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男は女のどこを見るべきか
岩月謙司
目 次
はじめに
序 章[#「序 章」はゴシック体] 恐るべし、女のカン
第一章[#「第一章」はゴシック体] 女性にとって快―不快とは何か
第二章[#「第二章」はゴシック体] 女性の思考と行動の特性
第三章[#「第三章」はゴシック体] 愛された女性と愛されなかった女性
第四章[#「第四章」はゴシック体] 女性は記憶を改ざんする
第五章[#「第五章」はゴシック体] 男は女のどこを見るべきか
終 章[#「終 章」はゴシック体] 男女には違いがあるから意味がある
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はじめに
前作『女は男のどこを見ているか』は、たくさんの男性読者の支持を受け、発売後一年で二十万部を突破するベストセラーとなりました。この場をお借りして、厚く御礼を申し上げます。たくさんのお便りもいただきました。たとえば、埼玉県にお住まいの若い男性、Kさんからは、心と命を救われました、というお便りをいただきました。本当にありがたく思っております。また、女性読者からも、男性に求めていることや男性に対して感じている不満が言語化して書いてあって、深く納得しました、という声が多数ありました。女性に賛同されることは著者としてうれしい限りです。
しかし、一方で、批判の声もたくさんありました。また、新聞や雑誌でたたかれたりもしました。女性が男の過去まで見抜けるわけがないだろう、という批判や、英雄体験ですべてが解決するわけではないだろうという批判が多かったように感じます。曲解や誤解による批判もたくさんありました。
そこで、今回は、前作で触れなかった女性特有の思考方法を解説し、それをふまえて男性は女性のどこを見たらいいのか、ということをお話ししたいと思います。
さて、批判の中には、男と女はそんなに違うのか、というものが多数ありました。しかし、考えてもみてください。二十歳の女性は、ほとんど例外なく恋愛に強い興味を示すばかりでなく、服装や髪型、化粧などにも強い興味を示し、かつ、莫大な投資(お金と時間の投資)をしています。男性も、恋愛に興味は示しますし、化粧する人もいますが、その投資額はケタ違いです。
「アンアン」や「ノンノ」など若い女の子向けの雑誌を見ても、男女の違いは一目瞭然です。雑誌の内容の違いこそ、男女差そのものです。
お金があったら、女の子はイヤリングや洋服やエステに投資し、男の子はクルマやバイクに投資します。男女で共通することもたくさんありますが、異なることもまたたくさんあります。
人は自分の経験したことを基に思考しますので、女性にはこういう傾向があります、という話をされたとき、自分の接した女性たちを思い浮かべながら、本当かどうか検証し始めます。サンプル数が少ないと、生物学で言うところの「びん首効果」のような現象が起こってしまった男性もいたかもしれません。また、どれだけ深く女性を理解しているか、という深さも人によって違います。こうした理由で誤解された読者がいたかもしれません。
表面だけ見れば、男女差はあまりありません。実際、大脳の新皮質を使う勉強や仕事などでは、むしろ、差がないほどです。個人差のほうがはるかに大きいものです。
しかし、死ぬの生きるのという極限状態になったとき、その人の本性が出ます。その人の個性だけでなく、男性としての本質、あるいは女性としての本質が飛び出してきます。
私はこれまで、十年以上、ボランティアで育て直しという活動を夫婦でやってきましたが(ただし、いまは諸般の事情によりやめています。中止した詳しい理由は、『ムリして頑張って何になる』〔ドリームクエスト〕に書いてありますのでご覧ください)、しばしば人の極限状態と出会います。ギリギリまで追いつめられた人間を何十人も見てきました。そういう修羅場のような現場でしみじみと思うのは、ああ、男と女は違うものだなぁ、ということです。そうした体験で発見した男女の思考のしかたの違いをこれから本書で明らかにしたいと思います。
さて、男性にとって女性は常に不可解な存在です。神秘的存在でもあります。その理由は、単純です。男性は女性が理解できないからです。理解できない分、不思議に見えるのです。
しかし、女性は、男性のことを神秘的だとは思っていません。また、男性を不可解な存在だとも思っていません。なぜなら、女性は、男性をかなり理解できるからです。女性が理解できないのは、男性の強い性衝動くらいなものです。男性は女性の心(行動の意思決定のしかたなど)を見抜けなくても、女性はけっこう男性の心を見抜いているのです。だから、夫の浮気はバレても妻の浮気はなかなかバレないのです。
女性のカンは、男性の想像をはるかに超えたすごいものです。観察力も男性の何倍もすぐれています。相手の仕草や表情から、男性の心のすべてを読みとってしまうのです。こうした女性のカンの秘密にも迫りたいと思っています。
誰も書かなかった女性の秘密を明らかにすることで、男性が、女性のどこを見て、どう理解すればいいのかをこれからお話ししていきたいと思います。
最後までおつきあい願えれば幸いです。
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序 章[#「序 章」はゴシック体] 恐るべし、女のカン
†女のカン[#「†女のカン」はゴシック体]
サラリーマンのAさんは、ある日、美人受付嬢から、仕事を手伝ってくれたお礼にと、ハンカチをもらいました。Aさんの好みの柄のハンカチでしたので、Aさんはとても気に入り、さっそく使い始めました。
その日、Aさんは、恋人のB子さんとデートでした。Aさんがそのハンカチをポケットから取り出した途端、B子さんは、「それ、女の子からもらったでしょ」とAさんに詰め寄りました。
Aさんは、「えっ? どうしてわかるの?」と驚きました。Aさんは、その受付嬢は好きでしたが、だからといって特別な恋愛感情をもっているわけではありません。「これは、仕事を手伝ったお礼にもらったものだよ」と正直にB子さんに言いました。
すると、B子さんは、「うん、わかるよ、正直に言ってくれてありがとう」と言うのです。驚いたのはAさんです。どうしてそこまでわかるのか、さっぱりわかりません。
B子さんは、女の子からもらったものであることを見抜いたばかりか、Aさんと贈り主との関係まで見破っているのです。
だからAさんの話をB子さんは、すんなりと納得したのです。B子さんは、決してAさんの話を鵜呑みにして納得しているわけではありません。女性はちゃんとチェックして納得しているのです。
†どうやって見抜いているのか[#「†どうやって見抜いているのか」はゴシック体]
ではB子さんは、いったいどういう方法でAさんの真実を見抜いたのでしょうか。
まず、Aさんのハンカチを見る目です。そして、ハンカチをつかむときの手つきです。いつもと違う目線、あるいは、いつもと違う手つきに気がついたのです。女性は、かくも観察力が細かいのです。そして、いつもと違ったものを感じると、その原因を探ろうとするのです。
Aさんの場合、ハンカチを中心に、目と手の動きがいつもと違っているので、彼はこのハンカチを自分で買ったのではない、ということがB子さんにバレているのです。もし受付嬢と浮気していたら、こうやってバレるのです。男性は注意が必要です。
そして次にB子さんは、彼の目線と手つきを見て、母親や姉など身内にもらったものか、それとも、若い女の子にもらったのかを探ります。両者の微妙な違いを見分けるのです。
もし、身内でない場合は、すぐに、「どうしたの?」と質問をします。怪しいと感じているのです。
次に、Aさんの返事の内容をチェックします。もし、自分で買った、などと言おうものなら、自分の見抜いた内容と違いますから、容易に納得しません。B子さんが納得するまで、質問を繰り返します。
今回、Aさんは、正直に答えました。B子さんが見抜いた内容とAさんの回答内容が一致しています。これをもってB子さんは、彼は正直に自分に話をしていると判断したのです。決してAさんの話を鵜呑みにしているわけではないのです。
また、女性は、こういう場合、Aさんの声や顔の表情の微妙な変化を読みとっています。ウソをつこうとして出している声か、本当のことを言おうとしている声なのか、見分けています。ふだんから、恋人の声の調子や表情をチェックしているのです。こういう声はごまかそうとしているときに出す声だとか、ああいう声は自分を責めるときに出す声だというふうに記憶しているのです。
ですから、今回は、B子さんは、ダブルチェックした結果、Aさんは本当のことを正直に言っていると判断し、「正直に言ってくれてありがとう」と発言しているのです。男性には想像もつかないチェックを女性はしているのです。
†女性は無自覚[#「†女性は無自覚」はゴシック体]
しかし、驚くべきことに、これら一連のチェックを、女性はほとんど無自覚にやっているのです。意識してチェックしている女性はごく少数です。幼児期からこういうことをしているので、自動的にやってしまうのです。
B子さんのしたチェックは次の通りです。
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一、彼の挙動不審のチェック、つまり、いつもと違う動きをしていないかどうかのチェック。
二、彼の行動(顔の表情なども含む)と発言内容にズレがないかどうかのチェック。
三、発言内容と彼の心の深層(喜怒哀楽の感情も含む)とにズレがないかどうかのチェック。
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もし、一が問題なければ、二と三に移行することはありません。しかし、一に問題があれば、ただちに、二と三のチェックを開始します。そして、総合判定をするのです。
B子さんの場合、彼が正直に答えていると直感で判断したために、Aさんの答えに満足しました。それ以上の追及はしません。
ただ、B子さんに限らず、多くの女性は、彼とのデートが終わってから、念のために再度チェックするものです。
つまり、一から三までを思い出して、どこかにズレがなかったかどうか、再チェックをするのです。この再チェックでもズレがない、と判断したら、ハンカチの一件は忘れてしまいます。
しかし、もし、あのときは思わず納得してしまったけど、家に帰ってからいろいろ検討してみたら、ちょっと怪しいところがあるな、つまり、ちぐはぐなところがあるな、と思ったら、すかさず彼に電話を入れます。もしくは、次のデートのときに、さりげなく探りを入れます。ただし、直接的に聞くことはありません。つまり、「あのハンカチのことだけど、私は怪しいと思うので、ちゃんと説明してくれる?」などと言うことは決してありません。女性はいつも必ず間接的です。まったく無関係な話をしては真実をさりげなく聞き出すのです。
たとえば、電話の場合でしたら、「きょうは、暑かったねぇ、元気?」「汗、かいてない?」などという話から、彼にもう一度ハンカチの話をさせようとするのです。
もし、次のデートの場合でしたら、彼のハンカチを扱う仕草を再度、注意深く観察して、本当に彼の発言通りの気持ちを受付嬢にもっているのかどうかをチェックします。問題がなければ、そのまま忘れてしまいますが、ちょっとでも怪しいと、「ねぇ、私のこと好き?」などという質問を繰り返しながら、彼の他の女性に対する気持ちをチェックするのです。
驚くべきことは、これだけしつこくチェックを繰り返しているのに、多くの女性は、それをほとんど無自覚にしている、ということです。
†愛されることに命をかけている女性たち[#「†愛されることに命をかけている女性たち」はゴシック体]
チェックをする、ということは、悪く言えば、恋人を疑っている、彼を信用していない、ということです。男性側からすれば、「なんだよ、オレはいつも疑われているのか!」「これだけ彼女のためにしてあげているのに、失礼じゃないか」と怒ってしまうかもしれませんが、しかし、愛されることに命をかけている女性からすれば当然のことです。死活問題だからです。
女性は、彼が自分に興味関心をもち、自分を未来永劫にわたって愛し続けてくれるのかどうか、いつも不安なのです。愛されることに命をかけている、というのは、換言すると、こういう不安をいつもかかえている、ということなのです。
女性は、結婚して子どもを産む立場の人です。もし、子どもを産んだ途端、彼が他の女に走ったのでは、精神的にも経済的にも困ってしまいます。そういう切実な問題があるために、女性は彼の心の動きをじっと見つめているのです。
男性は、自分が恋人を愛している限り、自分は彼女から見捨てられるのではないだろうかという不安は、あるにはありますが女性ほどではありません。自分は彼女から愛されているだろうか、という不安はあっても、子どもができてから逃げられないだろうかとはあまり考えないのです。
しかし、女性は、妊娠中に逃げられでもしたら大問題です。しかも、つねづね、愛されることに命をかけて投資していますから(そのために、かわいい洋服を買い、バッチリとお化粧をしているのです)、彼が自分を愛しているかどうかは、最重要項目です。仕事よりも重要なほどです。
なぜ、女性は、それほど自分の身を守る気持ちが強いのでしょうか。
それは、子どもが産まれたら、数年間は子どもの世話にかかりっきりになるからです。ヒトの場合、他の霊長類と違って、超未熟児状態で生まれてくるために、世話が膨大です。歩き出すまでに一年もかかります。こんなに世話の焼ける赤ちゃんをかかえていたのでは、なかなか仕事もできません。0歳児保育所があるといっても、赤ちゃんは母親との強い絆を求めてきます。そうした要求に応えたくなるのは、子どもを産む性の宿命といっていいでしょう。だから、女性は安心を必要とするのです。
女性は、安心を得るために、幼児期からこういうチェックをしているのです。ものごころついたころからやっているために、無自覚にやれるようになったのです。子どものころは、父親や母親の心をチェックします。恋人ができると、デートのたびに、自動的にこういうチェックを繰り返しているのです。そして、怪しいと感じると、無関係な会話をしつこくしては真実を知ろうとするのです。
女性は、再チェックのときですら無自覚です。自分が何のために電話したのか、なぜ、電話を切りたくないのかも無自覚です。彼の言動が怪しいからチェックしているのだ、などと言語化して意識することはありません。
しかも、間接的に真実を探ります。ですから、彼に言わせると、「何を言いたいのかさっぱりわからない電話」をするのです。もちろん、彼に、「何の用事で電話したの?」と聞かれても答えられません。「さみしかったから」とか「あなたの声が聞きたくなって」とか「なんとなく」という返答です。でも、ごまかしているのではありません。本当にそう思っているのです。自覚がない、ということはそういうことです。
でも、しっかりと再チェックだけは完了してから電話を切るのです。女性はその点、とてもしっかりしているのです。
†男性はバカがつくほどニブイ[#「†男性はバカがつくほどニブイ」はゴシック体]
では、こうしたチェックをされている男性は、自分が女性にチェックされていることに気がついているのでしょうか。
答は、NOです。
ほとんどの男性は、女性はなんでこんなくだらない質問ばかりを延々と繰り返すんだろうくらいにしか思っていません。まさか、自分が疑われてチェックされているなんて、夢にも思いません。だから、女性は何を考えているのかわからないと感じてしまうのです。女性なら一発で見抜けるのに、男性には女性の下心は見抜けないのです。
女性は無駄な行動はしないものです。男性が女性を理解できないから無駄に見えるだけです。男性は、このことを頭に入れておくべきでしょう。男性にとって意味不明でも、ちゃんとわけがあるのです。
男性がチェックされていることに気がつかない理由は、次の二つです。
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(一)男性は、単刀直入に質問することが多いのに対し、女性は正反対で、怪しいと思ったときほど、間接的な質問しかしないからです。男性は、このメカニズムがわからないから、チェックという女性の意図がわからないのです。
もし、男性が、恋人は怪しいと感じたら「浮気していない?」とか「C男のこと、好きなのか?」という直接的な質問しかしません。男性は、大事であればあるほど、直接的に質問をする傾向が強いのです。だから、そんなに自分を疑っているのなら、「受付嬢のことを好きなの?」と聞いてくるはず、と思い込んでいます。でも、この「自分だったらこうするのに」という思い込みが間違っているのです。女性は男性とは逆に、大事なことほど間接的な質問を繰り返す[#「女性は男性とは逆に、大事なことほど間接的な質問を繰り返す」はゴシック体]のです。
(二)もう一つの理由は、男性はニブイからです。女性は、幼児期から相手の動機や下心を探るクセがついていますので、人から間接的な質問を受けると、「ははーん、コイツは、私を疑っているな」とすぐに気づきます。しかし、男性は、浮気と無関係な質問をたくさん受けても、自分が疑われているとは勘ぐらないのです。男性は、必要がない限り、腹のさぐり合いはあまりしないからです。しかも、これに加えて、女性がするような細かい観察力はもちあわせていません。さきほどお話しした、一〜三のチェックは、男性にはできないことなのです。
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女性は、男性のカンの鈍さをよく知っています[#「女性は、男性のカンの鈍さをよく知っています」はゴシック体]。それをいいことに、ちょっとでも疑わしいことがあると、あれやこれやと質問をしてはチェックに明け暮れているのです。チェックしても、男性には決してバレないという安心感があるために、やりたい放題チェックしているのです。何時間もかけて、ネチネチと間接的にさりげなくチェックしているのです。
†男の浮気はなぜバレるのか[#「†男の浮気はなぜバレるのか」はゴシック体]
単身赴任している夫のアパートに妻がやってきて浮気の証拠を発見されるケースは多いのですが(詳しくは、拙著『なぜ、男は「女はバカ」と思ってしまうのか』講談社+α新書をご覧ください)、これも、女性特有のカンによるものです。
女性はいつも男性の浮気を疑っているのではなく、怪しいと直感したときに行動を開始します。女性は無駄なことはしないのです。
女性は、自分の直感を信じて生きていますので、ちょっとでも疑わしいと感じると男性に詰め寄って、自分の心が納得するまで疑い続けます。何カ月も何年も疑い続けます。その点、女性はとても気が長いのです。つまり、しつこいのです。
ですから、もし、単身赴任している夫に女の影があるな、と直感したら、冷蔵庫の中身、床に落ちている髪の毛、ゴミ箱の中身、さらには、洗濯機の洗濯槽や風呂場の排水口まで見て、長い髪の毛がひっかかっていないかどうかチェックするのです。証拠が見つかるまでチェックし続けます。
もし、怪しいと感じなければ、こんな刑事みたいなことはしません。でも、ひとたび怪しいと感じたら、自分が納得するまで、とことん浮気の証拠探しを続けるのです。何年も、です。
しかし、前述しましたように、男性は、妻から疑われていることすら気がつきません。冷蔵庫を開けてパセリがあることを発見した妻が何を思うのか、想像もできません。男性はバカとしか言いようがありませんがこれが現実です。
女性は、夫を疑っている事実を隠しているわけではありません。でも、バレないのです。それだけ男性はニブイのです。
不思議なことに、たいていの女性は、こういう芸当がなんなくできるのです。しかも、自然にこういうことができるのです。あまりにもさりげないので、男性は気がつきにくいのです。
もし、男性のあなたが、女房に浮気を疑われていることが自覚できたとしたら、それは妻が証拠をつかんだときです。完璧にクロのときです。もう時すでに遅しの状態ですから、諦めるしかありません。ヘタに弁解すると、余計に妻の心証を悪くするだけです。素直に浮気を認めて、謝罪したほうが無難でしょう。なにしろ、声が一オクターブ高くなっていますから、女性からすれば、バレバレの状態です。幼稚園児の女の子でもお父さんのウソを見抜きます。女性は男性のウソを見抜く天才なのです。
こうなってしまったら、その後、どんなにつじつまの合う発言を繰り返しても無駄です。女性は、男性の論理的な話など、はじめから聞いていないのです。夫の心と発言内容が一致しているかどうかに意識を集中しているのです。一致していない発言など、女性は受けつけません。疑惑と確信を強めるだけです。
男性は、論理的に説得しても納得しない女性を見て、さらなる弁解をしようとします。でも、悲しいかな、これでは墓穴を掘っているだけです。女性に言わせると、まるで「私は浮気をしてます」と言わんばかりだ、ということになるのです。
女性を甘く見てはいけません。女性をだまし通せるなどとは思わないことです。同性の男性に対してなら、つじつまの合う話をすれば、だませるかもしれません。でも、女性のカンをあなどってはいけません。たとえ一度は納得しても、完全に疑いが消えるまで、ヘビのように執念深く浮気の証拠を探し続けます。それが女性というものです。
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第一章[#「第一章」はゴシック体] 女性にとって快―不快とは何か
†自分の快―不快でものごとの善悪を決める――女性の思考の特徴(その一)[#「†自分の快―不快でものごとの善悪を決める――女性の思考の特徴(その一)」はゴシック体]
女性の思考の最大の特徴は、自分に快を与えてくれる人(こと)は良い人(良いこと)、自分に不快を与える人(こと)は悪い人(悪いこと)という判断をベースに行う、ということです。
つまり、(一)思考するときは、自分の感じる快―不快を基にするということ、そして、(二)女性は、自分を不愉快にする人は悪い人、自分を愉快な気分にする人を良い人と解釈し、この解釈を前提としてものごとを考える、ということです。
要するに、女性は、自分の感じる「快―不快」を根拠にしてものごとの善悪を決め、その善悪に基づいて判断や決断など、行動の意思決定をしていることが多い[#「自分の感じる「快―不快」を根拠にしてものごとの善悪を決め、その善悪に基づいて判断や決断など、行動の意思決定をしていることが多い」はゴシック体]、ということです。
動物は一般に、快を求め、不快を避けます。この点については男性も同じです。おいしいものを求めて評判のレストランに行ったり(快を求める行動)、音楽を聴きにコンサート会場に出かけたり(快を求める行動)します。一方、嫌いな人から遠ざかったり(不快を避ける行動)、横暴な上司がいて働きにくい会社を辞めたり(不快を避ける行動)します。人間に限らず、動物はみな、不快を避け、快を求める行動をしているのです。
しかし、女性は、男性と比較すると、快を求め、不快を避ける傾向が非常に強いのです。そして、快―不快の感情をただちに善―悪と置き換えてしまう傾向も非常に強いのです。
男性も基本的には、自分に不快を与える人を悪い人と解釈していますが、しかし、判断や決断をするときは、周囲の状況や社会的なことを加味して思考します。その点、女性は、自分の感じる快―不快の感情を優先するあまり、周りの状況を無視して思考してしまう傾向があるのです。
†社会的配慮が苦手――女性の思考の特徴(その二)[#「†社会的配慮が苦手――女性の思考の特徴(その二)」はゴシック体]
女性は「こんなのイヤ!」と強く感じると、どんなに社会的なことを引き合いに出して説得してもなかなか応じてくれません。さきほど申し上げましたように、もっぱら自分の快―不快を基に行動の意思決定をすることが多いからです。
一方、男性は、理性的に説得すると、比較的容易に考えを変えることがあります。男性はつねづね、社会の中で自分の居場所を見つけようとしますから、社会的なことを引き合いに出されると説得されやすくなるのです。男性は社会とのかかわりがないと精神的に不安定になるからです。
その点、女性は、自分を守り、自分を愛してくれる人が一人いれば、社会を敵に回してもいいと思っているところがあります[#「自分を守り、自分を愛してくれる人が一人いれば、社会を敵に回してもいいと思っているところがあります」はゴシック体]ので、社会的なこと、あるいは、社会とのかかわりを、それほど重視する必要はありません。だから、自分の快―不快だけを見てものごとを判断することが多いのです。
ですから、(一)もともと社会的な要素を軽く見ていること、そして、(二)感情の器が大きすぎるために、たとえ社会的な要素を重視したとしても、相対的にその社会的要素が思考全体の中では小さい位置しか占めないために、なかなか考えを変えてくれないのです。
社会的要素は、女性の判断や決断に影響を与えるまでには至らないのです。女性がガンコに見えるのは、裏にこういう理由が隠されているからです。
以上の理由により、女性は、判断や決断をするときの根拠の大部分が自分の快―不快という感情になってしまうのです。
その点、男性は、自分の感情を根拠にすることがもっとずっと少ないのが普通です。だから、論理的な説得に応じるのです。特に、社会的な要素、たとえば、秩序やしきたりをもち出すと、考えを変えることが多いのです。
要するに女性は、男性と比較すると、(一)感情の器が大きい(感受性が豊かでもあります)、(二)そのために、自分の感情を抑え、理性的に思考したり行動することが得意でない、(三)社会とのつながりがなくても精神が不安定にならないために、社会的な配慮をする必要性をあまり感じない、という三つの理由のために、周りの状況をよく見て、そして、迷惑をかけないように行動するという意欲が男性よりも低くなるのです。ゼロではありませんが、男性と比較すると、女性は自己中心的になりがちです。自分の気持ちを優先させると、どうしてもこうなります。
†二分法的な発想――女性の思考の特徴(その三)[#「†二分法的な発想――女性の思考の特徴(その三)」はゴシック体]
ふだんは、女性は周囲の人々への気配りがじょうずですし、バランス感覚にもすぐれているのですが、感情の大きさがある限度を超えると、とたんに周りの状況が見えなくなって、自分の感情に忠実に従って行動するモード(自己中心モードまたは自己都合最優先モード)になってしまうことがあります。
そして、いったんこうなりますと、女性の思考のもうひとつの特徴である、二分法的な発想をし始めるのです。
ファジーな発想ができなくなるのです。つまり、良いか悪いか、あるいは、ゼロか一〇〇か、白か黒か、死ぬか生きるか、という二分法的な思考をするのです。
たとえば、会社で上司の横暴さに我慢できなくなると、つまり、不愉快さが我慢の限界を超えると、いきなり社長に「あの課長を辞めさせてください」と直訴するという行動に出るのです。そのときの女性の論理は、「自分が不快に感じているのだから、自分を不快にさせた課長は悪い人だ、よって会社から存在を消すべきだ」というものです。
その課長が会社にとって重要な人物かどうか、どのくらい会社に貢献しているのか、という会社への配慮という発想はしません。自分の不快を解消することを最優先課題にしているからです。また、配置転換をして事態を解決する、という発想も消えています。会社の都合を考えずに思考し、結論を出してしまうのです。
そして、ゼロか一〇〇かという二分法的な発想をするために、社長のところに行くと、いきなり「課長をクビにしてください」と主張してしまうのです。降格とか配置転換というファジーな発想が苦手なのです。
しかも、怒りで頭がいっぱいのときの女性は、クビにされた課長の未来のことなど頭にありません。大学生の息子に仕送りしていようが、家のローンをかかえていようがお構いなしです。自己中心的な人間に変身してしまうのです。自分を不愉快にした人は、会社から消えるべきだ、それが正義だと考えてしまうからです。
要するに、女性の言う論理や意見が男性に飛躍しているなぁという印象を与えるのは、(一)自分の感情が絶対だと考えていること、(二)自分の都合しか頭にないこと、(三)社会的な配慮がないこと、そして、(四)白か黒かという二分法的な発想をしていること、という四つの理由があるからです。
†数の論理――女性の思考の特徴(その四)[#「†数の論理――女性の思考の特徴(その四)」はゴシック体]
なぜ、多くの女性たちは、まるで申し合わせたように、これまで「女性の思考の特徴(その一)〜(その三)」で申し上げたような思考や行動をするようになったのでしょうか。
それは、女性の脳の特性がそういう傾向を作っているからです。そして、実際、女性にとって、快―不快の感情を優先し、快―不快で善悪を決定し、そして、二分法的な発想で敵か味方かをはっきりさせたほうが安全だからです。
