月の盾
岩田《いわた》洋季《ひろき》
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妹の小夜子が事故でこの世を去った八月十五日は、アブラゼミがうるさく、怖いくらいに日没が赤い、まるで世界が焼かれていくような夕方だった。
そして、五年後の小夜子の命日。同じように夕陽で赤い空を、雲がせわしなく流れていく。周囲がアブラゼミの鳴き声に包まれる。なにか、予感めいたものがあった。驚くほど暗く、常にざわざわと不穏な昔を奏でる森の中、上りかけた月の光が度しく降り注ぐその下に、小柄で美しい少女は座っていた。
「──あなたは………だれなの?」
少女の声質は小夜子と似ていた──。
日没になると必ず眠る少女国崎桜花は、決して小夜子の代わりではなくて──。
岩田《いわた》洋季《ひろき》
1983年12月13日生まれ。広島県出身。『灰色のアイリス』で小説家デビューを飾り、『護くんに女神の祝福を!』で激ピュア・ラブコメを突っ走り、本作で新境地を開く!? そして、その後はノリ任せな22歳です。本作の舞台となっているのは果たしてどこなのか──。
イラスト:室井《むろい》麻希《まき》
第12回電撃イラスト大賞で<銀賞>受賞。北海道出身。岩田洋李と同じ12月13日生まれなのは、果たして運命!? 幼少時に夢見ていた魔法少女に始まり、影響を受けた作品は多数。
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第一部「黒と白の日没」
第二部「月の盾」
第三部「ダウンフォール」
第四部「絵画芸術」
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これは言うなれば、日没と月をめぐる物語である。
目の前にある月を眺める。
それは黄金色《こがねいろ》とも、白銀色《はくぎんいろ》とも、あるいは見方によっては赤銅色《しゃくどういろ》とも表現できそうな、冷たさや悲しみや絶望といったものをその光のなかに封じ込めたがごとき、ただただ美しい色彩をした満月だ。
何度見ても、その月明かりには不思議《ふしぎ》な魔力《まりょく》があった。心の隅々までを光で清めて、その奥に残った一点の悲しい気持ちを温かく包み込んでくる、見ているだけで明日《あした》も生きていこうと気力が湧《わ》いてくるはどの、そんな優《やさ》しい魔力が。
月は暗い夜の波間にぽつんと浮かんでいる。ただ彷徨《さまよ》っているのではなく、愛《いと》しいひとにそうするときのような甘さを持って、夜空を抱擁《ほうよう》しているように見える。その穏《おだ》やかなかがやきに、日没を表すのだろう毒々しい紫の炎が間《やみ》の淵《ふち》まで追いやられている。月を支えるように浮かぶのは、いくつもの星々。
いまになって思えば、この月が存在していること自体が奇跡なのかもしれぬ。あとひと欠片《かけら》だけ歯車がずれていれば、この月は生まれ落ちていなかった。俺《おれ》はふと胸に抱き寄せたい衝動《しょうどう》に駆られて目の前の月へと手を伸ばし、そして触れる直前で止める。それはどんな宝石よりも美しいかがやきを宿し、打《う》ち震《ふる》える弦のように切なく、酷寒の焚《た》き火のごとく優《やさ》しい──一枚の絵である。
傑作、などといった表現でさえ安易には使えない。彼女のすべてが宿ったひと筆ひと筆によって描かれたこの月の光は、俺や優美子《ゆみこ》や慶太《けいた》やほかにもたくさんのひとの魂を救い、これからも救い続けるに違いない、奇跡そのものだ。
ふと、アブラゼミの鳴き声が聞こえた気がした。あの日のように。
だれもいない美術館《びじゅつかん》のしずまり返った空気は、彼女とはじめて出会った森のなかの小さなアトリエと少しだけ似ていた。つい先ほどのことのように思い出せる。空気をかすかに漂う絵の具の匂《にお》い。日没と夜の境目の淡い闇。月を映すために作られた天窓。アトリエの端にあったクローゼット。思うに、過去を振り返る作業は、古ぼけたスケッチブックを一枚一枚めくっていくのに似ている。
見ていられないくらいに稚拙《ちせつ》で、恥ずかしかったりするけれど、そこにはたしかに現在へと連なる系譜《けいふ》がある。いまの自分ではもう描《か》けなくなった絵を見つけられるかもしれないし、いまだったらもっと上手《うま》く描けたものが見つかるかもしれない。
いま思えば、きっとあのアトリエがこの絵へ通じる最初の一ページ、スタート地点だったのだ。俺はあのとき高校一年で、身長もまだ伸びきっておらず百七十センチにぎりぎり届いたくらいで、フェルメールという画家の存在も知らなかった。俺たち家族にとって特別な意味を持つ八月十五日、じりじりと絡みつくように暑いお盆のことである。
俺と彼女が出会ったのは、風が強く、小夜子《さよこ》が亡くなったときと同じく、怖いくらいに日没が赤い日のことだった────。
※       ※       ※
父さんの運転するクラウンが都市圏から離《はな》れ、山奥のうっそうと茂る森のすぐ傍《そば》、静香《しずか》叔母《おば》さんの家に辿《たど》り着いたとき、すでに辺りは真《ま》っ赤《か》になっていた。車から降りるとむらとした真夏の熱気《ねっき》と、アブラゼミの鳴き声に包まれる。ふと五年前のあの日を思い出してしまい、ポケットのなか、うさぎのキーホルダーをぎゅっと握る。
「──どうして」
と、小さくつぶやいたのは助手席から降りた母さんだった。震《ふる》えるその細い肩を、父さんがそっと優《やさ》しく抱いてやっている。母さんが焦燥《しょうそう》したような面持ちで、だれも答えられない言葉を発した。
「小夜子《さよこ》の命日に、静香《しずか》のお通夜をすることになるなんて、どうして──」
はじめて訪れた、そしてたぶんこれが最後の訪問となるに違いない静香|叔母《おば》さんの家は、ちょっと想像していなかったくらいに立派だった。中庭を囲む、二階建ての大きな屋敷《やしき》。娘とふたり暮らしだったという叔母さんはどうやってこんな家を買ったんだろう、と少しばかり疑問に思った。
静香さんは母さんの妹に当たるひとで、つまりは俺《おれ》の母方の叔母である。むかしは母さんと仲のよい姉妹だったそうだが、叔母さんが二十歳《はたち》を少しすぎたころに家を飛び出して以来、疎遠になってしまっていた。俺は本当に幼いころにしか会ったことがないけれど、明るくきれいなひとだったと印象が残っている。
「暁《あきら》ちゃん、物わかりのいい大人《おとな》になんて育っちやダメよ?」
俺にそう微笑《ほほえ》みかけてくる静香叔母さんの姿を、おぼろげながら憶《おぼ》えている。その静香叔母さんが亡くなったと連絡が入ったのが、今日《きょう》の昼過ぎのことだ。それからすぐに仕度《したく》して家を出た。
刺すような夕陽《ゆうひ》に目を細める。怖いくらい、まるで世界を燃《も》やすように赤すぎる夕焼けだった。あるいは、いまの気持ちがそう見せているのかもしれない。ひとは実在する風景ではなく脳で勝手にいじくった光景を見ているのだと、なにかの本で読んだ気がする。赤い空を、雲がせわしく流れていく。
父さんが穏《おだ》やかな、優しさに満ちた声で言った。
「静香さんはまだ病院にいるそうだ。静香さんの娘も、病院にいるのではないかな。早く迎えに行ってあげよう」
「ええ。夕陽が、……まぶしいわ」
うなずいて空を見上げた母さんに、俺は小さく答える。
「そうだな。まるで火葬場みたいだ」
夕陽が赤すぎるせいかもしれない。胸騒《むなさわ》ぎみたいなものを感じた。
八月十五日の夕陽は、もうどうやっても好きになれそうにない。小夜子の命日となった八月十五日、これから静香叔母さんの通夜をやらなくてはならない八月十五日。俺たち村瀬家《むらせけ》の人間にとって、この日はずいぶんな厄日《やくび》であるようだ。強い風が吹き抜けて、森がざわざわと揺れた。不意に思う。俺たちが小夜子を亡くして感じた喪失を、叔母さんのひとり娘もいま同じように感じているのだろうか?
俺《おれ》の妹、小夜子《さよこ》が事故でこの世を去ったのは五年前、俺が小学五年のときだった。俺は手のなかに残ったうさぎのキーホルダーと引き替えに、大切なひとの死がいかに空虚で、悲しく、絶望的なことなのかを知った。
小夜子のことはなにからなにまですべて憶《おぼ》えている。どんな癖《くせ》を持っていたのか、どんないたずらをして母さんからどんなふうに怒られていたのか、なにひとつ忘れていない自信があるし、それはこれから大人《おとな》になっていかなる人生を歩もうとも同じはずだ。そして、小夜子がどんなふうに亡くなったのかも。
蒸し暑くアブラゼミがうるさい八月十五日の、怖いくらいに日没が赤い、まるで世界が焼かれていくような夕方だった。俺はセミ捕りがしたいとごねる小夜子に急《せ》かされ、近所の川原にいた。前日の雨で川の勢いは増していた。
小夜子は俺より三つ下で、底抜けに明るく活発で、そのぱっちりした大きな瞳《ひとみ》をいつも好奇心でかがやかせ、お兄ちゃんお兄ちゃんと元気よく俺の周りをうろちょろ走り回っているような子だった。好きな食べ物はリンゴやバナナなどの果物で、お絵描《えか》きと探検ごっこが好きで、俺が五歳の誕生日《たんじょうび》にプレゼントしたうさぎのキーホルダーを大事にしていた。小夜子の溢《あふ》れんばかりの元気さや好奇心は俺や父さんたちの宝物だったが、結果的に小夜子を殺したのも、小夜子自身のそういう元気さであり好奇心だった。
「あきらお兄ちゃん、あそこにセミがいるよ! ほら、あの木の上! アブラゼミかな。わたしが捕ってあげるね!」
小夜子は虫取り網を持ち、もう片方の手でお気に入りの麦わら帽子を押さえながら、元気いっぱいのかがやくような笑顔《えがお》を浮かべていた。アブラゼミの薄《うす》い羽が、燃《も》えるような夕陽《ゆうひ》を浴びてきらきらしていた。
ひとは可能性で、偶然の積《つ》み重ねで生きている。そして偶然の積み重ねで死ぬ。小夜子の場合も、すべての歯車が悪いほうにがっちり噛《か》み合ってしまったのだ。ひとつでもそれがずれていたら、いまごろ小夜子は中学生になりほんの少しだけ大人びた表情で、お兄ちゃん、とはにかんでいたに違いない。しかし現実はそうならなかった。
小夜子は危ないからと俺が止める間もなく、苔《こけ》むした浮石へぴょんと飛び移って、向こう岸の木に留まったアブラゼミを捕まえようとした。普通なら川遊びに慣《な》れた小夜子がそのくらいで足を滑らすはずはなかったが、そのときは石が増水で濡《ぬ》れていて、また小夜子のスニーカーも遊び回った夏休みですり減っていた。
俺は目の前で小夜子が川へ落ちる姿を見て、小夜子が沈む水音を聞いた。お兄ちゃん、という悲鳴もだ。雨の激流《げきりゅう》が体重の軽い小夜子をあっという間に呑《の》み込み、俺は咄嗟《とっさ》に手を伸ばし小夜子の腕を掴《つか》もうとしたが掴めず、代わりに小夜子のリュックサックにつけられたうさぎのキーホルダーを掴《つか》んだ。一瞬後《いっしゅんご》、ぶち、とキーホルダーを繋《つな》ぐリュックサックの紐《ひも》が千切《ちぎ》れる感触を味わった。
「小夜子《さよこ》っ──」
恐怖と驚《おどろ》きに歪《ゆが》んだ小夜子の顔が、目に焼きついている。その表情がちらりと見えたのも一瞬だけだ。麦わら帽子が浮石に引っかかって流れに揺られており、勢いを増した川の水面は夕陽《ゆうひ》を映してまるでぐつぐつと赤熱《せきねつ》しているようだった。俺《おれ》は小夜子を掴めなかった。手のなかに残ったのは小夜子の命ではなく、小夜子の宝物だった可愛《かわい》らしいうさぎのキーホルダーだけだった。
アブラゼミがけたたましく鳴いていた。
いや、そうだ。偶然や運のせいにはすまい。たしかに、あれは間違いなく。
俺が、掴めなかったのだ──────。
通夜に備えてまずは片づけをしなければならなかったが、屋敷内《やしきない》は驚くほど物が少なく整理《せいり》することもあまりなかった。父さんたちが病院まで静香《しずか》叔母《おば》さんとその娘を迎えに行っているあいだ、留守番の俺は屋敷内を少し歩いてみることにした。うさぎのキーホルダーをくるくる回しながら。
夕陽はすでに沈みかけており、風でがたがた震《ふる》える窓の外には、夕方と夜の境目の淡い闇《やみ》が満ちている。気の早い月が浮かんでいるのが見えた。日没前の月はそう珍しくもないのに、いつもはっとさせられる。
なんらかの前兆のごとき満月だ──。
写真の束を見つけたのは、二階にある静香叔母さんの寝室の、引き出しの奥からだった。窓を開けると、風といっしょにざわざわした森の音が流れ込んでくる。
俺は窓辺に寄りかかって写真を眺め、へえ、と吐息をこぼす。一枚日のそれは十年前の日付で、まだ若い二十代半ばの叔母さんが幸せそうな笑顔《えがお》を浮かべ、三歳かその辺りの小さな女の子を抱きかかえる写真だった。
「──この子が、そうか」
静香叔母さんの娘を、はじめて見た。叔母さんの腕に抱かれ不思議《ふしぎ》そうにこちらを見るその女の子は、大きくなったらさぞかし美人になるだろう、とてもよく整《ととの》った愛らしい顔立ちをしている。
母さんから聞いたことがある。静香叔母さんが両親と揉《も》めて家を出ることになった直接の原因は、父親不在、だれが相手なのか頑として明かさず未婚のままこの子を妊娠したことにあったそうだ。そのせいか叔母さんは自分の娘を俺たち親戚《しんせき》に決して近づけようとしなかったし、だからいままでは写真すら見たことがなかった。
いま中学一年のはずだと母さんが言っていた。もし小夜子《さよこ》が生きていたら同い年ということになる。生まれる前から父親がおらずたったひとりの家族だった母親を亡くしてしまったこの子はこれからどうするのだろう、といたたまれない気持ちになった。名前は、なんと言っていただろうか。たしか────。
そのときふわっとひときわ強い風が吹き、手許《てもと》から写真をさらってしまった。本当に今日《きょう》は風の強い日だ。思わず苦笑いがこぼれる。俺《おれ》は床に散らばった写真を拾おうと手を伸ばし──ふとその手が止まる。
床に落ちた一枚の写真。
それは、静香《しずか》叔母《おば》さんが男性とふたりで写っているものに見えた。見えたというのは、男性と思《おぼ》しき胸元に十字架のアクセサリをつけた人物の顔が、カッターナイフかなにか、そういう小振りの刃物でズタズタに切り裂かれていたからだ。写真を拾い上げて裏を見ると、そこには真《ま》っ赤《か》なペンで、
あいつはもういない。あいつはもういないあいつはもういないもういないもういないもういないもういないいないいないいないいないいないもういないのに!
俺はぎょっとして、なんだこの写真は、と思った。そのとき不意に、本当に不意に──静香叔母さんが愛したのはどんな相手だったのだろうかと、そんな疑念が脳裏をよぎる。びゅう、と激《はげ》しい風の音。ざわりと大きく揺れた森のほうを振り返って、そして、そこではじめて気がついた。
「あれは…………?」
意識《いしき》せず、言葉がこぼれていた。
窓の向こうに広がる森のなか、巨大な杉のすぐ傍《そば》に、こぢんまりとしたログハウスがある。その小さな窓から明かりがこぼれていて、近づいてきた夜の暗さに覆《おお》われつつある森のなかで、そこだけが一点の光だった。あんなところにどうして……? と不思議《ふしぎ》に感じたとき、携帯電話が鳴った。
「──はい」
と取ると、電話をかけてきた相手は父さんだった。
『暁《あきら》? 病院に、いないんだ。看護師《かんごし》のひとに訊《き》いてみても、一度もきていないし連絡も取れなかったと、そう言ってる』
父さんの声はどこか焦っている──というより、戸惑っているふうに聞こえる。いきなりの言葉に話がよく見えず、訝《いぶか》って「いないって──だれが?」と聞き返すと、父さんは狼狽《ろうばい》を隠せない様子《ようす》で答えた。
『静香さんの、娘が────』
ふわっ、とまた強い風。
俺《おれ》が電話を切って中庭へ出ると、森へと続く道があった。道は明かりの灯《とも》ったログハウスまで続いている。まだ完全な夜ではないにもかかわらず驚《おどろ》くほど暗く、常にざわざわと不穏《ふおん》な歌を奏でる森の空気は、蒸し暑い真夏なのにどこかひんやりした感じがする。俺はぶるっと肩を震《ふる》わせた。
なにか、予感めいたものがあった。森の奥から姿の見えない魔物《まもの》に睨《にら》まれているような気分になる。どこかこう、普通ではない感覚がするのは、この森のざわめくような雰囲気と、このログハウスの明かりと、先ほど見た切り裂かれた写真のせいかもしれなかった。俺は先ほどまでちょっと引っかかる程度だった疑問が、胸の奥で大きく膨《ふく》れ上がりはじめているのを感じていた。
静香《しずか》叔母《おば》さんはこの広い敷地《しきち》の立派な屋敷をどんな経緯《いきさつ》で手に入れ、どんなことを想《おも》いながら暮らし、なにを感じながら亡くなったのか──。
ログハウスのドアがかすかに開いていて、そこからひと筋の光が漏れている。俺はドアを見つめて、つい持ってきてしまったズタズタの写真をポケットに収めた。そしてドアを開けた途端《とたん》、ふっと懐《なつ》かしい匂《にお》いを感じる。
それは古い絵の具の匂いだ。アトリエだ、と悟った。端っこには古ぼけたクローゼットがあり、その隣《となり》には布をかぶせられたキャンバスが、イーゼルに立てかけられている。四角い天窓に、満月がぽっかり浮かぶ。そこから月光が優《やさ》しく降り注ぐその下に、十一、二歳くらいに見える、小柄で美しい少女は座っていた。
どくん、と自分の鼓動が跳ねたのがわかる。
唇から「──あ」とかすれた吐息がこぼれてしまったのは、じっと天窓の月を見上げる少女の横顔が、さながら幻想的な一枚の絵画のごとくあまりに美しかったからだ。少女は気配《けはい》を感じたらしい、ゆっくり振り返った。
真正面から目が合う。
この子が静香叔母さんの娘だ、とひと目でわかった。いまさっき写真で見た面影《おもかげ》がそのまま残っている。すっと適った鼻筋に、真一文字にぴったり閉じられた唇。栗色《くりいろ》がかったさらさらの髪は長く伸ばされ、月の光を浴びてきらめいているようだった。とても華奢《きゃしゃ》で、二の腕など握りしめたら折れてしまいそうだ。
驚いたふうに目を見開いた少女が、俺を見つめて小さく息を呑《の》んだ。一方で俺のほうも少女の顔を見て絶句していた。どうしてこんなところに、ということではない。少女の頬《ほお》にある大きな腫れに気づいたから。
殴られたとしか思えない痛々しい腫れに。
「叔母さんの……娘か? その頬──」
なんとか声を発して一歩近づこうとした、その瞬間だった。はっと我に返った様子《ようす》の少女の瞳《ひとみ》に、凄《すさ》まじい恐怖がよぎるのを見た。俺《おれ》が思わず動きを止めた前で、少女はびくりと大きく震《ふる》える。椅子《いす》を倒して立ち上がった少女は、弾《はじ》けたように逃げ出し、布をかぶったキャンバスの陰《かげ》に隠れた。
「え──?」
と戸惑う俺の耳に、少女の発した鈴の音のように高く小さな声が届く。それは風が吹いただけでかき消されそうな、震えるか細い声だった。
「イヤ、……こないで……ごめんなさい」
「は? ごめんなさいって、どうして──」
「ごめんなさい…………」
少女のそれは、泣きそうな声音にさえ聞こえた。こちらがぎょっとしてしまうくらいの、ひどい怯《おび》えようである。少女は俺から逃げるように身を縮《ちぢ》ませて、ぶるぶる震えている。俺はどうしてよいかわからずに、その場に立ち尽くした。そして戸惑いながら少女の瞳を見て、息を評む。
俺を上目遣いに見る、恐怖にかげった眼差《まなざ》し。幼い整《ととの》った顔の左半分を見るも無惨に揺れ上がらせている打撲の痕《あと》。少女の表情を見た途端《とたん》、ふと小夜子《さよこ》の声が脳裏に響《ひび》いた気がした。お兄ちゃん──と。
脳裏をあのときの光景が、何年|経《た》とうが変わらず鮮明《せんめい》に駆け抜ける。アブラゼミが鳴き続けるなか、小夜子が赤熱《せきねつ》したような水面へと消えゆく直前に、掴《つか》めなかった俺を見ながら浮かべた、恐怖に引きつった表情。助けて、と言葉や行動ではないもっと深い部分で、懸命《けんめい》に訴えている眼差し。
アブラゼミがうるさく鳴きはじめる。ドアの向こうから、ざわざわ揺れる森の歌が聞こえてくる。月明かりがきらきらしていた。
似ていた。少女の顔立ちではなく怯《おび》えきった表情が、小夜子が最後に見せたあの表情に、とても。思わず「小夜子……」とのつぶやきが漏れた。すると少女は俺のそんなつぶやきにさえ反応し、さらにびくりと震える。ふと気づいた。少女が怯えているのは、俺に対してではないのかもしれない。
俺はぎゅっとこぶしを握り、どうして、と思った。たくさんの「どうして」が頭を渦巻く。どうしてこの子は、母親が亡くなったのにこんなところにいるのか? どうしてこの子は、その頬《ほお》を打撲で大きく腫らしているのか。どうして──。
──そんなにも、すべてを怖がっているのか。
「怖がらないでくれ」
俺は少女を見つめてなるべく穏《おだ》やかに言った。天窓の月を見上げる。
「ここは、月が──きれいだな」
少女はびくびくした表情のまま、しばらく息を殺して俺を見返していた。そして、俺がしずかに立っていると、やがておそるおそる尋ねてくる。
「──あなたは」
ソプラノの声質は実際、小夜子《さよこ》に似ている気がした。
「だれなの……?」
開けっぱなしのドアから吹き込む風が、濃《こ》い夏の空気を運び込んできて、アトリエの絵の具の匂《にお》いを散らす。静寂のなかをアブラゼミの鳴き声だけが満たしている。まるでちょうど五年前の、あの運命の日のように。
それが俺《おれ》と少女の、天窓だけが見ている出会いだった。
そうだ、と思い出した。母さんから聞いた、この子の名前は────。
※       ※       ※
彼女はあのとき、自分の母が亡くなったこともまだ知らなかった。彼女は母親から「学校へ行くとき以外はアトリエから出るな」と厳命《げんめい》され、世界から隔絶されていたのだ──俺があのアトリエから連れ出す瞬間《しゅんかん》まで。恐怖し、びくびくしながら、隔絶されていた。それが最初の一ページ。すべてのはじまり。
不意に、頭のなかをあの日と同じ強い風が吹き抜ける。
記憶《きおく》のスケッチブックが、ぱらぱらとめくれていく。
自分と、彼女の声が聞こえた。
──タイトルはもう決めてるのか?
──うん。月の盾。
運命などといったものは実在しないと思うが、背負わされる宿命のようなものは現実にあるのではなかろうか。天から霹靂《へきれき》のごとく現れるのではなく、生い立ちや環境《かんきょう》やこれまで自分がしたことなどの、過去から形作られて。
そして、彼女の宿命の向こうにこの絵はあった。
彼女が乗り越えた過去の先に、現在のこの絵は存在している。
額縁《がくぶち》に飾られ、燦然《さんぜん》とかがやく彼女の月を見つめ続けていると、その美しさに引き込まれていくような気がする。それはあるいは、あのアトリエで月明かりに照らされる彼女の姿をはじめて見たときと同じなのかもしれなかった。
吹きはじめたときと同様、唐突に頭のなかの風は止《や》んだ。
スケッチブックのページは、彼女の声を奏でる。
──わたしはみんなに教えたいから、これからも描《か》く。わたしが見ているこの世界はこんなにも美しいんだって、いろんな人に伝えたい……。だから、わたしは許されるかぎり死ぬまでずっと描いていく。
月の絵を眺めながら、主役は俺《おれ》ではない、と思った。振りしぼった勇気を武器にして妹と対立せざるを得なかった優美子《ゆみこ》でもなければ、最後の最後まで母親を深く愛し続けた慶太《けいた》でもない。俺たちは彼女を見守っていただけにすぎない。言ってみれば、彼女というひとりの天才を彩る舞台《ぶたい》装置のようなものだったのかもしれない。
俺はそれで構わないと思うし、そうあるべきだとも思う。それは、これが「いかにして描かれたか」という物語だからだ。この物語の主題が、日没の撒《ま》き散らす炎を防ぐために生まれたこの『月の盾』と名づけられた絵が彼女の手によってどう描かれたか、ということにあると考えるからだ。つまり、これは俺たちではなく彼女の────。
色なき天才画家、国崎《くにさき》桜花《おうか》の物語なのである。
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第一部「黒と白の日没」
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父さんたちが孤独になった桜花を引き取る決心をしたいちばんの理由は、俺がそうしようと懸命《けんめい》に訴えたためだろうが、きっと桜花が中学一年生であるということも一因になったのではないかと思う。父さんたちはたぶん、桜花に生きていれば中学一年になっているはずの小夜子《さよこ》を見ていた。
いや、俺も父さんたちのことはあまり言えまい。俺だって桜花のなかに川に呑《の》まれた小夜子を見たからこそ、救いたいと思ったのかもしれないのだ。
「おまえは、これから俺たちの家族になるんだ」
俺がそう言ったとき、桜花は大きな打撲痕《だぼくあと》を作ったその顔を揺らして「え……?」と見上げてきた。戸惑っているのですらなく、なにを言われたのかわからなかった様子《ようす》だった。
「よろしくな、桜花《おうか》」
俺《おれ》は頭を撫《な》でてやろうとしたのだが、桜花が恐怖から逃げるようにぎゅっと目を閉じびくりと身を引いたので、伸ばしかけた手を引っ込めるしかなかった。
桜花は俺たちが決めることになにひとつ反対しなかったが、それは素直というのとは違うようだった。桜花は学校以外の人生の大半を過ごしていたらしいアトリエから連れ出され、はじめて触れる物や見知らぬ人間に対してどこか怯《おび》えたように、辺りをきょろきょろせわしなく見回していた。桜花は素直だからなにも言わず従うのではなく、ただ──なにかを主張する勇気すら持っていないのだ。
父さんたちは桜花の名字を「国崎《くにきき》」のままにするか俺たちと同じ「村瀬《むらせ》」に変えるかでさんざん悩んだが、結局はそのままを選んだ。桜花が成長し、もっと大人《おとな》になってから桜花自身に選択させようというつもりであるらしかった。戸籍上《こせきじょう》もそれまでいじらない。それは正しい選択だと、俺も思った。
そんなわけで、静香《しずか》叔母《おば》さんの葬儀《そうぎ》が終わったその日、桜花は「国崎桜花」のままで俺たちの家にやってきた。どうしようもなくすべてに怯えながら。
桜花が俺の家の、二階の突き当たりにあるもともとは小夜子《さよこ》のものだった部屋で暮らしはじめてから二ヶ月と少し、アブラゼミの鳴き声は聞こえなくなり、古ぼけた絵や写真が色あせていくように少しずつ秋はやってくる。
ただ、二ヶ月の時間は生《お》い茂る木の葉を色鮮《いろあざ》やかに染めることはできでも、桜花を新しい環境《かんきょう》に馴染《なじ》ませることはできなかった。
桜花はほとんど喋《しゃべ》らなかった。俺や父さんたちが話しかけても、どうすればいいのかわからないといった表情で黙《だま》っているだけ。学校に行っているあいだ以外はほぼすべての時間にわたって自室にこもり、なにもせずに過ごす。常に俺たちの顔色を窺《うかが》うように、あるいはすべてのことにびくびくしていて、食事の最中、俺が醤油《しようゆ》を取ろうとして手を伸ばすだけで、びくりと震《ふる》えて頭を抱えるのだった。条件反射といった感じで。
こちらからなにか問いかけた場合、おそるおそるながらぼそっと返事をしてくれたりすることはあったが、桜花から話しかけてくることは二ヶ月以上の時間のなかでただの一度もなかった。俺はあるとき桜花を連れ出して、近所にある小学校の校庭で、俺の幼なじみで親友の安藤《あんどう》優美子《ゆみこ》と神楽坂《かぐらざか》慶太《けいた》のふたりに引き合わせてみた。
俺が六年間通った、そして小夜子も一年と一学期だけ通ったその小学校は丘の上にあって、藍色《あいいろ》にきらめく海や、たくさんの巨大なクレーンが切り立った造船所や、向かい側の島と行き来するフェリーが停泊する港や、それらすべてを照らす夕陽《ゆうひ》や夜空が望《のぞ》める。俺たちは散歩にその校庭を使うことが多かった。
「あなたが桜花ちゃんだね?」
海からの爽《さわ》やかな風に、いつもきれいにセットされている優美子《ゆみこ》の髪の毛が揺れる。胸元にはハート型のペンダント。優美子は美人というより可愛《かわい》いといった感じのその顔ににこやかな笑《え》みを浮かべ、桜花《おうか》へ手を差し出した。
「はじめまして。あたし、安藤《あんどう》優美子っていうんだ。仲良くしてくれるかな?」
だが、桜花はやはりびくっと反射的に身を引き、戸惑った眼差《まなざ》しでじっと優美子の手を見つめるだけだった。優美子が困ったふうに首を傾《かし》げ、差し出した手を引っ込め、俺《おれ》のほうをちらりと振り向いて微笑する。
明るくてフレンドリーで、雰囲気も優《やさ》しげな優美子たちならもしかしてと思ったのだが、ダメだった。桜花のびくびくとした反応はだれに対しても同じで、簡単《かんたん》には改められない。慶太《けいた》が桜花のことをこんなふうに言っていた。
「桜花ちゃんってさ」
慶太の口調《くちょう》はいつも柔らかで優しい。そのときも微笑をたたえていた。
「僕たちのことを──というか、僕たちだけじゃなくて全部をなんだろうけど、すごく怖がって警戒《けいかい》してるよね。ほら、むかし近所のおばちゃんが、小さなころ人間にさんざんいじめられた猫を飼ってただろ? 僕たちが傍《そば》を歩くだけで怖がって逃げ出してた、あの猫。なんにでもびくびくしてて、どうやってもなついてくれなくて、おばちゃんも困ってたあの猫に、ちょっと似てると思った」
また、桜花には不思議《ふしぎ》な癖《くせ》があった。
夕焼けに空が染まりはじめると、必ず眠るのである。
家のなかにいても、どこかに出かけていても、昼が短くなってきた最近では学校でさえそうだった。そろそろ空が赤くなりはじめるかなという時刻になると自分の部屋に引きこもって、外にいたときは脱いだ上着を頭からすっぽりかぶって、学校にいるときは六時間目をさぼってでも陽《ひ》が赤くなる前に帰ってきて、眠りにつく。そして一、二時間が経《た》ち、辺りが完全な夜に包まれてから再び起きてくるのだ。
毎日毎日、この二ヶ月と少しで一度たりとも例外はなく。それによってどんな害が生じようとも、絶対に。
俺は桜花がまだうちにきて日が浅いころに一度、桜花のこの癖をまださほど深刻に考えてはおらず、夕刻に寝ているところを起こしてしまったことがある。
桜花の部屋は六畳ほどの洋間で、真西を向いているわけではないが、窓からいくらかの夕陽は射《さ》してくる位置にある。夕食時、俺が母さんに頼まれて桜花を呼びに行ったとき、桜花はやはりもともと小夜子《さよこ》のものだった勉強机に突っ伏して、日没の赤い光のなか、小さな寝息を立てて眠っていた。
声をかけて揺さぶっても、よほどぐっすり寝入っているらしく、すぐには起きてくれなかった。だがもちろん、名前を呼びながらずっと揺すっていると、やがては「ん……」と声をこぼしてうっすら目を開ける。桜花《おうか》は寝ぼけた瞳《ひとみ》で俺《おれ》をぼんやり見上げ、そしてはっと表情を強張《こわば》らせた。
桜花が見ていたのは俺ではなく、その後ろの窓に浮かぶ夕陽《ゆうひ》だった。
桜花はその瞬間《しゅんかん》、ほとんど恐慌に近いほどのパニックを起こした。がたんと立ち上がりしかし金縛《かなしば》りにあったがごとくそこで硬直する。恐怖に引きつった桜花の唇から「あ……」と震《ふる》える吐息が漏れた。桜花の全身ががくがくと震えはじめる。青ざめた桜花の顔によぎるのは、動揺や不安や──それらを引っくるめた畏怖《いふ》。その澄《す》んだ瞳にじわりと涙の粒が浮かぶのを見て、俺は自分の失態を悟った。
「わ、悪い!」
慌ててカーテンを閉めて夕陽をさえぎる。桜花が夕方に眠るのは単なる癖《くせ》である以上に、言ってみれば日没恐怖症とでも言うべきものであると、俺はそのときはじめて知らされたのだ。いつだったか、桜花に尋ねてみたことがある。
「どうして、そんなに夕陽が怖いんだ?」
「……日没は、嫌い…………」
桜花は消え入りそうな声で、おそるおそるといった感じに言う。桜花は怖がりの仔猫《こねこ》のようにおどおどしながら、それでも一応きちんと答えてくれた。その瞳にふっと切実ななにかを浮かべて、
「まるで全部が押《お》し潰《つぶ》されていくみたいだから──」
押し潰されていく────。
夕焼けをそんなにふうに感じたことのない俺には桜花のたとえはピンとこなかったが、それでも、桜花が感じている日没への深刻な恐怖は十分に伝わってきた。五年前の、小夜子《さよこ》が亡くなった日の夕焼けを思い出して考える。日没は赤ければ赤いほど、記憶《きおく》へ焼きつくように美しい。だがやはりそれは微笑《ほほえ》ましいかがやきではなく、終わっていく美しさなのだ。
その一方で、桜花は月を好んだ。出会ったときもそうであったように。
桜花が唯一びくびく怯《おび》えたりせず、母親に抱かれた幼児のように落ち着いた表情を見せるのが、月を振り仰いでいるときだった。
桜花の部屋を訪れたとき、ベッドに座って窓辺から月を見上げる姿を何度も見かけた。夜に家族で食事に出かけた帰りの車内などでは、桜花は後部座席のサイドガラス越しにずっと、いつまでも、夜空にくっきり光を刻む月を見ていた。
月を眺める桜花の横顔を見ていると、ふと、この子が見ているのは本当に俺が見ているのと同じ月なのだろうかと、そんな疑問が脳裏をよぎることがある。俺にはただどこまでも赤くしか見えない日没のなかに、世界を押し潰す悪魔《あくま》のようなものを見ているのと同様、桜花は月の光のなかにきらびやかなダイアモンドや、酷寒の下に芽吹《めぶ》いた草花や、ひとがひとを想《おも》う気持ちのごとき、美しいなにかを見ているのでは──と。
そう感じてしまうのは、月を見るときの桜花《おうか》の横顔が普段《ふだん》と打って変わってあまりに穏《おだ》やかで、あまりに幻想的で美しいからだろうか? 桜花の瞳《ひとみ》に映り込んだ月が、夜空に浮かんでいるそれよりもずっとかがやいて見えたからだろうか?
桜花といっしょにいていつも思い出すのは、桜花がうちにやってきた直後、偶然に見てしまった桜花の裸、そこにある傷痕《きずあと》のことだった。
ノックを忘れて桜花の部屋に入った俺《おれ》の目に飛び込んできたのは着替え途中の桜花の裸で、桜花は当然ながらびくりと震《ふる》えて身を縮《ちぢ》ませた。俺は桜花の白い裸身に、しまった、と心底から慌てふためいたが、その次の瞬間《しゅんかん》には、頭に上りかけた血がすうっと冷たく引いていくのを感じていた。
「──桜花。おまえ、その怪我《けが》…………」
下着姿の桜花の、腕や肩やお腹《なか》やふとももに、たくさんの痣《あざ》を見つけたからだった。殴られたような痕があるのは左頬《ひだりほお》だけではなかったのだ。桜花の華奢《きゃしゃ》の身体《からだ》のあちこちが、痛々しく腫《は》れ上がっていた。母親とふたりきりで暮らしていた桜花。あの森のアトリエからは出ないよう厳《きび》しく言われ、そしてこんな────。俺はこぶしを握って、なんでだよ、と静香《しずか》叔母《おば》さんに怒りを覚えた。
俺を見る桜花の、全身にある無数の打撲の痕。救いたい、とそれまで以上に強く思った。すべてに対してびくびくと怯《おび》えるこの子を、どうにかして救ってやりたい。本当に、心から本当にそう思った。ただ、どうすれば桜花《おうか》に心を開いてもらえるのか、まだわからないでいる。どうすれば桜花の笑顔《えがお》を見られるのだろうか。あるいは、もっと長い時間をかけるしかないのかもしれなかった。
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それは台風が過ぎ去った翌日の、空の隅から隅まできれいに晴れ渡った、いかにも秋らしいまるで黄金が燃《も》えているみたいに真《ま》っ赤《か》な夕方のことだ。俺《おれ》がリビングのソファに寝転がって読書をしていると、夕食の仕度中の母さんに「ねえ、暁《あきら》。ちょっといいかしら」と呼ばれた。俺は「うん?」と顔を上げる。
「そろそろご飯ができるから、桜花ちゃんを呼んできてほしいんだけど」
「……いいけど。まだちょっと早いだろ」
窓からの夕陽《ゆうひ》がまぶしい。俺は壁時計《かべどけい》をちらりと見やって答えた。
「もう少しして、桜花が起きてからな」
「ええ、お願《ねが》いね。今日《きょう》は桜花ちゃんの好きそうな物ばっかり揃《そろ》えてるから」
俺はくすりとして、本をテーブルへ置いてソファから身体《からだ》を起こす。時間|潰《つぶ》しにとTVをつけると、まったりした地方番組をやっている。俺はそれを眺めながら、ああ、と思い出した。ちょうどいい機会《きかい》だ。
「なあ、母さん。前から訊《き》こうと思っていたんだけどさ」
「なにかしら?」
「静香《しずか》叔母《おば》さんって、どんなひとだった?」
そう尋ねてみたのはもちろん、母さんたちには教えていない、桜花のあの身体中の痣《あざ》のことが頭にあったからである。すると、おたまを持つ母さんの手がぴたりと止まった。沈黙《ちんもく》があって、俺は眉《まゆ》をひそめた。
「母さん?」
「──そうね。静香は──あたしの知っている静香は、頑固で思い込みの激《はげ》しいところはあったけど、美人で明るくて覇気《はき》があって……いい子だったわ」
母さんはこちらに振り向かないまま話しはじめる。その声音がどこか沈んでいるようだったから、どうかしたんだろうかとふと思った。
「だから、きっと……なにかあったんだと思う。知らない土地でひとりぼっちで桜花ちゃんを育てて、寂しくて辛《つら》かったのかもしれない。──暁、ずっと迷ってたんだけど、あなたは桜花ちゃんの本当のお兄ちゃんになろうとがんばってくれてるから、やっぱりきちんと教えておくべきだと思うの」
俺は、え、と母さんを見つめた。なにを?
振り返った母さんは、とても悲しそうに微笑《ほほえ》んでいた。
「静香が亡くなった原因。自殺だったんですって、あの子──」
俺《おれ》は言葉を失って、母さんの顔をまじまじと見つめた。その単語はまるではるか遠い世界の言葉のように聞こえた。自殺──? どくどくと鼓動が速まる。辛《つら》そうに目を伏せた母さんは泣いているふうに見えた。
「近くの百貨店のトイレで、自分の手首と喉《のど》を切って。遺書みたいなものはなかったらしいけど。店員さんが見つけたとき、個室のなかが真《ま》っ赤《か》だったって……。どうして静香《しずか》がそんなことをしなければならなかったの」
着替え中の部屋に入ってしまう失態を犯して以来、必ずノックをするよう心がけている。軽くノックしてからドアを開けると、カーテンの隙間《すきま》からの赤い陽射《ひぎ》しが満ちた部屋のなか、桜花《おうか》がいつかと同じように勉強机に伏せてすやすやと眠っていた。俺はふっと微笑《ほほえ》み、その小さな背にタオルケットをかけた。
夜がやってきて桜花が起きるまでのあいだ、寝顔でも見ながら待っていようと思う。桜花のしずかな寝顔はとても、それだけでこの世界に価値があると思えてくるほど愛らしかった。俺は確信《かくしん》を持ってつぶやく。
「やっぱり、この子は将来きっと美人になるな」
そして、そこには身近なひとに殴られたり身近なひとを失ったりそういう辛いことのない、周りのさまざまなものにびくびくする必要もない、かがやくような未来が待っているはずだ。小夜子《さよこ》が手に入れられなかったそういう未来を、この子はまだ掴《つか》めるのだ。この子を家族として迎え入れた俺たちには、この子がそんな美しい未来を生きられるよう努力する義務がある。本当にそう思う。
ふと、目の前で眠っている桜花が中学一年ではない、もっと幼く無力な少女であるように見える。もちろん錯覚《さっかく》だとわかっていても、ぱっちり目を覚まし、この世に悲劇《ひげき》が存在することなど想像すらしたことのなさそうな無邪気な笑顔《えがお》でこちらを振り仰いで、お兄ちゃん、と呼びかけてくれそうな気がする。
苦笑が漏れた。ポケットのなかの、うさぎのキーホルダーを意識《いしき》する。
「別に、顔も性格も似ていないのにな」
思えば、俺たちは小夜子を深く愛しすぎていた。小夜子への溢《あふ》れんばかりの愛情を、胸に抱えきれないくらい持っていた。だから小夜子がいなくなってからの五年間ずっと、その愛情の矛先《ほこさき》を見失っていたのかもしれない。この子は小夜子じゃない。それは当然わかっている。それでも────。
俺は眠っている桜花の、もうきれいに痣《あざ》のなくなった左頬《ひだりほお》を撫《な》でた。部屋に差し込む夕陽《ゆうひ》がふっと途絶《とだ》えた。夕方と夜の境目の、淡い闇《やみ》。
「桜花、起きろ。そろそろご飯だから──」
桜花へそう声をかけようとして、不意に気づいた。
眠っている桜花の頭のすぐ傍《そば》に、B5ノートが開きっぱなしで置かれている。覗《のぞ》き見るつもりではなかったが、ついそちらに目がいった。そして「──え……?」と、一瞬《いっしゅん》我が目を疑った。ノートを手に取って改めて眺める。
どくん、と鼓動が跳ねる。
思わず、桜花《おうか》の寝顔をじっと見つめた。
「──すごい」
唇からこぼれた声は、自分でもわかるほど驚《おどろ》きに揺れている。
ノートの開かれたページには、シャープペンシルによるものと思われる細い線《せん》で描《か》かれた、窓辺のスケッチがあった。咄嗟《とっさ》にカーテンのかかった現実の窓と見比べる。間違いない、ここのスケッチだ。絵のなかの窓辺から見える空は、世界の果てまでずっと澄《す》みきって続いていそうだった。ふわっと、そよ風が吹き抜けた気がした──閉めきった部屋で風が吹くはずはないのに。
いちばん最初のページまで戻り、一枚一枚めくっていく。その、父さんたちが授業用に買い与えた安物のノートをびっしり埋め尽くしているのは、さまざまなスケッチだった。桜花は自室でただなにもせず過ごしていたわけではなかったのだ。
スケッチは消しゴムや筆入れなどの筆記用具にはじまり、枕元《まくらもと》に置かれた目覚まし時計、淡くかがやく蛍光スタンド、小夜子《さよこ》が大切にしていた古い熊《くま》のぬいぐるみ、小さな天使の置物1と、部屋にある小物は残らず描き尽くされていた。それからスケッチの対象物は椅子《いす》、勉強机、テレビやレース柄《がら》のカーテン、毛布のめくれたベッドと次第に大きくなっていく。目につくものすべてを描いたという感じだった。
「これを──」
ノートに描かれたスケッチの数々から目を離《はな》せない。
「全部……桜花が、描いたのか?」
そのすべてが、信じられないくらい、桜花がいま中学一年だということを頭に入れれば常識《じょうしき》では考えられないほどに上手《うま》かったから。
俺《おれ》の高校の美術教師、有名な美大を卒業し、コンクールでも幾度か入賞《にゅうしょう》しているという彼のデッサンは、果たしてここまで圧倒的に上手かっただろうか? すごい、と思った。これはすごいなんてものではない。無造作にたくさんたくさん描かれた、完璧《かんぺき》すぎるほど完璧なデッサン。いったいどんな目を持っていればこれだけのものが描けるのか、俺には想像もできないくらいの。
そのとき小さく息を呑《の》む音がして俺は我に返る。
上半身を起こした桜花が、びっくりしたふうに目を見開いて俺を見ていた──いや、俺ではない。桜花は俺ではなく、俺が手にしたノートをじっと見上げている。そして俺がなにか言うよりも先に、さっと怯《おび》えたように顔色を変えてうつむき、両こぶしを強く握りしめてぽつりと言った。
「ごめんなさい」
俺《おれ》のほうが「は?」と戸惑ってまばたきした。桜花《おうか》の肩が震《ふる》えはじめる。桜花のその美しい顔には、くっきりと、激《はげ》しい罪悪感と自己嫌悪のようなものが刻まれていた。桜花は表情をきゅっと歪《ゆが》める。
「──ごめんなさい。……ごめんなさい、ごめんなさい…………」
怖くて顔も上げられない様子《ようす》でびくびくする桜花に、こちらが狼狽《ろうばい》してしまう。ごめんなさい、というのは桜花の口癖《くちぐせ》みたいなものだったが、それにしたって、謝《あやま》られるようなことはなにもないのに。桜花は蚊《か》の鳴くような声でもう一度、
「……ごめんなさい……」
俺はたまらず「どうして」と唇を開いた。
「どうしておまえが謝るんだ。ごめんなさいって言うのは、本当に悪いことをしたときだけでいいんだ」
「………」
またしてもびくりとなり、思わずといったふうに身を引こうとした桜花の瞳《ひとみ》を、真剣な眼差《まなざ》しで覗《のぞ》き込んだ。どく、どく、と自分の血液の音が耳許《みみもと》で聞こえる。俺は桜花の絵を見てやや胸が熱《あつ》くなるのを感じていた。
「勝手にノートを見たりして、謝るのは俺のほうだろ。すまない、ご飯の仕度《したく》ができたから呼びにきたんだけどな。ノートが目に入って……、覗き見るつもりはなかった。──どうして、ごめんなさいなんだ?」
「──……お母さん……が」
桜花がぼそぼそと、泣きそうな声で言った。お母さん、とはもちろん俺の母さんのことではない。桜花は俺の両親をそんなふうには呼べない。
「わたしは、絵なんか描《か》いちゃ……ダメだって、ずっと──」
頭を思いきり横殴りにされたような気分だった。描いてはダメ、だと──? 愕然《がくぜん》として、うつむく桜花の顔を見つめる。そこにはもうなんの痣《あざ》も残っていないし、全身にあった痣も消えているのだろうが、そういったものが桜花に最も深く刻み込んだのは、肉体的な痛みではないのかもしれなかった。
「お母さんが、そう言ってた、のに。それ……なのに、描いてて──ごめんなさい。いまだけじゃ、ない。描いてたら楽しい……から、家にいたときも、本当は隠れて描いてた。ごめんなさい。もう描かない。だから──」
もう一度、手許のノートに目を通す。極限のリアルさがある。鉛筆画でここまで物事を表現できるなど、思ってみたことすらない。そこに描かれた窓辺も、小物も、家具も、素晴《すば》らしかった──本当に素晴らしかった!
「……ごめん、なさい──」
桜花《おうか》は怯《おび》えきった、まるで殴りつけられるとでも心底から思っているように青ざめた顔で、俺《おれ》を見つめてくる。ずきりと胸の奥が痛んだ──またしても、桜花の表情と小夜子《さよこ》が最後に見せたあの表情の記憶《きおく》が重なって見えたから。救われない。そんな悲しい表情、させていたくなかった。
どうすればと考えて、はっと閃《ひらめ》きが走った。
「──そうだ。ちょっと待ってろ」
思いついたことがあって、俺は部屋の本棚のほうを見やる。桜花が家にやってくるまで、五年間、この部屋には掃除以外のいっさいの手が入っていない。だから、まだ残っているはず。たしか、ここら辺に──。
「知っているかもしれないけどな、ここ、小夜子の部屋だったんだ」
桜花は「え……」と戸惑った表情を浮かべ、おそるおそるこくりとうなずいた。俺がなにを言おうとしているのかいまいち掴《つか》めていないようだった。俺は本棚をチェックしながら、小夜子の話を続ける。
「小夜子は外で遊び回っている子だったんだけどさ、室内の遊びでお絵描《えか》きだけは好きだったんだよな。落書きみたいな、微笑《ほほえ》ましい絵をしょっちゅうノートに描いてたな。それで、小夜子が二年生に上がったとき、お小遣いでスケッチブックを買ってプレゼントしたんだ。いまでも憶《おぼ》えてるよ」
進級おめでとう、と言ってスケッチブックを手渡したときの、小夜子の本当に嬉《うれ》しそうなあの笑顔《えがお》を。寂蓼《せきりょう》に駆られ、繰り返した。
「憶えてる。きっと、忘れないな──」
見つけた。思ったとおり、そのスケッチブックは本棚のなかに埋もれていた。ぱらぱらめくってみると、そこにはお世辞にも上手《じょうず》とは言えない、だが自由な無邪気さが溢《あふ》れた楽しい絵の数々がある。ふっと懐《なつ》かしさに気を取られそうになる。俺は微笑んでスケッチブックを閉じ、それを桜花へ差し出した。
「桜花。このスケッチブックをおまえにプレゼントするよ」
「────え?」
桜花の呆然《ぼうぜん》としたつぶやきが、しずかな部屋に流れた。
「三分の一くらいは小夜子の絵で埋まっているけど、まあ……まだ余白は十分にある。自由に使えばいい。全部使いきったら、そのときは新しいのを買ってやるから。小夜子のお古ばかりで悪いな」
俺が笑《え》みを向けても、桜花はきょとんとしたままだった。目の前にあるスケッチブックを、まるで異世界を見るような目で見ている。桜花の表情に浮かんでいたのは、驚《おどろ》きですらなかった。そこには痛々しいまでになにもなかった。呆然とする桜花は、なにひとつ理解できていなかった。
「それから、ああ、そうだな。シャーペンだけじゃなくて鉛筆も使いたいって思ったら、小夜子《さよこ》のがまだまだたくさんあるはずだから、好きに使えばいい。たしか、引き出しの奥に──……ほら、これ」
俺《おれ》が桜花《おうか》のノートとスケッチブック、それに鉛筆セットを重ねて渡すと、桜花は目をぱちぱちさせながら、呆然《ぼうぜん》としたまま受け取った。
「せっかく絵を描《か》くのに、ノートじゃ小さすぎるだろ?」
「え、…………わたし、に……?」
桜花はわかっていないのだ、と気づいた。俺が桜花の絵を見ていかに驚《おどろ》いたかも、自分の描いたスケッチがどれだけ素晴《すば》らしいものなのかも。それはとても可哀想《かわいそう》で、とてつもなくひどいことだと思う。
俺は腰をかがめて、桜花の幼い美貌《びぼう》を同じ高さから見つめた。
「ああ、おまえにだ。なんて言うかな、つまり」
俺にできるせめてものこと。ここはすでにもうあの森の小さなアトリエではないのだと、なんとかして教えてやりたい。
「真剣に驚いたよ。おまえの絵はすごいな。誇っていい。隠す必要はないじゃないか。父さんたちがこの絵を見たら、すごいすごいって大はしゃぎするだろうな。俺も、おまえが描く絵をもっとたくさん見たい」
そこではじめて、桜花の瞳《ひとみ》に感情のようなものが戻った。それは、どうして、と言わんばかりの混乱した疑念だった。自分がそんなことを言われているなんて信じられない、といったふうの。
その混乱と戸惑いはある意味、怯《おび》えや震《ふる》えよりももっと哀《あわ》れなことなのではないだろうか。小夜子、と胸の内で思わずつぶやいてしまったとき、自然と手が伸びた。成り行きに呆然とし混乱していたからかもしれない、はじめて桜花が怯えたように身を引かなかった。俺の手が桜花の髪に触れる。
俺は桜花の頭をくしゃくしゃと撫《な》でた。
髪の毛の柔らかな感触が心地《ここち》よかった。
「おまえは描いていいんだよ。好きなときに好きなだけな」
「──あ」
桜花の唇からそんな吐息がこぼれてから数秒のあいだ、完全な沈黙《ちんもく》があった。桜花は驚きかなにか、とにかく大きな感情で普段《ふだん》はびくびくするだけの表情を激《はげ》しく揺らして、俺の顔をじっと見上げる。俺が微笑《ほほえ》みかけると、桜花の瞳に理解の色が少しずつ、本当に少しずつ宿っていった。
その瞳にきらっとかがやくものがにじんだような気がしたが、桜花が慌てふためいた様子《ようす》ですぐに目をそらしたため、よくわからなかった。桜花は長い長い時間うつむいて、やがてぽつりと言った。
「──あり、が……とう」
顔を上げないまま、戸惑いがちな、遠慮《えんりょ》がちな、おどおどとした声で。しかし、たしかにはっきりと聞こえた。
「……わたし、絵を褒《ほ》められたの、生まれて……はじめて──」
俺《おれ》ははじめて、桜花《おうか》の心に少しだけ触れられた気がした。桜花の心を捕らえ覆《おお》い隠している暗い檻《おり》の一部を、ほんのわずかだが壊《こわ》せたのかもしれないと思った。ああ小夜子《さよこ》、と考える。俺はおまえを救えなかったけれど、代わりにこの子を救うことはできるのだろうか? 俺が手を離《ほな》して「そろそろご飯だから、下に降りよう」と言うと、桜花はゆっくりと顔を上げた。そして。
「……うん」
そううなずいて、少しだけ──見間違えかと思うくらい、よく見ていなければ気づかなかっただろうと思うくらいに少しだけ、いつもはきゅっと真一文字に引きしまったその口許《くちもと》を緩《ゆる》めて、小さく小さく微笑《ほほえ》んだ。
そこには、幼い小夜子がいつも見せていた笑顔《えがお》にあったのと同じ、美しいかがやきが存在している気がした。
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2.
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桜花の絵の才能は本当に本物のように思えた。いったいどこからこの才能がきたのか、と思えるほどに。静香《しずか》叔母《おば》さんは絵が上手《じようず》だったのだろうか?
スケッチブックの件以来、桜花はまだまだ遠慮《えんりょ》がち、おっかなびっくりながらも、俺には少しだけ話しかけてくれるようになった。それに、ふと気づくと俺の傍《そば》にいる──というようなことも明らかに多くなった。
桜花は時折、俺になにかを「……描《か》きたい」と申し出ることがあった。そんなとき俺は必ずそれがある場所まで桜花を連れて行くよう努める。好きなものをこそこそ隠れず好きなだけ描ける、という環境《かんきょう》に対し、桜花は新鮮《しんせん》な驚《おどろ》きを味わっているふうだった。室外で絵を描く、ということすらあまりなかったのかもしれない。
桜花が近所の公園で木々をスケッチしているとき、尋ねてみた。
「絵を描くのは、そんなに楽しいのか?」
それに対して桜花は、迷った未に短くひと言だけ答えた。
「……楽しい」
それだけで十分すぎるほどの答えだ。俺が桜花の口から「楽しい」とか「嬉《うれ》しい」といった前向きな単語を聞いたのは、それがはじめてだ。
描《か》いているときだけは、月を眺めているときと同じく、桜花《おうか》の表情からいつものびくびくした感じが消えている。俺《おれ》が知るなかで、絵を描いているときの桜花が、いちばん自然な、解放された表情をしていた。
桜花は暇を見つけては、ありとあらゆるものをスケッチした。まずは庭で見つけたスズムシから、母さんのガーデニングの数々、小学校の進具や川原のせせらぎ、町中の路地や店先、小学校から一望できる造船所の巨大なクレーンなど、少しでも興味《きょうみ》を引いたものはなんでもスケッチブックのなかへ写し取っていった。三分の二は残っていた小夜子《さよこ》のスケッチブックは、すぐに最後まで使いきられ、新しいのを買うことになった。
桜花が使うのは鉛筆かシャープペンシルだけだ。桜花はそれだけでスズムシの涼やかな鳴き声や、川の水面できらめく陽光や、クレーンの力強さなど、あらゆるものを完璧《かんぺき》に表現してみせた。
桜花に本物の才能があるのだとしでも、ここまで描けるようになるのには、いったいどのくらいの努力が必要だろうか。なぜか知らないが母親から描くなと理不尽なことを告げられ、見つからないかと怯《おび》えながらも、それでも隠れてずっと絵をこっそり描き続けていたという桜花。ひとつだけ間違いないのは、桜花は絵が本当に好きなのだということだ。それだけは確信《かくしん》を持って言える。
桜花がノートに措いたスケッチをはじめて見せたときの、優美子《ゆみこ》たちや父さんたちの反応はすごかった。優美子ははっと息を呑《の》み、感心したような吐息をこぼした。慶太《けいた》は「すごい!」と興奮《こうふん》していた。
「美大生が描いたものだって見せられても、疑いもしないよ。桜花ちゃん、君は……本当に、こんなの天才じゃないか!」
桜花はそんなまっすぐな賛辞《さんじ》を受けて戸惑い、硬直し、どうすればいいのかわからないといった顔で俺に視線《しせん》をちらりと送ってくる。慶太がもう一度「すごいよ!」と声を上げると、桜花は表情を揺らし、なにも言えず「…………」と黙《だま》り込んで、しかし頬《ほお》をかすかに染めてうつむいた。容姿や態度や勉強を褒《ほ》められてもそれほど反応のない桜花だったが、絵を褒められるのだけは嬉《うれ》しいようだった。あるいは、桜花にとってたったひとつそれだけが、褒められたい、認められたいと思っているものなのかもしれなかった。
ある夜、桜花がどこか申し訳なさそうに「──月が、描きたい」と言ってきたので、俺はコートを着込んで桜花を連れ小学校へ向かった。付近でいちばん月がきれいに見える場所だ。吐く息が白く立ち上る、寒い夜だった。桜花は母さんが買い与えた冬着をいっぱい身にまとい、もこもこになっていた。桜花は服にあまり興味がないらしいので、いつも母さんがコーディネートしたのを着ていた。
しずまり返った校庭から眺める十二月の夜空は、澄《す》みきっておりいつもより美しかった。桜花がじっと夜空を見上げるので、俺《おれ》は「夜空が、きれいか?」と尋ねる。
「──うん。むかしから、思ってた。……なにかの、形みたい」
桜花《おうか》がぽつりと、しずかにそう言った。俺は、形? と訝《いぶか》ったのちに、
「ああ、オリオン座のことか」
「オリオン……座?」
桜花が戸惑った目で俺を見る。驚《おどろ》いたことに、桜花はオリオン座も知らないらしかった。俺が説明してやると、桜花は星々をまた見上げてつぶやく。
「夜空を……守ってるみたい」
俺は鉛筆を走らせる桜花を眺めながら、桜花が自室のベッドから月を見上げていたときのことを思い出した。桜花はやはり、俺たちが見ているのとは少し違う、もっと美しい月を見ているのではないだろうか。いつも同じものを眺めているようでも、実際は、俺たちよりはるかに深い部分を眺めている。
そうでなければ、こんなにも緻密《ちみつ》で見事なスケッチが描《か》けるだろうか?
