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女は男のどこを見ているか
岩月謙司
目 次
はじめに――「いい男」がいない!?
序 章[#「序 章」はゴシック体] 赤ちゃんにベロベロバーをしてウケるほうがノーベル賞をとるよりも大事
第一章[#「第一章」はゴシック体] なぜ女は男に智恵と勇気を求めるのか
第二章[#「第二章」はゴシック体] 女は男のどこを見ているか
第三章[#「第三章」はゴシック体] 「いい女」は英雄体験をした男を好む
第四章[#「第四章」はゴシック体] 「いい女」に惚れられる男になる方法
第五章[#「第五章」はゴシック体] 「いい女」にも「いい男」にも受難の時代
終 章[#「終 章」はゴシック体] いい人生とはどういうものか
おわりに
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はじめに――「いい男」がいない!?
これまで私は、女性にいい恋愛をしてもらいたいという願いを込めて、十冊ほど女性向けに恋愛の本を書いてきました。「ダメ男」の見分け方やいい恋愛と悪い恋愛の見分け方、そして、いい恋愛をするのを妨げる要因などについて書きました。恋愛の主役は女性ですので、これで日本も安泰だ、と思っていたある日のこと、次のような投書をいただきました。
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……結局、いい男がいないことが最大の問題なのではないでしょうか。
私たち女性は、不真面目な人もいますけど、真面目に素敵な男性を探している人も大勢います。私もその一人です。岩月先生の本に従って、一生懸命探してみましたが、だらしない男やマザコン男ばかりで、いまだに「いい男」には出会えていません。応援してあげたくなるような素敵な人がいないのです。見つけられないのではなく、私の身のまわりに夢やロマンを持っている男性がいないのです。
私は今年で二十五歳になりますが、これまで誰ともつき合ったことがありません。つき合いたいと思う男性がいないのです。
岩月先生! ぜひ、男性向けに、いい男になるためのハウツー本を出してください……。
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ガーン! 私は、返す言葉がありませんでした。
そこで私は、女性が求める「いい男」とはどんな男なのか、女性は男性のどこを見ているのか、彼女たちは男性に何を期待しているのか、そして男性が「いい男」になるためには具体的に何をすればいいのか、という本を書こうと思い立ったのです。
その根拠となったのは、私の研究室に訪ねてくる若い女性や主婦の不満です。彼女たちの発言の内容をまとめ、考察してできたのが本書です。
なお、老婆心ながらお断りしておきますが、本書は、ただ単に女性にモテる男になりたいと思っている人には期待はずれになるでしょう。また、ただ単に女の子とセックスさえできればそれでいいという人にも不向きです。それに、もともと私はプレイボーイの経験もありませんし、また、女性にモテた経験もない人間ですから、そんな本が書ける道理がありません。そういうことを期待した人は、直ちに本を閉じたほうがいいでしょう。
本書は、「いい女」にモテたいし、自分もまた「いい男」になりたい、そして、自分の人生を悦びと感動に満ちたものにしたいと望んでいる人向けに書かれた本です。
最後までおつきあい願えれば幸いです。
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序 章[#「序 章」はゴシック体] 赤ちゃんにベロベロバーをしてウケるほうがノーベル賞をとるよりも大事
†自分がブランドになる[#「†自分がブランドになる」はゴシック体]
これからお話しすることは、「いい男」になるためには何が必要か、換言すれば、いかにすれば自分自身がブランドになれるのか、というお話です。
「自分がブランドになる」というとビックリする人も多いかもしれませんね。なぜなら、大多数の人にとっては、ブランドとは、努力して手に入れるものであり、かつ、一つでも多くのブランド(お金や名誉や学歴やブランド品など)を手に入れることが美徳であると考えられているからです。自分がブランドそのものになる、などというのは不遜だと感じる人もいると思います。
しかし、この地球上には、自分がブランドにならなければ意味がない、と考える人々も大勢いるのです。「行為の美しさこそブランドである」という価値観をもっている人々です。美しい心は美しい行動となって表れる、それが美徳だ、と考える文明社会がこの世にはあるのです。ネイティブ・アメリカン(アメリカインディアン)やアイヌなど少数民族と言われる人々です。
その人々が私たち現代日本人を見たら、きっと奇異に映ることでしょう。なぜなら、努力してブランドを手に入れ、それをまるでアクセサリーをつけるように着飾って自慢する姿は、彼らの価値観にはないからです。滑稽に見えることでしょう。カラスがクジャクの羽を身につけて得意がっているような違和感を感じることでしょう。私たちの社会では、いえ、先進諸国と言われているどの国の人々もホンネでは「どんなに行為が美しくても、お金や名誉や学歴がなければ意味がない」と考えますが、彼らは逆に、「どんなにお金があっても、愛がなかったら意味がない」と考えるからです。
つまり、お金と名誉と学歴をもっていても、人をだましたり、意地悪だったり、不誠実だったり、愛がなかったら、生きているとは言えない、人間ではない、と彼らは考えているのです。ホンネとタテマエという言葉がありますが、これが現代の日本とは逆なのです。私たち日本人の多くは、愛と智恵と勇気がタテマエで、お金と名誉と学歴がホンネです。表向きは、つまり、タテマエでは、愛や智恵が大事だということになっていますが、しかし、ホンネでは、金や地位が大事だと思って生きています。その点、少数民族の多くは、私たちのタテマエをホンネとして生きているのです。
初対面の人と出会った時、現代に生きる私たちは、まず職業や学歴を気にしますが、彼らは「これまでどんな生き方をしてきたか、老人や子どもにはやさしかったか、親切にしてもらった時は人にきちんと敬意をはらってきたか、誠実に生きてきたか」ということを気にします。行為の美しさで人を判断しようとするのです。どんなに学歴があっても、智恵がなかったり、人に意地悪をするような人は人として認めないのです。彼らにとってのブランドとは、行為の美しさがすべてなのです。だから、ブランドとは、みずからがなるものなのです。
†女性が男性をもっとも軽蔑する瞬間[#「†女性が男性をもっとも軽蔑する瞬間」はゴシック体]
さて、男性のみなさん、女性が男性をもっとも軽蔑する時とは、どんな時だと思いますか?
それは、「あら、この人、私より智恵がない」と感じる時です。女性がこう感じた瞬間こそ、男性をもっとも軽蔑してしまう瞬間なのです。
ただし、逆もまた真なりで、相手の男性に智恵と勇気を感じた時、女性は、尊敬の念をいだきます。「いい女」ほど、自分よりも智恵と勇気のある男性を求めます(第二章で詳述しますが、ダメ女は逆にダメ男を求めます)。
さて、本書で言う「いい男」とは、美しい行為のできる人のこと[#「本書で言う「いい男」とは、美しい行為のできる人のこと」はゴシック体]です。先ほどご紹介したネイティブ・アメリカンなど少数民族の美徳と同じく、自分がブランドになるという生き方[#「自分がブランドになるという生き方」はゴシック体]です。しかし、ただ心構えを変えたくらいでは美しい行為ができる人間にはなれません。
男性の場合、美しい行為をするためには、智恵と勇気をもっていることが必要です。「自分がブランドになること=美しい行為をすること=智恵と勇気がある男性だけができること」だからです。
「いい女」は、この辺の事情を、自分の父親の姿を通して直感的に知っています。父親が「いい男」ですと、娘は、自分の仕事に自信と誇りをもっている男性に魅力を感じます。仕事を楽しめないような男性に智恵も勇気も愛もないことを直感的に知っているからです。また、「いい女」は、学歴や職業を気にしません。知識と智恵は何の関係もないことをも直感的に知っているからです。そして、幸せになるのにお金がそんなに必要ないことも知っているからです。
もしあなたが、学歴コンプレックスがあったり、職業や給料にコンプレックスをいだいていたとしたら、それはまったくの間違いです。いだかなくていいコンプレックスです。「いい女」にとって重要なことは、学歴や職業や給料ではなく、相手の男性が実践で使えるような真の智恵と勇気をもっているかどうか[#「実践で使えるような真の智恵と勇気をもっているかどうか」はゴシック体]です。
なぜ、女性は男性に智恵と勇気を求めるのか、その詳しいメカニズムは第一章でお話しします。それを読めば、なぜ、女性がもっとも落胆する時が、恋人が自分よりも智恵がないことを発見した時なのか、おわかりいただけると思います。
実際、自分の仕事に自信と誇りと悦びをもっていない夫では、たとえ、どんなに一流大学を出て一流企業に勤めていても軽蔑されてしまいます。エリートサラリーマンでもこんな程度か、と一喝されておしまいなのです。男性側からすると、妻に軽蔑されながら生きることは、たいへん辛いことです。もし、娘がいたら、娘にも尊敬されなくなります。これもまた父親としてはたいへん辛いことです。
どうやって智恵と勇気を手に入れるかは、第三章以降で説明いたします。
†スゴイけど尊敬できない[#「†スゴイけど尊敬できない」はゴシック体]
もし、真の智恵と勇気が夫(または父親)になければ、夫(または父親)はただの給料の運び人に降格されます。給料はありがたがられても、夫(または父親)はありがたく思われないのです。高給をもらってきても、尊敬はしてはもらえません。
こう言うと、多くの男性は「オレには学歴も社会的地位もあるぞ。給料もたくさんもらっている。家族になに不自由のない生活をさせている。これならお父さんスゴイ! って娘が尊敬や感謝をしてくれるのではないか」と反論するかもしれません。
しかし、実は、女性の視点と男性の視点は違うのです。娘は「スゴイとは思うけど、父親は尊敬できない」とあっけなく言ってのけるのです。お金と名誉と学歴が通用するのは男性に対してであって、妻や娘には通用しないのです。娘も女性ですから、父親に智恵と勇気を期待しているのです。
なぜ女性には、智恵が必要なのでしょうか。知識だけではダメなのでしょうか。
その答えは、「智恵がないと、ものごとを判断したり、決断したりできないから[#「智恵がないと、ものごとを判断したり、決断したりできないから」はゴシック体]」、そして「女性は、男性とは質の違う種類の智恵はもっているけれど、男性が英雄体験を通して得る類の智恵をもつことがむずかしいから」です。換言すれば、「自分にかけられた呪いをといてもらうための智恵」です。これに関しては第一章で詳しく説明いたします。
いずれにせよ、現実生活で大事なことは、知識ではなく、判断と決断をするための智恵のほうです。なぜなら、生きることというのは、無数の判断と決断をすること、と言い換えてもいいほどだからです。
決断する時に困るのは、情報は充分なのに、それをどう考えていいかわからないからです。智恵があれば、問題点を整理し、過去の経験から結論を出すことができます。女性は、実は、こういう思考作業は苦手です。女性の智恵はもっぱら、ホンモノを見抜くため、特に、「いい男」は誰かを見抜くためには発達していますが、そのほかの事柄に関して決断することは苦手なのです。迷うばかりで結論が出せないのです。
いい判断や決断ができないと、楽しく人生を送ることはできません。女性が男性にもっとも頼りたいことこそ、判断や決断のために必要な智恵であり、自分にかけられた呪いをとくための智恵なのです。
しかし、経験が豊富であるとか、知識が豊富である、というだけでは女性の求める智恵は身につきません。知識と智恵は実はまったく別のものだからです。経験と知識が結びついたら悪知恵くらいにはなりますが、生きるための智恵や呪い(呪いについては第一章で説明します)をとくための智恵にはならないのです。
智恵は、仕事を楽しんでこそ、そして人にやさしくしてこそ身につくのです。自分の仕事に自信と誇りをもっている人だけが、知識を智恵に変えることができるのです。そして、英雄体験をして(英雄体験については第三章で説明いたします)こそ、知識が智恵に変わるのです。
†智恵と勇気が男らしさの原点[#「†智恵と勇気が男らしさの原点」はゴシック体]
もう、おわかりですね。「いい男」とは、学歴や地位、知識やお金のある男性のことではなく、もちろん、ルックスがいい男性のことでもなく、智恵と勇気のある男性のことです。
ここで言う智恵と勇気は、未知なる問題に遭遇した時、試行錯誤をしながら解決できる能力のことです。誰もやっていないことだからできないとか、やったことがないからできないとか、自信がないからできないとか、そんな言い訳をする男性のことではありません。果敢に未知なる世界で挑戦し続ける男性のことです。夢とロマンに満ちあふれた男性のことです。
そもそも自信と誇りは、行動することで身につけるもの[#「自信と誇りは、行動することで身につけるもの」はゴシック体]です。ですから、自信がないからしない、という態度では永久に自信をもつことはできません。特に男性にとっては、自信と誇りは、未知なる世界で冒険をすることで身につけるものです。だから、男性には英雄体験が必要なのです。
しかし、ノーベル賞をとったからといって、必ずしもそれが英雄体験になるとは限りません。夢とロマンを追求した結果、たまたまノーベル賞を受賞した、ということであればいいですが、ノーベル賞をとる目的で努力しても英雄体験にはなりません。もちろん、知識が智恵に変わることもありません。ものごとは何でも、何をするかが大事なのではなく、どんな気持ちでそれをするかが大事[#「何をするかが大事なのではなく、どんな気持ちでそれをするかが大事」はゴシック体]なのです。
†智恵を獲得するには能力が必要[#「†智恵を獲得するには能力が必要」はゴシック体]
さて、実践で使える智恵を得るには、ある種の能力が必要です。誰でもが簡単に知識を智恵に変えられるわけではありません。
では、どんな能力が必要なのでしょうか。
それは、たとえば、あなたがレストランで赤ちゃんと隣り合わせになった時、ベロベロバーをして赤ちゃんにウケる能力です。あるいは、神社やお寺にいる猫や犬をかわいがれる能力です。あなたが撫でた猫が悦んだらOKです。ベロベロバーをして、赤ちゃんにウケたら合格です。その力が、知識を智恵に変える原動力となるからです。人や動物や植物を愛してこそ、知識が智恵に変わるのです。
あとは英雄体験さえすれば女性が求める智恵が手に入ります。智恵というものは、書物に書いてあるものではありません。自分の体験を通しておのれ自身の悪(幸せ恐怖症を含む不自然なこと、第一章以降で説明します)と戦って得られるものです。陰徳を積むことで(陰徳については第四章で説明します)、おのれの魂をきれいにすることで得られるのです。
さて、女性は、男性よりも心の世界には敏感ですので、人間関係については男性よりも智恵をもっていることが多いのです。女性は、男性が見落としているような細かな表情を見ていますから、相手の男性がホンモノの智恵をもっているかどうか正確に見抜きます。男性が見抜けないからといって、女性も見抜けないと思ったら大間違いです。女性は、智恵を求める力が強い分だけ、男性を見抜く力もすごいのです。女性をあなどってはいけません。まして、今は情報が容易に手に入る時代です。こんなご時世ですから、きのう手に入れた知識をひけらかしても女性に軽蔑されるだけです(女性は、男性が知ったかぶりをして自慢している時は、ふーん、なるほどね、などと聞いていますが、実は、バカみたい! と見下しているのです)。
現代は、以前にもまして英雄体験を重ねないと男性は尊敬されません。しかし、悲しいことに、現代という時代は、男性にとって英雄体験をするにはきわめて厳しい環境です。第五章で説明します。
もともと、二十代そこそこで女性に尊敬されるような智恵を手に入れることはむずかしいのですが、しかし、二十代までに英雄体験をしておかないと、三十代後半から地獄になります。人生はいつも先行投資です[#「人生はいつも先行投資です」はゴシック体]。今したことが五年後、十年後に花開くのです。外見的には、二十代までは、英雄体験をした人もしない人もそれほど違いません。しかし、心の内部は確実に違います。
厄年というのがありますが、実はこれには相反する二つの意味があって、厄がつく年だから気をつけなければいけない、という意味(こちらが一般に理解されているほうです)と、いい役がつく年、つまり、過去の努力が実っていいことがある年だ[#「過去の努力が実っていいことがある年だ」はゴシック体]、という意味です。若い頃、一生懸命に自分自身に投資した人は、三十代後半からその努力が実を結び始めます。つまり、智恵がついてくるのです。だから悦び多き人生となります。しかし、若いときに努力を怠った人は、三十代後半から四十代以降が地獄になります。厄というのは、外から降りかかってくるのではなく、自分の内部から湧いてくるものなのです。過去のツケのようなものです。
「いい女」は、男性のポテンシャルを見抜きます。つまり、今はまだ智恵を持ち合わせていなくても、将来たくさんの智恵を手に入れる可能性を秘めた男性かどうか、「いい女」は的確に見抜くのです。
ではこれから、男性が智恵と勇気を身につけるための方法を述べますが、その前に、動機づけを高めるために、なぜ女性は男性に智恵と勇気を求めるのか、女性は男性のどこを見ているのか、というお話をそれぞれ第一章と第二章でいたします。
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第一章[#「第一章」はゴシック体] なぜ女は男に智恵と勇気を求めるのか
†彼女たちの不満[#「†彼女たちの不満」はゴシック体]
ある日、二十歳になる女子大生が恋愛の相談をしに私の研究室にやってきました。深田恭子のような上品な顔立ちの女性です。彼とは同棲中で、別れたほうがいいのかどうか聞きたいというのです。
「彼はやさしいんですけど、二人でいてもさみしいんです。一緒にいるとイライラすることがあります」
「彼のどこか不満なの?」
「それがよくわからないんです。彼ともそのことで何度も話し合ったんですけど、結論が出ないんです。だから困っているんです」
「不満はあるけど、何をしてもらったら満足するのかわからないんだね」
「はい、そうです! その通りです。彼は、してほしいことがあったら何でもする、と言うんですけど、私は彼に何をしてもらいたいのかよくわからないんです……わがままだとも言われましたが、自分としてはわがままではないと思うんです。でも、いくら話し合いをしても結論が出ませんでした」
よくあるパターンです。この女子大生に限らず、実は、多くの若い主婦がまったく同じような不満を訴えます。夫に対して何らかの不満を持っていることは自覚できても、具体的にどんなことを不満に感じているのかわからないのです。また、どうあったら満足できるのかもわからないのです。夫に何かしてもらいたいような気がするのだけれど、じゃ、何をしてもらったら心が満たされるのか、夫に聞かれても答えられないのです。これでは夫婦でいくら話し合いをしても結論は出ません。
「彼がキミを見つめてくれないことが不満なんじゃないの?」
「あ、そうですね、そう言われればそんな気がします。なんか、真剣に私を見てくれていないような気がします」
「じゃ、自分の何を見てほしいんだろう?」
「……」
「顔かな?」
「いいえ、違います。体でもありません。彼は、セックスの時だけ私を見てくれるように思います。でも、私が本当に見てほしいのは、顔でも体でもありません」
「じゃ、何を見てもらいたいんだろうね?」
「彼に見守られている、という感じがしないんです。はじめの頃はドライブに連れて行ってくれたり、食事をおごってくれたり、勉強を教えてもらったり、とっても親切で、私のことを大切に思ってくれているという感じがしたんです。だからあの頃はとってもうれしかったんですよ。でも、同棲して数カ月してみると、なんだかさみしくなってきてしまって……」
実はこの点でも、多くの若い主婦もまったく同じことを訴えます。恋愛中はやさしくしてくれたので、結婚したらきっとバラ色になると思ったのに、実際にしてみると、逆に半年もしないうちに色あせ、心にポッカリと穴があいたようでつまらないと言うのです。でも、だからといって、恋人時代にしたように、夫と一緒に映画に行ったり、呑みに行ったりしてももはや心は満たされないのです。この女子大生も、まったく同じで、彼がやさしくなくなったからさみしくなっているのではないのです。彼は相変わらずやさしいのです。それでも、何かが足りない、と彼女はイライラしているのです。
†不満の核心[#「†不満の核心」はゴシック体]
いったい、彼女は何が不満なのか、いろいろ雑談をしながら探ってみました。小一時間ほど話をした時です。
「先生、彼と同棲し始めた頃、私、思い立って、カルチャーセンターに通い始めたんです」
「何を習ったの?」
「生け花です。中学生の頃からやってたんですけど、大学受験とかで中断していたので、もう一度やってみようかなと思って。でも、なんだか、今はやる気がしないんです……」
「やる気がしないって、どういうこと?」
「やりたい意志はあるのにおっくうなんです。花屋さんでお花を買う時は楽しいんですけど、アパートに来て、いざ生けようとすると、なんだか怖いというか、罪悪感というか、できないんです。そんな自分にイライラしています。このことと恋愛に対する不満と関係あるのでしょうか」
この言葉で、私はピンと来ました。幸せ恐怖症です。彼女の不満の中身がおおよそ想像できました。彼女は自分が幸せに生きているかどうか、彼に見てほしかった[#「自分が幸せに生きているかどうか、彼に見てほしかった」はゴシック体]のです。実は、この点に関しても、多くの若い主婦も同じ不満を訴えます。「夫が無関心」「自分を見てくれない」と訴えるその中身こそ、自分が幸せに生きているかどうかを見てくれない、という不満なのです。
「それは関係あるどころか、大ありだよ」
「やっぱり、そうなんですか!」
「やっぱりってどういうこと?」
「私がアパートで花を生けることができなくてイライラしている時は、彼に対してもイライラしてたからです。はじめ、自分のイライラをただ単に彼にぶつけているだけかな、と思っていたんですけど、自分を見つめてくれない彼にイライラしていたことが今わかりました」
「なかなかいい勘しているよ。じゃ、彼がどう行動したらキミは満足したと思う?」
「私が花を生けることができなくてイライラしている時、なぜイライラしているのか、その理由を聞いてほしかったですね」
「実際の彼の行動は?」
「私がイライラし始めると、恐れをなしてテレビを見始めるんです。それがわざとらしいんですよ! 我関せず、を決め込むんです。私は、困っている私を見てよ、という無言のサインを彼に出していたと思うんだけど、彼はそのサインを受け取ると逃げるんです。これ見よがしに私に背を向けてテレビを見るんです。私はそんなだらしのない彼を見て余計にイライラしていました。逃げる男というのは情けないですね」
「逃げるな! って言わなかったの?」
「はい。だって、ほんとに彼が逃げ出したら、私が惨めになりますから……」
「もし、私を見て! って強く言ったら彼は見てくれたんだろうか?」
「怖い質問ですね。おそらく見てくれなかったと思います。彼は逃げたと思いますね。彼は、セックスの時は燃える男なんですけど、ふだんは逃げる男なんです。それがわかっているから、私も怖くて言えなかったんだと思います」
その通りです。女性はするどく人を見抜いているのです。でも、肉体関係があると、見抜いたことを認めたがらないのが女性の特徴です。体の関係ができたとたん、女性は自分の恋愛に保守的になってしまうのです。
さて、彼女のイライラの第一の原因は、生け花をしたいのにできないことでしたが、第二の原因は、彼が自分の幸福に無関心だったこと、そしてコソコソと逃げる男だった、ということ[#「彼が自分の幸福に無関心だったこと、そしてコソコソと逃げる男だった、ということ」はゴシック体]です。しかも、たとえ彼に訴えても、自分を支援してくれないだろうという辛い現実、つまり「間違いだらけの男選び」をしてしまった自分に彼女はいっそうイライラしたのです。これら三つが彼女の不満の核心でした。
†不満の本当の理由[#「†不満の本当の理由」はゴシック体]
では、なぜ彼が無関心だと彼女はかくもイライラするのでしょうか。さらに突っ込んで聞いてみました。
「どうして彼の無関心さにイライラするんだろう?」
「愛されている感じがしないからではないでしょうか」
聡明な女性です。その通りです。心に愛がないから、彼は彼女の幸福に無関心なのです。
私は、ちょっととぼけて聞いてみました。
「だって、彼は、親切でやさしいんでしょ?」
「はい、そうなんですけど、なんだかセックスという下心のためにやさしいように思えるんです」
「悪く言えば、彼はセックスさえできたらそれでいいと思ってキミとつき合っている、ということ?」
「そうですね。認めたくないですけど、やはり彼は私とセックスさえできたら、私が泣いてようが、苦しんでようが、無関心な人ですね」
「じゃ、どうあったら理想だったんだろうね」
「うーん、なぜ私がイライラしているのか、その原因を一緒に考えてほしかったなぁ……」
「応援も、してほしかったんじゃない?」
「あっ、それもあります! ボクが見守ってあげるから、生け花をやってごらんよ、って励ましてほしかったです。それがないから、余計に彼を見下していました。「ダメな男」と、イライラもしてましたね。彼は私がセックスを拒否した時は、どうして? どうして? と聞いてきますけど、セックスを許している限り、私が生け花のことでイライラしていても無関心なんです。それが不満になってきてたんです。やっとわかりました!」
†女性が愛を感じる時[#「†女性が愛を感じる時」はゴシック体]
なぜ、彼女は逃げ腰の彼にイライラしたのでしょうか。聞いてみました。
「さっき、彼から愛されている感じがしないと言ったね。やさしくて親切なのに、どうして愛を感じないんだろう?」
「セックスという下心のある親切をしているからだと思います。彼は自分の『下心』に気がついていないみたいですけどね。でも、下心のある親切かどうかは、私にはわかります。見返りを期待するような愛では将来が不安です」
「どういうところが不安?」
「だって、目的がセックスだけだったら、私が歳をとって醜くなったら、やさしくなくなるということでしょ。こんなのは本当の愛ではないと思います。歳をとることが不安になります」
「そうだね。じゃ、愛があったら彼はどう行動したんだろう?」
「よくわかりませんけど、私のイライラを取り除いてあげようというふうに動いてくれるんじゃないでしょうか……これって受け身でしょうか、先生。だって、恋愛も結婚も、互いに楽しい状態でないと継続できないでしょ」
その通りです。彼女はなかなかいい線いってます。本当に聡明な女性です。
彼女の言い分は、自分がアパートで生け花をすることができなくて苦しんでいるのだから、彼に協力してもらいたい、助けてもらいたい、ということです。せめて、「どうしたの?」と聞いてもらいたい、ということです。自分の苦しみに無関心である、ということは、愛がないように感じられてさみしいのです。
女性が愛を感じる時というのは、「夫(恋人)から幸せを願われている」「夫(恋人)は、自分が楽しく生きているかどうかに重大な関心をもっている」と感じる時です。こういうことは、いざとなった時、つまり、今回の彼女の場合のように、なにか問題が発生した時に、特に感じとれるものです。
人生というものは常に何かの問題が発生しますが、そこに愛があれば、問題を解決してさらに二人の心の絆を深めることができます。トラブルが愛を深め合うネタになるのです。しかし、そこに愛がないと、問題が発生したことがきっかけでこの二人のように関係は決裂してしまいます。
要するに、愛と智恵と勇気のある男性なら、トラブルを乗り越えることで幸福度を高めてゆけますが、愛も智恵もない男性ですと、トラブルはただの悲劇にしかならない、ということです。
†女性が失望する時[#「†女性が失望する時」はゴシック体]
女性がガッカリするのは、相手の男性がただ自分とセックスしたかっただけ、という真実がわかった時です。愛されているのは自分自身ではなく、体のほうだったのかと悟った時、女性は男性に失望するのです。
女性は、セックスを通して心の絆を感じたいのです。女性がセックスしたいのは、心の絆を感じたいからです。ここが男性と違うところです。男性は、女性にセックスを許してもらっただけで、自分は受容されたと思い込み、かなり満足してしまいますが、女性は、男性と心の絆を感じないと満足できない[#「女性は、男性と心の絆を感じないと満足できない」はゴシック体]のです。
女性は、自分が誰かとつながっている、という確信がもてないと不安なのです。その不安からイライラするのです。それが女性の本質です。ですから、彼と一緒にいてさみしいと感じてしまうのは、彼との間に心の絆がないからです。
しかし、ほとんどの女性たちはこのことを意識しているわけではありません。セックスしたくないのは心の絆を感じないからだとか、心の絆を感じさせないセックスをするから不満なのだとか、自分の幸せに無関心だから不満だ、などと自覚することはありません。だから、彼と話し合いをしても結論が出ないのです。また、それゆえ、彼に「じゃ、何をしてほしいの?」と詰め寄られても、「もっと愛してよ」くらいしか言えないのです。
†理想の対応とは?[#「†理想の対応とは?」はゴシック体]
では、この場合、彼がとるべき理想の対応とはどのようなものでしょうか。
まず第一は、彼女が言うように、自分が幸福に生きているのかどうか、苦しんでいないかということに関心をもつ、ということです。彼に愛があれば、つまり、彼女の幸福を願う気持ちがあれば、必ず彼女の異変に気がつきます。生け花ができなくて彼女が苦しんでいることに無関心なのは、彼女の幸福を願っていないからです。愛がないからです。
次は、なぜ生け花をすることができないのか、その謎解きに彼が挑戦することです。彼女の症状は、「幸せ恐怖症」という現象(拙著『家族のなかの孤独』ミネルヴァ書房、などを参照してください)です。二十歳そこそこの男性に、この謎解きまで期待するのはいささか酷というものですが、重要なことは、一緒に謎解きをしよう、という男性の姿勢[#「重要なことは、一緒に謎解きをしよう、という男性の姿勢」はゴシック体]です。
謎解きに成功するかどうかが重要なのではありません。未来の二人の幸せのために、全力を尽くそうとしたかどうかが重要なのです。その意欲が彼女を幸せな気分にするからです。実際、相手の男性の情熱が心の絆を形成させるのです。前述しましたように、大事なことは、何をするかではなく、どんな気持ちでそれをするか、ということです。女性は、男性からの熱い思いを感じただけでも満たされるのです。成功したかどうかという結果は重要ではありません。女性は男性に完璧さを望んでいるわけではない[#「女性は男性に完璧さを望んでいるわけではない」はゴシック体]のです。「あなたの幸せを応援したい」という「心」を望むのです。愛があれば、必ず、恋人(妻)の幸せを応援します。
もしこういう男性からの働きかけがなければ、応援も謎解きもありませんから、もうこの時点で、失格です。この女子大生は、結婚前に彼に失格の烙印を押せたことは不幸中の幸いでした。
さて、話を元に戻しますが、理想の対応とは、(一)彼女のイライラに気づくこと、(二)生け花を応援すること、そして(三)謎解きをすることの三つですが、夫婦や恋人というのは、こうやって問題を乗り越えていくことで愛を深めていくのです。そして、心の絆を太くしていくのです。これがないと、何十年一緒に暮らしても、女性は孤独を感じたり、さみしく感じたりするのです。
†童話やゲームソフトと同じことが現実でも起こっている[#「†童話やゲームソフトと同じことが現実でも起こっている」はゴシック体]
お城の中にお姫様が何者かによって閉じこめられていて、それを男の子が救いに行く、というパターンのゲームソフトが少なくありません。ひと頃、これは男女差別ではないのか、と批判されたことがありました。その主張は、これではまるで女の子は能無しで、自力では牢屋から出られず、ただひたすら男の子が助けにくるのを待っているだけの情けない存在ではないか、というものでした。
ところが、このパターンのストーリーは、男性にはたいへんウケるのです。だからソフト会社もこの種の物語を作るのですが、では、なぜ男性にウケるのでしょうか。
それは、現実世界でも同じことが起こっているからです。
女性が能無しかどうかということに関係なく、男性が女性にかけられた呪いをといて、女性を解放する、ということを現実世界でもやっているからウケるのです。男性は、意識しているわけではありませんが、女性を救いたいと思っているのです。
人は、自分のしていることをいちいち意識しているわけではありません。彼女の幸せを必死で願っているうち、彼女にかけられた呪いをといていることがたくさんあります。当の男性も知らないうちに謎解きや呪いの解除をやっていることがあるのです。
男女は、そうやって心の絆を深めていくのです。互いに意識できないだけで、世の中には、男性による女性の解放ということが頻繁に行われているのです。だからこそ、白雪姫やいばら姫が何百年も語り継がれるのです。
面白いことに、美女と野獣のように、女性による男性の解放という構図も民話や童話にたくさん見られます。どちらも、恋愛のパワーでもって、男性が女性にかけられた呪いをといたり、女性が男性の英雄体験を支援して男女双方が幸せになるという構図です。若い女性を救うのは若い男性の愛であり、若い男性を救うのは若い女性の愛だということです。生きるために恋愛が必要なのです。
第三章で男性における英雄体験について述べますが、その英雄体験の中で得た智恵こそ、女性を救い出す時に必要なのです。ただし、女性に智恵があるとかないとか、女性が能無しであるとかないとか、そういうこととは関係がありません。もともと男性は、女性を助けることに悦びを見いだす動物なのです。そして、前述しましたように、女性もまた意識はしませんが、男性に智恵と勇気を期待しているものなのです。だから男女は互いに求め合うのです。
グリム童話の白雪姫では、白馬にまたがった王子様が森から出てきて、白雪姫を救い出すことになります。白雪姫は毒リンゴを吐き出し、命が助かるのです。これこそが恋愛における「愛の力」のなせるわざです。真実の愛が女性を救うのです。男性による女性の解放という構図を、多くの人は意識こそしませんが、日常の経験の中から感じ取っているために、白雪姫の物語をリアリティをもって読むことができるのです。現実世界の出来事だからです。
†男性の智恵と勇気を女性は気持ちいいと感じる[#「†男性の智恵と勇気を女性は気持ちいいと感じる」はゴシック体]
男性は、女性とデートした時、「自分と一緒にいて彼女は楽しんでくれているだろうか」と不安になるものです。真面目で誠実な男性ほど不安になります[#「真面目で誠実な男性ほど不安になります」はゴシック体]。男性は女性に悦んでもらいたい生き物なのです。特に、セックスをした時、男性の不安は頂点に達します。もし、気持ち悪いなんて言われたらどうしよう、と不安になるのです。「気持ちいい」と言ってほしいのです。
ただし、誤解のないように申し上げますが、これはテクニックがどうとか、男性器の大きさがどうという意味での話ではありません。実はもっと精神的なことに由来する不安の話です。
結論から先に言いますと、自分の智恵と勇気が試されるから男性は不安になるのです。換言すると、自分がこれまで生きてきた過去のすべてに対する成績表(または評価)を、セックスした時に女性に突きつけられるからドキドキするのです。男性は、これまでの経験から、女性が直感的に男性の過去のすべてを見抜くことを知っているのです。知っているからこそ、怖くなるのです。
彼女の見ていないところで、老人や子どもにやさしくしてきたかどうか、年長者を敬ってきたかどうか、何事にも誠実に取り組んできたかどうか、智恵と勇気はあるかどうか、そうした過去のすべてがデートやセックスで女性に見抜かれるので怖いのです。もし、男性が過去において、人をだましたり、平気でウソをつくようなことをしていると、「気持ち悪い」と女性は感じます。正確には、「いい女」は必ずそう感じます(ただし、いい女でない女性は、逆に、ダメ男に魅力を感じてしまいます)。
ですから男性は、初めてのデートやキスやセックスにおいて、判決を言い渡されるような不安を感じるのです。特に、手をつなぐとかキスをするなどのスキンシップをした時、女性は正確に男性の過去を見抜きます。だから、男性は女性の体に触れたいと思う反面、触れたら自分の真実がバレると、怖くもなるのです。
繰り返しますが、男性がどんなに優秀な大学を卒業していようと、どんなに一流企業に勤めていようと、どんなに収入があろうと、女性が気持ちよく感じることとは何の関係もありません。序章で紹介した少数民族の人々が人を評価する時のように、「いい女」は、男性の本質を直感的に見抜き、気持ちいいとか気持ち悪いと感じるのです。
前述しましたように、男性には、女性に悦んでもらいたいという本能的とも言える欲求があります。自分の愛を女性に差し出したい欲求と、自分の差し出したものが女性にウケるかどうかの不安が混在するのが、男性にとっての恋なのです。女性には理解しがたい男性特有の葛藤です。その点女性は、相手の男性の差し出した愛を味見をして判決を言い渡せばいいだけですから、お気楽です。
しかし、男性は、自分の智恵と勇気が本物であったかどうか判決を言い渡される立場です。怖くなって当然です。もし、「気持ち悪い」などと言われたら、これまでの人生のすべてが否定されたような気分になります。本気で惚れた女性にそんなことを言われたら男性は死にたくなってしまいます。
†なぜ智恵と勇気があると気持ちいいのか[#「†なぜ智恵と勇気があると気持ちいいのか」はゴシック体]
女性は、前述しましたように、人とのつながりを強く求めます。ああ、自分は彼と心がつながっているな、幸せを願われているな、と確信すると、女性は安心するのです。つながりを感じたという安心が、女性をリラックスさせます。リラックスすると、女性は心を開きます。心を開くので、彼の愛を吸収しやすくなります。その結果、いっそう彼とのつながりを感じるようになります。こうしてどんどん心の絆が太くなるのです。
智恵と勇気のある男性なら、女性に安心とリラックスを与えることができるのです[#「智恵と勇気のある男性なら、女性に安心とリラックスを与えることができるのです」はゴシック体]。何も言わなくても、ただ存在するだけで女性を安心させるのです。本物の智恵と勇気とはそういうものです。
女性にとって、安心とリラックスはきわめて重要です。それがないと、人生を楽しめなくなるからです。たとえば、食事を例にとって説明しましょう。どんなにおいしい料理を並べられても、テーブルの下でコブラがうろちょろしていたのでは、恐怖のあまり味がわからなくなりますね。緊張していると、私たちは味を感じなくなるのです。食事はリラックスしている時だけおいしく感じるのです。
人間とはとても精神的な生き物です。実際、好きな人と一緒にいて安心していると、同じものを食べても驚くほどおいしく感じます。キスやセックスにおいても同様です。安心とリラックスの中ですると、女性はビックリするほど気持ちよくなれるものです。女性は自分に安心や快感を与えてくれる男性を「好きな人」と認知するのです[#「女性は自分に安心や快感を与えてくれる男性を「好きな人」と認知するのです」はゴシック体]。
キスにせよ、セックスにせよ、形そのものは、智恵があろうがなかろうがそっくりですが、そこに智恵があれば気持ちよく感じるし、智恵がないと気持ち悪く感じるのです。これこそが、何をするかではなく、どんな気持ちでするかが大事、という意味です。要するに、女性が人生を楽しめるかどうかは、緊張しているかリラックスしているか、あるいは警戒しているか安心しているかで決まる[#「女性が人生を楽しめるかどうかは、緊張しているかリラックスしているか、あるいは警戒しているか安心しているかで決まる」はゴシック体]のです。女性は男性と違って、とてもデリケートなのです。
さて、一般に女性は男性の心に敏感です。実は、敏感にならざるを得ない事情があるのです。というのは、女性には、悪い男と悪いセックスをすると心も体も汚れてしまうという女性特有の事情があるからです。だから、女性はセクハラを嫌がるのです。一方、男性はそういうことはありません。ですから、男性は気軽に女性を誘ってキスやセックスをすることができるのです。
しかし、女性は汚れやすいので、そうそう気軽に試行錯誤するわけにはいかないのです。女性にとって男性は危険な存在でもあるのです。だから女性はふだんはとても警戒して生きているのです。もちろん、緊張もしています。男性の何倍も緊張しながら毎日を生きているのが女性です。なぜなら、もしまちがって悪い男と悪いセックスをしてしまったら、毒蛇に咬まれたような深い傷ができてしまうからです。毒も回ります。その点、男性の場合は、悪い女とセックスをしても、腕にハエがとまった程度の不快感しかありません。男女は、これほど違う生き物なのです。
女性は、この人は自分に安心を与えてくれそうな人だと判断すると、とても安心し、心がリラックスしてきます。こうなると、食事をしてもおいしく感じますし、遊園地に行っても映画を観に行っても存分に楽しめるのです。一人で楽しむよりも、彼と一緒のほうがより楽しくなるのです。楽しく感じると女性はますます安心し、ますますリラックスしますので、ますます人生が楽しくなります。いい関係は、必ずこうなります。
ですから、一緒にいてほっとする、一緒にいると食事がおいしい、安心して自分を出せる、眠くなる、というのはとても大事なことです。安心とリラックスは、恋愛や結婚生活を発展させるためにもっとも重要なことだからです。
†安心がないと女性はどうなるか[#「†安心がないと女性はどうなるか」はゴシック体]
あなたは、自分の妻(恋人)から、あなたとのセックスよりも、自慰をしている時のほうが気持ちいいと告白されたらどうでしょうか?
