星虫(ほしむし)
岩本隆雄
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)夜空の彼方《かなた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)星虫|騒《さわ》ぎ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
[#改ページ]
[#改ページ]
本書は一九九〇年に新潮社から刊行されたのもに加筆した、二〇〇〇年版です。
[#改ページ]
[#改ページ]
ほんの少しだけ、未来の物語
[#改ページ]
[#改ページ]
プロローグ
[#改ページ]
夏には珍しいくらいの星々が、天を埋めている夜だった。
もっとも、その星の輝きよりも何千倍の光に満ちた大通りを行きかう人々には、いつもと同
じ夜空だったろう。車道を行く車に乗る者には、なおのことだ。誰も空など見上げもしない。
夏休み最後の日ということもあるのか、町のメインストリートはやけに混み合っている。
その通りの中へ、細い脇道から一人の少女が飛び出してきた。
黄色いTシャツに、短パン姿。髪は頭の後ろに丸く結《ゆ》わえてあるが、解《ほど》けばかなりの長髪だ
ろう。ハイペースで走ってきた少女は、この雑踏《ざっとう》に驚いたように、急いで通りを横切り、路地
へ駆け込んだ。
小さく暗い街灯に照らされる路地を少し走ると、静かな住宅地になる。少女はその中にある
小さな公園に入っていった。
首にかけ、Tシャツの中に入れていたタオルを出し、額に吹き出す汗を拭《ぬぐ》いながら、屈伸運
動を始める。一時も休まず、深呼吸をしながら大きく腕を天に伸ばし、そして、少女の体が初
めて止まった。
「うわあ!」
満天の星。少女の目は、そのきらめきを映していた。
胸が何かとてつもなく熱いものにふさがれる。こんな星空を見るたびに、あきることなく繰
り返される感動だった。
あの星々の中へ行きたい。宇宙飛行士になりたい。それが彼女の夢だった。
少女の名は、氷室友美《ひむろともみ》。十六歳の高校一年生。
夢の始まりは、もう十一年も昔のことになる。
種子島《たねがしま》の祖父の家に遊びにいった五歳の夏の夜。嫌々《いやいや》見にいったロケットの打ち上げ。
何が起こるのかよく分からず、ただ眠かったその目の前で、とてつもない轟音《ごうおん》と閃光《せんこう》ととも
にゆっくりと、そして次第にその速度を増して天に昇るロケット。それは驚きを通り越し、恐
怖に近い存在だった。
すくむ友美をあとにして際限もなく上へ上へとあがってゆく輝き。どこまで行くのか、どう
して落ちてこないのか、その好奇心が、やがて恐怖に勝っていった。
『どこまでも行くんだぞ』という祖父の言葉。それがどんなおとぎ話よりも心に染《し》み入《い》った。
やがて、あんなに巨大だったロケットが星の海の中へと混じり、どれが星でどれがロケットな
のか見分けられなくなった時、友美には分かった。あれは、星へ行くための船なのだと。胸が、
今まで感じたことのない熱いもので一杯になっていた。
飛行機のパイロットになるという友美の夢は、この瞬間に変わっていた。
『友美、ロケットのパイロットになる!』
思わずそう叫んだ友美に、両親と祖父は笑って、あのロケットに人は乗れないが、スペース
シャトルのパイロットになら、頑張ればきっとなれると保証してくれた。
そしてロケットの中でスペースシャトルだけが、まるで飛行機のように星の中から飛んで帰
って来られるんだと教えられた。
友美の胸は、張り裂けそうなくらいにワクワクした。だったら、二つの夢が同時に叶《かな》うこと
になる。まるで、スペースシャトルのパイロットになることが、最初から決まっていたかのよ
うにすら感じられた。
だけどこの時、三つ年上の兄が、意地悪く言った。スペースシャトルのパイロットは、男に
しか無理なんだ、と。
喧嘩《けんか》になり、兄はひどく両親に叱《しか》られた。
その時はいい気味だと思った友美だが、今では兄の方が正しいことが分かっている。未だか
つて女性がシャトルのパイロットになった例は、一件もない。つけ加えるなら、アメリカ軍の
テストパイロット以外がなった例も……
両親たちは、別に友美を騙《だま》そうとしたのではないのだろう。当時、乗組員 ――ミッションス
ペシャリスト――として、日本人女性がシャトルで宇宙へ行ったばかりだった。パイロットも
ミッションスペシャリストも同じようなものだと思ったのだろう。
でもやはり、友美の言葉をまともに取り合ってくれていなかったのも、本当のところだ。
「もしも、あのおじさんに会ってなかったら……」
友美は目を地上にもどした。公園を取り囲む立派な屋敷を見回す。この町の何処《どこ》かに、こん
な大きな屋敷のどれかに、友美の夢がどうすれば叶《かな》うか教えてくれた先生がいるはずなのだ。
もしも、あの出会いがなかったら、幼い宇宙飛行士への夢が、今日まで続くなんてことはな
かっただろう。
多分、兄のマンガだと思う。それを見て、宇宙飛行士になるには体を鍛《きた》えねばならないと思
い込んだ六歳の夏休み、無謀にも一人でジョギングに出た友美は、きっちり迷子になった。見
知らぬ町で途方に暮れていた子供を助けてくれたのが、そのおじさんだったのだ。
彼は異常なほど痩《や》せ、背が高かった。少し怖い顔だが、目は優しかった。そして、六歳の友
美を子供扱いしない変な大人だった。
ゆっくりと歩く男のあとをついていくと、不意に不思議な場所に来てしまった。
絵に描いたような綺麗《きれい》な芝生《しばふ》の庭があった。そこには見たこともない熱帯の花や熟《う》れたバナ
ナの生《お》い茂《しげ》る大きな温室があり、その横に寄り添うように、やけに長細い蔵《くら》が二つ並んでいた。
その蔵の中には、山のような本や、動物の剥製《はくせい》、植物標本、世界中の砂漠の砂が入った硝子瓶《ガラスびん》
などが、溢れんばかりに詰め込まれ、友美はここが夢の世界ではないかと頬《ほお》をつねったほどだ。
まるで、宝箱の中のようなところだった。
そこで友美は、夢のような半日を過ごした。
温室のバナナや初めて見る熱帯の果物を食べながら、彼は色々な話をしてくれた。そのほと
んどを、友美は今でも、昨日のことのように思い出せる。
男の他には、泣き虫で鼻をたらした小さな男の子がいて、うるさくつきまとってきた。もっ
とおじさんの話を聞きたかった友美は、しつこいその子を、泣かせた覚えがある。
そして友美は、その蔵の奥に、大きな望遠鏡とスペースシャトルの模型を発見し、熱狂した
のだ。
『私、宇宙飛行士に――パイロットになりたいの! どうすればなれるかな?』
そう尋ねた友美に、男は真剣に考えてくれた。
『難しいよ』と、真顔で言われた。乗組員では駄目《だめ》なのかと聞かれた。
『駄目なの』と言うと、彼は苦笑し、答えてくれた。最低でも二十年はかかるかもしれない。
そして、いくら頑張ってもパイロットにはなれないかもしれないと。
友美は息を飲み、それでもなりたいと言い切った。するとおじさんは机の上にあったメモ帳
にすらすらと数行の文字を書き、手渡してくれた。漢字が多くてほとんど読めない。
『ここに書いたようにしていけば、可能性はある。でも甘くないよ』
彼は一度も子供扱いしなかった。それがとても嬉しかった。読めないメモを宝物のように大
事に握りしめて、おじさんが呼んでくれたタクシーで家に帰った。これから、もっと色々なこ
とを教えてほしいと頼んだ友美に、彼はいいともと笑って約束してくれた。
しかし『いつでもおいで』と言ってくれたおじさんの屋敷には、二度と行けなかったのだ。
あの日から、毎日のように、町を探し歩いた。迷子にならないよう、地図まで買って探したの
に、あの不思議な庭を見つけることはできなかった……。
それから、十年。友美はまだ探し続けている。
だから、あの半日が夢ではない証拠は、今では黄ばんでしまったメモ用紙だけだった。
大切に机の奥にしまってあるメモには、こう書かれであった。
1・体を鍛えること。特に平衡《へいこう》感覚が必要。視力はパイロットの命、大切に。
2・英語は必須。医学を含めた科学一般の広範な知識。コンピューターにも精通すること。
3・航空機免許取得を目指し、航空学校に進むこと。アメリカに留学できれば一層いい。
4・最終的にはアメリカに帰化し、空軍、海軍、あるいは海兵隊に入り、テストパイロッ
ト学校を目指す。しかし、今後の宇宙開発の経緯に注意すること。日米は宇宙開発を
共同で進めつつある。日本人のままでも、シャトルパイロットになるチャンスは、ご
くわずかながらある。
5・絶対に、希望を捨てないこと。
……このメモだけが、今日まで友美の夢の道しるべとなってくれた。
それから毎晩のトレーニングが始まった。いろんな都合で、夕方だったのがだんだん遅くは
なっているが、体力的にはかなりのものを維持していると思っている。勉強の方も、英語と理
数系では、誰にも負けたことがない。
あの不思議な一日で学んだことは、山のようにあった。他の生物と人間とが対等の存在だと
いうことも教えられた。ちょっと大袈裟《おおげさ》かもしれないが、気持ちとしては、人類と地球を救う
ため、自分ができることとして、宇宙飛行士を目指してきたつもりだ。
「けどなあ……」
吐息になる。その友美の心は、最近暗い。
あのおじさんとの出会い以来、宇宙飛行士になるのは自分の運命だと信じてきた。その信念
が、揺らいでいる。
小六の進路調査の時、『〜中学校進学』などの現実的な希望を書いた級友たちの中でただ一
人『第一志望、宇宙飛行士』と書き、それを教室で教師に読まれ、真面目《まじめ》に書けと睨《にら》まれた。
クラスの全員から笑われ、悪ガキどもがことあるごとに馬鹿にするようになり、それが卒業ま
で続いた。
当時、喧嘩《けんか》にも自信のあった友美だから、黙って馬鹿にされてはいない。だが、たび重なる
喧嘩は、乱暴者の印象を周りに植えつけただけだった。幼なじみの友人も、離れていった。
母の勧《すす》め通り有名私立中学を受験したのはそのためだ。そこから夢は、少し進路を外れてき
てしまった。友美は現実を気にするようになり、家族にも宇宙飛行士の『う』の字も出さなく
なった。そしてそんな夢を持っているなどとは、絶対に思われない人物になろうと努力した。
つまり、真面目で頭のいい、一流大学を目指す優等生を演じ始めたのだ。
それには成功した。友美は進学校で有名な私立高へトップの成績で入学し、模範的な優等生
として、クラスメイトや教師たちから特別扱いを受ける立場だ。こうやって毎晩、宇宙飛行士
を目指しハードな訓練をしているなど、誰も想像もしないだろう。中学時代は、その二重生活
が楽しくもあったのだが、もう沢山だという気がしてきでいる。希望していた留学が、父の猛
反対にあって駄目になったのも、おとなしい優等生の印象が、両親にまで染みついてしまった
せいかもしれなかった。
苛《いら》つく友美は、公園の鉄棒に飛びついていた。前転を始める。十回、二十回、猛烈な勢いで
回り続ける頭から、ピンが飛んだ。髪が解け、地面をほうきのように擦《す》る。友美は回転を止め、
足を前に投げ出すようにして、鉄棒にぶら下がった。
頭を振った。心底うっとうしい。長い髪なんか、本当は大嫌いだった。
しかし明日から二学期。また、長い髪の優等生を始めなければならない。
友美のむしゃくしゃは、思いのままにならない世間に飛び火した。
夢が遠のいた原因は、世界の宇宙開発の現状にもあった。
日本のバブルがはじけ飛んだのに続き、すぐこの前まで超好景気を謳歌《おうか》していたアメリカ経
済までが崩壊。おかげで新型シャトルは開発中断。国際宇宙ステーション計画も、大幅な延期
が決定してしまった。
現在、有人飛行を行っているのは、アメリカとロシアのみ。しかし今の友美は、通常のロケ
ットにおけるパイロットの役割が、コンピューターの監視役に過ぎないことを知っていた。友
美が操縦してみたいのは、やはりスペースシャトル以外にない。
だが、おじさんが書いてくれた通り、ミッションスペシャリストならともかく、パイロット
になれるのは、基本的にアメリカ人だけ。現状ではアメリカ人になる以外、夢を叶える道はな
かったが、外国人がアメリカ市民権――グリーンカードを得るのは、ただでさえ難しくなる一
方だった。それが、あの経済崩壊で更に……。
思わず吐息になる。歳《とし》を重ねるにしたがって、現実が見えてくる。その中で大きな夢を見続
けることが、いかに大変なことかを、最近、友美は実感していた。
おじさんに会って、どうすればいいか教えてもらいたかった。しかしその反面、今の自分を
――夢を追うことを諦めかけている自分の姿を彼にだけは知られたくない思いもある。
「……お金が欲しいなぁ」と、友美はつぶやいて、地上に降り、髪留めを探した。
お金さえあれば、純粋に夢を追いかけられる。
例えば、三百億円あれば、スペースシャトルでも買えるのだから。
ピンは、鉄棒から十メートルも離れたところに落ちていた。その場で、友美はひょいと逆立
ちする。あれほど回転した直後なのに微動だにしない。
地面とその上に落ちたピンを見つめながら、ぽつりと言った。
「家の庭からUFOでも、出てこないかな」
そうすれば、最低でも何兆円という金額で売れるはずなのに……。
これはそう虫のいい話でもなかった。立派に前例がある。
三年前のことだ。
日本のとある山中で、外宇宙から来たものと思われる全長百五十メートルの宇宙船が発見さ
れた。約五千年ほど前に落下したものらしい、少し破損しているだけの完全な状態だった。
世界中が大騒ぎになった。何せ、初めて一般に確認された地球外文明の所産だ。全世界のマ
スコミと科学者は、大挙して日本に押し寄せ、本格的な調査にかかろうとした。
それに待ったをかけたのがその宇宙船の発見者であり、なおかつその山の所有者でもある女
性だった。当然、法律上その物体は彼女のものなのだ。
日本政府は強制的に彼女から宇宙船を買い取ろうとし、全世界の非難を浴びた。彼女は国に
宇宙船を売るつもりのないことを告げ、そして国連で調査研究組織を作り、そこに買ってもら
いたいと要請したのだ。
素晴らしい申し出だった。
何といっても人類よりもおそらくは、遙かに進んだ文明の結晶ともいえるものだ。それを研
究し、分析することで、何十年――あるいは何百年も先の技術が手に入るかもしれない。そん
な超技術が特定の一国に渡って、他の国々が黙っているはずもない。技術力の差は軍事力の差
ともなる。一つ間違うと世界大戦にもなりかねない大問題なのだ。
世界は諸手《もろて》を上げてその申し出を歓迎した。
ただし。彼女がその金額を提示するまで。
一兆ドル――日本円で、約百兆円……。
それが彼女の要求した金額だった。
『世界の人口で割れば、一人たったの百ドルです』と彼女は言い、全世界はあっけにとられた。
あまりにも桁外《けたはず》れな金額だ。世界一の金持ちといわれたブルネイ国王でさえ、資産数兆円であ
る。日本の国家予算に近いそんな大金を、おいそれと出せるわけがない。
世論は一斉《いっせい》に彼女を叩いたが、彼女は一歩もゆずらなかった。そして、結局折れたのは世界
の方だった。その頃はまだアメリカ経済も元気だったし、それだけの値打ちはあると判断した
のだろう。とにかく百兆円は支払われた。しかも『無税』で ( 当然だろう。税をとるのは日本。
支払った他の国が黙っていない ) 。
しかし世界が無理をして買ったその宇宙船は、売買契約がおこなわれたわずか数日後に永久
に消え失せてしまったのである。
どうしても中に入ることができないため、入口らしき場所を爆破。ようやく開いた内部に突
入した直後、完全に壊れていると思われていた宇宙船がいきなり活動を始め、まるで生き物の
ように内部にいた人間を吐き出すや、猛烈な勢いで飛び立ってしまったのだ。
宇宙船は大気圏を抜け、そして、数時間の後、大爆発とともに消滅した。
強行突破した人々の手に残されたのは、外殻の一部と、用途不明の器具が数点。そして乗員
( 人間とほぼ同じタイプと、より小型――子供という説もある――の二種族が乗っていたらし
い ) の衣服が数着のみだった……。
世界の非難は強行手段に出た調査団に集まった。しかし内部告発から、これが日米両政府の
指令であったことが発覚。大統領と総理大臣の辞任というおまけまでつき、この大騒動は終わ
った。
事件のあと、世界は地球外文明の存在を認めざるを得なくなり、国連宇宙委員会《UNSC》が設立され
た。数少ない宇宙船の遺物を分析していた調査団は、そのまま国連宇宙開発機関《UNSDO》となり、今も
研究を進めている。
今年の初め、UNSDOは二十一世紀に向けた宇宙計画を発表した。進化 計画《EVOLUTION PROJECT》と名づけ
られた人類が宇宙進出するためのプロジェクトだが、新聞でもテレビでも、ごく小さな扱いで
しかなかった。
友美としては是非とも実現してほしい計画なのだが、この反応は当然だろう。
ロケットに代わる画期的な打ち上げシステムや全長数キロの宇宙ステーションなど、構想は
壮大だったけれど、財政難で人件費も払えない国連にできる計画ではない。
更に、同時に発表された『予測』が、人々の関心を遠ざける要因になっていた。
このままのペースで環境汚染が進むなら今世紀の終わりか二十二世紀の初頭――張り詰めた
糸が切れるように、核の冬に匹敵する環境の『大崩壊』が発生すると、UNSDOは指摘。そ
の『大崩壊』を回避するには進化計画を今すぐにでも推進すべきだとしたのだ。
しかし、現在、エコロジーは着実に浸透しつつあった。環境対策、クリーンエネルギー開発
は進み、燃料電池自動車も、すでに街を走っている。みんな、それで充分だと考えていた。
『大崩壊』など起きるはずがないというのが、人々の率直な感想だった。
友美もそう思う。
百兆円をその手にした女性は、現在ニューヨーク在住。金利を運用し、今はディズニーワー
ルドに匹敵するレジャーランドを、南太平洋の海上に建設中だということだ。
現在の世界経済と宇宙計画の遅延には、あの事件が影響していないはずはなかった。そのこ
とを考えると、友美もおだやかな気分ではないが、彼女が悪いわけではない。多くの人々が今
も言うように、代金を返すべきだとも思わない。もしもあの宇宙船さえ無事だったら、今頃、
宇宙開発は画期的な時代を迎えていたかもしれないのだから。無茶苦茶にしたのは、政治家連
中だった。弁償すべきなのは彼らである。
逆立ちしたままだった友美は、ゆっくりと両足をつき、砂のついたてのひらをはたき、ピン
を拾い上げ、髪を留めた。
目の前に見慣れたお屋敷が現れる。この高級住宅街でもかなり古びた純日本風邸宅だが、
主《あるじ》は意外にも、斬新な未来設計で世界的に有名な建築学者だという。
「このお屋敷なら、十億にはなるんだろうな……」
いや、二十億にはなるだろう。それだけあれば、宇宙へ出ることだけなら、できなくもない。
ロシアのソユーズで。
「もう、いじましいんだから……」
友美はブランコの支柱に額をぶつけた。ゴンという重い音とともにブランコが揺れる。小学
生時代には必殺技だった頭突きも、使わなくなって五年になろうとしていた。
大きく伸びをし、もう一度空を見上げる。
ごたごたとややこしい人間社会とは、別の世界がそこにあった。
胸が騒ぐ。やはり、宇宙飛行士になりたいと思う。
友美の未来はくすんだ色に霞《かす》み始めていたが、まだ諦めるには早すぎる。
そう、おじさんのメモにあるように、希望は絶対に捨てない。
「えっ?」
不意にその瞳が、いぶかしげに曇った。
「星が……」
友美が見つめる夜空。その中に輝く星々の数が、見るまにどんどん増えてゆく。
「流星雨?」
だが昨夜|覗《のぞ》いた天文のウェブサイトには、流星雨の情報などはなかった。大体、流星なら光
の線を夜空に引くはずだ。これは単に数が増えているだけだ。
当惑しながら、この不思議な現象を見つめるうち、増え続ける星々が急速に近づいているよ
うな気がし始めた。錯覚ではない。光度を増し続ける一つの星を見すえた数秒後、小指の先ほ
どの光点と友美は向かい合っていた。
小さな星は、またたきながら目の前で浮かんでいる。まぶしいほどの輝き……。
驚きで声も出ない友美の両手が、ゆっくりとその星をつかもうと顔の前に上がる。
丸めたてのひらが、あっけなく小さな星を閉じ込めた。
指の隙間《すきま》から細い光がもれている。熱くも冷たくもない輝きが。
「……星を、捕まえちゃった……」
信じられないことがおきている。胸がドキドキと高鳴ってきた。
友美は、そーっと親指同士の間を広げて右目を近づけた。
いた! てのひらの中はまるで昼の明るさだ。
と、いきなりだった。その小さな星は、細い親指の隙間をするりと抜けたかと思うと、まっ
すぐに友美の顔に突進してきた。
「きゃっ!」と、たまらず目を閉じ顔をそらしたが、額に軽い衝撃を感じた。
反射的に右手が額に舞う。ばちんという高い音が公園に響いた。おもいっきり叩いてしまっ
た友美は、その勢いでしりもちをついていた。
「たーっ……」
あまりの痛さに涙がにじんでいたが、右手は額に張りついたままだ。捕まえたという自信が
あった。ところが額のしびれが取れてきても、何の感触もない。
友美はできるかぎり目を上に向け、そーっとてのひらを上げていった。
一筋の光も見えない。つぶしてしまったのかと思いながら、更に手を額から離す。
「え?」
何もなし。まったく何も。てのひらにも額にも、ごみ一つとしてくっついていなかった。街
灯の近くに立つカーブミラーのところまで走ったが、叩いた額が少し赤くなっているだけだっ
た。
「幻覚?」
不安が心をよぎる。大体こんなことが現実にあるなんて、話にも聞いたことがない。思わず
天を仰ぐと、あの小さな星々が驚くほど数を増し、地上に降り注ぎ続けているのが見えた。
光り輝くぼたん雪が、降ってくるようだった。
綺麗だった。次々と降る星々は、明かりのついた家やマンションの窓に消え、あちこちから
人の驚く声が聞こえ始めている。
幻覚じゃないと、その騒ぎを聞いた友美はほっとした。
でも、では、一体何なんだろう?
友美は、音もなく飛びかう星たちを見つめた。
その数が、急速に減ってゆくのに気づく。
不思議な星降りは、早くも終わりかけていた。
「なんだ……」
ちょっとがっかりした風に、友美は空を見上げてつぶやいた。
「もうおしまい?」
とんでもなかった。
[#改ページ]
一日目
[#改ページ]
目の前に古びた漆喰《しっくい》の壁があった。
六歳の友美には、それがあのおじさんの家の、蔵の中だと分かっていた。
これは夢。なつかしい、何度目か分からない、あの屋敷の夢だ。おじさんが横にいて、ずっ
と話していたことに気がついた。温室から取ってきたバナナの香りがきつい。
おじさんはロケットの話をしながら、リスやら狸《たぬき》やらの剥製《はくせい》の埃《ほこり》を払っていた。
『かわいそう』と、友美が言うと、おじさんは大きく首を振った。
『大丈夫、これは全部私が食べた動物だからね』
その笑い顔を見ていると、いきなりほっぺたをパチンと叩かれた。出た! 鼻をたらした泣
き虫チビだ。いつも夢の中で悪さをするのは、こいつだった。
『何すんのよ!』と、友美が仕返ししようと手を上げると、男の子は取った蚊《か》を自分の口に放
り込んだ。
友美は悲鳴を上げ、男の子の口を無理やりこじ開けようとした。
鼻たれが泣き出し、おじさんが笑った。
『いいんだ。その蚊はその子が殺したものだ。食べる権利があるよ』
『食べる権利?』
『そう、人が食べるものは、肉にせよパンにせよ、元は全て生き物だ。植物以外の生物は、他
の生物の命を食べて生きている。そして、一度死んだ命が二度と戻らないのは、人間も他の生
き物も同じだろう?』
友美はうなずいた。
『だったら、殺す以上は、食べるのが礼儀だと思わないか? 食べればその死んだ生き物は、
自分の一部になる。つまり死が無駄に終わらないってことだ。言い換えれば、食べないものな
ら殺さないというのが、生き物の掟《おきて》だな』
その生物の掟を破っているのが、人間だと友美には分かった。感動しているその目の前に、
蚊で作った大きな団子《だんご》がにゅっと出てきた。
鼻たれだ。満面の笑みで、生きて蠢《うごめ》く蚊団子を差し出している。
これを食べなきゃならないと、夢特有の不条理さで迫ってくる。
『ちょっと多いよ』と、思わずぼやいた。今年も去年も二匹で済ませたのに。蚊は美味《おい》しくな
いのだと思って、ふと気がついた。
なぜ知ってるのだろう。蚊を食べたことがあるのか? あるような、ないような……。
悩んでいると、鼻たれが壁を叩き始めた。さっさと食べろというのだ。
気がつくと、蚊団子がハエ団子になっている。
背筋が寒くなった。思い出した。ハエは一度食べたことがある。中一の時だ。あれは本当に
気持ち悪かった。え? 今、自分は六つだろう。どうなってるんだ?
ドンドンと、うるさいほどに壁を叩く。
「分かった。食べるって!」
やけくそでそう言った途端、目が覚めていた。
数年前に改装する際、洋間にしてもらった友美の部屋のドアが乱暴に叩かれている。
現実にあったことと非現実とがごちゃごちゃになった夢だった。あのハエ団子を食べずに済
んでほんとに良かったと思いながら、枕元の時計を取った。
「五時?」
まだ朝の勉強時間まで三十分もある。四時間半しか寝ていなかった。
友美は溜《た》め息をつき、両手で顔をこすった。そのまま立ち上がろうとして、動きが止まる。
指に妙な感触。
柔らかいような固いような、熱いような冷たいような、何ともいえないものが、額にできて
いる。何かがくっついているような違和感はないのだが、凹凸に富んでおり、瘤《こぶ》にしては変だ
った。そもそも痛くない。
友美はベッドから出て、明かりをつけ、壁の鏡を見た。
完全に目が覚めた。前髪を上げた手の下に、つけた覚えのないものがついていた。
綺麗な装飾品だ。縦二センチ横一センチというところだろう。四つの部品でできている。一
番大きなものは、紫色の楕円形をした透明な石で、長さが一センチ以上ある。その真下にある
まん丸の石は、トルコ石のようなブルーで半透明。そしていびつな形のルビーのような真っ赤
で透明な石が、楕円《だえん》と丸の石の繋《つな》ぎ目の両脇を飾るようについていた。全体的に『!』マーク
に似ていなくもない。
それが額のちょうど真ん中に、ぴったりと張りつけられていた。接着部分には、黒いラバー
のような緩衝材《かんしょうざい》まで使ってあって、顔の筋肉を使っても痛くも突っ張りもしない。
「よくできてるなぁ」
友美は正直、感心していた。兄のいたずらに決まっているが、それにしても上手《うま》くできてい
る。額にびっくりマークとは、兄にしてはいいセンスだ。
と、ドアの外では、その大学生の兄と母親の、何だか激しい言い争いになっているようだっ
た。
友美はドアを開き、廊下に出た。そこには父もいる。どうも兄の方が劣勢らしい。
母の肩越しに見える兄――幸雄《ゆきお》に額を指差して言った。
「兄さん。良くできてるね、これ」
途端に三人の鋭い視線が友美に集中する。その全員の額にも『!』マークがついていた。
「いい歳をして馬鹿な悪戯《いたずら》はやめろ。何を考えてるんだ」と、父が兄に怒鳴った。
「俺じゃないって! 何度言えばいいんだよ!」
「兄さんじゃないの?」
「俺じゃない!」
途端、友美の脳裏《のうり》に昨夜の出来事がよみがえっていた。家に帰ると、全員がいきなり飛び込
んできた星が額に当たったと興奮していたことを。
「昨日の星!」
友美の声に、「それだ!」と、幸雄も応じた。
「テレビ!」
全員が階段を駆け降り、居間に走った。素早さでは一番の友美が、コントローラーのスイッ
チをONにする。
五時前だというのに、アナウンサーの緊張した顔が映っていた。その背景に、額の物体が大
アップで映し出されている。
「音量を」と、市の警察署長を務めている父が、充電していた携帯電話を取りながら、緊張の
面《おも》もちで友美に命じた。
アナウンサーの声が怒鳴り声に変わる。
『……以上のように、アメリカでは未確認ですが60%近い人々の額に、この物体が付着してい
るものと思われます。日本でも、おそらくそれに近い数の方々の額に、同様の物体が付着して
いる可能性があります。原因としては、日本時間で昨夜の七時頃、アメリカでは明け方に降っ
た未確認物体の影響という説が有カで――』
「署に行くよ。早くも電話が殺到してるらしい」
父が電話を切り、テレビに目をやった。
『現在までのところ、アメリカにおいてはこの物体の直接的な原因による死者、病人は出てい
ない模様です。アメリカ政府の公式見解はまだ発表されておりませんが、さしあたり命にかか
わる影響はないという意見が、医師、生物学者から出ています。どうか落ち着いて、冷静に対
処をお願いします』
「落ち着くなんて、できますか! これ、虫じゃないの!」
まだ生物とも断定されていないのだが、虫なら何でも苦手な母は、そう断定して身震いした。
着替えにいこうとする父を、もう少しいてくれと引き留める。
『また、どうしても取り除きたい場合は、簡単な手術で除去可能だそうです。ただし表皮を剥
がすことになるため、医師としては安易に勧められないということで――』
「どうしようかしら。跡が残る可能性があるわけね?」
「命には別状ないと言ってる。大体、綺麗なもんじゃないか。そうあわてて取ることもないだ
ろう」
パニック状態になりかけている母を、父はなだめながらパジャマを脱いだ。
友美と幸男は、無言でニュースに見入っている。アナウンサーは、この物体の正体について
のコメントを紹介し始めていた。星が降る数時間前、各地の天文台が宇宙での謎の発光を観測
したらしい。物体との関連性を、緊急に調査中だそうだ。
「やっぱり宇宙から来たのか……」
友美には納得だった。なんせ自分は降ってくるところをこの目で見たのだから。
テレビで物体がアップになって映し出される。本当に、綺麗だ。友美は自分の物体に触れて
みた。これを兄が作ったと一時でも思った自分が許せない。どこで見つけてくるのか知らない
が、大昆虫シリーズとか、人体骨格とか、内臓シリーズ等、妙なプラモデルを捜すのは名人級
だけれど、作る腕はせいぜい二流。下手の横好きに近いのだから。
毎晩夢にまで見る宇宙、そこからやってきた物体――それだけで友美にとっては気味の悪い
ものではなかった。指で輪郭をなぞると、何だか楽しくなってくるくらいだ。
「あ、指紋ついたかな」と、完全にこの物体が気に入り、パジャマの袖で拭ってやっている妹
に、兄はため息をついた。
「……お前ね、仮にも物体Xさまなんだぞ。ちょっとは敬意を表して怖がれよ。母上みたいに
パニックせんでもいいけど」
友美が「敬意?」と問い返すと同時に、母が娘の腕を乱暴につかんだ。
「友美っ! 病院へ行くわよ。お父さんが署に行く途中、寄ってくださるの! 支度《したく》なさい。
さ、早くっ!」
「待ってよ。あわててもまだ病院開いてない……」
そして友美は、母の額に、ある発見をしていた。
「よく見たら母さんの、テレビや私のと色が違うね。丸い目がピンクだ」
「友美っ!」
余りにものんびりした娘に、ついに母の理性が飛んだ。
「あなたは何でそうなのっ! 毛虫やら蛙《かえる》やらイモムシやら蛆虫《うじむし》やら、ましてこんなものまで
何だって好きだなんて、ただのへンタイじゃないのっ!」
「ひどいな。母さんも昔言ってたでしょ、生き物は何でも平等だって」
「う・る・さ・い! さっさと来なさい!」
母は友美の手を、思いっきり引っ張った。
あわてて父と兄が止めに入り、二人がかりで友美から引き離した。
「離して。こんな、こんな気味悪いもの、もう一分だって一秒だって我慢できないわ!」
母がそう怒鳴った直後。
ぼろっ……。
爪も入らないほどピッタリとついていた物体が、何の抵抗もなく額から離れていった。
続いて床に落ちて鳴ったカランという微かな音とともに、皆が下を向く。
物体はその裏側を上にして落ちていた。そこには昆虫の腹のような横縞模様が彫《ほ》り込まれ、
いかにも不気味に照り輝いている。
突然の出来事に一同が硬直している中、友美はしゃがみ込み物体を拾い上げた。
「やっぱり虫だったのよ……」と、母が半ば放心状態でつぶやいた。
「……するとこの宝石っぽいのは目か? でも、何で急に落ちたんだ?」
幸雄は自分の額に触り、物体がびくともしないことを確認した。
「けっこう気が弱いのかも」と、友美が言った。
「じゃ、拒絶すれば取れるのか? そういう生き物? 何だろうな、本当に……」
幸雄は眉を寄せた。確かにこれは宇宙生物に違いなさそうだ。しかし、拒絶すれば取れるな
ら、どう転んでも大した危険はなさそうに思える。
「でも、取った方がいいんだろうな。友美、お前取る気に……ならんな、絶対に」
幸雄はそう言って寝不足の目をこすった。我が妹ながら変わったやつだ。ボーイフレンド、
おしゃれ、アイドルに、コンサート。十六歳の女の子が興味を持って当然のものに全然興味を
示さない。優等生として近隣の高校にまでも名前が通っているらしいが、家ではそんな素振り
はない。虫や動物にも強く、気分としては弟を持っているのに近かった。
しかし、この妹はやたらに勘《かん》がいい。クイズでも事件でも、友美がこうだと言い切った時に
は、十中八九その通りになる。幸雄もそれには感心していた。
「大丈夫だって勘がはたらくわけか?」
が、意外にも友美は考え込んでしまった。
「分からない。でも、ま、大丈夫なんじゃないの? こんなに綺麗なんだから」
父が出かけ、母がやっと落ち着いた頃、この物体の『被害』が、全世界に及んでいることが
確認され始めていた。
日米の他、全ヨーロッパ、中国、オーストラリア、アフリカと、物体発見とそれによって引
き起こされた社会不安と事件のニュースが、キャスターを錯乱させるほどの質と量で報道部に
雪崩《なだれ》込みつつあった。
できれば一日中テレビにかじりついていたかった友美だったが、残念ながら今日から二学期
が始まる。自主休講を宣言した大学生の兄を睨《にら》みながら、玄関を出た。
近所の会社員が、液晶テレビを見ながら歩いていく。朝の日差しの中で、その男性の額にも
物体が光っていた。
自転車に乗り、ペダルを踏む。学校まではほぼ四キロ。電車でもバスでも通えるが、トレー
ニングを兼ねて、雨降りの日以外は自転車通学にしていた。
心が騒いでいた。わくわくするような気分。頬をなぶる長い髪も気にならなかった。何か素
敵なことが起きるという予感がしていた。この額の物体が、いつもと違う世界を連れてきてく
れるような。
朝の町は物体のせいか、あわただしい雰囲気に包まれている。
涼しい風が吹き抜けていた。不思議なほど気持ちがいい。ビルや家が隙間なく建ち並んだ町
ではなく、高原の大自然の中を駆け抜けているような気分だ。
いつも見慣れているはずの町並みまで、少し違って見える。いや……。
友美はゆっくりと、ブレーキをかけた。
「少しどころじゃない……」
道路も家並みも、いつもと全く変わっていない。しかし、何かが根本的に違う。
首をかしげて視線を上げ、ビルの間から遠くに霞む山々を見た。
友美は目を見張った。遥かに遠く、霞《かす》んでしか見えないはずの山々が、まるで望遠鏡でも覗
いているかのように、その細部までくっきりと観察できた。
しかも不思議なことに、それは山のその部分だけが拡大されているのではなかった。目に映
る全てのスケールは全く変わっていないのに、意識を集中した場所のみが、手に取るように見
えるのだった。
今までに全く経験したことのない感覚だった。
友美は視線を町並みに戻し、ようやく違和感の正体に気づいた。
「目が――視力が上がったんだ!」
町は何も変わってはいなかった。目が突然良くなり、今まで気づかなかった細かなものまで
が見えるようになっただけなのだ。
宇宙飛行士志望の友美の目は悪くない。両目とも2.0はあるだろう。その倍で4.0? でも、だ
からといって、ことによれば数十キロ離れた山が、こうもくっきりと見えるのは変だ。だとす
れば原因は……。
友美は、そーっと額の謎の物体に触れてみた。
指が物体を覆うとともに次第に世界がくすんでいった。色も形も、ぼんやりとぼやけ、山々
はほとんど見えなくなってしまう。
驚いて手を離すと、再び別世界のような町がよみがえる。
友美は息を詰め、実験を繰り返した。結果、物体の四つの目のうち、その下部に付く二番目
に大きな青い目が、視力の増幅をしてくれているのを確認した。
「すごいや……すごい!」
興奮のあまり体が震えた。まさかこんな力をくれるものだとは、夢にも思わなかった。物体
の目で見た町は、まるで別世界だ。自分の目だけで見た光景が、平面に描かれた絵のように思
える。
「普通の映画と、3D映画の違い以上だな」
驚きと興奮ではち切れそうになった友美の目が、緑色の輝きを発見した。
ビルの建ち並ぶ見慣れた一角にある改築したばかりの神社の横――そこにこの町最後の竹林
がある。緑が溢れているのは、町中でもここくらいだろう。その緑がエメラルド色に燃え上が
り、まるで友美を招くかのように、目に飛び込んできた。
朝の光が竹林の中に射し込んでいた。
それが太い孟宗竹《もうそうちく》の稈《かん》に乱反射し、淡い緑の輝きが目に映る限りの世界を染めている。竹は、
一メートルほどの等間隔で整然と並び、下草の類は全くなく、ただ、白く枯れた竹の葉が、一
面に降り積もった雪のように地面を覆いつくしていた。
風が、竹の葉をざわめかせて渡ってゆく。
竹の芳香が、体全体から染み込んできそうだった。
ここへ来たのは初めてではない。この場所を登下校に使う友人に教えてもらって以来、遠回
りして通ることも少なくなかった。しかし、ここまで綺麗な場所だとは感じなかった。竹林の
中を歩いていると、現実ではないような気さえする。
頭の芯《しん》がぼうっとしてきた友美の耳に、何か妙な音が聞こえてきた。
最初は風の音かと思ったのだが、竹林の中を進むにつれ、その音は段々と大きくなる一方だ
った。
「……ぅぅぅぅぅぅ……んぅぅぅぅぅぅぅぅ……」
と、何か捻《うな》っているような音が、確かに聞こえてくる。
友美は少し用心しながら歩いていく。音は、次第にはっきりとしてきた。舗装《ほそう》されていない
土の道。その横手からだ。
押してきた自転車のスタンドを立てる。
「どっかで聞いたこと、あるなあ……」
まだ時間も早い。行ってみることにした友美は、竹の枯れ葉を踏み、稈の間を進んだ。
別天地のように美しい竹林に、えげつなく汚いものが落ちているのが見えた。異音はそのも
のが発しているようだ。
「んぐぉぉぉぉぉぉぉ……ぐぉぉぉぉぉぉぉ……」
友美は呆れてその音源を見下ろした。物体によって増幅された視力が、今だけは恨めしく思
える。こんなのをはっきりとなんか見たくなかった。
聞いた覚えがあるはずだ。怪音の正体は、クラスメイトのいびきだった。
枯れ葉の上で、この上なく幸せそうに眠っている少年には、相沢《あいざわ》広樹《ひろき》という立派な名前があ
る。しかし、誰一人として、その名を呼ぶ者はいない。
寝太郎(正確には、三年寝太郎。一説には五年とも十年ともいわれる)――それが、彼の呼
び名だった。成績は当然のように良くはない。ざんばらで不潔《ふけつ》な髪、今時珍しい継ぎの当たっ
たズボン、よれよれのワイシャツ、そばに寄るとかなり臭かった。授業はよくサボるし、出て
きても寝ているだけ。クラス、いや、有名進学校である高校にとっても、彼は厄介者《やっかいもの》になって
いたが、彼の祖父が理事長の親友だということで、退学にするわけにもいかないのだという。
その見かけによらず、いいところの坊ちゃんらしい。
新入生総代だった友美は、当然のように委員長をさせられ、クラスの問題として、寝太郎の
更生に協力してくれと担任に頼まれた。友美はクラスに溶け込まず、自分勝手に行動する寝太
郎が大嫌いだったが、『優等生』が断るわけにもいかず、一学期の終わりから隣の席で、悪臭
と戦ってきたのだ。
「……また今日から、寝太郎の横か……」
思わずため息が出る。金持ちだという噂《うわさ》が本当なら、せめて風呂《ふろ》くらい入れと思う。九月と
はいえ、まだまだ暑い日は続くのに。
それにしても、どうしてこんなところで寝ているのだろうと、ようやく疑問が湧いてきた。
よく見れば、足元に鋤《すき》が落ちている。物体がついた顔には、泥の乾いた白い跡が残っていた。
穴でも掘っていたのか?
やれやれとしゃがんだ友美は、枯れ葉を拾い上げ、寝太郎の鼻の穴をくすぐった。
「ええーっくしっ!」
大きなくしゃみを連発した寝太郎は、半身を起き上がらせ、ぼけっと友美を見た。
「夢だな……委員長がこんなとこにいるわけない」
思わず怒鳴りそうになるのを堪《こら》え、友美は首を振った。
「夢じゃないわ。おはよう、寝太郎くん」
友美は意識して、優等生口調に変える。一月《ひとつき》ぶりなので、少しぎこちなかった。
ようやく目覚めたらしい寝太郎の目が、じっと友美から離れない。
髪の毛で半分隠れたその顔に、笑いの表情を見つけた友美は、ちょっと頭にくる。物体を笑
われたのだと思った。しかし、兄も渋々認めたように、結構似合っているはずだ。
「何なの?」と聞くと、寝太郎は、声を出して笑い始めた。笑いながら汚い泥だらけの両手で、
顔をこする。ぶわっと正体不明の粉が舞った。
あわててあとずさる友美の見守る中、その手が止まった。額に発見した異物の輪郭をなぞっ
てゆく。
「何だ、これ……」
「今、私のを見て、笑ってたでしょ」
「あ、委員長にも、ついてたのか」
友美は完全に頭にきた。では、さっきは友美自身を見て笑ったのか?
不機嫌さを抑え切れずに、友美は寝太郎を睨みつけた。
寝太郎は欠伸《あくび》をしながら、「昨日の星だな」と、つぶやいた。どうやら彼も星降りを見たら
しいが、「こら大事件だな」と言う口調には、全く緊迫感がない。
友美は苛々《いらいら》してきた。学校中で、友美にこんな態度をとるのはこいつだけだ。それがたまに
彼女の芝居を見抜いているように感じられる時がある。気のせいに違いないのだが、その意味
でも側にいたくない奴だった。
「そういうこと。でも、こんなところで寝てるのも、事件といえば事件よね」
つい意地悪な言い方になった友美を、寝太郎はどきっとして見上げた。
「先生に言うのか?」
「私は、先生に寝太郎くんのことを頼まれてるの。場合によっては話すわ」
「まいったなぁ……」と、寝太郎は頭をばりばり掻《か》きだした。もうもうと、ほこりとフケが飛
散する。友美は更に数メートルあとに飛び下がった。
「頼むよ。爺《じい》さんに、今度学校に呼ばれたら、退学だって言われてんだ」
「分かった! 言わないから、掻くのやめてっ!」
そう友美が思わず怒鳴った時だ。後ろの道の方から、「誰かいるのか?」という声が届いた。
「あれ? 氷室さん!」
現れたのは同じクラスの二人だった。一人は宮田《みやた》直人《なおと》。クラスの副委員長だ。それはクラス
で友美の次に成績が良いことを示していたが、彼が優秀なのは頭だけではない。学校の中で唯
一、他校に威張《いば》れるだけの成績を上げているサッカー部で新入生の中、ただ一人レギュラー入
りを果たしているのがその証拠だった。背はすらりと高く百八十近い。切れ長の目、公卿《くぎょう》のよ
うな顔立ちがタレントっぽく、二年の女子が作ったファンクラブまであるそうだが、結構、男
子にも人望があった。意外な場所に友美を発見して、喜んでいる。
「おはよう、氷室さん」と笑ったのは、同じ茶道同好会の仲間でもある松本《まつもと》洋子《ようこ》。長い髪を三
つ編《あ》みにしている。見かけはおとなしそうだが、明るく、きちんとした意見を持っている頭の
いい女の子だ。成績も良く、もし直人がいなければ、副委員長だったろう。この竹林を教えて
くれたのは、彼女だった。
「おはよう」
挨拶《あいさつ》した友美は、二人の額にも物体を見つけて、少しほっとした気分になった。
「何だか、すごいことが始まったみたいね」
洋子がそう言って、額の物体をつつく。
友美はうなずきながら、「どうしたの、それ」と、洋子の腕を見る。二の腕が、痛々しいほ
ど赤く腫《は》れ上がっていた。
「蚊に刺されたの。四日前に」
「蚊?」
「蚊アレルギーなんだ、こいつ」と、直人が言った。
この二人は、家も隣同士の幼なじみだった。
「でも寝太郎と何してたんだ、こんなところで」
ちょっと責めるような口調で、直人が友美に尋ねた。
「それを今、聞いていたの」と、友美はまた欠伸している寝太郎を見下ろす。
「ここで寝ていたみたいなの、彼」
呆れる二人の前で、のっそりと寝太郎が立ち上がった。
「おい、俺たちはお前の監視役だ。はっきり言えよ。竹の子でも盗んでたのか?」
詰問《きつもん》口調の直人に、「九月に竹の子が生えるかよ」と、寝太郎が笑った。
「じゃあ何?」と、友美が聞く。
三人に近づいた寝太郎は、その問いには答えず、いきなりパチンと洋子の頬を叩いた。
「何する!」
気色《けしき》ばむ直人に、寝太郎は手を広げて見せた。一匹の蚊が死んでいる。
「ここら辺は結構、蚊がいるぞ。早く出た方がいいと思うけどな」
手に蚊を握ったまま、寝太郎は鋤《すき》を拾って歩き出した。
「待ちなさい。どうしてここに寝ていたのか、まだ聞いていないわ」
友美の声に寝太郎は、「先祖の隠した宝探し」と、答えた。
「委員長、約束したぞ。見つけたら見せるから先生に告げ口だけはしないでくれよな」
全員がぽかんとなった隙に、その姿は竹林の奥に消えていた。
「近隣のエリートが集《つど》う我が校の生徒が、宝探しとはね……」
直人が長々と溜め息をついた。
「あいつは、商科か専門学校に行きゃよかったんだ。いや、穴が掘りたいなら土木科だな
……」
洋子はクスクス笑いながら、直人に言った。
「仕方ないわ。どんな学校でも、アウトサイダーの一人はいるわよ」
その時まだ友美は、寝太郎が消えた場所を睨んでいた。
宝探し? あいつは自分の年齢を知っているのだろうか。そんな馬鹿げたことを平気で言っ
て、平気でクラスから孤立している。それは、寝太郎が強いからなのか?