しかし、理由はそれだけではありません。
女性が、こうした女性特有の思考や行動パターンを長期にわたって維持し、かつ、自己肯定(自己正当化)しているのは、次のような理由もあるのです。
(一)経験的に、そういう発想で行動しても、当の女性自身は不都合と感じなかったこと(ただし、周りの人々が迷惑していることは多々あります)、(二)社会からも許されてきたこと、そして、(三)自分の周りの女性たちも同じような発想で行動しているからです。
これら三つのうち、特に、多くの女性が自分と同じことをしている、という(三)の要素が大きいのです。
女性は、自分がある行動をしたとき、それが自分にとって都合がよく、かつ、多くの女性たちがやっていることだと、「それは悪いことではない」「いいことだ」と思い込む傾向が強いのです。しかも、自信までもってしまうのです。女性の発想は、「みんながしている」という数の論理で動いていることが、案外多いのです。
女性が流行に敏感なのもそのためです。髪型やファッションなど、これまでさまざまな流行がありましたが、「みんながしているから」という安心感と、「自分も乗り遅れたくない」という不安感が動機で行動していることがとても多いのです。
次々と流行のデザインの洋服を買っては、数年で流行遅れで着られなくなってしまう(結局は捨てることになってしまう)という現実は、資源の無駄遣い以外の何物でもありません。しかし、当の女性は、自分の快感を満たすことは良いことだと思い込んでいますので、ふだんから省資源、省エネを考えている女性でも、自分が流行の洋服を買うこと(数年以内に着られなくなる洋服を買うこと)が資源の無駄遣いに直結しているという発想はしないようです。
自分がキレイになることはいいことだ、なぜなら、自分が快を得られるから、というところで思考がストップしているのです。自分がこんなに気持ちいいことをしているのに、自分の消費行動がまさか地球環境を悪くしているなんて夢にも思わないのでしょう。キレイになって素敵な恋愛をすることを最優先させているのです。
自分の快―不快の感情を中心に思考するというのはこういうことです。自分が美しくなるためには、つまり、自分の快のためという大義名分があれば許されると暗に考えて生きているのです。
自分のしていることが社会ルールや自然の法則に合致しているかどうかよりも、自分が快感を得ているかどうか、そして、周りの女性たちがそれをやっているかどうかを女性は重視しているところが多々あるのです。
みんながしている、というのは、女性にとって非常に大きな安心感を与えます[#「みんながしている、というのは、女性にとって非常に大きな安心感を与えます」はゴシック体]。安心は「快」ですから、「みんなやっていることだから」という事実があれば、その行動はしてもいいのだ、と自動的に考えてしまうのです。
また、多くの女性がしていると、自分が体制派になったように錯覚もしてしまいます。だからこそ、女性に注意をすると、しばしば、「じゃ、あの子はどうなの? あの子もやってるよ」と、数の論理で反論されることが多いのです。
たとえみんながしていても、自然の法則に反することであれば許される道理はありません。「みんな火星は四角だと言っているよ」と言っても、丸いものは丸いのです。しかも、女性の言う「みんな」とは、仲良しグループの二人だったりするのです。
†なぜ、社会が女性の自己中心性を容認するのか[#「†なぜ、社会が女性の自己中心性を容認するのか」はゴシック体]
「これじゃ、女性は自分の都合しか考えていないのか……」と、多くの男性は、ため息まじりにそう感じたかもしれません。
では、なぜ、こんな自己中心的な思考をする女性を、社会は容認しているのでしょうか。
それは、女性が感じる快は、自然の法則に合っていることが多い[#「女性が感じる快は、自然の法則に合っていることが多い」はゴシック体]からです。そして、女性の感じる不快は、自然の法則に反することに対して不快と感じていることが多いからです。だから、男性たちは、女性に神秘性を感じるのです。
女性の感じる快は、その人だけの快のみならず、多くの女性が「快」と感じることなのです。同様に、女性の感じる不快は、その人だけが感じる不快ではなく、多くの女性が不快と感じることなのです。しかも、それらの「快―不快」は、そっくりそのまま「自然―不自然」と置き換えてもいいほどに合致しているのです。つまり、女性の感性は、自然の法則そのもの[#「女性の感性は、自然の法則そのもの」はゴシック体]なのです。だから、社会は女性の自己中心的な発想をそれほど強くとがめないのです。
同じ理由で、父親も娘には甘くなります。息子ならダメ、というところを娘なら、まぁ、しょうがないか、とわがままを聞いてしまうのは、女性の要求は自然の理にかなったことが多い、という認識が、男性の心のどこかにあるからです。つまり、男性は、女性を悦ばせることは自然を悦ばせること、つまり、自然の営みに合致したことである、ということをうすうす感じ取っている[#「男性は、女性を悦ばせることは自然を悦ばせること、つまり、自然の営みに合致したことである、ということをうすうす感じ取っている」はゴシック体]のです。逆に、女性を不安にしたり悲しませたりすることは、反自然的な行為であると、意識こそしませんが、心のどこかで思っている[#「女性を不安にしたり悲しませたりすることは、反自然的な行為であると、意識こそしませんが、心のどこかで思っている」はゴシック体]のです。
†なぜ、女性は共感が大好きなのか[#「†なぜ、女性は共感が大好きなのか」はゴシック体]
しかし、当の女性は、自分が自然の法則とよく似た感性をもっているという自覚はありません。ただ単に、自分の感じる快―不快に忠実に従って行動しているだけです。いえ、その自覚もありません。ものごころついたころには、すでにそういう生き方をしているからです。
そのため女性は、男性もそんなもんだろうくらいにしか思っていません。人は体験したことしかわからないからです。そういう意味では、社会の中でしか生きられない男性を女性が理解することはとてもむずかしいことです。
さて、では、女性はどのようにして、他の女性も自分と同じような発想(その一〜その三)で行動していることを知ったのでしょうか。
ひとつは、女性どうしで互いの喜怒哀楽の話をしてみると、互いに非常に共通性が高いことに気がつくからです。三歳のころ、すでに女性は、この認識に到達しています。同世代の男の子にはない認識です。
しかも、自分と共通していることを発見すると女性はうれしく感じます。「〇〇ちゃんと同じ」ということにうれしさを強く感じるのです。男性には理解しがたい心理ですが、女性は、共通することに安心を感じるのです。だから何かと「同じ」が大好きなのです。血液型が同じ、誕生日が同じ、趣味が同じ、好きなアイドル歌手が同じ、など、共通していることがあるとうれしくなるのです。女性は、幼児期からこういう類の悦びの体験をしているのです。男性の知らない悦びの世界です。
女性はもともと、うれしい、楽しい、気持ちいい、うまい、という「悦び」が大好きです。つまり、女性は、幼児期から楽しいことをしては、同性の女性と悦びを確認し合い、自分の感性が普遍的であることを学習するのです。
これを無数に積み重ねた結果、女性は自分の感性に自信をもつのです。こうして「みんな〇〇している」ということが女性にとって絶対的なものになっていくのです。
たとえば、「(自分を含めて)みんながAさんを好いている」という事実を発見すると、それが絶対的な真実だと思うようになるのです。たとえ、その「みんな」が、たった二人でも、です。
過去、何十人もの女性と共感して、互いに共通性があることを学んできているので、たった一人の共感者しかいなくても、女性は、自分の感性は世界で通用すると考えてしまうのです。
中学生になるころには、「自分の感性や発想は正しいのだ」という結論に達するのです。そして、快を得ることはいいこと(自然なこと)で、自分に不快を与えることは悪いこと(不自然なこと)である、という、確固たる世界観を身につけるのです。
数人の仲良しの女の子と、互いに自分の感情(喜怒哀楽の感情)を表明し合って、自分の感性の正しさ(=共通性)を確認しては、さらに自信を深めていくのです。それが女性の世界です。
なお、一度こうなると、自分と感性の合わない女性たちに対しては非常に排他的になります。特に、愛されて育ってこなかった女性にその傾向が強くみられます。
自分こそ正統派だと思い込んでいますので、相手を人間とは見なしません。相手もこちらを同じように思っていますので、両者、歩み寄ることはありません。向こうも、我こそは正統派であると思っているからです。女性は、自分の感性と同じことがいいこと(いい人)で、自分の感性と違うことを言う人は悪い人(敵)、という世界観をいだきやすいのです。
†女性は不快が大嫌い[#「†女性は不快が大嫌い」はゴシック体]
前述しましたように、人間も動物も、快を求め不快を避けることを大原則として行動しています。そして、快を求めるよりも、不快を避ける行動を優先します。そうしないと死んでしまうからです。たとえば、おいしいお菓子が目の前にあっても、そのお菓子に毒が入っていたら、誰も食べようとはしないでしょう。死んでしまったのでは元も子もないからです。
また、女性の場合、特に、快を求める行動、および、不快を避ける行動をとる傾向が男性よりも強いのです。ここに、なぜ女性は、自分の快―不快でもって、ものごとの善悪を決めるのかを理解するヒントがあります。
結果論的に言えることは、女性は、自分の快―不快に忠実に行動したほうが、自分の身を守るのに都合がいい上、悦び多き人生が送れるからです。また、不快を強く避けるのは、女性は不安が大嫌いだからです。不安は不快という感情に分類されます。女性は不快を回避しようとする力が非常に強いのです。
そして、女性はもともと、男性と比較すると、ちょっとしたことですぐに不安になるのです。不安に対する感受性もまた高いのです。これが女性の特性です。
では、なぜ、女性は、男性よりも不安をいだきやすいのでしょうか。
これには生物学的な理由があります。
序章でもお話ししましたように、女性には、妊娠、出産、子育て、という三つの大きな仕事があるからです。
私たち霊長類は、X染色体をホモにもつもの(X染色体を二つもつもの。ヒトの場合、男性は、Xが一つとYが一つですが、女性はX染色体をペアでもっています)、つまりメス(人間の場合は女性)が子どもを育てる性になっています。そして、メスが交尾するかどうか、つまり出産するかどうかを決めているのです。オスには決定権はありません。メスに交尾を拒否されたオスは、メスの周りをウロウロすることしかできません。その点では、人間も例外ではありません。
ただ、人間は、他の霊長類と違って、非常に可塑性が高いので、男性でも子育ては可能です。しかし、私たち人類は、太古の昔から、女性が子育ての中心でした。
さて、妊娠中は、女性は半病人のように体調が悪くなる人がけっこういますし、その後の出産や子育ても、男性からの支援がなければ安心してできません。もし、臨月になって夫に逃げられでもしたら、不安で不安でたまらなくなります。
しかも、そうした母親の不安は、子どもにも飛び火します。子どもも被害者になるのです。なぜなら、母親が不安をかかえていると、否定のサインとして受け取ってしまうからです。子どもは、母親に拒否されたように感じて、孤独や不安にさいなまれるようになります。不安をかかえた母親に育てられた子どもは、うつ病になりやすいのです。
不安をかかえた母親は、子どもに共感を示すことができません。子どもは、母親に自分の喜怒哀楽を共感されないと、母親と一体化しているという安心感を得ることができなくなります。いつもひとりぼっちのような気がして不安になります。誰ともつながっていない不安が人をうつ的な状態にさせるのです。
女性は、孤独も大嫌いです。誰ともつながっていないという状態が大嫌いなのです。女性にとって、孤独、さみしさ、そして誰とも心の絆がないという状態は、不安であると同時に、大きな不快でもあるのです。
逆に、女性は安心が大好きです。その安心の源こそ、誰かとつながっているという確信、そして、夫から愛されているという確信です。こういう安心がないと、夫とキスをしてもセックスをしても女性は気持ちよくはなれません。女性は、安心した状態でないと人生を楽しめないようにできているのです。だから女性は不安を避け、安心を求めるのです。そういう傾向は、もちろん男性にもありますが、女性のほうが何十倍も強いのです。
そういう安心を得るために、序章でお話ししたような三つのチェックをして、慎重に夫選び(恋人選び)をするのです。
換言すると、女性は、「誰が自分に一番安心を与えてくれるのか」をつねづね考えている[#「女性は、「誰が自分に一番安心を与えてくれるのか」をつねづね考えている」はゴシック体]のです。
つまり、妊娠、出産、子育てを安心してできるように、(一)経済的に豊かな男性で、(二)自分を裏切らない男性(浮気しない男性)、そして(三)自分を末永く愛してくれる男性、を求めているのです。
妊娠、出産、子育ては、女性にとって最大のイベントだからです。この一大事業を安心して遂行できることは、女性にとっては、もっとも重要かつ大事なことです。女性が男性に誠実さを求めるのも、女性にとって最大のイベントを無事に遂行したいからです。当然、この場合の誠実さとは、浮気をせず、自分を愛し続け、経済的にも支えてくれる、という意味(期待を裏切ったり、約束をやぶらないという意味)です。
こういう事情があるので、女性が、人生最大のイベントを悦びと感動で行えることがいいこと(いい人)で、逆に、このイベントを不安にさせるものが悪いこと(悪い人)と判断するのは、きわめて理にかなっていることです。
繰り返しますが、妊娠、出産、子育てをしているときは、女性はきわめて無防備な状態になります。自分一人では子どもを守り、育てることはなかなかできません。夫やその他の人の支援や協力が必須です。だからこそ、女性の脳は、男性の深層心理を読み、自分の良きパートナーを探すのに都合よくできているのです。
†なぜ、若い女性は恋愛に強い興味をいだくのか[#「†なぜ、若い女性は恋愛に強い興味をいだくのか」はゴシック体]
科学や技術が発達しても、人間の本質が変わることはありません。人間の本質が変わるのは、新人類が誕生したときです。
若い女性の興味関心の中心は、現世人類が誕生したときから恋愛(結婚)でした。これも太古から変わらぬ真実です。社会のシステムが変わろうが、不景気になろうが、怒りで感性が逆転しない限り、そう簡単に変わるものではありません。
「アンアン」や「ノンノ」、「フラウ」、「with」など若い女性向けの雑誌を見れば一目瞭然です。愛されるためのノウハウ、そして、キレイになるための情報でいっぱいです。国際政治の話はゼロです。これら女性向けの雑誌を見れば明らかなように、極端に言えば、女性は、自分が安心できればそれでいいのです。具体的には、自分がキレイになり、男性からモテて、自分を安心させてくれる男性が見つかればそれでいいのです。それを実現させるために、ファッション、髪型、エステを研究するのです。それを受けて、女性誌には、美容整形や痩身、化粧に関する広告がいっぱいあるのです。一般的な女性の本音です。
女性は、たとえ世界中を敵に回しても、自分を愛するたった一人の男がいれば、それでいい[#「女性は、たとえ世界中を敵に回しても、自分を愛するたった一人の男がいれば、それでいい」はゴシック体]のです。実際、女性はそれで生きていけます。それが多くの女性の本音です(レズビアンの女性など例外はもちろんありますが)。
基本的に、これまでお話しした女性の思考や行動パターンは、いい恋愛(結婚)[#「女性の思考や行動パターンは、いい恋愛(結婚)」はゴシック体]をするためのもの、と言っても過言ではありません。
女性は意識こそしませんが、幼児期から、人の心の裏を読み、誰が自分を愛してくれるのか、誰が自分に不安や緊張を与えるのかをじっと観察してきたのです。自分の身を守り、自分の妊娠、出産、子育てを安全なものにするためです。
そして、いい男をつかまえるために、キレイになろうとするのです。キレイなほうが、たくさんの男性が寄ってきますので、その中から、よりいい男を選べるからです。
女性は、三歳のころからファッションに興味を持ち始めますが、そのころから、愛されるための努力(服装やしぐさなど)、愛されるための思考(快―不快を基にした思考)、そして、愛されるための観察(序章でお話しした一〜三のチェック)をやり始めるのです。誰に教わるわけでもなく、やりはじめるのです。
三歳の男の子が、飛行機やクルマに夢中になっているとき、世の女の子たちは、自分の身を守るために、人の心を読む訓練を始めているのです。
†素敵な女性は、男性が思っている以上の天使である[#「†素敵な女性は、男性が思っている以上の天使である」はゴシック体]
これまで女性の思考の特徴をお話ししてきましたが、このような発想で行動すると、女性は最終的にどのような人間になるのでしょうか。
多くの人から愛される人間になります。結果として、愛をたくさんため込むことになります。女性は愛の貯金箱[#「女性は愛の貯金箱」はゴシック体]なのです。心が満たされているという状態です。そして、女神になるのです。
みんなに愛され、心が満たされている女性は、前述しましたように、その女性の感じる「快―不快」は、「自然―不自然」とイコールになります。「社会的―反社会的」ともイコールになります。
まさに、ご神託を伝える|巫女《みこ》です。女性の発言は、天の声になるのです。女性は愛されて女神になるのです。
そして、愛された女性は、愛されて悦んでいる自分を誇りをもって受容できるようになります。だから、自分の心を清らかな状態に保とうともします。
自己受容できると、人や自然を受容できるようになります。つまり、一体化能力が増大するのです。
ものごとには、自然や人と一体化しないと見えないこと、感じ取れないことがたくさんあります。一体化すると、人や自然の声なき声を聞き取れるようになります。人の無償の愛も、もちろん敏感に感じ取れるようになります。地球の悲鳴も感じ取れるようになります。
つまり、女性は、愛されることで男性には引き出せない情報を得ることができるようになる[#「愛されることで男性には引き出せない情報を得ることができるようになる」はゴシック体]のです。社会(子どもも含みます)や自然(地球)の代弁者になるのです。
そればかりではありません。女性は愛されれば愛されるほど、人を愛する力が増します。人を愛するとは、人の悦びを我がことのように悦び、人の悲しみを我がことのようにともに悲しむこと[#「人の悦びを我がことのように悦び、人の悲しみを我がことのようにともに悲しむこと」はゴシック体]です。人の幸福を願い、人の不幸を悲しむこと[#「人の幸福を願い、人の不幸を悲しむこと」はゴシック体]です。慈悲深い人になるのです。しかも、その愛情の大きさは、男性の数十倍から数百倍もあります。
男性でも、もちろん、慈悲深い人はいます。しかし、女性の慈悲の気持ちの大きさはケタ違いなのです。人は自分の体験したことしか理解できませんから、男性は女性の慈悲の心の大きさを完全に理解することはできません。それゆえ、素敵な女性とは、男性の想像以上に素敵な女神なのです。男性の想像をはるかにこえた慈悲深き天使です。笑顔を見ているだけで、周りの人を幸せな気分にする女神です。
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第二章[#「第二章」はゴシック体] 女性の思考と行動の特性
†女性特有の思考が裏目に出ると…[#「†女性特有の思考が裏目に出ると…」はゴシック体]
ものごとには、なんでも長所と短所があります。たとえば、バスは大勢の人を運ぶのには便利ですが、サーキット上で競走したらポルシェにはかないません。でも、ポルシェで人を運ぼうと思ったら、せいぜい四人が限度です。いいこともあれば、悪いこともある、ということです。万能ということはありません。
人間も同じです。第一章でお話しした女性特有の発想法(思考方法)が裏目に出ることがあります。特に、愛されなかった女性です。
なぜ、愛されなかった女性は裏目に出ることが多いのでしょうか。
それは、怒りをかかえているからです。怒りは人を狂わせます。利己的な発想を高めたり、攻撃性を高めたりします。
なぜ、愛されなかった女性は怒りをため込むのでしょうか。
それは女性が、愛されることに命をかけているからです。女性にとって、誰にも愛されないことは、たいへん苦痛です。苦痛は人に悲しみをもたらします。その悲しみは、やがて苦しみに変わります。その苦しみが、最終的に怒りに変わるのです。女性は怒りをためやすいのです。
その怒りによって、せっかくの女性の特性が裏目に出てしまうのです。クルマの使い方と同じです。楽しくドライブするか、クルマを使って人を轢き殺すか、決めるのは人間です。怒れる女性は、破壊するほうに自分の能力を使ってしまうのです。
第二章では、女性の特性が裏目に出た話をいたします。怒れる女性の話です。
†自分の姿が見えていない[#「†自分の姿が見えていない」はゴシック体]
女性が自分の感情を根拠に思考し行動するのは、理性の働きが弱いからではありません。第一章でも申し上げましたように、女性は非常に豊かな感情の世界に住んでいるからです。
その点、男性は、女性の何十分の一くらいの大きさの感情しかもっていません。だから男性は、比較的簡単に理性で自分を制御できるのです。決して、男性だけが理性的な存在なのではありません。現に、男性も、激高すると我を忘れて相手を殴ってしまうことがあります。
そういう点では、怒れる女性は、いつも我を忘れて生きています。自分のしていることをあまり自覚していません。自己客観視が非常に苦手です。かかえている怒りの大きさが大きいほど、こういう傾向が高まります。
怒れる女性は、自分の感じる快―不快が自然の法則と一致するとは限りません。一致しないと、女性の欠点だけが目立つようになります。
つまり、自己都合中心的生き方をしてみたり、悪いことをしていても、なにかと言い訳をして自分を正当化したりするのです。
かかえる怒りが大きい人は、自分の利益や自分の身の安全しか考えなくなります。自分だけ生き残れたらそれでいい、自分だけ危険を回避できたらそれでいい、自分だけ楽しめたらそれでいい、という自己中心的(自己都合優先主義的)な発想になるのです。
また、自己中心的な生き方をしていると、社会の中で生かされている自分、あるいは、社会の人々から恩恵を受けている自分を意識できなくなります。そのため、他者への配慮や社会への感謝も小さくなりがちです。社会的なセンスが育たなくなるのです。
問題の核心は、社会的センスに欠けるということよりも、(一)自分が社会性に欠けていることを認識しないこと、そして、(二)社会的に配慮しようという気遣いがないことです。
なぜなら、他者や社会に対して配慮しようと努力していると、多少の失礼があっても、つまり、配慮しきれないところがあっても、互いに気持ちよく生きていけるからです。実生活で大事なことは、配慮できているかどうか、ということよりも、配慮しようという気持ちがあるかどうか[#「配慮できているかどうか、ということよりも、配慮しようという気持ちがあるかどうか」はゴシック体]、ということです。
もし、配慮もなく、かつ、配慮しようという意欲もないと、周りの人は、非常に気分を害します。人間関係のトラブルの原因となります。
ものごとはなんでも、何をするかが大事なのではなく、どんな気持ちでそれをしたかが大事[#「何をするかが大事なのではなく、どんな気持ちでそれをしたかが大事」はゴシック体]なのです。
†怒れる女性の運転[#「†怒れる女性の運転」はゴシック体]
怒れる女性の自己中心的発想は、クルマの運転を見れば一目瞭然です。
昔から、一姫、二トラ(酒酔い運転)、三ダンプと言います。一番怖いのが女性ドライバーで、二番目に怖いのが酒に酔っているドライバーで、三番目に怖いのがダンプカーの運転手、という意味です。
個人的なことで恐縮ですが、私は運転免許を取って三十年になりますが、つくづくそう思います。予測不能という意味で、女性ドライバーが一番恐怖です。
ひとりよがりな運転をする女性が多すぎるのです。もちろん、男性にもひとりよがりな運転をする人がいます。でも少数派です。
自動車教習所では、走行中に前方のみならず、バックミラーで後方を見るようにと指導されたはずですが、女性がバックミラーを見るのは、バックするときのみです。走行中に、バックミラーで後方の情報を得ようとする女性は少数派です。せいぜい、車線変更をするときくらいです(そのときですら見ない女性も多いものです)。
なぜ、怒れる女性は、前しか見ないのでしょうか。
それは、自分の欲望のままに行動するからです。つまり、目的地に行きたい、という自分の気持ちに忠実すぎて、自分以外のクルマが周囲に存在することを忘れてしまっているのです。思考の中に、自分以外の人のクルマがいないのです。だから、周りのドライバーに迷惑をかけないようにという発想がなかなか出てこないのです。そもそも、自分は周囲のクルマに迷惑をかけているかもしれないという発想がありません。
追い越し車線をトロトロ走るのはまだ許せるとしても、走行車線と追い越し車線に二台並んでトロトロ走る姿はまさに大名行列です。路地からいきなり飛び出してきたり、急に車線変更したり、急に停車したり、まるで猫のようです。さらに、追い越し車線からいきなり左折したり、走行車線からいきなり右折したり、まるでサーカスです。信じられない運転です。曲がり始めてから方向指示器をあげる女性も少なくありません。私を含めて周囲のドライバーは、ひやりとさせられることしきりです。
クラクションを鳴らして危険な運転を警告しても、逆ギレしてこちらをにらみつける女性も少なくありません。そこまでひどくなくても、大多数の女性は、自分がなぜクラクションを鳴らされたのか理解していません。理解できないために、一生、危険な運転を繰り返すことになります。
女性に小さな事故が多いのはそのためです。同じ人が同じタイプの事故を何度も起こすのは、なぜ事故が起きたのかを考えないからです。運が悪かったという程度にしか考えないのです。事故が起きても、自分に非があったから、と考えない女性が多いのです。
怒れる女性は、自分がどれほど男性ドライバーに恐怖を与えているかもっと知るべきでしょう。自己中心的思考をしているために、自分一人が道路を使っているような錯覚をしながら運転をしているのです。そして、そういう自分を自覚しないのです。
もし、自覚している女性がいたとしたら、その人は、愛されている女性です。そして、相当に意識の高い才媛です。
†五〇万キロの私の経験[#「†五〇万キロの私の経験」はゴシック体]
ドライブ好きの私は三十年以上前に運転免許を取り、これまでアメリカ留学時代を含め、約五〇万キロ以上走りました。クルマも軽自動車から始まって、ワンボックスカーやセダン、六〇〇〇ccもあるフルサイズカー、ドイツ車など十数台を乗り継いできました。
免許取り立てのころの七〇年代の前半は、とても運転しやすい時代でした。なぜなら、どのクルマも予想通りの動きをしてくれたからです。横暴な運転をする人は昔からいましたが少数でした。ですから、そういうクルマにさえ気をつければ、とても安心してハンドルを握れました。当時は一トラ、二ダンプだけだったのです。
ところが、八〇年代に入って女性ドライバーが増えるにつれ、運転しづらいなぁ、と感じるようになりました。予測不能な動きをするクルマが増えてきたからです。
最近では、私の予測をはるかに超えた運転をするクルマだらけです。まさに、一姫、二トラ、三ダンプです。とくに、一姫がダントツで怖くなりました。三十年前と比べると、ダンプはマイルドな運転になりましたが、その分、女性ドライバーの予測不能ぶりは年々、高まっています。若い女性を中心に、マナーは悪化の一途をたどっています。若い女性の横暴な運転に泣かされています。
しかも、なぜか、運転技術のヘタな女性ほど、非常識な運転をします。もちろん、男性ドライバーにもこういう人はいますが、携帯電話に夢中で赤信号を見落として走行する女性、メールを打ちながら時速二〇キロでノロノロ走っている女性、タバコのポイ捨てを平気でする蛇行運転の女性など、呆れるばかりです。
ただし、愛された女性は、自己客観視する能力がありますから、自分の弱点をわきまえ、周りのクルマに迷惑をかけないように配慮します。しかし、怒れる女性は、女性の特性が裏目に出て、ひとりよがりの横暴な運転を知らずにしてしまうのです。