桜花の才能を育ててやりたい、伸ばしてやりたいと、強く感じた。それは父さんたちも優美子《ゆみこ》たちも、桜花の描いたものを目にした全員が同じだろうと思う。俺たちは少しずつ、桜花の絵に魅了《みりょう》されはじめている。
その冬はじめて雪が積《つ》もったのは冬休みに入って一週間後、十二月も直《じき》に終わろうとしている年末のことだった。耳がじんと痛み、手先が痺《しび》れるほどの寒さである。凍《こご》えた空気が、緩《ゆる》い朝陽《あさひ》を浴びてかがやいている。
俺たちの町は海に面したあまり雪の降らない土地にあるので、このくらいまで積もるのはなかなか稀《まれ》だ。ひと晩かけて降り積もった柔らかな雪が、小学校の校庭を真っ白に塗り替えている。一歩進むたび、雪を踏む感触が心地《ここち》よかった。
「──さくさくする」
スケッチブックを持って歩く桜花が、不思議《ふしぎ》そうに言った。
「なにか……変な、感じ」
「うん? 桜花、おまえが住んでた辺りなら雪はたまに降るんじゃないのか? はじめてじゃないだろ?」
俺の言葉に、桜花はこう答えた。
「見たことは、ある。ちゃんと触ったのは、はじめて…………」
雪が降る日も、静香《しずか》叔母《おば》さんから命じられたとおり、あの小さなアトリエにひとり閉じこもっていたのだろうか……と思う。あの森の冬は寒そうだ。とても。俺だったらきっと耐えられないだろうと思えるくらいに。
今日《きょう》は家でごろごろしていたところ、せっかくの積雪《せきせつ》だからと、優美子と慶太《けいた》が散歩にでも行かないかと誘いにきたのだった。桜花《おうか》はふたりと仲良く馴染《なじ》めているわけではないが、びくびく警戒《けいかい》しないで済む程度にはなっている。それはふたりが桜花のことを細かく気にして、よく顔を見せて桜花にいろいろ優《やさ》しく話しかけたりしてくれているからだ。
優美子《ゆみこ》が楽しそうに「桜花ちゃん」と話しかけた。
「雪だるま作ろ、雪だるま! いっしょにさ」
優美子の胸元では、ハート型のペンダントが揺れている。まだあのペンダントをしているんだな、と俺《おれ》はちょっと思った。あれはもう何年も前、ひとつ下の妹である美咲《みさき》からプレゼントされたものらしい。
むかしはとても仲のよかったその美咲と、一年ほど前から上手《うま》くいっておらず、嫌《いや》がらせみたいなこともされているらしいのに。それでもまだあのペンダントを大切にしている辺りが、優美子の純真さ──というか、ひたむきさの表れのように思えた。
「ゆき……だるま?」
桜花は優美子へと振り向いて、小さく聞き返す。もしかしたら、雪だるまというものがピンとこないのかもしれなかった。優美子にいきなり手を握られ、桜花が「あ……」とうろたえた声を出した。
「そう、雪だるま! ほらほら。あ、そうだ。雪だるまを作って、それをスケッチしたりすればいいじゃない? よし!」
優美子は桜花の手を引っ張っていく。桜花が不安そうに俺をちらと見てきたので、俺は大丈夫だまという意味を込めて微笑《ほほえ》んだ。すると、はは、と笑い声が聞こえる。振り返ると、慶太《けいた》が桜花たちを眺めて楽しそうに笑っていた。
「優美子ったら相変わらずだね。──ねえ、暁《あきら》。むかし、みんなで雪合戦したときのことを思い出さない? 寝てたら、小夜子《さよこ》ちゃんがいまの優美子くらい元気いっぱい張りきって起こしにきてさ」
「ああ」
と、うなずいた。慶太はいつもどおり、まだ子どもっぽさの残る見るからに優しそうで賢《かしこ》そうな可愛《かわい》らしい顔に微笑を浮かべ、穏《おだ》やかに俺を見ている。俺は慶太の顔を見返し、口の端をかすかに吊《つ》り上げた。
「小学四年くらいだったか? はしゃぎすぎて雪まみれのびしょ濡《ぬ》れになったときか。そのあと、みんなぐちゃぐちゃの服のままで慶太ん家《ち》に遊びに行って、おばさんにひどく叱《しか》られたな。小夜子は思いきり泣いてた」
「はは、そうだったね。みんな揃《そろ》って頭をはたかれたもんね──」
憶《おぼ》えている。いまでもそれほど違いはないだろうが、俺はあのころ慶太、優美子のふたりに、小夜子を交えで毎日毎日飽きもせず遊んでいた。思えばあのころが、これまででいちばん純粋で美しかった時期かもしれない。
慶太《けいた》の家は優美子《ゆみこ》の家以上にすぐ近所で、それこそ生まれたばかりのころから知っている。たぶん、小夜子《さよこ》のいちばん仲のよかった友だちも慶太だ。慶太はもう何年も使っている、母親からのプレゼントだという白い手編《てあ》みのマフラーに口許《くちもと》を埋め、目を細めて桜花《おうか》を見やった。桜花は戸惑いながらも雪を集めている。
「桜花ちゃんを見てたら、小夜子ちゃんを少しだけ思い出すよ」
慶太がそう続けたとき、はらりと、小さな小さな雪が舞《ま》っているのに気づいた。差し出した手のひらに落ちた瞬間《しゅんかん》に解けてなくなるような、はかない粉雪。俺《おれ》は真っ白な空を見上げてつぶやいた。
「──きれいだな」
「うん、そうだね。きれいだ」
舞雪《まいゆき》の向こうで、優美子が雪だるまを作っている。桜花が優美子に言われるがまま、おそるおそるそれを手伝っている。ふと既視感があった。慶太が言うとおり、小学四年のときの、雪が降った日のことを思い出した。雪合戦をする前に、優美子と小夜子が懸命《けんめい》に雪だるまを作っていた。あのときも俺と慶太は、それほどぺちゃくちゃ喋《しゃべ》らずにしずかに眺めていた。慶太とは、あまり喋らなくてもコミュニケーションが成立することがむかしからある。あのときもたしか、こんなふうに粉雪が舞いはじめていた──。
「……慶太」
そうだ、と思って俺が口を開くと、声音でピンときたのか、微笑したままの慶太から「ん? 母さんのこと?」との言葉が返ってきた。俺は一瞬《いっしゅん》言葉に詰まる。敵《かな》わないな、と胸中でつぶやいてうなずく。
「おばさんは──元気か?」
尋ねなければと、ずっと気にかかってはいた。慶太はくすりと笑い、気楽げにあっさり肯定を返してきた。
「うん。昨日《きのう》もさ、母さんったらTVを観《み》ながら笑い転げるもんだから。同じ病室のひとに僕が謝《あやま》るはめになっちゃったよ」
「──おばさん、笑い声が少し大きいもんな」
「少しじゃないけどね」
慶太が俺の冗談《じょうだん》にそう切り返してきたので、俺はほっとして笑った。ふわりと冷えきった風が吹いて、粉雪を舞わせる。優美子が上げた「きゃっ」との短い声が、すぐ傍《そば》で聞こえた。スケッチブックを大事そうに抱えた桜花と雪だるまを抱えた優美子のふたりが、いつの間にか戻ってきていた。
優美子が俺と慶太を交互に見て、目をぱちぱちさせる。
「あれ? ふたりとも、なんの話をしてたの?」
「ん? 僕の母さんの話」
慶太《けいた》の返事に、優美子《ゆみこ》は「あっ──」と気まずげな顔をした。
「そっか……。いま入院してるんだっけ」
その言葉に反応したのは俺《おれ》や慶太ではなく、優美子の後ろに立つ桜花《おうか》だった。桜花はまるで知らない言葉を聞いたような表情で「入院……?」とつぶやき、俺のほうを振り返って小首を傾《かし》げた。
「だれ……が?」
「慶太のお母さんがだよ」
雪がひらひら舞《ま》っている。俺は桜花へと歩み寄って、その頭に積《つ》もった雪を払ってやる。桜花は身を引こうとすることもなく、俺にされるがままに立っていた。不思議《ふしぎ》そうに「お母さん──?」と言っている。
「ああ。慶太のお母さんが、いつごろからだったかな──そう、おまえがうちにくる少し前くらいから入院してるんだ。俺が通ってる高校のすぐ下のほうに、大きな病院があるだろ? あそこに」
優美子が「ねえ、慶太」と心配そうに首をひねった。
「お母さんの退院まで、まだだいぶあるの?」
「どう──だろうね。まだなんとも言えない感じ、かな。そう大したことはないんだけど、どうも病気をこじらせちゃったみたいでさ。まだ何ヶ月か、そのくらいかかるかも」
「そうなんだ……。大変だね」
優美子が気遣うように言うと、慶太は微笑《ほほえ》みを深める。
「大丈夫だよ、ひどいことはないんだ」
ただ、慶太の父親は警察官《けいさつかん》で家を空けることもそれなりにあって、慶太はそれまで母親に任せていた炊事洗濯《すいじせんたく》を自分でやらなくてはならなくなったわけで、いろいろ困ってはいるはずである。
妹とのことで揉《も》めている優美子もそうだが、ふたりはそれなりに大変な事情はあっても、桜花を気にして明るくちょくちょく相手してくれる。それには本当に感謝《かんしゃ》している。ふたりがいてくれてよかった、とも思う。桜花は、ふたりが自分のことを気にかけてくれているとわかっているだろうか──。
桜花はその響《ひび》きを不思議《ふしぎ》がるように「入院……」と繰り返している。慶太がそんな桜花を、優しい眼差《まなざ》しで見つめる。同じように桜花をちらりと眺めた優美子が、不意に名案を思いついたというふうに顔をかがやかせ、手を叩《たた》いた。
「そうだ! 考えたらまだお見舞いもしてなかったもんね。これからお花とか買ってお見舞いに行くってのはどうかな? ね、桜花ちゃん、慶太のお母さんってちょっとおもしろいひとなんだよ。楽しくて、元気で、すぐ大きな声で笑って──」
「──ちょっと待て、優美子」
俺《おれ》はそう優美子《ゆみこ》を制してから、慶太《けいた》に向き直った。
「いいのか?」
慶太の柔和な顔から突然、微笑がふっと消えたのに気づいたからだった。優美子も「え」とつぶやいて慶太を振り返る。慶太は難《むずか》しそうな表情をして、心なしか動揺したふうな様子《ようす》で考え込んでいた。
優美子が我に返ったように「あ……」と声をこぼした。
「ごめん慶太、勝手に。迷惑……だった?」
「ううん。迷惑だとか、そうじゃないんだ」
慶太はぱっと笑顔《えがお》を取り戻し、優美子を安心させるように首を振った。
「前に桜花《おうか》ちゃんの話をしたら、母さんも一度会ってみたいって言ってたしね。ぜんぜん構わないよ。ただ……その、いま、母さんちょっと痩《や》せちやってるからさ。そういうとこはやっぱり、あんまり見せたくないかな、って」
優美子が「そうなんだ……。そうだよね」と眉根《まゆね》を寄せる。ふと桜花の反応が気にかかった。桜花は不思議《ふしぎ》そうに首をひねり、なにかを考え込んでいる。俺はそんな桜花をしばらく見つめて、慶太へ確認《かくにん》するように尋ゎた。
「やっぱり、ダメか?」
「うーん……、別に、ダメってわけじゃないけどね」
慶太の迷いように対しては、それほど深刻に思っていなかった。俺が、おや? と思って嫌《いや》な予感を覚えたのはそのあと、慶太がちらりと返してきた視線《しせん》のなかに、たったいまなにかを決心したような、重い雰囲気を見つけたからだった。もう十何年もいっしょにいるのだ、そのくらいのことは気づく。
慶太は「わかった」と穏《おだ》やかにうなずいた。
「いいよ。母さんもきっと喜ぶだろうしね。じゃあ、みんなで元気づけてあげて──ああ、そうだ。桜花ちゃんのスケッチを見せてあげてよ」
桜花が「えっ」と驚《おどろ》いた様子で顔を上げ、慶太をまじまじと見返した。
「どう……して?」
「きっと驚くから。びっくりする母さんの顔が見たいなって思ってさ」
慶太はそう言って、ぱちりとウインクした。桜花はなにも答えられずに、そっとスケッチブックへ視線を落とす。俺は桜花の肩をぽんと叩《たた》いてやった。すると桜花が俺を見上げて、それから慶太を見上げて、かすかにうなずいた。
「……わかった」
雪が、舞《ま》う。
変わらずきれいだった。いまこうして四人で雪を見ていることが、いつかまた美しい思い出になるのだろうか。そうなればいい。小学四年のあの雪のように、思い出のなかに降《ふ》り積《つ》もればいい。雪はすぐにはかなく消えてしまうが、記憶《きおく》のなかでならきっと、何年が経《た》とうと何十年が経とうと残るだろうから。
俺《おれ》と優美子《ゆみこ》でお金を出し合って、花と果物を買った。九階にあるおばさんの病室へ向かう途中、廊下の窓から雪をかぶった町並みが見渡せる。先頭を歩く慶太《けいた》に続いて俺と優美子。桜花《おうか》は俺の背中に隠れるようにしておっかなびっくりついてくる。おばさんがいるのは、四人部屋の窓際だった。
「母さん、暁《あきら》たちがお見舞《みま》いにきてくれたよ」
慶太がカーテンで仕切られたベッドのほうへ話しかけると、俺の知るおばさんの声とはまったくイメージの違う、しずかな声が返ってくる。
「まあ。ありがとう。いらっしゃい」
ええ、お久しぶりです。調子《ちょうし》はどうですか。俺は果物のかごを手に、そう応《こた》えようとした。だが、できなかった。息を呑《の》んで言葉を失ってしまったのだ。それは俺の隣《となり》にいる優美子も、同じであるようだった。
「久しぶりね、暁ちゃん、優美子ちゃん。あら、リンゴ? 嬉《うれ》しいわ」
そう微笑《ほほえ》んだおばさんが、驚《おどろ》くほどに痩《や》せていたから。慶太から話を聞いて想像していたよりも、ずっと。やつれている、と表現したほうが正しい。おばさんの顔に一瞬《いっしゅん》、なにか黒い影《かげ》が浮かんだような錯覚《さっかく》があった。
入院前のおばさんは割とふくよかな体型をしていて、腕相撲でまだ勝てないんだよと慶太が嘆いていたほどなのに、この急激《きゅうげき》な痩せようはどうだ。肌の張りもなく、頬《ほお》は痩《こ》けていて、眼差《まなざ》しに力がない──。
優美子がふと不安げな表情になりながらも、どうにか笑顔《えがお》を浮かべて差し出した花束を、おばさんは「ありがとう」と微笑んで受け取った。と、おばさんはそこで俺の背後に隠れる桜花に気づいて、嬉しそうに「あら」と声を上げる。桜花は俺の背後から、上目遣いにおそるおそるおばさんを見ていた。
「あなた、国崎《くにさき》桜花ちゃん?」
桜花がスケッチブックを抱いて、こくり、とうなずく。どうしてわたしだってわかったの? という感じに少し驚いているふうだった。
「そう。はじめまして、慶太のお母さんよ。慶太から話はよく聞いてるわ。わあ、本当ね。ものすごく可愛《かわい》い子。ふふ、会えて嬉しいわ」
桜花は「え……」と口ごもり、表情を揺らしてうつむいてしまった。おばさんがそんなふうに桜花へ話しかけているあいだ、俺は慶太へちらりと視線《しせん》を向けた。説明しろ、という意味で。慶太がそれに気づかないはずはなかったが、返事はない。
「慶太……」
俺《おれ》が声に出して訴えでも、慶太《けいた》は聞こえないふりをした。
「母さん、せっかくだからリンゴ剥《む》いてあげるよ」
おばさんに微笑《ほほえ》みかけた慶太は、果物かごからリンゴをひとつ取り上げて、棚の引き出しにあったナイフで皮剥きをはじめる。いかにも慣《な》れた様子《ようす》で切り分けたリンゴを皿に載せ、ベッドに座っておばさんに寄り添った。
「はい、じゃあ、あーんして」
おばさんが恥ずかしそうに身をよじる。
「ば、馬鹿《ばか》ね。暁《あきら》ちゃんたちがいるのに、恥ずかしい」
「いまさら暁や優美子《ゆみこ》相手に恥ずかしがってどうなるってのさ」
慶太が笑ったままリンゴを差し出していると、結局、おばさんは俺たちを気にしながらも口に入れた。小さな「美味《おい》しい……」とのささやき。おばさんに寄り添う慶太の一挙一動には、端から見ていてわかるほどの、かいがいしい愛情が溢《あふ》れている。
窓の外では、雪がまだちらちら舞《ま》っていた。おばさんがふとそちらを見やって「あ、また雪……」と言った。そして俺たちを振り返ってくる。
「そうだ、暁ちゃん、優美子ちゃん。憶《おぼ》えてるかしら」
懐《なつ》かしがるような、穏《おだ》やかな笑顔《えがお》で。
「いつごろだったかしら、むかし、こんなふうにたくさん雪の降った日があったわよね? みんなで雪遊びしてきて、うちの玄関をぐちゃぐちゃにして、あたしが怒りすぎちゃったせいで小夜子《さよこ》ちゃんが泣いちやって──」
「小学四年のときです。さっき慶太ともその話をしてましたよ。小夜子、ごめんなさいごめんなさいって、大泣きでしたね」
「──ふふっ。懐かしい」
もう一度窓へ目を向けたおばさんが見ていたのは、雪なのか、それとも俺たちが小学校四年生だったあの日の思い出なのか。俺はあまり話を続けられなかった。おばさんの姿を見ているだけで、胸の奥にずきりとしたものを感じる。優美子もそうだろう。おばさんのこのやつれようは、とても普通では──。
「そうだ、母さん」
と、慶太がにこやかにおばさんの肩へ手を置いた。
「前に、桜花《おうか》ちゃんはすごく絵が上手《うま》いんだって話したよね? それで今日《きょう》、桜花ちゃんにスケッチブックを持ってきてもらったんだ。見せてもらってみる? 本当にすごいから」
「まあ、本当?」
おばさんは本当に嬉《うれ》しそうに、ぱっと顔をかがやかせた。
「ぜひ、見せてもらいたいわ。いいかしら、桜花ちゃん?」
桜花はおばさんを見返し、次に慶太を見やり、最後に俺を見上げた。俺が「そのために持ってきたんだろ?」とうなずいてやると、桜花《おうか》はかすかなためらいののち、思いきったようにうなずいた。緊張《きんちょう》した面持ちで、スケッチブックを差し出す。桜花はひとに絵を見せるとき、いつであっても緊張する。
「──これ。わたしの、絵」
「ありがとう」
おばさんがスケッチブックをぱらぱらめくっているあいだ、桜花は固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていた。おばさんの表情がぴくりと動いたのを見て、桜花の目にますますの緊張が走る。そしておばさんは顔を上げて満面の笑顔《えがお》になった。
「本当! すごく上手《じょうず》ね! わあ、すごいわ。びっくりしちゃった」
桜花ははっとして、おそるおそる尋ねる。
「本……当?」
おばさんが開いたページに描かれているのは、先ほど優美子《ゆみこ》といっしょに作っていた、ところどころが崩れて不格好で、しかしそれが逆に愛嬢《あいきょう》となっている雪だるま。すごい、と俺《おれ》もまた心のなかで感嘆の声を上げる。まるで、ちらりと舞《ま》う雪に雪だるまがはしゃいでいるような絵である。鉛筆一本で表現された雪の質感に、最近ますます上手《うま》くなったんじゃないか、と思った。
おばさんは「ええ、本当よ」と明るく答え、もう一度スケッチブックへ視線《しせん》を落とした。その口許《くちもと》には、楽しげな微笑《ほほえ》みが浮かんでいる。
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「本当にすごいわ、桜花《おうか》ちゃん。見てたら、ちょっと元気が出てきそう」
「──元気が、出るの?」
桜花が訝《いぶか》しげにつぶやいて、おばさんの微笑みを見つめる。それから自分のスケッチブックへ視線《しせん》をやった桜花の目には、困惑の色があった。
「わたしの……絵、で?」
「ええ。だって」
ためらいなくうなずいたおばさんは、桜花へ「はい、ありがとう」とスケッチブックを返しながら、優《やさ》しく言った。
「こんなにも上手で、生き生きとしてて、楽しそうなんですもの。なんて言えばいいのかしら……すごくきれい。そうよね、世の中にはこんなにたくさんの……いろんなものがあるのよね。元気、出ちゃうわ」
それから一時間ほど雑談《ざつだん》をして、そろそろ帰ろうかということになった。帰り際、おばさんは「またきてね、三人とも」と微笑んだ。俺は「はい」と、優美子《ゆみこ》は「もちろん」と、それぞれうなずく。桜花は迷う仕草《しぐさ》を見せたのち、おそるおそるちょっとだけ、小さく小さく手を振った。
病室を出てしばらくのあいだ、だれも口を利かなかった──俺《おれ》や優美子は利けなかったというのが正しい。桜花はぎゅっと、愛《いと》しげにスケッチブックを抱きしめて、いつものようにじっと黙《だま》っていた。
慶太《けいた》が話を切り出したのは、エレベーターに乗ってからだ。
「ごめん、暁《あきら》、優美子」
慶太の声には自嘲《じちょう》の色があるように感じる。
「暁と優美子にはちゃんと言わなきゃって、ずっと考えてたんだけどね。勇気がなくて、なかなか言い出せなかったんだ」
優美子が「どういう、こと……?」と不安そうに慶太を見つめる。俺も、ポケットのなかのうさぎのキーホルダーを握りしめて、慶太をじっと眺めた。
エレベーターを降りて振り返った慶太の口許《くちもと》には、悲しい笑《え》みがある。
「母さんの痩《や》せようを見て、普通じゃないって思っただろ? 癌《がん》なんだ、うちの母さん。最初に入院したのは、ただ風邪《かぜ》をこじらせたからだったんだけどね、入院中にわかってさ。気づいたときにはもう、手の施しょうがない状態になってたらしくて──春までは保《も》たないかもしれないって」
優美子がさっと青ざめた。桜花は顔を上げて、なんの話? とばかりに目をぱちぱちさせたのち、俺たちの表情を見て「え……」と声を漏らした。一瞬《いっしゅん》遅れて意味を悟ったらしく、驚《おどろ》いた顔をする。
おばさんを最初に見たときちらりとよぎった黒い影《かげ》は、死相みたいなものだったのかもしれない。俺《おれ》はその瞬間《しゅんかん》、慶太《けいた》にかける言葉を探した──が、俺の知識《ちしき》と記憶《きおく》をひっくり返してみても、そんな言葉はどこにも見つからなかった。
「暁《あきら》も優美子《ゆみこ》も、そんな顔をしないでよ。ごめん、こんな話をして。母さんは、運が悪かったんだ。僕も父さんも、母さんだってもう覚悟はしてる」
慶太はおだやかに微笑《ほほえ》んだまま言い、空を見上げて付け足した。
「……でもやっぱり、悲しいね」
慶太はいつも微笑を浮かべている──悲しいことや辛《つら》いことがあっても。だが、いまはその優《やさ》しい笑《え》みを見ているのが辛い。雪を蹴《け》りながら歩いて帰るあいだ、だれも進んで口を開こうとはしなかった。雪は止《や》んでいる。けれど、慶太の心に降る雪は──しばらく止まないのかもしれなかった。
慶太たちと途中で別れ、俺と桜花《おうか》はふたりで帰路に着いていた。家の前の坂道では雪が自動車に踏み固められており、つるつる滑って大変だった。家に帰るあいだ、俺はずっとうつむき加減に黙《だま》っていた。桜花になにか話しかけてやる余裕もなかった。すると、隣《となり》の桜花から不意に声をかけられる。
「……あきら」
以前はだれかに自分から話しかけることもできなかった桜花だが、このごろ俺のことをそうやって名前で呼んでくれるようになっている。俺が「……うん?」と振り返ったそのとき、桜花が足を滑らせた。
慌てて抱きとめる。
「危ない。大丈夫か? ちゃんと足元を見て──」
「あきら」
と、桜花はもう一度言った。俺の腕のなかから、桜花のきれいな瞳《ひとみ》がじっと見上げてくる。桜花は不思議《ふしぎ》そうな、そして少しだけ不安そうな、そんな表情をしていた。桜花は俺の瞳を見つめたまま、
「悲しい……の?」
俺は反射的に自分の頬《ほお》を触る。涙に濡《ぬ》れてはいなかった。少し泣きそうな気分にはなっていたが、どうにか我慢はできていた。
俺は桜花をきちんと立たせて微笑した。
「おばさんと仲がいいって言っても、もちろん……たかが知れてはいるんだけどな。あんな慶太を見てたら、どうしても──少しな。あいつがあんなふうに悲しそうに笑っているのは、あまり見たくないから」
「慶太のお母さん」
そう言う桜花《おうか》の髪を、肌を切り裂くような冬の風が揺らした。
「治ら……ない、の? 元気にならないの?」
その問いに答えてやれないのが情けない。桜花は俺《おれ》の表情を見て「あ……」とうつむいた。こぼれた吐息が、冷たい空気と混じって消える。
「──わたしも」
桜花はぽつりと言い、そして不意に言葉を止めた。話を続けようとしないので「桜花?」と訝《いぶか》ると、桜花はうつむいたままもう一度「わたし、も──」と言った。桜花はぎゅっと目を閉じて、風に乗って消えそうな声で続ける。
「あきらが悲しんでるのを見てると……わたしも、悲しくなる──」
吹き抜ける風が、積《つ》もった雪をふわっと舞《ま》い上げた。
俺は「桜花……」と声をこぼして、目の前の、こちらの反応を怖れるように目を閉じる桜花を見つめた。この子が、そんなことを言うなんて──。正直なところ、心底から驚《おどろ》いていた。それとともに、胸の奥が熱《あつ》くなる。
俺が桜花の温かな頬《ほお》に触れると、桜花はびくっと反応し、そしてゆっくり目を開いた。俺は桜花へ微笑《ほほえ》みを向けた。
「ありがとう。すまないな」
桜花は吐息を漏らして、なにか考え込むような顔をした。桜花の表情にふっと憂《うれ》いのようなものがよぎり、わずかな静寂があった。そのあいだに桜花がいったいどんなことを考え思ったのかはわからない。そして。
「──あきら」
ちょっと迷うような表情を見せたのも一瞬《いっしゅん》、桜花は怖いくらい真剣な様子《ようす》で俺を見上げる。その眼差《まなざ》しの奥に、きらりと強い光がよぎったのを見た。桜花は懸命《けんめい》な、まるですがるように懸命な瞳《ひとみ》をして、思いきったように言った。
「お願《ねが》いが……、あるの。──キャンバスが……ほしい」
桜花がなにかをほしいと口にしたのははじめてだった。あるいは桜花自身、俺たちのことを家族だと思いはじめてくれているのかもしれない──。俺はそんなことを感じながら、桜花のお願いを聞いた。
「スケッチブックじゃなくて、きちんと──キャンバスに描《か》きたいの。それから──絵の具。黒と白の絵の具……も」
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調《しら》べてみると、きちんとした画材屋は市内に一軒だけあり、その画材屋は町のメイン・ストリートから少しそれた路地の奥まったところにあって、店名を『ローザ・ボヌールの飼い猫屋』といった。
暇をしていた優美子《ゆみこ》を伴って『ローザ・ボヌールの飼い猫屋』へ行ってみると、まだ二十歳《はたち》そこそこくらいだろう若くてきれいな女性が店番をやっていた。キャンバスと画材一式がほしいのだと伝えると、いくつかの商品を丁寧《ていねい》に説明してくれる。彼女は少し楽しげに、にやにやしながら尋ねてきた。
「絵をはじめようとしているのって、どっち? 彼氏のほう、彼女のほう? わたしの見立てでは彼氏のほうじゃないかと思うのだけれど、当たっている?」
「あはは、彼氏だなんて」
優美子がなんだか照れたふうだった。俺《おれ》は「いや、そんなのではなくて」と苦笑いして、店番の女性に桜花《おうか》のことを説明した。絵を描《か》くのは三つ下の従妹《いとこ》で、ものすごく上手《じょうず》なのだということ。でもたぶん、絵の具を使うのははじめてではないかということ──。
店番の女性は「へえ、そんなに上手なんだ」と興味《きょうみ》をそそられた顔になった。
「キミ、村瀬《むらせ》くんといったっけ? また暇なときで構わないから、その子をうちの店に連れてきて紹介してくれないかな」
「──機会《きかい》があったら」
俺はそううなずいて、十二色の絵の具が揃った画材セットと適度なサイズのキャンバス、イーゼルを選んだ。少し迷ったのだが、油彩にした。ペンチング・オイルその他の使い方のレクチャーを受け、支払いを済ませて店を出る。
優美子が「寒いっ」と肩を震《ふる》わせた。雪はもう残っていないが、気温は低いままだ。あちこちでやっているセールが、いよいよ目前に迫った年越しを意識《いしき》させる。優美子は空を見上げて、白い息といっしょに言葉をこぼした。
「桜花ちゃんは慶太《けいた》のお母さんのことを知って……どんなふうに思ったのかな」
「桜花もきっと、悲しんでるんだよ」
俺はこのあいだの、病院からの帰り道の桜花を思い出しながら言った。あきらが悲しんでるのを見てるとわたしも悲しくなる、と言ってくれたこともそうだが、その前、愛《いと》しげにスケッチブックを抱きしめていたあの姿を。
「おばさんは桜花の絵を見て、すごくきれいだって褒めてくれたんだからな」
雪の降らない年末の空は、高くまで澄《す》みきっている。
桜花は部屋に新聞紙を敷《し》いたその上にイーゼルとキャンバスを立て、慣《な》れない手つきで筆を握った。桜花が描きはじめたのは十二月三十一日のことで、俺はいまが冬休みでよかったと本当に思った。そうでなければ、桜花は描くために学校を平気で休んだだろう。キャンバスと向き合う桜花の集中力には凄《すさ》まじいものがあった。
桜花は下描きをしなかった。最初、一時間ほど目を閉じて微動だにしない。そしてある瞬間《しゅんかん》おもむろに描《か》きはじめた桜花《おうか》の頭のなかでは、もう絵が完璧《かんぺき》に出来上がっていたのかもしれない。桜花はモデルを見ることすらしなかった。桜花の横顔には周囲の干渉をいっさいはね除《の》ける鬼気迫るなにかと、ぴんと張り詰めた美しさが満ちていた。桜花は丸三日間、トイレや入浴などを別にしたすべての時間、部屋にこもりきりになった。
「あの子はいったいどうしたんだ?」
「だ、大丈夫なのかしら、桜花ちゃん?」
父さんたちがそんなふうに不安がる気持ちはよく理解できる。桜花は三日のあいだ、見るたびに疲労の色をくっきり濃《こ》くしていった。もしかすると、夕方以外はまったく寝ていないのではないかとすら思った。
桜花を無理やりにでも休ませてやりたい気持ちになるのを、懸命《けんめい》に堪《こら》える。いったいなにを描いているのかはわからなかったが、ただ、だれに渡すための絵を描いているのか、それはわかっていたから。
桜花はまるで魂を燃焼《ねんしょう》させているような懸命さで、絵の具をキャンバスへ叩《たた》きつけていく。二日目の夜、俺《おれ》が食事を持っていったとき、声をかけても気づいてくれなかったのがその集中力のすごさを物語っている。何度か繰り返し呼びかけてやっと振り返った桜花は、あっ、と申し訳なさそうにうつむいた。
「ごめんなさい……。気が、つかなかった」
「いや、それはいいんだ。ただ……あまり無理はするなよ」
俺がそう告げると、桜花は憔悴《しょうすい》した顔で「…だいじょうぶ」と小さく答えた。
その際に黒と白の二種類のみで彩られたキャンバスを見てはじめて、桜花が描いているものを把握した。邪魔《じゃま》をしではいけないと思いつつも、気になって訊《き》いてみる。
「黒と白だけで、ほかの色は使わないのか?」
桜花は一瞬|黙《だま》り込んだのち、うん、とうなずく。二色だけで十分に表現できるということなのかもしれない。そして実際、完成途中の絵を見てみると、俺なんかが余計な口を挟むべきではないなと思った。
「……慶太《けいた》のお母さんは」
部屋を出ようとしたところに、桜花がぼそりとこぼしたその声が届いた。振り返った俺は、筆を握ってキャンバスに向かい合ったままの懸命な桜花の横顔に、悲しみがふっとよぎるのを見た。
「元気が出るって、そう言ったの。わたしの絵を見て、そう言ってくれた……。わたしの絵を見たら元気が出るって。だから──……」
正月まっただなかの一月二日、桜花の部屋に行くと、すうすうと小さな寝息が聞こえた。俺は胸を撫《な》で下ろし、思わず「ああ……」と吐息をこぼした。桜花が絵の具の散った新聞紙の上に転がって眠っている。終わったのだ、と悟った。
真冬の力ない、しかし優《やさ》しい陽射《ひざ》しが、桜花《おうか》の部屋に差し込んでいた。木漏れ日のようにカーテンの隙間《すきま》からこぼれた光のなかで、立てかけられたキャンバスはきらきらとかがやいている。俺《おれ》はちょっとやそっとでは起きそうにない、ぐっすり眠りこける桜花を抱き上げて、ベッドまで運んでやった。
俺は桜花の額《ひたい》に手を当てる。微笑《ほほえ》みがこぼれた。
「よくがんばったな」
桜花には届いてなかったが、それで構わなかった。
いったん自分の部屋に戻って、『ローザ・ボヌールの飼い猫屋』でこっそり買ってきていた額縁《がくぶち》を取ってくる。それを桜花のベッド脇《わき》に置いた。
キャンバスには額縁などいらない。だが、この世に生まれ落ちたばかりの、桜花が懸命《けんめい》に描《か》き上げたその傑作には、飾りつけるための額縁が必要だった。俺はその絵を眺め、桜花の寝顔を眺める。この子はすごいな、本当に……と、掛け値なしにそう思う。桜花の才能は天からの祝福かもしれない。いまはじめて、強く強く確信《かくしん》に近いものを抱いた。この子は絵画の天才なのではないだろうか。
正月が明けた、冬休みの最終日。俺たちは国立の病院に、二度目のお見舞《みま》いに行った。外ではまた雪がちらちら舞っていたが、雲の切れ間から穏《おだ》やかな陽射しがこぼれていて、残念ながらとても積《つ》もりそうにはない。大きな窓からたくさんの光が差し込んで、痛室内は優しい明るさに溢《あふ》れていた。
おばさんの病室は、ひとり部屋へと変わっていた。
「──あら、みんな。またきてくれたの?」
おばさんは相変わらず見ていて痛々しいほどやつれていたが、それでも俺たちの姿を見ると嬉《うれ》しそうに微笑んだ。
優美子《ゆみこ》が、あは、と笑って鞄《かばん》からよく熟《う》れたリンゴを取り出した。
「これ、あたしからのお土産《みやげ》。よかったら食べてください」
「まあ。うふふ、ありがとう。リンゴは大好きよ」
「母さん、今日《きょう》は果物だけじゃなくて、特別なプレゼントがあるんだ」
慶太《けいた》がそう微笑み「ね、暁《あきら》」と振り返ったので、俺はおばさんを見てうなずいた。また俺の背中に隠れてこそこそする桜花を促して、ふたりで一歩前へ出る。
「桜花からプレゼントがあるんです。気に入ってもらえると嬉しいんですが」
「え、桜花ちゃんから?」
おばさんは無邪気に口許《くちもと》をほころばせた。
「なにかしら。ちょっとどきどきするわね」
桜花がみんなの視線《しせん》を受けて、少しだけびくっとなったあと、覚悟を決めた表情をして「──これ」と、白い布で隠した絵を差し出した。おばさんはちょっとびっくりしたふうに、目をぱちくりさせた。
「絵……?」
おばさんは桜花《おうか》の絵を受け取った。
「桜花が描《か》きました。見てやってください」
「わたしの絵を、元気が出るって、言ってくれたから……」
桜花が懸命《けんめい》に言葉を紡いでいく。俺《おれ》は、桜花があまりの緊張《きんちょう》で震《ふる》えているのに気づいた。こっそり手を差し出してやると、桜花はかすかなためらいののち、俺の手をぎゅっと握った。
「だから、……わたしの絵なんかじゃ、なんの役にも立たないかも、しれないけど……。元気が出たらいいなって、そう思って──」
おばさんがくすりとする。
「そう思って、わたしのために描いてくれたの? ありがとう。それじゃあ、見せてもらおうかしら。ふふ、楽しみ」
桜花が俺の手を、ぎゅうっと強く強く握りしめる。その手がぶるぶると震えている。俺は桜花と出会ったときのことを思い出す。あのびくびくしていた子が、ひとのために絵を描いたのだ。いったいどれほどの緊張か。
俺は桜花の手をしっかり握り返した。
そして、絵にかけられた布を外したおばさんの笑顔《えがお》が、大きく揺れた。
「これって」
おばさんはそれ以上、言葉を続けられなかった。優美子《ゆみこ》と慶太《けいた》のふたりも絵の内容をはじめて見て、はっと息を呑《の》む。桜花がまともな休息も取らず、三日三晩かけ、生まれてはじめて全身全霊《ぜんしんぜんれい》を込めて仕上げたそれは、黒と白だけで描かれた人物画である。
慶太が驚《おどろ》いたふうに、乾いた声を漏らした。
「──これ、僕……だよね。どう見ても」
「……わたしの目から見た、慶太」
桜花はうつむき加減で、自信なさそうに言った。
完璧《かんぺき》すぎるほど完璧なデッサンの上で描かれた、離《はな》れて見たらあるいは白黒写真のように見えるかもしれない、優《やさ》しく微笑《ほほえ》む慶太の絵である。優美子が口許《くちもと》を押さえて「すごい……。嘘《うそ》みたい」とつぶやいた。
言葉を失っているおばさんへ、桜花はぽつりぽつりと語りかけた。
「気に入らなかったら……、ごめんなさい……」
その油彩画には鉛筆によるスケッチほど洗練された感じはなかった。それは桜花が油彩に慣《な》れていないせいだろう。乾ききらないうちに絵の具を重ねて載せたせいで、濁《にご》ったりしてしまっている箇所もある。だが、そこには普通の白黒写真で感じるのよりもはるかに大きな温かみがある。俺《おれ》は最初に桜花《おうか》の部屋でこの絵を見たとき、慣《な》れない粗《あら》さがそう見せているのかとも思った。
けれど、おそらくそうではないのだ。桜花が油彩に慣れていてもこの温《ぬく》もりが消えることはなく、むしろこの絵の持つかがやきが増していただけではないか。この絵の温もりの源は、もっと深い──。
「わたしのお母さんは、わたしのことが……すごく、嫌いだった」
桜花が不器用に、しかしかってないくらい一所懸命《いっしょけんめい》に話をする。
「わたしの顔も行動も性格も、全部が嫌いだって……。だから、お母さんって、そういうものだと思ってた。でも」
おばさんは桜花の声が聞こえているのかいないのか、まばたきもせずに桜花の絵を見つめている。そこに描かれた慶太《けいた》の微笑《ほほえ》みを見ている──。
「あきらのお母さんと、慶太と、慶太のお母さんを見てたら……そうじゃないんだって、お母さんっていうのは温かいんだって、わかったの。慶太と、慶太のお母さんの仲を見てて……すごくきれいだと、思った──」
不思議《ふしぎ》だった。慣れない油彩に悪戦苦闘《あくせんくとう》したのが見て取れるまだまだ荒い筆致で、それも黒と白の二色だけで描かれたこの絵が、いったいどうしてこんなにも心を揺らすのだろう。こんなにも温かいのだろう。
それはきっと、この絵には愛があるからだ。描き手である桜花の、ではない。桜花の目に映る、美しくひたむきで優《やさ》しさの満《み》ち溢《あふ》れた、慶太の母親への愛。それが絵のひと筆ひと筆に宿って、温かな光を放っている。
桜花の絵が、おばさんへ優しく語っていた。
あなたは息子に愛されて生きたのだと。
そしてたとえこれから死にゆくのだとしても、深く愛されたまま逝《ゆ》くのだと。
おばさんは目を閉じて、細くなったその腕で桜花の絵を愛《いと》しそうに抱きしめた。おばさんの表情が歪《ゆが》んで、その頬《ほお》をひと筋の涙が伝う。桜花が不安そうに「あ……」と息をこぼした。そして慶太が「母さん……」とベッドに寄り添って頬を拭《ぬぐ》った瞬間《しゅんかん》、おばさんは絵を抱いたまま泣き崩れた。
桜花がはっと顔色を変え、怯《おび》えたようにびくっと震《ふる》える。桜花が、どうしよう、みたいな混乱しかかった瞳《ひとみ》で俺を振り仰いだとき、慶太が「桜花ちゃん」と声をかけた。慶太は絵のなかと同じ微笑みを浮かべている。
「ありがとう、本当に。──本当に」
慶太の声も、少しだけ涙に濡《ぬ》れていた。
慶太とおばさんを、落ち着くまでふたりきりにさせてやろうと思った。俺は桜花と優美子《ゆみこ》を連れて病室から出て、ラウンジの自販機《じはんき》で缶コーヒーを買う。そのひとつを、震える桜花へと手渡した。桜花《おうか》は缶コーヒーを受け取りはしたものの、口をつけようともせず泣きそうに動揺した声を発した。
「慶太《けいた》のお母さん、……泣いてた。すごく……わたし、余計なことを……? わたしの絵なんかで、あんなことをするから──……」
「あれは違う。あの涙はそうじゃないんだよ」
俺《おれ》は桜花の肩を掴《つか》んで、その目をまっすぐに覗《のぞ》き込んだ。
桜花はぱちぱちとまばたきをして、
「……え?」
「あの涙は、違うんだ」
繰り返す。俺がいま桜花をいかに誇らしく思っているか、どれだけすごいと感じているか、どうにかして桜花自身に余さず伝えてやりたかった。
「桜花。おまえは正しい。おまえがやったのは……俺にはとてもできない、ほかのだれにもできない、本当に素晴《すば》らしいことだ」
「そうだよ桜花ちゃん。偉いよ、すごい。尊敬する」
優美子はうなずいたあとで、自分が涙ぐんでいることに気づいたらしい。慌てて俺たちに背を向け、鞄《かばん》から取り出したティッシュで鼻をかんだ。
もしかしたら、桜花がおばさんへ渡す絵を描《か》いたのは、俺のためだったのかもしれない。俺が傷ついた表情を見せてしまったから、桜花はなんとかしたいと思ってくれたのかもしれなかった。だがその結果、桜花は俺だけではなくみんなの──おばさんの病気でショックを受けている全員の心を、優《やさ》しく救ったのである。
時間ほど容赦ないものはこの世にないと思う。ひとの気持ちも願《ねが》いも、ありとあらゆる事情をいっさいかえりみず、淡々と流れていく。冬が終わって、春の息吹《いぶき》が近づいてきたころ、昼と夜のあいだ、いつものようにほんの少しだけ顔を覗《のぞ》かせた真《ま》っ赤《か》な夕陽《ゆうひ》のなかで、おばさんは慶太の愛情と桜花の絵を抱きしめて天に召された。
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4.
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お墓を参ったとき、優美子が少し泣きそうになっていた。が、俺もそうであるように、優美子も懸命《けんめい》に堪《こら》えたようだった。葬儀《そうぎ》のときに慶太が微笑をたたえたまま、結局、人前では涙を見せなかったのだから、俺たちに泣く権利はないだろう。
「──桜花。花を」
俺が言うと、桜花はなにを思ったのか、持っていた花束から百合《ゆり》の花だけを抜き出した。そして、その花びらを一枚一枚むしりはじめた。山の中腹にある墓地には、爽《さわ》やかな風が吹いている。
桜花《おうか》はその風のなかへ、花びらでいっぱいになった両手を掲げた。
慶太《けいた》がおだやかに、優《やさ》しく問いかける。
「桜花ちゃん、風は気持ちいい?」
「──春の匂《にお》いがする」
優美子《ゆみこ》が我慢しきれずに、ぐす、と鼻をすすった。
白い花びらが風に乗って舞《ま》い上がり、彼方《かなた》へと散っていく──。
お墓参りを終えて、慶太の家で昼食を摂《と》ることになった。優美子が作ったパスタを食べ終えて、みんなで紅茶を飲みながらほっとひと息ついたとき、慶太が「あ、そうだ」とつぶやいて、家の奥へ引っ込んだ。それからしばらくして、一過の手紙を持って居間に戻ってくる。慶太はその手紙を桜花へ手渡した。
「これ。預かってたんだ。桜花ちゃんへの手紙」
「手紙? わたし、に……?」
「うん。母さんから」
慶太の言葉に、桜花ははっとした。俺《おれ》と優美子もである。
慶太は紅茶をひと口飲み、おばさんのおだやかに微笑《ほほえ》む写真が飾られた、仏間のほうを見やった。それから桜花《おうか》へ視線《しせん》を戻して、しずかに口を開く。
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「桜花ちゃんに改めてお礼を言っておかなきゃって、思ってたんだ。母さんに絵をプレゼントしてくれたときから、ずっと。──ありがとう。本当に。感謝《かんしゃ》してもしきれない。桜花ちゃんは、僕がどれだけ感謝してるかわかってないから」
桜花は「え──」と驚《おどろ》いたふうに目を丸くする。慶太《けいた》はくすりとして、桜花の隣《となり》に座る俺へちらりと視線を向けた。
「暁《あきら》は最後のほうも何回かお見舞《みま》いにきてくれたから知ってるだろうけど、母さんは……すごく苦しんだよ。あんまり言いたくないけど、本当に可哀想《かわいそう》で、──早く死なせてあげたほうがいいのかなって、そんなことを思ったくらい。でも、それでも──桜花ちゃんのおかげで、母さんは救われた」
桜花はうつむいて、小さく首を振った。
「わたしは、そんな──大したことは、なにもしてない……」
「母さんは苦しくても、自分の人生を悔やまずに済んだと思うんだ。桜花ちゃんの絵が、僕が学校とかで傍《そば》にいてやれないときも、母さんに──あなたは愛されているんだってことを、教え続けてくれたから。母さんは僕たちを愛して、僕たちに愛されて生きた。母さんは息を引き取るときも、桜花ちゃんの絵を傍に置いていたよ。それは救いなんだ。苦しみのなかの、たったひとつの救いだった」
慶太は思い出すように微笑を消した。そしておばさんが亡くなってからはじめて、その目に涙をにじませる。優美子《ゆみこ》が「慶太──」と悲しそうにささやいた。慶太は「ごめん」とつぶやき、目許《めもと》を拭《ぬぐ》った。それから涙声で、しかし笑顔《えがお》を取り戻して続ける。
「母さんが救われたのを見て……僕も、救われたんだと思う。ありがとう」
桜花はそんなことを言われるなど、まったく思いもしていなかったようだった。明らかにうろたえた様子《ようす》で「そんな、わたし──」とつぶやく。その桜花に、慶太はまっすぐな視線を注いで言った。
「桜花ちゃんの絵は……奇跡みたいだよ。ずっと描き続けてほしいな。きっとこれからも、君の絵ならたくさんのひとを救えるだろうから」
確信《かくしん》に満ちたその言葉は予言のような力強さに満ちていた。桜花が「慶太……」と呆然《ぼうぜん》とした声を出す。桜花は困ったような表情で慶太を見つめて、それから恥ずかしそうに顔をうつむけた。他人からのまっすぐな称賛《しょうさん》に戸惑っている。桜花がちらりと見上げてきたので、俺《おれ》はうなずいて言った。
「俺もそう思うよ。おまえは、本当に……すごいな」
「あきら──」
桜花が表情を大きく揺らしたそのとき、居間に慶太のお父さんが挨拶《あいさつ》にやってきた。慶太のお父さんは警察官《けいさつかん》をやっていて、がっしりした体格のひとである。おじさんは「君が桜花ちやんかい?」と口許《くちもと》をほころばせ──。
その表情が、突然はっと揺れた。
おじさんは目を細めて桜花《おうか》の美貌《びぼう》を覗《のぞ》き込み、眉《まゆ》をひそめる。
桜花が困惑したように見つめ返した。
「な、に?」
「……あ、いや、すまない。君があんまり美人なのでな」
おじさんは冗談《じょうだん》めかして笑い、不意に俺《おれ》のほうを見た。俺はその表情に「ん?」と思う。おじさんはなにやら訝《いぶか》しげな顔をしていた。
「村瀬《むらせ》くん。ちょっと尋ねてみるんだが」
「なんですか?」
「桜花ちゃんは、君の母方の従妹《いとこ》なんだよな? 失礼だが、お父さんは──」
「──桜花に父親はいません。それがなにか」
「……。いや、いきなり申し訳なかった。なんでもないよ。失礼なことを考えた。気のせいだろう。そんなはずはない、忘れてくれ。とにかく桜花ちゃん、君には何度お礼を言っても言い足りない。本当に……ありがとう」
おじさんがいったいなにに引っかかったのかは、わからなかったが。おじさんも桜花に何度もお礼を言い、桜花を大いに戸惑わせた。大したことはしていないと言う桜花に、おじさんは笑《え》みを浮かべて首を振った。
慶太《けいた》の家をあとにして、優美子《ゆみこ》を含めた三人で歩いて帰る途中、桜花は慶太から渡されたおばさんの手紙を読んでいた。途中で優美子とも別れ、ふたりきりになる。桜花は手紙を読み終えた様子《ようす》で、俺を見上げた。手紙になんと書いてあったのか、そのきれいな瞳《ひとみ》がしずかに揺れていた。
「どうした、桜花?」
「わたしの絵は、ひとを救える……の? 本当に?」
そこにあるのは戸惑い、かすかな怯《おび》え、疑念、なによりも自信のなさだ。俺は桜花の頭をくしゃくしゃと撫《な》でる。桜花はくすぐったそうに片目を閉じた。
「少なくとも、間違いなく言えるのは」
桜花が感じているさまざまな不安を吹き散らすように、
「慶太と慶太のおじさんは、おまえにありがとうって言ったってことだよ。あれがお世辞やくだらない建前なんかじゃないっていうのは、もうわかるだろ?」
一瞬《いっしゅん》の間、
「──うん。わかる」
やがて迷いを振りきってうなずいた桜花の小さな笑みは春風のようにさわやかで、一輪《いちりん》の花のように愛らしかった。俺は桜花のその微笑《ほほえ》みを眺めながら、これからなにかが変わりゆくだろう予感を覚えた。なにも変わらないはずはない。桜花《おうか》は自分の絵が奇跡的な力を持ち、あるいはひとの心さえ救えるかもしれない、祝福されるべきものであると、今日《きょう》ようやく知ったのだから。
桜花の誕生日《たんじょうび》は四月の上旬だ。たぶん、その日は桜が満開になっていて、それが名前の由来になったのだろうと思う。帰り道にある、俺《おれ》が通う高校にはたくさんの立派な桜が生えていて、それらがいつの間にか満開になっていた。桜が風でざわざわと揺れ、花吹雪《はなふぶき》を舞《ま》い上げる。桜花は自分の名前の由来であるその花びらの美しさに、はっと息を呑《の》んで「雪みたい──……」とささやいた。
もう、春だ。すべてが色づく季節────
桜花はよりいっそうの情熱《じょうねつ》を絵に傾けるようになり、毎日ひたむきに描いていた。始業式直前となったある夜、優美子《ゆみこ》たちと遊んで夜遅くに帰宅すると、まだ桜花の部屋から明かりが漏れていて驚《おどろ》いた。
「桜花、まだ起きてたのか?」
部屋を覗《のぞ》いて声をかけると桜花は振り返って、
「うん。もう少しで、仕上がりそうだったから……」
いつものようにイーゼルにキャンバスが立てかけられている。
黒と白のみを使って描かれた風景画である。小学校前の道路から見た、海と港。黒と白しか存在していないのに、相変わらず目が覚めるような素晴《すば》らしい出来映えだった。俺は「──すごいな」と息をつく。
桜花は絵筆を持ったまま少しはにかんだ。
「今回は少しだけ、……上手《うま》く描けてると、思う」
「そうか。完成が楽しみだな」
ふと気づいて、桜花の頬《ほお》にくっついた白い絵の具をハンカチで拭《ぬぐ》う。が、もう乾きはじめていて、ハンカチではきれいに拭えなかった。
「お風呂《ふろ》はまだ入ってないのか?」
問いかけると、桜花はぶんぶんと首を振った。
「あとで入る」
「それじゃあ、俺が先に入らせてもらうよ。俺が上がるまでに描き終わるか? ほどほどにしておかないと身体《からだ》を壊《こわ》すぞ。明日《あした》また続きを描けばいいんだから」
「──うん」
桜花はキャンバスをちらりと見てから、素直にうなずいた。
「わかった」
そんな桜花を見ていると、自然と口許《くちもと》がほころぶ。この何ヶ月のあいだで、桜花はだいぶ変わってくれた──と、本当に思う。少しずつ笑みを見せてくれるようになり、自分の絵に自信を持ちはじめた。すべてが上手《うま》くいっている感じがした。俺《おれ》はハンカチをポケットに戻して桜花《おうか》の部屋を出ようとし、なんとなく振り返って尋ねてみた。
「ああ、そうだ、桜花」
桜花が目をぱちくりさせる。
「なに?」
「また今回も黒と白だけなんだな」
桜花はなぜかはっとしたふうに表情を揺らし、目をそらした。
「うん…………」
「ほかの色も使ってみればいいじゃないか。昨日《きのう》、画材屋の店員に笑われたよ。また黒と白の絵の具だけを買うのかってさ。いや、黒と白だけってのも味があるとは思うけどな。どうしていつも黒と白だけなんだ?」
桜花は一瞬《いっしゅん》口ごもった。
俺が「桜花?」と訝《いぶか》ると、うなだれてゆっくり首を振る。
「……自信がないの。まだ」
俺は思わずふっと笑みをこぼした。これだけのものを平然と描《か》いていて、慶太《けいた》たちからあんなふうに言われ、それでもまだ「自信がない」か。俺は桜花の許まで歩み寄って、その頭をくしゃっと撫《な》でた。
「お前なら大丈夫だと思うよ。どうしてそんなに自信がないんだ? なんにしろ、とりあえず一度は色を使って描いてみればいいじゃないか。黒と白だけでここまで描けるんだから、たくさんの色を使えばきっと──」
俺は言いながら、浮かべていた笑みを消した。黙《だま》り込み、うつむき加減になっている桜花の表情が、予想よりはるかに深刻だったから。桜花はなにか、重大な決断を迷っているふうに見えた。
「桜花? どうした?」
「わたしには、──がわからないから」
ぽつり、と桜花がつぶやくように言う。俺は「え?」と硬直した。
桜花は、いまなんて──?