友美はあわてて首を振った。あれはただの変人だった。
「行きましょ。今日はこの物体のこともあるし、早く登校しておいた方がいいと思うの」
友美は言い、二人の先に立って竹林の中の道へと戻った。
刑務所のような高い塀《へい》が竹を透《す》かして見えていた。そこは地元の人から化け物屋敷と噂され
る、竹林の中の一軒家だ。時代劇に出てくるような門は、百年も開いたことがないらしい。む
ろん誰も住んでいないし、三メートルもある土塀の中がどうなっているのか見た者もいないと
いう、謎の屋敷だった。
一時、ここがあのおじさんの屋敷ではないかと疑ったことがある。しかし、どう考えてもこ
の場所は遠すぎた。家から四キロ近いのだ。第一、これほど不気味な雰囲気ではなかったはず
だ。そして、たった一度おじさんの家に入った時は、裏口からだったような記憶がある。この
化け物屋敷の周りには、そんなものはなかった。でも、もし入れるのなら、一度中を確かめた
いとは思っていたが……。
「あ、氷室さん、蚊だ!」
直人が友美の腕にとまった蚊を叩こうとしていた。
友美は、「いいの、そのままで」と、あわてて直人を止める。
蚊は、腹一杯血を吸うと、ゆっくりと飛び立った。
「私はアレルギー体質じゃないし、蚊も生きてるから」
へえっ、と直人が感心した。その頬が紅潮《こうちょう》している。
「優しいんだ」
友美は曖昧《あいまい》に笑うと、歩き始めた。
そんなんじゃない。本当は、叩き殺してやりたい。でも、そうすればその蚊を食べねばなら
ない。食べないものなら、殺さない。それがおじさんから学んだ自然の掟《おきて》だったが、食べれば
世間がどう思うかも分かっていた。だから殺さなかっただけだった。自分が優しいわけではな
い。現に今年の夏も、人のいないところでは、すでに二匹食べている。
そして、ふと、友美は気がついた。寝太郎が、殺した蚊を握ったままだったことに。
学校では、生徒のほぼ全員が物体を額につけて登校してきていた。取ったものは非常に少な
く、全校でも二〜三人といったところだったろう。教師たちは臨時職員会議を開き、始業式は
三十分遅れることになってしまっていた。もちろん生徒たちは大喜びだ。いくら未知の物体と
はいえ、仲間が世界に何十億もいるのでは、恐怖や危機感よりも、台風が来る前のような、興
奮の方が強かった。
友美たちの一年四組でも、久々に会ったのに、話題は物体のみといっていい。
今やクラスの半分を占める眼鏡組。進学校のこの学校では、その率は更に高いはずなのに、
今朝の教室には一つの眼鏡も存在しない。
物体の視力増幅は、どんな差別もしなかった。
教室の大騒ぎの大部分は、眼鏡から解放された連中の、喜びの声でもあった。日頃、暇があ
ったら英単語を覚えているような者でさえ、顔中口にして笑っている。
それほど嬉しいものかなと、視力では苦労をしたことのない直人は思った。そして、楽し気
な女生徒たちの中心に背筋を伸ばして座る、綺麗な黒髪の委員長を見つめた。
茶髪金髪が大はやりの中、全校男子、憧れの的の少女だ。
思えば、当然、自分のものだと考えていた入学式の新入生総代の挨拶をした友美を見た瞬間
から、惚れていたのかもしれない。
そこに見た少女は、テレビのどんなアイドルよりも可憐《かれん》で、美しく、そしてその声にはりん
とした響きがあった。それまで持っていた見知らねライバルへの対抗心も、自分への苛立ちも
一瞬で消え去り、ただ、その姿に見惚《みと》れた。
同じクラスになれたと知った日は、一晩眠れなかった。
生まれて初めて、委員長の座を取られても苦になるどころか、同じ委員ということで、嬉し
く思ったくらいだ。
何とか、この自分の気持ちを打ち明けようと足掻《あが》いた五ヶ月だった。しかし、チャンスはあ
っても、いざとなったら全く別の話をしてしまう自分に、絶望さえした。だが、勝負はこれか
らである。今朝も偶然会えたし、これは幸先《さいさき》がいいと思えた。それに、寝太郎問題がある。あ
いつに関しては、友美と二人で、話すことになりそうだった。学校に百人はいると思われる
(教師を含めてだ)ライバルに、水を開ける絶好のチャンスだろう。その意味では、寝太郎さ
まさまだった。
「まったく、誰のだと思ってんだろな」
直人は、その声で我に返った。
隣の席の田中《たなか》隆《たかし》が、文句をつけていた。彼が指さした先では、島田《しまだ》正夫《まさお》の持ち込んだノー
トパソコン(テレビを受信中)が教室中を巡回し、刻々と入る新情報をクラスにもたらし続け
ている。
バスケット部に所属している隆は、背の高さこそクラス一だが、頭のできは下の方。しかし
明るいムードメーカーで、ガリ勉タイフの多い中、貴重な存在だった。
「何言ってんだ。勝手に貸したのはお前だろ」
隆の横の席で正夫がぼやく。小柄な彼は情報処理部に所属しており、理数系では友美や直人
のライバルといえた。堅苦しい性格でめったに笑わないのだが、今日は違った。彼もひどい近
視で、昨日まで瓶底のような眼鏡をかけていた一人だったのだ。親友の隆に、「けどまぁいい
や、今日は。何でも許す。目だけはいい隆には、絶対分からないよ、この嬉しさ!」と、もう
十回以上も同じようなセリフを喋《しゃべ》っている。
と、女子たちが固まっていた横のドアがいきなり開き、担任の日焼けした顔が現れた。彼の
年々と広くなってくる額にも、物体が光っていた。
生徒たちはあわてて席に戻り、担任は教壇に立った。
「新学期早々、大騒ぎだな」と言い、生徒たちを見渡した。全員の額に、物体が輝いている。
それは正体不明のどんな危険を秘めているか分からないものなのだが、生徒たちの表情は、ま
るで祭りでも楽しんでいるかのように紅潮していた。
「そうか、何か違う印象だと思ったら、眼鏡がないんだ」
どっと笑いが起きた。これも今までの教室ではなかったことだ。頭のいい生徒が揃っている
分、普通の高校よりも、落ち着いた雰囲気があったのだが。
「ま、眼鏡がいらなくなったのは、いいことだな。勉強にも大分プラスになるはずだ」
担任は笑って、校内放送用のテレビのスイッチを入れた。
少し遅れた始業式が始まる。校長の訓話からだった。
新学期になり、気を引き締めて勉学にスポーツに頑張ろうとかいう内容だったが、まだ興奮
冷《さ》めやらない教室から、ざわめきは消えない。
コンコン! と、担任が教卓を叩いた。
「静聴! 物体について発表するぞ!」
ざわついていた教室が一瞬にして静かになった。全員の目がテレビ画面に集中する。
しかし生徒たちの期待していたもの――つまり、物体に対する最新のニュースは全然なかっ
た。たった今まで正夫のパソコンから仕入れていた情報の方が、よほど新しい。ただ、学校の
方針として今のところ静観するが、少しでも異常があれば手術してでも取ってもらうことにな
るかもしれないと告げた部分には、大ブーイングが起こった。
「ま、そういうことだ。学校としては今のところ無理に取れとは言わない」
放送が終わり、テレビを消した教師がそう続けた。
「当たり前ですよ。この物体は、僕たちが拒絶すればすぐに取れるんだ。そんな危険物扱いす
る必要ないです。これは僕らを眼鏡から解放してくれたんだし」
怒ったようにそう言った正夫の声に、そうですと同調する声が重なる。
「それは学校側も分かってる。でもまだこの物体が現れてせいぜい半日だ。全く未知のものだ
といっていいだろう。それなりの対策を取るのが当然だ。たとえ今は安全でも、明日も安全だ
とは限らないんだからな」
「では、危険なものだと先生は思うんですか?」
友美の質問に、担任は困ったように腕組みした。
「……この物体は、人間の生理的精神的な拒絶に、敏感に反応し始めてる。例えば生理的な拒
絶――虫が嫌いだとか、ゴキブリに似てるような気がしてきたと思っただけで、コロンと落ち
る例が続出しているらしい。虫嫌いでなくとも、色々考えた末に取ると決めた途端に外れた例
もあるらしいな」
「何だ、じゃ、やっぱ先生も気に入ってるんだ」と、隆が言った。
教室に笑いが溢れる。
「先生は昨夜、これが降ってくるところに出くわしたんだ。あれを見たら、やっぱりもったい
ないような気がするな」と、担任は苦笑いした。
生徒たちのうらやましげな声が上がった。テレビでもその時間、臨時ニュースとして異常現
象が報道されたのだが、あわてて出た時には、もうほとんど星は降り終わっていた。
実際の星降りは、数分間だったようだ。担任や友美のようにたまたま外に出、空を見上げて
いた者だけがその素晴らしい光景を見ることができた。
「君たちの中にいるか? 見た者」
友美を含む数人が手を上げた。塾の行き帰りに偶然見たものが大半だった。
「しかし、綺麗で視力をサポートしてくれるからといって、無害とはいえない――それも確か
だ。結論を出すのは早すぎる。それが学校の方針というわけだ」
まだぶつぶつ言う生徒たちを見回し、担任は話を続けた。
「それにしても、三年前の宇宙船発掘以来の大事件なのは間違いないな」
「先生も、学校サボって見てきたんですよね?」と、洋子が言い、担任の目が驚きで丸くなっ
た。
「どうして、一年の君らがそのこと知ってるんだ?」
「有名な話ですよ」と直人が言った。
片道三時間もかかる宇宙船の発掘現場で、病欠のはずの担任が、生徒たちと鉢合《はちあ》わせした。
しかもこのことが縁で、その生徒たちのうちの一人と結婚することになったのだ。
生徒たちの笑いの中、担任は照れ隠しの空咳《からぜき》をした。
「経済的には落ち込んだものの、思えばあれから世界中で宇宙ブームみたいなものがおきたな。
ドラマでも映画でも、宇宙をテーマにしたものがやたら増えた。テレビゲームやマンガもだろ
う? それに、科学の進歩の度合いも加速されているような気がするな。超伝導はほとんど実
用段階にきてるし、核融合もあと三年ほどで何とかなるそうだ。コンピューターも、ニューロ
なんてのが発売されたし。全く先生にはついていけんペースで夢が現実化している。もし国連
に金があれば、あの『進化計画』も不可能じゃないはずだ。一日に数万人を宇宙へ運ぶ打ち上
げ基地と、巨大な宇宙工場の建造。その後の月植民地とスペースコロニーの建設。あの夢のよ
うな計画が、案外現実になるかもしれない」
いつの間にか笑いはやみ、生徒たちは教師の言葉に耳を傾けていた。
「つまり、あの宇宙船のおかげで目標が見えたってことだ。今まで人類はこの宇宙で孤立して
いた。地球以外に知的生物がいるかどうかも分からなかったんだからな。漠然といるかもしれ
ないとは思っていたが、確実な証拠など全然なかった。それが、いきなりこれ以上のものはな
いという証拠が見つかったんだ。あれを見れば、どんな頭の固い人間でも、宇宙人がいること
を信じるしかない。残念ながら、宇宙船は間抜けな政治家のために失われたが、今思えば、そ
の方が良かったのかもしれん。どうせなら他人の力を借りずに、地球人の手で宇宙へ行った方
がいいと思わんか?」
教師はその生徒たちに向かって、最後に一言つけ加えた。
「その来《きた》るべき宇宙時代のためにも、もっともっと勉強しろよ」
やっぱり、と生徒たちが笑い出す。
「でも先生、間に合いますか?」
洋子だった。
「間に合うとは?」
「地球の環境です。人間が宇宙に出るまで地球が保《も》ちますか? 私、いろんなものにアレルギ
ー持っていて、それには環境汚染が関係してるみたいで、それで嫌でも自然と考えてて……も
し、大崩壊理論が正しければ、あと百年しか残ってません。世間では、そんなこと起こるわけ
ないとか、考えすぎだとか言われてますが、そうは思えないんです。オゾン層破壊でも、二酸
化炭素排出制限でも、ダイオキシンでも、環境問題は、まだ何も解決されてません。中でも特
に、人口問題は、解決の糸口も見つかってません。もう、百億です。アフリカと南アメリカの
森林は焼き畑と炊事用の薪《まき》のために全滅しかけてます。そうなれば大崩壊は、現実に何歩も近
づいてしまいます」
「本当なの?」と、友美がショックを受けた声で、洋子に聞いた。
「最近テレビでもやらなくなってたでしょう。改善されてきてるのかと思ってた」
洋子は、首を振る。
「解決どころか、このままじゃ熱帯雨林はあと十年で消えるっていわれてる。フロンガスの規
制も、途上国では守られてないし。いくらクリーンエネルギーやエコカーや燃料電池が普及し
てきてるっていっても、一部の先進国だけ。二酸化炭素もメタンガスも、増える一方。しかも、
人口増加率が上がってる。今世紀半ばには、百五十億に届くくらいに。日本のマスコミはこれ
だから駄目。視聴率が取れなくなったから、環境問題を取り上げなくなってる。視聴者も飽き
ただろうって。そんな問題じゃないのに」
「松本さんの言う通りだな」と、担任は眉を寄せた。
「例えば、オゾンホールがどんどん拡大して、赤道上にも広がってる。皮膚癌《ひふがん》が十年前の五倍
になったので、去年の夏、オーストラリアの海水浴場はがら空《あ》きだったらしい。異常気象は毎
年ひどくなる一方。国連の科学者たちが、たまりかねてできもしない計画を発表した気持ちも、
分かる」
「でも進化計画って、本当に夢みたいなものなんでしょう?」と、友美が聞いた。
「ああ。本音《ほんね》で言えば、たとえ充分な資金があったところで、国連の進化計画は技術的に無理
だと思うな。でも、もし、大崩壊理論が真実なら、宇宙に移住するしかないのかもしれない。
オゾン問題にせよ、人口抑制策にせよ、対症療法にすぎないわけだ。地球を蝕《むしば》む癌細胞を、地
球以外のところへ移すしかないのかも……」
「癌細胞って、人類がですか?」
戸惑う友美の声に、担任は苦笑した。
「これは言い過ぎだったかな。そういう説もあるということだ。いや、思いがけず話が脇道に
それ過ぎた。さ! 成績表を集めるぞ」
生徒たちのどよめきの中、癌細胞という言葉から連想した友美の視線が、横へと向く。
友美の隣は寝太郎で、寝太郎の席は窓際だった。風が窓から入ってくると、頭痛がするほど
の悪臭が漂ってくる。これこそ友美にとって身近な環境問題と言えた。しかし、今、寝太郎の
姿はない。きっと、あの馬鹿げた宝探しをまだやっているのだろう。
「どうせなら、ずっと来ないでほしいけど」
隣の空席を見てつぶやいた声に、洋子が同情して答えた。
「大変ね、氷室さん。あんなの押しつけられて」
友美は吐息で答えつつ、頬杖をついた。
終業のチャイムが鳴り、大掃除の時間は終わったが、まだ物体の話題で盛り上がる生徒たち
のおかげで、片づけが少し遅れていた。
体育館掃除に回されていた男子たちが帰ってくる。
「氷室さん」と、その中にいた直人が友美に声をかけた。
「先生が呼んでる。寝太郎のことだってさ。掃除終わったら来てくれって」
机を運んでいた友美は、がっくり肩を落とした。
「悪い奴じゃないとは思うけどね」
洋子が、友美の耳にささやいた。
「でも寝太郎くん、時々氷室さんのことをじっとというか、ぼーっと見てるよ。ひょっとして
好かれてるのかも」
友美は硬直した。とんでもない話だ。
「冗談でもやめてよ」
洋子はごめんと謝ったが、もう一言つけ加えた。
「見てる人、あと一人いるみたいだけどね」
「まだ?」
友美は顔をしかめた。
「でも、寝太郎くん以外なら、まだ許せるかな。誰? もう一人って」
洋子はにこっと笑う。
「教えない」
「いいわ。寝太郎でも宮田くんでも、つき合う気なんかないし」
と、洋子の顔が突然真っ赤に染まった。
「ど、どっ、どうして直人の名前が出てくるの?」
「どうしてって、正反対の人の名前|挙《あ》げただけよ。だけど……」
しかし、こういうことに鈍い友美にも、ピンとくるものがあった。
「何だ、そうだったの」
ニコニコする友美を、洋子が睨んだ。
「な、何がそうだっていうの」
「べつに」と言いながらも、友美の顔は笑ったまま。
「洋子、ゴミ捨ててきてくれよ」
いつの間にか掃除を手伝ってくれていた直人が、二人のところへやってきて頼んだ。
「私が」と、友美の手が素早くごみ箱を取る。
そして、「もっと早く教えてくれたら良かったのに」と洋子に耳打ちし、教室を出た。
しかし、ゴミ箱を抱えて廊下をゆく友美の気持ちは、少し複雑だった。
初めて親友になれそうな友人――その洋子を、横から直人に取られたような気がする。
「いいよ。私は宇宙飛行士一筋でいくんだから」
強がりっぽくそうつぶやいた友美の視線が、前から歩いてくる人影に会って止まった。
今までに見たこともない女性だった。
この学校でということだけではなく、全ての意味で。
背は百七十センチ以上。スーパーモデルも顔負けのプロポーションだ。ストレートの髪が、
肩先で軽く揺れている。紺でまとめたファッションが、抜けるように白い小さな顔を引き立て
ていた。女優も真っ青な整った顔に輝く二つの目。生き生きときらめき、同時に強烈な意思と
魅力を感じさせる瞳……。
『何で、こんな人がこんなところにいるんだろう?』
麻痺《まひ》してしまった心の中で、その言葉だけが反響した。この人は、こんなところにいるべき
人ではない――それは不思議な確信だった。
「相沢広樹を知りません?」
「は、はい?」
途端、手からゴミ箱が転がり落ち、友美の心臓が確実に一秒止まった。
その女性が手伝おうとするのを必死に断ってゴミを拾い終え、すこし落ち着きを取り戻した
友美は、ようやく知っている名が出たことに思い至った。とはいえ、それが寝太郎の本名だと
気づくのに、また数秒が必要だったが……。
「い、一の四の相沢広樹ですか?」
美女は優雅にうなずいた。近くで見ると更に綺麗だ。しかし、最初の印象より、ずっと若く
感じられた。二十五〜六だと見えたのだが、二十歳くらいかもしれない。
「あの、今日は来ていませんが」
友美がすまなそうに告げると、彼女は小さく吐息し、白い封筒を差し出した。
「同じクラスなのね?」
「は、はい」
「じゃ、悪いですけれど、これを広樹に渡してください」
そして、会釈《えしゃく》した女性は、元来た方へと立ち去っていった。
ごみ箱を抱え、片手に封筒を持った友美は、呆然とその後ろ姿に見惚れた。
後ろ姿のかっこよさも、現実離れしている。
その姿が視界から消えた時、やっと友美の胸に根本的な疑問が湧いてきた。
「……あの寝太郎に?」
月とスッポンどころの話ではない。
今日は全く何て日なんだろう。
物体だけでも、持て余すほどの大事件なのに、また一つ謎が増えてしまった。
「そういえば」と、つぶやく。
あの美女の額には、物体がなかった。もう剥がしてしまったんだろうか?
惜しいと思った。彼女なら、物体もよく似合っただろうに……。
友美はふうっと大きく息を吐いた。
ああいう本物の美人を見てしまうと、自分のブリッコが、心底嫌になってくる。
「吉田《よしだ》、秋緒《あきお》さんか……」
分厚い封筒の裏に書かれた名を読んだ。すっきりとしたいい文字だ。
ふと、あの顔に見覚えがあるような気がしてきた。
首をかしげ、そして振った。錯覚だろう。
抜けていた気を入れ直す。優等生がいつまでも間抜け面をしているわけにはいかない。
きびきびした足取りで、友美はゴミ捨て場に向かった。
[#改ページ]
二日目
[#改ページ]
友美は今朝も目覚ましに驚かされていた。
ただし、今日は昨日の逆だ。
「わっ!」と叫ぶなり、友美の体からパジャマが舞った。
だだだだっと転がるように階段を駆け降りてきた友美を背に、兄・幸雄は大欠伸《おおあくび》。一晩中、
物体関係のニュースを衛星放送で観続けたためだ。
友美の寝坊は、その兄に午前三時までつき合ったことも原因していた。
母の小言を適当にあしらいながら、洗面をすませ、トイレに駆け込む。そして起きてからわ
ずか五分で身支度を整えた友美は、パンをくわえて玄関に走った。こういう状況を、楚々《そそ》とし
た美少女の面しか知らない直人などが見たら、卒倒しかねないだろう。
途中の居間にいる兄に、「大学生はいいよねっ!」と文句を言って、スニーカーの上に飛び
下りた時、幸雄がテレビの前で怒鳴った。
「おい友美! お前の勝ちだ、星虫取るんじゃないぞっ!」
「分かってる! 行ってきます」
五時半に起きられなかったのは、おじさんのメモ通りの生活をして以来、初めてのことだっ
た。星虫の視力増幅が、精神的疲労に繋がる可能性があるという昨夜のテレビでの医師の話は、
本当らしい。
あわてていた友美が疑問を感じたのは、その数分後だった。
「星虫?」
初めて聞く単語だったが、考えるまでもなかった。
「君の名前がついたわけか」
自転車をこぎながら、つんつんと額の物体をつつく。大きさは変わってないが、少し厚みが
増したように思える。
それに、取るなと兄は言った。自分の負けだとも。
昨夜二人は、物体について善玉か悪玉かという論争をしていた。もちろん友美は善玉、兄は
悪玉説だった。その兄が自分の負けを認めた以上、
「君は、いいやつだって決まったわけか!」
星虫――語呂《ごろ》は良くないが、雪の一片に似た雪虫というのがいるのを思えば、イメージ的に
は悪くない。この子は、文字通り『星』のように降ってきたのだから。
朝の町は、昨日に増して、綺麗だった。
星虫の力は、どんどん増幅しているらしい。山々が、更に近くなっている。
遠くの空に沸き上がる入道雲の様子が、目の前のように望めた。
景色に集中していた友美の横を、車がぎりぎりに走り抜けてゆく。
いつのまにか車道の真ん中に飛び出していたことに気づき、あわてて元へ戻った。その時、
反射的に見送った車の底が、妙に明るく感じられた。
何だろう。
次に来た車の底にも明るさを認めた時、意識は自然とその変な光に集中していた。
途端、車の底は真っ白に輝き、その排気管から白く伸びる光の帯が路上に尾を引いた。
「な、何これっ!」
急ブレーキをかけ、驚いて辺りを見回す。
家の屋根、立木、工場の煙突、クーラーの室外機、野良犬、そして、自分の手までもが淡い
光を放っていた。
歩道を走ってきた郵便配達のバイクが止まり、そのエンジン部分が真っ白に輝いているのを
見た時、友美の頭に答えが閃《ひらめ》いていた。
「赤外線……赤外線が見えてるんだ」
熱を持つ物体は、赤外線という目には見えない光線を発している。それを自分は見ているの
だ。それも、以前テレビで観た赤外線カメラの白黒画面ではない。星虫によって増幅された視
力に、プラスされる形でだ。
納得できる理由が見つかり、ほっと肩の力を抜いた。
すると、赤外線は見えなくなり、普段の街が戻ってきた。
何だか少し頭が重い。赤外線を見るには、かなりの精神集中が必要のようだ。
「凄すぎるよ……」と、その力にあきれて顔を天に向けた。
千切れた高層雲が、目の前にあるかのように映る。友美は流れる雲を見ながら、呆然として
いた。
「君、星虫くん、何しに地球にきたの?」
人間の目を良くするためだとは思えない。だとすれば……。
その思いを断ち切ったのは、遠くで鳴るチャイムの音だった。
「……ひょっとして予鈴《よれい》?」
ひょっとしなくとも、もともと、遅刻寸前だったのだ。
友美は大あわてでダッシュした。
友美の代わりに職員室に行っていた直人の横を、誰かが風のようにすり抜ける。
本鈴が鳴っている。一瞬、寝太郎かと思ったが、あいつが遅刻を恐れて走るわけがなかった
し、後ろ姿は女子……え?
「氷室さん?」
まさかと思ったが、そのまさかだった。急停止した友美は、驚いて振り返る。
「あわてなくてもいいよ。先生、緊急職員会議だってさ」
友美の体から、ガクッと力が抜けた。
「初めてだね、遅刻ぎりぎりなんて。でも、意外に足が速いんだなあ」
必死の思いで本鈴に間に合わせた友美の気も知らず、直人はやたら感心していた。
「氷室さんも、赤外線が見えるんだろう?」
友美は荒い息を抑えつつ、うなずいた。
「その、せいで、遅れそうになったの」
直人は一瞬、意識を集中させ、視覚を赤外線モードに切り換えた。友美の全身が真っ赤に燃
え上がる。相当急いで走ってきたのが分かる。直人は、さっと視線をそらせた。
「やっぱりだ。少しの間、入らない方がいい」と、よそを向いたまま友美に告げた。
首をかしげた友美だったが、はっと気がついた。赤外線を発するのは、衣服ではなく、体の
方だということに!
「隆の奴に見えないのは不幸中の幸いだけど、他の連中も、氷室さんの来るのを手ぐすね引い
て待ってるんだ。遅れてきて正解だったよ」
友美の顔が赤くなり、鞄《かばん》で胸を隠した。
「どうもありがとう」と、軽く頭を下げる。
「でも、赤外線が見えない人もいるの?」
別の方角を向いたまま、直人は答えた。
「全体の半分だ。テレビ観なかった?」
友美はうなずく。朝寝坊が悔やまれた。
「ゆっくり入ってきなよ。俺が、連中に自習の報告しておくから」
直人が教室に向かうと、友美はあわてて胸元に風を送り込み始めた。
教室に入った直人は、黒板に自習と書きながら、さっきの一瞬を――記憶に焼きついた光景
を反芻《はんすう》していた。他の奴らに見せてたまるかというのが、本音だった。
「委員長はどうしたんだ?」と、珍しく真面目な顔をした隆が聞く。
教室では女子が隅に固まり、てんでに胸を押さえながら男子たちを睨みつけていた。
「すけベ! あんたほんとは見えてるんでしょっ!」
女子たちが隆に罵声を浴びせる。
その声に驚いた友美が、窓から顔だけ出した。
男子たちから歓声とも、どよめきともとれない声が上がる。
「氷室さん! 入ってきちゃ駄目!」と、洋子が叫んだ。
「心外だよな。人を痴漢《ちかん》みたいに」
妙に紳士ぶった隆が正夫に言った。ばちんと、その背を正夫が叩く。
「お前のその真面目な顔が、余計、誤解を招いてんだよ」
「そうよ、変態っ!」と、女子の一人が怒鳴る。
「そこまで言うかよ!」
隆がわめいたが、そうだお前が悪いと、男子たちが押さえつけた。
しかし、さっきからこの状態だ。どうしたものかと直人が教卓の前で考えていると、ガラッ
と前のドアが開いた。
友美が背筋をすっと伸ばし、胸も隠さずに堂々と歩いてきた。
唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然とした生徒たちを尻目に、教卓の前に立つ。
赤外線視ができる男子たちが、思わず精神を集中した。
「山田《やまだ》くん! 芦屋《あしや》くん! 高橋《たかはし》くん! 小島《こじま》くん!」
機関銃のように、友美の口から名前が飛び出す。その全員が意識を集中しかけていた連中だ
った。
「男子! 卑劣な真似はやめなさい。顔つきですぐ分かりますからね。それから女子。無意味
に騒がない。見えるといっても分かるのは輪郭だけよ。みんな席に戻って!」
全員、教師に言われるよりも素早く言葉に従っていた。名指しの男子は顔も上げない。
初めて聞く友美の怒声に驚きながらも、直人はまた、惚れ直していた。
洋子は、毅然《きぜん》とした友人に驚きの眼差しを向けた。自分にはとてもああはできない。でも彼
女、あんな攻撃的な性格だったっけ?
「夏休み、何かあったの?」
隣の席についた友美に、洋子は小声で聞いた。
友美は心で身構えた。ちょっと頭に血が上り、地が半分出てしまったのだ。しかし、何食わ
ぬ顔をすることには、自信があった。
「どうして?」
「どうしてって、やけに元気じゃない。昨日から」
友美はひきつり気味の笑いを無理やり浮かべ、「それを言うなら元眼鏡の人も別人みたいで
しょ?」と、やけに明るくなった正夫に目をやった。
「星虫のせいか。うん、今の騒ぎにしても、みんなちょっと変よね」
「そういうこと。それに、ああでも言わないと、収拾つかなかった」
納得してくれた洋子をごまかすように、友美は訊ねた。
「それより、どうして星虫っていう名前になったのか、教えて。今朝、寝坊したの」
洋子はうなずいた。
「COSMIC BEETLE――直訳したら宇宙|甲虫《こうちゅう》かな。政府と報道機関の取り決めで星虫って
呼ぶことに決まったんだけど、発表した直後、同じ名前のナマコみたいな動物が海にいるって
分かったみたい。でも、これ以上の混乱を避けるため、結局、星虫って名前で決定なんだっ
て」
「へぇ……いろんな意味で人騒がせね、星虫って」
「ほんと。それから、星虫調査研究に国連の宇宙開発機構が当たることになって、その最初の
発表が朝にあったの。それによると星虫は寄生生物じゃなくて共生――それも片利《へんり》共生生物な
んだってさ。星虫の場合は、宿主である私たち人間だけに利益のある共生のこと。星虫自体は
利益も害も受けないんだって」
「それじゃ、便利で無害ってこと?」
「うん。ちょっと都合良すぎる気はするけど、現状はそうなんだって。星虫が与えてくれる能
力にも、個人差が強く出始めてるって言ってた。それは教室でも確認できたけど。あと、星降
りの当初、全世界、幼児と老人を除いた男女約八割の額に、星虫の吸着が推定されるんだって。
推定約五十億。今もつけてる人の数は、調査中」
友美は後悔をし直していた。自分が寝坊している間に、随分と事態が動いたらしい。
洋子の話に熱中しているうち、扉が開き担任が少しあわてた風に現れた。
挨拶を終えると、彼はプリントを配り始める。
進路希望調査と印刷された文字を読み、友美は体の力が抜けそうになった。
周りから、まだ一年の二学期になったばかりだというのに早すぎる、という声がする。
目一杯、友美も同感だった。
「まだ気楽に書いていいってことだな。東大でも京大でも、好きな大学を書いていいが、書い
た以上はそれを目指せよ。提出は来週までだ」
担任の言葉に、友美は深いため息をついた。
友美の志望は宇宙飛行土。だが、それを素直に書く勇気などない。また適当に、京大なり東
大なりと書かねばならないかと思うと、気分が重い。
「いいわね、氷室さんは。どんな大学を書いても、馬鹿にされなくて」
そんな気も知らない洋子が、羨《うらや》ましげに言った。
「そうでもないわ 」
友美は、プリントを親の仇《かたき》のように力を込めて折り畳んだ。
今日は土曜。昼で授業は終わる。
教室には二十人ほどの生徒が残って弁当を広げていた。英語研究会などの、進学に役立つも
のが多いのは確かだが、クラブ活動は結構、活発だった。
友美は茶道同好会に入っている。小さい時から乱暴者だった友美を、何とか女の子らしくし
ようとした母の愛の鞭《むち》のおかげで、今では師範の資格まで持っていた。思えば、こうやって猫
を被っていられるのも、茶道の力かもしれない。
そのことを知った洋子が、もったいないと会に誘ったのだ。週に一回だし、優等生のイメー
ジを定着させるのにも役立つと思って入会したのだが、そろそろうんざりし始めている。どう
せ時間を潰すなら、体操部にでも入って、体力と平衡感覚を養いたかった。
しかし、友美が入ったために、男子の入会が増え、部になる日も近いようだ。そうなれば、
活動日も増えるだろうし、それを口実に辞めることもできる。洋子には悪いが、今楽しみなの
は、その日が早く来ることだった。
友美と洋子の周りには、他の部活で残る生徒たちがいつも自然と集まる。
「寝太郎の奴はいいよな、進路決まってて。宝探しって、儲《もう》かるんかな?」
その中で隆が言い、どっとみんなに受けた。
「ところで、寝太郎の宝って何なの?」と、正夫が友美に聞いた。
首を振る。想像もつかないし、想像したくもなかった。
「どうせ、くだらんもんだろ。水道管かガス管破るのがオチだ」
隆の横に立つ直人がそう言って、また笑いがおきる。
「でも、その話は先生にしないでね。一応は約束だから」
友美が言い、全員、真顔になってうなずく。朝の印象が相当強かったようだ。今までの優等
生のイメージに、怒らせると怖いという評価がつけ加わったらしい。やっぱりやりすぎたと、
友美は思ったが、あとの祭りだ。
「知ってるか、昨夜のプロ野球」と、直人が雰囲気を変えようと明るく言った。
「一試合平均で十本もホームランが出てるんだ。解説者は珍事とかいってたけど、星虫の力に
決まってる。視力が上がるってことは、ボールが何倍も良く見えるってことだしな」
全員が、なるほどと感心したその時、「みんな」と、担任が教室に顔を出した。
「今、放送が入ると思うが、教育委員会の方で、課外活動を禁止するように決まった。星虫に
ついての医学的な安全性が証明されるまでな」
えーっという不満の声が、残っていた全員の口から漏れる。
「また星虫の新しい力がアメリカで確認されたらしいんだ。視覚だけじゃなく、五感の全てが
増幅可能らしい。嗅覚、味覚、聴覚、そして触覚。それらがコントロールできなければ、事故
に繋がる可能性がある」
生徒たちは顔を見合わせた。
「どうしてですか」と、直人が聞く。
友美たちも納得できなかった。
「走ったり、飛んだりしてる時に、いきなり音が馬鹿でかくなったらどうなる? 転ぶぐらい
ならいいが、怪我した時に、その痛みが増大される例も出てるんだ。この先も、いつどんな力
が出てくるかもしれないわけだし、それらがコントロールできるとは誰も言い切れん。その意
味なら、文科系クラブでも、何が起きるか分からんだろう? 今は、教師が全部のクラブにつ
いていられる状況じゃないしな」
そう言われれば、納得するしかない。
しかし課外活動禁止は、友美にとっては朗報だ。内心喜んでいると、
「で、だな。代わりのようで悪いんだが、委員長、これを相沢に届けてくれないか」
意外な言葉とともに友美に差し出されたのは、茶色の封筒だった。
「今日配った進路調査と、先生からの手紙だ。地図と住所はこれ。学校から、歩いても五分か
からないし、でかい屋敷だからすぐ分かるはずだ。悪いが頼む」
友美は無理してにこやかにうなずいた。クラス委員としては断れない。それに手紙で思い出
した。寝太郎には、昨日の美女からの手紙も渡さなければならない。正直なところ、寝太郎と
彼女――吉田秋緒との関係には、興味がなくもなかったし。
担任は友美に手紙を渡すと、そそくさと教室を出た。星虫のおかげで、大分と忙しい思いを
させられているようだ。
「断っても良かったんじゃないか」と、直人が腕組みして担任の消えたあとを睨む。
「怠慢よね」
洋子も言い、同情の目で友美を見た。
「よかったら、つき合おうか?」
その友人の言葉に、友美は救われた思いがした。
「ありがとう」
「じゃ、さっさと嫌なことは済ませて、マックでも寄ろうよ」
二人が立ち上がると、
「俺もいいかな? 寝太郎の宝に、ちょっと興味があるんだ」
隆が友美に聞いた。
「いいわよ」と、友美。手紙を二通渡すだけだ。
「じゃ、僕もつき合うよ」と、正夫も言った。
「当然、俺は副委員長だからね」と、あわてて直人。
星虫の目で見る町。
いつも見慣れていたはずのものが、違って見える。全てが新鮮だった。
「かけてたサングラスを取ったみたい。まるで違う町だね」
そう言って洋子は、踊るようなステップで、一回転した。
「登校してきた時には、ここまでくっきりとは見えなかったな」 と、直人がつぶやく。
全員が同じ意見だった。星虫の力は、刻々増大しているようだ。
友美も朝とはまた違ったものを感じ取っていた。口では上手く言い表せないのだが、町の大
気、意思、雰囲気というものが、全身で感じられるようになっている。
それはなれなれしいぐらい親しげで、ゴチャゴチャと複雑で、そして少しだけ寂しげだった。
「……脳と神経組織とに影響を与えてるのは、間違いないけどね。でも、他の五感も赤外線を
見るのと同じシステムで増幅してるんなら、コントロールも可能のはずだ」
直人が星虫に対する自分の推理を語っていた。
友美はそれを横で聞きながら、少し汗ばんだ顔を拭う。
星虫がついた部分も汗をかいているはずなのに、不快感がないのが不思議だった。
「でも、どうやって増幅してるのかしら?」と、直人をはさんだ隣の洋子が聞く。
所持禁止のはずの携帯電話の液晶に映したテレビニュースを観ていた正夫が答えた。
「星虫はせいぜい毛穴までしか浸透してないってさ。電磁波もほとんど出てないらしい。星虫
は何か、僕らがまだ発見していない力で脳に影響を与えてるらしいよ」
「凄いなぁ……君って」
友美がつぶやき、額の星虫の方を見上げた直後、目的地に着いた。
寝太郎の家は、本当に学校から五分だった。
全員、その屋敷の巨大さに唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然としていた。あのとんでもない寝太郎の姿からは、想像もで
きない豪邸である。確かに、お坊ちゃんだという噂は聞いていたが……。
「……ほんとに、ここ?」と、直人が友美に聞く。
半信半疑なのは、友美も同じだ。しかし、担任に渡された地図も、表札の文字も、それが寝
太郎の家であることを示していた。
「きっと、この家、借金の抵当に入ってんだ。でなけりゃ、あんな汚い格好するもんか!」と、
隆が怒ったように言う。
戸惑う一同が門に着くまでに、石畳を十メートルも歩かなければならなかった。
「……家なら、この玄関までに建つなあ」と、正夫が言った。
しかし洋子は、石畳の両脇の、よく手入れされた植え込みを見て、感心していた。
「ここまで綺麗にするの、大変よ。お金がないわけないわ」
「詳しいの?」と、友美は洋子に聞いた。
「園芸好きだから、家族はみんな」
友人の意外な趣味に驚きながら、友美は格子戸の立派な門の前に立ち、インターホンを押し
た。
『何だっ!』
インターホンのスピーカーが壊れるほどの音量で、老人の声がした。
その剣幕にたじろぎつつも、友美が、「あの」と口を開いた瞬間。
『二度と来るなと言ったはずだ! 広樹には会わせーんっ!』
ピーッと、スピーカーーがハウリングを起こした。全員、思わず耳をふさぐ。
「……何なんだ、一体?」
「借金取りと間違われてるんじゃないか?」
全員が顔を見合わせる中、友美は再度、挑戦していた。息を大きく吸い、ボタンを押す。
「相沢くんのクラスメイトです届けものに来ました相沢くんは在宅ですかっ!」
一気に喋った一分後。
『広樹に用があるなら、竹林におる』
それだけ言ってインターホンは切れた。
あとはいくらブザーを鳴らしても、出てくれない。
「変わり者は、遺伝だぜ」と、隆が呆れた。
「でも、竹林って、どこだ?」と、正夫。
「近くの竹林は、昨日のあの場所以外ないけど」と、洋子。
「ポストに放り込んで、帰ろう」と言った直人に、友美は首を振った。
「でも、ここまで来たんだから、行くわ。あの竹林も、今の星虫の視力で見てみたいし」
昼過ぎの強い日差しが、真上から竹林に射し込んでいた。
それが繁茂《はんも》する竹の葉を透かし、白い竹の葉が敷き詰められた地面を、鹿子《かのこ》模様に輝かせて
いる。
「あいつ、この竹藪《たけやぶ》のどこにいるんだ? 結構広いぜ」と、隆が言った。
確かに商店街に建ち並ぶビルと、川の堤防の間にある空間が全て竹林である。長細い土地だ
が、面積的には学校の敷地以上だろう。
「竹藪なんて呼ばないで」
洋子が隆を睨む。
「藪じゃないわ、ここは。充分に手間をかけて育てられた竹林なんですからね」
藪と林との差がよく分からず首を捻《ひね》る隆から目を離した洋子は、周りを見渡した。
「でもこの竹林、毎日綺麗になっていくみたい」
友美はうなずき、清浄な大気を胸一杯に吸い込んだ。全ての感覚が、自然と研ぎ澄まされて
ゆくのを感じる。何だか温かく、それでいてきりりとした精気に包まれているような気がした。
町の中で感じたものとは、また別の感覚。町ほどのなれなれしさ、押しつけがましさがない。
ずっと単純で、少し弱々しく感じられる。
と、その感覚に集中していた友美の心に、町や竹たちのものと似た、しかしよりリアルな
『声』が聞こえ始めていた。すぐそこに。
目を向けた。
竹の稈を透かして見えたのは、あのお化け屋敷だった。
「あれ? また委員長だ」
一同の横から、素《す》っ頓狂《とんきょう》な声が上がった。
ぼろきれのような茶色のTシャツ、よくも分解しないと感心するしかないジーパンをはき、
頭の先から爪先まで、乾いた泥で真っ白になった人物が立っていた。右手にはスコップを持ち、
左手には腐ったような色をした油紙が巻きついた壺《つぼ》を抱えている。
その場の全員が、打ち合わせでもしていたかのように、同時に数歩あとずさっていた。
「いいタイミングだな。ついさっき、やっと掘り当てたとこだ――宝」
泥の仮面を被った寝太郎が笑った。顔にピシャとヒビが入り、白い粉が落ちる。
「宝なんて興味ないわ。手紙を届けにきたの。でも、何なのその格好。原始人以下じゃない
の」
友美に言われて寝太郎は自分の体を見ていたが、大して汚いとは思わなかったようだ。「手
紙?」と、聞き返す。
友美は手紙のギリギリ端を持つと、手を思いっきり伸ばして二通の手紙を渡した。
寝太郎はその場で担任の封筒を開き、ほっと肩の力を抜いた。
「よかった、退学じゃないや。これでまた寝られる」
「……お前、学校に寝にきてんのか?」と、直人が呆れた。
寝太郎の答えはない。彼はもう一通の白い封筒の裏を見て、目を丸くしていた。
「昨日、学校で預かったの。知り合い? その人と」
寝太郎は首を振り、「知らん」と言ったが、とてもそんな雰囲気ではない。
破れかけたズボンのポケットに、無理やり二通の手紙を押し込むと、「そんなことより宝見
たくないか?」と、汚い壺を指差した。
「おお、見たい見たい。見せてくれよ」と、隆が前に出た。
「委員長は?」と、寝太郎。
友美は仕方なく、「じゃあ、見せて」と、近づかずに言った。
寝太郎は地べたに胡座《あぐら》をかき、壺の蓋《ふた》に手をかけた。
正夫、直人、洋子も、思わず寝太郎の前に集まる。関心などない風を装ってはいたが、実は
友美は、こういうのが大好きだった。そっと洋子の後ろから覗く。
全員の見守る中、寝太郎の手が厳重に封印された油紙を破った。
「開けるぞ」
友美は、思わず息を飲んでいた。茶色の壺の蓋が、ぱかりと取れる。その中に寝太郎が手を
突っ込んだ。
「やった!」
しかし、寝太郎が嬉々として取り出したのは、小判でも、金の仏像でもなかった。長い木の
柄《え》のついた、妙な形の金具だ。
「なんじゃそれ」と、隆が聞いた。
「まさか、それだけってことはないよな?」
だが寝太郎は平然と、「そうだ」と笑った。
「これが、宝だ」
心底がっかりした友美が、「どこが宝なの」と、寝太郎を睨む。
その全員の不評に、寝太郎は気を悪くしたようだ。
「宝だよ」と、怒ったように言う。
「これは、二百年閉じてた扉を開けられる鍵なんだからな」
友美の胸が、どきっと高鳴った。
「それ、ひょっとして、あのお化け屋敷のこと?」
寝太郎はうなずいた。
たちまち全員の顔に興奮が戻った。竹林の中の謎の屋敷は、学校でも結構有名だったのだ。
「そりゃあ、確かにすげえや!」と、隆が大声を上げた。
「中に入れたら、クラブの先輩に威張れるぞ!」
いかに名門私立とはいえ、若者は若者だった。冒険が嫌いなわけがない。
「ちょっと、寝太郎に毒されたかな」
そう言いながらも、直人の顔も興奮で赤くなっている。
「じゃ、みんなつき合うか?」
寝太郎の声に、全員うなずいていた。
無論、友美も。
あの屋敷の存在を知ってから、一度は中に入りたいと思っていた。どこかでお化け屋敷がお
じさんの家だという気持ちを捨て切れなかった。それに、今気がついたあの不思議な声のこと
もある。あれは確かにお化け屋敷から聞こえてくるようなのだ。
すっかり機嫌を直した寝太郎のあとに続き、一同はお化け屋敷を目指した。
小道すらない竹林の中に、まるで時代劇に出てくる代官所のような門がそびえている。雨風
に晒《さら》された木と黒い鋲《びょう》が、長い年月を物語っていた。土塀《どべい》は高く、四メートル近い。それが巨
大な面積を囲い、先輩の探検家たちを中に立ち入らせなかったのだ。
目で見た感じでは寝太郎の家よりも少し大きいようだ。六人は、その門の前で立ち竦《すく》んでし
まっていた。
「お、おい。やばいぞ、この雰囲気は。絶対何かいるぜ」
「でも確かに、その鍵が合いそうな鍵穴があるね」
隆と正夫は、友美たちより数歩下がって、こわごわ門を見上げている。
「化け物屋敷じゃないって」と、寝太郎が笑った。
「じゃあ、何があるの?」と訊ねた友美に、寝太郎は首を振った。
「見てのお楽しみだ」
寝太郎は、ニコニコして顔を拭った。星虫の目から汚れが落ち、いきなり良く見えるように
なった世間に、目をぱちくりしている。
友美は思わず吹き出しそうになって、息を詰めた。
やばいと感じた。こいつと話していると、何だか地が出てしまいそうになる。
その友美の前に、ぬっと、汚い手が突き出された。その手の上には鍵が載っている。
「開けさせてやるよ」
友美は、まじまじと白塗りお化けのような寝太郎を見た。
「私に? どうして」
「手紙を届けてくれた礼だな。それに、委員長が、一番こういうの好きそうだから」
友美の心臓が一瞬止まった。自分の正体を、やっぱりこいつは気づいてる?
そんなことはないはずだ。ブリッコを始めて四年目になる。今まで誰一人、見抜いた者はい
なかったではないか。
「ほいっ」
悩んでる友美の手に、鍵が強引につかまされた。
「そんなに悩むことかよ、委員長らしくないな。怖いんか? ひょっとして」
そう言われると、持ち前の負けん気が頭を持ち上げる。
「分かりました」
門に近づいた友美は、巨大な扉の鍵穴に、そのコの字型をした先を突っ込んだ。
吸い込まれるように、鍵は口金部分まで入って止まる。
「開けるの? 氷室さん」と、洋子の震える声が聞こえた。
友美は戸惑っていた。二百年開かなかった扉。確かに不気味な気もする。思わず、鍵を持つ
手を見つめた。
「開けろよ。委員長」
その言葉に重なるように、再びあの寂しげな声が心に響き始めた。
「……この扉の向こう?」
とうとう興味が躊躇《ためら》いに勝利し、友美の手首に力がこもった。
固い。それはそうだ、二百年間動かなかった鍵である。しかし、十年間積んできたトレーニ
ングは伊達《だて》ではない。友美の握力は五十キロ近いのだ。両手でつかんだ鍵が、ギリギリ音を立
てて回り始めた。
ガチャリという金属音に、洋子と隆の悲鳴が重なる。
そして、扉が重そうな軋《きし》み音とともに、ゆっくりと手前に動き始めた。
門は傾いていたのか、まるで自動ドアのように開き続ける……。
そこには、深い森があった。
それに比べれば竹林の中は真昼と思えるほどに、木々が生い茂る真っ暗な森が。
高く伸び、枝葉を繁らせた木々。その葉の隙間から漏《も》れるわずかな光を求めて、人の背丈ほ
どの低木が茂る。そのまた下を彩るのは、笹《ささ》や羊歯《しだ》類。地面には倒木があり、色とりどりの苔《こけ》
や茸《きのこ》類が繁茂《はんも》していた。
その倒木の上に立つ子犬ほどの動物が、友美たちをまん丸の目で見つめている。
それに気づいた友美たちも、その動物を驚きの目で見返した。
六人と一匹の睨めっこが、どれほど続いたろうか。
小動物は、まるでもう飽きたとでもいうように、ふいっと倒木の上から降り、深い森の中へ
と消えた。
「……イタチだ」
直人が、思いっきり顔をこすったあとで、吐き出すように言った。
「夢見てるんじゃ、ないよな……」
「森よ。これ、自然林だわ……」
そうつぶやいた洋子に、「自然林?」と、友美が訊ねた。
「だから、人間の手が全然入っていないと、この辺りは自然にこんな森になるってこと。何百
年も誰も入ってなかった証拠よ」
「……凄いとこだな。いかにも、バケモンの住処《すみか》って感じだ」
おののく隆に、友美は首を振った。
「そんなもの、実在するわけないわ。大体、まだお昼よ」
「入ってみる?」と、直人が友美に聞く。
「……ええ」
心の耳を澄ますと、あの哀しいような、寂しいような声が聴こえる。やはりこの森のどこか
から出ているに違いなかった。
心を決めた六人は、恐る恐るその足を門の中に運んだ。
その足が森の地面を踏んだ瞬間だったろう。
友美の全身に、軽い電気のようなものが走る。
心の中に、あの不思議な『声』が今までの数百倍もの激しさで反響していた。
それは、悲しみであり、苦しみであり、それ以上の何かだった……。
胸は張り裂け、息が止まりそうになった。
なぜならそれは、挽歌《ばんか》だったから。
巨大な何かが、今にも死のうとしている。想像を絶するほどに偉大で、いとおしく、命をか
けても守らねばならない大切な存在が……。
『声』とは、その巨大な存在からの、メッセージだった。
その声を聞いているのは、友美だけではなかった。友美の横に立っていた寝太郎、その後ろ
の直人と洋子、そして最後に入ってきた正夫と隆にも、まるで伝染するかのように広がってい
った。
森からの声は、絶え間なく続いていた。
その中で友美は、決意していた。
『誰かは知らない。何かは知らない。けれど、私は絶対にあなたを助ける』と。
その決意が生まれた途端、激情に流され続けていた心は、急流から広い川に出たように静ま
っていった。
声は続いている。しかし、もう自分を持ち続けられそうだ。
友美はまばたきをした。いつ溜《た》まったのか、目から涙が散る。
見ると仲間たちも同じように涙を溜めた目で、お互いの顔を見合わせていた。
「大丈夫?」と、洋子が涙目をして友美の手を取った。
どうやら、自分が一番長く『声』に捕まっていたらしい。
「もう平気。ね、みんなも感じるの?」
全員がうなずく。
「この森にいるバケモンが、俺たちに助けを求めてるんだ!」
確信を持って隆が怒鳴り、全員の顰蹙《ひんしゅく》の視線にあとずさった。
「違う。化け物じゃなくて妖精よ。すごく高貴っていうの? そういう感じがするわ」
洋子が話し、直人もそっちの方が近いと賛成した。
「しかし、妖精というよりも、精霊の方じゃないかな? この森自身が泣いてるような気がし
ない?」と、正夫が言う。
正夫の方が更に近いと友美は思う。この声の主なら最低でもそれくらいの大きさだ。
「……賛成。でも、泣いてるって気はしない。もっと複雑な感情みたい」
友美が言った。全員がなるほどとうなずく中、洋子が寝太郎に聞いた。
「寝太郎くんはどう感じる?」
「……俺は、もっとすごいもんだと思う。上手く言えんけど、とにかく、この森よりずっとで
かいやつだ。死にかけてるのも確か。助けなけりゃならんのも、確かだな」
寝太郎の意見だと思うだけで、友美は反発したくなったが、声の主を助けるという言葉には、
反対のしようがなかった。
「たとえバケモンでも、ここまで頼られちゃあな!」
まだ声の主を化け物のものと考えている隆でさえ、異存はない。
「ここには、何かがいる。それを、俺たちが守るってことだ」
「でも、何かって何?」
「探せば分かる」
その隆の意見に全員賛成した。何せ、まだ門から数歩しか入っていないのだから。
目が慣れてくると、森の中が真っ暗でもないことが分かってきた。
そう感じるとともに、星虫の力が全開され始め、森は一挙におとぎの国に変貌《へんぼう》した。
微かな光、木々が放つわずかな赤外線をも感知する星虫の目は、目で見る数倍の情報を宿主
に送る。隠れていた虫や動物たちも見え出した。
それに、竹林の中も町とは空気が違うのに驚いたが、この森には、更に豊かで生命力に溢れ
た、清浄な大気が満ちていた。
「こんなにいろんな匂いがあるなんて……」と、友美が言った。
全員、こんなに複雑な匂いを嗅《か》ぐのは、生まれて初めてだった。自然林には雑多な植物と、
多くの動物とが暮らしている。その生き物たちの放つ匂い、木の芳香、土の匂いが大気を極彩
色に彩っているようだ。
六人は、ジグザグに森の中を進んでいった。道がないので、薮の薄いところを見つけながら
の行進にならざるを得なかった。
「おーい、早く来い!」
と、一人先行する隆の声が響く。全員、あわててその声の方へ走った。
森が切れていた。そこだけ、木々の枝葉でできた屋板がなかった。地面は青々とした草で覆
われ、まるで芝生を敷きつめたようだ。
「倒木よ」と、洋子が言い、その草地の真ん中の大人一抱えほどもある大きな木の幹の上に座
った。
「この大木が、ごく最近倒れたんだわ。それで、ここだけが草地になってるの」
感心した全員が、小さな青空を見上げた。
「でも、今だけよ。ほら、もう次の木の苗が出てきてるわ」
洋子は、根本の近くを指さした。そこには何本もの苗が生え、背丈を競っている。
「森もいいけど、ここも綺麗」と、友美は洋子の横に腰掛けた。
「ウサギだ!」と、直人。
全員が呆然と見送る中を、草の上に上半身を出していた二羽のウサギが、森に消えた。
「……ほんとにここ、僕らの町なのかな」
正夫の言葉は、全員の思いだった。
別の次元、過去の時代に紛れ込んでしまったような錯覚さえ覚える。
この森を見、知れば知るほどに、素晴らしい場所だという思いが高まるばかりだった。
「今度、弁当持ちで来ようか?」
直人が、友美に小声で言った。
「それ、乗った!」と、聞きもしない隆が答える。隆は聴力を増幅していたらしい。
「確か、味覚が星虫で増幅できるんだろ? こんないい場所で食ったら、どんだけ美味いか分
からんぞ!」
「隆は、ほんとに食うことばっかりだなあ」
正夫が呆れたが、それが名案に違いないのも確かだった。
友美と洋子が弁当役を申し出、一同が盛り上がってきたところに、寝太郎が言った。
「駄目だ、それは」
一挙に、その場がしんとなった。
「どういうこと?」
友美の問いに、寝太郎は頭をバリバリ掻《か》いて答えた。
「俺が、何で苦労して御先祖の埋めた鍵を探したと思う。ここが消える前に一回、中に入って
みたかったからだ」
「消える?」
寝太郎はうなずいた。
「爺さんが市にここを売った。市の文化センターが建つんだ。来週にも着工らしい」
聞いた途端、友美は思わず立ち上がっていた。
「駄目よそんなの。ここはただの場所じゃないわ?」
「そうだ! ここには、何か凄いものが住んでるんだ。壊すなんて、無茶だ!」
直人も怒鳴りつける。
寝太郎は、やれやれとまた頭を掻いた。
「俺が売ったわけじゃないだろ」
「おじいさん、説得できないの?」
洋子の声にも首を振る。
「ここ数日、機嫌が悪いんだ。それに、もう売ったもんだ。買い戻せるかな」
「どうして売ったりしたの? 御先祖の大事なものだったんでしょ!」
責める友美たちに、寝太郎は不意に背を向けた。
「俺は無関係だぞ。そこまで言われることしたか? やってられねぇな……」
ぼやきながら、寝太郎は森の中に向かった。
「帰るの? この森を見捨てて!」
友美は、その後ろ姿に怒鳴った。
「委員長にまかせるよ。鍵もやる。頑張って守ってくれよ」
寝太郎はそう言い捨てて、森の中に消えた。
「何て奴だ。この声を聞いてるくせに、よくあんなことが」
「でも確かに、寝太郎くんの責任じゃないよ」と、洋子が言った。
友美は、ちょっとだけ後悔した。洋子の言う通りだ。
しかし、すぐに思い直す。あいつは結局、逃げる口実にしただけだと。
「そうか……」と、友美は気づいた。
「潰されるから、私たちに助けを求めていたのかな、この森……」
納得の視線が、友美に集まる。それ以外に、この『声』の説明は不可能だと、全員が悟った。
「明日にも潰されるんじゃないか? この『声』、相当、切羽《せっぱ》詰《つ》まってるって感じがあるだ
ろ?」と、隆。
「明日は日曜だ、大丈夫だろう。しかし、現実的にどうすれば助けられるかだ……」
直人の言葉に、「待って」と、友美が言った。
「ひょっとしたら、この森の声が聞こえるのも星虫のおかげじゃないの? だとすれば、市の
役人で、星虫所持者を連れてくれば説得できるかもしれない」
歓声が上がる。星虫所持者に森の『声』が聞こえるとすれば話は簡単だ。この声を聞いて心
を動かされない人がいるとはとても思えない。
「けど今日は土曜だ。役所、開いてるか?」
そう言った隆に、友美が言った。
「それなら、代表者のところへ行けばいいでしょう」
「張本人?」
「市長のお宅へ」
傾いた日差しが、坂道を下る五人に、長い影を背負わせていた。
とぼとぼと歩く友美へ、直人が慰めるように口を開いた。
「仕方ないよ。市長が星虫所持者だったらよかったんだけどなぁ……」
友美はうなずいた。五十億もいる星虫が、なぜあの男についていないのかと腹が立つ。
結局、この時間までかかって、市役所と市長の家を回ったのだが、まるで相手にされなかっ
た。市長の家では警察まで呼ぶと言われ、頭にきた友美が、『呼ぶんなら呼んでください』と
啖呵《たんか》を切ったところで、みんなに止められた。危なかった。もう少しで、被っていた猫の皮が
剥がれるところだった。
「まだ手はあるよ。それに、いざとなったら、あの森の木に自分の体をくくりつけてでも守っ
てやる」
「そりゃあいい」と、隆。
「あさって潰すらしいけど、絶対に阻止してやる」と、正夫も口元を引き結ぶ。
「そこまでしないでも、大丈夫よ」
洋子が、額の星虫を示した。
「この星虫が、きっと助けてくれるわ。簡単。ただ、星虫所持者を集めて、あの森に入れるだ
け。そうすれば、全員が味方になってくれる。所持者は、日本だけでも何千万人もいるんだか
ら」
その通りだと気づき、友美は少し顔を上げた。
「見ろよ!」
直人が驚いたように、町を指差していた。
市長の家のある高台から、少し降りた坂の途中。そこからは、遠く友美たちの町も望むこと
ができた。
その町が、美しい夕映えの中に輝いている。
星虫の目がこの光景を捉えた時、あの森の声が友美たちに届いていた。
素晴らしい夕焼けを見て、じんとする想い。その感動が、百倍にもなって五人を直撃していた。
こんなにも綺麗で、哀しい夕焼けを見たのは、生まれて初めてだった。
涙を浮かべた友美の目が、遠い自分たちの町の一角に吸い込まれるように向いていた。
朱色の輝きの中、陽炎《かげろう》のような光が、立ち昇っている。
「森が……」
友美は指差し、全員がその不思議な揺らめく光に心を奪われた。
「絶対に、絶対に守るんだから……」
心の中に、寝太郎の嘲笑うような顔が浮かんでいた。その顔が、できるもんなら、やってみ
ろと、友美に舌を出した。
『私は、寝太郎とは違うんだ!』
友美は下唇を噛《か》み、震えるくらいに全身に力を込めた。
一時間後。綿のように疲れ切った友美が帰ると、家族はすでに食卓についていた。
とはいえ父は、この星虫騒ぎでしばらく家には戻れそうもないらしい。
そんなこともあって、ちょっと気が立っている母の小言を我慢して聞き終えた友美は、今日
あったことを兄に話し、そして、あの屋敷がいかに特別な存在かを力説した。
「本当に私たち、森の声を聞いたの。あの森は、絶対に残さなくちゃ!」
「そんな場所が、この町にか。だったら、俺も協力する」
「ほんと?」
「ああ。でも友美、それ、その『森』の声じゃないぞ」
「え?」
「友美たちが聞いた声は、アメリカじゃ、EARTH CRY って呼ばれてる」
「地球の……叫び?」
ことの起こりは、アメリカでの大規模な幽霊騒ぎだった。夜になって、あちこちで哀しげな
叫びが聞こえるという警察通報が相次ぎ、その全員が星虫所持者のみであったことから、調査
の結果、つい一時間ほど前に、アメリカ政府が結論を出した。
都市近郊にかろうじて残された自然の中、あるいはそのごく近くに住む星虫所持者のみが感
知していること。そして、その感知している感情らしきものの質が、完全にどの地区でも一致
することから、その声にならない声は、消滅しつつある自然の叫び――言い換えるなら、地球
そのものの『悲鳴』と考えても間違いではない。すなわち、EARTH CRY、または EARTH
SCREAM であると発表したのだ。
もちろん、同じ現象は世界各地で発生していた。
友美は、自分たちだけがあの森を救えるのだと盛り上がっていたことに、気恥ずかしさを覚
えた。
考えてみれば、その方が理屈だ。森の精霊と考えるよりは、地球環境の危機的状況が『声』
として感じられる方が。そう思い始めると、『地球の叫び』説に当てはまることが、次々と頭
に浮かんできた。
あの声は、町でも聞こえた。それに、あんな小さな森にしては、宿っているものが大きすぎ
るって気はしていた。悔しいが、寝太郎が正しかったのだ。
寝太郎といえば、あの美女との関係を聞きそこなったことが思い出されたが、また機会はあ
る。今は、どうすれば森を守れるかが問題だった。寝太郎の祖父を説得できれば、一番楽なの
だが……。
明日、あの森で、朝七時に集合だった。しかし、このニュースをみんなも知った頃だ。森が
特別な存在でないと分かっても、全員来るだろうか?
いや、一度でもあの『声』を体験したら、そんなのは問題ではない。あの声が、実は地球の
叫びだとしても……。
地球の、叫び?