私は、非常識な運転をするクルマを見かけると、必ずドライバーをチェックすることにしています。いつもメモ用紙を持ち歩いて書き込んでいます。私の調査結果では、若い女性、中高年の女性、若い男性、お年寄り(男女)の順で、危険な運転をしていました。暴走族を除く数百例から割り出したパーセントで表しますと、女性ドライバー(お年寄りを除いた女性全般)が七二パーセント、若い男性が一八パーセント、お年寄りが一〇パーセントでした。
†私情が混じってしまう[#「†私情が混じってしまう」はゴシック体]
さて、怒れる女性(母親)が子どもを叱る場合、「あなた、そんなことしていいと思っているの?」という発言の本音は、「あなた、そんな社会的に悪いことをして、いいと思っているの?」ということではなく、「あなた、私を不快(または、不安)にさせて、いいと思っているの?」という意味で言っていることが非常に多いものです。もっと極端に言えば、「私を不快にすることは悪いことなのよ。そんな悪いことをしていいと思っているの?」という意味で言っているのです。
怒れる女性のみならず、一般に女性は、社会的な善悪と自分の個人的な感情を根拠にした善悪とを混同してしまうところがあります[#「社会的な善悪と自分の個人的な感情を根拠にした善悪とを混同してしまうところがあります」はゴシック体]。自分の快―不快を中心に思考しているので、そこから導き出される結論にはどうしても私情が入ってしまうのです。
たとえば、入社試験です。
もし、面接の試験官に女性がなると、男性なら相手の本質を読みとるのに数時間以上も要するところを、ほんの数分でその人の核心を見抜きます。すごい能力です。女性は非常にすぐれた心理学者なのです。しかし女性は、読みとった内容に対して、好きとか嫌いという「快―不快の感情」が心に発生すると、その感情を中心に思考が回り始めます。すると、さきほどお話ししましたように、自分が気持ちいいと感じたら、いい人と認知して、その人を採用したくなります。逆に、気持ち悪いと感じたら、コイツ悪いヤツ、つまり、採用してはいけない人、という結論を導きだしてしまうのです。
もちろん、意識の上では、会社のために必要な人材を採用しているつもりになっています。そして、女性の中には、鋭く相手を見抜いて会社に必要な人材を採用する人もいます。しかし、大部分の女性は、会社にとって必要な人材を採用しているつもりが、自分にとって気持ちいいと感じる人を採用してしまうのです。
男性であれば、多くの人が「コイツは嫌いだけど、会社に必要な人材なので採用しよう」ということをします。個人的な好き嫌いよりも、会社の利益を優先させるのです。
しかし、女性にはこれがとてもむずかしいのです。怒れる女性においてはまったく不可能です。
もっとも苦手なのは、評論家や学者に対して、「コイツは個人的に嫌いだけど、コイツの言っていることは真実だし、当を得ている。だから、コイツの言うやり方でやってみよう」という発想ができないことです。女性は、「坊主憎けりゃ|袈裟《けさ》まで憎い」式の世界で生きているのです。
良く言えば、自分の気持ちを大事にしているということですが、悪く言えば、自己中心的であるということです。女性は、良くも悪くも、自分の快―不快の感情にきわめて忠実なのです。
しかも、多くの女性は、こうした自分の思考形態を言語化して意識してはいません。いつも自分は正しい判断や決断をしていると思っています。ですから、こういう女性特有の思考をやめろと言われたら、自分の命を否定されたように感じます。不即不離の関係にあるからです。
そもそも女性は、自分の感情に忠実に従って行動し思考することはいいことだ、と思っています。ですから、自分の快―不快に従った発言(結論)が、たとえ会社の利益に反することであろうが、周囲のひんしゅくをかうものであろうがあまり気にしません。正しいことを主張していると思い込んでいるからです。
男性からするとヒステリックとしか言いようのない非論理的な主張でも、怒れる女性はそれほどヘンだとは思っていないのです。怒れる女性は、自分がどう見られているのかを気にする反面、自分の感情を通そうとするときは、鉄面皮になるのです。厚顔無恥の状態です。怒れる女性の二面性です。
怒れる女性ほど、こうした二面性が強烈です。愛された女性は、そういうことはほとんどありません。
†約束よりも自分の感情を優先させる[#「†約束よりも自分の感情を優先させる」はゴシック体]
女性は、自分の気持ちに忠実ですから、「行きたい」とか「行きたくない」という感情が湧いてきたら、それに忠実に従って行動します。たとえ約束があっても、です。約束を守る、という社会のもっとも基本的なルールよりも、自分の気持ちを優先させてしまうことがよくあるのです。
女性は一般に、社会のルールには従順ですが、しかし、それは快―不快などの感情が活発に活動していないときの話です。心の奥底から「イヤ!」という大きな声が聞こえてくると(=大きな感情が発生すると)、どうにも我慢できなくなって、理性で自分を抑えられなくなるのです。女性は、男性よりも何十倍も大きな感情の世界に住んでいるからです。
逆に、「どうしてもこれがしたい!」と思ったら、後先のことをあまり深く考えずに行動に移してしまう傾向が強いのも女性の特徴です。ふだん不安をいだきやすいのに、こうしよう、と決めると女性は大胆です。良くも悪くも、自分の気持ちに正直に行動するのです。
たとえば、選挙での投票行動です。自分が気に入った人に投票することが多いのですが、この場合の気に入った、というのは、「好きと感じた人」という意味です。好きな人に投票する、ということです。
つまり、投票を決める一番の根拠が好感度だということです。次の根拠となるのが、その立候補者の掲げる政策や考え方など、快―不快という感情以外の要素である、ということです。
ですから極端に言えば、女性は、「自分が好きな立候補者は、いい政治家である」「自分が好きな政治家は、立派に日本の舵取りをしてくれるだろう」と考えているのです。拙著『職場の「やっかいな女性」を説得する技術』(青春出版社)でも、労働組合の投票行動の具体例をご紹介しましたが、理性的に説得され、その時は納得しても、いざ投票となると、自分が気に入った候補者に票を入れてしまうのが女性というものなのです。
女性というのはかくも自分の感情に忠実なのです。そして、自分の感情に忠実に行動することが正しい生き方だと思っているのです。ですから、たとえ人との約束を破っても、自分の心に忠実であれば、悪いことをしたという認識はあまりありません。むしろ、自分の本心に反する行動をすることのほうが悪いことなのです。
ですから、約束を破ったじゃないか、と責めても、「だって、あなたの話を聞いたときは確かにそう思ったわよ。でも、そのときになって、気が変わったの」と反論します。そういう反論が通用すると思っているのです。感情が変わったのだから、行動も変わって当然という認識をしているのです。
†男の約束、女の約束[#「†男の約束、女の約束」はゴシック体]
「男と男の約束」というと重みがありますが、「男と女の約束」あるいは「女と女の約束」というと、危うく感じられます。じつは女性も、女どうしの約束は軽いと感じています。
なぜなら、女性どうしでは、気が変わった、ということは、弁解ではなく、ちゃんとした理由として認知されているからです。気分が変わる、ということは、予定が変更される重要な根拠になっているのです。だから、自分が約束を破られても、「しょうがないか」と受け容れてしまうのです。
その点、男性は、感情ほどあやふやなものはない、と思っています。実際、男性の感情は、理性的な説得をされるとコロコロ変わります。さっきまで嫌いと感じていたものが、説得されて、好きになったりします。だから、多くの男性は自分の喜怒哀楽の感情を基に行動することを危険視しているのです。しかし、女性にとって、自分の感情ほど確固たるものはありません。女性の言う「イヤ!」という感情には、無数の根拠があるからです。女性にとって自分の気持ちは絶対的な存在です。重みがあるのです。だから、気分が変わったから、ということは、約束を破る正当な理由になっているのです。
実際にあった例をご紹介しましょう。怒れる女性、B子の例です。
同じ会社に勤めるA子とB子が、入院中の同僚C子のお見舞いに行く約束をしました。午後七時に東京駅で待ち合わせをすることにしました。しかし、B子は七時になっても駅に現れません。じっと待っていると、七時三十分になってようやく、B子から「急に、彼から食事に誘われた。今、食事中!」というメールが来ました。
三十分も無駄に待たされたA子は、ムッとしました。しかし、A子は、まぁ、それならしょうがないか、としぶしぶですが許してしまうのです。許したくないけど、そういう事情ならしょうがないなぁ、と自分を納得させようとします。
A子は、B子のドタキャンには腹が立つけど、B子はC子のお見舞いに行くことよりも楽しいことをしたのだからしょうがないか、と解釈しているのです。しかも、A子自身、ときどきドタキャンしているので、B子の約束違反を大目に見てしまうのです。
もちろん、約束を最優先させて行動している女性もたくさんいます。そういう女性は、どんなに相手の女性が弁解しても許しません。自分が約束をきちんと守っているからです。でも、身に覚えのある女性は、他の女性のドタキャンを許してしまうのです。
なお、怒れる女性ほど、約束を守るという行動よりも、自分の感情に忠実であることを優先します。
さて、ではもし、B子が七時三十分に、「急にお見舞いに行きたくなくなった。だからきょうは行かない」とA子に言ったらどうでしょうか。
驚くなかれ、この場合もA子は腹は立てますが、結局はB子を許してしまいます。
もし、男性であれば、「約束を破るのは、単なるB子の気まぐれだ、そんなわがままは許せない」と思います。ひどい裏切り行為に映ります。やさしい男性でも、なかなかB子を許す気にはなれないでしょう。でも、女性のA子はB子の気まぐれを、怒りながらも許してしまうのです。
なぜ、A子はB子の気まぐれに甘いのでしょうか。
それは、気まぐれとは解釈していないからです。B子の「行きたくない」という不快感の裏には、重大なわけが潜んでいる、と解釈しているのです。A子は、無意識ですが、次のように考えて許しているのです。
「一度は見舞いに行くことを約束したB子だが、そのあと、あれこれC子のことを考え始めたら、急に行きたくなくなったんだろう。B子は、C子のことが嫌いなのかもしれない。女性のイヤという感情には重大なわけがあるから、それを尊重してあげなきゃね」
序章でもお話ししましたように、女性の好き・嫌いという感情や、行きたい・行きたくない、という感情は、いっときの感情ではなく、過去のすべての快―不快の感情の総和です。ですから、誘われた時は、行くと言っても、あとで過去の情報(脳に残っている過去の喜怒哀楽の情報)を引っ張り出して検討してみたら、行きたくなくなることは、女性の場合、そんなに珍しいことではないのです。
A子は、そうした女性特有の心の世界を言語化して意識こそしてはいませんが、ちゃんと理解しているのです。B子のドタキャンに関しても、「きっと、B子は、ギリギリまで迷っていたんだろうなぁ」と解釈しているのです。女性は、女性の好き―嫌いの感情の重みをよく知っているのです。
†もし、B子が男性だったら…[#「†もし、B子が男性だったら…」はゴシック体]
さて、では、B子が男性だったらどうでしょうか。A子は、男性のドタキャンという約束違反を許すでしょうか。
答えは、NOです。
NOどころか、本気で怒り狂います。「オマエ、それでも男か!」と軽蔑することでしょう。
同じことをしているのに、なぜ、男性が約束を破るとそんなにも女性は怒るのでしょうか。
それは、「たいした理由がないくせに約束を破った」と解釈しているからです。女性の気が変わることは認めても、男性の気が変わることは認めない[#「女性の気が変わることは認めても、男性の気が変わることは認めない」はゴシック体]のです。つまり、男性のいだいている「行きたくない」という感情に重みがないと解釈しているのです。
もう、おわかりですね。そうです、女性は、男性の心の世界のメカニズムをよく理解しているのです。男性は、感情よりも、もっぱら理性で動いていることをよく知っているのです。だから約束をやぶられると猛烈に怒るのです。気まぐれは、女性には許されても、男性には許されていない[#「気まぐれは、女性には許されても、男性には許されていない」はゴシック体]のです。
たとえその男性が感情的にC子のお見舞いに行きたくなかったとしても、一度かわした約束を守り通すのが大人の男性というものである、と期待しているのです。男性に寄せる信頼を裏切られたことで、二重に怒っているのです。
その怒りの中には、「男性のあなたが、そんなに簡単に約束を破るようでは、私は男性一般を信用できなくなる。未来の夫も信用できなくなる。これでは安心して妊娠、出産、子育てができなくなる。一生愛すると誓ったのに、妊娠中に逃げられでもしたら、私はどうしたらいいの。もっと信用できる行動をしてほしい」という不安と不満も含まれます。人は不安があると怒りが倍増するのです。
さて、驚くべきことに、女性たちは、これだけひどい差別待遇(男女差別)をしているにもかかわらず、そのことにまったく無自覚だ、ということです。
同じことをしているのに、女性だったら許してしまうことでも、男性なら絶対に許さないのです。こんなにひどい男女差別はありません。
でも、それでも女性は指摘されないと、自分が男女差別をしていることに気がつかないのです。これは区別ではなく差別だと説明されて、ようやく、「あ、そうか、これって男女差別なんだ」と気がつく程度です。
しかし、心のメカニズムの違いを考慮すれば、A子はB子に対して当然の対処をしていることになります。なぜなら、女性の感情の変化には、ちゃんと根拠があるからです。それを尊重するのは当然です。ですから、A子がB子を許してしまうのは非難される行為ではありません。
女性はこのことも、言語化して意識こそしませんが、よく知っていますので、男性から責められると、平然と、「そんなことも許せないあなたって、心の狭い人ね」と逆襲するのです。
†男性は女性の心のメカニズムを知らない[#「†男性は女性の心のメカニズムを知らない」はゴシック体]
このように、女性は、言語化して意識こそしませんが、男性の心のメカニズムをよく知っています。しかし、男性は、そういう意味では、女性の心の世界のことはまるで知りません。
だから、男性の目には、女性のやることなすこと、みんな不思議に映るのです。何を考えているのかわからないのです。
たとえば、「悲しいことがあったので、これから誰もいないところに行って一人で泣いてくる」という女性の発言です。実際、多くの女性はこういうことをしていますし、したことのない女性でも、この発言の意味はわかります。
しかし、ほとんどの男性は「?」状態です。理解できる男性はほとんどいないでしょう。
女性は、感情の世界に住んでいるとさきほど申し上げましたが、女性は感情を記憶するのがじょうずです。反面、事実を記憶するのが苦手です(詳しくは、拙著『なぜ、男は「女はバカ」と思ってしまうのか』〔講談社+α新書〕をご覧ください)。
男性はその逆で、事実はよく記憶しますが、感情を記憶するのが苦手です。まして、女性のように、きのう得た快感をリアルに思い出してはうっとりする、などという芸当はできません。その点女性は、きのう食べた料理のおいしさ(快感)を、まるで今食べているかのように思い出しては、おいしかったなぁ、と楽しむことができるのです。きのう彼とキスをした快感を、まるで今キスをしているかのように正確に思い出しては、気持ちよかったなぁと、きのうの快感をもう一度体験することができる[#「きのう彼とキスをした快感を、まるで今キスをしているかのように正確に思い出しては、気持ちよかったなぁと、きのうの快感をもう一度体験することができる」はゴシック体]のです。
女性が言う「私のこと、思い出してくれた?」という質問は、「私と一緒にいたときの快感をリアルに反芻してくれた?」という意味です。女性は、自分にできるのだから、当然、男性にもできるものと思い込んで期待しているのです。
でも、感情を記憶することも苦手で、かつ、それをリアルに思い出して追体験するように快感を味わうことも苦手な男性は、女性がするような思い出し方はできないのです。愛していないからできないのではなく、もともとできないのです(できる人は、役者になる才能のある男性です)。
また、女性は泣くことでスッキリするという、女性独特のストレス解消法があります。これも男性にはわからない心理です。男性にはそういうカタルシスの方法がないからです。
以上、二つの女性特有の行動を男性は理解することはできません。体験したことがないからです。ですから、女性が「誰もいないところに行って泣いてくる」という発言をしても、その意味がまるで理解できないのです。
悲しみの感情を正確に記憶する女性は、その悲しみを解消するために、大声で泣くのです。そのためにクルマを運転し、誰もいない山の中に行きます。そのときは平然と運転しています。そして、人気のないところに辿りつくと、過去の悲しみをリアルに思い出します。変身する瞬間です。すぐに泣けてきます。泣き始めると、湧き出る泉のように、どんどん悲しみが出てきます。過去の悲しみが全部出てきます。脳の中は、悲しみでいっぱいになります。こうして女性は何時間でも泣くことができるのです。そして、泣いて、スッキリするのです。その後、また平然と、何事もなかったかのようにクルマを運転して自分の家に戻るのです。これが女性の世界です。普通の女性の日常の世界です。
†男性の想像を超えている女性の世界[#「†男性の想像を超えている女性の世界」はゴシック体]
男性は、女性も自分と同じように、事実を根拠に論理的に思考し、理性的に行動しているだろうと思い込んでいます。その思い込みがあるために、余計に女性が理解できなくなるのです。まして、女性が快―不快の感情をそっくり善―悪に置き換えているとか、快―不快の総和で好き嫌いを決めているなんて、夢にも思いません。泣いてスッキリするなどという方法については、想像の域をはるかに超えています。
ものごとというのはなんでもそうですが、大きな感情の世界で生きている人は、感情の小さい世界で生きている人のことを理解することはできても、小さい感情の世界で生きている人が、大きな感情の世界で生きている人のことを理解することはできません[#「大きな感情の世界で生きている人は、感情の小さい世界で生きている人のことを理解することはできても、小さい感情の世界で生きている人が、大きな感情の世界で生きている人のことを理解することはできません」はゴシック体]。
感受性も同様です。感受性の豊かな人がそうでない人を理解することはできますが、ニブイ人が感受性の豊かな人を理解することはできません[#「感受性の豊かな人がそうでない人を理解することはできますが、ニブイ人が感受性の豊かな人を理解することはできません」はゴシック体]。
女性は、たいへん感受性が豊かですので、感受性の低い男性を理解することはできても、その逆、つまり、ニブイ男性が女性を理解することは困難なのです。
だから、目の前にいる女性が何時間も泣き続けると、男性は理解不能状態に陥って、オロオロするしかできなくなるのです。女性なら体験がありますので、ああ、いまこの子の心はこんなふうになっているんだろうなぁと容易に想像できますが(しかも、泣いている子の心を正確に読みとります)、男性は泣いている女性の心を想像することすらできないのです。
困ったことに、女性は、自分が男性の心のメカニズムを知っていますので、男性もまた自分たち女性の心のメカニズムを知っているだろうと勝手な期待をすることがあります。女性は自分の都合次第で男性をニブイと怒ったり、女性と同じような気遣いがないと怒ることがある[#「女性は自分の都合次第で男性をニブイと怒ったり、女性と同じような気遣いがないと怒ることがある」はゴシック体]のです。自分の都合や気分でものごとを解釈してしまうために、「男って、ホントに無神経な動物ね!」「女の子なら、絶対こんな失礼なことをしないのに!」と怒ることがあるのです。わかっているのならそんな無神経な態度をとらないでほしい、と不満に思っているのです。
しかし、真実は、男性は意図的に意地悪をしているのではありません。無神経なのでもありません。女性の心がよくわからないために、知らずに、女性の気持ちを逆なでするようなことをしてしまっているのです。
女性が男性を理解している量よりも、男性が女性を理解している量のほうが、はるかに少ないからです。女性は、この事実をいつも念頭におくべきでしょう。
†女性がメカに弱い本当の理由[#「†女性がメカに弱い本当の理由」はゴシック体]
多くの女性は、クルマや飛行機のメカニズムには興味を示しません。私は、授業中に、学生たちにクルマの絵を描かせたことがありますが、男性は車種がわかるほどにリアルに描いてくることがあるのに対し、女子学生は、ドアのないクルマ、ドアミラーのないクルマ、タイヤのないクルマなどを平気で描いてきます。
女性にとって、クルマは、ただの移動の道具でしかないのです。男性は強いものに憧れますので、クルマと自分を同一視(自己愛的同一視)する傾向がありますが、女性はそういうことはありません。女性はかわいいもの、きれいなものと自己を同一視する傾向があるのです。
女性は一般にクルマが故障するとお手上げです。バッテリーがダウンしただけなのか、タイミングベルトが切れたのかさえ区別がつきません。
なぜでしょうか。女性は、メカニズムを理解する能力がないからでしょうか。
いいえ、違います。
女性は、メカニズムを知らなくても生きていけるからです。故障したら誰か(男性)に助けてもらえばいいと思っているからです。自分の感情に忠実な女性は、不要なことはしたがらないのです。したくない、という気持ちが男性よりも強いのです。メカに対する拒絶反応が強いのです。
クルマのメカニズムというのは、きわめて論理的です。しかし、女性は、メカニズムの論理性の美しさには興味を示さないのです。メカニズムが美しいとは感じないのです。そこに美を感じるのは、もっぱら男性です。
女性は、論理的な思考をしなくても生きていけることが多かったために、論理的な美しさに対するセンスが育っていないのです。物理や数学などに女性学者が少ないのもそういう理由でしょう。
女性は、自分の喜怒哀楽に忠実に生きて何の支障もなかったのですから、わざわざ、論理的に思考などする必要がなかったのです。する必要のないことをわざわざする人はいません。そんなことをしていたら、人生、いくら時間があっても足りなくなるからです。
もちろん、女性にエンジンの構造や飛行機の構造を教えたら、ちゃんと男性並に理解もできますし、試験も通ります。そういうところでの男女差はほとんどありません。あるのは興味の差です。興味の対象が違うから、メカニズムを覚えようとしてこなかったのです。
じつはクルマの運転も、エンジンのメカニズムと同様、論理的な思考が要求されます。だから、女性のプロドライバーが少ないのです。飛行機のパイロットも、ほとんどが男性です。
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第三章[#「第三章」はゴシック体] 愛された女性と愛されなかった女性
†愛されないと、女性は鬼になる[#「†愛されないと、女性は鬼になる」はゴシック体]
第一章で、女性は自然の代表であると申し上げましたが、しかし、これは、たっぷりと愛されて育った女性に限られます。そういう女性だけが、自分の快―不快が、自然―不自然、そして社会的―反社会的なことと一致するのです。
ですから、愛された女性は、自分の心の動きだけを見つめて行動の意思決定をしても、ちゃんと社会に適応して生きていけます。存在するだけで、周りの人に生きる意欲や希望を与える女神になります。見ているだけで心がなごむ天使のような女性です。
しかし、愛されて育ってきていない怒れる女性は、逆に鬼になります。感性が逆になっているからです。たとえば、愛された女性は、人の幸せを見て悦びますが、愛されなかった女性は、人の不幸を見ると快感を感じます[#「愛された女性は、人の幸せを見て悦びますが、愛されなかった女性は、人の不幸を見ると快感を感じます」はゴシック体]。愛された女性は、人を愛することが快感ですが、怒れる女性は、人をイジメることが快感になっている[#「愛された女性は、人を愛することが快感ですが、怒れる女性は、人をイジメることが快感になっている」はゴシック体]のです。人に親切にすると、「そんな行為は自分らしくない」「不自然だ」と、気色悪く感じるのです。
怒れる女性の感じる快―不快は、自然―不自然と一致していないのです。
もし、愛されなかっただけでなく、意地悪をされたり、無視されたり、虐待されたりして、さらに大きな怒りをかかえた女性は、さらに強く感性が逆転します。しかも、攻撃的です。特に、男性を敵視するようになります。また、何ごとにも批判的です。アラがあるから文句を言うのではなく、文句を言いたいがためにアラ探しをする本末転倒の女性です。
このような女性は、とんでもない感性を身につけてしまいます。なぜなら、弱い者イジメをするという反自然的なことをすると快を感じる脳になっている[#「弱い者イジメをするという反自然的なことをすると快を感じる脳になっている」はゴシック体]からです。そして、イジメると快を感じるので、弱い者イジメをすることは悪いことではない、という世界観を作ってしまうのです。ですから、罪の意識もなく、そして無意識のままに弱い者イジメをしてしまいます。
そして、人の不幸を見ることが一番の悦びで、かつ、人の幸福を見ることが一番イライラする人になるのです。夫婦仲の良さそうな人を見ると、特にイライラします。自分の幸福を犠牲にしても、八つ当たり的に怒りをぶつけることを最優先させる人になります。
†愛されなかった女性が母親になると…[#「†愛されなかった女性が母親になると…」はゴシック体]
怒れる女性は、世にも恐ろしい母親となります。
どこがどう恐ろしいのでしょうか。
我が子に対しても、同じことをするからです。
人は、我が子の幸福は願うけど、他人に対しては不幸を願う、などという器用なことはできません[#「人は、我が子の幸福は願うけど、他人に対しては不幸を願う、などという器用なことはできません」はゴシック体]。人の幸福にイライラする人は、我が子の幸福にもイライラする人です。意識では、我が子の幸福を願っているつもりでも、実際にやっていることは破壊(虐待)です。子どもの幸福に嫉妬する、という方法で子どもの幸福を破壊しているのです。
子どもは、家庭においては弱者です。一方、母親は、家庭においては絶対的な権力者です。子どもは、母親に反撃できない存在ですから、最高のターゲットとなります。返り討ちにあう危険がないという意味で安全だからです。やりたい放題できます。
その結果、「子どもの不幸は親の幸福」そして「子どもの幸福は親の不幸」という関係になってしまいます[#「「子どもの不幸は親の幸福」そして「子どもの幸福は親の不幸」という関係になってしまいます」はゴシック体]。これでは構造的に子どもはこの家庭では幸福になれません。もし幸福になったら、母親から嫌われ、そして捨てられてしまうからです。
その点、愛された女性は、正反対です。自分を犠牲にしてでも子どもの幸福を願います。しかし、怒れる女性は、子どもの幸福を犠牲にしてでも、自分が幸福になろうとする人です。恐ろしい母親です(詳しくは拙著『なぜ、「白雪姫」は毒リンゴを食べたのか』〔新潮社〕をご覧ください)。これでは本来の親子関係と逆です。この世で一番子どもを守ってくれるはずの親が、この世でもっとも子どもを傷つける鬼になっているのです。これでは人類は滅んでしまいます。
†女性は女神か悪魔かの両極端になる[#「†女性は女神か悪魔かの両極端になる」はゴシック体]
愛されずに育った怒れる女性は、心は満たされず、カラッポなままですが、たとえ人を不幸に陥れて快感を感じたとしても、心が満たされることはありません。なぜなら、不自然なことをして得られる快感は、小さすぎて心を満たすことはできない[#「不自然なことをして得られる快感は、小さすぎて心を満たすことはできない」はゴシック体]からです。人をいじめたり、八つ当たりして、一時的にスッキリ感が得られても、その快感はあまりにも小さくて、心を満たすには至らないのです。真に心が満たされるのは、自然な行為をして得た快感のみ[#「真に心が満たされるのは、自然な行為をして得た快感のみ」はゴシック体]です。
ですから、感性が逆転している怒れる女性は、努力してもなかなか心が満たされることはありません。それゆえ、弱い者イジメをしたくなります。世の中からイジメがなくならないのは、こうした理由があるからです。