いや、それはぼそぼそとした小さな声だったが、実際のところ、どうにか聞こえてはいたのだ。だが、まったく理解はできなかった。まさか、と思った。俺は、はは、と少し笑う。その笑顔《えがお》が引きつっているのが、自分でもわかった。
「なにを言い出すんだ。そんな──」
信じがたかったし、信じたくない思いも大きかった。どくんどくんと、鼓動が激《はげ》しくなってくる。じんわりと、汗がにじんだ。桜花はどこか申し訳なさそうに俺を見上げて、先ほどよりはっきりと繰《く》り返した。
「わたしには、正しい色がわからないから」
それは聞き間違いでも、たちの悪い冗談《じょうだん》でもなく。
俺《おれ》は愕然《がくぜん》として、桜花《おうか》の黒と白だけで描かれた絵を見つめた。
日没は嫌い。全部が押《お》し潰《つぶ》されていくみたいだから──。
数ヶ月いっしょに暮らしてそのときようやく、桜花が日没をそんなふうに表現した理由を悟った。単純な比喩《ひゆ》ではなく、桜花の目には実際そんなふうに見えていたのである。いつも傍《そば》にいて桜花を見ていたくせに、俺たちはだれひとりとしていまのいままでそんなことを思いもしなかった。桜花がいっさいの色を識別《しきべつ》できないことに、まったく気づいていなかったのだ。情けなさに目眩《めまい》がして、足元ががらがら崩れていく感覚を味わった。
桜花のことをいかに表面的にしか見ていなかったのかを、俺は思い知らされた。
父さんたちも、気づけなかった自分自身を責めていた。桜花は小学校のころ色覚異常を診断されており、引き取る際のごたごたで混乱はしていたが、少し突っ込んで調《しら》べておけばすぐにわかったことなのだ。
調べてみた結果、いわゆる色覚異常というのは網膜にある錐体《すいたい》の異常によって起こり、珍しいものではないらしい。程度はピンからキリまでで、そのほとんどは生活にまったく支障のない、障害と呼ぶのも正確《せいかく》ではないくらいのレベルであるそうだ。ただ、桜花は違う。極めて稀《まれ》な、本当の意味で色が見えない──全色盲。弱視のない、一色型色覚。
いま振り返れば日没のこともそうであるし、それ以外の日常生活でも、たとえば桜花は一度も自分で買う服を選んだことがないなど、思い当たるふしはいくつかあった。それなのに俺たちは気づけなかった。
俺も父さんたちも激《はげ》しく落ち込んだ。
桜花から話を聞いた翌晩、部屋で大音量のヘッドフォンをはめていろいろ考えていると、つま先から頭のてっぺんまで不意に灼熱《しゃくねつ》に近い苛立《いらだ》ちが駆け抜けて、俺は近くにあった文庫本を思わず壁《かべ》に投げつけていた。
「──くそったれ」
もし世界のどこかに絵画の神がいるのなら、首を絞めてやりたい気分だった。俺たち家族の心を支配したのは自分たちへの情けなさもあったが、それ以上に、いっさいの色が識別できないということが、絵描《えか》きにとって致命的なのではないかとの凄《すさ》まじい不安だ。もし桜花の興味《きょうみ》の対象やその才能が、絵ではなくもっと別のこと、色の見える見えないが苦にならないものであったら、まだ──。
素晴《すば》らしい絵画の才能に恵まれ、たくさん努力してきて、きっとこれからいろんなひとから祝福を受けるだろうと思われた桜花が、黒と白でしか絵を描けないなんて──。俺は苛立《いらだ》ち紛れにコーヒーでも飲もうと思い、ベッドから身体《からだ》を起こして、ふとドアのところに桜花《おうか》が立っていることに気づいた。
「っ、桜花──」
「──ごめんなさい、あきら」
桜花はうつむき加減に、そうぽつりとつぶやいた。いつからそこにいたのだろうか、まったく気づいていなかった。本を投げたのも見られただろうかと思うとまた自分が情けなくなったが、なんとか気を取り直して桜花を手招きする。
桜花は俺《おれ》の隣《となり》に腰を下ろして、悲しそうにうなだれた。
「わたしが黙《だま》ってたせいで、みんながイヤな気持ちになって……」
「そうじゃない。おまえが申し訳なく思わなきやいけないことなんて、なにひとつないんだ。謝《あやま》らなきやいけないのは、俺たちのほうだ」
俺はなるべく穏《おだ》やかに言った。そうだよな、と反省する。俺たちが悲しみ後悔に荒れれば荒れるほど、それを見ている当の桜花だって傷ついていくのだ。俺は桜花を見つめて「ごめんな」と告げる。
「本当にすまない。情けないな」
桜花が俺を見た。俺は苦笑いを浮かべる。
「何ヶ月もいっしょに暮らしてきたのに、こんなことも──気づいてやれなかったな。俺はおまえのなにを見ていたんだろうと思うよ」
桜花が小さく、それでも一所懸命《いっしょけんめい》に首を振った。
「ううん、あきらは悪くない。わたしが……、黙ってたから。あきらたちに気づかれないように、いろいろ誤魔化《ごまか》していたから……」
「いや」
と、俺はしずかに答えた。懸命な桜花を見ているといたたまれない気分になる。
「それでもやっぱり、気づいてやらなきやいけなかったんだ。他人のことじゃない、桜花、おまえのことなんだから」
桜花は驚《おどろ》いた顔をして、それからすっと目をそらす。桜花はそのときたしかに、ほんの少しだけだけれど目許《めもと》を細めて、嬉《うれ》しそうにしていた。きっとほかのひとが見ても気づかないだろうが、この数ヶ月ずっと桜花を見てきた俺にはわかった。桜花はかすかに煩《ほお》を染めて「……うん」とうなずき、立ち上がった。
どこか、吹っ切れたような爽《さわ》やかさがあった。
「でも、わたしはだいじょうぶ。本当に、だいじょうぶなの」
そう言ってほんのちょっとだけ微笑《ほほえ》んだ桜花の美貌《びぼう》は、その瞬間《しゅんかん》、妖精か天使か、そんな幻想的ななにかに見えてしまうくらい、本当に美しかった。桜花が窓へゆっくり歩み寄って開け放つと、温かで優《やさ》しい風が吹き込んでくる。
「こっちに、きて……あきら」
その風で桜花《おうか》の長い髪がさわさわ揺れる。夜空には満月とまではいかないものの、八割ほど満ちたきれいな月が浮かんでいる。俺《おれ》が言われたまま傍《そば》へ行くと、桜花は夜空の月を指差して不意に言った。
「あれは、……つき色」
「──つき色?」
俺は訝《いぶか》しげに桜花を見つめる。桜花は真面目《まじめ》な顔でこくりとうなずき、今度は路地の向こうにある、青白くかがやく外灯を指差した。
「あっちは、うすあかり色」
桜花はさらに隣家《りんか》の屋根を指差し、
「あれは、ざらざら色」
次に真っ暗な陰影《いんえい》を刻む山を指差し、
「あのへんは、ひびき色。あの海のほうは、よるうみ色……」
そんなふうに次々と、俺の知らない色の名前を告げていく。桜花は戸惑う俺の瞳《ひとみ》を見上げて「わたしは正しい色は、わからないけど」と言う。そして、とても穏《おだ》やかな表情で、窓の外の月を眺めた。
「わたしにはわたしだけの色があるから、だから……だいじょうぶ。わたし、色っていうのはこういうものなんだろうなって、この明るさだったら、この形だったら、こんな色なんだろうなって、考えてる色がたくさんあるの。わたしの想像のなかだけに……」
風が吹く。ふと、月の鳴き声が聞こえたような──そんな気がした。
桜花は色が識別《しきべつ》できないという現実を、苦に思っていないのかもしれなかった。
「色はわからないけど、目を閉じると違うの。わたしが想像で塗《ぬ》り潰《つぶ》した……たくさんの色が広がってる。それは正しくないだろうけど、でも、すごく……きれいなの。あきらにも見せたいくらい、すごく、すごく……。わたしは、ずっとそのきれいな世界にいるの。だから、色がわからなくても……だいじょうぶ」
桜花は──想像のなかだけで、自分の色を見ている?
そんなことがありえるのだろうか。俺は桜花の横顔を見つめた。俺が当たり前に見ている溢《あふ》れんばかりの色彩を、なにも映していない眼差《まなざ》し。だが桜花はその代わりに、俺には見えない美しい色を思い描いている?
「いまのは、あきらにしか教えてない……内緒《ないしょ》の、話」
桜花の真剣な、確信《かくしん》のようなものを宿したその横顔を見ていると、すべての言葉が真実に聞こえる。そうなのだろう、と思った。だからこそ桜花が描《か》く絵は、黒と白だけにもかかわらずあんなに多彩な感情を宿しているのではないか。
「わたしの絵も、わたしの想像のなかだけでは……色つきで見えてるの」
俺《おれ》はポケットのうさぎのキーホルダーを、ぐっと握った。
窓辺から振り返った桜花《おうか》は、月を背負っていた。夜の静寂が満ちて、外からは自動車の走る音、階下からはつけっぱなしにしているのだろうTVの音が聞こえてくる。俺は気づけば「──桜花」と口を開いていた。桜花が小首を傾《かし》げる。
「なに……?」
「これを──おまえにやるよ。お詫び……ってわけでもないけど」
俺はうさぎのキーホルダーを差し出した。
桜花はそれを両手で受け取り、首を傾げたままぽつりと、
「うさぎ……?」
「俺のお守り──みたいなもの、かな。いろいろ辛《つら》いことがあったとき、いつも握っていた。きっとおまえにはなんでもない、ただのキーホルダーだろうが……受け取ってくれないか。おまえに持っていてほしい」
桜花はしばらくうさぎのキーホルダーを眺めていた。そして、目を閉じそのキーホルダーを愛《いと》しげにぎゅっと抱きしめる。
「……可愛《かわい》い」
──願《ねが》わくは。
もしこの世界のどこかに絵画の神がいるのなら、いくらでも祈ろう。願わくは、この子が背負わされた、俺には致命的にしか思えない、色が識別《しきべつ》できないという辛い宿命を、この子がその才能とまっすぐな意志を持って乗り越えられますように。困難《こんなん》に負けず絵を愛し続け、小夜子《さよこ》が手にできなかったぶんまで、素晴《すば》らしい未来を送れますように。
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第二部「月の盾」
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桜花《おうか》が筆を走らせると、キャンバスのなかにもうひとつの世界が生まれる。黒と白だけで多彩に表現された美しい世界が生まれ落ち、見る者の心を大きく揺らす。俺《おれ》たちの抱く不安をよそに、桜花は描《か》けば描くだけ上達していった。
桜花は何枚も何枚も描き、少しでも気に入らなければすぐ廃棄し、必ず以前よりも素晴《すば》らしい出来映えで描き直した。桜花にはすでに完璧《かんぺき》なものをなおも完璧にしようとする、熱狂《ねっきょう》と苦悩があった。才能よりも創造力よりもなによりも、絵に対するその懸命《けんめい》なひたむきさが、桜花の実力の源であるのかもしれない。
俺や優美子《ゆみこ》たちは高校二年に、桜花は中学二年になった。四月が終わり、五月に入って、慶太《けいた》はようやく母親の死から立ち直りはじめて、一方、桜花はそのころになってはじめて過去の画家に興味《きょうみ》を持ち出した。
俺《おれ》が図書館《としょかん》や学校から借りて帰ったさまざまな画集を、桜花《おうか》は食い入るように眺めた。桜花はいろんな時代の多くの画家たちに新鮮《しんせん》な驚《おどろ》きを発見していたが、そのなかでも特に感銘を受けたのは、バロックの時代の画家、ベラスケスとフェルメールであるようだった。いくらなんでも当たり前だが、このひとたちわたしよりずっと上手《じょうず》、と驚いていた。
桜花がフェルメールの画集のあるページを開いて、一時間も二時間もずっとじっと眺めている。俺が「桜花?」と声をかけると、桜花は画集を見つめたまま返事をした。
「なに……?」
「ずっと見ていても、飽きないんだな」
「……。だって」
桜花が見ている画集を覗《のぞ》き込むと、それは古い地図が壁《かべ》にかけられたアトリエで、女神と向き合った画家が絵を制作している絵だった。タイトルは『絵画芸術の寓意』とある。なるほど、素人目《しろうとめ》にも、ああ出来のよさそうな絵だな、と感じた。
フェルメールは十七世紀のオランダの画家で、その構成力や彼が使う青色《あおいろ》の素晴《すば》らしさはもとより、世界中でも三十数点という残っている作品の希少さでも知られる。たしか今度、その一枚が特別展で来日するのだと、どこかのニュースで見た気がする。桜花はやっと画集から顔を上げて俺を見た。
「本当に、すごく上手《うま》いから……。わたしもずっとずっと描《か》いて、たくさん練習していたら、いつかこんなふうに上手くなれる──……?」
それ以来、桜花は自分の目で見た風景画や人物画だけではなく、過去の画家の模写も描くようになった。絵画の歴史に関する本も読むようになり、ただ好きに描くというだけではなく、絵を勉強するという思考が生まれたらしかった。
はじめは失敗することもよくあったようだが、桜花はすぐにフェルメールをはじめルネッサンスのラファエロから二十世紀絵画のピカソまで、どんなに上手い画家の作品でも見事な模写を描けるようになった。さすがに、ルノワールのような淡く明るい色調《しきちょう》を黒と白だけで表現するのは難《むずか》しいらしかったが。
そうして、桜花はますます上手くなっていく。俺から見れば、際限なく、と思えるほどである。桜花がキャンバスに筆を走らせるだけで、周りの世界が変わる。周囲の心があっさり塗り替えられていく──。
梅雨《つゆ》の六月。じめじめといつまでも降り続く雨が、窓ガラスをすうっと伝い落ちる。昼休憩《ひるきゅうけい》、俺はいつものように優美子《ゆみこ》、慶太《けいた》のふたりといっしょに、教室で弁当を広げていた。慶太が自作の弁当をつつきながら「最近さ──」と言った。
「桜花ちゃん、また上手くなったんじゃない?」
「あ、それ、あたしも思った」
優美子《ゆみこ》も購買《こうばい》のパンを片手に同意した。
教室ではもう昼食を終えたクラスメイトたちも多々いて、がやがやと騒《さわ》がしい。ちらりと窓の外へ視線《しせん》を向けると、坂の途中にある俺《おれ》の家が見える。俺たちが通う高校は、家から徒歩で一分ほどの近所である。上の下か中の上くらいのレベルの、公立高校だ。慶太《けいた》が「ねえ、暁《あきら》」と言ってくる。
「暁も感じない? 桜花《おうか》ちゃんがまた上手《うま》くなったって」
「まあ、そうだな。このあいだの、モネの──」なんていったっけな、『日傘をさす女』か。あの絵の水彩で描いた模写もすごかったな」
「──思うんだけどさ」
慶太がふと真面目《まじめ》な顔をする。俺は慶太の、ほとんど空になった弁当箱をちらと見て、少しほっとした気分になった。新学期がはじまったばかりのころは食欲もあまりなかった様子《ようす》だったが、精神的に落ち着いたようで食も以前どおりに戻っている。時間は容赦なくひとを傷つける一方で、優《やさ》しくひとの傷を癒《いや》してもいく。
「桜花ちゃんって、いまのままでいいのかな」
慶太の言葉に、ん? と眉《まゆ》をひそめる。
「どういう意味だ?」
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「桜花《おうか》ちゃんって学校とかじゃぜんぜん絵を描《か》かないんだよね?」
「親しくない相手が近くにいると、集中できないらしいからな」
すると、横で優美子《ゆみこ》が「あ、嬉《うれ》しいな」と口許《くちもと》をほころばせた。桜花が自分の傍《そば》では絵を描けることを言っているのだろう。
慶太《けいた》が「ということは」と続ける。
「桜花ちゃんがあんなに素晴《すば》らしい絵を描けるってことを知ってるのは、僕たちだけなわけだろ。桜花ちゃんくらいの年で──ましてや色が見えないのに──あれだけ描ける子なんて、きっとほかにいないと思うんだ。だから、もしかしたら──」
慶太がなにを言おうとしているのか、ようやくわかった。
俺《おれ》は箸《はし》を止めて、慶太を見つめる。
「雑誌に投稿するなりコンクールに応募するなりなんなりして、桜花のことをみんなに教えたらどうかってことか?」
「うん。いや、別にそうしろって言ってるわけじゃなくてね。ただ、桜花ちゃんのことを世間が知らないのはもったいないなって、ちょっと思ったんだ。桜花ちゃんの絵なら、きっと──……暁《あきら》はどう思ってる?」
「どう……だろうな」
俺の頭をよぎったのは、桜花はまだ中学二年になったばかりで、しかも少し前までひとと会話するのも苦労していたか弱い子だということだ。たしかに桜花の絵は中学生という範疇《はんちゅう》を超えていると思うし、桜花はとても見目麗《みめうるわ》しい子だから、流れによっては話題になるかもしれないが──。
「それはもちろん、いずれ、もし桜花が絵でご飯を食べていくことができるようになれば、素晴らしいことだとは思うけどな……。桜花は十四になったばかりだし、あんまり、ひとの好奇の視線《しせん》にさらしたくは、ないな──」
いまの桜花は描いているだけで幸せといった感じで、取り立てて絵画の世界で成功したいとか、そういうことはあまり思っていないようである。だがもし、そういう機会《きかい》に恵まれたら、そのとき桜花はどう思うのだろうか──。慶太は微笑し「そっか。まあ、そうだよね」とうなずいた。
「桜花ちゃん、まだ中学二年生なわけだしね」
優美子がにこやかに「そうそう」と言った。
「あたしたち三人とも、中学二年生のときなんて遊んでばっかりだったじゃない。のんびり、好きに描いてたらいいんじゃないかな」
「そうだな──」
俺はうなずきかけて不意に、うん? と気づく。
前髪が揺れた拍子にちらっと見えた、優美子のおでこの端。上手《うま》く隠れるように髪をセットしていたようだが、小さなたんこぶができて、ぶっくりと青く腫れている。俺《おれ》はなにかよくない予感を覚えた。
「……優美子《ゆみこ》」
「ん、なあに」
「その額《ひたい》の傷、どうしたんだ」
優美子はぎくりとしたふうに表情を揺らした。慶太《けいた》が「──え?」とまばたきする。あは、と笑った優美子は慌てたふうに前髪でたんこぶを隠す。
「ちょ、ちょっとドジっちゃって。恥ずかしながら、階段で転んでしまいまして」
「階段で……? 気をつけなよ」
心配そうな慶太に、優美子は「そうだね」と笑った。俺はそうやって笑う優美子の表情を、じっと観察《かんさつ》する。いまのは、あまりに不自然な動揺の仕方である。ちょっと覚えた予感が、確信《かくしん》に近いものへと変わった。
俺はぽつりと尋ねる。
「──美咲《みさき》か?」
優美子は「あ──」と再び表情をぎくりとさせ、一瞬《いっしゅん》後にふうと大きなため息をついた。慶太も、あ、という感じの顔になって優美子を見つめた。
優美子が、くすり、と自嘲《じちょう》の笑《え》みを浮かべる。
「……わかっちゃうんだからなあ」
俺と慶太の表情に浮かんだ不安を見て取ったのか、優美子は笑顔《えがお》で続けた。
「そんな大したことじゃないんだ。また喧嘩《けんか》して、ちょっとした揉《も》み合いになっちゃって。それであたしが階段から足を踏み外したんだ。その、別に美咲があたしを突き落としたとか、そういうのじゃぜんぜんないんだよ?」
俺はふと胸騒《むなさわ》ぎを覚えた。
「もしかして、このごろは前よりひどくなってるのか?」
「…………ちょっとだけ」
優美子が少しの沈黙《ちんもく》のあとで、うつむき加減にそう答えた。
優美子が妹の美咲と不仲になっているらしいのは聞いていたが、わざとではないといっても階段から落とされるなんて、普通ではないと思った。優美子の胸元では、むかし美咲からプレゼントされたものであるペンダントが揺れている。
優美子と美咲はとても仲のよい姉妹で、美咲はいつも優美子に「お姉ちゃん好き」とじゃれついて、優美子が髪型を変えれば真似《まね》して同じ髪型に変え、優美子が服を買えば真似して同じような服を買って着るような妹だった。それは俺や慶太も知っている。
それが壊《こわ》れたのは一年と半年ほど前、突然のことだった。
当時中学三年だった優美子《ゆみこ》が学校から帰宅すると、美咲《みきき》がリビングのソファに座ってTVを観《み》ていた。優美子は笑顔《えがお》で「ただいま」と声をかけた。すると、美咲は「おかえり」ではなく違う言葉を返してきた。
「ねえ、優美子」
突然の呼び捨てに、優美子は驚《おどろ》いて硬直してしまった。ソファから振り返った美咲の口許《くちもと》に浮かぶ冷たい笑《え》みに、優美子はぞっとするものを感じて、思わずなにも言えなくなったのだという。
「どうしてあたしがあんたと同じ髪型にするか、知っている?」
「……え?」
戸惑う優美子を眺めて、美咲はにやにやと笑っていた。
「馬鹿《ばか》ね。男の子の好みって、いろいろあるでしょう? あたしが髪の毛を短くしてて、あんたが髪の毛を長くしてたら、もしかしたら百人にひとりくらいは、あんたのほうを可愛《かわい》いって思うひとがいるかもしれない。でも、あたしとあんたが同じ髪型にして同じような格好をしていたら、だれが見ても、あたしのほうがあんたなんかよりはるかに美人だってことがよくわかるじゃない?」
まるでこれまでの日々がすべてまぼろしだったというふうに、その日から美咲の嫌《いや》がらせははじまった。優美子のブーツが切り刻まれてゴミ箱に捨ててあったり、差出人名の書かれていない誹謗中傷《ひぼうちゅうしょう》の手紙が下駄箱《げたばこ》に毎日毎日届けられたり、周りの人間たちに優美子の悪口を言葉巧みに言いふらしたりと。
原因についての心当たりはひとつだけなのだと、優美子は話していた。美咲はその少し前から「好きなひとができたの」と嬉《うれ》しそうにこぼしていたらしい。美咲はそういうことに疎《うと》い優美子と違って、恋愛好きな少女だった。
美咲はものすごい美人で、おしゃれで、勉強も運動もなんでもできる子である。優美子の知るかぎり、美咲に好きなひとができて上手《うま》くいかなかった試しはなかったらしい。美咲はいつも友人たちの輪《わ》の中心にいて健康的な魅力《みりょく》を振りまき、他校の男子のあいだでも噂《うわさ》になるようなアイドルだった。
そのときも、優美子は可愛い美咲のことだから上手くいくと思って応援していた。相手は優美子の、つまり俺《おれ》たちの同級生で、陸上部のエースだった。優美子は「告白してみたら?」と気楽に言い、美咲はそのとおりにした。そして、生まれてはじめて振られることになる。相手の返事は「ほかに好きな子がいるから」だった。それはだれ、と尋ねた美咲に彼は気まずそうに答えた。「君の、お姉さん」。
美咲は可愛らしく愛橋《あいきょう》を振りまいているその裏で、とてつもなく高いプライドを持った少女である。その言葉は美咲のプライドをズタズタに引き裂いたらしかった。美咲にとって、中学生の男子ごときに自分が振られるなど、自分より優美子のほうが魅力的だと告げられるなどと、耐えられることではなかったのかもしれない。
そして、美咲《みきき》の優美子《ゆみこ》への異常とも言えるような、ねちっこく意地の悪い、手のひらを返したような嫌《いや》がらせがはじまった。優美子は原因について「あんなことくらいで、どうして」と言っていたが──俺《おれ》にはわかるような気がする。俺は小学生のころ、美咲の可愛《かわい》い顔に隠された本性を見たことがあるから。
これは優美子にも話していない話だ。
俺の通っていた小学校にはうさぎ小屋があり、生徒たちが交替で世話をすることになっていた。俺は匂《にお》いが好きになれず、動物好きの小夜子《さよこ》が「うさぎを見に行く」とはしゃぐたびに、こっそり眉《まゆ》をひそめていたものだが。
居残りで漢字練習をさせられた日、うさぎ小屋の前にランドセルを背負った人影《ひとかげ》がしゃがみ込んでいるのを見かけたことがある。すぐに美咲だとわかった。当時三年生の美咲はその美しい顔に、にやにやとした、いかにも楽しそうな笑《え》みを浮かべていた。どこか得体《えたい》の知れない冷たい笑みだった。
翌日になって、学校のうさぎが全羽残らず目を潰《つぶ》されているのが発見される。全部で五羽いたうさぎはその目を残らずカッターナイフかなにか、そういう刃物で切り裂かれていた。美咲だ、と俺は直感した。美咲のあのにやにやした、たぶん他人に見せることはないのだろう、冷たくぞっとするような笑みが目に焼きついている……。
「──あの冷たい笑い方は、ちょっと普通じゃなかったな……」
俺は自分の部屋のベッドに寝そべって、優美子と美咲のことを考えていた。オーディオから緩《ゆる》やかなバラードが流れている。優美子の額《ひたい》の、たんこぶのことを思い浮かべる。このままでは、きっとよくない。かといって、俺がどうこう考えたところで、どうにもできないのかもしれないが──。
壁時計《かべどけい》を見やると、いつの間にか午後十時を回っていた。ベッドから起き上がってオーディオを止めると、いつまで経《た》っても降《ふ》り止《や》む気配《けはい》のない雨音が、窓の向こうからざあざあ聞こえてくる。俺は風呂《ふろ》でも入ろうかなと考えて立ち上がった。ドアがノックされたのはそのときだった。
「……あきら?」
「ん? ああ、桜花《おうか》か。入っていいよ」
返事をする。と、がちゃりとドアが開き、パジャマ姿の桜花が入ってくる。なにか言いたそうな、落ち着かない様子《ようす》で、上目遣いにこちらを見ている。俺が「どうした?」と首を傾《かし》げると、桜花は小さく声を発した。
「──あの」
「うん?」
「……勉強」
桜花《おうか》は遠慮《えんりょ》がちにそう言った。
「勉強を、見てくれるって──」
あっ! と思い出す。うなだれた桜花を見て、しまった、と思った。そうだ。九時から桜花の勉強を見てやる約束をしていたのだ。優美子《ゆみこ》たちのことを考えていてすっかり忘れていた。いままで、桜花との約束を忘れたことなんてなかったのに。
「──悪い、桜花! うっかりしてた。いまからでもいいか?」
「……うん。ごめんなさい」
桜花は申し訳なさそうにしながらも、ほんのちょっぴり微笑《ほほえ》んだ。ということは、桜花は一時間も自分の部屋でぼんやり俺《おれ》を待っていたのだろうか。なにをしているんだ俺は、と悔いていると、桜花が俺の目を見つめて唇を開いた。
「あきら……、なにかあったの?」
俺は思わず「え──」と言葉に詰まる。よく見ている子だ。不安そうな顔をして返答を待つ桜花に、俺は首を振った。
「いや、大したことじゃない。優美子のことで少し……考え事をな」
今度は桜花が「えっ」と驚《おどろ》いたふうだった。
「優美子が……、どうかしたの?」
「大丈夫だ、なんでもないよ。気にしなくていい」
俺は桜花の頭をぽんぽんと撫《な》でる。桜花は「優美子のことを、考えていたの……?」と釈然としない面持ちで、俺の浮かべた微笑を見上げていた。
雨は続いている。どうしても、梅雨《つゆ》は気が滅入《めい》った。好きな季節ではない。特に、なにか心に引っかかったことがあると、だれかの涙雨のように感じてしまう。雨音を聞きながら、そう思った。もう一年ほど会っていない美咲《みさき》から突然の電話がかかってきたのは、それから三日後の夜のことだった。
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その日、桜花の様子《ようす》が少しおかしいことに、帰宅してすぐ気がついた。リビングで文庫本を読んでいると、テーブルの向かい側に座った桜花がこそこそと俺を見ていた。顔を上げて目を合わすと、桜花は「あ……」と声をこぼして表情を強張《こわば》らせる。そして、逃げるように顔をうつむける。
「桜花?」
声をかけると、桜花は「その、今度──」となにかを言いかけて、ふと言葉を止める。その煩《ほお》が恥ずかしげに赤くなっているように見えるのは、気のせいだろうか。やがて桜花は恥ずかしそうな顔のまま、首を振った。
「──ううん。なんでも、ない」
どうしたんだろう。なにを言いたかったんだろうか。
それから夕方になって桜花《おうか》がいつものように睡眠を取り、母さんが台所に立って食事の支度をしているときだった。テーブルの上に放り投げている携帯電話が鳴った。ディスプレイに表示されているのは、見覚えのない番号である。
俺《おれ》は訝《いぶか》りながら電話を取った。
「──はい?」
『もしもし、暁《あきら》くん? お久しぶり。あたしです』
驚《おどろ》いた。聞こえてきたのは高く澄《す》んだ美しい声である。久しぶりでも一発でわかる、印象的な声とはきはきした自信に満ちた喋《しゃべ》り方だ。
『元気だった? 一年ぶり──くらいかしら。暁くんが高校に入って別の学校になっちゃってからは、なかなかお話しする機会《きかい》がなかったですもんね』
「美咲《みさき》……か」
電話の向こうで美咲が可愛《かわい》らしく微笑《ほほえ》むのが目に浮かぶようだった。
『うふふ。すぐわかってくれて嬉《うれ》しいわ』
美咲はいつも男の子に対してこんな、明るくとても親しげな話し方をする。たぶん、美咲くらい可愛い子にこういう喋《しゃべ》り方をされたら、たいていの男は舞《ま》い上がってしまうだろうというような。
『照れくさくてちょっと迷ったんだけど……、いきなりお電話してごめんなさい。いま、少しだけお話ししても大丈夫?』
「──ああ。別に構わない」
どうして美咲が俺に電話をかけてくるんだ、と思った。優美子《ゆみこ》から話を聞いたばかりなだけに、どうしたって警戒《けいかい》はする。
「なんの用事だ?」
『暁くんの声が聞きたくて、……なんて言ったら怒る? うふふ。あのね、大切な話があるのよ。それでよかったら、土曜日《どようび》にでも会えない? 電話じゃできない、とても大事な話。せっかくだから、お昼でもごいっしょしましょ? お姉ちゃんには内緒《ないしょ》の話だし。そうね、お店と待ち合わせは──』
美咲は俺が口を挟む間もなく、場所と時間をてきぱきと指示した。一瞬《いっしゅん》迷ったが土曜日は暇だったので、まあいいかと思い、約束を了承した。美咲が俺にいったいなんの用事があるのかわからなかったが、場合によっては優美子との話をできるかもしれない。
『暁くんとデートって、はじめてね。どきどきするわ』
美咲は楽しそうに付け足して、電話を終えた。
「なんなんだ、いったい」
俺《おれ》は首をひねり、携帯電話をテーブルへ放り投げる。しばらくして夕食の仕度が整《ととの》い、桜花《おうか》が起きてきて、家族四人での食事となった。そのあいだも、桜花は時折俺をちらちら見て、何度もなにかを言い出そうとしているふうである。母さんが食器の片づけをはじめ、父さんが風呂《ふろ》に入り、ふたりきりになったとき訊《き》いてみることにした。
「桜花」
「え、──な、に……?」
「さっきから、どうした? なにかあるんなら、言ってみろ」
桜花の表情に緊張《きんちょう》が走る。桜花は動揺をその美貌《びぼう》に浮かべて、そっとうつむいた。そろっと視線《しせん》を上げておそるおそる俺を見つめ、しばらく逡巡《しゅんじゅん》していたが、俺が「うん?」と促すと思いきったように、
「──フェルメールがくるの、知ってる……?」
「ん、ああ。県内の美術館《びじゅつかん》でも、特別展をやるんだってな」
すぐに思い当たる。今日《きょう》もTVのCMを見た。少し前からあった、フェルメールの最高傑作の一枚が来日しそれを目玉として特別展が開催されるという話のスケジュールが正式に決定したらしく、その封切りが割と近くにある大きな美術館で行われるのだと。
俺は「ええっと」と首を傾《かし》げた。
「いつからだっけな」
「……土曜日《どようび》、から。くる絵は、あの──絵画芸術なの」
桜花はぽつりぽつりと語り、そこでいったん言葉を止めた。気づけばなぜか桜花の頬《ほお》が赤く火照《ほて》っていた。ん? と俺は眉《まゆ》をひそめる。桜花の上目遣いの瞳《ひとみ》が、恥ずかしそうに揺らいでいる。桜花は唇を開きかけては勇気が出せずに閉じるということを繰り返し、しばらくためらうように黙っていた。
「──桜花?」
「あきら、──それで、土曜日、なんだけど……」
桜花の眼差《まなざ》しは、見ているほうが思わずどきりとしてしまうくらい、とても懸命《けんめい》だった。瞳が潤《うる》んでいるようにさえ見えた。桜花は不意に耐えられなくなったというふうに目を伏せて、消え入りそうな声で続ける。
「……ふたりで、いっしょに、見に行きたい」
俺は少し驚《おどろ》いて、うつむく桜花の、上気した顔を見つめる。
俺が桜花をいろいろ連れ回すことはあっても、桜花のほうからこんなふうに誘われたのははじめてだ。桜花は目も合わせられないといった様子《ようす》で、恥ずかしそうに、そしてどこか怖がっているような自信なさそうな顔で、じっと俺の返事を待っている。俺は口許《くちもと》がふっとほころぶのを感じた。
「わかった、いいよ。行こう」
俺《おれ》が言うと、桜花《おうか》はぱっと表情をかがやかせた。
「本当──?」
「ああ。土曜日《どようび》なら、空いてたはずだから──」
言いかけて、気づいた。先ほど美咲《みさき》と約束をしてしまったばかりだったのを忘れていた。しまったな、と内心で毒づく。こうなるのがわかっていたら、美咲からの誘いくらい断っていたのに。俺は顔をしかめて首を振る。
「そうだ、違う。桜花、すまない。土曜日はダメだったんだ」
「あ…………」
と、桜花の表情が悲しそうに揺れた。桜花はゆっくりとうつむき、
「…………そう、なの」
ぽつりとこぼれたのは、危うく聞き取れなかったほど小さなつぶやきで。桜花があまりにがっかりした様子《ようす》だったので、俺はちょっと慌てた。
「土曜日は無理でも日曜なら──いや、日曜は父さんたちと出かけるんだったな。ああ、そうだ。そのときにでも時間があれば、ついでに美術館《びじゅつかん》に寄れば」
桜花は焦ったふうに顔を上げる。
「違う。違う……の」
「うん? 違う?」
桜花は一瞬《いっしゅん》の躊躇《ちゅうちょ》ののち、ぎゅっと目を閉じて言った。
「──……あきらのお父さんとか、お母さんと、いっしょじゃなくて。…………あきらと、ふたりが、いいの──」
俺はさらにびっくりして、桜花……と胸中でつぶやいた。桜花は頬《ほお》を染めて、ますます恥ずかしげに黙《だま》り込んだ。そっと目を開けて俺を見て、目が合うと慌てふためいてまたうつむく。耳許《みみもと》まで真《ま》っ赤《か》になっている。この子がこんなふうに言うなんて、いったいどれだけ勇気が要っただろうかと思った。
じん、と胸が熱《あつ》くなるのを感じる。俺は「……そうか」と微笑《ほほえ》み、桜花の頭をくしやっと撫《な》でた。桜花が吐息をこぼして見上げてくる。
「とにかく桜花、すまない。今週末は無理だけど、特別展の期間は二ヶ月かそのくらいはあるんだろ? 時間が空いたときに、必ず行こう。ふたりで」
「──……うん」
桜花はようやく、強張《こわば》った表情をほんのちょっとだけ緩《ゆる》めてくれた。つけっぱなしのTVがふとCMに入り、フェルメールの特別展の宣伝が偶然流れる。桜花はそれをぼんやり聞いたのち、ふと首を傾《かし》げてくる。
「あきらは土曜日、なんの用事があるの?」
「美咲──ええっと、優美子《ゆみこ》の妹からいきなり電話がかかってきてな。話があるとか言って。それでついでに食事もする約束をしたんだ」
俺《おれ》の説明に、桜花《おうか》は「え……」と目を丸くした。
「あきらと、ふたりきりで?」
「そうだな」
「…………そう」
桜花はうつむき、それだけつぶやくと、くるりと背を向けてリビングを出ていった。俺は不可解に感じて「ん……?」と首をひねる。なんだかいま、桜花が急に少し不機嫌《ふきげん》になったような──? 俺が頬《ほお》をかいたとき、風呂《ふろ》から上がったトランクス姿の父さんがリビングに顔を出し、「いい湯だったぞ」と言った。
出かける際、自室で絵を描《か》く桜花へ「それじゃ、ちょっと行ってくる」と告げると、桜花はすぐに返事をしてくれなかった。
「桜花?」
「──行ってらっしゃい」
振り返った桜花の表情は、すっきりしない感じだった。気のせいかもしれないが、どこか気分が優《すぐ》れないような顔をしている。どうかしたのかと気にはなったが、待ち合わせ時間に遅れるので仕方なく家を出ることにした。土曜日《どようび》の空はどんより曇《くも》っていたが、どうにか雨は降り出さずに済んでいた。
「こんにちは、暁《あきら》くん」
久しぶりに見る美咲《みさき》は、ますますきれいになっていた。もともとおしゃれな子だったが、服装やさりげないアクセサリはむろん、立《た》ち振《ふ》る舞《ま》いや化粧にも磨きがかかった感じで、最初に見たとき思わずはっとしてしまったほどである。
「わざわざごめんなさい、ありがとう。ふふっ、相変わらず男前さんだから、どきっとしちゃうわ。──調子《ちょうし》はどう? 勉強とかは……暁くんのことだから、大丈夫よね。あたしもいまは日々がとても楽しいわ」
美咲はたしか、市外にある高偏差値の進学校に入ったのだったか。美咲は俺が思っていたよりも、あるいは俺や優美子《ゆみこ》たちよりもずっと大人《おとな》になっているように見えた。イタリアンの気安い店に入り、軽いランチコースを注文する。前菜が運ばれてきたとき、俺から話を切り出した。
「それで? なんの話なんだ? 電話では話せないことって」
「あたしと付き合ってほしいの」
美咲のさらりとこぼした言葉がしばらく理解できなかった。俺が「──は?」と硬直するのを、美咲はまるで俺よりいくつも年上の女性かのように余裕たっぷりくすりと笑い、トマトのスライスにフォークを伸ばした。
俺《おれ》は眉《まゆ》をひそめ、美咲《みさき》の美貌《びぼう》を覗《のぞ》き込んだ。
「……聞き間違いか?」
「聞き間違いではないし、あたしは本気よ。あたしとお付き合いしてほしいの」
前菜を食べ終わってスープが運ばれてくる。美咲はいつも潤《うる》んだように揺れているその瞳《ひとみ》で俺を見つめたまま、まったく目をそらそうとしなかった。俺はスープに口をつけ、混乱しそうになるのを堪《こら》えて口を開く。
「いきなりどんな風の吹き回しだ?」
「風の吹き回しだなんて、ひどいわ」
美咲は美しい顔を悲しげにきゅっと歪《ゆが》めて続けてくる。
「あたし、むかしから暁《あきら》くんのこと、ちょっといいなって思ってた。暁くんは格好いいし、頭もいいし、優《やさ》しいし。本当は、前から好きだったの」
俺は呆気《あっけ》に取られたあと、思わずくすりとしてしまった。
「むかしからって言う割には、ずいぶん突然なんだな」
「……あたし、ずっとね、お姉ちゃんが暁くんのこと好きなのかもって思ってたの。だから、我慢しなきゃって思ってた。でも、それじゃダメだって気づいたの。お姉ちゃんだって、あたしが暁くんに真剣なんだって伝えれば、きっとわかってくれるわ。もしいま暁くんに好きなひとがいたとしても、あたし、それで構わない。暁くんに振り向いてもらえるようにがんばる。だから──」
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小学生のとき──、と俺《おれ》は漠然と考えた。
うさぎ小屋の前にしゃがみ込んで笑っていた美咲《みさき》を目にしてさえいなければ、俺ももしかしたらいまこの瞬間《しゅんかん》、美咲に心を奪われていたかもしれない。美咲の潤《うる》んだ懸命《けんめい》な表情には、少なくとも同世代の男の子くらい落とせないはずがない艶《つや》があった。ただ、俺はその愛らしさの裏にあるものを少しだが知っていた。
だから、いくらか冷静な目で見ることができた。美咲の一見懸命なすがるような眼差《まなざ》しの奥には、ぎらっとかがやく、揺るぎない自信がある。つまりそれは、自分の申し出を相手が断るはずがないという確信《かくしん》だ。
それを見れば、少なくともこの女は俺のことを心から好きでもなんでもないんだなということはわかる。俺はスープを飲み干して、「悪いけど」と言った。
「断らせてもらうよ。俺がおまえを好きになることはないから」
今度は美咲が呆然《ぼうぜん》とする番だった。なにを言われたのか理解できない、という顔だった。俺がスープを指差して「早く飲まないと冷めるぞ」と告げると、美咲の美貌《びぼう》がさっと怒りに染まった。
「──どういうこと」
「どういうこともなにも、ないだろ」
「…………。あたし、好きになってもらえるよう一所懸命がんばるわ。暁くんがしてほしいことをなんでもしてあげる。あたし──」
「だったら、そんなくだらない作り台詞《ぜりふ》を吐くのは止《や》めてくれるか?」
美咲はがたんと椅子《いす》を蹴《け》って立ち上がり、テーブルの上でこぶしを握った。周囲の客が、ぎょっとして美咲を見る。俺を睨《にら》む美咲の美貌が、屈辱に歪《ゆが》んでいた。小学生のころの感覚を思い出し、背筋にぞくりとしたものが駆け抜ける。美咲の背後に炎が見えたような、そんな気がした。
「────……なわけ?」
美咲がぼそぼそと喋《しゃべ》ったが、小声すぎて聞き取れなかった。俺が「──え?」と眉《まゆ》をひそめると、美咲は押し殺した声で言い直した。
「あんたも、あたしより優美子《ゆみこ》なんかがいいって、そんなわけのわからないことを言うわけ……?」
怒りに歪んでいるのに、ぞっとするほど冷たい表情だった。俺はその瞬間に、そうか、と閃《ひらめ》くのを感じた。優美子、と口にしたときの美咲の目。やはり、美咲は俺に興味《きょうみ》があったわけではなく──。
「最近ますますひどくなったって聞いていたが、優美子への嫌《いや》がらせのひとつか? 優美子の親友をひとり、奪ってやろうと思ったわけか」
「…………っ!」
「図星か。悪い冗談《じょうだん》だな」
美咲《みきき》はぎりと奥歯を噛《か》み、そこでようやく周囲の視線《しせん》を意識《いしき》したらしい。数回深呼吸したのち、椅子《いす》に座り直した。しばらく沈黙《ちんもく》がある。美咲はスープを飲み干してから、ふっと冷たく笑った。
「あたし、自分の思いどおりにならないものって、大嫌いなの」
それまでの愛橋《あいきょう》や甘えるような感じがいっさいなくなった、たぶん地なのだろう冷え冷えとした声だ。俺《おれ》は険しい顔を向けた。
「──だからって、それまでずっと慕っていた優美子《ゆみこ》に手のひらを返したように嫌《いや》がらせするのか。幼稚な嫌がらせなんか止《や》めろ。優美子は……おまえからもらったペンダントを、まだ身につけているんだぞ」
ウェイターが気まずそうな顔をしてメインディッシュを運んでくる。上等そうな鶏肉《とりにく》だったが、もう食欲はだいぶ失《う》せていた。
「ペンダント? ああ、優美子のそういうところも嫌いなのよね。優美子がどんなふうに言ったか知らないけど、あたしは勘違いする奴《やつ》も嫌いなの。優美子はあたしが優美子のせいで恥をかいたから優美子を嫌いになったって、そんなふうに思っているんでしょう? 相変わらず馬鹿《ばか》な子」
俺は「どういう意味だ?」と眉根《まゆね》を寄せたが、美咲はあんたに教えてやる必要はないでしょう、という感じで黙《だま》ってメインディッシュに手をつけた。
ともあれ、話は終わりだ。俺は苦笑して、伝票を手に席を立った。
「せっかく悪くないランチ・コースだったのに、気分がよくなくてもったいないことをしたな。まあ、桜花《おうか》を美術館《びじゅつかん》に連れて行った帰りにでもまたくるさ」
「──桜花ってだれ」
美咲がその可愛《かわい》らしい顔をきゅっと歪《ゆが》める。俺はふと、自分が世界でいちばん美女だというようにふんぞり返る美咲の表情を壊《こわ》してやりたくなった。
「おまえよりよっぽど美人の名前だよ」
美咲の瞳《ひとみ》に、めらっと怒りの火が灯《とも》った。あたしより美人なんかいない、とでも言いたそうに。あるいは、美咲の視線《しせん》に込められたそれは怒りを通り越した、もっと黒く冷たいなにかなのかもしれなかった。小学生のとき以上の寒気がした。その目に、この女はどこか普通ではないと感じさせられる。
背を向けて店を出ようとした俺に、美咲の言葉が届いた。
「──ああ、そっか。思い出したわ」
挑発するような嫌な笑い声が、くすくすと聞こえる。
「桜花って、小夜子《さよこ》ちゃんの代用に引き取ったって子ね? 暁《あきら》くん、あなたも優美子といっしよ。忘れないで。どんな理由があっても、あたしがなにかに蹟《つまず》くなんて許されないの。あたしに恥をかかせたことを、後悔させてやるから」
俺《おれ》はそれを無視してレストランを出た。
バスで家に帰るまでのあいだ、美咲《みさき》の言葉が脳裏を行ったり来たりして、すこぶる気分が悪かった。小夜子《さよこ》の代用、だと? 洗面台で手洗いを済ませ、すぐに桜花《おうか》の部屋へ向かうことにした。桜花の絵でも見て気を落ち着かせよう、と思った。
階段を上がったところで、ちょうど部屋から出てきた桜花と鉢合《はちあ》わせになる。桜花はいまのいままで絵を描《か》いていたようで、絵の具で汚れた新聞紙を両手で抱えていた。少しうつむき加減の、物思いにふけっているような顔をしていた桜花がふとこちらに気づいて、ぴくりと表情を動かした。
「桜花、ただいま──」
「……おかえりなさい。──ご飯、美味《おい》しかった……?」
「うん? ああ、イタリアンのレストランでな。美味しかったよ」
桜花は悲しげに目を伏せ、その一瞬《いっしゅん》後、なにやらちょっぴり機嫌《きげん》がよくなさそうな様子《ようす》で、頬《ほお》を膨《ふく》らませた。そして、俺が「え……?」とびっくりしているうちに、ぷいっと脇《わき》を通り抜けとんとんと階段を下りていってしまう。桜花の腰で、ベルトにかけられたうさぎのキーホルダーが揺れた。
「──え?」
俺は呆気《あっけ》に取られて、その場にぽつんと立ち尽くした。そう言えば、今朝《けさ》、出かけるときも様子が変だった。よくわからない。なにか、桜花の気に障るようなことをしてしまったのだろうか?
七月に入り、徐々に夏らしい空気に変わっていく。
ある日、優美子《ゆみこ》が「……本当、なんでこんなことになっちゃったのかな」とぼやいた。なんでも、美咲の嫌《いや》がらせがますます苛烈《かれつ》になってしまったらしい。たぶん──というかほぼ間違いなく、俺との会話のせいなのだろうが。
「また、大きな喧嘩《けんか》しちゃってさ」
優美子は落ち込んでいるふうだった。
「美咲が桜花ちゃんのことをいきなり、その──暁《あきら》くん家《ち》にきた小夜子ちゃんの代用ってどんな子、とか……そういうひどいことを言い出すから、口論《こうろん》になって……」
それで今朝、目を覚ましたら部屋から写真が何枚か消えており、それらは切り刻まれて近所のゴミ捨て場にばらまかれていたのだという。優美子はまだ笑顔《えがお》を浮かべていたが、さすがに精神的に疲労しているふうだった。
優美子は教室の窓辺に寄りかかって、盛大にため息をついた。
「あーあ、あんまり家に帰りたくないなあ」
そんなわけで学校が終わったあと、慶太《けいた》も含めていつもの三人でご飯を食べに行くことになった。最近は優美子《ゆみこ》を気にして割とこういう外食が増えており、桜花《おうか》の相手を以前ほどしてやれないから気になってはいるのだが、下校時間になるたびにかすかに怯《おび》えたような顔をする優美子を見れば放ってはおけない。
「家には──というか、桜花ちゃんにはちゃんと連絡しときなよ」
慶太が下校の準備をしながら、そんなふうに言った。
「このごろ外食することが多くて、きっと寂しがってるだろうからさ。桜花ちゃんは暁《あきら》が大好きなんだから」
俺《おれ》は校門を出たところで、すぐに携帯電話を取り出した。早めに連絡しておかなければ、空が赤くなって桜花が眠りについてしまうから。電話をかけながら、慶太の言葉を頭のなかで反芻《はんすう》する。大好き──なのだろうか?
優美子が横から「ごめんね」と申し訳なさそうに言った。
「あたしのわがままで、桜花ちゃんに寂しい思いをさせちゃって。あたしが謝《あやま》ってたって、桜花ちゃんに伝えておいて?」
電話になかなかだれも出ず、まだ桜花が学校から帰っていないのだろうかと思いはじめたとき、コール音が切り替わって、小さな声が応じた。
『……はい。村瀬《むらせ》です』
ひと声で桜花のものだとわかる、高く美しい声である。出るのが遅かったのはたぶん、集中して絵を制作していたのだろう。たしかいま、制作の佳境なのだと言っていた。それから、当たり前のことなのだろうが、桜花の口から「村瀬です」という言葉を聞くと、なにか新鮮《しんせん》な感じがした。
「桜花? 俺だ」
『あきら?』
桜花の声が心なしか弾んだふうに聞こえたのは、慶太の「桜花ちゃんは暁が大好きなんだから」という言葉が頭にあったせいだろうか。
「ああ。絵を描いてたのか?」
『うん。……どうしたの?』
「──悪いけど、今日《きょう》は優美子たちとご飯を食べて帰るから」
電話の向こうで桜花が息を呑《の》んだ雰同気があった。
「母さんが帰ってきたら、そう伝えておいてくれるか」
悪いなとちょっと思いながら告げた。正確《せいかく》に言うと「今日は」ではなく「今日も」である。桜花からの返事が数秒なかった。いつもなら、桜花が素直に「──わかった」とうなずいてそれで終わり。けれど、今日は違った。
『でも…………。でも、あきら。約束──してた』
桜花《おうか》が焦ったふうに言ってくる。約束? と訝《いぶか》ると、
『勉強──わからないところがあるから、見てくれるって……』
そうだった。俺《おれ》は、このあいだも一度こんなふうに約束を忘れていたことを思い出した。週に一度、桜花が比較的苦手な数学を見てやる約束をしているのだ。桜花は懸命《けんめい》な様子《ようす》で続けてくる。
『約束してた……いっしょに、勉強してくれるって。あきらと、いっしょに……。それに、伯母《おば》さんが、今日《きょう》のお魚は鯛《たい》だって。きっと……美味《おい》しいと、思う。それから、もうすぐ新しい絵が出来上がるの。あきらに、早く見てもらいたい──』
「……。ごめんな」
俺は桜花がそんなふうに懸命に言ってきたことに驚《おどろ》き、申し訳ない気持ちになりつつも、そう首を振った。大丈夫、桜花は聞き分けのとてもいい子だ──。
「優美子《ゆみこ》の元気がないんだ。優美子のためになにかできるわけじゃないから、ご飯くらい付き合ってやりたい。優美子はおまえにごめんって言っていたよ。なるべく早く帰るから、そうしたらいっしょに勉強しょう。絵もそのとき見せてくれ」
また数秒の沈黙《ちんもく》があった。やがて桜花が『──わかった』と言う。
その声が寂しそうだったので、胸がずきりと痛んだ。家に帰ったら、真っ先に桜花の顔を見に行こうと思った。
だがそれでも、勇気を振りしぼって引き留めようとした桜花がいかに真剣に寂しがっているか、自己主張をあまりしない桜花がそんなふうに訴えるなんてどれだけ深刻なことなのか、俺はまだわかっていなかった。
それからも、ひどくなる美咲《みさき》の嫌《いや》がらせでいまいち元気のない優美子のことがあり、どうしても桜花といっしょにいる時間は春までと比べれば減ってしまったままだった。美術館《びじゅつかん》にもまだ行けずにいた。
きっとそれの原因はなにか大きなものではなく、細かなことの積《つ》み重ねだったのだと思う。美咲との食事のことや、優美子のことばかり気にしていたこと。なるべく傍《そば》にいるようにしていたこれまでと打って変わって、あまりに桜花に構ってやれなすぎた。桜花の異変に、最初は気づかなかった。桜花は自分で恥じていたらしく、荒れた気持ちをできるだけ俺たちに見せないようにしていたから。だから俺は、最近スケッチブックから破り捨てられ丸められる紙の数がずいぶん多いな、という程度にしか感じていなかった。
アブラゼミが元気いっぱい鳴く真夏、八月も半ばに差しかかった夏休みの日のことである。優美子、慶太《けいた》のふたりと外出していた俺が帰宅したとき、時刻は午後九時をすぎていた。リビングでくつろぐ父さんに尋ねる。「桜花《おうか》は? 部屋?」
「ああ。今日《きょう》も描《か》いてるよ」
そううなずいた父さんは、どこか誇らしげだった。父さんたちは桜花の絵画の才能を、本当に嬉《うれ》しく感じている。
俺《おれ》はコンビニで何点かのお菓子を買って帰っていた。大したお詫《わ》びでもないが、桜花への差し入れのつもりだった。桜花は食べ物にけっこう好き嫌いがあるが、その辺りのことはさすがにもうすべて把握している。
部屋へ向かうと、換気のためだろう、桜花はドアと窓を開けっぱなしで描いていた。網戸越しに心地《ここち》いい風が吹き込んでくるものの、さすがに扇風機《せんぷうき》もなしではむっとするように暑くて、絵筆を手にキャンバスへと向かう桜花は、額《ひたい》にびっしり汗の玉を浮かべていた。集中しているようだった。
「桜花、ただいま──……」
話しかけようとした声が、思わず止まる。それはキャンバスに描かれた、完成間近の絵が目に入ったせいだった。
不意に、ぐるりと視界が回転したような錯覚《さっかく》に襲《おそ》われた。背筋に寒気が走り抜ける。それはいつもと違い乱暴《らんぼう》なまでに荒々しいタッチで描かれ、そして桜花が描くことの多い人物画でも風景画でもなかった。
キャンバスいっぱいに描かれているのは、黒と白で生み出された乱雑な渦だった。ところどころに無機質で巨大な瞳《ひとみ》が描かれていて、無数の渦とその向こうにある闇《やみ》にじっと心を覗《のぞ》かれている気になってくる、そんな奇怪な抽象画である。俺の目には絵というよりむしろ、なにか呪術的《じゅじゅつてき》な禍々《まがまが》しい紋様のごとく見えた。鳥肌が立つ。まるで絵全体が悲鳴を上げでいるような不気味な絵だ。
桜花は汗が伝うのを意に介さず、一心不乱に、さながら感情をすべて叩《たた》きつけるように、凄《すさ》まじい集中力をもって絵を描いていた。完全にキャンバスしか見ていないその横顔にふと、前に慶太《けいた》の絵を描いていたときを思い出す。俺が「桜花……」とつぶやいても、まったく届いていなかった。
俺はふと、取《と》り憑《つ》かれたように筆を振るう桜花に、ぞくりとしたものを感じる。
よくわからないが──ダメだ。これは……よくない。そう直感した。
桜花が描いているのは迫ってくるような不気味さを端々からにじませた、あるいは傑作といっていいかもしれない絵である。だが、違う。この絵は桜花が描いていい種類の絵ではない。出来がどうであれ、こんな胸の奥がきりきり痛むような絵を描かせてはダメだ、と本能的に感じた。
「桜花──」
傍《そば》で声をかけても、桜花は気づかない。
「桜花《おうか》──桜花っ!」
俺《おれ》が肩を掴《つか》むと、桜花はびくりとして手を止める。振り返った桜花は、焦点のきちんと定まっていないぼうっとした目つきで俺をぼんやり眺める。それから自分が持つ絵筆を見つめ、もう一度俺の顔を見上げて、そこに至ってようやくその瞳《ひとみ》に光が戻りはじめる。
「あきら……?」
「大丈夫か? いったい──どうしたんだ。なんでこんな絵を」
「こんな絵、って──?」
不思議《ふしぎ》そうにつぶやいた桜花は、ゆっくりとキャンバスに向き直り、そして驚《おどろ》いたふうに表情を大きく揺らした。桜花の手から絵筆がこぼれ落ち、床に敷《し》かれた新聞紙へ真っ黒な、月のない夜のような絵の具を散らす。桜花は驚愕《きょうがく》に目を見開いて、自分が懸命《けんめい》に描《か》いていたその絵を見つめた。
その唇から、乾いた声がこぼれた。
「──なに、これ……?」
桜花の顔が泣きそうに、悲痛に歪《ゆが》んだ。桜花は小さく「……イヤ…………」とうめき、頭痛を堪《こら》えるように頭を振ってこめかみを押さえた。俺が慌ててその肩を抱くと、触れた肩は哀《あわ》れなくらいに震《ふる》えていた。
「こんなの、絵じゃない──」
「桜花」
「気分が、……悪くなる。これを、わたしが描いた……の? イヤ……。こんなの、ただ描き散らしてるだけ。気持ち、悪い…………」
「とりあえず落ち着け。大丈夫だ」
背中をさすって言うと、桜花は一年前の出会ったばかりのころのようにぶるぶる震えながらも、かすかにうなずいた。
ひとまず、ベッドに座らせる。桜花に比べたらなんでもないものの俺も多少は混乱していたが、それを抑えようと努力していて、おおむね成功していた。桜花の前では動揺を見せたくなかった。
「桜花? 少しは落ち着いたか?」
桜花はうなだれて、悲しげにつぶやいた。かすれた声だった。
「……わからない」
「わからない?」
「なんだか最近、ずっと落ち着かなくて、でもとにかくなにか描かなきゃつで気持ちがすごく湧《わ》いてきて……。胸の奥が苦しくて、切なくて、むしゃくしゃして──……」
見れば見るほど胸がずきずきと痛んでくる、気を抜けば吐き気すらもよおしてしまいそうな絵である。そうか、と思った。それは絵ではなく、桜花の悲鳴そのものなのかもしれない。桜花は言葉や態度以上に、絵によってはっきりと自分の感情を表すのかもしれなかった。桜花《おうか》の感情はそのまま桜花の絵に出るのだ。きっと。
だとしたら、桜花はいったいなにをこんなに苦しみ悲しんでいたのだろうか? 俺《おれ》は優美子《ゆみこ》と美咲《みさき》のことを言い訳にして、それに気づいてやれなかった。まただ。俺が、だれより桜花のことを気づいてやらなければならないのに。
俺はうつむく桜花の隣《となり》に座って、その手を握った。
「──桜花」
「……ごめん、なさい。あきら。わたし」
「明日《あした》、予定は空いてるか?」
桜花が「え……」と顔を上げる。桜花の瞳《ひとみ》は揺れていて、自分自身の絵によって傷ついていることがありありと見て取れた。真夏の生暖かい風が、桜花のさらさらの髪を撫《な》でていく。服の袖《そで》で、桜花の額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》う。
「悪かったな、ここのところずっと相手してやれなくて。約束してたのに、延び延びになってただろ?」
「あきら……?」
「明日、いっしょにフェルメールを見に行こうか?」
俺は桜花へ話しながら、明日は小夜子《さよこ》の命日だな、とふと気づいた。偶然。俺たち家族にとって、幾度もの偶然が重なる特別な日。これまでは不幸のほうが多かったその日の「特別さ」を、今年《ことし》で幸福な「特別さ」に変えたい──。
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3.
