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岸本葉子
マンション買って部屋づくり
目 次
インテリアは三歳で決まる?
ドアが開かない!
ウォッシャブルにこだわる
地震に備えて
リフォームに挑戦
庭づくり、草むしり
無理やりガーデンライフ
みんなの悩み、収納問題
仕上げはソファ
「和」へのあこがれ
あとがき
[#改ページ]
インテリアは三歳で決まる?
偶然に次ぐ偶然
「よろしければご記入下さい」
紺の背広に眼鏡をかけたタナカ氏は、デスクの上にA4判の用紙を差し出した。「来場者カード」とあり、アンケートのように質問項目が並んでいる。
──ご希望物件についてお聞かせ下さい。戸建・マンション・土地・その他。
マンションに○をする。
──面積。
(えっ、坪数で聞かれても)
──間取り。
(あの、まだ、そこまで具体的に決まっているわけでは……)
──予算。
(貯金ってこと? 自分に今いったいいくらくらいあるだろう。いくつかの口座に分かれているし)
──返済のめやす。
(そもそも私のようなものにお金を貸してくれるのだろうか)
──購入予定時期。
(???)
目を白黒させている私に、
「わかる範囲で結構ですよ」
とタナカ氏。まともに書けたのは住所、氏名、電話番号くらいであった。五分前までは、考えてもいなかったから。
最寄り駅の向かいにあるビルの五階に不動産仲介会社。足を踏み入れたのは、むろんはじめてである。それだって、もしもインフルエンザが流行っていなければ、あるいはデパートが休みでなければ、こういう展開にはならなかったのだ。
五分ほど前、都心から戻ってきた私は、駅前に降り立った。一月下旬の木曜の午後四時。その日はほんとうはもうひとつ打ち合わせがあるはずだったが、相手の人がインフルエンザにかかったとかで、急遽キャンセルになった。
ビルの間の空は晴れ、冬にしてはぽかぽかと暖かい日で、コートが要らないくらいだ。ぽっかりとあいた時間を手にした私は、
(そうだ、久々にデパートに行くかな)
と思いついた。冬物一掃セールが開催されている頃だ。
が、信号を渡りかけ、その日は定休日であるのを思い出した。ふと見ると、斜め向かいのビルに赤に白字の看板が。
不動産仲介会社とはどういうところか、かねてより関心はあった。知り合いの女性で、マンションを購入した人は何人かいて、私も買おうかなとは思っていた。経験者によれば、不動産仲介会社に行けばチラシだけではわからない情報が得られるという。
(この機にちょっと覗いてみるか)
そんな気持ちでエレベーターに乗り、階数ボタンの「五」を押した。
扉が開くと、ドアもなく、ホールの向かいがいきなり受付だったので、ちょっと面食らった。広告でおなじみの女性タレントの等身大の切り抜きが立っているほかは、物件の案内が貼られているわけでもなく、不動産屋というよりも、銀行や生命保険会社の窓口を思わせる。
(ノーマルだわ)
それが第一印象。二十代の頃世話になった、主に賃貸を仲介する、いわゆる町の不動産屋は、入口のガラス戸に中が見えないほどべたべたと物件案内が貼られ、おそるおそる戸を開けると、むっとするタバコの煙に鼻を包まれて、ヤニだらけの歯のおやじさんが「何? 部屋、借りたいの?」と人を値踏みするような目でじろりと睨むという感じで、アブノーマルとは言わないが、けっして入りやすい雰囲気ではなかった。
ここではカウンターから制服の女性が、「いらっしゃいませ」と声をかける。
「岸本と申しますが、マンションのことで伺いたく参りました」
来意を告げると、
「ご購入ですか、ご売却ですか」
と聞かれた。私は、
(あっ、そうか。世の中には買う人だけではなく、売る方の人もいるわけだな)
と当たり前のことに感心しつつ、「購入です」。それも、
(どっちかを答えよと言うなら「購入」なのであって、具体的に買うつもりできたのではないのだけれど)
とためらいながらの返事であった。カウンターに向かって左奥の応接スペースに通される。パーテーションで仕切られて、同じようなところがいくつかあるらしい。パーテーションはグレー、机や椅子もいわゆる応接セットでなく、会議室にあるようなデスクと事務椅子で、「明るいオフィス」という感じである。
名刺を持って出てきたのが、タナカ氏だ。宅地建物取引主任者、プライスアドバイザーとある。年は私と同じ三十代半ばくらいといったところか。まじめそうで理数系に強そうなタイプである。言葉づかいもていねいで、ごく常識的な社会人という印象を受けた。
私はかつての町の不動産屋のイメージから、不動産仲介会社といったら、私のような無知な女がひとりで入ろうものなら、いいように言いくるめられ、とんでもない物件をつかまされないとも限らないと、警戒心を抱いていた。なので、
「本日は、物件そのもののお話よりも、それ以前の、このあたりのマンションの状況はどうなのかといった、総論的なところを伺いに参りました」
いきなり「商談」になだれ込むことのないよう、前もってあきらかにした。で、そのへんの資料を揃えてくれている間、アンケートに記入となったのだ。
私は学生時代にひとり暮らしをはじめ、何回か引っ越したが、今のアパートに移ってからでももう十年以上になる。2DKというのか、四畳半の台所兼食堂と、四畳半、六畳の和室。家賃は約十万円。十年以上居ついているのは、このあたりが住みよいからだが、だんだんに家賃がもったいなくなってきた。右から左に消えていくだけ。
(同じ月々なにがしかのお金を払うなら、買おうかな。だったら、この近くがいいな)
と新聞に折り込まれてくるチラシは眺めていた。が、そうしていても、
(果たして買えるのだろうか?)との疑問に行き当たるのだ。
価格もさることながら、私の場合、条件があまりに悪い。会社員ではないし、もの書きをほそぼそと続けて十年近くになるが、この先も仕事がある保証は何もない。また自分でいくら「もの書きです」と称したところで、相手に「そんな人、知りません」と言われたらおしまいである。無職で、給料を取ってくる夫もいない、ひとり暮らしの女性、とみなされる。そんな私にローンを組ませてくれる銀行があるのだろうか。
いちばん気になるのは、実はその点なのだが、別に仲介会社が貸すわけではないから、初対面のタナカ氏をつかまえてその疑問をぶつけるのは、とりあえず控えていた。
タナカ氏は詳細なる地図を出してきた。それを開いて説明することには、このあたりは住宅が建て込んでいるので、マンションを建てる場所がなく、新築は物件そのものが少ない。それは折りにふれチラシをチェックしてきた私の実感とも合致する。
中古なら、なくはない、とのこと。
(なるほど、中古という方法があったか)
新築の広告ばかり眺めてきた私には、それだけでも大きなヒントだった。
そして、気になる「勤務先なし、夫なし」の点については、その旨を書いたアンケートを読んでも、タナカ氏はまったく動じない。
「前に女性の漫画家さんにご仲介したことがありますし、作家の方もいらっしゃいました」
条件で即シャットアウトされるわけではないのだ。そのことがわかっただけでも、行ったかいがあった。
その夜、アパートのファックスがかたかたと鳴り、タナカ氏から参考までにと中古物件の案内が送られてきた。
中のひとつに、私は、
(えーっ?)
と声を上げそうになった。
(低層三階建て、タイル貼りって、もしかしてあそこのこと?)
私がウォーキングコースとして通るところに、三階建てのこぢんまりしたマンションがある。
(こういうところに住めたらいいな。しかし、こんな不経済な土地の使い方をするのは、公の施設か、旧国鉄か電電の社宅であって、民間のマンションではないのだろうな)
と思っていた。収益を上げるためなら、土地いっぱいに建て、階数もどんどん上に積めばよさそうなものを、そこは三階とか、棟によってはわずか二階。棟と棟との間にはじゅうぶんにスペースがとられ、生け垣で囲ってあったり、木が植えられていたりして、今どきめずらしくゆとりをもった建て方だ。広々として、緑が多い。周囲はいわゆる閑静な住宅街、私が不動産屋なら「環境抜群」と大書するだろう。
物件案内の住所を見ると、限りなくあのへんに近い。私の心拍数はにわかに上がった。これはもう、あのマンションだと考えるほかないのでは。でも、でも、そんな偶然ってあるだろうか。不動産仲介会社を訪ねた一回めで、前々から住みたいと思っていたところが、たまたま売りに出されているなんて。
私は今にも、その物件があそこかどうか確かめに行きたい衝動にかられた。が、もう夜遅い、女のひとり歩きは危ない。そう、興奮して言及するのを忘れていたが、間取りは2LDK、リビングが十一畳で、他に八畳と四畳半の部屋がある。オールフローリングの洋室だ。キッチンは対面式ではなく、リビングとは分かれている。風呂とトイレも別々だ。
次の日の金曜、昼は用事があって出られずに、夜行ってみることにした。
決断のとき
やはり、ここだ。間違いない。
「閑静な住宅街」はそのぶん夜は暗いかも知れないと思ったが、街灯があるせいか、そうでもない。念のため、ぐるりと回ってみる。自分なりのリサーチである。
自転車置き場は整然として、住む人の「公徳心」は高いと考えられる。ゴミ収集所も片づいている。
一周したとき、ちょうど向かいの家から、女性が出てくるのと、行き当たった。夜徘徊していたかたちの私は、泥棒の下見か何かと思われてはいけないと、
「失礼しました。このあたりに住みたいと思っている者でして」
怪しい者ではないと、あきらかにした。カーディガンのボタンをきちんととめた、四十代とみられるその女性は、感じがよく、
「このあたりは、あまり動きがないんですよ。お向かいのマンションで一戸、売りに出ているとは聞きましたけど」
と教えてくれた。「その一戸を見にきたんです」と喉まで出かかるのをこらえて、その場を辞す。あれが居住者の平均値なら、ポイントはかなり高い。
彼女の言ったことはもうひとつ、重要なインフォメーションを含んでいた。「動きがない」とは、居ついてしまう、すなわち住みよいということではないか?
(いや、何でもかんでもいい方に解釈するのは危ない)
夜の道を歩きながら、はやる心を戒める。何たって中もまだ見ていないのだから。
(そうだわ、まず本を買わなきゃ)
と帰りがけ、十時まで開いている書店に寄り「失敗しないマンションの買い方」というような入門書を慌てて買ったりした。
明けて土曜日、タナカ氏に電話する。私の心はすでにしてあの物件に傾いていた、というより、ほとんどもう倒れかかっていた。気がかりは、築十四年であることだ。が、タナカ氏いわく、マンションは管理のよし悪しがものを言う。長く住むつもりで買うなら、今現在の築年数の数年の差より、管理で選んだ方がいいと。
「いっぺん中をご覧になりませんか」とのことで、売り主さんの都合のいい日曜の午後、見にいくことにした。
そこで私は考えた。
(両親を同行させよう)
同じ物件でも、年長者からすれば私とは別の見方もあろうし、仮に決めるとしても、結婚に次ぐ人生の大事、「親の意見も聞いた」形式をとっておかねば、のちのちの関係にも響くかも知れない。何しろまだ、不動産屋に行ったことすら報告していないのだ。
電話で話すと、母は買うのには賛成という。女親としては、いつまでもひとりでいる娘が気がかりで、せめて結婚に代わる基盤を、と前々から願っていたそうだ。が、「築十四年」には難色を示した。
「あなたは世間知らずだから。不動産屋にしたら、古い方から売りたがるのよ。売れ残ったら困るでしょ」
八百屋か魚屋みたいなことを言う。後で人に聞いたら、母も世間知らずで、不動産屋というのは高い方から売りたがるそうだ(ほんとうか?)。
母によれば、父も割りとだまされやすいというか、見た目でころっとなるタイプだとかで、何十年も前に鎌倉の家を購入したときのエピソードまで持ち出し、
「私が家事をする立場から、厳しくチェックします」
断固とした口調で言った。
当日はタナカ氏の運転する車に三人で乗っていった。その日も晴れで、マンションの前で降りると、生け垣に陽だまりができ、いかにも気持ちがいい。子どもがふたり遊んでいて、私たちを見ると、「こんにちは」と挨拶をした。
売り主はオオイリさんという人で、五十前後とおぼしき夫人が出迎えた。
「お休みのところ、大勢でおしかけまして」
「いえいえ、さあ、どうぞお上がり下さいませ」
知り合いの家を訪ねてきたような雰囲気である。
リビングの庭に面した窓からは、明るい陽が差し入って、フローリングの床に降りそそいでいた。窓の外は光あふれるポーチ。庭が思いのほか広々している。中央は芝生、まわりは生け垣で、ヒヨドリらしい鳥が枝の間を行き交う。おとなりとは庭続きで、白いフェンスで仕切ってある。
「あらー、すてきね。きれいにお住まいですね」
母の顔はゆるみっぱなしで「厳しくチェック」と言い切った人は、どこへ行ったのという感じであった。
玄関を入った一方がリビング、もう一方に二つの部屋がある。風呂、洗面所、トイレ、キッチンとひととおり案内してもらって、リビングに戻る。天井が高いのと、壁が白いせいか、五十九平米という面積の割りに広く感じる。数年前リフォームをしたそうだ。そのためか、新築のようだ。
「なんか、ほんと、モデルルームのようですね」
オオイリさんにそう言った。
(買うのは家なんだ、中のものは付いていないんだ)
と頭ではわかっていても、あまりに美しく整えられているために、ついつい観賞してしまう。白いポールから下がる青いカーテン、青系のソファ。カップボードには、さまざまな色と模様のティーカップが並び、客をお茶になぞ招いて、このカップでもてなすこともあるのかも知れない。銀のフレームには、家族の写真が飾ってあり、温かな暮らしの雰囲気に満ちている。それらは、むろん売り主さんが引っ越すとともになくなるものだが、これだけ愛情をかけて住んできたなら、築年数の割りに、傷みは少ないと思われないか。
父はオオイリさんと壁の絵画の話などしつつ、ご近所はどんな人か、さりげなく聞いていた。そうか、そういうことも知らなくてはな。
私以外はファミリーだそうだ(と、すでに自分を居住者に含めて考えているところが、怖い)。そうした情報が得られるのも、中古ならではである。
帰りの車の中では三人のムードはほぼ「買い」だった。タナカ氏は比較のためにと、駅に近い新築にも寄ってくれたが、母はもう質問らしい質問もしなかった。さっきの家を見たあとだし、ひと部屋多い3LDKなのに、かえって狭い感じがし、窓が通りに面しているため、車の音や排気ガスも気になった。
(ここに住むために何千万円も出す気にはなれないな)
というのが実感だった。賃貸がもったいないと思ったことからはじまったマンション探しだが、購入なら何だっていいわけではない。
四人して仲介会社のオフィスに戻り、応接スペースでタナカ氏に「では、買いたいという意思表示をさせていただきます」と口頭で伝えた瞬間、脇を固めていた両親が、息を吸い込むように深くうなずいた。彼らのお眼鏡にもかなったらしく、私がいつそのひとことを言うか、今か今かと固唾《かたず》を呑んで待っていたらしい。
言うまでもなく「買いたい」=「買える」ではなく、資金計画は実はこれから。買おうかなと本気で考えはじめたのが、金曜の夜で、土日には銀行の通帳記入ができないので、自分の貯金がどうなっているか、正確なところはわからないが、山一證券がつぶれて戻ってきたお金が手つかずのはず。タナカ氏によれば、契約のとき、手付け金として価格の約一割が要るという。山一のお金でまかなえる。これは頭金の一部に充てられる。
あちこちに預けてあるのをかき集めれば、その他にももうちょっとなんとかなりそうだから、
「わかりやすく、三千万円を借り入れるということで、試算してみましょうか」
とタナカ氏。私もわかりやすいのは好きである。
仮に年利二・六五パーセントとすると、二十五年ローンで、月々の返済額は十四万二千円くらい。今だって家賃十万円を払っているから、頑張ってもう四万円足せばと考えれば、そう無理な額ではない。
「では、なんとか買えそうですね」
と私。「そんなアバウトでいいのか」と思われるかも知れないが、これでいけるかどうか判断するのは銀行だから、後は向こうに任せるほかはない。
借金を背負うことのプレッシャーはあまりなかった。家賃を払い続けていても、どのみちお金は出ていくのだ。ローンを「借金」ととらえての精神的プレッシャーより、
(このままずっと借り住まいで、年をとってから貸してくれるところがなくなったらどうしよう)
という問題の方が、私にははるかにリアルな恐怖なのだった。
結果的にローンは通った。どういう審査がされたかは、私にはわからないが、今は男性もいつリストラされるか知れない時代、女性であること、会社員でないことは、こちらが思っていたほど決定的なハンディではないのだろうか。
話は前後するが、売り主さんと契約を交わしたのは、月曜日。ほんの偶然から、不動産仲介会社に立ち寄ってわずか五日間のスピード契約だった。決まるときは、こういうものなのか。
友人のヨダさんは、半年間、週末ごとに仲介会社の人と物件を見て回り続けたが、ピンと来るものがなく、仕事の途中ふと入ったモデルルームで即決したそうだ。そう、結婚でも、何十回と見合いしても決まらないこともあれば、出会ったその日にプロポーズという例もあるではないか。
「キシモトさんの場合、偶然を通り越して、運命の赤い糸としか言いようがないね」
私のいきさつを聞き、ヨダさんはそう言った。
私の別の知り合いの女性は、大企業の課長職にある。その彼女でも、ローンの契約書に実印を捺《お》すときは、
「さすがに手が震えた」
と言っていた。
が、私の場合、あまりにスピーディーに事が運び、実印も、判こ屋から出来たてほやほやのを取ってきたその足で印鑑登録しにいくといった慌ただしさで、ローン契約の日も銀行に遅刻してしまい、
「すみません、すみません、はい、どこですか? いくらでも捺しますよ」
という感じで、緊張する暇もなかった。
盛大に捺しまくって、銀行のビルからなじみの大通りに出てくると、
(はーっ)
と溜め息が出た。
(マンションを買うなんて、自分にできるのだろうか)
と半信半疑だったが、いざ動き出すと、あれよあれよという間のできごとだった。ついていくのがたいへんなくらい。
が、たいへんさが続くのは、実は購入「後」であることを、時をおかず、痛感するようになる。
問題はこれから
ちょうどその頃、仕事で行き来のあった女性にコイデさんという人がいた。
「実はマンションを」
と打ち明けると、
「ついに。で、どんな部屋にするの」
さっそく話にのってきた。彼女は前に「お宅拝見」の記事を書いていたことがあるのだ。
「それがまったく白紙状態というか、何しろ急だったから、考える暇がなかったんだ」
と私。とにかくひたすら「買う」ために動いていて、その先のことなど、頭になかった。
が、嵐のようなできごとが過ぎれば、購入はけっしてゴールではなかったと気づく。
たしかに、たいへんではあった。かつてない額の買い物だし、ローンとか実印とか、何から何まではじめてずくめだった。が、不動産取引そのものは、定型的な流れがあり、仲介会社の人の言うことに「はいはい」と従っていれば、よくも悪《あ》しくも契約まではこぎ着けられる。
けれども、その先はまったく自分しだい。マニュアルのない世界なのだ。
私は以前、
「引っ越しなんて、トラックに載せて、そのまんま運ぶだけ」
と思っていた。が、現実となると、そうはいかないことがわかった。
ひとり暮らし十数年で、家具がもうがたが来ている。本棚はきしむし、箪笥はゆがみ、扉が閉まらなくなっている。学生時代、下宿を引き払う先輩から譲り受けたものだったり、もともとが、長く使うために作られてはいないのである。
だいたい私は、住まいというものには、思い入れのない方だった。家の中を、自分の趣味なり価値観なりのもとに整えてきた経験は、なかった。借り住まいだから釘一本打てないという条件があったせいかも知れないが。
マンション購入の動機もひとえに「老後の不安」であって、女性誌のインテリア特集に出てくるような、
「憧れのカントリー調で揃えました」
「長年の夢だったヴィクトリア朝ふうの部屋を実現しました」
みたいなことは、他人事に思っていた。衣食住のうち、「住」に対する関心は欠けていたのだ。
が、好むと好まざるとにかかわらず、ひと月後には、新しい住まいでの生活をスタートさせねばならない。
コイデさんは、「お宅拝見」記者としてさまざまな実例にふれ、あるものは自分の部屋にとり入れようとし、挫折してきた。
「衣に関しては、さすがにこの年だと、好みも定まってきたから失敗はしなくなったけど、住は別ね。インテリアのセンスは、基本的に学べないものだとわかったよ」
服とは面積が違うし、色合わせだけでない「空間プロデュース能力」とでもいうべきものが要求されるからではないかと、彼女は言う。
「しかし、人よりもたくさん実例に接してきたコイデさんでも、そうとはね」
首を傾げる私。
たしかに、センスの有無は大きいだろう。けれども、人間には「習熟」ということがある。服を例にとれば、店のディスプレイや雑誌のコーディネイトをまねるなどして、人より抜きん出はしなくとも、合格ラインには達することができる。
仕事でも、家事でもそうだ。ワープロや料理など、はじめはどうしようもなかったが、参考書とくびっぴきで、なんとかものにしてきた。そこには、得手不得手はあるにしても、「ものごとは学べば少しはうまくなるもの」という、「勉強」に対する基本的な信頼があったと思う。コイデさんや私の世代は、特にそうかも知れない。学校でも就職先でも、「やればできる」と言われ、「頑張る」ことを、ごくごく自然な行動様式としてきたのだ。
友人のヨダさんは、それについて、衝撃的な説を唱えた。「インテリア三歳決定説」とでも言おうか。
彼女の言うには、出どころは「週刊文春」の「家の履歴書」で、ゲストがこんなことを語った。インテリアの趣味は、三歳まで住んでいた家で決まる、と。
それを聞いたとき、私の頭に、子どもの頃の家のようすがありありと描かれた。畳の間のまん中に座卓、そのまわりに食器棚、箪笥、テレビ。箪笥の上にラジオと日本人形。典型的な、昭和三十年代の日本の家だ。
それから親の家は、何回か引っ越し、マンションにも住んだが、室内のようすは、呆れるほど同じだった。間取りの違いを忘れさせるくらいであった。
「いわゆる、幼児体験ね。インテリアに関しても、それから逃れられないのよ」とヨダさん。
その言葉は、ようやく自分の好みでどうにでもなる空間を得た私には、あまりに酷だった。大人になってからあがいても無駄、ということではないか。
同じ幼児体験を持つ姉に話すと、
「そんな、夢も希望もないこと言わないで」
姉も今、畳の上に絨緞を敷いたり、押し入れの襖をとり外したりと、「和」から「洋」への脱却を図っているところなのだ。
「三歳決定説」には、コイデさんも絶句した。ややあってから、
「でも言えてるかも知れない。いくら努力しても、ちっともうまくいかないわけが、わかる」
社宅住まいだった彼女も、子どもの頃の原風景は、畳に襖。昭和三十年代は、どこでもそんなふうだった。伝統建築は別として、今ふうのカッコイイ家に住んでいた人など、日本人の現在の大人の中には、いないのだ。ましてや日本におけるマンションの歴史はたかだか三十年という。誰だって試行錯誤しているはずである。
コイデさんが「お宅拝見」で訪ねた中で、「すてき!」と思う家は、よくよく聞くと皆、プロのインテリア・コーディネイターにまかせていた。インテリア・コーディネイターなる職業が成立するところに、悩む人がいかに多いかが、表れている。
売り主のオオイリさんも、リフォームのときはプロに頼んだそうだ。だからといって百パーセント満足ではなく、ぶつかり合うことも多かったという。
むろん施工主はオオイリさんだから、「カーテンは青にしたい」といった希望は聞く。が、ではソファをどうするかとなると、オオイリさんは無地を望んだが、コーディネイターの女性は柄物を主張し、譲らない。
「あなたがどう思おうと、こっちの方が絶対に合うんです」
とまで言う。
「住むのは私です! って言いたくなりますね」と私。
「言ったのよ。でもまるで耳を傾けないの。ああなるとプロもよし悪しね」
結局、柄物で押しきられたが、オオイリさんはどうしても気に入らず、いまだに青の無地のバスタオルでおおってあるそうだ。日々目にするものだけに、やはり「自分が好きかどうか」が決めてになるという、家選びで感じたことが、ここでも言える。
オオイリさんによれば、コーディネイターのすごさは、例えばカーテンなら「そういうものは、どこの何」と商品名と店名が、すべて頭に入っていることだ。メーカーの別を超えて網羅しており、生き字引ならぬ「生きる総合カタログ」。その情報量の差が、シロウトとの違いと感じたという。
私もまずは情報を仕入れることから、はじめよう。
けれども、書店のインテリア雑誌コーナーに行くと、あまりの数にめまいがした。
これが、多少ともなじみのある料理雑誌なら、自分が知りたいことはどの雑誌に載っていそうか、だいたいの見当がつく。が、インテリア雑誌だと、そもそもどれから読んだらいいか。
しかたなく、はしから目を通すことにした。
そうするうちに、各雑誌の特徴や、ターゲットの層がわかってきた。例を挙げれば、「モダンリビング」は戸建てやリフォームが主、「エル・デコ」はやや高級で、「美しい部屋」は逆に年齢層が低い。ついでに言えば、「美しい部屋」のバックナンバーでくり返し組まれている特集から、今の若い夫婦にとって、
「畳の部屋で洋ふうに住まう」
「押し入れをクローゼットに改造する」
「団地や社宅の古い間取りを克服する」
といったテーマが切実であることがわかり、
(三歳決定説を知ってか知らずにか、皆、「日本の家」からなんとか抜け出そうと、工夫しているのだなあ)
と胸に迫るものがあった。
「私のカントリー」とか「アンティーク」といった、テーマをしぼったものもあり、
(この世界も、読者の求めるところにより、かなりはっきり分かれている)
というのが、第一の発見だ。
また、読むうちに、カーテンなら東リ、リリカラ、サンゲツ、カーペットならスミノエ、ブラインドならタチカワといった主たるメーカー名が、しだいにインプットされてきた。商品説明や広告によく出てくるからで、それがすなわち情報となっている。はじめは、つかみようがなく思えたけれど、
(この世界にはこの世界の、知識を得るとっかかりが、随所にちりばめられている)
というのが、第二の発見。
ひと頃は、行きたいショップやショールームについて、だいたいの道順を覚えてしまっていたほどで、コイデさんとの間で、
「青山の『絨緞ギャラリー』行った?」
「まだなのよ。『キリムズ・ジャパン』とまとめて、いつか行かなきゃと思ってるんだけど」
などとツーカーで通じたりすると、同好の士と会話している喜びがあった。
しかし、現実には、引っ越しそのものの準備と日常の仕事をこなすのでせいいっぱいで、出かける時間はなかった。また、私の行きたい店はなぜか青山に集中していて、渋谷経由ならすぐかも知れないけれど、「若者の街、渋谷を通るのか」と考えるだけで(この形容からして、年齢的にかなり距離感のあることを示している)、行く前からめげてしまうのだった。
インテリア三歳決定説はほんとうだった!?
引っ越しの日は、梱包から荷解きまでお任せのパックだったにもかかわらず「私が二人いてほしい!」と悲鳴を上げたいめまぐるしさだった。暗くなってから、運送屋が去り、ドアが閉まる音が響くと同時に、精根尽き果て床にへたり込んだとき、目の前のようすと、オオイリさんがいた頃とのギャップに、呆然とした。
あの頃は、暮らしの雰囲気に満ちていた。テーブルが、ティーカップが、銀色のフレームに縁どられた家族の写真があった。
今は、五十九平米の単なる箱。
(家というのは人が住まなければ、ただの容れ物に過ぎないのだな)
と実感した。
床の上には、ダンボール箱と衣装ケース。がたがたになっていた本棚や箪笥の類は、引っ越しを機に処分してしまった。マンションを買ったはいいが、何もかもないない尽くし、こんなことで新生活をスタートできるのだろうか。
当然のことながら、カーテンもとり払われている。窓の向こうには、二月の寒々とした夜が広がる。
(前途多難……)
そんな思いが、冷気とともに、ひしひしと胸をしめつける。
(焦ることはない。私はまだ、自分がこの部屋をどうしたいかもわかっていない。長期的な構えで、少しずつ整えていけばいいではないか。これからずっと住む家だ。時間は、あり余るほどあるのだから)
と自分を励ますけれど、カーテンだけは、そうも言っていられない。電気を点《つ》けると外からまる見え。防犯上も問題だ。これはもう、何よりも先にとりかかるべき急務である。
考えようによっては、家具も何もない今は、コーディネイトに気をつかわずカーテン主体で選べる、またとないチャンス。私は実は、
(今度引っ越したら、これだけは避けたい)
と前々から思う色があった。ベージュである。
親の家では、カーテンは常にベージュだった。転居にともない、何回か買い替えたにもかかわらず、必ずだ。夫婦揃って「カーテンはベージュであるべき」との固定観念にとらわれていたとしか言いようがない。
私もその影響でとは思いたくないが、前の家では、ベージュに限りなく近い生成りであった。
(今度こそ、ベージュから脱却しよう)
「インテリア三歳決定説」にささやかな抵抗を試みたのである。
「柄物はやめた方がいいよ」
電話で話すと、コイデさんは言った。「お宅拝見」でインテリア・コーディネイターに取材したら、皆、口を揃えて、
「カーテンは無地よ、無地に限るわ」
と断言していたそうだ。コーディネイターの人の家は、例外なく無地だった。
無地なら何でもいいのではなく、壁の色に合わせる。その方が部屋が広く感じられる。
「日本の家みたいな狭い家では、それしか選択肢がないのよ」
と言うのが、コーディネイターに共通した意見だった。
しかし、うちの場合、壁の色に合わせたら、必然的にベージュになる。なんということ、自分の家を購入してもなお、三歳の呪縛から逃れられないのか。
思いきり悪く、近くのカーテンショップで眺めていると、若い店員が話しかけてきた。彼女の言うには、注文から仕立て上がりには、どんなに早くても三週間かかる。
「布は後で選ぶとしても、採寸だけは早くした方がいいです。引っ越しシーズンで込んでいて、近々でお宅に伺える日は、明日しかありません」
なんだかえらく急がせる。
住所と地図を書き置いて、「明日」の三時に来ることになった。
その三時にいっこうに現れず、ただでさえ引っ越し直後で、すべきことの多い私をいらいらさせたのは、「早く早く」と人を急かした他ならぬ彼女である。三十分遅れでようやく現れ、この目と鼻の先のところを「道に迷いまして」とか。
(だったら、電話の一本も入れよ)
と言いたい。この先徐々にわかるのだが、業者で「時間を守らない、連絡を入れない」人は驚くほど多く、この不況にそんなことでよく客を失わないものだと呆れてしまう。察するに、
「昼間家にいる人→主婦→自分たちは忙しいが主婦はヒマ」といった偏見が、そこにはあるのではと思われるほど。
「採寸にきた」女店員は、脚立に乗って天井から床へメジャーを下ろし、「えーと、二百六十七」などとつぶやきつつ、カードに記入する。それがまた、いかにも注意力散漫で、あきらかにメジャーが弓形にたわんでおり、
(まっすぐ下ろせ、まっすぐに!)
