[#表紙(表紙.jpg)]
岩井志麻子
黒焦げ美人
目 次
奇々怪々の大事件勃發す
美人惨殺の兇行者遂に捕はる
恐るべし美人焼殺犯の消息
好男子にして性行不品行なり
[#改ページ]
奇々怪々の大事件勃發す
人力車は華美を競い点燈夫は街燈の炎に汚れた頬を照らし氷屋の紅い提燈《ちようちん》には凄まじい夏風吹き付け貧窮する百姓の子らは小学校の授業の合間に縄綯《なわない》機械で内職をし東京まで十五時間の特急列車は朝鮮経由|西比利亜《シベリヤ》線によって遠く欧羅巴《ヨーロツパ》にまで洋装の旅行者を運び窓外の岡山市は死せる明治の中に沈む──。
「大正じゃと、今日から大正なんじゃと」
「それはわかったけぇど。なんで、こんな寒いんじゃろか」
「そんなはずなかろうが。今は夏じゃで。夏の盛りじゃで」
「それもわかった。で、あんたは誰なん?」
「早う、目を覚ませや」
青く凍える夢を見ていた砂川晴子は、自分が夢を見ているとも今が凍えるはずのない夏の盛りだということも忘れていた。夢はそれほど甘美ではなかったし、夏は狂おしく暑かったというのに。
「痛わしい夏じゃ。のう、晴子」
「陛下が、お隠れになったんじゃで」
文机《ふづくえ》に伏せたまま転寝《うたたね》をしていた晴子は、眠ったふりも死んだ真似もできないままに目を開けた。視界に映るのはしかし、見慣れた静かな不幸の部屋だ。世の中が変わるほどの大きな不幸が家の外では起こっていても、ここには痩せた父と母と自分しかいない。
「……陛下が、お隠れに」
呟いて、ようやく晴子は大きな不幸に身震いした。凍える夢を覚ましたのは、酔っていた父だ。泣いていた母だ。といって、ともにこの国を覆う止《と》め処《ど》ない不幸に酔っていたのでもなければ、泣いていたのでもない。
「しゃあから、晴子よ。今日の三味線の稽古は、のうなったで」
「山陽新報の号外に出とるんよ。『鳴物を禁じ歌を唱わぬこと』いうてな」
それでも二人は、今は半ば閉めた襖《ふすま》の陰から厳かに告げた。しかし口調が沈んでいたのはそこまでで、晴子が乱れた髪を撫で付けた時にはもう、定期預金の失敗だの仕入れで誤魔化されたことだのの喧嘩の続きを始めていた。物心ついた時からこの父と母は、いつも喧嘩をしている。
襖は真ん中にあるものの、二階には座敷が一つしかない。西側が晴子の部屋で、東側が父と母の部屋ということにはなっているが、いつも開け放した二間は続いている。派手な喧嘩も隠微な睦言も、筒抜けなのであった。
晴子は昼なお暗い二階の間で、この世の大きな不幸よりも、我が家の小さな不幸の繰り言の方に暗澹たる気持ちになる。
「ほんならあんたは、また珠枝んとこに金を借りに行けと言うんか」
「おお、行ってけえや。あれは孝行娘じゃけんな」
癇癪持ちの父にいつも打《ぶ》たれている母が、珍しく甲高い声をあげて泣いた。襖を閉めてしまいたいが、それすら億劫だ。薄暗い二階の座敷には、生温かい風が吹き込むというよりは、澱むために転《まろ》び込んでくる。
「珠枝がまた、尾崎の旦那に恥ずかしい思いをするがな。ついこの前、用立ててもろうたばっかしじゃのに」
「何を言うとんじゃ、尾崎の旦那は、それが仕事じゃろうが」
姉の名前と、その世話をしている旦那の名前を出されると、晴子は自分の体の中にも生温かく生臭い風が澱むのを感じる。お姉ちゃんが醜業に就いてくれとるお陰で、一家はご飯が食べられて、うちは安気《あんき》に女学校に通える。
と、どうした具合か開け放した窓から、不意に一陣の涼やかな風が通り抜けていった。まるで、逃げ去るように。
逃げていった風は、姉の珠枝の許に行くかのようだ。いや、姉そのものが逃げる風だ。孝行娘。姉の珠枝のことは、近隣でも話題になっている。だがこの場合の孝行娘には、口元を卑しく歪めさせる響きがあった。
「お父ちゃん、お母ちゃんよ」
長襦袢の背を湿らせた晴子は、物憂く呼びかける。
「新聞にゃあ、『家内静かにすること』とも、あるで」
暗い燭光の射す畳には、山陽新報の号外が広げられていた。不吉な紙は、夏の湿気か大いなる哀しみのためにか、微かに震えていた。その字面を目で追い、晴子は呟く。姉も今この号外を読んでいるだろうかと、逃げていった風の行方を追う。
無論、父と母にはそんな呟きは耳に入っていない。この後、きっと父は足音高く階段を降りていき、隣町の下駄屋の後家の許に行くはずだ。そうして母は一階の店先で、癇性な手つきで売り物の呉服を畳み直す。晴子はいつもなら三味線の稽古のために、下駄を鳴らして酒屋の二階に住む芸妓あがりの老女の許に行く。それがなくなったのなら、晴子は鳴らせない三味線を抱えて、声にならない歌を歌うしかない。
しかし二人はまだ、喧嘩を続けている。父には早く、下駄屋の後家の許に去って欲しかった。母には早く、階下の一層暗い部屋で売れ残りの着物を畳み直して欲しかった。そうして自分は、密やかに陛下を悼むのだ。姉を憐れむのだ。
二人の諍《いさか》いは晴子の物心つく頃から倦《う》まず続けられてきたのだから、歳の離れた姉の珠枝は、もっと沢山うんざりする光景を目《ま》のあたりにしてきたはずだ。しかし姉は昔から、泣かぬ娘だった。全てを受け入れ受け流し、それでいて強《したた》かに真ん中にいる娘であった。そう、この自分とは違うのだ。
部屋の隅に立て掛けてあった三味線が、滑り落ちた。無音のままに砂壁を削って落ちた三味線は、今日は誰にも拾いあげては貰えない。山陽新報の傍らの団扇《うちわ》を取り上げて扇ぎながら、晴子は明治の終焉が夏の最中であることに、胸疼くものを感じた。その胸の疼きは、また別の痛みを呼び覚ます。
「大橋さん……」
陛下の御名ではなく、ひそかに想う男の名前を口にしてみたことで、晴子はまた居心地の悪い風になぶられた。姉もだが、大橋もこの号外は手にしているか。東京の大学まで出た大橋さんじゃけん、新たに来る次の代が明治ほどに永く続くかどうか、見当をつけてくれるじゃろう。陛下よりも、今は大橋に会いたかった。
さっきから咽《むせ》び泣く声がする。それはやはり、隣の薬種屋からであろう。
「ああ、陛下、陛下。御世が変わっても、うちらはずっと不仕合せじゃ」
打たれる母の泣き声に、隣の薬種屋の老婆の泣き声が重なる。隣の老婆は、陛下を想って泣いているというのに。
「阿呆が。そねえな声が聞こえてみい。不敬罪で引っ張られるで」
晴子は再び文机に伏して、陛下の今在らせられる処を想う。そこにも青い哀しみが満ちているのだろうか。不敬であるけれど、それはさっきまで見ていた夢の世と同じ薄闇の世界だという気がした。
凍える夏と、今日の日を記憶しよう。晴子は、女学校で使っている帳面を取り出した。薄青い紙に、明治と書いて線で消し、大正、と書き込んだ。まだ馴染まぬその元号は、黄昏《たそが》れてゆく部屋で奇妙に鮮やかだった。
夏の終わりを始まりとしてしまったから、大正は朗らかで哀調を帯びた時代になったのだと、きっと後の人々は語るだろう。自分がどれだけ愛らしい時代に生きて、自分がどれだけ不吉な夢を見たかは語らずに、一息で夏と大正とを懐かしむに違いない。
秋には西大寺町と東山の間を岡山で初めての乗り合い自動車が走り、冬にはこれも岡山では初めての飛行機が飛んだ。重い車輪は土煙をあげて枯葉を踏みしだき、鳳《おおとり》号と名付けられた飛行機は、青く張り詰めた空を航行した。青はもう、不吉な夢と夏の色ではなくなったのだ。
未だ活動写真を「呪術師の仕業かもしれん」と怯える者の多い岡山では、逆に目新しいものや見慣れないものは場所を得やすく、占拠しやすい。あどけない大正は窓外のざわめく岡山市にも暗む二階の座敷にも浸透してゆき、同じくあどけない人々は、大正を美観そのものとして受け入れた。
「自動車に飛行機か。なんとまあ、どっちも速いもんじゃのう。大正という時代そのものが、そねえな速い乗り物に乗ってきたようじゃ」
「しゃあけど、きょうてえわ。馬より先に走って、鳥より速う飛んで、どこにそねえな急いで行くことがあろうか」
珍しく喧嘩をしていない父と母が、縁側に腰掛けてそんな会話をしていたことを、晴子は夏とともに思い出す。二人は行き当たりばったりに生きてきた癖に、途方もない予言は的中させるのだと、これも晴子は後で知ることになった。
──そうして今は真冬で、晦日《みそか》は慌ただしい逢瀬と新年の備えに凍える日で、晴子の姉の珠枝はきらびやかで可哀相な女だった。
下駄屋の後家の所から戻ってきた父と、晴子は玄関で出喰わした。
「珠枝んとこに、行くんか」
「そうじゃ」
頷けば、庭で塵を燃やしていた母が自分の肩にかけていたショオルを取り、黙ったまま晴子に手渡した。父からは余所《よそ》の女の匂いがし、母からは余所の女の匂いをつけた父の手拭いを燃やす匂いがした。
「暗うならんうちに、帰って来られえよ」
母はいつでも、僅かに父より声を潜める。その声の低さに、晴子は素直ないい娘になろうと従わされる。姉は反対に、その卑屈さの分だけまだ父の方がましに思える、と母から顔を背けたが。
「……わかった」
晴子は下駄を鳴らし、逃げるように表に出た。咳き込めば微熱のあることがわかる。風邪も年を越すのだろうか。ふと、自分の思い煩うことは風邪だけかと、また咳をする。
大正となって初めての新年が、すぐそこに来ている。先だっての初雪はまだ鮮やかな紅葉の上に降り、それが氷雨となる頃に晴子に軽い風邪をひかせた。だから晴子は毛糸のショオルをぐるぐると巻き付けた格好で、姉の家を訪れた。
岡山市の繁華街を少し外れた路地に、姉は住んでいる。奥の方にひっそりと、まるで路地に守られているかのように、その家はある。
路地裏ではないが、割合に入り組んだ小道の傍らだ。小ぢんまりとした平屋ではあるが、端正な佇まいの庭つきの一軒家だ。そこに独りで暮らすことは、贅沢であり侘しいことであった。表札に掲げられているのは、砂川ではなく尾崎という姓だったが、これは嫁いだ先の姓ではなかった。姉の珠枝は、世間で言うところの妾なのだ。
尾崎、というのは珠枝を囲っている旦那であった。元々、豪農の出でもあったし、米国で旅館を経営してかなりの資産を作った男だ。珠枝も一度は尾崎について渡米もしたが、すぐに岡山に戻ってきた。
その際、一旦は切れたのだ。尾崎は永らく別居していた妻子の元に戻ったかと思うと、今度はすぐに本妻の方を連れて再び渡米してしまった。珠枝は以来、与えられたこの家で気ままに独り、暮らしている。
夏でもひんやりと湿った玄関を入れば、左手に炊事場、右手に姉の部屋だ。ここは寝室でもあるので、出入りの多い姉の家でも、入れる者は限られていた。無論、妹である自分は入れる。そして誰よりも、この家を持たせてくれている尾崎。本来は、姉と尾崎しか入ってはいけないはずの部屋なのだ。
しかし、入ってはいけない人まで入っている。晴子はそれを知っていた。
あれは夏であったろう。青ざめた不幸な大正の夏ではない。猛々しい明治の夏だった。提琴《ていきん》。あの頃はまだ、ヴァイオリンではなくそう呼ばれていたあの楽器。姉の部屋から漏れてきたあの音色は、どんな声より物音よりも淫猥であった。
「ええわあ。あんたの音楽は耳から離れんのよ。ふっとした時に、頭の中で鳴るんよ。消そうとしても、消えてくれん」
嫌がっている母のひそひそ声そっくりの声で甘えていた姉も淫らだった。その音を奏でていた男の声は聞こえなかったが、その沈黙もまたたまらなく淫靡で、晴子は耳を塞いだのだ。耳を塞いでもその音楽は聞こえたし、目を瞑《つぶ》っても二人の淫らな様子は描けた。
気取った西洋の楽曲ではなく、通俗の流行歌を軽妙にどこか投げ遣りに弾いていたのが、逆にその男の高慢さを感じさせた。だからその音を立てていた男を、晴子は見なかったことにしたというのに。
初めて彼のその楽器の音を、明るい小庭に面した座敷で聴いた時には、自身の中に張られた弦を震わせられたほどに聞き惚れ、聞き惚れていることにすら気づかないほどに陶然とさせられた。また、演奏する男のこの上なく真摯な横顔には、確かに見惚れたのだ。そう、傍らの姉よりも。
しかし陽の中で楽器を弾いていた時はあれほどまでに眩しかったのに、閉ざされた寝室で垣間見たあの男は、何故ああも陰影が濃かったか。きっちりと言葉にできないもどかしさに、晴子は子供のように爪を噛んだ。
考えてみればあの男は陽の中にいたことこそが間違いで、淫靡な闇の中にいてこそ真価を発揮する者なのかもしれない。果たして姉はそのことをわかっているのかと、晴子は咳き込むたびに爪も噛みたくなるのだ。
その姉の部屋を横切って進めば、多くの客を招き入れることのできる、広い座敷に突き当たる。ここも晴子の住む家の二階と同じで、本来は二つの座敷なのだが、間の襖を取り払って広い一間として使っていた。あの男が初めて提琴を弾いて聴かせてくれたのは、この座敷の真ん中だった。
今は掃き清められ、料亭に頼んで持って来させたおせち料理の重箱や、これもまた花屋に活けさせた正月の花と、まだ表に出せない門松などが配達されてきた時のままに並べられていた。その整然とした、しかし寒々しい情景に晴子はかすかに熱を高くする。
姉は料理など作らない。花を手ずから切って活けたりもしない。買物にも出ず、全てを金で済ます。尾崎もだ。珠枝と晴子の親もまた、そうだ。それは仕方のないことであった。済ませられるだけの金があるのなら、世の中も自身の心も整理が簡単になる。要らぬ涙や汗は、流さないに越したことはない。
それでも晴子は時折、その無駄な涙と汗を流したくて叫びだしそうになる。
「ああ、よう来てくれたな、晴子ちゃん」
先にそう笑って迎えてくれたのは、姉の珠枝ではなく大橋秀智だった。やや肥り気味の大橋は、よれた絣《かすり》の着物を汗で湿らせている。晴子より早くここに来て、餅つきをしてくれていたのだ。一休みしていたところらしく、座敷の真ん中に胡坐《あぐら》をかいて寛《くつろ》いでいた。晴子はそこに、子供のように座り込みたくなる。
もしかしたら、と晴子は大橋のあけっぴろげな格好を眺めて思う。痩せた父には望めぬ大らかさを自分が大橋に求めてしまうように、すぐに自分に色目を遣う下賤な男には望めぬ狂おしい恋情を、姉はあの素っ気ない男に求めているのではないのかと。
いずれにしても、自分は笑う大橋を眺めていたいのだ。
「大橋さんだけなん?」
凍える道を来たはずなのに、晴子は座敷に入るなり頬を上気させた。叫びだしたくなる時、なぜか思い浮かべている人に迎えられたからだ。
「そうじゃ。後の者は、夜になってから来るんじゃろ」
「宴会だけに、かな。ほんまに大橋さんだけが働き者じゃわ」
首にかけた手拭いで顔を拭いている大橋は、晴子の無邪気な称賛に少しだけ困った顔をする。晴子は火鉢の側に座り込み、そんな大橋を見上げた。
大橋は、数多い珠枝の男友達の一人だ。東京の大学まで出たのに、岡山で何をするでもなくぶらぶらしている。昨今の流行り言葉では高等遊民というのだろうが、それは東京ならある種の羨望すら抱かれる身分でも、岡山ではただの役立たずとしか言われない。
本人とて開き直っているのではなく、地元の新聞社に勤めたり教師をしたりもしたが、どれもあまり長続きがしなかった。晴子の目からは腰の軽い気の利く人なのだが、他の者からはそう思われていないのが不思議だった。
「あんな銭にならん、怠け者」
晴子の親もまた、悪《あ》し様《ざま》に罵る。しかも最近、大橋は金持ちの後家の養子になっていたのだった。それもまた悪口の種だ。己れとて清貧に生きているはずはないあの親にさえ腐《くさ》されるのは、可哀相というより腹が立つ。
姉が尾崎に惚れられているように、大橋もその後家に可愛がられているのだ。それのどこが悪いのだと、晴子は一人ひっそりと憤慨していた。姉の男友達の中では、大橋が一番好ましかった。今日だって、楽しい気楽な宴会にだけ来ればいいものを、餅つきや掃除の手伝いに一人だけ駆け付けてきてくれているではないか。
なのに、肝心の姉さえほとんど無視している。いくら他に待ち焦がれる男がいるとしても、それは冷たすぎるではないか。あの驕慢な、しかし女心を蕩《とろ》かす音色を出してくれる男が、確かに大橋よりは待ち焦がれられるに相応《ふさわ》しい男としてもだ。
「甘く見られる大橋は、大橋自身も世の中を甘う見とるんじゃ。まだ女学生の晴子には、わからんじゃろうけどな」
と吐き捨てたのは、父だったか母だったか姉だったか。まさか当人ではあるまい。ましてや、あの男でもなかろう。あの男は、大橋の友達ということにもなっているが、とても大橋に強い感情を抱いているとは見受けられない。あの男はいつもどこかに心を置いてきていると、晴子はその心の在処《ありか》を時々想像しては、ますますわからなくなっているのだ。
「なあお姉ちゃん、正月はいつうちに帰るんよ」
晴子は、軽く咳き込んでからそう訊ねた。大橋はすでに立ち上がり、餅を並べた重箱を一番寒い奥の納戸に運んだりしている。しかし縁側に座り込んだ姉は、一瞥さえくれない。晴子の咳に気づきもしない。それほどまでに、あの男が待ち遠しいのか。
「……尾崎さん次第じゃわ」
珠枝は相変わらず小庭とその向こうの垣ばかり眺めていたのだが、ようやく物憂い口調で答えた。一筋の乱れもなく整えたはずの後れ毛が、弱い風に震えていた。
「尾崎さん、お正月に帰るんかな」
「らしいわ。そんなら待っとかにゃあ、いけんじゃろ」
嫌々でも仕方なく、でもない。珠枝はこんな時、愛想も感情も押さえ込む女になる。それでいて縁側の縁に横座りをして、一筋の乱れもなく結いあげた髪の後ろを確かめるために合わせ鏡をしている姿は、ひどく生々しく女らしい。
左手の赤い縁取りの鏡と、右手の重々しい鋼製の鏡と。珠枝はその鏡に、しかし髪ではなく待ち人を映し出したいのだ。たとえ左右逆に映ろうと、逆しまになろうと。
「まあ、お姉ちゃんはお客も友達も仰山おるから、淋しゅうはなかろうけど」
「そんなこたぁ、ないんよ。うちは、淋しい女じゃ」
そんな姉と小庭を透かしていた晴子は、ふっとまた姉の背中に視線を移した。思い出の中の姉も夢の中の姉も、明治の姉も大正の姉も、今そこにいる姉も、いつも後ろ姿という気がするのは何故だろうかと、この歳の離れた姉を凝視する。
それは明治の頃も、大正となって初めて新年を迎える今も変わりない。三十路《みそじ》もそう遠くない姉なのに、派手な縞柄の着物と相俟《あいま》って、自分と同じ山陽女学校の生徒だといっても通る若さを保っている。その色艶が、なお哀しい。
晦日だろうが正月だろうが、着飾って旦那を待つこともないのだ。といって、ここからさほど遠くはない実家に戻ることもない。珠枝は少なくとも表面上は自分を捨てた尾崎よりも、自分の方から捨てきれない親の方を疎《うと》んじていた。
「晴子ちゃんだけじゃわ。こうして甘えにきてくれるんは」
「……父ちゃんも母ちゃんも、待っとるよ」
後ろに座って、遠慮がちに言ってはみたが、聞こえなかったふりをされた。髷《まげ》の赤い簪《かんざし》が、射るほどに鋭い。ともあれ晦日は、珠枝にとって厳かな日ではない。凍える日でもない。そわそわと、ヴァイオリンを待つ日々の中の一日に過ぎない。
「晴子ちゃん、もう一回表に出てみてくれん?」
「ほんまに、来られるんかな」
「来るんよ」
晴子は小さく溜め息をついて、大儀そうにまた立ち上がる。表は寒風が吹き荒《すさ》んでいるのだ。その中で、自分はちっとも待ち焦がれていない男を待つなど、こうして火鉢の側にいても凍えそうだ。咳はもう治まっているが、微熱は引かない。
藤原正司。凍える唇で呼ぶに相応しい名前だと、晴子は誰にも言えないでいる。その名前を口にすれば、晴子は真夏でも寒くなった。だからできるだけ、名前は口にしないようにしている。良くない呪文になってはいけないからだ。
姉の男友達の中で、晴子はこの男が最も苦手だ。といって別段、何かをされた訳でもない。不快な姿や振る舞いをすることもない。むしろ市内とはいえ岡山には珍しい、洗練された物腰と容姿の男だった。晴子に対しても、物静かな声で優しい言葉だけをかけてくれるし、柔らかな視線で微笑みだけを寄越してくれる。
なのに晴子は最初から、彼に見つめられると、落ち着かない気持ちにさせられた。
「あんな男前、見たことがない」
姉は当初からはしゃいでいたから、晴子は闇の話など持ち出せるものではなかった。そもそも晴子とて、どうして藤原が気味が悪いかと尋ねられれば明確に答えられないのだ。
姉は藤原とは、市内のカフェー・パリーという、岡山市での先端を気取る者達が集まる店で知り合ったという。その時はヴァイオリンは持っていなかったそうだが、姉は直感で楽器のできる男と見抜いたという。それこそ、楽器以外は持ったことがないほどに繊細な手と指からか。姉は不幸と色恋の気配にはひどく敏感だから、本当なのだろう。
東京の音楽学校を出てヴァイオリンが弾けるなどという経歴の男が、あの白い壁のカフェーにいれば、青いクロスもアブサンの匂いも美人の女給の白い西洋式エプロンも、すべてが彼を引き立てるものになったはずだ。そこで自分も出会っていれば、今とは違う感情を抱いたかと、晴子も少し迷う時がある。
姉が囲われている瀟洒《しようしや》だけれどどこか陰鬱なこの家屋の中では、ただ気障《きざ》に髪を撫で付けて妙に色の白い、「旦那の留守宅に上がり込む間男」でしかないからだ。その手が美しければ美しいだけ、その唇が整っていれば整っているだけ、晴子には胡散臭くて仕方がない。いっそ、うんと無礼なことをされてはっきり嫌いたいとさえ願う。
もしかしたら、自分もまた藤原に惹《ひ》かれるものがあるのを、必死に打ち消そうとしているのか。晴子は、藤原がこの世で一番の謎になる瞬間がある。
それにしても、姉の他愛ないはしゃぎっぷりは歯痒い。自分より幼いうちから、男で生計を立ててきた姉が、藤原にだけは手もなくあしらわれてしまうのが、我が事のように悔しい。もしかしたら、姉にも乙女の気持ちが残っている証拠として、微笑んでやらねばならぬことなのかもしれないが。
「日が暮れてから、来るんと違うんかな」
わざと寒そうに、畳んでおいた毛糸のショオルを膝に乗せてから言ってやると、姉の後ろ姿は微かに揺れた。その肩越しに冬枯れの小庭は、まさにヴァイオリンの弦を弾くような風の音を立てた。
「あの人はな、いっつも不意に現れるんよ」
その真ん中には、すでに洗い終えた臼がある。大橋は、なぜに仕事は続かんのかなぁ、と改めて不思議になるほどよく動いてくれる。納戸から出てくると、すぐに草履を突っ掛けて庭に降り、臼の片付けを始めていた。
「心配せんでも、珠枝さんよ」
首にかけた手拭いで大橋はまた顔を拭い、姉妹に笑いかけてきた。肥って大柄な彼は真冬でも汗をかくが、その汗は誠実の証のようで晴子は好きだった。
「藤原は溶けてのうなったりは、せん」
晴子は笑い返したが、珠枝は後ろ姿だけでも嫌な顔をしてみせたのがわかった。そういえば、藤原は汗をかかない。真夏でも、涼しそうに乾いている。
晴子は毛糸のショオルを弄《いじ》りながら、こっそり藤原を窺う。目上の人には礼儀正しく、目下の者には優しく、とにかく満遍なく人当たりのいい男。しかしその柔らかさは、どこかとても空疎だ。
もしかしたらすべての人を好きでないから、逆に何の思い入れもなく関われるのかもしれない。そんな人のどこがええの、姉ちゃん。ショオルの毛糸を引っ張りながら、晴子は言い様のない絶望感にすら浸される。あの人は、少なくとも姉ちゃんには惚れとらん……。
藤原は青の色のようであり、晦日のようでもあった。冬と死の色合を持ち、どこか慌ただしく生き急いでいる感じと、耳のすぐ後ろで鳴る風とを持っていた。
彼に比べて大橋はもっと明快だ。体は大きいのに顔は子供の面影を残し、声も内緒話ができないほどに大きい。姉の遊び友達として始まったけれど、いまでは自分の方を可愛がってくれている。少なくとも、晴子はそう信じている。
珠枝は、その件に関してはどうでもいいようだ。姉はいつでも、自分の中は自分で一杯なのだ。その品のない気高さは、男を惹きつける。旦那と呼ばれている尾崎もまた、そんな所に惹かれたに違いないから、珠枝の男関係はほぼ黙認しているのだ。
「珠枝ちゃんよ、藤原藤原ばっかし言うとったら、他の男が妬《や》くで」
そんな男の一人であるはずの大橋はしかし、屈託がない。最初から、尾崎に取って代わろうなどと野心は抱いていないのもあるだろうが、元々の性質も大らかなのだ。ひたひたと迫る何かの気配すら、笑って迎え撃つほどに。
「別に、構わんわ。妬かれても、実際に体を燃やされる訳じゃなし」
こんなふうに軽口を叩く姉は不実で愛らしいと、晴子は姉が置いた手鏡の一つを手にして小首を傾げる。手にしたのは、赤い縁取りの方だ。それをぐるりと回して、座敷のあちこちを映してみる。
すべては映し出せなくても、姉の世界は実はこんな鏡にすっぽりと納まる程に小体《こてい》だ。珠枝はそこで日がな、旦那を待っているという身の上だ。富裕な百姓というよりは、実直な勤め人といった風貌の初老の男。その色黒で小柄な、しかし眼光鋭い尾崎を待つ姉は、晴子の中ではちゃんと正面を向いている。
たおやか、楚々とした、嫋々《じようじよう》とした、儚《はかな》げな、そんな形容はあまり当てはまらない。珠枝は小柄だが手足が長く、意志の強そうなきりりとした眉や切れ長な目と引き結んだ印象の唇を持ち、どこか美しい男の子のようだった。
どちらかといえば晴子の方がふっくらとした体付きを持ち、古びた雛人形にも似た男の庇護欲をそそる顔立ちをしている。なのに、親は長女の珠枝には妾稼業をさせても、晴子にはさせなかった。むしろ、男には極力近付けさせぬように努めてもいた。
それは歳の離れた姉が、常にいい旦那を捕まえていたからだと、最近になって晴子は納得させられていた。姉の稼ぎで一家が口を糊《のり》することができるのだから、晴子にまでそれをさせる謂《いわ》れはないのだ。
また、父と母はさすがに我が子にそんなことをさせている、という負い目も感じてはいる。その分を、晴子を可愛がることで打ち消そうとしているのだ。晴子は無理をして女学校にも行かせ、花嫁修業めいたこともさせている。自分達はまっとうな親である。それは晴子を可愛がることによって、証されるのだった。
珠枝もまた一回り近く年下の妹を可愛がることによって、ぎりぎりに引っ張っている気持ちの均衡を保てるのだった。可愛い可愛い晴子、あんたにだけは、お姉ちゃんのような思いをさせんからな……。
「晴子は、成績はええんか」
「はい、まあまあですらぁ」
「それはええことじゃのう」
尾崎との会話はいつも、これだけだ。毎回毎回、判で押したかの如く、同じだ。といって険悪な仲であるとか、避けあっているというのでもない。尾崎にとっての晴子は、珠枝の妹。それ以上でも以下でもないだけだ。晴子にとっての尾崎もまた。端的に、尾崎はそう口が巧くない、というのもある。
金持ちになれたのも小賢《こざか》しく立ち回ったからではなく、文字通り骨身を削って土を舐めるようにして辛抱と努力とを重ねたからだと、珠枝に聞いた。珠枝はそんな尾崎を尊敬はしていない。むしろ軽んじており、哀れんでもいた。
「粋じゃあないで、そねえなものは。血を吐く思いをしてきたじゃの、牛馬と同じに扱われたじゃの、そんなん訴えられてもなあ。うちが頼んでそうしてもろうた訳じゃなし」
はっきりと言葉にはできなかったが、晴子はなんとはなしに姉の苛立ちがわかった。姉は自分を見ているようで嫌なのだ。だから逆に、最初から恵まれ、恵まれていることが当たり前の藤原に憧れて止まないのだ。
自分は、貧乏から成り上がった女という物語は拒みたい。自分は藤原の仲間であり、最初から同じように着飾って洒落た遊びや趣味を知っていて、持てる者に特有の優雅な傲慢さを身につけていると見られたいのだ。
皮肉なことに哀れなことに姉は、藤原には尾崎と同類の者と見られていることに気づいていない。いや、気づいていても気づかないふりをしているのか。尾崎に対する無邪気な仕打ちと、藤原に対する可憐な卑屈さ。何故に、惚れた方が損をするのか。何故に、惚れられた方は当たり前だと思い込むのか。
姉も藤原を知ってから自分の物語を書き替えたようだが、晴子もまたこっそりと尾崎の物語をも訂正しなければならないと感じていた。最初は嫌悪感すら含む距離があった尾崎なのに、藤原を知って以降は尾崎に恐れることは何もなくなった。
藤原に比べれば、尾崎はただの好色で老いた男だと、親しみすら覚える。尾崎は、遠慮というものをしているではないか。先に惚れてしまった者の負い目と弱みとを、哀しくも滑稽に見せ付けてくれるではないか。藤原には、それがない。それこそ姉が血を吐く思いをして努力したとて、身に付けられない美しい悪さばかりを持っている。
──珠枝と尾崎が知り合ったのは、珠枝が仲居をしていた三好野花壇という、岡山では有名な料亭であった。
珠枝は一家で、姫路から夜逃げ同然に岡山市へ出てきた当時まだ十三か四であったが、大抵は十七くらいに見られていたという。晴子はその頃は赤ん坊のはずなのに、奇妙なことに当時の姉を覚えている。恐らくそれは、親や近隣の者達にさんざん聞かされた「姉の物語」が、記憶として植え付けられたものであろう。いずれにしても、姉は乙女の頃から女でしかなかった。
「罐詰工場に働きに出とった時も、仕立ての見習いをしとった時も、常に男との噂が絶えんかった。珠枝はいつでも、金を持った男だけ嗅ぎ分けて近付いとった」
「そいでも、ほんまに別嬪じゃったけ。いっつも白粉《おしろい》つけて玄人じみた着物の着方をして、歩き方なんぞも他の田舎臭えそこらの女とは全然違うとった」