大きなショックを受けるのではないでしょうか。
実は、自慰をしている時の快感と、セックスをしているときの快感の大きさを比較すると真実がわかるのです。女性の側に幸せ恐怖症がない限り、正確な指標になるからです(もし、幸せ恐怖症があると、逆になりますので、判断する時は要注意です)。
もし、男性に愛と智恵と勇気があれば、女性は、自慰をするよりも何倍もの大きな快感が得られます。だから、女性のほうがセックスに対して積極的になります。本来、女性のほうからしたくなるセックスが理想です。
しかし、もし、男性に怒りや不信や妬みがあると、逆に不快に感じます。少なくとも、自慰の快感よりは下回ります。敏感な女性ですと、苦痛にさえなります。実際に痛みを伴うことも、珍しくありません。
ただ、不倫をしていると、スリルという快感が加算される場合もありますし、女性の側に怒りがある場合は、性欲が亢進してセックスには積極的になりますので、一概には言えないところもありますが、しかし、彼に本物の愛と智恵と勇気があれば、自慰をしている快感とは比べようもないほどの快感がセックスで得られます。彼とつながっている実感がして、ますます安心し、ますます気持ちよくなるからです。女性にとっては、安心による快感(安心する快感)というのはきわめて重要なのです。愛されているという実感が大きな快感を生み、さらに、つながっているという安心がさらなる快感を生むからです。
しかし、もし、男性が単なる性欲だけでセックスをしようとしていると、女性は愛されているという実感も得られず、また、つながっているという安心感も得られません。不安という不快感や惨めさを感じてしまい、気持ち悪くなってきます(セックス直後に気分が悪くなって吐く人もおりますが、たいていは二、三日してから気分が落ち込んできます)。
もし、そこに愛と信頼があれば、二、三日すると、逆に心が満たされてきてとても幸福な気分になってきます。三日前よりもほのぼのとした気分になれます。元気にもなります。人にやさしくしたくなります。そんな自分になれたことがうれしく感じるのです。男性にはなかなかわからない女性独特の幸福感です。
女性は、自分が感じた気持ちよさをしっかりと記憶します。そしてその記憶を何度も引き出してはほくそえむことができるのです[#「女性は、自分が感じた気持ちよさをしっかりと記憶します。そしてその記憶を何度も引き出してはほくそえむことができるのです」はゴシック体]。男性は感情を記憶することは苦手ですが、女性は、気持ちよさを何度も|反芻《はんすう》して楽しむことができるのです。しかし、逆もまた真なりで、セクハラなどで不快を得た時も何度も反芻してしまい、そのたびに不快感に悩まされます。だから女性はセクハラを嫌がるのです。
女性は愛されて、心が満たされて、相手の男性とつながりを感じると、それをもって「幸福」と感じるものなのです。そうなる最大の要因こそ男性の愛と智恵と勇気なのです。先ほど登場した女子大生の場合も、同棲相手に愛と智恵と勇気があれば、彼女は満足してそのまま結婚に至ったことでしょう。
†なぜこの女子大生は生け花をすることが怖かったのか[#「†なぜこの女子大生は生け花をすることが怖かったのか」はゴシック体]
この答えは、本題からはちょっとはずれますが、男性の智恵と勇気に関係しますので、簡単に解説します。
結論から先に申し上げますと、母親に嫉妬されながら育つとこうなるのです。信じられないかもしれませんが、娘の幸せに嫉妬する母親がいるのです。もちろん、全部の母親ではありません。夫婦仲が悪く、心が満たされていない母親は、娘の幸福に嫉妬するのです。不幸な母親が娘に嫉妬するのです。息子にはあまり嫉妬しないのが普通です。母親は、娘と同性であるがゆえに「女の幸せ」「女の悦び」とは何かを知っています。だからこそ、自分が得られなかった幸せや悦びを同性の娘が得ていないかどうか、気になるのです。
娘の幸福に嫉妬すると、たいていの母親は不機嫌になります。当の母親は、嫉妬で不機嫌になったという自覚はありませんが、娘がルンルンしていると急にイライラしてくるのです。
一方、子どもにとって、親のイライラや不機嫌ほど怖いものはありません。まして、自分のせいで母親が不機嫌になったとしたら、「ごめんなさい、もう、二度とルンルンすることはしません」とあやまりたくなります。それが子どもというものです。家庭しか居場所のない子どもは、親を責めずに自分を責めてしまうのです。
先ほど登場した女子大生は、子どもの頃、自分が好きなことに夢中になって大きな悦びを得た時、母親に嫉妬され、不機嫌な顔をされたのです。その結果、彼女は、楽しいことほど、怖くてできない人間になったのです。母親の嫉妬に狂った顔を見るくらいなら、楽しいことをしないほうがマシなのです。それゆえ幼児期から、楽しいことをことごとく回避して生きてきたのです。今ではすっかり、楽しいことをすることが恐怖になっているのです。
私はこういう現象を「幸せ恐怖症」と呼んでいます。はたから見ると、まるで幸せを怖がるように見えるからです。意外に思うかもしれませんが、きわめて多い現象です。自分が気がつかないだけです。私の調査では、程度の差こそあれ、女性の六割以上に幸せ恐怖症という呪いがかかっています。それだけ現代という時代は、心が満たされていない女性(母親)が多いということです。
仮に、心が満たされていない母親の幸福度を一〇〇としますと、娘には七〇くらいの幸福を願うのです。私はこれを「親の七がけ幸福論」と名付けました。ただし、娘の幸福度が五〇以下になると、母親は同情してハッスルします。不幸を望んでいるわけではないからです。でも、娘が元気になって幸福度が七〇を超え始めると、だんだん不機嫌になってしまうのです。一〇〇を超えたら般若になるのです。
親の七がけ幸福論とは、娘の不幸を願うわけではないけれど、自分よりも幸福になることは絶対に願わない、という現象のことです。子どもの側から見た現象が、「幸せ恐怖症」です。幸せ恐怖症とは、親が自分の幸せに嫉妬しないように、はじめから幸せを避けてしまう現象のことを言います。親が嫉妬しない程度の悦びだけ得ようとするのです。大きな悦びを避けてしまうのです。しかし、あくまでも無意識ですので、よほど気をつけないと発見することは不可能です。いえ、よほど気をつけても自覚することは困難です。
なぜなら、無意識である、ということの他に、幸せを避けることで実家で生き残ることができたという成功体験がバックにあるからです。つまり、幸せを避けることがいいことだと思っているのです。その結果、生き残るために、一番したいことをせず、二番目か三番目にしたいことをするようになるのです。
一番したいことを避ける時は、まるで憑き物でもついたかのようです。多重人格と同じです。別人になってしまうのです。当然です。ふだんは幸せになりたいと思っているのですから、別人にならないと幸福を避けることは不可能だからです。でも、本人は自分が別人になったことには決して気づきません。これが幸せ恐怖症の怖いところです。なぜなら、自覚がないので、放っておくと死ぬまで治らないからです。嫉妬した母親が死んでも、幸せを回避するクセは残ります。
前述の女子大生の場合は、一番やりたいことは生け花でした。だから生け花が怖くなったのです。第一希望を避けるのは生け花ばかりではありません。恋人選びも同様です。一番好きな人とつき合うと悦びが大きくなるので、五番目くらいに好きな男性を恋人にするのです。嫉妬される不快感と恐怖を味わうくらいなら、五番目に好きな人とそこそこのつき合いをしたほうがマシだと計算するのです。女性はこういう計算は得意です。
第五希望の男性とつき合ったのでは悦びはそこそこです。つまらなくはないけれど、決して楽しくはない、という恋愛です。でも、母親に嫉妬されずに済む、という大きな利益があるのです。この利益は、娘にとっては非常に大きいのです。このおかげで家から追い出されずに済んだのですから。
この成功体験があるために、経済的に自立できるようになっても幸せを避けてしまうのです。するどく幸福度を計算をして、母親に決して嫉妬されない男性を恋人に選んでしまうのです。自分が気に入った男性ではなく、母親に嫉妬されない男性を選んでしまう[#「自分が気に入った男性ではなく、母親に嫉妬されない男性を選んでしまう」はゴシック体]のです。
こういう状態は、まさに「呪い」をかけられたのと同じです。童話に魔法使いが出てきて、人間に呪いをかけますが、実は、現実世界でも呪いがあります。それがこの「幸せ恐怖症」という呪いです。母親が娘に呪いをかけるのです。
映画『シャイン』では、父親がピアニストの息子に激しく嫉妬し、意地悪をしていました。一般的に、自分と同性の子どもに親は嫉妬します。母親は娘に、父親は息子にです。白雪姫の物語ができた頃から、母親の娘に対する嫉妬があったということです。ちなみに、白雪姫の原作では、継母ではなく、実母が嫉妬することになっています。
†多くの若い女性が「幸せ恐怖症」という呪いにかかっている[#「†多くの若い女性が「幸せ恐怖症」という呪いにかかっている」はゴシック体]
あなたは、彼女とデートしていて、彼女の不可解な態度に「?」となったことはないでしょうか。たとえば、彼女が映画を観に行きたいと言うので連れて行ったのに、映画館についた途端、つまらなそうな顔をしたり、頭痛がする、寒気がする、気分が悪い、と言ったりしたことはないでしょうか。あるいは、映画を見た直後は「面白かったね!」と感動していたのに、その後、食事に行った時、急にふさぎ込む……という経験はないでしょうか。
女性特有の気まぐれのように見えますが、実はこういう症状を示すのは「幸せ恐怖症」という呪いによることが多いのです。もし、二回のデートのうち一回はこうした不可解な行動を彼女がするようであれば、疑ってみる必要があります。「幸せ恐怖症」という呪いが彼女にかかっている恐れ大です。
「幸せ恐怖症」という呪いが軽度の場合は、先ほど述べましたように、気まぐれかな、という程度で笑って済ますこともできますが(男性は振り回されてたいへんですが)、重症の場合は深刻です。なぜなら、彼女が大きな悦びを得た時ほど、彼女はおかしな行動をとるからです。
たとえば、彼女にとって、ディズニーランドのスターツアーズが一番の楽しみだったとしましょう。他の乗り物に乗っている時は楽しそうでも、スターツアーズに来た途端、気分が悪くなるのです。吐き気がしたり、頭痛がするのです。人によっては、スターツアーズに乗った後で、こういう症状が出ることがあります。怒りっぽくなったり、悪態をついたりするのです。
「幸せ恐怖症」の症状は多岐に渡ります。楽しいと感じた時に、わざと機嫌悪い態度をとったりします。幸せの予感がした時、ぶち壊そうとしたりします。たとえば、これからハイキングをするぞと登山口に来た途端、拒絶の態度をとり始めることもあります。これ以上私を幸せにしないでくれとばかりに(ただし、本人はまったくの無自覚ですが)、自分の幸せを応援する人に怒りをぶつけて八つ当たりするのです。楽しいことをして機嫌がいいはずなのに、あるいは、楽しい予感がして機嫌がいいはずなのに、その行動の前後に怪しげな態度になるのです。決して偶然ではありません。女性特有の気まぐれでもありません。「幸せ恐怖症」によるものです。
こうした「幸せ恐怖症」という呪いの存在がわかりにくいのは、自己破壊を伴うからです。「みずから進んで不幸になろうと努力する人なんているはずがない」という思い込みが、呪いの発見を邪魔するのです。自分の幸せを犠牲にしてまで母からの嫉妬を回避しようとしているなんて、常識では考えられないからです。
でも、事実は小説よりも奇なりといいますが、デートの時、しっかり自分の幸福を犠牲にして、彼をへこまそうとするのです。無意識とはいえ、幸せになったら親に見捨てられるという恐怖から、必死になって自分の幸せを壊そうとするのです。恋人の気分を悪くしたり、自分の気分を悪くすることで、デートを台無しにしようとするのです。決して母親の幸福度を超えてはいけないのです。女性は、その日の幸福度を計算して、デートをどの程度ぶち壊すかを決定するのです。もちろん、デートが楽しくなければ幸せを破壊することはしません。平穏にデートは終了します。楽しくない時はむしろ平和なのです。でも、限度を超えて楽しいと、幸せを破壊するスイッチが入ってしまうのです。
たとえば、先ほどの例の場合、スターツアーズを楽しみにディズニーランドに来ているのですから、体調不良のためにスターツアーズに乗れないとしたら、本人は立派な被害者です。立派な不幸です。でも、母の嫉妬が怖くて自分で自分の幸福を破壊するのです。
巧妙な女性になると、乗る前に彼に喧嘩をふっかけて幸せを破壊します。充分気分を害してから(事前に、自分を不幸にしてから)、乗るのです。あるいは、喧嘩をふっかけたために決裂してしまって、スターツアーズに乗れない、という方法を採用する女性もいます。この場合は、あなたのおかげで乗れなかった、と彼を責めることすらします。特に女性は、被害者のまま加害者になることが容易[#「女性は、被害者のまま加害者になることが容易」はゴシック体]です。振り回される男性こそ被害者です。しかし、女性は無意識に幸せを破壊する工作をしますので、当の女性は、自分こそ被害者であると主張します。
†幸せ恐怖症の実態[#「†幸せ恐怖症の実態」はゴシック体]
先ほどお話ししましたように、「幸せ恐怖症」の特徴は、無意識だけど意図的に幸せを回避する(幸せを破壊する)、ということです。そして、自分はあくまでも被害者だと思い込むことです。実際、自分の幸せ(楽しみや悦び)を犠牲にしています。これを根拠に、自分は被害者だと言い張るのです。
たとえば、こんな例があります。彼女の提案で、新幹線で京都に遊びに行くことになっていました。でも彼女は、待ち合わせ場所の東京駅に現れないのです。一緒に行けなくなるのですから、彼女もまた犠牲者です。しかし、これが無意識だけど意図的な行動なのです。つまり、幸せを回避する行動なのです。
なぜ、わざわざこんな手の込んだ芝居が必要なのでしょうか。
それは、「幸せを回避している」ということが自分にバレることを恐れるからです。もちろん、恋人にもそのことがバレないように、巧妙な言い訳を用意します。家を出る時、時計を見るのをまちがえていたとか、間に合うように支度していたのに、急に電話が入って気がついた時は電車の発車時刻を過ぎていたとか、もっともらしい理由をもっともらしく言うのです。思わず、納得してしまいそうな理由です。彼女のことが好きな男性は、彼女を信じようとします。信じた時点で、彼女の呪いの勝ちです。もし、ウソっぽいなぁと男性が感じたら、男性のその微妙な表情を読みとった女性は、涙さえ流すことがあります。男性が女性の涙に弱いことを知った上での悪質な犯行です。でも、こんなサル芝居にだまされてはいけません。世間の常識として、「まさか、自分を犠牲にしてまで幸せを回避する人はいないだろう」という思い込みを彼女は利用しているのですから。
女性は、小さなウソをつくのがじょうずです。もっともらしい理由を言うために現場の状況を利用するのです。たとえば、スターツアーズに行こうとしたら、乱暴な人とぶつかって足が痛くなったので、行けないという理由を使うのです。もちろん、ぶつかったのは偶然です。しかし、これを「言い訳」にして、スターツアーズに向かうことをやめようとするのです。
このように、きわめて巧妙ですから、実際のこうしたサル芝居を見分けるのは困難です。半年くらいつき合わないと見えてこないものです。しかし、ここぞ、という時に、しばしば幸せを回避するような態度をとることが多いとしたら、彼女にかけられた「幸せ恐怖症」を疑ってみるべきでしょう。大きな悦びが得られる時ほどぶち壊しにかかりますので、冷静に観察していれば比較的容易に発見できます。
†三歳までに幸せ恐怖症という呪いがかけられる[#「†三歳までに幸せ恐怖症という呪いがかけられる」はゴシック体]
さて、この「幸せ恐怖症」ですが、不思議なのは、ディズニーランドのスターツアーズの現場に母親がいるわけではないのに、あたかも、母親が見張っているかのように、幸せを恐れて回避しようとすることです。なぜでしょうか。
それは、心の中に、母親が住み着いているからです。母親の監視カメラが脳の中にあるのです。幸福度を監視するカメラです。二十四時間監視していて、母親の幸福度を超えると、娘に罪悪感という罰を与えるのです。この幸福度監視カメラは、たとえ、娘が経済的に自立しようが、結婚しようが、あるいは、当の母親が死んでしまおうが、それとは無関係に設置されたままです。
なぜなら、幼児期に幸せを回避する思考回路が出来上がっているので、ものごころついた頃には、まるで性格の一部のようになっているからです。三つ子の魂百までも、というように、放っておいたら死ぬまで幸せを回避し続けます。洞察力、記憶力、観察力にすぐれた聡明な女性ほど、根強く残ります。そして皮肉なことに、真面目な努力家ほど、必死になって幸せを回避しようとします。
なお、不幸な母親ほど、娘の実行する希望順位は下がります。少し不幸な母親をもったら第二希望を、うんと不幸な母親をもったら、第十希望を実行します。
また、「幸せ恐怖症」は、総量規制ですから、不幸にするネタは恋愛とは限りません。仕事でミスをして自分を不幸にしてもいいですし、友人とトラブルを起こして不幸にしてもいいのです。恋愛を利用するのは、女性にとって恋愛が重要な位置を占めるからです。
これらの「幸せ恐怖症」を是正しようと思ったら、「母親の監視カメラを監視するカメラ」を設置することです。幼児期に設置された監視カメラですが、本気で母の監視カメラを監視しようと思えばできることです。もちろん、恋人(男性)の協力が必要です。
†幸せ恐怖症がひどいと、「いい男」だからふられることがある[#「†幸せ恐怖症がひどいと、「いい男」だからふられることがある」はゴシック体]
「幸せ恐怖症」という呪いがかけられている女性は、いつも第五希望で行動しますので自分の努力が実らず、人生に悩みます。人は、自分の第一希望を遂行してこそ、悦びと感動が得られるようにできていますから、第二希望や第五希望ばかりをしていたら、人生がむなしくなってきて当然です。真面目な努力家ほど無気力になります。やがて、自分を恨み、世間を恨む女性になっていきます。こういう女性にこそ、自分の呪いをといてくれる男性が必要なはずなのですが、しかし、現実は逆にそういう「いい男」を遠ざけてしまいます。それが「幸せ恐怖症」の恐怖です。
ですから、男性が女性に交際を申し込んで拒否されるのは、必ずしもダメ男だからとは限りません。彼女の趣味に合わないからでもありません。あなたが彼女を幸せにする男性であり、彼女にとっての第一希望の人だと認知されたからこそ、ふられることがあるのです。
人が不幸なのは、自分が不幸であることを知らないからです。不幸なのに改善しようとしないから不幸なままなのです。では不幸な人は、幸福を知らないのかというとさにあらず。むしろ、何が自分を幸福にするかを知っていて、敢えてそれを避けて生きているのです。だから、ダメ男がモテたり、逆にいい男がふられたりする[#「ダメ男がモテたり、逆にいい男がふられたりする」はゴシック体]のです。
「幸せ恐怖症」になっている時は、女性は自分に幸せを与えてくれる人、つまり、「いい男」は悪魔に見えます。自分に危害を加える人にしか見えないのです。恐ろしいことです。しかし、一通り幸せの破壊を終えた後は、通常モード(幸せになりたいモード)に戻りますので、その時は、いい男に近寄って行きます。だから、いい男ほど振り回されやすいのです。
通常モードの時は、彼女の幸せを願うと悦んでくれますが、幸せを破壊するモードに変身した時は、激しく非難されます。同じように彼女に対応しているのに、「あなたは変わった」とか「見そこなった」などと言われるのです。これではいい男ほど混乱してしまいます。
しかし、当の女性は、いつ通常モード(幸せを求めるモード)になったのか、そして、いつ幸せ恐怖モード(幸せを破壊するモード)になったのかまったく自覚がありませんから、「まるで別人だね」と男性が抗議しても、絶対そんなことない、変わったのはあなたのほうだ、とかたくなに否定します。
†幸せ破壊工作の実際[#「†幸せ破壊工作の実際」はゴシック体]
もし、何かの間違いで、第一希望の男性と第一希望のデートスポット(たとえば先ほどのディズニーランド)に来たとしましょう。「幸せ恐怖症」の女性は不安になります。このままでは、悦びを得てお母さんよりも幸福になってしまう、と計算するからです。
こういう場合、多くの女性に共通した「幸せ回避の方法」があります。二つあります。
一つは、彼を怒らせるという方法です。彼が気に障ることをさりげなく言うのです。どんなに寛大な彼でも、必ず怒り出します。なぜなら、「幸せ恐怖症」の女性は、彼が怒り出すまで、チクチクと彼の気に障ることを言うからです。そして、彼が怒り出すと、自分の意地悪な発言を棚に上げ、「楽しむべき場所で、突然、彼が怒り狂ったから、今日はサイテーな一日だった」と言うのです。つまり、自分を被害者に仕立てたまま、彼のせいにしてしまうのです。
キレてしまったのは彼のほうですし、一見、彼女のほうが被害者のように見えなくもありません。いえ、そばにいる人が見たら、怒りまくっている彼が悪いと感じるはずです。このように女性は、被害者を装いながら加害者になることが可能[#「女性は、被害者を装いながら加害者になることが可能」はゴシック体]で、当の女性もまた、自分は被害者であると信じて疑いません。でも、これにだまされてはいけません。これまで、いかに多くの子どもや男性が、女性のこうした巧みな演技の犠牲になっていることか。
女性特有の手口はもう一つあります。それは、不機嫌にしてみせる、という方法です。デートしている時、彼女に楽しんでもらいたい、という男性のけなげな心理を逆手にとった、きわめて悪質な方法です。わざとつまらない顔をしてみせるのです。楽しく感じているのに、わざとむすっとしてみせるのです。彼はそんな彼女を見てあわてます。自分のどこがいけなかったのか、何か気に障ることを言ってしまったか……と、オロオロします。
女性なら、デート中に男性が不機嫌になっても、こんなにあわてることはありません。なぜなら、女性はいつも男性の心を読んでいますし(女性は、男性が女性の心を読む以上に、正確に男性の心を読んでいます)、また、彼に悦んでもらいたいという心理が男性ほど強くないからです。でも、その点男性は、彼女の心理状態を正確に読めていない上に、女性に悦んでもらいたいという心理があるために、デート中に彼女から不機嫌にされると、あわてふためきます。また、傷つきもします。まるで自分のすべてが否定されたかのような気分になるからです。
真面目で誠実な男性は、きっと、何か自分に落ち度があったんだろうと、自分を責め始めます。傷つき、落胆するため、男性もデートを楽しむことができなくなります。彼が落ち込んだ様子を見て、彼女はようやくほっとします。無意識ですが、「ああ、これで自分は幸せにならずに済んだ」、つまり「ああ、これで母親に嫉妬されずに済んだ」「母親の不機嫌な顔を見ずに済んだ」とほっとするのです。
以上の方法が、典型的な女性の「幸せ破壊工作」です。ですから、彼女とトラブルがあった時は、こうした破壊工作がなかったかどうか、充分考える必要があります。そうしないと、せっかくの努力が実りませんし、彼女とのトラブルもいつまでたっても解決しないからです。
†職場でもやることがある[#「†職場でもやることがある」はゴシック体]
この二つの方法を、「幸せ恐怖症」の女性は、職場で男性社員にやることがあります。ただし入社したばかりの頃は普通に勤務しています。むしろ、楽しく勤務していることが多いものです。ところが、半年もすると、次第にギクシャクしてくるのです。これら二つの方法を巧みに利用して破壊工作をするからです。
まわりの人は、当人に悪気がないことはわかるのですが、振り回されて迷惑を受けると次第に人は離れていきます。前述しましたように、女性は、イライラしているだけで人を傷つけることができます。しかも、わけもなく不機嫌だったり、時には、親切にしたあとイライラし始めたりするので、まわりの人々は当惑します。親切にしなければしないで不機嫌になるし、親切にすればしたでイライラが始まるのです。これではどう扱っていいのかわからなくなります。
職場にこういう女性が一人でもいると、職場の雰囲気は悪くなります。当人が休んだ時、いっそう明瞭です。いかにふだんからまわりに迷惑をかけているかがわかる瞬間なのですが、知らぬは当人ばかりなりです。当の女性は、意識の上では、まわりに気を遣い、みんなに迷惑をかけないようにしているつもりです。確かに通常モードではそうしています。しかし、何かの拍子に幸せ恐怖モードに切り替わった途端、「魔性の女」に変身するのです。
当人とまわりの人の意識の差が大きいのが「幸せ恐怖症」の特徴です。まわりの人々も、この子はどこかがおかしいと感じても、どこがどうおかしいのか、言語化することは困難です。なぜならふだんは普通の人以上に普通だからです。実際、ふだんは人一倍人に気を遣って生きている人です。当の本人も、まさか、自分が魔性の女に変身してみんなを混乱させているなんて夢にも思いません。しかも、破壊活動をしている時も、本人は正義感に燃えていますから、反省することはありません。たとえまわりの人が落ち込んでしまっても、当人は自覚がありませんから、みんなに迷惑をかけたという加害者意識はゼロです。むしろ、みんなを責めてしまいます。互いに罪のなすり合いをするのです。それゆえ、幸せ恐怖という呪いがかけられている女性は、職場で孤立することが多くなるのです。
そもそも反省という行為は、罪の意識を感じてはじめてできるものです。自分が被害者であると思っているうちは、あやまることはできても、反省することはできません。未来においてまた同じ手口で破壊活動をし続けることになります。反省というのは、人間にとってきわめて高度な精神活動が要求される[#「反省というのは、人間にとってきわめて高度な精神活動が要求される」はゴシック体]のです。責任の所在を明らかにし、心のメカニズム(動機など)を理解し、納得してからでないと、過去の失敗を未来に活かすことはできません。ただ「悪かったなぁ」と思う程度では、何度でも未来において破壊活動をしてしまいます。
なお、職場においては、仕事でミスをたくさんして自分を退職に追いやることで幸福を回避する、という方法を使うこともあります。無意識だけど意図的にミスを犯すのです。本人は本気でミスをしたことを悩みますが、実は、意識できないだけで意図的な行為です。たとえば、パソコンのキーボードの近くにコーヒーカップを置く、というようなことです。気をつければ大丈夫ですが、でもうっかりすると、こぼしてしまいます。こういう危険なことを無意識だけど意図的にやるのです。こんなことを毎日やっていたら、いつか、本当にキーボードの上にコーヒーをこぼしてしまいます。こうやって、アクシデントを装い、さりげなく自分を不幸にするのです。
「幸せ恐怖症」は、本人がまったく意識できないまま幸福を破壊してしまうことが、もっとも怖いところです。たとえ小さなミスでも、意図的にやっている以上、確実に不幸が訪れるからです。
†どうやって「呪い」をとくか?[#「†どうやって「呪い」をとくか?」はゴシック体]
これまで繰り返し解説しましたが、男性の愛と智恵と勇気で女性にかけられた呪いをとくのです。だから、男性には実践で使える智恵と勇気が必要なのです。
グリム童話の白雪姫では、森の中から現れた王子のおかげで口から毒リンゴ(呪いの象徴)を吐き出して白雪姫は助かりました。若い女性にかけられた呪いをとくのは、若い男性だということを暗示しています。そして、若い男性の智恵と勇気が白雪姫の呪いをとくということも示唆されています。これと同じ構図は、いばら姫にも見られます。
第三章で詳述しますが、男性は英雄体験を通して智恵と勇気を獲得し、その智恵と勇気でもって、女性にかけられた呪いをとくのです。人はそうやって幸せになっていくのです。素敵な異性と結婚したら自動的に幸せになるのではありません。彼女にとって、結婚相手があなたという男性でないといけない理由こそ、彼女にかけられた呪いをとくのがあなただからです。
男性の女性への愛というのは、女性にかけられた呪いをといてこそホンモノと言えます。幸せな家庭というのは、若い夫婦が呪いをとき、困難を乗り越えていく果てに出来上がるものなのです。男性が会社で稼いでくることで幸せな家庭が築けるわけではありません。
後述しますが、もともと女性は男性よりも呪いをかけられやすい存在です。しかも、呪いは幸せ恐怖症だけではありません。でも、男性にかけられた呪いは程度が軽微なので、男性は自分一人でも呪いを解除することが可能です。実際、男性は、英雄体験を通して自分にかけられた軽微な呪いをとけることが多いのです。そして、その時の経験を活かして、彼女にかけられた大きな呪いをとくのです。それが実践で使える智恵です。男性には、女性にかけられた呪いをとくということが期待されているのです。
白雪姫やいばら姫のように、男性による女性の解放という構図が多くの童話や民話の基本的パターンの一つになっているのは、それだけこの世には呪いをかけたりかけられたりすることが多いということです。そして恋愛こそ、呪いをとく絶好のチャンスだ、ということを示唆しているのです。
だからこそ、女性は恋愛に命をかけるのです。呪いをとくために、そして、生きるために女性は恋愛をしようとしているのです。
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第二章[#「第二章」はゴシック体] 女は男のどこを見ているか
†女であることが恨めしい女たち[#「†女であることが恨めしい女たち」はゴシック体]
自分が女であることに腹を立てている女性は少なくありませんが、男性で自分が男であることに腹を立てている人はほとんどおりません。
なぜでしょうか。
男性のほうが生きやすいからではありません。男性であるほうがいいことがたくさんあるからでもありません。これは、男女の構造的な違いに由来するものです。女性が自分が女であることに腹を立てる時というのは、愛されたいのに、愛されている実感がしない時[#「女性が自分が女であることに腹を立てる時というのは、愛されたいのに、愛されている実感がしない時」はゴシック体]です。
愛されるためには、相手を必要としますので、自分一人の努力では解決しません。必ず相手を必要とします。「こんなに努力しているのに、どうして誰も私を愛してくれないんだ!」と怒りがこみ上げてくると、自分が女性であることが恨めしく思えてくるのです。そして、自分一人の力でなんとかなる男性がお気楽な存在に見えて、うらやましく思えるのです。
確かに、男性の場合には、夢と冒険の旅に出るのですから一人でできます。つまり、男性の場合は、自分一人の努力で何とかなる部分が非常に多いのです。男性の人生には、努力した分だけ実る、ということが多いのです。
ただし、逆に、男性の場合は、三十歳を越えても自分らしく生きていなかったり、智恵も勇気もなかったりした場合は、すべて自分のせいです。女性の場合は、「いい出会いがなかったから」という言い訳は通りますが、男性の場合はまったく通りません。自分の努力に比例して誇りや智恵が得られるのが男性の人生というものだからです。女性が考えるほど男性の人生はお気楽ではありません。
男性の目から見ると、女性こそお気楽に見えます。なぜなら、女性は恋愛に夢中になって仕事がおろそかになっても大目に見てもらえることが多いですし、楽しいこと、おいしいことに夢中になっても、誰も非難したりしません。ミスをしても、遅刻をしても、女性だからというだけの理由で許してもらえることは、実はこの世にはとても多いのです。いよいよ困ったら、涙という武器があります。女性は、あまり意識しませんが、ふだんから、かなり守られ、かつ甘やかされているのです。女性は、自分がしっかり守られていることを当然のこととして考えてしまうために、男性も自分と同じように社会から守られ、甘やかされていると考えてしまうのです。これを前提に解釈するために、男性がうらやましく見えるのです。こう言うと、女性から反論が来そうですが、女性であるがゆえにトクをしていることがたくさんある[#「女性であるがゆえにトクをしていることがたくさんある」はゴシック体]のです。
ただ、愛されない女性の悲惨さ、というのは、筆舌に尽くしがたい苦痛です。この苦痛は、男性には理解できない類のものです。「誰にも愛されない人生なら、死んだほうがマシ」というのは、女性だけの言葉です。男性もたまにそう言う人がいますが、その切実さは、男性の一〇〇〇倍です。
さて、男性の場合は、なにからなにまで責任を負わされます。もし、男性が「自分が男であることが恨めしい」などと言おうものなら、「そんなもん、自分の責任だ」「怠慢だからそうなるんだ」と軽蔑されておしまいです。
一方、女性が「女はソン」「女であることがイヤ」と訴えても、人がそれなりに聞いてくれるのは女性の発言だからこそです。もし、男性が「男はソン」「男であることがイヤ」などと言ったら、女性でもその男性を軽蔑することでしょう。「そんなだらしないことだから、女性にモテないのよ」と言うことでしょう。
その点、女性は、前述しましたように、愛されるためには相手を必要としますので、「出会い」という「運」がどうしても介在します。そのため、すべてが自分の責任ということにはなりません。だから女性が、「自分が女であることが恨めしい」と言っても、男性のようには軽蔑されることがないのです。実際、女性の人生は運に左右されるところが男性よりも大きいからです。だから、女性は占いが大好きなのです。女性の占い好きは世界的な傾向です。女性のこうした特性は世界共通なのです。
では、運のいい女性が幸せで、不運な女性は不幸か、というと決してそんなことはありません。出会いは偶然でも、つき合いは必然だからです。つまり、女性も陰徳を積み(第四章で説明いたします)、心を清らかに保っていないと、いい男性とひきあうことはできません。ふだんから嫉妬したり、人の悪口を言っている女性が、素敵な男性の心を射止めることは不可能です。たとえ結婚までこぎつけたとしても、その後、愛されなくて不幸になります。
†女性は愛されることに命をかけている[#「†女性は愛されることに命をかけている」はゴシック体]
女性の誇りは、いかに質の高い愛をもらったか、いかにたくさん愛をもらったか、ということです。女性は、いつの時代も愛されることに命をかけています。世界中の女性がそう思って生きているのです。ほとんど例外はありません。キレイになりたい、という女心は、愛されたいがゆえの願望です。キレイになりたくない、などと思う女性は、百人に一人いるかいないかという確率です。かわいい自分になってたくさんの男性を引き寄せ、その中から質の高い男性を選ぼうとするのが女性というものです。それが女性の戦略です。愛を得る方法です。
ただし、女性はこんなことを言語化して考えているわけではありません。でも、キレイであればあるほど、選択肢が広がることは事実です。
女性は幼い頃から男性の嗜好を見抜いて学習するのです。女性は、そのすぐれた直感力で、「若くて美しくて健康であることをアピールするとたくさんの男性がそれに惹かれてくること」を学ぶのです。多くの男性が自分に群がれば、当然、その中に質の高い男性が混じっている確率が高くなります。このことも、直感的に悟るのです。
女性は、本来気持ちいいことが大好き[#「女性は、本来気持ちいいことが大好き」はゴシック体]です。男性よりも、何倍も「快」を求める意欲が高いのです。だからこそ、気持ちいいこと、楽しいことに敏感なのです。とりわけ愛されることが大好きです。そして、女性は、気持ちいいものを自分の心と体に取り込もうとします。おいしい食べ物、感動的な映画、気持ちいい恋愛などを積極的に取り込もうとしているのです。
逆に、気持ち悪いことや不快なことを強烈に避けようとします。不快なことも敏感に察知して避けるのです。なぜなら、女性は、前述しましたように、気色悪いことをすると汚染されてしまうばかりでなく、履歴となって残ってしまうからです。毒が回ったままの状態になってしまうのです。女性の誇りとは、気持ちいい愛が体中を巡っていることです。
それゆえ、女性がもっとも女性としての誇りを失う時というのは、セクハラされた時です。強姦された時がもっとも女性としての誇りを傷つけられる時です。女性は、自分の体が汚れたように感じてしまい、自信や誇りが持てなくなるのです。強姦罪は殺人罪にも匹敵する犯罪だと私は思いますが(多くの女性をみているとつくづくそう思います)、多くの男性の裁判官には女性がいかに傷ついているか、その悲哀がわかっていないようです。
もし、成人男性なら、女性から性的にいたずらをされても、自分の体が汚れたとは思いません。まして、男としての誇りが失われることもありません。痴漢や強姦をされて体が汚れたと感じてしまうのは女性特有の現象です。
女性は、キライな男性にさわられると、マムシに噛まれたくらいの嫌悪を感じます。しかも、その毒がなかなか解毒されないのです。それが女性というものです。その点、男性の場合は、たとえキライな女性に体をさわられても、せいぜいハエがとまった程度の嫌悪感ですし、また、毒も入りません。ここに重大な男女差があるのです。
だからこそ、男女は理解し合うことがむずかしいのですが、しかし、こういう男女差があるからこそ、人は異性にあこがれ、惹きつけられるのです。人は、自分にない特性を持っている人に魅力を感じるようにできているのです。男女差があるから、人は恋をするのです。
女性の幸福と男性の幸福は、当然のことながら、その中身は違います。でも幸福度という尺度で見れば、男女とも、その平均値は同じです。ただ、女性のほうが、幸福な人と不幸な人の差は大きいものです。
†女性はどんな「愛」を欲しがるのか[#「†女性はどんな「愛」を欲しがるのか」はゴシック体]