真に心を満たす快感を得ているとき、つまり自然なことをして快感を得ているとき(子どもを愛しているとき、など)は、必ず、「私もうれしい、あなたもうれしい(母親もうれしい、子どももうれしい)[#「「私もうれしい、あなたもうれしい(母親もうれしい、子どももうれしい)」はゴシック体]」という関係が成立します。自然なことをしているときは、必ず、双方がうれしくなるものです。
逆に、もし、それが成り立っていなかったら、不自然な行為をしている証拠です。そう思って間違いありません。繁栄するもの、自然の理にかなっているものは、すべて「私もうれしい、あなたもうれしい」という関係になる[#「繁栄するもの、自然の理にかなっているものは、すべて「私もうれしい、あなたもうれしい」という関係になる」はゴシック体]のです。
怒れる女性は、努力した結果、「私はうれしい、あなたは悲しい」または「私は悲しい、あなたはうれしい」という関係を作ってしまいます。怒れる女性が笑うと、周囲の人は泣くという関係です。
さきほど、感性が逆転している人がする努力は実らないと申し上げましたが、これがまた新たな悲劇を生むことになります。なぜなら、努力が実らないというイライラが、さらにその人を怒れる人にしてしまうからです。さらなる怒りが、ますます感性を逆転させて、ますます鬼にしてしまうのです。悪循環です。
しかも、こんな人ですから、誰とも心の絆を作ることができません。誰ともつながっていないという状態は、女性にとっては非常に大きな不快です。この不快感も怒りに変わります。
要するに、(一)人をいじめては努力が実らないと怒り、(二)人を泣かせては、誰とも心の絆ができないと不満に感じるのです。その結果、年々、怒りが増えていく人生となります。
困ったことがもう一つあります。
それは、怒れる女性は、自分が愛されてこなかったことに対して強い劣等感をもっていることです。その反動で、プライドが異常に高くなってしまうのです。
劣等感の反動でプライドが高くなっている人は、誰かれとなく見下したくなります。見栄を張りたくなるのです。人を見ると、バカにしたくなるのです。人を見下せないと、自分の存在価値がないような恐怖が襲うからです。我が子に対してもです。もちろん、このことも当人はまったく無自覚です。
さて、この見下しという態度は、人に対する否定の態度です。拒絶の態度でもあります。子どもは震え上がります。また、見下しの心をもっていたのでは、誰とも心の絆を作ることはできません。見下されて気分が良くなる人はいないからです。
心の絆とは、互いに尊敬しあったり、尊重しあったり、敬意を払ったりすることで形成されます[#「心の絆とは、互いに尊敬しあったり、尊重しあったり、敬意を払ったりすることで形成されます」はゴシック体]。互いに対等な立場で、よかったね、うれしいね、と悦びを共感することで作られるのが心の絆[#「よかったね、うれしいね、と悦びを共感することで作られるのが心の絆」はゴシック体]です。受容と共感の中で、心の絆が形成されるのです。
怒れる女性は、良かれと思って逆の努力[#「良かれと思って逆の努力」に傍点](不幸になる努力)をしているのです。自分の劣等感を認めたくないために、こうした悲劇が発生してしまうのです。当人は、人にバカにされたくないから、人に軽蔑されたくないから、人に不幸と思われたくないから、と自己正当化して言い訳しますが、じつは、心の奥底で自分が軽蔑に値する人間だと暗に認めているからこそ意識の表面では否定に走るのです。つまり、見下す行為をしてしまうのです。
「自分は幸福だとは言わない、でも、絶対に自分は不幸ではない」と自分に思い込ませているのです。そのウソを守り通すために、人を見下さざるを得なくなるのです。
こういう事情があるために、自分よりも幸福な人を見たとき、特に見下したいという衝動は高まります。破壊もしてやりたくなります。「フン、あんなヤツの幸福など大したことない」「運がいいだけさ」「本当は不幸に決まっているさ。化けの皮を剥いでやる」などと思うようになるのです。
自分よりも幸福な人を見て、自分もああなりたいと思うのではなく、嫉妬し、否定し、見下そうとしてしまうのです。もちろん嫉妬している自分にも無自覚です。だから、怒れる女性ほど「自分ほど心のきれいな女性はいない」などと本気で思っているのです。
幸福な人を見て素直に「素敵だね」「良かったね」と思えないのは、自分が不幸である何よりの証拠[#「幸福な人を見て素直に「素敵だね」「良かったね」と思えないのは、自分が不幸である何よりの証拠」はゴシック体]です。幸福な人に嫉妬するのも、自分が不幸である証拠[#「幸福な人に嫉妬するのも、自分が不幸である証拠」はゴシック体]です。幸福な人は、決して人の幸福に嫉妬することはありません。また、幸福な人は、決して、人と比べたりはしません。幸福な人は、幸福な人を見ると、目を細めて良かったね、もっと幸福になってね、と人の幸福を願うものです。
ところが、不幸な人ほど、自分が不幸であることを認めません[#「不幸な人ほど、自分が不幸であることを認めません」はゴシック体]。嫉妬している自分すら認めません。しかも、幸福な人を見ると、不幸にしてやりたいと思うのです。不幸に陥れて、自分と同じレベルにしてやりたくなるのです。なお、この場合の「自分と同じレベル」とは、自分と同じような不幸なレベルという意味です。
不幸な人ほど、自分が不幸であることを知らない[#「不幸な人ほど、自分が不幸であることを知らない」はゴシック体]のです。だから、幸福になる努力をしません。努力をしないから、いつまでも不幸なままです。だから、幸福な人に意地悪をして不幸に陥れて、自分と同じ不幸のレベルまで落とそうとするのです。
恐ろしいことに、こうしたことを我が子にもするのです。不幸な人は、自覚のないまま、我が子を不幸にする努力をしてしまうのです。
快―不快が不自然―自然と、逆転してしまうと、こんな恐ろしい人になるのです。
当人は良かれと思ってやっていることが、人を傷つけ、人を不幸にしてしまうのです。つまり、怒れる人の善意は、人を殺す善意[#「怒れる人の善意は、人を殺す善意」はゴシック体]なのです。感性が逆転していると、その人の善意が人を殺すことになるのです。当人にとっても悲劇ですが、傷つけられた人にとってはもっと悲劇です。
害虫になりたくないと思っているからこそ、一生懸命努力したのに、結果は、見事に害虫になってしまうのです。しかし、それでも、怒れる女性は、自分こそ善人であると思い込んで生きているのです。
考えていることと現実が一八〇度ズレてしまうのです。怒れる女性は、自分が思っている自我像と、真実の自我像が大きく食い違っている[#「怒れる女性は、自分が思っている自我像と、真実の自我像が大きく食い違っている」はゴシック体]のです。
一方、愛された女性は、良かれと思って努力したことはほとんど実ります。相手も悦びます。その悦びを、我がことのように悦ぶので、ますます心が満たされます。もちろん、自分が思っている自我像と真実の自我像にズレはほとんどありません。
以上のように、女性の場合、愛されたか、愛されなかったかで両極端になります。
女性は感情の大きな世界に住んでいる上に、感情を入れる器が大きいので、愛も怒りも、莫大な量を心にため込むことができるからです。愛されて愛をためれば女神になりますが、意地悪されて怒りをためれば悪魔になる[#「愛されて愛をためれば女神になりますが、意地悪されて怒りをためれば悪魔になる」はゴシック体]のです。
†相手を陥れるつもりがなければ許されると思っている[#「†相手を陥れるつもりがなければ許されると思っている」はゴシック体]
嫉妬は人を狂わせます。人のする意地悪は、そのほとんどが嫉妬が原動力になっています。しかも、「自分は今、嫉妬があるから人の幸福を破壊しようとしている」などと意識することはありません。つまり、意識の上では、相手をいじめるつもりはない、ということです。怒れる女性ほど、嫉妬で意地悪をしているのに、その自覚がないのです。
ですから、たとえば、目の前にいる人が泣き始めても、「自分のせいではない」「なぜなら自分は、相手をイジメるつもりはなかったのだから」と自分を正当化します。当人に、その自覚がない以上、実際にはどんなにイジメていても、たしかに、イジメる意図はなかったことになります。
こういう女性に、もし、被害者(相手)が筋道立てて抗議をしたとしても、「傷つけるつもりはなかった」と反論するのみならず、「傷つけるつもりはないのだから、私は悪くない。そんなことで傷つくほうがおかしい」「傷つけるつもりがないのだから、傷つかないはずだ」と、どこまでも自分を正当化します。加害者が被害者を変人呼ばわりするのです。
加害者を自覚するどころか、理不尽な抗議をされて自分は被害者だと思います。逆ギレ状態です。自分のしていることが自覚できないということはかくも恐ろしいことなのです。
しかも、記憶がない、という恐ろしさまであります。これまで繰り返し、怒れる女性は、自分のしていることを自覚しないと申し上げてきましたが、自覚がないということは、記憶もない、ということです。意地悪をしても、その記憶がほとんど残らないのです。
ですから、被害者が過去の意地悪を抗議しても忘れたと主張します。ウソではありません。ほんとうに記憶がないのです。一カ月前の夢を思い出すような記憶しか残っていないのです。なぜこんな状態になるのか、詳しくは第四章で述べますが、怒れる女性はこんな状態ですので、何度抗議されても、謝罪する気も反省する気もありません。記憶も自覚もないと、反省しようにもできないのです。こんな女性が増えたら、文明は滅んでしまいます。
†怒れる女性は人のダークなところしか見えない[#「†怒れる女性は人のダークなところしか見えない」はゴシック体]
愛されてきた女性は、相手の男性の愛情を正確に読みとって幸せな気分になりますが、愛されてこなかった女性は、男性の愛を読みとることはできません。相手の男性の無償の愛や無私の善意がまるで見えないのです。見えないので、愛はないと思います。そのくせ、下心や魂胆だけは、人一倍、鋭く見抜きます。そのため、ますます、自分は愛されないといじけます。愛されない人間だとスネてきます。世の中の人はみんな冷たいと嘆きます。
こうして、怒れる女性は、人の心の半分しか読めないのに、自分は人の心のすべてが見える、と思い上がってしまう[#「怒れる女性は、人の心の半分しか読めないのに、自分は人の心のすべてが見える、と思い上がってしまう」はゴシック体]のです。
その根拠は、ダークなところだけは人一倍読みとれるからです。しかし、さきほど申し上げましたように、相手の愛はまったく見えません。そのことを知らないために、相手の愛が見えないのは、相手に愛がないからだと解釈してしまいます。「自分は人の愛が見えない人である」という真実を知らないために、相手が愛情深い人でも冷たい人に見えてしまっていることに気がつかないのです。心の冷たい人も冷たい人に見えますが、心の温かい人も冷たい人に見えてしまっている事実に気がつかないのです。
気がつかない、ということは恐ろしいことです。ますます、怒れる女性を不幸にするからです。
なぜなら、心の冷たい人をいい人と勘違いしてつき合ってしまったり、やさしい人をヘンな人と言って軽蔑したりしてしまうからです。これでは、いつまでたってもいい人と巡り会うことはできません。また、どんなに相手に尽くしても、努力が実ることもありません。つき合うべき相手を間違えているからです。
なぜ、こんなにも間違った感性で生きているのに修正できないのでしょうか。また、自分の感性に自信までもってしまうのでしょうか。
それも女性どうしの共感の結果です。
怒れる女性は、今の時代はたくさんいます。男性に愛情がなくなっているからです。
さらに困ったことに、怒れる女性は、他の怒れる女性の心を見抜く力にも長けていますので、たった一秒、相手の女性の顔を見ただけで、自分と同じ生育歴、つまり愛情不足の過去をもっている人かどうか(自分と同質かどうか)を鋭く見抜きます。そして友達になるのです。
そして、話題の男性が、本当は素敵な男性であることを知らずに、二人で悪口を言い合います。そこで、互いの喜怒哀楽が共通していることを確認します。それがどんなにとんでもない勘違いであろうと、どんなに間違った解釈であろうと、怒れる女性は、自分と同じ見解を示す人が一人でもいると、それが正しい解釈だと考えてしまうのです。怒れる女性ほど、その傾向が強いのです。
だから、怒れる女性は、一人でも賛同者がいると、自分の感性に自信をもってしまうのです。我こそは正統派(正しい感性をもっている人々)であるという認識に到達してしまうのです。
こうなりますと、愛情たっぷりに育った女性たちのグループと、評価や解釈が一八〇度逆になります。世界観も正反対になります。まったく異なる感性をもった二つの集団になっているからです。
しかも、心に怒りを秘めた人は、人の親切をイヤミ(不快)として受け取ることがしばしばですが、これでは、本来悦ぶべきときに、逆ギレして怒り始めてしまいます(詳しくは拙著『ひねくれた人に振り回されない88の方法』〔大和書房〕をご覧ください)。たとえば、「忙しそうですね、仕事を手伝いましょうか」と言われても、私のことを能なしだと思っているから手伝おうとするわけね、とか、そうやって手伝うことで私の無能ぶりを社内にアピールして私に恥をかかせるつもりなのね、と怒ります。自分が親切をよそおったイヤミ(意地悪)[#「自分が親切をよそおったイヤミ(意地悪)」はゴシック体]をやっているので、人も同じ手口でやってくるだろうと思っているからです。誤解(曲解)[#「誤解(曲解)」はゴシック体]の裏に自分の悪態あり、なのです。
以上のようなメカニズムがあるために、愛情豊かに育った女性とそうでない女性とでは、幸福度の差がどんどん開いていきます。
しかし、自分の幸福度が低下しているにもかかわらず、賛同者が一人でもいる限り、怒れる女性は自分の生き方や考え方、感性を修正することはありません。いつも自己正当化しているからです。
しかも、怒れる女性ほど、自分と違った感性をもっている人の発言を受けつけません。きわめて排他的です。これは男性も同じです。自分と違った感性の持ち主の意見は、思考の範囲外、つまり、論外なのです。自分だけが正しくて、相手こそ間違っているのだ、という発想を変えることはありません。
なお、愛情豊かに育った女性は柔軟な発想をします。また、排他的でもありません。とても受容的です。
†人に不愉快な思いをさせている女性ほど、自分はこれ以上不愉快な思いをさせられたくないと思っている[#「†人に不愉快な思いをさせている女性ほど、自分はこれ以上不愉快な思いをさせられたくないと思っている」はゴシック体]
女性の不満の最大の原因は、愛されないことです。女性は孤独とさみしさが大嫌いです。序章に書きましたように、女性は愛されたい願望が強大なために、化粧や洋服に莫大な投資をするのです。
幼児期は両親や地域の住民から、そして、少女時代は、学校の先生や先輩から、大人になったら恋人や夫から愛されることを願います。女性にとって、愛されないこと、誰ともつながっていないことは大問題なのです。
そして女性にとって愛されないことは、屈辱でもあります。イライラの原因です。女性はみんなに注目され、やさしくされないと不安になってくるのです。不満でもあります。イジケてもきます。どうせ、自分なんて誰も親身になってくれないんだ、とか、どうせ自分なんて誰にも愛されないんだ、とひねくれてもきます。
ひねくれてくると、さきほど申し上げましたように、親切がイヤミに見えて、ますます人から愛を受け取れなくなり、ますます不満が増大し、イライラがつのるという悪循環に陥ります。
こうなりますと、怒れる女性は、「もう、これ以上、不愉快な気分を味わいたくない!」「もうこれ以上、傷つきたくない」と思います。つまり、もうこれ以上、不快になりたくないと思うのです。
こういう女性が母親や上司になったらどういう発言をするようになるでしょうか。
「これ以上、自分を不愉快にするな!」「これ以上、自分を不安にするな!」ということを前提に発言をするようになります。
しかし、女性は、決してこのようなストレートな発言はしません。必ず、間接的です。怒れる女性ほど間接的です。後述しますが、女性は自分が悪者(鬼)[#「女性は自分が悪者(鬼)」はゴシック体]であることを見抜かれることを嫌うからです。だから間接的になるのです。男性は注意が必要です。
たとえば、第二章でご紹介した、「あなた、こんなことしていいと思ってるの?」という発言は、「こんなにお母さんを悲しませて、悪い子ね」という本音をカムフラージュするための発言でした。本音は、「もうこれ以上、私をイライラさせるな」「お母さんをイライラさせる子は悪い子よ」です。女性は、言外で本音を言う[#「女性は、言外で本音を言う」はゴシック体]のです。
さて、怒れる女性は、自分の不安やイライラが気になって、人の心を|慮《おもんぱか》ることができません。そんな余裕はないのです。だから共感できないのです。自分の精神の不安定を解消することで精一杯なのです。
たとえば、子どもが、母親にかまってほしくて万引きをしたとしましょう。
母親は、警備員や警察に呼び出されて、恥をかかされた苦しみを子どもに訴えます。あなたのせいでお母さんは恥をかいたのよ、どうしてくれる、と責めるのです。そうでなくてもイライラしているのに、あなたのせいでお母さんは、もっとイライラするハメになったのよ、と子どもを責め立てるのです。
子どもが、なぜ万引きをしたのかを考えたり、子どもの悲しみやさみしさを思いやることはありません。そんな余裕はないのです。自分の受けた被害ばかりを延々と語るのです。独演会です。
心が満たされていない女性の発言の特徴は、自分を不快にした人をネチネチと責め続けることです。そして、相手を全否定することです。母親を不快にした子は、どんなにすばらしい才能をもっていようが、どんなにやさしい気持ちをもっていようが、「全部ダメ」なのです。全否定をするのです。自分を不快にする子は、悪い子だからです。
†怒れる母親のおかしなルール[#「†怒れる母親のおかしなルール」はゴシック体]
怒れる女性は、これ以上気分を悪くさせるな、という思いを強くもっていますので、相手が弱者と見ると、自分の悪趣味を押しつけようとします。
この場合の弱者とは、我が子または部下(従業員)ということです。精神的に弱い人ほど、弱い者イジメをする[#「精神的に弱い人ほど、弱い者イジメをする」はゴシック体]のです。
そして、要求とは、「自分をイライラさせるな」「自分を不快にさせるな」ということです。
こういう母親は、わけのわからないルールを作ります。家庭内であれば、次のようなルールを子どもや夫に押しつけるのです。
「友達を家に連れてきてはいけない(家がちらかって不快になるから)」「夫婦喧嘩したら、必ずお母さんの味方をしなさい(お母さんが間違っていても、お父さんの味方をしたら不愉快だから)」というルールです。
また、愛される自信のない母親、あるいは、充分に愛されていないと不満に感じている母親は、次のようなルールを娘に与えることがあります。
「ピンクの洋服を買ってはダメ(お母さんよりも美人になったら不安になるから)」「お父さんに甘えてはいけない(嫉妬で気分が悪くなるから)」「就職するまで化粧してはいけない(お母さんよりもいい女になったら不安だから)」「結婚までボーイフレンドを作ってはいけない(お母さんよりも愛されたら不愉快だから)」「ミニスカートをはいてはダメ(お母さんよりも魅力的になってはいけないから)」などです。
また、一見、わけのわからない押しつけもあります。たとえば、「植木鉢のお花に水をやるのは、お鍋でないといけない」とか、「親戚からお小遣いをもらっても、うれしい顔をしてはいけない」「小遣いをもらったら、母に全額を渡すこと(没収する、ということ)」などです。
母親は家庭においては絶対的な権力者です。それをいいことに、子どもに自分の趣味を押しつけるのです。もし、自分のルールに服従しなかったら、無視したり、食事を作らないなどの報復をします。こうした押しつけは、子どものみならず、夫にも及ぶことがあります。
そして、怒りが大きい母親ほど、子どもや夫に対する要求の項目が多くなります。また、要求内容も怒りに比例して、過激かつおかしな内容になるものです。
こうして母親の王国ができあがるのです。専制君主の独裁者になるのです。怒れる女性は、他者を巻き込むのが特徴です。
それでも、当の母親は、自分が女王様になっているという自覚はありません。自分としては、気分良く家事や育児をしているだけ、という程度の認識しかありません。当然のことをしていると思っています。自分の都合を中心に家族全員を振り回しているという意識はありません。もちろん、罪の意識もゼロです。
†怒れる女性のわがままを許すと暴君になる[#「†怒れる女性のわがままを許すと暴君になる」はゴシック体]
母親がこのように暴君と化して、家族を意のままにあやつっても、心が満たされることはありません。なぜなら、夫と子どもはただ服従しているだけで、共感など、心の交流をしているわけではないからです。
心の絆は、対等な立場でしか形成されません。支配―被支配とか、操る―操られるという上下関係では、絆は決して形成されないのです。心の絆は、互いに対等な立場で、おいしいね、うれしいね、と共感したときに作られるのです。
脅すことで人を意のままに操るというのは、そこに上下関係があるということです。支配―被支配は、明確な上下関係です。この関係から脱しない限り、誰とも心の絆は作れません。
しかし、怒れる母親は、上下関係こそ人間関係の基本だと思い込んでいることが多いのです。そのため、家族以外の人とも、支配―被支配(場合によっては、逆に、母親が被支配者となって、相手に服従することもあります)という関係を作ろうとするのです。
さて、こんな母親が一度、家庭内で女王様になってしまうと、夫以外に誰も暴走をとめる人はいなくなります。ですから、もし夫が触らぬ神に祟りなしとばかりに、我関せずを決め込んでしまうと、死ぬまで母親の王国が継続します。しかも、母親の暴君ぶりはエスカレートするばかりです。つまり、家庭内におかしなルールがどんどん増えていくばかりです。
もうひとつ暴走がとまらない理由があります。
それは、人を支配することが気持ちいいからです。人を意のままに操ることに快感をおぼえるのです。女性は、気持ちいいことが大好きですから、たとえ、人を支配することは悪いことだと認識できたとしても(めったに認識することはありませんが)、なかなかやめられません。人は誰でも、快感のともなう行動をやめるのはむずかしい[#「人は誰でも、快感のともなう行動をやめるのはむずかしい」はゴシック体]のです。特に女性はそうです。まして、無自覚の場合はなおさらです。何の罪の意識もなく、気持ちいいこと(意地悪や支配)を繰り返してしまいます。つまり、自分勝手なルールを家族に押しつけて、平然としてしまうのです。
†歴史は繰り返される[#「†歴史は繰り返される」はゴシック体]
もし、その母親が自分の母親から支配された経験がある場合は、さらに事態は深刻です。なぜなら、家族を支配し、操ることが復讐にもなるからです。
なぜ、復讐になることが事態をさらに悪化させるのでしょうか。
それは、復讐することも気持ちがいいからです。
つまり、自分が親にされた意地悪を、そっくりそのまま誰かにやり返すことは快感なのです。家族を支配するだけでも快感なのに、復讐する快感まで加算されたら、いよいよやめられなくなります。嗜癖状態です。麻薬と同じでやればやるほどやめられなくなります。
しかし、じつは、復讐すると、もうひとつ悪化させるものがあります。
それは、復讐をすると、過去の自分の惨めさが思い出され、過去の怒りが刺激されてしまうことです。つまり、復讐をすると快感が得られると同時に、過去の自分の傷が刺激されてイライラもまた湧いてきてしまうのです。ますます怒れる母親になるのです。
復讐すればするほど復讐したくなるのです。夫や子どもを支配しながら、母親自身が惨めさという不快感、つまり、怒りを得てしまいます。通常なら、快感を得ていれば、その快感の分だけ怒りは減るはずですが、復讐することによる快感はあまりに小さすぎて、むしろ、それが復讐をするエネルギー源になってしまうのです。いよいよ悪循環になります。
こうして母親のイライラの増大とともに、ますますおかしなルールが増えていくことになり、ついには、西太后のようになります。怒りに狂った女性というのは、巧みな言い訳をして自分のしていることを正当化してしまうために、手のつけようがなくなるのです。
繰り返しますが、これらのことは、すべての女性(母親)に当てはまることではありません。愛情少なく育った、怒れる女性(母親)の場合に限っての話です。
†「この苦しみをオマエも味わえ」と思っている[#「†「この苦しみをオマエも味わえ」と思っている」はゴシック体]
怒れる女性が人を傷つけようとする動機や方法は、男性の場合とは微妙に違います。
男性の場合は、憎む人がいて、その人を殺したくなったら、ナイフで刺すとか、クルマで轢き殺すとか、ピストルで撃つなど、一発で確実に殺せる方法を考えます。男性は直接的なのです。
しかし、怒れる女性は、憎しみや怒りの感情が大きいので、「ひと思いに殺すのはつまらない」「残酷な仕打ちを与えて苦しませて殺したい」と考えるのです。つまり、自分が受けた苦しみを人に味わわせてやりたいという気持ちが非常に強い[#「自分が受けた苦しみを人に味わわせてやりたいという気持ちが非常に強い」はゴシック体]のです。「自分はこんなに苦しんだんだぞ」「その苦しみを思い知らせてやりたい」「オマエも味わえ」という発想なのです。そして相手が、苦しい、苦しいと言うと、ザマーミロ、と快感を得るのです。
相手に苦しみを味わわせたいと思う動機の中に、「自分の味わった苦しみをわかってもらいたい」ということもあります。女性は共感が大好きというお話をしましたが、そういう女性特有の発想が裏目に出るとこうなるのです。つまり、人に苦しみを与え、その苦しませた人と共感したくなるのです。苦しみの共感をしたくなるのです。
怒れる女性のやることは、まるでホラー映画を見ているような不気味さがあります。こういう人は、幼稚園児のころから、こういう気持ちをもっているのです。怒れる女性は、幼児のころから、そのかわいい顔とはうらはらに、大人顔負けの復讐劇を行うのです。幼児とあなどってはいけません。マムシは生まれたときから毒をもっていますが、それと同様、女の子も、怒りをもらったときから、母親と同じ方法で人に毒を吐きかけるのです。母親の意地悪のやり方を幼稚園児のころには完璧にマスターしてしまう[#「母親の意地悪のやり方を幼稚園児のころには完璧にマスターしてしまう」はゴシック体]のです。
親切をよそおって相手に意地悪をするという高等テクニックを使うことも珍しくありません。しかも、当の女の子も、親切をしているのだと自己欺瞞するほどの念の入れようです。女の子は、人に意地悪をするときは、幼児期から完全犯罪をもくろむのです。
もし、あなたの同僚の女性が、あなたに親切でしてくれたことなのに、なぜか妙にイライラしてきたり、不愉快な気分になってきたとしたら「親切をよそおった八つ当たり」、つまり「イヤミな親切」をされた可能性があります。女性の攻撃は、男性にはきわめてわかりにくいのです。もし、被害(気分の悪さなど)[#「被害(気分の悪さなど)」はゴシック体]だけがあって、誰も加害者がいなければ、真犯人は女性であることが多いのです。
それと比べたら、幼稚園の男の子はかわいいものです。手の込んだ意地悪の方法など思いもつきません。
幼稚園で子どもたちが遊ぶ姿を見ていると、男の子どうしが殴ったり、叩いたりしている光景が多く見られます。一見、男の子だけが攻撃性が高いように思えます。一方、女の子は、おとなしく遊んでいるように見えます。しかし、じつは女の子は、陰では、陰険で陰湿な方法で他の子をイジメているのです。男性に見えないだけです。女性のする意地悪は、当事者(いじめる人といじめられる人)[#「女性のする意地悪は、当事者(いじめる人といじめられる人)」はゴシック体]にしかわからない方法を使うからです。何気ない言葉でも、絶妙のタイミングでぐさりと相手の心に突き刺さるようにやるのです。
だから、多くの男性たちは、女の子はおとなしいねぇ、とか、女の子は攻撃性がないねぇ、平和が好きなんだねぇ、かわいいねぇ、などと単純に考えてしまうのです。
怒れる女性の実態というのは、男性が考えているほどきれいなものではありません。親から怒りをぶつけられた女の子は、幼稚園児にしてすでに立派な鬼になっているのです。花嫁衣装の「角隠し」は、怒れる女性の怒りを隠しているのかもしれません。
なお、自分の味わった苦しみを他人にも味わってもらいたいというのは、復讐をしている、ということです。八つ当たりです。自分が受けた苦しみのルーツは自分の親なのに、怒りを親に向けずに、自分よりも弱い者、そして弱点のある者(自分が弱点を発見した者)に向けているのです。
