごい勢いで全裸……
すごい勢いで全裸……
すごい勢いで全裸……
すごい勢いで全裸……!!!
ッ!!
ッ!!!!!!!
……!!
…………ッ!!!!
ッ!!!!!!
み ら れ た !!!!?
刹那の石化。
その暫時のち。
【るい】
「ふひょぉぉぉぉぉぉーーっ!!!!?」
〔さよなら、嘘つき〕
どれくらい時間が経ったのか。
【智】
「……嘘ついてて、ごめん」
固まった時間が動き出した。
浴室のドアにもたれかかる。
外に、るいがいる。
見られた。
どんな言い訳も方便も誤魔化しもきかないくらい、
はっきりと見られちゃった。
あーあ…………。
きっと、いつかは来る瞬間だった。
その瞬間が今だっただけだ。
るいが、息を殺している。わかる。
黙ったままだ。
…………待っている?
ただビックリして、頭が動いてないだけかも知れないけれど、
るいなのに、暴れたりも騒いだりもしないのが、
僕が何か言うのを待っているような気がした。
ちょっぴり嬉しい。
考えたことはある。
今までも、何度も。
僕の寝床に間違って入ってきて、隣で眠るるいの顔を見ながら、
こんな瞬間のことを何度も想像した。
それは。
絶対に叶わないはずの願い。
あり得てはいけないリテイクシーン。
でも、そういうシーンでは、
決まって僕はもっとおちついていて。
なにやら格好の良い台詞を二、三はいて、
たちまち彼女の心配をぬぐい去ってやる。
現実って厳しいなあ……。
しみじみだ。
【智】
「…………」
自分の冷静さに驚く。
冷静と言うよりも落ち着いてる。
最後の最後まで追い詰められて、
逆に腹が据わってしまったらしい。
投げやりとか言わないか、それは?
正直。気が楽になった。
嘘も偽りも誤魔化しも、
十年以上もずっときれいに取り繕ってきた仮面も、
何もかも一発でおじゃんになったけど。
重い荷物をまとめて下ろした気分だった。
ああ、そうか。
これってそうだ。
生まれて初めて僕は遭遇した。
理解した。
これが、
自由――――――
【智】
「……今度は僕が話す番だよね」
深呼吸。
自由。
たよりなく、恐ろしく、それでいて何もない。
どこへでもいける怖さと引き替えの、それが自由だ。
覚悟を決めた。
時間はかからない。
だって、今の僕には、怖いものなんて何もないんだから。
矢でも鉄砲でも持ってこい、だ。
【智】
「その、最初にやっぱり言っとく。ごめんなさい。るいのこと、
いろいろ聞いたのに、僕だけ黙っててごめん。ずっと嘘ついてて
ごめん。本当のこと話せなくてごめん」
【るい】
「トモ……」
るいの萎れた声。
【智】
「さっき……その、見た通り、なんだけど……僕は男の子なんだ。わかる? そう、これが……これが――――僕の呪いだったんだ」
【るい】
「………………」
【智】
「隠すこと、嘘をつくこと、騙し続けること」
【智】
「それが、僕の呪い」
【るい】
「……そう、か……だから、それで……トモはそれで」
腑に落ちている。
僕を巡る糸が一本に繋がる。
僕の隠していた全部のことが、特定の意味を持って、
何よりも雄弁に僕のことを語りはじめる。
【るい】
「でも、それじゃ――っ!」
【智】
「そう」
るいも気がついた。
【智】
「これで僕は呪いを踏んだ」
ドア越しに、るいの息遣いが聞こえる。
ドア一枚、わずか5センチほどの距離。
【るい】
「………っ」
沈黙。
アレ、が来る。
ノロイ。
あの黒い影が追ってくる。
遅かれ早かれ、
僕は今度こそ追いつかれてしまう。
【るい】
「それ、じゃあ……」
【るい】
「……トモが、いっつも、私を泊めるの嫌がったり、いざ泊めても絶対寝るトコ分けたりしてたのも……」
【智】
「うん」
るいはことさらに明るい口調で続ける。
【るい】
「あちゃ〜、やっちゃったねー私。せっかくトモが呪いを踏まないように気をつけてたのに」
【智】
「るいのせいじゃ――」
そうだよ、るいのせいじゃない。
ミスというなら自分のミスだ。
るいと一緒に暮らしたりしてたら、いつかはこんなことになるのは最初からわかりきってたのに。
それなのに。
行くあてのない、
るいが見捨てられなくて――――――
【智】
「………………」
いや、そうじゃない。
誤魔化しはもうやめよう……。
【智】
「僕が、自分でやったんだ。僕が失敗したんだ」
【るい】
「でも」
【智】
「でもじゃないよ。るいをもっと早く追い出せばよかった。
最初から泊めたりしなければよかった。本気で呪いを
避けたかったら、幾らでも方法はあったんだ」
【るい】
「トモ……」
【智】
「僕は甘いな。いっつもそうだ。ツメが甘くて足をすくわれる。
冷静な顔して、すぐに浮かれちゃうんだ。今だってそうだろ。
自分のミスで、僕は最後の一歩を踏みだしちゃったんだ」
【るい】
「それなら……最初から、もっと私のこと……」
【智】
「そうだね。るいのこと、さっさと遠ざけてたらこんなことに
ならなかったかも知れない」
【智】
「いや、でも……やっぱりダメかな。もう1回やり直ししても、
僕は、きっと同じことしちゃいそうだし……」
【るい】
「そんなの……どして……」
泣きそうな声で。
【智】
「…………………………楽し、かったんだ」
【るい】
「たのし……?」
【智】
「僕もずっと一人だったから。だって……そうだろ? 誰にも
こんなこといえやしないし、バレるかもって思ったら親しく
なることさえできやしない」
【智】
「万に一つと思ったら、クラスメートを家に呼んだりするのだって怖かった。仲良くしてくれる子がいたけど、その子と遊びに行く約束だってまともにできなかった」
【智】
「寂しかったよ。苦しかったんだ、本当は。ずっと嘘ばかりをついてきた。十年……それよりも長い間、ずっと。僕のことは嘘ばかりだ。ホントのことなんて何もなかった」
【智】
「だから……一緒にいて、楽しかった。怖いことも、危ないこともあったけど、困ったこともたくさんあったけど、それでも僕は
楽しかった」
【智】
「みんなと一緒にいるのが楽しかった。
バカ騒ぎするのが、
たまり場で遊ぶのが」
【智】
「面白くないゲームをするのが、
スプレーでバカなラクガキするのが、
高架下のゴミ山で宝探しするのが」
【智】
「くだらない話を夕方までしあうのが、
ファミレスの同じ席でメニューを取り合うのが、
一本のペットボトルで回し飲みするのが」
【智】
「際どい話題でキャーキャー言い合うのが、
手を繋いでくるくる回るのが、
暗い路地をおっかなびっくり歩いていくのが」
【智】
「真っ青な夜の月を見上げながら
みんなで夜通し歩いていくのが、
楽しかった」
【智】
「みんなのことが好きだった」
【智】
「花鶏が胸を反らしてそっぽを向くのが」
【智】
「こよりがおさげをなびかせて走っていくのが」
【智】
「茜子が眠そうな顔で酷いこというのが」
【智】
「伊代が弄られすぎて隅っこでいじけちゃうのが」
【智】
「全部全部好きだった」
【智】
「お互いに迷惑を掛け合うのが、
誰かに頼られるのが、
あんなに嬉しいなんて知らなかった」
【智】
「みんなが笑ってると僕も嬉しくなった。
泣いてる子がいたら何とかしてやりたくなった」
【智】
「悪い奴からも悪いことからも、
何もかもから守ってやりたくなった」
【智】
「見返りなんてなくたって、
みんなのために何かができるのが、
たとえようもなく嬉しかった」
【智】
「自分のやったことで、
一つでも二つでも喜ぶ顔が増えたら」
【智】
「まるで自分のことみたいで、
僕だって一緒に嬉しくなった」
【智】
「何でも願いを叶えてやれる力が僕にあって、
よくあるおとぎ話のラストみたいに」
【智】
「全員をそろって幸せにして、
めでたしめでたしで終わらせてやれたなら――」
【智】
「そうしてやれないことが、
泣きたくなるほど悔しかった」
【るい】
「だから……?」
【智】
「そう……そうだよ、だからだよ。
楽しかったんだ」
【智】
「生まれて初めての、本当の、友達だったから。
利害だったかも知れない」
【智】
「同盟から始まったかも知れない。
呪いがあったから出会ったのかも知れない」
【智】
「でも、そうじゃない。
そんなことじゃない」
【智】
「手に入ってやっとわかったんだ。
僕はずっと寂しかった」
【智】
「自分のことなのに、
そんなことさえ知らなかった」
【智】
「知ろうとしなかった。
一人の朝も」
【智】
「誰も待っていない部屋も、
話し相手のいない夜も、
本当は嫌いだった」
【智】
「大嫌いだった。
だから……」
【智】
「だから、
一緒にいるのが楽しくて、
いつまでもそうしていたくて」
【智】
「危険だなんてわかっていたのに、
ついつい離れられなくなった」
【智】
「もしバレてしまったら、
るいを傷つけることになるって
わかっていながら」
【智】
「もしかしたら、
危険な目に遭わせちゃうかも知れないって、
そこまでわかっていたのに」
【智】
「なのに、
ずっと……」
【智】
「ずっとこうしていられたらって。
おかしいだろ?」
【智】
「僕は嘘ばっかりだった。
本当のことは何もかも隠したまま
友達だなんていいながら……」
【智】
「それでも……
それでも、もしかしたらって……
そんな都合の良いことばかり考えてた」
【るい】
「………………」
【智】
「………………」
長くて短い沈黙の後。
【るい】
「そっか……」
ようやくの短い声がした。
【智】
「…………」
【るい】
「んと、あの……あのね、もう一つだけ、私、訊きたいことがある」
扉ごしに、
怖ず怖ずと遠慮がちに、
るいが言う。
【智】
「一つじゃなくても、いいよ。
全部吐き出してすっきりしたい気分なんだ。
もう僕は隠す必要もないから、だから」
【るい】
「……約束する?」
【智】
「……それは……ダメ」
それは、るいの呪いだから。
【るい】
「トモ……やっぱり、優しいね……」
【智】
「……」
【るい】
「私バカだから、
たくさん聞いてもわかんないから……
だから、ひとつだけ訊くね」
聞きたいことは山ほどあるだろうに。
ほとんど全部吐き出しちゃったんだけど。
それでも、まだ、
るいが何か聞きたいことがあるっていうのなら、
いいさ、何でもあるがままに答えよう。
【るい】
「あのね……」
【るい】
「トモは……私のこと、好きじゃないの?」
【智】
「………………は?」
なによそれ?
【智】
「なによそれ?」
思わず声に出すくらい混乱した。
【るい】
「だって、さっき」
【るい】
「みんなのこと好きって言ったときに……私のことだけ
いわなかったじゃない!」
【智】
「そ、そんなこと」
【るい】
「そんなことじゃなくて大事なことだよ!」
えー、そこが大事なとこなの……?
【智】
「で、でも、それは」
【るい】
「でもじゃわかんない!」
【るい】
「私は……」
【るい】
「私は、別に怒ってないよ。
トモが男だったって」
【るい】
「私にずっと嘘ついてたってこと。
だって、しかたないもん。
そうでしょ?」
【るい】
「言えなかったんだから。
仲間だって言えないことってあるよね」
【るい】
「そりゃびっくりしちゃったけど。
それはもう……なんだけど」
【るい】
「その、み……見ちゃった……し」
あー、うー。
【るい】
「意外と、
その…………だったし……」
【智】
「なにをいってるの!?」
不穏当な言動は謹んで!
【るい】
「と、とにかく、
だから、私は怒ってない」
【るい】
「でも、
トモが、私のこと好きじゃなかったんなら……」
【るい】
「どうでもよかったんなら、
それは、悲しい……から……」
【智】
「どうでもいいわけないじゃないか!」
【るい】
「あう」
【智】
「どうでもよかったんなら、
そんな、わざわざ……わざわざ……その」
【るい】
「その、なに?」
【智】
「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
【るい】
「なにっ!」
【智】
「……たのし、かったんだ」
【るい】
「…………」
【智】
「楽しかった。
るいと一緒にいるのが、
他の誰と居るより楽しかったんだ」
【智】
「ずっと一緒にいて欲しいって思った。
ずっと一緒にいられたらって、そう、思った」
【智】
「だから、
本当はそんなこと、
どう考えてもどうにもなりっこないのに」
【智】
「夢を見ちゃったんだ……」
【るい】
「トモ……」
【智】
「もしかしたら……
いつもそう。
毎朝、目を醒ますたびに考えたよ」
【智】
「るいはさ、
よく間違って、僕の寝床にはいってきて、
寝ぼけて抱きついてくるから」
【智】
「すぐ近くに、るいがいるって思ったら、
とても眠ってられなくて、
そのたびに寝不足になって」
【智】
「無防備な寝顔を見てるのが苦しくて、
また今日も一日、
嘘をつかなくちゃいけないんだって悲しくなった」
【智】
「でも、
一人じゃなくなった部屋に、
毎日増えていく自分のモノ以外のモノとか」
【智】
「一人のときよりもずっと狭くなったベッドとかに、
もしかしたらって……」
【智】
「昨日は大丈夫だった。
もしかしたら、
今日も大丈夫かも知れない」
【智】
「明日だってなんとかなるかも知れない。
このままずっと、
るいと一緒にいられるかもって……」
【智】
「なりっこないのに。
そんなこと、どうしようもなりっこ……ないのに……」
【智】
「でも、そうしたかった。
そうできたらどんなによかったかな。
いや、やっぱりダメかも……」
【るい】
「どう、して?
やっぱり、トモ、一緒にいるのが迷惑だった?」
【智】
「…………」
【智】
「嘘がつけなくなったから」
【るい】
「うそ?」
【智】
「……うん。
るいといる時、
僕は女の子でいられなくなったんだ」
【智】
「わかるかな?
一日一日、君と一緒にいる時間が増えていくたびに」
【智】
「どんどん、
僕は男だったんだって、
そう思うことが増えていった」
【智】
「一緒にいたかった。
るいと……。
このままずっと」
【智】
「でも、それは女の子としてじゃなくて……」
【智】
「そんなの無理に決まってる。
本当だな、僕は嘘つき村の住人だった。
嘘以外のことは言えない」
【智】
「言えやしない。
運命は最初から決まってたのに。
逃げられない呪いだ」
【智】
「だから……
僕は必死に僕を騙したんだ。
僕は、女の子だ、女の子でいるんだって」
【智】
「笑っちゃうよ。
最後の最後まで中途半端。
怖かったし、寂しかった……」
【智】
「嘘を突き通すことさえできやしなかった。
女の子で居続けることも出来ないくせに、
君を遠ざけて一人に戻るのもイヤだったんだ」
【智】
「誰もいない部屋に戻ってくるのも、
一人きりで食事をするのも、
誰もいない部屋で眠るのも」
【智】
「もうイヤだ」
【智】
「だって……
僕は知ってるんだ」
【智】
「そうじゃないものがあるのを知ってる。
一人じゃないことを知っちゃったんだ」
【智】
「知らなきゃよかったよ」
【智】
「ずっと、死ぬまで一人だったら、
最初から最後まで何ももってなかったら、
失うことなんか怖くなかった」
【智】
「一人が寂しいだなんて考えなくてよかったんだ……」
【るい】
「……でもさ、私嬉しいよ」
【智】
「え……」
扉の向こうから予想外の声。
そういえば、
るいには最初から驚かされてばかりだ。
たくさんのビックリを、いつも僕にくれるんだ。
【るい】
「昼も言ったよね」
【智】
「なにを?」
【るい】
「忘れたんだ。もうぅ……あのね、ちゃんと言ったよ。
大事なことなんだから覚えててよ。いい?」
【るい】
「……
『私さぁ……、トモのことかなり好きみたい』」
【智】
「それって……」
【るい】
「私、実は困ってた」
【るい】
「トモのこと本気で好きになりそうで困ってた」
【るい】
「これでも悩んでたんだから。花鶏に影響されて、私まで
おかしくなったのかと思って……」
【智】
「るい……」
【るい】
「でもこれでっ! これで……堂々とトモのこと好きになれるよ……女の子と女の子ならちょっとアレだけど、男と女なら何の問題もないよね!」
【智】
「アレって…………」
それは、きっと花鶏が怒るよ。
まったく同感だけど。
でも。
【智】
「…………るい」
本当に、
るいは、僕にたくさんのビックリをくれる。
心臓が止まりそう。
るいの秘めていた想い。
嬉しい。
ただもう嬉しい。
今すぐこのドアを開けて、
思い切りるいを抱きしめて、
キスしてしまいたかった。
いや、それはやっぱり恥ずかしいかも……。
僕は――。
物心ついて以来の自由さで思う。
何一つ偽る必要ない心で。
僕は、やっぱり、るいのことが好きだ。大好きだ。
恥ずかしいくらいに。
本当に恥ずかしいくらい、
るいが好きだった。
ああ。
これで気が済んだ。
すごく満足だ。
本当に何も思い残すことはないや。
【るい】
「大丈夫だから!」
【るい】
「呪いは、私の時も逃げ切れたじゃない!
今度だってなんとかなるよ!」
【るい】
「いつもトモはなんとかしてきたじゃない」
【るい】
「街で危ない連中に追いかけられた時も、
茜子たち助けたときも、
こよりが逃げ出したときも」
【るい】
「尹たちと勝負したときも、
私の……時も!」
【るい】
「だから、だから……」
【るい】
「だから、
絶対、ぜーったい大丈夫だから!」
僕の心を汲んだように、
るいが励ましてくれる。
呪いから逃げる?
正直難しい。
るいの時は逃げられた。
でも、あれは今思うと、
ほんの警告みたいなものだったからじゃないのか?
約束にしても、ほとんど未遂だったわけだし。
それとも、本当に呪いを「移した」ことで生き残ったのか?
【智】
「るい……、僕はたぶん死ぬよ」
【るい】
「っ!!」
るいが息を飲む音が聞こえた。
もちろん僕だって生きたい。
やりたいことだって沢山ある。
なによりも、るいが、せっかく好きだって
言ってくれたばかりじゃないか。
だから、生き延びられるものなら……。
だけど、あのノロイのことを考えると、
どうにも、普通の力でどうこう出来そうには思えない。
たとえ、推測が正しくて、
それが唯一の正解だとしたって、
他の誰かに呪いを「押しつけて」、
自分だけ助かろうだなんて、そんな道も選べない。
【智】
「………………」
【るい】
「………………」
二人して黙りこくった。
次の言葉を探してみたけれど。
適当なモノは思いつかない。
それは、きっと、るいも同じだ。
【智】
「………………」
【るい】
「………………あの」
【智】
「………………」
【るい】
「………………」
【智】
「…………くちゅん!」
くしゃみ。
濡れた体のまま、
裸でずっとドアにもたれてたせいで
体が冷えたらしい。
【るい】
「トモ」
【智】
「え、ちょ……、ちょっ、るいっ!?」
るいが強引にドアを開けて
浴室に入って来ようとしている。
こ、ここここっちは裸のままなのに!!
【智】
「ちょ、だめ、それダメだから!」
【るい】
「いいもダメもない」
【智】
「ダメダメ絶対ダメ! 鍵かけるよ、ここついてるんだから今すぐかけちゃうよ!」
【るい】
「開けろ」
【智】
「ダメダメダメ」
【るい】
「あ・け・ろ」
押し殺した、
ドスの利いた声。
【智】
「だ、だから……それは……」
シベリアトラに追われるアライグマの気分で後ずさる。
【るい】
「開けないなら」
【智】
「あ、あけないなら……?」
【るい】
「ぶち破るっ!!!!」
【智】
「ぎゃわーーーーーーーっ!?」
【るい】
「いっくぞー、中国四千年のぐるぐるぱーんちっ!!!」
ないよ、中国四千年にそんなもの!
【るい】
「せーのぉっ!!!!」
【智】
「まってまってまってまってお願いだから壊さないでぇ!」
〔るいとのH1〕
バスルームのドアなんか、
るいが本気になったら紙切れと変わらない。
涙ながらに鍵を外した。
扉が派手に開いた。
るいが入ってくる。
【智】
「ぎゃわ、やっ、ちょっとーーーー!!」
反射的に大事なところを両手で隠す。
【るい】
「トモ」
あっという間に追い詰められる。
逃げ場はなく、すぐに背中に洗面台の感触を感じた。
必死で守りに入る両手ごと抱きしめられた。
今までのじゃれ合うようなものとは違う、本物の抱擁。
【智】
「る、るい!?」
戸惑うばかりの僕。
自らの胸を押しつぶしながら、
るいが僕の体を強く抱いた。
【るい】
「あのね」
【智】
「え、」
キスされた。
【るい】
「ん……っ」
【智】
「っっ!!」
瑞々しく甘い、るいの唇が触れた。
まっすぐに唇を触れ合わせるだけ。
るいの想いが僕の心の奥底まで
深く染み入ってくる。
甘美な幸せに頭が痺れる。
薄紅の唇が遠ざかった。
切ないまでの恋しさが胸に残る。
【るい】
「……すき……」
【智】
「そ、」
何か言わなくちゃ。
それよりも早かった。
キスされた。
【るい】
「ん……」
二度目の唇。
一度目よりもずっと深くて甘いキス。
今度は僕も応えた。
意識してそうしようと思ったんじゃなく、
ただ湧き上がる何かに衝き動かされるようにして。
るいの背中に腕を廻した。
【智】
「ん……」
【るい】
「ちゅ……んっ! ……ん……」
唇と共に、心が重なる。
繋がることはなくても。
人は重なり合う。
ほんの短い時間だけ重なって、
すぐに離れてしまう。
キスと同じに。
融け合うことはないけれど。
それでも僕らは重ねていく。
わずかで貴重な時間を連ねる。
宝石のように、汚濁のように、信頼を、裏切りを、
喜びを、悲しみを、美しくて残酷で、薄汚れて優しい、
世界というパズルのピースを集める。
一人では寂しいから。
孤独の頂きを極めても、
寂しさは消えてしまわないから。
【るい】
「んっ……んぅ、ん……ふぁ」
唇が離れた。
るいは上目遣いに僕を見る。
さっと羞恥の色に染まった。
ああ、もう……。
あんなに乱暴者なのに、なんでこんなに可愛いんだろう。
膝の上にのせて一日中ぐりぐりしてやりたい。
自覚した。
僕はダメになっている。
優等生も嘘つきも形無しだ。
すっかりこいつに参ってしまった。
【智】
「るい」
るい。
やっぱり僕もるいの事が好きだ。
そうだ。
ちゃんと言わなくちゃ。
慈しむようにその左頬を撫でる。
るいの目が潤んでいた。
ちゃんと伝えなくちゃ。
るいが打ち明けてくれた気持ち、
僕も同じだってこと。
るい。
全部伝えなくちゃ。
【智】
「僕も……好きだよ」
【るい】
「……あう」
【智】
「僕もるいのこと、好きだよ。たぶんずっと前から好きだった」
【智】
「ごめんね、うまく言えなくて。その、ずっと女の子として生きてきたから、こんなの……初めてで……」
【智】
「るい……好き」
今度は僕からキスをする。
強く抱き寄せて、奪うように唇をついばむ。
【るい】
「んんぅ……っ」
驚きに一瞬緊張した。
るいは、すぐに緊張を解いた。
しなやかさを取り戻す。
お互いを抱き合って、激しく唇を求めた。
【るい】
「ん……ちゅ……。んんんぅぅ、ん、ん……」
るいの身体から力が抜けた。
まっすぐに僕を信じて、すべてを預けてくれる。
【るい】
「ん、ん……、んっ! んうぅ……ちゅ、ちゅ……ん……」
たまらなく愛おしくなった。
夢中で唇を吸う。
るいの唇から唾液が流れ込んでくる。
その熱い液体が甘美な震えをもたらす。
もっと、もっと、るいが欲しかった。
【るい】
「ちゅ、ん……んぅぅっ、んっ、んんっ、ん……ぷあ……はぁ、はぁ、はぁ……」
何度もキスをする。
息苦しくなってどちらともなく離れる。
【るい】
「ねぇ、トモ……?」
【智】
「なに?」
【るい】
「やっぱり、ベロとかも……入れるの?」
恥ずかしそうに僕に聞く。
僕まで真っ赤になってしまった。
るいと舌を絡めあって、濃厚なキスをする……。
【智】
「ど、どうかな……」
【るい】
「したい?」
したい。
るいともっとキスしたい。
【智】
「……やってみる?」
【るい】
「あーうー」
照れた。
お互いに恥ずかしそうに。
不器用でもいいと、思った。
僕たちは僕たちのやり方で、
手探りで少しずつ愛し合っていけばいい。
【智】
「じゃあ、行くよ?」
【るい】
「ふぁ……」
もう一度唇を合わせる。
充分に甘やかな感触を味わってから、
るいの唇に向けてそっと舌を挿し伸ばす。
唇の間を、ぬ……と舌が通過した。
るいは普段から体温が高めなので、
口の中はとても熱い。
【るい】
「ん……んん……っ」
【智】
「ん……ちゅ……」
【るい】
「んちゅる、んっ、んんっ、んうぅ……。ちゅ、んっ……ん、
ぅんん……」
体の代謝率がいいから体温が高いのだろうか……。
るいの舌が、僕の舌を迎えて絡まりあった瞬間に、
そんな思考も溶けてしまった。
羞恥も忘れ、時折荒い息を漏らしながら、
互いの舌をいつまでも貪りあう。
【るい】
「ちゅるっ、ん、ん、ん……んうっ! ふぁ、ん……ちゅ、ちゅ……んん……」
【智】
「ん……るい……、んん……」
【るい】
「トモぉ……んっ、れる、ん……んるぅ、んぅぅ……」
【るい】
「んっ!?」
とろけるようなキス。
没頭して、鼻の頭が軽くぶつかる。
【るい】
「…………んふふ」
キスをしたまま、軽く笑いあった。
なんだってよかった。
【智】
「る、」
【るい】
「だめ、もっと」
ほんのちょっぴりでも離れようとすると、
首ごと抱きしめられ、引き戻された。
またキスをする。
いつまでもキスをする。
何度も何度もキスをする。
【るい】
「ん、ぺちゅ……んっ、んん、ちゅ……ん、んうぅ……、ぬろ、
にゅる、んっ、ちゅ、ちゅ……」
頭の中が全部溶けてしまう様な感覚。
キスがこんなに気持ちがいいだなんて知らなかった。
世界ってとってもブラボーだ。
まだまだ知らないことがたくさんある。
【るい】
「んっ、ん〜……ん、ちうぅぅ……んんんっ、んろ、ちゅ、ぺちゅ、ん……」
誰とキスしても、
こんなに素敵なんだろうか。
るいとのキスだから、
こんなに甘くてとろけるようなんだと信じたい。
きっとそうに違いない。
【るい】
「ん、んふあ……ん……ちゅ、ちゅううぅぅぅぅぅぅ……………………ぷぁ……あ……、ん……はふぅ……」
最後に互いの舌を強く吸いあって、
とろりとした唾液を垂らしながら離れた。
動悸が激しくて、胸がはちきれそうだ。
聞こえるくらいドキドキしている。
【るい】
「トモのベロ……おいしかった」
変な言い方をする。
るいらしくて素敵だと思う。
るいの口元から二人分のものを
混ぜ合わせた唾液が垂れる。
その先を目で追うと、
るいの胸があった。
風呂上りの僕に抱きついたせいで、
制服のブラウスが濡れて透き通っている。
今まで努めて見ないようにしていたけれど、
るいの胸はその細い体に不釣り合いに大きい。
ぴったりと肌に張り付いたブラウスの下。
上気した肌が見える。
薄桃色の肌にまとわりつく布が、
浮き上がった皺の部分だけを申しわけ程度に白く隠していた。
ほとんど見えているも同然だった。
わずかに上を向いて可愛らしく尖った先端には、
かすかに桜色が見える気がする。
【智】
「…………ねえ、ブラは?」
あまりの衝撃に口調が素だ。
【るい】
「今日はつけてないよ? 1個しか持ってないもん」
そうでした。
るいと新しいブラを買いに行った記憶なんてないし。
【るい】
「どしたの? トモぉ?」
甘えるように、るいが抱きついてくる。
みるみる下半身に熱い血が集まるのを感じる。
【るい】
「ひぁあっ!?」
【智】
「ご……ごめん……」
薄い布一枚ごしにある、るいの胸を意識した瞬間、
血流の集まったそれが硬さを増して上を向いた。
キスの後も、るいと離れたくなかったので、
下半身はぴったりと抱き合ったままだった。
そのせいで、瞬間的に立ち上がった僕のモノは、
パンツ越しに、るいの大事なところを突き上げる形になっていた。
【るい】
「こ、これ……トモの…………?」
【智】
「う、うん、そう……」
【るい】
「かたい……」
るいは、感触が恥ずかしいのか腰をもじもじさせる。
それがまた刺激となって、ますます僕のは硬く大きくなってしまう。
【るい】
「ん……と、トモ……」
一念発起。
そういう感じの表情を固める、るい。
【智】
「ふあっ!? る、るいぃ……」
自分のおしりの下から手を廻して、るいがそれを掴んだ。
熱くしっとりとしたるいの手が気持ちいい。
その手の中で、僕は激しく脈打つ。
【るい】
「ど、どーして……」
【智】
「ど、どうしてもなにも……」
恥ずかしくて死にそうだった。
【るい】
「さっき見たのと全然ちがう〜〜〜〜〜〜っ!」
そんなこと言われても……。
恥ずかしくて死に(以下略)×2、だ。
【るい】
「すごい、トモ……こんなの……ドコに隠してたの……?」
【智】
「んぅぅっ」
愛おしげな手つきで、
るいが僕を撫でる。
【るい】
「かたい……それにぴくぴくしてるよ……」
【智】
「る、るい……ひっ! ダ、ダメ、それダメ……!」
先端をパンツ越しの股間に押し当てながら、
竿の部分を手で刺激されてしまう。
【るい】
「ご、ごめん! 痛かった?」
るいが慌てて手を引いた。
痛くなんかはないけれど、ホッとする。
あのままだと確実に、
僕はるいのパンツを汚してしまっていただろう。
【智】
「痛くは……なかったけど……」
【るい】
「そっか。よかったぁ……」
るいが手を離した。
その隙に腰を引いて、
るいから少し離れた。
みっともなく跳ね上がったモノを見られちゃうことになるけど、
さすがにあの状態は危険すぎた。
【るい】
「あは」
不思議だ。
ほんの数十分前まで女同士だったはずなのに。
あんなに熱く抱き合って、
あんなに濃密なキスをして。
【智】
「るい、大好きだよ」
【るい】
「私も、トモのことだいすき」
【智】
「でも、ちょっと残念……」
【るい】
「ん、何が?」
【智】
「どうせなら、初めてキスするのも、るいがよかった……」
花鶏に奪われちゃった、僕の大事なファーストキス。
それだけじゃなくてセカンドキスも。
いや、ついこの間に、サードキスまで……。
【智】
「…………」
僕って色々ダメじゃないのか?