突然、友美は、その意味の巨大さに気がついていた。そう、そうなのだ。あれが地球の声だ
とすれば……。
「兄さん、これって、地球が本当に生きているということになるんじゃないの? 生きて意思
を持っていることに。これ、とんでもない大発見じゃ――」
幸雄は、その友美の言葉にうなずいた。
「そういうことだな。昔、イギリスの科学者が発表した、地球生態系を一つの生き物と考え得
るって説が正しかったってことだ。でも……」
幸雄は首をかしげ、眉を寄せた。
「どうして、泣き叫ぶなんて……地球にとって、人間のやってる程度のことなんか、極々小さ
いことのはずなんだけどな」
友美は、びっくりして問い返した。
「ごく小さい? でも、もし大崩壊理論が本当だったら――」
「ああ。多分、本当なんだろう。国連宇宙開発機構に批判的だったアメリカ政府でさえ、今回
の発表で、EARTH CRY が大崩壊の起きる最高の証拠になるだろうって言ってる」
「だったら」と身を乗り出す妹を抑え、幸雄が続けた。
「確かに環境の大崩壊が起きれば、人間と、何百、何千種類かの動植物が道連れにされて絶滅
するだろうよ。けどさ、地球がそれで粉々になるわけじゃないだろ? 逆に、わずらわしい水
虫菌が消えて、すっとするぐらいなもんだ」
「水虫? 人間が?」
「癌細胞だなんて言う人もいるけど、人間なんてその程度のもんだと俺は思うな。地球に生物
が生まれてから今までに三回、大絶滅が起きてる。そのうちの一回は、全生物の九割以上が死
んだけど、地球はこうしてピンピンしてる。人間がどれだけ無茶したとしても、それ以上のこ
とができるとはとても思えない」
いつも馬鹿を言っている兄の意外な博識ぶりに感心していた友美だったが、やがてクスッと
笑った。
「そんなことないよ」
「何が?」
「兄さんは、あの声を聞いてないから。本当に地球自身かどうかは分からないけど、それに匹
敵するぐらいに大きな存在が苦しんでて、私たち人間に向けて何かを語りかけてるのは、間違
いないわ」
友美は考え込みながら、続けた。
「……やっぱり人間は、水虫より、癌の方に近いと思う。だって水虫は体の外の菌が感染する
んでしょ? でも癌は、体の中にできる。人間がしちゃうことを、やれちゃうことを、甘く見
ちゃいけないんじゃないかな。あの声って、そう言ってるみたいにも思えるんだ……」
幸雄は感心したように友美を見て、笑った。
「なるほど。友美みたいな奴が、今、全世界で生まれてるわけか。だとしたら、大崩壊は、防
げるかもな」
「防ぐの。兄さんの言う通り、人間がただの水虫でも、何百種類の動植物を道連れにすること
は、できちゃうんでしょ?」
あの森を救っても、声は消えないだろう。だが、全世界で星虫所持者が友美たちと同じよう
に立ち上がったとしたら……。
疲れも吹っ飛んでしまった友美に、「星虫のニュースがもう一つあるぞ」と、幸雄が続けた。
「テレビとラジオの電波を、捉えられるらしい。俺は、まだ無理だけど」
驚きの連続に、友美は眩暈《めまい》をおこしそうだった。
「なんてすごいんだろ。星虫って……」
「ローマ法王は、神の御遣《おつか》わしだと言ってるな」
兄の言葉に、友美はなるほどと感心した。
「はいはい、お喋《しゃべ》りはおしまいにしましょ。早く食べて、片づかないから」
食事の冷めるのを見兼ねた母の一言で、ようやく夕食が始まった。
「お、おいしい!」「まじで美味い!」
一口食べた友美と幸雄は、思わず感嘆の声を上げる。
母の冷めかけた料理が、超一流レストランに優る美味に感じられた。
一心不乱に食べながらも、友美は気づいていた。突然、母の料理の腕前が上がったのではな
いことに。これは、星虫の力に違いなかった。
食べ終わり、片づけを手伝っている友美の中に、新しい不安が芽生えていた。
素晴らしい星虫。だが、まだまだ正体不明。明日どうなっているかも分からない。それはつ
まり、明日の朝、死んで取れている可能性もあるということだ。
大体、星虫も生物なのだから、何かを食べなければ死ぬはずだ。しかし、星虫が血を吸うと
いう報告はない ( まあ、それゆえに今日まで受け入れられてきたともいえるのだが ) 。地球の
生物とは全く違う鉱物性の生き物で、大気中の元素を栄養にしているという説が有力視されつ
つあるものの、友美はやはり不安を抑え切れなかった。
額に触れ、心で呼びかけた。
『取れちゃ、やだからね。欲しかったら、血くらいあげる。ずっとついててよ』
死ぬ思いでいつもと同じトレーニングを終え、風呂に入った友美は、よろよろとベッドに腰
掛け、ドライヤーで髪を乾かしながら、大欠伸をした。
軽い頭痛がしているのは、星虫の力の使い過ぎらしい。目蓋《まぶた》が本当に重い。
髪は生乾きで諦め、明かりを消し、ごそごそと寝床にもぐり込んだ。
仰向けになる。眠れる幸せに体が震えた。
「何て一日だったんだろ……」
すでに半分眠りに入りながら、友美は思い返していた。
星虫のこと、森のこと、素晴らしい夕映えのこと。そして、寝太郎のあれ以下はないという
汚い姿が思い浮かび、あわてて頭の中から消去した。
そして、今日の出来事の中で、ただ一つ残念だったことを、友美は思い出していた。
お化け屋敷が、おじさんの家ではなかったことだ。
友美は重い目蓋を上げ、天井を見上げた。その上に広がるはずの宇宙……。
あの不思議なおじさんと、不思議な屋敷が、その憧れの宇宙から来たのではないかと、思え
てならなかった。
[#改ページ]
三日目
[#改ページ]
「おまたせ」
家を飛び出してきた友美に、直人は思わずぽかんと口を開けてしまっていた。
黄色いブラウスと、真っ白なスカートが目に眩《まぶ》しいほどだ。髪を押さえている幅広のへアバ
ンドが、ブラウスと同じ明るい黄色に輝き、友美の年齢を一〜二才引き下げて見せているが、
それはそれで可愛さを倍加させており、文句をつけるどころではない。
日曜日の朝七時前。
普段なら絶対に床の中の時間だが、疲れ切り、頭も回らなくなった昨夕、森を守る対策を翌
朝話し合おうと決めたのは、直人自身。文句は言えないし、言う気もなかった。
直人は五時に起き、風呂に入り、まだろくに生えてもいない髭《ひげ》を剃《そ》った。そしてイタリア旅
行した姉の土産《みやげ》のシャツに、初めて腕を通す。もちろん、それが森のためのわけがない。普段
とは違う自分を、一人の少女に見せたかったのだ。そして、今日こそが、絶好のチャンスだと
思っていた。何とか他の連中をまき、二人きりになる機会を作ってみせる。
作戦は三つ立てた。いざという時のために、ロードショーのチケットも用意してある。細工
は流々《りゅうりゅう》だ。
「でも、どうしたの? びっくりしたわ、わざわざ迎えにきてくれるなんて」
誘いにきたのが直人一人と知った友美は、ちょっと驚いて訊ねた。
「まあ、ついでだったから」
直人は笑ってごまかし、「それより、大きいな。氷室さんの星虫の青い目」と、話題を変え
た。
二日間、何の変化もなかった星虫の形状に、この朝、初めて異変がおきていた。
全体の大きさは縦三センチ、横二センチになり、一回り大きくなっている。昨日まで目立た
なかった額と星虫を接着していた黒いラバー部分が小判状に広がり、その上に虫の甲殻《こうかく》のよう
なものが被さっていた。それぞれの目は、小判の上に散りばめられた形になり、最早《もはや》『!』マ
ークには見えなくなっている。どこか、海の岩場に張りついた貝やフジツボに似てきていた。
より生き物っぽくなったといえるだろう。欧米などでは、就寝時以外に成長が始まったため、
驚いて取った人もいたが、成長が数十秒で終わったため、気づかない人が大半だった。落ちた
星虫は、数百に留まっている。
四つだった目も、一つ増えた。最上部にある紫色の楕円《だえん》の目と、その下の青い目の間が開き、
米粒《こめつぶ》のような形と大きさの透明な目ができていた。二つの赤い目の位置は、丸い目の両脇に移
ったが、大きさは昨日と変化ない。
五個になったその目の中で、最も巨大化したのが一番下にある丸い青い目だ。昨日の倍以上
になっていた。それゆえ、感覚の増幅を主に司《つかさど》っているのが、この目である可能性が更に高
まっていた。
「直径一センチはあるんじゃないか。今朝のニュースは、本当みたいだな」
「嘘だと思う」と、友美は笑った。
アメリカの研究者が、星虫の成長は知能に比例すると言い出したのだ。ハーバードの学生が
七〜八ミリ。全体の平均が六ミリだという。
「その理屈なら、私、大天才になっちゃう」
「でも、大きい方が性能がいいのは確かだろ? 赤外線も見やすくなってるはずだ」
「それは、そうだけど」
町を見ながら、友美はうなずく。視覚のコントロールが、自然にできるようになっている上、
疲労度がぐんと減った。他の感覚の増感も、コツが分かってきたし。
「それに、電波が聞けるんじゃないか? その大きさなら」
「ラジオぐらいかな。それも相当集中しないと駄目だし」と、友美は自転車を出しながら言い、
「急ぎましょ」と、自転車に跨《またが》り走り出した。直人もあわててペダルを踏む。
友美は少し苛立っていた。星虫の価値が決定的となった昨日から、世界は少し変だ。
星虫所持者による大規模な環境保護運動が、全米と南アメリカで勃発《ぼっぱつ》。ブラジルでは、武力
衝突まで発生していた。その反面、星虫による犯罪(赤外線が見えれば、暗闇でも泥棒が可
能)の急増、所持者と非所持者との間のトラブルも激増しつつあった。
それに、星虫の与えてくれる力が素晴らしければ素晴らしいほど、持っていない人々は妬《ねた》む。
なのに、人類の四割が、非所持者だった。しかも最初から星虫に共生されなかった人は、なぜ
か子供、病人など、社会的弱者が多かった。
もし友美が、非所持者の立場だったら、やっぱり羨ましがるに決まっている。その意味では、
えこ贔屓《ひいき》のような星虫のつき方も少し気に食わなかった。
洋子は、竹林の高校側に近い入口である、小さな空き地に立っていた。
その目には、仲良く並んで走ってくる二台の自転車が映っている。
「おはよう、松本さん」と、その片方が手を振った。
「どうしたの?」
自転車を降りた友美は、友人の顔を覗き込んで怪訝《けげん》そうな表情をした。
「別に」
洋子は吐き出すようにそう言って、直人を見た。
「他の連中はまだか?」
アベックの残りがそう聞き、辺りを見回している。
「中!」
怒ったような洋子の口調に、二人は首をかしげた。
「じゃ、先に行ってるぞ」
戸惑いつつ竹林に入る直人に鍵を預けた洋子は、残った友美と向かい合った。
「どうしたの?」と、友美が聞く。
「何が?」と、洋子。
「今睨んでたでしょう、すごい顔してたわ」
「別に……」
「別にって顔じゃなかった。ひょっとして、誤解してる? 宮田くんとは、何もないんだけ
ど」
洋子は友美から視線を外した。
「直人の方はそうじゃないわ」
「どういうこと?」
「言ったでしょ。寝太郎くん以外にもう一人いつもあなたを見てる男子がいるって」
友美は、嘘とつぶやき、口元を押さえた。
視線をそらす洋子の前で、友美は呆然と空を仰いだ。
またかという思いだった。中学の時も何度か同じようなことがあり、一人、友人をなくして
いる。なぜ男子は、こうも外面《そとづら》にだまされるんだろう?
「困ったなぁ……」
ため息をついて、体を直人が消えた竹林に向けた。
友美には、夢があった。夢が叶うまでは、寄り道したくない。『彼氏彼女』などをやる余裕
など、時間的にも精神的にもなかった。大体、『おつき合い』するような男子にまで猫を被っ
たままなんて、想像しただけでも疲れる。
「心配しないで」と、友美は洋子に告げた。
「私、絶対、宮田くんとつき合ったりしない。私には恋愛してる暇なんてないの」
「ほんと?」と、洋子が、窺うような視線を、友美に向ける。
「本当よ。今の私にとって、彼氏なんかより友達が、松本さんの方が――」
この時二人の脇を、何かが風のようにすり抜けた。友美が目を向けた時には、竹林の中に飛
び込んでいる。
「寝太郎くん? 今の」と、洋子が自信なさそうに言う。
星虫の視力で目撃した友美の首も、かしげられる。確かに寝太郎のようだが、あの足の速さ
は全く彼のイメージではない。と、今度はスクーターのエンジン音。
「どいてっ!」「あぶないっ!」
ノーへルでスクーターに乗った女性と、友美の声が重なる。
真っ赤なスクーターは、二人の直前で急ブレーキをかけて止まると、スタンドも立てずに放
り出された。ドライバーが、それを飛び越え、身をひるがえす。
その姿が、友美と洋子には、輝いて見えた。
「ごめんなさい!」という言葉をあとに残し、女性は寝太郎らしき姿を追い、竹林の中へ消え
た。
唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然とした洋子が、顔を上気させて言った。
「すごく綺麗な人……」
友美も、息を飲んでいた。
「この前、学校で会った人だ。確か、吉田秋緒……」
「知ってるの? 何なのあの人。タレント? モデルかな!」
洋子は落ち込んでいたのを忘れ、友美も興奮してきた。
「あの人、寝太郎に会いにきたの。学校に」
「寝太郎くんに、会いに……」
友美がダッシュ。竹林に駆け込むあとを、あわてて洋子も追った。
扉の鍵を開け、遅い友美たちを迎えに歩いていた三人の男子たちの横を、寝太郎が猛烈な勢
いで駆け抜けていった。
「何だ?」と三人が振り返り、寝太郎が門をくぐるのを見守った。
「捕まえてっ!」
切羽詰まった声がする。少し苦しそうに胸を押さえた女性が立っていた。
「すっげー……」と、声が出せたのは、隆だけだ。あとの二人は、硬直している。
苦し気に息を弾ませているのに、その女性――吉田秋緒の美しさは衰えていなかった。
「お願い。今走っていった男の子を捕まえて!」
もう一度そう頼まれて、初めて三人が動いた。爆発的に!
「おまかせっ!」
隆が走り、二人が続いた。さっきの寝太郎以上のスピードだ。
後ろから追いついてきた友美たちにも、秋緒は頼む。
「広樹を探すのを手伝って。ここの扉を閉めて!」
友美と洋子も、迷うことなくその言葉に従っていた。
森の中での鬼ごっこが始まった。
鬼は寝太郎。そして、追いかけるのは五人プラス秋緒。
密林に近い森の中だが、五人には星虫があった。どこに隠れようが、赤外線で透視していけ
ば簡単に追跡できる。
「な、何でお前らまで追っかけんだよ!」
寝太郎は追いすがる隆に、怒鳴った。
「さあなっ!」と、隆は楽しげに怒鳴り返した。
すぐに捕まると思われたのだが、意外に寝太郎はすばしっこく、気がつくとまかれてしまっ
ていた。
全員が、森の真ん中にある、あの『広場』に集まる。
「どこへ隠れたか、氷室さんの星虫なら見えるんじゃないか?」 と、直人。
うなずいた友美は、精神を集中する。直後、星虫は、ここにいる以外の大型生物――つまり
寝太郎を発見していた。
友美が指差す。それは一同の真上だった。広場の端に立つ、大木の上だ。
「……どうやって登ったんだ?」と、隆が呆れる。
その木は大人が一抱えしてまだ余る幹で、ジャンプして手の届く範囲には、細い枝一本生え
ていない。五人はその下に集まり、馬鹿みたいに上を見上げた。
「彼は?」と、まだ少し苦しそうな様子の秋緒が、森の中から現れて聞いた。
友美が首を振り、大木の上を指差した直後、
「何だ、お前らは!」
雷のような大声が、一同の後ろから轟《とどろ》いた。
肝を潰《つぶ》した六人が振り返ると、草地の倒木の前に、初老の男が立っていた。
山羊《やぎ》のような白い髭《ひげ》をたくわえ、鋭い眼光が厚い眼鏡の底からほとばしり出ている。どうや
ら随分、酒が入っているらしい。はげ上がった顔は真っ赤で、額に星虫はない。
「あなたは……」
直人が恐る恐る尋ねた。
「この屋敷の元持ち主だ!」
ということは、昨日のインターホンの声の主――つまり、寝太郎の祖父?
意外な人物の登場に、まだついていけない友美たちへ、
「どうやって鍵を開けた!」と、彼は更に怒鳴りつける。
友美はあわてて頭を下げた。
「すいません。私が、ここの鍵を寝太――いえ、相沢くんから預かったんです」
「……ん? その声……なんだ、昨日来た広樹の級友か」
「は、はい。氷室といいます」
「それなら謝ることはない。ところで、広樹を見なかったかね?」
「今、木に登ってます」
友美が大木を指差すと、男はいきなり大笑いを始めた。
「広樹は猿並みだ! 速かったろう、登るのが!」
楽しげに笑う男につられ、全員がくすくす笑い始めていた。思ったより、悪い人ではないよ
うだ。
「だが、何の用だ、こんな場所で。まだ七時だぞ」
直人が、慌てて星虫と『地球の叫び』の話をした。
「それが、この場所からも出ているんです」
なるほどと、老人は納得した。
「そういえば、ニュースで、嫌ってほどやっとったな」
「相沢さん、ここは――この場所は、大切な場所なんです。助けてください」
友美がそう言って深く頭を下げた。他の四人もそれに倣《なら》う。
「無茶を言う子供たちだな。一度売ったものだ、そうおいそれと買い戻せるわけがなかろう。
大体、金に困って売ったわけでもない。わしなりに考え抜いた末に決めたんだ。とやかく言わ
れる筋合いではない!」
その迫力に、思わずあとずさった二人の横から、あの美女が前に出てきた。
老人の体がピクッと震えた。秋緒を見る目が横にそれ、見つけた倒木に腰をおろした。
「……お前もおったのか」
秋緒は会釈し、老人の前に立った。二人の間には、不思議な雰囲気が漂い、友美たちは顔を
見合わせた。
「ここは、不思議なところですね。どういう場所だったんですか?」
秋緒はそう、老人に訊ねる。
頑固《がんこ》じじいという形容がぴったりの相沢氏だったが、その顔から毒気が消えていた。
「ま、話してやってもいい」
急に態度の変わった老人は、この屋敷の由来を語り始めた。
「江戸時代――元禄元年というから将軍は綱吉《つなよし》の頃、この町で代官を務めていたわしらの先祖
は、災難に見舞われていてな。数年来の不作、村での殺人事件、神隠し、そして一揆《いっき》。それら
は監督者である御先祖の責任問題にも発展しかねず、加えて三人もいた跡継ぎが相次いで急死。
万策つきた御先祖が京に上り高名な陰陽師《おんみょうじ》に吉凶を占ってもらったところ、屋敷から鬼門
――つまり北東の方角にある雑木林を、高い塀で囲えと言われた。そうすればそこが自然の結
界となり、相沢家への災いを途中で断つことができるだろうと。調べてみると、確かに雑木林
があった。喜んだ御先祖は、言われた通りに高い塀で囲い大きな門を築いた。やがて凶運は去
り、跡継ぎの男子にも恵まれた。以来、この屋敷を守るのが、相沢家当主の義務となったん
だ」
老人は、感慨深げに森の中を見つめた。
「それから三百年。それがこの場所だ。化け物屋敷だとか、悪い噂が山ほどたったが、別にそ
んなものはおらん。元々ただの雑木林だからな。二百年ほど前の御先祖の頃、また家運の下が
ることがあって、その時、鍵を竹林に埋め、誰も登れんように壁の周りの竹を切ったのが、悪
かったのだろうがな……」
由来を話すうち、老人の口調がだんだんと柔らかくなってきた。
森を見つめるその目は、いとおしげに細められている。
先祖代々守ってきた土地。金に困っていたわけでもない。そして、彼はこの森をまだ大事な
ものと思っているようだ。どうして売る必要があったのか……。
「どうして、そんな大事な場所を売るんですか?」
全員の気持ちを代弁するように尋ねた秋緒に、相沢氏は厳しい眼差しを送った。
「どうせ、あと一世紀の命だろう。今壊し、少しでも世間の役に立った方がいい!」
吐き捨てるように怒鳴った男は、秋緒を責めるように続けた。
「そう言ったのは――大崩壊理論を発表したのは、お前のはずじゃないか」
友美は息を飲み、秋緒の整った顔に目を向けた。
見た覚えがあったはずだ。科学雑誌で大崩壊理論の特集が載った時、眼鏡をかけた科学者の
小さな写真がついていた。日系人と紹介されていたと思ったが、確かにあれは彼女の写真だっ
た。
「この一世紀に何とかできればいいんです」
秋緒は、静かに告げた。
「できっこないだろう!」
「やらずに分かりますか」
「分かる!」
相沢氏は言い切り、友美たちに視線を向けた。
「一人の馬鹿の話をしてやろう。その馬鹿はな、外国の大学で学び、海外を回り、農業指導や、
植林の指導をしとった。自分の妻と子供を残し、アジアやらアフリカやらへ出かけては、私財
を投げうって、米や麦や芋の作り方を教え、植林し、砂漠化の恐ろしさを教えたりしてきた。
地球の緑が猛烈な勢いで減っているのを、そいつは一人で食い止めようとしたんだ。ある年の
ことだ。その馬鹿はタイへ行った。タイとカンボジアの国境近くで、坊主《ぼうず》になった山の植林を
指導していた。最初は上手くいってたんだ。ところが、カンボジアで内戦がおき、難民がその
山里近くまでやってきた。難民だって食わねばならん。そいつらは、植林したばかりの山を焼
き、畑にしおった。怒ったのは、タイの連中だ。彼らは武器を持ち、バラック建ての粗末な難
民キャンプを襲った。何十人も死んだ。しかし、難民たちも武器を持っている。直ちに報復だ。
今度はタイ人が殺された。こうなったら、泥沼だった。そこへしゃしゃり出たのが、日本から
きた馬鹿だ。タイの山里の連中も、カンボジアの難民も、ともに貧しい連中だ。虐《しいた》げられたも
ん同士が、殺し合うことはないと、頼まれもせんのに、双方の調停に入ったんだ。結果、どう
なったと思うね?」
老人は友美に尋ねた。
「……どうなったんですか?」
嫌な予感で胸を一杯にしつつ、友美は問い返した。
「両方から恨まれたんだ」と、相沢氏は声もなく笑った。
「その馬鹿は、タイ人からは裏切り者、難民からはスパイ扱いされた。そしてとうとうある日、
ねぐらを何者かに襲われ、馬鹿は瀕死《ひんし》の重傷を負った。そのまま、日本へ強制送還さ。馬鹿は
そのあと数年、怪我と現地でかかっていた病気の後遺症に悩まされた末に、家族にまでも見捨
てられて死んだ。馬鹿は、世界の緑を救うどころか、自分の命や家族すら守れんかったわけだ。
人聞はしょせん動物だ。いや、思を仇《あだ》で返す、動物以下の外道《げどう》だ。そんな外道に、明るい未来
があるというのか?」
美しい森に、重苦しい空気が満ちているように感じられた。
この老人の話が、ただの譬《たと》え話でないことは、全員に察せられた。馬鹿とは、相沢氏のよほ
ど親しい存在に違いなく、多分それは、彼の身内だろうと思えた。
「でも、今は昔とは状況が違います。今なら、その人が夢見たことが、実現できるかもしれま
せん。星虫のおかげで、世界中が動こうとしているのが分かりませんか?」
秋緒はそう老人に言った。
「ムードでは、現実は変わらん」
相沢氏は首を振り、責めるように秋緒を見た。
「しかし、お前はずいぶんと変わったようだな。どうしてだ?」
「変わったんじゃありません。気がついただけです。その馬鹿な人が正しいって」
老人は、秋緒から目をそらし、立ち上がった。
「やめとけ。それに、わしらを巻き込むな。ここを売ったのも、わしの勝手。誰にもとやかく
言わせん。広樹も渡さん。あれでも相沢の跡取りだからな」
老人は立ち上がり、秋緒に背を向けた。
彼がこの場を立ち去ろうとしていると知った友美は、その後ろ姿に言った。
「待ってください、相沢さん。それ、多分、間違ってます」
憮然《ぶぜん》と振り返った老人に、友美は続けた。
「確かに人間はどうしようもない生き物かもしれないです。一世紀後、大崩壊を引き起こして、
この綺麗な森も壊してしまうかもしれません。でも、だからといって、今壊してしまうってい
うのは、納得できません。この森には、木々と生き物たちがいて、生活してます。それを殺す
権利もないわ。それに、上手く言えないけれど、その馬鹿な人は、絶対馬鹿じゃなかった。素
晴らしい人だと思います。その人みたいにはできないけれど、この森を私、守りたい。こんな
身近な自然を守ることが、きっと大崩壊を防ぐことに繋《つな》がる気がするんです」
友美をじっと見つめる秋緒が、口を開いた。
「星虫のない私にも、ここの不思議な雰囲気は分かる。守るべき場所だと思うわ」
「お願いします」と、友美が老人に頭を下げた。
直人たちも、老人に頭を下げる。しかし、彼は再び背を向けた。
「うるさい……」
ずかずかと、森の中へ入っていく。二度と振り返らなかった。
「頑固ね」と、秋緒が咳く。
だが、友美の耳に届いたその声は、なぜか柔らかだった。
「仕方ないわ、あとは広樹に頼むのね。彼になら、頑固爺さんも少しは甘いはずよ」
友美たちは、改めて秋緒を見つめていた。科学者だとは、とても思えない美貌。相沢氏との
意味深な会話。正体は分かったはずなのに、何だか謎が深まったような気がする。
「あの、相沢くんと、どういう関係なんですか?」
友美が尋ねたが、彼女は少し肩をすくめただけで、答えてくれなかった。
「大崩壊理論を発表された方なんですか?」と、緊張した声で、直人が聞く。
うなずく秋緒に、友美はおずおずと聞いた。
「大崩壊は、防げるんですか」
「あと、二十年以内に、国連の進化計画が動き出せば」
「資金的にも技術的にも難しいって、先生が話してましたが」
直人の言葉に、友美もうなずく。
「その第一段階だと、赤道上に巨大な海上都市を作るんですよね。シャトルを打ち上げるため
の。でも、ロケットじゃなく、ソレノイド・クエンチ・システムを使うって、兄の貸してくれ
た雑誌には載ってましたけど、それに必要なエネルギー源も超伝導コイルも耐熱板も、まだま
だ未来の技術だって……」
「……それのいど、なんだって?」
首をかしげる隆に、「一種の大砲だと思えばいいわ」と、秋絡が言った。
「超伝導コイルを使い、秒速十一キロまで加速可能なの。これなら、一日に千トンの物体を低
軌道どころか、静止軌道まで運ぶこともできる。もっとも、加速度の関係上、人間を運ぶには
百二十キロほどのランチャーが必要だけど、設置するのに理想的な海底と海底山脈は、もう見
つけてあります」
全員の口が、ぽかんと開いてしまっていた。
「地球を巡る衛星になるために必要な速度は、秒速八キロです」と、友美。
「大気との摩擦《まさつ》を考えても、秒速十一キロなら、三万六千キロ離れた静止軌道まで上れるでし
ょうけど、そんなの、無理です。宇宙から帰還するシャトルでさえ、大気との摩擦で数千度の
高温になるんですよ。一気圧もある地上から、そんな速度で打ち出せば何万度になってもおか
しくない」
すると秋緒は、クスッと笑って、言った。
「あなた、見かけ通りの子じゃないみたいね」
「え……」
微かに青ざめる友美に向かい、秋緒は続けた。
「まだ未発表の情報なんだけど、特別に教えてあげます。三年前の宇宙船発掘事件の時、あの
異星人の船の外殻が手に入ったんだけど、それがやっと複製できそうなの。セラミックの数百
倍の耐熱性、熱遮断性、耐久性を持ってる外殻をね。摩擦熱問題さえクリアできれば、燃料を
ほとんど積む必要がないから、ロケットやラム・ジェットを使うよりも遙かに経済的で安全な
宇宙往還機を、作ることができる」
真っ青な赤道上の海に浮かぶ海上都市。閃光《せんこう》となり、次々射出されるシャトル。
「でも……」と、友美はその胸躍る空想を脳裏から消しつつ、かすれた声で言った。
「でも、お金がないなら、どんないい計画も意味ないでしょう?」
「そういうことね。だけどお金が最大の障害でもないわ。一番厄介なのは、人材難」
言ってなぜか、寝太郎が登ったままの大木を見つめた。
「頑固なところまで、おじいさんそっくりなんだから……」
秋緒はため息をつき、腕時計を見て、目を丸くした。
「広樹! 今日のところは帰るけれど、あきらめませんからねっ!」
そう大声で木に怒鳴り、踵《きびす》を返した秋緒のあとを、友美は追いかけた。
今の話から、もう一つだけ、確認しておきたいことがあった。
「あの、ひょっとして進化計画も、吉田さんが立てたものじゃないんですか?」
歩きながら、秋緒は笑った。
「提出したのは私だけどね」
やっぱりと、友美は息を飲んだ。
「その計画の実現のために、日本に来られたんですか?」
「そうね。そのために今日もこれから会いたくもない政府の役人と会わなきゃ」
「でも、あんな夢みたいなもの、できっこないんじゃないですか」
その友美の苛立たしげな声に、秋緒は顔を向け、にっこりと微笑んだ。
「やっぱりあなた、隠してるみたいね。人に言ったら笑われるような何かを」
硬直した友美へ、秋緒は楽しそうに聞いた。
「氷室、何ていうの?」
「と、友美、です」
「じゃあ友美、気をつけなさい。臆病になったら夢は逃げるわ。それから……」
秋緒は立ち止まり、友美を真っ直ぐ見て言った。
「夢は、見るものじゃないのよ」
呆然となった友美を残し、秋緒は森に消えていった。
「夢は、見るものじゃない……」
彼女が何を言いたいのか、はっきりと分からない。でも、何だか胸が熱くて痛い。
半分落ち込んで、みんなのところへ帰ってきた友美は、ようやく寝太郎が木からおりてきて
いるのを見つけた。彼を囲んで、直人たちが大声を上げている。
「どうしたの?」と、洋子に聞く。
「さっき吉田さんが言ってたでしょ。あの頑固なお爺さんを説得するには、寝太郎くんしかな
いって。だから頼んでたんだけど、駄目なの」
「駄目って?」
隆が、友美に肩を竦《すく》めてみせる。
「こいつ、あの爺さん以上に頑固だぜ」
友美は直人と話している寝太郎のところへ近づいた。
今まで気がつかなかったが、今日の寝太郎はいつもよりましな格好をしていた。風呂にも入
ったようだし、Tシャツも模様が分かる。ただ、洗ったため、油っ気の消えたボサボサ髪の体
積が倍に膨張しており、額の星虫も見えないほどだ。
「帰る、俺は」
ぶすっとした寝太郎は、直人たちに背を向けた。
「待ってよ、寝太郎くん」と、友美が止める。
「無駄だよ、氷室さん。こいつは、やっぱりどうしようもない馬鹿だ」
「俺は馬鹿だ。認める。けど、その馬鹿に頼る方も、どうかしてないか?」
直人と寝太郎が、睨み合う。
「やめなさいって! 寝太郎くん、君だって、この森の声が聞こえてるんでしょ? 昨日も守
らなければならないって、言ったでしょう。だったら――」
寝太郎は、ばりばりと頭を掻いた。
「だから言ってんだよ。ほっといた方がいいって。あの爺さんは偏屈なんだ」
「でも、もう明日なのよ、取り壊しは。待ってる時間がないから、頼んでるのっ!」
その友美の必死の顔を見ながら、寝太郎は仕方なさそうに吐息した。
「……そこまで言うんなら、説得してもいい」
友美たちの顔が、ほころんだ直後、
「けど、一つ条件があるぞ」と、寝太郎が言った。
頭を掻きながら、真面目な顔して、真っ直ぐ友美を見た。
「委員長がつき合ってくれるなら、説得してみる」
何かの鳥が鳴く、けけけけという声が、しんとした森にこだました。
誰も答えない。頭がその理解を拒んだようだ。
最初に我に返ったのは、直人だった。
「ここ、この野郎、なっ、何てこと言うんだっ!」
襟首《えりくび》をつかもうとする直人の手を、寝太郎は素早くすり抜ける。だが、次の瞬間、その頬に
猛烈な衝撃が加わった。
パッチーンという音が、辺りに響く。
数歩あとずさった寝太郎の前に、真っ赤に怒って立つのは、友美だった。
「………」
あまりに腹が立って、言葉が出てこない。ただただ睨みつける。
「お前はっ!」と、直人が駆け寄る。
素早く逃げ出しながら、寝太郎は森に飛び込む。
「嫌ならいいよ。じゃあな」
茂みから声だけが届いた。
「とんでもねえやつだな」と、隆が呆れて言う。
「いやあ、勇気あるんじゃないか?」と、正夫は逆に感心していた。
「氷室さんに堂々と交際を申し込むなんて、只者じゃないよ」
それは今まで、上級生にも、若い教師たちにもできなかったことだ。あまりにも完璧な女性
には、よほど己に自信があるか、よほど己を知らない者以外、声もかけ辛い。その意味でも友
美の優等生の演技は完壁だったわけだ。
「確かに只者じゃないな。あいつ、鏡見たことないのか」
その直人の言葉に、全くだと友美は思う。みんなが口々に寝太郎の悪口を言い合う中に加わ
りたかったが、今口を開けば、物凄い悪口雑言が飛び出すのは明らかだった。
「でも、寝太郎くんも駄目だとしたら、どうするの? この森」
そう洋子が聞き、全員口ごもった。
「……俺たちだけで何とかしよう。馬鹿を頼りにしようとしたのが、間違いだったんだ」
「だから、ロープ持ってきて、木に体結びつければいいんだろ?」
「そうだね。星虫所持者を、なるべく沢山集めてきて」
「でも、それだと」と、洋子が言った。
「下手したら、ブラジルとかと同じことにならない? この『声』を聞いたら。暴動に。私、
この森が壊されるのは絶対嫌だけど、誰かがそのために傷つくの、もっと嫌だ」
全員、頭を抱えた。
「……私がもう一度、寝太郎くんを説得するしかないわね」
友美が立ち上がった。嫌だが、やはり元持ち主を頼るのが、一番のようだ。
「じゃ、俺も行くよ」と直人が言ったが、友美は首を振る。
「今度喧嘩《けんか》になったら、本当に駄目になるわ。私一人で行く」
「氷室さん、まさか、ほんとにつき合う気?」
洋子の言葉に、友美の体がブルッと震えた。
「あんなのとつき合うくらいなら、隣の家の犬と結婚する方がましです」
直人は一瞬、その犬になりたいと思いつつ、友美の前に立ちふさがった。
「でも、一人は危なすぎる。動物の檻《おり》の中に飛び込むみたいなもんだ。説得なら、学校の方が
いいよ」
「工事は明日始まるのよ。ここで待ってて。結果を報告にくるから。食事していてくれていい
わ」
友美は、そう言うと、森を出た。
通りに長々と伸びる大きな屋敷の塀沿いを、友美は門に向かって歩いていた。
その頭には、まだ血が上ったままだ。寝太郎が単に交際を求めたのなら、まだ笑って済ませ
たかもしれないが、それを森を守る代償にしようとしたことが、許せなかった。
しかし、その私情を今は捨てなければならない。森を守るためだ。
「よお」
いきなり真上から、声がした。
驚いて見上げた友美の目に、松の大木の枝の上に立つ、寝太郎の姿が入る。手には、植木屋
が使うような両手持ちの剪定鋏《せんていばさみ》を持ち、
「つき合う気になったんか?」と、ぬけぬけと言った。
込み上げる怒りをぐっと抑え、友美は答えた。
「寝太郎くんは、私のことを誤解してると思うわ。私って、君が思ってるような優等生じゃな
いのよ」
すると寝太郎は、げらげらと笑い始めた。通りを行く人たちが驚いて振り向くほどの声で。
友美はあせり、そして頭にきた。
「何がおかしいのっ!」
寝太郎はピタッと笑いを止めたが、まだ肩が震えていた。
「委員長が優等生でないのは、知ってるよ」
友美はカチンときた。自分が優等生を演じているのは確かだが、今の言葉は許せない。寝太
郎などに断言されるほど、ボロを出した覚えはない。
「何を知ってるって!」
思わず怒鳴っていた。
寝太郎は、まだクスクス笑っていたが、「教えてやろうか?」と、悪戯《いたずら》っぽく言う。
自信満々の態度だった。友美は微かに動揺を覚えたが、ここまできてはあとに引けない。
「教えてよ!」
寝太郎は、剪定鋏で裏口の木戸をさした。
「じゃあ入ってこいよ。鍵は開いてる」
「分かった」
元々、話し合いにきたのだ。友美は裏木戸の把手《とって》に手をかけ、そして押し開けた。
足元から綺麗な芝生が広がっていた。右手には大木の生える植え込みがあり、左手には妙に
長細い蔵が二つ、寄り添うように建っている。そして、真正面の母家《おもや》との間に割り込むように、
硝子《ガラス》張りの大きな温室があった。
友美は、呆然と目の前に広がる光景に、声を失っていた。
これは、夢だ。
いつの間にか、自分は眠っていたに違いない。
でなければ……。
友美はギュッと、思いっきり頬をつねった。
ほっぺたが千切れたかというほどの痛みが走った。思わず意識を集中したため、額の星虫が
痛みを増幅したらしい。涙が出たが、これで夢ではないことがはっきりした。
「おじさんの……家だ」
ここだ。友美が六歳の時から、あれほど探し回ったおじさんの家に間違いなかった。あの古
い蔵も、温室も、綺麗な芝生の庭も、全然変わっていない……。
全身の力が抜け、その場に座り込みそうになった。
見つけられなかったはずだ。ここまで家から四キロはある。六歳の自分が、そう遠くまで走
っていけるはずがないという思い込みで、二キロ四方くらいしか探さなかった。
しかし、やっと、やっと見つけた。これで、おじさんに会える。
「何だ、その様子じゃ、覚えてたんだ」
寝太郎の声が、不意に横からした。何だか嬉しそうな口調だった。
「覚えてるって、覚えてるに決まってるわ……」
まだ感動の中にいる友美は、潤《うる》んだ瞳で、寝太郎を見返した。
「私……ずっと探してたの。ここを、この庭を。おじさんはどこ?」
そして友美は、ここでやっと気づいていた。
あの日この庭には、もう一人、友美を刺した蚊を食べた、鼻たれのチビがいた。
「まさか……あの時の、鼻たれ……」
寝太郎は、ニカッと笑った。
「ああ、久し振り――ってのも、変かな。同じクラスだもんな」
友美はまじまじと、その陽《ひ》に焼けた痩《や》せた顔を見た。あの鼻たれの顔など、全く覚えていな
いのだが、不思議な懐かしさが、胸の中に沸き起こってくる。
「あのチビ?」
「もう、チビでも鼻たれでもないぞ」
抗議するように、寝太郎が言った。確かに今の彼は、百八十センチ近い長身だし、鼻もたれ
ていない。しかし、
「汚いのは、同じじゃない」
友美は、思わず笑っていた。寝太郎に対する腹立ちは、この出会いのショックで吹き飛んで
しまっていた。
「でも、寝太郎くん、私のこと覚えてたの?」
「ああ。親父が俺と委員長を写真で撮《と》ったろ。入試の時、一目見ただけで分かったぞ、全然変
わってなかったもんな」
「写真? 写真って、まさか!」
思い出した友美は、赤面した。確かにあの日、友美が蔵の中で発見したレンズがたてに二つ
もある変な形のカメラで、おじさんが二人を撮ってくれた。撮影時、服に汚い手で触った鼻た
れを殴《なぐ》り、泣かせた覚えがある。その決定的な瞬間が撮られていたはずだ。
「あの写真、ちゃんと撮れてたの?」
「あとで見せてやる」
友美は、「いらない」と首を振った。恥だ。
「分かった、それで笑ったのね、私が優等生じゃないって知ってて。でも、それは十年も前の
ことで、人は変わるんだから」
赤くなって言い訳する友美に、寝太郎は怪訝《けげん》な顔をした。
「どこが変わったんだ?」と、訊ねる。
「ど、どこって、だから、全部よ」
苦しげに言い切る友美に、首をかしげた。
「けどな、委員長。まだ、六歳の時のまま、夢を追っかけてるだろ? 宇宙飛行士の」
友美の心臓の鼓動が、確実に一秒止まった。
「そ、そんなのは、小学生の時の夢よ。高校生にもなって、そんな馬鹿なこと――」
反射的に誤魔化《ごまか》そうとする友美を見て、寝太郎は更に首をかしげる。
「じゃあ、毎晩のあれはなんだよ」
「な、何よ! あれって」
「二丁目の公園に毎晩毎晩、十年も、通ってるだろ? あれ、宇宙飛行土のトレーニングじゃ
ないのか」
「どうしてそれ!」
思わず叫んで、あわてて口を押さえる。
寝太郎は、ニカニカと笑った。
「あそこは、親父の親友の家の前だ。夏休み中、あそこにいたんだ俺。委員長見かけて聞いた
らもう十年も毎日通ってくるって感心してたぞ、よっぽど優秀な運動選手だろうってな。それ
で俺、委員長が昔の夢を捨ててないって分かったんだ」
ぐうの音《ね》も出なかった。認めるしかない。それに、どうせおじさんには、全てを話し、謝り、
力を貸してもらわなければならない。そうなれば、寝太郎にも結局はばれるはずだった。この
寝太郎が、あの素晴らしいおじさんの息子らしいのが、まだ納得できない気もするが、知られ
ても仕方ないだろう。
「……分かった。それは、認める。でも、変わってないのはそれだけなんだからね」
悪あがきをする友美に、寝太郎は首を振る。
「学校では、猫被ってんだろ? 芝居が見え見えだ。時々、手が出そうになるの、必死になっ
て我慢してたろ。俺、おっかしくってな」
ゲラゲラ笑い出した寝太郎の腹に、友美の頭がめり込んでいた。思わず前屈みになったその
顎《あご》に、戻ってきた後頭部が直撃する。
十年ぶりに炸裂《さくれつ》した友美の必殺技に、たまらず寝太郎の腰が砕けた。
それでも寝太郎は、「ほらほら、どこも変わってない!」と指差し、まだ笑っている。
「分かった! 分かったわよっ! そうよ、猫を被ってるわよっ悪いっ!」
そう認めた瞬間、開き直った途端、友美の胸の中が、すっと軽くなった。
「悪かない。かっこいい時もあるもんな。けど、疲れないか?」
友美は、こくりとうなずいた。
「うん、最近ね」と、素直に認められた。そして、ごめんと座ったままの寝太郎に謝る。
「大丈夫?」
寝太郎は、平然と立ち上がった。友美の頭突きは効かなかったらしい。相当、丈夫な体をし
ているようだ。
「分かった。それで、この間の朝、私見て笑ってたんだ」
二学期最初の朝を、友美は思い出していた。
「まあな。休み明けもあったんだろうけど、まるで下手な芝居だったもんな」
笑う寝太郎を見ながら、友美は聞いた。
「でも、どうしてもっと早く言ってくれなかったの。私、ずっとここを、この庭を探してたん
だから」
寝太郎は、頭を掻いた。
「無茶言うなよ。委員長がまだ家を探してたなんて、分かるわけないぞ」
「そうよね」と、友美は納得した。十年も前の、たった一日の出来事なのだ。寝太郎が友美の
ことを覚えていてくれたことだけでも、奇跡に近いのかもしれない。
それに考えてみれば、過去はどうでもいい。今、自分はここにいるのだから。
そして友美は、さっきから聞きたくて堪《たま》らなかった言葉を出した。
「寝太郎くん、おじさんは? 今日、いらっしゃる? 是非お会いしたいんだけど」
不意に寝太郎の口元から笑いが消えた。
「会わせるよ」
友美に背を向け、すたすたと母家《おもや》の方へ歩いてゆく。友美はそのあとを追った。
寝太郎は縁側に上がり、障子《しょうじ》を開いて友美を手招きしたあと、暗い中に消えた。
あとに続いた友美が入った部屋は、仏間《ぶつま》だった。二十畳ほどの広さの部屋の中に、人の気配
はない。
「どこにいらっしゃるの?」
尋ねた友美に、寝太郎は、巨大な仏壇《ぶつだん》の斜め上を指差した。
天井近くの壁に、多くの写真が飾られていた。仏壇に祭ってある人々なのだろうと分かる。
完全に黄ばんだ古いものから、順に並んでいるようだった。
「おじさん……」
そして友美は、その写真の最後尾に、四十代の男性の写真を見つけてしまった。数え切れな
い夢の中で見続けた男性の顔が、そこにあった。彼は痩《や》せた頬に笑みを浮かべ、友美を優しく
見下ろしていた。
友美の手が、ぎゅっと握りしめられる。これは悪夢だと、思いたかった。
これはない。やっと見つけたのに、十年も探したのに、これはない!
たった一日のことだと他人《ひと》は言うかもしれないが、この人がいなければ、今の友美はなかっ
た。この人が夢を追う方法を教えてくれた。夢を持つ素晴らしさを教えてくれた。そして、こ
れからが夢を叶えるための本番だった。おじさんがいなければ、自分はもう、前に進む自信が
なくなっているのに……。
数分後、微かな声が友美に届いた。
「親父《おやじ》が死んだの、委員長が来た日から、半年後だ。よく話してたんだぞ、親父と。今頃どう
してんだろうって。親父は最後まで失敗したなって言ってた。委員長にここの住所も電話番号
も教え忘れたから。それでも頭のいい子だから、きっとまた来るって言ってたよ」
寝太郎はそう言って、父の写真に笑いかけた。
「ちょっと遅くなったけど、その通りになったな」
もう駄目だった。友美の目に、大粒の涙が溢れ、畳《たたみ》の上にぽとぽとと落ちていく。
しゃがみこんだ友美は、幼児のように膝に顔を埋めて泣いた。
三十分後。目を真っ赤に泣きはらした友美は、仏壇に手を合わせていた。
「聞きたいこと、あるか?」
ずっと黙って側に立っていた寝太郎が、落ち着いた様子の友美に尋ねた。
おじさんのことなら、聞きたいことは山のようにあった。多すぎて、すぐに出てこないくら
いに。しかし、一番聞きたかった言葉が、結局口に出ていた。
「おじさんて、何をやってた人なの?」
寝太郎はうなずく。
「学者だよ。家は代々学者の家系なんだ。爺さんも親父も、経済学の教授だった。ただ、親父
はすぐ理系に鞍替《くらが》えしたけどな。植物学やって、地球物理学やって、アメリカとイギリスに留
学して」
黙って聞いていた友美だったが、ふと何かが心に引っかかった。似たような。プロフィールを
どこかで……。
「待って、それ、さっきおじいさんが話してた馬鹿の――」
馬鹿と言ってしまって、慌てて口を塞ぐ。
「そうだ。あの馬鹿ってのは、親父のことだ」と、寝太郎が笑った。
驚きだった。そして、納得だった。緑を一人で守ろうとした馬鹿――いや、馬鹿なんかじゃ
ない。それでこそ、おじさんだった。
「そうだったんだ……」
そんな凄い人物と自分は出会い、そして、その人の指導を受けて、ここまできたのだ。
「どうしよう。馬鹿なんて言っちゃった」
「いいさ。言ったのは爺さんだし。親父は馬鹿だよ」
友美は血相変えて、寝太郎に詰め寄った。
「この馬鹿息子、何てこと言うのっ! おじさんは、馬鹿なんかじゃないわ。馬鹿なのはおじ
さんを襲った奴らじゃない。おじさんの生き方は、間違ってないわっ!」
怒鳴る友美に、寝太郎は少しも動じず、ニッと嬉しそうに笑った。
「親父は馬鹿だよ。死んじまったら何にもならんだろ。けど、俺、そんな馬鹿になりたいんだ。
親父みたいな学者馬鹿にな」
友美は唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然として、寝太郎をまじまじと見つめた。
「……学者? 寝太郎くんが?」
寝太郎は、その信じられないという友美の視線に、ちょっと顔を赤らめた。
「ま、俺は怠《なま》け者だから、親父の域の馬鹿になる自信、あんまりないけど……」
「当たり前よ。せっかく、有名な進学校に入れたのに、今のざまは何? ほんとに、それでも
おじさんの息子なの? 信じられない」
寝太郎は、顔を下向けたまま、頭をばりばり掻いた。
「あ、そうだ。蔵へ行かないか」と、話題を変える。
まだまだ言い足りなかったが、蔵と聞いて気が変わった。不思議な、珍しいものが一杯つま
った蔵の記憶は、十年たった今でも鮮明だ。
二つ並んだ蔵。その左の入口を寝太郎が開けた。
中に入った友美は、吐息した。本当に昔のままだ。しかし、昔には正体不明だったものも今
なら分かる。そしてこの蔵の中が、本当に宝の山だったことを知った。
動物の剥製、世界の砂。そして天体望遠鏡とロケットの模型。子供の時、目を奪われたもの
の他に、宇宙や地球に関する、あらゆる文物《ぶんぶつ》が網羅《もうら》されて収集されていたのだ。
「これ、本物?」
厚いプラスチックに封印された、小さな石に書かれた文字を読み、友美は岬《うめ》いた。
「ああ、本物の月の石だ。砂粒って言った方がいいけど」
雑然とはしているが、ここは、地球と宇宙に関する、博物館なのだと知った。
しかしその一角に、当時にはなかったものを友美は見つけた。
机の上にあるのはキーボードとマウスと二つの液晶モニター、すぐ隣には一見、大型冷蔵庫
のような機械が設置され、ブーンと小さな唸りをあげている。
「パソコン……にしては、変だけど」
「まぁ俺が個人で使ってんだから、パソコンだな」
「ふーん」とつぶやいた友美は、その変なパソコンの上に吊るされた、茶筒が羽を広げたよう
な模型を見つめた。
「おじさんは、ここで、緑を救う方法を、研究してたの?」
「うん。厳密に言えば現在の地球の生態系を、人間による破壊から救う方法だな」
「……おじさんらしい」
「ああ」
「で、方法って、あったの?」
寝太郎は、頭上を見上げた。スペースコロニーの模型を。
「これが、親父の出した結論だった。人間が進化してゆく生物なら、宇宙に出るべきだって。
他に、道はないってな」
それは秋緒の――国連の科学者たちの結論でもある。十年以上も前に、そのことに気づいて
いたなんて……。
「国連は、おじさんよりも遅れてたんだ」
吐息とともに模型を見上げる友美に、寝太郎の固い声が聞こえた。
「あれは、元々、親父の計画だ」
友美は驚いて、寝太郎を見た。
「おじさんの? でも、作ったのは吉田さんよ。私、聞いたんだから」
「そんなこと言ったのか? あいつ」
その寝太郎の怒ったような声に、友美はあわてて首を振った。
「提出したのは、私だって言ったんだ。じゃ、作ったのは、ほんとにおじさんなの?」
寝太郎は、少し表情を緩《ゆる》めた。
「そうだ。あいつは親父の計画の一部を、今の技術に置き換えただけだ」
「じゃ、あの人が、おじさんのやろうとしていたことを、やってくれてるわけね」
意外な事実に興奮してきた友美だが、寝太郎は顔をそむける。
「勝手にやってるだけだ」
不機嫌そうな寝太郎に、友美は戸惑う。そういえば、今朝、寝太郎は秋緒から逃げていたっ
け。それに手紙のこともある。あの分厚い手紙には、何が書かれてあったのだろう?
「吉田さん、寝太郎くんに何の用なの?」
「俺にアメリカに来いとさ」
「へえ、いいじゃない」
「よくない」と、不貞腐《ふてくさ》れたように言った寝太郎は、そのまま黙り込んでしまった。
どうやら、複雑な事情があるようだ。まずかったかなと、友美は反省したが、寝太郎の落ち
込みは数秒しか保たなかった。
「そうだ、ここの機材、何でも使っていいぞ」
寝太郎が、唐突に友美に告げた。
「ここを?」
「親父の遺言《ゆいごん》みたいなもんだからな。蔵の鍵もやるよ。いつでも勝手に使っていい」
友美は目を見開いた。この宝の山を、好きに使える?
嬉しげにうなずいた寝太郎は、友美の背後を指差した。
「あ、そうだ。その机とパソコン、使ってくれていいぞ」
妙なパソコンの反対側に、巨大な木の机が置いてあった。机の上に置かれた小さな本棚には
宇宙関係や航空力学の専門書やソフトのパッケージが並び、デスクトップパソコンが据《す》えられ
てある。
近づき、パソコンを見た友美は、目を丸くした。
「これ、このパソコン、プロトαじゃない!」
初めてニューロチップを搭載したパソコンだ。出たのは去年。大々的にニュースでも取り上
げられたが、基本的に大学とか研究所向きで、簡単に買える金額ではない。
「こ、こんなの、使っていいの?」
「ああ。データはみんなこっちにバックアップ済みだから、メモリもハードディスクも全部初
期化してくれていい」
「こっち?」 と、友美の視線が、冷蔵庫のような物体に向く。
思わず唾を飲み込んだ。ひょっとして、あの物体には、プロトα以上の性能が? しかし、
学生が使う分には、プロトαでも充分すぎるはずだった。一体……。
と、「腹へったろ?」と、聞かれた。
途端、友美のお腹が微かに鳴った。
真上に昇った太陽が、よく手入れされた芝生を緑に輝かせていた。
広い庭の植え込みで蝉《せみ》が鳴いている。
その庭を見ながら、縁側に座る友美は、三つ目のお握りを頬張っていた。
「俺の昼飯なんだぞ、ちょっとは遠慮しろよな」
寝太郎が、お茶を持ってきて言った。
「ごめん」と、友美が四つ目にかかろうとした手を止めた。
「冗談だって。もっと食えよ。爺さんの分が、どうせ余ってたんだ」
爺さんと聞いて、ようやく友美はここへ来た目的を思い出していた。
「そうだ、私、寝太郎くんを説得にきたんだっけ」
「説得? 鬼門《きもん》屋敷のことか」
友美はうなずく。
「だったら、もう大丈夫だ。言ったろ? ほっとけばいいって。さっき、市長の家に出かけた
よ。駅前の駐車場の方へ、場所を変更してくれってな。市長さんは、元々あっちをほしがって
たから、文句ないはずだ」
「ほんと?」
「ま、委員長や、あいつの話が効いてたんだろ」
あいつとは、秋緒のことだろう。しかしそう言った途端、また寝太郎の顔が曇った。
あの美女のことを、もう少し聞いてみたかったが、やめた。他人の家庭の問題に、これ以上
首を突っ込むのは失礼だろう。森が守れたならそれでいい。
「良かった」
友美は肩の力を抜いた。これで役目も果たせたわけだ。
「でも、あれはちょっと卑怯《ひきょう》じゃなかった?」
不意に思い出した友美が、お握りを頬張る寝太郎に言った。
「何が?」
「お爺さんの説得の代わりに、つき合えって言ったじゃない」
「言ったよ。だから、来てくれたんだろ?」
「あのね。たとえ君がおじさんの息子だったとしても、そんな気はさらさらありません」
「けど、現に来てるじゃないか」
「はぁ?」
一瞬考え込んだ友美の目が、やがて点になった。
「……まさかと思うけど、つき合えって、単に、ついてこいってこと?」
何を言ってんだという顔で、寝太郎がうなずく。
「いいチャンスだと思ったんだ。ま、家のこと忘れてるなら、そのまま帰ってもらってもいい
と思ったし」
ブッと友美が噴き出した。
「何が面白いんだよ」
寝太郎は首をひねり、手に持つお握りを指差した。
「これか?」
「ぶふっ!」と、噴き出した友美は、お腹を抱えて笑い転げる。
その楽しげな少女に、障子の奥にある寝太郎の父の写真が、微笑みかけていた。
寝太郎の家を出た友美は、待っていた仲間たちに森が救われたことを告げたあと、寝太郎か
ら聞いた寺に、おじさんの墓を訪ねた。
おじさんには会えなかったけれど、夢がまた、色彩を帯び始めている。
友美は墓前に手を合わせ、遅くなったこと、夢を忘れそうになっていたことを謝った。おじ
さんの人生を知り、また一つ大事なものを教えてもらったような気がする。
しかし、「問題ですよね」と、友美はため息をついて墓に語りかけた。
寝太郎のことだ。あれではおじさんも、安心して眠っていられないだろう。
友美は心を決めた。
「おじさん! 私が、きっと寝太郎くんを更生させますから」
それが彼にできる、一番の恩返しだと思えた。
この日、星虫所持者による自然保護運動は、ピークに達しようとしていた。
日本を含む地球のありとあらゆる場所で、数限りない緑を守る戦いが起き、そのほとんどで
星虫所持者たちが勝ち続けていた。そのうちの多くが手に武器を持っての戦いだとしても、地
球の環境破壊が絶望的に進んでいる現状では、どんな星虫|排斥《はいせき》論者でも、彼らの行為ゆえに星
虫が悪だと言い切ることはできなかった。ブラジルでは、政府や大土地所有者と戦う数百万に
およぶ星虫所持者の力で、アマゾンの森林破壊が防げる可能性までが出てきていた。フィリピ
ンでも、木材伐採を拒否した所持者がストライキを始めている。
この前代未聞の事態に、星虫は善であり、神が人間の目を覚まさせるために遣《つか》わされたもの
だという説が、アメリカは元より、ある程度、星虫に懐疑的だったヨーロッパのマスコミにま
で広がりつつあった。宗教家が、星虫を利用し始めたといえるかもしれない。政治家たちも、
その世論に便乗しようと動き始めているようだ。
帰宅した友美は、世界のこの大騒ぎに漠《ばく》とした不安を感じていた。
「人間の都合ばかり、考え過ぎてるかな……」
星虫が降ってから、まだ三日が過ぎただけだということを、みんな忘れているような気がす
る。星虫には、星虫なりの理由があって、人間にくっついているはずだ。
しかし今日の友美には、そんな暗いことを考え続けることは不可能だった。
輝きを取り戻した瞳を、寝太郎の家から借りてきた宇宙工学の専門書に移し、階段を駆け上
った。
自分の部屋に入り、窮屈なやブラウスのボタンに手をかけた時、机の上に目が止まる。
きっちりと折り畳まれたプリント紙が置いてある。進路調査表だ。
机の前に立った友美は、気合を入れ、丁寧《ていねい》に紙を広げた。
椅子に腰かけ、名前を書き、そしてその下の欄を見る。
『第一志望』
友美は力強い字で記入した。
『パイロット宇宙飛行土』と。
[#改ページ]
四日目
[#改ページ]
幸せな眠りの中で友美は、誰かが自分の髪の毛をいたずらしているのに気がついていた。
おずおずと、しかし面白げに、細い棒か何かで髪が掻き回されている。
「うんっ……」
うっとうしいと、目の前を右手で払いのけた。
空振り。全く手応えなし。なのに、悪さは止まらない。
重い瞼《まぶた》をこじ開けてみる。
目の前には誰もいず、ただぼやーっと視界の一部が霞《かす》んでいた。
友美は無意識のうちに、目を擦ろうと手を顔に上げた。
「たっ!」
一瞬で目が醒めた。手の甲に、何かに刺されたような痛みが走り、その視界の一部を覆う
霞《かすみ》が、ざわざわと動き出していた。そして、再び何かか髪の毛をいじくり回し始める。
友美はガバッとベッドから飛び出すと、壁にかかった鏡の前に立った。
「……」
驚きのあまり、声が出ない。
そこにあったのは、全長十センチ。昨日の三倍にも巨大化した星虫の姿だった。
額に張りついた部分だけはそのままの大きさだが、五つある全ての目が肥大化していた。昨
日までの青い目はビワの種ほどの形と大きさに変わり胴体から下に垂れ下がっていたし、その
目の脇からは二本の触角としか思えないものが出ており、ブルブルと震えている。友美の視界
の端にかかっているのは、この触角だった。元々一番大きかった上部の楕円の目も縦四センチ、
横三センチにまで巨大化し、友美の頭にまではみ出している。まるで、頭と腹が宝石でできた
蟻《あり》のような姿だった。虫でいう胴の部分には、米粒ほどの大きさだった真ん中の小さな目が、
昨日の丸い目ほどの大きさになっており、胴の両脇を縁取る赤い硝子《ガラス》のような二つの弓月形の
目も、やはり巨大化。しかもこの巨大蟻のようになってしまった星虫には、六本の『足』まで
もが、生えていたのである。
「手だよ……これ」と、友美は人差し指を出し、さっき手の甲をつついた犯人に触れた。六本
の足のうち四本は、友美の頭を抱えこみ、しがみつくために使われていたが、一番下のビワの
種のような目の横に生える二本の足だけは違った。自在に動き、異常に長く、伸ばせば十セン
チはありそうだ。その足の先は、蟹《かに》の鋏《はさみ》のようになっている。友美の髪の毛で遊び、手をつつ
いたのは、この足だった。
星虫は友美の指を鋏でつかみ、振り回そうとあがいていた。大した力ではない。
寝起きの友美は、星虫に指を遊ばせたまま、ぼーっとつっ立っていた。
「どうしようかな……」
これでは目立って仕方ないという程度の感想しかない。あまりの急変に、頭がついていかな
い。ただ、怖いとも、変だとも思わなかった。生き物は成長するものだし……。
「ま、蟻は好きよ。蟹も……」
すると星虫は、その巨大な腹を左右に振った。何だか言っていることが分かるようだ。
とりあえず友美は、夜明け前の、まだ薄暗い窓を見た。
見ているうちに、次第《しだい》にこれが容易ならざる事態だと、飲み込めてきた。この星虫の変態
(?) が全世界でおこっているとしたら――いや、おこっているに違いない!