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美術館《びじゅつかん》など、小学校の授業以来だ。俺と桜花はまず市内の、美咲と行ったあのレストランで昼食を摂《と》ってから、特別展を開催している美術館へ向かった。
フェルメールがきている、それもそろそろ最終日が近いというだけあって、館内はさすがに大盛況だった。桜花は人混みが苦手なのでどうかと思ったが、はじめて間近で見る数々の名画に、どうやらそんなことを気にしている暇はないようだった。
そして桜花は、フェルメールの前で呆然《ぼうぜん》と立ち尽くした。
フェルメールのその絵だけ、別室が設けられそこに展示されていた。薄暗《うすぐら》い部屋のなか、ガラス張りの額《がく》に入れられたフェルメールの絵は、照明の下で素人目《しろうとめ》でも息を呑《の》んでしまうくらいに美しかった。
俺がいままでの人生で見てきた絵とはまったく次元の違う、あまりに素晴《すば》らしい絵だった。きっと桜花も同じ気持ちだっただろう。絵のタイトルを見ると『絵画芸術の寓意《ぐうい》、または画家のアトリエ』とある。それは画集で見たあの絵だったが、画集で見るのと直《じか》に見るのとでは、比較にもならないくらいまったくの別物であった。しずまり返った人だかりのなか、その絵は神聖さすら放っていた。
桜花《おうか》が熱《ねつ》っぽい吐息を漏らした。
「絵画芸術の、ぐうい……?」
いったいどのくらいの時間、その絵の前に立ち尽くしていただろうか。分厚いガラスの向こう、手を伸ばせば触れられそうな至近距離《きょり》に存在する絵画芸術。桜花はほとんどまばたきもせず、魂を囚《とら》われてしまったかのように、恋をしている乙女《おとめ》のように、天使をあがめるように、じっとその『絵画芸術の寓意《ぐうい》』を見上げていた。たぶん、それが許されれば何十時間だってそうして絵を見ていたはずだ。
俺《おれ》でさえ見にきてよかったと思ったくらいなのだから、桜花の満たされ具合はもう半端ではなかった。美術館《びじゅつかん》からの帰り、市内まで電車で戻り、駅から家まで歩くことにした。その途中で、興奮《こうふん》冷めやらぬといった様子《ようす》の桜花が尋ねてくる。
「寓意って、どういう……意味?」
「そこにあるテーマみたいなものを、直接説明するんじゃなくて、ほかの物事を使ってほのめかす……という感じの意味かな」
「──だったら、あの絵に込められた意味って、なに?」
「おまえはどんなふうに感じたんだ?」
少なくとも、俺のよりは桜花の感想のほうが正しいだろうと思った。桜花は口を閉ざして真剣に考え込んだ。
俺の家は駅から徒歩で二十分ほどの、住宅地にある。山側にあるので、町の中心から歩いて帰ったら上り坂ばかりになる。家に近づくに連れてビルやアパートは消え、一軒家ばかりが目につくようになっていく。少し息が切れて、蒸し暑さも相まって汗が伝い落ちる。桜花がやがてぽつりと語った。
「あの冠をかぶった女のひととか、そのひとが持ってる物とか、ひとつひとつの意味はなにもわからない、けど……あの絵は、絵を描くのは素晴《すば》らしいことだって、そう言っているような気がする……の。絵を描くのは、素晴らしい芸術なんだって──」
絵画芸術。素晴らしいタイトルだと思った。
俺は表情を緩《ゆる》めて、真剣な桜花の横顔を見つめる。
「おまえのその解釈はきっと間違ってないよ」
慶太《けいた》のおばさんが入院していた国立の病院をすぎ、俺の通う高校をすぎると、家はもうすぐ目前である。坂の途中から振り返ると、ビルの建ち並ぶ町の中心地と、きらきらかがやく海が見える。きれいな町だ、と思う。優美子《ゆみこ》はもっと都会がいいと言っていたが、俺は自分の町が好きだった。
ふと、桜花に服の裾《すそ》をぎゅっと引っ張られた。俺は「──ん?」と足を止めて振り返る。もう、家はすぐそこだった。桜花《おうか》は俺《おれ》の裾《すそ》を握って、なにか言いたそうにもじもじしながらうつむいている。
「どうした?」
「……まだ」
桜花は恥ずかしそうに目を伏せたまま、ぼそりと懇願《こんがん》するように言った。
「あきらと、……もう少しだけ、いっしょに歩きたい」
俺は「え?」とわずかに戸惑った。思わず腕時計を覗《のぞ》く。美術館《びじゅつかん》を出てから買い物もしてきたため、そろそろ夕方である。もうすぐ太陽は傾きはじめるだろう。桜花はそれをわかっているのだろうか──。俺は桜花の恥ずかしそうな、しかし真剣な顔を見て、すぐに迷いを吹っ切った。
「だったら、小学校のほうまで歩こうか?」
桜花は顔を上げて、こくり、と懸命《けんめい》にうなずいた。
休日や放課後《ほうかご》以降の小学校の校庭はいつもしずかで、歩いていると心が落ち着いてくる。そんなふうに感じるのは、俺がこの学校で育ったからかもしれない。遊具のひとつひとつにも思いよぎる過去がある。ブランコまで歩いた。
──小夜子《さよこ》はこのブランコがいちばん好きだったな。
校庭の端からは海が見え、風が吹いていた。
桜花とふたりで、はるか彼方《かなた》にある海をしばらく眺めた。造船所のなかに、大きな船が泊まっている。眼下の三車線《さんしゃせん》の国道は、会社帰りの車でびっしり埋まっている。うだるような暑さが、ようやくかげりはじめていた。
「──わたし」
桜花の声は、自動車の走行音にかき消されそうなくらい小さかった。あるいは、風に乗って海へ流れていきそうなくらい小さかった。けれど、俺の耳にははっきり届く。やはり、声質だけは小夜子とよく似ていた。
「もっときれいな人間になりたいって、思った……」
「──どうして?」
突然の話題だった。海を見つめる桜花は、ひと言ひと言に気を配るように、ゆっくり語りはじめる。
「わたし、ずっと自分のことが、あんまり好きじゃない……。けど、ますます嫌いに……なるの。きれいな人間に、なれたらいいのに」
「どうして自分のことが好きじやないんだ?」
「……。このあいだから、いろいろ考えてた……」
桜花は背の低い塀《へい》に手をかけ、目を細めて風に吹かれる。俺は海を見る桜花の眼差《まなざ》しに、悲しげな、自己嫌悪のような感情を見つけてどきりとする。桜花の横顔は美しいが、とても自信なさげだった。
「あきらと、あんまり……喋《しゃべ》れなくて。いっしょにいれなくて。落ち着かない、むしゃくしゃするこの気持ちは、なんなんだろうって──」
すぐ近くの木でアブラゼミが鳴きかけて、すぐに止まった。桜花《おうか》はしずまり返ったなか、ぽつりと、伏し目がちに続ける。
「わたし、……嫉妬《しっと》してた」
俺《おれ》は──少なからず、驚《おどろ》いていた。
桜花が、嫉妬……?
「会ったこともないのに、美咲《みさき》ってひとに。優美子《ゆみこ》のこと好きなのに、優美子にまで……。あきらを、盗《と》られたみたいで、悔しかったし──寂しかった。そんなふうに思う自分が、すごく嫌い……わたし、汚い…………」
うなだれた桜花は泣きそうになっていた。一年もいっしょに暮らしていたのだ、顔が見えなくてもそのくらいのことはわかる。俺が「桜花──」とつぶやいても、桜花はこちらに目を向けようとはしなかった。
「わたし、不安で、怖くて、あんなおぞましい、きれいじゃない、汚れた絵でしか、表現できなかった……。わたしはわたしがイヤ。わたしの心がイヤ。わたしはイヤな気持ちを筆に乗せて、絵まで穢《けが》したの──……」
桜花が両手でぎゅっとなにかを握りしめる。それは、俺がプレゼントしたうさぎのキーホルダーだった。小夜子《さよこ》の──形見《かたみ》。
「……ごめんなさい…………」
俺はうさぎのキーホルダーを持つ桜花の傷ついた横顔に、そうかと気づいた。俺はこれまでどんなに、違う、似ていない、と思っていてもやはり、心のどこかで桜花と小夜子を重ねて見ていたのだ。
似ている、似ていない、の問題ではなく。そう思っては桜花に失礼だという精神的な問題でもなく。どうしようもない、決定的な事実として、桜花は小夜子ではないのだと俺が深く理解したのは、あるいはこの瞬間《しゅんかん》なのかもしれなかった──。
「──俺は、おまえの心が好きだよ」
振り向いた桜花の表情が、驚きと戸惑いに揺れている。
桜花はいま子どもと大人《おとな》の狭間《はざま》で揺れる中学二年生で、繊細《せんさい》で不安定で、悲しむし怒るし嫉妬だってするに決まっているのだ。
「だから、おまえにも……おまえ自身の心を好きになってほしい。きれいな人間になろうなんて思わなくていいだろ」
桜花の頭をくしゃくしゃと撫《な》でる。
「俺だってなにかあれば嫉妬するし、むしゃくしゃして他人や物に当たってしまうことはあるし、自分のことをなんて嫌《いや》な奴《やつ》だって思うこともあるけど、それはみんな同じで──たぶん、そんなふうに揺れ動く心があるから、おまえは単なるデッサンではない絵を描《か》けるんじゃないのか?」
「……あきら。わたしは」
桜花《おうか》の表情が泣きそうに歪《ゆが》んだ。桜花はまたうつむき、しばらくの沈黙《ちんもく》ののち、ぽつりとこぼした。気づけば、日が傾きはじめていた。少しずつ、少しずつ……空は朱色《しゅいろ》に染まりはじめている。
「──もう、……あの、森のアトリエには──いないの……?」
うさぎのキーホルダーを手にする桜花を見ていて気づいたのは、このごろ背が伸びているんだな、ということだった。
それが俺《おれ》に、桜花と小夜子《さよこ》の絶対の違いを理解させる。桜花は出会ったばかりのころ、同世代の少女たちと比べて明らかに小柄だった。いや、いまでも小柄で華奢《きゃしゃ》な部類に入るが、それでも間違いく成長している。いまは、百五十くらいだろうか?
「もう、あの……なにも感じなくていい──閉じた世界じゃ、ないの……? わたしは、いろんなことを想《おも》っても…………いいの?」
「いいんだ」
と、俺は口許《くちもと》を緩《ゆる》めた。海の匂《にお》いのする風が吹き抜ける。
「わかってるだろ? おまえはもう十分に」
桜花は「あ……」と吐息をこぼして、それからゆっくりとうなずいた。
「──うん。あきらが頭を撫《な》でて、描いていいんだって言ってくれたから……」
顔を上げて俺を見つめる桜花の真剣な目は、かすかに潤《うる》んでいた。桜花は成長し、さまざまな感情に揺られながら、ほんの少しずつだけれども大人《おとな》に近づいている。そして、もう数年も経《た》てば大人になる。
永遠に小学二年のままの小夜子とは違うのだ。
桜花は懸命《けんめい》に言葉を紡ぐ。
「あのとき……なの、きっと。わたしが家を出たときじや、ない。あのときの、あきらの手の温かさが、わたしの心を──あの森にあったアトリエから、お母さんに出るなって言われてたあそこから、連れ出してくれたの──……」
俺もあのときの、桜花のふわりとした髪の毛の感触を思い出す。はじめて、桜花にきちんと触れることのできた日。最初はもしかしたらそうだったのかもしれないが、いまは違うとはっきり言える。桜花は小夜子ではなく、俺が桜花をとても愛《いと》しく想うのは小夜子を重ねて見ているからではない──── 。
「桜花。なにも落ち込むな。自信を持っていいんだ。おまえは俺たちの大切な、誇りに思える家族で、汚い人間なんかじゃないんだから」
「──あきら」
まるで合唱しているようなアブラゼミの鳴き声が、響《ひび》きはじめる。時折アブラゼミの鳴き声が鎮魂歌《ちんこんか》のように思えてしまうのは、やはり六年前の今日《きょう》を思い浮かばせるからだ。だがいまは、その鳴き声よりも桜花《おうか》の小さな声のほうが、より鮮明《せんめい》に聞こえた。
「わたし、ほかのだれよりも」
俺《おれ》を見つめる桜花の潤《うる》んだ瞳《ひとみ》が、どきりとするような真剣さと熱《ねつ》っぽい懸命《けんめい》さを宿して揺らいでいる。その頬《ほお》が赤く火照《ほて》っているのは、朱が差しはじめた空のせいだけではないだろう。桜花は緊張《きんちょう》に震《ふる》える声で、
「あきらのことが──」
その言葉と重なるようにして、太陽──いや、夕陽《ゆうひ》がひときわ赤みを増した。西の海からの強い陽射しに、桜花がびくりとして振り向く。桜花とふたりで眺める八月十五日の日没は、六年前と同じように赤かった。
世界が焼かれていくように。全部が押《お》し潰《つぶ》されていくように。
桜花が夕陽を見つめたまま硬直し、その唇から引きつった息を漏らした。
「あ…………」
桜花の幼い美貌《びぼう》が無惨なまでの恐怖に歪《ゆが》む。桜花の顔が引きつり、その瞳が恐慌に揺れた。桜花は真《ま》っ赤《か》な夕焼けのなかでもわかるほど真《ま》っ青《さお》になり、まばたきすらできない様子《ようす》で小さく震えはじめる。俺は咄嗟《とつき》に、その震えを押えつけるように、後ろから桜花をぎゅうっと抱きしめた。
「大丈夫だ、桜花。大丈夫──」
桜花の耳許《みみもと》に唇を寄せてささやく。
教えてやらなければ、と反射的に思った。
「大丈夫だから──安心して夕陽を見ろ」
狭い森のアトリエのなかで、ひとり夕陽に怯《おび》える必要はないのだと。俺や父さんたちや優美子《ゆみこ》たちがいれば、夕陽から逃げて眠らなくても大丈夫なのだと。
空の色彩は深みを増していく。鮮《あざ》やかな日没は、よりいっそう色濃《いろこ》く世界を焼いていく。夕陽を過剰に怖れる桜花の気持ちが、わかるような気がした。やはり、夕陽は炎に似ている。ひとを暖めるような優《やさ》しい火ではなく、もっと強烈で破壊的《はかいてき》な、あらゆるものに引火し燃《も》やし尽くす劫火《ごうか》に。
大丈夫だ、と繰り返していると、強張《こわば》っていた桜花の身体《からだ》から次第に力が抜けていく。
やがて、その震えも収まってくる。桜花が吐息をこぼした。
「世界は、押し潰されない……?」
「ああ。おまえが夕陽を怖がる必要なんてないんだ」
空が燃《も》えるように染まりきり、そのあまりの赤さにこれで世界は終わり、残らず焼き尽くされるのだと錯覚《さっかく》しそうになるその瞬間《しゅんかん》、俺《おれ》は後ろからすっと右手を回して桜花《おうか》の目にかぶせた。目を覆《おお》われた桜花が、戸惑ったふうに「あき……ら?」と言ってくるのに答えず、俺はそのままの姿勢で夕焼けを見続けた。
夕方と夜の境目の淡い闇《やみ》のなかで告げる。
「ひとり怖がって、夕陽《ゆうひ》から懸命《けんめい》に逃げようとしなくても大丈夫だ」
そして俺は、世界が夜に包まれる瞬間を見た。
不意に、それまでけたたましく鳴いていたアブラゼミの声が止まる。
「終わらない日没はないんだから」
ぱっと、桜花の目から手を離《はな》した。
桜花ははっと息を呑《の》んで、頭上にぽっかり浮かんだしずかな月を、魅入《みい》られたように見上げた。夕陽は海の向こうに消え、世界を照らすのは炎のような夕焼けではなく、穏《おだ》やかな月光に変わっている。だだっ広《ぴろ》い校庭に完全な静寂が満ち、彼方《かなた》では星々が瞬《またた》いている。桜花が呆然《ぼうぜん》として空へつぶやいた。
「……きれい」
その瞬間、桜花の感じる世界はたしかに変わったはずだった。
自分は孤独ではなく、夕陽にひとり震《ふる》える必要はないのだと、理解したはずだ。
腕のなかにある桜花の身体《からだ》から、ふっと完全に力が抜けるのを感じた。体重を無防備に預けてきた桜花を、しっかり抱きしめる。
「終わらない日没は、ない…………」
桜花はそう言って、愛《いと》しげにずっと月を見上げていた。桜花の声からは震えが消え、その表情からは怯《おび》えが消え、ただ穏やかな愛情に満ちた眼差《まなざ》しで、「それは、月がいるから……? あきら、全部を押《お》し潰《つぶ》そうとした夕陽を……月が追い払ったように、見えた。きっと月が……日没から、全部を優《やさ》しく守っているんだ──」
桜花はそっと、ゆっくり瞳《ひとみ》を閉じた。まるでいま見た光景をまぶたの裏に封じ込め、美しい月の光を頭のなかに深く刻み込むように。
「……本当に、きれい。こんなに素敵《すてき》な月、生まれてはじめて」
「ああ」
と、俺は追従《ついしょう》ではなく心からうなずいた。おそらくは、俺が見ている月の色と、桜花が頭のなかに思い描いている月の色は違うのだろうが、それでも間違いなくその月は美しかった。とても。
「俺も、いままで見た月のなかでいちばん──この月がきれいだと思うよ」
「きっと──あきらといっしょだから、こんなにきれいなの……。わたしが見ている気でいる月の色は、たぶん、あきらがちゃんと見てる色とは違うと思うけど……でも、すごくきれい。本当に。あきらに、見せてあげたいくらい──……」
桜花《おうか》がふと口を閉ざした。顔を伏せた桜花がいったいなにを思いついたのか、俺《おれ》にはなんとなくわかった。腕のなかにいる桜花が自信なく迷い、悩み、新しい一歩を踏み出したがっているが踏み出せないでいるのが伝わってくる。
脳裏に、桜花がこれまでに描いた数々の絵が思い浮かぶ。あるいは、桜花なら──と思わせてくれる、素晴《すば》らしい絵の数々。色がまったく識別《しきべつ》できないという画家として絶望的なハンデさえ、この子ならあるいは乗り越えられるかもしれない。
「見せてくれよ」
俺は桜花を抱きしめたまま、しずかにそう告げた。いまの桜花だったら、あと一歩の勇気さえあれば、きっと──。
「おまえが思い描いている月を、俺に見せてくれ」
「──きっと、なにもかもぐちゃぐちゃの、わたし以外には狂ってるようにしか見えない……そんなひどい絵に、なる。自信はないの。わたしが頭のなかで、勝手にいろいろ思ってるだけだから。黒と白以外の絵の具だって、たぶん、ちゃんと使えない……」
「失敗したっていいじゃないか」
俺は月を見ながら言った。桜花がその特別な目を持って、この月のなかにどんな美しいものを見ているのか、本当に知りたいと思った。
「気に入らなければ描《か》き直せばいいし、それでもダメだったらそこではじめてあきらめればいいだろ。それからまた何度だって挑戦してみればいいんだ。違うか?」
桜花はしばらく沈黙《ちんもく》して、ゆっくり首を振る。
「……たぶん、違わない」
「そうだろ?」
俺がくすりと笑《え》みをこぼすと、目を開けた桜花も俺を振り返って、ほんのちょっぴり口許《くちもと》を緩《ゆる》める。アブラゼミがまた鳴きはじめた。桜花は「……セミ……」とつぶやいてから、俺の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込んだ。
「あきら。わたしが描くあいだ、ずっと……見ていて、くれる?」
「ああ、当たり前だろ」
俺がそう答えると、桜花は少し嬉《うれ》しそうにほっとした顔をする。
「──わたし、ここで……描きたい。この月の下で」
ここで? 俺は校庭をぐるりと見回し、ちょっと考えたのちに「わかった。じゃあ、五分だけ待っててくれ」と微笑《ほほえ》んだ。桜花を校庭に残して、家まで走った。母さんには「あとで説明するから」とだけ告げて、画材とキャンバス、イーゼルを取って戻ってくる。桜花はまだじっと月を見上げていた。
ブランコの傍《そば》に、キャンバスを立てる。桜花はずらりと並んだ絵の具を見つめて、緊張《きんちょう》しきった面持ちで唇を開いた。
「わたし、……勉強したの。赤って色がどういう雰囲気の色で、どんな気持ちを表現するのに使えばよくて、どんな色を混ぜればどう変わるのか……」
桜花《おうか》が想像力によって思い描くその世界を現実に表現するのは、もちろん生半可《なまはんか》なことではないはずだった。描く対象物だけではない、桜花はそれぞれの絵の具がどんな色なのかもわからないのだ。
黒と白のようにはっきりと違う色を使うだけならともかく、たとえば黒と赤などはそこに違う色が存在しているのだということすら、桜花には言葉で確認《かくにん》するしか認識《にんしき》する方法がないのではないか? 桜花はそういう根本的にどうしようもない欠如を、想像力と直感で補おうとしている。それは人間に可能なことではないのかもしれなかった。
「青がどういう色か。黄色《きいろ》がどんなふうに鮮《あざ》やかなのか。たくさん、調《しら》べた。──でもやっぱり、わたしの想像がきちんと当たってる色なんて、なにもないと思う……。わたしの思ってる赤は、きっと本当の赤とはまったく違う色。だけど」
桜花は「ブライトレッド」と記された絵の具を手に取り、パレットへと載せた。
ためらいを見せながら、おそるおそる絵筆を絵の具に触れさせる。
「わたしが想像してるとおりに、わたしの頭のなかにある世界そのままに……描いてみる。あきらの目には、ひどい絵になると思う……けど、やってみる。伝えたい……から。わたしが頭のなかで見てる月は、本当に美しいの。本当に、本当に──」
そして、桜花は描きはじめた。
はじめて使う「色」に戸惑い、ところどころ苦しみ、悩みつつも──現実に俺《おれ》たちが見ている色ではなく、桜花の頭のなかにある世界をキャンバスへ写し取るために。桜花は思い悩みながらもただひたすら懸命《けんめい》に、一心不乱に絵筆を振るった。俺はそのあいだ、邪魔《じゃま》にならないよう一度も話しかけず、ただ黙《だま》って見守る。
アブラゼミが鳴き、海からの風が吹き、真夏の夜空が美しかった。
桜花は休憩《きゅうけい》なしの、たった四時間でその絵を完成させた。それは桜花がこれまでに油彩を使って制作したあらゆる絵よりも、圧倒的に短い制作時間である。桜花が筆を下ろしたとき、俺はひとつだけ尋ねた。
「タイトルはもう決めてるのか?」
「うん」
桜花はうなずいて、四時間ぶりにこちらを振り返る。桜花の表情には満足そうな微笑《ほほえ》みがあった。どこか誇らしげな、欠片《かけら》の後悔も混じっていないその小さな笑《え》みはきらきらとして、俺にはいまの月と同じくらい美しく見えた。
そして桜花はそのタイトルを口にする。
「月の盾──」
『月の盾』。つまり、日没の炎から世界を守る盾。
桜花《おうか》はさらにもうひと言、はにかみながら付け加えた。
「……ちょっとだけ、自信作」
洗練された絵ではない。はじめて油彩を使って慶太《けいた》の絵を描《か》いたときのように、乾く前に重ねた色が濁《にご》り、にじんでいる箇所がところどころにある。筆致もいつもより荒い。絵の完成度は決して高くないのかもしれなかった。
キャンバスに描かれた月は桜花が言うように、現実の色彩ではなかった。正しい月の色ではまったくない。それは黄金色《こがねいろ》にも見えたし、自銀色《はくぎんしよく》にも見えたし、光の加減によっては赤銅《しやくどう》色《いろ》にも見える。全体的な配色も普通の風景画には使われないようなあまりに鮮《あざ》やかな非現実的なもので、破綻《はたん》をきたす手前ぎりぎりだ。
俺《おれ》は桜花の色覚異常を知ったとき、絵画の神に祈ったことを思い出した。俺がなにも感想を言わないからふと不安になったのか、桜花が『月の盾』を見つめ、それから俺におそるおそる尋ねてくる。
「わたしの想像のなかでは、きちんと──わたしが思ったとおり描けたように、見える……。でも、あきらから見たら、…………ど、う?」
月は暗い夜の波間にぽつんと浮かんでいる。ただ彷徨《きまよ》っているのではなく、愛《いと》しいひとにそうするときのような甘さを持って、夜空を抱擁《ほうよう》しているように見える。その穏《おだ》やかなかがやきに、日没を表すのだろう毒々しい紫の炎が闇《やみ》の淵《ふち》まで追いやられている。月を支えるように浮かぶのは、ひとつの星。
俺はこの瞬間《しゅんかん》になってようやく、自分の頬《ほお》に涙の筋が伝っていることに気づいた。
感想を言わないのではなく、言葉を発することもできないのだった。
ああそうか、と思う。これが桜花の見ている月なのか。
十七年生きてきて、その月ほど美しい色を見たことがなかった。それはただただ圧倒的に、きらめくように、どこまでも美しかった。それを何色だと表現すればいいのかもわからない。たぶん、桜花がたったいま描き出すまでこの地上に存在していなかった色だ。それはあまりに美しすぎた。
絵画の神に祈る必要も、それどころか絵画の神に微笑《ほほえ》みかけられる必要すら、桜花にはなかったのである。桜花は絵画の神をその圧倒的な才能と努力でねじ伏せた。色が識別《しきべつ》できないという致命傷を、途方もない想像力と素晴《すば》らしい直感によって乗り越えた。俺はこの世に生まれ落ち、この絵に出会えたことを感謝《かんしゃ》した。
俺たち家族にとって八月十五日は呪《のろ》われた日。俺はふと、心に刻まれたその傷が、月のかがやきによって消えゆくのに気がついた。今日《きょう》が八月十五日でよかった。今日の赤すぎる夕陽《ゆうひ》を乗り越えられたのは、桜花だけではない……。
桜花の『月の盾』。それは端的に言って、奇跡だった。
色というものを知覚できない桜花《おうか》が見ている、桜花の頭のなかだけに思い描かれた世界。それはもしかしたら、現実をはるかに飛び越えて美しいのではないか。それゆえ、桜花が描き出すまでこの世に存在していなかった色彩で描かれたこの『月の盾』は、現実に見る月よりもずっと美しいのでは?
単純極まりない構図なのにもかかわらず、途方もなく美しく優《やさ》しい絵。その絵は桜花が感じる希望や愛情そのもので、静譜《せいひつ》さをたたえた月そのもので、危うい鮮《あざ》やかさで調和《ちょうわ》された桜花の色彩そのものだった。
「ね、ねえ暁《あきら》。これはいくらなんでも、……すごすぎない?」
慶太《けいた》は『月の盾』を眺めて、唖然《あぜん》としてそう言った。
「なに、なんだろ、この絵……。僕は絵のことなんで大して詳しくないけど、でも、これは……違うよ。それはわかる。母さんにプレゼントしてくれたあの絵よりも、もっと優しい……。心の奥まで洗われるみたいだ。桜花ちゃん、君には本当に──絵の神さまが宿っているのかもしれないね」
慶太の後ろでは、優美子《ゆみこ》が口許《くちもと》を押さえて絶句していた。『月の盾』を見つめるその瞳《ひとみ》から涙がいっぱいに溢《あふ》れ、こぼれ落ちている。桜花がそれに気づいて不安そうに表情を揺らした。桜花はきゅっと怯《おび》えたふうに眉根《まゆね》を寄せて、
「優美子? どう……したの? ごめん、なさい。わたしの絵が──」
「……ううん、違う。そうじゃないの、桜花ちゃん。ありがとう。変な心配させちゃってごめんね。大丈夫、悲しいわけじゃないから」
優美子は恥ずかしそうに涙を拭《ぬぐ》って、あは、と微笑《ほほえ》んだ。
「桜花ちゃんはたくさんのことを乗り越えてこんなすごい絵を描いたんだなって思うと、美咲《みさき》とのことなんかで元気なくしてうじうじ悩んでるあたしが、格好悪いなあって思えてきちやってね。……がんばろうって、そんな気になってくるよ」
父さんと母さんも、この『月の盾』にはすっかり参ってしまったようだった。桜花が『月の盾』を描いたあの日、厳《きび》しい顔をして夜中のリビングで俺たちの帰りを待っていた父さんたちに『月の盾』を見せると、俺《おれ》たちを叱《しか》ろうとしていたらしいふたりの表情はその瞬間《しゅんかん》に一変した。父さんたちは驚《おどろ》き、魅入《みい》られたように月の盾』を見つめ続けた。
母さんは「桜花ちゃんが、色のある絵を──」と泣いてさえいた。父さんはひと言「すごいな……」とつぶやき、それ以上はなにも言えなくなっていた。桜花は少し戸惑いながらも、照れたふうにはにかんでいた。
俺だけではない。桜花が生まれてはじめて色彩を使って描き上げたこの『月の盾』は、俺たちみんなに知らしめたのだ。桜花の絵は「なかなかいいな」と微笑み、のんびり眺めて済むような範疇《はんちゅう》にあるものではないのだと。
これはただごとではないぞと、痛切に。
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4.
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桜花《おうか》は『月の盾』を描《か》き上げてから数日間、俺《おれ》の家で絵を描き出して以来はじめて、一度だけ優美子《ゆみこ》のスケッチを簡単《かんたん》に描いたとき以外、鉛筆も筆も持たなかった。魂を燃《も》やし尽くしたといった感じであった。
桜花はぼんやりと過ごし、時折『月の盾』を眺めていた。それでいいのだ、と思う。たまには休息くらい取っていい。はじめて桜花と夕方に外出し、優美子たちといっしょに食事した。桜花は絵を描かない数日のあいだ、俺の傍《そば》にずっと、べったりだった。優美子から「妬《や》けるね」とにやにやされたほどである。
桜花は成長した、と本当に喜ばしく思う。桜花はもう決して、森のアトリエですべてに対して震《ふる》えていた、あのなにも言えないただか弱いだけの子ではない。俺や父さんたちにちゃんと自己主張してくれるし、優美子たちになにかを言われると、照れたり少し微笑んだりしてきちんと反応する──。
その朝も、リビングでだらだらゲームをしていた俺のすぐ傍に、桜花はちょこんと座っていた。いつものように画集を眺めている。俺がゴルフゲームのチップインを決めたとき、桜花が不意に口を開いた。
「あきら。そう……言えば、わたし、新しい絵筆が──」
その言葉をさえぎるように、俺の携帯電話が鳴った。
桜花に「ああ、ちょっと待て」と断ってから携帯電話を見やると、ディスプレイには「安藤《あんどう》優美子」と表示されている。電話を取る前に「優美子だ」と伝えると、桜花はちょっぴり微笑んだ。
「──おはよう」
『あ、おはよう、暁《あきら》。ごめんね、ちょっと……いい?』
おや? と思ったのは、優美子のその声がどことなく申し訳なさそうな、言い出しにくそうな感じだったからである。俺が「ああ。大丈夫。なんだ?」と言うと、優美子はおずおずといったふうに続けた。
『あのね、ついこないだ、桜花ちゃんがあたしの絵を描いてくれたじゃない?』
「うん? ああ、そうだな」
あれが、この数日で桜花が唯一絵を描いたときである。
四人で遊んでいるとき、桜花が何の気なしに鉛筆とスケッチブックを取り出して、笑っている優美子の似顔絵をさっと描いて「……ん」とプレゼントしたのだ。それはきっと桜花なりの優美子への気遣いだったのだろうと思う。
『あたしすごく嬉《うれ》しくて、あの絵を部屋に飾ってたのね。そうしたら昨日《きのう》、美咲《みきき》がそれを見て……どうしたのかって訊《き》いてくるの。桜花《おうか》ちゃんが描《か》いてくれたんだよって答えたら、美咲《みさき》はへえってつぶやいて、ちょっとうふふって笑って……。それで、桜花ちゃんに頼んでくれないか、って』
「──なにを?」
『自分の絵も描いてほしい、って──』
美咲がいったいなにを思ってそんなことを言い出したのか、わからなかった。驚《おどろ》きが表情に出ていたのだろう、俺《おれ》を見る桜花が不思議《ふしぎ》そうな顔をする。エアコンのよく効いたひんやりするリビングに、朝の静寂が流れた。電話の向こうの優美子《ゆみこ》が『嫌《いや》だったら、断るよ……?』と不安そうな声音。
果たして桜花を美咲に会わせていいのか迷いはしたのだが、桜花本人が「別に、描いてもいい」と言ったので、翌日、優美子の家へ出かけることになった。俺の家から徒歩三分ほど、玄関の呼び鈴を押すと、ラフな格好をした優美子が迎えてくれた。
「わざわざごめんね、桜花ちゃん」
申し訳なさそうな優美子に、桜花は真剣な面持ちで首を振る。
「ううん、だいじょうぶ。描くのは、楽しいもの」
優美子がちらと視線《しせん》を送ってくる。ごめんね、美咲がなにを考えているのかわからない、と言っているふうだった。俺はうなずいた。
美咲はリビングで待っていた。室内にもかかわらず、これから町中へお出かけするのかというような、おしゃれな格好をしている。美咲が気を抜いた服装をしているところなんて見たこともない。美咲は俺たちを眺めて、ふふっ──と美しく笑い、品のいい茶色《ちゃいろ》に染められたその巻き毛をふわりとかき上げた。
「いらっしゃい。わがままを聞いてもらって、嬉しいわ」
そう言ってじっと桜花を見つめる美咲の眼差《まなざ》しにある、まるで品定めするような雰囲気を見て取って、ああなるほど、と納得できた気がする。美咲は桜花をひと目見るために、こんなことを言い出したのかもしれない。
「はじめまして、あなたが国崎《くにさき》桜花ちゃんね」
美咲のその微笑《ほほえ》みはきっとだれが見てもどきりとするだろう、お人形のように愛らしい完璧《かんぺき》な笑《え》みだった。俺はそう思いながら桜花の横顔を見て、そして少し驚いた。桜花がなにか怯《おび》えをにじませた眼差しで、美咲を見ている。
俺がこっそり「どうした、桜花?」と声をかけようとしたとき、
「美咲。あたし、お茶を淹れてくるけど……桜花ちゃんになにか失礼なことをしたら、いくらあなたでも許さないからね」
優美子の言葉に、美咲は「ああ、はいはい。わかっているわ、お姉ちゃん」と微笑んだまま答えた。美咲《みさき》は優美子《ゆみこ》が台所のほうへ消えていくのを確認《かくにん》してから、俺《おれ》に「ねえ、暁《あきら》くん」と話しかけてくる。
「優美子に、なにかした? 最近の優美子ったら、ちょっと元気が出てきたみたいで生意気なのよね。少しくらい悪口言ってやっでもへこたれなくなってきてるし。いじめがいがないじゃないの」
桜花《おうか》の『月の盾』を見たからだ──。反射的にそう思ったが、肩をすくめて「さあな」とだけ答えておいた。美咲はふんと鼻で笑って、桜花へと歩み寄った。横目で俺を一瞥《いちべつ》して、桜花の顔を覗《のぞ》き込む。
「ふうん。たしかに、可愛《かわい》い顔はしてるわね。よろしく、桜花ちゃん──」
美咲が手を差し出した瞬間《しゅんかん》、桜花は突然びくっと肩を震《ふる》わせ、その手から逃げるように俺の背中へ隠れた。俺は「桜花──?」と眉《まゆ》をひそめる。美咲を見上げる桜花の目には、ちょっと普通ではない恐怖がある。長い沈黙《ちんもく》があったのち、美咲は苦々しげに笑って「いい教育をしているのね」と手を引っ込めた。
美咲はそこでふと「──ん?」と訝《いぶか》しげな表情をする。
「あなた──だれかに似てると思ったら」
美咲がずいっと顔を寄せる。桜花はまた怯《おび》えたように表情を揺らした。
「あの『日没』の、早坂《はやさか》荘悟《そうご》に似てるわね。顔が」
桜花は「え……?」と、なにを言われたのかよくわかっていない様子《ようす》だった。俺も突然の名前にまばたきし、思わず「は?」と声を漏らした。
早坂荘悟──? だれだ、それは。
美咲は戸惑う俺の表情を見て、ちょっと馬鹿《ばか》にしたように笑った。
「なあに、暁くん。かなり似ている──というか、性別がいっしょだったらほとんどそっくりなんじゃないの?……もしかして、知らないのかしら? まあ騒《さわ》ぎになったときって、あたしたちまだ小学校の低学年だったもんねえ」
そのとき、優美子が人数分の紅茶を持って戻ってくる。
美咲が「それじゃ、はじめましょうか」と言って、桜花へ振り向いた。
「ちゃんときれいに描きなさいよ。見たとおりにね」
そこでモデルになるつもりらしい、美咲はソファのほうへと歩いていった。俺はそのあいだに、うなだれる桜花へ小さく話しかける。
「どうした?」
なにか不安を覚えた。いまの桜花は別に、美咲に対して取り立ててどうとも思っていなかったはずなのに。美咲を前にした桜花がどうして突然こんなに怖がりはじめたのか、わからなかった。
「突然、なにをそんなに怖がってるんだ?」
桜花《おうか》は震《ふる》えながらぼんやりと、
「──わからない。よくわからない……けど、あのひとの目を見たら、なんだか胸の奥がざわざわして…………あの目がちょっと似てると思って、怖くなって」
「似てる?」
俺《おれ》は目をぱちぱちさせた。
「美咲《みさき》が? だれに?」
「────え?」
と、声を漏らして俺を見上げた桜花はきょとんとしていた。夢から覚めたように、自分がなにを喋《しゃべ》ったのかよくわかっていない顔つきである。桜花が不思議《ふしぎ》そうに「似てる……?」と言ったので、俺は話を変えることにした。
「──大丈夫か? そんなので、描《か》けるのか?」
「それは……だいじょうぶ。たぶん」
桜花は一度目を閉じてから、描くための仕度《したく》をはじめた。
制作は俺と優美子《ゆみこ》が見守るなか、まず簡単《かんたん》な下描きが描かれ、それから水彩で行われた。精神的な動揺は、少なくとも筆致にはなんの影響《えいきょう》も与えていないようだった。描いているあいだずっと、桜花は難《むずか》しい顔をしている。途中で何度か休憩《きゅうけい》を挟みながら、三時間強。やがて桜花が筆を置いて、ぽつりとつぶやいた。
「──できた」
「ふう。やっと完成?」
美咲は伸びをして、俺と優美子を一瞥《いちべつ》もせず、余裕ある微笑を浮かべてキャンバスへと近づいた。キャンバスの脇《わき》に立つ桜花が、うつむいている。俺は、ん? と訝《いぶか》った。桜花の顔色が優《すぐ》れない──。
「へえ。たしかに、すごいわね。上手《じょうず》じゃないの」
美咲はキャンバスを覗《のぞ》き込んで上機嫌《じょうきげん》そうに笑い、そして次の瞬間《しゅんかん》、その美しい顔が「えっ──」と揺れた。美咲の表情が、ゆっくりと歪《ゆが》んでいく。
「…………なによ、これ」
俺と優美子は顔を見合わせ、キャンバスを覗き込む。ああ、さすがにきれいな絵だな……と感心した次の瞬間、ふと、強烈な違和感を覚えた。そして、ぞくりとするものを感じる。軽い吐き気さえあった。
それは一見すると、美しく描かれた美咲の絵に見える。だが、よく見ていると、その黒い瞳《ひとみ》や背景になっている黒い渦から、じくじくと、なにかこう──暗く根深い、狂気のようなものがにじみ出てくるのを感じた。もっと見ていると次第にわかってくるが、背景の黒い渦はまるで悪魔《あくま》のように描かれていて、それが美咲を後ろから抱きしめ絡みついている。見れば見るほど不気味で、気分が悪くなってくる絵だった。
「……どういう、つもり。こんな絵」
美咲《みさき》がこぶしを握って震《ふる》える。美咲は桜花《おうか》をきっと睨《にら》みつけたが、桜花はそれには答えず辛《つら》そうにうつむいたままである。優美子《ゆみこ》がはらはらして桜花と美咲を交互に見る。美咲はわなわな震えながら続けた。
「なにが言いたいの? あたしが、悪魔《あくま》に憑《つ》かれているとでも言うわけ? 嫌《いや》がらせ──の、つもりなの……?……そうか、あんたたちみんなグルなのね」
桜花が慌てた様子《ようす》で顔を上げて、懸命《けんめい》に首を振った。
「違う。そう……じゃないの、これは──」
「よくわかったわ。くだらないことしでくれるじゃない!」
美咲は台所まで走って果物ナイフを取ってくると、俺《おれ》たちが制止する間もなく、桜花の絵を無惨に引き裂いた。優美子が「美咲、なにを──」と叱責《しっせき》しようとしたのを、美咲は「うるさい!」と黙《だま》らせる。
「このあたしを、馬鹿《ばか》にしてるの!? 調子に乗るんじゃないわよ! 気まぐれであんたに描《か》かせてみてもいいかなと思ったけど、こんなことならあたしの学校の美術部貝にでもやらせたほうがマシだったわ」
それ以上、怒りに震える美咲の前にはいられなかった。
優美子の家をあとにする際、玄関先で優美子が「ごめんね」と言った。桜花は「ううん、わたしこそ……」とうつむいたまま答えた。俺はそんな桜花の肩をぽんと叩《たた》き、それから優美子に向き合って尋ねてみた。
「そうだ優美子、早坂《はやさか》荘悟《そうご》って人物、知ってるか?」
「早坂……? うーん、どうだろ。聞いたことがあるような、ないような。その早坂ってひとがどうしたの?」
「……。いや、いいんだ。気にしないでくれ」
首をひねる優美子と別れの挨拶《あいさつ》を交わして、桜花とふたりで帰路に着く。たしかに、その名前にはどこか聞き覚えがあるような気もするけれど──。考えてもわからなかった。
家までの短い帰り道、桜花はまだ震えていた。顔色もよくない。
「桜花、気分がよくないのか?」
「──少し」
「どうして……、あんなふうに描いたんだ?」
桜花はちょっと黙る。自分でもよくわからず、考え込んでいるふうに見えた。やがて、ぽつりぽつりと語りはじめる。
「最初は……なるべくきれいに描かなきゃって、そう思って描いてたの。でも──途中から……あれが見えはじめて。あきらの家にきてからは、一度も見ていなかったのに。忘れてた……のに。あのひとの目を見たら、思い出して……それで……」
「見えた? なにが?」
「──悪魔《あくま》が」
桜花《おうか》は悲しそうに小さく答えた。
「悪魔がまた、むかしみたいに、わたしを見て笑ってた……。気にしないで描かなきゃって思うのに、どうしても悪魔に目がいって……。わたし、ひとを傷つけるような絵を、描いた…………」
悪魔が、見えた──? 桜花の話がどういう意味なのかよくわからなかったし、桜花自身、いまいち上手《うま》く説明できないようだった。俺《おれ》は桜花の悲しそうな横顔を見つめて、その手をぎゅっと握ってやった。真夏にもかかわらず、冷えきっていた。
「まあ、美咲《みさき》のことは気にするな。あいつはあのくらいのことで傷つくような、ヤワな精神はしていないだろうから」
「……ありがとう」
桜花が手を握り返してきて、ほんのちょっとだけ笑った。
俺はその笑顔《えがお》を見ながら、少しでも桜花を元気づけてやらなきやなと思った。そうだ、と思い出す。昨日《きのう》、桜花が言いかけたこと。
「桜花。そう言えば、新しい絵筆がほしいって言ってたか? ついでだし、これから、いっしょに買いに行こうか。そろそろ、あの『月の盾』の次の絵を──また色彩を使って、描こうと思ってるんだろ?」
画材の買い物はいつも俺がやっていたので、考えてみたら桜花はまだ画材屋『ローザ・ボヌールの飼い猫屋』に行ったことがない。もうすっかり顔なじみになった店番のお姉さんに、何度か「桜花ちゃん連れてきなよ」と言われていたのに。俺の提案に、桜花は「え」と一瞬驚《いっしゅんおどろ》いた顔をしたあと、
「……うん」
と、ちょっぴり嬉《うれ》しそうにうなずいた。
桜花がその才能と感情のすべてを注ぎ込み、自分の頭のなかだけにあった想像の世界をはじめて具現化した『月の盾』が、赤熱《せきねつ》するような激流《げきりゅう》を生み出して桜花自身の日常を呑《の》み込んでいくのだと、俺も桜花もまだよくわかっていないまま。
はじめて訪れた画材屋を物珍しそうにきょろきょろ見回す桜花に、店番のお姉さんはくすりとした。
「見るだけならタダだから、存分に見てくれていいよ。キミが国崎《くにさき》桜花ちゃんか、はじめましてだね。話はよく村瀬《むらせ》くんから聞いてる。わたし、折笠《おりかさ》っていうんだ。主にここの店で働いている……かな」
彼女が差し出した手を、桜花はおそるおそる握った。
「はじめ……まして」
「桜花《おうか》ちゃんを紹介してほしいって村瀬《むらせ》くんにずっとお願《ねが》いしてたのが、ようやく叶《かな》ったね。キミの話を聞いてから、ずっと会いたかったんだ。お願いしてもお願いしても、村瀬くんはキミを連れてきてくれなかったから。独占欲かな」
「……いや、たまたま機会《きかい》がなかっただけで」
俺《おれ》は彼女のにやにやした視線《しせん》に、頬《ほお》をかいてつぶやいた。
彼女は美大を卒業してまだそれほど経《た》たない二十四歳で、名前を折笠《おりかさ》鏡子《きょうこ》といった。なんでもけっこうな美術家系の生まれで、祖父と兄が画家をやっていて、自身も美術雑誌の編集《へんしゅう》をアルバイトでやりつつ、父親がはじめたこの画材屋の手伝いをしているのだという。すらりとした美人である。桜花の画材を買うために通っているうちに、画材選びをいろいろアドバイスしてくれ、少し親しくなった。
そのとき桜花の顔を覗《のぞ》き込む鏡子さんの表情がふと、訝《いぶか》しげなものに変わった。鏡子さんは形のよい眉《まゆ》をきゅっとひそめ、なにか考え込むように桜花を見つめる。桜花が不思議《ふしぎ》そうな顔をして、俺が「鏡子さん?」と声をかけると、鏡子さんは我に返った様子《ようす》で「あはは」と笑った。
「いや。知り合いに似ているかなって、そんなことを少し思っただけ。なんでもない。気にしないでくれると嬉《うれ》しい」
そして、桜花が店内を興味津々といった感じに歩き回っているあいだに、鏡子さんもなにやら興味津々といった様子でこっそり話しかけてきた。
「桜花ちゃんってキミが言っていたとおり、ものすごくきれいな子だね。驚《おどろ》いてしまったよ。それで村瀬くん、最近の桜花ちゃんはどんな絵を描《か》いている? 黒と白じゃない絵の具を見ているってことは、もしかして──」
「うん? ああ、このあいだ、はじめて色を使って描いたよ」
「本当!?」
鏡子さんは目をかがやかせた。彼女は桜花の目のことも知っている──俺がこれまで黒と白の絵の具しか買わなかったから当然なのだが。感心したふうに「そうか!……。だったら今度、絵の具の作り方でも教えてあげようかな」と桜花の横顔を見つめた鏡子さんは、にっと笑ってから、
「出来はどうだった?」
「──このあいだまで、フェルメールがきてたの、知ってる?」
「『絵画芸術の寓意《ぐうい》』だろ? まさか日本にきてくれるとは思わなかったね。五回見に行ったよ──って、そうじゃない。それがなに?」
「俺も桜花といっしょに見に行ったんだ、その絵」
俺は脳裏に『絵画芸術の寓意』と桜花の『月の盾』を思い浮かべながら、
「桜花《おうか》の『月の盾』って絵は、それと同じくらいの出来……かな」
もちろん大げさには言ったが、むちゃくちゃなでたらめだとも思わなかった。
鏡子《きょうこ》さんは俺《おれ》が言った意味がすぐには理解できなかったらしい、きょとんと俺を見つめて数秒後、くすくす笑いはじめる。
「なるほど。村瀬《むらせ》くんは桜花ちゃんがよっぽど可愛《かわい》いんだ」
「……桜花は可愛いよ」
「うん、わかるよ。そうか──見てみたいな、その『月の盾』って絵。いや、まあ、その『月の盾』だけじゃなくて、桜花ちゃんの絵自体、まだ見たことがないからね。ぜひ見てみたい。……ねえ、村瀬くん。お願《ねが》いしてはダメ、かな?」
鏡子さんがぱちりとウインクする。俺は苦笑いを浮かべて、視線《しせん》で桜花を指し示した。それを許可するのは俺ではない。やがて、何本かの絵筆といくつかの絵の具を持った桜花が、俺たちのいるほうに戻ってくる。
鏡子さんが「桜花ちゃん」と楽しげに話しかけた。
「もし、よかったらなんだけれど」
「……?」
「キミの『月の盾』を、わたしにぜひ見せてくれないかな」
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桜花が了承したため、鏡子さんは「どうせお客さんなんてあんまりこないから」と店を閉める。いまから俺《おれ》の家に向かうことになった。
鏡子《きょうこ》さんはよほど楽しみであるらしく、道中ずっと上機嫌《じょうきげん》だった。時刻はもう昼すぎ、真夏の太陽はぎらぎらしていて立っているだけでも汗が噴《ふ》き出し、アブラゼミはじいじいと鳴き続けて、道には学校プール帰りの小学生の姿がちらほらとある。鏡子さんが「わたしも」と桜花《おうか》に話しかけている。
「小さいころからずっと絵を描《か》いているんだよ。こう見えでもなかなか上手《じょうず》で、小学校、中学校のころはいろんなコンクールで常連だったんだ」
どーだ、という感じに胸を張る鏡子さんに、桜花は感心した表情になる。
「本当? すごい……。わたし、コンクールなんて出したこともない──」
そんな感じで、桜花と鏡子さんの会話は意外と盛り上がっているようだった。
家には母さんがいて、お茶を用意してくれた。俺と桜花は、鏡子さんを『月の盾』の飾られたリビングに案内する。緊張《きんちょう》した面持ちの桜花の横で、鏡子さんは「へえ。どれどれ──」と絵に近づいた。
「お茶菓子はなにがいいかしら」
母さんがこっそりそんなことを訊《き》いてきたので、俺は「なんでもいいよ」と苦笑する。台所へと消えていく母さんの後ろ姿を見送りながら、──ふと、リビングがしんとしずまり返っていることに気づいた。振り返ると、黙《だま》り込んだ鏡子さんが『月の盾』を間近で見上げ、それまでの上機嫌が嘘《うそ》のような険しい顔をしていた。
桜花が不安そうに「鏡子……?」と首を傾《かし》げる。
鏡子さんはぽつりとつぶやいた。
「──冗談《じょうだん》じゃない」
桜花が「えっ……」と動揺した声漕こぼしたが、鏡子さんには聞こえなかったようである。鏡子さんは振り返らず、深刻な面持ちで『月の盾』をじっと眺めていた。鏡子さんが漏らした声は震《ふる》えてさえいた。
「ああ、嘘だろ。信じられないよ。いったい……、どうして? こんな──色、いったいどうやったら──」
鏡子さんはそこでいったん言葉を止める。俺と桜花が訝《いぶか》り、顔を見合わせて目をぱちぱちしたところで、鏡子さんは『月の盾』を見つめたまま、こちらを振り返らずに「ねえ──」と言葉を再開した。
「村瀬《むらせ》くん、桜花ちゃん。アート・オブ・ペインティングって雑誌、知っている?」
「……知らない」
と、桜花は素直にふるふる首を振った。
鏡子さんはやはりまだ『月の盾』を見たままうなずき、さらに続ける。
「いつ廃刊になるかわからないような、マイナー誌だけれど。ともあれ、わたしはその雑誌で編集《へんしゅう》作業の手伝いをしてるんだ。小さな編集部だから、ある程度はわたしが記事を書くこともできたりする。……もちろんその雑誌の力なんてたかが知れているけれど、これだけ素晴《すば》らしい絵だったら、すぐに話題は広まるんじゃないかな」
俺《おれ》は「え──?」と、鏡子《きょうこ》さんの横顔を驚《おどろ》いて見つめた。桜花《おうか》はまだよくわかっていない表情で、不思議《ふしぎ》そうに首をひねっている。俺たちを振り返った鏡子さんの目には、苛立《いらだ》ちや焦りまで浮かんでいた。
「村瀬《むらせ》くん、キミはなにをやってるんだ」
鏡子さんは情熱《じょうねつ》のこもった口調《くちょう》で懸命《けんめい》に言う。
「この『月の盾』は、リビングに飾ってそれで終わらせていいものじゃないよ。わたし、描くことに対しては自分の才能の限界に見切りをつけたけど、それでも見る目はあるつもり。これは──世に出すべきだよ」
きょとんとする桜花に向き直った鏡子さんの眼差《まなざ》しには、素直な興奮《こうふん》と称賛《しょうさん》があった。桜花がそれに気づいた様子《ようす》で「鏡子……」と言う。
「いや、違う、これは世に出さなきやいけない。それがこの絵を見た人間の義務だ。ああ、もう、桜花ちゃん、キミは本当にすごい。キミはとんでもないよ! 思いもしなかった。鳥肌が立った。すごい、すごい、すごい! もし、キミが色を見ることができないからこそ、この絵が生まれたんだとしたら」
鏡子さんは一度『月の盾』を振り返り、そのきれいな顔をきゅっとしかめた。
「それは、絵画の神の思《おぼ》し召しにしか思えない。この『月の盾』が注目されれば、きっといまの美術界は大騒《おおさわ》ぎになる。桜花ちゃん、キミがまだ嫌《いや》だと言うのならひとまずはあきらめるけれど、でも、そうでなければこれは──……」
桜花が突然の話に、戸惑った目でちらりと俺を見た。どうすればいいのかわからない、といった感じの眼差《まなざ》しである。同じく俺を見た鏡子さんは、俺がなにを不安がっているのか悟ったようで、ふと申し訳なさそうな顔をした。
「村瀬くん。キミが桜花ちゃんのことを心配するのはよくわかるし、それも間違っていないと思うけれど、でもこの『月の盾』は──」
そんなレベルではないよ、と鏡子さんの目が必死に言っていた。しばらく前に、慶太《けいた》が言っていたことを思い出す。慶太は「もったいない」と言っていたのだ。桜花の絵をほかのひとたちが知らないのは、もったいないと。
俺は『月の盾』を眺めて、そうかもしれない、と思った。
心を揺らすように美しい、すべてを包み込んでくれるように優《やさ》しい、色鮮《いろあざ》やかな満月。これは桜花の頭のなかにしか存在していなかった、唯一の美しさである。見せてやりたい、と不意に思う。ほかのひとたちにも、見方によって世界はこんなにもかがやき、希望に満《み》ち溢《あふ》れ、美しいのだ──と。
それに、いまなら。
まだ中学二年の桜花《おうか》が多くのひとに知られるのは、必ずしもいいことだとは思わない。しかし、森のアトリエですべてにびくびくしていたころの桜花なら、騒《さわ》がれることにはとても耐えられなかっただろうが、あるいはいまの桜花なら────。
「──桜花」
俺《おれ》が声をかけると、桜花は揺れる瞳《ひとみ》を上げた。
「あきら……」
「おまえは、どう思う? もし、そんな──たくさんのひとに絵を見てもらう機会《きかい》があるのなら、そうしてみたいと……思うか?」
「わから、ない…………けど」
桜花はうつむき、沈黙《ちんもく》した。長い長い沈黙だった。そのあいだ桜花がなにを考えたのかは、想像することしかできない。やがて桜花はその素直な気持ちがたったひとつの真実だというふうに、小さな小さな声でささやくように言った。
「ひとに絵を褒《ほ》めてもらえたら、それはすごく嬉《うれ》しい────」
俺の気持ちは、桜花のその言葉を聞いて決まった。
桜花は栄光を掴《つか》むべきだ。唯一の肉親である母親から祝福されず絵を描《か》くことも禁止されていた桜花が、色が見えないという宿命すら乗り越え、認められ、褒《ほ》め称《たた》えられ、愛され、尊敬され、祝福されるだけに相応《ふさわ》しい、凄《すき》まじいとまで言っても過言ではないような絵を描いている。この子の絵は、多くのひとに見られるべきだ。
そしてこの子は、その才能もその存在も祝福されてしかるべきだ。
俺は微笑《ほほえ》み、桜花の頭をくしゃくしゃと撫《な》でた。
「桜花。おまえの絵は──おまえのなかに思い描いているその美しい世界は、前に慶太《けいた》が言ったように、きっとたくさんのひとを救えるよ。俺にそうしてくれたように、ほかのひとたちにも、おまえが見ている世界を教えてやればいい」
桜花はまた長いあいだ、考え込むように黙《だま》っていた。そして────。
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第三部「ダウンフォール」
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早坂《はやさか》荘悟《そうご》に似ている、と美咲《みさき》は言った。夏休み最後の日、自室のPCの電源を入れ、インターネットの検索エンジンに早坂荘悟∞日没≠フキーワードを放り込んでみると、その早坂荘悟なる人物に関する情報はいくらでも出てきた。
