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合意《がふい》情死《しんぢゆう》
岩井志麻子
目 次
華美粉飾《はでつくり》
合意《がふい》情死《しんぢゆう》
自動幻画《シネマトグラフ》
巡行線路《みまはり》
有情答語《いろよきへんじ》
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華美粉飾《はでつくり》
これまで大橋|秀三《ひでぞう》が季節を肌に感じるのは、勤め先の岡山民報本社までの道すがらの荷車の積み荷の菊の鉢であったり、岡山駅構内にあるビヤーホールで出される山陽ラムネであったり、母が彼岸の頃に出してくれる綿の入った半天であったりした。
「えーと、……幾日か前までは今を盛りと咲き誇っていた桜花も今は惜春の匂い憐《あわ》れと散りそめて……に、しとくかのう」
しかし閑谷《しずたに》中学を出てこの岡山市の新聞社に入ってからは、原稿に書き付ける文章が季節感に変わった。いや、それは原稿を書かせて貰《もら》えるようになった去年からだ。それまではほとんど記者ではなく小使として使われた。
町や畦《あぜ》を駆けさせられ、酷寒や炎暑をたっぷりと味わわされた。それが今はようやく机も与えられ、季節についてある種優雅に思いを馳《は》せられるようになったと言うべきなのだろうが、秀三の鬱々《うつうつ》とした気持ちは日に日に増した。
「いやいや、ここはやっぱり……晩春は何時しか若葉|薫《かお》る初夏の色彩となりて……の方がええか」
立派な木造の二階建ではあるが、近所の罐詰《かんづめ》工場や生糸製造所の方がよほど清潔で整然としている。一応の秩序はもって並べられた机に棚に記者達であるが、瓦斯《ガス》洋燈《ランプ》の下に薄暗く陰るそれらはひたすらに雑然と煩《うるさ》い。
「いかんのう。なんかこう、もっと明星風浪漫主義、っちゅう感じにならんもんじゃろうかのう」
秀三はぶつぶつ呟《つぶや》きながら、粗末な木の椅子の背を軋《きし》ませる。外は爽《さわ》やかな五月かもしれないが、湿った木造の建物の中で、先輩記者達が燻《くゆ》らせる安煙草とインキの匂いとすえた体臭に囲まれていれば、それこそ季節がわからなくなってくる。
「なんじゃあ、こりゃあ」
突然背後から手が伸びて、秀三の原稿用紙は取り上げられた。
「あっ、何するんですらあ」
秀三の原稿用紙を窓からの明かりに透かすのは、守口《もりぐち》だ。ほんの三、四歳しか離れていないとは思えぬほど草臥《くたび》れて、それでいて太々《ふてぶて》しい大男だ。
「……なんぞ、不都合がありましょうか」
気弱に、秀三は首をすくめる。剛《こわ》い髭面《ひげづら》のこの守口は、苦手であった。いや、秀三はこの職場にいる数十人の上司に同僚、ついでに小使の源|爺《じい》さんまでもが苦手だった。もっと言えば、取材に行かされる先の人々までがことごとく苦手であった。
「女学生の下手糞《へたくそ》な詩ぃじゃあるめえし。もっと簡潔にわかりやすう書けんのか」
「はぁ、すんません」
小柄で華奢《きやしや》で童顔の秀三は、未《いま》だに中学生と間違えられる。社内でも、秀公、秀公、と小突き回されている。今のところ最も年若いというのもあるが、取材で行った先の商店や農家でもやはり、道に迷わんと戻れるんかい、などとからかわれる。
「それに秀公よ、十行とちょっとの記事に、そねえに長《なげ》え時候の挨拶《あいさつ》はいらん。ほんまにお前は何年経っても、おえんのう」
その原稿用紙で、頭を叩《たた》かれた。秀三は伸びた坊主頭を掻《か》きながら、気弱に笑う。守口は猪を思わせる肥《ふと》った身体を揺すりながら、電話室の方に去った。
しかしそのはち切れそうな紺木綿の単衣《ひとえ》に浮く汗じみに、秀三はふと寂寞感《せきばくかん》を覚えた。守口も決して自分では認めないが、六高の試験に失敗《しくじ》って進学を諦《あきら》め、この新聞社に入ったという。それはまったく、秀三と同じであった。
「六高に入れとったらなあ」
老人、馬に蹴《け》られて大怪我という記事を十行にまとめなければならないのだが、書き出しで早くもつまずいた恰好《かつこう》の秀三は、ぼんやりと要らぬことを考える。
秀三の実家は市内《まち》外れで瓦《かわら》屋を営んでおり、秀三とは一回りほども離れた長男が、高等小学校を出てすぐにその跡を継いでいた。次の兄は師範学校を出て、市内の小学校の教員をしている。それぞれ真面目に地道にその仕事を全うしていた。
最も勉強がよくできた三男の秀三が、期待を背負って六高を受験し、そして失敗《しくじ》った。無論、親は落胆したが、再度試験を受けさせるために遊ばせておけるほど、瓦屋は儲《もう》かる商売ではない。
秀三は、岡山で唯一の新聞社である岡山民報への受験を決め、これはどうにか合格をした。とりあえずはハイカラな文化の匂いのする職業であることに親は満足し、秀三も同窓会等ではそう恥ずかしい思いもせずに済む。
だが秀三には、密《ひそ》やかな野望とでもいうものがあった。いつまでも、田舎の新聞社で燻《くすぶ》っているつもりはない。お前等とは違うんじゃい、と眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
「わしゃ、いずれ東京に出て小説家になるんじゃ」
老人、馬に蹴られる。と見出しだけを書き付けながら、ひっそり呟いた。
「もう、屑籠《くずかご》こねえに一杯にしてからに。もったいねえことをするのう」
途端に、小使の源爺さんに椅子の足を蹴られた。
残業ですっかり遅くなってしまった。往来は点灯夫が街灯を点《つ》け終えている。小さな蛾が開けた窓から舞い込んできて、ランプに群がっていた。
特に難しい事件はこのところ無く、比較的早くに先輩も帰り始めていた。守口はとうに、東中島《ひがしなかじま》の遊廓《ゆうかく》に向かったという。
「あそこはな、なかなかに面白《おもしれ》え事件のネタを拾えるんじゃで」
と、うそぶきながら出て行く前に、もう一度秀三の頭を原稿用紙の束で叩いていった。
「大橋君よ」
隣に立って声をかけてくれたのは、いずれ主筆になるのは間違いなしと嘱望されている新井だった。唯一、秀三を秀公ではなく姓でちゃんと呼んでくれる先輩だ。
強引な取材等は一切しないが、岡山県警にも知り合いは多く、着実に情報を掴《つか》んで素早く記事にできる。またその文章が的確で巧《うま》い。
東京音楽学校を出ているという少々異色の経歴だが、兎《と》にも角にも東京帰りのハイカラな雰囲気と物腰で、近隣の女学生や商店のお内儀《かみ》さん達には人気がある。
「はいっ」
秀三も、この新井には憧《あこが》れていた。いずれ自分も東京に出たら、このような雰囲気を身につけたいものだと願っている。
「一杯、ご馳走《ちそう》するよ」
守口などは、「いつまぁでも気取って東京弁使いやがって」と吐き捨てるが、やはりこの人には岡山弁は似合わん、と秀三は新井のよく通る声を聞く度に頷《うなず》きたくなる。
「三好野花壇《みよしのかだん》のビヤーホール、あそこに行こう」
日暮れ時なのに、そして三十にはなっているはずなのに、傍らの新井はさらりと乾いた清潔感があった。姿勢が良いためか着物も着崩れておらず、足袋《たび》も目に染みるほど白い。守口とはことごとく対照的に、細面で優雅な痩身《そうしん》である。
「そりゃ、どうもどうも」
片付けようがないほど雑然とした机であるが、そそくさと形だけ片付けて新井の後に続いて玄関を出た。暮色が岡山市全体を覆っている。
岡山駅構内の支度所として開かれた、三好野花壇に入っていく。ハイカラなバターやソースの匂いがする、西洋式の室内には装飾も兼ねた電灯が点《とも》っている。着物の上に西洋式のエプロンをつけた洋食仲居と呼ばれる女達は、仄白《ほのじろ》い人形の顔で微笑む。
岡山で初めての西洋料理店といえば、秀三がちょうど中学を出た年だから明治三十四年にできていた。岡山駅構内に開かれたこの三好野花壇だ。その五年後に当たる今年は、さらに本格的な西洋料理店が天瀬可真町《あませかままち》にできたばかりだ。
窓際の卓に案内され、二人は向かい合って椅子に掛けた。明らかに新井に惚《ほ》れているらしい仲居は、ビール二本ですね、と小鳥の声で囀《さえず》った。
電灯はその下の人間の顔に濃い陰影をつける。新井は少しだけ疲れて見えたが、運ばれてきた一本十九銭のビールが洋杯《グラス》に満たされると、笑顔が戻った。
「なんかまた、守口君に鍛えられてたねえ」
半分ほど飲んで、新井は洋杯を卓上に置いた。他に店内には、置かれた卓の半数を埋める客がいる。蓄音機からは、「紅|萌《も》ゆる岡の花」が物悲しく流れていた。
「いや、まあ、守口さんだけでなしに、日々皆さんに鍛えられとりますらあ」
秀三はビールを苦いばかしじゃがな、と思っているが、旨《うま》そうに飲んでみせる。
「文章自体は、守口君より大橋君の方が巧いけどねえ」
表立って喧嘩《けんか》をしている訳ではないが、守口と新井は互いに相手を小馬鹿にしているところがあった。守口は文章を書かせれば、それで秀三に文句をつけられるのかという程に雑であるが、その取材の精力的なことは誰もが認めていた。警察|沙汰《ざた》ぎりぎりになることも多々あったにせよ、一面を飾る大見出しの記事は多く守口がものにしていた。
「いや、そんな、新井さんにそう誉めてもろうたら嬉《うれ》しいんじゃけど」
土足で他人の家や胸の内に踏み込むような真似は決してせず、穏やかに周辺の取材だけで端正な記事にできる新井は、守口のそのあまりにも乱暴な取材振りに対し、度々苦言を呈している。
そうすると守口は、一応は新井を先輩と立てはするものの、例によって「女学生が詩ぃ書いとるんじゃねかろうに」と嘲《せせ》ら笑うのだ。
秀三は、何も揉《も》め事《ごと》を起こさず円満に退社して上京したいと目論《もくろ》んでいるので、無用の紛争は起こしたくない。心情的には新井の方に傾いているが、表面的にはどちらにもいい顔をするようにしている。つまり、調子にのってここにいない相手の悪口は口にしないということだ。
「大橋君は、素直だなあ」
こんな片田舎に置くのは惜しいのう、と秀三はまるで彼に憧れる女学生のように新井を見上げた。ハイカラな銀縁眼鏡の奥の目は、いつも涼しげだ。しかし今はその目が、皮肉な色を湛《たた》えて光り、秀三は狼狽《うろた》えた。
それを見透かしたか、また一口飲んでから新井は薄い唇を少し歪《ゆが》めた。
「そろそろ、大橋君も大きな記事をモノにしないとね」
「とてもとてもまだ、そんなん無理ですらあ。十行ほどの記事でも、いっつも怒られてますけん」
無論、この新井にだって「あんな新聞社辞めて東京で小説家になるんじゃけえ」などと告白できるものではない。
新井がさっきの仲居に二本目を頼んだ時だ。何か見覚えのある、猪首《いくび》の肥《ふと》った男の影が射した。それは真直ぐに秀三達の卓にやってきた。
「こねえな所に居ったんかい」
それは、さっきまで話題にしていた守口であった。だらしなくはだけた着物の胸に、汗が浮いている。強い体臭にそっと顔をしかめる秀三だが、新井は眉一つ動かさない。
「まいった、まいったのう。あっ、姐《ねえ》さん姐さん、わしにもビールじゃ」
新井に惚れているらしい仲居は露骨に嫌な顔をしたが、守口は頓着《とんちやく》しない。
「何かあったんですか」
気まずい雰囲気なので、努めて秀三が明るく振る舞う。
「おう。遊廓でな、心中未遂事件があったんじゃ」
「えっ、それは結構な事件と違うんですか」
目を丸くする秀三に、守口は大げさに手を振った。新井は素知らぬ顔で残りのビールを飲んでいる。
「ままごとみてえなもんじゃ。それこそ秀公、お前が書いたらちょうどええくらいの話じゃ。五行で済むけん、桜吹雪舞うとか惜春に鳥鳴きとか、お前お得意の変な時候の前書きは要らんで」
「どんな心中未遂じゃったんですか」
運ばれてきたビールを洋杯に注ぐなり、守口は一息で飲み干した。
「オナゴは当然、女郎じゃけどな。相手の男は六高の学生じゃった」
六高の学生。秀三は腰を浮かしかけた。自分が望んで入れなかったところだ。そんな選良であるはずの男が何故に、女郎などとそんな真似をしたのか。
「六高! なんでまた、そんなんが女郎と死のうなんぞ考えたんじゃろうか」
「さあてなあ。オナゴに慣れとらんかったけえ、相手が女郎でも逆上《のぼ》せてしもうたんじゃねえんか」
「で、その女は別嬪《べつぴん》な訳か」
突然、新井が口を挟んできた。しかし秀三はその言い方にひどく冷ややかな響きを感じた。新井は女に惚れられても女に惚れん、と噂されていた。
「いんにゃ。わしはその女は知らんが、朋輩《ほうばい》の話じゃあ売り上げは、そこの抱え女郎の中で真ん中辺りじゃと。年もそねえに若《わこ》うはないで」
六高の学生がそんな場所で心中未遂。一気に酔いが回った秀三に、守口は吐き捨てた。
「しかしのう、消毒用フォルマリンじゃで、飲んだのが。そねえなもんで死ねるかい。六高の学生にしちゃあ阿呆《あほ》じゃのう」
だが、その後に続けた新井の言葉の方が、もっと嘲《あざけ》るものだった。
「学校の中を捜せば、もっといい劇薬が幾らでも出てくるだろうに」
秀三は、守口の洋杯に自分の分のビールを注ぐ。その手が震えるのはしっかり自覚ができた。たった一杯のビールで酔ってしまったのか、さっきの新井の発破が効いたのか。
「わし、その事件にぼっけえ興味がありますらあ」
いや、多分自分は「六高」に反応しているのだと、どこか醒《さ》めた部分が囁《ささや》いてもいる。
「ちょっと、取材をしてもええじゃろうか」
「うーん、いいけど、それじゃあ大きな事件記事にはならないよ」
新井は傍らを通り過ぎた仲居に、無料《ただ》で煮豆の鉢を貰《もら》っていた。その鉢を置きながら首を傾げて見せるが、守口の反応は違っていた。
「ええんじゃねえんか。秀三はそういう、講談本みてえな話を書きてえんじゃろ」
秀三は、はっと息を呑《の》んだ。そんな秀三の反応に気づいているのかいないのか、守口はこうも続けた。
「大仰に小説仕立てに書いてみたらええがな。ひょっとしたら、三回連続の読み物に引っ張れるかもしれんで」
雑でかなりいい加減で、自分のことなど馬鹿にしきっていると思っていた守口が、秀三の資質や書きたい記事の志向を見抜いていたことにも、驚きはあった。
「ああ、そういやあ守口君もいつかそんなのやったよねえ」
眼鏡の奥の目を、これははっきりと意地悪く細めた新井に、秀三は資料室で読んだ自分がまだ入社していなかった頃のある記事を思い出していた。
それが守口の手になるものだというのはわざわざ聞かされなくとも、やたら煽《あお》るが稚拙な文体ですぐにそれと知れたのだった。
浮気性の妾《めかけ》が旦那《だんな》に絞め殺されて家ごと焼かれた事件は、かなり大きな報道がなされたのだが、その事件報道とは別に妾の半生を面白おかしく三回連続の読み物として掲載し、それは当時新聞の売り上げを大きく伸ばしたということだった。
確かに文章そのものは稚拙でも、それが逆に妙に淫猥《いんわい》で淫靡《いんび》で、秀三はかなり興奮した覚えがある。あれを今度は自分が、と思うとまた洋杯を持つ手が震えた。書きたい。
「しゃあけどあそこの女将《おかみ》は物《もの》の怪《け》じゃ。秀三じゃあ歯が立たんぞ」
勝手に煮豆を食い、勝手に秀三のビールまで飲んでしまいながらも、守口はその遊廓《ゆうかく》の場所と相手の女の名前等を教えてくれた。女将が取材には断固応じないという事も。
ふいに、痙攣《けいれん》にも似た光の点滅が起こった。停電は毎日といっていいほどあるので、別に騒ぎ立てるほどのことではないのだが、突然ふっと頭上の電気が消えた時は冷たい汗が流れていった。
「あいすみません」
女の声だけがして、秀三の目の前にランプが置かれた。白すぎる女の手が、不吉に透き通っていた。果たしてその手は新井に惚《ほ》れている仲居のものだったのか。秀三には、死にかけた女郎の手に思えて戦慄《せんりつ》した。尖《とが》った爪の先が確かに、秀三の心臓の辺りに狙いをつけていたからだ。
翌日、秀三は取材に行きますと上司に断った。秀三はまず東中島にある件《くだん》の遊廓に出向くべきなのだろうが、やはり六高の学生の方が気になった。
守口はさすが新聞記者というべきか、単なる客として昨日はその遊廓に行ったはずなのに、いざ事件めいた事が起きれば要所はしっかり押さえてある。
「その学生の家はな、内山下《うちさんげ》の××番地の家じゃ。親父は関西《かんぜい》中学の英語教師じゃ。母親は居らん。病死しとるようじゃ。代わりにその学生の姉が居ると。何でかわからんが、ええ年頃じゃろうにその姉は独身らしい。母親代わりをさせられとるんかのう」
そして、六高の学生の名前は平川春夫とのことだ。それらの書き付けを守口に貰い、秀三はその番地の家に向かった。緊張の所為《せい》かすでに梅雨の季節も近い昼間だからか、単衣《ひとえ》の背はじっとりと濡《ぬ》れていた。
「ごめんくださあい」
なるほど豪邸というほどではないが、高い板塀の向こうには丹精された庭木や草花がそよぎ、瓦《かわら》屋根の小ぢんまりとした家屋は静謐《せいひつ》な佇《たたず》まいであった。
本当に誰もいないのか居留守を使っているのか、何度か呼んでも誰も出てくる気配はない。ここで守口ならば、
「ここにはのう、ぼっけえ事件に関わった者等ぁが住んどるんじゃでえ。話ぃ聞かしてほしいんじゃけどなあ、誰も居らんのんなら、近所の人に尋ねて回ろうか」
と、大声でわめき立て「待ってつかあさい、近所周りに恥ずかしいけん、喋《しやべ》ります喋ります」などと慌てて飛び出してこさせるはずだ。
さすがに、秀三にそれはできそうもなかった。だから、せめてそっと玄関の引き戸を少しだけ開けて、中に向かって呼びかけてみる。
「岡山民報の者ですがあ」
中はやはり暗く、ひんやりとした土間が少しと框《かまち》が見えただけだ。人がいるかどうかはわからない、と伸び上がった時だ。
「……静かにしてもらえましょうか」
危うく、秀三は悲鳴をあげるところだった。戸にかけた手に、そっと白い女の手が被《かぶ》さっていたからだ。それは昨夜、ビヤーホールで停電の時に垣間見《かいまみ》た女の白い手と同じであった。透き通るほどに白く華奢《きやしや》な、そしてひんやりとした細い指だ。
続いて、少し開けた戸の陰に女が半身だけ姿を覗《のぞ》かせた。若葉よりも鮮やかな緑の格子縞《こうしじま》の着物を着た、痩《や》せた女であった。
「もっ、申し訳ありません」
しかもその女は、大層な別嬪だった。手以上に透き通るほど白い頬や額は滑らかで、化粧っ気はないのに唇が艶《あで》やかに赤い。髪の結い方は地味だが、後れ毛までが絵に描いたほどに整っていた。
これは、六高の学生である春夫の姉なのか。時間にすればわずかなものだろうが、その姉に長らく手を握られていた気がする秀三は、やたらと頭を下げた。
「昨日の、弟さんが起こした事件のことで、あのっ、その、ちょびっとだけ話を聞かしてもらえんもんじゃろうかと思いまして」
「……まあ、新聞社の方。もう、あの子のやったことは、そんな知れ渡っとるんじゃろうか。不憫《ふびん》じゃわあ……」
咎《とが》める上目遣いの眼差《まなざ》しにも、背筋が寒くなるほどの蠱惑《こわく》的なものがあった。汗をかいた背中が冷えてきたほどだが、どうにか動揺を押《お》し止《とど》め、
「そねえな、悪いもんにはしませんけん」
今度は新井の、あの余裕を持った微笑を真似てみようとする。真似られたかどうかはわからないが、それでも春夫の姉は睫毛《まつげ》を伏せた。その陰った表情もまた美しい。
「ほんなら、縁側でもええじゃろうか。あの子、奥で寝とるけん、家に入ってもろうたら困るんよ」
「はあ、それでええです、えろうすんません」
秀三が身を引くと、春夫の姉は静かに外に出てきた。一度も陽に当たったことがないような白さだ。どこもかしこも透き通っていくようだ。ほとんど衣擦《きぬず》れの音だけを立て、玄関脇のぬれ縁に腰掛けた。
「そっ、それじゃあ、失礼しまして」
間に一人座れるほどの距離を置いて、秀三も腰掛けた。庭木を漉《こ》して流れてくる風は青く、夏の花に宿る露には甘い匂いがあった。
「春夫は、優しい子じゃけん」
春夫の姉は、唐突に独白の口調で語り始めた。
「学業はほんまに、良うできるんじゃけどな。去年お母さんが死んでから、ちょっと神経が疲れたんよ。わたしは、お母さんの代わりにずっと春夫を可愛い可愛いて、可愛がって育ててやろうと決心してなあ、見合いも皆、断った」
帳面に書き付けるのも忘れ、秀三は春夫の姉の横顔に見惚《みと》れていた。美人絵端書と称される、東京の名のある芸妓《げいぎ》を写した端書よりも端整で清楚《せいそ》な横顔がそこにあるのだ。そうしてそれは、異国の硝子《ガラス》細工の花瓶の如く繊細で脆《もろ》く傷つきやすいものに映った。
「なんで、そねえな悪い場所の悪い女に騙《だま》されたんじゃろうか」
その横顔は、ふいに正面を向いた。大人しい横顔と違い、真正面からの顔には魔性とも呼ぶべき強さがあった。その唇が、妖《あや》しく秀三を呼びかけるのだ。
「なあ、記者さん。なんぞわからんじゃろうか」
秀三は、思わず背筋を伸ばしていた。風に、すべての花が自分に向けて開く錯覚を覚えた。それでもしっかりと帳面を持ち直し、記者の口調で聞き返す。
「お姉さんは、名前は何とおっしゃるんじゃろうか。いや、紙面に載ったら困るというんであれば、匿名にもできるんじゃけど」
「千代《ちよ》、と申しますらあ」
千代、と口にしかけた時だ。部屋の奥から、苦しげにその名前の女を呼ぶ声がした。
「姉さん、姉さん。水を下さい」
その声は、ふせっている春夫のものに違いない。どこか芝居じみていると感じたのは、姉の千代と同じく透き通るような声だったからか、千代が物語の中の女としか思えない容姿と雰囲気を持っていたからか、庭木に妖しい魔の香りがあったからか。
「ごめんなさい、弟が苦しがっているので」
寄せる眉根《まゆね》もまた、艶《つや》っぽい。そうしてその気持ちはもう、秀三になど欠片《かけら》もない。千代の心はすでに奥で寝ている弟の元にいってしまっているのだ。
「はいっ、これで充分です。あ、ここに私の住所の書き付け置いときます。ここ」
千代と一緒に、秀三も弾《はじ》かれたように立ち上がっていた。ここにもし守口がいれば、
「阿呆《あほ》。たったこんだけで記事にできるか」
と、どやしつけられているところだろう。しかし、秀三はそれ以上千代に追いすがれなかった。千代から想定するに、きっと美男に違いない春夫の寝床にも、踏み込むような真似はできない。
そんなことをしたら、あの千代にどんな目で睨《にら》まれるか。それを想像しただけで地の底に突き落とされる気分におちいる。
その道すがら、秀三はどうしようもなく身体が火照《ほて》っていた。振り払っても振り払っても、春夫の姉の千代の幻影、もしくは面影が付きまとう。惨めな六高生のことを書き立ててやりたい、などという気持ちは別の熱情にあっさりと凌駕《りようが》された。
何よりも、千代に嫌われたくなかった。どうすれば、あの千代の関心を引けるのか。あまりに千代は遠い。とてもではないが、直《じか》に触れるなど恐れ多くてできそうにない。
「……金は、多少あったな。よっしゃ」
路地裏で、秀三は懐の金を確かめた。春夫が心中未遂を起こしたという潮《うしお》楼には、取材目的だけでなく登楼することにしたのだ。中学の時からの悪い友達と、何度か東中島の遊廓《ゆうかく》には遊んだことがある。ただ、潮楼はまだだった。
その相手の女はやはりふせっているだろうが、朋輩《ほうばい》の女を買ってみて、その女に取材をかけてもいいではないか。
「千代、という名の女は居らんかいな」
独りごちて、秀三は道を変えた。なんだか守口の行動をことごとく見習っているような気もしたが、
「なあに、文才は遥《はる》かにわしの方にあるんじゃけえ」
ちっとも言い訳にならない言い訳を自分にして、東中島遊廓に向かったのだった。
その心中未遂があったという潮楼は、特に低級、安いという遊廓ではなかったが、どこにいても便所の匂いが漂ってくるようなうらぶれた雰囲気に満ちていた。抱え娼妓《しようぎ》達を路地から格子越しに眺めても、これはという女は見当らない。
もっとも、売れっ子はとうに客がついて座敷にあがっているのかもしれない。いや、千代の後ではどの女もくすんでしまうのだ。
「あの千代さんを間近に拝んだ後じゃけんなあ」
秀三は深くため息をついた。また女将《おかみ》というのが、さすがの守口でさえ取材に二の足を踏んだというのが納得できるほどのものであった。
「あの事件の話じゃと? ああ、そんなん聞きたいだけなら帰ってつかあさい。うちは噂話をしに来る所じゃねえわ」
雌牛のような肥満体に、秀三の優に二倍はありそうな巨大な顔で一喝されると、秀三はとてもではないが守口のように、
「ここの者は話もしてくれんのじゃあ」
と、近所周りに響く大声も出せない。だからへへっ、と気弱に笑ってから、
「いや、もちろんここのお姐《ねえ》さんと遊びに来たんじゃがな」
と、格子の中を覗《のぞ》き込む恰好《かつこう》をしてみせた。白塗りの女達は暗い灯火の下、皆同じ女に見える。強いて選べば紫の銘仙の女がまずまずの別嬪《べつぴん》で、洗い髪の女が最も若そうだ。
だがここで秀三は、男としての嗜好《しこう》は一先《ひとま》ず置いておかねばならない。わずか数年の経験とはいえ、新聞記者としての勘を働かせなければならないのだ。
一番、口の軽そうな女はどれじゃろか。
「あ、あの束髪のお姐さんがええ」
