ミドリノツキ〔上〕
岩本隆雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)緑に覆《おお》われた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)都立|登野《とよの》高校
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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プロローグ
「ほんとにとぶの? ナオくん」
幼稚園の制服を着た馨《かおる》が、瞳を輝かせて言った。
「はね、ないのに、とべるの?」
「ピュンだって、はね、ないだろ」
自信満々で答えた尚顕《なおあき》は、小高い緑に覆《おお》われた丘の上から見下ろした。
こんなに綺麗な、広々とした、空が近い草原を見たのは生まれて初めてだった。
幼稚園の遠足でやってきた、郊外のキャンプ場。この真下、なだらかなスロープの果てに、
高さ3メートルほどの崖《がけ》があった。その崖を見た途端、尚顕は閃《ひらめ》いた。そこからジャンプすれ
ば絶対、空を飛べるという自信が、尚顕にはあった。
一方の馨は、少し不安げになっていた。
「けどさ。ピュンは、マンガのコだよ」
「ばーか。ピュンはマンカでも、『き』って、ほんとにあんだからな。じいちゃんもいったん
だからな。ぼくは、みんなよりずーっと『き』がつよいんだからな。ピュンだって、はじめは
がけからジャンプして――あし、おもいっきしまわして、とべるようになったんだからな」
「なにしてんの? 馨ちゃん、尚顕くん?」
遠くから幼稚園の先生の声がする。
「いけね。みてろ、カオル!」
尚顕はその声をスタートの合図のようにして、駆けだした。
「がんばれーっ」という馨の声が、背後から追いかけてくる。飛んでみせるという気持ちに一
層、拍車《はくしゃ》がかかる。
しかし、坂を利用しての加速は想像以上だった。どんどん信じられないぐらいにスピードが
ついてゆく。
「わわわわわわ」と、思わず声が出た。
周囲が、草が、飛ぶように後ろに流れていく。足の回転も、いまだかつて経験したことのな
い速さになってきた。足が千切《ちぎ》れて抜けそうだ。でも我慢《がまん》して走る。テレビアニメの主人公
――『気』の使い手のピュンが、初めてその力に目覚め空を飛んだ時のように、全身に気合を
入れ、自分は絶対飛べるのだと言い聞かせる。あと少し。目の前に草原の端が見えてきた。走
る、走る、走る、そしてジャンプ!
青空が周囲一杯に広がった。
とべたぁ!
だが浮遊感と歓喜は、落下が始まった途端、とんでもない恐怖に変わる。墜落《ついらく》の中で、尚顕
は思い出していた。思い出してしまった。
これは夢だ。
五歳の時に実際に経験し、それから幾度《いくど》となく見てきた夢だ。
「どうしていつも、この瞬間に思い出すんだよっ!」
たちまち幼稚園児から今の年齢――十六歳に戻ってしまった尚顕は、空中で怒鳴《どな》った。
現実では当然、空を飛ぶことなどできず、そのまま地面に激突。右足と左の鎖骨《さこつ》を骨折して、
一カ月入院することになってしまった。
しかし、ここは夢の中だ。中のはずだ。
「うおーっ!」と、わめきながら、必死に両足を空中で掻《か》[#「手偏/蚤」、第3水準1-84-86]く。回転させる。全然、足が思うよ
うに動いてくれない。ただ、落下の速度は間違いなく遅くなってゆく。
気がつくと、尚顕は着地していた。
「勝った!」と、ガッツポーズした尚顕は、ふと異変に気づいた。
必死になっている間に、周囲の様子が変わっていた。いつもの夢の『丘』ではなかった。
緑色なのは同じだ。しかしキャンプ場もないし、森も山も消えていた。尚顕が立っているの
は、のっペりとした、中央部が比較的平らな――ちょうど東京ドームのようなものの上だった。
そんなドーム状の大小の緑の丘が、幾つも幾つも、見渡す限り続いている。
足元を見ると、思った通り尚顕は巨大なビニールのようなものの上にいるらしい。その緑色
のビニールは、無数の掌大《てのひらだい》の菱形《ひしがた》をした葉っぱみたいなものが複雑に組み合わさってできて
いるようだって。
再び視線を上げた尚顕は、ふと自分が見られていることに気づいた。近くの、丘と丘の隙間《すきま》
にある暗がり。そこに小さく光るなにかが見える。瞬《まばた》きした。それは一対《いっつい》の目のようだった。
たちまちその数は、十以上になった。あの暗がりの中に、なにかがいる。
「なんだ、お前ら!」と怒鳴《どな》ると、びっくりしたように目が消える。
一体どうなっているのかと辺りを見た尚顕は、唖《あ》[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然《ぜん》とした。すぐ後ろには、普段の夢の中の
丘がちゃんとあって、馨と先生が心配そうにこちらを見ていた。
「ああ、そうか。夢だったんだよな、これ」
改めてそのことを思い出していた尚顕の隣に、誰かの気配がする。
「ここにおったか。連中、見つけたな。友達になれるといいが……」
そこには、ヘルメットとゴーグルをつけ、白い髭《ひげ》を生《は》やした祖父がいた。ライダースーツに
身を包み、250tバイクに跨《また》がった、颯爽《さっそう》とした姿で。
「友達って、あの覗《のぞ》いてるへンなのと?」
「そうだ」
「やだね。あんなコソコソしてる奴、好きじゃない」
「好きで隠れてるわけじゃないんだ」
ドーム状の丘の隙間をじっと見つめる祖父は、なぜか少し悲しげだった。
「もうじきだな」
もうじき、と聞いた途端、尚顕は、ああと気づいた。そして祖父が跨がる、丸っこくてどこ
か愛嬌《あいきょう》のあるバイクに目をやる。
これもよく見る夢の一つだ。
「まだだよ、じいちゃん」と尚顕は、六年前に亡《な》くなった祖父へ告げた。
「そんな焦《あせ》んないでよ。まだ俺、十六になったばっかだ。免許も取ってないし、先、やっとき
たいこともある。じいちゃんのバイクのことは、忘れてないから」
「そうじゃない」
祖父は笑って、尚顕の方を向いた。
その目を見た尚顕は、驚く。
「……どうしたんだよ。じいちゃん、目、真っ赤だぞ?」
祖父の目が、その瞳《ひとみ》が、まるで兎《うさぎ》のような鮮やかな赤になっている。
「大丈夫か?」
祖父は、大したことではないと言いたげにゆっくり首を振ると、尚顕に告げた。
「時間がきた。始まるぞ」
「なにが?」
祖父は答えず、にっこりと笑った。
次の瞬間、戸惑《とまど》う尚顕の全身が、柔らかななにかに包み込まれ――そして、別の夢が始まっ
た。
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銀の杖
グラウンドで教師の吹くホイッスルの音が、小さく大きく、五月の涼《すず》やかな風とうららかな
朝の日差しとともに、窓から入り込んでくる。
山手線《やまのてせん》の沿線にある都立|登野《とよの》高校の、四階建て校舎の三階。その平和な、自習中の一年一組
の教室に、突如《とつじょ》「うわっ!」という大声が響きわたった。
微《かす》かなざわめきで満ちていた教室が一瞬静まり、クラス全員の視線が集まる。
平和を乱したのは、廊下側の後ろから三番目の席の、どちらかといえば小柄な男子だった。
椅子《いす》から腰を浮かせ、びっくりしたような顔で周囲を見回している。
しかし犯人がわかった途端、ほとんどすべての視線が彼から離れた。微妙な沈黙と、奇妙な
緊張が教室に走る。
そんなクラスメイトの様子にも気づかず、いきなりわめいて飛び起きた少年は、なにやら険《けわ》
しい表情で考え込んでいるふうである。
少年の風貌《ふうぼう》は一種、人目をひくものだった。洗いっぱなしの髪《かみ》に、厚めの下唇《したくちびる》が不満げに
いつも少しだけ突き出している。眉《まゆ》は太くて長く、ほとんど眉間《みけん》で繋《つな》がっていた。
なにより印象的なのは、その眉の下の目だ。大きく少しだけやぶにらみ気味の目には、半端《はんぱ》
ではなくカがあった。
少年の名前は、民田《たみだ》尚顕。
同じ中学からきた者以外、彼の顔は入学以来、見たことがなかった。
それも当然だ。ゴールデンウィーク明けの今日、五月七日が尚顕にとっての初登校日だった。
家庭の事情から、高校入学が他の生徒より遅れたというのが、その理由の一つ。そしてもう
一つの理由は、初登校の前日に起こした他校生との『喧嘩《けんか》』による停学処分。三人の相手を、
足蹴《あしげ》りだけでやっつけたらしい。
こう考えると、『家庭の事情』とやらも怪しいものだ。
やっと新しい環境に慣れ始めていたクラスの生徒たちにとって、尚顕は間違いなく得体の知
れない異分子《いぶんし》――一種、恐怖すらともなう存在だった。
その時、
「民田くん、どっちか選んでくれるかな?」
静まり返った教室の窓際《まどぎわ》前方の席から、静かだが、強い意志を感じさせる声が届く。
「静かに寝ているか、教室を出ていくか」
ざわりと教室の空気が動いた。周囲の生徒たちが、驚きと恐怖の視線を、その声の主である
面長《おもなが》で整った顔だちの少年へと走らせる。
今年、豊野高校に入学してきた新入生の中には、飛び抜けて優秀な生徒が二人いた。
その一人が彼、阪本《さかもと》啓二《けいじ》だ。
祖父は国会議員、両親は大学教授、そして彼自身は、去年、中学生でありながら数学オリン
ピックで金メダルを受賞。今年七月におこなわれるアメリカ大会にも出場するのだが、彼の他
のメンバーはすべて名だたる名門私立進学校生ばかり。なぜ彼がここにいるのかは、同級生ば
かりではなく、教師を含めた豊野高校中の疑問である。
自分とは対照的に長身の啓二を、尚顕はじっと睨んだ。
尚顕と阪本は中学こそ違ったが、同じ小学校の卒業生同士である。そして、二人の関係は決
して良好というわけではなかった。
息をするのも苦しいような沈黙の中、やがて啓二から視線を離した尚顕は、そのまま無言で
教室の後ろへと向かう。
ほっとした空気と、啓二の勇気に対する称賛《しょうさん》の気配が教室に満ちかけたその時、朗《ほが》らかな
声が響いた。
「許したげて、阪本くん――それに、みんなも。尚くん、悪い夢見ただけだから」
声は、尚顕の隣の席からだ。
尚顕の足が止まり、じろっと隣席の少女を見下ろす。
気の弱い人間なら泣きだしてしまいそうな暴力的視線を、しかし少女は歯牙《しが》にもかけないで、
雑誌を読んでいる。少女の名は高崎《たかさき》馨。尚顕とほぼ同じぐらいの身長だから、女子としては大
きい方だろう。ショートカットで少しボーイッシュな印象だが、顔だちは愛らしい。
「どうせまたあの夢でしょ? 今回は失敗したんだ」と、雑誌から目を離さずに平然とした口
調で尚顕に声をかける。
彼女も、どちらかといえばクラスで浮いた存在だった。女子で一番の長身で、美人で、気が
強そうで、少しとっつきにくい雰囲気があったのが、原因の一つ。比較的仲がよくなったのは、
彼女の左隣の松室《まつむろ》愛《あい》――もっとも愛は、入学式当日だけでクラスのほとんどの生徒に声をかけ
られるようなタイプなのだが――だけだった。
だが馨が敬遠されている最大の原因は尚顕だ。馨の家が尚顕の家と隣同士の上、しかも二人
は中学時代から『タダナラヌ』仲だという噂が流れてしまい、それからは愛さえもあまり馨に
話しかけなくなっていた。
しかし、ついに好奇心に負けたのか、愛が馨におずおずと訊ねた。
「……夢って?」
クラスメイト全員がシンと静まり、聞き耳を立てている中、馨は答えた。
「空飛ぶ夢。幼稚園の頃の」
「なに、それ?」
「3メートルの崖から飛び降りたの、空飛ぶつもりで。結果、骨折して全治一カ月」
噴き出しかけた愛たちだったが、尚顕に睨まれてあわてて視線をそらせたり、顔を隠したり
する。
「褒《ほ》めてるのよ」と、馨が雑誌から顔を上げて、尚顕に言った。
「普通なら完璧《かんぺき》トラウマになってるはずなのに、大抵勝てるってのが尚くんらしいよね」
尚顕は、ムッとして言い返した。
「違う」
馨以外の生徒が、初めて聞く尚顕の言葉だった。
「違う?」
「ちゃんと着地できた」
尚顕の声は、意外なぐらいに耳触《みみざわ》りがよかった。口調はぶっきらぼうだが、噂や迫力ある外
見から予想していた粗暴な響きは、微塵《みじん》もない。
「へぇ、だったら、どうして悲鳴なんて?」
「別の夢だ。……多分、夢だと思う」
「どうしたの?」と、馨がちょっと怪訝《けげん》な様子で雑誌を置いた。
尚顕は難しい顔をしていた。長い付き合いの馨でも、あまり見たことのない真剣な表情だっ
た。
「……なんだったんだ、あの夢」
「だけど」と、馨は改めて、呆れたように言う。
「よく夢なんて見てる暇あったね。まだ十分ぐらいしかたってないのに」
「え?」と、初めて尚顕の顔に苛立《いらだ》ち以外の表情が生まれた。
黒板の上の時計を見上げ、ポカンと口を開く。
「……十時十分? 嘘だ。絶対、一時間以上は――」
「ねぇ、ほんとに大丈夫?」
心配そうな顔になった馨へと、尚顕は視線を戻した。
「だから……そうじゃないんだ。あの夢、現実だったかも」
「夢が、現実?」
「変だと思うのはわかる。最初は、いつもの夢だった。最後はちょっと変だったけど。とにか
く、それがいきなり替わって、白い空間に浮かんでた。でもこの体のままじゃなくて、玉にな
ってて」
「そういえば私、一度、亀《かめ》になったことあったけど……」
「ちゃんと聞けよ。本当に、玉になってたんだ。手も足も出なくて」
「私だって夢見てる時は、自分のこと亀だって信じて疑わなかったって。なんでよりによって
亀なのか、今でもわからない。けど、夢なんて、そんなもんでしょ?」
「違うんだ! 世界中の、今眠ってる人間全員が、俺と同じ夢を見てたかも――」
「うるさいなぁもう!」
その声は、尚顕の前の席からやってきた。
視線をやらず、耳だけ大きくして事態のなりゆきを窺《うかが》っている生徒たちは、思い出す。啓二
と馨以外にも、尚顕を恐れていない人物が、クラスにあと一人いた。
「もーっ、せっかく熟睡《じゅくすい》してたのにぃ……」
のったりした動作で上がってきた茶髪《ちゃぱつ》頭に、馨が話しかけた。
「木江《きのえ》さん、変な夢、見なかった?」
「夢ぇ?」
大欠伸《おおあくび》しながら、メイクした顔が後ろを振り返る。
木江|加奈《かな》の席も大抵、空席だった。こうして登校している時でも、授業などとは無関係に眠
っているか、落書きしているか、雑誌を読んでいる。つまり彼女は、尚顕の噂などまるで知ら
ないのである。
「今、変な夢、見てなかったか?」
念を押した尚顕に、加奈はだるそうに答えた。
「見てねぇよ、夢なんて」
「ほんとか?」
「しつっこいな……」
尚顕をジロッと横目で睨むと、加奈は再び元の姿勢へ戻った。
「登校してからずーっと寝てる木江さんが、見てないって」
戸惑いを浮かべつつ首を傾《かし》げた尚顕に、再び啓二が声をかける。
「民田くん。保健室にいった方がいいんじゃないかな」
それに尚顕が強烈な視線を返しても、啓二はびくともしない。
「どうやら相当悪い夢を見たようだけど、ひょっとしたら喧嘩が原因かもしれない。一度ちゃ
んと診《み》てもらった方がいいんじゃないか?」
「……」
一触即発の二人の間に、馨が割って入った。
「でも、尚くん。ほんとに頭とか殴《なぐ》られてないの?」
「ない! 連中に殴れたのは、ガードした俺の手だけだ!」
「わかったから、怒鳴らないで。だけど、ほんとにもう喧嘩しないでよ。そりゃあさ、後輩助
けたげたのは、いいと思うよ。でも、こんなことばっかしてたら、いつかほんとに大怪我《おおけが》する
から」
この馨の声とともに、教室に微かな驚きが広がる。
「あの……高崎さん?」
愛が、みんなの疑問を代弁するように、馨に訊ねた。
「後輩助けたって……」
「知らなかった? 尚くん、中学の後輩がどっかの高校生たちにからまれてたの、助けたんだ
よ。怪我させたのはまずかったけど、三対一だったし」
教室中が一瞬、どよめいた。
「ほんとかよ」「初耳」と、あちこちから驚きの声が上がる中、
「理由はどうあれ、喧嘩は喧嘩だ」
とげのある声で言ったのは、啓二だ。
「停学処分は、当然だろ」
それでもざわめきはおさまらない。今まで視線を合わすのも怖がっていた生徒たちの顔が、
立ったまま考え込んでいる尚顕に向く。
その視線に気づいた尚顕は、ちょっと戸惑った様子で、自習中の教室を見回した。
さっきまでの自分のように、机に突《つ》っ伏《ぷ》して居眠りしている連中も、加奈の他にあと二人い
た。その二人とも、いまだ気持ちよさそうに眠っている。
そんな連中を見ながら、尚顕はぽつりと咳いた。
「……夢、だったのかもな」
「もう」と、馨は吐息しつつも、ほっとしたように微笑んだ。
「ほんとにもう喧嘩やめて。今、一応、うちが保護者なんだから」
「別に、好きで喧嘩してない」
「それはわかってる。でも、尚くんが喧嘩が起こりそうなところにたまたまいる確率って、高
すぎるよ。今度、喧嘩したら、問答無用《もんどうむよう》で大阪《おおさか》の来帆《きほ》姉さんに電話するからね」
途端に、尚顕の顔に焦りが生じた。
「わかったよっ!」
むすっと言って、尚顕は机の中から本を取り出すと読み始めた。新書サイズだが、マンガで
はない。推理小説だ。
どうやら一件落着と見た教室に、平和とざわめきが戻ってくる。
しかし、ほんの十分前と今とは、少しだけ様子が変わっていた。先程まで尚顕・馨・加奈の
いる辺りは教室のタブー区画《くかく》だったのだが、今はチラチラと様子を窺う視線が多い。
「そんな怖い人じゃないみたいね」「うん。それになにかあっても、高崎さんがいてくれたら
大丈夫じゃない?」「だよな。なんか、尻《しり》にしかれてる感じだもんな」
そんな近くから聞こえてくる囁《ささや》きに、なぜか悔しげに唇を噛《か》む生徒が一人いた。啓二である。
「そういえば、私も昨日、夢見たよ」と、和《なご》んだ空気の中、愛が馨に話しかけた。
「thinoの夢」
「い、いいですね」と、尚顕より小柄で、しかもやせっぼちの井戸《いど》裕司《ゆうじ》が、前の席の尚顕を気
にしながら、おずおずと会話に加わってくる。頭はかなりいいらしいのだが、引っ込み思案な
タイプのようで、まだ誰も友人はできていない。
「じっ、実際、日本にいるって噂《うわさ》も流れてますよね。明日、アルバム発売だし」
「大手のCDショップは今朝からもう販売よ。うちの店でも夜から売る予定」
そう答える馨に、愛が耳ざとく反応した。
「うちの店?」
「うん。知らない? 二丁目の銭湯《せんとう》の横のコンビニ」
「あ、知ってる! 塾、近くなんだ。たまに寄るよ。優しそうなおじさんがいる店だよね」
「それ、父。私も尚くんも時々、手伝ってる。毎度ありがとうございます」
頭を下げる馨に、「まだ二回しかいってないよぉ」と、愛が照れたように言って、ちらっと
尚顕を見た。
「でも、民田くん――も、働いてるの?」
「悪いかよ」
「う、ううん! ちょっと意外だなって……」
尚顕にジロッと見られて怯《おび》える愛へ、馨は笑いかけた。
「大丈夫。今の、普通に見ただけだから」
「い、今のが?」
「そ。視線が鋭すぎるの。ツッパリさんたちには当然、ガンをつけたと思われるわけ。それが
喧嘩の原因で、それを喜んで買っちゃうのが尚くんの一番悪い癖《くせ》」
尚顕は本から目を離さず、低い声で反論する。
「……黙って殴られるのが好きな奴、いるかよ」
馨は平気だが、まだそれに慣れない愛があわてて話題を変えた。
「あ、そうだ。私、アルバム予約してなかったんだけど、今日でも手に入るかな?」
「うちの店でよかったら、取っといてあげるけど?」
「ほんと! ラッキィ!」
喜ぶ愛に、裕司が声をかけた。
「けっ、けど、thinoのアルバムのせいでCDの材料切れになってるって、ホント、でし
ょか?」
どもっているし、噛《か》んでいる。無理して話しかけているのがありありだった。噴き出しかけ
る愛の隣で、
「ホントだってさ」と答えたのは、加奈だった。
「初回出荷で四百万枚って、記録らしいよ」
四百万と聞き、思わず驚きの声が、加奈の周囲から上がった。
thinoとは、現在二十一歳の女性アーティスト。
デビューのきっかけは、二年前のテレビのオーディション番組だった。当時、彼女は十九歳。
年齢的にはかなり不利だったのだが、十万人から選び抜かれた少女たち――ほとんどが三つ以
上若い――の中でも、彼女の歌唱力、ルックスは際立《きわだ》っていた。
数カ月にわたるオーディションを勝ち抜いた彼女には、高名なプロデューサーがつき『知《ち》
乃《の》』という本名で、大々的にデビューする。
デビュー曲は、たちまちミリオンセラー。しかし、本格的に芸能活動開始かと思われた矢先、
プロデューサーや事務所ともめ、芸能界引退。留学と称し単身、渡英してしまう。
日本のマスコミは『世間知らずアイドル未満の造反《ぞうはん》劇』程度に扱い、一部のファンを除き彼
女のことは忘れ去られるかと思われた。
ところが去年、なんと彼女は自身で作詞(もちろん英語)・作曲したCDで、イギリスで再
デビュー。欧米、日本、それにどこか中近東の香りが混じったその無国籍的な曲は、全欧でい
きなり二位をゲット。thino人気はアメリカにも飛び火し、ビルボード誌で一位を獲得《かくとく》。
そして地球を一周して、日本でも和訳された彼女の曲が大ブレイクした。以降、五枚のシング
ルがリリースされ、今やthinoは文字通り世界的アーティストになっていた。
周囲がthinoのことで盛り上がっているこの時、尚顕は一人、本のページを見ている。
読んではいない。文字としては全く頭に届いていないのだ。この時、尚顕の体には、それど
ころではない奇妙なことが起き始めていた。
本から顔を上げた尚顕は、教室の反対側――グラウンドに面した窓の一つへと目をやった。
ちょうど啓二が座っている席の辺りだ。
雲一つない五月《さつき》晴れの空を見つめる尚顕の太い眉の間に、縦皺《たてじわ》が寄った。
目が覚めてから、体に微かな痺《しび》れが残っている。しかし今、気になっているのは、妙な引っ
張り感だった。体が勝手に窓の方角へいきたがっているような、今までに感じたことのない不
思議な感覚だった。
喧嘩のことを思い返してみたが、やはり、頭を打ったり叩かれたりした覚えはない。大体あ
の喧嘩が原因なら、二週間近くたった今になって影響が現れるというのも変な話だろう。他に
思いあたる節《ふし》はなかった。さっきまで見ていた、あのとんでもない『夢』以外……。
三時間目の授業開始のチャイムが鳴っても、尚顕の引っ張り感は続き、彼の不安は増してゆ
く。
古典の寺坂《てらさか》の授業は、まるで催眠術《さいみんじゅつ》のようだった。尚顕の周囲では、何人も舟を漕《こ》ぎ始め
ていたが、少年はほとんど瞬きもせず、空中を見つめている。
彼が集中しているのは、自分の中の感覚だった。引っ張り感は、集中すればするほど、どん
どん強まってくる。
古典の授業の終わりを告げるチャイムが鳴りだすとともに、尚顕はサッと立ち上がって一礼
し、教室を飛びだした。
「尚くん?」
戸惑う馨の声が背中から追いかけてくるが、尚顕は無視した。教室のすぐ横が階段だ。踊り
場まで駆け下りた尚顕は、ジャンプとともにバレエのようにくるりとその場で一回転。
「なにしてるの?」
階段の上から、馨の声がした。
やばいという顔をした尚顕の許《もと》へ、馨があわてて下りてくる。
「保健室いこ!」
「違うって」
「違わない。今の授業中も、変だったし。気分、悪くない? だから言ったのよ。喧嘩しない
でって。もう、おじさんや来帆姉さんに、なんて言えば――」
泣きそうな顔をして、腕を掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]んだ馨に、尚顕は焦って言った。
「だから、違う。なにかに俺、引っ張られてんだ」
「ひょっとして、中国でかかったオタフク風邪《かぜ》、ちゃんと治ってなかったの? おじさんの単
身|赴任《ふにん》の手伝いで上海《シャンハイ》に行ってる時にこじらせちゃったんでしょ?」
「あのな、聞けって。俺もさっきまで、自分の頭がおかしいのかと思ってた。けど、違うんだ。
今、回転したろ? あれでわかった」
「なにが?」
「一回転したら、引っ張り感も体を一周したんだ」
しかし馨の顔色は、さらに悪くなるばかりだった。
「ね。いこ? 保健室」
「ったく!」
馨の手を振りほどいた尚顕は、階段を一階まで駆け下り、今度は渡り廊下《ろうか》を走り抜け、第二
校舎の音楽室の端のいきどまりまでやってきた。
教室からなるべく遠くへ離れてみたかったのだが、方角も、その強さも、全く変化はない。
どうやら自分を引っ張るなにかは、学校の敷地内程度を移動したところでまったく影響のない
ぐらい遠くにあるらしい。
西の方角を見ながら、考えながら、ゆっくりと教室に戻る尚顕の脳裏《のうり》に、あの奇妙な夢が最
後に告げた『声』が甦《よみがえ》っていた。
微かな興奮が背筋を走る。どうやら、この引っ張られている場所に、あの夢の謎を解く鍵《かぎ》が
あるのは間違いなさそうだ。
「あれ?」
いきなり小さな声が聞こえ、視界の隅に影がさす。
渡り廊下と校舎の廊下の境で反射的に立ち止まった尚顕の目の前――ほとんど顔すれすれの
場所に、学生服の胸があった。
「あ、尚顕くん」と、尚顕の頭上から声が降ってくる。
顔を確認するまでもなかった。こんな背丈の生徒は、学校に何人もいないはずだ。さらに尚
顕を名前で呼ぶ者となると、間違いなく一人だけ。
「よ、慎也《しんや》」と、尚顕は手を上げた。
隣のクラスの寺沢《てらさわ》慎也。身長192センチ。大柄でおっとりした性格なのだが、動きは俊敏《しゅんびん》だ。
それも当然。彼は中学時代、全国優勝したバスケットボール部のエースで得点王。次期全日本
候補としてバスケ雑誌にも載ったことがある。もちろん高校に入ってからも、バスケ部に入部。
一年生ながらレギュラー入りは確実だった。啓二とともに『なぜうちの高校に入ってきたのか
が謎』の新入生――それが慎也だ。
「あ、そうだ」
慎也と出会い、尚顕は、彼にとって非常に大切なことを思い出していた。この時ばかりは、
妙な引っ張り感のことも、頭から離れる。
声を低めた尚顕は、囁《ささや》くように慎也に告げた。
「停学のおかげで、アレ、大体できた。多分、今夜には完成だ」
「へぇっ」と、前かがみになった慎也の顔に笑《え》みがこぼれる。
「フレームの材料も慎也の親父《おやじ》さんのお陰《かげ》で大分、集まったし。これからも手伝い頼むな。部
活のない日だけでいいから」
「うん。お父さんも楽しみにしてて――あ、でも」と、慎也は少し心配そうな顔をする。
「まさかそのために、わざと停学になるつもりで喧嘩したんじゃないよね?」
「するわけないだろ? 材料探しでうろついてた時、たまたま出くわしたんだ」
憮然《ぶぜん》と言い返す尚顕だったが、その声には親しみが溢《あふ》れる。
「だったらいいけど。尚顕くん、時々、むちゃくちゃだからなぁ」
「あのな。お前まで馨みたいなこと言わないでくれよな」
むっとしたその時だった。尚顕は、突然に斜め後ろ――東の方角へとたたらを踏む。
ずっと彼を引っ張り続けていた『力』が、プツンと途切れたのだ。
するとまるで尚顕に合わせるかのように、慎也も足を前に一歩踏み出す。
「……あ、そうだ。ちょっと、保健室に用事あって。じゃ、また」と、慎也は、なぜか焦りな
がら尚顕の横を小走りにすり抜けていく。
「慎也?」
尚顕は長身の少年の後ろ姿を、戸惑いの表情で見送った。
考え込みながら教室に戻ってきた尚顕に、興奮した愛や加奈となにやら話し合っていた馨が、
声をかけてきた。
「尚くん、なにか変な事件が起きてるらしいんだ」
尚顕は、「へぇ」と生返事をして、窓の方を見つめた。
やはりあの引っ張り感は、完璧に消えている。一体、どういうことなのか。
それと、今の慎也。あんな運動神経のいい奴が、どうしてぶつかりかけたりしたのか。しか
も、自分と同時にバランスを崩したのは、単なる偶然なのだろうか?
「おーい、聞こえてる?」
馨の声が、やっと尚顕の耳に届いた。
「うるさい。俺の頭は変じゃないって!」
すると驚いたことに、馨は真顔でうなずいた。
「そうかもしれないね」
「はぁ?」
「事件って、変な夢が関係してるらしいの。日本より、ヨーロッパとか、外国の方で大騒ぎ」
やっと尚顕の注意が、周囲に向いた。教室は一種、異様な雰囲気だった。話し声がまるでし
ない。携帯を持っている生徒のほとんどがそれを取り出し、持っていない連中とともに小さな
液晶画面に見入っている。
「尚くん、見てたんだよね、変な夢」
尚顕は、うなずいた。
「もし、あれがただの夢じゃなかったら、ニュースになって当然だ……」
尚顕は一度、言葉を飲み込む。あの夢から覚めた時の興奮が、次第《しだい》に甦り始めていた。
「俺と同じ夢を多分、十億人以上が見てたはずなんだ」
「十億人以上が……同じ夢を?」
「地球の半分は夜だろ」
「そうか。地球の人口の半分――三十億人以上が同じ夢見てたとしても、不思議じゃないのか
……」
「けどな」と尚顕はぼやくように言って、加奈を見た。
馨も、その視線が意味するものに気づいた。
「木江さん、ホントに見てないんだよね?」と、馨が間接的に、
「お前、嘘ついてない?」と、尚顕が露骨《ろこつ》に訊く。
加奈は心底、馬鹿馬鹿しいと言いたげに深く息をつき、二人に答えた。
「だから……言ったろ? 私、滅多《めった》に見ないわけ――夢なんてムダなモノ」
しかし聞いた途端、尚顕の脳裏に、ある閃きが生まれていた。
「――馨、木江があの夢見られなかった理由、わかったかも」
「ほんと?」
「ああ。俺は木江と違って、その時、見てたんだ――別の夢。あの、空飛ぶ夢だ。そうだ、思
い出した。見てた夢の中から、まるで大きな手かなにかで、掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]み出されたって感じがしたんだ
……」
「じゃあさ、じゃあさ!」と、愛が身を乗り出して聞いた。
「ただ眠ってただけじゃだめで、夢を見てた人だけがその妙な夢を見られたってこと?」
尚顕が気がつくと、周囲の生徒たちの視線が自分に釘付《くぎづ》けだった。戸惑いながら、
「かもな」と答えると、加奈が面白くなさそうな顔をして尚顕を見た。
「なんだよ、そういうこと? そんなだったら、夢見る癖《くせ》つけとけば――」
ぼやいている加奈の言葉が止まり、顔から不機嫌そうな表情が消えた。そして、まじまじと
尚顕の顔を見つめる。
「ちょっと待った――やっぱ似てるっつーより、本人だなこれ」
尚顕の前に、加奈は一冊の雑誌を置き、バサリとフロントページを広げた。
「ほら。『新渋谷系』って特集ページ。モデルのすぐ後ろ――通行人の中に、あんた写ってる」
怪訝《けげん》な顔で誌面に目をやった尚顕は、大きな目をさらに見広げた。
それは確かに自分のようだ。にっこりして立っている派手な服装と化粧の女の子のすぐ後ろ
を、珍しく笑った顔の自分が歩いている。
「ほんとだ、尚くんだ」と、脇から覗きこんだ馨が、少し興奮しながら続けた。
「先月、一緒に渋谷いった時じゃない。ほら、私も隣で写ってる。顔はほとんど隠れてるけど、
この服」
「あ、やっぱり?」と、言ったのは愛である。
「やっぱ、付き合ってんだ、二人」
「ばーか」と、冷たく尚顕。
「こんなうるさい女と付き合うわけないだろ。大体この時は、二人じゃなくて三人。この後ろ
の方に慎也も一緒だったんだ」
「ご、ごめん……」
小さくなる愛を庇《かば》うように馨が、
「そんな言い方ないでしょ。尚くんは、普通でも怖い顔なんだから」と、尚顕を睨む。
「あのな。そんな雑誌より、今は夢のことだろが?」
「こっちも同じぐらい大事件よ。偶然でもなんでも、雑誌載るなんて初めてだし、結構、ハン
サムに写ってるじゃない。来帆姉さんに送ったげよかな。なんの雑誌? うちの店にあるか
な」
「残念でした」と、木江が笑う。
「これ先週号だから、手に入んないよきっと」
「えー? 木江さん、ひょっとして譲ってくれる気、ない?」
「ない」
木江が言い切り、雑誌を取り戻したその時――下らないと視線をそらした尚顕の目が、いき
なり見開かれ、一つの窓へと釘付けになった。
「どうしたの?」
馨の声に対し、尚顕が指をさすと同時に、グラウンドの方から悲鳴のような声が次々と上が
る。
そちらを見た馨や愛たちにも、尚顕と同じ唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然とした表情が浮かんだ。
先が少し丸く膨《ふく》らんだ長い棒状の光の塊《かたまり》が、空からゆっくりと降りてきていた。
クラスのほとんどの生徒たちが、あわてて窓際へと駆け集まる。その短い間にも、グラウン
ドからの声はより大きくなっていく。机を跳び越えて転落防止用の金網にかじりついた尚顕が、
思わず大声を上げた。
「なんだぁ!?」
グラウンドのど真ん中に、その光の塊が降り立っていた――というより、突き刺さっていた。
しかし見る間にその輝きは薄れ、やがて光の中から銀色に輝く細い物体が現れた。
尚顕は、あの引っ張り感が再び、唐突に復活しているのを感じていた。だが今の感覚には、
前とは歴然と異なる点がある。
夢中で教室を駆けだした尚顕に、馨と他のクラスメイトたちも続いた。
廊下を走る時も、階段を駆け下りている間も、尚顕の引っ張り感は続いている。だが今度は
下におりるに従って引っ張りの角度がどんどん減っていく。力が次第に強まってくる。
もう間違いない。尚顕を今、引っ張っているのは、あの棒状の物体だ。
尚顕がグラウンドに辿《たど》りついた時には、銀色に光る物体を中心に人垣がドーナツのようにで
きていた。
尚顕は、ざわめき興奮する人垣の端にたどりついたが、物体は人の背丈よりは低いのか、全
く見えない。
「こらこらこら! 押すんじゃない! 離れるんだ!」
体育担当教師・高木《たかぎ》の野太い声とともに内側から人垣が膨れ、なんとか前の方へ食い込みた
い生徒たちを押し戻していく。
と、尚顕はその人垣の端に、一際《ひときわ》長身の生徒を見つけた。
「慎也、肩車!」と、駆け寄りながら、怒鳴る。
「え?」
「肩車だよ、そしたら見られる。順番な!」
「わかった」
慎也に肩車された尚顕の視線は、一気に生徒たちの頭の上を越えた。
まず見えたのは、体育教師・高木のよく日焼けした顔だった。学年主任の井上《いのうえ》と、怖い顔を
して対峙《たいじ》している。
「次の授業はサッカーです! こんなものが刺さってては、授業になりません!」
「しかしですね……光ってますでしょ? ひょっとしたら、ロシアの衛星かなにかの破片とか
かも」
「そんなニュースありましたか? 衛星が落ちるとなれば、何日も前から大騒ぎでしょうが。
単なる飛行機の部品ですよ」
「しかしそれでも、警察には――」
「届けます! しかしグラウンドの隅に移動させるぐらいかまわんでしょう。それとも、問題
ありますか?」
高木が井上に詰め寄っていき、やっと彼の背後からその物体が現れた。
「へぇ……」と、思わず尚顕の口から感嘆の声が漏れた。
銀色の金属でできている長さ1.5メートル、直径5センチほどの棒だった。地面に対し完全に
垂直に立っている。金属棒の先には、俸と同じぐらいの直径の、透明なガラスのような球体が
ついており、この球体が眩《まばゆ》く、しかし温かな、神々《こうごう》しいような輝きを周囲に放っていた。
息を飲むほどの美しさだ。
人工衛星や、飛行機の部品とはとても思えない。それにこの物体には、見覚えがあるような
……。
「ああ……」と咳いた尚顕の全身が、興奮に震えた。
サイズが全然違うのですぐに気づかなかった。あの奇妙な夢の中――その最後に現れた物体
と、これはそっくりだった。
「見える? どんな棒?」
愛たちと駆けつけた馨が、尚顕の下から問いかけてきた。
「感じ、棒っていうより杖《つえ》だな。すごく綺麗だ」
正直もう少し見ていたかったが、尚顕は飛び降り、慎也に言った。
「よし、次お前な」
しかし、「いいよ僕は。このままでも見えてるし」と、慎也は断る。
「あ、あのさ」と、ごくりと息を飲んだ愛が、『なぜ同じ高校にいるのかが謎』の少年を見上
げながら、馨に聞いた。
「こ、この人って、寺沢慎也さん、だよね。バスケの……。お友達、なの?」
馨が答える前に、
「二人とも、小学校からの僕の親友だよ」と、慎也が笑う。
そして驚きに声もない愛たちから、馨へと視線を移した。
「馨ちゃん。よかったら」
「いいの?」
「うん」
「ありがとう。これ、尚くんには頼みにくいもんね」
照れくさそうに、しかしいそいでスカートの裾《すそ》を摘《つま》むと、馨は思い切り下げられた慎也の肩
に乗っかった。
小さく歓声を上げて馨の体が遙か頭上へと消える。
「あ、いいなぁ! 今度、私もお願い!」と、愛が言い、たちまち慎也の周囲には女の子の輪
ができた。
ちょっとだけ羨《うらや》ましげに慎也を見ていた尚顕の耳に、人垣から出てきた生徒たちの興奮した
声が耳に入ってきた。
「絶対、飛行機なんて飛んでなかったって! 空から降ってきてブスッて刺さったすぐ後で俺、
空見たんだからな!」
「じゃあ、あれがどっかから勝手に飛んできたってのかよ」
「知るかよ。俺はただ、見たこと言ってるだけなんだからなっ!」
馨もこの会話を聞いていて、下の尚顕や慎也に告げる。
「雲一つない快晴よ。高木先生の言う通り、ちょっと見、飛行機の部品に見えなくもないけど、
飛行機からの落とし物が、あんなにゆっくり落ちてくるわけないよね。大体、ここまでまっす
ぐ刺さらない」
「だよね」と言った慎也の上で、馨が少し前のめりになった。
「あ、ついに高木選手、本気出すつもりみたい!」
高木はウェイトリフティングの有名な選手でもある。陰で“筋肉ダルマ”とあだ名される彼
なら、あんな細い杖など一気に抜いてしまうだろう。
「抜けた」という声を待っていた生徒たちだったが、逆に「駄目だ!」というダミ声が人垣の
中からした。
まさかという周囲のどよめきとともに、あんぐりと口を開けた馨が、下のみんなに報告した。
「……高木先生の力でも、あの空から降ってきた杖、びくともしない。松室さん、交替。これ
見物《みもの》!」
急いで交替し、生徒たちの頭上を越えた愛の口から、楽しげな報告が始まる。
「今度は先生たち、四人がかり! せーのっの掛け声で、四人の男性教師たちが、杖を一斉《いっせい》に
同じ方向へと引っ張り始めました!」
彼女は、女子アナ志望の放送部員。実況放送が堂に入っていた。
「鋼鉄の棒だって少しは曲がるはずでしょう。なのに全然――」
「駄目だっ!」と、再び絶望的な高木の声が、愛の声を掻き消す。
「四人がかりでも、びくともしません。おっと、今度は五人か?」
実況が続く中、馨が尚顕の前へきて、興奮した口調で聞いた。
「この杖、尚くんが見た夢と関係あるの?」
尚顕の顔も興奮で紅潮《こうちょう》している。大きくうなずくと、
「多分。似てるしな」
「似てる?」
「うん。夢の中で崩れたピラミッドから出てきたものに」
「ピラミッドぉ?」
その馨の呆れた声に、チャイムの音が重なった。
次の授業は英語だった。すでに授業時間なのに、教師はまだ現れず、教室は騒然。クラスの
半分近くが窓から外を――あの銀色の杖の方を見下ろしている。
窓際の席なのに下を覗いていないのは、啓二だけだった。
「あ、帰ってきた!」
裕司が怒鳴った途端、たちまちクラス全員の視線が、馨とともに教室に駆け込んできた尚顕
に集まる。
「民田くん! 見たんだよね、変な夢」
今朝、教室に一歩足を踏み入れて以来、完璧に敬遠されていた尚顕だったが、どうやら尚顕
への恐怖より、この大事件への興味の方が大きかったらしい。
「どんな夢なんだ?」「あの杖と関係あんの?」と、教室中から質問が飛ぶ。
その時、「静かに!」と、教室に大声が響きわたった。
「みんな、席について。もう授業中なんだ」
啓二である。
しかし静まりかけた教室に、「あなたも、見たの?」と、女性の声が続く。
啓二は、一体誰だという目で睨みかけて、あわてて視線を外した。
声の主は、教科書を抱えて前のドアから入ってきていた英語担当の山錦《やまにしき》だった。驚きの顔
を、尚顕へと向けている。
山錦は、教師になってまだ三年目の若手だった。フランクでジョーク好き――先生というよ
りよき先輩タイプ。まだ独身で結構、美人。男女問わず生徒たちの人気は高い。
生徒たちが急いで席に戻る中、教卓についた山錦は、改めて尚顕に聞いた。
「彼の他に、見た人は?」
再び、ほぼ全員の視線が尚顕へと集まる。
「さっきテレビで、ニュース速報が流れたらしいんだけど、十時頃に眠っていた人の多くが、
同じ変な夢を見ていたのは本当みたい。あの杖のようなもののこともあるし、これって案外、
大変なことかもしれないって気がするわね……」
しばらく考えていた山錦は、尚顕へ告げた。
「えーっと、あなた初めて見る顔だけど――ああ、そうか。民田くんね」
「はい」
「じゃあ、民田くん。その夢の話、みんなにしてくれないかな? 詳細に。どうせこれじゃあ
授業にならないだろうしね。実際私も、その夢の内容を知りたいの」
「詳細?」
クラス全員の視線が、まるで尚顕を貫くようだった。正直、視線をそらされても、見つめら
れる経験は滅多にない。やたら戸惑う尚顕に、
「もったいぶらないでよ」と、馨がからかうように告げる。
「誰が」と答えた途端、すっと気が楽になった。そして、
「……最初は、普通の夢だった」と、尚顕は語り始めた。
[#改ページ]
突然、なにかが尚顕の全身を包み込んだかと思うと、軽い電撃のようなものを感じた。同時
に祖父の姿が消え、なにもない真っ白な世界の中にいた。遠く近くに様々な色合いの球体が、
たくさん浮かんでいる。その間を、ゆっくりと動き始める。
別に苦しくはなかったが、体の自由がきかない。それに全身、なんだか痺《しび》れていて、狭いと
ころに押し込められているようだった。
『What's up!?』
その言葉は、唐突に尚顕の頭の中で生まれた。
なんだろうと思っていると、すぐ前を飛ぶ球体の一つが急接近してくるのが見えた。カバー
を取った辞書のような茶色っぽい色で、全体に細かな光る波紋が浮かんでいる。ぶつかるのか
と尚顕が焦り始めた直後、互いがまるで磁石の同極同士のように反発し合い離れてゆく。
尚顕はぽかんと見送りながら、あることに驚いていた。頭や目を動かしているという感覚が
ないのに、意識するだけで360度あらゆる方角を見ることができる。
しかし、視線以外の体の部分は全く動かせない。痺れも取れない。まるでダルマ状態だ。思
い通りにならないのは夢ではありがちだろうが、ここまでひどいのは初めてのような気がした。
考え込む尚顕の視界で、比較的大きな球体が、ビュンビュンと勢いよく背後に消え始めてい
た。どうやら速度が上がっているらしい。もしこんな勢いで球体と激突したりしたらどうなる
のだろう?
まずい、と尚顕は気づいた。夢で考えた悪いことは大抵、実現してしまうのでは……。
案《あん》の定《じょう》だった。真正面に黄色い球体がみるみる接近してくる。もう駄目かと思った直後、真
横へ振り回されて回避。その黄色の球体の脇をすり抜ける時、また彼の頭の中に言葉が浮かん
だ。香港《ホンコン》映画の登場人物のような言葉。広東《カントン》語?
