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楽園
岩井志麻子
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楽 園
*
行って帰ってきた人はいないのに、誰もが地獄は極彩色に溢《あふ》れていると知っているのは何故だろう。そして天国もまた、そんなに色彩豊かでないことを、どうして皆がわかっているのだろう。
けれど私には、行って帰ってきた地獄と天国とがある。綺麗《きれい》な南の地獄と天国は赤々と欲望に燃え、白々と絶望に沈んでいた。薔薇《ばら》色の嘆きと、菫《すみれ》色の黄昏《たそがれ》とがあった。七色の果物と、単色の鳥がいた。
そうしてそれらを従える、真っ黒な男がいた。彼は、綺麗な南の地獄そのものの男だった――――。
*
常夏の国。
ベトナムをそう呼ぶのは、間違ってはいないだろう。日本でいえば七月や八月の気温が、一年中続くのだから。それはざわめく夏や、きりきりと引き絞られていく暑さではない。何もかもが懐かしい倦怠《けんたい》に、甘美な疲労に沈む無常の季節だ。
北部は亜熱帯、南部は熱帯モンスーン気候。北部には繊細で曖昧《あいまい》な四季があるけれど、南部には夏しかない。本当に、ない。ない、といいきっても何物も損なわれず、空疎さは生まれない。ただ暑くあることの潔さがあるだけだ。
私が思い描いた常夏の国とは、かなり違っていた。騙《だま》されたと怒ったり失望したりこそしなかったけれど、とにかく違っていた。
熱された地と酷薄な蒼穹《そうきゆう》との間にあったのは確かなのに、夢見た夏の国ではなかった。時計がすべて死への時を刻んでいるように、濃密な夏も切り詰められて、終焉《しゆうえん》の季節へと移り変わらされていくのだった。
打ち捨てられた空の鳥|籠《かご》だけが、滅びの夏を美麗に歌いあげていた。異国の歌は意味も歌詞もわからないのに、旅人を涙ぐませる。
私は寒々しい機械と華々しいはずの未来とどこか破滅に憧《あこが》れる信仰を抱えて、終わりなき四季の巡る国に生まれ育った女だ。
そんな女にとっての常夏の国の幻影は、やはり澄み切った青い海に椰子《やし》の木、派手な水着の享楽的な人々、たわわな果実に目にしみる原色の花と鳥、濃い影の落ちる足元にもこぼれ落ちる原色の酒、そういったものだった。人工的で、テレビCMのような世界でなければならなかった。
常夏の国ベトナムは尊い腐臭の中にあって、どこまでも優しくて小狡《こずる》い人々がいて、垢抜《あかぬ》けないのに涙ぐむほど愛らしく、意地汚いのに打ちのめされるほど直向《ひたむ》きな街を抱えて、生々しい夏の国だった。
私は歓迎されているのか拒まれているのかもわからずに、夢見たそれとは違う常夏の国に蕩《とろ》けた。優しい夏しか知らない私は、苛酷《かこく》な夏を知らないままにベトナムの最高の夏と最悪の夏とに溺《おぼ》れた。
それは必滅の恋の歌。
異国の歌を聞きたかったなどと、ことさら自分を情緒に濡《ぬ》れた、か弱い女のようにいいたがるのは止めよう。だからといって、気軽に手軽に恋や逃避や旅をしたがる女だと、媚《こ》びるのも控えたい。
ベトナム。
この国に行きたがるというのは、ちょっと前なら変わっているといわれ、今なら、ああ、あなたも普通っぽいねぇ、なかなかミーハーじゃないの、でもいいよねあそこ、などと好意的にいわれるようだ。
戦争は映画、それも敵国だったアメリカ側の作ったものしか知らず、歴史は学校のどこかで習ったはずだがきれいに忘れてしまっている、悲劇の国、赤い国。それでいて湿った浪漫と乾いた風を感じさせてもらえそうな、甘い国、緑の国。
ちょっと、離れたアジア。近隣の、漢字の名前がついた国々ほどには生々しくも近くもなく、といって本当に異人種だと感慨を抱かせるほど遠くもない。形は違っているけれど箸《はし》を使い、匂いは違っているけれど米を食べている人々。
アオザイってのを作って、可愛い雑貨を探して。あのアルミのフィルターから落ちる独特のコーヒーも飲んでみたい。シクロ? ちょっと怖いけど、やっぱり乗ってみたい。乗るならやっぱり船でメコン川?
もしも観光で行くならば、これだけで言い訳も理由も何もかも片がつく。
いや、言い訳など本当は要らない。誰も私を気にしている人はいないのだ。私だけがそわそわと、そんなものを探しているだけで。
過去にはそこそこの人が周りにいたのに、今は清々《すがすが》しいほどに孤独だ。あの国の取り残された緑の湿地や、壊れた鳥籠と打ち捨てられた花束よりも、私はひっそりとたたずんでいる――――。
*
単なる笑い話にすればいいのか、辛苦の昔語りにすればいいのか、ちょっとした栄光の過去にしてもかまわないのか。誰よりも、私が私に聞いてみたい。
ベトナム戦争ほどに遠い過去でも、悲惨な歴史でもない。けれど私にとっては、同じくらい昔々のお話。
私は、タレント、と呼ばれる職業に就いていた。
一度だけ、今もそこそこ人気のある俳優と噂になって週刊誌などに書かれた時は、雑誌によって女優だったりタレントだったりグラビアモデルだったり番組アシスタントだったりした。さすがに歌手、はなかった。一度も歌は歌ってないからだ。
ついでにいえば、その俳優とは三度ばかりは寝たが、一度も恋心は抱かなかった。彼はもう、私のことなど覚えてもいないだろう。私も普段、忘れている。たまにテレビに出ている彼を見ても、何の感慨もない。
体も性器もちゃんと覚えていないのに、耳の形だけきちんと覚えているのは何故なのか。特に彼の耳を舐《な》めさせられたことなど、なかったのに。もしかしたら彼も、私の意外な箇所だけは強く記憶しているかもしれない。お互いに、何の発展性もない思い出。滑稽《こつけい》と悲しさはいつもつながっている。
ともあれ、多少は容姿に自信があって田舎で少し派手に遊んでいた私は、高校を出た頃から男と借金で身動きがとれなくなって、ほとんど夜逃げのようにして東京に出てきた。そんな女が働ける場所といえば、限られている。
だから私は、その後はなかなかに幸運だったともいえるのだ。ホステスをしている時にテレビ局に出入りしている、そう、正式な社員ではなく、出入りしているとしかいいようのない男だったが、そいつの勧めでタレント養成学校に通い始めた。そして、細々と仕事ももらえるようになったのだから。
といっても、そこはレッスン料さえ払い込めば、誰でも入れる所だ。人気ドラマのオーディションとやらも受けさせてはもらえるが、まさに受けさせてもらえる、というだけ。私は一度も最終に残ったことはなかった。
大抵が、男なら舞台の端役やエキストラ、女なら深夜番組で裸に近いような水着にさせられるか、だった。みんないつのまに諦《あきら》めて、いつのまに満足して、いなくなっていったのか。友達と呼べる仲間もいたのに、誰一人として連絡は取れない。
とてつもない上昇指向や野心、勘違いといったものはなかったと思うが、私もまた、東京ローカルの深夜番組に、ナントカ・ガールズの一員として出ることになった。出演料は出るだけありがたい、スカートからのパンチラも、胸元からの乳チラも、見てもらえるだけ感謝しろという世界だった。
親にも、かつて揉《も》めた男達にもばれなかった。名前も変えてあるし、軽い整形もして化粧もかなり濃くしていたからだ。
何が何でもテレビに出たい、タレントと名乗りたいという女の子は、もちろん立派だ。ほとんどの女の子が、もうこんなことやってらんないわ、と1クール、つまり半年だけで辞めていったのだから。
けれど今、あの頃の古びた雑誌など開いてみれば、ビデオテープを再生してみれば、1クールだけで辞めていった女の子も、契約を延長してずっと出続けた女の子も、等しく消えていなくなっている。
私はこれをステップに有名女優になるだなどと、そこまで楽天的でも無邪気でもなかったが、とりあえずテレビに出ていれば男を騙《だま》しやすいというだけで出続けた。それも二十五が限界だった。
退職届けなど出した覚えはないのに、私はただの人に戻っていたのだ。けれど、ファンだと称する男と仕事は、なくならなかった。それはテレビでも舞台でもラジオでもない。
私を好きな男は、もちろんみんながみんな金持ちではないが、小金持ちの三代目といったのが何人かいて、彼らが会議所の会合だの親睦《しんぼく》会の二次会だの何かのイベントのゲストだのに呼んでくれるのだ。
いわゆる、マニア受けするタイプとは当時からいわれていた私だ。それがメジャーになれなかった原因でもあり、三十になった今でも細々と食いつなげる理由でもある。
月に五日もそれをこなせば、一ヵ月はどうにか暮らせる報酬を得られた。無論、純粋にファンとして仕事として来てくれる男もいれば、当然のようにベッドにまで連れていこうとする男もいた。
どちらが純粋かどちらが不純か、などという問題にはしない。どちらが空いたスケジュールを、目減りするだけの預金通帳を埋めてくれるか、だけだ。
そんな中、あの男だけはまあ、別格に扱ってやっていいだろう。男は商社の三代目であり、当然のように妻子があり、歳も一回り以上離れていたが、私にマンションまで借りてくれたのだった。
男は週に一度は、泊まっていく。私を自分の女扱いはしない。あくまでも、元アイドルとして撫《な》で回し、舐め回してくれる。
ある朝、そう、昼でもなく夜でもなく、朝に私は絶望した。そんな自分にではなくそんな男にでもなく、終わりかけた夏の朝に。
明けても暮れても暑い季節にいる時は、無常の虹《にじ》にも極楽への通り道を託す。不実な雨にも我が身を預け、恋うることにも蔑《さげす》むことにも気怠《けだる》い微笑を浮かべていれば済んだのだけれど。悪い夏風邪の予感すら、めくるめくものにはできなかった。
ちょっと、ぶらりと一人旅してきたいんだけど。
どこへ。
ベトナム。
どうして、そんな所に行くの。
ううん、と。近くて、暑いから。とにかく、夏の国に行きたい。ハワイやグアムは、タレント時代にいっぱい行ったから、もういいの。
二日もすれば、懐かしくなるよ。日本の寒さと、日本の男が。
だったら、いいのに。
見送りにいこうか。
来ないで。どうせタクシーで空港まで行くから。それに。
それに?
今のあなたには、寒いと思う。今の東京の戸外は。あなたには、寒すぎる。
別に寒くはないよ。
そんな不毛な会話は、料理をしないキッチンでしていた。私はいつも、男と外に食べに行く。けれど、食後のお茶と果物くらいは出している。流しの前で林檎《りんご》を剥《む》いていたら、男は普段そんな性急なことはしないのに、いきなり背後から抱きついてきたのだ。
危ないじゃない。
ナイフを置こうとしたのに、それは床に落ちた。小さな傷がフローリングの床についたのを、私は見逃さなかった。男が金を出して住まわせてくれている部屋なのだけれど、私は体の芯《しん》がひんやりするほど、怒りを覚えた。
男は結構酔っていて、いつまでも完全に硬くならないものを、無理矢理に私の中にねじ入れてきた。私は男に乗られたまま、ずっと床のナイフを見つめていた。終わるまで見ていたし、終わった後、男が寝入ってからも見ていた。
――――そんなふうにして私は、初めてのベトナムへと旅立った。東京の寒さと男から逃れたくて、あまり深い考えも期待もなくあの南の国に渡ったのだ。
淡々と出ていったから、冷めた風も、私をどうしても手放せないくせに別れたくて仕方ない男も、素っ気なく送り出してくれた。ただし、ベッドに寝たまま。仰向《あおむ》けになって、目は虚《うつ》ろなまま天井を見上げて、いったのだ。
ちゃんと、帰ってこいよ。
それだけで、いいのね。
ああ。お前が帰ってこられるのは、ここだけだから。
床に、ナイフはもうない。けれど、傷は残っていた。
スーツケースを引きながらマンションの廊下を歩いていると、ひと部屋おいた隣に住む口うるさいおばさんに立ちふさがられた。最初から、私を嫌っている態度をあらわにしてきた、ある意味、とても正直なおばさんだ。
海外? 国内? どっちにしても、生ゴミだけはきちんと出していってね。いくらこれから涼しくなる季節だからって、何日も閉めっぱなしの部屋に生ゴミを置いてたら隣近所にもにおうんだから。
はい、大丈夫ですよ。
本当? アンタがしょっちゅう連れ込む、あの男。あの人に合鍵《あいかぎ》を渡しておきなさい。とにかくゴミはまめに出せ、って。
私は一度だけ、自分の部屋のドアを振り返った。ひっそりと静まり返り、冷えた鉄のドアは、何のにおいも漂わせていなかった。
そうして旅立ったベトナム最大の都市ホーチミン・シティで、幻想を裏切りつつも新たな幻想を見せてくれる、夏の国の彼に、私は出会った。夏の国で生まれ育ち、夏しか知らずに死ぬはずの彼に恋をした。
彼もまた私を通して、冬を知った。知るはずのなかった冬を見てしまった。彼は初めて凍えることの意味を知った。
そう。恋をしなくても愛を知らなくても、夏は苛酷《かこく》で歌う喉《のど》は嗄《か》れ、短い虫の命にさえ泣き声を捧《ささ》げ、別離の小鳥に青ざめた頬をつつかせる。
けれど焦土は花園に還らず、死者は裏口からひっそりと戻ってきてはくれない。そうして灼熱《しやくねつ》の夏が逝けば、後には孤独な晩夏があるばかり――――。
*
……無傷なままの街や人はこの世のどこにもありえないけれど、夥《おびただ》しい傷跡を隠さずに煌《きら》めく街はあり、生々しい傷口を晒《さら》して輝く人々もいる。うたかたの日本の夏と、永久のベトナムの夏。
何もない、ただ青く晴れ黒く沈む空を飛ぶ飛行機の中で、私は今まで欲しかったものとこれから欲しいものとを数えてみる。数えたとて、意味も何もない、昔欲しかったものはもう要らなくなっていたり、歪《ゆが》んだ形で手に入っていたりする。
だから、何も欲しくないかと聞かれれば、それは違う。
私は、消えない夏が欲しい。いなくならない男が欲しい。真っすぐに、誰かを恋したい。なのに、破滅に向かって軽やかなステップを踏みたい。
途方もなく強欲なのか、哀れなほどに無欲なのか、自分ではわからない。
――――昼間に発つ飛行機なのに、すでに機内は夜の気配に満ちている。
なぜか懐古的な色合いを持つ機内の、ビジネスクラス。およそ半分のシートが埋まっているだろうか。穏やかな老夫婦、欧米と日本の商社員ふうの男達、新婚旅行なのか三十代とおぼしき大人しそうなカップル。
もちろん他の乗客の確かな素性などわからないが、男に出してもらった金でビジネスクラスに乗っているのは、私だけだろうというのはわかる。
灰色のシートは不快でない古い匂いがして、フットレストも背もたれも、すべて微《かす》かな不具合があって、引き出すテーブルは可憐《かれん》に傾いていた。
よく、韓国の飛行機に乗ると大蒜《にんにく》の匂いがするとか、日本の飛行機は醤油《しようゆ》の匂いがするとか聞く。いっているのは当然、外国人だろう。しかしベトナムの飛行機は、別に魚醤《ぎよしよう》や香草の匂いはしない。懐かしい不幸の匂いがするだけだ。
私はすぐに微睡《まどろ》む。熱された道路を恋い、非情なのに豊かな流れを持つサイゴン川を夢見、アオザイ姿の人形のように美しい乗務員に見下ろされながら、目を瞑《つぶ》る。
ヘッドフォンをつけて日本の歌を聴きながら、微睡んだ。いつのまにか深く寝入っていた私の耳からヘッドフォンは外れていて、かしゃかしゃという微かな音漏れで目を覚ました。
そこから聞こえてくる音楽は、どこのものでもなかった。私の欲情と恋情とをかき立てて、嘲笑《あざわら》う何かだった。
そういえばここは、すでに高度何万フィートかの位置だ。本来は、生身の人間は来られない場所だ。天国といえなくても、近い場所とはいえるだろう。機内にいるのは、決して天国には入れないし近付けない、凡庸な生きた人間ばかりだけれど。
これはもしかしたら、秘密裏の天国の歌かもしれない。聴きたいのに怖い私は、思わず音量を最小に下げてしまう。ヘッドフォンを外して、前の座席のポケットに入れる。それでも耳朶《じだ》には、かしゃかしゃと淫猥《いんわい》な旋律が残っていた。
帰りの飛行機の中でも、私はきっとこれを聴く。ベトナムで、夢のように恐ろしい目にあわされ疲れ果てて帰る私のために、さらに淫靡《いんび》な恋の歌の響きだろう。外れたヘッドフォンは、いつでも生温かい。
そこから流れる最小の音量で、この上なく甘い怖い囁《ささや》きをくれるだろう。閉じた瞼《まぶた》が、期待と恐れに軽く痙攣《けいれん》をする。
それはきっと、ベトナムのどこかで出会うはずの誰かからのメッセージだ。愛しているでもさようならでも、きっと同じ響きを持つはずだ。
いずれにしても、私は空からベトナムに入り、空からベトナムと別れる。その誰かにしてみれば、私は空から来る女で、空に帰る女だ。天女と呼ぶには老いすぎていて、性質が悪すぎるとしても。
私が目覚めたことに気付いた乗務員が、紅色の裾《すそ》を翻して近付いてきた。たぶん、癖のないきれいな英語。
何かお飲み物はいかがですか。
ください。
私は、日本語|訛《なま》りのたどたどしい英語で答える。
少しだけ強いアルコールが欲しい。
何がよろしいでしょうか。
ええっと……。
まだ体の半分を夢の泥沼に沈めたまま、どこかうっとりした口調で私は微笑む。外れたヘッドフォンの中から誰かが囁いた。トマトジュースとウォッカのカクテルにしておきなさい、と。
まだ見ぬ誰かに唆《そそのか》されて、私はいいなりになる。夢の泥沼から這《は》い上がった頃、簡素なグラスのカクテルは届いた。
ベトナム航空機の中で飲む、ブラディマリー。トマトジュースはどこかの愛《いと》しい誰かの血ほどに薄いのに、底に溜《た》まるほど胡椒《こしよう》を振ってあって、舌が、痛んだ。口の中にいつのまにこんな傷ができていたのかと、退屈な回想に耽《ふけ》った。
マンションに残してきた男を想い出す。気乗りしない接吻《せつぷん》だったのに、確かな傷をつけられている。と、舌打ちしたら、その舌がまた痛んだ。あんな男など、今はどうでもいい。今の私は、このカクテルを誰かと飲みたいと願う。