不貞腐《ふてくさ》れた年増を指す。別嬪はおだてられるのに慣れているから少々のお世辞で口は軽くならないが、あれならとめどなく愚痴と一緒に色々な言葉が出てきそうではないか。と秀三は、その妙な恰好に歪《ゆが》んだ薄い唇を凝視する。
「まあまあ、あんた若いのになかなか女を知っとるがん」
売れ残りに買い手がついたためか、女将はたちまち機嫌を直した。
「お藤《ふじ》、お藤。座敷に案内したって」
お藤と呼ばれた女はちらりと秀三に上目遣いをし、形だけの愛想笑いを浮かべる。そこだけ艶やかな項《うなじ》には、やつれた色香がまつわっていた。
三畳ばかりの天井の低い座敷は、橙色《だいだいいろ》の古風な行灯《あんどん》に隈無《くまな》く照らされていた。気の滅入《めい》る色彩だ。湿った煎餅《せんべい》布団に横たわるのも、死人の肌の色をした女だ。
「少々、色をつけるけん。知っとることを話してもらえんじゃろうか」
取材費、とは言わずに秀三はお藤を背後から抱いた。秀三も男としては小柄な方だが、膝《ひざ》に寄り掛かる恰好のお藤は本当に軽く小さかった。
「お客さん、記者かなんかなんじゃろか」
「い、いや違うで」
実際の歳はわからないが、お藤は子供を産んだことがあるのだろうか。乳房は張りがなく、氷嚢《ひようのう》を触っているようだった。その代わり乳首は大きく、すぐに硬くなった。唐突に裏庭に生えている茱萸《ぐみ》の実を思い出す。
「わし、そういう話に興奮する質《たち》なんじゃ」
秀三は目を瞑《つぶ》り、春夫の姉の千代の面影を追った。千代は苦悶《くもん》の表情が実によく似合うはずだ。泣きそうな顔が一番そそるはずだ。多分乳房は小さいが形は良く、つきたての餅《もち》の肌ざわりではなかろうか。
「ここで、六高の学生とお姐さんの朋輩の心中未遂があったんじゃろうが」
お藤は技巧的な声を洩《も》らしながら、その姿勢のまま右手を秀三の着物の裾《すそ》に差し込んできた。陰茎は半ば持ち上がりかけていた。ざらつく手の指が侘《わび》しくも淫猥《いんわい》な動きをする。
「あったよ。しゃあけどあれは、お吉《よし》の無理心中じゃろうが。あの女は時々、カアッとなったら無茶するんよ。可哀相なわ、あの学生さんも」
思った通り、お藤は口が軽かった。しかも、お吉とやらにあまりいい感情を抱いていないようだ。それは嫉妬《しつと》だったのかもしれない。見目麗しく将来有望な青年を、一時とはいえ道行きの連れにしようとしたのだ。逼塞《ひつそく》したこの生活を、死の世界へとはいえ飛んで逃げ出そうとしたのだ。
「お吉? 布団部屋で折檻《せつかん》も受けたけん、今は足腰立たん。その布団部屋で今も寝とるよ。女将の私刑は、そりゃあきついけんのう」
或《ある》いはもっと卑近な、客を取ったの取られたのという喧嘩《けんか》だったのかもしれないが、お藤はすらすらと何でも答えてくれた。それはよくよく考えてみれば、秀三との行為にまったく没頭できなかったという証明でもあるのだが、
「そうかそうか、ついでにそのお吉は別嬪かどうかも教えてくれや」
男としての発奮よりも、ここはやはり記者としての根性を押し出さねばならぬ。それでも目を瞑れば、思い描く女は千代だ。舐《な》める乳首は幼い頃にむさぼって腹を壊した裏の茱萸の実だ。探る指の先にも、熟れて潰《つぶ》れて鳥に啄《つい》ばまれた茱萸の実があった。
「あれが別嬪なら、この廓《くるわ》のオナゴは全部が別嬪じゃ」
茱萸の実を啄ばむ鳥の鳴き声で、女は喉《のど》を鳴らした。その声に我を忘れて聞き惚《ほ》れていたのだろうか、秀三はふすまの陰からじっと大柄な女がのぞきこんでいるのに気がつかなかった――。
早朝に出社した秀三は、細々とした雑事をいつにない速度で片付けてしまうと、深呼吸をしてから机に原稿用紙を広げた。まだ社内には、数人しか来ていない。守口も新井もいない。開けた窓からは鳥の囀《さえず》りが聞こえ、秀三は昨夜の女を思い出した。
「そうじゃそうじゃ、あの女の身体でなしに、言うた言葉を思い出さにゃあ」
明星だの浪漫主義だのは、今日は無しだ。簡潔に、かつ扇情的に書くのだ。秀三の頭の中には、正しい報道だの表現の自由だの六高生への屈折した思いだのは、ない。
「わしの、作品じゃ。小説なんじゃ」
そして何よりも、千代。千代に「弟の名誉を回復してくれてありがとう」と有り難がってもらわねばならぬ。秀三は帳面を取り出した。
「このぼっけえ暗記力があって、なんで六高落ちたかのう」
さすがに聞いた言葉をその場で大っぴらに書き付ける訳にもいかず、お藤の言葉を極力暗記してから急いで家に戻り、忘れないうちに書き付けたのだ。それを目で辿《たど》りながら、原稿用紙に文章として組み立てていく。
≪五月の宵の無理心中未遂 男は秀麗なる六高生 女は東中島の醜女《しこめ》で年増の娼妓≫
見出しはすぐに決まったが、出だしで少し迷う。やはり、すぐに本題に入るのは味気ないではないか。女と布団に入った時と同じだ。焦《じ》らすくらいでいいのだ。
≪月光の長く射したる皐月《さつき》の宵は人の胸の内にも濃い影を落とすと思はれたる二十日の夕刻八時頃 岡山市東中島|遊廓《ゆうかく》潮楼の抱へ娼妓お吉こと野上テル(二七)が初登楼の初心《うぶ》な六高生平川春夫(一八)に消毒用フオルマリンを騙《だま》して呑《の》ませたる椿事《ちんじ》あり≫
≪テルは美人と云ふにあらず 朋輩《ほうばい》の語るところに依《よ》ればこの楼閣一の醜女であると≫
≪前年に慈母を亡くし憔悴《しようすい》して居た春夫は年増のあくどい手管に騙され≫
≪奥の間に於《おい》て男女の呻《うめ》き声《ごえ》聞こゆるを女将が気附《きづ》き応急手当を施したる≫
≪テルが隠し持ちし消毒用フオルマリンを多量に服用したるが両人とも今後加病なき限り生命のみは取り留むると≫
≪春夫の美しき姉は見るも気の毒なる程にやつれ果て「弟は優しい性分なのでスツカリ騙されてしまつたのでせう」と涙ながらに語りたるも哀れなり≫
≪テルは何度も遊廓を鞍替《くらが》へし古参兵なるも一向に借金は減らず自棄《やけ》になりて≫
要するに、「醜い年増の女郎が自分の行く末を悲観して自棄になり、その道連れに初心な学生を騙して酷《ひど》い目に遭わせた、そしてその学生の姉は優しく美しくこれからも弟と健気《けなげ》に生きていくと可憐《かれん》に泣いた」という物語なのだ。
一応書き上げると、守口は見当らないのでまず新井の所に持っていった。汗ばむ時候なのに、新井はいつでも乾いている。さっと原稿に目を通すと、
「いいんじゃない。これ、明日の朝刊に出そう」
新井は眼鏡を外して、懐から出した手拭《てぬぐい》で拭《ふ》きながら微笑した。ふと、その眼鏡を外した仄白《ほのじろ》い顔に、新井さんは布団の中ではこんな顔なんじゃなぁ、女と致す時はこの顔なんじゃなぁと、淫靡《いんび》な微笑が浮かんだ。
「まずは、この短い記事を出してみて、それで反響が大きければ読み物として改めて三回ばかりの続き物でやってもらうよ」
再び眼鏡をかけた新井はもう、職場の謹厳な新井に戻っていた。
翌日、秀三はいつもより早く母親に起こされた。障子から射し込む陽はまだ青白い。
「あんたに、お客さんじゃで。こねえに朝|早《はよ》うに。名前しか名乗らんのよ」
「はて、どねえな人じゃ」
もそもそと起き上がる秀三は、布団に座ったまま襖《ふすま》を開けて板の間を覗《のぞ》いた。囲炉裏に鍋《なべ》がかかっていて、白い湯気を上げている。その向こうは暗くてよくわからない。
「別嬪《べつぴん》さんじゃけど。心当たりあるんかな。平川と名乗っとるよ」
「別嬪で平川じゃと」
俄《にわか》に、鼓動が高まった。慌てて立ち上がり長押《なげし》の着物を引っ掛けると、襖を開けた。板の間の向こう、土間にはほっそりとした女が立っていた。
異様に白い顔色だが、美しい幽霊といった佇《たたず》まいのその女は紛れもなく、春夫の姉の千代であった。地味な丸髷《まるまげ》に挿した銀の簪《かんざし》が、震えていた。
「朝早うに、すまんのですけど」
「いやいや、そんな、こっちは構いませんですらあ」
赤面しながら、秀三は近付く。母が背後で困惑している。
「いきなりじゃけど、ちょっと来てもらえんじゃろうか」
背後で母が何か言いかけるのを、秀三は素早く振り向いて目で合図した。ええんじゃ、心配はないんじゃ、と。
「こちらは仕事でちょっと世話になった人じゃ。このまま一緒に出て出社もするけん」
草履を突っ掛け、外に出た。西風が千代の甘い匂いを鼻先に運んでくる。何じゃろう、新聞を読んで喜んでくれて、そのお礼か。
ところが千代は脇目も振らず、すたすたと進んでいく。新聞どうでした、と聞く余地もない態度だが、千代が自宅の方に向かっているのはわかった。
「あの、弟さんはもう、良うなられたんじゃろうか」
追いかけて秀三は声をかけたが、それでも千代は返事をしてくれない。こんなに着物の裾《すそ》を翻して小走りに近い早足で歩いているのに、千代は息さえ切らさない。
不安になってきたが、千代は初めて会った時から何か少々尋常でない様子は垣間見《かいまみ》せてはいたのだ。それもまたこの女の一つの魅力ともなっていた。
「……弟に、春夫に会《お》うてやってつかあさい」
見覚えのある千代と春夫の家に着いた時、まず千代はそう告げた。静謐《せいひつ》な板塀と庭と家屋と美しい姉弟と。先日と何も変わらぬものが揃っているはずだった。
千代は硝子《ガラス》玉のような瞳《ひとみ》で、秀三を凝視した。自分さえ映さぬ虚無の色を湛《たた》えたその瞳に、異様な寒気を覚えた。
「ほれ、早うに」
甲高い、悲鳴混じりの声だった。その声とともに襖は開かれた。爽《さわ》やかな五月には不似合いな、異様な臭気が鼻をついた。
秀三は茫然《ぼうぜん》と、その六畳間を見下ろしていた。寝巻姿で倒れているのは、これは春夫なのであろう。仰向《あおむ》けになった若い男の顔は、僅《わず》かに美麗な面影はとどめているものの、紫色に膨れていた。
「春夫、あんたのことを書いた記者さんが来てくれたんよ」
苦悶《くもん》したのであろう、室内は荒れていた。障子紙は破られ、文机《ふづくえ》は倒れてその辺りに吐瀉物《としやぶつ》が撒《ま》き散らされている。転がる茶色の小瓶だけが、射し込む陽に鈍く光っていた。
秀三は、腰を抜かしてへたりこんでいた。目の前の光景が最初は現実として迫ってこなかったが、開け放した戸から吹き込む風に岡山民報が舞い上がり、ばさばさと大袈裟《おおげさ》な音を立てているのを目のあたりにしてやっと、恐ろしさが一気に駆けあがってきた。
「……弟もなあ、誰でもええから死ぬ相手が欲しかったんよなあ。お母さん死んで、お父さんは若い代用教員の女の所に行ったまんま、帰りゃあせんし」
閑《のど》かでもある声で、背後の千代は囁《ささや》いた。
「春夫も六高に入った途端に、力が抜けたんじゃろうな。勉強せんようになって、落第が決まって。将来の希望なんぞ、何も持てんようになって」
半ば白目を剥《む》いたその目が、確かに秀三を睨《にら》んだ。
「私に、一緒に死んでくれ死んでくれ、て甘えとったんじゃけど、わたしゃ『そんなん嫌じゃ。女郎とでも心中したらええがん』て、怒鳴りつけたんよ」
恐ろしいのに、秀三は顔から目が離せない。そうだ、自分はちょっとした悪戯心《いたずらごころ》というか六高生を揶揄《やゆ》するつもりで≪消毒用フオルマリンで死ねる由は無し 六高生にしては無邪気なり 劇薬の知識は無いものか≫とも付け加えたのだった。
「朝刊が配達されてきて、それ読んで。ああ、これはあの若い記者が書いたんじゃなあと、すぐにわかったんよ」
千代はしゃがみこむと、そっと秀三の肩に手を置いた。それは死人のそれのように硬く強《こわ》ばっていた。その爪が食い込んでくる。
「弟は、死に損のうたことを、ぼっけえ恥じとったけんなあ。あんたの記事が、今度こそ後押ししてくれたんじゃわ」
ふっと首筋に、千代の吐息がかかる。途端に弾《はじ》かれたように、秀三は立ち上がって叫んでいた。
「警察、巡査を呼ばにゃあいけん」
――それからどのようにして警察に通報し、巡査が二人駆け付け、その場で検死を行って千代と秀三に事情聴取をしたのか。秀三は自身の身に迫る現実としてではなく、≪巡査土間にて語るらく≫≪出張検死の後死体は姉の千代に引渡したるが≫≪服毒自殺を遂げ六高生は数時間にて絶命したり≫≪其《そ》の幾日か前には遊廓《ゆうかく》で心中未遂事件を起こし居れりと報道したる≫と、断片的に文章として捉《とら》えていた。
秀三がようやく新聞社に出社できたのは、もう午後になっていた。疲労が汗よりも不快に着物を肌に貼りつけていた。
「そりゃあ、難儀じゃったのう」
事情を知ってさすがの守口も労《ねぎら》ってくれたが、その後で妙なことを教えてくれた。
「この記事を書いたんはどの記者じゃと、女が訪ねて来たんじゃ」
「女?」
千代かと思ったが、それは違う。千代はずっと自分と一緒に居たのだし、今も警察署やら葬儀の相談やら何やらで慌ただしく、親族と自宅の方にいるはずだ。
「どねえな女でしたか」
「それがのう、こねえな良い陽気じゃのに、おこそ頭巾《ずきん》をすっぽり被《かぶ》って、端っこを顔にぐるりと巻きつけとってのう」
自分を探しに来る女なぞ、まるで心当たりがない。それに今の秀三は、他の女について考える余地はなかった。千代の狂気の宿る眼差《まなざ》しと、虚空を睨んでいた春夫の白目とが頭から瞼《まぶた》から離れないのだ。
「……わしの、せいなんか」
立ち尽くす秀三の尻《しり》を、守口は背後から新聞の束で叩《たた》いた。
「そんなの一々気にしとったら、新聞記者なんぞ勤まるもんか」
「そうだよ、大橋君」
同調するのは、あくまでも涼しげに銀縁眼鏡を光らせる新井だ。
「結局、その六高生が弱かったということだよ。うちは明治十二年の創業以来数えきれない事件報道をしてきたんだよ」
実に姿勢よく机に向かう新井は、何の曇りもない表情だ。
「だけど書かれた人間すべてが、記者を恨んで化けて出たってのは寡聞にして聞かないね。まあ、恨んでいるというのは事実だとしてもだ」
これは間違いなく気の迷い、目の錯覚だろうが、その時秀三には新井の背後に揺らめく死霊の群れを見た。薄暗く陰鬱《いんうつ》なその群れは、インキの匂いを立てながら低く笑いさざめいていたのだった。死霊よりも、それに平然としている新井の方がよほど怖い。
「あっ」
その時、秀三は小さく声をあげていた。死霊の幻の彼方《かなた》に、確かに生きた妖《あや》しい女を目撃したのだ。入り口に一瞬だけ立って、またどこかに消えた。
千代ではなかった。もっと大柄で太《ふと》り肉《じし》の女だった。そうして、おこそ頭巾をすっぽりと被っていた。その眼差しだけが逆光に刃物めいて光っていた。
――場末の飲み屋ではなく、静かに落ち着いた場所で飲みたかった。ほとんど上の空で仕事を終えた秀三は、岡山駅の三好野花壇のビヤーホールに向かった。
蓄音機からは、「野ばら」と「ボルガの舟唄《ふなうた》」が交互に流れてくる。その場違いに陽気で優雅な旋律に、涙が滲《にじ》んできた。
この前と同じ、壁際の卓に着く。椅子は二脚だ。秀三は入り口に背を向け、暗い壁を眺める位置に腰掛けた。もうじき行儀よく、仲居が注文を取りに近付いてくるだろう。それまでは感傷的に、千代への失恋を噛《か》み締めたい。
「ちょっと」
「ボルガの舟唄」が途切れた時、秀三は背後から声をかけられた。仲居かと、少しだけ振り返ったその視界いっぱいに、紫のおこそ頭巾が広がった。
その女は目だけ覗《のぞ》かせているのだが、その凶悪な光に秀三は口を悲鳴をあげる形に開いたまま、固まってしまった。
だから、女の振り上げた小刀をかわせたのは運が良かったとしか言い様がない。鋭い悲鳴が上がったのは、隣の卓だった。近所の富裕な商店の夫人らしきその初老女性は、勢い余って尻餅《しりもち》をついたおこそ頭巾の女を指差し、
「ひっ、ひっ、人殺しよ、誰か誰かーっ」
と喚《わめ》いたのだ。その声におこそ頭巾の女は飛び起きると、これもまた奇声をあげて再び小刀を振りかぶってきたのだ。
「おい、止めんか、お前は何なんじゃ」
椅子を蹴倒《けたお》して、秀三は飛びすさる。自分が襲われているというのが、これもまた悪夢の続きのようで実感はできない。
騒ぎに気付いたビヤーホールの男の店員達が駆け寄ってきたが、おこそ頭巾の女は激しく小刀を振り回すために危なくて迂闊《うかつ》に手を出せない。
「お前こそ、お前こそっ」
無茶苦茶に振り回していた小刀が、柱に食い込んだ。強く刺さったためにこれもまた勢い余って女はつんのめる。
そこにわっと、店員達が押さえにかかった。さすがに三人もの男に押さえられ、おこそ頭巾の女はもがくのを止めた。
「ここでこういう騒ぎは、御免|蒙《こうむ》りたい」
強い口調で年嵩《としかさ》の男が叫んだが、それは秀三に向けてだった。
「い、いや、痴話喧嘩《ちわげんか》なんぞであるもんか。わしゃあ、こねえな女は全然知らん」
腰の上に跨《また》がっている、一番若い男がそのおこそ頭巾を毟《むし》り取った。その下から現れたのは、西洋女のように目鼻の大きな顔立ちの女であった。無論、まるで秀三には見覚えがない。
「ほんまに、知らん。あんた、一体どこの誰なんじゃ」
「うちは……」
床に座らされ、背後から両手を押さえられた女は呻《うめ》いた。店内は静まり返り、ただ蓄音機の「野ばら」だけが流れていた。
「潮楼のお吉じゃ。いや、本当の名前はテルじゃ」
「お吉……テル……」
呟《つぶや》きを頭の中で活字に組み立て、ようやく秀三はアッと驚いていた。春夫の心中未遂の相手として「醜女《しこめ》で年増」と書き立てた、あの女であったのだ。
激しく息をつくお吉ことテルを、秀三は覗き込んだ。その女が襲ってきたことよりも、全然「醜女」ではないことに衝撃を受けたのだ。
「やっぱり、この女はあんたに関わりのある人なんじゃろうかな」
胡散《うさん》臭そうに年嵩の店員に睨《にら》まれ、慌てて秀三は手を振った。
「違う違う、その、取材でちょっと、その」
もはや疲れ果てた秀三は、頭を下げるのも土下座をするのも抵抗はなくなっていた。頭を床にすりつけて、詫《わ》びを入れる。
「あんたの可愛い春夫は、死んでしもうた。別にわしが直接手を下した訳じゃねえんじゃが、そいでも詫びだきゃあ、ほれこの通りじゃ」
皆は最初、恐怖に縮み上がっていたにも拘《かか》わらず、今は興味津々で二人のやり取りを見物していた。立て続けに心臓が縮む出来事の続いた秀三はもう、どこかが麻痺《まひ》してしまっている。もうどうとでもなれ、という気持ちだ。
「違うわいっ」
お吉ことテルは、そんな秀三に向かって子供のように嫌々をした。
「うちもあん時は悪酔いして、ついつい弾みで薬なんぞ飲んでしもうたけどな、あの学生は初めてあの日|会《お》うた客じゃし、そねえに情はないんじゃ」
「そっ、そんならなんで、こねえに興奮して暴れてわしを狙うんじゃ」
頭が混乱して、言葉も活字も見出しも脳裏をくるくると回っている。
「なあ、みんな」
突然、お吉ことテルはぐるりと皆を見渡して声を張り上げた。
「うちは、そんな二目と見られん醜女か」
途方に暮れた顔ながら、何人かが首を振った。誰かが真面目に、「いんにゃ、別嬪《べつぴん》じゃ」と答えた。実際テルは、派手な顔立ちでハイカラな美人と言えなくもない。いや、おそらく化粧をしてにこやかにしていれば、かなりの別嬪ではないか。
「じゃろう。うちは、子供の頃から華美粉飾《はでつくり》の別嬪と評判じゃったんじゃ」
はでつくり。華美粉飾。その言葉だけがきれいに活字体となって、黒々と秀三の脳裏に刻まれた。テルはなおも、喚く。
「生まれて初めてじゃで、醜女なんぞと罵《ののし》られたんは。しかも、その顔を知りもせん相手にじゃ」
蓄音機をかけていた人間も、この場に出てきているのだろう。「野ばら」も「ボルガの舟唄」も途切れ、テルの喚き声だけがこだました。
一応、テルは駆け付けた巡査に取り押さえられ、連れていかれることになった。秀三も事情説明に行かねばならないようだ。
「これは、誰が記事に書くんじゃろうか」
その際自分は報道の自由を標榜《ひようぼう》し戦う記者として書かれるのか、粗忽《そこつ》で先走りの道化者として書かれるのか。それもその記者次第か。
やがて仲居も男の店員も皆、持ち場に戻った。新たな客も入り始め、再び蓄音機は鳴り始めた。今度は秀三のまったく知らない、支那《しな》の流行歌であった。その震える細い声はどこか千代に似ていた。
新井か守口が来てくれないものか。疲れ果てて、秀三は入り口を仰ぐ。そこには、ほっそりと美しい千代の姿が一瞬だけ映った。
「どうせなら、あんたの方に刺されたかったのう」
不機嫌な巡査の後をついて歩きながら、新聞社の方に連絡だけさせてくれ、と頼んだ。
「ええっと、訂正記事はほんまに書かにゃならんのかなあ。もし書かにゃあならんとしたら、やっぱり見出しは≪華美粉飾≫か」
それにしても、テルを醜女の年増のと罵ったあのやつれた女郎。名前も忘れたが、乳房の緩い感触だけは覚えているあの女。
何が理由で、あれほどテルを罵ったのだろうか。まあ、それは何にしても記事にする意味はないことなのだ。きっと、そうなのだ……。
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合意《がふい》情死《しんぢゆう》
晴れの日の昼間は節約のために電球は灯《とも》さぬから、天気のよい日は却《かえ》って教室の中は暗い。それでも、二人掛けの机にきちんとかしこまって座る子供達の顔には、陰りがない。
「早《はよ》う、外で遊びたいんじゃろうが」
黒板の前に立つ小宮|久吉《ひさきち》は、そのいがぐり頭やお河童《かつぱ》頭の子供らをぐるりと見渡して、微笑んでみせた。すでに廊下には、終業を報《しら》せる鐘を持った小使の老人がいる。律儀な彼は、教室の壁の八角時計が鳴ってから鐘を振るのだ。
「わし、それより小便がしてえ」
教室で一番の悪童の竹蔵《たけぞう》が怒鳴れば、一斉に笑い声がわく。こんなことは決して他の教員の時にはない。久吉は良く言えば子供らに親しまれており、悪く言えばやや舐《な》められている。
「よっしゃ。ほんなら、もう皆帰ってええぞ」
久吉の声と、八角時計の音と、小使の老人の振る鐘の音は同時であった。おそらく子供らは、その中では小使の老人の鐘の音を合図にした。歓声をあげて、転がるように校庭に飛び出していく。鐘の音はゆっくりと遠ざかった。
「五時……か。陽が長《なご》うなったのう」
梅雨は明けたが、先週までの長雨のため、校庭の地面はでこぼこだらけだ。そこを、汚れた筒袖《つつそで》の子供らが飛び跳ねるため、白っぽい土埃《つちぼこり》で陽までが曇る。
窓枠から身を乗り出して子供らを見ていた久吉は、教壇に戻った。黒板をざっと拭《ふ》いてから、もう一度窓の向こうを眺める。生れ故郷はどこを向いても山が連なるが、ここ岡山市では山よりも町並みが迫ってくる。
この岡山第一尋常小学校は、特に金持ちの子供が集まっているというのではないが、岡山市のほぼ真ん中にあるために、商人や勤め人の子供が多い。年代も違うと言ってしまえばそれまでだが、久吉が通った小学校は純然たる農村だったから、まともに通ってくる子供の方が少なかった。農繁期には子供とて、そちらに駆り出されたのだ。
しかし明治半ばの百姓にしては、久吉の親は教育に熱心だった。娘ばかり続けて四人生まれた後の待望の跡取りだったということもあるが、
「これからは教育が無《ね》えと、おえんぞな」
と、高等小学校の後はかなり無理をして、中学校にもやってくれた。家は長姉が婿を取って継いでくれたので、久吉はこうして岡山市に一人で下宿して教員をやっていられるのだ。
親は、そんな久吉を何より自慢にしてくれている。老いた両親のその笑顔を見ると、久吉は嬉《うれ》しいというより厳粛な気持ちになる。期待に、添わねばならない。それは機関車のように熱気と馬力で前進するのではない。久吉の性質上、それは無理だ。
一日一日、何事もなく大過なく、やり過ごせばいいだけの事だ。それだけだ。
「先生は、まだ帰らんのんか」
窓の外を駆けていく竹蔵らが、手を振っている。
「おお、もう帰るで」
それに久吉は、子供らも可愛かった。同僚の教員や先輩らは、当たり前のように子供らに体罰を加えるが、久吉はどうしてもそれはできない。姉ばかりの中で育ったせいもあるだろうが、たとえ言うことを聞かなくても悪さをしようとも、子供は可愛い。
「小宮は、甘いで」
と先輩教員に馬鹿にされても、女教員らには称賛される。それもまた、同僚や先輩らの嘲笑《ちようしよう》の的になっていた。
「女子供の機嫌ばかり取ってからに」
「何が楽しゅうて、生きとるんじゃ」
とまで罵《ののし》る先輩もいるが、そんな時久吉は曖昧《あいまい》に笑って誤魔化す。それに久吉は、こっそりと遊廓《ゆうかく》や悪い遊び場に出入りするようなことはないが、楽しみもあった。
教員室に出席簿を返しに行き、先生方にきちんと挨拶《あいさつ》をする。
「どっか、お出かけかな」
校長より威張っている、一番古株の女教員に声をかけられ、久吉は気弱に微笑む。
「なんか、浮き浮きしとられるが」
「いんにゃ。小宮クンは浮き浮きも、浮いた話も何も無かろう」
備前焼の狸そっくりの教頭にからかわれ、これもまた久吉は照れ笑いで誤魔化し、早々に教員室を出た。皆、久吉はこれから真っすぐに下宿に帰ると思っているのだ。
だが、校舎を後にした久吉は、繁華街を少し外れた街中に出た。決していかがわしい場所ではないが、それでも一応は子供の親がいないか辺りを見回す。それから、その東南角に向かう。
詰め襟の洋装では如何《いか》にも学校教員なのだが、下宿に戻って着替えて外出などすれば、小うるさい下宿屋の婆さんに何か言われる。
「わしはなんで、こねえに皆に気を遣《つこ》うとるんじゃ」
呟《つぶや》いてみたくなるが、今更この性質は変えられはしない――。