†カムフラージュ作戦――母親の悪行が目立たない理由(その一)[#「†カムフラージュ作戦――母親の悪行が目立たない理由(その一)」はゴシック体]
女性は、人から悪い人と思われることを非常に嫌がります。基本が、愛されることだからです。怒れる女性でも、愛されなくなることを恐れます。だから、自分はいい人である、ということをアピールしたがるのです。そして、自分が悪人であることを必死で隠そうとするのです。
では、怒れる女性はどんな方法を使って自分の悪行をカムフラージュするのでしょうか。
方法は二つあります。
一つは、自分の情報を人に流さない、ということです。無意識だけど意図的に自分の情報を隠すのです。こんな話をしたら軽蔑されるかもしれないと考えると、その話をしないのです。女性には、「言わないウソ」が非常に多い[#「女性には、「言わないウソ」が非常に多い」はゴシック体]のです。
しかし、相手の情報だけは聞き出そうとします。なぜ? どうして? と男性を質問攻めにするわりには、自分のことは聞かれても多くを答えません。適当に答えておきます。こうしておけば、相手の弱点を知ることができますし、自分の弱点は相手に知られることはありません。
こうして、日頃から情報を収集しておくのです。そして、いざというとき、つまり相手を攻撃するときに利用するのです。情報のある者は圧倒的に有利だからです。競争でもディベートでも、情報をもっている者が有利なのはご存じの通りです。女性は、直感的にこのことを見抜いて、幼少のころから情報隠匿作戦をやっているのです。
実際、怒れる女性と喧嘩すると、こちらの弱点や欠点や落ち度を次から次へともち出して攻撃してきます。女性は、いざとなったときのために、ふだんから相手の欠点や弱点を収集しておくのです。女性と口喧嘩して男性が負けるのはこのためです。口がよく回るからではありません[#「口がよく回るからではありません」はゴシック体]。常日頃から準備ができているから[#「常日頃から準備ができているから」はゴシック体]です。
怒れる女性は、自分の身を守るために、日常の会話をしていても、「おっ、この情報は攻撃のネタに使えるな」と思ったら、しっかりと記憶しておくのです。自分に有利か不利か、いつも考えているのです。しかも、怒れる女性は攻撃性が高いので、機関銃のように攻撃してきます。怒れる女性ほど始末に悪いものはありません。
男性の目には、女性はよく記憶しているな、と映りますが、じつは、女性は自分にとって有利な情報、そして相手にとって不利な情報だけを選択的に記憶しているだけです。それ以外の事実の記憶は残しません。
もちろん、例によって、こういう作戦を実行していることも怒れる女性は無自覚です。無自覚なのに、やることはきわめて戦略的です。怒れる女性は、なにも考えていないように見えて、じつは、ものすごく本質をついた作戦を実行して生きているのです。
たとえば、女子高生が腹いせに学校のガラスを割ってやろうと計画した場合、まず、数カ月かけて良い子を演じます。自分が疑われないように振る舞うことから始めるのです。そうやって周りから信用を得たら、誰もいないときを見はからってガラスを割るのです。怒れる女性は、何カ月も前から準備して決行するのです。女性はいつも完全犯罪をめざしているのです。頭に来たらすぐガラスを割ってしまう男性とは違います。
こんな話もあります。
憎い夫を殺すために、みそ汁に自分の髪の毛を細かく刻んだものを何年も入れ続けた女性です。髪の毛が胃や腸にトゲのように突き刺さって、夫の胃腸を弱らせようという作戦です。しかも、自分の殺意がバレないように、ふだんよりもにっこり微笑み、おいしい料理をたくさん作ったのです。男性は、こういう女性の演技を見破ることはまず不可能です。これで夫が死ねば、完全犯罪です。
怒れる女性の二つめのカムフラージュ方法は、不作為による攻撃をするということです。女性は殴ったり蹴ったりという直接的方法を採用することはまれです。不作為、つまり、あることをしない、ということで相手に不利益を与えようとするのです。
たとえば、道を歩いていて、蜂に刺されたとします。道路のそばに蜂の巣があったのです。このままでは、多くの人がそこを通りかかったときに刺されるかもしれません。でも、怒れる女性は、「この苦しみ(痛み)をみんなも味わえばいいのだ」と考えます。さきほどお話しした通りです。
では、どうするか。
なにもしないのです。
なにもしなければ、その女性の思惑通り、知らずに通りかかった人は蜂に刺されます。そして、ザマーミロと一人ほくそ笑むのです。誰にも知られることのない完全犯罪です。
怒りのために鬼になっている女性は、自分だけ苦しんで他の人が苦しまない、ということが許せない[#「怒りのために鬼になっている女性は、自分だけ苦しんで他の人が苦しまない、ということが許せない」はゴシック体]のです。あるいは、自分だけが犠牲になって他の人が助かる、という構図が許せない[#「自分だけが犠牲になって他の人が助かる、という構図が許せない」はゴシック体]のです。怒れる女性は、自分だけが損をすることをひどく嫌う[#「怒れる女性は、自分だけが損をすることをひどく嫌う」はゴシック体]のです。不公平感が強いからです。そのために何が何でも、自分が味わった苦しみを人にも味わってもらいたいと思うのです。そのための不作為なのです。
蜂に刺されて死人が出ても気にしません。怒れる女性は、幸せなヤツなんて死ねばいいとさえ思っているからです。それほどまでに、怒れる女性の心は悪魔的です。
そして、誰かが蜂に刺されるまでじっと待つ、というのも女性の特徴です。女性は辛抱強いのです。何カ月も何年も意地悪やイヤガラセをやり続けるのが怒れる女性の特徴です。
また、不作為の中には、無視(育児放棄も含みます)という方法もあります。これも世間にバレることの少ない方法です。イヤミを言って傷つけるという言葉の暴力を使うこともあります。これも、目には見えない分、世間には知られない方法です。
子どもを虐待している怒れる女性は、良妻賢母を演じて、さらに自分の悪行をカムフラージュしようとします。女性はどこまでも用意周到なのです。先手を打っておくのです。家では鬼ババのようでも、人前ではことさらやさしい母親を演じるのです。
そんな母親の行動を、子どもの目から見たら、まるで二重人格者です。内面と外面がまるで違います。それでも、当の母親は自分の変身ぶりには気がつきません。
†人をあやつる作戦――母親の悪行が目立たない理由(その二)[#「†人をあやつる作戦――母親の悪行が目立たない理由(その二)」はゴシック体]
女性は人の心を読み、人をあやつるのが得意です。ですから、誰かを殴りたいと思ったら、男性を動かしてその人を殴らせる、という方法を使うことも少なくありません。
二〇〇四年に大阪府岸和田市で発覚した虐待事件もそうでした。中学三年生の男子が虐待され(殴られ)、食事も何カ月も与えられませんでした。そのため昏睡状態になってしまった事件です。ご記憶の方も多いと思います。
義母である奈津代容疑者(名字は敢えて伏せます)は、「なぜ、殴るのですか」とか「どうして廊下を音を立てて歩くのですか」と長男に言わせて、夫(康信容疑者)を怒らせ、夫に長男を殴らせています。それも、ふとんで寝ている夫を長男に起こさせて、そう言うように命じたのです。
奈津代容疑者は、どうしたら夫が怒り出すか、よく知っているのです。そればかりではありません。どういう怒らせ方をしたら夫が長男を殴るかまで知っているのです。
だから奈津代容疑者は、長男を殴りたいと思ったら、長男を動かし、夫を操ることで目的(殴ること)を果たせるのです。実際、長男と夫は見事に奈津代容疑者に操られました。発覚しなければ、完全犯罪でした。
一般に女性は、殴りたい相手を直接殴るというような行動はめったにしません。そんなことをしたら、自分が悪人であることが、自分にも、そして世間にもバレてしまうからです。多くの女性は、子どもを殴ろうと思ったら、奈津代容疑者のように、夫をキレさせ、その夫に子どもを殴らせる、という作戦をとるのです。男性が知らないだけです。
なお、夫をキレさせる方法は、他にもあります。たとえば、子どものした悪いことを夫に告げ口したり、夫が怒る行為を子どもにさせる(おもちゃを片づけない、マンガばかり見ている、兄弟喧嘩をする)などです。男性の心を読んだ巧みな方法です。女性は、こうして自分の目的を達成するのです。
時にはカムフラージュのために、自分を夫に殴らせて、自分を被害者に仕立てることがあります。これも女性特有の自己防衛方法です。
夫に殴らせて、母親である自分も被害者だということにしておけば、自分が加害者であることをカムフラージュできるからです。このカムフラージュは、特に子どもに対して効果的です。哀れな被害者をよそおい、子どもに同情させることができるからです。
さらに、怒れる女性は手の込んだカムフラージュをします。それは、夫に殴られた子どもに、「あら、あら、かわいそうに」「お母さんが手当してあげるね」と親切にするのです。女神をよそおうという念の入れようです。女性は演技がきわめてじょうず[#「女性は演技がきわめてじょうず」はゴシック体]なのです。
怒れる女性は、自己欺瞞も兼ねて、こんな哀れな母があなたを虐待するわけがないでしょ、こんなやさしい母があなたの不幸を願っているわけがないでしょ、なにしろ、私もあなたと同じ被害者なのよ、とアピールするのです。
つまり、虐待などしていないよ、あなたの幸福を願っているよ、というアピールを自分自身にも、そして子どもにもするのです。だから、子どももだまされてしまうのです。
怒れる女性はどこまでも巧妙です。しかも、この一連の作戦を何の自覚もなくやっているのです。悪知恵は、無自覚なときのほうがよく働くもの[#「悪知恵は、無自覚なときのほうがよく働くもの」はゴシック体]です。
女性は、家庭内だけでなく、職場でも同じ方法を使って男性を動かし、自分の目的を達成しようとします。もちろん、男性ばかりでなく、職場の女性をも意のままに動かそうとします。
ただ、相手が女性の場合は、互いに下心や動機を見抜き合うためにやりにくくなります。
ただし、女性は不安と恐怖を与えるとかんたんに意のままになりますので、それを利用することもあります。もし、自分が上司である場合、立場を利用して、不安や恐怖を部下の女性に与えれば、恐怖で相手は動き始めます。
さて、怒れる女性は、男性を怒らせようという自覚があって怒らせるわけではありません。人を操ろうという明確な自覚があって操っているわけでもありません。悪事をはたらくときはいつも無自覚です。だからこそ、バレずに済むのです。もし、自覚していたら、それを他の女性に読みとられてしまいます。敵を欺くにはまず味方から、といいますが、自分自身という最強の味方を「自己欺瞞」または「無自覚」という方法でだますのです。
なお、男性は、女性から怒りを誘発されただけで傷つきます。傷つくように怒らせるからです。その結果、女性が、怒らせた男性に殴られても、その痛み以上に、相手の男性を傷つけることが可能です。損して得取れ、ということを女性はやっているのです。
こういう巧妙な手段を使うために、女性の悪行がなかなかバレないのです。被害者だと思っていたら、じつは、その女性こそ加害者であった、ということは非常に多いのです。男性がニブイために気がついていないのです。
†悪行のしっぺ返し[#「†悪行のしっぺ返し」はゴシック体]
怒れる女性に、相手の幸せを破壊してやろうという明確な意識がなくても、やっていることが幸せ破壊であれば、いつか必ずその報いを受けるときが来ます。なぜなら、この世は単純な法則で動いているからです。人の幸せを願ったら人からも幸せを願われますし、人に八つ当たりをしたら、人からもしっぺ返しをくらいます。
ですから、怒れる母親の場合は、一生懸命に子育てをしたつもりでも、やがて子どもに裏切られる日が来ます。
さまざまな裏切りがあります。
一つめは、子どもが親に呆れて、寄りつかなくなることです。もし、子どもが、自分を愛してくれる人を見つけて愛をもらえば、その愛で怒りを追い出すことができます。幸せになると、実家がお化け屋敷に見えるようになります。当然、寄りつかなくなります。
二つめは、ひきこもりです。ひきこもる理由はたくさんありますが、「オマエの教育が失敗したからひきこもっているんだぞ」というアピールをするのもその理由のひとつです。ただし、子どもは無自覚です。
三つめは、親に直接悪態をつくことです。ただし、子どもは親に養われている身ですから、強くは出られません。
四つめは、親と仲良くなってしまうことです。母親の世界観(人づきあいの方法、夫婦のあり方、ものの見方など)をそっくりコピーし、つまり、母親と同じ世界観で生きることで母親と共同体を作る方法です。ですから、表面的には裏切り行為には見えません。しかし、心の中は屈辱と怒りでいっぱいです。つまり、心の深層部分では、当人は自覚はしませんが、激しく母親を恨んでいるのです。心で行う裏切り行為です。とんだ茶番劇ですが、それでも母親とうまくやっていけるのは、自分の怒りのルーツは母親でないと自己欺瞞しているからです。
ただし、当の子どもは、自己欺瞞していることも自覚しませんので、まさか自分が母親を恨んでいるなんて夢にも思っていません。
でも、この母親に対する怒りは、やがて八つ当たりという形で夫や我が子や部下に向かうことになります。歴史は繰り返されるのです。
女性の世界とは、以上のように複雑怪奇です。ストレートな行動の多い男性から見ると、とても理解できるものではありません。まして、表面だけ見て仲がいいなどと思ってはいけないのです。
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第四章[#「第四章」はゴシック体] 女性は記憶を改ざんする
†女性は事実よりも感情を正確に記憶する[#「†女性は事実よりも感情を正確に記憶する」はゴシック体]
女性は、男性と比較すると、喜怒哀楽の感情を記憶するのは得意でも、そのとき何があったのか、という事実を記憶することは苦手、というお話をしてきました(詳しくは、拙著『なぜ、男は「女はバカ」と思ってしまうのか』〔講談社+α新書〕をご覧ください)。
女性は、たとえば旅行をした場合、どこに行き、どんな順序で遺跡を見たか、そこで何をしたか、という事実よりも、そこでどんな気持ちになったのか、という感情のほうをもっぱら記憶します。女性は、出来事よりも、そのときそのときの自分の喜怒哀楽の感情を正確に記憶するのです。男性はその逆で、そのときの自分の気持ちよりも、そこで何があったのか、という事実のほうを正確に記憶します。
人は、何かものを考えるとき、脳の中に蓄えられている記憶(過去の記憶)を基にして思考します。ですから、「あなたが体験したヨーロッパ一周ツアーはどうでしたか?」と尋ねられたとき、女性は、旅行中に感じた快―不快の感情を思い出して感想を言います。もし、楽しいと感じることがいっぱいあったら、それは「いい企画旅行であった」と言うのです。
一方、男性は、その旅行の事実(旅費はリーズナブルだったか、効率良くいろんなところを見学できたか、時間の配分は適切だったか、などの事実)を基に判断し、それに自分の気持ち(快だったか、不快だったか)をちょっとだけ添えて感想を述べるのです。
女性の結論は、自分の個人的な感想を基に導き出したものですから、その女性と感性の似ている人ならとても参考になりますが、違った感性をもっている人には参考にはなりません。
その点、男性の言う感想は、事実を基にしたものですから、女性の出した結論と比較すると客観性があります。ですから、これから同じパックツアーに参加しようと考えている人の参考になります。
†男性の記憶システムと女性の思考システム[#「†男性の記憶システムと女性の思考システム」はゴシック体]
また、男性の場合、事実を記憶するとき、筋道立てて記憶します。ある程度、整理された事実を記憶するために、状況の説明を求められたとき、理路整然と話ができるのです。どういう順序で遺跡を回ったか、ということまで記憶しているのは、事実を整理し、ひとつの物語として記憶しているからです。
その点、女性はスポット的です。感情を記憶することに夢中で、遺跡を巡った順序まで記憶することはありません。旅行から三年もたつと、順序のことなどすっかり忘れてしまいます。
たとえば、海外旅行中、千円程度で買えるぬいぐるみをだまされて一万円で買わされたとしましょう。女性であれば、頭に来たという怒りの気持ちを正確に記憶しますが、三年もすると、ヨーロッパのどこの国のどの町で買わされたのか、どんな状況だったか、という事実の記憶は消えていきます。ですから「ボラれて頭に来た、もう二度と行かない!」と言うことはできても、「それはイタリアのどこの町?」「どんなふうにボラれたの?」と聞かれても、きちんと答えられないことが多いのです。
その点、男性は、「ローマの道ばたで一万円でぬいぐるみを買った。でも高そうに見えた。他のツアー客も買っていた。その後、ナポリで入ったおみやげ店で、同じものを二千円で売っていた。試しに、まけてと言ってみたら、あっさり千円にまけてくれた。よって、このぬいぐるみはもともと千円程度の値段であることを悟った。他のツアー客も、ナポリでこの事実を知り、怒っていた。ローマで露天商から買うのは危険だと思った」という具合に答えることができます。
男性は、事実を整理し、論理的に一つのストーリーにしてから記憶するのです。ボラれた、という事実を中心に筋道立てて整理し、それをワンセットにして記憶するのです。
こういう情報がないと、これから旅行を計画している人の参考にはなりません。ただ単に、ヨーロッパに行ったとき、どこの国かは忘れたけど、ぼったくられた、という情報では、情報量が少なすぎて、あまり役に立たないのです。
男性にとって、事実はとても大事なものです。男性には、ふだんから責任ある行動を社会から求められてきた歴史がありますので、あやふやな記憶では、社会の中では生きていけないという事情があるからです。
男性は、(一)もともと事実を記憶するという特性があること、そして、(二)社会からの圧力があるために、より正確に記憶しようとするのです。
ですから、男性にとって、事実の記憶を書き換える、などということはあり得ません。
ところが女性は、記憶の改ざんをけっこうしているのです。怒れる女性ほどやっています。
なお、女性の名誉のために一言申し上げますと、女性はきわめて正確に感情を記憶するからこそ、自分の感情の記憶を基にものごとの判断をしようとするのです。その点、男性は、感情の記憶自体があやふやだからこそ、事実を正確に記憶しようとするのです。
また、男性の場合、感情の記憶が曖昧なので、ちょっと何か言われると、過去の好きと嫌いを容易に変更したりします。こんなことは、女性にはあり得ないことです。女性にとって感情というのは絶対的なものだからです。女性は、人にちょっと何か言われたくらいで自分の感情の記憶(好きと嫌い)が揺らぐことはありません。女性にとってもっとも確固たる記憶が感情の記憶だからです。しかし逆に、女性は、事実の記憶に関しては、人に何か言われると、すぐに変更してしまいます。男性と逆です。
また、女性は誰からもなにも言われなくても、自分の気分次第で過去の事実の記憶を書き換えてしまうことがある[#「自分の気分次第で過去の事実の記憶を書き換えてしまうことがある」はゴシック体]のです。もともと事実を正確に記憶しないので、男性よりも簡単に事実の記憶を書き換えることができるのです。
†土下座して頼んだのは誰?[#「†土下座して頼んだのは誰?」はゴシック体]
A子さんは結婚するとき、夫のB男さんに、土下座して「結婚して」と頼みました。ところが結婚後、夫にやさしくしてもらえなくて落胆しました。でも、自分の不幸を認めたくないし、まして自分の夫選びの失敗を認めるのもイヤでした。こんなとき女性は、これ以上傷つきたくないために、つまり自己防衛のために、記憶の書き換えをすることがあるのです。もちろん無自覚です。
「夫が土下座して結婚してくれと頼んだから、私は仕方なくOKしたのだ」というふうに、記憶を自分に都合良く書き換えてしまうのです。そして、それを人にしゃべっているうちに、A子さんの脳の中では、どんどんそのウソがホントになっていくのです。数人に語ったあとは、すっかりウソとホントが逆転しています。
たとえ、当時の事情を知る人から、「でも、あなたはあの当時、彼に、結婚してくださいというラブレターを何十通も出していたじゃないですか」と指摘されても、いや、最終的に彼が土下座したから、私は哀れに思って結婚を承諾してしまったのだ、と反論するほどです。
このように、一度記憶を書き換えてしまうと、「夫が土下座した」という記憶しか思い出せなくなってしまうのです。自分が土下座した記憶は消えてしまうのです。
女性は、どのような方法を使って記憶を消したり記憶を書き換えたりするのでしょうか。
ニセモノの記憶(夫が土下座した記憶)が脳に定着するまで、何度も何度も自己欺瞞を繰り返す[#「何度も何度も自己欺瞞を繰り返す」はゴシック体]のです。土下座したのは夫だ、と何度も自分に言い聞かせるのです。真実の記憶(自分が土下座した記憶)が脳から抹消されるまで、この作業を繰り返すのです。もちろん、無自覚にやります。
そうやって記憶を塗り替えてしまうと、新しく塗り替えたほうの内容が真実として君臨するようになります。だから、女性は、書き換えた記憶なのに、自信をもつことができるのです。
特にイライラしている女性は、自分が傷つくことから免れるためなら、自分をだますことなど平気です。怒れる女性は、傷つくこと(=不快)が大嫌いな上、もうこれ以上傷つきたくないと強く思っているからです。傷つかないためなら何でもするのが怒れる女性というものです。
また、書き換えたことを正当化するために、他の記憶も連動して書き換えてしまうことがあります。たとえば、花束をプレゼントしたのが自分であっても、夫からプレゼントしてもらったことに書き換えたり、夫が一回、クルマで駅に送って行っただけなのに、一〇〇回も献身的に自分を送ってくれたことになっていたりするのです。それも、A子さんが頼んだから送って行ってくれたのに、夫がみずから進んで送って行くと申し出たことになっていたりするのです。
こうやって周辺部分の記憶を、外堀を埋めるように書き換えていくのです。その結果、自動的に「土下座したのは夫に間違いなし」「自分は、夫に言い寄られて、仕方なしに結婚したのだ」「夫が自分に惚れてきたのだ」という妄想物語が作られていくのです。
無意識のままこういう物語が作られていきます。当の女性には意図的に作ったという自覚はまったくありません。しかも、一度こうやって周囲を固めて(=記憶の改ざんをして)結論を出してしまうと、その後、どんなに男性が事実(本当の事実)を持ち出しても受けつけなくなります。
そんな女性に、もし、真実を語る人がいたらヒステリックに反論します。クールに無視できないからです。後ろめたさがある分、攻撃的になります[#「後ろめたさがある分、攻撃的になります」はゴシック体]。また、自分のウソを守るために、相手を全否定しようとします。攻撃は最大の防御なりとばかりに、真実を語る人を激しく非難するのです。攻撃性の高い女性は、常に要注意人物です[#「攻撃性の高い女性は、常に要注意人物です」はゴシック体]。ヒステリックな言動の裏側には、こうした自己欺瞞が隠されていることが多い[#「ヒステリックな言動の裏側には、こうした自己欺瞞が隠されていることが多い」はゴシック体]のです。
その点、男性は詐欺師でもない限り、自分の記憶を書き換えることはほとんどありません。ですから、目の前にいる女性が自信たっぷりに、「土下座したのは夫のほうだ」と発言すると、一般の男性は、自分の経験(記憶の書き換えをしない経験)を基に、「そこまで自信をもって主張するのだから、土下座したのは夫のB男さんだったんだろうなぁ」と思ってしまいます。
でも、女性が自信をもってしゃべっているからといって、その記憶が信用できるとは限らないのです。特に、怒れる女性の発言は要注意です。
怒れる女性ほど、自分だけは悪者に見られたくない、という思いが強いからです。そのため、常に「自分は被害者である」ということを主張できるように、日頃から過去の記憶を都合良く書き換えておくのです。
なお、愛情豊かに育った女性は、記憶を書き換える理由がありませんので、安易に記憶を書き換えたりはしません。ですから、愛されてきた女性の話なら信用しても大丈夫です。
†不都合な記憶は消去する[#「†不都合な記憶は消去する」はゴシック体]
事実の記憶を書き換えてしまうと、何が真実だったのかがわからなくなってしまいます。真実がわからないと、反省することもできません。過去の失敗を未来に活かすこともできなくなります。
たとえば、本当は自分が悪態をついたために彼に嫌われたのに、自分こそ彼から意地悪をされた、自分は被害者だと記憶することがあるのです。
どうやって自分を被害者に仕立てるのでしょうか。
それは、彼が怒り始めたところから記憶を開始するのです。自分が悪態をついたところは記憶しないのです。記憶を消去してしまうのです。すると、脳の中には、彼がキレている場面の記憶だけが残ることになります。これでは彼は、怒り狂ってばかりいる暴力男になります。
こんなふうに、失恋するたびに記憶を操作したのでは、自分の失恋の失敗を未来に活かすことは不可能です。
たとえ十年後、「このままじゃ幸福になれない、幸せになりたい」と思っても、幸せになることはできません。なぜなら、自分に都合良く書き換えられたニセモノの記憶しか残っていないからです。そんなニセモノを基にして、いくら幸せになる方法を模索しても間違った結論しか出てきません。
その結果、「前の彼とつき合っているときは、赤のブラウスを着ていたから怒りを誘発したのかな? では、次の恋では、人の心を落ち着かせるグリーン色のブラウスを着たら成功するかも……」などという、とんちんかんな結論を導き出してしまうのです。
また、こんなふうに記憶の消去や記憶の書き換えをしていたのでは、それを基に誰かに話をしても、良きアドバイスはもらえません。どぎつく脚色された情報を相手に提供してしまうからです。どんなに優秀なカウンセラーでも、ニセモノの情報を与えられたのでは、良きアドバイスをすることはできません。
†心が満たされている女性は記憶の書き換えをしない[#「†心が満たされている女性は記憶の書き換えをしない」はゴシック体]
もし、A子さんが幸せな結婚をしている場合はどうでしょうか。
さきほども申し上げましたように、たとえ土下座したのがA子さんであっても、記憶を書き換えることはありません。消去したり、書き換えたりする必要がないからです。
心が満たされている女性は、事実をあるがままに記憶します。素直な女性とは、事実をあるがままに記憶し、そしてその真実の記憶を基に思考する女性のことです。
ですから、愛されてきた女性は、直感が当たる確率が高くなります。正確な情報をインプットしたら、正しい答えがアウトプットされるからです。たとえ、土下座した記憶を忘れることはあっても、判断や決断を誤ることはありません。心が満たされている女性や幸福な女性、不安や恐怖や怒りのない女性の直感はとても信用できるのです。
夫婦が仲良くやっていくためには、こうした信頼はとても重要です。どんな美人でも、とんちんかんなことを言われたり、事実と違うことを言われたのでは、男性はウンザリしてしまいます。
しかし、当の女性は、自分の記憶の消去や書き換えが夫婦不仲の原因になっているなんて夢にも思いません。自分が記憶を消したり、書き換えたりしているとは思っていないからです。無自覚ですから仕方ありません。
ですから、妻自身が記憶の消去や書き換えをやめない限り、不要な夫婦喧嘩が多発して、夫婦仲は冷めていくことになります。記憶の消去や記憶の書き換えに気がつかないと、このような恐ろしい事態が発生するのです。
しかも、悪循環になります。なぜなら、夫婦仲が冷めれば冷めるほど妻の心は満たされなくなり、不安や怒りが増大するからです。つまり、ますます記憶の消去や書き換えをするようになるからです。
さらに不幸は続きます。
不満の多いA子さんの場合、書き換えた記憶を基にA子さんが怒り出すことがあるのです。とんでもないことですが、決して珍しいことではありません。
「あのとき、あなたが土下座なんかするから、私はこんな不幸になってしまったのよ! 結婚なんて承諾するんじゃなかった!」などと夫を責めることがあるのです。
すごい逆恨みですが、書き換えた記憶こそ本当の記憶だと思い込んでいますから、こういうことが発生するのです。不満が過去の事実を書き換えさせる原動力となり、書き換えた内容を見て、さらなる不満が発生してしまうことがあるのです。
こんな事情があるために、怒れる女性の発言は要注意なのです。イライラしている女性は、ありもしない事実を勝手に作りあげては、一方的に文句を言っている場合があるのです。ですから、もし、あなたの会社に怒れる女性がたくさんいる場合は、充分な警戒が必要です。何も悪いことをしていないからオレは大丈夫、などと思うのは大間違いです。あなたの知らない間に、あなたが極悪人になっていることがあるからです。