女性が男性に求める「愛」と、男性が女性に求める「愛」は違います。女性が欲しがるのは「絆」です。あるいは一体感です。つながっているという安心感を女性は切望しているのです。第一章で述べた通りです。女性がセックスに求めるのも、「心の絆」がほしいからです。女性は、相手とセックスをして、一体感や心の絆を感じとれると、「ああ、自分は愛されている」と認知するのです。それが気持ちいいのです。
でも、だからといって、女性は皮膚への物理的接触刺激が気持ちいいのではありません。女性はたいへんその点では繊細で敏感なのです。換言すれば、女性は、相手の男性の智恵と勇気と愛、そして陰徳を感じて気持ちよくなる[#「女性は、相手の男性の智恵と勇気と愛、そして陰徳を感じて気持ちよくなる」はゴシック体]のです。
一方、男性は、セックスをすると、それだけで「ああ、自分は受容されている」と感じます。極端にいえば、セックスさえ許してもらえば、男性は安心するのです。しかし、女性は、セックスだけではなく、ふだんから親切にされている、守られている、やさしくされている、気遣われている、という行為を含めて、総合的に満足するのです。セックスの時だけやさしくされても、女性は気持ちよくは感じません。女性は、男性からのたくさんの働きかけを通して、心のつながりを感じるからです。セックスも、たくさんある働きかけのうちのひとつなのです。
ところが、その点、男性は、セックスさえできれば、ある程度は満足できてしまいます。また、男性の場合、皮膚(性器)への物理的接触だけでも、ある程度は気持ちよくなれるものです。ここが男性と女性の違うところです。男性は一点豪華主義なのです。
なお、ここで注意しなければいけないことは、これまで繰り返し説明しましたように、女性は男性の本質を鋭く見抜いている、ということです。ですから、形だけの気遣い、形だけのプレゼントでは、女性はそれを愛として認知しない、ということです。どんなに愛のあるフリをしても、いずれ見抜かれます。いい女は、きわめて鋭くかつ正確に見抜くのです。男性にはない能力で見抜くのです。
ただし、どのようにして見抜くのかは、男性には想像もできません。女性の観察力(男性のちょっとした表情やしぐさを見逃さないのです!)、そして、女性の直感力にはすごいものがあるのです。女性は見抜いていないようなそぶりをしながら、実は、しっかりと真実を見抜くのです。女性をあなどってはいけません。自分ができないから女性もできないだろうと思ったら大間違いです。聡明な女性ほど、男性の前では素知らぬフリをしていますが(何も見抜いていないようなフリをしていますが)、ちゃんと見抜いているのです。
ズバリ言って、男性は、女性の心の動きにはきわめて鈍感です。バカがつくほど鈍感です。そう思って間違いありません。多くの女性もうすうすこの事実に気がついています。だから、女性は、男性に対しては、適当にプレゼントなどをしておけば、自分の本心がバレることがないことをよく知っています。セックスにおいては、たとえ感じていなくても、感じたフリさえすれば、たやすく男性をだませることも、ほとんどの女性はすぐに学習してしまいます。知らぬは男性ばかりなり、なのです。
女性は非常に鋭く男性の本心を見抜くのですが、しかし、自分が何を見抜いたのかを言語化できないという欠点をもっています。嫌いだからキライ、という女性の発言は、けっして感情的だからとは限りません。多くのことを見抜いて「イヤ」と言っているのです。同様に、女性が説得に応じないのは論理的思考が苦手だからとは限りません。見抜いたたくさんの情報をもとに、結論を出しているからです。すでに結論が出ているのですから、今さら何も話し合うことはありません。こういう女性を見てガンコというのは的はずれです。
女性は、男性の下心のみならず、犬や猫との約束を破った過去さえも見抜くのです。「いい女」は、不誠実な生き方をしてきた男性を見て気持ち悪いと感じることで「見抜く」のです。いい女ほど、陰徳を積んだ男性の愛を気持ちいいと感じるのです。だからこそ男性は、恋人と初めてセックスした時、すごく気になるのです。第一章で述べた通りです。過去、男性がどれだけ世間の人々に誠実に生きてきたか、女性はキスやセックスをすることで一瞬にして見抜くのです。
見抜くというよりも、気持ちいいとか気持ち悪いと感じ取るのです。だから、一瞬にして結論が出るのです。男性にはこういう芸当はできませんが、女性にはできるのです。女性の脳をあなどってはいけません。
自分の仕事に自信と誇りを持ち、仕事を楽しみ、そして誰に対しても誠実に生きている男性とするセックスなら、女性は気持ちよくて「最高!」「すごい!」を連発します。つながっている気持ちよさと男性を受け容れている気持ちよさです。うれしくて泪を流すこともあります。心の気持ちよさは、肉体的気持ちよさよりも何倍も気持ちいいからです。これが女性の本質です[#「心の気持ちよさは、肉体的気持ちよさよりも何倍も気持ちいいからです。これが女性の本質です」はゴシック体]。ですから、極端に言えば、女性であることが恨めしいと嘆いていた女性が、もし、今日、本当に気持ちいいセックスをしたら、明日から、「ああ、女性に生まれてきてよかった」「愛されるって気持ちいいなぁ」と思うようになるのです。女性とは、こういう心の世界で生きているのです。
†女性の本質は応援団[#「†女性の本質は応援団」はゴシック体]
前述しましたように、女性は、自分に安心や快感を与えてくれる人を「好きな人」と認知します。いえ、女性に限らず、男性も基本的にはそうです。ただ、女性の感じる安心や快感と男性の感じる安心や快感の中身が違うために、男女双方理解しがたいのです。
女性が守られたいと思うのは、自分で自分の体を守れないからではありません。守られることに悦びを感じるからです。そして守られるという行為を通して心の絆を感じるからです。
女性はひとたび、この人の愛は気持ちいい、と認知すると、一体化したくなります。一体化するとは、一心同体となる、ということです。彼のすべてを肯定する、ということです。
女性の心の世界は、受け容れたい男性か、拒否したい男性かのいずれかしかいません。極論すると、セックスしたい男か、セックスしたくない男か、しかいない[#「セックスしたい男か、セックスしたくない男か、しかいない」はゴシック体]のです。きれいに二分されています。二分したほうが自分の身を守るには有利だからです。このように、白か黒かがはっきりした世界で女性は生きているのです。
女性は、ひとたび、コイツはいい男だと認知すると、その男性を全面肯定したくなります。応援したくなるのです。こういう時の女性の応援の仕方は強烈です。
「恋は盲目」の言葉通り、ほんとうに盲目状態になります。男性が誠実にその女性を愛している限り、あばたもえくぼ状態は一生続きます。男性のいいところ、悪いところ、へんなところ、などすべてを肯定するのです。それが女性の世界というものです。その代わり、コイツはダメだと思うと、どんなにいいところをもっていても、全面否定です。
その点、男性は、「自分はこういう短所があるが、ああいう長所もある」という部分否定と部分肯定の世界です。しかし、女性は、全肯定か、全否定かのいずれかなのです。
ですから、気持ちいい愛を受け取って、全面肯定状態になると、その男性がチビだろうが、ハゲだろうが、デブだろうが「素敵よ!」「あなたが世界で最高の男よ!」と言ってくれます。本気でそう思ってくれます。男性には信じられないかもしれませんが、女性は、自分に安心と快感を与えてくれる男性なら、相手のすべてを受け容れてしまう[#「女性は、自分に安心と快感を与えてくれる男性なら、相手のすべてを受け容れてしまう」はゴシック体]のです。そこが女性のすごいところです。男性にはできない芸当です。それが女性の世界です。
面白いことに、男性は女性に応援されたがる動物です。応援されたい男性に、応援したい女性、相性ピッタリですね。だから、男女は求め合うのです。これも男女差のゆえんです。男性は女性に応援されると、世界のすべてから肯定されたように錯覚します。元気百倍になります。男性は、直感的に、相手の女性が自分の過去のすべてをわかった上で肯定してくれていることを知っているからです。そして、女性は自然や宇宙の代弁者であることを男性はうすうす気がついているからです。換言すると、男性は女性が大地と一体であることも暗に知っているのです。だから女性に肯定されると、全宇宙を味方につけたような感じがして、元気や勇気が湧いてくるのです。
女性からの肯定と応援の証がセックスです。男性がセックスをしたがるのは性欲があるからだけではありません。女性から肯定されているという証拠がほしい、というのも大きな動機です。だから男性は、女性からセックスを許してもらっただけで、自分に自信をもってしまうのです。男性の頭の中では、「女性からセックスを許された」=「自分の過去の行動を気持ちいいと言ってくれた」=「自分のすべてを肯定&支持してくれた」=「全宇宙から肯定された」となっているからです。もし、女性がセックスで感じてくれたら男性は、「気持ちいいセックスを提供できた」=「自分が過去、誠実に生きてきた」=「自分がやってきたことは正しかったんだ」と考えるので、いっそう自分に自信をもつようになるのです。
男性は、女性の応援団が多ければ多いほど自信をもちます。つまり、多くの女性にモテると男性は自信をもつのです。その点、女性は、一人の男性と深くつながりたい、一人の男性から深く愛されたいと願っていますので、恋人(夫)がいるのにモテてもしょうがないと思います。うれしくはありますが、男性ほどうれしがることはありません。恋人からの愛に満足している女性ほど容易に浮気をしないのはこういう理由があるからです。そこが女性のかわいいところです(ただし、男性の脳で解釈するからかわいいと思えるのです。女性にとってはごく当たり前のことをしているだけです)。
†裸のつきあいで女をだませる男はいない[#「†裸のつきあいで女をだませる男はいない」はゴシック体]
「いい女」は、セックスに関してはたいへん厳しく採点します。男性のように形だけでは満足することができないからです。心がこもっているかどうか、鋭いチェックがはいります。形だけで満足してしまう男性とは対照的です。男性は、中身を吟味することをしないので、女性が男性をだますのは簡単です。さきほど、セックスの時、女性が感じたフリをすれば、つまり、演技をすれば、ほぼ一〇〇%男性をだますことができるけれど、その逆はない、と申し上げましたが、男女それぞれセックスに対して期待するものが違うがゆえの差です。
女性の演技を見破れる男性は、おそらく百人に一人もいないでしょう。しかし、その逆、つまり、女性が男性を見破れないことはないのです。もし、過去、不誠実に生きてきた男性が、いかに自分が誠実に生きてきたかを巧みな弁舌でアピールしたとしても、セックスしたらすぐバレてしまいます。いえ、セックスなどしなくても、キスをしただけでわかります。「いい女」は、キスどころか、話をしただけで男性の過去のすべてを見破るのです。恐るべし、女性の直感です。
さて、女性は、夫(恋人)とセックスをしていて、ときどき、気持ちよくなれないことがあります。男性は、よほどのことがない限りめったにそういうことはありませんが、女性の場合、痛いと感じることさえあります。女性にとってのセックスはいつもいいとは限らないのです。これも重大な男女差です。女性の場合、マイナス一〇〇(不快感)からプラス一〇〇(快感)の間を往復しているのです。その点、男性は、いつもプラス六〇以上の快感が保証されています。つまり、男性は六〇と一〇〇の間を往復しているのです。なぜ、最低でも六〇なのかといいますと、男性の場合は、女性に受け容れてもらった安心感、そして射精する満足感があるからです。
しかし、女性の場合は、相手の男性から愛が得られればプラス一〇〇に近づきますが、相手の男性がイライラしているとマイナス二〇とかマイナス五〇になってしまいます。男性が自分に自信を失っている時は、プラス一〇くらいです。男性はいつも自分は一定の気持ちで女性を愛していると思っていても、実際には日によって大きく振れているのです。女性は正確に男性の心の状態を見抜くので、同じようにセックスしても気持ちいいときとそうでないときがあるのです。
このような波が生じるのは、もちろん男性側だけでなく、女性の側にも原因があります。たとえば先述の幸せ恐怖です。女性は、心を閉ざすと、気持ちよくはなれなくなります。愛が入らなくなるからです。幸せが怖いと感じた途端、心を閉ざしてしまう女性は少なくありません。これでは相手の男性がどんなに愛情深い人であっても、愛を受け取ることはできなくなります。
器用な女性は、母に許された低い快感になるよう、心を閉ざします。もし、油断して(心を開いて)、たくさんの愛が入って気持ちよくなってしまった場合、一転して、深い罪悪を感じ、女性器が痛くなったりします。自分に罰を与えるのです。気持ちよくなった分だけ、痛みや不快感を自分に与えようとするのです。はじめた頃は気持ちよかったのに途中から痛くなったりセックスがシラケてくるのは、たいていの場合、幸せ恐怖症が原因です。
†女性が男性に求めるもの[#「†女性が男性に求めるもの」はゴシック体]
異性に求めるのは、基本的に自分にないものです。人は異質なものにあこがれるのです。たとえば、女性がスカートをはくのは、足を見せることで女性であることをアピールできるからです。足を見せることがセックスアピールになることを、女性はこれまでの経験から学習しているのです。男性にとって、毛の生えていない白くて細い足が魅力であることを、女性は知っているのです。だから、女性は、自分が毛深いことに悩むのです。当の女性は、なぜ、自分が毛深いことを嫌がるのか、理性ではわかりませんが、心の奥底ではちゃんとわかっているのです。
キャミソールなど、女性が肩を出すのも同じです。肩についている筋肉の量というのは、実は女性と男性ではまるで違います。だからこそ、肩を見せることがセックスアピールになるのです。女性に肩こりが多いのも、筋肉の量が少ないからです。また、男女の違いは筋肉の量だけではありません。女性になで肩が多く、男性にはいかり肩が多いという差も重要です。だからこそ、毛深いのに悩む女性と同様、いかり肩の女性も悩むのです。
では、体以外のことで、女性になくて男性にあるもの、とは何でしょうか。
それが智恵です。繰り返し述べてきましたが、英雄体験を通して得た智恵を女性は欲しているのです。呪いをとくことのできるような智恵を女性は求めているのです。もともと女性は、男性ほど英雄体験をしたいという衝動がありません。実際、英雄体験をすることもあまりありません。だから、これが男女の違いとなって、男性がもっている智恵に魅力を感じるのです。女性がスポーツマンにあこがれる心理と同じです。自分にできないことができる異性に憧れるのです。
逆に言えば、男性が英雄体験によって得た智恵と勇気こそが、女性に対するもっとも効果的なセックスアピールになる、ということです。実際「いい女」は、男性の智恵と勇気に反応します。
結局、この世は、男性が英雄体験をして智恵と勇気を獲得し、それを基に自己実現をして悦びを獲得する、そしてその悦びが女性を愛する原動力(エネルギー源)となる……という構造になっているのです。男性は女性を愛して元気になり、女性は男性に愛されて元気になるのです。愛したい男に愛されたい女、この世は実にうまくできています。
ただ、こう書くと、女性は受け身でお気楽なように見えますが、そうではありません。前述しましたように、男性よりも女性のほうが幸せ恐怖症などの「呪い」がかけられやすいからです。しかも、自分一人の努力で呪いを解除することは困難ですし、同性の友人(女性の友人)でも、励ますことは得意でも、呪いをとくだけの智恵と勇気は持ち合わせていないことが多いからです。こうなりますと、恋愛に期待して生きるしかありません。つまり、相手の男性の智恵と勇気に頼るしかなくなるのです。これは女性にとっては恐怖です。なぜなら、運が良ければ白馬にまたがった王子様(智恵と勇気のある若者)に出会えますが、もし、運が悪ければ、一生、出会えない恐れがあるからです。自分の努力ではなんともならないところが女性にとっては恐怖です。だから、女性は占いが好きになるのです。
†なぜ女性は迷うのか[#「†なぜ女性は迷うのか」はゴシック体]
女性にとっての最高の悦びは、いかに質の高い愛をもらったか、ということ[#「女性にとっての最高の悦びは、いかに質の高い愛をもらったか、ということ」はゴシック体]です。いかにたくさんの愛を受け取ったか、これが女性にとっての誇りであり勲章です。これは古今東西、変わらない真実です。一方、男性にとっての最高の勲章は、いかに智恵と勇気と愛と感謝の心を持って生きているか、ということです。
女性が男性を見る時は、誰が純粋に自分の幸福を願ってくれる人なのか、誰が真の智恵と勇気を持っている人なのか、誰が下心なしに親切にしてくれる人なのか、をチェックしようとします。露骨に言えば、誰とセックスしたら一番気持ちいいのか、女性は考えている[#「誰とセックスしたら一番気持ちいいのか、女性は考えている」はゴシック体]のです。だから、女性は迷うのです。もっといい男がいるのではないか、と思うと、プロポーズされた時、「本当に彼でいいのだろうか」と不安になるのです。もし結婚してから、夫よりもいい男と出会ったら悲惨だからです。
どういうことかといいますと、同じことをしても、そばにいる男性が違うと、そこで得られる悦びが何千倍も違うからです。同じ食事をしても、同じ夕陽を見ても、自分が感じる悦びは何千倍も違うのです。基本的には男性もそうですが、女性は男性の百倍も違うのです。だから女性は必死になって、一緒にいて楽しい男を探すのです。
たとえば、A君とB君と、それぞれ同じところに旅行に出かけたとしましょう。パックツアーなら、同じものを見て、同じものを食べることになります。それでも、A君と行った場合は、一〇〇〇〇〇くらい気持ちよくて、B君と行った時は、一くらいしか気持ちよくなれない、という現象が起きるのです。換言すると、十万円の旅行が一億円の旅になったり、逆に、人が違えば、千円程度のつまらない旅になったりするのです。だから女性は迷うのです。一億円を手に入れるか、千円を手に入れるか、という選択だからです。
この違いこそ、男性側に智恵と愛と勇気と感謝があるかどうかで決まるのです。
†のび太の結婚前夜[#「†のび太の結婚前夜」はゴシック体]
マンガ『ドラえもん』の主人公であるのび太は、将来、しずかちゃんと結婚することになっています。しかし、のび太くんはあの通りの頼りない男性ですから、しずかちゃんは結婚前夜、迷います。お父さんの部屋に行き、聞くのです。
「お父さん。私の結婚はまちがっていなかったかしら?」と。
すると、しずかちゃんのお父さんは答えます。
「いや、君の決断はまちがっていなかったと思うよ。なぜなら、のび太君は、人の幸福を願い、人の不幸を悲しむことのできる人間だ。人間にとってそれが一番たいせつなことだからね」。
要するに、のび太君の給料が二十万円でも、二百万円とか二千万円の給料を得ているのと同じ価値がある、ということです。つまり、二十万円の旅行がのび太君と一緒なら二千万円の価値があるということです。しずかちゃんのお父さんは、のび太君と結婚すれば悦びと感動の人生になる、としずかちゃんを説得しているのです。
人の幸福を願い、人の不幸を悲しむことのできる男性は、一〇〇%まちがいなく「いい男」[#「人の幸福を願い、人の不幸を悲しむことのできる男性は、一〇〇%まちがいなく「いい男」」はゴシック体]です。男性は、英雄体験をして智恵と勇気を獲得すると、一様に、人の幸福を願い、人の不幸を悲しむ人間になります。『ドラえもん』の映画は、実は英雄体験物語なのです。
人の幸せを願うことのできる人は、精神的にきわめて強い人です。いえ、強い人しか人の幸せを願うことはできません。精神的に強い人は、自分の力や能力を、人を助けるために使います。弱い者を救うために自分の力を使うのです。しかし、精神的に弱い人は、自分の力や能力を、弱い者をいじめるために使うのです。
不幸な人は、人の幸せを願うことはできません。できないどころか、人の不幸を願ってしまいます。心が満たされていない人は、人の幸福を妬み、人の不幸を笑う人たちなのです。こういう人は、どんなにお金があろうが、どんなにいい大学を出てようが、どんなに会社で出世してようが「いい男」とは言えません。人の幸福を妬み、人の不幸を願う人は、人間として最低です。
†結婚とは親からもらいそこねたものをもらうもの[#「†結婚とは親からもらいそこねたものをもらうもの」はゴシック体]
人は誰でも完璧ではありません。親とて人間ですから、完璧ではありません。そのため、親に不満を持っていない子供は、世界中で一人もおりません。でも、だからこそ、その不足分を補おうと、友達を求め、恋人を求めるのです。親が不完全だからこそ、友情や恋愛をする悦びがあるのです。
しかし、足りないものは補わないと、心は安定しません。あるべきものが心の中にないと、さみしくて一人でいることができなくなるのです。人はみなさみしいから、人を求めるのです。
親の不完全さが小さい場合は、問題ありません。互いに相補的に補い合える異性を探して結婚し、互いに親からもらいそこねたものをもらい合って(出し合って)心が満たされるからです。当人たちも知らない間に埋め合うのです。たいていの場合、夫は妻から、母親からもらいそこねたものをもらうのです。妻は、夫から、父親からもらいそこねたものをもらうのです。
ところが、親の不完全さが、ある限度を超えて大きい場合は大問題です。今度は逆に、自分と同じように、たくさん欠けている異性を求めるようになってしまうからです。そのため、互いに相補的に出し合うことができなくなります。これが「思い残し症候群」と私が名付けているものです。人は誰でも思い残していますが、限度を超えて思い残した量が多いと、ダメ男が魅力的に見えてしまうのです。こうしてダメ男とダメ女がくっついてしまうのです。
親から愛されなかった子ども同士ですから、同じ悲しみを共有できる(ただし、これは傷のナメ合いであって、励まし合っている関係ではありません)というメリットはあっても、互いに満たし合うことができない関係ですから、その恋愛は発展しません。発展しないものは必ず腐ってきます。たとえ何十年連れ添っても心は満たされないし、心の絆も形成されません。二人とも、愛されたい人ではあっても、人を愛せる人ではないからです。
結婚したら愛してくれるだろうと期待して結婚したのに、いつまでたっても、相手は自分を愛してくれないのです。互いに愛されることを期待しているので、互いが互いを罵り合うようになります。しかし、男女は、こんなことを言語化して意識してケンカするわけではありません。単にイライラするからケンカになる、程度に思っています。
喧嘩のきっかけは、部屋が汚いとか料理がまずい、ということです。些細なことから激しい夫婦喧嘩が始まるのです。でも、料理がまずいことが真の原因ではありません。現に、料理の腕を上げても、喧嘩はなくなりません。真の原因は、自分の心を満たしてくれないこと[#「真の原因は、自分の心を満たしてくれないこと」はゴシック体]だからです。満たされないこと、というのは不快感だから、人はイライラするのです。特に女性がイライラします。そして、考えることは、互いに「あなたが自分を愛してくれたら(心を満たしてくれたら)あなたを愛してあげてもいい」ということです。そして相手を責めるのです。どうして愛してくれないの? と。
こういう夫婦は悲惨です。離婚したくてもできないからです。離婚したところで、次に再婚する相手も、今の夫(妻)とそっくりな人であることが予測できるからです。子どもがいたら、なおのこと別れたくても別れられなくなります。こんな夫婦だからこそ、人の幸福を妬み、人の不幸を望むようになるのです。そして、母親は娘に、期せずして、幸せ恐怖症という呪いをかけてしまうのです。母親自身、そんな呪いをかけた覚えがないところに、呪いの恐ろしさがあります。
†女性の男性を見る目は天才的なはずなのだが……[#「†女性の男性を見る目は天才的なはずなのだが……」はゴシック体]
『SPA!』(扶桑社)という雑誌に「だめんず・うぉーかー」(倉田真由美著)というマンガが連載されています。人気があるのは、それだけ思い当たる女性が多いということでしょう。ここに登場する女性たちが惚れる男は、全員がダメ男です。平気で二股をかけたり、女性から大金を持ち逃げしたり、女性を殴ったりと、およそ男の風上にもおけない極悪人です。よくぞこんなクズ男がいるもんだと驚きますが、それ以上に驚くのは、こんなダメ男に何十万も貢いだり、何年もケアしてあげたりする女性がいることです。
そして、さらに驚くのは、それだけ痛い目にあっているのだから、次の恋は、いい男とするだろうと思いきや、さにあらず、またも、同じタイプのダメ男と恋をするのです。そして、また同じようにヒドイことをされるのです。以後これの繰り返しです。まさにダメなメンズをウォーカーしている女性たちなのです。
もうおわかりですね。そうです、この女性たちは、男性を見抜く能力がないのではなく、実はするどく見抜いているのです。無数の男性の中からダメ男を鋭く見つけては恋人にしているのです。女性の男性を見る目は正確なのです。もし、男性を見る目が不正確なら、ヘタな鉄砲でも数撃てば当たるように、いつかいい男性と出会えるはずです。ところが、見る目が確かな分だけ、いつもダメ男を探し当ててしまうのです。
たとえば、DV[#「DV」はゴシック体](家庭内暴力)を受ける女性の場合は、殴られてから彼を好きになっているわけではありません。彼に殴られるはるか以前から、好きになっているのです。なぜなら、「コイツは将来、自分を殴る男性だ」ということを見抜いているからです。いえ、誤解のないように申し上げますが、この女性は男性に殴られるのが好きな人ではありません。もちろん、マゾでもありません。殴られれば痛いのでイヤです。でも、女性を殴らずにおれないような、精神的に弱い男性に魅力を感じるのです。鋭い直感力で弱い男性を探し出すのです。相手の男性の精神的弱さや女性がいないと生きていけないような依存心を鋭く見抜くのです。優秀な心理学者でも太刀打ちできないほどの鋭さで見抜くのです。女性の、人を見る目の確かさには驚き呆れるほどです。
「だめんず・うぉーかー」の女性たちは、男性を捕らえるレーダーは正確かつ高感度でも、求める男性をまちがえているのです。だから、いつも、同じタイプのダメ男ばかりをキャッチしてしまうのです。いい男が目の前にいても無視してしまうのです。早々と一次選考で落選させてしまいます。その落選させた男性たちの中に、ホントのダメ男と、自分が必要とする智恵や勇気を持っている男性がいるのです。落選させた男性の中に、本当のダメ男と本当にいい男が混在していますので、落選させた男性とつき合えばいい、というものでもありません。だから、女性は途方にくれてしまうのです。つき合ってはいけない人が誰かはわかっても、誰とつき合えばいいのか、依然としてわからないからです。
†こんな女(自分)に誰がした?[#「†こんな女(自分)に誰がした?」はゴシック体]
私の研究室には、たくさんの女性が話しをしに来ます。男性も来ますが、圧倒的に女性が多く来ます。女性の相談の内容は、驚くほど共通しています。心が満たされない、さみしい、一人の男性では満足できない、セックスがイヤ、男性とのつき合いが長続きしない、親友がいない、彼と一緒にいてもさみしい、彼と一緒にいたいけど一緒にいるとイライラする、浮気された、殴られた、別れたい(離婚したい)、結婚を親に反対されている、好きな人に妻子がいることがわかってショックを受けている……など、一見多岐にわたるのですが、要するに恋人(彼)との間に愛と信頼がない、という悩みなのです。
そして、自分の恋愛に不満をもつ女性に共通していることは、やることが派手な人ほど(不倫やテレクラや援助交際などをする人ほど)、心は満たされていないということです。換言すると、何十人もの男性とセックス経験がある人ほど、セックスに不満をもっている[#「何十人もの男性とセックス経験がある人ほど、セックスに不満をもっている」はゴシック体]、ということです。これだけ性が解放されているのに何という皮肉でしょうか。不感症の女性が大勢いるのです。また、男性不信が強い人ほど、セックス依存のようになっているということです。もちろん、こういう人はセックスしても満たされることはありません。気持ちよさも感じません。むしろ、すればするほどさみしくなります。だから、またセックスをせずにおれなくなるのです。まさに麻薬と同じです。
どうして、女性たちはこんな悩みをいだくようになったのでしょうか。なぜ、恋愛や結婚がうまくいかなくなったのでしょうか。
つき合ってみたい人と、心の絆を作れる人がズレているのです。結婚したいと思う人と、心の絆を作れる人がズレているのです。一体、誰が、ズレさせたのでしょうか。
†ズレの原因は父親[#「†ズレの原因は父親」はゴシック体]――父親の影響が非常に大きい[#「父親の影響が非常に大きい」はゴシック体]
娘と父親は、親子というよりも恋人に近い関係です。娘は幼少時、父親が男性であることを意識して好きになっている時期があるのです。三歳くらいの娘がウェディングドレスを着て、父はタキシードを着て、まるで結婚式のような写真を撮りたがるのは、娘が父親に恋をする時期だからです。「パパのお嫁さんになる!」という娘は少なくありませんが、これは半分は親として好きになっているからですが、残りの半分は父親を男性として好きになっているからです。こういう事情があるために、実父が結婚相手を決める時の「基準」になることがあるのです。
このメカニズムに気がついている女性はほとんどいませんが、無意識のうちに恋人と自分のお父さんとを比較していることは多いものです。父親と似ている人を探そうとするのです。自分が知らない間に、実父が「理想の男性像」になっているのです。理想の男性像に似ている人を女性は探すのです。だから、昔から、娘は父親と似た人と結婚する、と言われるのです。
しかし、実父がダメパパですと大問題です。なぜなら、ダメ男に魅力を感じてしまうからです。魅力を感じる男性と、結婚して幸せになれる男性がズレてしまう原因がこれです。
ダメパパは、智恵も勇気もない男性ですから、ママ(娘の母親)を愛することはできません。そんな実父と似た人と結婚してしまうのですから、自分の親の夫婦関係と、自分の夫婦関係がそっくりになってしまいます。母親と同じ悲しみを味わうことになってしまいます。実父と夫で、ダメなところが共通しているので、実父といて感じた不快感(または不安)と同じ不快感(または不安)を夫や恋人から感じることになります。たとえ、今、実父を毛嫌いしているとしても、女性の心の中では、しっかりと実父が理想の男性像になっていることがあるのです。幼少時に実父に恋をしたからです。
皮肉なことに、当の女性は、意識の表面では実父と正反対の人を選んだつもりになっています。でも、実際には、父親とダメなところがそっくりな男性を選んでいることが非常に多い[#「父親とダメなところがそっくりな男性を選んでいることが非常に多い」はゴシック体]のです。だから、英雄体験をしていないダメな父親を持った女性は、同じように英雄体験をしていないダメな男性と結婚してしまうのです。これでは、いい男がモテなくて当然です。
面白いことに、愛情深くて素敵なお父さんを持った女性は、実父と同じように愛情深くてやさしい男性と結婚します。もちろん、英雄体験をした男性です。こういう女性は、考えることとやっていることがズレることはありません。魅力を感じる男性は、結婚したら自分が幸せになれる男性です。ですからこういう女性は、恋人選びをまちがえることはありません。
女性の恋愛観や男性観は、想像以上に父親の影響が大きいのです。女性が感じている一〇〇倍ほど大きいものです。女性の恋愛を語る時、父親を抜きにしては語れません。
†女性は親の夫婦関係を再現しようとする[#「†女性は親の夫婦関係を再現しようとする」はゴシック体]
困ったことに、ここ数十年というもの、世の中から英雄体験をしたステキなお父さんがどんどん減っています。逆に、マザコンパパが急増しています。なぜか、経済の発展とリンクしているのです。経済的豊かさに比例するように、マザコンパパが急増しているのです。
恋愛問題で私のところに来る女性のほとんどがお父さんのことを毛嫌いしています。その理由は、だらしなく、頼りにならないということです。智恵も勇気も、そして誇りもないお父さんを持って、女性たちは不満タラタラです。しかし、なぜか父親とそっくりなダメ男と結婚してしまうのです。その結果、はからずも、自分の親の夫婦関係を自分の恋愛で再現してしまうのです。もちろん、夫婦仲のいい親をもった女性は、夫婦仲良くできます。しかし、愛と信頼で結ばれている親夫婦が激減していますので、今や、ほとんどの若い女性は、彼との間に信頼の絆を作ることができなくなっています。いえ、心の絆を作れるような男性とつき合おうとしなくなっているのです。
こう言うと、「私はお父さんのこと好きだから大丈夫」と反論したくなる女性がいるかもしれませんが、これもアテになりません。なぜなら、意識の上ではお父さんのことが好きと思っていても、心の底では激しく嫌っていることが珍しくないからです。それに、たとえ自分の親の夫婦仲がいいと思っていても、実際には冷め切った夫婦関係であることも多いからです。男女関係の良きモデルを見ずに大人になっているので、自分の夫婦関係や恋愛関係が不自然でも、それを不自然と判別できないのです。困ったことに、「人生、こんなもんだろう」としか思わないので、問題意識も低くなります。女性はそういう意味では、きわめて模倣的かつ保守的です。
子どもにとって親というのは、良きにつけ悪しきにつけ、お手本になってしまうのです。特に女性の場合はそうです。あんな夫婦関係にだけは絶対になりたくない、と思っても、気がつくと、自分の恋愛が親の夫婦関係とそっくりな状態になっているのです。智恵と勇気を持っている男性が自分に必要であっても、実父と似たダメ男ばかりを恋人にするために、いつまでたっても満足できる恋ができないのです。
†言っていることとやっていることがズレてしまう女性がいる[#「†言っていることとやっていることがズレてしまう女性がいる」はゴシック体]
女性が男性に求めるものを理解する上で重要なポイントがいくつかあります。
ひとつは、女性は言っていることとやっていることがズレることがよくある、ということです。たとえば、「結婚するなら、やさしくて真面目で誠実な男性がいい」と多くの女性はいいますが、実際に彼女たちの行動を見ておりますと、ほとんどがウソであることがわかります。意識の上ではホントですが、実際の行動は違います。たとえば一〇人の男性とお見合いをしたとしましょう。
一番やさしくて真面目で誠実な男性を選ぶかというと、必ずしもそうではありません。好みの問題を差し引いても、発言通りの基準で男性選びをしていないことは明白です。
なぜ、こんなことになってしまうのでしょうか。
父親が原因です。父親が、娘に考えていることとやっていることをズレさせてしまう張本人なのです。さきほど説明しましたように、もし父親からたっぷりと愛された女性なら、こうしたズレがほとんどないのですが、父親から愛されなかった女性は、このズレがきわめて大きくなります。マザコンだったり、アルコール中毒だったりする父親を持った女性は、やさしくて真面目で誠実な男性を求めたつもりが、つまり、実父とは正反対の男性を探したつもりが、なぜか、ダメなところ(弱いところ、だらしないところ)が実父とそっくりな男性を選んでしまうのです。英雄体験もしていない男性です。男性としての自信も誇りもない人ですが、その自信のなさをみて「かわいい」と感じてしまう女性になってしまうのです。
この女性がいかに才媛であっても、「いい男」がこういう女性を口説き落とすことは不可能です。それに成功するのは、彼女の実父とそっくりなダメ男だけです。「いい男」になりたいと前向きに思っているあなたも、彼女にとっては論外な存在です。ただし、彼女が本気で良くなろうとしている場合は別です。むしろチャンスです。もし、その時、あなたが本書を読み、やるべきことを実行して「いい男」になっていれば、成功する可能性大です。彼女は、あなたのホンモノの智恵と勇気を必要としているからです。
†家族機能が破壊された家で育った女性は……[#「†家族機能が破壊された家で育った女性は……」はゴシック体]
女性は、親から与えられたものの中から、自分の人生の設計を考える傾向が強いものです。そのため、自分の親の夫婦関係に愛や信頼がない場合、それと同じ空虚な関係を恋人との間に作ろうとします。女性は模倣性がとても強いのです。何かヘン、と思いながらも、まるで再現フィルムのように親と同じ関係を作ってしまうのです。だからこそ、ダメ男ほどモテる時代になっているのです。いえ、ダメ男だからこそモテるのです。
いまや、人の幸福を願い、人の不幸を悲しむ人は、ごくごく少数です。夫婦仲が悪いと、決して人の幸福を祝うことはできません。人が不幸になっている時には同情できても、人の悦びに共感できません。そういう親が今や大多数なのです。世の中というものは単純なもので、人の幸福を願う人は、人からも幸福を願われます。逆に、人の不幸を願う人は、人からも自分の不幸を願われます。世間は自分の心を映し出す鏡だと言われるゆえんです。しかも困ったことに、人の不幸を願う人は、自分の家族の不幸をも願ってしまう人です。
自分の家族の幸福は願うけど、家族以外の他人の幸福は願わない、などということのできる人はこの世に一人もおりません。同様に、我が子はかわいいけど、よその子はかわいくない、などという人は、実は我が子をも愛していない人です。そんなことを豪語する人は、自分が誰をも愛していないことに気がついてない人です。
家族とは、励まし合う場です。悦びを分かち合うことで励まし合う場所が家庭なのです。逆に言えば、家から悦びの共感という励まし合いが消えたら家族ではなくなる、ということです。前述しましたように、夫婦仲が悪く、夫婦間に愛も信頼もない人は、誰の悦びにも共感することはできない人です。誰の幸せを応援することもできません。家族とは、良かったね、おいしいね、楽しいねと、悦びを共感し合う場なのです。そうやって励まし合うのが人間本来の姿なのです。しかし、これをフツウと思わない女性が急増しているのです。