内山下停留所でチンチン電車を降りれば、すぐに目につく三階建ての料理屋。その三階に、岡山としては画期的にハイカラなカフェー・オカヤマがある。売り物は、珈琲《コーヒー》と菓子で十銭というものだ。
久吉の月給が二十一円、岡山市から故郷の和気《わけ》村までの三等汽車賃が三十一銭だから、そんなに格安ということはないのだが、ついつい来てしまう。
「おう、小宮のセンセイじゃないか」
明らかに揶揄《やゆ》のこもった「センセイ」だが、久吉は気にしない。奥の卓子《テーブル》はすでに、彼らで占領されていた。正式な会合ではないが、いつしか集うようになった面々がいる。
「みんな、早いねえ」
洋式エプロンの可愛い洋食仲居を、何人も侍《はべ》らせている。彼女らは男たちの位置付けに敏感なものだから、久吉には通り一遍の挨拶しかしない。
彼らは皆、岡山市内の富裕な階層の出で、角帽の六高生もいれば最新の洋装できめた銀行員もいる。中でも一際目立つのは、壁際にもたれるように座った「芸術家」の安藤だ。
「おう、小宮くんよ。今な、風俗を紊乱《びんらん》する鄙猥《ひわい》画について、語り合っていたところだよ。僕は官憲と戦うからな」
きゃっ、と、洋食仲居らから嬌声《きようせい》があがる。すでに安藤は酔っていた。
「ほどほどにしとかんと、おえんぞ」
隅っこに腰かけた久吉は、かつての同窓生に微《かす》かに眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。小学校と中学校が一緒だった安藤と、いつからこうして仲良く飲んだりするようになったか、今一つはっきりしない。中学の同窓会で再会して下宿先が近いとわかってから、会うようになったのは確かだ。このカフェー・オカヤマにも、安藤に連れられて来たのが最初だった。
小学校の頃も中学校の頃も、さほど仲良しだったことはない。絵が巧《うま》かったのは覚えているが、いつからこの男がこんなに女が好きだったかと問われれば久吉は答えられない。
それともう一つ。小学校と中学校では皆坊主頭だったので、誰が美男で誰が醜男《ぶおとこ》だか、そんなこともあまり意識したことがなかった。今頃になって、安藤が西洋人のように陰影の多い端整な顔立ちをしていることに気付かされたのだった。
「白人形、と呼ばれる石膏《せつこう》像がない時は僕がモデルを務めたからね」
そんな話も安藤がしれっと言うと、誰もが納得してしまうというか、当然ととってしまう。久吉は、そんな安藤が内心では羨《うらや》ましい。時には、腹も立つ。なぜこんなに真面目に生きて他人に気を遣っている自分より、すべてにいい加減な安藤の方が楽しそうなのか。
「いいんだ。がんじがらめの小宮くんと違って、僕はヤクザな商売だから」
こんな性質なので、安藤はもちろん美大を卒業した後も東京に居たかったらしいが、親に懇願されて岡山に戻ってきた。その後は岡山中学と西大寺《さいだいじ》女学校で美術の教員になったが、同僚の女教師や生徒にまで手をつけたつけないで騒ぎを起こし、ついには辞めた。いや、辞めさせられたのだ。
実家は富裕な呉服商を営んでおり、両親も健在だ。しかし家業を継ぐ気のない安藤は今、「画家」しかしていない。といって、岡山のことだ。そうそう仕事もない。生活費は大半を、電話の交換手をしている妻に頼っているのが実情だ。後は、実家の援助だ。
わしの方が、立派じゃがな。時折、久吉は呟いてみるが、ここでは誰の賛同も得られぬ。
「僕の方が惚《ほ》れられたんだから、尽くされるのは当然だろう」
と、その妻については多くを語らない。誰かがひっそり、あまり器量が良くないというような陰口を叩《たた》いていたし、すべてに気取りたい安藤にとっては、糟糠《そうこう》の妻の存在はあまり公にしたくないのだ。
久吉は安藤に、真っすぐな気持ちは向けられないでいた。それは、良い方面と悪い方面ともにだ。憧《あこが》れの中には嫉妬心《しつとしん》も混じっているし、軽蔑《けいべつ》するには眩《まぶ》しい存在だ。
「第一、僕が絵画に目覚めたのは『国民之友』に出ていた裸体美人で……」
東京には数年いただけなのに、安藤は岡山弁は喋《しやべ》らない。また、酒代も払わない。必ず取り巻きの誰かが払ってやる。それに対して安藤が礼を言ったことは一度もなかった。
蓄音機から、『緑もぞ濃き柏葉の』が流れた時、のっそりと大きな男が入ってきた。大岩という書店主なのだが、皆は一斉に彼を見た。正確にはその隣の女をだ。
薄暗いカフェーが、にわかに明るくなった。そう感じたのは久吉だけではないだろう。他の卓子の者までが、その明るい光彩を追っている。安藤だけが面倒臭そうに一瞥《いちべつ》しただけだが、それは「ふり」であった。
「こちら西大寺女学校に通うとられる、西いせ子さん」
大岩は誇らしげに、隣の海老茶袴《えびちやばかま》の女学生を紹介した。いせ子というその女学生は、まったく物怖《ものお》じせずに快活に挨拶をした。こっちが圧倒される。
「西です。まあ皆さん、まだ陽も高いうちから飲んでおられるんなあ」
十八にもならぬ女学生がこんな所に来る、しかも男ばかりのところに。それは久吉を驚かせるに充分だったが、何よりもいせ子という女学生の美しさに打たれた。銀行員や商社員はそわそわしているが、安藤は不味《まず》そうにアブサンを飲んでいるだけだ。
「いや、うちの店に時々寄ってくれるお嬢さんなんじゃが」
大岩は、その姓に相応《ふさわ》しく上背のある大きな男だが、何分にも顔までが岩石のようで、おまけに性質はそれに反して妙にねちねちと細かいところがあり、あまり皆に好かれてはいない。いっぱしの文学論や、高名な作家の悪口を喋《しやべ》りたがるが、それもことごとく的外れであった。
「オイ、ガンちゃん」
調子のいい自転車商の男が、わざとらしく椅子を引いて驚いてみせる。
「ガンちゃんにしちゃあ上出来すぎるお嬢さんじゃないか」
「いやあ、わしの文学の話に心酔してくれてのう。なあ、いせ子さんよ」
当のいせ子は、やはり内心では大岩を馬鹿にしている素振りを見せる。さっさと大岩など無視し、なんと久吉の隣に座ってきた。そこしか空いてなかったのではない。安藤の隣も空いているのだ。無論、大岩は自分の隣に座らせるつもりだったのだろう。久吉は突然隣に降ってきた光の塊に、目が眩《くら》む思いを味わった。
「さっそくセンセイに目をつけたか」
鼻白みながらも、大岩が言い放つ。
「あら、先生なの。そんな気がしたんよ」
真っすぐ射てくる眼差《まなざ》しに、久吉はすぐに答えが出てこない。束髪に結った髪には、流行の繻子《しゆす》のリボンが揺れている。人形のように整った美人ではない。意志の強そうな眉や釣り上がり気味の大きな目は、凜々《りり》しい少年をも思わせた。
体付きも女らしく豊満とか、都会ふうに柳腰の華奢《きやしや》なものでもない。これもまた、どこか少年のようだ。すっきりと痩《や》せて腰の位置が高い。おそらく手足が長いのだろう。
「僕だって先生だよ」
不機嫌さを隠そうともせず、やっと安藤が口を出してきた。
「しかも、西大寺女学校でも教えていた」
「存じています。安藤先生は、去った後も有名だったから」
久吉は隣のいせ子の利発さと強い目の光に、圧倒されっぱなしだった。大岩は苦虫を噛《か》みつぶした顔だ。もう、いせ子の関心が安藤にいってしまっているのは明らかだった。
安藤は画家の目なのか男の目なのか判然としない目で、いせ子を見回していた。久吉はじりじりする焦燥感を覚えたが、ここで気のきいた言葉など一つも浮かばないのだった。
あれ以来久吉は、授業中もいせ子の面影がちらついて困った。そもそも自分はかなり背伸びというか、無理をしてあの一団に加わっているという自覚もある。そこにもってきてあのいせ子だ。
せっかく隣に座ってきたというのに、ろくに話しかけることもできなかった自分をつくづく情けないと思う。ちらりとでも関心を持ってくれたのに、とあの日のいせ子の強い瞳《ひとみ》を浮かべれば、背中を炙《あぶ》られる気がする。
「先生。小宮先生よ」
終業後、教員室にいた久吉は小使の老人に呼ばれた。何度も呼ばれていたのに、気づかなかったらしい。周りの教員も怪訝《けげん》そうに窺《うかが》っていた。
「先生にお客さんじゃ」
教員室を覗《のぞ》き込むように、廊下に立っている者。それは安藤であった。白い開襟シャツが眩しい。背後で女教員達が、ぽかんと口を開けて安藤を見上げていた。
「安藤くんか。どしたんなら」
素早く女教員達にも愛想笑いをしてから、安藤は素早く囁《ささや》いた。
「この後、ちょっと付き合ってくれないか」
久吉はあれは幼なじみで、と言い訳めいた説明をしながら、急いで片付けを済ませた。元々、整理|整頓《せいとん》をしている久吉はすぐに外に出られた。
「カフェー・オカヤマか」
「いいや。今日は、そこじゃない」
わしは女じゃねえぞ、と言いたくなるほどいつもぺらぺらと愛嬌《あいきよう》たっぷりに喋り続ける安藤なのに、今日は寡黙だ。隣を歩く安藤の陰った横顔に、久吉はある予感を得た。
「女のことか」
「……そうだよ」
着いた所は、安藤が仕事場と称して借りている西洋料理店の二階だった。ここは安藤に惚れている骨董《こつとう》商の後家が借りてくれたという。その老婦人は今、買い付けに渡米しているため、今は安藤が女を連れ込み放題という訳だった。
何度か訪れたことのある仕事場は、せせこましい階段の上にあった。雑然とした室内には、麻布を張ったカンバスや画架、白人形と呼ばれる石膏《せつこう》像や様々な絵筆と鉛筆が散乱していた。いや、ちゃんと安藤にはどこに何があるか分っているのだろう。
「なあ小宮くん」
熱気で油の匂いが籠《こ》もっているが、そんなに不快ではない。安藤はまず窓を開けて、風を入れた。それからどこから運んできたか、妙に豪奢《ごうしや》な革張りの椅子を勧めてきた。自分も揃いのソファに寝そべった。
「あの、西いせ子だがね」
久吉は、画集の表紙の女に西いせ子の面影を重ねていたところだ。ぎくりとする。
「ああ、あの女学生か」
努めて無関心を装うが、上擦った声でその内心は露見してしまうだろう。
「あれ、ここに連れてきてもらえないかな」
久吉はぽかんと、安藤を見下ろした。窓の外はそろそろ街灯が灯《とも》り始めていて、裸電球だけぶら下がるこの部屋は、暮色に沈んでいる。そんな中、妙に安藤の顔色は白かった。
「わしは別に、あのハイカラな女学生とは知り合いでもなんでもないで」
「いや、あの後でどの男がいいかと訊《たず》ねたら、小宮くんの名前を挙げたんだ」
頬が火照《ほて》った。途方も無い法螺話《ほらばなし》としか思えなかった。嬉《うれ》しさなど湧いてこない。
「適当に口にしただけじゃろう。第一、連れてきたのは大岩じゃろうが。紹介してほしいんなら、大岩に頼んだ方が早いし、それが筋いうもんじゃろうが」
暮色の中、やはり安藤は美しかった。この男を放って、あの娘が自分になど興味を示すはずがないのにと、久吉は途方に暮れる気持ちになる。そこには、勝ち誇った気持ちもあるが、戸惑いの方が遥《はる》かに大きい。
「僕は、あの女学生を描きたい」
「そ、そりゃそうじゃろう。そそる女じゃもんな」
淫猥《いんわい》な意味ととられたら困るとは思ったが、久吉は言った。
「だろう。こんなに創作意欲をかきたてられたのは久しぶりなんだ」
安藤は目を輝かせた。まるで久吉があのいせ子であるかのように、立ち上がって近付いてきた。ぐるり、と久吉の周りをまわって眺める。
「僕は、天使のような両性具有の存在を描いてみたいんだ」
こんな真摯《しんし》に、絵画について語る安藤は初めてだった。また、小難しい屁理屈《へりくつ》で芸術論をぶつ彼とも違っていた。心の底から、いせ子を描きたいと望んでいるのだ。
「実に女でありながら、少年の体付きを持っていただろう。すらりと伸びた手足、美少年の中学生みたいな顔立ち」
「確かに、そうじゃなあ」
あれから、カフェー・オカヤマには何度か足を運んだ。久吉の中には、あの女学生と話したいという気持ちが膨らんでいたのだ。
しかし、一度も会えていない。それは自分を蔑《ないがし》ろにされて臍《へそ》を曲げた大岩が連れてこなくなったからだが、といって女学校の前で待ち伏せなどはできない。自分は小学校の教員だ、と戒める。変な噂でも流れたら大変だ。親がどんなに嘆くか。
そんな自分の将来や色々なものすべてと引き替えにしてもいい、というほどにはなっていない。それにあの女は気紛れだ。自分に親しくしてくれるのも、気紛れだろう。
「僕の悪評は、思った以上に広まっているようだからね。君なら、いせ子さんも警戒心なく来てくれるはずだ」
なんでもいせ子は、放蕩《ほうとう》に耽《ふけ》りそうな男達の中で、唯一久吉だけが「汚れていない」と評したのだという。それはどこか、面白みには欠けるけれど善良な人だという、女教員達の意見とも同じだった。
それでも、誉められたことには違いないだろう。久吉は、すでにいせ子が自分の女であるような気にさせられていた。
安藤は興奮している様子で、狭い六畳間をせかせかと歩き回る。壁際の机の上に手を伸ばし、罐《かん》に差してある絵筆を弾《はじ》いた。何を描いたのか、それは淫猥な桃色に濡《ぬ》れていた。
「それに僕は、大岩は好かない」
その筆の先で、画架に掛けられた画布を指す。真っ白な麻布には、すでにあの女学生がデッサンされているかのようだった。
「まあ、そんなに気に入ったんなら」
考えてみれば、これほど安藤が絵に対して本気になるのは初めてだ。幼なじみではあるが、いつも斜に構えて本心を明かさない男だったのだ。
初めて、自分に懇願しているのではないか。いい気持ちだ。それに、あの女がよもや自分のものになるなど思っても願ってもいないが、こうして頼まれてみるとなんだか、自分の女のような気がしてきた。
あたし、あの安藤さんて嫌じゃわ。
そう、いせ子がひっそりと囁いたことを教えてやりたい。今、初めて自分は安藤より上位に立っているのだ。
「あの娘、教員になりたいというようなことも言ってたからな。その会合があるとかなんとか理由をつけて、迎えに行ってみてくれないか」
安藤は、大岩から巧みに聞き出したといういせ子の住所を教えてくれた。自分のような男がいけば家人も警戒するだろうが、小学校の教員でいかにも真面目な風貌《ふうぼう》の久吉が行けばどうにかなるだろう、と。
どこか馬鹿にされているようにも感じたが、初めてといっていい安藤の低姿勢だ。
「わかった。行くだけ行ってみるで」
約束を交わした後、そんならついでにと二人はカフェー・オカヤマに寄ってみることにした。久吉は階段を降りながら、嬉しいような恐ろしいような高ぶりに、足を踏み外しそうになった。
「あらあ、センセイじゃないの」
ところが意外なことに、カフェー・オカヤマにはいせ子がいたのだ。大胆にも一人でやってきたらしい。だが、今日に限って例の一団が誰も居らずに不安になっていたようだ。
「こりゃあ、いい所に来合わせた」
茫然《ぼうぜん》と立ち尽くす久吉を置いて、安藤はほとんどいせ子に駆け寄った。馴染《なじ》みの仲居達が、鋭い眼差《まなざ》しをいせ子に投げかける。
いせ子はちらちらと安藤の背中越しに久吉を見たが、久吉は気弱に微笑むだけだった。さっきまでの上下関係はあっさりと覆され、いや、元通りになっている。
「僕はね、こんな放蕩者に見えるかもしれないが、絵と女性には誠意を尽くすんだ」
薄暗いカフェーの中で、卓子《テーブル》の白いクロスといせ子の銘仙の青い縞《しま》だけが鮮やかだ。ああ、もうこの女は安藤のものじゃなと、その晩久吉は苦いビールを飲んだ。
それからおよそ二週間ばかり、久吉はカフェー・オカヤマには足を向けなかった。いせ子と安藤のその後を知りたくなかったからではない。父兄から、小宮先生が柄のよくない一団と酒を飲んでいた、というようなことを校長に進言した者がいたのだ。
「嘱望されとるんじゃけん、小宮先生は」
夏でも火鉢を置いてある校長室で、ひたすら久吉はうな垂れた。特に怒鳴る威張るということはない校長だが、苦々しい顔はしていた。独逸《ドイツ》人のような剛《こわ》い口髭《くちひげ》が久吉を威圧する。
「申し訳ないです」
決して、いかがわしい場所ではない。と、なぜ一言も弁解できないのか。こんな時、安藤なら屁理屈で煙《けむ》にまくか、ぷいと辞表を書いて突き出すのだろう。そんなことが、久吉にできる訳はない。
「小宮先生は、子供にも父兄にも評判がええんじゃけんな。最近の若い者いうたら、遊ぶことと手ぇ抜くことばかし考えようる。小宮先生だきゃあ、そねえなことはないんじゃけん。な」
期待に応《こた》えたいのか、ただ単に臆病《おくびよう》なだけなのか。それはあの安藤が本当に芸術家なのか、単なる怠け者なのかを考えるのに似ている。
小使の老人の鳴らす鐘が、のどかに響いている。久吉は、あのカフェー・オカヤマの蓄音機から流れる音楽を追想した。この哀しみと腹立ちはどうすればいいのか。
学校を終えた後も、すぐに下宿に帰る気になれず、岡山市内をぶらぶら散策した。岡山電話交換局の前まで来た所で、背後から聞き覚えのある声をかけられたのだった。
「おおい、小宮くんじゃないか」
なんと大岩だ。咄嗟《とつさ》に、隣にいせ子がいるのではないかと期待したのだが、それは外れた。久吉は相手が大岩でも、なんとなく淋《さび》しさが紛らわされる気がした。
「大岩くん、カフェー・オカヤマに行くんかな」
夏物の着物も暑苦しそうな大岩は、大仰に肩をすくめてみせた。
「一緒に行くか」
「……いや、今日は遠慮しとく」
「そうじゃな。いせ子も居らんし」
心臓をつかまれた気がした。
「あの女学生は、どうしとるんじゃ」
大岩はぎろりと久吉を睨《にら》んだ。
「小宮くんが知らんというんは、おかしいのう」
立ち話も何だからと、近所の西洋料理屋に連れて行かれた。この店も料理だけでなく珈琲《コーヒー》や菓子を味わえる。それに家族連れが多いので、ここなら見られても安心だと思うが、それでも念のために素早く辺りを見回してしまう。
「安藤な。あれがどうやって誘うたか知らんが、仕事場にいせ子を連れ込んどる」
それはモデルをさせるためじゃ。と、喉元《のどもと》まで出掛かった言葉を飲み込んだ。どこも同じに洋食仲居は白い西洋式のエプロンを身につけているが、ここは以前に比べて器量が落ちた。
「それは絵を描くためじゃろうがな」
久吉は恐る恐る、言ってみる。大岩が持つと、白磁の珈琲カップはいかにも脆《もろ》い。ずるずると大きな音を立てて珈琲を啜《すす》り込むと、その苦味とともに大岩は吐き捨てた。
「芸術なんかのう、すっ裸にするというんは」
久吉もまた珈琲にむせかけた。だが、どうにか答えられた。
「げ、芸術なんじゃろう」
浅ましいことをしているとは思ったが、大岩と別れたその足で、久吉は安藤の仕事場を覗《のぞ》いてみることにした。
いせ子は着物で澄まして、絵のモデルをしているのではないか。違うのか。久吉は例のせせこましい階段を、そっと上がっていった。ぎしぎし軋《きし》んだが、それは辺りの喧騒《けんそう》にかき消されるはずだった。
立て付けの悪い木戸は、西洋式の扉ではない。引き戸だ。そこには鍵《かぎ》もなかった。階段の中程からすでに、油の匂いはしてきた。その中に女の脂粉《おしろい》の匂いや、もっと淫靡《いんび》な男女の匂いが籠《こ》もっている気がした。
木戸を苦労して、三寸ばかり開けた。そこに片目をあてがう。裸電球は灯《とも》っていたが、天井の低い室内はやはり暗い。その電球のせいなのだろうか、奇妙な人形が投げ出されていると見えたのは。
違った。それは、正しくいせ子なのだった。
「裸じゃがな……」
思わず呟《つぶや》いてしまい、慌てて口を押さえる。幸い、気付かれることはなかった。畳の上に白い布を敷き、そこにいせ子は座っていた。
こちらからは後ろ姿なのだが、いせ子が腰巻きすらつけていない、まったくの全裸であることに衝撃を受けた。
なるほど、少年のようなといえばそうだろう。手足は真っすぐに長く、首筋も細くしっかりとしている。しかし、臀部《でんぶ》や腰は紛れもなく女なのであった。
実物のいせ子も、画布のいせ子も前を向いていた。いや、安藤に向かって体を開いていた。
少年ではなかった。匂い立つ女がそこにはいた。
絵筆を、安藤は陶器の筆洗いの壜《びん》に入れる。出し入れする濡《ぬ》れた穂先に、全身を撫でられている感触を味わった。
「傑作になるよ、これは。その昔、『美術園』で物議をかもした裸体天女を越えるかもしれないな。うん、きっと越える」
安藤は白いシャツに絵の具が散るのも気にしていない。あの日のように、つっといせ子の前にやってくると、やはり久吉にそうしたようにくるくるといせ子の周りを歩いてあちこちから見回した。
いせ子はどんな表情をしているのかわからないが、さすがに緊張しているようだ。何も答えようとせず、じっとしているからだ。
「センセイ」
ふっと、甘い声があがった。あのカフェー・オカヤマで、久吉に呼びかけたのと同じ口調であったから、思わず久吉が返事をしかける。
安藤は、手にした筆をそっといせ子に近付けた。筆の先でいせ子をくすぐっている。敷いた布が捩《よじ》れた。仰向《あおむ》けになったいせ子と、一瞬目が合ったのは気のせいだろう。
次第に暮色を増す部屋の中は、二人の輪郭が曖昧《あいまい》になってくる。唐突に久吉は、あの日見た桃色に濡《ぬ》れた筆を鮮やかに思い出した。油の壺《つぼ》に出し入れしていたあの筆が、そこにある。いせ子は不思議な声をあげていた。安藤の手から離れた筆が、乾いた音を立てて畳に転がった。その筆先もまた、何かの色に濡れていた。
久吉は眺め入ったまま、欲情も嫉妬《しつと》もできぬままだった。浅ましい覗きをしている他なかったのだ。
物怖《ものお》じしない、場慣れた態度はとっていたが、安藤にいいようにされるいせ子は幼かった。描かれていた裸体像の姿態の方がよほど艶《なまめ》かしく妖《あや》しく正確だった。いせ子の絵画への気持ちより、男への恋情が透けて見えるのが痛ましいほどだ。
負けた、と久吉は呟く。あのいせ子の体も心も、もうこちらに向けさせることは奇蹟《きせき》でも起こらぬ限り無理なのだ。
猛然と嫉妬の気持ちが沸き上ってきたのは、階段を降りている途中でだった。なぜこんなにこそこそとしなければならないのか。なぜいせ子は自分ではなく安藤を選んだのか。それは考えたくなかった。自ずと答えは出るからだ。
こそこそしている自分こそが惨めだった。だが、その建物を出た所で久吉は違う考えに取り憑《つ》かれていた。
「これは報《しら》せにゃあ、おえん」
久吉は真っすぐに、安藤の自宅に向かった。結婚してからは遠ざかっていたのだが、前はちょくちょく泥酔した安藤を送っていったりしていたのだ。
「あねえな良い嫁を裏切るんは、許されんことじゃ」
とはいうものの、岡山電話交換局に勤めている安藤の妻のミツヨが、久吉は少々苦手だった。意地が悪いとかつっけんどんというのではない。むしろ丁重で礼儀正しい。
「あらまあ、小宮さん。どしたんじゃろうか、突然に。生憎《あいにく》、うちの人は留守なんよ」
「……それは、わかっとりますらあ」
いせ子が少年のようだと形容されるなら、ミツヨは棒杭《ぼうくい》のような、であろう。髪も薄く眉《まゆ》も薄く唇も薄く、ついでにといっては気の毒だが幸も薄そうな女だ。特に醜いということはなく、むしろ整った顔立ちだとは思うが、美人という印象を与えない。
ただ事でない様子を感じ取ったのだろう、ミツヨは緊張しながら久吉を招き入れた。そこそこに小綺麗《こぎれい》な家だが、なんとも陰鬱《いんうつ》な空気に支配されている。この女の所為《せい》なのか。
顔立ちだけをいえば、いせ子の方が落ちるかもしれない。眉にも目にも力のある、どちらかといえば男顔だ。しかし若さを差し引いても、いせ子には華というべきものがある。あの繻子《しゆす》のリボンを揺らして颯爽《さつそう》と岡山市の街を歩けば、大抵の男が振り返るだろう。
対するミツヨは、路傍の雑草の花ほどに見捨てられている。物好きな者がふと目を止めて、よく見ればきれいではないかと気付く程度だ。
なぜそんな女と一緒になったかと、不躾《ぶしつけ》に聞く者も跡を絶たないという。もっとも安藤は、滅多に妻を人目にさらすことはないが、聞かれれば答える。それはいつも同じだ。
「一番、尽くしてくれたからさ」
なんでも、地味な容姿と性質に似合わず、ミツヨは情熱的に献身的に尽くしてくれたのだそうだ。東京での放蕩《ほうとう》が過ぎて仕送りを止められるやいなや、ミツヨは上京して料亭の女中をやったり仕立物などの内職に励んで安藤を支え、結婚してからも自分の稼ぎはすべて夫のために使っていた。
夫には流行の洋装をさせ、毎夜どこかのカフェーや料亭で遊ばせても、自分は着物一枚作らず活動写真にも芝居にも行かず、昼間の仕事を終えればせっせと内職に励むのだ。
「こんなに立派な奥さんがおるのに、許されんことじゃとわしは義憤にかられた」
切り出すと、ミツヨは怯《おび》えた表情で身を引いた。それでも居間に通してくれる。
そうだ、自分は正しいことをしているのだ。久吉は唇を結ぶ。例えばここに子供達がいるとしても、先生のしとることは正しいんじゃと胸を張れる。
「じゃけん、ここに来さしてもろうた」
青ざめながらも、ミツヨは茶を淹《い》れる支度をしてくれる。地味なひっつめ髪に継ぎあてすらある着物だが、居ずまいは正しかった。それもまた痛ましい。
「わざわざ……それはどうも」
茶を淹れる手が震えていた。骨張ったその手に、痛ましい思いを抱く。いせ子の若さが漲《みなぎ》る肌とはなんという違いだろう。しかしこの肌もまた、安藤を知っている肌なのだ。にわかに淫猥《いんわい》な空気に浸された。今頃になって、おかしな情欲が沸き上がる。