焦った友美はテレビを点《つ》けようと、コントローラを探した。途端、視界の端に四角いスクリ
ーンが現れ、そこにあわてた様子のアナウンサーの姿が見えた。思わずその画像に意識を合わ
せると、目の前全体が巨大なアナウンサーでふさがれてしまった。
大きすぎると思った直後、画面は普通のテレビ並みに縮小。
ベッドの上のコントローラーに手を伸ばしかけた姿のまま、友美は空中に浮かんだテレビ画
像に見入っていた。
驚きが消えるとともに、ちゃんと音声も聞こえてくる。
「……ほんとに不思議な子だな」と、友美はベッドに座り、視界の端に見えている星虫に向か
って言った。
星虫が見せてくれたテレビは平和そのもので、星虫は依然、いいもの扱いをされ続けている。
「まだ、マスコミも気がついてないか」と、吐息をついた。そして、また髪の毛で遊び始めた。
星虫を見上げる。
友美は、星虫の相手をしながら鏡を見、習慣通りにへアブラシに手を伸ばした。遊びと勘違
いしたのか、星虫はブラシを捕まえようとする。髪はまとまるどころか、どんどんバラバラに
なってゆく。
「そんなことしてたら、間違いなく嫌われるよ」
と、苛立ち始めた友美の顔が、急に綻《ほころ》んだ。
「そうか、もうやめてもいいんじゃない」
ブラシを星虫に譲った友美の手は、引き出しの中に移っていた。
毎朝の日課を終えて階下へ降りると、もう七時前になっていた。
「おはよ」と、のんびりした友美の声が、テレビに釘付けになっていた両親の背中に届いた。
「友美! 大変よ。今、星虫が巨大化したわっ!」
母は、洗面所へと歩く友美に怒鳴る。
そのテレビでは、早朝番組を生で放送中だった。インタビューを受けていた女性の星虫が突
然巨大化する瞬間を、カメラが捉えたのだ。
聞いた友美は、頭の中で、そのチャンネルを捜した。
テレビ局が大騒ぎになっていた。倒れた女性を、何人かのスタッフが運び出している横で、
人々が顔面蒼白になってうろたえていた。彼らの額に星虫はない。カメラが、床を捉えていた。
人々の足元には小判状の変態前の星虫が幾つも散らばり、それに混じって、友美よりも一回り
小さな変態した星虫が一つ、落ちていた。多分、それが倒れた女性のものなのだろう。
友美はずっと見ていた両親に話を聞こうと、踵《きびす》を返した。
「どうなったの」と聞いた友美に答えようとして、振り向いた父の体が硬直した。
「友美っ!」
母の悲鳴が重なる。
「大丈夫よ」と、友美は笑った。
「ただ、大きくなっただけでしょ? ま、足も生えたけど、これはもともと虫なんだから不思
議じゃないし」
「取りなさいっ!」と、金切り声を母が上げた時、びっくりして飛び起きた幸雄が階段を駆け
降りてきた。
「何だよ、それっ!」
声に驚いたのか、友美の星虫は、全ての足をワサワサと動かし、幸雄を威嚇《いかく》するように鋏を
立てた。
その様子は、余りに不気味だった。こんなものが、今にも額に現れるのだという嫌悪感を覚
えた瞬間、幸雄の星虫は額から離れた。続いて、父の星虫も……。
床に落ちた二つの星虫。それを見た友美の胸が、ズキンと痛んだ。
「どうして……成長はすぐ止まるんだから、取ることないのに!」
父が目を擦った。幸雄も同じことをしている。それが星虫の取れたせいだと、二人が気づく
まで。
「止まるのか?」と、父が聞く。
「もう二時間、このままよっ!」
床の星虫の死骸《しがい》を見ながら、友美が怒鳴った。
幸雄が、早まったという顔をしたが、もうあとの祭りだ。
「なら、今すぐ取れとはいわんが……」
父は、まじまじと巨大化した星虫を見た。
「とはいえ、また大変なことになってきたな……」と、着替えに寝室に向かう。
「すぐに署に行くぞ」
「お父さん!」と、うろたえた母がそのあとを追った。
兄は、その巨大蟻と蟹のハーフのような友美の星虫を呆然と見ている。
「……変わった奴だ」
「でも、ちょっと重いだけよ。悪いことは、しないんだから」
星虫を弁護する友美に、幸雄は自分のだった星虫を拾いながら、首を振った。
「変わった奴なのは、お前だよ。よくそんなになっても、つけてるな。普通、驚くぞ」
「驚いたよ、充分過ぎるくらい」
「でも、取るほどには驚かなかった。お前みたいな奴は少ないぞ、絶対」
友美は、唇を噛《か》む。兄の言葉は、残念ながら納得できる。
きっとこの変態には、友美のように、これがまだ未知の生物であり、これから何が起こるか
分からないと覚悟しながら星虫を受け入れてきた人々しか、耐えられないだろう。
幸雄は、額に死んだ星虫をつけてみた。すぐにポロリと落ちる。
「なくなって分かるな。まるで、視力がゼロになったような気がする」
「ね、兄さん。どのくらい、残ると思う?」
「ひょっとしたら、一億切るな」
幸雄の予想は、友美の胸に刺さった。
その幸雄が、突然また怒鳴った。
「友美っ! お前、どうしたんだっ? まさか、それも星虫が?」
星虫に気を取られていた幸雄が、ようやく友美のもう一つの異変に気づいたのだ。
「ちがうちがう。これは、自分でやったの」
と笑い、軽く首を振る。長かった髪は、肩上の線でスッパリと切りそろえられていた。
半時間後。全速力で自転車を飛ばした友美は、相沢家の前に立っていた。
玄関の門に近づき、インターホンの赤いボタンを押す。
『誰だっ!』
寝太郎の祖父の声だ。覚悟していても耳にこたえる。
「おはようございます。相沢くんの同級生の、氷室です」
『……待っとれ』
本当に数分待たされた。友美は苛々と時計を見る。
取りあえず洋子と隆、正人には、星虫の巨大化が止まることを連絡したのだが、寝太郎の電
話番号だけが分からなかったのだ。
あののんびりした寝太郎なら、多分取りはしないと思ってはいたが、心配だった。
ようやく老人の姿が、門の向こう側に現れ、ゆっくりと歩いてくる。
友美は気が気ではなかった。
老人は門を開き、そして友美の星虫を呆然と見つめた。
「なんじゃ、それは」
友美は急いで頭を下げた。
「早朝すいません。あの、寝太郎くんはいますか?」
「寝太郎?」と問い返され、友美はしまったと口を押さえた。
「広樹のあだ名か、ぴったりだ!」
老人はいきなり笑い始め、友美は一層焦る。
「すいません! あの、相沢くんは」
「さあな、多分、蔵だろう。急用なら、入りなさい」
友美は頭を下げるのもそこそこに、蔵に向かって駆け出した。
その後ろで、「寝太郎か!」と祖父が、まだ笑う声がする。
大きな母家をぐるりと回るようにして、友美は庭に飛び込んだ。左の蔵の引き戸に手をかけ
るが、鍵がかかっている。
「寝太郎くん!」
呼べど叫べど返事はない。昨日もらった蔵の鍵を使った。
小さな天窓しかない蔵は、ほぼ真っ暗だが、星虫には充分な明るさだ。しかし、寝太郎の姿
はどこにも見えない。
おかしいと思っていると、微かないびきが聞こえてくるのに気がついた。
星虫で聴力をアップさせる。音源は上。蔵の前半分に作られた中二階からだ。
急いで狭い階段を上る。寝太郎は、ゴミの山に埋もれかけたベッドの上にいた。
駆け寄った友美の体から、思わず力が抜ける。
星虫は巨大化し、寝太郎の顔の上で、大暴れをしていた。鼻をつつき、ボサボサの髪の毛に
からまり、耳をつねっている。なのにこいつは、大いびきで熟睡しているのだ。
「寝太郎くん」
体を揺すったが、起きる気配はない。
数日前を思い出した友美は、髪の毛を一本抜くと、寝太郎の鼻の穴に突っ込んだ。
「どえっくしっ!」
くしゃみを連発して、寝太郎が飛び起きる。
「あれ?」
「あれじゃないの! いい、今、寝太郎くんの星虫が、巨大化してるの。でも大丈夫、それ以
上は、大きくならないし、結構、可愛いんだから」
まだボ〜ッとしたままだった寝太郎が、星虫に頬をつねられて、うるさそうにその鋏を叩い
た。目を上に向け、巨大化した星虫を見る。
「何だ、これのことか?」
友美は、その無感動な反応に戸惑いながら、うなずいた。
「こんなことで、起こすなよぉ……」
ベッドに倒れ込む。すぐに、いびきが再開した。
友美は、ぽかんと、その様子を見守る。
何だかとっても虚しくなってきた。こんなに必死になって、自分は何をしにきたのだ?
しかしグーグー寝る寝太郎を見ているうち、虚無感が怒りにとって代わる。
「起きなさいよ」と、また髪の毛で鼻をくすぐる。
くしゃみとともに目を覚ました寝太郎に、友美は腕組みをして、宣言した。
「今日から、絶対に遅刻は認めませんからね。さ、起きて! 顔洗って!」
寝床から追い立てられた寝太郎は、世にも情けない顔をして、友美を見た。
「何だよぉ、寝かしてくれよぉ」
「駄目っ! 私は昨日、おじさんの墓前で約束したんだから。あなたの更生に全力を尽くすっ
て。ワイシャツはどこ? もちろん、洗ったやつよ。それから、アイロンと」
「ないよ、そんなもん。それに、勝手に決めんな。更生って、俺、犯罪者かよ……」
だが、問答無用だった。友美は、蔵の屋根裏の、スリットになった窓を開け、豚小屋以下の
室内に風を入れた。
「よくこんな暑いところで眠れるわね……」
そう言った目が、本や雑誌で山のようになった机の上に、一枚の写真を見つけていた。
寝太郎が、あわててその写真を隠す。
それは確かに、あの吉田秋緒と名乗った人物の写真だった。気づかなかった振りをしてやっ
たが、隠したのが、気に入らない。
「さ! 急いで。予鈴二十分前には、教室に入るわよっ!」
命令口調で友美が怒鳴る。
「……つき合えなんて言わなきゃよかった……」
寝太郎は、名残惜しそうに枕を撫《な》で、がっくりと肩を落とした。
早朝の教室で、直人は、ぶすっと窓から空を見ている。
何かを考え込んでいるその額では、友美のものよりもかなり小さめの星虫が、足を動かして
いた。
今朝、友美から巨大化がすぐ止まることを知らされていなければ、多分、自分も取っていた
だろう。しかし、気に入らないのは、友美が直接自分の携帯にかけず、伝言を洋子に頼んだこ
とだ。
直人は軽く机を小突《こづ》いて。
どうも、やることなすこと上手くいかない。友美とは、相性が悪いのか?
昨日も、森に帰ってきた友美を映画に誘ったのだが、軽くあしらわれてしまった。
しかし、まだあきらめるつもりはない。方法はあるはずだ。
「おっす!」
いきなり大声が教室に響いた。
額に変態前の星虫をつけた、隆と正夫が入ってくる。
「何だ、お前らも取らなかったのか」と、直人が感心した。
「おお!」と、隆の顔に笑みが溢れた。
「委員長が、わざわざ家に電話くれたんだ。大丈夫だからってな!」
その言葉を聞いた途端、直人は更に落ち込んだ。
「馬鹿、へんなかんぐりするなよ。委員長は、昨日森を守ったみんなに電話したんだ。僕だっ
て受けたんだからな。宮田もそうだろ?」
正夫はそう言って隆を笑う。直人は、意地でもうなずくしかなかった。
「見ろ、こんなことでいい気になってると、寝太郎と同じレベルになるぞ」
隆は馬鹿野郎と、真っ赤になって正夫を怒鳴った。
「あんなのと一緒にすんな。俺のライバルは、宮田だぞ」
そして、直人を見、にやっと笑った。
「なかなか進展せんところを見ると、俺にもチャンスはありそうだし」
「何が?」
隆が直人に顔を寄せ、小声で言った。
「分かってんだ。お前も委員長狙ってんだろ?」
「何の話?」と、花瓶の水を換えて来た洋子が聞く。洋子の額にもまだ星虫があった。その大
きさは、直人よりも少し小さめ。足も生え揃っている。
隆と直人があせって誤魔化した、その時だ。廊下の方から、大声がした。
教室の直人たちが、何だと思っていると、眼鏡に戻ってしまったクラスの男子が二人、大あ
わてで駆け込んでくる。
「たっ、大変だっ!」
「何をあわてて――」と言った直人の言葉が、途中で切れた。
二人のすぐあとに続いて、一人の男子が入ってきた。その姿を見た時、予鈴二十分前に教室
にいた全員が、我が目を疑った。
大欠伸《おおあくび》をしながら登場したのは、何と寝太郎である。
授業に遅れることはあっても、予鈴前に来たことなど、ただの一度もなかった。しかしそれ
にしても、今の二人の驚きようは大袈裟《おおげさ》だと思った一同の耳に、「おはよう!」という元気な
少女の声が届いた。
寝太郎のすぐ後ろに、もう一人いたのだ。彼女が入ってきた途端、教室の中から、物音が消
えていった。
直人――いや、その異変に気づいた全員の口が、順にぽかんと開いてゆく。
視線は少女に集中していた。この人物は、彼ら自慢の委員長のはずだった。
しかし、何かが違った。
額には、巨大な星虫。だが、それならテレビでもう見ている。知的能力が高い人ほど、今朝
の変態に耐えられたというニュースも知っている。たとえ女性でも、委員長なら、変態した星
虫をつけていてもおかしくない。問題は、もっと別なものにあるようだ。委員長の姿から、何
か大事なものが欠けているような……。
その視線の中で、友美は照れ臭そうに肩をすくめる。その肩が、異様に涼しげだ。
髪だった! あの、友美のトレードマークと呼んでいい、全校男子憧れの的の黒髪が、無残
にも顎《あご》の線からスッパリと消え失せていたのだ。
「その髪、どうしたのっ!」
悲鳴に近い声で、洋子が友美に駆け寄った。
まるで金縛りにあったかのようだった直人たちも、その声に我を取り戻した。
女子たちが、心配そうに友美の周りに集まる。
あまりの反響の大きさに、友美は戸惑っていた。
「無理するの、やめただけ。私、本当は長髪って嫌いだったんだ」
そう本人が言っても、教室のざわめきは一向に収まる気配はなかった。
何だか、異常に興奮している女子たちをなだめながら、友美は星虫が激減しているのを確認
していた。友美が電話した洋子たち以外には、数名しか見当たらない。それも、変態前の小判
形だけだった。
と、いきなり友美は風のように人垣をすり抜け、熟睡する寝太郎の耳を引っ張った。
「み、見逃してくれよ……」
「駄目っ!」と、友美はその耳に、大声を張り上げた。
男子も女子も、その友美のあまりの変わりように、唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然を通り越し、愕然《がくぜん》としていた。
髪を切り、教室を走り、大声を上げる。これが、あの氷室友美――模範的優等生か?
大体、よりによって、あの寝太郎に自分から近づいていくなんて。今日は比較的まともだが、
ザンバラ髪はそのままだし、ズボンもワイシャツもよれよれだ。
「ね、氷室さんの星虫のせいじゃないのかな? 少し大きすぎるわ、あれ」
心配そうに、洋子が言った。
直人たちが、うなずく。ニュースで見たどの星虫よりも、友美のは大きいようだ。
「……私、友達のつもりだけど、あんな氷室さん、見たことない」
同じ同好会の洋子の言葉は、真実味を帯びて直人たちの心に刻みつけられた。
「しかし、あれは許せんな」
隆が、寝太郎を何とか起こそうと頑張っている友美を見て言った。一見すると、仲のいいカ
ップルが、ふざけているようだ。
直人は無言でうなずく。
本気で、寝太郎と対決する気になっていた。
教室に、眼鏡が復活していた。
一昨日まで全員が星虫所持者だったのに、今朝はたったの九人になっている。友美たち以外
には三人だが、三人とも女子で、星虫は変態していない。変態し、足を生やしたものを持って
いるのは、友美と直人、洋子に寝太郎の四人だけだ。
大きさはダントツで友美のが大きく、二番目は寝太郎。そして直人、洋子と続く。目の色も
微妙に違ってきており、ここに至り個人差が歴然と現れてきたようだった。
担任は、その九人の星虫所持者――特に目立って巨大な星虫をつける友美に、思わず驚きの
声をあげた。
「委員長のはすごいな。よくそこまで大きくなって、取らなかったもんだ」
その担任の額にも、もう星虫はない。洗面時に巨大化した昼虫を、たまらず拒絶したのだと
苦笑いした。
「それに、思い切ったもんだ」と、担任は友美の短くなった髪に視線を移した。
「もう、学校中の噂《うわさ》だぞ。どうした委員長、失恋でもしたのか?」
友美はクスクス笑いながら、首を振る。
教師もそれ以上突っ込まず、再び視線を生徒たちの星虫に向けた。
「しかしこうして見ると、うちのクラスが一番多いぞ。他のクラスは三人くらいだが」
友美は、その言葉に改めてショックを受けていた。
このクラスだけで三十一もの星虫が死んだというのに……。
「先生。世界では、どうなんですか?」
尋ねる男子生徒に、担任はこめかみを掻く。
「まだ詳しい情報は入ってないが、日本と同じようなものだろう。さっきまで観ていたニュー
スでは、一億を切るのは間違いなさそうだな。アメリカでは日本以上の騒ぎだ」
そのニュースは、今も友美の視界の片隅で続いていた。
画面は、アメリカからの実況中継だった。大災害でもあったかのように、かつての星虫所持
者たちが続々と病院に運ばれていた。その前で日本人のレポーターが、ショックのために入院
した人数が、全米で千人を超え、更に増加しそうだと興奮した口調で伝えている。星虫が人間
ほどにも巨大化し、人を襲っているという噂も町を飛び交いつつあり、アメリカ全土が、パニ
ック状態に陥っていた。
「まだ、日本の方がましか……」と、友美はつぶやく。
日本の場合は、まだ正確な情報が行き渡っていた。巨大化は、せいぜい友美くらいで止まる
こと。そして、拒絶すれば必ず取れることは、七時頃には報道されていた。
国連も同じことをテレビを通じて発表し始めていたが、遅すぎた。すでに変態をおこしたほ
とんどの星虫が死んだあとだった。ヨーロッパでも、状況は似たようなものらしい。
「西洋人が極端なんだというのが、こういう時によく分かるね」
担任は、昨日まであれほど星虫をいいもの扱いしていた世界が、てのひらを返したように星
虫排斥を行っていることを告げた。変態をまだしていない星虫も、どれだけ残るか分からない
ほど、騒ぎは広がっている。
それはないなと、友美は思う。一部が大きくなったからといって、全否定はない。
「しかし、これで星虫が人間にとって有益といえなくなったのも事実だな」
同意する声がもれる中、女子の一人が担任に言った。
「でも、先生。私、地球の叫びは聞きたい。これは星虫でなければ無理でしょ?」
そうだそうだという声が上がる。
担任はうなずき、難しそうに腕を組んだ。
「この町にも聞ける場所があるらしいという噂は聞いてるんだが」
へえっと、クラスの大部分が驚いた。
地球の叫びが聞ける場所は、ありそうでそう多くはなかったのだ。都会の中に生き残る自然、
あるいは今自然破壊が行われているところでなければ、明確な『声』を聞くことはできなかっ
た。ニュースでやっていた一番近い場所でも、数十キロは離れている。
行ってみたいという声が、あちこちから湧いた。
「聞ける場所は、知ってます」
友美と顔を見合わせた直人が森のことを話し、教室がざわついた。
「高校のすぐそばだから、HR中にでも行けますが、星虫がなきゃ意味はないし」
友美は両手で頬杖をつき、洋子にぽつりと言った。
「……でもさ、星虫って、存在しないものを増幅はしないんだよね」
「それはその通りだけど」
「じゃ、地球の声だって、本当は誰にでも聞こえるんじゃないかな? だって、あんなに強烈
なんだもの。それに、覚えてない? 吉田さんも、あの場所は普通じゃないって言ってた。あ
の人、星虫つけてないのに」
洋子もうなずく。
「試してみる価値、あるかもしれないね」
「じゃ、決まり。私たちだけが、地球の声を独占するのは、よくないわ」
友美は視線をひるがえすと、左隣の寝太郎を起こした。
「寝太郎くん。あの森を使って実験をしたいんだけど、いい?」
半分寝たままの寝太郎が、「何でもいい、寝かせてくれ……」と、呻《うめ》く。
「よし、決定!」
友美は立ち上がり、自分の仮説を発表した。
「なるほど。試しに行ってみるか」と、担任が身を乗り出した。
「時間もまだ三十分以上残っているし、たまには校外学習もいいだろう。次も先生の時間だし
な」
クラスから歓声が上がった。
竹林の中では、平日にもかかわらず、多くの人々が散策していた。
どうやら遅ればせながら、竹林と屋敷からの自然の声に、気がついたのだろう。
しかし、そのほとんどの額に、星虫はもうない。
友美は少し淋しく感じたが、次第に仕方なかったかとも、思い始めていた。
「君も、あんまり唐突だったよ」と、目と目の間に揺れる宝石に、指先を当てた。
星虫の手がその指をつかむ。優しいつかみ方だった。全然痛くない。
「かしこいかしこい」
友美はニコッと笑う。そのあと、洋子の不審な目に気づいた。
「氷室さん……可愛いと思ってるんじゃない? ひょっとして」
「そんなこと、あるけど」
すっかりこの変態した星虫にもなれてしまった友美だった。しかし洋子は、この友人の変化
に、今一つ、ついていけない。
森への門の前に立った友美は、鍵を開いた。
クラスは四つの班に分かれ、代わる代わる森に足を踏み入れたが、よく分からないというの
が非所持者たちの実感だった。
「すごいとことは思うけど、普通に山で感じる感動と同じよね?」と、女子が言う。
友美は、なるほどと思った。そういわれれば、地球の『声』とは、美しい夕陽を見た時とか、
素晴らしい風景を見た時の感動とよく似ていた。いや、本来は同じものなのかもしれない。た
だ、星虫はその感動をより深く根源に迫って捉えられるだけなのかも……。
「目をつぶりゃ、いい」
友美の後ろから、寝太郎の眠そうな声がした。
「目をつぶって、ここと門の中を行き来したら、見て感動してるのか、それとも地球の叫びを
聞いてるのか分かるだろ?」
全員がたまげていた。無論、いいアイディアに対する驚きもあるが、それを言ったのが寝太
郎だということが意外に過ぎる。
「じゃ、みんな、やってみて」
いち早く立ち直ったのは、昨日の経験で少しは寝太郎を見直していた友美だった。腐っても
鯛《たい》――あれでもおじさんの一人息子なのだから。
全員、再び盛り上がる。
そして、寝太郎の提案通りに試してみると、ほとんど全員が地球の叫びを聞くことができた
のだ。
一度コツのようなものが飲み込めると、その声は相乗的に大きくなり、圧倒的に胸に迫った。
偉大なものの苦しみ、そして哀しみが、いかつい顔をした体育系の連中の目にまで、涙を浮
かべさせる。女子の中には、森の中で座り込んでしまう者もいた。
担任が、少し赤くした目を擦りながら友美たちの前にやってきた。
「……いや、これほどのものとは思わなかったよ。星虫をつけていない先生ですらこれだ。所
持者たちが命がけで緑を守ったわけだ……」
「でも、こんなに簡単だったなんて」と、洋子が友美たちの気持ちを代弁した。
まだ二十分もたってない。なのに、地球の叫びを聞けないのは、もう数名に過ぎなかった。
竹林を散策していた人たちも、次々飛び入り参加し、地球の声に感動し始めている。
担任は考え込んでいた。
「すると、星虫はもう役目を終えたということなのかもしれないな」
昨日までに、地球の叫びのおかげで、アマゾン開発に事実上の待ったがかけられたのは、確
実のようだ。五年もかかって止められなかったものが、たったの二日で決まったのである。も
し、この地球の叫びが全ての人々に聞けるなら、超能力者的な星虫所持者がいなくなった方が、
ことはスムーズに運ぶに違いなかった。地球の叫びが残るのなら、環境保護のために、星虫を
守る必要はないわけだ。
「なるほど、星虫がなくても地球の叫びが聞けるってことは、そういうことだよな!」
隆が手を打ち、直人もうなずいた。
「そうだな。地球の叫びが実在するのは、これでもう確実だし。となれば星虫は不要だ。そう
か、だから巨大化したのかもしれない」
「取ってもいいからって?」
洋子が聞く。
「なるほど。竹の子でも時期を逃したら、伸び過ぎて食えんもんな」
隆が言ってみんな笑ったが、その言葉には、妙な説得力があった。
「僕は、星虫を取らないぞ」と、正夫は反対する。
「二度と眼鏡をかけたくないからな」
納得の一同が笑う中で、不機嫌そうな声がした。
「それ、変だ」
全員の視線が、腕組みする友美に集まった。
「星虫に利用価値がなくなったから、取るの? じゃ、星虫は何のために地球に来たのよ。目
を良くするため、地球の危機を教えてくれるために来たっていうの?」
「そうじゃねぇの?」
隆を一睨みで黙らせた友美は、続けた。
「そんな都合のいい生き物がいるなんて、私思わない。この子は、生きてる。死ぬために来た
んじゃない。生きて育つ権利がある――人間と同じに。それに、星虫は地球の危機を教えてく
れた大恩人だ。用が済んだからって取るの? 取れば、この子たちは死ぬのに」
髪を切ってから、更に迫力を増した友美に、直人たちは顔を見合わせた。
「待てよ、氷室さん。その考え方は危険だ。確かに君の言うことは分かるけど、元々勝手につ
いたもんだろ? そこまで肩入れすることはないよ。大体、共生体じゃなく、寄生体だって説
が今、有力視されてきてる。観てみろよ、5チャンネルだ」
直人の言葉通り、頭の中のチャンネルを5に合わせた。
生物学者が、静かに語っていた。星虫は昨日まで考えられていた片利共生とは、最早、考え
づらい。この突発的な成長から見て、更なる巨大化も充分に考えられる。そして、単独では生
命の維持ができない以上、ヤドリギのような寄生体とみなすべきだと。
「仮説じゃない。育てば一人で生きていけるかもしれないわ」
反論する友美に、今度は担任が首を振った。
「それも仮説だ。もし委員長の言う通りだとしても、そんな巨大な虫が野放しになるというの
は、ぞっとせんな。とにかく、未知の生物だ。どんな予想も成り立つ。アメリカでの噂のよう
に、星虫が象ほども巨大化して、人を食うかもしれん。それは誰にも否定できないことだろ
う」
それはその通りだが、友美には、星虫がそんな悪いものとは思えなかった。いや、思いたく
なかった。
困惑する友美の視界に、ぼ〜っとつっ立つ少年が入った。そういえば寝太郎だけは、星虫に
対する批判めいたことを一言も言っていない。
「寝太郎くん、どう思う?」と孤軍奮闘《こぐんふんとう》の友美は、藁《わら》をもつかむ思いで寝太郎に尋ねた。
「別に大した悪さもせんし、俺、こういうのは嫌いじゃないからな」
寝太郎は、あっけらかんと言い、何でこんなに騒ぐのかといった顔で、全員を見た。
「……それに、委員長は感じてんだろ? 星虫がいいやつだって」
友美は、大きくうなずいた。
「だったら、俺も信じるよ。全面的にな」
そして、にこっと笑った。浅黒い顔の中、歯だけは真っ白で綺麗だ。
その無条件の信頼に、友美を含めた全員が呆気《あっけ》に取られてしまう。
「寝太郎くん……」
不覚にも、友美の心臓が、少し高鳴っていた。
そろそろ二時限目が終わろうとする時、直人が寝太郎を誘い出した。
森から離れた二人は、竹林の奥へと入っていく。
「どうしたんだよ」
寝太郎が、前を歩く直人に聞いた。
立ち止まった直人が振り返る。
「寝太郎、お前、この事態を甘く見てないか?」
「甘く? 星虫のことか? 見てないと思うけどな……」
「甘く見てるんだ! でなけりゃ、どうして氷室さんに味方した? 星虫が危険なのは、もう
生物学者たちも全員認めてるんだぞ! テレビを観てないのか?」
寝太郎もテレビは視界の片隅で観続けている。そのニュースは知っていた。
「でも、俺は委員長の勘の方を信じるな。大体、昨日の今日だぞ。よくそんだけ変われるな、
みんな」
「そうやって、お前が星虫に食われるのはいい。しかし、氷室さんを巻き込むなと言ってるん
だ」
寝太郎は首をひねった。
「言う相手を間違ってるぞ」
「お前が無責任に、彼女に雷同《らいどう》したことを言ってるんだ! 氷室さんに何かあった時、お前、
責任取れるのかっ!」
頭へ血が上ってきた直人に、寝太郎は頭を掻いた。
「……取れる分だけは、取るだろうな」
そののんびりした口調に、直人はうなずいた。
「お前には、はっきり言わなきゃ分からんようだな。いいか。お前なんかが氷室さんに近づく
こと自体が、身のほど知らずなんだ。氷室さんにちょっかい出すのはやめろ!」
寝太郎は、怪訝《けげん》な顔で、興奮する直人を見返した。
「ちょっかい? 出されてんのは、俺だぞ。今朝なんか、家まで来て、叩き起こすんだからな
……」
ため息をつく寝太郎を、直人は親の仇《かたき》のように睨みつけた。
家まで行った? 氷室さんが?
「許せん……」
体が震えてきた。
「いい気になるなよ。今の氷室さんは、星虫のおかげで変になってるだけだ! 繊細な彼女は、
日に日に巨大化する星虫に、ノイローゼ気味になってる。だから、お前みたいな薄汚い劣等生
を相手にしたり、突然髪を切って、別人のように振る舞ったりしてるんだ。それを誤解するな
っ!」
唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然とその言葉を聞いていた寝太郎だったが、ついに噴き出した。
「星虫なんか、関係ないって。あれが委員長の地だぞ」
「氷室さんを、侮辱《ぶじょく》するなっ!」
サッカー部で鍛え上げた右足が高く舞い、寝太郎の顔を狙った。
しかし、『バシッ!』という重い音とともに、その爪先は顔の直前で止まっていた。
直人の強力なキックを止めたのは、寝太郎の右手だった。ほっそりとした見かけにもかかわ
らず、とんでもない馬鹿力で、直人は一本足の案山子《かかし》にされてしまっていた。
つかまれたスニーカーごと足が握り潰されるような握力に、直人の顔が青ざめる。一瞬で戦
意が消失していた。
その足を放り出し、寝太郎は背を向けた。
「ま、待てよ!」と、座り込んだ直人が怒鳴る。
しょうがないという風に、寝太郎が振り返った。
「笑って悪かった。けどな、委員長は本当に、今のが素顔だ。昨日までの方が、変だったんだ。
もっとも、俺もあの髪好きだった。勿体《もったい》ないことするよなあ……」
ため息をついた寝太郎は、竹林の中に消えてゆく。
その後ろ姿を見つめて、直人はつぶやいていた。
「あいつに何が分かる! 全部、星虫の影響なんだ……」
見送る寝太郎の背中が、不気味に大きく感じられた。絶対に、いつもの無気力な寝太郎とは
違っている。
直人は、はっと気がついた。考えてみれば、寝太郎の星虫は友美の次に大きい。そのせいじ
ゃないのか?
可能性はある。あの二人の変わりようが星虫の力だとすれば、納得できる。そして、巨大な
星虫同士に、連帯感が発生するとしたら……。
「それなら、俺も星虫を捨てるわけにいかないな」
三時限目、その厳しさでは天然記念物ものと噂される教師の英語の授業を受けながら、友美
は考え込んでいた。
それは星虫のことでも、昼のお弁当のことでも、ましてや授業のことでもなかった。考えて
いたのは、いつ散髪にいったかも分からないほどに髪を伸ばした一人の男子のこと。
友美の席の真横にいるその男子を、前を向いたままに見つめる。
星虫の視界と自分の視界の区別がなくなったのでできる芸当だ(星虫の方が、視界が広い。
視角で二百度はありそうだ)。
その男子――寝太郎は、窓際の席で、うつらうつらとしていた。伸び切った前髪が星虫の悪《いた》
戯《ずら》で上に押し上げられ、まるで鶏冠《とさか》だった。
考えてみると、自分と寝太郎は、不思議な関係だった。
十年も昔に、たった一日一緒に過ごした男の子。友美が師と仰ぐおじさんの息子でもある。
そして、今は同級生。
同級生といっても、たった一昨日まで、そばに寄りたくもなかった奴だったのに、気になっ
てしまう。
姉ができの悪い弟に感じるような思い、または懐かしい親友に対するような思いが、胸の中
で入り交じっていた。
あれほど毛嫌いしていた姿を、こうしてじっと見つめていても、苦にならない。
『星虫のせい?』
星虫は、友美に町や自然の正体を教えてくれた。
町が人間の一部であり、それゆえに気持ちが良く、安心できる場所だということ。そして自
然は人間の一部でありながら、人以外の意思で支配されており、それゆえに不安と感動とが存
在するのだと。
だったら寝太郎がこんなに気になるのも、星虫と無関係ではないのだろう。今まで自分に見
る目がなく、寝太郎の良さがまるで分からなかっただけかもしれなかった。
星虫が人間の真の姿も見せてくれるとしたら……。
その友美の視線の先で、寝太郎の星虫は悪戯を続けていた。
本格的に居眠りに入った鼻の穴に、ゆっくりとその鋏を近づけていく。何をする気かと見守
る友美が目をこらした瞬間、鼻の肉をつかんだ鋏が、ピッと上がった。
見事に寝太郎の鼻がブタになっていた。
「てててっ!」と、寝太郎が思わず立ち上がってわめき、もろに見てしまった友美の爆笑が、
水を打ったように静まり返っていた教室にこだまする。
突然のその大騒ぎに、天然記念物教師の怒りが爆発した。
「馬鹿者! 立っとれっ!」
「小学校以来だ、立たされたのって」
言いながらも楽しげな友美だった。
その横には、不思議そうな顔の寝太郎がうっそりと立っている。やせているのに、時々肥満
児のように感じてしまうのはなぜだろうと、友美は横目で見た。
じろじろと見られる寝太郎の顔の温度が、少し上がってきている。
「一つ聞いていいか?」
友美はうなずいた。
「さっき教室でも、じっと見てたろ? なんでだ」
「知ってたの?」
「何となく分かった。星虫かな……」
今度は友美が顔を赤くする番だった。
「別に、何でもないよ。それより、聞きたいことがあるの」と、話を変えた。
「何?」
「さっき、鬼門屋敷で、どうしてあんなに信頼してくれたの? 星虫のことで。私だって理屈
だと、星虫の危険性が分からなくないもの。私が信じてるのって、第六感としかいえない部分
でだし……」
「委員長の勘がすごいのは、知ってっからな。世界の砂のことで」
「世界の砂?」
「ああ。覚えてないか? 俺と親父の前で、委員長、あの瓶の中身と、地球儀の場所とを、全
部一致させたじゃないか」
「ああ……」と、うなずく。漠然と覚えてはいた。
「でも、ラベルに場所が書いであったと思うけど?」
「確かにな。けど、あれラテン語だぞ。六つで読めたのか?」
「今でも読めないよ。そうだったっけ?」
「そうだよ。だから俺は、委員長の勘を信じてんだ」
友美は自分に驚いていた。どうやら勘は、昔の方が冴《さ》えていたらしい。
「でも、そう信じ込まれても、困るな。実をいうと、絶対に安全だとは思えないの」
寝太郎は欠伸をしていた。
「いいよ。委員長は親父のこと、今でも先生だって思ってんだろ?」
友美はもちろんと答える。
「俺にとっても親父というより、先生だ。俺たち親父の教え子同士――仲間だからな。つき合
ってやるよ」
「仲間?」
「それに、親父の考え方の基本は生き物は全て平等だってことにあるよな。食べないもんは殺
さない。俺、ちょっと、こんなの食う気しないぞ……」
寝太郎は、いかにも嫌そうな顔で、星虫を見上げた。
友美は思わず噴き出しそうになった。星虫は、取れば死ぬ。殺した生き物は食べなければな
らないのだが、これはゴキブリを食べるよりも難儀《なんぎ》だろう。固くて、でかい。
「委員長、今年蚊を食ったか?」と、寝太郎が聞いた。
「二匹だけね」
その友美の答えに、寝太郎は、胸を張った。
「俺五匹。こないだの、松本のを入れてな」
「何、威張ってんのよ」
笑う寝太郎と友美は、やがて無言になり、廊下の硝子越しに空を見上げた。
仲間という寝太郎の言葉が、友美の胸に温かく残っていた。
何だか心が軽くなっているのに気づく。ずっと一人で、仲間もなく夢を追ってきたのだが、
やはり疲れていたのかもしれない。自然に話せる友人は、本当に小学校以来だった。
「ね」と、友美は聞いた。
「寝太郎くんは、どんな学者になるつもり?」
寝太郎は「う〜ん……」と、唸った。
「絞れてないんだよな、まだ」
「まだ[#「まだ」に傍点]じゃ駄目なんじゃない。もう[#「もう」に傍点]よ、もう[#「もう」に傍点]」
寝太郎は困ったように頭を掻き、言った。
「……やるんなら、園芸かな」
「園芸?」
「見たろ? 家の庭、世話してんの俺だぞ」と、自慢気に寝太郎は言う。
そういえば、昨日も寝太郎は、剪定鋏を持っていた。
「寝太郎くんに、そんな技あったの?」
「ああ。進化計画にも、絶対必要だぞ」
なるほど、スペースコロニーを作るには、確かに園芸もいるだろう。
「そうか。でも、やっぱり進化計画に興味あるんだ」
「当たり前だろ。親父が作ったもんだ、元々」と、寝太郎はぶすっと言う。
「聞いていい? 吉田さんも、私たちと同じ、おじさんの生徒なの?」
「まあな」
「お爺さんともお知り合いみたいだし、親類か何かなの?」
「……まぁな」
どんどん不機嫌な顔になる。どうやら秋緒が絡むと、自然とこうなるらしい。
「じゃあ、どうして、あの人から逃げたの? 吉田さんは寝太郎くんの親類で、おじさんの生
徒で、おじさんの夢を叶えようとしてるんでしょ?」
「確かにそうかもしれんけど……」
不意に友美を見た。
その目が、なぜか、寂しそうに伏せられる。
「駄目だ……やっぱ、俺には、あいつの言う通りに協力なんかできねえよ」
友美はあれっと思った。今、まるで寝太郎が、友美を見て、何か大事なものをあきらめたよ
うに感じたのだ。
「どうして?」
「どうしてもだ。人の家のことだろ。ほっといてくれよな」
苛々と言って、寝太郎は口をへの字に結んだ。
「分かりました」
友美も、ふんと視線を外し、窓の外を見る。
無言で立つ二人の前に、青空が広がっていた。
窓越しだが、星虫の力を借りれば、肉眼よりもはるかに鮮明な空を望むことができた。
どこかで見たような雲。そして寝太郎と並んで空を見上げるこんな時が、ずっと以前にもあ
ったような気がし始めていた。夢の中でだったのかもしれない。
「おい」
寝太郎が不意に言って、前を向いたまま、何かを友美に手渡した。
一葉の写真だった。
小さな女の子が、にっこり笑って立っている。その脇には、しゃがみ込み、顔をくしゃくし
ゃドロドロにした男の子が、大きな口を開けて泣いていた。
六歳の友美が、寝太郎を泣かした決定的瞬間である。
友美はみるみる真っ赤になった。
「……全然、そっから変わってないぞ、お前」
「なっ、何よっ」
「いじめっ子。俺の唯一の趣味まで取り上げるなんて、鬼だ」
「何よ趣味って……まさか、居眠りのこと言ってんじゃないでしょうね」
「そうだよ。ひでぇ奴だ」
「私は、寝太郎くんのためを思って――」
「いじめっ子」
「眠り虫」
「猫っかぶり」
聞こえないほどの悪口を互いに応酬《おうしゅう》し合いながら、友美はいつしか笑っていた。
本当にこんな時が、大昔にあったような気がする。
この時、『チチッ』と、何かの音がした。
友美のすぐそば――それもごく近くで。
あれっ? と思った途端、窓の外に広がる青空が、一瞬にして漆黒《しっこく》に染まった。
絶句する目の前で、窓の外は夜の世界になっていた。
いや、違う。校舎裏の木々も塀も、そこから顔を覗かせるビルの群れも、全てさっきまでと
同じように明るい太陽に照らされている。
友美はもう一度目を空に向けた。
満天の星が、目に入ってきた。
空が――空だけが突然に夜空へと変わってしまったらしい。
星虫の新しい力の発現に違いなかった。しかし今度は――今度だけは友美の意思以外の要素
が働いたとしか考えられなかった。
その証拠に、コントロールがきかない。今までなら五感の全て、そして地球の叫びを聞く第
六感、テレビ受信も自由自在に調節できた。それだからこそ、昨日まで星虫は神の贈りものと
して扱われてきたのだ。
友美は、やれやれと額の星虫を見上げた。
どうやら星虫は、本格的な自己主張を始めるつもりらしい。それは、星虫の成長が止まって
いないという証拠でもある。
ま、町はきちんと見えてるし、変わったのは空だけなのだから、慣れてしまえばどうってこ
とはないけれど……。
『これじゃあ、明日どうなってるか……』
加速度的に成長が進んでいるらしい星虫に、ため息をついた。
隣で寝太郎が不審な目で見ているのに気づいた友美は、この事態を説明した。
「へえ、おもしろそうだな」
全く動じない寝太郎に、友美は少しがっかりした。
「こんなの聞いて、怖くないの?」
「委員長はどうなんだ?」
問われて、はたと友美も考える。
「やっぱり怖い気持ちもあるな。でも、それよりわくわくする気持ちの方が強い。次は何を見
せてくれるのかなってね」
言いながら、本当にこの星虫の新しい能力を楽しみ始めていた。
目の前に輝く赤い星は、間違いなく火星だった。
多分、星虫はどうにかして、空から来る太陽光線だけを遮断するか吸収するかしているのだ
ろう。コンピューターのように画像処理をしているのかもしれない。器用な子だった。
友美は心の中で星虫に呼びかけた。
『自己主張もいいけどね、私のことも少しは考えてよ。私はずっと仲良くしていたいんだから
ね、綺麗な星虫くん』
しかし、触角を震わせる星虫は、自分のことしか考えていないように、友美には感じられた。
[#改ページ]
五日目
[#改ページ]
午前九時。
校舎は、夜半から降り続く強い雨に打たれていた。
厚い雲に覆われた空は不気味に暗く、雨足は強くなる一方だった。
朝だというのに、教室全ての窓からはこうこうとした蛍光灯の光が放たれ、それが一層あた
りの暗さを際立たせている。
聞いたこともない異様な音が雨の校庭に鳴り響いたのは、その時だった。
「ギ・ギ・ギ・ギギギギギギギィィィィィィィィィィィィィィ……」
友美たちの教室の六枚の窓硝子が、その音と同時に砕けた。
凄まじい異音と硝子の割れる音とが混じり合い、クラスの全員が耳を押さえて全身を震わせ
ていた。
「お願いだからやめて!」
友美は自分の耳を押さえながら、鳴き続けている額の星虫を叱《しか》った。
星虫。
それはすでに虫と呼べるサイズではなくなっていた。
全長は更に昨日の三倍にも巨大化し、左右に振れる腹部分の目は、後頭部にまでおよんでい
る。全体のフォルムは昨日と同じだが、蟻でいう頭部分――そして今音を出している胴部分の
両脇についた歪《いびつ》な形の目が、比較的他より大きくなっていた。鋏のついた前足は、もう伸ばせ
ば肩に届くだろう。
奇蹟的に友美の目は塞がれていないが、正面から見ると不気味な兜《かぶと》をかぶっているかのよう
である。しかもこの兜は重かった。
星虫所持者の推定総数は、今朝の時点で二十万を切り、更に激減を続けている。
未だに星虫を捨てていない者は視カや聴覚に障害を持った人々がほとんどで、更にそういっ
た人々の星虫は変態が抑えられる傾向があった。
星虫がかろうじて国家の強制による駆逐《くちく》から免れているのは、そのおかげだと言い切っても
いい。現に正夫と、やはり弱視だった少女のものは、三日目よりかなり大きくなっているもの
の、足は爪の先ほどにしか伸びていない。
すでに世論は星虫を原則的に排除すべきだという方向で動いていた。友美たちが昨日発見し
たように、『地球の叫び』が誰にでも聞けるというニュースが朝刊の一面を飾り、星虫の役目
がこれで完了したと断言されていた。
地球の叫びが、星虫なしでも感じられる以上、砂漠化の進むアフリカでも、アマゾンのよう
に劇的な緑の革命が成功する可能性があった。地球上の森林を救った存在として、星虫は評価
されるべきだ。しかしその役割はすでに終わったと。
むろん友美は反対意見だったが、早朝、いきなりとてつもない音量で星虫が鳴き始め、半径
数十メートル内のご近所全員を叩き起こしてしまった時には、泣きたくなった。
友美のように星虫に愛着を感じていた人々の多くも、この音で取らざるを得なくなった。有
声化した星虫所持者は、世界中に百人もいないかもしれない。
そのうちの二人が、この教室にいた。これは考えてみればすごい確率だが、一緒にいる者た
ちにとっては、たまったものではない。
「グ・ゴ・ゲギギギィィィィィィ……」
友美の言うことを聞き、ようやく音量を落としてきた星虫の声へ、かぶさるように別の異音
が鳴り始めた。
寝太郎の星虫だった。
彼のは友美のよりも一回り小さいが、足は太く、全体にがっしりした印象があった。それが、
友美のよりも少し低めの音を轟《とどろ》かせている。
途端に、今まで割れなかった大きな硝子にヒビが入った。
ぱんっと、寝太郎が星虫の胴体をはたく。
「やめろ、馬鹿」
叩かれて怒った星虫が更に音量を上げ、教室の窓硝子が全滅した。
それで気が済んだらしい。不意に鳴きやみ、ようやく教室に静けさが戻ってきた。
友美は頭を抱えたくなった。今朝五時からこの繰り返しなのだ。
だが、もっと嫌になっているのは、教師を含めたクラスの全員だった。
「これじゃあ授業にならん!」
教科書を教卓に叩きつけた数学教師が、友美と寝太郎を睨みつけた。
その視線は別の所持者たちにも向かう。
直人もまだ星虫をつけていたが、鳴くほどの大きさではない。寝太郎の半分以下だ。
あと、クラスの星虫所持者は洋子と隆(二人は直人のとほとんど同じ大きさ)を含む計七人。
しかし、今や星虫所持者は数万人に一人の確率になっているので、このクラスの所持率は、異
常に高いといえる。
所持者全員を睨み回した教師は、「取れっ!」と怒鳴った。
友美の星虫がビクッと震える。
星虫には明らかに知能が発達しつつあった。言葉までは無理でも、場の雰囲気を感じとって
いるのだと、友美には思えた。
「いやです」
友美は立ち上がって、きっぱり拒絶した。
「これだけ私や周りに迷惑かけるのは、まだやっていいことと悪いこととの区別がつかないせ
いだと思います。だとすれば、しつければいいことです。取るのは、最後の最後でいいはずで
す」
「いい加減にしろ! それはもう、間違いなく、宇宙から来た怪物だっ!」
クラスの全員が、教師とそう変わらない表情で友美を見ている。怒りと、少しの心配が混じ
った顔で。
全員の苛立ちは、友美以外の星虫所持者にも向いていた。弱視で星虫を手放さずに頑張って
きた少女の周りでも、友人たちの視線が、無言で取れと迫っている。
正夫と同じく瓶底《びんぞこ》眼鏡から開放された少女は、星虫に心から感謝していた。
しかし、今日の友美の星虫を見た時は、危うく剥がしてしまいそうなくらいにショックを受
けた。あんなになるのなら、耐えられないと思ったのだ。あの時、友美が平気な顔で彼女を励
ましてくれなかったら、持ちこたえられなかっただろう。
でも、今や周囲全てが星虫所持者の敵になっていた。
元々気は強くない。その彼女に、非所持者たちの罵声《ばせい》が前、横、後ろと、あらゆる角度から
浴びせられる。教師も睨みつけてくる。
限界だった。
少女は、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「わ、私、取ります! 先生、病院へつれてってくだ――」
全てを言い終える前に、星虫はいとも簡単に机の上に落ちていた。
カシャンという音が、一瞬静まり返った教室に響いた。
机の上に落ちた全長七センチほどの星虫は、生え始めていた短い足をしばらく動かしていた
が、それもすぐに止まった。
少女は余りの呆気なさにぽかんとしているように見えた。しかし、その目には大粒の涙が溢
れ、頬を伝った。
「ごめんね……」
机に落ちた星虫を憤《いきどお》った目で見つめる友美が、全員に向かって怒鳴った。
「怪物が、こんなに弱いわけないじゃない!」
その友美の感情に呼応したのか、それとも身近に仲間の死を感じとったのか、二体の星虫が、
再びけたたましい鳴き声を上げた。
教師に連行されるようにして、友美たち星虫所持者六人が校長室に並んでいた。
前には校長、教頭と、友美らの担任が揃《そろ》っている。
「もう校内に残った星虫所持者は君らだけだ。取りなさい」
校長が告げる。柔らかな口調だったが、内容は強制だった。
「いやです」
友美が即答した。
「これは理事会の決定事項なんだ。君がわが校に所属する限り従う義務がある」
事務的に言った教頭だったが、「じゃ、高校やめます」と軽くいなす友美に目を白黒させた。
「全く、どうしたんだね、優等生の君が……」
教師たちの困惑の眼差しを平然と浴びつつ、
「私、もう優等生はやめたんです」と、友美は言った。
「氷室くん。もし明日その倍になったとしたら、顔面のほとんどが隠れるぞ。そうなったら何
も食べられなくなる。いや、息もできなくなるかもしれない」
担任の言葉に、直人たちは顔を見合わせる。それは確かにあり得る話だった。
だが友美は、動じない。
「星虫は、そんなことしないと思います。もし仮になったとしたら、その時点で取ればいいで
しょう」
「そうかな? 死者こそまだ出ていないが、日本だけでも二百人が入院中だ。それにその音。
それは超音波だ。硝子ならいいが、人体に影響がないわけがない」
これには友美も答えに窮《きゅう》した。確かにこの音だけは友美自身、困っている。
「超音波じゃないですよ」と、助け船を出してくれたのは、寝太郎である。
「星虫の奴、硝子の固有振動数に合わせた音を出して、割って遊んでんだ。こいつら少しずつ
知恵もついてきてるし、委員長の言う通り、しつけられると思う。な?」
友美はほっとして、うなずいた。
「相沢くんの言う通りです。しつけてみせます」
その強い意志の込もった友美の視線に、教師たちは思わず顔を見合わせていた。
「……しかたない」と、校長が、お手上げだというように告げた。
「保護者を呼ぶことにしよう」
「そ、そんな」
さすがに友美を含めた全員が動揺したその時、校長室のドアか叩かれた。
「お客様ですが」
事務員の言葉と同時に、ドアが勢い良く開いた。
全員の視線が集まる中、颯爽《さっそう》と入室してきたのは……。
「失礼します」と、秋緒は一礼した。
教師たちは、いきなり現れた現実離れした美女に、言葉を失っていた。
秋緒の突然の登場に度肝《どぎも》をぬかれたのは、友美たちもそう変わらない。
一人、寝太郎だけが逃げ出そうとしたが、秋緒に捕まった。
「あ、あの、あなたは?」
声を絞り出すようにして、校長が尋ねた。
「相沢の保護者です」と、秋緒が言い切る。
違うと叫ぶ寝太郎は完全に無視され、教師たちは秋緒を歓迎した。
「ちょうどよかった。今、保護者の方々に来ていただこうと思っていたところでして」
教頭が恵比須顔《えびすがお》で椅子をすすめたが、秋緒は首を振り、手にしていたノートパソコンを机の
上に置き起動させると、画面を寝太郎の方へ向けた。
「生命にかかわる可能性が出てきてるわ。星虫が大気成分をエネルギー源と栄養源にしている
ことが実証された。これからどれだけ巨大化するか分からないわよ」