急速に離れていく黄色い球体を見守りながら、尚顕はある仮説を思いついた。
もしかすると、この周囲に無数に浮かんでいる色とりどりの球体の、その中身は全部
『人』?
だとしたら、彼らからすると、自分も同じような球体に見えているのかもしれない。手も足
も出ないのは、そのせいだとしたら……。
結構、納得の理屈だった。自分もまた、球体になっているのかも。
尚顕は、改めて周囲を見回してみた。本当にいろんな色の球体(人?)が浮かんでいる。緑、
黒、紫、どれ一つとして同じ色合いのものがない。
と、前方に、小さな星が出現した。しかし今の尚顕には、少し余裕があった。速度が緩んで
きたし、どうやら自動的に回避するようになってるらしいし。
その球体は、仄《ほの》かなピンク色に輝いていた。見とれてしまうほど綺麗な色だ。どんどん近づ
く。減速も止まったようだ。不安が再び尚顕に襲いかかる。大丈夫と言い聞かせる。今度も自
然に回避するに違いない。さっきの黄色の球体の時、回避した地点。コース変更――しない!?
――ドカン!
夢の中だ。当然痛みはなかったが、もの凄い衝撃を尚顕は感じた。完全に追突状態。しばら
く密着したまま飛び、やがて相手の球体はゆっくりと離れていった。
しかし、ぶつけてしまった相手の球体は、そう遠くへいくことなく、戻ってくると彼のすぐ
隣で静止した。色が黒に近いブルーに変わっていた。球体全体がほよほよと波うつように上下
動している。ひょっとして、気絶させてしまった?
『おい、大丈夫か?』
夢の中であっても、悪いのは追突した自分の方だった。あわてて声をかけると、途端、球体
全体に輝きが戻った。だがさっきの色とは違い、淡いブルーだ。驚いている――あるいは、怖
がっているのかもしれない。
『……これ、声、ですか? メール?』と、言葉が尚顕の頭の中で生まれた。ほっとしたこと
に、今度は日本語だ。
『ごめん。追突したんだ。大丈夫?』と、もう一度謝った。
『多分……ちょっと体が痺れてるぐらい、かな。でも……』
球体からの声が一旦《いったん》止まり、その球面全体に細かく激しい波が立った。
『夢――ですよね、これ』
『ああ。夢だよ、俺の』
球体に立っていた波が、より大きくなった。
『……あなたの? あなた、怪物? それともその青い玉の中に誰か入ってる?』
『中身は人間。あんたも?』
『ええ……』
この変な会話を続けるうちに、尚顕には、はっきりしてきた。厳密にはそれは『声』ではな
いことが。意識の中に文字や『?』などの記号が割り込んでくる感じ。意味がわかり意志が伝
わるだけ。さっきの『メール』という表現が、一番合っている気がした。
ただ言葉とは別に、球体の表面全体がふるふる揺れたり、光の波紋ができたり消えたりする
それが、感情を表しているように感じられた。
『……変な夢』と言った青い球体の全体に、大きな波紋が広がった。やはりそうだと、尚顕は
思う。多分今、驚いているのに違いない。
と、その波紋がさらに強まり、言葉が届いた。
『球体の――人の数が、どんどん増えてますね』
ぐるりと視線を巡らせた尚顕は、その言葉の正しさを確認するとともに、別の異変にも気づ
いていた。
『それに、暗くなってきてんな』
『あ、ほんと』
おびただしい数の球体が浮かぶ乳白色の世界が、急速に闇にとざされていく。浮かんでいた
無数の球体が闇に紛《まぎ》れていく。触れることができそうなぐらいに密度の濃い闇。しかし真正面
に闇の切れ目があった。微かな緑色の光が射し込んでいた。
目を凝らす必要も合間もなかった。たちまち小さな緑色の球体が現れる。急激に大きくなる。
それは、エメラルドのように緑に輝く美しい星だった。闇は急速に晴れ、周囲には星が輝き始
める。宇宙空間だ。
緑の星がバスケットボール大になったところで、動きが止まった。どう見ても地球ではない。
少し遅れてお隣さんが勢いよく飛んでくる。一旦通り過ぎた後、急制動がかかった。ゆっくり
とバックしてくる球体から、尚顕の頭の中に言葉が届く。
『あなたが、引っ張ってるの?』
『なんで?』
『――そうじゃないんですか?』
『人をストーカーみたいに言うなよな。自慢じゃないが、目っていうか、視線動かす以外なん
にもできない』
『じゃあ一緒……? どうして私の潜在意識、こんな夢を見させてるのかな……』
尚顕は戸惑いながら、再び隣で静止した球体へと視線を動かした。
私の潜在意識?
『あんたも、これを自分の夢って考えてんの?』
『ええ。ね、あれって地球だと思います?』
逆に問いかけられた尚顕は、さっき感じていたことを答えた。
『大陸の形が違うよな。海もほとんどないし。でも、あの少し色の違う凹地《くぼち》の地形、どこかで
見た覚えある気が……』
いきなり視界が強制的に反転させられた。
目の前に、緑の星のさらに二回りも大きな星が浮かんでいる。
こちらは白と青のパーツに分かれ、輝いていた。雲と海だ。雲の合間、真っ青な海の中に浮
かぶ大陸の形。今度は、一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。
『地球だ』
そうは言ったものの、尚顕には少し自信がない。どこか見慣れた地球の映像とは違っている
ようだ。しかし次のお隣さんの言葉で、その謎は簡単に解けた。
『でも、凄く汚れてる』
本当だった。目の前の星は、あまり美しいとはいえなかった。雲の色はところどころ妙に
鼠色《ねずみいろ》にくすんでおり、海の色も青とはとてもいえない部分が多い。
『じゃ、さっきの緑の星は月かよ』と、尚顕は唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然として言った。
お隣さんが球面に細かな波紋を次々生み出しながら、呟いた。
『これが、夢なのは間違いない。だけど……ちゃんとしすぎてる。しすぎてますよね』
『え?』
『ですから、リアリティ。地球も、月も、あなたも、意識も。こんなに曖昧《あいまい》じゃないなんて。
くっきりしてるなんて』
『けど、だったらなんだって言うんだよ。現実か? そんなわけないだろが……それに、思い
出した。今俺、教室で居眠りしてるところだ』
『だったら、私も今どこでどうやって眠ってるか、わかってます』
『わかってるって言われてもなぁ……』
リアルな夢なら、いくらでも見たことがある。見てる時は、それが現実以外には思えないか
らこそ、夢なわけで……。
しかし、考える尚顕の脳裏に、ふと、疑問が湧いてきた。夢の中で、こんなに筋道立てて考
えられるだろうかと。奇妙なことが不思議に感じられないからこそ夢の中なのに、今自分は、
目覚めている時のように周囲の状況に目を見張り、驚きまくっている…。
尚顕が困惑している間に、再び異変が始まっていた。
地球がいきなり巨大化し始めた。地球に向かい急激に加速。地球が視界一杯に広がった段階
で、やっと減速する。
間近に見た地球は、現実の地球と比べて遙かに汚れていることが確認できた。痛々しいぐら
いに緑が少ない。ユーラシア大陸の南部分さえ大半は砂漠だった。
その砂漠化した大陸の片隅に、小さく奇妙な靄《もや》が立ち込めている。地球を覆っている雲とは
違った、もっと目が粗《あら》く、複雑な色合いのなにか。
二人は並んで妙な霞の方角へ向かった。霞は急速に拡大している。白い雲が消え始めていた。
霞が、雲の上に広がっているということだろう。
霞が接近する。霞の細部が見えてくる。お隣さんが全体をフルフルさせた。尚顕には驚き怯
えているように見えた。当然だろう。今、二人の周囲には、凄《すさ》まじいとしかいいようのない光
景が広がっていた。
異様な霞の正体は、無数の球体の集合体だったのだ。
尚顕は、言葉もなく周囲を見回した。一番近い球体まで、100メートルほど離れている。ほぼ
そのぐらいの等間隔で、球体は空中に浮かんでいるようだ。
『もし、これ全部に、人が入ってるとしたら……』
お隣さんの言葉が、茫然とした尚顕の心にしみ込んでくる。しかしとても信じられない。こ
の途方もない数の球体の中に、自分やお隣さんと同じく、人が?
『体がつねれたら……。もしこれがただの夢じゃなかったら……あ、そうだ』
お隣さんは一旦、言葉を切り、改めて尚顕に告げた。
『初めのあなたの言葉、訂正《ていせい》させてください。きっとこれは、私の夢でもあります』
『あんたの、夢?』
『ええ。ひょっとしたら私たち、この不思議な夢の中で、出会ってるのかもしれない』
『そんなわけないだろが』
『どうして言い切れるんです?』
球面に怒った時の波が立っていた。
『言い切れるもなにも、これは俺の見てる夢だ』
『あきれた……。頑固《がんこ》ですね』
『ああ。よく言われる』
『あの、たとえばでいいから、考えてみてください。ひょっとして、この無数の球体全部に、
私たちのように誰か入ってるのかもしれないって――ここにいる全員が今、同じ夢の中にいる
って』
『たとえば……か』
言いながら、尚顕は思い出していた。
『……そういえば、あんたとぶつかる前だけど、二人とニアミスした。その時、英語と広東語
みたいな言葉が聞こえた』
お隣さんの球面に立っていた興奮の波動が、さらに高まった。
『英語圏の国々の誰かと、中国語、広東語圏の誰かと、出会ったんですか?』
『だから、それがどーしたってことだろ? これは夢なんだ。この凄い数が全部、実在の――
現実の人たちなわけないって』
お隣さんは、興奮で激しく振動しながら、言った。
『でも、それって立派な証拠じゃないですか。なのに、どうして信じないの? 地球の半分は
夜なんだもの。全人口の半分でも約三十億……。ここに見えてる球体も、それぐらいはありそ
うでしょ?』
『だから、いくらリアルでも、夢は夢だって』
頑《かたく》なにそう言い張る尚顕だったが、内心は違った。これは夢だ、夢であってほしいという願
望が、お隣さんの説を否定する唯一の根拠になりつつあった。
尚顕は、視線をぐるりと巡らせた。凄まじい数の球体によってできた、雲の中を。
夢の中のはずなのに、目眩《めまい》を感じた。全身が総毛立つようだった。
『ええ、確かに夢は夢でしょう。でも、私たち、この夢に招待されたのかも……』
尚顕は、怒りに近い気分で、お隣さんに問い返した。
『……誰に招待されたっていうんだよ。なんのために?』
『それはわからない。でも、もしここで私たちが――あ、そうだ』
と、突然お隣さんの球面の波紋が、不安を感じさせるものに変わった。
驚いた尚顕は驚いて周囲を見回したが、さっきから変わったことと言えば、球体――人の数
がますます増えていることぐらいだ。
『またなにか、わかったのか?』
おっかなびっくりで訊《たず》ねた尚顕に、お隣さんは一層、不安げに球面を震わせつつ答えた。
『あの。私の姿――とか、本当に、そちらからも見えてません?……私、今ちょっととんで
もない格好で寝ていて』
あわてて視線をお隣さんから外す。この妙に生々しい言葉を聞いた途端、尚顕の中の「まさ
か」が「もしか」に変わった。
ひょっとして、お隣さんは本当に現実の人間? その人と今、自分は夢の中で会って話をし
ている?
嘘だろと、尚顕は心の中で怒鳴った。しかし心臓の動悸《どうき》が激しくなる。もしもそうだとした
ら。もしこの無数の球体すべてが、お隣さんと同様に、地球上でたった今、眠っている人々だ
としたら……。
息が詰まりそうになってきた。やっと尚顕にも、お隣さんの興奮が本当に理解できた。
『見えてるんですか?』その沈黙を逆に取ったのか、お隣さんは球面の波立ちをさらに強めて
問いかける。
『み、見えてない!』と、尚顕は急いで答えた。
『俺に見えるのは、玉の表面の動きとか波紋とかだけ。感情は、その動きとかで、なんとなく
わかる気はするけどな』
ゆっくりと球面の荒い波が消え、ほっとしたようなさざ波に変わった。
『よかった。だったら一緒。私も今、あなたが凄く焦ってるのがわかります』
違う波動がお隣さんに現れていた。初めて見る波動だったが、笑っているように感じられた。
この時、突然、尚顕の脳裏にホルンのような楽器の音――聞いたことのない不思議な旋律《せんりつ》の
荘厳《そうごん》な音楽が、ファンファーレのように響きわたり始めた。
驚いている尚顕の頭の中で、音楽とお隣さんの声が重なる。
『ひょっとして、観客が揃《そろ》った?開幕の合図?』
その言葉に答えるかのように、ユーラシア大陸の中央近くが、きらりと光った。
次の瞬間、二人はカメラがズームアップするように、光った場所へと急速に降下。すぐにそ
れが朝日を浴びた巨大な建築物であることがわかった。
それはアイボリー色をした途方もなく大きな四角|錐《すい》の塔だった。少し平べったくしたピラミ
ッドのようだ。ただ、頂上部にあるのはキャップストーンではなく、柔らかな真珠色に光る透
明の球体だった。
夜明けの太陽の下、まるで陶器のように眩しいほど照り輝く塔を頂点にして、赤茶けた砂漠
に、高い壁に囲まれる形で壮大な都市が扇状《おうぎじょう》に広がっていた。
二人は、その巨大都市の上空500メートルほどの高さで停止した。
新宿の超高層ビル群など、比較にならなかった。すぐ足元までビルの先端が届いている。し
かも巨大なだけではなかった。ビルの一つ一つが個性的、芸術的とさえ思える美しさを持ちな
がら、全体としては見事に調和している。
『なんだこれ……』
尚顕は思わず呟く。お隣さんの球面では、全体が激しく振動していた。
二人の体はゆっくりと都市の外れへと降下。砂漠へと続く広々とした道路上を少し浮かんだ
形で、前方に林立するメガロポリスめがけて動き始める。地表から見上げると、都市はさらに
素晴らしいものだとわかった。
『……人間になんて、作れそうもないな』
巨大なアーチ状のゲートを感嘆して見上げながら、尚顕はお隣さんに話しかけた。
『これって、過去の地球なのかな』
『過去?』
『ほら、超古代、現代より遙かに進んだ文明があったって説、あるだろ? ムーとか。そんな
都市の一つなのかも』
尚顕は、巨大なビルの群れが優美な曲線を描いて空へと突き刺さる様を、感動して見上げな
がらそう告げた。
『ムー?』
『あ、知らないんだったらいいんだ。たまたま観てた番組でやってただけだし』
『残念ながら、知ってます。太平洋の真ん中にかつてあった大陸を支配していた文明のこと。
一夜にして沈んだ大陸の』
『そうそれ。沖縄《おきなわ》のどこかの島にある謎の海底遺跡。あれがムー文明の遺跡じゃないかって番
組。あんたも観た? 結構、面白かったよな。他にもナスカの地上絵とか、イースター島のモ
アイ像とか、世界には不思議な遺跡がたくさんあるって――』
尚顕はお隣さんを見て、言葉を止めた。なぜか球面に激しい怒りの波が立っていた。
『それはつまり、こんなメガロポリスを作れるような科学文明がない未開人には、巨大な建造
物や地上絵のような素晴らしいモニュメントなんて作れないってことですか』
言葉に詰まった尚顕などお構いなしに、お隣さんは早口でまくしたてる。
『古代人にないのは知識の集積だけです。知恵だったら私たちと同じ――いえ、もっとあった
かもしれない。モアイ像もナスカの地上絵も、どうやって作られたは解明されてます。地上絵
は小さな下絵を等分に拡大したんです。長い縄《なわ》一本があればできることです。こんな超文明な
んて、全く必要ありません』
まるで、教師による授業か講義のようだ。唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然としながら、尚顕は問い返していた。
『下絵を、拡大? あのデカイ絵を縄一本で? まさか、そんな簡単かよ』
『簡単じゃありません。でも、できます。モアイ像の製造法も移送方法も証明されてます。製
造には石器を、移送には木材を利用したんです』
『けど確かイースター島には、そんな大きな木なんてないって。一面草と岩ばかり。だから、
謎だって、あの番組でやってたぞ』
『確かに現在のイースター島は、そういう状態です。でも像が作られ始めた千年前まで、あの
島が深い森に覆われてたことは、地層の花粉解析から証明されてます。モアイ像が作られなく
なったのは、謎でもなんでもない。石像を運び、立てるための木がなくなったからです。森が
なくなれば、食料も水も失われます。それだけじゃない。森は――森が生産する養分は川に乗
って流れ出て、海の生き物も育てます。森が死んだ時点で、島も海も死に数万人を数えたイー
スター島の人口は激減し、文明も滅んだんです』
『森を――木を、切っただけで?』
『ええ。森を破壊しただけのことで、バビロン、クレ夕、モヘンジョ・ダロも減びました。他
の多くの古代文明も、自然破壊が原因で滅亡したことが、今ではわかってきてます』
『へぇ……』
感心するばかりの尚顕の前で、お隣さんの球面の波が、急に乱れ始めた。
『……ただ、イースター島の文化を完全に滅ぼしたのは、大航海時代の白人たちですけど……
なんとか生き延び、細々と文化を伝えていたほとんどの島民を、彼らは捕らえ、奴隷《どれい》にした。
イースター島のモアイたちが謎になったのは、その時からだから……』
お隣さんの球面の波紋は、初めて見るものに変わっていた。
『今私たちが見ているこの夢の世界も、緑の大半が失われています』
しかし、気を取り直したかのように再び怒りの波が強まると、その初めての波動は消える。
『このことが、なにかを意味してるのかもしれません。なにかを教えてくれようとしているの
かも。例えば、私たちにも、たった半世紀前までは、多くの古代文明の滅亡は謎のままでした。
だからチャーチワードなんていう偏見を持った妄想家《もうそうか》も活躍できたんです』
『……誰だ、それ』
『ムー文明をでっち上げた張本人。彼の説の根底にあるのは、人種差別です。意図的かどうか
は知りませんが、結果的に白人の世界支配を正当化するために、ムー帝国は作られてるってい
っていいんですから』
『ふーん……』
『彼の著書では十の種族が平等に暮らしてたって書いてありますけど、実際、支配してるのは
金髪|碧眼《へきがん》の白人です。しかもチャーチワードは、日本人がムー大陸から移住した人々の、直系
の子孫だって言ってるんです。元は白人だから、ヨーロッパ以外の未開の国々に比べれば、遙
かに高い文明を持つことができたって……』
球面に、再び先程の波動が現れていた。見ている尚顕には、それがひょっとしたら悲しみか
もしれないと思え始めていた。しかし、なぜ? 変な奴――いや、人だ。
『おだてられて喜ばない人はいません』
再び怒りの波が生まれた。
『だから日本人は、ムー大陸やムー帝国の設定がとても好きなんです。できれば信じたいんで
す。だからいまだに、ムーって言葉をつけたがる。あの素晴らしい、与那国《よなぐに》島の海底遺跡にま
で!』
とっくに尚顕には、返す言葉などなかった。ミステリーなら好きでよく読んでいたが、それ
でも歴史ものは苦手で避けてきた。そんな自分に、お隣さんと対等に議論できるような知識な
ど、ひっくり返しても出てこないことぐらい、わかっていた。
同じ理由で、今、球体全体を怒りに震わせているお隣さんが、自分の潜在意識が作り出した
ものなどではないことも確かなようだ。尚顕は、世界のどこか――日本語が通じるのだから多
分、日本の――で眠っている誰かと夢の中で会い、話しているらしい。しかもこの知識や雰囲
気からいって間違いなく、自分よりかなり年上と。
見つめる尚顕の視線の前で、お隣さんは再びまだ見たことのない揺れ方を始めた。
『ごめんなさい。言いすぎ』と声。
『母が考古学に詳しくて、ムーには特に敵愾心《てきがいしん》燃やしてる人で、つい私も……』
今度のこの新しい揺れ方は、恥《は》ずかしがっているらしい。
『あ……ああ、謝るの、こっちかも。俺、まさか年上だとは思わなかったから、こんなタメ口《ぐち》
きいて、すみません』
『え? 年上……あ、そうか。私たち、なにも互いのこと、知らないんだ。私は今、十六にな
ったばかりですけど』
途端、『なんだ』と、再び尚顕の口調が元に戻った。
『だったらタメだ。気ぃ遣《つか》って損した』
『あの』と、少しムッしたように球面を揺らせて、お隣さんは言った。
『あなたの尊敬の基準って、年齢だけなんですか?』
『んなことないよ。けど、同い年なんだから、敬語使う方が変だろ?』
『それは……そうかも』
『な』と言って、尚顕は周囲の壮大な都市へと目をやりながら、問いかけた。
『そんなことより、ここが過去の世界じゃないとしたら、なんなんだ?』
気を取り直したような波紋とともに、お隣さんは言った。
『多分、未来』
『未来?』
『ええ。この夢は、未来からの警告なのかも。汚れ、砂漠化した未来の地球の人々が、過去の
私たちに送ってきた警告。このままだと、こんな世界になってしまうという』
『ふーん……』
気のない返事に、お隣さんの表面に怒りの波が立つ。
『ふーんってね。とても大切なことですよ』
『おっ、見ろよ』
聞き流す尚顕の眼前が、いきなり開けていた。入ったときと同じような巨大なゲートを抜け
たのだ。メガロポリスの外に出た二人は、巨大な四角錐の塔を、その麓《ふもと》から見上げていた。
四角錐《ピラミッド》の頂点辺りには、ベールのように薄い笠雲《かさぐも》ができている。こうして地上から見上げる
と、途方もなく巨大なものだった。富士山級の高さである。圧倒的な存在感だった。とてもで
はないが、人が作れるものとは思えない。
尚顕はその雄姿に圧倒されながら、『言う通り、未来かもな』と、咳いた。
『こんなのが跡形もなく消えるなんてこと、あるわけないか……』
『光が……』
お隣さんの声とともに、富士のように聳《そび》える塔の全体が眩く輝き始めていた。同時に、再び
二人の体も徐々に上空へと昇ってゆく。とても耐えられないほどの光量となった後、光は急激
に減衰《げんすい》した。
空中の二人から、思わず驚きの声が漏れた。都市が――眼下にあったメガロポリスが、大量
の砂ぼこりを煙のように巻き上げつつ、空中に浮かんでいる。
茫然とする彼らの前を、巨大都市は急速に上昇していった。果てしなく、どこまでも、止ま
ることなく上へ……。
『あの塔だけが残ってる!』
尚顕はあわてて下を見た。本当だ。飛び去った都市の跡、扇状にえぐられた砂漠に、あのア
イボリー色の金字塔だけが、何事もなかったかのように聳え立っている。
が、直後だった。塔の全体がいきなり崩壊し始める。粉塵《ふんじん》と瓦礫《がれき》の中から現れた心棒のよう
な銀色の物体が、眩く輝く球体を戴《いただ》いたままの姿で一時聳え立ったが、それもやがて、ゆっく
りと大地に沈み込んでゆく。
二人は再び上昇を始めていた。その頃には、メガロポリスのあったところは、他の砂漠と全
く区別できなくなっていた。
たちまち大気圏を抜け、宇宙空間。そこにはさっきまで砂漠にあったメガロポリスが浮かん
でいた。
『都市が……宇宙船だったってことかよ』
尚顕の呟きに、『まさか……』というお隣さんの声が返る。
だが間違いなく、それは都市型の宇宙船だと思えた。それも一つではない。大小無数の都市
型宇宙船が、二人の限前に浮かんでいた。宇宙船は、緑の月からも続々と飛来し、やがて一斉
に動き始めた。
太陽とは逆の方角へと。
同時に緑の月が、真っ白に光った。夢の中なのに、目が痛いほどの輝き。しばらくして光が
収まった月を見た尚顕は、声もなかった。
再び現れたのは、青白く輝く、あばただらけの見慣れた満月だったからだ。
『地球を!』と、声。尚顕が視線を翻《ひるがえ》すと、地球の自転が異常に速まっていた。
それが時間の経過を表しているのは、すぐにわかった。凄まじい勢いで回転する独楽《こま》のよう
に地球はぼやけた薄い青色の球体に変じてしまう。
呆気《あっけ》にとられて見守るしかない二人の前で、急速に自転速度は緩まり、やがてゆっくりとし
た動きになった地球の姿に、尚顕は目を見張った。
薄汚れた鼠色の雲が消えていた。雲の白と海の青が鮮烈だった。ほとんど砂漠状態だった大
陵の半分に、緑が戻っていた。
綺麗な、写真やテレビで見慣れた、現代の地球だ。
と、尚顕は地球の方角にある物体を見つけ、思わず声を上げた。
『あ、あれ!』
青い地球の上を、豆粒のように小さななにかが横切っていく。
よく見ると、それは三角翼を持つ寸胴《ずんどう》な飛行物体だった。その太い胴体が観音《かんのん》開きに開き、
ロボットアームが円筒状のものを宇宙空間に引き出そうとしている。
スペースシャトルだ。
『嘘……』
お隣さんの体の波紋からは、戸惑いのようなものが感じられた。
『なにが?』
訊ねた尚顕に、お隣さんは微かに怒りの波を交えながら、答えた。
『自転……自転の方向が』
『……変か? ちゃんと反時計回りに動いて――あ、そうか!』
尚顕にもやっと、お隣さんの言いたいことがわかった。
『自転の方向が合ってるってことは、今までのことは、未来じゃなく過去の出来事ってことに
なるんだ』
お隣さんの球面は、様々な感情の波や波紋で埋めつくされていた。相当に動揺しているらし
い。
尚顕は少し同情した。
これでこの夢は未来からの警告などではなくて、お隣さんが大嫌いな超古代文明のものだと
いうことが、はっきりしてしまったわけだ。
『でも、確かにムーはデタラメかもしれないけど、俺らがまだ知らないだけで、本当に超古代
文明があった可能性、あるんじゃないか? この夢は、そのことを言いたかったのかも』
『……だけど、ゴミは?』
『ゴミ?』
『文明は、巨大な生き物でもあるから。命である以上、排泄物《はいせつぶつ》を出すから。今までに、捨てら
れたテレビや冷蔵庫や自動車が、太古の地層から出たことなんてない。現代社会の先進国のよ
うに、ゴミで海を埋め立てるほどでなくても、現代に匹敵する文明を、全くゴミを残さず維持
できるわけが……』
と、唐突に、まるで鮮烈な色がついたような言葉が、二人の脳裏で生まれた。
――キタレ。コノユメノシンジツガシリタイノナラバ――
『夢の、真実?』
そう呟いた尚顕の横から、ずっと一緒だったお隣さんが離れていく。
『夢、終わりみたいですね』と、お隣さんは言い、微かに球体全体を震わせた。怒りとか興奮
とかが入り交じった感じだ。この時、尚顕は気づいた。お隣さんの色が、いつの間にか最初見
た時の青から変わってきている。紫がかって見えている。気持ちが沈み込んでいるのだろう
か?
そうしている間にも、お隣さんが予期した通り、終わりは始まっていた。お隣さんの姿は、
もうバスケットボール大だ。同時に、二人の体は地上に向かい落下し始めた。
『じゃあ。元気でな』
そう告げた尚顕の脳裏に、おずおずとした言葉が返ってきた。
『……あの、それだけ……?』
『それだけって、なんだよ』
『あの……会いたいとか、もっと私のこと知りたいとか、思わないんですか? 私たち、こん
な凄い経験を一緒にしたんですよ?』
『うん、だから?』
『だ、だから? あの、あなた、好奇心ってものがないの?』
『あるけど、どっかあんたって俺の夢っていうか、心が作ったんじゃないかなって気もする
し』
そう言ったものの、実は尚顕の本心は違った。もう、このお隣さんが現実の人間であること
は、十分わかっていた。
しかし、どうやら自分は、なぜだかわからないが、この相手とこれ以上、知り合いになるこ
とを恐れているらしい。
『私は、現実の人間ですっ!』
どんどん小さくなっていく球体には、遠目にもはっきりわかる怒りの大波が立っていた。
『あなた、どこに住んでます?』
『東京』
『だったら会いましょう。現実で! 七月七日、午前十時。渋谷のハチ公前!』
『……七月七日って、七夕《たなばた》?』
『七夕の日の、渋谷ハチ公前、朝十時。〈トップティーン〉持って待ってます。右手に!』
言い放った直後、お隣さんの姿は、群青《ぐんじょう》色の空の中へと掻き消えた。
『待ち合わせ?』
馨や慎也以外と、そんなことした覚えなんてなかった。
しかし、
『なんで七夕なんだ……』
二カ月も先である。戸惑いつつ、視線を翻した尚顕の息が詰まった。
眼下に赤みを帯びた砂漠が迫る。砂の中に点々と島のように浮かぶ、異様な岩山。波のよう
な風紋。
さっきまでの夢になかったものが感じられる。
加速度、そして体を切り裂くような風まで。
凄まじいまでのリアリティ。
これは夢だと、尚顕は心で叫びながら、いつもの夢のように足を全力で回転させようとして
気づく。この夢では自分は、手も足も出ないのだ。
大地が目の前!
[#改ページ]
出現
「……それで、叫んで起きちゃったわけ?」
馨の問いかけに、語り終えた尚顕は憮然《ぶぜん》とうなずいた。
「とんでもない夢……けどさ、夢もだけど、その彼女、気になるね。七夕に会いましょうだっ
て、きゃっ」と、愛が自分の言葉に照れながら、馨に囁《ささや》いた。
「それにしても」と、その愛の声を聞き止め、呆れたように山錦が言った。
「普通、教師の前では隠さない? そんな、夢の中で女の子と会ったとか、待ち合わせしたと
かいう話」
「別に悪いことしてるわけじゃないです。それに詳細にって言ったの、先生です」
「まぁ、そうなんだけどね」
苦笑した山錦は、表情を改めて、尚顕に問い質《ただ》した。
「でも、つまり、あの校庭の杖は、崩壊したピラミッドの中から現れた棒状の物体そっくりだ
ってことね?」
「少し先端の形というか、球体の大きさが違いますけど、色も大体の形も、間違いなく。それ
から、杖からも今話した引っ張り感があったし、今もあります。最初の、遠い西から感じてい
た引っ張り感の正体というか、引っ張っていた相手は、ひょっとしたら、夢の中で見たあの物
体なのかも」
「とんでもない夢ねぇ」と、山錦は大きく吐息して、時計に目をやった。
「もう授業時間、終わりか。少し早めに終わっていいかな? このことを校長先生に報告した
方がよさそうだわ。あ、そうだ。阪本くん、情報処理部だったわよね?」
「はい」
「一緒にきて。視聴覚室のコンピューターで情報、集めてくれないかな」
「わかりました」
山錦と啓二とが、あわてて教室を出た途端、生徒たちから一斉に「まさか!」「嘘だろ?」
「けどさ!」と、疑問と混乱の声が沸《わ》き上がる。
その騒然とした中、ほっとしながら席に着いた尚顕に、周囲の生徒の質問が集まる。
「遠くの引っ張り感が消えたすぐ後に、杖が降ってきたってこと?」と、愛。
「多分、そうだと思う」
「杖とその――キタレって言葉と、どう関連するわけ?」と、馨。
尚顕は、首を振った。
「聞きたいのは、こっちだ。あの杖、夢には全然、出てきてないし。けど……」と言い、尚顕
は掲示板の方へ目をやった。
「……弱いけど、こっち側にも引っ張り感あるな。力の差はあるけど、感じは同じだし。こっ
ちの方向にも、刺さってるのかも」
「グラウンドのと同じ、杖が?」と、びっくりした顔で、愛。
「あ、あの杖はなにも、うちの学校にだけ降ってきたんじゃないってことになるわけです
か?」と、思わず後ろから身を乗り出してくる裕司。
「けど、断定は――」
答えようとした尚顕に、窓の外を覗いていた連中が呼びかける。
「なぁ、民田くん。これ、どういうことなんだ? なんかグラウントが大変なことになってる
けど」
再び、窓に生徒の顔が鈴なりとなる。下を覗きこんだ尚顕の目が丸くなった。
「古墳《こふん》?」
それは円墳にしか見えなかった。ただ少し違うのは、直径10メートルほどの小さな丸い丘の
上に、銀色に輝く杖が刺さっていることだ。
騒然とした教室に、昼休み開始を告げるチャイムが鳴り響く。
同時に、ほぼクラスの全員が教室を飛び出し、グラウンドに向かった。
校舎からは、どんどん溢れるように生徒たちが出てくる。尚顕たちは、その競争に勝ち、ほ
ぼ先頭部分に割り込めたのだが、十名近い教師たちと彼らが掘り出した土がバリケードとなり、
杖から6メートル以内には近づけなかった。
それでも最前列に立つと、ここでなにが起きたのかは推測できた。教師たちが古墳めいたモ
ノなど作るつもりなどではなかったことが。
「馨、どう思う?」と、尚顕が隣に立つ馨に聞いた。
ごくりと唾を飲み込んで、馨が答えた。
「多分、土や小石を、あの銀色の杖が固めたのよね。自分を抜けなくさせるために、ドーム状
か、ひょっとしたら球形に」
「固めるか……。ところどころ磨《みが》いたみたいにピカピカになってるもんな。あれきっと、先生
たちが鶴嘴《つるはし》とかスコップを叩きつけた場所だ。ただの土や砂が、鉄より硬くなってくっつき合
ってるって……」
「でも」と、馨は首を傾げた。
「なんだってこの杖は、そんなに抜かれたくないわけ?」
「だから……」と、尚顕は少し苛立たしげに言った。
「この謎を解こうと思ったら、最初の引っ張りがあった場所へいくしかないって」
「ユーラシア大陸の、真ん中?」
「無茶言うよな」
顔を見合わせる尚顕たちの周囲で、「なんだ?」「おい、変だぞ?」と、どよめきが満ちる。
尚顕たちが視線を戻した時、杖に異変が起きていた。杖の上部にくっついた透明な球体の輝
きが見る間に弱まっていく。同時に銀だった棒の色もくすみ始めた。十秒もたたないうちに杖
の柄は漆黒《しっこく》と変わり、上部の球体の輝きも完全に消え失せた。
「なんなのよ、尚くん」
「だから、俺に言うなって……」
馨に制服の肩口を取られ、引っ張られながら、尚顕は再び自分の中で起きた異変に気づいて
いた。しかし、彼がそれを馨に告げる前に、右手の人垣の上に、頬を紅潮させた慎也の肩から
上が現れた。
「……どうして? 急に引っ張られる感じがなくなった」
この慎也の言葉に、尚顕は思わず問い返していた。
「どういうことだよ、慎也!」
同じだったのだ。尚顕も杖の輝きが消えた瞬間から、再び引っ張り感が消えたことに気づい
ていたから……。
「尚顕くん?」と、驚く慎也の方へと身を乗り出し、尚顕はさらに聞く。
「慎也も今朝の十時ごろ、居眠りしてたのか?」
慎也はちょっと恥ずかしげに笑った。
「うん。ちょうど古典でさ。完璧眠ってて。そしたら、変な夢見てさ。その後、体がなにか引
っ張られるみたいで、病気かなって不安になってたんだけど」
「やっぱりか。俺と会ってた時、引っ張り感なくなったろ?」
慎也はびっくり顔で、うなずいた。
「慎也くんも、夢の中で誰かと一緒だったの?」
馨の問いに、慎也は怪訝な表情で首を振った。
「ううん。一人だったけど?」
「どーでもいいこと聞くなよな」と、なぜかほっとした様子の馨に文句つけながら、尚顕がさ
らに慎也に訊ねた。
「だったらお前も見たよな? でっかいピラミッドが崩れた中から、この杖に似たのが出てき
たの!」
慎也がうなずくと同時に、尚顕たち会話を聞いていた周囲の生徒たちの中から、次々と声が
上がった。
「その、でっかいピラミッドとか緑色の月とか出てきた、妙な夢だったら俺も見たぞ」
「私も!」
「尚くんの説、正しそうね」
言った馨は踵《きびす》を返し、どんどん分厚《ぶあつ》くなる一方の人垣をくぐり抜ける。
「どこいくつもりなんだ?」と、あわてて尚顕も後に続いた。
「視聴覚室。委員長が、もういろいろ調べ上げてると思うし」
「阪本か……」
憮然と言った尚顕に、馨が諭《さと》すように言った。
「昔は昔、今は今。慎也くんみたく、阪本くんだって私たちの知らない三年間で変わったのか
もしれないよ」
「どうかな……。けど、ま、とりあえず、いってみっか」
「あ、私も私も!」と、愛たちも馨の後についてくる。
校庭から校舎に入りながら、馨が思い出したように言った。
「あ、そうだ。尚くん、〈トップティーン〉って言ったよね? さっきの夢の話で」
「え? ああ、確か、あいつ、そう言ったと思う」
「ふーん。なんなんだろうね。偶然だとは思うけど」
「なにが?」
「尚くんと私が載った雑誌の名前なの。それ」
「え?」
「だから、木江さんが持ってた雑誌の名前。〈トップティーン〉。まぁさ、十代の女の子なら
誰でも読んでて変じゃないんだけど」
尚顕は、呆れて言った。
「ほんとに、どーでもいいことばっか言ってんな、さっきから」
「いくないよぉ」と言ったのは、尚顕たちの後ろに続く愛である。
「民田くんって、心底変わってるよ。普通だったら、運命の出会いって思ってるとこだよ、そ
れって。私だったら、もう自己紹介しまくってたよ。どうして寝なかったのかなぁ自習時間
……」
尚顕が呆れているうちに、目的地に着いていた。
視聴覚室の扉《とびら》は開いており、中は人で一杯だった。
「なにか杖や夢のことで、情報入ってます?」と、室内に入った愛が、放送部の女子先輩を見
つけ、声をかけた。
「あぁ、松室さん。なんだか東京の他の場所に、あの杖と一緒のが、落ちてきたらしいわよ」
やはり考えることは同じのようで、中には教師数名と生徒が二十人以上おり、ニュース番組
を映すテレビや、ネットに繋がったパソコンにかじりついていた。パソコンを操作している中
に、尚顕たちは啓二の姿を見つけ、人込みをすり放けて近づいていく。
「阪本、夢と杖のこと、なにかわかったか?」
ちらっと見た啓二は、尚顕の声を無視しようとしたが、後から続いた馨の顔を見た途端、あ
わてたように話し始めた。
「世界中のあちこちに、ほとんど同じ時刻に、あの杖が降ってきたらしいね。まだ抜くことが
できた杖は、一本もないって。それから、その数時間前に、主にヨーロッパやアフリカでたく
さんの人が、多分、民田くんと同じ夢を見てる」
「ヨーロッパやアフリカ?」
「日本時間の午前十時ごろ、深夜だった場所。ただ、眠っていた人全員ってわけでもないらし
い。その時、ちょうどなにか別の夢を見てた人だけ――つまり、レム睡眠中だった人だけが、
同じ夢を見られたんじゃないかって推測されてる。その同じ夢を見た全員が、降ってきた杖に
引っ張られてるらしい」
「んもーっ! なんで日本が夜の間に起きてくれなかったのかなぁっ!」
やたら悔しがる愛の後ろで、尚顕の顔にも次第に赤みがさしてきた。
やはりそうだった。お隣さんの言った通りだった。あの無数の球体のすべてが、自分と同じ
夢を体験した仲間だったわけだ。
「阪本くん。ユーラシア大陸の真ん中辺りからの情報は、入ってる?」
馨の声に、啓二は大きくうなずいた。
「ああ。さっきから、それを中心に検索してた。情報は入ってる。モンゴルに――ゴビ砂漠に
現れてる。なにか巨大なものが」
「ゴビ、砂漠?」
再び尚顕の脳裏に、夢での記憶が鮮明に甦った。
あの巨大なピラミッドが。杖に似た物体が沈んでいった、あのユーラシア大陸の真ん中辺り
の砂漠地帯の姿が……。
「民田くんが言ってた、最初に引っ張ってたなにかだな」と、啓二は興奮気味に続けた。
「夢の真実を教えてくれるなにか。CNNのホームページで写真がアップされてるそうなんだ
けど、アクセスが殺到してるのか、なかなか繋がらなくて――」
その時、「きた!」という声が、隣のコンピューターの前に座る教師から出た。
周囲の教師や生徒とともに、尚顕たちもその画面へと体と視線とを向ける。
CNNのホームページ――その左上の小さいが鮮明な写真に、尚顕たちの視線は釘付けにな
った。
一瞬、それはグラウンドにあるような『杖』の一本を映したものかと思った。
だが違う。銀色の杖は山々の背を遙かに越え、数千メートルの高みまで達していた。頂上部
の球体を半ば隠しているのは、煙ではなく雲だった。
まじまじとその映像を見つめた尚顕は、呻《うめ》くように言った。
「こいつだ……間違いなく」
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会見
高校から歩いて五分、小さな公園や区民グラウンドなどが点在する静かな住宅地の一角。休
業した銭湯の煙突の隣に、コンビニ・Iマートの電光看板が立っている。
四年前までは酒屋だったのだが、1キロ先に安売り量販店ができてから、思い切って転職。
近所に酒類を売るコンビニはほとんどないので、結構、繁盛《はんじょう》していた。
「ありがとうございました!」
夜十時前。明るい店内に、もっと明るい声が響く。
カウンターの中で接客しているのは馨。そしてその隣で、慣れた手つきでおでんの鍋に種を
足しているのは尚顕だった。
さっきの客と入れ替わるように、再び自動ドアが開く。
片手を上げて「わんばんこー」と、妙な挨拶《あいさつ》をしながら入ってきたのは、塾帰りの愛だった。
「いらっしゃいませ」と、馨が笑って後ろの棚に手をやる。
「thinoのファーストアルバム、だよね?」
「ありがとう!」
綺麗にパッケージされた包みを受け取り、愛はにっこりしながら、ちらっと馨の隣を見た。
「ほんとに働いてるんだ」
「なんだよ」
尚顕には、Iマートの制服である太い縦縞の可愛いエプロンが全然、似合っていない。
「ううん、別に」
愛は必死に笑いを堪《こら》えながら、馨に訊ねた。
「高崎さん、あの杖のこととか、なにかわかった?」
「私たちに聞かないでよ。帰ってからずっと、ここに立ってるんだから。ね?」
「ああ」
「父さんと母さんの代わり。二人とも、昼からテレビのニュースにかじりついてるの」
「へぇ、随分、熱心なんだ」
「二人とも見たんだって、あの夢。昨夜は深夜勤の学生さんお休みでぼやいてたのに、もう必
死。でも無理ないかな。二人一緒に見られたみたいだから」
「一緒? 民田くんの七タデートの相手みたいに?」
尚顕の視線がくる前に、愛は馨の陰に隠れていた。
次第に愛も、尚顕の扱いに慣れ始めているらしい。馨はくすっと笑いながら、愛に両親から
聞かされた情報を伝えた。
「意外にたくさんいるみたいよ。その時、夜だったヨーロッパだと」
「へぇ……。ほんと残念だなぁ、見られなくて。でもさ……」
愛は、急ににまにまし始め、馨と、おでんの種を整える尚顕とを交互に見た。
「なに?」と、馨が問いかける。
「なんだかさ。全然、違和感ないよね。そうやって並んでても」
「そりゃそうだよ」と、いきなり愛の後ろから声が飛んできた。
五十代の作業着姿の男が、焼酎《しょうちゅう》の瓶《びん》とサキイカの袋を持って立っていた。
「跡取りだもんなぁ、ここの。尚ちゃんは婿養子《むこようし》」
尚顕は、ギロッと半ば本気で男を睨んだ。
「田尻《たじり》さん。そんなに早死にしたいわけ?」
「おーこわ。冗談だろがぁもう」
憮然とした尚顕の目が、ちらっと開き始めた入り口に向く。
「いらっしゃいませ!」と、あわてて言った馨の表情が、俄《にわか》に曇った。
「わぁ」と、愛が目を見張り、田尻はまったく今時の若者は――という顔をする。
入ってきたのは、二人組の若い男だった。一人は半分黒くなった金髪で、一人は目の覚める
ような派手な紫頭。
「……尚くん、ちょっと、これ読んでみて」
小声で言った馨が、カウンターの中、客からは見えない位置に張ってある、一枚のファック
スを指さした。
本社から送られてきた、Iマートだけを狙って不審な行動を続けている、金髪・紫髪の二人
組に関する注意書きだった。二人組は店内ではなにもしないのだが、車がやってきて前の駐車
場に止まり、車の客が入ってくると同時に、なにも買わずに出ていく。そして車の客が買い物
を終えて外に出ると、車はパンクしているのである。
どうやら以前、Iマートの一店舗で万引きし、警察に突き出されたのを逆恨《さかうら》みしているらし
い。今のところ、確実に二人が犯人だという証拠はないが、見つけたら即、お客の車がくる前
に、警察に通報するよう指示してあった。
「……どう思う? あの二人かな?」
馨の囁き声に、尚顕は、「さぁ」と、二人を見た。
「……とにかく、しゃがんで電話するから、尚くんは二人、見てて」
「交番だったら、走った方が早いだろ?」
馨は青ざめる。尚顕は、囁くどころか声を張ってそう言ったのだ。
「え?」と、愛と田尻。
そして雑誌を見ていた若者二人が、カウンターの尚顕を見る。
「田尻さん、ちょっとここで馨といてよ。俺、お巡《まわ》りさん呼んでくっから」
カウンターを出て、自動ドアに向かう尚顕に、血相を変えた若者たちが早足で近づく。
知らん顔で外に出た尚顕の前に、二人は焦って回り込んだ。
「おい、お前、待てよっ!」