小金を持った罐詰工場の事務員だとか、市内でそこそこの商いをしている商店主だとかを相手にしていたらしいが、やがて姉は「もっと手っ取り早うに分限者を捕まえられるから」と、料亭勤めを決めたという。これは姉の意志か父母の差し金か、或いは近隣の誰かの提案であったか。多分どれも本当のことだろう。
珠枝は見習いとして入って半月も経たない頃、尾崎の座敷に膳を運ぶ年増の仲居に、
「あれは大変な金持ちで上客じゃけ、他の客よりも愛想をせられえ」
と言い付けられたらしい。台所で片付けや掃除をしていた珠枝は頷くなり、便所に行くと言って素早く化粧直しをしておいた。と、これらの物語は誰に教えられたかわからぬうちに、晴子の記憶となっている。
「長年この仕事をやってきたうちも呆気に取られる、珠枝の凄い手練手管じゃった」
そうして手伝いとして膳を下げに行った尾崎の座敷で、一目で気に入られてしまったのだった。後にその座敷についていた仲居は、こう語ったという。
「あの時の珠枝の色目に、尾崎は一夜で陥落させられたんじゃ。そりゃあもう、あの色目にゃあ凄味すらあったで」
見てきたかのように、そんなふうに言いふらされたのだ。しかし、それは仕方ないことであったろう。次に来た時にはもう、尾崎は珠枝を指名した。まだ仲居の見習いだと渋る店側に、構わないと答えて心付けもいつもより多く置いたという。
次の次にはもう、珠枝は完全に「尾崎の旦那のお手つき」として、年増の仲居達にも一目置かれていたというのだから、これはある種の成功譚として語りついでよいはずだ。
その頃、晴子はまだ高等小学校に通っていた。勉学ができたため、親は本気で女学校に入れようとしていたところに、この旦那はのこのこ現れたのだった。
「うちの妹な、学問は良うできるんよ。上の学校にやってやりたいんよ」
妹思いの姉として頼むことも、ただ着物を買ってとしなだれかかるのも、尾崎には同じことであった。着物を買ってやるのと一緒に、学費分をも出してくれたのだ。
珠枝は最初から、自分が一家の生活を支えるために旦那を探さねばならぬという役割をわかっていた。妹だけがお嬢様の境遇に置かれることに対しても、不満は見せなかった。
といって、自分が一家の犠牲になるのだと気負っていたわけでもない。姉は強いのに諦めが良かったと、晴子は誰も語ってくれない姉の物語の章を一人で書き加える。
濃い化粧の、それでもあどけなかった姉。たどたどしい三味線と、音程の外れる小唄。姉は愛らしかった。悪い女と呼ぶには、淋しい気配が纏《まと》わり過ぎていた。
「女郎にするよりゃ、ましじゃろうが」
男の目で珠枝を値踏みしていた父も、晴子には蕩《とろ》ける親の顔を見せる。珠枝は別の家の子なのではないか、と誰がふざけて言ったのか。しかし珠枝は色男の父親にそっくりだ。晴子は地味な母親に似てしまった。それだけを、この不均衡な仕合わせと不仕合わせの理由とはできないとしても。
「お姉ちゃんは、可哀相」
せめて自分は、こう呟いてやらねばならぬ。そう呟けば、晴子は玄関先に立って、藤原の姿を見付けるまで、いくらでも待ってやろうという気にもなる。
晴子は黙って立ち上がり、座敷を突っ切って玄関に向かった。すべての部屋は新年に向けて整えられてあり、これ見よがしではないのに金のかかった調度は、どこも艶やかに光っていた。
箪笥に入っているのは、高価なお召しだけではない。赤いマント、繻子《しゆす》のリボン、セーラー衿の洋服、毛皮を付けたオーヴァー。すべては尾崎に買わせたものなのに、それらを見てほしいのは藤原だ。
珠枝が大事な貴金属をしまってある、奥の座敷の箪笥は殊更に艶々としていた。ここにもまた、尾崎に米国で買ってもらったという、金の首飾りに読めない英文を刻んだ指輪、紅玉の腕輪。羽根の扇にレエスの手袋等が詰まっている。
それらはもしや、異国の女郎が持つものではないのかと、煌《きら》めきに目を眩まされることなく晴子は、暗澹たる思いに沈んだ。それらを身につけ洋装姿で撮った記念写真の姉は、暗い場所をきっちりと見据えた眼差しを投げかけていたからだ。
「ええじゃろ。きれいじゃろ」
「きれいじゃけどお姉ちゃん、これはどういう女が持つものなんじゃろ」
「……まあ、ええが。晴子にもそのうち似合う日が来るて。ああ、そうじゃ。お姉ちゃんが死んだら、これは皆、あんたにあげる」
宝石箱を開けた姉にそう言われた時、晴子は本当に泣いたのだ。後ろ姿の姉よりも、あの盛装した写真の姉が怖い。あれは真実、遺影だったからだ。
遺影は、美しいものと決まっている。素晴らしい時代が、予《あらかじ》め短命を約束されているように──。
晴子は、冷えきった土間に降りた。さらに一、二度熱があがるのがわかる。寒気は凍てついた土から足元に這い上がり、そこだけ明るい色合の毛糸のショオルをも震わせた。
草履を突っ掛け、路地に出る。すでにどこの店も店仕舞いをしていた。俄《にわ》かに店名を、「大正屋」「大正堂」「大正店」等と変えた所が多い。看板の黒々した文字は、どこかで何かを嘲《あざけ》っていた。
「どねえな新年が来るんじゃろ」
仰ぐ曇天から洩れてくる光は鈍く、苛《さいな》む冷気は遊ぶ子供らの歌声さえひび割れさせる。行き交う女の中には未だ明治の喪に服すつもりなのか、頭に黒いリボンを付けた者が見受けられ、ひらひらと寒風に揺れるリボンは、これははっきりと晴子を嘲っていた。
「おお、寒」
冬の午後、大正の初めての十二月暮れ、凍てた一番星は案外低い空にある。着物の上に毛糸のショオルを巻き付けていても、晴子は足踏みをする。荷馬車、物売り、御用聞き、通り過ぎる人影は押さえつけられたほどに低い。だが、藤原の姿はない。
藤原は、どこにいても目立つ。特別に大きいとか小さいとか太っているとかではないが、優しげな風情なのに輪郭が濃い。確か珠枝と同い年だから、二十七。まだ学生さんでも通りそうな容貌の人だ。しかも、東京の音楽学校を出てヴァイオリンが弾ける。晴子はそんな男を、藤原以外に知らない。無論、様々な男を遍歴した姉とてだ。
今は男子生徒ばかりの閑谷《しずたに》中学で教鞭を取っているから安気にしているが、かつて女学校にいた頃は生徒等からの付け文や待ち伏せに困らされていた……とは、藤原本人の弁ではなく、まるで自慢のように語る姉に教えてもらった。
おそらく自分も、陽のあたる教室で優しく音楽を教えて貰っている女生徒だったなら、姉のように熱をあげただろう。拙《つたな》い恋文とて綴《つづ》ったかもしれない。そう思うと、ますます晴子は悶々とする。姉はどこで出会っても、あの男に恋をしたのだろうか。
「こんな田舎の中学の音楽教師でええんかな」
というのも、珠枝の台詞だ。藤原はそんな時いつも、僅かに居心地の悪そうな顔をしてみせる。それは照れ隠しに頷くのでもなければ、溜め息混じりに首を振るのでもない。居心地の悪さこそが自分には似合うのだと、そんな歪んだ微笑を浮かべるのだ。
居直ることのできない人間はしかし、悪巧みをせざるを得なくなるのだと、晴子ははっきりと言葉にはできないが感じていた。藤原は何か、そんな薄ら寒くもよそ見のできない何かを突き付けてくるものを持っていた。
「いいですよ、田舎の音楽教師で結構」
そうだ、あの時も、決して岡山弁を使わない藤原は、薄い唇を歪めて笑ったのだ。あれはまだ、明治の代だった。明治が終わるとも大正が始まるとも、誰にもわからない時だ。なのに晴子は、姉が藤原に恋していることも、それが到底叶えられぬものであることも、わかっていたのだ。
なぜなら藤原は、きっちりと折り目のついた手巾で口元を押さえながら、
「退屈は好きだから」
堂々と、姉に向かって「お前と居ても退屈だ」と切り捨てるに等しい言い方をしたのだ。そんなにしょっちゅう会っているのではないが、藤原はいつもこうだと、晴子は重い溜め息をつかされた。
この人は自分以外を好きでないのではないか。晴子はとてつもなく恐ろしい秘密を嗅ぎ当てた気になった。しかも、と晴子は透徹した彼の横顔を盗み見て呟いたのだ。この人は、悪い自分を好きなのではないかと。
女学校の学友にも、自分だけが可愛くて仕方ないのは幾人かいるが、あの子達は可愛い自分が好きなのだ。なのに藤原は、悪い自分を愛している。今までは漠然と雰囲気だけを嗅いでいた恐ろしい秘密が、ここにきて不意に顕《あらわ》になりかけ、晴子はまた咳き込む。
そんな人に、他人が愛せるはずがない。ましてや、自信満々に見せ掛けておいて、本当は捨て置かれた孤児のようにいつも震えている姉などを。
だから藤原に残酷な答えを突き付けられた時も、珠枝は傷つきはしなかった。そのあまりにも無邪気な様子に、晴子の方が傷ついたほどだった。
「あれは、いい人じゃないで」
十五の歳から、つまり今の自分より幼い時から妾稼業で一家を支えてくれた姉なのに。晴子は、足元で凍てついている小石を蹴る。藤原の言葉ほどに、奇妙な重味を持って、それは飛んでいったが、爪先は余計に凍える。
尾崎ほどの海千山千の男も一日で籠絡したほどの、凄腕の姉なのに。手もなく捻《ひね》られ過ぎではないか。あの、正面から見つめてくれさえしない男に。
「晴子ちゃんよ。何時までもそねえなとこに立っとったら、凍るじゃろうが」
刃物めいた風に向かって呟いた時、後ろから声をかけられた。大橋だ。すでに汗も引いた大橋は、丸っこい手を晴子の肩に乗せた。その温もりが、却《かえ》って切ない。
笑っているのにどこか悲しそうな大橋は、顔の造作そのものは悪くないどころか整っている方なのに、ちっとも美男という印象を与えない。大きな人、楽しい人。皆が口にするのはそれだけだった。藤原の持つ謎と蠱惑《こわく》はどこにもない。
姉に言わせれば、心根が男前でないから、ということになるのだが、すべての男を藤原を基準にされると、晴子はますます藤原を嫌いになりそうだ。
「晴子ちゃん。戻れや。藤原、来たけん」
「え。来たって」
大橋の手は温かく、語りかける声も優しかったのに、晴子は心底から凍えた。強い風と弱い風邪の所為《せい》だけではない。まるで忌まわしい死霊がこの家に、姉の許に現れ出でたかと錯覚したのだ。
悪いことはいつもひっそりと、背後から近付いてくるではないか。そのひっそりした佇まいに相応しく、偽りの優しさを纏って。
「ひょこっと、底の方から来たんじゃ」
普通に考えれば、そうだろう。晴子は大橋に微笑みかけるが、頬は強《こわ》ばっている。足元から鳥が、まるで黒い喪のリボンを投げるかのように虚空に向かって飛んでいった。
「藤原さん一人でかな」
大橋の手を置かれた肩だけが、手を離されてもなお温もりを残していた。こんな温もりを持つ人が、陰口を叩かれているように怠け者だったり、義母と怪しい関係に陥ったりしているはずがないではないか。姉は、どうしてこんな明快なことがわからないのだ。
「いんにゃ、堀田君も一緒じゃで」
「……ああ、そうなん」
並んで歩く大橋の答えに、晴子は束の間立ち止まり、もう一つ別の溜め息をつく。晴子は藤原だけでなく、その堀田という閑谷中学の生徒も苦手だった。
いつも藤原にくっついてくる男の子。そう、男ではなく男の子だ。藤原の教え子だというが、特別に贔屓《ひいき》されているのだろう。また、目上の者に贔屓されるのがいかにも似合う風貌と佇まいの美少年なのだ。
藤原ほどに正体不明ではない、という表現は正しいのか間違っているのか、誰にも問うたことがないのでわからないが、いずれにしても晴子にとって居心地の悪い相手であることには変わりない。
姉が美しい男の子のような女だとしたら、堀田は美しい女のような男の子だった。浅草オペラの舞台に立っていそうな、西洋人ふうの顔立ちではない。丁寧に作った五月人形のような、いわゆる目元の涼しい日本男児の顔だ。その無口さ愛想の悪さも、古来の日本男児を誇示しているつもりか。いや、それは違うと晴子は、隣の大橋を仰ぐ。
「堀田君て、うちを嫌いじゃろう」
こんなふうに好きな男に拗《す》ねてみせる時は、晴子は我ながら姉みたいだとうんざりもするし、どこか悦びも感じる。
「何言いよんじゃ、晴子ちゃんは」
大仰に、大橋は吃驚《びつくり》してみせた。晴子はその大橋の反応にも、まずは満足をした。大橋は一歩先を歩きながら、汗をかいてもいないのに首にかけた手拭いで顔を拭く。そうして誠実に、言葉を選ぶのだ。
「堀田は、恥ずかしがりじゃけん。ほんまは、晴子ちゃんと喋りたいんじゃで」
「しゃあけど、話しかけても知らん顔するんよ」
「じゃから、恥ずかしがりなんじゃて」
大橋は、取りあえずは他人をよく言う。目の前の人の気分を良くさせようとする。会ったことはないが、養子にしたという金持ちの後家とやらも、大橋のこんな人の好さか、ただの如才のなさかわからないが、とにかく機嫌の良さに惹かれたに違いない。
「お姉ちゃんのことも、あんまり好いとらん」
「……うーん、それはあるかもしれんのう」
つい口が滑って、姉のことにまで話を持っていってしまったが、意外にも大橋は真顔で腕組みなどしたのだった。風は大橋の匂いを、晴子の鼻先に持ってきた。
風邪をひいているはずなのに、それは匂った。半ば枯れ半ば腐った花の匂いだ。悪い匂いのはずなのに、晴子は安堵を覚える。できればもっと近付いて嗅ぎたいと、それはさすがに考えただけで風邪のそれとは違う熱を帯びる。
「ああ、やっぱり、そうなん?」
火照る頬を押さえる格好で、晴子はまた上目遣いに大橋を見る。
「大事な藤原先生を、取られると心配しとるんじゃろう。そらそうと晴子ちゃん、風邪ひいとるんじゃないんか。声がちいっと、おかしいで」
「……大橋さんは、気づいてくれるんなあ」
「ほんなら早うに家にあがろう」
大橋は晴子を急き立てる。晴子はようやく、凝っていた肩が緩む。並んで玄関に入った途端、奥の座敷から珠枝の嬌声が響いてきた。どこまでも空疎に、しかし澄んだまま響いていきそうな哀しい声だった。
暮れていく大正元年は、暗い橙色の中にあった。姉は箪笥の中はきらびやかな光で満たしているが、部屋そのものは簡素にしている。張り替えさせたばかりの障子は目に染みるほどに白く、襖の絵は典雅に一足早く花を咲かせていた。
「ごめんな、晴子ちゃん、藤原さん、縁側から上がって来られたんよ」
姉は生き生きと弾んだ顔と声で、立ち働いていた。大橋と晴子しかいない時の、あの気怠《けだる》く鏡ばかりを覗いていた後ろ姿はもう、ない。カフェーの女給のように、ひらひらと台所と座敷とを行き来していた。
いつもひっそりと冷えている台所に赤々と火の気があるのは、とても遠い、しかし懐かしい思い出を想起させる。遠く懐かしいものは、いつも哀切な橙色に沈む。
「塀の向こうからひょいっと覗いたら、ここの座敷がなんだか賑やかそうだったから」
小庭はもう、臼も杵もきれいに片付けられており、戸も障子も締め切ってあった。最新型の電気ストォブは燃え、藤原はいつもの気障な洋装できちんと座っていた。
中学の音楽教師がどれほどの給料を貰っているのかは知らないが、藤原はいつでもいい服を着ていた。黒い上着は西洋の吸血鬼を思わせるが、その下の白いシャツは乏しい燈の下でも鮮やかに白い。しかしその冷淡な清潔さは、上着の黒さよりも彼に似合っていた。
お姉ちゃんはその黒さの意味も白さの恐ろしさもわかっとらん。と、晴子が口には出さずに囁いた時にはもう、姉はせかせかと立ったり座ったりしている。自分は藤原の得体の知れなさを探ろうとしているけれど、姉は逆にその部分に絡め取られているのかと、もう一度晴子は藤原のシャツの白さを凝視する。
その傍らに座る絣の着物の堀田は、きちんと膝に手を置いてはいるが、寛いではいなかった。晴子の風邪に気づいてくれた大橋だけが、座を賑やかにしようとあれこれ話題を持ち出すが、
「大橋君はいつも、忠実だなあ」
ほとんど藤原に鼻先で笑われていた。晴子は風邪を伝染《うつ》してやりたいと、軽く彼を睨む。とはいえ、藤原は何もかも鼻先で笑うのは似合っているし、残念ながら大橋は鼻先で笑われるのが似合っているのだ。
だから晴子に睨まれた程度では、藤原は咳一つするものではない。
「それを仕事に回せえ、と言いたいんじゃろうが」
「いやいや、大橋君の忠実は、女に対してのみ発揮できるものだから」
「藤原はその点、怠け者の癖に得をするんじゃけえ、かなわん」
藤原の声もまた、どこか弦楽器を思わせる。晴子は何やら腹立たしい気持ちのまま、そっと座り直す。やっと自分がどれだけ冷えきっていたかがわかった。どのくらい長く路地に佇んでいたのだろう。
自分はそれほどまでにこの家が嫌なのかと、天井を見上げた。姉はここに住んでいるのに、住んでいるという感じがしない。ここもまた仮の宿なのだと、姉は後ろ姿で囁く。
「晴子ちゃんは、あんまり珈琲好きじゃなかろう。お茶もあるんよ」
「ううん、ええわ。今日は飲む」
珠枝はいそいそと台所に、お茶ではなく珈琲の支度をしに行った。鉄瓶で湯を沸かし、水屋から舶来の珈琲茶碗を出すのだ。カフェー・パリーで買ってきた洋菓子は、すでに卓の上に置かれてある。甘い香りは、去りゆく大正の初めての暮れそのものだった。
打って変わって忙しく台所と座敷を往復する珠枝を、大橋は痛ましいものを見る目で見やり、堀田は冷ややかな眼差しで追った。まるで珠枝の姿など目に映していないのは、藤原だけだった。
珠枝は普段、炊事は何もしない。三度の食事をすべて出前させるような贅沢をする。尾崎が訪れる時もそうだ。姉が台所にいそいそと立つのは、藤原が来る時に限られていた。そんな珠枝の好意と健気《けなげ》さが、藤原には通じているのかいないのか、いつも通りの涼しい顔で澄ましているだけだ。
「なんか久しぶりだね。晴子ちゃん。今年ももう終わりって時に、ようやく会えた」
ふと、珈琲茶碗を置いた藤原は、晴子に話しかけてきた。卓の向こうの藤原は、行儀良く微笑んでいる。そうされると、晴子はここで初めて彼のヴァイオリンを聴いた時の情景や気持ちが甦る。好きになってもいいはずなのにと、あの音色を追想する。
「ああ、はい。良いお年を」
なのに晴子も珈琲茶碗を置くと、思わずそう答えてしまった。珈琲茶碗を盆に載せて持ってきた珠枝が、わざとらしいほどに朗らかな笑い声をあげた。
「その挨拶はまだ早かろうが。それに、もう帰るんかな晴子ちゃん」
藤原は、その唇を笑う形に歪めただけだった。大橋は遠慮がちに大きな体を隅っこで丸めるように座り、洋菓子を食べている。この人は本当に、藤原さんの友達なんじゃろか。晴子はその鈍重とも誠実ともつかない仕草の大橋に体を向けて、仕方なく笑った。
「ううん、まだ居《お》るけど」
その隣に端座している堀田は、一番晴子に歳が近いのだが、互いに自分からは口を開こうとはしない。珠枝は本当は藤原の隣に座りたいのだが、そこにはしっかりと堀田が鎮座している。彼は女学生のように華奢で小さいのに、藤原の隣にいる時は妙にふてぶてしく、ここから梃子《てこ》でも動かないという顔をするのだ。
それで珠枝は晴子の隣に座り、卓にしなだれかかる。その上目遣いで、尾崎にはさんざん金を吐き出させてきた。尾崎だけではない。その前の旦那も、かつて罐詰工場に勤めていた時の同僚や上司も、甘い目線に射竦《いすく》められて、様々な金品と思いを差し出してきたのだった。
物陰や襖の向こうから眺めていただけで、幼かった晴子にも彼らの懸命の形相は恐ろしくも滑稽だった。金品も思いも、ともに無情に巻き上げられるものとわかっていても、彼らは次々に差し出してきたのだ。
ところが、藤原にはまるで通じていない。きっと藤原は珠枝だけではなく、どんな女の眼差しも受け止めることはないのだろうと、晴子は自分の視線もまた虚しく巻き上げられる感覚に襲われる。姉のはしゃぎようは、乾いた冬に痛ましく似合った。
「藤原さん、もう『ジゴマ』は観てきたん?」
それにしても男には手練手管を使い尽くした姉がなぜ、こんなことに気づかずに、自分のような男を知らない娘が色々なことがわかるのだろう。晴子は舌で、色々な苦味を反芻《はんすう》する。珈琲に毒は入っていないのに、何かが身の内で苦しく澱む。溶け残った黒砂糖にも似て、舌で甘苦く粘る。
「東京まで出て観てきましたよ」
二人が話題にしているのは、仏蘭西映画の「ジゴマ」だ。主人公のジゴマは悪党なのだが、その面白さに全国で大人気となり、子供達は兵隊ごっこよりもジゴマごっこに夢中になった。ついには上映禁止となり、学校でもジゴマごっこは禁じられたほどだ。晴子も通う女学校で、観にいかぬようにと通達されていた。
「岡山でも、観たんかな」
「岡山ではまだだけれど、あれは傑作ですよ。何度でも観たい」
晴子は大橋に寄り添い、堀田は藤原から離れない。堀田は藤原さんと姉しか見ていない。その眼差しはどこかで見たことがあると、晴子は度々考える。だが、どこでと問われれば答えられない。
堀田は、不味《まず》そうに珈琲を飲んでいた。不味いというのを隠そうともしない。なのに、飲む。まるで、珠枝に挑むように。
「うち、藤原さんと行きたい」
ここぞとばかりに、珠枝はにじり寄った。ちらり、と堀田はそんな珠枝を見て、僅かに眉を顰《ひそ》めた。珠枝は晴子にはよく言う。
「あの子、藤原さんにくっついて来るだけで、うちが呼んどるんじゃないんよ。そんなら普通、もっと愛想をしてええはずじゃけどなあ」
常に恋をしている姉なのに、と晴子はこっそり溜め息をつく。他人の恋路には興味がないんかお姉ちゃん。あの子は、藤原さんを好きなんじゃで……。
「いいですよ。じゃあ、来年行きましょう」
藤原が微笑みかけ、珠枝がたちまち上気した時だ。大橋が突然に、フォオクを置いて言い放ったのだ。
「しゃあけど藤原、お前は洋服だの旅行だのにえらい散財して、金が全然ないとこぼしとらんかったか」
それは意地悪ではなく無邪気な響きをともなっていたが、辺りは静まった。そう感じたのは、晴子だけだったか。藤原はほんの僅かに、眉根を寄せただけだった。だが、明らかに不機嫌になっている。それには珠枝も気づいたようで、まるで自分が藤原を不機嫌にしたかのように慌てて目の前で手を振った。
「映画のお金くらい、うちが出してあげるがん」
言い終わらないうちに、その台詞はあまり藤原を庇ったり立てたりするものでないというのにも、珠枝は気づいたようだ。すぐに、卓越しに身をくねらせた。
「藤原さんほどのええ男じゃったら、金はかかるじゃろ」
大橋はもう、何事もなかった顔で煙草を吹かしていた。晴子はもじもじと、尻の下の足を動かした。大橋は冗談めかして言っただけなのに、せっかく電気ストォブで暖めた空気がまたひんやりとしてしまったからだ。
「ちまちまと貯蓄をするのは、性に合わなくてね」
まるで自分がからかわれたかのように堀田は眉を顰めたが、藤原はそんな堀田には一瞥もくれなかった。そうしてすぐに珠枝の方に身を乗り出す格好で微笑んだが、何か触れてはいけないものに触れたように、晴子は身を固くしたままだった。派手な生活をしたがる藤原というのは、晴子の中でもすんなりと納まる。けれど金に困る藤原というのは、あまりぴたりと填まってはくれない。藤原は、冷ややかに高処にいてほしいのだ。これもまた妙な思いだが、藤原にはどこか気高くあってほしかった。
「そうそう、藤原さん。ぱあっとお金はあるうちに使わんと。そいで映画じゃけど、新年はなんか予定はあるんかな」
晴子の胸のうちを見透かしたのではなかろうが、珠枝はますます声を高くした。
「何も、ないよ」
藤原は冷めた珈琲を一口飲んで、静かに笑った。その「何もないよ」は本当に空っぽな響きがあって、晴子はすがるように大橋を見た。大橋はもう、煙草を吹かすだけだ。大橋は本当のところ、藤原をどんなふうに捉えているのか。これも晴子は聞けなかった。敷島の紫煙はゆるゆると、風もないのに小庭に向けて流れていった。これもまた、空っぽな庭だ。日陰にも雪は残っておらず、黒々とした土はやがて降りてくるはずの夜より黒い。
「そう。ほんなら、また日取りは決めようや。ああ、そうそう。映画もええけど新年はここで演奏会をやらんかな」
「ああ、いいですよ。珠枝さんの三味線は大したもんだから」
「いや、恥ずかしいわ。東京の学校を出た人に、そんなん言われたら」
「でもね。時には学問は邪魔になりますよ」
ふと、沈黙が訪れた。それはまさにヴァイオリンを響かせるに相応しい沈黙だった。
「岡山では昔から、『死に際が綺麗なのは学のない女』というでしょう」
大橋が僅かに怯えの色を浮かべたのを、晴子は真っ先に見た。姉の方は、見られなかったのだ。これはもう、姉を相当に見下した言い方ではないのかと、晴子は怒りを通り越して恐ろしささえ感じた。
姉を学のない女と言い切り、しかし死に際が綺麗であればいいと付け加えたも同じではないのか。この人はやっぱり、姉ちゃんを好いとらん。肺の奥までが痛んだ。
なのに珠枝はその無慈悲さにはまるで頓着せず、むしろ藤原に何か誉められたように取ったらしい。息をつめるように珠枝の横顔を窺うのは大橋もだが、
「珠枝さんは生まれついて細やかな耳と手を持っているから、誰に教わらなくとも三味線は巧いもんです」
さらに続けてこう言われたものだから、またしても珠枝は手もなく捻られて転がされていた。晴子だけが最後の苦味を無理矢理に飲み下す。大橋は藤原からも珠枝からも目を逸らし、ただ煙草を吹かした。
とはいえ、藤原のヴァイオリンは大したもんだと、晴子はこれだけは素直に頷ける。横文字の曲名は何度聞かされても覚えられないが、それだけではなく「野なかの薔薇」や「真白き富士の嶺」といった流行歌まで弾いてくれる。
その時の藤原だけは、好きになれそうな気にさせてくれるのだ。弓は弦だけでなく、藤原の前髪をも揺らし、震える空気の粒子までが耳朶《じだ》をくすぐる。姉にはヴァイオリンを弾いていない時の藤原も、弾いている時のように映るのか。
ただし、晴子はヴァイオリンなど藤原以外の人が弾いているのは知らない。姉の三味線はさほど巧くはないと、これはあちこちで色々な三味線を聞いてきたからわかるのだが、それでもここで藤原とともに弾きたがった。
「ほんなら、正月は映画を観て演奏会じゃわ」
晴子はそれまでに風邪が治るかと、ぼんやり心配する。この座敷での観客は、姉の男友達ばかりだ。珠枝は決して、ここからさほど遠くない町に暮らす父と母には聴かせない。父と母にとっての珠枝の三味線は、優雅に音楽教師と連弾させようと躾《しつ》けたものではないからだ。
晴子が習わされている三味線こそが、そんな種類のものであるはずなのだが、晴子は藤原となど弾きたくない。あんな張り詰めた音色に、自分の閑《しず》かな音色を合わせられるはずもない。明朗な「野なかの薔薇」でさえ、藤原にかかると悲痛な追悼の楽曲になってしまうのだから。
それにしてもこの育ちのいい、東京の音楽学校を出た中学の教師。ヴァイオリンが弾けて、岡山弁は決して喋らなくて、いつも洒落た洋装で、物腰も柔らかい。晴子は東京には行ったことがないのでわからないが、東京にはこんなハイカラな男が沢山いるのだろうか。そうして、姉のような女達を冷淡に優雅に弄《もてあそ》んでいるのだろうか。
だからそれは、甘い憧れの想像ではない。藤原のような男が沢山いると想像しただけでも、晴子は空恐ろしさに竦んでしまう。
備前焼の灰皿に、大橋の敷島ばかりが重なった頃、珠枝は暗む障子を透かし見た。
「晴子、あんたそろそろお母ちゃんとこに行かにゃならんのと違う」
無駄だとはわかっていても、晴子も一応は誘う。
「お姉ちゃんも、来たらええのに」
「うちは、ええの」
即座に姉は返した。ぴんと張り詰めた弦ほどに、妹の誘いを弾き返した。
「藤原さんも来たばっかりじゃし」
姉は、親を疎んじている。そんな親もまた、珠枝に距離を置いている。駅前で小さな呉服の商いをやっている親は、その資金もすべて珠枝に頼っているのにだ。珠枝は嫌々ながらというより、寧《むし》ろ積極的にそれを申し入れた。
「それでしばらくは、うちに大きなことは頼ってこんじゃろ」
晴子にとって岡山市は、何度目かの引っ越し先だ。しかし姉にとっては、数えきれないほどに変わった居場所の一つに過ぎない。珠枝は住居と男を同じに考えていて、両方ともその日のうちに、大きな態度で主人となって居座れる。その癖どこかおどおどと胸の前に手荷物を抱え、出ていけと命じられればいつでも飛び出していける態勢をも作っているのであった。
晴子の記憶にある姉は、いつも誰かのものだった。そして、誰のものでもなかった。
「晴子ちゃん、わし送って行っちゃる」
大橋は促した。晴子がそそくさと立ち上がると、それでも珠枝は別に包んでおいた餅を大橋に渡す。堀田はぽつねんと、いつまでも人形のように藤原の隣から動かない。この男の子だけは、藤原と通じ合っているのか。晴子はやはり、怖いもののように盗み見た。
一度だけ振り返った晴子は、姉も藤原も堀田も揃って後ろ姿であったことに、言い様のない不安な黒雲が胸に湧き上がるのを覚えたのだ。
「晴子ちゃん」
ふいに、藤原が呼びかけた。決して酷い言葉は口にしないよと、わざわざ断っているような蠱惑と、また一方で冷ややかさに満ちた声で。
「風邪ひいてるみたいだね。養生して下さい」
すべてを藤原に見抜かれていたかと、晴子は戦慄した。
「あら、晴子ちゃん風邪ひいとったんかな」
顔だけこちらに向けて、姉は小首を傾げた。その無邪気さと無頓着さに、また晴子は熱が上がる。毛糸のショオルが母のものだということにすら、姉は気づいていない。藤原がいると、藤原が視界のすべてになってしまうからだ。
「すぐ治るわ。……ほんなら大橋さん、送っていってつかあさい」
ほとんど大橋にすがるように、晴子は外に出た。急速な日暮れは、白い月と星とを紫紺の空に浮かべて冷たい。温かいものは、隣にいる大橋だけだった。できれば、家でまた暖かなものを供してあげたい。
