プロローグ 「魔女の告白」
吉村護が奇跡を知ったのは、七歳のときだった。
当時の記憶は、八年が経ったいまでも、護の意識にしっかりと根づいている。周囲が崩落し
ていく轟音も、視界を覆い尽くした真っ暗闇も、ひとりで孤独に泣いたことも、すべては歳月
とともに薄れゆきつつあるが、その直後、あの人が見せてくれた奇跡だけは、色あせずに脳裏
へ焼きついていた。
『心配いらない。俺たちもお前も、無事に出られるさ。なぜかって? それは---』
『奇跡を起こしてくれる力。そう言われて、信じるか?』
幼い護が暗闇で聞かされたそれらの言葉は、大惨事の中でも希望を失わない、魔法のような
光芒を放っていた。
『大丈夫だ、少年。俺が保証するよ。お前には素質がある。お前が本当にそう願うなら、この
力はお前を導いてくれるはずだ。これはそういうものなんだ』
冷え切った闇から抜け出したとき、あの人はそう言い、穏やかに笑っていた。
自分への、その「奇跡」への、絶対的な自信。確信にすら近いものを宿した、そんな強さを
持てること自体が奇跡だと思えるような、あの人の力強く澄んだ微笑は、護の心に希望の萌芽
を残していった。
八年前の護は奇跡を知り、あの人のその顔を見て、
強く願ったのだ。
この人のようになりたい。こんな笑顔ができるようになりたい。この人が奇跡だと言う、自
分を救ってくれた力を持ちたい。暗闇に閉じ込められても絶望するのではなく、運命を笑い飛
ばせるような大人になりたい---。
「---あっ!」
東京ビアトリス総合大学付属高等学校。
そう刻まれた背の高い門の前。物思いにふけっていた護は、丘の上から響いてきた鐘の音で
我に返った。坂の向こう、朝日に白く輝いて見える後者の隣、ドイツの姉妹校から贈られたも
のだという時計塔が、午前八時を指している。
急ごう、と思った。
転校初日から遅刻だなんて、そんなヘマをするわけにはいかない。
守衛さんに生徒手帳を提示して校門をくぐると、その先には桜並木の坂道が、一度右に折れ
て丘の上の校舎まで延びている。十月も半ばを過ぎ、立ち並ぶソメイヨシノは、護の季節はず
れの入学を祝福するように、鮮やかに紅葉していた。
ついに---といった感慨が心を支配する。
このときをどれほど待ち焦がれたか。
護は細めた目で校舎を見て、沸き上がってきた期待や不安を押し隠すように手のひらの汗を
拭い、緊張しきった胸の内を落ち着かせようと深呼吸する。昨日は興奮であまり眠れなかった
が、眠気を感じる余裕はなかった。
数秒間じっと立ち尽くして覚悟を決める。
よし、とこぶしを固めた。
教科書で膨れ上がった鞄を肩にかけ、坂を上り始める。一歩一歩が長く、校舎までの距離が
遥かに遠く感じられた。朝の湿った空気には、登校する生徒たちの喋り声が混じっていて、何
人かが駆け足で護を追い抜いていく。
東京ビアトリス総合大学付属高校、通称・東ビ大付属は、新世代のエネルギー、現出した魔
法と言われる未知の物質ビアトリスの基礎理論と制御を専門とする、世界でもまだ三つしかな
い最先端のハイスクールのひとつだった。
護は編入がきまったとき、妹の逸美(いつみ)「へええ。奇跡ってあるんだ」とからかわれたし、自
分でもその通りかもと思っていた。奇跡か、途方もない幸運か。
各先進国の国家機密であるビアトリス技術のなんたるかを、昨日まで民間人だった護はまだ
知らない。それでも、奇跡か幸運かには感謝していた。
ずっと憧れていた「あの人」と同じ道を、歩むことができるのだから……。
護はもう一度時計を確認し、少し急いだ方がいいかな、と思った。転校初日の今日は、早め
に職員室へ顔を出すように指示されている。鞄を持つ手に力を込め、ゆっくりだった歩みを速
めて---。
坂道を上りきり、他の生徒たちを追い抜いて昇降口へ走ろうとしたところで、足を止めた。
「え……、は?」
自分の見たものが信じられず、何度も繰り返してまばたきするが、なにが変わるわけでもな
かった。見間違いでもなんでもなく、確かにそれはそこに、目の前にある。
一本の立派な桜が、見事に咲き乱れていた。
「凄い……」