と口を出したくなる。ミリ単位で出すからには、直線で測ってほしい。
で、計算機を叩いてのたまうには、国産の標準的な価格の布で、五十数万円になる、と。
「ご、五十万?」
私は目を剥《む》いた。前の家で下げていたのは、スーパーで何千円かしかしなかった。十倍ならまだしも百倍とは、あまりにも違い過ぎないか。
店員は、顔色ひとつ変えず、
「お仕立ての場合、ひと窓十万円と考えていただかないと」
知らなかった。
「曲線距離」を測るくらいの人だから、五万の間違いではないかと、コイデさんに電話し、相場を聞くと、
「カーテンて高過ぎる。なんであんなに高いわけ? ただの布でしょう」
と逆に食ってかかられた。あの店だけが高いわけではないらしい。
採寸、採寸と、店員が急かしたわけも、よくわかる。何十万という単位の仕事だ。よそに行かれる前に、自分のところで受けたいのだろう。
その後、いくつかのカーテンショップやデパートで見たが、時間の方がさし迫っていた。ないと思いのほか、日常生活に支障をきたすのだ。
(カーテンこそは、部屋の印象を決めるものだから、目を肥やしてから、ゆっくり選びたい)
と思っていたが、現実にはそんな暇はなかった。住まいづくりは、そういうものなのだろうか。
また、いくら店で見ても、ピンとこないせいも大きい。カーテンショップといえども面積に限りがあるから、布の形で吊されているのはほんの一部。あとはメーカー別カタログの中から選ぶことになる。
カタログに張りつけてある布見本は、縦横が三、四センチしかない。こんな小さな端切れから、部屋に下がっているようすを想像せよとは、あまりに無理な注文だ。柄物はことにそうで、花模様なら花びら一枚も端切れ内に入りきらず、めしべの先っぽだけといった「部分」から「全体」を判断せねばならない。リスキーに過ぎる。
結局、インテリア・コーディネイターの人たちの言う原則に従い、「ベージュ」となった。冒険のできない私の性格を表しているような。
お値段は、四割引で作ってくれる業者がみつかり、四窓で、レースのカーテンも含めて二十二万五千円だった。そうしょっちゅう買い替えられる額ではないから、これで私の部屋のトーンは当分、固定したようなものだ。窓は五つあるのに「四窓」としたのは、ひとつくらい、将来に含みを持たせたかったからである。が、この窓も、あれこれ考えた末、やはり無難な「ベージュ」となった。
(インテリア三歳決定説はほんとうだったか)
と、購入したばかりで早くも親の家に似てきた窓べを眺めながら、思う。
後で知ったところでは、私の感じた「部分から全体を判断する難しさ」は、他の人にも共通らしく、候補のカーテンを一定期間家に吊り下げ「試着」できるシステムの店もあるそうだ。が、それをしたところで、自分が果たしてベージュの呪縛から抜け出せていたかどうかは、わからない。
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ドアが開かない!
「ふつう」の生活はまだ遠い
引っ越してしばらくは、ふつうのことがなかなかふつうにできなかった。とりあえず住みはじめたものの、各部の機能を熟知して、使いこなせるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだった。入居したその日から、日常生活がスムーズに再開できるわけではなく、「家に慣れる」というプロセスが必要なのだ。
例えば、魚を焼くことも。
新居のレンジは、調理台にはめ込み式で、引き出す形の魚焼き用グリルはない。あるのは、鶏の丸焼きができそうな、四十センチ四方くらいのオーブン。魚を焼くときは、トレイを上段に入れ、上の火だけを点けるようだ。入居して二日め、試しにひねってみたところ、点火しない。
これが賃貸のときならば、大家さんに電話し、
「あのう、どこどこの調子が悪いんですけど」
と相談すれば、修理の人をすぐに派遣してくれた。が、これからは、トラブルが生じるたびにひとつひとつ、自分で直接業者に連絡しなければならない。どこに頼むのか、それからして調べなければ。
その日は、他にもいくつか、防犯センサーが作動しない、蛇口のお湯がなかなか温かくならないなど、解決すべき問題がみつかったので、次の朝、購入のときの担当者、タナカ氏に電話をし、何はどこの管理事項になるのか、聞いてみた。
「防犯センサーは管理会社で、湯沸かし器は東京ガスで、レンジの方はメーカーでしょうね」
とのこと。同じガス関係でも、お湯と魚では、受け持つところが違うのだ。
レンジの前にしゃがんで覗くと、何やら色あせたシールが貼ってあり、それがメーカー名らしい。二十三区の局番が三ケタのままで、相当古そうだが、手がかりは手がかりだ。
局番の前に「三」を足してかけると、
「この番号は、現在使われておりません」
とのこと。早くも、探索の糸が切れてしまう。
(そうだ、売り主さんの残した、「室内各機器取扱説明書」の封筒があった)
売り主さんはできた人で、分譲時のパンフレットから何からをすべて保管し、ひとつの封筒に入れ、渡してくれたのだ。
説明書には、今かけてつながらなかった本社の他に、八王子営業所なるものがある。
そちらは、つながった。違うメーカーを名乗るので、
「あの、××の営業所ではありませんでしょうか」
と聞くと、向こうは一瞬絶句して、
「もうずいぶん前にメーカー名が変わりまして、今は××××と言うんですよ」
築十四年という「歳月」を感じてしまった。
が、名は変われど、そこの製品を扱うことには変わりはなく、型番を言っても、すいすいと話が通じてほっとした。修理については、工事担当業者が別にいるので、そちらを紹介してくれて、二日後に来ることになった。
二日間が、すごく長く感じられた。私の食事の基本は、焼き魚とおひたしと味噌汁という典型的な「家庭料理」だが、引っ越し前のひと月は、契約やら荷物の整理やらで、ちゃんと作る時間がなかった。外食が続くと、調子をくずす私は、
(あー、一日も早く、家で食べるようになりたい。引っ越したら、何をおいてもまず魚を焼こう)
と、禁断症状になっていたのだ。
修理の日は、前の日から塩ザケを買っておいた。来るのは午前中なので、昼は直ったばかりのグリルで焼こう。そのために、朝からご飯も炊いておいた。
午前中に来るはずが、連絡もないまま、一時になっても一時半になっても現れなかったことについては、多くを語るまい。出前と同じで、何度店に電話を入れても、「向かっているはずなんですが」ばかりで、いつになるかいっこうにわからなかったが、今日で焼けるようになるならと、とにかく待った。
二時近くなって到着した男は、カーテンの採寸嬢とは違い、レンジの前にへばりつき集中力の固まりとなって、作業した。そばにいるのは気がひけるので、別の部屋に控えつつ、器具のふれ合う音や、「うーん」という唸り声ひとつにもびくっとして、
(ひょっとして直らないのか。「古い型だから部品がもうない」などと言われたら終わりだ)
全身を耳にし、工事完了を待っていた。
「直りました」の声に、「はいっ」とはじかれたように返事して、台所へと飛んでいく。
「つきますよ」
グリルのドアをわざわざ開けて、実演してみせる。スイッチをひねるや、炎がグリルの天井をひとなめし、きれいな火が。
さんざんに待たされたことも忘れ、お金を払い、深々と頭を下げて、お帰りいただいた。
トラックの去る音を聞いてから、
(さあ、遅くなったが昼飯だ)
と、塩ザケを網に載せ、トレイとともにセットして、ドアを閉め、スイッチをひねろうとすると。
回らない。なぜ? 両手をかけても、回したい方向へ体ごと傾けても、びくともしない。内部で強力にロックされているように、頑として動かないのだ。何回くり返しても、スイッチを握る掌が、赤くなるだけ。
がっくりと膝をつく。トラブル・アフター・トラブル、どうしてこう次々と問題が起きるのか。入居五日めになるのに、自分のうちで魚ひとつ焼けない。
修理の人は、片手で軽々とひねっていた。この眼でしかと目撃した。それから数分もしない間に、いったい何があったというのか。
ドアを開けて点検すると、トレイの上に、黒い鉄くずのような破片が、ぼろぼろと落ちている。無理な力を加えたためだろう。どこがひっかかっているのかと、下から覗き込みつつ、スイッチをひねって、
「うわっ」
びっくりして首を引いた。炎で眉を焦がしそうになった。
天井には、きれいな火がすみずみまで行き渡り、何事もなかったように燃えている。
そうなのか。開けないと、点かないのだ。空焼きを防ぐためだろう、閉めたままではスイッチが回らないしくみらしい。そんなことも、わからなかったとは。
すったもんだの末、四十センチ四方のオーブンのまん中で、塩ザケ一枚が粛々と焼かれていく図を見ると、何とも言えぬ溜め息が出た。そんなふうに毎日が、トライアル・アンド・シンキングの連続だった。
家から閉め出される
そして、入居六日めの金曜、最大のトラブルがやってきた。家に入れなくなったのだ。
これには少し前段がある。引っ越してすぐ、鍵のスペアを作ろうと思い、合鍵のチェーン店に持っていくと、
「これは特別な鍵ですから、日本では作れません。外国から取り寄せないと」
必ずしもそうでないことは、一年経ってわかったのだが、そのときはそう断言されて、あきらめざるを得なかった。すなわち、今ある鍵を、けっしてなくしてはならない。
すると、鍵なしでも入れる方法に、どうしても傾く。
分譲時のパンフレットによると、鍵いらずの装置があるらしい。詳しくは書けないが、「オートロック」としておこう。
同じマンションの人に、ふだんどうしているか聞くと、
「あー、私は鍵で開けたことない。いつもオートロック。あれだと、子どもに鍵持たせないですむし」
売り主さんに電話で、操作方法を聞いて実験すると、なるほど、たしかに開く。
(これは、いい)
ちょっと出かけるのでも、鍵をなくさぬことに最大限の神経をつかわねばならないプレッシャーから自由になれて、ほっとした。
入居六日めのその日。私は午後五時過ぎから買い物に出かけた。前日グリルが直ったので、
(さあ、今日からやっと日常の生活が送れる。まずは正しい食事から)
と干物だの豆腐だのを、張りきって買い込んだ。
ちょっと寄り道をしたりして、帰ってきたのは七時過ぎ。ふくらんだ袋を、足もとに置いて、いざ入ろうと操作したところ、
(??)
ドアが反応しない。実験のときと同じことをしても、うんともすんとも言わない。
そのときは、まさか壊れたとは思わなかった。操作方法を忘れたのだろうと考えた。家に入ってもう一度おさらいするとして、
(しかたない、今は鍵で)
とバッグの底を探ったが、トラブルというのはえてして「こういうときに限って」起こるもので、そのときも、まさに「そのときに限って」持って出なかったのだ。
恥をしのんで聞くほかないと、左どなりのベルを押す。どこの家でも夕飯どきだろうに、こんなことでお騒がせするのは恐縮の限りだったが、訳を話した。となりの人はすぐ出てきてくれて、
「あら、おかしいわ。これで開くはずだけれど」
これまでもマンション内で何件か、作動しなかった例があるそうだ。分譲して間もなくは特に、皆慣れないものだから、あちこちで自分で自分を閉め出した人がいた。
この装置はなぜか、寒くなると調子が悪いという。電気系統だから、冷えると伝わりにくくなるのか、との説もあるそうだ。今は二月、たしかに寒い時期ではある。が、何もよりによって、たまたま鍵を持たなかったときに、調子が悪くならなくても。
「窓はどう? どこかしら鍵をかけ忘れてるかも知れないわよ」
となりの人のアドバイスに従い、建物の後ろ側にあたる窓の方に回ってみる。右どなりの人の庭を通って。暗くなっていたので、左どなりの人が懐中電灯を持ってきてくれた。が、われながらこんなに用心深い性格とは知らなかったが、順々に照らしても、窓という窓が固く鍵をおろしてあって、外から揺すれど、びくともしない。ごていねいにダンボールの仮カーテンまでも、しかと閉ざされている。すごい守りの堅さである。
これはもう、本格的に閉め出されたのだとわかった。
家まわりでじたばたしても無理だと判断し、仲介会社に行くことにした。仲介会社を頼るのは筋違いだが、数々の物件を扱ってきた間には、似たようなことがあっただろうし、プロの業者を知っているかも知れない。
公衆電話から事情を話すと、タナカ氏は外出中だが、「とにかく、おいで下さい」とのこと。買った物の袋を、メーターボックスの奥深くしまい込んだ。
着いてほどなくして、タナカ氏が戻ってきた。彼は、つい先日、めでたく物件の引き渡しを終えたばかりの私が、思いつめたようすで座っていることに、びっくりしたようではあったが、対応は早かった。
管理会社に連絡をとる。が、すでに夜間でつながらない。
鍵の業者探しは、仲介会社の別の人に引き続きお願いすることにし、とりあえずタナカ氏の運転で「現地」へ。すでに九時を回っていた。
タナカ氏の携帯に、ひっきりなしに電話が入る。鍵の業者の番号を次々と知らせてくるようだ。時間は刻々と過ぎていく。
いくつかの業者に当たってみる。
「鍵穴の形状ですか? えーとですね、ちょっと待って下さい」
「一時間半かかる? おたく、いったいどちらにあるんですか?」
「鍵を壊して、中に入ってもらうことはできるけれど、閉められないかも知れない?」
夕飯を終え、皆がくつろいでいるであろう金曜の夜、静かなるマンションの前庭に、私たちの声だけが響いて、身の細る思いだ。両どなりの人は事情を知ってくれているが、そうでない人たちは「何をやっているんだろう」と訝《いぶか》しんでいるに違いない。
左どなりの人が来て、電話番号のメモを出す。売り主さんが前に開けてもらったことのある業者だそうだが、かけてみたら、すでにだいぶ飲んでいるらしく、今からでは無理と言われたとのこと。私が仲介会社に向かった後も、あちこちに連絡をとってくれていたのである。
左どなりの人から電話帳を借り、私が公衆電話から直接業者にかけてみることにした。どうも、誰でも開けられる鍵ではないらしい。
「必ず開くと保証はできませんが、やってみるということでよければ。たぶん開けられると思いますが」
と答えたところがあった。その名も「カギの救急車」。今から急行し、三十分くらいで着けると言う。
受話器を置いて、タナカ氏にその旨告げた。
「これでだめだったら、明日あらためてご相談しますので」
あとは、業者を待つのみだ。今日のうちに家に入れるかどうかは、これから来る鍵師の腕いかんにかかっている。
事件発生から、すでに二時間が経っていた。
頼りは「カギの救急車」
待っている間も、車で帰ってきた男性の住人を、
「あの、鍵の会社の方ですか?」
などと呼び止め、恥をかいた。こうして、マンション内で悪名を馳せていくのだろうなあ。
十時を期して、大通りへ出てみると、来た来た、赤いライトをのっけた黄色いバンが。ボディに「カギの救急車」と大書してある。
「こっちでーす」
捜索のヘリをみつけた遭難者のように腕を回して誘導する。
夜目にしかとは見えないが、五十前後の、小太りの男性だ。七つ道具の入ったらしき、ケースをさげて降りてくる。体型といい、「部分カツラか?」とも思われるベレー帽ふうの黒い髪といい、「プロ野球ニュース」で大リーグの解説をするパンチョさんという人に似ている。
懐中電灯を額につけ、ドアの前にしゃがんで、さっそくとりかかる。鍵穴がかすかな光に照らし出され、耳かきのような細い細い棒がさし入れられていく。映画の金庫破りのシーンさながらだ。
映画なら、これでものの数分もしないうち、がちゃりと重い響きがし、ドアが開くというのが常だろう。が、現実は違った。いくら固唾を呑んで見守っていても、その瞬間が来ない。パンチョ氏の後ろで、息を詰めていた私も、緊張が続かなくなり、少し離れて深呼吸しにいったりした。思ったより長期戦になりそうだ。
道具をとっ替えひっ替えしては、試す。
「この鍵は、どっちに回しますか」
「内側から開けるときは、どうするんですか」
私に対する質問が多くなる。プロなので、顔に出すことはないが、内心かなり焦っているらしい。
車の方に立っていくので、とっておきの秘密兵器でも出てくるのかと思ったら、無線で連絡をとりはじめた。
「……開っかねえんだわ。いや、鍵は……なんだけどさ」
さらなるプロに、指示を仰いでいるようだ。
だいぶ長く話し込んだ末、再トライ。二月のこととて、夜はしんしんと冷えてきて、手をこすり合わせたり、息を吹きかけたりしながらの作業である。足踏みをして、寒さをまぎらわす。このドア一枚隔てた向こうに鍵があり、あれさえあれば、何の苦もなく開けられるのに。
もう一台、黄色いバンが現れた。パンチョ氏が出動を要請したのだろう。夜の住宅街に、赤いライトが並んで、ものものしい眺めになってきた。
男ふたりはなおもしばらくドアと向き合っていたが、ついに道具を手放して、鍵穴にじっと掌を当てた。オートロックが寒いと作動しにくくなるとの私の説明を思い出し、温めればなんとかならないかと考えたのだろう。鍵師としても万策が尽きたのだ。
「中に入ってもらうだけならできるんですけど。すなわち、壊すということですが」
最終手段を示されたが、それは断り、作業を打ち切りにしてもらった。
その晩はホテルに泊まることにし、前もって電話して行った。チェックインしたのが、一時近く。夕飯の買い物から帰って六時間も外にいたことになる。
狭いシングルルームに入り、ベッドに腰を下ろしたとたん、ほっとすると同時に、がっくりとうなだれた。せっかくマンションを買ったのに、目と鼻の先のホテルで夜を過ごすことになるとは。契約からはじまり、慣れないことばかりのひと月間、多いとは言えない社会的経験と、なけなしの問題処理能力の限りを尽くしてきて、ようやく日常生活の再開にまでこぎ着けたところで。
が、すぐに気持ちを立て直す。
(こんなことでめげてはいけない。トラブルがあってもやはり好きだと思える家にめぐり会えたのは、幸運だ。となりの人や売り主さんも、一、二度しか会ったことのない私のために、あちこち電話をかけたりしてくれたではないか。これ以上、何を望むことがあろう)
もともとが、落ち込みの長続きしないタイプなのだ。
それから、私は現実主義者になった。ホテルにいる間に、仲介会社にファックスを送っておこう。引き続き業者探しを依頼する旨、またその際の優先順位として、
「(1)現状のまま鍵を開ける。(2)鍵を壊して、交換する。この場合、交換部品をすぐに取り揃えられる業者であることが条件となる。(2)─1、当日じゅうが望ましいが、(2)─2、無理ならば、日曜日いっぱいなら待つことができる」
と番号をふった。むろん、書く間、風呂に湯を張ることも忘れない。
フロントに下りて、送信を頼んでくると、
(さあ、これで今日できることはみんなした)
と、気が楽になった。明日への英気を養うべく、風呂につかって、体を温め、ぐっすりと寝た。
一年がかりの防犯センサー
チェックアウト後、朝の散歩がてら家に行き、試みにオートロックの操作をする。日はドアにさんさんと降り注ぎ、ゆうべよりずいぶん温まっているのに、やはりうんともすんとも言わない。熱伝導を利用しようと、飲んでいた缶のホットコーヒーを当ててみたが、同じだった。
仲介会社に電話すると、業者がみつかったとのこと。このマンションに詳しく、何度か開けているそうで、期待できる。ただし、来るのは四時過ぎになるという。
昼過ぎ、ゆうべの業者との清算をする。開けられる保証はないがやってみるという条件で来てもらったのだから、出張費は払うべきだろう。
パンチョ氏は、今日は自家用車でやって来た。明るいところで改めて見ると、やはり部分カツラふうの頭であった。
二時間頑張っても開けられなかったことで、鍵師としてショックを受けていると言う。この後、別の業者が来ると話すと、
「見たいものだな。いったいどうやって開けるのか」
と、車のそばで思いきり悪く煙草をふかしていたりしたが、あきらめてエンジンをかけ、行ってしまった。
五時近く、業者の人がやって来た。話してみれば、ゆうべとなりの人が電話をしたとき酔っ払っていた人だった。で、詳細は省くが、その人にかかったら、あっけなく入れてしまったのだ。
調べると、オートロック装置の線が切れていたとわかった。断線の原因は、
「経年による劣化です」
十四年の歳月をかけて少しずつ劣化していたものが、よりによって、鍵を持たずに出た、そのときに切れたのだ。
「しかし、ゆうべ、壊す手前でやめといたのは、賢明な判断でしたよ」
と彼。特別な鍵なので、壊すとドアごと取り替えなければならない。外国から取り寄せるので、二十万円、日数にして一か月かかるとか。
「い、一か月?」
「そうです。だから、この先、同じことが起きても、けっして壊してはいけません。たとえホテルに連泊することになっても、その方が絶対得です」
ときつく言い置いていったが、同じことはもう起きてほしくないのだった。
まる一日ぶりのわが家。
(しかし、この家は、思いのほか堅牢だな)
プロがふたりがかりでも開けられなかったことに、少しく意を強くした。
売り主さんやとなりの人やあちこちに報告の電話をしてから、受話器を置くと、窓の外から音がするのに気づいた。雨が降り出したのだ。なんというタイミングだろう。
思い出して、メーターボックスの中にしまった買い物袋を取りにいく。豆腐は悪くなっていた。そのことがあらためて、一日という時の経過を感じさせた。
この事件を、人に話してわかったのは、鍵のトラブルで入れなくなる例は、少なくないらしいこと。鍵をなくした、忘れたといったオーソドックスなトラブルの他、意外とあるのは、エレベーター付きのマンションで、エレベーター内で鍵を用意し、さあ降りようというときに、ドアとフロアーとの間の深い深い奈落の底に落としてしまうケースだという。
電話帳のイエローページには、えんえん十四ページにわたり、「カギの一一〇番」「カギのレスキュー隊」「二十四時間出動」「五十分以内急行」といった、そのての業者の広告が並び、需要の多さを示している。
対処法としては、管理人常駐のマンションでは管理人に助けを求める。そうでないときは、管理会社に。私のところの管理会社には、昼間の番号とは別に、夜間の緊急連絡先があったのだが、そのときの私は知らなかった。となりの人は、私が去ったあとそれを思いつき、かけてみてくれたらしい。
しかし、そうした情報をもらうためにも、日頃からご近所との関係は良くしておいた方がいい。マンションだと、となりにどんな人がいるかも知らないこともあるらしいが、いざとなったら「遠くの管理会社より近くの他人」なのである。
「でも、ほんとうに怖いのは、閉め出されるより閉じ込められることだよ」
私より少し前に買い、高層マンションの十一階に住むヨダさんだ。
彼女の「閉じ込められた」のは浴室で、浴室のドアは中から鍵がかかるようになっている。半円形のつまみを、くるりと回すものである。ひとり暮らしだから別にロックする必要もないが、何の気なしに「閉」にした。
洗髪したあと、じゅうぶんつかり、
(さあて、湯もぬるくなってきたから、そろそろ出るか。頭も寒くなってきたし)
とバスタブから上がって、つまみを回そうとし、
(?)
つまみが抜けてしまった。後には円形の穴が。元のとおり突っ込んでも、すぐ落ちる。しかたなく指をこじ入れ、中のとにかくひっかかるところを回して「開」にしようとしたが、濡れた指では滑ってどうしようもない。そして、それを拭けるものは、ドアの内側にはないのだ。
しだいに体が冷えてくる。
ドアのガラス部に体当たりして破ることも考えた。が、タオルひとつもまとわぬ裸でそんなことをしたら、全身血まみれだ。早まってはいけない、と自分に言い聞かせる。
こうなると、高層もつらい。浴室には換気口があるから、一階や二階なら叫べば誰かに声が届くかも知れないが、十一階では、夜空にむなしくこだまするだけ。
夜はしんしんと更けていく。無断欠勤が続いた会社から、異変を感じた人が来て、レスキュー隊を連れてくる場面が目に浮かぶ。
(そうなったらあまりに恥だわ)
くしゃみをきっかけとして、もういっぺん穴に指を突っ込み、やみくもにかき回した。すると、どこにどうひっかかったかわからないが何かが動く感じがあって、開いた……。
「いやー、怖いね」
相槌を打った。たしかに閉め出される方が、電話とかご近所とかに、助けを求めることができただけ、はるかにましである。
入居後最大のトラブルは、こうしてなんとかやり過ごしたが、解決すべき問題は、まだまだあった。例えば、はじめに湯沸かし器やレンジの件とともに挙げた、防犯センサーの件。説明書に従い、スイッチを押すが、いっこうにセットされない。
管理会社の人に電話しても、なしのつぶてだ。
マンションの人によれば、一月と七月に防犯システムの定期点検があるという。はたして七月、実施のお知らせが、管理会社から文書で回ってきた。
点検に来た業者は、
「あー、たしかに壊れてますね」
修理はどこでするのか聞くと、「管理会社の指示を待て」とのことだった。
待っていて指示が来るなら、こんなに楽なことはない。が、マンションに関しては、ものごとはけっしてそんなふうには運ばないのだ。
「何のための点検ですか」
管理会社に電話でたっぷり文句を言った。
「点検して、『はい、壊れています』では意味がないじゃないですか」
何回か電話して、ようやく修理業者が派遣されてきた。
「なるほど壊れてますね」
部品があるかどうか調べて連絡するとのこと。そしてまた、なしのつぶてになった。
私も防犯センサーのことばかり考えて、日々を送っているわけではない。思い出しては管理会社に電話をする。そのたびに、担当の人に伝わっていなかったり、向こうから定期点検を実施したにもかかわらず、
「それは各戸に備わったものではなく、後から個人でお付けになったものではないですか」
と言われたりと、的はずれな対応をされた。
途中から入った私は、何がどこについているのか把握しきれていないが、管理会社に聞けばなんとかなるものと思っていた。が、管理会社といえども、個々の物件について、それほど詳しいわけではないらしい。ヨダさんは、
「マンションは管理で買うのよ」
と言うが、例えば私のところは、販売も管理も同じ系列会社である。相互の連絡がいいとはいえる。いつの間にか倒産しお金だけ持って夜逃げしていたなんてことは、まずないだろうし、長期修繕計画も立ててある。そういう基準からすると、いいはずだ。
その会社でも、修理先ひとつ聞くのにこの苦労。くり返すようだが、向こうから定期点検の実施を知らせてくる機器なのである。
(ぐずぐずしている間に、住居侵入され、生命並びに財産の危機に見舞われたらどうするつもりだ。裁判ものだわ)
物騒なニュースを聞いた夜など、庭先でかさこそと葉がすれ合ったりすると、風の音にもびくついて、寝室のドアの鍵をしっかとかける。
こうまであてにならぬものなら、自分で別に付けるほかないと、「セコム」の資料を取り寄せたりした。
半年後、また定期点検がやって来た。入居した次の年の一月である。若い人がスイッチを押してみて、
「やはり壊れてますね」
この機にどうしても決着をつけようと、
「おたくで修理してくれるか、さもなければ修理業者を今ここで紹介してほしい」
と言い張った。うろたえた彼は、別の家で点検していたらしき人を連れてきて、事情を説明したところ、彼はささっとスイッチを取りつけてある壁沿いに腕を突っ込んで、
「セットできました」
私が必死になって探っていたところの他に、メインスイッチがあったのだ。
しかし、業者の人もわからないものだろうか。修理業者も合わせて三人もの人が点検しているのに。
知らないがために、壊れていると思い込み、すったもんだした防犯センサー。ようやく使いこなせるようになったのは、入居して一年も経ってからだった。
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ウォッシャブルにこだわる
十年間洗わなかったカーテン
前の家では十年間カーテンを洗わなかった。「洗うもの」という観念がなかったのだ。
あるとき、群ようこさんの『街角小走り日記』(新潮文庫)に入っている「自慢」というエッセイを読んで、考えた。マンションに移る一年くらい前のこと。
その文章は、群さんが友人と、「どちらがだらしないか」を競ったというもので、群さんが、
「カーテンを丸一年、洗ったことがない」
と言った。すると友は、
「私なんか引っ越してから八年間、ずーっと同じカーテンをぶらさげたまま」
他にもいくつかやりとりがあり、ものぐさにおいて、群さんが負けるのだが。
私は思わず本を閉じ、窓の方を横目で見た。八年どころではない、私の場合、十年だ。ものぐさ自慢の群さんに勝った相手以上である。
白に近いベージュのカーテンだ。服の食べこぼしのように、何かがどっと降りかかるかとばっちりを受けるかして、しみでもつけば、「洗わなきゃ」という動機付けになろうけれど、この十年、私の日常と同じで、そんなドラマチックなできごとはなかった。その間、色は少しずつ変化しているのだろうが、日々目にしているものだから、
(こんなものだ)
と思っていた。
群さんの本を読んだのを機に、一念発起し、洗ってみることにした。まずは寝室のカーテンから。フックをはずして、洗濯機に放り込む。
しばらくして、フタを開けてみて、
「あらまあ」
と思わず声が出た。水が、まっ黒。洗剤を入れたはずだが、泡の「あ」の字もない。洗剤の説明書きでさかんに謳っている「酵素パワー」も、あまりの汚れに力尽きたようだ。水中で回っているはずの本体すら見えず、ただ灰色の水がうねりながら渦を巻くだけ。
眺めているうち、好奇心がわいて、
(ほんとうのところ、透明度はどれくらいなのだろう)
と調べたくなった。洗濯機を一時停止し、ガラスの花瓶を持ってくる。水をすくって、目の高さに上げてみると、おー、すごい。埃とも土ともつかない黒い粒々が、回転の余力でか、花瓶の中でくるくる舞っている。花瓶の向こうの壁紙が、なんとなく白っぽいことはわかるが、柄までは見えない。運動靴を洗ったときくらいの水の色ではある。
(いやー、こんなに汚れがついていたのか)
まじまじと眺めて、感じ入る。韓国式垢スリに行くと、わが身から出た垢の分量に驚き、しばし観賞してしまうが、あの気持ちと似ている。
一回ぶんの洗剤では落としきれないと思い、早々に脱水して、洗剤を入れるところからやり直した。あとは洗濯機にお任せする。
全コースが終わって、布のかたまりと化したカーテンを取り出しにかかる。脱水してもまだ重く、はしを引っぱると、
「ビリッ」
と裂けるような音に、ぎょっとして手を止めた。これは、何か異変が起きたか。
おそるおそる取り出し広げると、布目がみごと、すだれ状になっている。よく外国の幽霊の館などの図で、カーテンが古びて、ほとんど縦横の繊維だけとなったのが、かろうじてひっかかっていたりするが、あれはけっして誇張ではないと知った。ほんとうに、そういう感じなのだ。
物干し竿にかけるときも、力を入れて竿の向こうにせり出させるたび、「ビリッ」「ビリッ」と不穏な音を立てる。どこかが少しずつ破れていく。
(布とは、月日が経つと、こんなふうになるのか)
と思った。別に、もんだり叩いたりしたわけではない、ただぶら下げておいただけなのに、こんなにも弱るとは。「経年劣化」という言葉の意味を、実感してしまう。
前に国立博物館に見学にいったとき、展示品のうち、やきものは数百年経っても目にあざやかなのに、織物のコーナーへ回ると一転、暗い雰囲気なので、びっくりした。どんな豪華な紋様を施した金襴緞子も、色あせて、
(布の文化は、むなしい)
と感じてしまった。そのことを思い出す。
わが家のカーテンの場合、じっと下がっているだけなら耐え得たものの、長時間の回転で、いっきにもろさが出たのだろう。ベランダの向こうの木々の緑が透けて見える。
その日はよく晴れた日で、乾くにつれて、洗濯の成果が目に見えて表れてきた。あれほど水が黒くなっただけあり、別物のように白い。吊したら、さぞや部屋の中が明るくなるだろうと期待できる。
が、同時に、乾いて軽くなったせいか、風に吹かれるたび、糸くずがぼろり、またぼろりと、枝を離れる花びらのようにはがれはじめた。ベランダに、綿のように積もっていく。
乾き上がったときは、今にもばらばらにほどけそうなようすで、ほとんど原形をとどめていなかった。もはやカーテンではなく、カーテンの残骸である。洗ったのを機に、自然解体してしまったのだ。
寝室なので、カーテンがなしというわけにいかず、とりあえずスーパーからひと袋何千円かのを買ってきて、間に合わせたのだった。
今度の家のカーテンは、色に関してはさんざんに迷った挙げ句ベージュとなったが、その他にこだわった点は、「ウォッシャブルかどうか」である。
前の経験から、「洗えば白さが断然違う」ことがわかった。同時に、「あまり月日が経ち過ぎてから洗うのでは、布そのものをだめにしてしまう」ということも。
今度の家のカーテンは、変わった寸法のため、仕立てるほかはなく、おいそれと取り替えられない。だからなおさら、長くもたせなければ。これからは、心を入れ替え、洗濯しよう。
それには何より、家庭で「気軽に洗える」ことがかんじんだ。そのうちクリーニングに出そうなどと考えていては、いつになるかわからない。服だって、
「これは、扱いが難しいから、プロに頼もう」
と別にしておくと、あっという間に三シーズンくらい過ぎてしまう私である。
知人で、五年前に新築マンションを購入したユウキさんは、
「やっぱり布はイタリアだわ」
と、頑張って輸入物を買った。色は生成りで、純自然素材。織りが凝っていて、いかにもデリケートそうである。ちょっとひっかけても、たいへんなことになりやしないかと、はれものにさわるように扱っていた。
当然、洗濯にも慎重になる。
「自分でするのが心配なら、クリーニングに出せば」
家に来る客から、それとなく「洗いどき」であることを示唆されたが、
「いーや、自然素材の場合、クリーニングの溶剤が生地に残って、かえって変色の原因となることがある」
などと難しいことを言い、日一日と先延ばししていた。
三年くらい経った春の日、カーテンの家具に隠れた部分をふと見ると、
「あーっ」
カビが生えている。生成りの地に、はっきりとそれとわかる黒い点々が。しかも、かなり広範囲だ。
昨日や今日出現したものではないことは、繊維の中までしっかりとくい込んでいることで、あきらかである。入居以来、
(マンションとは、ずいぶん湿気のあるものだな)
とはかねがね思っていたが、まさかこういうところに、しっかり吸収されていたとは。
まるごと洗濯機に放り込むのは、とり返しのつかないことになりそうだから、部分的につまみ洗いする。漂白剤にもつけてみた。が、落ちない。すでに模様と化している。
そればかりか、ごしごしとこすり合わせたり、薬を使ったりしたので、そこだけ布が毛羽だって、色もまわりと違ってしまった。もとの色を保たんがために、クリーニングまで避けていた彼女としては、とうてい受け入れがたい事態である。
しかし、「一生もの」のつもりで購入しただけに、すぐに買い替えるわけにもいかない。自分で自分に許せない。
今はごま塩模様があるのを知りつつ、見て見ぬふりをして過ごしている。
湿気は実は、マンションを買った人全般にとって大問題で、コイデさんが見た何かのアンケートによると、「入居後気になるものは?」との問いでトップに挙がるのが、この問題だそうだ。
ユウキさんのところは、聞けば聞くほど深刻である。
冬になって、窓が結露するならまだしも、壁にも結露するようになった。そうこうするうち壁紙が剥れてきた。
知り合いの工務店の人に見てもらうと、
「あー、こりゃあ手抜きだな」
ふつうならコンクリートと壁紙との間に厚さ一センチ強のボードが貼り込んである。が、ユウキさんのところは、コンクリートの上がじかに壁紙だったのだ。