その仮説なら友美も知っていたが、実証されたというのは初耳だ。
「見なさい広樹、友美も」と、秋緒は起動したパソコンに、星虫の画像を呼び出した。
「ラバー部分も、今までは毛穴レベルの侵入だったのが、その付着面積の拡大と同時に筋肉組
織にまで侵入しつつある。このままだと、精神的拒絶による剥離《はくり》もいつまで可能か。これ以上
成長が進めば、精神的拒絶では取れない可能性が、三倍に跳ね上がってる」
その情報は、初めて知るものだった。
「見なさい。一番高い確率でスーパーコンピューターがはじき出した星虫の推論。パターンと
しては、宿主に有利な能力を与え、それを餌《えさ》として拒絶を防ぎ、やがて成長し拒絶不可能にな
った段階で、宿主を補食する。広樹、友美、あなたたちは星虫の餌なのよ!」
秋緒は、ドンと机を叩いた。
「確率62%」
一気に畳みかけた秋緒の勢いに、全員が身を竦める。
「星虫を取りなさい、広樹」
秋緒の命令に、寝太郎は、ゆっくりと首を振ると、隣の友美を見た。
「取らん。そんな寄せ集めのデータからの推論より、委員長の勘を信じるよ」
意気込む秋緒の顔に、信じられないという表情が浮かんだ。
「勘?」と、真っ直ぐ友美を見て聞く。
友美は小さくなりながらも、うなずいた。
「あなたくらいに賢い子が、勘を重視するの? データや計算結果より」
秋緒は鋭い眼差しを友美に送る。それは、物理的な圧迫感を感じるほどきつい視線だった。
「はい。話は分かります。でも、私には、星虫がそんな悪い子だとは思えない。それに、デー
タっていってもたった四日です。まだ、どれだけ集まってるか。大体、そのデータを解析した
プログラムの問題もあるだろうし」
秋緒の顔色がすっと引いた。目にも止まらぬ速さで、パソコンのキーを叩く。
「これが、プログラムのソースよ。私が組んだものだわ。どこが気に入らない?」
画面に表示されたのは、見たこともないコンピューター言語によるプログラムだった。
「……プレ・ログだ」と、正夫が咳く。
友美もその名くらいは知っていた。ニューロコンピューター用に開発された言語だが、C言
語をかじり始めたばかりの友美には、とても歯が立たない。コンピューターに詳しい正夫にし
ても、相当複雑なプログラムだということ以外は、まるで分からなかった。
「あなたには幻滅したわ、友美。やはり、広樹の見立ては甘かったわね」
「どういうことですか?」と、友美は問い返した。
秋緒は答えず、目を閉じて首を振った。
「とにかく、星虫は危険なの。あなたも早く取りなさい。みんなもよ」
友美は、段々と腹が立ってきた。
秋緒の言うことは分かる。しかし、これでは勝手すぎる、一方的すぎる。
「でも、この子は未知の生物です。これからどうなるかも、結局は推論です。だったら私はこ
の星虫を信じます!」
「勝手になさい。けれど、あなたは広樹を巻き込んでる! それはやめてほしいの。広樹は大
切な人なのよ!」
その突然の秋緒の告白に、友美の頭が一瞬真っ白になった。他のみんなもそうだ。寝太郎だ
けが、長椅子の端っこで頭を抱えていた。
危うくその迫力に飲み込まれそうになった友美だったが、何とか踏み止まった。
「わ、私にとっても、相沢くんは大事な仲間です。そ、それに相沢くんが、あなたに追いかけ
回されて迷惑してるのは確かだ……」
「何ですって?」
友美は、意を決して言った。
「吉田さん……あなたは、ほんとにすごい人だし、私尊敬するけど、勝手よ!」
無言で対峙《たいじ》するこ人の間に、火花が散っているようだった。
いたたまれない雰囲気が、校長室に充溢《じゅういつ》する。そして、この緊張に耐えきれなくなったの
は、人間ではなかった。
突然サイレンのように二体の星虫が鳴き始め、校長室は音波の嵐に見舞われた。
部屋中の硝子製品が一瞬にして粉みじんとなり、全員耳を押さえてうずくまった。
数分で音はやんだが、秋緒だけが起き上がれない。
「大丈夫ですか」と担任が抱き起こすと、秋緒は青い顔でうなずいた。
校長は惨憺《さんたん》たるあり様の室内を見回し、微かに身を震わせると、友美たちに命じた。
「自宅待機しなさい!」
六人は、クラスメイトの冷たい視線に送られながら、鞄を下げて教室を出た。
雨はやんでいたが、黒い雲が重苦しく空を埋め、沈んだ気分に追い打ちをかける。
「まいったね」とつぶやく隆の顔にも、楽天家らしからぬ暗い影がさしていた。
友美を含めた全員に、今の秋緒の話はこたえていた。どうやら、命にかかわる瀬戸際《せとぎわ》にきて
いるらしい。
「彼女の話には、筋が通ってるよ」
直人が友美に言い、洋子も口を添《そ》える。
「友美の気持ちも分かるけど、やっぱり危険だと思うわ。特に友美と寝太郎くんのは、大きく
なりすぎてるし」
そして洋子は、悔しげに言った。
「私も、鳴き始めた時点で取る。星虫がくれた力は惜しいし、この綺麗な町や森を二度と見ら
れないのは、残念だけど……」
洋子は雨に濡れた校庭を見つめた。
星虫の視覚で眺めた世界は、人間の目がいかにいい加減で、できが悪かったかを洋子に教え
てくれた。目の前に広がるこの何でもない風景にすら、名画に匹敵する感動を見つけられる感
覚を失いたくはないけれど、命には換えられない。
「飯が美味《うま》かったけどな。俺も取る。これ以上でかくなるなら」と、隆も腹を決めた。
「僕はねばるぞ。委員長が頑張る限り、つき合うよ」
正夫は、ちょっと不安気に星虫を見上げた。自分のだけがそれほど巨大化していないのを期
待しての発言だろうが、それでも友美は嬉しかった。
「俺も、今すぐ取る気はないが」
直人が友美を見た。
「問題は家族だな」
友美はうなずく。そろそろ学校から連絡が入っている頃だろう。頭に血の上った母親の顔が
目に浮かんだ。
直人の言葉で、全員の表情が沈んだものになった。騒音公害で近所にまで迷惑をかけている
友美でなくとも、みんな家族に心配をかけているのには違いがない。
その中で寝太郎だけがいつもと同じ表情だったが、その目がいきなり丸く開いた。
「わっ!」と声を上げる寝太郎に、友美の声も重なった。
二人は厚い雲で覆われた真っ黒な空を見上げ、驚いている。
「どうしたの?」
洋子は友人の様子に首をかしげた。いくら目を凝《こ》らしても見えるのは雲ばかりだ。
「見なかった? 今のすごかったわ」
我に返った友美が、天の一角を指差した。
「超新星の爆発かもな」
寝太郎も、彼としては珍しく興奮している。
「みんな、まだ見えてないんだ。私、あ、寝太郎くんも昨日から宇宙を見せられてるの、星虫
に。昼間でも。でも今日は雲が厚くてよく見えなかったんだけど」
星虫が宇宙を見始めてから一日。最初は勘が狂ってしまった友美も、すっかりこの状態にな
れてしまっていた。
「多分、通常光線だけじゃなく、X線あたりまで見えてきたんだ。あれなら、雲くらい通すだ
ろ? 星の数も、どんどん増えてる」
にかっとしながら言う寝太郎に、友美は胸を張った。
「へへーんだ。私なんかもう全天で星のないところはないくらいよ。木星までなら、月と同じ
ぐらいに見える。もうすぐ冥王星も見えるんじゃないかな」
楽しげに自慢し合う二人に、四人の不審の目が集まった。
星虫が強制的に星空を見せているというのに、どうしてこんなにも楽しんでいられるのか、
彼らにはとても理解できなかった。
『まるで星虫に取りつかれているようだ』という思いが、期せずして四人全員の心に浮かんで
いた。
そう考えれば、友美がこれほどまでに星虫を庇《かば》う理屈も分かる。
そんな疑いが生まれてしまうと、彼らの数倍はある星虫を額に張りつけた二人の姿は、まる
で別の星の不気味なエイリアンのようにも見えてきた。
「どうしたの?」
四人の様子に気づいた友美が尋ねる。
「いや、別に」
直人は、「そろそろ行こう」と、傘《かさ》を持った。
学校を出てすぐのところで、全員の通学路が分かれる。そこまで全員が無言だった。
「氷室さん」
いきなり直人が友美を振り返った。
「明日、もしそれ以上、星虫が巨大化していたら、俺、引きずってでも病院へ連れていくから
な」
ぽかんとした友美を残し、直人は駆け出した。
あわてて、そのあとを洋子が追う。
顔を見合わせた隆と正夫も、あたふたと立ち去り、気がつくと友美と寝太郎だけになってし
まった。
「よくないわよ!」と、我に返った友美はもう姿も見えない直人に怒鳴った。
「人の星虫を、勝手に取らないでよねっ!」
まだ怒っている友美だが、寝太郎は直人に感心していた。
「ほんとに委員長のこと好きなんだな、あいつ」
友美の顔が朱に染まり、絶句した。
「な、何、急に馬鹿言ってんのよ」
「好きなんだろ? 宮田は委員長のこと。勘がいいくせに、気づかんかったか?」
寝太郎にそう言われると、なぜか、むっとしてきた。
途端にさっきの秋緒の言葉、そして昨日の朝、寝太郎があわてて隠した写真のことが頭に過《よぎ》
る。完璧に機嫌が悪くなった。
「人のことはいいわ。寝太郎くんは、吉田さんと上手くやっていく方法を考えるべきじゃない
の? 年上だし、すごい人だし、大変だよ」
横目で見ながら、意地悪そうに言う友美に、寝太郎は首をかしげた。
「何の話だよ。俺とあいつが何だって?」
「とぼけんな。さっきの告白は、みんな聞いたんだから。彼女、君のことを『大事な人』って
言ったでしょ!」
すると寝太郎は、「俺を買いかぶってんだろ。親父の息子だってことで……」と、ため息を
ついた。
「何の話?」
問う友美に、寝太郎は首を振る。
「あのプロジェクトに、俺を入れようとしてんだ」
ぽかんと、友美は寝太郎のさえない顔を見つめた。
「プロジェクトって、まさか、進化計画のこと?」
ぶすっとしてうなずく寝太郎に、友美はプッと噴き出した。
「とっ、とんでもない話ね。寝太郎くんが逃げる気持ち、分かる」
確かに寝太郎は、あのおじさんの息子だが、秋緒は学校での姿を知らないに違いない。地球
を救うような計画に、自分が参加できるような人間でないことは、寝太郎も分かっていたわけ
だ。
「笑うこたないだろが」と、少し機嫌を悪くした寝太郎が、足を速める。
「ごめんごめん」と謝った友美は、あとを追った。学校から数十メートルは同じ方向だ。
早足で追いつき、横に並んだ。百六十センチある友美は女子の中でも低くはないが、寝太郎
の顔は、かなり見上げたところにある。
寝太郎は、まだ怒っているのか、じっと前を睨んだままだ。
『こうしてると、六十五点くらいね』と、友美は勝手に寝太郎を採点し始めていた。
痩せ気味で背も高く、ハンサムでないにしても、不快な顔ではない。性格はちょっと頑固だ
が、素朴で好感が持てた。それに、この身なりを見ているとすぐに忘れてしまうが、この少年
は大金持ちの跡取りなのだ。あの屋敷のある竹林の他にも、代わりに提供した土地を持ってい
たわけだから、資産はどのくらいあるのか、友美には想像もつかない。その点だけでも、百点
つける人は多いだろう。
「何だよ、また」
いきなり寝太郎が振り向いた。
「俺の顔に、星虫以外の何かついてんのか?」
友美が「別に」と、視線を外した途端、しばらくおとなしかった友美の星虫が、いきなり自
己主張を再開した。
サイレンのような音が路上に轟き、ついで寝太郎の星虫の声が重なる。
異常なデュエットは約一分後におさまったものの、友美は再び現実に直面していた。
幸い、民家の硝子は割れなかったものの、驚いた人が転げるように中から飛び出し、通行人
が耳を押さえてうずくまっていた。
二人は、大あわてで謝り、逃げるようにその場合を離れた。
「この音をどうするかよね」と、友美が唇を噛む。
「それを、聞こうと思ってた。困るだろ、これじゃあ」
寝太郎は耳をこすりながら、星虫を睨んだ。
「家だけじゃなく、近所にも迷惑かけるもんね」
友美も正直途方にくれていた。
しかし寝太郎は、なぜか平然としている。いくら屋敷が広くても、この音量では近所に響き
渡るはずなのに。
「寝太郎くん、何かいい考えあるの?」
「考え? いや。けど俺、寝るのは大抵、蔵だしな。あそこなら窓も小さいし、壁は三十セン
チ以上ある。いざとなったら、冷房も入るし」
聞くなり友美の瞳が輝いた。
「そうか。じゃ泊めてよ。しばらく!」
寝太郎が、何を考えてるんだという呆れ顔で友美を見た。
「どうしたの?」
「……あのな、委員長。男一人のとこへ泊まり込むってのか?」
「蔵は二つあるじゃない」
「まあ、そうだけど、ほんとに来る気か?」
その情けない顔を、友美が睨む。
「何よ、そんなに私を泊めたくないの?」
「お前、また叩き起こす気だろ……」
友美は噴き出した。
「分かった、遅刻しないぎりぎりまで寝てていいから。お願い、私、星虫を助けたいの。この
まま家に帰ると、無理やりにでも病院に連れていかれるわ。もしそうなったら、この子を半分
食べてもらいますからね!」
「無茶苦茶だよ、お前……」
がっくりと肩を落とした寝太郎は、渋々うなずく。
「ありがとう」と、頭を下げた友美は、ほっとして言った。
「じゃ、何か手土産《てみやげ》持ってかなきゃいけないね。お爺さん――あ、お母さんも、何か好物とか
ある?」
「いいよそんなもん。それに、家は、爺さんと俺だけだ。気がつかんかったか?」
友美は、しまったとうつむいた。
確かに、寝太郎の屋敷の中で会った人は二人だけだが、あれだけ広いのだ。きっと何処《どこ》かに
まだ誰かいると思いこんでいた。
「あの、お母さんも、亡《な》くなられたの?」
寝太郎は憮然と首を振った。
「母さんは、今アメリカだ。親父と離婚して、ニューヨークで会社経営してる」
そういえば、寝太郎の祖父が話した『馬鹿』の物語の最後に、そんな話が出てきたように思
う。確か、馬鹿は家族にも見捨てられたとか……。
しかし、それで寝太郎の不潔さの原因が理解できた。世話を焼いてくれる母がいなかった彼
に、散髪やらアイロンをかけたワイシャツを期待する方が無理というものだ。
友美の中に眠っていた世話焼きの血が、熱く燃え始めていた。
「分かった。お世話になる代わりに、相沢家の家事全般、やったげる」
「えっ?」
言葉が見つからない寝太郎に、友美は畳みかけた。
「こう見えても掃除、洗濯――何だって母さんに仕込まれてるわ。料理は結構、自信あるんだ
から。宇宙飛行土の勉強ばかりしてたんじゃないのよ」
「……ま、叩き起こさないんなら、何でもいいけど……それよりな、委員長、家に来るの、両
親が許してくれるのか? 一応、自宅待機なんだぞ」
「あ」と、友美は言い、うーんと眉を寄せた。
「……難問よね。特にうちの母は……」
「あきらめるか?」と、期待に満ちて寝太郎が聞く。
「わけないでしょ」と言った友美の顔が、ぱっと明るくなった。
「そうだ。寝太郎くん、一緒に来てくれる?」
「来る?」
「母さんを説得するために、うちに。きっと学校からの連絡でヒステリー状態だろうし、そこ
へ私が寝太郎くんの家にしばらく寝泊まりするなんて言ったら、それこそキレちゃうわ。寝太
郎くんの星虫を見せれば、私のとそう変わらない大きさでもまだ頑張ってる人がいるって分か
るし。協力してくれるよね? 仲間なんだしねっ!」
友美の、お願いというよりは脅迫するような目に、寝太郎はすでに反抗する気力もなくして
いた
「でも、そうと決まったら、こんな格好じゃ困るなあ……」
友美はジロジロと寝太郎を見ると、財布を出した。
「ね、男の人の散髪って、いくらぐらいなの?」
「まさか、俺に、散髪へいけってか?」
情けない顔をする寝太郎に、友美はこっくりとうなずく。
「その頭で、母さんに会わせるわけにいかないの。それこそ、一発で追い出されるから。元、
婦警よ。合気道二段」
寝太郎は、ふうっと一つ息をつき、覚悟を決めた。
「分かった。毒を食らわば皿までっていうもんな」
「何よその譬《たと》え」
「とにかく、散髪くらいの金はある。自分のことは、自分で払う」
「服と靴も買うのよ」
「服?」
「まさか、自分で服、買ったことないとか?」と、友美がジョークで言うと、
「はは」と、寝太郎は笑ってごまかした。どうやら図星だったらしい。
改めて、一体どういう生活をしてきたんだと呆れる友美に、寝太郎が不安げに聞いた。
「散髪と、服か……百万くらいで、足りるかな?」
友美は絶句した。
「ひゃ、百万円も、持ち歩いてんの?」
「手持ちは百五十円。けど、銀行に行けば」
「全く、金持ちのくせに、どうしてこんなに汚くしてんのよ……」
言って友美は、パンッと寝太郎の背中を叩き、商店街に向かった。
氷室家の二階。その一室に友美の兄、幸雄の部屋がある。
机の上の幸雄のパソコンには、星虫特番を放送中のテレビ画面と、国連宇宙開発機構のホー
ムページが並んで表示されている。
今日は大学の講義もなく(このところ星虫のおかげで自主休講ばかりだったが)予定のバイ
トも向こうからキャンセル。彼女とも明日がデートの約束だし、雨ともなれば家で星虫情報で
も漁《あさ》っているより手がなかった。
もっともこれは次から次へと事態が急変するので、全く飽きがこない長時間映画のようなも
のだ。今日も有声化した星虫の出す破壊音波の話題で世界はもちきりだった。星虫の正体に関
する説も今や百家争鳴《ひゃっかそうめい》の状態。これから一体どうなるのか、興味は尽きないところだが、実の
妹がその渦中にいるとなると、面白がってばかりもいられなかった。
幸雄はモニターを見ながらため息をついた。教育委員会が星虫を剥がす決定を下したようだ。
すでに日本中の星虫の99%が死滅していた。それがこの決定でどれだけ減るか。八千万を数え、
ありふれていた星虫も、稀少価値が出始めていた。各テレビ局は星虫所持者――特に鳴き始め
た星虫探しを開始しており、インターネットやファクス・電話で情報を集めている番組も出て
きている。他人事《ひとごと》だとこれほど面白い事件もないわけで、ワイドショーの格好の題材になりつ
つあった。どうやら政府と自治体、そして警察も所持者保護の名目で調査に入ったようだ。発
表されたデータから見ても、友美の星虫の巨大さが群を抜いている以上、このままではマスコ
ミの餌食《えじき》にされるのも時間の問題だろう。
「……あいつ、絶対、取ってないだろうしなぁ……」
嘆息《たんそく》し、テレビを別のチャンネルに替えようとマウスを持ったその時だ。部屋の中へ、いき
なり母親が血相を変えて飛び込んできた。
錯乱した母の話に、幸雄は心底たまげた。
「……友美が家出して、同棲《どうせい》するって……?」
母は、ふるふると首を振り、「そこまでは言ってない」と、訂正した。
「とにかく、友美が彼氏を連れてきたわけだ。そいつも星虫をつけてて、そいつの家には防音
設備があるから、しばらくお世話になりたいって、こと?」
やっと落ち着いてきた母がそうだと言い、ほっとした幸雄は立ち上がった。
「……とにかく、来てんだろ? 話を聞いてみようよ」
見かけはともかく、中身は男みたいな性格で心配していた妹が、初めて連れてきた男友達に
は違いない。兄として興味がないわけがなかった。
階下の応接間では、友美がつぶやいていた。
「敵は手強《てごわ》い……」
母はまるで聞く耳持たぬという風だった。しかも兄の応援まで頼みにいっている。今や兄も
完全に星虫排除派だから、応援は望めなかった。
「親の言うことは、聞いた方がいいと思うぞ」と、寝太郎が言った。
口調が明るい。この事態を楽しんでいるらしい。しかし文句を言おうにも、彼の横顔もまと
もに見れない。
『これは、ずるいよ……』
どきどきする胸を押さえ、友美は目の前のコーヒーカップを見つめた。
寝太郎の銀行口座から取りあえずカードで十万円を引き出させ、まず制服屋でズボンとワイ
シャツを二着ずつ買い、その場で着替えさせた友美は、次に床屋を探した。
しかしどこの床屋でも、二人の星虫を見るなり追い出され、気丈な美容室のおばさんを見つ
け出すまでに、半時間かかった。シャンプーは無理だったが、おばさんはカットし、タオルで
顔を拭い、産毛《うぶげ》のような髭《ひげ》まで綺麗に剃《そ》り落としてくれた。
そして友美は、出てきた寝太郎の照れ臭そうな顔に、声を失った。
少し星虫が邪魔になっているが、初めて日の当たる場所に出てきた顔は、意外にも、キリッ
と締まった男性的なものだった。
『何だ。笑わないのか?』と、寝太郎は、不思議そうに友美を見た。
それからずっと、友美の胸の鼓動はゆっくりと打たなくなっていた。
親子だから当たり前なのかもしれないけれど、髪の毛を短く刈り揃えた寝太郎は、おじさん
によく似ていた。その上、親類らしい秋緒にも、かなりそっくりなのだ。つまり、お世辞《せじ》抜き
で、ハンサムだと言うしかない。商店街を歩く女の子たちが、何人も振り返ったのは、星虫に
驚いただけではなさそうだった。
「委員長、さっきから変だぞ」
「何がよ」と、友美は寝太郎に目をやらずに答える。
「寝太郎くんこそ、喜んでるんじゃないの、母さんの味方みたいよ」
「んなことないぞ」と、寝太郎が言い、焦ってコーヒーカップに手を伸ばす。
寝太郎を着飾らせたのが間違いだったかと、友美は思った。今の寝太郎は、変に格好良すぎ、
二枚目すぎる。母が警戒するのも、当然かもしれなかった。
「だけど騒ぎすぎよね。別に、結婚するって言ってるわけでもないのに」
カップを傾けていた寝太郎の気管に、熱いコーヒーが流れ込んだ。
母と幸雄が応接間に入ると、なぜか友美の男友達がむせ込んでいる。
変な奴だなと眉をしかめた幸雄が、ようやく顔を上げた若者に会釈《えしゃく》した。
と、苦しんでいた寝太郎が、幸雄の顔を見て目を丸くした。
「兄さんと知り合い?」と友美が聞くと、寝太郎は苦しそうにうなずく。
しかし、幸雄に見覚えはなかった。タレントのような、かなり目立つ顔立ちだから、会って
いれば覚えているはずだが……。
「このあいだ、コンピューター、届けてもらった」
苦しそうに友美に説明する寝太郎の声に、幸雄の目も丸くなった。
「……この間の、あの、相沢さん家《ち》の、君か?」
呆然と言った幸雄に、寝太郎はむせながら頭を下げた。
「ちょっと、母さん!」
幸雄は母の手を取り、ほとんど無理やり部屋から引っ張り出すと、台所に駆け込んでドアを
閉めた。
「知ってるの? あの子のこと」
「あいつ、あの相沢家の跡取りだ」
「あのって、まさか、元K大学学長なさってた、相沢さんの?」
母の口がまん丸になっていた。警察署長の妻として市の名士の名くらいは覚えている。相沢
家といえば、昔、この地方の代官。代々、変わり者が多いらしいが、市長も相沢の推薦なしに
は当選できないと噂《うわさ》されるほどの家柄だ。
「この間バイトで、あいつの家に最新型のワークステーションの取りつけにいったんだ。一千
万はするワークステーションを個人で買うのも驚きだったけど、その買った本人がまだ高校生
だってのに、もっとたまげた。ろくでもないお坊っちゃまかと思ってたら、わざわざ本社から
来てた技術者を脇にどかして、自分一人であっという間に立ち上げたんだ。並の頭じゃないよ、
あいつ」
「まあ相沢さんの……そうよね。友美の同級生なんだし、頭も悪いわけないわよね……」
「だから、奴の身元の方は確かは確かだけど、やっぱり何とか友美を説得して、星虫を取らせ
るべきだと思う。その方法なんだけど、母さん、聞いてる?」
母は、じっと何やら考え込んでいる。
「……でもね。いくら友美でも、これ以上大きくなるようなら取るだろうし、頭ごなしに言う
のも、かえって逆効果じゃないかしら」
「うん。それは、俺も悩んでた。あいつ、ほんとにへそ曲がりだから」
「無理やり取ると、額に傷が残るわ。時々忘れるけれど、あの子も女の子よ。それだけは避け
たいし……」
「そりゃそうだけど、母さん、何考えてるんだよ」
「でもやっぱりご近所の手前、あの音は困るわ。相沢くんの申し出は、こうなるとありがたい
話よね?」
ぼけっとした幸雄に、母は「ねっ?」と、念を押す。
「まさか……あいつのところへ、友美を預けるつもりじゃないだろね?」
「一人じゃ、行かせられないっていうの?」
「当然だろ!」と、気色《けしき》ばむ幸雄に、
「じゃ決まり。幸雄も保護者としてついていってちょうだい」と、母は告げた。
そしてつけ足すように、「用があったみたいだけど、自分で言ったことは守りなさいよ」と、
悪戯っぽく笑った。
どうやら母の作戦にまんまとはまってしまったらしい。幸雄は彼女への言い訳の言葉を考え
ながら、とぼとぼと応接間に向かう母のあとに続いた。
どうしたのだろうと待つ友美と寝太郎の元へ、母と兄が再び現れた。
さっきまでとは、まるで別人のように愛想の良くなった母は、友美に向かい、「じゃ、友美。
お世話になりなさい」と告げた。
「でも、二人きりにするわけにもいきませんから、この幸雄も一緒に泊めていただきたいんで
すけど、どうでしょう?」
あまりの態度の変わりように目を白黒させていた寝太郎は、
「もちろんかまいません。どっちかっていうと、助かります」
いかにもほっとしたその様子に、友美は何だかムッとしていた。
「母さん、地位や財産に、弱いとこあるんだよなあ」と、幸雄がぼやき、友美が笑った。
二人は幸雄の軽自動車で、相沢家に向かっていた。途中に寄ったショッピングモールで大量
の食物を仕入れる。その頃には雨は上がり、地面も乾いてきていた。
「でも友美には、金よりも夢だろ?」
「私だって母さんの子よ。お金は欲しいに決まってるよ」
「へぇ、意外だな」
「多ければ多いほどいい。十億円でも百億円でも。そうすれば夢が叶う」
なるほどねと、幸雄は笑う。
昨日の晩、友美は家族に、真剣に宇宙飛行士を目指すと宣言したのだ。
母は反対したが、幸雄はそれもいいかと思う。この妹は、どうやら自分よりも大物のようだ
った。案外、簡単に夢を叶えてしまうかもしれない。それに関しては、応援してやるつもりだ
ったが……。
「でも、星虫をつけてると、宇宙飛行士どころじゃなくなるかもしれない。今じゃそいつは、
とても安全なもんに見えないからな」
「そんなことないよ」と言いつつも、買い物をしていた間、友美の星虫に集中した人々の嫌悪
と驚きの目が、思い浮かぶ。
まるで世の中の全てが、星虫の敵に回ったかのようだった。
「いらっしゃい」
相沢家の門の前で、氷室兄妹は硬直していた。
てっきり寝太郎か、祖父が出てくるものと予想していた二人の前に現れたのは、何と秋緒だ
った。
それも白い割烹着《かっぽうぎ》を身につけ、頭には布巾《ふきん》。いかにも昔の若奥さんという風情で、幸雄など
は完全に見惚れてしまっていた。
「おい、一体、何者だ彼女?」と、うろたえ気味の幸雄が、友美に小声で聞く。
驚きから醒めた友美は、その問いも耳に入らないかのように、肩をいからせて秋緒に詰め寄
った。
「どうしてここにいるんですかっ!」
怒鳴る友美だが、秋緒は全く動じない。涼しげな顔に笑みさえ浮かべている。
「非常事態です。広樹を一人にしておけないわ。私は医師の資格も持ってますから、緊急事態
にも対処できるの。ついでに家事を手伝ってあげてるけれど」
そして友美たちが提げてきたスーパーのビニール袋をちらりと見、軽く手を叩いた。
「忘れてた。今、料理の下ごしらえをしていたの。失礼するわね。広樹なら、庭木の世話をし
てるはずよ」
いそいそと玄関に消える秋緒を、その美しさに呆然とした幸雄と完全に頭にきた友美とが、
見送った。
「おい」と、幸雄が提げてきたビニール袋を示す。
「どうする? これ」
「作るよっ! 料理でまで負けてたまるもんかっ!」
友美はそう言い、門を潜った。
綺麗に刈り込まれた芝生が、母家《おもや》と温室の間に広がっている。
遠景には数百年を経た数本の大木と雑木でできた植え込みがあり、大きな苔《こけ》むした平石が芝
生との境になっていた。
しかし今の友美にはこの美しい光景も目に入らない。星虫の力で寝太郎を探す。
夏の台風で折れた枝の治療をしていた寝太郎は、真っ直ぐに庭を突っ切ってくる友美に気づ
き、木の上から手を振った。
「どうして入れたのよっ! 星虫の敵を!」
慣れた軽い身のこなしで枝から降りてきた寝太郎は、友美の前に立った。
「しょうがなかった。入れないと強行突破して、監禁するらしいからな」
「嘘よ、そんなことやれるもんか!」
「やるんだ、あいつは。こうと決めたら絶対に。爺さんも言い負かされて今、寝込んでる。俺
も、困ってんだから、怒るなよ」
そして、ふと気がついたように、まじまじと友美を見た。
「そういうところ、似てるな。あいつと……」
「にっ、似てないわよっ!」
真っ赤になって怒る友美だったが、さすがに大人気《おとなげ》ないと気づいてもいた。
大体、なぜこうも自分は腹を立てているのか? 秋緒の存在が気に入らないにしても、これ
じゃ、母と同じヒステリーだ。
「着替えしたいんだけど!」
やけくそに言う友美へ、寝太郎は指差した。
「あの離れを使っていい。蔵の方は、まだ掃除してないんだ」
「どうもっ!」
友美は、どすどすと芝生を踏み締め、立ち去った。
「何で、あんなに怒ってんだ?」
寝太郎が首をひねっていると、声を出さずに笑っていた幸雄がやってきた。
「悪いね。友美のやつ、あの美女に頭きてるんだ」
思わず見返す寝太郎に、兄は手に提げた袋を持ち上げる。
「あの美人がやってたのは、友美がどうしてもやりたかったことだったんだな」
「はぁ……」と、寝太郎は更に首をかしげる。
「ま、とにかく、よろしく」
軽く頭を下げた幸雄に、寝太郎もあわてて礼を返す。
「いえ。こっちこそ、助かります。そうだ、お兄さんちょっと」
寝太郎は、庭の端に二つ建ち並ぶ蔵の片一方へ幸雄を案内した。
この蔵に入るのは二度目だったが、博物館のような内部の記憶は、幸雄が思っていた以上に
鮮明だった。
寝太郎は、蔵の一番奥――幸雄が設置にきたワークステーションの前に立ち、起動スイッチ
を入れた。ニューロコンピューター――かつてのスーパーコンピューター数百台分に匹敵する
機械のモニターに、光が宿る。
「これ見てください」
寝太郎は、素早くいくつかのキーを叩いた。
寝太郎クラスの有声化星虫の精密な3Dモデルが、モニターに現れる。
リアルな星虫が回転を始めた。裏面のグロテスクな紋様も、正確に再現されている。
続いて寝太郎がキーを叩くと、画面に映し出された星虫の胴体部分から、黒光りする甲殻が
取れた映像に替わる。そこにはビーズでできたような線が、五つの目の間を複雑に結んでいる
のが映し出されていた。
「大したもんだ……君が作ったのか?」
「会ったでしょ。あの吉田さんが、俺を脅かすのに持ってきてくれたんです。それよりここを
見てください」
画面に矢印が現れ、それがビーズでできた網の一点を示す。そこには、ビーズの結び目のよ
うな塊《かたまり》ができていた。
「これが、星虫の弱点です」
真面目な顔で、寝太郎は驚く幸雄を見た。
「弱点?」
「この線は、一種の光ファイバーで、いわば星虫の神経らしい。これが、その神経の中心で、
ここを破壊すれば星虫は死ぬってことです。外皮より委員長のだと一・五センチ下。場所は第
一眼――一番下の目とその上の丸い目とのちょうど中間点。一番下の目も急所らしいけど、
段々硬度が上がってて、多分、委員長の大きさだと十一超えてる。ダイヤでも無理だ。死ねば
もろいらしいんですが、生きてる間はレーザーでも溶けないってことです。高温に非常に強い
のは甲殻も同じだけど」
学業そこのけで星虫の情報を集め続けてきた幸雄にも、知らないことばかりだった。
「どこのデータなんだ?」
「UNSDOの機密情報。|アメリカ国防総省《ペンタゴン》のも混じってるって言ってたな」
幸雄がまた唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然としている間に、寝太郎は横の机の上にあった道具箱を取った。
スチール製の箱を開き、刃先にダイヤがついた電池式の電動ドリルを取り出す。そのドリル
には、刃の先から五センチのところに針金を溶接した手製の歯止めがついていた。
「万一、委員長の星虫が巨大化しすぎるようなら、その場所にこいつで穴を開けてもらえませ
んか。俺もどうなるか分からないんで」
寝太郎の言葉に、幸雄はその顔を見返した。
「君は、星虫を、妹みたいに信じてないわけか」
納得の幸雄だったが、寝太郎は首を振る。
「信じてますよ、まじに」
「じゃ、なぜこんなものまで用意してるんだ?」
腕を組んだ寝太郎は、両目の間の星虫を見た。
「……俺、昔、絶対に死ぬわけないと思ってた人が死ぬの、見てますから。つまり、こいつは
保険です」
そして「とにかく委員長が取りたくても取れなくなったら、迷わずこいつで星虫を殺しても
らえますか」と、頭を下げた。
途端、額の星虫がわめく。
寝太郎がその音に耐えながら、星虫の胴体を爪で掻いてやる。蔵の中の硝子《ガラス》製品を割られる
前に、なんとか鳴き止んだ。
「ここを掻いてやると、喜ぶんです」
顔を上げた幸雄が見ると、星虫はその巨大な手足をバッタバタさせていた。喜んでいるのか
苦しんでいるのか、判断に苦しむほどの勢いだ。
思わず噴き出しそうなほど滑稽《こっけい》なのだが、これは、星虫の知能が急激に発達し始めている
証《あかし》かもしれないと、幸雄は思い至った。大体、寝太郎が星虫を殺してくれと頼んだ直後のこ
れだ。放っておけば、ひょっとしたらこの先、人間以上に知能が発達する可能性もないとはい
えないだろう。となれば、星虫はまさに地球侵略の宇宙人ということになる……。
「分かった。喜んでその役、引き受けるよ」
幸雄の顔は、この上なく真剣になっていた。
「それとこの下には、替え刃と手回しドリルが入ってます。万が一、故障した時は、こいつを
使ってください」
大した奴だと、幸雄は完全に寝太郎を見直していた。蔵の蔵書と机の上に散らばる書類を見
ても、彼が最新鋭のワークステーションを使いこなしているのが推測できる。それに、友美に
対する態度も好感が持てた。星虫に関する考え方は友美に影響されているが、現実的な対処も
忘れていない。
母の真似ではないが、彼なら妹に合うかもしれないなと、幸雄も感じ始めていた。
『ま、問題は、お互いどう思ってるかだ……』
我が妹ながら、女としてのできは今一つ。二人ともお互いを、星虫を守る同志か仲間としか
見ていない可能性の方が強いように思えた。
二人が蔵を出ると、友美が寝太郎を探していた。
「寝太郎くん。あのさ、宮田くんたちも呼んじゃいけないかな?」
「宮田?」
寝太郎は首をかしげた。
「どうしてだ。あいつの星虫は、まだ鳴いてないだろ」
「明日の朝には鳴くかもしれないじゃない。吉田さんは入れたくせに、星虫仲間を呼ばない
の? そんなんじゃ、おじさんの跡なんか、継げっこない!」
「友美」と、ドリルの入った道具箱を大事そうに抱えた幸雄が言った。
「失礼だろう。俺たちは居候《いそうろう》なんだぞ、その態度は何だ?」
友美の怒気が消え、戸惑いに代わる。兄の言う通りだ。いつの間にか、自分は寝太郎に要求
ばかりしている。
「ごめんなさい。私、どうかしてる……」
しゅんとなってしまった友美に、寝太郎は仕方なさそうに告げた。
「呼ぶなら、みんな呼べよ。宮田だけ呼ぶな」
友美はきょとんとして、見返していた。
「……元々そのつもりだけど」
「そ、そうか……じゃ、俺、剪定が残ってっから」
寝太郎の顔が赤くなり、足早に庭木の方へと向かう。
ちょっと首をかしげながら、友美はポケットから携帯電話を取り出した。
二人の様子に苦笑しているのは、幸雄である。
宮田とは、この間の日曜に友美を迎えにきた二枚目だろう。寝太郎は、あいつが来ると思っ
て機嫌を悪くしたに違いない。それに、友美の寝太郎に対する依頼心はどうだ。幸雄や父にも、
あれほど無条件で頼る奴じゃない。自立心は人一倍だ。友美は、相手が寝太郎だからこそ、勝
手な要求をしてしまう自分に気づいていない。そして、あの超の字のつく美女に対する嫉妬《しっと》に
も……。
「おーい、酒だ酒っ!」
酔っぱらいの声が、座敷から飛んでくる。
「はーい!」と大声で返事した友美は、熱燗《あつかん》にした一ダースの銚子《ちょうし》を盆に載せた。
友美の横では秋緒と友美の母が料理を作り、洋子が空《あ》いた酒瓶を下げてくる。
「完全に宴会場ね」と、洋子が笑う。
「何で、こうなったのかな」と、苦笑した友美が、盆を持って台所を出る。
数時間前に、まず現れたのは四人の星虫所持者たち。彼らはしかし、一ダースものマスコミ
を引き連れていた。強硬に取材を拒否する寝太郎の祖父のおかげで、一旦彼らは引き下がった
が、夕方近くなって、各局のディレクター数名が酒を持って現れた。
その時、玄関で出くわしたのが、高校から来た教師たちだ。担任と副担任と、校長。その計
六名が屋敷に入った直後、今度は友美の両親が現れた。
父は制服のままで、三名の刑事と、医師を連れていた。所持者保護と、星虫の管理が目的だ
ったが、もちろん父親としての心配が一番だったろう。
そのまた直後に、何と市長が現れた。土地を売ってもらったことへのお礼らしいが、寝太郎
の話だと、結構よく来るらしい。助役と秘書も同行していた。
寝太郎の祖父は酒屋に電話し、友人の酒屋の主人ごと、大量の酒の配達を頼む。
酒屋の主人は、祖父の友人の大学教授たちを配達車に乗せて、すぐにやって来た。
そして、結果、大宴会になってしまっていた。
「二十五人もいる」
銚子を持って座敷に入った友美は、大騒ぎの人々を数えて呆れた。
寝太郎は兄と父に挟まれて、しきりに酒を勧められている。警察署長のすることではない。
その祖父は訳の分からない舞を舞っているし、市長がそれに妙な歌を合わせていた。友美たち
を診《み》にきたはずの医師が、ディレクターの一人と泥酔《でいすい》している。直人たちは、若い刑事たちと
カラオケ。
「ま、明るいのは、好きだけど」とつぶやいた友美の星虫を見ていたディレクターが、いきな
り「耳ふさげっ! コップ守れっ!」と怒鳴った。
途端に、星虫が鳴き始めた。
あわてて寝太郎に教えてもらった通り、星虫の胴を掻いてやる。
今度はビール瓶二本で済んだが、全員がその友美の星虫を指差し大笑いだ。
確かに、顔の上ででかい足をバタバタさせる星虫は、やたらに可笑《おか》しいのだが、友美は自分
が笑われているようで、気分が悪い。
「うっ、上手くなりましたな!」
と、星虫が鳴くのを予測した男に、隣の市長秘書が、感心する。
「いや、鳴く前に、あの触角の震え方が変わるんですよっ!」
また爆笑がおこり、友美は荒っぽく盆《ぼん》を置くと、台所に帰った。
「人を酒の肴《さかな》にするんだから!」
頭にきた友美は料理を手伝いながら母と洋子にぼやいていたが、洗いものをしていた秋緒が
その場を離れ、土間の脇に腰を下ろしたのに気づいた。少し顔色が悪い。
「タフね」
ちょっと心配になって振り向いた友美に、秋緒が感心したように言う。
「それだけが取り柄ですから」
不機嫌そうに友美が答えると、秋緒はクスッと笑った。
「私、あなたと喧嘩するつもりはないのよ」
「それは……私もですけど」
「話があるの。いい?」
秋緒が口を開いた時、また座敷から友美を呼ぶ兄の声がした。
仕方なく友美が走ったあと、秋緒は少し苦しそうに胸を押さえ、ため息をついた。
「困った子だな……」
座敷に戻った友美は、兄から寝太郎を探せと言われ、面食らった。
「どこ行ったの?」
「便所行ったままなんだ。潰れてるかもしれんから、見てきてくれ」
まったく酔っぱらいがと、ブツブツ言いながら友美は座敷を出た。
しかしトイレには誰もいず、思いついて庭に出てみた。
いつの間にか完全に夜になっていた。午後から時間がワープしたみたいだ。
星虫が見せる降るような星空に、満月が浮かんでいる。明るい月の光が庭を白々と染めてい
るにもかかわらず、星のきらめきは少しも減じない。天の川は、すでにぼんやりとした雲では
なく、その気になれば一つ一つの星までも見分けられるようになっていた。
「やっぱ、星を見るのは夜に限るなあ」と、当たり前のことをつぶやいた友美の視界に、人影
が映っていた。
庭の真ん中、芝生の外れ。巨大な平石の方を頭にして、誰か寝ころんでいる。
「いたいた」
友美はそこまで駆けていき、酔い潰れているのかと、その顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 未成年のくせにお酒なんか飲むから」
寝太郎は、「いい気持ちだ」と、笑った。
「月を見てた。星虫で。綺麗だ……」
「じゃあ私も」と、寝太郎の横へ寝ころがる。
「わあ!」
思わず声が出た。星虫で月を見るのは初めてではないが、今夜は満月だった。本当に綺麗だ。
「目を閉じた方が、よく見えるようになってるぞ」
寝太郎の言葉に従うと、肉眼を閉じた一瞬だけ星空が闇に変わったが、まるでテレビのチャ
ンネルを替えるように、星虫のみの知覚による世界が広がった。
それは魚眼レンズのように、天の全方位をあまねくカバーしていた。足元の岩と林も、頭上
の屋敷も、そして真横にいる寝太郎の顔でさえ、見えている。
そして、背中に感じる草の感触と、柔らかな雨上がりの大気に混じる微かな地球の声。まる
で世界に――宇宙に包み込まれているようだった。
数分間、友美は身動《みじろ》ぎもせずに、夢のような感覚を楽しんでいた。
「星虫、静かだな」
突然、寝太郎が言い、友美も気づいた。
二人の星虫は、緩やかに触角を震わせているだけだ。ガサリともしない。
「星空の下が嬉しいみたい。私たちみたく」
友美は昼虫を撫でてやった。
「この子らが来たところだから、かな?」
寝太郎はうなずき、「でも、それなら俺たちも同じかもな」と、つぶやいた。
「この星虫騒動が始まってから、ほんとに色々考えさせられてなあ。ゆっくり寝てないくらい
だ」
あれでと、呆れそうになったが、それは友美も同感だった。
星虫が降ってきて以来、振り回されっぱなしだ。
しかし考えてみれば、この庭にまた来られたのも、星虫のおかげかもしれなかった。恨みに
思う気にはなれない。
「俺今、人間は地球にとって何かなって考えてたんだ」
ふーんと、友美は感心した。寝太郎にしては、随分、哲学的だ。
「で、何だと思うの?」
「地球の一部」
友美は、プッと噴き出した。ま、こんなものだろう。
「人間って、特別なもんじゃないんだよな。地球って星に生まれて育ってきた生物の、一番最
後の方に現れた猿の一種だろ? それに生命って何からできてるかってえと、地球の物質だも
んな、結局」
「当たり前よ」と、クスクス笑い続ける友美だった。
「うん。だから、この大地も空も山も海も、そして俺たちも、おんなじ物質でできてるってこ
とだろ? 俺、馬鹿だからそんなもんに感動してたんだ。俺たちは地球と同じ物質でできた、
ミニ地球だってな」
そう言って寝太郎も笑ったが、友美の顔からは笑いが消えていた。
驚いていた。その通りだ。単純すぎて気づかなかったが、そうなのだ。
「私が、地球? ちっちゃい地球なわけか……」
寝太郎は笑いながら、「で、さ。地球は宇宙のチリからできたもんだろ? だから、俺たち
は宇宙の一部って考えてもいい。そうすれば、人間が宇宙に憧れるのも、何か説明できそうだ
つて思ってたんだ」と、友美を見た。
「字宙に帰りたいってこと? 星虫と同じに」
寝太郎は、楽しげにうなずく。
「そこから、もう一つ考えてた。これは、もっと馬鹿馬鹿しいけど、聞きたいか?」
友美は半身を持ち上げて、「うん!」と答えた。
「星虫で、地球の叫びを聞き始めてから、前よりもっときつい言い方で、人間は地球の癌《がん》だっ
ていう奴が増えたけど、どう思う?」
「兄さんは、人間なんて地球にとったら、せいぜい水虫だって言ってたけど」
「水虫かぁ。うまいこと言うなぁ」
感心した寝太郎だが、困ったように腕組みをする。
「けど参ったな。水虫だと、話が……」
「ご心配なく」と、友美が微笑んだ。
「私は兄さんと違って、人間は地球の癌になりうると思う――っていうか、もうなってるよ」
友美は、少し寂しげに吐息した。
「癌てさ、元々自分の細胞でしょ? それが周りとの協調を忘れて、他の細胞を殺してでも自
分勝手に増殖する病気……人間がやってることって、癌細胞と一緒なんだもの。正常な細胞、
自然を壊し、自分たちだけがどんどん増殖してる」
「うん……」
急に寝太郎が半身を起こし、友美に肩を並べてニッと笑った。
「けどな。癌細胞ったって元々は普通の細胞だったんだ。胃とか、肺とか、皮膚とかの器官の。
人間が地球の癌になる前は、なんだったと思う?」
地球の癌としての人間。その前は地球の一器官だとすれば……。
「そうか。感覚器官だったのかもしれないね」と、友美は思いついた。
「目とか、耳とか。人間でなけりゃ、顕微鏡も望遠鏡も使えないわけじゃない。機械を利用し
て宇宙を知ろうとしてるでしょ?」
「うん。きっと目だと俺も思う」
そして、真面目な顔で続けた。
「だから、今の地球は目の癌なんだ。眼癌《がんがん》」
それがシャレだとは、一瞬気がつかなかった。あまりの馬鹿馬鹿しさに、脱力したように寝
転がる。期待した自分が間違いだった。
「まだ続きがある」と、寝太郎の声。
やれやれという顔で、友美は寝太郎を見た。しかし次の問いは、結構ユニークだった。
「委員長、癌の気持ちって考えたことあるか?」
「癌の気持ち?」
思わず聞き返す友美に、寝太郎は続けた。
「……癌って、人間に譬えれば革命家じゃないかな。今までの世界の秩序に満足できん元気な
連中。自分が最初から肺なら肺の細胞だって決められてることに反抗して、自分らの新しい世
界を作ろうと立ち上がったんだ」
「細胞の市民革命?」と、友美は呆れた。
「じゃ、もしその革命が上手くいけば、癌から新しい人間でもできるわけ?」
「そういうこと。人間にできた癌が、上手く育てばもう一人の人間に育つとしたら、地球の癌
である人間は?」
「……地球の癌である人間も、もう一つの地球に育つ?」
「ああ。何千億もの人間が、どんどん増えながら、地球を食っていくんだ。食って食って地球
の核まで食い尽くして、はっと気がつくと、地球はでっかい目玉になってんだ」
「プッ!」
友美はついに噴き出し、寝太郎も混じっての大爆笑になった。
ここまで下らないオチがあるとは思わなかった。
「傑作だろ?」と言う寝太郎に、友美は返事もできない。
しかし芝生の上で笑い転げる友美の心に、何かが閃いていた。
「待って……でも、目玉でなくてもいいんだよね。体全部、そのままの地球でも……」
いきなり真顔になり、宇宙を見つめた友美に、寝太郎は笑いを飲み込んだ。
友美の背筋に、痺れるような、不思議な電気のようなものが走る。鳥肌が立っていた。
いきなり起き上がって、寝太郎に言う。
「そうよ。おじさんが作ろうとした、スペースコロニー。考えてみて、あのでっかいドラム缶《かん》
の内側に作るのは、何?」
言われて、寝太郎にも友美の思いつきが見えてきた。
「そう! この町や自然を、そのまま持ち込むの。言い方を変えたら、人間の手で地球を作る
ってことだ!」
たとえどんなに小さくとも、それは地球と同じ環境を持つ、小さな星に違いない。人間とい
う地球の癌が、それを作ろうとしているのだ。
「地球の複製か……」と、寝太郎はつぶやいた。
単なる冗談が、思いがけない方向に発展してきた。
「けどそれ、癌ていうのと、ちょっと違うよな。同じ環境を別に作るんなら……」
「種よ」と、友美は咳く。
「地球も種を作ってるのかもしれない」
全身が興奮に震えていた。
「人間は、地球の種なんだ!」
友美は叫んでいた。彼女の直観は、その考えが正しいと認めていた。それ以外にはあり得な
かった。それでなければ、どうして自分はこれほど宇宙に憧れるのか説明がつかない。本当に、
宇宙へ行けるなら、死んでもいいと思えるこの心を理解できない!
私は地球の――地球の種なんだ。
その友美の感情が頂点を極めた時、ゴウンッと視界が広がっていた。
地面が、草が、庭が、大地が消滅していた。三百六十度、全てが宇宙だった。
その真《ま》っ直中《ただなか》に、何一つの支えもなく浮かんでいたのだ。
さすがの友美も、思わず悲鳴を上げ、隣の寝太郎にしがみついていた。
寝太郎も驚いていた。彼もまた、友美と同時に地球が消滅するのを見たのだ。
「く、草の感触はまだある。透《す》けてるだけだ」と、寝太郎が言った。
友美も確認する。確かに手は草を感じ、頬は風を、鼻は土の臭いを嗅《か》いでいた。
「委員長の興奮が、星虫に伝染したんだきっと」
「で、でも、どうして、地球まで透き通るのよ」
「多分、ニュートリノを――地球を貫く宇宙線を見ることができるようになったんだ、こいつ
ら」
直径一万二千八百qの地球を、ガラスのように透視し、斜め下方の太陽が見える。水星と金
星が、その大きな輝きのすぐ脇を巡っていた。
しかし、それ以外の宇宙は恐ろしいほどに暗く、果てしなく冷たかった。
感動とも恐怖ともつかない感情が、友美の全身を駆け巡っていた。
「全く、次から次へと、ネタが尽きないもんだ」
興奮気味の寝太郎の声が、友美を我に返らせた。
「この子、でも、どうしてこんなに宇宙を見たがるんだろ……」
「星虫も、宇宙に帰りたいんだろ?」
友美は、でも、と言った。
「……怖いよ、今、私。こんなに宇宙が怖いって想像もしなかった。地球の見えない宇宙だか
らかな? まるで死の世界」
「まぁな。生き物にとっては致命的な環境だ。酸素はゼロに等しいし、温度だってマイナス何
百度。その上、放射線だらけだし……」
友美は自問した。星虫は、そんな世界に行きたいのか?
答えは、決まっていた。
行きたい! たとえ友美がそのために死のうとも、星虫の意思は変わらないだろう。
そして友美も、その本能的な恐怖にもかかわらず、ここに来たいと思っていた。
星虫の思いは、友美の思いと重なっていた。
「この子が宇宙に帰れるなら……」
宇宙を見つめながら、考え続けた。
今の世界の情勢では、友美が宇宙へ行くのは無理かもしれない。そして、星虫を帰すことは、
命|懸《が》けになるという予感がし始めていた。
考えてみると星虫がやってきた最初の朝から、漠然とした不安を感じていたと分かる。それ
でもいいのかという問いかけが、聞こえるようだった。
死にたくはない。けれど、宇宙へ行きたい気持ちは友美も星虫も同じなのだ。まして、この
子は自分が育て上げたのだから。
「……殺せない、私」
哀しみとも、いとおしみともつかない複雑な感情が、友美の胸に沸き起こっていた。
しかし、それは初めて味わう感情ではなかった。どこかで――いや、今も感じている!