【るい】
「それは、たしかに、ちょっと、むかつくかも……」
【るい】
「でも大丈夫!」
【るい】
「今までのことなんて全部忘れちゃうくらい、私がたくさん
たーくさんキスするから気にするな!」
とびきりの笑顔で愛を語らう。
場所は浴室だし、僕は裸のまま。
ムードは少し足りないかも知れないけれど。
【るい】
「あのさ、あの……。あのさ、トモ」
感慨にふけっていると、
るいが両手を下げて何かもぞもぞとやり出した。
【智】
「え……、るい……!?」
【るい】
「ん……」
るいは、スカートの中に手を入れて、
パンツを脱ごうとしていた。
瑞々しい太腿のあたりまで下ろされたそれは、
るいの中から滴った透明の液体で濡れていた。
透けるほどに湿っている。
パンツだけじゃなく、るいの内腿も、
水とは違うもので濡れて光っていた。
【智】
「うわ……」
そっか、あんなになっちゃうんだ。
パンツが足首までストンと落ちる。
るいは跨ぎ越えるように足を抜いて、
僕に寄り添った。
【るい】
「トモ……トモ……」
【るい】
「……ねぇ」
るいが僕を求めている。
頭に血が上ってどうにかなりそう。
思考は散り散りに乱れて、
真っ直ぐものを考えることだってできやしない。
必要もなかった。
るいが欲しい。るいが欲しい。
それだけで充分。
【智】
「るいっ!!」
【るい】
「あんっ」
鼻にかかった短い声が愛らしい。
制服のまま、るいが浴室の壁に手をついた。
僕を振り返る。
狭い浴室の空間は、
るいの匂いで一杯になっていた。
【るい】
「スカート……めくりあげちゃっていいから」
【智】
「うん」
唾を飲むだけなのに、
沢山の錠剤を無理していっぺんに飲んだみたいな気がする。
緊張して手が震えてきた。
おぼつかない指先で、
制服のスカートを手繰る。
るいのおしり。
指が触れる。
なめらかですべすべとした感触に、
僕はどうしようもなく昂ぶってしまう。
【るい】
「んん……」
指先でなめらかな肌を撫でながら、
スカートを腰骨の上まで捲り上げた。
るいのおしりが露わになる。
汗をかいた白桃みたい。
魅了されるままに触れる。
るいは少し恥ずかしげにおしりを震わせた。
【智】
「るい、触っても……いい?」
【るい】
「ん……も、もう、触ってるよぅ」
【智】
「じゃなくて……もっと大事なトコ……」
【るい】
「う………………」
肩越しに僕を見る。
るいの赤い顔が、
眉をハの字にしてさらに赤くなる。
【るい】
「ばか……ものぉ……っ」
それをお許しだと思うことにした。
【智】
「優しく、するから」
【るい】
「……トモは、いつも優しいよ」
何もしていないのに、
ビックリするくらい潤っていた。
足の付け根だけじゃなく、内股のところまで、
とろりとした可愛い雫が溢れている。
【智】
「……ごく」
中指だけを伸ばして、おしりの割れ目に沿って、
下へと手を滑らせていく。
指に触れる皮膚は少しずつ湿り気を帯びてくる。
ぬるりとした感触に行き当たった。
【るい】
「んっ……」
さらに手を滑らせる。
ぷっくりと膨らんだ肉。
互いに迫って一本の溝を形作っている。
ここがぬかるみの中心、ここが、るいの……。
【るい】
「くあぁ……っ」
恐る恐る溝をなぞる。
中指がなんの抵抗もなく吸い込まれてしまった。
指が入口を押し開いたことで、
中から熱い蜜が一層溢れ出してくる。
【るい】
「ト……トモ……んくっ! はぁ、はあぁぁ……」
【智】
「るいの中、すごく熱い」
るいの口腔より、なお熱い。
【るい】
「んむ……んっ、んん……ふぅぅ……ん、ん……」
本能のまま、指を奥へ進める。
充分すぎるほど濡れてはいるのに、
ぴったりと閉じて中々指が進まない。
【るい】
「ふうぅぅっ! うぁ、あ、うぅぅ……ん、んん……
はぁ、はぁぁ……」
肉壁をほじるように指を動かす。
じわりじわりと指を進める。
少し進むと、るいが腰を震わせる。
【智】
「るい、大丈夫?」
【るい】
「はふ……、う、うん。大丈夫、だよ……んっ! あは、はぁ、
はぁ……」
るいは甘い鳴き声を堪えていた。
僕の手の平は蜜のせいでべちょべちょだ。
【るい】
「くうぅ……んんん……ん、んっ、んはぁ……、あは、うぅぅ……んむ、んんん……」
中で指を動かす。
細かな皺やつぶつぶした部分など。
とても複雑な形をしていた。
僕の指を吸い込むように蠢く。
たまらなくいやらしかった。
この中に……僕のを入れたら……
どんなになっちゃうのか。
動悸が早くなる。
【るい】
「あ、あ、あっ、ぅああぁぁぁっ!!」
【るい】
「んぅっ! ふはぁぁ……」
慌てて指を引き抜く。
【智】
「ご、ごめんっ! 痛かった……?」
【るい】
「はぁ、はぁ……あう……。トモ、いきなり中ですごい指動かすんだもん……焦った焦った……。はぁ、はぁ……あはは」
【智】
「ごめん……」
【るい】
「痛く、なかったよ」
【るい】
「……気持ちよかった……あは」
【智】
「っ……!」
【るい】
「これでおあいこ」
【智】
「え、な、なにが?」
【るい】
「さっき私がトモのに触ったときのと、おあいこ。にひ」
いつもの、口を大きく横に開く笑み。
【智】
「るいっ!」
愛情が溢れそうになって、
後から、るいに抱きついた。
廻した両手で胸を持ち上げた。
キスをする。
【るい】
「ん……ん、んふ……」
円く手を動かした。
ブラウス越しに胸を揉む。
絡めた舌の間から、
るいの切なげな吐息が漏れる。
【るい】
「んる……ちゅ、ぺちゅ、ん……んふ、ちゅ、んっ、ん……はむ、ん……」
僕のそれが、ちょうど、
おしりの割れ目にはまり込むような形になっていた。
ものすごく昂奮する。
【るい】
「ん、ちゅる……ちゅ、ちゅ、ちゅ、トモ……んんん、ん、
んる……れる、ぺちゅ、ちゅ……」
欲望に抗わなくてもいい。
僕もるいも互いを激しく欲している。
欲望の命じるまま、
るいの胸を掴み、揉み、
その先端を指で摘んだ。
【るい】
「ん、んはぁ……っ! トモ、トモ……トモの手、胸いいよ……っ。ちゅ、んんんん……んふぅ……」
るいの蜜が、僕の膝まで濡らし始める。
頭の中に熱いものがたぎる。呼吸も苦しい。
【るい】
「ちゅぱ……は……うぅ……」
限界だった。
無意識に腰が動いてて、
それを、るいのおしりに擦りつけようとする。
るいが欲しい。
欲しくて、欲しくて……たまらない。
るいの耳に唇を寄せ、キスをしてから囁いた。
【智】
「るい?」
【るい】
「ん……」
【智】
「るいが欲しい」
【るい】
「…………」
【るい】
「……うん。私も、欲しい」
るいは僕の方を見ない。
恥ずかしいのか、前を向いたまま頷いた。
心持ちおしりを突き出してくる。
【智】
「るい……入れるよ」
【るい】
「うん、いい……来て……トモ……」
腰の位置を下げて、
先端を割れ目にあてがう。
そこは指で触れたときよりも、
さらに熱く濡れていた。
かすかにとば口が開いている。
そっと触れるだけで先端が飲まれそう。
【るい】
「あ……っ」
ゆっくりと。
るいのお尻をしっかりと掴んで、
慎重に腰を進めた。
くちゅる……と淫らな水音。
先端が肉ひだに包まれる。
【るい】
「んんんんぅぅ……」
【智】
「う……ぁ……すご……」
熱い。
身体が全部溶けそうな感覚。
もう少し奥へ。
【智】
「……るい、これ……これが……」
【るい】
「んんぅ……ふぅ、わ、わたしも、んんっ! トモぉ……」
指で確かめた、るいの中の複雑なひだが。
それが、いくつもの快感を同時に送り込んでくる。
【るい】
「はぁ、はぁ……はぁ……入った……?」
【智】
「まだ……半分くらい……」
【るい】
「そう、なん……ん……っ」
びくっと、るいのお尻がわずかに跳ねた。
【るい】
「み、見た時、男の子のって、こんなに大きいんだって思ったけど……んんっ」
【るい】
「あ……ん……っ……これ、いざ入れられてみると……
ほんとにおっきくて……びっくりする……あ、ふ……」
るいの言葉が状況を強く意識させた。
僕は、今から、るいと繋がろうとしてるんだ。
【るい】
「んんっ! え、あ……なんか……中で、お……
おっきくなったぁ……!」
【智】
「るい、あの……」
ようやく半分くらい中に。
これでも、ぎりぎりと締めつけられる。
優しくて狭い、るいの中。
【るい】
「あ、あう……っ、トモ、どうしよう……とか思ってる?」
【智】
「だって」
これ以上は取り返しが付かない。
止めろと言われて止められるかどうかわからなかったけど。
それでも、るいはあまりに狭くて、幼気で。
僕を思わず躊躇(ためら)わせた。
【るい】
「だいじょぶだから……来て……」
甘い囁きが、僕の背中を押した。
【智】
「うん……痛かったら言ってね」
ぐっ、と腰を進める。
ずるりとひだの中を進む感触。
【るい】
「はあぁぁぁ……っ!」
たいした抵抗もなく、るいの奥深くまで埋没する。
熱くとろけた柔肉に締め付けられる。
快感のあまり背筋が痙攣する。
【るい】
「うあ……あはぁ……っ! んん、んんんんん、……ぁ……っ! くうぅぅぅんん……」
いきなりの深い挿入。
るいが声にならない叫びを上げる。
身を捩る。
【智】
「……だ、大丈夫?」
【るい】
「ん、んむ、んん……っ」
落ち着くまでじっとしている。
るいが、深呼吸。
胸の上下に合わせて、るいの中が収縮する。
うわ……っ
【るい】
「ん、だい……じょぶ……。噂ほど痛くないね……」
ほっと胸を撫で下ろした。
【智】
「痛くなくて、良かった」
激しい運動とかする人だと、
処女膜関係ない人もいるって、
前に聞いたことがあるけど。
そういうのかも知れない。
【るい】
「あ……トモの……奥まで来てるの、わかる……」
るいの中が蠢く。
きゅっと締まったり、とろりと緩んだり。
鼓動みたいだ。
【智】
「るいの中……とっても気持ちいい……」
【るい】
「うん……」
【智】
「ね……動いて……いい?」
【るい】
「……ゆ、ゆっくり、ゆっくりなら……あうぅ……」
ゆっくり、ゆっくり。
その注文を守るのは思いのほか難しかった。
【るい】
「んんんん〜……っ!! トモ、もっとゆっくりぃ……」
【智】
「うん、ぜ、善処します……」
るいの背中に上半身を密着させて、
腰だけを使って動く。
挿入はまだ浅いのに、
目の前が爆発するような快感。
【るい】
「ふあぁ……すご、いよ……こすれてる……。トモのが、
中でうごいてるよぅ……」
浅い呼吸をしながら、
るいの声が揺れる。
甘い響きは麻薬のようだ。
一言一言が僕の頭を痺れさせる。
【るい】
「はぁ、はぁ、はぁ……あっうぅ……と、トモ……トモぉ……
んんんうぅぅ……」
もっと深く繋がりたくて。
膝を少し曲げて、やや下の角度から奥へと進んだ。
【るい】
「あ……っ! くあ、あうぅ……奥、これ……っあ!」
腰だけを動かす。
強すぎる刺激を送らないように気を使いながら。
【るい】
「んっ! そ、それいい……トモぉ……っ! それぇ、
それもっと……」
るいのおねだり。
確かに僕もすごく気持ちいいのだけど。
でも、奥まで入れようとすると、
膝を曲げたままで動かすのは予想外に辛い。
太腿とかお腹とかの筋肉辛い。
【るい】
「んんぅぅ……っ」
【智】
「ちょっと……この体勢ムリ。1回抜くね?」
【るい】
「ふぇ……?」
酩酊したような、るい。
ぬるう……と引き抜く。
るいの蜜と破瓜の血が、
僕のモノと一緒にでてきて、
ポタポタと浴室の床に滴る。
【智】
「もいっかい入れるから」
【るい】
「……そっとね」
るいの腰骨のあたりを掴んで、
腰を前に突き出すように挿入する。
とろけきった襞を開いて、
硬いモノが飲み込まれていく。
【るい】
「あ、はああ、あぁぁ、あ、ぁぁぁ……っ!」
途切れ途切れの鳴き声。
るいが背中をくねらせて悶える。
【智】
「も少し……」
【るい】
「んんうぅっ! ふか……いよ……っ」
柔らかなおしりの肉を押し潰し、奥深くまで繋がる。
みっちりと僕を咥えた、るいのそこ。
血の混じったピンク色の泡が溢れてくる。
【るい】
「はあぁ……はぁ……っ。私の……中、ぜんぶ……トモで
埋まってる……!」
完全に奥まで挿入したら、
今度はゆっくりと引き抜く。
【智】
「るい……ガマンできない……」
【るい】
「あ、ふあぁ……? あ……い、いいよ? いつ出してもいいよ? 私も、もういっぱいいっぱいだから……」
【智】
「じゃなくて……」
出そう……っていうのも間違いじゃないんだけど。
今のガマンできないは違う意味だ。
もっと激しく動きたい。
るいの中、ぐちゃぐちゃにかき混ぜたい。
もっともっと、るいの中を、
ケダモノみたいに激しく往復して気持ちよくなりたい……!
【るい】
「ガマン、しなくていいよ……トモ……つらそう……」
るいは額も汗びっしょりになっていて、
ほつれ毛が顔に貼り付いている。
【智】
「も、ダメ……るい、ごめん」
もう一度奥深くまで挿入して、るいに軽いキスをした。
今のはお詫びのかわり。
【るい】
「え……あ?」
【智】
「もう、ダメ……だから!」
【るい】
「……ふ、ああっ……ふあああぁぁあぁぁぁ〜……っ!!?」
ぐっと腰と腕に力を込めて、
激しくるいの奥を突く。
【るい】
「んぐぅぅ……! あふぁ、あうぅっ、あ、あっ! あはあぁぁ……っ! んんんんんうぅぅうぅぅ……」
るいのおしりに腰を打ち付ける。
アップテンポの手拍子みたいな音が浴室に響く。
ただがむしゃらにるいの中を往復した。
【るい】
「ト、トモおぉ……っ! は、ダメこれっ、はあぁぁぁっ、は、
激しすぎ……んくうぅぅぅ、んんんぅぅ……っ!」
逃げようとする、
るいのお尻を掴まえる。
深さや角度に変化をつけて……
なんて聞きかじっただけの性知識がチラリと頭をかすめる。
けれど、そんな余裕はまるで無い。
【るい】
「だ……ダメぇ……っ、こらぁ……んぐぅぅっ! は、はぁはぁはぁはぁ、あ、あ、あ、あ、ああぁあぁぁぁ……っ!」
るいの中に挿入を繰り返す。
叩きつけるような乱暴さで。
るいのおしりと胸がぷるぷると震えた。
【るい】
「ちょ、ちょっとトモぉ……。た、タンマ、タンマあぁぁ……っ、だ、ダメだよこれぇ……っ!」
【智】
「ご、ごめん……ムリ……っ!」
熱い粘液と肉襞の中を往復する。
計り知れない快感に意識がぼやけてきた。
それでも腰は独りでに動き続けている。
【るい】
「はあぁぁぁ……はああぁぁ……っ! はああぁぁぁ、ああ、
んんんん……んく、んんんうぅぅっ」
【智】
「あ、あ……るい……っ! も、もう」
抜かないと、抜かないと、抜かないと……!
【るい】
「ううぅうぅぅ……ダメ、もう……これっ! イっ、い、イキそうだよ……あはあぁぁっ! イキそう、イキそうぅぅ……、イキそうだよぉぉ……っ!」
【智】
「も、もう出ちゃう……よっ」
抜かないと。
でも、あともう少しだけ。
【るい】
「ト……トモっ! イ、イクよおぉぉ……ああぁぁっ! はぁぁぁ、ん、んんんん……くうぅぅ……っ」
自制できる限界を超えた。
射精感が駆け上がってきて、
腰が暴れた。
【るい】
「イクよ、イクよぉ……。トモ、トモ、トモ、トモぉぉ、わたしもう、んんんんん……っ、イッちゃうよトモぉぉ……っ!」
最後に残った理性のカケラ。
ぎりぎりで腰を引く。
ぐちゃぐちゃに濡れた性器からひき抜かれた僕のモノが、
勢いよく上を向く。
【るい】
「ふあああぁぁぁあぁぁぁぁぁー…………っ!!!!」
射精した。
視界と意識が真っ白に飛ぶ。
すべてが空白になる。
【るい】
「あ……あ……はあぁぁ……」
じーんと痺れるような感覚。
視界が戻る。
白いものが、るいのお尻を淫らに汚していた。
るいは壁にすがりついていた。
快感の余韻にガクガクと膝を震わせ、
力尽きたように床に崩れてしまう。
【智】
「るい」
【るい】
「あ……トモ……」
呆然と振り返ったるいに、
僕は最大の愛情を込めて、キスをした。
【智】
「るい、やっぱり狭い」
【るい】
「ダメ」
二人してお風呂に入った。
汗かいたり、いっぱい汚れたりしたし。
狭い浴槽に二人で入る。
言い出したのは、るいだったけど。
【智】
「…………」
【るい】
「悩んでる顔だ」
【智】
「うん」
【るい】
「呪いのこと?」
【智】
「……うん」
恋人同士の甘い雰囲気に浸ってさえいられない。
恐怖が追ってくる。
いつ来るかもわからない、黒い影が。
【るい】
「……今度もきっとなんとかなるよ」
【智】
「僕もそう思いたい。生きたいよ。るいと一緒に」
お互いの肌のぬくもりにすがるように、
僕たちは身を寄せ合った。
〔ただいま発情期〕
モノは試しという言葉がある。
つまり、試してみなければ
どんなモノでもわかりゃしないということだ。
閉められるものは全部閉め切った。
玄関は当然、チェーンロック。
窓、クレセント錠の二重ロック。
厚手のカーテンも用意。
電気ポットのロックまでかけた。
時計の音が気になるので、
クッションを被せて黙らせた。
まるで暗室だ。
前の戦争中には、空襲に備えて
夜間は電気を消して息をひそめた、なんて話を聞く。
こんな感じだったのだろうか。
【智】
「………………」
備えているのは空襲じゃなくてノロイだ。
効果があるかどうかはわからない。
気休めっぽいけれど。
部屋には僕が一人。
玄関の物音に一瞬身を固くした。
【るい】
「ただいま」
大丈夫、るいだ。
【智】
「おかえり」
僕はなるべく出歩かないようにしている。
買い物なんかは、全部るいが引き受けてくれていた。
【るい】
「トモ、今すごいヒキコモリ状態だよね」
ヒキコモリ。
そのフレーズはなんとなくイヤっぽい。
【智】
「見様によっては、るいが僕を拉致監禁飼育してるようにも見える」
それで、るいのために
小説を書かされたりするのだ!
【るい】
「それ、わりとおいしいなあ」
【智】
「おいしくない」
【智】
「そうそう。僕が呪い踏んだってこと、みんなにも連絡しとこうと
思うんだけど」
【るい】
「おー、なるほど」
2コールで出た。
【智】
「もしもし、伊代?」
【伊代】
『……どうしたの、最近顔見せないで』
【智】
「実は呪いを踏んだんだよ」
【伊代】
『…………って、ええ!?』
【智】
「今度は、僕」
電話の向こうで伊代が息を飲む。
【伊代】
『それで……大丈夫なの?』
【智】
「わからない。今のところは生きてるよ、一応。それで、
るいと一緒にいるんだ」
【伊代】
『……ホントに大丈夫なの? わたしもそっち行こうか?』
【智】
「そのことで実は電話したんだ」
三宅さんのことが頭に浮かんだ。
呪いが伝染して、三宅さんは死んだ。
想像だ。確証はない。
だけど可能性は潰しておきたかった。
【智】
「呪いがもし伝染するといけないから、事が済むまで近づかない
ほうがいいと思うんだ。そのコト、みんなに伝えて欲しくて」
【伊代】
『あなた……』
【智】
「るいとは一蓮托生。前に呪いを踏んでるから、いざアイツが
現れたら、るいも狙うかも知れない」
【伊代】
『…………』
るいが僕の肩に手を置いた。
後から心配げに覗き込んでくる。
るいを安心させたくて、
親にじゃれる仔猫みたいに頬に頭をすりつけてやる。
【伊代】
『でも、それって確証は……』
【智】
「ない。ただ、危険はあるし、何がきっかけになるのかもわかってない。危ない橋は渡らないのが、僕のポリシーだろ。みんなに
連絡お願いできる?」
【伊代】
『いいけど……でも、わたし……』
そういえば、
伊代の呪いがあった。
名前の呪い……とでも言うのか。
伝言を頼む相手としては、
性格はともかく、他のところでよろしくなかった。
【茜子】
『OK把握しました。
茜子さんが、この役立たずのおっぱいメガネの代わりに』
【智】
「あれ、茜子も居るの? 助かる」
打撃音。
何の音だろう。
伊代の声が戻ってきた。
【伊代】
『誰が役立たずのおっぱいメガネか!』
【智】
「どうして茜子が伊代んちにいるの?」
【伊代】
『ああ、この子ほら、泊めてもらってたでしょう?』
【智】
「花鶏のとこだね」
名詞をフォローしながら聞く。
【伊代】
『ええ。最近もう一人と』
【智】
「こよりと」
【伊代】
『出かけてて帰ってこなくなって。それで泊まれなくなって。
また、この子路地裏をふらふらしてたのよ。だから』
【茜子】
『はい。路地裏のボヘミアンと呼んでください』
【智】
「花鶏とこよりがどこへ?」
こよりんの貞操が心配だ。
【茜子】
『詳しくは茜子さんも知りませんが、姉絡み』
【智】
「ほほう」
こよりの姉さんの件で、か。
【伊代】
『どけ!』
さっきより重い打撃音。
【伊代】
『……あ、ゴメン。だからウチでとりあえず引き取ってるの。
一人くらいならなんとか……って母さんも言ってくれたから』
【智】
「そっか」
ほんのしばらく顔を合わさなかった間に、
みんながバラバラになってしまった。
寂しく悲しいけれど、
誰も孤立してはいなかった。
なんとなくホッとする。
【るい】
「トモ?」
【智】
「茜子のこと、ありがとう。
じゃあ、そろそろ、るいの為にゴハン作らないと」
気をつけてと繰り返す伊代に礼を告げて、
僕は電話を切った。
気をつけて。
伊代に言われるまでもなかった。
死にたくない。
怖い。
泣き出しそうなほど怖い。
【智】
「まだ外見えるね……部屋の中、暗くした方がいいかな?」
【るい】
「それよりあいつ、魔除けとか、そういうの効かないのかな……」
【智】
「盛り塩でもしてみようか」
相手は正体不明の存在だ。
どうすればいいのか見当もつかない。
それが余計に恐ろしかった。
【るい】
「じゃあ、窓塞ぐよ。ベッド使うから」
るいが豪快にベッドを持ち上げる。
バリケードにしようとする。
あいつがどこから来るのかがわからない。
怖い。
怖い。
わずかな隙間も怖かった。
換気扇から見える、
ほんの少しの外の光が怖い。
郵便受けに広告が差し込まれる物音が怖い。
外に繋がるあらゆる経路を塞ぎたかった。
【智】
「やっぱり待って」
【るい】
「寝るトコなら床でいいじゃない」
【智】
「るいが襲われたとき、ノロイはいきなりファミレスに現れたよね」
【智】
「窓ガラスもすり抜けてきた。きっとバリケードは意味がない」
ノロイは呪い――――姿はあっても形はない。
外部との繋がりをどれだけ厳重に遮断しても意味がない。
【智】
「隠れるのも無駄そうだし」
【るい】
「そう……かもね。それなら、カーテン開けといたほうが、
アイツが来た時に早く気付ける?」
【智】
「そうかも」
【るい】
「じゃ、開けるね」
体が緊張する。
カーテンを開けて、
そこにあの恐ろしい黒い姿があったらどうしよう。
……いない。
【智】
「カギも意味ないね」
【るい】
「イザって時、窓からも逃げられるほうがいいもんね。私なら、
トモを抱いて飛び降りても平気だし」
ちなみに、ここは2階。
るいの身体能力なら普通に着地できるだろう。
【智】
「窓のカギは開けよう。玄関もすぐ出られるように、
チェーンロックはかけないでおいた方がいいかな」
【るい】
「いいんじゃない?」
バリケードをやめて、
カーテンを開け、窓を開け、
玄関のチェーンを外して……。
【智】
「これ、普段と同じなんじゃない?」
【るい】
「そんな気がする」
【智】
「ふふ……」
【るい】
「あははは」
僕たちは小さくだけど笑い合うことができた。
危険に身構えすぎていた緊張が幾分ほぐれる。
るいと一緒でなければ、
今この状態に笑うことが出来ただろうか?
怖いのは変わらない。
でも、ほんの少し変わった気がする。
死にたくない、じゃなくて、死ねない。
るいと一緒に生きたい。
【智】
「生き延びてやる」
【智】
「絶対に生き延びる。どんなことをしても、どんな手を使っても。るいと一緒に」
るいと手を繋いで、
カーテンを開け放った窓から外を睨む。
ノロイめ、来るなら早く来い。
僕は必ず生き延びてみせる。
ちっとも来なかった。
【智】
「……来ないね〜」
【るい】
「来なくていいケドね」
何日も経った。
ノロイは現れない。
今日のお昼を食す。
ちくマヨと千切ったレタスに
マヨネーズをかけただけのもの。
それから生のままの食パンだ。
はっきり言って気が抜けている。
【るい】
「ソバ並にのびちゃう」
いざ来ないとなると、
いつまでこの生活を続けていいのやらわからなくなる。
【智】
「伊代とかに相談したら何か考えて……」
【智】
「……いや、やっぱり中途半端のままで、巻き込んじゃうのも
なんだし」
【るい】
「それに、トモと二人っきり、もったいないし。にひひ」
るいが両足をぱたぱたと動かす。
仲良く並んでベッドに腰掛けていた。
緊張が緩んで、
警戒だって杜撰になっている。
それでも、ノロイ対策の妙な習慣だけは残って、
テレビもつけないし音楽もかけない。
することがないので二人でべたべたしていた。
……まあ、言い訳だけど。
【智】
「僕のことは、るいと僕だけの秘密だね」
【るい】
「トモ、好きだぞぅ〜! ちゅー、ちゅー」
【智】
「るいはキス好きだなぁ……」
実は僕も好きです。
【るい】
「ん……ちゅ、ちゅう……んー……」
寝床を分ける必要がなくなったので、
僕らはベッドで一緒に寝ることにしていた。
初めの何日かは呪いへの恐怖があった。
えっちな気分になんてなる余裕もなかった。
だけど大好きな女の子と二人きりで生活して、
夜は抱き合って眠るのだ。
日を重ねて緊張が薄れるにつれて、
自然と僕たちは求め合うようになっていった。
【るい】
「もいっかい。んん……ちゅう……」
最初は恐怖をやわらげるという名目から、
やがて純粋な愛情の欲求に基づき、
僕たちは幾度も体を重ねた。
【るい】
「トモ、好きぃ……」
【智】
「僕もるいのこと大好きだよ」
【るい】
「にひひ。トモぉ〜っ!!」
襲い掛かってきた。
るいにベッドに押し倒される。
【智】
「うわわわ〜っ」
ここ1週間ばかりの平均えっち回数は3.4/日だ。
3日に1回は回数が増えてしまう計算です。
いや、他にすることもないし。
なにしろ若いので。
【るい】
「ん、トモぉ……ちゅう、んん、ん、ちゅ、ん……」
【智】
「るい……」
【るい】
「あのね、した回数が三桁になったら、
ウンと気持ちよくなるんだって聞いたよ」
【智】
「……今は、あんまり気持ちよくないの?」
【るい】
「……きもちいい、でへへ」
【るい】
「でも、もっとイくなるかも」
【智】
「もっとかあ」
遥かに遠い幻想郷だった。
【智】
「モノは試しっていうし」
【るい】
「まずは三桁だな」
三桁か、
そんなもの、最早目の前だ!
ダメダメ自堕落な二人だった。
【るい】
「ん〜、上下交代。トモが上がいい……」
抱き合ったままベッドを転がる。
ベッドには、すっかりえっちな匂いが染み付いてしまっている。
【るい】
「ふあ……ん……おっぱいいい……」
るいの立派な胸は仰向けに寝転がっても
ひしゃげてしまわない。
手を這わせると、
すぐに、るいは熱い息を漏らし始める。
スカートの下で、僕のモノも熱くなる。
【るい】
「トモぉ……服の上からだけじゃなくて、直接触って欲しいよ……」
るいにお願いされるまでもない。
僕はるいの服を優しく脱がそうとする。
携帯だ。タイミングわるー。
【智】
「……るい、ちょっと待ってね」
【るい】
「うん」
両手で自分の胸を押さえて、
るいは可愛らしくうなずく。
額に軽くキスをして、
床に転がっていた携帯を手にとった。
【智】
「伊代からだ。タイミング悪いなぁ」
【るい】
「空気よめ……ってね! あはは」
とりあえず出る。
【智】
「もしもし? 伊代どうしたの?」
【伊代】
『……無事なのね?』
【智】
「うん。僕もるいも元気だよ。ノロイは結局現れてないんだ」
元気すぎるくらいだ。
【伊代】
『よかった。実はあっちの二人……』
【茜子】
『大悪魔セクハラー&いじってロリリン』
【伊代】
『いじってロリリンて何よそれ! 意味わからない』
今日も電話口で打撃音。
伊代のツッコミにもう少しキレがあれば、
漫才コンビとして関西デビューできそうだ。
【智】
「花鶏とこよりがどうしたの?」
【伊代】
『あれから、ずっと連絡がつかないのよ。
いくらなんでも心配じゃない? 半月以上会ってないのよ』
【智】
「それは確かに。二人ともどうしたんだろ」
最後に二人の声を聞いたのは。
そう、るいが呪いを破った時だ。
二人が、こよりの姉さんのことで何かしてるそうだけど、
まったく連絡つかないのは不自然だ。
【伊代】
『一度集まって相談したいの。危険はわかるけど、それでも。
今からそっち行っていい?』
ここへ? 茜子と伊代が?
部屋を見回してみた。
ベッドには半分服をはだけた、るい。
ゴミ箱にはティッシュが山盛り。
今までの整頓されていた部屋とはうって変わって。
そこかしこに、らぶらぶで濃厚な連日の残骸が散乱している。
【智】
「…………僕らが行くよ! こっちから行くよ!!」
【伊代】
『え、そう? 出歩くと危ないかも知れないから、わたしたちが
行くわよ?』
【智】
「いやいや! いいよ! 行くから! 絶対に行くから!!」
【伊代】
『……じゃあ、溜まり場にしましょうか』
【智】
「そうしようそうしよう! 溜まり場も久しぶりに行きたいしね!」
今、茜子のガサ入れにあったら、
僕たちは摘発間違いなし。
これからすぐ集合の約束して、
携帯を切った。
るいとの行為を中断するのは、
ちょっと残念だったけど。
【智】
「るい、溜まり場に来いって」
【るい】
「え〜、今から〜?」
二人とも気分は出来上がってしまっている。
なのに、おあずけ。
世の中厳しいなあ……。
ひさしぶりに外出。
最近はヒキコモリ生活に耽溺してたので、
溜まり場は眩しかった。
【茜子】
「なるほど。呪い踏んだもののノロイこなくて、
借金踏み倒しみたいな状態ですね」
【智】
「そうなの」
茜子が鉄柵にもたれて階下の街を見る。
伊代も似たようなポーズで思索に耽っていた。
【伊代】
「これだけ日が経っても出てこないってことは、
セーフだったのかしら?」
【智】
「だとありがたいけど」
【るい】
「うんうん」
真っ当に空を見るのは何日ぶりだろう。
とても青く綺麗に晴れている。
【伊代】
「……たとえば一度追い返したら、しばらくは現れないとか。
もしくは、既に誰かに伝染してるとか。ほら、アパートの隣人
とか」
【智】
「そういえば僕の時は鏡が割れなかった」
るいの時のような前兆はなかった。
伊代が唸る。
【伊代】
「ふぅむ……それだと、二つに一つだけど。実はルール違いで
呪いを踏んでなかったか、踏んでも破れない事情があったか」
伊代が悩むのを半分聞き流す。
実は、それなりに重要なことを話している。
呪いのルールというやつは、
きちんと明文化されたものじゃなく、
僕らが本能的に感じる恐怖――
強迫観念に基づいている。
だから、呪いのルールの正しい適用範囲の見極めは
意外に厄介なのだ。
なにせ、モノが呪いだけに、
安易に試してみるわけにはいかない。
なんて。
面倒なことはどっちでもいい気分。
緊張感薄すぎ。
電話前の浮ついた気分を引き摺っていた。
るいと僕の距離は妙に近い。
伊代と茜子の目を盗んで、
体を触りあったり、こっそり手を繋いだりしている。
【智】
「るいが特別なのかも」
【るい】
「えへへへ、そうかな〜」
るいの方から風が吹くと、甘い香りがする。
香水をつけてるわけじゃない。
これは、えっちの時の、るいの匂いだ。
きっと、るいのパンツの中はぬかるんでる。
僕だって、さっき、るいの胸に触った時の興奮が
引かないで硬くなったままだったし。
【伊代】
「あっちの二人も心配だし。連絡が付かないし、心当たり捜して
みたんだけど見つからないし……」
【茜子】
「ベタにナベの中とか、ごみ箱とかも捜しました」
隠れて繋いだ手がじっとりと汗ばむ。
花鶏とこよりのことは心配だ。
でも、今はとにかく部屋に早く帰りたい。
それで、ベッドの上で、るいにキスして、キスして、
それから……なんというかいろいろしたかった。
【智】
「……花鶏たちはなにやってんの?」
るいと互いに絡めた指先の動きが、だんだん情熱的になっていく。
【伊代】
「知らない。相談もしないで勝手にいっちゃたし。そりゃ、だから、あの子たちに何かあったとして、わたしたちが助ける義理なんてないんだけど」
伊代の話はいわゆる
「朝礼の校長」並みに長い。
【伊代】
「でも、やっぱり万が一のことがあったりしたら寝覚めが悪い
でしょ? あの子たちのことだから、滅多なことでヘタは
打たないとも思うんだけど」
むずむずしていると、
るいに袖を引かれた。
【るい】
「ね、トモ……ん……」
るいは我慢できなくなったらしい。
顔を寄せてくる。
2メートルほどの距離に伊代がいる。
【智】
「こ、ここじゃまずいって……」
【るい】
「だってガマンできない」
【智】
「ぼ、僕もしたいけど帰るまで我慢しようよ」
【るい】
「熱くなってきちゃったんだよぅ……」
熱っぽい目で、るいが僕を見つめる。
そんな顔で見られたら……!
【伊代】
「え、なにか言った?」
き、気付かれたッ!
【智】
「え、いやいやいやいや! キ……キ……、起首は僕たちの呪いに関する相談だから、やっぱり花鶏たちを捜してあげないと」
【るい】
「そそ、そうだよ! ちゅ……ちゅ……チューリップだよ!」
二人とも半ば錯乱していた。
【伊代】
「チューリップ……?」
【伊代】
「……でも、そうね。呪いのことで食い違っちゃったのが、
二人の行動の動機になっちゃってるのかもしれないし……」
【伊代】
「そうしたら、やっぱり、わたしたちには二人を捜す義務が
あることになるわよね」
伊代は勝手に納得していた。
【伊代】
「……それなら早いほうがいいかな。
これから、全員で捜しにいきましょうか。
あなたたちも居てくれれば、なにかと心強いし」
【るい】
「今から!?」
絶望の悲鳴を上げた。
【伊代】
「なに? 今日都合悪いの?」
【智】
「えーと……」
どうも良くない流れだ。
恥ずかしながら僕たちは発情中だった。
このまま捜しに連れ回されると、
実に恥ずかしいことになってしまう。
【茜子】
「ところで」
茜子が割り込んできた。
【茜子】
「どっちも顔が赤いですね。疫病ですか。ペストか」
【智】
「え?」
【るい】
「え?」
【伊代】
「本当だわ。二人とも真っ赤ね。疫病は無いとしても、
風邪じゃないの?」
【智】
「あ、あれ〜? そうかな。たしかにちょっと熱いかも」
【るい】
「私もかな〜。お風呂あがりに裸のままで居たから
風邪ひいちゃったかも」
熱いのも本当だし、お風呂あがりに
裸のままで居たのも嘘は言ってない。
【伊代】
「気付かなくてごめん。わたし、長話しちゃったわね。
じゃあ、全員で二人を捜すのはまた今度で」
【るい】
「ごほごほ、るいさん、今日はだめなりだー」
【智】
「ウンウン!
ごめんね、僕も熱っぽいから今日はベッドに直行する!」
これも嘘は言ってない。
【智】
「風邪が良くなったら連絡するよ。たぶん明日かあさってには
治すから!」
【るい】
「んじゃね〜」
おざなりに手を振って帰ろうとする。
その背中に。
【伊代】
「あ、わたしの家近いから良かったら休んでいく?」
空気よめ。
今こそ本当にそう言ってやりたかった。
〔るいとのH2〕
嘘をついてしまった。
ベッドに直行はできなかった。
【るい】
「ん……はあぁ……、トモぉぉ……っ」
【智】
「うぁ……るい、るい……」
完全に発情モードに入っていた。
伊代に長時間焦らされたせいで余計だ。
帰り道に手を繋いだのがまずかったのかもしれない。
【るい】
「あうぅ……、はふ、はあぁぁ……あはぁっ、そこ、そこいいよう……っ!」
アパートの廊下だというのに弄りあう。
誰かに見つかるかも知れない……
そう思うのに火のついた身体が止まらない。
【るい】
「トモの指が、私の内側のおなか側のとこ擦ると……ふあぁ……
っ! ん、んんん……ゾクゾクするんだ……あ、ぁ……」
なかなか刺さらない鍵をもどかしく開けて、
玄関のドアを開いて飛び込んだ。
【智】
「るい……も少し強く握ってみて……」
【るい】
「こ、こうかな……んんっ、んんんん……! はぁ、はぁ……
ど、どうぉ……?」
玄関先。
最大の努力で、そこまで保たせるのがやっと。
漏らしそうのをガマンして、トイレに飛び込んだみたいな感じ。
【智】
「すごく……いいよ」
【るい】
「んんぅっ! え、えへへへ……よかったぁ……。あ、あうぅ……んっ! くぁ……ゆ、ゆび……3本は、まだムリだってばあぁぁ……っ!」
ドアの裏に張り付くと、すぐ濃厚なキスをする。
舌を絡ませて、お互いの性器をまさぐる。
【るい】
「ん、んうぅ……トモのも……おツユ出てきた……。あは……んん……うくぅ……」
服はもちろん靴さえ脱がない。
そのまま玄関で始めてしまった。
はだけられた、るいの胸。
僕の愛撫に応じて、
ぷるんぷるんと揺れている。
【るい】
「んあっ……ん……、ピクピクして、すごい硬い……んっ!
