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ぼっけえ、きょうてえ
岩井志麻子
目 次
ぼっけえ、きょうてえ
密告函《みつこくばこ》
あまぞわい
依って件《くだん》の如し
[#改ページ]
ぼっけえ、きょうてえ
[#この行4字下げ]「ぼっけえ、きょうてえ」とは、岡山地方の方言で、「とても、怖い」の意。
――きょうてえ夢を見る?
……夢ゆうて、何じゃったかのぅ。ああ、寝ようる時に見る、あれ。あれか。
なんと旦那《だんな》さん、子供みてぇじゃな。いやいや、笑いやしません。夢いうもんは、きょうてえものと決まっとりましょう。
妾《わたし》? 妾は……起きとる時に見るものだけで、充分きょうてえ思いをしてきましたけん、寝たら何も見ん。
妾の夢は真っ黒け。ただ暗いだけですわ。自分すら出て来《こ》ん。
安心して、寝てつかあさい。ほれ、ええ風も入りましょう。蚊帳《かや》やこ無《の》うても、こうしてずっと団扇《うちわ》で扇《あお》いじゃるけん、蚊は来ん。
妾が起きとる限りは物《もの》の怪《け》も来んけぇな、ほら目ぇ閉じて。
妾はお客様に寝顔やこ、見せりゃあせん。女郎が客に寝顔見せるのは一番の恥じゃけ。
女郎は決して仰向けに寝るもんじゃない、言いますじゃろ。右を下にして横に寝にゃいけん、と。たまには大の字に寝てえいう妓《こ》も多いけど、妾はええ按配《あんばい》じゃ。
赤子の頃《ころ》からずっと、右を下にして寝とったけんな。
じゃから、そねぇな顔になったんかて? ふふふ、いやらしいなぁもう。
確かに妾は目や鼻が、左のこめかみに向けて吊《つ》り上がっとるよな。醜女《しこめ》とからかうお客だけじゃのうて、怯《おび》えるお客も結構おりますわ。
目に見えん手が、こうして妾を左側から吊り上げとるみてえじゃとな。この顔がきょうてえんじゃのうて、その手がきょうてえらしいな。
見えんものの方がきょうてえ、か。いいや、見えるものも充分きょうてえよ。
実はこれは……いや、やめとこう。それ教えたら旦那さんほんまに寝られんようになる。脅かすわけじゃあないけど、この先ずっとな。
*
さぁて、売れる妓は一に顔で二に床で三に手、と昔から言いますけどな、妾はどれもいけん。ほれこの通り、オカメじゃし愛想もない。
鏡が無うても己れがよう見え過ぎるというのもあるわな。己れだけじゃない。目には見えんはずの物も、良う見えるんじゃ。
年はそんないっとらんよ。嘘《うそ》じゃないて。生まれた年にゃ、まだあそこは岡山県じゃのうて北条県いうとったんて。明治九年に合併? さすがに博識じゃあな、旦那さんは。尋常師範学校を出とるて? 偉いわぁ。妾ら学校と名のつくところは一つも行っとらん。
別に構わんがん。食うこととオカイチョウすることは、犬にも牛にも無学の女郎にも、誰に教えてもらわんでも充分にできるけんなぁ。ふふふ。
しゃあけど妾じゃて、お客に決して寝顔を見せんことで行儀がええと誉《ほ》められるよ。女郎の行儀が良うて何の得があるかと思うけどな。
じゃから旦那さんは、安心して寝たらええんじゃ。きょうてえ夢を見さす何かが来たら追っ払《ぱろ》うちゃるけん。妾は物《もの》の怪《け》には強いんよ。
それにしても旦那さん、来たのがちょっと遅かったわ。張り見世《みせ》は十二時で仕舞いじゃけん。日暮れ時に来りゃあ格子越しとはいえ、若《わこ》うて締まった妓がなんぼでも見られて選べたのになぁ。ずうっと売れ残っとる妾しかおらんかったとはお気の毒。
しかも皆は格子から必死に手ぇ出して客に愛想を振り撒《ま》くのに、妾ときたら隅っこに屈《かが》まっとったじゃろ。