ところが、その一方で、「それはへんだ!」「今の日本の文明はおかしいのではないか」と思う女性は少なからずいます。これからの日本を動かすのは、こうした女性の感性です。男性は、自分の生まれ育った社会を延長する方向で学習していますので、それに対抗できる力は女性のするどく豊かな感性しかありません。「いい女」が社会で自分の感じたことをアピールしない限り、日本を含む世界の先進諸国がおかしな方向へ行ってしまいます[#「「いい女」が社会で自分の感じたことをアピールしない限り、日本を含む世界の先進諸国がおかしな方向へ行ってしまいます」はゴシック体]。
†なぜ派手なセックスアピールをする女性が増えたのか[#「†なぜ派手なセックスアピールをする女性が増えたのか」はゴシック体]
社会の多くの人々が人と心の深いところで交わろうとしなくなると、異性に求めるものは、かわいいとかカッコイイとか、見た目重視の方向になります。セックスアピールばかりをするようになるのです。心の世界に生きる人々(少数民族の人々など)から見ると、退廃的に映ります。女性は、男性にルックスのみならず学歴や収入などのブランドを求め、一方、男性は女性にナイスバディやかわいい顔を求めるようになります。中身を見ないで外見だけを重視するようになるのです。
女性の魅力には二つあります。一つは、受容の魅力という母性的魅力です。個性的魅力でもあります。もうひとつは、女としての魅力です。こちらは個性的ではありません。ナイスバディとか美人とか、男なら誰でも色っぽいと感じる要素による魅力です。
この二つはどちらも恋愛や結婚には重要な要素ですが、男性が軽薄短小になると、女性にオンナとしての魅力ばかりを追求するようになります。女性もそれを受けてセックスアピールに熱心になります。そのほうが効率よく男性を惹きつけることができると計算するからです。ミニスカートにキャミソールなど、色っぽい服装をしたほうがモテることを学習するのです。
一度こういうトレンドができあがると、男女双方が、どんどん相手の個性やものごとの本質を問わなくなります。英雄体験などお喚びでない、とばかりに男性は、学歴やブランド品を身につけることに夢中になり、またそうすることが、自分が個性的になれることだと勘違いします。一方、女性は、外見的にキレイにさえなれば愛されると勘違いするようになります。こんな状態でセックスしても、体は触れ合っても、心がふれあうことはありません。性が解放されればされるほど、性に不満を持つ女性が増えるのは当然のことなのです。
温かい心のふれあいは、人に安心とリラックスをもたらします。しかし、男女間でオス、メス的なものしか求めなくなると、つまり、女性が色っぽい服装をしていかにオトコを欲情させ、そして興奮させるかということを考え始めると、必ず二人の関係は興奮と緊張路線になります。一緒にいたいけど、一緒にいると疲れる関係です。本来、人と人との関係の基本は、安心とリラックスです。興奮と緊張は、逆に心の絆を形成させない要素です。
下着の見えそうなミニスカートに胸元の大きく開いたブラウスという格好は、自分に性的魅力を感じてほしい、という無個性的なアピールです。男性は若い女性にそんな色っぽい服装をされたら誰でも興奮してしまいます。これは、性的に興奮させることが目的であって、あなたと心の絆を作りたいというアピールではありません。こういう女性に真っ先に反応する男性は、軽薄短小系です。女性を見たらセックスすることしか頭にない男性です。性の対象としてしか女性を見ることのできない薄情な男性です。そういう男性が増えたから、若い女性たちがオンナをアピールするようになったのです。いまや小学生がマニキュアをしたりメイクをしたりする時代です。そんな男女をどんどん生み出す社会が、現代社会であり、現代文明なのです。
問題なのは、仕事さえできれば、そういう不誠実なことをしていても世間の人々から非難されない社会です。人の心の痛みをわかろうとしなくても、誰も軽蔑しない社会の異常さです。人の誇りを傷つけても制裁をうけない社会です。しかもその異常さを誰も異常だと言わない異常な社会、それが現代社会なのです。無神経な人を見ていると、まるで、人の悲しみの上に自分の幸福を築こうとしているかのようにさえ見えます。
親が会社や社会で自分の心の痛みを思いやられていないからこうなるのです。会社のやり方を家に持ち帰ってしまうのです。「オレもイヤな思いをして働いているんだ」「おまえたちももっと苦しめ」と「鬼」になってしまうのです。だから妻や子どもの心の痛みを尊重できなくなるのです。その結果の若者や子どもの異常行動なのです。子どもの異常は親の異常です。子どもは親の鏡です。そして若者は社会の異常さを映し出す鏡なのです。
†なぜ女性は男性に智恵と勇気を求めなくなったのか[#「†なぜ女性は男性に智恵と勇気を求めなくなったのか」はゴシック体]
最近、小学生でも女の子どうしが手をつながなくなっています。これは重大なことです。なぜなら、女性どうしがスキンシップをすることというのは、お互いに母性を出し合い、不足分を埋める行為だからです。かつては、母性的な愛を授受できるから、女の子たちは気持ちよくて手をつないでいたのです。しかし、愛をもらっていない子どうしが手をつないでも気持ちよくはなれません。まして、母親から嫉妬や怒りをもらった子どうしなら、手をつないでも気色悪いだけです。だから、女の子どうしが手をつながなくなったのです。
怖いことに、スキンシップ不足の分だけそっくりセックスに走るようになります。皮膚がさみしくて、一人でいられないからです。女性は肌を触れ合うことが大好きなのです。安心するからです。それゆえ、中高生くらいまでに、母親や同級生の女の子と充分スキンシップをしなかった女性は、無性に誰かと肌を触れ合いたくなります。
でも、同性の女性はイヤなので、男性と肌を触れ合うしか方法はありません。若い女性がセックスを望んだら、すぐできます。でも、そんなさみしい女性は、智恵と勇気のある男性を求めません。「思い残し」た量が多すぎて、同じようにたくさん思い残した男性を求めてしまいます。これまで解説した通りです。
さみしい女性にはさみしい男性しか寄ってこないのです。そして、さみしいダメ男に魅力を感じて悪いセックスをしてしまうのです。怒りと不信に満ちたセックスです。性体験がどんどん低年齢化し(小学生が援助交際をし始めました)、出会い系サイトが繁盛するのは当然のことです。
こうして、いい恋愛ができなくなり、そのまま結婚に突入して、夫婦仲が悪くなるのです。当然の帰結です。こういう両親に育てられた次世代の子どもたちは、自分の親を手本にしますので、ふたたび親と同じこと繰り返すことになります。恐ろしいことです。
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第三章[#「第三章」はゴシック体] 「いい女」は英雄体験をした男を好む
†映画に見る英雄体験@[#「†映画に見る英雄体験@」はゴシック体]――『スタンド・バイ・ミー』[#「『スタンド・バイ・ミー』」はゴシック体]
『スタンド・バイ・ミー』というアメリカ映画(一九八六年)があります。有名なので、ご存じの方も多いと思いますが、スティーブン・キング原作、ロブ・ライナー監督の名画です。これは、英雄体験がそのまま映画になっている作品です。簡単にご紹介しましょう。
舞台は、アメリカのオレゴン州、キャッスルロックという、人口がわずか一二八一人という小さな小さな田舎町です。一九五九年の夏、鉄道事故で亡くなった男性の死体が見つかっていない、という情報を一二歳の少年たち四人が入手します。この四人の少年たちは、あまり恵まれた家庭の子たちではありません。コンロで耳を焼かれるなどの虐待を受けていたり、父親に冷たくされていたり、父親がアルコール中毒だったりと、それぞれ家庭に問題をかかえている少年たちです。一九五九年のアメリカは古き良き時代を残しながらも、急速に家庭が崩壊しつつあった時代ですから、こうした少年たちのかかえる家庭的問題は当時としてはごく普通のものです。突出して悪いわけではありません。
この仲良し四人組は、親に内緒で冒険の旅に出かける決意をします。野を越え山を越え、ヒルの棲む湖や鉄橋を渡って、ついに死体を発見するという物語です。二日間の冒険の旅で主役のクリスとゴーディが得たのは、友情、智恵、勇気、寛容さ、そして感謝ですが、最大の収穫は「自分自身と出会えたこと」でした。これが英雄体験の本質です。彼らは新しい世界を体験して生還したのです。心の中にいる魔物と戦い、自分も知らなかった自分と出会って生還したのです。
だから、冒険の旅を終えてキャッスルロックに戻った時、町が小さく、そして違って見えたのです。町自体は二日前と同じなのに、自分が変わると、世界が変わって見えるのです。もちろん、悪いほうに変わって見えるのではなく、良い方向です。夢と希望が見えるようになるのです。実際、進学をしないつもりでいたクリスは、進学コースに進み、後に弁護士になりました。ゴーディも同じように進学コースに進み、作家になりました。英雄体験をすると、このように現実が変わるのです。
一二歳というと、日本で言えば中学生です。この頃の女の子は、こんな冒険をするでしょうか。女の子四人で死体を探しに出かけようとするでしょうか。
答は「しない」です。必要がないからです。この頃の女の子は、化粧の話やボーイフレンドの話、洋服の話などに夢中です。女性には、「いい男」を見抜く智恵が必要だからこそ、友だちと一生懸命、恋愛に関する情報交換をするのです。そして、愛されたいがために、お化粧やファッションの話をするのです。
女の子が英雄体験をしないのは、野宿などしたら暴漢に襲われる危険があるからではありません。英雄体験が必要ないからしないのです。人は、必要もないことをわざわざしようとはしないもの[#「人は、必要もないことをわざわざしようとはしないもの」はゴシック体]です。まして、オオカミのいるような森に野宿するなど、英雄体験が不要な人にとっては危険なだけで何一ついいことはありません。そんな暇があったら、自分をキレイに見せる努力をするのが一二歳の女の子です。
では、なぜ、男の子はわざわざ冒険をするのでしょうか。それは、冒険という英雄体験をする必要があるからです。冒険を通して、智恵と勇気を手に入れ、自分自身と出会い、そして何者かと戦って自分にかけられた呪縛から解放され生還する、という体験が男の子には必要なのです。この体験を通して女性にかけられた呪いをとくための智恵と勇気を手に入れるのです。
男の子は、もともと夢と冒険が大好きです。男の子から「一人前の男」になるために、必要なことがこの英雄体験です。だから、一二歳の頃から、冒険したいという衝動が湧いてくるのです。自然の摂理です。昔から、かわいい子には旅をさせよ、と言いますが、これは女の子向けの諺ではなく、男の子向けの諺です。つまり、男の子には冒険の旅が必要だ、ということなのです。
†冒険の旅で何を得たか?[#「†冒険の旅で何を得たか?」はゴシック体]
四人の少年たちは、ふだんはタバコを吸ったり、秘密の隠れ家でカード・ゲームをやったりというワル仲間なのですが、冒険の旅をしている時、森を歩きながらいろんな話をします。
クリスはゴーディにたずねます。
「小説家になるのか?」
「やだよ、ものを書くなんて、時間の無駄だ! バカげている」
「それはおまえのパパの言葉だろう。おまえのお父さんは何もわかっちゃいない。(死んだ)お兄さんのことで頭がいっぱいだ。
代わってやりたいよ、もしもオレがキミのパパなら、就職組に行くとは言わせない。キミには才能がある。ものを書くのがうまい。でも、それを誰かが育てなければ、才能は消えてしまう。キミの親がやらないのならオレが守ってやる!」
クリスはゴーディを励まします。しかも、本気で。だから、ゴーディは本当に作家になれたのです。父親にかけられた呪いをクリスがといたのです。愛と智恵と勇気で。つまり、愛と智恵があるからゴーディの不自然な考え、つまり、小説を書くなんて時間の無駄だ、よって自分が作家になるなんてナンセンスだという誤った考えをもっていることを見抜けたのです。そして、愛と勇気があるから「オレがおまえを守ってやる!」と言えるのです。こうしてゴーディは、クリスから、父親にかけられた呪縛をといてもらったのです。
一方、クリスは、人の呪いをとく作業を通して、ひとつの智恵と勇気を獲得したのです。この智恵こそ、自分にかけられた呪いをとくのに必要な智恵です。そしてそれはまた、未来の恋人の呪いをとくときにも必要な智恵です。そして、ゴーディもまた、呪いをといてもらうという作業を通して新たな智恵を獲得します。智恵を獲得するのに、智恵が要るのです。だから、少年時代はみんなで智恵を出し合って、学ぶ必要があるのです。そして、友情でもって、互いに互いを励ますことで勇気をも獲得するのです。英雄体験とは、何をしたかが重要なのではなく、そこで智恵と勇気を得たかどうかが重要[#「英雄体験とは、何をしたかが重要なのではなく、そこで智恵と勇気を得たかどうかが重要」はゴシック体]なのです。
誰でも、過去の自分を壊すのは怖いことです。だから励ましと勇気が必要なのです。人は、人から幸せを願われないと、なかなか幸せにはなれないものです。だからこそ、人からの励ましは重要なのです。
ゴーディの場合は、父親の暴言を受け容れることで、実家で生き残ることに成功しています。父親の言葉に逆らうことは、身の危険を意味します。父親に見捨てられるかもしれません。母親も頼りになりません。だから、ゴーディは、呪縛から解放されたいと願う一方、このままでいいと思ってもいます。親に見捨てられたら生きていけない不安と恐怖が、ゴーディを保守的にさせるのです。このままではダメだ、ジリ貧だ、と思っていても、「昨年通り」の方法が魅力的に見えてしまうのです。
呪縛から解放された自分は、未知なる自分です。誰でも、未知なる世界に踏み込むことを恐れます。未知である、というだけで怖いものです。その恐れを乗り越える力が勇気なのです。その勇気は、互いに励まし合うことで得られます。それが友情です。
そして、その勇気もまた、智恵を獲得する場合と同じく、勇気を獲得するために勇気が要るのです。つまり、ある程度の勇気がないと、勇気が手に入らない構造になっているのです。こういう事情があるために、人はなかなか変われないのです。でも、だからこそ、若い男の子にとって、友情は重要なのです。特に、中高生から大学生くらいまでの間に、こうした本当の友情を温めることをしないと、いざ、英雄体験をしようとしても、元手となる最低限度の智恵や勇気が欠如したままとなり、できなくなってしまう[#「本当の友情を温めることをしないと、いざ、英雄体験をしようとしても、元手となる最低限度の智恵や勇気が欠如したままとなり、できなくなってしまう」はゴシック体]からです。
中高生から大学生の頃に恋人がいることは悪いことではありませんが、女の子とベッタリつき合って男の子との友情を温め合う時間がなくなるとすれば、それは男性にとってきわめて大きな損失です。なぜなら、男性は、智恵と勇気がないと、人生がジリ貧になっていくからです。たとえ、社会的には成功したとしても、精神面ではどん底です。特に三十代後半から、悦びや感動や希望がなくなります。
しかも、男性の場合は、愛の他に智恵と勇気がないと、恋愛や結婚をしても発展しません。発展しないものは腐ります。たちまち色あせてマンネリ化します。彼女と出会った時だけが最高で、数カ月もしないうちに冷めてきます。
男性が愛を語るためには、智恵と勇気が必要なのです。だから、「男はつらい」のです。女性は愛だけあれば充分なのに、男性は智恵も勇気も必要なのです。
†励まし合いが勇気を生み出す[#「†励まし合いが勇気を生み出す」はゴシック体]
人を励ますことは、励まされることでもあります。クリスがゴーディに励まされる番がきます。冒険の旅に出た初めての夜。野宿している時、雰囲気がそうさせるのか、今度は、ゴーディがクリスに語りかけます。
「ぼくと一緒に進学組に入ろう!」
「ムリだよ」
「どうして!」
「みんな家庭で判断するから……」
「そんなことはまちがっている!」
クリスは、このゴーディの言葉に励まされて、給食代金を盗んだ話を告白し始めます。しかし、ゴーディは、クリスが本当に金を盗んだことを知り、ひどく失望します。
それでもクリスの告白はつづきます。実は、自分は給食代金をサイモン先生に返そうとした。でも、その金をサイモン先生が盗み、自分を犯人のままにした。そしていきなり停学さ。サイモン先生は、その金で服を新調した。
それを聞いたゴーディは、「うん、覚えているよ、確か、茶色のペイズリー模様のスカートだったね!」と、クリスを支持し始めます。クリスは泣きながら、「ぼくのことを誰も知らない土地に行きたいよ」「オレって女々しいよな」と言うと、ゴーディは、黙ってクリスの肩に手をやります。その手は「そんなことないよ。ぼくはキミを信じている。一緒にがんばろう」と言っているようでした。
クリスは、こうしたゴーディの励ましで、進学組に入ることを決意し、将来弁護士になるのです。人を励ますことは励まされることです。だから互いに励まし合うことで、自己実現ができるのです。そして、こういう励ましこそ友情であり、愛情というものなのです。家庭の中にもこういう励ましがあることが理想なのですが、『スタンド・バイ・ミー』に登場する少年たちのように、いい友に恵まれると、親兄弟に代わって励ましのエールが得られるのです。親に恵まれなかった人は、良き友を得ることで幸福を手に入れることができるのです。
もちろん、良き隣人(おじさんやおばあさんなどの地域の人々)からの励ましも重要です。映画『スタンド・バイ・ミー』の中には、よき隣人から励ましを受けるシーンはありませんが、もしかすると、クリスが進学組に入るかどうかの際に、サイモン先生以外の先生からの助言や励ましがあったのかもしれません。人から自分の幸せを願われることはきわめて重要なこと[#「人から自分の幸せを願われることはきわめて重要なこと」はゴシック体]なのです。愛情は誰からもらっても同じです。人は社会の子でもあるのです。だから、彼はのちに、人のいざこざを収めようとしたのです。不運にも、暴漢にナイフで刺されて死んでしまいますが、社会の人々からいいことをされた人は、大人になった時、必ず、社会の人々にもいいことをしようとします。それが人間というものです。クリスの正義感は、ゴーディたちの友情、そして世間の心ある大人たちによって形作られたものです。あなたに幸せになってもらいたい、という熱い思いは、相手に勇気を与えるのです。
さて、旅の果てに、ついに四人の少年たちは死体を発見します。ところが、ゴーディが男性の死体を見た途端、異変が起こります。死体を見て自分の兄を連想し、パニックになってしまったのです。ゴーディは、父親に「(兄の代わりに)おまえが死ねば良かったんだ」と言われたことでひどく傷ついていたのです。これもひとつの呪縛です。父親にそう言われたために、ゴーディは本気で自分のほうが事故で死ねば良かったんだと思い込んでいるのです。親の庇護なしでは生きていけない子ども特有の悲哀です。
ゴーディは、実際に死体を見てふだんのこうした思い込みが刺激され、不安でいっぱいになったのです。自分の存在価値に対する自信のなさがゴーディをパニックに陥れたのです。ゴーディはクリスに質問します。
「どうして兄ちゃんは死んだんだろう?」
「さぁどうしてかなぁ」
「ぼくが死ねば良かったんだ……」
「よせ! そんなこと言うな!」
「パパはぼくを役立たずだと言った」
「パパはキミのことを知らないだけなんだ!」
「でも、パパはぼくを嫌っている!」
ゴーディは泣き始めます。クリスはしっかりとゴーディの肩を抱き、励ましの言葉を探します。
「キミはきっと大作家になる! 書く材料に困ったら、僕らのことを書け」
クリスの言葉に納得したのか、しばらく沈黙の後、ゴーディは、「きっと、すぐ困るね……」と言うのです。
自分の才能が開花することを真剣に願ってくれる人がいる――幸せなことです。人の幸せを願うことが愛情です。そして願われることが幸福です。幸福はうれしいのです。うれしいから幸福というのです。いえ、うれしいことを幸福というのです。そして、うれしいのが友情です。クリスの「父親がおまえの才能を守らないなら、オレが守ってやる!」という熱い思いは、父性愛ともいうべきものです。
第一章に登場した、アパートで花を生けることができなかった女子大生の同棲相手の男性とクリスとを対比してみてください。正反対です。クリスには愛と智恵があったからこそ、ゴーディの呪縛に気づき、ゴーディの才能を見抜けたのです。だからこそ、クリスは本気でゴーディを励ますことができたのです。そして、みごとに呪いをといたのです。
もちろん相手を励ますには、「理解」が必要です。それも相手を深く理解することが必要です。ですから、ただ単に「がんばれ!」というかけ声だけでは励ましにはなりません。野球やサッカーの応援も同じです。ゲームを理解している人が応援するからこそ、応援に迫力がでてくるのです。勝っているのか負けているのかもわからない人が、ただやみくもに「がんばれ!」「がんばれ!」と応援しても効果がないのと同じです。
相手を理解することは、愛情や友情を育む前提条件です。「親は自分のことをわかってくれない」「見てくれない」「無関心だ」という子どもの不満は、実は、「理解してくれない」「共感もしてくれない」という不満です。親に愛や智恵や勇気が足りないと、子どもはこういう不満をいだくのです。
親の愛情の不足分を補うのが友情と恋愛です。第二章で解説した通りです。相手の幸福を願うという愛と相手の才能を見抜く智恵、そして呪縛から解放されて新しい自分に生まれ変わる(=過去の不自然な自分を破壊し、本来の自分に戻る)勇気を養うのが英雄体験なのです。そして、友情を温めながら互いに励まし合い、さらなる英雄体験をするのです。
英雄体験は一度だけでは足りません。思春期や青春時代は、若さを発散する時代ではなく、英雄体験をする時代なのです。女の子の尻を追いかけてばかりいると、大切なことをしないまま歳をとってしまい、イソップ物語「アリとキリギリス」に登場するキリギリスと同じ運命になってしまいます。
クリスとゴーディたちは、死体探しという冒険の旅をすることで英雄体験をしました。これがなければ、二人とも作家にも弁護士にもならなかったかもしれません。男の子たちは、こうした英雄体験を通して、人の才能が開花するためには何が必要なのか、そして、人生にとって一番大事なことは何かを学ぶのです。
†英雄体験をした人、しない人[#「†英雄体験をした人、しない人」はゴシック体]
英雄体験をしている人と、していない人とでは、いざとなった時に違います。どう違うのでしょうか。
勇気というのは、自分の弱さや呪縛と戦った人だけが、いざという時に発揮できるもの[#「勇気というのは、自分の弱さや呪縛と戦った人だけが、いざという時に発揮できるもの」はゴシック体]です。戦った経験のない男性は、勇気よりも恐怖が頭を埋め尽くしてしまいます。真に勇気ある決断や勇気ある行動をすることはできません。また、ゴーディのように、父親からの呪縛をとく体験は、今後の人生を輝かせるのに重要な体験です。もし、前述の生け花ができなかった女性の恋人がクリスだったら、きっと彼女を励ましていることでしょう。そして、「幸せ恐怖症」も見抜くかもしれません。少なくとも、彼女にかけられた「幸せ恐怖症」という呪いをとく努力をしたはずです。結婚していい家庭を作ったことでしょう。英雄体験をした人だけが作れる幸せです。
呪いをとこうと努力をすることが愛です。成功したかどうかは問題ではありません。繰り返しますが、何をするかということよりも、どんな気持ちでそれをするかが重要なのです。英雄体験をした人は、命がけで恋人の呪いをとこうとします。「命がけで恋人を愛する」というのはそういうことなのです。
男性の場合、ただ単に、彼女がいとしい、彼女が好きだ、というだけでは愛を育むことはできません。それが許されるのは小学生までです。映画『小さな恋のメロディー』では、小学生が主人公ですから、そういう愛でも許されます。こういう愛は純粋ですが、でも、結婚生活を発展させるには、智恵と勇気で女性の幸せを願えること(呪いをとくこと)が必要なのです。
男性は、自分や友達にかけられた呪いや呪縛をとく時に得た智恵で、自分の恋人や妻にかけられた呪いをとくのです。そういう使命があるのです。第一章で申し上げましたように、現代の若い女性の六割以上(私の調査による)に幸せ恐怖症という呪いがかかっています。呪いは、幸せ恐怖だけではありません。親からの洗脳という呪いも(たとえば、自己卑下するクセや自分を愛してくれるのは母親しかいないという思い込みなど多数)ありますので、昔以上に男性に智恵と勇気が求められているのです。
男性のあなたが女性を呪いから解放してあげてこそ、二人に幸せが訪れるのです。これなくしては、逆に不幸が訪れてしまいます。要するに、智恵も勇気もなく、そして自分や友の呪いをといた経験のない人は、妻や恋人を救うことはできないのです。どんなに彼女が好きでも無理です。だから、若いときに英雄体験をすることが重要なのです。
男性に必要なのは、現実で使える智恵です。民話や童話では、魔法をとく、ということで象徴されています。女性にかけられた魔法をとくカギを男性は握っているのです。人に必要なのは、こうした体験を通して得た智恵なのです。知識ではありません。
ただし、誰がどのくらい呪いをとく智恵をもっているかは、大学入試と違い、試験でチェックすることは不可能です。当の男性に聞いても、自分がどれくらい智恵をもっているかはわかりません。比較のしようがないからです。しかし、男性のもっている智恵と愛の量が多ければ多いほど、女性を安心させますので、女性がどのくらい安心するかを見れば、ある程度は推定できます。
もし、たくさんの問題を解決してきた人なら、四十歳を過ぎるころから、自分に自信が持てるようになります。仕事に誇りや自信を持っていることは当然ですが、自分自身に対して自信が持てるようになるのです。この自信が女性を安心させる原動力になるのです。
男性は本来、英雄体験を重ねることで、心が純粋になっていく動物[#「男性は本来、英雄体験を重ねることで、心が純粋になっていく動物」はゴシック体]です。子ども時代よりもさらに心がきれいになっていくのが本来の人間の姿です。女性は、純粋な愛で愛されてこそ、大人になるにつれて純粋になっていくのです。子どもよりも純粋な大人がホンモノの大人なのです。
†映画に見る英雄体験A[#「†映画に見る英雄体験A」はゴシック体]――『スター・ウォーズ』[#「『スター・ウォーズ』」はゴシック体]
ジョージ・ルーカス(監督&脚本)のヒット作『スター・ウォーズ』(78年公開の「新たなる希望」)も、典型的な英雄体験物語です。実は、ジョージ・ルーカス監督は、映画を制作するにあたり、ジョセフ・キャンベルという著名な神話学者に相談しています。ジョージ・ルーカスは、人の心をワクワクさせるのは、単に特撮の見事さばかりではないことを知っていたからです。ジョセフ・キャンベルの答は「英雄体験をベースに脚本を書けばいい」というものでした。
前述しましたように、私たちは、知らない間に英雄体験をしていたり、呪いをとく作業をしているものです。自覚こそできませんが、映画やアニメを見ると興奮するのは、どこかに心当たりがあるからです。映画と同じことをしているからこそ感情移入できるのです。実際、『スター・ウォーズ』は、男性にウケます。女性よりも男性が興奮するのです。観客の男性は誰一人として、「自分の英雄体験と映画の中の英雄体験物語が共鳴し合っているから興奮している」などとは夢にも思いません。しかし、心の奥の何かがうずくのです。現実世界でも映画と同じ体験をしているからです。
さて、『スター・ウォーズ』は、宇宙で戦います。宇宙というのは、人の無意識の象徴です。海の中、湖の中、森の中、山の奥など、いずれも人の心の無意識の象徴です。呪いは、人の心の深いところで暴れていますから、無意識の象徴である宇宙で、何者か(=悪者=自分で自分の首を絞めるもの)と戦うのです。それが主人公、ルーク・スカイウォーカーの英雄体験です。宇宙に飛び出す時、ハン・ソロという男性に出会います。ハン・ソロの友情に支えられて生還しています。
面白いのは、ハン・ソロもルークと出会って心が解放されたことです。ハン・ソロは、はじめ自分のことを、お金にがめついだけの薄情な男だと思っていました。自分には正義感や愛情などひとかけらもないと思っていたのです。ところが、ルークと行動をともにする間に、自分の心の中に眠っていた正義感や勇気に目覚め、変貌していきます。ルークに刺激されたのです。心が解放され、ハン・ソロ本来の自分が飛び出してきたのです。こうして、ハン・ソロとルークの間に友情が育っていくのです。英雄体験とは、人を「いい男」にする効果があるのです。
次に、呪いという悪と戦うには智恵が必要です。人がかけた呪いは人でとくのです。しかし、呪いをとくにはたくさんの智恵が必要です。では、その智恵をルークはどうやって入手したのでしょうか。
オビ=ワン・ケノービという老賢者からです。老賢者を尊敬し、感謝することで、若者は智恵をもらうのです。映画では、ライトセーバーという剣をもらい、また、フォースという不思議な能力の開発をしてもらいます。ルークがオビ=ワン・ケノービを全面的に信頼しているからこそ、こうした精神的指導をしてもらえたのです。年長者を尊敬することがいかにたいせつか、この映画は教えてくれます。
さて、そのオビ=ワン・ケノービですが、ルークの育ての親であるラーズ夫婦は、彼を「変わり者」と評価しています。真の知恵者は、必ずしも世間的な評判がいいとは限らないことをこの映画は示唆しています。後で述べますが、日本を含む先進諸国では、オビ=ワン・ケノービのような精神的指導者を尊重していません。尊重しないどころか、無視したり、変人扱いしているのが常です。誤解というよりも無理解です。経済的指導者はもてはやされても、精神的指導者(智恵者)は、ないがしろにされているのです。『スター・ウォーズ』でも、オビ=ワン・ケノービは、「すばらしい人だ」とは世間には思われていない存在として描かれています。
しかし、ルークは、オビ=ワン・ケノービに助けられたこともあり、信頼しようとします。ここにルークの判断と決断があります。自分の判断でオビ=ワン・ケノービについていこうとしたのです。
英雄体験をするにも智恵が必要、といった意味がこれです。誰に精神的指導を仰ぐのか、という人選をするための智恵が必要なのです。智恵を得るのに智恵が必要というのは、理不尽のようですが、良き友がいる人は(ルークに良き友がいることは、惑星ヤヴィンにある同盟軍の秘密基地からデス・スター攻撃に出発する時、親友のビックスに出会うなど、さりげなく表現されています)、誰に指導を仰いだらいいのか、自分にとっての真の指導者は誰か、比較的容易に見分けることができます。
†成功を目的として生きてはいけない[#「†成功を目的として生きてはいけない」はゴシック体]
ルークがXウィング戦闘機から爆弾を落とす時、オビ=ワン・ケノービが、「計器に頼るな」「フォースを使え」と、天から指導します。そして見事、デス・スターの爆破に成功します。こうして未知なることを成し遂げることで、自分に自信をもち、そして、自分のやっていることを誇りに思えるようになるのです。自信と誇りはこうやってつけるのです。
ルークが爆弾を落とす時、援護してくれたのが、あの金の亡者、ハン・ソロでした。ハン・ソロが正義に目覚めた瞬間でした。損得抜きで、危険までおかしてルークを援護しに来てくれたのです。第二作目以降の『スター・ウォーズ』では、ハン・ソロは金の亡者ではなく、勇敢な若者として描かれています。
デス・スターを破壊し、無事帰還した二人は、レイア姫から大勢の面前で表彰されます。英雄体験は、誰にも褒められる必要はないのですが、映画なので、このような表彰の場面を設定したのでしょう。
本来の英雄体験は、『スタンド・バイ・ミー』における死体探しのように、英雄体験をしたからといって、誰にも褒められないことが多いのです。少なくとも、褒められることを目的としてはいけません。自分で密かに誇れればそれでいい[#「自分で密かに誇れればそれでいい」はゴシック体]のです。
筆者の場合、何年か前にユーザー車検に挑戦したことがありました。車検を通したあと、クルマに乗るときはいつも誇りがこみ上げてきました。「自分が車検を通したからこうして運転できるんだ」と思うと、胸がわくわくしました。このように自分が自分に誇ることができる行為は、すべて英雄体験です。英雄体験で何をするかは問題ではありません。自転車による市内一周でも、日本一周でもいいのです。日本一周のほうが偉いということでもありません。自分で密かに誇れればそれでいいのです。成功することを目的としたり、褒められることを目的とすると英雄体験にはなりませんが、しかし英雄体験をした結果、たまたま成功したり褒められたりするのはいいことです。励みになるからです。
ルークもハン・ソロも、褒められるために出撃したわけではありません。平和を取り戻すために必死に戦っただけです。その結果、帝国軍に勝って表彰されたのです。メダルをもらうために戦ったのではありません。
†ドラゴンクエストやファイナルファンタジーも同じ構図[#「†ドラゴンクエストやファイナルファンタジーも同じ構図」はゴシック体]
男性は、一般にテレビゲームが大好きです。特に人気があるのがドラゴンクエストやファイナルファンタジーですが、実はこれも英雄体験がうまく織り込まれています。
主人公がモンスターと戦って勝つと、薬草や剣や楯が手に入ります。モンスターに勝つためにも智恵と工夫が必要ですが、試行錯誤しながら勝ち続けると、過去の攻略の方法を活かせるので、勝ちやすくなります。まさに、智恵を手に入れたのです。薬草や剣は、さらに戦いやすくするための道具です。現実でも同じです。
呪いをとく作業は、テレビゲームに登場するモンスターと戦う作業と同じです。なぜなら、未知なる相手ですから、相手の攻撃力も特徴もわからない状態です。ケガをしながら、相手の性質を探り、弱点を見つけて攻撃するしかありません。男の子に人気のあるゲームソフトというのは、英雄体験という観点で見れば、実によくできています。だからこそ売れるのですが、しかし、テレビゲームをいくらしても、それは英雄体験にはなりません。
書店で攻略本が売られていますが、もしこの攻略本を現実の老賢者から授かるのであれば、そしてそれで、現実に友情を作ることができるのであれば、これらテレビゲームをすることで、ある程度は英雄体験ができます。しかし、現実のテレビゲームでは、クリスとゴーディのような励まし合いもできず、オビ=ワン・ケノービのような老賢者を尊敬することで智恵を授かるということもありません。英雄体験でもっとも重要な智恵と勇気と友情が欠けてしまうのです。
そういう意味では、テレビゲームに熱中する多くの少年たちは、英雄体験をすべき時間を失ってしまう危険があります。多くの時間をテレビゲームに使ってしまうと、英雄体験をする時間がなくなってしまうからです。何回か英雄体験を済ませた男性がテレビゲームをするのであれば、ある程度の効果は期待できますが、これから英雄体験をしなければいけない少年たちがテレビゲームにはまってしまうのは危険です。英雄体験をしたような気分になってしまって、現実世界で英雄体験をしようとはしなくなる恐れがあるからです。たとえ攻略本なしでテレビゲームを制覇したとしても、智恵と勇気は得られません。仮想現実で得た智恵は、仮想の世界でしか使えないのです。
その点、英雄体験をモチーフにした映画鑑賞なら、効果があります。なぜなら、映画を見ることで英雄体験願望が刺激され、現実世界で実行しようとする気になるからです。未知なる世界に挑戦してみよう、という気にさせるものは男性にとって重要です。そういう励ましがなければ、なかなか重い腰を上げようとしないのが人間というものだからです。
†三段階の成長過程[#「†三段階の成長過程」はゴシック体]
民話や昔話を読みますと、三のつくものが多いのに気がつきます。有名なところでは、「三枚のおふだ」「三匹のこぶた」「三匹のやぎのがらがらどん」などです。これらはみんな男の子が主役です。女の子が主役でも三姉妹というのがありますが、男の子が主役の民話には三のつく物語が多いように思われます。
特に、「三匹のやぎのがらがらどん」は象徴的です。この話は、三匹のヤギが橋を渡って草を食べに行く、という単純な話です。でもここに、男性の精神的成長が三段階あることが示唆されています。
最初に橋を渡るのは、一番小さなヤギです。人間で言えば幼稚園児です。橋の下に隠れているトロル(日本でいう魔物または妖怪)が、子ヤギを見つけて食べようとします。子ヤギは、「こんな小さくてかわいいボクを食べるの?」と泣き落とし作戦に出ます。トロルは、こんな小さなヤギを食べてもしょうがないな、と説得されてしまいます。
次に橋を渡るのは、中型のヤギです。人間で言えば中学生くらいです。クリスやゴーディくらいの年齢です。トロルが食べようとすると、「あとからもっと大きくておいしいヤギが来るよ」と智恵を働かせます。実は、これは大型のヤギを裏切る言葉ではありません。大型のヤギがトロルを退治してくれることを信じての言葉です。
そして実際、最後にやってくる大型のヤギは、トロルを角で一突きで倒してしまいます。こうして、その後は三匹のヤギは毎日安心して橋を渡れるようになったという話なのですが、なぜ、こんな何の変哲もない話が語り継がれたのでしょうか。
その理由こそ、人間の男性の成長そのものだからです。心当たりがあるから何百年も語り継がれたのです。
第一段階は、愛される時代です。人は赤ちゃんとして生まれ、みんなからたくさんの愛情をもらって成長します。乳幼児期は、愛される時代です。これが子ヤギに象徴されています。愛されることが仕事の時代です。