トモって……やっぱり男の子だ……」
指を2本いれて、
るいの熱い肉と愛蜜の中をこね回し続ける。
るいは、僕のモノを右手でしっかりと握って、
懸命に上下にしごいていた。
【るい】
「あ……なんかすごく……よくなってきた……。あ、んんんっ!
ぅあ……あぁぁ……このままイキそう……」
るいの胸を掴まえて、
淡い色の先端を口に含む。
魅惑的に揺れる。
強めに吸って離れないようにキープしながら、
もう片方の乳首を指で摘んだ。
【るい】
「きゅうぅ……んんっ! そ、それダメ……はう、
ら、らめらよ……つよ、強いぃぃ……っ!」
るいの息が浅くなる。軽くイク前兆だ。
僕も、もうダメっぽい。
ちゅぽんと乳首から口を離す。
【智】
「ん……! 僕もイキそう……。どう、する? このまま1回
イク……?」
【るい】
「もうダメ、私もう……もう……いっぱい……っ」
るいは、このままイっちゃいそうだ。
僕もこのまま1回に1票。
満場一致。互いに愛撫の手を激しくする。
【るい】
「あ、あ、あ、あ、いいよ、い、いいよっ! イキそう、
イキそう……はあぁぁぁ……っ!」
乳首をもう一度口に含む。
吸いながら乳輪を巡るように舐める。
指は一番奥まで入れて、
手のひらで可愛らしい豆のような突起を撫でる。
指先で肉壁のつぶつぶした部分を擦った。
【るい】
「んんんんんうぅぅうぅぅ……っ! それすご、すごい、
そんな……いろいろいっぺんに、弄られたら……ワケ、
わかんなくなっちゃうよぉぉ……っ!!」
指を動かすたび、
るいの割れ目から飛沫が飛んで、
ドアや床を汚す。
【智】
「あ……っ! も、もう……っ!」
急激な高まり。
思わず乳首から口を離して、
声を漏らす。
【るい】
「イク、イク、イク、トモぉ、わたしもうイクよぉ……っ!
トモ、トモ、トモおぉぉぉ……っ!」
【智】
「るい……っ!」
絶頂は同時に訪れた。
大きく息を吐いて、
僕らはドアにもたれる。
【るい】
「はぁ……はぁ……トモ……、あ、はぁ……はぁ……」
【智】
「はぁ……はぁ……るい……」
1回くらいで治まるはずもなかった。
出したばかりなのに、僕のは全然萎えてない。
すぐにでも、るいに入れたい。
【智】
「ちょっと……ティッシュとってくる……」
取りに行く僅かな時間ももどかしい。
【るい】
「あ、待って」
【るい】
「私が……キレイにしてあげるよ」
【智】
「え、ええええ〜!?」
るいがしゃがみ込み、
僕の股間に顔を寄せる。
意味を察して慌てふためく間もなく、
るいのねっとりと熱い口腔が、僕を包んだ。
【るい】
「ん……ちゅる……ぺちゅ、んん……ぺりゅ、ちゅ、ちゅぱ……
ん……んふふふ……」
口でしてもらうのは、
初めてだ。
興味はあったけど、やっぱり汚い気がしたし、
るいに頼むのは……と、いろいろ葛藤があったのだ。
【るい】
「ぺろ、ぺろ……ん、なんかヘンな味だね。思ったよりマズくは
ないよ……ん、ちゅぷぷぷ……ちゅぱ、ちゅ、んふ……ん……」
【智】
「うぁ……、る、るいが僕の……舐めて……」
口に咥えて吸い込みながら、
熱い舌を絡みつかせる。
どこで覚えたんだろう……?
るいも口なんて初めてのはずなのに、
気が遠くなるほど気持ちいい。
【るい】
「ちゅぱっ、ちゅぷぷ……ちゅ、ちゅうぅ……じゅるるる、じゅぱっ、ちゅぱっ、ちゅ、ん、ん……」
尿道の奥の、射精管に残っている精をすべて吸い出してしまおうと、
るいが無心に僕のモノを吸う。
吸引の刺激もさることながら、
るいが僕の為に尽くしてくれているというのが興奮する。
【るい】
「ん、もちっと……ちゅ、ちゅぱ、ちうぅ……ん、ちゅぷ、ん、
んふ……ちゅぱっ、ちゅぷぷぷ、ちゅううぅ……」
キレイにする、それが目的ならもう充分だ。
でも、るいもやめないし、僕も止めない。
【智】
「ふぁぁっ! ひ、る、るいぃ……っ!」
【るい】
「んふ……トモ、本物の女の子みたいな声出してる。かわいい……ちゅ、ん……」
このままだと、
るいの口で達してしまう。
なんとか、るいの頬に手を当てて、
濃厚な奉仕を止めさせる。
【智】
「るい、も、もうそれ以上したら出ちゃうよ……」
【るい】
「んはっ……。あ……そか。えへへ、なんかやってみると、意外に興奮してきて止められなくなっちゃった」
頬が上気している。
僕のをしゃぶって、
るいはすっかり火照っていた。
【智】
「……るい、立って」
るいをドアにもたれさせる。
股間に指を伸ばした。
【るい】
「は……、あんっ、も、だいじょぶだよ……トモの舐めてたら……興奮しちゃった……」
予想の通り。
るいのそこは、お漏らししたみたいになっていた。
【智】
「るい、片足」
【るい】
「え、どうすんの? え? わ、わ……」
るいの左ひざに手を掛け、
抱え上げて股を開いた。
スカートがまくれて、
半開きでヒクヒクと動く性器が露わになる。
【るい】
「うわ……まる見え……こりはちょっとさすがに恥ずかしいね……」
【智】
「イヤ?」
るいはえっちには積極的だが、意外と恥ずかしがりだ。
大きく股を開いたりすると、わたわたと慌てて可愛いのだ。
【るい】
「あうぅ……も、……ばかぁ、トモのすけべぇ……」
【智】
「じゃあ、入れるよ」
【るい】
「んぅ……っ」
るいと一つになるべく腰を進める。
むにゅ……と薄紅の秘唇を押し開いて、
僕のが、るいの中に入っていく。
【るい】
「……っあはぁ……あ……。ふあぁ……」
片足立ちで不安定な、るい。
るいの身体を支えながら、
優しく腰をそよがせる。
【智】
「すごい……っ、出たり入ったり、してるのが、全部……
見えて……っ!」
【るい】
「あん……っ! こ、こら、そゆこと言うなぁ……んんっ」
【智】
「ご、ごめん……。でも……すご……」
るいをいじめる気はないのだけど。
僕のモノが、るいの性器を出入りする。
そのたびに蜜が溢れてくる。
目を逸らすのが難しかった。
るいは、もう、ソックスまで濡れてしまっている。
【るい】
「こらぁ……あうぅ、ん、んあぁ……っ!
ソコばっかり見てないで、こっち……」
僕の顔を、るいの手が挟んで向きを変えさせた。
るいは怒ったような困ったような顔をしていた。
【るい】
「こっち、見て……。ちゅう……ん……ん……、ちゅ……んふ、
ん……」
るいの好きなキス。
キスは「なんかヘンな味」がした。
たぶん、さっき、
るいが僕のを吸った時の味。
【るい】
「ちゅ、ちゅぷ……んんーっ! ぺちゅ、ん、ちゅう、んはっ、
あ……ん、ちゅ、んうぅ……」
一度るいの口に入っただけで、
不思議と汚い気はしなかった。
むしろ淫靡なものさえ感じる。
僕は何度もキスをしながら、
腰を回すように動かして、るいの中をかき混ぜる。
【るい】
「ちゅ、ん……あはぁっ! ん……んんんん〜っ! トモぉ……は、はあぁぁ……っ」
腰の動きが激しくなる。
唇は自然に離れた。
片足を抱え上げられた不自由な姿勢でも、
るいは身をよじるように腰を使う。
ひと突きごとに角度の変わる複雑な刺激。
僕も、るいも、ひたすら快感を求める獣になって、
お互いのことを貪りあう。
【るい】
「ふあぁっ! くっ、んんんーっ! あ、あはあぁ……トモぉ……、トモぉ……っ!」
悲鳴にも似た声で、るいが僕を呼ぶ。
【智】
「るい……もうすぐ……っ?」
【るい】
「あう……! ふぁ……っ!」
【智】
「じゃあ、もっと……」
るいのおしりを掴んで、強く引き寄せる。
【るい】
「くぁ……んんっ、ふああぁぁあぁ〜……っ!!」
僕のモノが、
完全に見えなくなるまで埋まる。
そこはぐにゅぐにゅと蠢きながら、
僕を強く締め付けてきた。
【智】
「すごく……気持ちいいよ。こういうのにも、るいの『才能』って
やつの影響あるのかな?」
【るい】
「わ、……っかんな、いぃっ……! うぁ……すご……、トモの、一番奥まで来て……あはぁ……んんんん……っ!」
溺れるように腰を揺する。
るいの中を往復する。
るいの口の端から、
よだれが垂れる。
切れ切れの喘ぎが理性の残りを根こそぎ焼き払う。
【るい】
「ふうぅ……ふううぅ……、も、もうダメ、わたしもう……っ! トモぉ……イキそうだよぉ……っ」
【智】
「うん、僕ももうちょっと……」
【るい & 智】
「!!!!」
唐突にインターホンが鳴った。
僕たちは凍りついた。
思わず、るいを抱き寄せる。
【るい】
「ん……っ! んんんん〜……っ!!」
【智】
「る、るい……締め過ぎだょ……っ!」
ビックリして緊張したせいか、
るいは僕のモノを全力で締め付けてくる。
【男】
「すいませーん。
水道周りの点検でこのへんまわらせて貰ってるんですけどー」
どうせ押し売り紛いの訪問販売だ、
そう思うのだが「間に合ってます」の声が出ない。
【智】
「そ、そういえば、鍵……っ!」
かけるのを忘れてた。
気がついたのはいいけれど、体勢が悪くて扉のロックまで
手が届かない!
【るい】
「も……、もう……イクよぉ……トモぉ……っ!」
【智】
「る、るい、声出しちゃダメ……!」
るいの体が小刻みに震えている。
今にも高い声を漏らしそうな。
るいの口に手を当てて、息を潜めさせる。
【男】
「すいませーん」
【るい】
「んっ! んん……っ!」
ノックの振動が伝わるのか、
るいが苦しげに悶える。
僕もそろそろ限界だ。
おねがい早くどっかに行って……!
【男】
「すいませーん! 水道の点検でーす」
【るい】
「くうぅんん……っ!」
【智】
「るい、も、もうちょっとだから……!」
【るい】
「んんんんん〜……っ!」
るいの口を押さえ続ける。
【男】
「ふー」
もう限界……と観念しかけた時、
やっと戸外の足音が遠ざかった。
るいの口を塞いでいた手を離して、
腰を一度引いてから、荒っぽく奥まで挿入しなおす。
【るい】
「くふああぁぁぁあぁぁ……っ!!!」
それだけで、るいは達してしまった。
【智】
「僕も、あとちょっと……だから……」
【るい】
「ふえぇぇ……!? んんんっ! くあ……ああぁぁ……っ、
あああぁー……っ!」
絶頂を迎えて痙攣する。
るいの中を、荒々しく往復する。
強すぎる快感に、
るいは歯を食いしばって耐える。
【るい】
「も、もうダメっ! タンマ、タンマぁ……トモ、トモ、
わたしもうダメだよぉぉ……っ! んんんん、くうぅ……
くあぁぁ……っ!」
【智】
「もう少しだから……っ」
涙目のるいを抱きしめると、
稲妻のように射精感が上って来た。
【智】
「で、出るよっ!」
【るい】
「んんんんあぁぁあぁぁぁ……っ!」
射精する。
すんでのところで引き抜いて、
るいの下腹部に白いものを撒き散らした。
途端、心地よい疲労感と深い充足感が体を重くする。
【智】
「はぁっ……はぁっ……」
【るい】
「はふ……はぁっ……、ん……ふあぁぁ……」
荒い息を整えながら、
二人で並んで、ドアに体を預けた。
胸の中、まだ心臓が暴れてる。
【智】
「はぁ、はぁ……るい」
【るい】
「はぁ……はふ……、なに、トモ?」
【智】
「今日は大変だったね」
【るい】
「あはは……ホントだよ」
さんざん焦らされた欲求が満たされると、
ぼうっと霞んでいた思考が急に冴えてくる。
花鶏とこよりが心配だ。
るいとべたべたしてるのは楽しいけど、
明日からは本気で二人を捜さないといけない。
だけど、今はもう少しだけ。
僕は、るいの手を握って優しくキスをした。
〔こよりトラブル〕
【伊代】
「あの二人、本当にどうしたのかしら」
いつもの溜まり場。
いつものメンバーには、
二人足りない。
僕、るい、伊代、茜子。
今は四人だ。
街並みを照らす光はすでに赤みを帯びていた。
少しずつ色調を変えながら、
辺りに夜の気配を撒き始める。
放課後に集まって、花鶏たちを捜しはじめて、
今日で3日目。
行方はまるで知れなかった。
花鶏の目立つ銀の髪。
見た、という話もいくつか聞いたが、
どれも、彼女の後ろ髪に追いつくには至らなかった。
【茜子】
「コマ付きちんちくりん娘は、ついに大悪魔セクハラーが手篭めにして、今ごろ二人だけのエデンでエンディングなのでは」
【智】
「大いにありえる」
こよりん……。
涙抜きには語れない。
【伊代】
「それにしても連絡くらい寄越すでしょ」
【るい】
「花鶏、ずっとこよりの事狙ってたから。モノにしたら
絶対言いふらすと思う」
変な信頼の仕方だ。
【智】
「こより、いろいろな意味で無事かな……」
じきに日も暮れる。
今日はこれくらいで解散して、
また明日は、こよりと花鶏の学園にも行ってみよう。
蹴破る勢いでいきなり扉が開かれた。
【こより】
「よ、良かった……! みんないた……!」
こよりだった。
肩で息をしている。
【智】
「こより!」
【こより】
「助けて下さい! ともセンパイ! 助けて下さい!
狙われてるんですっ!」
【るい】
「…………っ!?」
狙われている。
剣呑なフレーズを久しぶりに聞く。
でも、一番最初に頭に浮かんだもの――――
るいと僕は同時に顔を見合わせた。
【智】
「まさか、呪いを踏んだのか!?」
【こより】
「ち、ちがうです……でも狙われてるんです! 見張られてて……ここしか逃げ込むとこ思いつかなくって……!」
呪いだ。
結果的には、そうだ。
呪いが、こよりをここによこした。
こよりの呪い。
見当はついている。
それは、檻の呪い――――
とでも言うべきもの。
呪いは、こよりが見知らぬ土地へ行くのを妨げる。
まったく行けない、と言うほどの強制力はないんだと思う。
たとえば、扉――――。
見知らぬ扉を、こよりは自分で開けられない。
花鶏の家に初めて行ったとき、
誰か来るのをじっと待っていたように。
こよりは、馴染みの場所に
逃げ込むしかなかった。
【智】
「こよりは一体誰に狙われてるの?」
【こより】
「わからないんです! でも、怖くて、助けて下さい、
ともセンパイ、るいセンパイ!」
取り乱していた。
こよりは必死で、
僕とるいにしがみ付く。
濁流に溺れた人が藁にすがるように。
【伊代】
「狙われてる……どういうことなの!?」
【茜子】
「穏やか話でない。詳細説明をプリーズ」
【こより】
「わからないです……わかんないです……!」
よほど恐ろしい目に遭ったのか。
怯えるばかりで一向に要領を得ない。
力いっぱい僕の服を掴んだ、こよりの手が震えている。
そっと手を重ねてあげた。
【るい】
「そういえば、花鶏は一緒じゃないの……?」
【智】
「そうだ、花鶏! どうしたの?」
こよりが僕から身体を離す。
まだ小さく震えている。
【こより】
「それは…………」
【伊代】
「何かあったの!?」
【こより】
「わからないんです……! それもわからないんです……!」
【こより】
「追われて、二人で路地裏に逃げ込んで……そのまま……
はぐれちゃって……グス……うぅ……」
涙を浮かべて、吶々(とつとつ)と語る。
相手が誰だかわからない。
とりあえず、こよりを泣かせるくらいには
恐ろしい相手だ。
二人は追われるままに街を逃げた。
ビルとビルの隙間、
迷路のように入り組んだ路地裏へ逃げ込んで、
挙句、こよりは花鶏とはぐれてしまった……。
【智】
「花鶏……」
【茜子】
「あの人が、簡単に捕まるとは思えませんが。心配なのには
同意します」
【こより】
「ふえ……あの、ごめんなさい……わたし……ごめんなさい……」
【るい】
「よしよし」
こよりは迷子の子供のように泣く事しかできない。
るいが、こよりの頭を撫でてやる。
【智】
「花鶏が踏んでも壊れないとしても」
【伊代】
「ああ、一人で行っちゃうのよね、あの白頭は」
【茜子】
「そして自爆」
墓穴っ子の性分が気がかりだ。
【智】
「花鶏……こよりを逃がす為にわざとはぐれたのかも知れないし」
【こより】
「そ、そんな」
【智】
「こより、何でもいいから話して。花鶏が心配だ」
【るい】
「別にこよりを責めてるわけじゃないからさ。ね、そうでしょ、
トモ?」
【智】
「うん」
【こより】
「うぅ…………」
【こより】
「……スーツケースをとったんです……」
【伊代】
「撮った?」
【智】
「盗った、では」
【こより】
「はい……」
またですか。
たしか、出会った時もそういう展開だった。
【伊代】
「あなた、どうしてまたそんなこと……! 追われるのも仕方ないじゃない! あなたたち泥棒にでもなるつもりなの!?」
【こより】
「そ、それは……」
【智】
「伊代」
【伊代】
「……そうね。この子を責めても仕方ないか」
【伊代】
「追われてる……っていうんだから、警察じゃないのよね?
それなら今からでも盗ったもの返したほうがいいんじゃない?」
【智】
「……あれ?」
妙だ。
【智】
「確認です、こよりん」
【こより】
「はい」
【智】
「追っかけてくるの、警察じゃないんだよね?」
【こより】
「……違うと思います」
【智】
「相手は一人じゃないんだよね」
【こより】
「……ぐすっ……はい、大勢いました」
【智】
「警察さんが、別口できたりは……」
【こより】
「ないです」
嫌な予感がした。
【るい】
「こより、今からでも返そうよ。返しに行くのが怖いなら、
こっそり返す方法、トモに考えてもらって」
【伊代】
「そうよ。物が返ってくれば、相手も、あなたたちを狙わなくなると思うし」
【こより】
「でも……」
【智】
「そのスーツケースはどうしたの?」
【茜子】
「どこに隠してるんですか」
茜子の鋭い切り込みに、
こよりが固まる。
こよりは、ここにケースを持ってきていない。
【こより】
「か、返すわけにはっ! 返すわけにはいかないんです……!」
【るい】
「にゃう? どうして?」
【こより】
「理由は……言えないです……」
【伊代】
「あなた……勝手に泥棒になって、盗った理由も言えなくて、
それで助けてって言うのは、ちょっと無理あるんじゃないかしら」
【こより】
「でも……うぅ……わたし……」
なだめても叩いてもダメだった。
【智】
「…………むう」
こよりはどうして盗みを犯したのか?
意図が見えない。
【智】
「まずは、花鶏の安全確保優先でいこう」
【智】
「こより。花鶏とはぐれた時、どこではぐれたの? それを教えて」
【こより】
「……それは、駅前から……二人で逃げて……」
【こより】
「国道を横切ってオフィス街に出て……」
こよりと花鶏の逃走ルートを整理する。
最終的に二人がはぐれたのは、都心の外周部だ。
古い民家と真新しいビルが並立する、
昔と今の街が混じる歪な地域。
土地が空くたびにビルを建てるという
無計画な開発っぷりで、路地が複雑に入り組んでいる。
【こより】
「……わたし、スーツケースを持ってたから追いつけなくて……
それではぐれて……」
花鶏はやっぱり、自分が囮になって、
こよりとスーツケースを逃したらしい。
【智】
「こより、今日はとりあえず帰ろう。送るよ、相手も民家まで
踏み込まないと思うから」
まあ、相手次第なんだけど。
【こより】
「ともセンパイ……ありがとうです……」
【智】
「花鶏のことは心配しなくていいから。僕たちが必ず助けて、
ここに連れてくるから」
約束通り、こよりを家まで送った。
【智】
「なるべく外に出ないようにね」
【こより】
「はい」
【智】
「もしなんかあったら電話して」
【こより】
「ありがとうです。鳴滝は、センパイを頼りにしてます」
【智】
「家のひとがいるなら、いきなり物騒な話にはならないと思うけど、それも相手次第かなあ……」
悩む。
【茜子】
「鳴滝こよりは隠し事をしています。内容までは判りませんが」
唐突に。
茜子がハッキリと言った。
【智】
「それは、予想じゃなくて?」
【茜子】
「茜子さん、わかります」
僕らの間で、それは特別なニュアンスを持っていた。
【智】
「それって、やっぱり、茜子の」
【茜子】
「『才能』ってやつですか。セクハラー流に言いますと」
【茜子】
「魔女は、人の心くらいお見通しです」
やっぱり、と腑に落ちる。
はっきり言われると鼻白む。
茅場茜子の『才能』。
他人の心がわかる『力』。
【るい】
「…………っ」
【伊代】
「!」
二人が驚く。
さすがに、才能といったって、これは衝撃度がかなり大きい。
【茜子】
「わりと予想してたでは?」
【智】
「たしかにそうなんだけど、迷ってた」
【茜子】
「迷うというと」
【智】
「僕がただで済んでるから」
【茜子】
「なるほど、そういう呪いルールですか。
知られちゃうとマズイのですね」
【智】
「まね。だから、少し違うんだと思ってた」
【茜子】
「……怖がらないですね」
【智】
「何が?」
【茜子】
「普通のひとは、心がわかるというと怖がります。避けます。
あたりまえです。心の中では何を考えるのも自由ですけど、
それは見えないから」
【茜子】
「私たちの間でも、それは変わらないと思います。それなのに、
怖くないですか?」
【智】
「見えないのは怖いけど、見えてるから」
考えてから、言葉にする。
【智】
「心がわかる……茜子、嫌がらせみたいな名前をつけるよね。
らしいよ」
【智】
「でも、その才能っていうのも、額面通りじゃないんでしょ?
僕のことで、茜子が知らないこともたくさんあるっていうのが、
僕にはわかってるから」
【茜子】
「だから、怖くない?」
【智】
「全然怖くなくはないけど……正直ね。でも、足りないところは
信頼で」
【茜子】
「…………」
【茜子】
「仲間だから、自分たちに酷いことはしない?」
【智】
「僕ら、類友だしね」
わざと、軽めに笑った。
【智】
「呪いの、『才能』……るいも、茜子も、凄いと思う。
その『力』が怖くないって言うと嘘になる」
【智】
「でも、そういうのって、誰にでもあるんだって、この頃は思う。僕らだけじゃない、誰だって、他人から見たらわからなかったり、怖かったりする」
【智】
「だからって、誰とも触れ合わないわけにはいかないだろ、
茜子だって」
【智】
「怖がるよりも信じる。傷つけあっても許し合う。お互いのことを認め合う。そうやってかないと、ずっと一人になってしまうから」
後ろを振り向く。
るいも伊代も、
僕の言葉に頷いていた。
【茜子】
「茜子さん、わかりました。あなた方、阿呆です」
珍しくそっぽを向いた茜子は、
ほんの少し涙目だったような気がした。
【智】
「そういえば、さっきの話」
【茜子】
「隠しごとごと」
【伊代】
「やっぱり、あの子にスーツケースの場所だけでも
聞いておいたほうが良かったんじゃない?」
【るい】
「うんうん」
【茜子】
「……判ったんですよね?」
【智】
「たぶんね」
【るい】
「え、なにが?」
【伊代】
「どういうこと?」
【智】
「だから、スーツケースの場所」
こよりの話によると。
スーツケースはこよりが持っていたらしい。
路地裏ではぐれたのが、スーツケースを持って、
こよりが遅れたからだ。
【智】
「こよりと花鶏は、スーツケースを持った状態で追われてた。
花鶏とはぐれた路地裏の時点まで、ケースは持ってた」
【智】
「大きな荷物を持ったまま、路地を逃げるのは難しい。こよりは、その後すぐに、それをどこかに隠したんじゃないかな」
溜まり場まで一人で逃げきれたのだから、
その時には身軽だったはずだ。
【智】
「それで隠し場所なんだけど、こよりの呪いがある。
まず知らない場所は省く」
【智】
「コインロッカーもダメだろうし。開閉物なしに物を隠すのは
かなり難しいと思う」
スーツケースを隠した時点では、こより一人だ。
ものを隠せる場所は限られる。
それも、オフィス街の近くだ。
かなり限定される。
こよりと花鶏の逃走ルートに含まれて、逃げる途中にあって、
しかも、隠しても簡単にはばれないような場所。
【智】
「いつもの高架下、あそこだと思うよ」
暗いので懐中電灯をコンビニで買った。
【伊代】
「これね……」
心当たりを探すと、
すぐに目星が付いた。
不法投棄された大型冷蔵庫。
いつもはドアを開け放った状態で転がっている。
案の定開け放たれていたはずの冷蔵庫が、
閉じられてドア面を下にするように転がされていた。
【るい】
「うわ、トモすっごい。ビンゴだよこれ」
るいが冷蔵庫を転がす。
開け放つと、仕切りをすべて取り払われた白い庫内に
スーツケースが斜めに収められていた。
【茜子】
「見事な推理でした。明日からボク女業は廃業して、
怪人三十面相でも名乗るべきです」
【伊代】
「実物を見るまで、本当に入ってると思わなかった……
すごい名探偵」
茜子と伊代にまで誉められる。
照れを笑いで誤魔化した。
【智】
「中、開けてみようよ」
【るい】
「そだね。あ、でもこれ鍵ついてるよ」
3ケタのダイアル錠だった。
所詮1000通りだ。開けられる。
時間はかかるけど。
【伊代】
「貸して」
伊代がケースをるいから受け取って、
ダイアルを無造作に回し始めた。
【智】
「伊代、どうするの」
【伊代】
「開いたわよ」
【智】
「ぶっ」
思わず噴き出す。
3秒!?
【智】
「もしかして、ピッキングの女王!?」
【伊代】
「わたしの、力よ」
【智】
「パルクールの時にパソコンいじってたって……」
こよりの不正規ルート疾走を追尾したのは、
伊代がパソコンから操作した、街角設置の
監視カメラネットワークだった。
何をどうすればそんなことが出来るのか、
さっぱり見当がつかないのだけれど。
【るい】
「イヨ子の能力ってパソコン使えるっていうのじゃなかった!?」
それ、特殊な能力なのか?
【伊代】
「結果的に使えるけど、知恵の輪なんかもすぐ外せるわよ」
尊敬のまなざし(僕)。
尊敬のまなざし(るい)。
死んだ魚のまなざし(茜子)。
【智】
「すごく尊敬しました」
【茜子】
「ただのおっぱいメガネじゃなかった、ということですか。
それなら軍用ヘリとか重火器なんかも自由自在で、実は
おっぱいメガネエージェントなのでは」
【伊代】
「それはないない……わたしは乗用車ぐらいでいっぱいいっぱい」
使い方はわかっても使いこなせるかは別、か。
たとえば、拳銃の当て方構え方がわかっても、
伊代の細腕だと反動で明後日に飛んでくだろう。
どういう説明がちょうど良い?
歩く操作マニュアル?
道具の最適化運用?
【智】
「伊代すごいじゃない。もっと使えばいいのに」
【伊代】
「ヤよ、なんか気持ち悪いし。わたし、この力を使うのは非常時
だけってルールにしてるの。こんなの、他の人たちにフェアじゃないと思わない?」
【茜子】
「損な性格の巨乳です」
【伊代】
「わたしのパーソナリティを、おっぱいに集約するなっ!
こんなの肩凝るだけなんだから……」
持てるもののごう慢だ。
【るい】
「ねぇねぇトモ、早くこれ開けて見ようよう」
【智】
「オッケー。るい、開けてみてよ」
すごく開けたそうにしていた。
【るい】
「うし、じゃあ開けるよ……」
るいがスーツケースを開く。
4人分の視線と興味が中味に向いた。
【智】
「…………?」
中身は、ごく普通のスーツケースだった。
ポケットティッシュ、
ハンカチ、衣類、頭痛薬、そして名刺束。
海外出張にでも行って来た、
サラリーマンの持ち物に見える。
名刺から身分もわかる。
中小企業に勤めるサラリーマン。
社名は太慈興業。
事務所の住所は市内だ。
【智】
「わりと近いね」
【智】
「まあ、明日にでもこっそり返しておこうか」
謎は一つも解けなかったが、
危険があるなら返してしまったほうがいい。
最悪どうしても気になるなら、
あとで落ち着いたときに、こよりに訊いてみよう。
【伊代】
「それがいいかも知れないわね」
こよりには悪いけど、
なるべく早く相手に返してしまおう。
相手は警察を頼らなかった。
警戒してしまう。
たとえ相手に問題が無かったとしても
「こっそり返す」を達成するには現場の下見が必要だ。
スーツケースについては、現在僕が預かってる。
【智】
「ここだね」
【るい】
「え、ここで合ってるの?」
住所を頼りに、るいと下見に来た。
そこは、水稼業の店が並ぶ歓楽街だ。
駅から遠く、近くに宿泊施設があるわけでもないのに、
何故か酒を飲ませる店が多い地域。
今は日中だから閑散としている。
できれば夜は歩きたくない場所だ。
【智】
「なんか危なそうな場所だね」
【るい】
「太慈興業……って、このビル?」
太慈ビルも、周囲のビルと同じ、
水商売の店をテナントに抱えた店だった。
1階2階はスナックやラウンジが入っていて、
3階は会員制のクラブ。
【智】
「4階より上の看板は何も書いてないけど、名刺には事務所が
入ってることになってるね」
【るい】
「なんか見るからにヤバそう」
よくて不法の金貸しや女衒の類、
悪くて暴力団事務所ってところだろうか。
【智】
「どう見てもカタギの会社は入ってないよね」
【るい】
「これ、わりと冗談じゃなくヤバくない?」
【智】
「僕の家の隣の人よりヤバい」
【るい】
「隣の人、ヤバいの?」
【智】
「ヤバいの」
【るい】
「どうヤバいの?」
【智】
「ゴミ袋をいつも家の前に放置するクセがあるの知ってるでしょ? アレにときどき女装少年モノのえっちマンガが入ってるの」
【るい】
「そりは……ピンポイントでヤバいね」
相手方が警察に届け出なかった理由も、
なんとなく解ってしまった。
あの名刺の人物がヤバい人物なのだ。
或いは、名刺の人物が属する会社そのものが。
【智】
「どうしようか」
呆然と見上げる。
【サングラスの男】
「………………」
なすすべなく佇む僕らに睨め付ける視線を送りながら、
強面の男二人がビルに入っていく。
とっさに俯いて顔を隠しながら、るいを庇う。
顔を見られなかっただろうか?