「仕事場に、女を連れ込んどられる」
その淫猥な空気をねじ伏せるように、久吉は茶を一息に飲んで言った。一瞬ミツヨは息を呑《の》んだが、すぐに居ずまいを正した。
「薄々、わかってはおったんです」
ミツヨは青ざめながらも、ぽつぽつと語った。
「それでもあの人がやっと、寝食もそれこそ女も忘れて仕事に打ち込みたいと乗り気になっとるんで、わたしは喜んだんですらあ」
女の影が常にあることはわかっていた、とミツヨは低く続けた。さらに、久吉は身の内に黒い炎があがるのを感じた。
「こねえな奥さんの気持ちも知らんと、あれは仕事じゃと誤魔化して、浅ましい獣欲に我を忘れとるんじゃ」
生温い初夏の風は、庭から入ってくる。ミツヨの後れ毛が、汗で項《うなじ》に貼りついていた。「今までは、所詮《しよせん》は遊びじゃと自分に言い聞かせとりました。なんじゃかんじゃあっても、あの人はわたしという帰り場所があるけん、余所《よそ》で遊べるんじゃ」
妙な頑固さで、ミツヨは安藤をかばった。ますます久吉は腹が立ってきた。なぜあの安藤ばかりが、女に優しくされるのだ。すべて許してくれる妻がいる上に、あんなハイカラ女学生とまで。
自分はずっと真面目に生きてきたのに、何の得もしていないではないか。
「奥さん。わしはこれでも、教育者の端くれじゃ。未来のある子供に、人の道を説くんが仕事じゃ。それは、子供にだけじゃ無《ね》え」
いつのまにかまた注がれていた茶を、久吉はまた一息に飲んだ。
「安藤は、今度のは浮気じゃあないで。ありゃあ、本気じゃ。ことによると、今度は奥さんと別れるとか血迷いかねん」
粘土細工のように柔らかく絡み付いていた二人の姿が浮かぶ。あれは引き剥《は》がすべきなのだ。混じり切って一つの粘土に固まってしまう前に、ちゃんと分離して元の箱に戻してやるべきなのだ。
そこでミツヨはふいにギラギラ底光りのする濁った目で、久吉を睨《にら》んだ。
「あ、奥さん。わしがここに来たことは、内緒にしてもらえんじゃろうか」
ふいに恐ろしさを覚え、久吉は取り繕った。
「わかっとります」
ミツヨは奇妙に落ち着いた声を出した。
「小宮さんは、うちの人とわたしを心配して、来てつかあさったんじゃから」
「そ、そうじゃ。要らんお節介を、と安藤くんに恨まれたんじゃあかなわんけん」
その時、ふっとミツヨは笑った。それはなぜか久吉の背中をぞくりとさせた。なんとも不気味な笑い方だったのだ。
――安藤の家を出た後も、久吉はやはり真っすぐに下宿に帰る気にはなれなかった。自分は今、興奮しているのだろうか。そわそわと落ち着かないのだろうか。久吉はこんな時、遊廓《ゆうかく》に行くといった度胸は持ち合わせていない。
実は学生の頃、悪い先輩に無理矢理連れていかれたことはあるのだが、久吉を気弱とすぐに見抜いた女将《おかみ》は、売残りの年増をあてがったのだ。ことによると自分の母親より年上かもしれない女に、毛蝨《けじらみ》まで移されたのだったが、今から思えばあの女郎はミツヨに似ているような気さえする。
「もう少し、別嬪《べつぴん》じゃったらのう」
呟《つぶや》きながら、久吉は半ばやけくそな気分でカフェー・オカヤマに向かった。まさか安藤はいないだろう。来るとしても、もっと遅い時間帯だろう。
いつもの席には、大岩らがいた。仕事場を覗《のぞ》き見してきたことを、うっかり話してしまいそうになる。大岩は盛んに、安藤を罵《ののし》っていた。
「まあまあガンちゃんよ、そう荒れるな」
銀行員が、半ば揶揄《やゆ》しながらもビールを注いでやっている。
「恨むで、わしは。いせ子もいせ子じゃ」
なんでもいせ子の父親は岡山地方裁判所の裁判官だそうで、かなりの厳父だという。いせ子の奔放《ほんぽう》な振る舞いは、その父への反発もあるらしかった。
「わしは、いせ子の父親に教えちゃろうかと思う。有名な放蕩者と交際しとるとな」
「いや、そねえなことをしちゃあ、おえん。そりゃあちょっと卑怯《ひきよう》じゃ」
ちょっと強めに口を挟んだ久吉であったが、すぐに気弱に俯《うつむ》いた。
カッとなってあんな行動には出たものの、久吉はびくびくとして日々をやり過ごした。子供らは変わらず可愛らしく、女教員は変わらず久吉を頼りにしてくれ、老いた小使は変わらず律儀に鐘を鳴らす。
この何事も無さに、すがりつきたい。一瞬でも血迷ってあんな行動に出たことを後悔というよりは、なかったことにしてくれと神仏に祈りたい。
そして一ヵ月が過ぎた。カフェー・オカヤマにも、安藤の仕事場にも寄らずに過ごした。いせ子とどうなっているのか、ミツヨとは喧嘩《けんか》になったのか。知りたいが知る術《すべ》も勇気もない。
「小宮さん。お客さんだよ」
階下から、大家の婆さんに呼ばれると同時に、階段をぎしぎしと軋《きし》ませる重い足音が伝わってきた。
「どしたんなら、突然に」
覗き込んだ久吉は驚いた。大岩だったのだ。蝉の声がしきりに降る日曜の午後のことだった。階段の中程に立つ大岩は、はっきりと青ざめていた。
「あのな、安藤と西いせ子」
どきりとした。二人の名前がいきなり出てきたからだ。
「心中した」
蝉の鳴き声に、現実感を失った。気怠《けだる》い夏の午後に聞くには、唐突な話だ。
「なんじゃて」
大岩もまた、途方に暮れていた。べたりと背中に単衣《ひとえ》の着物を貼りつけて、汗を額から滴らせている。
「もう一ぺん、言うてくれ」
「安藤と西いせ子」
傷ついたSP盤のように、大岩は繰り返した。
「心中した。合意情死というやつじゃ」
ふっと意識が途切れ、我に返ると大岩と向き合っていた。六畳間は蒸し暑く、しきりに蝉の声がする。
「死んだんか」
「ああ。二人ともな」
この蝉の声を、安藤といせ子は聞けんのじゃなあ。ぼんやりと、そんなことを悲しむ自分が遠くにいるようだ。
「並んで、ぶら下っとったんじゃ。山ん中でな」
まだ、身に迫る実感とならない。もしかしたら、必死に実感すまいとしているのか。蝉は久吉を責め立てるように鳴き続ける。
「……安藤の嫁がな、病気みてえになって」
カフェー・オカヤマの氷菓を食いたい。久吉は哀しみよりも、ひどい疲労を覚えた。
「いせ子の親の所に怒鳴り込んだり、いせ子の通う女学校に押し掛けたりしとったらしいんじゃ」
仕事場の絵を思い出す。それまでの浮気ではなく、今度は本気だと、あの絵を見て確信したのではないか。それを見ているミツヨの薄い肩や痩《や》せた頬は、きっと透き通っていただろう。
「妻君が気違いになって暴れたらしいんじゃ」
「……あの嫁は、大人しそうに見えたがのう」
「いんにゃ。あれで、いせ子なんぞよりよっぽど癇性《かんしよう》な気丈なところがあったんじゃと聞かされんかったか」
そうだ。あのミツヨは、仕送りを止められた安藤のために押し掛け女房となって働いて支えたというではないか。それほどに、情熱的な強い女なのだった。
「ああ。そういやあ、じんわりと底力のありそうな女じゃったな」
妻としてはよかったのかもしれないが、しかし安藤の女、としてはいせ子の方が上出来だったのだ。
なぜならミツヨは、あれほど尽くしていても安藤をただの怠け者にしかできなかった。それが、ほんの短い間に創作の炎を燃え立たせたのはいせ子なのだ。
「さすがのいせ子もだいぶ、参っとった」
おそらくミツヨは、それに激しく嫉妬《しつと》したのだろう。今までのはただの浮気だから許せたのだ。だが、画家として奮い立たせたのが余所《よそ》の女であったというのは、許し難い裏切り行為となったのだ。
「女学校からも交際を止めるよう、強う迫られとったらしい。無論、親にも厳しゅう監視されるようになったしな」
唐突にがたがたと、久吉に震えが来た。二人を死に追いやったのは自分ではないかという恐れもあったが、ミツヨが口走っていないかどうかということだ。
「何もかも、小宮さんに教えてもろうたんじゃから」
ミツヨは安藤にもいせ子にも、そう喚《わめ》いたりしなかっただろうか。そうなれば当然、死の間際にも安藤といせ子は自分を恨んだであろう。その前に二人の口からカフェー・オカヤマに集う者達に暴露されていたなら、自分はとんでもない卑怯者として指弾されるだろう。
あらゆるものを失った空虚感が、じわじわと湿気とともに胸を締め付けてくる。窓から仰ぐ空にも灰色の陰鬱《いんうつ》な雲が浮かんでいる。
だが、とりあえず今目の前にいる大岩は淡々としている。
「カフェー・オカヤマに行ってみんか」
とまで、誘ってくれた。おそらく、安藤といせ子を悼む会になるのだろう。それでは自分は居たたまれない。
「いや、わしは用事があるけん」
そこで、糾弾でもされてはかなわない。大岩は、無言で階段を降りていった。久吉は二階の窓からひっそりと、その後ろ姿を見送った。
蝉|時雨《しぐれ》の中、大きな背中は影法師となった。久吉は飛び出して、その後を追いたい気にもなった。通夜や葬儀には出なければならないだろう。それを想像すると恐ろしかった。どんな顔でミツヨに会えばいいのだ――。
通夜と葬儀には、出ない訳にはいかない。無論、安藤の方だけだ。いせ子の方は密葬だそうで、近親者以外は断っているという。
ミツヨはまた一回り痩せていたが、気丈に応対をしていた。こそこそと隠れるように参列に紛れた久吉にも、普段と変わりない態度を見せた。だが、棺《ひつぎ》にしゃがむ安藤を、とうとう久吉は見られなかった。
菊のきつい香はいつまでも、久吉の着物にまつわった――。
再びミツヨに会ったのは、意外にも勤め先の小学校でだった。ミツヨはわざわざ、放課後の小学校に訪ねてきたのだ。小使の爺《じい》さんに、鐘を片手に呼び出された。
「小宮先生に用事じゃと」
いつか見たのと同じ、草臥《くたび》れた着物をまとった女がいた。まだそんな歳ではないはずなのに、白髪と小皺《こじわ》が目立つ。手は相変わらず荒れていた。
廊下に佇《たたず》むその姿は正しく幽鬼で、久吉はあやうく叫びだすところだった。そのミツヨは、しっかりとした口調で告げた。
「あの人の仕事場に、一緒に行ってもらえんじゃろうか」
強い目の光だった。それに射られてもなお、久吉は別な心配をしている。こんなところを他の教員や父兄に見られて、誤解をされんかと。
「あ、ああ、そうじゃな。片付けでも何でも言い付けてつかあさい」
後にした教員室から、皆が聞耳を立てているではないか。だから久吉は、
「なんなら、他にも男手を頼みましょうかな」
聞こえよがしに声を張り上げる。仲の良かった同級生、いつかここにもちらりと来たことのある画家が死んだことは同僚の教員にも言ってある。本来なら新聞|沙汰《ざた》になるところを、いせ子の父が手を回してそれは阻止したのだ。
「いいえ。小宮さんだけでええです」
ぼそり、とミツヨは呟《つぶや》いた。そしてそれっきり、例の二階の仕事場に着くまで無言であった。足元に伸びる影の方が黒々と、生命力を持っているかのようだ。生身のミツヨの方がひらひらと、はかなく消え入りそうだった。
しばらく締め切っていた仕事場は、強烈な熱気と臭気が籠《こ》もっていた。絵の具や油の匂いだけではない。男女の匂いもあった。その中に立ち尽くすミツヨは、低く呻《うめ》いた。
「ここに、あの女と籠もっとったんじゃろ」
蝉の声が突然に大きくなった気がした。通夜では、一言もいせ子の名前は口にしなかったではないか。久吉は答えられない。
「来年、東京で開かれる内国勧業博覧会」
ミツヨは手提げを例の椅子に置くと、窓を開けにかかった。埃《ほこり》が舞い、湿った風が吹き込んできた。こっちに背を向けたまま、ミツヨは突然に明るい声をあげた。
「あれに、出品しようと思よんですわ」
「ほ、ほう。そりゃあ安藤くんも喜ぶじゃろう」
「……『妾《めかけ》』という題にしてな」
久吉は言葉に詰まる。それより、振り返るミツヨの形相を想像して背筋が冷えた。しかしミツヨは、勢いよく画架の白い布を取り去った。あっ、と久吉は驚きの声をあげる。
「これは、芸術いうもんなんじゃろうか」
そこには、いせ子がいた。あの日|垣間見《かいまみ》たいせ子だ。カフェー・オカヤマで笑っていたいせ子や、路地裏をひらひらとリボンを揺らして駆けていたいせ子ではない。
美少年の全裸ともとれる絵だが、乳房やその恰好《かつこう》は女だ。
「……これは、した後じゃなあ」
不謹慎にも、そんな感想が漏れた。久吉は仕方なく、近くのソファに腰をおろす。
「あの人は、わたしを描いてくれたことは、いっぺんもないんよ」
不器量じゃから、と相槌《あいづち》など打てるものではない。頭を抱えそうになっていた久吉は、突然にアッと目を見開いた。
突然、ミツヨが着物を脱ぎ始めたのだ。振り返るよりも先に、帯に手をかけていたのだった。久吉は座ったまま、それこそ石膏《せつこう》像のように固まってしまった。
「ど、どしたんじゃ。おい」
「なあ。小宮さん。わたしはそねえに、あの女より落ちるか。不器量か」
あまりにも潔く全裸になったミツヨは、敷きっぱなしの白い布の上に横たわってみせたのだ。そうだ。ミツヨは絵と同じ恰好をしてみせたのだ。だが、あまりにも絵とは違いすぎた。胸も腰も何もかもが薄い、一言で表わせば気の毒な体なのだった。
「すまん、急用を思い出して」
久吉は慌てて戸に手をかけた。鋭い声に呼び止められるが、もう振り向けない。
「わたしは、あんたを一番恨んどるんよ」
階段から下が、奈落《ならく》の底になった。そこには愛欲地獄に堕《お》ちた者の針の山があるのか。
「あんたさえ、言い付けに来んかったら」
ミツヨの金切り声は、背後からではなく足元から響いてくる。
「わたしは何も知らんで暮らせた。薄々はわかっとっても、知らん顔できた。他の友達も皆、そうしてくれとったのに。大岩さんも銀行の人も自転車屋の人も、みんなみんな知らん顔してくれとったのに、あんただけが要らんことをしたんじゃ」
その先は、もう聞けない。久吉はひたすら走って逃げた。
「……うちの人も、死なずにすんだのに」
頼むから、そこでそのまま首を吊《つ》ったりせんでくれと、久吉は必死に祈った。これからは心を入れ替えるけん。と、叫びかけて止めた。どう、入れ替えたらいいのだ。自分は今までずっと、真面目に謹厳に生きてきたのだから――。
翌、明治四十年。内国勧業博覧会で話題をさらったのは、岡山の天才画家と讃《たた》えられた児島|虎次郎《とらじろう》の出品した作品であった。岡山孤児院を題材にとった『情の庭』は、宮内省のお買い上げとなった。
同時に出された無名画家の『妾』は一次審査で落選し、ほとんど知る者はない。
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自動幻画《シネマトグラフ》
「物語が無けりゃあ、作りゃあええんじゃ」
五十嵐|正純《まさずみ》がそれを口癖とするようになったのは、いつからだろうか。岡山帝国劇場の付属|技藝《ぎげい》学校に、三度目の受験でようやく受かった頃からか。
そこを出た後、結局は希望する東京の劇団には入れなかったが、岡山で一か八かの「五十嵐座」を旗揚げし、そこそこに市内の劇場で公演が打てることが確実となった頃だろうか。
いや、もっと前だ。今から思えばただの村芝居に毛の生えたようなどさ回りの一座の野外興行であったが、旭川《あさひがわ》の河原で観た剣劇に強い衝撃を受け、その後で近所の子供を集めて剣劇ごっこをしていた頃に、もうその台詞《せりふ》は使っていたような気がする。
「何が、無けりゃあ作る、じゃ」
その甲高い声に五十嵐は、つんつるてんの筒袖《つつそで》で青《あお》っ洟《ぱな》を拭《ふ》いていた高等小学校の子供から、あまり似合わない洋装をだぶだぶに着込んだ三十過ぎのいい大人に戻らされる。
「あんたはそねえに、働き者か」
ことごとく五十嵐の言うことに反駁《はんばく》するのは、五十嵐座の看板女優たる光村フジ子だ。五十嵐をただ一人、先生ではなくアンタと呼べる女でもある。
「あんたのその口癖はな、芝居のために使《つこ》うとるんじゃないんよ」
肥《ふと》り肉《じし》のフジ子は、夏のきつい西日の射し込む劇場の二階では、いつも不機嫌だ。乱暴に扇子を使いながら、やや三白眼気味の目で五十嵐を睨《にら》み付ける。向かい合って小さな丸椅子にかけているが、派手な銘仙の着物に包まれた巨大な尻《しり》はほとんどはみ出していた。
「ほんなら、何に使うとるというんじゃ」
先年、女房と子供と別れてから独り身の五十嵐は、この劇場の二階をほとんど住居にもしている。食べかすや汚れ物が、すえた臭いを放っていた。
雑然とした室内で、ただ家具といえるものは五十嵐が座る椅子と机だけだ。近所の小学校からほとんど盗んできたそれの上には、乱暴に書きつけられた脚本の草稿が投げ出されてあった。
次回の公演のものだ。五十嵐はもう、ほとんど自分では舞台に立たない。脚本や演出の方が主だった。その五十嵐がかなり力を入れて書いた草稿なのだ。
「女を口説く時に、使うとるんじゃわ」
なのにフジ子は、それを手に取るどころか一瞥《いちべつ》さえくれようとしない。元々が大きな顔なのに、思い切り膨らませた髪形のせいで、ますます顔面の巨大さが迫ってくる。それを突き付けられる五十嵐は、いつも飲み込まれそうになる。
「まあ、その話は後にして。とりあえず脚本を見てくれんか」
「いやじゃっ」
「また、そねえに子供じみたことを」
フジ子はいつも、こうだ。男に対する手練手管には労も策も惜しまないのに、自分が嫌だと思うこと、興味を引かれないことには徹底的に見向きもしない。
物語が無けりゃあ、か。苦笑しながらも五十嵐は、その言葉を口の中で転がす。そうかもしれんのう。確かに、このフジ子を口説く時にも使うた。
しかし実生活の方がよほど芝居じみているフジ子には、ほとんど効き目のない言葉であった。フジ子が自分に身を任せたのは、男としてよりも劇団の主宰者としての立場に引かれたからだろう。五十嵐は冷めた目で、肥った者特有の濃い汗をかくフジ子を見上げる。
男を追うのは情熱的だが、閨《ねや》では大雑把で自分勝手で、あまり具合はよくない。だから男は常にいるが、すべて長続きがしないのだ。五十嵐も、これを女房にするのはさすがに御免だった。
「なあフジ子よ。お前もここらで、芸域を広げたいとは思わんのか」
「あんたの考える芸域の幅なんぞ、もともと狭いがな」
西日をまともに背中に受けながら、五十嵐は肩をすくめる。フジ子の言葉はいちいち棘《とげ》があるが、それは大抵が的を射ている。フジ子は他人様《ひとさま》の言動を、かなり正しく観察して批判できるのだ。
だがそうした人間の常として、己自身はまるで見えていないのであった。
「とにかく、うちはそんな地味な役は嫌じゃけんな」
椅子から立ち上がると、フジ子はいきなり畳んだ扇子を五十嵐に投げ付けた。
「そねえな老役《ふけやく》、他に適役なんが居るじゃろうが」
膝《ひざ》の上に落ちた扇子を見下ろしながら、五十嵐はいらいらと貧乏揺すりをした。五十嵐とフジ子はまったく今|噛《か》み合っていないに拘《かか》わらず、思い浮べる女は同じなのだ。
「ほんなら、次の公演は中田|清枝《きよえ》が主役になってしまうで。それでええんか」
ついに五十嵐は、その女の名前を口にした。たちまちフジ子のぽってりと厚い、濃い紅を塗り立てた唇が子供のように尖《とが》った。
「ああ、ええよ。しゃあけど清枝が主演なら、客は入らんじゃろうな」
扇子を玩《もてあそ》びながら、五十嵐は清枝の怜悧《れいり》な横顔を思った。女としてはまるで惹《ひ》かれないが、女優としてはなかなかにそそる女だった。抑えた演技ができるのだ。皆、とかく大仰な演技になりがちだが、清枝のそれは地味でありながら精巧であった。
陰気で痩《や》せていて、何故に演劇など志したか最初は不思議だった女。しかし徐々に、五十嵐はその理由を知ることになる。
たとえばフジ子はすべてにおいて、浅い。舞台への情熱も、男への媚《こ》びも肉欲も自己愛もだ。その場でちやほやされていればご機嫌という、ある意味での善良さがあった。
清枝は違う。五十嵐にもうまく言葉にできないが、もっと大きなところで自分は認められるべきだ、いやきっと認められるという、確固たる自信に満ちていた。
それは本当に確固たるものであるため、清枝は逆に今が端役ばかりでも平気なのだ。いつか必ず自分は大舞台に立つのだから、と落ち着いていられるのだった。
その点、フジ子は実は自信がないのだ。自信がないから情緒不安定だし、その場でとにかく主役になりたがる。
昔のわしのようじゃ。五十嵐は、清枝をそう見ている。
それでもまだ、清枝を主役に据えるには不安があった。それに何だかんだあっても、フジ子は可愛いのだ。できれば今回の舞台で、一皮|剥《む》けて欲しい。
「なあ、フジ子よ」
わしもまた、芝居じみとるわ。苦笑いの表情を本物らしい苦悶《くもん》の表情に変えて、五十嵐も立ち上がる。五十嵐が自分に追いすがる、とあらかじめ扉の前で待ち構えていたフジ子に、ほとんど襲いかかるように手を回した。
背の高さはほとんど同じだが、胴回りが全然違う。窓の外で鳴き始めた蝉と、その大木の幹を連想して少し嫌な気持ちになった。
「もう、やめてえな」
醜い、とほとんど紙一重にまで肥えたフジ子だ。その上、こってりと化粧を施した顔は今すぐ舞台に立ってもいいほどに派手だ。決して美人ではないのに、自分は大層な美人なのだと信じ込んでいる。
その強引さと自意識の強さで、観客も周りの者もそんなフジ子に説得される恰好《かつこう》で、フジ子を美人ということにしてあるのだった。
「なあ、機嫌を直してくれえや。フジ子はうちの一番大事な女優じゃ」
対する五十嵐は、まだ三十代の初めだというのに、すっかり萎《しな》びた感じの男だ。子供の頃から爺《じい》さんだの河童《かつぱ》だの、ろくな渾名《あだな》をつけられなかった。
それが今ではどうだ。さすがにより取り見取りの入れ食い状態とまではいかないが、女には不自由していないと豪語しても、大嘘とは責められないほどにはなれたのだ。
まこと、物語は作ればいいのだ。自分が幼少の頃より冴《さ》えない目立たない存在であったことは、なかったことにしていい。自分は物心つく頃から才能があって、他の者とは違っていて、女に不自由していなくて、偉い者として君臨していたのだ。
「そんなら、配役を変えるか脚本を変えるか、どっちかにしてえな」
「それはまあ、後で考える。それより、ほれ、もう時間じゃろうが」
フジ子は、自信がある流し目で艶《つや》っぽい視線を投げ掛けると、それでも不貞腐《ふてくさ》れた足音を立てて階段の前に立った。
フジ子はいくら看板女優といっても、それだけでは到底生活はできない。岡山駅裏の料亭で、仲居もしているのだ。もちろん女優としてのフジ子に憧《あこが》れてその料亭に通う男もいるし、たまたま客として来た男に劇場の切符まで買わせる、ということまでやっている。フジ子には、実に都合のいい勤め先であった。
また、舞台以外でも常に自分が真ん中にいないと気が済まない性質からも、客の男に別嬪《べつぴん》だの色気があるのと誉められる座敷は、もう一つの舞台でもあった。
「言うこときいてくれんと、うちは辞めるけんな」
そんな捨《す》て台詞《ぜりふ》とともに、フジ子は出ていった。
フジ子はこんなふうに、いつも誰かを試している。まずは駄々をこね、相手が折れてくる妥協してくれる甘やかしてくれるのを待つのだ。
五十嵐も初めは、それに幻惑された。必ずやフジ子の思い通りにされた。しかし最近は正直、それにうんざりしてきている。
いつしか、フジ子は神様に試される時が来るのではないか。無神論者といっていい五十嵐でさえ、そんな不安を覚える時がある。
「そねえな我儘《わがまま》、いつまでも続かんで」
フジ子の足音が遠ざかってから、五十嵐は呟《つぶや》いた。心底、疲れた声であった。
それでも下駄《げた》を突っ掛けて階下に降りる頃にはもう、尊大に胸を張っていた。その板張の稽古場《けいこば》にいる十人足らずの者はすべて、自分の家来といっていい者達だからだ。
「座長、じゃねえ、先生よ」
さっそく、そんな声が飛んできた。座長という呼び名は好かん、先生と呼べと言い渡してある。この者達は、「将軍さまと呼べ」「殿様と呼べ」と命じても、きっと真面目に聞き入れてそう呼んでくれると思う。いや、きっとそうなのだ。
「なんじゃい」
器用に大道具の組立から小道具の調達までをこなし、弁当の手配だの地回りのヤクザへの挨拶《あいさつ》までそつのない相沢が、舞台から飛び降りてきた。フジ子が、足袋《たび》がひっかかって破れた、と癇癪《かんしやく》を起こしたので、板の継目に鉋《かんな》をかけていたのだ。
やや品位には欠けるが、西洋人との混血をも思わせる濃い顔立ちの長身の男だ。それだけでも気に入らないが、役には立つのでおいている。
何より、肝心の演技がどうにも大根で、舞台人として大成はしないだろうという安心感があった。この男の生活費は、もっぱら女に頼っている。
フジ子とも何度か関係は持っていたことを、五十嵐は知っている。フジ子は隠し事がまったくできないからだ。それも五十嵐は目を瞑《つぶ》った。相沢が使えるのと、フジ子にそんなに情愛がないからだ。五十嵐は小心な癖に冷徹なのだった。
「清枝、病院に寄ってから来るそうです。いや、来れんかもしれんとも言うとった」
「そうか、いよいよ、おえんかのう」
清枝は早くに父親と死に別れ、母親の手一つで育てられた。その母親も元々病弱だったらしいが、ここ最近はずっと寝付いていた。無理をして入院させているのだ。清枝はますます痩せてきていた。
フジ子と違って、元の顔立ちは整っているのに何とも地味で華がなく、性質もまたそれに相応《ふさわ》しい女だ。よって、仲居のような仕事はできず、仕立や内職で地道に稼ぐよりないのであった。
そこそこの小商いをしていた家に育ったフジ子には、そうした清枝の生い立ちすら軽視の対象だ。