次の第二段階は、英雄体験をする時代です。中型のヤギに象徴されます。小学校までにもらった愛と智恵と勇気を使って英雄体験をするのです。
最後の第三段階は、自信と誇りを高める時代です。英雄体験を終え、智恵と勇気で人々の呪いをとき、人を愛して知識を智恵に変える時代です。いわゆる大人である時代です。
人は、人の幸せを願うことで、人からも自分の幸せを願われ、また、人を励ますことで、人からも励まされます。人を愛することは、愛されることでもあるのです。なぜなら、愛される悦びを一〇〇としますと、愛する悦びは一二〇だからです。人は、人を愛することで悦びを得、ますます人を愛せるようになるのです。
先ほども言いましたように、人は、本来歳をとるにつれて、心が清らかになっていく動物です。そして、より愛情深い人間になっていくのです。子どもは純真と言いますが、必ずしもそうとは言えません。人は、愛されて心が清らかになっていくのです。英雄体験をしてもっと清らかになっていくのです。人を愛してさらに清らかになっていくのです。そして人を愛することで、愛のパワーをアップするのです。あの三匹目の大型ヤギのように。「三匹のやぎのがらがらどん」で、最後の一番大きなヤギが、怒りの象徴であるトロルを一突きで殺しています。愛のパワーの勝利です。
でも、現実には、正義が勝つのではなく、パワーの強いほうが勝つのです。相手の怒りが強ければ、愛があっても負けます。負けたら、相手の怒りで汚染されてしまいます。そういう意味では、大人は、少年たちの英雄体験を支援する義務がある[#「大人は、少年たちの英雄体験を支援する義務がある」はゴシック体]のです。幼児を見たら愛し、中高生を見たら英雄体験がうまくいくように智恵を授けるのです。これがないと世の中うまくいきません。
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第四章[#「第四章」はゴシック体] 「いい女」に惚れられる男になる方法
†英雄体験を妨げるもの@[#「†英雄体験を妨げるもの@」はゴシック体]――自分のウソを認めないこと[#「自分のウソを認めないこと」はゴシック体]
英雄体験をするために、これだけは絶対にしてはいけないという大前提が二つあります。
一つは、無私の愛(見返りを期待しない愛、純粋な愛)を信じないという、人間不信の態度です。換言すると、自分の親以上に自分を愛してくれる人なんているわけないさ、と斜に構える態度です。こういう人間不信の目で世の中を見たら、キレイなものも汚く見えるからです。純粋な人や純粋な愛に出会ってもニセモノに見えてしまうのです。
困ったことにこういう人は、自分が人間不信の人である事実を認めません。不信があるのにないと言い張っている人ですから、世の中が逆さまに見えてしまいます。たとえば、親切を受けてもイヤミとして受け取ります。イソップ物語の「すっぱいブドウ」に登場するきつねと同様、「フン、どうせすっぱい愛に決まってるさ!」とニセモノ扱いします。言い訳というウソを自分についているのにそれを認めないので、相手がウソをついているように見えるのです。相手がホンモノであればあるほどニセモノに映ります。愛も同様です。不信の心があると真実の愛を受け取ることができなくなるのです。それゆえ自分のウソや不信を棚にあげてしまうと、この世には無償の愛などないことになってしまいます。それゆえ無償の愛を信じている人を見ると「世間知らず」と言ってやりたくなるのです。
こういう不信の人の特徴は、ホンモノの愛を見た時、妙にイライラしたり、気分が悪くなったりすることです。忘れようと思っても気になります。もし、それがニセモノだったら、イライラもしませんし、クールに無視できます。すぐ忘れてもしまいます。でも、それができずに、わざわざアラ探しをしてまで批判したくなるのは、無意識の世界ではホンモノだと認知しているからです。でも、当人はニセモノだからイライラさせられているのだ、と思い上がった解釈をしています。そして、真実の愛を受け取っている人を見ると、悔しくなってそれはニセモノだよ、と言ってやりたくなるのです。余計なおせっかいですが、当人にはその自覚はまったくありません。教えてあげるのが正義だと思っているからです。
なぜ、素直にホンモノをホンモノと言えないのでしょうか。
もし素直になったら、「無償の愛が存在しないのではなく、自分が不信の人だから受け取れないだけなのだ」という真実が自分にバレて傷ついてしまうからです。自己欺瞞している分だけ傷つきます。真実の愛で行動する人や真実を語る人が、自分を傷つける悪いヤツに見えるのです。明らかな逆恨みですが、人間不信の人は真実を恐れるのです。
しかし、真実を探るのが英雄体験の目的ですから、人間不信を取り除かないことには英雄体験は始まりません。拙著『家族のなかの孤独』(ミネルヴァ書房)、『身近な人との人間関係につまずかない88の方法』(大和書房)などをヒントに除去作業をすることが先決です。
なお、人間不信の人は、同じく人間不信の人と群れたがる特徴があります。真実で傷つけられる恐れがないから安心なのです。しかし、時には、自分と同じ醜さを持っている人に対して激しく嫌悪することがあります。自画像を見せつけられているような気がするからです。
このように、人間不信の人とは、ホンモノを見ても、ニセモノを見ても批判したくなる人[#「人間不信の人とは、ホンモノを見ても、ニセモノを見ても批判したくなる人」はゴシック体]です。世の中が汚く見えるからです。当然のことながら、不平不満が多くなります。自分が汚れているのに被害者ぶって人のせいにしてしまうので、人間関係のトラブルも多くなります。こんな不誠実なことをしているので誇りが持てず、歳とともに劣等感は強まります。
でも、劣等感の存在も認めない人ですから、その反動で見栄だけは人一倍強くなります。精神的に弱い人なので、ふだんはオドオドビクビク生きていますが、掲示板のような匿名性の高い場所に来ると、反動で気が大きくなり、人を見下す発言をしたり、したり顔で有名人の批判をし始める人です。でも、そうすることが社会正義だと思っているので、いつまでもやり続けます。その結果、ますます自分がニセモノになっていくのです。そして、ますますホンモノを見て傷つく人になります。自分のウソを守り通すために、ホンモノをニセモノ扱いしているうちは英雄体験をすることはできません。
二つめは、不自然なことをしないこと(宇宙の法則に逆らうことをしないこと)、そして、不本意な行動をしないこと(本心に逆らうことをしないこと、自分の個性に逆らうことをしないこと)です。自分の本心に逆らうことや本意に反することをする、つまり自分にウソをつく行為は著しく自分の心を汚染します。この汚染が自己不信を発生させます。この自己不信が人間不信を発生させるのです。
ですから、不本意な行動をしない、という態度もきわめて重要です。たとえ社会的に成功しても、人の道に反することをしたり(宇宙の法則に逆らうことをしたり)、不本意なことばかりしてきたのでは、自分に誇りをもつことはできません。誇りは自分の心に忠実に行動した者だけに与えられる天からのご褒美なのです。自分の本心に逆らってつき合いたくない人とつき合ったり、ご機嫌をとったりしていたのでは、自分に誇れる誇りをもつことはできません。
たとえば、嫌われるのが怖くて、イヤな奴の言いなりになっている場合です。自分の存在価値に自信がない人は、人に嫌われることをとても恐れます。嫌われるくらいなら、相手の奴隷になったほうが(=便利屋さんになったほうが)いいと考えてしまう人です。その結果、自分が嫌いだと感じる人と友達になったり、相手の言いなりになろうとしたりするのです。自分の本心に対する裏切りです。
こういうことをしていると、魂が汚れます。自分の本心を裏切ることがもっとも心を汚染する[#「自分の本心を裏切ることがもっとも心を汚染する」はゴシック体]のです。心が清らかになるのとは反対の行為です。人にウソをつくよりも、自分にウソをつくことのほうが何百倍も汚れます。
†言い訳というウソが一番悪い[#「†言い訳というウソが一番悪い」はゴシック体]
言い訳という行為は、自分にウソをつく行為です。自分の身を守るためには言いなりになるしかなかったんだ、というのは言い訳です。その証拠に、後で落ち込みます。言い訳をして人の奴隷になると、後で必ずむなしくなります。また、その相手を恨みにも思います。なぜなら、相手に感謝されること、相手に評価されること、相手に嫌われないこと、という見返りを期待して奴隷になったのに、期待したほど相手は感謝も評価も好意も示してくれないからです。すると、「これだけやったのに見返りはたったこれだけか……」と恨みたくなるのです。
どこにも「私もうれしい、あなたもうれしい」という関係はありませんね。宇宙の法則に合致したことなら、必ず、私もうれしいあなたもうれしい、という関係が成立します。本心に逆らわず、つき合いたい人とつき合いたいようにつき合っていると、一緒にいて自分も楽しくなってきますし、また相手も楽しくなってきます。だから、また会いたくなるのです。心の底から会いたいと思っているから会っている関係、これが人づきあいの基本です。逆に、自分の本心にウソをついたつき合いをすると、苦しいばかりで、相手に気遣った努力も実りません。怒りがこみ上げて来ます。
ところが、こういう説明をすると、「現実社会では、つき合いたい人とだけつき合うなんて不可能でしょ」と反論する人がいます。でも、本当に不可能なのでしょうか?
いいえ、単に勇気がないだけの話です。自分の言い訳を言い訳と認めていないからこんな反論をするのです。なぜ、「イヤな奴とでもつき合わなければいけない時がある」という反論が言い訳かと言いますと、友人というのは、つき合ってみて楽しいからこそ、またつき合いたいと思ってまた会うものだからです。
恋人や友人どうしなのに、「相手との関係を壊さないために努力をすること」というのはとてもヘンです。人間関係というのは、楽しいからこそ自然に継続していくものです。楽しくなくなった時点で、その関係はおわり[#「楽しくなくなった時点で、その関係はおわり」はゴシック体]です。そもそも、会社の同僚や上司のように、与えられた人間関係ならいざ知らず、友人関係においては、誰とどんなつき合いをしようが個人の自由です。
自由のはずなのに奴隷のようなつき合いをしている人は多いものです。本人が気がつかないだけ、いえ、認めたくないだけです。その本人とは、自分の存在に自信がなく、自分は人の役に立つことをしなければきっと人から嫌われると思い込んでいる人です。こういう人は、自分が嫌いだと感じる人に、一生懸命尽くそうとします。その結果、自分が好きだと感じる人とつき合う時間がなくなってしまう、という生活をしているのです。
†人は好きな人からでないと、愛も理解も得られない[#「†人は好きな人からでないと、愛も理解も得られない」はゴシック体]
嫌いだと感じる人は、自分の悪いところを刺激する人です。あるいは、宇宙の法則に反することをしている人です。だから、気色悪いと感じて遠ざかりたくなるのです。私たちは、嫌いな理由を言語化できないだけで、実はちゃんとした理由があって「嫌い」という感情が発生しているのです(ただし、自分の中にもダークなものがある人はその限りではありません。拙著『他人にいい顔をして何になる』ドリームクエスト社、に詳しく書いてありますので、ご覧下さい)。不快なこと、気色悪いことというのは、宇宙の法則に反したことですから、そういう人からは勇気をもって遠ざかることです。
逆に、気持ちいい、美しいと感じることというのは、宇宙の法則と合致している、ということです。人は、宇宙の法則に合致しているものをおいしいとか美しいと感じるようにできているからです。楽しいことをする、というのは、宇宙の法則と同じことをする、ということです。
また、楽しいことをすると、自分自身の個性を知るヒントにもなる、というメリットもあります。なぜなら、自分の個性にピッタリのことをしている時も、人は気持ちいいと感じるからです。つまり、楽しいなぁ、うれしいなぁ、気持ちいいなぁと感じるのは、宇宙の法則に合っているか、または、自分の個性に合っていることをしている時なのです。
自分は何をしている時にもっとも悦びを感じる人間なのか、これを知ることは生きていく上でもっとも大事なことです。自分の快―不快の感情に忠実に生きた人だけが知ることができるのです。ですから人は、勇気をもって、楽しいことをしなくてはいけない[#「勇気をもって、楽しいことをしなくてはいけない」はゴシック体]のです。そして勇気をもって、好きな人とだけつき合うようにしないといけないのです。なぜなら、自分が嫌いだと感じる人とは友情を育むことはできないからです。そして、楽しくないことをどんなにやり続けても、たとえコンクールで優勝するようなことがあっても、何の意味も意義もありません。自分の個性に遠いことをして人は幸せになることはできません。また、「能力があること」イコール「自己実現」とは限りません。たいていは一致しているものですが、必ずしも一致しているとは限りません。
忘我の境地で楽しんでいるときは、間違いなく自分の個性を発揮している時です。人づきあいも同じで、ああこの人といると居心地がいいなぁ、いつまでも一緒にいたいなぁ、と感じられる人は、あなたのいいところを刺激する人だからです。あなたが「この人が好きだ」と感じるのは、あなたが安心とリラックスを得て、気持ちいいと感じているからです。そういう人が、あなたを理解できる人です。友情という愛情が得られるのは、あなたが好きだと感じる人からだけです。
ですから、「好きな人から好かれたらそれでいい」「目の前にいる人全員から好かれる必要はない」と思って行動することです。もし、私が提案するこの方法が宇宙の法則に合っていれば、あなたは、きのうよりも今日、今日よりも明日、生きやすくなります。生きやすい、と感じたら、その方法(生き方)は宇宙の法則に合っていたということですから、継続すればいいのです。これを繰り返すのです。そうやって現実を変えていくのです。
実践しなければ現実を変えることはできません。実践して、より悦びの多いほうを選択していくのです。これを無限に繰り返すのです。そうすれば、ひとりでに人生が楽しくなります。人の心は、もともと楽しいことをしたがるようにできていますから、自分の本心に忠実に生きると、必ず楽しい人生になります。自分の心を裏切ったままの努力は決して実りません。努力というのは、自分の本心に忠実に行動してこそ実るのです。自分にウソをついている人は、英雄体験の前に失格です。
†仕事の場合はどうするか[#「†仕事の場合はどうするか」はゴシック体]
ただ、そうはいっても、職場では、つき合いたい人とだけ話をする、というわけにはいきません。また、自分がしたい仕事だけするとか、自分が楽しいと感じる仕事だけをすることもできません。では、どう自分の心と折り合いをつければいいのでしょうか。
おおよその目安は、三〇%です。この値は人によっても違うので、あくまでも目安と思っていただきたいのですが、自分の自由にできる時間の三割までは、会社をクビにならないように、魂を売って「ご奉仕」する時間にあててもそれほど魂は汚れない、という値です。
たとえば、私の場合でいいますと、大学の教官の仕事は、教育(授業と卒論などの学生指導)と研究(研究および本や論文の執筆)、大学の運営(各種会議の他、推薦入試の時に面接官をするなど入試関係業務や入試問題を作成したり、採点したりする業務)、そして社会的啓蒙(講演する、新聞や雑誌やテレビで研究成果を発表するなどの社会還元)です。
大学は会議が多く、授業と会議の合間に研究や啓蒙活動をすることになります。しかも、入試問題を作る人がいなければ大学を運営することはできません。入試問題を作るのは(受験生もたいへんですが)、実はたいへんな作業です。時間もかかります。でも、誰かがやらないといけないことです。ですから、入試問題はたいへんだから作りたくないと心の奥が叫んでいても、当番がまわってきたら、やらなくてはいけないことです。
では、こういう本心に逆らった行動の結果、魂が汚れるかというと必ずしもそうではありません。たとえ合計して三割を超えても、理性がちゃんと納得していれば、心が汚染されることはありません[#「三割を超えても、理性がちゃんと納得していれば、心が汚染されることはありません」はゴシック体]。理性と感情は密接な関係にあるからです。理性が納得していることはとても重要なのです。だから私たちは、問題が生じたとき、何が真実なのか、冷静に客観的に分析する必要があるのです。理性が納得していれば、七割を越えても大丈夫です。
ただし、「理性で納得する」時に注意しなければならないのは、「言い訳することなく」という但し書があるということです。自己防衛機制の合理化などをしていたのではもちろんダメです。そうではなくて、理性できちんと理解し、おのずと納得できたことであれば、七割以上の時間が不本意なことで埋め尽くされても大丈夫です。「誰かがやらなくてはいけないのだから仕方ない」と、心の底から納得できれば、ストレスを感じることもありませんし、誇りさえもてるようになります。
しかし、理性が納得することなくイヤイヤながらする仕事の時間が全体の七割を超えると、精神衛生上きわめて危険です。ただこの七割という値も人によって違います。平均すると七割ということです。たとえば、対人恐怖の人が医者になると、患者が怖い、といって病院を休むことになります。こうなりますと、自分の仕事のすべての時間をイヤイヤながらすることになります。仕事をすることそれ自体が苦痛になりますので、たいへん危険です。
もし、言い訳というウソを自分について、やりたくないことを一生懸命にやってしまうと、たとえ実行している時間が短くても、あとで不快感や怒りが発生します。理性がきちんと納得して行動することは非常に重要なことなのです。
さて、大学の業務も、教務委員とか入試委員など激務と言われる委員をやりますと、会議や業務に携わる時間が全体の七割を超えてしまうことがあります。私も経験がありますが(会議のたびに体中にじんま疹が発生して死ぬかと思いました)、こういう状態の時は確かに困ります。私が会社員だった頃にも、そういうことがありました。
こういう時は、男にとって決断の時です。大学の場合は、教務委員をするのはせいぜい一年か二年です。期間限定ですから、なんとか持ちこたえられます。しかし、会社の場合は、どこに異動になるかわからない上、次に来る上司が理解ある人とは限りません。上司が交代してやれやれと思ったら、もっと無理解な上司が来ることがよくあります。こういうことが続くと、絶望感が強くなってしまいます。自分の人生に希望を感じることもできなくなります。そういう時は、このまま会社にいて、いつか誇りをもって仕事ができる状況になれる日が来るかどうかを基準にするといいでしょう。
男性には(これからは女性もでしょうが)こういう大きな決断の時が何度も訪れます。そういう時は、給料や地位よりも、未来において誇りがもてる生き方ができるかどうかを考えて決断をすると間違えることはありません。誇りは命よりも大事なもの[#「誇りは命よりも大事なもの」はゴシック体]だからです。
†挑戦し続けることが大事[#「†挑戦し続けることが大事」はゴシック体]
転職をする場合、注意しなければならないことが一つあります。それは、どうせこんな会社に履歴書を送っても自分のような者を採ってくれるはずがない、こんなことをしても実現するはずがないと、行動を起こすことをやめてしまうことです。どうせこんなことをしてもダメにちがいない……というひねくれた発想をすると魂が汚れてしまうからです。
会社案内をみてピンと来た会社、あるいは、入りたいなぁと思った会社は、全部に応募することです。挑戦をし続けることが重要なのです。なぜなら、魂は、チャンスがあるのに何も行動しないということでも汚れるから[#「魂は、チャンスがあるのに何も行動しないということでも汚れるから」はゴシック体]です。人は、応募し続けることで、つまり未来の幸福に向かって挑戦し続けることで誇りが保てるのです。ダメでもともと、という発想で、いいと思ったことはどんどんやり続けないと、たちまち魂は汚染されてしまうのです。
男性は常にチャレンジャーであり続けなければならない[#「男性は常にチャレンジャーであり続けなければならない」はゴシック体]のです。挑戦をやめた瞬間から、魂は腐っていきます。こんなことオレにできるわけがない、と思った時点で負けが決定してしまうばかりか、魂も激しく汚染されてしまうのです。
自分の能力や自分の未来を信じ切れた者だけが、自分の能力を引き出すことができる[#「自分の能力や自分の未来を信じ切れた者だけが、自分の能力を引き出すことができる」はゴシック体]のです。自分の能力というのは、本来未知なる能力です。能力が開花する前に、「たいした大学を出ていない自分に、こんなことできるわけがない」とか「今まで誰もやったことがないのだから、自分にできるわけがない」と思ってしまったら、永久にその能力は開花しなくなります。
隠された未知の能力の存在を信じ続けた者だけが、試行錯誤の末に掘り当てることができるのです。それが、未来が拓けてくる、ということです。人生に「棚からぼた餅」はありません。努力した分しか実りません。逆に言えば、おのれの誇りのために努力したことは全部報われます[#「おのれの誇りのために努力したことは全部報われます」はゴシック体]。誇りが持てる、という意味では、自分のした努力はすべて実ります。
重要なことは、就職先が見つかった、とか、すごい才能が見つかった、という結果ではありません。より良い人生のために前向きに努力したかどうか、という姿勢なのです。この姿勢さえあれば、自分が不合格になっても、合格した友人を祝ってあげることができるようになります。同じ大学を受験した場合など、心から祝ってあげることはなかなかむずかしいことですが、しかし実際にやってみると、結構できるものです。見栄のために努力しているからできないのです。
チャレンジャーであり続ける自分に誇りが持てるようになったら、たとえ自分が失敗した時でも友人の幸せを祝うことは可能です。ここが人間の不思議なところです。むしろ、悦びを分かち合うことで、元気や意欲が出てきます。人の心は、元来そうなるようにできているのです。
こういう人生を送っていると、楽しいことだらけになります。夢とロマンに生きる男なら、たとえ夢が実現しなくても人生が楽しくなってきます。楽しくなれば魂はキレイになります。だから、チャレンジャーである自分に誇りが持てることが重要なのです。チャレンジ精神は、英雄体験をする上で、なくてはならないものです。
†嫉妬は怠慢に由来する[#「†嫉妬は怠慢に由来する」はゴシック体]
嫉妬は、生きている証のようなものです。人間は生きている限り、嫉妬と縁が切れることはありません。しかし、嫉妬による意地悪行為は、誇りを持っていない者がやる行為です。誇りが持てないのは、人生に成功していないからではありません。チャレンジャーであり続けないからです。チャレンジャーであることから脱落すると、たとえどんなに社会的に成功していても、嫉妬し、誹謗中傷したくなるのです。繰り返しますが、自分の未知の能力を信じて未来のために努力していないから誇りが持てないのです。そして挑戦者であり続けないから人を悪く言いたくなるのです。具体的な提案ができないのに人の批判ばかりしている人は、(もっとも本人は正義で批判しているつもりでいますが)男として最低です。
それゆえチャレンジャーでなくなった人は、自分を信じて努力している人を見ると、腹が立ってきます。腹が立つのは、努力しない自分、そして、埋もれている能力を信じない自分に腹を立てているからです。だから、余計に陰湿になりますし、いじめてもいじめてもスッキリしないのです。こういう自分の努力不足を棚にあげたイジメは著しくおのれの魂を汚します。英雄体験をする資格はありません。
ただ、嫉妬するなと言ってもしてしまうものですし、また、チャレンジャーであっても多少は嫉妬はします。嫉妬するのは幸せでない証拠ですが、そういうメカニズムがわかっても、なかなか嫉妬をやめることはできないものです。そういうときの秘訣を教えましょう。
それは、自分が何(誰)に対してどんな嫉妬をしているのか、とことん見つめることです。嫉妬している自分を見つめることは、たいへん辛いことです。しかし、三日間でいいですから、じっと毎日直視し続けてみてください。勇気のある人しかできませんが、四日目には、「やる気」に変わります。ウソだと思って、一度、試してみて下さい。自分の嫉妬心を正視するのです。二日目でやめるから、いっそう辛くなるのです。三日間見つめ続けたら、必ず、意欲に変わります。
†英雄体験を妨げるものA[#「†英雄体験を妨げるものA」はゴシック体]――人の痛みがわからない[#「人の痛みがわからない」はゴシック体]
英雄体験をするのを妨害する要因がもうひとつあります。これが欠けている人には英雄体験はむずかしいという項目です。それは、思いやりの心です。相手の心の痛みがわかる、ということです。これがまったくできない人がいますが、こういう人は英雄体験をすることはできません。
たとえば、くわえタバコです。歩きながらタバコを吸う人、自転車に乗りながらタバコを吸う人、よく見かけますね。くわえタバコをしている人の大多数は、吸い殻を道路にポイと捨ててしまいます。無神経な男性の典型です。くわえタバコをすることが悪いのではなく、人の迷惑を考えないことが問題なのです。携帯用灰皿を用意しない無神経さが問題なのです。タバコの吸い殻一つくらいで誰が迷惑するんだ、という無神経さは、宇宙の法則に反します。
こんな実話があります。ある男性が人混みの中で、ぶら下げた手にタバコを持っていました。近くにいた三歳の少女が振り向いた瞬間、少女の目にタバコの先端が当たってしまったのです。大人の指の位置と、子どもの目の位置が等しいのです。そのため、当然のことながら、こういう事故は起こるべくして起こります。かわいそうなことに、その少女は両目とも失明してしまいました。これほど悲惨でなくても、手に持ったタバコが他人の腕に当たってやけどをさせるとか、服に当たって穴を開けるという事故はよく聞きます。私もYシャツを焦がされたことがあります。
誰でもがこのような事故を容易に予測できるものですが、それでも人混みの中で平気でタバコを吸える無神経さが問題なのです。こういう、人の痛みに思いを馳せることのできない人は、英雄体験をすることはできません。人を思いやることができるかどうかではなく、あくまでも、思いやろうとする心がないことが問題なのです。人の痛みがわかり、人を思う気持ち(=人の幸せを願う気持ち)があれば、くわえタバコをしたり、ポイ捨てをすることはありません。
繰り返しますが、くわえタバコがいけないのではありません。誰にも迷惑をかけないところで吸うのはもちろんかまいません。吸い殻を持ち帰る気遣いがあれば、何の問題もありません。傍若無人な態度が問題なのです。人と人とが仲良くやっていくためには、相手の事情や都合を尊重することが大前提です。それが思いやり、というものです。
†無人の店がなくなりつつある![#「†無人の店がなくなりつつある!」はゴシック体]
田舎の道をドライブすると、「無人の店」がよくあります。テントの下に、くだものや野菜などが置いてあって、自分が買った分だけ料金を入れる、というシステムです。しかし、これが最近、激減しています。なぜなら、お金を入れずに品物だけ持っていく人が増えたからです。ひどい場合は、料金箱まで持ち去られます。
これのどこが問題かといいますと、人の信頼を大きく裏切ることです。野菜やくだものを売る人は、相手を信頼して無人にしています。その信頼を裏切っていることが問題なのです。泥棒行為です。無人の店からくだものを盗み出し、それを恋人と一緒に食べる……おいしいはずがありません。なぜでしょうか。
魂が汚れるからです。そして宇宙の法則に反する行為だからです。誰にも見られなかったからいいだろうと思っても、自分自身が自分の泥棒行為を見ています。魂は著しく汚れます。そんな汚れた状態で愛を語ることはできません。なぜなら、人を愛することは宇宙の法則そのものだから[#「人を愛することは宇宙の法則そのものだから」はゴシック体]です。つまり、彼女の見ていないところでは宇宙の法則に反する行為をしておきながら、彼女の前では彼女を愛するという宇宙の法則そのものの行為ができるほど、人間は器用にはできていないのです。
もっとひどい例をご紹介しましょう。私の体験です。
ある日、私は、自家用車で、高松卸売市場前の交差点で信号待ちをしていました。その時、大型トラック(魚を運搬する大型トラック)に追突されてしまったのです。すごい衝撃でした。まるで大地震に遭遇したかのような揺れでした。
トラックを運転していたのは、斉藤道夫(仮名)という昭和五十一年生まれの、当時二十四歳の男性でした。「すみませーん。脇見運転してましたぁ。パトカー呼ばないでください。弁償しますので」と低姿勢です。私は急いでいたこともあり、請求書(見積書)を送ったら銀行に振り込む、という約束をかわして別れました。
ところが、請求書を送ったにもかかわらず、待てど暮らせど振り込みがありません。携帯に電話しても「現在この電話は使われておりません」というメッセージになっています。「ヤラレタ!」と思いました。計画的犯行です。人をだますのに慣れている人なのでしょう。
そこで、トラック横に書かれていた『徳島県|撫養《むや》町・斉藤産業』(仮名)に電話しました。彼の父親が社長でした。これで払ってもらえると思ってほっとしたのですが、浅はかでした。息子は確かに斉藤道夫だが、事故のことは聞いていない、知らぬ、存ぜぬ、の一点張りです。逆ギレまでする有様です。この子にしてこの親ありか、と私はひどく落胆しました。パトカーを呼ばなかった私の落ち度です。住所の読みの通り、うやむやにされたのです。
家族がグルになっているのです。世の中、家族ぐるみで極悪であることは珍しくありません。そのため、多くの信用調査会社は、新規に携帯電話やクレジットカードの申請がある場合、本人のみならず家族全員の調査をします。もし家族の誰か一人でも電話代やクレジットカードの支払いを滞納していることが判明すると、その申請を却下するのです。家族の中に一人でも滞納するような不誠実な人がいると、親兄弟も不誠実である可能性がきわめて高いからです。もし、支払いを催促する電話をした時、滞納している人が逆ギレしたりすると、その発言内容も信用調査会社に記録されます。そこまでして支払能力をチェックし記録していくのです。
結局、クルマは弁償してもらえず、不安神経症だけが残りました。事故のトラウマができてしまったのです。追突されたショックが消えず、自宅の近くにある、事故現場(交差点)に来ると、また追突されるのではないかと、不安が襲うようになったのです。理屈ではそんなことはない、とわかっていても条件反射的に不安が襲ってくるのです。PTSD(心的外傷後ストレス障害)が治るまで半年かかりました。
†人の不幸の上に成り立つ幸福はない[#「†人の不幸の上に成り立つ幸福はない」はゴシック体]
私に追突したのに弁償金を払わなかった斉藤道夫(仮名)は、浮いた金で、何をしたのでしょうか。恋人へ指輪でもプレゼントしたのでしょうか。修理費は十万ほどでしたから、相当いいプレゼントができたはずです。仮の話ですが、人に悲しい思いをさせて買った指輪をもらって、恋人はうれしいでしょうか。彼女を思う気持ちは伝わるのでしょうか。そもそも、こんな人に愛はあるのでしょうか。人を不幸にしておいて、自分だけいい思いをすることはできるのでしょうか。
当て逃げ犯という犯罪者に成り下がってしまった斉藤道夫(仮名)ですが、実は、世の中、人に悲しい思いをさせて自分だけいい思いをすることはできないようにできています。世の中はそれほど甘くはありません。人の不幸の上に成り立つ幸福はない[#「人の不幸の上に成り立つ幸福はない」はゴシック体]のです。
どういうことかと言いますと、たとえば、妻子を捨てて、若い女と駆け落ちした男性が、新しい家庭を作って幸福に暮らすことはできない、という意味です。捨てられた妻子が悲しみのどん底にいるのに、若い女の子と楽しい家庭を作ることはできない、という意味です。自分が人に与えた不快感は、いつか必ず自分に返ってくるのです[#「自分が人に与えた不快感は、いつか必ず自分に返ってくるのです」はゴシック体]。いえ、誰かが新しい家庭を壊しに来るからではありません。おのずと崩壊するのです。一人の女性を愛することのできなかった男性が、まして、女性を泣かせるような男性が、他の女性を愛せる道理がありません。だから、何度、若い女と駆け落ちしても、いい家庭は作れないのです。
人の不幸の上に成り立つ幸福はないのです。人の幸福の上に自分の幸福が成り立っているのです。これも宇宙の法則です。
†過去の行いがバレる[#「†過去の行いがバレる」はゴシック体]
さて、斉藤道夫(仮名)のような不誠実なことをしていると、体から、「過去、不誠実なことをしてきたサイン」が発信されるようになります。そして、人は、こういうサインをするどくキャッチして生きています。無意識ですが、人は、ちゃんとキャッチしているのです。いい女は、特にこういう「気色悪いサイン」には敏感です。
その気色悪いサインに惹かれる女性は、同じように不誠実に生きている女性です。人は、宇宙の法則に反することをしていると、気色悪いサインが出るようになるのです。どんなに表面だけ取りつくろっても、過去の悪行がバレてしまいます。ふだん仲良くしていても、なんとなく一緒に酒を飲みたくないな、一緒にお茶をしたくないな、という印象を与える人になるのです。これは大きな損失です。なぜなら、愛と誠実さをもっている人ほど、気色悪いサインには敏感だからです。つまり、愛情深い人ほど、気色悪いサインを出す人から遠ざかるからです。お金には換算できない損失です。幸福が遠ざかるのですから。
では、誠実に生きている人はどうでしょうか。この場合は、逆に「気持ちいいサイン」「近寄りたいサイン」が体から発信されるようになります。男の顔は履歴書といいますが、体も履歴書なのです。しかも、愛情深い人ほど、寄ってくるようになります。
だから、人はうんと幸福な人生を歩むか、うんと不幸な人生を歩むかのいずれかになるのです。
†愚痴や悪口もご法度[#「†愚痴や悪口もご法度」はゴシック体]
愚痴と悪口も禁止事項です。なぜ、愚痴と悪口がダメなのかというと、自己否定(拒絶)と他者否定を同時にすることだからです。自分を受け容れられない人が人を受け容れられる道理がありません。人は、「楽しい自分」しか受け容れることはできません。愚痴は、自分自身を受け容れられない人がする行為です。いえ、自分自身を受け容れられないからする行為です。
そして、愚痴や悪口を言い合うことで、自分自身のみならず、話している相手の存在をも否定するのです。つまり、一緒に誰かの悪口で盛り上がっているその相手をも拒絶してしまうのです。恐ろしい関係です。でも、もっと恐ろしいことは、その盛り上がっている相手からも拒絶されることです。互いに否定し合ってしまうのです。これが愚痴と悪口の恐ろしいところです。
なぜこんなことになるのでしょうか。その場にいない誰かの悪口を言い合っているのですから、一緒に盛り上がっている相手を否定しているわけではないのですが、しっかり相手を否定してしまうのです。なぜなら、愚痴や悪口というのは、「現状に不満がある、よって現実を受け容れたくない」というものだからです。不満があるというその現状の中に、一緒に盛り上がっている相手と自分が含まれてしまうのです。愚痴を言いたい人というのは、自分自身を受け容れられなくて、自己否定してしまっている人です。自己否定をさらに強化するのが愚痴の会話ですから、当然、相手をも受け容れることはできません。愚痴や悪口を言うことで、たとえその時はスッキリしても、ますます自分を受け容れられなくなってしまうのです。その証拠に、愚痴や悪口で盛り上がった後というのは、必ず暗い気分になったり、落ち込んだりします。
もし、逆に、自己実現したり、悦びの共感の会話をした時は、数日後に元気になります。宇宙の理にかなったことをすると、人は元気になるのです。宇宙の法則に逆らったことをすると、人はストレスがたまり、気分が沈むようにできているのです。
私たちの体の成分は、地球の地殻の成分とよく似ています。人は土から生まれ、土に還る、という言葉通りです。地球も宇宙の一部ですから、私たちも宇宙の一部です。だから、私たちの体は宇宙と同じ法則で動いています。私たちの心もまた、宇宙と同じ法則で動いています。だから、宇宙の法則に逆らったこと、たとえば、人の不幸の上に自分の幸福を築こうとしても無理なのです。|何人《なんびと》も宇宙の法則には逆らえません。この世で悪いこと、というのは、宇宙の法則に逆らうことを言います。悪いことをすると、天罰はひとりでに下ります。憎まれっ子世にはばかる、と言いますが、出世しても、心の中は不満でいっぱいです。外見上は威勢がよさそうでも、心の中は怒りやさみしさでいっぱいなのです。人に与えた不快感は、必ず巡り巡って何倍にもなって自分に戻ってくるからです。天罰とはこのことです。
愚痴や悪口で盛り上がる、という行為は、宇宙の法則に反する行為なのです。同様に、人を恨んだり、憎んだりする行為もご法度です。恨むというのはさらに強烈な相手に対する否定です。復讐をしてもむなしいのはそのためです。何よりの弊害は、誰かを憎んでいる間は、誰をも愛せない状態になってしまう、ということです。人と愛を語れなくなってしまうのです。人を愛する悦びを奪われては幸福に生きることはできません。愚痴や悪口で盛り上がる行為や、誰かを憎んだり恨んだりする行為というのは、幸せに背を向ける行為なのです。
†陰徳を積む[#「†陰徳を積む」はゴシック体]
悪いことをやめること、つまり、宇宙の法則に反することをやめることは、いいことをするよりもむずかしいものです。でも、むずかしいからといって、悪いことをやめないでいいことをしても効果はありません。悪いことをやめるのが先決です。極端に言えば、悪いことをやめればひとりでに人は幸せになるものです。しかし、いい男になるには、それだけでは足りません。今度は、魂をきれいにする作業が必要です。