血と胡椒と赤い野菜と強いウォッカと。なぜこんな相応《ふさわ》しい飲み物に、今まで気付かなかったか。飲み終えた後、今度はヘッドフォンをつけずに転寝《うたたね》をした。誰かが私の耳たぶを舐《な》めていたが、心地よいのでそのままにさせておいた。濡《ぬ》れているのはその誰かの舌なのか、私の耳たぶなのか。
私は、夢に入り込む。
血に似た野菜の汁が見せたかウォッカが誘ったか胡椒が刺激したか、ホーチミンとも東京ともつかない街の上空に、巨大な南国の花が一輪咲いている夢だった。
原色なのに可憐な花だ。血の筋が一つ花弁から滴り、街に落ちていった。私はそのホーチミンとも東京ともつかない街の舗道に立ち尽くし、血を受けていた。わずか一滴しか落ちなかったはずなのに、私は血塗れになっていた。誰かがそんな私を背後から抱き締め、その血を愛しげに舐めていた。
甘美な痛みの中で、私は知るのだ。この血は天から滴ってきたものではなく、私の体が流しているものなのだと。だからこそ、背後の誰かは愛しげに美味《うま》そうに舐めているのだし、私はうっとりと舐めさせているのだ……。
あなたは、誰。
知っているくせに。
知らないわ。
いいや、知らないふりをしているだけだよ。
――――やがて目覚めた私は、濡れた耳たぶを拭《ぬぐ》う。確かにどこかの誰か、しかも男に舐められ続けた痺《しび》れが残っていた。もしかしたら、ベトナムにいる誰かも今昼寝をしていて、私の耳を舐める夢を見ているのかもしれない。
肘掛《ひじかけ》に置いておいたカクテルのグラスはすでに下げられており、飛行機は降下を始めるとのアナウンスがあった。窓外はすでに、日本ではないのだ。だからこその、濃い青空。アナウンスの雑音には、遠ざかる天国の楽曲も混じっていた。夢の中の花は、もう枯れて散っていることだろう。ホーチミンの空にも、東京の空にも、等しくきれいな一筋の血を垂らして。
私は窓外を見下ろす。どこかにまだ胡椒と血の味を残したまま、翼とともに傾く。傾く先には、すでに熟れた匂いのする街並と、水は冷たいはずなのに熱されて泡立っているのではないかと期待させる、サイゴン川とがある。
私のあの人は、どこ。
まだ見知らぬ人を、私は激しく懐かしむ。輝く絶望の街並と、煌《きら》めく孤独の滑走路と。その誰かは、まだ返事をくれない。
着陸の衝撃に備えてではなく、これから会う男への甘美な恐怖に耐えるため、私はきつく目を閉じて肘掛を握った。
わずかにこぼれていたカクテルが、手のひらにつく。飛行機が滑走路についてから、目を瞑ったまま手のひらを舐めた。きっとこれから待ち構えているはずの、愛しく憎く愛らしく、恐ろしい誰かの血の味がした。
*
一九二五年から、サイゴン川とドンコイ通りの交差地点にあるフランス統治時代をありありと再現してくれる白いホテル。数多《あまた》の不幸を見下ろしてきたはずなのに、それが瑕疵《かし》にはなっていない冷徹さと驕慢《ごうまん》な美貌《びぼう》に、私は惚《ほ》れた。
大理石張りのロビーに幾つも立ち並ぶ白い円柱は、その一つ一つに必ず古い亡霊をたたずませているという噂は、どこで聞いたのか。
カフェの入り口にある円柱にたたずむ亡霊を、最初に見付けた。透き通る白いアオザイの裾《すそ》と、裸足《はだし》の左足しか見せてくれない女だけれど。たったそれだけで、美しく若い女だとわかった。
まだ死んで間もないらしい子供は、ゴブラン織りの懐古的な花模様の布を張った優美で古い椅子にかけて、黒々とした片目だけを蜜《みつ》色のシャンデリアに向けていた。
その子は、カフェの円柱の女に怯《おび》えていた。亡霊も亡霊に怯えるのだ。そんなにおかしなことではない。生きた人とて、生きた人を恐れるではないか。
旺盛《おうせい》な命と狂おしい歌と溢《あふ》れる果実や荷物を乗せた船の行き交う、サイゴン川。沿って流れる、ドンドゥックタン通り。輝ける闇を目指して疾走する小型バイクの群れ。颯爽《さつそう》とした凶器としかいいようがない車の流れ。ホテルに頼んでおいた送迎車の運転手は、最短距離でここに連れてきてくれた。
礼儀正しい老いたボーイに案内されたのは、二階の川べりの部屋だった。サイゴン川を見下ろせる部屋。磨きぬかれた飴《あめ》色の床。絨毯《じゆうたん》などない方がいい。裸足の似合う国と街なのだから。
艶《つや》やかに古びたテーブルには腐敗すら高貴なものとする果物が供され、外国人を愛らしく偽る花々が飾られている。
ボーイが出ていった後、私は二つあるベッドのうち、出入口に近い方に仰向《あおむ》けに寝そべった。その刹那《せつな》、激しい孤独を感じて叫びだしそうになった。
ほとんど狂暴なといってもいい衝動で、私は涙を流した。なぜ私は今、こんな所にいるのか。日本に帰りたくないのは、何が理由なのか。
何よりもどうして私は異国で、独りぼっちなのか。
気がつくと私は、いきなり廊下に飛び出していた。誰か来て、と擦《かす》れた声で叫びながら。誰でもいいからと、上擦る声で泣きながら。
――――彼が、いた。
美貌の亡霊としてではなく、愚かな詩人が美化した虚《むな》しい幻としてでもなく、彼は彼として、そこにいた、のだ。
たちまち私の狂乱は静まり返り、敬虔《けいけん》なといってもいい眼差しを投げ掛ける。
あなた、ね?
わたし、です。
それだけの会話で、すべては成立した。私達は解りあえた。奇跡のように、当たり前のように。
濃艶《のうえん》な暗い廊下に立つ彼は、明らかにホテルの従業員ではなかった。黒い簡素なシャツもズボンも、制服ではない。といって、宿泊客とも違うようだ。そもそも市内の高級ホテルは外国人向けのものなのだから。
彼は、ベトナム人だった。若くて美しい、不幸をよく知っているベトナムの若い男だった。そうして、見知らぬ私の恋人だった。
密《ひそ》やかに射し込む飴色の光に浮かび上がる彼は、最初から綺麗《きれい》な顔をして端整な微笑を浮かべていた。
とっさに、下手な英語で訴えた。
何かとても、怖い気配がしました。少しでいいから、私の部屋に入って下さい、お願いです。怖い。わからないけれど、私は怖い。
泥棒がいたとか害虫がいたとか、そんな嘘偽りはすぐに見破られるだろう。けれど気配と訴えたならば、咎《とが》められはしないはずだ。
ちょっと考えれば、彼は従業員でも宿泊客でもなく、ホテル荒らしといった悪党かもしれないのだ。それだけならまだ、ましかもしれない。彼こそが悪い気配になりうるのかもしれないのだ。
だが、それより先に私はすがりついていた。彼はとても清潔な匂いがした。生きた者が持っていてはいけないほどの、清楚《せいそ》な匂いを漂わせていた。
わかりました。あなたの部屋に、行きます。
流暢《りゆうちよう》とはいえないけれど、わかりやすい英語だった。
私にしがみつかれたまま、彼は微動だにしなかった。温かな体温があるのに、笑顔はひどくひんやりとしていた。
彼は感動的なほど、望む通りの答えをくれた。
やっと、会えましたね。
その簡素な答えは、ホーチミンでずっと私を、私だけを待っていたと、報《しら》せてくれるものだった。
そうよ、やっと会えた。あなたは飛行機の中で、すでに私を舐《な》めていた。もう私にはわかっている。あなたがどんな舌を持っているかを。
痛ましい妄想がめくるめく現実に追い付いたというべきなのか。ならば、これは褒美だ。とはいっても、妄想が素晴らしかったからではないだろう。どちらかといえば、憐憫《れんびん》や罰や罠《わな》に近いもの。
それでいい。私にとって、ご褒美と罰とはほとんど同じものなのだから。どちらも私の死後を華やかに語りついでくれる逸話だ。葬儀の際、お座なりに流される小さな楽曲だ。
会いたかった。私達はしっかりと、抱き合う。それまで全身を覆っていた絶望の色彩と孤独の陰りは消え去り、懐かしい南国の幻の花が咲くのを見た。ここに来る飛行機の中で見た、あの派手な虚空に咲く花だ。
だから、聞かない。あなたも亡霊ではないのかと。私にわからないベトナム語で、他の美しい亡霊達と内緒話などしていなかったかと。
私達は久しぶりに会った恋人同士として、部屋に入った。
ああ、何かがいる。
彼は私を抱き寄せたまま、そう囁《ささや》いた。
何が、いるの。
妖《あや》しいもの。けれど、大丈夫。私達だって、妖しいのですから。
部屋に入るなり、彼は私を抱き寄せてきた。それを合図にしたのか、窓外のサイゴン川から一際大きな警笛が鳴り響いた。何かを目覚めさせる凱歌《がいか》だ。どこかを陥れる砲火だ。誰かを弔う恋の詩だ。
カーテンと同じ、淡い桃色の地にどこにも咲かない青い薔薇《ばら》を散らせたベッドカバーを撥ね除《の》けると、私は仰向けになる。涙ぐむほど可憐《かれん》なシャンデリアを見上げながら、彼に跨《また》がられた。
早く、早くちょうだい。
大丈夫。僕は、どこにも行かない。
焼けた艶《つや》やかな肌は、私を途方に暮れさせるほどに滑らかだった。吹きかけてくる吐息の甘さは、ほとんど私を狂わせた。
私はあなたとしたい。したかった。
恋したかった、ではなく。ただ狂おしくやりたかった。
この部屋にも亡霊達は、そこここにひっそりとうずくまっている。隣のベッドにも、いるではないか。ひどく古い時代の美少女が、とうに死んでしまった恋人の迎えを待ちながら、悲しみで胸をいっぱいにして今もまだ待ち続けている。
満たされても成仏しないものはいる。どんな花束を捧《ささ》げられても、奈落《ならく》の底から這《は》い上がれないものもいる。たとえば、私達。
私が彼の服を脱がせ、彼が私の服を脱がせる。夏の国だから、どちらも簡単だ。私の簡素なワンピースは、背中からつるりと果物の皮を剥《む》くように脱がされた。彼の簡素なシャツもズボンも、ともに一呼吸で彼から剥《は》がせられた。それらは、彼によって勢いよく床に払い落とされた。
全裸になった方が、落ち着いて相手を見られた。私の中にはまだ、血に似たカクテルが残っていることだろう。彼の中にはきっと、ベトナム特有のきつい香草と淡泊な米の麺《めん》が入っていることだろう。
私の肌はそれを隠して火照り、彼の肌は隠さずに残り香をまつわらせる。閉じてあるはずの窓のカーテンが翻り、私は耳元にヘッドフォンから漏れてきていた不思議な歌声を聴く。それに合わせて、身をくねらせる。
恥じらうことなく全裸になった彼は、恥じらうふりだけする私に覆いかぶさってくると、まだ半分しか勃起《ぼつき》してないものを股間《こかん》に押しつけてきた。
それだけで、私は蕩《とろ》けて輪郭を無くしてしまう。彼の肩越しに湿った息を吐くと、まだ半ば柔らかいものを湿った場所でしっかりと挟む。
彼の肩や背中を撫《な》でる左手は、まるで姉のごとく慈愛の方に傾いている。けれど下に降ろして彼の生温かい性器を握る右手は、欲情に火照る恋人のものですらない。私は自分の欲の炎に炙《あぶ》られる。
この手は、いつか心中しようと、いつかともに果てようと、一方的な破滅の約束を取りつける生きた亡霊のものだ。
抱いている女の恐ろしい企《たくら》みを知ってか知らずか、彼は性器を完全に硬くした。私はまだ挿入させず、大事に握っていた。すでに私も潤って、そこから溶けだしそうになっているというのに。
不意に、テレビがついた。誰もリモコンに触れていないのに。テレビの中からだったのか、けたたましい女の笑い声が響いて、すぐに声は止んだ。
彼は一瞬背後のテレビの方を振り返ったが、すぐに何事もなかったかのように私に覆いかぶさってくると、いきなり性器を挿《い》れてきた。
確かな血の通う、可憐に猥褻《わいせつ》な肉の先端だ。彼の性器も私の性器も、濡《ぬ》れきっていた。血ではなく、体液に。
いい。すごく、いい。
僕も、いい。すごく、いい。
テレビの音量はひどく絞られていて、画面は鮮明なのに音声はまったくといっていいほど聞こえてこない。
ああ。
悦《よろこ》びのため息を洩《も》らしたのは私ではなく、画面の中のベトナム女だった。翻るカーテンの裾《すそ》から、若い女のきれいな裸足《はだし》の左足が覗《のぞ》いた。ロビーの円柱の陰にいるはずの女だ。いいですよ、見ていても。私は小さく笑う。
可哀相に、あなたは何十年も、ここで誰かを待っている。その誰かは来てくれないし、あなたは自分が死んでいることすら気付かずに、待ち続けている。隣のベッドの少女と同じに。
私達を見なさい。私達も永劫《えいごう》の時を待ち続け待たされ続けるはずだったのに、今はこうして激しく求め合い愛し合っている。
緩慢に、彼は腰を動かし始めた。私はサイゴン川に潜む魚のように、身を捩《ねじ》る。中に入れられた性器もまた、不思議な魚のように跳ねた。飛沫《しぶき》は飛ばないが、生温かな水が溢《あふ》れて魚すら溺《おぼ》れさせる。
まだ正気でいられる私は、彼の肩越しにテレビを見た。画面の中央には洋装の年増の美人が出ていて、料理を作っていた。
ベトナムのケーキかお菓子だろう。年増の女が黄色の小菊を毟《むし》って、容器に注いで絞っていた。小菊は香り付けのためか味付けか。ガラスのボウル、銀の調理器具、全体に薄青いキッチンのセットは、儚《はかな》く安っぽい。
彼女は深刻そうとも面倒臭そうともとれる表情で、いちいちこちらに何かを語りかける。しかし悠長な料理だった。とても庶民には参考にならないだろう。あくまでも日本人の感覚だが、美味《おい》しそうでもない。
毟られる小さな黄色い花弁が、ただ可哀相だった。いやらしいことばかりしている異国の女に、ブラウン管越しに最期を看取られる花。私が今死ねば、あの花々が私を埋め尽くしてくれそうだ。このホテルのロビーにも飾られていた、慎ましい花。
この国ではまだ、テレビはどこか非現実の夢の箱、幻の中継地点だ。日本のように、つまらない現実と地続きではない。
彼が腰の動きを速めた時、あの絞られた小菊の匂いと味がした。つながりあった所から、舐めあう口腔《こうこう》から。
彼の乳房の捏《こ》ね方は、まるで料理を作っているようだ。丁寧に、しかし自分勝手な目分量で計る。それでも乳首をつままれると、私は自分を抑えられないほどに跳ね上がり、高い声をあげてしまう。
もっと、もっと、強く。
これ以上強くすれば、あなたが壊れる。
彼はいったん性器を抜くと、私に密着したまま体の位置を変えた。彼は私の股間に顔を埋め、愛撫《あいぶ》ではなく何かを食べるようにそこを舐《な》め始めていた。すぐに私は痙攣《けいれん》してしまう。素直すぎる私の体。
彼の頭を腿《もも》で挟みながら、私は少し泣いた。それでも、私だけが快楽を貪《むさぼ》っていいはずはない。痛々しいほどに勃起したものが、まさに口元にあるのだ。一息に、それを頬張った。彼もまた、早すぎる痙攣を伝えてくる。
すでに私の肉体の一部であったというほどに、近しい体温を伝えてきた肉の塊。決して芳香ではないはずなのに、恍惚《こうこつ》とする匂いと味に満たされて、私は夢中でしゃぶり舐め続ける。
私の性器の舐め方は、まるで猫の食事の後のようだ。美味しかったですという顔をしながら、未練がましく舐め尽くしていく。
彼もまた、そこから私を食べていきそうな強さで舐め続けている。最初に負けたのは彼であったことに、私は快哉《かいさい》を叫べばいいのか、ごめんねと頭でも撫《な》でてやらなければならないのか。
ほとんど狂暴な勢いで、彼はまた密着したまま体位を変え、挿入してきたのだ。あまりに濡れているために、何の抵抗もないのが嬉《うれ》しくもあり、悲しくもある。彼はやはり無慈悲な力で乳房を捏ねながら、性器を突き立ててくる。
性器が立てる音と口を吸いあう音は、黄色い花が潰《つぶ》れるのとそっくりだ。テレビの中の女もうなずいてくれるだろう。笑うはずはないのに、テレビの女は笑った。
一段とその音が高くなった時、彼は私を突き飛ばすように体を離した。膝《ひざ》を立てて屈《かが》み込み、手のひらに白い液体を受ける。
彼のその滑稽《こつけい》な姿に見惚《みと》れ、素敵な姿に目を背ける。彼もまた、だらしなく足を開いたまま仰向《あおむ》けになっている私を、そんな気持ちで見ていることだろう。私は本当に、すべてを投げ出して曝《さら》け出して裸になっていた。
隣のベッドに寝ている美少女の亡霊は、そんな狂乱はまるで感じられないといった静かな姿で、来ることのない恋しい男を待ち続けていた。カーテンの陰にいる美しい女の亡霊は、わずかにその透き通る足を反らせただけだ。
しかし体液に塗れた陰部は、陰毛は、血に濡れている方がまだ愛らしいだろうと想像させる汚さだ。その汚さが、愛しくてならないのに。
どうでしたか。
よかった。よすぎて、私は悲しい。
同じです。僕も、あなたがよすぎて今、あちこちが痛い。
彼はベッドを降りると、悠然と手を洗うために洗面所に向かう。私は濡れた所も乾いた所も曝け出したまま、仰向けになっていた。そのまま薄目を開けてテレビを見れば、もう画面は暗くなっていた。
戻ってきた彼は、テーブルの上の籠《かご》に手をやる。すでに洗われてしまっているのに、生臭い残滓《ざんし》のある手で。全裸のまま、添えられた銀のナイフを取る。その立ち姿があまりにもよくて、私もまだ服を着る気になれない。
何より彼に凶器めいたものを持たれると、嬉しくて震えがくる。
どこからでも、刺して。
そんな気持ちを伝えたい私は、仰向けになったままどこも隠さない。だんだんと性器は乾いていくけれど、見上げる目は濡れたままだ。
ねえ。あなたは、どこの誰なの。
気になりますか。
そりゃあ、少しは。
僕はあなたがどこの誰であろうと、気にしませんが。
でも、私は少し気になる。少しだけ、教えて。
こちらもまた、だんだんと萎《しな》びていく性器。彼は隠すことなく、籠の果物を手にした。やはり異国の女に触られるより、この国の美しい男に触られた方が果物も喜んでいるように見える。今にも、皮が破れて蜜《みつ》が溶けだしそうではないか。
彼は、果物を手にしたまま答えてくれる。
ホーチミンの、男。
それは、知っているわ。
それだけで、充分ではないですか。
あなたは、私を知っている?