「地球の声だ!」
そうだ。これは地球の叫びと呼ばれるものと、よく似ていた。ほとんど同じと言ってもいい。
途端に地球の声が、あの森の中で聞いているかのように、心に満ちた。
友美は自分の勘が当たっていたことを知った。これは、叫びでも、嘆きでも、まして、悲鳴
でもない。その声は地球の人間への想いだった。地球は、人間を愛しており、自分が死んでも
いいくらいに大事に思っている。自分のことは構わないから、お前たちの道を行きなさいとい
うメッセージなのだ。だからこそ、人はいたたまれなくなり、自分の命を懸けてでも武器を取
り、緑を――地球を守ろうとしたのだ……。
いつしか友美の目に涙が溢れていた。
「私、分かった」
突然、硬直した友美を、寝太郎が心配そうに見ていた。
「何がだ?」
「この子は、私たちなんだ。そして、私たちがこの地球なの」
彼には、何が何だか理解できない。
何とか友美が自分の思いをまとめられたのは、それから数分後だった。
「星虫の正体が分かったの」
言い切る友美に、寝太郎は目を剥《む》いた。まだ世界中の科学者が研究中の星虫だ、そう簡単に
分かるはずがないが……。
「もちろん、星虫がどこから、どうして来たかは分からない。でも、星虫をここまで育てたの
は、私よね」
「委員長が見捨ててりゃ、二センチで死んでるな」
「じゃ、星虫と人間とは、同じ立場じゃない? 人間を地球と見なせば」
「俺たちが、星虫にとっての地球?」
言って、寝太郎は気づいた。
「さっきの委員長の人間=感覚器官説――それに合うな。地球って生物が、人間って感覚細胞
を持つことによって、科学という新しい目と耳を得たとしたら。星虫と、星虫のくれた能力と、
重なる」
寝太郎の言葉に力を得た友美は、意気込んで続けた。
「星虫は、今、人間が地球にしているように、私たちにも悪いことをし始めてる。これって偶
然? この子たちは、私たち人間と同じなのよ!」
そして、「地球の気持ちも分かった」と、友美はつぶやいた。
「……地球は死んでもいいって思ってる。私たち人間のためなら。その証が、地球の声なの」
その据わった目に、寝太郎はぞっとするものを感じていた。
「地球はこんなになっても私たちを拒絶しなかった。人間も、星虫を拒絶するべきじゃなかっ
たんだ。私たちだけでも、星虫を宇宙に帰さなくっちゃ……」
起き上がっていた友美の体が、ふらついた。
「大丈夫か?」
思わず友美の手を取ると、その手はやけに冷たく、寝太郎は更に不安になってきた。
友美はうなずき「ちょっと興奮し過ぎたみたい」と、力なく微笑んだ。
「中へ行こう」
寝太郎の言葉に、脱力状態になった友美は、素直に従った。
宇宙の直中で立ち上がり、友美の手を引き上げようとした時だ。
「何してんだ!」
宇宙の果てから、直人の声がした。
驚いた二人が、なんとか星虫の影響下から抜け出してみると、そこには、十人以上の人垣が
できていた。
その目は、寝太郎と友美の間に集まっている。
しっかりと握り合った手と手に。
二人はまるで焼けた鉄の棒にでも触っていたかのように、あわてて手を放した。
照れた友美が、母家に向かって駆け出し、それを洋子が追った。
直人と隆に小突かれる寝太郎の目に、幸雄と秋緒が映る。
寝太郎は真面目な顔になり、二人に話があると、蔵の裏手に引っ張っていった。
寝太郎は二人に今までの友美の言葉をなるたけ正確に語り、意見を聞いた。
「委員長の説は、面白いと思う。けど、問題はあいつがその自説をすっかり信じ切ってるって
ことだ」
「不思議な子ね」
秋緒は考え込んだ。
「あるいは、彼女が本質を衝《つ》いてる可能性もあるわ。地球の叫びにせよ、星虫の正体にせよ。
しかし、仮説は仮説よ。非常にユニークなね。科学的というよりは、原始的。まるで神懸かり
した巫女《みこ》さんだわ」
幸雄が、ドキッとした顔をした。
「……家の先祖は、それですよ」
えっ? という顔を、二人がする。
「母方の家が、鹿児島《かごしま》で代々そういうことを生業《なりわい》としてたんです」
「馬鹿馬鹿しい……とにかく、広樹の言う通り、妹さんが危険だわ。思い込みが相当激しい子
みたいだし」
幸雄も寝太郎もそれには異論がない。
「万が一、彼女の説が当たっていたにせよ、星虫を育て上げるために、命を懸けるつもりにな
ったのは、間違いないわ。これ以上、巨大化するなら、たとえ押さえつけてでも取るべきね」
そのことにも、二人は異論はない。
「広樹、まだわがままを言うつもり? あなたは、すぐにも取るべきよ」
それには、寝太郎は異論があった。
「取る時は、委員長と一緒にしてもらう」
頑固にそう言い、何度目か分からない秋緒のため息を受けた。
友美が心配になった幸雄が、その場から立ち去ったあと、秋緒は寝太郎に言った。
「でも、ありがとう。初めてね、あなたから話しかけてくれたのは」
その嬉しそうな秋緒の言葉に、「しょうがないだろ。非常事態なんだ」と、寝太郎は背を向
けた。
「委員長を守るためだ。あんたは、やっぱ頭いいからな」
秋緒は、クスクス笑っていたが、「その、あんたもやめてくれないかな。せめて名前で呼ん
でくれない?」と、呼びかける。
寝太郎は、「考えとく」と言って、寝太郎は蔵に入った。
秋緒はやれやれと頭を振り、そして、懐かしそうに、月明かりの庭に座る。
五日目の夜は、まだ始まったばかりだった。
[#改ページ]
[#改ページ]
六日目
[#改ページ]
星虫は、絶滅しつつあった。
先進国でも正確な実数調査は始まったばかりだったが、最多で二千体、最少だと一千体――
それが現在世界に残っていると推定される、星虫の総数だった。
この日、人々は変態・巨大化・有声化という驚きから醒め、星虫の貴重さを思い出しつつあ
った。五十億の星虫では危なければ取ればいいが、二千ともなると話は別だ。
地球外生物であるというだけでも、その価値は計り知れない上、星虫の感覚増幅、感覚補償
能力は、視力聴力障害者に、、どんなに福音《ふくいん》となったかしれない。
また変態・有声化するにつれ、星虫の感覚増幅力は飛躍的に強化され、新たな能力が付加さ
れている。次はどんな素晴らしい能力が現れるか、予測もできない。
星虫は、まだまだ絶滅させてはならない『価値ある』存在だった。
だが、実際問題、推定二千の星虫たちのほとんどが、変態する以前の段階で、その成長を止
めたものばかりだった。
星虫を変態するまで育てるには、心身ともに健康で、未知の生物を受け入れる心の高度な順
応性と、相当レベルの知能とが必要だということは、デー夕が明示していた。
しかし、変態させ得た人々ですら、驚きによる拒絶率は70%を超えている。
更に有声化するまで育った星虫は、変態したものの中でも、数パーセントに過ぎなかった。
現在、生存が確認されている有声星虫は、わずか八体。日本では政府関連の研究室が一人を押
さえていたが、その星虫は寝太郎のものよりも一回り小さかった。
この状況の下で、友美の名は、昨夜の間に全世界に知れ渡っていた。
最大の星虫の所有者として。
世界の目が、日本のとある町の一角に建つ相沢邸に向かおうとしていた。
星虫が降りてきてから、六日目の朝が白々と明けてきていた。
陽《ひ》の光が、蔵の天井にある小さな天窓から射し込み、友美は厚ぼったい瞼《まぶた》を開けた。
もう朝か……。
星空からこの蔵へ入った途端に星虫が鳴き始め、以後、全員寝るどころではなかった。
星虫所持者の六人の他、秋緒と友美の父と兄。医師と刑事が二人、そしてTVディレクター
三人が泊まってくれていたが、十分おきぐらいに鳴きわめく二体の星虫のおかげで、全員が疲《ひ》
弊《へい》しきっている。
しかし、そんな状況でも大人たちは星虫を取れとは言わなくなっていた。
星虫の総数が二千を切り、保護すべきだという気運が高まっているせいだ。どうやら友美の
星虫は、残された中でも最大級の大きさらしい。自分らは危ないからと星虫を取っておいて勝
手だとは思うが、この状況の変化は大歓迎だった。
一晩中、何かに興奮していた星虫だったが、それが小さく、優しく、まるで秋のコオロギの
ような声になったのは、夜明け少し前だったろうか。
これから何日こういう状態が続くか分からないからと、父が今のうちにひと眠りしろと友美
たちに言い、明かり(寝太郎の家にあった古い提灯《ちょうちん》。蛍光灯は音波で割られていた)を消し
た。
それから一時間半ほどだろう。
増感された星虫の目には、小さな天窓の光でさえ、眩しく感じられる。枕が高すぎて苦しく、
寝返りを打とうとした友美の横で、とてつもない叫び声が爆発した。
「キャ〜〜〜〜〜ッ!」
まるで頭を丸太でぶん殴られたようなショックだった。
星虫ではない。洋子の声だ。
びっくりして飛び起きた友美の隣で、洋子が半身を起き上がらせ顔を押さえている。
視力を増幅させた蔵の中は、一気に昼の明るさになっていた。
何か黒いものが洋子の鼻から上を覆い隠している。洋子は、それを必死に剥がそうとしても
がいていた。
「助けてっ! 誰かっ! 目が見えないっ!」
全員が目を覚ましたが、暗闇で大人たちは何も見えず、ただおろおろしているばかり。
男子の所持者たちが寝ていた、衝立《ついたて》代わりの長持ちの陰からも、悲鳴が上がる。
「所持者全員を外へ出せっ!」
友美の父の声で、ようやく大人たちが目的を見つけて動いた。
友美は洋子の手を取り、抱え上げるようにして、蔵の出口を目指す。
また叫び声が上がった。
振り返ると、黒いものでほとんど口まで覆われた直人がいた。どうやら星虫の胴の部分――
それも肌と密着するラバー部分が異常に成長を始めているらしい。もう自分の意思では拒絶不
可能に違いない。
友美は思わず自分の星虫を見ようとした。
目と目の間にぶら下がっている星虫の頭なら、嫌でも見えるはずだった。しかし、今朝は何
もない。星虫の目で見てる感覚はないのだから、これは不思議だった。それに、昨日まで相当
に重かった星虫が、今朝はまるで軽いのだ。
秋緒が開いた戸を、まず洋子を抱えた友美が飛び出した。
その友美を、秋緒が驚愕の顔で見据える。
「……友美、なの?」
秋緒がこれほど我を忘れ、感情を露《あらわ》にするのに友美は驚いたが、洋子の心配が先だ。
陽光の下で、洋子の顔は、ほとんど星虫に覆われつつあった。黒いぶよぶよするゴム状の部
分が、今も増殖を続けている。もう鼻も塞《ふさ》がれていた。このままでは、窒息は免《まぬが》れないと、友
美にも分かる。
「洋子! 拒絶するの、早く!」
思わず友美はそう叫んでいた。
続いて、蔵の奥にいた男たちが、まず直人を抱えて転がり出てきた。
悲鳴が早朝の庭にこだました。
「その声……友美かっ?」
秋緒と同じ顔をした父と兄が、倒れ苦しむ直人よりも友美へ、恐怖に満ちた顔を向けている
「何? なんなの……」
巨大化する星虫をつけた隆を連れ出した刑事が、後ろを振り向き悲鳴を上げた。
友美も息を飲む。隆たちのあとから出てきたのは、まさに怪物だった。
つり上がった二つの大きな赤い目。真っ青な長い舌を出した口。そして、両目の真ん中には、
一つ目小僧のような丸い目がついている。真っ黒な顔は、直径一メートル近いだろう。頭のて
っぺんが禿《は》げ上がり、紫色に光っている。その上、頭のあちこちが、ブヨブヨブルブルと蠢《うごめ》い
ているのだ。
しかし、その怪物が着ているシャツとジャージには見覚えがあった。
「ね、寝太郎くん!」
するとその怪物からも、同様の驚きの声が、友美に届いた。
「委員長か、そこのオバケ」
まったく、くぐもったところのない明瞭な寝太郎の声だった。
しかしそれより、
「オバケ?」
友美は手を顔の前に上げる。そして、顔に触れようとしたが、手が止まった。
顔の三十センチほど前で、手は温かいものに触れていた。しかし、目には何も映っていない。
「……透けてるんだ」
友美は知った。怪物の正体は、超巨大化した星虫をつけた寝太郎だと。そして今、自分自身
も、彼と同じ外見になっていると。
赤い目も、舌も、禿頭も、昨日までの胴、頭、腹に違いない。足は全てヘルメット状に頭を
取り巻くベルトに変化していた。そして、ラバー部分が首を含む頭全体を覆い尽くしたのだ。
しかし、自分も寝太郎もまだ生きているし、呼吸にも支障は出ていない。あれほど重かった
のも、感じないくらいに軽くなっている。
「じゃ、洋子、大丈夫よ。心配しなくても!」
友美はそう洋子に言ったが、洋子は首を振るばかりだ。
「大丈夫じゃない。委員長、テレビ観ろ。二人、意識不明だ!」
怒鳴りながら寝太郎が、蔵へと駆け戻る。
言われてキャッチしたテレビは、パニック状態だった。
死者こそまだ出ていない。だがそれは単に、約四百体の変態・有声化した星虫のほぼ全てが、
病院やそれに準じた設備のある施設に収容されていたという結果論に過ぎなかった。それでも、
重体患者は、たちまち全世界で二十人を超えた。中には、増殖した星虫から伸びたチューブ状
のトゲで、全身を刺された者もいる。巨大化を始めた段階で、精神的拒絶は不可能。今や、所
持者の命を救うには、星虫を殺す以外にないと思われた。
呆然と立ちつくす友美の前。蔵から寝太郎と兄とが、道具箱を抱えて飛び出してきた。
「富田くんからだ。押さえてくれっ!」
幸雄が叫び、二人の刑事がそれに従った。ディレクターの一人はその手伝いをしたが、他の
二人は、携帯電話を取りに走る。救急車を呼びにいったのだが、近くで待機している報道車に
も連絡を入れるに違いなかった。友美の父も携帯電話で現状を報告している。
電動ドリルの甲高い音が、友美の耳に届いた。
直人の口は、ほとんど星虫で隠れかけている。四人がかりで押さえつけているのに、跳ね飛
ばされそうなほどのもがきようだ。
「いくぞっ!」
頭を押さえつけた幸雄は、寝太郎に教えられた通りに、丸い目と頭の間にドリルを立てた。
予想よりも硬い。表皮の上を刃が滑る。やり直し、更に力を込めた。
ドリルが止まりそうなほどの抵抗があったあと、突然すっと刃が中へ吸い込まれた。
「ギィィィィィィィィィィ……」
初めて直人の星虫が鳴いた。
黒いブヨブヨの増殖は止まり、押さえていた幸雄の手の下で、星虫はズルッと滑って落ちた。
下から現れた直人の顔は、蒼白。失神寸前だ。医師があわてて診察にかかる。
あっという間に汗まみれとなった幸雄と寝太郎は、今度は洋子の星虫に取りかかった。
その凄まじい様子を見ていた正夫の星虫が、ポロリと落ちた。彼のものだけは、巨大化の兆
しがまだなかったおかげだろう。まだ鼻も覆われてない隆は、気絶していた。
数分後、四人の星虫が庭に落ちていた。
「友美。次はお前だ」
汗を拭った幸雄が、友美に迫った。
怪物のような友美の頭が振れる。
「私、大丈夫よ。息もできるし、ほら、体も大丈夫だし」
しかしそれは人々には、半袖半パンのトレーニングウェア姿の怪物が、不気味に飛び跳ねた
としか見えなかった。
「駄目だ、もう取りなさい!」
父が命令口調で言い、カメラが来るまでもたそうとするディレクターを目で制した。
「そうね。もう限界だわ。呼吸はできるようだけど、食事をどうするの?」
秋緒もそう迫ってくる。
「寝太郎くん……」
友美は思わず寝太郎に助けを求めた。
彼女と同じ怪物顔が、横に揺れる。
「取った方がいい」
その言葉に、友美はカッと血が上った。
「私を信じるって言い切ったの、誰?」
寝太郎は、平然とうなずく。
「信じてる。ゆうべの委員長の言葉を信じるから、取ってほしいって言ってんだ」
「どうしてよ?」
「言っただろ。星虫は人間で、自分は地球の関係だって。たとえ自分は死んでも、星虫を天に
帰せるなら、いいって。俺は委員長と星虫なら、委員長に生きててほしい。その星虫は、責任
持って、俺が食ってやるから」
友美はあとずさった。
「でも、死ぬとは限らない。この子は賢いわ。私を殺さずに、宇宙へ帰れるかもしれないも
の」
「もう限界だ」と、今度ばかりは寝太郎も折れなかった。
「宮田を見たろ? あんな死に方、したいのか?」
「この子は大丈夫よ!」
まだそう言い張る友美に、秋緒が諭《さと》した。
「成長が早すぎるわ。この調子だと、明日にはあなたの体は星虫に取り込まれるわよ。昨日、
私が言った星虫=寄生虫説、覚えてるわね。それが現実になってきている。星虫をしつける時
間はもうないわ」
「でも、でも……」
今や友美は、孤立無援だった。
増感した友美の耳に、パトカーと救急車のサイレンが聞こえてきていた。門の辺りにはマス
コミが到着したようだ。そして頭上に低空飛行するヘリコプターの爆音。その音と、観ている
テレビの空撮画面とが一致していた。ディレクターの報告を受けたテレビ局の報道へリだ。
「馬鹿っ!」
追い詰められた友美が、やけくそになって思いっきり怒鳴った途端、まるで手榴弾《しゅりゅうだん》が爆発
したかのように、その場の全員が吹っ飛んだ。
怒鳴り声を、星虫が何倍にも増幅したのだ。
友美は一瞬呆気にとられたが、これはチャンスだった。
ダッと逃げ出した友美を、耳を押さえた誰も追えない。下手をすれば、鼓膜《こまく》が破れている可
能性があった。
最初に立ち直ったのは、幸雄だった。
もう三十秒から離されていたが、足には自信がある。幸雄は電動ドリルを取ると、ふらつき
ながら駆け出した。
門を開いた友美は、その報道陣の多さに呆れた。
五十人はいる。しかし、あまりにもいきなり友美が飛び出したので、誰一人カメラを向ける
ことができなかった。
それどころか、突然現れた化け物に、逃げ散るようにして道を開けた。
友美は、その間を悠然と駆け抜け、朝の町に出た。
「待て、友美っ!」と、ドリル片手の幸雄が、あとに続く。
やっと何が起きたか理解した彼らの間から、一瞬後、怒号とも歓声ともつかない声が上がり、
何十人もがあとを追って走り始める。
すぐにサイレンが鳴り響き、白バイとパトカーが、追跡に加わった。
スピードアップした友美は、いきなり狭い路地に入った。
追い込んでいたパトカーと白バイが急停車、喜び勇んだ報道陣が路地に突入。しかし、宇宙
飛行士目指して鍛え上げた友美の足は、半端ではない。
数分後、再び通りに出た友美を追いかけ続けているのは、カメラマン二人と、マイク片手の
レポーター三人、そして手ぶらのアシスタントディレクターが四人。だが、いずれもすでにフ
ラフラだった。
友美の視界の隅で、この様子を実況しているTVが映っている。遥かに遠い友美の後ろ姿が、
まるで大地震の最中のようにブレまくっていた。それに息も絶え絶えのレポーターの声が重な
る。
『あ、あまりにも速すぎます。私は、もう、限界、待て、こら、畜生!』
逃げながら友美は噴き出していた。
何だか、体がやけに軽く感じられる。足も宙を舞うように回転していた。しかも、いくら走
っても、呼吸が苦しくならない。
星虫が頭全体を覆ったせいか、その気になれば、真後ろでも見ることができるようになって
いた。離れる一方の後続の中から、二つの影がダッシュしてくるのが分かる。
幸雄と、もう一人は友美と同じ怪物だ。寝太郎以外には考えられない。
友美は更にスピードを上げた。
「だ、駄目だっ!」
友美の急加速を見た幸雄は、ついに弱音を吐いた。
「な、何で、あんなに全力疾走を、続けられるんだっ!」
隣を走る寝太郎が、息も切らさず、「どうやら、この星虫が酸素を補給してくれてるみたい
だ」と、感心している。
「頼む!」
幸雄はバトンを渡すように、電動ドリルを寝太郎に託した。
寝太郎は受け取り、一気にスピードを上げた。
「速いじゃない」
前をいく友美は、その寝太郎のダッシュに驚いた。
この間、秋緒に追われていた時に見せた素早さは、見間違いではなかったようだ。
朝の町の中で、大追跡が繰り広げられる。
追うは寝太郎とマスコミ、警察プラス、朝のニュースを観て、自分も友美を追いかけようと
表に飛び出した野次馬。その数は、あっという間に百ではきかなくなっていた。
「何で、こうなんの?」
行く先行く先で、まるで先回りするかのように、人々が群がっている。
大抵は友美の姿を見て、歓声と、驚きの声を上げているだけだったが、中には捕まえようと
タックルしてくる馬鹿もいて、たまったものではない。
「ヘリコプターのせいか……」
頭上には、すでに四機のヘリコプターが、トンボのように乱れ飛んでいた。
更には、すぐ後ろまで寝太郎の化け物顔が迫っている。
まったくもう、と心で愚痴《ぐち》た友美は、アーケードのある中央商店街に突っ込んでいった。
町でも一番古い商店街には、昔ながらの店が多い。
今朝も、魚市場から仕入れたばかりの魚介類を店先に並べていた魚屋の親父は、前から凄い
勢いで走ってくる二体の化け物を見て、棒立ちとなった。
「ごめんねっ!」
前を走る化け物が、いきなり鰯《いわし》を入れた魚箱を引っ繰り返した。百匹近い鰯とクラッシュア
イスが、路上にぶちまけられる。
「おっとととととととっ!」
後ろから追ってきた化け物が、それに足を取られ、転び、滑った。そして、そのまま、店を
開けていた豆腐《とうふ》屋に狙ったように突入する。
甲高いおばさんの悲鳴が上がり、豆腐を切る金板を振り回した店主が、飛び出た怪物の後ろ
から訳の分からない言葉でわめく。
「すっ、すいませんっ!」
頭(というよりは星虫だが)を抱えて寝太郎は謝るが、怪物に逆上した親父には通じない。
板で頭を殴られそうになり、ほうほうの体《てい》で逃げ出す。
その間に、友美は数百メートルの距離を稼いでいた。
クスクス笑っている。星虫のおかげでその寝太郎の間抜けな様子は丸見えだった。
この隙にヘリコプターもまこうと、脇道に入る。
ここで、星虫の新たな力に友美は気づいていた。テレビ画面の上に寝太郎の様子が映ってい
るのだ。家やビルを透視し、寝太郎をレーダーのように捉え続けているらしい。
「どうやって」と、驚いた友美だったが、地球が透視できるのだから、そう不思議でもないか
もしれない。それよりも……。
「同じことが、多分、寝太郎くんの星虫もできるよね」
つまり、お互いどれだけ距離を稼いでも、意味がないわけだ。
根比《こんくら》べだ。それに、追いかけてくるのは寝太郎ばかりではない。下手をすれば機動隊や自衛
隊までまで出てきそうな雲行きだった。
大通りに出た姿は、あっという間にヘリコプターのカメラに捉えられる。途端、中学生くら
いの男子が、友美を集団で追いかけてきた。その後ろには寝太郎。
友美は吐息した。やはり、逃げ切るのは無理のようだ。
「あれしかないか……」
友美は心を決め、高校へ向かった。
校舎の屋上、三メートルの内側に曲がったフェンスの上に、友美は登っていた。
「それ以上近づいたら、飛び下りるからねっ!」
迫る寝太郎にそう怒鳴り、飛び下りる真似をした。
寝太郎は困ったように星虫を掻く。気持ちいいのか、星虫の体が震えた。
友美には、もうこの手しか――自分の命を懸けての脅迫しか残っていない。頭上には六機に
増えたへリがホバリングしていたし、次々と、よくもこれだけあると思えるほどのパトカー、
白バイが四方から集結しつつあった。校庭には、すでに数百人の野次馬や報道関係者が集まっ
ている。
「星虫同士は、繋がってるみたいだな」
寝太郎は、そう友美に言った。
「星虫だけは、仲良しみたいだね」
皮肉っぽく友美は答え、星虫の中であかんべえをした。
どうやら星虫が互いの存在に気づき、何らかの通信を交わしているのは確かなようだ。どこ
に隠れようが寝太郎を見つける自信がある。言い替えれば、自分も絶対に見つかるということ
だ。
「逃げられんぞ」と、寝太郎は駄目を押した。
「裏切り者!」
友美は、更に体をフェンスの外に出した。
「目が見えない? 息ができない? 星虫が寝太郎くんに何か悪いことしてる?」
寝太郎は動じなかった。
「他の星虫は、もう二百人近く殺しかけてる。俺らのだけが、例外とは思えん」
「例外のまま、上手くいくかもしれないじゃない」
「いかない可能性の方が高い」
「まだ早いって!」
「そう言ってる間に、手遅れになるぞ」
寝太郎には取りつく島がなかった。しかも言っていることは、憎らしいほど正論だ。
「この子は――星虫は、宇宙に帰りたいだけなの。それは、私、確信持って言える。所持者を
殺すつもりはないの。ただ、成長したかっただけ」
その言葉を聞き、寝太郎は待ってましたと訊ねた。
「どうやって?」
「えっ?」と、友美は聞き返す。
「どうやって、星虫は宇宙に帰るんだよ。ロケットどころか、羽さえない星虫が?」
それは、間抜けな話だが全然考えていなかった。
星虫の意思は、絶対に宇宙へと向いている。帰りたがっている。それは確かだが、実際問題
として寝太郎の言うことは的を射ていた。
ぐっと詰まった友美の前に、追い打ちをかけるように、美しい姿が現れた。
秋緒だ。他に、警官と教師たちが次々と現れる。
「友美、考えなさい!」
秋緒は、強い意思を込めた視線で、友美を射抜くように見た。
「星虫は、人間に何をくれたかを。目の悪い人には目を、耳の悪い人には耳を、そして、友美
や広樹には、宇宙を見せた。あなたの宇宙への憧れに、星虫はつけ込んだのよ。そしてそこま
で成長した。何のため? あなたに分からないはずがないわ。宇宙を昨日見たんでしょう。暗
く、冷たい宇宙を。地球がどれだけ生き物にとって素晴らしい場所かも、実感したんでしょう。
やっとの思いで地球にたどりついた星虫が、どうしてまた宇宙に出ていく必要があるの? こ
の星で、子孫を増やそうとしていると考えた方が、理に適《かな》っていない?」
友美の心は揺れていた。
星虫が秋緒の言う通りに、地球から出ていくつもりがないというのは、理屈である。昨日垣
間見た宇宙は、確かに冷たく、恐ろしい世界だった。しかし、星虫はその恐ろしい世界へ行き
たがっている。それも猛烈に。友美はそれを信じたいが、同時に寝太郎の言った『どうやっ
て?』という言葉が、頭の中に残り、響いていた。
いくら星虫にその情熱があっても、能力が伴わないなら、友美と同じである。
『似たもの同士なのかな……』
たとえ命をかけても、星虫に宇宙へ帰る能力がないのなら、自分は無駄死にだ。
やっぱり、そんな死に方はしたくない。
その友美の心を読んだかのように、秋緒は近づいてきた。
「分かったのね。そこから降りてきて、そして、広樹を解放してあげて」
「寝太郎くんはもう仲間じゃないわ。勝手にすればいいじゃない」
落ち込んできた友美は、やけのように言った。
「俺は、委員長が取るまでは、取らん。自分でそう決めてんだ」
ぼそっと寝太郎が言い、友美は少し感動した。
「取るのね?」
秋緒が優しく聞く。
友美は、しかし、ゆっくりと首を振った。
「寝太郎くん、取ってもいいよ。でも、私はここでもう少し頑張る。だって、だって星虫は飛
べるかもしれないわ。もう少し成長すれば、羽ぐらい――ロケットぐらい生えるよ! 宇宙か
ら降ってきたんだよ、星虫は。私だって、私の可能性を――未来を信じたいもの。だから、星
虫が宇宙へ行けるって、信じる!」
それが、宇宙飛行土を夢見る自分自身を星虫に重ねての言葉だと寝太郎には分かった。
「どうしても取るっていうなら、私、やっぱり飛び下りるから!」
友美はフェンスの上で仁王立ちになって秋緒を見下ろした。
その時だ。
「友美っっ! この馬鹿娘!」
いきなり現れた友美の母が、屋上を突進してきた。
思いがけない母の出現に、友美は思わずあとずさった。
しかし、一歩下がった足は、空を蹴る。こうなれば、飛行士目指して鍛え上げたバランス感
覚も、意味をなさなかった。
「うわっ……」
そう言った時には、体はフェンスの裏側を落ちていた。
見守っていた人々の間から、悲鳴が上がる。
その瞬間、寝太郎だけは友美の頭頂にある巨大な目が、紫色に輝くのを見た。
人々の悲鳴が中途半端に止まっていた。
そして、友美の体も……。
「あれ?」っと、友美は言い、抱えていた頭から手を離した。彼女の体は、頭を下にし、フェ
ンスの中程に浮かんでいた――何の支えもなしに。頭上から、柔らかな紫色の光が射している
のが見える。
くるんと半回転した。全身美しい紫の輝きに包まれているのが分かった。
瞬間だった。
『ヒュンッ!』と、軽い風を切る音がし、人々の視界から、友美の姿が消える。
「きゃああぁぁぁぁぁぁ………」
長く尾を引きながら遠ざかる悲鳴が皆を正気に返らせた時には、すでにその体は空を舞うヘ
リコプターの間をすり抜け、遙か彼方《かなた》へ遠ざかっていた。
「と、友美っ!」
友美の母はフェンスの金網にしがみついて娘の名を呼ぶが、声が届く距離ではない。
ドンッという衝撃が町を揺るがせ、更にスピードアップした友美の姿は、発達しつつある入
道雲の中に溶け込んでいった。
「……衝撃波《ソニック・ブーム》? 超音速を出したの?」
秋絡が驚愕の面もちで、寝太郎を見た。
「とても信じられないけれど、あれは、反重力場推進かもしれ……」
言いかけて、言葉が止まる。
「おい、そんなお前――!」と、寝太郎は頭の星虫を押さえていた。その頭頂の巨大な目が、
友美と同じように紫の光を放ち始めている。
今日はまったく存在感のなかった星虫が、今の友美の飛翔《ひしょう》を見て、やたらに興奮し始めてい
た。
「広樹っ!」
秋緒が寝太郎の手を取ろうと近寄った時には、遅かった。
『ヒュンッ!』
「どわああぁぁぁぁぁぁぁ………」
くるくる回りながら、寝太郎は友美と同じ方角へ吹っ飛んでいく。
呆然とそれを見送る一同が声を取り戻した時には、寝太郎の姿も雲海の彼方だった。
ドカンという音が体全体を包み、一瞬にして眼下の町が小さくなる。
音速を超えたのだと分かったが、その認識は恐怖を強めただけだった。一気に入道雲の上ま
で上がった友美は、いきなりキリモミしながら急降下。町がどんどん迫ってくる。
「きゃああああああああああああ!」
友美が一段と大きな悲鳴を上げた瞬間、水平飛行に移る。
グルグル回る視界の先に、臨海工場地帯があった。高い煙突群が恐ろしい勢いで近づく。そ
の中の一本の赤白縞が、真っ正面に迫る!
死を確信したが、目を閉じることもできない。とっくに閉じているのだが、星虫が見せてし
まうのだ。
星虫は、衝突寸前に飛行コースを直角に変え、急上昇に移った。
目の前二十センチのところを下へ流れる煙突のアップを見据えながら、なぜ自分が気を失わ
ないのかが不思議だった。
いや、麻痺《まひ》したような頭の中で、心の一部がこの状況をやたらに楽しんでさえいる。我なが
ら、わけの分からない人間だ。こんなに恐ろしい目に遭《あ》ったのは、生まれて初めてだというの
に……。
と、上昇を続けていた星虫は、再び急降下に入った――というよりは、飛ぶのをやめた。
ふわりと体が浮いたと思ったら、真っ逆さまに落ち始めたのだからたまらない。
友美はまた悲鳴を上げ、ゆっくりと迫る箱庭のような下界を見た。
星虫は、まだ自分の力のコントロールができていないのか?
「し、しっかりしてっ!」と、涙をにじませて怒鳴る。
地上が、町が、ビルが、加速度的に大きく近づく。気が遠くなるような恐怖の中に、また歓
喜とすら呼べる感情が沸き起こっていた。
「変よっ!」と、涙を流しながら叫んだ。自分は死にかけているのに、どうして嬉しいはずが
ある。狂いかけているの?
風を切る音、落ちる先はよりによって、固い路上だと分かった。
今度は地上十センチのところを掠めた。
街路樹の葉が舞い、路上に小さな竜巻《たつまき》を作って、再び友美の体は天空高く舞い上がる。
放心状態の中で、友美の心で、何かが狂喜乱舞していた。
「変だ……」
力なく言った友美は、突然に気づいた。これが自分の感情ではありえない以上、
「星虫だ……この子が喜んでんだ!」
また平行飛行に移っていた。そしてグルグルと横回転が始まる。
「この子、飛行能力をコントロールできないんじゃない……楽しんでたんだ」
友美に危害を加える気もない。その証拠に間一髪で障害物を避《よ》けてるし、超音速で飛んでい
るにもかかわらず、そよ風ほどの風も、大した加速度も感じていない。
星虫は遊んでいたのだ。小さな子供のように、夢中になって。その溢れかえる喜びの感情が、
友美の中へ入り込んでいたのだ。
だったら、逆も言えるはずだと、友美は思いついた。
心底恐怖を感じた時、星虫は敏感に反応し、あわててコースを変える。感情は星虫にも通じ
ていて、しかも一方通行ではないのかもしれない。
大発見だった。ということは、星虫と自分の心が、直《じか》に繋がっているということだ。
細い細いコードかもしれないが、太くすることくらいはできるかもしれない。
「でも、どうすればいい?」
普通に怒った程度で通じないのは、よく分かっている。友美はグルグル回されながら、腕を
組んで考えた。すでに下は海だ。港と海に浮かんだ大量の木材が目に映る。
その、タイから来たかもしれない木々の死骸を見ていると、この緑を守るために命を懸けた
おじさんのことが心を過《よぎ》った。気がつくと地球の声が聞こえている。その声は、すでに心の一
部分になっていた。昨夜の直観は、やはり正しいのだと思う。人間は地球の種、その一部分な
のだ。地球の声は、今や友美の思いでもあった。
「そうか、同じかもしれない」
友美が地球の声を理解できたのは、感情と同調し、受け入れたからだ。今もその感情は繋が
っている。とすれば、星虫とだって、同じことができてもいい。地球と友美の関係は、友美と
星虫の関係と同じはずだから。
「つまり、同じ感情を持てばいいってことよね……」
星虫は今、我を忘れるほどに飛べることを喜んでいるに違いない。
友達が楽しんでいる時、自分だけが怖がっていては、心が通い合うわけがない。
「一緒に飛ぶことを楽しめばいいんだ!」
上空を飛行する旅客機が見えた。途端、星虫が加速する。飛行機を見つけて、興味を持った
のだろう。
「きゃ〜〜〜〜っほうっ!」
友美は、その感情に同調しようと、やけくそのように叫んだ。
彼女の体は、時速八百キロでオーストラリアを目指すジャンボ機に、あっというまに追いつ
いていた。
そして気づいた。無理して同調しようとする必要なんてないことに。
ほんとに楽しい!
星虫の飛行能力にもはや疑問はなかったし、大体、星虫は自分が育てたのだから、感情の構
造もよく似ていたのだろう。
しかし何より、友美の最初の夢は、飛行機のパイロットであり、今の彼女が切望しているの
は、宇宙から地上へとシャトルを自在に操り、舞い降りることだった。
友美にとって空を飛ぶことは、元々欠くことのできない夢の一部分だったのだ。
友美は、間近に見る巨大な飛行機に、感動と興奮を覚え始めていた。
この馬鹿でかい機械を見ることで、ようやく星虫がやってのけていることのとんでもなさを、
実感し始めていた。
楽々と飛んでいる。しかもこの速度、高高度《こうこうど》でありながら、全く寒くも息苦しくもなかった。
見えない壁が、全身を取り巻いているようだ。
その星虫の予想を遥かに超えた力に、心の底からワクワクしてきた。
「見てよ、お馬鹿さんたち!」と、全世界に向かって叫ぶ。
「この子は――星虫は空を飛べるんだ。こんなにも自由にっ!」
この力なら、絶対に宇宙にだって出られる。
星虫は、宇宙に帰れるんだ!
友美の心は、光に満たされたようだった。悩みも不安も迷いも消えていた。星虫は自身だと
感じた。鏡のような、娘のような分身だと。
素晴らしい星虫。その子を自分が育てたのだという自負と、喜びが溢れる。
このたまらない嬉しさを誰かに伝えたかった友美の目に、斜め下に飛ぶ旅客機が映る。あの
窓の前で、手でも振りたいという気持ちが湧いた。
途端に友美の体は、スッと旅客機に近づき、翼の上に降り立っていた。
数メートル先の小さな窓の中に、一人の禿げた中年男が見えた。
友美は、小さく手を上げた。
男はいきなり大きな口を開け、叫んだようだった。
友美は「やばい!」と、ジェットから離れた。自分がどう見えるのかを、忘れていた。
「……脅かしちゃった」
飛び去ってゆくジャンボ機を見送りながら、反省した。そして、はたと気がつく。
「え? 私、今、自分で飛んでる?」
そうだ。あのジャンボ機の窓を覗きたいと考えた時から、星虫は友美の思うままに動いてい
たのだ。
「うそ……」だと思ったが、間違いない。上へ行こうとすれば上へ、横へ行こうとすれば横へ
と、自由自在だ。
「すごい!」
胸が高鳴った。その友美と星虫の感情は、もはや区別がつかなくなっている。
「よ――しっ!」
気合を込めた体が、かっ飛んだ。まるで砲弾のように空を切り裂く。一瞬で音速を超え、今
見送った旅客機を追い越して、更に高度を上げた。今日の星虫は空を青く見せてくれている。
宇宙もいいが、青空を飛ぶのも、最高にいい気持ちだ。
大空を夢中になって飛び回る友美の視界に、真っ青な海上を猛烈な速度で走る妙なものが映
った。
星虫が、その物体を勝手にアップにする。
同時に、『頼むよ……』という聞き慣れた声が頭に響いた。
空中に急停止して、噴き出した。
「お馬鹿の一人が、いたね!」
星虫に話しかけた友美は、その海上すれすれを疾駆《しっく》する物体めがけて、急降下した。
寝太郎は足を抱えていた。
本当は頭を抱えたい心境なのだが、そうすると疲れ切った足が海面に激突する。
時速二百キロは出いてるだろう。この速度で足が海面に当たるとどうなるか――想像したく
はないが、想像はつく。へたすれば骨折。何か漂流物にでも当たれば、千切れ飛ぶ。
ここが一体どこなのか寝太郎には分からない。日本の南の海上を、時々尻で跳ねながら南東
に向かっているのは、確かなようだが……。
「お前さ、何考えてるんだ?」と、疲れ切った腕と足を感じ、呻いた。
星虫は、海に出てからは、海上すれすれを高速で飛び続けている。
「てっ!」
また尻が海面とぶつかった。まるで固い板で思いっきり殴られているようだ。この速度では、
ジャージの尻が破けるのも時間の問題だろう。
それにしても、傍《はた》から見れば間抜けな格好だろうと思う。もしも、こんな目に友美も遭って
いるのなら、星虫を許せそうもない。まだ持っている電動ドリルを、しっかり握りしめたその
時、
「何してんの?」
巨大な星虫に頭を覆われたブルーの体操着の人物が、ふわりと、海上を疾走する寝太郎の横
に現れた。
この間抜けな姿を一番見られたくなかった人物の登場に、寝太郎は運命を恨んだ。
現れたのはもちろん友美だが、完全に星虫をコントロールしているようだ。
驚きを隠し、強がろうとした寝太郎だが、再び星虫に尻をぶつけられ、思わず疲れ切った手
が外れた。右足が海面を打つ。その勢いで、体は独楽《こま》のように回転した。
狼狽《ろうばい》する寝太郎に、友美は大爆笑だ。
何とか再び足を引き上げた時には、もう恥《はじ》も外聞《がいぶん》もなくなっていた。
「そ、育て方、間違ったみたいねっ!」
友美の声には、ざまあみろという気持ちが見え見えだった。
「これでも星虫が、飛べないって? ん?」
すっと目の前に回ってきた友美に、「どうすりゃいい?」と、寝太郎は泣きついた。
簡単に許す気になれない友美は、「星虫の感情に気づくことよ」とだけ告げ、また空高く上
昇していった。
「星虫の、感情?」
寝太郎も自分の中で、この非常事態を楽しんでいる異質な部分があることに気づいてはいた。
それが星虫の感情? しかし、それをどうすれば……?
考え込む寝太郎の頭に、友美の声が飛び込んできた。
『それに、自分の感情を合わせるの。聞こえるでしょ? 星虫は、こんなこともできるように
なってんだから!』
『通信? 星虫間の?』
『そう。星虫を認めなさい。そして、謝るの。そうしなけりゃ、ず〜〜っと、死ぬまでそのま
まかもよっ!』
つまり、星虫はすでにかなりの知性を持つまでに成長したということだ。仲直りしない限り、
このままの状態が続くらしい。
やはり友美は正しかったのだと寝太郎は認めた。この力から見て、星虫が字宙へ帰ることは
可能だろう。そして友美がその力を自由に使っている以上、秋緒の予想は外れるかもしれない。
友美が無事で、星虫が宇宙へ帰るのなら、別に文句などないわけだ。
「どうやら、こいつを食わずにすみそうだな」と、寝太郎はつぶやいた。
くたびれ果てた寝太郎が、真っ白な三日月|珊瑚礁《さんごしょう》の上空に浮かんでいた。
ようやく星虫との仲直りに成功したのだが、とても友美のように一心同体とはいかず、ここ
で止まれたのは奇跡のようだ。
『何だ、南極までいくのかと思ってたのに』
影も形も見えなかった友美が、そう連絡してくるなり物凄いスピードで東の空に現れ、寝太
郎の前で急停止した。
とんでもない速度だった。止まった友美の周りの空気が焦《こ》げ臭く、帯電している。
「分かったみたいね」
笑う友美に、三十分、星虫と格闘した寝太郎は、「少しな」と、力なく笑った。
その途端、数十メートル落とされる。
「私の星虫を取ろうとしたから、その子、怒ってるのよ」と、友美は言い、「まだ取る気?」
と、悪戯《いたずら》っぽく聞いた。
「取る気はもうないよ。今のところ」
言ったと同時に、また十メートル落とされた。
「……お前、もう俺なしでも、大丈夫なんだろう」
再び落下。
知能の発達は、もう疑問の余地がなかった。言葉こそまだだが、四〜五歳児並みにはなって
いそうだ。
「賢いね、寝太郎くんの星虫も」
そう喜ぶ友美の星虫に覆われた顔が、スーッと透けてきた。
「あ、委員長の顔が、見える……」
「私の方は、最初から寝太郎くんの顔、見えてたよ」と友美は言って、東の方角を向く。
「あっちの海に、面白いものを見つけたの。行ってみない?」
「面白いもの?」
友美は寝太郎の手を取った。
「どうせ、まともに飛べないでしょ、連れてってあげる」
いいと言う間もなく、二人はすっ飛んでいた。
トルコ石色の浅い海がコバルトブルーに変わり、その先にあるものが寝太郎の視界に入って
きた。たった数分で、二百キロは飛んだろう。恐ろしい速度だった。
海の上に、最高部が百メートルにもなる複雑な建造物が四つ、そびえている。
それぞれの建造物は海底油田掘削用のプラットホームにも見えるが、その幅は五百メートル
にも達するだろう。それが、少なくとも五キロほどの間隔をおいて、正方形の四つの頂点を形
成していた。
四つの建造物には、貨物船やサルベージ船が十隻以上も横づけされ、そこからは太いのから
細いのまで、何百本ものチューブが海底に向かって降ろされていた。
「ねっ、知ってる? これがあの宇宙船発掘事件の時に儲《もう》けた女性が作ってるレジャーランド
よ。この間、ニュースで見たのと同じ。でも、すごい大きさね……」
その上空で、友美はぶら下げてる寝太郎に話しかけた。
寝太郎は無言だ。見ると、妙に表情が固い。
「どうしたの?」
「別に。それより、見つかったんじゃないか?」と、指差した。
驚いて友美が見ると、本当だ。建造物から三機のヘリコプターが急上昇してくる。
「もう少し見ていたかったのに、しょうがないな」
へリをすぐそばまで引きつけておいて、友美は逃げ出した。
音速の五倍は出ていた。とてもへリに追いつける速度ではない。ミサイルでも無理だ。
「でき上がったら、一度遊びに行きたかったな」
と、元の珊瑚礁の近くで止まった友美は、そう言って、寝太郎に笑いかけた。
すっかり明るいなと寝太郎は呆れていた。ま、これだけ自由に空を飛べるのだ。宇宙飛行士
に死ぬほど憧れていた友美なら、納得はできるが……。
寝太郎の腹が、グ〜ッと鳴った。
そういえば、朝飯も食べていない。いや、透明なのですぐ忘れそうになるが、顔は全て星虫
に覆われ、食事をとりようがなかった。
「お腹すいたね」
友美は、そう言ってちょっと眉をしかめた。
「どうした?」
「……この子も、随分お腹がすいてるみたい」
言われて、寝太郎も感じ始めた。星虫も空腹だった。それも猛烈に。
「すごく美味しそうだって、感じてるみたいよ」
寝太郎をじっと見る。
「お、おい俺を喰うってか?」
思わず空中をあとずさる寝太郎に、違うと首を振った。
友美が指差す先は、真下である。美しい珊瑚礁の海。
「これ?」
友美はこっくりうなずいた。
「そ、海!」
言うなりその体は海上に落ち、大きな水しぶきを上げた。
「わーっ!」という叫び声とともに二本目の水柱が立ったのは、その数秒後である。二人は、
海中を石のように沈んでいった。
南方の強い日差しが、五メートル下の海底をも明るく照らし出していた。
色とりどりの熱帯の魚が群れをなし、あるいは単独で泳ぎ回っているのは、見事に成長した
珊瑚の林の中だった。
海草とテーブル珊瑚の間にできた小さな砂地。ガーデンイールの巣を避けて、友美は膝を抱
えて座っていた。星虫は、アクアラングにもなるようだ。
星虫の目で見る海中は、水を全く感じさせない。
魚やプランクトンも、明るい空中を飛ぶ鳥や虫に見えていた。まるで、本当に夢の世界に迷
い込んだようだ。
この夢のような世界で、友美はこの六日間のことを回想していた。
星虫が降りてきてから、まだそれだけの時間しか過ぎていないのが、嘘《うそ》のようだ。
小さな星が額に当たり、それが次の日に星虫となった。全世界が、三年前の宇宙船発掘事件
以来の大騒ぎになり、友美たちもその渦中に巻き込まれた。
そして、秋緒と出会い、森を見つけ、懐かしい庭と再会した……。
おじさんに聞きたかった――自分が星虫のためにやったことは、正しかっただろうか? お
じさんの教え子として、間違っていなかったろうか?
秋緒のことが、思い浮かぶ。おじさんの夢を果たそうとしている人。その大切な人に、自分
は反発し、寝太郎をここまでつき合わせてしまっていた。これで良かったのか?