そこで、次のステップは、「陰徳を積む」、ということです。悪いことをやめるのが第一段階なら、次の第二段階は、魂をキレイにする、ということです。
さて、その陰徳ですが、これは、人知れずしていいことをすることです。いいこと、というのは、もちろん宇宙の法則に一致した行動ということですが、陰徳というのは、積極的に命を尊重する、ということです。あるいは、積極的に自然の営みがうまくいくように協力する、ということです。自然保護と言い換えてもいいものです。たとえば、道ばたに落ちているゴミを拾う、窓から出られなくて困っている蝶がいたら逃がしてあげる、捨て猫が寄って来たら撫でてあげる、という行為です。いずれも、ちょっとしたことです。そのちょっとした気遣いがあなたの魂をキレイにするのです。
陰徳を積むのは、魂をキレイにするのが目的ですが、これをしたら魂がキレイになる、という考えで行ってはいけません。これでは物々交換のような契約関係になってしまいます。ただ、そうはいっても、はじめのうちは、どうしても陰徳を意識したり、見返りを期待してしまうことでしょう。意識するな、といっても無理ですから、はじめは形から入る、ということでも結構です。たとえ形から入ってもそれが宇宙の法則に合致していれば、必ずその行為が板についてくるからです。つまり、自然にそれができるようになります。人は、うれしい行為は何度も繰り返すようにできているからです。
陰徳というのは、自分の誇りのためにするもの[#「陰徳というのは、自分の誇りのためにするもの」はゴシック体]です。誇りというのは、本来、自分自身に対して誇るものです。人に自慢するのは見栄です。見栄のために行動してはいけません。また、人から褒められることをねらって行動するのもダメです。そういう下心のある行動は魂を汚します。金メダルを取るためにがんばったのでは、英雄体験という意味では何の効果もありません。好きなことをした結果、たまたまオリンピックで金メダルをとるのはいいことです。魂がキレイになったかな、とか、金メダルとれるかな、などと、結果や見返りを気にしているようではまだまだ自分の悦びのために行動しているとは言えません。
また、陰徳は、毎日やり続けないとダメです。なぜなら、人の魂は汚れやすいからです。陰徳を積むことで、人は常に魂を清らかにする必要があるのです。でも、心配することはありません。人はうれしいこと、楽しいこと、気持ちいいことをしたくなるようにできているからです。陰徳を実行することは悦びですから、自然とやり続けることになります。やがて、「生きることイコール陰徳を積むこと」になります。
†人にも親切にしよう[#「†人にも親切にしよう」はゴシック体]
陰徳の基本は、人知れずしてやる行為です。でも、だからといって、人に知られたらダメなのかというと、そんなことはありません。人に誠心誠意、真心を込めて接することも陰徳です。
第一に心がけることは、約束を破らない、ということです。約束を破ることは、相手からの信頼を裏切ることですから、もっとも魂が汚れる行為です。猫と約束したことも、破ってはいけません。自然の中では、人も猫も等しい存在だからです。
たとえば、神社にいる捨て猫に、今晩エサをもってきてあげるね、と言ったら、たとえ雨が降ろうが、雪が降ろうが、エサを持っていかなくてはいけないのです。行くことで、あなたの魂が清くなるのです。寒いから明日にしよう、と約束を破ると魂が汚れます。タクシー代を一万円払っても、猫にエサを持っていくことが重要なのです。魂が汚れ、気色悪いサインが体から出るマイナスを考えれば、一万円は安いものです。もし、今晩、用事が入ってエサを持って来られなくなる恐れがあるのなら、はじめから約束しないことです。相手にいい顔しようとして、できもしない約束をするのが一番いけないことです。
また、レジで店員さんから釣り銭を多く渡された場合も、正直に申し出ることです。まったく気がつかなかった場合は仕方がありませんが、気がついた場合はその場で言うことです。もし、家に帰ってから釣り銭が多いことに気がついた場合は、すぐに返しに行くことです。五百円を返しに行くのに、バス代が往復で六百円かかったとしても、行かねばなりません。後日、その店の前を通った時に返しても結構ですが、一番魂が清らかになるのは、すぐに返しに行くことです。
そのほか、目の不自由な人が横断歩道を渡れなくて困っていたらエスコートして差し上げるとか、神社の境内の下刈りをするなど、いくらでも陰徳のネタはあります。
親切にする、というのは、本来、親切にされる側よりも、親切にする側のほうがうれしいのです。困っている時に助けられた悦びよりも、助けた人のほうがより多くの悦びを得ているのです。逆に言えば、親切にした人は、困っている人から幸福を与えられている、とも言えるのです。
†一回くらいはいいだろうもダメ[#「†一回くらいはいいだろうもダメ」はゴシック体]
さて、先ほど、猫とした約束でも守らなければダメだと申し上げましたが、一回くらい約束を破っても許されるだろうと考えるのは、浅はかです。これもダメです。釣り銭をごまかすのも、少額だからいいだろうとか、誰にもバレないのだから一回くらいは許されるだろうというのもダメです。今月はお金がないから釣り銭を余計にもらっても許されるのではないか、という言い訳もダメです。たった一回の言い訳や裏切り行為が、あなたの心をダークなものにしてしまうからです。
一回の悪い行いは、一〇〇回の良い行いに相当します。ですから、やると決めたら徹底して清く生きないと効果はありません。たった一回の不誠実な行為が、心を汚し、気持ち悪いサインとしてあなたの体から発信されてしまうからです。「天知る、地知る…」という諺の通り、誰にもバレていなくても、自分自身にバレているのです。自分に対する信頼というのは、一〇〇%でないといけません。
考えてもみて下さい。もし、ここにスリル満点のジェットコースターがあっても、一〇〇回に一回は脱線してしまうとしたら、あなたは乗るでしょうか。約束を守る、というのはそういうことなのです。ものごとは何でも、やるなら徹底してやることです。
また陰徳といっても、自己満足だけで終わってしまうと危険です。なぜなら、動機が善でも、相手が迷惑を受ける行為ですと、誇りを持つまでには至らないからです。どこかで宇宙の法則に反しているのです。動機が善だからといって、必ずしも宇宙の法則に合致するとは限りません。善意が人を殺すこともあるのです。そこまで極端でなくても、親切の押し売りをしたのでは、その行為でもって誇りを持つことはできません。
でも、そうはいっても、自分の行動を何から何まで完璧にチェックすることはできません。何を基準に、独善的になっていないかどうか、あるいは、親切の押し売りをしていないかどうかを判断すればいいのでしょうか。
それは、例によって、「私もうれしい、あなたもうれしい」という関係が成り立っているかどうかです。もし、相手が迷惑するような親切をしていたのでは、相手から心のこもった「ありがとう」という言葉は返ってきません。前述しましたように、私たちは、顔の表情や言葉のみならず、体から自分の心の状態を表すサインを出しています。相手がほんとうに悦んでいたら、その悦びのサインを容易に察知することができます。
もし、察知することができなくても、また(あなたが)それをしたくなる、という願望でもいいです。無意識のうちに相手からの悦びのサインを受け取った証拠です。もちろん、相手もまたそれをしたくなります。相手からのリクエストも重要な証拠です。
猫を撫でることを例に考えてみましょう。あなたが猫を撫でたとしましょう。もし、猫が悦んだら、あなたにスリスリしてきます。その時、あなたは、もっと猫を撫でたい、という気分になっているはずです。なぜなら、猫から「気持ちいいよ」「撫でられてうれしいよ」というサインが来ているからです。その悦びのサインを受け取るから、もっと撫でたくなるのです。そして、うれしくもなります。うれしさというのは悦びですから、ますますやさしく愛情を込めて猫を撫でるようになります。猫は、あなたに、より情熱をこめてかわいがられるので、ますます親愛のポーズをとるようになります。ますますあなたはうれしくなって、ますます猫もうれしくなります。こうして、猫とあなたとの間にポジティブフィードバック回路が成立し、撫でれば撫でるほど気持ちよくなれるのです。人と猫でもこれだけ交流できるのです。だから、一時間くらい猫を撫でることができるのです。
もしこれが写真の猫だったら、どんな猫好きの人でも苦痛です。写真の猫では、こうしたポジティブフィードバック回路が成り立たないからです。
人と人ともまったく同じ原理で交流できます。それが友情であり、恋愛であり結婚です。楽しいことは必ず相互通行になります。誰か一人だけ楽しくて、まわりの人たちは憮然としている、ということはありません。もし、そういう状況が出現したら、それは、ひとりよがりになっている証拠です。
†常識に縛られる男、美学を貫く男[#「†常識に縛られる男、美学を貫く男」はゴシック体]
第二段階で、もうひとつ注意することがあります。それは、常識に縛られたり、常識に惑わされてはいけない、ということです。非常識なことをしろ、というのではありません。自由にものを考え、自由に生きてほしい、ということです。常識にしばられると自己改革はできない、ということです。なぜなら、改革それ自体が非常識なことをすることなのですから。
非常識なことをするのが改革ですから、常識に縛られた人がリーダーになったのでは必ず失敗します[#「非常識なことをするのが改革ですから、常識に縛られた人がリーダーになったのでは必ず失敗します」はゴシック体]。ですから、もし、あなたが修行をしていて、私もうれしい、あなたもうれしい、という関係が成り立ったとき、自分のしていることが世間一般の常識からはずれていないかどうかは、考えなくていい、と言いたいのです。みんなにウケる生き方ではなく、自分にウケる生き方をするのです。
たとえば、猫を撫でるのが楽しくて、雨の日も風の日もエサを持って神社を訪れても、別に非常識ではありません。人に軽蔑されようが、変わり者と言われようが、そんなことをするのはあなたぐらいだと数の論理で批判されようが、そういうことに惑わされてはいけません。世の中には、常識に縛られて生きる男と、自分の美学を貫く男と二種類の男性がいます。常識の中で生きようとする男と、自分の信じた道を歩もうとする男です。世間の常識という借り物の価値観を自分の哲学にしてしまっている男と、自分の経験をもとに独自の価値観を創造する男です。虎の威を借るキツネのような男と、自分の美学が最高だと誇りを持っている男です。換言すると、ブランドを身につけようとする男と、ブランドになろうとする男です。
数的には、前者が圧倒的に多いのですし、当人は、自分は常識をわきまえたまっとうな人間であると思い込んでいます。こういう人は、信念で生きようとする人をうさんくさく思います。常識からはずれたものはみんなうさんくさいと感じる人なのです。自分に理解できない人を嫌悪する傾向の強い人です。自分に常識という制約を課しているので、自分の美学を実現させて生きている人がうらやましいのです。嫉妬するくらいなら、常識という柵から外に出ればいいようなものですが、それができないから、「常識」を自分に強要しているのです。だからこそ人にも強要したくなるのです。年をとるにつれ、当人は、常識を身につけた紳士になったつもりで生きていますが、実際には、どんどんつまらない人間になっていくのです。話をしてもちっとも面白くない人です。年齢相応の含蓄のある話がまるでできないからです。こんな人では、困った時に相談しに行こうとは誰も思いません。行ったところで、常識的な答えしか返ってこないからです。
†つねに非常識が次の時代をつくってきた[#「†つねに非常識が次の時代をつくってきた」はゴシック体]
ライト兄弟よりも十二年も早い一八九一年に、ゴム動力の烏型飛行器(無人)を作った人物が日本にいました。二宮忠八(一八六六年、愛媛県八幡浜市生まれ)という人です。有人飛行を実現すべく軍に上申書を提出します。日清戦争中のことでした。しかし、軍の幹部から、人間が空を飛ぶなんて非常識だ、そんなのは夢物語だ、と一蹴されてしまいます。ちょっと考えてみれば明らかですが、科学や技術はもちろんのこと、私たちの世の中は、つねに過去の常識を壊しながら現在に至っています。非常識なことが次の時代をつくってきた[#「非常識なことが次の時代をつくってきた」はゴシック体]のです(ただし、それがいいことだったかどうか、という価値判断は、ここでは問いません)。保守的な人はどの時代にも圧倒的多数の存在として君臨して、新しいものの出現を妨害するのです。何十年かしないと、妨害だったのか智恵のある制止だったのかは、判断できないことが多いのです。
困ったことに、保守的な常識人は、妨害しているという自覚はまったくありません。むしろ、いい決断と判断をしたと信じ切っています。反省もしません。先ほどの、飛行機開発の提案を却下した軍の幹部もそうです。常識という借り物でものを考えているのに、人のふんどしで相撲をとっているおのが姿に気がつかないからです。そういう人が、したり顔で人に説教したがる人です。自分独自の哲学や美学をもっていないという不安が人を説教マンにさせるのです。
でも、自分独自の哲学がない人ですから、当たり前のことしか言わないし、情けないことに、「そんなことでは世間では通らない」「世間の人に笑われる」「世間から批判を受けてしまう」と、世間の目ばかりを気にした発言をします。聞いているほうがウンザリします。今どき、中学生でもそれくらいの常識は知っています。知っていることを重々しく言われてもシラけるだけです。常識人は、必ず他人を引き合いに出します。いえ、そういう注意の仕方しかできないのです。たとえば、「学生諸君、世間が君たちを見ているから、非常識な行動を慎みなさい」(これは実際、地方の某国立大学の通用門に貼ってありました)などというのは、実は説教でも注意でもありません。こんな無責任な説教では誰も聞こうとはしません。
人に説教するときや人に注意するときは、おのれの責任においてするのが礼儀というものです。自分の過去の経験で得た哲学や美学で「これは宇宙の法則に反する」と思ったことを説教しないと、誰も言うことを聞きません。時間の無駄になります。ヘタの考え休むに似たり、というのは常識人のする説教だからです。
常識人は、人からの批判を恐れて、決断をしない人です。いえ、怖くて決断できないのです。自分の責任でモノを言うことができない人です。自分で責任をとれない人は、何かコトが発生したら、必ず「逃げる男」になります。いいことが発生すると、自分が関与したと主張しますが、悪いことが発生すると、要領よく逃げる人です。あくまでも常識に身をゆだねることでしか人生を考えない人なのです。
そういう意味において、常識の盲点をついた『金持ち父さん 貧乏父さん』(ロバート・キヨサキ+シャロン・レクター著、筑摩書房)という本は、たいへん興味深い本です。私はお金儲けには興味はありませんが、「幸せ父さん、不幸父さん」あるいは「常識に惑わされない父さん、常識にすがりつく父さん」と改題してもいいような内容です。一読すれば、私たちがいかに常識に惑わされているかがわかります。常識を参考にして生きるのはいいですが、常識にすがっていると、人は幸せにはなれません。
もうおわかりですね、常識家というのは、実は最後まで責任をとれない人のことなのです。そして、偉そうなことを言うわりには、いざというとき、あなたのために一肌脱いでくれない人です。当然のことながら、こんな人にデカイ仕事はできません。もちろん、英雄体験も無理です。次の第三段階の自己実現も不可能です。そういう人にならないよう、常識というワナにはまっていないかどうか、自分をチェックする必要があるのです。
†自己実現[#「†自己実現」はゴシック体]――悦びの延長[#「悦びの延長」はゴシック体]
陰徳が自然にできるようになったら、今度は自己実現をすることです。これが修行の第三段階、最終段階です。
自己実現とは、自分がもっとも楽しく感じられることを実行する、ということ[#「自己実現とは、自分がもっとも楽しく感じられることを実行する、ということ」はゴシック体]です。簡単なことですが、実は勇気のある人にしかできません。人生楽しくない、という言葉はよく聞きますね。でも、楽しいことだけしたら、人生おのずから楽しくなるはずです。楽しいことをしないから、人生が楽しくないのです。単純な理由です。でも、勇気のない人は、あれこれ言い訳ばかりして、本意に反したことばかりしているのです。しかも、自分に勇気がないことを認めないために、事態を複雑にしていくのです。苦し紛れに、人間好きなことばかりしては生きられない、などと、したり顔で言うのです。
人生というのは本来単純なものです。常識にとらわれることなく、自分の美学を大事にすると、必ず自己実現することができます。なぜなら、うれしい、楽しい、気持ちいい、という悦びの中に自己実現のネタがあるからです。自分の快の気持ちを大事にするということは、自分の美学を形成するということと同義です。
しかし、テレビゲームが好きだからやる、というのは自己実現にはなりません。自己実現は、あくまでも現実世界でのことであることが原則です。現実世界とは、目で見て触われる、ということです。テレビゲームは、テレビのブラウン管は触われますが、ゲームの世界を触わることはできません。ですから、自己実現は、自分の手足を動かすことが基本となります。たとえば、ピアノを演奏する、スキーをする、テニスをする、絵を描く、といった行動です。
でも、テニスが人よりもうまい必要はありません。大事なことは、テニスを楽しんでいるかどうかです。成績を競うのではなく、誰がどれだけ楽しんでいるかを競う世界、それが自己実現の世界です。換言すれば、テニスをしている時の自分は、誰よりも楽しんでいるぞ! 最高に楽しめている! という世界です。悦びを人と比べる必要はまったくありませんが、楽しんでいることだけは誰にも負けない、と自信を持って言えることが重要なのです。
試行錯誤しながら、自分がもっとも楽しめることを探すのです。忘我の境地で楽しめることを探し続けるのです。寝食を忘れて楽しめることを求め続けるのです。忘我の境地になった時、もっとも自分らしくなっている[#「忘我の境地になった時、もっとも自分らしくなっている」はゴシック体]ものです。正確には、個性(能力)を一〇〇%発揮した時、人は我を忘れるのです。
なお、忘我の境地になれる内容については、年齢とともに変わる人もいますし、変わらない人もいます。たとえば、高校生の頃ギターに目覚めて、そのままプロの演奏家になる人もいれば、高校生の頃はギターに夢中だったけれど、大学ではピアノに夢中になり、社会人になってからは絵に夢中になった、という人もいます。その時々で、最高に楽しめることをすることが重要なのです。楽しむことが重要なのですから、コンクールで優勝する必要はまったくありません。うまく演奏する必要はないのです。人から認められる必要もありません。必要なのは、忘我の境地で楽しめることです。
†なぜ自己実現することが重要なのか[#「†なぜ自己実現することが重要なのか」はゴシック体]
自己実現と英雄体験はどこで結びついているのでしょうか。
それは、自己受容というところで関係しているのです。自己受容というのは、自分を受け容れる、ということです。この場合、受け容れるというのは、自分の宿命までをも受け容れるという意味です。原則として、私たち人間は、「楽しい自分」しか受け容れることはできません。換言すれば、仕事を楽しんでいる自分、仕事に自信を持っている自分、そういう誇り高い自分しか受け容れることができないのです。
宿命を含めて自分を受け容れられる人は、人のすべてを受け容れられる人[#「宿命を含めて自分を受け容れられる人は、人のすべてを受け容れられる人」はゴシック体]です。人を受け容れることは、人の愛を受け容れるはじまりです。つまり、友情のはじまりであり、恋愛のはじまりです。逆に言えば、自己受容できなければ、英雄体験はおろか、人間関係を作れないということです。宿命とは、持って生まれた運命のようなものです。バイオリンを弾く才能であることもあれば、マラソンをする才能かもしれません。でも、生まれながらにして目が見えないとか、耳が聞こえないという障害であることもあります。それもまた宿命です。
人は、いいことは悦んで受け容れられても、とんでもない両親の下に生まれたこととか、障害となるとなかなか受け容れることはできません。もし障害者として生まれた自分を恨んでしまうと、そこから怒りしか発生しません。怒れる自分を受け容れることはできませんから、ますますものごとは悪い方向に向かいます。宿命を呪い、いじけるばかりで、何もしようとはしなくなります。宿命を受け容れるとは、自分の障害を受け容れた上で、では、何をしたら楽しめるかを考えて実行することです。これができないからダメ、という発想ではなく、できることを探すのです。そして、できることの中で何が自分にとって楽しいかを探ろうという姿勢が重要なのです。
こうして、人生を楽しむことの延長で自分自身を受容する方向にもっていかないと、心ならずも人を拒絶ばかりしてしまって、英雄体験をする資格を失ってしまいます。ものごとは何でも、人のせいにしたり、人を責めてばかりいるうちは、何も解決しないものです。責任の所在を明らかにすることは大事ですが、現実を受けとめ、その状況から何ができるのかを考えない限り前には進めません。
†自分の能力を疑うな[#「†自分の能力を疑うな」はゴシック体]
第三段階で注意すべきことがひとつあります。それは、自分の能力を疑うな、ということです。
人の思考とは面白いもので、「自分には傑出した才能などないに違いない」という疑いの心でもって自分自身を見始めると、必ず「やっぱり何の才能もなかった」という結論に達する、ということです。うぬぼれが強いのも困りますが、こういう意味では、努力するうぬぼれやさんのほうが未来があります。
自分はこんな程度の、偏差値の低い大学を出ているから、大した能力などないだろうと思った瞬間に、才能は永久に封印されてしまいます。人の能力は、出身大学とはほとんど相関はありません。一流大学を出ていると優秀そうに見えますが、優秀そうに見えるだけで、実は大して変わらないのです。しかし、自分には何か能力があるだろうと思い込んでいるから、それなりに成功している人が多いのです。能力の差で成功しているわけではありません。思い込みの差なのです。
能力というのは、おのれを信じた者だけが開花させることができます[#「能力というのは、おのれを信じた者だけが開花させることができます」はゴシック体]。
社会はさまざまな能力を必要としています。受験勉強の才能は、何万とある能力のうちの一つにすぎません。だから学歴は能力の指標にならないのです。
学歴は「幻想」と言い切ったほうが適切です。
たとえば私が所属する日本動物学会は、学歴社会ではありません。相撲と同じく実力社会です。発表した論文の質と数で決まる世界です。独創的な研究をしていないのに、「ボク東大を出ました」などと言おうものなら、軽蔑されるのがオチです。実際、学歴と研究の能力は必ずしも一致するとは限りません。
人の数だけ個性がありますので、人にできなくて自分にできることが必ず一つ以上あるのです。しかし、当然のことながら、人にできて、自分にできないこともたくさんあります。ですから、「アイツにできて自分にできないことはないだろう」という発想は間違いです。生物学を無視した暴言です。アイツにできて自分にできないことがあるのが現実です。しかし、アイツにできないことで自分にできることがあるのもまた現実です。
そういうものを根気よく探すのです。そのヒントは、先ほど言いましたように、自分にとって楽しいことです。勇気をもって、楽しいことだけをした人が、最後に笑う人になるのです。つまり、自分の能力を発掘できるのです。人生の初期に見つかる人もいれば、晩期に見つかる人もいます。焦らず、自分を信じて探し続けることが大事です。砂に落ちたダイヤモンドを探すのと似ています。あるわけないさと諦めた人は、探し当てることはできません。いや、きっとどこかにあるはずだ、と根気よく探し続けた人だけが見つけることができるのです。最後に笑うのはそういう人です。
†自分らしくあることが一番美しく尊い[#「†自分らしくあることが一番美しく尊い」はゴシック体]
日本には、「普通の人」という不思議な概念があります。生物学的にはきわめて奇妙な概念ですが、普通の人、という言葉が通用しています。
普通の人、というのは、みんなと同じように感じ、同じように考える人がいいのだ、という発想です。みんなと同じでないと、変わっているとか、ハミダシ者とか陰口をたたかれます。個性豊か、というのは、まだまだ日本では市民権を得ていません。多数派こそ正統派という思想が根強いからです。先ほど説明した常識人です。会社などの職場においても「期待される人間像」という理想像があって、これに近い人がいいという風潮があります。社風というのはないようで結構あるものですが、その社風こそ、会社における「普通の人」(=期待される人間像)にみんな近づこうとする結果であることが多いものです。
しかし、この本でいう「いい男」は、普通の人をめざす人ではありません。もちろん、会社においても、会社の期待する人物になることを目標とする人でもありません。自分らしくあろうとする人です。自分らしくあることが自己実現するための大前提です。自分らしい生き方が、もっとも美しくかつ尊いのです。過去の偉人たちのように生きたいと願うことは別に悪いことではありませんが、個性が違いますので、自分らしくあることを最終的にはめざすべきなのです。
ただ、人生の前半においては、つまり個性が出る前は、自分が尊敬できる人の生き様を真似てみることは悪いことではありません。写真家や画家や音楽家など、芸術の分野では師匠がいます。その師匠を真似て真似て真似まくるのも一つの修行です。徹底して真似ると、そのうち、自分の個性が飛び出してきます。その結果、自分らしい芸術作品を作れるようになるのです。人のウケをねらって、期待される人間になろうとするのではなく、自分が気に入った人の真似をしてみるのは、実は、自分らしく生きるための一つの重要な方法です。
なぜ、師匠の真似をすると自分の個性が出てくるのでしょうか。
ポイントは、自分の気に入った師匠というところです。気に入らない師匠の真似をしたのでは、自分の個性は発掘できません。気に入っている師匠というのは、自分の美学と似ている、ということです。似ているから惹かれるのです。同じ美意識を持っているのです。それゆえ、「自分の気に入った師匠」は、自分の美学を刺激してくれる人なのです。自分の美学というのは、自分の個性そのものです。自分の個性を刺激してくれるから、最後に個性が飛び出すのです。
人の個性が一番美しくかつ尊いのです。それ以上に美しいものはありません。
†会社を利用して自己実現しよう[#「†会社を利用して自己実現しよう」はゴシック体]
誇りは命よりも大事です。砂漠の民、ベドウィンは、誇りのためには死ぬことも辞さない民族ですが、先進諸国の人々にはこの哲学はなかなか理解されません。なぜなら、組織のために貢献することを強要されすぎると、誇りが持てなくなるという社会システムが日本を含む先進諸国の文明だからです。
しかし、いい男というのは、誇り高き男なのです。誇りを持っていない男は、間違いなくダメな男です。男は誇りのために生きてこそ、魂が清らかになるのです。出世や成功や見栄のために生きると、魂は汚れてしまいます。いい男は、誇りのために生きた結果、成功したり、出世するのです。出世と誇りとでは、誇りのほうを優先させないといけないのです。誇りを守るためなら、出世を犠牲にしてこそ男です。
そうはいっても、二〇〇二年に起きた雪印食品の牛肉ラベル偽造事件のように、上司の命令で偽造しなければいけない事態に遭遇した時はどうしたらいいのでしょうか。
会社というのは、組織で動いていますので、上司の命令は絶対です。上司の命令に逆らったのでは、まちがいなく出世の道は断たれます。いえ、リストラでクビになるかもしれません。誇りのない上司ほど、自分に盲従する部下を好みますので、自信も誇りもない上司を持ったら悲劇です。滅私奉公を強要してきます。自分もこの方法で出世したんだからオマエもやれ、という論理で迫ってきます。道徳の時間に習った正義など、誇りを持っていない上司には通用しません。それが通用するのは、誇り高き上司だけです。でも、誇り高き上司なら、不正を強要したりはしません。ですから、不正行為を強要するのは一〇〇%誇りのない上司です。
では、このような体質の会社の中で、どう対処すればいいのでしょうか。
自分がこれからする行為に誇りが持てるかどうかで判断するしかありません。自分の美学で対処するのが原則となります。誇りが持てないと判断したら、勇気を持って辞めるしかありません。屈辱の中で働き続けると魂が汚れてしまいます。ただ、どうでもいいような小さな不正にいちいち目くじらを立てても意味はありません。微小の不正行為であっても、全体で誇りが持てる仕事であれば、目をつむるべきでしょう。でも、自分のしている不正が小さいか大きいかは、あなたの判断で決めるべきことです。
そもそも、サラリーマンは、会社に利用されてはいけません。会社というのは、あなたの自己実現のために利用するところ[#「会社というのは、あなたの自己実現のために利用するところ」はゴシック体]なのです。奴隷のように滅私奉公をするところが会社ではありません。もちろん、会社への貢献も大事ですし、会社から給料をもらうことも大事ですが、それ以上に、誇りを持って働けるかどうかのほうがはるかに重要なのです。
街の商店主であれば、一人の人間が動かせるお金は、数百万から数千万円程度ですが、大企業になりますと、一人のサラリーマンが動かせるお金は数億、時には何百億円にもなります。額が大きいからいい、ということではありませんが、たとえば、自分の夢を会社の金を使って実現するということは不可能なことではありません。
たとえば、会社が経営の多角化をねらっている時であれば、こんなアミューズメントパークを作りたい、こんな製品を作ってみたい、というあなたのアイデアを実現させることができます。あなたもうれしいし、会社もうれしい、そして、そこで楽しむお客さんもうれしい、という関係が現実になります。多角化路線でない時でも、あんな高効率のプラントを作ってみたい、という投資案が通るかもしれません。経済予測をして、綿密にペイアウト期間を計算し、役員を説得できるだけの根拠を提示すれば、いくらでも自分のアイデアを実現させることができます。会社というのは、よく見ると、こうした自分のアイデア実現の宝庫なのです。自分の提案が通るのは、とても気持ちのいいことです。
そんなことできるわけがない、うちの会社はアイデア実現の宝庫ではない、と諦めてしまうと、本当に泣かず飛ばずの、つまらないサラリーマンになってしまいます。自信や誇りなどとはもっとも縁遠いサラリーマンになってしまいます。
†私のサラリーマン体験[#「†私のサラリーマン体験」はゴシック体]
私が六年間サラリーマンをしていた会社は、日本石油潟Oループ(現、新日本石油)の基幹会社の一つである、日本石油化学梶i現、新日本石油化学梶jでした。入社二年目が日本石油の創立百周年に当たる年でした。私は三十歳の時、初めて会社というところに入りました。人よりも八年遅れての入社です。大学院の五年間とアメリカのテキサス工科大学に三年間、研究員 (Research associate) として勤務していたからです。原生動物の光受容のメカニズムについての研究をしました。
人は苦労したところの文化を吸収する、といいますが、私の場合、テキサス工科大学で苦労したことがたくさんあり、アメリカ的な感覚が身にしみついて帰国しました。そのせいか、六年間の会社員時代はずっとハミダシ者で、まるで帰国子女のような扱いでした。早い話が、日石の社員になりきれなかった落ちこぼれです。
時は八〇年代。欧米諸国からの技術導入の時代はとうに過ぎ、みずから研究をして製品を作っていかなければならない時代に入っている頃でした。それまでの日本の大部分の企業は、技術は欧米から買ってくるもの、という発想しかなく、新技術を作るという発想はおろか、新技術を生み出すための研究所もありませんでした(開発のための研究所はありましたが、基礎研究所はありませんでした。当時は三菱化成生命科学研究所[現、三菱化学生命科学研究所]と日立の基礎研究所くらいしかありませんでした)。
その代表が自動車産業です。パテントを見れば一目瞭然です。自動車の基幹部分のパテントはそのほとんどが欧米のものです。日本のクルマは故障が少ないという点ではきわめて優秀ですが、基本的なアイデアはみな欧米諸国のものです。悪く言えば、人のふんどしで相撲をとっているのが、日本の自動車産業の姿なのです。
マツダが苦労して開発した、そして日本が世界に誇れる、あのロータリーエンジンも、基本アイデアは残念ながらマツダのものではありません。パテントを買って作っています(それでもロータリーエンジンを実用化したマツダの情熱に敬意を表して、私は、ルーチェというマツダのクルマを買いました)。そんな時代でしたから、当時、産官学の研究所がたくさん集まっていたつくば市に研究所が必要だと私は考えました。独創的なアイデアで新技術を作るための基礎研究所設立構想を会社に提案したのです。
ところが、ウワサを聞きつけた多くの社員は、「日本石油は、できて百年たつけど、平社員が事業所(研究所)を作ったことは一度もない」とか、ある先輩は、「おまえは、高学歴なんだから、じっとおとなしくしていれば出世するんだ。事業所を作って成功しても出世が早まることはない。もし、失敗したら出世が遅れてしまうぞ。撤回したほうがいい」と真顔で忠告してくれました。日本石油の社員はいい人ばかりでした。みんな親切で私に忠告してくれたのです。それが痛いほどわかりました。
でも、当時の私は、会社の未来のために何が必要かを考えてそれを実行することしか頭にありませんでした。出世するという概念が当時の私にはまったくなかったのです。アメリカ式の戦略的やり方を吸収してきてしまっていた当時の私は(早い話が、根拠と論理がしっかりしていれば、必ず通るはずだ、と信じていた私は)、誰に何を言われても、自分の信じた道を歩むぞ、外野の声なんて、テヤンデェー、という感じで突っ走ったのです。直属の上司である課長は私の構想には大反対していましたが、それ以外の人は、中途入社の変わり者が何をしでかすのか、興味津々で見ていました。
†会社というのはわずか数十人が動かしているもの[#「†会社というのはわずか数十人が動かしているもの」はゴシック体]
後で知ったのですが、日本石油の基幹会社三社の社員は四千人ほどいましたが、実際に会社を動かしているのは、そのうちの数十名[#「実際に会社を動かしているのは、そのうちの数十名」はゴシック体]なのです。どの会社でもだいたいそんなものです。しかも、その数十名というのは、部長とか取締役とか、上層部の人とは限りません。平社員もいれば、課長や係長もいました。その数十名というのは、発言すると不思議とその意見が通ってしまう、という人です。そういう優秀な社員が目立つことなく各部署にいることで、会社は円滑に動いているのです。これを知ったときは驚きました。
なにしろ、それ以外の大多数の社員は、我こそは会社をしょって立っている人間だと思っていますが、実は、そんなうぬぼれの強い人は、会社を動かしているその数十人の人ではないのです。真の実力者とは、地位とは関係なく、会社にとって何が重要なのかを考え、それを進言し、根回しをして、自分のアイデアをさりげなく通してしまう人なのです。自分のことを未来の社長だ、などとは、はじめから考えない人です。個人を超えた動機で動いている人です。
私が、私利私欲で基礎研究所設立構想を訴えているわけではないということを聞きつけたこの数十名から(これも後で知ったことですが)、よく飲み会に誘われました。当時の私は、「こんな人がいるから会ってみないか」と誘われるままに会っているだけでしたが、その人たちこそ、会社における隠れた真の実力者たちだったのです。そういう人とは知らずに、私は基礎研究所の必要性を熱心に説いたのです。
研究所ができなければ、辞めるつもりでいましたので、私も必死でした。中にはひどい誤解をする人もいて、「岩月さんは、筑波大の大学院で博士号を取ったからつくばに研究所を作りたいんでしょ」などと言う人もおりました。悪気があっての発言ではありません。その人は、自己都合でしか動かない人だからこういう誤解をしたのです(その人は、東大卒の人でしたが、挫折して三十歳になる前に会社を辞めてしまいました)。
私が大学院に筑波大を選んだのは、たまたま、つきたい先生が筑波大の先生だったから、という単純な理由です。別につくばという土地が好きで大学や研究所を選んだわけではありません。学部の学生時代に、自分の美学に一番近い先生を探したところ、たまたまその人が筑波大で教授をしていたので受験しただけです。筑波大以外の大学院はどこも受けませんでした。卒論も、東京から引っ越しして筑波大でやったほどです。東京には三年しか住みませんでした。
誤解や無理解で、ずいぶん白い目で見られましたが、温かく支援してくれる人もいました。結局、おおかたの予想を裏切って、入社から二年後の春(構想を提案してから一年後)、小さいながらも、筑波研究所ができました。
†人間は本来保守的な生き物[#「†人間は本来保守的な生き物」はゴシック体]
できてみると、社内は、手のひらを返したような反応です。あれほど大反対していた直属の上司から、退職後は筑波研究所の非常勤の管理者(所長扱い)にしてくれないか、と頼まれた時は、目が点になりました。また、平社員が事業所など作れるはずがない、と言っていた人の中には、「いやぁ、岩月ならやると思っていたよ」などと言う人もおり、なんとまぁ人の心というのは勝手なものだと思いました。こういう現象は、どこの会社や地域社会でも見られることです。人間は本来が保守的な生き物だからです。