カーテンが台無しになったばかりか、手抜き工事の疑いさえ出てきたとあって、怒り心頭に発したユウキさんは、所有者から成る管理組合を通じて、販売会社に交渉しようと考えた。
ところが、近所の誰に、
「今期の役員さんは、どなたですか」と尋ねても、
「さあ?」
と首を傾げるばかり。規約上、管理組合はあることはあるが、役員会なんて今期になって一回も開かれていないらしい。名ばかりでほとんど機能していないらしいのだ。
ユウキさんとしても、これまで「組合なんて、面倒で」と、自分とは関係ないという態度をとってきた弱みがある。かといって、販売会社相手にひとりで交渉するとなると、先が思いやられるばかり。
(トラブルを抱え込むより、いっそのこと売ってしまって住み替えよう)
と考えた。が、買ったのはバブル後だったが、それでも価格は一千万円近く下がっていて、引っ越すに引っ越せない。ごま塩模様のカーテンを睨みつつ、歯ぎしりの日々だという。
「それは、もっとも悲惨なパターンね」
私から話を聞いたコイデさんは言った。新築は住んでみないとどんな問題が出てくるかわからない点で、リスキーなのだ。しかも販売時の価格には、広告費などが含まれているから割高であり、それより高く売れることは、バブル後の今はまずないという。そうおいそれとは買い替えられない。
私はどちらかというと、同じ話の中でも、管理組合なるものの重要性が、ポイントとして頭に残った。私のマンションにも管理組合はあり、所有者は必ず組合員になる。月々のローンとは別に、管理費も払う。賃貸のときはなかった義務である。ご近所の寄り合いといったものには、できれば関わりたくない方だったが、ことマンションの管理組合については、別と考えた方がいいようだ。自分たちの資産を守るためのものならば。
カーテンのことに戻れば、そうしたカビなどの問題が出てくる恐れもあるから、やはりウォッシャブルだと思う。売り場では、何よりもその表示に注目した。
洗うとどのくらい縮むかが、縦何パーセント、横何パーセントと示されている。「収縮率」と言うそうだ。見るところ、まったくゼロのものはなく、なるべく低いものを探すという選択になる。
ユウキさんの言い分ではないが、同じベージュでも高級感があるなと思うと、自然素材で、やはり輸入物が多かった。凹凸のある織りや地模様が、ベージュという色のつまらなさをカバーしている。が、
(こういうのは汚れがつきやすいんだよな)
と、すぐ現実に戻る。「収縮率」も、純綿のは高く、化学繊維かもしくはそれとの混紡の方が、「気軽に洗える」という条件にかなっている。イタリアの人は、洗濯問題をどう考えているのだろう。
諸々を考え合わせ、ポリエステルの混紡、織り模様のないプレーンな生地という、現実的なあまりに現実的な選択となった。カーテンというよりは、布巾のような生地である。私という人間は、いつもこうなる。はめをはずせない性格と言おうか、色もそうだったが、迷った末に結局は、さまざまな条件の妥協点で、面白みなくまとまるタイプなのだ。
いずれ消耗品
春頃から、カーテンを眺めると、洗濯を思うようになった。
取りつけて、すでに一年以上になる。
見たところそう汚れてはいないが、この間、家で鉄板焼もすれば、鍋物もした。油も相当はねているだろう。じゅうじゅうと出る煙だの湯気だのに含まれたさまざまな成分も、きっと吸っているはずだ。
(床と違って垂直面だから、埃はつかないだろう)
というのは甘い考えで、それは壁をちょっとさわってみればわかる。重力の法則に逆らって、しっかりと堆積し(という言葉が縦方向にも使えるのかどうかはわからないが)、層さえなしていることに気づくだろう。それを思うと、一年以上ぶら下げたままのカーテンはそろそろ「洗いどき」である。
目に見えてからでは、遅いのだ。洗濯機の水がまっ黒になるほど汚れをため込んでいたのに、「汚れたな」とは十年間ついに感じなかった、前のカーテンの経験が証明している。衣類の防湿剤のように、「取り替えどき」が色ででも表示されればいいのだが。今のところ、月日から推し量るしかない。
五月の連休あけの、ある晴れた日に「決行」した。なぜ、連休「中」ではなく「あけ」なのかと思うだろうが、これには私のエンジンのかかり方が関係する。
連休は、親の家で過ごした。だいたい私は、親の家に行くと、集中的に家事をする。もともとはそれほどこまめに行き来する関係ではなく、各がマイペースを保ってきたが、親が年をとったので、日常の炊事洗濯以外の大ごとをこなすには、体力的にきつくなったのだ。ふだん別々に住んでいる私としては、ここぞとばかり「ため家事」をする。
すると、体が「働きモード」に入る。洗濯機を回し終わっても、他に何かこの機会に洗うものはないかと、うずうずしながらそのへんを見回す。
で、いわば、スイッチがオンになった状態のまま帰ってきた私は、おのずとカーテンに目がいった。天気はいいし、洗うしかない。こういう、やや大がかりな家事にとりかかるには、思いきって腰を上げるかどうか、その一点にかかっている。
クローゼットから脚立を運び出してきて、リビングの窓の前に据え、きびきびと組み立てた。次々とフックを外し、とり払う。ベージュのドレープ、次いでレース。当然ながら、外からまる見えだ。こうなったらもう、後戻りできない。
いちばん大きなカーテンから、洗濯機に放り込む。ドレープカーテンは、一回につき一枚が限度のようだ。
水の色は、前のショッキングな黒さを知っている私にすれば、たいしたことはない。が、通常の洗濯のときよりは、やはり透明度が低いようだ。
脱水の回転の止まるのを待ちかねて、すぐもう一枚のドレープを入れる。取り出した方は、しわにならないうち、すぐに寝室のベランダにある物干し台へ。
その日、私はいったい何回、洗濯機とベランダの間を往復したことだろう。天気がいいのと、化学繊維であるせいか、乾きは早く、洗っては干し、また脱水したのを運んでいっては、前のを竿からひきずり下ろすといったくり返しで、ドレープ、レース計十枚をノンストップで洗濯した。ひとり暮らしで洗濯物が少ないため、ふだんそれほど動きのないわが家の物干し台だが、この日に限って短時間に出たり入ったり、もしも誰かが見ていたら、まるで映画の早回しを見るようだったに違いない。
「あの家の人、いったいどうしちゃったの」
と不思議がられていたのではないか。
いや、庭続きのとなりの人だけは別だな。ある日突然、人間芝刈り機のように雑草抜きをはじめる、私の草むしりのリズムから、思いたったら一気呵成にしてしまいたがる私の性格を見抜いていただろうから。
洗濯機の最後の回のドレープが乾き上がり、物干し竿から腕いっぱいに抱えて取り入れたものを、ベッドの中央にやっとこさと下ろしたとき、
(あー、今日はここまで。とりつけるのは、明日にしたい)
との衝動にかられた。パワーが尽きかけていたのだ。
が、ここで中断しては、明日はもっとおっくうになる。スイッチをいったんオフにしてから、再起動するには、今この続きでやってしまう場合の倍のエネルギーを要するだろう。
ずるずると布のかたまりを引きずり、リビングへ。ドレープ一枚が、まるで運動会の父母席のテントを運んでいるかのように感じられる。
いくつあるとも知れぬ縫い目にひとつひとつフックをはめ込んでいくという、気の遠くなるような作業に耐えたあと、ふらつく足で脚立に上り、いざ、取りつけようとすると、重いこと。腕がしびれそうになる。それでも、左手で抱え、右手でフックをカーテンレール上の輪にひっかけていかねばならない。
同じ高さでの作業でも、外すのより取りつけの方が、はるかにたいへんだとわかった。一定時間支え続けるための力だけでなく、直径七ミリくらいの輪に過《あやま》たず通すための、こまかな神経と集中力とが要求される。じっと上を向き根《こん》を詰めていると、首の後ろが痛くなる。
ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を描いたときのつらさが、わかる気がした。ほとんど顎を直角に上げ、天井を仰ぎ続けていたために、手紙を読むにも頭上にかざさなければならなかったとの逸話が、さもありなんと思われるのだ。
ボタンのかけ違いのようにひとつずつ輪がずれていて、最後の最後で足りなくなったりすると、どっとめげて脚立からずり落ちかけた。が、やめるわけにはいかない。気力をふるい起こして、もう一度はしっこからやり直す。
ようやく完成したときは、あまりの疲れに、腰が抜けそうになった。こりゃ、次回から取りつけに要するエネルギーも見込んで、洗う枚数を決めないと、だめだな。
そうして、やっとこさっとこ、終えてみると。
きれいにはなったのだろう、たぶん。が、「気のせい」と言われれば、それまでであるくらい。部屋ががらりと明るくなるというような、ドラマチックな変化はなかった。
それよりも、丈が縮んだことの方に驚く。洗う前は長めで、床に引きずっていたほどなのに、床との間にすき間ができ、寸足らずの感さえある。
収縮率で言うと、売り場に示されていたとおり数パーセントでしかないが、カーテン丈二百六十センチに対する数パーセントだ。二パーセントとしても、五センチ以上短くなる計算である。
これから毎年洗い、そのつど五センチずつ上がっていったら、どうなるものか。かと言って放置したままでは、カーテンにカビを生やしてしまった人のようなことになりかねない。
表面が、なんとなく毛羽だったような感じなのも、気になる。じょうぶな生地を選びはしたが、やはり長時間の回転の間に、こすれるのだろう。
二度の洗濯を通じて、私は悟った。洗えば洗っただけ傷むし、ぶら下げたままでも傷む。スーパーで売っている何千円のでも、注文仕立ての何十万円のでも、その点では同じだ。劣化するという運命からは、免れ得ない。寸法を測るところからはじめて仕立てたので、カーテンも「家の一部」のつもりになっていた。が、しょせんは布。時とともに確実に弱くなる。
すなわちカーテンも、台布巾やタオルと同じ「消耗品」と考えるべきなのである。あるいは、住まいそのものも、そうかも知れないが。
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地震に備えて
このアパートでは助からない?
子どもの頃、もっとも怖いものは地震であった。
大学の同級生には、
「東京に出てきてから、はじめて地震を経験した」
という人もいたが、神奈川県で生まれ育った私は、震度四くらいならしょっちゅうだった。
また私の小学校の頃は、大地震がそろそろ来るかも知れないと、さかんに言われていたのである。
夕飯のときたまたまつけたニュースも、そのことを取り上げていた。解説者によれば、過去の大地震はほぼ五十年に一度の周期で起きている。関東大震災から五十年が経つ今は、いつ同じくらいの地震が襲ってもおかしくはない……。
私はそれを文字どおり「今日明日にでも」という意味に受け止めた。そんな危険が迫っているというのに、悠然としている親たちの気が知れない。父親は相変わらず電車に乗って東京の会社へ通うし、母親は夕飯の献立にのみ頭を悩ませている。今こそ家族が団結し、どんなことがあってもけっして離れ離れにならないよう、固く協力し合うときではないのか。食糧を蓄え蟄居《ちつきよ》してその日を待つか、遠くの親戚を頼って疎開してもいいくらいの状況である。
グラッとくると、最初の一撃で「東海大地震」の五文字が、テレビで見たとおりの、黒い輪郭にひび割れた字で、まざまざと目に浮かんだ。授業中でも、ためらわず机の下に飛び込んだ。
どっきんどっきん、体じゅう脈打つように、動悸が激しい。揺れは数秒ほどでおさまるのだが、私には一秒が一時間にも感じられた。
当時住んでいたのは鎌倉で、海が恐怖を増幅させた。何でも、断層になっているところがここから遠くない伊豆の沖にあり、地震を引き起こすエネルギーが刻一刻と蓄積されつつあるという。
津波の恐れもある。浜から五百メートルくらい入ったところに、八幡宮の一の鳥居があるのだが、関東大震災のときは津波がここまで達したと聞き、
(へえーっ)
とひっくり返りそうになった。夏は海沿いの道路をバスに乗って市営プールに行くのが常だったが、そのときも沖に舞うカモメを窓越しに見つめながら、
(今もし地震が来たら、道路に沿って逃げてはいけない。必ず道路と垂直に、山に向かって逃げるんだ)
と緊張して自分に言い聞かせていた。
東京西部に住むようになってから、津波の心配はやや減ったものの、地震恐怖症は相変わらずだった。
揺れがやんで、机の下から出てきても、胸のどきどきはおさまらず、痛いほどだ。
(大地震が来たら、私は怪我よりも、心臓発作で死んでしまうかも知れない)
と本気で思った。
学生時代の下宿、会社、会社で借り上げていたアパートと、いろいろなところで地震にあったが、ひとつわかったのは、
(恐怖は、震動そのものもさることながら、音によるところも大きいのではないか)
窓ガラスが鳴り、柱や床がてんでばらばらな方向へ引っぱられるようにはげしくきしみ、聴覚的に恐怖をもたらすのである。
冷静を保つため、机の下にしゃがみながら、耳をふさぐことを習慣づけた。
前のアパートにいたとき、感じていたのは、
(この家はどうも、震度以上に音を立てるのではないか)
がっしゃんがっしゃんうるさく鳴って、
(今のはもう震度四はあったわ。ことによると五かも)
とテレビをつけ、速報の出るのを固唾を呑んで待っていると、流れてきたテロップには、
「東京震度二」
(嘘でしょー)と叫びたくなる。あまりにも実感とかけ離れている。うちのあたりだけ局地的に四だったりはしないのか。
そういうことがたびたびだった。震度一でいちいち目ざめていたなんて、東京じゅうでも、私くらいではないだろうか。表をトラックが通っただけで、アパートの解体工事でもはじまったかと思うような、地響きがするのだ。
前の家で経験した最大の地震は、震度五だ。明け方だったが、ベッドにダンプカーか何かが体当たりしたような衝撃に、びっくりして飛び起きた。はげしい音をともなう揺れに、ベッドの上で枕を抱え、平行四辺形にゆがみそうな天井を見上げて、硬直しているほかなかった。
揺れるからと言って、地震に弱いとは限らない。ビルなどでは、揺れない方が、限界点を超えると、ぽっきり折れるとも聞く。
(このアパートは、いったい何でできているのだろう)
賃貸契約書をめくり直したりした。「木造モルタル鉄骨」とある。「鉄骨」とは何ぞや。鉄筋コンクリートはよく聞くが、鉄骨は耳慣れない。
こうなると、上にどんな人が住んでいるかも、気になるところだ。人そのものより、どのくらいの重量の家財道具を有しているか。
前に、元左翼の人のやっている出版社を訪ねたとき、コーポラスの一室を事務所としていたのだが、社長である男性は、
「僕は『朝日ジャーナル』の創刊号から最終号まで全部とってある」
と、奥の和室を見せてくれた。
そこには、畳の上に鉄パイプを組んだ手製の本棚が、何列も並んでいて、そのうちのいくつかは、たしかに「朝日ジャーナル」で埋めつくされていた。本棚の下の方は、畳に食い込んでいた。そのとき私の胸にやきついたのは、彼の「自分史」を感じさせるコレクションよりも、
(こういう人の下には、住みたくない)
ということだ。のちに、コーポラスが取り壊しになるとかで、彼はそこを出たらしいが、賃し主さんに、
「お宅のところだけ、床がたわんでいました」
と言われたそうだ。
誰かの下に住む場合、蔵書家は避けたい。オーディオマニアもだ。
集合住宅では、たがいのプライバシーに関心を持つのはよくないとされている。が、私はとなりの主婦に、何かのついでに、
「私のところの上の人、何してる人なのかな」
と探りを入れてみた。三十代とおぼしき男性で、ジーパンなどのラフな服装で、昼間ふらりと出ていくのを、彼女も私も、幾度となく目撃している。勤め人ではなさそうだ。
「漫画家さんじゃないの。うちではそう呼んでるよ」
彼女はさりげなく、恐ろしいことを言った。そう言えば資源ゴミの日に、漫画本の束がときどき収集所に出ている。出るインターバルからして、置ききれなくなったぶんとみなすべきだろう。私は手塚治虫全集の下敷きになるのか。
後に、彼は漫画とはまったく関係ない職業と知ったが、そんなふうに、上の人の荷物が気になるほど、つぶれることを心配していたのである。
(地震のことを思うと、やはりマンションに越すべきか)
寝る前、天井を眺めていると、そちらに気持ちが傾いていく。
しかし、関東大震災級が来れば、どんな家に住んでいようと同じこと、とも考えられる。あれこれ思いをめぐらすうち眠くなり、
(まあ、そもそも家にいるときに地震が来るとは限らないんだし)
とりあえず思考を打ち切って、朝になったらまた同じ一日をはじめるのが常だった。
そんな私に活を入れたのは、何と言っても、阪神大震災である。
阪神大震災は、「地震でつぶれて死ぬことはないから、落ち着いて行動しなさい」と、私が子どもの頃から言い習わされてきたことの前段を、まっ向から否定した。
新聞には、
「うちでは箪笥という箪笥を即、粗大ゴミに出しました」
と決然と語る、関東地方の主婦の談話が載っていた。
知人で大阪出身の男性は、地震のその日に、親から電話がかかってきた。実家に被害はなかったが、生まれてはじめての揺れを経験した親たちの話は、生々しかった。
「あんた、引っ越す言うてたやろ。一階はあかんで、絶対に」
彼が近々社宅を出、アパートに移ると知っていて、慌てて電話してきたのだ。
彼は実はその前日、不動産屋と契約してしまっていた。一階の部屋だった。
彼としても恐怖を感じ、急いで不動産屋に行って、同じアパートの二階か三階の部屋に替えてくれるよう頼んだ。空室があることは、前日の契約のときわかっていた。不動産屋の言うことには「どうぞ、二階でも三階でも選んで下さい」。ただし、新たな契約となるので、敷金礼金はそのぶん払ってもらう、と。
「東京の人はシビアですなあ。僕はもう親元に帰りたくなりました」
と溜め息をついていた。
私は芦屋に友だちが住んでいた。学生時代の同級生で、関西の人と結婚し、そちらに居を定めたのだ。
芦屋に二十坪の土地を買って、夫婦共稼ぎで家を建てたとの話を聞き、
「えーっ、よくそんな狭い土地が芦屋にあったね」
と同級生たちの間で話題になった。震災の数年前のことである。
震災から数週間後、ようやく直に電話で話すことができた。まわりでは倒壊した建物も多かったが、彼女のところは「二十坪」が幸いしてか、壁にひびが入ったくらいですんだ。家じゅうでいちばん面積に対し柱が多いトイレが揺れに強いのと、同じ原理ではないかと、彼女は言う。
が、家の中はしっちゃかめっちゃかになり、倒れた家具を起こすのに、腰を痛めたりしたそうだ。
「そちらは今どんな家に住んでるの」
私のことを聞いてきた。築十年以上の木造モルタルアパートだと答えると、言下に、
「引っ越して。今すぐ引っ越して。危ないから」
あたら命を落としてほしくない。一日も早く引っ越すべきだと、力説する。
むろん、アパートだから助からない、とは限らない。ひとり暮らしの男性の、こんな例も聞く。彼は布団にもぐるのが面倒で、震災の夜もコタツで寝ていた。衝撃と同時に、両側から壁が倒れてきたが、コタツ板にさえぎられて止まり、ちょうど彼のまわりだけ三角形の空間ができた。が、這い出すことは、できない。
しかたなく、コタツの下に仰向けになっていた。ふと見ると、コタツの上に食べかけのポテトチップスの袋がある。自由になる手を伸ばし、一枚また一枚と、ポテトチップを引っ張り出しては、飢えをしのいだ。水は、やはり飲みかけのペットボトルがあった。そして十何時間後かに、無事救出されたというのだ。そういう例もある。
けれども友人のまじめな声は、アパートがどのくらい危険かといった問題を別にして、私を叱咤するものがあった。生きたいなら、少なくとも死にたくないと思うなら、少々的はずれな努力であっても、できるだけの努力をすべきではないのか。それが自分を生かす何ものかに対する礼儀ではないのか、と。
防災グッズを探せ
そこからまた、家がどうのといった即物的な話に戻るのが、私の頭がいかに形而下的な思考をするかを示している。
別の知人で、やはりマンションを買うことをよく話していた女性は、震災後、いっきに購入する気がなくなったと言う。
「モノを持つのがいかにむなしいか、ニュースの映像を見て感じたわ。形あるものはいつか壊れる。諸行無常ってほんとうね」
家によらず何によらず「所有したい」という欲が、つきものが落ちたように失せてしまったとか。
が、私の場合、震災は逆に作用した。新聞の広告でも、これまで以上に「耐震」とか「免震」という字に目がいった。
阪神大震災のとき、分譲マンションで大きな被害が出た率は、五パーセントほどだったという。特に昭和五十六年の建築基準法の改正以後に建てられたマンションでは、建築の倒壊による人命への被害は、非常に少なかったという。
よく「壁式構造」とか「スパイラル筋」が地震に強いといわれる。私はちんぷんかんぷんだったが、半年間物件めぐりを続けたヨダさんは、さすがに詳しい。
彼女によると、「壁式構造」とは壁で建物の重量を支えるもの。中低層のマンションに用いられる。柱で支える方式の「ラーメン構造」に比べて、リフォームしにくいのが欠点だが、揺れにくいといわれる。
「スパイラル筋」とは柱の中の鉄筋についていうことで、縦方向の鉄筋に巻きつく形で入っているものだそうだ。
「モデルルームで、そこまで見たの?」
感心すると、
「いやー、知識としてはあったんだけどね」
いざ買うときは、「これだ!」と思って即決したので、質問することさえ忘れていたとか。決めるときは、そんなものなのだろうか。
ちなみに彼女のところは、高層マンションなので、鉄骨鉄筋コンクリート造りになっている。鉄筋のみよりは耐震性は高いという。
また「耐震」と「免震」との違いは、前者が、揺れることは揺れるがそれに耐えられる強度を備えることなら、後者は揺れそのものを建物に伝わりにくくすること。具体的には建物と基礎との間にゴムを入れたりする。高層ならこちらを選んだ方がいいというのは、コイデさんの意見だ。
私は工法までは、よくわからないが、高層マンションはなんとなく避けたいと思っていた。高層ならではの耐震、免震設計がされているのだろうが、感覚的に落ち着かない。やはり地に足が着いている方がいい。中低層でも一階が駐車場になっているものは、宙ぶらりんに感じてしまう。
今のマンションを気に入ったのも、ひとつには低層だったからだ。二階建て部分と三階建て部分が交互に並んでいる。
はじめ売りに出ているのは一階とだけ聞いて、どの部屋かはまだ知らなかったとき、外観だけ見にきて、
(二階建て部分の一階だといいな)
と願った。上に一所帯ぶんの家財道具を載せているのと、二所帯ぶんの家財道具とでは、重さにしたら倍である。いざ崩れてきたら同じかも知れないけれど、心理的にはずいぶん違う。
二階建て部分の一階だった。昭和五十九年築。改正建築基準法以降という条件もクリアしている。
私にしてはかなり、地震のことを考えての選択だった。が、知人の中にはもっとこだわっている人もいて、東京のどこに断層があるかを地図で調べたり、
「鉄道線路や国の施設のあるところは安全なはず」
をポリシーに物件探しをしていたりした。
しかし、建物は壊れなかったとしても、危険はまだある、中にある。
芦屋の友人は、さきに書いたように、家そのものは壁にひびが入ったくらいですんだ。が、家の中を台風がじかに通り過ぎ、ひっかき回していったかのようだったという。
いちばん驚いたのはリビングで、観音開きの食器戸棚の扉の間に、向かいの本棚が挟まって、なおかつ食器戸棚がのりの缶を踏んでいたことである。この状態が成り立つためには、まず食器棚がジャンプして、空中で扉が全開したところに本棚が突っ込み、かつ食器戸棚と床との間には、のりの缶がリビングを横切りふっ飛んでくるという複雑な動きが、瞬時に行われなければならない。はじめの一撃がいかに強烈で、さまざまな方向から力がかかったかを、思い知ると同時に、
(もしもここに夫か私がいたら……)
と考え、ゾッとしたという。たしかに、NHKでくり返し流された、支局内のようすの映像も、ロッカーだんすが床に叩きつけられるように倒れた。逃げる暇などありはしなかった。地震と言えば、まず初期微動が来て、だんだんに揺れが激しくなるという、段階的なイメージは、完全にくつがえされた。
そういう目で見ると、わが家は危険だらけである。
例えば、台所の流しの上の開き戸棚。指先で引くだけで開けられる。地震のときは、はじめのひと突きで、盆を傾けたように、すべてがもろくも滑り落ちてくるだろう。となると、頭に当たって脳震盪を起こしそうな重いもの、角のあるもの、割れやすいものは入れられない。せっかくの収納なのに、置けるものはタッパーくらいだ。
電子レンジの置き場も、考えものである。とりあえず台所の冷蔵庫の上に載せている。横揺れのとき、後頭部を直撃する位置だ。あの重さで、だるま落としのコマのようにま横からすっ飛んできたら、ひとたまりもない。
食器戸棚も、倒れないようにする必要がある。仕事部屋の本棚も同じだ。
しかし、こう次々と危険箇所を思いつくあたり、私の生に対する執着も、相当強いことがわかる。
一方で、同じ地震の心配でも、飲み水とか乾パンといった問題には、切実さを感じないのが、われながら不思議だった。「飲み食いは、つぶれずにすんだ後の話」という頭があるのだろうか。
例によって「勉強」から入る癖で、書店へ行った。防災に関する知識を、本から得ようとしたのである。
阪神大震災の直後は、「わが家の防災マニュアル」といったものがかなり出ていた。私も何冊か買おうかと思った。
が、見当たらない。
スーパーに足を運んでみる。あそこもひと頃「防災コーナー」が設けられ、懐中電灯やロープなどを売っていた。
けれども、今はのどかな「ガーデニングコーナー」となっていた。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の、日本人の悪い癖か。
コイデさんの報告によれば、
「関西の人は違うよ」
「お宅拝見」で京都の家を訪ねたときのこと。
飾り物はすべて、展示品のように、透明の糸でがんじがらめに留めてあった。
「それだと、掃除ができないじゃない」私が言うと、
「掃除ははじめからしないと腹を決めたのよ。埃がたまってもいいから、割れない方をとったのよ」
飾り物と言えば、わが家にも中国のやきものがあり、それが唯一のお宝だが、韓国製のつづらの上にただ載せてあるだけ。地震が来れば、床に落ちること必至である。
コイデさんの言う京都の家は、うちじゅうのすべての箪笥に、転倒防止器具が装着してあったそうだ。
「総桐の箪笥で、ああ、この家はかなりこだわっているなとわかったけれど、地震を機に、美観を捨てたのね。見た目は二の次! という覚悟を感じたわ」
そうまでしないと、わが身は守れないのか。
コイデさんによれば「突っ張り式の転倒防止器具は、かなり威力があるらしい」とのこと。金属製の棒を、家具と天井との間に取り付けるものだ。
本棚に四本、食器戸棚に二本、取り付けることにした。これは、近くのホームセンターですぐみつかった。さすが家具の転倒を防止するものだけあり、一本がかなり重く、何回かに分けて買ってこないとならなかった。
開き戸は、皆どうしているのか。
同じマンションの人に、
「流しの上の収納、頭から落ちてくる恐怖を感じませんか」
と聞いてみると、
「それより私は、自分がボケるのが怖い」
と、まったく違う答が返ってきた。何を気にしながら生きているかは、人それぞれなのだと、改めて思った。
近くのホームセンター、スーパー、デパートにも、それらしいものはなく、郊外のホームセンターまで出かけていった。となりの駅から街道を歩き、
(東京にまだこんなところが残っていたか)
と思うような畑を抜け、豪農の家の間を通り、なおも歩いて、三十五分かかった。車による来店を想定している店なのだ。
あるにはあったが、扉の表に取り付け、二枚の扉を鎖でつなぐという、大げさなもの。かけたり外したりが面倒で、台所仕事の間は外しっぱなしにしてしまいそうだ。が、それでは意味がない。私が台所にいるときこそ、落下を防止してほしいのだから。
売り主のオオイリさんはどうしていたか、電話のついでに、話してみた。
「ああ、そうね。そこは、引いて開けるんだったわね」
オオイリさんが今住んでいる家は、押さないと開かない金具が、扉の裏にはじめからついていた。
「外から押すとワンタッチで開くけれど、引いてはびくともしないのよ」
内側から外側への力はロックされるということか。そういう金具があることを、はじめて知った。
ヨダさんに聞くと、彼女のところの流しの上の収納も、金具は落下防止金具だそうだ。そういう「進んだ部品」をとり入れてあるところが、新築のよさだろうか。
が、あきらめることはない。建てた人だって金具は買ってきたわけだから、必ずや商品としてどこかで売っているはずだ。
(九月を待とう)
と思った。なぜ九月かと言うと、九月一日は関東大震災のあった日だから、たぶんあちこちの店で「防災フェア」が開催される。阪神大震災の記憶が遠のくとともに、店々から姿を消した商品が、九月一日を前に、再び現れる。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」が日本人なら、貫一お宮ではないけれど「何年後の今月今夜」に必ず思い出すのもまた、日本人の習性である。
果たして、「東急ハンズ」のチラシが入ってきた。
そのチラシで私は、それまで限りなく非効率的に収集するしかなかった商品知識を、いっきょに得ることができた。
まず、売り主さんの言っていた金具、これが商品化されていることを確認した。
また、気になる電子レンジ問題を解決してくれそうな商品のあることもわかった。ゴムのマットで、OA機器の下に敷き、落下を防止する。「OA機器などに」とあるが、電子レンジにも応用できそうだ。
割れたガラスの飛散を防止するフィルムがあると知ったのも、チラシでだ。阪神大震災では、ガラスの破片を踏み抜いて怪我した人も多いと聞く。
OA機器に敷くマットについては、知人の男性の耳にも入れた。オーディオマニアで、機器類に囲まれ暮らしていると聞いたので、それにも使えるのではと。すると彼は、
「女はなんで、そうまでして生き残ろうとするのかなあ」
地震が来たら、じたばたしてもしかたがない。オーディオ機器に埋もれて死ぬなら本望だ。
「自分ひとり生き残ろうとするのは、往生際が悪い」
とまで言われてしまった。そういう男に限って、妻には自分より一日だけ遅く死んでもらい、最後まで妻に介護させようという考えの持ち主なのだ。
チラシで得た情報をもとに、いくつかの店の「防災フェア」を回ってみた。「そんなことしなくても、東急ハンズに行った方が早いのでは」と言われるだろうが、「東急ハンズ」へは渋谷とか新宿とかのビッグターミナルを経由せねばならず、私にとっては畑の中を三十五分歩くより、心理的に遠いのだ。
開き戸の金具は、購入できた。一つにつき四百五十円。
ガラス飛散防止フィルムは、通販で取り寄せた。二本組で三千円にちょっと欠けるくらいだったと思う。
落下防止マットは、「これか」と思うと単なるキズ防止マットだったりして、ついに探せず、今後に課題を残すこととなった。
買ってしばらくして、市からも「お知らせ」が入ってきた。防災対策のひとつとして、こうした品々を斡旋するらしい。九月や阪神大震災のあった一月頃、チラシに注意していると、あっちこっち探し回らなくてもいいかも知れない。
転倒防止器具は効果あり
ある明け方、寝ているベッドがなんとなく動いたようで、目がさめた。
地震か。耳をすます。物音はない。
(体重のかけ方のせいか。このスプリングも相当いかれてきているからな)
寝呆け頭でそう考え、再び眠りに入っていった。
のちに新聞で震度三だったと知って、驚いた。震度三と言ったら、前のアパートではもう、がっしゃんがっしゃん、ぎっしぎっしと、ポルターガイストでも暴れ出したかのように、すごい騒ぎだったのだ。
(やはり、マンションの方が揺れないのか)
引っ越してからはじめての地震らしい地震である。
「地震だ」と思わなかったのは、音がほとんどしなかったからかも知れない。ついこの前、食器戸棚と本棚の転倒防止器具を装着したのだ。
買ってから何か月も放置してあったのを、
(いけない、今のままでは永遠につけなくなる)
と、ある晩、意を決して、取り付け作業を開始した。
戸棚と天井の間にジャストサイズにはめ込んでから、ネジを回し、徐々に突っ張る力を加えていく。このネジがきついこと。
説明書には、
「天井を破らないよう注意しながら回して下さい」
とあり、
(そんなに強力なのか)
とびっくりした。一本留め終えると、掌がまっ赤になる。
本棚の四本でその夜は力尽き、何週間後かに再びトライし、食器戸棚に二本、ようやく取り付けたばかりだった。それで、少なくとも家具と壁がぶつかり合う音はしなかった。
(あの器具は、正解だった)
自分で自分の選択に、深くうなずく。
生活上のテーマとするところは、人それぞれだ。オーディオ男のように「地震なんて備えてもしかたがない。なるようになれ」という考え方の人もいれば、私は「つぶれて死なない」を至上命題に、効率的にとは言えないけれど少なくとも目的的に、情報を集め、生活を組み立ててきた。
が、その目的的行動の中に、「性格」という要素が入ってくると、必ずしも合理的な動き方ではなくなるのがまた、人間というものだ。
例えば、あれほど大騒ぎした、電子レンジの落下問題。ようやく、落下防止マットなるものがあると知り、しかも電車に乗れば三十分足らずで行ける「東急ハンズ」には必ずあるのに、「人込みの中を歩きたくない」、ただそれだけで、まだ買っていない。
開き戸の金具も、せっかく購入したものの、扉の取り付け部分そのものを業者に頼んで替えないといけないことがわかり、頓挫している。
思い込んだら、しばらくは猪突猛進するけれど、あるところでふっとスピードがゆるんでしまう。
つづらの上に載せてある、お宝のやきものも、釣りのテグスが、
(透明で、留めるのにぴったり)
とひらめき、知人からわざわざもらうまではした。が、まん丸でかつ、つるつるのやきものなので、糸をかけるところがない。しかたなく、つづらの下の床に座布団を敷き、
(落ちたとき、せめてこの上に着地してくれればいいが)
と願う、消極的な策をとっている。
通販で注文したガラス飛散防止フィルムに至っては、いまだ箱のままである。あれも、貼ろうとすると、まず食器戸棚から扉をはずし、ガラスの表裏をよく拭いて、縦横の寸法を測り、そのとおりにフィルムをカッターで切って……と、すごい手間暇である。
要するに、面倒くさがりなのだ。
この前、売り主さんの引っ越し先を訪ねたら、リビングのカップボードにカップがきれいに飾られていた。前の家でも、たしか同じようにしてあった。
「こういうのによく、ガラス飛散防止フィルム貼る人いるでしょ?」
話を向けると、売り主さん曰く、
「あー、あれ。うちにもあるわ」
買ったことは買った。今にも貼る気で、ガラス部の寸法を測り、何箱必要かまで割り出して、その計算に基づき、買ってきた。それが二年以上前のこと。
「そのうち貼ろう」と思ううち、アッという間に日が経って、このたびの引っ越しでも、箱のまんま持ってきたという。
「今も、押し入れかどこかに入ってるはずよ」
「買うととりあえず安心してしまう」というのは、人間の共通の心理なのかも知れない。
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リフォームに挑戦
何をしても許される?