【智】
「るい、一度帰るよ」
練り直しだ。
〔スーツケース・デンジャー〕
【智】
「ちょーダメでした」
【るい】
「アレは間違いなくヤバいよ」
おなじみの、たまり場。
伊代と茜子も来ている。
昨日の下見の報告会だ。
【伊代】
「あの子、どうしてそんな相手から……」
【智】
「理由はわかりませんけど。でも、このまま持ってったら、
ものすごーく危険な予感がビシバシ」
【茜子】
「はぐれ犬も、ですね」
茜子が皮肉な表現を使う。
そう。
一番危ないのは、
行方不明の花鶏だ。
【智】
「花鶏は目立つから、スーツケースを手放しても相手に追われてるかもしれない」
こよりから特に連絡はない。
不審人物とかが家の周りを
うろついている様子はないのだろう。
顔を覚えられずに済んだのかもしれない。
【智】
「となると、相手も手がかりは花鶏だけってことに」
ますます危険だ。
【智】
「こよりの家まで行って、問い詰めるしかないか……」
【こより】
「あ、センパイがた、いらっしゃい。花鶏センパイは……」
【智】
「こより、スーツケースの持ち主の会社を確かめてきた」
【こより】
「え……それ……え……?」
【茜子】
「このボク女が超推理で、スーツケースの場所を発見確保
しました。内容物の情報を元に、所有者を確認して来ました」
【伊代】
「物騒な連中らしいじゃない? どうしてそんな事したの、
あなた……」
【こより】
「う……そ、それは……」
こよりの目がみるみる潤む。
【智】
「訳ありなのは想像つくよ。
でも、相手が相手だけに花鶏が危ないんだ」
【るい】
「ほら、私たち仲間でしょ?」
【茜子】
「どんなヤバい事態になっても協力すると、ボク女も
申しております」
知らない間に言ったことになっていた。
【るい】
「こより……私、仲間は助けたい。花鶏だって仲間だから」
普段はよく花鶏とケンカするくせに、真摯な言葉。
【こより】
「……わかりました。ぜんぶ……言います……だから……」
【こより】
「花鶏センパイを助けて下さい……!」
【こより】
「花鶏センパイ、こよりを……助けるために……」
【智】
「大丈夫。何とかするから」
根拠はなくとも安請け合いだ。
話し合うのに場所を変えた。
壁に耳あり障子に目あり、というわけで。
僕の部屋だ。
ちなみに部屋は、いつ誰が訪ねてきても
大丈夫なように、元通りキレイにされている。
僕の正体やるいとの関係の手がかりは、
ことごとく隠したから大丈夫だろう。
こよりが吶々(とつとつ)と話し始める。
【こより】
「……鳴滝にお姉ちゃんがいるのは知ってますか?」
会ったことは無い。
死んだ三宅さんが
名刺を見せてくれたのを思い出す。
【智】
「うん」
【こより】
「小夜里お姉ちゃんは、CAコーポレーションていう会社に
勤めてるんですけど」
【伊代】
「あまりいい噂は聞かない会社ね……」
伊代先生のマメ知識だった。
【智】
「どれくらい悪いの?」
【伊代】
「贈賄とか、不正取引とか、暴力団と関係があるとか無いとか」
二十一世紀になっても、悪い企業はテンプレだった。
【こより】
「ほとんど全部本当のコトだと思います、ウワサ」
【智】
「保証書ツキですか」
【こより】
「それで……あの、死んじゃった記者さんに言われて……
鳴滝はお姉ちゃんに会いにいったんです」
【智】
「お姉さんはなんて?」
こよりは、ほんの少しだけ言いよどんだ。
【こより】
「……それが、わたしたちの持ってる『能力』で、お仕事を
手伝ってくれって話でした」
【智】
「…………」
【るい】
「…………」
【伊代】
「…………」
【茜子】
「…………」
顔を見合わせる。
【伊代】
「大人……その、企業みたいなのが、呪いとか能力とか才能とか、そういうのを信用したりするの?」
【智】
「……企業の方がリアリストかも」
発端は、こよりのお姉さんだろう。
家族なら呪いのことも才能のことも当然知ってる筈。
そこに実在を疑う余地はない。
【智】
「実在のあり方を調べるのは科学者、実在を否定するのは宗教家、実在を利用するのは現実主義者」
【るい】
「よくわかんないよー」
【茜子】
「あるなら使っちゃえと」
【智】
「突き詰めると、そういうこと」
こよりに先を促した。
【こより】
「それで、仲間も誘ってくれたほうがいいって言われて、
花鶏センパイと一緒に手伝ってたんです」
【智】
「なるほど、それで花鶏か。たしかに、そういう話なら伊代とか
茜子は即ケリするだろうし」
【伊代】
「む……」
【茜子】
「後でケリくれます」
予約されてしまった。
【こより】
「鳴滝、ちっちゃい時ずっとお姉ちゃんにべったりだったから……お姉ちゃんから頼られるのなんて初めてで……なんか舞い上がっちゃって」
【こより】
「今でもちっちゃいですケド……てへ」
こよりのはにかんだ笑みから、
姉への信頼がうかがえる。
【智】
「そのお姉さん、どうしたの?」
【こより】
「お姉ちゃん……その、会社で……何か危ない仕事の手伝いを
しちゃったみたいで……」
【智】
「犯罪の片棒を担がされたってこと?」
【こより】
「……です」
床に突っ伏す。
それは、また、ヘビーな話になってきた。
いよいよ群れ同盟の手に余る感じがヒシヒシだ。
【こより】
「でも、それがどっから漏れたかわからないんですけど……
あの太慈興業ってとこに証拠を握られたらしくて」
【茜子】
「共食い入れ食いおーおー」
共食い。
茜子は残酷だが正確だ。
こよりの姉さんの会社CAコーポレーションは、不正の証拠を
太慈興業に握られて強請られている。
【伊代】
「世の中間違ってばかりねっ!」
【智】
「この世は荒野なんだって」
【伊代】
「それって悪者同士の内輪揉めよね。
でも、あなたは姉さんを助けたい、そういうことよね」
【こより】
「はい……だって、お姉ちゃんなんです……!」
【こより】
「昔は優しかったんです」
【こより】
「今はすっかり冷たくなっちゃって、
家にも滅多に帰ってこないけど……」
【こより】
「でも……
でも、お姉ちゃんなんです」
【こより】
「最近は、ずっと会社に掛かりきりで、
会社でどんなことをしてるのかも教えてくれないけど」
【こより】
「それでもお姉ちゃん、
ちゃんとわたしのこと気に掛けてくれてる」
【こより】
「わたしの誕生日には、
かならずプレゼント届けてくれますから……!」
家族からの誕生日のお祝い。
身寄りの無い僕の心には重く届いた。
るいが後ろ手に、見えないように手を繋いできた。
きっと、僕と同じ寂しさを感じた。
【こより】
「お姉ちゃんは……
お姉ちゃんは、きっとムリヤリ手伝わされたんです!」
【こより】
「だから……
だから、わたし……
なんとかお姉ちゃんを助けたくて……」
【智】
「助けるよ」
【伊代】
「え、でもどういう事情なのかまだ……」
即答すると、るいが握る手に力がこもった。
るいも助けたがっている。
約束はできなくても、こよりは仲間だ。
だから。
【智】
「どんなに危ない事になっても協力する。僕らは同盟だろ。
まだ、あれ破棄してないしね」
【智】
「こよりは仲間だよ。
仲間の優しいお姉ちゃんが危ないなら、
その人も助けないといけない」
【こより】
「ともセンパ、」
【るい】
「トモってだからすきーっ!」
【智】
「ぎゃわーーーーーーーっ」
感動をぶち壊す愛の抱擁。
キスされた。
むちう。
【伊代】
「き、キス、してる……」
【茜子】
「我らが筋肉巨乳は、セクハラー細菌に脳をやられました。南無」
【こより】
「はわわわはわ……っ」
【茜子】
「淫靡世界に突入した愛の巣チームはさておき」
【茜子】
「路地裏のキャット・クイーンと呼ばれた茜子さんを忘れては
困ります。茜子さんが加われば100万マイクロ人力ですよ」
【伊代】
「それ1人力だからっ!」
【伊代】
「……もう、しょうがないわね……。あなたとあのレズの為よ? あなたのお姉さんや、平気でルール違反するような会社の為じゃないんだからね?」
【こより】
「茜子センパイ……伊代センパイも……!」
【伊代】
「な、なによ。まだ何も……」
【伊代】
「もう……!」
こよりの、あけすけな信頼に
伊代が照れながら怒っていた。
僕は。
るいの唇の甘さに酩酊しながら、
床の上でのたうち回っていた。
やっと落ち着きました。
【智】
「みんなの意思が決まったところで聞くけど」
【智】
「こより……結局、どうしてそのスーツケースを盗んだの?」
【こより】
「それが……花鶏センパイと一緒に、太慈興業の男を尾行してて、偶然その男が荷物を離れたんで、証拠を奪い返してやろうと
思って、つい……」
【智】
「衝動的に盗っちゃったってこと!?」
【伊代】
「それ、アホでしょ」
【茜子】
「アホです」
【るい】
「アホなの?」
【智】
「まあ、アホかな」
以前にも似たようなことをやっちゃった、こよりだ。
二度あることは三度ある。
この先の人生でもまだありそうだ。
【こより】
「ですハイ……。鳴滝がアホでした……」
しおしおと、こよりが萎んでいった。
よりによってな相手に手を出したものだけど、
今さらどうこう言ってもはじまらない。
【伊代】
「で、結局盗ったモノがコレ、と……」
目の前には開かれたスーツケース。
結果は見ての通り。
ケースの中には不正の証拠なんてどこにもない。
【るい】
「でもさ、ほら、映画とかだと……えーっと、こういうとこに
隠し場所とかあってさ」
涙目こよりを、るいが慰める。
【こより】
「うう〜……」
【茜子】
「ぴーと泣け」
【こより】
「ぴ〜……」
【伊代】
「でも、このスーツケースが『本当になにもない』のなら、
相手の動きがものものし過ぎるわ」
【伊代】
「警察に届けないで、自分たちで捜して、ケースを持ってない……あの子……まで追いまわして」
【茜子】
「あのエロス・フロム・ロシアが、追われてもないのに逃げるほど迂闊とは思えません。今もおそらく追われてるでしょう」
【こより】
「黒服やアロハシャツの、見るからにコワそうな人たちが、
いっぱい追いかけて来たんですよう〜!」
企業だけでなく末端暴力団の方もテンプレだった。
どうなる、僕らの二十一世紀。
【伊代】
「やっぱり、このケースに何かあるんじゃないの? おかしいわよ、こんな普通のケースごときのために、沢山の人間を動かすなんて」
念のため、ケースを手で探ってみる。
【るい】
「何かあった?」
【智】
「中にはないんだけど……どう見る?」
中味は底の浅いスーツケースだった。
浅すぎた。
【茜子】
「なるほど、底の部分だけが異様に厚いです」
【るい】
「え、ホントに二重底とかあるの!?
うっわー、開けよう開けよう!」
【伊代】
「事実は小説よりも奇なり」
【智】
「でも、開けられそうな部分とかないな……」
内部にも外部にも、開く仕掛けのようなものは見当たらない。
【るい】
「よし、じゃあ壊そー!」
【智】
「まあ、いっか。どうせもう返せそうにはないし」
ここまで来たら行くところまで行ってしまえ。
二重底なんて怪しい隠し場所に入ってるものだ。
もしかすると、こよりの狙っていた不正の証拠が、
本当に入ってる可能性だってある。
【智】
「はい道具。これで壊して」
【るい】
「さんきゅー、トモ。でもこれ何? こんなの初めてみたよ?
何の道具なのこれ」
【智】
「ザ・バールのようなもの」
【こより】
「ま……、まじっすか! これがバールのようなもの!
鳴滝、初めて本物見ました!」
【茜子】
「こんなオーパーツを平然と持ち出してくるとは」
【伊代】
「その珍品を見るのは後にして、早く二重底の中身を確認して
みましょうよ」
伊代がせっつく。
るいが、バールのようなものを振り上げた。
一撃。
さすが怪力。
るいはスーツケースの外壁に穴を穿ち、
そこからバールのようなもので亀裂を広げて、
外装を引っぺがしていく。
【るい】
「オープーン!」
【智&伊代&こより】
「!!!!!!?」
大きく開いた穴からフローリングに溢れ出したのは、
山盛りの白い粉が入った小袋だった。
【伊代】
「こ、こりは……」
【るい】
「イヨ子じゃなくても、代名詞で呼びたくなるヤツ……だよね……」
【智】
「……………………」
さすがに脳みそが固まる。
もちろん、化学設備も知識もないわけで、
正確な区別などつきようもない。
だが。
考えるまでもなかった。
コカイン、ヘロイン、モルヒネ……、
他の非合法薬物かもしれないけれど。
【茜子】
「どうやら我々はデンジャー爆弾を抱えてしまった模様なのです」
【こより】
「こ、こここここんな……! 映画じゃないのに……!」
どこのハリウッド映画だ、これは?
血気盛んなルーキーと元ボクサーの
ベテラン黒人のコンビ麻薬捜査官はいつ出てくるの?
主人公の靴におしっこをひっかける
ナマイキだけど優秀な警察犬は?
【智】
「あはははは……」
笑いはどこまでも空疎だった。
〔消えた花鶏〕
外をカラスが飛んでいく。
カー、カー。
切ない。
【るい】
「これ、どうする……?」
僕の部屋の真ん中に、
謎薬物が山積みになっている。
考えるのをやめたい。
この白い粉を吸って、ラリラリになって、
人生を全部放棄してしまいたい。
【伊代】
「捨てるべきよ」
いよりん眼鏡がキラリ、良識の光で輝く。
【伊代】
「こんな依存性のある薬物で、人を縛り付けてお金をむしり取る
なんて――許せないわ」
【智】
「いいやつ」
【るい】
「いいやつ」
【こより】
「いいやつ」
【茜子】
「いいやつ」
【伊代】
「う、ぬぐ……っ」
いいやつだが、
論点はちょっとズレていた。
【智】
「それじゃ解決にならないよ。重要なのは」
【智】
「1、花鶏とこよりの安全を確保する」
【智】
「2、会社の不正の証拠を取り返して、こよりの姉さんを助ける」
【智】
「この二つだよ」
【茜子】
「考えようによっては、このデンジャー爆弾は、1にも2にも有用ですね」
危険ではあるが、
使える道具となりうる。
【るい】
「そいじゃあ、またどこかに隠しておく?」
【智】
「とりあえず、僕のことは連中も知らないから、ブツはこの部屋に隠しておくとして」
ブツ……心の寒いフレーズだ。
【伊代】
「警察に突き出すのはどう?」
【伊代】
「これを警察に手渡して、あの怪しい犯罪者グループを捕まえてもらえば、1も2も達成できるんじゃないかしら?」
【こより】
「そ、そんなことしたら、お姉ちゃんの会社の不正まで警察に
見つかっちゃいます!」
【茜子】
「社会正義のための貴重な人柱」
【こより】
「あ〜〜〜〜ん」
ダメそうだな。
街全体が緊迫していた。
そんな気がする。
三宅さんの死を知った夜に、
僕らの感じたものと同じ。
ざわついた街の雰囲気――。
案外、このスーツケースが
街に持ち込まれたのが原因だったんだろうか?
呪いが、そういうものを感じとり易いとか。
【智】
「荒唐無稽度3レベルアップだなあ」
【るい】
「トモ。早く帰ろうよ。なんか気持ち悪い」
二人での買い物帰り。
普段なら楽しいはずの道行きが、
妙に不安だった。
【智】
「走ると変に思われるよ。自然に歩こう」
【るい】
「やな気分……」
伊代と茜子に、
再度太慈ビルの様子を見て来てもらった。
二人なら確実に顔が割れていない。
【茜子】
「ちんちくりんの家の周りにも怪しいのがいました」
【伊代】
「まだ特定はされてないみたいだけどね。街にもいっぱい居た。
見たかんじ、いくつかの派閥があるみたいね」
【智】
「それは、つまり……」
【智】
「このケースがなくなったんで、いくつかのグループがお互いに
腹を探り合ってる状態?」
三人寄れば派閥ができちゃう、とはいいますが。
【伊代】
「そうかも。ピリピリしてたわ、外歩くだけでストレス感じる
くらい」
鈍い伊代がストレスになるならかなりのものだ。
お互いの腹を探り合い、一触即発の気配が、
街全体に危うい緊張を強いている。
日々それなりに楽しく生きていけたはずの街は、
一体どうなってしまったのか。
随分キナ臭い場所へと変じてしまった。
【智】
「台風の目は、このケースかぁ……」
【茜子】
「おら、レズボク女っこ」
この前の、るいのキス以来、男の子だとバレてはいないが、
よからぬ噂がたっている。
【茜子】
「名探偵サマサマのお耳に
お入れしておきたい情報がございますゲヘゲヘゲヘ」
【智】
「貶すか誉めるかどっちかで」
【茜子】
「ミス・豊満も聞きましたね?」
【伊代】
「その呼称は気になるけど、聞いたわ。怪しげな人たちが
言ってたの」
【伊代】
「『銀髪の女とその連れのチビ』って……」
伊代はこよりのほうを気にしていた。
【こより】
「そ、それって!!」
間違いなく、花鶏とこよりのことだ。
【智】
「連れのチビ……こよりの素性は、まだしばらく大丈夫だと
思うけど」
【るい】
「問題は花鶏のほうか」
銀髪だけなら、他にも多少はいそうだけど、
顔立ちまで目立つとなると限られる。
【伊代】
「ただ、相手はまだ、あの子がケースを奪ったとまでは思ってないみたいよ」
【伊代】
「この子と別々に逃げたのがよかったのか、まだ若い女の子だから甘く見てるだけかわからないけど」
【智】
「ふぅむ……今はまだ関係者としか思われてないってことだね」
【智】
「思ったより連中の動きが鈍いのは、きっと、グループ同士が
疑心暗鬼だからだな」
見知らぬ女の子より、よく知る隣人の方が、
財布を狙う可能性があるということだ。
【茜子】
「大正解です。茜子さんが保証します。間違いありません。
どいつもこいつもビッチです。迷ってます。互いを
疑ってるのです」
茜子の保証付きなら精度は高い。
心を読む……少なくとも、感情の方向くらいはわかっちゃうんだな。
【智】
「こっちの素性がばれてないなら……危ない人たちが勝手に抗争を起こして潰しあって問題が片付くまで隠れつづける方向で」
消極的逃げ切り勝ちを狙う。
【るい】
「花鶏、見つけないとだね」
まだ問題は潜んでいる気がするけど。
とりあえず、花鶏を見つけないことには
始まらないのは確かだった。
【伊代】
「無事かしら」
【こより】
「花鶏センパイ」
方針決定。
花鶏なら一人でも逃げ切りそうだけど。
一人より二人、二人よりみんなの方が、
心強いに決まってる。
なんでも一人でやりたがる花鶏をムリヤリしょっ引いてきて、
ここに閉じ込めて、僕らで世話したおしてやろう。
よってたかって世話をしてるうちに、
きっと危険は過ぎている。
こよりの姉さんについては……
連中が、うまく潰し合ってくれれば、当面にしろ、
そちらに力を裂く余裕はなくなるはずだ。
【智】
「花鶏を捜しに行こう」
【伊代】
「そうね。今動くのは危ないけど、早くあの子を
キープしとかないと」
【智】
「花鶏は助けられるの嫌がるだろうけど、ムリヤリ連れてくる」
花鶏自身には、花鶏が捕まったら芋づる式に
僕らに被害が及ぶから、とでも言って納得させればいい。
花鶏も、ああ見えて、
みんなといるのは嫌いじゃないはずだから。
〔六人だよ、全員集合!〕
【智】
「フォーメーション」
【るい】
「おう」
【智】
「こよりは待機」
【こより】
「待機ですか……」
【智】
「狙われてる自覚を持って」
【こより】
「らじゃーです……」
【智】
「伊代は……攪乱と情報収集」
【伊代】
「いいけど、どうするの?」
【智】
「ネット経由でいいから、あまり無茶しない方向で」
【伊代】
「まあ、了解」
【茜子】
「茜子さんは」
【智】
「君の役目は重大です」
【茜子】
「はは、なんなりと」
【智】
「邪魔にならないように、適当に遊んでてください」
【茜子】
「……………………」
【智】
「文系には厳しい世界なんで」
【るい】
「はーい、はいはい、私ーっ!」
【智】
「るいちゃんは」
【るい】
「わくわく」
【智】
「お口ちゃーっく」
ちゃっくポーズ。
【智】
「るい、走っちゃダメだよ。それから花鶏の名前を出してもダメ」
【るい】
「ぶーぅ! るいさん、そんなに馬鹿じゃないもん!」
現地には、るいと二人できた。
いざ本気で追われる事態になった時に、
僕とるいが一番身軽だ。
危険は百も承知。
【るい】
「でも、なにかと思った」
【智】
「難しいからねえ」
未明の約束。
るいの呪いに触れる危険はなるべく避けたい。
どこまでが呪いのルールに
触れるのかわからないから余計だ。
事ここにいたって口を滑らせて呪われてしまったら、
それこそ舌禍も極まれり。
一緒に行こうと言葉にしなくても、
るいは、ちゃんと付いてきてくれた。
【智】
「では、計画スタート」
【るい】
「女は度胸、男はお料理!」
【智】
「ちょっとやだ」
お互いに歩幅を合わせて歩き出した。
二人で、爆弾を孕んだ街へと繰り出す。
【るい】
「次、そこの路地」
街は僕らの庭みたいなモノだ。
るいは廃ビル暮らしをこなして来た。
あの危険な連中たちより、
よほど街に詳しい。
この街は、旧市街の建物と新しい建物が
混在している場所が多い。
【智】
「こんなとこあるんだね」
【るい】
「えへへ。アカネっちほどじゃないけど、るいさんも路地裏には
詳しいよ」
入り組んだ迷路だ。
古い建物がなくなる端から、
新しい建物に生え替わる。
区画整理なんて、
まるでなされていない。
こういった場所は、
街のそこここに存在する。
【るい】
「上、室外機あるよ」
【智】
「うわ、狭いね」
隙間無く建てられているかに見えるビルとビル。
そこにも空隙はある。
服を壁面に擦らないように気をつけながら、
建物と建物の間を慎重に進んで行く。
【るい】
「人が歩くトコじゃないからね」
猫の気分だ。
茜子、こういうの好きそう。
何かのコード束を跨ぐ。
クーラーの室外機を潜る。
知られていない抜け道も多い。
路地が終わらずに、ビルの背中に囲まれた、
細くて暗い道に続いていることがある。
【るい】
「足もとにネコいるよ。にゃー」
【智】
「にゃー。茜子の知り合いかな」
路地裏の先達に丁重に挨拶をした。
裏側の道を歩く。
やがて狭い細長い裏道は、
意外なほど広い空間に行き当たって終わる。
ビルから投げ捨てられたものか、
猫やカラスが運び込んだものか、
沢山の空き缶やビニール袋が散らばっている。
よく見ると古いゴミに混じって、
つい最近開かれたようなパンの袋なんかもある。
花鶏の姿はなかった。
もしかしたら……
幾ばくかの間はここに居たのかも知れないが、
今はその影とて残っていない。
【智】
「ここもいないね」
【るい】
「トモ、メールは?」
【智】
「5回も出した」
文面は簡単。
「連絡すれ」
これだけ。
一つの場所を探索するたびにメールを出した。
ほんの一言でいい。
いや、空メールでも充分だ。
返信があれば安心できる。
だが、まだ一度としてそれはない。
返信することが出来ないような状態なのか。
充電が切れた?
携帯を紛失した?
今も追われている?
それとも……。
【智】
「……ダメダメ!」
最悪のケースは頭から追い払った。
【智】
「次の場所だ」
溜まり場1号も溜まり場2号もちらっと見た。
立体駐車場など、雨露を凌げる場所を順番に潰していく。
【るい】
「ここどうかな」
【智】
「ここって、かなり前から放置されたままで、工事してないよね」
工事途中の防音シートを被せた状態で、
もう1年近く放置されている建築現場。
わずかな期待を込めて防音シートをめくる。
【智】
「………………」
張り巡らされた鉄骨と、
パイプで編まれた足場。
屋根はまだ無い。
一部鉄板で出来た床と階段の基礎がある。
防音シートと合わせていくらか雨風を凌げるだろう。
そこにも花鶏の姿はなかった。
【智】
「またメール出しとくよ」
何通目だっけ?
15回目から先は数えていない。
疲れ始めた足が、想像にも絶望を喚起する。
もしかすると、
とっくに、花鶏は……。
【るい】
「…………」
「連絡すれ」
同じメールの文面をそのまま再送信する。
このメールは、既に怪しげな男たちの手に渡っていて、
僕らの存在を知らせているのかも知れない。
【るい】
「……トモ、貸してっ!」
【智】
「メールなら今……」
【るい】
「我慢ならない。直接電話する!」
【智】
「ちょ、ちょっと……!」
メールにしたのは、一つには花鶏が
電源を切っているかもしれないから。
どこかに花鶏が隠れていたとして、
たとえマナーモードにしていても、
振動音で場所がばれてしまわないとも限らない。
もう一つは、
メールなら、余裕のある時に
確認してくれる可能性があるからだ。
【るい】
「でろよぉ……っ」
るいの奪い取った携帯から発信音が漏れる。
【智】
「あっちの電源、入ってるの……?」
【るい】
「うん。発信音鳴ってるもん」
【るい】
「出ろって、花鶏ぃ……!」
携帯の電源が入っている?
それは、マズイんじゃないのか。
逃げている花鶏が携帯を入れっぱなしにするのか?
電池が切れたら充電だって難しいのに。
危惧を抱く。
花鶏を捕らえた男たちが携帯を確保していて、
仲間からの連絡を待ち受けていたのでは――。
【智】
「るいだってヤバいよ、切ったほうが」
【るい】
「出ろよ、早く出ろよぉ……っ!」
るいの真剣な顔に、
伸ばした手が止まる。
捕まってようがなんだろうが、
るいは花鶏の安否を知りたがってる。
声を聞きたがっている。
【智】
「だから、僕はツメが甘いんだな」
ため息をつく。
いいだろう。
るいが、そこまで思うなら。
それなら僕も付き合おう。
花鶏がどんな状況に陥ってても、
必ず僕らで助けに行ってやろう。
見返りなんて、必要ない。
危険だって構わない。
僕らは群れだ。
仲間、同盟、友人……
いくらでも呼び名はある。
でも、大切なことはたった一つだ。
それは、僕が、
るい、こよりが、伊代が、茜子が。
みんなが、花鶏のことを大好きだってこと。
誰もがたった一人を生きる孤独な世界。
一人で歩くには寂しすぎるから。
だから僕らは手を繋ぐ。
傷つけあうことを許し合い、
わからない言葉を重ね合い、
繋がらない心を結びあって。
【るい】
「どうして出ないんだよ花鶏のばかぁ……」
10コール。
いや、20コールを超える。
【るい】
「なんでだよぉ……!」
一度切る。
またかける。
また切る。
またかける。
また切る。
またかける。
また切る。
またかける。
【るい】
「花鶏、死んでたりしたらぶっ殺してやるかんなぁ……!」
花鶏は出ない。
るいの矛盾した言葉にも笑えない。
不吉なイメージが像を結ぶ。
人気の無い路地裏――
泥にまみれ傷だらけになって倒れた花鶏――
そのそばで鳴りつづける携帯――
……そんなことない。
今は出られないだけだ。
今はちょっと事情があって、
出られないだけなんだ。
花鶏……!
【るい】
「トモ。ねぇ、トモ……花鶏は無事だよね……」
るいの手の中の携帯は、
まだ発信のランプが明滅している。
さっきの最悪の想像がチラついた。
るいに素直に頷いてあげることが出来ない。
ずっと嘘つきだったのに。
こんな時に、心の軽くなるお為ごかしひとつ
でてこないなんて。
奥歯を噛んだ。
本当に無事なら、出てよ……花鶏。
【るい】
「出てよぉ……! 出てなんか言えよぉ……!」
見ていられなかった。
一度は引っ込めた手をもう一度伸ばして、
るいの手の携帯を切ろうとする。
その視界の上部を掠めるように、
何かが落ちてきた。
【るい】
「いて」
落下物。
るいの頭にぶつかって地面に落ちる。
ベレー帽……。
【智】
「こ……これ、花鶏のっ!」
帽子の中には携帯が包まれていた。
くぐもった振動音を鳴らしている。
花鶏のベレー帽、
花鶏の携帯……!!
痛みか、それ以外か。
るいが、涙目で頭上を振り仰いだ。
【るい】
「花鶏ぃっ!!」
今まで人影の無かった頭上の鉄骨に、
いつのまにか花鶏が腰掛けていた。
【花鶏】
「そんなに携帯鳴らされたら、うるさくて隠れられないっての」
とりあえず、外から見つかりにくい奥へと移動した。
【るい】
「このバカ! 今まで何してたのよ! 私たち心配したんだから!」
【花鶏】
「心配してくれなんて頼んでないでしょ」
【智】
「さっそくですか」
まさに犬と猿。
そういえば、
花鶏は高いところにいたっけ。
【るい】
「な……、この、むかーっ! せっかくトモと助けに来たって
言うのにー!」
【花鶏】
「助けなんていらないわ!
わたしが言うの、智にはわかってたでしょ?」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
揉み合いに。
あれだけ心配させたくせに、
なにこの元気……。
【智】
「ま、わかってたんだけど、でもね」
【花鶏】
「?」
【智】
「答は用意してあるんだよ。花鶏が捕まったら、僕たちにまで
累が及ぶ。だから、みんなで相談して花鶏の身柄を確保させて
もらうことになった」
【智】
「これで満足?」
【花鶏】
「ふん……わたしが捕まると思ってるの?」
少し口元を歪めて花鶏が肩を竦める。
その態度は、僕らとの再会を
嫌がっているようには見えなかった。
【るい】
「それより! すぐ上に居たのに電話出なかった!
見てたんじゃない! このインケン!」
【花鶏】
「うっさいわね! こんなことしてたら見つかっちゃうじゃない、さっさとどっか行きなさいよ!」
そういえば。
花鶏は携帯の電源を入れていた。
もしかすると電話を待ってたの?
最後まででないのは、どこまでも花鶏らしい。
【智】
「ちょっと、花鶏もるいも声大きいよ」
【るい】
「トモは黙ってて! 仲間のこと大事にしないこいつには、
一言言ってやらないといけないんだ!」
【花鶏】
「皆元に説教される筋合いなんてないわ!
わたしはわたし、一人でもうまくやってるわよ!
おチビだって助けてあげたでしょ!!」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
さらに揉めて。
【智】
「ちょっと、二人ともホントに……」
突然、背後の防音シートがめくられた。
【男】
「お…………」
チンピラ風の男が顔を覗かせた。
【花鶏】
「い…………」
【るい】
「も…………」
【智】
「おいも……?」
アロハシャツ、ガニ股、ヤニに黄ばんだ歯、
懐の不自然な膨らみは匕首(あいくち)を飲んでいるのか。
なんか…………。
テンプレ過ぎて気が滅入るなぁ。
二十一世紀の三下さんには、
新時代に相応しい個性獲得を要求したい。
【智】
「あ、でも、これって……」
どう見ても花鶏を追っていたやつの類友だ。
………………。
見つかっちゃいました。
【智】
「止まってる場合じゃないよ!」
【るい】
「逃げよう!」
【花鶏】
「逃げるわよ!」
【男】
「あ、コラ待てお前らァッ!」
【智】
「ん!」
【男】
「ぐあッ、クソこのアマ!」
男の顔に砂を蹴り掛けて三人で逃げ出す。
工事現場の裏手へ。
防音シートをめくると裏側はすぐ高いフェンス。
【るい】
「んっ!」
るいがいきなりジャンプでフェンスの上に飛びついて、
腕力だけで体を持ち上げる。
一瞬だ。
【智】
「よい、しょ……!」
僕も金網に手を掛けてフェンスを登った。
ひそかに男の筋力なので、
僕にもたいした苦にはならない。
【花鶏】
「く……ん……!」
花鶏には案外キツかった。
それでも普段なら何とかしそうだけど、
逃走生活の憔悴は隠せない。
真っ白な指に針金が食い込んで赤くなる。
靴だって花鶏のものは運動に適した靴じゃなかった。
【男】
「待てコラァッ!」
【花鶏】
「ん……この……ッ!」
【るい】
「花鶏!」
るいがフェンスの上から手を伸ばした。
【花鶏】
「ん……いらないわよっ」
花鶏は、るいの手を払う。
こんな時に!
【男】
「銀髪女ァッ! ちょっと来ォい!」
男の手が花鶏の足に伸びる。
ゴツゴツとした手の先から、
花鶏の身体がするりと抜けた。
【るい】
「こんな時に意地張るなバカ!」
るいが強引に、
花鶏を引き上げる。
【花鶏】
「わわ……きゃ!」
2メートルはあるフェンスから飛び降りる。
花鶏は、るいに引きずり下ろされた形だった。
【花鶏】
「あ、あ……、危ないじゃないっ!」
【智】
「後ろのほうが危ないよ!」
なんとか着地。
すでに男はフェンスに取り付いてすごい形相で登り始めている。
【るい】
「うりゃ!」
【男】
「うげっ!!」
金網を登り始めた男の腹に、るいが蹴りを入れた。
男はフェンスから落ちて腹を抱えて悶える。
【智】
「るいのキック、痛そうだなあ……」
ケンカするのは止めようと心に誓う。
【花鶏】
「ぼーっとしてないで、逃げるわよ!」
まったくです。
駆け出した。
行き先は、どこでもいい!
【るい】
「ふー、まいたみたいだね」
【智】
「はぁ、はぁ……はぁ……疲れたぁ……」
まわり回って逃げた先は、
溜まり場2号。
高架下だった。
僕たちと花鶏が別れた場所だ。
追っ手は現れなかった。
【花鶏】
「はァ……は……ぜぇ、げふっ! ぜぇ……はァ……、はァ……ッ」
疲労困憊だったが、
なんとか生き返った。
まだ半死半生程度だけれど。
この面子だと、花鶏が一番体力がない。
無理もない。
【智】
「花鶏、大丈夫?」
この期に及んで、花鶏はまだ僕の手を払って、
自分の力で立ち上がった。
【智】
「意地を張る余裕があれば大丈夫だね」
【花鶏】
「はぁ、はぁ……助けなんて、いらなかったのに……」
【るい】
「この、まーだ言うかっ!」
【智】
「るい」
【花鶏】
「でも……」
【花鶏】
「……礼は言っておくわ」
どこまでも花鶏は意地っぱりだった。
でも、それでいい。
そのほうが、花鶏と再会できた実感が湧く。
【智】
「お礼はいらないよ。助け合うっていったでしょ。
いや、利用しあう……だっけ?」
【花鶏】
「同盟は用済みじゃなかったの?」
【智】
「破棄するとは一言もいってないしね」
【るい】
「べろべろべー、だ」
【花鶏】
「…………ふふっ」
心からの安堵の息を吐いた。
小さな笑い声になった。
僕、るい、こより、伊代、茜子、そして花鶏。
これでまた勢ぞろいだ。
【智】
「でも、よかったよ」
【花鶏】
「はっ、なにがよ」
【るい】
「花鶏が無事でよかった。心配した」
【智】
「みんなも心配してた。花鶏の顔見たら、きっと、みんな喜ぶよ」
【花鶏】
「や、やめなさいよ。わざと言ってるでしょ!」
花鶏を少し照れさせるのも悪くないと思う。
【花鶏】
「……もう……、本当にあんたたちって」
【花鶏】
「よォーし、二人とも来なさいっ!