ざわり、とひときわ大きく揺らいだ風が、呆然とつぶやいた護の声をさらっていく。
うっすら桃色に色づいた花びらが、粉雪のように舞い落ちる。
護は石のように固まって、その光景に魅入った。
さながら幻想のごとく。季節をまったく無視して満開になった桜の下に、ひとりの女性が、
幹に手を触れて立っている。
咲いた桜に負けないくらい、めちゃくちゃ綺麗な人だった。
登校する他の生徒は、桜を気に留める様子を見せないどころか、昇降口前に差しかかると、
顔をうつむけ不自然なほどに足を速めて駆けていく---その人から逃げるように。
立ち止まっているのは、護だけだった。東ビ大付属の制服は、襟に入ったラインで学年がわ
かるようになっている。彼女の襟には、橙色(だいだいいろ)のライン---護のひとつ上、二年生だ。
真っ黒な髪を、艶やかに腰まで伸ばしている。腰の高さが他の少年少女とはまるで違う、す
らりとした身体に、東ビ大付属の深い紺色の制服が、これ以上ないほどよく似合っていた。左
腕には「 PEADEMAKER 」の文字と翼ある盾が描かれた細い腕章。内面の激しさを表した
ようなきりりとした眉の下で、二重まぶたの目がじっと桜を見上げていた。
挑むような、見定めるような鋭い視線で。
護はその横顔に見惚れ、数秒間、呼吸も忘れた。この人が桜を咲かせたのだ、という確信が
過ぎる。どうやったのかなんてわからないが、そうでなければ、こんなにも心奪う光景が生ま
れるはずはない---。
そんなことを考えていると、視線を感じたのか、突然、その二年生が振り向いた。
あ、と思ったが、もう遅い。
真正面から目が合ってしまっていた。桜を背にした美女が目にかかった前髪を払いのけ、護
は、うわあ、と感嘆の声を上げる。まっすぐ見た瞳の美しさに、胸が高鳴った。
つんとした勝ち気をそなえた瞳と、まっすぐに通った鼻筋、潔癖そうに閉じられた唇。ブラ
ウン菅の中でさえ見たことがないくらい整った顔立ちだったが、それ以上に、近くにいるだけ
で伝わってくる意志の強さが、その美貌をさらに輝くものにしているようだった。
本当に、なんて綺麗な人なんだろう。
うそみたいだった。夢でも見ているんじゃないかと目をこすってしまう。
彼女はまず不可解そうに眉を寄せ、それから詰問の口調で、
「私になにか用?」
夢ではなく。
確かに聞こえてきたのは、よく通るソプラノだった。
「え! あ」
護は思わず跳ね上がる。
まさか、話しかけられるなんて思っていなかった。
「言いたいことがあるなら、聞いてあげるわ。さっさとおっしゃい」
彼女の細められた眼差しも、冷ややかな声も、触れれば深く突き刺さる刺のようだった。
何か答えなければ、護は慌てて言葉を探す。
「よ、用事ってわけじゃ、ないんですっ。だからその、おっしゃいって言われても」
桜が……と言いそうになった、護だったが誰も見向きもしていないということは、十月に桜
が咲くくらいここでは当たり前なのかもと思い直し、口をつぐんだ。
動揺したまま、ややあたふたしながら、
「別に、そんな大した理由があったわけではなくて、えっと」
二年生の美女は腕を組んで答えを待っている。
そのきつめの美貌に不審と苛立ちが増していくのに気づいて、護はさらに焦った。見惚れて
いたことをなんと説明すればいいのか。護は困って、だから、
微笑んだ。
困ったときにはとにかく笑っとけ、というのが吉村家の家訓だった。
彼女はきょとんと見返してくる。
彼女の美貌からは、苛立った色が消えている。護はほっと息をついて、急いでいたことをふ
と思い出すと、照れ隠しにもう一度笑った。ぺこりとおじぎをし、ちらりとソメイヨシノに視
線をやって、彼女の脇を通り過ぎる。
絢爛な開花は、春そのものといった生命力に満ちている---。
あの桜がビアトリスの起こした奇跡によるものなのか、あとで先生に尋ねてみよう。もし、
そうなのだとしたら。そう考えると、抑えようもなくわくわくしてきた。そんなことが可能な
ら、昔、あの人が奇跡そのものだと教えてくれた力は、漠然と想像していたものよりずっと素
晴らしいじゃないか!