知っています。日本の女。
昔は、ちょっとだけ有名だったんだけど。
僕には、それはあまり関係ないことです。
そうね。
今の僕には、今のあなただけが必要ですから。
ありがとう。私もよ。
あなたは、美味だった。
あなたも、よ。
何よりあなたには、強い死の匂いがある。
……ありがとう。あなたにも、よ。
だから、僕達は、惹《ひ》かれあった。
彼は綺麗《きれい》な全裸のまま、果物を剥《む》いている。まったく贅肉《ぜいにく》のない背中に下腹に、私は羞恥《しゆうち》し悦《よろこ》びに震える。
黄昏《たそがれ》の光が射し込む部屋では、生きた者と死んだ者は区別も差別もされない。彼は異様なほどに暗がりで鮮明な笑顔を浮かべる。笑いながら、果物を刺し貫く。自分が刺されたように、私はわずかに跳ねあがる。
果物の彩りは、やはり日本とは異なる。一際目立つ真っ赤なサボテンの実のようなものは、ベトナム名はタンロン、英語名はドラゴンフルーツだ。果肉は黒い胡麻《ごま》粒を散らした白い西瓜《すいか》のようで、味も西瓜に近い。機内で、食べた。
全裸のまま俯《うつぶ》せになり、私は話しかける。お互いにたどたどしいから、かえって通じあう英語。彼は全裸のまま椅子にかけると、タンロンにナイフを入れた。確かな殺戮《さつりく》を行なう、澄み切った眼差しで。
私のどこかにも傷はつく。つけて欲しい、もっともっと。命を維持するために必要な血など、惜しくない。すべての血を、あなたに放出させてほしい。青ざめた私の死体はきっと、美しいだろうから。
あなたは、柘榴《ざくろ》を知っている?
ザクロ?
リュー、よ。
私はベトナムで出会う誰かに果実の話がしたかったから、ちゃんと辞書でベトナム名を調べていた。いったい、誰にするつもりだったのか。
彼だ。会う前から知っていた、彼。
わかります。堅い皮の中に、宝石のような赤い粒が入っている。少し、いやらしいものにも似ている。
器用に果肉を切り分けながら、彼は果実の断面に目を落としたまま笑った。私も仕方なく笑い、ゆっくりと続けた。
日本では、人間の味がする、といわれているの。
そこで彼はナイフを持ったまま、私を見た。
人間の、味、ですか。
そうよ。人の子供を食べていた鬼女に、もう食べるな、代わりにこれをと尊いお方は柘榴を差し出す。確か、そんな伝説があるの。
その話は知りませんでした。でも。
彼は怒っているのではないが、眉根《まゆね》を顰《しか》めていた。そんな怖い話をしないで、といいたいのだろうか。
しかし彼はすぐにまた果物を切り始めると、いつもの表情に戻って答えた。
違いますよ。人間は、あんな味はしない。
艶《つや》やかな飴《あめ》色の肌をした愛《いと》しい彼が、束の間まるで知らない男に見えた。無駄な脂肪など欠片もついていない体が、今し方まであますところなく抱き合っていたそれだとは思えないほど遠くにある。
じゃあ、あなたは人間の味を知っているの。
いいえ。知るはずがないじゃないですか。
では、どうしてそんなことがいえるの。
食べてはいないけれど、知っている味というものはあるのです。たとえば。
たとえば?
行って帰ってきた人はいないのに、誰もが地獄は美しいと知っている。そうして、天国はそんなに色彩豊かではないことも、皆がわかっている。
そこで彼は立ち上がった。青い縁取りのある皿を持ち上げ、子供じみた仕草で手招きをするのだ。私はそろそろとベッドから降り立った。
ああ、と溜《た》め息が漏れる。今から、潤ってはいけない。彼に弄《いじ》られ、嬲《なぶ》られて初めて滴《したた》らなければいけない。
テーブルを挟んだ向かいの椅子にではなく、彼の足元の床に直《じか》に座った。彼はまるで飼い犬に与えるように、果物の一片を口に入れてくれる。ひざまずいて、私はくわえる。彼に触りたいのを、こらえる。彼の方から、触ってほしいからだ。
果物の物語は、ベトナムにもあります。
私の気持ちを知ってか知らずか、彼はゆっくりと話を続けた。
とても古くからあって、誰もが知っているけれど、いつどこで聞いたかは決して思い出せないくらいの、昔話。最も有名なものは、一人の美しい女が人間の赤ん坊ではなく、椰子《やし》の実を産むという物語です。本当は素敵な王子様。椰子の実は椰子の実の姿をしたままで、様々な冒険をするのです。
面白そうな、楽しい話ね。
私は淡泊な果実をゆっくりと飲み下して、答えた。
日本の最も有名な果物の物語は、やはり桃太郎か。しかし桃を産むのではなく、桃から生まれるのだった。
桃と椰子。お国柄というのか土地柄というのか、その違いが表れている。私はどちらの主人公になりたいだろうか。果実から生まれるのと、果実を産むのとどちらが甘美な苦痛を伴うか。どちらが、狂おしい歓喜を味わえるか。
彼は真摯《しんし》な表情で、今度はマンクック、と呼ばれる果物を手に取る。英語ではマンゴスチンだ。ひどく地味な堅い皮に覆われているのに、果肉は官能的なほどに甘く濃く、女の肌の色をしている。
彼はナイフを置き、手で剥《む》いた。剥きながら、少し足を広げた。私はそれだけで、自分が熟れた果実になるのを感じる。
すでに萎《な》えてしまった性器は、やはり何かの果物に見えた。私はもはや、我慢ができなくなっている。ひざまずいたまま、口に含んだ。
彼はわずかに眉根を寄せたけれど、唇は微笑む形にする。そしてまた少し足を広げてから、堅い皮を剥く。
昔話ではないけれど、僕が好きな果物の話があります。
と、彼はベトナム語で何かの果物の名前を告げた。私にはわからなかった。英名も日本名もわからないというから、私は発音すらできないその果物の話を聞くしかない。口の中で、彼もまた熟れていく。
彼の置き方がよくなかったのか、唐突にナイフは軽い音を立て、床に落ちた。このホテルは絨毯《じゆうたん》など敷いていない。直に裸足《はだし》が触れる、飴色の木の床だ。ナイフは小さな傷をつけたが、元々ここの床は無数の小さな傷に覆われているのだ。
けれどそのナイフと小さな傷に、私は何かを思い出しかける。嫌な嫌なものを。いったん彼を離して、すぐにナイフを拾いあげてテーブルに乗せた。また改めてひざまずき、彼を味わう。
私がそんなことをしている間、彼はどこか黒い綺麗《きれい》な硝子《ガラス》玉に似た瞳《ひとみ》をまったく動かさず、果物を食べていた。私も早く、ああして食べられたい。彼は焦らすように、果物の物語を止めない。
小さな小さな果物の実ですよ。南洋にしかない、果実。
私の国にもあるのかしら。
あなたの国にあるかどうかはわからない。
美味《おい》しいの?
いいえ、全然。少なくとも、人間にとっては美味しくない。あまり誰も食べない。よほど飢えないと食べないくらいに、小さな実。僕も、食べません。
何かしら。日本にあるかな。あったとしても、きっと沖縄とかでしょう。東京には、ないでしょうね。
彼の性器を、その不思議な名前の果物としてしゃぶりながら、聞く。彼はしゃぶられながら、唇の端で笑う。どんな形にしても、損なわれない端麗な唇の輪郭。
まず、小さな男の蜂が飛んできます。そして、実に穴を開けて入り込みます。そこで待っていると、男の蜂が開けた穴から今度は女の蜂がやってくる。
私の口の中で、まだ彼のものは硬くはならない。さすがにさっき放出したばかりでは、すぐに回復はしないだろう。それでも、いい。この柔らかさもまた、愛らしい。ずっとこのまま、口の中で可愛がりたい気もしてくる。
それでも早く硬くしたい思いもあって、私の匂いと味がついたそれをしゃぶり尽くす。湧いてくるのは、甘味ではない。生臭さだ。それが、いい。それこそが、私にとっての美味であり、甘味であるのだから。
これからきっと、怖い話と怖い思いができると期待しながら、私は舌を絡める。彼は舐《な》めてくれないのに、触ってくれないのに、どうしようもなく中心は濡《ぬ》れ始めていた。自分は熟れ続けているのだから、早く早く食べてと願いながら。
果物はみんな、人間のためにあるのではありません。だから、美味でない果物もある。
彼は少しだけ、切ない吐息を洩《も》らす。性器は再び、血の気を取り戻し始めていた。先端から、苦味のある果汁も漏れ始めている。
その実は、蜂にとっては美味な匂いがするのでしょう。その実は、蜂のためだけに存在するといって、いいのです。
蜂のためだけに、なの。そもそも、その蜂は、日本にはいないのかもしれないわ。
はい。男の蜂と女の蜂は、果実の中でセックスをします。そうです、私とあなたのように、日がなつながりあう。
そこに、愛や恋はあるの?
いいえ。愛も恋もないです。しなければいけないし、したいから、する。私とあなたのようにです。
それは悲しいわ。私達には少しくらい、愛や恋もあると信じているのに。
ごめんなさい。それは、そうです。でも、それ以上に欲望の方が強い。それもまた、確かなことでしょう。
私の口の中で、果肉は膨らんできた。正座している私は、剥き出しの性器が膨《ふく》ら脛《はぎ》に当たっているが、強い湿り気を帯びてきているのがよくわかる。蜂と蜂の交尾する姿が、閉じた瞼《まぶた》の裏に映る。
やがて女の蜂には、子供ができます。皮に小さな穴が開いただけの果実の中で、蜂の夫婦は子育てをします。
ああ、それだけ聞くと、いい話みたいね。
生まれた子供も、親の蜂も、周りの果肉を食べる。やがて大きくなった子供は、その穴から外に出ていきます。女の蜂も、出ていきます。
そう、出ていくの。
彼はそこで、果物の汁に濡れたままの両手で私の頬を挟んだ。彼にされるがままに、私は目を開け、口を離す。性器は上向き始めているのに。
彼は剥いた果実を代わりに口に入れてくれた。濃厚な甘さに、かすかに気が遠くなる。彼の濃い睫毛《まつげ》は、不思議な蝶の羽根のように動く。
すでに柘榴《ざくろ》のように開いてしまった部分からも、そっくりな果肉が覗《のぞ》いているはずだった。急いで飲み込むと、また彼の性器をくわえる。同じ味がした。私は女の蜂、そう。雌の蜂ではなく女の蜂になって、彼を吸う。
独りぼっちになった男の蜂は、すぐに死にます。
死ぬの。可哀相。それは、果実の中で?
そうです、果実の中でです。けれど、可哀相ではありません。それが男の蜂の宿命なのですから。
思わず、私はくわえたまま彼の目を見上げた。彼はどこにもいない蜂を追うように、ぐるりと部屋中を見渡した。鋭角的なのに典雅な顔の線は、どうやっても濃い影を落とす。
ねえ。女の蜂と子供の蜂はどうなるの。
同じことの、繰り返しですよ。
その声の響きは、ひどく寒々としたものを持っていた。だからといって、彼の魅力が損なわれるものではない。
繰り返し、なのね。
そう。永遠に続く、繰り返し。
彼もまた、雄の蜂のような諦《あきら》めの声を出したはずだ。
女の蜂は果実から出て死ぬ。子供の蜂は、男の子なら父親と同じように、果実に穴を開けて入り込み、どこからかやってくる女の蜂を待つ運命なのですよ。
それから、どうなるの。
そうして、果実の中で日がな愛し合う。愛はなくても、愛し合うのです。
そこで彼は、私と目を合わせてくれた。酷薄なのに甘い唇は、笑う形に歪《ゆが》んでいる。
じゃあ、女の子の蜂はどうなるの。
少しだけ口を離して、私は彼の足に乳房を擦《す》りつける。冷房は利いているのに、乳房の間には汗が溜《た》まっていた。
それを擦りつけ、また含み直す。悪い予感にときめきながら奉仕をすることの、なんという心地よさ。
彼はもはや、喘《あえ》ぎ声の合間にしゃべる、というふうになっている。私は小さな勝利に酔い痴れる。
女の子なら、母親と同じように、穴の開いた果実を探して潜り込むんです。そこで待っている男の蜂と、そう、男の蜂が死ぬまでセックスをする。
そう。死ぬまで、するの。
はい。やがて、子供が生まれる。その繰り返しです。
淡々と語りながらも、彼は再び性器を硬くしていた。私は確かな硬さを持つそれにではなく、蜂の話に激しく欲情していた。
素敵。そして、残酷な話ね。
そうでしょうか。
そうよ。特に男の蜂にとっては、小さな小さな果実の中が世界のすべてだなんて。そこでセックスして食べて寝て子育てして死ぬ。なんて閉ざされた宇宙でしょう。天国で、地獄。砂漠のような、天国。花園のような、地獄。
恋愛をしていたら、天国、理想郷でしょう。
と、彼は私の髪を撫《な》でる。指先もまた、琥珀《こはく》の細工のように繊細だ。
好きな相手と小さな宇宙で暮らせるのだから。
でも、と彼は軽く私の髪を引っ張った。撫でられても引っ張られても、私は潤って啜《すす》り泣く。すでに私自身が、果実の檻《おり》に囚《とら》われている。
でも、偶然に番《つが》いになってしまっただけ、いえ、嫌いな相手と一緒になってしまったなら、なんと凄《すさ》まじい地獄でしょうか。
あなたは、そんな地獄を恐れているの?
髪を撫でてくれながらも、彼は私に舐めさせることは止めない。
僕は怖いです。自分の宇宙のすべてを、憎い相手が占めているなんて、ああ想像するだけで恐ろしい。
いいえ、いいえ。
私は口の端からも、両腿《りようもも》の間からも果汁を垂らして頭を振る。なぜこんなに、蜂の地獄などに、虫の楽園などに感情移入しているのか。この想いが部屋中の果物を腐らせ、花を散らせた。
私だったら、どんな相手でも愛する。
そんなことが、できますか。
できるわ。愛して愛して、そうして天国にする。
そうなれば、相手にとっては地獄になりますよ。
恋愛は、最初から地獄にあるのよ。あなたは、知らないの?
……知っていた、と思います。
そこで彼はいきなり私の顔を挟んで、性器から外した。すでに性器は充分すぎる形と固さになっている。甘い期待と強い恐れに、私は呻《うめ》き声を洩《も》らす。もはやどうにもならないほど、私は熟れて腐りかけている。
彼はそんな私の全身を抱き上げて、ベッドに運んでくれた。乾いていたシーツが、また湿る。すでに尻《しり》の下まで、私は滴っている。
彼に覆い被《かぶ》さられ、私は夢中で、彼の性器を掴《つか》んだ。彼は一見|痩《や》せていて華奢《きやしや》だが、こんな時の力はなんと強いのだろう。強くて強くて、目眩《めまい》がする。
押し倒されるのと、彼の性器が挿入されてきたのは、ほぼ同時だった。必死に彼の胴に足を回して、私は譫言《うわごと》めいた囁《ささや》きを洩らす。果実が、潰《つぶ》れる音がする。果肉が、腐っていく匂いもする。
ここは果実の中ね。
これ以上どうしても入らないという所まで彼を納め、私はなおも両足で彼の胴を、腰を締めつけた。私の果肉はさらに潰れて、シーツを汚した。
あなたがそう思うなら、そうなのでしょう。
でも、逆ね。ホーチミンという果実の皮に穴を開けたのは、私の方。私の方から入り込んできた。中にどんな蜂がいるのかを、知らなかったとはいわない。知っていたの。
根元まで彼を受け入れながら、まだ足りないとばかりに私は彼の口を必死に吸う。その合間に、彼は真摯《しんし》に応《こた》えてくれる。
はい。あなたは、入り込んできた。でも、僕も待っていたのですよ。あなたを、ずっと待っていた。
彼は生真面目に答えてくれながらも、私を突き続ける。彼を中に入れたまま、私は全身を突っ張らせ、それから弛緩《しかん》させた。
……僕は、あなたを待ち構えていた。
激しい接吻《せつぷん》の合間に、彼は囁く。私の中に未だ萎《な》えないものが入っているのに、きつく抱き締めてくれながら。
すでにあなたはいた。どこにも穴はなかったのに、あなたは果実の中で女の蜂を、私を待ってくれていた。
ついに彼は、人間の味がするのは何の果実かは教えてくれずに、私を小さな死に追いやった。痙攣《けいれん》はなかなか治まらず、本当に死ぬのではないかとときめかせてくれた。
そんな私の周りを、軽い羽音を立てて鋭い針を持つ何かが、飛び回っていた。高く、低く。時おり、女の笑い声を立てながら。
私は、それを見ないように顔を背ける。もしもそれが私の顔をした蜂だったら、嫌ではないか――――。
*
好色な処女というものも、確かに存在しているのだから。肉欲に狂う純情な私が、ここにいるといってもいいのだ。素性すら知れぬ男との愛欲に狂っている最中だとしても、私は清らかな恋をしているといい張っても、許されるのだ。
あなたと、泊まりたい。
なおも濡《ぬ》れた体のまま彼の首筋にしがみつけば、彼は静かに軽い接吻を返してくれ、ともに囁きをくれた。
このホテルに僕が泊まるのは、無理です。
でも私は、あなたと過ごしたい。たった一人で、夜を過ごすのは嫌。嫌というより、怖いの。このホテルには、生きていない人達がいっぱい、いる。
わかりました。では、別のホテルに行きましょう。
あなたに誘われたなら、地獄のホテルにだってついていく。
僕は、地獄のホテルは一つも知りません。
そうして彼と私は、部屋を出た。ロビーの横にあるレストランで、夕食を取った。強すぎる香草を巻き込んだ生春巻は乾き、くり貫《ぬ》いたココナツの容器からは、ねっとりとした汁が滴り続けていた。B52という随分な名前がついたウォッカのカクテルは、いつまでも青い炎を燃やしていた。
私達はわざと、テーブルを挟んで向かい合う。隣に密着して、座らない。何もしないことの、淫靡《いんび》な快楽。できるとわかりきっているのに、あえて禁欲の疼《うず》きを共有することのいやらしさ。
私達は最初から、破滅の方に焦がれていた。焦がれながら、食事を済ませ、宵闇のホーチミン市内を寄り添って歩く。
ところであなたは、日本に恋人はいますか。
……いるといえば、いる。いないといえば、いない。
そう。僕もです。
え。あなたは独り身ではないの。
結婚していた女がいます。
離れてしまったの?