立ち止まった尚顕は、自分より五歳は年上で、10センチは背の高い若者たちをジロッと見上
げた。
「なんですか」
「なんだじゃねぇ!」「なんでポリなんか呼びにいくんだよ! 俺たちゃただの客だぜっ!」
「ただの客なら、そんなに怒る必要ないでしょ」
二人の目には、その尚顕の顔が、途方もなくふてぶてしく憎たらしく映ったらしい。
「チビガキのくせしやがって……」「なんだよその目はよっ!」
尚顕の胸ぐらに突き出された金髪の手が、空《くう》を掴[#「手偏/國」む。素早く後方へ飛んだ尚顕の右足が金髪
には消えたように見えた。同時に凄まじい衝撃が左の太股《ふともも》に炸裂《さくれつ》する。さらにジャンプしなが
ら回転した尚顕の左足の踵《かかと》が、全く同じ場所に叩きつけられた。
金髪は、「あっ!」と叫んで、足を抱え込むようにその場にうずくまり、「こ、この野郎
っ!」と怒鳴って胸元からなにか取り出した紫頭も、二秒後には同じ運命を辿《たど》っていた。
金属音を立てて、駐車場に転がったものを見下ろす尚顕の許《もと》へ、馨と愛とが駆けてきた。
「尚くん! 大丈夫?」
「ん? ああ。やっぱりこいつらだ。犯人。これで、パンクさせてたんだな」
尚顕が指さしたのは、大きな千枚通しだった。
「もう、ホン卜に無茶すんだからぁ。寿命《じゅみょう》縮まっちゃうよっ!」
「んなことより、警察は?」と、尚顕が馨に聞く。
「電話した。もうきてくれる」
金髪と紫髪とが、ひいひい言いながら立ち上がり、片足を引きずりながら逃げ始める。
「お、追っかけないの?」と、微かに震えながら愛が聞いた。
「なんで?」と、尚顕は平然と答える。
「この千枚通しと、それについてる指紋だけで証拠は十分だろ。あとは警察の仕事」
その声が聞こえたのだろう。二人は足の痛みも忘れたかのように、駆け出した。
「へぇ……」
感嘆《かんたん》する愛の目の前で、いきなり尚顕の顔に微かな不安の表情が浮かんだ。
「馨、これ来帆姉ちゃんに言う気か?」
「……言いたいけど。言えるわけないでしょ。うちを守ってくれたんだし」
そんな二人を見ながら、「いやぁ、大したもんだなぁ」と言って出てきたのは、コンビニ袋
を下げた田尻だった。
「さすがは道顕《みちあき》さんの孫だ。馨ちゃん、これでまたまた惚《ほ》れ直しだな」
再びジロリと睨まれた田尻は「おっと、蹴られちゃたまらん」と笑いながら尚顕から離れ、
歩き始めた。
「あ、あの! 私もそっちの方向だから」と、愛も焦って田尻の後に続きながら、馨に手を振
った。
「じゃ、じゃあ、また明日ね」
「うん」と手を振った馨が、「あれっ?」と声を上げた。
「なんだ?」
「今、あそこの電柱の陰に、井戸くんがいたの」
「井戸?」
「覚えてないの? 尚くんの後ろの席の子。なんで逃げるのかなぁ」
「ああ……あの」
と言ったものの、尚顕の頭には井戸裕司の顔は、全く浮かんでこない。
「そう言えば」と、馨は、ふと考え込んだ。
「井戸くん、誰かに似てるって気がしてたんだけど、思い出した。小学校の時、慎也くんと友
達だった大西《おおにし》くんだ」
「大西……って、あいつか? 慎也の友達のふりして、慎也の秘密、クラスの連中にばらして
た奴」
「うん。雰囲気、そっくりなんだよね。無理して仲良くしようとしてたり」
「やな感じだな……」
憮然《ぶぜん》と誰もいない電柱の方を見る尚顕に、「あ、そうだ」と、馨は急にあわてたように告げ
た。
「あのさ、尚くん。さっきの、ちょっと嘘なんだ」
「嘘?」
「警察。電話はしたの。でも、今夜は忙しくて、いけないかもしれないって。事態が悪化する
ようなら、もう一度電話してくれって」
「忙しい? ひょっとして、あの夢か、杖のことで? でも、警察が忙しくなるようなタイプ
のことじゃないよな。他になにか大事件でも起きてるのか?」
「さぁ。でも、どうしよう? 電話する?」
「証拠だけ置いとけばいいだろ。指紋つけないように、ビニール袋とかに包んで」
「わかった」
馨はコンビニの中へ戻ろうとしたが、先にドアが開き、誰かが出てきた。
「なにしてるんだい?」
怪訝な表情をして現れたのは、エプロン姿の中肉中背で優しそうな男性だ。
「父さん。今、例の二人組が現れたの」
目を丸くして絶句する父親に、馨は今あったことを説明した。
「……そうか。悪かったね、尚くん。ほんと助かったよ。コンビニも信用商売だからね」
「それよりおじさん。もう帰っていいかな?」
「うん。もういいよ。二人とも、ほんとにご苦労さま。この証拠品は、ちゃんとビニール袋に
入れてしまっとくから、中に入って休みなさい。母さんがお茶|淹《い》れてくれてる」
「うん。じゃあ、いこ。尚くん」
「俺、ちょっと用事あるんだ」
「どうせ、ニュース見るんでしょ? だったら、うちで見てった方が経済的」
尚顕の腕を強引に取った馨は、カウンターの奥の扉を開ける。そこには小さな玄関があって、
短い廊下があり、高崎家へと続いている。
高崎家自体は、築二十年ほどの日本|家屋《かおく》だ。その茶の間では、馨の母親がコーヒーを淹れて
二人を待っていてくれた。
テレヒには、報道特別番組が映し出されている。もちろん尚顕や馨の両親の見た謎の『夢』
と、謎の『杖』と、ゴビ砂漠に現れた謎の『物体』関連のものだ。
「ご苦労さま。ごめんね、これお詫《わ》び」と言って出てきたのは、売れ残りのサンドイッチであ
る。
「おばちゃん、相変わらずしっかりしてるよなぁ」
ぼやきながらサンドイッチの包装をはがす尚顕の隣に座り、馨は母に告げた。
「母さん、thinoのアルバム、予約分除いて完売したよ。追加注文二十入れといたから」
「ありがとう。でも、こんなとんでもない大事件あったのに、やっぱり売れるものは売れるの
ねぇ」と、馨の母は感心した表情で言った。
馨は、テーブルに頬杖ついて、報道特別番組を放送中のテレビに目をやった。
「大事件だとは思うけど、自分でその夢、見られなかった人はさ……。それに、最初は本当に
驚いたけど、夢とかの話も降ってきた杖のことも、ゴビ砂漠に湧いて出てきた大きなもののこ
とも、なんだかわけがわからないし」
「あ、でも、半時間ぐらい前のニュース、ちょっとびっくりしたわ」
馨の母は少し興奮して言った。
「あの夢って、日本時間の午前十時五分ぐらいから十時十分までの、たった五分間だったらし
いの。ひょっとしたら、五分以下だったかもしれないって」
「へぇ」と、馨が声を上げ、尚顕も驚いた顔になった。
「尚くんの話、三十分以上かかったよね? そんな短い時間で、あれだけの内容、見られた
の?」
「信じられないけど、そうらしいわ。あと、わかってきたのは、杖のことかな。日本だけでも
百本以上の杖が刺さってて、多分、全世界だと最低二千以上。でもまだどこからも、杖が抜け
たってニュース、入ってないって」
「一本も?」と、声を上げたのは、尚顕である。
「ええ。ダイヤモンドのカッターでも傷一つつかないんだって。バーナーでもレーザーでも焼
き切れないらしいわ。ブラジルの牧場かどこかでブルドーザーで倒そうとしたんだけど、ブル
ドーザーの方がほとんど真っ二つになって、作業員が重傷負ってる。あと、なんだかアメリカ
とか中国の政治家が、ゴビ砂漠に現れた巨大なもののことで、変な動きしてるらしいけど」
馨が吐息した。
「結局わけがわかんないのよね。ヨーロッパや中国なんかと違って、一割ぐらいしか夢を見ら
れなかった私たち日本人としては、やっぱthinoなのかなぁ」
「うーん。まぁ確かに、いいアルバムなのよね」
母の言葉に、馨の口が、あっという形に開いた。
「もう聴いたの?」
とがめるような娘の声に、母はにんまり笑って、うなずいた。
彼女のファンの年齢層は結構、幅広い。実は馨の母もファンの一人だった。
「ずるい! 子供を働かせといて。でも、前評判は凄かったけど、どんなデキ?」
途端、「こっれがまた、いいの!」と、馨の母が突然、カ説を始めた。
「ニュースが同じことばっかり始めてから、聞いてみたんだけど、もうね、思い出しただけで
鳥肌よ。特にアルバムの一曲目の曲。今までのthinoの曲って、暗めなのが多かったでし
ょ? でもこれが楽しくてカワイくて、とにかく、元気が出るのよ。勇気も湧くし!」
「へーぇ」
女同士の会話を背中で聞きながら、尚顕は呟いた。
「全然、聞こえない……」
コントローラーを取った尚顕は、テレビの音量を上げる。
キャスターが、ヨーロッパでは10%ぐらいの確率で、夢の中で誰かと一緒だったと話してい
るところだった。
「あ、そうだ。尚くんも、私たちみたいに誰かと一緒だったんだよね」と、馨の母が興味津々
の様子で話しかけてきた。
「かも」
「かもじゃないの母さん。尚くん、待ち合わせまでしたんだから」
「してない」
「ねぇ、どうする?」と、馨の母がからかうように馨に言った。
「ライバル出現かもよ。夢の中で一緒になれた人って、私と父さんみたいなラブラブか、親子
か、親友同士らしいし」
「へぇ、偶然とかじゃないの?」
「さぁ。とにかく、ずっと聞いてる限りだと、尚くんみたいに知らない同士で出会ったってニ
ュースは、まだないけど……。とにかく、夢で会えるっていうのは、よっぽど相性がいいんだ
と、母さん思うわけ。マズイでしょう、それは」
「なにが」「どうして」と、尚顕と馨が、同じように言って、馨の母を見た。
「照れちゃって、もう。尚くん。浮気は駄目だよ」
「……あのさ、おばちゃん。この際、はっきり言っとくけどさ」
テレビから目を離した尚顕は、馨の母を見た。
「馨とは、確かに仲いいと思うけど、それ、来帆姉ちゃんと同じなわけ」
「またまた」
「またまたじゃないって。大体、誰が背中にションベン漏《も》らすような女、好きになるかよ」
「あっ!」
たちまち真っ赤になった馨が、引いていた座布団を取ると、尚顕にぶつけた。
「どうして十二年も前のこと、何度も何度も何度もっ!」
「わ、わかった! 悪かったっ!」
その様子を見ながら、馨の母がクスクス笑った。
「どう見たって夫婦|喧嘩《けんか》じゃないの」
たちまちピタリと二人の喧嘩は止まる。
「その待ち合わせって、いつ?」と聞いた馨の母に、
「七月七日、ハチ公前で朝十時。目印は右手に〈トップティーン〉」
答えたのは、馨である。
「七夕? へぇっ、なんか、夢で出会った同士が会う日にはうってつけの日ね。でもまた、え
らく先だけど」
「それより」と、尚顕は憮然と、幼なじみを見た。
「よく覚えてんな。俺、七夕以外、忘れかけてたのに」
「他にも覚えてるわよ。今、十六歳。お母さんが考古学に詳しくて、ムー帝国が大嫌い。でも、
ちょっと待って……」
馨は言って、考え込んだ。
「考古学ってそう聞く言葉じゃないのに、最近どっかで……」
そして、ポンと手を合わせた。
「そうだ、thino! 慎也くんの家で見せてもらった、thinoのホームページで読ん
だんだ。彼女、考古学に詳しいとかなんとか。ひょっとして尚が夢で会ったの、thinoだ
ったりして」
尚顕は、本気で呆れた眼差しを馨に向けた。
「……考古学だけで、よく連想できるよな」
「まぁ、そりゃ尚くんがあのthinoと夢の中で出会うなんてさ。年齢も違うし。相手、イ
ギリスだし」
さすがに少し照れたように笑う馨に、馨の母が声をかけた。
「だけど、あの夢じゃ顔も声もわからないでしょ。相手が父さんじゃなかったら、私でも年サ
バ読んでたと思うわよ」
「あ、それもそうか。尚くん、最初ずっと年上だって感じたって言ってたし」
「だったら」と、馨の母が楽しげに続けた。
「さっきキャスターが、アメリカの友人と夢の中で一緒だったフランス人もいるって話してた
わ。イギリスのthinoと出会う可能性もゼロじゃないかも。相手がthinoだとしたら、
七月の待ち合わせも不自然じゃない気もするわね」
「へぇっ」と、馨は感心したが、
「あ、駄目ねやっぱり」と、馨の母が自分の言葉を取り消した。
「忘れてたわ。thinoって、日本嫌いなんだっけ」
しかし馨の笑みは消えない。
「まぁね。日本のマスコミにはひどい目に遭《あ》わされたし。ところがさ、これもホームページに
あったんだけど、thino、日本に帰ってくる気になってくれたみたいなの! 先週ヨーロ
ッパ公演始まったばかりだけども、一月でツアーが終わるでしょ。で、しばらく休養して
……」
しばらく考え込んだ末、馨は大きくうなずいた。
「うん。二カ月後って、やっぱ妙にリアル。ねっ! 尚くん。ハチ公前いくと、thinoが
立ってたらどうする?」
しかし、意気込んで訊ねた幼なじみは、大欠伸《おおあくび》の最中だった。
「……よくそんな雲掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]むみたいな話で、盛り上がれるよな」
「冷めてるなぁ。昔っからそうよね、尚くんは。自分に興味ないことには、とことん冷静なん
だもん。せっかく見た夢みたいな夢なんだからさぁ。夢持ちなさいよ――って、なんか変な日
本語」
「……俺、そろそろ帰るわ。結局、なんもまだわかってないみたいだし」
「ね」と、馨が座ったまま声をかけた。
「最近、すぐ帰るけど、なにかやってるの?」
「別に」
しかしそう言った尚顕の態度に、微かな動揺が窺える。
「……なんか怪しいなぁ。私は家に絶対くるなとか言うくせに、慎也くんは入れてるでし
ょ?」
「男同士の話してんだよ。じゃあな」
あわてて帰ろうとする尚顕を、馨の母が引き止めた。
「見てテレビ、なにか始まるみたいよ」
さっきまで映っていたニュースキャスターの姿が消え、中継映像に替わっていた。
画面の中央に映し出されているのは、大柄な西洋人の男性である。
ほとんどニュースも新聞も見ない尚顕でも、このかなり凄味《すごみ》のある顔の持ち主の名は知って
いた。
アメリカ合衆国大統領、モーティマ・カーファクス。
大統領の緊張した表情に、先ほどまでのキャスターの声が重なる。
『今から、アメリカのカーファクス大統領による、緊急の会見がおこなわれます。全世界に落
下した抜けない杖と、モンゴル共和国のゴビ砂漠に出現した巨大な杖状の物体、そして人類の
約半数が見た不思議な夢に関する、非常に重要な発表があるということです。しばらくお待ち
ください』
尚顕の顔から、眠気が消えていた。
「ひょっとして、夢の謎、やっと解けたかな」
「かもしれないね」
尚顕と馨は、身を乗り出すようにして、買い換えられたばかりの32型ワイドスクリーンのテ
レビ画像に見入った。
しかし、うまく段取りができていないのか、なかなか会見は始まらない。大統領のかなりコ
ワモテの顔ばかりが、精細な画面に延々と映し出されるばかり。
イライラしてきた馨の母が「どう見ても悪人顔よねぇ」と、率直すぎる感想を述べた。
全員が同感。こうして黙っているアップの映像を見ると、本当に怖い顔だ。綺麗な青い目な
のだが、白目の部分が多すぎる。鼻はまるで魔女のような鉤鼻《かぎばな》だし、口元などへの字で凍りつ
いてしまっている。この口が笑みを浮かべるなんて、とても想像できない。
彼の顔を見ているうち、ふと尚顕は、夢の中のお隣さんの話を思い出していた。
イースター島の住人を奴隷にし、文化を破壊してモアイ像を謎の遺跡にした酷《ひど》い連中は白人
だったらしい。彼らがこのモーティマのような顔をしていたとしたら、なんとなく納得できる
気がした。そういえば、確かムー帝国の支配者も白人で、しかも金髪碧眼だとも。つまり、彼
と全く同じだったわけだ……。
「こんな怖い顔でも大統領になれたのは、凄い孫のお陰ね」と、馨の母が言った。
「確かに、ほんと凄い孫」と馨。
しかし別に高崎家の人々に、妙な偏見があるわけではない。ほとんどのアメリカ国民自身、
そう思っていたりする。
『これより、アメリカ大統領モーティマ・カーファクス氏による、緊急会見がおこなわれま
す』
テレビから、緊張した口調のアナウンスが聞こえてきた。
やっと始まるらしい。緊張のためか微かにこわばる大統領の口がようやく開いた時、意外に
も最初に出てきたのは、その孫娘の名前だった。
『これからお見せするのは、私の孫、ミリセントがホームビデオで撮影した映像です。彼女は
たまたまモンゴルに旅行しており、この奇跡と遭遇しました。そう、奇跡と。ともあれ、まず
はミリセントが撮った映像を御覧ください。そこから、すべてが始まります。恐らく、全人類
にとっての未来が』
ただならぬ大統領の様子と言葉だった。見ていた三人の顔にも、緊張の色が浮かぶ。
「やっぱりこれって、凄いニュースだったのよ」と、馨の母がテレビの音量を少し上げながら
言った。
「それに、さすがねえミリセント嬢。旅行先がモンゴルって、なんかシブイわ」
しかし、やはりうまく段取りができていないのか、なかなか映像に切り替わらない。再び画
像はカーファクス大統領の少し青ざめた表情を映すばかり。
だが、馨と馨の母の苛立ちは、尚顕の一言で消え失せた。
「ミリセントって、どんな奴?」
二人は唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然として、尚顕を見た。
「冗談、だよね。尚くん」
「なんだよ、その目」
本気らしい。呆れ果てた二人は、説明する気力も失せていた。
カーファクス大統領の孫娘、ミリセント・カーファクス。
幸いなことに、ミリセントへのモーティマからの遺伝は、その深く青い瞳と、髪の色だけだ
ろう。
スーパーモデルとしても十二分に通用する完璧なルックス。フランス・イタリア・ドイツ語
の他、中国語にまで精通しているという天才的な語学力。イギリス貴族にルーツを持つ名門カ
ーファクス家の令嬢としての気品と知性と優雅さをも、申し分なく兼ね備えたミリセントだっ
たが、実は彼女にはその他にも意外な――抜きん出た才能があった。
ミリセントは、ゴールドメダリストなのである。それも、オリンピックの花と呼ばれる、100
メートルスプリントの。
去年のシドニーオリンピック。彼女は史上最年少、十四歳にして100メートルスプリントで優
勝。続く200メートルでは銅だったが、リレーでは再び金を獲《と》り、一躍、全世界のアイドルとな
ったのだ。
オリンピックイヤーは、アメリカ大統領選挙の年でもある。共和党の大統領候補にはなった
ものの、人気では民主党の候補どころか、一般候補者にも負けていたモーティマ・カーファク
ス陣営は、当時ヨーロッパに留学中だったミリセントを、長期休学させた。
そしてモーティマに妻がいないのを逆手に取り、常にミリセントを隣に従えた姿でマスコミ
に登場。結果、モーティマの支持率は一気に上昇。僅差《きんさ》で彼がアメリカ大統領に選ばれた。
アメリカ大統領の孫娘となった後も、ミリセントはその語学力を生かして外遊にも同行。各
国で熱狂的に迎えられた。彼女の人気はさらに高まり、今やイギリス王室のプリンスと並び称
される『世界のプリンセス』的存在――同時に彼のお妃候補ナンバーワン――となっていた。
「ミリセント嬢のサインが欲しいけど、これはちょっと無理かな」
いつかthinoのサインを貰ってみせると豪語している馨の母も、さすがにミリセントの
ものは不可能だとわかっている。
「もしそんなのが手に入ったら、家宝だよね」と、馨が笑った。
結局、ミリセントについてなにも説明してもらえなかった尚顕は、黙ってテレビを見ている
しかない。カーファクス大統領と、まるでにらめっこでもしているようだ。
もっとも、ミリセントは将来イギリス王妃となることにほぼ決まっている、才色兼備のゴー
ルドメダリスト。あまりにも住む世界が違う美少女のことなど、尚顕にとっては知っていても
いなくても、大した問題ではないのも確かだった。
「あ。やっと始まる?」
馨の母の声とともにテレビ画面にそのミリセントによる映像が映し出されていた。
赤茶けた広漠たる砂漠だ。意外、と言っては失礼だが、素人《しろうと》のミリセントが撮ったにしては
ぶれのない、鮮明な映像だった。
そしてそれは、赤い砂漠と澄みきった青空の間に、唐突に姿を現した。
銀色に輝き聳《そび》え立つ巨大な物体。その詳細な映像を初めて目《ま》の当たりにした三人は、あまり
の迫力に思わず息を飲んだ。
地上から八割方は真っ直ぐに天に伸び、残り二割が小さな四つの段を作り幾分、先細りとな
っている。この段の部分の作りは、杖とはかなり異なっていた。その頂上にあるのは、輝く球
体だ。球体の大きさの比率も、杖より少し小さい。地面から球体までの高さは、優に2000
メートル以上あるだろう。
これは、まさに巨大な『塔』そのものだった。
「テレビ……無理して買い換えて、よかったね」と、馨が母に呟くと同時に、塔の下部分のア
ップ映像に替わった。美しい銀の壁は、よく見ると細部に至るまで精緻《せいち》な幾何学文様《きかがくもんよう》で埋め尽
くされている。さらにゆっくりとカメラは下へと向かった。そして塔の根元にズーム。
「凄《すげ》ぇ……」と、尚顕が思わず感嘆の声を上げた。
周囲より少し盛り上がった大地が割れ、岩がゴロゴロと転がっていた。その比較的、小さな
岩の横になにか四角いものがある。ワゴン車だった。小石のように見える岩たちが、実は途方
もなく巨大なものだということがわかる。
画面は四方に広がる地割れを追ってゆく。凄まじい力と勢いで、この塔が地下深くから上が
ってきたことを示す証拠と思えた。
「ほんとに地面の下から、出てきたんだね」
呆れたように馨が言った。
「作り物じゃないわよね」と、馨の母は言いながら、発泡酒を取りに茶の間と続きになってい
る台所へ立った。しかし冷蔵庫を開く時でさえ、視線はテレビから片時も離れない。
尚顕は、少し興奮してきていた。映像に見入りながら改めて感じていた。この塔が、自分を
呼んでいたものに間違いないと。
映像が一旦、途切れ、すぐに回復。空にかかる薄雲が、塔に当たって渦巻《うずま》いている。単に巨
大だというだけではない神々《こうごう》しさが感じられた。
と、塔の先端にある、巨大で透明な球体。それがいきなり眩《まばゆ》い輝きを放ち、徐々に浮かび上
がり始めた。
「まあ綺麗!」と、思わず声を上げたのは、発泡酒を取って帰ってきた馨の母である。
驚き目を見張る尚顕たちの前で、画像は激しく振動を始め、地面付近が映し出される。カッ
トが替わる間に撮影者――ミリセント・カーファクスが塔のすぐ麓《ふもと》に移動していたことがわか
る。カメラと塔までの間には、かなりの数の人々がいた。その全員が、しゃがんだり座り込ん
だりしている。撮影者が急に下手になったわけではなく、猛烈な地震らしい。この時、今まで
無音だった画面に、いきなり音が重なった。
やはり地震だった。テレビのスピーカーから重低音が放たれ、三人の体を震わせる。凄まじ
い地響きだ。だが急速に轟音《ごうおん》は衰え、入れ替わるように音楽のようなものが聞こえ始めていた。
「これ……」と、尚顕と馨の母が息を飲む。
「夢の中で聞いた、あの、音楽ね……」
「え?」と、馨が問い返した直後。
『Welcome』
言葉とともに、塔の銀の輝き方に強弱が生まれ、二つは完全にシンクロする。
テレビから発せられたその声を聞いた途端、尚顕たちの全身が言い知れぬ感動に震えた。そ
れは優しく美しい女性のものだったが、絶対に人の声ではない。人以外――いや、人以上の
『存在』の声だと思えた。
驚きで痺れたようになった尚顕たちに、声は銀の輝きとともに、優しく語り始めた。
『私は、あなた方の前に聳えるものです。あなた方に、夢を見せ、ここへ集《つど》うよう呼びかけた
ものです。あなた方より遙かに進んだ文明によって作られ、十一万年の時を超え、目覚めたも
のです』
すべて英語だが、不思議なことに日本語のように意味がわかるような気がする。後に続く同
時通訳の女性の声が、邪魔なぐらいだった。
「十一万年前?」と、感動と驚きの中で、尚顕は小さく呟いた。
ある記憶が甦っていた。確かお隣さんは、ゴミを出さない文明など、あり得ないと話してい
たけれど……。
『しかし、私がこう告げても、疑いを持つ方も多いでしょう。夢の中のような高度な文明など、
かつて地球には存在しなかったはずだと。文明は一つの生物でもありますから。生物である以
上、排泄物を必ず残すものですから。
確かに、現代よりも進んだ科学が存在した痕跡など、地中から現れたことはないはずです。
ですが、汚したものなら、掃除をすればいいだけのことです』
尚顕は戸惑いと微かな畏《おそ》れを感じた。まるでこれは生放送で、この声の主が自分の心の中を
見通しているかのようだった。
『十一万年前、人々は素晴らしい文明を築き上げていました。しかし人口が二百億を超え、大
地は疲弊《ひへい》し、海は汚れ、月さえも人で溢れました。このままでは遠からず地球の多くの生物が
絶滅することが明らかとなったのです。討議を重ねた人々は、ある決断を下しました。地球と
いう優しい生命のゆりかごを、卒業すべき時がきたと』
「卒業……?」と呟く尚顕の脳裏に、宇宙に向かい浮かび上がる巨大なメガロポリスの姿が甦
る。すると、またしても、その心を続んだかのような言葉が続いた。
『卒業とは、次代の知的生命に地球を譲り、宇宙へと移民すること。全人類が、例外なく地球
を離れることを決意しました。しかも彼らは、この星を旅立つに際し、考えました。自分たち
が汚してしまった母なる惑星を、このままにしておいていいのだろうかと。我々は地球に、そ
して、やがて生まれてくるに違いない新たな文明に対して、責任を負うべきだと。
私が地球に残された二つの理由のうち、一つはそれです。緑の星となっていた月を元に戻し、
大気、大地、海中から毒を抽出《ちゅうしゅつ》し、都市を消し、鉱山を埋め、化石を元の地層に復元し、品
種改良された動植物を原種にする。そうして、すべての文明の痕跡《こんせき》を、完璧に消去したのです。
もちろん簡単ではありません。全作業を終えるには、五万年が必要でした』
「五万年……すっごい大掃除……」
感嘆する馨の隣で、尚顕は考え込む。
つまりこれでお隣さんの反論も、残念ながら意味がなくなるわけだ。
でも、どうしてそこまで完璧に文明の跡を消す必要があるのか?
『当然の疑問です。どうして文明のすべてを消す必要があったのか?』
尚顕は思わずテレビに向かい、「えっ!」と、声を上げてしまった。
「どうしたの? 尚くん」
「変だ。さっきから思ったことに、次々答えてくれてるんだ」
『私には、半径ニキロ内ならば。人の思考を読むことが許されています。どうしてすべてを消
したのか、お答えしましょう』
「ほら! ひょっとしてこれ、本当は生放送じゃ――」
焦る尚顕に、馨はくすくす笑って言った。
「ばっかね。さっきの映像見たでしょ? 塔の周りに何人いた? 中には尚くんと似たような
こと考える人だっているわよ」
「静かにっ」という真剣な馨の母の声で、二人は黙り視線をテレビに戻した。塔はすでに語り
出していたが、幸い同時通訳はまだ始まっていない。
『高度な文明は、必ず模倣《もほう》されるからです。かつての文明は、確かに素晴らしく高度に発達は
しましたが、結局、他の地球生物を破滅に陥《おとしい》れるものでした。人々は、次に生まれる文明に、
自分たちの轍《てつ》を踏ませたくなかったのです。より素晴らしい文明が生まれることを期待したの
です……』
塔は沈黙。どうしたのかと尚顕たちが見守っていると、すぐに再び語り始めた。
『今、砂漠をこちらに向かっている男性より、質問がありました。私は、例外なくすべての人
類が宇宙へ移民したと言いました。では今現在のあなたがたは一体、何者の子孫なのかと』
尚顕と馨は、自然と顔を見合わせた。確かに、その通りだ。
『あなたがたは、当時、類人猿の一種だった生物から進化した、新たな人類です』
と、カメラが少し動いた。画面の下へと移動。そこにはたった一人、塔に向かって歩いてゆ
く人影があった。近くにジープがある。砂煙がまだ消えていない。今、この場に到着したばか
りのようだ。
その長身の男が、なにかを塔に訊ねた。
『今の問いかけにお答えします。私が地球に残された、あと一つの理由とは、あなた方、現在
の人類に警告を与えるためではありません。
無論、現在のあなた方の文明に多くの問題点があることを、私のセンサーは感知しています。
あなた方の文明に問題がなければ、私が目覚めることはなかったでしょう。けれども私は、人
類の過ちを正すために目覚めたのではありません。かといって救うために目覚めたのでもあり
ません。私自身に、意志はありません』
「だったら、なんなの?」と、馨が思わず言った途端、塔が答えた。
『私は、先人類からの贈り物なのです』
「わっ」と馨が小さく声を上げ、尚顕の腕を思わず掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]んだ。
「ホント、なんだか変な感じ。でも、贈り物って?」
塔は再び馨の声に答えた。
『地球環境が、文明によって汚染され始めた時――永遠に続くはずの緑が文明によって破壊さ
れ始めた時、私は目覚めるようにプログラムされていました。私の力ならば、環境を千年前に
戻すことも、文明の進路を変更することも容易です。しかし私をどう使うかは、あなた方の意
思|次第《しだい》なのです』
「プログラム? 使う? まるで機械だな……」
再び、あたかも尚顕の言葉が聞こえたかのように、彼女は即座に答えた。
『ここにいるお一人が、私の正体を言い当てました。そうです。私は機械です。それも、究極
の機械と言ってもいいかもしれません』
「究極の機械?」という、馨の母の疑問にも答えてくれる。
『機械とは、人の思考が、夢が、現実の形をとったもの。人が神のように考え、鳥のように空
を舞い、風のように地を進み、魚のように海をいく手助けをするもの……。私は、その究極の
存在なのです。この地球上に限定すれば、不可能はないといつていいでしょう。唯一の枷《かせ》とさ
れた、死せる者の復活以外』
そして塔は一旦、言葉を置いた。
大勢の人々がいるはずなのに、全く声がしなくなった。しかし映像の最初の部分のように、
音声が入っていないのではない。風の音が、画面の向こうから微かに聞こえくる。
まるで自分たちもその場にいるかのように、無言で画面に映る塔を凝視する尚顕たちの心に、
深い驚きと感嘆とが波紋のように広がっていく。それはしだいに戸惑いと興奮へと変化した。
「……どんな願いも、叶《かな》う?」
とぎれとぎれそう言ったのは、手にした発泡酒を開けるのも忘れている馨の母だ。
「で、でもさ。いくらなんでも話がうますぎるよね」と。馨が早口で言って虚《うつろ》に笑った直後、
塔が沈黙を破った。
『都合のよすぎる話とお感じになるのは、当然です。もちろん証拠をお見せします。しかし今
の私には、本来の力の二千万分の一程度しか利用できません。その力も、あなた方に夢の中で
語りかけた際に、かなり消耗しています。他にもこれから説明する大きな制約があります。ど
うかこれを私のできるすべてだとは考えないでください』
塔が言い終えた途端、塔の周囲に転がる巨大な岩の一つが突然、眩《まばゆ》く輝き始めた。あわてて
カメラはそこにズーム。赤茶けた巨岩が次第に縮小していきながら、黄色い輝きを強めてゆく。
十秒ほどで変化は終わった。砂漠の激しい陽光が、半分以下に縮んでしまった岩――それで
も人の身長の三倍はあった――を美しく輝かせる。金色に……。
『岩の原子を変換しました』
いくつもの疑問が出されたに違いない。塔はすぐに簡潔な説明を補足した。
『そう。これは金です。純度100%の純金です』
どよめきが砂漠と高崎家の茶の間に広がる。馨は画面の中で燦然《さんぜん》と輝く巨岩を見つめ、言っ
た。
「……な、尚くん。何キロだと、思う?」
「トンだ。それも、何百……」
まるで魔法だ。だが、巨大な金塊と、そこへ蟻《あり》のように群がる人々の姿とは、間違いなく現
実と見えた。数百トンの金塊。しかもこれで、数千万分の一の力だというのだ。
「夢の続き、見てるみたいだ……」
尚顕たちの体に、ぞわりと鳥肌が立ち始めていた。
万能の力を持つ、先人類の遺産?
カーファクス大統領の言ったことは、本当だった。
まさにこれは、人の未来を決定するぐらいの、途方もない大事件たった。
尚顕たちと同じ興奮が、画面の中の人々の間にも感じられ始めているようだった。
いや、比べものになどならないだろう。巨大な塔と黄金は、彼らの目の前にあるのだ。彼ら
はまさに、奇跡に立ち会っている当事者たちなのだから。
「あ、待って。じゃ、まさかここにいる人たち、願いを叶えてもらったわけ?」
馨はいきなりテレビの方へと前のめりになり、悲鳴のように羨望《せんぼう》の声を上げた。
「いいなぁ!」
カメラが映し出す巨大な金塊の前では、人々が塔を見上げ、口々に怒鳴り始めていた。声は
ほとんど聞こえないが、自分の願いを叫んでいるに違いない。一体、どうなるのだろう?
期待と不安。息を詰めて見守る尚顕たちだったが、なにも起こる気配はなく、やがて塔の
『もうしわけありません』という声が砂漠に響きわたった。
『残念ですが、誰の願いでも叶えられるわけではないのです。先ほど言った制約とは、このこ
とです。私に願いをかけられる人物は、世界中でただ一人の男性だけ』
叫んでいた砂漠の人々と、テレビの前の三人の動きが止まる。
『もし不適当な人物が選ばれれば、世界は破滅するでしょう。選ばれし者は、一切の邪心《じゃしん》を持
たず、バランスの取れた人格と優れた知能と健全な肉体とを兼ね備え、こよなく平和を愛す、
真に人類の代表たる人物でなければなりません。従って、年齢も、最低十代から、最高でも六
十代とにいうことになるでしょう。私は、そのひとの願いなら、どのようなものでもエネルギーの
続く限り幾つでも無制限に叶えるよう、プログラムされています』
『……こよなく平和を愛する、邪心ゼロの――男の人?」
馨が唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然として言った。
「そんな人、いるの?」
塔が答える。
『きっといるはずです。人類の最善の存在、個でありながら全である者が。しかし往々《おうおう》にして、
人は己《おのれ》のことを知りません。そのため先人類は、その方を選ぶ手だても用意しておいてくれま
した』
途端だった。
塔の周囲に散らばっていた百人以上の人々の体が1メートルほど宙に浮かび、駆け足ぐらい
のスピードで塔とは逆方向に移動させられた。やがてカメラマンであるミリセントも浮かび、
ゆっくりと塔から離されてゆく。車、ヘリ、塔が金に変えた巨大な岩もろともに……。
彼らが、塔から1キロほど離れた場所でフワリと大地に下ろされた時、塔の麓に残る人も人
造物も皆無だった。戻ろうとした数人が後ろに跳ね返る。どうやら、塔の周囲には、透明な壁
――バリアーが、張り巡らされてしまったらしい。
唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然として見守る人々の前で、次なる異変が生じた。塔の基部、地割れの中から凄まじい勢
いで、無数の光点が飛び上がったのだ。光の群れは、塔の遙か頭上で傘《かさ》を開くように四方八方
へと向かう。まるで光の噴水《ふんすい》だった。
その眩い輝きの中から、一条の光が離れ、人々と一緒に移動してきていた巨大な金塊の前へ
と垂直に突き刺さった。
ミリセントが絶妙のタイミングで、それをズームアップする。
尚顕の中学のグラウンドに落ちたものと、寸分変わらない杖たった。
『この会見の記録を、なるべく早く全世界へ伝えてください。全世界に送ったこの私の分身に、
十代から六十代までの、人類すべての男性の手を触れさせてください。杖を大地より抜き、杖
の先にある選ばれし者の証《あかし》をエメラルド色に輝かせた人こそが、先人類の定めた資格を持つ者。
私を――先人類の遺産を受け継ぐ、選ばれし者です』
そして再び、微かに画像がぶれた。地震?
カメラが塔の基部へと向かう。なにかが地面を割って出現しつつあった。黒い切り株のよう
な物体だ。塔と比べると小さく見えるが、多分、直径100メートルはある。
『これは選ばれし者が、私に願いをかけるための祭壇《さいだん》です。そして、選ばれし者の証の輝きだ
けが、私のバリアー内に入る鍵となります。その方が訪ねてくるまで、私は暫《しば》しの眠りにつき
ましょう。
ですが、誰も杖を抜けない可能性も、やはりゼロではありません。選ばれし者の証の輝きだ
立つ前に亡《な》くなることも、ありえます。また、先人類の手助けなど不要だと判断されることも。
残念ですが、その場合、私は自らをリセットし、全エネルギーを宇宙に向けて放出後、再び地
中に沈みます――次代の知的生命が生まれるまで』
そして、人々を包み込むように優しく、塔は別れを告げた。
『願いのタイムリミットは、今よりちょうど百日後までとなります。では。みなさん。先人類
の遺志が、遺産である私の力が有効に使われることを、期待します……』
塔の頂上にある輝きが薄れ、球体は放射状の台座の中に静かに収まる。
同時に、銀色に輝いていた塔は、徐々に黒ずんでいった。まるでグラウンドの杖のように
……。
突然、カーファクス大統領のいかつい顔がテレビに映り、茫然としていた尚顕たちを我に返
らせた。
『会見』は、終わったのだ。
尚顕たち三人は、いつの間にか全身にこもっていた力を吐息とともに抜くと、唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然として視
線を交わし合った。
しかし三人がなにか言おうとするより先に、カーファクス大統領が語り始めた。
尚顕たちのように放心状態だったのか、やたらあわてた通訳がその言葉の後に続く。
『えーっ、その、遅れたのは……塔との会見の放送が遅れたのは、塔の言葉に対する、科学的
な検証のためです。えーっ、塔の地下部分から、小規模なビッグバンに等しいエネルギー現象
が観測されています。このことは、人類がいまだ手に入れたことのない莫大なエネルギーを、
塔が持っていることを提示――いえ、暗示しています。次に、岩を金に変換したことで………え
ーっ、まだ未確認なので、断定はできませんが、もしあの岩が本当に金になっているとしたら、
このような他元素の金への変換も、今の人類には不可能な技術です』
ここでカーファクス大統領は言葉を切り、通訳が追いつく。そして、テレビカメラを睨みつ
けるようにして、大統領は告げた。
『塔が、真に万能かどうかは、まだわかりません。しかし、少なくとも塔の言葉を疑う根拠も、
今のところ、存在しません。我々は、早急に、この前代未聞の事態に対応する態勢を、国連内
に作る必要があると思われます』
テレビからカーファクス大統領の姿が消え、さっきまでの報道特別番組のメインキャスター
と入れ替わった。
「なんなのよ、ほんとにもう」
キャスターより前に、苛立たしげにそう言ったのは、馨の母たった。
発泡酒のプルを上げグイッと一気に空けると、テレビに向かって憤然として言った。
「どんな願いも? 人生をなめるな。そんなうまい話があるわきゃないわよ!」
「確かにムッとするわよねっ!」と馨。
しかし彼女が怒っている理由は、母とは少し違った。
「どうして女は駄目なのっ!」
「あ、そうよね。そうだわよねぇ!」
母娘が意気投合してさらに怒りだす隣で、尚顕はただ感嘆していた。
ほとんど意味不明だった夢と杖の謎が、この塔との『会見』で、一気に解決していた。夢と
は、この万能の力を持つ塔の復活を知らせるプロローグだったのだ。
そして杖は――
いきなり廊下の向こうから、馨の父の戸惑うような声がした。
「おーい、なんか外、大変だぞ!」
顔を見合わせた三人が、あわてて立ち上がり、競争するように店へと出た。
「なに、これ……」
もう十一時近いというのに、店の前の通りに、おびただしい人の群れがあった。
「なんなのかなぁ」と、首を傾げる馨の父の後ろで、馨が尚顕に言った。
「……まさか、杖? みんな今から、学校のグラウンドにいく気?」
尚顕の方は、とっくに気づいていた。
「決まってっだろ? あの塔さん、全人類の男に試せって言ったしな。自分じゃ自分のことが
わからんてのは、確かにそうかもしれないし」
「そうよね。父さん、今日は一時休業しましょ」と、馨の母が言った。
「ええっ?」
「私もついてくから。尚くん、あなたもよ、当然」
馨が、呆れたように母を見る。
「あっ、母さん、自分も試すつもりでしょ。女は駄目なのよ。大体、人生、そんなうまい話な
んてないって言ったくせに」
「宝くじだって、買わなきゃ当たらないでしょうが」
「わけわかんない言い訳しないでよ」
母と娘とが言い合いをしているところへ、サイレンの音が響き始めた。
消防車ではない。パトカーのようだ。それも一台や二台ではなかった。
尚顕と高崎家の家族は、急いで店の外へと飛び出した。
店から高校へと向かう方角に、車の大渋滞ができていた。
歩道にも、自転車や人が溢れている。さらにサイレンの聞こえてくる前方を眺めると、パト
カーの赤い回転灯がいくつも回っていた。
「警察、あの放送の内容、先に知ってたんだな」と、尚顕が呟いた。
「え?」と、馨。
「でなきゃ、あんなふうに道路通行止めになんてできないだろ。今夜は忙しいっての、このこ
とだったんだ」
「あ、そうか……」
パトカーの方角からは、怒号《どごう》も聞こえてくる。警官に、通せと言っているようだ。
『下がってくださーい』と、間延びした拡声された声が、パトカーの方から聞こえてきた。
『防犯、事故防止の観点から、夜間、杖に触れることを禁じまーす。明朝、改めておいでくだ
さい。繰り返します。今夜は杖の場所へはいけません。ご協力をお願いしまーす』
この間にも、深夜にもかかわらず、通りにはどんどん人や車が増えてきた。
「まるで、お祭りね」
呆れたように、馨の母が言った。
「やっぱり、お店は開けときましょう。結構、稼ぎ時かも……」
「祭り……」と呟く尚顕の中の驚きも、徐々に興奮へと変わっていく。
その通りだと思った。
今、祭りが始まったのだ。全人類の未来を決める、巨大なイベントが。
[#改ページ]
選ばれし者
Iマートの裏側、高崎家の中庭に面したコンクリートの壁は、あまりまともではない。
まず上にいくほど強い傾斜のついたオーバーハングになっている。壁面一杯に大小様々な奇
妙な形をした突起物が何十個もくっついている。
翌朝六時。その妙な壁の、棚状に突き出した頂上あたり――ロープもなにもつけずに、小さ
な突起だけを手がかり足がかりにして、馨がはりつにいていた。
フリークライミング――簡単に言えば、道具を使わない登攀術《とうはんじゅつ》である。馨の毎朝の日課だ。
昨夜はさすがに興奮してなかなか寝つけなかったのだが、習慣は恐ろしい。時間通りに目が覚
めてしまった。
これは元々は高崎・民田両家の父親の共通の趣味だった。馨が来帆と一緒に始めたのは八つ
ぐらいからだが(ちなみに尚顕は全く興味を示さなかった)、本格的にのめり込んだのは、小
学校六年の時。学校での『嫌なこと』がきっかけだった。
呼吸を整えた馨は、背中を反《そ》らせるようにして、最後の|手がかり《ホールド》を見上げる。先週父が付け
替えたホールドは、父に比べてリーチのない馨には、かなり遠い。恐怖が過《よぎ》る。ちらっと下を
見る。ちょうどマットの上だった。左手が震え始めていた。あきらめてこのまま落ちようかと
思ったその時、馨の脳裏にある記憶が甦った。
やはり六年の時。初めて競技会に出た馨は、なんと女性の部で優勝してしまった。しかし、
大人たちの称賛を浴びながら、馨は違和感を感じていた。戦う相手が絶対必要なバスケなどと
違って、これは他人と競争するようなものではないような……。
今や馨は、世界的に有名なクライマーにも認められるほどの実力を持っているのだが、以降、
大会には出ていない。出る気もない。その気持ちを決定的にしたのは、優勝した時にかけられ
た、あの言葉――『君、まるでサルだったね』という、あの!