「間取りに目を奪われていてはだめよ」
今の家にめぐり会う前、チラシを眺めるのを習慣としていた私に、コイデさんは言った。
「極端な話、壁をぶち抜くことだって、できるんだから」
その頃の私は、「どんな物件を探しているの」と問われても、
「うーん、2DKか2LDK」
と答えるなど、頭が完全に間取り優先になっていた。平米数で考える発想はなかった。自分のいるアパートが何平米かも知らなかったのだ。
が、コイデさんいわく、
「マンションなんて、中はいくらでも変えられる」
事実、彼女の訪ねた部屋には、3DKの壁をすべてとっ払い、ひと部屋にして広々と住みこなしている人もいたとか。
そうは言われても、「クギ一本打ってはならない」賃貸に長年暮らす私には、住まいに手を入れるということが、どうもピンと来ないのだった。
今の家に仲介会社のタナカ氏に連れられはじめて足を踏み入れたとき、売り主のオオイリさんが美しく整えていたために、まるでモデルルームのように思えた。が、水回りには、さすがに築年数を感じた。
最近のマンションは、風呂は追い焚き式が主流であるのに対し、給湯式。浴室の壁は、抗菌タイルではないようで、掃除がたいへんそうだ。
帰りの車の中でタナカ氏に感じたとおりを話すと、
「でも、あの家みたいに、すべての水回りに窓がついているのは、めずらしいです」
今の物件にはなかなかないことだという。
「せっかくだから、ついでに見てみますか」
と、さきの家より三百万円高い新築に寄ったが、たしかにそうだ。
「私なら、同じお金を出すならば、さっきの家を三百万円かけてリフォームします」
彼にしてはめずらしく私見を述べた。
「リフォーム」という言葉が、私の中に最初にインプットされたやりとりだった。親の家でも引っ越しは何回かしているが、「リフォーム」は、いまだかつて経験したことがなかったのだ。
それが現実的な可能性として、私の頭の中でふくらむまでには、今しばらく時間がかかる。
オオイリさんが引っ越していった後、一時的に空き家となった家に、タナカ氏と出向いた。不動産取引用語で言う「現地の確認」のためである。
あわせて、ハウスクリーニングの業者も来ることになっていた。タナカ氏に紹介を頼んだ人で、現地で引き合わされると同時に、業者の人は掃除に先だち、汚れの状況を調べるのだ。
三人で中に入った。
私は実は、前に来たときは、住んでいる人の目の前でじろじろ眺めるのは悪い気がして、個々の部屋については、あまりよく点検しなかった。
あらためて見ると、リビングを含む三部屋のうち、まん中の四畳半だけ、フローリングの色が違うことがわかる。木の床材であることはあるが、グレーだ。壁紙もグレー。
右側の壁がクローゼットになっていたが、その扉も、メタリックグレーだった。ひと頃流行った、ハイテクインテリアだろうか。オオイリさんのいたときは、パソコンを使う息子の個室にしていたそうだから、機器とトーンを合わせたのかも知れない。
壁紙には、四角い穴があいていた。エアコンを設置していた跡だろう、壁紙が、その部分だけ切りとられたようになっている。
私もそこに今使っているエアコンを持ってきて据えるつもりだが、私のものの方が、どう考えても小さい。巻き尺を取り出し測ってみると、壁紙の破れめは、幅七十六センチ×高さ三十六センチ。私のエアコンは、幅は同じだが、高さが二十三センチしかない。壁紙のない部分が、出ること必至だ。穴のふちにあたる壁紙はエアコンを外した後早くもめくれ返っており、見た目が悪いことは悪い。
照明の暗さも、気になるところだ。部屋の大きさには合っているのだろうが、仕事部屋として使うにはもう少しワット数を上げ、明るさを何段階か調節できることが望ましい。照明機器を替えるだけでいいのか。あるいは天井の取り付け部分に工事が必要だろうか。
仕事部屋という用途で言えば、クローゼットもほんとうならば必要ない。ひとりの人が寝る、着替える、物をしまっておくなど、すべてをここでしていた個室と仕事部屋とでは、求める機能も、当然違ってくる。
クローゼットの中には、本棚を置こう。とすると、本棚はこのサイズにおさまることが条件となる。今のスチール製のは、かなりガタがきているので、いずれにせよ買い替えるつもりだ。クローゼット内は、仕切り板で左右に分けられて、幅は右、百三十三センチ、左、三十三センチだった。高さは百八十四センチ、奥行きは五十二センチ。
すると、本棚は、百三十三×百八十四×五十二以内と、三十三×百八十四×五十二以内という条件に適合するものでなければならない。そんなにうまいこと、寸法の合うものがあるだろうか。
特に仕切りの左側に入れる方は、非常に縦長となる。本棚でなく、「隙間収納」家具から探さなければならないのではないか。
「それにしても、本一冊とるのに、いちいち扉を開け閉めするのが、面倒ですね」とタナカ氏が言った。同感である。扉の動きも、必ずしもスムーズではない。
「いっそ、扉だけ外して使いますか?」ハウスクリーニングの業者が提案した。
「そんなことができるんですか」
「外すのは、簡単ですよ」
しかし、外してそれっきりというわけにはいかない。仕切り板がむき出しになり、開けっぱなしの押し入れのようになる。
若い人向けのインテリア雑誌によく「収納の悩み解決」の実例として、「押し入れの襖を取り払って使う」というのがある。あれと同じだ。その場合は、押し入れの前にカーテンを下げるというのがパターンだが、せっかくの仕事部屋だ、もうひと工夫したい。カーテンの代わりに、ブラインド? ロールスクリーン? まわりに合わせると、色はやはりグレーだろうか。が、それだと、OHPのスクリーンみたいにならないか。
ハウスクリーニングの業者では、ブラインドの類も取り扱っているといい、車の中からカタログまで持ってきたが、何ぶん、たった今降ってわいたような話だから、イメージがわかない。
「すみません、少し考える時間を下さい」
自分の家なのだから時間はいくらでもあるのに、なぜか謝って、とりあえず扉を外すことだけ、クリーニングとともに依頼した。
発想の転換
引っ越してしばらくは、リビングで仕事をすることにした。本棚もまだ来ないので、まん中の部屋には、本や書類を床にじかに積んであるだけだ。
あの部屋を、これからどう整えていくべきか。
基本はグレー。床や壁紙がそうだから、その色は動かせない。が、グレーというのは、ともすれば、暗い感じになりがちだ。
今ふうに住みこなすには、コンクリート打ちっぱなしの、ロフトのような空間をめざせばいいか? あるいは、ひと頃のカフェバー(懐かしい言葉だ)にならい、白黒のモノトーン?
いずれも、そこそこの広さがあってこそ可能である。四・六畳ではへたすると「独房」になりかねない。
(昼のほとんどの時間を過ごす場だ。明るく開放的なスペースにしたい)
という文言は、すでにインテリア雑誌の影響をだいぶ受けているが、とにかくそう考えた。
(グレー、グレー、グレー、グレー……)
グレーの閉塞感をどう払拭するかが、テーマとして、頭の中を占めていた。街を歩いていても、グレーがベースの店のようすに目がいった。
あるとき、ビルの一階に入っている雑貨屋を通りかかり、店先のメタリックシェルフに、視線が止まった。晴れた日なので、商品を並べた棚を、外へ出していたのだ。
銀色の、材質で言えば、スーパーのカートとか、台所の水切りラックのようなもの。さわやかに輝いて、ビルの外観にマッチしている。
眺めていて、はたと思いついた。
(そうだ、グレー=「灰色」ではなく「銀に似た色」と考えればいいのだ)
すなわち、白や黒ではなく、銀と合わせればいいのである。
書類棚には、このメタリックシェルフを用いよう。仕切りは、籐のカゴにしてもいい。ごちゃごちゃの気になるところは、白い布でおおい、段のところどころにグリーンの観葉植物でも配すれば、「南欧キッチン」ふう(南欧に行ったことはないが)の感じになるではないか。少なくとも「独房」のイメージは避けられる。
メタリックに活路をみいだした私は、いっきに足どりが軽くなった。床には同じくメタリックの脚の、遊び心のある形のライトを置いて、照明を補強しよう。そう、それでいこう。
が、その私をあざ笑うかのように、どーんと重くのしかかってくるのが、本棚である。実は、引っ越し前、もとの本棚を処分したとき、畳の上にどっとあふれた本の量に恐れをなし、発作的にスライド式本棚を注文してしまっていた。むろん、「現地の確認」のとき測ったクローゼットの内のりのサイズ内におさめることは、忘れなかった。支払いもすませており、二週間後には届くだろう。それとメタリックシェルフと、どう折り合いをつけるか。
そもそもその本棚に関しては、なるべくそう思わないようにしているけれど、急《せ》くあまり事をし損じた感が否めないのだ。幅百三十三、高さ百八十四、奥行き五十二以内には、おさめた。幅九十、高さ百七十五、奥行き四十四だった。それだと、幅が四十三センチも余ってしまう。仕切り板の右側に、もうひとつ本棚を入れたくなる。
一方、仕切り板の左側は、幅三十三センチである。すなわち、幅四十三センチ以内と、三十三センチ以内の本棚をあとひとつずつ探さなければならない。これではかえって、事態を複雑化させたようなものだ。
メタリック案があえなく消え、また白紙に戻ってしまった。完全なる白紙でないのは、本棚をすでに注文してしまったこと。
(この仕切りがとれるなら、まだいいが)
クローゼット内の壁を叩いてみる。
それから、ふっと考えた。仕切りだけでなく、クローゼットそのものをとり払ってしまえばいいのでは。
外した後には壁紙を張って、ふつうの壁とする。すると、そこに本棚が置ける。
(そう、「リフォーム」をするのだ!)
それに気がつくと、今まで何を悩んでいたのだろうと思った。なぜ、こんな簡単なことを考えつかなかったか。
クローゼットがなければ、仕切りの左右にとらわれることはない。七十センチくらいの幅の本棚なら、あとひとつ、ゆうゆう置ける。
照明もつけ替えよう。壁紙とともに、天井の紙もはがすのだから。エアコンまわりの見ばの悪さも解消される。
そこまでするなら、いっそ床も替えようか。他の部屋と同じ、木の色のものに。そうすれば部屋からグレーが一掃され、メタリックの方向に強引に振ったりと、苦肉の策を弄することもなくなる。
ついでに、頭上の吊り戸棚も、この機にとってしまおうか。窓に向かって仕事机を置くとすると、ちょうどま後ろに来ることになり、「地震による後頭部直撃」を何より恐れる私としては、
(おそらく、物を入れることはないな)
と思っていた。思いきってなくしたら、壁がずいぶんすっきりするに違いない。
アイディアが次から次へと面白いように浮かんでくる。あれほど行き詰まっていたのに、ひとたび「リフォーム」へと発想を転換するや、目の前がいっきに開けた感じだ。グレーを所与の条件であるかのように、きまじめに受け止めていた私は、バカであった。ずっと賃貸で来たために、頭がすぐには切り替わらなかったのだ。
業者はどうする
私はさきにハウスクリーニングを頼んだ会社に、引き続き相談することにした。彼のところはリフォームのプランニングから内装、外装までも手がける。タナカ氏によれば、独立する前はタナカ氏の仲介会社と同じ系列のリフォーム会社にいて、彼が扱った物件も担当したことがあるらしい。そんなことから、マンションのリフォームには慣れていると思われた。また、タナカ氏との関係を保つ上でも、きちんとした仕事をしてくれるだろうと考えたのだ。
その業者には実は、カーテンも注文することにしてあった。メーカーから四割引でとれると聞き、それならばと、近々採寸に来てもらうことになっていた。こうなったら、リフォームもついでに、となるのも自然な流れであろう。
そんな経緯で、私は他の業者と比較検討することもなく決めたわけだが、後で聞くと、この業者選びは、皆が結構悩むところらしい。チラシで調べたり、リフォームセミナーに行ってみたり。
コイデさんの知っている例では「口コミで」がもっとも多かったそうだ。知り合いの家がある工務店に頼んで、よかったそうだから、といった理由だ。
それで言えば、私ももともとはタナカ氏からの「紹介」になる。家の中に入ってもらうわけだし、私の場合、特に女ひとりだから、まったく知らない人よりも、そうした背景がある方がいい。
若き事業主である彼は、自らユニフォームと定めたらしい水色のジャンパーに、白いソックスといういでたちだった。客の信頼を得るには清潔感が第一と心得てのことだろう。こざっぱりしたようすが、いかにも健康的で、休日には、ニューファミリーの父としてRVを運転し、家族を引き連れ川原へくり出しそうなタイプである。
採寸に来てもらうに先立って、リフォームに関する相談事項も、あらかじめファックスで伝えておいた。「(1)壁紙、天井紙(?)を替える。(2)床を張り替える。(3)照明を替える。(4)クローゼット、吊り戸棚を外す」。
鍵が開かずに泣く泣くホテルに一泊し、戻ってきた次の日にはもう、このファックスを送っているのだから、われながら立ち直りの早い性格である。
送信した二日後、やって来た。ソックスはその日も漂白したてのようにまっ白で、「人の家に上がる仕事」としてのマナーを感じさせると同時に、
(毎日洗濯する妻はたいへんだな)
と思ったりした。
壁紙は、なるべく凹凸のあるものがいいという。前の人がすでに一度張り替えているので、下がどんな状態かはわからない。はがしてみて、多少平らでなかったとしても、壁紙に凹凸があれば、ごまかしが利く。
「ただし、次に張り替えるときは、下も塗り直さないといけなくなると思います」
そう、やたらめったら張り替えられるわけでもないと、知った。
その割りに、選び方は慎重でなかったような。彼が持ってきたカタログをささっとめくり、
「これにしましょう」
と直感で即決してしまった。
「床材だけは、高くてもじょうぶなものにしておいた方がいいと思いますよ」
毎日踏むので、傷がつきやすいところだから、と。それに従う。
見積もりを出してもらったところ、材料費、工事費、運搬費込みで、三十四万五千円ほどだった。
内訳についてもう少し言うと、床材が十万八千円、天井と壁に張るクロスが約八万五千円。このふたつで半分以上を占める。その他で比較的大きいのは、もとの床材やクロスをはがしたりクローゼットをつぶす施工費と処理費で四万二千円、床の施工費が三万五千円。
ヨダさんに話したら、
「へえー、リフォームって、壁をぶち抜いたりとか大がかりなことしなければ、思ったより安いんだね。私もやろうかな」
私も、リフォームというとなんとなく百万円単位のイメージがあったが、ものによるのだ。
工期は四日間、三月十八日から二十一日と決まった。引っ越しから一か月、いや、はじめて不動産仲介会社に足を踏み入れてからでも二か月しか経たないうちに、リフォームという展開になっているのが、自分でも信じられない。
事前に彼が「工事請負契約書」なるものを作成してきて、わが家において、調印した。
「えー、乙は工事に支障を及ぼす天候の不良あるいは天災その他乙の怠慢にあらざる事由により、工事期間内に工事を完成することができない場合は、遅滞なく甲にその理由を申し述べ、工事期間の延長を求めることができる」
「はい」
「この契約に定めていない事項は、必要に応じ双方協議して定め、甲と乙は互いに対等な立場で協力して信義を守り、誠実にこの契約を履行する」
「結構です」
水色ジャンパー氏とふたり、リビングのテーブルで額を突き合わせ、読み合わせ作業のように契約内容を確認する図は、われながら妙であった。
工事には音がともなうだろうから、さしあたり上の階と両どなりの人には、書状でもって断りを入れておいた方がいいだろう。文面を考えていると、彼から電話があって、
「管理組合には届けましたか」
「は?」
管理組合と管理会社には、リフォームする旨、報告すべきだと言う。知らなかった。自分の家だから何をしてもいいというわけではなく、マンションにはマンションならではの手続きがあるらしい。
「ついでに、と言っては何ですが、教えていただきたいんですけど」
「何でしょう?」
ホームドラマなどにはよく、大工さんが削りかけの木材のそばで煙管《キセル》をふかしていて、家の人がお茶とお茶菓子を盆に載せて運んでいくシーンがある。そういった気づかいは、どのくらいすべきなのか。
「うーむ」
想定外の質問だったらしく、電話口で彼は唸り、
「お昼はむろん弁当を持っていくか食べに出るかしますけど、職人さんですからねえ。気づかいされていると感じれば、嬉しいとは思いますよ」
との微妙な答。私はそれを「メシはいらないが、お茶とお茶菓子は出す方が望ましい」の意に解釈した。
前日は、せんべい、まんじゅうをはじめ、ふだん買わないような菓子類を、スーパーで大量に購入した。私は前から、袋の中にさらに個別包装してある商品を見るたびに、
「こんなことがどうして必要なのか。資源のムダだ」
と憤っていた。が、今も両手を挙げて賛成こそしないけれど、それなりの意味はあるとわかった。個別包装してあると、封を切らなかったものは、何回も使い回せる。
四日間の食料も買いだめした。職人さんのいる間は、外出できない。八時半から五時までとなっているが、延びた場合、スーパーに間に合わなくなることも考えられる。
夜がまた、ひと騒動だった。明日から工事する部屋を、空けなければならない。すでに届き、とりあえず入れてあったスライド式本棚を、部屋の外へ出し、床に積んである本や書類も、寝室へ移動させる。腕に抱えられるぶんだけを一回一回運び、スペースをやりくりしながら置いたら、一時間以上かかってしまった。
(はー)
まわりの床を本に囲まれた、ベッドの上で、腰を伸ばす。工事もまだスタートせぬうちから、この疲れ。が、明日からの四日間、けっして寝坊は許されない。八時半には、とんてんかんてんはじまるのだ。
職人さん、いろいろ
初日。水色ジャンパー氏が職人さんを連れてやって来た。資材が次々運び込まれる。
この日は実は、庭を整えてくれる植木屋さんが来るのと重なって、二人ずつ、計四人。ひとり暮らしのわが家としては、例外的な人の出入りであった。
十時、昼、三時の三回、計六回のお茶出しに忙殺される。十時なら十時にいっせいに、というわけにはいかず、内外それぞれの仕事の区切りにより、近接した、かつ微妙な時間差で来るので、気が抜けない。しかも、向こうから、
「お茶!」
と声がかかるのではなく、作業の音がやんだなと思ったら、こちらも連動して手を止め、耳を澄まし、それが一時的な中断かどうか、あるいは、本格的な休みに入ったか、静けさの続く間合いから推し量るという、高度な判断力が要求される。
午前中は、どんどん、ばりばり、はでに響きわたり、「さあ、リフォームがはじまった」という勢いがみなぎっていた。あまりに騒々しいので、ご近所をはばかり、
(窓を閉めて作業してはもらえぬものだろうか)
と気をもんだほどだ。
水色ジャンパー氏は、職人さんに指示を残して、立ち去った。最終日にまた来るらしい。
植木屋を頼んだ父が来て、父の注文した店屋物が届き、千客万来の一日であった。植木屋のトラックが出て、次いで職人さんを送り、父が帰ると溜め息が出た。わが家でこれだけの人が一堂に会したのは、はじめてではなかろうか。
まん中の部屋を覗くと、さながら校内暴力の後のような。丸めた壁紙や、元クローゼットとおぼしき板切れが、部屋のすみに寄せてある。壁紙をはがし、クローゼットをとり壊すのが、今日の作業だったらしい。埃がまだ部屋じゅうに漂っているようだ。たしかに、これは窓を開けてしないと、窒息死してしまうだろう。
二日めは、チャイムの音にドアを開けると、昨日の千客万来ぶりとはうって変わって、道具袋ひとつをかついだ六十がらみの職人さんがひとりだけ、風来坊のようにふらりと玄関前に立っていた。ポロシャツに作業ズボンといういでたちだ。
私は実は昨日は、私の認識能力のキャパからすればあまりにおおぜいの人がいて、ひとりひとりの顔まではよく覚えていなかった。そう言えば、こんな年かっこうの人だった。
「おじゃまします」のひとことにもずいぶんと訛りがある。昨日今日、地方から出てきたばかりと言われたら、そう信じてしまいそうだ。
あとで外をみてみたら、東北の某県のナンバープレートをつけた車が一台止めてあった。
部屋が別とはいえ、知らない人とひとつ屋根の下にいるのは、妙に緊張するものだ。またその職人さんは、水色ジャンパー氏にそう言い渡されているのか、ラジオひとつかけるでなく、黙々と働くタイプであった。こちらはお茶出しのタイミングをはかるためもあり、ついつい相手の動静に敏感になる。
昼を食べに出ていくとほっとして、その間に大急ぎで焼きソバを作り、かき込む。自分の家なのに、居候のような心持ちであった。
長かった一日が終わると、昨日とは別の疲れ方でぐったりした。
(亀の甲より年の功だなあ)
と感じた。昨日の父は植木屋さんにお茶をすすめてねぎらいつつ、世間話のひとつもまじえながら接し、それでいて、作業状況をきちんと把握し、折々で自分の希望を述べるなど、あくまでマイペースをくずさなかった。あれが年長者の態度というものか。自分は家を買って早々にリフォームをするような「行動力」こそあるかも知れないけれど、ああいう点は、とてもかなわない。
その日は、フローリングをはがしたようで、部屋は四方の壁も床もコンクリートむき出しだ。すみっこには、昨日よりさらに増えた木切れ、板切れの類が寄せかけてある。明日からいよいよ、はりつける方にとりかかるのか。
三日め、玄関に現れた職人さんは、前日よりさらに軽装になっていた。カナヅチ一本手にしただけだ。
「おじゃまします」
前日と同じひとことを交わし、勝手知ったる他人の家で、ひょいひょいとまん中の部屋に入っていった。
おじさんは今日も、鼻唄ひとつ歌うでもなく、黙々と作業をするようだ。しわがれた咳払いが、ときおり聞こえる。
やがて、強いシンナーの匂いが、リビングにも漂ってきた。接着剤だろう。ドアを閉めているのに、相当なものだ。咳払いに、たまに床を打つ音が混じる。床張りに入ったようだ。
今日の作業は、間欠的に音がするので、休憩のタイミングがつかめない。休むかな、と湯を沸かしに立ちかけると、思い出したようにカナヅチが鳴る。
時計を基準にすることとし、十時きっかりに、お茶菓子をドアの前に置いておいた。
それきり、十二時を回っても、お昼を食べに出る気配がない。十二時半になってもだ。
(もしかして、シンナー中毒で昏倒しているのでは)
と見にいくと、十時のお茶もそのままだ。
「時間がもったいねから。通しでやらねば、終わらねっから。腹もそんな減らねえし」
昼抜きで続行すると言う。
が、空きっ腹で作業というのも、どんなものか。
「あれ、危険なのよね。休みはちゃんととってもらわないと、物を落として、怪我したりするもとよ」
リフォーム経験者の売り主さんは語っていた。第一、相手がひもじさをこらえて働いているのに、こちらだけ温かなご飯の匂いをふんぷんとさせて食事をする、というわけにもいかない。
(そうだ、こういうときこそ、ニッポンの携帯食、おにぎりだ)
夕飯用の塩ザケがあったので、大急ぎで焼いた。併せて、冷凍のご飯を電子レンジで解凍する。
(こうすれば、おかずなしでも栄養がとれるでしょう)
とばかり、一個につきサケ二分の一切れをぎゅうぎゅうと詰め込んで、特大のおにぎり二個を作って、味噌汁とともに持っていった。
「腹も減らねえし」と言っていた割りに、十分後、廊下を見たら、お皿の上は空っぽだった。
(ふーっ)
胸をなで下ろす。どうにか、飢えさせないですんだ。たまたまサケがあったから、しかも不調だったガス台の魚焼きのグリルを直していたから、いいようなものの。こりゃあ、明日も不測の事態に備え、今日の夕方にでもまた、塩ザケを買っておいた方がいいな。
職人さんは午後もずっととんてんかんてん頑張って、六時過ぎ、ようやく音がやんだ。まん中の部屋のドアが開き、玄関との間を何やら往復していたが、ふいにリビングに顔を覗かせ、
「したら、終わりだ。明日また取りにくっから」
ばたんとドアを閉め、行ってしまった。
「あの、ちょっと、すみません」
終わりだって、あの人の作業はおしまい、ということか。取りにくるって、何をだろう?
ドアを開けて、
(あれー?)