だが、晴子の親はあまり大橋を好いてはいない。東京の大学まで出ていながら、病弱を理由に仕事をしていない。金満家の養子になっているが、あからさまな財産狙いだの、その後家とできているのではないかだのの噂は、晴子の親にまで届いているからだ。
「大橋が養子に来てから、あそこの婆さんは具合が悪うなったというじゃろが、一服、盛っとるんじゃないんか」
こんな囁きまでが交わされている。晴子はどうにかして大橋を庇いたいが、巧くできない。手が温かいとか清潔な汗をかくとかすぐ風邪に気づいてくれるとか、そんなことを幾ら並べ立てても駄目なのだ。藤原はその逆で、音楽教師をしていて色男なのに浮いた噂がないというだけで、晴子の父と母は気に入っている。晴子が、
「あの人は、自分しか好きじゃないんよ。ううん、自分すら好きじゃないかもしれん」
そんな耳打ちをしたとて、何の傷にもならないのだ。
風邪の熱と、花弁ほどの細かな雪の欠片《かけら》と。晴子が大きく身震いをした時、背後から呼び掛けられて振り向くと、藤原と珠枝が玄関先まで見送りに出てきてくれていた。後ろ姿ではない。ともに、こちらを向いている。
「お姉ちゃん」
なのに晴子の目には、姉は後ろ姿と映った。後ろ姿の姉の向こうに、藤原がいる。優しい面差しと優しい眼差し。しかしその目は誰も見てはいない。というより、映してはいない。何か暗幕に開いた穴を思わせる月に、その目は重なる。
「気をつけてな、晴子。大橋さん、晴子をよろしゅう」
振り返る姉の目もまた、晴子を見てはいなかった。その目は、月の向こうを見ていた。愛らしい兎などではない、もっと悪辣な何者かが潜んでいる暗がりをだ。
「大橋さん。藤原さんは、お姉ちゃんを好きじゃろか」
堀端まで来て、大橋はちょっと立ち止まった。一緒に立ち止まる晴子の吐息は、ショオルに霜となって降りそうだ。星影はどこまでも二人の影を黒く伸ばし、まるで逃亡者のように二人を孤立させた。
「……藤原はなあ、ううん、好きなんじゃろう。多分な」
この人本当は嘘つきかもしれない。晴子は咳き込んだ。それから二人は無口になって、家路を急いだ。ヴァイオリンの旋律が、ふいに耳元に甦る。あれは「野なかの薔薇」。女学校の音楽の時間に聞いたものとは違う、陰鬱な旋律だ。
「お帰り、晴子。ああ、大橋さん。わざわざすんませんなぁ」
珠枝に、正確には尾崎に貰った二階屋。下は呉服屋、上は住居。襖や障子で仕切ってあっても、すべてが筒抜けだ。父母の派手な喧嘩や隠微な睦言すら、晴子自身のものとなってしまう澱む風の家。姉は寄り付かず、妹は嫌な夢を見るために転寝ばかりする、低い天井の住処《すみか》。晴子の耳朶からはもう、音楽は消え失せている。
その家から父と母は揃って影絵になって出てきて、大橋にお座成りな挨拶をした。大橋もその辺りは心得ていて、立ち話をしようともしない。
「早う、風邪治してな」
晴子にそれだけを言って頭を下げ、来た道を戻っていった。晴子は黙って、家に入る。
過ぎ行く明治は深傷《ふかで》を負って、七月は陛下とともに逝ったけれど、この家族は単調に繰り返される身の回りの不幸を、一々数え上げることだけで精一杯だった。
──その晩、晴子は久しぶりに青い夢に沈んだ。目覚めたのは、けたたましい雨戸を打つ音のためだった。
まず晴子が目覚めたが、しばらくは闇の中で動悸の高鳴りだけを数えていた。あまりにも恐ろしいものが天井にわだかまっていて、身動きが取れなかったのだ。続いて、襖の向こうの母が声をあげた。
「何なんじゃろか。お父さん、晴子、起きとるんか」
最後に父が、閑《のど》かとも寝呆けているともつかない唸り声を洩らした。晴子は、自分の咽喉《のど》が悲鳴をあげているのにしばらく気づかなかった。頭の中を掻き回す、轟々という狂った音楽があまりにも喧《やかま》しかったからだ。
それは何の音かはわからないのに、聞き覚えはあるのだ。晴子はほとんど、その旋律に合わせて悲鳴をあげていた。
「大変じゃあ、大変じゃあ」
雨戸を激しく叩いているのは地獄の小鬼ではなく、近隣の者達であった。父がようやく寝床から飛び出し、階下に駆け降りていった。俄に突き刺す冷気になぶられ、晴子ははっきりと目を覚ます。
ようやく厭な音楽は途絶え、叫び続けていた咽喉もただ荒い息を洩らすだけとなった。母が這いながらやってきて、晴子にしがみついた。訳のわからない譫言《うわごと》を呻《うめ》きながら、ほとんど晴子の首を絞めようとする。それを夢中で振り払い、二人はもつれ合って尻餅をついた。母の耳にもあの音楽は鳴り響いているのかと、晴子は倒れた母にしがみつく。
階下からは、近隣の者達の口々に叫ぶ声がした。
「火事じゃ、火事なんじゃ」
「お宅の珠枝さんの家じゃ」
「もう、全焼じゃあ」
痛む頭の中に、再び激しい音楽が鳴った。それは「野なかの薔薇」だということに気づき、晴子は束の間気が遠くなった。
さっきからずっと鳴り響いていたのは、「野なかの薔薇」だったのだ。しかし、あの陽気で閑かな旋律ではない。冷たいヴァイオリンが奏でているために、まるで葬送の曲のようになってしまった旋律なのだった。
藤原の奏でていたヴァイオリンの曲は消え、辺りは夜空さえ割れるほどの警鐘の音に支配されていた。警鐘の音は誰の耳にも入っているのに、あの厭なヴァイオリンの音が鳴り響くのは自分の頭の中だけなのかと、寝巻にショオルを巻き付けただけの格好で夜道を走りながら、晴子は耳を押さえた。
母には、聞こえていない。父にも、聞こえていない。この不吉な音楽が流れているのは自分の頭の中だけなのだ。父も母も近隣の者達も、何やら喚《わめ》いているが、それらはくぐもった水底からの音となって、晴子には届かない。
夜道はどこも奈落の底へ通じていた。そこをひたすらに駆けた素足に下駄を突っ掛けただけの足元や、乱れ切った髪をさらに乱す夜風など、晴子は断片的にしか思い出せない。激しく咳き込むのは、悪化した風邪ときな臭い焼け跡の所為だ。
「珠枝は、珠枝はどこなんじゃあ」
父の怒鳴り声に、晴子は我に返る。ようやく、今が闇に閉ざされた時間帯ではなく、すでに新年を迎えた明け方だということに気づいた。青々と冴える空を背景に、焼け跡はあまりにも鮮やかにその姿を晒していたからだ。
「火は消えとるけえど、近寄らん方がええ」
「気ぃつけえや、まだ燻《くすぶ》っとるで」
ざわざわと蠢《うごめ》く黒い影は、通報で駆け付けた巡査達だ。家はもう黒焦げとなって残骸を残すのみだが、熱気は未だ冷めず煙を立てていた。ここが黄泉《よみ》の国ではなく見慣れた路地裏であることが、余計に惨劇を際立たせている。
大橋が餅つきをしていた庭も、崩れた柱や瓦が散乱している。姉が寝ていた部屋も、皆で集まったばかりの座敷も、すべてが黒く焼き尽くされているのであった。
「珠枝は、珠枝はどこにおるん」
母の悲鳴に、自分の咽喉は悲鳴すらあげられないほど干上がっているのを知った。
「晴子、姉ちゃんを探して。珠枝を助けてん」
黒々と背景に溶ける巡査達が、かつて姉の部屋だった辺りに踏み込んでいくのを、晴子はぼんやりと見守った。しがみついてくる母を抱きかかえ、頭に執拗にこびりつく悪い音楽を打ち消すのでもう力は尽きかける。
掘り起こされた遺体を一目見るなり、ああお姉ちゃんだ、と晴子は呻いていた。その黒焦げの人形にも似た姿は、後ろ姿だったのだ。姉はいつも後ろ姿だと思っていたけれど、死んでもそうだったのだ。
「ご遺族か。確認を願えるかのう」
どこか呑気に、巡査の一人が言った。父は棒立ちになっており、母はその場に崩れ落ちていたから、晴子が進み出た。
「気丈夫な女子《おなご》じゃ」
どこからか、そんな声があがった。晴子は頭の中で、今度は自らあの狂った音楽を甦らせた。こうして頭を轟々という音に任せたままにしていれば、これは夢だ夢だと自分を遠くに連れていける。
「お姉ちゃん」
晴子は合掌の前に、呼びかけた。姉は俯していた。その全身はことごとく黒焦げとなっていたけれど、後ろ頭の髪の毛が少しと、そこに隠された右の耳だけがなぜか半焼けとなって残っていた。抱き起こしてみれば、隠れた左の耳も現れるかもしれない。
藤原のヴァイオリンを聴きたかったのかと、恐ろしいとも哀れともつかない想いを抱いた。何よりも、耳の綺麗さが姉の未練の強さを語り過ぎている。
「……姉です」
と、晴子は低く告げられたのだ。後ろ姿だから、姉です。藤原さんのヴァイオリンを聴きたがっていたから、耳が残っているのです。そう、説明することは叶わない。
「そうか。ちょっと、話聞かせてもらえるか」
姉です、姉です、姉です。晴子は譫言めいて繰り返した。そうしてこの焼け残った耳に、今自分の頭に鳴り響く音楽を聴かせてあげたいと願った刹那、晴子はその場に崩れ落ちていた。
──赤く燃える夢を見ていた晴子は、自分が夢を見ているとも今が燃えるはずのない冬の最中だということも忘れていた。夢はそれほど悲嘆に暮れてはいなかったし、寝床は氷ほどに冷えきっていたというのに。
どうやって家に戻ってきたものか、すっぱりと記憶は断ち切られている。目を覚ませば晴子は、二階の自分の部屋に寝かされていたのだ。父と母はいない。目覚めればこの見慣れた静かな不幸の部屋で、十年一日の如き夫婦喧嘩が繰り返されているはずなのに。
「取材、じゃと、そりゃあ勘弁してつかあさらんか」
「……うちらもう、何が何やらさっぱりわからんで」
階下から聞こえてくる話し声に、晴子は身震いした。燃える夢を覚ましたのは、酔っている父だ。泣いている母だ。見舞い客の他に、どうやら事件と見て地元の山陽新報の記者達が来ているらしい。
大橋は、そして藤原はこの火事と姉の死を知っているのか。痛む頭を抱え、晴子はのろのろと起き上がる。大正初めての新年は、晴子達を悼むというよりも嘲笑していた。
風邪は治ったのか悪化したのか、それすらわからない。晴子はきつく目を閉じ、黒焦げの姉の幻影を追い払う。あれが姉の姿として焼き付くのなら、淋しい後ろ姿の方がどれだけましであるか。
「珠枝は、恨まれるようなことはしとらん」
階下から、突然母の怒声が届いた。晴子は弾かれたように立ち上がる。悪夢の続きではなく姉の死は現実のことなのだと、頭痛が教えてくれる。
晴子はずっと寝床にうずくまっていたかったが、便所に行きたいのだけはどうしようもない。便所は階下にしかなく、しかも階段を降りたら今大勢の人がいるはずの店先を通らずには辿り着けないのだ。
着物だけは着替え、しかし乱れた髪はそのままに、晴子はのろのろと階段を降りた。踏み外せば真逆様に、姉のいる場所に堕ちていきそうだった。
「おお、ここのお嬢さんか」
待ち構えている鬼ではなく、新聞記者らしい男が框《かまち》から立ち上がった。赤ら顔でずんぐりとした、あまり洋装は似合わない男だ。案外若いのかもしれないが、狭い額の皺は深く頭髪も半ば白い。
草臥《くたび》れ果てた父と母は、売場の座敷に座り込んだままだ。土間には刑事だか客だかわからない男が三人いたが、彼らは晴子には話しかけてこない。図々しくも、晴子を通せんぼする格好で待ち構えているのは記者だけだ。
「ちいと、話を聞かせてもらえんじゃろうか」
「……何を、じゃろう」
小用を足したくてならないのだが、晴子は階段を降りてしまってから聞き返した。
「いや、もうこらえてつかあさい」
母が立ち上がりかける。冷え冷えとした部屋には、華やぐ新年の色合いなどどこにもない。姉に持たせてもらった餅の包みは、どこに置かれているのか。晴子は眉を顰めた。姉を悼むより今は、便所に行きたい。
「なあ、あんた。大橋秀智て知っとるか」
土間の向こうにある便所に行こうと下駄に足を乗せかけた時、記者は再び晴子の前に立ちふさがった。晴子は思いもよらない者の口から大橋の名前が出てきたことに、棒立ちになった。凶々《まがまが》しい予感に、自分の風邪はひどくこじれそうだと鳥肌を立てた。
「大橋さん……じゃて」
「ああ。大橋秀智じゃ」
しばし黙り込んだ晴子に、記者は畳みかけてきた。
「そんなら、姉さんの家の火事は放火らしいというんは、知っとるか」
父と母は影絵のように、ぼんやりと晴子の目の端で揺らめく。
「知っとるけど……」
晴子は裸足で、土間に降り立っていた。しかしその冷えきった土間よりも、自分の足の方が冷たいと思い知る。低く弱く、藤原のヴァイオリンの音色は耳朶をいたぶる。
「わしらはな、その大橋が怪しいと睨んで調べとるんじゃ」
後ろ姿で死んでいた姉と、轟々と鳴り続けたヴァイオリンの音と。晴子は悪寒に大きく震えた。悪い熱病は、骨をも軋ませる。起きていても、悪夢を開陳する。
「……便所、行かせて」
よろめきながら下駄だけは履くと、晴子は皆の間を罪人のように俯いて駆け抜けた。便所の戸を開ける前に振り返ってみれば、父も母も他の者も皆、黒焦げの死体に見えた。その晴子に、新聞記者の濁声《だみごえ》が被さる。
「こりゃあ、岡山じゃあ近年稀な大事件じゃけえな。わしら、総力あげて記事を書かせてもらうで。見出しは決まっとる。『黒焦げ美人』じゃ」
燭光は点《つ》けずに真っ暗な便所に閉じこもり、晴子は悲鳴を堪《こら》えた。
「大橋さん、大橋さん」
気がつくと、腰巻きから生温かい水が滴っていた。急速にそれは冷えてゆき、晴子はうずくまった。凄まじい吐き気に襲われたが、胃の腑からは何も突き上げてはこない。口から溢れるのは、大橋の名前だけだ。
「違う。違うじゃろ、大橋さん」
黒い口を開けている便器に顔を寄せ、絶叫した。それは奈落の底と黄泉の底に吸い込まれていったのか、便所の外は静まり返っていた。晴子はもう一人、
「違うじゃろ」
と叫びかけねばならない名前があるはずだった。だが晴子は、その者の名前だけは口にできないのだ。その名前を口にすれば、暗黒の穴はそのまま地獄へと通じる路が開かれるはずだった。
地獄で待つ者は、きっと楽器を持っている。蠱惑の微笑をたたえ、白い指に弓を持ち、鋭角的な顎でその楽器を押さえている。聴けば戻れなくなる旋律を、繰り返しその弦から奏でるはずだ──。
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美人惨殺の兇行者遂に捕はる
全速力は六十|哩《マイル》と喧伝したれど西風は厳しく乗合自動車は三十哩の速度にて目抜き通りを駆け推進機の勇猛にして凄惨な回転と爆音は鳳号と名付けられたる飛行機を三十|米突《メートル》の蒼穹に羽撃《はばた》かせ最新の瓦斯《ガス》の燃ゆるカフェーでは刺激の強き洋酒と荒々しき遊戯とが供され背後の岡山市は哀切な大正に彩られる──。
「珠枝は死に患いの床にさえ、つけんかったんじゃ」
老いたというより萎《しぼ》んだ母は、娘の死をそのように嘆いた。男に買ってもらった着物、旦那に誂えさせた洋装。母が用意してやれたのは、帷子《かたびら》だった。写真帳にも遺影にも残らぬ装いだ。
「珠枝は何を着て死んどったんじゃろうか。あねえに真っ黒に焦げとったら、わかりゃあせんがな」
母は今、その珠枝が置いていった襦袢を着ている。横座りをしているため、裾から鴇色《ときいろ》が覗いているのだ。晴子はこの先ずっと、悲しみの色はこの鴇色だと思うのだと知らされた。鴇色に包まれても、母の足のあかぎれは寒々しい。
「そうじゃのう。花嫁衣装を着れずに死装束を着て、珠枝はほんまに哀れじゃ。そねえなふうに、生まれついとったんか」
と、こちらは一息に老いた父が呟いた。もとより、姉娘の方には花嫁衣装を着せたいと願ったことなどないことは、きれいに忘れてしまっている。珠枝は十五になるかならないかの頃から、妾稼業で一家を支えてきたのだ。吝嗇な父も、珠枝を装わせることには金を惜しまなかった。
姉の珠枝は常に、拵《こしら》え映《ば》えのする女と噂されていた。岡山では、晴れ着や華美な余所行きの格好が似合う女を、そう讃える。しかし、拵え映えのする女は大抵が薄幸であることは、何故に誰も口にしないのか。
「なあ、晴子よ。姉ちゃんはほんまに可愛かったのう」
障子越しに漏れる光に目を細め、父は横に座る晴子の方を向かずに話しかける。
「そうじゃなあ。……お姉ちゃんは、可愛かった」
岡山での可愛いは、大抵が可哀相の意だ。可愛いものは可哀相だ。晴子は姉を見ていたから、その意がよくわかっていた。
だが、長患いで死を見つめ続けさせられる惨《むご》さと、何の疑いもなく迎えるはずの明日がいきなり断ち切られる非道さと、そのどちらが一層無残な死かと問われれば、晴子は俄に答えが出せない。
「しゃあけどな、……あっという間に、もう訳もわからんと死んだんじゃないんかな、お姉ちゃんは」
壁際に立て掛けた三味線は、先の陛下が逝かれてからほとんど弾いていない。これもまた、姉のお下がりだ。いや、形見であった。遂に上手にはならなかった姉の三味線の音色はしかし、晴子には思い出せなかった。
姉は下手な三味線の音色の中ではなく、高慢で美麗なヴァイオリンの音色の中で逝ったからだ。晴子はその音色だけは、惨いほど鮮明に思い返せる。譜面通りなのに、どこかおかしな歪みを伴っていた、あの旋律を。
「いんにゃ。苦しんどる」
突然、母が甲高い声をあげた。父に打たれ罵られ、それでも従順だった母なのに、長女の死に様については頑固に言い張る。
「あねえな死に様。苦しまんかったはずがなかろう」
苦しんだのでなければ救われない。そう言いたげに、繰り返す。母はきっと自身が苦しみたいのだ。それでも、晴子は慰めなければならない。母も、死者も。
だからお姉ちゃんは苦しんではいないと言い返すのだが、あの黒焦げになっていた遺骸を思い出せば、苦しかろうが安らかだろうが死は死で酷薄な彩りの中に沈んでいる、としか言えなくなるのだった。
大正の初めての大晦日、姉の珠枝は何者かによって無残で孤独な死を迎えさせられていた。あんなに澄んで青い大正の初めての正月を、姉は迎えさせてもらえなかったのだ。
新聞記者というものは、どのような手管で調べ上げるものかわからないが、出火したのは午前を回ってからであり、珠枝が前日の深夜十一時あたりまで生きていたことは証言者があるという。
「珠枝が弾く三味線の音が、遅うにまで響いとったんじゃと」
新聞にもそれは載っていたが、母はどこからか聞いてきてぼんやりと繰り返した。しかしその者も、実際の姉の姿を見たのではないのだ。ただ、弾じている三味線の音色だけ大晦日の夜にひっそりと流れていたらしい。
珠枝は近所付き合いをほとんどしていなかったので、訪れる者は決まっていたと近隣の者は新聞記者にも警察にも言った。おそらく身内、旦那らしい年取った男、そして浮気の相手とおぼしき若い男達だと。
「……『砂川珠枝は極めて浮気の性ありて』じゃと。『当夜も何人かの男が出入りしたるを認めたりと界隈の者に風評され』、か。のう、恐ろしい、きょうてえ。珠枝は殺されて当然のような書き方じゃがな」
目撃者というのは、厳密にはいないのだ。にもかかわらず、「珠枝を知る者達」は多くの証言をしていた。すべてが興味半分、面白半分の憶測だ。反面、事実ありのままでもあった。実際に珠枝の家には尾崎以外の男も多く出入りしていたのだ。想う相手は一人だけだとしても、界隈の者には区別はつかぬのだろう。
「砂川珠枝は金の首飾りや金剛石の指輪や宝飾時計の類を多数所持して居たが鎮火の後に掘り出したるは半焼けの衣装や西洋鞄のみ──」
晴子は呟く口調で、読み上げる。ならば「物盗りの仕業」と書けばいいのに、山陽新報はやはりもっとおどろおどろしい愛欲だの醜関係だのの背景を期待し期待させるため、そう書いてはいなかった。
隣に住む医者の娘がまず変事に気づいたとしてあるが、なんともいえぬ不吉な怪しさと血腥《ちなまぐさ》さとを覚えたというのは、記者の脚色ではないかと晴子は暗澹たる気持ちになった。こうして何もかもが、姉の嫌な物語を構成し直していく。
確かなことは、姉が大晦日に殺害された後、家ごと焼かれたということと、遺体を確かめてくれと巡査に頼まれ、晴子が姉の無念な姿を検分したということだけではないか。
後ろ頭の髪の毛と右の耳たぶだけが、なぜか焼け残っていた。これほど冷静に、あの無残な姉を思い描ける自分が信じられない。
忘れたい。しかし忘れられない。それは姉の姿の惨さよりも、「岡山では近年稀な大事件」として書き立てた地元の新聞の所為だ。
「黒焦げ美人、じゃと。死んでからも、珠枝は嬲《なぶ》られる」
遂に声を放って泣き始めた母は、今朝の山陽新報を襖に投げ付ける。この地元新聞で、姉は「黒焦げ美人」と呼ばれた。誰が名付けたのかは知らないが、無残でありながらどこか滑稽な響きもある、その呼び名。晴子は憎んだ。姉を殺した者と同じくらい、そう名付けた者を許せなかった。
「大方、あの記者じゃろう」
母とそっくりな口調で、晴子は吐き捨てた。珠枝の葬儀は身内だけでひっそりと執り行なうつもりでいたのに、新聞記者には踏み込まれ、警察にも来られ、無遠慮に覗きたがる見知らぬ近隣の者達にも、砂川の家はかき回された。死者ならずとも、ひっそりと逝かせてくれと頼みたくなる。
「ああ、あの男。許せんわ。あいつもこいつも、許せん」
身を揉む母を苦々しく見ていた父は、いきなり立ち上がって階段を降りていった。妾としている、下駄屋の後家の元に行くのだ。晴子は母を慰めるでもなく、苛々をぶつけるでもなく、ただぼんやりと一頻《ひとしき》り泣くのを眺めていた。
泣く母を見ていると、姉の葬儀の日を思い出させられる。一際寒い日だった。どこもかしこもかじかむ午後だった。雪の降らない寒さというものがある。あの日はまさにそれだったのだ。その癖、空は晴れていた。無情に青かった。
「別嬪じゃったのにのう」
「そりゃあ、黒焦げ美人と書かれたくらいじゃけえ」
新聞に出た翌日であったから、近隣の者達は無遠慮に語り合っていた。お膳の用意をしながら、野辺の送りの準備をしながら、死んだ女を噂した。
「犯人は捕まるじゃろうか」
「まあ、『男』には違いなかろうからなあ」
遺影の姉は美しかった。遺影はどれも美しいものだが、最初から遺影として撮られたとしか思われぬ写真は、美人の死と美しい時代の死とを両方際立たせてくれた。何故か晴子は、姉は明治に死んだのだと思い込んだ。姉は、明治とともに逝ったのだ。だから遺された大正が、こんなにも淋しいのだ。
「なあ、あんた。妹なんじゃてな」
美しい死と時代を汚すのは、姉の死の翌日から執拗に食い下がってきた山陽新報の記者だった。赤ら顔で猪首《いくび》で、大層醜い男だ。目付きは猛禽《もうきん》ほどに鋭く抜け目がないのに、口元が妙に物欲しげに歪んでいた。
「わしはな、先だっても言うたが、ぼっけぇ記事を書けるはずなんじゃ」
晴子は、姉の死に顔と同じくらい思い出したくない顔があったが、その顔は今目の前にいる男に比べれば、酷薄なほどに美しいのだ。美しいものは恐ろしいものと同じくらい、時として記憶を凍結させる。
野辺の送りにも役場への死亡届提出にも、様々な挨拶にも全てひっそり、それでいて図々しく現れるその谷内という記者は、誰よりも晴子にまとわりついた。
「犯人は、もうわかっとるようなもんじゃ」
晴子はそのたび、あまりのおぞましさと凶々しさに気が遠くなる。それでいて、谷内に話は聞きたいのだ。こんな男にその名前は口に出して欲しくはないのに、こんな男からでもその名前は聞きたかった。
「大橋秀智な。あんたも、よう知っとろうが」
「……知っとりますけど。姉を殺したんは、違うと思いますらあ」
「なんでじゃ」
晴子は追い詰められる。庭木の前に、壁際に、井戸端に。父や母がちょっといない隙を実に巧妙に突いて、谷内は晴子に舌舐めずりをするのだ。晴子はその舌の先に絡め取られるのを、どうしようもできなかった。
「大橋さんは、ええ人じゃから」
「ほんなら、他に心当たりでもあるんか」
「そんなんは、ないけど……」
谷内から顔を背けても、その背けた方にすかさず回り込んでくる。ついには正面から答えさせられるのだ。
「何でもええ。何ぞ思い出すことはないんかな」
「特には」
「姉ちゃんには、男の友達が仰山おったじゃろうが」
「おったけど」
「旦那もおったしな」
「……はい、おりました」
「しゃあけど、その尾崎っちゅう旦那は今回の事件にゃあ無関係じゃな」
どこまで調べあげているのだろう。晴子はまだ女学生なのだ。到底、深窓の令嬢とはいえない境遇だが、すれた新聞記者の男にはったりや脅しをかけられ揺すぶられては、子供のように怯えて萎縮してしまう。
あまりに不細工なため、怒っているのか機嫌がいいのかすら区別のつかない谷内は、色の悪い唇を歪める。笑う時も嫌味を言う時もまったく同じ歪め方で、晴子を嘲笑う。死んだ珠枝をも嘲笑い、犯人と決め付けた大橋を罵る。
「何かあったら、いつでも話をしに来てえや」
「……はい」
草臥《くたび》れた着物をその短躯に纏い、谷内はようやく立ち去る。谷内は、姉を殺したのは数多い男友達の誰かだと当たりをつけた。さらに、「あまり評判のよろしくない」大橋だ、とまで確信しているのだ。
違う違うと、晴子は叫びだしたくなる。母に、お姉ちゃんはそんなに苦しまずに死んだんじゃと叫びたいのと同じくらい、強く高く。
「大橋さんは、ええ人なんじゃから」
何よりも、姉は大橋には惚れていなかった。いい人だけれど、姉は焦がれてはいなかったのだ。自分が大橋を好きだから、姉と相愛の仲だったと思いたくないのではない。姉は惚れてない男に殺された、とする方が気の毒ではないか。
「お姉ちゃんは、好いた男に殺された」
何の証拠もなくとも、晴子はそう囁いてやりたい。それこそが、姉を成仏させるのではないか。遺された者は、どうやっても救われないのだとしても。
──そんな姉の葬儀と警察の聴取と、地元新聞社の取材と。晴子は姉を悼む暇も事件を恐れることも執拗な記者を憎む間も与えられず、慌ただしい大正初年の正月をやり過ごした。空ばかりが虚しく透き通る、晴朗な松の内だった。
思い出したくない男は忘れられず、見たくもない男はやってくる。そうして、会いたい男には会えない。
縁側で、二階で、合わせ鏡をして後ろ髪を確かめている己れの姿に、ふと亡き姉を重ねて晴子は泣く。いつも後ろ姿で、誰かを何かを待っていた姉。待ち人は遂に来ないままに独り逝ったのが哀れだ。
それとも、待ち人は無情な人ではなく恐ろしい人で、もう待たなくてもいいようにされてしまったのか。ならば姉の恋は成就したと、手を合わせねばならぬのか。
「珠枝は死に患いの床にさえ、つけんかったんじゃ」
母の繰り言は、おさまらない。娘の死は朝に夕べに唱えられる。それなら晴子も、糸の緩んだ三味線を横目に見やりながら嘆かねばならない。姉は本当に可愛らしかったと。岡山での可愛いは、大抵が可哀相の意だ。可愛いものは可哀相だ。恋しい男は不実だ。美しい時代は短命だ──。
この年、岡山の詩人は哀しい詩を詠んだ。
「小鳥よ 小鳥よ 春の鳥
今日も昨日もふる郷の 破れたる軒に来ては鳴く
暮れ行く春のかなしさに 涙催す夕まぐれ
悲しく啼きそ春の鳥」(有本芳水)
大正という時代は、きっと可憐で美しく悲しい歌が流行るだろう。そう耳打ちしたのは誰だったのか。少なくとも、姉ではなかろう。姉は大正の新年すら知らず、悲しい鳥となったのだから。
気がつけば姉は凍えた岡山市郊外の墓地に眠り、山陽新報には姉を殺した犯人よりも姉の半生を面白おかしく扇情的に書き立てた記事が躍り、晴子は三味線の稽古どころか通っている女学校をずっと休む羽目に陥っていた。
「小鳥よ 小鳥よ」
どこにもいない小鳥を探す目で暗い障子を透かし、晴子は呟く。
「何時《いつ》の間に、風邪は治ったんじゃろうなぁ」
二階の見慣れた静かな不幸の部屋で、晴子は山陽新報を広げる。正月の間中、ここには姉の焼死事件が載っていた。
「珠枝には多数の情夫あり」「怨恨も多く買ひたりとの風評」「艶物語に彩られし奔放な半生」「家庭は紊乱《びんらん》との評判」……
父と母とは見ないようにしているが、階下で営む呉服屋に連日訪れる客が記者が冷やかしが、聞きたいことも聞きたくないことも皆、教えてくれる。
「尾崎とかいう旦那の方は、聞き込みに来た記者に水をぶっかけたらしいで、女房も一緒になってな。それで、『死んだ妾は美人でも生きとる女房は醜女』とか書かれてのう」
「なあなあ、あんたら夫婦とも再婚じゃったんなぁ。新聞で知ったで」
閑古鳥が鳴いていた店先は、この商店街では今最も繁盛している風情となっていた。無論、肝心の着物はほとんど売れていない。
そもそもは、姉を囲っていた尾崎に出させてもらっていた店だ。その姉が死んだ今となっては、この先続けられるかどうかかなり危うい商いだ。ましてや、その姉が他の男に殺されたの、他にも男が沢山いたのと連日新聞に書き立てられていては、尾崎もすべてを断ち切りたいだろう。
実際、尾崎は葬儀にさえ来ていない。妾の葬儀には顔を出しにくいというのを差し引いても、砂川の家と縁切りをしたい態度をあからさまにしていた。
無理もなかろう。尾崎とて、それこそ女房の器量から娘の嫁ぎ先の評判から息子の不始末まであることないこと書き立てられ、あまつさえ容疑者の一人だと匂わすような書き方までされているのだ。
「ああ、もう、うちも珠枝の所に行きてえわ」
母は日に何度も、悲痛な小鳥の鳴き声をあげる。薄青く沈む夏も、濃い青に淀む冬も。
母はいつも泣いている。いつも晴子はそれを見ている。
「いっそ、珠枝が羨ましいくらいじゃ。死に際は苦しかったかもしれんけど、今は安気じゃ。何の憂いもなかろうに」
誰に殺されたんじゃ、という問い掛けは、母はしない。ひたすら、死に際ばかりに身を揉んでいる。無論、苦労をさせた姉娘を傷ましく想う気持ちもあるけれど、生活の手立てを失ったということの方が嘆きは深い。晴子はそれを慰める言葉も何も持てないでいた。