二人は表向き、仲がよいことになっている。それはひとえに、清枝の性質によるものだった。一見とても従順で、愚鈍にすら見える清枝。フジ子にあからさまに馬鹿にされ舐《な》められても、静かにそれに従っている。
対するフジ子は、時々傍の者が青ざめるほどの暴言も吐くし、犬か下女のような扱いをする。決して清枝が逆らわないと、高を括《くく》っているのだ。
「まあ、清枝はしっかりしとりますけん」
緞帳《どんちよう》の陰から顔を覗《のぞ》かせて付け加えたのは、まだ師範学校に通う井上だ。安いブリキの人形みたいな顔と体をしている。ころころとして可愛らしいと言えば言えるが、舞台に立って二枚目の役はできない。演技もまあまあだが、何せ姿がよくない。
どこか油断と信用のならない相沢に比べれば、動作ものろいし機転もきかないが誠実で真面目だ。おまけにいつまでも、中学生のような青臭い演劇論や理想を信じていた。何より五十嵐を尊敬してくれている。
「次の公演の話をするには、清枝にも居って欲しいんじゃがな」
五十嵐は腕組みをして、辺りを睥睨《へいげい》しながら歩き回った。清枝の母親のことなど、これっぽっちも心配はしていない。早く清枝に脚本を見せて話し合いをしたい。それだけだ。
もっと言えば、面倒だから清枝の母親には早く死んで欲しいとさえ思っている。ここでは自分は神様なのだ。人間を自在に動かせるどころか、天地創造さえ思いのままだ。
舞台の袖《そで》に腰掛け腕組みをして、五十嵐は発声練習などをする座員を見回した。すべてが自分の操り人形なのだ。彼らの額に浮かぶ汗すら、自分への捧《ささ》げものだった。
「今度のは、力を入れるで」
五十嵐はすでに、清枝を念頭に置いていた。乗り気になってくれれば、フジ子の機嫌を損ねてでも主役に抜擢《ばつてき》したい。
「次の公演な、あれやっぱり例ので演《や》るで」
舞台に座ったまま、五十嵐は大声で告げた。座員達は一斉に、五十嵐を向く。
「ほんなら、フジ子は納得したんですか」
まず、相沢が聞いた。フジ子は口が軽く、いいことも悪いことも自慢も愚痴も、とにかく黙っていられない。役柄の不満も五十嵐の悪口も言い触らすのだ。
「ああ、今はあの調子で駄々こねとるけど、そのうち首を振るじゃろ」
次の公演の内容とは、実際に岡山市であった事件をもとにしたものだ。それは去年の明治四十四年に起こった、通称「岡山ジゴマ事件」だ。
そもそも「ジゴマ」とは、その年に東京は浅草の金竜《きんりゆう》館で封切られた、仏蘭西《フランス》の活動写真だ。あまりの盛況ぶりに岡山でも上映され、これも大いに話題となった。五十嵐もフジ子と観に行ったのだ。
悪漢が主人公なのだが、子供達の間でもジゴマごっこは流行《はや》った。ジゴマは、悪党を指す言葉としてすっかり定着したほどだ。続々と真似た活動写真や舞台が上演された。
だが、岡山ではある事件にその名を冠したため、ジゴマは痛快な悪党というより陰惨な印象を抱かれるものとなった。富裕な商家に押し込み強盗に入った三人組は、子供も含めて一家五人を惨殺したのだ。
三人組の一人は東京の大学まで出た良家の子息で、彼は高校生の頃から女関係が派手であった。しかもその顔写真がそれこそ役者のような美男であったため、後の二人はほとんどいなかったかのような扱いで、その美青年ばかりが様々な角度から扇情的に新聞等に書き立てられたのだ。
これを舞台化しようとした五十嵐は、まずその青年と女達を主役に据えようとした。となれば当然、艶っぽい役にはフジ子なのだが。
五十嵐は、それを途中で止めた。前の公演でも新聞等に書かれたが、「通俗的すぎる」のだ。それに、最大の競合相手ともいえる山田劇団が、その内容でやると噂されていた。
「わしは、あねえな田舎芝居とは違う。芸術なんじゃけん」
少し地味になっても、彼ではなく地味な見張り番だった青年とその養母を主役にして構成したいのだ。
わかりやすい男女の愛欲の話ではなく、淫靡《いんび》な近親|相姦《そうかん》の匂いを醸し出しながらも、哀切な物語にしたいのだった。
「物語が無けりゃあ、作りゃあええんじゃ」
例の台詞《せりふ》を吐く。しかしフジ子は断じてそんな老役《ふけやく》は嫌だと言い張る。確かに、苦労し続けの老女をするには、フジ子は体格が良すぎた。また、そんな繊細な演技は無理だ。抑えた中にも熱情を。それは、清枝ならどうにかなるかもしれぬ、と踏んだ。
いや、それともフジ子に好機を与えるべきか。演技開眼、といったふうに持っていけるなら、そうした方がいいのか。五十嵐は二人の女を交互に思い浮べながら、また階段を上がっていった。草稿に手を入れるためにだ。
フジ子のいないところで、清枝と話をしてみよう。
五十嵐は出掛ける前は、本当にそれだけを思っていたのだ。母親が入院しているため、今は清枝が一人で暮らしているそこは、菓子屋の二階であった。甘い匂いに包まれていても、間借りの四畳半二間は侘《わび》しかった。
「主役がやれるかもしれんのじゃで」
その口説き文句は、事前にではなく事後に使われた。
……いつ、そうなったのか。清枝は虎視眈々《こしたんたん》と待ち構えていたのか、それとも目を瞑《つぶ》って耐える覚悟をしていたのか。
いや、どうも前者のようだ。草臥《くたび》れた絣《かすり》の着物の下には、新しい襦袢《じゆばん》と腰巻きをつけていた。痩《や》せているのに皮膚には脂がのっていて、隅々までが温《ぬる》んでいた。
五十嵐の下にいて組み敷かれているのに、清枝の方が主導権を握っているのだ。五十嵐はまるで演技指導をされている気にさせられた。そこはもう少し撫《な》でるのだ、そこでは力を緩めること、もう少し抑えた声を出せないのか、それをまだ続けろ、云々《うんぬん》と。
終わった後も、清枝ははだけた襦袢を直そうともせずに、五十嵐の隣に仰向《あおむ》けになっていた。五十嵐の方がおずおずと身仕度をした。座り込んだ五十嵐は、髪を乱した清枝を見下ろした。
「こうなったから、というんじゃないがな。主役をやれるというのに、もうちいっと嬉《うれ》しそうな顔をできんのか」
清枝はこうして見ると、別嬪《べつぴん》じゃがな。顔立ちそのものは、フジ子よりずっと整っている。ただ、華の無さと態度や立ち居振る舞いの地味さで損をしているのだ。
しかし女優をしたい、と願って実行する辺りに、たぎる野心はあったのだ。
また、どこで覚えたものか、性的な技巧もフジ子よりずっと巧みであった。その清枝はふいに、小さく笑った。
「いいえ。うちは必ず、主役をやれると思うとりましたけん」
その強《したた》かな口元に、五十嵐は微《かす》かな恐れを抱いた。清枝は目を閉じてまた笑った。
「……それで、わしとこういうことをしたんか」
まるで、フジ子のような拗《す》ね方《かた》だ。それをいなす清枝は、五十嵐よりも太々《ふてぶて》しい。
「なんで。それとこれとは別じゃわ」
「そうか。そんなら、わしも清枝が好きじゃ」
一応は、甘い囁《ささや》きもくれてやる。だが、清枝は冷めていた。滑稽《こつけい》な恰好《かつこう》で威張る五十嵐を冷笑すらしていた。
「わかっとります」
清枝は一言も、五十嵐を好きだと言わなかった。フジ子の名前も、一度も口にはしなかった。一応は下まで降りてきて見送ってくれた清枝だが、すでにけろりと他人の顔をしているのが見事である。
甘い匂いだけが、その後の五十嵐に執拗《しつよう》にまつわった――。
そうして翌日、皆が揃った稽古場《けいこば》で、五十嵐は配役を発表した。
「主演の養母は、清枝じゃ。フジ子は、下宿屋の女将《おかみ》じゃ。まだ正式な台本は出来とらんが、すぐに仕上げる。後の配役は……」
清枝は昂然《こうぜん》と顔をあげ、一度だけうなずいた。座員の間にざわめきは広がったが、異を唱える者はなかった。フジ子はすんなりと納得した訳ではないが、さすがにそこで地団駄踏むのは得策でないとわかったようで、不貞腐《ふてくさ》れながらも平静を装おうとしていた。
その後こっそり、五十嵐はフジ子を二階に呼んだ。部屋に入るなり、わああっとフジ子は泣いた。そう手放しに感情を剥《む》き出されると、鬱陶《うつとう》しくもあるが可愛くもある。清枝に感じた得体の知れない恐さはない。
「よしよし、しゃあけどな、フジ子よ。お前の方が別嬪なんじゃけん、主役を食うのは目に見えとるじゃろ」
「そうじゃわ。清枝なんぞに負ける訳なかろう」
それで、どうにか機嫌を直してくれた。ただし、着物は新調してやらねばならぬ。
順調に脚本もでき、座員の稽古も進み、清枝も打ち込んでいた。フジ子も初めて清枝を意識したのか、対抗心を燃やしたようだ。いつになくフジ子も稽古に熱心になってくれた。
美青年役の相沢の稚拙さも、逆にその役柄に合っていて良い。今回も端役の井上は、もっぱら舞台の修繕や客席の掃除をしているが、その丸い横顔からは舞台をやれて楽しいという心根が伝わってきた。
「よしよし、ようわしの言う通りに動いてくれて可愛い奴《やつ》らじゃ」
通し稽古も順調にいった。ただ、フジ子は持ち前の我儘《わがまま》を時折は発揮した。役柄は、美青年の下宿していた先の女将なのだが、それには役名がないのだ。ただ、女将さん、である。フジ子はそれが不服なのだ。
「なんで、うちは重要な役なのに名前が無いんよ」
それなら、というので適当にハナさんはどうだユキさんはどうだと言えば、キイイッという甲高い声をあげて怒る。
「わかったわかった、そんならわしの母親の名前をやる。お貞《さだ》じゃ」
「そんな、婆さんの名前は嫌じゃっ」
そんな時、清枝は眉《まゆ》一つ動かさない。それが心底フジ子を軽蔑《けいべつ》しているとわかって、やはり五十嵐はひやりとしたものを感じるのだった。それでも清枝は巧《うま》い。閨《ねや》での技巧もなかなかのものであったが、演技も同じく繊細で大胆だった。
吝嗇《りんしよく》な五十嵐ではあるが、地元の有名作家である尾賀|公俊《きみとし》が対談を承諾してくれたとあれば、フジ子が勤めている料亭よりもう一つ上の格の店に招待せねばならなかった。その老作家は、東京でも少しは名が知られているのだ。
「いや、わしも演劇は好きでのう」
二階の座敷の上座にちょこんと置物のように座った小柄な作家は、なかなかに気さくな老人であった。何より相手は演劇とは関係ないので、競合相手とはならない。それにうまくいけば、よく書いてもらえるかもしれない。
「あのジゴマ事件は、わしも興味を持っておってのう。書きたいと思うとるんじゃ」
だから高慢な五十嵐も、必死の愛想笑いと追従《ついしよう》をする。
「それはそれは、どうも。先生のジゴマも是非、拝読しとう思いますらあ」
ところが、そこでちょっとした困り事が起きた。いいところを見せたくて、フジ子を始め座員を何人か呼んでいたのだが、フジ子が例によって自分が座の中心でなければ気の済まない性向を剥き出しにしたのだ。
「なあなあ、うちの役名がまだ決まらんのじゃ」
座敷の真ん中に座り込んで、発声練習のような声をあげる。
なだめ役の清枝は、母親がいよいよ危ないとかで出席を断っていた。それもまた、五十嵐には不服であった。母親の命より、わしを優先するのが本当じゃろうが。だから余計、フジ子の傍若無人ぶりにカッと頭が熱くなった。
そんな五十嵐の不快な顔も見えないようで、フジ子はますます騒ぐ。
「みんなで考えてん。なあなあ」
皆が尾賀の話を傾聴したいのに、そう喚《わめ》く。確かに役名は未定だが、それは些末《さまつ》なことだ。第一、お前は主役じゃなかろうが、と怒鳴りつけたい。なのにフジ子は、
「後で稽古場に来て、一人が五つずつ、うちの役名を考えるんじゃっ」
子供のように駄々をこね始めたのだ。これには老作家も驚いていた。五十嵐は恥ずかしさに真っ赤になった。
「お前は主役じゃないんじゃで」
ついに、五十嵐は怒鳴った。わあっ、とフジ子が泣きだし、相沢が隅に連れていってなだめた。怒っていた五十嵐は、まったくフジ子を無視した。化粧が剥《は》げた顔は、醜いとしか言い様がなかった。
「お前は、清枝に負けたから泣き喚くんじゃ。そうじゃ、お前は負け犬じゃで。わしはそんな犬は要らん。負け犬でなしに勝ち馬に乗るんじゃ」
老作家に聞こえぬよう、そっと呟《つぶや》く。その呟きは、ここにはいない清枝にだけ届けばいいのだ。そう、負け犬の女ではない勝ち馬の女に。
「なあ、昨日はごめんな。うち、最近ちょっと苛々《いらいら》しとるんよ」
翌日にはさすがにフジ子もばつが悪かったようで、神妙に謝りに来た。五十嵐は気の無い表情と態度で、適当にあしらった。
「ああ、もうええ。稽古をせいや」
フジ子は泣き喚かずに、憔悴《しようすい》した様子で下がった。今の五十嵐は、舞台を成功させて名を成すことしか頭にない。
そうしてまたしても、その日の夕刻にフジ子が情緒の不安定さを顕《あらわ》にした。急遽《きゆうきよ》、地元の山陽新報社が記事にするため写真を撮りに来てくれることになったので、五十嵐はそっとフジ子に耳打ちをしてやったのだ。
「着物を着替えてきてもええぞ」
と。そこには、ちょっとフジ子に冷たくしすぎたという気持ちもあった。写真を清枝中心に撮ることはわかっているから、フジ子は精々負けないようにあの新しい着物で来るだろう。それを誉めてやればいいのだと。
フジ子は唇を結んで、無言で出ていった。そうして戻ってきた時、座員も五十嵐も口をポカンと開けた。さすがの清枝も、どうしたんフジ子さん、と口にしたくらいだ。フジ子は着物は着替えていなかった。しかし、さっきまでの恰好《かつこう》とは大いに違っていた。
「あははっ、うちは今日は主役じゃないけんな」
わざとらしい笑い声をあげ、フジ子は草履の音を立てて回転した。何のつもりか、狐の襟巻を頭に巻いて現れたのだ。狐が頭に乗った珍妙な恰好には、皆も呆気《あつけ》にとられた。
「うちは、今日は主役じゃないけん。清枝を引き立たせちゃるわ」
あくまでも、自分は清枝に譲ってやったのだと言いたいのだ。そう言ったのは、井上だった。五十嵐は、ただもう訳がわからない。
「きれいな恰好できたら、余計に惨めと思うたんですらあ」
井上は、妙に強い視線で五十嵐を睨《にら》む。
「どうせ清枝の陰に来るくらいなら、珍妙な恰好で最初から道化を装うた方が、自尊心は傷つかんと思うたんでしょうよ。先生には、わからんか」
「何を生意気な」
五十嵐は、井上を蹴飛《けと》ばした。
「フジ子がおかしいんは、いつものことじゃ」
五十嵐にとっては、舞台も役者も皆、自分を満足させる道具でしかないのだ。慕ってくれる男も、関係を持った女も、皆。
――清枝の母親がついに死んだのは、その翌日であった。清枝の母親は、楽しみにしていた娘の初主演の舞台も見られず、山陽新報に載った写真も見られなかった。ついでに珍妙な恰好のフジ子も見られなかった。
「この忙しい時に」
舌打ちしたい気持ちで、五十嵐は葬儀にだけは顔を出した。
「稽古《けいこ》は、明日からまた始めてもらうで」
喪服の清枝は、毅然《きぜん》としていた。侘《わび》しい葬儀の風景の中、清枝は確かに美しかった。
「はい。こんなことで休めません」
低く囁《ささや》くその声もまた、いい節回しだった。と、五十嵐は感じた。
そうして、舞台は幕を開けた。五十嵐はその出来栄えに満足した。清枝の巧さにも、素直に感心した。とにかく舞台度胸がある。
ますますフジ子の稚拙さが目立った。やっぱりフジ子は下手なんじゃ。冷酷に五十嵐はフジ子を切り捨てた。
「岡山ジゴマ」は、評判も興行成績も山田劇団より五十嵐座の方が上であると、岡山の者は知る。それは実際に舞台を見なくても、人の口から口に伝えられるし、新聞等にも書き立てられたからだ。
「清枝も、頑張ったがん」
舞台が終わった後、フジ子は高処《たかみ》から清枝を見下ろして言い放った。悔しさが透けていた。まだらになった白粉《おしろい》が、疲労感を色濃く表している。
「あら、ありがとう」
清枝はしれっと、礼を述べた。誰の目にも、逆転は明らかだった。五十嵐の気持ちがどちらに傾いているかもだ。
――清枝に映画の話が舞い込んできたのは、その一ヵ月後だった。東京から来ていた映画関係者が舞台を見ていたのだ。
無論、いきなり主演はできないが、清枝に用意されたのはかなり重要な脇役だった。五十嵐好みの文芸的なものではなく、かなり通俗的なものだというが、いずれにしても中央で映画に出られるというのは大したことに違いない。
その一報はまず、稽古場にいる五十嵐に届いた。五十嵐はそれを稽古場に座員を集め、発表した。当の清枝は、さすがに上気していた。
「いやあ、大したもんじゃで、清枝は。これもわしの薫陶《くんとう》の賜《たまもの》じゃな」
「はい、東京でも五十嵐座の看板を背負うて頑張ります」
自分の励ましに、清枝が冷笑で答えたと見たのは気のせいじゃろうな。五十嵐は、あれ以来触れていない清枝の肌の感触を思い浮べた。今はもう、撫《な》でても冷えているか。その生温い感触を思い出しながらも、謹厳な表情を作って清枝の映画の出演の経緯を説明してやった。
皆は一斉に、清枝ではなくフジ子を見た。だがフジ子は、意外にも明朗に言い放った。
「人気いうもんは、西洋の回転木馬とかいう遊具みたいなもんじゃろが。浮いたり沈んだり、陽が当たったり陰ったり。今、清枝はたまたま陽の当たるところに浮いとるだけじゃわ。いつか、沈む時も来るんよ」
清枝はそうじゃなあ、と含み笑いをした。文字通り、役者が上であった。
フジ子はそれでも必死に、演技をしているのだ。自分は大らかな上にずっと清枝より美人で花形なのだから、これしきのことすんなり祝ってやる、といった態度をだ。
それが演技であることは、劇団の者ならみんなわかったはずだ。いい演技と巧《うま》い演技はまた別物なのだから。
「我慢せず、喚いた方が後々のためになるのにのう」
井上だけが、フジ子のために呟いた。
清枝が上京して関係者と話し合いをする日、五十嵐は付き添ってやった。夜汽車の中で初めて、清枝はフジ子への真情を吐露した。
「うちには、わかっとったんよ。才気も運も、うちの方が上なんじゃとな」
東京の撮影所で、さすがに五十嵐は緊張した。すべての者にぺこぺこと頭を下げた。それを清枝は冷ややかに見ていた。すでに自分はこちら側の者だと言いたげに、清枝は落ち着いて対応をしていた。
清枝は、自分は元来偉い者だと思って生きてきたのだ。
「そこが自分やフジ子とは違うのう」
惨めさの中にも微《かす》かな畏敬《いけい》の念を抱いて清枝を盗み見た。偉そうにしているのは、実は自信がないからという二人とは根本から違うのだ。
急に、フジ子が愛《いと》しくなった。可哀相に。ちいと、冷とうしすぎたな。
「こんな逸材を、岡山の片田舎に置いておくのは勿体《もつたい》ない」
東京の者にそこまで言われても、五十嵐は追従笑いをするしかなかったのだから。しかし清枝も少しは気がとがめたか、会食の後は五十嵐とともに旅館に戻った。
「先生。ほら、先生。こっちを向いてえな」
だが、清枝にどんな技巧を使われても、五十嵐はとうとう硬くならなかった。
「お酒のせいじゃろう」
清枝は小さく含み笑いをした。五十嵐はただもう、寝たふりをするしかなかった。隣にいるのは、もう手の届かない銀幕の星なのだ。
――翌日の汽車の中でも、五十嵐はずっと寝たふりをした。
そんなふうに疲れて帰ってきた五十嵐は、相沢にまた不快な話を聞かされた。あの晩、清枝に腑抜《ふぬ》けにされたのは自分だけではなかったのだ。それは他ならぬフジ子だ。
相沢によれば、二人が不在の夜にフジ子が大変だったという。岡山の演劇界では古参の山田がついに引退することになり、関係者ばかりを招いて宴会を開いたのだが、そこに呼ばれもしないフジ子が来たという。
「そこ、フジ子の勤める店じゃったけん」
例によって、自分は必ずその場で主役になれると思い込む女だ。一人一人の挨拶《あいさつ》の時も他の者は当然、「お疲れ様でした」的なことを言うのに、フジ子はいきなり、
「最近、男に冷たくされて悲しい」
切々と話し始めて皆、驚いたという。五十嵐は胃の腑が冷たくなった。わしに恥をかかせおって。さらに相沢は話を続けた。どこか、五十嵐をいたぶる表情だった。
フジ子は、誰も自分の傍に来てくれぬのに業を煮やし、唐突にわああっと泣きだしたというのだ。さすがに何人かがどうしたと寄っていけば、
「五十嵐さんが冷たい」
と泣いたという。そこで相沢が、大仰に肩をすくめた。
「白けたで。泣こうと決めて、きょときょと辺りを見回したのがわかったけん」
五十嵐もまた、白けた。実生活でも芝居がかったところが魅力だったのに、今はひたすら鬱陶《うつとう》しい。今は清枝だ。銭にも名声にもつながる清枝。もうフジ子は終わった。女としても役者としても。
清枝が劇団を辞める、と言い出したのは寝床の中ではなく、一ヵ月後の稽古場の二階でだった。取りつく島もない、といった風情の清枝は、髪形もすっかり東京風に垢抜《あかぬ》けていた。
「しゃあけど先生は」
赤い革の靴を履いた足は、すっきりときれいに伸びていた。それは五十嵐の全身を踏み躙《にじ》るように尖《とが》ってもいた。
「うちの母親が危ないけん、帰らして、と頼んだ時。先生はそんなん知ったことかこの忙しいのに婆《ばば》あ早く死ね、とおっしゃいました」
清枝はわざと棒読みに、台詞《せりふ》回しをする。
「いや、そ、それは悪かった」
いつかフジ子とも、ここで押問答をしたな。しどろもどろになる五十嵐に、清枝はまったく表情を変えなかった。
「うち、上京します」
眉《まゆ》をあげて言い放った。ひょいと爪先《つまさき》が五十嵐を指した。
「監督さんに、身辺をきれいにしておくよう、言われたんです」
「わしは、汚いもんか」
「そこまでは、言うちゃあおりません」
というより、もう利用価値のなくなった者なのだろうな。引き出しから、一番最初に書きなぐった草稿の束が覗《のぞ》いている。この時はまだ、主演をフジ子にするつもりだった。
今頃になって、フジ子の気持ちがわかった。ええわええわ、わしにはまだフジ子がおるわい。五十嵐はなんだか疲れていた。その五十嵐に、清枝は追い打ちをかける。
「あねえな田舎芝居で満足するな、とも言われました」
さすがの五十嵐も、唖然《あぜん》とした。しかし、その冷ややかな美貌《びぼう》に見惚《みと》れた。この女はほんまに、大成するかもしれん。
カッカッと高い足音を立て、清枝は降りていった。つけているのは香水なのだろうが、いつか清枝の部屋で嗅《か》いだ甘い菓子の匂いがした。
その匂いがまだ消えないうちに、続いて足音が聞こえた。これは上がってくる足音だ。しかも、重量感がある。これはフジ子だった。
「なあ、ちょっとええじゃろうか」
「ああ、入れ入れ」
甘い言葉の一つもかけてやらねば。わしにはお前しかおらん、やっぱりお前が看板女優じゃと。
ところがそのフジ子もまた、辞めたいと告げたのだ。
「なんじゃい。お前まさか、清枝の後を追うて上京する、とか言い出すんじゃないか」
清枝が東京に出ると知っただけで、嫉妬《しつと》に悶々《もんもん》として自分も行くんじゃっ、と喚《わめ》いているフジ子は、何人もが目撃していた。
ところがフジ子は、神妙に俯《うつむ》いて告げたのだ。
「いんにゃ。子供ができたんです」
五十嵐は、なんとなくこのような日が来ることを予測もしていたような気がした。
「……相沢のか」
「井上さんじゃ」
これを芝居にしたら、どうなるんじゃ。悲劇か喜劇か。フジ子もまた、椅子に沈みこみそうな五十嵐に追い打ちをかけてきた。
「井上さんも、座長の変わった新生の山田座に誘われとるんよ」
どこか引き摺《ず》るような足音を立てて、フジ子も降りていった。五十嵐は立ち上がる。
「物語が無けりゃあ、作りゃあええんじゃ」
一人、舞台に立ったつもりで発声してみる。その嘘臭さとぎこちなさに、しばし呆然《ぼうぜん》とした。自分はもう少し、演技も台詞回しも巧《うま》かったのではなかったか。勘はどこで狂ったのか。情熱はいつ冷めたのか。また何か台詞を言ってみようと、踏ん張ってみる。
壁にちらちらと、木の葉の影が揺れていた。そう、活動写真の幕に映る絵のように。活動写真は、動画写真、自動幻画とも称される。五十嵐は、シネマトグラフというハイカラな呼び名を好んでいた。
シネマトグラフの中の清枝は、ひたすらに清純な乙女なのだろう。生温い体や甘い体臭や猥褻《わいせつ》な手つきを持っていることは隠し通して、夢の女を演じていくのだ。
「すべてはそう、この世は皆シネマトグラフの夢なのだ」
その台詞回しの下手さと陳腐さに、仕方なく笑った。
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巡行線路《みまはり》
青木巡査は、岡山市内を少し外れた街道沿いにあるこの交番に配属されて以来、自分が「熊」と渾名《あだな》されていることにすぐ気がついた。
巡行線路、つまり受け持ちの見回り行路を歩けば、悪童どものわあっと逃げていく喚声が教えてくれるのだ。
「熊じゃあ。熊が出たでえ」
「食われるど」
筒袖《つつそで》を青《あお》っ洟《ぱな》で光らせた悪童どもは、草履を飛ばしてしまう勢いで逃げていく。だがその声には楽しげな、そして青木巡査を揶揄《やゆ》する響きが含まれている。ただでさえ怖い「お巡りさん」、その上まさに熊のような大男なのにだ。
「子供は、賢いもんじゃで」
やや憮然《ぶぜん》としながらも、青木巡査はその顔面のほぼ半分を覆う髭《ひげ》を撫《な》でて苦笑する。飛ばした草履を慌てて拾いに戻った男の子に声をかけてやる。
「日が暮れんうちに、帰らんといけんぞ」
男の子は決まり悪そうに笑って、仲間の後を追っていった。そう、青木巡査の姿形は恐ろしげであっても、その性質はいたって穏健で小心ですらあることを、子供は敏感に感じ取るのだ。
そもそも青木巡査は、尋常小学校まではごく普通の体格であったのに、高等科に入った頃から急激に体が成長を始め、大抵の男の教師より大きくなったのだ。そうなると、今まで彼を殴り付けていた教師達も、すっかり遠慮をしてくれるようになった。