わたしの愛人にしてあげるわよ!」
照れ隠しに笑って、
花鶏が僕らを両肩に抱く。
【智】
「あはは」
【るい】
「にひ」
僕らも笑った。
ピースの足りないパズルは完成しない。
僕たちも、やっぱり全員そろってこそだ。
笑って、笑って、笑って。
【花鶏】
「では手始めにこの貧、豊、二種のおっぱいを両手で同時に……!」
気を抜いた瞬間、すかさず、花鶏の手が胸に伸びてくる。
【るい】
「調子の乗んなこのヘンタイ!」
【花鶏】
「い、痛った!! ぶったわねコイツ!」
【るい】
「トモは私んだ! ヘンタイにはあげないよ!」
【花鶏】
「ならお前の乳をよこせぇ〜っ!」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
揉めに揉めた。
どっちかというと、
揉みに揉んだというべきか。
ほっと一息をつく。
一度は消えてしまった楽しい日常が――
すべて戻ってきた気がした。
〔お姉ちゃんを助けよう講座〕
と、都合よくはいきませんでした。
現実って世知辛いなあ。
【伊代】
「すごいことになってるわよ。外」
【花鶏】
「これ、市場価格で幾らくらいかしらね?」
買い出しから帰ってきた伊代が加わって、
これで六人。
部屋はひさしぶりのすし詰めになる。
部屋に積まれた白い粉。
まだコレがあった。
実物を目にしても、
花鶏は意外と驚かなかった。
追っ手の異常な雰囲気から察していたらしい。
【智】
「るいを一生食べさせてもお釣りが来る」
日常使わない桁過ぎて考えるのをやめる。
【るい】
「そりゃ、みんな目の色変えてるよね」
特に歓楽街の方は危険らしい。
シェードを貼った車が何台も横行し、
一目でカタギでないとわかる男たちが闊歩している。
いつどこで何が爆発してもおかしくない。
【伊代】
「それから……警察もいっぱい出てきたわよ」
【花鶏】
「抗争が起きるってこと、感付いたみたいね」
これだけ派手にしてれば当たり前か。
クローゼットに収まっていた茜子が、
にょきっと顔を出してくる。
【茜子】
「宜しくない事態です」
【こより】
「警察が、太慈ビルに踏み込んだら……お姉ちゃんまで……」
【智】
「たしかによろしくないね、ソレ。CAコーポレーション、だっけ? そこも犯罪者グループと共倒れになっちゃう」
【るい】
「困ったな」
【伊代】
「悪い人たちが共倒れになるのは自業自得だけど、なんとか、
この子のお姉さんだけ、うまいこと助ける方法、考えてよ」
伊代、僕を見る。
無茶をいうなあ……。
浅はかだった。
抗争が激化すれば、
結局警察が介入する。
僕らがコレを警察に届けなくても、
警察は太慈興業に踏み込むのだ。
芋づるでCAコーポレーションの不正が押さえられて、
こよりの姉さんはアウト。
【こより】
「あの証拠さえ奪えたら……!」
【花鶏】
「ムリでしょ。そういうの、多分ビルの中よ」
【るい】
「でも、それさえこっちが奪っちゃえば、あとは勝手に警察が
なんとかしてくれるんだよね?」
【茜子】
「本拠に乗り込むつもりですか。危険過ぎです。
危険度指数85です。デンジャー過剰です」
太慈ビルに直接侵入して証拠のブツを奪い返す。
無茶苦茶だ。
映画の見過ぎだ。
【智】
「……案外いけるかも」
【こより】
「ともセンパイ!?」
【伊代】
「あなた、本気なの!?」
【花鶏】
「壊れたの?」
【茜子】
「脳ぐされー」
よってたかってバカにされた。
【智】
「そりゃムチャだよ。不可能だよ。絶対無理だよ」
【智】
「……普通の人にはね」
【るい】
「うん、普通じゃないぞ!」
【伊代】
「アンタ、大人しく座ってなさい……」
【智】
「花鶏も言ってたよね。僕たちは特別な存在だって」
特別。
そう、特別な『才能』だ。
みんなが与えられた、呪いの裏側だ。
僕にはないけど、この際で。
それは凄い。
ハリウッド映画で主役を張るような、
スゴ腕麻薬捜査官だって持ってない力だ。
【智】
「他の誰にもできなくても、僕たちにはできるかもしれない」
【るい】
「おーおー! さっすがトモはいいこというよ!」
【こより】
「センパイ! お姉ちゃんを助けるためなら、鳴滝もがんばります!」
【茜子】
「確かに他に選択肢はなさそうな気もしますね」
【智】
「何も頬に傷があるような人たちと、直接対決しようってわけじゃないんだ。隙を突いて裏口からこっそりはいって混乱に乗じて
証拠だけを奪えばいい」
やれやれと言った顔で、
伊代が肩を竦める。
花鶏は冷ややかな目で僕らを見ていた。
が、決して背は向けなかった。
【伊代】
「……もう。わたしだけやらない、なんて言えないじゃない。
本当、あなたたち笑えるわ」
【花鶏】
「笑えないわよ。あ〜ぁ、めんどうね……」
【花鶏】
「でも、手を貸してあげるわよ」
花鶏はやっぱり、花鶏だった。
【智】
「よし」
問題を解決するためには
問題を明確化すること。
することは決まった。
あとは、
方法だ。
【るい】
「トモ……ねぇ、トモ」
夜。
まどろみかけていた僕は、
るいのキスで目が醒めた。
一人用の小さなベッド。
仲良く僕らは寝転がっている。
今日は、花鶏も含めて、
みんな、それぞれの巣に帰っていた。
落ち着いて、一晩寝て、
頭を冷やしてから。
明日、本当に侵入&奪還作戦を行うのかの最終確認をする。
【智】
「ん……なに、るい?」
【るい】
「こよりのこと」
【智】
「うん」
髪を解いた、るい。
とても綺麗だ。
いつものも可愛いけれど、
つややかでまっすぐな長い髪は、
るいを一気に女らしく見せる。
【るい】
「トモと二人の時に話したかったんだ」
【るい】
「いいよね、こより。私、うらやましい……」
【智】
「……お姉さんのこと?」
【るい】
「お姉ちゃん、お姉ちゃん……って。
こよりは信じてるんだ。
本当に心からお姉ちゃんのこと信頼してる」
【智】
「……そうだね」
僕とるいには家族と呼べる人はいない。
だから、るいは、僕にだけ話す。
【るい】
「私……私の家族さ。
あんなのだから、
こよりのこと、いいなって……」
【るい】
「命懸けで助けたいって、
そう思えるんだ」
【るい】
「お姉ちゃん……
そんなに思える家族がいるなんて……」
【るい】
「羨ましいなって。
私、そう思うんだ」
【智】
「そうだね。僕も眩しいよ」
るいは寂しそうに肩を下げる。
犬が尻尾を下げてるみたいに。
【るい】
「こよりは家族のことを信頼できるんだ。
こよりにとっては、
家族も『仲間』なんだよね」
【智】
「そうだね」
【るい】
【るい】
「私は、私の家族は……
父親も、叔父さんも、叔母さんもあんなので……
はは……」
頼りなく笑う。
そっと腕を回して、るいを抱きしめた。
【るい】
「ト、トモ!?」
【智】
「僕だって、こよりのことは羨ましいよ。
だからこそ……、
だからこそ、必ず守ってあげないとって思う」
【智】
「僕らみたいになくしてからだと遅いから。
今の内に、ここにあるうちに、
ちゃんと守ってあげないと」
【智】
「こよりの家族を、仲間を……。
僕らだって、こよりの仲間なんだから」
【るい】
「トモ……」
【智】
「それにね、大丈夫だよ」
【るい】
「何が?」
【智】
「約束…………」
しようとして、思い出す。
呪い。
るいの呪い。
未明の約束は、るいの鬼門だ。
【智】
「僕は、僕に約束する」
指切りの代わりに、
かわりに優しいキスをする。
【智】
「大丈夫だよ、るい」
【智】
「大丈夫だよ。
僕がずっといるから。
傍にいる」
【智】
「こうしていつでもいる。
二人で一緒にやっつけよう。
呪われた世界を、今度こそやっつけるんだ」
【智】
「るいがイヤだって言ったって、
僕はそうする。
絶対に離れない」
【智】
「この手を離さない。
何が来たって、
呪いが来たってそうする」
【智】
「僕は、ずっと、るいと二人でいたい。
つがいになって、
手を繋いで……」
【智】
「君にゴハンをつくってあげて、
洗濯をしたり、
テレビのチャンネルを取り合ったり」
【智】
「一緒に喜んで、笑って、泣いて、
時々はケンカして、
それで、それで……」
【智】
「それから……
他にも、いっぱい、
今までできなかったこと」
【智】
「全部……いっぱいやって……
そうして二人で、
ずっと向こうまで歩いていくんだ」
【智】
「僕にも、るいにも、
もう家族はいないけど。
でも、るいは、僕の家族だよ」
【智】
「そうさ、
新しい家族だ」
【智】
「仲間ができるみたいに、
家族だって出来たっておかしくないよね」
【智】
「好きだ。
好きだよ、るい」
【智】
「世界中の誰よりも一番好き。
絶対に離したくないくらい好き。
死んだって化けて出てやるくらい好き」
【智】
「だから……
だから、
僕はるいを家族にする」
【智】
「それで、君のことを守ってやるんだ。
群れだと男が女の子を守るんだ」
【智】
「寂しいことからも、
悲しいことからも、
辛いことからも」
【智】
「呪いからだって。
僕が絶対守ってやるんだ。
ダメっていってもそうするんだ」
【るい】
「トモ……ぉ……っ」
涙と頬ずり。
濃紺の闇に染まった部屋には、
カーテンの隙間から一筋の月光が伸びていた。
抱き合ったまま。
鼓動を重ねて、僕たちは静かに眠る。
【るい】
「うっし、全員揃ったぞ!」
明朝。
溜まり場に全員集合した。
るいもポニーテールが高く結ばれている。
昨日の影も見せず底抜けに明るい声を出している。
【智】
「これよりみんなの意思の最終確認をします」
最後の折り返し地点。
この場所は相応しい。
ここを過ぎれば、
僕らは引き返せない。
こよりの姉さんを助けるために、
危なすぎる橋を渡る。
【智】
「目的は、こよりの姉さんを助けること。相手は太慈興業、
ビルに潜入して不正の証拠を奪う」
【智】
「法に触れるのはもちろん、バレたら死ぬどころじゃ済まないかもしれない……」
【茜子】
「薬を打たれて犯されまくって外国に売られますね」
茜子の毒舌は、
今回ばかりはリアルだ。
【花鶏】
「誰が一番高値がつくかしら?」
【智】
「……僕以外で、ぜひに」
そこまで負けん気なのか。
【智】
「値段はともかく、危機はリアルです。
それでも、みんな……やる!?」
【るい】
「…………」
るいは返事をしない。
しなくてもわかるし、されると困る。
他の面子を見回した。
みんな笑っている。
【花鶏】
「やる。借りは返すわ」
まず、花鶏が名乗りを上げた。
【こより】
「はーい、はいはいはい!
鳴滝は当事者ですもん!
やるに決まってます!」
【こより】
「こ、ここここここ怖いですけど、センパイがたが一緒なら!」
【茜子】
「茜子さんは非日常イベント大好きっこですから」
こよりと茜子も賛同。
【伊代】
「あー、もう……っ! どうしてあなたたちはこんなに
楽しそうなのよ! 死ぬかも知れないのよ!?」
【るい】
「そりでー? イヨ子はやめんのー?」
【伊代】
「やめるワケないでしょ! あなたたち放っておいたら、
笑いながら死んでそうじゃない!」
怒りながら気持ち悪いことを言う伊代だった。
【智】
「死ぬときは格好良くいきたいな……」
【茜子】
「なんじゃこりゃー」
茜子が胸をかきむしって、刑事の殉職っぽく倒れる真似。
カッコイイの、それ……?
【るい】
「るいさん、今日はノリノリだおー!」
吠えていた。
【こより】
「そーだ! 鳴滝いいこと思いつきましたよ!」
こよりが晴れの空に向けて一本指を立てた。
【智】
「ん、なに?」
ふと、既視感を覚えた。
たしか、こんなやりとりを前にもやった。
【こより】
「ホラあの! みんなで手を重ねてオウ! オウ! とかいうの
やりません!?」
【智】
「いいね、こういうの懐かしい」
そうだ。
チーム名を決めるとか言い出したことがある。
その時も、こんなことをやった。
結局名前は決まらなかったけど。
【智】
「んじゃ」
まず、僕が手を出す。
【花鶏】
「いつの少年漫画だっての」
花鶏が手を置く。
【伊代】
「わ、わたしはいいけどホラ、この子手触るとダメだから……」
相変わらず歯切れの悪いセリフをいいながら、
伊代が手を置く。
その上にすかさず手袋をはめた手が乗った。
【茜子】
「空気よめ」
【智】
「……」
【るい】
「……」
なにも言わずに、るいが最後の手を置いて。
【智】
「いょっし! みんな、やるぞー!」
【こより】
「おー!」
【茜子】
「応」
【伊代】
「お、おー! ……これでいい?」
【花鶏】
「ハイハイ」
【るい】
「あははははっ!」
ひとしきり笑い合って、
重ねた手に力を込めた。
決意を固める。
大丈夫、僕らなら絶対大丈夫だ。
〔特攻娘いぬチーム(準備編)〕
【こより】
「センパイセンパイっ!
作戦会議は、やっぱりでっかいテーブルを囲んでやるべきだと思いまっす!!」
完全の本調子を取り戻したこよりの提案で、
作戦会議は花鶏邸で行うことになった。
昨日あたりから、水面下の抗争は、
完全に表面化していた。
ガラの悪い連中がそこかしこで角突き合わせている。
殴り合いくらいの小さな事件はひっきりなしに起こっている。
パトカーのサイレンが四六時中聞こえている。
まだ銃撃騒ぎなどの派手な動きこそないが、
それも時間の問題だろう。
花鶏やこよりを捜してる余裕なんて、
もはや、どこの誰にもありはしなかった。
【智】
「ではー、作戦会議」
【こより】
「違いますよセンパイ! そこは『これより作戦会議を始める! 解ったかこのウジ虫野郎ども!』ですよぅ〜」
【茜子】
「これより作戦会議を始める! 解ったかこのウジ虫野郎ども!」
【こより】
「あうぅ〜」
テーブルの上には模造紙を広げ、
何色かのマーカーを転がしてある。
各人員の時系列ごとの配備を示すポインターは、
花鶏の祖父がコレクションしていたという、
軍人を模ったメタルフィギュアをわざわざ出してきた。
【智】
「物事はまず形から」
【るい】
「まずはステップ1!」
【花鶏】
「チーム分けかしら?」
【伊代】
「正面対決する必要はないなら、
全員で忍び込むのも馬鹿げてると思うけど」
ステップ1:各員配属
【智】
「僕とるいが忍び込むよ」
【茜子】
「あとは全員サポートです。
一番危ない役に立候補するのはマゾですか」
【るい】
「昨日二人で相談したの。私たちが一番逃げ足早いからね〜」
【花鶏】
「ま、ね」
本当は相談なんてしてなかった。
【こより】
「でも異存はないと思いまっす! ともセンパイとるいセンパイは、やっぱり頼りになりますから!」
【るい】
「うんうん、ういやつ」
【伊代】
「あ、わたしが筆記係やるわね」
伊代がマーカーを取った。
苦労人のエセ委員長、ハマり役だ。
潜入チーム : 智 、 るい
模造紙にチーム分けが書き込まれていく。
【伊代】
「次は?」
【智】
「伊代は後方支援を」
【伊代】
「妥当でしょうね。向こうのビルのシステムをクラックして
アクセスできるハードをゴミデータで上書きして、あとはLANに繋がってるセキュリティだけでもダウンさせればいいかしら」
【智】
「……そこまでできるの?」
【伊代】
「まあ、やる気になれば」
さらりと!
伊代を敵に回すのは金輪際止めようと思う、
ネット世代の僕だった。
後方支援 : わたし
自分のところを敢えて「わたし」と
書いてしまう微妙具合が、如何にも伊代らしい。
【花鶏】
「あとの3人は陽動ってとこ?」
【智】
「花鶏、こより、茜子の3人で出来るだけ相手の目を
引っ張ってくれると助かる」
【こより】
「サー! イエス・サー!! なんか工作兵の気分ですね!
うっは、盛り上がりますよっ!」
【茜子】
「麻薬をエサに使いましょう。取引だと言って呼び出せば、
相手も警戒してそこそこの人数を引っ張れると思います」
【智】
「うん」
潜入チーム : 智 、 るい
後方支援 : わたし
陽動チーム : 花鶏 、 こより 、 茜子
チーム分け完了。
【るい】
「ステップ2っ!」
【るい】
「次は?」
【智】
「太慈ビルの構造を調べに行こうか」
【こより】
「おおっ! 敵情視察ですねっ!」
ステップ2:敵情視察
深夜まで待って、太慈ビルの偵察に出向く。
茜子とその部下(?)の猫ガギノドンの案内で
路地裏を通って来た。
道中見られた心配はない。
【智】
「どう? 見える?」
【こより】
「ばっちしであります!」
僕とるい、こよりは太慈ビルの右手のビルから。
反対側、左手のビルには、
花鶏、伊代、茜子が潜入している。
【るい】
「なんで夜中まで待ったの?」
【智】
「ほら、あの窓」
太慈ビルの窓には、全部、
ヤクザ屋さんの車でおなじみのミラーフィルムが貼ってある。
これは、窓をマジックミラー化して中から外は見えるけど、
外から中は見えないという、一方通行の視覚を提供する。
【るい】
「おお」
しかし、このフィルム。
外より中のほうが明るくなると、
中が透けて見えるのだ。
完璧なモノなど、世の中にはないのです。
【智】
「それに夜の方が忍び込みやすかったでしょ?」
【こより】
「むーん、中の人、どなたもイライラしとりますね。うわ〜〜〜、マージャンで負けた人がいきなり殴りかかったぁ」
かなりピリピリしている。
隙を突こうとしてる僕らにとっては好都合だ。
【智】
「窓の鍵は?」
【こより】
「あ、そーですねー。どの階も全部掛かってるみたいであります」
【るい】
「上のほうとかだと開いてそうなのに」
【智】
「相手もヤバい仕事してる自覚があるんじゃない?」
【こより】
「鳴滝、大はっけんであります!」
こよりが双眼鏡を外して目をキラキラさせた。
【こより】
「窓に付けられたセキュリティ用のブザーみたいなのが、
3階より上には付いてないであります!」
【るい】
「おお! やったじゃん、こよりー!」
【こより】
「てへへ〜」
なでなでされて、こよりはクネクネする。
3階。
るいは大丈夫として、僕は登れるかな?
【智】
「壁登り、練習しとけばよかったなあ」
身につけても用途の狭そうな特殊技能だけど。
翌日。
【るい】
「ステップ3っ!」
テーブルに広げた模造紙。
伊代の手で様々なメモが描き込まれている。
メタルフィギュアが3チームに分けて配置され、
周囲にはいくつもの矢印や注釈が書かれていた。
【茜子】
「ひみつ道具を買い集めないといけないですね。
どこでも土間とかシャケコプターとかバイブとか」
【智】
「最後のいらないよ!」
【花鶏】
「ペニバンなら持ってるわよ?」
【智】
「もっといらないよ……」
嘆き悲しむ。
ステップ3:物資調達
【茜子】
「これなぞどうでしょう」
【るい】
「うわ! アカネ、それハマりすぎ」
とあえず変装アイテムを集めました。
事後面倒がないように、
陽動チームは顔を隠す。
茜子はどこで見つけて来たのか狐面をつけている。
【智】
「じゃーん。僕らはニンジャ装束」
【こより】
「うっは、ともセンパイ、スパイっぽくてカッコいいですよう!
ぃよっし、鳴滝もなんかイカしまくる変装で決めるであります!」
潜入チームは、目立たなくて、
なおかつ動きやすい服を購入した。
現代のニンジャ装束。
【花鶏】
「伊代にはこれね」
花鶏が持ってきたのは、
パーティーグッズなんかであるタスキ。
大きく「委員長」と書いてある。
【伊代】
「わたしに衣装は必要ないでしょ!」
【るい】
「それ面白いのに〜!」
【智】
「問題は逃げる時かな」
【るい】
「花鶏、車とか持ってないの?」
【花鶏】
「車……? 倉庫のどこかに1台くらい余ってるんじゃないの?」
【茜子】
「うわ、ブルジョワ発言来た」
【花鶏】
「な、わたしは、今でこそこんな暮らしに甘んじているけれど、
将来は花城家を再興させて再び、」
【智】
「長話はおいといて倉庫へゴー」
【るい】
「ぶはっ、げほっ! これ、すごいホコリだよ……! げほっ!
動くのこれ?」
【こより】
「や、でもこれすごいですよっ! すっごくレトロ〜で、
なんかこう、怪盗でも乗ってそうなイメージがって言うか!」
【花鶏】
「とっつぁーん、て?」
【こより】
「それそれ!」
倉庫には1台の古びた車があった。
とんでもない年代ものだ。
【智】
「ま、ある意味では、これからの僕たちにぴったりかもね」
倉庫といっても僕の部屋八つ分くらいある。
嫉妬した。
【智】
「どう? 伊代、動きそう?」
【伊代】
「ん、たぶん。スピードは出そうにないけどね」
【るい】
「ステップ4っ!」
【こより】
「はい!」
【智】
「はい、こよりんさん」
【こより】
「こよりんです。予行演習を1日入れるといいと思うであります!」
【伊代】
「いいんじゃない?」
委員長の良識眼鏡が光る。
【伊代】
「今日1日は予行演習。取引を持ちかける宣戦布告のメールは
明日出して、その日はまる1日休息を取る。どうかしら」
【智】
「それでいきましょう」
ステップ4:予行演習
【こより】
「じゃあ……鳴滝が、こう通りを逃げて」
【花鶏】
「ダメ。銃を警戒したほうがいい」
【茜子】
「銃を持ってる相手は、茜子さんがわかります」
【花鶏】
「なるほど、便利な才能ね」
【茜子】
「そういえば、レズ女の出来ることをまだ聞いてませんでした」
【花鶏】
「珍しいわね、そっちからなんて」
【茜子】
「茜子さん気まぐれです」
【花鶏】
「筋肉巨乳と違って、わたしはね」
【茜子】
「はね?」
【花鶏】
「速いのよ」
【るい】
「トモー、だいじょぶ〜?」
【智】
「キツいって言ったら許してくれる?」
【るい】
「出来ないと困るんだよね、壁登り……」
【智】
「…………絶賛練習中」
【智】
「るい、やっぱりすごいな。ほとんど取っ掛かりのない壁でも
すいすい登るし」
【るい】
「あんまり筋肉つかない体質だよねー、トモって」
【智】
「むくつけき筋肉ダルマになったら、困るよ、いろんな意味で……」
【るい】
「…………私もこまるかな、やっぱ」
【智】
「でも……これ、キツいよぉ〜」
【るい】
「にひひ」
【花鶏】
「すぅ、すぅ……」
花鶏が庭のテーブルに突っ伏して熟睡していた。
【智】
「唐突だなあ」
【こより】
「鳴滝と一緒のときも、時々唐突に寝てたっす!」
【智】
「そういえば、玄関先で寝てたこともあったな」
花鶏の奇行。
それにしても唐突だし、
花鶏はこういう隙を見せたがるタイプでもない。
【智】
「るいのハラペコと同じようなものかも」
寝顔はやっぱり微笑ましく思える。
【智】
「そういえば、こより一人なの?」
【こより】
「伊代センパイや茜子センパイは、てけとーな部屋で休憩してます。るいセンパイはキッチンでハムにマヨネーズかけて食べてました!」
珍しく、こよりが花鶏のノートPCをいじっていた。
元は花鶏のものだ。
機械に強いクセに普段は使わない伊代に貸し出している。
【智】
「こより、何見てるの?」
【こより】
「ふっふーん! これですよ〜」
横からは見にくい液晶画面を覗き込む。
画面一杯に開かれたプラウザには、動画サイトのページ。
【達人】
「ちぇあァ! りゃァッ!!」
【こより】
「すごいでありますよ! まじ達人ですよ!」
動画の中では、白髪に白髭の老人が、
気合いも凄まじく格闘技の演舞を見せていた。
【智】
「なにこれ?」
【こより】
「武術の達人シリーズですよう! もう、パワー:超スゴイ、
スピード:超スゴイ、ですよう!」
【達人】
「そいやァァッ! はァァァ……つァァッ!!」
【智】
「成長率:超ニガテっぽい」
既に行き止まりな感じのご年齢。
それでも迫力満点だ。
演舞ではない、超珍しい実戦モノの動画。
【こより】
「そういえば、おセンパイさま」
【智】
「なんでしょう、おコウハイくん」
【こより】
「鳴滝のアルティメットスキル知らないっすよね」
凄いフレーズが来た。
【智】
「……そういえば。花鶏のも直接聞いたことないし。まあ、
だいたいは予想してるけど」
【こより】
「聞かなくていいだすか? 手からビームとかでて、並み居る悪人なぎ倒すかもしんないですよ。今回のこれだって凄く凄く楽に
なったりするかも」
考える。
こよりがスーパー美少女ビームを発射する。
格好良いより微笑ましい、だ。
【智】
「まあ、こよりにそういうのがあっても、フォーメーションは
変わんないから、別にいいかな」
【こより】
「の?」
【智】
「フロントは僕とるい、こよりんはバックス。要するに、コウハイはセンパイに守られてこそ!」
【智】
「こよりは一番ちっさいから、なるべく危ないことは
させたくないよ。僕だけじゃなくて、みんな、そうだと思う」
【こより】
「センパイ……」
【智】
「だから、怪我だけはしないでね」
翌日。
【るい】
「ステップ6っ!」
【智】
「今日はいよいよ宣戦布告のメールを出す」
【伊代】
「海外サーバー経由して、足が付かないようにフリーメールから
出すわ」
【智】
「……使わないくせに悪い知識はあるんだなあ」
【伊代】
「優等生だもの」
【智】
「そんな優等生ヤダ」
ステップ6:宣戦布告
【こより】
「まず差出人はぁ〜」
【智】
「匿名がいい」
【伊代】
「そうね。後で恨み買ったりしたら元の木阿弥」
【こより】
「そですか、『銀髪の女』なんて差出人だとカッチョいいと
思ったんですけど」
【花鶏】
「わたしを逃亡者にする気!?」
【こより】
「うひぃいぃぃいぃぃ」
こよりが目を×にして逃げてきた。
【るい】
「いけそ?」
【智】
「ポイントは、僕たちの正体が知れないこと、相手が乗ってくる
信憑性があること」
【智】
「ブツの写真……はマズイか。どこのサーバーにログが残るか
わからないし」
【伊代】
「たとえば、あのケースの所有者にしかわからないことでも
あれば……」
【茜子】
「『頭痛は治ったか?』、これで決まりです」
【るい】
「へ? 頭痛? なにそれ」
【花鶏】
「頭痛薬ね」
さすが花鶏は頭の回転が速い。
僕もようやくスーツケースの内容物を思い出す。
【智】
「……そっか、あのケースに入ってた頭痛薬!」
【こより】
「…………」
【こより】
「…………」
【こより】
「…………!」
しばらく停止してから、
やっとこよりの頭に電球がぴこぴん!と浮かんだ。
【こより】
「スーツケースに頭痛薬が入ってたから『頭痛は治ったか?』
ですか! うっはー!! それはカッチョいいですよう!
それ行きましょうよう!」
【茜子】
「茜子さんを褒め称え、神仏が如く祭り上げるがよいのです」
【伊代】
「こんなものかしら」
「アレを持っている。
16日深夜2時、ガストロノミー・ビルの屋上で。
ところで、頭痛は治ったか?」
ガストロノミー・ビルは、
太慈ビルからかなり離れた場所にある。
下見も済ませてある。
【智】
「プロ級だね」
【伊代】
「嬉しくない脅迫状プロ……」
【伊代】
「じゃあ、送信、するわよ?」
【るい】
「もえてきたどー!」
――――メールを送信しました
無機的なメッセージが、
僕たちの戦いの始まりを告げた。
これで後戻りはできない。
〔るいとのH3〕
【るい】
「本日ただいまをもって、作戦準備期間はしゅーりょー!」
るいが声高に宣言した。
【こより】
「いよいよ明日の夜決行ですねっ!」
【智】
「こよりはニンジャ・アクション覚えたの?」
【こより】
「ばっちしであります! 大凧で脱出とかもできますよっ!」
【花鶏】
「智はどうなの? 壁登れるようになった?」
【智】
「キツいとこは、無敵超人に引っ張ってもらうから」
【るい】
「潜入チームは私とトモだもん。チームワークは、もー、ぱーぺき」
【花鶏】
「さすがに同棲してるだけはある。肉体の隅々まで知り合った
二人には入り込む隙が無いわね」
【智】
「に、肉体のすみずみって!!」
【茜子】
「茜子さんも完璧です。パーフェクトという言葉が生まれたのは、まさに今この時の為だった……!」
【こより】
「コンビネーションはばっちしであります!」
【花鶏】
「わたしが仕切る以上間違いはないわ」
【伊代】
「何より不安に……」
【智】
「伊代はどうなの?」
【伊代】
「え、わたし? わたしはバッチ処理で全部準備してあるから、
あとは作戦開始と同時にダブルクリックするだけよ。
車で待ってるわね」
【こより】
「でも……」
こよりが弱気を見せる。
【こより】
「やっぱり……ちょっと怖いです」
【智】
「こより」
そうだろう。
ホントは、みんな怖いに決まってる。
しんみりした空気になった。
【伊代】
「明日は本番なんだから失敗出来ないわ。失敗したら死ぬかも
しれないんだから」
【茜子】
「空気よめ」
伊代の場違いな発言。
あまりにも場違いすぎて、
逆に空気がやわらいだ。
【こより】
「……そうですね。ダメだった時のことなんて考えないで、
せーいっぱいやります!」
そうだ。
失敗した時のことを考えても始まらない。
やると決めた以上、やりきるしかない。
【花鶏】
「ふふ……わたしが、怖さなんて忘れさせてあげるわ!」
【花鶏】
「わたしのベッドで夜のカウンセリング〜」
【こより】
「うひえぇぇ〜っ! 略奪愛反対です〜っ!」
【智】
「やあの、それやあのぉ!」
【るい】
「がーっ! トモは渡さないぞ! がーっ!」
【花鶏】
「邪魔だてすると、あんたも気持ちよくするわよ!」
【るい】
「――――っ」
【花鶏】
「――――っ」
今日も元気よく揉めた。
【花鶏】
「おのれ、邪魔だてを! それなら、青い果実の方を……あれ?」
【茜子】
「ちみっこは千里の彼方です」
実地で慣らされたのか、
こよりの逃げ足は前よりもパワーアップしていた。
【花鶏】
「……そうだ、たまには茅場でも愛撫してみるか?」
花鶏の攻撃目標が変わった。
手をわきわきさせながら茜子ににじり寄っていく。
【花鶏】
「ナマはダメでも、パンツ越しにというのも、また味があるわ」
守備範囲広すぎだ。
【茜子】
「待ってください。取引をしましょう。これは、あなたにも
悪い話ではないと思いますが」
茜子が、悪のビジネスマン(?)口調で取引をちらつかせる。
【花鶏】
「……茅場、言ってみなさい」
【茜子】
「OK、あなたは聡明な選択をしました。耳を……」
よからぬことを耳打ちする。
【茜子】
「まずごにょごにょです。そしてごにょごにょです。しかるのち
ごにょごにょです」
花鶏の目がギラリと輝く。鼻息が出た。
やだなあ。
【花鶏】
「乗ったわッ!」
【茜子】
「ぐ」
悪の枢軸がアームクロス。
【伊代】
「へ、なに、どうしたの? きゃーッ!? イヤぁ〜ッ!?」
騒ぎに我関せずで、ノートPCの画面を再確認しながら
肩を揉んでいた伊代が、次の獲物に選ばれた。
【花鶏】
「わたしの指の味、忘れられなくしてあげるわ……」
電光の素早さで花鶏が背後を取り、
伊代のおっぱいを鷲掴みにする。
茜子は、伊代の正面から顔を覗き込んだ。
【智】
「な、なにするつもりなの?」
【茜子】
「大悪魔セクハラーがおっぱいをいじりつつ、茜子さんが
性感ポイントチェック・イン実況する作戦です。あ、そこは
左の乳首がいいようです」
なんという恐ろしい作戦!
【花鶏】
「素晴らしいわこの感触……たっぷりと重みがあって……
それでいてマシュマロのようにやわらかくて……」
【伊代】
「ん……こ、こらっ! んくっ、や、やめなさ……いっ!
んん……こらぁ……」
【花鶏】
「すぐによくなるわ、誰だって初めてはあるものよ」
【茜子】
「右は根元から絞るように。左は先を強めにつまんでちょっと
ひねる」
【伊代】
「くんんん……っ! や、やめてよ……あんっ!
あ、あなたたちも見てないで助け……いやぁんっ」
【茜子】
「空気を読めない発言の罰です。右、押し込んで」
【伊代】
「いやぁぁ……っ! 助けてぇぇ〜……っ!」
【花鶏】
「楽しんだほうがいいわよ、ほら、やみつきに……」
【智】
「こよりん、お帰り」
【こより】
「あ、新たな惨劇だ」
結果。
会議室は死体置き場になった。
キレた伊代に追いまわされた挙げ句、
何かすごい殺人技を食らった花鶏と、
同じく制裁を受けて死んだカエルのように倒れる茜子。
逃げたこよりも、
半裸に剥かれて部屋の隅で震えていた。
鬼神と化して暴れまわった伊代も、
疲れはててテーブルに突っ伏した。
そして、るいと僕は……。
【智】
「すごいね、ここのテラス」
【るい】
「下からロミオが求婚して来そうな感じ」
広いテラスに立つ。
手入れこそ行き届いていないものの、
花城邸が豪壮な邸宅なのは間違いない。
花城家のかつての栄光が目に浮かぶ。
【智】
「明日は僕、がんばるから」
僕と僕らの仲間全員のために。
【るい】
「なんか、イヨ子みたいなこと言ってる」
夜風が吹き抜けて、
今はほとんど雑草に覆われてしまった庭園の木々を揺らす。
るいと二人、夜を見上げる。
胸には小さな痛みが刺さる。
「がんばるから」と言えたとしても、「がんばろう」とは
言えはしない。
るいの呪い。
まだ来ぬ制約を許さない呪い。
るいは未来を生きられない。
見つめるのは昨日と今日。
明日への夢も、将来への願いも。
るいは、胸の奥に沈ませたまま。
約束を誓うことさえできはしない。
【るい】
「あ、あの、ね……
あの、私、ほら、トモのいった家族の話……」
【智】
「え、ああ」
【るい】
「私、あれからいっぱい考えたよ」
【るい】
「トモが言ってくれたこと、
嬉しかった」
【るい】
「すごく嬉しかった」
【るい】
「泣きたくなるくらい、
今すぐ死んじゃってもいいって思ったくらい」
【るい】
「だから、
だから、私――」
【るい】
「あの、私……私……わたしは……っ」
るいが涙を滲ませる。
言葉にしたくて、でも、できない言葉。
僕への答え。
誓いの約束。
どちらも、るいは手に出来ない。
【智】
「るい……」
人と人とは繋がらない。
他人の心はわからない。
それはきっと、
この世界に最初からある、
その最後の一瞬まで変わることのない、
永劫普遍の孤独の呪い。
この僕らの呪われた世界へようこそ。
僕らはみんな、呪われている。
切り離された心の代わりに、
僕らは言葉で伝えあう。
偽りと、欠落と、遠回りとに苦しみながら。
でも、るいにはそれさえない。
奪われた。
【智】
「しーっ」
苦しそうに震える唇を指で塞ぐ。
でも。
信じている。
今は信じられる。
たとえ繋がらない僕らでも、
ほんの一瞬であれ、
それが夢のような儚い時間にすぎなくても、
きっと重なることがある。
言葉にしなくても伝わる想いがある。
誰でもない。
るいが教えてくれた。
嘘と偽りと誤魔化しばかりだった僕に、
るいが本当を与えてくれた。
だから。
【智】
「お口ちゃっく」
指先で、そっと言葉をぬぐい去った。
【るい】
「でも……っ」
【智】
「でも、は、なし」
空には星が煌いていた。
僕らと同じ、孤独な星たち。
真っ暗な世界で、
孤独に強く、
光り続ける星の群れ。
星は見えない力で結ばれている。
僕らもきっと結ばれている。
見えない力で。
【智】
「大丈夫。
僕は気が長い方だから、ゆっくりいこうよ」
何時かは、
本当に呪いの解ける日が来るかも知れない。
その時には、きっと。
月は鋭利な刃物のように尖り、
まわりの雲を鉛色に照らす。
ゆるやかな風には、るいの匂いが混じっていた。
どちらからともなく二人の距離が縮まった。
僕たちは手を繋いだ。
目に見える何かを繋ぎたくて。
顎を上げて空を見る。
るいは総身に月光を浴びている。
【智】
「るい」
【るい】
「ん……」
唇が重なる。
優しいキス。
遅れて体を抱き寄せる。
るいのぬくもりと鼓動を感じる。
【智】
「るい」
【るい】
「トモ……」
2度、3度、さらにもっと何度も唇を重ねる。
明日死ぬかもしれない。
最悪の想像を思い描く。
恐怖が僕らを寄り添わせるのか?
違うと思う。
守るべき愛しさを確認して、
僕たちは生きる意思を得る。
孤独な僕ら。
でも、僕はるいに、るいは僕に出会った。
失いたくない。
ずっと、この先も、二人でいたい。
【智】
「るい……」
【るい】
「ん……ちゅ……」
君の為なら死ねる……
それは、なんてナンセンス。
僕たちはお互いの為に生きる。
唇を重ねるたび、ぬくもりを感じるたび、
奥深くにまだ潜んで居た怯えが消える。
【智】
「ん……。んっ!? るい!?」
るいの手が、僕の敏感な部分に伸びてきた。
思わず唇を離す。
【るい】
「トモ……」
るいの目が熱っぽい色をしていた。
るいの体から出た甘い香りが漂っている。
【智】
「あ、あの……ここでするの……?」
【るい】
「……ダメ?」
甘えるような声。
ダメじゃない。僕もしたい。
最近は、みんなと一緒に泊り込んで
計画の準備をしていたのだから、
ずっとお預けだった。
まして、明日は生きるか死ぬかの冒険だ。
るいを抱きしめて、
心と体を確かめ合いたい。
【智】
「でも、ここ……花鶏の家だよ?