ええ。でも。今も、僕を待っている。僕の母や、子供と一緒に。
あなたには、そんな人達がいたのね。
います。待たせている人達。待っている人達が。
その会話で私はまた、形も味も知らない果実を思う。女の蜂は、子供を作ってしまえば無情に男の蜂を残して、出ていってしまうのではないか。果実が腐り果ててもなお、男の蜂を看取《みと》る女の蜂もいるというのか。
不意に、閉ざしてきた東京の部屋が浮かぶ。私はあそこで、あの男を待ち続ける生活ができるのか。いや、できはしないから、今こうしてここにいるのだ。新たな果実を求め、新たな男の蜂を捕まえるために飛んできたのだ。
何かが軽やかな笑い声と羽音を立てて、耳元をかすめていった。小さな鋭い棘《とげ》は、耳たぶの一番柔らかな部分をかすめていった。
微《かす》かな体温を持つ女の手が傷ついた耳たぶを引っ張っていった。待ち続けているという、彼の妻だろうか。さっきの手は亡霊のそれではなかった。彼の妻はちゃんと生きて、ひっそりと暗い橙《だいだい》色の街のどこかにいる。彼に似た子供とともに。
彼はちょっと待っていてといい、裏通りに入っていった。停めてあるバイクを持ってくるという。ホーチミン市はどこもかしこも、悪い虫のように小型のバイクが走り回り、飛びかっている。あの渦の中に私は入れてもらえるのか。
しばし、異国の路上に独りぼっちで取り残される。すべて呪文《じゆもん》の文字が踊る街並、すべて奇怪な歌声となる喧騒《けんそう》に取り巻かれ、耳元にまた蜂の唸《うな》りを聞く。
少し古い日本製のバイクの後ろに、乗せてもらう。彼の繊細な肩に手をかけようか、引き締まった腰に手を回そうか、ともに繊細で綺麗《きれい》なのに強靭《きようじん》さも秘めている、肩と腰。自分の手が二本しかないのを惜しいと思う。
走りだせば、ラブホテルもなく住宅事情も悪いベトナムでは、もっぱらバイクが愛の道具に使われる、というのは本当だったんだなと、流れゆく景色に目眩《めまい》を覚える。欲望の形そのままの街並だ。闇の中にある、極彩色が眩《まばゆ》い。
恋人同士、そして夫婦となった男女もまた、当てもなく二人乗りのバイクで市内を走り回り、川べりに停めて寄り添う。さすがに裸になったり強烈な愛撫《あいぶ》まではできないが、抱き合い接吻し合っている。
そんな男女を数限りなく見ていると、着衣のままに抱き合うことや、熱烈な接吻だけで済ませることの快楽と猥褻《わいせつ》さと深い愛欲とを思い知らされる。どこかに、清らかなものすら混じるではないか。
私は全身で、彼にしがみついた。街は熱く、彼も熱い。素性も名前も何もわからない男が、今はこの世でたった一人の相手となっている。その悦《よろこ》びと恐ろしさ。ともに、性欲に殉ずるしかないのだ。
だから、目を瞑《つぶ》る。運転する彼の筋肉の動きが、すべて私のものとなる。バイクを降りたら私達は混ざり合って、一人の人間になっているのではないか、とも期待し、慄《おのの》く。それはさぞかし、美しい異形のものだろう。
*
やがて私達は、そのホテルに着いた。華やぐメインストリートにも面していないし、壮麗な白亜のホテルだなどとガイドブックにも麗々しく紹介されたりはしない、中級以下のホテルだ。
夜のシャンデリアにも昼の陽光にも等しく光る、綺羅《きら》の布地のアオザイ姿のウェイトレスもいなければ、精巧な人形めいた凜々《りり》しい制服のボーイもいない。大理石の床もなければ、白い壮麗な円柱もない。
その代わり、妖かしの気配はさらに増す。生きた者の残留思念もまた、強く染みついて不吉な蝶《ちよう》のようにまとわりついてくる。そんなホテルだった。裏通りにひっそりとある、くすんだ低い建物。ベトナム人ではなく、日本の隣国の人が経営していた。日本と同じく四季ある国だ。
暮れても裏通りは、猥雑《わいざつ》で騒々しい。夥《おびただ》しい小型バイクの群れは、それこそ不思議な蜂のような唸りをあげて行き交い、道端で街路樹の下で、亡霊と生きた人間とが区別なくライムを搾った麺《めん》を啜《すす》り、蓮《はす》の茶を飲んでいる。
玄関は、道路から一段沈み込む所にある。半地下になったフロントは、真夏の真昼にあっても夜の気配を漂わせるだろう。いわゆるバックパッカーの集まる安宿よりはいいが、階段の絨毯《じゆうたん》も擦り切れ、室内はどこも隈無《くまな》く暗かった。
社会主義国でもあるこの国は、結婚していないベトナム人と外国人の同宿は法的に禁じてあるが、抜け道も隠れ家も亡霊もまた、あらかじめ用意してくれている。日陰にいるべきものもあるべきものも、等しく微睡《まどろ》ませてくれるのだ。
ここは、それ専門らしい。つまり、結婚していない男女が泊まりにくるのだ。これもまた、建前上は決して存在しないことになっている、いわゆるプロの女と客がお得意様だった。私達だけが、いってみれば奇跡の恋人達だ。
間違っても清らかではないが、セックスに恋愛というものを持ち込むのは、少なくとも私達だけのはずだった。彼がどうしてこのホテルを知っているかは、あえて聞かない。私と会わなかった日々に嫉妬《しつと》や詮索《せんさく》をしても仕方がないではないか。
行きましょう。
従業員にバイクを預けた彼は、先に階段を降りる。
ええ、行きましょう。そして、愛し合いましょう。果実の中でだけ生きて死ぬ、蜂のように。天国と地獄も混ざり合う、小さな小さな宇宙に。
死ぬまで、ではないです。明日の朝まで、ですよ。
ドアボーイなどいないから、ちゃちなのに妙に重いガラス戸を彼が開けて入る。フロントにいる無表情な中年の男に、私がドル札で先払いする。ここの二週間分の宿泊費と、あの白亜の植民地式ホテルのスイート一泊分は、ほぼ同じ値段だ。快楽は、どちらも等しいはずなのに。
昔の病院を思い出させる、安い色彩のリノリウムの床。これも昔の小学校の校長室にあったと唐突に思い出させる、ソファとテーブル。
ここのエレベーターは一階にはない。まず擦り切れた赤い絨毯の敷かれた狭い螺旋《らせん》状の階段をあがり、食堂の前に出る。そこでやっと、エレベーターに乗れるのだ。彼は受け取ったルームキーを、子供が玩具を弄《いじ》るようにチャラチャラと鳴らす。動作の一つ一つ、音の一つ一つが私を潤わせる。狂わせる。
ロクイチサン号室ですよ。
彼は、数字は日本語で数えられる。ゆっくりと、キーのナンバーを日本語で読み上げた。やはり彼は、日本人を始めとする外国人向けのレストランだかホテルだか、そういう所で働いているのか、働いていた経験があるかだな、と想像できた。
ああそう、613号室ね。
けれど今の私は、今の彼だけを欲しいのだ。過去や素性など、どうでもいい。私は譫言《うわごと》めいて濡《ぬ》れた声で、彼の言葉をなぞる。それはそのまま、欲情の数字だ。愛欲の暗証番号だ。黒いシャツに包まれた彼の背中に触れるだけで、天国は足元から沸き上がる。
ああ私はもう、明日の朝まで613号室から逃れられないのだと、囚《とら》われの悦《よろこ》びに震えて彼の腕にしがみつく。
エレベーターが降りてくるまで、私は彼に寄りかかって食堂のガラス戸を眺める。あの国に特有の記号めいた文字で、おそらくは食堂、と書いてあるのだろう。どこか悲しく懐かしい赤い塗料で。
食堂には、誰もいなかった。何が供されるのだろうか。このホテルの経営者の国の料理か、ベトナム料理か。どこで作って誰が給仕しているのか。十二畳ほどの部屋には大テーブルが二つと、椅子がそれぞれに六脚ほど並べてある。
右手の方にカウンターがある。一見すっきりと何もないカウンターと見えたが、そうではなかった。
奥に厨房《ちゆうぼう》があるらしいそのカウンターの中には、輪郭も定かでない女がいるのがわかった。ベトナムの女ではなく、ホテル経営者の国の女だった。なぜか口元だけがぼんやりと弱い蛍光灯に浮かび上がっている。薄い唇に、朱色の口紅を塗っていた。そうして、笑っていた。女が私に笑いかけてくれているのかどうかはわからないが、仕方なく私も笑い返してやった。
彼と入ってみようかとも思う。楽しく恐ろしいことは起きないか。きっと何事もなく、やや不味《まず》い凡庸な料理が出てくるだけだ。女も、苦笑をするだけだ。そこでやっと、エレベーターは扉を開けた。
他には誰もいないのに、濃厚などこかの男の匂いがした。日本の男のそれではない。きつい香辛料を食べ続けてきた国の男のものだった。匂いのもととなる当の男はすでに死んでいるのだろう。何故、匂いだけをここに残しているのか。
傍らの彼は、それらの妖《あや》かしの気配に気付いているのか気付いてないのか、またそんなものは彼にとってごく普通のものだから、取り立てて口にすることでもないのか、黙って私の肩に手をかけているだけだ。
狭いエレベーターの中で、彼の胸元を弄りながら、聞く。
きれいな部屋かな。
汚くても、いいでしょう。嫌ですか?
いいえ。私は果実ではなく、男の蜂さえ選べればそれでいいの。
彼は私の髪を弄りながら、答える。うっとりと目を閉じる私の腰の辺りを、彼ではない誰かが撫《な》でていた。優しい手つきだったから、そのままにしておいた。
エレベーターの扉が開くと同時に、何者かが私達の横を擦り抜け、走り去ったのがわかった。目を閉じていても、わかった。
廊下にも、ずっと擦り切れた赤い絨毯が敷き詰められている。正しくそれは血の色だ。階段の脇に置かれたソファもまた、古い血の色だ。
なんだか、ここを昔から知ってるような気がするわ。
彼の後について進みながら、呟《つぶや》いた。
そうですか。きっと夢の中ででしょう。
よくわかるのね。そう、夢の中よ。
子供の頃から熱を出すと、いつも決まって見知らぬ異境の建物の中を一人さ迷い歩く夢にうなされた。どこにもないはずの、けれどどこかにきっとあるはずの、異境と建物と夜。血の色をした家具と、夜の色をした室内と。
その悪夢の正体はここであった。あまりにもあっけなく。ただし、現実には一人でさ迷うのではない。二人で忍び込むのだ。
こうして彼と寄り添って足音を忍ばせていると、あの夢こそが現実のもので、今ここにいることが見事な悪夢なのではと錯覚しかける。
すべての部屋を順繰りに開けてほしい。いつの日にか犯した罪や、きっとどこかで憎むはずの誰かが、待ち構えている部屋があるに違いないから。
もしかしたらあの扉の向こうには、東京の私の部屋があったりするのかもしれない。ならば、そこで待っているのはあの男。……蜂の、地獄の果実、とでも呼びたい部屋だ。
――――今夜の部屋は、確かにいつか見た悪い夢の中の部屋だった。微熱ではなく、高熱に苦しめられた夜の夢だった。
外に向かって開く窓は一つもない部屋で、ベッドの足元の方、テレビの台の脇に小さな摺《す》りガラスの填《は》まった窓があるのだが、それを開けても例の擦り切れた絨毯《じゆうたん》の廊下があるだけなのだ。果てしなく、閉ざされた密室。
意味のない窓には、ビーズ細工の暖簾《のれん》のようなものがぶらさげられていた。彩色したビーズ玉を組み合わせて、女の姿を描いているのだ。何か嫌な懐かしさのある女だった。
降ろした右手に持つのは楽器なのか武器なのか。掲げた左手に持つのは楽器の弓なのか鋭い剣なのか。長い衣の裾《すそ》の下に置いてある香炉は、死者のために捧《ささ》げているのか、愛しい人のために薫《た》いているのか。
それはエアコンのすぐ下にもあるので、人工の風にビーズ玉は揺れ、きれいなギリシア神話の一場面とも恐ろしいベトナム童話の結末ともつかない不思議な衣装とポーズをつけた女は、遠くに向けて微笑んだり私に向けて舌を出したりする。
これもまた、どこか懐かしい擦り切れたポリエステルの黄色い毛布を撥ね除《の》け、私達は固いベッドに横たわる。毛布の一面に描かれた花が、飛行機の中で見た夢に出てきた花だなどと、彼にどうやったら正しく伝えられる。
あなたは、夢は見ないの?
今、見ているつもりですよ。
彼が私を脱がして、私が彼を脱がす。沈む灯の中、彼の肌の色はますます濃くなり、私はよりいっそう白くなる。
洗面所のドア、ヘッドボード、箪笥《たんす》の扉。それらに貼られた鏡すべてに、白い裸と紅茶色の裸が映っている。時々私は目眩《めまい》を起こして、紅茶色の女と白い男が絡み合っている姿を見たりもする。
まだ会ってまもないのに、彼は私を切なく焦らすことを覚えた。学習したというべきか。勘の良さが頼もしく恐ろしい。自分自身にすら隠し通していることまで、すべて見破られていたら、どうすればいい。どうも、しない。私はそれすら、喜んで彼に明け渡すだろう。
私達は全裸になって抱き合っただけで、もう完全にその気になっている。街中や川べりで見た、接吻《せつぷん》だけで満たされることの猥褻《わいせつ》さと清らかさも羨《うらや》ましくはあるけれど、やはり私達は互いの中に自分を容れたいのだ。
彼は私に被《かぶ》さり、左手で乳房を弄《いじ》りながら、右手は陰部を捏《こ》ねている。本当は不誠実な男ではないかと疑わしくなるほど、それは慣れて巧みすぎる手つきだった。それがわかっていながら、私はどうしようもなく蕩《とろ》ける。
いいですか?
囁《ささや》きだけが、生真面目だ。だから私も、必死の形相で丁重に答える。
いい。とても、いい。
あえて互いの名前を聞かないのは、ただ、いい、いい、とだけ呻《うめ》きたいからだ。私もまた左手は彼の腰に回し、右手は性器を握っている。痛いのではと心配になるほど、それは熱く脈打っていた。含みたい。舐《な》めたい。
すでに口は口に塞《ふさ》がれている。口の中はすべて彼の舌に支配され、私は息をすることすら彼に許しを請わなければならない。
目を瞑《つぶ》っているはずなのに、尻《しり》の下で縒《よ》れている毛布の花と、ビーズ玉の女の微笑する口元とがありありと見えた。私はほとんど泣きながら、
これが、欲しい。
と、いわされる。彼にわからないはずの、日本語でだ。しかし彼にはわかっている。優しく私の右手を払い除けると、熱いものを直《じか》に擦《こす》りつけてきた。どちらがより、濡《ぬ》れているのかわからない。どちらが、いっそう火照っているのかも、わからない。
なのに彼は私の亀裂《きれつ》を擦るばかりで、なかなか挿入してこない。そうして時々、失敗したと見せ掛けて先端だけを潜り込ませてくる。あまりにも濡れているために、すぐにすべてを飲み込みそうになる。
挿入させず、陰部に彼を挟む。この方が、自分が濡れていることを確かめられるのだ。けれど時々、中に入り込む。軽く抜いたり入れたりを、彼の下になったまま見つめる。彼のものは白濁した体液に浸されている。自身のものは見えない。
もはや死に物狂いに腰を突き上げる私を、彼はどこか無慈悲に裏返した。それから何もいわず、いきなり尻の割れ目から、背後から挿入してきた。私が逃げられないよう、全身で押さえつけてくる。
そんなことをしなくても、差し込まれた性器だけで私は離れられなくなっている。大仰にいえば、彼からだけでなく、この部屋からも、ホーチミンからも、ベトナムからも。それほどまでに、今私の中にある彼は熱い。
背後から貫かれているのに、私は上体をひねって彼の胸に密着する。彼はちゃんと乳首を舐め、吸って、揉《も》んでくれる。夥しく彼の陰毛も濡れている。彼を飲み込んだ部分に触れてみる。それは欲望に痛む傷口だ。愛欲の亀裂だ。余計に彼のもので傷口は広がり、亀裂は大きくなる。なのに癒《いや》される。
抱き締める彼に翻弄《ほんろう》されつつ、私は面白がっている。彼といると倒錯もし、素直に解放もされる。彼をどこかで哀れみ観察し、愛玩《あいがん》している。私の神様であり、飼い犬でもある彼。私達の清々《すがすが》しい孤独と絶望。
けれど関係の意味や未来など、サイゴン川を流れる椰子《やし》の実や蓮《はす》の花ほどでしかない。散って腐って流れて消えていくだけだ。天国も地獄も地続きだと知る私達は、薄暗く笑っていればいい。
私達は、死んだ後も会えるかな。
彼を中に入れたまま、囁く。
いいえ。僕達は、死後は天国にも地獄にも行けない。きっとあなたは日本に、私はベトナムに。永遠に亡霊として居続ける。
不吉なことをいいながらも、彼は私を離さない。いっそう激しく突き上げた後、刺し殺した獲物から刃物を抜くように、私から彼自身を抜き取った。そのまま私の髪の毛を掴《つか》み、口に押しこんできた。
心地よい苦味があることを、恍惚《こうこつ》とさせる悪臭があることを、彼は教えてくれる。私は砂漠で渇いた人が水を飲む勢いで、彼を一滴残さず飲み込んだ。すでに滲《にじ》み出るものさえなくなってからも、くわえ続けていた。
彼は、生きている。
私は機内で飲んだトマトとウォッカのカクテルの味をも反芻《はんすう》しながら、声にならない叫びをあげる。こんなにも、彼は生きている。そうして、私も。
……いつ、彼から口を離したのか。いつ、彼と抱き合って眠りに落ちていたのか。はっきりとは、思い出せないけれど。
窓のない部屋では、今が深夜なのか明け方なのかもわからない。エアコンは唸《うな》り続け、廊下を足が三本あるのじゃないかと思われる、何者かが駆け抜けていっただけだ。彼は傍らで、死んだばかりの人の顔をして寝ていた。
生きてる。ねえ、あなたは生きているんでしょう?