思えば、あの頃から自分の渾名は「熊」ではなかったか。今のように髭面でも、手足に剛《こわ》い毛を生やしていた訳でもないのにだ。
しかし、大男はほぼ例外なく気が弱い。勝手に相手が恐れてくれるので、わざわざ威嚇する必要がないのだ。
それは美男美女の方が気立てが良いことや、しかし一方で面白味に欠けることにも通じていた。きれいなら黙っていても大切にされるから、あまりひねくれることはない。また、相手の気を引こうと知恵を巡らせる必要もなくなるからだ。
「青木は、巡査じゃ。それ以外になかろうが」
貧しい百姓の五男坊に生まれた彼は、耕す畑もない訳だから、どうでも外で就職をせねばならなかった。先生は皆、巡査がよかろうと勧めたのだ。
試験はなかなかに難関であったが、何はさておきその体格の良さで採用されることもわかっていた。親としても、息子が堅い職業に就けることに異存はなかった。その親だけは、本当は息子がいかに気弱で小心であるかはわかっていたはずなのに。
「おめえは、中身は女子《おなご》みてえに優しゅうて穏やかじゃ。なんか、男の扮装《ふんそう》をして生まれてきたみてえじゃ。その扮装が、巧《うま》くいきすぎた、というんかのう」
鷹揚《おうよう》にゆったりと振る舞ってさえいれば、勝手に他人は「強い」と勘違いしてくれる。わざわざ威張ることも誇示することもない。
六尺を超える体格と、髭と。幼い子供らに泣かれるのは困ったが、まずまず巡査の生活は安泰だった。喧嘩《けんか》があるの、こそ泥がまだ物置に潜んでいるのと通報があれば、青木巡査は思い切り足音を立ててそこに駆け付ければ良いのだ。
恐れをなして、みな逃げてくれる。無闇に大きな声を出したりしないこともまた、怒れば本当に怖いのだろう、と勝手に思われて都合が良かった。
今も黙って歩いていれば、素性の宜《よろ》しくなさそうな与太者や、目付きの悪い輩《やから》も、そっと道を開けて目を合わさぬようにしてくれるのだ。
「わしは本当は、怖いもんだらけじゃで」
軒の低い長屋の連なる路地裏を、首を竦《すく》めながら歩く青木巡査はため息をつく。強盗じゃあっという叫び声がせぬか、その角の向こうから目付け役の警部殿が飛び出しては来ぬか、お化けが出ると噂される朽ち果てたこの塀の向こうの空き家から怪しい啜《すす》り泣《な》きは聞こえぬかというより、帰る我が家に待ち構えている者が恐ろしい。
それは一つ年上の女房である、みやだ。それこそ、外見と中身が大いに違う。みやは不美人ではあるが、愛嬌《あいきよう》のある餡《あん》パンのような顔をしている。その癖、性質は鬼軍曹と渾名しても構わないものであった。
みやもまた貧農の末子で、とにかく堅い職業に就いた男と寒村から抜け出して生活をしたがっていた。配属されたばかりの交番の近所の仕立屋に、住み込みで働いていたみやは、直感で青木巡査の性質を見抜いたのだ。
「あんたも知っとろうが。『一つ側ぁ、買《こ》うても持てぇ』じゃ」
確かに岡山では昔から、そう言い伝えられている。一つ年上の女なら、金を出しても結婚しろという意味だ。
一つ年上の姉さん女房が最上の相性である、と。どんな根拠があるのかわからぬが、とにかく岡山ではそういうことになっている。
「うちは、一つ年下の婿さんを探しとったんじゃ。そこにひょこひょこっと、いや、のそのそっと現れたんが、あんたじゃ」
お巡りさん、ご苦労さん、お茶でも飲んでいきんさい。
彼の身近にいる女といえば母と姉、妹しかいなかったし、まだ見習い巡査と呼ばれるに相応《ふさわ》しかった青木巡査は、心細い巡行線路にそんな声をかけてくれる女がいるだけで、嬉《うれ》しかったのだ。
みやの、まだ猫を被《かぶ》っていた頃の声が思い出され、またため息をつく。
押し切られた恰好《かつこう》の結婚であった。巡行線路でみやは、蜘蛛《くも》の巣を張って獲物を待ち構えていたようなものだ。まんまと引っ掛かってしまった訳か、と青木巡査は途方に暮れた顔で青空を見上げる。初冬の色は無慈悲に美しい。
可愛らしかったのは、結婚する前だけだ。所帯を持つやいなや、家計をがっちりと握られ、小遣いもままならぬ。警部よりもよほど冷徹に仕事を把握しており、たまに寄り道などすれば、
「違う巡行線路を行ったじゃろうがっ」
と、いったいどこで見ていたものやら、帰るなり箒《ほうき》で足元を払われる。鍋《なべ》で殴りかかられる。それは決して、青木巡査が反撃してこないのを見越しての狼藉《ろうぜき》でもあった。
「おお、青木」
ぼんやりしていた青木巡査は、背後から軽い足音が聞こえてくるのに振り返った。同輩の篠崎《しのざき》巡査だ。支給される制服を順繰りに質屋に入れている篠崎巡査は、いつも防虫剤の匂いのついた制服を着ている。
「ええとこに通りかかったのう」
これは青木巡査とは反対で、そこらで鬼ごっこをしている子供よりも背が低い。顔も子供じみていて、支給される服もすべてだぶだぶと余っている。しかし向こうっ気は強く、子犬のようにきゃんきゃんと吠《ほ》え立てる。
勤務中の買い食いや寄り道等、色々と問題は多いが、まずまずの成績もあげているので許されている。それこそ鼻も、犬のように利くのだ。
「ありゃ、篠崎の巡行線路は、こっちじゃなかろうが」
「そねえなことは、ええんじゃ。交番にな、飲み屋の女将《おかみ》がツケの取り立てに来るはずじゃけえ、わしは非番じゃと言うといてくれえよ」
「そりゃあ、困るのう」
「おめえは図体ばかし大きゅうても、おえんのう。『おらん。非番じゃ』ボソッと言うだけで大概の女子は恐れるじゃろうが」
「ああ、わかった」
「頼むで」
青木巡査の胸の辺りまでしかない篠崎巡査は、ふいににやっと笑った。
「その代わり、この後の巡行を代わっちゃる。ほれ、もう交番に帰ってもええで。寒うなるけん、ほれほれ」
おや、と思った。繁華街は通らないこの行路は、楽しいことも手柄を立てられそうなこともないのだ。例の嗅覚《きゆうかく》で、何か嗅《か》ぎ付けたのだろうか。
すでに篠崎はとっとと駆けていっていた。青木巡査は仕方なく、
「異状なし、と」
気弱に呟《つぶや》き、交番に戻った。急激に冷えが、肩先にきた。
交番とはいっても、そんな大層な立派なものではない。岡山署は白壁の二階建てで威容を誇るが、各地に置かれた交番は掘っ立て小屋に等しい。ことにここの交番は川べりに建っており、寒風は一層厳しく吹き付ける。
「ご苦労さま」
火鉢の手入れをしていた谷口巡査が、白い歯を見せて笑いかけてくれた。立ち番をしていれば藪蚊《やぶか》ではなく女学生が、見回りに出れば泥棒ではなく後家さんがまとわりつくという、評判の美男だ。
しかしこれも定石通り、善良だが面白みのない男であった。何故に巡査になったかと聞かれれば、教員試験に落ちたからだという。
「ところで青木さん、聞いたかな」
椅子にかけた青木巡査は、ついつい靴を脱いでしまう。これも見つかれば叱責《しつせき》の対象だが、どうにもこれは苦しい。大きさが合わないというのもあるが、草鞋《わらじ》か裸足《はだし》でなければうまく走れもしない。
「連続しとる、強盗のことかな」
確か先日、岡山警察署に出向いた時、整列させられてそんな話も聞かされた。青木巡査は夜勤明けで眠くてたまらず、立ったままほとんど居眠りをしていたのであるが、うちの巡行線路に出たら困るのう、とぼんやり考えたことは覚えていた。
「そうじゃ。昨日な、篠崎さんが見回るはずの路地に出たんじゃと。そいでも篠崎さんが何でかそこにおらんでな、取り逃がしたんじゃ」
おそらく、脇道に逸《そ》れて何ぞ隠れてするようなことをしとったんじゃろ。青木巡査は口には出さずに呟く。
風の冷えは厳しくなってきたようで、薄っぺらな壁はみしみしと寒そうな音を立てた。
「警部殿に知れたら、懲罰じゃろうが」
「そこはほれ、うまいこと言い訳しようりましたで」
谷口巡査は笑った。それから帽子を被り直し、巡行に出ていった。これから青木巡査はここで立ち番だ。靴も履かねばならない。
「おお、寒いのう」
初冬ともなれば、日暮は急激だ。青木巡査は、ふと不安を覚えた。この近くでも例の強盗が頻発しているという。
その強盗はまだ人を刺したり殺したりはしていないが、きっとそのうちやるだろう。青木巡査は、寒さのためだけでなく身震いした。明治も三十年を過ぎて岡山も電気は通じたとはいえ、片田舎では夜はあまりに暗い。
「見付けても、深追いはせんでおこう」
そうじゃそうじゃ、わしには女房子供がおるんじゃけえ。やけに尖《とが》った三日月を眺めながら、そう呟く。岡山の山はみな浅いとされるが、ここから眺めるそれは黒々と得体の知れない深さと闇を抱えており、まばらに見える人家の灯《ひ》が侘《わび》しいながらも安堵《あんど》をさせてくれる。
「明日からはしっかりと、戸籍調べをやっとけよ」
突然に背後から野太い声を出され、青木巡査は飛び上がりそうになった。目付け役の警部だった。これは、見た目と中身がちゃんと似合った男だ。どちらも尊大である。
しかしやはり、大男には遠慮もあるようで、青木巡査のことは無闇に怒鳴り上げたりはしない。たまには軽口も叩《たた》いてくれるし、慰労もしてくれる。
「はあ、戸籍調べは先月もやりましたが」
「最近は、こねえな田舎でも流動は激しいんじゃ。ちょっと見ん間に嫁は増えとる、若いのは兵隊に出とる、下宿屋にゃあ学生から素性の知れん流れ者まで、出たり入ったりしとる。娘の腹は何時の間にか膨らんどる」
初老の警部は髭《ひげ》をいじりながら、踏ん反り返る。
「ほんなら、明日もやりますらあ」
「そうしとけ」
警部もいなくなってしまうと、辺りは俄《にわか》に深山のごとく静まり返った。火の用心、と拍子木を打つ音と、野犬の吠える声とが重なって聞こえた。それは一層、淋《さび》しさをかきたてるものであった。
「ちょっとちょっと、お巡りさんよっ」
しばしの休憩と暖を取るために交番に入り、火鉢の前に座っていた青木巡査は、ついつい居眠りをしていたようだ。けたたましい喚《わめ》き声《ごえ》に、叩き起こされた。ちょうど、みやに箒《ほうき》で追い回される夢を見ていた青木巡査は、
「なっ、なんじゃあ」
思わず頭を抱えてしまい、目の前にいるのがみやではないとわかってから顔が火照《ほて》ったが、相手はそんなことに頓着《とんちやく》はしていなかった。それほどに慌てているのだ。
「大変なんじゃ。いや、もう、きょうてえことじゃ。恐ろしいこっちゃ」
慌てて帽子を被《かぶ》る。目の前で息|急《せ》き切っているのは、何度か見かけたことのある雑貨屋の小柄な老人だった。
「さっきのう、泥棒が入ったんじゃ」
「なに、泥棒じゃと」
青木巡査も、思わず立ち上がる。ついに来たかと、足元が震えた。
「もう逃げられたんじゃが、来てつかあさい」
その言葉に、少しほっとした。急いで出るふりをしながらも、どうかもう、その泥棒が逃げ切っておりますように。そう祈りながら、その老人について交番を後にした。
しんしんと冷え込んでくる夜道は、真っ暗といっていいほどだ。月明かりさえ、今夜は乏しい。が、かえって怯《おび》えている表情は見られずに済む。
「で、その曲者《くせもの》の姿は見んかったんか」
できるだけ威厳のある低い声を出し、ついでにわざとらしく大きな足音も立てる。
「それがのう、お巡りさんよ」
夜道で老人は、立ち止まった。夜目にも、青ざめた顔色だった。
「奇っ怪なんは、わしを突き飛ばしたのは確かに男じゃったのに、月明かりの下でひらひらっと見えたんは、女子《おなご》の着物じゃった」
「なんなら、そりゃあ」
思わず、青木巡査も立ち止まる。月明かりの下では女子、突き当たったのは男じゃと。狐狸《こり》の類《たぐい》が化けたのでなければ、なんなのだ。ただの泥棒なら、まだましではないか。まさか妖怪《ようかい》変化の類ではと、凍り付く。
しかし老人は、ようやく冷静な口調を取り戻していた。
「わしが思うんは、女子の着物を着た男じゃったんじゃないんかと」
「ははあ、なるほど」
気の抜けた返事を返す。まあ、一番もっともらしいのは、それだろう。しかしなるほどとはいったものの、そんな妙な扮装《ふんそう》の泥棒がいるのだろうか。
自分も大男の扮装をした女子、とからかわれもしてきたのだが、それとは違う。また青木巡査は、狐が化けた恐ろしい美女などを想像してしまい、目眩《めまい》がした。
そんな話をしているうちに、老人の家に着いた。割合に立派な瓦葺《かわらぶ》きの平屋で、雨戸が一枚、路地に放り出されていた。周りには、野次馬となった近所の者も何人か固まっていた。
「なんぞ、怪しい者に出喰《でく》わさんかったか」
野次馬達に話しかけてみたが、彼らは一様に、
「爺《じい》さんらの叫び声にびっくりして出てみたけぇど、あんまり暗いんでようわからんかった」
と言うばかりだ。老人のやはり小柄な女房は、怯えきっている。
「ありゃあ、狐狸の類かも知れん。顔はよう見えんかったが、髪は髷《まげ》に結うて簪《かんざし》も挿しとるのに、覗《のぞ》く足は獣みてえに毛が生えとった」
などと、どう考えても恐怖で錯乱したとしか言い様のないことを口走るのだ。誰かが失笑を漏らしたが、青木巡査は鳥肌が立った。
臆病者《おくびようもの》の特質として、想像力は豊かなのだ。奇っ怪な化け物が、夜道を跳梁《ちようりよう》している情景がありありと浮かび、それならみやに天秤棒《てんびんぼう》でどやしつけられている方がましだ、と我が家の灯が恋しくなる。
「お巡りさんよう」
老夫婦は手を取り合い、声も揃えた。
「金は戻らんでもええから、とにかく早《はよ》うに捕まえてつかあさいよう」
それでも、職務は放り出せぬ。青木巡査は精一杯、落ち着いて尋ねる。
「なんぞ、近隣に怪しげな者はおらんか」
「最近は、余所《よそ》から下宿に来る者も増えたで。のう、おっ父」
「そうじゃ。ここらは岡山市にも割合にすぐ行ける、便のええとこじゃし。岡山市よりゃあ家賃は安いしのう」
畳の間には、売り物の物差しだの手拭《てぬぐ》いだの笊《ざる》だのが散乱していた。乏しい燭光《しよつこう》の下で青木巡査は、被害の金額などを書き付けた。
「ありゃあ、狐狸の類かも知れん。顔はよう見えんかったが、髪は髷に結うて簪も挿しとるのに、覗く足は獣みてえに毛が生えとった」
という、どうやっても証拠とはならない被害者の証言は、書き付けなかった。
翌日、交番の中で青木巡査は戸籍簿を取り出した。入り口の脇で立ち番をしていた篠崎巡査が、ひょいっとそれを覗き込んだ。
「また、戸籍調べか」
「昨日、警部殿に命じられたけん」
「ほんなら、ええこと教えちゃろう。下駄《げた》屋の二階に、なかなかの別嬪《べつぴん》が間借りをしとるで」
しょっちゅう脇道で道草を食う上、できるだけ手抜きをしたがる篠崎なのに、こういうことは目敏《めざと》く抜け目がない。どこそこに色気のある後家がいるだの、畳屋の娘はまた出戻ってきたの、そんなことだけはしっかりと覚えているのだ。
「ほほう、そんなら見てこようか」
別嬪、か。青木巡査はすでに白い息を吐きながら、ふっと遠い空を仰《あお》ぐ。女といえば、みやしか知らないのだ。篠崎巡査のように遊廓《ゆうかく》に遊びに行ったこともない。また谷口巡査のように、黙っていても女が寄ってくるという経験もない。
「惜しむらくは、女にしては大きすぎる」
篠崎の負け惜しみとも何ともつかない笑い声を背に、青木巡査は戸籍簿を携えて歩きだした。激しく期待することもないが、ちょっとその別嬪は拝みたい。
みやには、もう訳がわからぬうちに搦《から》め取られたというべきもので、惚《ほ》れたの何だのではなかったような気がする。男前の谷口巡査は、言い寄る女は多いので適当に付き合いはしているようだ。ただし、飽きられるのも早いらしい。
――ごたごたと、商家が軒を連ねる一帯に踏み込んだ。なるほど、大抵の商家はその二階に下宿人を置いている。酒屋、畳屋、乾物屋、魚屋、八百屋、髪結い、刀剣商、陶器屋、ときて、いよいよ噂の下駄屋だ。せせこましい店先に、のっそりと青木巡査が入れば一杯になる。
「ああ、二階ね。仕立物をしとる女子が先週、入ったんじゃわ。そらそうと、あんたが熊さんと子供らに言われとるお巡りさんなんじゃなあ、いやほんま、熊そっくりじゃわ、ああおかしい」
下駄屋のお内儀《かみ》は、お喋《しやべ》りであった。すでに昨夜の雑貨屋の泥棒騒ぎも知っていた。青木巡査は苦笑したいのを堪《こら》えて謹厳な顔を作る。
「ほう、その女子は身元は確かなんか」
「今日日《きようび》、いちいちうるさいこと言うとれんのよ」
「しかし、最近は物騒じゃで」
「まあ、行儀はええし、なかなかの別嬪じゃけん。ああ、男出入りも今んとこないですらあ。身持ちは堅いみてえじゃわ」
それだけで青木巡査は妖《あや》しくときめいた。しかしより一層、しかつめらしい顔を作る。
「ほんなら、ちょっとばかし調べをさしてもらうで」
「ああ、どうぞ。まあ、うちの別嬪を見ちゃってん」
ぎしぎしと、青木の体重で狭い階段は壊れそうだった。その薄暗い廊下の突き当たりに噂の別嬪の部屋はあった。ふっと、狐狸の化けた美女を想ってぞくりとしたが、大きな咳払《せきばら》いをしてから声をかける。
「警察から来たんじゃけえど。少しばかり、ええかな」
「はあ、どうぞ」
ふわり、と異国の香木めいた匂いに包まれた。妖しくも清楚《せいそ》なその匂いに、青木巡査の鼓動は高まる。そこは薄暗かった。着物の切れ端、裁縫箱、それらは堆《うずたか》く重ねられているが、しかし部屋は狭いながらもきちんと整頓《せいとん》されていた。
そうして、その真ん中に鎮座する女に、青木は心臓を素手で掴《つか》まれた気がした。清純な若い娘、というのでもない。婀娜《あだ》な年増、でもない。今までまったく出会ったことのない種類の女であった。
狐狸が化けたような、というのが、恐ろしい女や醜い女を指すのではなく、妖しい艶《つや》と美をたたえた女をも指すことを、青木巡査は今この時初めて知ったのだ。
「いや、その、ただの戸籍調べじゃけん、恐がらんとってつかあさいよ」
「ほほ。わかっとります。お勤め、ご苦労様です」
その声色もまた、不思議な色香に包まれたものであった。作っているのか地声なのか、水飴《みずあめ》を耳元に垂らされでもしたかのように、甘く粘る擦《かす》れ声《ごえ》なのだ。
やや大柄ではあるが、仄暗《ほのぐら》い中では一層その白さが際立つ肌をしていた。俯《うつむ》いてはいるが、そのなよやかさ、色香、これに比べれば女房みやなど、まさに子狸に過ぎぬ。
「あの、名前は何と言われるか」
青木は入り口の所に立ったまま、動けなくなった。
「トミ子、と申します」
俯いたまま、蚊の鳴くような声で言った。途端に青木は、甘い痺《しび》れを感じた。みやは、きんきんと甲高い喚《わめ》き声《ごえ》しかあげない。まるで耳元で囁《ささや》かれでもしたように、ぞくりと震えがきた。
「いや、あのな、最近ここらは物騒じゃけん、気をつけられるように。わしらも精々、巡行に来るけん」
「はあ、それは頼りにさせてもらいますらぁ」
「あんた、仕立てをしとるんじゃな」
「はい。以前に住んどった町でも、そうしとりました」
「独り身か」
「はい、なかなか、ええ縁に恵まれませんで。ほほ」
「そんなら、ますます見回りは来させてもらおう。ほんなら、今日はこれで」
本当は根掘り葉掘り、色々なことを聞きたかった。しかし、おどおどしてしまうばかりなのだ。ほとんど何も聞き出せないままに、早々に青木巡査は階段を降りてしまった。下駄屋のお内儀が、また軽口を叩《たた》こうとするのを無視して、店先を出た。
ほんの短い間しかいなかったのに、制服に香が薫《た》きしめられているようだ。
しかしいつまでも、その余韻に浸っている暇はない。青木巡査は続いて、今度は住居ばかりの一角に踏み込んだ。
農村出の彼には懐かしくさえある、汚穢《おわい》の匂いが漂ってくる。煮炊きする匂いに混じっていても、不潔な感じはしない。郷愁の影絵めいたその一角が、彼は好きであった。
まずは、長屋に向かった。ごたごたと軒の低い家が連なっている。しかし、大抵の住人は知っていた。
「空き家じゃった端っこに、誰ぞ新しゅうに入っとるな」
青木巡査は、その家に向かう。そこからペンシャンと、軽やかな三味線の音が聞こえてきた。もしやここにも別嬪が、と一瞬は期待したのであるが。
「ああ、ご苦労さまです」
覗《のぞ》いたのは、若い男であった。撫《な》で肩の色白の、いやにくねくねとした男だ。女が着てもいいような、派手な縞柄《しまがら》の着物を着ている。
「最近、泥棒が横行しとってな」
「ああ、そうなんじゃてなあ。きょうてえことじゃわ」
「なんぞ、怪しいことはないか」
「お陰さまで、今のところありませんなあ」
喋《しやべ》り方、仕草、すべてが女っぽい。少々気味悪いが、少なくともみやよりは女らしく可愛いではないか。
「して、あんたの職業は」
「ご覧の通りの、三味線弾きですらあ。稽古《けいこ》もつけるし、料亭なんぞにお呼ばれして披露もしとります」
その時わあっと、悪童どもの囃《はや》し立てる喚声が響いた。
「熊のお巡りが、オトコオンナと遊んどる」
「なんだと、てめえらっ」
この唐突な野太い怒鳴り声は青木巡査ではなく、目の前のなよなよとした、それこそオトコオンナと呼ばれても仕方ない男が発したものであった。
わあっ、とまた悪童どもが喚声をあげて逃げ去った後、さすがに三味線弾きの男は恥ずかしそうに身を捩《よじ》った。
「あらっ、まあ、恥ずかしいっ」
青木巡査はどんな顔をしていいかわからず、黙って背を向けた。のしのしと歩きながらも、しかし思いを巡らせるのは下駄《げた》屋の二階の女であった――。
交番に戻ると、谷口巡査が小太りな若い女と向かい合って調書を取っていた。青木巡査に気付くと、その端整な顔をひょいとあげて笑顔を作った。
「巡行、ご苦労さま」
敬礼もしてくれる。若い女は、どこか女房みやに似た、餡《あん》パン顔だ。不器量だが若い。さっきの下駄屋の二階のトミ子は、若くはあるまい。しかし、美貌《びぼう》ではあちらが格段の差をつけている。
いかんな、と呟《つぶや》く。これから、すべての女をトミ子と比較してしまいそうではないか。一番まずいのは、みやと比べてしまうことだろう。
「こちらのお嬢さんがな、近隣に怪しい男がおると言うてこられたんじゃ」
「ほほう、怪しい男とな」
青木巡査が椅子を持ってくると、娘は微《かす》かに眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。どうも、谷口巡査と二人で親密に話をしたかったようだ。それでも娘は、不機嫌な顔はしても青木にもぽつぽつと語ってくれた。
「うちも住んどる、長屋なんじゃけど。最近、端っこに越してきた男が……」
その娘が言うには、三味線を教えていると自称しているその男が、雑貨屋に押し入った泥棒ではないか、という。
「女形《おやま》みてえに、なよなよした男なんじゃわ。いかにも、女の扮装《ふんそう》をしそうなんよ。ほれ、いつか雑貨屋に入った泥棒が、女の恰好《かつこう》をしとったのに男じゃなかったんか、てそこの爺《じい》さんが言い回っとるんですらあ」
本署の方に問い合わせに出向いた谷口巡査によると、実際これまで近隣で起きた泥棒の目撃談をまとめてみると、
「そういやあ、着物が赤かったようなで」
「女か男かわからんかった」
「わしは男と見たが、隣の女房は女と言い張るんじゃ」
と、まさに女の扮装をしていた男が犯人ではないか、という結論に導かれていくのだ。
「さっき、その男には会《お》うてきたで」
腕組みをして、青木巡査は言った。谷口巡査が、えっと目を見開く。だが、いくら威張った巡査とはいえ、いかにも女の扮装をしそうだなどと、それしきのことで容疑者にはできぬ。見た目だけで判断される辛《つら》さは、青木巡査自身が身に染みている。
「怪しかったかな」
「ううん、なんとも言えん」
しかし腕組みをしたまま、青木巡査は前を見据えて宣言した。
「よっしゃ。明日から重点的に、わしは巡行をするで」
それは正直に言えば、その男を見張ろうとしてのことではない。あの、下駄屋の二階のトミ子だ。あの女には、度々会いたい。
娘もまた、本当は泥棒はどうでもいいらしい。谷口巡査と喋《しやべ》りたかっただけのようだ。ぼうっと未練がましく谷口を見つめていたが、どかどかと篠崎が入ってきたのを潮に立ち上がって出ていった。
谷口巡査は幼なじみの女房を貰《もら》ってから、女とは全然遊ぼうとは考えていない。かつては青木巡査もそうであったが、今はあのトミ子の面影がちらつく。
「どうじゃ、青木よ。別嬪《べつぴん》には会えたんか」
さっそく、火鉢に当たりながら篠崎巡査がにやにやと笑う。
「ん、ああ、会うてきたで」
できるだけ、興味のなさげな返事をする青木巡査なのだった。
家に帰ると、子供らはすでに熟睡をしていた。その傍らで、みやがマッチのラベル貼りの内職をしていた。
「あんたの給金は、もちぃと上がらんのかな」
不機嫌な眉間《みけん》の縦皺《たてじわ》に、うんざりする。美しい女なら不機嫌な顔も美しいじゃろうがのう、と言ってやりたい。無論、言えばどんな目に遭わされるかわかるから言わない。
「しばらくは、なかろう」
「手柄の一つも立てて、褒美は貰えんのかな」
「立てられるもんなら、立てたいのう」
「あんたはほんっとに、見かけばっかしなんじゃけん」
きんきんと響くみやの声に、のそのそと着替える青木巡査はトミ子を想っていた。あれが女房なら、安らげる日々じゃろうな、と。
それでも乏しい灯《ひ》の下、ふっと扁平《へんぺい》なみやの顔にも陰りができ、妖《あや》しい匂いがしたような気もした。それもまた、トミ子の妖艶《ようえん》な幻影のなせる技だったのか。