い、いくらなんでもまずくない?」
【るい】
「そうだけどぉ……」
頬を染めた、るい。
熱い吐息で体をすり寄せてくる。
ここが僕の部屋なら、
今すぐハートを撒き散らしながら
二人でベッドに倒れ込んでいるはずだ。
でも、ここは花鶏の家だ。
まして、みんな寝静まってるわけじゃない。
さっきは、くたびれて倒れていたけれど……。
ほら、今は下から話し声が聞こえてくる。
【智】
「せ、せめて夜中まで…………」
【るい】
「……うるさい」
耳たぶを甘噛みされる。
えっちの時にしか出さない、
るいの甘え声。
僕はだめだ。
どうしようもなくこの声に参ってる。
ほとんど条件反射で、
るいを強く抱きしめた。
【智】
「るい……!」
【るい】
「トモぉ……」
抱きしめた腕の中から濃厚な女の子の匂いがする。
甘ったるい、それでいて少し鉄臭い。
【るい】
「トモのがおなかのとこに当たってる……」
るいが腰のあたりをもどかしげに動かしてた。
僕とるいの、二枚分のスカートの布を透かして、
熱い湿気が感じられた。
抑えきれない情動が暴れ出す。
ここが花鶏の家だってことを忘れたわけじゃない。
下からのみんなの声だって聞こえている。
【るい】
「んんっ……トモぉ……」
我慢できなかった。
ぴったりと合わされた、るいの太腿。
割って手を差し込む。
るいが嬉しそうに鳴いた。
すべすべの太腿に挟まれた手が心地よい。
【智】
「……声……出しちゃダメだから……」
【るい】
「んんんー……っ」
太腿に手を挟まれたまま、親指だけ伸ばす。
パンツの上から、るいの割れ目を上下する。
軽くなぞるだけで、割れ目にそって、
パンツが湿り気を帯びてくる。
【るい】
「ふあ……っ、ん……んんぅ……」
【智】
「るい……、るい……」
何度も名前を呼ぶ。
片手で、おしりから胸までを撫で回す。
太腿の間の手は、親指を器用に動かして、
パンツの股間部分だけをずらした。
【るい】
「はあ……っ」
ヒヤリとした夜気に股間をさらされて、
るいが仰け反った。
そこは糸を引くほど濡れていた。
かすかに湯気さえ漂わせている。
【るい】
「っあ……と、トモ……」
返事もせず、
ぬるりと親指をるいの中に挿入する。
【るい】
「くんん……っ! だ、ダメ! トモ、前の道に人……
人がいるぅ……っ!」
道は街灯に照らされていた。
ここは月明かりだけの薄闇だ。
向こうからこちらは見えないだろう。
【智】
「そうだね、いるね……見つかっちゃうかも……?」
【るい】
「ふうぅぅんん……っ!!」
親指を奥まで入れて、中でぐにぐにと動かす。
あんまり可愛いので、ちょっといじめたくなった。
【るい】
「だ……ダメだってトモ……っ! ふっ、んんっ……ダメ……」
【智】
「るい、えっちなのに恥ずかしがり屋さんだ」
【るい】
「こ、こらぁ……! 怒るぞぉ……んんんんっ、と、トモぉ……!」
胸をまさぐっていた手をお尻まで滑らせる。
そこから、さらに下へ。
後ろから、るいの股間に指を伸ばす。
【るい】
「ちょ、ちょっとトモ、ほ、ホントに……、きゅんんっ!
くぅ……んんんっ! ダメだってばぁ……」
【智】
「大丈夫。ここは道より暗いから見えてないよ」
【るい】
「ほ……ホント?」
【智】
「うん、ごめんね」
【るい】
「もう〜……本気でドキドキしたんだぞぉ……!」
【智】
「ドキドキするるいが可愛くて、つい」
謝りながらも、るいの中で親指を激しく動かす。
【るい】
「ふあぁぁ……っ! 見えてないってわかっても……や、やっぱり恥ずかし…………!」
【智】
「そっか。じゃあ、ちょっと……ここで寝そべっちゃおう」
【るい】
「うひゃ……つめた……」
夜気に冷やされたテラスの床。
るいにのしかかって、
両手で胸を鷲掴みにした。
【るい】
「ん……は……はぁ、はぁ……」
マッサージでもするみたいに、るいの胸を揉む。
指先を押し返してくる胸の弾力が心地いい。
【るい】
「トモ……てさ……」
【智】
「なに……?」
【るい】
「立ってするの、好きだよね?」
【智】
「ぶッ!」
……そんなこと、あった。
初めてした時のことが忘れられなくて。
ついつい立ったまま、
るいを求めてしまう。
台所でスカートを捲りあげて襲うのとかも、
なかなか好き……。
【るい】
「えへへ、ん……あふ……隠してもおねいさんには……
わかっちゃうんだぞ……あは……」
【智】
「だ、だって、るいが……膝震わせて立ってるのが可愛いから……」
【るい】
「トモのえっち……」
満面の笑顔で言われる。
逆に僕のほうが真っ赤になる。
この生き物は可愛すぎる。
【智】
「そんな可愛いこと言うヤツには、こうだ!」
【るい】
「はうぅっ! ト、トモぉ……」
るいの胸に口を寄せて、
服越しに吸い付いた。
反対側の胸も指できつめに乳首をつまみ上げる。
【るい】
「んんんんん〜……っ!」
片方を少し歯を立てて刺激する。
指でつまんだほうも引っ張る。
残りの手で胸元のボタンを開けていった。
【るい】
「ふぅぅ……っ、くぅんんんぅぅ……っ!」
るいが両手で自分の口を塞いで声を殺す。
必死になっている内に胸を露わにした。
【智】
「……なんでブラつけてないの?」
【るい】
「だって……ん……っ……なんか苦しいし……」
この間、あまりの危険さに一念発起して、
るいにブラを含む予備の下着類を買い与えた。
何が危険かって理性とストレスだ。
1週間の平均が6.2回を超えるのは、
はっきり言ってどうかしてると思う。
それに。
【智】
「可愛い彼女を持った男の子と致しましては、彼女がノーブラで
外を歩くのは大変心配なわけで」
【るい】
「彼女持ちの女の子じゃ……ふあっ!」
尖った胸の先端を舌先で舐める。
【智】
「僕以外に……この胸……見せたりして欲しくないから、
ブラ買ってあげたのに……」
【るい】
「うんん……ごめん、トモ……」
胸の愛撫は両手に任せてキスをした。
頬の内側や舌の裏までを舐めあう濃密なキス。
【るい】
「ちゅ……れる、ん……んふっ、ん……ちゅる、ちゅ、んぷ……
ちゅぷ、れろ、くちゅ、ちゅ……」
キスをしながら、両手はしっとりと汗ばんだ胸を強く揉みしだく。
【るい】
「くふっ! ん……んぅぅ……ぺちゅ、ちゅ……んふあぁぁっ! あ……あぅ……ん、れる、ちゅ、ちゅ……」
胸全体を転がされて、乳首が硬さを増してくる。
そろそろ僕も繋がりたくなってきた。
【るい】
「ん……ちゅ、ちゅ……ちゅうぅ……ちゅぱっ、ぺちゅ、ちゅ、
ん……ちゅ……ん……」
太腿を膝で割って足を絡める。
るいの股間は、とっくにべちょべちょになっていた。
パンツごしに僕のモノを擦りつける。
るいはくすぐったそうに腰を震わせた。
【るい】
「んはっ……トモ……ぉ」
【智】
「るいと、一つになりたい……」
【るい】
「あう……えっちだよぉ……」
【智】
「あ、でも脱がしちゃ……まずいよね。イザって時誤魔化せないし」
【るい】
「……じゃあ、パンツだけずらしたら……」
【智】
「それはそれで服汚しちゃわない?」
【るい】
「それもダメか」
【智】
「う〜ん?」
しばらく思案した。
結局は。
【るい】
「ん……あれ、やっぱり脱がすことにした?」
下だけ脱がす。
先にスカートを脱がすと、
パンツだけ履いた、るいの下半身が露わになった。
るいの裸は何度も見てるけど、外で、しかも下だけ
脱がすというのは……。
なんとなくイケナイ事っぽくて興奮する。
【るい】
「なんか……下だけ脱ぐのって恥ずかしいね……」
【智】
「………………」
【智】
「すごくいい」
親指を立てた。花丸保証。
【るい】
「トモのえっちめー」
青みを帯びた夜の中。
るいの白い下半身だけが露わになる。
じゃれ合いながら脱がしたパンツは糸を引いていた。
胸こそはだけているが上半身は着たままだし、
いつものニーソックスも靴もそのままだ。
下半身を包む服だけがなく、
ぬらぬらと蜜に濡れた股間がさらけ出されている。
【智】
「いい……すっごくいい……っ」
両手の親指を立てた。
二重丸。
【るい】
「……このひと、うんとエロいよ」
るいは、自分の下半身の感じにきょろきょろする。
【るい】
「うわ……うわ……これ、なんか下だけスースーして
恥ずかしい……」
【智】
「るい……可愛いよ……」
【るい】
「あんまりじっと見ないでよ……」
恥ずかしい姿でもじもじする。
るいの腰に手の平を這わせ、
お尻を撫で、腰骨を撫で、太腿を撫でる。
【るい】
「ふぁぁんん……っ」
どこを撫でても敏感に反応する。
二本指を股間に忍びこませて、ゆっくりと、
るいの中をかき回す。
【るい】
「あ、あ……あ……ぅ……んん……っ」
【智】
「るい、声出しちゃダメ……」
【るい】
「あうぅうん…あ……っ!」
耳を澄ませば、階下からみんなの声が聞こえる。
高い声で騒いでるのは、こよりだ。
すぐ下に、いる。
見知らぬ他人じゃない、仲間たちが。
そんな場所で、僕たちは、
こんなにいやらしいことをしてしまっている。
【るい】
「うく……んんん……っ! はぁうぅぅ……っ!」
声を堪えるのが辛いのか、
腰を逃そうともがいた。
興奮にとらわれた僕は、
追い詰めるように手を動かして、
さらに奥まで指を入れた。
【るい】
「んぁ……っ、は……とも、トモぉ……指いやぁ……、
トモのが欲しいよぅ……っ!」
【智】
「指だけでこんなになってるのに……」
僕のを入れても声を我慢できるだろうか?
指は激しく中を責めたてる。
動かすごとにあふれ出る蜜は増えていく。
股間から漏れる水音を、より淫らなものに変えた。
【るい】
「ふぁっ! だ……ダメ……っ! 声ガマンできそうに……
ない……っ!」
【智】
「みんなにバレたらヤバいのに……」
言葉とは裏腹に、指はさらに執拗になる。
ぬるぬるの愛液まみれの、るいの中。
肉ひだを二本指でつまんで擦り合わせた。
【るい】
「あ……っ!! んんんんん〜……ッ! あ、はぁ、はぁ……
あ……そ、それダメ……そこつまんだら……っ」
口を手で塞ぎながら、るいが痙攣する。
さらに強く擦り合わせる。
るいは背を弓なりに反らせ、
声にならない悲鳴を上げた。
【るい】
「っあ……っ!! くぁ……んん…………は、ん……っ!」
【智】
「るい、イッていいよ」
【るい】
「くぅん……っ! んんんんんぅぅ〜……っ!! あ、あ、あ……あ……っ!!」
親指を使って、中と外から、るいの敏感な部分をこする。
るいは、あっけなく達した。
【智】
「ごめんね。なんかるいの姿がえっちで、つい興奮しちゃって」
【るい】
「はぁ……はぁ……ヒドイよ、トモぉ……指イヤって
言ったのにぃ……、はぁ、はぁ……はぁ……」
荒くなった呼吸でるいの胸が上下している。
るいの股間はおしりまで濡れていた。
テラスの床はすっかり蜜まみれだ。
【智】
「朝までに乾くかなぁ……」
【るい】
「はぁふ……ん……わかんない……」
可愛い、るい。
僕の股間は、もう痛いくらいに張り詰めている。
【智】
「るい」
【るい】
「ふぅぅ……ホントはちょっときゅーけいしたいけど……
トモ辛そうだもんね」
【智】
「最初はゆっくりするから」
るいの片足を抱くように持ち上げる。
股を大きく広げさせる形にした。
スカートの下から取り出したモノを、
るいの入口にあてがう。
【るい】
「ふあぁぁ…………」
腰を進める。
とろけきったそこは、すんなりと僕を受け入れた。
熱いものに包まれる陶然とした感触。
【るい】
「く……あ……っ! トモぉ……、あついよ……、トモの、
あつい……」
るいを半身に横たえて、腰を動かし始める。
スムースな挿入だけど、いつもとは角度が違う。
新鮮さの分、刺激が強かった。
【るい】
「はぁぁ……はあぁぁぁ……っ、こ、これなんか、へんなトコ
こすれて、んっ! いい、かもぉ……」
るいもそれは同じらしい。
ゆっくりとした動きなのに、
僕のが奥に達するたびに、
強く息を吸って背を反らせる。
【るい】
「ん……ひぅっ! くはぁ……トモぉ……好きぃ……、トモぉ……んく、あ……あはあぁぁ……っ」
初めての体位だけど、足を抱えているので
狙いどおりの部分を刺激しやすい。
試しに、さっきつまんでた辺りを突くと、
るいが高い声を漏らす。
【るい】
「あ、あんっ! こ、こらぁ〜っ、そこはダメっ、あひぁっ!
だ、ダメだっ……て、さ……さっきも……言ったのに……っ!
あんんっ」
奥まで入れて、ぐるりと中で回した。
【るい】
「んんんあぁぁ……っ!」
【智】
「あぅ……っ! るいキツい……っ!」
締め付けてきた。
僕まで声を上げてしまう。
【るい】
「はぁ……はぁ……はぁ……、トモぉ……。好きだよぉ、
トモぉ……」
【智】
「るい……」
こんな時なのに、はっきりとした言葉で
答えてやるには不安がよぎる。
呪い。
もどかしい。
引き替えるみたいに名前を呼ぶ。
【るい】
「だいすき、トモぉ……っ」
徐々に腰の動きを早める。
るいの足を支柱に角度をさまざまに変えた。
上下左右前後とアトランダムな動きで、
るいの中を往復する。
【るい】
「あふぁっ!? んんんん……っ、す、すごいよトモ、くぅぅんんんんん……っ! わ、わたし……わけわかんなくなっちゃいそうだよぉ……!」
比較的刺激のゆるい真ん中を数回突いたと思ったら、
かなり強引に肉壁を削るように側面を突く。
えっちのテクニック、とかは関係無しだ。
るいに気持ちよくなって欲しかった。
【るい】
「んんうぅぅ……、今日のトモ、すごい、すごいぃ……な、なんか……あうぅ……いいよぉぅぅ……っ!」
腰を動かすことのできない体位でも、
るいが柔肉を締めたり緩めたりして、
僕を愛してくれる。
何度もえっちしながら、
自分たちで覚えていったやり方だった。
【るい】
「んっ、ふっ、ああぁぁ……も、声ガマンできないぃ……!
これ、ダメ、すごい、トモぉ、好き、好き、好き、好き、
いいよぉ……っ!」
もっと気持ちよくしてあげたい。
るいを感じさせてあげたい。
るいは確かここが弱かった、
ここを突かれると泣きそうな声を出した。
いろんな事を考えながら腰を使う。
【るい】
「くふぅぅ……トモぉ……、もっと、もっとぉ……。トモぉ……あぅ、あうぅぅ……、トモぉ……っ」
そろそろ射精感がこみ上げて来ていた。
ひさしぶりのえっち……それも、
るいをすごくえっちな格好にして、野外で。
我慢がきかないのも無理なかった。
【智】
「ね、るい……」
甘えた声で自分の限界を訴えた。のに。
【るい】
「ふぇぇ……も、もうちょっとぉ……わたし……今日はさ、3回もイっちゃってるから……ま……まだ……イケないよぉ……!」
【智】
「さ、3回も!?」
1回は興奮して指でやっちゃった時だけど。
あと2回はいつだったんだろう?
【るい】
「んと……んと……、キスの時と……トモの指と……、
ふぅんん……っ! もう考えられない……」
【智】
「るい……っ」
もう少しがんばる気になった。
【るい】
「うん、うんんん……っ! あはぁ……ふぁ、あ、あうぅ……くっ、んはあぁぁ……」
自分の快感をセーブしながら、
るいが感じ易いように前後運動をやめて奥をかき回す。
【るい】
「ふあっ、くうぅぅうぅぅぅんんんっ! そ、それすごい、
すごいよ……っ!」
直接的な刺激は少なくても、
結合部からクチュクチュと音が響く。
間接的に刺激される。
【るい】
「なかでトモのが……、ぐるぐる回ってるよ……!」
【智】
「も、もうダメ……るいぃ……っ! もうガマンできない…!」
どれだけ思考を逸らそうとしても、
浮かんでくるのは、るいのことばかり。
食べ物をねだるるい、無邪気に笑うるい、
仲間のために泣くるい、キスをして赤くなったるい……。
どれもこれも可愛すぎる。
【るい】
「トモぉ……、だいすきだよぉ……っ! はっ! あ、あぁあっ! 来そう、来そう、あっ! いい、いい、トモぉ、もうちょっとぉ……!」
るいの笑顔に僕の脳裏は埋め尽くされる。
頭がホワイトアウトする。
抜かなきゃ――。
掠めた思考は快感に圧倒されて消えた。
【るい】
「あ、あ、あ、あ、トモぉ、いい、イク、イク、わたしもう、イク、イク、イっちゃうよ…………っ!!」
痺れた視界の中、
絶頂に喘ぐるいが重なる。
【智】
「ぅあ……るいっ!!」
【るい】
「くぅああぁはあぁぁぁあぁぁぁ……っ!!!!」
何度も何度も腰を打ち付ける。
るいの子宮に、
ありったけの精子を放っていた。
【るい】
「あ……っ、ああ……あ……っ! あ……っ! あ……、
あ……っ!!」
るいの中で、るいの中に、出しちゃってる……。
今までのどの絶頂とも比べ物にならない快感。
頭の中で爆発した。
【智】
「あう……る、るいぃ……」
もう一度射精していた。
【るい】
「はふぁ……あはぁ……っ! と、トモのが出てる……いっぱい、いっぱい……あ……トモ……あ……」
続けざまの放出。
一滴残らず、
るいの中に精を吐き出した。
【智】
「るい……はぁ、はぁ……」
【るい】
「ん……はぁ……トモぉ……」
幸せな疲労に包まれて、るいにかぶさる。
不思議と罪悪感はなかった。
るいが妊娠してしまうかもしれない。
それでもいい気がした。
【智】
「るい……中に……出しちゃったよ……」
汗にまみれた顔で、るいが微笑む。
【るい】
「……トモの熱いの……わたしのなかいっぱい」
繋がったままの状態で、
僕らはきつく抱き合う。
【智】
「……できたら……」
どうしたい?
【るい】
「えへへへ……トモと私の子供かぁ……」
言葉にしなくても、
全身で産みたいと言っていた。
【智】
「……僕、女の子だよ?」
【るい】
「そっか、ママが二人なんだ」
父の居ない子になるかもしれない。
世間から隠れて暮らさないと、
いけなくなるかも知れない。
それでも……。
今だけは、それでもいいと、思う。
それくらいの夢を見るのは許されると思う。
【るい】
「……でも、私たちの子供だと、呪いって両方持ってるのかな……?」
そうだ、呪い。
呪いは遺伝するんだろうか?
【智】
「遺伝するなら、すごく大変だね……」
【るい】
「ホント、いっこでも大変なのに、ね!」
【智】
「そろそろ冷えてきたから、部屋に……」
るいの中からそれを抜こうとすると、
強く抱いて僕を止めた。
【るい】
「…………」
【智】
「もうちょっと、こうしてようか」
いつの間にか鋭利な月は天高く上り、
青白い光が僕たちに降り注いでいた。
テラスから戻ってきた。
【るい】
「ふっはー、なんか体の調子良くなっちゃった!」
【智】
「る、るい、声がおっきーよ」
【智】
「……ッッ!?」
カーテンのすぐ裏に茜子が立っていた。
【茜子】
「………………」
【るい】
「………………」
【智】
「………………」
長くて重い沈黙が。
【智】
「質問であります、茅場先生」
【茜子】
「はい、和久津くん」
【智】
「………………………………………見た……?」
【茜子】
「GJ」
サムズアップ。
多少顔が赤くなっていた。
【るい】
「はうう…………」
【智】
「はわ…………」
【茜子】
「では諸君、おさらばだ。わははははははは」
いつになく茜子が逃走する。
【智】
「ぎゃあああああああああああああああああ」
悲鳴。
【るい】
「は……はうぅ……! はうぅぅぅ……!」
るいはパンクしかけていた。
【智】
「茜子富めないと! 泊めないと! とめないと!
絶対言いふらされちゃうッッッ!!」
僕は錯乱しかけていた。
【茜子】
「はろーえぶりばでぃ」
【茜子】
「たいへん結構なものを見せていただきました」
ごちそうさま。
手をあわせる。
【智】
「茜子さーんッッ!!」
【るい】
「はううぅぅ……っ!」
【花鶏】
「……んん〜? 何よ三人で走り回って……」
花鶏はまだ寝ぼけまなこだった。
【こより】
「あ、るいセンパイ、ともセンパイ。ずいぶん長いことテラスに
居たんですね〜」
【茜子】
「そいつなんですがね、旦那、
おいら、すごいものを見てきましたぜ」
飛びかかって手を伸ばした。
ゴキブリのようにコソコソ逃げた。
接触禁止の呪いを受けた茜子は、
回避スキルが高かった。
【茜子】
「実はっ」
【智】
「やああああああああああああああああ」
死んじゃう!
今度こそバレて死んじゃう!!
夢も希望もなくなっちゃう〜〜〜〜〜〜!!!
【茜子】
「後ろの二人はガチレズです。テラスで股間擦り合わせて
腰振りまくり」
【智】
「…………」
【こより】
「…………」
【花鶏】
「…………」
【伊代】
「…………」
【るい】
「はううぅぅ……」
【こより】
「ええええええぇ〜っ!?」
【花鶏】
「な、なななななんですってー!?」
【伊代】
「そ、そんな……倒錯系が3人に……っ」
【茜子】
「智攻め、るい受け」
【花鶏】
「普段強気が受けに回るのは定番なのよ」
【こより】
「は、はじめて知る世界だ〜〜〜」
【智】
「あ、あ、ああああ……」
【るい】
「は、はうぅぅぅ……!」
【花鶏】
「人畜無害な顔のくせに、姑息で陰険で、マゾっぽいのに攻め……萌えるッッ」
【茜子】
「リバですな、リバ」
【るい】
「はうぅぅ……、はうぅぅぅ〜……!」
るいは、両手を頬に当てて女の子座りでへたる。
【こより】
「と……ともセンパイは、センパイは……安全だと信じてたのに
……ッッ!」
【智】
「だ、大丈夫だよこより、僕はるいだけだから……
いや、じゃなくて!!」
【伊代】
「不潔……不潔……不潔……」
【花鶏】
「強気な元気キャラが控えめな智に毎晩毎晩アンアン言わされた
……くくく、いける、いけるわ!」
【智】
「いったいなにがいけるのよ!?」
【花鶏】
「だんっぜん、やる気出てきたわ! これからは皆元じゃなくて
『るいちゃん』って呼ぶわ! 受け属性とおっぱいを併せ持つ
夢の百合戦士、今ここに誕生よ!」
【茜子】
「三人で愛蜜に溺れてくれると幸いです」
また手をあわせた。
【花鶏】
「るいちゃん、今度はわたしとぬるぬるしましょうね〜?
智もしましょうね〜?」
【伊代】
「わたし、がんばって早くオトコ作るわ……」
良識眼鏡が光源を無視してキラリと光った。
【こより】
「鳴滝もがんばりますぅ〜……っ!」
伊代とこよりがひしと抱き合う。
わたしたちだけでも清く生きましょう。
【智】
「世界って…………」
どこまでもとんでもなく性悪な、この世界。
でも、僕らはここから逃げられない。
呪いから逃げられないのと同じに。
僕らはここで生きていく。
僕らはみんな、呪われている。
さあ、明日は決戦だ。
〔のるかそるかの大作戦〕
白鞘伊代は、
ソクラテスが嫌いだ。
黴(かび)臭い車内でスカートの汚れを気にしながら、
大昔の哲学者に思いを馳せる。
【伊代】
「もうすぐね……」
ソクラテスは馬鹿な男だった。
悪法も法。
そんなことを言いながら、
毒杯あおり、冤罪に死んだという。
悪法は悪ではないか。
伊代は思う。
では、自分がしようとしている行為はなんだろう。
今から、犯罪に荷担した人間を
証拠隠滅によって救おうとしていた。
その人が「大切な友達の大切な人」だから、
という理由でだ。
独善的な理由だった。
犯罪者を庇うのは犯罪だろう。
だけど、伊代は、
自分たちのすることが間違っているとは思わない。
【伊代】
「ふふ……こんな事考えてると、また空気よめって言われるわね」
仲間たちは、命がけで、何かを為そうとしている。
危険を顧みず、あやふやな、
形なんてないもののために、身体を張っている。
そんなみんなに、
万一の事なんてあり得ていいのだろうか?
そんなことが許されるだろうか?
あってはならない。
世界が自分たちを許さないのなら、
そんなものは、世界のほうが間違っているのだ。
呪われた世界――――
前に聞かされたフレーズを思いだした。
呪われた世界をやっつける。
【伊代】
「……やっつけてもらうわよ」
伊代は、自分の信念と仲間を信じる。
【伊代】
「決行まで、あと10秒」
ノートPCのモニターの隅、
ディスプレイに表示されたアナログ時計の秒針が回る。
5、4、3、2、1……。
【こよりの声】
『ぴーっ!! 時間です時間ですっ! 総員配置につけーっ!
決行であります状況開始でありますっ! それではみなさん……
ぐっどらっくであります!』
思わず笑みがこぼれた。
こよりはいつのまにこんな声を録音したんだろう。
【伊代】
「必ずみんな、ここに帰ってきなさいよ……!」
作戦開始のメールを送った。
花鶏は暗がりに身を潜めている。
太慈興業の連中をメールで呼び出した、
ガストロノミー・ビルの屋上だ。
ガストロノミー――なんでも美食という意味だとかで、
すべてのテナントがレストランである。
深夜には無人になる。
周囲にも飲食店が多く、
屋上は真っ暗だ。
裏手はアルコールを出す店が並ぶ通りで、
深夜も明るく人通りが多い。
矢面に立つ茜子が一人、
屋上の只中に立っている。
音も無く、携帯がメールの着信を表示する。
マナーモードも振動音が鳴る為、
あらかじめ無音の着信音を設定してあった。
花鶏の手にはスタンガン。
多少改造を加えた代物で、
市販品よりましだ。
ここに来るまでに何度もテストした。
スイッチを入れると、
思いの他大きな音と共に青い火花が散る。
いくつも購入したりすれば、
後で怪しまれてしまう可能性もあった。
だから、スタンガンを携行しているのは花鶏一人だ。
深呼吸。
危険の前に、自分たちはいる。
いつかのレースの時よりも、
ずっと即物的な危機。
失敗すれば、たぶん死ぬ。
あとの二人も死ぬ。
見やる。
相手と対面する茜子の顔は、
仮面で隠されている。
きっとその下の顔も、仮面と似て、
いつもの通り表情の無いことだろう。
こよりは緊張でガチガチに固まってしまっている。
フォローは……期待できないか。
【花鶏】
「……子守りかっての」
口元が、笑っている。
花鶏は状況を楽しんでいた。
【茜子】
「………………」
茜子の傍らにはスーツケース。
件のブツが入っている。
【こより】
「だいじょぶ、だいじょぶ、だいじょぶ、だいじょぶ、だいじょぶ、だいじょぶ、だいじょぶ……」
【花鶏】
「しっ!」
空気に緊張がみなぎった。
この場に現れた男は六人。
後ろにいる態度の大きいのが幹部か。
隣の荷物持ちは、提げたアタッシュケースの中に
取引の為の見せ金を持っているのだろう。
交渉の為、前に出る男が一人。
残りの三人がボディガード。
前に二人、幹部の横に一人。
刃物くらいは全員持っているだろう。
銃まで携行しているのは、
おそらく二、三人。
花鶏は思考を巡らせる。
誰が持っている?
ボディガードか?
幹部か?
それともアタッシュケースを持った男か?
【ボディガード1】
「何だァ? お前は」
ボディガードの一人が、
異装の茜子を訝る。
【幹部】
「やめろ」
【ボディガード1】
「は、はい。すんません」
【幹部】
「……ゴトウ」
【ゴトウ】
「はい」
【茜子】
「………………」
ゴトウ、と呼ばれた男が前に出る。
茜子は無言で、
できるだけゆっくりとした動きで、
スーツケースを開いてみせる。
【ボディガード1】
「お……!」
【幹部】
「…………」
開かれたケースから白い粉の入った袋が覗いた。
途端、相手の態度が変わった。
安堵と警戒、半々というところか。
【ゴトウ】
「……確かめるぞ」
【茜子】
「…………」
茜子は無言でうなずく。
メールで呼び出して、
この場をすっぽかしていればもっと安全だったのだが。
そうもいかない。
この場所に、できる限りの人数と注意を引き付けて置くこと。
侵入に向かった二人の危険を引き下げるためには必要なことだ。
一色触発の市内状況だ。
動かせる人数は、相手だって多くない。
【ゴトウ】
「…………」
二つの目的から、見本の一つを除いて、
残り粉末小袋は1枚ずつ紙で巻いてある。
目的の一つは時間稼ぎ。
そして、もう一つは――――
【花鶏】
「こよりちゃん」
【こより】
「……」(こくり)
音を立ててもらう為だった。
紙の音がする。
それを合図に、
死角から相手の背後に回りこむ。
【ゴトウ】
「……足りない」
【ボディガード1】
「どういう事だ!」
【幹部】
「落ち着け。ゴトウが話せ」
血の気の多い下っ端を幹部が制して、
ゴトウに指示をする。
ゴトウと呼ばれた男は幹部の信頼が厚いのか、
それとも、単に非常時に切り捨てられるよう一人に
交渉させているのか。
【ゴトウ】
「残りはどこにある?」
ここに持って来たのは薬の半量だった。
もとより、交渉を決裂させて逃げる計画だ。
残りの半量は、警察署の前に捨てておいた。
とっくに回収されているだろう。
最悪、これで自分たちが失敗しても、
麻薬取引に関わった連中は道連れというわけだ。
【茜子】
「…………」
苛立ちを隠しながら恫喝するゴトウに、
茜子はもったいぶった動作で紙片を手渡す。
書いてあるのは金額だ。
相場がわからないので1億と適当に書いておいた。
――――ここまではシナリオ通り。
【ゴトウ】
「ふ……」
ゴトウが含み笑いを漏らす。
金額が安すぎたか、
あるいは高すぎたか。
その間に、こよりと花鶏は完全に背後を取った。
一人だけバイブモードになっている茜子の携帯に、
ワンコール。
配置についた、の合図。
【花鶏】
「…………」
【こより】
「ごく……」
ゴトウが指示を仰ぐため、
幹部を振り返る。
【茜子】
「…………」
次の合図は茜子が出す。
茜子は、まだ動かない。
タイミングを計っているのか。
慎重であるべきだ。
なおかつ時間は稼げるだけ稼いだほうがいい。
一秒一秒が胃に穴の空きそうなほど長い。
こよりと花鶏は焦れていく。
花鶏は信仰する。
聖なる刻印――――
呪いという欠落の刻まれた、
生まれた時から与えられた特別の徴。
私たちは、選ばれている。
それも、花鶏一人が、ではなかった。
六人もいた。
一度は運命を疑いもした。
今は好ましく思う。
茜子を、信じる。
選ばれた同胞を。
相手を目の前にする限り、
茜子は、誰よりも早くに危険と限界を察知できる。
今この瞬間にも、あの仮面の下の、
いつもと変わらぬ無表情で、相手の動きを観察しているのだ。
そう信じるしかない。
【ゴトウ】
「おい」
【アタッシュケースの男/男】
「はい」
ゴトウが顎をしゃくる。
アタッシュケースが前に出て来た。
ごく小さな鍵を挿して開いてみせる。
【花鶏】
「…………」
中身は予測通り札束だった。
どうせ見せ金だ。
たいした額は入っていないだろう。
【ゴトウ】
「前金としてここに1千万ある。確認してみてくれ」
そう言ってゴトウは一歩下がった。
アタッシュケースの男はわずかに半歩前に出るだけ。
──金を見せて誘い込み、
始末するハラか。
【茜子】
「…………」
茜子は両手で手招きをする。
簡単に誘いに乗らないのはもちろんだが、
相手の布陣を崩すのも狙いだ。
アタッシュケースの男が、
さらに半歩出た。
【茜子】
「………………」
【ゴトウ】
「…………」
もう一度招き寄せる。
アタッシュケースの男がまた半歩出た。
【茜子】
「…………」
【ゴトウ】
「……どうした? 確認してくれ」
ゴトウのこめかみの血管が脈打っている。
誘いを読まれたことに苛立っている。
【ボディガード1】
「おいッ!」
【幹部】
「止せ」
【ボディガード1】
「ち……ッ!」
【茜子】
「…………」
【ゴトウ】
「……見せてやれ」
ゴトウが、アタッシュケースの男に前に出るようアゴで示す。
さらに半歩。
茜子とアタッシュケースの距離は
3メートル以内に迫っていた。
屋上の風が強い。
【ゴトウ】
「さぁ……確認してくれ」
【茜子】
「…………」
【ゴトウ】
「何も危ないものなんて入ってない。さあ」
【茜子】
「…………」
【ゴトウ】
「前金が少ないなら明日すぐに振り込ませよう。これは
ほんの手付金だ。さぁ確認して見てくれ」
【茜子】
「…………」
花鶏は額の汗を手の甲で拭った。
……まだか。
【ゴトウ】
「……おい。いつまでだんまり続ける気だ……!?」
ゴトウが緊張に耐え切れなくなって来た時――
初めて茜子が声を発した。
【茜子】
「銃」
ゴトウをはじめ、
ボディガードたちや幹部に緊張が走る。
その顔から茜子は心を盗み視る。
──銃を持っているのは、後のボディガード、幹部、ゴトウ!
両腕を伸ばして銃持ちの男を指し示した。
【こより】
「えいーっ!」
唐突に側面から破裂音が響いて、
男たちの注意を逸らす。
こよりの投げた単なる爆竹だ。
その隙を突いて、花鶏が物陰から走り出た。
男たちは狼狽しながら、
スーツの内側に手を伸ばしている。
銃――!!