「待ちなさい」
かけられた声で、走り出していた護はどきっとして振り返る。長い髪の美女が呆れたような
ため息をついていた。
「あなた、なんなの」
「え? なんなの、って」
それはどういう意味で、どう答えればいいのだろう。
「ええっと---」
「一年でしょう?」護が口ごもると、彼女は黒メノウみたいな両目で一度まばたきして、そう
助け船を出してくれた。「どこのクラスの誰?」
なんだ、そういうことか、と胸を撫で下ろし、うなずきかける。
「基礎2科の……あ」
護はいったん言葉を止めた。
迷ったのは束の間だけで、意識する前に、自然に身体が動いていた。傍へたたたっと駆け寄
り、ほぼ同じ高さにある美貌を見つめると、彼女はたじろいだ様子でわずかに身を退く。
「な、なによ?」
「失礼します、桜が」
護はつま先立って、彼女の髪の毛に埋もれているいくつもの花びらを、ひとつひとつ丁寧に
払い落とした。
「------っ!」
驚く彼女へ、とびきりの笑顔を投げかける。
「吉村護です。今日、転校してきました」
「……転校生」
「はい。あの、これからよろしくお願いします」
護はもう一度頭を下げ、時間を確認すると、すぐに昇降口へと走った。だから、名前も知ら
ないその美女がどんな表情をしたのかは見なかったし、彼女がどんな人間なのかも知らないま
まだった。
護の胸にはただ興奮があった。頭に満開の桜が焼きついている。
これから自分が学ぶ力への希望が、全身の奥底で煌いていた。
護は第一校舎の一階、職員室へと続く、生徒の姿をほとんど見かけない廊下を急いだ。桜の
下にいた二年生を思い描いて、ぽつりとこぼす。
「でも、それにしても」
小さく微笑む。
不安はすべて吹き飛んで、ここで過ごす二年半が素晴らしいものになる気がした。
「綺麗な人だったな。また会えるかな?」
異変は昼休憩にやってきた。
それまでは、順風満帆だったのだ。担任に連れられて教室へ行き、自己紹介した護を、ク
ラスメイトは快く迎えてくれた。ビアトリス基礎理論の授業はちんぷんかんぷんなので、その
時間には別室での個人授業となったが、どのみち一年基礎科の授業はまだ実技に至っていない
らしく、「君のやる気があれば、すぐに追いつけるよ」と教諭は言ってくれた。
その言葉は意外であり、少し嬉しかった。
ビアトリスの基礎理論と制御法を教える学校と言っても、ある程度の守秘義務と一日に二時
限あるビアトリス関連の授業を除けば、一般の高校とそう違わないように思えた。
十二時半から五十分間ある昼休みには、クラスメイトの女子が、小休憩では聞き出せなかっ
たあれこれを聞き出すために、周りに集まってくる。わからないことだらけの護にとって、そ
んな歓迎ムードはありがたかった。
どこに住んでるの? 兄弟っている? わからないことがあったらなんでも訊いてね。護は
そんな言葉に笑顔で答える。家は青葉区。妹がひとりいる。うん、わからないことがあったら
訊くよ。
他にも、学校で話題になっていること---今月末から準備の始まる学園祭の話や、先週、大
学の研究支部で侵入者騒ぎがあったことなども教えてもらう。
そうやってわいわいがやがやしていた教室が凍りついたのは、昼休みになって五分、クラス
メイトからの質問が途切れ、護が逆に訊いてみたときだった。
「今朝ね、校舎の前で凄く綺麗な人に会ったんだ。別になにがあったわけでもないんだけど、
名前を聞きそびれちゃって。知らない? 二年生で、髪が長くて」
しん、と静寂が満ちた。
え? と護が訝(いぶか)るのを置いてけぼりにして、沈黙はあっという間に一年基礎2科の教室内に
伝染し尽くした。それまで楽しげに話していた目の前の女子たちが笑みを消し、こそこそと耳
打ちし始める。
「どうかしたの? ぼくがなにか」
まずいことを言ったのかと目をしばたたかせるが、そうではなかった。
クラス中の視線が、護にではなく、教室の戸口へ向けられている。女子のひとりが「ねえ、
ねんで鷹栖先輩が……」と小声でどこかに話しかけたのが聞こえ、鷹栖先輩? と護は眉をひ
そめてみんなと同じ方へと目をやり、
「……あれ?」
つぶやく。そこにたっているのは、いままさしく護がクラスメイトに尋ねようとしていた、
世にも美しい二年生その人だった。
「---あの人は」
彼女の姿を見た瞬間、なにも感じなかったと言えばうそになる。今朝の出会い、いま。運
命がなにか、そういうものの歯車がもう少しで合わさりそうな、そんな感覚があった。
どうやら彼女の名は、鷹栖というらしい。相変わらず、目の覚めるような美貌を厳しさと鋭
さで包んで、癖なのか、朝もそうしていた通りに腕を胸の前で組んでいる。護はまず、なぜ彼