わしは、あくまでも巡行線路に従《したご》うとるだけじゃ。
自身にも言い訳をしながら、青木巡査はその路地をたどった。普通なら、とても話しかけることなどできないだろうが、
「最近は物騒じゃけん。それにあんたは、一人暮らしじゃろうが」
と訪れれば、向こうは少しも不審がらない上に感謝までしてくれる。巡査になってよかったと、初めてしみじみ思ったほどだ。
「ありがたいことです」
いつ行ってもトミ子は、雨戸を半ば閉めた部屋の中に行儀よく座っている。切れ長でありながら大きな瞳《ひとみ》と、品のいい鼻筋と。紅だけを濃く塗った小さな口元が、なんとも蠱惑《こわく》的だ。
青木巡査は、入り口から踏み込めない。触れればふっと、遠くにいってしまいそうな恐れを感じるのだ。また、触れて嫌われるくらいなら、ここでこうして眺めているだけの方がよほどいい。
「あら」
優雅な手つきで針を動かしていたトミ子は、ふわりとその白い顔をあげた。その針を持ったまま立ち上がると、足音も立てずに青木巡査の方に歩み寄ってきたのだ。
青木巡査は魅入られたように、そこを動けなかった。トミ子は俯《うつむ》いたまま、そっと青木巡査の胸の辺りの釦《ボタン》を撫《な》でた。
「取れかけとりますよ。縫い付けてあげましょう」
その間は、時間にすればごく短いものであったろう。実際にトミ子の肌には指一本触れることさえかなわなかった。なのに青木巡査は、もうトミ子と体の関係を結んだほどに高揚した。
髪の匂いがした。俯いたままの顔は典雅な美貌だった。ただ、針を持つ手だけが妙にごつごつと大きく骨張っていて、まるで男の手であった。
だが、それは青木巡査に幻滅などはもたらさなかった。
「この女は、苦労をしとるんじゃ」
却《かえ》って、愛《いと》おしさが募った。トミ子は青木巡査がぼうっと夢幻の境地にいる間に、手早く釦付けを終え、またいつのまにかすうっと元の場所に戻っていた。薄暗い中でも鮮やかに赤い座布団に座り、他の縫い物を続けていたのだ。
「あ、ああ、こりゃどうも、すまんことで」
夢から醒《さ》めた青木巡査は、鯱張《しやつちよこば》って敬礼などした。
「なんかあったら、すぐに言うてきてつかあさいよ。そこの交番じゃ。わしは青木というけん」
「青木さん。頼りにしとりますらあ」
トミ子が来た時に谷口巡査がいたら、ちょっと嫌じゃのう、とは思う。しかし谷口は手出しはせんじゃろ。青木巡査は釦を撫でながら、巡行線路を来たときとは逆に辿《たど》った。釦からは、トミ子の匂いが立ち上るようであった。
「最近、青木は熱心に巡行しとるのう」
警部にまで誉められてしまった。それは当然評価につながるが、一つ困ったことにもなった。ただでさえ目立つ青木巡査が、度々|下駄《げた》屋の二階に上がっていくのが、噂になり始めていたのだ。
そのせいかどうか、泥棒は少し静かになったようだ。
「なあ、あんた。うちに何か隠しとることがあろうが」
夜勤明けで昼間に帰ってくると、みやが悪鬼の表情をしていた。それでも扁平な餡《あん》パン顔には違いない。
「何をじゃ」
「あんた、女ができとるんと違うか」
巡査が民間人に尋問されている図だ。情けないことに、青木巡査は小心なこそ泥のように縮み上がってしまった。それでも精一杯、言い返す。
「何を証拠にそねえなことを」
無論、トミ子とは何もない。秘《ひそ》かに望んではいるが、臆病《おくびよう》な青木は到底、手出しなどできはしないのだ。
幾ら女にしては背が高い、手は結構大きいとはいっても、熊と渾名《あだな》される青木巡査が組み敷けば、ひとたまりもなかろう。
しかし、それでは犯罪者になってしまう。また、トミ子に嫌われでもしたら。むしろそっちの方が怖かった。
「あんた、うちが知らんとでも高を括《くく》っとったんか。あんたが一軒の家にばかし、見回りをしようることはいろんな人が教えてくれるんじゃっ」
「それは本当に見回りじゃ。そんだけのことじゃ」
「そこには、女がおるんじゃろうが」
「ああ、おる。おるけど、わしは手も握っとらん」
「いずれ、握る以上のことをしようと企《たくら》んどるんじゃろうが」
「阿呆《あほ》ぬかせ。職務で行っとるのに、そねえなことができようか」
「いよいよとなったら、警部さんにでも言い付けるけんな。見回りの最中に、女のとこに上がり込んどると」
「わしが馘《くび》にでもなったら、困るんはおめえと子供なんじゃで」
その日は、かなりの喧嘩《けんか》になってしまった。手をあげたりはしないが、みやは着物や箒《ほうき》を投げ付け、起きた子供らがわあわあと泣いた。
「わしは潔白じゃ。確かに、その女は好きじゃけどな」
これが、よくなかったのだ。
「あんたは、女心の全然わからん阿呆じゃっ」
――翌日は、寝不足のまま、飯も食わせてもらえずに交番に出向いた。足元がふらつく。そんな時に限って、捕り物になりそうな話が出るのだ。
「やっぱり、三味線弾きの男は怪しい動きをしとるらしいで」
谷口巡査が、生真面目にそう告げたのだ。
「よう、夜中に出歩いとるんじゃと。無論、三味線を教えにとかじゃあないで。手ブラでこそこそ、辺りを憚《はばか》るようにして、じゃと」
「ああ、あの男なあ。ううむ、やっぱりか。しゃあけどなぁ」
それだけでは、無論引っ張ってくることはできない。どこぞの女に会いに通っていた、ということだって充分にあり得るからだ。幾ら当人がなよなよと女っぽいとはいえ、男には違いないのだ。
「ありゃあ、女の扮装《ふんそう》をしたら似合うじゃろうな」
幾度か見かけた、あの撫で肩と白い頬を思う。子供達を怒鳴りあげた声の迫力を差し引いてもだ。
あの男もまた、見た目と中身の違いに苦悩していたのだろうか。それを想像すると、青木巡査は微《かす》かな憐憫《れんびん》を覚えるのであった。
じゃが、トミ子は違う。あれは見た目と中身がまったくおんなじなんじゃ。泥棒より、どうしてもトミ子に気を取られてしまう青木巡査は、窮屈な帽子を脱いでがりがりと頭を掻《か》いた。
「お巡りさんっ、来てつかあさいっ」
その夜中、また一人で番をしていた青木は、怒鳴り声に起こされた。
「泥棒じゃ。今、お父さんが追いかけとる」
これは確か、酒屋の女房だ。
「よ、よっしゃ」
青木巡査は三尺棒を握ると、飛び出した。わざと大きな声を出し、足音を立てる。熊というより、猪が駆け抜けると腰を抜かす者もあるかも知れぬ。
怯《おび》える気持ちが持ち上がってくると、トミ子の所にその泥棒が飛び込んで危害を加えたら、と考えて己れを奮い立たせた。
「あっ、あそこじゃ」
誰かの叫び声に、目を凝らす。堀端に、酒屋の主人が転がっていた。うんうん唸《うな》っているところを見ると、死んではいない。しかし、夜目にも額を流れる血は鮮やかだ。
「やられたんか」
抱き起こしてみると、案じたよりはしっかりしていた。後から駆け付けた谷口巡査に酒屋の主人は任せて、青木巡査は暗すぎる夜道を駆けた。
「早う、捕まえてくれえ」
酒屋の主人の呻《うめ》き声《ごえ》を背に、無闇に青木巡査は走った。と、街路樹の所まで来た時だ。派手な縞柄《しまがら》の着物を着た者が、逃げていくのが見えた。あれだ、女の扮装をしている泥棒だ。逃すものか。
「待てっ、待たんか」
その者は、うまい具合につまずいて転んでくれた。今だっ、とばかりに青木巡査は飛びかかった。というより、飛び乗る。まさに小柄な熊ほどの重さがある青木巡査に乗られては、潰《つぶ》れてしまう他ない。
「あっ」
しかしその者は意外な抵抗を見せた。腕を突き出すと、さっと何かで青木巡査の胸を払ったのだ。一拍遅れて、痛みはやってきた。胸元が切れている。その下の皮膚もまた切れていた。
うああ、と情けない声をあげて、せっかく尻に敷いた曲者《くせもの》から飛びのいてしまう。たちまちその泥棒は、敏捷《びんしよう》に刃物を振りかざしてきた。頭巾《ずきん》をかぶっていて顔は見えないが、あいつなのか。
もう、青木巡査は何が何だかぐるぐると辺りが回ってきた。やられるか、もう駄目か。こんなことなら、あのトミ子に胸の内を打ち明けておくのだった。
その時突然、泥棒はきゃっという声をあげて倒れた。
「ど、どうしたんならっ」
次に青木巡査は、ぽかんと口を開けて立ち尽くした。なんと、泥棒の背後に箒をふりあげたみやがいたのだ。
みやは、続けて箒で泥棒を打ち据えた。いつもの凄《すご》い箒使いが、こんなところで役立つとは。泥棒は頭巾を被《かぶ》ったまま、うんうん唸っている。
「なんで、お前が」
と青木巡査がようやく尋ねた時、どやどやと谷口巡査達がやってきた。
「そねえなこたぁ、どうでもええっ」
箒をかざして仁王立ちするみやは、その餡《あん》パン顔を夜目にも真っ赤に紅潮させた。
「早うに、こいつを捕まえんかっ」
鬼軍曹の口調に、青木巡査は慌ててまたその曲者の背にまたがる。すでにその者は、抵抗する気をなくしていた。
「捕まえたで。顔を拝ましてもらう」
引きはがすように頭巾を取り去った青木は、あっと声をあげた。恨めしそうにその眉根《まゆね》を寄せて青木巡査を睨《にら》みつけていたのは、トミ子だったのだ。
「あんたが、なんで……」
ずきり、と忘れかけていた胸の傷が疼《うず》いた。刃物で薙《な》ぎ払われた釦《ボタン》は、千切れ飛んでいた。トミ子に付けてもらった釦は、またトミ子によって千切られたのだ――。
女の扮装をしては、泥棒稼業に精を出していたトミ子こと富蔵《とみぞう》は、青木巡査が見事に捕縛した。
これは手柄であると、褒賞が貰《もら》えることにもなった。実際に顕彰されるべきは妻のみやなのだが、みや自身が、
「あんたの手柄じゃ。うちは助けただけじゃ」
と言い張った。ちなみに、あのなよなよとした色男の方は逆に剛の者で、賭場《とば》の用心棒だったのだ。ああ見えて武術の心得があったというのが、恐ろしい。
それを摘発したのは、これは谷口巡査であった。例の谷口巡査に惚《ほ》れている娘が、なんとか彼に手柄を立ててもらおうとそのなよなよした男をつけているうちに、秘密の賭場の存在を知ったのだ。
二人の同輩に続けて手柄をものにされ、篠崎巡査は腐っていたが、それで少しは発奮したか巡行は真面目にするようになった。
翌日から、地元の新聞は女装泥棒の記事を面白おかしく書き立てた。なんでもこのトミ子こと富蔵は、最初は泥棒をする為だけに女の扮装をしていたのが次第に快楽となり、普段も女として生活するようになったという。
しかしその恰好《かつこう》では明るい外に出て仕事をする訳にいかず、家で出来る仕立てなどをしていたが、それだけでは生活が苦しくてつい、さらなる悪事に手を染めてしまった、ということだった。
トミ子こと富蔵の素顔も、その新聞には掲載された。その決して醜くはないが、まったくもって凡庸な男としか言い様のない顔を目のあたりにして、青木巡査は諦《あきら》めがついた。
「それにしても、みやが巡行をしとったとはなぁ」
胸の傷は、そう大したことはなかった。裸になって包帯を替えてもらいながら、青木巡査はもう何度も繰り返した台詞《せりふ》をまた繰り返す。
「一目だけでも、その女を見ておこう、と思うてな」
みやは不器用に包帯を巻きながら、わざと痛い部分を突く。青木巡査は思わず声をあげた。
「しゃあけどな、うちは一目でありゃあ男じゃ、とわかったで」
物悲しい追憶に耽《ふけ》ろうにも、ぺったんこなみやの顔を突き出されると、すべてが笑い話になってしまう。
「おめえが巡査に、いや、刑事になりゃあえかったのに」
「まあ、いずれにしても」
包帯の上をぽん、と叩《たた》いてみやは笑った。
「一つ側ぁ買《こ》うても持てぇ、が正しいいうことがわかったじゃろう」
「ああ。一つ年上の女房は、ええ」
いてて、と目を瞑《つぶ》る。束の間、あの仄暗《ほのぐら》い室内が浮かんだ。この痛みは実際の傷か惚れた女を失った痛みか。
その傷の上には、トミ子がつけてくれた釦があった。あれが取れたままだったら、あるいは傷はもっと深かったかもしれない。
あの釦は、どこに飛んでいったのだろう。
[#改ページ]
有情答語《いろよきへんじ》
強くなりたいと願ったことは、数えきれないほどにある。
生みの親には物心つくかつかぬうちに死別し、その後は親戚《しんせき》の家を虐待とまではいかないまでも厄介者として転々とさせられた挙げ句、ほとんど捨て猫を引き渡すかのように岡山孤児院にやられたという前半生を持つ関谷良雄《せきやよしお》は、分限者《ぶげんしや》になりたいとか腹いっぱい食いたいとか気儘《きまま》に遊んでいたいとか、そんなことよりもずっと、強くなりたいと願う方が多かった。
強くなりたいと祈る相手は、神仏ではなく己れであった。神仏は良雄の前にはいなかったからだ。
「それで、願いは聞き届けられたんか。ええ返事は返ってきたんか」
詰問ではない。岡山孤児院の院長たる石井先生は穏やかに、そう聞いてくれた。
「……いろよい返事、は貰《もら》えんかった」
「いろよき返事は、神様はくれんで」
寺を改装した孤児院の職員室で、石井先生はその意志の強そうな顔いっぱいに、笑顔をこしらえてくれた。
「いろよき返事とは、好いたの惚《ほ》れたのの男女の仲で使う言葉じゃで」
大人の間を右往左往して育った良雄は、意味もわからず老成した言葉を覚えさせられていたのだ。しかしこれからは、子供らしい言葉を覚えていくんじゃと、石井先生は縮こまる良雄の肩を優しく叩いた。職員室には橙色《だいだいいろ》の灯《ひ》が射していて、良雄は少し泣いた。
その時から良雄は祈る相手と、祈りの中身を変えさせられたのだ。
「神様は、弱い者と貧しい者とに、特に目をかけて下さるんじゃ」
初めてこの孤児院に来たその日のうちにわかった。石井先生はそれを口癖にしているのだと。その日だけでなく、どうにかこの孤児院に慣れた頃の良雄にも、先生は度々それを口にした。
「しゃあけど、強うなろうと努力はせんといけんぞ。弱さに甘えても、いけん」
決して粗暴な子供ではなく、むしろ孤児院の中では女の子よりも大人しく従順であると思われていた良雄だったが、それこそ強い意志と理念で孤児院を建設した人だけあって、石井先生は良雄本人よりも良雄を見抜いていた。
「お前は大人しいが、中に燃え盛るものを持っとる。それは自分のためにじゃなしに、人に使《つこ》うてやるんじゃ。それこそが、ほんまもんの強さじゃ。外身でなしに、中身を強うすることじゃ」
当然だが、ここには荒《すさ》んだ心の子もいたし、固く自分の殻に閉じこもる子もいた。良雄は率先して、そんな子達と遊び、勉学をも見てやったのだった。神様のように、弱い者と貧しい者に良くしてやろう。ひいてはそれは、自分が強くなることにつながるのだと。
良雄は学校にはほとんど行かしてもらえなかった身の上だが、独学に近い形で読み書きはできたし、大人びた答弁も達者だった。また、これは子供達ではなく外の大人と接するようになってみなければわからなかったことだが、中々に男前でもあったのだ。
孤児院ではみな坊主頭で同じ粗末な着物を着せられていたため、どの子の容貌《ようぼう》が良くてどの子がよくないかなどは、あまり頓着《とんちやく》されなかった。実際、わからなかったのだ。しかし男前だと誉められることは、くすぐったいだけでそんなにいい気持ちにはなれなかった。
「わしは役者や歌手になるんじゃないけん、顔が良うてもどうにもならんわい」
少し怒ったように、そう答えるだけだ。無論一番|嬉《うれ》しいのは、
「強いのう、良雄さんは」
と言われることであった。なかなかに、言ってはもらえなかったのだ。大体、ここでの強いは蛮勇に近いものであって、腕力や向こう気の強さを見せなければ、純朴で単純な岡山の者には強さとは取れないのだ。
――その後、良雄は、孤児院内に設けられた尋常小学校と高等小学校を出た後、しばらくは院の職員として働いた。
院長は孤児を自立させるために、院内に理髪店や自転車の修理小屋などを設け、女子には裁縫も教え、また近隣の農家に作業の手伝いに行かせたりということも熱心にやっていた。良雄はそれらの世話や指導にも当たった。
「わしは、お前らが立派な職業人となってここを出ていける姿を見るんが、何より嬉しいことなんじゃ」
いつしか良雄は、院長に口調までが似てきていた。良雄は元来が器用な質《たち》で、見よう見真似の散髪だの自転車の修理だのもそこそこに出来、百姓仕事もこなした。だからどこに出てもやっていけたはずだが、
「わしはわしの人生より、ここの子供らの行く末を案じて生きたいんじゃ。わし自身の喜びより、ここの可哀相な子供らぁの喜びを大切にしたいんじゃ」
と、孤児院の職員を全うするつもりであった。そうやって孤児院を出た子供らは、それぞれの道に踏み出していった。院の中には無論、諍《いさか》いもあれば醜い争いや意地悪もある。だが、順繰りに出ていく子供らは皆、石井先生と良雄を慕って泣いてくれた。
「外にも、石井先生や関谷先生みたいな大人は、おるんじゃろうか」
「ああ、おる。きっとおる。世の中と人を信じて、生きるんじゃで」
虐待され続けたためにまったく大人に心を開くことのできなかった子が、良雄に初めて口をきいてくれた時の感動や、とにかく乱暴だった子が、良雄の真摯《しんし》な慰めと諫《いさ》めによって、我慢というものができるようになった時の安堵感《あんどかん》。
「関谷先生のお嫁さんになりたいんじゃ」
たとえ相手が小さな女の子でも、真摯な求愛をされた時など、良雄は不遜《ふそん》ではあるが自分が神様に近くなった気がした。
「おお、なってくれよ。大きゅうなったらな」
そんなふうに孤児院での日々は過ぎていったが、ある時少し変わった職員がやってくることになった。閑谷《しずたに》中学を出た後しばらく県庁に勤めていたが、思うところあって退職してきたという。
会う前に石井先生にその男の経歴を聞かされ、何やら良雄は胸騒ぎがした。閑谷中学、県庁。それは岡山の片田舎においては、中々の経歴であった。いや、この孤児院においては、一番の経歴になってしまうではないか。
しかし、職員室で実際にその木場という男に会った時、良雄は多少は胸の騒《ざわ》つきを押さえることができた。
「孤児達の世話をしたいと願いまして」
地味で小柄な上に毛も薄い、風《ふう》のあがらぬ男であったからだ。経歴では負けても、容貌では自分の方が上だ。こうはっきりと言葉にした訳ではなかったが、良雄は心のどこかでそう思うことで自分を保った。
子供らの教室よりも居室よりもずっと質素な家具しかない部屋で、良雄と十も離れてはいないのに老けた木場は、時折つかえながらも理念を語った。熱い情熱というのではないが、誠実なものであった。
石井先生が、感服している様子が伝わってきて、これにも良雄は居心地の悪さを味わわされた。それでも笑顔をこしらえて、挨拶《あいさつ》を交わしたのだった。
「歳は上でも、わしが後輩になるんじゃけん。よろしゅう頼みますらあ」
「ああ、いや、その、こちらこそ頼みますらあ」
なんでそねえなええ職場を辞めてまで、と言いかけて、良雄は恥じた。目の前の男と自分と、そして神様にだ。当の木場だけが、飄々《ひようひよう》としていた。
そうして木場は子供らの中に入っていったのだが、子供らは当初、木場を舐《な》めてかかった。子供らはそういう位置付けに敏感だ。風のあがらぬ、あまり怖くない男と見たのである。だが、それ故に子供らは本質をもすぐに見抜く。
「木場先生、その話の続きが聞きたいけん、わしらと一緒に寝てくれえや」
「おお、ええで」
木場は不器用にではあるが、ゆっくりと着実に子供らの中に入っていった。決して無能で県庁を辞めざるをえなかったのではないことも、すぐに知れた。良雄のように同じ視線で子供らに接するのではなく、きちんと大人の目で子供らを指導しているのだ。
久しぶりに良雄は「強くなりたい」という気持ちになったが、木場に負けたと思うのは嫌だった。敗北する自分は嫌だし、木場を嫌いになりたくもないのだ。実際、木場は頑張っているのだ。
「関谷先生の方が、遊ぶんは楽しい。じゃけど、勉強は木場先生に教えてもろうた方がようわかる」
特別に良雄を慕い甘えてくる女の子にそう言われた時、良雄は確かな痛みを感じた。ちょうどそんな頃であった。求人票の中に岡山監獄からのものがあり、
「ここの出身で、看守として来てくれるような者はいないか」
と申し出が来たのだ。三日ばかり迷い、良雄は決意した。決意した後は早かった。
「先生。わし、そこに行ってみようと思いますらあ」
さすがに驚きを隠せない石井先生と木場に向けて、良雄はやや紅潮した顔で早口に告げたのだ。早口になるのは何か後ろめたいことがある時の癖だが、今回は自分でももう後に引けないところにもっていかなければならぬという焦りのためであった。少なくとも、良雄はそう感じた。
「わしはこれまで、弱い子らを愛そうと尽くしてきました。自分が神様になれるとは思わんけど、そう頑張ってきました」
良雄は、昨日から復唱していた言葉を石井院長に告げた。
「しゃあけど、木場さんというええ後輩も来た。わしは次の処に行くべきじゃと、神様も思《おぼ》し召《め》しじゃねえんかと思うんですらあ。いや、わし自身そう思うとります」
石井院長は躊躇《ためら》いの表情は見せたものの、椅子から立ち上がった時にはもう良雄の肩を力強く叩《たた》いていた。初めてここで先生に対面した時と同じだと、良雄は目頭が熱くなる。
「子供らの、考えようによっちゃあ何十倍もの苦労があるじゃろう。しかし、監獄の者はやっぱり、ある意味では何十倍も純真な子供らより救いを求めとるし、必要としとるんじゃ。良雄は教戒師じゃなしに看守として行くんじゃが、頑張って光の道を見付けられるよう指導しちゃってくれ」
「はい。必ず」
隣に畏《かしこ》まって立つ木場も、生真面目に別れを惜しんでくれた。子供らは大概が泣いてくれた。良雄はそこで後悔というものをしたが、もう後には引けないのであった。
「わしは、新たに救いを求めとる人らぁの元に行くんじゃ」
新しい職場は、たとえ希望に満ちた場所であっても不安なものだ。ましてや良雄は孤児院より他の場所で暮らしたこともない。住み込む官舎はどのような所であろうか。いや、それより何より、監獄の者達が自分をどう受け入れてくれるかだ。
「神様」
また、強くなりたい、と良雄は願った。
良雄の優しげな態度や容貌《ようぼう》を見込まれたか、まったくの初めてでその若さでは、まだしもこちらの方が安気であろうと岡山監獄の側が配慮してくれたか、それは定かではないのだが、良雄はまず女囚の監房に配属された。
しかも、女囚がまず送られてくる通称洗い場、着替えをして身体を検査する重苦しい天井の低い湿気《しけ》た部屋に配属されたのだ。これは、強烈であった。
厳しい建物も様々な細かい決まり事も、どっちが囚人だかわからない面構えの看守だのも一々強烈だったが、何よりも密《ひそ》かに思い描いた「女の裸」が現実のものとは大いに違っていたことが強烈だった。
金持ちの篤志家がクリスマス会にくれる西洋菓子の箱に描かれた貴婦人は、当然だが華麗な服を着ていたけれど、密かに良雄はそれを取り去った姿を夢想していた。白く柔らかく乳は豊かに盛り上がっており、どこもかしこも優美な曲線を描いているのだと。
自分の母親がそんなに豊満で白かったはずはないが、ともかく女の全裸といって想像するのはそんなものだったのだ。
ところが洗い場で見る女の裸は、実に様々であった。さすがに若い娘は肥《ふと》っていようが痩《や》せていようが張り詰めているが、年増や老女のものはいっそ奇怪とも醜悪とも形容していいものであった。すべてが皺々《しわしわ》に垂れ下っているものや、溶けかけた雪達磨《ゆきだるま》そっくりのもの、干物としか見えないものなどだ。そんな裸がひしめきあうのは恐怖ですらあった。
「おお、ほんまにかなわんのう。男の前で全部脱がされるんかい」
「腰巻きも、取らにゃあいけんのかな」
何度も出入りしている強者《つわもの》や、女だてらに強盗殺人といった凶悪な女でさえ一応は恥じらって隠そうとしたり、逆にわざと強がって、
「さあ、見いや。そこの兄ちゃんもとっくり見い」
と開き直るのもいた。そんな時は、叱責《しつせき》も何もできなくなる良雄に代わって、女看守長の豊崎ユキが竹の棒振り回して怒鳴りあげる。
「あほんだらが。囚人が何を一人前の口きいてくさるんじゃい。とっとと捲《ま》くって汚ねえ場所も開帳せえや」
孤児院にも、その不幸な生い立ちからひどく乱暴な言葉遣いをする子供らはいた。しかし良雄は、この男だか女だかわからない外見の豊崎看守長ほどの口をきく者は見たことがなかった。なんとなく狸の尻《しり》を思わせる薄汚れた険のある顔で、のべつまくなしに汚い言葉で女囚達を罵《ののし》っている。
なのに良雄に対しては、途端に猫なで声を出す。そのことも女囚達の笑い草になっていたが、良雄は大人しく受け流していた。贔屓《ひいき》されれば色々と得であることはすぐわかっていた。豊崎看守長に睨《にら》まれたら、女囚だろうが職員だろうが陰険な方法でひどい目に遭わされるからだ。
「わしはここで、女というもんに夢を持てんようになるかもしれんのう……」
手持ち無沙汰《ぶさた》に、良雄は呟《つぶや》く。理想に燃えてここに来たはずだが、良雄の出番はあまりないというのが実情だった。相手が純真な子供ではないというのもあるが、女囚の世話をするのは当然ほとんどが女であり、牢《ろう》の中でも世話役と呼ばれるのは、長期の刑もしくは終身囚の女であった。
ただでさえ若くて見目のいい良雄は、一挙手一投足が注目の的になる。あまり目立てば女達に要らない波風を立てることになるし、他の男の看守達に睨まれる。自分はこれほど小心であったかと、いささか愕然《がくぜん》としたのだった。
「どんな、関谷くんよ。生地獄みてえな場所じゃろが」
それでも良雄は淡々と、黙って洗い場に立ち会ってさえいればいいのだ。豊崎看守長は詰め所ではなく、自分の部屋に呼んで茶なども出してくれた。