「お姉ちゃんが醜業に就いてくれとるお陰で、一家はご飯が食べられて、うちは安気に女学校に通える」
この感謝の言葉は、口にしてはいけないものであった。大正時代はおそらく短命なのではないか、と口にしてはいけないように。
火鉢の傍らでも凍える畳には、不吉な山陽新報が広げられていた。遂に書かれた恐ろしい「名前」に、晴子は自身が業火に包まれる思いを味わう。
前日までは、「砂川珠枝のもとを度々訪れていた怪しき男」は、ただ「怪しき男」とだけ書かれてあったのに、とうとう「大橋秀智」の名前が異様に大きく黒々とした活字で見出しにまで出てしまったのだ。
あの、死神と畏れるには矮小すぎ、嫌な奴と吐き捨てるには凶々しすぎる谷内なる新聞記者は、堂々と大橋を名指ししたのだ。かなりの自信を持った書き方だった。相当に証拠を握っていると言いたげな文章だった。
「この大橋秀智なる男は小金を持つ老女の養子に首尾良くおさまりたるが」「兎角の噂ありて親しき某氏は大橋を楽して人の財産を貰おうとすることに躊躇《ためら》いなき性質であると断言しおり」「名門の東京の大学に於いて学業優等なれど帰郷して後は就職も長続きせず怠惰な日々を送るものなり」等、直接には珠枝の事件とは関係のない経歴だの談話だのも書き立てていた。
そこだけ読んでも、晴子はいつか見た奈落の底の幻影に脅かされる。これらのことは、大橋の周りの友人達からも聞かされてはいたが、晴子は悪い解釈はできなかった。器用に立ち回れないが故に誤解を与えてしまうのだと、晴子は声高に言い立てるのではなく、そっと庇っていたのだ。
だが、活字になってみると重々しさも生々しさも口の端とは違いすぎる。僅かではあったが、次に大橋に会えば疑惑と軽蔑の眼差しを向けてしまうかもしれないとすら心配してしまった。
晴子はもう一度、記事を読み返す。そして幾度も、自分の知っている、自分だけが知っていると信じたい大橋を思い返す。昼なお暗い座敷には、無情に澄んだ風と光だけは忍び込み零《こぼ》れ落ちてくる。
「珠枝が焼死したとおぼしき時刻には大橋は自宅にて養母の看病をして居たと言いおれり」「養母もまた大橋秀智は夜通し看病してくれていたと証言するも養母の大橋に向ける愛情はほぼ愛欲の関係にある男女の如しであると評判であり」「養母の証言を総て信ずるは大いに疑問あり」「未だ詳《つまび》らかに非ざれど事件当夜に大橋が砂川邸の前を怪しき態度で一回りしている姿を目撃せる者あり」……。
こんな記憶は作ったものだと、晴子は思わず新聞を投げ捨てる。自分の中にもあるではないか。自分が生まれてもいない頃の、関西方面を放浪していた父と母と姉の貧苦の日々や、姉が藤原に一目惚れしたという煌びやかにして酷薄なカフェーの暗がりや、閉ざされた部屋でヴァイオリンを弾く藤原の目眩《めくるめ》く残酷な微笑といった、後から作り上げた偽物なのに真実の匂う記憶が。
どんな酷な記事も気丈に読めた晴子だが、どうしても視線を落とすことすらできぬ箇所もあった。それは「死体解剖の結果によれば珠枝は頸部に絞められた痕あり」という一文だ。姉は予め絞殺されたらしい。業火に死んだのではなく、確かな人の手によって殺されたのだ。その手の持ち主は誰なのか。
「……大橋さん」
死んだ小鳥を追うように、詩人の探す小鳥を求めるように、晴子は暗い座敷で呼びかける。父は下駄屋の後家の元に行ったまま、昨日から帰らない。母は休業にしてある階下の店で、着物を畳み直すことだけをしている。
「会いたいんよ」
以前から、「東京の大学まで出たのに仕事もせんとふらふらして遊んで、珠枝にまとわりついとる胡散臭い男」として晴子の父母には不興を買っていた大橋だ。ますます晴子は会いに行けなくなってしまった。
「大橋さんは、違うんよな」
誰よりも信じたい人だ。誰よりも会いたい人だ。父よりも母よりも、もしかしたら死んだ姉よりも。姉の取り巻きの男の中では、誰よりお人好しで優しい大橋。確かに仕事は続かないかもしれないが、その人の好さは永遠に続きそうな男であるのに。
最後まで、姉には色々な意味で男扱いをしてもらえなかった。なぜなら姉は、他に夢中な男がいたからだ。
晴子は自分の凍える指先をじっと見つめる。あの男の顔と名前は、口にするのも恐ろしいから、晴子は指先を思い出す。あの男は指が綺麗であった、と。それはそうだ。ヴァイオリンを弾くことと、女を嬲ることにしか使わない指なのだから。そうだ、姉はあの指に生きたまますでに殺されていた。
姉が惚れていた男。しかし姉どころか自分以外の誰も愛さないのだと感じさせる、あの得体の知れない男。奏でる楽器は彼にそっくりだった。典雅で驕慢で夢見るほどに残酷で。
晴子は恐る恐る、横目で紙面を見る。そこには、「藤原正司」の名前はない。姉が焦がれていた男。大橋とは逆だ。姉はとうとう最後まで、この男には女扱いをしてもらえなかった。
晴子は姉の無念さは、何者かに殺されたことよりもこの男に思いが届かなかったことではないのか、と思う。だが、それは新聞記者にも言えなかった。言ったところでどうなるものでもない。ましてや、記事になるはずもない。
晴子はとうに引いた熱を追想するように、姉の死を不吉な青に描く。山陽新報では、ほとんど大橋を犯人と決め付けていた。しかし、姉の死の一報が届いた時、晴子の重苦しく痛む頭に鳴り響いたのは、藤原のヴァイオリンであったのだ。
これこそが、何の証拠もない決め付けなのだが、晴子は藤原への畏れをなくすることはできない。迂闊に言葉にもできぬほど、あの男が怖かった。怖がる理由がないのに怖くてたまらぬのは、ほとんど恋心でもあるのか。晴子は愕然とする。
だから、打ち消す呪文がいる。
「大橋さんに、会いてえわ」
二階からほとんど出られなくなった晴子は、独り言が増えた。大橋に会いたい。だが、叶わない。連絡をする手立ては何もない。もしも会えたとしても、誰かに見られでもしたら大変だ。
被害者の妹と、犯人と目されている男が逢引きだなどと、またしても面白おかしい記事にされるだろう。
珠枝という被害者に派手な男関係と過去があったこと。絞め殺されて家ごと焼かれるという、岡山市では近年稀とされる大事件であったこと。岡山市の人々は大正時代を振り返る時、初めての乗り合い自動車や飛行機やカフェーよりも、不幸で実は矮小な事件の女を思うのだ。いずれにしても、大正は不幸だ。
晴子はうろうろと、狭い座敷で立ったり歩いたりと落ち着かない。大橋の身を案じるのと、自分の不安感の持っていき場所を探すのとで疲弊しきっていた。
晴子は山陽新報の記事によって、父には母と結婚する前にも家庭があって、自分には会ったこともなくこの先も会うことはないはずの兄がいたことや、母が姫路や赤穂で芸者をしていたことまで知らされた。
「きょうてえもんじゃのう。新聞記者というんは。いったい、どねえしてこれほどまでのことを調べあげられるんじゃ」
「うちはもう、買物にも出られんわ」
それらは父と母の舌打ちで事実と知ったが、姉の相思相愛であった男が大橋だというのは、誰よりも誤報であると言い張れた。
「嘘ばっかし、書いてからに」
思い出したくないことばかりだが、殊にあの山陽新報の記者は一刻も早く消し去りたかった。初めて見た時から、嫌な嫌な男であった。その姿の醜悪さもさることながら、どんなに父や母や自分が嫌悪を示そうと歯牙にもかけず、執拗につきまとってくる。
あの男もまた、自分以外の人間が嫌いなのだ。藤原のように、どこか冷淡な優雅さ、典雅な蔑視といったものとは違う。谷内のそれはもっと解りやすく、卑近なものであった。
大橋が、遊んでいるから嫌いなのだ。大橋が、美人と気楽に付き合っていたから許せないのだ。大橋が、金持ちの後家に可愛がられていたから馬鹿にしたいのだ。
と、藤原以上に考えたくもない男のことを考えていたからだろうか。突然階下から、母の悲鳴に近い声が聞こえてきたのだ。
「ああ、もう、きょうてえことばっかし言わんとって」
「そう言われてもな、これはほんまの話なんじゃ」
あの記者の声だった。籠もっているのに金属的な、嫌な声。晴子は体を固くして、母と谷内の会話に聞き入る。微かに、ヴァイオリンの音が聞こえてきた。不吉な会話が為されているからに違いなかった。
「大橋の養母が死んだんじゃ」
階下にそんな声が響いた時、晴子はついに階段を降りていた。大橋が金持ちの後家の養子になっていることもまた、新聞は曰くありげに書いたし、晴子の親もそれ一つを取り上げて胡散臭い男だと決め付けたのだ。自分達が、実の娘を妾稼業に就かせていることは棚に上げて。
「おお、あんたも何か話してくれるんか」
框に図々しく腰かけた記者は、晴子に舌舐めずりする顔をした。この男の前で便所に駆け込み、間に合わなくて粗相をしたのを思い出したが、恥じる気持ちにはなれなかった。この谷内が人とは思えないからだ。
この醜い男は、冥界の使者だ。死神といった大層なものではない。死者を連れていく牛頭《ごず》、馬頭《めず》よりもさらに下の何者かだ。
父が不在の為《ため》に、母が対峙していた。火の気のない店先は冷えきっていた。母は来るなとも来てくれともつかない眼差しを晴子に投げ掛け、深い溜め息をついた。その溜め息の漏らし方だけは、死んだ姉にそっくりだった。
「その死因にも不審な点があるというてな、大橋は今、岡山署に呼ばれとる」
記者は珠枝の母に話しかける振りをしながら、その実、晴子に話しかけてきた。晴子は思わず母の隣に座りこんだ。
「それで、大橋さんはどうなったんじゃろうか」
あんなに癇性に畳んでばかりいるはずなのに、着物は散乱していた。まるで死んだ者が悪戯をして脱ぎ散らかしたかのように、色とりどりの着物は散らばり広がっていた。その真ん中で母は、気の触れた姫様のようだった。
「養母の遠縁の者等が、大橋は怪しいけん調べてくれと言うていったんじゃな」
谷内の悪意を含んだ声だけが、空疎に寒い部屋に響きわたる。
「葬儀も一旦止めて、死体を調べるらしいで。その結果によっちゃあ、あんたん所の珠枝さんの件でも本格的に引っ張られるじゃろう」
「ほんまに……大橋が犯人なんじゃろか」
途方に暮れる母に、思わず晴子はにじり寄る。
「違う、お母ちゃん。そんなん違う」
何故に谷内が、勝ち誇った笑みを浮かべるのだ。晴子はまた手元の着物を撫でた。死んだ者の肌ほどに、冷えきっていた。中断された葬儀を想像すれば、やはりあのヴァイオリンの音色が聞こえる。
晴子は大橋の住む家には行ったことがなかった。場所だけは知っていたが、大橋とは姉の家で会うものと思っていたのだ。
なのに晴子は、冬の岡山市をほとんど駆けていた。階下に降りることさえ苦痛だったのに、通りを駆けている自分が不思議だった。
好きな男を追っているのか、姉の死の真相を知りたいのか、駆けている最中はわからない。わかったのは、葬儀が行なわれている大橋の家が見えてきてからだった。自分はただ大橋に会いたかったのだ。
喪主でありながら、怪しい嫌疑をもかけられている立場の大橋は、しかし憔悴した感じもなかった。沈痛な面持ちではあるが、見慣れた穏やかな顔だ。黒々とわだかまる参列者達は、疑惑の棺と大橋にやはり黒々とした眼差しを向けていた。
取り敢えず大橋は釈放され、葬儀は続行となったのだ。刻まれた養母の遺体は何を思っているのか。ひょっとしたら死者同士、珠枝の死の真相も知っているのではなかろうか。
「大橋さん」
押し殺した声で呼び掛ければ、ちゃんとこちらを向いてくれた。やつれた頬で笑ってくれた時、晴子は泣いた。死にゆく小鳥のように、泣いた。そうして開け放した座敷の隅にあがり込み、冷えきった棺を凝視する。
囲む白菊の匂いに、死は青空へと昇っていく。そんな中、
「まんが悪い人なんじゃ」
ひそひそと、囁きかわす声がする。まんが悪い。それは間が悪いという意味合いではあるが、岡山では「間」は「魔」をも当て嵌める。
「そうじゃ。秀智は昔っから、まんの悪い奴じゃった」
「疑われる時期にまた疑われるようなことが起きるんか」
「そんだけじゃねえ。仕事が続かんのも、素行の悪い女に引っ掛けられるんも、みんなみんな、まんが悪いんじゃ」
大橋を庇う口振りからすれば、大橋の方の親族なのか。だが、この大勢の中には大橋を良く思わない者も、必ずや混じっている。晴子ははっきりとではないにしても、それを肌に感じていた。吹き込む寒風の所為ばかりではない。
「しゃあから新聞は、ありゃあ酷いで」
「疑わしいことは、何ぞあるにしてもな」
この中には、おそらく刑事も記者も混じっているのであろう。また、大橋の友人達も大勢いたが、あの男はいない。藤原はいないのだ。代わりに、堀田がいた。藤原の教え子で、閑谷中学の生徒だという美しい男の子だ。
絣の着物は、どの冬よりも凜として寒々しく映えていた。固く唇を結び、ひたすらに前を見据えている。悲劇の為に、彼は端正な姿をしているのだった。
晴子は藤原ほどではないが、堀田も好きではなかった。というより、彼の方がほとんど口をきいてくれないのだ。いつもいつも、藤原にくっついてきていた。はっきりと、生前の姉を恋敵と睨んでいた少年だ。珠枝の妹の自分をも快くは見ていなかった。
「なあ、あんた」
それでも今日ばかりは、意を決して近付いた。さすがに喪主たる大橋にはすぐには近付けない。このたびはだの、ご愁傷さまだのの挨拶は飛ばして、いきなり堀田に近付いた。これほど間近に対峙するのは初めてだ。
「藤原さんはどこ」
堀田はそう驚いた様子もなく、じっと晴子を見返した。読経は凍る地を這い、白菊の匂いは微細な雪の気配に溶けた。周りの何人かが晴子達を注視したが、構ってはいられなかった。大橋は背を向けたままだ。
「……岡山には、居らん」
低く、堀田は答えた。晴子を見据えたままで。
「居らん、て。どこに行ったん?」
負けられない気持ちになり、晴子はなおも食い下がった。
「そこまでは知らん」
そこで堀田は口を噤んだ。居住まいを正し、真正面を見据えて微動だにしない。もはや晴子は彼を揺さぶることはできないのだった。
晴子は諦めた。まるで母のように、あっさりと。だからその後で大橋と、僅かな間に廊下の隅とはいえ二人きりになれたのは、僥倖であったろう。
晴子は大橋を問いただすのではなく、自分が何かの申し開きや懺悔をしている気持ちになって、にじり寄った。
「大橋さんは、やっとらんよな」
言いたいことはこれだけだったのに、胸の潰れそうな晴子がようやく口にできたのは、
「藤原さんは、どこに行ったん?」
だった。大橋はやつれの差す頬に微笑を浮かべて、答えた。
「わしにも、わからん」
「ほんまに?」
「ああ。しゃあけど、あいつは岡山と東京しか知らん。岡山に居らんのんなら、東京じゃあないんか」
「大橋さんも、東京は知っとるじゃろう」
「そうじゃけどな。わしは岡山を離れんで」
晴子は大橋に縋って大声で泣きたかった。その昂ぶりは身のうちに実感できるのに、それを冷静に見つめている自分がいる。
感情の起伏が激しく、またそれが男を惹きつけるもととなっていた姉とは違い、晴子はいつでも自分を少し離れた所から見ているのだ。
自分は男に狂わない代わりに、男に愛されることもないだろう。こんなことに、どうして生娘の女学生が気付かねばならぬのか。
そんな晴子をしても、姉の死の真相は解明できないのだ。ともあれ大橋は、どこまでも穏やかだった。軽く晴子の肩を叩き、囁いた。
「映画、観に行こう。な、落ち着いたら遊びに行こう」
葬儀の最中に、それは不謹慎な台詞であったろう。だが晴子は、縋りついて泣いたほどの満足を得ていた。
「もしかして『ジゴマ』かな」
「そうじゃ」
「……姉ちゃんも、見たかったんよ」
「そうじゃったな」
それでも晴子は、嬉しかった。姉の葬儀を済ませ、他人の葬儀に来ていても、唇には微笑が点《とも》った。こんなところは姉に似ていると思う。恋しい男の前で、それを隠せない。誰が見ても、目の前の男に焦がれていることが露見してしまう。向こうの男は、こちらが思うほどには思ってくれていないということも。
「わしは、やっとらん」
そう言い切ってもらえなくても、確かな潔白の答えを得たと確信したのだから、晴子は満足していた。姉とて、藤原の不実ささえ愛しんでいた。
「晴子ちゃん、わしちょっとこの後が忙しいんじゃ」
「あ、ああ、わかったわ。……ほんなら、また」
誰よりも寒そうな僧侶の読経が一際高くなる。棺は郊外の墓地に運ばれるのだ。大橋はその棺を担がなければならない。参列者は外に出た。突き抜ける蒼穹は、罪人にも死者にも等しく酷な美を降らす。
「わかっとるんじゃ、お前が人殺しじゃということは」
突然、老いた女の罵声が飛んだ。凜と張り詰めた空気を、その嗄《しやが》れているのに甲高い声はひび割れさせた。女達に抱きかかえられるようにして身を揉んでいるのは、恐らく死んだ養母の姉妹であろう。
「うちら、お前を養子にするんは、最初から反対しとったんじゃで。なんぞ良うないことが起きるとな。その通りになったわ」
その老女を押さえる女達も同じ思いであるのだろうが、さすがに老女を必死に宥《なだ》めているだけだ。大橋は平静だった。悪党として冷ややかにやり過ごしているのではない。晴子の目には、誠実にしていた。
「今は、そねえなことを言うとる場合じゃなかろうが」
今度は、押し殺した男の声があがった。これは大橋の側の者であろう。
「仏さんも、未練を残してしまうがな」
再び、寒い沈黙は訪れた。晴子は必死に、棺に手を合わす。見知らぬ女の成仏を祈る。姉と同じくらいに。
改めて見渡せば、姉の葬儀ほどに淋しかった。野次馬や記者や刑事を除けば、悼む参列者は少ないと、晴子は手を合わせながら大橋の養母ではなく姉の成仏を願った。
何時の間にか、堀田はいなくなっていた。晴子もまた、家路を辿った。途中、東京の方角を向いて何度か立ち止まった。藤原は何故、いなくなったのだろう。勤め先の学校の仕事はどうしているのだろう。
大橋と別れた後、晴子は真っすぐに家に帰った。店先には母の姿もなかった。着物だけが、脱け殻めいて広がっているばかりだ。この店はもう、終わっているのだ。しかし二階の不幸は終わりが見えていない。
すぐその二階にあがると、帳面を取り出した。明治から大正になった日、そっと慣れぬ元号「大正」を書き込んだ帳面だ。
藤原正司。大正と書いた次の紙面に、その名前を書き込んだ。凍える唇で呼ぶに相応しいあの名前は、「怪しき音楽教師」としてではなく、「美人惨殺の凶行者」として出され、すべての人は唇を凍えさせるだろうか。
柔らかな視線で微笑みだけを寄越してくれるのに、いつも得体の知れない闇を垣間見せられた男。
「あんな男前見たことがない」
はしゃいでいた姉の姿が浮かぶ。市内のカフェー・パリーという、岡山市での先端を気取る者達が集まる店で知り合い、不幸と色恋が好きな姉は一目で騙されたのだ。自ら進んで破滅させられたのだ。
東京の音楽学校を出て、ヴァイオリンが弾けるなどという経歴の男。最初からその音色のように、直《じか》にその手で掴めるものではなかった。品のいい仕草も眼差しもどこか途轍もなく空疎で、きっとすべての人を好きでないから、逆に何の思い入れもなく関われるのかもしれないと、晴子は考えたのだった。
言い様のない絶望感。あの人は、少なくとも姉ちゃんには惚れとらん。……当たっとるよなぁ。
「……私は、藤原先生に教えてもらった中学生男子です」
震える手をなだめながら、晴子は書いていった。いかにも無邪気な中学生が書いたように見せたかったのだ。
「藤原先生は、怪しいです」
晴子は、あの谷内宛てに手紙を出すつもりなのだ。谷内に藤原の罪を暴いてほしいからでもなければ、大橋への疑惑を解いてほしいからでもない。嫌な手紙は嫌な相手に送りたい。それだけだ。
ふと、どこからかヴァイオリンの曲が流れてきた。どこかで蓄音機を鳴らしているらしい。「野なかの薔薇」だ。晴子は演奏している時の藤原だけは、好きになれそうだった。
「ほんなら、正月は映画を観て演奏会じゃわ」
死の前日、姉が言った言葉をなぜこんなにはっきりと記憶しているか。ともに果たされなかった約束。その約束を交わした男は今どうしている。
姉は藤原の「野なかの薔薇」が、最初から悲痛な追悼の楽曲になってしまうことになぜ気付けなかったのか。
「怪しいのは、大橋さんではありません。怪しいのは藤原正司という音楽教師であります。なぜなら……」
火鉢でどんなに温めても、手はかじかんだ。自分はとんでもないことをしているのか、いいことをしているのか。自分も何かの犯人のようにショオルで顔を隠して表に出ると、俵谷式と呼ばれる岡山ではハイカラの象徴の一つでもある、赤い円柱形の郵便入れがある辻まで駆けていった。
投函した瞬間は、心底から後悔をした。暗い投函口に思わず手を突っ込んで、取り戻そうともした。しかしまさに奈落の底への入り口を思わせるひんやりとした投函口は、谷内宛ての手紙を返そうとはしてくれなかった。
「ええんじゃ、これでええんじゃ」
そう呟きながらほとんど逃げ帰ったが、その夜、胸苦しい夢を見た。晴子は誰もいない暗い辻に立ち、やけにそこだけ赤く毒々しい郵便入れに哀願していたのだ。
「教えてん。手紙はちゃんと届くんかな。お姉ちゃんを殺した人は見つかるんかな」
答えは、翌日の山陽新報が教えてくれた。晴子は玄関先に配達されていた山陽新報を取り上げるなり、冷えきった框にしばらく伏せた。岡山の事件を扱う三面は、その大きな見出しの記事で占められていた。
悦びとも恐怖ともつかない感情に震えた。手足はひどく冷たいのに、顔だけが熱く火照った。インキの匂いもまだ新しい朝刊には、大橋ではない者のことが大きく出されていたのだ。「怪しき音楽教師」、と。
「出た……ほんまに、出てしもうた」
口にすれば、はっきりとした空恐ろしさに全身が震えた。晴子は二階に駆けあがり、記事を必死に読んだ。「怪しき投書あり」とはどこにも書かれていなかったことに、大きく安堵する。ただそれだけで、藤原に自分だと見透かされそうではないか。
しかし藤原は晴子がわざわざ投書をせずとも、嘘か本当か山陽新報では独自の調査によって当初から「怪しき男」と目視されていたという。また、警察にもかなり早いうちから、「黒焦げ美人こと砂川珠枝の親しい男」として知られていたともあった。
「砂川珠枝には他にも多数の情夫ありたる……」
晴子は哀しみというより興奮のため流れた涙を拭い、続きを読んだ。ともあれ藤原は警察でも事情を聞かれたが、終始落ち着いて受け答えをしたのですぐに帰されたという。自分はまったく潔白なので下手人扱いは不快ではあるが不安ではない、と笑顔すら見せて語ったそうだ。
「そうじゃろうなあ」
晴子は藤原の冷徹な横顔を思い出していた。あの男ならば、どんな取り調べを受けてもあの調子で受け流すだろう。それは容易に想像がついた。流行の歌謡曲を投げ遣りに演奏するように、流してしまうのだろうと。
「えっ」
だが、晴子は一枚めくって声をあげていた。藤原は突然の勤め先の学校に、「一身上の都合」と辞表を提出し、何処へともなく消えてしまったとあるのだ。学校側も噂によって「黒焦げ美人」と藤原が懇意であった事実は掴んでいたようで、「関係者は一様に困惑しその後に一切の音信が途絶えたことに尚更困惑の度を深め」とある。
記者が藤原の実家に確かめたところ、「東京で音楽教師をすることになった」とだけ答えたという。晴子はぼんやりと、藤原の親とやらに思いを馳せた。あの男にも普通に親がいるというのが、ひどくおかしなことに思えた。多分、藤原を育てるに相応しいどこか歪《いびつ》でそれでいて美しい二人だろう。
晴子は最後の部分を読み終えると、立ち上がっていた。さすがに新聞は「逃亡」とまでは書いてないが、「何故この時期に突然逃げ出すかの如く岡山を出たるか」と、意味あり気に結んでいた。間違いなく、あの谷内の筆だ。
「お父ちゃん、お母ちゃん」
晴子は、寝ている時だけ閉める襖を開け放った。父と母はあの夜、姉の死の報せが入った時のように飛び起きた。晴子は新聞を突き付けながら、叫んだ。
「大橋さんじゃあ、ないんよ」
「何がじゃ」
「今朝の新聞じゃ。大橋さんは犯人と違う。犯人と違うとは書いとらんけど、そう書いたも同然なんじゃ。これを読んでみられえ」
狭い部屋一杯に敷かれた寒々しい寝床の上に、晴子も座り込む。父と母はあまり字が読めないので、晴子が読んでやらなければならない。読み進むうちに昂ぶりも治まってきたが、顔の火照りは増した。
「藤原さんが、あの藤原さんが怪しいんか」
癇癪持ちの父がいつまでも黙って聞き、普段は割合に落ち着いている母の方が興奮して息を切らせている。
「そうじゃ、お母ちゃん。お姉ちゃんの周りで音楽教師いうたら、藤原さんしか居らんじゃろ。大橋さんは違う」
「……なんちゅうこっちゃ。もう、世の中も人も何も信じられん」
大橋は嫌いだが、美男で経歴のいい藤原のことは母も気に入っていたのだ。もっとも、安月給の中学音楽教師ではどうにもならん、という呟きは添えられていたけれど。やがて父も、一言だけぽつりと言った。
「今じゃから言うけど、あの男は怪しいと、わしも前々から思うとった」
「そんなら、なんで早うに言わんのじゃ」
母が、詮ない呟きを漏らす。晴子は再び新聞を取り上げ、読み返した。大橋もこの新聞は読んだろう。記者に直接聞かされたかもしれない。疑いが他の男に向けられ、多少は安堵したか。いや、大橋はそんな性質ではないと信じていたい。母がもう、何も誰も信じられないと言い切ってしまっても。
晴子はいつまでも新聞を握っていた。姉が今いる場所よりも、藤原のいる場所は遠いと感じられ、果てのない空を見上げるのが恐ろしかった。
「どこに、居るん」
その呟きは姉に向けてのものか、藤原に向けてのものか、晴子自身にもわからない。母は火鉢の火を熾《お》こし始めており、父はぼんやりと晴子の手にある新聞を眺めていた。母の淋しい後ろ姿と父の虚しい眼差しに、ふと堀田を思い出す。
藤原とはまた違った、不幸な美貌を持って生まれてきた男。いや、まだ少年か。彼も、藤原が東京に居ることを知っていた。東京に行った理由も、彼ならば知っているのではないか。しかし、晴子には堀田を問い詰める術《すべ》はない。また堀田が、藤原を売るような真似ができるはずもなかった。
堀田もこの新聞は読んだか。青ざめながら唇を噛むその姿も、見えた気がした。ひょっとしたら堀田はこれを読むなり、自分もと東京を目指したのではないか。きっと乗ったのは、暗い夜行列車だろう。ひたすらな闇を走り続ける列車は、死者の眠りをも妨げる轟音を響かせるに違いなかった。
「あの藤原いう人は、金に困っとったんか」
不意に母は振り返り、強い口調で訊ねた。その手にした火箸が、凶器に映る。晴子は座り直して、静かに答えた。
「本人は言わんかったけど。……お金がないようなことは、他の人が言いよったわ」
「そうなんか。誰が言いよったん」
だが、言ったのは大橋とは付け加えられない。母はその火箸を、いなくなった藤原の代わりに大橋に突き刺しそうではないか。母はまだ、大橋への疑いは捨て切っていない。灰を散らしながら、火箸は乱暴に火鉢を掻き回す。
「それは、忘れたんじゃけど。藤原さんは贅沢が好きじゃったのは確かじゃわ。いっつも、ええ服着とったし、ええ店に行きよったし」
華美な生活をしたがる藤原にとって、中学の音楽教師の給金では少なすぎただろう。藤原はああ見えて金がなかった。金に困っていた。金を欲しがっていた。だが、そこには切実な貧困の響きはない。
自分達の困窮とは、意味合いも何もかも違う。晴子は幼い日の貧苦とともに、藤原を憎み直した。姉の代わりには恋はできないのだから、せめて憎んでやる。
「金目当てなんかな」
「多分、そうじゃろ」
しばらく言いよどんでから、晴子は答えた。藤原と姉との関係は、なかなかに説明が難しい。あの驕慢な、しかし蕩かす音色を出してくれる男。大橋よりは待ち焦がれられるに相応しい男だとしても、それが殺してもいい理由にはならないはずだ。
あの男はいつもどこかに心を置いてきている。ならば姉を殺した理由は何か。縁側の縁に横座りをして、一筋の乱れもなく結いあげた髪の後ろを確かめるために合わせ鏡をしている姿をまた思い出し、晴子は少し涙ぐんだ。
やっと解決の糸口が見えたのでもなければ、辛い事件と一連の出来事に終わりが近付きつつあるのでもない。さらに解決の糸口はもつれあい、辛い物語が書き加えられるのだ。
【美人惨殺の兇行者遂に捕はる】
いつか山陽新報の見出しは、それになる。晴子は異国の無残なお伽噺として読もうとするだろう。だが、きっとできないのだ。
頭の中を轟々と、あの綺麗な楽曲が鳴り響くからだ。そうして、姉の後ろ姿がそこの障子に影絵のように映るからだ。それからそれから……悲しい小鳥が、密告者の目を突きに来るからだ。
「暮れ行く春のかなしさに 涙催す夕まぐれ 悲しく啼きそ春の鳥」
なぜ、この詩の下の方しか思い出せないのだろう。きっともう、飛び立ったから──
[#改ページ]
恐るべし美人焼殺犯の消息
私立塾に口入れ屋に寺院の説諭等の広告紙は市内を覆い尽くさんばかりに貼付されたるがこれを甚だしく美観損なうものとして岡山署は処罰令にて処分する旨を発布し花柳病の予防のために貸座敷娼妓には局部の洗浄を奨励せしめ活動写真は魔術にも呪術にも非ずと何度通達しても児童と老人は泣き騒ぎ足元の岡山市は野蛮な明治と洗練の大正の狭間に讃えられる──。
大正が迎える初めての春は憂いの春であった。微温は人には風邪をひかせるが、路傍の花は咲き誇らせる。春は時に、冬より寒い。砂川晴子は埃っぽい岡山市の目抜き通りを見下ろしながら、その寒さを襟足に感じていた。着物はまだ冬物だというのに。