再び、遣る瀬ない欲情が突き上げてくる。私は彼の下半身にすがりつく格好で、性器をくわえた。彼の太股《ふともも》を挟んで、どれだけ自分が濡れているかを伝える。太股の毛に、私の体液がついている。
目覚めた彼は、どちらに興奮してくれるのか。私の口の中にある性器にか、太股に付く体液にか。もしかしたら、廊下で覗《のぞ》き込んでいる影だけの亡霊にか。
柔らかいままの性器をくわえて仰《の》け反りながら、ビーズ玉の女と目を合わせた。瞳《ひとみ》の黒い玉は、黒々と濡れていた――――。
*
この国に来る少し前に、マンションを借りてくれた男ではない地方の小金持ちのパーティーに呼ばれ、同じくゲストで来ていた私は知らないけれど、そこそこ有名だという評論家と話をした。その時、彼が教えてくれたのだった。
床惚《とこぼ》れ。あなた、この意味わかりますか。
トコボレ? いいえ、ちょっとわかりません。
布団の中、ベッドの中。ずばり、セックスがよくて惚れてしまうことですよ。
なぜそんな話になったのかは、覚えていない。その評論家は私が元タレントだということも知らなかったし、ただの女として目をつけて口説こうとしていたのでもなかった。淡々と真面目に、その言葉を教えてくれたのだ。
それって、一番の地獄だよ。
男女が墜《お》ちる最も苦しい地獄と天国。それが床惚れなのだと。英語にもベトナム語にも、私は訳せない。
一目惚れならば、わかります。
私は、そう答えたはずだ。英語でもLove at first sightと、ほぼ同じ意味ではないか。これがベトナム語では、直訳すれば雷に打たれた恋、となる。それは床惚れもし、一目惚れもしたベトナムの彼が教えてくれた。
私はあくまでも日本語の意味の一目惚れをし、床惚れをした。雷には打たれなかった。雷にでも彼にでもなく、自分に打たれた。自身に打ちのめされたのだった。何かの嫌がらせのように彼は美しく、確かな責め苦として彼は優しかった。
大仰な表現をしても許されるだろうか。綺麗《きれい》で狡《ずる》くて古風な所と、いまどきのところとを兼ね備えていて、外国人には決して明かさない秘密を抱えているくせに、外国人をとことん可愛らしく利用してくれる。彼はつまり、ベトナムそのものだ。
残酷なのに気弱で、冷徹なのにお人好しで、皆を見下しているくせに皆に媚《こ》びている。つまり私も、日本そのものだ。
被害者として金や援助を欲しがる彼ら。加害者としてそれらを出さねばならぬ私達。恋愛に被害者や加害者はいるか。より愛されている方、恋われている方が被害者なのか加害者なのか。
そういえば、と私は彼の隣で微睡《まどろ》みながら、昔少しだけ世話になったことがある、ある有名なピアニストの先生にいわれたこともまた、思い出した。その先生は、恋多き男としても高名だった。
相手を人間扱いしないのが恋愛だよ。なぜって恋の対象は自分の思い入れ、思い込み、投影の相手なんだからな。
私は素直にうなずいた。今も素直にうなずける。その点においても、ベトナムの彼は理想的だ。何よりも言葉が通じない。ただ可愛い可愛いと、愛玩《あいがん》していればいい。
しかし人間でもあるから、物語を紡げる。私の人生に彩りは与えてくれても、踏み込んでくることはない相手。なのに蹂躙《じゆうりん》してほしい。
微《かす》かに口を開けて寝ている彼の胸に頭を乗せていた私は、その開かれた所から不思議な歌声が流れてくるのを聞いた。夢の花が描かれた毛布にともにくるまっているが、彼が見ているのは私の夢ではない。
そっと毛布に手を入れ、彼の性器を弄《いじ》る。それはすっかり萎《しなび》れて、可愛らしいだけのものだった。口元から漏れてくるのは、老婆が歌う子守歌だ。
おまえのきれいな故郷は 蓮《はす》の花と菊の咲く 川のほとりにある
おまえの父さんは 川の向こうから 帰ってくる
おまえの母さんは 花の陰から戻ってくる
だからおまえは いつまでも 眠っていればいい
いつまでも、目覚めなければいい
……なぜにベトナム語の歌詞が、こんなにもわかるのだろう。そうして、子供がかえって寝付けなくなる旋律ではないのかと、どうして私が怯《おび》えるのだろう。
目を閉じて聞いていると、次第に私にも彼の見ている夢の情景が見えてきた。息苦しいほどの緑の湿地は、田圃《たんぼ》だ。途方もなく肥えた土壌は、年に何度も米を収穫させる。だが、吹き渡る風はなぜこんなにも虚《むな》しく淋《さび》しい音を立てる。豊穣《ほうじよう》な澄み切った景色の中で、どうして一羽の鳥も一輪の花もないのか。
黒い農民服を着た、老婆がいた。ベトナムの独特な三角形の菅笠《すげがさ》をかぶっている。他には誰もいない。老婆は歌いながら、ただ青々とした苗と一緒に風に吹かれている。いや、他にも誰かの気配がある。
柩《ひつぎ》だ。石の柩が一つ、老婆の傍らに置いてある。丁重に安置してあるとも、野晒《のざら》しにして放ってあるとも取れる置かれ方だ。まさか、その中に子守歌を歌われている子供が入っているというのか。
やがて老婆は、片手をあげた。その手には、曲がった刃を鈍く光らせる鎌が握られていた。老婆は細い澄んだ声で歌いながら、石の柩の蓋《ふた》を刃の先で叩《たた》いた。眠っていればいいと優しく歌いながら、耳障りな音を立て、刃の先は石の蓋に突き刺さる。削られる石の粉は、透き通るほど蒼《あお》い空にきらきらと散った。
確かに柩の中で誰かの動く気配がし、可愛らしい泣き声が響いた……。
そこで私は這《は》い上がるようにして、無理矢理に夢から醒《さ》めた。情欲のためにではなく、全身に汗をかいていた。彼はもう口をぴったりと閉ざして、安らかな寝息を立てているだけだった。
あの歌はもうどこにもなく、鎌を持った老婆と石の柩は消え失せていた。私は初めて、この部屋には窓がないことに安堵《あんど》した。
開け放った窓の外に、青々と広がる田圃があったら恐ろしすぎる。そこにたたずむ黒い老婆の影などあれば、私はすべての秘密を捧《ささ》げてから、湿地に沈んでしまう。死んだ子供とともに永遠の眠りに落ちるだろう――――。
*
昼間はサイゴン川沿いの白いホテルの広い部屋で、夜は裏通りの薄暗い安ホテルの窓のない部屋で。私達は日がな、体液と悪い夢とに濡《ぬ》れて抱き合った。その他の時間は、彼のバイクで街中を走り回るか、食事をしているかだ。いつも同じものを食べている私達は、いつか誰かの悪夢に咲く、対の草や花になれるのか。
……何か、見てみたい所や行ってみたい所はありますか。
彼がいい出したのは、いつ、どこでだったろう。私は服を着た彼ももちろん好きで、美味《おい》しそうにきつい香草のたっぷり入った米の麺《めん》を食べている彼も好きだ。そんな可愛らしい、日向《ひなた》の彼にいわれたのだろう。
あなたのことを、知りたい。
私は、さらさらとした手触りの彼のシャツの胸元を弄りながら、答えたはずだ。
あなたは、どこで何をしている人なの。あなたを待っている家族は、どこでどんなふうにしているの。名前も知るつもりはないのに、こんなことは知りたい。
彼はそっと私に頬を寄せ、香草の匂う息を吹きかけてきたのだったと思う。
それでは、行きましょう。僕を待っている人々の所に、あなたも一緒に行ってみましょう。そんな、遠い遠い場所ではありません。
観光客はあまり入り込まないが、充分に賑《にぎ》やかな商店街。どこかに古いフランスの面影を残す建物と、濃縮された東南アジアが渦巻く品物と。玩具《おもちや》にしか見えない仏具がどの店先にも飾られ、黄色い線香が物憂い薫香《くんこう》と煙を立てている。
ここは、通称チョロン。中華街だ。彼の家がある街。
原色の薄っぺらな服の裾《すそ》を翻《ひるがえ》す働き者はほとんどが女で、埃《ほこり》っぽい湿った通路で小さなプラスチックの椅子にかけ、どんなに凝視してもまったくルールのわからない将棋のような遊びをしているのは暗い眼差しの男達だ。
彼の家もそうらしい。父親は彼が幼い頃に女を作って出ていき、そこで死んだという。その後は、母親が小さな店を出し、一人で彼を育てたのだ。どこの国にもあるありふれた悲劇。そうして大きくなった彼は、初めて勤めたフレンチレストランで知り合った一つ年下の女の子と恋愛をし、先に子供を作ってしまってから結婚したのだそうだ。
今、彼は少し事情があって勤めを休んでいるが、外国人向けの高級ベトナム料理のレストランに勤めているのだという。私は手を握られただけで、そのレストランと彼が浮かんだ。制服は猥褻《わいせつ》で禁欲的な、黒だ。
中庭がある。野生の植物ばかりを集めているのに、ひどく人工的な花園。尖《とが》ってはいないのに、刃物めいた影を落とす葉と、棘《とげ》はないのに人の手を拒む蔓草《つるくさ》と、毒々しいのに清らかな花弁と。
きっと彼は制服のまま、そこにいる私に迫ってくる。まるで石の柩のようなベンチに腰かけさせられて、彼の制服の闇に盲いてしまうのだ。裾から手を入れて触っているのは私なのに、喘《あえ》ぎ声を洩《も》らすのも私なのだ……。
そんな悪夢だか白昼夢だかの残滓《ざんし》を抱いたまま、ともにチョロンへの道に入り込む。よりいっそう濃く美麗な悪夢が集積された中華街を彼と歩いてみたならば、すべてが芳しく楽しい幻影に塗りこめられていく感覚を味わえる。
天国は手を少し伸ばした先にあり、地獄は足をただ一歩踏み出す先にあるのだと。ベトナムは暑いというだけで、貧しいというだけで、美しいというだけで、惜し気もなくこれほどまでのことを旅人に教えてくれる。
あなたを待っている人のもとに、私も行けるなんて。
あなたのことも、僕の家族は待ってくれているでしょう。
嬉《うれ》しい言葉のはずなのに、なぜふっと不吉なものを感じたのか。それはおそらく、彩り豊かな貧しさと、汚れた逞《たくま》しさに満ち満ちた街のせいだろう。
ゴミなのか宝物なのかわからない物に溢《あふ》れ返り、悪臭なのか芳香なのか定かでない匂いに包まれ、石造りの集合住宅は国旗に負けない派手で明るい色彩の洗濯物をはためかせ、菅笠をかぶった老婆達は毒々しい色の宝くじを売り歩き、泥だらけの道端で瑞々《みずみず》しい果物と野菜と生きた鶏は売り捌《さば》かれる。
さらに今日は、中秋節なのだった。あらゆる店先に、目を射るほど赤い箱に入れられた月餅《げつぺい》が並び、軒先には胸痛むほど懐かしい色彩と安っぽさの玩具や飾りが吊《つ》り下げられ、ホーチミン中が華やかな虚空に咲き誇る花のようだ。
それでも、レモングラスと珈琲《コーヒー》と蓮《はす》の花と彼の匂いは、どこにいても嗅《か》ぎ分けられる私だ。彼がバイクを駐輪場に置きに行っている間に少し姿を見失ってしまっても、慌てはしなかった。
雑踏を歩くうち、少し離れてしまった彼の背中に追いつく。ようやく背後から彼の手を掴《つか》んだと思ったら、それは痩《や》せた見知らぬ子供の手だった。背後から腰の辺りを叩《たた》いたのが、どうも日本に残してきた男の手だったような気もしたが、そちらにはまったく注意を払ってやらない。
しばらく私の手の中にその白い透き通る手だけを残して、子供は彼より先に行ってしまった。やがて手の中から手が消えた時、笑顔の彼が抱き寄せてくれた。
寄り添いながら、まだ薄い色の月を仰ぐ。月は本当にこの世に一つか。壊れた月や滅びた月、誰にも見えない月。きっと他にも月はたくさんある。
……彼の家は、予想通り貧しげだった。いや、おそらくホーチミン市民の住まいとしては、ごく普通のたたずまいなのだろう。
およそ六畳一間。下は土間であり、部屋の半分を占めるのは粗末な二段ベッドだ。ここに妻と子供、彼の母親と四人で暮らしているのだという。
いらっしゃい。待ってたよ。
おそらく、そのような挨拶《あいさつ》をしてくれたと思える母親は、いつか見た悪夢の中の老婆にどこか似ていた。恥ずかしがって彼の妻の背後に隠れる可愛い男の子は、その悪夢の中では柩《ひつぎ》に入っていた子供ではないか。しかし決して口にはできない。
開け放たれた窓の向こうの通路は、始終ここの住人達が行き交い、覗《のぞ》いていく。アパート全体が、一つの共同体なのだ。どこからも同じ線香の匂いが漂い、呪いの漢字で書かれたお札が掲げられている。
妻は中国系の血が濃く、くっきりとした東南アジアの顔立ちではない。沖縄や九州の美人といった風情だ。息子は完全にそちら側の顔立ちだ。彼は元々、東南アジア女より東アジアの女が好みだったらしい。私は、少し唇を歪《ゆが》ませて笑わなければならないか。彼のいじらしい嗜好《しこう》に。
ほら。僕達を、待ってくれていたんですよ。僕の家族は、みんな。
さすがに彼の妻の前では、寄り添えはしない。けれど部屋が狭いから、自然に身を寄せあってしまうことになる。彼は丁寧に、英語で囁《ささや》いてくれた。
あなたは、わかるけど。私のことまで、待っていてくれたの。
そう。だって、あなたは。
隣の部屋からだろうか。鋭い小鳥の鳴き声がした。その声に、彼の言葉はかき消されたが、私には聞き取れた。
仲間だもの、と。仲間。それはよい友達ですよといった意味合いではなく、もっと深い何かを指し示していると響いた。不吉に、心地よく。
彼の母と妻は、食卓を整えていく。みすぼらしい部屋と折畳み式の食卓。ベトナムの風景の一つとして定着している、風呂《ふろ》で使うプラスチックの椅子。ちんまりと隅っこに畏《かしこ》まって座る彼が、小憎らしくも可愛いらしい。
貧しいといっては失礼な食事。きっととても標準的な食卓なのだろう。魚の煮付け、野菜|炒《いた》め、ご飯。紫色をした馬鈴薯《ばれいしよ》の粥《かゆ》。まずは仏壇、赤や黄色に踊る、そう、玩具《おもちや》としか思えない色彩と質感のそこに、まず供えてから出される果物。
私は皆に、田螺《たにし》の食べ方の不器用さを笑われる。真っすぐな笑われ方をされる。なぜに私は田螺を吸えないか。彼の性器はあんなに痛がられるほど強く吸えるのに。彼の母が、爪楊枝《つまようじ》で取り出してくれる。妻が、食後に月餅を切り分けてくれる。片言のベトナム語をしゃべる愛らしい息子は、私の膝《ひざ》の上にも座る。
ジーンズのジッパーを、面白そうに弄《いじ》っている。この中にはね、まだあなたのお父さんの精液が入ってるの。日本語で囁きながら、頬摺《ほおず》りをする。息子はくすぐったそうに身を捩《よじ》って笑い、皆が笑ったし彼も笑った。
こんな幸せな貧しい家族を、どうして私が破壊できようか。そんな地獄は見たくない。彼の子供は盛んに、龍眼なる果物を私に勧める。地味な外見とは裏腹に、中身は清楚《せいそ》で艶《つや》やかな白い果肉に満ちている。
帰りぎわ、彼の母はお土産に果物をくれた。この後、息子とセックスした後に食べるのだとは思いもよらないだろう。
天井に近い壁に、肖像画が二枚掲げられていた。それは写真ではなく、細密な絵であった。つまりいくらでも修整できる物だ。左側の老人は威厳と慈悲に溢《あふ》れ、右側の壮年男性は精悍《せいかん》で知的だった。
思い出は皆、このように美しい嘘に修整されるべきだ。左側は彼にとっての祖父、右側は父だという。偉大なホーチミン師に似ているといって喜ばれるが、絵の中の彼らはきっとわかっている。不実な息子を、日本女を。さらなる秘密を。
彼らもきっと今宵は、別の世界で別の月を眺めていることだろう。黄昏《たそが》れる通路を、ついさっきちらりとだけ覗いていったのがその二人だったなどと、どうして笑顔で告げられようか。
しかし彼はベトナム語で、どんな言い訳をしているのだろう。ずっとこの日本女と泊まっていることを。母親はともかく、妻もまったく嫉妬《しつと》や不審の態度を表さないのだ。それどころか、妻は子供を抱いたまま、笑顔で握手までしてくれた。
私達が家を出て、下の道路に降り立っても、外の通路に出ていつまでも三人は手を振り続けてくれたのだ。だから私は少しだけ、涙ぐんだ。手摺《てす》りから身を乗り出している、彼の家族もまた泣いていたと見えたのは、背後の月光のためだろうか。
いいね、あなたは。あんなに、あなたを待っていてくれる人がいる。
そうですね。でもそれは、少し淋《さび》しいことなのです。僕にとっても、僕の家族にとっても。そして……あなたに、とっても。
街は極彩色に塗られているとはいえ、こんな闇の中だ。彼の横顔もまた、闇に沈む。わかることもわからないことも、ともにどうでもいいことになる。私はひたすら、彼にしがみついていればいい。
彼に寄り添ってバイクでホテルに戻る途中、道路の真ん中で死んでいる犬を見た。街路樹の下に投げ出されたそれは、腐りかけていて灰色だった。誰も気にとめないから私だけに見えるのかとも思ったが、あれは幻でもあの世のものでもない。
白骨化する前までには、さすがに片付けられるだろう。写真に撮ればよかった、と通り過ぎてしまってから後悔する。遺影は普通、生前のものを使うが、死後の遺影もいいではないか。
生前を偲《しの》べない遺影。きっと人は、直向《ひたむ》きに死を想う。
第一、写真の中では腐敗を止めてしまう。成長も老いもしない、ホーチミンの私の犬。ならば名前もつけてやりたい。
それは戒名といったものではなく、愛玩《あいがん》するためのもの。次に来た時は白骨化せず、そのままの姿で私を迎えてくれるのではないか。もちろん、愛らしい生前の姿に戻っていてなどという奇跡も怪奇も望みはしない。
どうかしましたか。
わずかに振り向いて、彼が聞く。ホーチミンの闇のせいなのか、ベトナムの夜のせいなのか、それとも、もっと他のもののせいなのか。時々、彼の顔は真っ黒に塗り潰《つぶ》されて表情も顔形もわからなくなる。目も鼻も、なくなってしまう。
それもまた、私は愛した。私もそんなふうに、暗夜に溶けるものでありたい。何もかもが暴かれる陽の光など、ありがたくもない。
ううん。なんでもない。
しっかりと彼の腰に手を回し、歌う口調で答えた。
いい月ね。
闇だけを、見つめていたい私なのに――――。
*
ホテルに戻る前に、彼と深夜の遊戯に出かけた。
ヒステリックな冷房と音響と。荒々しい踊りと歌声と。ここは有名なクラブだ。金持ちの外人と、それに寄り添う派手なベトナム女、もしくは、アンダーグラウンドな仕事をして稼いでいるベトナム男達しかいない。私と彼も、ある種の典型的な組み合わせの客だと見られるはずだ。
踊る女の子達は驚異的に細い腰をして、長い足をしている。元来あまり肌をあらわにしないベトナム女のはずなのに、肩も背中も剥《む》き出しだ。だが、髪だけは清楚な黒髪だ。そのため、つまらない欧米の模倣のダンスではなく、蠱惑《こわく》的な民族舞踊として映った。生の謳歌《おうか》ではない、死の憧憬《どうけい》の踊り。
彼は時折、私の手を握る。テーブルの上でも、下でも。そんな私達の真上には、鉄製の鳥|籠《かご》が吊《つる》されていた。ベトナムの人々は、本当に鳥が好きだ。いたる所に、籠が吊り下げられている。
けれど、ここの鳥籠には鳥はいない。鳥のいない、鳥籠。これは装飾品なのだ。鳥籠の中に蝋燭《ろうそく》を入れている。命もないし逃げもしないものを、なぜ閉じ込めておくのだろう。炎はいつか消えるから、命に準《なぞ》えられているのか。
ダンスフロアから離れて、壁際の席を希望する。高すぎるテーブルとスツール。彼はどこにいても若干の居心地悪さと、どこか無垢《むく》な図々しさを醸し出す。日向《ひなた》にいても闇にいても濃い陰影の落ちる横顔に、私は途方に暮れる。
できるだけ血の味がするようにと祈りながら、ウォッカとトマトジュースのカクテルを頼んだ。運ばれてくると彼は、
一口、いいですか。
返事を待たずに、口をつけた。私は隣で、血の色の酒を飲む彼に見惚《みと》れた。
血の味がする?