と目を疑った。マンションの駐車場の一角に、壁紙や床やクローゼットの板切れなどの廃材が積んである。明日取りにくるからと言われても、玄関ポーチの外は、共有スペースなのだ。このまま置いておくわけにはいかない。
左右を見渡しても、職人さんは、風のように去った後。しかたなく、自分で玄関ポーチ内に運び込む。が、どうしても入り切らないぶんが出る。
「すみません。ひと晩だけ置かせて下さい。明日必ず撤収します」
と平謝りした紙を貼り、なるべくすみへ寄せておいた。
ところが、よりによってその晩は、春の嵐。秒速十五メートルはあろうかと思われる風が、駐車場を縦横に吹き荒れ、うるさいほどだ。
(これはいかん。飛んでいって、車を傷つけでもしたら、たいへんだ)
雨風をついて外へ出ていき、紐でもってぎゅうと束ねる。なんで、こんな難破船のマストに取りつく乗組員のようなまねをしなければならぬのか。
物音がするたび、はね起きてドアミラーから外を覗くという、ろくろく眠れぬ一夜であった。
嵐が過ぎた最終日。はじめに到着したのは、水色ジャンパー氏だった。
「夕べ、たいへんだったんですよー。あの風で」
彼としても、廃材が残されていることに驚いたらしい。携帯でせわしく連絡をとっている。そのようすから、職人さんは彼の会社に属するのではなく、仕事のあるとき雇われるのだと知った。「カナヅチ一本晒に巻いて」の渡り鳥なのだ。
この日の作業は、三人になった。水色ジャンパー氏、今日あらたに加わった壁張りの職人さん。そして、遅れてやって来た昨日の人。
彼は昨日で終わりのはずだったが、部分的な張り直しを、水色ジャンパー氏に命ぜられたらしい。予想外の展開だ。私としてはお茶菓子の配分の再検討を迫られる。十時と三時の二回×三人ぶん、もつか。
しかも、恐ろしいことに、作業は午前中で終わらなかった。昨日と同じく、十二時を回っても、働き続けている。今日もおにぎりか。しかし、冷凍ご飯は、三人ぶんない。
時計の針が、十二時半を指すのを期して、意を決しお米を研ぎはじめた。音をたてないよう、かつ迅速に。内がまの水を布巾で拭うのももどかしく、セットする。早く早くと気が急くのに、炊飯器の方は炊いているんだかいないんだか、なかなか湯気を上げないで、ばたばたと団扇《うちわ》であおりたいくらいだ。
並行してサケを焼こうとするが、こんなときに限って、グリルがまた故障し、スイッチをひねれどひねれど、いっこうに火が点かない。やめてくれー。
電子レンジで熱を通し、フライパンで焼きめをつけるという強攻策をとり、なんとか三人ぶんのおにぎりを作り上げた。
お茶のお代わりを持っていくと、水色ジャンパー氏は、職人たちと車座になって、床に腰を下ろしていた。
「この仕事して、何年よ」
「でもさ、……ていうことは、ちょっと考えればわかるじゃない」
自分のぶんのおにぎりを分け、お茶をすすめながら、話している。親くらいの年の職人さんの心をほぐし、なおかつ言うべきことは筋をたててきちんと諭していかなければならないのだから、人を使う仕事もたいへんだ。
(私と同じ年代の人でも、こうやって事業を営んでいる人もいるのだな)
と、家にいながらにして社会勉強をしているような、謙虚な気持ちになるのだった。
思わぬ妨害、周囲の苦情
七時過ぎまでかかって、ようやく完成。箒で掃き上げ、帰っていった。
私はと言えば、お茶出しと炊き出しに明け暮れた四日間だった。今後リフォームと言えば、あせあせと盆の上の急須にお湯をついでいる自分を思い出すことだろう。
出来上がった部屋の電気を点ければ、明るくなった照明が、床に映る。壁が白くなり、収納もとり払ったぶんだけ、広々とした感じだ。
それにしても、シンナーの臭いがすごい。ずっといると、目がちかちかしてくる。新築の家でよく聞くシックハウス症候群とか言うのも、接着剤が原因のひとつではと思うほど。
(こりゃあ、しばらくの間、本棚は入れずに風通しをよくしておいた方がいいな)
結局臭い抜きに、思いがけない時間がかかり、仕事部屋として曲がりなりにも機能しはじめたのは、完成後一か月以上経ってからだった。
マンションを買うまでは、リフォームなんて考えの外だったが、引っ越しの余勢でもって、ばたばたっと完成させてしまった。すべてが過ぎた今でも、
(あれは、いったい何だったのか)
と、自分であっけにとられている。
結露の件でマンション購入の難しさを思い知ったユウキさんは、リフォームでも挫折した人である。結露の問題が表面化する前の、入居して間もない、夢と希望に満ちあふれた頃で、
(うーん、この和室、なんか中途半端だなあ。いっそ襖をとっ払って、リビングとひと続きのフローリングにしようかな。だって、何したっていいのが、賃貸とは違う、自分のマンションのよさなんだから)
とリフォームを思いたった。
マンションによっては「二階以上のフローリングは禁止」あるいは「フローリングに変更する時は、下の区分所有者の了解を得なければならない」と規約に書いてあるところもあるそうだ。音の問題のためである。ユウキさんがひっくり返してみたところ、それらしき条文はない。
「それでもまあ、下の人には一応、事前に断りを入れておいた方がいいですよ。着工する段になったら、どうしたって、とんてんかんてん下に響くし」
知り合いの工務店のアドバイスもあり、ある夕方、菓子折りを持って挨拶にいった。
ブザーを鳴らすと、ドアが細めに開いて、眼鏡の奥から睨むのは、五十過ぎとおぼしき痩せ型の女性。表札は姓だけなので、ひとりで住んでいるのかどうかはわからない。
「あの、上の者ですが、実はこのたび和室をフローリングに替えたいと思いまして……」
と言いかけるが早いか、
「とんでもない」
女性のいわく、今だって、どれだけ音をがまんしているか知れないのに、この上フローリングなんて。そして、いかに上がうるさいか、いかに迷惑かを、とうとうとまくしたてる。
もっともしつこく論《あげつら》ったのは「夜中のシャワー」についてだった。たしかに残業や飲み会から帰った日は、一時、二時に浴びることがある。
「どういうご職業かは知りませんけどね、非常識ですよ。これからは、夜十一時以降のシャワーはご遠慮していただきます!」
一方的に言いわたされ、目の前でドアを閉められてしまった。
「何、あの人?」
腹を立てなかったことは、むろんない。が、フローリング化をあきらめたわけではないユウキさんは、ここはひとつ懐柔策をとることにした。とりあえず、彼女の言うことを聞き、「私はこんなに配慮してますよ」との姿勢を示せば、あるいは態度が軟化してくるのでは、と思ったのだ。
が、会社が遅くなった日など、髪の毛を洗ったりしているうち、ついつい十一時を回ってしまうときがある。
すると、たちまち電話がかかってくるのだ。下の人から。
「もう過ぎてます」
それだけ言って、ぶつっと切れる。無言電話でなく、下の者であることを隠そうともしないのが、敵ながら腹が据わっているといおうか。
とにかく、一分でもオーバーするとかかってくるのだ。まるで全身全霊をそれに集中させて、受話器の前で構えているかのようである。
ユウキさんは、工務店の人と話し合った。そして、いっぺん彼の立ち会いのもと、どれだけ音がするのか下に聞きにいこう、となった。実態を調べ、響かないよう直せるものなら直したいので、という名目で。
申し入れを、下の人は意外にもあっさり受け入れた。むしろ、この機にたっぷりと聞いていただきたい、といったようすだった。
方法はこうだ。まず工務店の人が先に下に行っている。ドアの鍵は開けておいてもらい、ユウキさんが自分の部屋のシャワーをひねるや、外階段を急ぎ駆け降り、下の家に走り込んで、玄関先に立つふたりのもとへ。以下、三人の会話。
工務店「あれっ、ひねってこなかったの」
ユウキ「ひねりましたよ。全開で」
工務店「確かめてきた方がいいんじゃない?」
下の人「しっ、黙って!」
口をつぐみ、三人で咳ひとつしないまま、じーっと耳を傾けると。言われてみれば、もう、ほんと、はるか遠くの細い細い水脈からとぎれがちに伝わってくるような、それはそれはかすかな音がするかな? といった程度。
「どう。わかったでしょ」
勝ち誇ったように肩をそびやかす下の人。
「ありゃ、だめだ」下の家を出てから、工務店の人は首を振った。
「あすこまで神経質だと、無理して着工しても絶対トラブルになるよ」
周囲の人との関係によっては、自分の家のリフォームさえままならない。禁止とはどこにも書いていなくても、だ。ユウキさんの場合、フローリング化できなかっただけでなく、十一時以降風呂に入れなくなるという、悪いおまけまでついた。
これがまだ賃貸なら、
(そのうち、向こうが出ていくかも知れない)
との期待も持てよう。が、そこが分譲のつらさで、基本的には相手も自分も動かないのである。しかも、たがいにどんな人だかは、住みはじめてみなければ、わからないのだ。
私が仕事部屋以外で気になるところは、浴室である。追い焚きができないのは、物件を見にきたときから知っていたので、引っ越して早々、ポンプを買ってきた。風呂の水を洗濯機に移すものだ。
商品についているホースでは届かず、わざわざホースだけ別売りしてもらった。そうまでして、お湯のリサイクルに努めようとした。
が、ひとり暮らしだと、そうそう洗濯物があるわけではない。三回に二回は、栓を抜きそのまま落とすことになる。通算でほんの十分間くらいしかつからなかった湯が、排水口にむざむざ吸い込まれていくのは、心苦しいものだ。
(もったいない……)
視覚的にそう感じてしまう。
夏、シャワーを使うことが多くなると、いよいよその思いが高じてきた。
給湯システムは、戸別のガス湯沸かし器によるもので、わが家では、台所の外に設置されている。蛇口をひねり、給湯管を一定量の水が流れると、湯沸かし器が「おっ、湯を使う気だ」と感知し、火が点くしくみらしい。すなわち、水の出はじめと着火との間に、しばしの時間差がある。
マンションの場合、多かれ少なかれそうだと思うけれど、わが家のシャワーは、湯に変わるまでが、異常に長い。待つ方としては、五分くらい待っている感じがする。
その間、水はただ右から左に流れていくだけ。はじめは、
(あとで何かに使えるかも知れない)
と、バスタブにためていたが、結局は使い途がなく、やむなく抜くことになる。
シャワーは、出しっぱなしにすると水を大量消費するというから、石けんを使うときは、律儀に止める。すると湯沸かし器の方でも、いちいち水に戻し、ひねればまた着火することからやり直す。そのたびに、「ただ流れ」がくり返される。
(もったいない。もったいなさ過ぎる)
私はまん中の部屋に次ぐリフォームを決意した。もしも二、三十万円ですんで、罪の意識がやわらぎ、かつスムーズなシャワーを享受できるなら、安いものだ。
折りしもチラシにより、近くの住宅会社の支店で、「リフォームフェア開催中」であることを知った。買い物のついでに寄ってみる。こういう腰の軽さはやはり、一度経験したからこそである。フェアとはいえ客はおらず、風船がいっぱいの店内に、丸顔に紺の背広とネクタイの中年男性がひとりいた。支店長次席といった感じの、ものしずかな人だ。
追い焚きにしたいこと、給湯システムの効率をよくしたいことを話すと、
「よろしければ、今から行って拝見しましょうか?」
との申し出があり、紳士連れで戻ってきた。
紺の靴下で、遠慮がちに上がった彼は、浴室と湯沸かし器の位置関係をまず確かめ、その間にあたる台所や廊下の床を、足の裏でそっとノックするように踏んでいた。あるところでは、二度三度とその場踏みをした。だんだんに調子が出てか、行きつ戻りつ、ステップする。何もわからぬ私は、意味ありげな彼の動きを見守りつつ、後ろでおとなしく控えている。
ひととおり踊り終えた男が、振り向いて言うことには、
「これは、ちょっと大がかりになってしまいます」
彼の説明によると、追い焚きにするには、配管を増やさなければならない。今の管は湯沸かし器から浴室への一方向だが、それにプラスし、バスタブの水を湯沸かし器に戻して温めるための管が必要だ。管を通すには、台所と廊下の床、場合によっては台所の壁も、はがさないといけない。
「せっかくまだきれいな床ですし、よほどのご不便がない限り、しばらくは今のままお使いになられてはいかがでしょうか」
ちなみに、費用の方はと聞くと、
「二百万くらいかかるでしょう」
とのこと。深々と頭を下げ、お引き取りいただくよりほか、なかった。
もともとは「水がもったいない」という動機からはじまったこと。そのために二百万円は高すぎる。しかも、感覚的に「もったいない」だけであって、水道代に換算すれば差はない。現に引っ越してきて今の風呂とシャワーを使いはじめてからでも、いまだかつて基本料金を出たことはないのである。二百万円投資しても、とうてい回収できるものではない。
「もったいない」は高くつくのだ。
せっかくはずみがつきかけたリフォームだが、懸案の追い焚きに関しては、あっさりとあきらめざるを得なかった。
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庭づくり、草むしり
木ごと引っ越し
前の家にすっかり長く居ついてしまったのは、ひとつには「庭」のせいだ。
「庭って言ったって、一軒家を借りてたわけじゃなくて、アパートでしょう?」
と皆首を傾げるが、それには少しいきさつがある。
住んでいたのは一階のいちばん奥の部屋で、ドアの前にちょっとした土のスペースがあった。通る人は、私しかいない。夏の間に二、三度、大家さんが草むしりに来ていた。
折りしも親の家が、戸建てから集合住宅に移ることになった。生活が便利になるのはいいけれど、困ったのは、木の処遇だ。昔から庭いじりの好きだった父は、そのときの家にも木をどっさり植えていた。引っ越す先は上階なので、地面がない。
そこではたと思いついたのが、アパートの前のスペースだ。父は以前、草むしりに来た大家さんと何回か顔を合わせており、面識があった。じかに電話し、事情を話すと、同年配のよしみと、おたがい庭いじりが好きなこともあり、意気投合、「どうぞ、どうぞ」と二つ返事でオーケーが出た。私が部屋を借りている限り、半永久的に育てていいと。借地代がタダの「一坪地主」になったようなものである。
取り決めが成立してからほどない、アパートにいたある日、表の方でトラックが止まる音がしたかと思うと、植木屋により、木がどかどかと運び込まれた。ヒイラギ、ナンテン、モミジ、レンギョウ、ドウダンツツジ、キンモクセイ。つくばいや飛び石まである。たいへんな一群だ。いちばん最後に、父が降りてきた。
あっけにとられている私に、
「草むしり等はいっさいしなくていい。自分が好きなときに来て、世話をするから」
父は言った。
「負担はかけない。草むしりに来ているときでも、お茶なんか出さなくていい。木の顔だけ拝んだら、家に上がらずに、そのまま帰るから」
自分からそんな条件を出してまで、植木いじりをしたいとは。
(そこまで好きだったわけ?)
とびっくりした。私が思っていた以上に、父の病は深いのだった。
その後も、
(そろそろ賃貸生活に区切りをつけて、マンションを購入すべきか)
と思うたび、胸の中に浮上するのは、木のことだった。
(そうすると、これらの行き場がなくなるな)
大家さんにじかに頼み込んで置いてもらうほど、父が執着した庭木である。「引っ越すから、どこへでも行け」というのも、夢見が悪い。
木の方も、強引な植え替えで、はじめのうちとまどいがあっただろうが、二年めに花をつけ、三年めにはもっと元気よく咲き、今ではすっかり根を下ろしている。環境としてはけっして恵まれてはいないのに、もてる力の限りで順応しようとするさまは、けなげでさえある。
(それを、むげに引っこ抜くのも……)
親の心配をよそにすくすくと育っていく連れ子を抱えたような気分であった。木のせいで動けないというより、自分が腰を上げないことの言い訳のひとつにしていた感もあるが。
不動産仲介会社で、今のマンションの図をもらった瞬間、私の目は「おおっ」ときらめいた(と思う)。「専用庭付き三十三平米」とある。これなら、懸案の問題も、いっきに解決がつく。
喜んだのは父である。長年いつくしんできた木を手放さずにすみ、庭仕事を続けられるのだ。しかも、賃貸ではなく分譲だから、この先ずっと継続できることが保証されたようなものである。
さっそく植木屋と、移動の段取りを相談していた。
姉は心配して、ひそかに私に電話してきて、私の意向を確かめた。
「うちの方は、すっかりその気になってるみたいだけれど、いいの?」
この機を逃すと、たぶんあの庭木は、一生ついて回ることになる。
「自分の庭なんだから、もしも洋風のガーデニングとかやりたいつもりがあるんなら、早めにそう言った方がいいよ」
姉らしい気の回し方だった。
「うーむ」と電話口で唸る。私もまだ、マンションの庭はどういうものか、住人どうしの間でどのような位置付けになっているのか、わからぬうちから、木の引っ越しの話が先行して進んでいることに、とまどいを覚えなくもなかった。かと言って、自分が三十三平米をどうしたいという、明確な構想があるわけでもない。
「いいわ。自分ではそんな、庭なんかまめにしないだろうし。持て余して草ぼうぼうにするよりは」
日頃から親に対して同居の義務も果たしていない。それで親の楽しみになるのなら、ささやかな罪滅ぼしもできようもの。
入居先の「管理規約並びに使用細則」を熟読した。「管理規約」も「使用細則」も、契約のとき渡されるもので、前者には、管理組合の役割とか、管理費を集めること、共有部分と専有部分はどこからどこまで、といったことが定めてある。後者は共有部分と専有部分の使い方についての取り決めで、こちらはぐっと具体的だ。
「管理規約」によると、庭は私の「所有」ではなく、所有権はあくまでも住人から成る管理組合にあって、私は月々の使用料を払い、「専用使用」権を認められるに過ぎないらしい。
「使用細則」で、してはならない行為として、挙げられているのが、「専用庭にサンルーム、温室、池およびこれらに類する建造物を構築または設置すること」。つくばいは「池」に類するのか。「他の居住者に迷惑または危害を及ぼすおそれのある動植物を飼育、研究すること」。うちの木は、毒性のものはないから「危害」は及ぼさないと思うけれど、落ち葉が飛んだりするのは、「迷惑」と言えば言える。「突風、強風の際、飛散または落下等他に害を及ぼすおそれのあるものを放置すること」。これも落ち葉があてはまるかどうか。
禁止ではないけれど、事前に組合に届け出て、承諾を得なければならないこととして「敷地の造園、土砂の搬入、掘削等、現状を変更すること」。うちの庭ほどのも「造園」か。
マンションそのものがはじめてなので、どこまでが許容範囲か、行間から読みとるための常識的なベースがない。
引っ越す前、住んでいる人に聞いてみることにした。売り主さんが、両どなりと上の人に私を紹介する目的も兼ね、お茶に招いてくれたのだが、そのときも、庭の件は、重要課題として、胸の内に抱えていった。なんとしてでも、この機に確認しておかなければ。
「今の家の庭につくばいがあるんですけれど、置いてもいいんでしょうか」
何かのきっかけから、話をそちらに持っていった。
「つくばいって何だっけ?」と上の人。
「庭石で、水がたまるものです。と言っても、時代劇によく出てくる鹿《しし》おどしのような、かっこんと音を立てるものではなくて、漬物石に、穴のあいた程度なんですけど」
と、なるべく「軽い」ように説明した。
そこにいた人の話を総合すると、庭については、はっきりとした取り決めはないが、緊急時の避難経路であるので、まん中はあけておくこと。木については、一般的には、日照を妨げないこと。また、庭のまわりは生け垣で囲ってあるが、それはマンションの共有物なので、生け垣の生育を妨げないこと。そのあたりが条件だろう、と。
「前に、つたか何か、つる草を生け垣にからませていた人は、たしか抜くように言われたんだったな」と右どなりの夫婦の夫の方。
「丈も、あまり高いと切らされた人いなかったっけ? 生け垣の日照が悪くなるとかで」と売り主さん。だいたいの線は、出たようだ。
「では、そのあたりを基準に植えてみますので、その上で『これはちょっと……』と思われることがありましたら、どうぞお教え下さい」
ということで、ゴーとなった。私と木との、この先ほぼ一生にわたるであろう付き合いも、これで確定したのである。
引っ越しは二月だったが、植木屋によると、植え付けは冬ではない方がいいとのこと。アパートの方から抜いたあと、ひと月ほど、植木屋の庭に「居候」していた。
そして、三月某日、根もとを縄にくるまれて、トラックに乗り合い、やって来た。七福神の船のように、ぎゅう詰め状態。つくばい、飛び石のみならず、玉リュウの軍団まで引き連れての、大移動だ。
私はさきに書いたように、リフォームの人が入っていたので、庭の方の指揮監督に関しては、父に全権を委任した。
植木屋さんは、庭のあっちこっちと、ところを変えて立ってみて、「うーむ」と腕組みしながら、さまざまな方角から眺めていた。レイアウトを考えているようだ。茶道と同じで、庭にも、裏とか表といった流儀があるらしい。
完成したところで、植木屋、父、私の口から同時に出た言葉は、
「よく入った」
トラックに満載されてきたようすを思うと、まことに、よく入りきったものだ。
「一本たりとも置き去りにはすまい」との父の決意が表れているような。
それでいて、さほど詰め込んだ感じはなく、モミジを中心に、つくばいや石の配置で、遠近感を出したのは、さすがプロだと思った。玉リュウは石のまわりに等高線を描くように植えられている。前よりもかえって、奥行きが出たようだ。面積の割りには、堂々としたものである。
左どなりの主婦の人は、その日たまたま外出していたそうだが、
「帰ってみたら、フェンスの向こうに、降ってわいたように日本庭園が出現していて、びっくりした」
と、のちに言っていた。
右どなりの人も、植木屋が入るとは聞いていたものの、幹をワラで巻いたモミジまで運び込んできたのには、たまげたらしい。
(あの女の人、年の割りに、ずいぶんシブ好みね)
と思ったのではあるまいか。
私の方からも両どなりの庭が見えるが、右どなりとは、
(木の趣味が似ているな)
と感じた。庭の主が、父と同年配のせいもあるだろう。ツワブキ、玉リュウは同じだし、あればいいなと思ったがスペースのつごうであきらめた、クチナシやサンショウもある。
先方は先方で、うちの庭にシンパシーを感じたようで、夫人がマンリョウの実を、赤と白の二種類、
「よかったら植えてみない? ここの土に割りとよくつくみたい」
銀行の封筒に、色別に入れて、分けてくれたりした。
自分が庭づくりをし、その話を人にするようになってわかったのだが、身のまわりでも意外な人が「隠れ庭師」だったりする。
フジワラさんは五十代男性だが、私が「マンションの庭を日本ふうにした」と言うと、
「だったら、シャクナゲがいいよ、シャクナゲ。ツツジの仲間だからそんなに難しくないし、その割りに花が大きいからね。育てがいがあるんだ。なんだったら、一本掘って分けてあげてもいいよ。うちの庭にたくさんあるから」
彼はもともとマンションの最上階に住み鉢植えを育てていたが、ベランダガーデナーに飽き足らず、どうしても「土いじり」がしたくなって、四十代半ばで郊外に一戸建てを買い直したという。定年後は「晴耕雨読」の生活を夢みているので、倍になった通勤時間も、「それまでの辛抱、辛抱」と思うことにした。
「けど、だんだんと、その計画に不安を覚えてきてね」
ぎっくり腰を患ったせいか、この頃は、リビングから自分の部屋へ階段を昇るだけで息切れがするようになった。マンションのよさは、平面であることである。
フジワラさんの先輩で会社をリタイアした人たちには、子どもたちが独立した後、一戸建てを売り払い、マンションを購入する例も多い。
自分も年をとるにつれ、草とりのしゃがむ姿勢もつらくなるだろう。再びマンションに移り、ベランダガーデナーに戻ろうかどうか、検討しはじめているという。
マンションがいいか一戸建てがいいかは、老後を考え合わせると、迷うところだ。私は今のところここを終の住処とするつもりでいるが、そのうち庭が負担になってくるのだろうか。
ご近所のガーデナー
運ばれてきたときは三月なので、芽吹きはまだ。ほとんどの木が枯れ枝で、寒そうな印象は否めない。和風の庭だから、それはそれで「わび、さび」はあるのだが、
(このまま、葉が出なかったら)
と気になるところだ。二度にわたる引っ越しは、木にとっても、過酷だったはずである。わが庭に、春は来るのかどうか。
やがて、もとからある芝生の方から先に、緑のものが出はじめた。
「冬を越せたか」
と、よく見たら、ジシバリという雑草だった。
「うちの芝は、もうだめみたい。疎《まば》らにしか生えないわ」左どなりの人が、フェンスをはさんでそうこぼした。「お宅のは、青々としてきたじゃない」
「青々してるのは、雑草なんです。お宅の方こそ、密でいいなと思ってたんですけど」と私。
「えー、全然。またいで来て、見て下さいよ」
たしかに、だった。たがいの庭に代わる代わる目をやって、
「となりの芝生は青く見える、ってほんとうね」
とうなずき合った。
芝の生育は今ひとつなのに、ジシバリはみるみる根を張りめぐらせる。芝を完全に凌駕しそうな勢いだ。
ゼニゴケも生えてきた。これのはびこるスピードといったら、目を見張るものがあり、あっという間に倍くらいの面積になっている。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則は、庭についても言える、と思った。
コイデさんが「お宅拝見」で訪ねた中には、やはりマンションの一階で、広くない庭ながら、きれいにしている人がいた。私より少し年上の主婦で、カタギリさんというそうだ。取材がきっかけで仲よくなり、付き合いが続いているらしい。
「キシモトさんのところと、すぐ近くよ。今度行くとき紹介する」
と言っていた。
連れられていけば、何のことはない、しょっちゅうそばを通っているマンションだった。角に面しているので、曲がりながら、フェンスに囲まれた庭を覗くことができる。
引っ越してからというもの、庭に無関心でいられぬ私は、マンションの庭と見れば、ついつい視線を向けてしまう。その中でも、ここは、
(ずいぶんまた植木鉢を置いてあるなあ。草花がよほど好きな人に違いない)
と注目していた。じか植えの木もあるが、量的にはるかにしのぐ鉢が並び、なかなかの壮観だった。
カタギリ夫人に、リビングへと案内されると、おお、窓の向こうに敷石が張り出して、ちょっとしたテラスふうだ。そのまわりを、緑の鉢が何層にも取り巻いて、さながら都会のオアシスのよう。外から見るのとは、まるで趣が違う。
「よくインテリア雑誌に、『都会のマンションでもここまで出来る!』みたいな例が出てるけど、まさにそれですね」
興奮して私は、思わずミーハーな表現をしてしまった。
庭に凝っているのは、もっぱら夫人。夫は、
「うちはボタニカルハウスか」
と呆れているそうだ。口を出さない代わりに、手も出さない。だから世話はひとりでする。
「その方がいいのよ。へたにされて、枯らされでもしたら離婚ものだわ。自分でして、失敗するならまあ、あきらめもつくけどね」
鉢は少なく見ても、三十はありそうだ。
恥ずかしながら、ガーデニングに疎かった私は、何で地面がありながら、わざわざ鉢に植えてあるのかわからず、
(かわいそうに、きっと管理規約がやかましいか、うるさいおとなりさんがいるかして、自分の庭なのに、好きなようにすることさえできないのだわ)
と、これまでずっと気の毒に思っていた。が、それはとんでもない無知で、コンテナガーデンという、ひとつのスタイルだそうだ。
コンテナガーデンの賢さは、鉢の場所を自由に入れ替えられることである。花どきに合わせ、いちばんいい状態のを、リビングから見えるところに持ってきて、心ゆくまで観賞できる。
招かれたあとも何回か、庭の前を通ったが、そのつど鉢の位置が微妙に変わっていた。楽しんでいるらしい。
のちに、満開に咲いたユリの鉢が、リビングの窓の正面に移動しているのを目撃し、
(限られたスペースでせいいっぱい愛でるのだ!)
というカタギリ夫人の庭に対する、確固たる方針のようなものを見たと思った。コンテナなら、「木が動く」という不可能も、可能になる。
さて、わが家の木たちの方は。
春の訪れでは、ジシバリに先を越されたが、ちゃんと芽が出た。梅雨で、水をたっぷり吸い、夏になると、木がひと回りもふた回りも大きくなったように感じられた。葉をつけただけでなく、枝もまた伸びたのだろう。
(二度の引っ越しに耐えたのだ)
肥料もやらず、まめに世話したわけでもないのに、これだけ育ってくれた。引っ越しからこっち、人間は人間で、木の方は木で、それぞれに試行錯誤しながらも、季節はめぐっていたことを思わせ、何かしら感動的だ。家の中の生活が、どうにかスタートできた今、これからは庭にも心を向けよう。
暑い日々が続き、カタギリ夫人は水まきに余念がない。フェンスの向こうに、しょっちゅうしぶきが見える。鉢はじか植えよりももっと、給水に気を配らないといけないのだ。
ときにはホースの手を止めて、リビングに招き入れてくれた。そういうとき、話題はひたすら「庭」だった。カタギリ夫人は、ぱっと見は、落ち着いた奥さまタイプだが、そのテーマになると、饒舌さにおいて、私にひけをとらない。
カタギリ夫人は庭をはじめてから、住んでいるところに対する愛着がぐっと深まったという。カタギリさんのマンションも築十何年か経っており、いろいろ修理する箇所が出てくるにつれ、
(古くなると維持していくのがたいへんだ。新しいところに移りたいな)
と思うこともあった。
が、鉢植えといえども草花が根づき、この庭で「所を得たり」とばかりぞんぶんに咲いているのを見ると、動く気がなくなった。まわりは「これ以上築年数が経たないうちに売った方がいいわよ」と言うが、当面は手放さないつもりという。
郵便受けにも、
「××マンションの方々へ。求む、売却物件!」
「当マンション限定で探しているお客様が多数いらっしゃいます。売却をお考えの方は是非ご一報下さい!」
といったチラシが、さまざまな仲介会社から投げ込まれてくる。
「そういうのが来るうちは、売り急がなくていいと思うのよ」と夫人。
チラシが判断基準になるかどうかはわからないが、このへんは需要に対し供給が不足ぎみだから、一面では当たっているかも知れない。マンションの資産価値を決める要素は、ロケーション、管理などさまざまで、必ずしも築年数にのみ比例し下落するものではないらしい。
カタギリ夫人は、まだまだ植物を増やしたいそうだ。和風の庭は、空間も重要な要素だが、洋風ガーデンは、グラウンドカバーとの言葉もあるそうで、隙間なく埋めつくすらしい。
鉢は、実はプラスチック製だそうだ。
「てっきりテラコッタだと思いました」
「それだと、重くて動かせないのよ。鉢そのものの重さの他に、土の重さも加わるわけでしょう」
素焼きふうの風合いを出すために、カタギリ夫人が今試みているのは、鉢の表面にコケをはやすこと。培養するつもりで、ヨーグルトを塗っているそうだ。むろん、そのために買うのはもったいないから、息子たちに「骨にいいから」とか言ってせっせと食べさせ、容器の底についているのを、指ですくって塗りつける。
「凝り性なんですね」私が言うと、
「それもあるけど、庭に関しては遺伝ね」
先祖返り?
カタギリ夫人も昔は庭なんて、まるで関心がなかったという。実家の父親が、植木いじりが好きな人で、暇さえあればちょっきんちょっきん、鋏の音を響かせていた。
結婚後、このマンションに移ったとき、父親から転居祝いに庭木を贈られたときも、
「しかたない、植えとくか」
くらいであった。
「あのへんが、その初期の木よ」とモミジやウメの木を指した。
それが、子どもに手がかからなくなるのと前後して、だんだんにはまってきたという。ただし、父親とはちょっと違って、コンテナガーデンの方へ。じか植えのは伝統的庭木、鉢は花ものと、和洋入り交じっているのには、そうした「歴史的背景」があったのだ。
庭に関しては傍観者の旦那も、年々植物の増えていくようすに、
「お前、だんだんお父さんに似てきたな」
血は争えない、というのが、夫の寸評だそうだ。
私も実は、自分について、同じことを感じている。アパートでは、木はあったことはあったが、父との取り決めをいいことに、ほとんど手をかけなかった。
今では、ワープロを打っていても、窓の外で、ジシバリが玉リュウに侵食していくようすを見ていられず、
(もう黙っていられない。玉リュウがやられてしまう!)