「いいえ。皆、不幸な生い立ちとその後の不運が重ならんかったら、真っ当に暮らしを立てとると思いますらあ」
きちんと椅子に背を伸ばして答えれば、女看守長は嘲《せせ》ら笑った。
「あんたも孤児院で苦労しとるはずじゃろうに、なんでそねえに甘っちょれえかのう。悪党は生まれついての悪党じゃ。ここはな、孤児院みてえに将来ええ子になれや、いうて甘やかす場所じゃねえ。悪党に懲罰を与える場所なんじゃで」
良雄は言い返せなかった。看守長が怖いというのもあるが、浅草紙《あさくさがみ》のたった三枚をめぐって盗《と》ったの盗られたのと取っ組み合いの大喧嘩《おおげんか》をする女囚や、子供を二人も殺していながら平然としているのや、また看守の中にも賄賂《わいろ》で何でも引き受けているのを見ているうちに、そんなもんかもしれんと思い始めてきたのだ。
「神様よ。ここに送られてくる者らは、強うなりたいと願《ねご》うとらんのに、破れかぶれの強さを持っとる。わしが勝てるはずはねえ気がしてきました……」
低く口ずさむ賛美歌は、われ鐘のような女看守長の怒声や女囚達の喚《わめ》き声《ごえ》に、すぐかき消されてしまう――。
神様のご褒美でも試練でもなく、その女は良雄の前に現れたのだった。
「ほれっ、順番に並べやっ」
豊崎看守長の罵声《ばせい》に近い命令の声に、女達は不貞腐《ふてくさ》れた態度で列を作った。今回の新入りは五人だ。女達は持参した荷物を取り上げられ、着てきた着物を脱がされると、赤い着物に着替えさせられるのだ。腰巻きも帯も紐《ひも》も、すべてが赤い。無論、脱走した時に目立つようにである。
「口をきいたら厳罰じゃで。ええなっ」
良雄が無表情をこしらえ、女達の横に立って列をきちんとさせる。しかし今回は良雄も、全裸の女達の横で無表情を作るのに度々失敗した。
最後に立っている女に、看守ではなく男の目を向けてしまうのだ。無駄な肉のまったくついていないすっきりとした裸は、子供じみているといってもいいのに、どこか猥褻《わいせつ》で崩れた匂いも醸し出していた。
当然だが化粧っ気はまったくないが、眉《まゆ》は形よく黒く三日月の形をし、日本人形のような切れ長な目と、繊細な鼻に唇を持っていた。つまり、すべてが鋭角と直線でできているのだ。見様によっては寂しい、そしてきつい顔立ちといえるのだが、草紙の中の若侍か、少女雑誌に出てくる美少年のようであった。
歳はおそらく、良雄とそんなに変わらないはずだ。なのにこの世もあの世も男も悪も、何もかも知り尽くして倦《う》んだような投《な》げ遣《や》りな態度と、それでいて不思議に涼しい諦観《ていかん》の表情とを持っていた。
「おいっ、よそ見をするな」
どぎまぎする気持ちを見透かされないよう、ことさらに厳しい声を出したつもりだが、その女はふっと鼻先で良雄を笑った。それどころか全裸になったままで、まるで隠そうとも恥じらおうともしない。
開き直りというより、良雄を挑発しているようにも取れた。一緒に連れてこられた十回も監獄に出入りしている強者や、強盗をして巡査と大立ち回りを演じた大女の方がもじもじと隠したがっているのにだ。
そろそろ肌寒い季節のために、きめ細かな肌には鳥肌が立っている。乳首も硬く尖《とが》っている。他の女なら寒々しいと映るはずなのに、その女に限っては艶《なまめ》かしいことこの上なかった。下の毛が薄く、合わせ目が透けているのも、見てはいけないものを見ている禁忌の強い誘惑を漂わせた。
「名前は。監獄は初めてか」
最後にその女の番が来て、ようやく赤い着物を着ることを許されてから豊崎看守長の前に引き出された。豊崎看守長は竹の棒でこつこつと床を突きながら、睨み付けた。女は着物を着た時も全裸の時も、同じ顔をしている。
「石田夏子。初めてですらあ」
凜《りん》とした口調に色褪《いろあ》せた赤い着物が、燃えるほどに強い赤と良雄には映った。
「嘘つけっ。お前は再犯の吉森ナツ江だろうがっ」
即座に看守長は怒鳴り返した。それでもう、ナツ江というこの女のおおよその過去は見当がついた。顔に似合わず、窃盗を繰り返しているのだ。あらかじめ幾つもの偽名を持っていて、経歴も本人にもわからなくなるほどこしらえている。美しいが嘘つきなのだ。
大体、監獄ではきっちりと戸籍から何から調べる訳でもないので、作り上げた身の上や偽名で通ってしまうのだった。
「はいはい、いかにもうちは吉森ナツ江じゃ」
まるで芝居の舞台で見得を切るように、ナツ江は言ってのけ、不覚にもまた良雄は見惚《みと》れた。傍らに立つ、こちらはあからさまに好色な視線を注ぐ清水という老人に近い男の看守が、そっと良雄に耳打ちをした。
「あれの母親は有名な窃盗犯でのう、獄中で誰の種とも知れぬ子を産んで死んだんじゃが。その子というんが、ナツ江じゃ」
豊崎看守長は憎々しげに、ナツ江を上から下までじろじろと睨みつけた。ナツ江はまるでたじろぎもしない。こちらの方が看守かというほどに、堂々としていた。良雄は美しい悪党、可憐《かれん》な悪女が存在するということに目眩《めまい》を覚えていた。果たしてこのような女を、自分は救ったり導いたりができるものだろうか、と。
「ありゃあ筋金入りじゃあ。何の反省もせん太いアマじゃ」
清水の耳打ちよりも、良雄はふとナツ江が洩《も》らした嘆息に気を取られた。その息を耳元に吹きかけてほしいと願い、罪悪感にすぐ神様、と呟く。ナツ江はまるでそんな良雄の狼狽《ろうばい》をすべて見抜いたかのような眼差《まなざ》しを向けながらも、口だけは豊崎看守長に向けて開いていた。
「吉森ナツ江。そんなら、もうこの監獄の規則はよう知っとるな」
「はい、看守長様。大人しゅうに過ごしますらあ」
鋭い、しかしどこか蕩《とろか》すほどに艶《つや》やかな流し目に、良雄は身動きが取れない。それもまた、このきれいな悪者に見透かされた。
「新しい看守かな。可愛い顔をしとるがな」
「無駄口を叩《たた》くんじゃねえっ」
豊崎看守長に小突かれ、ナツ江はよろめきながらも笑った。良雄はまったく身動きもできなかった。激しく情欲を感じたが、どうしようもなかった。
看守長に怒鳴られながら、ナツ江は不貞腐れて監房に連れていかれた。良雄は緊張しながらも、その後についた。牢《ろう》に入れるまでは見取るのだ。その後は古株の女囚達に任せなければならない。
「ほうれ、新入りは五人じゃ」
次々に女達は突き飛ばされるように中に入れられていく。ここでも一番堂々としていたのは、ナツ江であった。
「挨拶《あいさつ》をせえや」
世話役の年増が、最後にナツ江を突き飛ばすように部屋に入れた。高い音を立てて錠が下りる。良雄は動悸《どうき》が高まった。髷《まげ》は結び髪にされ、全身赤ずくめで房に入るナツ江は、表情一つ変えなかった。
「お前、また帰ってきたのかい」
牢名主たる初老の女にそう苦笑いされ、ナツ江はふてぶてしいとも無邪気ともつかない笑顔を見せた。ナツ江は、どこでどう振る舞えば得かよくわかっているらしい。廊下に立ち尽くしている良雄のことなど、もう見向きもしない。
「姐《ねえ》さんに会いとうて、戻ってきたようなもんですらあ」
ぬけぬけと言ってのけ、牢内には笑い声があがった。誰よりも強《したた》かな笑みを浮かべるナツ江。しかし良雄は持ち場に戻りながら、ある考えが頭から離れなくなっていた。ふっとあの薄い毛に覆われた部分が浮かんでくるのを押《お》し止《とど》め、ちらりと垣間見《かいまみ》せた純な表情を思い浮かべる。
「ありゃあ、ほんまは素直なええ性分なんじゃ」
そんな子は孤児院にも大勢いた。環境が悪くて、素晴らしい本分を発揮できていなかった子供達。ナツ江も勉学だって、させれば優秀に違いない。あの怜悧《れいり》な顔はきっとそうなのだ。自分は、ナツ江を導いてやるべきなのだ。
唐突に、「いろよき返事」という言い回しを思い出した。神様から人へではなく、男から女へ、女から男へともたらされる返事。ナツ江はきっと、じぶんにそれをくれるはずだと信じた――。
「おいおい、もう少し静かにせえや」
「はあい、看守殿」
すっかり女囚達には舐《な》められているが、決して忌み嫌われているのではないから、そう苦にはならない。良雄は見回りの度、ナツ江の様子をそれとなくうかがった。ナツ江は良雄が望むように、「いい人」「模範囚」にはなっていない。
それどころか、隠し金を持ってこれなかった女囚や生意気な女囚、また初犯の初心《うぶ》な女囚などを、古株の牢名主らとともに苛《いじ》めていたのだ。だがそれも婀娜《あだ》な容姿に似合っていて、良雄は更生させたい気持ちよりも、自分もナツ江に苛められたいという奇妙で密《ひそ》やかな欲望に悶《もだ》えた。
元より私語は慎むこととされているが、ナツ江とはあまり口をきく機会はなかった。中庭の洗濯場にいる時や、作業場で裁縫をさせられている時など声はかけてみたが、あからさまに小馬鹿にした態度と生返事しかくれない。
「なんぞ、不自由はしてないか」
「別に」
「明日は運動の時間が変わったと知っとるか」
「ああ、はいはい、とうに知っとった」
こんな態度が似合う女であるが、それでもナツ江は可愛がられているというよりは、一目置かれていた。度胸は据わっているし、得体の知れない怖さがあるからだ。何より美貌《びぼう》である。看守の男達は大抵、贔屓《ひいき》をしていた。目の敵にしているのは、豊崎看守長だけだった。
「ありゃあ、地獄に堕《お》ちても悔悛《かいしゆん》はせんで。次は犬に生まれ変わってくる卑しい畜生の目をしとる」
「お言葉じゃが、わしはそう思いませんですらあ」
「なんでじゃ」
「生まれついての悪人はおらんと、習いましたけん」
女看守長は、竹の棒の先を撫《な》でながら、ふっとどこか疲れた笑みを浮かべた。
「もうじき、それが間違《まちご》うとったことがわかるで。神様も間違いはするんじゃ」
良雄がナツ江に微妙な感情を抱いているのを、女看守長も見抜いていた。それでますます、ナツ江への風当たりはきつくなっていた。
何でもないことで、ナツ江を打ち据えたり突き飛ばしたりということがあった。しかしナツ江は我慢するとか耐えるとかではなく、やはり頑固な強かな、それでいてどこかすべてを諦《あきら》めた顔でやり過ごすのだ。
ただ一度、ナツ江はすれ違いざま、
「ええ迷惑じゃ」
そう吐き捨てる口調で言ったことがあった。豊崎看守長が自分につらく当たるのは、贔屓のあんたがうちに変な色目を使うからじゃ。確かにナツ江は、そう口にこそしなかったが続けて吐き捨てたのだった。
女としてはナツ江がいいが、ここにいる間は豊崎看守長の機嫌をとっておいた方が得なのだ。良雄はその自覚できる矮小《わいしよう》さにも苦しんだ。苦しんだとて、ナツ江にしてやれるのは、ただ優しげに声をかけてやることだけだ。
「なあ、あんたは学校は行ったんか」
そんなある日の午後、禁止されている鼻歌を歌っていたナツ江に、良雄は聞いた。洗い場でひとり洗濯をしていたナツ江は、初めて少しだけ笑ってくれた。機嫌がよかったのだろう。またそれが子供じみた笑い方で、良雄は一層|嬉《うれ》しくなった。本来はこういう笑顔のできる女なのだと。
「いんや。一度も行っとらん」
そうじゃろうな。声には出さずに頷《うなず》いて、良雄は思い切って続けた。
「ここを出たら、岡山孤児院に訪ねていってみんか」
洗《あら》い桶《おけ》の前にしゃがんだまま、ナツ江は良雄を見上げた。しゃがんでいるために丸さの強調された尻《しり》が、良雄の目を引いた。
「そこで仕事の世話や、もしかしたら字も教えてもらえるかもしれん」
唐突に、初めて洗い場で垣間見たナツ江の薄い毛に覆われた部分をも思い出し、声が上擦った。
「院長もええ人じゃし、しっかりした先生もおる」
ナツ江もまた、あの時と同じ笑い方をした。ちょっとだけ手を休める。
「岡山孤児院かぁ」
「わしは、そこで育ったんじゃ」
「ふうん。看守さんも苦労しとんじゃ」
その時だけ、ナツ江は真っすぐに良雄を見上げた。たちまち良雄は上気し、力み返ってしまった。早口に、木場のことまで喋《しやべ》ってしまう。ナツ江は真摯《しんし》に聞いてくれた。
「いや、わしは神様と先生の導きで、正しい道に戻れた」
そこでナツ江の表情が陰ったのを、良雄は陽射しが陰ったためと見た。豊崎看守長ならば、ナツ江のその陰りが狡猾《こうかつ》な内面からのものであることを見抜けたはずだ。ある意味、良雄は花園で育ってきたのだということを、他の者は気付いているのに本人だけがわかっていないのだった。
「うちは無情な親戚《しんせき》の間を厄介者でずうっと回されとったけん、いっそそういう所に入れられとった方が仕合せじゃったろうにな」
このナツ江の嘆きも、多分に芝居がかったものであることも、無論良雄にはわかりはしない。黄昏《たそがれ》に早く気付くのは、黄昏をちゃんと見据えてこられた者だけだ。良雄には今自分を取り巻く黄昏は、まだまだ明るいものと映っていた。
「そうじゃな。あそこは、ええとこじゃ」
赤い着物はもうそろそろ寒い季節になっている。肌はきれいなのに、ナツ江の手足は荒れていた。良雄はそこを撫《な》でたいという衝動と戦った。
「ほんまは、お前は善良な女なんじゃ」
戦った結果が、その振り絞った声だ。
「それに、賢いんじゃ。読み書きができて、神様のことを考えられるようになりゃあ、きっと道は拓《ひら》ける」
ナツ江は唐突に、洗い桶の前から立ち上がった。立ち上がるなり、不思議な微笑を浮かべた。それから良雄にしがみついてきたのだ。すべてが夢の中か水の中のように、ゆっくりとした動作だった。
「おっ、おい」
「……黙ってえな、看守さん」
男女がこんなことをする、とは知識ではあったが、実際にされてみるとただもう良雄は戸惑うばかりであった。何よりナツ江はいい匂いがした。垢染《あかじ》みた着物に、汚れた手足。いい匂いなどするはずがないのに、確かにしたのだ。
良雄はその匂いの在処《ありか》は、あの毛に覆われた場所かと想像する。しかしそこではなく、ナツ江の肩と背に手を回した。きっと身を預けてくるものと、良雄は陶然とした。それを破ったのは、腕の中にいるナツ江自身であった。
「誰かっ」
その凄《すさ》まじい悲鳴が、ナツ江の喉《のど》からほとばしっていることに、良雄はすぐには気付かなかった。だが、ナツ江はさらに悲鳴を振り絞る。
「誰か来てーっ、助けてええっ」
良雄は呆然《ぼうぜん》としていた。先程と同じだ。すべてが夢の中か水の中のように、ゆっくりとした動きの中にあったのだ。ナツ江だけが現実に動いている、そんなふうだった。
「何をしとるんじゃいっ」
やがて、男の看守達が飛んできた。彼らは良雄が棒立ちなので殴りかかったり取り押さえたりはしなかったが、ナツ江に色目を使っていた清水がいきり立っていた。清水は良雄を突き飛ばし、怒鳴った。
「女囚に不埒《ふらち》な真似をするとは、やっぱりおめえは育ちが悪いんじゃ」
辛うじて踏《ふ》み止《とど》まり、良雄は清水の背後に回り込んで隠れたナツ江に青ざめた顔を向けた。ナツ江は清水にすがりつかんばかりだ。しかし良雄は、清水の罵倒《ばとう》に打ちのめされていた。
ナツ江の仕打ちよりも、この罵倒は大きかったかもしれない。孤児院出身というのは知れていたが、面とむかって罵《ののし》られたのはこれが初めてだった。ナツ江の仕打ちは、まだ実感として身に迫ってはこなかったというのもあるのだが。
「この人がいきなり、裾《すそ》をまくって手を入れてきたんじゃ」
ナツ江はきんきんと響く声で、がなり立てた。ますます清水はいきり立つ。辺りは騒然となった。牢《ろう》の中からも嬌声《きようせい》とも罵声ともつかない声があがる。遅れて駆け付けてきた豊崎看守長だけが、
「静かにせんかっ」
と一喝した後、ナツ江の頬を張り飛ばした。
「大方、お前が仕組んだんじゃろうがっ」
ナツ江は例の不敵な薄ら笑いを浮かべて、看守長を見返した。その前で良雄は、そうだとは頷けなかった。ただもう青ざめているだけだった。なぜナツ江がそんな振る舞いに及んだか、なぜ自分が陥れられなければならぬのか、まるでわからなかったのだ。神様の試練かともちらっと思ったが、すぐに打ち消した。
あまりにも、馬鹿馬鹿しすぎるからだ。あまりにも、情けなさすぎるからだ。神様は自分には、もう少し悲壮な試練を与えてくれるものではないだろうか。
「関谷くんよ。あんた、申し開きできるよな」
「……はい」
女看守長は竹の棒を振り上げて、静かにせい、と絶叫した。辺りはまた静まり返った。ナツ江は清水の背中に顔を伏せたまま、小刻みに肩を震わせていた。おそらく泣いていたのではなかろう。笑っていたのだ。良雄と、良雄の神様を――。
それでも良雄のやったこと、は内々で処理された。豊崎看守長が強硬に庇《かば》い立《だ》てしてくれたこともあるが、普段の良雄の大人しさと真面目さも考慮されたのだ。また、ナツ江が札付きだったこともある。
その後、ナツ江とすれ違ってもひたすらに良雄は顔を背けた。ナツ江は何事もなかったかのように過ごしていた。時折、ひそひそ声は漏れてくることもあったが、なんとか知らない顔をできた。
そうして今回はこそ泥に近い罪であったため、半年経たないうちにナツ江は出獄することになったのだ。
「ほんなら先生方よ、えろう世話になりました」
「ああ、もう帰ってきんさるなよ」
赤い着物を脱いで、粗末ではあるが華やかな縞柄《しまがら》の袷《あわせ》に着替えて出ていくナツ江は、小憎らしいがやはり別嬪《べつぴん》であった。髪も新蝶に結い直し、繻珍《しゆちん》模様の丸帯を締めていた。あの薄い毛に覆われた場所は、きっちりと新品の腰巻きに包まれていた。
「なんで、あんなことをしたんじゃ」
門を出ていくナツ江はきっぱりとその怜悧《れいり》な顔をあげ、ただの一度も良雄の方を振り向かなかった。その冷淡にして清冽《せいれつ》な後ろ姿に、良雄は詰問してみたかった。哀願もしてみたかった。しかし、堪《こら》えた。
いろよき返事、がもらえることはありえないと、先にわかっていたからだ――。
師走《しわす》が近付いてきた。良雄は久しぶりに休みをもらい、買物や新年の準備のために岡山市に出た。商店街の中は歩いているだけで心も浮き立ってくる。何か玩具《おもちや》を買って、孤児院に持っていってやろう。
「しかし賑《にぎ》やかじゃのう」
明治の二十九年に始まったというから、良雄はまだほんの子供であったが、日用雑貨から玩具類、あらゆる品を揃えた勧商場は憧《あこが》れの場所であった。仮装姿の売り子まで揃え、賑やかなことこの上ない。
勧商場とは、西洋の言葉ではデパァト、マァケットだという。広い売場を区切って、その一区画を一つの商店に貸し付けるのだ。大きな看板、旗、のぼり、近隣には最新の自転車店もあり、ハイカラな舶来品の店も並ぶ。忙《せわ》しないが良い景色だ。そんな中、一際華やぐ備前焼の店の前で、良雄はふと足を止めた。
「ナツ江……」
通りの向こうから歩いてくる、姿のいい女。こざっぱりとしたなりで歩いてきたのは、あのナツ江だったのだ。買物の途中だろう、風呂敷《ふろしき》包みを抱えている。ナツ江は良雄に気付いてさすがにばつの悪い顔はしたものの、
「あっれー、もしかして関谷さんかな」
「やっぱり、ナツ江か」
看守さん、ではなくちゃんと名前を呼んでくれた。懐かしい、あの不敵な笑みを浮かべて近付いてきたのだ。
「こんな所で会えるとはなぁ、びっくりしたわぁ」
どぎまぎしてしまうのは、良雄の方だ。
「何を、しとるんじゃ」
「買物じゃ」
「いや、仕事じゃ」
「堅気の仕事じゃで。ここからそんな遠ゆうない商店で、住み込みの女中をしとるんじゃ。旦那《だんな》様に可愛がられとるけん、こうしてぶらぶら勧商場をひやかしに来たりできるんじゃがな」
良雄は親しげにされながらも、やはり顔は強《こわ》ばる。いまなら聞けるのではないか。何故に自分を陥れようとしたか。
「お前は、わしが嫌いか」
立ち尽くしたまま、ついに言った。
「そうじゃ」
なんでもないことのように、ナツ江は言い放った。雑踏の中、ナツ江はどの女よりもきれいだった。どの声よりもよく通る声をしていた。
「あんたは、ええ人じゃありゃせんよ。いっつも、自分より弱い者を探しとろうが。孤児院に来た木場とかいうのも、あんたは自分より学があって嫌になったんじゃ」
考えてみれば、ナツ江がこれほどむきになるのは初めてではないか。ナツ江自身も、自分の高まりが止められぬ様子であった。
「孤児院で王様になれんようになる。それがわかったけん、あんたは出てきたんじゃ。色々な言い訳は後から取ってつけたもんじゃ」
それにしても中庭の洗濯場ではあんなにうんうんと聞いてくれていたのに、そんな気持ちで自分を見ていたとは。寒風の中でも、良雄はかっと熱くなった。ナツ江の容赦ない、それでいて的確な言葉もまた熱かった。
「大方、孤児どもも、自分より可哀相じゃけん可愛がったんじゃろ」
真っ赤になっているナツ江は、地団駄を踏まんばかりだ。もしかしたらナツ江は良雄を通して、神様に駄々をこねているのかもしれなかった。
「監獄に来たんもそれじゃあ。自分より惨めな者を哀れみたいんじゃろ。うちはな、伊達《だて》に苦労はしとらん。そういうんは、見抜けるんよ」
洗濯場で悲鳴をあげられた時よりも、良雄はもっと衝撃を受けていた。神様神様、懸命に唱えて耐えた。束の間、目を閉じる。開けた時にはもう、ナツ江はいなかった。雑踏に紛れたか、どこかの店に入ってしまったか。
この雑踏の中で一番|矮小《わいしよう》なのは自分かと、しばらく動けなかった。ふと、ナツ江の匂いが纏《まつ》わった。余所《よそ》の女の匂いではない。ナツ江の、懐かしい匂いだった。
晦日《みそか》と新年も休みは取れなかったが、しばらく置いてから貰《もら》えた。孤児院に玩具を持って行くと、子供らは歓迎してくれた。院長も木場も変わりなかった。ここに戻りたい、と良雄は目頭を熱くした。
「わしは、傲慢《ごうまん》なんか」
なぜか院長ではなく、木場に打ち明けた。勿論《もちろん》、ナツ江とのことは話さず、ただ女囚の一人に言われた、とだけ告げた。
「神様も、そうじゃろう」
職員室で、木場は茶を入れてくれた。すべてが丸っこい木場は、深刻な顔をしても哀しげな表情を作っても、どこか笑っているようだ。嘲《あざけ》りのそれではなく、温かなものではあった。
「弱い者、貧しい者の味方をしてくださるんじゃけん。神様も人を哀れむのが好きなんじゃ。それで、ええじゃろ」
院長は敬虔《けいけん》なキリスト教徒であったが、木場はそれほどでもないようだ。信仰の強制はしないというのもあるが、もしかしたら木場も頑《かたく》なな何かを抱いて生きているのかもしれない。
「大方その女囚は、関谷さんを好いとったと思うで。ただ好きという気持ちと折り合いがつけれんのじゃろ。わしがまだまだ、神様と折り合いがつけれんように」
子供らの歌う賛美歌が、風に乗って届いた。親の愛に恵まれなくとも、神様の愛に確かに恵まれているあの子ら。ここに帰りたい気持ちは、しかしその澄んだ歌声によって止められた。
自分は監獄に戻ろう。哀れむのではなく、引き替えて自分を慰めるのでもなく、ただ自分も囚人達と同じ弱いものであると知り、神様に愛されるために。
猥雑《わいざつ》で乱暴で、悲哀と荒廃に満ちてはいたけれど、岡山監獄にもまた春が訪れた。洗い場には次々と新入りの女も送られてくる。豊崎看守長の怒声だけは季節を問わない。不意に一際大きな声が轟《とどろ》いた。
「夏川セキだと。この期に及んで偽名なんぞ使《つこ》うても無駄じゃ。お前は再犯の吉森ナツ江じゃ。うちの目は誤魔化されんで」
はっと顔をあげると、その女と目があった。紛れもない、あのナツ江であった。堅気になっていたのではなかったか。さては勤め先の品物でもくすねたか。と一歩踏み出しかけて、またしても良雄ははっとした。
ナツ江の腹は、誰の目にも大きく膨らんでいたのだ。脱がしてみれば、紛れもない妊《はら》み女《おんな》の体があった。可憐《かれん》だった乳首は黒ずみ、あの妖《あや》しい陰部は膨らみ切った腹に隠れてしまって何も見えない。
「住み込み先の旦那の種を宿して、そのいざこざで女将《おかみ》さんを刺したんだとよ」
清水が憎々しげに耳打ちした。あんなに贔屓《ひいき》していたのに、妊んだら憎くなるのか。
「当分出られんから、ここで産むんじゃろ。因果な女子《おなご》じゃのう。自分も監獄で生まれとるのに」
赤い着物に着替えながら、やややつれてはいるが美しい顔で、良雄を睨《にら》み付けた。肌に脂がのった感じで、腹は膨らんでいても一層きれいになっている。良雄は気弱に顔を伏せた。あげた時にはもう、ナツ江は牢《ろう》に連れていかれていた。
「あんた、性懲りもなくまた帰ったんだね」
中からそんな声がしたが、ナツ江がどんな顔でどう答えたかまでは、廊下にいた良雄にはわからなかった。
その後、ナツ江はだんだんと青ざめていった。げっそりとやつれてしまい、人相まで変わってしまった。時折、良雄を凝視していることもあったが、気付かぬふりをした。また意地の悪いことを言われるというのも恐れたが、単純にやつれたナツ江が怖かった。
臨月を待たず、病監に送り込まれたのは、桜の開花する頃だった。
「これが生まれたら、あんたの育った孤児院に引き取ってもらえんじゃろうか」
豊崎看守長に、あんたに是非会いたいと言っている、と聞かされて訪ねて行けば、布団にふせったナツ江は良雄に背を向けたまま、囁《ささや》き声で言った。
「あんたの子じゃと思うて、産むけん」
傍らの老いた医者は言った。九分九厘、母子ともに助からないであろう、と。良雄はナツ江の手を握って目を閉じた。孤児院の歓声が聞こえてきた。そこには確かに、ナツ江の子供の声もあったのだ。それこそが、神様からの「いろよき返事」であった――。
角川ホラー文庫『合意情死』平成17年9月10日初版発行