研究所ができてからは、新入社員教育を筑波研究所で開催したり、農水省の食品総合研究所(当時)や北大や山口大などの協力を得てパテントを取得したりしました。私自身も基礎研究を続け、筑波研究所時代の四年間に、七本の論文が国際科学誌(査読制度のある国際誌)に掲載されました。もちろん、応用研究もやりました。抗菌剤や抗生物質の研究をしてパテントも申請しました。
でも、いいことばかりではありませんでした。誤解や無理解もありましたし、妨害までありました。しかし、一方で、協力、支援してくれる人も大勢おり、サラリーマン時代は、「捨てる神あれば拾う神ありだなぁ」としみじみ思う毎日でした。悪い出会いもたくさんありましたが、いい出会いもたくさんありました。
会社に適応しきれなかった私には、苦しい思い出が多い時代でしたが、しかし、たいへん勉強になった時代でもありました。会社で生きた経済学の勉強をしたおかげで、生物学と経済学に非常に共通点があることも発見しました。たとえば、取り引きの仕組みの発達と生物の進化がきわめて似ているのです。先物取引に至らしめた背景とその事情が生物のかかえる事情ときわめてよく似ているのです。また、物の流通と生物の適応放散も同じ原理であることにも気がつきました。公務員だけやっていたのでは、まったく窺いしれない世界を体験できました。
また、たとえば、企業の意思決定ひとつとっても、外部から見るのと内部から見るのとではまるで違います。経済学者や評論家は、企業の行動を外から見て評論しますが、「それは、違うんだよ!」「そんなに深く考えないで企業が出した結論なんだよ!」と言いたくなることが多々ありました。外から見るのとは、まったく違う哲学や事情で企業が動いていることがよくあるのです。こうした裏側を知っていると、ものごとに対する見方がまるで違ってきます。見えないものが見えてきます。そして、巨大な組織であれ、国であれ、結局は個人という人間の集合体であることもわかりました。個人と個人の結びつきが会社を動かすということも会社員時代に得たことです。
†やる気があれば百年間前例のないことでもできる[#「†やる気があれば百年間前例のないことでもできる」はゴシック体]
テキサス工科大学に勤務している時もそうでした。日本では体験できないようなさまざまな体験をすることができました。たとえば、実際の英会話においては、英語力よりも度胸のほうがはるかに重要である[#「実際の英会話においては、英語力よりも度胸のほうがはるかに重要である」はゴシック体]ことや、言葉とは所詮、意志や感動を伝える道具でしかないこと、つまり、英会話を完璧にできることよりも、相手に伝えたい何か熱いものを持っていることのほうがはるかに重要であることを学びました。いろんな世界、いろんな社会を体験的に知っているということは、男性としてはきわめて重要なことだと、会社員や海外勤務経験で感じました。
さて、せっかく軌道に乗ってきた筑波研究所でしたが、経営の多角化をやめる方向に会社が動きだしたこともあり、退職を決意しました。実際、筑波研究所は、私が退職してから一年後に閉鎖されました。当時、多くの会社がバイオブームということで生物学関係の研究者を雇い入れましたが、十年もしないうちに、大多数の会社はバイオ事業から撤退しました。
退職を決意したものの、コネを持っていなかった私は、教官公募情報を見て応募しまくりました。幸い、香川大学に採用されました。大学に戻れなければ今頃どうなっていただろう、と思うと、今でも冷や汗が出ます。たとえクビにはならなくても、石油会社の中で、生物学が専門の私には居場所はなかったからです。
さて、以上が私の体験談ですが、ここで言いたかったのは、事業所を作った自慢話ではありません。挫折して会社を辞めてしまったという失敗談でもありません。落ちこぼれ社員だった、という恥さらしでもありません。やる気があったら、百年間前例がなかったことでもやれる[#「やる気があったら、百年間前例がなかったことでもやれる」はゴシック体]、ということです。やれない、というのは、やろうとする勇気がない人の言い訳です。
夢は実現するものです。実現に向けて夢中になっている瞬間の積み重ねが人に自信と誇りをもたらすのです。結果はどうでもいいのです。どれだけ夢とロマンを追求することができたか、それが男の密かな誇りです。
†迷ったら、誇りが持てるかどうかで判断しよう[#「†迷ったら、誇りが持てるかどうかで判断しよう」はゴシック体]
会社を辞めるかどうか、男にとっては大きな問題です。若いときならいざしらず、ある程度の歳になったら、妻子がいたり家のローンがあったりして、大きな決断を要します。人生というのは、毎日が判断と決断の連続なのです。
では、迷った時、何をどう考えて決断したらいいのでしょうか。
それは、誇りです。誇りを持てるほうの道を選ぶこと[#「誇りを持てるほうの道を選ぶこと」はゴシック体]です。男は、たとえ金や学歴がなくても、誇りを持っていることが重要なのです。目先のことに惑わされることなく、誇りが持てる方向で意思決定をしていると、いつか必ず自分の才能が花開く時が来ます。私のこれまでの経験では、人の個性が輝き始めるのは、たいてい三十五、六歳を過ぎる頃からです。二十代までに英雄体験を済ませ、自分に一生懸命投資した人だけが三十代で個性が輝いてくるのです。
もし、英雄体験をさぼっていたら、三十代後半頃から猛烈に焦り始めます。だから、その頃から男性の精神疾患が増えるのです。三十代前半まではそれほど差が出なくても、中盤以降、惨めな境遇になるからです。いえ、会社で不都合が生じるわけではありません。降格されるわけでもありません。人間として、あるいは男として自信を失う日々となるからです。智恵や勇気がない男ほど惨めなものはありません。まして、女性(妻や娘も含む女性)にそれを見透かされて軽蔑されることほど、男として辛いことはありません。学歴や給料の高さで自己弁護しても、自分が惨めなだけです。
結局、誇り高い道を歩んだ人が最後に笑う人になるのです。試行錯誤しながら自己実現を図った人が最後に笑うのです。自分の能力を信じた者だけが、自分の能力を引き出せるのです。
†良き友を持とう[#「†良き友を持とう」はゴシック体]
また、良き友を持つことは非常に重要です。なぜなら人は、つき合いにおいて、たえず心の奥を刺激し合っているからです。邪悪な心を持っている人とつき合うと、こちらの邪悪な心が刺激されます。逆に、清らかな人とつき合うと、こちらの聖なる心が刺激されます。だから、誰とつき合うかが重要なのです。英雄体験をするためには、良き友を持つことはきわめて重要です。智恵を得るためにも智恵が必要なように、良き友を得るにも、良き友が必要なのです。
もし、良き友が今いなければ、まずは、自己実現をすることです。自己実現で得た悦びを介して良き友を得ることができるからです。逆に、良き友を得たら、『スタンド・バイ・ミー』に登場するクリスたちのように、その良き友から応援されて、自己実現や英雄体験ができるようになります。
ディズニー映画の『ダンボ』を見るとよくわかります。ダンボの母親もダンボのことをかわいがっていますが、ここではダンボを励ますネズミのチモシーが重要な役割を果たしています。この、耳の大きな象の物語『ダンボ』も、じつは英雄体験の物語です。耳が異様に大きいために仲間はずれにされ、サーカスでは自分の耳を踏んづけてコケて失敗し、自分はダメな象だと思い込んでいるダンボですが、ネズミのチモシーが励まします。「おまえには才能があるぞ!」と、言い続けるのです。チモシーに下心はありません。誰にでも才能のひとつはあるもんだ、とダンボの隠された能力を信じ、励まし続けるのです。
すると、誰も想像もしなかった能力が開花します。耳を翼のように羽ばたいて鳥のように飛べるという能力です。本人も夢にも思わなかった能力です。そういう意味では、『スタンド・バイ・ミー』のクリスとゴーディに似ています。自己実現というのは、自分でも意外だと思うような能力を発揮することが多いものです。だから、人生というものが、生きているのが楽しくなるのです。
ダンボを見ると、人が幸せになるためには、人からの支援、つまり、人から幸せを願われることや励まされることがいかに大切かがよくわかります。逆に言えば、人というのは、人から幸せを願われてはじめて幸せになれる存在だ、ということです。
絶望にうちひしがれていたダンボは、ある日、まちがえてシャンパンの混じった水を飲んでしまいます。次の日の朝、目を覚ましてみると、なんと、ダンボはチモシーとともに木の上にいたのです。しかし、ダンボは自分が空を飛べるなどとはまったく思っていません。チモシーも半信半疑でしたが、空を飛んで木の上に来たに違いないとひらめきました。重いゾウが空を飛ぶ、というのは、常識破りの発想です。でも、先ほど言いましたように、人の才能も、たいていこういうものです。自分でも思いもしない才能が眠っていることが多いのです。
しかし、ダンボはまだ、自分のことをダメなゾウだと思い込んでいるので、空を飛んでみる気になれません。チモシーは、「ここに魔法の羽根がある、これを持っていたら誰でも飛べるんだ」と言ってダンボを励まします。ダンボは見事に空を飛びますが、まだ、魔法の羽根のせいだと思い込んでいます。自分の存在に自信がない人というのは、自分の力を信じようとしないのです。
そんなある日、事件が起きました。サーカスの興行中に、ダンボは魔法の羽根を落としてしまったのです。自分の力では飛べないと思い込んでいるダンボはどんどん落下します。その時、チモシーが絶叫しました。「魔法の羽根なんてウソさ! ダンボは自分の力で飛べるんだよ!」ダンボはこの言葉を信じて、そして自分を信じて、耳を羽ばたかせます。墜落寸前のところで空に舞い上がることができました。空を飛ぶゾウはこうして誕生したのです。チモシーの友情で、自分の殻を破ることができたのです。その結果、隠された才能が開花したのです。
ダンボにとって、チモシーは良き友です。チモシーに励まされなければ、自分の耳を恨めしく思うことはあっても、決して誇らしげに思うことはなかったことでしょう。人の幸不幸は、たいていこんなふうに紙一重なものです。天賦の才能も、開花しなければもてあまして自分自身を恨めしく思うだけです。そして、自分を恨み、世間を恨み、いつしか怒れる鬼となるのです。しかし良き友に恵まれると、これまで災いの元だった耳が、幸福をもたらす耳となるのです。
†いつも魂を清らかに保たなくてはいけない[#「†いつも魂を清らかに保たなくてはいけない」はゴシック体]
人は、互いに感応しあう存在です。まわりに怒りをかかえた人がいると、話をしなくても相手の怒りが心に入ってきて汚染されてしまいます。だから私たちは、常に魂を清らかにし続けないといけないのです。その努力を怠ったら、たちまち邪悪な心が入ってきて汚染されてしまうからです。
人は、心を閉ざしても、嫉妬や怒りは心に入ってきてしまいます。しかし、心を閉ざしていると、愛や思いやりは心に入ってはきません。だから、人は悪しきに流れやすいのです。そのため、常に楽しいこと、うれしいこと、気持ちいいことをし続けないといけないのです。もっとも悦び多きことは、人を愛することです。悦びが悪から人を救うのです。
『スター・ウォーズ』の映画を見ているとよくその点が描かれています。もっとも顕著なのは、第二作目の『帝国の逆襲』の中で、ルーク・スカイウォーカーがヨーダという九百歳のジェダイの指導者と修行をする場面です。ヨーダは「憎しみに負けるとダークサイドに堕ちてしまう」と言います。怒りや妬み、恨みがダークサイドそのものです。
生物学的には、「怒り」というのは相手に対する威嚇であり、威嚇することで相手の敵対心や攻撃心を抑え、戦争(無駄な争い)を未然に防止する効果があると考えられています。ゴリラのドラミング(胸たたき)は、私たち人間が見ても怖いものですが、これで彼らは不要な争いを防いでいるのです。ドラミングは、「殺すぞ」という脅しではなく、「私は今、怒っている。これ以上、怒らせることをするな」という威嚇なのです。威嚇された相手は、自分のやっていることと状況を見て、ここで争っても無益だと判断したら、名誉ある撤退をします。
そういう意味では、怒りや憎しみにかられて相手を殺してしまうのは、本来の動物の姿ではありません。ルール違反です。そんなことを毎日していたら、いくら命があっても足りません。殺したり殺されたり、安心して生きていくことができなくなります。しかし、困ったことに、怒りをコントロールすることは容易なことではありません。油断すると、怒りの海である、ダークサイドにはまってしまいます。人は、悪しきに流れやすく、かつ、ダークサイドに堕ちやすいのです。ヨーダは、それを防ぐためには、「冷静で心安らかにいることだ」とルークに語ります。怒りや憎しみと拮抗する力は悦びです。前述した通りです。
そして、正義が勝つのではなく、パワーの強いほうが勝つ[#「正義が勝つのではなく、パワーの強いほうが勝つ」はゴシック体]のです。これも前述した通りです。つまり、これまで自分がした楽しいことの総量と、自分がイライラしている総量の差で決まるのです。自己実現をして、悦びをいっぱい持っている人は、ひとりでに冷静かつ心安らかになります。悦びを介して人と共感したり共感されたりして、人と深いところでつながっている人です。ですから、人を信頼しています。前向きです。
しかし、イライラの総量が多い人は、怒りの海に溺れ、冷静さを失い、攻撃的です。そのため相手の反感を買い、ますます自分の怒りが刺激されて、どんどん怒りの量が増えていきます。頭は人間不信でいっぱいになり、人を見たら見下してやりたくなります。人は、油断すると、ダース・ベーダーのように、ダークサイドに堕ちてしまいます。映画に描かれている通りです。いつも魂を清らかに保つということを怠ると、本人も知らぬ間にダークサイドに堕ちてしまうのです。
†威厳のある人が智恵者とは限らない[#「†威厳のある人が智恵者とは限らない」はゴシック体]
映画『帝国の逆襲』でもうひとつ面白いのは、ヨーダの登場場面です。ルークは、ヨーダをひとめ見るなり、コイツがジェダイの指導者であるわけがないと思います。実際、ヨーダの行動ときたら、ルークの夕食用のフランクフルトソーセージを食べようとしたり、ルークの持ち物をあさって、ペンライトをほしがったり、R2―D2と喧嘩したり、イメージするジェダイの騎士とはかけ離れています。
しかし、世の中にいる精神的指導者も、実は、平凡な人に見えることが多いのです。いえ、ヨーダのように、まさかこんなヤツが、と思える人に多いのです。自分の目で判断するしかありません。マスコミで活躍しているからとか、立派そうに見えるからとか、学歴がすごいからなどということに惑わされてはいけません。それも常識的判断です。自分の直感を信じて、ただの平凡な人か老賢者なのか、見分けないといけないのです。
精神的指導者は、すぐれていればいるほど、理知的な顔はしていない[#「精神的指導者は、すぐれていればいるほど、理知的な顔はしていない」はゴシック体]ものです。どこにでもいるような、人の良さそうなオジサンという感じです。自分を受容し、他者を受容して生きていると、威厳のある風格というよりは、親しみやすい風格になるからです。人を受け容れる大きな器のある人でなければ、智恵者にはなれません。これまで繰り返し述べてきましたように、赤ちゃんにベロベロバーをしてウケる人でないと智恵者にはなれません。人を受容し、人を愛し、人の幸せを願った者だけが真の智恵を獲得できるからです。
こういう人ですから、道ですれ違ったくらいでは気がつきません。どこにでもいるような平凡な印象を与えるからです。威厳を感じさせるようでは、ホンモノの智恵者とは言えないのです。
†敵はおのれ自身の中にいる[#「†敵はおのれ自身の中にいる」はゴシック体]
人は、自分で自分の首を絞めていることがよくあります。誰も自分の足を引っ張っていないのに、そのことに気がつかないために、人のせいにしようとします。原因を追及する時、つまり、犯人探しをする時、いつも自分以外の誰かのせいにします。そのため、自分が自分の首を絞めている、とは思いません。自分の中に裏切り者がいる、という発想ができないからです。
しかし、人生上で起こる問題の大部分は、自分で自分の首を絞めていることがとても多いのです。その典型が、先述の幸せ恐怖症です。親から嫉妬されて幸せを回避するようになったことは事実ですが、しかし、それを実行しているのは自分です。一生懸命、自分の幸せを破壊しているのです。親の不機嫌な顔が見たくないばかりに、自分で自分の幸せを壊してしまうのです。親が死んでも、幸せを回避し続けます。まさに呪いそのものです。無意識なので、当の本人がこの世でもっとも、幸せ恐怖症の存在に気がついていない人です。いえ、気がつかないように、自己欺瞞しているのです。気がつきたくないのです。
幸せになりたい、と口で言いながら、陰ではしっかり自分が不幸になることをやっているのですから、こんな状態でいいことをしても無駄です。いいことをする前に、悪いこと、つまり、幸せ恐怖症をやめないといけないのです。
幸いなことに、私たちは、悪いことさえやめれば、ひとりでに良いことができるようになります。つまり、宇宙の法則に逆らうような不自然なことさえやめれば、ひとりでに生き生きと自分らしく生きられるようになる、ということです。幸せ恐怖症から解放されたり、ゴーディのようにまちがった思い込みを捨てることができたら、人は、ひとりでに楽しく生きることができるようになるということです。
『帝国の逆襲』で、もうひとつ面白いのは、ヨーダの指導の下でルークが悪の入り口に入った時です。武器は持って行かなくていいとヨーダに言われたのに、無視して持っていきます。ヘビのいる洞窟のようなところを突き進むと、ダース・ベーダーが現れ、ルークはライトセーバーで倒してしまいます。ところが、切られた首をよく見ると、自分の顔なのです。これこそが英雄体験の本質です。自分の本当の敵は、おのれ自身なのです。宇宙の法則に逆らって生きている不自然な自分こそ、真の敵なのです。だから、ダース・ベーダーを倒したつもりが、じつは自分自身だったのです。
自分で自分の首を絞める者の正体こそ、不自然な生き方をしているもう一人の自分なのです。それを発見し、智恵をもらって退治する、これが英雄体験の本質です。ですから、英雄体験をすることそれ自体に意味があるのではなく、英雄体験を通して、もう一人のゆがんだ自分を消すことが目標なのです。
そして、不自然な自分を倒した経験を生かして、女性にかけられた呪いをとくのです。これが男性というものです。男性は、夢とロマンという冒険の世界に生きようとする動物です。そこで智恵と勇気を手に入れ、女性を愛するのです。それが男性にとっての最高の誇りです。
誇り高き男というのは、聖人君子のような印象とは限りません。欲望を捨てることが悟った人のように考えている人は多いものですが、「いい男」は、どん欲です[#「欲望を捨てることが悟った人のように考えている人は多いものですが、「いい男」は、どん欲です」はゴシック体]。人は欲を捨ててしまったら人とは言えません。より高次の欲を持つべきなのです。ユダヤの言葉に「一人の命を救える者は、世界を救える」というのがあります。男性が、智恵と勇気で女性にかけられた呪いを解放することができたら、それは人類の幸福のために役立つことができるということです。一人の女性を愛することができたら、人類を愛することもできます。
セックスしたいから女性の呪いをとくのもいいでしょう。下心のない行為をやめろとはいいません。純粋に相手の女性に幸せに生きてほしい、という願いでもって呪いをとくことをする人間をめざしてほしいのです。結婚するしないに関係なく、女性の呪いをとこうとする心、これが高次元の欲望です。見返りを期待しない愛です。下心のない親切です。実は、こちらの愛や親切のほうが、下心のある愛や親切よりも気持ちいいのです。愛する側も、愛される側も、どちらも悦び百倍です。
男性にとって、こういう「個人の利益を超えた何か」で動くこと、これが夢とロマンというものですが、これをすると、悦びがたくさん手に入り、魂を清浄に保つのにたいへん有効です。いい男とは、目先の利益で動くのではなく、夢とロマンで動く男性のことです。でも、欲望を捨てているわけではありません。うれしい、楽しい、気持ちいい、うまい、ということを追求する人です。とことん追求するのです。
そうすると、最後に、「私もうれしい、みんなもうれしい」という関係を、自分と人、自分と組織(会社)、自分と自然、そして自分と人類との間に作れるようになります。この世は、究極の利己の追求が、究極の利他になる[#「究極の利己の追求が、究極の利他になる」はゴシック体]ようにできているからです。悦びを追求するのに遠慮は要りません。
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第五章[#「第五章」はゴシック体] 「いい女」にも「いい男」にも受難の時代
†人の心の痛みが無視された時代[#「†人の心の痛みが無視された時代」はゴシック体]
一九五五年から始まった日本の経済成長は、世界史上、最高のスピードでした。二十世紀末まで、マイナス成長したのは七四年(〇・五%)と九八年(〇・六%)の二回だけで、驚異的に成長し続けたのです。その間、会社組織の活力はどんどん高まりました。モーレツサラリーマンという言葉が生まれたのは、家庭や個人生活を犠牲にしてまでも会社の発展に貢献する会社員がたくさんいたからです。それが美徳であるかのような風潮があったのです。
その反動で、マイホームパパなるものが登場しましたが、しかし依然として幼児からお年寄りまでみんなが忙しい国になったままです。不思議なのは、携帯電話や新幹線など、時間節約の利器が登場したにもかかわらず、暇ができるどころかますます忙しくなる一方だということです。何かが本末転倒しているからこういう奇妙なことになるのです。
そして、数十年たって、本当に個人も家庭も犠牲になってしまったのです。高度経済成長を謳歌している頃、当時の人々は、多少個人を犠牲にしても、組織に貢献できれば家庭には被害が及ばないだろうと考えていたのです。お金さえあれば人は幸せになれると思っていた時代だったのです。誰もが、「所得がアップすること」=「幸福度がアップすること」と信じて疑わなかったのです。それが当時の「常識」でした。
確かに当時は、年々、目に見える形で生活レベルがアップしました。豊かになったことを確かな手応えとして実感することができたほどです。それほどすさまじい経済成長だったのです。会社に対する不満を多くの人は持っていましたが、その不満を黙らせることができるほど給料が毎年上がっていったのです。物質的に満たされたために、あまり文句を言う人はいませんでした。なにしろ、自転車しか買えなかった人が、数年後にはバイクを買えるようになり、さらに数年後にはクルマが買えるようになったのです。あっという間に夢が実現したのです。テレビに冷蔵庫に洗濯機という夢は、たちまちエアコン、電子レンジ、VTR、パソコンに変わり、これらも今ではすっかり庶民の生活に定着してしまいました。ほんの数十年前、夢に見た生活を今私たちはしているのです。
こういう熱狂的な押せ押せムードの中で、企業は組織力を強める方向で発展してきましたが、しかし、ここに落とし穴がありました。組織力を強化すると会社としての業績は上がりますが、逆に、個人の尊厳や個人の不満(心の痛みや悲しみ)はどんどん無視されていくことになりました。人と人との関係も、人間的つながりよりも理性やタテマエだけのつき合いに変化していきました。当時の人々は、得ることばかりに目が奪われ、失われることに対して注意関心を払わなかったのです。
†浅はかな考えだった合理化・効率化政策[#「†浅はかな考えだった合理化・効率化政策」はゴシック体]
日本社会は、個人の心の痛みを無視することと引き替えに組織力を強化してきたといえましょう。抑えたのは痛みばかりではありません。個人の感情も抑えられました。そして理性的に行動することが大人であると教育されたのです。個よりも全体の利益を優先させたのです。換言すれば、個性を殺し、組織を活性化するための教育が施されたのです。その結果、一九七〇年代から心の不調を訴えるサラリーマンが増えてきました。組織としての活力がじわじわと低下してきたのです。出社拒否症候群や帰宅拒否症候群という言葉が出現したのもこの頃です。こうした現象に呼応するように不登校やイジメも増え始めました。八〇年代に入ると、拒食症や過食症も出現し始めました。
そして、この頃から、人と交わる悦びも失っていくことになりました。感情を抑え、理性を使うことばかりしていたら個性が死んで当然です。感情を抑えたら人と深く交わることができなくなって当然です。個性とは、個人の感じている喜怒哀楽といってもいいものです。特に、快―不快の感情です。ところがこうした自分の感情に素直に従って行動すると、それは子どもっぽいとかわがままだとマイナスのレッテルを貼られてしまう世の中になったのです。
その結果、「話をして気が楽になる人」が社会から消えていったのです。智恵者も激減しました。一方、「仕事はできるけどつまらない人間」は急増しました。高学歴で高収入でも、話をしていてもちっとも楽しくない、一緒にいてもほっとしない人たちです。
そのため、ますます人間関係は希薄になりました。人と対話する悦びがなくなったからです。人は、何かをして楽しく感じなければ、ふたたびそれをしようとは思いません[#「人は、何かをして楽しく感じなければ、ふたたびそれをしようとは思いません」はゴシック体]。話をして楽しくなければ、わざわざ話をするために人に会いに行くことはなくなります。物質的豊かさに酔いしれていた当時の日本人は、このことの重大さに気がつかなかったのです。
なぜ、これが重大なのかというと、夫婦関係まで希薄にしたからです。では、なぜ、夫婦関係が希薄になることが重大なのでしょうか。
それは、労働意欲を低下させるからです。特に男性の労働意欲が低下します。夫婦関係が希薄になると、その家族全体の人間関係(親子関係)も希薄になります。つまり、家族がバラバラになっていくのです。居心地の悪い家庭になります。こんな心の通わない家族のために一生懸命働こうとは誰も思わなくなります。個人から「やる気」が失われてしまうと、どんなにすばらしい組織を作っても活力は低下します。組織が内部から崩壊する危険が出てきたのです。
†なぜ心を軽視したのか[#「†なぜ心を軽視したのか」はゴシック体]
なぜ、これまで心の快適さを求めなかったのでしょうか。
物質的に快適な生活ができることが心の快適さにもつながると勘違いしていたからです。一九六〇年代から、高嶺の花だったクルマやエアコンなどの電気製品が次々と生活の中に入り込んできて、いくらお金があっても足りない時代になっていったのです。お金があれば心の快適さも買えると思っていたのです。多くの人が勘違いしたのです。いま、発展途上国の人がまったく同じ勘違いをしています。
こうして、人々はますますお金に価値を見いだすようになりました。拝金主義です。その結果、お金を得るために必要なこと、たとえば勤勉さや努力、根性、忍耐が美徳になったのです。学歴も美徳となりました。国策として文部省(現・文部科学省)がそういった教育をしたのです。先進諸国はいずれもこうなりました。そして、子どもの行動異常も、国の経済力に比例するように、豊かな国ほど発生件数が高くなったのです。
なぜ、人はモノや学歴にこだわるのでしょうか。
苦痛という不快からの回避という構造があるからです。歩くのが苦痛だから人はクルマを欲しがります。人は苦痛を避ける動物なのです。その苦痛を避けられたという快感が、会社でのイヤなことという不快感を上回ると、人は心の豊かさよりも、物質的豊かさを優先させて行動し始めるのです。たとえば、仮に、クルマで移動できる快適さ(歩く苦痛から解放される快感をプラス三〇としましょう)と、会社で発生したイヤなこと(マイナス一〇としましょう)とを比べると、差し引きプラス二〇となります。クルマを所有する悦びも加算されますので、さらにプラスは大きくなります。
戦前・戦中生まれの物質的に貧しい生活を強いられた世代の人々は、物質的豊かさの快感に酔いしれました。冷静に考えればお笑いぐさですが、当時は、お金があれば人は幸せになれると本気で考える人がたくさんいたのです。受験戦争という言葉が生まれたのもそうした背景があったからです。当時は確かに学歴は「金のなる木」だったからです。しかし、多くの人は、こんなにも子どもの異常が増えるとは予測していませんでした。数十年前は、不登校やひきこもりは例外的な子どもだけの現象だと思っていたのです。
†心の痛みを無視したから高度成長時代が到来した[#「†心の痛みを無視したから高度成長時代が到来した」はゴシック体]
元来人は、苦痛を避けることを最優先する動物です。ですから、人と深くつながりたい人が学校や会社に行って、もし、心の交流のできる人が一人もいなかったら苦痛を感じます。でも、そんな苦痛は認められない時代でした。我慢しろ、甘ったれている、と一喝されておしまいでした。人との交流を大事にする人ほど、辛く感じる時代になっていったのです。会社では、心の痛みの話などを出さずに、理性を働かせてスマートに仕事をすることが要求されました。それが美徳だったのです。心痛を訴えたりしようものなら、弱い人とレッテルを貼られて出世の道が断たれたのです。
その結果、人の心の痛みを|慮《おもんぱか》る能力のない人でもどんどん出世しました。いや、そういう人でないと出世できなくなったのです。人間としての愛や智恵がなくても、仕事さえできれば出世したのです。そういう企業風土を先人たちは作ったのです。企業だけではありません。社会全体がそういう価値観で動くようになったのです。
こうして、会社の組織は、「生産効率が上昇する方向」には発展しても、「心の快適さが上昇する方向」ではなくなっていったのです。つまり社会は、「人の心の痛みを尊重する」方向ではなくなっていったのです。物質的に豊かになるんだから、それくらい我慢しろ、という論理で動くようになったのです。
しかし、当時の多くの人は、人の心の痛みを軽視したことに気がつかなかったのです。英雄体験の重要性にも気づかず、期待される人間像を子どもたちに押しつけ続けたのです。子どもたちは個性を失いました。真っ先に、男の子が元気を失いました[#「真っ先に、男の子が元気を失いました」はゴシック体]。
そうした悪影響が、日本を含む先進諸国において、心の感度の高い人を中心に[#「心の感度の高い人を中心に」はゴシック体]出始めました(詳しくは拙著『無神経な人に傷つけられない88の方法』大和書房、をご覧下さい)。具体的には、不登校、イジメ、校内暴力、摂食障害(過食嘔吐、拒食)として表れたのです。しかもこれらの異常が不気味に増えつつあるのは、大人たち、つまり子どもの親たちもまた楽しく暮らしていないからです。生きる基本である夫婦関係や友人関係が希薄になって、幸せを感じられない大人が増えたのです。尊敬されない大人たちです。
学歴があって、お金があって、社会的地位があることこそ幸せのシンボルと信じてきたのに、実際にそれらを手に入れてもちっとも楽しくないのです。その結果、そうした心が満たされない母親たちが、こぞって娘の幸福に嫉妬し始めたのです。それが「親の七がけ幸福論」であり、「幸せ恐怖症」という「呪い」です。親が子どもに嫉妬する異常さに気づかないほど、現代は異常になってきているのです。
†遊べなくなった学生[#「†遊べなくなった学生」はゴシック体]
遊ぶことと自己実現は、悦びの追求という点では同じです。「普通の人」になろうとしたり、「期待される人間像」に近づこうとしたり、あるいは、自分の本意に反することばかりしていると、遊ぶことはできなくなります。受動的に遊ばせてもらうことはできても、積極的かつ自分らしく遊ぶことはできません。遊ぶというのは現代社会においてはたいへんむずかしいことになってしまっているのです。英雄体験しにくい社会というのは、遊ぶことがむずかしい社会でもあるのです。
私の勤務する大学の学生を見ても、遊んでいないなぁ、とつくづく感じます。受験勉強から解放された彼らが始めることは恋人探しです。特に女子学生はそうです。そしてサークルに入って、居酒屋でワイワイやり始めます。USJやディズニーランドに行ったり、海外旅行に行ったり、また、アルバイトに精を出す学生もいます。多くの学生が、入学して数カ月もしないうちに授業をさぼることを覚え、セックスすることも覚えます。
でも、これは遊んでいるとは必ずしも言えません。事実、多くの学生たちは、もっと遊びたいと言います。不思議なことに、派手に遊んでいる学生ほど、もっと遊びたいと言います。なぜ、これだけ遊んでいるのに、もっと遊びたいのでしょうか。
簡単なことです。遊んでいないからです。遊びというのは、自分で創造しなければ、充実感は得られません。ああ、楽しいなぁ、遊んでいるなぁ、という醍醐味がないから、いくら遊んだつもりになっていても、「遊び足りない」と感じてしまうのです。
自分で遊びを創造するというのは、自分の個性で、あるいは自分の美学で、自分らしい方法で人生を楽しむということです。自分の意志でカラオケに行ったり、ドライブをしたりしても、自分らしい楽しみ方で楽しむことができなければ遊んだ気はしません。居酒屋でワイワイやるのもいいですが、型どおりに一気飲みなどをしてみても、創造的に遊んでいるとは言えません。ノルマをこなすように、ただ模倣しているだけで、後でむなしくなります。遊びを通して、一緒に行った人と心と心が深く結びついたとか、深く語り合えたとか、忘我の境地で遊べたという結果でないと、遊んだ気がしないものです。
実は、こうした現象は学生だけではなく、大人たちでもそうです。人並みに、展覧会や音楽会、そして遊園地などに行ってはみるものの、心の底から楽しめる人は少数派です。お金に余裕がある人は、ほとんどの人がハンで押したように家を建て、きれいな洋服を買い、高級車を乗り回します。これも型どおりです。お金やモノは、それ自体を所有しても悦びを生み出してはくれません。クルマや家を使って楽しむことをしなければ、悦びは得られないからです。だから、形は満たされても、心が満たされないというギャップが生じるのです。
勉強しないで、必死に遊んでいるはずの学生たちが人生を楽しんでいない証拠は、就職活動をする時、自分が何をやりたいのかわからない、というところに表れます。自分が何に興味を持っているのかすらわからないのです。自分のことなのに、自分の快の気持ちがわからないのです。苦肉の策として、一流企業ばかりをリストアップして企業訪問をするのです。でも、困るのは「入社してからどんな仕事をしたいですか?」と聞かれることです。入社したい気持ちだけで充分だと思っていた学生はあわてます。「趣味は?」と聞かれても困ります。「大学時代、何をしましたか?」と聞かれても、みんなと同じことしかやっていないので、これも答えに窮します。
証拠はそればかりではありません。恋愛もうまくいかないことです。受験勉強から解放されて、恋愛に専念しているはずなのに、数カ月で色あせていくのです。相手をまちがえたかな、と恋人を取り替えてみても、やっぱり数カ月で飽きてしまいます。デートしても、話すことがなくなり、することはセックスだけとなります。そのセックスもたちまちマンネリ化してしまうのです。中には、大学四年間ずっとつき合い続けるカップルもいますが、私の調査によりますと、その九割近くが、卒業後、結婚することなく別れます。たとえ結婚しても、半数が離婚またはそれに近い状態となります。
†人生を楽しむ大人もいなくなった[#「†人生を楽しむ大人もいなくなった」はゴシック体]
この点では、大人も同じです。家を建て、いいクルマを買い、きれいな洋服を買っても、むなしさが襲います。モノを所有しても、うれしいのは一瞬だけで、それを使って楽しむことをしなければ、むなしいだけです。夫婦仲も、学生の恋人関係と同じです。
はたから見れば、創造的に遊んでいる人と、型どおりにしか遊べない人との区別はつきません。しかし、ほんとうに遊んでいる人は、遊べば遊ぶほど遊びたくなりますし、また元気にもなります。それを職業にできたら最高です。もちろん「遊び足りない」と感じることもありません。もっと遊びたいとは思っても、充分満足できているからです。そして何より、マンネリ化することがありません。家を建てたら家で楽しみ、クルマを買ったらドライブを楽しむ人です。最大の特徴は、いつも「楽しいこと探し」をしていることです。それも必死でしています。遊びは命がけでやらないと、決して見つかりません[#「遊びは命がけでやらないと、決して見つかりません」はゴシック体]。楽しくもなりません。情熱に比例して醍醐味が得られるのです。必殺遊び人は、いつも楽しいことを考えている人のことなのです。愚痴や悪口で盛り上がっているヒマなどない人です。楽しいことがたくさんあるからです。夜眠るとき、明日はどんな楽しいことをしよう? と考える人です。一日が二十四時間では足りない人です。
そういう大人がいなくなりました。人生を楽しんでいる大人がいなくなったのです。また仕事においても誇りを持っていません。仕事がダメなら、せめて土日くらいは、でっかく遊ぶことができればいいのですが、それもできません。趣味のために働いている、という人もごくごく少数です。家も建て、庭もクルマもあるのに、人生を楽しんでいないのです。遊びに出かけることは出かけますが、情熱もなく、通り一遍です。
子どもはこんな親を見て、「一体、何が楽しくて生きているんだろう?」「モノは満たされているのに、どうして人生を楽しめないんだろう」と思います。イヤな仕事を一生懸命やる親はすごいとは思うけれど、尊敬できなくなるのです。生まれたときから物質的に豊かだった今の大学生は、特にそう思うのです。これに加えて、親の夫婦仲が悪かったりすると、「一体、どうしてこの二人は離婚しないんだろう?」「何が楽しくて結婚しているんだろう」と思います。特に娘がそう思います。がんばってみても、自分も所詮こんなものか、と自分の結婚にも希望が持てなくなります。初婚年齢が上昇する理由がここにあります。