【花鶏】
「撃たせない!」
花鶏は眉間のあたりに意識を集中する。
火の花が散る様を幻視する。
花鶏の才能だ。
思考加速と、花鶏は呼んでいる。
時間の感覚が延長される。
世界を認識するのは思考だ。
思考が加速すれば、相対的に世界は減速する。
1秒が3秒に、5秒に、15秒に――――
制止した世界を花鶏の思考だけが駆けめぐる。
風の動きがわかる、男の筋肉の動きがわかる、
腱一本一本の動きがわかる、皺の動きがわかる、
目線がわかる、表情がわかる、銃を取り出そうとする仕草がわかる、
後のボディガードが銃に手を伸ばす、
スーツがはためく、屋上の風、懐に手を入れる、
足元を砂利が転がる、バランスを取る、男の左手が一瞬前に出る、
コンクリートの床の摩擦と自分の靴の摩擦、後ろへと蹴るゴム、
ふくらはぎの筋肉と骨、死角と視覚、
反動と消去と骨格の駆動、夜の空の雲、腕が伸びる、
男の時間と花鶏の時間がすれ違う。
まばたきほどの一刹那と
引き延ばされた――――数十秒。
ここは花鶏が君臨する孤高の世界だ。
男の左手にスタンガンの一撃を加えた。
【ボディガード3】
「が……ッ!?」
ひとり。
声にならない声をあげて倒れる男を確認もせず、
花鶏は幹部の側面へ滑る。
連中はまだ、自分たちの仲間が、
一人やられたことさえ認識できていない。
幹部がこちらに向き直ろうと身をよじる。
何かを言おうと口を開く。
スーツの裾が慣性ではためいて浮き上がる。
【幹部】
「ぐぅッ!」
その裾を軽く掴んで引いた。
幹部がバランスを崩して前のめりに突っ込んでくる。
すれ違いざま、スーツと首の隙間を見極めて首筋にスタンガン。
ふたり。
花鶏が加速するのは思考だけだ。
身体は追従するが元の時間に取り残される。
思考の加速で、むしろ、異常に重く遅く感じるようになる。
手足に重りをつけて、水の中を潜っているような感覚だ。
【ゴトウ】
「きさまッ!」
ゴトウが振り返る。
雲が散る、残りのボディガードたちが刃物を抜く、
智たちは無事だろうか、茜子が距離を取る、
こよりが撹乱のためもう1発の爆竹を投げ込んでくる、
ゴトウの手が動き、懐に入った手、内ポケットかガンベルト、
スーツの中で銃を掴む、こよりの手から放たれた爆竹が飛ぶ、
空中に描かれるのは美しい半孤、ゴトウの目の前へ、
まき散らされる火花、回転する、回転する、回転する、
灰に変わる導火線、炸裂までおよそ0.3秒、
ゴトウの手がスーツから現れる、銃を握っている、
黒い穴、
簡単に人を殺す弾丸を打ち出す銃口、ゴトウの目、
呪いに似た黒い虚ろな穴、この男は爆竹の炸裂にひるまない、
撃ってくる、このままでは死。
爆竹が炸裂した、
ゴトウの肩から、二の腕の筋肉が収縮する。
花鶏の骨が悲鳴をあげる。
加速した思考が強制する命令についけない肉体が泣き言をいう。
水に潜るのと同じだ。
花鶏といえど孤高の世界に長く留まってはいられない。
でもまだだ、今はまだ引き戻されるわけにはいかない。
引き金が引かれる、銃口、呪いの口が真っ直ぐに花鶏を射る、
まっすぐ額を狙う、倒すしか、
前へ倒れこむ、自分から、呪い、意識する、
花鶏の肩のほんの数センチのところ、追いついてくる呪い、
裏返しの聖なる痕跡、銃弾がかすめる、地面が遠い、
無限に伸びる一瞬の永劫、片手をついて、もう少し、
地面を蹴る足はまだつかない、あと少し、前へ、
長大な時間がそれこそまどろっこしい、
手の平とヒザ、擦り剥いた、
痛い、あとでいい、あと、
――――――――――――少し!
【花鶏】
「んっ!」
滑り込んで、ゴトウの足首に
スタンガンの火花を食らわせた。
【ゴトウ】
「ぐぁ……ッ」
【花鶏】
「……三人」
数秒間押し付けて意識を奪う。
覆い被さるように倒れてきたゴトウをかわすと、
茜子がすでに災害用の避難梯子を出していた。
思考加速を解いて、
花鶏は世界に帰還する。
そこは花鶏一人の場所ではない、
みながいる場所だ。
銃持ちは全員始末した。
これで逃げ切れる。
成功だ。
【こより】
「お見事であります!」
【花鶏】
「…………楽勝」
疲労と荒い息を悟られないようにする。
これほど長い時間、
連続して思考加速した経験はあまりなかった。
こよりも茜子の方へ駆け出す。
あとは繁華街に逃げるだけ……!
【ボディガード1】
「待てコラァッ!!」
花鶏はヒヤリとした気配に振り返った。
反射的に加速する。
鬼のような形相、怒声、
さっきの気の短い男、手には匕首(あいくち)、
振り下ろしてくる、自分の体勢、
身をひねっている、足は前を向いていた、
不安定な姿勢、擦り剥いた膝が傷む、
――――ッ!
体勢と疲労が次の駆動を制限する。
下の繁華街のネオンが青く匕首に反射して光る、
重力と男の筋力、匕首の切っ先、
緩やかな孤を描く銀の光、
真っ直ぐに落ちてくる、自分に、
刃――――
……避けきれない!
引き延ばされた一瞬という名の流延の刹那が、
ご丁寧に死を覚悟する余裕まで与えてくれる。
狙われているのは肩、
鎖骨は叩き折られる、
痛みに崩れる、
そうしたら終わり、
とどめに刃が腹に落ちてくる、死ぬ、
こんなことで死ぬのか?
こんなところで死ぬのか?
死にたくない、だけど避けられない。
思考は世界を追い越して、
花鶏に冷酷な現実を突きつけ、
身体は待っても追いついてこない。
こいつが自分にとどめを刺しても、
相手の戦力はボディガードが一人だけだ。
茜子とこよりは逃げ切るだろう。
よかった。
落ちてくる刃を見ながら、思う。
よかった?
自分はいつのまにそんなお人よしになった?
こいつらの影響か? 自嘲するヒマさえある。
(まあ……いいわ)
最後の思考なのに締まらない。
だが、もうこれ以上考えてもどうにもならない。
大人しく殺されてやろう。
【こより】
「花鶏センパイッ!!」
まさか?
こよりが走ってくる、
いや跳んで来る、花鶏と刃の間へ、
花鶏はノロノロと動く、
自分の手を伸ばそうとしている、
この子は死のうとしてるのか?
自分を助けるために?
そんなバカな、釣り合いが取れない、
そんなバカな、逃げれば逃げ切れるのに、
そんなことが、そんなことが、そんなことが、
そんなことが、そんなことが……ッ!
手は届かない。
孤高の世界からは、こよりはあまりに遠すぎて。
【花鶏】
「ダメ……ッ!!」
自分の顔に降りかかる鮮血に怯えて、
それでも目蓋を閉じられずに悲鳴を上げた。
【こより】
「きゃっ!!」
【ボディガード1】
「な……に?」
【花鶏】
「…………!」
──刃は止まっていた。
【こより】
「ほ、ほんとに取れた!」
『真剣白刃取り』――
こよりの小さな手が、
魔法のように刃を挟んで食い止めていた。
【こより】
「ええい!」
【ボディガード1】
「う、うわッ!?」
間髪入れず刃を引いて、
男のバランスを崩す。
助かった!
【茜子】
「逃げましょう」
【こより】
「昨日の自習が役に立っちゃいましたよ!」
【花鶏】
「あなたの、才能って……」
【こより】
「えーっと……再現、するんです」
他者の運動を寸分違わず正確に、
自分の身体へコピーして再現する。
それが、こよりの『才能』だった。
【花鶏】
「…………」
呆然としていた。
花鶏は、こよりに手を引かれてようやく駆け出す。
あとは避難梯子で繁華街に逃げ込めばいい。
なにしろ災害時非難用だ。
匕首なんかでは簡単に切断できない。
陽動チームの作戦はこれで終了。
【こより】
「きっとこれで完璧です!」
しかし、梯子を下りながら花鶏はため息をつく。
【花鶏】
「ふぅ……笑えない」
【こより】
「るいセンパイ、ともセンパイ、うまくやってますかね〜?」
【茜子】
「……むしろ噴飯もの」
茜子は、ケロリとしたこよりを見て、少し笑った。
それから、伊代へ作戦成功のメールを送信した。
太慈ビルの壁面。
昔のマンガとかで出てくる、
手足につけると壁を登れる吸盤。
あれっていつのまにか実用化されてたりしないのかな……?
壁を登る疲労を、
他愛無い妄想に逃がす。
辺りは静まり返った深夜の街。
目標は3階。まだ2階半ばだ。
【るい】
「トモ、だいじょぶ?」
【智】
「あんまり大丈夫じゃないけど」
るいは、すいすいと登っていく。
ほとんど引っかかりも無いビルの外壁を、
僅かな手がかり足がかりを頼りに音もなく登る。
僕はそうはいかない。
るいの示した手がかりを頼りに、
ぎこちなく進んでいく。
【るい】
「おなかすいた〜」
【智】
「……余裕ありあり」
出来る子はこれだから!
嫉妬してやる。
【るい】
「え、なんかいった?」
なんとか3階へ到着する。
息が切れているのは僕だけだ。
【智】
「はぁ……はぁ……疲れた……」
下見の時に、こよりの観察した通り。
3階より上の窓は、
施錠はあるがセキュリティは付いていないようだ。
普段、1階から3階は水商売の店舗が入ってる。
この抗争を控えた事態のせいで休業中だ。
少なくとも、ここまでのフロアに人影はない。
息が整うのをしばらく待つ。
【智】
「さ、はやくやっちゃおう。花鶏たちもそんなに長くは時間
稼げないよ」
【るい】
「ぽす」
るいから、ターボライターとマイナスドライバー、
ビニールテープを受け取る。
古いビルが相手なら、この程度のアイテムで
簡単に窓は音も無く破れてしまう。
まずはビニールテープを窓に貼って、破片の飛散を防ぐ。
次はターボライターだ。
【智】
「るい、こっち」
【るい】
「うにゅ」
るいと僕がライターの火を体で覆って外から隠す。
ターボライターを窓ガラスに当てる。
しばらく待つ。
【智】
「そろそろいいかな」
マイナスドライバーで熱した部分を小突くと、
ほとんど音も無く、窓に小さな亀裂が走った。
2箇所、3箇所と繰り返して、
手の通るサイズに穴を開ける。
手を差し込んでクレセント錠を回した。
二重ロックなんて意味もない。
【智】
「開いたよ」
【るい】
「さっすが、トモ」
こういうことで誉められるのは複雑だ。
音を立てないよう慎重に窓を開ける。
ビルの中に滑り込んだ。
【智】
「………………」
気配はない。
エレベーターは動いていないので、
非常階段を使って階上を目指した。
【るい】
「やっぱり、こういうのは最上階かな?」
【智】
「たぶんね」
スニーカーで廊下を蹴る。
スニーカーとはすなわち「忍び寄るもの」、
厚いゴム底はもともと足音を立て難いが、さらに慎重に。
一歩一歩、踏み出す足を踵から爪先へ、
じわりと地面に貼り付けるように廊下を進んだ。
【るい】
「あ……!」
るいの口を慌てて塞ぐ。
人影か?
いや違う。外の道路を走ったライトが、
道路標識の影を投げかけただけ。
【智】
「外からも確認したし、物音もなかった。人は居ないはずだよ」
【るい】
「あ、うん。ごめん」
足音を殺したまま4階へ、
ここも人の気配なし。
そして5階、やはり無人だ。
偵察で、ビルの構造はだいたい把握している。
行き当たる。
何の表示もなく冷ややかな顔で閉ざされたドア。
目的のものはここにあるはずだ。
【るい】
「こんなの一発だぜえ」
ビルの中で安心したのか、各部屋の防犯対策は甘かった。
施錠こそ為されているが、ドアノブ内にシリンダー錠を
埋め込んだ鍵だ。
技術があればピッキングでスマートに開けられるのだろうけど、
このタイプの鍵なら、いっそノブをもぎ取ったほうが速い。
【るい】
「うし」
るいが、バールのようなものの先端を、ノブの根元に引っ掛ける。
【るい】
「ふんっ!」
ほとんど力を入れたようには見えないのに、
あっけなくドアノブがシリンダーごと引き抜かれる。
【智】
「パチパチ」
【るい】
「誉めれ誉めれ〜」
悠々とドアを開いて踏み込む。
内部にはセキュリティ装置があるが、
伊代に無力化されている。
エラー発生を示す赤いダイオードがむなしく点灯していた。
【るい】
「意外と余裕だったね」
【智】
「遠足はおうちに帰るまでが遠足です」
【るい】
「トモは時々むずかしいこという」
【智】
「……むずかしいの?」
室内に目を走らせる。
PCが2台。オンラインで繋がっている以上、
中のデータは伊代が消去してあるはずだ。
復帰も出来ないようにゴミデータを上書きする念入りな方法でだ。
こいつは無視してもいいだろう。
僕らが確保しなければならないのは、
そのデータのバックアップの方だ。
【るい】
「バックアップって……やっぱりDVDとかかな」
薄汚れた外壁をよじ登って、埃だらけになった潜入用の衣装を
脱ぎ捨てたるいが訊いてきた。
【智】
「マニアックなところで、ZIPディスクとかだったりして」
【るい】
「なにそれ? そんなの聞いたことないよ?」
手分けして室内を探す。
お目当てはCD、DVDなどのディスクだが、
隠蔽しやすさを考慮して、フラッシュメモリなどに
データを入れられていると厄介だ。
虱(しらみ)潰しに探し続けて、
それでも見つからなければ、
最悪放火も考えている。
できれば避けたい手段だけど。
【智】
「あ……、あった」
【るい】
「お?」
悩んだわりに、デスクの引き出しを引き開けると、
あっけなく見つかった。
【智】
「金庫だ」
【るい】
「金庫だ」
ファイルなどを立てて収納できる縦長の引き出しの中に、
耐火金庫がどっかりと納まっている。
重要なデータ類のバックアップは、
この中に収められていると見ていいだろう。
【智】
「でもこれは……」
プッシュ式の暗証番号と鍵で開錠するタイプ。
これは、いくらなんでもこじ開けられない。
伊代がいれば番号は解けるかもしれない。
それでも鍵がない。
電動ドリルでもあれば意外と穴を開けられるらしいけど、
そんな工具もここにはない。
おまけにこれは耐火金庫。
最後の手段、放火のラインも消えた。
【智】
「やっぱりツメが甘いな、僕は……」
これくらい予想してしかるべきだったのに。
一旦逃げて出直す?
ダメだ。
今回の侵入のせいで、
ビルの警戒は格段に上がる。
二度目はない。
それに、侵入の狙いがバレれば、
相手は報復として握っている証拠を
すぐにも使ってくるかもしれない。
【智】
「くそっ」
【るい】
「簡単じゃない」
【智】
「んな?」
考えれば考えるほど閉塞していく思考に迷っていた僕に、
るいが軽やかに笑って見せた。
【るい】
「だいじょぶ。おねいさんにお任せ!」
にかっと笑う。
るいは腕まくりして気合いをいれると、
重い耐火金庫を引き出しの中から引きずり出した。
【るい】
「んんんん〜……!」
【るい】
「ふぅ」
すごい。
そりゃ、バイクを投げられるんだもんね……。
とりあえず金庫をテーブルの上へ移動させる。
これなら肩にでも担げば確かに持ち運べそうだ。
僕も横から支えるくらいの手伝いはできるし。
【るい】
「でも、こっからどーすっかだね」
これを持って壁を降りるのは不可能だ。
となると、
【智】
「……1階から出よう」
るいが、にかりと笑う。
言葉はいらない。
なくても通じ合っている。
実感がある。
るいが金庫を担ぎ上げる。
僕が傍らから支える。
どうせ侵入したことはバレる。
家捜しの跡はそのままにして部屋を出た。
【智】
「るい、重くない? 大丈夫?」
【るい】
「重い〜、でも、だいじょぶ!」
こより一人分より重いだろう金庫を背負って、
元来た道を慎重に戻る。
4階、3階……。
2階はラウンジやスナックの店舗が入っている。
資金源なんだろう。
やはりここも今日は営業していない。
人影はなかった。
仮に店舗の中に人が居たってかまわない。
僕らは気づかれずに素通りして外へ出るだけだ。
1階玄関は施錠されているだろうけど、
中からなら簡単に開けられるだろう。
【智】
「――るい!」
【るい】
「…………」
1階から足音がした。
るいのモードが切り替わる。
警戒し、毛を逆立てた獣を思わせる。
群れを守るために戦う母親みたいな、
とても綺麗なるいの横顔。
【るい】
「いる」
【智】
「…………っ」
ガードマンがいたのか?
気配を窺う。
足音は移動していた。
こっちへ来るのか?
やり過ごせるか?
【智】
「るい」
【るい】
「ここ、開いてる」
【智】
「そこ!」
閉店してテナントが入らないままのスペースだ。
よくわからないガラクタの放置された、
小さなショーケースが外に見えるようにはめ込んである。
元はちょっとしたダイニングバーだったか、
それともいかがわしいアイテムの類を売る店だったか。
埃の舞い上がる暗闇に、僕らは身を潜ませる。
足音が階段を昇ってくる。
どうやら見回りのようだ。
【見回り】
「だりぃな。さっさと済ませて一杯飲んで寝るか」
【智】
「まずい、鍵を確認してる」
【るい】
「ここ、もとから開いてたんだよ?」
どうする?
鍵は中からも閉められる。
閉めるか?
このまま身を隠しつづけるか?
【智】
「……ドアの裏に隠れよう」
見回りの男が近づいてくる。
声。歩幅。
男の実体を描き出す情報に耳を済ませる。
声は酒焼けしたようなガラガラ声。
歩幅は広く、一歩一歩がしっかりした足取り。
雇われの老人ガードマンじゃない。
太慈興業の構成員か。
だとすると交戦は危険だ。
こっちは二人。
るいは強い。
けれど、相手は武器を持っている可能性が高い。
刃物ならまだいい。
もっと恐ろしいものだったら。
【見回り】
「お……」
ドアが開く。
僕らの潜んだ部屋を、
懐中電灯の光が横断する。
呼吸まで止めて気配を潜めた。
ドアの裏で男の気配が動く。
室内に埃が舞う。
生暖かい汗が首筋をくすぐった。
【見回り】
「……そうか。ここは潰れたんだったな」
乱暴にドアが閉じられて、
男の足音は遠ざかっていった。
【智】
「ふぅ〜」
時間にしてほんの10秒程度。
長く感じられた緊張の時間を脱して、
僕は大きく息を吐いた。
ケロリとしている、るいが頼もしい。
【智】
「見回りが上に行ったらここを出て―――」
【るい】
「ん? どしたのトモ?」
【智】
「しまった! 3階の窓……!」
【るい】
「あ! 壊したんだった!」
【見回り】
「ガ、ガラスが……なんだこりゃぁ!!」
【智】
「逃げないとっ!」
【見回り】
「……はい! はい! 3階の窓がやぶられて……!」
男が連絡を入れている!
すぐに仲間が来るだろう。
何人くらいだ? 時間の余裕は?
人気は無かったけれど、
最初から1階に人が居た可能性だってある。
抗争を控えた時期だ。
ビル内の店舗を閉店させたのは、
1階に兵隊を控えさせる為だったのか!?
【智】
「も、もう逃げ場が……!」
悪い予想は当たる。
この世界はやっぱり呪われている。
階下からどやどやと、
数人の荒っぽい足音が上がって来る。
すぐに5階で金庫を盗んだのはバレる。
1階に見張りが居たなら、
そこから誰も出ていないこともバレる。
ビルの中を虱潰しにされたら、すぐ見つかる……!
【るい】
「トモ!」
るいが窓へ目配せする。
あそこから逃げろと言う。
【智】
「金庫はどうするの!」
【るい】
「大丈夫! 必殺っ!!」
【智】
「え、ひっさ……!?」
どこかで聞いたフレーズだった。
るいが窓を開けた。
渾身の力を込めて金庫を持ち上げ――
【るい】
「ぅうりゃあぁぁぁーーッ!!」
投げた!
鋼鉄塊の弾丸が、
放物線を描いて階下に飛ぶ。
【智】
「――――ッッ」
思わず耳を塞ぎそうになった。
幸運にも大きな音はしなかった。
【るい】
「トモ!」
【智】
「う、うん」
るいが飛び降りる。
2階の窓からアスファルトの路面に躊躇も無く。
当然無傷だ。
出来る人は、
これだから…………。
【智】
「無能だなあ」
学園でお姉様と慕われる、優等生の嘘の下は、
とんだ無能モノだった。
それも悪くない。
慎重に窓の外に出る。
登りの時の要領で壁面に張り付く。
外側から元通り窓を閉めた。
鍵は掛かってないけど、閉店した店舗だし、
気づかれないはず……。
論理思考に逃げていた頭を現実に向ける。
【智】
「くらっ……」
下を見たら眩暈がした。
2階なんてたいした高さじゃない。
同じくらいの高さからだって落ちたことがある。
もっと高い場所から飛んだことだってある。
気休めっぽい……。
一度一度が人生なんだ。
何度見下ろしても怖いモノは怖い。
死にはしなくても落ちたら足くらいは折る。
【智】
「――――っ」
男たちの足音が近づいてくる。
見られたら逃げ切れない。
覚悟を決めて飛ぶしか……
【智】
「あっ!!」
【るい】
「トモっ!」
思った瞬間に足が滑った。
内臓が浮き上がるような不快感。
思考が一瞬で凍りつく。
ジェットコースターを思い出す。
二度と乗るまいと心に決める。
って!
……落ちる!
【智】
「――――――!!」
夜が流れる。
下から上に。
世界が全部溶けていった。
ポキッとかゴキッとかコキャッとか、
いろいろ骨の折れる音を想像していた。
でも、
激突の瞬間はいつまで待ってもやってこない。
柔らかなものに受け止められていた。
【智】
「……るい」
【るい】
「えへへ、お姫さまだっこ〜〜」
ビルの窓際から落ちた僕は、しっかりと、
るいにお姫さまだっこでキャッチされていた。
【智】
「なんか、逆だ」
【るい】
「気にしない気にしない」
くるくる回る。
るいは僕を抱いたまま、楽しそうに回っていた。
【るい】
「いっくぞー!」
走り出す。
金庫の落下したところへ。
このままアレを拾って逃げ出せば完了だ。
【るい】
「あはははははっ、ははっ、あはは」
まるで解放されたような、
るいの楽しそうな声。
気づかれるだろ、
と怒ってもききやしない。
その笑い声に長い一夜の終わりを感じ取る。
くそぉ、すごく悔しい。
今度は僕がお姫様抱っこしてやろう。
その時はベッドに運んでやろう。
【るい】
「うわーい!」
笑いながら逃げさる僕らの背中を、
闇が隠してくれていた。
【智】
「伊代!」
【伊代】
「おかえり!」
指定の場所。
裏路地の前に、
例のオンボロ車が待っている。
【こより】
「いよ子センパ〜イ! あ、それにともセンパイ、
るいセンパイもっ! お疲れ様であります!」
【るい】
「こより〜! いいこいいこ〜」
【伊代】
「それ、なんなのよ?」
【智】
「友情努力勝利の戦利品!!」
【伊代】
「とりあえず車に。話は帰ってからにしましょ」
【るい】
「そだね。あ、どういう風に乗る?」
【智】
「6人乗れるんだっけ?」
【伊代】
「普通は4人乗りだ」
【智】
「ツメの甘さ、またしても露呈」
【るい】
「そういえば誰も突っ込まなかった……」
【伊代】
「だって、普段わざわざ車なんて乗らないし」
【茜子】
「茜子さんは手荷物扱いでトランクに乗ります。
ちなみに新幹線便で動物は送れませんが、亀だけは例外的に
送れるのです。今日だけはトータス茜子です」
【智】
「豆知識だ」
【伊代】
「で、あなたは助手席ね」
【花鶏】
「ふあ……、なんでわたしが?」
【伊代】
「あなた、寝るでしょ」
【花鶏】
「ね、寝ないわよ。……ふあぁ〜……」
【こより】
「寝ますね」
【るい】
「寝る寝る」
【花鶏】
「二人とも、帰ったら双頭バイブでッ!
……はふ……ふああぁ……」
【智】
「最初はソフト百合百合だったのに、最近どんどん
ハードコアに……(泣)」
【伊代】
「こなれてくると人間変わるのよね」
ファラオのように両手を胸の前で
クロスする茜子と金庫をトランクに入れ、
立ったままうつらうつらしてる花鶏を助手席に押し込む。
後部座席にこより、
挟んで僕とるいも乗り込む。
【伊代】
「みんな乗った? できるだけ距離離すためにちょっと飛ばすわよ!」
【智】
「ばんばん飛ばそう」
【こより】
「見てください、寝ますよ寝ますよ〜。3、2、1」
【花鶏】
「グゥ〜……」
【るい】
「ホントに寝た」
【伊代】
「こいつだけ高架下に捨ててきてやろうかしら」
ひゃっほう!
そんな意味不明の言葉を叫び出したい高揚感。
僕だけじゃない。
るいも、こよりも。
伊代も珍しくケラケラと笑って、
茜子はトランクの中から謎の怪音を響かせていた。
花鶏はすっかりお休み中。
とにかく、最高の気分だった。
車はオンボロの割に結構なスピードで走る。
帰ろう。
帰ろう。
ぜんぶ、終わったんだ!
〔勝利の後の顛末〕
【キャスター】
「……さらには県警本部も応援に駆けつけ、麻薬取引のルートに
ついても厳重な取り調べが行われる予定です」
【キャスター】
「村雨丸坂の銃撃事件に端を発した今回の事件は、
史上稀に見る大捕物ということが」
【智】
「おろ」
【こより】
「おうおーう! すごいことになってますですよ!」
【キャスター】
「仮面をつけた女など数人の暴漢に襲われた、と証言しており、真偽の程を……」
麻薬取引の主犯格として、
五藤敬二(35)の写真が画面に映っていた。
【るい】
「テレビはもういいから、ねえねえ」
るいは、すっかり待つのに飽きていた。
【智】
「おおよしよし」
待たせるのも悪いから、行くとしよう。
外は陽光燦々と輝く真昼。
卓上には、いっぱいの料理。
腕によりをかけた、祝勝会の品々だ。
【るい】
「食べるぞー!」
【こより】
「鳴滝も海賊のように飲み食いしますよぅ〜!」
太慈興業が何者かに襲われたという事件は、
伊代がネットに流したせいで、
その日のうちに衆目の知るところとなった。
それが引き金で状況は激動した。
弾ける寸前の風船に針を刺したみたいに、
街は一気に破裂してしまったわけだ。
小さな抗争が立て続けに起こった。
発砲事件なんかもあった。
怪我人も出て、当然、警察も動いた。
警察署の前にさり気なく捨てておいた麻薬は、
警察の手に渡って、これまた大騒ぎになった。
事件の発端に少なからず関わった僕らは、
巻き込まれて怪我をした人たちに何を言うべきだろうか?
それとも、僕たちはただの発端に過ぎないのだから、
何の責任もないと言うべきだろうか?
よく、わからなかった。
どこに線があるのか。
あらゆるものを区分けする、見えない線は――
街は二転三転の大騒ぎをした。
幾度も眠れない夜を過ごし、ようやく、
ここ数日で落ち着いてきたところだ。
【伊代】
「あら……もう昼だったの。おなかも空くはずね」
【茜子】
「茜子さんもエネルギー補給しないと、血の涙を流して立ったまま死にそうです」
【智】
「そういう死に方はしたくない」
作戦会議に使ったテーブルの上。
使用済みのメタルフィギュアや模造紙は
適当に押しやられて、たくさんのお料理が並ぶ。
【伊代】
「わ、わたしの作った料理もあるから」
【こより】
「うっは! いよ子センパイ運動会弁当ですよう!
でも、から揚げもおにぎりも大好きですよう!」
【茜子】
「さすがおかん」
【智】
「伊代、他にもいろいろ作ってくれたよ」
花鶏邸のキッチンを借りて、
みんなでお料理をした。
僕が中心になって料理を用意した。
伊代もかなり手伝ってくれた。
高野豆腐としいたけの煮物とか、里芋の煮転がしとか。
どれも地味だけどとってもおいしそうだ。
【花鶏】
「こよりちゃんは何を用意したの? 女体盛り?」
【こより】
「ち、違いますよう! 鳴滝スペッシャルセレクトの
スナックちゃんたちですよう!」
【花鶏】
「そのポテトをこよりちゃんに挟んで、とろりとした透明ソースで戴くんでしょう?」
【こより】
「ぽてちさえエロスに繋げる性的な人が居ます〜っ!」
【智】
「よしよし」
【こより】
「ともセンパイ〜」
【智】
「花鶏は何用意してくれたの?」
【花鶏】
「え、わたし? 野菜スティックよ。ディップソースにつけて
食べるやつ。手軽だし定番でしょ?」
【こより】
「これ、ほとんどセロリですよう〜!」
こよりはセロリが嫌いらしい。
花鶏の好きな食べ物(ピーマン、セロリ、ニンジン)は、
どれも、こよりが嫌いだ。
【智】
「まあ僕もセロリはあんまり……」
【花鶏】
「わかってねぇわ」
【るい】
「私も、私も!」
【伊代】
「何つくったの?」
【るい】
「ちくマヨ〜っ!!」
【茜子】
「これがちくわにマヨネーズを詰めただけのものじゃなかったら
……明日地球は爆発する!!」
【智】
「しないしない」
【るい】
「トモに言われて隠し味の黒コショーも入れたよ」
【茜子】
「ハイテクすぎ」
泣き濡れていた。
【智】
「そういう茜子は何か作ったの? 見てないけど」
【茜子】
「ふふ……茜子さんは人類の英知の結晶を作ったのです」
【智】
「ほほう、人類のえーち」
えーっ恥、の間違いっぽい。
【茜子】
「こんなことを聞いたことがありませんか。『プリンに醤油を
かけたらウニの味がする』」
【こより】
「先生ー! こよりん、あります!」
【茜子】
「それを利用してプリンと醤油で作った『ウニの軍艦巻き偽造事件』!
それが茜子さんの料理なのです」
【伊代】
「ちょ……それってプリンの軍艦巻き?」
【るい】
「う、うえぇ〜。プリン嫌いだよ〜」
【花鶏】
「ソコか! じゃなくてプリンと酢飯が気持ち悪いんでしょ」
【智】
「邪悪料理」
【茜子】
「ガチレズボク子さんはお口が悪いです」
【こより】
「さあさあ、ではでは、お堅い話はそれまででー」
【こより】
「大作戦の成功を祝して、みなさんカンパイでありますー!!」
【みんな】
「かんぱ〜い!」
席を外して戻ってくると、そこは地獄だった。
【花鶏】
「あきゃーっ! えべれあばらーっ!!」
上がる奇声。今のは花鶏か?
【智】
「ここが時空を超越した窮極の混沌の中心か……」
狂気の無秩序と混迷の、想像も及ばぬ
恐るべき地平から訪れた、怪異の世界が現出していた。
【こより】
「うへは〜! ともセンパイらーっ! あ、あっちにも
ともセンパイらーっ! うへはは〜!」
すっかり酔っている。
【伊代】
「うるあぁぁーッ! あらしがちょっろノーブラになったら、
男どもなんれイヒコロなんらかられーっ!! しねーっ!!」
【智】
「伊代まで……」
頼みの綱の伊代が揺れていた。
ぷるんぷるん揺らしながら暴れていた。
ていうか、死ねーって誰に言ったの!?
【智】
「そうだ! 茜子なら……」
良識に期待できないので、
超越善悪に望みをかける。
冷静な茜子ならきっと大丈夫に違いない。
【茜子】
「…………」
いつもと同じ無表情。
【茜子】
「あ仮せブちのG・グランド運ッシャーめると、か魔利する時に場カラバラカラでム市ます」
【智】
「…………」
【茜子】
「代々エロン・マカッカンジーの酢ファント無仲田がバイオ愛ふぁし姪根塔で奈狩りますから。大丈夫です」
深淵なる混沌の世界へ旅立っていた。
【茜子】
「タボラ再君もほら、この通りみなさN3ダーマダーマダーマ……、アッ! キプロス暗黒太刀魚ファンシーですから。大丈夫です」
【智】
「ぜんぜん大丈夫じゃないよ!」
微妙に意味わかりそうでわからないし。
【伊代】
「あんららはわかっれないのよ! もうこうなったらわらひの
本気見せてやるわ! しねーっ!!」
伊代はテーブルの上で仁王立ちになる。
脱いだ。
【智】
「ちょちょちょちょっ! 伊代、ダメ! 脱ぐ、ダメ! 服、着る!」
【こより】
「伊代ひぇんぱいはわかっれないのれすよ〜! 鳴滝のカラダの
ほうが犯罪っぽくていいんれすよ〜! 見れー! キャハハハハ!」
【茜子】
「あらかじめ怪音とアンダームンクぼ用意して鎌したので
茜子さんもト手パッ子リス丼田々です。大丈夫です」
こよりと茜子まで脱ぎ出した。
と、桃源郷!?
いやいやいや、正気になれ自分。
【伊代】
「なんらとぉ〜!?
わらひのおっぱいにケチつける気かぁ〜っ!?
ものども、そいつをひん剥けー!!」
【こより】
「さー・いえす・しゃー! 解剖でありまひゅ〜っ!!」
【茜子】
「全部ヂョイ・ポラ尿素ですから。大丈夫ですから」
伊代の号令一下。
こよりが襲いかかってくる。
茜子は遠くで熱心に柱に話しかけていた。
裸ソックスならぬ、裸手袋……斬新だ!!
【智】
「ぎゃわああああああああああああ」
【智】
「お、お助け!」
溺れるものは藁をも掴む。
毒には毒の論理で、
劇薬花鶏に救いを求めた。
そのハードコアパワーを、いまこそ!
【花鶏】
「……すぅ、すぅ……。おツユがいっぱい出てるわよ……
むにゃむにゃ……」
超寝てました。
【智】
「この役立たずーっ!」
【伊代】
「はひぇひぇひぇひぇ……、しねーっ!」
【こより】
「うへへへへへ、ともセンパイのはどんな色れすか〜っ!」
【茜子】
「大陸式マンボですから。ワチュ・モヘ氏ですから。大丈夫です」
【智】
「ぎゃーーーーーーーーー」
捕まって剥かれたら人生が終わる。
言葉通りの意味で殺される。
【智】
「るーいーーーっ!」
僕の無敵超人を呼ぶ悲鳴の笛!
【るい】
「うぅぅぅぅ〜…………」
呼びかけに応えるように、
床のほうから低いうめき声。
【智】
「るい、るい! 助けて、剥かれちゃう!」
【るい】
「わ……私はもうダメだ……人生50年……」
三角座りで青い顔をして、
あらぬ方向を見つめていた。
【るい】
「しょり……しょり……、う、う、ううぅぅぅ〜……しょり……
しょり……」
千切りのキャベツを1本ずつ食べている。
【智】
「つ、使えない!!」
【るい】
「る〜るる〜〜〜……しょり……しょり……ううぅぅぅ〜……」
【花鶏】
「ぐぅ、ぐぅ……ここかー、ここがええのんか〜?