今度は私が尋ねる。愛しげに、彼の垂れた前髪をかきあげてやりながら。
だって、そのカクテルには血塗れ、なんて名前がついているのだもの。
しませんよ。お酒とトマトの味しか、しない。
グラスを私の前に滑らせてから、丁重に答えた。私は彼の唇の端についたお酒の雫《しずく》を指先で拭《ぬぐ》い、自分の唇に塗る。どこにもいない鳥が鳴いた。血、血、と鳴いた。
私達の近くのブースにいる音響係に、少し気になる青年が一人いる。私は宿業《しゆくごう》として、このような男が好きだ。日本の男も、かつてはそうだった。私だって、打算や諦《あきら》めばかりではない。あの男を愛したことも、恋したことも本当なのだ。
翳《かげ》り、欝屈《うつくつ》のありそうな暗い美青年。つまり、物語を作らせてくれる男。ホーチミンには、そんな男が当たり前にそこらにいる。
天真|爛漫《らんまん》な男には、あまり心|惹《ひ》かれない。もちろん天真爛漫な男も物語は作らせてくれるが、私が望む物語とはならない。
音響係が店の女の子に何か話しかけられ、笑った。とても凡庸な笑顔に落胆し安堵《あんど》もした。隣に座る彼は、私の密《ひそ》やかな浮気と失恋に気付いてはいない。天国と地獄と地上の近さに、私は乾杯をする。
カクテルはあまり血の味もせず、お代わりをしても酔えなかった。それでもいい。この後に向かう例のホテルで、たっぷりと彼の血ではないが体液は舐《な》められる。
イキマショウカ。
イキマショウ。
これだけは、日本語で会話をする私達。ともに舐め合った、偽の血の味がするカクテル。軽い接吻《せつぷん》でもう一度舐め合う、作られた血の色。混ざる唾液《だえき》には、確かな本物の血の匂いがあったというのに。
――――日本製の小型バイクは、まさに暗夜の海を走る。夜になってもまったく気温の下がらない熱い道路。爛熟《らんじゆく》する果実と花と月。曖昧《あいまい》に恋することは許されない闇。満たされてなお飢える赤い旗の翻る、サイゴン川の上。
光の波は不規則ながらも心地よい旋律を持ち、クラクションは狂騒の音をあげながらも機嫌がいい。
彼の肩に手を置いて甘い風を楽しみ、彼の腰に手を回して熱い情欲に期待する。奇怪なアルファベットはたちまち旅人を幻惑し、潰《つい》えない夏の国から帰り難くしてしまう。あらゆるものが、めくるめく悪い恋に似ている街。
あれは、なに。
なにって、なんですか。
あれよ、あれ。とても、可愛いもの。
彼の肩越しに、商店街の一角を指す。直接、通路に店を広げている人々は多いが、いじらしいほど安っぽい玩具《おもちや》や装飾品に混ぜて、鳥籠をも売っていたのだ。
ほとんどは一抱えほどの大きさだったが、一つだけ腰の位置に届きそうなくらい大きなものがあった。その中には、真っ黒な鳥が入っていた。ホーチミンの夜空より黒く、東京の夜空より暗い鳥だった。
鳥籠と鳥ですよ。あなたは欲しいのですか。
ううん、欲しくはないけど。
彼はちょっとだけそっちを向いてから、すぐに真正面に向き直った。それは確かに、嫌なものを見てしまったという素振りだった。
道路一杯に広がり流れるバイクの群れに混じっているからそんなスピードは出せないけれど、鳥籠屋はすぐに遠景となってしまった。売っていた者さえ定かでないが、私は黒い鳥の残像が瞼《まぶた》に黒く染みついたのを知る。
あの鳥は歌うのかベトナム語をしゃべるのか。私のことは見なかったし、囀《さえず》ってもくれなかった。なのにひっそりと、死の歌を歌っていた。聴かせるためにでもなく、強いられてでもなく。ただ、歌うために。
一際大きな通りに出た時、今度はきちんとした店舗を持つ鳥屋の前を行き過ぎた。すべて小さな鳥籠には、とりどりの小鳥が閉じこめられて囀っていた。ベトナムの歌を歌い、ベトナムの言葉を真似ていた。
たとえばあの中に、あなたがいたとする。
彼に聞こえないよう、日本語で囁《ささや》く。
すべてが綺麗《きれい》な飴《あめ》色の痩《や》せたベトナムの男達。何故にあの混沌《こんとん》の中から、私はあなたを選んだのか。
もちろん、出会った時はあなたはひとりだった。でも、こうして外に出てみれば、綺麗なベトナム男はたくさんいる。
他にも鮮やかな翼を持つ鳥や、銀の鈴を振ると形容していい美声の鳥や、眺めているだけで幸福になれる愛らしい仕草の小鳥もいたというのに。暗い物語を作れそうだというだけで、あなたを選んだ。
巧みに混雑を擦り抜けながら、優雅にクラクションを鳴らしながら、彼もまたベトナム語で何かいっている。きっと彼は、こういっている。
あなたが僕を選んだのではない。僕があなたを選んだのだと。
きっと、そうよ。
私は軽くうなずく。鳥達も、鳥の方が飼い主を選んでいる。望まず行く天国と、進んでいく地獄とがあるように。
すでに未練はないけれど、私は元芸能人だ。今となっては、「元芸能人」というのが職業になってしまっている、奇妙な立場だ。
そして、ただの女だ。私はいつでも特別扱いをしてほしかったし、凡庸な女としても扱われたかった。日本の男は私を、売れなかったけれど好きなタレントだったと、つまりはろくなタレントではなかったと決め付け、それでいて自分の女だと、嫌な特別扱いをしてくれるのだ。
それはどちらも、羽根に嘴《くちばし》に傷が付く。私は飛べず歌えず夏を恋えない。
彼は、どちらも叶《かな》えてくれた。彼も言葉にしないまでも、そんな欲望を抱いていたのではないか。
たまたま二人は、そんな哀しい強欲さに身動きできなくなっている相手を見付けてしまったということだ。
私は強く彼の腰に手を回し、目を瞑《つぶ》る。瞼の裏に映し出されるのは、極彩色の闇だ。あの大きな鳥|籠《かご》に入れられた、蝋燭《ろうそく》だ。
あの蝋燭は燃え尽きた時、きっと凶悪で美麗な怪鳥となって、私達の目を突きに来るだろう――――。
*
ファングーラオ通りを暗い方へ狭い方へと渡った所。ベンタイン市場にもほど近いが、これほどまでに裏通りといういい方が似合う場所もないだろう。それはほとんど讃《たた》える詩となり、愛《め》でて口ずさむ歌となっている。
日本にはホームレスはいても、乞食はいない。ましてや、子供の物乞《ものご》いなど。ベトナムにいっぱいいる。己れの障害を見せ付けて、金をもらう人々も。中には驚くほど美貌《びぼう》の乞食や、天使のような街娼《がいしよう》もいる。明日すらない人々は、実に強い。数限りない、果てない明日に押し潰《つぶ》されそうな者は、日本のような国にしかいない。
ひしめきあう低い建物の前では、猛禽《もうきん》の目付きをした半裸の男達が例の椅子に腰かけて博打《ばくち》に興じているし、何かの中毒者らしい男女が、死体そっくりの格好で道端に寝ていたりする。明らかな性病の患者が、楽器を抱き締めて恍惚《こうこつ》として歌っている。
泥の水溜《みずた》まりから這《は》い上がってきたような子供達の物乞いが、絶望も希望も何もない空疎に澄んだ瞳《ひとみ》にそんな景色を映していた。それは本当に、ベトナムの鳥の目に似ていた。諦《あきら》めきって澄んでいて、可憐《かれん》な可哀相な目だ。
華やかな地獄の中を縫って、私達は寄り添い歩く。自ら進んで牢獄《ろうごく》に入る気持ちで、半地下のロビーに降りていく。
擦り切れた合革のソファにはこの国の娼婦《しようふ》と、近隣のアジアの男達がたむろしていた。彼が部屋代と身分証明書を渡している間に、私は壁際の時計を見上げる。日本はこれより二時間進んでいる。この地に来てからほとんど思い出すことのない、日本に置いてきた男を少しだけ思い出す。あれは、いつの会話だったろう。
私に出会ってから、なんか怖いことあった?
お前に出会ってから、怖いことしかないよ。
……なんか私達って、一時間か二時間くらい時差あるね。それくらいの時差って、どこかなあ。中国とか? 韓国は時差、ないんだよね。でも、外国。
どこで、どんなふうに会話したのだったろう。あの時はまだベトナムを知らなかったはずなのに、時差は二時間くらいだなどといっていた。私は不幸に関してだけ敏感で、快楽に関してだけ貪欲《どんよく》だ。
そうして、二時間の時差を持って生きてきた異郷の男に連れられて、私はまたあのエレベーターに乗り廊下を歩き、決して入ることのない食堂を覗《のぞ》き、そこに住み着く亡霊だか物《もの》の怪《け》だかに密《ひそ》やかな挨拶《あいさつ》をする。
ここは、私以外の人と泊まったことがある?
いいえ、僕は覚えがない。
愛らしい嘘なら、嘘ではないわ。
今夜の部屋は暗い裏通りに面しているだけだが、とりあえずは窓のある部屋だった。開けたとて、希望の花園などは望めないけれど。リノリウムの床はひんやりとして、なぜか小さな子供の足跡が一つだけ薄く残っていた。
雨ですね。
あら、そう?
違う。外ではなくて、あなたが雨だということです。
ベッドに腰かけて抱き合っている時、もう彼は私の中に指を入れていた。ホーチミンは確かに今、雨期だった。まだひどい雨にはあっていないけれど、思い出したようにシャワーのような驟雨《しゆうう》が降る。
ええ。あなたに会うと、私は雨になる。
彼の指先は、水音を立てていた。私は恍惚として、その音を聞く。
こんなふうに、密室で猥褻《わいせつ》なことをするのも好きだ。けれど彼と二人、道に面したカフェで雨宿りをするのも好きだ。
独特のアルミのフィルターからは、緩慢に優雅に濃い珈琲《コーヒー》は落ちる。酷《ひど》いほど甘いコンデンスミルクは、彼の味がする。ベトナムコーヒーのカップの底にある、とろりと濃いコンデンスミルク。猥褻な飲み物だと知ったのは、私だけではあるまい。添えられた薄い蓮茶《はすちや》だけが、小さな破滅の行方を知っている。ホーチミンの雨には、そんな情景ばかりが似合う。
雨を思いながら、私は彼に身を委《ゆだ》ねていたけれど。彼は、妙な所に神経質だ。腕時計や指輪をしていると、痛いと訴える。だから彼とセックスする前には、すべての装身具を外さなければならない。本当の裸にならなければならないのだ。
私は初めて、自分が色々なものをつけていることを知る。ネックレス、腕時計、指輪三つ、今日はアンクレットもしていた。
日本では男に咎《とが》められたことはない。無造作に、つけたままやっていた。彼らは、痛い思いをさせてほしかったのか。傷を、つけてほしかったのか。
私は彼によって、ベッドの中央に俯《うつぶ》せにされていた。彼も下着だけになって隣で足を投げ出し、リモコンでテレビをつけた。テレビが破裂するような音を立て、音楽番組を映し出した。安いセットは、昔私が少し出ていた深夜番組を思い出させた。
テレビなんか見ながらする気? などと怒ってはいけない。
彼は真剣な表情でチャンネルを替え、もう少し静かな歌番組を見付けだして音量をあげた。テレビの音で、私の声を消そうというのだ。私の代わりに声をあげるのは、どこか彼の妻に似た歌手だった。
初めての時、彼は私の声が大きいと驚いた。住宅事情が悪く、狭い所に大勢が詰め込まれているベトナム人達は、あの時は声を抑えるものだという。私は今まで男に声が大きいといわれたことは、一度もない。むしろ今の男など、もっと泣けだの、もっといい声を出せだなどと、しつこい。
そんなに私の声、大きいですか。
……少しですね、少し。
彼はテレビの中の女歌手とデュエットしながら、私の背中に覆い被《かぶ》さってくる。いつでも、懐かしい体温。どこでも、悲しい体臭。
まだ固くならないものを、背後から尻《しり》の割れ目に挟まれる。俯せた私の乳房を、背中に乗った彼は真摯《しんし》に捏《こ》ねる。
私はそのまま上体を起こすと、ヘッドボードに貼られた鏡で確かめる。奉仕され、愛される自分と、とことん蹂躙《じゆうりん》される自分。生々しくもあり、芝居じみてもいる。
鏡に向けて思い切り開かされた股間《こかん》からは、内臓そのものの肉芽が覗く。なぜ男はこんなものが、欲しい。
やがて仰向《あおむ》けにされ、挿入される。鏡に映るのは、色の違う二人。欲情の度合いまでは鏡には示されないが、私が彼の浅黒さに興奮し、彼が私の白さにときめいているのは明白に映し出される。
彼にまたがって敏感な箇所を擦《こす》りつけている時、あっさりと達してしまった。私は彼の上に倒れ込み、小さく泣いた。彼は私の手をしっかりと握ってくれ、私の震えを痙攣《けいれん》を看取《みと》ってくれた。それから彼は、どこか薄気味悪いほど優しく聞くのだ。
幸せですか?
最初から肉欲で結ばれていた私達なのに、彼もわかりきっているのに、こんな時は恋愛にしたがる。もちろん私はうなずく。不幸かと聞かれても、うなずく。
オタノシミクダサイ。
レストランにいた彼が、初めて覚えさせられたという日本語。ウェイターとして教育されている、記号のような日本語。ベッドの上で屹立《きつりつ》した性器を押しつけ、同じ台詞《せりふ》をいって笑った彼。何の、どんな共犯なのか。私達は。
彼は仰向けにした私を、体を離して押さえ付ける。性器は繋《つな》げたまま、上体は反らして冷酷なほどに私を見下ろし、観察している。
淡い枕元の灯だけに浮かび上がる彼は、ひたすらに黒かった。笑っている目元だけが、冴々《さえざえ》としていた。
肩を押さえ付けられたまま激しく突き上げられて、私は仰《の》け反りながら何度も死にそうな思いを味わわされる。テレビをつけているのだから、少しくらい声をあげさせてとばかりに、叫ぶ。あまりな快感は、恐怖に通じている。本当に殺されるのではないかと、体を弓なりに反らせた時、彼は素早く性器を引き抜いた。
それから息も絶え絶えの私を、乱暴に引き起こす。手で挟み込んだ私の口に、何の躊躇《ためら》いもなく注ぎ込んできた。
私はあまさず飲まされながら、あなたのミルクは美味《おい》しいです、珈琲にも入れたい、といわされる。彼は大人の男の苛虐《かぎやく》ではなく、男の子の無邪気さで悦《よろこ》ぶ。
すべて飲まされた後、彼にしがみつくというより吸い付きながら、貪欲《どんよく》にまだ固さを失わないものを、まだ濡《ぬ》れたままの股間に挟む。
痛いほど密着しあうと、私は彼の性器を握り、彼は私の乳首を吸う。労《いた》わっているのか再び奮い立たせようとしているのか。柔らかい性器は可愛い。とても私をあんなに泣かしたとは思えないほどに。
死ぬかと、思うわ。
あなたは、死にたいのですか。
死にたい、じゃなくて。死んでもいい、と思わされるの。
不意に彼の顔は曇った。それでも乳首は吸い続けるし、陰部への愛撫《あいぶ》は止めない。彼はもはや、手のひらに受けるというベトナム式の膣外《ちつがい》射精すらしない。膣で出せないなら口だと、思い込んでしまった。否、思い込まされた。ベトナムではプロの女も嫌がる変態行為らしい。そんな行為をする私は、何だと思われているのだろうか。
そうして私達はどこまでいくのか。限界は近付いているようでもある。それでいてまだ遥《はる》かな所にあるようだ。そうだ、「しなくなる」。もしかしたらこれが究極の形、最終の姿なのかもしれない。
四角いベッドはまさに牢獄《ろうごく》だ。何の罪で私は懲役を受ける。けれど私は模範囚だ。従順にしていたご褒美に、快楽をもらえる。出たくない牢獄があることを、私は異郷の地で思い知る。繰り返し、思い知らされる。
そのまま、私達は眠った。打って変わって、彼は優しいだけの仕草で抱き寄せてくれるのだ。そういえば日本の男は、最初は腕枕をしてくれていても、夜中に目覚めると大抵、よそを向いて寝ている。
この彼は、そんなことがない。いつでも、抱き締めていてくれる。そのために、私は悪い夢に連れていかれるのだとしても、いいではないか。
そう。彼と眠って見る夢は、いつもよくない彩りに満ちている。それでも私は、彼と眠って夢を見たい。そんなふうに願いながら、微睡《まどろ》んだからだろう。眠りに落ちる刹那《せつな》、二階の食堂の映像が浮かんだ。
中にはぎっしりと、大勢の客が詰め込まれていた。何を食べているのだろう。ひどく生臭そうな赤黒い塊がちらりと覗《のぞ》いた。カウンターにいる輪郭も定かでない女が、一ヵ所だけ鮮やかな口元に血を滴らせていた……。
私は私によって復讐《ふくしゆう》されているのか、でも、何の罪で? 私は、夢の中で追い詰められた。客の中には、置いてきた日本の男までが混じっていたのだ。
その男だけがひどく顔色が悪い上に、皆が箸《はし》を使って食べているのに、果物ナイフなど使って食べている。それも、うんと危なっかしい手つきで。
男が、まったく私の方を向こうとしないのも嫌だった。どうせなら、睨《にら》みつけてくれればいいのに。そっちの方がまだましだ。そんな恨みがましく、果物ナイフなんかで黙々と陰気な様子を見せ付けられるくらいならば。
私は出入口のガラス戸の前に立ち、覗き込んでいる。
あんたも、食べたいの。
唇だけの女に尋ねられ、私は必死に首を振る。
要らない。だって、だって、それを食べてしまったら。
唇が、いきなりガラス戸に押しつけられた。ひどく尖《とが》った歯が、笑う形に開く。紅色の唇は、ほとんど地獄の地面の裂け目だ。
そうだね。食べてしまったら、あんたは……
やめて。その先は、いわないで。
その歯が首筋にまで達しないうちに、と私は無理矢理に目を覚ました。隣の彼は愛らしい寝息を立てて、眠っていた。
しばし私は、彼の寝顔に見入った。私は、半ば彼の正体に気付いているのかもしれない。と、唐突に悲しみとも笑いともつかないものが突き上げてくるのを感じた。
彼の、正体。
ううん、なんだっていいじゃないの。彼が何であろうと、私は今の彼を貪《むさぼ》る。貪るといういい方がよくなければ、愛し尽くす。
……もう一度眠ってしまったようだ。次に目覚めたのは夢のせいではなく、起きていた彼によってだった。暗いフロアにある部屋は、朝も夜も同じだ。朝になったことを知らされるのは、彼の猥褻《わいせつ》な手つきや腰付きによってだ。
けれど今朝は、一瞬東京にいるのかと勘違いした。背後の彼が、尻《しり》の割れ目に指先を入れて執拗《しつよう》に擦《こす》っていたからだ。これは、日本の、マンションに残してきた男が朝よくやっている行為ではないか。さすがに挿入はしてこないが、痛いというまで弄《いじ》っている。
したい、です。僕は、あなたと、したい。
私もよ。私も、したい。
ひっくり返された時、彼ではなくあの男の顔があったらどうしようかと、肌を粟立《あわだ》てる。吐息と囁《ささや》きがベトナム語で、ああ、と私は安堵《あんど》のため息とともに、全身から力を抜いた。貪欲で素直な私は、もう湿っている。
尻の間に、生温かな彼の性器があった。まだ柔らかいのに、私は欲しくて悶《もだ》える。夢中で手を伸ばし、彼のそれを握り締める。背後から彼は挿入してきた。
待って。
小さく叫んで私は拒む。
お願い。上に、なって。
僕は、後ろからするのも、好きなのですが。
顔を見たいの。顔を、見てほしいの。だから、上になって。
あなたが、望むなら。
ひっくり返された私は、濡れた部分を必死に広げる。こんなにも、自分の体も心も曝《さら》け出したことがあっただろうか。彼の肩に足をかけ、必死に抜き差しされる部分を凝視してしまう。私は生きている、と確認できる。でも、彼は?