なんぼお内儀《かみ》さんらに怒られても叩《たた》かれても、妾《わたし》は格子から手を出せん。気取っとるんでも、商売に投げ遣《や》りなんでもない。……きょうてえんじゃ。
嫌ぁなもんが、妾の手をつかみに来るんよ。死んだおっ父やら、殺された朋輩《ほうばい》やら。生きた男は滅多に、妾の手を取ってはくれん。
左側からは、妙な何かが妾の顔をつかんで吊《つ》り上げとるしな。
妾のそういう妙なところが気に入ったて? 旦那《だんな》さんはちょびっと変わり者なんかのぉ。
しゃあけどな、旦那さん。妾は誰かに優しゅうされたことがないけん、優しゅうされるのは辛いんよ。どうかもう、妾を好きとか気に入ったとか口にせんといてつかあさい。妾はどこまでも足蹴《あしげ》にされるべき女じゃけん。
……何か寝つくまで話をせえ、と頼みんさるか。それはよろしいけど、何を話したらええんかな。ここの抱え主の旦那様やお内儀さんの悪口はもとより、朋輩の噂話《うわさばなし》や他のお客さんの噂話もしちゃあいけんことになっとる。そんなら話す事やこ、無い。
妾は十六でここに売られてきてから、数えるほどしか外にも出とらん。外いうたら、格子越しに見上げる夜と、こうして二階の窓から見下ろす夜だけじゃ。
……妾の身の上を聞きたいじゃて? ますますもって、変わったお方じゃなぁ。しゃあけどますますええ夢は見られんなるよ。
妾の身の上やこ聞いたら、きょうてえきょうてえ夢を見りゃあせんじゃろか。
それでもええて? そんなら話そうか。まず妾が生まれたんは、津山《つやま》の近くじゃ。六里ばかり離れとる村の名前は……言うても知らんじゃろ。
通り名は強訴谷《ごうそだに》に日照り村じゃ。皆は百姓じゃが、普通作の年は滅多にない。いっつも凶作でな。日雇《ひよ》うでなんとか生きとる様《ざま》じゃ。女子《おなご》はほとんど他国へ奉公に出る。女郎屋に売られるのもぎょうさんおる。妾のように近い所じゃのうて、九州とか大阪とかな。
なんか岡山いうのは南の方ばっかし、ええ目におうとるんよな。地味も肥えて町も拓《ひら》けて人の行き来も賑《にぎ》やかで、分限者《ぶげんしや》も多い。それに……冬も温《ぬく》いんじゃろ。しゃあけど備前《びぜん》の方の者は好かんな、小賢《こざか》しゅうて。はぁ旦那さんは備前の出か。そりゃすまんこっちゃ、こらえてつかあさい。
……そんでまぁ、北も北、中国山脈どん詰まりのうちらの村いうたら、分限者やこ一人もおらん。貧乏人ばっかしでな、まだ十六、七で顔も手も小皺《こじわ》まみれの真っ黒じゃ。四十まで生きられたら長生きじゃで。
そん中でも一番の貧乏が、うちじゃ。威張れたもんじゃねぇけど、牛以下じゃ。
妾は餓死《がし》ん子なんよ。そうそう、飢饉《ききん》じゃ。飢饉の年に生まれたから餓死ん子じゃ。
あの辺りは、普通作の方が少ねぇ言うたじゃろ。餓死んは一年おきじゃったで。
妾は生きた人間との思い出より、死んだ人間との思い出の方が遥《はる》かに多いわ。
言うまでもないけど、ええ思い出じゃないで。ろくでもない者は、死んでもろくでもないものになるけん。
うちのおっ母はな、産婆じゃったんよ。それも間引《まび》き専業。
生きた赤ん坊は取り上げたことがないんじゃ。そりゃ産婆とは呼ばんな。
村の者にゃあ、子潰《こつぶ》し婆とか子刺し婆と呼ばれとった。ガキどもは、もっとはっきり鬼婆と呼んどった。妾は鬼の子、じゃな。
うちらは村八分じゃったけど、その時だきゃあ呼ばれて行くんよ。
その時いうたら、間引く時に決まっとりましょう。腹から引きずり出すのと、産ませたのを縊《くび》る時とあったな。村の者に会うのは、そん時だけじゃ。
妾は四つの頃《ころ》から、その手伝いをしとった。