間違ったかもしれない。でも、もうあと戻りはできなかった。
おじさんの夢でもある秋緒の計画が実現するとしても、何十年も未来のはずだろう。
友美は、その計画に参加することが、おじさんの教え子としての運命だと考え始めていた。
しかし、どうやら、それには参加できそうもない。
それでも今、自分にできることが、一つだけあった。
友美にしかできないことが。
「駄目だ、全然浮かない」
珊瑚の山を登りにいっていた寝太郎が、帰ってきた。
落ちてもう一時間近くがたつのだが、星虫は全くいうことを聞かなくなっていた。友美の言
葉さえ、無視するのだ。浮くはずの体が、まるで鉛のように海底に釘づけで、空腹はもう耐え
切れないほどにひどくなってきている。
友美もそれは同じだった。朝からの大騒ぎと、さっきまでの常軌を逸した興奮の反動がきて
いた。
「星虫が、大きくなってるわ」
寝太郎は、つぶやくような友美の言葉に吐息をついた。またまた悪いニュースだ。
透けてしまった星虫を見ようと、精神を集中する。昨日の晩、地球を透視した星虫の影響を
逃れることができたのだから、不可能ではないはずだ。しかし、簡単ではなかった。
友美の顔が段々とぼやけ、星虫が見え始める。確かに巨大化が進んでいた。額部分の盛り上
がった角質部分に大きな穴が開き、そこから勢いよく海水が吸い込まれている様子だった。海
水中から取っているのは、二人のための酸素ばかりではないだろう。
腹ぺこの身。精神統一は十秒も続かなかった。
「ほんとだ……」と、横へがっくりと座り込む寝太郎に、友美はぼやいた。
「ずるいよね、自分たちだけ食べるなんて」
そう言った途端、シュッと何か管のようなものが口の中に飛び込んだ。
「わっ!」と、友美が小さく叫ぶ。
「どうした?」
心配して身を乗り出した寝太郎の口中へも同じく管が突っ込まれ、その中からとろっとした
液体が溢れ出した。
「おいしい!」
友美が目を輝かせ、隣を見た。
寝太郎はすでに飲むのに必死だ。
その液体は、塩味のきいたクリームシチューに近いものだったが、その数十倍も美味だった。
生まれて初めてといえるほどの腹ぺこの状態。しかもそれが星虫によって増強された味覚に爆
発したのだ。ギリシャ神話に出てくる神の飲み物ネクタルでも、これ以上ではなかっただろう。
海水中の無限に近いプランクトンが原料に違いない。二人が欲しがるだけ液体はチューブに
溢れ、友美も寝太郎も、心の底から満足した。
あまりの美味しさに、二人はしばらく恍惚《こうこつ》となっていた。
その友美の目の前を、真っ青なソラスズメの群れが通り過ぎて行く。
午後の日差しがオーロラのように海中にかかり、巨大なクエの姿を七色に染めた。
空腹の時とは、また違った世界――一段と輝きを増した世界が目の前に広がっていた。
幸せだった。
「われながら、単純だなぁ」と、友美はクスクス笑った。
星虫の方は依然、食事中だ。これまでに吸い込まれた海水の量が、どれほどになるか、想像
もできない。多分この海水中から必要な成分を抽出《ちゅうしゅつ》しているのだろうが、これが巨大化の前
触れと考えて間違いなさそうだった。
満腹した寝太郎は、楽観的になってきている。
この美しい海の底で、美味いものを食べ、しかも横には友美、文句をつければ罰が当たるだ
ろう。星虫の巨大化も、巣立ちだと思えた。友美の明るい様子を見ても、もう大丈夫に違いな
い。
「秋緒、生まれて初めてじゃないかな、間違ったの」
寝太郎が、海底に寝ころびながら、そう言った。
秋緒のことを呼び捨てにしたことが、ちくんと友美の胸を突く。
「何の話よ」
「だから、星虫が俺たちを餌にするって言ってただろ?」
すると友美は、静かに口元に軽い笑みを見せた。
それは何だかモナリザの、あの曖昧《あいまい》な微笑に似て、寝太郎の心に不安の刺《とげ》をさした。
「……こっちへ一キロ歩くと、人のいる島に着くよ。寝太郎くん、行って」
「行く?」と、寝太郎は起き上がりながら問い返した。
友美はまた膝を抱え込んだ。
「うん、私、これからどうなるか、分かったから。吉田さん、やっぱりすごいや」
寝太郎の心に、不安のどす黒い雲が沸き上がっていた。
「……どういう意味だよ」
「ジガバチって、知ってる? ファーブル昆虫記にも出てくる虫」
知っていた。更に悪い予感がつのってきた。
「星虫はそれだって、分かったの。私たちは、青虫よ」
淡々と話す友美の隣で、寝太郎の体が微かに震えた。
シガバチと青虫――それは昆虫記でも印象的な話だ。ジガバチは狩りバチともいって、青虫
や蛾《が》の幼虫を捕り、毒針で麻酔をかけ動けなくしておいて、地面の下や細い管の巣穴へ閉じ込
め、自分の卵を産みつけるのだ。孵《かえ》った幼虫は、麻痺して動けない青虫の体液を吸って成長し
……。
「いやなこと言うなあ、本気か?」
もちろん、本気だろう。寝太郎にも本当は分かっている。だが冗談にしたい。してほしい。
「この子が宇宙にいくには、もっともっと私が必要みたい。私の命を含めた全部が。しばらく
前から、この子、闘ってたの。相手は、耐え切れないほどの食欲。私を守りたい感情と食べた
い気持ちとが、火花を散らしてた。もし食べなければ宇宙へは行けず、死ぬしかない。でも、
食べたくない……」
思わず立ち上がった寝太郎が、友美を見下ろした。
「と、取るんだ、取ってくれよ、委員長!」
「もう、この子たちだけなの」
友美は寝太郎に言った。
「星虫同士は、もう連絡が取れるようになってる。なのに、どこにも感じられない。私たちが
飛んだことで、全ての星虫が殺されたわ。分かるでしょ?」
その通りだった。
ここに潜るまで寝太郎はテレビを観ていたが、確かに地球中の星虫を人々は、すでに駆逐《くちく》し
終わっているに違いなかった。
「ついさっき星虫の悲鳴が聞こえた。これで、星虫所持者は、私たちだけ。たった六日前まで、
五十億もいたのに」
「危険だからだ。委員長の話だと、やっぱりその通りだろっ!」
「でも、誰かが帰すべきだし、もう誰もいないから。やらなきゃ人間全体がとんでもない恩知
らずになるもの。地球の声のこと忘れた? あのおかげで大崩壊は、おこらずにすむかもしれ
ない」
「死ぬんだぞっ!」
興奮した寝太郎がわめいたが、友美はちょっと肩をすくめただけだ。
「死にたくないよ、私だって。でもさ、この子だっておんなじ。今取れば、この子は死ぬもの。
この子にだって生きる権利はあるもの。私を殺して、食べる権利がね!」
生き物は全て平等。人間だけが例外なんてナンセンス。それが寝太郎の父の持論だし、それ
を理解している寝太郎だったが、今度ばかりは納得できなかった。
「夢をどうするんだ。死んだら、宇宙へは行けないぞっ!」
「この子が行ってくれる。それが分かったから、譲ろうって決めたの。もう、この子は私の分
身よ。私は、できが悪いし、一生かかっても行けそうもないしね」
寝太郎は大きく首を振った。
「そんなことはない、委員長は行けるんだ! 十年もかからずに宇宙へ!」
友美はきょとんと少年を見つめた。
「何、根拠のないこと、力説してんの?」
「委員長は行ける。きっと宇宙へ行ける。俺が保証する!」
「だから、どうやって?」
「口止めされてたが、もういい。秋緒のことだ」
寝太郎の口から、また秋緒の名が出た。友美はぶすっと答える。
「話が見えない」
「進化計画だよ、あれは実現するんだ」
赤道上に作られる、巨大なシャトル基地の姿が友美の心に浮かんだ。あれが実現するなら、
確かに宇宙へ行く機会は、ぐんと増えるだろうが。
フンッと鼻で笑う。
「あの人なら、できると思う。でも、いつになるの。百年後?」
「早ければ、五年後だ」
寝太郎は言い切った。
思わず友美の眉がつり上がる。
「無理! 大体、どこにそんなお金があるのよ!」
しかし、寝太郎は全く動じなかった。
「委員長が届けてくれた秋緒からの手紙に、そのことが書いてあったんだ。進化計画の発動は
来月。全世界への発表が、今月中にあるはずだ」
その自信に満ちた様子に、友美は呆気に取られた。
「全周二十五キロの海上都市が、まず五年後の竣工《しゅんこう》を目指して建設される。そこからスペー
スシャトルの二倍の収容力を持つシャトルを、マッハ三十以上で、地球周回軌道上に打ち上げ
るんだ。ソレノイド・クエンチ・システムだと、一日十回の打ち上げでも楽々だそうだ。一便
で最高八百人を運べる。つまり、たった一日で、一万近い人が宇宙へ行ける。海上都市ができ
たあと、静止軌道上に作られるのが、五万人収容可能な人工衛星。これは小惑星や彗星の核を
資源にした、月の地下都市やスペースコロニーを建造するための工場だ。地球から宇宙への中
継基地にもなる。それの着工が五年後! そして、十年後に、月面へ最初の移民を送り出すん
だ」
すごい計画だが、まるで誇大妄想《こだいもうそう》に過ぎる。
「だから、どこにそんな資金や技術があるっていうのよ……」
「三年前のこと、忘れたか? 宇宙船が発掘された事件」
「覚えてるよ。もちろん」
寝太郎は、うなずいて続けた。
「技術についてなら、あの時、日本に集まって、今、国連宇宙開発機構で働いている人のほと
んどは、当時の世界のトップクラスの科学技術者だぞ。技術力はあるんだ」
そう言われれば、確かにそうだ。
「でも、資金は? これが一番問題じゃない」
「だから、宇宙船事件だって言ってるだろ?」
ようやく友美の頭にも閃いていた。
「まさか……」
寝太郎が、ニカッと笑う。
「そのまさからしい。百兆円儲けた人が、全額国連に寄贈してくれるんだとさ。秋緒の話だと、
あの人も俺たちと同じ、親父の夢に乗った一人なんだ」
友美は、唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然として寝太郎を見つめた。
「う、嘘よ、だって、あの人、レジャーランド作ってるのよ。今さっきも見てきたじゃな
い!」
「だから、あのレジャーランド。何かに似てないか?」
友美の全身が、寒くもないのに、震えてきた。
赤道直下の海上に作られる、レジャーランド。それは、進化計画の第一段階の海上都市に、
あまりにもそっくりだ。
「言ったように、もう計画はスタートしてるんだ。あのどでかいのが四つ立ってた海、あれが、
海上都市建設現場だ」
「嘘……」
「嘘じゃないって。発表後は世界中の巨大企業からも、協力の申し入れが殺到するだろう。宇
宙工場の建設プランもあるからな。プロジェクト自体は国連の事業だけど、協力は全面的にす
る予定だそうだ。これからの時代は、宇宙技術がなければ、ハイテク産業は成り立たないもん
な」
その通りだろう。宇宙の真空と無重力を使って、地上では作れない合金、薬、半導体などが
製造できる。企業が賛同しないはずがなかった。
百兆円、そして世界の知能を集めた国連宇宙開発機構――この二つが合致すれば、夢は夢で
なくなるかもしれない。
「でも、どうしてそんな嘘をついてまで計画を隠す必要があるの? こんな素晴らしい計画だ
ったら、堂々とやればいいのに。あの百兆円の女性だって、悪役を演じる必要なんかないじゃ
ない!」
寝太郎は、うなずく。
「俺も、秋緒のこのやり方は好きじゃないけどな。問題はアメリカだ。あの国は、宇宙も自分
の国の領土だって思ってるとこあるからな。アメリカの妨害を受ける前に、できるだけの準備
を進めておきたいんだとさ。国連の中でも、海上都市が、すでに着工されているのを知ってる
のは、ごく一部らしい。だから、俺も口止めされた」
「……じゃあ、その極秘事項を、何で吉田さんは、寝太郎くんに喋ったの」
友美は、寝太郎を睨んだ。
「最後だから、聞くけど、どうして、あの人だけ、名前で呼ぶのよ」
寝太郎は、目をぱちくりさせている。
「あの人、寝太郎くんを、大事な人だって言った。あれは、本当は、どういうこと?」
友美の瞳に、涙がにじんできた。こんなことを聞くつもりなかったのに、口が勝手に動いて
しまう。
「私、分かってた。吉田さんは、寝太郎くんのこと好きなんだ。そして、寝太郎くんも好きな
んでしょう」
言ってしまった。友美は目を伏せたが、星虫をつけたままでは、意味はない。戸惑っている
寝太郎の様子が、丸見えだった。
その、おじさんによく似た顔が、はあっと大きなため息をついた。
「その通りだろうな」
と、小さく言う。友美の心臓が、ドキンと鳴って止まった。
「認めなきゃな。俺も秋緒が嫌いじゃない。嫌いになろうとしたけど、無理だった」
友美は、聞きたくなかった。これ以上聞きたくない。でも、耳を塞ぐこともできない。
「それは、爺さんも同じだったな」
その言葉に、もういいと言おうとした友美の口が、開いたままになった。
「……お爺さん?」
なぜここで、と戸惑う友美に、寝太郎はうなずく。
「そうだよ。爺さんなんか、秋緒を玄関にも通さなかった。けど、昨日、家に入れて、泊めた
ろ? やっぱり、孫だもんな」
友美の頭が混乱してきた。
「待って……どういうこと?」
「どういうって、だから、秋緒は俺の姉貴だよ」
友美の目が、まん丸になった。
「お姉さん?」
「離婚した母さんについて、アメリカに行った姉だよ。親父見捨ててな。だから、嫌いだった
んだ。けど変わったよ、姉貴は。親父のやろうとしていることを、ほんとに命懸けでやってる。
だから俺、姉貴を認めることにした。遅かったかもしれんけどな……」
寝太郎が、そう言って友美を見ると、なぜか彼女は、声を上げずに、身を折って笑いこけて
いた。
「……つくづく変な奴だな。とにかくこれで分かったろ。委員長は宇宙へ行けるんだ。それに、
笑ってないでよく聞けよ、三年後だ」
「三年後?」
何とか笑いの発作を抑えた友美が、顔を上げた。
「ああ、三年後、海上都市のシャトル発射部分を除いた都市部分ができると同時に、一般から
の技術者が公募される。国籍も性別も、あらゆる差別なしにだ。工場ステーションを建設する
ための技術者――いいか、その大半は、都市に設立される宇宙技術者養成学校でまかなうんだ。
学科の中には当然、シャトルパイロットコースがあるんだぞ。何せNASAとかと違って、軍
みたいなものとは完全に独立した組織だからな。成績優秀ならたった五年後の中継ステーショ
ン建設に参加できるかもしれん。いや委員長なら絶対やれるに決まってる。何てったって、親
父の教え子なんだからな」
友美には、まだ冗談としか思えなかった。しかし、現にこの目で建設現場を見ている。それ
に、今まで寝太郎が見せた妙な素振りも、これで全て説明できそうだ。
「だから、もう一回考え直してくれ。星虫を取ってくれよ」
寝太郎は、友美に頭を下げた。
「星虫を帰したい気持ちは分かる。けど、俺のだけで我慢してくれ」
驚く友美を制し、続けた。
「俺の方が身内が少ないし、こいつも結構気に入ってる。自分で自分の星虫を取るのはできそ
うもないしな」
この時、寝太郎も星虫の食欲が自分に向いていることを確認していた。やはり友美の言うこ
とは正しい。星虫が宇宙に帰るためには、命が必要のようだ、と。
友美はうつむき、目を伏せて何か考えていたが、やがてその顔を上げた。
「ありがとう」
「取ってくれるのか?」
だが、友美は首を振る。
「ごめん、かえって心が決まったみたい。それ聞いて安心したもの。これで、人間は大丈夫だ
って。そうでしょ? 私、やっぱり星虫を帰す」
寝太郎は愕然《がくぜん》として口を開けた。逆の結果が出るとは、想像もしなかった。何とかしようと
心はあせるが、何も思いつかない。
「でも、どうしてお姉さん、寝太郎くんを、あんなに必死に追っかけてたわけ?」
考えてみれば、星虫がまだ安全だと思われていた時から、秋緒は寝太郎を追っていた。
「そこまで言った以上、全部ばらしなさいよね」
「前も言ったろ。親父の息子だからって、買いかぶりだ」
「買いかぶり?」
「ああ、親父の親友って学者が何年か居候《いそうろう》しててな、その学者に色々と教わってたんだ。で、
何か知らんうちに、プログラム手伝わされてて、そん時、あんまり計算が遅いから、自分で言
葉、二つほど作ってみたんだ。そしたら、それが変に知れ渡ってな」
「言葉って……それ、コンピューター言語のこと?」
寝太郎はうなずき、「おっちゃんは、プレ・ログとかシータとか勝手に名前をつけて、発表
したけどな」と、海上を見上げた。
「プレ・ログって、あの、ニューロコンピューターの……」
友美は絶句した。シータの方も、兄から聞いたことがある。何でも、巨大構造物設計のため
の、画期的な新言語だそうで、大学や各種研究所、建築会社などで、すでに多く使われ始めて
いる。将来の宇宙開発や海底開発にも、大きな武器になると評価されているものだ。
「誰でもやるだろ? ガキの頃、自分だけの言葉作って遊んだり。その延長だ」
友美はまじまじと、目の前に立つおじさんそっくりの少年を見つめた。
そんな遊び、聞いたことがない。
「ま、そのおかげで、あのワークステーションも買えたけどな。特許《パテント》料とかで、毎月、大金を
振り込んでくれるんだ」
そう言って寝太郎は笑ったが、すぐ暗い顔になった。
「けど秋緒は、ニューロコンピューター用の新言語が、俺でなきゃできんと思い込んでるみた
いでな。ああいうの、身びいきっていうんだろうな」
とんでもなかった。今の話が本当なら、秋緒が必死に追いかけて当然だ。
「やっぱり星虫取って、寝太郎くん。吉田さんは身びいきするような人じゃないわ。あなたは、
本当にプロジェクトに必要な人なんだ」
「俺は、ただのなまけもんだって。委員長も言ってたろ」
「行きなさいってば、手遅れになるっ!」
「委員長一人残してか? そんな卑怯《ひきょう》なことしたら、親父に合わせる顔ないぞ」
友美は「違う!」と、声を上げた。
「誰も卑怯だなんて思わない! 吉田さん、あの人、どこか病気でしょ? いつも青い顔して
たし、少しのことで倒れたり、そんな体なのに、必死に説得してた。寝太郎くんはそれくらい
プロジェクトに必要なんだ。これは、地球を救う計画でしょ? 地球のために――人間のため
に、寝太郎くんは生きるべきよ!」
「……じゃ、委員長も取るか? 取るなら、俺も取る」
寝太郎はそう言って、腕を組んだ。
「そ、そんなの話が別だ!」
「一緒だよ」
友美の中で、星虫が警報を鳴らしていた。時間切れが迫っている。
「馬鹿っ!」
あせって言葉が出てこない。
「馬鹿の寝太郎だ、俺は」
「強情っぱりっ!」
「そっちこそ」
「駄目っ!!」
友美が叫んだ。
二人の頭を覆っていた星虫の黒いビロビロ部分が傘《かさ》のように広がり、数十本の細い導管に変
わった。長く伸びたその黒い導管は、目にも止まらぬ速度で槍のように全身に突き刺さる。
星虫の食欲が、ついに勝ってしまったのだ。
手、足、腹、全身に、一瞬だがすさまじい痛みが走った。
「きゃっ!」「ぐっ!」
二人はたまらず呻き、海底の砂の上を転げ回った。
すぐに痛みは治まったが、星虫は更に巨大化し、黒いラバー状部分は肩から胸までを完全に
覆い尽くしていた。腕の太さほどもある瘤《こぶ》のついた導管が手の先から足の先まで蔦《つた》のように絡
みついている。
てのひらを広げると、すでに自分の皮膚《ひふ》は一部に覗くだけになっていた。蜘蛛《くも》の巣のような
黒い線が皮膚の下に透けて見える。肉にまで食い込んだのだ。もう手術でも除去は不可能だろ
う。星虫は、友美たちの体を本格的に喰い始めたわけだ……。
「馬鹿っ!」
痛みを堪《こら》えて起き上がった友美は、寝太郎を怒鳴《どな》りつけた。
寝太郎の姿は不気味な怪物に近い。顔だけは元のままに見えていたが、気合を入れると正体
が分かる。その星虫が作る顔は、更に朝よりも巨大化し、妖怪じみてきていた。
「さっさと行けば助かってたかもしれないのにっ!」
友美の精神集中が解け、また寝太郎の顔が戻ってきた。ため息をついている。
「一キロじゃ、間に合わん。どっちにしろ手遅れだったな」
腹についた渦巻き様の導管を撫で、「内臓にまで、突っ込みやがって」と、ぶつぶつ言うが、
もうさっきまでの苛《いら》つきが消えていた。
そう、寝太郎の言う通りどっちにしろ手遅れだった。飛べない以上、海底を歩くしかない。
それでは間違いなく途中でこの変態が始まっただろう。星虫はもう、彼らに選択の余地を与え
てくれていなかったのだと分かる。
しかし、友美はあきらめ切れなかった。
「どうしてもう少し早くプロジェクトのことを言わなかったのよっ!」
そうすれば、寝太郎だけでも救えたのだ。
「だから、秋緒に口止めされてたんだって。どうせ、もうすぐ全世界に発表されるしな。こん
なことになるって分かってりゃ、話しもしたけど」
そう言って砂地から立ち上がった。
「でも! 寝太郎くんは、人類にとって必要な人なんでしょ!」
「いいって、もう。ほんとに秋緒は勘違いしてんだ。俺はただのなまけもん。星虫を宇宙に帰
すことくらいしか、地球の役には立たない」
そして寝太郎は大事に手にしていた電動ドリルを、投手のようにかっこよく投げた。
しかしドリルは水圧で全然飛ばずに足元に落ちる。間抜けだった。
だが友美は笑いもせず、寝太郎を睨みつけた。
海の中は、段々と薄暗くなってきていた。
太陽が、大分と傾いてきているに違いない。
友美は、小さく吐息をつき、珊瑚礁にもたれかかった。変わり果てた体を見る。
「そうだね。もう、どうしようもないもんね。時間は戻せないし……」
「そういうこと。それ、俺の主義だな。できたもんはしょうがない」
仕方なくうなずいた友美が、寝太郎に訊ねた。
「どっちだと思う?」
「何が?」
「天国か地獄か。私はきっと地獄だな。親不孝だし、寝太郎くん巻き込んじゃったし」
「俺もそっちだな。なまけもんだから」
「駄目よ、寝太郎くんには天国へ行ってもらわなきゃ」
「どうして?」
「おじさんに、私が謝ってたこと、言《こと》づけしてもらいたいから」
「やだね」
ぶすっと言って寝太郎は寝転んだ。
「俺は、委員長につき合う」
「どうして?」
「委員長がまた来るのを、十年も待ってたんだぞ、俺」
寝太郎は友美の反対側を向いた。その横顔から、赤外線の湯気が立ち上る。
友美はぽかんと、寝太郎を見つめていた。
それはもう、十年前、友美が泣かせた鼻たれ坊主ではなかった。おじさんの代わりに、友美
の来るのを待っていてくれた、大切な存在だった。
なぜだろう。死ぬと決まったこんな時なのに、何も怖くない。
友美は、じっと何か考えていたが、決めたとつぶやいて立ち上がった。海底をぐるっと歩い
て寝太郎の目の前にしゃがみ込み、少し強長《こわば》った声で言った。
「寝太郎くん、私ね……」
「ぐお〜っ」と、いびきが答える。
緊張していた友美の全身から、がっくり力が抜けた。
幸せそうに眠る寝太郎を睨みつけると、思いっ切り声を張り上げた。
「起きろーっ!」という強烈な音波が海中を走り、外洋をゆくイルカの群れを一瞬、錯乱状態
におとしいれた。
雷に打たれたような寝太郎の前に立った友美は、すっと手を差し出した。
「私、実を言うと一つだけ心残りがあったんだ。つき合って」
うなずいた寝太郎が、右手を差し出す。ぎゅっと、友美はその手を握りしめた。キラキラ輝
く瞳が、寝太郎を見つめている。
「行くよっ!」
言うなり友美の体は紫色の輝きに包まれ、それは寝太郎をも覆った。すでに星虫が前の状態
――つまり一体化し、飛べる状態に戻っていることを、友美は気づいていたのだ。
能力はアップしている。しかし、これが最後の変態前の、小休止だということも分かってい
た。
「へ?」
一方、寝太郎は完全に虚を衝《つ》かれた。
ズッパーンと物凄い水しぶきを上げ、二人は夕映《ゆうば》えの南洋上に舞い上がった。
スピードはぐんぐんと上がり、海は急激に遠くなっていく。
「どこへ行くんだよっ!」
うろたえている寝太郎に、友美はニッコリ笑った。
「宇宙! 多分、行けると思うんだ。バリアーみたいなのもあるし、これ、反重力だよね?
だから、ちょっとは手伝ってよ」
状況を飲み込めた寝太郎も、なるほどとうなずいた。
「……だな、どうせ死ぬなら、一回は宇宙を見たいよな。よし!」
寝太郎も天を睨み、星虫を説得にかかる。
やがて、更に加速を増した二人は、遙か宇宙へ向けて真っ直ぐに昇っていった。
二人の頭の少し上が真っ白に輝いているのは、バリアーと大気との摩擦のせいだ。とてつも
ない速度が出ているらしい。一分もたたずに輝きが消え、友美は対流圏を抜けたのを知った。
真下の海が瞬く間に広がってゆく。さっき目にした夕映えが太く赤い線に変わり、海上と雲を
染めているのが見えた瞬間には、まだ昼間の地域が視界の端に入ってきた。昼と夜とが、自分
たちの真下で分かれて拡大していくのだ……。
「すげえ……」
振り絞るように寝太郎が呻いた。巨大な積乱雲が見る間に矮小化《わいしょうか》し、無数の雲の一つとな
る様は、感動というよりも恐怖に近いものがあった。このまま全てが、果てしなく縮んでしま
いそうだ。こんなに地球が大きいとは、思わなかった。
いつしか二人の視界に多くの陸地が入ってきていた。その色は緑ではなく、ほとんど茶色か
灰色に近い色で、海の青さとは対照的だった。
陸が見え始めたところで、果てしないと思われた地上の縮小は止まっていた。
突然二人は、恐ろしいほど巨大な半月状の地球を見下ろしている自分たちに気づいていた。
地球からの光が、柔らかく半身を照らしている……。
今。たった今、自分たちは地球をこの目に見ているのだ。
その認識は、荘厳《そうごん》としか表現できない感動とともに、二人を圧倒した。
「…すごいね」
友美の声が、涙声となって寝太郎に届いた。
寝太郎は口もきけなかった。ただうなずき、星虫の中を感涙で溢れさせていた。
人類の歴史上、この光景を見られたのは、三百人足らずに過ぎない。その経験を持った誰も
が人生観が変わるほどの感銘《かんめい》を受けたという。
当たり前だった。この星を見て、感動しない人間がいてたまるもんか。暗黒というよりは、
虚無という言葉に近い宇宙に浮かぶ地球は、『奇跡』そのものなのだから。
「奇跡を目《ま》の当たりにして、感動しない奴がいるもんか……」
寝太郎は言い、この光景を全ての人類が見る日がくることを、全身全霊を込めて願った。全
ての人類がこの地球を見さえすれば、あらゆる自然破壊は食い止められるだろう。それだけの
力を、この母なる星の姿は持っていた。
「寝太郎くんっ!」
突然、友美が寝太郎にしがみついた。
「地球が、地球の声が……」
友美の心には、さっきから地球の声が響いていた。
しかしそれが、いつもの同じことの繰り返しではないと、不意に気づいたのだ。地球が自分
から飛び出した二人の存在に気づき、違う感情を発している。
信じられないことだが、それは挨拶《あいさつ》だった。すばらしい喜びの気持ちを、友美と寝太郎だけ
に送ってきていたのだ。自分の一部分が――人間という細胞の一片が、宇宙へ出られたことを
祝福してくれていた。
震えるほどの感動の正体は、これだったのだと、友美は思った。
「地球が、俺たちを見てる……」
星虫同士の交感から、寝太郎にもその地球のメッセージが聞こえた。
友美は、何度もうなずく。
「そう、ものすごく喜んでくれてる。私たちが宇宙に来たことを、すごく……」
あとは言葉にならなかった。
二人はその地球の声に包まれたまま、青い地球を見つめ続けた。
おじさんが守ろうとした星。今、その遺志を秋緒が実現しようとしている星を……。
「もういい……もう充分」
やがて友美は、涙顔に笑みを浮かべ、寝太郎に言った。
「帰ろ。地球へ」
寝太郎は自分の指先から感覚が消えてきているのを感じていた。星虫の体組織が、体を侵食
し続けているようだ。より星虫との一体化が進んでいる友美の方が、その傾向は高いだろう。
心配で胸がつまる。
「どこへ行く?」
「母さんたちに、謝りたいな」
友美は明るく言い、「まだ飛べる間にね」と、小さく続けた。星虫の飛翔力が落ちてきてい
た。最後の変態が迫っているようだ。
「よし、行くか!」
そして二人は、隕石《いんせき》のように地上へ落ちていった。
すでに日本は夜の側だが、あらゆる波長の電磁波を感知する星虫の『目』にとっては、闇で
はない。世界の中でも格段にエネルギーを消費する日本は、明るく輝き二人を迎えてくれてい
た。
町の上空数キロのところで、二人は停止していた。
すぐ下を、十数機のヘリコプターが乱舞している。
朝のように報道関係のものだけではない。警察、自衛隊、そしてアメリカ軍のものらしい軍
用へリまでもが混じっている。
真下に見える氷室家の前は、まるで祭りでも始まったかのような人出だ。報道関係者が百人
近くいるだろう。金やブラウンの明るい髪が混じっている。海外の報道陣も集まっているよう
だった。そして、その数倍の野次馬たちが道路を埋め尽くしている。
「とても降りられないよ」
友美は呆れ、テレビを受信してみた。ちょうど七時になったばかりで、NHKを含む数局が
特別番組を放送中だった。
やはり二人の星虫が、世界最後の星虫のようだ。全世界の目が、二人の行方と、この町に向
けられていた。
ヘリコプターから、あるいは地上から撮られた友美の飛行シーンが、各局、色々なアングル
で放映され、星虫によって二人の少年少女が攫《さら》われたとアナウンスしていた。
「家へ行ってみるか?」と寝太郎が聞く。
「電話して、来てもらえばいい」
案《あん》の定《じょう》、寝太郎の屋敷の周りも報道陣に囲まれていたが、何せ広い敷地の周りを固めている
だけだから、いくらでも降りる場所はあった。
「駄目だ、母家も人だらけだ」
屋根を透視した寝太郎は、やれやれと空中で腕組みした。
途端、友美の体がぐらっと揺れる。あわてて寝太郎につかまった。
「ごめん。ちょっと、もう飛びにくくなってて」
時間切れが迫っていることが、二人には分かる。
寝太郎は、友美を支えながら蔵の上に降り立った。
天窓をこじ開け、まず友美が真っ暗な蔵の中へ飛び降りる。頭頂の巨大な目の輝きが増し、
ゆっくりと本棚の間に降り立った。
暗闇の中に誰かがいた。コンピューターの前だ。
瞬間、蛍光灯がつき、ワークステーションの前に座る秋緒が立ち上がった。
その周りを囲むように、寝太郎の祖父、幸雄、直人、洋子、隆、そして眼鏡姿に戻った正夫
もいる。
全員が真っ青になり、あとずさっていた。
二人の姿は、怪物になり果ててしまっていた。朝より更に肥大した頭部は肩幅よりも成長し、
まるで巨大な蛸《たこ》の怪物が人間を飲み込んでいる途中のようだ。その蛸の黒い触手が手の先から
足の先まで這《は》いまわり、ピクピクと蠢動《しゅんどう》している。
「何て姿に……」
青ざめた秋緒が、絞り出すように言った。
寝太郎はそのコンピューターのモニターに衛星からのデータが流れているのを見、秋緒が人
工衛星を使って二人を追っていたことを知った。
「心配かけて、ごめんなさい」と、友美が謝った。
「……よかった、まだ意識は星虫に乗っ取られていないのね」
少し顔色を戻した秋緒は、椅子から立ち上がった。
「何たるざまだ、広樹!」
祖父の怒鳴り声が、その隣から響く。
「お前はともかく、どうして、その子を助けなかった!」
「俺も委員長だけは助けようとしたんだからな」
そして、秋緒に言った。
「俺、約束破ったよ。プロジェクトのことも、何もかも話した。それで、何とか説得しようと
したんだけどな。ごめん……姉貴」
姉貴と言う言葉を聞いた秋緒と、祖父の顔が驚きに変わった。
「いいの、そんなこと」
秋緒は、首を振った。
「馬鹿野郎!」と、いきなり直人が飛び出してきた。
寝太郎は、パンチが顔にくるのを、避けもせずに受けた。直人の拳は、星虫のラバー部分に
当たり、跳ね返される。
「お前が、氷室さんに雷同した結果だぞっ! 責任を取ると言ったな、取ってもらおう!」
その直人を、隆と正夫が止めた。
「すまん」と、寝太郎は直人にも謝る。
「友美なの?」
洋子が、寝太郎の後ろに立つ友美に声をかけた。
「ごめんね、洋子。せっかくほんとの友達になれるとこだったのにね」
その声には、力がない。洋子が、たまらず泣き出す。
秋緒が、友美に話しかけた。
「もう一度だけ頼みます。広樹を解放してあげて。広樹のことだから、どうせ自分は役立たず
だとか、私が買いかぶってるだけだとか言っただろうけれど、それは違うの。広樹はコンピュ
ーター言語の達人なの。天才だといってもいい。プロジェクトのことを聞いたのなら分かるで
しょう。これから作らなければならないシステムの巨大さと、複雑さが。今ある言語でも、も
ちろん計画実行は可能だけれど、問題は効率なの。広樹がプレ・ログとシータを改良した第五
世代機用の言語を作ってくれなければ、計画は四年から十年遅れる。そうなれば助かるはずの
人が億単位で変わってしまうの。この仕事ができるのは、彼しかいない。広樹の頭脳に、何億
人の命が懸かっているの」
秋緒の必死さが、何億という言葉の持つ重さが、今まで揺るがなかった友美の決意を、くつ
がえしてしまいそうだった。
その言葉に驚いているのは、友美ばかりではなかった。変わり果てた妹を病院へ引っ張って
いこうとしていた幸雄、まだ友美たちの姿に恐れをなす友人たちの動きも止まっている。
「寝太郎が何だって?」と、事情を知らない彼らは顔を見合わせた。
「姉貴、委員長は関係ないって!」
寝太郎が、秋緒の前に立ちはだかっていた。友美はその体の陰へ反射的に隠れる。
「関係あるでしょ。広樹、あなたがプロジェクト入りを断った理由の一つは、彼女のはずよ」
寝太郎の体がビクッと震えた。違うと必死に言い張ったが、秋緒どころか友美さえ説得でき
ずに終わった。
「そうなの?」
横に飛び出した友美は、寝太郎を見つめた。
黙る怪物に代わって、秋緒が答えた。
「自分がプロジェクトに入れるなら、もう一人、当然入れて然《しか》るべき人物がいる。その人物と
一緒でなければ、自分は入らない――そう言ったのよ」
「当然だろ。委員長も親父の教え子だ。俺たちと同じな!」
「だから私は妥協したでしょう。広樹が来てくれるなら、友美もプロジェクトシティに迎えよ
うって」
「委員長は、俺のおまけじゃないっ!」
思わず興奮した寝太郎がそう怒鳴り、自分で墓穴《ぼけつ》を掘っていたことを知った。
「そうなんだ」
友美は、わずかに体表に出ている寝太郎のシャツをつかんだ。
「私のために、国連入りを断って、そして、こんなとこまでつき合ったの?」
寝太郎を睨む目に涙がにじんでいる。そのことは、星虫を透視できない全員にも伝わってい
た。
「馬鹿。自分で言った通りの大馬鹿だよ。何で私なんかに、そんな義理立てすんのよ。何で
っ!」
下を向いた寝太郎がつぶやくように言った。
「……間違ってたからだ。俺には、親父が残してくれた教材や、カリキュラムや、機材が山ほ
どあった。親父の親友の、世界でも有数の科学者たちが月に一回は来て、俺をしぼってくれた。
夏休み、俺が委員長を見かけたのは、その教授の一人の家で缶詰にさせられてた時だよ。その
時に、委員長が、まだ六歳の時の夢を追ってることを、俺は知ったんだ。たった一人で、親父
の言葉通りに、十年も。とてもかなわんよ。俺なんかサボることばかり考えてたのに。そんな
俺が、親父の作ったプロジェクトに参加できるのに、委員長はできん。それは、間違ってる。
少なくとも、俺には間違ってたんだ」
聞く友美の心の中で、寝太郎に将来の夢を訊ねた時のことがよみがえっていた。
秋緒になぜ協力しないのかと聞いた時、友美を見つめた寝太郎が、寂しげに何かをあきらめ
たのを感じた。それが何かを、今、友美は知った。
「友美、聞いてる? 今なら――意識がはっきりしている今なら、まだ間に合うかもしれない
わ。病院へ行ってくれるわね?」
友美はうなずいた。
驚いた寝太郎の呼吸が止まる。
「委員長っ?」
すでに寝太郎の手のほとんど、足の太股まで感覚が消えていた。友美なら、もっと星虫に食
われているはずだ。もう、どうやっても手遅れなのに!
幸雄が見るからにほっとして、友美に駆け寄った。
直人たちも二人に近づいてくる。
「救急車を呼んで!」と、焦り顔の秋緒が怒鳴り、幸雄と直人が母家に走った。
一同は、怪物と化した二人を守るようにして、蔵を出た。
友美も寝太郎も無言だった。
寝太郎の少し後ろを歩く友美の横には、秋緒がつき添っている。
「ありがとう」
不気味な星虫を見ながら、秋緒は真摯《しんし》に言った。
「あなたにだけ、言うわ。私、もう長くないの」
無言で歩いていた友美が、立ち止まる。
「広樹には、黙っていてね。細胞の中の、ミトコンドリアが死滅する、原因不明の病気にかか
っているの。二十歳までは生きられないと言われたのに、二十四になる今まで生きてるから、
眉唾《まゆつば》かもしれないけれどね」
秋緒は明るく微笑み、ちょっと肩をすくめた。
「広樹から聞いたかもしれないけれど、母と私は父を見捨てたわ。理想ばかりを追って、家族
をかえりみない父が憎らしかった。でも十八の時に、この病気にかかり、入院中父の書いたも
のを偶然に読んで、分かったの。間違っていたのは、自分だってね。その時から、父の残した
進化計画が私の夢であり、私の分身になった。広樹が加わってくれれば、私、もう安心して死
ねるの。星虫は、友美にとって、私のプロジェクトと同じよね。でも、広樹だけじゃない、あ
なたもまだ若すぎるわ。死んじゃ駄目よ。生きたくても、生きられない者がいることを、考え
て」
醜い怪物は、軽くうなずいたようだった。そして、一人でまた歩き出す。
その中で、友美は泣いていた。
このまま病院へ行けば、星虫は殺される。しかも自分の体もばらばらにされるだろう。もう、
手足に全く感覚がない。動かすことはできるが、それもいつまで続くかと思えた。感覚の喪失
は、下半身から胃に達しようとしている。手術を受ければ多分、自分も死ぬだろう。
でも、寝太郎は助かる。たとえ手足がなくとも、生きていられる。
秋緒のため、人類のため、寝太郎は今死んではいけない人だった。しかし、誰よりも今、友
美自身が寝太郎に生きていてほしかった。
だから、うなずいた。
「ごめんね。ほんとに、ほんとにごめん」
この涙は、星虫へ――宇宙に帰すと誓った星虫へのものだった。
玄関の門が開き、真昼のようなライトが輝く中に、友美と寝太郎の醜い姿がさらけ出された。
報道陣、そして路上を埋めた野次馬からどよめきと悲鳴が上がる。
救急車が二台、走ってくるのが見えた。その姿が、段々と霞んでくるのを、友美は感じてい
た。星虫の様子が変だった。星虫の意思から離れて、その体だけが一人歩きをしているようだ。
感覚のコントロールができなくなっている。もう、テレビも見えない。
人込みを押し退けるようにして、救急車が二人の前に着いた。
友美は、キッと前を向き、最後まで自分の足で歩こうと意識を集中した。しかし、すでに立
っているだけでも辛い棒のような体は、ゆっくり傾いた。
その体を、誰かが横から抱き止めてくれた。そして、手が肩に回る。
驚いて見ると、不気味な怪物が目に入ってきた。寝太郎だ。もう顔の透視もできない。
「行くぞ」
その言葉の意味が、全てをあきらめていた友美には理解できなかった。
「え?」
「行くっ!」
寝太郎の星虫の頭頂部が、紫の輝きに満ちた。
「駄目よっ!」
怒鳴った友美だが、体が浮くと同時に、寝太郎にしがみついていた。
「姉貴、爺さんと仲良くな!」
寝太郎は秋緒に怒鳴り、消えてしまいそうな飛翔への感情を、無理やりにかき立てた。
「兄さん、ごめん。父さん母さんにもごめんって伝えて」
友美の声に、幸雄と直人はジャンプして二人の足を捕らえようとあがいた。
「何を考えてんだ、友美っ!」
「手術してもしなくても、私もう助からない。わがまま通させて、兄さん。そして吉田さん。
ごめんなさい」
シュンッと、二人の姿は闇の中へ消えた。
「追えっ!」
叫び声が上がる。
「無茶言うな、マッハだぞっ!」と、誰かが叫び返す。
罵声の中で、秋緒は呆然と空を見上げていた。
「……馬鹿」
そして、首を振った。医師の資格を持つ彼女には、二人の助かる確率が低いことも分かって
いたのだ。
歯噛みする心の中に、友美をうらやましく感じる想いを見つけていた。
吐息をついた秋緒は、国連へ連絡をとるため、蔵へ戻った。
幸雄も直人たちも、報道陣とともに二人を追って走る。
誰にとっても、長い夜になりそうだった。
全世界に、再び捜索《そうさく》の網《あみ》が張られた。
国連宇宙開発機構は、地球観測衛星をリンクして、星虫をキャッチしようとスタンバイした
が、何一つ手掛かりは得られなかった。
それもそのはず、二人は直線で数百mも離れていない竹林の中の鬼門屋敷――あの『森』の
草地に横たわっていたのだ。
二人には、そこまで飛ぶのがやっとだった。
倒木でできた草地に寝ころんだ二人は、ともに荒い息をついている。もう寝太郎にも立ち上
がる力すら残っていなかった。今の飛行で、精神カを使い果たしたようだ。
「……何で、手遅れだって分かってるくせに、病院なんか」
寝太郎は横を向き、友美を睨んだ。まだ彼には星虫を透かし、友美の汗まみれの顔を見るこ
とができる。
「寝太郎くんは、まだ半分以上、自分の体が残ってるじゃない」
友美の息が大分苦しそうだ。どうやら星虫の酸素供給も、止まりかけているらしい。
「寝太郎くんは、頭さえ生きてれば、世界の役に立つよ」
「ここまできて、俺だけ生き残れるかよ」
怒ったように寝太郎は言い、友美から視線を外し、天を睨んだ。
「でもさ、国連に――進化計画に、参加したかったんでしょ?」
怪物顔が、微かに動く。
「ああ、親父の夢だもんな。猛烈にな。けど――」
友美は、再び寝太郎が自分を見ているのを感じた。
「たとえこの星虫事件がなくても、委員長とでなけりゃ、行く気はなかったからな。ま、あの
世へも、一緒に行こうや」
その言葉が、友美の胸に染みていった。
これで良かったとは、思っていない。あのまま病院へ行くべきだったろう。しかし友美は嬉
しかった。理屈でなく、寝太郎が自分を――そして星虫を救ってくれたことに、たまらない喜
びを感じていた。
「……寝太郎くんって、素敵ね」
突然そう言われ、寝太郎はビクッと体を震わせた。
「な、何だそれ」
「どうしてモテなかったんだろ。こんな素敵な男子、他にいないよ。世界中捜してもさ」
「ば、馬鹿言うなよなっ。けど、宮田より、上か?」
「ずっとずっと上だよ」
寝太郎は、よしとうなずいた。
「もう、心残りねえぞ。俺」
そのニコニコ顔が、友美の霞のかかった目にも見えそうだった。
すでに上半身しか自分の体は残っていないようだ。寝太郎の呼吸も上がってきている。
最期がどんどん近づいていた。
「窒息死か……」と、寝太郎がつぶやく。
「ぞっとせんなあ、よりによって」
「でも、この子たちも戸惑ってるよ。何とか私たちを、助けようとしてる」
それは寝太郎も感じていた。星虫の意思が体をコントロールできなくなっているのだ。
「ラジオも、もう無理だ」
「私なんか、目も見えないんだから」
威張ったように言う友美に、寝太郎は呆れた。
「明るいな。委員長。死ぬの怖くないのか?」
「ばーか。怖くないはずない。さっきから、震えてんだから」
「だよなぁ……」
荒い呼吸音が、星虫の中でこだまし始めていた。完全に密閉されつつあるらしい。
もう、背や体側に感じるはずの草の感触も消え、真上にかかる大木の枝も滲《にじ》んでしか見えな
い。臭いも外界の音も、なくなっていた。
これが死ぬことなんだと、友美は悟っていた。底なしの穴に落ちるような恐怖が沸き起こる。
どうしてこんなことになったのかと、自分を責める声も聞こえた。友美のエゴイズムで世間を
騒がせ、寝太郎を巻き添えにして、おじさんの夢の邪魔をしたと……。
「ごめんね」
その友美の声だけは、星虫を通して寝太郎に通じる。
「無理やり攫《さら》ったのは、俺だ。謝んのは、俺の方だって」
「……ありがと。星虫に、代わって、お礼言う」
「いいって、もう。星虫は、俺のだ。地球の、俺が、育てた、分身だから」
友美の星虫説は、もう寝太郎には疑問の余地がなかった。
「俺も、宇宙へ、こいつを、帰したいからな」
と、不意に思いついた寝太郎が、小声で聞いた。
「これって、新聞に、なんて、載るかな?」
「さあ?」
「心中に、なるんじゃ、ないか?」
意識が遠のきかけていた友美だったが、その言葉にプッと噴き出した。
「やだ。けど、きっとそうだね。父さんから聞いたんだ。遺書と睡眠薬の空き瓶。それと手と
手を握りしめているのが、パターンなんだって」
「じゃ、期待、裏切ったら、悪いな」
「だね」
友美は、意思を振り絞り、寝太郎側の手を動かそうとした。
寝太郎も残る力を、全てそそぎ込んだ。その手が、ほとんど動いていない友美の手に当たっ
たのは、数分後だった。
「……悪い、もう、握れない」
謝る寝太郎に、友美は微かに首を振った。
「充分……」
もう、蚊の鳴くような声しか出ない。
「委員長? 大丈夫か?」
呼吸は早く、浅くなっていた。
「名前で、呼んでよね」
怒った声が、微かに聞こえる。
「……友美」
「広樹くん……」
友美の呼吸は、更に速く、浅くなっていく。
「待ってる……先……行くね………」
最後に大きく息を吸い込んだまま、呼吸が止まった。
すでに寝太郎の目も完全に見えなくなっていた。本当に死んだのかという思いと、これでよ
かったのかという後悔が、交錯する。
『ま、しょうがないよな』と、自分に言い聞かせる寝太郎の目から、涙が止まらない。
国連に入って苦しい目に遭うより、この方が楽かもしれない。無駄死にでもない。人類の救
いの主のために命を捧げるわけだ。ちと格好よすぎるが、ま、自分は友美のおまけだから、気
は楽だった。
『さあ、命をやるぞ、宇宙へ帰れ星虫。けど、俺を喰ったお前は、きっとなまけもんになるか
らなっ!』
薄れていく意識の中で、そう怒鳴った。
昨夜と同じ月明かりが、円形の草地を照らし、木陰の二人にも当たっていた。
地球の声が、森を満たしている。
二人の体を喰い尽くした星虫は、全身をぼうっと光らせながら、蠢《うごめ》き始めた。
再び変態が始まったのだ。
[#改ページ]
七日目
[#改ページ]
翌日。夜が明けると同時に、二人の捜索が本格的に始まった。
警察、陸海空全ての自衛隊、マスコミはもとより、日本中の人々が暇があれば空を見上げ、
最後の星虫の姿を捜した。
日本人だけではない。夜空に消えた二人の捜索網は、全世界に及んでいた。殊《こと》にアメリカの
意欲の高さは異常なほどで、全軍はおろか予備役まで招集して捜索に当たらせている。更には
星虫探索のための人工衛星の打ち上げまで検討し始めていた。
しかし、残念ながら、それが二人の命を救うためとばかりは言い切れなかった。
星虫は、また新たな能力を示した。ジェットともロケットとも違う未知の駆動方式で、大気
圏突破までやってのけたのだ。もし星虫を手に入れ、飛行原理が解明できるのなら、その国は
これから始まる宇宙開発時代で、絶対的な優位に立てるはずだから。
人々の、そして国々の思惑を秘めて星虫捜索は続いていたが、二人の行方は杳《よう》として知れな
かった。
「まだ見つかってないか?」
隆が、携帯の画面でニュースを観ている正夫に聞いた。
正夫はうなずき、その目を携帯から空に向けた。
彼らは相沢家に秋緒を訪ねる途中だった。彼女なら、テレビやインターネット以上の情報を
得ているに違いないと思ったのだ。
二人の後ろには、直人と洋子が肩を並べ、無言で歩いている。
午後四時を過ぎていた。
午前中は、ほとんど強制的に大学病院で精密検査を受けさせられ、午後は高校で説教という
時間割りを終え、やっと釈放されたばかりだ。
四人の気持ちは、沈んだままだった。
星虫を取って以来、世界はピントの外れた映画のように輪郭がはっきりしないし、色もあせ、
視界も狭まった。いきなり百倍も目が悪くなったような気がする。もちろん、元に戻っただけ
なのだが、精神に受けたショックは小さくない。
その上、彼らは友美というアイドルをなくしたのだ。
「悪いのは、寝太郎だ」と、直人が悔しげに言った。
「寝太郎くんは友美を守ったんだってば」
洋子は言い、「何も分かってないんだから」と、昨夜から真っ赤なままの、目頭《めがしら》を押さえた。
「おい、今更言ってもしょうがないことで、喧嘩すんなよ。寝太郎も委員長も、まだ見つかっ
てないだろ。生きてる可能性もあるぜ」
だが、楽天的な隆の言葉は、誰一人、説得できずに空き地に消えた。
未だ百人以上が入院中だ。今のところ死者は出ていない。全員が回復に向かってはいるもの
の、それはあくまで星虫に『食われる』前に『駆除』が間に合っただけのことだった。
友美と寝太郎の、あの凄まじいばかりのありさまでは……。
竹林の横を通りながら、洋子は友美のことを思い出している。
一昨夜、星虫の鳴き声で眠れない夜。友美は全てを洋子に打ち明けてくれた。
自分がずっと宇宙飛行士を目指していたこと。今までそれを隠し、猫を被っていたことを謝
った友美は、改めて友達になってと洋子に言った。
洋子は呆れ、笑った。友美との間に、どこか感じていた壁――それが崩れ、二人は互いを自
然と名前で呼び合うようになっていた。
友美は、おじさんの物語をしてくれた。そして、寝太郎がそのおじさんの息子だったこと、
突然変身したわけを笑って話したあとで、星虫の正体も教えてくれたのだ。
だから洋子には、友美が自分の命を懸けて星虫を宇宙に帰そうとしたのだと分かっていた。
どれほど寝太郎が友美にとって、大切な存在になっていたかも……。
洋子は立ち止まった。秋緒の元へ行きたくない。決定的な言葉を聞きたくない。
「……ね。寝太郎くんの家に行く前に、森へ寄ってみない? 地球の声を聞きに」
全員が、この言葉を待っていたかのようにうなずいた。みんなも、洋子と同じ気持ちだった。
竹林の中を行きながら、いつしか話題は昨夜のことに移っていた。
「だから、寝太郎くんが、お姉さんでもある吉田博士から、国連の進化計画にスカウ卜されて
たってことでしょ? でも寝太郎くんは、友美がその計画に行かないなら、自分も行かないっ
て話だったと思うけど」
整理した洋子の言葉に、正夫が頭を抱える。
「……そこんとこで、僕の頭は理解を拒絶するんだよな」
いくら外見が変わったところで、あの寝太郎とコンピューター言語の天才をイコールで繋ぐ
など、男子三人にはできなかった。特に、直人には。
「そんな馬鹿なことがあってたまるか!」と、直人が寝太郎の悪口を並べ立てようとしていた
時、見えてきた鬼門屋敷の門からすごい勢いで、寝太郎の祖父が駆けてきた。
「おおっ! 君たちかっ!」
顔色が悪い。どうしたのかと洋子が訊ねる間もなく、その手を引かれた。
「来てくれ! とにかく急いで!」
只事《ただごと》ではない雰囲気に、全員門の奥へと駆け込んだ。
薄暗い倒木の草地に、大木の下に見たこともない物体が二つ並んでいた。
第一印象はひび割れた巨大なゴキブリの卵。全長は二メートル五十、横幅一メートル。全体
は黒光りした皮革《ひかく》に覆われ、樹皮のような亀《かめ》の甲《こう》のような紋様が縦横に走る。
言葉もなく、全員がその物体を見下ろしていた。
何も言わなくとも、これが、友美と寝太郎の変わり果てた姿であることは、間違いなかった。
「どうする?」と、しばらくして正が言った。
「警察に知らせるしかねぇだろ」と、隆。
しかし「絶対に、駄目」と、洋子がきっぱりと言った。
「友美たちが命を捨てて頑張ったのは、星虫を宇宙に帰すためなんだから。でも、日本もアメ
リカも、そのために二人を必死に探してるんじゃないわ」
「ああ」と、直人もうなずいた。
「研究材料にされるのがオチだろうな。下手したら解剖《かいぼう》とか……」
「そんなことを、させるものか!」と、祖父が怒鳴る。
「でも、相沢さん」と、洋子が言った。
「やっぱり、友美の家族や吉田博士には、連絡した方がいいんじゃないですか?」
「……そうだな」
マスコミの追跡をかわし、最初に到着したのは、秋緒だった。
草地の上に柩《ひつぎ》のように並ぶ姿に、目を伏せる。
「誰も触っていない? これから何がおきるか分からないわ。あまり近づかないで」
疲れ切った様子の秋緒は、星虫の前にしゃがみ込んだ。
「これは、蛹《さなぎ》と考えた方がいいわね。本当の変態が始まったんだわ。多分、ここから星虫の成
虫が出てくるんじゃないかしら。広樹と、友美を栄養にした……」
洋子が首を垂れた時、憔悴《しょうすい》しきった母親を支えた幸雄と制服姿の父がやってきた。
「もうすぐ、救急車が来る」
二つの物体を見るなり父が言った。
「駄目です、おじさん!」
驚いた洋子が叫ぶ。
「友美は、星虫を宇宙に帰すために、ここまで頑張ったんです。ここで星虫を殺したら、友美
は……」
しかしその言葉は、友美の母の突き刺すような視線に封じ込められた。
「まだ生きてるかもしれないわ。食べられてたとしたら、星虫は、友美の仇《かたき》です。友美の体の
一部でも残っているなら、粉々に砕いてでも助け出したいの」
「でもお母さん。それは――」
秋緒が彼女に喋りかけたその時、いきなり森の中から、頭の先まで銀色の人間たちがぞろぞ
ろと現れた。
「う、宇宙人だ! 星虫連れに?」と、隆が叫んだ。
「違う」と言ったのは、友美の父である。
「これは自衛隊の防護服だ」
防護服姿の自衛官たちは、まるで湧いて出るように木々の間から現れた。たちまち草地は銀
色に埋まってしまう。押し出されるようにして、洋子たちは全員、星虫から引き離された。戻
ろうとした幸雄と直人は、力ずくで押し止められた。
「お前たち、ここは私有地だぞ! 勝手な真似をするなっ!」
寝太郎の祖父が怒鳴ると、銀色の一人が父の前に歩み寄り、軽く一礼した。透明のフードの
向こうには、いかにも傲慢《ごうまん》そうな中年男性の顔がある。
彼は腰に手をやった。太いベルトに、重そうな拳銃が下がっている。その前についたポーチ
を開き、中から総理大臣の署名と捺印《なついん》のされた証明書を出して提示した。
「政府のものです。無礼はお詫《わ》びします。しかし、この宇宙生物は非常に危険なものですので、
人命を優先した結果と、お考えいただきたい」
いやな奴だと全員が感じた。いかにも胡散《うさん》臭い笑いが、唇から消えない。
横たわる星虫の周りでは、機器の設置が進んでいた。十本もの色とりどりのコードが、二体
に取りつけられてゆく。
「やめろこいつ、俺の妹だぞっ!」
怒鳴る幸雄に「お気の毒です」と、あざ笑うようなくぐもった声で男は答えた。
「星虫をどうするつもりなの?」
静かな秋緒の声に男は顔を向け、その美貌《びぼう》に目をパチクリさせた。
「国連の吉田秋緒博士ですね。相沢広樹の実の姉でもいらっしゃる。いや、こう言ってはなん
だが、写真うつりがお悪いですね」
「質問に答えてください。どうするつもりなの?」
「国連や身内の方々には申し訳ありませんが、運び出し保護します」
「どこへだっ!」と、友美の父が怒鳴る。
「ご承知の通りここまで成長した星虫は、この二体だけです。この先どうなるか、予測すらで
きません。こんな町中では、何か起こった場合、対処できません。万全の対策を講じた施設へ
移すのが、国家の義務です」
「予測もできん危険物なら、ここですぐに殺した方がいい!」
父は男を睨みつけ、秋緒が続けた。
「そう。星虫の能力は、科学者の想像など逢かに凌駕《りょうが》し続けてきました。特にこれは星虫にと
って最後の変態だと思われます。蛹を出る際に核爆発以上のエネルギーを放出しても不思議と
は思わない。そんなものを、この狭い日本のどこで安全に管理できるんです。あなたが代表し
てるらしい国家とやらが本当に市民の安全を第一に考えるなら、星虫を今すぐここで殺すべき
です」
男は、「いや、それは」と、言葉を濁らせる。
市民の安全など考えてもいなかったことを、その態度が雄弁に物語っていた。
「三年前の宇宙船事件での損を、これで取り戻すつもりなんですか?」
言って、秋緒は、皮肉っぽく笑う。
「日米の強行調査によって宇宙の塵《ちり》と化した宇宙船のため、日本は全世界の非難を浴びただけ
でなく、あの時、日本が立て替えた小国の宇宙船買取割当金のほとんどすべてを請求できなく
なってしまっていましたよね。何兆円もの」
男は答えられない。
「娘を実験動物にしないでっ!」と、友美の母が金切り声を上げた。
その声に驚いた男にわずかな隙を見つけた父は、男の腰のベルトに差してあった拳銃をひっ
たくり、星虫の方へ向けた。
「そこをどけ!」という言葉に、星虫を取り囲んでいた防護服の男たちが、あわてて逃げ出す。
「友美、私が引導を渡してやるっ」
あわてて止めに入ったのは、男とその部下たちばかりではない。一縷《いちる》の望みを捨て切れない
母も、その父の腕にすがりついていた。
銃が男に奪い返された、その時だ。
二つの計測機器が、いきなり規則正しい電子音を交互に鳴り響かせ始めた。
「な、何だ?」と、男が聞く。
唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然とした声が返ってきた。
「間違いない、これは心音です。だんだん大きくなってる。ま、まだ生きてます!」
全員の動きが止まった。
「く、車に運べっ!」
男が怒鳴ったと同時だった。
『ボフッ』という鈍い音とともに、星虫が次々と破裂した。
黒く細かい破片が、煙のように草地に立ち昇る。
「外皮が……」と、秋緒が呟いた。
星虫を覆っていた黒い外皮が、爆発するように剥離《はくり》したのだ。
その薄い皮の下から現れたものは、白く輝いていた。
六角の水晶――それをより複雑にカットしたような柩《ひつぎ》。その中には、友美と広樹の姿が、ぼ
んやりと透けて見えていた。
二人の頭全体を紫色の目が覆っているため顔は分からないが、五体無事のようだ。
「友美っ!」
われを忘れて飛び出そうとする友美の母の前に、秋緒が立ち塞がった。
「まだ変態が続いてます。危険です!」
頭を覆う目、へその辺りの丸い目、足元につく元蟻の頭だった目、そしてその両脇から翼の
ように伸びるピンクの目――全ての目が輝き始めていた。
目から出た無数の光の粒子が、七色の輝きを放ちながら明滅し、光の籠《かご》を編《あ》んでいる。見た
こともない、美しい籠を。
「綺麗……」
思わず洋子がうっとりとつぶやいていた。
それと同時に、今まで暗かった水晶部分も、次第に明るさを増し、やがてそれは目映《まばゆ》いばか
りの光量になっていった。
洋子の体が、脇に押し退《の》けられた。
「すごい!」と、呻いたのは、先夜、一緒だったテレビディレクター。夢中で自衛官を押し退
け、ビデオカメラのレンズを向けるのは、カメラマン。自衛隊の不審な動きを察知した二人は
鬼門屋敷の警護の隙を衝《つ》き、高い塀を乗り越え、木陰で先ほどから全てを隠し撮りしていたの
だが、ついに我慢しきれなくなり、飛び出してきたのだ。
デジタル・ハイビジョンカメラのフレームの中で、星虫の最終変態が始まっていた。
水晶の柩は、目映《まばゆ》く輝きながら、ゆっくりと浮上していく。それと同時に柩の底が花びらの
ように開いて、草の上に友美と寝太郎の体をそっと残した。
五つの目の輝きは更に強くなり、陽《ひ》の翳《かげ》った森に新たに二つの太陽が生まれたかのように光
り輝き始めた。
二メートル以上もあるその全体が、縦にギュッと縮み出す。
輝きが更に増した。もう、誰も直視できない。森に光と、熱とが溢れる。
「逃げろっ!」
男が怒鳴り、自衛官たちは、機器を放り出して森に飛び込んだ。
光が爆発した。
全員、頭を抱えて草むらにしゃがみ込む。
だが、それ以上の熱も光もなく、森は静けさを取り戻していた。
ようやく視力が回復した目を上に向けた人々は、信じがたいものを見つめていることに気が
ついた。
空中に、形を得た光が浮かんでいた。
世界中の宝石を使って、超一流の芸術家が作り上げた宝石|細工《ざいく》が二つ。
大きさは一メートル弱。三つの目は、それぞれ頭と腹と胴をなし、その胴を完全に羽と化し
た二つの目が覆っている。全体はテントウムシにも、玉虫にも似ていたが、もっともっと優美
なフォルムをしていた。青みがかったダイヤモンドでできたようなまるっこい全身に、光でで
きた波紋が走る。再び頭部に戻った青の目と、羽の下から大きく目立っている紫色の目が、更
に輝きを増してゆく。
えもいわれぬ柔らかな光が、呆然と見守る全員を照らした。
この世のものとも思えない美しさだった。
「これが、星虫なの……」
感動に身を震わせた秋緒が、呻くように言った瞬間、一体の星虫がブルブルッと体を揺すり、
頭の目の下から、ピンッと銀色の二本の触角を突き出した。
「起きたんだ」
洋子が、その剽軽《ひょうきん》な動きに、クスッと笑う。宝石で作られた丸い体は、愛らしくもあった。
変態を完了した星虫は、全員を見回すようにゆっくりと回転を始めた。その体が、ピクッと
したのは、隣に浮く自分とよく似た物体に気づいたからだろう。
もう一体の星虫は、先に目覚めたものより、少し小さめだった。頭の色も少し違うし、羽の
下に透けて見える丸い胴も発育不全のようだ。
大きい星虫は、いきなりきちんと収納されていた長い足を伸ばした。数日前の、あの鋏つき
の足が、復活している(今度の鋏は透明に近いグリーンで、三本指になっていた)。その足で、
ツンツンと小さめ星虫の頭をつついた。
いきなり小さめ星虫の頭に光が宿り、体が揺れた。ズッと、何十センチか落っこちて、また
フラフラと浮き上がる。
「間違いない。小さい方が、寝太郎くんのだ」と、洋子が言った。
星虫たちは、人間たちを完全に無視し、互いに向き合って、触角を震わせていた。
その腹をなす紫色の巨大な目が、次第に目映い輝きに満ちてくる。
寝太郎の星虫が森の中に、すっと入っていった。そのあとを友美の星虫が、楽しげに追う。
唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然と見守っていた全員の中で、戻ってきていた男たちが、あわてて叫んだ。
「追えっ! 絶対に捕まえるんだっ!」
それをまた、マスコミの二人が追いかける。
しかし、残る全員は、星虫が横たわっていた場所へ駆け寄っていた。
「友美っ!」「広樹っ!」
友美の母と秋緒の声が、同時に森に響く。
二人はびしょ濡れで、草の中に横たわっていた。
顔色は青く、唇に色がなかったが、微《かす》かに呼吸しているのは確かだった。
飛びつこうとする母を止めた秋緒は、自衛官たちが残していった診療器具を使い二人を診察
していたが、やがて笑みを浮かべた。
「助かりますか?」
すがるような父の声に、秋緒は首を振った。
「熟睡《じゅくすい》してるだけです、二人とも。衣服は穴だらけですが、体には傷跡一つ残ってません」
歓声が湧く。隆がバンザイを叫ぶ。
抱き締めた母の腕の中で、友美はうっすらと目を開いた。
「……広樹くんののろま、まだ来ないんだから」
「友美っ!」
幸雄と両親の声が、友美の頭をガンガン鳴らす。完全に目が開いた。
「あれ……母さんたちも死んじゃったの?」
ぽかんとした友美の頬に、母のビンタが炸裂《さくれつ》した。
「このこのこの、親不孝者っ!」
あわてて止める父と幸雄たちの横で、寝太郎も目覚めていた。
「俺、生きてんの?」
「大馬鹿もんが!」と、祖父が怒鳴る。
寝太郎は、祖父と秋緒が並んでいるのを見て、戸惑ったような笑みを浮かべた。
「まだ安心は早いわ。病院へ行き、精密検査を受けてからでないと。本当に、無茶もいいとこ
ろよ」
「……てことは、助かったんだ」
寝太郎は、やれやれと脱力した。
「せっかく熟睡してたのに、あのまま、死んでた方が楽だったなぁ……」
秋緒は、クスクス笑っていた。口ではああ言ったが、もう命の危険はないだろう。星虫の正
体が、この時すでに秋緒には、見当ついていた。
突然、寝太郎が飛び起きた。
「そうだ、友美はっ!」
その必死の顔は、全員が初めて見るものだった。
「いるよ」
隣で友美が、小さく手を振る。
ほっとした寝太郎の体が、また草の上に倒れた。
友美は、その寝太郎の無事な姿に、照れ臭さと、たまらない嬉しさを感じていた。
助かったなんて夢みたいだった。いや、夢といえば、昨日までの一週間が、すべて現実では
なかったようにも思える。この森も、今はただの雑然とした林にしか見えなかった。
星虫は、本当にいたのだろうかという疑問が、心に沸き起こってきていた。
「星虫は?」
おずおずと訊ねる友美に、幸雄が森を指差した。
「抜けていったんじゃないかな? やけに静かだし」
直人が言い、洋子もうなずいた。
「逃《のが》したって声、私聞いたけど」
「誰か追っかけてるの?」
友美が、立ち上がろうとしてよろけた。
「あいつは友美の分身だろ。そう簡単に捕まるもんか」
体を支えた幸雄が笑った時、『ドカンッ』という星虫が音速を突破した衝撃波が森を揺るが
せ、一瞬、森の中の狭い空に二つの光点が天に昇るのが見えた。
友美はふらつく足を踏ん張って立ち上がった。
「あの子たち、もう、宇宙へ?」
言った途端、二つの光が小さな空を横切る。
「ここじゃ駄目だ。開けた場所へ出よう」と、幸雄が背中を出し、友美は飛び乗った。
寝太郎も半身を起こし、まだ目を覚ましきっていない体に力を込める。
目の前に、手が差し出されていた。
直人が不機嫌そうに見下ろしている。
「負けたよ。お前には……」
寝太郎はニッと笑うと、その手をがっしりつかんだ。
太陽が西の空に沈もうとしていた。
町は騒然としていた。人々が家から飛び出し、車から降り、空を見上げている。
深いブルーの空の中を、二体の星虫が乱舞しているらしい。
友美たちが目指しているのは、高校。グラウンドか校舎の屋上。
駆けつけた校庭では、同じように考えた近所の人々やマスコミが、早くもカメラの砲列を空
に向けていた。口を開けて空を見つめる百人近い人々の中には、この騒ぎに驚いた担任ら教師
たちの姿もあった。
「委員長……相沢も、無事だったのか!」
信じられないといった面《おも》もちで、担任が走ってきた。
すんませんと謝る寝太郎の肩を叩き、よかったを連呼する。
何事かと、人々が友美たちに注目した時、秋緒が天の一角を指差した。
「いたわ!」
たちまち全員の目がその指の先に向いた。
オレンジ色に染まった雲がたなびく東の空に、紫色の光点がかろうじて見えていた。それは
UFOのような非常識な航跡を空に描きつつ、北へ動いている。
友美と寝太郎の二人には、その飛び方だけで星虫の有頂天ぶりが分かった。また空を飛べる
ことが、楽しくて仕方ないのだ。
と、その星虫を追っていた視界に、また一つ、紫に輝く物体が割り込んできた。
もう一体の星虫の登場に、人々がどよめいた。
二体になった星虫は、ぶつかるほどの距離に近づいたかと思うと、いきなり目にも止まらぬ
速度で、互いの周りを回転し始めた。
紫の輝きが強まる。北の空に、巨大な紫色の光の輸が描き出されていた。
ごうっという音までが聞こえてくる。紫よりも、白光が強まっていた。
「大気との摩擦であんなに光ってるんだ」
友美はそう言って、横に立つ寝太郎を見た。
うなずいた寝太郎は、「あいつらだけ、楽しんでやがる」と、羨《うらや》ましいそうに言った。
人々の歓声が続く。
たそがれてゆく空を舞台に、星虫たちの乱舞は、ますますエスカレートし、校庭の人数は増
える一方だ。
もう、校庭には五百人からの人が溢れていた。その中にはテレビで見慣れたレポーターが何
人も混じっている。ちょうど友美たちの真横でも、カメラに向かって興奮した口調で怒鳴り始
めていた。
人々の大騒ぎの中で、友美と寝太郎は、茜色《あかねいろ》に染まった空を舞う星虫を見続けていた。
こうして、生きているのが不思議だった。自在に空を切り裂く物体を、自分らが育てたとい
うのが、信じられなかった。
「ここ、あの世じゃないよね?」
急に不安になった友美は、寝太郎の穴だらけのシャツの袖を引っ張った。
寝太郎は、「みんないるし、ここがあの世でも、俺、いいけどな」と、笑う。
「そうだね」
友美はうなずいた。本当だ。両親も兄も洋子も友人たちもいる。そして、何よりも寝太郎が
すぐ横にいた。たとえここがあの世でもかまわない。
「でも、あの星虫だけは現実の方がいいな」
でなければ、命を懸けた意味がなかった。
「現実よ、ここは」と、洋子が笑う。
「俺たちまで、殺すなよな!」
目を星虫から離さずに、隆が怒鳴る。
やっと友美はこれは死後の世界でも、夢でもないのだと、納得できた。
そして心からの祝福を、遠い空を駆け巡る星虫たちに贈る。
『よかったね。頑張ったね。宇宙へ帰っても、私たちのこと、忘れないで!』
と、突然、星虫たちが、その目にも止まらね動きをピタッと止めた。
そのまま動かなくなり、ざわめきが校庭を埋める人々から出始める。
「何してんだ?」
寝太郎が首をかしげ、友美を見た。
「友美なら、分かるだろ。もう宇宙へ帰る気か?」
友美は戸惑い、首を振った。自分にも、すでに星虫との一体感はない。
「どうしたの?」
視線を戻し、遠い空へ、また友美は語りかけた。
途端に、一体の星虫が動き、あわててもう一体も続いた。猛烈な速度だ。その輝きがどんど
ん強くなる。
「おい! 真っ直ぐこっちに向かってくるぞ!」
誰かが叫ぶ。
遥か南の空に浮いていた二つの光点が、真一文字に高校めがけて急降下し始めていた。
悪夢のような速きだった。
空の彼方から、たった数秒で落ちてきた星虫が、人々の頭上を掠めた。
「うわ〜っ!!」
人々が叫び、なぎ倒されるように地べたに這いつくばる中で、友美と寝太郎だけは、つっ立
っていた。
二人には、大丈夫だという不思議な確信があった。
星虫たちは、倒れた人々の頭上で急制動をかけ、立っている友美たちの少し前で止まった。
友美の前に、星虫の空色の目があった。その滑らかな表面に、自分の姿が映っていた。
宝石――それも自ら温かな光を放つ宝石でできた生き物が、少し体を傾けて、浮かんでいる。
何か言いたげに、まるで甘えるように、その生きた宝石は体を震わせていた。
友美には分かった。この子がどうしたいのかが!