「──たしかに、似てるな」
ディスプレイに表示された早坂荘悟の写真を見て、思わずつぶやきがこぼれた。早坂荘悟という人物は、男の目から見てもはっとするくらい美しい男だった。絶世の美男子、と言ってもいい。はっきりとした目許《めもと》、すらっと通った鼻筋、シャープなあごのラインといった顔立ちはもちろん、さらさらとした柔らかそうな髪の毛の質まで、桜花《おうか》によく似ている。性差を考慮《こうりよ》すれば、そっくり、と言ってよかった。
驚《おどろ》いたことに、画家である。さらに驚いたことに、同じ県の出身者だった。県内の片田舎《かたいなか》、山間部にあるしずかな農村で裕福な家のひとり息子として生まれ、両親とは幼いころに死別、祖父母に育てられる。頭はいいが大人《おとな》しく、人間嫌いの兆候があり友人を作ることもせずいつもひとりでいたという。小中高と地元の学校に通ったのち、東京の美大に進学。そして在学中にその才能を開花させた。
数々のコンクールで人選し、その素晴《すば》らしい才能によって天才と騒《さわ》がれた。そして描く絵はもとより、俳優《はいゆう》やモデルもかくやという美貌《びぼう》のため、美術関係ではないメディアにも幾度となく取り上げられ、一躍《いちやく》時代の寵児《ちょうじ》として栄光を掴《つか》む。三十一歳のとき、いまから九年前の夏、最高傑作にして遺作でもある『日没』を描き上げたのち、警察《けいさつ》に追われ自らの喉《のど》をナイフで突くそのときまで────。
俺《おれ》はマウスを握る右手に、嫌《いや》な汗をかいていることに気づいた。寒々しい震《ふる》えが背筋を走り抜けた。手を服で拭《ぬぐ》い、まさかな、と思う。
桜花《おうか》とはただの他人のそら似に決まっている。
早坂《はやさか》荘悟《そうご》の自殺について、そのサイトにはこんなふうに書かれていた。少なくとも六人の男女を殺害したと見られている。指名手配を受け、警察に追われたあげく森のなかに逃げ込み、ナイフにて自害。享年三十一。こんな男が桜花に関係あるはずがなかったし、また、無関係であることを心から祈った。この男に似ているということが桜花の人生の足かせにならないように、と願《ねが》う。不意に部屋のドアがノックされ、かちゃりと顔を覗《のぞ》かせた桜花が「……あきら」と言った。
「伯母《おば》さんが、ご飯……できたって」
「──ああ、わかった。すぐ行くよ」
俺は肩越しに振り返って桜花へ笑顔《えがお》を向ける。桜花もちょっぴりくすりとした。サイトを閉じ、PCの電源を落とす。ぶつ、と真っ黒になったディスプレイは、まるで地面にぽっかりと空いた、どこまでも続き、光も色彩もなにもかもが永遠に落下していく、暗い穴ぼこのように見えた。
桜花と『月の盾』の記事がアート・オブ・ペインティングの秋号に掲載されてからたった数ヶ月で、桜花を取り巻く環境《かんきょう》はめまぐるしく変わっていく。
発売から二週間後、画材屋『ローザ・ポヌールの飼い猫屋』にて、鏡子《きょうこ》さんは絵の具を買いにきた俺にその記事への反響《はんきょう》を語ってくれた。
「なかなかの反響があったみたいだよ」
鏡子さんはレジのところに座って、アート・オブ・ペインティングの秋号をぱらぱらめくりながら言う。
「こんなに反応があったのは前代未聞だって、編集長《へんしゅうちょう》が喜んでた。応援しています、がんばってください、という手紙もたくさん届いているらしいし、国崎《くにさき》桜花《おうか》さんについて教えてくださいって電話もかかってくるってさ」
鏡子《きょうこ》さんがどれだけ真剣に桜花を世に出そうとしてくれているのかは、桜花の記事が六ページにわたる巻頭特集になっていることからもわかる。桜花の紹介と制作風景の写真、それから『月の盾』をはじめとしていくつかの作品写真が掲載されている。鏡子さんは嬉《うれ》しそうに、にっと笑った。
「これはひょっとすると、本当にすごいことになるかもね。できたら次の号でも──いや、それから先も桜花ちゃんの記事を載せたいって、編集長《へんしゅうちょう》からも言われたよ。雑誌の目玉になるだろうし、桜花ちゃんのPRもしっかりしてみせる、と」
「桜花のことを知って」
アート・オブ・ペインティングの記事を眺めながらつぶやく。記事では桜花の紹介をするために色が識別《しきべつ》できないということにどうしても触れざるを得ないし、掲載されている桜花の写真はどれも目が覚めるように美しい。俺《おれ》は苦笑いを浮かべて、別に鏡子さんを責めるつもりではなく言った。
「絵の内容とは関係ないところで食いつくひとも、出てくるんだろうな」
鏡子さんは一瞬沈黙《いっしゅんちんもく》し、離《むずか》しそうな顔で「うん──」と答えた。
「それは……わたしとしては気を遣うつもりだけれど、ある程度はどうしようもないだろうね。そこは難しい問題だよ。実際に桜花ちゃんはすごくきれいな顔をしているし、色なき美貌《びぼう》の天才画家みたいなキャッチコピーは宣伝効果抜群だから。村瀬《むらせ》くんはいろいろ心配に感じるだろうけれど、少なくとも、このアート・オブ・ペインティング誌では絵の本質から外れた記事は決して書かないから──」
鏡子さんもいろいろ考え迷っている部分はあるようだったが、それでも懸命《けんめい》になってくれているのは間違いなかった。鏡子さんの真剣な眼差《まなざ》しには、桜花の絵は評価されなければならない、との強い想《おも》いがある。
「──もし、桜花ちゃんが嫌《いや》な思いをするようなことがあったら、わたしはできるだけのことをする。でもやっぱり、桜花ちゃんのいちばんの支えになれるのはキミだよ、村瀬くん。キミがついていてあげれば、きっと……」
俺はアート・オブ・ペインティングを置き、鏡子さんに頭を下げる。
「わかってるよ。──よろしく、お願《ねが》いします」
鏡子さんから読者の手紙を預かり、次の取材の日取りを決めてから家に戻った。
桜花を取り巻く状況が、まだ少しずつだがたしかに変わりはじめている。ある日、桜花がぽつりと「少し、ヘンな感じがする」とこぼした。
「へンな感じ?」
「……うん。このあいだ、学校で──先生に言われたの。すごいな、って」
美術の先生がアート・オブ・ペインティング誌を買っていたらしく、それで桜花《おうか》が絵を描《か》いていることがはじめて教員のなかに広まったのだそうだ。そして朝礼のとき、校長が生徒たちの前で桜花の話をしたのだという。
「恥ずかし……かった。それに、こんなに──知らないひとから、手紙をもらって……。わたし、いままで、あきらたち以外に褒めてもらったことなんてないのに。お母さんからは、怒られてばっかりだったのに……」
「そんなふうにひとからすごいって褒められるのは、嫌《いや》か?」
俺《おれ》が問いかけると、リビングのソファに座った桜花はうつむき、じっと考え込んでいた。網戸にした窓から、秋の涼やかな風が吹き込んでくる。桜花は秋晴れの空を見上げ、ゆっくり首を振った。
「戸惑うし、落ち着かない気分に、なる……けど、絵のことを褒めてもらえたら──生きててよかったって、思う……。ほかのどんなことよりも、わたしを肯定してもらえた気がするの。だからたぶん、嫌じゃない。もう、前みたいに──絵をひとに見せるのは、あんまり怖くない……」
桜花の絵は──なかでも特に『月の盾』は、見た者をだれひとり例外なく魅了《みりょう》し、心に安らぎを与える、絶対に近い魔力《まりょく》を持っていた。
鏡子《きょうこ》さんの祖父はかなり有名な洋画家である。その祖父を、鏡子さんが俺の家に連れてきたことがあった。彼に『月の盾』を見せて、それでアート・オブ・ペインティング誌冬号の記事を書こうという、編集部《へんしゅうぶ》提案の企画であるらしかった。桜花が緊張《きんちょう》した面持ちになるなか、鏡子さんの祖父は『月の盾』を見て表情を揺らした。
「──鏡子から、ある程度……話には聞いていたが」
『月の盾』の前に立ち尽くした鏡子さんの祖父は涙さえ浮かべていた。
「わたしはこれまで、こんなに美しい色もこんなに優《やさ》しい色も見たことがない。わたしも若いころに月の絵を何度か描いたが、これに比べればまるで朽ちた材木のようだ。──国崎《くにきき》桜花くん。キミは素晴《すば》らしい天賦《てんぷ》の才を持っている。……あの早坂《はやさか》荘悟《そうご》以来かもしれない。その才能を大切に育てなさい」
早坂荘悟という名前が出てきて、俺ひとりがいくらかどきりとした。桜花は戸惑いながらも、こくり、とうなずく。鏡子さんの祖父の言葉は、涙ぐむその写真といっしょにアート・オブ・ペインティング冬号の記事に使われた。
鏡子さんの祖父による絶賛《ぜっさん》は、なかなか効果的だった。
桜花の『月の盾』を見せてくれと家を訪れる記者や評論家《ひょうろんか》、画家が増えた。なかにはしょせん見た目がきれいな話題先行の子どもが描いた絵と小馬鹿《こばか》にしていたひともいたが、そういうひとたちも実際に『月の盾』を目にすれば、考えを改めざるを得なかった。桜花の『月の盾』はあまりにも傑作すぎたのである。
単純な技術では達者な画家と比べればもちろんまだ稚拙《ちせつ》な部分はあるものの、脳が未完成な十四歳という年齢《ねんれい》を考えれば異常なほどに上手《うま》い。それがおおよその、評論家《ひょうろんか》やほかの画家による桜花《おうか》の腕に対する評価だ。それになにより技術うんぬんではなく、桜花は桜花にしかない特別な色彩を持っていた。
本当に危うい、破綻《はたん》する寸前の色調《しきちょう》で描かれる桜花の世界。実際、桜花が色を使って描いたとき、たまにバランスが崩れ破綻することがあった。だがそれが『月の盾』のようにがっちり噛《か》み合ったときには、その絵は優《やさ》しく力強く、ほかに表現しようがないほどただただ美しくなる。美術に造詣《ぞうけい》が深い者もそうでない者も無関係に、どんな心もそのあまりの美しさによってこじ開けてしまうような。
また、桜花は絵を描いていないとき、鏡子《きょうこ》さんから届けられる手紙をよく読んでいた。内容を尋ねてみると、桜花の絵を褒《ほ》め称《たた》えるもの、色が見えないことに負けずにがんばれというもの、桜花の見た目も好きという絵とはあまり関係ないものまで、さまざまであるそうだ。桜花は純粋に手紙を喜んでいた。
評論家などによる絶賛《ぜっさん》もそうだが、これまでコンクールに出展したことがなく、他人の前で絵を描《か》くこともできなかった桜花にとって、見知らぬひとから評価されるというのは新鮮《しんせん》で貴重な体験《たいけん》だったのだろう。それは喜びであり、快感でもあったろうと思う。思うに、桜花はこのときになってようやく、自分の絵が他人を感動させ興奮《こうふん》させられるのだということを実感したのではないだろうか。
アート・オブ・ペインティングだけではなく、もう少し大手の美術誌にも取り上げられるようになった。地元の情報誌からも取材の依頼を受け、一月の下旬ごろには全国紙夕刊の文化欄《ぶんからん》で記事になったりして、これがちょっとした騒《さわ》ぎになった。全国紙の影響力《えいきょうりょく》は、夕刊とはいえさすがにほかとは比較にならなかった。
それまでは美術に深い関心があるひとしか知らなかった桜花の話が、そうではないひとたちにも知れ渡った。近所のひとたちが「桜花ちゃん、すごいわねえ!」と声をかけてくるようになる。優美子《ゆみこ》はあるとき、桜花の記事が掲載された地元情報誌を読みながら、感慨深そうに言った。
「桜花ちゃん、本当にすごいね。わ、十四歳の天才少女だって書いてる」
「うん。この調子《ちょうし》だと、これからもっとすごいことになるんじゃないかな」
慶太《けいた》がそんなふうにうなずく。俺《おれ》も慶太と同じ思いだった。
いっさいの色を見ることができない、十四歳の天才画家。そのキャッチコピーは鏡子さんが前に言ったとおり世間の関心を集めるのに十分だったし、なにより、桜花はだれもがはっと息を呑《の》むくらいに美しい容姿をしているのだ。美術に関係ないメディアが桜花のことを取り上げるようになった最も大きな理由は、明らかに桜花の容貌《ようぼう》にあったと思う。それがよいことなのかどうかは微妙だったが。
そして、その電話は二月上旬の夕方にかかってきた。
リビングの電話を取ったのは母さんで、俺《おれ》と桜花《おうか》はその「はい、村瀬《むらせ》です」と電話する声を聞き流しながら、それぞれ本を読んでいた。とても寒い日で、外では積《つ》もりはしないが雪が舞《ま》っている。平穏《へいおん》な夕方である──。
「──えっ。……TV……?」
母さんが困惑したような声を上げて、俺はそちらをちらりと振り返った。受話器を持つ母さんが驚《おどろ》いたような顔をしている。だれだろう? と訝《いぶか》っているうちに、母さんは狼狽《ろうばい》したまま「あの子たちに相談《そうだん》してみませんと」と言ってから、受話器を置いた。母さんが俺たちに歩み寄ってきて、
「あのね、ふたりとも」
驚きに揺れる声音で言った。
「いまの、アート・オブ・ペインティングの編集部《へんしゅうぶ》からの電話で……。その、地元のTV局から、ニュース番組のなかで放送するドキュメンタリィで桜花ちゃんのことを取り上げたいから取材させてくれって、連絡があったって……」
「──テレ、ビ……?」
桜花が不思議《ふしぎ》そうにつぶやいた。
これまで俺や父さんたちや優美子《ゆみこ》たちにしか触れていなかった桜花の世界は、あの『月の盾』が世に出たことで急激《きゅうげき》に加速していった。すべてが上手《うま》くいっていた。あまりに上手くいきすぎて、逆にふと不安に駆られてしまうほどに。
桜花は戸惑いながらも、絵が評価される日々にどこか少し幸せそうだった。ただ、ここ最近──正確《せいかく》に言えばたぶん夏に美咲《みささ》の絵を描《か》いたあのとき以来少しずつ、桜花が以前はなかった癖《くせ》を見せるようになっていた。
時折ふっとなにもない空間を見つめ、びくりと肩を震《ふる》わせるのである。
「いったい、どうしたんだ?」
そんなとき俺が眉《まゆ》をひそめると、桜花はなんでもないというふうに首を振ってから、ほんのちょっとの笑《え》みを浮かべてこう答えるのだ。
「また……悪魔《あくま》が、わたしを見てただけ」
「──おまえの言う悪魔って、どういう意味なんだ?」
俺が不安になって尋ねるたびに、桜花はうつむいて黙《だま》り込んだ。
どう答えればいいのか、悩んでいるようだった。
「頭のなかに、暗い部分があるの」
「おまえの頭のなかに、って意味か?」
「うん。暗い部分っていうより、暗い小部屋かもしれない。いつもは別になんでもないの。でも、嫌《いや》なことがあると、その暗い小部屋から……青白い顔をした表情のない悪魔《あくま》が、するっと抜け出してくる。そして、わたしをじっと見るの。どうしてかわからない、けど……小さいころから、ずっと見えてた」
もしかしたらそれは、桜花《おうか》が感じる恐怖やストレスが形になったものなのだろうか。表面上はそうでなくとも、状況の変化が桜花の心に少しずつストレスを与えているのかもしれない。気をつけて桜花を見ていてやらなければ、と思った。だがそんな心配など関係なく、桜花を取り囲む環境《かんきょう》はまったくもって順調《じゅんちょう》だった。
三月に入って、桜花のドキュメンタリィが地方限定ながらTV放送された。
三十分ほどのコーナーで、よくできているように思えた。桜花の色覚異常について触れ、桜花がその才能と努力によってハンデを乗り越え、素晴《すば》らしい絵を制作しているということを、鉛筆画、黒と白による絵、そして『月の盾』──と作品を交えつつ紹介している。
桜花は「……恥ずかしい」と言ってTVを観《み》るのを嫌《いや》がった。
『あなたにとって絵はなんですか?』
そう尋ねた取材者の質問に、TVのなかの桜花は悩みながらこう答える。
『呼吸、みたいなものなのかもしれない……。わたしは……絵を描《か》いているから、生きている気がする。感情のひとつ……なのかもしれない。わたしは、なにもできない……から。絵だけなら、ひとになにかを伝えられるの──』
放送が終わったとき、いっしょに見ていた優美子《ゆみこ》が「……あたし、なんだかすごく嬉《うれ》しい」と言って、ぐすっと鼻をすすった。
TV局の担当者から翌日に電話がかかってきて、思いもしていなかったことを告げられた。担当者も取材時に桜花のファンになってしまったようで、弾んだ声だった。桜花さんの絵を買いたいという問い合わせが、たくさんきてるんです──。
桜花の絵を買いたいというひとが家までやってくるようになり、実際に桜花の絵を目にしたひとたちは、みんななにがなんでも桜花の絵を手に入れたがった。そして、桜花が描きためていた絵は飛ぶように売れはじめた──それも、目を剥《む》くような値段で。
俺《おれ》たち家族はこれを予期しておらず、鏡子《きょうこ》さんが助言してくれなければ、どんなふうに絵を売ればいいのかもわからなかったと思う。桜花は『月の盾』をはじめとして自分で気に入っている絵は売ろうとしなかったが、それでも桜が咲きはじめるころには、ちょっとした財産になっていた。
父さんたちは少し前から、桜花のための小さなアトリエを庭に増設中だった。アトリエが完成したのがちょうど四月ごろで、桜花は絵によるお金をすべて父さんたちに渡し、アトリエ増設費用に充てた。
十五歳、中学三年生になった桜花はそのアトリエで絵を描き続けた。まず『日向《ひなた》のふたり』と名づけた父さんたちの肖像画を描き、次いで『五分間の街角』というタイトルで画材屋近くの路地を描《か》いた。色彩ある絵だけではなく、以前のように黒と白だけを使った抽象画『フラジャイル』も描いた。それらすべてが評論家《ひょうろんか》やほかの画家から絶賛《ぜっさん》を受け、桜花《おうか》はますますその名声を高めていった。
鏡子《きょうこ》さんが五十歳前後の見知らぬ男性を連れて家にやってきたのは、五月半ばのことだった。鏡子さんはその男性を「わたしの父」と紹介する。そしてふたりがはじめた話に、俺《おれ》と桜花は目をぱちぱちさせた。
「──個展、ですか? 桜花の?」
「うん、そう。いまならきっとひとも集まるだろうから、いいタイミングなんじゃないかな。やっぱり、絵画は直接自分の目で見てはじめてどうとか言えるものだと思うんだ。みんな、直《じか》に桜花ちゃんの絵を見たら衝撃《しょうげき》を受けるよ」
鏡子さんはそう言っていつものように、にっ、と笑った。俺と桜花が思わず顔を見合わせると、鏡子さんのお父さんが張りきった様子《ようす》で言葉を継ぐ。快活な笑顔《えがお》を常に浮かべた、明るく感じのいいひとだった。
「国立病院を少し下ったところにある美術館《びじゅつかん》、知っているね?」
俺と桜花はうなずいた。フェルメールの特別展をやっていた美術館に比べれば小さな小さな、目玉と言えばルノワールが一枚あるくらいの市立の美術館である。家から徒歩で簡単《かんたん》に行ける距離《きょり》だ。
「わたしは『ローザ・ボヌールの飼い猫屋』をほとんど鏡子に任せて、いまはそこの館長をやっているんだ。むかし、父が──つまり鏡子の祖父があそこの顧問《こもん》をやっていたから、その繋《つな》がりでね」
話を聞きながら、本当に美術一家なんだなと感心する。桜花もそうだったようで、小さく「すごい……」とつぶやいていた。鏡子さんのお父さんはそんな俺たちの反応に満足したふうに、素晴《すば》らしい笑顔になった。
「桜花ちゃんの個展をやってみたらどうかって、父に相談《そうだん》したんだ」
鏡子さんは隣《となり》に座る父親を指し示して、
「そうしたらこのとおり、すごく乗り気になったみたいで。その美術館とアート・オブ・ペインティング誌の共催で、ぜひ桜花ちゃんの個展をやりたいと。もちろん、桜花ちゃんが許可してくれればだけれども」
「桜花さんにとっても、絶対にいいことなのは間違いない。もちろん、できるかぎりの宣伝はやらせてもらうよ。先ほど鏡子も言ったが、雑誌に取り上げられるとか、TVで納介されるとか、そんなことだけではなくて、実際に桜花さんの絵を見たひとがどう感じるか──それこそが本当に大切なことだと思うんだ」
彼の言うことはいささか綺麗事《きれいごと》かもしれなかったが、そのとおりだと思った。驚《おどろ》きはしたものの、個展というのが悪い話だとは思えない。桜花《おうか》のほうを見やると、桜花は、個展、という言葉をよく吟味するように黙《だま》り込んでいた。
「桜花」
「──あきら」
桜花は膝《ひざ》の上でこぶしをぎゅっと握り、ぽつりとつぶやいた。
「みんなが、わたしの絵のことを……応援してくれる」
そんなことを言った桜花を眺めて、俺《おれ》は自然と口許《くちもと》がほころぶのを感じた。桜花の胸にはこれまでのいろいろなことが思いよぎっているのかもしれず、桜花はかすかに泣きそうになっているようにも見えた。鏡子《きょうこ》さんが、うん、とうなずく。
「わたしは『月の盾』をひと目見たときから、桜花ちゃんの絵のファンだから。わたしはキミの絵の素晴《すば》らしさを、世間に伝えたい」
桜花はしばらく考え込むように口を閉ざしていた。
そして、鏡子さんとそのお父さんを見つめて、ぺこりと頭を下げる。
「やる。……やりたい。たくさんのひとに、わたしの絵を見てもらいたい──」
鏡子さんのお父さんが「本当かい?」と目をかがやかせる。鏡子さんが微笑をこちらに向けてきたので、俺もふっと微笑《ほほえ》み返した。
鏡子さんのお父さんは胸を撫《な》で下ろしたようだった。
「ああ、ほっとしたよ。桜花さん、成功に向けていっしょにがんばろう。──それで、日程や細かい話はこれから詰めていくとして……その前に、わたしたち主催者側からひとつお願《ねが》いがあるんだ」
桜花は「お願い……?」と目をぱちくりさせた。
「ああ。いちばんの目玉は現時点での最高傑作である『月の盾』になるわけだが、……話題性を持たせるためにも、ぜひとももうひとつ目玉がほしいと考えているんだよ。個展をそのまま新作発表の場にしたらどうか──とね。つまり、個展のために『月の盾』と同等か、できればそれ以上の新作を描いてもらえると嬉《うれ》しい」
あの『月の盾』より、いい絵を──? 俺は驚いて桜花の横顔を見やった。桜花も少し驚いた様子《ようす》だった。その眼差《まなざ》しにかすかな揺らぎ、果たしてそんなものが簡単《かんたん》に描けるのかという自問自答が過ぎったのを、俺はたしかに見た。
桜花はうつむき、そして顔を上げる。
「──わかった。がんばる」
こうして桜花はじめての個展はおよそ二ヶ月後、七月中旬から地元の美術館《びじゅつかん》にて開催されることになった。
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2.
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桜花《おうか》にとっても『月の盾』を超える絵を描《か》くという課題《かだい》は並大抵のことではないらしく、あれ以来、学校と、個展の宣伝用に受けたいくつかの取材以外の時間は、ほとんどアトリエにこもりっきりになった。桜花のそういう状況を、父さんと母さんは気遣いつつも温かく見守っていた。
「個展なんて、本当にすごいわね」
母さんがある夕方、ご飯の仕度《したく》をしながらそんなふうに言った。桜花は学校から帰ってきてずっとアトリエにこもっている。
「信じられる? 桜花ちゃんがうちにきたのが、まだついこのあいだのことみたいなのに。本当に、桜花ちゃん偉いわ──」
「──母さん」
俺《おれ》はふと思いついたことがあって、母さんの言葉をさえぎる。父さんはまだ仕事から帰っていないし、桜花もこの場にいない。
「桜花の父親について、静香《しずか》叔母《おば》さんからなにか聞いてたことってある?」
母さんは「え?」と振り返って、不思議《ふしぎ》そうにまばたきした。火にかけられた鍋《なべ》からいい匂《にお》いが漂っていて、つけっぱなしにしたTVからの音声がゆったり流れている。平穏《へいおん》そのものな夕方だった。
「どうしたの、急に?」
「いや……別に大した意味はないんだけど」
訊《き》いてみようと思っていた。少しずつだがたしかに成長し、大人《おとな》になっていく桜花。気にすまいと考えても不可能なほど、このごろますます似てきたように思えるのだ。あの、早世《そうせい》した美貌《びぼう》の天才画家、早坂《はやさか》荘悟《そうご》に。しばらく前から不安が頭から離《はな》れない。無関係だと思っても、あまりにも桜花は似すぎている。
桜花本人に父親についてなにか憶《おぼ》えているかと訊いてみたことはあるのだが、桜花は考えに考えた末、申し訳なさそうに首を振って「……ほとんどぜんぜん、憶えてない」と言ったので、参考にはならなかった。
「むかし、静香からいろいろ聞き出そうとしたことはあるんだけどね」
母さんは鍋に向き直り、おたまでかき混ぜながら話しはじめた。
「あれはたしか、静香が二十歳《はたち》をちょっとすぎたくらいのときだったかしら……? 好きなひとができたって、聞かされたの。あの子、すごく幸せそうだったわ。静香の妊娠が発覚したのは、それから何ヶ月かあとだった」
「それで、祖父《じい》ちゃんたちと揉《も》めたんだよな? 父親はだれなんだ、って」
「ええ。静香《しずか》はみんなに詰め寄られても、それは絶対に言おうとしなかった。だからみんな、相手が道徳的に許されない──その、結婚しているひとなんだって思ったみたい。実際はわからない。ほかに、内緒《ないしょ》にしなきゃいけない理由があったのかも」
静香|叔母《おば》さんはそうやって頑として相手のことを話さず、それで両親から激《はげ》しく反対されたわけだ。
「……それでも、桜花《おうか》をひとりで産んだんだ」
「静香は最初にはっきり言ったのよ。愛するひとの子だから産む、って。相手のひとも……きっと、静香の子のことは知っていたんでしょうね。でなければあんな立派な屋敷《やしき》には住めなかったでしょうし、お金に困った様子《ようす》もなかったから……」
母さんはおたまを置いて、振り返って苦笑した。
「あたしが知っているのは、これだけなの。本当に。静香のことはこれ以上、きっとだれもなにも知らないわ」
そのときちょうどリビングの電話が鳴って、母さんは「はいはい」と言いながら電話機《でんわき》へと駆け寄る。俺《おれ》はそのあいだに少し考えた。電話から戻ってきて母さんに「あのさ」と再び話しかける。
「好きなひとができたって静香叔母さんが母さんに話したの、何年のいつごろだったか思い出せる? 調《しら》べたらわかる?」
「え? ええ、静香の妊娠が発覚したのと、あたしが小夜子《さよこ》を身ごもったのが同じような時期だから……ええっと──」
大雑把《おおざっぱ》に、十六年ほど前ということか。早坂《はやさか》荘悟《そうご》についてまた調べよう、と思った。どうにかして桜花と早坂荘悟が無関係であるとはっきりさせることができれば、きっとこの不安な気持ちは消える──。
母さんがぽつりと言った。
「──でも、暁《あきら》」
「うん?」
「桜花ちゃんの本当のお父さんなんて……関係ないのよ。桜花ちゃんは一昨年《おととし》の夏から、静香の子じゃなくて──あたしたちの家の子なんだから」
「……そっか」
俺が微笑すると、母さんも微笑《ほほえ》んだ。不意に思う。小夜子がいなくなってから桜花がくるまでのあいだ、母さんがこんなに優《やさ》しい顔をすることはなかった気がする。母さんは「ちょっと前から──」と口を開いた。
「お父さんと、いろいろ話していたんだけどね」
「うん。なにを?」
「そろそろ、桜花ちゃんに言おうかなと思っているの。あたしたちの娘に──村瀬《むらせ》桜花に、ちゃんとならないかって」
母さんが俺《おれ》の表情を見て、くすりと笑った。
「なあに、そんなにびっくりしなくてもいいじゃない。桜花《おうか》ちゃんがそうしたいって言うなら──だけどね。桜花ちゃんだってもう十五歳だもの、自分で決められる。……ただあたしたちは、桜花ちゃんがどちらを選んでも構わないと思っているわ。名字がどちらだろうと、桜花ちゃんは桜花ちゃんだもの。……暁《あきら》は、どう思う?」
あるいは母さんも、小夜子《さよこ》を失った心の傷から、桜花のおかげでようやく立ち直りかけているのかもしれない、と思った。
俺はふっと笑い、うなずいた。
「そうするのがいいと思うよ」
夕食時になってリビングにやってきた桜花は、疲れた顔をしていた。ここ最近は絵のことで思い悩んでいるらしく、いつもこんな様子《ようす》である。時折これまで見せたことがないくらい憔悴《しょうすい》した顔を見せるので心配している。
その食卓で、父さんたちは桜花に「正式な養子にならないか」と誘った。
桜花は一瞬《いっしゅん》、言葉の意味を飲み込めなかったらしかった。きょとんとして、父さんたちの顔をじっと見つめる。そして、ふたりの穏《おだ》やかな顔を見て理解したらしい。動揺したふうに俺を見た。
そして桜花は、複雑そうな顔をしてうつむく。
「もちろん無理にとは言わない。桜花ちゃんがよければ、ってことだ。名前が変わってしまうことになるから、嫌《いや》だったらいまのままで──」
父さんが優《やさ》しく言うと、桜花は慌てたふうにぶんぶん頭を振った。
「嫌だなんて! そんなことは、ぜんぜん──」
言いながらそのきれいな目にじわっと光るものが浮かんで、桜花は焦った様子でもう一度うつむいた。桜花の細い肩が震《ふる》えている。桜花は懸命《けんめい》に涙を堪《こら》えているようだった。やがて、桜花の唇からか細い声がこぼれる。
「──……嬉《うれ》しい。本当の本当に。すごく……すごく。でも」
心底から申し訳なさそうな、沈んだ口調《くちょう》だった。
「わたしは、このままが……いい。わたし、伯父《おじ》さんも伯母《おば》さんも、好き。本当によくしてもらってるし、伯父さん伯母さんの子どもになれたら、どれだけ幸せかと思う……。でも、このままがいい。だって──」
桜花がちらと、再び俺を見る。俺はその視線《しせん》に、ん? と訝《いぶか》った。
「あきらと、兄妹《きょうだい》には……なりたくない、から」
「──え?」
俺が思わず声を漏らすと、桜花は俺の視線から逃げるようにまたさっと顔をうつむけて、頬《ほお》を赤くして恥ずかしそうに続けた。
「あきらのこと大好きだけど、大好きだから、兄妹《きょうだい》は……嫌《いや》」
父さんたちはなにかに気づいた様子《ようす》で、心底から驚《おどろ》いた表情になった。
「わかったわ、桜花《おうか》ちゃん」
母さんが穏《おだ》やかな、母親が子どもに聞かせる優《やさ》しい声を発する。
「あたしたちの子どもになれたらって言ってくれて、ありがとう。本当に、嬉《うれ》しかった。本当に……。あなたの名字が国崎《くにさき》だろうと村瀬《むらせ》だろうと、本当はまったく関係ないのよ。あたしたちはもうずっと前から、あなたをあたしたちの娘だと思っているから」
「──ありがとう」
桜花はそこでいったん口を閉ざした。一瞬《いっしゅん》、桜花の表情にためらいがよぎり──それを、父さんと母さんの優しい眼差《まなざ》しが吹き飛ばした。桜花は美しい顔で微笑《ほほえ》み、はじめてその言葉を口にする。
「……お父さん、お母さん」
その場で俺《おれ》ひとりだけがぽかんとしていた。大好きだから兄妹にはなりたくない、って──いったい、なんだ?
個展の開催が決定してから一ヶ月、桜花の絵に少しずつ変化が出てきた。
筆致が荒くなり、色調《しきちょう》が暗く重くなってくる。描く内容も肖像画や風景画などのわかりやすいものではなく、桜花の内面を表現したような抽象画へ。それは、よくない兆候に思えた。俺はふと『月の盾』が生まれる少し前の、精神的に不安定になった桜花が悲鳴のような絵を描いたことを思い出した。
桜花がある日、疲れきった様子でぽつりと言った。
「『月の盾』よりもいい絵は……難《むずか》しい」
桜花は鏡子《きょうこ》さんのお父さんたちからの期待だけではなく、自分自身で課《か》した重圧に苦しみはじめているようだった。つまり、あの『月の盾』を超えなければ画家としての成長はそこで止まってしまうのだ──と。
桜花の苦しみを代わってやりたいと思っても、こればかりはどうしようもない。俺は桜花の頭をくしゃくしゃと撫《な》でてやり、微笑みを向けた。
「あまり深刻になるなよ。焦らなくても、おまえならそのうち『月の盾』よりいい絵は描けるさ。鏡子さんのお父さんはああ言ったけどな、別に個展だとかそんなのを意識《いしき》して無理に描こうとしなくても大丈夫だから」
「……うん」
桜花は俺に頭を撫でられながら、ほんの少し微笑み返してくる。
そうして桜花が『月の盾』を超える新しい絵を描かなければと四苦八苦しているあいだ、俺は早坂《はやさか》荘悟《そうご》に関する資料を集めていた。
図書館《としょかん》やインターネットを利用すれば、早坂荘悟の情報はいくらでも見つかる。当時まだ小学校低学年だった俺《おれ》は知らなかったが、それこそ連日各メディアを騒《きわ》がせる大きな事件だったようである。
早坂荘悟は画家としての活動の拠点を、はじめは東京に持っていた。その絶世の美貌《びぼう》を考えれば当然だが、女性には大変もてたらしく、そのころ数人の女優《じょゆう》や業界人と噂《うわさ》になっている。二十代半ばごろ、スキャンダルを追うマスコミにうんざりしたのか故郷の村に帰り、それ以降は大半を生まれ育った地で過ごした。その、早坂荘悟が故郷に戻った時期が、いまから十六年ほど前。
母さんが静香《しずか》叔母《おば》さんから「好きなひとができた」と聞かされた時期とちょうど重なる。もちろんそんなことは桜花との関係の根拠にはまったくならないが、ただ、喜ばしくはない事実ではあった。
俺は優美子《ゆみこ》と慶太《けいた》のふたりに相談《そうだん》することを決めた。
「なあ、慶太。むかし──と言っても俺たちが子どものときくらいだけどな、殺人事件を起こした画家、知っているか?」
その日は学校が終わってから、優美子の勉強を手伝おうということで、優美子の家に集まっていた。俺と慶太は科目によって得手不得手はあれど勉強はそんなに苦手ではないが、優美子は割と苦戦ぎみであるのだった。
「早坂って名前なんだが。指名手配されて、自殺した」
「早坂荘悟? ああ、うん。知ってるよ」
あっさりうなずいた慶太は、問題集を解いていた優美子がなんの話かと訝《いぶか》しげに顔を上げたので、そちらへ「ほら、優美子は集中する!」と言ってから、
「いや、その事件ってたしか十年くらい前だから、ぜんぜん憶《おぼ》えてはいないんだけどさ。早坂ってひと、自殺する直前、その──犠牲者《ぎせいしゃ》の遺体を持ち歩いているところを警官《けいかん》に目撃《もくげき》されて、山のなかに逃げ込んだんだろ? あのとき、うちの父さんも県警の山狩り隊のひとりだったから。いろいろ話を聞いてね」
それは驚《おどろ》いた。思いもしていなかった。優美子が「ねえ、なんの話──」とまた顔を上げたので、俺はとんとんと指先で机を叩《たた》いて勉強に戻らせ、
「そう、なのか?」
「うん。それで、早坂荘悟がどうしたの?」
「……。いや、早坂荘悟の顔は知ってるか?」
「え? 写真くらいむかし見たかもしれないけど、あんまり憶えてないなあ……。でも、ものすごい美形だったのは話に聞いて知ってるよ」
俺がどんなふうに切り出そうかと沈黙《ちんもく》したとき、優美子が「…………終わったあ!」と歓声を上げてシャープペンシルを投げ出した。
「さ、答え合わせはあとあと。それで、あたしひとり置いてけぼりでいったいなんの話をしてるの? 早坂《はやさか》荘悟《そうご》って、前にちょっと言ってたひと?」
「──ふたりとも、この写真をどう思う?」
俺《おれ》が机に並べた四枚の写真を、ふたりは訝《いぶか》しげに眺める。インターネットからダウンロードし、プリントアウトしてきた早坂荘悟の写真である。
ふたりはその眼差《まなざ》しを驚《おどろ》きに揺らした。
「似すぎてないか?」
俺の問いかけに、優美子《ゆみこ》も慶太《けいた》もすぐには答えなかった。だれがどう見ても、桜花《おうか》と早坂荘悟の顔立ちは似すぎている。それらは早坂荘悟が二十代半ばのころ、雑誌のインタビューを受けたときのものであるらしかった。
優美子が「これが早坂……荘悟」とつぶやき、一枚を手に取った。
「──桜花ちゃん………?」
長く伸ばされた前髪の隙間《すきま》から覗《のぞ》く睦毛《まつげ》の長い伏せられた瞳《ひとみ》は、早坂荘悟の内向的で繊細《せんさい》なところを表しているようだ。無造作にはだけられたシャツから見える胸板は薄《うす》く、それが逆に早坂荘悟の中性的な美しさを際立たせている。その胸元には、十字架のアクセサリー────……十字架のアクセサリ?
そのときふと既視感のようなものがあった。早坂荘悟の写真のなかで、その一枚だけ胸元につけているアクセサリ。こんな物をつけている写真があったのか、とはじめて気づいた。そのアクセサリに、なにか見覚えがある気がする。いや、十字架などありふれたデザインだから、別に──。
「単なる他人のそら似……じゃ、ないのかい?」
慶太が動揺を隠せない表情で言った。
俺は我に返って、慶太に「ああ……」と答える。
「俺も、そう……思う。こんな殺人犯と桜花がなにか関係あるはずがないって。けど、……どうしても引っかかるんだ。早坂荘悟は、日本美術界を変えるかもしれないと言われたほどの ──桜花と同じくらいの天才だったそうだ。そしてこの県の出身者で、十六年前から故郷で暮らしていた」
優美子は写真を置いて、乾いた声を漏らした。
「でも、そのくらいじゃ、なにも──」
「そうだな。俺が調《しら》べはじめたのだって、桜花と無関係だと証明しようとしたからだ。ただ……桜花の母親が実家を出て引っ越したのは、早坂荘悟の故郷の近くだった。これは大した問題にならないだろうが、桜花も早坂荘悟もAB型。なんの根拠にもならない細かなことばかりだけど、調べれば調べるほど──」
「──桜花《おうか》ちゃんの本当のお父さまは早坂《はやさか》荘悟《そうご》なんじゃないかって、そんなふうに思えてきてしまうわよねえ?」
突然加わった声に、俺《おれ》たち三人は驚《おどろ》いて振り返った。
学校から帰ってきたばかりらしく制服姿の美咲《みきき》があの、小学校のときうさぎ小屋の前で見せていた、にやにやしたぞっとする笑《え》みを浮かべて、立っていた。いったいいつから話を聞いていたのか。思わず身構えた俺たちに、美咲はいたぶるように笑いながら近づいてくる。優美子《ゆみこ》が小さく声をこぼした。
「美咲。あなた──」
「あんたはうざいから黙《だま》ってなさいよ、お姉ちゃん」
美咲は冷たく言い放って優美子を黙らせ、それから俺を見てにこりと愛らしく微笑《ほほえ》んだ。その裏にぞっとする敵意を見え隠れさせながら。
「あたしも、早坂荘悟について最近また調《しら》べてみたのよ。だってあたし、最初に桜花ちゃんと会ったとき、この子の父親は早坂荘悟なんじゃないかって直感したんですもの。あたし、こういう勘はとてもよく働くの」
「美咲……、おまえ」
「桜花ちゃんの父親はきっと早坂荘悟よ。絵のタッチもよく似ているわ」
俺が唇を噛《か》んだことさえ、美咲は楽しんでいるようだった。
「調べてみると改めてすごい人物よね、早坂荘悟って。彼が最初にひとを殺したのが、まだ東京に住んでいるとき……二十三のときだったかしら? たしか、マネージメントをやっていた親友を、強盗の犯行に見せかけて刺殺したのよね。どうしてって、遺体をモデルにして絵を描くために。彼、桜花ちゃんと同じくらい、本当に──天才だったんでしょう? そのとき描いた絵も、モデルが遺体だなんてだれも知らないまま大絶賛《だいぜっさん》された。タイトルは、『風刺』。あは、なかなか気が利いていると思わない?
それから、早坂荘悟の自殺後に彼のアトリエから見つかった『美の女神』ってタイトルの絵は、ふたり目の犠牲者《ぎせいしゃ》がモデルらしいんですって? ふたり目の犠牲者はまだ若い女のひとで、彼に憧《あこが》れたフアンだったそうじゃない。その女のひとも、憧れのひとの作品に自分が活かされて本望だったかしら」
慶太《けいた》が嫌悪感《けんおかん》にきゅっと眉《まゆ》をひそめたのは、美咲が語る内容に対してか、それともそんなことを嬉《うれ》しそうに話す美咲本人に対してか。美咲はそれに気づいたようで、慶太をちらりと一瞥《いちべつ》してからさらに続けた。
「あたし、詳しいでしょう? もともと早坂荘悟って好きだったのよ。見た目がすごく美しいし、彼がやったことってすごいじゃない? 猟奇的な事件をいろいろ調べてみたとき、彼がいちばんインパクトあったのよね。
東京での犯行はその二件で、あとは故郷に戻ったあとらしいわね。芸術家としての早坂荘悟って、故郷に帰ってから充実期に入った──凶行のほうも充実期だったみたいですけれど。知っている? 彼が二十八歳のときに描いた『青から黒へ』ってタイトルの絵、傑作だってすごく話題になったそうよ。だれも、そのモデルが犠牲者《ぎせいしゃ》の──」
「もうやめろ。桜花《おうか》と早坂《はやさか》荘悟《そうご》は──関係ない」
これ以上、あのにやにやした笑顔《えがお》を見ながら話を続けられたら、美咲《みさき》のことを殴ってしまいたくなりそうだった。美咲はまるで一年ほど前の、レストランでの出来事の報復だと言わんばかりに、勝ち誇ったふうにくすりとした。
「絵のためにひとを殺すなんて、いかにも天才芸術家って感じ? あと何年かしたら、桜花ちゃんもそうなるのかしら」
「……なるわけないだろうが!」
「もし、桜花ちゃんが早坂荘悟の娘かもしれないって話が知れ渡ったら──世間はどんなふうに反応するかしらね?」
頭が真っ白になった。全身に震《ふる》えが走り抜け、ああ俺《おれ》は生まれてはじめて女を殴るな、と頭の片隅でぼんやり考える。俺はこぶしを固めて一歩前に出て、美咲の美しく醜悪《しゅうあく》な微笑《ほほえ》みを見て────右腕を慶太《けいた》に、左腕を優美子《ゆみこ》に掴《つか》まれた。慶太は唇を噛《か》んでいた。優美子が怒りに震える声を美咲へ向けた。
「出ていって、美咲。早く。あたしのことが嫌いなら、あたしにだけ嫌《いや》がらせでもなんでもすればいいじゃない! どうしてそんな、桜花ちゃんにまで──」
優美子は怒鳴りかけたのを呑《の》み込んで顔を伏せ、ふと悲しそうな、泣き出しそうにさえ聞こえる声音で言う。
「本当に……どうして、そんなふうになっちゃったの? あたしたち、あんなに仲がよかったじゃない……。あなただって、あんなにあたしのこと」
「勘違いしないでくれる?」
優美子をさえぎるように言った美咲の表情が、がらりと変わった。優美子が俺の左腕にすがったまま息を呑む。眉間《みけん》にしわを寄せた美咲の美貌《びぼう》には、噴《ふ》き出す炎のような苛立《いらだ》ちが浮かんでいる。
「いい加減、理解してくれないかしら? あたしはむかしからあんたなんて好きでもなんでもなかったわよ。どうしてあたしが、あたしよりブスであたしより頭が鈍くてすべてがあたし以下のあんたを好きにならなきやいけないの。あんたに甘えてたのは、そうするとお父さんたちが嬉《うれ》しそうにしていたからってだけよ。それに、お姉ちゃんを慕っている可愛《かわい》い妹、って構図も心地《ここち》よかったし」
優美子がさすがにショックを受けたような、引きつった呼吸をした。奥歯をぎりぎり噛んで激怒《げきど》に身体《からだ》を震わせていた美咲は、それを見て少しだけすっきりしたらしく、ふん、と鼻息をついて髪の毛をかき上げる。
「むかつくのよ。小さいころからずっと、ひとりで勘違いしてるあんたがむかついて仕方なかったわ。あたしのことなにもわかっていないくせに、美咲《みさき》、美咲、って馬鹿《ばか》みたいにはしゃいで。そのくせ、生意気にあたしがちゃんと好きになった相手だけはしっかり奪っていって、このあたしに恥をかかせて。もういい加減うんざりして、我慢の限界だったの。勘違いだってわからせてやろうって決めたのよ」
美咲は怖ろしく冷たい笑《え》みを浮かべた。
「潰《つぶ》してやりたくなったの、あんたを。あんたが少しずつ少しずつ傷ついて、弱っていくのを見るのが、楽しくて仕方ないわ。いいこと? あたしが暁《あきら》くんや桜花《おうか》ちゃんを傷つけるのも、すべてあんたの存在のせいなのよ」
これは……違う、と思った。美咲の笑みにあるのは怒りよりも狂気に近い。美咲が優美子《ゆみこ》にこんな態度を取るようになった原因は、たぶん優美子にあるわけではない。きっかけはあったにせよ、美咲の言動はもっと深い部分から、美咲が生まれついたときすでに持っていたようななにかからにじみ出ている。
慶太《けいた》は震《ふる》える優美子を心配そうに見てから美咲へ、
「──君は醜《みにく》いね」
「あら慶太くん、あたし、あなたが中学生のころそんな醜いあたしのことをどんな目で見ていたのか知っているのよ? ふふ、せっかく慶太くん可愛《かわい》い顔しているんだもの、キスのひとつくらいさせてあげればよかったわね?」
慶太が屈辱に押《お》し黙《だま》り、美咲は余裕たっぷりに微笑《ほほえ》んでくるりと背を向けた。部屋を出ていこうとする美咲の背中に、俺《おれ》は言葉を投げかける。
「慶太の言うとおりだ。おまえは醜いな。その醜さが、おまえが自信を持ってるらしい可愛い顔にもにじみ出てるよ。──桜花は早坂《はやさか》荘悟《そうご》の子どもなんかじゃない。もし、くだらないことを言いふらしてみろ──」
「……。ねえ、暁くん。『日没』って絵、知っているわよね?」
美咲は足を止めて言った。
「早坂荘悟の最高傑作の、呪《のろ》われた絵よ。早坂荘悟が起こした一連の事件を、決定的に神格化させているいちばんの原因。逃げきれないことを悟った早坂荘悟は、その絵を描き上げてからひとりで自殺した。己の遺作に対して言葉を残して、ね。これが彼らの最後に見た夕陽《ゆうひ》──。¢″竭糟蛯フ犠牲者《ぎせいしゃ》たちが夕陽に照らされた、禍々《まがまが》しいくらいに赤い抽象画。そこに六人じゃなくて七人描かれているから、本当はまだ見つかっていない犠牲者がいるんじゃないかとも騒《さわ》がれた」
美咲は背を向けたまま、ちら、とこちらを振り返る。目だけで笑っていた。
「あまりに傑作すぎて、早坂荘悟の死から一年後に『日没』は美術館《びじゅつかん》に展示されてしまった。そして、そのとてつもない傑作は……早坂荘悟が意図したとおりに、絶望を振りまいた。感受性の強すぎるひとが見たら、犠牲者《ぎせいしゃ》たちの死に様が見えてしまいそうなくらいの、凄《すさ》まじい絵だったそうね。絵を見た遺族に三人の自殺者を出し、さらに数人を精神的な病に追い込んだ。マスコミはまた大騒《おさわ》ぎ、展示はすぐに中止。遺族たちは『日没』の廃棄を求めたけど、美術史に残るような大傑作だったためそうはならず、だからといって展示することもできず、美術《びじゅつ》館《かん》の倉庫に封印された…………」
「──それがどうした?」
「その『日没』が保管されている美術館、どこか知っているかしら? 最初は県立の美術館に保管しょうとしたんだけど、その美術館が不吉だからと断って、それで小さな美術館の倉庫に収められたんですってね。あたし、運命を感じるわ。まさか、その『日没』が保管されている美術館で桜花《おうか》ちゃんがはじめての個展をやるなんて」
美咲《みきき》のその隠し球は、たしかに俺《おれ》に衝撃《しょうげき》を与えた。目を丸くして思わず「なっ──」と声を漏らすと、美咲はくすくすと笑った。
「どうせなら、親子の作品を並べて展示すればどうかしら? きっと話題になってお客さんもたくさん集まるわ。──ああ、それと。優《やさ》しい暁《あきら》くんのことだからこの話を聞いて桜花ちゃんに教えるべきか悩むと思うけど、そんな必要もないわよ? さっきあたし、学校帰りの桜花ちゃんと会ったの。だから、親切に教えてあげた。あなたの本当のお父さんは素晴《すば》らしい有名人で、その絵が美術館に保管されてるって」
その言葉が、俺の平常心を完全に打ち砕いた。桜花に……教えてあげた、だと? 表情が凍りついた。ぞくっ、と悪寒が駆け抜けた。美咲がくすりと笑《え》みを残して、ぱたん、とドアを閉める────
「国崎《くにさき》桜花が、きませんでしたかっ?」
美術館の受付で尋ねると、職員《しょくいん》のおばさんは血相を変えた俺の表情に驚《おどろ》いた様子《ようす》だった。一度うちの家に電話を入れたのちすぐに全力で走ってきたので、呼吸が整《ととの》わず噴《ふ》き出した汗が頬《ほお》を伝っていく。
「え? ええ……。あなた、国崎さんのお義兄《にい》さんよね? どうしたの? たしかに国崎さん、館長の娘さんといっしょにきてますけど──」
「あの、ふたりのところに案内していただけませんか? すごく大事なことで……急いでいるんです。お願《ねが》いします」
俺の眼差《まなざ》しに深刻なものを見て取ったのか、おばさんはすぐに案内してくれた。
関係者以外立ち入り禁止の倉輝のなかに、桜花と鏡子《きょうこ》さん、それと鏡子さんのお父さんがいた。間に合わなかった、と悟る。桜花はしずかに、凍りついたように、魅入《みい》られたように、一枚の絵を見つめていた。
世界すべてを押《お》し潰《つぶ》すように、禍々《まがまが》しいほど真《ま》っ赤《か》な絵──。
鏡子《きょうこ》さんがふと俺《おれ》に気づいて、眉根《まゆね》を寄せた。
「村瀬《むらせ》くん?」
「……鏡子さん。どうして」
「え? え、ああ、うん。桜花《おうか》ちゃんが突然うちの店にきて、早坂《はやさか》荘悟《そうご》ってひとの『日没』をどうしても見たい、って……。キミに相談《そうだん》しようかと迷ったのだけれど、桜花ちゃん、ものすごく思い詰めた顔でいますぐにって言うから──」
「──桜花っ!」
俺が呼びかけても、桜花は絵から目を離《はな》そうとはしなかった。まばたきひとつせず、早坂荘悟の『日没』を見ている。
その『日没』は話に聞いて思い描いていた以上に、精神の奥深い部分まで打ちのめされるような迫力を持った絵だった。画面の隅から隅まで、基本となっているのは鮮《あざ》やかすぎる赤である。その、燃《も》え上がる炎のようにも噴《ふ》き出した血のようにも見える赤い渦のなか、七つのひとの顔が苦悶《くもん》を浮かべ悲鳴を上げるさまが、荒々しいまでの力強い筆致で描かれている。息の詰まりそうな圧迫感に満ちている。
その絵にはおぞましい魔力《まりょく》があった。絵から悲鳴が聞こえた気がした。
衝撃《しょうげき》という意味では、桜花の『月の盾』を見たときに近かった──いや、それ以上かもしれない。この絵が禍々《まがまが》しい美しさで表現しているのは、犠牲者《ぎせいしゃ》たちがいかに絶望して死んでいったか、それだけに思えた。早坂荘悟は自身の才能と人生のすべてを注ぎ込んで、ただそれだけを表現している。
「……あきら」
桜花がかすかに唇を動かし、震《ふる》えるつぶやきを紡いだ。
「なに、これ……? わたし、いま……悲鳴を、聞いた。ああ、嫌《いや》、気持ち悪いけど……すごい。こんなにもきれいで、こんなにも怖い絵……」
そう話すあいだも、桜花は『日没』をずっと見続けていた。その桜花の瞳《ひとみ》に圧倒的な恐怖とわずかな陶酔《とうすい》が宿っているのに気づいて、俺は唇を噛《か》んだ。桜花の震える肩を強めに掴《つか》んで、こちらに引き戻そうとする。
「桜花、美咲《みさき》からなにを聞かされたのか知らないけどな──」
「見覚えがあるの」
桜花が『日没』に魅入《みい》られたまま、ぽつりとこぼした。俺も傍《そば》で話を聞いていた鏡子さんも彼女のお父さんも、呆気《あっけ》に取られて「え……」と桜花の横顔を見つめる。桜花は、いまなんと言ったのだ──?
「思い……出した」
桜花は熱《ねつ》に浮かされたような口調《くちょう》で続ける。
「わたし、ずっとむかし、小さいころ……こんなふうに、目の前でこの絵を見たことある気がする……。クローゼットのなかから悪魔《あくま》がわたしを見てて、怖くて、でもこの絵が出来上がっていくのを見ていたくて、ああ、怖いくらいに、あかい──」
あかい? と疑問に思う余裕もなかった。苦しそうに表情を歪《ゆが》めた桜花《おうか》がふらりと揺れ、俺《おれ》は慌ててその細い肩を抱きかかえる。
桜花の顔色は真《ま》っ青《さお》だった。動悸《どうき》が激《はげ》しく、呼吸が荒い。鏡子《きょうこ》さんたちも「桜花ちゃん?」と動揺した声を上げた。
「大丈夫か!? どうした桜花? 桜花!」
「……美咲《みさき》が、この絵を描いたひとがわたしのおとうさんだって。わたしの本当のおとうさんが、いっぱいひとをころして、それをモデルに描いたのがこの絵だって──」
「そんなわけないだろ、気にするな。大丈夫だ」
「でも……、あきら。わからない、けど──おぼえてるの」
桜花は頭痛を堪《こら》えるように眉《まゆ》をひそめ、俺の胸元にすがりついた。俺を見上げてくる桜花の眼差《まなざ》しが、大きく揺れている。それは激しい恐怖でもあったし深い悲しみでもあるようだったがなにより懸命《けんめい》さのように感じた。
桜花は俺になんとかして伝えようと懸命に、
「ずっとわすれてた……けど、いま、すこし──おもいだした。男のひとが、わたしの目のまえで、この絵を描いていて、わたしは……それを見てた。夕陽《ゆうひ》ってせかいをおしつぶすんだなっておもってこわかったけど、きれいで、わたしはこんなふうに絵を描いてみたいって……おもった、気がする……。この絵は、わたしの『月の盾』よりもずっと──……」
俺はなにも言えずに、黙《だま》って桜花を抱きしめた。桜花の震《ふる》えは収まらない。鏡子さんが「──なんてこと」と口許《くちもと》を押さえ、彼女のお父さんは絶句している。桜花は俺の胸にすがって、必死になにを堪えているふうだった。そして不意に、倉庫内の物陰を見つめてその美貌《びぼう》を引きつったように揺らした。
「悪魔が……見てる。また」
桜花の顔が恐怖に歪《ゆが》む。
「──イヤ、わたしを見ないで。イヤ──」
桜花がびくりと震えるのを感じた。桜花はそこで堪えられなくなったように突然大きな悲鳴を上げ、張り詰めた糸が切れるようにふっと、俺の腕のなかで気を失った。しんとしずまり返る倉庫のなかに、桜花の悲鳴の残響《ざんきょう》がいつまでもあるように思えた。
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3.