「せえな訳で、まあ、うちの今朝の新聞はえらい評判になっとるんじゃ」
「はあ、そうじゃろうなぁ……」
岡山駅構内に開かれた、明治の頃から岡山では最もモダンでハイカラとされる西洋料理屋は、砂川晴子にとっては初めての場所であった。令嬢とは言い難い身の上ではあるが、女学生であることには違いない。こんな所で堂々と洋食を食べられるほどの器量は身につけていない。
親と一緒でなければ、このような西洋料理屋に来られることはないのだが、その親はこんな気取った高いばかりの店で畏《かしこ》まって食うくらいなら、近所の食堂で丼飯を掻き込んだ方がずっといいはずだ。なのに晴子は、この店の窓際の席にいる。連れてきてくれたのは、見方によっては晴子よりもこの瀟洒《しようしや》な店には不似合いな男だった。
その癖、上機嫌でさっきから一人喋っている。山陽新報の記者である谷内は、前世の因縁などという言葉を持ち出したくなるほど醜い容姿をしているために、最初は機嫌がいいのか悪いのかすらわからなかったが、今ははっきりとわかる。機嫌がいいのだ。何せ、
「わしが、筆誅《ひつちゆう》を加えたということじゃ」
今朝の山陽新報の一面に大きく載った記事は、この谷内の手になるものなのだから。
「いや、このわしに目をつけられたら誰でもお仕舞いじゃ、わしは追い詰めるで。とことんな」
強ばった微笑を浮かべるしかない晴子は、白い西洋皿の料理とともに目の前の男を持て余す。そもそも、突然に家にやってきた谷内に誘われて出てきたのも、恐れからであった。姉殺しの嫌疑が晴れぬままの愛しい大橋秀智の嫌疑を晴らしたいからでも、藤原正司をもっと怪しいと言いたてたいからでもなかった。
あの投書は、自分だと露見しているのではないかという恐れだった。「怪しいのは、大橋さんではありません。怪しいのは藤原正司という音楽教師であります」という新聞社宛ての手紙の効果は、歴然と今朝の新聞に表れた。そう、手紙を読んだのはこの男なのだ。被害者の妹たる自分が書いたと見抜いているかどうかは、晴子にはわからない。わからないから、ついてきた。
「あんたがそねえに畏まることはないんじゃで。わしは、何も悪いことをせん無辜《むこ》の者どもにゃあ、優しいんじゃけえ」
たまたま親がいなかったこともあり、晴子は強引に連れ出されたのだ。しかし谷内から少し離れて憂いの春の岡山市内を歩きながらも、晴子は怖い旋律を口ずさんでいた。「野なかの薔薇」だ。藤原の得意だった楽曲。
その旋律に実に相応《ふさわ》しい店ではないかと、改めて見回す。死んだ、いや、殺された姉はハイカラ好きの高級上等好みであったから、一食を抜いてもこのような店に来たがった。実際にここは、亡き姉の珠枝が懇意にしていた店なのだ。客として来るまでは、ここで短い間であったが、下働きをしていたこともある。
「うちは絶対に、客としてここに来る女になるんじゃ」
その頃から充分に華やかな姉だったのに、強い眼差しでそんなことを言っていた。望み通りに、珠枝は客としてここに来られる身分になれた。別の料理屋で仲居をしていた頃に見初められた、尾崎の旦那のお陰で。
その尾崎も、事件以降はまったく砂川の家に寄り付かなくなっている。それは当然だろう。死んだ、いや、殺された妾の遺族など面倒を見る謂れはないのだ。実質、尾崎が出してくれたようなものである砂川の呉服店も、事件以降は休業中だ。訪れるのは物見高い近隣の者ばかりだ。呉服は買ってくれずに砂川の家を面白おかしく食い荒らす。その筆頭といっていいのが、谷内ではないか。
「尾崎の旦那のことも、お宅の新聞は書き立てたなぁ……」
やけに重い椅子の上で、晴子は居心地悪く尻の位置をずらしながら、目の前の男に聞こえないよう独り言を呟いた。答えてくれるのは、世にも醜い山陽新報の記者ではない。姉が愛したはずの、バターやソースの匂いだ。少しでも気持ちを弾ませようと、新しい草履を履いてきたが、鼻緒が痛く食い込むばかりだ。
「あんた、もう要らんのか。小食じゃのう」
「いえ、いただきますらあ」
しかしきっと東京は、こんな匂いに満ち満ちているのだろう。岡山では、ごく限られた市内の一部にしかない匂いだ。あとは煤けた家屋と侘しい燈火と貧しい人々の体臭しかないのだ。花は咲き花は散り花は眠っても、酷薄な風には祝福された春の香はない。姉のいない、初めての春なのだから。色々なものに置いていかれたが故に、愛らしく哀れな大正最初の春なのだから。
「わしは最初から、藤原が怪しいと睨んどったんじゃ」
向かいに座る谷内と名乗る記者を、晴子も最初から胡散臭い嫌な奴と睨んでいたけれど、それは口にできるものではない。晴子は怯えていた。厳密には敵となる者ではないにもかかわらず、嫌悪していた。あまりに嫌悪しているために、かえって逆らえなくなっているようだ。それに、これもまた厳密にではないが、弱味も握られていた。あの投書。藤原を追い詰めているのは、本当は自分だということを。
いずれにしても、目の前の男は凶々《まがまが》しい。姿形の醜さ、姉の死から数日も経たないうちにずけずけと乗り込んできて、悲嘆に暮れる親や晴子を追い詰めるようにあれこれ嗅ぎ回るという行動もさることながら、
「しゃあけどな、あの大橋じゃて、完全に疑いが晴れた訳じゃあないんじゃで。大体ロクな男じゃなかろうが。東京じゃあ高等遊民なんぞと呼ばれて、ええ気でおられる身分かもしれんがな、岡山じゃあただの穀潰《ごくつぶ》しじゃ」
晴子のもはや今となってはただ一人の支えである大橋のことまで、このように悪《あ》し様《ざま》に罵るからだ。洋杯の麦酒《ビール》を行儀悪く飲む谷内はしかし、晴子がそんな嫌悪感に悶《もだ》えていることなど歯牙にもかけない。
「なんにしても、わしはまだまだいけるで。この『黒焦げ美人』は、わしが貰うた事件じゃけんな」
黒焦げ美人、それは、姉の珠枝に冠せられた呼び名だ。残酷でありながらどこか滑稽な響きのある呼び名は、山陽新報によって付けられた。それもこの男の仕業ではないかと思えるが、晴子は唇を噛む他ない。死んでからも珠枝は嬲《なぶ》られる、と泣いたのは母であったが、ならば姉は生きている間も嬲られていたのか。
晴子は苦いばかりの珈琲に、救いを求める。藤原正司。間違いなく、生きている姉も死んだ姉をも優しく嬲った酷薄で綺麗で無慈悲な音楽教師。生きていても死んでいても姉が恋う男。晴子もまた谷内ではないが、最初からこの男を疑っていた。
「まだまだいけるて……?」
だから、あたかも共犯者のように尋ねるのだ。
「藤原の消息は、大体掴んどる」
「警察よりも、じゃろか」
「まあな。新聞社は、警察とはまた違う情報網があるんじゃけん」
晴子は俄かに重くなった銀のフォオクを、皿に置く。洋食の腕は東京でも通じるといわれる料理人の作ったものであったが、慣れぬ晴子には牛肉はひたすら獣臭く、バターのソースは胸が悪くなる濃さで、馬鈴薯のサラダだけがどうにか食べることができた。谷内もおそらく同じような感想を抱いたのだろうが、すべて食い尽くしていた。
考えてみれば、谷内は大変な接待をしてくれていることになる。決して新聞社の給料はいいとは聞いていないのにだ。それはただ事件についてあれこれ聞きたいだけなのか、もっと他に意図があるのか。サラダのソースを味わっていると、なぜかその答えが見つかりそうに思えてくる。
「……なんぞ、恐ろしいような気がしますらあ」
「いやいや、あんたのような可愛らしい娘さんを怖がらせるようなことはせんて。わしはあんたら一家を助けたいんじゃで」
もしやこの男は、自分に好意があるのか。あれこれ聞き出したいだけにしても、彼なりに優しくしてくれているつもりなのか。晴子は、銀のフォオクが凶器に見えることにも怯える。それらの謎を差し引いても、晴子は胸が塞がる。男とこんな店にいるのを、女学校の関係者に見られたらどうしようかという心配だ。また、まさかと思うが大橋や大橋の知り合いに見られていたらという危惧もある。
まさか藤原は見てはいないだろう。それを想像すると、晴子は最も怯える。藤原は怖いのだ。犯人と目されつつあるからではない。藤原はそれこそ最初から怖い人だったのだ。恋情と紙一重の恐怖を抱かされたのだ。
手紙を書いたのは自分だと見透かされることも、谷内がたとえ好意を抱いてくれているとしても自分は好意どころか嫌悪を抱いているのだということも、知られるのはまずいだろう。だが、それよりも自分がここにこうしていることの方が居たたまれない。
「筆誅じゃ筆誅。あねえな悪党どもは成敗されにゃならん。あんたの姉ちゃんも可愛い女じゃったけん」
自分より遥かに可愛らしかった姉は、可愛らしいまま恋情の最中に死んだ。殺された。それは到底、本望だったなどと手を合わせてやれるものではない。成仏は、谷内の手などでなされるものではない。
「あんたも、姉ちゃんの敵《かたき》は討ちたかろうが」
それにしても谷内は本当に醜い。藤原と同じ男だとは思えない。どうしたって、この男は藤原を嫌いだろう。嫌いにならずにはいられないだろう。しかし姉ほどにこの男も、藤原に言い難い思いを抱いているのがわかる。そこまで言葉にして考えたのではないが、漠然と晴子は感じた。
「県警の刑事はもう、東京に行っとるで」
勿体ないとは思いつつ、もう晴子は料理を口に入れられない。着物の上に白い西洋式のエプロンをつけた洋食仲居達は、どこか姉の亡霊じみている。装飾も兼ねた電燈にはまだ燈は入っておらず、昼下がりとはいえ室内は薄暗い。
晴子は谷内が、本当に化け物に見えた。紺色の粗末な木綿の単衣《ひとえ》は、まだ夏には遠いというのに汗ばんで蒸れた臭いを放っている。新聞社は割合にこざっぱりとした格好の者が多いようだが、谷内は本当にかまわない。藤原となんと対照的なことか。藤原は常におろしたてのような洋装だ。少しも臭いなどない。ついでのように、心もない。
「東京……」
冷めてしまった珈琲が、不思議に美味だ。口に含んで呟けば、東京という言葉もまた苦く美味だ。谷内は嫌そうにその珈琲を飲みながら、唇を歪めた。
「そうじゃ。藤原に土地勘があるというたら、東京と岡山しかないけんな。絶対に東京じゃ。それはわしも確信しとる」
仲居達がひそひそとこちらを見て笑っているのが、晴子の目の端に捉えられた。他の席の洒落者の六高の学生やハイカラな銀行員達に比べられているのだと、晴子は我が事のように恥ずかしさに火照った。しかし妙なことに、その火照りの中には仲居達への軽い憎しみがあった。
晴子は到底それを好意とまでは持っていけないが、どこか谷内に同情めいた気持ちを抱き始めていたのだ。藤原とはあまりに対照的な男。きっと、何事もなくとも藤原を嫌いなはずの男。一応は知的な職業に就いているとはいえ、この姿ではかなりの鬱屈があるに違いなかった。女に好意的な眼差しを向けられた覚えもないだろう。
しかし藤原など、向けられても向けられても女に心を動かさなかったのだから、二人はどこか共通する淋しさに拉《ひし》がれているのかもしれない。藤原のそれは無情に透き通り、谷内のそれは暗澹たる澱みにあったとしても。
「ああ、そうじゃなあ」
だからというのでもないが、晴子は少し優しい眼差しを向ける。
「藤原さんは、東京の大学を出とるけん。……大橋さんも」
「わしは、中学しか出とらんけんな」
不意に音楽が鳴り響いた。「野なかの薔薇」ではないが、いつか藤原が姉の部屋で弾いていたものだ。初めそれは、晴子の頭の中だけで鳴ったのかと思った。だが、それは蓄音機から流れてきたのだった。
谷内は分厚い瞼の下の小さな目で、遥か遠くではないけれどどこか違う所を見ていた。
「うちの親父は貧しい表具屋でな。兄貴らは皆、小学校だけで働きに出された。わしだけ勉強ができたんで中学まで無理をしてやってもろうた。六高も受けたけど落ちてしもうてな」
何故、唐突に自分のことを語り始めたのか。
「しゃあけど、もう一年遊ばしてもらうほど、うちは余裕がねえ。そいで新聞社に入ったんじゃ。まあまあ、喜んでくれとる」
貧乏揺すりをしても、頑丈な椅子は少しも軋まない。代わりに床が鳴った。汚れた足袋の先は、今日見た一番淋しいものだった。
「あの男は、恵まれとるのを当たり前と思うとるじゃろ。いんや、恵まれとることにすら気付いとらんかったんじゃ」
姉が喋らせているのではないかと、晴子は奇怪な想像までさせられた。なぜならここまでご馳走しておいて、谷内は晴子から根掘り葉掘り聞き出そうとはしなかったのだ。大橋とはどんな仲なのだというような話は仄めかされもしなかった。ますます晴子は、足袋の汚れを淋しく見つめることになる。
「……うちには、ようわからんけど。藤原さんが、いろんなものを持っとるのに、なあんも持っとらん人じゃった、というんはわかるような気がしますらあ」
谷内は、それには答えなかった。汚れた足袋の先でまた床を鳴らすと、懐から何やら取り出した。大事そうに、嫌そうに。
「これを見てみいや」
それは一葉の写真だった。晴子は、錆付いた弦で頭を擦られたような痛みを覚えた。そこに写っていたのは紛れもなく藤原であったが、藤原ではなかった。遺影にしたいほど美しいのに遺影にすれば永劫、成仏が叶わない写真だった。
奇術的写真、諧謔写真と呼ばれるものだ。藤原は張りぼての三日月に乗り、天女の格好をしていた。手にしているのは彼の専門であり象徴でもあるヴァイオリンではなく、確かフルートと呼ばれる西洋の笛だ。
「これは藤原さん、なんかな」
「そうじゃ」
さすがにまだ、山陽新報に藤原の写真は出ていない。滑稽な、またおぞましいと評してもいい写真なのに、藤原はきれいだった。あまりにもあっけなく美しかった。
その表情だ。おどけた格好をしているのに、藤原は澄ました顔をしていた。人を殺しても人を愛しても同じ顔の藤原らしい。谷内は藤原に焦がれているのではないかと、晴子は確信した。でなければ、そんなに大切にかつ憎々しげに写真を扱わないだろう。
「藤原が、昔の女に送った写真じゃ。その女から手に入れた」
脅したか金を払ったか知らないが、姉にはくれなかった写真。谷内は再びそれを懐にしまい込む。奇怪な天女は谷内の胸の中で、どんな音を出す。あの不実に美しい弦楽器を持たされていないのならば、案外可愛らしく楽しい音を奏でるやもしれぬ。姉には決して届かない旋律だとしても、それはそれは雅《みやび》な音だろう。憂いの春ではなく、悦びの春をもたらしてくれるだろう。
決して奏でられることはないから、幾らでもそんなふうに美しい想像はできるのだ。叶えられない恋情の相手だからこそ、殺されても愛しいように。
姉の珠枝は十五になるかならぬかで、女であることを金に替えてきたのだったが、堕落した女と面罵されることもなく、さりとて孝行娘と讃えられることもなく、ただ、
「ああいう女なんじゃ。ああいうふうに生まれついとるんじゃ」
と陰口を叩かれるのみだった。遺された妹である自分は今後、どういうふうに呼ばれるだろう。黒焦げ美人の妹か。生温かな春の黄昏《たそがれ》の中を歩きながら、晴子は意味なく指を折る。何を勘定しているのか。藤原が捕まる日までか。姉が成仏する日までか。大橋の家に着くまでか。
道ゆく女達は、流行の大きな柄の着物姿だ。晴子は頑なに地味な絣《かすり》のままだ。ただ、新しい草履はもう馴染んだ。誰かが、「春は春は」を歌っている。姉はあの歌を歌っていたか。藤原はあの歌を弾いていたか。
すっかり馴染んだ大正という時代。肌に纏《まと》いつく季節。自分はこれから愛しい男の元に行くのだ。晴子は大橋の家を目指しているのだった。あの嫌な、しかしどこか哀れみを誘う谷内と歩いた道を辿っているのではない。
「うちは、もしかして堕落した女、なんかなぁ」
山陽新報の記事の文章が、唐突に思い出される。大きな報道の隅っこに、ひっそり埋め草として載せられていた行楽の記事。
「幾日か前までは今を盛りと咲き誇っていた桜花も今は惜春の匂い哀れと散り染めて……か」
そのいささか新聞にしては浪漫すぎる文は、谷内が書いたのだという。谷内が、行楽の記事は自分が書いていると言ったのだ。わしは、筆誅を加えるだけじゃないんじゃで、と付け加えたのは、言い訳なのか自慢なのか。
あの顔でこんな文章を書いているというのは、藤原を「唾棄すべき音楽教師」だの「淫蕩な噂絶えず」などと激烈に書いているところを想像するより、見てはいけないものを見た時のような気分にさせられる。
何よりそれは小さかった。隣に、大きな見出しと写真が出たからだ。
【美人惨殺の兇行者遂に捕はる】
それは晴子が想像したもの、悪い夢に見たものとまったく同じ語句であった。谷内に頭の中を、夢を覗かれていたかと、それにも戦慄した。これもまた、谷内の手によるものだった。あんな「明星」じみた感傷的な文と同時に、このいささか口汚い文章も書いていたのだ。それは、藤原が姉を黒焦げにして殺したのにあんな華麗な楽曲を演奏できるというのとは、少し違っているだろう。
ともあれ、父と母は堅く戸口を閉めた。珠枝の旦那だった男に出させてもらい、今は休業状態の店も完全に閉ざした。無垢な春風も柔らかな陽射しも許さぬほどに、強く。山陽新報の、谷内ではない記者やら普段は付き合いのない親戚やら、野次馬となった近所の者達がどれほど戸口を叩こうと、開けなかった。
「うちら、ここで飢え死にしてもええじゃろ」
闇の中で、母は異様に強い口調で呻《うめ》いた。父は何も答えなかった。晴子は糸の緩んだ三味線を抱え、音を出さずにつま弾いた。
近隣の騒がしさがようよう治まってから、晴子はこっそりと抜け出したのだ。抜け出す前に一度だけ、形見となった三味線を軽く弾いた。楽曲にもならぬその音は、花曇りの空に虚しく響いた。いつでも不幸な二階の座敷には、どこからか花弁が舞い込んでいた。彼岸の方に咲くありがたい花ではない。そこらの路傍に咲く花だ。
「珠枝は……苦しんだんじゃろうな」
この母の繰り言は変わらなかった。詳細な記事の内容を、あえて家族は読まなかった。ただ、晴子は新聞に載った藤原の写真には見入った。洋装で正面を向いた、端正な肖像画めいた写真も載っていたが、見出しの横には例の扮装写真があったのだ。「兇漢の痴態」として。
ちゃんとした写真の藤原よりも、こちらの藤原の方が真面目な顔をしていた。珠枝は、姉は、こんなふざけた格好で写真を撮った藤原を知っていたのだろうか。不吉なヴァイオリンの幻聴は、もう聞こえなかった。本物かどうかわからない銀のフルートも、鳴り響きはしない。
泣きたいのか叫びたいのか逃げたいのか。晴子はひたすらに真っすぐ前を向き、大橋の家を目指した。前に来た時は冬の最中で、しかも大橋の義母の葬儀をしていた。大橋は喪主としてだけでなく、まだ珠枝殺しの嫌疑をもかけられていたのだ。今は春だ。焼かれた死者も刻まれた死者もいないのだ。
「大橋さん」
老朽はしているが、立派な構えの家だ。さすがにもう谷内をはじめ記者や刑事はいなかった。晴子は門の前から叫ぶ。
「大橋さん、大橋さん、居るんかな」
高い板塀の向こうには、どこかよそよそしい庭木や花壇がある。木戸を開けて、大橋はのっそりと出てきた。汚れてはいないが、疲れの色が濃かった。
「晴子ちゃんよ。新聞見たんか」
晴子は不意に自分が青空と繋がる錯覚を覚えた。無情に美しい蒼穹が、自分を引き上げようとしている。しかしそれは、貧血と称される症状であった。晴子はその場にしゃがみこんでいたのだ。もはや、音楽の幻どころではない。
……晴子はどこか滑稽なほど閑《のど》かで暖かい縁側に横たわり、お伽噺を聞かされていた。勧善懲悪の物語でもなければ、浪漫な夢物語でもない。
「堀田も藤原の後を追うて東京に一人で出たらしいが、あいつはまだ所在がわからんのじゃなあ」
閉じた瞼の裏に、冬の似合う美しい男の子が浮かぶ。だから、瞼は凍える。藤原を慕っていた中学生。少し特別な、教え子。
「藤原とは、別々に居ったんか……。なあ、晴子ちゃんよ」
「……そうなんじゃろうな」
血の気の失せたままの晴子の傍らで、大橋は山陽新報をがさがさと捲《めく》る。大橋の口から聞かされる藤原は、あの奇妙に艶《なまめ》かしい偽の天女となるだろう。
藤原はかつての教え子である女が、東京に嫁いだことを知っていた。その女を頼って上京したのだった。そうして伝《つて》で下宿先と家庭教師の職を得て、ひっそりと本郷に潜んでいた彼を岡山県警の刑事数名は捜し当てた。
藤原は遊び仲間の男に、珠枝から奪った貴金属の換金と質入を頼んでおり、その男が立ち寄った質屋から証拠の品を押収した。珠枝を囲っていた尾崎に貴金属を見せたところ、「間違いなく自分が買い与えたものである」との証言を得たのだ。
藤原は、かつての教え子である女と映画館から出てきたところを刑事に捕まった。藤原は真っ青になり、すぐには身動きができない様子だった。次に、卑怯にも女を置いて逃げようともしたが、あっさり捕まってしまった。
連れの女はただ顔面蒼白で一言も口をきけず、見ているだけであった。捕まった後の藤原は神妙に罪を認めているという。写真の藤原は、凶行者なのに美しかった。
……というのが、今朝の山陽新報に書かれていたことだという。晴子は直に谷内の書いた記事ではなく、大橋に読んでもらって知ったことで、僅かにでもこの物語に救いを求めようとした。
「それにしても、この写真はどうやって手に入れたんじゃろうなあ」
「藤原さん、恥ずかしかろうなあ」
晴子はのろのろと起き上がる。あの藤原が遂に捕まったということよりも、姉は帰ってこないという喪失感の方が青ざめて大きい。
「あの新聞記者も言うとったけど」
庭木は揺れる。今にも姉が後ろ姿のまま現れそうだ。きっと世にも美しい幽霊だろう。晴子は一人分隔てた隣にいる大橋を見上げた。
「藤原さんは何が不服で、こねえなことをしたんじゃろうか。さっぱりわからんのよ。金目当ていうても腑に落ちん」
「……あいつの本心はあいつにもわからんかったんじゃないんかな」
新聞には、かつての教え子や近隣の者達の談話と称するものが載っているらしいが、それは谷内によってかなり脚色されているようだ、と大橋は付け加えた。
「『なんかなよなよとして、渾名はオネエじゃった』と女学生は語りたるに……ええっと、『自分は岡山一の好男子であると言い触らしていた』と教え子の中学生は語りたる……か。かつて藤原と交際せし婦人は『贅沢が好きで金遣いが荒かった』と云う……」
語れば語るほどに、藤原は逃げていく。誰も藤原を語ることはできないのだと、晴子は美しい幻影だか恐ろしい亡霊だかの姉に囁く。
「藤原の親は一切黙して語らず、か」
晴天が続き過ぎると、かえって花は散るのが早まる。殊に岡山は晴天が多い。滅びの季節は春だ。姉は晴天の最中に逝ったのだ。晴れすぎた日々は花も人も虚しくさせる。
「もう、ええんか」
それは具合はどうかと尋ねるものだったのか、新聞の内容はもう聞かせなくていいかということだったのか。いずれにしても大橋は黙った。束の間、晴子は目を閉じる。何も終わりはしないのに。これから始まるというのに。嘲笑う春は猛々しく、人殺しの美貌ばかりを際立たせる。
堀田はどこにいるのか。逃げおおせたのか藤原を追って舞い戻るのか。東京も春のはずなのに、堀田は凍える季節にいるだろう。そうでなければならない。「共犯」として何をしたのかは、知らないけれど。
「なあ晴子ちゃん。行ってみんか」
「どこへ」
「珠枝ちゃんのとこじゃ」
「……うん、ええよ」
晴子は大橋とともに、姉の家があった辺りに花を手向けに行った。もう憚ることなくここへも来られるのだ。傍らの男にも、会っていいのだ。
晴子は確かに、彼岸にしか咲かない花の匂いを嗅いだ。すでに片付けられた焼け跡で、晴子は箪笥のあった場所を見る。赤いマント、繻子《しゆす》のリボン、セーラー衿の洋服、毛皮をつけたオーヴァー。すべてが消えてしまったのに、こんなにも覚えている。すべては尾崎に買わせたものなのに、それらを見てほしいのは藤原だった。
大事な貴金属をしまってあった、奥の座敷の箪笥。それは藤原に開けられたのだ。尾崎に米国で買ってもらったという、金の首飾りに読めない英文を刻んだ指輪、紅玉の腕輪。それらは物語も何もないただの貴金属として売られていった。羽根の扇にレエスの手袋は打ち捨てられても、そして冷えゆく死体も顧みられずとも、藤原は貴金属だけは大切に持ち出したのだ。
晴子は、泣いた。それらを身につけ洋装姿で撮った記念写真の姉は、あの日予感した通り、遺影となったからだ。「黒焦げ美人」。そんな呼び名とともに、新聞に連日載せられた姉は今、何を身につけている。
「退屈は好きだから」
堂々と姉に言い放ったあの男は、東京で捕縛された。その詳細な様子は新聞に出ていたが、晴子は少し違うと呟いた。あの男が真っ青になったり、逃げようと足掻いたりするものか。それなら少しは救われる。生きた者も死んだ者も。
「お姉ちゃん、成仏できるじゃろうか」
好きな男に殺された、のではない。なんとも思ってくれない男に殺されたのだ。それは藤原が永遠に捕まらないよりも無念であったろう。隣で手を合わせていた大橋は、こうして逆光の中で見れば確かな疲弊が見て取れた。
「できるで」
しかし、答える声はきっぱりとしていた。姉がついにこの男に惚れなかった理由が、その誠実な声にあった。姉はずっと騙して欲しかった。騙し続けて欲しかった。ならば夢は醒めないからだ。
「藤原が捕まったからじゃなしに、……好きな男に殺されたからじゃ」
「しゃあけど、藤原さんはお姉ちゃんを好いとらんかった」
「いんにゃ。ほんまは違うといわれても、珠枝さんにゃあ、それでええんじゃ」
「うん、ええんかもしれん」
「ほんまのことは、誰にもわからんのかもしれんで」
大橋はまったく事件とは関係がなかったと証明された今も、新聞にはただの一行も冤罪への言及はなかった。ただ一言の訂正も謝罪もなかった。今も大橋は周りから、事件に関わった悪党、藤原の一味と見られているのだ。ますます職に就きづらくなったといえる。庇ってくれた養母も、すでに亡いのだ。
「監獄は、寒かろうなぁ」
まるで藤原も哀れな被害者であるかのように、大橋は呟いた。晴子はそれを咎める気持ちにはなれない。自分もまた、同じことを口にしかけていたからだ。
岡山弁は決して喋らなくて、いつも洒落た洋装で、物腰も柔らかい、東京の音楽学校を出た男。粗末な監獄の中では、どうしているのか。やはり冷淡で優雅なのか。ヴァイオリンは持たせてもらえずとも、何かの音楽を奏でているのか。
不意に大橋は、しゃがみこんだ。そこは、大橋が姉の死ぬ前に餅つきをしていた場所ではなかったか。あの時の藤原の白っぽい笑顔が甦る。
「堀田は、もうこの世におらんかもしれん」
なぜこんな重大なことを、今頃になって言うか。晴子もしゃがみこむ。
「わからんけぇどな」
せめて藤原には、堀田は好きであってほしい。晴子は顔を覆って願った。あの誰も見てはいない目は恐ろしすぎる。
……藤原が東京から岡山に移送されてくるのは、今日の昼間の列車であると教えてくれたのは、山陽新報の谷内だった。晴子の家まで来たのだ。
「あんただけでも来られんか」
あの日と同じ草臥《くたび》れた着物の前をだらしなく崩して、谷内は框《かまち》に腰掛けていた。少しでも哀れんだり親しみを感じたりしたのが、消してしまいたい過去となっている。晴子は固い表情のまま、土間に立ち尽くしていた。
「きょうてえ。怖いけん、よう行きません」
「わしが連れていっちゃるで」
「いいえ。家で寝とります」
新聞社としては、「娘殺しの悪党を睨み付ける悲痛な面持ちの両親」だとか、「思わず泣き崩れる非業の黒焦げ美人の妹」だとかを記事にしたいのだ。そんなものに利用されたくない、というのではない。
父は、損害賠償を藤原の親に請求する算段に忙しく、母は寝込んでいたのだ。晴子もまた、「三味線の稽古があるから」と断った。しかし、一人でこっそりと岡山駅には向かうつもりだった。
姉を殺した悪党が、晒し者にされるのを見たい訳ではない。せめて罵声なり、投げ付けてやりたいのでもない。最後に本物の藤原の顔を瞼に焼き付けておかなければ、想像の中の藤原がどんどん凶々しい悪鬼になっていくからだ。
ふとした折りに耳元に鳴る、あの旋律も消してしまいたい。暗闇の中でこそ輝くあの男は、はたして白日の群衆の中ではどんなふうに見えるのか。
「絞めて殺して金品を奪うて、火を点《つ》けとるんじゃけえ。そりゃあ死刑は免れんじゃろうて」
したり顔に言った、あの新聞記者。晴子は死後も、姉は焦がれる男には会えないだろうと確信した。藤原が冥土で姉を探し求めてはくれない、というのではない。そもそも、最初からあの二人は死後に行く場所が違うのだから。
明治の頃は、ステーションという英語は岡山では「ステン所」と訛《なま》って発音された。大正になってもなお、岡山駅は岡山ステン所だ。英国はバルカン製造の頑丈な機関車は、どんな闇よりも黒い。
そんな岡山駅の停車場は、いつになく混雑していた。いったいどこから伝わるものか、皆「悪漢の藤原」を一目見ようと来ているのだった。照明は消してあるため、昼間の駅舎は暗い。だがプラットホームと呼ばれる通路は白々と砂埃と春とを舞わせている。鈍色《にびいろ》に光る線路は、すでに轟音を伝えてきていた。
「もうじきじゃろうが、下り列車は」
「おお、聞こえてきたで」
「藤原はあれに乗っとるんか」
「写真で見たら、ええ男じゃがのう」
十分ばかり遅れて、東京を出て夜を越えた列車は岡山駅に滑り込んできた。晴子は人混みの中、合わせた手を握り締めた。祈る格好なのか怯える格好なのかわからない。期待と後悔とに身震いした。汗で貼りつく後れ毛に、風邪の予感がある。
「お姉ちゃん……」