立ち上がり、マフラーならぬタオルを首に巻き、庭に突撃していく。草花を愛する心に反するが、玉リュウを守りたい私には、ジシバリは退治すべき敵なのだ。
一網打尽にやっつけられるなら早いのだが、玉リュウの間に複雑に根を張り、入り込んでいる。玉リュウの葉を指でかき分けかき分け、ジシバリだけをつまみ出す。猿の毛づくろいさながらの、こまかな作業をしていると、ときどきハッとわれに返る。
(私ったら、何をこんなに世話をやいているのか)
服装からして、りっぱな庭いじりスタイルである。ゴム手袋に、タオル、麦ワラ帽子。長袖シャツに長ズボン。昔の父とは、軍手がゴム手袋に変わっただけ。
そのいでたちで、しゃがんだまま、草を抜きながらずんずん進み、右どなりの庭との間のフェンスに突き当たったとき、向こうから寸分違わぬ服装で、草むしりしてきたとなりの旦那と顔を合わせ、腰を抜かしそうになったこともある。
そのかっこうで、ゴミ置き場との間を行き来していて、マンションの訪問客に、管理人と間違われたことも、一度ではない。
夏を迎え、つくづく思うのは、猫の額ほどしかない地面だろうと、雑草は生えるということ。土があるということは、植物にこうも生命力をもたらすのか。
「自然の偉大さは、ようくわかりました。わかりましたから、ちょっとは勢いをゆるめてもらえませんか」
と言いたくなるほどだ。
三日も経つと、三か月散髪していない頭のように、ぼうぼうになる。
顧みれば、昔は庭を思わざりけり、であった。よく放ったらかしでいられたものだ。
カタギリ家でも、今は草とりのハイシーズン。フェンスの向こうで、かがんだ背中が動いている。洋風ガーデンにふさわしく、麦ワラ帽子の代わりにサンバイザーと、先祖より少し進化したかっこうだ。
「ご精が出ますね」
近づいて、声をかけると、
「あー、私、こんなことしている場合じゃないのよ。部屋の掃除もしてないし、息子の学校に出す書類も記入しないといけないのに。目に入ると、もうがまんできないって感じになっちゃって」
と悲鳴を上げていた。
除草剤の導入も考えているという。
私もゼニゴケに関しては、薬の力を借りようと、御茶ノ水の「タキイ」の店までわざわざ出かけていった。「サカタのタネ」とシェアを二分する種苗会社で、園芸をする人は避けて通ることはできないと言われる店だ。「関心のない人にとってはまったく無名だが、その世界では有名中の有名」といった存在である。
さすが「タキイ」、求めるものがちゃんとあった。コケをなくす「コケレス」。ネーミングは情けないが、そういうものがえてして効く。
が、これは、期待していたほどの効果ではなかった。他の植物への影響をおそれ、散布のしかたが、今ひとつ思いきりが悪かったものと考えられる。
猫とどう付き合うか
雑草に並ぶ、ガーデンライフの敵は、猫だ。ただうろつくだけならば、見過ごすこともしよう。ひとときのひなたぼっこに、スペースを貸すくらいの度量はあるつもりだ。
問題はフンである。風通しのため窓を開けると、部屋の中まで漂ってくる。目をつぶることはできても、鼻の穴はつぶれない。
虐待はいかんと思うので、当の猫が通っても、威嚇にとどめ、苛めない。
すると、どこまでも図に乗る。
「通行は許可す。大小便は禁ず」
という、私としては寛大なつもりの措置が、まるで通じないのだ。
寄りつかなくなると言われる、いろいろなものを試してみた。オレンジの皮、コーヒーの出がらし、正露丸、酢。今のところ、どれも効果はない。
庭に関しては私には、ささやかな夢がある。家庭菜園を作りたい。すみっこに木を植えていない、「A3」くらいのスペースがあるので、そこに蒔くつもりだ。十五センチほどで収穫できるミニ大根や、ミニ人参の種が、「タキイ」に売っていることも、すでに調べずみである。しかしながら、
(掘り返してやわらかくすれば、フンにかっこうの場を、猫に提供することになるのでは)
とのおそれから、いまだ踏み切れないでいる。
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無理やりガーデンライフ
優雅なパラソル
カタギリ家の芝生に、見慣れぬものが出現した。
買い物の行きがけに通ったら、白いパラソルが立っていた。夏の花が咲きはじめるのに先がけて、ひときわ大きな花のように明るく開いている。
帰りにまたさしかかると、女性の話し声が聞こえた。カタギリ夫人とその友だちが、庭でお茶を飲んでいるらしい。リビングの外に、テーブルと椅子を持ち出して。そのためのパラソルだったのだ。
(緑を前に、ガーデンティーか)
カタギリ夫人が次々と思いつく、庭を楽しむアイディアには感心する。マンションのいわば「おまけ」を、これだけフルに活用している人は、めずらしいのではなかろうか。
それにしても、なかなか気持ちよさそうである。
フェンス越しに私に気づき、手を振りながら頭を下げるようにした。私も会釈を返しながら、
(次の電話では、きっとこの話になるな)
と考えた。
案の定、かかってきた。
「この間は失礼しちゃって。で、さっそくだけど、いらっしゃらない? 春植えたグラジオラスが咲いたのよ」
いそいそと呼ばれていった。リビングの窓をまたぐと、
「おお、こうなっていたのね」
前に見たとき、敷石かと思っていたのは、床だった。その中央にパラソルを立ててある。靴を履かずに、じかに出られる。
フローリングのような木材を並べ、下に台をつけたものだ。ひらたく言えば「簀の子」である。灰色のレンガのような色をしているが、それは経年によるそうだ。
ソックスの足であちこち踏んでみたが、かなりしっかりしているとわかった。ウッドデッキというそうだ。
「いいですね」
グラジオラスそっちのけで、まじまじと眺めてしまった。
わが家の庭にも、ちょうど置いたらよさそうなところがある。リビングの外のポーチだ。タイルが敷いてあるけれど、庭と同一平面なので、雨が降るとすぐ汚れる。売り主さんはきれい好きだから、
「私はあそこを、週にいっぺんは雑巾で拭いて、裸足で歩き回れるようにしてたわ」
と言っていた。私もそうするつもりであった。
が、現実には、つっかけ代わりに、かかとのつぶれた履き古しの靴が一足、窓の外に脱いであるだけ。庭への単なる通り道としてしか使っていない。もったいないスペースだとは、かねがね思っていた。
ウッドデッキにすれば、高さが少しあるだけで、タイルとはずいぶん違うようだ。汚れについても、カタギリ夫人は、
「たまに座敷箒でさっと掃くくらい」
日本家屋で言う、濡れ縁の感覚なのだ。
「雨風のとき、取り入れなくていいんですか?」
「それは無理。重くて重くて、私の力では、とても動かせないわ」
その代わり耐食性のある木だという。腐食に耐え得るのである。
いったいどこで買ったのかと聞くと、「夫が作った」とのことだった。「でも、自分でやらない方がいいわよ。すっごくたいへんだったから」と「すっごく」を強調してつけ加える。
何でもたいへん堅い木で、鋸で引くだけで、へとへとになったとか。切って揃えて、裏から台座を打ちつけて、五日間の夏休みのうち四日間を製作に費やし、あとの一日は、死んだようになって寝ていた。それでものちのちまで筋肉痛が残ったという。
「仕上げに何か塗ったんですか?」
「下だけ塗ったの。でも、やめた方がいいわよ」言下に止める。
塗った方が腐りにくくはなるのだろうが、
「オイルの臭いがすごいのよ。防毒マスクをかけたくなる」
あまりの臭気に、庭で夫が塗る間、子どもたちを家の中に入れ、窓を閉めきっていたという。
「あれ絶対、体に悪いわ」
夫に労働を課し、かつ体に悪いものを吸わせたことに関しては、さしたる痛痒を感じていないようだ。
「今はパネルにしてあって、そのまま敷けるのが売っているから。『Jマート』にあるわよ」
文脈からして、「Jマート」とは食料品のあるようなスーパーではなく、ホームセンターだろうと思われた。ほとんど普通名詞のように用いるところからすると、園芸をする人の間では誰もが知る店なのだろう。私も一度、出来合いのウッドデッキパネルなるものを、店に覗きにいってみようか。
ウッドデッキを敷く
そうこうするうち、チラシが入ってきた。「ウッドデッキパネル七百八十円 九百八十円」。「Jマート」とは別の園芸用品店である。
(なるほど、こういうふうになっているのか)
チラシの図を眺めた。正方形のミニ簀の子のようなものだ。サイズは、三十センチ角のと四十五センチ角のと二つ。組み合わせて敷き詰めるらしい。
(うちのポーチは、何センチあるのだろう)
得意の巻き尺を出して測る。二百六×二百十センチか。
三十センチ×七だと、ちょうど整数倍になる。が、一辺に七枚ということは、七×七=四十九枚並べねばならず、平面がかなり細分割される。パネルというよりモザイクだ。費用の点でも、七百八十円×四十九となり、賢い選択とは言えない。タイル部がちょっとはみ出るが、百八十×百八十センチに敷くとし、四十五センチ角のを四×四=十六枚というのが、妥当だろう。
チラシの店は、中央線の北、西武新宿線をまたぎ越し、西武池袋線に近いところにあるようだ。
が、結果として骨折り損のくたびれ儲けに終わった。
チラシの品は、あることはあった。が、使ってある板が、ミカン箱ほどの薄さしかなく、いかにも頼りない。椅子なんか置いた日には、脚の角でばりんと割ってしまいそうだ。その板を井桁に組み、裏から同じような板を打ちつけただけのもの。とても台座の用をなさない。どう見ても、粗悪品なのだ。
売り場にマジック書きした貼り紙で、「必ずオイルを塗って下さい」ときつく言い渡しているのも、気になった。「オイルなしでは耐久性は保証できない」と公言するようなものではないか。
ここまではるばる電車とバスを乗り継いで来た道のりを思うと、買わずに帰るのも悔しいが、
(そうだ、登山隊だって頂上を目前にしながら勇気ある撤退をするではないか)
と自分を励まし、元来たルートを引き返してきた。
日を改めて「Jマート」へ。こちらは、この前の店とは反対に中央線の南側。京王線に近い方になる。あとでカタギリ夫人に「行ったよ」と報告したら、
「えっ、車もないのにどうやって?」
と驚かれた。近くの駅からもバスが出ているらしいが、時刻表が遠目にはただ白いとしか見えないほど、本数が少ない。
が、歩きに歩いて着いた先では、規模の大きさに度肝を抜かれた。
室内競技場のようなだだっ広いフロアーに、スーパーにあるカートの五倍はありそうなカートを押した人々が行き交う。
レンガ、石、板、角材といった園芸資材、池にするものとおぼしきプラスチックの巨大な容器、鉢、土、肥料、植木までも売っている。インテリアに対するエクステリアショップとでも言うのか、インテリアショップとは、また別の世界に足を踏み入れたようだった。
店内にしつらえられた人工池では、ぽこぽこと噴水がわいて、「自然」とか「環境」といった雰囲気を盛り上げるためか、鳥の声を模した音が、スピーカーから流れ続けている。
休日のこととて、客は三十代から五十代の夫婦連れがほとんどだ。ジーパンや短パンなどの軽装で、腰のあたりに車のキイをつけているのも、特徴的。
(今の人たちは、こういうふうに郊外型生活を楽しんでいたのか)
念願のマイホームを手に入れて(とは限らないが)、せっかくだから「ちょっと緑」をとり入れたい人たちに夢と憧れを与える、テーマパーク。
エスカレーターがあったので、上がってみると、二階は家庭用品売り場であった。収納ケース、スリッパラック、ブラインド、照明器具、コード、浄水器、モップ、ビデオテープ、ファックス用紙……もう、やけになるくらい何でもかんでもある。私たちは地震が来たら、こういうモノに埋もれて死ぬのだ。そして私たちの子孫が、焼け跡から拾い出して、リサイクルしてまで使いたいと思うものは、この中にはひとつとしてないに違いない。
二十世紀末の、「豊かさ」を極めた消費生活の総覧という感じで、ただただ圧倒されていた。
かんじんのウッドデッキに関しては、またも「勇気ある撤退」を余儀なくされた。ここのもやはり、オイルを塗ることが必要とある。
(そういうものなのかも知れない)と購入に傾きかけたが、店にあるぶんでは、十六枚に満たないとのこと。それでは足りない。
二度も続けて両手を空しくして帰るのは、さすがに哀しいものがあったので、百九十八円の洗面器をひとつだけ買い、リュックに入れて戻ってきた。
通販のカタログを見ると、二つの会社のに、ウッドデッキパネルが出ている。
チェックすべきは、オイルを塗る必要の有無。自分の性格からして、届いた段階でほっとすると同時に力尽き、「そのうち塗ろう」と思うまま、何年も積んでおくことになりかねない。受け取ったら即、敷く作業に移れることがかんじんだ。
どちらにも「ご家庭での塗装が必要です」との但し書きはなかった。
次に注目したのは、厚さ。地面からある程度の高さがないと、汚れやすいし、水にも弱い。
「東急百貨店」のカタログにあったのは、五・五センチと、もっとも厚い。水はけをよくするため、台座に「アーチ加工」が施してあるというのも、他の商品にはない点だ。
八枚組一万九千八百円と、ホームセンターのより高いが、しょっちゅう買うものではない。じょうぶで長持ちの方がいい。
二組申し込んだ。
八枚ずつダンボール箱に入ってきたが、重さにまず驚いた。箱のままでは運べないので、玄関で開け、一枚一枚取り出す。その作業だけで腕が痛くなった。「自分では動かせない」とカタギリさんが言っていたわけがわかる。
説明書によると、「セランガンバツ材」なる木だそうだ。家の屋根や文字どおり船の「デッキ」に使われるらしい。もともと雨にさらされるようにできているのだ。防腐処理なしで、「十年から十八年腐らないとのデータが出ています」と、なかなかに頼もしい。
汚れたときは、「水を流してデッキブラシで掃除して下さい」とのことからも、いかに水に強いかわかる。
オイルは塗る必要はない。ただし天然木なので、色は経年にともない、無垢材の白に近い茶から、しだいに濃い茶、ねずみ色へと変色する。「褪色」とは書いていないが、そういうことだ。
褪せるのを好まぬ人は、エクステリアオイルで「色を調整してみてはいかがでしょうか」。すなわち、塗る塗らないはあくまで趣味の問題であり、耐久性には関係ないと解釈できる。
説明書を読みふけるうち、腰が上がらなくなるといけないので、組み立てはじめた。ただ置けばいいのではなく、四枚を一ユニットに、さらにユニット間を連結しなければならないらしい。
連結は、裏からビスで留める。ネジ回しを握ってとりかかろうとし、
(うーむ)
と唸った。つなぐ前に、位置決めをしなくては。道具を持ったチンパンジーにもできるくらいの組み立てかと思いきや、意外と頭を使うプロセスがあるのだ。
まず、板目の目の方向は、室内のフローリングの目と合わせることにしよう。窓のこちらが横、向こうが縦では、落ち着かない。
色も、となりどうしなるべく近いものを持ってくることが必要だ。天然木だけあり、茶の濃いの薄いの灰色がかったのと、一枚一枚トーンが違い、へたすると市松模様になってしまう。十六枚を試験的に並べてみる。
その上を、チェス盤のコマになったように、行ったり来たり。立ち止まって眺めては、しゃがんでパネルを入れ替えて、といった「ひとり人間ゲーム」のような動きをくり返し、やっと決める。
それを、全体としてそっくりそのまま裏返すわけだが、そのときに並びをくずさないよう気をつけなければならない。コピーでも、B5二枚をB4一枚にとるときなど、しょっちゅう左右を間違えるほど、空間認識に弱い私である。
四枚ずつ留めて、二か所にUの字形のフックをつける。
それを順に表に返す。フックに上からはめ込んで、となり合ったユニットどうしを、つなぐのだ。
四枚で一枚となったユニットの天地をひっくり返す段では、盤石に立ち向かうようで、二の腕が震えた。
最後の一枚をはめおおせると、
「ふう」
と声を出して、息をついた。十六枚が一枚岩となった。これで、どこに乗っても、滑ったり転倒することもない。ずんぶんてこずらされたけれど、なかなかに考えられている。
設置が完了したとたん、ざーっという音とともに、突然の雨に見舞われた。庭木の輪郭もかすむほどの、激しい降りだ。あわてて室内に逃げ込む。
ウッドデッキがみるみる濃い茶になる。変色するとは説明書で知っていたが、こうもいっぺんに変わるものか。
(しかし、何も敷いたばかりのところで降らなくても……)
まるで人が敷き終えるのを狙ったかのようなタイミングだ。
一過性かと思いきや、雨はひと晩降り続いた。ウッドデッキに上がる激しいはねを、窓の内から呆然と眺める。この先のガーデンライフの道のりの険しさを予感させる。
十年から十八年持つというから、五年後くらいから変色がはじまるのかと思っていたら、とんでもなかった。あっという間に茶色の段階を通り越し、ねずみ色になる。
色と耐久性に直接の関係はないのかも知れないが、こうも早いと、
(この先、あと十何年もだいじょうぶなのだろうか)
と不安を覚える。
テラスでお茶を
将来は別におき、現在としては、ウッドデッキは大正解だった。有効に活用されなかったスペースが、居住空間の一部となったのだ。
百八十×百八十センチと言えば、二畳にあたる。十一畳のリビングに対する二畳である。率は大きい。部屋全体が二割近く増床した感じだ。
ポイントはやはり、フローリングの木目と方向を合わせたことだろう。窓の向こうにまだ部屋の続きがあるような錯覚にとらわれる。
部屋が広く感じられると同時に、相反するようだけれど、庭も広くなったと思えるのが、ウッドデッキのすごい点だ。ポーチが間にあるよりも、ぐっと近くなったせいだろうか。テーブルクロスのゴミをはらったりとか、米のとぎ汁を木の根もとにかけるとか、ちょっとしたことが気軽にできる。靴を履かずに出られるのが、こんなにも便利だとは。
あまりに便利なので、もう八枚追加注文したほどだ。物干し台のあるところが、やはりポーチになっているのだが、ウッドデッキを敷けば、洗濯物をかけるのにいちいちサンダルをつっかけなくてもいい。
こうなったら、いよいよお茶だ。はじめてなので、試しとして父母を招待する。何たって庭好きの人たちである。「テラスでお茶を」のうたい文句につられ、案の定すぐにやって来た。
デッキの上に、コーヒーテーブルを出し、もっともらしくクロスをかける。夏のさかりだが、ガーデンティーとなれば、ここはぜひとも英国風に(行ったことはないが)熱いミルクティーといきたい。ポットにたっぷり紅茶を満たす。
この「お茶会始め」の模様は、のちに売り主のオオイリさんに電話で詳しく報告した。ウッドデッキを敷いたことをファックスで報告すると、折り返しファックスが来た。「ご両親さまを招いて、お庭でアフタヌーンティーだなんて、夢のようです!」。
イメージが先行しているようなので、電話で説明を補う必要を感じたのだ。「それが、そうでもなかったんですよ」と。
とにかく昼でもヤブ蚊がすごい。静止しようものなら、またたく間に手でも足でもぼこぼこにされてしまう。「自然の中で」との意図には反するが、リビングから延長コードを引っ張ってきて、電子蚊取り器をたくというセッティングをまずしなければならなかった。
そして、いよいよお茶であるが、何といっても、この暑さ、飲むたびにどっと汗になって噴き出る。三人とも汗をだらだら流しながら、あくまでも「テラスでお茶を」にこだわるという、がまん大会のような催しになってしまった。リビングには冷房をがんがんに効かせておき、耐えきれなくなった人は離脱し、室内へ逃げ込んでは、「ぷはーっ」と息を吹き返す。少し涼んだのち、また復活と、出たり入ったりをくり返す。「緑を愛でつつカップを傾けて……」といった優雅なイメージからはほど遠いものとなってしまった。
「季節が向かなかっただけよ、それは」と売り主さんが慰める。
そう、実行の時期に無理があったが、企画そのものは悪くなかったと思う。あきらめず、涼しくなってから再度挑戦しよう。秋からがむしろ楽しみだ。団子を飾って月見をして、七輪を買ってきてサンマを焼いて……構想はふくらむばかり。
このウッドデッキには、ヨダさんが来たときもふたりで出てみた。夏のさかりでお茶会は「苦行」になるのでさすがにやめたが、彼女は暑さにもかかわらず、
「はあ、案外じょうぶなものね」
とかなりの関心を示しつつ、滑らないかどうか、たんねんに踏んでみていた。
ほどなくして彼女から電話があった。
「あれ、いいね。居ながらにしてビヤガーデン状態よ」
彼女のところには庭はないが、ベランダに敷いた。マンションの十一階、眼下に広がる夜景を眺めながら、風呂上がりの一杯を。
「一階と違って、よそからの目がないからね。庭付きとはまた別の開放感だよ」
高層には高層ならではのガーデンライフの楽しみ方があるものだな、と知った。
根性! 地中にコードを埋める
ある夕。カタギリ夫人のマンションにさしかかると、角を曲がる前から、煙とともにいい匂いが漂ってきた。くんくんと鼻を利かせる。テラスでバーベキューをしているようだ。向こうは向こうで、めいっぱい活用しているな。
庭の方へ回り、びっくりした。ライトがついている。今をさかりと咲き誇るグラジオラスを照らし、テラスで、あるいはリビングで、居ながらにして観賞できるように。春の京都の寺などで「特別拝観」として行う、桜のライトアップと同じ原理だ。夜の庭に浮かび上がる満開の花は、昼間よりいちだんとまた堂々としている。
(やるなあ)
感心した。ガーデンライフにかけては、カタギリ夫人は常に私の一歩も二歩も先んじている。
家へ急ぎながら、むずむずしてきた。
(そうか、照明か)
わが庭にも取り入れられないものか。
次の電話のとき、さっそくそれが話題になった。
「あれ、何で点くんですか? ソーラー?」
「電源よ、電源。お宅もたぶん、屋外にコンセントの差し込み口があるはずよ。芝刈り機のコードをつないだことない?」
調べるとたしかにあった。
ライトそのものは、
「和風でいいなら、『Jマート』にたくさんあるわよ。私なんて洋風のを探すのが難しかったから」
またも「Jマート」。行ってみよう。
庭園灯は、いろいろあった。大は石灯籠を模したものまで。私は庭の狭さに合わせ、カンテラほどの小さいものにする。地面を掘ったりする必要はなく、土の上にただ置けばいいらしい。
問題は、コードである。設置場所はつくばいの後ろとしたいのだが、コードが芝生を堂々と横切るのは興ざめなので、なるべく目だたぬようにしたい。ポーチのへりをつたわせ、庭のすみを通すとして……。すると、どうしても長さが足りない。今ついているのは五メートルだが、前記のルートを巻き尺で継ぎ足し継ぎ足し測ると、八メートルは要る。
屋外用の延長コードなるものは、あるのだろうか。
家電の量販店をいくつか覗いたが、どこでも、
「屋外用? さあ、うちでは取り扱いありませんね」
と首を傾げる。そんなに難しいものを求めているとも思えないのだが。すでに設置場所を定め、差し込み口まで探しあててあるのに、あと三メートルのことで、実行に移せないのがもどかしい。
ナショナルの庭園灯だったので、ナショナルの販売店に相談した。延長コードについては、ここでも、
「ないねー」
屋外で継ぐのは、水が入ったり、漏電の危険があるからではないかと。
「ただし、本体のコードそのものをつけ替えることはできますよ。お預かりするので、少し日数はかかってしまうけど」
お願いすることにした。
出来上がりの知らせに、取りにいっていよいよ設置。と言っても、地中深く掘り下げ埋め込むといった、本格的な工事はできないから、ルートに沿ってコードを這わせ、移植ごてでつんつん突いてはくぼませて、軍手の指で土をかけていくという、山菜採りさながらの、地道な作業である。ポーチのへりから、庭のすみの植え込みの下へとL字形に八メートルしゃがみ通してそれをしたら、にわかには腰が伸びなくなってしまった。
つくばいの後ろまで到達し、本体のつけ根のスイッチを押す。
(よし、点く)
リモコン操作はできず、点けたり消したりのたびに、靴を履いて、つくばいの向こうにまで行かなければならないのが、スムーズでないと言えばないが、どうにか初志は貫徹できた。
ウッドデッキ、庭園灯と揃ったところで、カタギリ夫人を招待する。午後のお茶としてはやや遅い五時からはじめ、六時半を過ぎたらさりげなく庭園灯をともすという心憎い演出である。「ちょっと失礼」と話を中断してわざわざ下りてつけにいったから、実際はかなり「さりげあった」かも知れないが。
「電源はどこからとってあるの? コードは見えないようだけれど?」
カタギリ夫人の質問に、よくぞ気づいて下さいましたとばかり、
「埋めてあるんです」
どこに頼んだのかと聞くので、
「自分で埋めたんです」と胸を張ると、
「えーっ、根性」
と驚いて、その反応に、じゅうぶんに報われた思いがした。
夏とはいえ、夜には、庭に虫の声が満ちるようになった。和風の庭だから、秋の気配が近づくにつれ、「わびさび」にも磨きがかかるに違いない。そこはかとない光で照らし愛でるには、絶好の季節である。
しかししかし、残念なのは、心ゆくまで眺めたいのに、それよりも、窓に映った自分が見えてしまうことだ。夕飯のあと、つくばいの向こうの明かりをつけ、
(さあ、ゆっくりと庭を観賞しよう)
と窓の前に陣取ると、座布団の上でえらそうに腕組みしている自分と、正面から向き合うことになる。外よりも、室内の像の方がはっきりと浮かび上がってしまうのだ。
窓を開けると、蚊の残党の猛攻撃に遭うし、網戸だけ閉める方法もとってみたが、風景が今ひとつクリアでなくなる。
(ガーデンライフも、なかなか思うようにはいかない)
と、窓ガラスの中の自分と目を合わせ、溜め息をつくのだった。
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みんなの悩み、収納問題
工夫、人それぞれ
前の家にいたとき、ある出版社の広告局の人から電話があった。その社で出している月刊誌に「書斎拝見」というグラビアページがあるが、
「そこに出ませんか」
と言う。私は「えっ」とのけぞった。
(何かの間違いでは)
と思った。彼の言う月刊誌は、中高年のいわゆる知識人を主な読者とするもので、「書斎拝見」に似つかわしい人といえば、私のイメージでは、丹羽文雄とか里見ククラスであった。
「いいんでしょうか」
ひるんだが、
「いいんです、いいんです」
軽く言う。若返りを図りたいから、と。
(しかしなあ)
若返りを図ると言っても、図り過ぎでは。年齢だけではなく、格の問題もある。
それに、こちらの方が実は大問題だが、わが家には書斎と呼べるものはないのだ。前のアパートの間取りについては、さきにちょっとふれたが、六畳、四畳半の寝室、四畳半の台所兼食堂。六畳は、本をはじめとするいっさいがっさいの物置と化しており、撮影なんてとんでもない。
あとの二室も、物置部屋におさまりきらない本を入れた本棚が、食堂にひとつ、寝室にひとつと徐々に侵食してきていて、どの部屋にも少しずつ本があるという、まとまりのない状態となっている。グラビアに出たりしたら、社会的生命を失うこと必至である。
「でも、仕事するための、何らかの机があるはずですよね。それをメインにすれば、いけますよ」
「はあ、それが」
原稿を書くのは、ベッドの前のガラステーブルか、食堂のテーブルか。その日の気分で、ワープロごと行ったり来たりする。
寝室のテーブルでは、どう撮ってもベッドが写り、ページの趣旨と違いそうだし、食堂では、背景となる本棚の脇に冷蔵庫あり、電子レンジありで、妙な図になってしまう。
そうした事情をことこまかに話し、
「というわけで、現実的には難しいと思いますが」
と言っても、相手は、
「いいんです、いいんです、かえって生活感のある方がページにバリエーションが出て」
少しも動じない。
「うーむ」
電話口で唸った。狙いはわかるが、ものには限度がある。おそらく彼ははじめて電話してきた人だし、正しく認識していないのだ。
以前も似たようなことがあった。新聞社の人が「お宅でお話兼お写真を」と強く主張する。
「カメラマンの方がお困りになると思うんですけれど」
「彼らはプロですから」
そこまで言うので、
「ほんとーうに、狭くて汚いですけれど、いいんですね」
と念押しして来てもらったところ、若い写真部員の男性は、
「ぼ、僕らのアパートと変わりないんですね……」
と絶句していた。ほんとうに撮りようがなかったようで、寝室との間の扉を開け、寝室のベランダから引きに引いて、かろうじてフレーム内に収めていた。ベランダから後ろへ引っくり返りそうな不自然な体勢で苦労している彼に、同情するよりも、
(だから言っただろう)
と冷ややかな怒りがこみ上げてきたのであった。
今度の彼も、私の言葉をあくまでも「謙遜」の範囲内でとらえているに違いない。そう考え、よくよく説明してご辞退申し上げたのだった。
だいたい、あのてのグラビアを見るたびに驚くのは、蔵書量もさることながら、それを可能にするスペースが、家にあることだ。
写真の下の文章には、
「重さで床がたわんできたので、補修しました」
「壁という壁を本棚にしましたが、それでも収まりきらず、建て増ししました」
などの苦労談が語られる。が、建て増ししようにも土地がないのが、多くの人の現実では。『本の運命』(文春文庫)の井上ひさしさんや『ぼくはこんな本を読んできた』(文春文庫)の立花隆さんは別格としても、同じ文をひさぐ職業で、
(どうして、こんなにたくさんの本を所有することができるのだろう)
というのが、昔からの謎なのだ。
マンション住まいで、そこそこ読書好きで、本の置き場に困っている。そういう人も少なくないに違いない。
ユウキさんがマンションに入居するにあたり、この問題について何らかのヒントを得ようと、同じ悩みを抱えていそうな人に尋ねると、他のところはそう凝っていなくても、本棚だけは「作り付けにした」と言う人が多かったそうだ。
ある女性の本棚は、ちょっとおしゃれで、壁面に、板材を組んだ正方形のマスを取りつけてあった。家具としての本棚を置くのでなく、壁がそのまま棚なのだ。あるマスには本を、あるマスには花瓶を置いて、飾り棚と兼用にしていた。いわゆる「見せる収納」である。
「正方形で統一してあるところが、モダンな空間構成だと思ったわ」
とユウキさん。しかし、それにはマスごとに本の外見や色を揃えないと、雑然とした感じにならないか。高さはまだ、本はだいたい判型が決まっているから、なんとかなる。問題は色。まちまちな色の背表紙が並んでいると、視覚的に落ち着かないのではなかろうか。
さきにも登場した、「晴耕雨読」を実現せんと、会社からドア・ツー・ドアで一時間半の郊外に一戸建てを買ったフジワラさんは、
「オレはこれから通勤時間が長くなり、たいへんな思いをするんだからな。その代わり、オレだけの城を持たせてもらうぞ」
と家族に宣言し、書斎をこしらえた。彼のところを訪ねた人は皆、そこを見学しないでは帰ることを許されない。
本棚は、さすが凝っている。屋根裏なので、天井が傾斜している部屋の形に合わせて、高さに段々をつけたものを、特注であつらえた。オーク材で、扉にはガラスがはめ込んである。本よりも洋酒の瓶でも飾りたくなると、見てきた人は語る。
フジワラ氏のすごいのは、本という本に、かつての岩波文庫のようなパラフィン紙をかけてあること。神田から一時間電車に揺られて帰ってきて、まずするのは、中身をぱらぱらめくるより、パラフィン紙を本の大きさに合わせてカッターで切る。カバーの上からくるみ、セロハンテープで貼ってはかっこ悪いので、はしっこを折り返し、内側を両面テープで留める。
「こうすれば、君、並べておいても見た目がいいし、カバーも汚れないだろう」
見学者に得々と説明するそうだ。
それだけではない。彼は判こ屋に自分の名の蔵書印を作らせていた。新品の本を、パラフィン紙で包み、まっ白な頁にあざやかな朱で捺すことで、本の「所有」が完成する。マーキングの本能と言うべきか。
「それは、ちょっと」
話を聞くだけで、腰が引けてしまった。愛書家の域を超え、「本フェチ」である。しかも、それだと本を手放せるわけはなく、どんどん増えていくばかりではないか。
開かずの間
狭い日本の家に暮らすからには、収納は誰にとっても大問題だ。
コイデさんは、入りきらなくなった本は、
「宅配便で実家に送る」
という、ずるい手段をとっている。地方に親の家があり、親元離れてひとり暮らししているが、身分としては「娘」である女性の特権だ。高校の頃の部屋をそのまま「自分の部屋」として確保してあり、今現在読んでいない本や着ない服は、ひとまずそこに置く。遠隔地にトランクルームを持っているようなものである。
が、この前ついに母親から、手紙で、
「もう送ってきたらだめ」