ともあれ彼はどんな体位であっても、乳首は弄るし吸う。挿入されながら吸われると、本当に自分は蹂躙《じゆうりん》され愛されていると感じる。
彼の身になってみればどうだろう。挿入しながら吸うのは、攻撃し楽しませていると感じるのか。それとも、ともに攻撃なのか。
小さく私を裏切るかのように、彼はいつのまにかリモコンを引き寄せ、またテレビをつけていた。片手では乳首を弄りながらだ。可愛らしくて小憎らしい子供達の合唱団が、どこか淫靡《いんび》な童謡を歌った。
――――食堂のカウンターにいる女は、今朝もいた。
夢の中で私を脅したことなど、すっかり忘れた閑《のど》かな様子で、カウンターに肘《ひじ》をついて薄く唇だけで笑っていた。
その少しも変わらないたたずまいに、彼女の恨みの深さよりも淋《さび》しさの大きさを知る。生きた人間の方が、この世への執着は強いのだ。それは当然のことか。
彼女はきっと、霊界が退屈なのでこちらに戻っているだけだろう。もしも今ここで死ねば、私も彼女の仲間になる。
といっても泊まり客の夢の中に時々、悪戯《いたずら》を仕掛けるくらいで、そう悪いことはしないし、できないだろう。恨みでとどまるのではないのだから。
死んだ私は彼を恋いながらも、決して彼の勤める店や家には行かずに、ホーチミンの、私達の恋愛の遺蹟《いせき》とでもいうべき場所に立つ。真摯《しんし》な祈りと性欲を抱く旅人にのみ見える、亡霊となることだろう。
*
彼とともに、近所のカフェに立ち寄った。洒落《しやれ》た西洋ふうの店構えなのに、香草の匂いや、魚醤《ぎよしよう》の匂いは、染みついている。吹き抜ける風もまた、東南アジアの湿った濃い匂いがする。柩《ひつぎ》の形をした葉が、舞い踊っている。
そこに寛《くつろ》ぐ私の持ち物は、使い捨てカメラと残り少ない煙草のみ。これだけ持って、もっと遠くにも行きたい。あても希望もないけれど。
使い捨てカメラはフィルムを消費するだけで、現像はされない。煙草は私をこの国においては行儀悪く近寄りがたい女に見せてくれる。
これらは本当に今の私に相応《ふさわ》しい持ち物だ。けれどポケットには、高級ホテルのキーがある。居心地と安全性の高い帰る場所は、ちゃんと確保してあるし捨てられない。それが私だ。簡素な持ち物に申し訳ない狡《ずる》さだ。
住み着いてしまった東京の町にしても、通りすがりの旅人でしかないホーチミンにしても、好きになりたいし受け入れてほしいと、甘えと傲慢《ごうまん》と両方の気持ちを持っている。彼が神様であり犬でもあるように。
同時に、根底にはやはり外人でいたい、すぐに余所《よそ》に移れる観光客でありたい、この土地には感傷的な旅だけをしていたい、との諦《あきら》めがある。
どこの人間に対してもそうなのだから、私がどこにも受け入れてもらえない、生きた亡霊になるのは必然だろう。日本の男も、待っていたら欝陶《うつとう》しいのに、待ってくれていなかったら途方に暮れる。
店の真ん中の二人掛けのテーブルで、私達は濃厚すぎるミルク珈琲《コーヒー》、カフェスアをゆっくりと掻《か》き回している。アルミのフィルターは、じれったいほどゆっくりと、濃いコーヒーをカップに落としていく。
美味《おい》しい。ベトナムの珈琲は、美味しい。
僕と、どちらが?
どちらも、よ。
ここは完全な外国人観光客向けの高級店でもなく、まったくの地元の庶民向けでもない。珈琲一杯がおよそ百円ちょっと。食堂のフォーが二杯食べられる。半数が白人もしくは日本人だ。後は裕福そうなベトナム人。
各テーブルを、どこかを欠損した宝くじ売りや靴磨き、物乞《ものご》い達が回っていく。なぜか私達の所には寄り付いて来ない。よほど、背後に何かよくないものを背負っているのがわかるのか。彼らは、そんなものには敏感だ。
彼の目は時々、何も映さない虚《うつ》ろなものとなる。それは、私にとっても、なかなかに怖いものであり、蠱惑《こわく》のものでもある。
不意に足元を、大きな鼠が駆け抜けていった。無闇に驚いたり騒いだりすることではない。日本の神経質な殺戮《さつりく》ぶりがおかしいのだと、もはや思えるようになっている。噛《か》みつかなければ、いいではないか。
ぼんやりと走り去っていった鼠を見送った私は、その後を何か異形のものが追いかけていったのも見逃さなかった。
そのものは、確かに私に笑いかけた。笑顔は不吉なものでも、愛のこめられたものでもなかった。まるで、鏡の自分に笑いかけられたようなものだった。
ねえ。さっきの、見た?
いいえ。僕は、何も見ていない。
なんで、あんなものが見えるのかな。
……見たい、からでしょう。
どこにもないものを眺めている彼の代わりに、ようやく一人近付いてきた、片目のない老婆の宝くじ売りが、真っ暗な口を開けて笑った。
あれは、あんただよと――――。
*
私は着せ替え人形のように、彼に着るものを買ってやり、それは白いホテルの一室にどんどん増えていった。
真新しいシャツを着せた彼をしゃぶり、仕付け糸のついたままのズボンをはかせた彼を舐《な》めた。新しい木綿の匂いと、彼の汗の匂いは混じりあった。仕付け糸を糸切り歯で千切りながら、凶器となったままの歯で彼を甘噛みした。
彼もまた、新しいシャツを羽織ったままで私を押し倒し、新しいズボンを膝《ひざ》の辺りにずらしたまま、挿入してきた。
あなたの名前を、聞いてもいいかしら。
やめましょう。
そうね。名前は、必要ない。
僕は廊下であなたを見た瞬間、欲情した。
私も、よ。
なら、それでいいではないですか。
また私は、自分の息子のように彼を連れ回し、ガイドブックに載っている有名なレストランに連れていった。幾分柔らかな控えめな香草の匂いに包まれ、彼と私はそっくりな匂いと味になっていった――――。
ドンコイ通りの一角に、その有名な高級ベトナム料理店はあった。淡い黄色に塗られた壁とフランス窓を持つ、いわゆる植民地時代を彷彿《ほうふつ》とさせる建物だ。どこにもない花の影に揺れ、遠くの口笛が響いてる、そんな店。
不幸すら煌《きら》めく思い出にしてしまい、忌まわしささえ美麗な看板にしてしまう、この国の貪婪《どんらん》さと純情さ。しばし止んだ雨の気配に沈む橙《だいだい》色の灯だけは、彼の勤めるどこかにあるはずの店とも共通しているのだろう。
彼は未だに、自分が勤めているという店には連れていってくれない。事情があって休んでいるというからには、何か私にはいい難い理由があるのだろう。もちろん私は、そこを強く聞きただしたりはしない。
この店にもまた、なかなかに心|惹《ひ》かれるベトナム青年がいた。彼とはまた違った暗さを持つ、バーテンダー。ここの彼もまた、黒い制服を着ていた。混じり気のない、漆黒をまとっていたのだ。
彼は黙っていれば日本人に見えなくもないが、こちらのバーテンダーはとことんベトナム人であり、ベトナムの歌しか歌えない口元をしていて、ベトナムの闇しか透かせない眼差しをしていた。
彼の勤める店は、重厚で暗いベトナムの古い旧家を模したものだという。ここは、軽やかな古いフランス風。それぞれに似合った店に勤めていて、似合った制服を着ている。私のためにではないが、私のためにだとしか思えない。
私は今夜、日本に帰るの。
知っています。
これが、最後の夕食。
最後だなんて。そんないい方は、しないで下さい。
私達は、やや老いたウェイターによって、窓辺のテーブルに案内される。カウンターの中にいるバーテンダーは、給仕には出てこない。あくまでも、酒を作るだけのようだ。その距離感もまた、いい。
だが、彼はすぐに私の心の動きに気付いたようだ。
あの、バーテンダー。いいですか。
ええ。どこか、あなたに似ている。
似てませんよ。
そうかな。雰囲気、似てると思うけど。
全然、別物です。
といって、彼が不機嫌になっているのでもない。そんな単純な感情ではない、翳《かげ》りが射していた。白いテーブルクロスには、ワインのものだと思われる小さな染みがある。向かい合う彼の唇の色に、よく似ている。
バーテンダーはとりどりの酒瓶とグラスに囲まれ、どこか憂欝《ゆううつ》そうに、それでいて生真面目な手つきで酒の調合をしていた。
私の自惚《うぬぼ》れでなければバーテンダーもまた、ちらちらと私を見ていた。しかしその視線は、好奇心や欲情といった類のものではなかった。
それは、恐怖だ。
なぜかこの国に来てから、私はその感情にとても敏感になっていた。そんな視線にもまた、気付きやすくなっている。
バーテンダーは、どこか私を、そして私に寄り添う彼を恐れる眼差しを向けているのだった。間違いなく。
彼だけは、素知らぬ顔でテーブルの小さな花などつついている。彼に撫《な》でられる花弁はまるで、私のように震えている。
何も知らぬふうの、注文を取ってくれるウェイター。この人だけは何の物語も感情も喚起させてくれない、凡庸で善良そうなベトナム人だった。窓際の席で私は、ぼんやりと煙草を吸う。煙の向こうに、端整な横顔のバーテンダーを見る。
彼ではなく、あちらに抱きついていたらどうなっていただろう。その気持ちを読み取ったかのように、テーブル越しの彼は微笑む。
あのバーテンダー、そんなに気になりますか。
もちろん、あなたの方がいいわ。
わざとらしくバーテンダーに背を向けて、私は微笑む。たぶん私は、彼やバーテンダーを恋うているのではないだろう。
私の物語に、私の欲情に、恋をしているのだ。そのことは、日本の男にも度々いわれていた。そう。いつものことではないか。どこにもない傷が痛むふりをして、私は飲み物を頼む。お酒を飲めない彼は、ココナツのジュースだ。
当然ここは、トマトジュースとウォッカのカクテルだ。あのバーテンダーに作ってもらうのに、一番|相応《ふさわ》しいだろう。
注文を受けたバーテンダーは、やはり沈痛な面持ちで私達の飲み物を作ってくれた。そのグラスを持ってきてくれた、好みでもなんでもないウェイターにライターをプレゼントした。
グラスを置いた後、ライターを手に取ってから英語で話しかけてきたのだ。
これはとてもきれいですね、高いですか。
確かに銀色をしているが、本物の銀ではない。私のネックレスも、金色をしているが金ではない。薔薇《ばら》を薔薇色と表現しないように。
ううん、安物よ。
私は微笑む。実際そのライターは、百円ライターよりはちょっとだけ高いといった代物だった。ささやかなプレゼントのつもりだが、もしかしたら彼は、特別な物語に書き替えたかもしれない。私にさえ書けない物語を。
日本の女に、高価なライターをもらったと。ひととき彼は主人公だ。私の方は忘れ去るはずなのに。サイゴン川に浮いて流れる蓮《はす》の花の一ひらほどの物語。
彼は微笑みを崩さないまま、そんなやり取りを見つめていた。
どうもありがとうございます。銀でなくても、私には銀だ。
ウェイターは愛想もいいし、人も良さそうだ。けれど、物語の主人公にはできない。私は物語の主役となるべき相手は吟味するが、通行人には実に親切だ。いい加減で善良な作り手で語り手だ。
ウェイターはさっそく、そのライターでテーブルの蝋燭《ろうそく》に火を点《つ》けてくれた。青い炎は束の間、あのバーテンダーの残像を映し出した。その顔は確かに、私を凝視していた。何かをひどく忌まわしく避けている、目線。
私は、そんなバーテンダーをさらに脅かそうとした訳ではない。単に、トイレに行きたかっただけだ。洗面所は、バーテンダーがいるカウンターの横を通らなければ、辿《たど》り着けないというだけだ。
トイレに入る時は、バーテンダーは何もいわなかった。それこそわざとらしく私に背を向けて、赤いカクテルを作っていた。ところがトイレから出てきた時、すでに私の方を向いて待ち構えていたのだ。
早口の、しかしわかりやすい発音の英語でいった。
あの彼は、よくない。
え? 誰のこと?
私は通路に、しばし立ち止まった。店内に流れていたベトナムの古典音楽が、どこかで捩《よじ》れ、小さな啜《すす》り泣きの声を混ぜた。
あなたと、いる、あの彼。
彼が、どうしたの。
あの男とは、なるべく早く離れた方が、いい。
なぜ。
それは、いえない。
……私は、それだけ告げてまたすぐに顔を伏せてしまったバーテンダーの横顔を、どれくらい眺めていただろうか。背後に流れる音楽は、何の傷もない優しく典雅な旋律を響かせるだけだ。
一歩ようやく踏み出すと、窓際のテーブルにいる彼と目が合った。彼は異形のものでも妖《あや》かしのものでも何でもない、私の愛《いと》しい彼でしかなかった。
そそくさと、私は元の席に戻る。まるで浮気をしていた所を見られたかのように、おどおどと目を伏せてしまう。
すでに、青い磁器に盛られた料理は揃っていた。ココナツの香をつけて炊いたご飯。海老《えび》と豚肉をミントの葉で巻いたもの。薔薇の形に切ったトマトのサラダ。土鍋《どなべ》に入った海鮮の煮付け。
彼は優雅に、長い箸《はし》を操る。彼はあくまでも、優しかった。ベッドの中であんなことをするとは想像もつかないほど、繊細で物静かだった。
どうしたの。
何か、あのバーテンダーとしゃべっていたのですか?
そう。そうよ。でも、大したことじゃない。今、ホーチミンは雨期なんですね。そんな話よ。
ちらりと、バーテンダーを見る。彼はもう、二度とこちらを向かないぞといった頑《かたく》なな態度で、グラスを拭《ふ》いていた。
その時突然、外で激しい衝突の音がした。悲鳴も、あがった。
往来で、バイク同士の事故があったらしい。何人かが立ち上がって、窓から外を覗きこんでいる。私も思わず立ち上がり、窓ガラスに手を置いて道路を見下ろした。しかし常にホーチミンの道路は混雑と混沌《こんとん》を極めているから、当事者と野次馬と通行人の区別がつきにくい。
二人乗りの親子と、二人乗りの男女がぶつかりあったらしいが、そんな大した事故ではなかったようだ。日本では考えられないことだが、少々ぶつかってひっくり返ったくらいでは、事故とは見做《みな》されない。お互いにその場で示談だか交渉だか謝罪だかで済ませてしまうのだ。
喧嘩《けんか》にもならず、バイクを元に戻すとすぐに二組はまた走り去っていった。血の流れなかった道路は、再び混雑と混沌に熱されていく。
今の、見た?
振り向きざまに、私は彼の顔を見た。……見なければ、よかった。
――――彼は蝋燭の炎の中で、きっぱりと異様な表情をしていた。
半ば口を開け、目も半開きだ。それは寝顔とも違う、忌まわしい何かがまつわる虚《うつ》ろな表情だった。
その背後に、バーテンダーの怯《おび》えきった顔もあった。
事故の話をしては、いけない。私は直感した。
また何事もなかったかのように、店内は静まり返った。隣のテーブルには、あらたな日本人観光客がグループで入ってきた。中年の女ばかりで構成されたグループだ。間違っても、私に気付く者はいない。
怖いわねぇ、事故。
誰かが、甲高い日本語でいう。
そういえば先月も××ホテルの前で凄《すご》い事故あったじゃない。あれ、死んだ人もいるんでしょ。主人の会社の人が目撃したのよ。
ベトナム人同士?