顔を真っ赤にした馨は、全身をバネのようにして飛んだ。一瞬体が宙に浮く。がっしりと右
手がホールドを掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]む。片手で軽々と体重を支えながら、馨は苦笑した。
「尚くんのこと、言えないな。まだ私、恨んでるのかも……」
ぶら下がったまま馨は、木造家屋の二階の窓を見つめた。物心ついてから何カ月前まで、使
われたことのないカーテンが、今日もきっちりと閉ざされている。
「ほんと……なにやってんのかな?」
件《くだん》の部屋では、目覚ましが鳴り始めていた。
尚顕の手が、その電子音を止める。欠伸しながら、万年床《まんねんどこ》からむっくり起き上がると、かけ
ていた布団《ふとん》の上から、コロコロとなにかが幾つも畳《たたみ》に転がり落ちた。
カーテンはあるものの閉めたことのない窓からは、朝日とともに庭先のモクレンの木が覗く。
その木の向こうには、色とりどりの突起物がくっついている白いコンクリート壁が見える。高
崎家のコンビニである。
高崎家とほぼ同時期に建てられた民田家だったが、まだまだしっかりとしている。当時でも
すでに絶滅しかけていた、腕のいい大工《だいく》仕事の成果である。
その名人が、現在の尚顕の部屋のありさまを見たら、嘆くだろうか。
いや、案外、目を輝かせるかもしれない。
室内は、一見ゴミタメ状態だった。布団の中にまで木切れや紙切れや雑誌が入り込んでいる。
しかしそれらはすべて、工具だらけの机の上に載っているものを作るために出たゴミだった。
机上のバイクの模型の前にあるのは、翼長1メートルほどの複葉機模型である。
昨夜帰ってから、二時までかかって完成させた模型を手に取り、尚顕は滅多に他人には見せ
ない心からの笑みを浮かべた。
驚くほど精密に作られたその機体には、エンジンはついていない。代わりにあるのは、ペダ
ルだ。
これは人力飛行機の10分の1スケールモデルだった。
もちろん、制作者は尚顕である。
そして少年は、この実物も作るつもりでいる。
しかし別に、鳥人間コンテストの類《たぐい》に出るつもりではない。
これは単なる意地だと尚顕は思っている。
いまだに見るあの夢。しかし、いくら夢の中で連戦連勝しても、仕方ない。現実で勝ってこ
そ『男』だ。
今度こそ。死んだって飛んでやると決意している。
計画を本格的に始動させたのは、姉の来帆が結婚して大阪にいった半年前である。
来帆は今、二十一歳。明るくて朗《ほが》らかで優しくて、とてもいい姉だ。ただし怒らせると非常
に怖い。
民田家の家族はみんな、祖父の影響で格闘技を身につけているのだが、間違いなく最強なの
は(祖父が生きていた頃でさえ)来帆だ。
正義感も強くて、ちゃんとした理由さえあれば、喧嘩《けんか》も逆にけしかけるぐらいの姉たった。
しかし、自分の中学時代を思えば、止めるわけにもいかなかったのかもしれない。
母の入院、そして死という辛い現実を真正面に受け止め、乗り越え、およそ小学生とは思え
ないぐらいに成長していた来帆にとって、入学当時、甘えた理由で――と、彼女には思えた
――荒れていた中学校は、とても我慢できる場所ではなかった。来帆は、頼りない生徒会と協
力して、不良グループと立ち向かい、稽古《けいこ》という名の教師たちのリンチから、自分や仲間たち
を守った(ちなみに、来帆の旦那《だんな》になったのは、当時、生徒会長だった少年である)。
今でも中学では、一人で十人を叩きのめし、鬼のような体育教師二人を病院送りにした来帆
の名は『伝説』として残っている。来帆の卒業後、入学してきた弟に、馨と慎也以外の友人が
できなかったのは、彼女の影響も大きかった。
しかし、三年前。尚顕が人力飛行機で飛びたいという計画を姉と父に打ち明けた時、来帆は
血相を変えて反対した。とりつく島もなかった。
頭にきた尚顕に、父が教えてくれた。
十一年前、尚顕が空を飛びそこねて骨折、入院したのがきっかけで、体調が悪かった母もつ
でに検査を受けることとなり、そして『病気』が発見されたことを。
尚顕が空を飛ぼうとしたことが、来帆の人生で、最大、最悪の事件の始まりになってしまっ
たわけだ。きっとそれが、トラウマになっているのだろう、と。
以降、人力飛行機のことは、民田家ではタブーとなった。とはいえ民田家の中では『まと
も』と言われる父もやはり、祖父の息子で、来帆・尚顕の父親だった。父は尚顕の計画に、完
全に乗り気だった。
父と息子は、来帆から隠れるようにして、計画を進めた。やがて慎也もその仲間に加わり、
慎也の父も協力者になってくれた。
だが馨には、一切話していない。打ち明けるのは、飛行当日と決めていた。
フリークライミングでも、ある程度以上の高さの崖を登ったりするには、安全保持のためロ
ープを使う。姉が結婚するまで、馨は姉と組んで、あちこちの絶壁を登ってきた。命綱を預け
合った間柄――ということだ。つまり、馨に知られれば、姉にもばれる。
二人は本当の姉妹よりも、仲がいいかもしれない。少なくとも、思春期に入り、ちょっと姉
との距離をとり始めた尚顕よりも、間違いなく馨の方が来帆に近い。
尚顕は、再び手の中の模型に視線を移す。
今度のこれが、最終的なモデルだった。この模型を元に、実物作りにとりかかるつもりだ。
これもあの喧嘩相手の、三人組のおかげかもしれない。しかし……。
「なんで学校に、あの喧嘩のこと、ばれたんだろ?」
今さらながら、尚顕は呟いた。あれは上海でかかったオタフク風邪が治り、やっと日本に帰
ってこられた当日だった。尚顕は少し離れた区の粗大ゴミ集積所にいき、飛行機の部品探しを
するつもりだったのだ。当然、私服だったし、まだ一度も登校していない自分を、一体誰が?
だがすぐに尚顕は、「ま、いいか」と言って、立ち上がった。
時間は全く無駄になっていないわけだ。もう一度か二度だったら、停学もいいかもしれない
が、やめておいた方が無難《ぶなん》だろう。今度こそ、来帆の許へも呼び出しがいく(今回は、馨の両
親が代わりに責任を持ってくれた)かもしれなかった。
下着のまま階下に下りた尚顕は、狭い廊下の突き当たりの木戸を開けて、その中へと入って
いった。
民田家も、お隣の高崎家と似た作りになっている。つまり住居と職場とが隣り合わせになっ
ているのだ。
ただし民田家の家業は、コンビニではない。尚顕の前に現れたのは、年季《ねんき》の入った小型のボ
イラーだ。その脇にある扉を開けると、そこは広々とした空間たった。天窓からの朝の日差し
が照らし出しているのは、富士山のタイル絵である。
民田家の家業は、銭湯だった。
もっとも、それも過去形だ。やっていたのは、祖父が亡くなる六年前まで。だが、一応今で
も、いつでもお湯は張れるようにはなっていた。七回忌までは、自分の命日に、近所の人を入
れてやってくれという祖父の遺言のために。
祖父の命日は、八月五日。姉も帰ってくる。だからそれまでに尚顕は、飛ばなければならな
いのだ。
尚顕は、男湯をぐるりと眺めた。すでに男湯一杯に、全長11メートルの翼が一枚完成してい
る。もう一枚分のパーツも、ほぼ揃っていた。
あとはフレームと、尾翼と、駆動系周りの作業だったが……。
「おはよ、尚顕くん」
開けっ放しの木戸の向こうから、微かに声が聞こえた。
あわてて家の方へ駆け戻り、鍵もかけていない玄関を開けると、まだ真新しい制服を着た慎
也が、にこにこして立っていた。
ちらっと慎也の背後を覗き、馨の気配がないのを確認した尚顕は、小さく告げた。
「先、模型、見てくか?」
慎也は首を振った。
「見たいげど、杖に触った後の方がいいよ。もうすっごい人だよ」
「マジで? 一分待って!」
尚顕は、あわてて部屋に駆け戻り、制服に着替えると、冷蔵庫の牛乳パックと昨日貰って帰
ったサンドイッチを持って、靴《くつ》をはく。
慎也は感心する。そこまで本当に、ジャスト一分だった。
「ねぇ、尚顕くんも、一緒にバスケやらない?」
「チビにそのジョークは、キツイって」
「165センチでチビなんて言ってたら、160以下の人に怒られるよ? 本気だって。そりゃバスケ
は背丈あった方が有利だけど、背の低い名選手も一杯いるんだ。尚顕くんの動きだったら、絶
対、戦力になると思うんだけど」
「わかってるだろ。俺、集団でやる競技は全部、苦手なんだ」
「うーん……もったいないなぁ」
「それより、いくんだろ? 運試しに」
「あ、うん」
民田家の家屋部分は、通りから入り込んだ路地側にある。しかし玄関を出た途端、尚顕は目
を見張った。
「すっげぇ人だな」と、思わず呆れ声になる。
高校へと続く通り。普段ならこの時間に見かけるのは、新聞配達やランニング、犬の散歩の
人々ぐらいだ。
しかし今朝は、慎也の言う通りの状態だった。
とんでもない雑踏になっていた。
昨夜から車両全面通行止めになった二車線プラス歩道。その路面が人で埋めつくされている。
「都内で二十本から刺さってるんだろ? なんでこんなに集まるんだよ」
尚顕がぼやくと、慎也が宥《なだ》めるように答えた。
「さっきテレビで中継してたけど、他も似たような感じだよ。けど、明治神宮の初詣《はつもうで》でも、
こんなに人いなかったよね?」
「初詣の方がまだマシだった」
二人の周囲は仕事前に運試しという会社員も目立つが、概して若者が多い。しかし中には塔
が除外したはずの老人やら小学生、小さな男の子を抱いた母親の姿まである。
「無茶するなぁ」と、そんな子連れを見て、尚顕が言った。
「うん。でも、気持ちはわかるな」と、慎也。
塔の言葉を信じる限り――疑う余地はあまりないと思うが――もし杖を抜くことができたら、
死んだ人を生き返らせる以外のどんな願いも叶うのだ。ほとんどの力を地球や人類のために使
うとしても、たとえ残り1%でさえ、単純計算であの推定四百トンの金塊を、五万個(!)以
上作ることができるらしい。
三十分か過ぎても、まだ中学の正門が見える辺りまでしか進めない。
「な」と、苛立ってきた尚顕は慎也に言った。
「俺、やっぱ今日はやめとくわ」
「えっ? どうして?」
「昨日、触れなかったから、今日はとかって思ってたけど、よく考えてみたら、俺って別に、
叶えてほしい願いなんて、ないもんな」
「ないの?」
「うん。確かに、アレ作るのに、ギアボックスかカーボンファイバー製のパイプが一杯欲しい
けど、願って貰えても、なんか嬉しくない気がすんだよな。こんな時間あったら、作業を少し
でも進めた方がいい」
「そっか。尚顕くんなら、そう思うかな。わかるけど、でも、これって、自分のためだけじゃ
ないよね。きっとみんな、全人類とか地球のために、並んでるんだと思うし」
尚顕は、とてもそんな立派な人々の集まりとは思えない、周囲の欲望に目をギラギラさせた
男たちを見回した。
「……ほんと、慎也はいい奴だよなぁ」
しみじみ言った尚顕の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
「まだ、どこでも抜けてないのか? 大体、抜けたら、僕たちにもわかるのか?」
イライラしたその声を聞いた途端、慎也の顔色が少し変わる。
「さぁ。でもあんな力持ってるんだし、きっとわかるようになってるんじゃないですか?」
「けど、馬鹿だよ日本も。選ばれし者が、全人類の中で一人きりって決まってるわけでもない
んだろ? もし同じ資格を持ってる人間が二人いたら、その時点で早いもの勝ちってことだ。
なんで昨夜、通行止めなんかにしたんだ」
「でもさ、阪本くん。朝でこの状態だし……。夜はやっぱり危険だったと思いますよ。事故で
も起きて、もし誰か死んだりしたら、塔とか先人類に悪いし」
尚顕たちからは見えないが、苛立っている方は多分――いや間違いなく、阪本啓二。
尚顕の顔に、ムッとした表情が浮かび上がっていた。慎也に向かい、小声で告げる。
「気にすんなよ。お前もう、あんな奴よりずっと大した奴になってんだから」
「え? うん、気になんてしてないよ。ただ、思い出したんだ」
「なにを?」
「ほら、尚顕くんが喧嘩した日。あの日、ロードワークしてた時、尚顕くんの後ろ姿見たんだ。
その後から、誰かが隠れるみたいにして、つけてた。あれって……」
「阪本か?」
「ううん。隣の小柄な男子の方。あの喧嘩、誰かが学校に通報したんだよね? もしかしたら
……」
「うーん……」
考え込んだ尚顕の耳に、再び二人の会話が聞こえてきた。
「……それにしても、昨夜は、絶好のチャンスだったのに」
「ごめん。警察には連絡したんだけど、すでに通報済みですって言われたから」
「案外使えないな、君も」
「本当にごめん……。今度はちゃんとやるよ」
「ああ。そうしてもらいたいね」
啓二の横柄《おうへい》な言葉を聞いているだけで、むかついてくる。馨は『変わったかも』とか言って
いたが、絶対変わってなどいない。三年ぶりの啓二は、相変わらず嫌な奴だ。しかし……。
「待てよ……」と呟いた尚顕は、いきなりジャンプした。
予想通り、斜めすぐ前に啓二と、話してる相子がいた。ちらっと青ざめた横顔が見えただけ
だったが、尚顕のおぼろげな記憶を刺激するには、十分だった。
「どうしたの?」と、驚く慎也の隣で、尚顕は分厚い下唇を噛んでいだ。
間違いない。名前は忘れたが、啓二の隣にいたのは、尚顕の後ろの席の男子だ。
昨夜、馨に見られ、こそこそ逃げ出した奴。昔、慎也の友人のふりして、彼の秘密をばらし
た少年と、そっくりだという奴。そして慎也の目が正しければ……。
あいつ、啓二の友達だったわけだ。どういうつもりか知らないが、自分の後をつけていたら
しい。類は友を呼ぶというか……。
「まぁいいや。あんな奴らのこと考えてたら、気分悪くなる」
そして、慎也を見上げて、言った。
「わかった。あの塔さん、言ってたもんな。人類の男はみんな手を触れろって。付き合うよ、
慎也に」
「うん」
高校の周囲には多くの警察官が警備にあたっていたが、やはりあちこちで混乱が起きている
ようだった。どんどん増える一方の人々に対し、警官の数はあまりに少ない。
と、尚顕たちのすぐ側――人込みの中に埋もれるようにして止まっていたパトカーの拡声器
が、いきなりがなりたて始める。
『昨夜の会見映像でもご承知の通り、選ばれし者になる資格は十代から六十代までの男性に限
られております。女性の方、十歳未満のお子さん、足元に自信のない老人の方は、高校前の通
りに入る前に列から出てください! 危険です。すでに数人、怪我人が出ています!』
七時半を過ぎた段階で、次第に周囲は修羅場《しゅらば》と化しつつあった。群衆は警官のコントロール
できる数や状況ではなくなり始めていた。上空には、ヘリコプターがしきりに飛び交いだして
いる。きっと今頃、馨のように爪弾《つまはじ》きにされた日本中の女性たちが、中継画像に見入っている
のだろう。
「けど、これ正解だよな」と、満員電車のような混雑の中で、尚顕が言った。
「な、なにが?」と、同じく潰《つぶ》されそうになりながら、慎也。
「先人類が、元気な野郎限定にしたこと! 今頃、全世界でこんなことになってんだ。この状
況、男でもキツイ」
やっと校門をくぐりかけていた尚顕たちの周囲で、悲鳴や怒号が次々と上がる。
「こいつ、そっちから入ってくるな!」「警官、なにやってんだ!」
その騒ぎの中、二人は押し潰されそうになりながらも、なんとか校門を抜けていた。しかし
突然広くなったためか、いきなり群衆の動きが速まる。前後左右からのうねりが始まり、人の
流れがいくつもに分散する。
「あ、ああ、駄目だこれ――」
言った慎也が、もみくちゃになりながら、後ろの方へと流されてゆく。
「慎也!」
尚顕の方も、怒鳴るのが精一杯。腕を動かすことすら容易ではない状況だった。流されてい
く以外にない。どうしようもないまま、止まったり動いたりを十分以上続けた後、グラウンド
の真ん中あたりに辿《たど》りついた尚顕の目の前が、いきなり開けた。
グラウンドの中央。昨日、教師たちが掘り出した円丘は、再び埋められていた。20メートル
四方にたくさんの丈夫な杭が打たれ、幾重《いくえ》ものロープが巡らされている中に、杖は何事もなか
ったかのように立っていた。ロープ内部は二十人ほどの警官たちが固めており、一人ずつ中へ
入れては、杖を数秒間握らせ、抜けるかどうか試させている。
「まだ、抜けてないんだ」
ほっとして、思わずそう呟いた尚顕の顔が赤らむ。
慎也にはあんなことを言ったくせに、どうやら結構、自分は期待しているらしい。我ながら
その自惚《うぬぼ》れに、呆れてしまう。
しかし別に、尚顕が特別というわけでもなさそうだ。
杖の前に立つ人々は、それぞれ本当に真剣だった。
老人、顔見知りの肉屋のおじさん、中学生。
必死に抜こうとする者、躊躇《ちゅうちょ》しながらおずおずと握りしめる者――と様々。しかし誰が握
っても杖は同じだった。全くびくともしない。抜ける気配すらない。
やがて尚顕の番が迫ってきた。あと何人という段階で、急に緊張が高まってくる。まさかと
思う。思うが、もしもそのまさかが起きたら、一体、どうなるんだろう?
もし杖が抜けたら。もし先人類に――塔に選ばれたら?
杖は今、塔と同じく、『待機』の状態になっていると推測されている。多分、選ばれし者が
触れた時、杖に再びあの美しい銀の輝きと光が甦るのだろうと。
尚顕の心臓が、勝手に高鳴り始めていた。
そうなのだ。ちゃんと真面目に考えると、これはとんでもないことだった。もし杖が輝いた
ら――塔に選ばれたら、その瞬間から自分は、アメリカ大統領ですら足元にも及ばない、途方
もないカを得ることになるわけだ。世界の、人類の未来を、自分の意志一つでどうとでも変え
られる力を……。
「次」という警官の声で、尚顕の視界が開けた。
思わず尚顕は声を上げそうになった。
なんと尚顕の前にいたのは、啓二だった。
慎也ほどではないが、自分よりはかなり長身の啓二の背中を見ながら、尚顕はゴクリと唾を
飲み込んだ。
もし、あいつに抜けたら?
しかし、まさかだった。あんな奴に、絶対抜けるはずなどない!
一方の啓二は抜くつもりだった。
少年は、生まれた時から、自分が『特別』な、なにものかに選ばれた存在であることを、知
っていた。
啓二は、四歳で二次方程式を解いていた。自分の資質は、誰よりも高いものだった。そして
それに甘んじることなく、全力でもって研鑽《けんさん》し続けていた。
塔が昨夜、言ったこと――あれが単なる『建前《たてまえ》』であることを、啓二は見抜いていた。こよ
なく平和を愛する男? そんな人間など、いるはずはない。選ばれるのは、純粋に優れた知
能・能力の持ち主のはずである。ただそうとでも言わなければ、愚かな一般庶民が納得しない
ことを、賢明な先人類が見抜いていただけのことだった。
杖の前へと歩み寄りながら、啓二は、これは運命なのだとすら思い始めている。
今、彼は、生まれて初めての挫折《ざせつ》を味わいつつあった。
思い通りに生きてきた彼に、屈辱を味わわせてくれたのは、民田尚顕という名の小柄な少年
だった。
単なる暴力馬鹿だ。自分と比べるまでもない。取るに足らない存在だ。しかし、あいつがい
るだけで、啓二の立てた計画は――海外留学の話すら断って立てた計画が、全く無意味になり
つつあった。
だがそれも、この杖に出会うための、バックステップだったのかもしれない。
この杖さえ抜いてしまえば、万能の存在となってしまえば……。
啓二は歩み寄って、杖を腋《わき》に抱え込むようにし、気合とともに全身の力を込めた。引きつっ
た顔がどんどん真っ赤になっていく。だが、杖は微動だにしない。
「次」と、いう警官の事務的な声がしても、啓二は離そうとしない。そこにはどこか悲壮感す
ら滲《にじ》んでいた。
「君!」と、見かねた警官の一人が、啓二に駆け寄る。
やっと啓二は、杖から手を離した。信じられないという顔が、ふと背後の尚顕へと向く。そ
の顔に驚愕が走り、次に赤面すると、無言のまま凄い形相で睨みつけ、まるで逃げるように杖
から離れていった。
「君、急いで」
啓二のような男は結構いるのか、警官は全く動じることもなく、尚顕へ告げた。
「はい」
尚顕は内心、ムカムカしていた。
まるで親の仇《かたき》でも見るかのような目つきだった。だが、あんな目で見られる覚えはない。
頭にきながらも、尚顕は、杖へと早足で歩み寄った。
昨日からずっと間近に見たかった杖だ。
大きく息をつき、気分を入れ換える。頭の中から、啓二のことを追い出す。
今、杖の色は、漆黒《しっこく》。もしこれが銀に変わったら、大変なことになるんだろうが……。
無造作に両手を伸ばし、掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]む。ちょっと驚いた。ずっと人の手が触れ続けていたのに、驚く
ほど冷たい。そして杖も、先についた球体も、全く変化を見せない。
やはり、駄目だったようだ。
微かな失望感と安堵《あんど》感とともに「ん!」と、両手に力を込めた。案の定、細い杖は小揺るぎ
もしない。まるで地球を持ち上げでもするかのような、圧倒的な重みを感じた。
「次」と、後ろで上がった警官の声を合図のようにして、尚顕はあっさりと手を杖から離す。
出口へと向かう尚顕の口元には、苦笑が浮かんでいた。
一体、なにを期待し、心配していたのか。自分などに抜けるわけがないのに。
こうして尚顕の運試しは簡単に済んでしまったが、外に出るには当然、人込みを抜けなけれ
ばならない。ロープ内から外の集団の中へと割り込もうとした尚顕の表情が、険しくなった。
一瞬だが、啓二の顔が見えたのだ。ずっと尚顕の様子を窺っていたらしい。眼鏡の奥の啓二
の目は意地悪く笑っていた。
「なんなんだよ、アイツ!」
憤然と言いながら、尚顕は再び人込みの中へと割り込んでいった。
十分後、揉《も》みくちゃになりながら、学校の裏門辺りまで辿《たど》り着いた尚顕の頭上で、チャイム
が鳴り始めている。気づくと、八時をとっくに過ぎていた。
チャイムが鳴り終わるとほぼ同時に、尚顕は門から外へと出ていた。ほっとした少年の耳に、
校内放送が聞こえてくる。
『本日は、臨時休校とします』
当然だろう。学校とその周囲がこの状態では、授業などできるはずがない。
慎也の姿はまだなかったが、とりあえず、ここで待っていれば慎也と会えるはずだ。少し疲
れた体をフェンスに預けようとした尚顕の視界に、登校してきた女子たちの集団が入ってきた。
なんとなく見覚えがあった。同じクラスの女子たちのようだ。しかし、なんだか様子がおか
しい。ひとかたまりになって、不安げになにか話し合っている。
ぼーっと見ていると、背の低い女子の一人と目が合った。
途端、「民田くん!」と、声を上げて、その少女が駆けてくる。
昨夜、コンビニにもきた愛だ。
愛は、昨日まで怖がっていたことなどすっかり忘れ去ったかのように、尚顕に駆け寄ってく
る。
「大変なの! 高崎さんが!」
「馨が?」
「うん。今、すっごい顔した委員長が、高崎さんを向こうの公園の方へ連れてったんだ。絶対、
普通じゃなかったよ、委員長」
「……阪本」
尚顕の表情が変わる。
「どこの公園だ?」
「多分、茂木《もぎ》公園」
愛たちの視線を体に受けながら、尚顕は駆けだした。
茂木公園は、歩いて二分もかからない場所にある、子供たちがドッジボールするのがやっと
というぐらい小さな公園だった。あるのは滑《すべ》り台とブランコだけ。
尚顕が公園内へと駆けつけると、誰かがびっくりしたように木陰に隠れた。裕司だ。馨と啓
二はそのブランコの前に立っていた。他には誰もいない。
「尚くん!」
尚顕の姿を見つけた馨は、心底ほっとした様子で駆けてきて、彼の背中に回った。
「阪本、なんのつもりだよ」
尚顕は、阪本を睨みつけた。
しかし啓二は、その尚顕の鋭い視線など、まるで感じていないようだった。まだ真っ赤な顔
をしたままだ。
「……いつもいつも、お前が出てくるんだよな」
苛立たしげに、啓二は言った。
「なんの話してんだ?」
「僕は思ってたんだ。お前なんて、うちの高校に受かるわけないって。高校入ったら、高崎さ
んは自由になれるって。なのに、どうしてなんだ。どうして民田も受かるんだ? どうして父
親と一緒に、中国ヘいかなかったんだ!」
「はぁ?」
唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然とする尚顕に、啓二は詰め寄った。
「君は高崎さんのことを、本当に理解してるのか? 彼女は将来、女性初のフリークライミン
グ・ワールドチャンピオンになれる才能の持ち主なんだ。幼なじみってだけのことで、そんな
高崎さんの隣にいられるなんて、おかしい。不条理だ。そうだろ?」
「……お前の方が変だ。なに言ってんだ? 馨のことサルって言ったの、お前だろが」
「いいから邪魔しないでくれ。彼女に僕は、大事な話があるんだ。ここから出てけ!」
「馬鹿か。お前みたいな奴と馨、二人きりになんてできるわけないだろが」
しかしそう言った尚顕の肩に、後ろから馨の手が載った。
「ちょっと待って、尚くん……」
驚いたような顔をした馨が、尚顕の横に並んだ。
「ひょっとして、阪本くん……私のこと?」
「え?」
息を飲む尚顕の目の前で、啓二の真っ赤な顔が、今度は急激に青ざめる。
「……マジかよ」
呆れる尚顕の前で、啓二は真っ青になって首を振る。
「ち、違う……」
「だよな。こいつ、慎也だけじゃなく、馨のこともイジメてた奴だろが?」
珍しく、うろたえたように、尚顕は馨に言った。
「だよね……」と、馨は暗い表情で、呟く。
小学校六年の時だ。馨と慎也と啓二は同じクラスで、尚顕は三つ離れた別のクラスだった。
当時から優等生だった啓二は、教師に隠れ、巧妙な手口で馨と慎也をイジメた。具体的には、
クラス全員で二人を完璧に無視した。
結果、馨は結構平然とそれに耐えていたが、慎也は登校拒否となる。尚顕と慎也が友人にな
ったのは、心配する馨に尚顕もついていったのが、きっかけだった。
「そんなつもりは、なかったんだ……」
二人と視線を合わせられずに、下を向いたまま啓二は呻《うめ》くように言った。
「僕は、寺沢が気に食わなかっただけだ。高崎さんが、自分もイジメに遭ってまで、あんな奴
を守るなんて、思わなかったんだ……」
「あんな奴?」
途端、尚顕の目つきが変わった。本気の怒りの顔になった。
「慎也のどこが、あんな奴なのか、言ってみろよ!」
その迫力に、啓二は思わず後退《あとずさ》る。
「て、寺沢なんてどうでもいい。お前だ、民田。ぼ、僕は、高崎さんを、お前みたいなとんで
もない奴から守りたかっただけだ。杖を抜けなかった以上、僕の力で高崎さんを、民田と別れ
るように説得するしかないじゃないか」
「別れる?」
尚顕は、ムッとして言った。
「お前も誤解組かよ」
「誤解なわけないだろ。僕はずっと――小学校の頃から、お前たちを見てるんだ」
再び赤らみ始めた顔を、啓二は尚顕へと向ける。
無言で睨み合う二人の間に、割り込んできたのは馨たった。
「わかった。わかったから」と、小さく言った。
尚顕は、少し戸惑った。なにかをじっと考えているようにも、ひどく困惑しているようにも
見える馨の手には、四角い物体がぎゅっと握りしめられていた。
そのMDウォークマンをじっと見つめ、自分に言い聞かせるように、馨は呟いた。
「……勇気、出さなきゃね」
そして馨は、真剣な面持ちで啓二へと向き直った。
「阪本くん、ほんとに誤解。尚くんと私は、本当にただの幼なじみだから」
「う、嘘だ!」
「嘘じゃないよ。その証拠に、私、好きな人いるし」
「好きな……?」
全く信用していない顔で、啓二は馨を見つめる。
「ほんとなの。いるの」
「……だったら、名前を言ってほしい」
「な、名前?」
動揺を浮かべる馨に、啓二は薄く笑った。
「ほら、やっぱり嘘なんだ。君みたいな人に、そんな嘘をつかせる民田なんて、僕は絶対認め
ない。どんな手を使ったって、学校から追い出してみせる!」
「やめて、そんなこと!」
馨は、みるみる真っ赤になりながら、ぎゅっと手の中のウォークマンを握りしめる。
「わかった。言う」
そして、微かに震えながら、その名を告げた。
「……慎也くん」
途端、啓二ばかりか、尚顕の動きまで止まった。
「マジ!?」
その声は、公園の入口の方から飛んできた。立っているのは、愛だ。
「ど、どうしてり!?」
「心配でついてきたんだよぉっ! それより、ほんとなの?」
馨のトマトのような顔が、こくりとうなずく。
「ば、馬鹿馬鹿しい……」と、啓二が、力なく笑った。
「なんて、よりによって、あんな、ウドの大木――」
「そんな昔の言い方、しないでっ」
赤い顔のまま、馨がぴしゃりと言った。
「今の彼が、ウドの大木かどうかぐらい、阪本くんにもわかってるはずでしょ? 確かに小学
校の頃の慎也くん、そんなだった。体が大きいだけで、ウジウジしてて。でも、慎也くんは、
努力したわ。もの凄く努力して努力して、自分を変えてきた!」
尚顕は、きょとんとした顔で隣の少女を見つめた。
馨とは、物心ついた時から一緒だった。なんだってわかっていると思っていた。しかし、今
ここに立っている女の子は、見知らぬ相手のように見えた。
馨の本気は、確実に啓二にも伝わっていた。
「そんな……」と呟き、うろたえたように視線を地面へと這《は》わせた。
馨は、諭すように続けた。
「だから、もう尚くんに妙なことしないで。もちろん、慎也くんにも。今の慎也くんだったら、
あなたなんて屁《へ》でもないでしょうけど」
全身から精気が抜けてしまったような啓二から視線を外した馨は、尚顕に向き直った。
「……ごめん」
言って、頭を下げる。
ようやく我に返った尚顕は、問い返した。
「なに謝ってんだ?」
「だから……黙ってて。ほんとは言うつもりなかったの。ずっと言わないでおこうと思ってた
んだけど……。尚くん、お願い。このこと、慎也くんには言わないで」
「え? 伝える気ないのかよ」
「当たり前でしょ。慎也くん、新入生の中で一番の有名人よ。将来の全日本候補。私なんて、
釣り合わないよ。それに――」
唇を噛[#「口/齒」、第3水準1-15-26]んで俯《うつむ》く馨の頭を、尚顕の拳が軽くコンと小突いた。
「こんな奴や俺に話して、なんで慎也に言わないんだ? さっき言ってた勇気って、そのため
に使うもんじゃないのかよ」
「……うん」
しかし馨は顔を上げず、手の中のウォークマンを見つめる。
「なんなんだよ、それ」と、訊ねる尚顕に、小声で答えた。
「thinoのアルバム。その一曲目。母さん言ってた通りなんだ。とても、勇気が湧くの」
尚顕は呆れたように笑い、馨の背中をパンと叩いた。
「じゃ、それ聞きながらいってこいよ。慎也なら絶対、まだ校門のとこで俺を待ってるはずだ
から」
「……でも」と、馨はやっと顔を上げ、不安げに尚顕を見つめた。
「もし、ふられたら――迷惑がられたらどうしよう? それがすごく怖いの。そうなるぐらい
だったら、今のままで――友達のままで、ずっといた方がいいから」
尚顕の胸が、ドキッとした。こんな表情の馨を見たのは生まれて初めてだった。
「あのな。慎也が中学の時、何人と交際断ってると思ってる? あいつも、おばちゃんと一緒
の誤解組の一人だからな、俺に気兼ねしてるけど、なんかわかる。慎也も、馨のこと好きに決
まってる」
胸元にウォークマンをお守りのように、祈るように押し当てていた馨は、やがて小さくうな
ずいた。
「……わかった。勇気、だよね。いってくる」
「ああ。頑張れ」
「うん! ありがと、尚くん」
馨は晴々とした笑顔を浮かべ尚顕に背を向けると、公園から駆けだしていった。その後を、
同じぐらいまっ赤な顔をした愛が続く。
二人の後ろ姿を見送る尚顕の耳に、微かな笑い声が届いた。
「馬鹿馬鹿しい……。僕は一体なにをしてたんだ。結局、民田も僕と同じだったのに……」
尚顕は振り返り、ブランコに座り込んでいる啓二を睨んだ。
「お前なんかと一緒にすんな」
「杖が抜けなかったのは――選ばれなかったのは、一緒だろ?」
フラフラと立ち上がりながら、啓二は虚に笑った。
「お前だって、高崎さんのこと、好きだったくせに」
「はぁ?」
「八つ当たりはやめてくれよな」と、啓二は、殺気だった尚顕から離れながら言った。
「僕はずっと君らを見てきたって言ったろ? 確かに、高崎さんは、お前なんてどーとも思っ
てなかったのかもしれない。けど、民田は違うよな?」
「同じだ」
「そうかな?」
憎々しげに笑った啓二の許へ、木陰から誰かが歩み寄る。
「あ、あの。阪本くん」
「井戸くんか」と、啓二はまるで汚いものでも見るような視線を、裕司に向けた。
「君も結局、大西くんと同じだったね。使えない……」
「え?」
「もう塾でも、話しかけないでくれ。いいね?」
啓二は逃げるように駆けだし、一瞬茫然と立ちつくしていた裕司も、やがてふらふらと公園
を後にした。
一人残った尚顕は、いきなり足元の半分埋まったタイヤを蹴り上げ、そして叫んだ。
まるで、自分に対して怒鳴りつけるかのように。
「同じだっ!」と。
そのまま尚顕は、公園を出て、学校から――馨と慎也とは逆の方向へと歩きだした。
どうしようもないぐらい、頭の中が混乱していた。まるで夢の中のように、足元がおぼつか
ない。
これは、本当に夢ではないのかと思い始めた。その証拠に、周囲の――街の様子がおかしい。
救急車やパトカーのサイレンがあちこちで鳴り響いている。高校に向かっていたはずの人々が、
逆方向へと流れ始めている。
「あれ? 尚くん!」
と、その人込みの中から声がして、誰かがやってきた。
「あ、おばちゃん……」
「どうしたの?」
馨の母だった。びっくりしたように、尚顕の顔をまじまじと見つめる。
「別に」
憮然と言しながら、尚顕は視線を落とした。普段の彼だったら、まず絶対しない素振りだっ
たが、
「あ、そっか。そうよね」と、急に馨の母に納得の表情が生まれた。
「これ、もうほんとショックよね」と、次にいきなり怒りだす。
尚顕は顔を上げた。
ショック? ひょっとして、もう馨からなにか聞いてる?