と中止命令が届いた。妹が出産のため戻り、何かと手狭になったそうだ。
「これで、弟がお嫁さんを連れてきたりしたら、部屋ごと明け渡さないといけないわ」
と案じている。しかし、そうまでして所有しなければならない本なのか。
「実家から取ってきて、再び読んだ本て、ある?」
「ない。ダンボール箱のまま荷解きもしてない」
そうなるともう、とっておく意味がないのでは。まさに「死蔵」だ。
コイデさんやユウキさんにとって、第一にかさばるのは本だが、ヨダさんの場合は衣類。彼女も親の家があるのをいいことに、コイデさんと同じように、流行遅れだが捨てるにはもったいない服をとりあえず実家に送っていた。
「それで、後でまた着るようになったのはあるの?」
と聞くと、やはり「ない」との答だった。
かさばると言えば靴やバッグもだし、帽子なんてその最たるもの。ファッションに凝る人たちは、皆どうしているのだろう。
インテリア雑誌を見ると、「収納」はくり返し特集が組まれていて、いかに多くの人が頭を悩ませているかがわかる。
無意味にしまい込んでいる点については、私も人の事ばかり言えない。
食堂や寝室の本棚にあるぶんは、まだ動きのある方で、問題は六畳の本。
そこはもう、十数年間、男性はおろか女性の友人すら通したことがない。居住空間ではないために、雨戸すら閉めたきり。文字どおり「開かずの間」だ。
畳の上には、色も高さもばらばらなスチール製本棚が三本。あるものは小学生の頃から使っており、あるものは下宿を引き払う人からもらい受けた。いずれも年季もので、外枠は平行四辺形にゆがみ、傾いた棚板が、下の段の本の上に危ういバランスでのっかって、かろうじて重みに耐えている。講談社の『内田百闡S集』が背が高く、それがひとりで頑張ってつっかい棒の役割を果たしているのを見るたびに、
(うちの本棚は、百關謳カの両肩に支えられているようなものだな)
と思った。
文庫は、棚板の前後二列に並べ、上の隙間にさらに横にして入れてある。出し入れを前提としているとは言えない詰め込み方だ。
本棚の前には、入りきらない本を重ねたものが、畳三畳くらいの場所を占めている。「積んどく」の最たるものである。
棚の下の方の本を出すには、まず、手前の本をどかさなければならない。上の方の本は、見えていることは見えているが、身を乗り出すようにしなければ届かないし、目を近づけて背表紙をはしから順々に調べていくのは、かなり疲れる。腰痛持ちには、つらい体勢なのである。
探しあてても、へたに抜くと、棚ごと落ちて、どっと雪崩を起こす。地震を何より恐れる私としては、
(こんなところで、本に生き埋めになりたくないものだ)
と思うのだ。
棚の「回転率」がいかに悪いかは、想像がつくだろう。積んどく状態のいちばん下の部分など、年にいっぺんも日の目を見ないのではなかろうか。根雪と同じだ。
ある本が家にあったかどうか、検索の手だては、記憶オンリー。文章を書いていて、
(あー、ここであの本のあのフレーズを引用するとかっこがつくのだけどな)
あったはずとは思っても、急ぎのときは、六畳を家探しするよりも、図書館で借りるか買うかした方が早いということになる。
そうして思い出せるものはまだいい。記憶のリストから登録を抹消された本は、持っていても、ないのと同じだ。
こんなことを書くと、さぞや読書家に思われそうだが、そうではなく、読んでいるなら、こうはたまらない。「とっておく」「処分する」との判別がつく。それができないのはすなわち目を通していない証拠である。
年に一、二度古本屋に来てもらっているが、その前に自分で売る売らないの見定めをせねば、そうそう減らせるものではないとわかった。
十数年ぶりの引っ越しをするにあたって、私は決意した。2DKが2LDKになるといっても、収納力を増やすのは、非現実的だ。これを機に、本の方を減らすことを考えるべきである。
これまで六畳には、ものを取りにいく用事以外、なるべく足を踏み入れず、現実を直視しないできた。が、ついに避けて通れなくなる時が来た。先延ばししていた本の処分に、今度という今度こそとりかからないことには、部屋を明け渡せない。一方、どこかでほっとしている。こういう有無を言わさぬ「外圧」がなかったら、六畳は永遠に開かずの間だっただろう。
私は捨てた捨てた捨てた捨てた。ゆうに八百冊。本を捨てることに抵抗があったが、他に方法がないのは知っていた。過去に売った経験では、ちょっとでも書き込みのある本、汚れた本は、値がつかない。商品としてきれいでなければ、とってもらえないのだ。数年前のでも文庫化されていれば、だめ。要するに、よほどのレアものを除いては、限りなく新刊本に近くなければ古本となり得ないのである。
かき出してみながら、わかったのは、私がこれだけとっておいたのは、
(のちに資料として参照することがあるかも知れない)
という実用的動機より、
「こんな本も読む自分」
であることを確認したい、知的虚栄心のようなものがあったということだ。「人生とは」などともったいぶって考えていた青春時代と違い、年々リアリズムと言うかプラグマティズムに陥っていく自分としては、
「今だって、時間さえあれば、こんな本も読み返すはずである」
と、少しは精神的な生活も営んでいる自分である、と思いたいのではないか。そういうのを「豊か」な生き方としている節が、私にはたぶんにある。
感動を受けたなら、心にしっかと残っているから、本としては用ずみのはずなのに、ブツとしてとっておこうとするのが、私の根性のケチくさいところだ。ナルシシズムともいえる。
が、次々と紐を巻いては束ねていく、物理的、かつ肉体的な作業をくり返していくうちに、そうしたことは、どうでもよくなった。はじめのうちは、ちょっと手を止め、ぱらぱらとめくったりもしていたが、作業に没入するほど、無感動になっていった。
基本的に捨てる。研究者でもない私が買うくらいの本は、読み返したくなったら、図書館に行けば必ずある。専門書でもなく、ふつうの書店で買った、ふつうの本ばかりなのだから。
むろん、とっておけるならおくに越したことはないし、いつかは役に立つかも知れない。が、今の世の中、もっとも貴重なのはスペースである。こののちめぐってくるかどうかもわからない機会のために、何よりも高いスペースを割くほどの価値はない、と思いきるべきだ。
夜ごと、本を重ねては縛った。軍手は一晩で、まっ黒になった。埃もすごい。
(こりゃ、体に悪い)
とマスクをするようにした。本をのけた跡だけ、畳の色が違っていた。
いまいましいのは、同じ本が二冊、三冊と出てくること。文庫は特にそうである。そんなので冊数を増やしていたとは。十数年間で一千万円以上に及ぶ私の家賃の半分は、本のために払っていたようなものだ。そう気づいてからは、捨て方にも憎しみのようなものがこもり、勢いが増した。
転居までのひと月、私はいったい何回、本の束を抱えてゴミ収集所との間を往復したことか。古紙を出せる「資源ゴミの日」は週一回、その朝はたいへんだった。行ったり来たりするうち、時間切れで収集車が過ぎてしまうといけないので、前の晩にドアのところまで集結させておく。
売るぶんは、キャスター付き旅行鞄に詰めて、駅のそばの古本屋に運んだ。その重さたるや、腕がちぎれそうなほど。
歩いて五分くらいの道のりだが、何回も「休み」を入れ、二十分以上かかってしまった。駅に向かってゆるやかな登り坂であることも、十年以上住んでいて、はじめて知った。
「取りにきてもらえばいいのに」
とコイデさん。が、そのときはとにかく、処分すべき本を家から出すことが急務であった。そうしないと、先の作業に進めない。転居まであまりに間がなく、することが多くて、「何日のいつ伺います」と言われても、そのとおり在宅するのが難しかったためもある。
売ったのは、二百冊。引っ越し準備の中で、この本捨てと本売りが、もっとも過酷な労働だった。
もう増やさない
新居では、幅九十センチと七十五センチの二本のスライド式本棚を設置し、
「ここに入らないぶんは持たない」
と決めた。今のところは、鉄の意志で守り抜いている。
古本屋へ売りにいく回数は、ぐっと増えた。心おきなく買えるよう、感動の有無にかかわらず、読むそばからどんどん処分する。なるべく次の本が入れられるよう、隙間だらけにしておく。
「なんだ、キシモトの頭の中はすかすかじゃないか」
と評されても構わない。むしろ、理想であるくらいに思っているのだから、あの処分作業により、私もひと皮もふた皮も剥けたものだ。
服を実家に送りつけていたヨダさんも、引っ越しに際しては、大量処分したという。それはそれは重労働で、すっかり懲り、以来、
「二シーズン袖を通さなかったら捨てる」
と決めたそうだ。その基準は、本にもあてはまるのではないか。
本棚は、リフォームでクローゼットをとり払ったあとにはめ込んだ。幅は感動的にぴったりで、うまくおさまっている。
問題は、本の背表紙が常に見えていることだ。色がまちまちなのもさることながら、問題は字。字というのは、向こうから意味を語りかけてくる。
私は打ち合わせの店で、音楽がかかっているときも、外国語の歌ならちんぷんかんぷんなので気にならないが、日本語の歌だと、とたんに耳につき、会話に集中できなくなる。それと同じで、背表紙が目に入る状態では、どうも落ち着かない。背景が背景にとどまらなくなってしまうのだ。
(本に限っては、「見せる収納」は適さないな)
と感じた。クローゼットの扉を外したのは、早計だったか。
工夫の人、私は考えた。本棚の上、天井近くに、突っ張りポールを渡す。壁紙と似た色のベッドカバーを、輪の付いたクリップで、ポールから吊り下げる。即製のカーテンである。
こうすれば、本棚はあってなきがごとし。収納の基本のひとつ、布で「おおう」というテクニックだ。総費用もわずか三千円。
(われながら、いいアイディアだ)
と、せいせいしていたとき、心理学者の河合隼雄さんと詩人の長田弘さんの対談『子どもの本の森へ』(岩波書店)をたまたま読んで、どきっとした。以下、引用する。
長田 ツンドクできるのは、読みたいと思える本で、こっちによびかける力というか、はげます力を感じさせるような本。しかし、いつも気になるんじゃないと、ツンドクにならない。
ですから、本があるということだけじゃだめで、ある建築家に聞いたんですが、狭い家しかつくれないけど、本をたくさん置きたいって注文をうけて、工夫して、ソファーなんかの下を全部本棚にした。で、たしかに本はたくさん蔵えるようになったんだけども、一年もたたないうちに苦情が来た。「本は、やっぱりふだんに見えてなくちゃだめだ」って。
河合 そうです。本は、見えないところに入れたら、もう終わりですね。
長田 ツンドクには、読みたいけど読んでないツンドクと、もう一つ読んでからのツンドクと二つあって、ツンドクは日常その本がそこに見えていて、その本のイメージがずーっと自分のなかに残ってゆくんですね。(後略)
(しまった)
うちひしがれた。特に河合さんの発言「本は、見えないところに入れたら、もう終わりですね」は、致命傷だった。
本は置いておくことこそ、重要だったか。しかも「見せる収納」で。引っ越しを機に私が打ち出した方針とは、ことごとく逆である。当代一の心理学者と詩人が、口を揃えて言っているからには、彼らと私とのどちらに理があるかは、あきらかだ。精神の貧困は、ここからはじまるのか。
名案だと思ったカーテンをとりはずすべきか否か、悩んでいる。
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仕上げはソファ
足りないものは
「部屋の中もだいぶ整ってきたし、庭もできたし、あとはソファね」
そういったのは、母だった。わが家に来て、ウッドデッキで何度めかのお茶を飲んだ、秋口のことである。
母が自分の意見を述べるのはめずらしい。
母が言うところは、リビングの庭に面したコーナーである。十一畳のうち、三畳ぶんほどの青いカーペットの上にダイニングセットを置き、あとの部分は、フローリングがむき出しのままだった。上にやきものを飾った韓国製のつづらと、実家からもらってきた古いコーヒーテーブルが、あるくらい。
場合によっては床運動もできそうなこのスペースが、私は結構気に入っていた。引っ越してまだ半年、何も全部を家具で埋めてしまうことはない。これから好きなものが出てくるかも知れないし、いかようにもなる余地を、家の中に残しておきたい。
ごろ寝をするときのため、座布団は床の上に敷いていた。染付の花鳥模様のやきものに合わせて、白地に紺の花柄のインド綿のカバーをかけ、「コーディネイト」したつもりである。が、母は、
「この未完成の一角が、どうも気になる」
けれども、ひとり暮らしでソファは、どう考えても分不相応だ。
「お客さまがみえたときのために」
と母は言うが、客なんてそうそう来やしないのである。
しかしなぜか、母のソファ願望はおさまらなかった。「引っ越しのお祝いに、自分がお金を出すから、買いにいきなさい」とまで言った。「いい年をして、親の年金をあてにするつもりはないから、そのうちゆとりが出来たら考える」と、ぐずぐずしていると、
「私が『ヤサカ』に行ってきてもいいんだけど。でも、やっぱり本人が好きなものでないとね」
これには驚いた。「ヤサカ」とは、親の家からバスに乗っていくところにある、家具のディスカウント店である。母は七十過ぎてから外出がめっきり減り、ひとりでは近くのスーパーまで夕飯の買い物に出るくらいしかしなくなっていた。その母を、思いもよらぬ行動力へと駆り立てるものは何なのか。
(そこまで欲しいわけ?)
考えてみれば、親の家では、母はよくソファにかけている。また、私のところのダイニングセットはイギリスの中古品のため、椅子が高めなことは高めなのだ。母にとっては床に足が届かず、くつろげないのかも知れない。
「客なんて来やしないし」と思っていたが、親も「客」だった。母は誰よりもまず自分が座ることを想定しているのではなかろうか。
(しかたない、買うか)
本腰を入れて取り組むことにした。「足りないものは、夫ね」などとプレッシャーをかけられるよりは、よほど楽な課題である。
「本腰」と言っても私の場合、例によって周辺の聞き込み調査からだ。コイデさんは、たしかソファベッドにしていると言っていた。それだと、今後親が泊まりがけで来ることがあったとき、便利かも知れない。
さっそく電話で、使用状況を尋ねてみた。
コイデさんは、「うーん」と唸り、「あれはちょっと、失敗だったかも知れないと思ってる」。
一つで二つを兼ねるなら、狭い部屋にはちょうどいいと考え、購入した。事実、夜、仕事から帰ってくつろぐ間はたたんだまま、寝る直前に伸ばすという、ソファベッドのコマーシャルに出られそうな、模範的な使い方をしていた。が、
「人間って、睡眠中いかに汗をかくかわかる? よく『コップ何杯ぶん』とか言うでしょう」
湿気のため、ベッドの下にあたる部分の畳に、カビが生えてしまったそうだ。
「ソファベッドにするならば、脚つきで、床との間の通風がよほどいいものでないと」
けれど、脚つきだと、畳のそのところだけ跡がつくジレンマがある。
寝心地も、コイデさんの感じでは今ひとつ。
「スペース的に可能なら、やっぱりソファとベッドは分けた方がいいよ。ソファは座るもの、ベッドは寝るもの。もともと用途が違うんだから。デザインもどうしても制限されるしね」
自分の中で、ソファベッド案は却下した。
コイデさんの知り合いで、庭の件から交流のできたカタギリ夫人も、ソファを検討中という。
リビングのカーテンを十年ぶりに新調し、壁紙も白に張り替えたカタギリさんは、満足感にひたりつつ、部屋を眺め回したとき、
(この部屋に欠けているものは、ソファだわ)
と思ったそうだ。
「どんなのを探してるんですか」
電話によるソファ談議では、
「もちろん、壁に合わせて白よ」
とのことだった。が、白はよほど形を選ばないと、へたしたら、病院の診察台のようになってしまう。
「形にこだわるなら、輸入物かなと思って。そこまでは方針が決まっているんだけど、行動に移すとなると、なかなかねえ」
カタギリ夫人からは、後ほどファックスが来た。「『アクタス』や『コンランショップ』はぜひ一度チェックせねばと思っています。行く機会があれば、お声をかけて下さい」
私もその二つに関しては、引っ越し以来いつか行かねばと思いつつ、半年以上が過ぎている。都心に出るのが限りなくおっくうな私には、「新宿」というのが、やはりネックだ。
「今回も、さんざんに迷った挙げ句、荻窪の『大塚家具』あたりで、国産のを買うという志の低いことになりそうです」と返信しておいた。
「志が低い」とは受け狙いで書いたことで、私は「大塚家具」にはずいぶん世話になっている。カーテンも見にいった。買うまでには至らなかったが。
インテリアショップでものを探す方法も人さまざまで、絨緞を買うなら絨緞だけを扱う店へ足を運ぶ人もいる。
私の場合は、とりあえず総合的な品揃えの店に行ってみる。専門店を使い分けるほどのショップに関する知識がまだないし、広いフロアーを歩き回るうち、目的のもの以外についても、
(はー、今のダイニングセットの価格帯はこうなっているのね)
(こういう趣味のを、インテリアの世界では「フォーマル」と呼ぶのか)
など、いろいろと勉強になる。初心者にとっては、何かと得るものが大きいのである。
しかし、ソファについては、前に「大塚家具」に行ったときも見なかった。今のところノー・アイディアだ。
リビングに、売り主のオオイリさんはたしかコーナーソファを置いていた。私もそれがスペースを有効に使えていい気がする。
(サイズは……)と、この半年間何回登場したか知れない巻き尺を出して測ると、長い方が二百七十センチ、短い方が百三十センチくらいだと、バランスがいいようだ。さっそくメモして、財布の中にしのばせる。引っ越しからこの方、何種類の寸法を、こうして紙に書き、持ち歩いたことだろう。今回でもうラストだろうが。
サイズで言えば、高さも重要だ。今回は母が座るのが主目的のため、ふつうより「低め」をうたったものがいい。
色は、これまで家具や敷物を選んできた経験から、リビングに許されるのは、焦げ茶か黄みがかったベージュか紺かの三色しかない。
布張りか革張りか。私にとってはソファというと「革」のイメージだけれど、扱いがたいへんだろうか。
春頃から、「何かのときの参考に」と保管しておいた、家具屋の折り込み広告を、引っぱり出して眺めてみる。コーナーソファは折りにふれてセールされているようだ。ベージュの革も複数のチラシに掲載されている。
価格の方も「五万八千円!」「七万八千円!」「九万八千円!」と、十五万円を覚悟していた私には、なかなかに心強いもの。セール期間が過ぎていても、十二万八千円くらいであるのではなかろうか。
チラシの中でいちばん近くの店に行ってみた。
「こういったソファを」
説明代わりにチラシを示すと、勤続年数二十年といった感じの女性店員は、
「これ、いったいいつの? まあ、よくとっておいたわねえ」
懐かしそうな声さえ上げる。
彼女の言うには、こういう商品は、常時置いてあるものではない。バイヤーが現地で仕入れてきて、安く提供する。店としては、いわばセールの目玉として、店頭に出し、売れなかったぶんはまた戻す。そのようにして次々と移動する、「巡回商品」なのである。複数のチラシに、同じような商品が載っているのは、そのためか。
「町中の店はスペースが限られているからね、セール終了後いつまでも置いとくわけにはいかないの」
家の中だけではなく、どこでもスペースは問題なのだ。
「国産のならメーカーから取り寄せられるけど、何ぶんそういうものだから、注文は受けられないのよ」
と店の人。そういうしくみだったのか。同じものが今もきっとどこかの店に出没しているだろうけれど、偶然の再来にかけるのは、あまりに気の長い話だ。
(チラシは、ため込んで観賞するのが能ではない。見たら即アクションを起こさないとだめなのだ)
その店で得た教訓である。
運命の糸
そうこうするうち、カタギリ夫人からファックスが入った。
「な、なんとソファを買ってしまったのです」
興奮のあまりか、ソファが「ソァ」となっていたが、何のことか、私にはむろんわかった。
文面によると、いきさつは以下のとおり。自分ではその日は買う気はまるでなく、ただ友人に付き合って、デパートのセールの最終日に出かけていった。すると、長年頭にあったイメージにほぼぴったりのソファが、家具売り場の片すみに「まるで私が来るのを待っていたかのように」ひっそりと置かれているではないか。
幅を測ると、置きたい場所にジャストフィット。奥行きがやや(実はかなり)オーバーしているのがちょっと怖いが、色といい質感といい形といい、これほど思い描いていたとおりのものに、今後出会えるとは、とうてい考えられない。
(衝動買いではないのか)(返品はできないのだぞ)と、二十分くらい悩んだ末、奥行き問題には目をつぶり、(えい!)と購入してしまったが、「ほんとうにあれでよかったのか、届くまで不安な日々を送りそうです」と結ばれていた。
ファックスを読み終え、電話した。
「理想のソファが、あったんですって」
「そうなのよ。まあ、最終日で他にもうほとんど残っていなかったから、選択の余地はなかったと言えばなかったんだけど」
配送は一週間後と言う。
「奥行きがご心配なようだけれど、多少出てもいいんでしょう」
と励ますと、
「実は、もうひとつ不安材料があってね」
白の布張りなのだと言う。
それを聞いたときは、さすがの私も《えーっ》と胸の内で叫んだ。(それは、衝動買いを通り越して、暴挙だわ)と。
彼女ひとりなら、問題はない。が、カタギリ家には、小学校五年生と中学二年生の息子がいる。しかも中学生の方はサッカー部である。泥んこのユニフォームをぽいと載せられたら、目もあてられない。
「子どもたちには、『今度来るソファには絶対座るな、さわるな』って言い聞かせてあるんだけど」
いつまで無傷で持ちこたえられるか、他人事ながら危ぶまれるのだった。
到着しだい一報するから、見にきてほしいとのこと。その日は私も夕方までいる日だったので、連絡を待った。が、二時を過ぎても三時を過ぎても、音沙汰がない。
四時になったところで、かけてみると、
「ごめんなさい。たった今、配送の人から電話があったのよ」
道路事情により到着は六時以降になるとのこと。
「朝から掃除機をかけて、今か今かと待っていたのに、緊張が続かないわ」
疲れた声を出していた。
次の週、見にいった。
リビングのドアを開けると、正面にまっ白なソファが燦然と輝いていた。白も白で、よくぞ選んだりで、壁紙とぴったり合っている。さながら保護色のよう。
白というのは、モノトーンのようでいてけっしてそうでなく、青みがかった白、黄みがかった白など実にさまざまだ。系統がちょっと違うと、まったく別の色を持ってくるよりもっと悲惨なことになる。それは、ベージュでさんざん苦労した私だから、わかる。
形も「診察台」にならぬよう、肘掛けに角度をつけるなど、工夫が凝らされている。どの方向から見ても、均整がとれ、部屋の中心を占めるにふさわしい風格だ。
「こりゃあ、出会った瞬間、運命的なものを感じたのも、わかるわ」と私。
「でも、気が休まらなくて」
子どもがチョコレートを食べながらひょいと腰を下ろしたり、外では地べたにじかに置いているだろう通学鞄を、どん! と載っけたり。そのたびに、「ああー、やめてえ」と飛んでいく。
そのままでは身がもたないので、子どもたちのいる間は、バスタオルをかけることにした。カーテンも壁紙も白を追求してきた彼女には、Jリーグのマーク入りとかストライプとか、家の中におよそあってほしくない色、柄だが、背に腹はかえられない。
白さを観賞するのは、もっぱら昼間、ひとりで家にいるときだけ。
「家具というより、置き物ね」
と言ったら、
「そう、まさにそう」
とうなずいていた。
そう言えば、売り主のオオイリさんもソファをバスタオルでおおっていたな。あちらは、インテリア・コーディネイターが強引に決めた柄がどうしても気に入らず、青の無地をかけていた。バスタオルの方がむしろ観賞用なのだ。カタギリ夫人とは動機において違うけれど、「バスタオルでおおう」という方法は、誰もが考えることのようである。
それにしても、そのときのカタギリ邸訪問は、何かと学ぶことが多かった。ソファ以外の点でもだ。
秋に入ってから、私の部屋は、下からぐっと冷え込むようになってきたが、カタギリさんのリビングは、同じ一階なのにずいぶん暖かい。
「これ、エアコンつけていないですよね?」
と聞くと、
「床暖房にしたのよ」
壁紙と同時に床も張り替え、そのときにリビングだけ床暖房の設備を付けたという。
(そうか。もっと早くに知っていれば)
と、後悔の念を抱いた。
一階は足もとから冷えることを、この季節になってから、しみじみと感じていた。エアコンをかけても、暖かい空気は上に行くから、頭がぼうっとするだけで、かんじんのところはいつまでも寒い。仕事をするときは、じっと座っているので、なおさらだ。
ものの本によれば、足の裏に暖かさを感知するセンサーのような部分があり、そこを暖かくすれば、室温がそう高くなくてもいいという。
仕事部屋だけでも、床暖房を取り入れるべきだった。いずれにしろ、リフォームで張り替えたのだから。が、あのときはまだそうした知識がなかったし、日に日に春めく頃でもあったので、「冬は寒い」ということを忘れていた。
仕事部屋として始動させること第一で、あたふたとリフォームしてしまったが、ほんとうに手を入れたい箇所は、住んでみてからわかる。それも、季節をひととおり経験してからが望ましい。
カタギリ夫人のリフォーム例から、そう実感したのだった。
西から東へ大遠征
私はカタギリ夫人にファックスしたように、荻窪の「大塚家具」に出かけることにした。
ここは都心と違って、出来心で行ける距離であることから、何回か来ていて、同じ女性店員に案内してもらっていた。
彼女について、コーナーソファを中心にざっと売り場を回りながら、「ソファ一般」について聞く。
彼女によれば、今の革は表面が加工してあるので、汚れてもすぐに拭けば、そうしみ込むことはない。扱いという点では、布よりもむしろ楽かも知れない、と。そう、カタギリ夫人のソファの場合、醤油でもこぼした日には、一巻の終わりである。
革張りのものにしぼることにした。
売り場を見て思ったのは、革だと、よくも悪《あ》しくも存在感がある、ということだ。狭い家に持ってきたら、なおさらだろう。すると、色も考える。
焦げ茶は、今あるダークブラウンの家具類がカーテンと合うことから、思いついた。がソファとなると面積が広いせいか、強過ぎる。人間よりソファの方がふんぞり返った感じにならないか。部屋の主はあくまでも、家具ではなく人間でなければならない。
ダークブラウン以外なら、紺かベージュ。紺のソファのところに連れていってくれる。
これは、何と言うか「役員応接」のような。「えらそう」を通り越し、ヤーさんぽい感じすらする。
「革の場合、ものによっては、会社っぽくなるんですよ」と店員さん。たしかに、紺はリビングには不向きだ。
すると残るは、ベージュか。が、くり返しになるが、ベージュというのは難しい色だ。ひとことで「ベージュ」と言っても、千差万別で、ちょっとはずすと似て非なる色になってしまう。
「うーん、ベージュのコーナーソファと言うと、今あるのはこれだけですね」
ベージュというよりグレーだった。
ベージュなんて、ソファとしてはもっともありきたりな色かと思ったら、こうも選択肢がないものだろうか。
「有明の本社の方にいらしたことは、ありますか?」と店員さん。
「いえ。前々から行こうとは思ってるんですけど。何線に乗るんですか」
「いろいろな行き方があるんですけれど」
それだけ「遠い」ということである。
何パターンか教えてもらって、帰ってきた。店員さんが行くときは「荻窪から乗り換え時間を含めて一時間半みています」とのことだった。
「有明の『大塚家具』、行ったことある?」コイデさんに聞いてみた。
「あー、あの『東京ドームの何倍』とかって言う、あれでしょ」
「日本最大のショールーム」「世界のインテリア散歩が楽しめます」「ご来館の際は歩きやすい靴をおすすめいたします」と、広さを強調した広告が、電車の中によく出ているのだ。「日本」「世界」といったスケールも、なかなか気宇壮大である。
「私もまだだけど、行くなら、平日にした方がいいよ。噂では、土日は予約をしてあっても一時間から一時間半待ちなんだって」
ディズニーランド並みである。家具を買うために、それだけの人が列をなすとは。不況なのに、いや、不況だからなのか、安いところには人が集まるのだ。
十月最後の月曜日、午後二時に行くことにした。その旨、母に報告すると、自分も行きたそうだったが、
「東京ドームの何倍もあるんだってよ」
と脅すと、あきらめた。現地に到着するまでだって、たいへんなのだ。
父によれば、私が荻窪で具体的な成果を上げられずに帰った日、電話で知った母は、虎の子を入れた巾着袋を握りしめ、「ヤサカ」めざして家を出ようとし、血圧を案じる父に止められたという。体力的には子をはるかに下回った今も、「子に解決できないときは、親の出番」と奮い立つ因子のようなものが、インプットされているらしい。
さあ、その有明の遠かったこと。母を伴わず単身来たのは正解だった。
中央線でまず新宿に向かい、新宿から都営新宿線で市ケ谷に出、市ケ谷から有楽町線で新木場まで行き、新木場から新交通システムの「臨海副都心線」なるものに乗った。地下鉄マップを携えていったことは、言うまでもない。
渋谷、新宿にもめったに出ない私が、都心を横断しての大遠征なのだから、「大塚家具」にかける意気込みを感じてほしい。道すがら、
(今日こそ、決めよう)
と固く心に誓っていた。土壇場で「うーん、果たしてカーテンに合うかどうか」などと迷うことのないように、カーテンを外し、リュックに詰めてきていた。靴は当然ウォーキングシューズと、足ごしらえもばっちりだ。
国際展示場駅で降りると、潮の匂いを感じた。もう海なのだ。
ソファを求めて、流れ流れてここまでたどり着いたのだから、思えば遠くに来たものである。引っ越し以来、住まいを整えるため、試行錯誤を重ねてきた、これが仕上げとなるはずだ。
新橋からの「ゆりかもめ」も東京湾の逆方向から乗り入れる、国際展示場の駅前は、まだ整備の途中なのだろうか、平らな草地が広がって、海からの風が、どうどうと吹き渡る。まさに「ここに地終わり海はじまる」だ。
草地の向こうに、倉庫のようなビル群が見える。あれが、そうか。
さえぎるものがないので、すぐ目の前に感じられるが、歩き出すといっこうに近づかないのは、すでにばてているからか。入口のエスカレーターでまた迷う。
案内に出た男性店員によれば、「東京ドームの何倍」は間違いで、「東京ドームのグラウンドの二・三倍」ということだった。それでもじゅうぶん広い。店員はさぞや健脚になるだろう。
「中もさることながら、駅からも結構ありますね。風が強いときなんか、たいへんじゃないですか」私が言うと、
「私は入社してから半年で、傘を三本折りました」と若き店員は語っていた。
しかし、いかに広くても、ソファの数は有限だ。革張りとなると、また限られる。コーナーソファを条件にしては、ほとんど非現実的とわかり、ソファ+アームチェアでもいいことに、頭を切り替えた。が、それでもベージュとなると、ほんの数点。しかも、求めていた色ではない。
「うーん、これでもいいのかなあ」
背もたれのところにカーテンをかけてみたり、店員さんに両手で下げていてもらって遠くから眺めたりと、なんとか自分を納得させようとするが、どうしてもだめ。
決めるときは即決の私が、これほど優柔不断になるのは、やはり何かが違うのだ。「このまま帰るのはむなしいし」と考えるのはよそう。勇気ある撤退という言葉もあるではないか。
「すみません。さんざんお時間をとっていただきましたが、また出直します」
思いを断ち切って、ショールームを後にした。
国際展示場駅で、電車に乗る前、母に電話した。
「あらっ、どこから?」
「有明の大塚家具を出たところ」
「まあ、それ、いったいどこ?」
母にとっての東京地図は、晴海止まりなのだ。
思うようなものがなかったと話すと、
「残念だったわね。でもまた、どこか思いがけないところでみつかるかも知れないし」
せっかく来たから、今後に向け新宿のデパートでも偵察して帰る、と告げて受話器を置いた。
がっかりさせないため、「まだまだやる気」を伝えて切ったが、実のところ「日本最大のショールーム」でもみつからなかったことに、万策尽きた感じもした。
価格の問題も、私をめげさせていた。「国内最低価格を保証」の大塚家具でも、ソファとアームチェアだと、二、三十万円台だ。