小さく呟く。死んだ者も生きた者も、聞き取ってはくれなかったようだ。晴子は最早、自分が恐怖に震えていることを認めなければならなかった。あの近付いてくる真っ黒な汽車の中に、姉を殺した男がいるのだから。
花曇りの空を物見高い岡山市民を、そして眠りにつけない死者を切り裂く轟音を立て、汽車はホームに到着した。黒煙は春霞の空を汚し、警笛はしかし凱歌の響きを持っていた。晴子は誰かに押されてよろめく。
「おったで」
「あれじゃ、あれじゃろう」
どよめきが起こった。人の波が揺れた。刑事らしい体格のいい男二人に挟まれるようにして、藤原が降りてきたからだ。新聞に出ていた顔写真で、すでに藤原の顔は知れ渡っていたから、皆すぐにそれと気づいたのだ。
晴子は憎しみよりも恐れよりも、懐かしさを覚えた。懐かしさは、何もかもが美しく物悲しいものではない。忘れたいものとて、時には懐かしいのだ。
無残に縄で後ろ手に縛られていても、藤原はどこか優雅だった。着ている服は皺も寄っていたが、惨めな感じはしなかった。
「いや、やっぱりええ男じゃのう」
「あれで人殺しとはのう」
「殺された女も惚れとったんじゃろうに」
そんな声があちらこちらからあがる。刑事の方が緊張しているようだ。藤原はさすがに俯いていたが、その顎の線はヴァイオリンを挟むに相応しい鋭角さと優美さを失ってはいなかった。指先もまた、白く繊細なままなのだろう。たとえ女を絞めた刻印が残っているとしても。
藤原が無残な惨めな姿でなかったことに、晴子は安堵していた。姉を殺した男だから、というよりも、姉を恋わせた男だからだ。凶行を為した男であっても、姉の恋した姿であってほしかった。おそらくそんな気持ちは、ここにいる誰一人として解ってはくれないだろうが。
谷内の姿も、大橋の姿も見つけることはできなかった。どこかに紛れているのかもしれないが、今は一人で、いや、これもまたどこかに紛れているに違いない姉と二人で藤原を迎えたい。ふと晴子は、堀田らしき少年を見たと思った。それはすぐに白く透き通り、花曇りの空に吸い込まれていった。
曇っているとはいえ春の昼間に、そのようなものが現れるだろうか。藤原も確かにそっちの方を向いたと見たのは、晴子の錯覚か。慣れたはずの鼻緒がまた痛み、晴子は立ち止まる。砂埃がまた派手に舞い上がった。
県警が用意した乗合自動車だ。藤原は、あっという間にその車輪ばかりが大きい車に乗せられた。警察署までは、追えない。追うのは新聞社だ。明日の朝刊には載るであろう。凶漢藤原は悪怯《わるび》れもせずに、不敵な笑みを浮かべ乍《なが》ら出てきたと。もしくは、すっかり打ち拉がれて刑事に引きずられながら護送列車から降ろされたと。谷内が執拗に美文で罵るに違いない。
「晴子ちゃん。晴子ちゃんじゃないんか」
初めて今日、生きた者に声をかけられたと思った。人混みを掻き分けながら、大橋が出てきたのだ。こざっぱりとした夏着物の大橋は、晴子を抱き留める格好で現れた。初めて晴子は泣いた。生温かな涙は、砂埃に汚れた頬を濡らした。
大橋に連れられ、晴子はカフェー・パリーに入った。姉と藤原が出会った場所だ。蓄音機からは「野なかの薔薇」が流れていた。これはいい曲なのだ。本当の旋律はこうなのだと、晴子は砂糖を入れても苦い珈琲に、再び涙を零《こぼ》した。
「堀田な、見つかった」
青く沈むテーブルに掛けた布に手を置き、大橋は告げた。晴子はもう、それを知っていたような気がしていた。きっと、こんな青い青い世界にいるのだ。そう、姉も旅立った、明治の色の淋しい青。
「自殺、しとったて」
大橋は誰に聞いたかは告げなかった。ただ、「さる筋からの圧力」により、堀田の死は新聞には出ないとだけ付け加えた。獄中で慟哭《どうこく》する藤原を想像することだけが、晴子にとっての救いだった。
「東京で?」
「そうじゃ」
「……苦しんだんじゃろか」
「……苦しんで欲しかったんか」
「なんで」
「珠枝さんの貴金属を売り払うたのも、藤原の逃亡を助けたんも、堀田じゃで。言うてみりゃあ共犯者じゃ」
「違う。共犯は、おらんよ。お姉ちゃんは、藤原さんだけに殺されたんじゃけん」
「そう、思いたいんじゃな」
春だというのに、冬の中にいた堀田しか思い出せぬ。凍える季節に逝ったのだと、晴子は信じた。できればあの美しい少年は、姉と同じく明治に逝ったということにしてやりたい。大正も美しいが明治はもっと無残に綺麗だったからだ。生き延びた藤原は不幸だ。自分達もまた。
「わし、あいつのヴァイオリンが聞こえる。それは幻なんじゃけどな。そうじゃ、嫌な嫌な幻じゃ……」
晴子にはもう、何も聞こえなかった。カフェーには蓄音機の陽気な音楽も流れていたはずなのに、それすら聞こえていなかった。死者の青い世界は、安らかな明治の死後は、きっと甘美な沈黙の世界なのだろうから。
──その後も藤原の過去の女関係や、教師時代の評判などを山陽新報は毎日のように書き立てていたが、それも次第に扱いは小さくなっていった。とはいえ、「黒焦げ美人」はすっかり忘れ去られた訳ではない。商店街を歩けば、「黒焦げ美人」の妹だの何だのと指差す者はいる。谷内はまるで晴子の知己であるかのような態度で、店先にやってくる。話した覚えのないことを、晴子が語ったとして新聞に書かれる。
「慣れんもんじゃなあ……」
そのたびに晴子は傷つき、目の前が赤くではなく青くなる。絶望の色は赤でもなく黒でもなく青だと知ったのだから。
春の花はすっかり消えて、夏の匂う雨が降るようになった頃、晴子は父にしばらく家を離れるように言われた。梅雨には遠いが、物憂い雨の降る午後だった。
「このままここに居ったんじゃあ、せっかく入れた女学校にも通えんじゃろうが。せっかく入れた、ええ学校じゃのに」
「下宿せえ、と言うんかな」
「そうじゃ。心配せんでええ。ここから遠ゆうはないし、そこの者は気心も知れとる。先に、もうお前のことを頼んでみたんじゃが、二つ返事で引き受けてくれたで」
その下宿先を明かされた時、晴子はこれも山陽新報に書かれるかもしれんなぁ、と苦く薄く笑った。父は自分の妾である、下駄屋の後家宅の二階に晴子を預けようというのだった。なるほど、これほど父の目の届く場所はないだろう。
開け放った襖《ふすま》を隔てた隣の部屋にいた母が、手にしていた繕いものを畳に投げた。その表情が死んだ姉にそっくりで、晴子は僅かに鳥肌を立てた。
「これ以上、笑い者や晒し者にされるんは嫌じゃ。なんでまた、あんな女の所に晴子を預けにゃならんの」
「あそこが、ええ。女学校にもうちにも近かろうが」
「阿呆。そねえな問題かな」
若い頃は男前と讃えられた父は、不機嫌な顔をした時だけその往時の容貌が甦る。下駄屋の後家もこの父の顔に惚れているのかと、晴子は窓から吹き込む湿った風に首筋をなぶらせる。姉のいない晩春は、奇妙に静かだ。
「いいや。もう決めた。第一ほれ、あの物《もの》の怪《け》みてえな新聞記者がしょっちゅう来て、うるそうて敵《かな》わん。それにあの気色の悪い男は、晴子に何ぞよからぬ想いを持っとるぞ」
晴子は思わず振り返る。父はいらいらと、胡坐《あぐら》を組んだ足を揺らせていた。お父ちゃんは谷内をちゃんと見とったんなぁ。晴子は、父ではなく父の中の男に問い掛ける。谷内のあの自分を見つめる眼差しは、おぞましいのか哀れなのかわからなかった。しかし、父にはこれは聞けない。
「決めたで。晴子、明日にでも行けや。そいで女学校に戻れ。きりきり勉学に打ち込んでじゃな、世間の皆を見返しちゃれ。お前はもう、ええとこに嫁に行くとかも考えんでええ。立派な女教師とかになれや」
唐突に母が、声を張り上げて泣きだした。投げ出した繕い物に顔を伏せ、身を捩《よじ》った。
「ご立派なことを言うても、おえんわ。自分の妾に我が子を頼むて、それこそ世間の笑い物じゃろうが」
「お母ちゃん……ごめん」
晴子は母ににじり寄り、肩を抱いた。痩せた肩は息苦しく震えていた。しかし晴子はどこか、その母を突き放して見ている。
「うち、女学校に戻って落ち着いて勉強したいんじゃ。それに……、そこの人を、お父ちゃんの妾とかは思わん。ただの、下宿先の人と思うけん」
父も母も返事をしなかったが、晴子は口にしたことで淋しさの青をより鮮明に凝視できた。自分は何よりも、この陰鬱な部屋から出たかったのだと。
──下駄屋の妾こと宮岡ミサは、色白で肥り肉《じし》の年増であった。西洋女のように大きな目鼻立ちは、果たして美人なのか醜女なのか、にわかに判断がつきにくい。キネマの女優のようじゃと誉める者と、獅子舞の面そっくりじゃがなと誹《そし》る者とがいた。本人は自分を別嬪と信じているようで、立ち居振る舞いのあらゆるものが大仰だ。自分は別嬪と信じ込むことで周りを巻き込み、「ミサさんは別嬪じゃ」と言わせてしまう、といった強さを持っていた。父もその一人なのだろう。
「ほおん、お父ちゃんに似てなかなかの別嬪さんじゃ」
ミサは不躾《ぶしつけ》であり、口も悪かったが、そう悪い人柄ではないというのは晴子にもわかった。すぐに好きになれる類の女ではないが、気は楽だ。掃除が嫌いで面倒な近所付き合いをしたがらない、客との噂話が大好きで人の好き嫌いが激しい、そんな何かにつけてきつい気性ではあったし、
「晴子ちゃん。あんたお年頃じゃのに、白粉《おしろい》の一つも持っとらんのかな」
晴子が女学校に行っている間、勝手に部屋に入って荷物を見たりするといった図々しさもあったが、ただ一つ決して口にしない話があった。
母の話と、姉の話だ。これは父から言い渡されているというわけではないようだ。父に言われたくらいで従う女とは思えない。恐らく、本人が自制しているのだ。好きな男はいるのかだの、父は他に女はいないかだの、そういった話題はどんどん出してくるが、ただの一度も死んだ姉の話題は出してこない。
晴子は、奇妙な安らぎを得られた。何よりこの家は、新聞を取ってないのだ。
「うちは字を読めんけんな。なあんも、新聞に書かれとるようなことは知らんのんよ」
ミサは大声でよく笑い、あけっぴろげに人の悪口を言い触らし、下駄屋の商売は丼勘定で、掃除をほとんどせず、晴子に炊事もさせる。晴子はたびたびうんざりさせられたが、それでもたまにミサと二人で銭湯への道を歩いている時など、
「ミサさんとおったら、賑やかで華やかでええなぁ」
ミサが喜ぶようなことを言ってやりたくなる。ミサは別嬪と誉められるのも好きだが、賑やかだの楽しいだの面白いだのと誉められるのを何より喜ぶ。実際、知り合いの大半がそう言う。しかし晴子はミサと歩いている時、不思議な風をいつも受けている。それは本や人の話でしか聞いたことのない、砂漠とやらを吹く風だ。
「そうじゃろそうじゃろ、うちはいつも賑やかじゃけん。あんたのお父ちゃんは、お前とおると疲れるて、うんざりしとるけどな」
荒涼とした砂の世界を吹き渡る風は、ひどく乾いてざらつくのだという。決して湿った狭い日本には吹かない風。晴子は砂漠など見たこともないのに、ましてやそこの風に吹かれたことなど一度もないのに、ミサといると乾き切った砂漠の風を知るのだ。ミサのけたたましい笑い声は、本物の砂漠の風にそっくりなはずだ。
父は一階のミサの元を訪れるだけで、滅多に二階の晴子の部屋に上がってきたりはしない。ましてや、母が来るはずもない。こうして乾いた風を受けながら、晴子は日常を取り戻していった。大橋には会えないが、きりきりと苦しいものではない。大橋はあの家に行きさえすれば迎えてくれると信じているからだ。大橋を思えば、乾いた風ではなく湿った優しい風を感じる。もうどこにもない春の花の匂う風だ。
──ようやく復学できた女学校でも、面とむかって晴子に姉の話をする者はいなかった。この女学校は岡山では割合に富裕な階層の出の女学生ばかりだから、そのような真似ははしたない、ということになっているのだろう。無論、陰口や隠れた噂話なら、晴子の耳にも嫌でも届く。
その話を教えてくれたのは、特に仲がいいとも悪いともいえない小柄な女学生だった。帰り支度をしていた晴子に近付いてくると、
「晴子さんのお姉さんの事件な……あれ、お芝居になるんじゃてな」
探るような目付きで囁いたのだ。西陽の射す暗い教室で、晴子は束の間恐ろしいものを見た、と目眩《めまい》を起こしかけた。
「お芝居……て」
「山陽新報にも、大きゅう告知が出とったじゃろうが」
「うちは今、全然新聞を見られんのじゃ」
「千歳座じゃ。あそこで明日からやるんじゃて。『黒焦げ美人』を」
晴子は読本を包んだ風呂敷包みを胸に抱いて、顔をあげた。その小柄な女学生も、何人か残っていた他の女学生達も皆、逆光の中で奇怪な泥人形に見えた。晴子は小さく喘ぎ、
「知らんかった……」
とだけ答えた。忘れかけていた「野なかの薔薇」が、どこか音階を外して鳴り響いた。それがようやく消えた時、陽の落ち切った暗い教室には晴子だけが取り残されていた。
自分の周りにも風が吹いている、と晴子は帰り道を歩きながら身震いした。湿った晩春の風ではない。見知らぬ砂漠の風だ。晴子はその風の向こうに、千歳座なる劇場があるのも知っている。姉も生前、よく観にいっていたはずだ。姉の贔屓にしていた役者は何といったか。確か、あの男にどこか似た冷淡な美貌の役者ではなかったか。
「なあ、あんた。砂川晴子さんよ」
風は止んだ。風ではなく砂漠そのものの男が立ちふさがったからだ。山陽新報の谷内だった。宵闇の中、正しく谷内は不出来な泥人形の姿をしていた。
「あの家に居らんのんか。いつ訪ねて行っても居らんて言われるで。どこに住んどるんじゃ」
「……それは、内緒ですらあ」
自分の声までが乾いている。谷内はやはり、機嫌がいいのか悪いのかわからぬ顔を歪めて、懐から何かを取り出した。紙切れだ。きっと不吉なはずの。
「うちの新聞社も協力しとるんじゃで。割引券じゃ。明日から始まる」
谷内の太い不恰好な指に挟まれたその紙切れには、黒々とした文字で『黒焦美人殺劇』とあった。晴子は無言のまま、それを受け取る。
「観に行こうや」
「行きたく、ありません」
道端の燈火は市内の目抜き通りでも暗い。暗い橙色はすべての人を影にする。傍らを通り過ぎていく馬車や荷車は、黄泉《よみ》の国の使者が引く音を立てる。
「まあ、そう言わんと。行ってみいや。あんたが吃驚《びつくり》する内容じゃで。そうじゃ、必ずあんたが仰天する仕掛けがあるで」
悪い死者を連れていくのは牛頭《ごず》か馬頭《めず》か。早くこの男を連れて行って欲しい。谷内はそのずんぐりした背を向けた。地獄の火の車に乗るのでも、岡山の言い伝えにあるやはり死者を乗せる、片輪の車に乗せられるのでもない。谷内は谷内の住処に帰っていくのだ。
──翌日、晴子は無断で女学校を休んだ。もう休み癖がついているのだろう、さして心は咎めない。なるたけ目立たぬ地味な着物を着て、こっそりと千歳座に向かった。いつも家を出る時はミサに挨拶していくが、それもしなかった。こっそりと裏口から抜け出したのだ。懐には、しっかりと割引券を入れて。
「本日、初日でございます。岡山未曾有の大事件、かの『黒焦げ美人殺人事件』、ここに堂々たる演劇の華となり……」
岡山では派手な建物である劇場は、今日もなかなかの賑わいを見せていた。安堵の人混みであり、憂鬱な人混みであった。これだけの人がいれば谷内から身を隠せるだろう。しかし、これだけの人が姉の死を戯画化したものを見るのだ。晴子は俯いたまま、入り口の前に座っている痩せた女に割引券と金を出す。
女はそれと引き替えに無表情なまま、粗末なざら紙をくれた。出し物の内容や役者の名前が書いてあるものだ。晴子は見ずに懐に突っ込んだ。恐ろしくて正視できない。なのに芝居は見ずにはいられないのだ。
「おいおい、結構な人出じゃのう」
「そりゃあ、あんだけ毎日、新聞に出りゃあなあ」
ここも、暗い。建物の中はどこも暗い。ことに嫌な出し物をやる劇場の中などは。晴子はそれでも、中程に席を得た。ただ花莚《はなむしろ》が敷いてあるだけの席だが、そこを居場所と決めて座り込めば、何がしかほっとした気持ちと疲労とを覚えてまた俯く。
重苦しい緞帳《どんちよう》の向こうには、偽者の姉や偽者の藤原がいるのだ。もしかしたら偽の大橋や偽の自分もいるかもしれないのだ。
……晴子は、さすがに姉が殺される場面はずっと目を閉じていた。それでも芝居はすべての流れも見せ場も落とし所もわかった。実に通俗的な、単純な物語だったからだ。要するに奔放な美人の愛人が浮気を繰り返すので憤激して殺してしまい、ついでに金品まで奪ったという話だ。珠枝の役をやった女優も、藤原の役をやった俳優も、大仰なばかりの芝居で単純なばかりの物語を展開してみせた。
姉が後ろ姿の美しい女であったことも、藤原が典雅に冷淡な音色を出せる男であったことも、この芝居は描いていなかった。ただただ姉は淫乱で、ただただ藤原は軽薄なのだった。堀田は最初から存在しない者とされていた。そうして偽の大橋は単なる粗忽者で、偽の自分は何者でもない脇役であった。
晴子は最後まで観る気になれず、途中で抜け出した。舞台の上では、これは創作なのであろう、藤原の父と母が身悶えしながら息子の罪を悔いて泣き叫んでいた。単純で善良で無神経な観客は、啜《すす》り泣く声すら洩らしていた。
ハイカラな建物とはいえ、通路は便所の臭いが漂う。外に出て初めて晴子は、顔をあげられた。そうして初めて、懐から湿ってしまった粗末な紙を取り出した。芝居の中では、姉はクマエと名前を変えられていた。藤原は正司ではなく正次となっていた。自分はただの「妹」であったかと、ふとそれを確かめたくなったのだが。
「……嘘じゃろ」
千歳座の壁にもたれて、晴子はほとんど笑い声をあげていた。役者の名前の後に、脚本を書いた人間や衣装、照明といった裏方の名前も記されているのだが、その中に異様にくっきりと、知った名前があったのだ。
「……『特別協力、大橋秀智』。なんなんよ、これは」
その後の行動は、自分でも呆気に取られるものだった。もしかしたらあんな陳腐な泥臭い芝居でも、影響されていたのだろうか。晴子は別の晴子を演じる気持ちになっていたのかもしれない。そうでなければまだ上演中の劇場に引き返し、
「谷内さんよ、山陽新報の谷内さんよ」
仁王立ちになって怒鳴れるはずがなかった。観客はざわつき、芝居はほんの僅かであったが流れが止まった。
「居るんじゃろうが。ちょっと出て来られえ」
怒鳴り続ける晴子を強い力で戸口の外に引っ張ったのは、
「止めんか」
間違いなく笑っているのだとわかる、谷内であった。背後にいた、受付の痩せた女がこれもまた怒りを顕《あらわ》にした形相で、出ていってくれというような言葉を怒鳴った。谷内が振り返り、その女に謝った。それから、晴子に向き直る。
「ちゃんと、説明しちゃるけん」
自分が谷内を引きずり出したのか、谷内に引きずり出されたのか。ようよう興奮が治まった晴子は、谷内と劇場横の道端で向かい合っていた。
「大橋は知っての通り、仕事をしとらん」
谷内はあの忌まわしい紙を、ひらひらと振ってみせた。揺らすのは湿った風か乾いた風か。相変わらず汚れた足袋の先は、真っすぐに晴子を指している。
「せっかく東京のええ学校まで出たのになあ。無論、大橋はそれを引け目に思うとったんじゃで。今更、百姓もできんし丁稚《でつち》から始めるのもしんどい、とな」
晴子は突っ立ったまま、忌まわしい紙を握り締めている。谷内は構わず、続けた。
「元から、物書きになりたいというような希望があるということじゃったけん、わしは半ば冗談で、ほんなら芝居に関わってみんかと千歳座を紹介したんじゃ。芝居の書き手としてだけじゃなしに、今回はもっと重要な役回りもできるんじゃしな、と」
「……それで大橋さんは引き受けたんじゃな」
ようやく晴子は、低く呟いた。裏切られたとか騙されたとか、そんな気持ちにはまだなれない。驚きの方が、不可解さの方が大きいのだ。
「これを機に、芝居だけじゃなしに書き手になりてえ、そねえなことを言いよった」
「あの人に、そねえな才はないで」
晴子自身をも切りつけるほど、強い口調で言い返していた。
「そうじゃ。あんたも観たろう。つまらんつまらん芝居じゃった。面白うも何もない、田舎芝居じゃがん」
「……まあな」
自分こそ、田舎芝居の役者のようだ。と、そんなことをちらりと思うほどの余裕はあった。が、晴子は丸めた紙を谷内の顔に投げ付けると背を向け、駆け出していた。こんなに怒りに頭が燃えていても、実家の方にではなく下駄屋の方に自然と足は向かっていた。後ろで谷内が何か叫んだ気もしたが、一度も振り返らずに駆けた。
「まあまあ、どしたん晴子ちゃん、もう学校は終わったんかな」
のっそりと店先の框から立ち上がったミサは、ただならぬ様子の晴子に大仰に手を広げた。しかしこのような時にミサの店は、なんと具合のいい帰り場所であることか。新しい下駄の匂いはいいものだと、今更ながらに晴子は大きく息を吸う。
「なあ、ミサさんよ。監獄におる者に、手紙を書いたら届くんじゃろうか」
何事につけても大袈裟なミサなのに、この時だけは神妙に腕を組んだだけだった。静かに座り直して、どこか独り言のように答えた。
「……多分な。そういう伝《つて》も、あるよ。頼んだげようか」
その場にしゃがみこみ、初めて晴子は声をあげて泣いた。ミサは手を差し伸べることもしない代わりに、訳を尋ねることもしないでいてくれた。ミサは何時《いつ》の間にか、団扇《うちわ》で晴子を扇いでくれていた。憂鬱な湿った風でもなく、遠い砂漠の乾き切った風でもない、ゆるゆると遣る瀬ない静かな風だった。
──その夜のうちに、晴子は手紙を書いた。おそらくは最初で最後になるはずの、藤原への手紙だ。簡潔に、ただ簡潔に書いた。罵倒も恨みも嘆きも一切書かず、
「あんなつまらない芝居にされる事件と、あなただったのでしょうか」
ただ、それだけを。明治が逝った日、晴子は帳面に「大正」と書いた。その時ほどに厳粛な、そして切ない気持ちで綴《つづ》った。
翌朝、晴子は手紙をミサに託した。ミサの数多い知り合いの男のうちの誰かが、岡山監獄の藤原にまで届くようにしてくれるのだろう。ミサは黙って受け取った。
「もう、学校は無断で休んじゃあ、いけんよ」
とだけ言った。晴子は往来に出た刹那、すでに晩春とも呼べぬ季節に包まれた。明治の命と引き替えに来た、初めての大正の夏ではない。懐かしい青空の広がる、美貌の夏だ。
「なあ、晴子。晴子」
忘れたはずの悲しい小鳥の鳴き声を思い出させる、母の声だった。着替えを取りに実家に戻った晴子は、庭先で塵焼きをしていた母に呼び止められ、どこかが痛む初夏と何かが傷つく六月の中に、棒立ちとなる。
「今朝のこれに、藤原からの手紙が載っとるんじゃて。大橋さんに宛てたもんじゃと。ちょっと読んでみてくれんか」
滴る緑陰にも闇を見つめ、瑞々しい光の面にも罪を探る季節の初めに、その「兇漢藤原正司が獄中より親友に出せし手紙」は山陽新報に載ったのだ。晴子は最早、それこそ悲しい小鳥のように一々怯えて鳴いたりはしなくなっていた。
「ええよ」
凶々しくあるはずの新聞を、無造作に受け取ってしまう。晴子は『黒焦美人殺劇』を観てしまった時から、自分の中でも何かが焼き尽くされた。おそらくは、大橋という名前を持つ存在がだ。
「うちの中でじゃなしに、ここで読んでしまうんじゃな、お母ちゃん」
「そうじゃ。ここで読んでしまうんじゃ」
棒の先で燻《くすぶ》る火の中を癇性に突きながら、母は小さく強く頷く。燻る焚火《たきび》は、どこかで嗅いだ嫌な匂いを立てていた。その前で新聞を覗き込む母は、すぐに火に突っ込めるように身構えてもいるのだった。
晴子はざっと紙面に目を落とし、苦い笑みを浮かべた。大仰な見出しと、黒焦げ美人という呼称の繰り返しと。おそらくこれも、あの谷内が大いに脚色を加えているものと思える。大橋に藤原が手紙を出していたという衝撃や、大橋がさらにそれを山陽新報に売るような真似をしたという事実に打ちのめされるのは、まだ早かった。
「藤原、大いに慟哭す……。ほんまに新聞記者というもんは、見てもないもんを見てきたように書くんじゃなあ」
愛想も何もない、ただの活版の文字なのに、晴子には藤原の持つ筆の運びや大橋が朗読する声までが見えたし、聞こえた。谷内が陰気にあの猪首《いくび》をさらに屈め、暗い場所で私信を面白おかしい読物に書き直している様もだ。
いつから自分はこんな、不幸を目眩《めくるめ》くものとする習慣が身についたのか。どんな時から自分は、悪いことを待ち焦がれるとまではいかないが、来て当たり前のものと受け入れるようになったのか──。
……大橋秀智様。私はこれほどまでに大切な友人である貴兄を辱め、迷惑をかけてしまったこと、慚愧《ざんき》に耐えません。貴兄だけではなく、他にも謝らなければならぬ友人は多々います。しかしやはり、最も深謝しなければならぬ相手は貴兄、大橋君でしょう。どうかこんな手紙を貴方に宛てて書くことを、まずは許して下さい。
なんといっても大橋君は、珠枝さんの件では最初に怪しき者と目され、新聞に名前まで出されてしまったのですから。
その時は、無論激しく狼狽はしました。申し訳なさで一杯にもなりました。けれど私はどこかで、安堵の吐息も漏らしていたのです。死にゆくこの身ですから、何もかも正直に打ち明けましょう。
このまま犯人は大橋君ということになればどんなに良いか。私はそう祈ったのでした。なんと恐ろしい男だと、改めて戦慄されたことでしょう。実際に私は、恐ろしい男なのではありますが。
私は初めて珠枝さんに会った時、まるで見た目も性質も生まれ育ちも違うのに、貴兄と同じ匂いを嗅ぎとっておりました。貴兄は、そこには堀田も入れるべきではないのかと問い掛けてきそうですね。しかし、堀田君は少し違うのです。
大橋君と珠枝さんは、乾いた悲しみと無邪気な高慢さが可愛らしくてならない人々でありました。そのような人々は私にとって、崇める愛らしい神であり弄ぶ下僕となる他ないではありませんか。
堀田君は、そこのところが違いました。堀田君との関係は、私自身が崇められる愛らしい神であり、弄ばれる下僕だったのです。可哀相な堀田君。きっと今は珠枝さんとは違う場所で、私を待ってくれていることでしょう。
こんな罪深い私は、死後も堀田君には会えぬのに。といって珠枝さんのいる場所も遠い。私は葬られた明治と同じ、美しく澄んだ青い場所へは辿り着けぬのです。しかし、堀田君について語るのは別の場所と機会を得てからに致します。こんな私とて、まだ死への猶予はあるのですから。
さて。貴兄は覚えておられますか。私とほぼ同じ時期に東京の大学を卒業した貴兄ですが、私が何の苦労もなく地元で教職に就くことができ、そこそこの評判や評価を得ていた頃、貴方は悉く就職に失敗し、家に籠もっていましたね。
貴方は決して認めなかったけれど、あの頃の貴方は本当に物欲しそうでした。欲しくて欲しくてたまらない目をしていました。色々な物をです。なのに貴方は、自分は欲が無く呑気だからこんな状況なのだと、周囲や自分を爽やかに騙していた。騙されるのは自身と可愛らしい女学生くらいだったというのに。
それでもあの時の私は本心から貴方を心配し、なんとか就職先を世話してあげたいと考えておりました。私は貴兄にとっても、崇められる愛らしい神や弄ばれる下僕になりたかったからです。そんなふうでないと、私は他人と対等な関係を築けないのですよ。
ともあれ、ちょうどその頃私も勤めていた閑谷《しずたに》中学で欠員が出たので、藤原先生の知り合いに適当な者はいないかと校長等に訊ねられた時、すぐに大橋君の名前を挙げて薦めました。なかなか認められてはいないが、文才もある御仁だと。
私はその足で君の蟄居《ちつきよ》している家に行きましたね。君は感謝すると同時に、はっきりと屈辱の顔をしました。その顔は私の大好物といっていい顔でした。珠枝さんもまた、いつでも私の望む通りにそんな顔をすることになるのです。
「藤原はいつも、わしのことを考えてくれとるんじゃな」
「そうだよ。閑谷中学はいい学校だよ。君と一緒に教壇に立てたら嬉しいな。何か不満や困ったことがあれば僕に相談してくるといい。僕は校長にも気に入られているからね、少々君に不備や不様なことがあったとしても、取り成してやれるよ」
「何から何まで藤原の世話になる訳か」
「ああ。世話をしてあげるよ。というより、君は世話の焼ける友達だからな」
嬉しさよりも悔しさを露呈させる貴方を見ていると、私は嬲らずにはいられなくなったではありませんか。
これは珠枝さんに対してもでしたね。しばしば当の珠枝さんの代わりに妹さんが顔色を変えていました。けれどあのお嬢さんは、私もお手上げです。あんな賢しさは愛の対象にも憎しみの対象にもなりません。
話が逸れました。ともあれ貴方は、私に弄ばれやすい親友であったということです。私は微笑みつつ言ったはずです。きっとその時の笑顔は、諧謔写真に撮った似非《えせ》の天女と同じだったはずです。あれを撮る時の私は、珠枝さんでも初恋の女でもなく堀田君でもなく、貴方を思い描いていたのですから。
「大橋君は僕の犬みたいだね」
愛する者を嬲るのは、好きな人を虐《いじ》めるのは、私が真摯に生きている証です。即座に顔色を変えた貴兄に、私は猫が瀕死の鼠を弄ぶが如く爪を立てました。
「ねえ、大橋君。まるで僕が誰か親しい人に、『藤原君の家には面白い犬がいるんですってね。藤原君を招待する時は、ちょっとその犬も連れてきて庭で芸でもさせてくれませんか』と、頼まれている。ちょうどそんな感じがしないかい」
その時、貴兄は苦笑しましたね。確かに犬の顔ではなく、ちゃんと人間の顔で。だから私は追い打ちをかけたのです。
「大橋君が何故、僕の犬であって下男ではないかというとだね、下男は人間だから主人に対して色々な感情を抱くだろう。でも、犬は犬として充足しているじゃないか。だから大橋君よ、君は僕の下男ではなく犬だ」