小《こ》まい頃は野菊や鬼灯《ほおずき》摘みに行ったり、麦藁《むぎわら》を縒《よ》ったりじゃけど、大きなったら……妊《はら》み女の手足を押さえる役目じゃったわ。首切りの介錯人《かいしやくにん》みてぇなもんか。
女どもは、犬みてぇにすぐ妊む己れを憎まずに、赤子を引きずり出して縊るうちのおっ母を恨まずに、この妾に怨念《おんねん》を送ってくる。……かなわんなぁ。
知らんのかな? 野菊や鬼灯の根っ子は、この穴じゃ。さっき旦那さんも使《つこ》うたじゃろ、ほほほ、この穴に差し込むんじゃ。先っぽを赤子に突き刺して落とすんじゃ。
顔や手足は真っ黒けに焼けて汚れとるのに、なんであの女らは太股《ふともも》だけ真っ白じゃったんかな。痩《や》せた女でも、太股はたぷたぷするほど豊かに脂が乗っとる。
引きずり出される赤子は、まず白い股を見るんじゃな。次は血の赤。最期に黒。
この穴は地獄に通じとると、妾は小まい頃から知っとった。
そねぇな穴を、なんで塞《ふさ》いでしまわんのかとも思うとったが、まさか自分がこの穴で商いするとはわからなんだ。とりあえずは塞がんでよかったな。ほほほ。
男は女や女の穴が好きなんじゃのうて、通じとる地獄が好きなんじゃろう。生まれる前におった地獄にな。
そんな訳でまぁ、物心ついた頃から、人殺しの手伝いじゃ。
嬉《うれ》しいことも辛いこともありゃあせん。妾はそういうふうに生まれついたんじゃから。
こねぇに顔を歪《ゆが》められたんは赤子殺しのせいじゃろうと、したり顔で言うのもおった。
恐れりゃあせんよ。赤子……水子《みずこ》とは親しい仲じゃったけん。
餓死んの時は商売繁盛じゃ。野菊はあらかた無うなった。痩せた草叢《くさむら》に痩せた蜻蛉《とんぼ》と痩せた鳥が飛び回っとる野を、今もくっきり覚えとる。
そこに屈《かが》まっとる自分も、骸骨《がいこつ》と変わらん痩せ方じゃ。その近くの谷では、餓《う》えた村の者が蕨《わらび》を掘っとった。それほど痩せこけて餓えとるのに、水子だきゃあ増える。あねぇに腹減っても、人はオカイチョウを止めれんのじゃ。
それにしても、そねぇに何もかも枯れて痩せた景色の中で、どうして空だけあんな瑞々《みずみず》しゅうて青かったんか。見えんはずの星まで透けるほど青かった。
そいでも妾《わたし》の小《こ》まい頃の思い出いうんは、間引きしか無いんよ。それしか無い。
赤子を引きずり出す前に、まず糞《くそ》を出させる。血と糞の匂《にお》いが家中にしみついて、夏はかなわんかったで。まぁ、屎糞《しふん》地獄に堕《お》ちる準備と思やええんか。
糞をひったタライの中に、死んだ子も投げ入れる。そりゃもう、無慈悲にポイじゃ。死んだ赤子なんぞ、糞や血の塊と同じじゃけん。
お寺で見してもろうた、地獄草紙におんなじ絵があったな。下手糞《へたくそ》な絵じゃったけど、それが余計にきょうてかった。
坊さんは、この絵の血は本物言うたわ。そりゃ嘘《うそ》じゃろ。あねぇにいつまでも艶々《つやつや》と赤い血があるもんかい。血は黒うて臭いもんじゃ。
しゃあけど、あの水子は何も悪いことしてねぇのに何で屎糞地獄に堕ちるんじゃろ。教えでは、地獄へも極楽へも行けずに賽《さい》の川原《かわら》で泣いとるいうけどな。
不浄な物を浄と思い浄《きよ》いものを不浄と思うた者が堕ちる地獄じゃと、そこの坊さんは教えてくれた。妾の体に悪さをしながらな。あの坊主の堕ちる地獄はどこじゃろか。
自分を糞と同じように捨てる親を慕《しと》うたりしたから、水子は浮かばれんのかなぁ。
親とは現世で会えんでも、その屎糞地獄の中で会えるじゃろう。しゃあけど、親はまたそこでもわが子を見捨てるんじゃろうな。子供はそれでも親を慕うのにな。
……なんで妾が間引かれんかったかて?