新宿のデパートには、百万以上のものもあり、
(えっ、ケタが違うのでは)
と数え直してしまったほどである。
前途多難。中央線で思わず座ると、足がどっと重くなった感じがした。
満足と後悔と
ぐったりしたまま電車に揺られ、荻窪で、残る力を振り絞り、途中下車する。最後の最後として、大塚家具に寄るつもりで。本社にないものがある可能性も、わずかながらある。
この前は、コーナーソファにとらわれて、必ずしも全部はチェックしなかった。今日一日はソファデーと定め、帰ったらばったり倒れ込むのでいいから、考えられることはすべてしよう。
そこからが急転直下だった。売り場で、ふと通り過ぎてから、ライトブラウンのソファに可能性を見いだした。そう、今までベージュかダークブラウンかと言いながら、その中間の色に、なぜ目がいかなかったのだろう。
リュックからカーテンを出してみると、今までの中でいちばん違和感がない。
ソファの前には、オレンジと青のキリムを配してある。このコーディネイトが成り立つということは、わが家のカーペットややきものとも合うはずだ。
サイズはおさまる。「低め」という条件もクリアしている。
しかも価格は、ソファとアームチェアで十一万四千円。一部合成皮革だからだろうが、私にとっては、壁にくっつける方まで、ほんものの革である必要はまったくないのである。
「なんか、嘘みたい。有明になくて、ここでみつかるなんて」
あまりにうま過ぎる話に、かえってとまどう私に、
「今日、有明にいらしたんですよね?」
と店員の女性も動揺するほどだった。カタギリ夫人へのファックスは、予言的命題だったとしか思えない。
思いがけぬ額ですんだので、ついでにキリムも購入してしまった。八万三千円だった。雑誌で眺めていたものは、二十万円台、どうかすると百万円近いものもあったので、こちらもリーズナブルといえる。高いものは、草木染めだったりアンティークだったり、高いなりのわけがあるが、いずれも機械生産ではないから、ひとつとして同じ柄のはない。なので何より「自分が気に入る」ことがかんじんだ。その点、これはまさにひと目惚れで、化学染料だろうが時代物ではなかろうが、私にはちっとも構わないのだった。
配送は一週間後になるという。来週の月曜には、届くのだ。
日曜は、親の家に出向いた。明日来るソファはこういう色で等々、母に説明すると、
「そう。内心、ベージュは汚れるなあと思ってたのよ」
と現実的なコメントをしつつも、満足そうだった。ちょうど姉の一家も来ていたので、夕飯は皆で近くの店に出かけた。それが一家うち揃って食事をした最後である。
母の葬儀をすませ、しばらくぶりにマンションに戻った私は、リビングの庭に面した窓を開けた。十一月の半ばのことだ。
枝だけになったドウダンツツジの木に、早くも傾きかけた秋の夕日が当たっていた。
母の写真を、ソファに置く。このソファに、母は結局座らなかった。
(これからももう座ることはないのだな)
と考えかけて、思考の流れを、自ら断った。悲しみや後悔にひたる時間は、この先いくらでもある。今は、父もあることを思い、ふつうの生活をふつうに再開することが、何よりもかんじんだ。
数日前の、寺での情景を思い出す。棺について階段を下り、車に乗り込むまでの間。出棺を送る列には、コイデさんのうつむく姿があった。カタギリ夫人がそのそばにひっそりと控えていた。知り合って一年にもならないのに、年齢も違う、家の話くらいしか共通点のない関係の人が、そうして来てくれていることに、胸の温まるものを感じた。
遺影はしばらく、ソファの背に立てかけていたが、すべってしまい座りがよくなく、コーヒーテーブルの上を定位置とすることにした。
正月を親の家で過ごした後、遺影以外の写真も、何点か持ってきた。温泉に行ったときのスナップだ。
紅葉の濠をバックに、コート姿で立っている。日付けは、一昨年の十月末。
「あと一年で死ぬ人とは、見えないよなあ」
声に出してつぶやいた。同時に、
(あと一年で死ぬとはわからないからこそ、人間は幸いなのだ)
とも思った。
旅行中で髪をよく整えていないせいもあり、写真の母は白髪が目につき、世間的に見ればまぎれもない「老人」である。平均寿命に十年足らなかったうらみはあるが、若さのさかりで生を奪われたのと違い、残された者としては、あきらめるべき年齢と言えるだろう。
紅葉の濠は、米沢城の外濠だ。毎年秋に、父母を温泉へ連れ出すのが恒例となっていた。一昨年は山形新幹線に乗り、米沢からバスで行く白布温泉に泊まった。
昨年は、リフォーム等でお金を使ってしまったこともあり、近場で諏訪あたりにしようと、親たちと話し合っていた。もう少し早く実現していれば、あと一回旅行ができたものを。春、夏、秋とめぐり、住まいはようやく整ったが、何か大きな動機付けを失った思い。この間、家のことばかりにかまけ、親に振り向けるエネルギーが相対的に低下してはいなかっただろうか。
一月末だったか、夜、雪が降った。庭園灯を点し、コーヒーテーブルを外に向け、窓を開けて観賞した。指先は冷たくなったけれど、光の輪の中、地上に音もなく舞い降りる雪と静かに向き合っているのも、なかなかにいいものだった。
二月末、久々にコイデさんからファックスが送られてくる。葬儀に参列して以来、インテリアの話は遠慮してか、うんともすんとも言ってこなかったのだ。
「転居後一年。どうですか? この前うちにも『大塚家具』のチラシが入っていました。キシモトさんが買ったものと思われるソファも出ていました。値段まで、しっかりわかってしまいました。お買い得な、ではなく『コストパフォーマンスの高いソファ』という言い方が、さすが『大塚家具』ですね」
私は、ははっと笑ってしまった。「来月、見に来られたし」と返信した。
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「和」へのあこがれ
一年が過ぎて
三月初め、コイデさんは転勤した。突然の異動だったので、借りていたインテリア雑誌を返す暇もないほどだった。ソファを見にくると言っていたのは、次に東京に帰ってくるまで、延期となった。
カタギリ夫人は、実家のお父さんがおもわしくないとかで、留守にすることが多い。通りかかると必ずと言っていいほど、夫人が水まきしていた庭でも、その姿を目にすることはなく、窓のカーテンが閉ざされているばかりだ。行き来も前ほどできなくなり、気軽にファックスを送るのもためらわれた。
売り主のオオイリさんの家のパソコンボーイは、めでたく大学を卒業し、就職したようだ。一年の間には、いろいろなことがある。
「この年になると、一年なんてあっと言う間よ」
と同世代の友人どうし、よく口にするけれど、この間はけっして短くはなかった。
「もう一年になりますか」
たまたま電話をかけてきたフジワラさんは言った。
「四季をひととおり経験して、ようやっと自分の家って感じがするでしょう」
彼も、四十代半ばに今の一戸建てに住み替えて、出勤時間をはじめ生活を一から組み立て直したひとりだ。
「ほんとうに、そうですね」
彼の言うとおりであると思う。
春とはまだ名ばかりの二月末に引っ越してきて、草むしりの夏は、わずか三十三平米の地面ではあっても土に根を下ろした植物の生命力に驚いた。ベランダにさす日ざしに傾きの感じられるようになった秋には、わが家の窓が西向きであることを実感し、
(この家の日当たりは、午後二時からがホンモノだわ)
と、布団を干す時間帯を変えたりした。
冬の夜は、
(冷えとは、かくも下からしのび寄るものか)
と、ソックスを重ねばきし、窓いっぱいの結露を朝ごとに拭くことに追われた。
雑巾を干すたびに、同じく結露拭きをしたらしきとなりの人と顔を合わせ、年が明けてしばらくすると、
「もうちょっとの辛抱よ。あとひと月もすれば、結露なんて嘘のようになくなるから」
と励まされた。そして、そのとおりになった。
再び春がめぐってきて、今は庭のようすを眺めても、
(去年もここで迎えた、あの四季が再びめぐってきた)
というふうに思える。出会うことのすべてがまったくはじめて、という段階をすでに過ぎたのだ。
もうひとつ、うすうす気づいていることは、いいか悪いかはわからないが、現状維持の傾向である。
私もかなりトウが立っているとは言え、未婚なので、マンションを選ぶに際し「仮に結婚してもいいように」と考えて、ひとりにしてはやや広い2LDKにした。いわば、将来に含みを持たせたのである。が、いざここに、ひとりで一年暮らしてしまうと、もうひとり入ってきた場合が、もはや想像できなくなっている。
そうなったらば、部屋数の多いところに移るほかないが、庭の木々もだいぶ根づいてきた今は、この家から離れがたいものを感じている。
夫となる男性に別にひと部屋借りてもらうことも考えられなくはないが、なるべくそういう面倒な事態の出来《しゆつたい》することにはなりたくないのが、今の気持ちだ。買う前は、
(マンション購入と結婚するしないは関係ない)
と思ったし、今も同じ考えだけれど、もともとの現状維持的な傾向を強める結果となったのは、否めない。
住まい内部を整える作業に関しては、ソファをもって打ち止めとするつもりだった。引っ越し以来、巻き尺を離さず、デパート、家具屋、ホームセンターと足を棒にして歩き回り、寸法や色が合う合わないだの、あまりに形而下的な問題で、頭を悩ませ続けてきた。コイデさんをはじめとする知人と、電話でさんざんインテリア話をしたあと、テレビで難民の映像などが流れていると、
(世の中にはたいへんなことがいっぱいあるのに、こんなことにうつつを抜かしていていいのか)
と自らを叱った。が、それも束の間、何か新しい必要が生じれば、またも巻き尺を手に出かけていく。まったく、よくも次々テーマを思いつくものだと、われながら呆れるほど。
(あれがあればこうなって……)
と煩悩いっぱいの身では、鴨長明のように、方丈の庵のみで「一身を宿すに不足なし」と潔くはいかないのだった。
そして、ソファで一連の試行錯誤に終止符を打ったはずが、ほかならぬソファのために、むくむくとわき上がってきたものがある。座卓への欲望だ。
原点に返れ
(座卓があればな)という気持ちは、引っ越して間もなくからあった。
今の家はオールフローリングの洋室だ。寝るとき以外は、腰掛ける生活である。
するとときどき、むしょうに座って何かしたくなる。お茶を飲む、郵便物を整理する、書き物をするなど、何でもいい。ただひとえに、椅子から床に下りたいのだ。ホテルの部屋で、たまらなく靴が脱ぎたくなるのと同じで、この衝動は日本人の本能ではないかと思うほど。
座布団は、床に敷いていた。しかし、それとセットになるべき机がない。やがて座布団も、ソファにとって代わられてしまった。
考えてみれば、座りたくなる傾向は、前々からあった。学生時代、大教室の授業では、先生の目が届かぬのをいいことに、長椅子の上に正座していた。前から見たら、私だけ頭ひとつ出ていたに違いない。
会社に入ってからも、事務をとるうち、自然と椅子に脚を上げてしまう。膝掛けで隠れるからという、気のゆるみもある。
突然、部長に呼ばれたりすると、
「は、はい、ただ今」
などと返事でつなぎながら、足先で靴を探し、部長席の前に着くまで、少しく時間がかかっていた。
編集部で原稿を書いていて、年配の男性に、
「あれっ、懐かしい座り方をしている人がいるね」
と指摘されたこともある。よその会社であることを忘れ、無意識に上げていたのだ。男性いわく、
「遠くまで行く電車と乗り入れている地下鉄なんかに、いるじゃない」
たしかに、たまに都心の地下鉄で、風呂敷をかぶせた背負籠《しよいご》を脇に置き、椅子の上に正座してお弁当を広げたおばあさんが、そこだけ異空間を作り上げている。私も、昔ふうなのだろうか。
さかのぼれば私が子どもの頃は、百パーセント畳の生活だった。うちはなぜか日曜の朝だけパン食となっていて、ノリタケのティーセットなどを並べていたが、並べる場所は、卓袱台《ちやぶだい》だった。家族四人畳の上に正座して、食パンに粛々とママレードを塗っていたのだから、妙な図だ。暮らしに洋ふうのものが入ってきた頃なのだろう。クリスマスにはチキンを焼いたりしたが、囲むのは、相変わらず卓袱台であった。床の生活となった今もしばしば膝を折りたくなるのは、あの頃の習慣がしみついているからか。
幼児期の体験をうかがわせるのは、座る問題に限らない。転居したとき、この家はそれこそまっさらで、自分の考えしだいで、どうにでもできるはずだった。ヨーロッパ調やアーリーアメリカンでまとめることも、いくらでも可能だったのだ。
が、一年経って出来上がったのは、ソファの脇にやきものが飾ってあるという、なんとも中途半端な「洋室」。
結局、自分がいちばん落ち着きをみいだすのは「和」なのだ。それも、京の町家とか、梁や柱の移築再生によく使われる北陸の豪農の家といった、由緒正しい「和」ではなく、昭和三十年代後半から四十年代のニッポンの俸給生活者の家なのである。あれほど「避けたい」と思っていたスタイルに、結局のところ返っていくとは。畳の部屋がなくなり、洋室オンリーになってみて自分の原点に戻ったのだ。
ヨダさんのマンションは、今ふうなのでオール洋室だが、住みはじめてしばらくしてから、エレベーターで畳を運び込んでいる人を、しばしば目にするようになったという。彼女のところは高層だから、土と離れてしまうぶんよけい、そうした昔ふうのスタイルが懐かしくなるのだろうか。
インテリア雑誌を見ると、マンションライフに「和」をとり入れるアイディアが、しばしば出ている。壁にすだれをたてかけて「よしず張り」ふうにしたり、いぐさ調のマットを敷いたり、障子に脚をつけてパーテーション代わりに立ててみたり。
若い人には、懐かしいというより、外国人が日本の古いものを「新奇」に感じるのと同じかも知れない。ニュー・ジャパニズムというのか。日本でマンションが普及しはじめて三十年と言われる。生まれてこのかたマンションしか住んだことがない大人も、出てきているだろう。私やヨダさんは、それよりちょっと上の年代だ。
「原点に戻る」と言えば、器もそうだな。前は、同世代で、ばりばり働いていてそこそこ小金持ちといった女性が、器に凝っている話を聞いては、
(そんなところに「癒し」をみいだすのも、何だかなあ)
器なんて毀れやすいものの代表のようなものだし、それこそ「容れ物」に過ぎない。
(自分はもっと、中身重視の人生を生きよう)
と思っていた。
今の家にあるやきものも、私の引っ越しにえらく張り切った母親が、
「何もないんだったら、置いたら。うちにしまっておいても、宝の持ちぐされだから」
と風呂敷に包んでえっちらおっちら運んできた。そのときも、
(年寄りのすることだから、好きにさせておこう)
と、たぶんに傍観者的な立場であった。おそらく母には形見分けのつもりもあるだろうし、その申し出を拒むほどの明確なビジョンを、室内について持ってはいなかった。
(花を飾るよりはやきものの方が、しょっちゅう取り替えないですんで、面倒がないか)
くらいであった。
それがだんだん、置き物として観賞するだけでなく、ふだん用いる器にも影響を及ぼしてきた。考えてみれば、子どもの頃はこういう器で食べていたが、親の家を離れてより、いつしか遠ざかっていた。
(これはいったい何焼きというのか。他にどういうやきものがあるのか)
などと知りたくなり、博物館に出かけたりした。そういう時間の使い方は、前はなかった。
今は仮に、都心で仕事と仕事の間が一時間あき「デパートの本売り場以外のどこか好きなコーナーで時間をつぶせ」と言われたら、迷わず器を見にいくだろう。服売り場は、前はセールだとなんとなく覗いてみたくなる方だったが、まったくと言っていいほど足が向かなくなった。
一年の間に、お金の使い方も、ずいぶんと変わったものだ。
座る生活を求めて
悲喜こもごもの秋に、ソファが届き、冬のうちは心しずかにその上でお茶を飲んだりしたものだが、実は困ることがあった。
カップを置く場所がないのである。
センターテーブルは、ソファとともにはあつらえなかった。小さなコーヒーテーブルがあるので、それで代用するつもりだった。
が、母の写真を立て、花だのお菓子だのを供え、年明けにスナップ写真まで持ってきてからは、てんこ盛り状態になり、とてもカップを置く余地はなくなってしまった。
(これは、何か台が要るな)
考えていて、はたと気づいた。
(そうだ、ここにこそ、座卓だ)
引っ越し以来私を悩ませていた、「座る生活」と「洋室」との矛盾に、解決策が示された思い。ソファの前に配置して、あるときはセンターテーブルとして、あるときは座り机として、ひとつでふたつを兼ねさせればいい。
(それには「森のギャラリー」だ!)
いささか突然の出方だが、「森のギャラリー」とは和家具屋で、私がときどき行くスーパーへの通り道であることもあり、これまでもたびたび覗いていた。いや、「たびたび」というなまやさしい言い方ですましては向こうから苦情が来るくらいの日参を、一時期はしていたかも知れない。
前から気になる店ではあったが、漆器を求めたことから縁ができた。家具の他、器も少し置いているのだ。
漆器を買うのがはじめてだった私は、くり貫きの椀、片口、盆などの間を「うーん、うーん」と唸りながらさんざんに歩き回った挙げ句、小ぶりの菓子皿にした。
その間、店の女性は、
「それはお客さま、いい塗りですよ」
「まー、お目が高い、これは作家ものなんです」
といったお世辞や口出しはしなかった。が、迷った末、菓子皿を差し出すと、
「いいものをお選びになりましたね。漆の基本みたいなものだから、飽きが来ないで、ずっとお使いになれると思いますよ」
と、選択を誉めた。私が足を止めた中ではもっとも値段の安いものだったにもかかわらず、前向きのコメントを受けたことで、彼女に対し信頼感を抱いた。
はじめての買い物と知り、漆器を扱う注意事項を説明してくれた。芸術品や骨董品屋にときどきいるお高くとまったタイプではなく、いい意味で「ふつうのおばさん」なのだった。
「森のギャラリー」では、年に何回かセールを開催するようだ。引っ越して最初の春はアジア家具フェア。明朝や李朝ふうのものにもひかれたが、私の目がとまったのは、日本のものとおぼしき一枚板の机である。この前の女性に、
「こういうのも、見るといいなと思いますね」
と言うと、わが意を得たりという感じで、
「アジア家具は流行でよく出るんですけれど、ほんとうにお薦めしたいのは、実はこういうものなんです」
とうなずいた。
夏のセールは、民芸家具。それには座卓も出ていた。木目の上に黒い漆をすり込んである。
私はまたも「うーん」と唸った。味のあるものだとは感じる。が、自分の洋室にどうはまるのか。仁王立ちのまま腕組みして考え込んでいる私は、よほど悩んでいるように見えたのだろう。例の女性が、
「お値段の方、ご相談に応じましょうか」
と、そっと声をかけてきたほどである。
が、そのときの私にとって決めるのは、ひとことで言って、時期尚早だった。自分の求めるものが、はっきりしていなかった。
店の人によれば、注文して作ることもできるという。が、それにはこういう色で、こういうサイズでといった条件を、自分から示せなくてはならない。
「現実の自分の住まいのどこにどう置くのだ」
という問題が未解決のままであるうちは、イメージも定まらないのだった。
おさまるべきところに
ソファのセンターテーブルと兼ねることで、条件はいっきに具体化した。
大きさはキリムに合わせ、七十センチ×百三十センチ、色はソファの肘掛けと同じ茶にしよう。母の死後、
(家のことにかまけ、孝養を尽くさなかったのでは)
との後悔にさいなまれ、「もう当分使うことはあるまい」としまい込んだ巻き尺を、半年も経たぬうち引っぱり出し、縦にしたり横にしたりしているのだから、私も懲りない人間である。まあ、どんなつまらぬことでも目的を持つのはいいことだ。そう思うとしよう。
ひと口に「茶」と言ってもいろいろだ。赤みがかったもの、黒に近いもの。キリムとの相性から言って、紫ぽくなるのだけは避けたいと思った。
言語によるコミュニケーションは、ずれのもとだ。「こういう色で」と視覚的に示せるよう、何らかのブツを用意する必要がある。
茶托、盆、しゃもじ、へら……家の中のありとあらゆる木製品を集め、キリムの上に置いてみては五歩下がり、ソファ込みで眺めて、検討した。これと言えるものがなく、親の家からも茶托や盆を借りてきて、動員した。
恐ろしいことに、父までもこの話にのってきた。ごそごそと食器棚を探る私に、いったい何をはじめたかと思ったらしい。これこれこういう目的でしばし拝借したい旨、断りを入れると、予想以上の関心を示し、
「木目はいいが、あまりそれを強調し過ぎたのも、品のないものだ」
「高さは、ソファに腰掛けたときだけでなく、座って書きものをしたりするときのことも、考えて決めた方がいい」
などと、意見まで述べる。連れ合いに先立たれ心身ともにダメージを受けていた彼だが、私に似て立ち直りの早い性格と言おうか。
その話をしていたのは、親の家のソファでだが、ふと目をやれば、ソファ前の机も、よくよく見ると座卓であった。「座卓をセンターテーブル代わりに」は、私のオリジナルのアイディアではなかったのだ。
寸法を記したメモと、色見本となる盆を携え、「森のギャラリー」へ行った。形は、ディスプレイしてある中にイメージに近いものがあり、それに準ずることとした。
若主人とおぼしき男性がたまたまいて、話はとんとん拍子に進んでいった。色は、人工塗料ではなく漆そのものの色なので、あまりこまかくは指定できないそうだ。
「はじめは、こんなふうな、お客さまにはやや強いと思われるような色に出ますが」
そばの箪笥を彼は指さす。赤紫に近い茶であった。
「けれども、時間が経つにつれて、お客さまのおっしゃるような色になります」
漆がそういうものであるなら、むろん異論はないけれど、彼の言う「時間」が、何日の単位か何十年の単位なのか、私が生きている間に間に合うのかどうか、若干の不安はあった。
完成まで、ひと月くらいと言う。値段は約十四万円で、うち三万円は漆にかかるそうだ。
注文した日は、店を出た足でそのまま出張に行ってしまったが、いきがかり上、父には電話で報告しておいた。別に何でも親に話すわけではないが、元会社員の私は、その頃に叩き込まれた「|ほうれんそう(ほうこくれんらくそうだん)」の習性が、哀しいながら身に着いているのである。
出張の帰り、内金を払いに「森のギャラリー」に寄ると、若い女性店員が、
「あっ、一昨日、お父さまがみえましたよ」
と言うではないか。
「えーっ、父がですか」
わざわざ出ばってこなくても、ひと月すれば届くのに、どんな机か一日も早く知りたくて、何かのついでに、こちらへも回ったらしい。
「ちょうど社長がおりましたので、形はこんなのでと、ご説明申し上げていたようです」
「社長」とは、私の言う若主人のことらしい。
「す、すみません。私ばかりか父までも」
机ひとつに、家じゅうで大騒ぎをしているようで気がひける。
しかも、親子関係までばれているということは、ただ覗いただけでなく、「実は娘が座卓をお願いしたそうで」などと自分から話したに違いない。私に人のことは言えないが、あの人も結構、行く先々でべらべらと喋ってくるのである。
しばらくして「社長」から途中経過を知らせてきた。
「木目のいいのがあったので、センノキにしました」
とのことだった。
「はいっ、それでお願いします」と元気いっぱい答えてから、あわてて辞書で調べると、「栓。針桐の別名。下駄や家具の良材」とあった。「良」の字に傍線を引きたい思いだった。
四月吉日、社長ともうひとりの男性とのふたりがかりで運ばれてきた。
なるほど、一枚板とは、木をこう使うのか。注文に合わせ、その幅の幹のを選ぶのだろう。へりの面に、木の外側にあたると思われるごつごつした部分が来て、寸法上の厚みより、ずっと重量感があるように感じられる。
「今回、脚にちょうどいい枝がありましたので、脚も同じ木で作らせていただきました」
控えめな彼にしては、声を張った説明から、目立たないところだけれど、そこも見るべきポイントであり、かつ、この仕事全体について力を入れて仕上げてくれたことがわかった。
赤紫は、恐れていたほどではなく、じきに落ち着いた色になった。
実はソファに腰掛けてみてはじめて、寸法を決める際、人間のいる場所を、計算に加えなかったことに気がついた。ソファと机との間に足が入るのを忘れ、ぎりぎりの幅にしたので、向こうへずらすと、反対側がキリムからはみ出てしまう。が、それも大きな問題ではない。
久々の「座る生活」に、しばらくは、ワープロを打つのも食事も、座卓でしていた。
どんな机か気になって、わざわざ店へ出かけていった父親も、仕上がりには非常に満足したらしい。私と共通の客を、私の家で迎えることがあるたびに、
「この木はセンノキと言って……」
と、まるで自分が作ったかのように説明する。
得意げに聞こえないかといささかはらはらするけれど、
(これも少しは孝養のうちか)
と割り切ることにしている。
一年がかりの買い物だった。
しょっちゅう現れては、質問をするだけして、いつも、
「もう少し考えます」
と帰っていく客に、店の人もよくもまあ、辛抱強く対応したものである。百万円近い箪笥を軽々と購入する人もいる中で、やっとこさっとこ座卓ひとつという私は、店にとってけっして上客ではないはずだ。
おさまるべきものがおさまって、家の内部も、ようやく完成をみた。これからも、さまざまな問題が出てきて、完成ということはあり得ないのかも知れないが、転居にともなう新生活の立ち上げ段階は、「これで、ひとまず終わったな」と、区切りのついた感じはする。
人が「心地よい」と感じる状態は、それぞれだ。ささやかな「幸せ」と言い換えていいかも知れない。
人それぞれあることはあるはずだが、いざ形にしようとすると、案外と難しい。むろん人は物質のみにて生くる者ではないけれど、この世の一角に居を定め、暮らしを営む者である限り、自分にとっての「心地よい」状態を、具体的な財を通じて実現していかなければならない。よかれ悪しかれ、それが私たちの存在様式だ。
そしてまた、今の日本では選択肢はあり余るほど多い。
私はたまたま引っ越しを機に、いっきに選ばなければならなくなった。インテリアに関しては何の基準もなかったものだから、ひとつひとつについて、いちいち「自分はいったい何を求めているのか」「何を基準とするか」「自分にとっての優先順位は何か」といったところまでさかのぼって考えることを迫られた。
その意味では、価値観の総ざらえをした一年と言える。親の死といった思わぬできごともあり、「こんなことで右往左往するうちに、だいじなものを忘れてはいなかったか」と、別方向からの反省もしたりした。
一年間に、あらたに関わりのできた人の数は、過去十年ぶんのそれをゆうに上回るだろう。不動産仲介会社、売り主さん、近所の人、リフォーム業者をはじめ、職人、ガスの修理、家具屋などさまざまな仕事の人、ガーデニングの話がきっかけで付き合いのはじまったカタギリさん。人間関係が少なかった私にとっては、「社会化」の進んだ一年でもあった。何かを決めるのは自分であっても、形にするのは、ひとりでは不可能だ。そのことをわきまえ人と関わることを知って、はじめて実現が可能になる。
マンションを買い、続くできごとを経験してみて思うのは、購入は、時間的にはひとつの通過点だ。そこで問われるのは、どちらかというと瞬間的な判断力である。対して、その後の住まいを整えていく作業は、長いプロセス。そこでじわりじわり出てくるのが、三十代の蓄積ではないか、と。
二十代、三十代と試行錯誤しながらも何かを選びとることをくり返してきたからには、はっきりとは意識しなくても、自分なりにこだわるものがあったはずだ。それが目に見えるものになっていった過程だと、この間のことをいえようか。
若くないとできないこともあれば、若過ぎてはできないこともある。この一年にしたことは、後者だったと感じている。そしてまた、その間に精神的に得たものもあるに違いない。
とりあえずひと息ついたばかりの今は、それが何であるか、しかとはわからないが、たぶんこの一年は、後々おばあさんになってからも、
(あんな頃もあったよな。どたばたとたいへんだったけれど、何かを作り上げようと頑張っていた日々はなかなかよかった)
と思い出すことだろう。
私の住まいをめぐるいきさつを知っている人は、
「その後、どう?」
と尋ねてくる。座卓を買ったと言っても、「座卓って?」と、ピンと来ないらしいので、
「ソバ屋の机みたいなものだよ」
と説明することにしている。それでも、たいていの人は「ソバ屋の机」がフローリングの洋室にいったいどのようにして在るのか、首を傾げるようである。
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あとがき〜その後のわが家〜
張り切っていたんだなあ。
数年前のことなのに、すでに懐かしい。巻き尺を握り締め、寸法が合う合わないと一喜一憂していた日々が。今思えば楽しい悪戦苦闘であった。
引き渡しを受けたときは、単なる空っぽの箱に等しい部屋部屋を前に、
「これから全部、自分で埋めていかねばならないのか……」
と頭の中がまっ白になったけれど、一年の間に整えたものがそれぞれの場所を定めて、以後模様替えはしていない。というより、模様替えの余地が、もはやなくなった。大きな家具は、もう増やせないし。2LDKがいっぱいになるのなんて、あっという間。試行錯誤ばかりの最初の一年が、実はいちばん自由に夢を描けるのかも知れない。
今は、小さな家具や雑貨類を付け足す程度。ソファの横に置いてある、中国製の赤い小箪笥は、近くの店から自力で運んできたもの。途中、角を電信柱にぶつけたりしないよう段ボールでカバーし、キャリアカートに結わえ付けて。座卓の上の脚付き盆は、飛騨高山の骨董屋でみつけた。前はインテリアショップやホームセンターに反応した私だが、最近は「古物・骨董」の看板に目がいくようになっている。のめり込むと身上つぶし、それこそローンの返済も不可能になりかねないから、注意しているが。
近頃では、ハードからソフトへというか、家の機能とその維持、向上の方へテーマが移りつつある。購入時築十四年の中古マンションのため、新築当時から付いている電気製品が、さすがにいかれてきた。
夏のさなかに冷房が壊れ、電器屋に修理を依頼すると「部品がもう製造中止になっている。買い替えるほかないが、取り付け工事はいちばん早くて三週間先」と言われ、卒倒しそうになった。温水洗浄便座が漏電して、メーカーに電話し、型番を告げると、
「えっ、珍しい、まだ残っていたんですね」
と、化石のような言い方をされてしまった。
自分で新たに設置した電気製品は、食器洗い乾燥機だ。新築マンションだと、もとからビルトインされているのかも知れないが。体力の減退を感じて、少しでも家事労働を軽減しようと考えてのこと。老後を見据え、衰えをカバーする部屋づくりが、これからはメインテーマとなりそうだ。
家にいて倒れたときの緊急通報システムに加入すべきか。バリアフリーまで、すでに視野に入ってきている。年をとったときに追い出されない空間を手に入れたらおしまい、ではなかった。生きていくための基盤づくりは、「これで完成」ということなく、続くのだ。
マンション購入を機にぐっと増した「社会化」というテーマも進行中。集合住宅に詰め込まれて暮らす都市生活者は、けっしてモナド(相互作用を持たない単子)ではないんです。管理組合は毎年四人ずつ当番が回ってくるが、転居の翌年に経験し、今年はなんと理事長である。これがもうたいへんで。あっちの人に状況を聞き、こっちの人の声にも耳を傾け、管理会社と連絡を取り合い、調整し……。夫婦とも芸能人の二人が住むマンションの写真が、女性週刊誌に載っていたりすると、
「あの人たち、管理組合の当番はどうしているんだろう」
とマジで不思議。決まりさえ守れば、後は自分の部屋の中のことだけ考えていればいいってもんではない。それだけでは、全体に対する責務は果たされないらしい。そもそも市民生活とは、そういうものなのでしょうね。
「仮に結婚してもいいように」と選んだ2LDKだけど、いよいよ現状が定着してしまったことは、ご承知の通り。
これからも年をとるにつれ、家もまた自分とともに古びるにつれ、いろいろな課題が出てくるのだろうが、折りにふれ報告していきたい。
二〇〇二年 秋
[#地付き]岸本葉子
単行本 二〇〇〇年五月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十四年十月十日刊