その時の貴兄の顔は忘れられません。あまりの悪意に、笑うしかなかったようですね。僕は始終、珠枝さんにもこれをやっていました。珠枝さんが貴方と違ったのは、本当に犬になろうとしたことでしょう。
「そうか、犬か」
私の喉笛を噛み切るような犬でもなく、足元に転がってすぐに腹を見せる犬でもなく。懐いているふりをしながら尻尾は振っていないという中途半端な犬だった貴兄は、しかし閑谷中学の教職を断ってきましたね。
私は随分前から知っておりました。貴方が私を憎んでいることをです。しかし残念ながら、私は出会った時から貴方を憎んだりはしていませんでした。
今もそうです。憎むに値しないなどというのは、軽蔑の意味だけではありません。私は誰のことも憎んだりはしないのです。憎むのは自身だけで精一杯なのですから。愛することは容易《たやす》いことです。犬と思えばいいだけのことなのですから。
善良なる犬の貴方に、まさに囚われの犬と成り果てた私から最後の、そして二つのお願いをすることを許して下さい。一つは私が晦日《みそか》の前日に渡した楽譜。あれは固く封印し、誰にも見せないで欲しいということです。
あの楽曲は私の最後の煌めきであり最後の幸福であります。珠枝さんと堀田君には聞かせたけれど、二人の亡き後はあの曲を知る者は貴方ただ一人。貴方ただ一人にしておいて欲しいのです。
あれは悪巧みをしながら作ったのでもなければ、清らかな天空に思いを馳せつつ拵《こしら》えたのでもありません。貴方は覚えていますか。諧謔写真の如何《いかが》わしい天女を。あの時に私は作ったのです。張りぼての月に乗り、吹けない銀の笛を抱き、作り物の空に浮かびながら私は口ずさんだのです。
未完成のままに弾くことが良い、あの楽曲。今の私には弾く術がありません。獄中ではヴァイオリンは持てぬのです。しかし高い場所にある窓を見上げれば、私はそこに偽の天女を見るのです。
張りぼての三日月は輝き、涯も底も何もない闇は、私がこれから行く世界への入り口そのままです。その彼方から、聞こえてくるのです。私が作ったはずなのに私を感動させ戦慄させる楽曲が。
もう一つの願いとは、貴兄に是非とも公判に来ていただきたいということです。父よりも母よりも貴方に来てほしいのです。私は裁きの場で、懺悔をいたしましょう。ここにも書けなかった秘密を、皆の前で吐露いたします。
貴方は嘲笑って下さればよろしい。如何にも同情するような振りをしつつ、悦びに打ち震えて下さればいい。それは貴方にとって得意なことでしょう。私にとって、それこそが救いとなるのだから、貴方の優しい邪《よこしま》さは大歓迎です。
それにしても。珠枝さんは死して後も可憐に太々しい。珠枝さんご本人は現れませんけれど、時々この獄舎の片隅の闇に、可愛らしく耳だけが浮かんでいる時があります。焼け残った白い柔らかな耳だけが。
哀れで強欲で可愛らしい珠枝さん。聞きたいのですね。私のヴァイオリンを、不吉な楽曲を。しかし聞かせてはやらない。そんな未練がましい耳に、愛の言葉は囁いてやらないのです──。
「……お母ちゃん。聞いとった? ぼうっとしてからに」
「聞いとったわ。早い話が藤原は反省しとらんし、大橋は白々しゅうにええ人を装うとるというんじゃろ」
「お母ちゃんの言う通りじゃわ」
大分、谷内の脚色は入っているのだろうが、実に藤原らしい手紙で大橋らしいやり取りだと、遣る瀬ない気持ちになる。新聞を持ったまま、夏を小さく焦がす炎を見つめれば、嫌な臭いに嫌な季節を思い出す。
父の妾が身につけていた何かが燃えている。脂粉の濃い残り香に炙《あぶ》られて、晴子は母を振り返った。涸れてしまったのではないが、もう涙は流さない母は、片頬に疲れた笑みを浮かべた。ゆるゆると細い煙は、正しく死者のいる西方へと流れている。そちらを透かしてみても、姉の可憐な耳などない。
「どこからどこまでが、ほんまのことなんじゃ」
母はぽつりと、それだけ呟いた。下駄の爪先で燃え滓を踏み躙《にじ》る。だが、新聞を寄越せとは言わない。だから晴子は、続きを読んだ。
「大橋さんは、立派な人じゃと書かれとるわ。最初は犯人の扱いをしとった癖になぁ。山陽新報もええ加減なもんじゃ」
「他人は皆、ええ加減なもんじゃ」
「そうじゃなあ。ほんまにお母ちゃん、大橋さんも大橋さんじゃ。犯人扱いされとったのに、今じゃあ立派な人として新聞に出とるんじゃけ」
山陽新報によると、藤原のことが怪しき音楽教師、と新聞に出た時からひどく心を痛めていた大橋だが、実は藤原は怪しいと当初より思っていたという。何故なら金に困っていた藤原は、大橋宅をも襲撃しようと画策していた気配があったからだとか。晴子はそれが事実かどうかより、こんなことを喋る大橋に嫌な焦げ臭さを嗅ぐ。
しかし寛大な大橋はそれでも藤原を信じ、問い詰めたりはしなかった、とも綴られていた。大橋は今も友の悔悛を信じ、獄中に食物等を差し入れてやっている、というのが結びだ。嘘であろうと本当であろうと、晴子は軽い目眩を堪えた。
大橋はきっと、苛虐の笑みを浮かべたり、ずっと抱き続けてきた憎しみと嫉妬の相手に高処に立って同情したりはしていない。大橋は真摯に友の境遇を哀れみ、誠実に差し入れをしてやっているのだ。ある意味、藤原よりも空疎な心で。
「藤原は許せんけど」
そう言うなり、母は晴子の手から新聞をひったくった。そのまま焚火の中に投げ込む。
「大橋はやっぱり好かん」
新聞はたちまち燃え上がり、黒い滓となった。ここで新聞を一部焼いたとて、何もかもが焼き尽くされはしない。燃えることより、燃え残ったものが無残で恐ろしい。永遠に残る黒焦げの残骸など、地獄にもなかろうに。
すぐにまた小さくなった炎を眺めながら、晴子は考える。自分が藤原に送った手紙はどうなっているのだろう。夏なのに凍える獄中ではなく、あの白々しい作り物の月に腰掛けて、奇怪なとも妖艶なともいえる天女の扮装で読んでくれているのか。
大橋は嘘などついていないとも思う。彼は愚鈍に良い人で、あんな『黒焦美人殺劇』の芝居に協力していたことも、谷内に無邪気に良い人と書かせ書かれたことも、彼にとっては少しも恥ずべきことではないのだ。だが、もう昔のようには慕えない。
「うちも……好かん」
その晴子の呟きは、西方に手を合わす母には届かなかったようだ。
それからおよそ一ヵ月も過ぎただろうか。大橋とも谷内とも会わぬままに、晴子は三味線の稽古にも再び通い始めていた。その稽古から帰ってみると、獄中の藤原から手紙が届いていたのだ。その不思議に分厚い封書はひっそりと、晴子の机の上に置かれていた。
震える手で、開けて読む。藤原そっくりの端麗で淋しい文字は、
「珠枝さんを殺したのは間違いなく私ですが、珠枝さんにさして深い怨恨はなく、殺した意味もありません。そこにこそ、深い怨恨や意味は生まれるのでしょう」
儀礼的に悔恨の情も綴ってはあったけれど、その後に続くなんとも奇怪な「物語」に晴子は、自分も死刑が近い囚われ人であるかのような幻惑を覚えた。
藤原は、大橋への悪口など一言も書いてはいなかった。なのに、大橋を激しく糾弾し、大橋を鮮やかに嘲笑っていた。藤原は自分自身の手で、『黒焦美人殺劇』の脚本を書いていたのだ──。
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好男子にして性行不品行なり
……冷えた嘆きの独房にも眩《まばゆ》い木漏れ日は射し、哀れな獄死者を隠す鉄格子の彼方でさえ万緑の瑞々しさは覆いきれず、無気味な影法師が湿気た不潔な廊下に伸びていても、初夏は美しいものとして私の手元にあります。
これほどの大罪を犯した私にも、大正の二度目の夏は荒々しいほどに燃えております。されど陰鬱な片陰に罪のこの身を潜め、私は炎天の下での密やかな刑死と引き替えの手紙をあなたに書いている。
すでにこの夏は思い出の夏です。生きながら私はすでに前世となった藤原正司という男とその一生を懐かしみ、静かにほくそ笑んでさえいる。淫らな夏は永久の夏で、可憐な夏はいつでも短命です。どうぞあなたは凍える季節に、燦々《さんさん》と照っていた暗い陽とともに、死んだ私を思い出して下さい。
このような書き出しで始めたからには、私はまずはあなたのお姉さんを殺した情景や理由や言い訳等を、書かねばならぬのでしょう。微細に、しかしどこか芝居がかった夢の情景さえも書き足して。なのに私は、私が生まれた家の、納戸の話から始めねばならぬのです。暗い、あの納戸の物語を。
それほど規模は大きくないまでも、祖父に譲られた貿易の商会を営む、掃き清められた庭に射す陽の如く明朗に清廉な父と、床の間に飾られる切り花の如く端麗でひ弱な母と。私はそんな二人の間に長男として生まれ、一人っ子として育ちました。喩《たと》えていえば、満開の春の花が描かれた襖に閉ざされた、離れの座敷ほど淫靡に清澄に、といったところでしょうか。
あの頃、そう、自分の翳りに気付き始めていた頃、私は自分の家を人形の家ではないのかと疑い、怯えておりました。これは本来ならば、人形の家ではないかとうっとりせねばならなかった、というところでしょう。この私は、最も大切に扱われる人形だったのですから。
常に清潔な室内、手入れの行き届いた庭、洗濯と糊付けの為されたきれいな着物、いつの間にか用意されている熱いものは熱く冷たくあるべきものは冷たい食事。私は餓えることなく悩むことなく迷うことなく、お膳立てされた花園で可愛い一人息子を演じてさえいればよかった。
お姉さんとは微妙に違うけれど、すべてが可愛らしい嗜好をお持ちのあなたなら、おわかりですね。人形の家というものには、屋根がありません。屋根に模した蓋を取り去れば、そこには蒼穹ではなく人形の家を管理する何者かの目と手があるばかり。
私の場合、その何者かに気づいたのではありませんでした。気づかせてくれたのは、納戸だったのです。普通、人形の家にはそんな部屋は用意されていませんし。予め作られていないはずの、閉ざされた小さな奥の部屋。あなたの家にはありましたか。きっと、あなたは知らなくても、あるのですよ。
さて。私が生まれた部屋は、その家の奥深くにある、窓のない風通しの悪い納戸でした。なぜに待望の長男たる私が、掃き清められ隅々まで光の射す広い座敷ではなく、埃と虫と澱んだ湿気に満ちた、陰鬱な納戸で生まれなければならなかったのか。
それは姑、つまり私の祖母が決めたことだったのです。祖母は人形の家の主人たる、持ち主ではありませんでした。操られる人形のうちの一体に過ぎませんでした。しかし、人形の家の主人に成り代わる立場を与えられてはおりました。
ともあれそんな祖母と母は、大層仲が悪かったのでした。出会う前から、憎み合うことを約束させられていたほどに。
そのような関係は別段、珍しいことではありません。しかし少なくとも私達にとっては滑稽な、そして深刻な物語の始まりとなったといえるでしょう。それはほとんど、宿怨といっていいものだったそうです。前世の因縁だ等と、極彩色の地獄図さえも持ち出すことが可能なほどに、二人の女は赤々と黒々と悪い火を燃やし合い、邪な眼差しを投げかけあっておりました。
痩せて水気のない祖母を、私はきちんと記憶しております。刻まれた傷に濃い絵の具を塗り込めるが如く、祖母の姿は私のどこかに今も鮮やかです。そんな祖母は我が家で一番偉そうにしていた癖に、違和感ばかりを醸し出しておりました。まるで古城に巣くう、妖怪のようだった祖母。かつて讃えられたという美貌の片鱗は残っているものの、ただただそれが無惨な残滓《ざんし》でしかなかった干涸らびた女。
さしずめ母は、何も知らずにその古城に嫁いできた、可憐で無邪気で愚かな姫でしょうか。その可憐さ故にますます憎まれ、その愚かさ故に憎まれることが当たり前となってしまうという、お伽噺では凡庸な姫君です。そうしてこのような物語の場合、大抵がその姫を娶《めと》る婿殿はひ弱なものというのも定石です。
それは我が家においても、例外とはなりませんでした。常に多くの女を持っていた祖父は、息子である私の父よりも若い芸妓に入れ揚げ、滅多に家には帰ることがなかったといいます。ですから私は、祖父については記憶も想いも淡いものしかありません。ただ血が繋がっているというだけの他人です。人形の家の持ち主も、祖父はあまり気に入りの人形ではなかったとみえます。
いずれにせよ、恨みと嘆きで凝り固まった妻たる祖母は、息子だけを支えとし楽しみとして生きました。そうなれば当然、息子も母親を痛ましく愛するようになるでしょう。そう、娶った幼い妻よりも。
愛情に酷似した執着と、母性に極めて近い支配と。恐らくは、緩慢に。惜しむらくは、とことん狂うことなく。祖母は精神に変調を来していったのでしょう。母のせいでも祖父のせいでもなく、納戸のために。人形の家の持ち主のために。
「納戸には、化け物がおるんじゃ」
いつからか祖母は、そういってきかなくなったそうです。釘を打ち付けて開かずの間にしようと騒いだ翌日は、いきなり神官だの僧侶だの、時には耶蘇《やそ》の神父さえも呼んで、聖なる部屋として奉ろうとしたり。そのたびに母は戦《おのの》き、時に嘲笑し、時に真剣に訊ね、向かい合ったといいます。
「どんな化け物じゃろうか。たとえば手と足が逆に生えとる子供の形をした化け物か。それとも、真っ赤に燃える馬か。びっしりと腕に目玉の並んだ大男か。もしかしたら、後ろ髪にもう一つの口を隠した女かな」
父によると、母は確信犯として意地悪であったといいます。母が生々しい化け物の姿を語れば、祖母は必ず母がいった通りの化け物をその納戸に見たのだといいますから。そうです、手と足が逆に生えた子供だとか、真っ赤に燃える馬だとか、びっしりと腕に目玉の並んだ大男とか、後ろ髪にもう一つの口を隠した女とか。もっともっと恐ろしいものもあったそうです。実は私もそんな化け物を垣間見ました。しかし今の私には、ちょっとそれをここに書くことは憚られます。
「おまえは、化け物を身の内に隠しとるじゃろうが」
ともあれ、日毎に膨らんでくる母の腹を、祖母は心底恐れ戦いていたそうです。今のあなたならきっと、私の亡き祖母に同意して、深く頷いて下さることでしょう。確かに、私の母が隠微に生温かな腹の中に育てていたのは、納戸が育んだ世にも恐ろしい化け物であったと。
そんな祖母であっても、人形の家における仮の主人でありました。祖父は例の若い芸妓の元で死んでおりましたから、うちで采配を振るうのは祖母だったのです。うちを仕切るのは祖母以外にはいなかったのです。息子である父は、そんな祖母のいいなりでしたから、妻に初産を納戸でさせることは覆せませんでした。
「初めての子を、あんな部屋で産めとおっしゃるんかな。そのことが、惨めなんじゃあない。うちは心底、あの納戸は怖いんよ」
母は相当に嫌がり、実家に戻ろうとまでしたそうですが、結局は二人に押し切られてしまったのです。
「これでええんじゃ。化け物は化け物のおる納戸で産むんじゃ。そうしたら、悪因縁は祓《はら》える。納戸の化け物は消え失せるし、腹から出た子は可愛い跡取りになる。ほれ、赤い馬も手足が逆に生えた子も、頷いとる。おや、また新しい化け物が増えとるな。どこから来たんじゃろうか。後ろ姿だけが妙に綺麗な、若い女の化け物じゃ。振り返ったら、真っ黒に焼け爛れとる……」
私は、確かに腹の中で祖母の甲高い声を聞いておりました。嘘ではありませんよ。この時に祖母がいった言葉は後年、誰に教えられずとも知っていたからです。
祖母は自分にも息子にも母にも似た私を憎み、愛し、恐れていた。私はそれに相応しい、憎まれ、愛され、恐れられる子供に生まれつき、育っていきました。やがて祖母に代わって、そんなふうに私を憎み愛し恐れる女が現れました。これにもまた、あなたは同意して下さることでしょう。
とはいえ、生まれた時の情景も覚えているといえば、あなたは私をやはり嘘つきだと罵りますか。嘲笑しますか。実はこの話は、珠枝さん、あなたのお姉さんにしたことがありました。お姉さんは真剣に頷き、
「藤原さんがいう話は、みな信じる」
小さく、しかしきっぱりと答えてくれました。そんな可憐な女を殺した私です。仕方ありません。私は、化け物なのですから。腕にびっしりと目玉が並んだ大男よりも。手足が逆さまに生えた子供よりも。しかし、実際には私にはそんな大男や子供は見えませんでした。私が目《ま》の当たりにしたものは、もっと違ったものでした。凡百の化け物など敵わない、黒いものでした。
……真っ黒に焦げた女が二人、いました。片方はおそらく祖母。ならばもう片方は母でしょう。黒い、本当に黒い女達。赤いはずの唇さえ黒く、白いはずの歯さえ黒く、透き通っているはずの爪も黒かったのです。
それとも二人は、ただの母と祖母でしかなかったのか。憎みあい恨みあっていた二人の女は、私の原風景の中で黒焦げとなったのでしょうか。
いずれにせよ、私は生温かい産湯《うぶゆ》の中で、早くも絶望と諦観とを覚えておりました。薄ら笑う天使と、ほくそ笑む神と、苦笑いする鬼とに囲まれて、弱々しく泣いておりました。生まれる前に薄青い死後の光を見ていた私は、流された血の匂いにのみ郷愁を覚えていたのでした。
ただ、どこからか澄んだ音楽が流れていました。まるで惨劇の後の無人の庭に囀《さえず》る小鳥の如く、物悲しくも長閑《のどか》な澄んだ音色でした。悲劇の後の廃墟に吹き渡る花弁混じりの風の如く、柔らかくも痛ましい透き通った旋律でした。不幸であるべき夏に生まれた私は、母の胎内を出てもなお、生温かく生臭い、そう、美しい死にも似た季節に包まれていたのです。
ですから今、刻々と刻まれていく死への時を待つ季節も夏であることに、ゆったりとした思いを抱いているのです。
明治もまた、夏に逝きましたね。悲嘆の夏にはいつも、相応しい綺麗な音楽が流れているのですよ。あなたは、聞いた覚えがありませんか? なくても、いいでしょう。なぜならあなたは私の死後、その音楽をきっと聴く。私があちらの世界から、夏の音楽を届けるからです。聞くまいとしても、無駄ですよ。塞いだ耳の隙間から、私はそっと聞かせますから。
後年、私がそちらの道に進んだのは、そんなふうに生まれついた夏のせいでしょう。後から聞けば、もっと単純な種明かしもできます。当時、離れに下宿していた学生が蓄音機をかけていたそうです。その頃はそんな楽曲は影も形もなかったはずなのに、確かにそれは「野なかの薔薇」だった。
そうです、あなたのお姉さんが好きだった音楽。あなたのお姉さんもきっと、私に会う前から、そして生まれる前から、悲嘆の夏を知る前からあの音楽だけは知っていたに違いありません。
やがて足腰の立たなくなった祖母は、その納戸に寝かされました。母のきっぱりとした復讐でした。真の主人たる人形の家の持ち主も、許可したのです。いえ、その人こそが祖母を納戸につまみ入れた。
その頃父は貿易の仕事で、欧州に出ておりました。たとえ家にいたとしても、納戸に母親を寝かせることに反対はしなかったでしょう。父は面倒臭いことだけが嫌いです。うるさい女達も納戸の化け物もひ弱な跡取り息子も。うちにいた者の中で、あの音楽を聴かなかったのは父だけでしょう。
私はその頃ようやく、祖母に懐きました。死にかけの女は皆、可愛い。近い死の約束された女もまた。
私はそんな女達に、淡い殺意と性欲と情愛とを持っておりました。殊に当時の祖母は寝床の中で、様々な話をしてくれたのです。私は母の目を盗み、こっそりと祖母の寝床に忍び込みました。
恐ろしい話も楽しい話もありました。卑俗な噂話も清らかな仏様の話も。性欲をかき立てる話も全てを萎えさせてしまう話も。ただ不思議なことに、もう母の悪口は言いませんでした。こっそりと、例の箪笥にしまい込んだのでしょう。余計に私は、あの箪笥を開けられなくなりました。
足が浮腫《むく》むのは、死の近い印だといいます。祖母の膨らんだ足の感触は、今も生々しく私を欲情させます。女の、最も美しく艶めかしく厭らしい肌触りと匂いとを持っておりました。正直に書きましょう。あなたのお姉さんは、持っていた。特別な女と印をつけたのは、そのためです。
それはさておき、申し訳ないけれど今私が思い返したいのは、あなたのお姉さんではなく祖母です。死の床の祖母は気丈でした。どこか呑気でした。もう何かを恐れているとも憎んでいるとも、口にしなかった。いえ、口にすると余計に怖くなるから黙っていたのではなく、自分がすでに、その怖い者の仲間に、怖い世界の方に属していることを知っていたのでしょう。
「正司はきっと」
祖母はただ暖かいからという理由で、そして台所にも手洗いにもちょうどいい距離にあるからと、母にもっともらしい理由で入れられた納戸の中では、奇妙にいい人でした。いい人だからこそ、私の未来を予言し憂えていたことは痛ましい。私がではなく、祖母がです。あなたのお姉さんがです。
「もっと怖い、きょうてえ女に会うじゃろうな」
「怖い。きょうてえ、ってどんな」
「惚れた女と惚れてくれる女は違うんよ。正司はきっと、惚れてくれる女を疎ましゅうに思うはずじゃ。じゃからこそおまえは、女を好きで嫌いになる」
青黒い顔をしていた祖母を覚えています。青黒い予言も覚えています。私は祖母を好きで嫌いでした。祖母もまた、女であったからです。
甘い接吻。私が初めて口づけをしたのは祖母でした。薬のせいで、嫌な甘みを持つ口をしていました。やがて祖母が苦しみだした時、私は狼狽《うろた》えて布団を飛び出し、箪笥を意味なく開けたり閉めたりしました。
引き出しの縁に、蠅が一匹、弱々しく止まっていました。私はその蠅を閉じこめて、引き出しを閉めました。一部始終を見ていたのは蠅だけ。あの蠅は今もあの納戸の箪笥にいるような気がします。私の死を看取ってくれるのも、あの蠅だけだという気がしてきています。
あの蠅はもしやあの時の祖母以上の怪物に育って、密やかな主になっているかもしれない。人形の家の主人に成り代わっているかもしれない。それはなかなかに心ときめく想像です。
しかし私は何故に昔から、嫌な想像力ばかりが逞しくなっていたのでしょう。きっと、嫌なことが好きだからでしょう。そして、嫌な女が好きだからでしょう。嫌な女は愛らしい。祖母と、母と、何人かの愛を交わした女達。そして、あなたとお姉さん。
祖母は殺されたのです。いえ、これは穏やかな言い方ではありませんね。医者がきました。馴染みの医者でした。その老医師は母に促され、何やら注射を打ちました。青黒い祖母の痩せた腕に。すでに注射の傷痕だらけの死せる腕に。そうすると祖母は大きく静かな呼吸を始めました。否、終えたのです。
「良い、お参りでした」
それは安楽死の約束ともいえる挨拶でした。医者にそう言わせたのは、母でした。その癖、母は涙をこぼしました。透き通った蠅の化け物が、母の涙をこっそりと舐めておりました。
「良いお参りなんよ。正司。お祖母ちゃんは、仏様の涼しい道を歩き始めておられるんよ。涼しい、涼しい道じゃ」
私は泣けませんでした。祖母はもしやあの箪笥の中に入ったのではあるまいか。そんな妄想に囚われ、相応しい幻の楽曲に苛まれ、身動きがとれなかったのです。暑い夏と青い風と涼しい冥土の道を示されながら、私は祖母の魂と想いがまだ、納戸にいることを確信していました。
祖母はあの蠅の殿様と婚姻して、さらに強大な納戸の主となるか、哀れで可憐な囚われの姫となるのではないかと。
ええ。祖母はまだ、あの納戸にいます。私の行く末も罪も何もかも、見つめているのです。珠枝さんももしかしたら、あの引き出しの中にいるのではないか。私はふっと、そんな気持ちになるのです。
あなたにとって、愉快な想像ではありませんね。しかし私にとっては、故人を、愛する故人を偲ぶ美しい手法なのです。ヴァイオリンを持たずとも、音楽を奏でることのできる方法なのです。たとえ死者の耳にしか届かぬものだとしても。
さて、祖母の死後、納戸は私の部屋になりました。日当たりのいい座敷も、端麗な造りの離れも、望めば私の部屋となったのに、敢えて納戸を選びました。母は黙っていました。安楽死を見抜かれたことを恐れたのでしょうか。それとも、死の間際の祖母に命じられたのでしょうか。もしかしたら、蠅の殿様とその奥方となった祖母に、囁かれていたのかもしれません。
いずれにしても、窓のない部屋は、ただそれだけで安らぐものです。
初めて女の人を知ったのも、その納戸でした。女学校の生徒です。彼女は文学に憧れが強く、やたらに小難しい理屈や理想を言いたがった。今から思えば稚拙なものですが、私には眩しかった。
ですから、彼女と恋仲になれた時は、凡庸な言い方をしてそれこそ彼女に怒られそうですが、天にも昇る気持ちでした。私は幻の楽曲など作らず、凡庸な詩歌を作り、つまらない愛の言葉を囁き、ごく普通の男として接しました。特別な男に見られたいとか、素晴らしい男に思われたいとか、音楽の才を見せつけたいとか、それらはまるでありませんでした。私は、隠したいことの方が多かったからです。見られてはまずいことの方がたくさんあったからです。
最も隠したい納戸で、私はその女学生と抱き合いました。やや癇性な横顔。可憐なのに硬質な佇まい。湿っているのに乾いた肉。柔らかいのに張り詰め、脆いのに太々しい部分。香しい悪臭と、厭な芳香。それが我が手にある。私の下で、あの焦がれて止まなかった表情や仕草が花開いているのです。途方もない喜びと恐ろしさと。私は快楽が恐ろしかった。溺れることが辛かった。
夏だったこともあり、蠅が飛んでいました。青い庭から飛んできたのでもなく、甘ったるい芳香の漂う台所から這ってきたのでもない。箪笥の秘密の引き出しの中から出てきたのでしょう。
「しゃあけどあんた。なんでこんな陰気くさい部屋におるんよ」
彼女も初めてであったのに、気丈に生意気にそんなことを言いました。張り詰めた、しかしどこか腐敗の匂う体でした。汚れと澱みを隠して澄んだ裸は、私を受け入れつつ拒んでいました。
そうして彼女は、死んだ祖母のように横たわりました。足は決して浮腫んではいなかったけれど、薄い皮膚の下には心ときめかせる腐敗の高貴な香を隠しておりました。私はそこに舌を這わせ、陶酔しました。子供の頃から、いえ、生まれる前からですが、私は必滅をこそ謳《うた》い上げたい。破滅だけを待ち焦がれたい。そんな欲望を満たしてくれる、悪い女が好きなのです。
「陰気臭いかな。静かだとか、趣があるとか思えないか」
「思えんわ。なんじゃろな。誰かに、何かにじっと見られとるような気持ちになるんよ。そうじゃな、あの箪笥の辺り」
「気のせいだ」
彼女も、私に舌を這わせてくれました。私はじっと目を閉じていました。まるで巨大な蠅の姫に這い回られている、そんな錯覚に陥りました。あの時、本当に目を閉じていてよかった。目を開ければきっと、巨大な蠅の姫が私に覆い被さっている姿を目の当たりにしたでしょうから。
「臭い。臭いわ、正司」
彼女が帰った後で納戸に入ってきた母は、心底嫌そうに顔を顰《しか》めました。私が少年でなくなったことについては、咎めませんでした。忌みもしませんでした。ただ、臭いと怒った。祖母の失禁した臭いには何も言わなかった母なのにです。母はいつしか、納戸を愛する部屋としていたのでしょう。
事実、納戸は臭ったでしょう。澱は湿った畳をさらに湿らせ、箪笥の中の淫靡な秘密の一つとして発酵しました。蠅の化け物ではない、きれいだった頃の祖母が、確かに私の背後で忍び笑いをしていました。
「その女じゃあないよ、正司。お前が惚れるのも惚れられるのも、殺すのも。その女じゃあない……」
可憐で高慢な彼女はしかし、その後も蠅のようにではなく蝶のように、男から男へと飛んでいきました。綺麗な花弁を持たずとも、甘い蜜を滴らせていなくても、彼女はひらひらと飛び移っていったのです。
無論、私は激しく動揺しました。みっともなく彼女を待ち伏せしたり、詰《なじ》ったりしました。しかし彼女の言い訳や媚を含んだ慰めよりも、納戸に入る方が落ち着けました。今から思えば納戸こそが私を狂わせていたのです。
彼女とは別れました。どちらからともなく。別れが決定的になった日も、私は納戸にいました。蠅の羽音が聞こえました。私をせせら笑う羽音は生温かな舌となり、私の耳たぶを厭らしく舐めました。まるで彼女のそれのように。
祖母の声が聞こえました。物言わぬ蠅と違って、祖母の声は不吉なことしか言いません。しかしこの上なく優しい声です。すべての罪を唆《そそのか》したのは、この祖母です。あの青黒く浮腫んでいた足。私に絡みついた柔らかすぎる足。
「おまえは許されるよ」
「本当に?」
「許される。惚れてくれた女には何をしても、許される」
なのに私は、女には心を閉ざしました。納戸の箪笥の引き出しの如く。どこかに隙間を残しつつ、ぴったりと。
私の外見が女性的なこともあり、「オネエ」だなどと渾名をつけられたのも、高等学校に入った辺りでした。私はことさら、そのように振る舞いました。皆が望むように振る舞えば、最低限の居場所は与えられる。私はこれを、我が家で学ばされていたのです。多分、あなたのお姉さんも。
私自身が弱いから、弱い相手を見つけるのが巧い。居丈高に出るのではなく、その者の弱さを観察して喜ぶ淫靡なところがありました。それは母譲りだったでしょうか。高等学校は、全体が納戸のようでした。
母に習わされたヴァイオリンは、学校が終わった後に座敷で弾いておりました。教室などは当時の岡山にはなく、派遣されてくる教師がいただけです。開け放した座敷で、そんな男に習いました。縁側に座っていた思い出の中の母には、なぜか影がありません。陽気な死者のようだった、母。