女が一年の教室にきたのかよりも、なぜこの場にいるクラスメイト全員が黙り込んだのかに、
首をひねった。
彼女の表情が怒っているふうだから、だろうか。
声をかけるのをためらわせるのに、十分なほど。表情を険しくし、威厳たっぷりの彼女に比
べ、クラスメイトたちは蛇を前にしたカエルだった。彼女がふんと鼻息をつくと、クラスメイ
トたちの顔に怯えと動揺が駆け抜ける。彼女は一年生たちの反応に一瞬だけ顔をしかめ、ぐる
りと教室を見渡した。
誰かを探しているかのように。
さまよっていた視線が、護のそれとぶつかって止まった。
歯車の歪みが完全に払拭され、かっちりとはまった音を聞いた気がした---まさか、と護が
軽い動揺で固まると、彼女の美貌がぴくりと動き、そのふっくらとした唇から「あなた。吉村
護」との声が紡ぎ出される。
護は「ええっ?」と背筋を正した。
「話があるわ。っ、いいわね!」
彼女はなぜか上ずった声音で言い、指を突きつけてくる。
傍にいたクラスメイトだちが海に引き上げる波のごとくざざっと逃げ散った。
「……? え? えっ?」
護にはわけのわからないまま、
彼女は邪魔な椅子を蹴飛ばしながら、大股でずかずかと向かってくる。護が助けを求めよう
と周りを見渡しても、誰ひとりとして目を合わせてくれなかった。
どうしよう、と思った。
無様に動転しきった護は、いきなりの事態にそれ以上の思考ができなくなる。ただ、自分で
も意識せずに微笑んでいた。身体に染みついた、ほとんど癖だ。
彼女の顔が引きつり、怒りなのか赤くなっていた頬に、さらなる赤味が増した。
「質問よ。わ、笑ってないで真剣に答えなさい!」
彼女の両手が机に叩きつけられる。護は「はいっ」と笑みを消してみをすくめた。
上目遣いでそうっと彼女の美貌を窺(うかが)う。目の前に立つ彼女の、耳まで真っ赤になった顔は、
よく観察すれば怒っているのとはどこか違って見えた。なんだろう、と護は予感めいたものを
覚え、どきりとする。
一年基礎2科のクラスメイトたちが、興味津々でふたりを眺めている。
彼女は、ゆでだこみたいに染まった美貌を、息がかかるくらいにまで護に近づけた。
「あなた、恋人はいるの?」
「……は?」
べき、と不穏な音が聞こえる。視線を落とすと、信じがたいことに、彼女が両手を押しつけ
ている机に、どんな怪力なのか、亀裂が走り始めていた。
護はがたんと立ち上がった。
「机に、ヒビが---」と、逃げ腰でつぶやき、彼女の視線にはっとし、目を白黒させて、
「な、なんの話なんですか? 話が、全然見えないんですけど……」
「だから! その、こ……交際している相手はいるのかって訊いているのよ!」
「交際……ですか?」
護が戸惑っていると、彼女はいまにも殴りかかりそうな勢いで詰め寄ってきた。形のよい眉
が、いまは興奮で吊り上っている。
「いないの!? それとも、い、いるのっ!?」
「いません、けど……?」
正直に返した護の答えに、彼女はほっとしたような表情を見せた。
「そ、そう! わかったわ」
護は混乱してきた頭で必死に考える。この綺麗な二年生は、結局なにが言いたいのだろう?
意を決して口を開いてみた。
「あの」
「な、な、なに!?」
彼女の中になにやら緊張が走ったようだった。上気した顔で怒鳴った彼女の声に、護はひと
まず言葉を呑み込む。深呼吸をふたつして、問いかけた。
「それで、僕になにか用事ですか?」
「え! あ、」
彼女のうろたえぶりは凄まじかった。まず、もうこれ以上は赤くなるまいと思っていた顔が
もっと赤くなった。彼女はびくっと身を仰け反らせ、心底動揺した表情で数秒間静止して、そ
れから覚悟を決めたように表情を引き締め、こぶしを机に振り下ろした。まだ一日も使ってい
ない護の机が、木っ端微塵に砕け散る。
「へ……? 机が、え、あれ? ---わ!」
唖然としていると胸ぐらを掴(つか)まれ、化け物じみた力で引っ張られた。
「私と、……つ」
すぐ間近に、頬を赤くした美貌がある。
「つ?」
護が反射的に聞き返すと、彼女はもごもごと台詞を喉につっかえさせて目を伏せた。次に視
線を合わせたとき、彼女の目は完全に据わっていた。
彼女の唇が開かれ、
「あなた、わ、私と……その、つ、つ、付き合いなさい!」
一瞬の静寂をおいて。
真っ白になった護の意識に、一年基礎2科の教室を揺るがすどよめきが届いた。それは歓声
とも悲鳴ともつかない、爆音のように凄まじい叫びだった。
あの《ビアトリスの死天使》、《魔女ベアトリーチェ》鷹栖絢子(たかすあやこ)が、転校生の一年に突然告白
した。その驚きと好奇は、瞬く間に学校中に広がっていく。
波紋となって、東ビ大付属全体を大きく揺らした。