しかし戸惑う尚顕の前で、再び彼女は、キョトンとした顔になった。
「あれ? 聞いたんじゃないの? もう、杖が抜かれてたって話」
今度は、本当に驚いた。
「あ、あの杖、抜かれた? 誰が……」
誰がと言った途端、彼の脳裏に一人の少年の顔が――優しく笑う慎也の顔が浮かんだ。尚顕
の心臓が一瞬止まる。
「……もしかして、慎也?」
馨に選ばれた慎也。あんないい奴、尚顕は他に知らない。そうだ。あいつなら杖を抜いたっ
て――選ばれし者になったって、おかしくない。
しかし、「違う違う」と、馨の母は笑って首を振った。
「なんだか、あの塔の麓《ふもと》らしいの。それも、あの会見のあった一時間後だって」
「……一時間後? って、あの杖が、銀から黒になった……」
「そう! その色が変わった時だって、抜かれたの。ヒドい話よね! あ、早く詳しいニュー
ス見なきゃ。尚くんも、学校休みなんでしょ? 一緒においで」
半ば引きずられるようにして、尚顕は高崎家へと連れ込まれた。
ほっとしたことに、まだ馨は帰っていない。多分、今頃、慎也と話しているのだろう。
茶の間に入ると、馨の母はいそいそとテレビをつけた。途端、
『一体、アメリカは何様のつもりなんだ! 昨夜から今日にかけて、世界中で何人が杖をめぐ
る騒ぎで重軽傷を負ってると思ってる!』
普段は冷静なコメントをするコメンテーターが、血相変えて怒鳴っている。やがてあわただ
しく原稿を繰る女性キャスターへと映像が替わった。
『やはりロイター通信からの情報に間違いありません。すでに杖を抜き選ばれし者の証を手に
した人物が現れており、中国、モンゴル、ロシア三国の保護下にあるようです。
問題は、杖が抜かれた時間です。ロイター通信によりますと、塔との会見後、約一時間後で
す。全世界の杖が同時に発光をやめた時点と完全にシンクロしていることから、この現象が起
きたのは、杖があの塔と同様の〔待機〕状態に入ったからではなく、杖が抜かれたことが原因
だったと考えられます。さらに抜かれた場所は、塔の麓――あの巨大な黄金の前です。なぜこ
こまで情報の公開が遅れたのかはわかりません。全世界、約三千ヵ所に及ぶ杖の周辺では、昨
夜から今日にかけ大混乱が発生。まだ未確認ですが、途上国の数カ国では、その混乱により死
者も多数出ているようです。重軽傷者は、日本だけでも四百名以上。混乱は、今この時も起き
続けていますが、これら全世界の杖を巡る事件や事故は、全く無意味だったということです』
興奮するキャスターの元へ、新たな情報が入る。
『今、アメリカCNNテレビでは、その時の状況――杖が抜かれた瞬間を映したビデオが全世
界に配信されているようです。撮影者は、塔との会見を撮影したのと同じく、ミリセント・カ
ーファクスさんのようです』
「CNN? もう、うち衛星入ってないっちゅうの。NHKでやってないかしら」
あわてて馨の母がチャンネルを替える。
「やってたやってた!」
漆黒の塔を背中に、一人の男性が茫然と立っている姿が映し出されていた。しかし少し離れ
ており、さらになぜか撮影時間も短く、どんな人物なのかよくわからない。すぐ同じ映像がリ
ピートされ、再び男性が映し出されたところで、静止した。
静止画像が拡大される。その分、画像は粗くなったが、長身の白人男性なのは間違いない。
尚顕は、その姿に見覚えがあった。多分、あの会見の時、ジープから降りて塔へと向かい、問
いかけをしたのと同一人物だろう。
そして、これは見間違いようのないものが、彼の平行にした両手に握られていた。
人々を冷たく拒絶した『杖』が、銀色に輝いたままの姿で……。
[#改ページ]
杖は抜かれた。
選ばれし者は、現れた。
しかしまだその杖を抜いた人物の正体は全くわからず、さらに奇妙な情報が、モンゴルの首
都ウランバートルから届いていた。
緑色の鳥だ。
杖が抜かれた直後、ウランバートルの街中に小鳩《こばと》ぐらいの大きさの緑色の鳥が、人々のほと
んど顔面すれすれの近さに忽然《こつぜん》と現れたというのだ。
もちろん、これだけのことならニュースになるわけもない。問題は、その速度だ。
一人の眼前に留まる時間は、平均0.2秒。人から人へと移動する時の速度は、音速を遙かに超
え、時には瞬間移動したとしか考えられなかった。
緑色のたった一羽の鳥が、都市の南半分の住人、約四十万人の顔前を、一日の間で回り切っ
たというのである。
現れた場所からいって、塔となんらかの関わりがあるのは間違いないと思われたが、選ばれ
し者と同様、いまだ確実な情報は全く入ってきていない。
杖をめぐる騒動は、夕方になってようやく沈静化していた。
民田家の二階の窓が、夕日で赤く染まっていた。
部屋の中。尚顕は、指の間に挟んだ飛行機をその夕日にかざし、それをじっと見つめていた。
一人になり、落ちついて、やっと気づき始めている。どうしても、これに乗って飛びたかっ
た理由が。
馨に、今度こそ自分が飛ぶところを見てほしかったのだ。
本当に馬鹿だった。なぜあんな奴に言われるまで自分の気持ちに気づけなかったのか……。
ふと視界の端――部屋の入口に、大きな影が立っているのが見えた。
「あの……玄関、開いてたから」
尚顕の手から飛行機が放たれ、あわててそれを入ってきた慎也が受けとめる。
「すごいね。よくできてるよ」
一瞬、表情を輝かせた慎也だったが、すぐに俯いてしまう。
「馨に会ったか?」
慎也はうなずき、当惑しながら答えた。
「うん……あんまりびっくりして、焦って、断らなきゃって思ってるうちに、付き合うことに
なってて……」
二人をよく知る尚顕には、その時の馨の一方的な口撃《こうげき》と、慎也の狼狽《ろうばい》ぶりとが、容易に想像
できた。
笑いながら「どうして?」と、訊ねる。
すると慎也は、尚顕の前に座りながら、あわてたように謝った。
「ご、ごめん。ちゃんと断るから。明日」
「はぁ? どうして断らなきゃならないんだよ。慎也、馨のこと好きだろ?」
辛そうな表情で、慎也はうなずく。
「でも……尚顕くんだって」
「ば、馬鹿――」と、いつものように否定しかけた尚顕だったが、ぐっと言葉を飲み込む。
「ああ、認める……。俺、馨が好きだったみたいだ。けど、信じてくれ。俺は、ほんとに、馨
から慎也のことが好きだって聞かされるまで、全然――だったんだ」
慎也の顔に、やっと笑みが浮かんだ。
「うん。それも、なんとなくわかってた。自分の気持ちに気づいてないのかなってのは。馨ち
ゃんも尚顕くんも、隠しごとって体質に合ってないんだよ。そういうところは、そっくりだよ
ね」
「そっくり、か……」
尚顕は、長い吐息をついた。
「なんだよな。ああ、そういうことなのかもな……」
しみじみと言った尚顕に、慎也が問いかけた。
「そういうことって?」
「だから……」
考えながら、尚顕は答えた。
「ほら、俺には来帆姉ちゃんがいたろ? 俺にとって馨は、仲はよくても家族じゃなかった。
けど、一人っ子の馨にとっては、多分、俺も来帆姉ちゃんも身内だったんだ。初めっから」
「身内?」
「馨にとっちゃさ。だから、俺にはもともと、資格なんてなかった」
慎也は、戸惑うような視線を尚顕に向ける。
「でもさ。気持ちって、そんなに割り切れるもんなの?」
「割り切る。意地でも」
言って尚顕は、慎也の手から飛行機を奪い取った。
「俺は、意地に命を懸《か》けられる男なんだ。だから、慎也。頼むな。馨のこと」
「ほんとに、いいの?」
「しつこいな。けど、馨を泣かせたら、許さねぇからな。兄貴として!」
慎也は神妙に、しかし大きくうなずいた。
「あーしかし、飲みたい気分だなぁ。慎也もだろ? 乾杯すっか? 親父のビール、まだ残っ
てんだ」
「うん」
二人が階下へと向かおうとしたその時、再び部屋の前に誰かが立った。
「なにしてんの?」
馨の冷たい声が、室内に響く。
あわてて背中に隠そうとした尚顕の手から、素早く飛行機が奪い取られていた。
馨は尚顕を、そして慎也を交互に見つめた。
「今、男湯も見てきたんだよね。随分《ずいぶん》いろんなものが置いてあって、びっくりしたけど。これ
見て謎が解けたな。いろんなね」
二人は、まるでいきなり猫と出くわしたネズミのように、部屋の隅に追い詰められていた。
「今度は、ほんとに飛ぶつもりなんだ」
尚顕は仕方なく覚悟を決めた。
「ああ、そうだよ。飛ぶつもりだよ、それで! 馨や来帆姉ちゃんには、絶対わからないだろ
うけどなっ!」
「ええ、わかんない。どうして隠すのか」
「隠すに決まってるだろ? 馨も止めるだろが!」
すると馨は、クスッと笑って、言った。
「別に止めないよ。面白いじゃない」
「え?」と、尚顕と慎也は、思わず馨を見つめた。
「本気で言ってんのかよ?」
「そうよ」と言いながら、馨は手の中の飛行機を眺めた。
「もちろん、確実に死ぬようなことだったら、意地でも止めるけどね。よくできてるよ、これ。
これだけの模型が作れるんなら、本物もできるかも。できるだけ安全なね」
「安全?」
「まさか、死ぬために飛ぶんじゃないよね?」
尚顕は、憮然と答えた。
「当たり前だろ」
「だったら、死なないように作ればいいってことでしょ? だから――手伝う」
一瞬、尚顕と慎也は、言葉を見失っていた。
「て、手伝う?」
「か、馨ちゃん……」
「そう。どうせ、あの男湯の様子だと、おじいちゃんの七回忌までに作るつもりよね? でな
きゃ、来帆姉さんにバレバレだし。人手は、あった方がいいはずよ」
「……なるほどな」と、尚顕はぼやくように言った。
「要するに、ずっと慎也と一緒にいたいってことかよ」
尚顕の足を、馨の踵《かかと》が踏んづけた。
「とにかく! 私も手伝う。さもないと、即刻、来帆姉さんに通報する。尚くん、わかってる
よね? 来帆姉さんは、私ほど寛大じゃないよ?」
尚顕は、痛みを堪えながら、慎也に言った。
「慎也。考え直すんなら、今のうちだ」
しかし慎也は、楽しげに笑っているだけ。
笑いながら、ふと、昔のことが思い出されていた。
啓二からのイジメで登校拒否をしていた頃。一人でやってきていた尚顕は、落ち込む慎也の
前で、怪訝な顔をして言った。
『無視されてるだけだろ? 気にしなきゃいいじゃんか』
『僕、民田くんみたく、強くないよ。みんなと仲良くしたいよ』
すると尚顕は、やはり戸惑ったような表情で、こう言った。
『じいちゃんが言ってた。イギリスに昔、じいちゃんも全然かなわない、チャーチルってすご
い男がいたって。けど、そんな男でも、死ぬ時、こう言ったんだ。俺は幸せだ。死ぬこの時に、
友人が三人もいるって』
この話を聞いてからだと思う。慎也の気持ちが、軽くなったのは。
そして、思ったのだ。尚顕が死ぬ時、僕もその友人の中に入っていたいと。
慎也が、頑張り始めたのは、それからだったような気がする。
やがてそこに馨への想いが割り込んできたけれども、思いがけず、こんなことになってしま
ったけれども、その気持ちは今も変わってはいない。
これからも、きっと。
翌朝、尚顕たちのクラスは、妙にエネルギッシュな雰囲気に包まれていた。
一つの原因は、もちろん現れた『選ばれし者』に関する噂《うわさ》である。
しかしやはり、彼らにとっては、窓際の席で青ざめた顔をし、一心不乱に数学の専門書を読
みふける啓二の姿もまた、選ばれし者に匹敵《ひってき》する大事件たった。
すでに、愛の目撃証言によって、啓二が『フラれ』、慎也と馨とが『付き合い』始めたこと
は、全校に知れ渡っていた。
クラスに入ってきた生徒たちは、愛からそのことを耳打ちされ、びっくりして啓二を見、そ
して馨へとその視線をやった。
その馨は、隣の尚顕と、なにやらコソコソと話し合っている。
話題はもちろん、昨日から始まった、人力飛行機作りだった。
「とにかく、安全第一じゃないと、来帆姉さんに言うからね」
「あのなぁ。設計とかはもう完成してんだ。馨はさ、マネージャーだけやってくれりゃいいん
だって」
「だめ。慎也くんから、結構いい加減だって聞いてるよ。プロペラとかギアボックスとかいう
のも、適当に作ればいいとか言ってるって」
「ねねねね、なに話してんの?」
尚顕と馨は、ビクッと体をそらせた。登校してきた全員への『報告』を済ませた愛が、にま
にまして二人の前に立っていた。
「な、なんでもねーよ! あっちいけ!」
「あ、なんか怪しいなぁ。もう浮気?」
尚顕に睨まれる前に、愛はさっと馨の陰に隠れた。
「それは冗談として、プロペラとかギアボックスとか言ってたよね? なんのこと?」
馨は。小さく吐息した。
「……でもさ、別に悪いことしてるわけじゃないし。ちゃんと話す?」
「馬鹿言うなよな」
「それとも、こうやってコソコソ話してて、変な噂立てられた方がいい?」
尚顕が、ぐっと言葉に詰まっている間に、馨は愛に耳打ちした。
聞き入る愛の口が、次第に丸く大きく開く。
「マジで!」と、思わず声を上げた。
そして、尚顕が一番恐れていた言葉が、続く。
「まぜてまぜて、絶対まぜてよね!」
即座に、「駄目だ!」と、尚顕が怒鳴る。
あわてて馨にしがみつきながら、愛は言った。
「で、でもさ。私仲間にしたら、いいことあるよ。きっと」
「いいこと?」
「えっへっへ」と、愛は自慢げに笑った。
「私ん家《ち》、自転車屋なんだもんね」
「へぇ! ほんと?」
興奮して声を上げたのは、馨である。
『鳥人間コンテスト』見てるもん。プロペラ機だったら、自転車とか、絶対必要でしょ?」
二人は憮然とした尚顕などそっちのけで、話し始めた。しかし興奮しているのか、声が大き
い。ギア比とか揚力とかいった専門用語が、ポンポン飛び出す。
そんな二人を、クラスメイトたちが「鳥人間?」などと囁き合いながら、一体何事? とい
う目で見守っている。
最悪の状況だった。この調子だと、尚顕の計画がクラス中に広まるのも、時間の問題だろう
……。
と、尚顕は背後に物音を感じ、振り返った。
青ざめた裕司が、そこに立っていた。おどおどとした姿で、しかしどこか戸惑った様子で、
周囲を見回している。
「井戸――だったよな? ちょっと、話、ある」
尚顕はそう言うと、席を立った。
顔をまるで紙のように白くした裕司が、後に続く。
校舎の裏。誰もいないのを見計らい、尚顕は単刀直入に言った。
「お前だろ。俺の喧嘩のこと、先生や警察に告げ口したの。お前、阪本のスパイ?」
ひゅっと息を飲む声が聞こえた。顔は白を通り越し、青黒くなっている。答えはそれだけで
十分たった。
「……覚悟、してた。殴る、つもり?」
尚顕は、微かに震える裕司をじろりと見据えると、逆に訊ね返した。
「お前さ。俺のこと先生やら警察に話した時、楽しかったか?」
裕司は、戸惑いながら首を振った。
尚顕は、再び聞いた。
「お前さ。阪本といて、楽しかったか?」
「……阪本くんが、僕を友達扱いするのは、機嫌のいいときだけだった。でも、けど、一人よ
りは、マシたった。僕は口下手で、気弱で、命令でもなかったら、自分から誰かに話しかける
なんて絶対無理なんです。今まで友達なんて、一人も……」
「そんなだから、阪本なんかにいいように使われんだよ!」
苛立《いらだ》った尚顕は、俯く裕司を放っておいて帰ろうとしたのだが、すぐに足が止まる。
「今、告げ口するよりゃ楽しいこと始めてんだ」
その言葉に、裕司の顔が上がった。
尚顕は、裕司に不機嫌そうな顔を向けている。そしてその顔のまま、言った。
「一緒にやんないか?」
民田温泉の天窓からは、久しぶりに夜でも灯《あかり》が漏《も》れるようになっていた。
男湯の中では、尚顕の他にいつも二、三人の少年・少女の姿かある。一週間もたたないうち
に、噂はクラス中に広まっていた。
まだ少し怖がられている尚顕だったが、愛や裕司の他にも、ちらほらと手伝いにきてくれる
生徒が現れ始めていた。
もちろん、一番、尚顕と一緒に作業をしているのは、隣に住む馨である。二人きりになるこ
とも多い。
「ねっ! 尚くん、朗報《ろうほう》だよ」と、作業開始から十日が過ぎたその日の夜も、民田温泉の男湯
の中にコンビニのエプロンをつけたまま、馨が飛び込んできた。
この日は、尚顕の他に常連になりつつある裕司と慎也の姿もあった。
裕司と一緒に、男湯の脱衣場で翼の設計図を見ていた尚顕に、馨は告げる。
「今、野尻さんがまた焼酎《しょうちゅう》を買いにきてくれてたんだけど、尚くんの飛行機の噂知っててさ。
よかったら町内会でも手伝ってくれるって」
「いい話だね」と、顔を綻《ほころ》ばせたのは、風呂場で材木を切っていた慎也である。
「でしょ?」と、馨も微笑む。
「人手だけじゃなくて、材料やお金も少しなら出してもらえそうなの。けど、条件が一つ。来
月の町内の慰安《いあん》会で、パアッと飛んでくれないかって。間に合うよね?」
「……あのな」と、顔を上げた尚顕が、苛立たしげに言った。
「これは、俺の飛行機なんだぞ。クラスの連中巻き込んだだけでもややこしいのに、その上、
町内会のイベントにする気かよ」
「でもさ」と馨は、全く動じる様子もない。
「尚くんは、八月までに意地を果たせたらいいんでしょ?」
尚顕は返す言葉に詰まる。
確かにその通りだったというのも一つ。しかし最大の理由は、違った。
今の尚顕には、馨に言い返すだけの気力と余裕が失《う》せ始めていたのだ。
馨の前で、普通の態度を維持する。
ただそれだけのために、尚顕は今、必死だった。全身全霊を傾けていた。
慎也の言う通りだった。尚顕の気持ち――十六歳になるまでずっと抱きつづけてきた想いは、
慎也が見抜いたように、簡単に割り切れるものではなかった。
しかし、自分が苦しんでいる素振りを微塵《みじん》でも見せるぐらいなら、死んだ方がマシだと考え
るのが尚顕である。
必死で『普通』を装い続けた。そして、その芝居ぶりは、完璧なものだった。
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混沌
『塔』との『会見』が終わった直後のゴビ砂漠。
その場にいたすべての男性、約二百人が巨大な黄金の前に突き刺さった杖へと殺到した。
この様子を記録した映像には、今まで一度も顔を出さなかった愛らしい撮影者、ミリセン
ト・カーファクスが少しだけ登場する。
すでにほぼ全員の男性が杖に挑み玉砕《ぎょくさい》した後たった。少数いた女性たちも一応試してみよ
うとしたようだ。しかし結局、女性代表の一人がやってみることとなり、当然のようにミリセ
ントが選ばれた。
白のパーカーとパンツ姿のミリセントは画面に背中を向けると、10メートルほど離れた場所
――巨大な黄金の前で銀色に輝く杖へと近づいていった。杖の前に立った少女は、緊張の面持《おもも》
ちでそっと杖に触れるが、すぐにびっくりしたように手を離し、くるんと回れ右すると、照れ
くさそうに首を振りながらカメラの方へと戻ってきた。
そこで一旦、映像が途切れ、再びミリセント撮影による映像へと替わる。
画面の中心に立っているのは、長身の白人の男性だった。
茶色の髪、広い額、黒でも茶でもない不思議な色合いの瞳、微かに微笑んでいるかのような
皺《しわ》の刻まれた口元。
四十歳ぐらいだろうか。不思議な――まるで聖職者のような雰囲気を持つ男性だった。
彼の隣にいるのは、誠実そうな顔をした二十歳ぐらいの東洋人の若者だ。
『マクロードさんの番です』と、若者は興奮した口調で告げた(収録された会話は、すべて英
語)。
『きっと選ばれるのは、マクロードさんです』
若者の表情や声には、驚くほどの確信が込められていた。
『オゴディ』と、マクロードと呼ばれた白人男性は言って、彼と比べると小柄なその若者の肩
に手を置いた。
『今は砂漠のガイドなどをしてはいるが、私は元軍人だ。この手で何十人、何百人も殺し傷つ
けている。まともな人間ではない。試すことさえ、塔と、先人類に対する冒涜[#「三水/賣」、第3水準1-87-29]《ぼうとく》だよ』
力強く優しいその声に、『ええ』という言葉が、画面の外――多分、ミリセントの隣――か
ら返ってきた。ミリセントはずっとマクロードを撮っているので、発言者が男性であること以
外わからない。
『確かに中尉は、まともじゃありませんね』と、その声は告げる。
途端、オゴディが噛みつきそうな、今にも飛びかかりそうな凄まじい視線で、声の主の方角
を睨んだ。しかし声の主は、そのオゴディの視線にまるで動じることもなく、続けた。
『まともな人間なら、署名した契約は守るもんです。しかしマクロード中尉、あなたは任務の
遂行《すいこう》よりも、一般人の保護を優先させました。契約に則《のっと》り、敵と戦うのが我々の仕事なのに、
契約を違反してでも非戦闘員を守ることを。お陰で、実入りのいい仕事はなくなり、銃弾にす
らことかくようになってしまった。自分はその後、中尉に説得され部隊を抜けましたが、中尉
たちはアフリカの一部族の用心棒《ようじんぼう》となって残られた。そして、たった一人の部下を助けるため
に、部隊長自らが無謀な単独行動をし、瀕死《ひんし》の重傷を負った。中尉、あなたは最低の指揮官だ
った。しかし、この塔に選ばれる人間に心当たりはないかと問われたら、私もきっと、オゴデ
ィと同じ返事になるでしょう』
『その通りだ』と、オゴディが感動で体を震わせながら、言った。
『二年前、俺はマクロードさんに命を救われた。村を襲い、母や友を殺した十人もの略奪者か
ら、俺たち一族の命を救ってくれたんだ。殺生《せっしょう》を禁ずる仏教に、武器を持ち、仏法を守る
神々がいるのはなぜだ? 平和は綺麗ごとではないからだ。マクロードさんこそが、あの塔の
語った真に平和を愛する者なんだ!』
マクロードは、困ったという表情でカメラの方を見た。
『ミス・ミリセント。なんとかこの二人を説得していただけませんか?』
『いえ』と、初めてミリセントの声が、映像から聞こえた。
『私も、マクロードさんに試してみてほしいです。是非。それに塔は、人類の男性すべてに杖
に触れてほしいと話していましたよね?』
仕方なくマクロードは、銀色に輝く杖へと向かい、歩き始めた。
ミリセントのカメラが、その姿を追いかける。
杖の前に立ったマクロードは、片手を伸ばし、そっとそれを握りしめた。
『ほらね。私は決して、この偉大な塔に選ばれるような人間ではありえ――』
いきなり杖を持つマクロードの腕が、勢いよく高々と上がる。同時に杖の先からなにかが離
れ、カメラの前へと放物線を描いて落ちた。
まるで投擲《とうてき》する寸前の槍投《やりな》げ選手のようなポーズで、マクロードの体が静止する。信じられ
ないという表情で、右手の杖を見つめる。
と、画面が一瞬マクロードから離れ、赤茶けた砂を映し出した。そこに転がっているのは、
仄《ほの》かに輝く小さなガラス状の球体である。画面の端から白い手が伸び、それを拾い上げた。
掌《てのひら》の中で、球体は柔らかく輝きを増し始める。光の色が変わっていく。白から、青へと……。
そしてカメラは、あわてたようにマクロードヘと移動。そこからが、速報で流された映像だ
った。抜いた杖を両手で持ち、愕然《がくぜん》として佇《たたず》むマクロードの姿。
画像が揺れる。ミリセントが走り寄ってゆく。同時にマクロードの背後からも、兎《うさぎ》のように
飛び跳ねて近づくオゴディや、見守っていた他の人々が駆け寄る姿が。
大歓声が上がる中、カメラのこちら側から差し出された掌に載った、青く輝く小さな球体を
――選ばれし者の証をマクロードの震える手が受け取る。
『これは、間違いだ……』
呟くマクロードの顔には、喜びなどかけらもなかった。逆に恐怖すら浮かんでいる。
『なにかの間違いだ』と、再び言った彼は、自分の掌の上でますます輝きを増し始めた選ばれ
し者の証を握りしめ、歩き始めた。巨大な黄金の背後へ。誰も通さないバリアーへと。
止めようとしたのだろうか、軍服姿の男たちがマクロードに駆け寄ろうとしたが、後ろに撥《は》
ね飛ばされる。すでにマクロードの体は、なんの抵抗も受けないまま塔のバリアーの中へと入
り込んでいた。
バリアーの中を少し歩いたところで、マクロードは唐突に立ち止まった。
同時に塔の頂上の球体に、再び光が宿る。
しかしそれはある程度以上強まることはなく、塔自体も黒いままだった。マクロードはただ
驚いたように顔を上げ、鈍く輝く球体をじっと見つめ続けた。
塔とマクロードの間で、なにか会話がなされているようだった。マクロードにのみ、塔の言
葉が聞こえているようだった。
雷《かみなり》にでも撃たれたかのように立ち尽くしたまま、永遠とも思える長い時間――実際は数分
間――が過ぎ去った後、マクロードは砂漠の上へと祈るように膝《ひざ》をついた。
やがてマクロードはゆっくりと立ち上がると、祭壇に向かうことなく踵《きびす》を返した。塔に向か
った時とは違う、堂々とした大きなストライドで、まっすぐにこちらヘ――ビデオを撮影する
ミリセントの方へと歩いてくる。
マクロードの表情がアップになる。そこには、先程のような恐怖も迷いもなかった。
ただ、優しく微笑むような彼の顔には、二筋の涙が光っていた。
オゴディの『なぜ、祭壇に?』との問いに、しばらくして彼は答えた。
『……願いは、私が決めるものではない。これは全人類への遺産なのだから』
これが、後日公開された『選ばれし者』誕生の瞬間の全記録である。
問題とされたのは、どうしてこのビデオの公開が遅れたかだった。
『会見』そしてこの『選ばれし者』の映像は、同じテープに録画されていたからだ。映像の公
開が遅れたことで、世界中に二百人近い死者と、四千人近い重軽傷者が出ていた。
アメリカ側は、ゴビ砂漠から衛星経由で圧縮して送られてきた映像を『解凍』する段階での
技術的問題があった――要するに、会見の映像しか再生できなかったと釈明しているが、こじ
つけにしか聞こえなかった。
映像がアメリカに届けられたのは、会見からわずか数時間後だったらしい。つまりアメリカ
は、カーファクス大統領が『会見』映像を放送した時には、ジョン・マクロードが選ばれし者
となったことも当然、知っていたことになる。アメリカ側は、『会見』でもこの映像でも、時
折、音声が途切れる部分があることをあげ、元のデータの送信が不完全だった証拠だと言い張
っているが、逆に見ればまだアメリカはまだなにかを隠しているのではないかとも疑えた。
選ばれし者の存在が丸一日|秘匿《ひとく》されたのは、特定の国々――アメリカ・中国・モンゴル・ロ
シア――で、彼を『保護(独占)』しようとしたからだというのが、現在、世界の大方のマス
コミの共通認識になりつつある。
主犯格は、ミリセント映像を握っていたアメリカだったようだ。
しかし今回ばかりは、世界を牛耳《ぎゅうじ》っていると自負するアメリカも、ここ半世紀間で最高の
『国粋主義』の大統領と評されるカーファクスも、ごり押しを通すことは不可能だった。
『夢』を見、そして『塔』の下《もと》へと『引っ張られて』いた人々の数は、当初の推定よりは減っ
たが、それでも二十億近いと推定されている。それだけの数の人をごまかし続けることなど、
端《はな》から無理というものだった。
しかも塔と地理的に近い中国・ロシア・モンゴル軍がすでに保護と称して、ジョン・マクロ
ードが『選ばれし者』となった直後に身柄を拘束《こうそく》していた。
カーファクス大統領は、会見以外のミリセント映像を破棄《はき》するという条件で、『選ばれし者』
を国連軍(実質的にはアメリカ軍)で保護しようとしたらしいが、三カ国はこれを拒否。マク
ロードの行方《ゆくえ》は一時期完全に不明となる。そこで焦った大統領が、残りのミリセント映像の解
禁を決断したというのが、ことの真相のようだ。
全世界の非難が、選ばれし者――即ち『願い』を独占しようとした四カ国に集まる中、マク
ロードの身柄は片時も側を離れないオゴディとともに、四カ国以外の国連軍の厳重な監視の下、
インドを経て、ヨーロッパヘと送られた。彼がやっと一所《ひとところ》に――オーストリアの古城へと落
ちつけたのは、塔との会見から二週間も後のことである。
しかしマクロードは、この城から一歩も外に出ることを許されなかった。要するに、体《てい》のい
い軟禁《なんきん》状態にされてしまったわけだ。
マクロードが放浪を続ける間にも、塔と杖とは徹底的な分析を受けていた。
塔のバリアーは、破るどころか分析すら不能だったが、ニュートリノなどの各種放射線や重
力の精緻《せいち》な観測から、カーファクス大統領の会見時の予想は、ほぼ正確だということが追認さ
れた。
塔の地下2キロのところには、強烈な磁場とベーター線の放射源が存在していた。日本のニ
ュートリノ天文台スーパーカミオカンデは異常な量のニュートリノが塔から放出されているこ
とを観測。塔の周囲では、強度の重力異常すら発生していた。
それらが意味するのは、ほとんど小型の太陽に匹敵するほどの、想像を絶する高エネルギー
源の存在である。人類が持ちえた最大のエネルギー『核』――しかし、現有する核兵器のすべ
てのエネルギーを足しても、塔の持つエネルギー量の足元にも及ばなかった。塔の地下に眠る
『力』は、熱量に換算すると地球の30%を蒸発させてしまうほどのとてつもないものだった。
さらに、巨岩が金に変換されていることと、杖と杖の周囲が測定すら不能の硬度を示すこと。
この二点は、塔を生み出した文明が、素粒子構造を自在にコントロールできることを示してい
る――つまり、珪素《けいそ》や鉄を金に変換し、その上、原子の運動すら制御しうるということを証明
していた。
しかも、塔が人々に見せた『夢』。エネルギーをほとんど自由にできない状況下で、塔は当
時、全世界でレム睡眠中だった人間のほとんどすべてに、同じ夢を見せることが可能だった。
また『会見』時、塔は人の心の中の問いかけに答えた。それに塔自身は英語で語ったのだが、
当時、塔の周囲では英語は全くわからない人が大半だった。にもかかわらず、彼らは会見の内
容を完璧に理解していた。塔は英語で語ると同時に、その意味を彼らの脳に直接送り込んでい
たのである。
このことは、塔が簡単に人間の意識とアクセスし、どんな複雑なイメージや言葉でも自在に
与えられることを意味していた。
ある精神科医は、塔は信頼に値すると断言している。なぜなら、その塔の力なら、ほぼすべ
ての人類をたった三晩で洗脳し、世界の支配者になることも可能だったはずだからと。
物質世界だけではなく精神世界まで自在にできる塔。
それはまさに、万能の存在といえた。
人々はあまりの塔の力の強大さに驚き、呆れ、興奮し、そして最後に恐怖した。
どんな願いも叶えてくれる存在が現れた。それは本当に素晴らしい出来事だった。塔の力を
借りれば、彼女が『目覚めた』原因である深刻な環境破壊の他、民族、宗教、貧困、難病など、
様々な難題に直面した人類を、永遠の繁栄《はんえい》に導くこともできるかもしれない。
問題は、その『願い』をするのがたった一人の個人であり、しかもその個人はすでに選ばれ
てしまっているという点だった。
マクロードのみが、不可侵《ふかしん》の見えない壁の中に入り、塔を目覚めさせることができる。そし
て、一旦バリアーの内部に入った彼の意志に干渉するのは、誰にも不可能だろう。
たった一人の男の意思と言葉が、人類すべての運命を握っていることに人々は気づき、やが
て関心は眠りについた塔から、選ばれし者へとシフトした。
もっとも、ジョン・マクロードがその力を全人類のために使うと明言していることは、映像
の公開とともに、わかっていた。そして彼は、現在の自由を束縛された状態の中でも、その最
初の意思を変えなかった。
「私は、人類の代理人だと思っています。あの塔に願うのか、願わないのか。そして、もし願
うならなにを願うか――それは、全人類で決めていただきたい」
彼の意を受ける形で、ニューヨークの国連本部において全世界の首相級の政治家を集めた歴
史的な会議が始まっていた。
先人類の贈り物は、この会議の冒頭、正式に『塔《THE TOWER》』と呼称することに決定する。
だが、すんなりと決まったのは、このどうでもいいような一点だけだった。
会議は以降、もめにもめた。
エゴとエゴとがぶつかり合い、時間ばかりが過ぎてゆく。掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]み合いの喧嘩が起こったのも、
二度や三度ではない。
大国小国入り乱れたその混乱ぶりを見たマスコミは、人類から共通の言葉を奪い、混乱をも
たらした旧約聖書の記述にちなみ、揶揄《やゆ》をこめて会議を、〔混沌《バベル》〕と呼んだ。
無論、混乱しているのは人類の責任である。それにこの塔は会見時、英語圏ではない人々に
も、意志を伝えてくれた。バベルの塔とは全く逆だ。この不吉な名が、塔自身に用いられるこ
とがなかったのは、言うまでもない。
そして、すったもんだの討議を経て、願いのシステムがまず決まる。
だがそれは、ほとんどの人類にとって、不満だらけの不完全なものだった。
永遠の平和はおろか、全世界的な視野で提案された具体的な願いで認められたのは、オゾン
層の再生のみだったのだ。それ以外のエネルギーはすべて、各国が人口数によって、個々に分
け合うことになってしまった。
塔への願いは、莫大なエネルギーが尽きるまで、幾つでも可能だ。それゆえ、人口の多い国
から順に、自国の願いをマクロードに代行してもらうことになった。
しかし、世界にはほぼ二百の国家があり、最初の国にあまりに大きな願いをされると、最後
の国まで回ってこない可能性があった。
また敵対関係にある国家間では、どうしても願いは相手国を陥れるようなものになるおそれ
があった。委員会では、その辺りも判定することに決まるが、この時、多くの小国が連名で委
員会のメンバーを選挙で決めるべきだとの動議がなされた。アメリカを中心とした大国は、こ
れを拒否。以降、国連は会議とは名ばかりの混乱の場と化す。
混乱は国連から全世界へと、瞬く間に広がっていった。対立が対立を呼び、眠っていた利害
関係が復活。世界はまさに混沌《こんとん》に覆い尽くされようとしていた。
[#改ページ]
混沌・2
民田温泉の脱衣場には、約三十人近い人数が集まっていた。
大半が尚顕のクラスの連中だったが、近所の町内会の大人たちも混じっている。
その全員がジュースやコーラの入った紙コップを掲《かか》げ、一斉に歓声を上げた。
「がんばーい!」
彼らが興奮して見つめているのは、ガラス戸の向こう側――男湯の中一杯に、たった今組み
上がった人力飛行機だった。
「おめでとう!」
尚顕を、集まった全員が祝福していた。
今日の主役であるはずの少年は、脱衣所のテレビの下で見事なまでの仏頂面《ぶっちょうづら》である。だが
もう、登校初日のように、その顔を怖がる生徒はない。この一月で、みんなすっかり慣れてし
まっていた。
「……なんて、こうなったんだよ」
尚顕は、隣で乾杯《かんぱい》し合っている馨と裕司に、もう何度目になるかわからない言葉を吐いた。
「ほんとだよね」と、馨が笑う。
「ほんとって――お前だろ? クラスに広めたのも町内会巻き込んだのも」
「まぁまぁ」と、裕司があわてて取りなした。
内気でやせっぽちで小柄だが、計算や機械にやたらと強い少年は、気がつくと設計全体から
操縦《そうじゅう》方法まで関わり始め、いつしかこの人力飛行機計画の、尚顕に次ぐ中心人物――一種、
監督のような役回りになっていた。今では、慎也がいない時の尚顕の宥《なだ》め役という、一番難し
い仕事までこなしつつある。
「大体、機体が重すぎんだ」と、尚顕の愚痴《ぐち》が今度はその裕司に向く。
「その分、安全ですよ」と、裕司は反論した。
完成した機体は、複葉機という形は同じでも、細部は全くといっていいほど、尚顕の作った
模型の原型を留めていなかった。
五メートル上から落ちても、パイロットは無傷なように、裕司によって設計しなおされたの
だ。その分、重くなり、尚顕の負担は増えた。
憮然とした尚顕に、机の上で巨大なマックバーガーの袋を破り、ハンバーガーの山を作って
いる愛が話しかけてきた。
「ほんとに『鳥人間コンテスト』に出ないの?」
途端、周囲から期待を込めた視線が集まったが、
「出ない」と、尚顕は言い切る。
「飛ぶのは明後日《あさって》だけだ」
六月十日。町内会の慰安会の当日。それが、尚顕の意地をかけてのフライト日だった。慎也
の父親が、工務店の軽トラックで、飛行場所まで機体を運んでくれることになっている。
「あ、そうだ」と、愛。パーティ用に買ってきたマックバーガーの袋の底から、山盛りの署名
用紙を取り出し、全員に告げた。
「みんなー。手があいたら、これ書いてねーっ」
尚顕にも「はいこれ」と、一通のはがきが手渡される。
それは、マックバーガーのロゴの入った、署名用紙だった。
マックバーガーの創始者は、家系を逆上っていくとマクロード氏の先祖と縁戚《えんせき》にあたるらし
く、今、全世界のマックバーガーではマクロード氏解放キャンペーンがおこなわれている。
「案外、世界中で明るいのって、ここだけだったりして」と、馨が愛の用紙の一部を受け取り、
町内会の人たちへ配りに向かいながら言った。
馨の言った通り、世界は今、混迷の最中にあった。国連は『バベル会議』を続けており、世
界のあちこちで『願い』を原因としたいざこざが、どんどんエスカレートしている。その一方
で、『選ばれし者』であるはずのマクロード氏は一人、蚊帳《かや》の外。まるで囚人《しゅうじん》のようにオース
トリアの古城に閉じ込められたままだ。
この署名用紙は、そのマクロード氏を古城での軟禁から解放させるためのものだった。始ま
ってまだ数日だったが、すでに億に近い署名が集まっているという。
「あれ……この用紙」
愛から署名用紙を受け取った裕司が、ふと怪訝《けげん》な顔をした。
「どうしたの?」と、愛。
「うん。思い出した。昨日、阪本くんが、ちぎってた紙……」
「阪本か……」
尚顕の脳裏に、数日前のことが甦る。昼食後、数学の専門書を読む啓二のすぐ側で、五、六
人がマクロード氏をどうすれば解放できるかで盛り上がっていたその時だ。
『マクロードは、運がよかっただけだっ!』
いきなりハードカバーを机に叩きつけた啓二は金切り声を上げると、驚きのあまり硬直する
連中を、凄まじい形相で睨みつけた。
『他の誰か――もっとふさわしい人間よりも、ほんの少しだけ早く杖を手にできただけだ!
あいつはどう言い繕おうと、殺人者だぞ? そんな奴が、全人類の代表であっていいわけない
じゃないか!』
尚顕と同じく表情を曇らせる裕司の隣で、愛は小さく吐息した。
「……結局、委員長だけだもんね、一度もここにこなかったの。まぁさ、ああいったエリート
くんがふられるのって、結構キツイんだとは思うよね」
言って、愛は、町内会の人たちと真面目な顔で話している馨を見た。
「どしたの?」と、愛たちの微妙な視線に気づいた馨が、こちらに戻ってくる。
「ううん、別に」
焦った裕司が、あわてて思いつくままを訊した。
「なに深刻な顔して、話してたんですか?」
途端、馨の表情が真顔になった。
「力ーファクス大統領の提案。通ったらいいんだげどねって話してたんだ」
今、アメリカでは、日本の首相を含めた世界の主要な国家元首たち五十人あまりが集い、緊
急首脳会談を開いていた。本来、国連でやるべきことなのだが、今の総会ではまともな会議は
不可能な状況だった。そこまで国連は混乱していた。
その緊急首脳会談において、日本時間の今朝早く、カーファクス大統領は一つの提案をした。
意外な――しかし素晴らしい提案を。
エネルギーのすべてを、各国で割り振ろうとしたのが混乱の元。だったら、そのエネルギー
の一部を、マクロード氏に返せばいいのだと。『選ばれし者』マクロード氏の自由意志に任せ
ればいいのだと……。
「だけど」と、裕司が少し不安げに言った。
「カーファクス大統領の提案だっていうのが、どこか臭くないですか? マクロード氏を独《ひと》り
占《じ》めしようとした人だし。絶対、なにか企んでると思う」
「そんな気はするよね」と、署名用紙を集める愛の表情も曇る。
裕司や愛だけでなく、尚顕を含めたほとんど全員が、同じ危惧《きぐ》を抱いてはいた。
「でもさ、それでもいいんじゃないかな」と、馨が言った。
「このままじゃ、せっかく先人類が残してくれたプレゼントがリセットされちゃうよ。そした
ら私たちの次に生まれる知的生命に権利が持っていかれちゃうんだよ」
「うん。もともとないものだって思えばいいのかもしれないけど、なれないよねぇ今さら」と
愛は笑った。
「ねね、民田くんなら、なに頼む? マクロード氏に。三分の一だって、もの凄いこと、でき
るよね」
「頼まない」
尚顕が即答した途端、男湯に笑いが弾ける。
「民田くんらしいですね」と、裕司。
「うわぁ。最高に夢のない答え」と、愛。
馨が訊ねた。
「じゃ、夢のある答えって?」
「よくぞ聞いてくれました」
愛は意気込んで答えた。
「タワーバードが、一秒でも長く目の前にいてくれますように!」
さらに、どっと大きな笑いが起きた。
「なんで笑うのよぉ!」
「だって」と馨が笑いながら言った。
「そのタワーバードじゃない。願いをマクロード氏に伝えてくれるのって」
「あ……そうだよね」
笑っているみんなの脳裏には、鮮やかな緑色の烏がイメージされていた。
『タワーバード』とは、塔関連で最後に現れた『謎』。杖が抜かれた直後、ウランバートルに
現れた、あの緑色の鳥のことである。
塔に関する大抵の謎は、会見によって解けたのだが、この不思議な鳥に関しては、まだ確実
なことはほとんどわかっていないといっていい。
この鳥が登場した時のことも、ミリセントによる映像が残っている。
塔と選ばれし者出現の衝撃から冷めつつある世界では、彼女の名カメラマンぶりが、今、改
めて評価されつつあった。
テレビの前で、塔との『会見』を疑似体験したのは、尚顕たちばかりではなかった。そして
その『臨場感』をもたらしたのは、ミリセントのプロ顔負けの冷静で的確なカメラワークだっ
たわけだ。一体、天は彼女にどれだけの才能を与えたのだろう。
案外、未来の教科書には、彼女の名前がイギリス王妃である前に、『会見』の撮影者として
載ることになるかもしれない。
ともあれ、ミリセントがタワーバードの出現を偶然収録したのは、マクロードが選ばれた直
後――ビデオテープが切れかける寸前だった。
抜けた杖の跡あたりから、緑色の小さななにかが砂煙を上げて飛び出てきたのだ。
現れたのは、全身エメラルドでできたかのような美しい鳥たった。
外形的に一番近いのは蜂鳥《はち》だったが、翼を広げた大きさは30センチと、最大の蜂鳥よりもか
なり大きい。色とともに特徴的なのは、眉にあたる部分に生えた長い触角――体よりも深い緑
色――のようなものと、首筋から背中にかけての、ちょうど馬のたてがみのような鋸状《のこじょう》の羽
根。そして、どう見ても猫の尻尾のようにしか見えない、しなやかに動く長い尾羽根。さらに
鳥は、ほとんど羽ばたかずに宙に浮かんでいられた。
ロケットのように飛び出した鳥のあまりの素早さにミリセントも一瞬、行方《ゆくえ》を見失うが、い
きなり小鳥の方からカメラのフレームの中へと現れた。じっとこちら――カメラのレンズをし
げしげと見つめる。
その漆黒の目には明らかに知性が感じられた。やがて、きゅっと小首を傾《かし》げるようにしたか
と思うと、残像を残して飛び離れた。素早くレンズが後を追いかけるが、人々の間を飛び交う
速度は途方もなく、気がつくと消えていた。
直後、モンゴルの首都ウランバートルにて、この『鳥』の姿が目撃されることとなる。
だが、この時の映像は残っていない。ビデオやカメラをたまたま持っていた人もいたはずだ
が、その動きが速すぎた。その後、ロングショットでは何度か撮影に成功してはいるのだが、
ミリセントが最初に撮ったものが現在に至るまで唯一無二のアップ映像である。
画像解析から、鳥は『空気力学的』に飛んでいるのではないことがわかっていた。ホバリン
グする際も、高速で飛んでいる時も、ほとんど羽ばたいていない。しかも瞬間的に時速二千キ
ロ近い超音速を出していた。
「でも、松室さんの気持ちもわかりますよ。タワーバードって、見るだけでも本当に難しいみ
たいだし」と、裕司。
「そうよ」と、口を尖《とが》らせて愛が言った。
「コンマ2秒なんだもん。それに、寝てても全然関係ないんでしょ? 寝てる間にしてる願い
なんて、ろくなもんじゃないに決まってるし」
再び笑い声が男湯の中で谺《こだま》した。
謎のタワーバード。しかし一応、その目的は推測されている。
タワーバードは、現在ハルビンからウラジオストクの間らしい。モンゴルからほぼ東に向か
って進みながら、経路にいる人間すべての目の前に現れている。
つまりタワーバードの目的とは、一人一人の『心の中の願い』を調べ、その集計結果を、マ
クロード氏に知らせること――らしい。
時間的に全人類を調べることは不可能だと見られていたが、一人辺り0.2秒のペースだと、マ
クロード氏が塔の祭壇に立つまでに、一億人は調べられるらしい。全人類の六十分の一だが、
統計学的には十分な数だそうだ。
「もうすぐ日本だけどさ。ひょっとしたら、札幌《さっぽろ》か青森《あおもり》の人調べて、アメリカいっちゃうかも
しれないんだよね」と、愛がぼやくように言った。
「うん。でも、南半球の人たちよりずっとマシですよ。今のペースだったら、来年のイベント
までに、北半球一周するのがやっとみたいだし」と、裕司。
「それ言われるとさ」と、愛はきまり悪そうに笑った。
「北半球だって、すっぽかされた中国やインドの人たちなんか、すごく怒ってるもんね。結局、
運を天に任せるしかないか」
「……尚くん、食べてる?」
その時、馨が、ハンバーガーを手にしたまま食べる様子のない尚顕に気づいた。
「ちゃんと食べてくださいね。確かに人力飛行機のパイロットって、減量した方がいいって言
いましたけど、そこまでする必要なかったのに」と、裕司も少し心配そうに言った。
「裕司には感謝してるよ。ちゃんと食ってるし、体調も万全」
言って、尚顕は思い切りハンバーガーにぱくついた。
しかし正直、体調は最悪だった。頭がズキズキと痛い。ここ何日か、ほとんど眠れていない
せいだろう。体も心も疲れ切っているはずなのに、眠くならないのだ。
軽く吐き気もするが、これは無理して食べているためだ。
味が全然しなかった。まるでやわらかい紙――ティッシュやトイレットペーパーを噛[#「口/齒」、第3水準1-15-26]んでい
るようにしか感じなかった。
願い……。
実は、尚顕にも願いがあった。マクロード氏に会いたいと心底、思っていた。タワーバード
の到来も、愛以上に願っていた。マクロード氏に、自分の願いを伝えてもらうために……。
選ばれし者、ジョン・マクロード――
厳格な両親に育てられた彼は、十六歳でオックスフォードに入学するほどの秀才だった。趣
味の射撃でも、天才的な技量の持ち主だったという。
大学を卒業し、世界有数の銀行へと入行した彼は、数年で次期|頭取《とうどり》と目《もく》されるほどの成績を
上げた。彼の前途は洋々たるもののはずだった。
だが、出すぎた杭は打たれる。彼は、あまりに優秀すぎた。マフィアがらみの巨額な不正融
資が司法当局に発覚した際、その責任者として会社側から告発されたのだ。
マクロードは無実だった。だがそれを証明するには裁判しかなく、裁判には多額の費用がか
かる。会社側は、裁判になれば不利と考え、いち早く彼の財産すべてを横領物として差し押さ
えていた。そのため彼は、手っとり早く大金を手にできる、傭兵《ようへい》部隊に入隊したのである。
頭ばかりでなく、体を使うことでも優秀だった彼は、すぐにトップクラスの傭兵となり、世
界各地の紛争地域を転戦した。全世界の地獄を見てきたと言ってもいい。その凄まじい経験は、
ほとんどの場合、人格をすり潰してしまう。ベトナムでも湾岸でも、実証されてきたことだ。
だが極《ごく》まれに、その地獄の中で逆に人格を高める者も存在する。
マクロードは、その希有《けう》な実例の一人だった。
やがて彼は、命令破りの部隊長として悪名を馳《は》せることとなる。とはいえ、この悪名とは雇
う側にとってだった。彼は民間人保護を、敵との戦闘より優先するようになっていく。時には、
結果的に味方を裏切るようなこともしたらしい。彼を雇うのは劣勢で虐《しいた》げられた側が多くなり、
収入はほとんどなく、戦いは負け続きとなっていった。
しかし彼は、もう一つの戦いには、ついに勝利した。イギリス最高裁にあたる国会は、銀行
側の上告を退《しりぞ》け、マクロードの無罪を確定した。だが、銀行から差し押さえられていた財産に
加え莫大な慰謝料を受け取った時、彼は変わっていた。弱者のために戦うことが、いつしか彼
の生き甲斐《がい》となっていた。マクロードは戦争孤児のための財団に、財産のすべてを寄付したの
だ。
彼が作戦中に負傷したのは、その数年後――今から約三年前のことだった。
頭蓋骨《ずがいこつ》を砕《くだ》かれながらも、九死に一生を得た彼を、財団は理事長として迎えると告げた。し
かしマクロードはそれを辞退し、療養を兼ねて単身モンゴルへと渡り、強盗団から命を救った
若者オゴディとともにガイドの仕事を始めたのである。
マクロードは決して、イノセントな――罪なき存在ではない。
マクロードが所属した部隊の傭兵たちは、そのほとんどが傭兵契約の切れた後、ジャーナリ
スト・技術者・教師などとして、社会に復帰。有能な人材として活躍していた。
現在、そんな元部下たちの多くが職や家族やすべてをなげうって、国連軍によって幽閉状態
にあるオーストリアの古城の街へと世界中から集結しつつある。命を賭《と》して氏を守るために。
再び『マクロード氏のために命を懸《か》けられる』ことを喜び、誇りとする彼ら『マクロード部
隊』の存在こそが、マクロード氏の人となりを雄弁《ゆうべん》に物語っていた。
塔の――先人類の選択は、間違ってはいない。
もちろん、啓二のように傭兵という合法的殺人者を許さないという者もいまだにいたが、ほ
とんどの人々は。彼が『選ばれし者』であることを認め、そして喜んでいた。
今、世界の人々が恐れているのは、マクロード氏が塔の前に立つことではない。願いをめぐ
って紛糾《ふんきゅう》する国連が、彼を塔の前に『立たせない』状況が起きうるかもしれないことだった。
尚顕も、この一カ月でマクロード氏に心酔《しんすい》してしまった一人だ。
マクロード氏なら、自分の今の苦しみも理解してくれるだろうと思う。願いを叶《かな》えてくれる
かもしれないと思う。尚顕がマクロード氏に託したい願いには、塔のエネルギーをほとんど使
う必要がないはずだから。
今、尚顕は心身ともギリギリのところにまで、追い詰められていた。
尚顕の体重減(先月から5キロ以上も減)は、別に裕司に言われたからではない。
尚顕の、マクロード氏に託したい願い――
それは自分の馨への気持ちを、来帆に対するものと『同じ』にしてほしいということだ。
たったそれだけのことで、今の地獄のような毎日は天国のように変わってくれるはずだった。
なのに、尚顕自身にはどうしようもなかった……。
「あ、見て見て、塔の街だよ」と、愛が尚顕の頭上を見ながら言った。
味のしないハンバーガーを齧《かじ》りながら、尚顕も愛が指さす方を見る。
脱衣場の古レテレビには、塔の街が映し出されていた。
一月前のミリセントの映像の時のような荒涼《こうりょう》とした砂漠の面影《おもかげ》は消えつつあった。
無数の工作機器が走り回り、建物、道路。そして長大な滑走路《かっそうろ》を生み出していく。
もちろん、機械だけではない。人の数はそれこそ、こんな砂漠のただ中なのに、一体どこか
ら湧いて出たのかと思えるほどだ。
その多くはイスラム教やラマ教などの『巡礼』者たちである。今や『塔』とそれを残してく
れた『先人類』を、『神』とみなす宗教が増えてきていた。
一方で、バチカンだけは、塔の出現時から今日まで『ノーコメント』を続けている。塔が神
に関わるものなのかどうなのか、判断するにはまだ時期|尚早《しょうそう》だというのが、ローマ法王庁の
見解だった。
「塔の街、いきたいなぁ」
そう言った愛に、テレビが無情な答えを与えてくれる。
塔の街へいくのは一般の日本人にとって今のところ不可能に近いこと、治安が現在ひどく乱
れていること。
「もう、ほんとに夢ないよねっ!」
怒って腕組みする愛の横から、長身の少年がやってきた。
「慎也くん、なにしてたの?」
責めるような馨に「ごめん」と答え、慎也は尚顕の前に立った。
「尚顕くん。ちょっときてよ。明後日《あさって》のことで、確認しときたいことがあるんだ」
「なんだ?」
「なによ?」
「いいからちょっと」
しょうがないなという顔をして、尚顕は馨を見た。
「馨、ここ頼むな」
怪訝な様子で慎也を見た馨だったが、渋々うなずく。
慎也は尚顕を従えるようにして、民田家の居間へ入っていった。
居間のテーブルには、慎也のノートパソコンが置かれていた。画面が明るい。
その画像を覗きこんだ尚顕は、首を傾げた。
「インターネット?」
人力飛行機を作るのに、インターネットは本当に役立ってくれていた。しかし、
「もう機体は完成してんだ。今さら、なに調べてたんだ?」
「ドリームカップル」
尚顕はがっくりと肩を落とした。
「……なんなんだよ、お前まで」
『ドリームカップル』とは、タワーバードとともに、最近よく耳にするようになった塔関連の
用語の一つである。
以前からの知り合いではなく、塔の夢の中で初めて出会った二人(三人以上の例はまだ確認
されていない)をさす言葉だ。
塔の夢で出会った人数は推定九千万人に及ぶが、その99%以上が親子・夫婦・恋人・親友な
ど、深い心の繋がりのある相手である。また、別に二人とも限らない。最高十八人で塔の夢を
見た人々もいた。
一方で、ドリームカップルの例は、いまだ全世界で十五件ほどしか確認されていない。日本
ではわずかに三例だけだ。
尚顕、痛恨《つうこん》の大失敗だった。
あの時、山錦の言葉に従って詳細に話してしまったために、すでに学校中の生徒が、尚顕が
『ドリームカップル』の片割れであることを知っていた。人力飛行機なんてものを作っている
『変わり者』という噂とともにだ。
この一週間、毎日その話題でからかわれ続けてきた。やっとクラスの連中も、飽き始めてく
れている今、なんで慎也まで……。
「うん。わかるよ、尚顕くんが正直飽き飽きしてるの。でもさ、やっぱり真面目に考えた方が
いいと思うんだ。もしかして来月、こないかもしれないんだよね?」
「ああ」と、尚顕は憮然と言った。
「喧嘩別れみたいなもんだったし、別に約束したわけでもない。けど慎也、お前、なにしてん
の? 機体作る上に、クラブや馨のワガママにも付き合ってやってんのに」
「うん……。こないかもしれなくても、その人がネット上でなにかアクション起こしてるかも
しれないだろ? 尚顕くんのこと、探してるかも。検索すると、結構いるんだ、『ドリームカ
ップル』の片割れ探してる人。『イタイ』人も多いけども、中にはらしい人もいてさ。尚顕く
んなら、読めばわかると思うんだ。そういうの、集めてみた」
「そんな時間あったら、トレーニングする。もう明後日なんだ」
苛立たしげに言って部屋を出ようとした尚顕の腕を、慎也はあわてて掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]んだ。
「ひょっとして、ひょっとするかもしれないよ」
「ああ。ひょっとして、こないだのニュースみたいなのかもしれないな」
憮然と言った尚顕に、慎也はまずいという顔をして言った。
「……あの、会ってみたら一人はゲイの人だったってやつ?」
「それ。塔の夢だと声でどっちか判断できない。女言葉を話す、コギャル誌持ってる男になん
て、あんまり会いたくない」
「けど、そう決まったわけじゃないよ。それに、たとえ相手が女の子じゃなくても、基本は普
通の塔の夢で出会った相手と同じなんだからさ」
尚顕は首を傾げた。一体、慎也は、なにを言いたいのか……。
「だから、なんだよ?」
慎也は少し困ったような顔になり、尚顕から視線を外した。
「……だから、夢の中で出会えるってことは、基本的にすごく相性いいってことだよね。最近、
僕と話してる時も、なんだか辛そうだしさ」
「おい……」と、尚顕はびっくりしながら言った。
「ばれてた? 俺の、芝居……」
「あたりまえだよ」
慎也は少し怒ったように言った。
「尚顕くん、どんどんやつれてくし、なんだか眠ってないみたトいし、辛いよ。僕」
「お、おいおい。慎也。お前のせいじゃないって」
「うん……。でも、やっぱり原因は、僕だ。だけど、なにしていいかわからなくて。ずっと考
えてて、唯一思いついたの、これだったんだ。あの塔の夢で出会えたんだからさ、絶対、尚顕
くんにぴったりの相手だと思うんだ」
「お前まで、松室みたいなこと、言うなって……」
吐息する尚顕と慎也の耳に、微かな声が届いた。
「慎也くん? どこにいるの。ちょっときてよ」
馨の声たった。二人はあわてる。
「と、とにかくいけよ! いいか、芝居のこと絶対、馨には――」
「わかってる。でも――」
「見る! 見るから、とにかくいけって!」
「うん……」
慎也は、急いで銭湯へ戻っていった。
「ふぅ……」と吐息して、尚顕はパソコンの前に座った。
強烈な虚脱感。必死にしていた芝居も、結局、全部ばれていたわけだ。
仕方なくマウスに手を伸ばす。インターネットのブラウザが起動していて、モニターにはそ
の『お気に入り』の欄が表示されていた。
二十近いホームページがブックマークされている。慎也がネット上で見つけてくれたものだ
ろう。これだけ集めるのは、きっと大変だったはずだ。
「しょうがない……」
尚顕は、やたら重く感じるマウスを動かし、最初のホームページをクリックした。
携帯の伝言板のようだった。二十行あまりの『塔の夢』での体験談が書かれてあった。塔の
夢で、隣になった銀色の球体の誰かさんを探しているという内容だ。
しかしこの二人は、ぶつかったわけではなく、気づくと隣同士たったらしい。食べ物の話を
したようだし多分、違うだろう。
次をクリック。今度のは個人で作ったホームページ。制作者の自己紹介欄たった。男性らし
い。出会った相手とは、やはりぶつかってはいないようだ。それに、相手についてのことも曖《あい》
昧《まい》な表現ばかりで、本当は会っていないようにも感じられた。
次は女性の記述で、尚顕はちょっと目を見張った。そこに『電撃のような衝撃とともに夢の
中にいた』という文章があったからだ。不思議なのだが、尚顕があの夢で感じた――そして今
もなんとなく体に残っている気すらする――『痺れ』感を体験した人は、ほとんどいないよう
なのだ。少なくとも、この一月、尚顕は聞いたこともなかった。
しかし読み進めていくうちに、とても塔の夢を自分で体験したとは思えない、的外《まとはず》れで突飛《とっぴ》
な表現が並び始めた。読み物としては面白かったが……。
次、そして、次。全く『お隣さん』らしき記述には出会えないまま、ラストのアドレスにな
ってしまう。
惰性でクリックしようとした、人さし指が止まる。
そこには『thino』と書かれてあった。
確かthinoは、二十歳ぐらいだ。十六歳の夢の中のお隣さんのはずがない。一瞬、どう
してと思った尚顕だったが、すぐに合点《がてん》がいく。
「……馨がthinoのファンだからな」
微かに胸が痛む。
彼女の歌は、馨に勇気を与え、尚顕に苦しみをもたらした原因でもあった。
しかし、ついでだ。思い切ってクリック。すぐにthinoの文字と、色白で彫りが深い少
し日本人離れした雰囲気の美人が現れる。
thinoの公式ホームページらしい。彼女は肩をいからせ腕組みしていた。意志の強そう
な眉と口元。いたずらっぽさと、知性を感じさせる大きな目。
日記を開いてみる。すぐに今日の日付のついた『大統領はなにを企んでるのか』と、タイト
ルされた文章が現れる。
多分、マクロード氏に対するカーファクス大統領の提案について、書いてあるらしい。ざっ
と流し読みして、パソコンの電源を落としてもいいかと思ったが、以前、馨が見たという『考
古学』という言葉が気になった。その文章だけでも読んでみてもいいかもしれない。
少しためらったのち、尚顕は一番最初の日記を開いた。
『今日からつけます公開日記。最初に一言。日本人のファンを嫌ってるわけじゃないの。嫌い
なのは日本のマスコミだけ。それに『カリスマ』って呼ばれるのもイヤ。だからここで自分の
正体サラすつもり(けどプライバシーは非公開。日本には身内もいるしマスコミの餌食《えじき》にはさ
せられません)。どうかthinoを誤解してるみなさま、これ読んで目ぇ覚ましてください
ませね』
読みながら尚顕は、なんとなく意外に感じた。もっと気取ったというか、世界的アーティス
トっぽい文章を予想していたのだが、結構、普通だ。
次の日記へと視線を移す。
『私の曲の元になってるのはなにかってよく聞かれます。どこかの音楽雑誌にはテキトーなこ
と書いてあるらしいんだけども、まず最初の暴露《ばくろ》いっちゃおう。私の音楽原体験は映画。それ
も黒澤映画であります。いいんだよぉ〈七人の侍〉は音楽だって!』
「〈七人の侍〉かぁ……」
音楽はあんまり記憶にないが、尚顕もその映画は昔、祖父の隣で一緒に観た覚えがあった。
白黒の古い映画だったが、ほんとに面白かった。あれこそ、男の映画だ。
thinoの〈七人の侍〉話は延々と続き、それを読むうちに尚顕の中で微かだった映画の
記憶は鮮明になっていく。テンポがよく、読んでいて気持ちがいい文章だった。懐かしい祖父
の記憶まで甦り始め、いつしか尚顕は、熱心に読み進めていた。
日記に書かれているのは、thinoの意外なぐらい地味で普通な日常だった。勉強や映画
やドラマや本の感想、そしてメールで送られてくる『匿名の悩み相談』に一方的に答える文章。
なんだか年下の女の子に対するものは、明らかに思い入れ方が格別に違っているようだった。
『もし私の妹だったら』というフレーズが印象に残った。
なにか頭にくることがあった日には、攻撃的なのに理知的な文章が並んだ。そういう意味で
は、今までのホームページで一番『お隣さん』的ではあった。
しかし読み進めていくうちに、尚顕は、お隣さんよりもっと似ている人物に気づいた。
姉の来帆だ。
thinoと来帆には、いろんな共通点があった。考えてみたら、来帆とthinoは、よ
く似た年代だろう。イギリスにいるのに、日本で流行っているファッションやテレビ番組など
をほとんどリアルタイムでチェックしているのも、その理由かもしれない。とにかく、彼女が
気に入って日記に記している多くが、やはり来帆もお気に入りだったりするのだ。
『蛸《たこ》だけはイヤッ!』というくだりで、尚顕は久々に本当の笑みを浮かべた。
来帆も蛸が大嫌いで、家族で回転寿司屋へいった時、こう叫んだ。
『蛸だけは、回ってこないでっ!』
なんとなく姉の日記を覗き見しているような奇妙な気分になりつつ、尚顕は次々と日記を読
み進んでいった。
そして、危うく見過ごしかけるほどさりげなく書かれた、その一行と出会った。
『母の影響で、ウチの家族は考古学にちとウルサイのだよ』
尚顕は、ごくりと唾を飲み込んだ。馨の言ったことは、本当だった。
もちろん偶然だろうとは思うのだが、ここには『母』というキーワードの一致まである。ど
ちらの単語も、今までのホームページでは、一度も出会わなかったものだ。
尚顕は、パソコンの画面に顔を近づけ、一層、熱心に日記を読んでいった。
しかしなかなか『家族』や『考古学』に関する話題は出てこない。と、いきなりそれが現れ
た。去年の十月一日。
『プライベートはナシって言ってたけど、もう我慢できない! 電話もメールもできなくなっ
てっけど、ここは見てるよね? いや見ろ! この馬鹿妹! お人好《ひとよ》しにもほどがあるって知
りなさい! 自分を弄《もてあそ》んで傷つけた相手に、なんてそこまで献身《けんしん》してやる? 連絡くれない
と、いやくれるまで、これからずーっとここで怒鳴り続けるからね!』
妹に向かって一方的に書かれた日記――というよりは、メールだった。
どうやらthinoには、妹がいるらしい。その妹は誰か――多分、彼氏――に酷《ひど》い目に遭
わされており、連絡すら取れない状況になってしまっているらしい。
手ひどく怒られている『お人好し妹』のことが、尚顕にはとても人ごととは思えなかった。
まるで来帆から怒鳴られているみたいだった。
彼女の妹は、どんな目に遭わされてしまったのか。thinoとは連絡が取れたのか……。
焦って次のページをクリック。文章が現れるまでのタイムラグの間、尚顕は少し不安たった。
この日までのthinoの日記には、見事なぐらいにプライベートなことには触れられていな
い。ひょっとして二度と出てこないかもしれない。
だがすぐに、その不安は解消された。
『えーっ、たくさんメールがきて……妹についてのね。とても心配してくれたメールが。どう
もありがとう。そしてごめんなさい。その後、どうなったかは、伝える義務というか責任があ
る(一方的に私信に使った私が悪い)だろうから報告しときます。要するに、妹は、大丈夫で
す。連絡、あの後、なんとか取れました。少なくとも、妹はまだ笑える状況にはあります。今
度からは頼りになる人も、妹の近くにいてくれることになったし。とはいえ、私としちゃあま
だ安心はしてませんが。あいつは全く〔自主規制〕だし、妹のお人好しは筋金入りだし……ぁ
ああもう、ほんと疲れる! 姉なんてやめたい!』
この最後を読んだ途端、ついに尚顕は「ブッ!」と噴き出していた。
突然、父の上海《シャンハイ》への転勤が決まった時のことが思い出されたのだ。尚顕が、どうしても日本
から離れたくないと言い張った時の、電話での来帆の言葉!