†趣味や感性も変える[#「†趣味や感性も変える」はゴシック体]
「あばたもえくぼ」という諺があります。これは一般的には、好きな相手だと、あばたもえくぼのようにかわいく見えてしまうという意味です。つまり、恋は盲目だという意味で使われています。男性にもそういうところはありますが、圧倒的に女性に多く見られる現象です。
女性は、自分に快を与えてくれる人は、なにもかもが素敵なんだと感じてしまうのです。全肯定しようとする力が非常に強いのです。愛されている女性によく見られる現象です。
それまでハゲ、デブ、チビが大嫌いだったとしても、自分に快を与えてくれる人が仮にそうであれば、相手の人格のみならず、ハゲ、デブ、チビの部分も好きになるのです。それまでの「ハゲは気色悪い」という発言が、「つるつるしてて、かわいい」に変化するのです。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの逆バージョンです。ここが女性のかわいいところです。
好きな人に対しては、自分の趣味まで変更して「ステキ!」と応援するのです。女性は、いったん、この人は素敵だ、と思うと、全肯定しやすいように自分の趣味(感性)[#「全肯定しやすいように自分の趣味(感性)」はゴシック体]を変えてしまうことができるのです。
また、たとえば、自分はブルーは嫌いな色だったとしても、愛する彼が好んでブルーの服を着ていると、「ブルーが嫌いだったというのは間違いで、本当は自分はブルーが好きだったのだ」と、自分の趣味を変えてしまうこともあります。そして、本当にブルーが好きになっていくのです。女性というのは、こういうところがあるからかわいいのです。女性は男性の想像をはるかに超えた天女なのです。
そこまで極端でなくても、たとえば、それまでは数学が嫌いであっても、数学の先生が好きになると、一生懸命数学を勉強し始める、ということはよくある現象です。自分の気持ち(数学が嫌いという不快な気持ち)を無視してでも、数学を勉強します。勉強すると、数学の問題が解けるようになりますので、そのうち本当に数学が好きになります。
彼がコーヒー好きだと自分もコーヒー党になるとか、ラーメン好きだと自分もラーメン党になるというような現象は、女性にとってはそんなに珍しい現象ではありません。女性のそうした態度は、男性にはとてもかわいく映ります。愛された女性は、男性にとっては地上最強の応援団であり、最高にかわいい天使です。
†事実の解釈を変える[#「†事実の解釈を変える」はゴシック体]
一般に、女性は好きな男性のためなら、事実の解釈の仕方もどんどん変更しようとします。
たとえば、百万円のダイヤの指輪をプレゼントされて、うれしいと感じると、過去にその男性のした浮気の事実の解釈を変えてしまうのです。「彼は女性にモテただけだ」とか「言い寄ってきた女性を傷つけたくなくて、彼は仕方なしにつき合ってあげたのだ」などと都合良く解釈するようになるのです。
その結果、浮気をした悪い男という解釈が消え去り、代わりに、自分の夫(または恋人)はモテモテの色男という解釈(認識)にすり替わってしまうのです。当然、自分は、いい男をゲットした幸せな女性ということになります。
こういう芸当は、男性にはできませんし、考えられないことですが、しかし多くの女性は、程度の差こそあれ、こういうことは比較的ふつうにしています。もちろん、解釈を変更していることに、当の女性は無自覚です。
女性は、自分の気持ち次第で解釈を変えたり、趣味を変えたりしている[#「女性は、自分の気持ち次第で解釈を変えたり、趣味を変えたりしている」はゴシック体]のです。そして最終的に、その人に対する認識まで変えてしまうのです。
いつしか、自分の愛する男性は、神のように全知全能で、オリンピック選手のようにスポーツ万能で、映画俳優のようにハンサムで、誠実な人になっていくのです。だから、世界最強の応援団になってくれるのです。
素敵な女性は、男性が思っている以上の天使と申し上げたのは、女性はこうしたさまざまな方法を駆使して男性を全面的に肯定し、そして応援してくれるからです。
先にも書きましたが、女性は、男性よりも気持ちいいことが大好きです。特に、人を受容することが大好きです。受容し、一体化することは女性にとって大きな悦びだからです。だからここまでやるのです。
女性は一見、消極的に男性には見えますが、外見上そう見えるだけで、じつは、心の中ではとても積極的です。女性のする行動は、自分の心の内面を変えるということなので目立たない[#「自分の心の内面を変えるということなので目立たない」はゴシック体]のです。女性たちは、男性の知らないところで一生懸命努力しているのです。
†「感情の張りつけ」と「感情の繰り返し」[#「†「感情の張りつけ」と「感情の繰り返し」」はゴシック体]
女性はしばしば、「あなたのことをもっと好きになりたいの」とか「あなたのこと嫌いになりたくないから、本当のことを話して」などと言うことがあります。男性からすると、わけのわからない発言です。好きという感情は、好きになろうとして出てくるわけではないからです。自分の感情をコントロールできるわけがない、男性はそう考えます。
しかし、女性は必ずしもそうは考えません。なぜなら、女性にはそれが可能だからです。
驚いてはいけません。
では、女性は、どのようにして自分の感情をコントロールするのでしょうか。
それがこれからお話をする「感情の張りつけ」[#「「感情の張りつけ」」はゴシック体]と「感情の繰り返し」[#「「感情の繰り返し」」はゴシック体]という方法です。
さきほど、数学の先生が好きだから、数学を一生懸命勉強し始める女性の話をしました。しかし、もし逆に、もともと数学が嫌いだった女性が、数学の先生をも嫌いと感じた場合、とことん数学も数学の先生も嫌いになることがあります。坊主憎けりゃ袈裟まで憎くなるのです。これまでお話しした通りです。その方法が「感情の張りつけ」および「感情の繰り返し」です。
仮に、嫌いな数学の先生をA先生としましょう。A先生の嫌いなところが、a(顔が嫌いという不快感)、b(声が嫌いという不快感)、c(態度がなよなよして気持ち悪いという不快感)と、三つあったとします。もし、嫌いなA先生に叱られたらいっそう嫌いになりますが、このとき女性は、無意識ですが、嫌っている化学のB先生のイヤな点、たとえば、d(肩をさわられた不快感)とかe(陰険な仕打ちをうけた不快感)という感情を、A先生に張りつけてしまうのです。
つまり、a、b、cという嫌悪の内容は、本来A先生本人に対するものですが、d、eという、B先生に対する嫌悪感をA先生に張りつけてしまうのです。
張りつける根拠がないわけではありません。A先生にも、d、eという要素がゼロではないからです。でも、ごくわずかでもそうした要素があると、それをいいことに(言い訳をして)、d、eという嫌悪感をA先生に張りつけてしまうのです。その結果、ますますA先生を嫌悪するようになります。
要するに女性は、嫌いという感情がある限界を超えると、a、b、c、d、eという不快感を、嫌いと感じる一人の人間に張りつけてしまうのです。こうしてA先生は、この女性の中では極悪人になるのです。
張りつけの他に、A先生を嫌悪する気持ちを繰り返し思い出すという「感情の繰り返し」をすることもあります。A先生に対する怒りをしょっちゅう思い出しては、そのたびにA先生を嫌うのです。嫌いという感情を繰り返し思い出せば思い出すほど、A先生を嫌いになっていきます。
女性は、「感情の張りつけ」や「感情の繰り返し」という心理操作ができるので、感情の大きさを大きくしたり小さくしたりすることができるのです。だからこそ、「あなたをもっと好きになりたい」とか「あなたを嫌いになりたくないの」という発言をするのです。
本来、人間の感情はコントロールできるものではありません。少なくとも男性はコントロールできません。しかし、感情の張りつけをしたり、何度も感情を思い出すという操作をすれば、好きという気持ちを強くしたり、嫌いという気持ちを弱めたりすることが可能です。感情を正確に記憶し、感情を正確に思い出せる女性だからこそできる芸当(男性からすれば神業)です。
ですから、もっと好きになりたい、という発言は、女性語で言えば、「あなたに、他の人に対する快の感情を張りつけてもっと好きになりたい」「あなたからもらった快を、いつもいつも、何度も何度も思い出して、もっともっとあなたを好きになりたい」という意味なのです。
逆に、もしあなたが女性に嫌われたとすると、その女性の心の中で、あなたと無関係な人に対する嫌悪感までくっつけられて、あるいは小さな嫌悪感を何度も思い出されて、ものすごく嫌われてしまう可能性がある、ということです。
女性は日頃から、なにかにつけてこのような操作をしているので、評価が白か黒か、全否定か全肯定か、という極端で二分法的なものになるのです。
実際、うんと嫌いかうんと好きかのいずれかであることが多いのです。つまり、極端に言えば、女性には、うんと好きな人とうんと嫌いな人、そして、情報不足のために決定保留中という三種類の人間しかいないのです。
嫌いな社員がいると、「会社から消えてほしい」どころか、「死んでもらいたい」まで一気に論理が飛躍するのはそのせいです。自分の思惑ひとつで、同一人物を天使に見えるようにしたり、悪魔に見えるようにしたりできるのです。女性が極端から極端に走るのはこうした理由があるのです。
†どうしてあんな男と…と嘆く女性――解釈の変更[#「†どうしてあんな男と…と嘆く女性――解釈の変更」はゴシック体]
女性は一般にセックスには慎重です。生物学的な理由があるからです(詳しくは、拙著『男と女のラブゲーム』〔STEP出版〕をご覧ください)。しかし、慎重に考えてしているはずなのに、「どうしてあんなダメ男とセックスしてしまったのかしら!」「いま考えると、気色悪くてふるえがきそう!」などと、元カレのことをボロクソに言う女性がいます。極端から極端に走っています。
いったい、こういうときの女性の脳はどうなっているのでしょうか。
怒れる女性に多い現象ですが、感情の張りつけと感情の繰り返しをしているのです。あるいは、「解釈の変更」をしているのです。
セックスしようと決意したときは、他の男性に対する快の感情をガンガン張りつけたり、快の感情を何度も思い出して、現実をどぎつく脚色しては彼を素敵な男性に仕立てます。「あーん、もう、こんな素敵な男性はいないわ!」とか「結婚するなら、この人しかいない」という心を作るのです。
しかし、彼の浮気が発覚した途端、今度は、他の人に対する嫌悪感まで張りつけ始めます。あるいは、浮気された屈辱感を何度も思い出します。こうして一晩で、きのうまで大好きだった彼を大嫌いになるのです。
一度嫌いになったら、「何だコイツ!」「裏切り者!」「女の敵」「愛してくれないのか!」「このろくでなし!」とゴキブリ扱いです。こうなると、セックスどころか手をさわられるのもイヤになります。
[#ここから3字下げ]
注[#「注」はゴシック体]=私が提唱しているDSS(家庭内ストックホルム・シンドローム)によっても、好きだった人が急に嫌いになるという現象が発生します。しかし、DSSは、好きと嫌いを取り違えてしまう現象です。嫌いな人を好きと思い込んでしまうのです。自分の間違った思い込みに気がついたとき、つまり、本当の自分の気持ちに目覚めたとき、嫌いという感情が湧いてきて、相手が急にゴキブリに見えてくるのです。現象面では、感情の張りつけと感情の繰り返しをした結果とそっくりですが、メカニズムは異なります。
ただし、DSSが発生する幼児期に、この感情の張りつけや感情の繰り返し、解釈の変更、趣味の変更などの方法を使って、嫌いな人を好きになるように自己欺瞞することはあります。
[#ここで字下げ終わり]
その点、愛情をたっぷり受けた女性は、元カレに対する評価が一晩で反転するようなことはありません。いつも一貫しています。たとえ彼にフラれても、嫌いになることはありません。自分の好きだという感情が揺らぐことはないからです。だから、こういう女性は、男性の目には、「信頼に値する女性」に映るのです。
そもそも、好きという感情は、自分に快や安心を与えてくれる人に対して抱くものです。しかも、自分を愛してくれるからこそ、好きと感じているのです。ですから、なんらかの事情で別れることになったとしても、好きという感情が揺らぐことはありません。
それが一転して嫌悪の情に変わるのは、もともと好きという気持ちが少なかったからです。感情の張りつけや感情の繰り返しという操作をしすぎていたからです。悪く言えば、自己欺瞞をしていたからです。ところが、セックスして愛が得られるかと思ったら、愛の代わりに怒りをもらったので、「この裏切り者!」とばかりに、一転してマイナスの感情を張りつけ始めたのです。セックスをして相手とつながった感じがしないと、女性は裏切られたと感じることが多いのです。
でも、そういう男性は、途中から愛情がなくなったのではなく、もともとなかったのです。女性が自己欺瞞した結果です。
厳密に言えば、男性は裏切ったわけではありません。もともと浮気男だったのです。もともと愛情が希薄な男性だったのです。自分の判断ミス(人選のミス)を棚にあげて、裏切り者呼ばわりするのはお門違いというものです。
そもそも、自分が命がけで好きと感じた人のことを悪く言うのは、自分自身に対する冒涜[#「自分が命がけで好きと感じた人のことを悪く言うのは、自分自身に対する冒涜」はゴシック体]です。まして意を決してセックスまでした相手を悪く言うのは、自分の直感や自分の感情を否定する行為です。
しかし、怒れる女性は、自分の直感に従ったつもりが、さまざまな理由で(理由の詳細は拙著『なぜ、女は恋や仕事に臆病になってしまうのか』〔小学館〕をご覧ください)、恋人選びを間違えてしまうのです。その間違いを認めたくなくて(または、間違いに気がつかないから)、元の恋人を悪者扱いするのです。でも、そんなふうに何でもかんでも人のせいにしているから、いつまでたっても間違いだらけの恋人選びを続けてしまうのです。きちんと反省しない報いです。
†幼時体験が重要[#「†幼時体験が重要」はゴシック体]
感情の張りつけについては、無意識だけど意図的に[#「無意識だけど意図的に」に傍点]やりますが、「感情の繰り返し」については、思い出したくないけど思い出してしまう、という具合に、本人の意思とは無関係に発生してくることもあります。
つまり、意識では思い出したくないと思っていても、不快感が一日に何度も襲ってくるのです。そのたびに、「コイツ!」とか「このくそったれが!」と思いますが、自分では止められません。
どうしてこのような現象が発生してしまうのでしょうか。
それは幼時体験と深い関わりがあります。
幼児期に楽しい思いをたくさんした人は、快の体験を思い出しやすい体質になります[#「幼児期に楽しい思いをたくさんした人は、快の体験を思い出しやすい体質になります」はゴシック体]。しかし、幼児期に不快や恐怖や不安をたくさん味わった人は、不快や嫌悪の感情を思い出しやすい体質になってしまう[#「幼児期に不快や恐怖や不安をたくさん味わった人は、不快や嫌悪の感情を思い出しやすい体質になってしまう」はゴシック体]のです。
だから、思い出したくないけど、ひとりでにイヤな感情が思い出されてきてしまうのです。また、イライラしているときも、過去の不愉快な感情を思い出しやすくなります。
ですから、幼児期に悲惨な体験をした人がイライラすると、過去の不愉快な思い出や不快な感情ばかりが次から次へと思い出されてきてしまうのです。思い出したくないと思っても、思い出されてきてしまうのです。
もし、そのとき、たまたま憎く感じる人がいると、その思い出された過去のマイナスの感情(嫌悪、不快、恐怖、不安など)を全部その人に張りつけてしまうのです。
こんなことを毎日しているために、怒れる女性は、嫌いな人がたくさんいます。ますます腹の立つ毎日となります。こうして、好きな人は増えないのに、嫌いな人だけが年々増えていくのです。嫌いと感じる人の数だけ、自分に醜さがあると思って間違いありません。
その点、幼児期に両親からたっぷりと愛された女性なら、いつも楽しいことを思い出しています。だから、いつも前向きに楽しいことをしようとします。頭が「快」でいっぱいですから、好きな人はますます好きになります。毎日が楽しくなります。そして、好きと感じる人も、年齢とともに増えていきます。好きな人がたくさんいます。苦手な人はいても、嫌いと感じる人はいないものです。
†なぜ、女性は占いが好きなのか[#「†なぜ、女性は占いが好きなのか」はゴシック体]
女性は占いが大好きです。これは世界的な傾向です。世界中の女性は占いが大好きなのです。
女性は、なぜ、占いが好きなのでしょうか。
占いを楽しんでいるからです。
たとえば、「今年は、あなたにきっといいことがある!」と占い師に言われたとしましょう。すると女性は、無意識のうちに「いいこと」を必死に探し始めます。女性は特にこういう傾向が強いのです。ですから、ちょっとしたことでも、「おっ、これが占い師に言われたいいことかな」と解釈し、事実そっちのけで「当たった」「当たった」と悦びます。
これが女性の世界です。男性の知らないところで、女性たちはこんなふうにして占いを楽しんでいるのです。女性は解釈が大好き[#「女性は解釈が大好き」はゴシック体]なのです。
「これはきっと良いことに違いない」というプラスの偏見で現実を見ますので、少々悪い出来事でも良いほうに解釈して悦んでしまいます。解釈の変更です。
たとえば、歩いていて自転車と衝突したとしましょう。もし、占い師に、きょうは良いことがある、あなたは守られている、と言われていると、「本来なら自動車と衝突して死んでしまうところを、神様は自転車にしてくれたんだな」「今日は、ぼーっとして歩いていたから、今度から気をつけろ、というお告げに違いない」「ありがたいことだ」とプラスに解釈して、うれしくなってしまうのです。女性がオカルト的なものにはまりやすいのも、これまでお話しした心理操作をしているからです。また、怒れる女性は、ものごとを悪く解釈しては、一人芝居的に気分を悪くする毎日です。
なお、悲惨な過去をもっている女性は、「占い命」と狂信的になる傾向があります。月に何万ものお金を占いに投入する女性は要注意[#「月に何万ものお金を占いに投入する女性は要注意」はゴシック体]です。
†八つ当たり体質[#「†八つ当たり体質」はゴシック体]
ものごとを悪くしか解釈しない人には、新たな悲劇が発生します。
それは、自分が受容できなくなることです。
女性に限らず、人は、楽しい自分しか受け容れることはできません。怒れる自分や嫌いな人がたくさんいる自分では、自分を「良きもの」として受け容れることはできません。
自己受容できないと、(一)他者を受容することもできなくなりますし(拒否的、排他的にもなります)、また、(二)他者を肯定すること(褒めることや励ますこと)もできなくなります。そして、(三)自己卑下する力が強まります。
この自己卑下がクセモノです。なぜなら、自己卑下すると、第一章に書きましたように、劣等感が強まったその反動でプライドが高くなってしまう[#「劣等感が強まったその反動でプライドが高くなってしまう」はゴシック体]からです。プライドが高くなると、見下す体質になります。見下しの心は否定の心ですから、見下した相手から敬遠されます。つまり、愛されなくなります。友人もできません。
友人もいなくて、誰にも愛されない自分ではますます自己受容しがたくなります。ますます自己卑下と劣等感が強くなります。その結果、ますますプライドが高くなります。そして、ますます見下しの心や人を拒否する心が高まるという悪循環に陥ります。
こうして、不満と不安とイライラは頂点に達します。そして、暗い性格の女性になります。陰気くさい印象を与える人になるのです。
莫大な怒りのために、本当は大暴れしたいところですが、嫌われたくないので、必死に抑えています。そのため、一見おとなしめの女性に見えますが、じつはいつも爆発寸前の危険な女性です。
こういう女性とかかわると、たいへんなことになります。
八つ当たりされるからです。第三章に書きましたように、自分が受けた苦痛を人にも味わってもらいたいという思いが強いからです。そして、こういう女性は、(一)自分にやさしくする人(夫ややさしい上司、先生など)、(二)自分よりも弱い人(たいてい我が子や部下)、に怒りを吐き出すことが多くなります。
怒れる女性ほど、自己保身および自己防衛が強く、自分を守るために、怒りを吐き出そうとするのです。怒りを吐き出さないと、自分の心も体も壊れてしまうからです。怒りはものごとを破壊するエネルギー源だからです。
†八つ当たりするためにアラを探す言い訳の達人[#「†八つ当たりするためにアラを探す言い訳の達人」はゴシック体]
通常、怒りを感じるときは、相手に非があるときです。つまり相手に悪いところがあるから怒ります。
しかし、怒りを誰かに吐き出したいと思っている人、つまり、八つ当たりしたいと思っている人の場合は、この因果関係が逆になります。
八つ当たりしたいがために相手のアラを探す[#「八つ当たりしたいがために相手のアラを探す」はゴシック体]のです。無理矢理アラを探して、それをネタに相手を責めるのです。なんくせをつける、ということです。
なんくせですから、正当な理由ではありません。怒りをぶつけるに値する理由ではありません。八つ当たりする理由としてはパワーレスなのです。
アラ探しをして見つけたネタだけでは足りないので、ここでも「感情の張りつけ」をします。張りつけることで、八つ当たりすることを正当化するのです。そのとき、別の人の悪行や別の人に対する怒りを、目の前にいる人(八つ当たりしたい人)に張りつけていくのです。張りつけているうちに、本気で怒り始めます。
ここまでくれば、あとは、「自分を怒らせた人=悪い人」という女性一般の論理でもって、自動的に怒りをぶつけ始めます。八つ当たりの開始です。
そんな不自然な行動をする自分を正当化するために「言い訳」をするのです。怒れる女性は言い訳の達人[#「怒れる女性は言い訳の達人」はゴシック体]でもあるのです。
心の中で言い訳をしているので、目には見えませんが、男性の何倍もしています。女性は傷つきたくないという思いが強いからです。
でも、言い訳した自覚はまったくありません。これまで、記憶の改ざんや消去、感情の張りつけなど、四つの心理操作の話をしてきましたが、五つめの重要な心理操作がこの「言い訳」です。
言い訳とは、イソップ物語の「すっぱいブドウ」に出てくるきつねのセリフがその代表例です。負け惜しみを言うことも言い訳です。
きつねは山でブドウを見つけます。おいしそうだな、と思ったので、食べたくなり、一生懸命にジャンプして採ろうとします。でも、残念ながら届きませんでした。そのときの捨てぜりふが「フン、どうせ、あんなのすっぱいブドウさ」という言い訳です。
すっぱくないと思ったから採ろうと思ったのに、傷つきたくなくて、そして、惨めな気分になりたくなくて、すっぱいブドウだと決めつけているのです。言い訳というウソを自分についているのです。
こういう言い訳をすると、その瞬間は、惨めさや傷つくことから免れることができますが、現実(おいしそうに見えたブドウを採ることができなかったこと)を正しく認識することができなくなりますし、また、自分の本当の気持ち(採れなくて惨めな気持ち)がわからなくなります。つまり、真実がわからなくなるのです。
しかも、嫉妬心が増大します。たとえば、森のたぬきが、あのブドウを採っておいしそうに食べていたら許せなくなるからです。「きつねさんも一緒に食べる?」などと言われても、素直に「ちょうだい」などとは言えません。さっきの言い訳というウソをついたことが自分にバレてしまうからです。すっぱいブドウでないと困るのです。ですから、この|期《ご》に及んでも、「そんなの、すっぱいに決まってるさ」と否定したくなります。食べてもすっぱいと言い張ります。すっぱいつぶを一生懸命に探します。見つからなくても、すっぱいと言い張ります。もし、食べなければ、おいしそうに食べているたぬきに激しく嫉妬します。自分ができなかったことを誰かが目の前でしていることが許せなくなるからです。
もし、ブドウが採れなかったとき、現実をあるがままに認識していたら(=言い訳しなかったら)、素直に、「ボクにもちょうだい」「一緒に食べよう」とたぬきに言えますし、また、おいしく食べられるはずです。
このような言い訳を多用していると、次第にひねくれてきます。そして、素直さが失われていくのです。また、ウソをついているという自分の姿が見えないので、理不尽に人を責めることもします。
これではいつまでも成長することはできません。嫉妬の鬼になります。また、過去の失敗を未来に活かすこともできません。反省することができないからです。
一般に、女性は、これら五つの心理操作をうまく使って、自分の心をコントロールするのです。男性よりも、大きな感情が生まれては消え、消えては生まれている女性なので、こうした操作が必要になってくるのです。
これら五つの心理操作は、精神を安定させる上で重要な役割を果たしています。もちろん、しないで済むのであれば、それにこしたことはありません。しかも、どの女性もたっぷりと愛されて育っているわけではありませんので、怒りの緩衝装置として必要なこともあるのです。
しかし、特に言い訳と解釈の変更という操作を多用すると、弊害も生じてきます。さきほど申し上げましたように、(一)嫉妬深くなる、(二)ひねくれてくる、(三)真実がわからなくなる(現実が見えなくなる)、(四)不安が発生しやすくなる、(五)自分の本当の気持ちがわからなくなる、(六)妄想が発生してくる、などの弊害です。
人は、自分の本当の気持ちを把握できていれば、緊急事態が発生しても冷静に対処できるもの[#「自分の本当の気持ちを把握できていれば、緊急事態が発生しても冷静に対処できるもの」はゴシック体]です。しかし、本当の自分の気持ちがわからないと、何をどう考えていいのかわからなくなりパニック状態になる[#「本当の自分の気持ちがわからないと、何をどう考えていいのかわからなくなりパニック状態になる」はゴシック体]のです。
また、言い訳ばかりしていると、いざというときに勇気が出なくなるという、さらなる弊害が発生します。自己不信状態になるからです。
勇気を出すには、自己信頼が必須です。でも、言い訳をしていると自己不信が強くなります。なぜなら、自己欺瞞しているために、自分の気持ちや直感を信じられなくなるからです。間違った直感に頼ってへたに勇気を出して行動してしまうと、ますます大きな不幸を生み出してしまいます。それを恐れるのです。現実を見ないようにと心理操作をした弊害です。現実を見ていないので、勇気を出して実行していいものかどうか、判断できないのです。
ですから、ふだんから言い訳ばかりしていると、ちょっとした傷から一時的に自分を守ることはできても、いざというときに動けなくなり、結局は不幸体質を強化することになるのです。「もし、これが自分を不幸にすることだったらどうしよう? それと知らずにがんばってしまったらますます不幸になってしまう!」と怖くなってしまって行動できなくなるからです。勇気を出してやってみたいな、と思っても、恐怖に負けて、何もできなくなってしまうのです。言い訳している人は、葛藤ばかりして、何もしない人でもあるのです。
なお、女性は、女性がする言い訳は許しても、男性がする言い訳は許しません。許さないどころか、男性が言い訳をすると、思いっきり軽蔑します。
では、なぜ、女性は女性に甘いのでしょうか。
自分が言い訳したいときにできなくなるからです。また、自分が言い訳をしていることが自分自身にバレてしまうからです。
女性にとっての言い訳は、自分にもナイショでやる心理操作なのです。
†女性が男性にだまされることはない[#「†女性が男性にだまされることはない」はゴシック体]
基本的に、女性は、男性にだまされることはありません[#「女性は、男性にだまされることはありません」はゴシック体]。なぜなら、女性は、男性の心が読めるからです。
男性は女性の心をほとんど読めませんが、女性は男性をかなり理解できています。理解できないのは、男性の性衝動くらいなものです。これまで述べたとおりです。
女性が男性を理解できる最大の理由は、これまでお話しした五つの心理操作――(一)感情の張りつけ、(二)感情の繰り返し、(三)解釈や趣味の変更、(四)記憶の改ざん(書き換えおよび消去)そして、(五)巧妙な言い訳――を頻繁にしているからです。つまり、こういう心理操作をしている者(女性)には、していない者(男性)を理解するのは簡単だからです。でも、したことのない者(男性)が、している者(女性)を理解するのは困難です。