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早坂《はやさか》荘悟《そうご》の胸元のアクセサリにどこで見覚えがあったのか、不意に思い出した。二年近い月日が記憶《きおく》に薄《うす》もやをかけて、その写真のことを忘れさせていた。
俺《おれ》は慌てて自分の部屋に向かい、勉強机の引き出しを漁《あさ》る。どこに収めていたかもおぼろげだったが、しばらく探しているうちに見つけることができた。それは二年前の八月十五日、静香《しずか》叔母《おば》さんの寝室で発見し、ポケットに入れたまま持って帰ってしまった一枚の写真である。叔母さんの隣《となり》の男性が、刃物で顔を削り取られている写真。
その顔のない男性の胸元で、十字架のアクセサリが揺れている。
俺はその写真とダウンロードした早坂《はやさか》荘悟《そうご》の写真を並べて机に置いた。
「……くそったれ」
汗がにじんで、うめき声がこぼれる。
その二枚の写真に映った十字架のアクセサリはモチーフだけではなく、少しくすんだような色合いも、手の込んだ細かなデザインも、チェーンの長さも太さも、すべてが同じだった。それどころか、その顔のない男性と早坂荘悟は──まったく同じ服装をしていた。俺は目眩《めまい》にこめかみを押さえて、桜花《おうか》が背負っているものを呪《のろ》った。
翌日、桜花は俺や父さんたちが見守るなか、早坂荘悟の写真と、ガタガタに切り裂かれた写真の二枚を眺めた。桜花は二枚の写真をテーブルに置いて、俺たちに向き直る。そして、ゆっくり首を振った。
「憶《おぼ》えて……ないの。わたしの目の前で、男のひとが──あの『日没』を描いていた場面を、ぼんやり思い出しただけ……。でも」
桜花は小さく微笑《ほほえ》んだ。
「納得、した。わたしがこのひとにそっくりだから、お母さんは……わたしの顔が嫌いだったんだ」
父さんたちが悲しそうに表情を歪《ゆが》め、痛々しげに桜花を見つめる。父さんたちの様子《ようす》は、いまにも泣き出してしまうんじゃないかと心配になるほどだった。
桜花が穏《おだ》やかに、優《やさ》しささえにじませて言う。
「わたしは、だいじょうぶ。気にしてないし、このひとのことを、どうとも思わないから。わたしには、あきらも、お父さんたちもいるから、だから平気」
「桜花ちゃん……」
母さんが桜花の華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》をそっと抱きしめる。父さんの肩が小刻みに震《ふる》えているのに気づいた。
桜花の父親は早坂荘悟なのかもしれない──。そう伝えると、父さんたちは卒倒せんばかりにショックを受けた。ふたりとも、早坂荘悟の事件については当然知っていた。
いまなら、静香叔母さんが桜花に辛《つら》く当たっていた理由も、許せはしないがわかるような気はする。叔母さんがいつ早坂荘悟の犯行を知ったのかは知らないが、愛するひとが殺人鬼であるとわかったとき、ひとはどんなふうに絶望するだろうか? 桜花は外見だけで言えば早坂荘悟に似すぎている。桜花《おうか》に「絵を描《か》くな」と命じた叔母《おば》さんはきっと、桜花のなかに早坂《はやさか》荘悟《そうご》を見ていたのだ──。
静香《しずか》叔母さんと違い、俺《おれ》たちは桜花が早坂荘悟とまったく違うということを知っている。外見と絵の才能を持っているということ以外のすべてにおいて。だが、それは桜花を身近に知っている者しかわからないかもしれない。
美術館《びじゅつかん》で話をしたときに、鏡子《きょうこ》さんもまさかとは思い気にはしていなかったものの、はじめて桜花を見たとき早坂荘悟に似ているなと感じたのだと、教えてくれた。十年ほど前の事件で風化しかかっているとはいえ、鏡子さんや美咲《みさき》がそうだったのだから、桜花を見て早坂荘悟に似ていると感じる人間はほかにもいるだろうし、桜花が有名になっていろんなメディアに顔を出せば出すほどそうだろう。
これからどうすればいいだろうか──と自問する。
美咲のこともある。美咲はまるで猫が獲物《えもの》のネズミをいたぶって遊ぶように、狼狽《ろうばい》する俺たちを眺めて楽しんでいた……。
携帯電話が鳴った。反応して振り返った桜花たちに微笑《ほほえ》みかけて、俺は携帯電話を手にリビングを出る。相手は鏡子さんのようだった。
「──はい」
『もしもし、村瀬《むらせ》くん? ──大変なんだ』
その声がどこか慌てているように聞こえて、俺は「え」と訝《いぶか》った。鏡子さんはかつて聞いたことのない、狼狽しきった声で続ける。
『明後日《あさって》発売の週刊誌で、桜花ちゃんの記事が載るそうなんだ。その、……桜花ちゃんが、早坂荘悟の娘じゃないかって──』
ぞくり、と震《ふる》えが駆け抜ける。
いったいどうして、と思った次の瞬間《しゅんかん》、美咲のにやにやした顔が脳裏をふとよぎった。リビングを出ていてよかった、と思う。たぶん俺はいま、怒りのあまりとてつもない形相《ぎょうそう》をした気がするから。
『アート・オブ・ペインティングの編集部《へんしゅうぶ》は大変な騒《さわ》ぎになってるよ。このままじゃ、これまで桜花ちゃんを絶賛《ぜっさん》していた美術界全体が、もしかするとその外でも、大騒ぎになってしまうかもしれない』
「──いまから、会って話をしよう。時間は大丈夫?」
『大丈夫。わかった。それじゃあ、待ち合わせはわたしの店で──』
すぐに行く、と約束してから電話を切る。動揺と怒りで全身の血液が沸騰《ふっとう》するような気分になって、反射的に握りしめたこぶしを解くのに苦労した。何度か深呼吸し、表面上の落ち着きを取り戻してから、リビングに戻った。
父さんが訝《いぶか》しげな顔をしている。
「電話、だれからだったんだ?」
「鏡子《きょうこ》さん。アート・オブ・ペインティング誌の記事のことで、打ち合わせがしたいからってさ。これからちょっと行ってくるよ」
「……わたしは?」
行かなくていいの、とばかりに桜花《おうか》が小首を傾《かし》げたので、俺《おれ》は「いや」と微笑《ほほえ》んだ。我ながら、内心の動揺を表に出さないよう上手《うま》く笑えたと感心する。
「大した用件じゃないらしいから、俺だけで大丈夫だ」
母さんが「そうなの。気をつけていってらっしゃい」と言った横で、桜花が不意に真剣な顔になって、俺の目をじっと見た。もしかしたら桜花はなにかよくないことだと気づいたのかもしれない、と思う。俺は桜花の視線《しせん》を誤魔化《ごまか》すように「じゃ、行ってくるから」とだけ告げ、家を出た。
歩きながら、携帯電話をかける。相手が出るまでの数コールの間に、苛立《いらだ》ちで携帯電話を握り潰《つぶ》してしまいそうだった。
やがて、美しいソプラノの声が呼び出しに応じた。
『──はい。ふふっ、嬉《うれ》しいわ。暁《あきら》くんがあたしに電話をかけてきてくれるなんて。デートのお誘いだったら、大歓迎よ』
「ふざけるな」
p237
くすくすと、耳障りな笑い声が聞こえた。電話の向こうの美咲《みさき》は、俺《おれ》の苛立《いらだ》ちも楽しんでいるのだった。俺は短く、ただひと言だけ尋ねた。
「──おまえか?」
『そう、あたし。ちょっと前のことだけどね』
美咲はためらいなく、なにひとつ罪悪感なく、桜花《おうか》が早坂《はやさか》荘悟《そうご》の娘だという話を週刊誌に流したことを認めた。
『あたし、優《やさ》しいでしょう? せっかく桜花ちゃんの個展が開催されるんですもの、お客さんをたくさん集めなきゃと思って。世間に宣伝してあげたの。ねえねえ、それで桜花ちゃんはあの絵を見て、どんなふうだったの? 興味《きょうみ》あるなあ──』
「……おまえは普通じゃない。おまえからは狂った匂《にお》いがする」
俺が嫌悪感を込めて言うと、美咲はむしろくすりと笑った。
『──まあ。それじゃあ、あたし、桜花ちゃんの立派なお父さまに似ているのかな? 光栄だわ』
美咲の声には、どうしようもないくらいに勝ち誇った感じがある。俺は電話を切って、くそったれ、と毒づいた。これ以上話しでも美咲を喜ばせるだけだと思った。胸の奥に、決定的な敗北感があった。
桜花の気持ちや周囲の騒《さわ》ぎとは関係なく、個展の開催日は徐々に近づいてくる。桜花が早坂荘悟の娘かもしれない、という話が知れ渡ったときの画壇《がだん》や世間の反応は、ひとによって実にさまざまだった。
大喜びしたのはマスコミで、各週刊誌やスポーツ紙がいっせいに取り上げる騒《さわ》ぎになった。桜花をかばいたい美術関係者も、以前、早坂荘悟が犠牲者《ぎせいしゃ》をモデルにして描いた数々の絵をそうと知らず絶賛《ぜっさん》した過去から、複雑な顔をするしかできなかった。
アート・オブ・ペインティングに届く中傷の手紙は編集部《へんしゅうぶ》が事前にチェックして破棄するので桜花の目に触れることはなかったが、それでも、家の郵便受けに直接「人殺しの娘が顔を出すな」というような手紙が入っていたことはあったし、嫌《いや》がらせや脅迫の電話がかかってきたこともあった。
ただ、世間のひとたちは俺たちが怖れたほど、また、美咲が期待したほどに愚かではなかったのである。
桜花の手許《てもと》に届く励ましや応援の手紙が、明らかに増えた。桜花が内気で大人《おとな》しく見目麗《みめうるわ》しい少女だったのもよかったのだろうが、人殺しの娘だとなじる声よりも、そんなことを報道された桜花への同情のほうが圧倒的に多かった。
桜花は桜花であり、早坂荘悟のことはつい先日までなにも知らず、早坂荘悟に育てられたわけでもないし、早坂荘悟に対してなにか特別な感情を持っているわけでもない。早坂荘悟の娘だからといって非難《ひなん》される謂《いわ》れはまったくなく、なにより、早坂《はやさか》荘悟《そうご》の自殺からもう十年の月日が経《た》っているのだ。
俺《おれ》も父さんたちも、そして優美子《ゆみこ》たちや鏡子《きょうこ》さんたちも胸を撫《な》で下ろした。もっとひどいことになるのではないかと危惧《きぐ》していたのだが、そこまでの心配はなさそうだったから。鏡子さんは桜花《おうか》へ励ますように力強く言った。
「大丈夫。桜花ちゃん、キミは周りのくだらない雑音なんかに気を取られずに、がんばって描いていいんだ。キミなら『月の盾』よりももっとすごい絵だって、きっと描けるよ。そして、うるさい奴《やつ》らをみんな黙《だま》らせてやろう」
桜花は鏡子さんを見返して小さく微笑《ほほえ》んだ。
「……うん」
微笑んだのちに、そっと目を伏せた。
「……『月の盾』より、すごい絵────……」
俺たちはみんな、鏡子さんと同じ考えだった。
桜花の絵なら、と思っていた。桜花の『月の盾』や、これから描かれるだろうそれをさらに超えた新しい絵を直《じか》に見れば、桜花を「人殺しの娘」だと心なくなじっているひとたちも、口をつぐまざるを得ないはずだ。
桜花は学校を除けばほとんどの時間、キャンバスに向かうか鏡子さんが届けてくれる手紙を読んで過ごしていた。そのとき俺は桜花とふたりでリビングにいて、ぼんやり読書をしていた。と、桜花から「あきら」と声をかけられる。
「わたしは、殺人鬼の子ども──」
桜花がそんなことをつぶやいたので、俺は桜花がいま読んでいた手紙にそんな中傷が書いてあったのかと思い、どきりとして慌てた。だがそうではないようで、桜花は俺の表情を見てゆっくり首を振った。
「早坂荘悟ってひと、本当に──ひどいひとだったんでしょう? 信じられない……くらい。わたしはそんなひとの子どもなのに」
「おまえが早坂荘悟の娘だっていう確実《かくじつ》な証拠があるわけではないよ」
気休めにもならないとわかっていても、そう言ってやらずにはおれなかった。桜花はちょっぴり微笑み、もう一度ゆっくり首を振って続けた。
「それなのに、そんな……悪魔《あくま》みたいなひとの子どもなのに、こうやってたくさんのひとがわたしはがんばっていいんだって、なにも悪くないんだって、懸命《けんめい》に教えてくれるの……。──このひと」
桜花が一通の封筒を掲げる。差出人の名前と住所がちらりと見えた。女の子であるらしい、可愛《かわい》らしい丸文字だった。
「早坂荘悟に殺された女のひとの、姪御《めいご》さんなんだって」
俺《おれ》はぎょっとして、思わずその手紙をまじまじと見た。
「本当に……か?」
「──うん。そう書いてある」
うなずいた桜花《おうか》は、なにか思案するように顔を伏せた。俺は絶句して、早坂《はやさか》荘悟《そうご》の犠牲者《ぎせいしゃ》……? と胸中でつぶやく。もちろん、桜花の手許《てもと》に渡っているということは非難《ひなん》の手紙ではないのだろうが、いったいなぜ──。
「いま中学三年生で、わたしと同級生……なんだって。あなたは早坂荘悟じゃない、大変だろうけどがんばってって──そう言ってくれてる……。東京からわざわざわたしの個展を見にきてくれるって」
「……そうか」
「人殺しの子どもなのに、こんなふうに祝福してもらえるのは、きっと……わたしに絵があるからだと思うの。わたしが『月の盾』みたいな、いろんなひとに褒《ほ》めてもらえる絵を描けるから──」
俺はうつむく桜花の横顔を見つめる。桜花は早坂荘悟という存在に負けず、たくさんのひとから祝福されその絵を愛されている。それは誇らしかったし、桜花が自身の絵の素晴《すば》らしさをきちんと理解しはじめていることも、本当に嬉《うれ》しかった。
「ああ、おまえの絵は──きっと、どんなひとにも愛され認められるだろうな。おまえは早坂荘悟なんかよりずっと素晴らしい絵描きだよ」
俺がそう微笑《ほほえ》みかけると、桜花は「うん……」と答えた。その瞳《ひとみ》が迷いに揺れているように見え、俺はかすかに眉《まゆ》をひそめる。ここ最近の桜花は少し元気がない。メディアの報道が桜花を傷つけたのではと、俺たちのだれもが気を遣っているのだが。桜花はぼそりと、本当に小さな声でささやいた。
「だったらもし、わたしに絵がなかったら──」
「え?」
桜花は顔を上げ、かすかな微笑みを俺に向けて首を振った。
「……ううん、なんでもない」
早坂荘悟の娘だという話がメディアに流れて以降──いや、正確《せいかく》にはたぶんもう少し前、美術館《びじゅつかん》であの『日没』を見て以降、桜花はそれまでよりもなお、新しい絵の制作に対して懸命《けんめい》になっていた。
「描かなきゃ」
桜花は絵筆を握りしめ、来る日も来る日も長時間キャンバスに向かい続け、何度も何度も描き直し、熱狂《ねっきょう》と苦悩のあいだで揺れていた。
「『月の盾』よりすごい絵を措かないと、わたしは──」
桜花は日に日に憔悴《しょうすい》していった。
その思い詰め具合は「どうすれば『月の盾』よりいい絵が描《か》けるのか」というレベルを超えているように思えて、俺《おれ》はふと不安に駆られる。桜花《おうか》は懸命《けんめい》に悩んでいたが、新しい絵はなかなか完成しなかった。
そして桜花が絶望的な表情でその言葉を漏らしたのは、個展開催の一週間と少し前である。
「──『月の盾』よりもいい絵が…………描けない」
俺たちは──それでもまだ、桜花ならきっと描けると思っていたのだ。
俺たちはみんな、桜花の絵に魅了《みりょう》されすぎていた。桜花は絵画の天才だと、桜花には早坂《はやさか》荘悟《そうご》どころかピカソやフェルメールといった美術史に残る大天才と肩を並べられるかもしれない才能があって、色が見えないことすら乗り越えた桜花に乗り越えられないはずがないと、こんな個展の直前になってもまだ無邪気に信じていた。
描けない、とうなだれる桜花に、父さんは「まだ一週間以上もあるじゃないか」と励まし、母さんは「桜花ちゃんならきっと描けるわ」と疑いもしていなかった。慶太《けいた》は「あんまり気を張らないで、力を抜いてごらん」と優《やさ》しく笑いかけ、優美子《ゆみこ》はしょせん殺人鬼の子どもじやないと嘲《あざけ》る美咲《みさき》へ「桜花ちゃんなら、美咲《みさき》だって黙《だま》らせられる絵を描けるよ!」と怒っていた。
鏡子《きょうこ》さんたちは桜花のためになにがなんでも個展を成功させると意気込んでいた。さまざまなメディアが、扱いに大小こそあれど桜花の個展に関心を示した。桜花の手許《てもと》には、応援のメッセージが届き続けた。
桜花を取り巻く環境《かんきょう》すべてが、桜花に「描け」と言っていた。
絶望して「描けない」と訴えた桜花に、それでも「君ならできるよ」と言っていた。
……俺も結局は、それと大差なかったのだと思う。
それは個展開催の一週間前のことである。
アトリエを覗《のぞ》くと、桜花が疲れきったふうにぐったり椅子《いす》に座り込んでいた。桜花のアトリエにはいつも新鮮《しんせん》な絵の具の匂《にお》いがしている。窓からの明かりに、桜花の髪の毛がきらきらと黄金色《こがねいろ》にかがやいているように見えた。
「桜花、そろそろご飯──……」
俺は桜花の雰囲気に異様さを感じて言葉を呑《の》み込んだ。しずかに『月の盾』を見つめる桜花の眼差《まなざ》しに、憎しみに近い感情が浮かんでいたから。桜花は最高傑作である『月の盾』を、睨《にら》むようにして見ていたのである。
「──桜、花……? どうした?」
「……あきら」
桜花は『月の盾』を呪《にら》んだまま、疲労にかすれた声で言った。
「手伝って……ほしいの。たったひとつだけ、この『月の盾』よりもすごい絵が描けるかもしれない方法を、見つけた──」
桜花《おうか》の声があまりに悲しげで、あまりに疲れきっていたので、俺《おれ》はそれに従ってやることしかできなかった。訝《いぶか》りながらも『月の盾』を庭へと運び出した数分後、桜花本人も小さなバケツを持って家から出てきた。七月中旬に入ろうかという夕方は蒸し暑く、けたたましいセミの鳴き声が満ちていた。
「『月の盾』よりいい絵は、わたしには……描けない」
桜花の横顔を、世界を焼くような夕陽《ゆうひ》が照らしている。
「この絵がいるところは、高すぎる……。わたしにとっても、奇跡……なのかもしれない。わたし、一年前より上手《うま》くなったと思うけど、それでもこんなに上手くはもう描けない。わたしには、超えられない…………」
桜花は『月の盾』に触れて、肩を震《ふる》わせる。一瞬《いっしゅん》、泣いているのかと思ってどきりとした。『月の盾』に触れる桜花の手つきは、先ほどの睨《にら》むような視線《しせん》とは百八十度打って変わって、とてもとても愛《いとお》しげだった。
「これは一年前の、わたしの──幸せな気持ち、そのものだから……。わたしは、それより美しい感情を……知らない、から。だから、わたしは──この『月の盾』よりもすごい絵って、想像もできなかったの……。描こうと思っても、どんなのかわからないから描きようもなかったの。でも」
俺は桜花がなにをしようとしているのかよくわからず、黙《だま》って話を聞いていた。桜花が持ってきたバケツの中身は、いったい──。
「あの『日没』は、『月の盾』よりすごい絵だった」
日没、という言葉に胸騒《むなさわ》ぎがした。
「それで……わかったの。ひとつだけ、あのときの幸せな気持ちを上回るようなものが……ある。それはきれいではないけど、心地《ここち》よくもないけど──」
やつれてさえ見える桜花の横顔は、まるでなにかに取《と》り憑《つ》かれたようだった。桜花は顔を上げて、確信《かくしん》のこもった声で言った。
「きっと『月の盾』は超えられる。悪魔《あくま》が、ずっといるの。わたしに……ささやいている。わたしは早坂《はやさか》荘悟《そうご》の娘だけど、描けるから許されていて、描けないんだったらなんの価値もないって。怖い……怖いの、あきら。でも、その悪魔を、この苦しい気持ち、悔しい気持ちを全部込めて描けば──」
桜花が、ばしゃっ! とバケツの中身を『月の盾』へぶちまける。
「──きっと。絶望は、幸福より重いから…………!」
俺は一瞬|呆気《あっけ》に取られたあと、鼻を突く嫌《いや》な臭《にお》いに気づいた。灯油、という単語が頭に浮かんだときにはもう、桜花の手のなかではライターの火が揺れている。慌てて桜花を制そうとしたが、遅かった。
「桜花、待っ──」
すぐ目の前で『月の盾』は一瞬《いっしゅん》にして燃《も》え上がった。
ごうっ、と炎の音が聞こえたような気さえした。
「──なんてことを!」
灯油をかぶった油彩画である。よく燃えた。俺《おれ》はシャツを脱いでそれで消火しようとしたが、そのシャツも炎に呑《の》まれただけだった。それはまるで、赤い日没によって月が焼き尽くされているように見えた。
桜花《おうか》の才能と努力の結晶であり、俺たちの希望でもあった『月の盾』が、瞬《またた》く間に燃えていく。桜花は辛《つら》そうに顔をしかめて、微動だにせず、その光景を見ていた。桜花は『月の盾』でも炎でもなく、そこにいる悪魔《あくま》を見ていたのかもしれない。
「──くそっ!」
消火器を取りに行こうとしたのを、桜花に「待って……!」と止められる。
「あきら、お願《ねが》い……。キャンバスと画材を、取ってきて」
桜花はぶるぶると震《ふる》えながら、懇願《こんがん》するように言った。
「いまなら、きっと描《か》ける……。悪魔が『月の盾』を焼いたいまなら……『月の盾』があったら、わたしは絶望した絵なんて描けない。わたしは『月の盾』よりももっとすごい絵を、描かなきや……いけないの。描けないなら、わたしはただの人殺しの子どもで、だれにも祝福してもらえないから────」
俺は桜花の深刻な苦痛の表情を見て、血がにじむほどにこぶしを握りしめた。
そうか。桜花はそれだけが自分の価値だと、描けることだけが人殺しの父親を生まれ持ってしまった免罪符なのだと、そう思ったのだ。だから、描かなければという自分自身からの焦燥感《しょうそうかん》にも周りからの期待にも苦しめられ、描けないことで、早坂《はやさか》荘悟《そうご》の『日没』に触れて芽生《めば》えた絶望が膨《ふく》れ上がって──。
『月の盾』を焼く炎は桜花の絶望である。それは早坂荘悟が『日没』のなかに描き出していた赤色《あかいろ》と、悲しいくらいによく似ていた。
「……ごめんなさい、あきら。絵を燃やすなんて、『月の盾』を焼くなんて。本当に、ごめんなさい……。でもわたしには、こうするしか──」
桜花にかけてやれる言葉はもうなかった。桜花は『月の盾』をさらに超えなければと、もう一歩踏み出してしまっていた。俺が画材を持ってくると、桜花は燃え尽きた『月の盾』を見ながら、赤く染まった空の下で新しい絵を描きはじめた。
こうして、その絵は生まれ落ちた。
桜花自身が感じた絶望や挫折、早坂荘悟の『日没』からの影響《えいきょう》を注ぎ込んだ、『月の盾』よりもさらに圧倒的に力強く色彩表現の深いその絵は、タイトルを『クローゼットの悪魔』と名づけられた。
その『クローゼットの悪魔』は凄《すさ》まじかった。胸の奥で鼓動が激《はげ》しく脈打ち、背筋がぞくぞくと震《ふる》えるのを感じる。虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》をした悪魔《あくま》が、絵のなかからこちらを見つめている。基本が鮮《あざ》やかな赤で、色彩的には決して暗くはないはずなのに、圧倒的な闇《やみ》を宿している。見ていると、精神が恐怖に少しずつ蝕《むしば》まれていくようだった。見る者を絶望的に惹《ひ》きつけてやまない、危険な魔力があった。
俺《おれ》からの電話ですぐに駆けつけた鏡子《きょうこ》さんは、この『クローゼットの悪魔』を見るとびくりと震えた。そして、興奮《こうふん》を抑えきれない様子《ようす》で桜花《おうか》を振り返る。
「桜花ちゃん、やっぱり、本当に……キミはすごいね。この絵は『月の盾』も早坂荘悟の『日没』も──超えてるよ。間違いなく。信じられない」
桜花は鏡子さんの反応にほっとしたようで、緊張《きんちょう》に強張《こわば》っていた表情を緩《ゆる》めた。そうでなければ意味がない。あの『月の盾』を焼いてまで描いた絵なのだから。
「……よかった」
鏡子さんはそうつぶやいた桜花に、にっ、と笑いかけた。
「これでますます個展が楽しみだ。きっと、キミの絵を見てみんなびっくりするよ」
「うん。そうなるといいなって、思う。わたしも、この絵だったら『月の盾』より──」
言いかけた桜花は改めて『クローゼットの悪魔』を見上げ、そして不意にびくりとする。描かなければと張り詰めていた緊張の糸が、桜花の心でふと途切《とぎ》れたのかもしれない。桜花はなにかに気づいたように「あ…………」と吐息をこぼし、その瞳に動揺を浮かべた。
「──待って……」
鏡子さんが「うん?」と首を傾《かし》げる。桜花は鏡子さん、それから俺を交互に見上げて、急に不安になった様子で唇を開いた。
「この絵は、だいじょう……ぶ?」
「大丈夫もなにも、素晴《すば》らしい出来だよ? すごい話題になるだろうね」
自信たっぷりにうなずいた鏡子さんに、桜花は「そう、じゃない──」と首を振って言いつのった。懸命《けんめい》な眼差《まなざ》しである。
「違うの。わたしも、これは『月の盾』より出来のいい絵だとは、思う……けど、そういう意味じゃないの。この絵を、本当に、たくさんのひとが集まるようなところに展示しても……だいじょうぶ、なの……?」
人前に展示されるのだということをいま思い出したかのようだった。桜花が心配しているのは、なにか──そう、絵に対する評価ではないように思えた。鏡子さんは一瞬訝《いっしゅんいぶか》しげな表情をしたのち、明るく笑う。
「もちろん。この出来なら『月の盾』に変わるいちばんの目玉に十分なるよ。桜花ちゃん、どうかした? 大丈夫、個展は絶対に成功する。自信を持って」
桜花は「……うん」とまだ不安そうにうなずき、『クローゼットの悪魔』を眺める。俺ももう一度、『クローゼットの悪魔』を見た。そうだな、と思う。
この絵は希望に満《み》ち溢《あふ》れていた『月の盾』とはあまりに違う。桜花《おうか》がこれまでに描いて発表してきた絵とはまったく違う。この絵に表現されているのは、早坂《はやさか》荘悟《そうご》の『日没』ですら上回っていそうな、圧倒的なまでの絶望感だ。
絵を眺めていてふと不思議《ふしぎ》な感覚を味わう。ざあざあ流れる川の音と、アブラゼミの合唱が頭のなかに響《ひび》く。そしてそれらに紛れて幼い身体《からだ》が落下する水音と、お兄ちゃん、という悲鳴が聞こえた──気がした。小夜子《さよこ》を亡くしたときの絶望がふっとよみがえり、ぞくりとする。絵のなかの悪魔《あくま》が、にやりと笑ったふうに見えた────。
馬鹿《ばか》らしい、と俺《おれ》は首を振った。
絵のなかの悪魔は虚《うつ》ろな目でこちらを見ている。くだらない思い込みだ。絵が笑うものか。少なくとも、この『クローゼットの悪魔』が『月の盾』の犠牲《ぎせい》の上に生まれた、桜花の最高傑作であるのは間違いない。
桜花の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だよ、桜花。きっと上手《うま》くいくさ」
「うん……」
七月中旬、いよいよ桜花はじめての個展が開催される。皮肉なことに、宣伝してあげたの、と言った美咲《みさき》の行動は実際、鏡子《きょうこ》さんたちが行ったほかのどんなPRよりも凄《すさ》まじい集客効果を上げた。
十五歳の、美貌《びぼう》の天才少女。全色盲の画家。そして、現代最高の才能と称賛《しょうさん》されながらもその身を狂気に浸していった連続殺人犯・早坂荘悟の娘──。
個展には桜花が手許《てもと》に置いていたもの、持ち主に許可を得て借りてきたものなど、合わせて三十数点の絵画が展示され、開催初日からにぎわいを見せた。それらの作品群に、そしてなにより新作である『クローゼットの悪魔』に、ひとびとは驚嘆《きょうたん》し感動の吐息をこぼした。鏡子さんの祖父は桜花を「絵画の神が地上に遣わした奇跡」と評し、ある美大教授は「比べるべきではないだろうが、その天賦《てんぷ》の才は明らかに早坂荘悟をも上回っている」と褒《ほ》め称《たた》え、ある美術|評論家《ひょうろんか》はこの個展を「まず鮮《あざ》やかな色に目を奪われ、次いでたしかなデッサン力に支えられた技量、天性の表現力に気づかされる」と絶賛した。
『クローゼットの悪魔』そのものも、桜花の『月の盾』を超える新たな最高傑作ともてはやされた。『月の盾』のような包み込む温かさ、優《やさ》しさを持たない代わりに、冷たい美しさ力強さで、この世にある悲劇《ひげき》を表現しきった傑作。悲劇から救済するのではなく、この世にはどうしょうもない悲劇が存在しているのだという現実を突きつける絵──。個展開催中に発売されたアート・オブ・ペインティング誌夏号の記事では、鏡子さんのペンによってそんなふうに批評された。
優美子《ゆみこ》から「美咲がすごく不機嫌《ふきげん》だったよ」と嬉《うれ》しそうに言われたことがある。
開催から二週間ほどのあいだに全国紙で二回、地方のTVニュースでも何度か取り上げられた。売却可の札を下げた数点の絵は即座に買い手がついた。絵自体の評価も客入りも常に上々で、桜花《おうか》の個展は成功──いや、大成功していると言ってよかった。
──桜花の手許《てもと》に、一過の手紙が届くその瞬間《しゅんかん》までは。
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その手紙は鏡子《きょうこ》さんが定期的に転送してくれるなかに混ざっていた。個展開催から二週間が経過し、開催期間の延長などという言葉も共催者たちのあいだでちらほらしはじめたころのことだった。
「──あきら」
と、桜花がどこか困惑したような表情で傍《そば》にやってきた。
「この手紙、なにか……ヘンなの」
「変? どんなふうにだ?」
「ちょっと、見てくれる……?」
桜花は手にした一過の封筒を差し出した。普段《ふだん》は「……出してくれたひとに失礼だから、いくらあきらでもダメ」と読ませてくれない桜花がこういう手紙を見せてくれたのは、これがはじめてのことだった。
差出人は東京の美大生で、名前は高杉《たかすぎ》伸二朗《しんじろう》とある。急いで書いたのだろうか、大学生にしではずいぶんとよれよれの、汚い字だ。便箋《びんせん》の一枚目にはまず、先日、桜花の個展を見に行ったのだと記されていた。
幼いころから絵が好きで、将来|素晴《すば》らしい画家になりたいと願《ねが》ってずっと絵を続けてきましたが、ここ二年ほどで自分の才能のなさに気づき、また、周りからの大きなプレッシャーもあって絶望し、なにかのヒントになればとでも思いあなたの個展へ行ったのです──。そう書かれたあとは、桜花の絵に対する驚《おどろ》きと絶賛《ぜっさん》がしばらく続く。十五歳の、しかも色の見えないあなたがこんなにも素晴らしい作品を描《か》いているのを見て心が震《ふる》えました。あなたは僕とは違う、本物です。なによりあの『クローゼットの悪魔《あくま》』、あの絵を見て僕はいままでの自分を恥じました──。
一枚日はここまで。桜花は俺《おれ》が読み終わるのをじっと待っている。TVのなかでは番組がひとつ終わって、CMがゆったり流れている。
僕はいままで、壁《かべ》を乗り越えられず絶望している自分を嫌っていました。だけど、あなたはあの『クローゼットの悪魔』で絶望の奨励を勧めていましたね。あなたの『クローゼットの悪魔』が、押《お》し潰《つぶ》されそうだった僕に甘く教えてくれたのです。絶望する気持ちはとても美しいもので、それはひとつの究極の芸術であると。絶望に満ちた僕のいまは、あなたの『クローゼットの悪魔』のおかげで、僕の人生で最も美しい状態にあります。あなたの『クローゼットの悪魔《あくま》』が僕に勇気を与えてくれたのです。僕はこの美しい絶望を永遠に保つことにします。あなたの絵を通してあなたに触れられたことを感謝《かんしゃ》します──。
「たしかに、よくわからない手紙だな」
便箋《びんせん》の一枚目はともかく、二枚目はあまりよくわからず、後半になればなるほどますます字が乱れていくのも相まって、ちょっと不気味な感じがした。桜花《おうか》が「──わたしは」と、悲しそうな顔をした。
「絶望の奨励なんて、そんなことしてない…………」
「まあ、あまり気にするなよ」
俺《おれ》は桜花の頭を気楽にぽんと撫《な》でた。
「絵の感じ方だってひとそれぞれだってことだろ。それは受け取る側の問題だ」
「……うん。わたしだって、ひとの絵を見て……いろんなことを感じて、たくさんのことを考えるもの。それはわかってる、けど……なにか、この手紙はヘンな感じがするの。なんて言うか、その、まるで──」
感じているその「なにか」を懸命《けんめい》に言葉としてまとめようとする桜花の向こうで、TVがCMを終えて次の番組を流しはじめる。ワイドショーだった。別に興味《さようみ》もなく、視線《しせん》を桜花へ戻したとき、ニュース内容が耳に入った。
『本日午前十時ごろ杉並区《すぎなみく》のマンションから転落死した男性の身元が、美術大学に通う二十四歳の学生、高杉《たかすぎ》伸二朗《しんじろう》さんであることが判明しました。自宅から遺書も見つかっており、自殺と見られています』
「──え…………?」
桜花が呆然《ぼうぜん》とした声をこぼし、TVを振り返った。
俺は絶句して、机に置いた手紙の差出人名をもう一度|確認《かくにん》してしまった。全身の隅から隅までがぶるっと震《ふる》えた。頭のなかが急激《きゅうげき》に、冷えていく感覚。桜花の「……どうして」というつぶやきが、答えられる者のいないリビングに流れた。
『高杉伸二朗さんの遺書には』
女性キャスターが淡々と原稿を読み上げる。
『国崎《くにさき》桜花の絵にめぐり会えたことを神に感謝します、という一文が添えられていたとのことです。これはおそらく、十五歳の天才画家として話題になっている国崎桜花さんを指していると思われ──』
ニュースを開く桜花の身体《からだ》が、がたがたと震え出した。桜花の瞳《ひとみ》には、恐慌にすら近い激《はげ》しい恐怖の色が浮かんでいた。そのニュースはただひたすら凶悪な衝撃《しようげき》となって桜花の精神を殴りつけた。
俺は「──桜花っ」と声をかける。桜花の顔色は真《ま》っ青《さお》だった。嫌《いや》な予感──胸騒《むなさわ》ぎ程度ではない、全身から冷や汗がどっと噴《ふ》き出すくらい、とてつもなく嫌な予感がある。その高杉伸二朗が、ひとり目だった。
桜花《おうか》が早坂《はやさか》荘悟《そうご》に匹敵する──いや、それ以上の天才であるということが、最悪の結果で証明された。早坂荘悟の『日没』と桜花の『クローゼットの悪魔《あくま》』はどちらも絶望を表現した絵だが、早坂荘悟の『日没』が事件の遺族に自殺者を出したのに対し、桜花の『クローゼットの悪魔』はまったく無関係なひとたちに影響《えいきよう》を与えたのである。
不慮《ふりょ》の事故で家族全員を亡くしていた初老の男性が「絶望のなかにある美しさを知った」と、高杉《たかすぎ》伸二朗《しんじろう》と同じようなことを書き残してから致死量の薬を飲んだ。安らかな死に顔だったという。
一方的に婚約破棄され、生きる気力をなくしていた若い女性が、桜花の個展を見に行った帰りに、知人宅にて手首を切った。すぐ病院へ運ばれ命に別状はなかったものの、精神的に不安定になっており満足に会話もできない状態であるそうだ。
展示された『クローゼットの悪魔』の前に数時間立ち尽くしていた学生は、警備員《けいびいん》が話しかけると突然暴《あば》れ出し、近くにいた親子連れに怪我《けが》をさせた。
山奥でふたり揃《そろ》って自殺していた、顔見知りでもなく接点などまったくないのではないかと思われた男女の、たったひとつの共通点が発覚した。それは、そのふたりともが同じ日に桜花の個展を見に行っていた、ということだった。
下校中の中学生にナイフで襲《おそ》いかかり軽傷を負わせた男は、警察で「国崎《くにさき》桜花の個展で、絵のなかの悪魔にそうしろと命じられた」と供述した。
高杉伸二朗の遺書をきっかけに発覚しはじめたそういう事件は、規模の大小関係なくすべて合わせれば、二十一件にも上った。そして、早坂荘悟事件の遺族のなかにも桜花の個展を見にきたひとが数人いた。
そのなかのひとり、早坂荘悟事件の最初の犠牲者《ぎせいしゃ》となった|二ノ宮《にのみや》仁幸《まさゆき》さんの母親、二ノ宮|数恵《かずえ》さんは桜花の個展を見たあと新幹線《しんかんせん》で東京の自宅まで戻り、真《ま》っ青《さお》になって「早坂は生きていた。あの子のなかに──」と周囲に言い残し、もう耐えられない、仁幸のところへ行く、と仏間で首を吊《つ》った。
桜花の個展は急遽《きゅうきょ》中止されることが決定した。
美咲《みさき》から『自殺者が六人ですって? お父さまの絵を超えられておめでとう。祝福するわ、桜花ちゃん』と電話がかかってくる。外を歩くだけで、近所から刺すような冷たい視線《しせん》を向けられるようになった。
それまでは「彼女は彼女であり早坂荘悟ではないのだから」とかばってくれていたひとたちの多くが、いっせいに桜花へ牙《きば》を剥《む》いた。鏡子《きょうこ》さんが辛《つら》そうな様子《ようす》で編集部《へんしゅうぶ》に届く非難《ひなん》の手紙が三倍に増えたと言っていたから、実際は三倍どころではあるまい。誹誘中傷《ひぼうちゅうしょう》の匿名《とくめい》電話が絶えずかかってくるため、家の電話は止めざるを得なかった。
各メディアはいままでとはまったく比較にならないくらい、喜び勇んで桜花《おうか》のことを取り上げた。ワイドショーなどで多くの無責任なコメンテーターたち、それも特に桜花の絵を見たこともないひとたちが、桜花について好き放題に喋《しゃべ》っている。ひとの心を傷つける絵を描《か》くのになんの抵抗も持っていない、早坂《はやさか》荘悟《そうご》の娘はしょせん早坂荘悟の娘、ひとを不幸にすることしかできない絵描《えか》き──。
『才能があるらしいのは──まあこれも話題先行なだけではないかと思いますが──けっこうなことですが、自分が絵を描いていると知って、早坂荘悟事件の遺族の方たちがどう感じるかわからなかったんでしょうか。その程度の配慮《はいりょ》もできないひとに、描く資格なんてないと思いますけどねえ』
『天才少女だともてはやされて、思い違いでもしたんでしょうね。聞いた話では問題の「クローゼットの悪魔《あくま》」とかいう絵、早坂荘悟の「日没」にそっくりらしいじゃありませんか。本人はおもしろがって描いてたんでしょうかねえ?』
なにより、自殺者のなかに早坂荘悟事件の遺族がいたのが火に油を注ぐ形となった。
桜花から話を聞こうとして、家の周囲には取材陣が殺到したのだった。カーテンを閉めきった窓の隙間《すきま》から外の様子《ようす》を窺《うかが》うと、TVカメラさえいくつかあるのが見える。俺《おれ》は苦々しく舌打ちした。
いま平日の昼間にTVをつければ、桜花のことを毎日やっている。
早坂荘悟の生い立ちと、彼が起こした凄惨《せいきん》な連続殺人の説明。彼が自殺する直前に描き残した『日没』が巻き起こした、遺族の自殺というさらなる悲劇《ひげき》。そして、その娘と言われる十五歳の少女、桜花がその悲劇を繰り返してしまったこと──。
俺の傍に寄り添う桜花がうつむいて言う。
「──わたし」
桜花はあの高杉《たかすぎ》伸二朗《しんじろう》のニュースを見たあの瞬間《しゅんかん》から、ずっと怯《おび》えていた。周囲から向けられる剥《む》き出しの悪意にか、あるいは『クローゼットの悪魔』が引き起こした悲劇にか。両方なのかもしれない。
「外に出て、話をしたほうが──」
「ダメだ。いまはまだ、絶対に」
俺《おれ》はきっぱり首を振る。個展中止が決まった日のことを思い出す。
桜花をともなって美術館《びじゅつかん》に行った際、桜花に気づいた野次馬《やじうま》のひとりが「この人殺しが!」と叫んだのである。そのときの桜花の、ひび割れたような表情が脳裏から離《はな》れないでいる。悪意は桜花の心を殺せる、と思った。いまの、ただでさえショックを受けて不安定になっている桜花を取材陣の前にさらすなんてことだけは、絶対にしたくなかった。
「ごめんなさい、あきら」
桜花が悲しそうにうなだれる。
「わたしのせいで、また……みんなに迷惑をかけて。どうして、わたしはいつも……。こんなことに、なるなんて──」
「おまえのせいじゃない。こんなことになるなんて、だれにもわからない」
桜花《おうか》は懸命《けんめい》に描《か》いたのだ。そうすることでしか自分が認められないと思って、殺人鬼の娘だという宿命や早坂《はやさか》荘悟《そうご》の『日没』の幻影《げんえい》を振り払おうとして、桜花はすべてを注ぎ込んで『月の盾』を超えようとしたのだ。
それなのに、なぜこんなことに──。
「おまえにも、絵画の神にだってだ。それに、おまえにあの『クローゼットの悪魔《あくま》』を無理やり描かせたのは俺たちだよ」
俺《おれ》たちはみんな、桜花を必死に守ろうとした。押し寄せるマスコミから桜花を隠し、世間の糾弾《きゅうだん》からなるべく遠ざけようとした。だがそれでも、悪意は隙間《すきま》から漏れてくる。自殺者たちが可哀想《かわいそう》だ、どんな思いだったのか、とささやかれるたび、桜花は自分がやったことを責め、自分の絵を責め、自分自身を責めていく。俺たちはどうにか桜花を元気づけようとしたが、いまはとても無理だった。
「わたしは、ひとを殺すような絵を……描いた────」
桜花は口癖《くちぐせ》のようにそうつぶやくようになった。
一度だけ、桜花がマスコミの前に顔を出したことがある。桜花はとにかく謝《あやま》らなければ、なにか言わなければと思ったのかもしれない。桜花は俺たちに内緒《ないしょ》で、部屋の窓からそっと顔を覗《のぞ》かせたのである。その途端《とたん》、桜花が口を開くよりもずっと早く、マスコミ連中は怒鳴《どな》り声を張り上げた。
「被害者のひとたちに、謝罪《しゃざい》のひと言もないのか!」
「父親である早坂荘悟氏を、あなたはどう思ってるんですか!?」
「あなたに責任はないのではとおっしゃるひともなかにはいますが、あなたの絵を見て六人も自殺しているんだ、これはやっぱり、あなたの絵が殺したと言われても仕方ないんじゃありませんか!?」
「悪意がなかったなら、表に出て堂々とそう言えばいいじゃないか! 隠れるな!」
桜花の責任うんぬんはとりあえず置いておき、少なくともマスコミ攻勢はなんとかしなければ、とは俺たち全員が感じていた。好きにさせていればいずれ彼らは正義面したまま桜花の心を呑《の》み込み、ぺしゃんこに押《お》し潰《つぶ》してしまうだろう。弁護士《べんごし》でも雇ったほうがいいのではと鏡子《きょうこ》さんが提案し、父さんたちは真剣に思案していた。桜花が俺たちに「お願《ねが》いが……あるの」と言ったのは、そんなときだった。
「嫌《いや》がられても仕方ないけど、わたし、亡くなったひとたちの──仏前に、手を合わせに行きたい。そんなことくらいじゃ、許されないと、思うけど──」
俺《おれ》たちは全員が反対した。いまの状況でそんなことをすれば、いったいどんなことを言われるかと不安だったのである。だが桜花《おうか》は、真剣な目で何回も「お願《ねが》い……」と繰り返した。まず優美子《ゆみこ》が「──ちょっと、いい?」と手を上げた。
「あたし、桜花ちゃんの気持ち、わかる……。いろいろ大変だろうけど、わかってくれる遺族のひとだっているかもしれないんじゃないかな」
「そう──かもしれない、わね」
母さんも迷った未に力なく微笑《ほほえ》んだ。
「桜花ちゃんが、そう言うなら……。遺族のひとたちには、本当に、ちゃんとお詫びをしなきゃいけないのはそのとおりだし」
父さんと慶太《けいた》もしばらくしてうなずき、その場にいっしょにいた鏡子《きょうこ》さんが「それなら、住所はわたしが調《しら》べようか」と言った。鏡子さんはこのごろ、桜花がこんな辛《つら》い目に遭わなければならなくなったのは自分のせいだと、とても悔いているふしがあった。桜花は「鏡子は、なにも悪くない」と首を振っていたが。
俺だけが最後まで断固として反対した。遺族のなかに桜花にひどい言葉を浴びせかける者がいてもそれは仕方ないと思うし、そういうひとがいても仕方ないと思うからこそ、桜花を遺族の前に連れて行きたくはなかった。桜花が責められるのはもううんざりだ。それは俺自身がどんな目に遭うより、胸の痛むことだった。
「いいの。……ありがとう、あきら。でも、きっと」
桜花は俺を優《やさ》しく見つめて小さく微笑んだ。
「だいじょうぶ」
桜花の微笑みを見ていると、それ以上はなにも反論《はんろん》できなくなる。
それからさらに数日、マスコミ攻勢が和らぐのを待ってから、桜花は『クローゼットの悪魔《あくま》』による自殺者の家回りをはじめた。最初は同じ市内に住んでいた、致死量の薬で自殺した男性の家である。
俺と桜花のほかに、予定のなにもない優美子と慶太もついてきてくれた。家族はいないのだというその男性宅で迎え入れてくれたのは甥《おい》の青年だった。彼が桜花に微笑みかけて「いらっしゃい。大変だね」と言ったものだから、俺たちは驚《おどろ》いた。
「TVとかじゃいろいろ言われてるけど、少なくとも伯父《おじ》さんが自殺したのは──国崎《くにきき》さんの絵のせいじやないよ。いや、決心したのは国崎さんの絵を見てからかもしれないけど、……伯父さんはずっと前から限界だったんだ」
まず桜花が、それから俺、優美子、慶太──と仏壇《ぶつだん》に向かって手を合わせ終えると、甥の青年はそう穏《おだ》やかに語った。
「伯父さんは家族を事故で亡くしてから、生きているのが辛そうだった。たぶん、国崎さんの個展を見に行かなくても──そのうち、やっぱり自分で命を絶ってたように思う。むしろ、国崎さんの絵を見たから、最期が安らかだったんだよ。伯父《おじ》さんは国崎《くにきき》さんの絵に感動してたよ。涙すら浮かべてた。伯父さんはもう休みたがっていて──だから、国崎さんは自分を責めなくて大丈夫だよ」
桜花《おうか》が何度目かの「ごめんなさい……」を告げて、青年は「いいんだ」とうなずく。甥《おい》の青年の優《やさ》しさは桜花にとってほんの少しの、けれどたしかな救いだった。だが、桜花の謝罪《しゃざい》を穏《おだ》やかに受け止めてくれたのはその青年だけだった。
次の家では、仏壇《ぶつだん》に手を合わせる桜花の背中を、自殺した女性の夫が怖ろしい顔で呪《にら》んでいた。謝罪した桜花と母さんに対し、苛立《いらだ》ちを隠しきれない様子《ようす》で「謝罪は受け入れるが、家内は帰ってこない」と答えた。
そのさらに次の家では、俺《おれ》たちが手を合わせているあいだ家族全員が複雑な顔をしていた。その日は父さんも母さんもいっしょに行っていたのだが、ふたりが差し出した菓子折を「──いや、けっこう」と拒絶された。
四件目の家は兵庫県《ひようごけん》にあって、俺と桜花、それに慶太《けいた》と母さんで行ったのだが、家に上げてもらえず「謝罪したいという気持ちはわかりましたし、そうしようと決めたあなたの勇気はすごいと思います。でも、いまはまだ、顔を見たくありません。すみません……」と門前払いされてしまった。
あとの二件はどちらも東京である。俺と桜花のふたりだけで、正装し新幹線《しんかんせん》で向かうことになった。季節はもうお盆になっていて、新幹線内はそれだけで疲れてくるような大変な混み具合だった。
「──桜花、大丈夫か?」
新幹線のなかで、震《ふる》える桜花に尋ねてみた。ここ最近の桜花を見ていて、大丈夫ではないことはわかっていたが。桜花は遺族の家を一軒一軒回るたび、自責の念で疲れ果てている。それでも訊《き》かずにはいられない。桜花は小さな微笑《ほほえ》みで答えてくれた。
「……ん、平気」
向かう先は、桜花に手紙を寄越《よこ》したのちにマンションから飛び降りた高杉《たかすぎ》伸二朗《しんじろう》の家と、早坂《はやさか》荘悟《そうご》事件の遺族でもある|二ノ宮《にのみや》数恵《かずえ》さんの家だ。どちらの家にも事前に連絡を入れ、線香を上げさせてもらう許可は取ってある。
高杉伸二朗の母親が暮らす家は高級住宅地の、豪華な感じがする一軒家だった。
呼び鈴を鳴らすと、すぐに返事がある。
『──国崎桜花さん?』
「そうです」
桜花ではなく俺が答えると、少しの間があったのち、五十歳前後に見える神経質そうな痩《や》せ気味の女性が出てきた。高杉の母親は立派な門越しに、桜花をちらりと見やる。門を開けようとしないので、俺は眉《まゆ》をひそめた。
「あの、高杉《たかすぎ》さん。お電話させてもらったとおり、線香《せんこう》を──」
「そちらが国崎桜花《くにきさおうか》さんね?」
彼女は俺《おれ》の言葉を完全に無視して、確認《かくにん》するようにそう尋ねてくる。
桜花がうなずいて、門へと一歩近づいた。
「わたし、あなたの──」
水の跳ねる激《はげ》しい音が、桜花の言葉をさえぎった。
俺は一瞬《いっしゅん》、なにが起こったのか理解できなかった。それは桜花も同じだったらしく、前髪からぼたぼた水滴を垂らしながら、びしょ濡《ぬ》れになった自分の身体《からだ》を見下ろしてぽかんとしている。背後に隠し持っていたバケツで桜花に水を浴びせた高杉の母親は、不機嫌《ふきげん》さを隠そうともせず鼻息をついた。
「あたしからはそれだけよ。とっとと帰ってちょうだい。本当なら、あんたもマンションの屋上から突き落としてやりたい! 伸二朗《しんじろう》は才能があって優《やさ》しくていい子で、あんたなんかよりよっぽど素晴《すば》らしい画家になる予定だったのに! あんたが殺したんだ」
俺たちが呆気《あっけ》に取られているあいだに、高杉の母親はくるりと背を向けて玄関へ引っ込もうとした。桜花が慌てて叫ぶ。
「待って!」
高杉の母親がゆっくり憎々しげに振り返る。桜花はかすかに怯《おび》えた表情を浮かべながらも、懸命《けんめい》に「待って……」と繰り返した。
p269
「手紙が……あるの。それを、あなたに渡さなきゃと思って。あなたの息子さんが、わたしにくれた手紙──」
桜花《おうか》がおそるおそる手紙を差し出すと、高杉《たかすぎ》の母親はしばらくその場に突っ立ってじろじろ見ていた。再びこちらに歩いてくる。彼女はやはり門越しに桜花から手紙を奪い取って「……伸二朗《しんじろう》の字ね」とつぶやき、その手紙を読んだ。長い、俺《おれ》たちには永遠と思えるような沈黙《ちんもく》があった。
高杉の母親は手紙を読み終え、短く吐き捨てる。
「人殺しが」
そして、辛《つら》そうに表情を揺らした桜花の顔へ、ぶっと唾《つば》を吐いた。桜花の頬《ほお》でその汚らしい唾がびちゃりと跳ねたのを見た瞬間《しゅんかん》、俺は全身に凄《すさ》まじい怒りが駆け抜けるのを感じた。目の前の女に殺意すら覚えて「おまえ──」と怒鳴《どな》りそうになったそのとき、右手をぎゅっと桜花に握られる。
「ごめんなさい、わたし……」
桜花はうなだれて、そう言った。高杉の母親はもう一度「人殺し」と言い残して、玄関へ戻っていった。俺と桜花はその背中をじっと見送る。
くそったれが、と思った。おまえの息子が人生に絶望して、桜花の絵を見てひとりで納得して、勝手に自殺したんだろうが。そのすべてが桜花の責任か? すべての被害者は、たしかに桜花の絵が直接的なきっかけになったのかもしれないが──少なくとも、それ以前にも自殺を考えるだけ思い詰めていたように思う。マスコミはそんなことをまったく報道しようともしないが。そうでなければ、桜花の絵に後押しされることもなかったんじゃないのか? 桜花を人殺しだとなじって唾を吐きかけたおまえは、自分の息子が行き詰まって苦しんでいたことを知っているのか──?
桜花に手を引っ張られた。
「あきら、次の家に……行かなきゃ」
桜花は震《ふる》えながらまた微笑《ほほえ》む。自然に微笑むことができるようになった桜花。だがどうして、こんなに悲しく微笑まなくてはならないのだ。そう思うといたたまれなくて、どうしようもなかった。
俺《おれ》は桜花のびしょ濡《ぬ》れになった頭へハンカチを載せ、汚れたその頬《ほお》を袖《そで》で拭《ぬぐ》ってやる。桜花は「あきらの服が、汚れる──」と嫌《いや》がったが、俺が「いいから」と強めの口調《くちょう》で言うと、大人《おとな》しく目を閉じて「……うん」とされるがままになった。
最後は、早坂《はやさか》荘悟《そうご》事件の遺族でもある|二ノ宮《にのみや》数恵《かずえ》さんの家である。
家のなかに上がって案内された仏間に入った途端《とたん》、じろりと睨《にら》むような目で見られる。そこには十数人の親族がずらりと並んで待っていた。親族の列のなかに、TVカメラを構えた報道関係者がふたり座っている。それに気づいた俺《おれ》が「なっ──」と驚《おどろ》きの声を上げたのをさえぎって、親族のひとりが押し殺した声を発する。
「この部屋で、数恵《かずえ》さんは首を吊《つ》ったんだ」
桜花《おうか》が目を伏せ、仏壇《ぶつだん》へとゆっくり歩きはじめた。桜花はなにも言わなかったし、遺族たちの厳《きび》しい視線《しせん》に足を止めてしまうこともなかった。仏前に座り、線香を捧《ささ》げてしずかに手を合わせた桜花を、遺族たちはじっと眺めていた。桜花は手を合わせ終えると、座ったまま遺族たちへと振り向いた。
そして、手をついて頭を下げた。
「──ごめんなさい」
それはほとんど、土下座《どげざ》だと言ってよかった。仏間が一瞬《いっしゅん》、しんとしずまり返る。報道の人間ふたりや桜花のすぐ傍《そば》に座っていた若い男女などは、むしろ慌てたように表情を揺らした。あるいは、桜花の真摯《しんし》さに胸を打たれたのかもしれない──が、桜花を睨《にら》んだままの男性は桜花の謝罪《しゃざい》に舌打ちで答えた。
「どうせ、TVカメラの前だからつてそうやってるだけだろう」
「っ、違──」
顔を上げた桜花へ、中年の女性が嫌悪感《けんおかん》を剥《む》き出しにして言った。
「本当、憎たらしいくらい早坂《はやさか》荘悟《そうご》にそっくりなのね」
「ええ、数恵さんが絶望したのもわかるわ」
「畳に頭をこすりつけるくらいのこともできないのか」
桜花がぐっと言葉に詰まって、悲しそうに顔を伏せる。そして、額《ひたい》を畳へくっつけてもう一度「ごめんなさい……」と言った。報道のふたりが不憫《ふびん》そうな顔をしてちらりと目配せし合った。二十歳《はたち》すぎくらいの若い男のひとが「叔父《おじ》さん、叔母《おば》さん。そろそろ──」と言いかけたが、先ほどの男性が睨んで黙《だま》らせる。
「このくらいで、早坂の娘を許せと言うのか? あの悪魔《あくま》の娘を……!」
「──今日《きょう》のところは、この辺りで失礼させてもらいます」
俺が桜花のほうへ歩み寄って頭を下げると、全員の視線が向けられた。このままここにいても、遺族のひとたちを刺激《しげき》するだけだと思った。
「また……、みなさんが嫌《いや》でなければ日を改めて、数恵さんの仏前をお参りさせていただこうと思います。今日は、これで」
「また? また、だと? ワシは早坂荘悟の娘を数恵さんの前に座らせること自体、そもそも反対だったんだ。なにが謝罪だ。父親のしでかしたことを本当に悔やんでいるなら、どうして絵など描《か》くんだ! 早坂荘悟と同じことをやって……!」
男性が近くにあったガラスの灰皿を掴《つか》み、全員が息を呑《の》んだ。
興奮《こうふん》して灰皿を投げつけたその男性も、さすがに本気で当てるつもりだったわけではないと思う。ただ、手許《てもと》が狂ったらしい、運の悪いことに投げられた灰皿は立ち上がりかけた桜花《おうか》に直撃《ちょくげき》するコースを取った。
気づいたときにはもう、意識《いしき》するより早く身体《からだ》が動いていた。桜花をかばった次の瞬間《しゅんかん》、こめかみにがつんと激《はげ》しい衝撃《しょうげき》が走る。
畳の上を灰皿が転がる。ドジったな、と俺《おれ》は苦笑した。焦らなければ、手で払うこともできただろうに。仏間には息苦しい静寂があり、ずきりと痛んだこめかみを押さえると、ぬるりと嫌な感触があった。畳の上に、ぼた、ぼた、と血の雫《しずく》が落ちる。桜花が血相を変えて「──あきら!」と叫んだ。
「怪我《けが》が、大変、あきら──」
「──いや、大丈夫だ。ちょっと切っただけ。桜花、あんまり騒《さわ》ぐな」
さすがにこれには、遺族のひとたちも青ざめていた。先ほどから桜花を気遣うそぶりを見せてくれている男のひとが「だ、大丈夫ですかっ?」と駆け寄ってきた。ほかに女のひとも立ち上がって、慌ててハンカチを寄越《よこ》してくれた。俺は「すみません」と頭を下げ、ハンカチで傷口を押さえる。
桜花が泣きそうな表情で「本当に、だいじょうぶ……?」と見上げてくる。俺は「ああ」とうなずいて、遺族のひとたちにもう一度頭を下げた。
「お騒がせして、申し訳ありません。俺たちはひとまず帰ります。──できれば、桜花にまたお参りさせていただけると嬉《うれ》しいんですが」
「あの……、ハンカチは、差し上げますので」
女のひとに申し訳なさそうな顔で言われ、俺は「ありがとうございます」と微笑した。出血はそのうち止まるだろう。桜花の手を引いて、仏間を出る。
バツの悪そうな顔をしていた、灰皿を投げた男性が、最後にぽつりと言った。
「そんな怪我、数恵《かずえ》さんの痛みに比べればなんでもないだろう」
俺はそれに対して取り立ててどうとも思わなかったが、桜花は違ったらしい。桜花の手がびくりと大きく震《ふる》えるのを、感じた。桜花が急に立ち止まってうつむく。俺が「──桜花?」と訝《いぶか》ったとき、桜花が悲しげにつぶやきをこぼした。
「──絵なんて、たかが知れてる……」
俺も、遺族のひとたちも、報道のふたりも、驚《おどろ》いて桜花を見つめる。桜花は俺から手を離《はな》してくるりと振り返ると、突然大きな声を上げた。それは本当に、本当に突然だった。突然の、溢《あふ》れ出る涙だった。
「わたしの絵なんて、本当は大したことない! ひとが、絵なんかのせいで自殺したりするもんか……っ!」
桜花は泣いていた。堪《こら》えていたものが一気に決壊《けっかい》してしまったかのごとく、桜花の頬《ほお》をとめどなく涙が伝い溢れている。その肩が痙攣《けいれん》し、小さな身体《からだ》が震えている。訴えるような懸命《けんめい》な表情を、涙でぐしゃぐしゃにしている。それは俺《おれ》がはじめて見る、桜花《おうか》の、心の底からの涙だった。桜花は泣きながら叫ぶ。
「わたしの絵がきっかけだったのかもしれないけど、わたしにもたくさんたくさん責任があるんだろうけど、でも、ひとが絵だけで自殺なんてするもんかっ! 自殺するのは、みじめな思いに苛《さいな》まれているからじゃない……! そんなので、あきらに怪我《けが》させておいて、そんなふうに言うなんて、どうして……!? わたしだって、ひとを傷つけるような絵、描《か》きたくなんかなかった……!!」
桜花はそこで引きつった呼吸をして、言葉を発することもできなくなった様子《ようす》で、俺にすがって泣き崩れた。ひっく、ひっく、と大きくしゃくりを上げて、高杉《たかすぎ》伸二朗《しんじろう》の自殺のニュースを知って以来、美術館《びじゅつかん》で早坂《はやさか》荘悟《そうご》の『日没』を見て以来、あるいは母親から拒絶されていた幼いころからずっと、我慢していたあらゆるものが噴《ふ》き出したかのように。幼い、実際よりずっと幼い子どものように泣き続けた。
帰りの新幹線《しんかんせん》でも、桜花は俺の胸にすがってずっと泣きじゃくっていた。その美しい顔を歪《ゆが》め、肩を震わせて、懸命に声を押し殺しながら泣いている。桜花は涙を止めようと努力していたようだが、できないらしかった。
「──ごめんなさい……。わたし、最低……。悔しくて、あきらが怪我したのを見てすごく腹が立って、謝《あやま》らなきやいけないのに、あんな…………」
桜花の苦しそうな声は、泣きすぎたせいでかすれていた。俺は桜花の頭を撫《な》でてやる。その涙を止めてやることはできないが、きっといまはこの世のだれにも不可能だが、感じている痛みは一部でいいから和らげてやりたかった。
「違うの。本当は、わかってる。わかってるの! 六人もひとが亡くなったのは、わたしのせい……! わたしが『クローゼットの悪魔《あくま》』を描かなければ、わたしの絶望をあの絵で見せびらかしたりしなかったら、みんな自殺なんかしなかったかもしれない。みんなそれぞれ、なにかきれいで優《やさ》しくてきらきらしてるものを見つけて、生きようって、自殺なんか止《や》めようって思えたかもしれないのに……!」
いまこの世でいちばん傷ついているのは桜花だろう、と思った。
桜花は自分の価値だと思った絵で、心から愛している絵で、たくさんのひとを傷つけてしまったのだ。
「わたしが、わたしの絵が、あのひとたちの未来とか、可能性とか、希望とか、そんなきれいなものを、全部刈り取ってしまった。わたしは……描いちやいけなかったの。わたしは早坂荘悟の娘なのに。ひとを傷つける絵しか、早坂荘悟の『日没』と同じような絵しか、描けないのに! もう……描かない。絵なんて、二度と──」
ふと脳裏をよぎるのは燃《も》えていく『月の盾』の光景だった。日没に焼き尽くされる月。桜花の心と、あの『月の盾』が重なって感じられた。桜花《おうか》の心が焼かれていく。周りのあらゆるものに焼かれ、燃え尽きようとしている。
桜花の心が立ち直るまでのあいだ、あらゆるものから桜花を離《はな》そう、と思った。無責任なマスコミや、容赦なく糾弾《きゅうだん》する世間や、──場合によっては、早坂《はやさか》荘悟《そうご》の呪《のろ》いを感じさせる絵そのものから。きっとこのままでは桜花の心は焼失する。斜陽に焼き尽くされる。あの『月の盾』のように黒こげになり、あとに絶望しか残さない。そして、永遠に元には戻らない────。
小夜子《さよこ》が亡くなった七年後の八月十五日、桜花は画材をすべて捨て絵筆を置いた。
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第四部「絵画芸術」
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桜花を連れて、少しのあいだ家を離《はな》れることにした。いまのままでは、どうあってもマスコミや近所からの厳《きび》しい視線《しせん》を浴びてしまうから。もしかしたら、二学期をいくらか休んでしまうことになるかもしれないが。両親に告げると、ふたりは心配そうな顔をしたものの、穏《おだ》やかに「──わかった」と言ってくれた。
「そうするのがいいかもしれないな。いまは、あの子のために」
「暁《あきら》が、そう言うなら……。たしかに、桜花ちゃんには時間が必要かもしれないわ」
場所は悩んだが、桜花が前に暮らしていた静香《しずか》叔母《おば》さんの家が他人の手に渡らずまだあるのだと母さんから聞かされて、そこにしようと決めた。しずかだろうし、それに桜花が育ってきたその家を調《しら》べてみれば、あるいは桜花が前から言っている「悪魔《あくま》」についてなにかわかるかもしれないとの思いもあった。
なにもしようとせず、ベッドにもぐる桜花《おうか》へその話を持ちかけると、桜花は毛布からちょこんと顔を出してかすかにうなずいた。
「あきらが傍《そば》にいてくれるなら、なんでもいい」
「……そうか。まあ、周りがちょっと落ち着くまでのあいだだから。──もうすぐご飯ができるから、適当に降りてこいよ」
「──あきら」
部屋を出ようとしたところを、桜花の小さな声に呼び止められる。「うん?」と振り返ると、桜花がベッドから上半身を起こしていた。桜花はなにか言いかけてうつむき、少しして思いきったようにまた顔を上げてから、懸命《けんめい》な様子《ようす》で話しはじめた。
「渡したいものがあるの」
「俺《おれ》に? なんだ?」
「……。本当は、ちょっと前から用意してた。ずっと前から描《か》こうと思ってて、実際に描けたんだけど、でも勇気がなくて──その、なかなか渡せなかった。わたしの絵なんて、嬉《うれ》しくもないかもしれないけど……。アトリエの、棚の奥に隠して……ある、から。よかったら、もらってほしい…………」
「わかった。見てみるよ」
俺がうなずくと、桜花はほっとしたふうに表情を緩《ゆる》めた。
「ありがとう。一応、絵のタイトルは──」
桜花の言ったとおり、その絵は棚の奥に隠されてあった。
いまより少し前の、スランプに陥って悩みはじめる以前の桜花の手による、明るく伸びやかな瑞々《みずみず》しい筆致で描かれた人物画であった。桜花が描いた絵にしては色彩が大人《おとな》しめで、繊細《せんさい》さを意識《いしき》して丁寧《ていねい》に描かれたことがよくわかる。十代半ばほどの、瞳《ひとみ》のくりくりとした可愛《かわい》らしい少女が、一匹の白うさぎを引きつれ、美術館《びじゅつかん》前の緩やかな坂道を楽しそうに歩いている絵だ。陽射《ひぎ》しの明るい、並木が青々と茂った美しい夏で、少女の着ている白いワンピースの裾《すそ》が風にそよいでいるようだった
俺は息を呑《の》み、まじまじと絵を見つめる。
「──これは」
絵の少女は麦わら帽子を片手で押さえ、もう片方の手をこちらに向けて振っている。積雲《せきうん》ひとつ浮かべた空を背負い、うるさく鳴くアブラゼミの声さえ楽しむように、この世にあるあらゆるものを楽しむように、きらきらと笑っている。まだ少女の無垢《むく》さを残したまま、眼差《まなざ》しのなかに一点、ちょっとだけ大人びた光がある。照れくさそうにはにかんで、お兄ちゃん、とささやきかけてきそうな。
「小夜子《さよこ》……?」
つぶやいた声が、震《ふる》えていた。そこには十五歳の、あの運命の夏を無事に乗り越えて成長した小夜子《さよこ》がいた。絵のなかからふと、アブラゼミの鳴き声が聞こえた。夏の匂《にお》いを色濃《いろこ》く宿した風が、吹き抜けてくる。
美容院できれいに切《き》り揃《そろ》えられた髪の毛が天使の輪《わ》を浮かべる。小夜子は夏休みだということで髪の毛にちょっと色を入れたがったが、父さん母さんから「まだダメ」と言われ唇を尖《とが》らせていた。受験《じゅけん》勉強の気晴らしにと、ふたりで映画を観《み》に行った帰りである。小夜子が肩にかけた水色《みずいろ》のバッグでは、幼いころからずっと愛用のうさぎのキーホルダーが揺れている。上機嫌《じょうきげん》らしい、小夜子の口許《くちもと》が自然とほころんでいる。小夜子が「お兄ちゃんったらさ」と、からかうような口調《くちょう》で言ってくる。
「映画なんて妹と行ってるんじゃないわよ。せっかくほどほどに格好よく生まれたんだから、彼女のひとりでも真面目《まじめ》に作ろうとしなさい。優美子《ゆみこ》さんとかはどうなの?」
優美子はそういうのじゃないよ、と俺《おれ》は苦笑いを浮かべながら答える。小夜子は「ふうん」と青空を仰ぎ、それからにっと笑う。
「ま、いいかな。彼女いなくてヒマしてるあいだは、こうやって勉強の気晴らしくらいには付き合ってくれるんだし」
風に小夜子が麦わら帽子をさっと押さえ、白いワンピースの裾《すそ》がふわりと舞《ま》った。俺は最近背が伸びたななどと考えながら、陽射《ひざ》しのまぶしさに目を細め、十五歳になった小夜子を眺める。こめかみから首筋に流れた汗の粒を、小夜子は「もう、暑い」とつぶやいて拭《ぬぐ》う。小夜子のまだ薄《うす》い胸が、命の力強さを宿して鼓動している。小夜子の手の甲には、一昨日《おととい》、母さんといっしょに夕食を作っているときに柚が散ってできた小さな火傷《やけど》があった。小夜子は俺の顔を見返して、あは、と笑った。
「なによー、お兄ちゃん? あたしの顔になにかついてる?」
不意にその、十五歳の小夜子の笑顔《えがお》が急速に遠ざかる──もう絶対に、どうやっても手の届かないところまで。
絵のタイトルは、『十五歳』。
それは悲しいくらいに美しい光景だった。
俺はいまたしかに、小学二年で時間の止まってしまった小夜子の未来を見た。ほんの少し歯車がずれてさえいれば存在しただろう、十五歳の小夜子と言葉を交わした。七年前の夏とこの絵は連続している。そうだった。小夜子は小学二年のあの夏まで、俺といっしょに、この絵のなかにあるのと同じくらいきらきらした世界のなかを生きていた。明るく笑い、少しずつ成長し、未来へ向かって歩いていたのである。
それなのに、小夜子はこの世界から消えてしまった。
俺は小夜子のこの未来を掴《つか》んでやることができなかった。掴みたかったが、掴めなかったことを悔い続けてきたが、もうこの未来に触れることは永久にできないのだ。この美しい未来は空想のなかにしか存在しない。小夜子《さよこ》はもう暑さ寒さを感じることも鼓動することも痛みを感じることもなく、受験《じゅけん》勉強の気晴らしに映画を観《み》ることもまぶしく笑うことも、夢を持つこともだれかを好きになることもできない。
涙が溢《あふ》れて止まらなかった。全身がみじめにぶるぶると震《ふる》えて、鳴咽《おえつ》を堪《こら》えきれず、俺《おれ》は桜花《おうか》の絵にすがって泣き続けた。声を堪えようとしたが、それすらできなかった。俺はやがて子どものように大きな泣き声を上げはじめる。
俺があのとき、小夜子の幼い手を掴《つか》んでいれば。
小学五年の俺が、もう少しだけでもしっかりしていれば。
このまばゆいばかりに美しい未来は、絵のなかではなくたったいま現実に存在していたはずなのだ。俺の泣き声が家のなかまで響《ひび》いたらしい、びっくりした母さんが「いったいなに? 暁《あきら》、どうしたの?」と駆けつけてきたが、それでも絵から離《はな》れることも涙を止めることもできなかった。俺は滂沱《ぼうだ》とこぼれる涙といっしょに、七年間ずっと胸につっかえていたものが流れていくのを感じていた。
「暁? 大丈夫? ねえ、どうしたの? 暁、暁──」
この絵のなかには、もう永遠に乖離《かいり》してしまった、もうひとつの未来が生きている。
桜花が触れさせてくれた。
俺は……十五歳になった小夜子の姿を見たかったのだ。可愛《かわい》らしく成長した小夜子を確認《かくにん》したかったのだ。小夜子は俺のせいでこの世を去り、十五歳の未来を迎えられなかったが、迎えてさえいればそれは素晴《すば》らしい未来だったのだと、だれかに証明してもらいたかった。俺たちの小夜子は美しい未来を生きられる子だったのだと。
強く強く、心から思う。
桜花に絵筆を置かせてはダメだ。桜花はこれほどまでに素晴らしい絵を措けるのだから。こんなにも光に溢れ、美しい色彩をまとい、ひとの魂を優《やさ》しく包んでくれるような絵を、桜花はいくらでも描けるのだ。いまも、これからも、桜花はその特別な色を持った絵でたくさんの魂を救い続けられる。桜花の絵は、ひとの心を救済できるのだ。これよりも素晴らしい芸術がこの世に存在するだろうか?