『わかった! じゃあ一人で生活なさい。飢え死にしたってゴキブリに食われて死んだっても
う姉さん、知らないからねっ! なんでこんな馬鹿なわけわかんない弟持っちゃったんだろ。
もう、姉なんてやめたいっ!』
今や尚顕は、完全に日記にのめり込んでいた。すでに読み始めて二時間近くが過ぎているこ
とにも、ちょくちょく覗きにきている心配そうな慎也にも、全く気づかないほど。
以降の日記には、妹のことがわりとおおっぴらに顔を出すようになった。
たとえば、今年の三月二十九日の日記。
『今日、日本の友達から送ってもらったテレビ番組観てて、愕然としてしまった。私たち姉妹
には、秋田人の遺伝が色濃く出てるんだなぁと。……はぁ。いや別にため息つくところじゃな
いかもしれないけども、ついてしまう。ほんとに私たちって、色白+αなんだ……。秋田遺伝
子がここまで発現してなければ、妹だってあんな奴に目をつけられることもなかったはずだか
ら』
尚顕は、秋田美人を連想した。thinoの妹も、姉似の美人なのに違いない。きっとそれ
で、ヒドイ男に目をつけられたのだろう。
いつしか日記の日付は、今年の五月となり、再び尚顕の視線を釘付けにする日記が現れた。
『日本には二度と帰らないんですかという質問がたくさんくるんですけどね。うん。帰る気、
あるよもちろん。今はなりゆきでやらざるを得なくなった欧州ツアーのことて頭一杯だけども。
その後、ちょっと考えてみるつもり。これ結構マジです』
「馨が言ってたの、これか……」
確かにこの文面を読めば、thinoが欧州ツアー後、日本に帰ってくるという解釈は十分、
可能だった。
尚顕は、自分が少し緊張し始めているのがわかった。
もうすぐ日記は、五月七日――つまり『塔の夢』の当日だ。一体、どんなことが日記に記さ
れているのか……。
慎重に、先を読み進める。しかし、呆気なく期待は外れた。
なんと、五月四日の後は、九日に飛んでいた。九日の日記には、マクロード氏を巡る騒動へ
の批判が延々と綴《つづ》られ――殊《こと》にカーファクス大統領への悪口は凄かった――夢の件に関しては、
全く触れられずじまい。
急いで今日書かれた最後の日記まで読んでみたが、結局『夢』に関しては、一言の言及もな
かった。
もう一度、塔の夢前後の日記に戻ってみたが、やはり見逃してはいないようだ。
マウスから手を放した尚顕は、大きく伸びをして、固まった体をほぐした。
要するに、thinoは塔の夢は見てないってこと――つまり、お隣さんはthinoでは
ないということだ。
ほっとしていたが、その中には少なからぬがっかりもあり、尚顕は驚いていた。
日記を読むまでのthinoには、会いたいどころか、曲を聞くのも嫌だったというのに。
もう読むところもないようだった。なんとなく名残《なごり》惜《お》しさを感じながら、パソコンの電源を
落とそうとした尚顕の目に、ふとアルバム発売直前の日記の部分が留まった。さっき見逃した
記述に気づく。
『今度のアルバムでは少し冒険もしてます。特に一曲目かな。これはね、ぶっちゃけると、馬
鹿妹へのエールのつもりで書いたの。だから見てるよね? 妹よ。絶対これ、聴きなさい!』
尚顕は、ネットとの接続を切り、パソコンの電源を落とした。
「妹へのエール……」
それが結果的に馨へのエールとなってしまったわけだけれど。
「馨」
男湯ヘいくと、もうクラスメイトの姿はなかった。
一人、脱衣場を掃除してくれていた馨が、あれっ? という顔で尚顕を迎える。
「もう寝たんじゃなかったの?」
「うん……」と、生返事して、尚顕は続けた。
「ちょっと頼み、ある」
「頼み?」
尚顕は、彼らしくなく、おずおずと言った。
「あの、さ。貸してほしいんだ」
「なにを?」
「……thinoの、アルバム」
馨は、まるでタワーバードにでも出くわしたかのような顔になった。
thinoのファーストアルバム『THTIN』を借りた尚顕は、二階の自分の部屋へと入る
と、ゴミや服の山の中から、姉のお下がりのCDラジカセを掘り出した。
恐る恐る電源を入れ、CDをかける。
約一年ぶりに動かしたラジカセだった。壊れてるのかと思ったその時、スピーカーから明る
い前奏が聞こえてきた。
ベッドに寝ころびながら、尚顕は馨が勇気づけられた曲を初めてまともに聞いた。
明るい曲だった。楽しい曲だった。心が浮き立つような、嬉しくなるような歌だった。しか
し、そのサビの詞とメロディーが始まった時、尚顕の全身が感動で震える。間奏にかかる頃、
尚顕の目には微かに涙が浮かんでいた。
アルバムの三曲目。彼女のイギリスでの再デビュー曲の日本語版が流れる部屋の中へ、馨が
入ってきた。
「尚くん、一応掃除しといた。私も帰るけど……」
しかし尚顕を見た馨は、言葉を止め、クスッと笑いラジカセの電源を切ると、部屋の電灯を
消し、再び出ていった――ベッドの上で、数週間ぶりに爆睡《ばくすい》している尚顕を残して。
二日後がやってきた。
風は少し強いが、天気は良好。百人近い人々が集う緑の丘のてっぺんへと、下から風が吹き
上げてくる。
飛行には絶好の向かい風の中、純白の二枚の翼を持つ機体は、丘の上で組み上げられ、その
時を静かに待っていた。
尾翼には小さく、五十以上の名前が寄せ書きされていた。そして主翼にはは大きく『男の意
地』の文字。
「いよいよだね」と、告げる馨の隣で、尚顕は感慨無量《かんがいむりょう》の気分で、周囲を見回していた。
笑っているクラスメイトたち、ビール缶片手にすでに宴会《えんかい》気分の野尻さん他、近所のおじさ
んおばさん、小学校の子供たち。
そしてここは、夢で何十回も見た場所だった。
幼稚園の遠足でやってきた、キャンプ場。多少、遠景や草木の様子は変わっていたが、間違
いなく同じ場所だった。
ただ、あの尚顕が落ちた崖はなくなっていた。ひょっとしたら、尚顕の事故が原因で、埋め
られたのかもしれない。
それだけが少し残念だったが、尚顕以外は、逆にほっとしていた。
「どう? 体調」と、馨。
「絶好調」と尚顕は言って、ゴーグルをつけ、寺沢工務店のヘルメットを被る。
今日の言葉は、本当だった。ネットを覗いたあの日から、毎晩ぐっすり眠れるようになって
いる(もっとも、thinoのアルバムを寝る時にかけるという条件つきだったが)。
尚顕が機体の中へと入り、サドルに座ると同時に、一斉にこの『男の意地』を作ってきた
人々の中から、歓声が上がる。ほとんどクラス全員が、今日この場に集まっていた。いないの
は、どうしても用事があってこられなかった三人と、啓二だけである。
「じゃ、頼むな」
翼を支えてくれている慎也と、陸上部の男子に声をかけ、尚顕はペダルを踏みしめた。
二枚翼のプロペラがゆっくりと、そして次第に加速をつけて回りだす。翼の押さえ役の二人
が、一緒に走りだす。
加速がつく。どんどん、まるであの夢のように気色が流れだす。
「もういい!」と、尚顕は翼を支えてくれていた慎也たちに告げた。
限界に達していた二人が、草原の中に転ぶのを視界の端で見ながら、尚顕はさらにペダルを
漕《こ》ぐ力を強めた。
「まだかよ、裕司……」と言った途端、尚顕の胸で携帯が鳴った。丘の中腹、真横から機体の
速度を計測してくれている裕司からの、機首上げのサイン!
「いくぞっ!」
尚顕は、訓練した通り、一気にではなく、ゆっくりと操縦桿《そうじゅうかん》を引き揚げる。
手応えがあった。風を翼ががっちりと掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]む感触。だがこの時、ヘルメットから少しはみ出し
た前髪がいきなり真横に振られた。そして――
バキッ!
破滅の音がした。
衝撃。天地が目まぐるしく入れ代わり、気がつくと尚顕は、真っ青な空を見上げていた。
視線を横に向けると、男の意地が横倒しになっていた。その翼は、見事なぐらい真っ二つに
折れている。
「飛べなかったかぁ……」と、吐息とともに呟いた。
離陸直前に横風さえ吹かなければ、多分、離陸できていた。
手伝ってくれたクラスの連中に対し、悪いと思う。
しかし――なのに、不思議なぐらい、後悔がなかった。
やれるだけのことはやったからだろうか?
多分、そうだ。これでよかった。男の意地は折れてしまったけれど、しかし、きっと通して
はいけない『意地』もあるのだと思う。
「だ、大丈夫っ!?」
駆けつけた慎也の手を借りて起き上がった尚顕は、親友に告げた。
「慎也、お前だったら飛べたと思うな」
「え? そんなわけないよ。それより、体は?」
「大丈夫」
尚顕は、少し遅れて全力で丘を駆け下りてくる馨に「転ぶなよっ!」と怒鳴りながら、演技
でない本当の笑みを浮かべた。
夜。帰ってきた尚顕は、玄関に入らず小さな庭へと出た。
庭木の他には、大きな物置が一つあるだけだ。
尚顕は、その物置をガタピシいわせながら開けると、手さぐりで壁のスイッチを入れた。裸
電球が土間の上の、埃《ほこり》を被った黒い物体を照らし出す。
それは、尚顕の机の上に載っているバイクの模型と全く同じ姿形をしていた。
スズキ volty・type I ――祖父の形身のバイクだ。
「待たせたな、じいちゃん」
言って尚顕は、その丸っこいタンクにそっと手を載せた。
この日、カーファクス大統領の提案は、国連総会で議決された。
マクロード氏は、軟禁状態から解放されたのだ。
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フェスティバル・イブ
昨日から続く雨が、路面を濡らしていた。
しかし傘《かさ》をさし、街をゆく人々の顔からは、この天気にもかかわらず輝くような明るさと興
奮が感じられる。
高校に一番近い駅前。そのロータリーに面したマックバーガーの窓際の二階席に、制服を着
た尚顕と馨の姿があった。
傘の花が開いた眼下の街と同様に、マックの中の雰囲気も明るい。二人の周囲では、笑いと
会話が途切れなく続いている。
「でもよかった。尚くん、体調が完全に戻ったみたいで。一時ヤバかったよね」
馨は言って、豪快《ごうかい》にハンバーガーをぱくついている尚顕に、満足そうな笑みを向けた。
「だから、言ったろ? 俺は集団でなにかやるのに向かないって」
「そりゃそうだろうけどさ、そのストレスだけ? なんか隠されてるって気がするんだけど。
尚くんと、慎也くんに」
ぶすっとそう言った馨だったが、すぐに笑みに変わる。
「まぁいいか! 尚くんも元に戻ったし、世界はむちゃくちゃ明るいし、マクロード氏も明日、
来日だし!」
今、東京が――いや日本全体が活気づいている原因が、このマクロード氏の初来日だった。
約一月前、大混乱の末、国連は結局、カーファクス大統領の提案を受け入れた。
正式決定されたことは、大きく分けて以下の二つ。
まず塔の総エネルギーの三分の二は、世界各国がその人口に合わせて分割し、各国で願いを
決定。ただし願いの数は二つ以上とし、内容は選定委員会によって検閲《けんえつ》、公開される。マクロ
ード氏は、その願いの中から、どれか一つを選ぶことになった。
そして、カーファクス大統領の提案通り、残る三分の一のエネルギーは、選ばれし者である
マクロード氏自身が自由な意志で使うことができることとなった。
これらの決定を政治家たちに下させたのは、世界世論――各国個別の権力者たちの『願い』
は逆に世界を破滅させかねないという、人々の危機感だった。
一方、権力者側にも、カーファクスの提案は、そう悪いものでもないととらえられた。
マクロード氏も結局は『人の子』だと、彼らは考えたのだ。各国別の『願い』は、完全公開
が義務づけられていたし、選定委員会による厳正な審査も受けなければならない。しかしマク
ロード氏にとりいることができれば、彼らは他の国(人)には秘密|裏《り》に、国家レベルから個人
レベルまでの願いを叶えてもらうことが可能かもしれないと。
結果、権力者と庶民の意思は、表面上一致した。
こうして八月十五日。塔が告げた期限――会見よりちょうど百日後に選ばれし者、ジョン・
マクロードは塔の前に、祭壇の上に立つこととなった。
人類史上最大、そして最高のイベントの開催が、やっとのことで決定されたのだ。
世界中が、この大ニュースにわきたった。そしてまさにその瞬間から、一時は囚人扱いだっ
たマクロード氏は、世界一――人類史上最高のVIPと変貌《へんぼう》した。
決定があった次の日。マクロード氏の姿は、半月近く軟禁されていたオーストリアの古城を
離れ、ワシントンD.C.にあった。
アメリカで彼を待っていたのは、国を挙《あ》げての凄まじいばかりの歓迎だった。ディズニーワ
ールドが貸し切られ、ハリウッド、ポップス、ロック、そのすべてのトップスターたちが彼の
ためにステージに立ち、彼の名を刻みつけたモニュメント衛星(地球軌道上を、半永遠的に周
回する)までもが打ち上げられた。
アメリカのこの抜け駆けを、他国が黙って見ているわけがない。すぐにアメリカ訪問は南北
アメリカ諸国歴訪に変わり、気がつくと彼のスケジュールは分刻みのものとなっていた。
アメリカからマクロード氏はヨーロッパへと渡り、インド、中国、ロシアと歴訪。そしてよ
うやく明日、日本訪問。
なにやら目論《もくろ》んでいる日本の政治家にとっても、純粋にマクロード氏を見たい、歓迎したい
と願う大多数の日本人にとっても、待望の初来日だった。
ニコニコした馨は、さらに続けた。
「それに、人力飛行機研究会も会員三十人超えたから、部になれそうだし」
コーラを飲んでいた尚顕が、一瞬むせそうなった。
「マジ? できてまだ二週間もたってないだろ?」
「十日目です」と言う声は、馨のものではない。
裕司と愛が、トレイを抱えて二人の方へとやってきていた。
「デート?」と、馨が笑いかける。
「ち、違いますよ!」と、あわてて裕司が否定した。
「図書館で調べ物してたら、帰り時間が一緒になっただけです。僕ら電車通学組だし」
「一応、そういうこと」
「一応?」と、裕司が首を傾げる。
「それより、二人はなにしてんの?」
「えーと」と、馨は言って、ちらっと尚顕を見た。
尚顕はジロッと馨を睨みながら「慎也と待ち合わせだ」と答えた。
なんだか怪しいという顔をする愛とは対照的に、
「あ、今日うちのバスケ部、対校試合にいってたんでしたっけ」
素直に信じた裕司は、二人と同じテーブルにかけながら、尚顕に言った。
「けど、やっぱり変ですよ。民田くんが会長やって当然なのに」
「俺は忙しいんだ」
「だよね」と、愛が呆れたように言った。
「いつの間にかバイクの免許取っちゃってて、夏休み、北海道一周ツーリングだもん。もーび
っくら!」
「じいちゃんとの約束だったからな」
「約束?」
「ああ。じいちゃん、七十五歳のうちに、バイクで北海道一周するつもりだったんだ。けど、
買ったバイクの慣らしが終わった直後に、病気で倒れた」
「うん……」と、馨が少し悲しげに微笑む。
「でもさ。ほんと、すごいおじいちゃんだったよね。若くてかっこよくて」
「まぁな。結構好き勝手やってきたじいちゃんだったけど、やっぱ、バイクのことは、心残り
だと思うんだ。免許取れる年になったら、自分の代わりにあのバイクで北海道へいってくれっ
てのが、俺への遺言《ゆいごん》だったし」
「なるほどぉ」と、愛は腕組みして、言った。
「今度は、じいちゃんの意地ってことね?」
馨が、ぷっと噴き出す。
「ほんとだ!」
「あの、民田くん。じゃあ、そのお祖父さんの意地を果たしたら、研究会に戻ってきません?
三年生も入ってきたし、僕じゃとてもまとめきれそうもなくて……」
泣きそうな裕司に、尚顕が憮然と告げる。
「ばーか。俺なんかが会長やったら、もっとまとまるもんか」
「それは言える。ほんとに民田くんって、協調性ないもんね」と愛が言って、裕司の前に座っ
た。
「大丈夫よ。この私が、放送部やめて研究会一本にしたげるから」
「ほんと?」
「今日は、それを放送部の部長に言ってきたの。ま、乗りかかった船っつーか、飛行機だもん
ね。女子アナになるには、放送部って限ったもんでもないしさ」
「助かります、ほんとに助かります」
「うんうん。ま、任してっ!」
「でもさ」と、二人を見、笑いながら馨は尚顕に言った。
「今度の飛行機作りで、尚くん、変わったよね」
「そうか?」
「うん。愛は協調性ないって言ったけど、今の尚くん、小学校や中学校の頃とは別人みたい」
「これで?」と、とても信じられないといった顔をした愛が、会話に割り込んでくる。
「ほんとだって。尚くんが話す相手って、私か慎也くんしかいなかったんだから。クラスで浮
いてるのが普通だったのに、それが今じゃほとんどみんなと、平気で友達付き合いしてるし。
ちょっと――ううん、大分、大人になった気がするな、この二ヵ月で」
「ヘーえ」と感心する愛だったが、ふと、考え込むような顔つきになる。
「あ、でも、今クラスに、そんな昔の民田くんみたいな人いるよね。約一名……」
「阪本くん? 心配ですね。もう、一週間になるし」と、裕司は、俯く。
うなずく尚顕と馨の顔にも影がさした。
確かに今、啓二は、かつての尚顕のように、クラスで完全に浮いた存在になっていた。勉強
にも集中できない様子で、ずっと携帯でメールをやっているという状況がしばらく続いた後、
学校にこなくなった。それが先週の木曜だから、もう一週間以上になる。
「けどさ、馨のせいじゃないよ」
考え込む馨の様子に気づいた愛か、あわてて言った。
「好きじゃない人と付き合うなんて絶対できないし。それに馨には、寺沢くんって人がいたん
だしさ」
「そういうこと」と、尚顕も言った。
「馨が責任感じることなんてない。あいつの問題だ」
この時、馨の携帯が発売されたばかりのthinoの新曲を鳴らし始めた。
彼女の曲を聴いても、尚顕の胸はもう痛まなかった。しかし痛みはしないが、鼓動《こどう》の方は少
し速まったかもしれない。
電話に出た途端、暗かった馨の顔が、満面の笑みになる。それだけで相手が誰だかわかった。
「勝ったって」と、通話を切りながら馨が報告する。
案の定、電話は対校試合を終えた慎也からのものだった。
「もうすぐ駅だってさ」
全員の目が、自然と窓の外へと向かう。
と、馨が通りにあるものを見つけ、眉をひそめた。
「でも、正直、ちょっと違和感ある状況だよね、これ」
交差点の辺りに、巨大な装甲車が止まっていた。その前には、小銃を背にしたアメリカ軍の
海兵隊員たちが数名、談笑中だ。
「都心部の警戒は、もっと凄いみたいですよ」と、裕司が言った。
「うん、私もニュースで見た。自衛隊と米軍だらけで、まるで戦争映画。まぁ、仕方ないんだ
けどさ」と、愛は言ってコーラを飲む。
すべては、マクロード氏の警備のためだった。
マクロード氏に、たとえ擦り傷一つつけただけでも、その国は全世界から激しい非難を浴び
せかけられることにもなりかねないからだ。現に今、ロシアは実際には傷つけたわけでもない
のに、世界中からバッシングを受けている。
警備上の理由から、明日の土曜は都内の文化・遊戯施設のほとんどが休業。ディズニーラン
ドも休園だが、文句を言う声は、全くといっていいほど上がってこない。
マスコミも、政府のこの方針に全面協力。連日なるべく『外出を控えましょう』キャンペー
ンを張っていたが、明日、羽田《はねだ》から迎賓館《げいひんかん》までの間には、マクロード氏を一目見ようとする百
万人規模の人出が予想されていた。
「日本の願いって、都市圏の環境浄化となんだったっけ?」
愛の質問に、馨が答えた。
「結局、複数提案はやめたのよね。それで割り当てエネルギー枠《わく》一杯だし、他のは近隣諸国が
反対だったし。政府は、マクロード氏になんとかとりいって密かに出生率のアップとか狙って
るらしいけど」
「問題は総理大臣かな。元気でちゃんとした意見を持ってるのはいいんですけど、来日でちょ
っと張り切りすぎてるし。暴走しなきゃいいですけどね」と、心配そうに裕司。
「マクロード氏が、変な願い受けるかよ」
尚顕が憮然と言った。
「大体、総理が暴走し始めたら、オゴディが総理を蹴り出す」
「ほんと。オゴディさんなら、やりそうよね!」
マクロード氏は今、有形無形、ありとあらゆるタイプの『接待』攻撃にさらされていた。世
界の権力者たちが裏から表から彼に贈った物品は、すでに大型タンカーに積み切れないほどの
量に達しているという噂だ。
とはいえ、マクロード氏自身はなに一つ受け取ってはいない。
それらを受け取り、管理しているのは、今や彼の右腕とも言えるモンゴルの若者、オゴディ
だった。
本の首相など足元にも及ばない有名人となっているオゴディは、多くのモンゴル人同
様、仏教に詳しい。
マクロードを〔仏〕、自分をその〔守護神〕と定義した彼は、こう言い切った。
『俺は、その役目を、塔から受けたのだ』
大平原で自然相手に生きてきた彼の精悍《せいかん》な風貌《ふうぼう》、そしていかなる時も側を離れない忠実な態
度は、そういうこともあるかもしれないと、人々に信じさせるに十分だった。
『俺は、貰えるものはすべて貰う。しかし、俺の命を含めたすべてがマクロード様を守るため
にあることは忘れないでいただきたい』
そんなわけで、マクロード氏への贈り物はすべてオゴディに流れているのである。そしてそ
の物品を換金した資金は『マクロード部隊』――オーストリアの城に軟禁状態になっていた時、
全世界から集まった元部下たちが作ったマクロード氏の護衛部隊のために使われていた。
世論は、選ばれし者を守る最強の楯《たて》としてオゴディを見、その無私《むし》の行動に喝采《かっさい》していた。
人々は、権力闘争と金儲けに明け暮れる政治家たちより、朴訥《ぼくとつ》なオゴディの方を何倍も信頼し
ていたし、好感を持っていた。
「あ、きたきた」
馨が心底嬉しそうな笑顔で、窓の外に向かって手を上げる。
それから一分もたたないうちに、慎也が二人の許《もと》へとやってきた。
「これ……なんの会になってるの?」と、慎也は四人の顔ぶれを見て、首を傾げた。
「まぁまぁ」と馨があわてたように言いながら、空《あ》いている隣のテーブルに自分が移動。その
隣に、慎也を座らせる。
「ところでさ」と、愛が言って、突然、尚顕ににんまりと笑いかけた。
「……なんだよ?」
なぜかこの瞬間、尚顕に悪寒《おかん》が走った。
「マクロード氏来日でみんな忘れてるみたいだけど、七夕でもあるんだよね、明日は」
「あ、そうか」と、裕司が声を上げた。
「この大騒ぎですっかり忘れてた。明日なんですね、民田くんの七夕デート」
尚顕の悪い予感は、的中してしまった。
頭を抱える尚顕を、慎也が、あーあという顔で見、馨がクスクス笑って言った。
「やっぱり隠し通せなかったね」
「……」
そして馨は、怪訝《けげん》な顔つきをする愛と裕司に打ち明けた。
「これ、それが今日一日、学校でばれなかったお祝いだったの」
尚顕以外、全員の笑い声が弾けた。
二週間前。オーストラリアの男性と、スウェーデンの女性のドリームカップルが超遠距離恋
愛を実らせ、ゴールインするというニュースが流れた時、ドリームカップル熱は最高潮に達し
た。
国連はこのドリームカップルを祝福し、きたる八月十五日、塔の街へ招待すると発表した。
尚顕にとって、最悪の日々だった。すでに噂を嗅《か》ぎつけ、いくつかのテレビ局や雑誌が、尚
顕を追いかけ始めていた。必死にそれを断り、逃げ回る日々が一週間近く続いたのだ。
しかし一週間前、そのカップルが実は塔の夢で出会ったのではなく、単なる『メル友』であ
ったことが、女性の友人から暴露《ばくろ》されてしまった。
お陰で、ドリームカップル熱は一気に冷め、今日に至っている。
愛たちも、そんな世間と同じだと思っていたのだが……。
「そんなわけないでしょ? 民田くんたちは、間違いなく本物だもん。でもホント、誰がくる
んだろうね?」
興味|津々《しんしん》の様子で、愛が尚顕に訊ねる。
「こないって。喧嘩別れみたいなもんだったし、その上、返事する前に消えたんだ」
勘弁してくれという顔で、尚顕が残ったポテトを口の中に放り込んだ。
「でもさ、確認にはいくんだよね?」
「……なんでそんなにみんなして、会わせたがるんだよ?」
「でもこれって、すごいことだよ」
「慎也……」
恨めしそうな尚顕の視線から、慎也は目をそらせながら、
「だって現在確認されてるドリームカップルって、尚顕くんたち入れても二十二組だよ? 塔
の夢を見た十三億人のうちの、たった四十四人なんだ。すごい確率で、出会ったんだしさ」
「でも、正直なとこ、お隣さんがthinoの確率、少しはあると思ってる?」
と聞いたのは、馨である。
「全然」と、尚顕はぶすっと答えた。
「何回言わせんだよ。年が違うだろ? thinoは二十一歳。あいつは自分で、十六歳って
言ったんだ」
「あら、年ごまかすのって、芸能界の常識よ」と、愛が諭《さと》すように言った。
「でもさ、もしその年齢が本当だったらさ……」
慎也が、少し真面目な顔になって言った。
「僕、もう一人、候補者見つけた気がするんだ」
途端、驚きの視線が、慎也に集まる。
「うそ!」「ほんとなの? 慎也くん!」
愛と馨が、身を乗り出すようにして、慎也に訊ねる。
「あの、でも、確率的にはthinoより少し上がるってぐらいなんだけど」
「いいから言ってってば」「もったいぶらずにっ!」
慎也はうなずき、尚顕に向かって告げた。
「thinoの……妹」
途端、馨と尚顕の顔に納得と驚きの色が浮かんだ。
「だよね、お母さんが考古学に詳しいんだったら、thinoの妹でもいいんだ……」
「けどthinoの妹って、あれだよな。とんでもない男にヒドイ目に遭わされてる……」
「よく覚えてるね」
「あの日記読んだ奴なら、誰だってそうだろ?」
怒ったように言う尚顕を見て、馨が『あれっ?』という顔をした。
「尚くん、ひょっとして、いく気、湧いてきたんじゃない?」
「ば、ばーか!」と、尚顕は焦って怒鳴る。
「いかないって言ってるだろ!」
言い切ったものの、その顔が赤い。馨と愛がクスクス笑った。
「あ、あのさ」と、慎也が困ったように言った。
「要するに、確率が少し上がるってことだけだしさ。thinoの妹が、何歳なのかもわから
ないわけだし。日記読む限り、僕らよりは年上って気はするしさ」
「みろ!」
馨と愛を睨みつけて、尚顕は残ったコーラを一気に飲んだ。
「まぁ、慎也くんの言う通り、かな」と、少しつまらなそうに馨はポテトを摘《つま》む。
「そういえばthino、タワーバードに会ったんだって?」
気を取り直したように、愛が訊ねた。
「うん、昨日のホームページの日記に書いてあったよ」
尚顕も、そう答えた慎也から聞いていた。
タワーバードは壁抜けか瞬間移動(あるいは両方)が可能らしく、よく飛行機の中にも出現
する。たまたま昨日、thinoが乗り込んでいた日本行き旅客機にもタワーバードが現れた
らしい。
「thinoっていったら、昨日のあれも凄かった。あのボディガード」
「見た見た、尚くんは?」
尚顕は、昨日のニュースを思い出しながら、答えた。
「……thinoより目立ってたな。あいつただ者じゃない」
thinoの帰国は、日本のワイドショーにとっては、マクロード氏の初来日に匹敵するぐ
らいの大ニュースである。
当然、空港には各局のリポーターやテレビカメラがわんさか。現れたthinoから一言で
もコメントを得ようと、手ぐすねひいて待ち構えていた。
そこへthinoが登場。あまり警戒していなかったらしく、飛んで火に入る夏の虫状態。
殺到するリポーターとカメラの群れ。と、その両者の間に、一人の男が割り込んだ。2メート
ル近い長身、しかも凄いハンサムというやたら目立つその男は、thinoへと向かってくる
リポーターたちを、見事な身のこなしでまるで子供のようにあしらい、彼らのど真ん中を突っ
切って、おっという間に彼女とともに姿を消していたのだ。
「thino、明日のマクロード氏の歓迎式典で歌うと思う?」
「そりゃ歌うわよ。他に誰がいるのよ」
女の子二人が盛り上がる中、裕司がみんなに聞いた。
「ところで、真剣な話ですけど、誰か明日、マクロード氏見にいきます?」
「いくいく、絶対!」と答えたのは、愛である。
「うん。どうせ私と慎也くん、渋谷にはいくつもりだったし」と馨が、恐ろしい顔で睨む尚顕
を無視して、答えた。
「マクロード氏が日本に着くの、三時頃だっけ。どこにいけば一番見やすいのかな?」
「テレビ」と、尚顕は正直な感想を言ったが、
「あのね」と、馨に睨まれ黙った。
「……その、羽田から迎賓館に向かうんだから、銀座《ぎんざ》でも皇居《こうきょ》前でもいいと思うけど、ほんと
にいく気?」と、慎也が馨に言う。
「いく。断固として。せっかく東京に住んでるんだから、出迎えるのが都民の義務」
「それに!」と、身を乗り出すようにして言ったのは、愛である。
「タワーバード、今もう栃木《とちぎ》まできてるんだし。噂、聞いてるでしょ? タワーバードが一人
にかける時間、ドンドン短くなってて、今じゃ0.1秒。マクロード氏の来日に、タワーバードが
東京到着を合わせてるのかもって。タワーバードは明日、マクロード氏に『結果報告』するの
かもしれないって。だとしたら、明日がラストチャンスなのかもしれないんだよ? タワーバ
ード見ることができるの」
「偶然だと思うけど」と、慎也が苦笑した。
「いくら塔やタワーバードでも、人間が勝手に決めてるマクロード氏の日程まで、読めないと
思うよ」
「あのさ、岩を金に変える相手よ?」
「だけどテレビじゃ、明日は家にいろって言ってるしね」
「もう……ほんとに慎也くんって」
呆れた馨たちの視線を浴び、赤くなった慎也は「ごめん」と謝った。
明日三時、銀座の和光《わこう》の時計台下で待ち合わせすることを決め、駅に向かう愛と裕司と別れ
た尚顕たち三人は、雨の中、家路《いえじ》についた。
途中の慎也の家に寄るため、近道の商店街に入った途端、馨が「あっ」と小さく声を上げて、
電気屋の店先で立ち止まった。
尚顕たちが見ると、そこには塔の街が映し出されていた。
現在、バリアーで守られている塔の麓より外側の円周部には、二ヵ月前の茫漠《ぼうばく》とした砂漠の
面影《おもかげ》はまるでない。
国連は、まず二本の滑走路を突貫工事で作り上げた。ついで設けられたのが、バリアー沿い
に徐々にでき始めた穴や地割れから、人々を守る高いフェンスである。
そのフェンス沿いに、魔法のように街が生まれた。
今や、三万人の国連軍が駐屯《ちゅうとん》するこの街には、各国の出先機関が軒《のき》を並べ、次官級の外交
官が居を構えている。彼ら以上に数が多いのは、報道関係者だ。塔の麓からのニュースがテレ
ビに流れない日は一日もなかった。
イスラム教を始めとして、ありとあらゆる宗教の支部もまた顔を揃え、建物の規模と造作《ぞうさ》を
競っていた。
今や先人類は、多くの宗教で『神』あるいは『天使』とみなされていた。塔とは、その神の、
彼ら信者への恩寵《おんちょう》なのである。この街に教会(支部)を作るのは、当然だった。
ただ問題は、どの宗教も、己の神が塔を創ったと主張する点だ。お陰で、街では小競《こぜ》り合い
が絶えなかった。国連軍の厳重な警備にもかかわらず、幾度かのテロ行為は成功し、数十人の
犠牲者が出ていた。
なのに、一般の観光客の数は減るどころの話ではなかった。
旅客機で、バスで、人々は塔とその奇跡の象徴である巨大な純金を見るため、そして不治の
病を治すため、引きも切らずにやってきた。
病を治すのは、塔のバリアー周辺部に湧き出た温泉である。
ユーラシア大陸中部の砂漠地帯の地下には、意外なことだが、大量の水が眠っている。塔が
作り上げたバリアーが、その眠れる水脈を呼び起こしたのだ。
バリアーに沿って遙か地中より湧いた水は、温水と化していた。いまだ分析不能の不思議な
芳香《ほうこう》を放つ温水につかると、病気が治るという噂が広まっていた。また、それは全くの嘘でも
なく、すでに三桁の数の病人が全快している。
温水は飲料水としても使用可能だった。この水がなければ、日に日に増える観光客を受け入
れることは不可能だっただろう。
観光客を収容するために、キャンピングカーを始めとして、動かせるありとあらゆる宿泊施
設が砂漠に林立し、最近ではブロック工法の高層ホテルまで、次々とできていた。
中国など近辺の国から流れ込む人々の数もまた、日々増加中。
塔の街の人口は今や十万を超えていた。ありとあらゆる人種がゆきかう砂塵《さじん》舞う通りには、
数カ国語の物売りの声が響く。
「いってみたいよね。マクロード氏が願うその時にあそこにいられたら、最高なんだけどな
ぁ」
馨が夢見るように言って、ふうとため息をついた。
「うん。でもさ、新聞で読んだけど、実際問題、今でもいこうとしたら相当の特別料金を払う
覚悟をしなきゃ、チケットもホテルもとれないらしいよ。まして、マクロード氏の願いの当日
なんて絶対、無理だと思うな」
「もう。わかってるよそれぐらい。ほんとに慎也くん、真面目なんだから」
馨が慎也にぼやいている間に、テレビではマクロード氏がロシア大統領としっかり握手して
いる様子が映し出されていた。
その画面を見ながら「やっぱ慎也と似てるよ、マクロード氏」と、尚顕が言った。
この握手で、現在おこなわれているロシアへの世界世論のバッシングは、沈静化するに違い
なかった。
二人が握手している背後には、世界数カ国の首相の姿がある。ドイツ・イギリス・中国・イ
ンド・そしてアメリカ。しかし、
「あれ? ミリセントさん、どうしたのかな?」
馨が怪訝な声を上げた。カーファクス大統領の隣には、いつものミリセントの姿がない。
その疑問に、慎也が答えた。
「昨夜のニュースでやってたよ。もうミリセント・カーファクスさん、きてるって」
「きてる? 日本に?」
「過労だって。昨日か一昨日《おととい》、迎賓館か、どっかの病院に入ったらしい」
「過労かぁ……」
「明後日の晩餐《ばんさん》会まで、休息するんだってさ」
「そっか。ちょっとガッカリかな。歓迎セレモニーで、見られないの」
「うん。けど、考えてみたら、僕らと同い年なんだよね。こんなハードスケジュールだったら、
疲れても仕方ないよ」
「うーん。まぁ、そうだよね。塔が現れてからこっち、ミリセントさんの顔やインタビューの
出ない日ってなかったもんね」
「可哀想だよね」
「可哀想?」
「だよ。まだイギリスの学校だって休学のままらしいし」
「でもさ、こんな凄い人だったら学校いく必要なんてないんじゃない?」
会話する二人の横で、尚顕は欠伸していた。
「あ!」と、それを馨が目ざとく見つける。
「尚くん、ひょっとして、まだミリセント・カーファクスのこと、知らないとか言わないよ
ね?」
「知ってるよ。金メダル取ったんだよな。俺たちと同い年で」
「でも、全然凄いなんて思ってないでしょ?」
「思ってるよ。でもなんか嘘っぽくないか? 大統領の孫で、美少女で、金メダリストなん
て」
「一理あるね。その上、語学の天才らしいしさ。ネットで流れてる噂だけど、日本語もほんと
は喋《しゃべ》れるらしいよ」
慎也の声に、テレビからの音が微かに重なる。
『――ともあれ、日本が明日、正念場を迎えるのは間違いありません』
見慣れたニュースキャスターが、少し緊張した面持ちで、尚顕たちに語りかけていた。
『戒厳令下のような都心。しかし、それもやりすぎだとはいい切れなくなってきました。国際《イン》
刑事警察機構《ターポール》は先程、少なくとも三名の国際手配犯が日本に潜入している可能性があることを
発表しました。この三名は、K国が支援する国際的テロリストグループの一員です。三名とも
が、爆発物を専門としたテロリストたちで、万全に万全を期するのは、当然のことでしょう』
「爆弾……?」
馨がむっとした顔で言った。
「なに考えてんのかなぁ。マクロード氏を殺して一体、なんになるのよ。願いをキャンセルさ
せて、塔をまた眠りにつかせるだけじゃない。誰も得しないわ。子供でもわかる理屈なのに」
「だけど、K国だもんね……」
沈痛な面持ちで慎也が言った。尚顕もうなずく。
「K国?」
馨に答えたのは、尚顕である。
「傭兵時代のマクロード氏に、重傷を負わせた国だ」
驚く馨に、慎也が説明した。
「あのさ。K国は、マクロード氏が、それをまだ恨みに持ってるって考えてるんだ。塔への願
いで自分の国――っていうより独裁者が――どうにかされるって思い込んでる。だけどさ、マ
クロード氏がそんなの願うわけないのに」
「そっか……。でも結局、人って自分が考えたいようにしか考えないのかもね」
「ああ。マクロード氏を逆恨みしてる阪本みたいにな」
尚顕の言葉に、少し悔しげに唇を噛[#「口/齒」、第3水準1-15-26]んだ馨の顔が、続くニュースを見て、さらに曇る。
「この人も、K国の独裁者と一緒だよね」
次にアップになったロシア人の顔に向かい、尚顕も憮然と言った。
「オゴディは最高だけど、あいつはヤバイよな」
慎也と馨が、うなずく。
画面で不機嫌そうにアメリカの対応に不満を述べているのはニコライ・トルファノフ、43歳。
『そこまで自信があるなら、アメリカ軍にマクロード氏の警護をお任せしますが、なにかあっ
た場合、その責任はとっていただきます』
一見、謹厳《きんげん》実直なロシア人そのものといった顔の小男は、マクロード氏がオーストリアの城
に軟禁されていた時、大病院の外科部長の職をなげうち、真っ先に駆けつけた元部下(軍医だ
った)の一人である。
オゴディが氏の右腕としたら、彼は左腕といっていい。
マクロード氏の軟禁が解かれ、各国への歴訪が始まると、氏の主治医兼警備を担当。今やマ
クロード氏の元部下を主軸とした、マクロード部隊の隊長でもある。
マクロード部隊は、この一月の間に数倍の規模になっていた。人材、装備ともに大国の特殊
部隊以上ともいわれ始めている。
しかし誰も、そんなマクロード部隊に文句をつける者はいない。
残念ながらマクロード氏への警備の必要性は、加速度的に上がりつつあった。
もちろん。人類の未来を安心して預けられる存在だとマクロードを認めている人々が、大多
数。しかし内心では『国連決議《こんなもの》は、先人類の望んだことではない』と感じる者も少なくない。
また、『選ばれし者マクロードは何も願うな!』運動(政治家など信用できない)が、エコ
ロジストを中心に世界各国で起きているのも確かだった。
そしてさらに、今のニュースのように一部のテロリストが、マクロード暗殺を目論《もくろ》んでいる
のも、現実。
この状況の下、ニコライは『防テロ』方面での有能さを発揮してきた。
だがマクロード部隊の力が加速度的に大きくなるにつれ、ニコライの周囲では様々な悪い噂
が立ち始めていた。
曰《いわ》く、公然と賄賂《わいろ》を『自分のため』に受け取っている。曰く、ヨーロッパ各国でスーパーモ
デルや女優を軟禁状態にした……。
ニコライとかつて同じ部隊にいた数名の証言で、彼は世界各国に『愛人』を持っていたこと
がわかっていた。どうやらその悪い『癖』が、権力を持つにつれ再燃してきたらしい。
「女の敵だよね」と、馨がムッとした顔で言った。
「大体、今度のこいつの狙い、ミリセント・カーファクスよ。身のほど知らずって段階を超え
てる」
馨を宥めるように、慎也が言った。
「けど、一部のマスコミだろ、それ言ってるの。まさかと思うけど」
未来のイギリス王妃と目《もく》され、イギリス皇太子との噂が取り沙汰《ざた》されていたミリセントだっ
たが、最近ではマクロード氏との関係が各国のゴシップ紙の一面を飾ることが増えてきていた。
マクロードが先人類から選ばれる以前から知り合いだった彼女は、最初からアメリカの対マ
クロード接待の「主役」的存在だったことが、その噂に妙な信憑《しんぴょう》性を与えている。
実際、マクロード氏とミリセントのツーショットは、見ているだけで微笑ましかった。あま
りに整っていて時折、冷たくさえ感じるミリセントの美貌《びぼう》が、マクロード氏やオゴディととも
にいる時は年齢相応に可愛らしく見えることが多かった。
誰とでも平等な態度で臨むマクロード氏も、ミリセントといる時は常よりずっと親しげな、
優しい顔つきになった。
マクロード氏が、親子ほど年齢の離れているミリセントにどういう感情を持っているのかは
不明だが、特別な好意を持っているのは、まず間違いない。
いくら女好きのニコライでも、そんなミリセントに手を出すなんて……。
「ううん。こいつならやりかねないって」と、馨はそれでもまだ言い張る。
「マクロード氏がかつての部下を信頼してるのはわかるけど、わからないのはオゴディさんよ
ね。どうして一言言わないのかな」
「それは、ある意味、仕方ないんじゃないかな」と、慎也。
「マクロード氏が重傷を負った時、彼の手術で助かったんだ。命の恩人ってことだし」
「お医者さんなんだから当たり前でしょ? それに肝心の警護だって、大失敗しかけたっての
に――それも、自分の国で」
先日起きたロシアでのテロ。幸い間一髪《かんいっぱつ》でマクロードは難を逃れたが、カーファクス大統領は
ニコライの手腕を批判。重大なテロの危険にさらされているマクロードを守るという大義名分
を掲げ、次の訪問国である日本ではアメリカ軍が全面的に警備に参加すると表明。ニコライに
も強引に了承させた。それが、今の都内の状況と、不満げなニコライの記者会見に繋がってい
るわけだ。
当然、日本政府もニコライ同様いい気はしていない。内政干渉だとか、日本の警察を信用し
ていないのかとが、公然と言った閣僚《かくりょう》もいる。もともとほぼ同時期に東京で日米首脳会談が
予定されており、準備は進めていたらしい。
だが日本でロシアのようなテロが起きてもらっては大変たった。そのためにはアメリカ軍が
街中に溢れていても仕方ないというのが、大半の日本人の思いだった。万が一日本でマクロー
ド氏になにかあれば、政府や警察のプライドどころの騒ぎではない。
慎也の家の前まで寄って、尚顕と馨は傘を並べて歩いていた。
傘ごしにちらっと隣を見ながら、尚顕は改めて思っている。
慣れるもんだなぁ、と。
こうして二人きりでいても、以前通りの気持ちでいられた。いや、少し違う。いつの間にか
馨は、より姉の来帆に近い存在になってきていた。
「なに見てんの?」と、馨が怪訝な顔で見る。
「別に」と、尚顕は前を向く。
「ふーん」と言いながら、馨は傘ごしに空を見上げた。
雨が上がり、雲が切れ始めていた。
「よかった。明日は晴れそうね」
もうすぐ先に、煙突とコンビニの看板が見えてきていた。
「じゃあ」と、馨は傘を畳みながら、尚顕に言った。
「明日、どうする? 本気でいかないの?」
もはや意地のように「いかない」と、尚顕は答えた。
「誰もこないって」
「くるかもしれないよ。thinoか、thinoの妹が」
「こない!」
「ほんとは大分、興味湧いてきてるでしょ? 特に、thinoの妹かもって聞いてから。尚
くん、ああいうヒドイ目に遭わされてる女の子って放っとけないもんね」
「だから、違うって言ってるだろ。あの、夢の中で会った奴はthinoの妹みたいな、黙っ
て耐えてるような――慎也みたいな、いい人タイプじゃない。馨みたいに強い奴だ」
「そんなの、ちゃんと会ってみなきゃわからないよ」
「わかる!」
馨は、小さく吐息して、憮然と言った。
「あっそ。いいよ、そしたら!」
怒って走り去ってしまう。
尚顕はほっとしつつも、なんとなく釈然《しゃくぜん》としないものを感じていた。
いつもの馨より、あきらめが早いような気が……。
……というより、自分は説得されたがっている?