しかし、現実には、多くの女性は、「(男性に)だまされた」と思っています。
なぜでしょうか。
女性は、自分にだまされている[#「女性は、自分にだまされている」はゴシック体]のです。男性にだまされたために失敗したのではなく、自分が自分をだましたために失敗している[#「自分が自分をだましたために失敗している」はゴシック体]のです。
要するに、自分に都合のいいように解釈したり、自分に都合のいいように記憶を消したり、あるいは自分に都合のいいように記憶を書き換えたりした結果、心は矛盾だらけで、複雑怪奇な状態になってしまうのです。そんな心で男性を見るので、ダメ男を素敵な男と勘違いしてしまったのです。
その結果、過剰な期待をしてしまうことになります。ダメ男は、そんな過剰な期待に応えられるような素敵な男性ではありません。
でも、怒れる女性は、自分の期待通りに相手の男性が動いてくれないと、自分の責任を棚にあげて、「そんな人だとは思わなかった」とか「だまされた」と言い放つのです。
それでも周りが納得しないと、泣いて自分の被害をアピールするのです。怒れる女性ほど、男性にだまされたと言う[#「怒れる女性ほど、男性にだまされたと言う」はゴシック体]のはそのためです。
女性は、一見、だまされた被害者のように見えますが、ふだんから被害者に見えるように演技しているだけで、じつは加害者であることのほうが多い[#「ふだんから被害者に見えるように演技しているだけで、じつは加害者であることのほうが多い」はゴシック体]のです。
ただ、怒れる女性の名誉のために付け加えておきますと、無自覚ですから、たしかに、自分はだまされたように感じています。これは本当です。
その点、愛されて育った女性の心は、複雑怪奇でもありませんし、矛盾した心ももってはいません。だまされたなどと被害者丸出しの発言もしません。そもそも、愛された女性は、だまされたなどという攻撃性の高い発言をすることはありません。
†怒れる女性が増えている[#「†怒れる女性が増えている」はゴシック体]
「あ、わたし、そういうのダメなの!」と、たいした理由もないのに、激しく嫌悪の情を示す女性がいますが、こういう女性は、独断や偏見、そして思い込みの強い怒れる女性と思って差し支えありません。要するに、人を褒めることをせず、あれもイヤ、これも嫌い、あれもダメ、これもダメと否定的発言の多い女性は要注意[#「人を褒めることをせず、あれもイヤ、これも嫌い、あれもダメ、これもダメと否定的発言の多い女性は要注意」はゴシック体]です。
こんな女性が、若い世代を中心に増えています。
こういう人が、ヒステリックに人を攻撃するような女性タレントを支持しているのです。怒れる女性は、テレビで、女性が誰かに噛みついている姿を見ると、まるで自分の代弁者のような気がして、胸がすーっとするのです。恨みをはらしたような気分になるのです。当然、視聴率は上がります。
こういう事情があるために、テレビ局は、一方的に男性を敵視したり、ナンセンスな批判ばかりする女性タレントを起用するのです。視聴率を上げるための「人寄せパンダ」です。
こういう攻撃性の高い女性は、人を尊重するということをしませんし、ガンコでヒステリックなものの言い方しかしません。また、人の話の腰を折ったり、話をヘンな方向へもっていったりして、人の邪魔ばかりしています。見るに耐えない女性です。まともな女性(愛された女性)は、「何なのこの人! 失礼な人ねぇ!」と思いますが、しかし、攻撃性の高い女性視聴者は、逆に好感をもつのです。感性が逆転しているからです。
その結果、攻撃性の高い人が出演すると、その番組の視聴率が一パーセントほど高まることが多いのです。テレビ局にとって、視聴率が一パーセント上がるのはたいへんなことです。五、六パーセントの視聴率での一パーセントですから、たいへん大きな数字です(怒れる女性は、その番組の視聴者全体の一七〜二〇パーセントくらいいるという計算になります)。だからテレビ局はこういう怒れる女性タレントを起用するのです。
でも、悲しいかな、当の怒れる女性は、テレビ局に利用されているとも知らず、そして、自分は多くの人に支持されていると勘違いして、したり顔でナンセンスなコメントを繰り返します。哀れな人ですが、自己客観視できないので、自分の恥ずかしい姿に気がつくことはありません[#「自己客観視できないので、自分の恥ずかしい姿に気がつくことはありません」はゴシック体]。気がついたら、できないでしょう。こんなタイプは評論家にも多数います。
感情論(自分を不愉快にさせたものは悪いもの、という決めつけ)[#「感情論(自分を不愉快にさせたものは悪いもの、という決めつけ)」はゴシック体]を、自分独自の視点と勘違いしてコメントしているのです。そして、英語で国際的なジャーナルに論文を書いたこともないような人が、「科学的でない」などと平気で言うのです。自分の個人的な感情を根拠にものを言っているのです。それこそ非科学的ですが、英語で論文を二十本程度すらも書いたことのない人に、科学のなんたるかなど、わかるはずがありません。知らない者の強味です。
怒れる女性評論家のコメントの特徴は、相手の主張の矛盾点や欠点を論理的に指摘するのではなく、感情論で全否定する[#「相手の主張の矛盾点や欠点を論理的に指摘するのではなく、感情論で全否定する」はゴシック体]、ということです。ですから、発言の根拠を見れば、容易に見分けられます。相手の意見を一方的に否定するだけで、否定するに値するだけの根拠(事実など)を示さないのですぐわかります。こんなのはヘンだ、おかしい、非常識だ、ということしか言いません。自分は不愉快だ! と叫んでいるだけなのです。見ているこちらが恥ずかしくなるような、哀れで、厚顔無恥の人たちです。
恐ろしいことに、怒れる女性は、こんな怒れる女性を支持するのです。
なぜ、怒れる女性が増えてきたのでしょうか。
男性が女性を愛さなくなったから[#「男性が女性を愛さなくなったから」はゴシック体]です。そういう意味では、怒れる女性は被害者であり犠牲者でもあります。男性の責任でもあります。
なお、愛されて育った女性は、基本的に自分にだまされることはありません[#「愛されて育った女性は、基本的に自分にだまされることはありません」はゴシック体]。自己欺瞞していないからです。恋人選びも間違えることはまれです。たとえ、失敗しても、過去の失敗を未来に活かして、最終的に幸せに生きているものです。愛されている女性は、五つの心理操作をプラスのために使う女性です。そして、好きな人や好きなことに囲まれて生きている女性です。
ですから、「わたし、そういうの大好き!」「これも、とってもいいわね」というプラスの発言をする女性は、間違いなく愛された女性です。女性の特性をプラスに活用している女性です。攻撃的でもありませんし、やたらと人を批判することもありません。とても受容的です。人をよく褒めます。そして、自分が女性であることを楽しんでいる女性です。
要するに、あれも好き、これも素敵、あれもやってみたい、これもやってみたい、と意欲的な発言をする女性は、素敵な女性[#「あれも好き、これも素敵、あれもやってみたい、これもやってみたい、と意欲的な発言をする女性は、素敵な女性」はゴシック体]です。
女性は、愛されれば愛されるほど、男性にとって最高の天使になっていくのです。
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第五章[#「第五章」はゴシック体] 男は女のどこを見るべきか
†愛された女性を探そう[#「†愛された女性を探そう」はゴシック体]
序章から第四章まで、女性の思考の特性のお話をしてきました。特に、第四章の感情の張りつけや感情の繰り返しなどは、本書で初めて書き下ろした新仮説です。女性がふだんしている思考が、男性とはずいぶん違うことがおわかりいただけたと思います。
さて、ものごとはなんでも、使い方しだいで、悪になったり善になったりします。たとえば台所の包丁です。愛を込めて料理を作れば、最高においしい料理が作れます。しかし、人を殺すこともできます。女性も同じです。自分の力をプラスに使えば、夫や子どもを救う最強の味方になりますが、使い方を誤ると、良かれと思ってやったのに、夫と子どもを死に追いやってしまうことさえあります。それほど女性のパワーは強烈です。
賢明な読者なら、もうおわかりだと思いますが、愛されて育った女性は、女性の特性をプラスに活用して生きています。その結果、身の周りは、好きな人、好きなこと、好きなものだらけになります。いつも楽しいことを思い出しては、ますます楽しいことをしようとします。そして、そんな自分をますます自己受容できるようになります。自己受容できたら、男性のみならず、自然とも一体化できるようになります。こうして男性にとって妻が世界で最高の女神になるのです。しかも、その女神は、男性の想像をはるかに超えた心のきれいな女神です。ですから、愛された女性と恋愛・結婚をすればうまくいきます。
しかし、愛されなかった女性は、無自覚とはいえ、女性の特性をマイナスに使っています。いつも、過去の不愉快なことを思い出し、イライラしては、怒りを吐き出しています。愉快なことは忘れても、不愉快なことはいつまでも覚えているのです。しかも、不快を拡大して覚えているのです。こんな状態では、努力しても、当の女性自身も幸せになれるどころか、どんどん悲しみや苦しみ、そして怒りが増えることになります。八つ当たりしたくなります。だから、復讐の機会を虎視眈々とうかがう毎日となるのです。
この章では、男性は女性のどこを見れば、愛された女性と愛されなかった女性の区別ができるかをお話しいたします。
ただし、誤解のないように申し上げますが、この世には、愛された女性と愛されなかった女性の二種類しかいないわけではありません。
親とて神様ではありませんから、全身全霊で娘を愛しても、大なり小なり、どの女性(娘)も、愛情不足のまま育っています。ですから、どこを探しても、愛の天使のような完璧な女性はおりません。
そういう意味では、正確な表現をすれば、ある限度以上に親に愛された女性を探そう、ということになります。
女性は、愛されて女神になります。不足分(親からの愛情の不足分)は、夫など、親以外の人々から愛されることで心が満たされ、神々しくなっていくのです。
ですから、もし、既婚者で天使のような女性がいたら、もともと天使だったのではなく、天使になる素質のある女性を、社会の人々および夫がしっかりと愛したから、素晴らしい女性になったのです。
それゆえ、はじめから完成品(女神)[#「完成品(女神)」はゴシック体]を探しても見つかりません。結婚とは、不完全な男性と不完全な女性が互いに愛し合うことで、完全になっていくものだからです。
ですから、現実的には、どの女性がある限度以上に愛されてきた女性なのか、つまり、どの女性が天使になる素質をもっているのかを見分けることになります。女性は、天使か悪魔か、いずれかになる傾向がありますので、相手の女性のベクトルが天使の方向を向いているのか、悪魔の方向を向いているのかを見分ければいいことになります。
しかし、そうはいっても、見分けるのは容易ではありません。
なぜなら、女性は、若いときは誰でもキレイですし、二十代までは心の醜さ(不自然さ)が顔に出るとは限りません。外見だけで判断することは困難です。実際、まさかこんなおとなしい子がこんなひどいことをするのか、ということがよくあります。虫も殺さないように見える女性が鬼に変身することなど、いくらでもあります。女性なら一発で相手の女性の演技やウソを見抜けるところですが、男性には無理なことが多いからです。
しかも、第四章でもお話ししましたように、女性は隠蔽工作がきわめてじょうずです。また、悲しいかな、男性は女性の心を見抜ける力があまりにもないのに対し、女性は男性の心を見抜いています。たいへんなハンディーです。国と国との交渉事でも、情報量の多い国が有利なのと同様、男女の恋愛においても、情報量を多くもっている者が有利です。その点、男性は、圧倒的に不利です。男性は、女性の百分の一程度の情報しかもっていないからです。このままでは、男性に勝ち目はありません。
そこで、この章では、「いい女」を見分けるヒントを差し上げたいと思います。
†見分けるポイント[#「†見分けるポイント」はゴシック体]
一番、たいせつなポイントは、「ありがとう」と「ごめんなさい」が美しく言えるかどうかです。これは、男女を問わず、大事なことです。
感謝と謝罪にその人のすべてが反映されます。というのは、愛されて育った人なら、人を愛することに悦びを感じます。人を愛する人は、人からも愛を受け取れる人です。ですから、人から親切にされると、相手の愛を感じて「ありがとう」と感謝の意を表します。
しかし、愛されて育ってきていない怒れる人は、人を不幸にすることに悦びを感じます。こういう人は、人に親切にされても、相手の愛を受け取れません。当然、「ありがとう」とは言いません。たとえ言ったとしても、形だけ、表面だけです。さらに愛情飢餓で育った怒れる女性は、ひねくれていますので、人の親切をイヤミに感じてしまい、逆ギレまでしてしまいます。ここまで露骨だと、男性も「コイツはおかしいぞ」と感じますが、しかし、男性にバレるような露骨な行動をとる女性はまれです。怒れる女性も、自分に不利なことは隠そうとするからです。女性は生まれながらの役者[#「女性は生まれながらの役者」はゴシック体]です。だから男性は、女性に容易にだまされてしまうのです。
謝罪についても同じです。愛された女性は、素直に自分の非を認めることができますし、また、すぐに素直にあやまろうとします。自分の存在に自信をもっているからです。一方、怒れる女性は、見下されたくない、軽蔑されたくない、という気持ちが強いために、なかなかあやまろうとしません。あやまったら負けのように感じて、くやしくなるからです。自分の非を認めると存在価値を失うような恐怖を感じるからです。そのため、あやまるどころか、逆に相手を責めようとします。しかも、責める方法も女性の場合は間接的で巧みですから、なかなか男性には見破れません。見破られそうになったら泣いてごまかそうとします。タイミングよく泣けば、たいていの男性はだまされてしまいます。そういう意味では、怒れる女性はそうとう男性をナメてかかっています。
女性は一般に、自分をキレイだと思いたい気持ちが非常に強いもの[#「自分をキレイだと思いたい気持ちが非常に強いもの」はゴシック体]です。たとえ自己卑下をすることがあったとしても、自分は心も顔も体もキレイだと思いたいのです。汚いことをしている自分を認めようとしません。困ったことに、怒れる女性ほど、その傾向が強いのです。だから、謝罪したくなくなるのです。汚いことをしている自分を、自分から切り離して考えてしまうのです。記憶の改ざんや解釈の変更など、あらゆる手段を使って、自己正当化を図るのです。だから、前述しましたように、自分が思っている自我像と、真実の自我像に大きなズレが生じるのです。怒れる女性ほど、そのズレは大きくなります。そのため、「自分ほど心のキレイな女はいない」と本気で思っていることが多いのです。実際にはキレイどころか、邪悪そのものであることが多いのです。
しかし、攻撃性の高い怒れる女性は、「自分ほど心のキレイな女はいない」ということを前提にものを考えているのです。無自覚、無知とはいえ、恐ろしいことです(なお、男性でも、怒れる人はこうなります)。
女性の二面性です。男性から見ると、女性が二重人格者に見えるのは、真の自我像と彼女が思っている自我像が異なるからです。
その点、本当に愛された女性は、自分のことをどぎつく美化しては考えていないものです。二面性もありません。それどころか、愛された女性は、自分が考える自我像よりも、真実の自我像のほうがはるかにキレイです。だから、男性の目には、つつましく謙虚に映るのです。だからこそ、余計にかわいく、かつ、神々しく見えるのです。
話を元に戻しましょう。基本は、ありがとうと言うべき状況のときに、彼女がきちんとありがとうと言っているのかどうかに注目することです。ちょっとしたことでもありがたがる女性、そして、ちょっとしたミスでも、すぐにあやまる女性は合格です。
ただし、「私のような者にこんなことをしてもらって恐縮です」というニュアンスのこもった感謝の言葉は要注意です。同様に、謝罪の場合も「私のようなお邪魔虫がこんなとんでもないことをして申しわけありません」というようなニュアンスがこもっている場合も要注意です。なぜなら、どちらも言葉は丁寧ですが、心の底から言っていないことが多いからです。そして、どちらも、自己卑下や自己否定や劣等感をかかえて自己受容できないことが多いからです。
†「蜘蛛の巣」作戦[#「†「蜘蛛の巣」作戦」はゴシック体]
男性にはとても魅力的に見えるのに、その女性とつき合っていると、だんだん無気力になってきたり、気分が沈んできたり、イライラしてきたり喧嘩が多くなったりすることがあります。怒れる女性かもしれません。
これから、怒れる女性に特有の破壊のやり方をご紹介します。
女性が人を傷つけようとするときの最大の特徴は、(一)完全犯罪をもくろむことです。つまり、自分が犯人であることが絶対にバレないように演技、演出をするということです。そのために、(二)被害者をよそおって、私が加害者であるわけがないでしょ、とアピールするのです。そして、カムフラージュのために、(三)偶然をよそおうこと、または偶然の出来事を利用して攻撃を始めることです。バレないように、うまく状況を利用するのが女性の破壊方法の特徴です。
作戦全体の特徴は、当の女性に、(四)相手を傷つけよう、という明確な意識がないことです。つまり、傷つけるつもりがない、ということです。こうして自分を無自覚状態にしておけば、万が一責められたときにも、「そんなつもりはなかった」と弁解できるからです。つまり、(五)言い訳です。言い訳ができるように、自分の脳の中も、第四章で申し上げた五つの方法で日頃から準備万端整えておくのです。
女性は、男性が思っているほど場当たり的ではありません。ふだんは場当たり的な行動が目立ちますが、人に意地悪をするときは、男性以上に用意周到で計画的です。
それにまた、女性は、イジメる意志も無自覚なら、(六)これら一連の緻密な作戦を実行しているときもまた無自覚です。だから、男性はなかなか女性の破壊工作が見抜けないのです。もし、意識していたら男性でも発見できるでしょう。無自覚だからこそ、男性は簡単にハメられてしまうのです。
では、これから女性がよく使う「蜘蛛の巣作戦」[#「「蜘蛛の巣作戦」」はゴシック体]と私が名付けた作戦をお話しします。別名、時間差攻撃です。これも、初めて本書でご紹介する内容です。
[第一段階]不幸が来るのをじっと待つ
第一段階は、チャンスをじっと待つことです。どんなチャンスかと言いますと、自分が辛いめにあうチャンスです。不幸になるチャンスです。こうしておけば、「苦しんでいる人間が人に危害を加えるわけがない」という偏見を男性に与えられるからです。常識を逆手に利用し、自分の悪行を隠蔽しようとするのです。
また、この段階で、女性自身も自己欺瞞をします。つまり、こんなに不幸で悲惨な自分が人を傷つけられるはずがない、よって、人を傷つけるつもり(意志)などあるはずがない、という自己欺瞞です。
なお、自分を不幸にする事件とは、たとえば、会社でイヤミな上司に叱られた、友人に意地悪をされた、失礼な態度をとる人がいた、などです。
[第二段階]
第二段階は、自分がいかに不幸か、いかに苦しいかを相手の男性に訴えることです。ただしこのときは、相手の男性を直接責めることはしません。そのときの自分の苦しみは、その男性と無関係に発生したものだからです。そういうネタを使って悲しみを訴えるのです。なぜなら、もし、関係したネタであれば、訴えただけで相手の男性を責めることになってしまうからです。これでは、自分の意図(傷つける意図、責めようとしている意図)が相手にバレてしまいますし、また、自分自身にもバレてしまいます。
また、ただ単に愚痴を言いたいときと違って、大げさにものを言うのも、この段階の特徴です。たとえば、会社で上司に叱られたことは事実であっても、ものすごくオーバーに訴えるのです。一〇傷ついても一〇〇くらい傷ついたと訴えるのです。女性は、小さなことをオーバーに言うウソも多いのです[#「女性は、小さなことをオーバーに言うウソも多いのです」はゴシック体]。男性は注意が必要です[#「男性は注意が必要です」はゴシック体]。
でも、相手の男性は、会社で女性が叱られている現場を見ているわけではありませんから、女性はいくらでもウソがつけます。つまり、いくらでもオーバーなことが言えます。安心してウソをつけるネタしかもち出さないことも特徴の一つです。男性はこの点にも注意が必要です。
しかも、このときも女性は自分自身にウソをつきます。つまり、一〇しか傷ついていないことがわかっていても、一〇〇傷ついたと男性に訴えることで、一〇〇傷ついた気分になっていくのです。悲劇のヒロインになるように自分の気持ちをコントロールしながらしゃべるのです。そのコントロールの仕方は、第四章で述べた、あの五つの方法です。五分もしゃべると、すっかり不幸な女になりきっています。これで、攻撃の前準備は完了です。
[第三段階]
第三段階は、いよいよ攻撃開始です。例によって、直接攻撃ではありません。バカヤローなどと文句をいうことはありません。殴ったり蹴ったりすることもありません。女性はいつでも間接的です。
ただ嘆いているだけ、ただ愚痴を言っているだけ、ただひとりごとを言っているだけ、というポーズをとるのです。
たとえ相手の男性が「そんな泣き言をいうのはやめてくれ」と絶叫しても、「あら、私の話を聞いてくれないの」と責めます。この段階まで来たら、男性は逃げられません。怒れる女性は、スッポンのように食らいついた獲物を放さないのです。たとえその日に逃げられても、数日後、数週間後にまた責めてきます。持続するのが女性の攻撃の仕方の特徴です。
この時点でも男性は、めでたいことに、自分が攻撃されていることに気がつきません。女性なら、ほとんどの人が「怪しい」と見抜くところです。間接的な攻撃なので、男性はなかなか見抜けないのです。
しかも、女性は、男性が反撃できないような内容を話します[#「反撃できないような内容を話します」はゴシック体]。
たとえば、「その点、いいわよね、あなたは学歴があって。私は短大卒だから、こんなふうに見下されてイヤな思いをするのよ」という発言です。男性は、自分が大学を卒業していることが悪いことのように思えてきます。事件とは無関係なので反論できません。
また、もし既婚者であれば、「いいわよね、あなたは上司に傷つけられても慰めてくれる人が家にいて」と言います。まるで、結婚していることが悪いことのように思えてきます。
もし痩せている人なら、「いいわよね、あなたはスリムで」「私は太ってるからフラれたのよ」などと言うのです。言われたほうは、自分が痩せていることが悪いことのように思えてきます。
これは、相手が女性でも使える戦法です。実際、対女性でも使います。たとえば母親なら娘に「いいわね、あなたは若くて」と言います。言われたほうの娘は、若いことが悪いことのように思えてきます。自分は若いから母親を傷つけているんだ、と頭の中は罪悪感でいっぱいになります。実際、こういう作戦をされた娘は、「若いことは悪いことだ」「早く歳をとって、おばさんになりたい」「歳をとって醜くなることがいいことなんだ」と思うようになります。これでは、おしゃれを楽しむこともできません。怖くて、若い女の子らしい格好もできません。無意識ですが、わざとダサイ服を着るようになります。自分がかわいくなくなるようなデザインの洋服しか買えなくなるのです。
こうして、間接的に相手を責めることで、相手を傷つけたり、罪悪感を植えつけたり、恋愛ができなくなるように、つまり不幸になるように仕向けるのです。間接的ですから、不幸になれとか罪悪感をもてなどとはひとことも言いません。だから、被害だけが発生して、誰も加害者がいないように見えるのです。
男性のあなたが、怒れる女性に自分の被害を訴えても無駄です。「そんなことで傷つくほうがおかしい」と返り討ちにあって、余計に傷つきます。自分がおかしいのかな、と思ってしまうような発言をされるからです。
さて、反論できないイヤミを言われ続けて、相手の男性が激高することがあります。いえ、キレるまで女性はしつこく、あの手この手でイヤミを言うのです。もちろん、無意識です。
女性は、どんなイヤミを言ったら相手の男性がキレるか熟知している[#「女性は、どんなイヤミを言ったら相手の男性がキレるか熟知している」はゴシック体]のです。知らないフリをしていますが、じつは女性はよく知っています。女性はしばしば、何も知らない女、バカな女をよそおいます[#「女性はしばしば、何も知らない女、バカな女をよそおいます」はゴシック体]が、それは演技です。男性に警戒心をなくさせるため、そしてカムフラージュのためにバカをよそおうのです。女性にとって、男性を怒らせることなど、ごくごく簡単なこと[#「男性を怒らせることなど、ごくごく簡単なこと」はゴシック体]です。なにしろ、男性を鋭く観察しては、何をしたらこの男性がキレるか、ふだんからしっかり情報を収集しているのですから。狙った獲物に対しては、ふだんから準備しておくのが女性というものです。そういう意味では、女性は男性よりも戦略家[#「女性は男性よりも戦略家」はゴシック体]です。
そんな女性が男性を怒らせようとするのですから、男性が怒り出して当然です。男性は逃げられません。
怒った時点で男性の負けが確定します[#「怒った時点で男性の負けが確定します」はゴシック体]。
なぜでしょうか。
すでに傷つけられているからです。男性がキレた時点で、すでに心と体にダメージを受けている[#「キレた時点で、すでに心と体にダメージを受けている」はゴシック体]のです。
実際、反論できないイヤミを言われ続けると、その罪悪感や不快感により、次の日、無気力になります[#「反論できないイヤミを言われ続けると、その罪悪感や不快感により、次の日、無気力になります」はゴシック体]。うつ状態になる[#「うつ状態になる」はゴシック体]のです。身体にも症状が出ます。頭痛がしたり、血圧が上がったり、胃酸過多になったりします。精神面でも、無気力の他に、イライラしてくるなどの悪影響が出ます。イライラした状態では映画を見ても楽しめません。本当に不幸になってしまうのです。
もし、仮に、怒らせた男性から女性が殴られたとしても、その痛みをはるかに上回るダメージを相手の男性に与えることができるのです。殴られても女性の勝ちです。
女性の攻撃は、間接的ではありますが、ものすごく相手にダメージを与えることができるのです[#「女性の攻撃は、間接的ではありますが、ものすごく相手にダメージを与えることができるのです」はゴシック体]。女性は人を傷つけるのに、殴る必要などないのです[#「女性は人を傷つけるのに、殴る必要などないのです」はゴシック体]。殴るよりももっと深刻なダメージを与えられるからです。女性が男性を殴らないのは、腕力がないからではありません。殴る必要がないからです。
また、直接殴らないので、この間接的方法は、悪行隠蔽にも便利です。言葉の暴力なら証拠が残りにくいからです。しかも、自分を被害者に仕立てたまま加害者になることができます[#「自分を被害者に仕立てたまま加害者になることができます」はゴシック体]。もし万が一、バレそうになったら、タイミングを見て、泣いてみせればいいのです。これで完全犯罪の成立です。
†蜘蛛の巣作戦の特徴[#「†蜘蛛の巣作戦の特徴」はゴシック体]
多くの男性は、こんなメカニズムとは知らずに、この蜘蛛の巣作戦で傷つけられています。もし、女性に何か言われてイライラしてきたら、蜘蛛の巣作戦を疑うべきでしょう。蜘蛛の巣作戦が怖いのは、たとえ女性と談笑しても、のちに無気力になったりイライラが込み上げてくることです。怒らせるだけが女性の攻撃方法ではありません。相手の心の深部に傷を負わせることができるのです。そういうパワーが女性にはあるのです(詳しくは、拙著『なぜ、母親は息子を「ダメ男」にしてしまうのか』〔講談社〕をご覧ください)。
ですから、うつ状態になるなど、被害だけがあって加害者が見あたらない場合は、自分が接した女性を疑うべきです[#「うつ状態になるなど、被害だけがあって加害者が見あたらない場合は、自分が接した女性を疑うべきです」はゴシック体]。それも、もっとも被害者に見える女性を疑うべきです[#「それも、もっとも被害者に見える女性を疑うべきです」はゴシック体]。怒れる女性は、男性が考える以上にパワフルで邪悪な戦略家だから[#「怒れる女性は、男性が考える以上にパワフルで邪悪な戦略家だから」はゴシック体]です。