これでは、子どもたちが、親や大人たちを尊敬できなくて当然です。
†起こるべくして起こった成人式の暴挙[#「†起こるべくして起こった成人式の暴挙」はゴシック体]
二十一世紀最初の年、高知市や高松市で開催された成人式の式典中に、新成人が会場で大暴れをする、という事件が発生しました。以前からこういう動きはあったのですが、テレビや新聞で報道されるやいなや、世間の大人たちは、なんて非常識な、と新成人を批判しました。しかし、若者がそうなったのは、ちゃんとした理由があってのことです。大暴れしたことは悪いことですが、大暴れした理由こそ、世の大人たちにその原因があるのです。
結論から言いますと、大人を尊敬できないからです。私たち大人が作った社会を、今の若者たちは、魅力がないと訴えているのです。その結果、成人式で暴れるという若者が全国各地で出現しているのです。その証拠に、成人式で大暴れした会場は、南は沖縄から北は北海道まで、全国どこでも小規模ながらありました。それも年々ひどくなっているのです。
子どもは、大人の後ろ姿を見て育ちます。もし、世の大人たちが生き生きと楽しく暮らしていれば、「自分も将来あのように生きたい」「あんな大人になりたい」と思います。当然、親の言うことも聞きます。なぜなら、大人の言うことを聞いたら、自分もあんな素敵な大人になれると思うからです。しかし、現実はどうでしょうか。
父親は立派な大学を出て、立派な会社に勤めているけど、智恵や勇気があるようには見えないし、母親からも尊敬されていないのです。その母親も、タメ息ばかりで、「ああ、私はどうしてこの人と結婚したんだろう」などと子どもに向かって言うのです。お金があっても愛がない夫婦。そんな親を見ていたら、勉強する気も失せてしまいます。そんな不幸な大人の言うことを聞こうなどとは思わなくなります。
成人式で若者たちが市長に悪態をついたのは、市長が悪い人だからではなく、新成人にとって市長は社会の代表者だからです。つまり、「こんな社会はおかしいぞ!」「何かがまちがっている」「大人よ、もっと楽しく生きて見せろ」「そうしたら大人の言うことを聞くよ」「でも、自分の仕事に自信や誇りを持っていないヤツの言うことは聞きたくない。聞いてもいいことない」「人生を楽しめないヤツが偉そうなこと言うな」「自分の仕事を楽しんでないヤツに、今の若者は甘ったれている、なんて言われたくない」というメッセージです。
もちろん、大暴れした彼らは、こんなことを言語化して考えていたわけではありません。これらの主張を意識して暴れてみせたわけでもありません。無意識での行動ではありますが、日本の多くの若者の隠された本音を代弁しているのです。
成人式での大暴れは、「親のような不幸な人間にはなりたくない!」「なんとかしてくれ!」という絶叫でもあるのです。
†教授が学生に尊敬されない理由も同じ[#「†教授が学生に尊敬されない理由も同じ」はゴシック体]
かつて大学教授といえば、博学で智恵があり、相談をもちかけたら、たちどころに解決策を授けてくれる賢者のイメージがありました。『スター・ウォーズ』のオビ=ワン・ケノービのようなイメージです。ところが、ここ数十年というもの、いや、もっと以前から、大学教授の株はどんどん下がり続けています。その下がり続けた理由こそ、成人式で若者が暴れた理由と同じです。
ほんの数十年前までは、知識を独り占めしていたのは大学でした。それがゆえに尊敬されたり、尊重されたりしていました。しかし、今やインターネットの普及や情報検索システムの発達、そしてテレビや出版の質の向上により、知識は大学だけの独占物ではなくなりました。二十一世紀に入ってからは、いよいよそういう傾向が強くなり、今や、知識を大学に求める人は少なくなりました。
大学教授の書いた本は売れない……こんな風評が出始めたのも二十年ほど前からです。大学だけが「知識の宝庫」でなくなったことがこのことにいっそう拍車をかけました。今や、人々が求めているのは、知識ではなく智恵のほうです。ものごとをどう判断したらいいのか(どうとらえたらいいのか)、どう決断したらいいのかという智恵です。実践で使える智恵を欲しているのです。
智恵は、勇気と愛と誇りと感謝の心が一体となったものです。前述しましたように、人を愛さないと、いくら知識があっても智恵にはなりません。私語が多いのは、授業がつまらないからです(私の講義でも私語をする学生がいます。反省する日々です)。知識だけの大学教授が多いのです。智恵に裏打ちされていない講義など聞きたくないのです。学生の質が低下しているのは事実ですが(年々、思考力が低下しています)、大人の質が低下しているから学生の質が低下していくのです。講義している教授自身が愛と智恵と勇気のある人なら、学生は面白がって聞きます。
また、講義する教授自身が講義を楽しんでいないことも問題です。話すほうが楽しくないのに、聞かされているほうが楽しいわけがありません。教育(講義)や研究を楽しんでいない教授が実に多いのです。授業はテクニックではありません。
なぜなら、「あの先生の講義内容はさっぱりわからなかったけど、研究を楽しんでやっていることだけはよくわかった」とか「研究に対する情熱がすごいことがわかった」というだけでも立派な教育であり、立派な授業だからです。学生に夢とロマンを与えることは教育の重要な一環です。学生に、「あんな大人になってみたい」「仕事に情熱を傾けられる大人になりたい」「仕事を誇りに思う大人になりたい」と思わせる講義ができる教授がすぐれた教授なのです。誇り高く生きた人だけができる講義です。しかし、現実は威張りたいだけの大学教授が多いのです。
先日も「私は、ボランティアで、学生や読者の悩みを聞いています」と、某大学の教授に話をしたところ、大笑いをされ、注意までされてしまいました。
「岩月先生の場合、ボランティア活動とは言わないでしょ」
「どうしてですか?」
「だって、本をいっぱい出しているんだから」
「はぁ?」
「ボランティアだなんて人に言ったら笑われますよ。ウソになります」とその教授が自信たっぷりに諭すのです。私はすっかりあきれかえりました。
確かに、結果だけを見たら同じです。本を書くためにやっているのか、あるいはボランティア活動をやった結果、たまたま人の行動の原理原則を発見してそれを本にしているのか、両者の区別はできません。
なぜ、このような誤解をこの教授はしたのでしょうか。
それは、その人自身が下心でしか動かない人だからです。
そして、自分が下心でしか動かない人間であることを認めていないからです。自分のそうした醜さを認めない人というのは、世の中が逆に見えるのです。純粋なボランティアがニセモノに見えるのです。だから、私が下心で動いているように見えるのです。
|下衆《げす》の|勘繰《かんぐ》りとは、こういうメカニズムで発生します。自分の醜さを人に投影している自分に気がつかないほど、自己客観視できない人なのです。独善的で非科学的な態度ですが、理系といえども、このような人は今や決して珍しくありません。だから、大学教授が尊敬されなくなってきているのです。本当に困ったことです。第四章で説明した通りです。
†生きる目的と手段を取り違えている現代人[#「†生きる目的と手段を取り違えている現代人」はゴシック体]
物質的豊かさによって得られる快感は、実はそれほど大きくありません。人と人とがつながる悦びのほうがはるかに大きいものです。物質的に豊かでも、人と人とがしっかりつながっていないと、人は次第に漠然とした不安をいだくようになります。なぜでしょうか。
そもそも、お金や名誉や学歴というのは、人が生きていくための手段(方法)です。お金が無ければ生きていけませんので、これも大事ですが、しかし、お金を得るために私たちは生きているわけではありません。会社で働くために生まれてきたのでもありません。大学に入るために生きているわけでもありません。自分らしく生き生きと楽しく生きるために生きているのです。その悦びの最大のことが人と人との交流です。人と人とのつながりです。心の絆です。人を愛し、人からも愛されることが、生きる目的です。
想像してみてください。大金持ちで豪邸に住み、メイドに食事を作ってもらう毎日であっても、買ってきた花を見て「きれいだね」と共感してくれる人がいない生活です。あるいは、感動的な映画を見に行っても、「いい映画だったねぇ」と言ってくれる人がいない生活です。これでは、どんなに高級な外車に乗り、金銀の豪華なアクセサリーを身につけても虚しいだけです。人間本来の生活とはこういうものではありません。
†真実を味方につければ怖いものはない[#「†真実を味方につければ怖いものはない」はゴシック体]
苦しみというのは、自分の評価を人にゆだねると発生します。本来、人は評価されるような、そんな惨めな存在ではありません[#「本来、人は評価されるような、そんな惨めな存在ではありません」はゴシック体]。自分に対する評価は、自分にしかできないのです。それを人に任せるから自分の本意からはずれてきてしまうのです。
自分が何かをした時、心の底から楽しく感じられたとか、忘我の境地で熱中できたとか、「これだ!」とピンと来たとか、そういう自分の直感を信じて生きれば、人生を誤ることはありません。自分が誇りを持てることをやり続けている、という確かな手応え、つまり、「私もうれしいあなたもうれしい」という関係が成り立つことをしているという手応えこそ、自分を自己実現する方向に導いてくれる羅針盤になります。
たとえば、私の場合で解説しますと、多くの人に幸せになってもらいたい、という動機で本を書いている時間は、「聖なる時間」となります。聖なる時を生きれば、必ず悦びが得られます。個人を超えた情熱でもって、誠心誠意、そして全身全霊で原稿を書けば、必ず充実感が得られます。この充実感こそ、自分にとっての真実です。誰に何と言われようと、否定できない真実です。この真実が自分に誇りをもたらしてくれるのです。もし、私の本を読んで人生が変わったという人がいたら、「著者である私もうれしい、読者もうれしい」という関係が成り立ちます。
「生きる目的」を達成するためにする努力は必ず実ります。聖なる努力は実るのです。そして、聖なる努力をすると、必ず幸せの輪が広がっていくのです。だから「聖」なのです。
人を好きになる、という感情も同じです。愛されているかどうかよりも、相手をどれだけ愛しているかが重要ですし、「彼女のことが好きだ」ということこそ誰にも否定できない真実です。ですから、その彼女にふられても、その真実が揺らぐことはありません。人を好きになるということそれ自体が素敵なことだからです。彼女に愛してもらいたい、と願う気持ちはわかりますが、恋愛の本来の姿は、片思いが原則[#「恋愛の本来の姿は、片思いが原則」はゴシック体]です。たまたま両者のベクトルが一致したカップルが、愛を発展させることができるのです。
もし、ふられて嫌いになるようでは、それは彼女を愛していなかったということです。人を愛するという行為はそんなものではありません。裏切られようが、ふられようが、変わらない真実、それが愛というものです。プロポーズを断られても、素敵な彼女を好きになったことが誇りに思えるような人生でないといけないのです。こういう真実を味方につければ、怖いものはなくなります。自分の直感に自信が持てるようになります。同時に、自分の判断や決断に自信が持てるようになります。もし、それが常識に反することであったら、それは常識のほうがまちがっている、ということです。
しかし、もし、私が、私利私欲のためだけに本を書いていたらどうでしょうか。お金が欲しくて本を書いているとしたら、執筆している時は、俗なる時間となります。「生きる手段のための努力」だからです。こういう俗なる努力をしても、充実感を味わうことはできません。印税が入るという見返りを期待しますので、本が売れないと「裏切られた」「努力が実らなかった」と不平不満の人になります。不平不満は魂を汚します。たとえベストセラーになっても、その悦びは大したことありません。もちろん、幸せの輪も広がりません。
努力が実らないと感じるのは、自分のしていることが俗なる努力だからです。あるいは、見返りを期待した努力だからです。努力しても必ずしも実るとは限らない努力もあります。その典型が入試です。入試は、受験勉強をしたからといって合格するとは限りません。
しかし、英雄体験のための努力や自己実現のための努力、つまり誇りを得るためにした努力は、努力した分だけ必ず実ります。「努力しても実るとは限らない」という常識は、見返りを期待した努力あるいは俗なる努力をしている人が考える人生観です。
聖なる努力をとことんやると、やがて個人を超える瞬間がきます[#「聖なる努力をとことんやると、やがて個人を超える瞬間がきます」はゴシック体]。こういう個人を超えた動機で動けば動くほど、得られる悦びも大きくなります。また、こういう行動を重ねると、この世でもっとも大事なことは何なのかがわかってきます。だから、大事なことにのみ時間と金とエネルギーを使うようになります。こうして人生が充実していくのです。
†英雄体験しにくい社会[#「†英雄体験しにくい社会」はゴシック体]
現代という時代は、これまでお話ししましたように、少年が英雄体験をしようとすると、なかなかたいへんです。なぜなら、英雄体験がしやすいようにお膳立てするシステムが崩壊していますし、多くの世の常識もまちがっているからです。経済的に立派になるようには教育しても、人間として立派になるようには教育していないからです。英雄体験を支援する人も、そして智恵を授ける人もいなくなりました。
また、お祭りや地域の行事など、かつては少年たちの英雄体験には貴重なチャンスだったことが激減してしまいました。今や、スポーツができるとか、勉強ができるということでないと誰も認めなくなっています。お金になる個性を「才能」と呼び、お金にならない個性を「個性」と呼んでいる時代です。これも常識の誤りです。人を愛するからすごいとか、人に共感できるからすごいとか、あの人はやさしいからすごい、と言わない社会では、人は、人間らしく生きることはできません。若い女性が、男性に智恵と勇気を求めない社会は異常です。こうした異常を、異常と思わない人が増えていることが私には不気味に映ります。
人間は本来、人にやさしくせずにはおれない動物です。でも、現実は、渡る世間は鬼ばかりとなっています。人情という言葉はすでに死語になっています。文明の方向がどこかまちがっているからです。こういう文明社会の中では、英雄体験や陰徳を理解できる人はごく少数です。自己実現をしている人も少数なので、応援してくれる人も少数です。人は、自分が体験したことしか理解できないので、仕方のないことです。
「いい男」になるには障害が多くてたいへんな時代ですが、自分がブランドになることをめざして地道に努力をし続けることが大事です。努力は必ず実ります。おのれの力を信じて陰徳を積み、英雄体験をすれば、いつか誇り高き人間になれます。私もそういう人間をめざしています。
†人にウケる生き方よりも、自分にウケる生き方を[#「†人にウケる生き方よりも、自分にウケる生き方を」はゴシック体]
第四章でも説明しましたが、私たちは、常識に縛られていないようで、実はけっこう縛られているものです。それは、自分の作った哲学で行動してみればよくわかります。
常識に従って生きていれば、世間にウケもいいですし、素人目には教養人に見えます。
今は省エネが常識ですが、ほんの数十年前までは、国家をあげて「消費は美徳」を謳っていたのです。常識とは所詮、そんな節操のないものです。そんな常識を|崇《あが》めているだけの人と一緒にいても、何も学ぶことはありません。そもそも、一緒にいてもつまらない人です。ちょっと考えれば誰でも言えるようなことをもっともらしく言っているだけのことです。
自分の美学を貫くことは、現代社会においては容易なことではありません。なぜなら前述しましたように、逆さまに見える人が大勢いるからです。ホンモノがニセモノに、純粋なものが不純に見えるのです。だから、純粋に生きれば生きるほど誤解されやすくなりますし、また無理解や嫉妬による意地悪に苦しめられることが多くなるからです。誇りをもって自由に生きているからこそ嫉妬されるのです。人の誤解や嫉妬ほど怖いものはありません[#「人の誤解や嫉妬ほど怖いものはありません」はゴシック体]。しかも当人は自分が嫉妬していることも認めませんし、正義感で意地悪をするのです。
しかし、それにめげることなく、人にウケる生き方ではなく、自分にウケる生き方[#「人にウケる生き方ではなく、自分にウケる生き方」はゴシック体]をしていると、必ずいつか共鳴してくれる人が現れるものです。そこが人生の不思議なところです。昔から、「徳孤ならず、必ず隣有り」と言うとおりです。密かに陰徳を積んでいる人が、必ずどこかにいます。それが世の中というものです。
世の中には、自分で美学や哲学を作れる人と、作れない人がいます。こういう人は、自分の美学でものごとを判断しようとせず、世間の常識を持ちだして判断しようとします。
「いい男」になりたいと思う人は、自分で美学や哲学を作れる人[#「「いい男」になりたいと思う人は、自分で美学や哲学を作れる人」はゴシック体]です。いえ、作らないと、自分らしく生きられない人です。だから、作らないといけません。でも、心配は要りません。赤ちゃんにベロベロバーをしてウケる人は、自分で哲学を作れる人です。もし、作れないとしたら、それはあなたが作ろうとしないからです。作れないのではなく、作らないのです。
自分が楽しいと感じることを実行する、という生き方をすると自分独自の哲学を創ることができます。そういう美学で生きるのですから、人生はおのずと悦びと感動の日々となります。こういう人にとっての人生の醍醐味とは、出世することでもなければ、お金持ちになることでもありません。人とどれだけ悦びを分かち合えたか、ということです。「悦びを分かち合う悦び」こそ人生の宝[#「「悦びを分かち合う悦び」こそ人生の宝」はゴシック体]だと感じる人です。
繰り返しますが、自分の可能性を信じた者だけが自分の能力を引き出すことができます。そして、真実とともに生きた人だけが自分を信じ切ることができます。自分を信じた者だけが、人と信頼関係を作ることができるのです。自分を頼ることのできる人だけが、人を頼る勇気を持つことができるのです。
一方、自分を頼れない人は、人に依存することしかできません。ストーカーのように、執着することしかできません。愛着と執着をとりちがえている人です。頼ってはいけないことを頼り、頼るべきことを頼らない人です。勇気がなくて頼れないのです。そして、名誉に執着し、権威に迎合し、常識をふり回す人になるのです。そのくせ、部下の前で威張って見せたがる人です。
自分の能力を信じるとは、試行錯誤して、自分の能力を探すことです。探し当てるまで諦めずに探し続けることです。自分の能力とは、「生き役」と言ってもいいものです。探しもしないで、自分にできるかな、などと言っていると、死ぬまで自分の生き役に出会えることはありません。努力すればいつか必ず出会えるもの、それが生き役です。
人には必ず一つ「生き役」が与えられています[#「人には必ず一つ「生き役」が与えられています」はゴシック体]。生き役を実行すると、もっとも大きな悦びが得られます。それを実行し続けることで、自分のみならず、人もうれしくなるのです。生き役とは本来そういうものです。もし、天から自分に与えられた生き役に出会えた時は、自分の心が語りかけてきます。それでいい、それをやれ、と語りかけてきます。自分でも「うん、これだな!」という確かな手応えとして感じることができます。
陰徳を積み、英雄体験をし、生き役を実行している人だけが、大人になっても夢とロマンを持ち続けることができる人です。少年のように、目をキラキラさせて、自分の夢を語ることができる人です。自分の評価は自分でする、という自己完結している人、それがこの本で言うところの「いい男」[#「自分の評価は自分でする、という自己完結している人、それがこの本で言うところの「いい男」」はゴシック体]です。
†良くあろうとする情熱がすべて[#「†良くあろうとする情熱がすべて」はゴシック体]
ここまで、「いい男」になるための話をしてきましたが、かくいう私も発展途上人です。偉そうなことを述べてきましたが、私自身、「いい男」になることをめざしている途中です。
大事なことは、今がどうかということよりも、これからどうしたいか、という意欲です。いい男になりたい、という情熱こそ尊く美しいのです。いえ、私の言い訳ではありません。「いい女」が男性を見て素敵だぁと感じるのは、その男性の持っている情熱に対してです。「いい男」になりたいという情熱を魅力的だと感じるのです。情熱だけは誰にも負けない、という誇りがいい女を惹きつけるフェロモンとなるのです。
一方、いい男になりたい、人生を楽しみたい、という情熱を失ったら魅力半減、いえ、魅力はゼロになります。情熱を失ったら化石と同じです。生きるというのは、悦びを追い求め続けるということと同義だからです。いい女は、魂の死んだ人間には魅力を感じません。
人は神様ではないのですから、完璧である必要はありません。欲求を捨てる必要もありません。美人でナイスバディの女を抱いてみたい、そういう欲求は、男性として自然な欲求です。その欲求を捨てることが人間として立派なことではありません。男性が女性にやさしくしたいという願望のウラには、女性とセックスしたい願望が横たわっています。そのため、いい女とセックスしたいという願望をなくせ、ということになってしまったら、男性は女性にやさしくしなくなります。セクハラはこの世から消えますが、女性は社会のすべての男性たちから親切にされなくなってしまいます。
†高い次元の欲求は気持ちがいい[#「†高い次元の欲求は気持ちがいい」はゴシック体]
大事なことは、前述しましたように、より高次元な欲求を持つことです。陰徳を積むと、それがどういうことかおのずとわかってきます。目の前にいるナイスバディの女性をだましてセックスし、そのことで得られる快感や満足感と、女性全般の、いや、人類の幸せを願ってした行動によって得られる快感や満足感と比べて、後者のほうが大きいことがわかったら、人はおのずと、快感の大きい生き方を実行するようになるからです。
高次元の欲求のほうが、悦びも感動も大きいように、私たちの心はできています。聖なる方向へ人が進むようにできているのです。やってみればわかります。自分が体験してわかったことを推し進めていけば、必ず最後にはいい人生になります。悦びの中でもっとも大きなことを繰り返し実行すればいいのです。ただそれだけです。それがおのれの信じた道を歩むということです。
高次元の願望で動いている人ほど、自分は当たり前のことをやっていると思っています。自然体で|飄々《ひようひよう》とやっています。淡々としかし情熱を込めてやり続けるのです。私たちの心は悦びが大きいことをするようにできているからです。自分らしく生きるようにすればいいだけです。自分らしく生きることがこの世でもっとも美しいのですから。
第四章にも書きましたが、自分らしく生きる、ということは、好き勝手にやればいい、ということではありません[#「自分らしく生きる、ということは、好き勝手にやればいい、ということではありません」はゴシック体]。あくまでも、「私もうれしい、あなたもうれしい」という関係を指標にしながら、とことん自分の快を追求するのです。究極の利己が究極の利他になる瞬間が必ず来ます。もしこなかったらまだ、本気でやっていない証拠です。
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終 章[#「終 章」はゴシック体] いい人生とはどういうものか
†お地蔵さん[#「†お地蔵さん」はゴシック体]
小雨がぱらつく年末の晩のこと、私はお気に入りの小さなお地蔵さん(琴電瓦町駅の北の国道付近)に行き、お賽銭を入れて、チーンと鈴を鳴らしてお参りをしていました。私だけの聖なる時間を楽しんでいたその時です。背後からいきなり、「何をお願いしているの?」と話しかけられました。びっくりしてふり返ると、中年の女性が傘を差して立っていました。私よりは年上の女性のようです。
私は返答に困ってしまいました。私はただその場所が気に入っているからときどき行ってお賽銭をあげているだけで、特別に何かを祈願するためにお参りしているわけではないからです。
「いえ、ここが気に入っているから来ているだけです」
「でも、ずいぶん熱心にお祈りしてたね」
「はい、世の中の人みんなが楽しく生きられますように見守ってくださいね、とお地蔵さんにお願いしていたんです」
「宗教か何かやっているの?」
「いいえ、何も」
「……」
その女性は納得できないようでした。
「私は、気分がいいとここに来たくなるんです。でも何も願うことがないので、みんなが楽しく暮らせますようにとお地蔵様に願うんです。すると、なんだか楽しい気分になってくるんです」
「……」
「もともとお祈りというのは、自分のために祈っても通じないんですよ。たとえば、試験に合格しますようにとか、宝くじが当たりますようになんて祈っても効きません。だって自分がお地蔵様だったら、そんな自分勝手なお願いをかなえてあげたいなんて思わないでしょ」
「そう言われればそうねぇ」
「自分のためにしか祈れない人は、大損していると思いますね。だって、人の幸せを願う悦びを味わったことがないんですから」
「何か特別な思想をもっている?」
「いえいえ、何もないですよ」
「誰かから教わったとか?」
「いえ、経験的にそう感じるだけです。人は、人から幸せを願われないと幸せにはなれません。だからせめて私だけは人の幸せを願いたいと思って、余裕のある時、ここに来て祈るんです」
「ふーん、がんばってね!」
何をがんばるのかさっぱりわかりませんでしたが、その女性はいたく納得したようでした。もう一度、「がんばってね!」と言って、その女性は去っていきました。
†意地悪な人が失うもの[#「†意地悪な人が失うもの」はゴシック体]
昔から「人を呪わば穴二つ」と言います。人を呪う人は自分も人から呪われてしまう、ということです。しかし、逆もまた真なりで、人の幸福を願う人は、自分も人から幸福を願われます。この世はこのような単純な法則で動いています。
では、お地蔵さんでときどきお祈りをしている私に何かいいことがあったかというと、実は何もありません。宝くじに当たるようなこともありませんし、麻雀で勝ちまくるようなこともありません。数学の確率の通りの毎日です。むしろ、誤解や無理解に苦しめられたり、不信の目を向けられてイヤな思いをしたり、嫉妬による意地悪をされて「ああ、人の嫉妬ほど恐ろしいものはないなぁ」と落ち込むことが多い日々です。
はたから見る限り、意地悪をする人も、人の幸せを願う人もそんなに違いはありません。しかし実は、意地悪する人には重大な損失があるのです。
それは、食べる悦びと人を愛する悦びが奪われている、という損失です。人の不幸を願う人や、嫉妬で意地悪をする人というのは、人の感じる悦びのうちで一番大きな悦びと二番目に大きな悦びを失ってしまうのです。
人は食べないと死んでしまいます。そのため、食べる悦びが一番大きな悦びになっています。だからダイエットがむずかしいのです。もし、食べる悦びよりも大きな悦びがあれば、それに没頭していれば食べることを忘れることができて痩せることができるからです。でもそれでは死んでしまう危険があるので、飢えという不快感を最大にしているのです。
この飢餓という不快感は一人でも感じとることができますが、おいしいものを味わう悦びのほうは、「おいしいね」と共感してもらわないと、堪能することはできません。誰とも共感しないで豪華なフランス料理を食べても、そこから得られる快感はけし粒みたいなものでしかありません。お金を出しさえすれば食事を楽しめると思ったら大間違いです。人は、一人でおいしさを味わうことはとてもむずかしいのです。だからこそ、誰かとおいしいね、楽しいね、と共感し合う必要があるのです。そして共感し合って、悦びを何百倍にも拡大することができるのです。これまで一番おいしいと感じた料理がハイキングした時に食べたおにぎりだったりするのは、そういう理由があるからです。
お金さえあれば高級レストランに行くことができますが、しかし、嫉妬で意地悪するような人は、人の幸せを願う人の何百分の一のおいしさしか味わうことはできません。食べる、という一番大きな悦びを共感できない人生というのは、きわめて貧しい人生です。おいしければ「うまいね」と人は言いますが、言葉は同じでも、人によって何千倍も味わっている大きさが違うのです。ですから、お金を儲ける努力やおいしいレストランを探す努力をするよりは、おいしく食べられる人を探す努力、そして、悦びの共感ができる自分になる努力をしたほうがはるかに有効なのです。
二番目に大きな悦びは、人を愛する悦びです。元来、人は自分が一番かわいいという利己的な生き物ですが、しかし相手と一体化すると、自分の幸せを願うように相手の幸せを願うことができるようになります。つまり、相手の悦びが自分の悦びになるのです。こういう「悦びを分かち合う悦び」は、この世で二番目に大きな悦びです。人生の醍醐味とは、悦びを分かち合う悦びです。人の幸せを願うことができた人にだけ与えられる天からのご褒美です。
これら二つの悦びが奪われた人生というのはとても残酷な人生です。ところが、人の不幸を喜んだり、人に嫉妬して意地悪をする人は、自分がいかに残酷な人生を歩んでいるか知りません。不幸な人ほど自分の不幸に気がつかないのです。なぜなら、人を愛する悦びはこんな程度だろうとか、食事の悦びとはこんな程度だろうとしか思わないからです。人は自分の体験したことしか理解できないため、自分の不幸に気がつかないのです。
ですから、まさか何万円も出して食べているフランス料理が他の人の何百分の一しか味わっていないなどとは夢にも思わないのです。みんな自分と同じ程度の悦びしか味わっていないだろうと思ってしまうのです。それゆえ、高級料亭に行っている自分のほうが幸せだと思い込んでしまいます。だからいつまでも自分の不幸に気がつかないのです。悦びを分かち合う悦びに関しても同様です。そんな類の悦びがこの世に存在することすら知りません。知らないので、自分は不幸だとも思わないのです。第四章の冒頭で述べた人間不信の人もまた同様です。
†いい人生とは一日が長く感じられること[#「†いい人生とは一日が長く感じられること」はゴシック体]
さて、人に意地悪をしたり、人に不信の目を向ける人は、人と悦びの共感をすることはしませんし、また、できません。なぜなら、意地悪は否定で、悦びの共感は肯定だからです。相反することを臨機応変に使い分けできるほど器用な人はこの世にいないからです。愛することも肯定ですから、意地悪という否定の行動をする人は、肯定の行動をすること、つまり、愛することができない人なのです。こんな人に孫ができてもかわいがれる道理がありません。愛しているつもりだけ、または格好だけです。そこに愛がないことに気がつかないのです。残酷な人生です。
ただ、気をつけなくてはいけないのは、自分は人に意地悪する気がないから大丈夫、と判断してしまうことです。なぜなら、嫉妬で意地悪をしている人ほど、自分が意地悪をしている自覚がないからです。智恵がない人ほど自分に智恵のないことを自覚することができないのと同じです。
人の生きる目的は、いかにたくさんの悦びを得たか、ということです。人生の宝は、いかにたくさんの思い出を作ることができたか、ということです。悦びがなければ、記憶は作れても、いい思い出を作ることはできません。思い出が作れないと一年が短く感じるようになります。人生がマンネリ化しているからです。本来、人の人生は、歳をとればとるほど充実した日々になるものです。一年という時間が歳とともに長く感じるようになるものです。若い時の一日が一カ月とか一年に感じる人生です。
ですから、いい人生を歩んでいるかどうかは、歳とともに、一日が長く感じられるようになったかどうか、充実した日々が増えたかどうか、そして、自分の家で食べる料理が一番おいしいと感じるかどうかで判断できます。
もし、こうなっていなければ、どんなに社会奉仕をしているつもりでも、どんなに社会的に高い地位に就いていても、人に危害を加える「害虫」になっているということです。三十五歳を過ぎても害虫のままというのは、人間としてもっとも恥ずかしいことです。しかし、害虫の人ほどその自覚がありません。自分こそ益虫だと思い込んでいます。害虫の人が多い社会は、健全とは言えません。どんなに経済的に豊かでも、人々の心は荒廃していきます。
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おわりに
若い頃、女の子にモテたらどんなに幸せだろうと、私は思っていました。ふられてばかりの青春時代だったからです。モテる男や恋人がいる同級生たちがうらやましくて仕方ありませんでした。そして、社会的に成功したらどんなにすばらしい人生になることだろうと思っていました。また、お金があったら最高の人生になるだろうな、と思っていました。
でも、五十歳に近くなるにつれ、モテた話をする男ほど実はそんなにモテていないことがわかりました。そして、本当に女性にモテる男は、決して自分はモテるとは言わないこともわかりました。また、ダメな男がダメな女にはモテることにも気がつきました。そして、社会的成功度と幸福度は別であることにも気がつきました。お金があることと幸福度もまったく別であることにも気がつきました。幸福になるのにお金はそんなにたくさん必要がないこともわかりました。誇り高く生きることと幸福度が一致しているのです。
最近、もうひとつ気づいたことがあります。それは、自分がどれだけモテたかよりも、人をどれだけ愛したかということのほうが大事ではないかということです。たとえ片思いで終わったとしても、あるいは最終的にその女性にふられたとしても、「いい女」を好きになることのほうが人生においては大事だ、ということです。「いい女」を好きになった自分を密かに誇りに思う生き方のほうが、本当はずっとカッコイイのではないかと思うようになったのです。
負け惜しみで言っているのではありません。人を好きになるということの中に、幸せの原点があると思うからです。人の幸せをどれだけ願うことができたか、人の幸せをどれだけ支援できたか、そういう行為が人を幸せな気分にするのだと思います。いえ、愛されることに意味がない、などと言っているのではありません。相手の幸せをどのくらい願ったか、それに比例して悦びが手に入るのではないか、と言っているのです。
さて本書は、私がたくさんの人から聞いた話を総合して書いたものです。多くの人の話を聞いていて面白いなぁと感じることは、女性が男性に求める理想像と、男性がなりたい理想像とが一致することです。
男性が「理想とする男性像」になるためには、たいへんな努力が必要です。多くの人の支援も必要です。
そこで、読者のみなさんにお願いがあります。もし、あなたが、英雄体験を終え、自分に自信と誇りを持って生きられるようになったら、ぜひ、若き少年たちの良き指導者になっていただきたいのです。
第五章で申し上げましたように、私自身が発展途上ゆえに、まだまだ力不足です。私は喫煙者ですが、クルマの窓から吸い殻を捨てる人を見ると、クルマから引きずり出して殴りたくなるほどの未熟者です。そんな私の力不足なところを、ぜひともあなたに補っていただきたいのです。それが未来の日本に必要不可欠なことだからです。
人が生きるためには多くの人の無私の愛が必要です。人生の前半は、無私の愛を受けるべき時ですが、しかし、人生の後半は無私の愛を人に授けるべき時です。愛のバケツリレーですね。私たちの社会は、多くの人の無私の愛で成り立っています。親の愛や親の協力だけでは一人の少年が英雄体験をすることは不可能です。先に英雄体験を済ませた者は、次の若い世代を支援する義務があると、私は思います。
人類の進歩と調和、そして個人の幸福のために本書が役立つことを願っておわりにしたいと思います。
最後に、本書を書く機会を与えてくれた、筑摩書房の山野浩一さんに感謝の意を表します。また、私の良きカウンセラーであり、良きディスカッション相手である、妻マリにも敬意と感謝の意を表します。
二〇〇二年七月二八日
[#地付き]岩月謙司
追伸
最近、読者からのお手紙を多数いただきます。読んで人生観が変わった、生きるのが楽しくなった、いい恋愛ができるようになった、というお便りをいただきますと、原稿締切に追われて、土日はおろか、盆・正月も返上して執筆したかいがあったなぁ、としみじみうれしくなります。読者の幸せが私にとって一番うれしいことです。「また、いい本を書こう」という意欲がわいてきます。本当にありがたいことです。この場をお借りして、深くお礼申し上げます。
ただ、ご相談のお手紙をいただきますと、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになります。気の利いたアドバイスができないからです。お返事が出せないことは、たいへん心苦しいのですが、私は、ただ話を聞くだけの人で、臨床心理士でもなければ、精神科医でもありません。どうか、お許し下さい。この場をお借りして深くお詫び申し上げます。
[#地付き](二〇〇二年一〇月二五日)
岩月謙司(いわつき・けんじ)
一九五五年山形県生まれ。早稲田大学卒。筑波大学大学院博士課程生物科学研究科修了。理学博士。テキサス工科大学、日本石油樺央技術研究所等を経て、現在、香川大学教育学部教授。専攻は動物行動生理学、人間行動学。幸せ恐怖症、家庭内ストックホルムシンドローム、思い残し症候群、過飲症(ペットボトル症候群)などの新説をテレビ、ラジオ、新聞、雑誌で発表する。著書に『思い残し症候群』『「子どもを愛する力」をつける心のレッスン』『家族のなかの孤独』『無神経な人に傷つけられない88の方法』『なぜ、男は「女はバカ」と思ってしまうのか』、絵本『メルヘン・セラピー「般若になったつる」』他多数。
本作品は二〇〇二年九月、ちくま新書の一冊として刊行された。