若い男の子が死んだみたいだって……。
私は叫びそうになる。
やめて。××ホテルは、私が泊まっているホテルだ。彼と出会った、サイゴン川べりの白いホテルだ。
思わず、彼に視線を移すと、もう、いつもの顔に戻っていた。
あの事故の話は、僕も知っています。
……そう。
私を愛する時の淫猥《いんわい》な、そして優しい目元と口元で、彼は囁《ささや》く。蝋燭の炎に照らしだされる顔に、死の優美な翳《かげ》りが浮かんでいることから、もう私は目を逸《そ》らせられないとしても――――。
*
あなたは、生きている人なの?
…………。
あなたは、死んでいる人なの?
…………。
私には、どちらでもいいことよ。
……あなたは。あなたは、生きた人ですか?
たぶん。
大いなる死もいじらしい生も口笛のような警笛として響かせ、流し去り、サイゴン川は雨の中でも陽光の中でも輝いていた。
その川に寄り添って建つ白い植民地式の老舗《しにせ》ホテルもまた、涼しげな亡霊と生温かい人間とをともに迎えいれてくれる。
少なくともこの旅では、最後となる交わりをした。始めは湯を入れたバスタブで、まるで小さな姉と弟のように洗い合ったりふざけたりしていたが、湯を抜いてしまうと私達は絶望的な恋人同士に、いや、男の蜂と女の蜂になった。
二人で入るには、小さすぎるバスタブ。閉じこめられる場所でもあり、自ら望んで閉じこもった場所でもある琺瑯《ほうろう》引きの容物の中で、彼にとことん嬲《なぶ》られ愛され食い荒らされ、しゃぶり尽くされた。
体液なのか湯なのか石鹸《せつけん》なのかわからなくなる液に濡れ、あんな小さな空間で、実に色々な格好を取らされた。どこへも逃げないのにどこにでも追いかけてくる彼に捉《とら》えられ、私は黄金色の蛇口を掴《つか》んで、啜《すす》り泣いた。
石鹸に濡れた性器を、背後から押し込まれた。仰向《あおむ》けにされ、逆さに乗ってきた彼の性器を、窒息しかけるまでしゃぶらされた。彼に、血が滲《にじ》むまで乳首に、肉の合わせ目に歯を立てられた。なぜか彼は、右の乳首ばかりを噛《か》みたがる。だから彼の右の横顔ばかり見ていることになる。それが一番見慣れた顔となるだろう。
では彼は、私のどの顔を見慣れた顔と思うのか。目を瞑《つぶ》った顔か。最も死に近い、あの時の顔か。
あなたが、生きていても死んでいても、いいわ。
……僕も、自分が生きていても死んでいても、いい。
空港に行かなければならない時間は近付いていたけれど、私達は裸のままベッドに折り重なって微睡《まどろ》んだ。
愛《いと》しい彼に寄り添っているのに私は微熱を出して、少し寝苦しい思いをしていた。ひたひたと鳴る足音は、普段は一階フロアの円柱の陰にいる女のものだろうか。それとも耳鳴りか。
腹痛や腹下しなら、私も焦ってフロントに電話をしただろう。けれど微熱は心地よい。微熱がある時に見る夢は、なかなかに楽しい。わずかな雨の音を聞きながら、やたらに広い天井を仰ぐ。飛び回っているのは何だろう。
果実の皮に穴を開けようとしている、小さな蜂か。この部屋が果実であるとしたら、すでに雌の蜂は潜り込んでいるではないか。ひたすらにセックスを求め、周りの果肉を食い散らし、やがて雄をも食い千切ろうとしている雌が。
物憂い羽音を聞いているうちに、私は眠り込んでいた。腐りかけた果肉に包まれたような、ねっとりと甘い悪い蜜《みつ》の滴る気配に満ちた夢だった。
……荒涼としているのに緑の野原の中を歩いていくと、野犬が五匹以上固まっているのに出くわした。犬は皆、人間の目をしていた。遠い日の悲しみを知る目だ。けれど私は怖くて、足をすくませる。
そこへ、男が通りかかる。こんな景色の中には不釣り合いな、きちっとした格好の男だった。見知らぬ男といいたいが、実は知っている男だった。東京の部屋で、私を待っているはずの男だ。
私は必死に男の腕にしがみつきながらも、
大丈夫だから、一緒に行きましょう。
と、まるで私が彼を助ける口調で誘うのだ。現実でも、そうではなかったか。こっちから誘惑したのに、あなたが望むなら、と答えたのではなかったか。男は私を責めるくせに、奉仕をしてくれる。私は男を虐《いじ》めるくせに、頼り切っていた。
ともあれ、これは夢だ。私達は腕を組み合ったまま飛び上がり、野犬達を飛び越える。もともと、私達を襲うつもりもなかった狂犬という名の不幸は、あっさりと私達を見逃してくれた。
場面はすぐに転換し、うらぶれた駅舎になる。猛々《たけだけ》しい緑に萌《も》えているのに、侘《わび》しさだけの景色だ。取り残された美観だ。高校生の頃、通学に使ったY駅に似ている。しかし大勢の人でごった返している。
どの人も、過去に出会ったことのある死者だった。親しかった人も、親しくなかった人も、等しく暗い電車を待っていた。子供の頃に死んだ母方の祖母が、なぜかベトナムのタンロンを食べていた。嫌な、光景だった。
乾いたホームに立ち、男に告げる。
ここで私達は、別れた方がいい。あなたは、ただの女の私ではなく、元タレントの女を好きだっただけ。実は、それはまったくかまわないこと。元タレントの私の方が、ただの私よりは価値がある。夢の演技も下手な芝居もできるのだから。
男は未練がましい態度をとる。すでに死者の側に立っているのに、待っている待っていると繰り返すのだ。白濁した瞳《ひとみ》から、腐肉にのみたかる白い虫がこぼれ落ちた。透き通るべきである涙の代わりに。
轟音《ごうおん》を立てず、あくまでもひっそりとやってきた電車に、私は飛び乗る。もしも彼が追いかけてきたら嫌だから、昔住んでいた駅で降りようと決める。タレントだと名乗ってもよかった頃、住んでいた街。
そのH駅に降り立つ。あんなに人が乗っていたのに、降り立ったのは私一人だった。遠景に、真っ黒な異国の老婆の立ち姿がある。きっと足元には、可愛い子供を入れた、石の柩《ひつぎ》があるのだろう。
やがて辿《たど》り着く、H駅近くにある昔のマンション。実際のH町ともマンションとも、全然違う。それこそ東南アジアの集合住宅のように、ごちゃごちゃと入り組んでいる。なぜか全体に薄汚れた血の色だ。
私は共同トイレに迷い込む。老人達が盆踊りにでも行くのか、奇妙な仮装をしているのに出くわす。便座もない汚れた便器に私は座る。いつのまにか、ベトナムのあのプラスチックの小さな椅子に変わっている。
これじゃあ、できない。私はそこを出て、さ迷う。見事な迷路になっていて、ホーチミンの裏通り以上にわからない道筋だ。私は痛いほどに、トイレに行きたい。だから次々に現れるドアは皆、トイレがあるのではと期待させる。
ついにトイレに入れないまま、私は薄く目覚めた。縮こまった性器を出して寝ている彼の胸に、頭を乗せる。耳に響いてくるのは鼓動ではなく、夢の中に吹いていた風の音だ。老婆がその風を切り裂く、鎌の音だ。
あのドアの向こうでは、誰が待ち構えていたのだろう。夢と夢はつながっていて、私をどこまでも追ってくる野犬だろうか。または、霊感の強そうな美男のバーテンダー。どうも、今ここで寝息を立てている彼ではないような気がする。
次第にあのドアは、東京のマンションのドアだったのではと思えてきた。私は何か、あのドアの向こうに置いてきただろうか。誰かを、残してきただろうか。ホーチミンに来てしまえば、日本の男はこのホテルやあのホテルの亡霊ほどに、曖昧《あいまい》な存在になってしまうから……わからない。
いずれにしても、夢の中でドアは開けなくてよかったと、目覚めた私は安堵《あんど》する。きっとよくないことが起こったはずだ。きっと悪いものを見たはずだ。絶対に、よくないものに襲いかかられたはずだ。
ベッドから降りて、窓を開ける。不思議だ。昨日の昼間にはどうしても開かなかった窓が、今日は開く。
まだ、雨が降っているらしい。道ゆくバイクの人々は合羽を着ている。水溜《みずた》まりに波紋が広がっている。空気はたまらなく生温い。
なのに手を突き出しても雨粒は当たらない。ただ生温かな空気が触れるだけ。誰かが手を掴《つか》んだらどうしようかと恐れる。期待もする。だが、何者も来ない。雨すら触れてはくれない。
微熱を告げられないままに、また微睡む。夢は真っ黒に塗り潰《つぶ》されて、何もなかった。次に目覚めた時、彼はもう起きてベッドからも降りていた。
テーブルには、チョロンの彼の母がくれた果物が乗っている。彼はバナナを食べている。その足元にひざまずいて、性器を食べたい。皮ごと、あます所なく。まだ、悪い微熱が残っている。
私は再び、果実の中で生まれて孵化《ふか》する虫の子供のように丸まって、目を閉じている。彼は優しく熱を計って心配するふりをしながらも、実は私とセックスしたいという欲望を隠さない。
遠い日の思い出に、こんなことはよくあるのだろう。きっと彼にも私にも。そのまた親達にも。欺かれてこそ、思い出も異国も恋人も輝くものとなる。ならばできるだけ健気《けなげ》に欺かれてやろう。思い出にも異国にも恋人にも。
二人ともすでに全裸だったから、ことは簡単だ。私が足を開くだけでいい。彼がのしかかってくるだけでいい。だが、そうはいかなかった。いきなり裏返されると、まさに犬の格好をさせられたのだ。
あの死んだ犬も、こんなふうにしていたか。私は枕を必死に握り、膝《ひざ》が擦《こす》れるのをこらえる。私を後ろから突いているのが、いつか見たあの犬の死骸《しがい》だったら、どうだろう。もしもそうだったら、私もまた半ば腐りかけた犬になっているだろう。
必死に首を回してみれば、そこには彼がいた。ならば、私も私だ。それだけで、もういいという気持ちになる。つながりあった所から、微かな腐臭が漂っているとしても。彼は私を後ろから突きながら、下から回した手で乳房を掴む。
犬は、こういうことはできないはずです。
彼は私の気持ちを読めるのか。確かにそういって、さらに乳房を捏《こ》ねた。それから手を離すと、今度は私の腕を両方とも背中に回させた。彼はその腕を罪人のようにねじりあげてから、さらに強く突いてきた。
蜂が、蜂が飛んでいる。
この譫言《うわごと》は誰がいったのか。私ではない。ここは五階なのに、窓ガラスに誰かの手が張りついていた。それはすぐ消えて、羽音も消えた。
いっそう激しく私を揺すりたてると、彼はいきなり性器を抜いた。その格好であれば、いつもは背中に振りかけるはずだ。だが彼は、突っ伏す私の髪を掴んで引き起こすと、口元にねじ込んできた。
きつく目を瞑って、すべて飲み込む。口腔《こうこう》に広がる青臭さは、夢の中の荒れた野原をもう一度見させてくれた。彼はいつにない乱暴さで、ほとんど私の顔にまたがって排泄《はいせつ》するように、いくらでも注ぎこんできた。
もはや死に物狂いで、私も彼の尻《しり》、腰に手を回し、舐《な》め尽くした。窓ガラスを激しく叩《たた》いているのは、南洋の雨でもなくどこかの亡霊でもなく、蜂だった。きっと私の顔をしたはずの、蜂だった――――。
この旅行では、最後となる食事を取る。例の、バーテンダーがいる店だ。今夜は、彼はいなかった。黒すぎる気配を恐れてだろうか。
さすがに、死んだというのはないだろう。また、最初から幻だったなどというのもありえない。そんな物語は、美しすぎる。
だからバーテンダーもまた、私の恋人になった。永遠の恋人だ。別れる時は、再会できた時なのだろうけれど。
夢の中の、ドアの向こう。待ってくれていたのが彼だったなら、すべての悪夢は綺麗《きれい》だと讃《たた》えられるだろう。彼ならいつでも、美味なカクテルを作ってくれるだろうから。本当に、トマトジュースの代わりに自分の血を混ぜてくれるかもしれない。
わかっていたのよ、本当は。
例のバーテンダーではない、老いた男のいるカウンターを横目に、私は微笑む。脆《もろ》いガラスのカクテルは、その名前の通りにミモザの香をたてる。
最初に廊下で会った時から、私は気付いていたの。わかっていたの。
……だと、思いました。
シャンパンとオレンジジュースのカクテルで、乾杯をしあう。彼は恐ろしい形相に変わったりはしなかった。端然と、微笑み返してくれただけだ。
私は今夜、日本に帰ってしまうけれど。
さようなら。
また、会えるかしら。
……二人で住める果実を、また見付けられたならば。
わずかに目を閉じて、カクテルをあける。グラスをテーブルに置いた時、彼はもういなくなっていた。カクテルの香とともに、消えていた。
――――迎えの車を待つために、ホテルのロビーに戻る。ただ、一人で。淋《さび》しくはない。喪失感も、味わわない。
私は最初から、一人だったのだ。ホーチミンは、いつでもたった一人で過ごしたのだ。だからもう、廊下の暗がりには誰もいない。何も、ない。妖《あや》かしの気配さえ、花弁混じりの雨に溶けて消えてしまった。
雨は窓外にいつでもある。甘い雨だ。汚れた雨だ。微熱は少し治まった。もちろんこれで済むとは思えない。時間を置いて、また出てくるはずだ。日本に帰る飛行機の中で、少し息苦しい悪夢を見させられるほどに。
私は、覚悟も諦《あきら》めもすぐできる。心地よい微熱はしかし、初体験だ。いつかまた再発した時、当然ホーチミンと彼を思い出すだろう。
円柱の陰の女は、濡《ぬ》れた裸足《はだし》を突き出していた。彼女もまた、雨のホーチミンを懐かしんで散歩に出かけていたのか。
車を待ちながら、ロビーのソファにもたれて往来を眺める。かつて、大きな事故があったという道路。その時流された血は、もう跡形もなく雨に流されてしまっている。そこに倒れていたはずの若い男も、どこか別の世界に行ってしまっている。
もしもその男が戻ってくるとしたら、果実を分け合える女に巡り合った時だ。淋しい女の蜂が、このホテルに小さな穴を開けて潜り込んできた途端、彼は男の蜂になって飛んでくるのだ。
鋭い針の代わりに、愛らしい性器を突き刺しに――――。
*
帰りの飛行機の中では、すぐに寝入ってしまった。疲れていたからというより、微熱から逃れたかったのだ。
血の味がするアルコールも飲まず、不吉な天国の歌を聞かせてくれるヘッドフォンもつけずに、やや擦り切れた毛布にくるまって、ひたすら眠った。
夢か現《うつ》つか、通路に何者かのうずくまる気配があった。通りすがりの物《もの》の怪《け》か、よく知った死霊や生霊か、飛行機についている妖怪《ようかい》か。まさか腐りかけた犬やあのレストランのバーテンダーではないだろう。
目覚めるともう何もなく、しかし出されたフルーツには髪の毛が一本混じっていた。ベトナム航空機の乗務員は皆長い黒髪なのに、これは短い。どうも男の毛のようだ。髪の毛は除《よ》けたが、確かに知った誰かの味がした。
頼んだはずはないのに、血の味のカクテルが運ばれてきた。ベトナム航空機の中で作られたのではなく、ドンコイ通りのあのバーテンダーが作った味がした。
微熱はほとんど消えていた。頭痛や腹痛よりはずっといい。楽な悪夢を見せてくれるのだから。微熱ならば、そこはかとなく哀しくて意味ありげな夢を見られる。
音源を入れていないはずなのに、膝《ひざ》に置かれたヘッドフォンから懐かしい声が流れてきた。彼の声だ。
そうです。僕はとうに死んでいたんですよ。
ああ、悲しいわ。怖くはない。でも悲しい。
あの白いホテルの真ん前にある道で、バイクの事故を起こして。僕は即死でした。僕は本当は、ホーチミン郊外の墓地にいる。石の柩《ひつぎ》に入って、風の音を聞いている。
そうだったのね。
でも、僕の家族は僕を待ち続けてくれている。だから、家にもああして時々、帰っているのです。
それは、わかるわ。でも、どうして私に会いにきたの?
あなたに会ったのは……あなたが、強い死の匂いを発散していたから。
私は、生きているのに?
でもあなたは、死の匂いがした。死の、匂いが、した――――。
*
……見るはずのなかった永遠と、望むはずもなかった絶対とを抱いて、暗い橙《だいだい》色の夜のホーチミンから、涼しいばかりの薄青い東京に降り立つ。道端で物を売る人と乞食がいない。妖かしの気配さえ遠慮がちだ。
寒い。
と呟《つぶや》いた。まだ晩夏であるはずなのに、私は凍えた。凍えながら、自宅に向かった。静かすぎる道路を、静かすぎるタクシーは走った。
マンションの廊下の陰から出てきたのは、亡霊ではなかった。ひと部屋おいた口うるさいおばさんだった。
あなた、生ゴミを出さずに海外旅行に行ってはだめよ。
いきなり、喧嘩腰《けんかごし》で怒られた。
まだ夏の名残はあちこちに揺れている、濃い影を落とす廊下。あの暗がりに、ホーチミンの彼はたたずんではいないけれど。
あのう、生ゴミはちゃんと出していったと思うのですが。
そんなはずないわ。じゃあ、どうしてこんなに臭いのよ。
え。臭いですか?
におう。におうわよ。
おばさんは、軽く足踏みをしてから鼻を摘《つま》んでみせた。
あたしだけじゃないわ。近所の人がみんな、何か臭い、何か腐っているにおいがするってしばらく前から騒いでたのよ。それがどうも、あなたの部屋からじゃあないかって、噂になってたの。
……すみません。
ここを開けたら大変よ。腐ったにおいがわあっと押し寄せてくるわ。
そこで私は、薄く笑った。
ええ。腐っているでしょうね。とてもとても。
ほら、やっぱり。さあ、今すぐ捨てに行ってちょうだい。
私はスーツケースを廊下に置いたまま、玄関のドアを開ける。私ではなく、背後のおばさんが小さな悲鳴をあげた。
やだ、これ普通の生ゴミじゃないわ。
確かに。まるで腐りはてた果実か魚のようなにおいが、部屋の奥から猛烈な勢いで吹き付けてきたのだ。
おばさんの代わりに、私が小さく呟く。
まるで、腐った死体みたい。
そう。ホーチミンの街角で死んでいた犬のように。もしくは、サイゴン川で腐っていた果物のように。私が旅立つ朝に果物ナイフで刺し殺した、男は腐っていた――――。
角川文庫『楽園』平成15年1月10日初版発行