尚顕は、あわてて首をブンと振った。
そんなわけ、あるはずがなかった。
怒ったような足取りで角を曲がり、玄関をくぐる。
そんなわけはない。自分がいきたがってるなんて。あの『お隣さん』に、会いたがってるな
んて……。
薄暗い居間に電気をつける。冷蔵庫からコーラを取り出し、一気に飲み干そうとした途端、
電話が鳴った。
尚顕は、馨かもしれないとなぜか思った。一瞬ためらった後、受話器を取る。
「なんだよ。まだ説得――」
『もしもし、尚?』
一瞬、尚顕の息が詰まる。それは予想もしない人物の声だった。
「き、来帆姉ちゃん」
『なによ、びっくりしたみたいに。なんかやましいことでもあるんじゃないの、まだ』
「ば、ばーか。あるわけないだろ。もう人力飛行機も作ってないし」
『人力飛行機ねぇ。尚、わかってるね。八月までに、女湯もピカピカにしときなさいよ。父さ
んも共犯だったみたいだから、これで許してあげるんだからね』
「……わかってるよ。何度も言うなよな。なんの用なんだよ。昨夜もかけてきたろ?」
『あ、そうそう。忘れるとこだった。明日、どうすんの?』
「……明日?」
『だから、七夕でしょ? ドリームカップルの相手に会いにいくの? いかないの?』
この瞬間、尚顕にはわかった。馨がどうしてああもあっさり引き下がったのか。すでに大阪
の来帆と、話し合いはついていたのだ……。
「……馨、だな」
来帆はその声を完全に無視して、再び聞いた。
『いくの、いかないの?』
「いかない!」と、尚顕は意地でも叫ぶ。
『あそ。じゃあ私、今から帰るわ』
「……!」
『馬鹿な弟だけど、母さんに約束した責任ってものがあるからね。ドリームカップルの相手と
なると、一応会っとかなきゃ。姉は辛いわ。あ、尚は好きなことしてなさい。どうせ場所も時
間も目印も、みんなわかってるんだもんね。代わりに会って尚のこと、いろいろと教えてあげ
るから』
「な……なんだよ、いろいろって」
『住所氏名、年齢は知ってたからよけて、あと電話番号に郵便番号、血液型に好物、嫌いなも
の。いろんな癖。トイレの時間とかお風呂の時間とか隠れて読んでるHな雑誌とか――』
尚顕は、悲鳴のように受話器へ叫んだ。
「な、なに考えてんだよっ!」
電話の向こう、大阪から、来帆の楽しげな声が届いた。
『尚、もう一回だけ聞いたげる。いくの? いかないの?』
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タワーバード
七月七日。七夕のこの日の東京地方には、朝からすっきりとした青空が広がっていた。
渋谷。連日の『外出を控えましょう』キャンペーンが全くの無駄《むだ》だったということが、この
若者たちの街に足を踏み入れた途端、わかる。
駅の乗降客、通りの車。普段の土曜日よりも、間違いなくその数は多い。
そしてまたJR渋谷駅に電車が到着し、多くの人々が街の中へと吐き出されていく。
ハチ公前の出口。その雑踏の中にグレーのシャツを着、バックパックを背負った尚顕の姿が
混じっていた。
尚顕は人の流れを縫《ぬ》うように早足で歩きながら、腕時計を見る。
午前九時五十分。
「待ってよっ!」と、尚顕の後から馨と慎也が、あわてて追いかけてくる。
尚顕は返事もしない。一緒に駅まできたのは、馨に抜け駆けさせないためだ。もう一瞬たり
とも待つ必要はなかった。
まず誰もきていないとは思ったが、もし右手に〈トップティーン〉を持っている奴がいたら、
馨よりも早く捕まえなければ……。
しかし尚顕は、駅の構内を出てすぐのところで立ち止まった。
目の前に『ようこそ渋谷区へ』と書かれたプレートが貼《は》られた地下鉄の出入り口がある。そ
の陰になって、日本一有名な犬の銅像はよく見えないのだが、他のものが――というか、人が
見えた。いや、人々が。
一瞬固まった尚顕の足が、再び動き、駆けだす。
「なんだよ、お前らっ!」
怒鳴った先――ハチ公の銅像の周囲には、少なくとも二十人近い同級生たちが集まっていた。
そのほとんどが女子だ。
「あ、きたきた!」と、クラスメイトの中から声を上げたのは、愛だ。
「待ってたよぉ! 民田くーん」
同時に女の子たちから、歓声が上がる。
思い切り怒鳴ろうとした尚顕だったが、馨に先を越された。
「駄目じゃない!」
えっ? と思って馨を見た。やはり幼なじみ、最後の最後では守ってくれるのかと期待した
のだが、
「こんなに集まってワイワイやってたら、彼女、警戒して近づかないでしょ! 少し離れて待
つの!」
「あ、そっか」「だよね」と、女の子たちは、あっという間に、四方に散らばってゆく。
それを見ながら、真っ赤になって怒っている尚顕へ、慎也が気の毒そうに言った。
「……しょうがないよ、尚顕くん。誰もこないのを祈るだけだよ」
「慎也! お前、今から馨の尻にしかれて、どうすんだよっ!」
「でもさ。逆らえる? あの女の子たちの群れ。尚顕くんの得意技だって無意味だよ」
「わかってるよっ!」
尚顕は、苛立たしげに周囲の雑踏を見回す。雑誌を持った十六歳の女の子を探す。
そこはいつも通りの渋谷の街だ。装飾品の路上販売、若者の集団、家族連れ、そしてこれだ
けは普段とは違う、巨大なスクリーンに映し出された『歓迎、マクロード氏』の文字。
スクランブル交差点が赤になり、再び駅に電車がついた。尚顕が再びハチ公へと視線を戻そ
うとした時、いきなり隣の慎也がツンと尚顕の腕をつついた。
「なんだよ?」
振り向いた尚顕の思考が中断する。ハチ公の周囲が、つい一瞬前までと変わっていた。なん
だか異様な雰囲気が立ち込めている。
その原因は、すぐにわかった。
美しく緑色に輝くタワーバードが、ハチ公の台座の前に立っていた。
もちろん、本物ではない。タワーバードがグレーのスーツなんて着ているわけがない。手足
なんてのもないし、2メートル近い身長もあるわけない。
それは、とてもよくできたタワーバードのマスクをかぶった巨漢だった。
「なんだ……?」と、尚顕が呻くように言った。
「見て、あれ。ちょっとあの人、おかしいよ」と、近くからヒソヒソ声が聞こえる。
確かにおかしい。スーツにマスク姿だけでも十二分におかしい。しかし、さらにこのタワー
バードマスク男は、右手にピンク色がやたらと目立つ雑誌を持ち、高々と頭上に掲げているの
だ。
「な、ななな、尚くん!」
尚顕の許に駆けつけた馨が、青ざめた顔で「〈トップティーン〉……」と囁いた。
「ああ……」とうなずいた尚顕は、ごくりと唾を飲み込み、虚に言った。
「……あいつかよ……」
「うそっ!」と、叫んだのは、愛である。
「じゃ、あれなの? お隣さんって!」
「こ、声が大きいっ!」と、馨があわてて愛の口をふさいだのだが、遅かった。
まるでハチ公同様、銅像のように直立していたタワーバードマスクが、いきなり動きだし、
尚顕の方へと近づいてくる。彼らの周囲にいた人々が、まるで猛獣から逃げるかのように、散
っていった。
「君か?」と、タワーバードマスク。
尚顕は、巨漢を見上げた。どう見たって男の、それもよく鍛え上げられたスポーツマンの肉
体だった。それに、マスクで少しくぐもってはいたものの、その声も間違いなく男のものだ。
うなずく尚顕に、
「ちょっと、付き合ってくれるかな?」
物腰は柔らかいが、有無《うむ》を言わさぬ迫力があった。
「なんの用ですか」
「ドリームカップルとして出会えたんだ。それだけでも、少しぐらい話す理由にはなると思う
が。どうかな?」
「こ、断った方が――」と馨が囁き、慎也が尚顕の腕を引っ張る。
「大丈夫」と、尚顕は自分をも説得するようにして、言った。少なくとも夢の中のお隣さんは、
悪い人間とは感じなかったわけだし……。
「半時間以内に用は済む」
タワーバードマスクは言い、「ついてきてくれ」と、先に立って歩き始める。愛たち同級生
ばかりか、興味津々でこの様子を見ていた通行人たちからも心配の眼差しを浴びながら、尚顕
は堂々とした歩みで巨漢の後に続く。
だが実はこの時、尚顕は内心びびっていた。子供の頃から、少なくとも気迫では誰にも負け
たことはない。ところがこの男にマスク越しに見られた途端、背筋に冷たいなにかが走った。
目の前の男に比べれば、コンビニ前で対決した二人組や、停学処分の原因になった三人組など、
可愛い小犬のようだった。
歩道を渡り、タワーバードマスクは渋谷マークシティへと入っていく。買い物客や店員たち
の視線をまるで無視し、男はズンズン進んでいく。
彼が立ち止まったのは、エレベーターの前だった――マークシティ内に併設されている、ホ
テルの中の。
「ここだ。乗ってくれ」
正直、やばい予感を感じ始めていた尚顕だったが、逃げだすのは絶対に嫌だった。平気を装
いつつ、男とともにエレベーターへと入る。
二人きりだった。男が押したボタンは、最上階の25階。再び扉が開き、真新しい豪華な廊下
が現れる。男はエレベーターを出た。尚顕も無言のままについていく。
誰もいない廊下。タワーバードマスクは、一つの扉の前で止まる。
そして、くるりと反転し、初対面の時のように、尚顕をじっと見下ろした。男の手が首もと
へと動く。そして無造作に、マスクが引き剥がされた。
尚顕は驚いた。タワーバードマスクの下から現れたのは、端麗といっていい顔だった。どこ
か日本人離れした美形だ。しかし、どう見たって十六歳には見えない。おそらく三十歳前後。
尚顕は、その顔に見入っていた。びっくりするほどのハンサムだったことよりも、なにかが
心に引っかかった。間違いなく、この特徴ある顔には見覚えがある。
しかし、それを思い出す前に、男は静かに告げた。
「……すまんが、試させてくれ」
「え?」
いきなりだった。男の目が爛々《らんらん》と輝きだした。もちろん人間の目が光を放つわけはないのだ
が、そうとしか表現できない。
目の輝きとともに、顔の形が変わる。端正な顔だちが、まるで鬼か悪魔のように。
尚顕は、いまだかつて睨み合いで負けたことはない。
だがこの相手は――この男の『眼』は、そんな不良相手のガンつけのレベルではなかった。
尚顕は確信した。この男は、自分を殺そうとしている!
尚顕が恐怖に負け、悲鳴を上げかける直前、
「ま、合格でいいだろう」
悪魔にしか見えなかった男の顔が、一瞬で元に戻っていた。いや、違う。今の男の顔には、
なぜか微かな驚きの表情があった。
男は顎に手をやり、「うん……」と言って、尚顕の体をジロジロ観察し始めた。そして雑誌
を左手に持ち替え、腕やら肩やら腰の肉をペタペタと触る。執拗《しつよう》に触る。思わず尚顕の全身に、
ぞぞぞと鳥肌が立った。
「なんだ、小柄な割にいい体してるんだな。なにか運動やってるのか?」
「今は別に……」
「ほーお、立ってる上に口もきけるか。なら……」
いきなり尚顕の目の前が真っ暗になった。
男の掌が眼前数ミリのところで止まったのを察知すると同時に、尚顕の体が本能的に背後へ
と飛び、とっさに足が動く。ムチのようにしなった右足が、男の太股に向かい、斜め上から振
り下ろされる。
「ほぉ!」
再び驚きの声が男からやってきた。
しかし、もっと驚いているのは尚顕だ。年上の不良二人を、数秒かからずに戦闘不能にして
しまった尚顕のローキックが、片手一本で止められていた。
「ムエタイの蹴りに似てるが、自己流か。わりと速い。これも、まぁ合格でいいだろう」
唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然としている尚顕の足を、男は無造作に放した。
ぽかんと見上げる少年の前で、男はさらに楽しげな表情を浮かべ始めていた。
「日本も捨てたもんじゃなかったな。さてと、あまり時間がなかったんだ」
言っていきなり彼は、自分が被っていたマスクを尚顕に被せようとした。
あわてた尚顕が数歩下がりながら、思い切って声を張った。
「い、いったい、どういうことなんだよ! あんた、俺になにをさせたいんだっ!」
「いいから被れ」と、男はぞんざいに言った。
「夢の中で、君の隣にいた相手がいるのは、この中だ。俺は使い兼、ボディガードだ。彼女に
会うには、それを被ってもらうしかなくてな」
「え……?」
ボディガードと聞いた途端、尚顕の心にひっかかっていたものの正体が判明した。この美形
の巨漢を、どこで見たのか。
一昨日のテレビだ。thinoが帰国した時、マスコミ相手に彼女を守った、あのやたら目
立っていたボディガードだ。と、いうことは……。
「会いたくないか? ドリームカップルの片割れだぞ?」
唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然とする尚顕の顔にマスクを強引に被せたthinoのボディガードは、コソコソと扉を
ノックすると、鍵を開けた。
「さ、お待ちかねだ」
彼は言って、尚顕の腕を掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]むと、半ば無理やり室内へと押し込んだ。
そこは、尚顕がいまだかつて見たこともない、豪華な広々とした空間だった。多分、これが
スイートルームというものだろう。
ぽかんと見つめる尚顕の前に、誰かが立っていた。
二人目のタワーバード。ただし今度もマスクマンだ。尚顕が被っているものより少し小さ目
の仮面をつけた、馨と同じぐらいの背たけの女性。
尚顕の体が、微かに震え出していた。
自分をここまで連れてきたのは、間違いなくthinoのボディガードだった。それに、も
う一人の候補者――thinoの妹だったら、別に、ここまでして顔を隠す必要はないはずで
ある。だから、つまり、目の前にいるのは……。
「こんにちは」
いきなり話しかけられた尚顕は、飛び上がりそうになるのを抑えるのがやっと。馨たちには
強がりも言ったが、本音《ほんね》ではthinoのサインも欲しいし、握手もしてほしいなんて思って
いたのである。
「は、はい。こんにちは」
辛うじて挨拶《あいさつ》を返す尚顕に、マスクで少しこもった、しかしthinoとしか思えないトー
ンの声が、届く。
「きてくれて、ありがとう。正直、感情的に一方的に言っただけだったし、そんなに期待して
なかったから、驚いてます」
「い、いえ。こちらこそ」
「私、あなたの脳が作り出した幻覚ですか?」
唐突なその言葉に、尚顕はマスクの中で目をぱちくりさせた。
結局、「……いえ」と言うしかなかった尚顕は、彼女の体からふっと力が抜けるのを感じた。
「やっと相互理解ができたようですね。それじゃ、お元気で。会えて嬉しかったです」
「え?」
「お元気で。私、これから外出の用意がありますので」
丁寧《ていねい》だが、有無を言わさぬ言葉だった。
「は、はい。お邪魔《じゃま》しました……」
尚顕は、ぽかんとしつつ、ドアを開けて部屋を出た。
廊下では、男が少し驚いた顔で迎えてくれた。
「………えらく早かったな。なにを話したのか、よければ聞かせてくれ」
困惑のまっただ中にいた尚顕は、言われるままに答えていた。
「互いの、相互理解ができたとか――」
そして尚顕は、言いながら気づいた。
「そうか……そういうことか」
「なんだ?」
「そうだ。これでいいんだ」と、次第にしっかりした口調になる。
「夢の中で俺、あの人のこと、自分の頭が作った相手かもって言ったから。それでむちゃくち
ゃ怒って、待ち合わせしようって話になったから」
「……なるほど。で、さっきの表情だと、君、俺の顔に見覚えがあったみたいだな」
「ああ、はい。テレビで。thinoのボディガードですよね。道理で強いはずだ。信じられ
ませんけど、僕が夢の中で会ったのthinoさんだったんだ。十六歳って言ってたから、妹
さんの方かなって思ってたけど……」
「妹……か」と言って、男は苦笑した。
「ま、頭のできの方も合格点だな。しかしthinoは、日本でもかなり人気あるんだろ。こ
のまま帰っていいのか? 君は欲しくないのか? サインとか」
「まぁ……。thinoさんの曲で、助けられたって思ってますし。でも、会えて話せただけ
で結構――いえ、満足してます」
男は、楽しげに笑い始めた。
「なるほど、夢で出会えただけのことは、やはりあったわけだ。似てるな、お前に」
彼は尚顕ではなく。背後のドアの方へ話しかけていた。
尚顕が驚いて振り返ると、ドアが半開きになっており、そこからタワーバードの愛らしい黒
く大きな目が覗いていた。
「……どうして?」と、言葉に微かな怒りを込めて、彼女が出てきた。
「どうして引き止めてるの? 話は最低限にして、さっさと帰らせろって言ったくせに」
「気が変わった」
言って、彼は尚顕を見た。
「名前、聞かせてくれ。俺は、界児《かいじ》だ」
戸惑いながらも、尚顕も答えた。
「……民田尚顕」
「尚顕か」
「え?」
その小さな驚きの声は、タワーバードからだった。
尚顕と聞いた彼女が、なぜか少しうろたえていた。そして怒りを露《あらわ》にした態度で、界児と名
乗った男に詰め寄る。
「どうして、こんなことするの? カササギ役をやるつもりなんかないって言ってたくせ
に!」
「……カササギ?」
しかし全く動じることもなく、続いて界児は、いきなり当惑する尚顕のマスクを剥がした。
二人の目の前に、尚顕の素顔が晒《さら》されていた。
「見たか? 尚顕の顔」
なぜか、まるで幽霊でも見たかのように全身を硬直させるタワーバードマスクに、界児は告
げた。
「一旦、部屋の中へ戻った方がよさそうだな」
放心したようなタワーバードマスクの背中を押すようにして、界児は再び部屋の中へと彼女
を押し込んだ。
「尚顕、なにしてる」
一体なにがどうなっているのかさっぱりわからないまま、尚顕もスイートルームヘと引っ張
り込まれる。
ドアが施錠《せじょう》された直後、尚顕に背を向けた彼女が、自分のマスクに手をかけた。
マスクを外そうとしていると気づいた尚顕は、焦って界児に聞いた。
「い、いいんですか? 取っても」
「見た以上、仕方ないから」と、マスクを取りながら、彼女。
「だよな。でないと、フェアじゃない」
尚顕の胸が、ドキドキとときめき始めていた。期待が膨らむ。ひょっとしたら、自分の分と
馨の分二枚ぐらいならサインを貰って帰れるかも。
と、マスクの下から軽くウェーブした金髪が現れた。
尚顕は戸惑う。一昨日、空港のthinoは黒髪だった。変装で染めたんだろうか?
マスクが完全に外された。なぜか彼女の方も物凄く緊張しているのが、背中からでもわかる。
そして、振り向いた。
尚顕の期待は、この瞬間、当惑となり、直後、驚愕《きょうがく》に変わる。
少年の前に立っていたのは、thinoではなかった。
息を飲むほどの美貌、北方の湖のように深い碧《あお》の瞳が、刺《さ》すように力強く尚顕を見据えてい
る。
「ミリセント・カーファクスです」
名乗った少女は、再びマスクを被った。
「もういいでしょ。今度こそさよなら、民田さん。いきましょ。界児さん」
「ああ、時間が借しいな」
言ってミリセントの後に続こうとした界児だったが、その場で硬直したきりの尚顕に声をか
けた。
「尚顕、なにしてる? 一緒にこい」
「………え?」
「界児さん、いいかげんにして!」
詰め寄るミリセントに、界児はにっと笑い、告げた。
「こいつが今日の君のエスコート役だ」
「どういうこと?」
尚顕は声も出ない。
「一昨日の俺のミスで、冒険に付き合うのは、ちょっと難しくなってるからな。俺が素顔で隣
にいたら、尚顕みたいに誰もが君をthinoだと思うだろう。かといって、二人してマスク
して歩いたら、それこそ目立ちすぎだ。町中に溢れてる警官や自衛隊、米軍に尋問でもされて
みろ。苦労して作った時間が、台なしだろ?」
「それは……でも彼を巻き込むなんて」
「あ、あの!」
やっと尚顕も、この状況がほんの少しだけ、理解できつつあった。どうやらこの界児という
人物(どうやらただのボディーガードではなさそうだ)は、尚顕に、ミリセント・カーファク
ス(!)の世話をさせたいらしい。しかし、もちろんそんなこと……。
「なんだ?」と、界児は、脅《おど》すように腕組みして、尚顕の前に立った。
「天下のミリセント・カーファクスとデートできるんだぞ? なんの文句がある」
「界児さん!」と、ミリセントが怒鳴る。
しかし界児は、岩のように全く動じない。尚顕を真剣な目で見ながら、言った。
「三時間でいい。二時で尚顕の任務は完了だ。あてにならない約束守って、ここまできたんだ。
それぐらいの時間、ドリームカップルの相手に使ってやっても、構わないだろ?」
「……二時――まで?」
「ああ。予定としては、渋谷には昼までだ。昼食はマックでいい。久しぶりに思い切り食べた
いらしいからな。食後、渋谷の街を散策。そして二時までに上野《うえの》の国立博物館へ連れていって
やってくれ。今日は閉館してるはずだが、通用門の鍵が二時には開いてることになってる。そ
の門の前で、君の役目は終了だ」
もはや尚顕には、うなずく以外の選択肢は考えられなくなっていた。
「よし! 決まりだ」
楽しげな界児に、ミリセントが聞いた。
「でも、界児さんは、どうするの?」
「俺は。先に上野ヘいってる。いろいろ話もあるからな」
「あ、そうね……」
ミリセントは、納得した様子でうなずいた。
先に立った界児が、エレベーターの前に立ち、ボタンを押した。
二人に続き、エレベーターに乗り込んだ尚顕は、ちらっと、隣のタワーバードマスクを見た。
自然と困惑が深まる。考えれば考えるほど、わけがわからなくなる。
「どうした?」
気がつくと界児が、面白そうに尚顕を見下ろしていた。
「あの」と尚顕は、囁くような声で訊ねた。
「本物の……ミリセント、なんてすか? 日本語、うますぎるし……」
「残念ながら」と、その声を聞きつけたミリセントが憮然と答える。
「間違いなく本物だ」と、界児も保証した。
「しかし」と、界児は笑いだす。
「まぁ尚顕がそう思うのも無理はないか。ミリセントは一応、日本語はできないって建前だし、
今現在は迎賓館《げいひんかん》かどこかの病院で静養中のはずだしな。しかも、ドリームカップルのお相手と
きたもんだ。俺が尚顕の立場だったら多分、今頃、錯乱《さくらん》状態だ」
「……錯乱して、ます」
「そうは見えないな。変わった奴だ」
「……あの、でも、あなたは――」
「界児でいい」
「その、界児――さんは、thinoさんのボディガードですよね。どうしてそれが、ミリセ
ントさんの?」
「いや、俺はもともとミリセントの護衛《ごえい》だ。しかし――」
「界児さん!」と、突然ミリセントが強い口調で言い、尚顕を驚かせた。
界児も、わかってるとでもいうように、小さくうなずいた。
エレベーターが一階についた。だが界児は再び扉を閉め、尚顕に静かに告げた。
「悪いが、尚顕。これ以上のことは一切、話せない。俺と彼女の関係、彼女とthinoの関
係、わけのわからんことばかりだろうが、話せない。君も考えるな」
「……考えるな?」
「ああ。尚顕は結構、頭も切れそうだ。だがその頭、しばらく使うな。こう思ってくれ。今か
ら始まる三時間は、現実ではない、別の次元の出来事だと」
「別の次元……」
「つまり、これから三時間のうちに経験することは、全部、夢だと思ってくれってことだ。ミ
リセント、これでいいだろう?」
タワーバードのマスクが、ほっとしたように、小さく上下する。
「できるな? 尚顕」
尚顕も、うなずくしかない。断る理由が、見当たらなかった。というより、睨まれて以降、
超弩級《ちょうどきゅう》のショックの連続で、頭が正常に働いてくれない。
「と、忘れるとこだった。これを持っててくれ」
界児は言い、尚顕にかなり分厚い銀行のロゴの入った封筒と携帯を手渡した。
尚顕は、戸惑う。封筒の分厚さにもだが、携帯にはもっと。その形、大きさ、重さに。
異様に太いアンテナの長さだけで、普通の携帯の大きさだ。全体は二回りは大きい。しかも
ずしりと重かった。一キロ近くあるかもしれない。
「デート資金と衛星携帯だ」
「……衛星?」
問い返す尚顕に、界児が自慢げに説明する。
「要するに圏外のない携帯なんだが、かなり改造してある。衛星携帯は屋内では使えないんだ
が、こいつは3ウェイにしてあるから大丈夫だ。しかし、繋がるのは俺のとミリセントのだけ。
それぞれ1と2を押すだけでいい。ただし、なにかよほどの緊急時だけにしてくれ。彼女が迷
子になったとかな」
「なりません」
「はは。じゃあ頼む。尚顕。ちゃんとエスコートしてくれよ」
界児は、やっとエレベーターの扉を開いた。
そして「じゃあな」と一言残し、あっけなく彼の姿は二人の前から消えた。
気がつくと尚顕は、タワーバードマスク姿のミリセントとともにホテルのロビーに二人きり
になっていた。
これからどうしようかと思ったが、なにも具体的な考えが浮かばない。とりあえず受け取っ
た携帯と封筒をバックパックに入れる尚顕に、ミリセントが話しかけた。
「ごめんなさい。むちゃくちゃですよね、民田さんにしてみたら。やっぱりいいです」
「いいって?」
「だから、私ももう子供じゃありませんし。単独行動ぐらい、できますから」
携帯を詰めた尚顕はバックパックを背負い直すと、いきなり両手でバシッと顔を叩いた。
びっくりしているミリセントに、尚顕は説明した。
「気合を入れただけです。もう大丈夫。要するに、あなたは夢の中で出会ったお隣さんで、そ
れ以上じゃないってことにすればいいんだ」
話しているうちに、やっと尚顕の考えがまとまってきた。そう、それでいいのだ。
「いいんですか?」
「単独行動なんてさせたら、あの界児って人に殺される。絶対」
「界児――さんは、そんな人じゃないわ」と言いながら、ミリセントは少し笑った。
そして、「でも、どうしてかな」と、少し戸惑った様子で続けた。
「界児さん、十時に部屋を出るまで、会うことさえ反対してたのに」
「反対?」
「ええ。あ……」
突然、なにか思いついたように、タワーバードの顔が上がった。
「ひょっとして、界児さんに睨まれなかった?」
途端、条件反射的に尚顕の表情に恐怖が生まれた。その顔を見たミリセントが、驚いたよう
に声を上げた。
「ほんとにされたの? 蛇睨《へびにら》み」
「ヘビ?」
ミリセントは、微かに興奮した口調で言った。
「界児さんの特技。開眼《かいがん》したのは三つって言ってた。近所の狂暴なドーベルマンに、にらめっ
こで勝った時からずっと研究と修行を続けてきたの。心理学を学んだり、顔の筋肉鍛え上げた
りして、今じゃほとんど超能力的。ほんとに、なに考えてるんだか。邪眼《じゃがん》鍛えてどうするのっ
て言いたいけど」
「邪眼?」
「欧州でもアジアでもオセアニアでも、世界中の文明のほとんどに見られる概念。見ただけで
呪いをかけられるスーパーパワーのこと。でも、本当に信じられない。だって、中世ヨーロッ
パだったら、魔女として火あぶりよ」
ミリセントは一旦、言葉を切り、ぽかんと半分口を開けている尚顕に聞く。
「どうかしました?」
「あ、いや!」
完全に惚《ほう》けてしまっていた尚顕は、その声で我に返った。
「やっぱり、あんただったんだなって――夢の中のお隣さん」
「お隣さん……」
「あの、すみませんでした。俺の頭が作ったとか言って、怒らせて。俺、ちょっと――いや、
かなり素直《すなお》じゃないんで……」
「みたいですね」
ミリセントの口調が、少し柔らかいものになった。
「不思議な出会い方したんですよね。私たち……」
そして、しばらくミリセントは押し黙ってしまった。尚顕をじっと見つめてなにか考え込ん
でいる様子だが、マスクのために一体どんな表情をしているのか、尚顕には全くわからない。
戸惑う尚顕へ、「あ、それで」とミリセントは、我に返ったように話を続けた。
「界児さん、遠当ての術も使えるとか言い張ってるんだけど、信じられます?」
「遠当ての術?」
「睨むだげで、飛んでる鳥とか落とす技。信じます?」
尚顕は、真顔で大きくうなずいた。一時間前の自分だったら笑うだけだっただろう。しかし
今の彼は、あの『眼』を見ていた。あの恐怖を体験していた。
「ほんとにされたみたい……」と、その尚顕の表情を見て、ミリセントは呟いた。しかし、す
ぐに首を傾げる。
「でも、入ってきたとき、腰抜かしてなかったし……」
「腰?」
そして再びなにか思いついたらしいミリセントは、今初めて会ったかのように、尚顕をまじ
まじと見つめた。
「……二人目ってことなんだ。だから民田さんって……」
そのミリセントの声には、真剣に感心しているような響きがあった。
「あの……これって詳しい話、聞いていいこと、なんですか?」
途端ミリセントは、あわてたように首を振った。
「いえ、駄目。駄目な部類」
尚顕は、やれやれと肩を落とした。
考えるなと、いつの間にやら約束させられてしまったものの、たった三時間なら大丈夫かと
思ったのだが、ひょっとしたら相当、辛い時間になるかもしれない。
「じゃ、そろそろいきますか? ここでこうしてても、仕方ないし」
「ええ。じゃあ、三時間ほどお世話になります。私のことは――そうですね、相馬《そうま》って呼んで
ください。言葉遣いも、普通に」
「相馬……。まぁ、それ被ってる限り、日本人そのままだし……。けど、それ目立つと思いま
すけど」
「え? そう? 界児さんなんて、ヤマンバが出没した場所だから全然、大丈夫だって言って
ましたけど」
尚顕は、首を振った。
「絶対、目立ちまくりです。そんなの被ってたら、テレビかなにかの撮影か、芸能人かって思
われる。今日は人も多いし、きっとゾロゾロついてきますよ」
「そう……。ちょっと認識不足だったかな。一応、部屋にはグラスとウイッグが。でも……」
ミリセントは決断したように、尚顕へ視線を向けた。
「やっぱり、このままでいきます。ついてくるようなら、走って振り切ります」
「振り切るって……」
女のくせに――と一瞬、笑いかけた尚顕だったが、すぐに思い出した。
ここにいるのは、100メートルスプリントのゴールドメダリストなのだ。
改めて息を飲む。今一体、自分は誰となにをしようとしてるんだ?
「わ、わかりました。俺も、ちょっと短距離だったら、自信ありますし……」
するとミリセントが、少し怒ったように、もう一度言った。
「普通に話してください。夢の中みたいに」
「え?」
「私たち、タメなんでしょ?」
「……あ、うん……。わかった」
するとミリセントは、なんだかマスクの中で笑ったようだった。
二人は並んでマークシティから、渋谷の街中へと出てきた。
尚顕は、人込みの中を見回す。
ひょっとして馨たちが、尚顕のことを心配してついてきているかもしれないと思ったのだが、
この雑踏では、たとえいたとしても、見つかりそうもない。
しかし、ほっとしたのも束《つか》の間。
案の定、ゆきかう人々の視線が、磁石《じしゃく》に引き寄せられるようにタワーバードのマスクを被っ
たスタイルのいい少女へと集まる。
ヒヤヒヤする尚顕に対して、彼女は平気だ。まるで本物の鳥のように、興味津々の視線をあ
ちこちに向ける。
「なにー? あの目立ちたがりー」と、内緒話にしては大きすぎる声が、近くの派手な女の子
たちの集団から聞こえてきた。
尚顕は、どこか羨望《せんぼう》が混じったその声を聞きながら、疑問を感じた。
今は確かにタワーバードは流行の最先端と言っていいかもしれないから、被っていても不審
者には見られないとは思う。
しかし、あまりに目立ちすぎる。
この渋谷では、外国人の方がよほど目立たない。外国人が日本人の顔を見分けにくいように、
日本人が西洋人の顔を見分けるのも難しいはずだ。だったら、こんな目立つマスクより、眼鏡
とかつらをつけた方がいい。それだけで、誰もミリセント・カーファクスだとは気づかないは
ずだ。
しかし、尚顕にも思いつけるようなことを、ミリセントが――そして、あの界児と名乗る凄
い男が気づかないはずがなかった。なのに、一体どうして、こんな目立つ格好をわざわざして
いるのか?
尚顕は、吐息とともに思考を中断した。考えない約束を思い出したのだ。しかし、ついつい
考えてしまう。
「あの」と、ミリセントに声をかけられ、尚顕はあわてた。
「え?」
「一応、詳しい予定、話しておこうと思って。いいですか?」
「あ。もちろん」
「じゃあまず、食事を――」
ミリセントの声が、悲鳴と歓声とで掻き消された。
ちょうど渋谷駅に繋がる横断歩道の真ん中だった。驚いて騒ぎの方向を見たミリセントも同
じように叫ぶ。
「民田さん、あれ!」
ミリセントが指さした方向を見た尚顕の視界の隅に、緑色の光が横切る。
「タワーバード!」
ミリセントが声を上げ、尚顕の右手を無意識に掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]んだ。
尚顕はそのことにも気づかない。タワーバードを目で追いかけるので必死だった。
本物のタワーバードだった。まさか、この目にできるなんて!
興奮しているのは、尚顕ばかりではない。横断歩道上にいた数百人が、パニック状態だった。
そんな人々の間を、タワーバードは緑色の残像と突風を残して、縦横無尽《じゅうおうむじん》に飛び回る。
速いなんてものではなかった。辛うじて人の目の前に羽根を広げて静止するコンマ1秒の時
だけはかろうじて目視できるが、人と人の間を飛んでいる時などは、一筋の緑色の光にすぎな
い。
「もうすぐくるわ。願い、ある?」
興奮したミリセントが、尚顕に聞いた。
「願い?」
「そう、マクロードさんに託す願い! 私は一度会ってるから駄目かもしれないけど、早くし
ないと、あ、きた!」
ミリセントの言葉が終わる前に、タワーバードは尚顕の目の前にいた。
しかし、尚顕には別に願いなどない。あっという間に持ち時間の0.1秒は使い切った――はず
なのだが……。
「どうして?」
ミリセントが、驚きの声を上げる。
タワーバードはコンマ1秒どころか、1秒2秒と過ぎても、尚顕の前から動かない。
と、いきなり隣へ、ミリセントの前へと移動。尚顕、またミリセント、尚顕、そして!