静香《しずか》叔母《おば》さんの家までは、父さんが送ってくれた。俺が「ありがとう」と家の鍵《かぎ》を受け取ると、父さんは少し心配そうに言った。
「なにか困ったことがあったら、父さんたちにすぐ連絡するんだぞ」
「ああ、わかってるよ。大丈夫。……じゃあ、とりあえず、落ち着くまで」
桜花が遠慮《えんりょ》がちに、申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「心配をかけて、ごめんなさい」
父さんはうなずき、しっかり頼むぞ、といった感じの視線《しせん》を最後に俺へと投げかけた。父さんの運転するクラウンが遠ざかっていくのを見送ったあと、俺《おれ》は鍵《かぎ》を掲げ、小さな笑《え》みを桜花《おうか》へ向ける。
「二年ぶりだな、おまえの育った家」
「──うん。もう帰ってくることはないって、そう思ってた……」
「あれこれ考えず、ちょっとした休養だと思えばいいさ。おまえはここしばらく、がんばりすぎたからな。……さ、桜花。今晩のご飯はなにがいい?」
桜花がきょとんと、不思議《ふしぎ》そうな顔をした。
「あきら、ご飯作れるの?」
「いや、包丁を握ったことはもう何年もないな。手伝ってくれ」
「うん、わかった」
桜花がほんの少しだけ口許《くちもと》を緩《ゆる》め、微笑《ほほえ》んでくれた。
静香《しずか》叔母《おば》さんの、立派な屋敷《やしき》を見上げる。あるいは、この家は、お金には常に恵まれていた早坂《はやさか》荘悟《そうご》が買い与えたものなのかもしれない。
門をくぐって敷地《しきち》へ足を踏み入れると、ざわっ──と屋敷の向こうにある森からざわめきが聞こえてくる。その風が、桜花と出会った二年前の夏を不意に思い起こさせた。夕陽《ゆうひ》の赤い日だったな、と思う。相変わらず静香叔母さんの家は風と森の音しか聞こえず、いまはそのしずけさを好ましく思った。
ここなら、さまざまな雑音に煩《わずら》わされることもなく、ゆっくりと考えられるだろう。どうすれば桜花の心の傷を癒《いや》し、再び絵筆を持たせられるのか。考えよう、と思った。時間はあるのだから。
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俺たちは荷物を下ろすとまず、屋敷内をひととおり歩いてみることにした。
その際、桜花は二年前まで自分が住んでいた屋敷を、物珍しそうにきょろきょろ見ていた。静香叔母さんにきつく言われており、森のなかにあるアトリエと、お風呂《ふろ》とトイレ以外、ほとんど家のなかを歩くことはなかったのだという。静香叔母さんの寝室に入るなり、桜花はぽつりとつぶやいた。
「お母さんの部屋に、はじめて入った」
「はじめて入った感想は、なにかあるか?」
俺が苦笑しながら問うと、桜花はぐるりと部屋を見回した。
「物が……あんまり、ない」
「そうだな」
これは二年前のときにも感じたことだ。屋敷内は殺風景とさえ言ってよかった。生活感──というか、ここでひとが楽しく暮らしていた空気、そういうものの残り香がなにも匂《にお》わないのだった。
不意に、静香《しずか》叔母《おば》さんは少しでも幸せだったのだろうかと、そんなことを思った。愛するひとを信じて、ひとりで産んだ子どもといっしょに、この広く寂しい屋敷《やしき》で暮らしていた叔母さん。早坂《はやさか》荘悟《そうご》を愛しているあいだは、孤独に耐えられたのだろうか。だとしたら、叔母さんはいったいいつまで早坂荘悟を愛していたのだろうか? いったいどの時点で叔母さんはみじめさに苛《さいな》まれはじめたのだろうか?
ひととおりチェックしてみたところ、電気、水道、ガスともにきちんと供給されているようで、特に不便そうなことはなにもなかった。父さんたちに改めてきちんと礼を言っておかないとな、と考える。
夕食は桜花《おうか》とふたりでカレーを作った。一応、家から料理本を持ってきたのだが、桜花がレシピを憶《おぼ》えていたので必要はなかった。桜花は家で母さんにそれなりに鍛《きた》えられていたから、実際は桜花がひとりで作ったようなものである。
美味《おい》しかった。しずかな平穏《へいおん》な食事だった。桜花も久しぶりに肩から力を抜いている。こんなふうに、少しずつ桜花を癒《いや》せればいい。そう思った。
「桜花。明日《あした》はちょっと近所を散歩してみようか?」
「うん」
うなずく桜花を眺めながら、俺《おれ》は微笑《ほほえ》んだ。微笑みながら、とりあえずは静香叔母さんの部屋からだな、と考えていた。桜花には内緒《ないしょ》で、家のなかを探索してみるつもりだった。日記でも見つけられれば、桜花や早坂荘悟のことがなにかもっとよくわかるかもしれない。
桜花が眠りについたあと、静香叔母さんの部屋へ向かった。
俺がいちばん知りたかったのは、桜花がいまだに──むしろ最近になってますます口にするようになった「悪魔《あくま》」についてである。桜花はその「悪魔」をモデルに、あの『クローゼットの悪魔』を描《か》いた。桜花が言う「悪魔」の正体がわかれば、桜花のなかに巣くつた絶望を振り払う一歩になるかもしれない。
電気をつけて机のほうへ近づくと、二年前にも見た写真がある。
若い静香叔母さんと幼い桜花の写真を再び眺めた。
幸せそうな写真。撮影者《さつえいしゃ》は──いったいだれだったのだろうか。
あるいはこれは、静香叔母さんが唯一幸せであった時期なのかもしれない。この幸福に満ち溢《あふ》れた写真と、あの、ズタズタに切り裂かれた写真のあいだには、永遠に近い隔たりがあるように思えた。
この写真を見る感覚は、桜花が描いてくれた小夜子《さよこ》の絵を見たときに少し似ていた。歯車のずれてしまった、もう絶対に触れられない、悲しいくらいに美しい世界が、この写真のなかには生きている。
机の周辺にはほかにめぼしいものがなく、部屋をあちこち漁《あさ》ってみることにした。しばらくして、本棚の奥に、さほど大きくないサイズの金庫があるのを見つけた。本に隠されていたため、遺品整理《せいり》のときも気づかなかったのだろう。引っ張り出してみると、なかになにか入っているのは間違いない、それなりの重量が感じられた。
ただ、ダイヤル式の鍵《かぎ》がついていで、開けることができない。ダイヤルをぐるぐる回しながら、ちょっと考えた。
「誕生日《たんじょうび》……とか?」
前に母さんから教えられた静香《しずか》叔母《おば》さんの誕生日を入れてみたが、ダメだった。次にダメもとで桜花《おうか》の誕生日を入れてみる。0406。
かちり、と小さな音がして驚《おどろ》いた。
そして驚くと同時に、やりきれない気持ちになる。それはいつだったのかはわからないが、少なくともこの金庫を買い鍵の番号を入力したときには、桜花のことを愛していたのだという証明だった。俺はしばらく金庫を見つめたのち、ゆっくりと開いた。
なかには三冊の日記帳が入っている。
「すまないな、静香叔母さん。勝手に見るよ」
静香叔母さんがこの屋敷《やしき》に引っ越してきてからの何年聞かを綴《つづ》った、分厚い日記である。いちばん最初の日付は十六年前の十二月となっていた。日付の横に小さな文字で、雪、と書かれている。
思ったよりもずっと大きな家でびっくりした。あのひとは忙しくてなかなか会いにはこれないって言っていたけど、あのひとがきちんとわたしのことを考えてくれているのがわかる。わたしはここでこの子といっしょに生きていくんだ!
この子、というのはお腹《なか》にいる桜花のことだろう。さらに数日後の日記では、
今日《きょう》はこの子に負担がかからない程度にいろいろ散歩してみた。本当にきれいなところ! 森の奥に沢を見つけたので、遠回りして崖《がけ》の下まで降りてみた。春にはきっと花が咲く。秋には美しく紅葉するのだろうか? わくわくする。あのひとといっしょにこの森を歩けるのは、いつだろう
そこには恋の喜びに浮かれる静香叔母さんの日々が綴られていた。うちの母さんのそれとはあまり似ていない流麗《りゅうれい》な文字は、愛や希望や楽しみに満ちている。このあとの叔母さんのことを思うと、とてもそれ以上その部分を読んでいられなかった。
二冊目を手に取って、ばらばらとめくってみる。桜花が二歳くらいのとき。
あのひとと桜花がはじめて言葉を交わした! 桜花にはなにも教えていないけど、ときどき会いにきてくれるあのひとが自分の父親だと、理解はしてくれているのだろうか? 桜花は頭のいい子だからもしかすると
最近、桜花《おうか》はあのひとに似てきた。わたしなんかよりずっと可愛《かわい》い。きっとこの子はものすごい美人になる
そんなふうに続けられる、愛に溢《あふ》れた日記。静香《しずか》叔母《おば》さんは桜花の父親を「あのひと」としか書いておらず、早坂《はやさか》の名は見つからなかった。このころはまだ、叔母さんは桜花に対しても「あのひと」に対してもしっかりした愛情を持っていたようである。俺《おれ》はそれがいったいいつごろ変わりはじめたのか、探してみた。
他人の気持ちを盗み見しているようで罪悪感があったが、いまはそんなこと気にしていられない。およそ十一年前の日付、桜花が四歳になる前後くらいに、それまでほとんど毎日のようにつけられていた日記に、いきなり二ヶ月にわたる空白があった。
いったいどうしたのか。そこからの日記は、雰囲気が一変していた。まず、ひと言だけ書かれた日がある。日付は五月六日だった。
かみさま
そこから五日分の空きがあり、
信じられない。どうしてわたしがあんなこと
叔母さんの日記がきちんと、といっても以前よりは頻度《ひんど》が減っていたが、ともあれ再開されたのは、さらに二ヶ月後だった。それまでのおだやかさや幸せに満ちたきれいな字ではなく、恐怖にか怒りにか、震《ふる》えて歪《ゆが》みはじめた字で。
あいつは人間じゃない。なにかの怪物だ。どうしてこんなことをと尋ねたわたしに、あいつは言った。描《か》きたいからだ
わたしは愚かだった。浮かれていて、あいつの正体もわかっていなかった。あいつの柔らかな、優《やさ》しい美貌《びぼう》に騙《だま》されていた。あいつはわたしのことなんか愛していない。絵以外の、あらゆるものを愛していない
あいつはわたしをここに置いておけば便利だと思ったから、ただそれだけ
早坂が
と、その日の書き出しには「あのひと」や「あいつ」ではなく、日記内ではじめて名前が書かれていた。
週末にまたやってくるそうだ。もういやだ。こわい。あいつがひとりしか殺していないなんてことがあるもんか。あいつがまたあれを持ってきたらわたしはどうすればいいんだろう。逃げ出したいが、できない。そうすればあいつはきつとわたしを見つけ出して、あれと同じように、……神さま、どうか
空白のあいだにいったいなにがあったのだろうか、と想像すると、薄《うす》ら寒い気分になった。
「あいつ」──早坂|荘悟《そうご》への愛を凄《すさ》まじい恐怖に変えることが、この桜花四歳の誕生日《たんじょうび》前後にあったのだ。文面から察するに、なにかがあり、静香叔母さんはそれで早坂荘悟が殺人鬼であると知ったということだろうか?
静香《しずか》叔母《おば》さんの日記は次第に、桜花《おうか》に対する感覚にも変化を見せはじめた。
またあの夜の、あいつの悪夢を見た。そんな朝、桜花の顔を見るとあいつにしか見えない。どうして桜花はあいつに似てしまったんだろう
桜花の顔を見ると怯《おび》えてしまう。どうにもできない。あの子はあいつに似すぎている。あの子はお絵描《えか》きしたいと言い出した。冗談《じようだん》じゃない。あいつの子はあいつなの? 描かせるもんか。あの子はわたしの
わたしのこの世でいちばん大切な
あの子に手を上げてしまった。あの子が隠れて絵を描いているのを見つけたら、頭が真っ白になって。泣く姿もあいつに見えて仕方なかった。もういやだ。このままでは気が狂う。あの子まで愛せなくなるのが怖い。はやくあいつがこの世から消えてくれればいいのにとばかり考える。あいつが六人目だと言っていた遺体が見つかったと、ニュースでよくやっている。はやくこの悪夢が終わりますように。はやくはやくはやく
それが十年前の日付だ。
俺《おれ》は調《しら》べた資料を思い出した。静香叔母さんは六人目と書いているが、資料ではこの時点で五人目となっていたはずだ。ともあれ、この犠牲者《ぎせいしゃ》の身体《からだ》から犯人が早坂《はやさか》荘悟《そうご》である物証が見つかったことになり、警察《けいさつ》はもともと怪しいと踏んでいた早坂荘悟を指名手配することに踏みきったのだと。
指名手配直前にひと足早く姿をくらました早坂荘悟は逃亡中にもひとりを殺害し、しかもその遺体を遺棄せずしばらく自ら持ち運んでいた。あの『日没』の黒色の一部には、この犠牲者から採取した血液が使用されていたそうだ。日記を読み進めると、早坂荘悟が指名手配されたことについて書かれである。そして。
八月十六日 晴れ あいつが山のなかで自殺したのだと、ニュースの速報で見た。これで悪夢が終わる。わたしはこれから、桜花といっしょに普通に生きられる? わからないけど、この十日間であったことを、ここにすべて書いておこうと思う。だれにも話せない代わりに、せめてこのだれの目にも触れない日記に
俺は唾《つば》を呑《の》み込んで、ページをめくった。三冊目の日記の最後には静香叔母さんが見た、自殺する直前の早坂荘悟の十日間が事細かく記されていた。
五人の殺害容疑で指名手配され、警察に追われる立場になった早坂がもう二度と目の前に現れないことだけを、静香叔母さんは必死に祈っていた。だが、早坂は大きな麻袋を背負って、叔母さんの家にやってきたのだ。早坂は疲労に痩《こ》けた頬《ほお》を歪《ゆが》めて、ふっと笑ったという。八月上旬のことだった。
早坂は「腹が、減った」とだけ告げ、森のなかにあるアトリエへと向かった。早坂はむかしから静香叔母さんの家を訪れたとき、そこにいることが多かった。あるいは、そもそもそこは叔母《おば》さんのためではなく、自分自身のために造ったのかもしれない。どくんどくんと、叔母さんの鼓動は恐怖に激《はげ》しく揺れていた。早坂《はやさか》の抱える麻袋から、血痕《けっこん》が滴り落ち、廊下を赤く染めていたから。
静香《しずか》叔母さんは早坂がアトリエのほうへ向かったあと、ちらと電話機《でんわき》を見た。警察《けいさつ》に連絡することは簡単《かんたん》だった──が、結局はできなかった。殺人鬼・早坂に対する恐怖に縛《しば》られたわけである。叔母さんは震《ふる》える身体《からだ》を懸命《けんめい》に動かして、台所で食事の用意をした。途中で桜花《おうか》の姿がないことに気づいたが、捜しに行く気力はなかった。叔母さんの頭にあるのは、もう嫌《いや》だ、という恐怖だけだった。
食事をアトリエへ持っていくと、早坂は黙々《もくもく》と絵を描《か》きはじめていた。制作はまだ初期の初期だったが、目の覚めるような鮮烈《せんれつ》な赤色《あかいろ》が印象的である。そして、幼い桜花がアトリエの端に座って、ぶるぶる震えながら早坂とキャンバスを見つめている。静香叔母さんはそのとき、早坂をじっと見る桜花の眼差《まなざ》しのなかに、ぞっとするものを感じた。ああ、やはりこの子は早坂の子どもなんだ──というような。
「あ、あの……? 食事を……」
おそるおそる尋ねた静香叔母さんに、早坂は振り返りもせず答える。
「その女の傍にでも置いておけ。俺《おれ》に話しかけるな」
その女? と、静香叔母さんは訝《いぶか》って桜花を一度見たそうだ。桜花はただじっと魅入《みい》られたように早坂のキャンバスを見ている。桜花のことではない? 叔母さんはぐるりとアトリエ内を見回し、それからひっと息を呑《の》んだ。食事のお盆を落としそうになった。
アトリエの隅に、二十代と思えるきれいな女性の遺体が転がっていた。首には肉厚のナイフが突き立てられたままで、見開かれたままの瞳《ひとみ》は天窓を見上げている。静香叔母さんはがたがた震えながら、血の染み込んだ麻袋をまたいで遺体に近づき、お盆を床に置いた。そして、逃げるようにアトリエを飛び出した。
その日から早坂はひたすら描き続け、桜花は早坂のキャンバスをいつも見つめていた。静香叔母さんは一日三回、怯《おび》えながら早坂に食事を運んだ。早坂はまるで取《と》り憑《つ》かれたように、笑いながら描いていたという。
真夏である。アトリエの隅に放置された遺体の腐敗は、急激《きゅうげき》に進んでいった。いくら遺体から目を離《はな》してもその臭《にお》いは耐えがたい。アトリエにいる桜花も、顔をしかめるようになった。静香叔母さんはびくびくしながら、遺体をどうにかしてくださいと早坂に嘆願《たんがん》した。それに対して、早坂はこう答えた。
「あとでまだ必要になるかもしれないから、捨てるわけにはいかない。気になるなら、おまえがそこのクローゼットにでも放り込んでおけ」
凍りつく静香叔母さんに、早坂は美しい──叔母さんがむかしひと目で心を奪われた、その美しい笑《え》みを浮かべて、優《やさ》しく言い聞かせるように言った。
「死体の扱いがはじめてでもあるまいし。去年の春を思い出して、あのときのように、かいがいしく取り扱ってやればいい」
静香《しずか》叔母《おば》さんは泣きながら、アトリエの隅にあるクローゼットへ女性の遺体を押し込んだ。だがしょせん、その程度では気休めにもならなかった。
腐敗臭は耐えられたものではなかった。
それでも、桜花《おうか》は完成まで早坂《はやさか》の絵を眺めていた。ただ一度、アトリエから居間に戻ってきた桜花が頭から血を流していたことがあった。叔母さんがびっくりして「どうしたの!?」と問うと、桜花は「……あのひとに、蹴られたの」とつぶやいた。どうやら、制作に行き詰まった早坂が桜花を相手にストレス発散をしたらしい。
桜花は額《ひたい》を蹴られ、壁《かべ》で後頭部と右側頭部を打っていた。よほど強く打ったらしく、そのとき桜花は意識《いしき》がはっきりとしない様子《ようす》で、ぼんやりとしていた。叔母さんは桜花を病院に連れて行かなかった。桜花はその翌日、戸惑ったような様子でひたすら辺りを見回していて、叔母さんは桜花の身になにか異変が起きたのかもと心配はしたが、そのときはなによりも早坂|荘悟《そうご》の恐怖に縛《しば》られていたのである。
桜花はそれでもなお、アトリエに通って早坂の絵を見ていた。
それからさらに二日後、叔母さんがアトリエへ朝食を持って行くと、早坂とキャンバスが消えていた。まだ強烈な腐臭が残っていたものの、クローゼットから遺体もなくなっている。アトリエに佇んでいた桜花へ彼がどこに行ったのかと尋ねると、桜花はどこか呆然《ぼうぜん》とした様子でぽつりと答えた。
「絵が完成して、出ていった。さっき」
早坂が山のなかで自らの喉《のど》を突いたのはその翌日、八月十五日のことである。検死の結果、ほぼ即死だったことがわかっている。ひと言が添えられた『日没』や腐乱死体とともに早坂が発見されたのは、そのさらに翌日だった。
いったいなんの因果があって、静香叔母さんはこんな化け物のような男と出会ったのだろうか。きっとそこに意味などないのだ。ただ、出会ってしまっただけ。
静香叔母さんに早坂荘悟が殺人鬼だと知らしめ、永遠の恐怖を抱き続けることになったなにかは、いったいなんなのだろうかと考えた。文面からの想像しかできないが、早坂荘悟が遺体を運んできて、叔母さんに処理を手伝わせたのかもしれない。あるいはそれが、本当は七人の犠牲者《ぎせいしゃ》がいると言われた早坂荘悟事件の「見つかっていないひとり」?
そんなことを考えて最後のページをめくると、まだあと一日だけ日記が書かれていることに気づいた。それだけ日付が飛んで、いまから二年前の、静香叔母さんが自殺する少し前の日にちになっている。
結局、怪物の子は怪物だ。あの子は早坂そのもの、悪魔《あくま》のような化け物だった。殺人鬼の子どもなんか、産まなければよかった。早坂《はやさか》に蹴《け》られたとき、いっそのこと死んでしまえば楽だったのに! せっかく色を失って、これなら絵は描《か》けないと安心してたのに。あんな、早坂と同じ絵を描くなんて。もう耐えられない。わたしはもう、どうやってもあの子といっしょにはいられない
「は──……?」
思わず唇からこぼれたつぶやきが、夜の闇《やみ》に吸い込まれていく。
色を──失って?
脳裏を不意によぎったのは、桜花《おうか》が早坂|荘悟《そうご》の『日没』を見たとき、苦しそうにつぶやいた言葉である。あかい。桜花はたしかにそう言った。
桜花が色覚異常だとわかったときいろいろ調《しら》べたところによると、外傷による全色盲というのは、大脳へのダメージによって、数こそ非常に少ないものの症例としてはいくつかあるそうだ。大脳へのダメージ──早坂荘悟に蹴られたとき? 桜花は、早坂荘悟が『日没』を描いている途中まで、ほかの多くのひとたちと同じように色を見ていた……? 幼いころで本人が忘れてしまっているのだとしても、それだから桜花は実感として色というものを理解している?
桜花が見えていたということを忘れているなら、それぞれの色の記憶《きおく》も想像によって上書きされているのなら、確認《かくにん》する方法はないのかもしれない。
だが、もしそうなら──。考えると、胸が熱《あつ》くなった。
脳へのダメージかあるいは網膜の錐体《すいたい》細胞に激《はげ》しい損傷があったのかわからないが、桜花はもともと見えている色を完全に失うという、画家を目指す者からすれば悲劇《ひげき》としか思えない苦しみを味わったわけである。実際それは絶望であったかもしれない。しかし桜花はそれをもっと大きな希望によって、さらに自分に磨きをかけて乗り越えた。だから、今回のことで絶望しているのだって、桜花ならきっと───。
俺《おれ》は日記を収めて、静香《しずか》叔母《おば》さんの部屋を出る。物音で起こしてしまわないよう慎重に歩いていたつもりだが、寝室から出てきた桜花と廊下で鉢合わせになってしまった。パジャマ姿の桜花が、心配そうに俺を見上げてくる。
「……どこに、行くの?」
「アトリエに」
俺は素直に答え、桜花の頭を撫《な》でた。
「おまえもいっしょに行くか? きっとそこに、おまえがずっと見ている悪魔《あくま》の正体があると思うんだ」
桜花は表情を揺らした。一瞬《いっしゅん》うつむいたのち、引きしめた顔をきっと上げる。
「行く」
屋敷《やしき》の庭は外灯がなにもなくても、月光のおかげで十分に明るかった。強い風がびゅうびゅうと吹いている。早坂荘悟が『日没』を描き、幼い桜花が人生の大半を過ごしたそのアトリエは、二年前と変わらず杉の傍《そば》にひっそり建っていた。
俺《おれ》と桜花《おうか》がなかへ入ると、天窓からの月光がアトリエ内を優《やさ》しく照らしていた。乾いた絵の具の匂《にお》いと不快な腐臭のようなものを感じた気がしたのは、静香《しずか》叔母《おば》さんの日記を読んだせいだろうか。
桜花はアトリエをぐるりと見回し、クローゼットに目を留めてびくりと震《ふる》える。やや青ざめた表情で、小さくつぶやくように言った。
「…あそこに、また、悪魔《あくま》がいる。わたしを、見てる──」
俺は桜花の頭をくしゃくしゃと撫《な》で、クローゼットのほうへ歩いた。早坂《はやさか》荘悟《そうご》に言われ、静香叔母さんが遺体を押し込めたクローゼット。ゆっくり開いていく。中身のないクローゼットのなかには、古い血痕《けっこん》だけがあった。ここに桜花の言う「悪魔」がいる。俺には見えないが、たしかにいるのだ。
「桜花、早坂荘悟が『日没』を描《か》いたときのことを憶《おぼ》えているか?」
「──ずっと忘れてたけど、いまは……ほんの少しだけ。……ああ、また、少し思い出した。早坂荘悟──そう、わたし、彼の顔を、ここで見た…………」
「そのときがはじめてだろ? おまえが悪魔を見たのは?」
桜花は長いあいだ、考え込むように沈黙《ちんもく》していた。懸命《けんめい》に思い出そうとしていた。当時五歳の、古い記憶《きおく》である。ましてや思い出したくもないような凄惨《せいさん》な記憶だ。桜花はやがてぽつりと答えた。
「そう……かもしれない」
「このクローゼットのなかから、おまえを見ていた?」
「──うん。クローゼットに隙間《すきま》が開いていて、そこからじっと、表情のない目がわたしを──ああ、嫌、いまも……」
「大丈夫だ」
俺はクローゼットの戸を閉め、桜花の傍へと戻る。
震《ふる》える桜花は、俺にぎゅっと抱きついてきた。
幼いころの強烈な恐怖が──クローゼットの隙間から覗《のぞ》いていた暗い眼差《まなざ》しが、桜花の心に焼きついて、それが桜花のなかで恐怖や悲しみや苦痛を象徴する形になった?
そうなのだろう。桜花の『クローゼットの悪魔』のモデルとなったのは五歳のときの記憶であり、そのときに感じた恐怖や絶望であり、早坂荘悟の『日没』に感じた美しさや妖艶《ようえん》さ。つまり、十年前のこの場所なのだ。
「わたし、逃げ出したかったのに、どうしても……この場所から離《はな》れられなかった。…………あきらの家に行って悪魔を見なくなってたのに、一年くらい前からまた見えはじめた理由が、少し……わかった、気がする」
「──美咲《みさき》が早坂荘悟に少し似ていたからか?」
桜花《おうか》は震《ふる》えながら、こくり、とうなずいた。
「……ほんの少しだけだけど。おんなじ目を、してた──」
俺《おれ》は桜花を抱き返してやり、もう一度「大丈夫」と告げる。大丈夫、という言葉には魔法《まほう》に似た力があると思った。
「それだったら、わかるだろ? おまえは早坂《はやさか》荘悟《そうご》には似てないよ。顔はたしかに似てるかもしれないが、もっと大切のところでは……ぜんぜん違う」
桜花は「……ん」と吐息をこぼし、小さく微笑《ほほえ》んで俺から離《はな》れた。そして、その微笑みが不意に強張《こわば》る。
桜花の目線《めせん》の先には、アトリエの端のイーゼルに立てかけられた、布をかぶったキャンバスがある。早坂荘悟が使っていたものかもしれない。桜花はなにかを思い出したように、呆然《ぼうぜん》とした様子《ようす》で「……そうか。わかった」と言った。
「うん?」
「お母さんが」
一瞬《いっしゅん》、どちらのことを言っているのか迷ったが、その声の響《ひび》きで俺の母さんのことではないなと気づいた。桜花の声はショックに揺れている。
「わたしのことを、化け物だって言った。あいつの子はあいつ、怪物の子は怪物だって。もう耐えられない、つて。お母さんが亡くなる、ちょっとだけ前の話。わたし、あのときお母さんはわたしを見て言ったんだと、思った……。でも、違う。あのとき、お母さんが見てたのはたぶんわたしじゃない。お母さんが苦しそうな目で見てたのは──」
桜花はキャンバスへと歩き、そこにかけられた布をばさりとめくった。
「──この絵、だったんだ…………」
俺は静香《しずか》叔母《おば》さんが最後に書いていた日記を思い出した。
それは黒だけで描かれ、いまよりもだいぶ未熟《みじゅく》で、構図が甘かったりところどころ雑だったりはするけれど──間違いなく『クローゼットの悪魔』だった。その原形だった。俺が絶句していると、桜花はその絵を触りながら「わたし」と続ける。
「描くなって言われてたけど……、こっそり、いろいろ描いてたの。描けるものはなんでも、どこででも、なにを使っても。これは学校からの帰り道に炭の欠片《かけら》を見つけて、それで早坂ってひとが置いていったキャンバスに、描いた。この近くにあるものは全部描き尽くしていたから、──わたしの傍《そば》にいた悪魔を見ながら」
静香叔母さんに自殺を決意させたのは。叔母さんがどうしようもなく絶望し、逃げ出そうとした理由は────。
桜花が不意に、あは、と力なく笑った。そしてうつむくと、涙を堪《こら》えるように唇をぐっと噛《か》んだ。だが、堪えられなかったようだった。ぼろぼろと、その煩《ほお》を涙の粒が伝いはじめる。桜花はそこに絶望を込めて、泣き声を上げた。
「わたしは早坂《はやさか》荘悟《そうご》と同じ。わたしは二年前にも、同じことをやってたんだ……。お母さんは……わたしのこと大嫌いだったから、わたしも、お母さんのこと……好きじやなかった。でも……でも。お母さんを殺したのも、わたしの、絵だったんだ────」
「おまえは早坂荘悟の子どもかもしれない」
そんな桜花《おうか》を後ろから抱きしめると、体温と鼓動が伝わってくる。
「だけど、おまえは早坂荘悟じゃない。俺《おれ》や父さんたちや優美子《ゆみこ》たちが大切に想《おも》い、いっしょにいたいと願《ねが》っている国崎《くにさき》桜花だ。悪魔《あくま》がおまえを怯《おび》えさせるなら、おまえが見ている悪魔は俺が殺してやる。だから、早坂荘悟と同じだなんて思うな」
伝わってくる体温と鼓動は、桜花がこの美しい世界をしっかり踏みしめて、未来へ向かって歩いている証拠である。俺は全身全霊《ぜんしんぜんれい》をかけて、この子をこのまま歩かせてやらなければならないのだ。
静香《しずか》叔母《おば》さんの屋敷《やしき》がある町は周囲にほかの家が少なく、商店街までも少し距離《きょり》があって不便ではあったが、その代わりとても美しいところだった。ちょっと散歩してみると、すぐ森や小川のせせらぎのなかに新鮮《しんせん》な驚《おどろ》きを見つけられる。きれいな花や、あまり見たことのない小さな生き物などがいくらでも存在していた。
森の奥に、崖《がけ》とその下に流れる沢を見つけた。たぶん、静香叔母さんの日記に書かれていたのはそこなのだろう。崖の上は青々と茂った森の空がそこだけぽっかり開けていて、夜になると月や星がよく見える。桜花もこの土地で育ったとはいえもともと通学路以外ほとんど出歩いたことがなかったのだから、すべてが新鮮なようだった。
桜花は、楽しそうだった──あの高杉《たかすぎ》伸二朗《しんじろう》の自殺以来はじめて。
父さん母さんからは毎日電話がかかってきていたが、俺たちが静香叔母さんの家で暮らしはじめて四日後、慶太《けいた》からも電話があった。慶太の第一声『そっちはどう?』に、俺はくすりとして答える。
「悪くない。少なくとも、桜花を追いかけるマスコミに神経を使わなきやいけない家よりは、よっぽど素晴《すば》らしいな」
『あはは、それはそうだろうね』
そうしていつものようにくだらない雑談《ざつだん》をしばらくしたのち、慶太が『──そうそう』と言った。
『今日《きょう》、鏡子《きょうこ》さんと会ってきたんだ。それでね、──ほら、いまって桜花ちゃんへの非難《ひなん》の手紙がものすごく増えてるだろ? でもやっぱり、なかには桜花ちゃんへの応援の手紙も、けっこうきているらしいんだ』
「──そうなのか?」
少し驚いたが、考えてみたらそれはそうだろうと思った。なにも、個展を見にきた全員が全貞『クローゼットの悪魔《あくま》』を怖がったわけではないし、いまの桜花《おうか》の境遇をむしろ可哀想《かわいそう》だと感じてくれるひとだっているはずだ。
『うん。でさ、鏡子《きょうこ》さんからそういう手紙を受け取って、今日《きょう》、宅配便で送っておいたよ。だから、明日《あした》か明後日《あさって》には届くと思う。入念にチェックしたそうだから、おかしな手紙はないはずだよ。桜花ちゃんに読ませてあげて』
「……わかった。ありがとう。本当にすまないな」
慶太《けいた》は俺《おれ》の深刻な色を吹き飛ばすように笑った。
『このくらいで、かしこまってお礼を言われても困るな。桜花ちゃんは元気?』
「まだほんの少しだけど、家にいたときよりは明るくなってきてるよ。──そうだな、ちょっと待って」
俺は携帯電話から顔を離《はな》して、台所で食器の片づけをしている桜花を呼ぶ。桜花が「?」と首を傾《かし》げ、こちらに駆け寄ってきた。
「なに……?」
「慶太からの、電話。代わるか?」
桜花は「えっ」と驚《おどろ》いたふうに目をぱちくりさせ、それから少し恥ずかしそうに、こくりとうなずいた。
「……代わりたい」
俺は「よし」と笑い、
「──もしもし、慶太? いまから桜花に代わるよ」
俺から携帯電話を受け取ると、桜花は「──もしもし」と、どこか緊張《きんちょう》したような声で応じた。俺はそんな桜花の姿を、微笑《ほほえ》ましい気分で眺めた。
桜花は「うん、元気」「しずかなの。とても」「平気」だとか、そんなことを懸命《けんめい》に答えていた。そして、慶太が長く喋《しゃべ》ったのかあるいは桜花が答えるのに躊躇《ちゅうちょ》したのか、不意に沈黙《ちんもく》が満ちる。桜花はやがて「うん」とうなずいた。
「──憶《おぼ》えてる。もちろん」
その声の調子《ちょうし》が悲しげだったので、「うん?」と思う。
慶太はいったいなにを言ったのだろうか? また沈黙があって、
「ううん、そんなことない。わたしの絵なんて」
また沈黙があったのち、桜花はおそるおそる、
「……。なんて、言ったの?」
桜花はまた黙《だま》って慶太の言葉を聞き、そして衝撃《しょうげき》を受けたように表情を揺らした。桜花の瞳《ひとみ》に、じわ、と光るものが浮かぶ。桜花はうつむき、目許《めもと》をごしごしと擦《こす》って、ゆっくりと首を振った。
「わたしじゃない。本当に慶太のお母さんを救ったのは、わたしじゃなくて慶太だもの……。わたしはただ、描《か》いただけ──」
桜花《おうか》は口を閉ざして、ぐす、と鼻をすすった。
桜花はそこからまたちょっとだけ電話して、俺《おれ》に「──ありがとう……」と携帯電話を返してくる。桜花は涙ぐんだところを見られたのが恥ずかしかったらしい、ちょっと頬《ほお》を染めてそっぽを向いた。
「もしもし、慶太《けいた》?」
『うん。──いい機会《きかい》だからと思って、桜花ちゃんに前から伝えたかったことを全部伝えちゃったよ。とにかく、手紙が着いたら桜花ちゃんに渡してあげてね』
「わかった。手紙が届いたら電話するよ」
慶太との電話を終えてくすりとし、こちらに背を向ける桜花へ声をかける。
「桜花。慶太とどんな話をしたんだ?」
「──…………」
間があった。桜花は背を向けたまま、ぼそぼそと答える。
「──慶太のお母さんが、病室でなんて言ったか、わかるかって」
「それは……おまえが絵をプレゼントしたときのことか?」
桜花はこくりとうなずく。やはり振り返ろうとはしない。もしかすると、涙を堪《こら》えきれないのかもしれなかった。
「生まれてきてよかった、って」
桜花の消え入りそうな声は震《ふる》えているように聞こえる。
桜花は目許《めもと》をまたごしごし擦《こす》ったようだった。
「辛《つら》くて辛くて仕方ないけど、それでも、この世に生まれ落ちて本当によかった──慶太のお母さんは、わたしの……絵を抱きしめて、そう言ったんだって……。わたしの絵、ひとを傷つけることしかできないわたしの絵を……見て。慶太のお母さんがくれた手紙のことを、思い出した」
口許がほころぶ。本当に慶太には感謝《かんしや》しないといけないなと、思った。
「慶太はそう言ったか? おまえの絵は傷つけることしかできないって?」
俺のしずかな問いに、桜花はぶんぶんと頭を振った。
「慶太は、わたしに……絵を止《や》めないでほしいって言った。わたしの絵がひとを救えるのは、わたしが上手《じょうず》だからじゃなくて、わたしが救いたいって気持ちを持ってるからだって……。わたしにその気持ちがあるかぎり」
「あるかぎり描いてほしいと、俺も思っている」
俺は後ろから桜花の頭を撫《な》でた。
「そうだよ、桜花。俺たちがおまえを好きなのは、おまえが絵を描くからじゃない。おまえが絵にそういう優《やさ》しさを込められる心を持ってるからだ。──俺たちがおまえに描いてほしいと思うのは、おまえの絵に込められた優《やさ》しさと美しさが、たくさんのひとを救えるからだよ。おまえの絵はおまえの心だろ。それがひとを傷つけることしかできないなんて、そんなわけがあるか」
この震《ふる》えと涙は、桜花《おうか》が自分の絵に希望を取り戻すはじめの一歩ではないだろうか。
翌々日の朝、慶太《けいた》の郵送した小包が届いた。それはひと抱えほどもある、予想していたのよりはるかに大量の手紙である。庭でぼんやりと空を見ていた桜花へ「ほら」と手渡すと、びっくりした様子《ようす》でまばたきした。
「えっ……?」
「慶太と鏡子《きょうこ》さんが送ってくれた、おまえへの手紙。おまえとおまえの絵が世間からどう思われてるのか、読んでみろよ」
桜花はそれからご飯を食べながらでもトイレのなかでもとにかく丸一日、一所懸命《いっしょけんめい》、送られてきた手紙に目を通していた。次の日もだ。じっくり読んでいたら、とても一日では終わらない量であった。俺《おれ》は桜花が手紙を読む姿をずっと眺めていた。そして、桜花が最後の一過を手に取ったとき、不意に「うん?」と思った。
桜花がその瞬間《しゅんかん》、ものすごく驚《おどろ》いた顔をしたから。小さく「あ……」と吐息をこぼした桜花は、信じられないといった感じに封筒の差出人名を見ている。
「どうかしたのか?」
「……あきら。このひと」
桜花が掲げた封筒の差出人名は、北原《きたはら》友佳《ゆか》、となっている。住所は東京都。見覚えがあるような、と考えたそのとき、桜花が「前にも──」と続けた。
「前にも、手紙をくれたひと」
「いつごろ?」
「わたしの個展をはじめる、ちょっとだけ前。早坂《はやさか》荘悟《そうご》に殺された女のひとの、姪《めい》だっていう……」
思い出した。たしか、桜花と同級生だと言っていたか。どきりとする。桜花への糾弾《きゅうだん》の手紙が紛れ込んでいたのかと思ったのである。桜花も一瞬そんなことを考え、怖《お》じ気《け》づきそうになったふうだった。だが、思いきったように封筒から便箋《びんせん》を取り出して読みはじめる。その顔に、再び驚きの表情が浮かんだ。
「…………。あきら」
「なんて書いてあるんだ?」
「わたしと会いたい、って」
手紙から顔を上げた桜花は戸惑い、動揺しているようだった。
「わたしの個展がすごくよかったって。優しくて、きれいで、希望に満ちていて、素晴《すば》らしかったって……そう、書いてある。『クローゼットの悪魔《あくま》』も、たしかにちょっと怖かったけど、信じられないくらい美しかったって……」
「──その手紙、読ませてくれないか?」
桜花《おうか》は迷う様子《ようす》を見せたのち、うん、と手紙を寄越《よこ》してくれた。
たしかに手紙にはそう書かれている。最近嫌《いや》なことがあったけどそれが癒《いや》された。思ったとおり、早坂《はやさか》荘悟《そうご》なんかとは絵に込められた心がぜんぜん違う。ワイドショーとかで早坂荘悟事件の遺族みんながあなたに怒っているみたいに言っていたけれど、少なくともわたしたちはそんなことないのだと、懸命《けんめい》に綴《つづ》られていた。一部だけを取り上げられてメディアで散々に叩《たた》かれているあなたが可哀想《かわいそう》だ、できれば会ってお話したい──と。
冗談《じょうだん》──のようには思えない、真剣な文面だった。俺《おれ》は手紙を桜花へ返しながら、穏《おだ》やかに尋ねた。
「会ってみるか?」
うつむいた桜花には、まだそこまでの勇気はないようだった。だが、早坂荘悟事件の遺族からのこういう「許し」は、桜花にとってとても重要な意味を持っているのではないかと、本当に思った。
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3.
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夏休みが終わっても、晩夏の強い陽射《ひざ》しはまださほど緩《ゆる》んでいない。俺と桜花は学校を休んで、まだ静香《しずか》叔母《おば》さんの家で暮らしていた。
「また、届いてる」
それは九月半ばのことだった。慶太《けいた》と鏡子《きょうこ》さんが定期的に送ってくれる手紙のなかに、その北原《きたはら》友佳《ゆか》さんからの手紙を見つけて、桜花がぽつりとつぶやいた。これでもう、ここで暮らしはじめてから三通目である。
「──内容は、なんて書いている?」
尋ねると、桜花は手紙にじっくりと目を通してから、
「やっぱり、会いたい、って。わたしに、また絵を描《か》いてほしい──って」
桜花は悩んでいるような表情で、手紙をじっと見下ろしている。慶太の言葉やこういう励ましの手紙は、少しずつではあるが確実《かくじつ》に、桜花の心を癒しているように思えた。俺はまた穏やかな声音で、何度目かの問いを発した。
「会ってみるか?」
「…………うん」
桜花はためらいがちに、しかしはっきりうなずいた。桜花がはじめて手紙への返事を書いたのは次の日で、北原友佳さんからさらに返事が届いたのはそのわずか三日後である。こちらまでわざわざ会いにきてくれるとのことだった。
願《ねが》わくは、この出会いが桜花《おうか》にとって素晴《すば》らしいものでありますように。
さすがにこんな田舎《いなか》にまで足労させるのは悪いと思い、待ち合わせは街なか、駅近くにある喫茶店でということになった。平日の昼間で、人気《ひとけ》はそれほどない。待ち合わせ時間ぴったりにやってきた北原《きたはら》友佳《ゆか》さんは、十五歳といってもまだまだ少女っぽい感じの、目の大きなショートカットの子だった。
「平日の昼間でよかったのか? 学校は?」
俺《おれ》の問いに、彼女は「えへへ」と笑って頬《ほお》をかいた。
「あたし、いま学校行ってないんです。不登校ってやつ。──……あの、ごめんなさい。何回も会いたいってしつこくお願いして」
「いや。わざわざ新幹線《しんかんせん》できてもらってすまない。ほら、桜花」
俺が話を振ってはじめて、それまではずっと緊張《きんちょう》ぎみにうつむいていた桜花が、おっかなびっくりにちらりと友佳を見上げた。
「……うん。あの、はじめ……まして。国崎《くにさき》桜花、です」
「はじめょして! 個展のときも会えるかなって期待してたんだけど結局会えなかったから、お会いできて本当に嬉《うれ》しいな。お手紙でもいろいろ書かせてもらいましたけど、あたし、北原友佳っていいます」
友佳が差し出した手を、桜花はおずおずと握る。友佳は少し浮かれている様子《ようす》で、桜花を見るその眼差《まなざ》しには、たしかな尊敬と好意があるようだった。友佳は桜花の戸惑った雰囲気に気づいたらしく、あ、と声を漏らした。
「ご、ごめんなさい、ついはしゃいじゃって。──あたし、国崎さんのファンなんです。同い年なのにこんな言い方、ちょっと変かもしれないけど」
「──ううん、わたしも……嬉しい。本当に」
桜花がちょっぴりはにかんだ。友佳はそんな桜花を見つめて、
「わあ。やっぱり、きれい。しかも、写真で見るよりずっと。すごい」
桜花が赤くなって「え」と固まった。俺はそんな桜花を横目に見ながら、注文を取りにきたウェイトレスにアイスコーヒーを三つ頼んだ。アイスコーヒーがやってきてから、当たり障りのないところから話をはじめることにした。
「それで、北原さん。桜花の個展を、わざわざ東京から見にきてくれたんだって?」
「あ、はい。開催二日目に。ひとりで行きました」
「どうだった?」
俺の単純な質問に、友佳ではなく桜花がはっと身構えた。手紙でいくら褒められていても、やはり実際に会ってみるとまた別なのだろう。桜花の緊張がとてもよく伝わってくる。だが、友佳のほうは、微笑を浮かべてあっさりとしたものだった。
「素晴《すば》らしかったです。本当に」
友佳《ゆか》は思い出したのか、幸せそうな違い目をした。
「白黒の絵では、あの『フラジャイル』って絵がいちばん素敵《すてき》でした。あたし、見る専門で絵が好きで、海外の美術館《びじゅつかん》にも家族で見に行ったりするんですけど、あんなに美しい黒……はじめて見ました。個人的な意見を言えば、クールベとかマネの黒よりも。
色彩ある絵では──ひとつ選ぶのは難《むずか》しいですけど、『日向《ひなた》のふたり』かなー。ルノワールみたいな柔らかい優《やさ》しさがあって。あ、でも、あの夜空を自由に描《えが》いた絵もよかったです。タイトルは『自由落下』でしたよね? オリオン座が本当に、神話に出てくる勇ましい戦士みたいで──」
友佳はそこでふと言葉を止め、俺《おれ》と桜花《おうか》を交互に見る。俺たちは友佳が思いのほか饒舌《じようぜつ》に語り出したので、びっくりして見つめてしまっていたのである。友佳は「あはは」と照れくさそうに笑い、そして真顔になって桜花へ言った。
「本当に国崎《くにさき》さんのファンなんです。国崎さんがあの、早坂《はやさか》荘悟《そうご》の娘だって話が出る前から。出たあとも、変わらずに」
早坂荘悟の娘、という言葉に桜花は少しびくりとした。が、桜花はうつむいて目をそらしそうになったのを堪《こら》え、しっかりと友佳を見返した。桜花がためらいがちに、おそるおそるといった感じで尋ねる。
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「その。あなたは、早坂《はやさか》荘悟《そうご》事件の被害者──の、姪御《めいご》さん、なの……?」
「はい。と言っても、叔母《おば》さんが亡くなったのってあたしが生まれる前のことだから、そんなに詳しくは知らないんですけどね。そう聞きました。早坂荘悟については、自分でいろいろ調《しら》べてみましたけど」
「それなのに、どうして……わたしのファンだなんて、言ってくれるの? わたし、早坂荘悟とおんなじことを……してしまったのに」
桜花《おうか》がまるで神の審判《しんぱん》を仰ぐ信徒のような表情で、友佳《ゆか》を見つめる。それは怯《おび》えているようでもあり、答えを懸命《けんめい》に模索しているようでもあった。
友佳は驚《おどろ》きに目を丸くして、ちらりと俺《おれ》に視線《しせん》を送ってくる。いまの桜花がいかに深刻な精神状態にあるか、改めて理解したようだった。俺が小さくうなずくと、友佳は言葉を慎重に選ぶように一度うつむき、そして微笑した。
「早坂荘悟の『日没』を、見たことがあるんです」
桜花が「あの絵を……?」と驚いた声を出した。
「はい。一年くらい前に、このあいだ国崎《くにさき》さんの個展をやったあの美術館に行って、頼み込んで粘って粘って見せてもらいました。あたしの両親もお祖父《じい》ちゃんお祖母《ばあ》ちゃんも、あれは悪魔《あくま》みたいな絵だってずっと言ってて、それがどんなものなのか見てみたかったから……。実際に見て、本当に衝撃《しょうげき》でした」
友佳がストローを回し、グラスのなかの氷がからからと涼やかな音を立てる。
「あれは、ひとを絶望させるために描《か》かれた絵です。信じられないくらいに美しくて、信じられないくらいに気持ち悪い。すごいけど、ひどい絵だと思いました。あたしそのころ、いじめとかいろいろあって悩んでて、あの絵にダメ押しされた感じだったんです。あの絵が頭から離《はな》れなくなって、胸の奥にずっとむかむかするような、嫌《いや》な気分だけがずっと残って……。そのころから学校も行かなくなって、あの絵のことばかりずっと考えるようになりました。叔母やほかの犠牲者《ぎせいしゃ》のひとたちはどうして死ななきやいけなかったんだろうって、そんなことばっかり──。
そんなときに、国崎さんの絵──『月の盾』を雑誌で見たんです。そのときは国崎さんが早坂荘悟の娘だとか、そんなことぜんぜん思いませんでしたけど……。『月の盾』を見たら、頭のなかに残っていた『日没』がふっと消えていくのを感じたんです。実物ではなく、写真で見ただけなのに。なんとなく、本当になんとなくですけど、これは日没を終わらせるために生まれた月なんだって、そう勝手に思ったんです。早坂荘悟の『日没』の、対称にある絵だと。ほら、夕方が終わって夜になって月がかがやくじやないですか? だからきっと、そんなイメージが浮かんだんだと思うんですけど」
月が……日没から、全部を優《やさ》しく守っているんだ──。桜花が『月の盾』を描く直前、そんなふうに言っていたのを思い出した。桜花は驚いた様子《ようす》で、友佳を見ている。友佳が「勝手な妄想だと思って笑ってください」と亭フと、桜花《おうか》はとても真剣な表情で「ううん」と首を振った。
「わたし、あなたの言うこと……わかる」
「あはは、ありがとうございます。──それで、国崎《くにさき》さんが早坂《はやさか》荘悟《そうご》の娘だって話が、週刊誌とかに流れて……。ますます、思いました。
あの『日没』を描《か》いた早坂荘悟の娘がこの『月の盾』を描いている。もし、もしですけど、絵画の神さまがこの世のどこかにいるのなら、早坂荘悟の娘にこんな素晴《すば》らしい才能を与えたのは、早坂荘悟が振りまいた絶望を拭《ぬぐ》い去るためじゃないかって。この『月の盾』は、早坂荘悟の『日没』が撒《ま》き散らした炎を防ぐために、生まれ落ちたんじゃないかって。あたし、早坂荘悟の娘があなたみたいな描き手だって、本当に素晴らしいことだと思いました。早坂荘悟はあの『日没』でたくさんの絶望を撒き散らしました。でも、その娘がそれを超えられる才能を持っている。それはすごく運命的なことだと思うんです」
早坂荘悟の娘が早坂荘悟以上の才能を授かって生まれたのは、新たな悲劇《ひげき》なのではなく、悲劇を拭《ぬぐ》い去れるかもしれない奇跡。桜花は驚き、衝撃《しょうげき》を受け、そして震《ふる》えを噛《か》み殺したような表情で、友佳《ゆか》を見つめていた。俺は友佳の言葉が桜花の世界をまたひとつ塗《ぬ》り替えたのだとたしかに感じた。
「早坂荘悟事件の遺族のなかにあなたを責めるひとたちがいるのは、理解できます。あたしだって早坂荘悟には憎しみを感じますし、大雑把《おおざっぱ》に見ればあなたが早坂荘悟のように見えるのはたしかだと思いますから。でも、違います。あなたの存在っていうのは、あたしにとってすごく運命的というか──あなたは早坂荘悟と同じことを繰り返すためでもなく、早坂荘悟の代わりに責められるためでもなく、早坂荘悟の『日没』を超える、もっと美しくて優《やさ》しい絵を描くために生まれたように思えてしまうんです。
いろんなひとから怒られちやいそうだから内緒《ないしょ》の話ですけど、あなたの『クローゼットの悪魔《あくま》』を見て自殺したひとたちは、もうすでに……生きることに耐えられなかったひとたちだったんじゃないかな。たまたまきっかけになってしまったのかもしれませんけど、少なくとも原因はあなたの絵じゃない。可哀想《かわいそう》だけど、でも、あなたがやったことは、はじめからひとを傷つけるつもりで絵を描いた早坂荘悟とはぜんぜん違う。
そういう声に挫《くじ》けず描いてほしいんです。あなたが自分のしたことを悔いているなら、そのためにも描いてほしい。早坂荘悟の『日没』やあなたの『クローゼットの悪魔』が傷つけてしまったひとたちだって、あなたの優しくてきれいな絵なら癒《いや》せる。あなたの絵は、一歩間違えれば早坂荘悟の絵になってしまうのかもしれない。でもあたしは、早坂荘悟の娘があなたのような素晴らしい描き手であることは、あたしたち早坂荘悟事件の遺族にとっても救いだと思うんです。あなたの絵は絶望を与えるだけの早坂荘悟の絵と違って、早坂荘悟の絵がたくさんのひとに刻み込んだ絶望を、祓《はら》うことだってできるから──」
桜花《おうか》はそれから長いあいだ、ずっと友佳《ゆか》と話していた。自分たちの境遇やエピソード、好きな画家やTV番組のこと、日常で感じていることや将来やってみたいこと──。桜花が同世代の人間とこんなにも懸命《けんめい》に、たくさん、そして楽しそうに喋《しゃべ》っているところを、俺《おれ》ははじめて見た。
友佳は親に無理を言ってこちらまでやってきたため、今日中《きょうじゅう》に東京まで帰らなければならないとのことだった。友佳はまた会うこと、手紙のやり取りをすることを桜花と約束したのち、桜花へ最後にこんなことを言った。
「いろいろ言いましたけど、あたしがあなたに描《か》いてほしいって心から懸命に思ういちばんの理由は、単純に──あなたのファンだからなんですよ? あたし、あなたの絵が見たいんです。もっとたくさん、これからもずっと」
「──わたし」
友佳の微笑《ほほえ》みに、桜花はおっかなびっくり──しかしたしかに、微笑みを返した。
「今日、あなたに会えて……本当によかったと、思う」
友佳と別れ、静香《しずか》叔母《おば》さんの家へとバスで帰る途中、桜花は考え込むように窓の外をじっと眺めていた。
「桜花、俺は運命なんて信じてないけどな。それでも、早坂《はやさか》荘悟《そうご》という存在は──早坂荘悟が描いた『日没』は、たしかに宿命としておまえにのしかかっていて、おまえはそれを振り払わなきやいけないのかもしれないな」
「あきら。ひとつだけ、お願《ねが》い……してもいい?」
桜花が俺を振り返って、おそるおそるといった感じに言った。俺を見る桜花の眼差《まなざ》しが、潤《うる》んで揺れている。桜花は恥ずかしそうにぎゅっと目を瞑《つむ》る。
「その、バスが着くまでで、いいから、手を──握って、いて……?」
俺は無言で桜花の手を取った。細く華奢《きゃしゃ》なその手をしっかり握ると、桜花の鼓動が伝わってくるようだった。ゆっくり目を開けた桜花が頬《ほお》を染めてうつむき、強く強く手を握り返してくる。俺ひとりではしょせん、こんなふうにせいぜい桜花の片手しか受け止めてやれないかもしれない。だが、桜花を応援し祝福してくれるひとはたくさんいるのだ。全員でなら、桜花が背負う重いものすべてだって受け止めてやれるかもしれない。
「──描《えが》きたいって、ちょっと思った。少しだけ。描かなきや、って──」
バスを降りて、桜花が俺の少し前を歩きながらぽつりと言った。
「わたしの贖罪《しょくざい》は、絵を描かないことじゃ……ないのかもしれない。わたしはもう、たくさんのひとを……傷つけてしまったから。わたしが絵を描かなくても、そういうひとたちの傷は──どうしようも、できない。
だから、また『月の盾』みたいな絵を描いて、早坂荘悟の『日没』とか、わたしが描いてしまった『クローゼットの悪魔《あくま》』が撒《ま》き散らした絶望を、この世からなくさなきやいけないのかも、しれない──……」
バス停から静香《しずか》叔母《おば》さんの家まで帰ると、門の前に見慣《みな》れぬ車が停《と》まっていた。3ナンバーの青いスポーツ・カーである。なんだと訝《いぶか》って車に近づいたとき、後ろから「あ。ふたりとも、おかえり」と女性の声がした。
振り返った先に、サングラス姿の鏡子《きょうこ》さんが立っていた。
「ちょっと散歩してきたけど、空気がきれいでなかなかいいところだね。ねえ、ところで、ふたりはいまどこに行っていたのかな?」
「え、ああ、用事があって市内に──って、そうじゃなくて」
俺《おれ》は笑顔《えがお》の鏡子さんを眺めて、驚《おどろ》いた声を漏らした。
「どうしたんだ、突然? お店は?」
「お店は、どうせお客さんがきてくれないから休みにした──って、なかなかシビアな現実を突きつけてくるな、キミは。……実は、桜花《おうか》ちゃんに渡したいものがあってはるばるきたんだよ。迷惑でなければ」
「わたしに……渡したい、もの?」
戸惑う桜花に、鏡子さんは「うん、プレゼント」とうなずいた。そして、車のなかから大きな革製のケースを取ってくる。桜花がはっと表情を揺らした。
鏡子さんは、にっ、と笑い、
「わたしが揃《そろ》えられるかぎりの、上等な画材道具。絵の具は何色か自作。気に入ってもらえると嬉《うれ》しいな」
桜花はびっくりしながらも、鏡子さんが差し出した画材道具のケースを受け取った。鏡子さんは桜花の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込んで、優《やさ》しく続ける。
「別に、描《か》けと言っているわけじゃないよ。ただ、これから桜花ちゃんが描きたいと思ったときなにもなかったら困るだろ? 筆があったら描くことも描かないこともできるけど、なかったら描かないことしかできないから」
桜花は呆然《ぼうぜん》と鏡子さんの顔を見上げる。鏡子さんはそんな桜花へもう一度、にっ、と笑いかけて、それから俺のほうを向いた。
「わたしにできることはこれだけ。あとはやっぱり、キミの役目……かな?」
俺は、にっ、という笑《え》みを返した。感謝《かんしや》の想《おも》いを目いっぱい込めたつもりだった。きちんと伝わりはしたらしい、鏡子さんは俺に近づき耳打ちしてきた。
「お礼としては、今後とも『ローザ・ボヌールの飼い猫屋』をよろしく、というようなことをあとでこっそり桜花ちゃんに伝えておいてくれると嬉しいな。国崎《くにさき》桜花のひいきの店だということになれば、きっと大繁盛《だいはんじょう》」
「そんなこと伝えなくても、もう十分にひいきの店だけどな」
俺がふっと笑うと、鏡子さんは、おや? という感じに片眉《かたまゆ》を上げた。
「村瀬《むらせ》くん、少し見ないうちにちょっぴり大人《おとな》っぽくなった?」
「は? そう……かな。わからないけど」
「はじめてわたしの店にきたときには、可愛《かわい》らしいガキんちょみたいに感じたのに。まあ、あれからもう二年くらいだもんね。このままだったら、キミ、なかなかいい男になるかもねー。しまった、唾《つば》でもつけておけばよかったかな」
鏡子《きょうこ》さんはどきりとするようなことを、冗談《じょうだん》めかして言った。
「桜花《おうか》ちゃんは任せたよ。わたしが言うまでもないだろうけど、あの子は美術界の宝だから……大切にしてあげて」
「ああ、わかってるよ」
「──桜花ちゃん」
鏡子さんは桜花に向き直り、
「もしこれから桜花ちゃんが描《か》きたくなって、新しい絵を完成させたら──わたしもわたしのバイト先も、また全力でバックアップするからね」
桜花が「あ……」とつぶやき、うつむいて尋ねた。
「──どうして。どうして、そんなに優《やさ》しくしてくれるの? 気にかけてくれるの?」
「それはもちろん、決まってるだろ」
鏡子さんの答えは単純明快で、ほかのどんな言葉より力強かった。
「わたしが桜花ちゃんのファンだからだよ」
それは友佳《ゆか》と同じ返答だった。結局はみんなそうなのだろう。俺《おれ》もだし、慶太《けいた》も優美子《ゆみこ》も父さんたちもみんな、桜花の絵と、それを美しく描き出す桜花に魅了《みりょう》されているのだ。桜花は顔を上げて鏡子さんを見つめ、なにか込み上げるものを必死に堪《こら》えるような声で「……ありがとう」と言った。
桜花が鏡子さんからプレゼントされた画材を使って絵を描きはじめたのは、その三日後のことだった。迷いながら、怖がりながら、少しずつ懸命《けんめい》に。一日にひと筆しか進まないこともあったし、何度も「──やっぱり、止《や》める」と弱音を漏らした。それでも桜花は二週間ほどで小さな一枚の絵を完成させた。
タイトルは『握る手』。
俺はその絵を見たとき、桜花が心の傷を克服しつつあることを確信《かくしん》した。
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4.