ヴァイオリンを教えてくれたのは、薄っぺらな男でした。薔薇にたかる蠅。そんな音を出しました。その男に媚びる眼差しを向けながら、私は祖母のための曲を作りました。それはけして他人には聞かせませんでした。
間違いなく私は死刑になるでしょうから、この曲は永久に誰も聞けないことになります。あちらで、祖母に聞かせましょう。そうして、あなたのお姉さんにも。お姉さんは微かに聞いたと思いますよ。なぜなら耳だけ焼け残っていましたからね。
死んだ人しか聞いてはいけない曲。お姉さんは聞いてしまった。もちろん、これはお姉さんの罪ではありません。
あなたの好きな大橋君に知り合ったのも、この頃です。私と同じ、弱い男。自分をいい人だと何の躊躇《ためら》いもなく思っている、鈍感な善人。私は最初から、彼は観察の対象であると見なしていました。
何の根拠もないのに、自分は大層な者であると信じていましたね。何の根拠もないからこそ、そう信じられるのでしょう。大橋君は挫折を知るたび、それで打ちのめされるのでもなく反省するのでもなく発奮するのでもなかった。
「僕は、日本の文学に革命を起こせるはずだ」
色々な所に投稿し、持ち込み、すべてが門前払いだった彼。普通なら諦めて、あくまでも趣味としてやりつつ正業に就くでしょう。ところが彼は、認められないのは自分のせいではなく世間が、文壇と呼ばれる所が悪いのだと開き直った。すり替えた。
何せ正義は自分にあるのですから、受け入れられなくても絶望はしないのです。多分、大橋君は、断られたり怒られたり忠告されたりしたことは、何一つ覚えていられないのでしょう。たとえば中学受験には本当に一生懸命だった自分であるとか、高等学校ではいい子だった自分であるとか、そんな自分ばかりを記憶しているのでしょう。
そうして、いい年になった今も、自分はいつまでも「これから」の場所にいると信じている。先に行ってしまったかつての仲間達は、つまらない未来に充足しつまらない現状に不満をもっているばかりの、退屈な草臥《くたび》れた大人であると蔑《さげす》んでいる。その蔑み方が幼稚すぎる為に、かえって彼は純真で善良に近づいているのですから、まことこの世は皮肉で楽しい。
後は、あなたもご存じの通りです。自分は特権階級と信じて疑わないから、世間的にはただの穀潰しでも、当人は悲壮な革命家。結構、機嫌良く生きていましたね。やたらと人当たりがいいのも、実は他人をすべて見下していたからなのですよ。それはもう、この私どころではありません。
「こんなに偉い自分が、おまえら下層の者に対等に喋ってやっているのだ。なんと自分はいい人であることか」
あなたは見抜けなかったが、あなたのお姉さんは見抜いていた。だから、大橋君には冷淡だったのです。しかし私のことは「同類」とも見抜いていました。その怜悧さは不幸です。皮肉に聞こえるでしょうが、単純に大橋をいい人だと思える女ならば、その生涯を暢気《のんき》に全《まつと》うできたのです。
駄目ですよ、私などをいい人と思っては。本当に気の毒でした、あなたの愛らしいお姉さんは。なんといっても私は、死者にのみ聞かせる音楽や、蠅の納戸を愛する男なのですから。大橋を好きになれる女であって欲しかった。私の口からいうには、あまりに無惨な言葉ではありますけれど。
東京での日々は、あまり強く印象に残るものではありませんでした。私はただヴァイオリンを弾き、ただ楽曲をおぼえ、ただ技巧を発達させたに過ぎません。自分が真の芸術家でなかったことに絶望するほど、私は純情ではありませんでした。
そんな者は沢山いましたけれど、私は年季の入った私です。あの腐った懐かしい納戸の日々があった私は、心を打つ音色ではなくきちんと教えるための音色しか出せないことを、むしろ誇りました。
大橋君はその点、純情ともいえますね。繰り返しますが、中学生の頃の健気だった自分とか、小学生の頃いい子だった自分とか、そんなものしか思い出さない。大学を留年したことや、就職にしくじったことは、きれいに清々しく「なかったこと」にしてしまえるのですから。自分と向き合わなくて済む人は、本当に永遠の夏の子供でいられる。納戸のない人形の家で、永久に機嫌良く遊んで貰っていられる。
あなたのお姉さんはどうだったでしょう。私は少し迷います。死者という者は、永遠の片思いの相手なのですから。
恋愛の真似事ならば、その後も幾つかしました。ただし、真似事でしかなかった。私はあの女学生を忘れられなかったのです。いえ、それはもう彼女であって彼女でない。美しく利己的な虚像です。どこにもいない女です。生きながら死に、死にながら生きている女。生まれた時に見た、黒焦げの女。
やがて私は、故郷の岡山に戻りました。大橋君とは違って、いずれ芸術家と崇められるだろうなどとは毫《ごう》も思っていなかった私です。中学生に教えるという職業を、素直に選択しました。不吉な音楽ばかりを教えてやろうなどと、そんな悪巧みはしませんでした。私は密やかに生きたかった。
密やかにとはいいつつ、やはり周りが望む藤原正司に合わせようと、「オネエ」らしく天女の扮装をして諧謔写真を撮ったり、そんな性向はまったくないのに美少年が好きだ等と口にしてみたり。私は居心地の微妙に悪い、しかししっくりとくる椅子を与えられた音楽教師となりました。
しかし一つだけ困ったことに、欲望と誘惑に満ち満ちた東京で暮らすうちに、私には浪費癖がついていました。まさか自分が多額の借金をするなど想像もできぬ、祖母でさえ予言できなかったことでした。
私は時々、自分から自分が離れていく感覚を味わいました。離れて見下ろす自分は、美しい空洞を抱える軽い人形でした。私はその軽さを補うためか、美しい空洞を満たすためか、高い酒食や洋服を求めたのです。人形の私に貢いだのです。自身も操られる人形であったというのに。
軽い外見も美しい空洞も満たされぬまま、借金ばかりが増えました。私はどうしても、それを親にはいえなかったのです。
何も知らぬ父と母は、私が帰郷した時喜んでくれました。父は当初、私に会社を継がせようと躍起になっていました。いずれそちらを継ぐからという、私の嘘を信じたのです。父を騙すことは簡単です。私がこんなことになってしまった今、父はまた欧州に発ちました。母と祖母とを連れて。
祖母は箪笥から出て、父の鞄に入ったのです。その証拠に、今はあの納戸は空っぽです。箪笥も蠅も化け物も、何もない。あの女学生の残り香さえも。ただただ、虚しいヴァイオリンの曲が響くのみなのです。
出身校である閑谷中学の他、女学校にも赴任しました。あの女学生はいませんでした。土臭い素朴な子ばかりでした。私はよく、幼い恋文を貰いました。しかし、あの曲は決して弾いてはやりませんでした。
堀田君に知り合ったのは、その頃です。彼は唯一、あの曲を聞かせてやってもいい、そして納戸に連れて入ってもいいと思わせる少年でした。美しい少年ではあったけれど、どこかえも言われぬ欠損感のある少年。大人になる前に、老いる前に、その生命を断ち切られることは、美しくあるための短い時代とともに取り決められていた少年。
彼は幼いうちに美しい実母と生き別れ、継母に育てられていました。その継母には特に虐められただの疎外されただのはなかったようですが、堀田君もまた寂しい納戸を持つ少年でした。
彼の継母はずっと、堀田君の実母に怯えていたのです。堀田君の実母は大層な美人で、女優を目指してほとんど家出のように上京していたのです。そこそこ舞台等に出ていたと、堀田君は誇るでもなく恥じるでもなく、淡々と教えてくれました。
どうも私も東京で一度、彼女の出ている舞台を見たことがあるようです。後になってわかったくらいですから、やはり端役だったのでしょう。しかし、どこかの舞台でひどく美しい女を見たという記憶は残っています。あるいはそれは、幼き日に見た納戸の女だったのかもしれませんけれど。
堀田君に相応しすぎる実母も、今は金持ちの老人と再婚したとか。出会った頃から堀田君は、美しい女を遠ざけたがる性向がありました。自分以外には聞こえない不吉で美しい台詞回しなどが、美しい女からは聞こえてきそうだと怯えていたのです。
私も何度か会ったことはありますが、堀田君の継母はお人好しのしっかりした女性です。しかし、容貌には見劣りするものがありました。誰もそれを嘆くことはありません。堀田君の父は派手な美貌の癇性な妻よりも、器量は落ちるが優しい女に惹かれていたのです。なんでも、実母がいる頃から継母とは関係ができていたとか。それを知った堀田君の実母は実にあっさりと出ていったそうです。
私が思うに、容貌で遥かに見劣りする女に負けたなどと、絶対に認められなかったのでしょう。それならば最初から勝負などしていなかったことにしたい、と。堀田君の実母はまるで大橋君のようではありませんか。
「しゃあけど、うちのオカアチャンは」
ちゃんと、継母をそう呼んでいた堀田君は、いつもその可愛らしい唇を歪めて言い捨てておりました。そんな派手な美人に勝ったのだから、もっと自分に自信を持てばいいのに、と。堀田君は実母のことは、あの人、といった呼び方をしていたようです。軽く吐き捨てる口調で。しかしどこか粘っこく濃い発音で。
堀田君の継母にとっては、美しい女に勝ったというそのこと自体が重荷だったようです。あんな美人の後がまがあれか、と囁かれることがです。誰も囁いてやしないと、堀田君は言ってやったらしい。
そうですね、おそらく堀田君の継母にも忘れたい嫌な、しかし愛するお婆さんがいるのではないですか。密やかな奥の部屋にいて、嫌なことばかりを囁くお婆さんが。案外、嫌な納戸を持つ者は多いようです。堀田君は今、その納戸でお母様を待っていることでしょう。そうです、おそらく私のことは待っていない。
ともあれ私は、家を出ませんでした。もっと学校に近い場所に下宿をしてもよかったのに、変わらず納戸にいました。あの薄っぺらなヴァイオリン教師はもう来ません。自惚れではなく、すでに私の方がずっと上手くなっていたからです。晴れ晴れとした座敷で弾かずともよくなりました。
私は納戸で、ヴァイオリンを弾きました。相変わらず死者のための曲しか作れず、きちっと基本を教えることしかできない腕前でした。あなたのお姉さんと知り合ったのは、そのどちらにも飽きていた頃でしょう。
騙されるために利用されるために悲しまされるために、生まれてきたあなたのお姉さん。私はひどく残酷なことを言っていますね。しかしこれは親しみの言葉なのです。なぜなら私がそうでしたから。
堀田君の実母もですが、美貌を持って生まれることはそんなに祝福されることでしょうか。それはわかりやすい印を付けられたようなものです。神様が特別な運命を与えるために、判子を押したようなものなのです。見た目の美しい人は、見る者に何か物語を期待されます。時に、勝手に創られてしまいます。そうして、自分が創った物語とは違うではないか、などと筋違いな怒られ方をされたりするのです。
岡山では「拵え映えのする女」という言い方がありましたね。普段着よりも晴れ着の方が似合う女のことです。誰も口にはしないけれど、「拵え映えのする女」の行く末は大抵が幸せではない。
反対に、晴れ着の似合わない女は「前掛け女房」などと笑われますが、これもまた口には出さないまでも皆が知っていますね。「前掛け女房」は大方が、穏やかな死に方をするということを。堀田君の実母はきっと、可哀相で可憐な死に方をする。そうして継母は、穏やかに堀田君に看取られて死ぬ。嫌ですね。私もまるで、死んだ祖母のように不吉な予言ばかりをしている。
ともあれ、私は珠枝さんを、珠枝さんは私を、カフェー・パリーの薄闇の中に見つけたのでした。誰にでもわかる印と、おそらく自分にしか見えないであろう印とを見つけ合ったのです。
「『野なかの薔薇』を弾いて」
あなたのお姉さんのおねだりは愛らしかった。世話をした男たちは、蕩《とろ》けたことでしょう。そうしてあなたのお姉さんの箪笥には、次々と拵え映えのための洋服や着物が増えていった。増えすぎたものは、そう、納戸に仕舞われる。
足りないものには気づいてなかったあなたのお姉さん。そこに私が納まってくれると期待していたのですね。しかし互いに欠落した者同士です。どうにもなりません。私の音楽は届かないし、あなたのお姉さんの思いも届かない。
「うちは、藤原さんを初めて見た時から、この人は音楽をやる人じゃとわかったんよ。なんかが聞こえたんじゃ。藤原さんの背後から、なんともいえん、ええ音楽が聞こえてきたんじゃ」
生きているうちに、あの曲を聴いてしまってはいけないでしょう。野なかの薔薇。私が弾いたのは、野なかの薔薇であって、そうではなかった。
あなたは、あの晦日の午後を覚えておられますね。大橋君がいて、餅つきをしていた。あなたのお姉さんは何時にも増して綺麗で、ひらひらと台所と座敷を舞っていた。堀田君は寒そうに座っていた。最新型の電気ストォブが燃えていた。カフェー・パリーの洋菓子は甘く、あなたはどこか淫らな風邪をひいていた。
「藤原さんと、二人きりになりたいんよ」
あなたと大橋君が帰った後、あなたのお姉さんは囁きました。堀田君が手洗いに立った隙にです。柔らかな耳たぶと白い脹《ふく》ら脛《はぎ》と。生きたまま、死者の芳香を漂わせていたあの時のあなたのお姉さん。
私は、堀田君に帰るよういいました。あなたのお姉さんと二人きりになって、甘い一時を過ごしたかったからではありません。私は、晦日に蠅の羽音を聞きました。祖母の囁きを聞きました。
私は、来年の夏が嫌だった。大正の二度目の夏を迎えたくなかった。借金を抱えたままで、死者のための楽曲ばかりを作り、教科書通りの音楽を教える倦んだ夏に浸りたくなかった。そのくせ、あなたのお姉さんの秘密の箪笥に入っている、貴金属が欲しかったのです。借金を清算できると企んだのではありません。
あなたのお姉さんの箪笥を、空っぽにしたかった。そうして、私に惚れきっている女を殺す。きっとその刹那、私はあの楽曲を直に聴くことができるだろう。
「珠枝さん、珠枝さん」
この上なく優しい無惨な囁きを、くれてやりました。あなたのお姉さんは、私の腕の中で死者のための音楽をともに聴きました。目を閉じて、うっとりと。手拭いで背後から絞め上げた時、私は黒く焦げた女達が部屋の隅にいるのを見ました。
「聞こえますか。私の音楽が」
「……野なかの、薔薇」
確かにあなたのお姉さんは、今《いま》わの際《きわ》にそう呟きましたよ。潰れた喉笛は、銀のフルートよりもいい音色を出しました。やがて壊れた楽器になったあなたのお姉さんは、畳の上に静かに横たわりました。
こんなことを書くのも申し訳ないのですが、失禁したものの臭いは懐かしい祖母と納戸の臭いでした。私は箪笥を開け、祖母や蠅やその他の化け物がいないことを確かめてから、貴金属を奪いました。金の首飾り。英文を刻んだ指輪。紅玉の腕輪。持ち出したいのはそれだけでした。一緒に仕舞われていた、羽根の扇やレエスの手袋は要りません。軽い羽音をたてて逃げていった蠅を、私は確かに見ました。透き通るほどに寒い、真冬の夜中だったというのに。
そういえば、それらを身につけて撮った写真がありましたね。事件後、山陽新報に載ったあの写真。遺影は美しいものと決まっていましたね。遺影として撮らないからこそ、美しいということも。
私にとっては、空っぽになってしまった箪笥とあなたのお姉さんと、そして私。いったい何を最も焼き尽くしたかったのでしょう。私は納屋から燈油を持ってくると、丹念に撒きました。しかし、いったい何を使ってどのように火を点けたかは、どうしても思い出せないのです。黒く焦げた女達がやったなどと、そんな言い訳をするつもりはありません。実は、したいのですけれど。
ともあれ、気がつけば私は燻り始めた家の外にいました。大正の初めての新年に向けて、突然に炎は弾け燃え上がりました。黒々とした夜空と、その向こうの青く透き通る朝と。あちらの世には、どちらの色彩が相応しいのでしょう。
見えないヴァイオリンを抱いて、私は逃げました。後悔も恐ろしさも何もありませんでした。私は作曲に夢中であり、演奏に必死だったのです。死者のための楽曲。あの時はあなたのお姉さんのためでした。
家に辿り着くと、私はひどい疲弊を覚えました。父と母はすでに寝入っていました。私は中庭からこっそりと入り込み、納戸に上がりました。凍える季節の凍る家の中。そんな中でもさらに冷え切った部屋は、私を迎え入れてくれました。
片隅に、黒焦げの女がいました。祖母でも化け物でもありません。あなたのお姉さんでした。後ろ姿の美しい、女でした。その女こそが、人形の家の真の主人であったのです。今更気づいてどうなるものでもありません。
私はもう、二度とあの家には帰れないのです。あの納戸には、二度と入ることができないのですから。
……砂川晴子は藤原正司からの手紙を読み終えた時、やはり後ろ姿の姉を思い出していた。無論、黒焦げなどではない。華やかな縞柄の着物を纏い、赤い縁取りの手鏡を手にしている姉だ。後ろ姿の姉はいつでも愛らしい。後ろ姿の姉は、いつも藤原を待っていたからだ。
稚拙な、しかし生々しい姉の事件をもとにした舞台を見てきた晴子にとって、この藤原からの手紙は一つの救いにもなった。実に暗澹たる救いであるが、少なくとも大橋が関わった俗的な物語よりは、真実が見えたからだ。
「これは、お父ちゃんお母ちゃんには見せられんわぁ」
それでもその手紙を持ったまま、晴子は立ち上がった。自分がひどく汗ばんでいるのに気付く。階下では、ミサのけたたましい、しかしどこか空疎な風の吹く笑い声が聞こえていた。それに混じって、ふとヴァイオリンの音色が聞こえた。聞こえるはずがない。あれは死者のための楽曲なのだから。
「大橋さん……」
こっそりと、呟いてみる。その響きに、晴子は微かな寒気を覚えた。自分は本当に、大橋を好きだったのだろうか。今の自分は、好きだった男に幻滅している、というのだろうか。ならばもっと、身を揉む嘆きや悲しみや怒りめいたものが湧き上がってきても良さそうなものではないか。
「つまらん男、じゃったんかなあ……」
姉を題材にした芝居の脚本にこっそり関わっていたということで、晴子の大橋に対する気持ちは変わってしまっていた。藤原の手紙がすべて真実とは思えないが、少なくとも大橋に関しては藤原が正しいと感じられてしまったからだ。
「そいでも、まだ、好きなんよ」
そう呟いた時、不意に女の笑い声を聞いた。階下のミサのものではない。死んだ姉でもない。納戸の女。晴子は慌ててそんな想像を振り払い、わざと乱暴に手紙を畳んで封筒に突っ込んだ。すでにこれは死者からの手紙だ。書かれていることは、死者にとっては真実となってしまう。
大橋が書いたという「御伽噺」が山陽新報に載ったのは、誰かの命日でもなく誕生日でもなく記念日でもない、何でもない夏のとある日だった。
こんな静かな昼間なら死ぬ日になってもいいと思わせ、また、こんな空疎な昼下がりに死ぬのは寂しいとも思わせる、本当に何もない凡庸な暑いだけの日だった。
「期待の小説家本紙に特別寄稿」とある。女学生の晴子にとて、わかることだ。大橋は山陽新報に協力した、もしくは極悪人の逮捕に協力したという褒美を貰ったのだ。或いは取り引きというものか。
小使いが鳴らす終業の鐘の後、手洗いに立ってから戻ってみれば、晴子の机の中にさりげなく突っこまれていたのだ。差し入れた者がともに置いていったのは、お節介な善意か無邪気な悪意か。どこか悲痛な蝉の鳴き声の中、晴子は誰もいなくなった教室でそれを読んだ。
「黒焦げ美人」の報道も一段落した、やはりぽっかりと空いた感のある紙面の真ん中辺りにその物語は載っていた。まさに大橋の如く、遠慮がちでありながら図々しく。
「いつの頃かは定かでありませんが、とにかく子供だった頃の僕は、その幼なじみの女の子とお祭りに出掛けたのでした。
とても可愛らしくて、どこか可哀相な女の子でありました。夜店に売られている色とりどりの玩具のように、華やかでいて安い匂いがあるのです。
アセチレン瓦斯《ガス》燈に揺れる、遠い夏も近い夏も包み込む祭りの宵。僕と女の子は、少し離れて歩きます。けれど僕達はぴったりと、寄り添っているのでした。
なんとも不思議なことに、夜店には本物の宝石が売られていました。僕は女の子に買ってあげたのです。金剛石の指輪を一つ。内側には、魔法の呪文が彫られています。異国の言葉ではないのに、僕達には読めぬ文字なのでした。
幼なじみの女の子というだけで、大人になった僕はその女の子をどうしても思い出せません。どこか凜々しい少年のような、きれいな女の子だったということは、覚えていますけれど。
何故でしょう。無理に思い出そうとすると、女の子は後ろ姿になってしまうのです。僕に背を向けてしまうのです。
『わたしは遠い他の国から来たのです』
そうです。あの祭りの夜、女の子はそう囁きました。僕達は指輪の魔法で、いつしか余所の国の祭りに彷徨《さまよ》い込むのです。
そこはいつも夏で夜でした。異国の祭りの夜にも、お店は出ています。なんということでしょう、売られているのはすべて本物の金剛石の指輪。
僕達は、その国の人しか行かない食堂に入りました。ねっとりとぬくもった空気の中、香草のひどくきつい料理を食べました。僕達は話ができなくなっているのに、通じるのでした。女の子の口からは香草の臭いがしました。
指輪をした女の子と、僕はあちこちを歩きました。椰子の葉っぱで葺《ふ》かれた貧しい家々の間を通り抜け、生臭い川魚の臭いがする川の畔を歩きました。
『これを読んでご覧なさい』
女の子は立ち止まり、指輪を突き出しました。手で外そうとする僕に、女の子は命じました。口で取りなさいと。毒薬が塗られていたらどうしよう、と少し心配しながらも、僕は言われるままに口で指輪を外したのです。
そこに書かれていた呪文は異国の言葉だったのに、なぜだか僕には読めたのでした。
僕は誰かが隣にいるのを知ります。手をつないでくれているのは誰でしょう。もちろんあの女の子だとはわかっているのです。けれど、痛い。長い爪が食い込んでくるのです。よくよく見れば女の子の手ではありません。指には指輪がはまっていないからです。
『君は本当は誰』
僕は、夢から醒めても夢の中にいるし、祭りから抜け出ても祭りの中にいるのでした。その時です。どこからか、なんとも不可思議な音楽が流れてきたのでした……」
そこで御伽噺は、続く、となっていた。ここで終えてもいいと、思わせる物語なのに。
しかし、静かに新聞を畳む晴子は確信していた。これは大橋が書いたということにしてあるけれど、実際に作ったのは藤原ではないのかと。
この調子、この雰囲気。あの手紙だけで晴子は藤原のどこか調律が狂った、それでいて綺麗だと巧みに勘違いさせる文体を識《し》ってしまっていたのだ。
藤原が物語を書いていたという話は聞いたことがないが、いかにも秘密裏に書いていそうな男ではないか。あの、作り物の月に腰掛けて。
晴子はその新聞を手提げに入れて、校門を出た。帰りに岡山駅に立ち寄って、ベンチに新聞を置き去りにしてきた。
藤原を最後に見たのは、このホームでだからだ。毅然とした悪党は、こそこそとした善人よりよほどいい。
一度だけ振り返れば、軽やかに新聞は捲れて、風が誰も読まない御伽噺を声なき声で読み上げていた。
下宿先の部屋に戻ると、晴子は浅すぎる転寝《うたたね》をした。行ったこともない異国の夢を垣間見た。毒々しい極彩色、なのに簡素な風景。祭りの賑わい。自分はたった一人でさ迷っていると、あちらから女の子と男の子が手をつないでやってくる。幼き日の姉や藤原などではない。どこにもいない、永遠の子供達だ。
夜店はなるほど、金剛石に見せかけた硝子玉の指輪ばかり。一つ一つに、違う呪文が刻まれている。自分が購《あがな》うべき指輪も、ひっそりとある。
……誰かに手を掴まれ、晴子は目覚めた。目覚めてみれば、そんな手はどこにもなかった。不吉な指輪をはめた異界の誰かに、手を掴まれていた方がどれほど良かったか。何もない、誰の手もないことの空虚さの方が、今の晴子には身に染みた。
藤原正司に死刑判決が下ったという一報は、山陽新報に載ったらしいが、晴子の下宿している家の女主人たるミサは新聞を取っていない。教えてくれたのは、父だった。ミサを妾としている父は、せっかくここを訪ねてきても階下のミサとだけ喋って帰っていくことが多かったが、今日ばかりはミサを振り切るようにして、晴子のいる二階への階段を駆け上がってきた。
「藤原の生い立ちが、載っとるんじゃと」
父の手にした山陽新報から、晴子は目を逸らした。おそらくその記事は、あの谷内が書いたのであろう。谷内の書く記事と藤原の書く手紙と。どちらに、より多くの真実があるのか。晴子にとって、どちらが重要であるのか。ただ一ついえるのは、谷内もまた暗い納戸と愛しくも憎い祖母や妖怪を、幼き日に持っていたであろうことだ。
大橋には、おそらくそんなものはない。あの空疎に明るい笑顔と笑い声が、今の晴子にはある意味で、藤原や谷内よりも虚しいものとして響くだろう。眉間に刻まれた皺をさらに深くして、父は新聞を広げた。父はあまり字が読めない。
「ちょっと見せてん」
晴子は父ににじり寄り、新聞を受け取る。
広げたそこには、例の天女の扮装をした藤原がいた。谷内の幼き日にはひょっとしたら、こんな異形の天女がいたのかもしれない。その邪に美しい天女の下には、谷内の手によると思《おぼ》しき藤原の半生が綴られていた。
「……藤原さんのお祖母ちゃんは、藤原さんが生まれる前に死んどる、か。優しいお祖父ちゃんにずっと甘やかされて育った、か」
晴子は淡々と、呟いた。谷内に書かれた藤原の半生は、藤原自身が綴ったものとはかなりの違いがあった。それでも晴子は、藤原はやはり嘘つきだなどと、怒りも湧かないし騙されたと哀しみもしない。
どこか、そんな予感を抱いていたのだ。手提げに隠してある藤原からの手紙には、どこからどこまでが真実でどこからどこまでが作り話かなど、当人にもわからないに違いない。また、谷内こそが脚色を加えているということもあり得るではないか。
「お姉ちゃんも、お姉ちゃんだけの藤原さんを見とったんよなあ。お姉ちゃんだけの藤原さんが、居ったんよなあ」
この呟きにも、どこか白々しい嘘が含まれている気がして、晴子は溜め息をついた。新聞をそっと父に返す。父はそれを懐にしまう。
人形の家の真の主人は、とうに死んでいた藤原の祖母であった。なんとも陳腐な結末だが、それでいいではないか。人形の家は、すでに人形のいない人形の家になったのだから。最初からなかったかもしれない納戸も閉ざされ、それこそ永遠の夏に封印されたのだ。藤原の祖母ならば、きっと美貌であったろう。相応しい明治に逝けたことを、涼しいあちらの世で微笑んでいればよい。
「母親にも甘やかされて育ったんじゃと」
自身は実母の顔も名前も知らない父が、どこか痛む顔をして吐き捨てた。そうして、立ち上がる。階下からはミサのけたたましい声はあがってこない。奇妙に階下は静まり返っていた。その静けさが、取り巻く夏を際だたせた。
「墓参りに行くで。なあ、晴子」
「お母ちゃんは」
「ありゃあ、寝込んどる。わしと二人で行こう」
「ミサさんは」
「しゃあから、わしと二人で行こうというんじゃ。珠枝の墓にな」
高価なヴァイオリンではなく、壁に立てかけていた安物の三味線が滑り落ち、刹那の鎮魂歌を弾いた。死者にだけ聞こえる歌ではない。哀しみと嘘とを知るものならば、生死には関係なく聞ける音であった。
父はちびた下駄の音を立て、怒ったようにどんどん先に進んでいく。晴子は盛んな蝉の鳴き声と日盛りの午後とに炙られる、父の痩せた背中をただ追う。ふと、大橋のたっぷりと豊かな背中を懐かしく思い出した。
もう、あの背中は追わない。幻滅したからでもなく、すべての嫌な思い出とともに消し去りたいからでもない。大橋自身の作る物語に、自分は必要ないものだからだ。大橋の書いた脚本には、自分は影としてしか登場しなかった。大橋もまた、藤原をただの薄っぺらい殺人者としてしか見ていなかった。
ならば、藤原の手紙の嘘も許されるし、藤原の描く大橋も真実の大橋となる。誰にも綴れないのは、もっと大いなるものだ。たとえば気高かった明治。愛らしくあるはずの大正。きっと大いなる不幸に見舞われるはずの、さらに先の時代。
「晴子。たまには帰って、お母ちゃんの相手をしたれや」
「うん、今日帰る」
姉の眠る墓地は、まだ少し遠い。そこに辿り着くまでに、晴子は何かまた一つ美しい虚構の物語を作るはずだった。たとえば姉に、
「藤原さんはなあ、心底お姉ちゃんを好きじゃったんよ」
と語りかけるために。
しかし、あれから大橋の「御伽噺」の続きが一向に載らないのは何故だろう。本当の作者が書くのをやめてしまったからか。完結をどうしても知りたいのではないけれど、晴子はやはり少し気になる。女の子は呪文をどこで唱えているか。前の時代にも後の時代にも、金剛石の指輪は謎を投げかけて輝くか。
内山下の停留所にて電車を降りたれば白く輝けるハイカラなカフェー・パリーあり瓦斯は飾り硝子よりも明るく珈琲の香りは可憐なる女給仕の脂粉よりも高く洒落た洋間の片隅には若き紳士と後ろ姿も可憐なる乙女ありヴァイオリンの音色軽やかにして恋の囀りは卓子に飾られたる薔薇よりも麗しくこの涼やかなる夏は永遠に続くと思わせるが恋と同じく儚きことが約束された美麗な大正は岡山市とともに黄昏るる……
初出誌 別册文藝春秋 二〇〇二年一月号〜七月号
単行本 二〇〇二年九月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十七年八月十日刊