……むにゃむにゃ〜……」
【伊代】
「しねーっ!!」
【こより】
「あ、あそこにも、ともセンパイらーっ!!」
【茜子】
「真プラさるし、円剛毛です。大丈夫です。大丈夫ですから」
阿鼻叫喚。
戦い済んで日が暮れて。
【るい】
「ううぅ……気分わるい……」
【伊代】
「あ、頭ズキズキする……」
【花鶏】
「眠い……」
【こより】
「ズルズル……寒気がするであります……」
【智】
「ひとそれを自業自得という」
【智】
「あれ、茜子は平気なの?」
【茜子】
「茜子さんは大丈夫です」
【智】
「っ!!」
「大丈夫です」というフレーズにビクっとする。
【茜子】
「…………」
【智】
「…………どうやらいけそうね」
【茜子】
「ちょっと胃が痛くて口の中が血の味がしますが」
【智】
「全然大丈夫じゃないだろ」
命をかけた大作戦も成功を収め、
阿鼻叫喚の祝勝会も無事終わる。
ひとまずの、終わり――――――
ひさしぶりの穏やかな夜を眺めながら、思う。
あれ以来なにごとも無いところを見ると、
どういうわけか、僕の呪いはセーフだったらしい……。
〔通じた想い〕
しばらくは落ち着いた日々が流れて、
季節も移り変わり、夏が目の前にきた。
【智】
「今日はラザニアでいい?」
【るい】
「男っぽい料理にするんじゃなかったの? キムチ焼肉丼ばっかり作るって言ってたのに」
【智】
「……気が変わったんだ」
お姫様だっこ以来、少しは男っぽくなろうと、
外見はダメだから食生活だけでもと努力した。
やっぱり向いてなかったのだ。
十年以上の女の子生活で培われた性癖は、
アイデンティティの奥深くまで染み込んでいる。
るいと暮らしはじめた生活にも慣れた。
もともと荷物なんて無かった、るいだ。
そのまま居着いてしまうだけで、引っ越しは済んだ。
一点。
僕のモノでないベースギターが、
部屋の隅を占領するようになった。
それだけが、るいの持ち込んだ持ち物だった。
【智】
「るい、明日は何が食べたい?」
【智】
「…………あ」
以前よりずっと近くなった、るいとの距離。
それでも、日々のふとした折々ごとに、
呪いのことを思い知る。
【るい】
「………………」
るいは微笑むだけ。
未明の制約。
約束と未来は、るいの言葉にはならない。
繋がらない心を重ねて生きる。
寄り添い、肌を触れ合わせ。
僕らは言葉の代わりに想いを伝えあって。
でも。
少し、寂しい。
仕方ないのだとわかっていても、誰よりも、
僕自身がそれを他の誰より知っているとしても。
言葉に出来ない想い。
明かすことの出来ない嘘。
僕らはみんな、呪われている。
いまでも。
いままでも。
この先も、ずっと。
しんみりした気分で、
味噌汁の具の葱をみじん切りにする。
心地よいリズムに陰鬱を払わせる。
【るい】
「トモ……」
【るい】
「ん……」
背中から、るいが甘えてくる。
ごく自然な仕草でキスを交わした。
【智】
「今日のごはんはおいしいから」
【るい】
「いっつもおいしいぞ」
【るい】
「あ、なんか郵便来たよ」
【智】
「見てくる」
郵便受けをのぞく。
今時珍しいアナログの手紙が投函されていた。
死んだ母さんから届いた不思議な手紙を思い出す。
思えば――
僕らはあの手紙から始まった。
不思議な縁だ。それとも運命?
同じ痣に導かれていつかは出会う、そんな宿命?
【智】
「んで、なんの手紙だろう?」
手紙を送ってきそうな相手……。
心当たりはあまりない。
【智】
「あ……」
封を切って落胆した。
【るい】
「なになに?」
【智】
「…………るいの、遺産分配の話だって」
ほんの少し期待した。
母さんの手紙のように、
不思議な未来をもたらしてくれんじゃないかと。
【るい】
「…………」
るいが露骨につまらなそうな顔をした。
気持ちはわかる。
差出人は皆元久子。
あの、るいの叔母さんだろう。
手紙は、ワープロソフトのテンプレート。
ご機嫌いかがですか、
生活はうまく行ってますか。
形式ばかりの挨拶もそこそこに。
手紙は遺産分与の最終結論を、極めて事務的に、
とりつくしまなく冷徹に伝えてきた。
某大手銀行田松支店前――。
【るい】
「ねえ、どうしたらいいの? 貸金庫なんてはじめてだから、
私わかんないよ……」
【智】
「中には僕も付き添えないよ。るいが自分で行かなくちゃ。
銀行のひとが説明してくれるから。たぶんカードが鍵に
なってると思うけど」
【るい】
「……うん」
結局、財産の大半が親戚たちに持って行かれた。
僕らが身動き出来ないうちに、
勝手に話は進んでいたらしい。
るいの手元には、るいのお父さんが収集したガラクタのうち、
価値がないと思われるものが一通り分配されることに決まっていた。
ガラクタを収めた貸金庫のカードと鍵。
そんなものを押しつけられて――。
銀行の冷えた空気の中を、貸金庫スペースに、
るいが一人で歩いていく。
僕は銀行の外、車止めに座って待つ。
こればかりは僕が行くわけにはいかない。
どんなに心が通じていなくても、
これは、るいと父親の問題だから。
それにしても。
悔しさに唇を噛みしめる。
血の味がするほど強く噛む。
【智】
「最低だ……」
あの連中。るいの親戚のやつら!
なんて恥も外聞もない。
人間は、お金の為に、
ここまで薄汚くなれるのか?
あいつらは、るいの親戚じゃないか。
血だって繋がってるんじゃないか。
るいのお父さんとだって、
あの連中は付き合いがあったんだろうに。
それなのに。
死んでしまえばどうでもいいのか!
いなくなった人の想いなんてゴミ屑同然、
その娘のことなんて足下の小石と変わらないのか!
自分がよければ、自分たちがよければ……。
【智】
「ちくしょう……っ」
苛立ち、
車止めを蹴り飛ばす。
胸が悪くなる。
胃の中のものを全部吐き出してしまいたかった。
【るい】
「ト、トモ! これ……!!」
るいが走ってくる。
ひどく慌てている。
【智】
「どうしたの、なにかあった!?」
【るい】
「これ!」
るいが差し出したのは、
まったく予想外なモノだった。
【智】
「これは…………」
『Ратыли звезда』
本の表紙に、金の箔押しで、
見覚えある題が記されていた。
【智】
「これは花鶏がもってたやつと同じ……」
【るい】
「だよね」
ラトゥイリ・ズヴィェズダー。
和訳すれば『ラトゥイリの星』という意味になるという。
これも一つの切っ掛けだった。
僕らが同盟を結んだその始まり。
僕らの「群れ」が集まった発端。
央輝たちを相手に、
パルクールレースをやる原因になった本。
【智】
「どうして、こんな本を、るいの父さんが?」
【るい】
「わかんないよ」
花鶏は、花城の家に代々伝わる
由緒正しい本だと自慢してたように思う。
それがどうして?
わからない。
パラパラとページをめくる。
中身は英語ですらなく、意味は理解できない。
Rの反転したような字。
花城はロシア系の家だそうだから、
おそらくロシア語で書かれているんだろう。
【智】
「…………」
読めない文字の群れ。
わからない言葉は、意味を伝えることさえないガランドウだ。
ラクガキとなにも変わらない。
無意味にページを流していると、
書物のちょうど中程から、1枚の紙がはらりと落ちた。
【智】
「なんだろう」
1枚じゃない。紙片は何枚も挟み込まれていた。
【智】
「これは…………」
【るい】
「トモ、なんなの?」
【智】
「……これは、るいが読んだほうがいい」
【るい】
「え……」
【智】
「るいが、読んであげないと……」
【るい】
「なんのメモ……これは、ロシア語?」
【智】
「日本語の所だけでいいから」
るいは、トランプのように沢山の紙片を手の中に集めて、
一枚ずつ読み始めた。
【るい】
「『この本が手がかりであるのは、どうやら間違いなさそうだ。
しかし、古い文体のロシア語は難解。本の内容も幻想文学の
ようにカモフラージュされている。どうすればいいのか?』」
それは、皆元信悟……。
るいのお父さんのしたためたメモだった。
たくさんある。
それが全部、信悟さんの書いたものだ。
丁寧で落ち着いた文字だった。
【るい】
「…………」
るいは、何かを訴えるように顔をあげる。
なにも言わずに頷いて、先を促す。
【るい】
「……『目指すものは常に雲を掴むようで、遠くに霞んで
いつまでも辿り付けそうにない。それでも私は為さねばならない。いつか辿り付けると信じて』」
【るい】
「『妻の家系は、地元では呪われた血筋と呼ばれ、怖れられ蔑まれていた。文化人類学のフィールドワークに訪れて出会った妻と、私は恋に落ち、反対を押し切って結婚した』」
【るい】
「『周囲の目は冷たく、偏見が後を絶たなかったが、それでも私は彼女のことを愛していた。古い呪いなど乗り越えて生きていけると信じていたのだ』……呪い……呪いって……もしかして……?」
【智】
「…………」
【るい】
「『彼女と結婚をして、私も彼女も幸せになれたと思った。私と
妻は信じあっていた。そして、るいが生まれた。その日の喜びをよく覚えている。人生が価値をもった瞬間だった。』……」
少しずつ震えていく、るいの声。
長年積み重なった想いが、
るいの深いところから声に混じってにじみ出てくる。
【るい】
「『るいは不思議なところのある子供だった。まず『指切り』を
嫌がった。無理にしようとすると泣き出しさえした。そして、
るいの胸には奇妙な痣が浮かんでいた』」
【るい】
「『妻は、それを妻の実家に伝わる呪われた痣と呼んだ。
妻の血筋には時折痣を持つものがあらわれ、優れた才能を
発揮するのだという。』」
【るい】
「『たしかに、るいは特別としか思えない才能を発揮して、
とても活発な少女に育っている。男の子のほうが
この力が似合うだろうに。それは私の贅沢だろうか』」
【るい】
「『我ながら幸せな家庭だったと思う。妻は自分の呪われた血を
漠然と恐れていたが、私は気にしなかった。どんなことが起こっても、二人で力を合わせれば乗り越えていけると信じていた』」
【るい】
「『呪いの痣のことなど忘れかけていた。しかし、ある日、
るいが友達と他愛ない明日の約束をして、呪いを踏んだ』」
【るい】
「『呪い――それは風化した伝承などではなかった。
呪いはルールを破ったものを殺そうとする。』」
【るい】
「『襲い来る呪いから、私と妻は、るいをつれて、かろうじて
逃げのびることが出来た。それでも絶望は深かった。
るいが呪いを背負っている』」
【るい】
「『ほんのささいなことで、るいは呪いに殺されてしまうかも
しれないのだ。もはや目を逸らすことは出来なかった。私は、
呪いに襲われた傷痕も癒えぬ娘と妻を置いて、家を出た』」
【るい】
「これ、もしか……私が病気になった……と……ときの……っ」
るいの、嗚咽の混じった声を聞く。
紙片を束ねた指が震えていた。
複雑な想いを宿して見開かれた、るいの瞳が、
思い出の欠片を拾い集めるようとするみたいに
文字の一つ一つを追いかける。
【るい】
「『その日から、私は家にも帰らず、時間と私財を投げ打って、
各地を訪ね歩き、呪いを解く手がかりを得ようと研究に没頭
した。』」
【るい】
「『雲を掴むような話だ。妻にも迷惑を掛けるかもしれない。
るいにも寂しい思いをさせるかもしれない』」
【るい】
「『それでも、』…………っ、ぅく……ふぐ…あ」
涙がこぼれた。
るいの頬を、後から後から涙が濡らす。
喉が詰まって、声をだすこともできなくて、
それでも紙片を握りしめて放さない。
【智】
「……るい」
【るい】
「……よむ……わたし、ちゃんと……さ、さいごまで、よ……
よま……よまな、くちゃ……っ」
喘ぎのように息を継いで、
るいは再度紙片を読み進めた。
涙混じりの声が響く。
【るい】
「『それでも、いつか家族みんなで、もう一度笑える日が来る
のだと信じて、私は研究を続けている。妻もるいも、きっと
わかってくれるだろう』」
【るい】
「『書物は難解で研究は遅々として進まない。専門家の協力を
仰がねばならないかもしれない』……」
るいが息を詰めた。
【智】
「どうしたの? るい大丈夫?」
【るい】
「だい……大丈夫……平気、だから……」
【るい】
「……『妻が、死んだ。るいが呪いに襲われて以来、妻は床に伏せるようになっていた。妻の知人を通じてその知らせを受けたとき、私は異国におり、妻はずっと以前にこの世を去っていた』」
【るい】
「……『手紙には、妻が死の前に書いた最後のメッセージが
同封されていた。孤独と心労、周囲との軋轢と長い病……
妻は自分の死が遠くないことを理解していた。』」
【るい】
「『だが、自分がいなくなれば、誰がるいを守ってやれるのだろう。
呪いによって、ささいなことで命を落としかねない愛しい娘を……』」
【るい】
「『妻は、私のことを罵るるいを諌めて、幸せな未来を信じるように約束をしたのだと、メッセージには記されていた。だがそれは、いつもの妻なら、娘と決してするはずのない約束だ……』」
決してするはずのない――――
幸せな未来を信じる約束。
たったそれっぽっちのことで、るいは呪いを踏んでしまうから。
【るい】
「『妻は覚悟をしていたのだと思う……』」
【るい】
「『妻の知人から、妻の死の真相を聞かされた。るいの呪いを解くことはできないが、呪いの力を弱める術は見つかっていた。その危険な方法を妻は試したのだと。そのせいで命を失ったのだと』」
【るい】
「『私が家を出るとき、妻とかわした……私の帰るまで、るいを
守ってやって欲しいという約束を、これで果たすことができる
から……と』…………」
呪いを弱める……。
そんな方法があるのか。
るいが呪いを踏んだ時、ノロイに襲われても助かったのは、
るいのお母さんが守っていてくれたからなんだろうか。
指切り一つできない娘に、
それでも未来を信じることを止めないでと伝えて、
死んだるいの母さん。
ずっと守るという約束を、
本当の意味で果たし続けた
その儚く脆いひとの想い。
形さえない、あやふやで、
ほんのちっぽけな想いのために、
昨日も今日も未来も、
自分の遺された全てを娘に投げ出して悔いない、
そんな生き方をした人。
【るい】
「…………お母さん、私が……どれだけお父さんのことを聞いても……いつか帰ってくるからって……寂しそうに笑うだけだった
……」
【智】
「るいがお父さんのことを訊ねても、お母さんは、『待ってろ』とは言わなかったんだよね」
【智】
「きっと、子供だったるいが、「はい」って約束をしてしまったら取り返しがつかないから、言いたくても言えなかったんだと思う」
【智】
「でも、最後の約束は、もし、るいが呪いを踏んでしまっても、
自分が守ってあげられるから…………自分がいなくなった後も、
るいに未来を信じることを諦めて欲しくなかったから……」
【智】
「だから、るいへの最後の贈り物に、幸せな未来の約束を
したんじゃないかな」
【るい】
「そんな……そん……」
【るい】
「……そ…お母さん……ちゃんと……約束、守って……ずっと、
私と……い、一緒…………っ」
るいと家族のことを愛し続けた、
るいのお父さんとお母さん。
そんなにも愛されて、
祝福されて生まれてきた、るい。
【るい】
「……『妻の手紙の最後は、「いつか、あなたが、るいを救って
くれると信じている」……』」
【るい】
「『私に流れるこの呪われた血を、でも、私は後悔していない。
なぜなら、そのおかげで、あなたと出会えたのだから』……
と結ばれていた」
【るい】
「……『私は、不実な父親だと、るいにどれだけ罵られても構わない。だが、なんの罪もない娘が、なぜこんな呪いを背負わなければならないのか? どうしてこんなものが存在する?』」
【るい】
「『娘が母と幸せな未来を語りあうことに、いったいどれほどの
罪があるというのだろう。私は、この理不尽な世界に憤りを
覚えずにいられない』」
【るい】
「『るい、呪いを背負って生まれてきた私たちの娘。
いつ理不尽な死を迎えるとも知れない。最愛の娘を、
黒い影に渡すわけにはいかない』」
【るい】
「『母親が死んだ時にさえ、私は、るいの元に帰ってやることが
出来ない。るいは私を憎むかも知れない、嫌うかもしれない。
それでも構わない。』」
【るい】
「『私は、るいにだけは幸せになって欲しい。
ささやかでもいい、束縛のない、自由に未来を語り合える、
人並みの幸せを手に入れて欲しい。』」
【るい】
「『それだけを願って、私は研究を続けようと思う』………………」
【智】
「………………」
メモが終わった。
メモの唐突な終わりは、
信悟さんが事故死したからだ。
研究は半ばで終わった。
どこにも辿り着くことなく、
小さな願いも叶うことなく、挫折した。
【るい】
「………………」
【智】
「るい」
その穏やかな字の持ち主に思いを馳せる。
連日の研究。
妻の死。
孤独。
行く先の見えない研究に疲れていただろう。
それでも、娘を呪いから解放したい一心で、
自分に激務を課していたのだろう。
その心身の疲労が招いた、
不幸な交通事故。
【智】
「るい……」
【るい】
「…………」
【智】
「るいのお父さんの一生は、
どこにも辿り着けなかったかも知れない」
【智】
「ちっぽけな願いも叶わなかったかもしれない」
【智】
「すれ違いや、行き違いや、悲しいことや、
不幸なことがたくさんあったかもしれない」
【智】
「でも……」
【智】
「でも、僕は思う」
【智】
「るいのお父さんの一生は、
決して無為なものじゃなかった」
【智】
「呪いは解けなかったかも知れない」
【智】
「それでも、
とても大切なものを遺してくれたから」
【るい】
「…………」
るいの涙は、
いつまでたっても尽きることがない。
それはきっと、何年も何年も凍てついていた、
るいの心が溶け出した涙なんだから。
【智】
「だって、るいを、
こんなに素敵な女の子を残してくれたじゃないか」
【智】
「るいを守って、育てて、
世界で一番の女の子にして」
【智】
「それで、
僕とるいを会わせてくれたんだ」
【るい】
「……トモぉ……うっ、く……っ、ふぐ……んふ……ひふ、ん……ふぁ、ああ、うぁあ、ぁああ……つ」
【るい】
「お……とう……さ、……あああ、ぁあ、」
決壊する。
ずっと溜まってきたモノが。
るいの心の奥で、固く冷たく凝ってきたモノが、
春風に溶ける雪のように流されていく。
【るい】
「……おと……お、と……さ……あうぅ……あぅ、あ、あ、うぁあ……えぅ、おとう…さ……あぁ、あああ、うあああ、あ……ぅ」
【るい】
「ごめ……ごめな……うあ、ご、め……な…おか……あうぅぁあ、ひくっ、うぅ、あうぅ……おと、さ……おあ、……みんな……わ、わたしが、わた…」
【るい】
「……わ、わた、わたしの……ふぐ……っ、あう、あはっ、うぅ、わっ、わたしが……わ、わるか……わ、わるかったからぁ……だ、だから……」
大声をあげて、
幼い子供みたいに泣いていた。
【るい】
「……トっ……トモぉ……わ、わたしが、わる……ぅああ、う、ぐぅ……わたしの、せいで……お、おかあ……さんも、おと、さん……も」
【智】
「るいの、せいじゃないよ」
涙に濡れたるいを、
僕は胸に抱き寄せる。
【智】
「るいのお父さんも、お母さんも、
るいを恨んでなんかいないよ」
【智】
「絶対だよ」
【智】
「だって、
二人とも、
るいのことが大好きだったんだから」
【智】
「だから、るいのためにがんばったんだから」
【智】
「るいは胸を張っていいよ」
【智】
「るいは、そんなに素敵なご両親の娘なんだから」
【智】
「私の家族は世界一なんだって」
【智】
「誰に聞かれたって、
うんと自慢してやれる」
【るい】
「うぅ、うん……うん……トっ、トモぉ……うぅ、あ、わ、うく…あぅ、ト、トモぉ、トモお……」
泣きじゃくる。
いつまでもいつまでも泣きやまない小さな頭を撫でながら、
普段よりずっと華奢に見える肩を、
僕はずっと抱きしめていた。
信悟さん……。
大丈夫。
きっと大丈夫。
空に向かって約束をする。
言葉にはださない、
けれど、決して違(たが)われることのない約束をする。
あなたの願いは果たされる。
ちっぽけな願いは、
たしかに受け継がれたから。
この呪われた世界では、
それは本当にささやかで、
吹けば飛んでしまうようなか細い祈りだ。
でも、きっと果たされる。
なぜなら、
るいのお父さんが願ったのは、
呪いを打ち破ることじゃなくて、
るいの小さな幸せだから。
裕福でなくてもいい。
優しくて、あたたかな家と、
傍にいてくれる小さな手があれば、
それだけで、
幸せなんてどこにでも見つかる。
一人では見つけられなくたって、
力を合わせれば見つけられる。
ああ、夏の風がやってくる――――
【智】
「落ち着いた?」
【るい】
「……うん」
【智】
「ねえ、ひとつだけ聞いていいかな?」
【るい】
「なあに、トモ」
【智】
「るいは、今、幸せ?」
【るい】
「…………………………もちろん」
〔ぼくらはみんな、呪われている〕
【伊代】
「お待たせ。ごめんなさい、遅くなって」
【るい】
「あいよー」
【茜子】
「このミズ・母乳が、乳肉をブラに収めるのに難儀しまして」
【伊代】
「母乳とか出ないわよ、ブラくらい普通につけれるし!
しかも、遅れた理由、あんたの着替えだし!」
【智】
「伊代と茜子も来たし、これで全員揃ったね」
【花鶏】
「じゃあ……始める?」
【智】
「花鶏には何するかわかってた?」
【花鶏】
「わざわざここを指定してきた以上はね」
【こより】
「なんです〜! 鳴滝には話が見えませんよう!」
空は晴れ渡っていた。
今日は心なしか、高架下の空気も
カラリと乾いているように思える。
【智】
「前の続きをするんだ」
【智】
「第2回呪い討論会。
呪いについて、どうするのか、どうしたいのか」
【伊代】
「なるほど、一度は決裂した話し合いだものね。でも……」
【花鶏】
「わたしの意思は変わらないわよ? わたしはこの呪いを
聖痕だって信じてる」
【智】
「花鶏の言いたいことはわかってる。
でも、その前に、見て欲しいものがあるんだ」
【智】
「るい」
促されて、るいがみんなの中心に立つ。
胸には大判の茶封筒が抱かれていた。
【るい】
「これ……」
【花鶏】
「こ、これ……そんな……!?」
茶封筒から現れるのは『ラトゥイリの星』。
【こより】
「え、これ……花鶏センパイの大切にしてる?」
【茜子】
「これは……あの時、ちびちびヤンキーが茜子さんと交換を迫った、あの本ですか……?」
ちびちびヤンキー。
尹央輝のことらしい。
危険な世界に生きていた、小さな狼。
この間の抗争に巻き込まれてなければいいけど。
彼女にもあらためて会ってみたい。
【智】
「写本らしいよ。それ、るいのお父さんの遺品の中にあったんだ」
【伊代】
「どうして、あなたの父親がこんなものを?」
【花鶏】
「聞かせてもらうわ」
【るい】
「あのね、これは――――」
るいは語った。
自分の知ったこと、一つ残らず、包み隠さず。
自分のために死んだ父親、そして母親。
その、ささやかな祈りの言葉。
巡り巡って、るいの手元にきた、
この一冊の本と父親の遺言。
【るい】
「結局、お父さんは、呪いの秘密にまで辿りつけなくて
死んじゃったけどね」
【智】
「この本は、元々花城の家に受け継がれてきたものだって
言ってたよね?」
【花鶏】
「ええ。ロシア語での原題は『ラトゥイリ・ズヴィェズダー』。
わたしの家の先祖から受け継がれたものだって聞いてる」
【智】
「二冊の、『ラトゥイリの星』」
【智】
「一冊が、呪いを背負う花鶏の家に永く受け継がれてきた」
【智】
「もう一冊は、るいの父さんが、呪いの秘密を探して、一生を
かけて辿りついた」
【智】
「だから、ここには何かヒントがあると思う。呪いについての
秘密が書かれてるのは、間違いないと思う。これを解読すれば、もしかしたら、呪いを解く方法だって見つかるかもしれない」
【智】
「でも……」
【花鶏】
「でも?」
【智】
「るいのお父さんの調べたことが正しいとすると、伊代の言った
とおりだったんだ。呪いと才能は裏表。引きはがせない断片だ。
契約と代価だ」
【智】
「だから……呪いを解いたら、たぶん、才能も消えちゃうんだ。
何もかも普通になるんだ。束縛されることもなくなるかわり、
なにも特別なことなんてない普通の人に戻るんだ」
【るい】
「……それで、みんなはどうしたい?」
みんなの顔を見る。
【伊代】
「…………」
伊代は一人考え込むように。
【こより】
「……む、むずかしいですね。はは……」
こよりは、僕と花鶏の顔をうかがいながら。
【茜子】
「私は力がなくなっても困りません。
だけど、呪いが存在していても困りません」
茜子は眉ひとつ動かさない冷静さで。
【花鶏】
「わたしの考えは変わらない。呪いを解くつもりはない」
【伊代】
「あなたはどうなの? どう思ってるの……?」
【智】
「僕には、呪いしかないから……」
【伊代】
「そうね。あなたの答は決まってるのよね」
【るい】
「ねぇ……みんな?」
【るい】
「あのさ、こよりの姉さんを助けるために、みんなでやった大作戦、楽しかったよね?」
【智】
「え……?」
【るい】
「危ないトコもあったりしたけど、とってもドキドキして、
熱くなって……今思えば、すっごく楽しかったよね?」
思い出を見るように、
みんなの視線が上を向く。
るいは上を向いて両手を広げて、
空気を一杯に吸い込んで、大きく胸を張った。
両親を自慢する子供みたいに。
【るい】
「茜子は、コワイ奴らたちに怯まないで交渉して、銃を持ってる
ヤツを見抜いちゃったんでしょ? いつも冷静なアカネっちじゃないと出来ないよね」
【茜子】
「わ、私は型番RED−CAT、茜子さんはロボット超人ですから」
【るい】
「花鶏は銃を持った相手を一瞬で3人倒しちゃったんでしょ?
かっこいいなあ」
【花鶏】
「アンタなんかに誉められても嬉しくないわ。むしろ背中が
くすぐったくって気持ち悪っ」
【るい】
「こよりは、花鶏がやられそうだったトコに飛び出して、
真剣白刃取り〜……て刃物受けちゃったんでしょ?
見たかったよ」
【こより】
「てへへへ・……また今度、るいセンパイにご披露するであります!」
【るい】
「伊代もいっぱい助けてくれたって、トモが教えてくれた! 私、
馬鹿だからあんまわかんないけど、でも、車で待っててくれた
イヨ子の顔見た時、逃げ切ったんだって、やっと安心できた」
【伊代】
「よ、よしてよ……わわわたしは、待ってただけ、それだけ。
ただ待機してただけなんだから……」
【るい】
「トモは、特別な力なんてなんにも無いかもしれないけど……でも、すごいよ。トモがいなかったら、きっと私たちはここにいないもの、もっとバラバラで、一人で、群れにもなってないもの!」
【るい】
「私にはわかるんだ、何もないんじゃないよ、それがトモの、
一番すごい力だから!」
【智】
「るい……」
【智】
「るい、もしかして……」
【るい】
「とっても、とっても……とっても楽しかったよね……!」
【茜子】
「………………」
【花鶏】
「………………」
【こより】
「………………」
【伊代】
「………………」
【智】
「るいは、どうしたいの?」
全員が、るいを見つめる。
次の言葉を待っている。
【るい】
「…………」
目を瞑って、
胸いっぱいに空気を吸った。
すばらしい出来の料理を
完成させたシェフみたいな顔で。
【るい】
「私……こういうのも、アリだと思う──」
【智】
「るい、でも……」
【るい】
「呪いは、
怖かったり、辛かったり、
色んなモノを取っていったり」
【るい】
「イヤなことを押しつけたり、
寂しくしたり、
たくさんしたけど……」
【るい】
「でも、
手に入ったものもあったから」
【るい】
「呪いがなかったら、
こよりの姉さんも助けられなかったし、
みんなともこうしてなかったし」
【るい】
「なによりも、
トモに会えてなかったしね、にしし」
【智】
「るい……」
【るい】
「やっぱり特別なチカラって、
便利だし、楽しいし、
呪いだって慣れればたいしたことないよ」
【るい】
「呪いがあったって、お互い分かり合って、
信じあっていれば、なんとかなるじゃない」
【茜子】
「ふふふふ、
とっても面白い意見です。
茜子さんは呪いを解かないことに賛成します」
【花鶏】
「……正直言うとね。わたしも迷ってた。孤高も時には
寂しいことがあるもの。こよりちゃんが私を救ったときに
思ったわ。誰かといるのも悪くはないってね」
【こより】
「そ、そんな、花鶏センパイ〜」
【花鶏】
「だから、わたしも信じてみる。本当に心が通じる仲間ってやつを」
【こより】
「はい! はいはい! 鳴滝も賛成でありますっ!」
【こより】
「たしかに呪いは不便ですけど……みんなが一緒にいてくれるなら、こよりん大丈夫ッス!!」
【伊代】
「ま、待ってよ。わたしだって……こんな力……気持ち悪いだけ
だと思ってたけど、みんなの役に立ったし……」
【伊代】
「不自由だけど、みんなは不器用なわたしでもわかってくれるから……」
【茜子】
「おっぱいメガネも賛成、と」
【伊代】
「こ、こら! ……この、勝手に……」
【るい】
「…………」
【智】
「…………」
最後は僕だ。
るいが何もいわないのは、僕の決断が、
僕にとっては何一つ益のないことだから。
裏返しのない呪いは重荷でしかない。
それを、そんなものを、
これから一生背負っていくことを――
【智】
「わかったよ、わかりました」
僕は認めた。
だって、るいが認めたんだから。
呪いを。
あんなに怖れていたモノを。
悲しかったことを、辛かったことを、
両親の死を、言葉にならない未来を、何もかもを。
それなら、僕だって認めるしかないじゃないか。
ありのままを。
呪いも、僕も、僕自身だ。
その、ありのままの全てを受け入れよう。
ああ、なんてこと……
僕は、わかってしまった。
きっと、この先ずっと、僕はるいには敵わない。
僕は、こんなにも、彼女にいかれてる。
【智】
「受け入れて生きよう。この呪いを、自分の大切な一部として。
楽しんでいこう」
死んだ母さんから届いた、
あの不思議な手紙を思う。
あれからすべてが始まった。
母さんはたぶん、るいのお父さんが呪いのことを
調べてるのを知っていたんだろう。
だから、るいのお父さんを頼れと書いた。
るいのお父さんへ。
僕の母さんへ。
きっと二人は、本当は同じことを願っていた。
呪いが終わる事じゃなく、
僕らが手に入れる小さな幸せを。
いまはいない二人へ。
僕は心の中で大きく手を振った。
ありがとう。
るいが笑う。
本当に、輝くばかりの笑み。
野良犬めいた顔じゃない。
呪いを背負って、泥沼みたいな街を迷っていた、
小さな僕らはもう居ない。
【るい】
「えへへへ」
分からないように、こっそりウインクを交わす。
僕が本当は男だってことは、
これからも、僕とるいだけの秘密だ。
僕に呪いが来なかった理由はわからない。
だけど、僕の正体は、るいには知られているわけだから、
いまさら隠す必要はないんだろう。
僕はこれからも女の子として、
だけど、るいの恋人として生きて行く。
レズだー、なんて言われてもかまいやしない。
花鶏みたいに堂々としてやろう。
先のことなんてわからない。
いつまで僕が女の子で通るのかとか、
子供が出来ちゃったらどうするのかとか。
いろいろ問題はあるけれど。
でも、大丈夫。
そんなのは乗り越えられる。
保証なんてどこにもないけれど信じてる。
信じることを、るいが教えてくれたから。
【智】
「ははは、あははははは!」
【花鶏】
「いきなり何?」
【茜子】
「壊れました」
【智】
「ははははは! あははははははっ!」
【るい】
「あははははっ、あははは、あはははははははっ!」
【伊代】
「ふ、二人ともどうしたのよ……?」
【こより】
「ともセンパイ、るいセンパイ!?」
【智】
「あははは……びっくりした! るいがあんまりいい事
言うんだもの。るいって、もっと何にも考えてないんだと
思ってた!」
【るい】
「あははは」
【るい】
「あははは! トモ、ちょっとこっち向いて」
【智】
「……え、何?」
──瞬間。
【るい】
「大好き」
みんなの見ている前で、
僕はるいにキスされていた。
【みんな】
「うわーーーーーっ!!!??」
僕らの決断。
そこに不安がないわけじゃない。
未来はいつもわからない。
わからないから希望を抱ける。
未明への怖れ以上の期待がある。
それだけを胸に歩き出す。
仲間を信じて、過去を嘆かないで。
それでいい。
行き当たりばったりでいい。
なにか行き当たったら、
また、みんなでなんとかしよう。
やれる。
僕たちなら、どんなことだってやれる。
駄目だった時のことなんて考えず。
前を見据えて、バカみたいに走っていこう。
【智】
「るい」
【るい】
「……ん。トモ」
野次を受けながら、るいと手を繋いだ。
るいが傍らに居てくれる。
それ以上に望むべき未来があるだろうか。
【こより】
「……いやぁ〜、なんかマジでそういう関係だったんですね〜」
【花鶏】
「おかしい! おかしい! 本職のわたしを差し置いて
こっそり百合カップル成立とか間違ってるわ」
【茜子】
「また今度、性的な遊戯の模様を拝見させてください」
重い冬着を脱ぎ捨てた気分。
身軽になった身体で、思い切り深呼吸する。
夏の匂いをほのかに感じた。
【智】
「じゃあ、みんなで遊びにいこう」
【伊代】
「どこいくの?」
【るい】
「どこだっていけるって!」
るいが両腕をいっぱいに広げて、
空の下で踊るみたいにくるりと回る。
【智】
「そっか」
【伊代】
「それもそうね」
【こより】
「鳴滝もそう思うであります! そいでは、
ピンク・ポッチーズ出撃〜!」
【伊代】
「エロスなのはヤダ!!」
【茜子】
「では風魔六忍紅般若で」
【智】
「だからなんで忍者なの?」
【花鶏】
「ちょ、ちょっと! 置いていかないでよ!
ボケキャラ? わたしいつのまにかボケキャラ!?」
【るい】
「んじゃ、繰り出すぞー!」
そんなこんなで、
今日も僕らは街に出る。
いつしか春も通り過ぎ、
夏の色が街にはあふれている。
見上げた空は澄んだ青。
この空の下。
美しく残酷で、醜く憐れな、
それが僕らの居場所。
この世界は最初から呪われている。
ぼくらはみんな、呪われている。
みんなぼくらに、呪われている。
誰もが呪いを背負っている。
誰にも才能があるように。
誰にだってある。
多いか少ないかの違いでしかない。
【智】
「ういーっす」
【るい】
「ういーっす」
【智&るい】
「でーん!」
意味のないハイタッチをした。
僕らは顔を上げて歩き出す。
また大騒ぎの一日を楽しみに。
まだ見ぬ明日を夢に見ながら。
街から生まれた群れが、
街へと帰っていく――――。