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優美子の家のリビングはしずまり返っていた。壁時計《かべどけい》の秒針の音だけが、かち、かち、と室内に響《ひび》く。俺の隣《となり》で、優美子がぼそりと小さくつぶやいた。
「……なんか緊張《きんちょう》してきちゃった」
「別に、喧嘩《けんか》しようってわけじゃないだろ」
「そうだけど……。でもやっぱり、あの子と会話するとなると、少しはね──」
俺《おれ》が苦笑したとき、ぎい、とリビングのドアが開いた。
「待たせてごめんなさい。友だちとの電話が長引いちやって」
美咲《みさき》はソファに座る俺を見下ろして、ふふっと愛らしく、うぶな高校生ならそれだけで心奪われそうな微笑《ほほえ》みを浮かべる。優美子《ゆみこ》がちょっと身構え、美咲はそんな優美子を無視するように見向きもせず、俺の前に座った。
「暁《あきら》くん、相変わらず男前さんね。お久しぶり」
「そうだな。おまえが桜花《おうか》に早坂《はやさか》荘悟《そうご》のことを吹き込んだ日以来か?」
俺が言葉に刺《とげ》を込めると、美咲はくすくすと笑った。
「どうしたの暁くん? そっちから会いたいって言ったんだから、そんなに怖い顔をしないでくれると嬉《うれ》しいわ。ところで、桜花ちゃんは元気かしら? 六人もひとを殺してしまって、優《やさ》しい桜花ちゃんはきっと傷ついているだろうなって心配していたの。六人が亡くなるなんて、あの早坂荘悟の『日没』事件以上に悲惨な出来事ですもんね?」
「美咲! 桜花ちゃんはひとを殺してなんか──」
「優美子、いいから」
険しく言いかけた優美子を、手でそっと制する。美咲がこういう言い方をして、俺たちが動揺するのを楽しもうとするだろうということは、十分に想像がついていたから。美咲は俺の反応が気に入らなかったらしく、む、と眉《まゆ》をひそめた。
「あら、暁くん? 本当はあたしのことが憎くて仕方ないんじゃないの? 桜花ちゃんがあんなふうにマスコミから袋だたきにされたのだって、あたしのせいだなんて考えてるんでしょう? あたしを責めにきたんじゃないの? どうしたのよ。もっと悔しそうな、負け犬みたいなみじめな顔をしなさいよ。あたしに殴りかかってみたらどう? そうしたら、あなたの怒りに歪《ゆが》んだ顔を見て笑ってあげるのに」
「それは俺だってもちろん、おまえを殴り飛ばしてやりたいし怒鳴《どな》りつけてやりたいって気持ちは、いくらでもあるさ。だけどまあ今回は、俺がおまえに用事があってここにきたわけじゃないからな」
「どういう意味? あなたじゃないなら、だれがあたしに用事って言うの?」
「桜花」
一瞬《いっしゅん》、静寂があった。美咲は意外そうにまばたきする。
「あの子が? なに? あたしに対する文句でも言付かってきたの?」
「──前に桜花がおまえの絵を描《か》いただろ? 憶《おぼ》えてるな?」
「ああ、あの嫌味《いやみ》ったらしいふざけた絵」
鼻で笑った美咲《みさき》に、優美子《ゆみこ》が「美咲」とまた険しく目を細めた。
「桜花《おうか》ちゃんはそんなつもりで絵を描《か》いたりしないよ」
「それじゃあ、どんなつもりであんなどす黒い絵を描いたって言うのかしら?」
「あのときの桜花ちゃんの目には、あなたがあんなふうに見えたってことじゃないのかな。桜花ちゃんは外見だけじゃなくて、もっと深いところを見てるから」
優美子と美咲のあいだに、ちょっとした火花が散った。優美子も桜花が絡めば引くつもりはないようで、美咲は言われた内容よりも、そもそも優美子の生意気な態度が許せないらしい。俺《おれ》はふたりのあいだを割って、美咲へしずかに続けた。
「桜花はおまえに申し訳ないって言っていたよ。後悔していた。ひとを傷つけるような絵を描いてしまった、ってな。あの絵を描いた直後も、ついこの前もな。わかるか? おまえが桜花に早坂《はやさか》荘悟《そうご》の娘だって吹き込んで、なおかつそれをマスコミに流したあともだ。それでも、申し訳ないって言っていた」
美咲が俺を見た。ぞっとする、心の奥まで抉《えぐ》ってくる刃物のような目つきだったが、それをふっと穏《おだ》やかに流せるだけの余裕がいまの俺にはあった。優美子にもである。美咲は苛々《いらいら》と舌打ちした。
「ええ、ひとを自殺に追い込むような絵が好きな桜花ちゃんは、さぞかしいい子なんでしょうとも。それで結局、なにが言いたいのよ? さっさと用件を話してくれないかしら。あたし、これからデートに行かなくちゃ──」
「桜花から絵を預かってきた。あのとき描いた絵がずっと引っかかっていたんだろうな。このあいだ、絵筆をまた持てるようになった桜花が最初に描いたのは、おまえの絵だったんだよ。それを渡しにきた」
「──は?」
美咲は呆気《あっけ》に取られた顔になった。俺を眺めて、それから優美子を眺める。優美子が「あたしもまだ見てないけど、あなたへのプレゼントだって」と言うと、美咲はくすっと噴《ふ》き出した。完全に馬鹿《ばか》にした笑い方だった。
「なあに。ふふ、あたしを自殺させようとでも言うわけ?」
俺は美咲のそのひどい嫌味《いやみ》を無視して、ソファの裏に置いていた桜花の『握る手』を取り出した。額縁《がくぷち》に飾られたその絵を美咲へ手渡す。
「これだ。タイトルは、『握る手』」
「本当、おめでたいひとたちね。いったいなにを企《たくら》んで、あたしにこんなことをするのか知らないけど──」
美咲の言葉が止まった。絵を受け取った美咲の表情が驚《おどろ》きに揺れている。俺は美咲の手許《てもと》にある『握る手』を見つめて、言ってやった。
「素晴《すば》らしい出来だろ?」
それは、あるいはあの『月の盾』に匹敵するかもしれない出来の、明るい色彩溢《あふれ》れる美しい絵だった。
美咲《みさき》は呆然《ぼうぜん》とつぶやきをこぼした。
「……なによこれ……」
幼い、まだ三歳か四歳くらいのとても可愛《かわい》い女の子が、ほんの少しだけ年上のこれまた可愛い女の子の手を、一所懸命《いっしょけんめい》に、必死に、強く握っている絵である。それは美咲と優美子《ゆみこ》の絵だ。桜花《おうか》はこのころのふたりを写真でも知らないはずだが、見事なまでに俺《おれ》の記憶《きおく》にある幼いころのふたりそのものだった。
優美子もその絵を覗《のぞ》き込んで息を呑《の》む。
「──すごい……」
絵がきらめいて見えるのは、背景を彩るただひたすらに美しい色遣いのためかもしれなかったし、ふたりの女の子が浮かべる愛情と幸福がいっぱいに満ちた笑顔《えがお》のためなのかもしれなかった。その絵のなかにはたしかな、永遠に続くだろうと思わせるくらいたしかな、愛と絆《きずな》が存在している。桜花のひと筆ひと筆が、幼い姉妹愛を表現している。美しかった過去と、そこにある温《ぬく》もりを描き出している──。
美咲は言葉を失って『握る手』を見つめていた。渡される絵がまさか、こんな正真正銘の凄《すさ》まじい傑作だとは思っていなかったのだろう、驚《おどろ》きにその美貌《びぼう》を強張《こわば》らせている。あるいは驚いているのではなく、もっと単純に、その絵が持つ圧倒的な美しさに魅了されていたのかもしれない。
「桜花はたぶん、それがいちばん美しいものだと思って、幼いおまえと優美子を描《か》いたんだ。『クローゼットの悪魔《あくま》』の呪縛《じゅばく》に苦しみながら、罪の意識《いしき》に苛《きいな》まれながら、それを懸命《けんめい》に乗り越えて。桜花はいまの醜《みにく》いおまえを見ていたのと同時に、はるかむかしの、おまえが自分自身の本性を知る前の、美しいおまえもきちんと見ていた」
美咲がゆっくりと絵から顔を上げた。その眼差《まなざ》しには敵意に近いものがまだ残っていたが、動揺で力なくなっている。
「桜花はおまえに悪感情は持ってはいないよ。おまえがいくら桜花を傷つけようが、桜花は折れないしもう前みたいにおまえを怖れることもない。そうやって、おまえの美しい絵を懸命に描き上げることだってできるんだ」
俺の言葉はこぶしなどよりもよっぽど強く美咲を殴りつけたはずだ。
「わかるな? おまえが躍起《やっき》になっていくら嫌《いや》がらせをしょうが、桜花は気にも留めない。桜花はおまえではなくもっと先にある、もっと美しいものを見ているんだ。たくさんの辛《つら》いことを乗り越えようとしている桜花にとっては、おまえのつまらない嫌がらせくらいなんでもないんだよ」
「それは、あたしもそうだよ。もう、いまは。……あは。最後の緊張《きんちょう》も、桜花ちゃんのこの絵を見たらどっかに行っちゃった」
優美子《ゆみこ》がきっぱり言って、美咲《みさき》が驚《おどろ》いたふうな顔をする。思うに、桜花《おうか》にとって早坂《はやさか》荘悟《そうご》がそうであるように、優美子にとっては美咲が乗り越えなければならない宿命だったのだ。そして優美子はいま、怯《おぴ》えなく美咲と対時《たいじ》できている。
「前は本当に辛《つら》かったけど、いまはあなたに嫌われたって、あなたにどんなことをされたって、もう平気。あたしがあなたに傷つけられることはもうないから。桜花ちゃんの辛さや、桜花ちゃんが見ている美しい世界を知ったもの。そういう苦しみや美しさに比べれば、大したことじゃない」
美咲は優美子から逃げるように目を伏せた。
「──やっぱり嫌味《いやみ》じゃない、こんな絵は。どうしてあたしが優美子なんかと」
長い長い、本当に長い沈黙《ちんもく》のあとで、どうにか絞り出したといったふうに言った美咲へ、優美子が首を振りながら答える。
「あなたがあたしを嫌っていたのは、もうわかってる。あたし、あなたの心のなかをまったくわかっていなかったから……。それは、そうだよね。あたしはあなたほど可愛《かわい》くないしあなたより運動できないし頭よくないし。決定的な理由があってのことじゃないから、どうにもならないだろうってこともわかってる」
優美子がゆっくりと、懸命《けんめい》に言葉を紡いだ。
「それでも、あたし知ってるよ。この絵のころまでは──このころだけは、美咲、あたしのことを本当に好きでいてくれたでしょ? もう戻ってこないむかしの話だけど、桜花ちゃんは見たんだよ」
「……こんな、くだらない絵!」
美咲は叫んで、桜花の『握る手』を床へ叩《たた》きつけようとした。
しかし、できなかった。美咲は床へ叩きつける直前、悔しそうな苦しそうな表情で手を止める。桜花の『握る手』には、少しでも感受性のある人間なら破壊《はかい》を躊躇《ちゅうちょ》してしまうだけの、圧倒的な美しさがあった。
「こんな……くだらない、絵──……」
その絵の美しさほほかのどんなことよりも、美咲に決定的な敗北感を与えたのかもしれない。おそらく、美咲は感動してしまったのだ。桜花の『握る手』にある美しさ、かがやき、もう現在はなくしてしまった純粋な温《ぬく》もりに。
血がにじむほどに唇を噛《か》み、それでも『握る手』を破壊できない美咲をリビングに残して、俺《おれ》は優美子の家を出た。玄関まで送ってくれた優美子が、ぽつりと「──やっぱりすごいね、桜花ちゃん」とつぶやいた。
「あたし一瞬《いっしゅん》、本当に一瞬だけだけど──あの絵を見て、もうなくしてしまったこの関係を、いつか取り戻せるかもって、そんなふうに夢見ちゃった」
「わからないじゃないか」
俺《おれ》のその言葉は、本心からだった。
「難《むずか》しいだろうし、もしかするとたしかにそんなこと不可能なのかもしれないけど、……それでも、きっと絶対じゃない。おまえが美咲《みさき》を愛し続ければいつか応《こた》えてくれるかもしれないし、桜花《おうか》の絵が──少しずつでも、美咲の心を溶かしてくれるかもしれない」
「……そうだね」
優美子《ゆみこ》は空を眺めて、少しだけ笑った。
「桜花ちゃんの絵なら、そうかもしれないね」
そうなのかもしれなかった。それは俺が知るかぎり、この世でたったひとつだけの、奇跡を起こす方法だ。どんな悲しみや苦悩も乗り越えさせてくれるのではないかと、そんなふうに思ってしまう。早坂《はやさか》荘悟《そうご》の『日没』や自身の『クローゼットの悪魔《あくま》』さえ超えようとしている、桜花の絵ならきっと────。
優美子の家から静香《しずか》叔母《おば》さんの家まで戻ったときにはもう、すっかり夜になってしまっていた。月光の明るさにふと空を見上げると、見事な満月であることに気づく。夜の闇《やみ》の波間に漂い、地上を優《やさ》しく美しく照らしている月。
桜花の魂にちょっと似ている、と感じた。
桜花は屋敷《やしき》のどこかで絵を描《か》いているはずだが、時間が時間だけに、食事を摂《と》っているかその仕度《したく》をしているかもしれない。俺は「ただいま」と玄関をくぐつてから、居間のほうへ向かってみた。
「……桜花? ただいま──」
いなかった。台所をちらりと覗《のぞ》いてみたが、調理《ちょうり》や片づけをした形跡も見当たらなかった。おかしいな、と思う。絵の制作に熱中《ねっちゅう》しているのだろうか?
物音ひとつしなかった。風と森の音さえも。十月の夜気は冷えきっていて、屋敷内を包む静寂と相まって、まるで──地上ではないどこかにいるような錯覚《さっかく》を感じる。トイレや風呂場《ふろば》に声をかけてみるが返事はない。二階か? と思う。が、二階はそもそも蛍光灯すらついていなかった。
階段を上がって、まず桜花が使っている部屋、俺が使っている部屋、静香叔母さんの寝室──と電気をつけながら順々に見ていく。が、桜花は影《かげ》も形もなかった。桜花が絵を描くときにはたいてい自分の部屋を使っているのだが。
「桜花! いないのか?」
声を出してみたが、返ってくるのは静寂だけだった。
珍しいことだが、アトリエで描いているのかもしれない。静香叔母さんの部屋の窓から森のほうを眺めると、アトリエに明かりが灯《とも》っているのが見える。俺は庭に出て、アトリエのほうへ小走りで向かった。風がまったくなく、小枝のひとつさえ揺れていない。森のなかもやはり、しん……と不気味なくらいしずまり返っている。
自分の鼓動だけが聞こえた。アトリエのドアが半開きになっており、そこから光がこぼれている。俺《おれ》はアトリエのなかに入った。が。
桜花《おうか》はいなかった。どこにも。
「……桜花?」
どくん、と鼓動が跳ねた。
俺がまず思ったのは、散歩か? ということだった。桜花はこのごろ、気分転換に屋敷《やしき》の周辺をひとりで出歩くことも多くなった。夜に、というのはこれまで一度もないが、月がこれだけきれいな夜だ、そんな気分になっても不思議《ふしぎ》はない。
俺はアトリエを出て、屋敷のほうへ帰りながら考えた。
少しのあいだ様子《ようす》を見てみて、それで帰ってこなかったら捜しに────。
そして、そう思った瞬間《しゅんかん》だった。
お兄ちゃん、と小夜子《さよこ》の声が聞こえて、ぞくっ、と背筋に震《ふる》えが走った。汗が噴《ふ》き出る。なんだ──? 自分でもわけのわからないうちにどくんどくんと鼓動が激《はげ》しく脈打ちはじめ、無意識《むいしき》に足が止まる。
不意に、本当に不意に、あの日の光景がよみがえった。しずかな夜空が世界を焼くような夕方に変わったように見え、物音ひとつしない森からアブラゼミの合唱が聞こえ、目の前を前日の雨で水かさの増した川が流れていた。顔の脇《わき》をすり抜けて、アブラゼミが飛んでいった。目の前の川が夕陽《ゆうひ》を映してぐつぐつと赤熱《せきねつ》するように燃《も》えている。その燃える川の水面を、麦わら帽子がぷかぷか浮く。
手のなかに、うさぎのキーホルダーの感触があった。小夜子の命と引き替えに俺の手に残った、可愛《かわい》らしいキーホルダー──。我に返る。開いた手のなかに、キーホルダーがあるはずはなかった。あれは桜花が持っている。俺は「桜花……」とつぶやいて、暗い夜の森を振り返った。
それは凄《すさ》まじいまでの、明確《めいかく》な予感であった。
ダメだ、と自分の身体《からだ》にあるすべてが、周囲にあるすべてが告げていた。少しのあいだ様子《ようす》をなどと考えてはダメだと、桜花の絵のなかで見た十五歳の小夜子が必死に告げていた。時間は容赦なく流れ、そして一度流れてしまった時間は永遠に戻らない。どれだけ悔やんでも、悲しんでも、絶望しても。
あとにはうさぎのキーホルダーと引き替えに、巨大な空虚だけが残る。
「桜花……!」
俺は走りはじめた。
当てがあるどころか、月明かりだけの森だ、闇雲《やみくも》に走っていれば迷っても仕方ない。それでも足は動いた。とにかく、凄まじい焦燥だけが胸の奥で渦巻いていた。
途中でふと、俺《おれ》が走っているのは森のなかではないのかもしれないと気づいた。俺がただがむしゃらに、懸命《けんめい》に走っていたのは、七年前の、小夜子《さよこ》が溺《おぼ》れた川へと続く道なのかもしれなかった。
ぽっかりと天蓋《てんがい》が開ける。
気づけば、森の奥の崖《がけ》に出ていた。開けた空に浮かんだ満月が、黄金色《こがねいろ》か白銀色《はくぎんしょく》か赤銅色《しゃくどういろ》のいずれか、あるいはそれらすべてを混ぜ合わせた色にかがやいている。静香《しずか》叔母《おば》さんが日記のなかで触れていたとおり崖の周囲の木々は鮮《あざ》やかな紅葉を見せはじめており、月明かりを浴びて目が覚めるように美しい。崖の下から、水の流れる音が聞こえてくる。それは今日《きょう》この森のなかで聞いた、自分の声以外でははじめての物理的な音だった。
桜花《おうか》が崖の淵《ふち》に立ち、月を見上げている。
「──桜花」
俺が息を切らしながら発した声に、桜花はぴくりと反応した。はじめて風が吹き、桜花の長い髪の毛がふわりと揺れる。桜花が驚《おどろ》いたふうに振り返った。
「あきら……」
桜花は泣いていた。桜花の頬《ほお》を涙の粒が伝っていく。俺は反射的に桜花へ駆け寄ろうとしたが、それを桜花の声に制された。
「こないで」
驚くほどに悲しい声の、拒絶だった。桜花の揺れる声には、懇願《こんがん》にすら近い響《ひび》きがあった。俺はそこで不意に、桜花がなにかを抱えているのに気づいた。なにかの本。俺は目を凝《こ》らしてそれを見つめ、驚きに息を呑《の》んだ。
どくん、とまた鼓動が跳ねる。
静香叔母さんの日記……?
「ねえ、あきら。見て。月が、きれい……。わたし、この世界でここかあの小学校の校庭がいちばん好き。月が、とても美しいから──」
月光に照らされた桜花の美しさは幻想的ですらある。その桜花が胸元に抱えているのは、たしかに、金庫のなかに収められてあるはずの、三冊に及ぶ静香叔母さんの日記帳──。
「……桜花。その日記」
「掃除をしていたら、金庫をたまたま見つけた……の。わたしの誕生日《たんじょうび》を──冗談《じょうだん》半分で、入れてみた。そうしたら開いたから、驚いた。お母さんは──わたしのことを、嫌っていたのに……」
崖に立ち、泣きながら月を見上げる桜花の姿は、俺の目には地上を踏みしめているというよりも、これから月へ旅立とうしているように映った。ぞくりと、悪寒《おかん》が走る。桜花は静香叔母さんの日記を読んだんだろうかと思い、そんなことを思った自分に嫌気《いやけ》が差した。読んでいないはずがない。
「桜花《おうか》。そこは、危ないだろ。こっちに──」
「こないで! お願《ねが》い……」
また一歩近寄りかけた俺《おれ》を、桜花の懸命《けんめい》な声が制した。
桜花はうつむき、もう一度繰り返した。
「お願い……………」
重苦しい沈黙《ちんもく》のなかに、沢の流れる音がさらさらと響《ひび》く。俺はまたよりいっそう、鼓動が激《はげ》しくなりはじめるのを感じた。違う──違う。桜花の様子《ようす》が、明らかに普通ではない。桜花は肩を震《ふる》わせて泣いている。そちらに駆け寄って、震える肩を抱いてやりたかった。だが、できなかった。いまの桜花には近寄れなかった。
俺は慎重に、なるべく穏《おだ》やかな表情と声で、
「美咲《みさき》に、絵を渡してきたよ。さすがにあの美咲も言葉を失っていたし、優美子《ゆみこ》も感動して、あんな……おまえが絵に描《か》いたような、ああいう美しい関係を、もしかしたら取り戻せるかもって言っていた」
「あきら」
桜花が涙を拭《ぬぐ》い、射抜くようにまっすぐ俺を見つめた。
「──わたしの人生には、いろんなひとの死がいっぱい満ちてた……。だから、たまに……思うの。わたしは、早坂《はやさか》荘悟《そうご》の娘ってことじゃなくて、ただそこにいるだけで──ひとを不幸にする存在なんじゃないのかなって」
わたしの人生には、死がいっぱい満ちていた。俺は言真の内容よりも、桜花が過去形で語ったことに対して、なにかよくない予感を覚えた。
「だけど、おまえの人生にはもっと美しいものだっていっぱい関《かか》わってるだろ。俺たちはみんなおまえを愛しているし、おまえは俺たちみんなを救う絵を描けるんだ。──いったいどうしたんだ?」
「……うん。わかってる。それはもう本当に、わかっているの……」
強い風が吹き抜ける。桜花は少しよろめいただけで崖下《がけした》へ転落しそうな位置に立っていて、見ているとどきりとする。
「あきらたちみんな──慶太《けいた》も優美子もお父さんもお母さんも鏡子《きょうこ》も、友佳《ゆか》やほかにも手紙をくれるひとたちみんな、わたしを肯定してくれる……。わたし、みんなのおかげで……また描くことだって、できた。描きたいって、思う……。怖いけど、すごく思う」
なんだ? と嫌《いや》な汗が流れる。桜花はなにを言おうとしているんだ? 静香《しずか》叔母《おば》さんの日記を読んで、いったいなにを感じたんだ──?
「悪魔《あくま》のささやきだって、もう……耐えられる。あきらたちがいてくれれば、きっと……。わたしはたくさんのひとを傷つけてしまったけど、もしかしたらその傷を癒《いや》すこともできるかもしれないって、それが贖罪《しよくざい》なんだって、教えてくれた」
「桜花《おうか》!」
俺《おれ》は震《ふる》えそうになるのを懸命《けんめい》に堪《こら》えて、声を張り上げた。
「どうしたんだ? いいから、大丈夫だから、こっちにこい」
「──悪魔《あくま》が言うの。おまえはひとを傷つける絵しか描《か》けない、おまえは母親も殺したんだ、って。……でも、それだって……あきらたちが傍《そば》にいてくれるから、我慢できた……の。それでも、それでもわたしには描くことが大事だから──」
「……。間違えるなよ、桜花。静香《しずか》叔母《おば》さんを殺したのは、おまえの絵じゃない。早坂《はやさか》荘悟《そうご》だ。早坂荘悟の存在に、叔母さんは耐えられなかったんだ」
俺が一歩近づくと、桜花はびくりとした。
ざわざわと、森がざわめく。桜花の髪の毛がふわりと舞《ま》う。
「……母親を殺したって言われても、なんとか耐えられたの。お母さんはわたしのことを嫌っていて、いつも──わたしの悪口を言っていたし、わたしを殴っていたし、──いつも悲しんでた。可哀想《かわいそう》だったけど、……あきらが言ったとおり、お母さんがみじめな思いに苛《さいな》まれてたのは、早坂荘悟のせいだと思っていたから」
桜花の目から、つ……と再び涙が伝う。
「でも、わかったの。お母さんの日記を読んで……、わかった」
こぼれ落ちる桜花の涙のしずくが、月明かりにきらきらと光を放つ。
「お母さんは……早坂荘悟の幻影《げんえい》に苦しんで怖がって、それでも一所懸命に、わたしを愛そうとしてくれてた……。結果的に、お母さんはわたしのなかにいる早坂荘悟になかなか勝てなかったけど、でも愛そうとはしてくれていたの。わたしのことなんて気にしないで、早坂荘悟のことを忘れてもよかったのに──」
そうか、と思う。
桜花は日記を読んではじめて、母親の愛と、それが次第に壊《こわ》れていく様を知ったのだ。桜花には、母親から辛《つら》く当たられた記憶《きおく》しかなかったのだろう。幼い桜花を可愛《かわい》がり、美しい未来を夢見ていた静香叔母さん。桜花への愛情と早坂荘悟への恐怖のあいだで葛藤《かっとう》し、苦しみ抜いた末に自ら命を絶った静香叔母さん──。
「それなのに、わたしはそんなこともわからないで……早坂荘悟と同じ絵を描いた。お母さんはわたしのことが大嫌いなんだって、憎んでるんだって勝手に決めつけて、お母さんがわたしを愛そうと努力してくれてることも、わからずに……!」
桜花が泣きながら、ぎゅっと日記を抱きしめた。
「わたしが……わかっていたら。お母さんの愛情を信じていたら。ふたりで早坂荘悟の影《かげ》を、乗り越えようとしていたら……お母さんはきっと、ううん、絶対に自殺したりなんかしなかった。わたし、お母さんに嫌われていたほうがよかった。お母さんはわたしを愛していたの。愛していたから、苦しんだの……」
躊躇《ちゅうちょ》していてはダメだ、と思った。桜花を自分の腕のなかに抱き寄せて、おまえはみんなから愛され必要とされているのだと、実感で包み込んでやらなければ。そう感じた瞬間《しゅんかん》、俺《おれ》は意識《いしき》するよりも先に走り出していた。
「わたし、知らなかった……。お母さんにみじめな思いをさせていたのは、早坂《はやさか》荘悟《そうご》でも、わたしの絵でもない。お母さんのことを理解しなかった、わたしなの。わたしが、わたしのことを愛してくれたお母さんを、十三年かけてじっくり殺していったの。ほかのことは耐えられても、それは耐えられない……。わたし、お母さんに会って、謝《あやま》らなきゃ──……」
びゅう、とひときわ激《はげ》しい風が吹いた。
激《はげ》しい激しい、ひとの未来くらいあっさりさらってしまいそうな風が。
桜花《おうか》が俺をじっと見つめてくる──。
「──あきら、大好き……」
桜花が涙に濡《ぬ》れた顔で微笑《ほほえ》むのが見えた。
「愛してる。わたし、ほかのだれよりも、あきらのことが──」
「──桜花あっ!」
風でよろめいたのか自分の意志で一歩下がったのかは、わからない。ただ事実として、俺のすぐ目の前で、桜花の華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》は月明かりの空中に投げ出された。ふわりと広がった桜花の長い髪が、まるで月を目指す翼《つばさ》のように見えた。
不意に脳裏をよぎったのは七年前の小夜子《さよこ》のことではなく、つい二ヶ月ほど前、桜花からプレゼントされた『十五歳』のことだった。俺が掴《つか》めず、小夜子に与えてやれなかった未来。けれど、俺がいま掴もうとしているのは、その失った未来ではない。俺は七年前の、小学五年の俺ではない。俺が掴もうとしているのはまだ届くはずの未来で、俺は十八歳の──小夜子と同じくらいか、あるいはそれ以上に愛《いと》しいものを見つけた俺だった。
まだ届く。必ず届く。もう掴み損ねて後悔のなかを生きることはしない。
桜花の手にかすったけれど届かなかった。その代わり、七年前とまったく同じように、桜花がいつも腰につけているうさぎのキーホルダーに手が届いた。小夜子の形見《かたみ》の、古いキーホルダー。キーホルダーを掴み、俺の右腕に桜花の全体量がずしりとかかった瞬間、キーホルダーの接続部が引き千切れそうな悲鳴を上げる。
七年前は千切れた、小さなか弱いキーホルダーが。
それでも、奇跡的に千切れず──俺と桜花のあいだをたしかに繋《つな》いだ。
そうはっきり確信《かくしん》した瞬間、涙が溢《あふ》れた。小夜子……と胸中で叫ぶ。七年前の八月十五日、小夜子がこのときのためにキーホルダーを俺の手のなかに残してくれたのだと、そう思えて仕方なかった。
「──桜花!」
俺《おれ》は涙に歪《ゆが》む視界のなか、額《ひたい》に汗をにじませて懸命《けんめい》に怒鳴《どな》った。キーホルダーがいつまでも桜花《おうか》の体重に耐えられるはずがない。
「手を伸ばして、俺の腕を掴《つか》め!」
桜花が驚《おどろ》いたふうに、呆然《ぼうぜん》と俺の顔を見上げる。宙ぶらりんになった桜花の向こう、崖下《がけした》には浅い、なんのクッションにもなってくれなさそうな沢が見えた。キーホルダーが、がち、と音を立てた。
「早くしろ!」
俺は七年前、小夜子《さよこ》を掴めなかった。
けれど、いまはたしかに、桜花を掴めたのだ。
「俺に──もう二度と、世界でいちばん大切な相手を、失わせるな!」
びくりとした桜花の瞳《ひとみ》が、一瞬《いっしゅん》迷うように揺れた。
俺はすべての祈りを込めて声を張り上げる。
「俺のためでもいいから、この世界に、生きてくれ……!」
そして次の瞬間、桜花は表情を険しくして、懸命に手を伸ばしはじめた。顔を苦しそうに歪めながら、それでも桜花はたしかに、両手で俺の腕を掴んだ。桜花の手からこぼれた日記がばらばらと落下していった。震《ふる》える腕に、桜花がまだこの世界に存在する証明、温《ぬく》もりが伝わってくる。
p351
「…………あきら」
桜花《おうか》の、かすれたささやき。
左手も伸ばし、両手でしっかり桜花の両手を握る。腕が岩肌に擦《こす》れて痛み、桜花の重みに筋肉が悲鳴を上げた。顎《あご》を伝った汗の粒が、桜花の顔のすぐ横を落下していく。俺《おれ》を見上げる桜花の瞳《ひとみ》から、一気に涙が溢《あふ》れ出した。桜花は泣きながら必死になって俺の腕にすがりついた。俺はひと言「大丈夫だ」と告げる。
全力を振りしぼって、桜花を崖《がけ》の上へ引っ張り上げた。
桜花を抱きかかえて、地面へと仰向《あおむ》けに倒れ込んだ。桜花が俺の胸で泣いている。ぽつりと
「……ごめんなさい……」との声が聞こえた。
「──ごめんなさい。ごめんなさい、あきら。ごめんなさい…………」
「桜花。わかっているって言ったよな? おまえがいかにみんなから愛されているか。俺たちを信じろ。俺たちが、二度と、おまえに絶望させたりしない。おまえは……俺たちといっしょに、生きたくないか?」
桜花は鳴咽《おえつ》をこぼしながら、こくり、とうなずいた。
「……生きたい……」
「おまえの人生はこれから、いくらでもかがやくんだ。素晴《すば》らしい絵を描《か》けるからか? それもある。それ以外もある。おまえはまだこれから、どんなことだってかがやけるんだ。絵を描くのは、まだ──怖いか?」
桜花は短い沈黙《ちんもく》のあとで、
「……描きたい。わたしは」
「好きなように描けばいいんだ。俺たちがもう、おまえにひとを傷つけるような絵は描かせない。おまえの絶望を俺たちが振り払う代わりに、おまえがその素晴らしい絵で、そこに込められたおまえの美しい心で、俺たちの絶望を振り払ってくれ」
夜空が美しい。もしかしたらこの空が、七年前のあの、世界を焼くようように赤い夕焼けから繋《つな》がっているのかもしれなかった。視界に映る満月は、優《やさ》しく微笑《ほほえ》んでいるように見えた。俺たちふたりを見守ってくれているように見えた。
天気予報で激《はげ》しい雨になるのを確認《かくにん》したのち、俺は桜花を連れて森のアトリエに向かった。静香《しずか》叔母《おば》さんの家からは今日《きょう》でもう引き上げるつもりだった。最後に、クローゼットのなかに潜《ひそ》む悪魔《あくま》を殺してから。
静香叔母さんの屋敷中《やしきじゅう》から集めてきた灯油をアトリエのなかに撒《ま》く。桜花が「……灯油のにおい」と顔をしかめたので、外で待っていればいいと告げる。だが、桜花は「ううん」と小さく首を振った。
「あきらといっしょに……いたいから」
「──そうか」
俺《おれ》は微笑《ほほえ》んで、クローゼットのほうへ歩いた。戸を開けると、なかには血痕《けっこん》。ふと死臭《ししゅう》がしたような気がしたが、それもすぐ灯油の臭《にお》いに紛れてわからなくなる。幼い桜花《おうか》を、ここから犠牲者《ぎせいしゃ》の遺体が見ていた。この血痕は早坂《はやさか》荘悟《そうご》の影《かげ》だ、と思った。クローゼットのなかにも灯油を振りまいた。
桜花が悲しそうな物憂《ものう》げな表情で、クローゼットを眺めていた。
アトリエを出る際、俺はちらりと振り返る。桜花が二年以上前に描《か》いた、『クローゼットの悪魔《あくま》』の原形になった絵を見る。それは桜花の悲鳴なのだと思う。桜花の絵は、桜花の心そのものだ。
ぽっ、ぽっ、と早くも小雨《こさめ》が降りはじめている。
俺はマッチを擦《す》り、懐《ふところ》から取り出した写真に火をつけた。それは静香叔母さんによってズタズタにされた、あの早坂荘悟の写真である。ちりちりと燃《も》えはじめたその写真を、アトリエのなかへ投げ入れる。かすかな火種でしかなかった燃える写真が灯油に触れ、炎は一瞬《いっしゅん》にして大きく噴《ふ》き上がった。
膨《ふく》れ上がった炎が、早坂荘悟が『日没』を描き桜花が育ったアトリエを焼いていく。桜花の絵が焼け焦げていく。そこで生まれ、桜花の心に巣くった悪魔を、凄《すさ》まじい勢いで焼き殺していく──。
桜花は俺の手をぎゅっと握り、片時も目を離《はな》さずに、『月の盾』を焼いたときとはまた違った悲しげな眼差《まなざ》しで、アトリエを呑《の》み込んで燃え上がる炎を眺めていた。不意に、桜花の目にこの炎はどんなふうに映っているのだろう、と思った。
俺の目にはただ無慈悲なほど赤く、どこまでも破壊的《はかいてき》にしか見えないこの炎も、桜花の特別な目にはまったく違うかがやきを宿して見えているのかもしれない。俺には見えない美しさ、神聖さ、残酷さを見ているのかもしれない。俺は炎に照らされた桜花の横顔を見つめて、「──桜花」と唇を開く。
「描けるか? 前のように」
それに対する桜花の答えは「わからない」でも「描けない」でも「描ける」でもなかった。真摯《しんし》に、ただ真剣に、まるで家族の火葬を見守るような濠《りん》とした表情をする桜花は、短くひと言だけ答えた。
「──描く」
そしてさらに、
「わたしはみんなに教えたいから、これからも描く。わたしが見ているこの世界はこんなにも美しいんだって、いろんな人に伝えたい……。だから、わたしは許されるかぎり死ぬまでずっと描いていく──」
雨が勢いを増していく。いますぐではないにせよ、このぶんだと思ったとおり鎮火《ちんか》するだろう。雨はそのうち、アトリエを包む炎を、そのなかにあるさまざまな過去や悪夢ごと、きれいに洗い流してくれるはずだ。桜花《おうか》の心からも──。
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だれもいない美術館《びじゅつかん》のしずまり返った空気は、あの、もう存在していない森のなかのアトリエと少しだけ似ていた。燦然《さんぜん》とかがやく彼女の月を見つめ続けていると、その美しさに引き込まれていくような気がする──と、不意に後ろから「あきら」と呼ばれた。
桜花と、その横に立つ鏡子《きょうこ》さんだった。鏡子さんがうなずきかけてくる。
「準備よし、だね。マスコミも遺族のひとたちもみんな揃《そろ》ってるよ」
俺《おれ》は鏡子さんにうなずき返して、桜花へ微笑を向けた。
「緊張《きんちょう》するか?」
「……少し」
「大丈夫だよ。この絵はこんなにも素晴《すば》らしいんだから」
頭をくしゃくしゃ撫《な》でてやると、桜花は緊張に硬くなった表情をやや緩《ゆる》めて、くすぐったそうに片目を閉じる。鏡子さんが桜花の絵に布をかぶせはじめる。俺と桜花はその作業をじっと見守った──と、俺は桜花が後ろ手に小さめの絵を持っていることに気づいた。
「桜花《おうか》? その絵はどうした?」
どきり、というふうに桜花の表情が揺れる。桜花がちらりと鏡子《きょうこ》さんを見て、鏡子さんはなにやら微笑《ほほえ》ましげな表情で応《こた》えた。桜花はうつむき、頬《ほお》を染めて、視線《しせん》を泳がせ、口をもごもごさせて、
「本当は、もう……一年以上前から、ずっと描《か》いてたの」
桜花は決心したふうに、ようやく俺《おれ》を見上げた。
「でも、なかなか思いどおりに描けなくて、何回も何回も描き直して……。大切な絵で──大切すぎて、ずっと完成させられなかった。それがこのあいだ、やっとできた。──これ。あきらの……絵」
俺は桜花の差し出した絵を、おずおずと受け取った。
そこに描かれているのは俺だった。ちょっと照れてしまうくらい男前に描かれた俺が、絵を描く桜花を優《やさ》しげに見守っている絵。構図は、前に桜花とふたりで見たフェルメールの『絵画芸術の寓意《ぐうい》』を連想させる。桜花が希望を込めて描いたのだから当たり前だが、素晴《すば》らしい傑作だった。
「わたし、あきらがいなかったら……きっとこんなにたくさん……きれいなものは、描けなかった。あきらがわたしの心をいろんなものから救ってくれなければ、わたしは『クローゼットの悪魔《あくま》』みたいな絵しかきっと描けなかった──」
「──この絵の、タイトルは?」
問いかけると、桜花は恥ずかしそうに一瞬黙《いっしゅんだま》ったのち、
「『わたしのいちばん大切な時』」
桜花はまた少しうつむき、それから俺をまっすぐ見つめて、はにかむように「ありがとう、あきら」と微笑んだ。胸の奥に温かいものを感じる。俺はその温かさがなにか知っていた。この世で最も大切なものだと知っていた。
俺は微笑み、もう一度、桜花の頭を撫《な》でる。俺がおまえを救ったんじゃない。おまえが俺を救ってくれたんだ。心からそう思った。ありがとう──その言葉を伝えなければいけないのは俺のほうだ。小夜子《さよこ》の嬉《うれ》しそうな笑い声が聞こえた気がした。
数十人のひとたちが桜花を眺めている。渦巻く敵意が見えるようだった。
桜花がはじめるのは、記者会見のようなものだ。美術館《びじゅつかん》には、アート・オブ・ペインティング誌と美術館長が招待した美術関係者や、桜花の『クローゼットの悪魔』による自殺者の遺族や、マスコミ関係者が集められている。
遺族のなかには招待を断るひとも当然いたそうだが、集まった顔触れを眺めてみると、あの|二ノ宮《にのみや》数恵《かずえ》さんの遺族で灰皿を投げつけた男性や、最初に自殺した高杉《たかすぎ》伸二朗《しんじろう》の母親の姿もあった。彼らが招待に応じるとは思ってもなかったので、まさか罵声《ばせい》を浴びせるためにきたんじやないよな、と不安がちらりとよぎってしまう。
布で隠された桜花《おうか》の新しい絵を見て、人々がざわざわ揺れている。
「なんのつもりだ」
と、最前列に座る、|二ノ宮《にのみや》数恵《かずえ》さんの遺族が言った。
「性懲《しょうこ》りもなくまた絵なんか描《か》いて、自慢ったらしく展示しやがって! 絵は止《や》めたって言うから少しは反省してるのかと思ってたら、なんのことはない、やっぱりこないだの謝罪《しゃざい》なんて形だけだったんじゃねえか!」
それを皮切りに、高杉《たかすぎ》の母親やマスコミ連中も、
「この人殺し! のこのこ顔をさらして、なんなの!? あんたもうちの子みたいに飛び降りて死ねばいいのよ!」
「どういうことですか? これは謝罪会見ではないのですか?」
「その絵は新作ですか?……そんなものを俺《おれ》たちに見せてどうしようって言うんだ! あんたの絵はひとを傷つけるんだよ!」
「何ヶ月も姿をくらまして、あなたはどこにいたんですか!? 早坂《はやさか》荘悟《そうご》の実家にいたという噂《うわさ》話《ばなし》も聞きましたが!?」
「悪魔《あくま》の娘が、また同じことを繰り返すのか!?」
桜花の隣《となり》に立つ鏡子《きょうこ》さんはともかく、俺や様子《ようす》を窺《うかが》いにきた優美子《ゆみこ》と慶太《けいた》は少し離《はな》れたところからそれを眺めていることしかできなかった。俺はぐっとこぶしを握る。慶太が不安そうに「大丈夫かな……」とつぶやき、優美子が悔しそうに顔をしかめたとき、ひとりの少女が遺族席から立ち上がった。
「しずかにしてください!!」
友佳《ゆか》だ。友佳は怒りに震える表情で周りを見回した。
「騒《さわ》いでいたら、国崎《くにさき》さんの声がまったく聞こえません。文句を言うなら、せめて国崎さんの言葉を開いてからにすればいいじゃないですか」
その剣幕《けんまく》に周りが思わず黙《だま》ったのを見届けて、友佳は椅子《いす》に座り直した。
「……ありがとう」
桜花が友佳に微笑《ほほえ》みかけた。そして、目の前のひとたちを見渡す。
「わざわざ集まってもらって、ありがとう……ございます。……わたしは、もう絵を描かないつもりでした。それが、せめてもの償《つぐな》いだって、そう思ってたから……。でも、違うんです。きっと。わたしにできるのは、そうじゃなくて──」
「なにを──」
そう怒鳴《どな》りかけた男性の声が、ぴたりと止まった。
ほかのざわざわしていたひとたちも、みんないっせいに言葉を失った。
鏡子さんが、桜花の絵にかけられた布を剥《は》がしたからだった。
桜花《おうか》が再び、前以上のかがやきを持って描《か》き上げた──二枚目の『月の盾』。
それは紛れもなく、桜花の生涯にわたって代表作になるような素晴《すば》らしい絵だ。その月明かりには不思議《ふしぎ》な魔力《まりょく》があった。心の隅々までを光で清めて、その奥に残った一点の悲しい気持ちを温かく包み込んでくる、見ているだけで明日《あした》も生きていこうと気力が湧《わ》いてくるはどの、そんな優《やさ》しい魔力が。
それは黄金色《こがねいろ》とも、白銀色《はくぎんしよく》とも、あるいは見方によっては赤鋼色《しやくどういろ》とも表現できそうな、冷たさや悲しみや絶望といったものをその光のなかに封じ込めたがごとき、ただただ美しい色彩をした満月だ。
「わたしは、描《か》きたい……」
月は暗い夜の波間にぽつんと浮かんでいる。ただ彷徨《さまよ》っているのではなく、愛《いと》しいひとにそうするときのような甘さを持って、夜空を抱擁《ほうよう》しているように見える。その穏やかなかがやきに、日没を表すのだろう毒々しい紫の炎が闇《やみ》の淵《ふち》まで追いやられている。月を支えるように浮かぶのは、いくつもの星々。
桜花はその月を背負って、懸命《けんめい》に言葉を続けた。
「わたしが、それに早坂《はやさか》荘悟《そうご》の『日没』が振《ふ》り撒《ま》いてしまった絶望を振り払えるような、そんな希望に満《み》ち溢《あふ》れた絵を……描きたい。わたしが思い描いてる、わたしが見てる世界は美しいんだって、みんなに伝えたい。わたしはもう、二度と、絶望に満ちたような絵は描きません。だから、だから──」
桜花の『月の盾』はあまりに、圧倒的に、信じられないほどに美しすぎた。
あまりに優しすぎた。どんな傷だって癒《いや》してくれそうなはどに。
美術館《びじゅつかん》には長い静寂が満ちていて、桜花の前に並んだだれもが、まばたきや呼吸すら忘れて桜花の『月の盾』を見つめている。まるで時間が止まったかのようだった。そこにふと、友佳《ゆか》の小さな泣き声が響《ひび》いて、ゆっくり時間を動かしはじめた。
友佳だけではなかった。|二ノ宮《にのみや》数恵《かずえ》さんの遺族の男性が『月の盾』に目を奪われ、感極まったような顔で涙ぐんでいる。同じく二ノ宮さんの遺族の若い男女も泣いている。高杉《たかすぎ》の母親がうなだれ、唇を噛《か》んで「伸二朗《しんじろう》……」と肩を震《ふる》わせている。TVカメラを掲げる男のひとも呆然《ぼうぜん》と『月の盾』を映し、これまで乱暴《らんぼう》に言葉を投げかけていた記者も打って変わって悲しげに『月の盾』を見つめる。初老の女性が口許《くちもと》を押さえて鳴咽《おえつ》を漏らしている。
そこにいるほとんどのひとが、泣いていた。
桜花を責める声がどこからも出ない。早坂荘悟の娘だとなじる声も、おまえはひとを傷つける絵しか描けないんだと否定する声も、人殺しだと罵倒《ばとう》する声も、すべてが『月の盾』を見た瞬間《しゅんかん》に途切れた。二枚目の『月の盾』が持つ光は強すぎた。だれもが、ひと目見た瞬間に理解したのだ。これは早坂荘悟の『日没』や、桜花が苦悩の果てに描いてしまった『クローゼットの悪魔』や、現実にあるさまざまな悲劇《ひげき》が生み出した絶望や嘆きをすべて振り払い、優しく受け止めてくれる、希望の絵だと。
桜花《おうか》はこれからも描《か》くだろう、と思った。
色を失った現実を乗り越え、早坂《はやさか》荘悟《そうご》の存在やささやく悪魔《あくま》を乗り越え、自身の絶望を乗り越えてきた桜花は、これからもその才能と光に溢《あふ》れた想像力を振りしぼり、あまたの傑作を生み出し続けていくだろう。この世で色を失った桜花だけが思い描いている、素晴《すば》らしい色彩を伝えていくだろう。
そこに、桜花の心をすべて込めて。
『月の盾』を見つめる。時間は容赦なく流れ物事は凄《すさ》まじい勢いで移りゆくが、この絵の美しさだけは永遠に不滅なのかもしれない。俺《おれ》や優美子《ゆみこ》や慶太《けいた》や、父さんたちや鏡子《きょうこ》さんがこれからどんな人生を歩もうとも。桜花がすべてを賭《と》して描いたこの月は、いつまでもかがやき続けるはずだ。終わらない日没はなく、世界が焼かれることもない。やがて夜がやってきて、日没の撒《ま》き散らした炎を、月が優《やさ》しく受け止める──。
[#地付き]─FIN.
p365
[#改ページ]
あとがき
はじめましての方も、すでにほかのシリーズで知っているぞという方も、まずは手に取っていただきありがとうございます。ここ数年でなんだか食べ物の好みがずいぶんと変わってきた岩田《いわた》です。
と、無関係な話題から入りましたが、好みというのは月日を重ねていくとガンガン変わっていくものなんですね。脂っこいものよりヘルシーなもの、こってりよりあっさり、十代のころはまったく興味《きょうみ》がなかった豆腐《とうふ》が大好きに! というような感じです。担当編集《へんしゅう》さまにその話をすると「……疲れてんじゃない?」と言われました。知人には「おっさん化現象だね!」と言われました。だれがだ。
ただまあ、変わっていくのは食べ物だけではなく、小説や音楽の好みや考え方も割とそうだったりします。そしてそれに合わせて、描きたいと感じるものもです。それほど急激《きゅうげき》にではなく、少しずつですが……。
僕はいま『護《まもる》くんに女神の祝福を!』というめちゃくちゃ明るくてハッピーでラブラブなシリーズを書いています。この『月の盾』はそれと打って変わったシリアスな話ということで、これまでも僕の書いたものを読んでくださっている方は、それ以前に書いていた『灰色《はいいろ》のアイリス』みたいなの……? と疑問に思ったかもしれません。でも、ああいうタイプの話はよくも悪くも、好みも年齢《ねんれい》も変わったいまの僕にはきっとなかなか書けないのです。ちなみに、暗かったり鬱《うつ》だったりする話もここ最近は苦手《にがて》だったりします。そんなわけで、『護くん』シリーズとはノリの違うシリアスな話だといっても、『アイリス』などとはまたぜんぜん違った内容や出来になったと思うのですが、どうでしょうか?
すでに読んでくださった方はおわかりでしょうが、この『月の盾』は新シリーズというわけではなく、これ一冊だけの読み切りです。一冊だけであとを続ける必要がないからこそ、こういう話を思いっきり書ききれた気もします。シリーズでこういう話を書こうと思ったら、きっといろいろと大変…………。
もともと、しばらく前から担当編集さまに「『護くん』シリーズへのテンションを上げるためにも、読み切りで一冊、雰囲気の違う話をなにか書かせてください!」とお願《ねが》いしていたのです。……軽い話ばかり書いていたら、たまにはシリアスな話も書きたいなと思ったりするのです──逆もまたしかりなのですが。そして、出すならいまこのタイミングしかないよと、その念願《ねんがん》が叶《かな》いました。これで『護くん』シリーズへのテンションもばっちりです。
内容に関しては、あとがきでわざわざ補足するようなこともないのですが──、国崎《くにさき》桜花《おうか》というひとりの天才少女の挫折《ざせつ》と栄光を読み解いて、楽しんでいただければ、作者として小躍《こおど》りしたいくらいの喜びです。
最後にいつもどおりスペシャルサンクスを。
まずはイラストを担当してくださった室井《むろい》麻希《まき》さん。これを書いている段階ではまだ出来」上がった絵を見ていないのですが、ラフの段階から担当編集《へんしゅう》さま越しに熱意《ねつい》が伝わってきて、どきどきわくわくものです。ただ、原稿が遅れたせいで厳《きび》しいスケジュールになってしまい、ご迷惑《めいわく》をおかけしました……。担当編集の和田《わだ》さん。今回、心配しつつもかなり自由に書かせていただいて、本当にありがとうございました。締切関係でいろいろ申《もう》し訳《わけ》ございません。鋭《するど》い指摘をいろいろしていただいた校閲《こうえつ》さんをはじめとして、出版のためいろいろ尽力してくださった方々。家族のみんなに、友人たち。
そして当然、ほかのだれよりも読者のみなさま──。
ありがとうございました。またの機会《きかい》に、お目にかかれることを祈っております。
[#地付き]二〇〇六年三月八日 岩田《いわた》洋季《ひろき》