この蜘蛛の巣作戦の最大の特徴は、さきほども言いましたように、(一)偶然を利用しているということです。その効用は隠蔽です。女性は、準備万端整ったら、チャンスがくるまでじっと待つのです。数日どころか、数カ月、数年でもじっと待つのです。犯行を隠蔽しやすいからです。ここが短気な男性と違うところです。こうした違いがあるために、男性には女性の作戦がなかなか見破れないのです。
しかも、自分が不幸になるという偶然を待っているのです。蜘蛛が網を張って、獲物がかかるまでじっと待つのと同じです。自分に苦しみが訪れるまで、じっと待つのです。
被害者をアピールできるチャンスを待って攻撃を仕掛けてくる[#「被害者をアピールできるチャンスを待って攻撃を仕掛けてくる」はゴシック体]のですから、こんな巧妙な戦略を男性が見抜ける道理がありません。男性には考えられない戦略だからです。
完全犯罪をめざす女性は、自己保身のために、じっと自分に苦難が襲ってくるまで待つのです。時間差がある分だけ、犯行が目立ちにくくなるからです。女性はそういう意味ではとても戦略的で、かつ気が長いのです。
もう一つの特徴は、(二)小さな出来事を大げさに言うことです。女性のウソを男性が嫌うことを、意識こそしませんが、女性はよく知っているのです。だから、真っ赤なウソは決して言いません。そんなウソをしょっちゅうついていたら、いざというとき、相手の男性を傷つけることができなくなるからです。この作戦は、男性を信用させてはじめて実行できる破壊工作だからです。ですから、つねに本当のことを言うように気を遣っています。だからオーバーに言う、という方法を使うのです。傷つけられた事実は真実でも、小さな悲しみを大げさに言うというウソをつくのです。
しかし、多くの女性にとって、小さな悲しみをオーバーに言うのは、ウソの範疇には入っていません[#「小さな悲しみをオーバーに言うのは、ウソの範疇には入っていません」はゴシック体]。ウソをついていないことになっているのです。
女性が語っているのは、傷ついた心、つまり自分の感情のほうです。会社で上司にイヤミを言われたことは事実です。本当です。しかし、怒れる女性は、事実が本当なら、自分の気持ちなどいくら誇張してもかまわないという認識をもっているのです。
これでは詭弁ですが、たしかに事実が些細であろうが重大であろうが、どれだけ苦しむかは、人によって違います。事件の大きさに悲しみが比例するとは限りません。ですから、「男性から見れば些細なことかもしれないけど、女性の私にとっては重大なことだ」と主張することも可能です。心の中は見えませんから、「私は死ぬほど傷ついた」と言われれば信じるしかありません。これを女性は巧みに利用するのです。
もちろん、真実は、些細な事件で、かつ些細にしか傷ついていません。悲しみや苦しみを何倍にも拡大しているのが真実です。死ぬほど傷ついたことにしてしまうのです。
第四章でお話しした、感情の張りつけや感情の繰り返しを使えば簡単に自分の傷ついた気持ちを大きくできます。
相手の男性が「そんな些細なことで傷つくなんておかしい」などと反論しても、「でも、私はものすごく傷ついたの」「女性はデリケートなのよ」「どうして私の辛い気持ちをわかってくれないの!」と本気で反撃してきます。
怖いことに、その裏には、どうせ男のあなたには女の策略なんて見抜けるわけないでしょ、という侮蔑の心もあります。怒れる女性はしたたか者です。
そして実際、痛みを訴えるときの女性は、感情の張りつけなどの自己欺瞞をした自覚はありませんので、本気でそう思っています。自己欺瞞の極致です。こうしないと、自分のウソが相手にバレて逆効果になるからです。敵を欺くには味方から、の定石どおり、自分自身という最強の味方をだますのです。ただし、自分をだましたことにも無自覚です。感情の張りつけや記憶の改ざんをしたという記憶を消してしまうからです。
†相手の善意を利用することもある[#「†相手の善意を利用することもある」はゴシック体]
怒れる女性がチャンスを狙うのは、必ずしも自分が辛い目にあったときだけとは限りません。
(一)相手が自分に善意を示したときもチャンス[#「相手が自分に善意を示したときもチャンス」はゴシック体]です。相手に与えるダメージとしては、こちらのほうが強大です。たとえば、男性が彼女の誕生日に、手作りのケーキをもってきたとしましょう。本を買ってお菓子づくりの勉強をして、三日前から製作したケーキを、目の前で踏みつけられたり、「こんなの要らない!」などと言われたら、死にたくなるほど男性は傷つきます。女性を思う気持ちが強ければ強いほど深く傷つきます。
親切にしたとき「もういい!」とか「私に近寄らないで!」などと、吐き捨てるように言う言葉も同様です。復讐することに快感を得ている怒れる女性は、こういうチャンスを逃さないのです。
どんな女性でも、親切にされたり、自分のために手作りのケーキを作ってくれたらうれしいものです。しかし、怒れる女性は、そのうれしさ(快感)よりも、復讐する快感、傷つける快感のほうが大きいのです。だから、チャンス到来とばかりにやってしまうのです。つまり、自分の幸福よりも復讐を優先させている[#「自分の幸福よりも復讐を優先させている」はゴシック体]のです。
(二)また、相手の男性の気に入っているもの(人)を批判したり否定したりする、という方法を使うこともあります。たとえば、男性が好きな映画女優をボロクソにけなす方法です。ふだんの会話や行動から、男性の好みの女優のタイプを読みとっておき、テレビでたまたまそういうタイプの女性が登場したときに、批判的で否定的な話をするのです。男性は、気に入っていればいるほど傷つきます。でも、女性の言っていることが事実であれば、反論もできません。ただ黙って聞くだけとなります。女性のほうも、責められても、「私は、ただ本当のことを言っているだけよ」と言い訳ができます。じつに巧妙です。
(三)また、たとえば相手の男性がハマチの刺身が好きなら、それをわざと腐りやすい場所に保管して食べられなくして落胆させる方法もあります。期待させておいて、一気に奈落の底に落とす作戦[#「期待させておいて、一気に奈落の底に落とす作戦」はゴシック体]です。楽しみにしている分だけ傷つきます。責められても、「自分の不注意でした」と泣いてみせれば、完全犯罪の成立です。男性の刺身に向ける視線をチェックすれば、女性なら簡単に、どのくらいハマチが好きか読みとってしまいます。そして、チャンスが来たら「期待させて、落胆させる方法」を実行するのです。
女性の攻撃のしかたは、このようにいつも時間差があり、しかも、いつも偶然を利用するのです。だから、男性は因果関係がわからず、混乱し、犯人を特定できないまま深く傷ついてしまうのです。
†女性たちは策略を決して男性にはバラさない[#「†女性たちは策略を決して男性にはバラさない」はゴシック体]
なぜ、女性の蜘蛛の巣作戦を男性は知らないのでしょうか。
その最大の理由は、女性が教えてくれないからです。
女性は、たとえ他の女性が男性に蜘蛛の巣作戦を実行していたとしても、男性には教えようとしません。たとえその男性が死ぬほど傷ついていても、女性は誰一人として、蜘蛛の巣作戦を男性に教えることはありません。
なぜでしょうか。
もし、蜘蛛の巣作戦のメカニズムを男性に教えてしまったら、将来、自分が蜘蛛の巣作戦を実行したくなったとき、できなくなるから[#「自分が蜘蛛の巣作戦を実行したくなったとき、できなくなるから」はゴシック体]です。
そのために、他の女性がどんなにひどいことを男性にしていても、女性は黙っているのです。こういうことに関しては、女性は妙に連帯感があるのです。女性どうしで秘密を共有しているのです。だから、女性の著者は、平気で「私たち女性は……」と自信たっぷりな表現をするのです。世界中の女性と秘密(感情の張りつけなど五つの方法も含まれます)を共有しているからです。このことを言語化して自覚こそしませんが、ちゃんと知っているのです。
男性に言わないもうひとつの理由に、蜘蛛の巣作戦を言語化して意識してない、ということもあります。言語化していなければ、説明することは不可能です。せいぜい、「女は怖いのよ」と言うくらいです。しかし、たとえ言語化していても怒れる女性は、それを男性にバラす気はありません。
なお、愛情たっぷりに育った女性も教えてはくれません。なぜなら、愛情豊かに育った女性は、蜘蛛の巣作戦をした経験がほとんどない[#「愛情豊かに育った女性は、蜘蛛の巣作戦をした経験がほとんどない」はゴシック体]からです。
その結果、男性は、どの女性に聞いても、蜘蛛の巣作戦を教えてはもらえません。だから、男性は女性の本当の怖さを知らない[#「男性は女性の本当の怖さを知らない」はゴシック体]のです。女性は男性が考える以上の策略家[#「女性は男性が考える以上の策略家」はゴシック体]です。男性はもっと女性に対する認識を変える必要があります。
ですから、男性の防御策としては、(一)偶然を利用して、愚痴や泣き言など自分の不幸を語ってきたときには注意せよ、ということです。つまり、「女性が被害者をよそおっているときは要注意」[#「「女性が被害者をよそおっているときは要注意」」はゴシック体]ということです。
また、(二)愚痴や泣きごとや悪口を言い始めたら要注意ということでもあります。
なぜなら、楽しかった話、うれしかった話をして、相手を傷つけることは不可能[#「楽しかった話、うれしかった話をして、相手を傷つけることは不可能」はゴシック体]だからです。
ですから、楽しい話をしようという姿勢の強い女性は大丈夫、ということです。実際、愛されて育った女性は、男性といつも楽しい話をしようとします。人の悪口などはほとんど言いません。
†男は女のどこを見るべきか[#「†男は女のどこを見るべきか」はゴシック体]
それでは、女性のどういった行動的特徴に着目すればいいのでしょうか。箇条書きにまとめてみました。
[一]愛されて育った女性の特徴
@楽しい話で盛り上がりたい、という姿勢が強い(いつも楽しいことをしようと考えている)
A説得するとき、「これをしたらこんなに楽しいよ」と、人の悦びや誇りを刺激する方法を使う
B人をよく褒める
C好きだと感じる人が多い
D言い訳をしない
E女性の親友がいる
F開放的、受容的なグループに属している
G人に親切にしてもらった、という話が多い
Hありがとう、ごめんなさいが、美しく言える
I小動物(犬や猫やうさぎなど)や赤ちゃんや幼児が好き
Jあれも好き、これも好き、あれもしたい、これもしたい、というポジティブな発言が多い
K恋人の悦ぶものをよく考えておみやげを選ぶ
L占いはお遊び、という位置づけにある
M約束を守ろうという意欲が高い(遅刻もめったにしない人)
Nいいことは人のおかげ、悪いことは自分のせい、という発想で生きている
O自分に誇りをもっている
P女性であることを楽しんでいる。女性であることをうれしいと思っている。女性はトクだと思っている
Q相手の話をきちんと心に入れて聞く
R男性がうれしい話をしたとき、我がことのように一緒に悦んでくれる
S男性は、その人と一緒にいるだけで元気になれる。その人と一緒にいるだけで意欲的な自分になれる
(21)謙虚。つつましい
(22)笑顔がかわいい。笑顔が受容的(その人の笑顔を見ているとほっとする)
(23)好奇心が強く前向き
(24)男性の夢やロマンを応援してあげたいと思っている
[二]愛されずに育った女性の特徴
@愚痴や悪口、泣き言が多い。また、愚痴や悪口で盛り上がろうとする。会話の大半がうわさ話や愚痴や泣き言で占められている
Aなにか事が発生すると、大騒ぎして周りを巻き込もうとする
B人を説得するとき、「こんなことしていいと思っているの」「ただじゃおかないわよ」と脅すことで相手を動かそうとする
C自己保身、自己防衛が強い。言い訳が多い
D親友がいない。信用できる友人もいない
E仲間はいるが、排他的、閉鎖的なグループに属している
F友人に裏切られたという話が多い
G週に二回も三回も会っているのに、または、一日一回以上メールのやりとりをしているのに、「私のことをちっともかまってくれない」と、事実と反対のことをもち出して文句を言う
H一度納得したのに、数日後、また同じ話をもち出して文句を言う
I滅多にありがとう、という言葉を言わない
J自分に非があっても、なかなかあやまろうとしない
K子ども(幼児や赤ちゃんも含む)が嫌い
L買い物嗜癖やアルコール嗜癖などがある
M嫉妬深い、独占欲が強い、疑り深い(会うなり携帯電話の着信履歴をチェックするなど)
Nあれも嫌い、これもイヤ、あれもしたくない、これもしたくない、というネガティブな発言が多い
O人にどう見られるかをやたらと気にする
Pケチ。お金に執着している
Q男性におごらせて平然としている(おごってもらって当然という態度をとる)
R恩着せがましい(見返りを期待する)
S押しつけがましい
(21)おみやげは、相手の悦ぶものを買うというよりは、自分が買いたい物を買ってくる。そして、「ほら、悦べ」という態度に出る
(22)占いに凝っていて、占いの結果を基に、自分の行動の意思決定をしようとする
(23)約束を破っても平気な人。遅刻しても平気
(24)泣いてごまかそうとする。自分が都合悪くなると泣く
(25)悪いことは人のせい、いいことは自分のおかげ、という発想で生きている
(26)プライドが高い。人を見下そうとする。見栄っ張り
(27)すぐイジケる。「どうせ、自分なんて……」という発言が多い
(28)自分が女性であることを恨めしく思っている
(29)男はズルイと思っている。男は敵だと思っている。男なんて誰が尊敬などしてやるものかと思っている。男は野獣だと思っている
(30)ウソをつくのは平気だけど、人からウソをつかれるのは大嫌い。遅刻するのは平気だけど、人が遅刻するのは許せない
(31)さみしい、が口癖
(32)自分からは楽しいことを企画立案せず、人に自分を楽しくさせてもらいたいと思っている。楽しませてよ、と強要してくる
(33)権威主義的なところがある
(34)ブランド品が大好き。ブランドを気にする
(35)相手の話をきちんと聞かず、自分の話ばかりしようとする。相手の都合を無視して、自分の都合を執拗に主張する
(36)男性がうれしい話をしたとき、「ふん、私だって……」と自分の自慢話をする
(37)ミスを責めると、「あなただって」とすぐに反撃してくる
(38)離れていても、その女性から監視されているような気がする
(39)一緒にいると、責められているような気がする
(40)一緒にいないときの行動を根掘り葉掘り聞いてくる。そのわりには、自分がどこで何をしていたか、聞かれることを嫌がる
(41)人の痛みを慮ることをしない
(42)笑った顔が冷たい
(43)ときどき、ぞっとするような冷たさを感じる
(44)あれもしてみよう、これもしてみようという意欲が低く、未知なることをいたずらに恐れる。保守志向が強い
(45)ちょっとしたことですぐに落ち込む
(46)わけもなくイライラし始めることがある
(47)いきなりキレることがある。いきなり不機嫌になることがある
(48)都合が悪くなると「わからない」と言う
(49)「しない」のに「できない」と言い訳をする
(50)男性を褒めると、負けのような気がする。男性を応援すると、屈辱のように感じる
(51)男性の不安をあおる発言が多い
(52)人に完璧さを求める
(53)なにごとをも批判的な目で見る。不平不満が多い
(54)親切にされてもなかなか満足しない。いつもなにかひとこと文句を言う
(55)損をすることを異様に嫌がる。自分だけ損をしていないかを異様に気にする
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終 章[#「終 章」はゴシック体] 男女には違いがあるから意味がある
ご存じのように、男性の体は、胎児のころは女性の体をしています。それが妊娠五週目で精巣から男性ホルモンが分泌されると、男性の体へと変化します。脳も、男性ホルモンの影響を受けて変わります。
ただし、脳の全部が男性ホルモンの影響で変わるわけではありません。変わらないところもあります。それは、新皮質と呼ばれている新しい脳です。海馬なども含まれます。ですから、学校での学習や仕事面などにおいては、男女で能力差というのはほとんどありません[#「学校での学習や仕事面などにおいては、男女で能力差というのはほとんどありません」はゴシック体]。
しかし、視床下部など、古い脳(下等な動物ほど発達している脳)は、男性ホルモンの影響を受けて変わります。ただ、男性ホルモンが出るタイミングとその量などによって、どの程度、脳が男性化するかが決まります。つまり、女性的な男性もいれば、男性的な男性もいることになります。男性は女性よりもいろんな点でバラエティに富んでいるのです。
人の情動を司っているのは、視床下部など古い脳です。ここが違うと、男女で興味や嗜好が違ってくる可能性があります。ただし、違うといっても、興味を示す対象や、快や不快を感じる量や質が少し違うだけです。でも、そのわずかな違いが、新皮質で拡大されて大きな違いになる可能性があるのです。
たとえば、女性は小さいころからかわいいと言われることを好みます。小学生、中学生になっても、みんなかわいいと言ってくれます。ところが、男性は、中学生になってもかわいいと言われることは、逆に、みっともないことになってきます。しかも、勉強ができるとか、スポーツ大会で優勝するなど、何かをしないと注目してもらえません。思春期以降は、男性は何か目立つことをしなければ誰からも注目されないことが多いのに対し、女性はただ存在するだけで、ある程度みんなから注目されます。そのため、女性は、自分が注目されることを当然のこととして思考するようになります。一方、男性は、何かしないと誰からも注目されないことを前提にものを考えるようになります。こうして発想の違いが拡大していくのです。
たとえば、クルマがパンクしたとしましょう。女性がクルマの周りをウロウロして、「困ったなぁサイン」を出したら、男性が止まってタイヤ交換を手伝ってくれます。実際、多くの女性は無意識に期待しています。でも、男性がクルマの周りをウロウロしても、女性はおろか、男性も止まってはくれません。こういう経験があるから男性は、自力で解決することを前提にものを考えるようになるのです。だから、道に迷ったとき、男性は自力で探そうとするのに対し、女性はすぐ人に道を尋ねようとする傾向ができあがるのです。
また、同じことをしても、男女で悦びの質と量が違うことがあります。このことも男女の心の世界を違わせる要因になります。
たとえば、さきほどのタイヤ交換の例で言えば、親切にしてもらった女性の悦びは、男性が男性から(または女性から)タイヤ交換を手伝ってもらった悦びよりもはるかに大きいのです。しかも悦びの質も違います。女性の精神を安定させる悦びです。一方男性の場合は、女性に親切にする悦びのほうが大きいものです。親切にされてうれしい女性と、女性に親切にしてうれしい男性だからこそ夫婦はうまくいくのです。
こうした性差のどこまでが先天的で、どういうところが後天的に作られるのか、詳しいメカニズムは今後の研究で明らかにされると思いますが、いずれにせよ、男性と女性で本質的な違いがあるからこそ心の世界が違ってきます。その違いがあるからこそ、恋愛をしようとする原動力が発生するのです。そして、違うからこそ、一緒にいる意義や意味が出てくるのです。
ただ、そうはいっても、人間は個性がたいへん豊かですから、性差よりも個人差のほうが大きいことも多々あります[#「性差よりも個人差のほうが大きいことも多々あります」はゴシック体]。当たり前のことです。夫が主夫をして妻が仕事をしている夫婦もいます。別にヘンではありません。自分の個性を活かしているだけです。自分らしく生きると、一組の男女が末永く仲良く幸福に暮らしていける[#「自分らしく生きると、一組の男女が末永く仲良く幸福に暮らしていける」はゴシック体]のです。
さて、古い話ですが、一九八〇年頃、三十代の独身男性も、そして四十代の独身男性も、二十六歳までの女性と結婚したがると巷間でささやかれていました。最近では初婚年齢が上がってきたせいか、二〇〇二年に国立社会保障・人口問題研究所が行った調査では、三十〜三十四歳の独身男性が希望する結婚したい女性の年齢は、二十九・七歳になっています。女性が三十歳までに結婚し出産するのは、生物学的にも医学的にも理にかなっています。
しかし、男性が女性の年齢にこだわるのは、この理由だけではないかもしれません。たとえば、第四章でお話しした、「コーヒー好きの彼に合わせて、自分もコーヒー党になる女性の話」です。男性は、妻や恋人から自分の趣味や美学を応援してもらったら最高に幸せを感じるからです。女性の想像以上に男性はうれしいものです。
ところが、女性が三十歳を越えると、これをしてくれなくなる傾向が強くなります。つまり、三十歳は、「彼の色に染められたい女」から「彼の色で染められたくない女」に変わる年齢[#「三十歳は、「彼の色に染められたい女」から「彼の色で染められたくない女」に変わる年齢」はゴシック体]なのです。「どうして私があなたの趣味に合わせなければいけないの?」「男女平等でしょ」と言い始めるお年頃なのです。こういう女性の態度は、多くの男性にとっては悲しいものです。なぜなら、否定されたように感じるからです。男性は、女性に合わせてもらえないと傷つく生き物[#「男性は、女性に合わせてもらえないと傷つく生き物」はゴシック体]です。じわじわとイライラしてきます。
以上の理由のために、男性は、精神的に若い女性、つまり柔軟性のある女性を好むのかもしれません。若い女性のほうが良き応援団になってくれる確率が高いと判断している可能性があるのです。
なお、誤解のないように申し上げますが、女性は自己主張してはいけない、などと言っているのではありません。男性のわがままに合わせるのがいい女だ、などと言っているのでもありません。そうではなくて、「彼の美学や趣味を受け容れたい」という気持ちがあるかないかを言っているのです。そして、そういう行動が女性にとってうれしいことかどうか、また、それが男性にとってもうれしいことかどうかを言っているのです。男女平等とか、男女同権とかという社会学的な話をしているのではありません。相手に何をしてあげることが男女の双方にとってうれしく感じるか、どういう男女関係が互いに幸せになれる関係なのか、というお話しをしているのです。
また、ここで言うところの三十歳というラインは、あくまでも平均値[#「平均値」はゴシック体]です。三十歳と三十一歳の境目に明確なラインがあるわけではありません。十代から自分の色で彼を染めたい女性がいる一方で、四十歳を過ぎても、彼の色に染められることに悦びを見いだす女性もいる、ということです。いつ反転するのかを決める要因は、個性(遺伝的要因や親との関係性など)[#「個性(遺伝的要因や親との関係性など)」はゴシック体]と愛された量です。
怒れる女性は、小学生のころからすでに「なんで女性だけが男性の趣味に合わせなければいけないの」「そんなの不公平でしょ。時代遅れなことを言わないでよ。女は男の奴隷じゃないんだから」「人格や趣味を尊重し合うのが人間というものでしょ」「どうして女性が男性を応援しなきゃいけないの」という発想をしているものです。
さきほど、怒れる女性の多くは、「彼の色で染められたくない女性」であると申し上げましたが、もし、これにファザコン的要素が加算されますと、「私の色で彼を染めたい女性」になります[#「ファザコン的要素が加算されますと、「私の色で彼を染めたい女性」になります」はゴシック体]。「私は紅茶が好きなんだから、私の趣味につき合ってよ」と言う女性です。面白いことに、マザコン男は、「あなた(女性)[#「マザコン男は、「あなた(女性)」はゴシック体]の色に染まりたい男性」です。
人間は、じつにバラエティに富んでいます。性差よりも個体差が大きいとはこういうことです。アメリカ(マサチューセッツ州)ではついに同性婚が認められました。おわかりだと思いますが、本書では、同性愛者や性同一性障害の方々に関しては言及しておりませんので、誤解のないようにお願い申し上げます。
話を元に戻しましょう。前述しましたように、ファザコン娘とマザコン男は、自分の色に男性が染まってくれることに悦びを感じる女性と、女性から染められてほっとする男性の組み合わせですので、相性は抜群です。すぐに意気投合します。実際、この組み合わせのカップルは多数存在します。いまや、日本ではメジャーになっています。理想的カップルのようですが、必ずしもそうではありません。なぜなら、マザコン男はいつも妻に染められようとするわけではないからです。ふだんは、妻の趣味に合わせようとしますが、実母の趣味が相手の女性の趣味と合わない場合は、かたくなに拒否することがあるのです。たとえば実母と同じ味のみそ汁を作ってほしい、というのがそれです。妻からすれば、裏切り行為です。私の言いなりになってくれると思って結婚したのに、私の言うことを拒否するつもり! と怒ります。私と義母とどっちをとるの! という喧嘩が発生します。
マザコン男性の本音は「実母をとりたい」ですが、妻に見捨てられたくないので葛藤します。しかし、母親の趣味や美学に絶対服従することで生き残れたという成功体験があるために、無意識のうちに実母を優先させてしまうのです。また母親の趣味に逆らうことが恐怖でもあります。母親に服従しなければ、見捨てられてしまうと思っているからです。その結果、陰険な喧嘩が発生してしまうのです。
これまで女性の発想法のお話をしてきましたが、過激な内容だったと感じた人がいたかもしれません。わかりやすいように、少々オーバーに表現したところもありますが、しかし実際には、ここで解説した内容の何倍もすごい魔性をもった女性が数多く存在することもまた事実です。読者の中には、これからそういう女性に出会う人がいるかもしれません。
また、女性の読者の中には、「そんなことない!」「少なくとも自分はもっとキレイな心をもっている」と反論したくなった人もいたことでしょう。実際、本書の発売前に、原稿を読んでくれた女性の中には嫌悪感を示した人が少なからずいました。特に第四章の内容および第五章の蜘蛛の巣作戦の解説には多くの女性が反発しました。一方、反発しながらも、自分もやっていることを認める女性も大勢いました。また、他の女性からこの方法で意地悪されていることを発見した女性もおりました。中には、男性にこの本を読まれたら困る、発売しないでほしい、と懇願した女性もいました。
男性読者の中には、本書を読んで、女性に失望した人がいたかもしれません。女性の多重人格的な面を知って、夢をうち砕かれた人がいたかもしれません。でも、心配には及びません。
なぜなら、本書で解説したのは、女性の思考の方法であって、女性の精神世界の話ではないからです。女性たちがどんな心の世界で生きているのかは、私たち男性には想像もつきません。こうして解説をしている私にとっても、まだまだ女性は謎だらけです。何をどう考えているのかはわかっても、どんな心の世界で生きているのかはよくわかりません。私にとっても、いまだに女性は神秘的存在です。たとえば、女性の一体化能力です。女性は世界のすべてと和合[#「女性は世界のすべてと和合」はゴシック体]します。自然と一体化したとき、女性の心がどんなふうになっているのか想像もつきません。男性の想像を絶する心の世界がそこにあるものと思われます。だから太古から男性は、女性を畏れ、敬ったのでしょう。
ただ、最近、多くの若い女性に接して気になるのは、女神を思わせるような人が年々少なくなっているなぁ、ということです。つまり、鬼になる可能性の高い若い女性が増えているということです。
本書を読み、一人でも多くの男性が英雄体験(詳しくは、拙著『女は男のどこを見ているか』〔ちくま新書〕をご覧ください)をしたり、自分を磨いたりして、女性を愛する力を高めてほしいと願います。女性は愛されて女神になるからです。男性は女性を愛することで誇りを得る動物です。愛し続けることによって誇りを作り続けることが、自分の名誉を守ろうとすることよりもたいせつなのだと思います。
最後に、本書を書く機会を与えてくれた筑摩書房の山野浩一さんに感謝の意を表します。また、私の良きディスカッション相手である、妻・マリにも敬意と感謝の意を表します。
岩月謙司(いわつき・けんじ)
一九五五年山形県生まれ。早稲田大学卒。筑波大学大学院博士課程生物科学研究科修了。理学博士。テキサス工科大学、新日本石油樺央技術研究所等を経て、現在、香川大学教授。専攻は動物行動生理学、人間行動学。幸せ恐怖症、家庭内ストックホルムシンドローム、思い残し症候群、過飲症(ペットボトル症候群)などの新説をテレビ、ラジオ、新聞、雑誌で発表。著書に『思い残し症候群』『なぜ、母親は息子を「ダメ男」にしてしまうのか』『なぜ「白雪姫」は毒リンゴを食べたのか』『家族のなかの孤独』、絵本『メルヘン・セラピー「般若になったつる」』『ムリして頑張って何になる』他多数。
本作品は二〇〇四年九月、ちくま新書の一冊として刊行された。