「そうだよ。私よ!」
両手を広げた少女の胸に、星虫が飛び込んだ。
抱き締める腕の中で、星虫の全身が目映《まばゆ》い七色の輝きに満ちた。
その輝きは友美の全身を覆う。まるで光のドレスをまとった姫君のようだった。
どよめきともため息ともつかない声が、見守る人々の中から出ていた。
再び星虫と感情が一つになってゆく。友美の心は喜びと感動に満ち溢れていた。
その横でも、再会が果たされていた。
寝太郎の頭に、収納していた全ての足で齧《かじ》りついた星虫は、髪をクシャクシャにしながら体
を持ち上げようとしている。
「やめいっ! こらっ!」と、こっちの方は友美たちとは違い、えらく騒がしい。
ようやくショックから立ち直った人々の中から、笑いがおきる。
五台あった衛星中継用のカメラが、二人と星虫を捉える。
「ライト消せっ!」と、ディレクターが怒鳴る。星虫の輝きで充分だった。
その声も今の友美には、届かない。
自分が育てた星虫に頬擦《ほおず》りし、涙を溢れさせていた。
「綺麗だね。ほんとに、綺麗だね……」
友美がまとう光のベールは、更にその輝きを増していた。
「ててててててっ!」
隣では寝太郎と星虫が格闘していた。星虫は懐かしいのか、顔面に張りついて離れようとし
ないのだ。
寝太郎の悲鳴に、思わず目をやった友美は、ブッと噴き出した。感動の再会も、これでは台
なしだ。
星虫を抱きながら、ケラケラ笑う友美に、おっかなびっくりだった連中も、安心したらしい。
笑いの渦が、急激に広がっていった。
そして、報道陣が、二人の前に殺到した。
この二人こそ、全世界が探し求めていた行方不明の少年少女であり、この美しく不思議な物
体が、世界最後の星虫だった。命を懸けても取材する価値はある。
だがその彼らより早く、拡声器の声が校庭に響き渡った。
「動くなっ!」
ハウリングをおこすほどの音量だ。星虫までも、びくっと震えた。
声は校門からだった。振り向いた人々が見たのは、自衛隊の装甲車――それも五台だ。その
先頭車から、一人の男が降りたところだった。
「あいつだ!」
幸雄が拳《こぶし》を作って、友美に言った。
「政府の回しもんだ。星虫を狙ってる」
なるほどと、寝太郎は暴れる星虫をヘッドロックに決めながら、友美を見た。
「こいつは貴重な宇宙生物だし、その上、この能力だ。欲しいよな、政府としたら」
三十人以上の自衛官が、こちらに向かってくる。
「そこの二人! 危険だからその星虫を引き渡しなさい! 手を離すなよ!」
友美は呆れて、走ってくる男たちを見据えた。
「どうして、友美が引き渡すなんて考えられるんだろうなぁ」と、幸雄が笑った。
「星虫を、馬鹿な役人から守れっ!」
直人が怒鳴り、隆とともに自衛官たちに突っ込んだ。
「友美、逃げろ!」と言って、幸雄もあとに続いた。
そして成虫になった星虫の美しさ、剽軽《ひょうきん》さ、可愛らしさに感動していたのは彼らばかりで
はない。たちまち二人の盾《たて》は、数百人になった。
彼らに守られ、友美は星虫を見つめていた。
「もう、行けるね?」
気持ちは、確実に伝わっている。星虫の腹が、再び紫の輝きを増していった。
「じゃ、行っといで!」
友美は、真っ直ぐ天を指差した。
「ほら、行けっ!」と寝太郎も頭から星虫をひっぱがすと、無理やり空へ放り投げた。
残照の中、あっという間に役人の手が絶対に届かないところまで上昇した星虫は、名残《なごり》を惜
しむかのように、途中で静止した。
「……ほんとに宇宙へ行けるかね?」
寝太郎の祖父が、友美の横に立ち、訊ねた。
「きっと」と答えたのは、何と秋緒だった。
「吉田さん」
驚く友美に、秋緒は小さく吐息をつく。
「友美が正しかったわ。きっと星虫は宇宙へ行けると、私も思う」
人々の歓声が上がる。上空、星虫の周りに銀色の輸ができていた。
「土星じゃあるまいし……」
腕組みした寝太郎がつぶやいた瞬間。
『ドーンッ』という重低音とともに、星虫が消えた。
「爆発したの?」
驚く洋子に、友美は「ううん」と指差した。
陽《ひ》が落ちたとはいえ、まだ夜には遠い空に、二つの星が微かにきらめいて消えた。
風が急に舞い始める。星虫たちが宇宙へ向かった証《あかし》の風だった。
自衛官、役人、連中から友美を守ろうとしていた人々、そしてレポーターたちまでも、しば
らく無言で空を見上げていた。
帰ったのだ。
そして、帰せたのだ。
友美の心では、寂しさと、喜びとがごっちゃになっている。
「やったな! 友美」
寝太郎が笑っている。そう、笑っていいんだと、友美にも分かった。
「やったよね。私たち、やれたんだ!」
両手を取り、跳ね上がって喜ぶ二人に、右目を腫《は》らした隆が走ってきた。
「よくやったよ、お前!」
バシンと、寝太郎の背をはたく。
「うん、よくやった!」
祖父も、孫の頭を叩いた。
「えらいぞっ!」と、見知らぬ男が友美に声をかける。
星虫に感動した一人の少女が拍手を始めると、それはあっという間に全体に広がっていった。
「みなさん! 世界でただ二人、星虫を宇宙に帰したこの二人に対し、バンザイを三唱いたし
ましょうっ!」
お調子者の隆が、大声で怒鳴った。
「せーのっ!」
街灯が点き始めた町に、時ならぬバンザイの声が流れていった。
友美と寝太郎は、祝福する人々に囲まれ、どうしてこうなるのか分からぬまま、バンザイを
続けた。
その二人めがけて、報道陣が再び迫ってきている。
気配にいち早く気づいた寝太郎の姿が、友美の横から不意に消えた。
何百人もの人の輪から抜け出した寝太郎の前に、誰かが立ちはだかった。
「一人だけ逃げるの?」
秋緒が腕組みして、弟を見つめる。
「俺やだよ、TVなんか」
「駄目よ、広樹。いつまで寝ているつもり?」
寝太郎は頭を掻いた。
「十年も寝たら充分のはずよ。そろそろ、お姫様を手に入れたくならない?」
「……お姫様?」
「昔話の寝太郎は、ある日目覚めて、京《みやこ》に上り、手柄を立てて、お姫様をお嫁にするの。あな
たも寝太郎なんでしょう?」
そして秋緒は、マスコミに囲まれてあわてている友美を目でさした。
寝太郎は驚いたように、その少女を見つめた。
お姫様という言葉が、心の中にこだましている。
昔、彼を泣かせた、いじめっ子の女の子がいた。たった半日で三度も泣かされ、今度来た時
には仕返ししてやろうと、一杯|罠《わな》を仕掛けて待っていた。待って待って待ち続けたが、その子
は現れない。それでも待っている間に、いつしか女の子への思いは、敵愾心《てきがいしん》から懐かしさに変
わり、早く来ないかと待ちわびる気持ちになっていった。
十年の間、待ち続けた少女……。
そう。その女の子が、寝太郎のお姫様に違いなかった。
それが分かった時、寝太郎は体の中に、今まで感じたことのないやる気が満ち満ちてくるの
が感じられた。お姫様を手に入れるためなら、何だってできそうなくらいに。
「……うん。なら、起きるか!」
そう言って大きく伸びをした背中に、秋緒は呼びかけた。
「この星虫事件で、プロジェクトの発表が早まるかもしれないわ。マスコミにも慣れておいて
もらわなくちゃね」
「まだ、参加するとは言ってない」
「でも、そうしないと、出世して、お姫様をお嫁にもらえないかもしれないわよ」
「自分で何とかする。こう見えても、親父の息子だぞ」
寝太郎――いや、目を覚ました広樹は、大股で人込みの中へ戻っていった。
広樹を見つけた友美が、その腕を取って何か怒っている。
クスクス笑う秋緒の後ろで、直人は腕組みしていた。
頬に受けた自衛官のパンチのおかげで、ハンサムが台なしになっている。
「はい。水で冷やしなさい」と、洋子が濡らしてきたハンカチを手渡した。
直人の目は、カメラの砲列の前で楽しげに体を寄せ合い、インタビューに答える友美と広樹
から離れなかった。
「結局、似合いのカップルだったのよ」
二枚目に変身した広樹を指差し、洋子は直人に言った。
「それに寝太郎くんは、六つの時から友美が好きだったわけだしね。キャリアでも直人はかな
わなかったってこと」
長い長いため息をついた直人は、頬にハンカチを当てた。
「人は見かけによらなかったわけだ」
うなずいた洋子は、意を決して顔を上げた。
「私も寝太郎くんと同じく、ちょっと見かけによらないよ」
「どこが?」
「五歳の時から、隣ん家《ち》の男の子が好きだった」
直人は呆れ顔で、洋子を見た。
「馬鹿、こんな時に冗談言うな。俺とお前は、ただの幼なじみだろ?」
洋子は何も言わず、その鈍感男の手をひねり上げた。
明るいライトを浴び、テレビでよく見るレポーターからインタビューを受けながら、友美は
まだ有頂天だった。生きていられた喜び、そして昼虫を無事に宇宙へ帰せた喜びが、友美を酔
わせていた。広樹の腕を抱え込んでいたのも、気づかないほどに。
その彼女の姿は、全世界にリアルタイムで中継されている。
ただの女子高生だった少女は、そこにはもういなかった。
[#改ページ]
エピローグ
[#改ページ]
星虫が宇宙へ帰ってから、あっという間に一週間が過ぎていた。
友美たちにとって、この一週間は、星虫事件の時よりも更に慌ただしいものだった。
二人の生存と、二体の星虫が宇宙へ帰ったことは、トップニュースとして全世界に報道され
ていた。中でも、星虫の最終変態を撮影したビデオは、世界中で何度放映されたか分からない
ほどだ。決死の撮影をしたカメラマンとディレクターは英雄あつかいだった。
そして、星虫を捕らえようと自衛隊まで繰り出した日本政府は、またまた大きく株を落とし、
今度の選挙では、○○党の政権維持すら難しくなっていた。
この世のものとも思えない星虫の美しさは、四日目以来株を落とし、黙ってしまった宗教関
係者に、再び活気を取り戻させてしまっていた。
星虫こそは、神の試しだった。神が人間に対し、我身を捨て星虫を育てられるかどうかテス
トをしたのだ。もし、一体の星虫も宇宙に帰せなければ、人類はその瞬間に滅び去っていたに
ちがいない。二人はいわば救世主だと。
宗教家たちの言葉を、一笑のもとに切り捨てられない美しさが、星虫にはあった。
星虫たちと、友美、広樹との別れのシーンには、『星虫こそ天使の化身だ』という説を、無
宗教の人々にも納得させる力があった。
そんな宗教家は極端に過ぎるにせよ、死の恐怖に打ち勝ち、星虫を宇宙へ帰した二人への
称賛《しょうさん》は、友美へのインタビュー内容が知られるにつれ、絶大なものになっていった。
星虫事件において、人間は地球の立場に立たされていたのだという友美の説。そして、地球
の叫びが、自己を犠牲にしても人間を宇宙へ旅立たせようとする複雑な感情だという説は、今
や八割方の人々に真実として受け入れられていた。
星虫の正体は依然として謎だったが、その株は再び急騰《きゅうとう》し続けている。
友美と広樹は、半ば特別な存在に祭り上げられようとしていた。強制的に入院させられた病
院の周りは、千人以上の全世界から集まったマスコミと、それに倍する宗教関係者や野次馬が
取り囲み、カーテンを開けることすらできない。
途方にくれた友美と広樹に、助け船を出してくれたのは、秋絡だった。
広樹の父が夢見、秋緒が作り上げた人類と地球環境を救うための計画が、ついに動き始めた
のだ。
三日前のことである。
あの宇宙船発掘事件で巨万の富を得た女性が、全世界に向けとんでもない提案をした。
建設していたレジャーランドとは、実は国連宇宙開発機構が計画した海上都市そのものだと
発表し、『進化計画』を実現し遂行する目的にのみ、建設中の施設を含む、全資産を提供する
用意があると語った。同時に、それらを活用し運営するために、国連から宇宙開発機構を完全
に独立させ、大国のエゴに左右されない宇宙進出のためだけの新国際組織とすることを求めた
のだ。
世界は驚き、その意味するところが理解され始めるにつれ、大騒ぎになった。そして、昨日
まで極悪人の代名詞のように言われていた女性は、一挙に地球を救う英雄と化した。
緊急に国連総会が開かれることとなり、三日後の今日、その議決が全世界注視の中、行われ
ようとしていた。
友美たちの教室でも授業を中断し、その歴史的瞬間を見るため、特別にテレビが点けられて
いた。
議決までの待ち時間の間に、進化計画の概要を紹介する映像が流れ始める。
三日前、この発表があった時に放送したものの、何度目かのリピートだった。
それでも最新のコンピューターグラフィックで構成された画面が、圧倒的な迫力で展開し始
めると、生徒たちの目はテレビに釘づけになってしまった。
真っ青な南方の海。その直中に立つ四つの巨大な塔。画面はいきなり海底に潜り、作業する
ロボットの様子を描き出した。この海底作業ロボットが、プロジェクトシティと呼ばれること
になる海上都市の基礎工事を受け持つ。
再び海面に画面が出た時には、四つの塔は、幾層もの複雑なモジュールで結ばれ、巨大な空
間が構築されていた。更に各国のドックで建造され、船に引かれて来た巨大なモジュールが、
次々と合体してゆくさまが、CG独特の三六〇度を旋回する視点で映し出される。あっという
間に、とても人工物とは思えない巨大な島が、洋上にそびえていた。
そして、また画面は海底へ向かう。シティの真下から海底山脈に沿って、一本のとてつもな
く長いパイプが伸びてゆく。そのパイプの中へと視点が移る。内側には槍のように細長い優雅
なフォルムのシャトルが走っていた。チューブの中で、その針のような先端が赤くそして真っ
白に輝き、更に加速を続ける。シティから百二十キロも離れた無人島に、パイプの口が開いて
いた。その先から、目にも止まらぬ速度で光が飛び出した。光を追って視点は宇宙へ舞い上が
る。衛星軌道上に着いたシャトルの腹が開き、これほど入っていたのかと思えるほどの量の物
資が真空中に運び出され、シャトルは去ってゆく。しかし、すぐまた次のシャトルが、新たに
画面に出現していた。
最初は、宇宙に浮かぶ塵《ちり》だった。それが、テレビ画面下の日付の動きとともに、加速度的に
巨大化してゆく。一年で倍、二年目で三倍、そして五年目では、二十倍にも達している。それ
はもはや、宇宙ステーションというようなスケールではない。一つの星だった。視点はその星
に向かう。巨大な衛星の中には、町があり、森があり、地球の環境がそのまま移されている。
衛星の外側には、次々と巨大な小惑星が曳航《えいこう》され、それを材料とした宇宙船や、居住ブロック
が作られてゆく。衛星で作られた宇宙船の向かう先は、月だ。この月が最初の大規模居住地兼、
計画の原料や燃料の供給地となる。
最後に映し出されたのは、スペースコロニーだった。その大アップとともに、映像は再び地
球へと向かう。真っ青な海面に浮かぶ四つの巨大な建造物を映し出す。それは現実の映像だ。
三年後、このプロジェクトシティは完成する。その時、全世界から三万人の若者が公募される
ことになるはずだ。
画面は、再び、国連総会の映像になっている。議決はもうすぐのようだった。
友美は、心配そうに隣の広樹を見た。
「拒否権なんか、使わないよね?」
今やきちんとアイロンのかかったワイシャツとズボンを身につけ、目もばっちりと開いた広
樹が、大丈夫と笑う。
「そのために姉貴たちが、発表前に駆け回ったんだ。根回しは充分できてるよ。ちょっと汚い
けど、国際政治って、そんなもんらしい」
友美はうなずく。この時期に発表を繰り上げてくれた秋緒に感謝した。
でなければ、マスコミのおかげでまだ病院からも出てこれなかったろう。妙な宗教関係者や、
何社かの雑誌が追ってはいたが、学校に来られないほどではない。
「ほら、始まったぞ」
広樹の声に、友美は目を画面に戻した。思わず目を閉じて祈る。
どきどきと見守る彼らの前で、しかし、呆気なく議決は終わっていた。
大国の拒否権どころか、反対する国すらなく、満場一致で、女性の提案は受諾《じゅたく》された。
この瞬間、進化計画を実行することを目的とした、『宇宙開発機構』が誕生した。
「やった!」
友美は飛び上がって喜び、広樹の両手を取った。
これで、おじさんの、秋緒の、友美と広樹の夢が叶うのだ! そして、すでにそれは友美と
広樹だけの喜びではない。教室の全員が、立ち上がっていた。
担任が大騒ぎの生徒たちを見回して、心配そうに告げた。
「でも、みんな。宇宙は危険な場所なんだぞ」
全員、きょとんと担任を見返した。
「確かに宇宙に出るのは人類の最大の夢といってもいい。しかしそこは、住むのに向いた環境
ではないんだ。強烈な紫外線。地上の三十倍もの放射線。大気なし。温度は零下二七〇度。い
くら対策を講じても、危険な場所であることに変わりない。無重量が生物に与える影響も、ま
だ研究段階だ。そういう意味では、本当に、見切り発車だな」
確かにそうだ。クラスの中に、思わず白けた雰囲気が漂った。
「先生は、進化計画に反対なんですか?」
怒ったような友美の質問に、担任は答えず、逆に全員に訊ねた。
「色々問題はあっても、まだプロジェクトシティに行きたい者は?」
ほぼ全員の手が上がった。
「何だ、宇宙が怖くないのか?」
担任は目を丸くし、そして告げた。
「それなら、是非とも、頑張ってくれ」と、真剣な面もちで。
気の抜けたような生徒たちを前に、彼は続けた。
「歴史上、巨大な『プロジェクト』は、数多くあるな。万里の長城、エジプトのピラミッド、
奈良の大仏でもいい。アポロ計画もその一つだろう。それらに進化計画のような問題はなかっ
たか? とんでもない。万里の長城の建設で、農民が何万人死んだか。ピラミッドを建てたの
も、農民や奴隷《どれい》だった。大仏|建立《こんりゅう》時、金メッキに使われた水銀などの重金属の中毒で、死人
や病人が続出した。アポロ計画でも、国民全部が賛成していたわけじゃない。そんなものに使
うなら、福祉に回せと、大規模な反対運動が起こってたんだ。巨大プロジェクトは、その同時
代の人々にとっては、とてつもなく迷惑千万な代物《しろもの》だ。しかし、未来に生きる子孫にとっては、
それは感動を与え、揚子江《ようすこう》と黄河《こうが》を結ぶ大運河のように、実利さえ伴う素晴らしい人類の成果
なんだ」
しんと静まり返った教室に、担任の声が響く。
「この『進化計画』は史上最大、地球最後の大プロジェクトになる可能性がある。全周二十キ
ロを超えるプロジェクトシティには、百万人が居住可能だ。静止軌道上に作られる中継基地の
直径は三キロ。最終的には、その四倍にもなる。しかもそれが始まりに過ぎないんだからなぁ。
月面都市。そして、オニール博士が提唱したスペースコロニーの建設が成功すれば、人類は、
永久に居住地には困らなくなるんだ。確かに宇宙は危険だ。これから計画が進めば、事故も難
問も出てくるだろう。しかし、人類が宇宙に生活圏を広げ、未来の子孫に自然を残せることに
比べれば、大した問題じゃない」
そして、「その上に」と、担任は生徒たちを見渡した。
「もし三年後の試験に受かることができれば、君たちはプロジェクトシティで教育を受けるこ
とになる。そこは全世界、津々浦々、ありとあらゆる人種、国民が集結する、本当の意味での
国際都市になるんだ。そこで学べるのは、学問や技術だけじゃないはずだ。英会話が必須《ひっす》だか
ら、言葉の壁もない。友人が、別の国々からやってきた友人が何人もできるだろう。人種や国
家を超えた友人が。そして、君らは宇宙へ出る。そこには、国境なんかない――つまり君たち
は、人種も国境も関係ない、人類史上初の『地球人』になる可能性があるということなんだ」
生徒たちの頭の中は、すでに飽和状態だ。
ただ単純に宇宙へ行けるかもと思っていた高一の彼らには、まったく予想もしない話の成り
行きだった。
その雰囲気を感じた担任は、入りすぎた肩の力を抜いた。
「おいおい、ぼーっとなるのは、まだ早すぎるぞ。それは試験に受かればの話だ。現実は厳し
いぞ」
「分かってます」と、直人が苦笑いした。
「何億分の三万ですからね」
だが、担任は首を振る。
「問題は人数だけじゃない。今言ったように、英語という大関門がある。日本人には、まだま
だ不利だ。途上国の受験者は圧倒的に多いだろうし、その人々の多くが英語を使って生活して
いる。一旦受かれば、無条件で学資から生活費の全てを無利子で貸し付けてくれる上、人類の
最先端で働くことができる宇宙開発機構を目指して、全世界が動き出しているんだ。昨日もチ
リの子供たちが、養成学校のテスト科目になる基礎数学と英語の勉強に入ったニュースがあっ
た。あとは、新方式の知能適性検査に合格できれば、プロジェクトシティへ行ける。貧困から
脱出するために、彼らは必死に合格を目指してる。全てに満ち足りた日本の学生とは、意気込
みが違ってるからな」
教室に重苦しい空気が充満した。
「……やっぱり、アメリカ有利にしてんだ。卑怯《ひきょう》だよな」
隆のつぶやきは、生徒ほとんどの気持ちの代弁だった。
「何を言ってるんだ。まだ三年もある。充分な時間だ。それに必要とされてる人材は、何もハ
イテク分野だけじゃない。農業、林業、園芸、芸術、教師でもいい。三年後が無理でも、それ
から毎年、数万人ずつ増員していくんだからな。本当に今、この時代に若者である君たちが、
羨ましい。君らなら、どんな大きな夢でも育てられるはずだ」
そして担任は、その自分の言葉で思い出したように友美を見た。
「そういえば、みんな。この間の進路調査。委員長は第一志望に何と書いたと思う?」
友美はドキッとして、少し青ざめた。昔、小六の時に、教師からほとんど同じ言葉を聞いた
覚えがある。
「東大だろ?」とかいうざわめきが聞こえる。
教室の声すら、その時と同じだった。友美の胃の辺りがきゅっと縮まる。そして悪夢のよう
に、教師は予想通りの言葉を吐いた。
「何と、宇宙飛行士。それも、パイロットなんだそうだ」
目を閉じた友美は思わず全身に力を込め、全員からの笑い声に耐えようと身構えた。
教室に、どよめきのような声が沸き上がっている。
身を固くした耳に、「さすがだな!」という声が聞こえて、はっと目を開けた。
嘲笑を覚悟していた友美だった。しかし周りから浴びせられていたのは、賛嘆の声と、同感
の視線だった。
友美は思わず立ち上がり、教室を見回した。
みんなとの間に感じていた壁が、みるみる溶けてゆく。いつの間にか全員が、同じ夢を持つ
仲間に変わっていたのだと知った。
「そう、委員長なら、きっと夢を叶えるだろう。しかしな」
そう言って、今度は隣の広樹を見る。
「この相沢にも、努力次第でプロジェクトシティにゆくチャンスは、大いにあるんだ」
途端に友美の顔に浮かんでいた喜びの笑みが消え、逆に教室に笑いが沸き上がった。
直人たち、広樹の正体を知る四人も、とても笑えない。
秋緒から口止めされていたが、広樹が宇宙開発機構のメインスタッフにスカウ卜されている
のを、はっきりその耳で聞いてしまっていたのだ。
笑いが収まったのを見はからい、教師は続けた。
「というわけで、今日から全教科、宿題を倍にする。文句ないな?」
放課後になり、久し振りに友美たち六人が一緒に校門を出ようとしていた。
「知らないというのは、恐ろしいことだなぁ」と、正夫が笑った。
「俺、もうちょっとで、寝太郎のこと、言いそうになったぜ」と、隆。
「寝太郎はやめて」と、友美。
「そうそう。お姉さん怒らせたら、面接で落とされるわよ」
笑いながら言った洋子は、その目を広樹に向けた。
「でも、本当に学校やめないの? すぐ来てくれって言われたんでしょ?」
さっぱりした頭をこくりとさせる広樹に、勿体《もったい》ねえという隆の声が上がる。
「そうだぞ。先生の話じゃないが、俺たちが地球のためにやらなきゃならないんだ。氷室さん
と星虫を育て上げたお前なら、分かるはずだろが」
直人が、責めるように広樹を睨んだ。
「だから、宮田らと一緒に受験するって言ってるだろ?」
「そういうこと」
広樹と友美が息を合わせる。
「大体、五日前に病院で会って以来、姉貴はアメリカだし、何の連絡もないんだ。やっと勘違
いに気がついたんじゃないか?」
呑気《のんき》に言った広樹に、全員顔を見合わせた。あれほど執着していた秋緒が、そう簡単に諦め
るとは信じられない。
「ま、それも楽しいか。俺は、運動のエキスパートになって行くつもりだ。一緒にやろう
ぜ!」
隆が広樹の背中を叩く。
「正夫は、プログラマー目指すんだろ?」
正夫がうなずく。
「私は、画家になろうかな」と、洋子は友美に言った。
「友美を見習うわ。昔持ってた夢を追いかけることにしたの。星虫の目で見たものが、百枚で
も描けそうだし、宇宙から見た地球をこの目で見、描きたい」
頬を染める親友にうなずいた友美は、横の直人に聞いた。
「宮田くんは?」
「俺も、氷室さんを真似させてもらうよ」
直人は照れくさそうに言った。
「実は、宇宙飛行士が、夢だったんだ。君に追いつくのは、骨だろうけどね」
友美のことが吹っ切れた笑顔だった。洋子が、小さくウインクを送ってくる。二人は上手く
いっているらしい。
「みんなで行けるといいね!」
友美は心からそう願って、全員を見つめた。
「じゃ、俺たちは、ここで」と、隆が正夫の肩に手をやる。
「今日から、数学教えてもらうんだ。こいつにな」
「ま、隆でも、三年あればなんとか……」
隆が正夫を小突く。
「おい相沢。言っとくけど、先に行っても構わんからな。どうせ俺たちも行くんだ!」
正夫に追っかけられながら、隆はそう怒鳴り、手を振った。
笑いながらそれを見送っていた洋子も、直人を見上げる。
「じゃあ、私たちもここでね」
うなずいた直人が、友美と広樹を見た。
「相沢。俺も、お前は先に行くべきだと思う」
「いいの! もう」と、洋子がその口を手でふさいだ。
「じゃあね。友美。相沢くん。また明日」
並んで橋を渡っていく二人を、友美と広樹は見送った。
「森に寄ってくか?」
広樹が、友美に聞く。
「そうね!」と、明るく友美は答えた。
星虫をなくしてしまった友美の目にも、午後の竹林は美しく感じられた。森への門は閉まっ
ていたが、地球の声は、静かに聞こえてくる。
友人たちと別れると、友美の胸に得体の知れない不安が頭をもたげ始めた。
降と直人の言葉が心に重くのしかかっていた。広樹は、ここにいるべきではない。一日も早
く進化計画に参加すべきだ。友美以外の全員が、そう思っている。
でも、友美はそれが嫌だった。
星虫を、二人で命懸けで帰した時から、ずっとこれからも広樹と一緒なのだと、漠然と信じ
ていたから。
しかし、このぼ〜っとした少年を鍛え直してやろうと思っていた自分が、いかに身のほど知
らずだったかも、痛いほど分かっていた。広樹は、紛れもなくあのおじさんの息子だった。秋
緒と同じ、特別な人。ずっと同じ道を歩けそうもない、遠い存在。
だから、この三年間の高校時代くらい、一緒に過ごしたかった。
「ほんとにお姉さんから、連絡ないの?」
友美は何気なく訊ねたが、内心震えていた。広樹を連れ去る秋緒が怖い。怖いからこそ聞い
ておきたかった。
「ああ。ぜんぜん」
屈託なく広樹は笑う。彼の能力を認めていないのは、今や彼だけだった。
「宇宙へはもう一度行きたいから受験はするけどな。友美と違って受かるかどうか」
ぼやく広樹に、友美は呆れた。
「受かるに決まってるじゃない。なんだったら、シータとプレ・ログの次を作っとけば? そ
うすれば、きっとフリーパスよ」
なるほどと、うなずく。
「実をいうと、もう始めてんだ。目処《めど》は立ってる。三年あれば、完壁なものができると思う
な」
「言ったはずよ、それじゃ間に合わないわ」
突然、竹林によく通る声が響いた。
秋緒が、電動の車椅子に乗ってやって来るのが見えた。
「少なくとも、さ来年までには、新言語が必要なの」
二人の目の前で止まった彼女は、「正式にスカウトに来たわ」と、二人に微笑んだ。
車椅子に驚いた二人が、秋緒に駆け寄った。
「大丈夫ですか!」と、聞く友美の顔色が変わっている。
「ちょっと、体調崩しただけよ」
そして、友美にだけ分かるように、小さくうなずいてみせた。
友美の心には、もう秋緒に対するわだかまりはない。この素敵な人物への称賛の気持ちだけ
だ。ついさっきまで世界で一番会いたくない人だったのに、車椅子姿を見た途端、そんな気持
ちは吹っ飛んでしまっていた。この女性は、命をすり減らすようにして、世界を救おうとして
いる。もう、わがままはやめにする時だ。
「秋緒さんと一緒に行って、広樹くん」
友美は広樹に告げた。
本当は、分かっていた。続くはずだった高校生活は、隣に人偏がついた方の夢――“儚”な
のだと。それを何とか守ろうとしたのが、漠然とした不安の正体だと。
「進化計画は、私たちの星虫と同じよ。星虫は、私たちを殺さずに宇宙へ帰った。地球の声を
聞いて。いくら人間が宇宙へ出るためだからって、地球を殺していいの? 人間と地球が助か
る鍵の一つは、広樹くんが握ってるんだから」
眉を寄せた広樹は、友美を見、そして秋緒を睨んだ。
「……友美を選ばない宇宙開発機構の連中は馬鹿だ。けど、ほんとに俺で役に立つなら行くし
かないな」
秋緒は満足そうにうなずく。
「完全に目が覚めたみたいね」
途端に広樹の顔が、赤くなった。
その広樹を、友美は見つめ、告げた。
「がんばって。私もすぐいくから」
「ああ」
悲壮な表情で約束する二人の前で、秋緒はやれやれと吐息した。
「あのね広樹。忘れたの? 私はとっくに正式スカウトしたはずよ――あなたにはね」
えっ? という顔が、二つ並んだ。
「まさか」
広樹が友美の顔を見た。
「そのまさかね。今日私は、あなたじゃなく友美をスカウトに来たのよ」
「でも、私には、何の才能もないし」と、友美はうろたえた。
「私も最初はそう思ったわ。だから、広樹の言葉に従うわけにはいかなかった。でも、広樹が
正しかったの。あなたを認めた父もね。目がなかったのは、私だけよ」
なおも信じられない友美に、秋緒は言った。
「五十億分の二。この数字が、あなたのとんでもない才能を示してるじゃない。星虫を帰した
うちの一人。でも友美がいなければ、一体の星虫も宇宙へは帰れなかったわ」
「そんなことない。広樹くんは――」
だが広樹は、笑って首を振った。
「友美が二体の星虫を帰したのと同じだ。俺がいなかった方が、簡単に帰せたと思う」
「そう。あなただけが、直観的に星虫の特質を見抜くことができた。そして強い信念と行動力
で、守り通したわ。普通の人にできることじゃない」
絶句する友美に、秋緒は続けた。
「もう一つ。あなたは地球の叫びを正確に理解した。私の調べた限りでは、途上国の呪術師が
数名、そしてイギリスの高名な霊媒師が、似たことを言ってただけ。自分で地球の声を聞いた
経験からみても、あなたの分析が中でも飛び抜けているわ。それが、星虫と宇宙技術、地球の
環境問題への理解の深さから出ていたとしてもね。非科学的だけど、地球の声を正確に解読す
るには、特別な能力が必要だと認めざるを得ない。例えば神の声を聞く、巫女《みこ》のようなね。友
美には、その力があるのよ」
「……先祖は、それらしいけど。そんな」
友美は、秋緒の言葉に呆気に取られていた。確かに自分でも、気持ちが悪いくらいに勘が当
たることはあるけれど……。
「進化計画の役には、立たないです。そんな力が、たとえあったとしても」
秋緒はとんでもないと、笑った。
「星虫事件を通して、進化計画には、あなたの星虫を見抜いた直観と、地球の声を正確に解読
できる直観が、是非とも必要だと分かったの。人間と星虫とは同じ立場だと言ったわね? そ
の通りよ。星虫は地球であるあなたを殺さずに、宇宙へ帰ることができた。言い替えれば、あ
なたはそう星虫を育てることができたの。人間が宇宙へ出るための進化計画は、まさに星虫だ
わ。この先、どう育つか見当もつかないところも。私も不安で一杯よ、実のところ。だからこ
そ、同じことを先にやりとげた唯一の経験者に加わってもらいたいの。つまり、氷室友美――
あなたに」
とんでもなかった。あまりにも買いかぶりすぎだ。友美は思わず冷や汗が湧き出るのを感じ
ていた。
「じ、自信ありません! それに私は巫女になる気ないし、宇宙飛行士になりたいし」
秋緒が、楽しそうに笑い出した。
「誰も巫女になれなんて言ってないわ。もちろんみっちり勉強してもらいます。私は今、自分
の後継者を育てているんだけれど、その子にもパイロットの訓練をさせているわ。友美には、
将来その子の補佐をしてもらいたいと思っているの」
広樹から、秋緒は進化計画の――つまりは国際宇宙機関の、実質上の総責任者だと聞いてい
た。その補佐?
友美の顔が、段々青くなってきた。
「本気……なんですか?」
秋緒が、悪戯っぽく続けた。
「まだ来る気にならないなら、止《とど》めを刺して上げましょうか?」
友美の喉が、ごくっと鳴った。
「星虫の正体が確定したわ。今夜にも全世界に発表されるけれど、一足早く教えてあげるわ
ね」
秋緒は、数枚の書類を取り出し、驚く二人に手渡した。
「星虫の成分分析表よ。それも四日目以降の、巨大化した星虫の胴体部分のね。それが、ある
ものの成分と、ぴったり合致したのよ」
そして、一枚の写真を見せた。
それは二人とも何十回と見慣れた物体の写真だった。
「三年前の、宇宙船!?」
「そう。星虫は、その宇宙船の子供のようね。爆発時に残っていた残骸の一つが、地球の衛星
軌道上から消えているのも見つかったわ。多分、それが卵だったのよ。三年かかって孵《かえ》ったわ
けね。そして、地上にばらまかれた」
「う、宇宙船の、卵?」
「ええ。とんでもなく進んだ異星の遺伝子工学の成果だわ、きっと。生きた宇宙船――それが
星虫の母親だったの」
驚きに、二人は声も出ない。
「確信したのは、蛹《さなぎ》から現れた、あの綺麗な星虫を見た時だった。もっとも、二人が宇宙に出
た時から、もしやとは思っていたけれどね。気圧を維持し、酸素を補給し、宇宙へ飛び出す
――それは、宇宙船の機能そのものだから。もっと早く気がつくべきだったわ。そうすれば、
四百体もの星虫を帰すことができたかもしれない。でも、まさか宇宙船が子供を産むなんてね
……」
馬鹿馬鹿しいほど、とんでもない話だった。しかし、星虫の能力の凄さを体験した二人には、
認める以外の道はなかった。
星虫が、あの宇宙船の子供だと……。
「私たちは二人に感謝しているわ。心から。あの宇宙船がなければ、進化計画の実現は不可能
だった。人材と資金を集めてくれたのは、星虫の母親なんだから」
もう、驚き疲れてきた二人だった。確かに、あの宇宙船発掘事件がなければ、百兆円も科学
技術者の国際的な連帯も有り得なかったのだ。
「私たちは大恩人に、とんでもない不義理をするところだった。たった二体でも帰せたのは、
友美と広樹のおかげよ」
そして秋緒は、もう二枚、写真を手渡した。
「これはまだ発表しないけれど、二人には知る権利がある」
太陽の写真だった。数個の黒点と、プロミネンスが写っている。
「これが?」
問いかける広樹に、「星虫がどこへ向かったか、知らないの?」と、秋緒が訊ねる。
知っていた。太陽だ。
「そのプロミネンスをよく見なさい。二つ丸い穴が開いてるでしょう」
確かに不自然な穴が、太陽の表面を虹のように結ぶ巨大なプロミネンスの上部に二つ、口を
開いている。
「まさか!」と、広樹が怒鳴る。
「そのまさか。星虫は今度は太陽を食べてるらしい。本当にとんでもない生き物ね」
もう二人とも、思考能力が蒸発しそうだった。しかも秋緒の話はまだ終わっていなかった。
「あの綺麗な虫は、太陽の莫大なエネルギーを食べて、更に巨大化するわ。星虫はなんだっ
た? 育てば何になるのかな?」
宇宙船の子供なら、宇宙船になる!?
「私の推論だけど、星虫は個人所有の宇宙船だったんじゃないかしら。命を懸けてそれを育て
上げることができた者だけのね。母親が他の知的生物の乗り物だったことは間違いないし、あ
のなつきようを見ても、成長しきれば戻ってくる可能性がかなりあると思うわ。吸収している
エネルギー量と母親の質量とで計算すると、大体十年ぐらいで成虫になるはずよ」
帰ってくる? 星虫が?
友美と広樹は、互いの顔を見合わせた。
「つまり、あなたたちは、恒星間宇宙船を育て上げたってことになるの。そして、そのマスタ
ーになったのかもしれないわけ」
クスクス笑う秋緒は、驚き続ける二人を羨ましげに見つめた。
友美は、気が遠くなりそうだった。これは冗談だ。完全にマンガだ……。
「もちろん、未知の生物だし、可能性の問題よ。でも、その可能性がたとえ1%でも、友美と
広樹は最重要人物だわ。考えてもみなさい。銀河を翔《と》ぶ宇宙船を、自在にできるかもしれない
んだから。それに、元々星虫は宇宙船の子供だし、所有権は国連から全権委譲された宇宙開発
機構にあるわ。民間人に私用に使われたら、堪《たま》らないもの」
冗談めかして秋緒は続けた。
「だから友美は、二重の意味で、宇宙開発機構に来る権利――いえ、義務があるわ。これでも
まだ来ないっていうの?」
友美は、まだぼーっとしたままだ。
秋緒は、広樹に顔を向けた。
「もう、文句ないわね」
「ああ」と、広樹は満面に笑みで答える。
「よろしい。では、彼女の説得は、あなたに任せます。宇宙開発機構の一員として、氷室友美
さんを、責任もってスカウトすること」
「分かった。姉貴」
広樹の嬉しそうな返事を聞いて、満足そうに秋緒はうなずいた。
「仕事は山ほどよ。覚悟して来なさい。できるかぎり早く」
言って秋緒を乗せた車椅子が動き出すと、ずっと待機していたのだろう、竹の陰から四つの
人影が現れた。二人は白人、一人は黒人で、いずれも二十代の若者。残る一人は、まだ中学生
くらいの小柄な東洋系の女の子だった。
「アメリカで待ってるわ。ここにいるみんなと」
彼らは友美と広樹ににっこりと笑みを向けると、秋緒を大切な宝物のように四方から守るよ
うにして、ともに竹林の奥へと進んで行く。
秋緒たちが視界から消えるまで見送ったあとも、友美はまだ信じられない気分だった。
「これ、夢じゃないのかな……」
あまりにも、現実ばなれした話の連続だった。
「私、夢見てるのかな?」
すがるように広樹を見上げた。
「夢は、見るもんじゃないらしい」
広樹は、難しい顔をして言った。
「えっ?」
どこかで聞いた覚えがある。そう、森の中で。
「吉田さんの言葉ね」
「うん。元々は親父の口癖だけどな。答え、聞いたか?」
友美は首を振った。
「夢は、叶えるためにあるんだとさ」
その言葉が、清冽《せいれつ》な水のように友美の心に染み通っていく。そう、夢は自分で叶えるもの。
見てるだけでは駄目なのだ。
広樹が、笑って言った。
「行こうや、一緒に。親父の夢、叶えにさ」
「一緒に?」
「今度は、もっとでっかい星虫を育ててやろうや!」
言って、広樹は大きく手を広げた。
進化計画というでっかい星虫を育てる……。
友美は大きくうなずいた。
自信などはない。自信はないけど、それで止まってしまえば夢は叶わないのだから。
「じゃ、行こか」
突然、広樹がすたすたと歩き始める。
「どこへ?」と、あわてて友美があとを追った。
「友美ん家《ち》。家族の説得、また必要だろ?」
こんな積極的な広樹は、友美も初めて見る。どうやら変わったのは、見かけばかりではなか
ったようだ。
「変わったね。広樹くん」
広樹は、頭をボリボリ掻く。
「寝太郎が起きた以上、まめにやるしかないんだよな」
その言葉に、友美は首をかしげた。
本当にわけの分からないやつだった。もう広樹の謎はすべて解けたはずなのに。
友美はクスッと笑い、「ま、いいか!」と、その手を取った。
「一緒に行こう広樹くん。行けるとこまで!」
右手に友美を星虫のようにくっつけた広樹は、竹林の中で頭を掻き続けていた。
夜がきた。
いつものように路地に入った友美は、公園に駆け込んだ。
汗が額を伝う。気持ちいい汗だった。
柔軟体操を始める目に、屋敷が映る。そういえば、ここで友美は、広樹にトレーニングの様
子を覗かれたのだ。一体、どこから見てたのだろう?
帰ったら、聞いてやろうと、思った。
まだ広樹は友美の家にいる。
多分あいつも今頃、友美と同じぐらいの汗をかいているはずだ。
家での話がどうなっているのか、考えるだけでも怖いが、今の広樹なら何とかしてくれてい
ると信じたい。
いや、友美のアメリカ行きは結構、上手く説明できたのだ。不審から喜びに変わった家族の
表情が再び固くなったのは、一緒に広樹も行くと聞いた時からだった。
両親は、広樹の友美に対する感情の方を問題にし始め、兄が広樹なら大丈夫だと勝手に太鼓《たいこ》
判《ばん》を押し、友美はうろたえ、広樹があわてた。しかし、何とか友美が宇宙開発機構の方へ話題
を戻せかけたその時、まるで止めを刺すかのように、広樹の祖父が酒樽《さかだる》を持って現れたのだ。
老人は、開口一番、あのどでかい声で、『お宅の娘さんを、ぜひ孫の嫁に!』と、頭を下げ
た。唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然とした家族に、友美の気《き》っ風《ぷ》のよさが気に入ったと高笑い。
友美が、たまらず逃げ出したのはその直後だった。
『責任持って何とかする』と、広樹が言って、送り出してくれたのだ。
あの大騒ぎを思い出していた友美は、やれやれとため息をついた。
自分も広樹も、まだ十六歳。やりたいこと、やらねばならないことは、山積みだ。
「十年、早いのよね」
でも、十年後。星虫たちが帰ってくる頃になら……。
あわててその思いを振り払った友美の目の中に、星空が飛び込んできた。
再び、何百回、何千回と繰り返してきた熱い想いが、胸を塞《ふさ》ぐ。
あの星の中へ行けるのだ。星虫たちの待つあの宇宙《そら》へ、たった五年で!
わずか二週間前、絶望的に見上げた宇宙へ、今度は自分たち人間の力で行ける……。
夢のようだった。
いや、最初は本当に夢だったのだ。
今から十年以上前に、おじさんが見た夢。
その夢を叶えることなく彼は世を去ったが、壮大な夢は、やがて秋緒の夢となり、進化計画
となり、宇宙開発機構という体を得て、友美と、広樹と、全ての人類が、今、その夢に自分の
夢を重ねようとしていた。
夜空の彼方から、星虫たちの声がかすかに聞こえてくる。
その声は、友美を呼ぶかのように、高く低く天に満ちていった。
「今度は、私たちの番だって?」
でも、何十億もの人間が宇宙に上がるのは、そんなに簡単ではない。どんなに計画が上手く
進んでも、事故の可能性や、政治的な問題は、消えはしない。問題は山積している。
星虫を帰すほど、単純ではなさそうだ。
「それでも、やるしかないか」
おじさんが、どこかから見守っていてくれるに違いない。
広樹、秋緒、仲間たちとともに、自分のできる限りのことを、やってみよう。
友美は、思いっきり両手を空に伸ばした。
まるで、二週間前のような、降ってきそうな星空だ。
と友美は、ふと思った。
また、この手の中に星をつかめるかな?
それが夢になれば、きっと今度もつかめるだろうと気づく。
夢は、叶えるためにあるのだから。
[#改ページ]
おしまい
[#改ページ]
あとがき
ほんとうに久々のあとがきです。一体、なにを書けばいいのか……。
ともあれ、まずお知らせしなければならないのは、この物語は一度、世に出たことがあると
いうこと、ですか。
十年前でした。
ちょうど一昔ですね。
今、このあとがきを読んでくださっている人の中には、当時赤ちゃんだった方もいるかもし
れません(私がSFを読み始めたのも、十歳ぐらいでしたし)。ひょっとしたら、まだ生まれ
てなかった方も。そう考えると、とても感慨深いものがあります。
十年間に出版された小説は、それこそ星の数ほどでしょう。そんな中で『星虫』が、時の中
に埋もれてしまわなかった理由は、なんなのか。
改めて考えてみても、正直、よくわかりません。
ただ、この物語をずっと記憶に留めてくださっていた読者が、作者が思っていたより遙かに
沢山だったのは、どうやら間違いないことのようです。
つい先日も、ネット上で見つけた佐藤《さとう》さとる氏(児童文学者)のサイトで同人誌を申し込ん
だところ、『あなたと同姓同名の作家がいるが、知ってますか?』との返信がくるという、一
大事(私にとっては)がありました。
『星虫』が再刊される運びになったのは、そういったかつての読者の方々のおかげだと、感謝
しています。
同時に、朝日ソノラマに紹介していただいた梶山《かじやま》聡《さとし》さん。可愛くもりりしい友美を描いて
下さった鈴木《すずき》雅久《まさひさ》さん。それから、いろんな意味で手を煩わせてしまった担当の太田さんにも、
この場を借りてお礼を言わせてください。
そしてもちろん、今回、初対面の方にも同様の――いえ、それ以上の感謝を。聞いたことも
ない作者の本を手に取ってもらえただけでも、ありがたいです。
もしも、読み終えた後、この『少し昔に書かれた、少し未来の物語』をちょっぴりでも気に
入っていただけていたら、更に、ほんとうに嬉しいのですが。
岩本隆雄
※新潮社版『星虫』読者の方へ。
奇《く》しくも作中で広樹が呼ばれていたように『十年寝太郎』になってしまいましたが、お元気
でしたか?
再刊するにあたり、重複してる説明や余分と思われる部分をけずり、文章を整理しました。
多少、以前の星虫より読みやすくなっていると思います。
時代も、2000年の現在から『少し先』の時点に、設定しなおしました。それにともなっ
て変更したところが、かなりあります。
でも、ストーリー自体は、ほとんど同じです。今読み返すと穴を掘って埋まりたいような恥
ずかしいセリフや、変えたい部分もあったのですが(ラストの言葉も安室《あむろ》ちゃんに歌われてし
まいましたし)、それらの部分も、あえてほぼ原型のままで残してます。それでもよければ、
読んでみてやってください。
底本
ソノラマ文庫<907>
星《ほし》虫《むし》
2000年06月30日 第1刷発行
2000年10月20日 第4刷発行
著者――岩本《いわもと》隆雄《たかお》
2009年07月12日 入力・校正 ちんすこう
09月27日 再校正 ちんすこう