『ジグリグリルッ!』
この様子を見ていた周囲の人々から、歓声に似たどよめきが上がった。
「タワーバードが鳴いたぞ!」
「お、怒ってるんじゃないの?」
尚顕にも、この威嚇《いかく》するような声は、そうとしか聞こえなかった。
しかも、明らかにタワーバードは尚顕を睨みつけていた。その眉のように伸びている触角状
のものが、震えながらぼんやり輝いている。
タワーバードは、尚顕の顔の前、数センチまで迫る。そしていきなり消えた。直後、尚顕の
髪の毛が、なにもなくなった空間へとなびく。
「あ……」と、ミリセントが声を上げ、東の空を見た。
尚顕がそちらを向いた時には、小さな緑色の点が微かに見えただけだった。
周囲のざわめきは、さらに大きくなっていた。
「一体、なんだったの、今の」
「きっとあれだよ。あいつの彼女がつけてるマスク」
茫然自失の尚顕の耳に、目の前のカップルが言った『彼女』という言葉だけが、なんとか届
いた。
「彼女……?」
そしてやっと気づいた。右手の重さに。まだ東の空を見つめているミリセントの両手でしっ
かり掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]まれている腕に。
「あの……」
「え?」と、我に返ったミリセントは、尚顕の左手が指さす自分の手に気づき、あわてて離れ
ながら、言った。
「でも、なぜ? タワーバードがこんな行動したのって――しかも鳴いたのって多分、初め
て」
尚顕は、まだミリセントに掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]まれた感触の残る腕を意識しながら、言った。
「俺が、なにも願ってなかったからかな」
「なにも?」
「それか、マスクが原因かも」
「マスク? この?」と、ミリセントは自分のマスクに触れた。
「ひょっとしたら、ヤキモチ焼かれたのかも。タワーバードに」
「まさか……。でもマクロードさんも、タワーバードには間違いなく知性があるって言ってた
し」
「……マクロード氏が」
聞き返したかったが、無理やりやめる。約束は約束。
しかし考えないことが、本当に辛くなってきていた。
「あの。まず、食事にしたいと思うんですけど、いいですか?」
「ああ」
うなずいた尚顕は、界児に言われた通り、一番近いマックバーガーヘと向かった。
[#改ページ]
渋谷
二人分のセットメニューをトレイに載せ、尚顕がマックバーガーの隅のテーブルへと戻って
きた。
タワーバードマスクの前にトレイを置きながら座ると、周囲から痛いぐらいの視線が集まる。
「あの……食えるの?」
と、尚顕がちょっと心配そうに聞くと、いきなりミリセントは嘴《くちばし》の下を掴[#「手偏/國」、第3水準1-84-89]み、ぐっと下に
押し下げた。
「へぇっ」っと尚顕は感心する。マスクは本当によくできていた。
ちょうど嘴のあたりから下が取り外しできるようになっており、不自由なく飲食可能になっ
ている。
少し走って喉が乾いたのか、ミリセントはコーラを一気に飲み干し、はぁっと満足気なため
息をついた。
「聞いていい?」
「はい……」
「警戒しないでいいよ。約束は守る。聞きたいの、さっき聞き損《そこ》ねたこれからの予定だから。
渋谷なら大抵、知ってる。どこいきたい?」
「そうですね。もう、十分って気もしてますけど――」
「はぁ? まだ半時間もたってないよ」
ミリセントは、急に焦ったようにハンバーガーの包みを開き始めた。
「い、いえ! 要するに、渋谷をうろうろすることが最大の目的だったんです。もうそれは果
たされてるわけですから」
「……へぇ。そんなもん?」と、尚顕も自分の分のハンバーガーをぱくつく。
「ええ、そんなもんです」
そう言って、ハンバーガーを頬張《ほおば》るミリセントは、確かに楽しげだった。
多分、言った通りなのだろう。大統領の孫娘で、ゴールドメダリストで、マクロード氏と一
番親しい人物にとっては、自由に渋谷をうろつくことが一番の贅沢《ぜいたく》なのかもしれない――と、
これぐらいなら、考えても許されるはずだ――
「あ、でも、そうだ」と、ミリセントは声を上げた。
「あれやりたいです。ゲーム」
「ゲーム?」
「ええ。〈フォトバトール〉つて知ってます?」
尚顕は、ああと呟く。
「やったことないけど、聞いたことあるな。写真撮るゲームだっけ?」
「そう、それです。その、タワーバードバージョンって、あるはずなんですけど」
「わかった。じゃあそれ、探すか」
「はい」
食事を終えた二人は、センター街のゲームセンター巡りを始めた。
すぐに最初のゲームセンターが見つかった。雑多な音楽が鳴り響く店内には、たくさんの若
者たちがゲームを楽しんでいた。
「あ、あった!」と、ミリセントが言って、駆け寄る。
尚顕も後に続いた。それは要するに、カメラマンごっこをするゲームらしい。実際、コント
ローラーもカメラの形――というよりも、一眼レフカメラそのものだ。
間違いなくゲーム機には、『タワーバードバージョン』と書かれてあったが、仲間同士らし
い若者たちの集団が占領しており、ちょっと割り込める雰囲気ではなかった。
「別のゲーセンいってみよう」
尚顕が言い、ミリセントも少し残念そうに、「ですね」と言った時だった。
ゲームをやっていた若者の一人が、ミリセントのマスクに気づいた。
「おい! 本物がいるぜ!」
たちまちミリセントと尚顕は、十人近い若者たちに囲まれてしまった。
「ひょっとして、芸能人ですか?」「カメラ、どこだよ?」
わいわい騒ぎだす若者たちに、尚顕がキレそうになった時、ミリセントが人込みをすり抜け
るようにして空いたゲーム機の前へと滑り込んだ。
嬉々《きき》としてカメラ形の端末を取ったミリセントだったが、「あっ」と、小さく残念そうに声
を上げる。まだゲームは、始まったばかりだった。
「いいよ!」と、今までゲームをやっていた女の子が、ミリセントに言った。
「本物のタワーバードの腕、見せてよ!」
「じゃあ」
ミリセントは、カメラを構え、次々と映し出される映像にレンズを向けた。
構えただけで、お―っというどよめきが若者たちの中から出る。
「本物のカメラマン?」という囁きが漏れるぐらい、その構えは堂《どう》に入《い》っていた。
しかし彼らが驚くのは、ここからだった。
このゲームは、要するにシャッターチャンスを逃さず『撮る』ゲームである。ミリセントは、
次々と現れるコンマ数秒の瞬間を、全く逃さない。そしていきなり、画面に緑の閃光《せんこう》が走った。
「きた!」と、若者たちが怒鳴った瞬間、ゲーム機がびっくりするぐらいの音量で音楽を奏《かな》で
始め、若者たちばかりか、店内すべての視線がこちらに向いた。
一気に歓声が上がる。
「な、なんだ?」と、わけがわからずに驚いている尚顕に、若者たちの一人が喚いた。
「お前、なに冷静な顔してんだよ! 彼女、世界で三人目だぞっ!」
「三人目?」
「そうよ! すっごい! この子、タワーバード撮っちゃった!」
尚顕は、ミリセントの前の画面へと目をやる。そこでは、3D映像のタワーバードが、後光
のような輝きを画面一杯に放って羽ばたいていた。その上には CONGRATULATION の文
字とともに、bRの文字が躍《おど》っている。
「ね! 一緒に写真撮っていいよね?」と、女の子たちが、レンズ付きフィルムを取り出す。
筐体《きょうたい》を前に、次々と記念写真に収まるミリセントを見ながら、尚顕は改めて気づいていた。
ミリセントなら、ゲームのタワーバードなど撮れて当然なのかもしれない。
なにせ彼女は、本物のタワーバードを撮った人間なのだから……。
「ごめんなさい! 私だけ楽しんで」
記念撮影を終えたミリセントが、尚顕に駆け寄りながら言った。
「そんなのはいいけど、ちょっとヤバイ」と、尚顕が周囲を見回す。
どうやら尚顕が思っていた以上に、タワーバードを撮影したのは、渋谷の若者たちにとって
大ニュースだったらしい。ゲームセンターには、どんどん人が増え、タワーバードが羽ばたく
画面を見て、興奮の声を上げ続けている。
そしてタワーバードを撮ったタワーバードマスクの少女には、さらに多くの視線が集まり始
めていた。
「とりあえず、逃げた方がいい」
ミリセントも、うなずいた。
「走ります?」
「うん。出たらすぐに」
囁き合い、店の外に出た二人は、いきなり駆けだした。
案の定だった。
「あ、待ってよ!」「マスク取ってー!」と、店の中から、そして店の外にいた若者たちが、
大挙して追いかけてくる。
しかし、相手はミリセント・カーファクス。尚顕も100メートル、十二秒台。たちまち二人の
姿は、街角へと消えた。
裏通りに入った尚顕は、『コミックタウン』と書かれた大きな看板を目にして、閃いた。前
に一度だけ、慎也と一緒に入ったことがある。あの店内は薄暗くて、それに――
「こっち!」
「はい!」
ビルの階段を駆け上った二人は、薄暗い店内へと入る。
「あ……」と、ミリセントが、驚きの声を上げた。
「ここなら、目立たない」と、尚顕が笑う。
二人の前で音楽に合わせ踊っているのは、アニメのキャラクターの格好をしたコスプレ店員
だ。奇抜なコスチュームを着た店員の半数以上は、素顔にメイクをしているが、数人の顔は完
全にマスクで隠されている。ちょうど、ミリセントのように。
ここでも注目は浴びたが、近づいてくる者はいない。
「暑くない?」と、尚顕は聞いた。
「暑いです」と、ミリセント。
「でも、楽しい。こんな楽しいのって、生まれて初めてかも」
「……逃げるのが?」
怪訝な顔になる尚顕の前で、ミリセントは本当に楽しげに笑う。
「けど」と、尚顕も釣《つ》られて笑顔になりながら、言った。
「やっぱりもう、ここ以外だと限界だと思う――そのマスク。もう渋谷中に広まってるかも。
界児さんから軍資金預かってるし、どっかでカツラとか買って、変装しなおした方がいい」
笑いやんだミリセントは、しかし決然と首を振った。
「駄目です。マスク以外は、やはり」
「けど、カツラでもわかんないって」
「ええ。だと思います。でも、マスクを被ってる限り、私だとわかる可能性はゼロです。眼鏡
やカツラ程度だったら、私だってばれる可能性はゼロじゃありません。白人同士なら、一目で
わかるかもしれません」
「そんなに、ばれたらマズいの?」
「ええ」
「……わかった。じゃ、まだまだ走らなきゃならないってことだ。ついでだし、ここでなにか
飲んでこか」
「コミックタウンで……」
「駄目か?」
「いえ! とんでもない。ここも、とてもきたかったところの一つです」
尚顕は首を傾げる。コミックタウンは、マンガ喫茶とコミック専門の古本屋とが合体した店
で、そんなに感動するような場所だとはとても思えない。
しかしミリセントは、初めてディズニーランドヘいった時の馨とそっくりだった。まるで夢
を見ているような雰囲気だ。
考えちゃ駄目だと自分に言い聞かせながら――本当に苦しくなってきていた――尚顕はマン
ガ喫茶側の自動ドアの前に立ち、ひんやりとクーラーの効いた店内へと足を踏み入れた。
すぐ目の前に、カウンターがある。カウンターの中には、茶髪の店員が座っていた。尚顕は
その店員の顔を見た瞬間、踵を返して再び外へ出ようとした。しかし、
「あれ? 民田じゃん」
遅かった。ニヤニヤしてガムを噛みながらこちらを見ているその店員は、同じクラスの加奈
だった。
「さっき、馨から電話あったよ。あんた、なんかタワーバードマスクに攫《さら》われたって言ってた
けど、その子じゃないよね?」
「お知り合いですか?」とミリセントが聞く。
尚顕は、吐息とともに答えた。
「同じクラスの、前の席の、木江……」
よりによって、どうして加奈のバイト先なんかに入り込んでしまったのか。
しかし、見つかったものは仕方ない。なんとしてでも、口止めしなければ。
と、突然「へぇっ」と言って、加奈が立ち上がり、カウンターを出てミリセントの前へとや
ってくる。
「ふーん……」と呟き、ジロジロと見、さらにその周りをグルグルと回り始めた。
「あ、あのな。木江。ちょっと、頼み、あるんだ」
「なに?」と返事しつつも、グルグル回りはやめない。
「馨たちに、俺たちのこと――っつーか、この子のこと、絶対話さないでほしいんだ」
「なるほどね。つまり、この子だったってわけだ。ドリームカップルの相手」
にんまりと、加奈は尚顕を見た。
「そりゃ、トップシークレットだよねぇ。黙ってやってもいいけど、ただじゃあ駄目」
やっぱりと尚顕は、吐息した。
「……いくら?」
「ばーか。金じゃないよ」
言って加奈は、尚顕からミリセントに視線を移した。
「そのマスク、取ってみせて」
「駄目だ!」と、尚顕。
「どうして?」と。憮然とする加奈は、ちょっと顔色を変えた。
「まさか……噂、マジだったわけ? thino?」
「いや」と、尚顕は首を振る。
「なんだ」
ほっとしたように胸に手をやった加奈は、「だったらいいじゃん。見せてよ、マスク」
「マスク?」
「そうだよ。私か見たいのは、マスク!」
言って、再び加奈は、ミリセントの周りをグルグル。
「しっかし、すごい。よくできてる。ね? 多分、これ作ったの、男の人でしょ? 芸が細か
いもんね」
「え?」と、ミリセントが微かに息を飲んだ。
「売ってるマスクじゃないのか」と、尚顕も驚いて訊ねた。
「完璧手作りよこれ。すっごくいい仕事してる」
「わかるの?」と、ミリセント。
「そりゃね。私、舞台衣装のデザイナーになるつもりだからさ。ここでバイトしてんのも、そ
のため。見たろ? 踊ってるキャラ。あのマスクは大体、私が作ってんだ」
尚顕は、心底驚いて、加奈を見つめた。
「なんだよ、そんな顔で見ないでくれる? いいだろ、一分ぐらい。どんな型どりや縫製《ほうせい》して
るかは、裏から見なきゃよくわかんないんだよ!」
ミリセントは、加奈に告げた。
「いいですよ」
「ほんと? ほんとにいいの?」
「でも、絶対、私の顔は見ないでください。それを約束してくれたら」
「thinoなら見たい気もするけど、違うんだったら、どーでもいいや。早く早く!」
ミリセントは、カウンター脇の暗がりに歩いてゆき、壁に向かうと、マスクを取って後ろ手
に加奈へ手渡した。
いそいそとそれを受け取った加奈は、慣れた手つきで裏返し、再び「すっごい!」と、感嘆
の声を上げた。
「ほんっとによくできてる。ね、プロレスのマスク職人でしょ、これ作ったの」
「残念ながら」と、ミリセントは背中を向けたまま、答えた。
「でも、本人がプロレスやってても、不思議はないかな」
「そんなガタイの人が作ってんの? すごいね」
呆気に取られてこの会話を聞いていた尚顕の脳裏に浮かんだのは、界児の姿だった。しかし
無理やり、そのイメージを消す。考えてはいけない。
「よし、覚えたっと。とても真似《まね》できないけどね、今は。でも、そのうち、そのうち」
言って加奈は、ミリセントの頭に、ポンとマスクを載っけた。
「早くつけなよ」
急いでマスクをつけなおしたミリセントに、尚顕は頭を下げた。
「悪い!」
「案内してくれてるお礼です。でも、民田さんも、いろいろ大変みたいですね」
「まぁ、民田は有名人だからな」
カウンターに戻った加奈は、表紙が見えないぐらいにプリクラが貼られた手帳を取り出した。
そこに、タワーバードマスクのスケッチをしながら、
「あ、そうだ。オマケに一つ情報やるよ」
「情報?」
「ああ。うちのクラスの委員長」
尚顕の顔が、少し曇る。
「……阪本が、なんなんだ?」
「うん。なんか知らないけど、一週間前ぐらいから、変なオタクっぽい奴らとつるんでるよ。
昨夜、コンビニでそいつらと買い出ししてる委員長、見た」
「オタク?」
「そ。噂だけどさ。連中、今日、マクロード氏になにかするつもりらしいよ」
「マクロード氏に?」と、声を上げたのは、ミリセントである。
「なにを?」と、尚顕。
血相を変えて詰め寄る二人に、加奈はむっとして言い返す。
「よく知らねぇよ。昨日コンビニで一緒だった奴が話してたんだ。連中、明日、マクロード氏
がきた時に、なにか飛ばす気だって」
「飛ばすって、なにを?」
「さぁ。噂だって、ただの。そんなに心配だったら、いってみれば? 場所ならわかってるし
さ」
しかし、「いや……」と、尚顕はミリセントを見た。
「今日は、そんなことしてる時間ない。マンガ、読んでくんだろ?」
ミリセントは、首を振った。
「いえ。こんなこと聞いて、マンガを読んでる気持ちになんて……。教えてください、どこな
んですか」
加奈はスケッチをしながら、言った。
「渋谷公会堂近《シブコウ》くの、潰れたガソリンスタンド。聞けばすぐわかるよ」
「ありがとう」
ぺこりとお辞儀《じぎ》するミリセントに、スケッチを中断した加奈が声をかけた。
「あのさ、一ついいかな?」
「え?」
振り返るミリセントに、加奈はちょっと照れたように言った。
「そのマスク、作っていい? そこまでの仕事はできないけど、作ってみたいんだ」
一瞬、戸惑いを見せたミリセントだったが、
「ええ。きっとこれを作ってくれた人も、喜ぶと思います」と、答えた。
「ありかと! じゃあね」
再び渋谷の街中へと駆けだしながら、尚顕はミリセントに言った。
「いいのか? ほんとに」
「ええ。とにかく確認したいです。その人たちが秘密にマクロードさんを歓迎するつもりなら、
もう一度ここへ」
「……」
尚顕は眉を寄せた。
啓二の最近の言動を考えると、どう見てもマクロード氏を歓迎するつもりだとは思えなかっ
た。ひょっとしたら、危険なことになるかもしれないという気がする。
「やっぱり一度、界児さんに相談した方がいい」
しかしミリセントは、走りながら首を振った。
「いえ。界児さんにとっても、今日は貴重な日なんです。できれば邪魔をしたくありません。
それに、私、これでも強いんですよ」
「は?」
「界児さんから、いろいろと教わってます。ですから、私のことに関しては心配無用です」
「なるほど……」
あの界児からいろいろ仕込まれているなら、ひょっとしたら尚顕なんかより遙かに強いのか
もしれないという気はした。
「でも、慎重に。俺、約束したから。二時まで相馬さん、守るって」
「……ありがとう。ええ、無茶はしません。作戦は、ちゃんと二人で立てましょう」
「了解。とにかく、まずは連中のアジトを見つけよう。こっちだ」
尚顕は言って、スピードを速めた。
「はい!」と答え、ミリセントが楽々と追ってくる。
二人は、通行人が唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然とするほどのスピードで、渋谷の街中を駆け抜けていった。
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夢の終わり
加奈が教えてくれたそのガソリンスタンドは、裏手に整備工場も併設された大きな建物だっ
た。
閉鎖してまだ二カ月ほどしかたっていないので、結構まだ綺麗で、一見、妙な雰囲気は感じ
られなかった。
しかし、ベニヤ板で目張りされた建物の中からは確かに微かな物音が時たま聞こえてくる。
誰かが内部にいることは間違いない。それも一人二人ではなく。
「じゃあ、私、裏手から塀《へい》を乗り越えて、忍び込みます」
「俺は、正面の二階から。誰か見つけたら、引き返す。誰もいなくても、十分後、ここに集
合」
「ええ。じゃ」
尚顕とミリセントは、小さくうなずき合い、隠れていた自動販売機の脇から二方向に分かれ
て駆けだした。
薄暗い整備工場の中では、十人以上の男たちが、なにやら黙々と作業を進めていた。
色を塗る者、複雑ななにかの部品を組み上げている者、一抱えもある大きなラジコン用のコ
ントローラーをテストしている者。
彼らの中央に置かれているのは、全長3メートル近い鳥形の物体だった。せっせと緑色に塗
っているところを見ると、タワーバードを模しているようだが。寸胴でみっともなく、本物が
見たら絶対許さないような代物《しろもの》だった。
「それで、なにをするつもりなの?」
その突然の声に、作業していた男たちは、びっくりして顔を上げた。
室内に、もう一羽のタワーバードが現れた。
とはいえ、こちらは首から上だけ。しかしそのマスクのできは、彼らが一週間かけて作り上
げたものとは雲泥《うんでい》の差だった。
タワーバードマスクは、どちらかといえば小太り気味の男たちの手元を、次々と見ていった。
「爆竹《ばくちく》と自動発火装置? そっちで作ってるのはゴンドラと、その切り離し装置ね。そして、
このタワーバードの気球――こんなのがマクロード氏の歓迎になると思うんですか?」
「な、なんだよお前……」
長髪で痩《や》せた男が立ち上がり、憤然とした目で闖入者《ちんにゅうしゃ》を見据えた。
「僕らは別に、マクロードを歓迎するつもりなんてない」
全員が、なんだこいつという目で、ミリセントを見つめる。しかし動じる様子もなく、ミリ
セントは静かにリーダーらしきその男に聞いた。
「じゃあ、なんの目的でこんなところに集まってるんですか」
「ここに集まったのは、僕がネット上で見つけて、密かに集めた同志たちだ」
「なんの同志?」
「マクロードの正体を、全世界に暴《あば》くための同志さ。塔の祭壇に登る前に、あいつの正体を暴《あば》
いてやるんだ。あんな卑怯者《ひきょうもの》、目の前で爆竹が爆発するだけで、ションベンちびって逃げだ
すに違いないんだ」
「マクロードさんが、卑怯者?」
「そうだろ? 塔なんて使わなくても、どんな願いも望むままだ。知ってるだろ? マクロー
ドを陥れた例のイギリスの銀行、ついに倒産だ。当時の上司や同僚で、自殺者四名、行方不明
七名。行員だっただけで、家に放火された者までいる」
「マクロードさんが望んだとでも?」
「まぁ止めようとはしたさ――ポーズだけな。ポーズをつけるのはうまいよな、ほんとに。あ
いつは史上最悪の偽善《ぎぜん》者だ。自分の手を汚さずに、好き勝手してる卑劣な奴だ。オゴディ使っ
て金集めて、ニコライ使って女集めて。みんな、マクロードが『選ばれし者』だから、見てみ
ぬふりしてるだけだ。尻尾《しっぽ》振って、知らないふりしてるだけじゃないか!」
「なんですって……」
忍び込む際に打ち合わせた通り、無人の部屋の様子を調べている間に十分が過ぎ、外に出よ
うとしていた尚顕の耳に、その叫び声が届いた。
「マクロードさんは、そんな人じゃないっ!」
電気ショックを受けたようにビクッとなった尚顕は、弾けるようにして声の方に向かって駆
けだした。
「無茶しないって言ったの、誰だ!」
舌打ちしながら尚顕は、声がした方向へ全速力で走る。
広々とした整備工場内。そこで尚顕が見たのは、たった一人のミリセントが、十人以上の男
たちを工場の片隅に追い詰めている光景だった。その男たちの中に、尚顕は啓二の姿も見つけ
ていた。
「な、なにが違うんだよ! 僕は、全部調べ上げたんだからなっ!」
リーダーの叫びに、ミリセントは苛立たしげに言った。
「なにをどうやって、どれだけ調べたかは知らない。でもそれは嘘です。大嘘よ」
「嘘じゃない! お前こそ、なんだ! なんなんだよ、お前っ! この暑いのに、タワーバー
ドのマスクなんかして! まぁいいや。こんなヘンタイに邪魔されてたまるか。こっちはこの
計画に二週間もかけてきたんだ。みんな、こいつを捕まえろ。でないと、せっかくの計画が終
わりなんだぞっ!」
しかし男たちは、互いの顔を見合わせるばかりで動こうとしない。
「なんだよ! そうだ、阪本! 君が一番若いんだろ。一番マクロードが憎いんだろ。つかま
えろ!」
「は、はい……」
啓二が青い顔して立ち上がり、眼鏡を直しながら、ミリセントを見た。
「阪本っ!」
尚顕が怒鳴り、室内へと駆け込んでくる。
「お前、ほんっとに腐《くさ》った奴だよなっ!」
「た、民田っ……」
尚顕の顔を見た途端、啓二の顔はさらに青ざめ、後退《あとずさ》る。
「民田……なんでお前、ここに!」
「決まってるだろが! お前ら止めるためだ!」
「リ、リーダー、あいつは危険です。馬鹿だが、喧嘩だけはやたら強いんだ」
泣き言を言う啓二を、長髪のリーダーが後ろから蹴った。
「も、もういい! みんなで一斉にかかるんだ。僕らは、世界のためにこの計画を進めてるん
だ――世界を救うために。でも、いいか? もしこの計画がマクロードの正体を暴く前にばれ
たら、どうなるかわかってるのか? マクロードは――あの詐欺師《さぎし》は、今は世界の王様だ。逆
らった奴は、下手したら死刑だぞ!」
「で、でも、もう通報されてるかも……」
「通報する頭のある奴なら、一人や二人で乗り込んでなんてこない! やれっっ!」
リーダーの狂ったような金切り声に、当惑していた男たちの顔にも、ようやく決意のような
ものが表れていた。
三人ほどが、のっそりと立つ。そうすると、あわてて他の全員が後に続いた。最後に立った
のは啓二だ。
「相馬さん」と、尚顕がミリセントに駆け寄り、その前に立った。
「出よう。警察だ。こんな連中、話し合う値打ちない!」
だがしかし、ミリセントは動かない。じっと近づいてくる男たちを――そしてリーダーを睨
みつけ、そして一気にマスクを剥ぎ取った。
青い瞳が男たちを睨みつける。突然現れたミリセント・カーファクスの顔に、男たちの動き
が凍りつく。狂ったように興奮していたリーダーの顔までが、まるで魂《たましい》を抜かれたようにな
る。
「私が誰か、わかりますよね? この私が断言します。マクロードさんは、ニコライを利用し
て女性を集めたりなんかしていません。確かに命の恩人のニコライには、マクロードさんも感
謝しています。信頼しすぎていると言ってもいいかもしれない。でも、彼の行動には、マクロ
ードさんの意図は全く働いていません」
「ニ、ニセモノだ。こんなところに、ミリセント・カーファクスが、いるわけない――」
「聞いて!」
ミリセントの気迫が、氷のような青い瞳が、男たちをその場に射すくめた。
「なぜオゴディさんが、あんなにも必死になって金品を集めてるのか教えてあげます。知って
るからです――マクロードさんの運命を」
「運命?」と、かろうじて声にできたのは、尚顕だけだった。
「ええ」と尚顕に答え、ミリセントは視線を男たちのリーダーに向けた。
「今は確かに、あなたが言った通り、マクロードさんは世界の王です。祖父など比べものにな
らない、史上最高の権力者です。でも。願いをかけ終えた後は?」
「後……?」
「そう。願いをかけた直後から、マクロードさんは、ただの人です。そして、彼を待ってるの
は残酷な仕返しです――権力を持っている者たちの。たとえ数カ月であっても、たかが一介の
ガイドだった人間に対し屈辱《くつじょく》を味わった人たちの」
「まさか……」と呟いた尚顕に、ミリセントは小さく首を振り、答えた。
「……本当のことです」
涙を堪えているような表情だった。暗く重い声だった。
「オゴディさんも、それを知っています。彼があんなに必死に金品を集めているのは、そのた
めです。願いを終えた後の、用済みになった選ばれし者を、オゴディさんは、たとえ一人にな
っても守ろうとしてるんです。そして、マクロードさんが――私やオゴディさんと同じことを
十分わかってるマクロードさんがなにも受け取ろうとしないのは……」
両の拳を握りしめたミリセントは、男たちをキッと睨みつけた。
「死ぬ気だから! 塔に選ばれて、あのバリアーを抜けて戻ってきた時の顔を見たでしょう。
マクロードさんは、その時、もう覚悟を決めてたの! あの顔は――笑顔は、死を覚悟した人
のものなのっ! なにが詐欺師よ! なにがっ!」
叫んだミリセントは、いきなり側にあった部品たちを蹴り、踏み潰し始めた。
しかし、リーダーを含めた男たちの誰も、ぽかんと見守るばかり。半分以上が、腰を抜かし
ているようだ。
数分たたないうちに、彼らの数週間の努力の成果は瓦礫《がれき》の山と化していた。
肩で息をついていたミリセントは、再びタワーバードマスクを被り、早足で忍び込んだ裏手
の方へと歩いていく。
尚顕は、ちらっと啓二を見た。他の男たち同様、茫然としていた啓二は、尚顕の視線に気づ
くと真っ青になって俯いた。
尚顕は一瞬睨みつけると、ミリセントの後を追いかけた。
塀を乗り越えると、ミリセントが道端に佇《たたず》んでいた。
近づくと小さく、「最低……」という声が聞こえた。
「自分の感情もセーブできないなんて」
「でも……どうして?」
考えるなと言われても、もう我慢できなかった。
「なんて顔を? 俺や木江には、あんなに見せたがらなかったのに」
「民田さんに見られたのは、今でも後悔してます。一生……するかもしれない。でもあの連中
に見られたことに関しては、全然」
「一生? ……でも、もし、あいつらが話したら?」
「構いません」
びっくりするぐらい冷たい声だった。尚顕は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「それと、ほんと? さっきの話。願った後のマクロード氏に対する、権力者たちの……」
ミリセントは小さくうなずいた。
尚顕は、戸惑いながら、訊ねた。
「マクロード氏、そのことに気づいてるんなら……だったら、塔に願えばいいだげだと思うけ
ど」
するとミリセントは、言った。
「……私とオゴディさん、それから界児さんも、こう思ってます。マクロードさんは、きっと
一つのことしか願わないって」
「……一つ?」
「地球環境の浄化――それだけ」
「まさか……国連に任せるって言ったのは、マクロード氏だし」
「ええ。でも、あの時、塔の下《もと》から戻ってきたマクロードさんは言ったの。人が汚してしまっ
た地球には、詫《わ》びなければならない。でも人間は、自分でできることまで頼るべきじゃないっ
て」
「自分で、できること……」
尚顕を、じっと見ていたミリセントだったが、やがて腕時計に目を落とした。
「時間ですね。そろそろ、いきましょう。上野へ」
尚顕とミリセントは、JR渋谷駅から、山手線で上野へと向かっていた。
車内で尚顕は、隣に立つタワーバードマスクに小声で話しかけた。
「あいつらのお陰で、渋谷の街、あんまり見て回れなかったな」
「ええ。でも全然、満足してます。民田さんのお友達とも知り合えたし。ついでに日本の名誉《めいよ》
も救えました」
「あ、そうか。もしあの計画が実行されてたら、ロシアの二の舞だったよな」
「ね」と、ミリセントは言って、小さく息を吐にいた。
「それに、なんだかいい気分。時々キレるのも悪くないのかな」
「それは……」と、尚顕は首を振った。
「あんまりしない方が。あいつら半分以上、気絶しかけてた。まるで、界児さんみたいだった
し」
途端、ミリセントは困ったように押し黙る。
「あ」と、尚顕は焦った。
「これも言ったら駄目なのか?」
「……そうですね」
「ごめん」
「謝るのは、私の方です……」
気まずい沈黙がしばらく続き、そして車内に上野到着のアナウンスが流れた。
常の土曜日なら、乗降客で一杯のはずの上野駅。
しかし、都内すべての公共施設がマクロード氏来日のために休んでいるこの日、駅構内も公
園内も、人影はまばらだった。
公園が広い分、寂しさが際立《きわだ》つ。
尚顕は、国立博物館に向かって歩きながら、隣に声をかけた。
「暑くない?」
タワーバードの顔が小さく左右に揺れただけで、声は返ってこない。
現実での初対面の時――あのスイートルームに入っていった際、彼女に感じたバリアーのよ
うなものが、再びきっちりと張りめぐらされているようだった。理由は全く不明だけれど、界
児と似ていると言ったことが、よほどまずかったらしい。
しかし、なぜ?
いくら約束とはいえ、もう考えずにいるのは不可能だった。
界児がただのボディガードであるとは思えなかった。
先程、男たちに向けたあの視線は、界児の『蛇睨み』と、どこか通じるものを確かに感じた。
界児、ミリセント、そして、そう。この人物を忘れてはいけない――thino。
三人の名前を心の中で並べた途端、尚顕は、はっとした。
なにかが心に浮かんだ。それは、ものすごく簡単なジグソーパズルのようだった。でも、一
つ重要なピースが足りない……。
考えながら歩いていくうちに、道路を挟んで、国立博物館が見えてきた。尚顕がここへくる
のは、小学校の校外学習以来だった。あの時の弁当が、亡くなった母の最後の……。母?
一瞬、尚顕の呼吸が止まる。
ピースが見つかっていた。thinoは、確かに彫りが深く日本人離れした容姿ではあるが、
誰がどう見たって日本人だ。彼女の父親は、日本人に違いない。
しかしthinoの妹は?
thinoの妹の父親も、日本人である必要はなかった。
thinoの母親が、純粋な日本人である必要もなかった。
しかし、『まさか』と、尚顕は心で笑う。
ミリセント・カーファクスが、thinoの妹?
そんな馬鹿な話なんて!
だがそう考えると、辻褄《つじつま》は合う。
なぜミリセントのボディガードの界児が、 thinoと一緒に帰国したのか。
なぜ考古学に強い母というキーワードが、thinoとミリセントと共通なのか……。
thinoの日記。一月以上前に読んだ文章を詳しく記憶できるほど、尚顕の頭のできはよ
くない。けれどあの日記には、この尚顕の説を補強する証拠が、まだまだ眠っているような気
がした。
自分の思いつきに驚き、戸惑いながら歩く尚顕の周囲では、まばらだった人影すらなくなっ
ていた。二人は砂利《じゃり》道を踏みしめながら、横断歩道の前までやってきた。
尚顕は、腕時計を見た。ほっとする。二時五分前だった。この約束は、守れた。
博物館の門は閉まっていたが、界児の言葉では通用門が開いているはずだ。そしてそこで、
尚顕の役目も終わる。
信号が替わった。ミリセントが先に立って渡り、通用門の前に立って尚顕を振り返った。
「間に合ってよかった」と、尚顕は言い、ミリセントを見た。thinoの異父妹かもしれな
い少女を。
確かめたい衝動にかられたが、堪《こら》える。その約束も守ろうと思った。
「それじゃ」
それだけ告げ、踵を返した尚顕に、
「待ってください」と、ミリセントが呼びかけた。
振り向く尚顕に、ミリセントがすっと右手を差し上げた。
戸惑いを感じつつ、出した尚顕の手を、ミリセントは軽く握った。彼女の手は、びっくりす
るぐらい温かだった。するとさらに彼女の左手が上がり、そっと尚顕の右手の甲も包み込んだ。
そして両の掌が、尚顕の手を握りしめた。
尚顕の呼吸が止まった。こんな優しく、温かな握手があるなんて、想像もしたことがなかっ
た。
「……これ、私の父さんの握手です」
それだけ告げ、ミリセントは手を離すと通用門に向かった。鍵は界児の言った通りに開いて
いた。中へと素早く入り、そして閉める。
施錠の音を聞きながら、尚顕は、まだその感触が残る手を、ほーっと見つめた。
やがて、尚顕の顔に笑みが浮かぶ。
ミリセントが本当にthinoの妹であろうとなかろうと、もうどうでもよかった。この握
手だけで十分だった。できれば一生洗いたくない気分だ。
信号が再び青になっている。
三時間の夢から醒めた尚顕は、現実の世界へと戻っていった。
[#改ページ]
緑の月
銀座、中央通り沿いは、呆れるほどの人出だった。これに比べれば杖が降ってきた翌日の高
校前の騒ぎでさえ、大したことではないように思える。
尚顕は、上野公園の公衆電話で馨たちと連絡を取ろうかとも思ったのだが、やめた。
なんとなく会いたくない気分だった。
というより、ミリセントのことを誰にも話したくない自分がいた。
約束を大体において果たせたという達成感、充実感があるのに、不思議なぐらい落ち込んで
いる自分がいた。
こんな不思議な気持ちは初めてだった。
しかし、マクロード氏の姿はテレビなんかではなく、この目にしたいと思った。
だから尚顕は今、ここにいる。待ち合わせ場所の和光の時計台が辛うじて見える歩道の上に。
凄まじいばかりの雑踏の中に。
ビルの谷間、青空の中に薄く丸い月が浮かんでいた。その薄白い月の近く。
「あ?」
なにげなく空を見上げていた尚顕は、小さな緑の点に気づいた。
緑で飛ぶモノと言えば、思いつくのはタワーバードである。しかし今、空にある物体の動き
は、タワーバードにしては遅すぎるようだった。
「あれ? タワーバードかなぁ」
近くから誰かの会話が聞こえてくる。
「それよ、それ! どういうことなのかな」
「なにが?」
「なにがじゃないよ。タワーバード! 私たち、ギリギリアウトだったみたいなの」
「ギリギリアウトって?」
「最後の目撃、渋谷だったんだって。いきなり東に飛んでったんだって。きっとアメリカだよ。
そりゃないよね、ずっと待ってたのにさ!」
尚顕は、東の空を見つめた。
ひょっとしたら、自分がその日本で最後のタワーバードの目撃者――というより、タワーバ
ードを怒らせてしまい、渡米させてしまった張本人なのかもしれない。
気がつくと、沿道のざわめきは、さらに大きくなってきていた。同時に上空にヘリが近づい
てきている。多分あのヘリコプターの下にマクロード氏を乗せた車が走っているはずだ。
少しでも前ヘいこうと人込みの中に食い込みながら、尚顕は再び視界の隅に見える緑の点に
気づいていた。なんとなくだが、次第にそれが大きくなってきているような気がした。
しかしその戸惑いは、大歓声に掻[#「手偏/蚤」、第3水準1-84-86]き消される。
「きたきたきた!」と、誰かが興奮して叫んだ。
沿道のビルから、大量の紙吹雪が舞い始めていた。
最初に現れたのは、米軍の装甲車の群れだった。まるで鋼鉄の壁が動いてきているかのよう
だ。お陰で、後に続くマクロード氏の車は全く見えない。
それでも人々の熱狂は、高まるばかり。降る紙吹雪で、目の前が見えなくなるほどだ。
装甲車の群れが、轟音《ごうおん》を立てて尚顕たちの前を通り過ぎてゆく。その後にパトカー、さらに
白バイ。
「おい、空のあれ、なんだ?」
誰かの叫び声が小さく届き、はっとして尚顕は空を見上げた。
緑の物体は、もはや点ではなかった。
「タワーバード!」
より大きな歓声が上がる。紙吹雪舞う中へと、タワーバードはまっしぐらに舞い降りてきた。
しかし、数時間前、間近で鳥を見ていた尚顕は、その飛び方に奇妙な違和感を感じていた。
「……違う」
尚顕は次の瞬間、大歓声の中、叫んでいた。
「タワーバードじゃないっ!」
彼には見えた――尻尾の根元でプロペラが回っているのが。あれは人間が作ったものだ。
ラジコンだ!
一瞬、あのガソリンスタンドの連中の仕業《しわざ》かと思ったが、すぐに違うとわかった。あんな不《ぶ》
細工《ざいく》な作り物とは、まるでレベルが異なる。シルエットだけなら、本物にしか見えない。きっ
とあいつらだ。ニュースでやっていた、日本に潜入している爆弾専門のテロリストたち!
タワーバードのラジコンは尚顕の上空でくるりと一回転し、凄まじい勢いで急降下を始めた。
ちょうど銀座三越前の四丁目交差点に差しかかり、左折のために減速したマクロード氏を乗
せたベンツヘとまっしぐらに突進し、ベンツの直前の路面に激突!
――ドドン!
爆光と爆風が路面をなぎ払った。白バイ数台が横転して横滑りとなり、急ブレーキを踏んだ
パトカー数台が玉突き衝突を起こす。
沿道を埋めつくす数十万人の口から、悲鳴と叫びが放たれた。
マクロード氏を乗せたベンツが、まるで亀のようにひっくり返った姿で、燃え上がっていた。
「馬鹿野郎っ!」
尚顕は大声で怒鳴った。
なぜこんなことをする必要がある!?
どうせマクロード氏は、死ぬつもりなのに。願いさえ――地球環境さえ元に戻せたら、命を
捨てるつもりでいる人を、どうして!
パニック状態の喧騒《けんそう》の中、尚顕の背中がブルブルと震え始める。
一瞬、あまりの怒りのせいかと思ったが、違った。震えは背中の一点だけだ。
「……あ!」
思い出した。
尚顕は茫然とした群衆を掻[#「手偏/蚤」、第3水準1-84-86]き分け、なんとかスペースのある場所まで抜け出した。
背中のバックパックを開け、中に手を突っ込む。
出てきたのは、通常の数倍の大きさの携帯である。
ミリセントがthinoの妹ではないかと思いつき、さらにはあの握手で動揺し、すっかり
返すのを忘れてしまっていた。
携帯はずっと振動を続けている。尚顕は怒りと興奮のため微かに震える指で光っているボタ
ンを押し、携帯を耳に当てた。
『尚顕、よかった、まだ持っててくれたか』
「すみません、返すの忘れて」
『そんなことはどうでもいい。見てたんだろ? マクロード氏へのテロ!』
「もちろん。許せない。マクロード氏を殺すなんて」
『全くだ。しかし絶対とはいえないが、多分、大丈夫だ。あのタワーバードの大きさ程度だっ
たら、どんな高性能火薬でも、要人用に防弾防爆処置をしてあるベンツの装甲は貫けないはず
だ。もちろんとんでもない衝撃はあったはずだから、無傷だとは言えない――あ、見てるな?
テレビ。今、救出されたぞ。マクロード氏は自分でなんとか歩いてるし、オゴディはピンピン
してる』
「マ、マジで?」
『マジだ!』
尚顕は、心の底からほっとした。涙が出てきそうだった。
『尚顕。聞いてるか?』
「あ、はい。わかってます。携帯とお金」
『もう一度、博物館へきてくれるか』
「今から?」
『ああ。ただし、携帯と金を返してくれなんて話じゃない。助けてほしい』
尚顕は、一瞬自分の耳を疑った。
「……助ける? 俺なんかが、界児さんを?」
『俺なんてどうでもいい。ミリセントだ。あいつを助けてやってくれ。今、この日本で頼れる
のは、君だけなんだ』
「……はぁ?」
『おい、腑抜《ふぬ》けるな。ジョークじゃない。引き受けてくれない限り、なにも話せないが、もし、
助けてくれるつもりかあるなら、すぐにきてくれ』
そして一方的に電話は切られた。
「ミリセントを、助ける……?」
あの界児の声。真剣な口調。冗談だとは、とても思えなかった。
だとしたら……。
と、その時だった。
尚顕の中で、忘れかけていた感覚が、いきなり甦った。
「え?」「なにこれ」「あれれ?」
尚顕だけではなかったようだ。周囲の人々も、同じ体験をしているらしい。
それは『塔』に――そして『杖』に感じていたのと、全く同じものだった。
尚顕は『引っ張られ』ている方角へと顔を向ける。すると自然と、再び空を見上げていた。
ビルの谷間。そこに浮かんでいる、青白いクラゲのような満月。
「……月?」
ぽかんと呟いた尚顕は見た。その月がどんどん巨大化し、やがて元の二十――いや三十倍に
まで膨れ上がってゆくのを。
マクロード氏の無事を確認し、やっと落ち着きを取り戻しかけていた周囲から、再び悲鳴と
どよめきとが上がり始める。
巨大化した月――それがいきなり、目にも鮮やかな緑へと変かった。
緑に変色した巨大な月の中に、ぼんやりとなにかが映り始める。急速に、その形を整えてゆ
く。
そこに現れたのは、目を閉じた人間の上半身だった。
地球上のどの人種とも異なる、不思議な容貌《ようぼう》をした十代前半と思える少女の半身像だった。
唖[#「口/亞」、第3水準1-15-08]然として見守る尚顕たちの前で、いきなり少女の目がカッと見開かれた。
まるで血のように赤い瞳が、人々を天から睥睨《へいげい》する。
そして、彼女の口が開き、その言葉が雷鳴のように尚顕たちの脳裏に轟《とどろ》いた。
『探しなさい! なにものより優先して!』
[#地付き]『ミドリノツキ〔上〕』完
[#改ページ]
あとがき
初めまして。あるいは、半年ぶりです。この本を手に取っていただき、本当に、ありがとう
ございます。
この物語は、初めて書く上下巻ものです。担当編集者の太田さんからは(今回こそ、ほんっ
とに、ご迷惑かけました)、星虫《ほしむし》世界のアンソロジーをということだったのですが、少し違う
ものがやりたくなり、無理を言って、先にこちらを書かせてもらいました。
しかしゲラチェックを終えた今の正直な感想は、やんなきゃよかった……。
誤算だらけでした。中でもキャラクター。ごくごく普通の主人公たちで、地球的規模の大事
件を描いてみたかったのですが、実際書いてみると、これが面白くともなんともない。
一時は途方に暮れましたが、刊行日は半年前から決まってます。自分の勝手で始めたことで
す。かなり強烈な修羅場《しゅらば》も経験してしまいましたが、なんとか間に合いました。少なくとも、
買っていただいても良心が痛まない物語には、なっていると感じています。
楽しんでもらえるといいのですが。そして読了後、下巻も読みたいと思っていただけている
ことを、今は祈るばかりです。
[#地付き]岩本隆雄
[#改ページ]
底本
ソノラマ文庫<936>
ミドリノツキ〔上〕
2001年06月30日 第1刷発行
著者――岩本《いわもと》隆雄《たかお》
2009年10月25日 入力・校正 ちんすこう