あははは、旦那《だんな》さんはお家もきっと分限者《ぶげんしや》じゃろうし、何より男じゃ。そりゃ望まれて産まれたんじゃろ。優しい産婆にきれいなお座敷で取り上げてもろうたんじゃろ。
妾は違うで。おっ母は四十過ぎとったし、家には鼠《ねずみ》が引いてく大根の髭《ひげ》もありゃせん。
何より妾は女じゃ。
おまけにもう一人も女。そう、双子《ふたご》じゃったんよ。間引く条件は揃《そろ》いすぎとるよな。ついでに言うたら、妾の姉ちゃんになる片割れは、ちょっと姿も普通でなかった。
……姿? それは勘弁してぇな。一応は姉ちゃんなんじゃけん。哀れじゃわ。
そいでもな、妾は菊の根っこで引きずり出されたんじゃのうて、ちゃんと産んでもろうたんよ。先にも言うたけど、その年は餓死んでな。どこの女も間引いたもんじゃから大忙しで、おっ母は産み月まで己れの腹に気づかなんだんじゃわ。
おっ母は自分一人でひり出して、後産《あとざん》の始末もして、赤子の始末も……しようとした。
とりあえず濡《ぬ》れ紙で鼻と口押さえて、家の前の川に放り捨てたんよ。その川は、水子を捨てて流す川なんじゃ。夏の夜は蛙《かえる》が泣くけど、そこは年中水子の泣き声がするんじゃ。
それにしてもつくづく妾は丈夫なんじゃな。二日経っても生きとったんて。
その川での二日間を覚えとる……言うたら、嘘つけと怒りんさるじゃろ。そいでも本当なんよ。まだ目が開かんかったけん、ずうっと薄闇《うすやみ》の中におった。川の水はぬめぬめして、女の匂いがした。妾は溺《おぼ》れずに、烏《からす》にも食われずに、草叢《くさむら》に打ち寄せられとったんじゃ。
その薄闇の向こうに、いろんな者が来る。撫《な》でてくれたのは、近くの山に祀《まつ》られた荒神《こうじん》様か。烏を追い払《はろ》うてくれたんは、最期に一声泣いたどこかの赤子じゃったんか。口元に流れてきた、半分腐ったどこかの水子の手足をしゃぶって、妾は生き永らえた。
産んだ二日目にもう仕事をしよったおっ母は、縊《くび》った水子を投げ捨てに川に出て、妾がまだ息をしとるのを見つけたんじゃ。
それで仕方のう、というか、さすがに情が湧《わ》いたんかな。
……いんにゃ、きょうてかったんじゃろうな、この妾が。姉ちゃんが。
その姉ちゃんか? 姉ちゃんは……いけんかった。もう、姉ちゃんの話はやめようや。
先にも言うたけど、間引きが間に合わんで産んでしまう女は多いんよ。
今でもよう覚えとるんはな、手のひらに載るほど小んまいのに、目ぇ開けた子がおったことじゃ。口も開けたけど、さすがに泣くこたぁできんかったな。まだ瞼《まぶた》がちゃんと出来とらんのに、目ぇむいて……にらんだんよ。
妾やおっ母じゃあない。産んだ母親をじゃ。恋しかった、いうような目じゃなかった。すぐにうちのおっ母が足で踏み潰《つぶ》して、筵《むしろ》に包んだけどな。
その女か? それで悔い改めて水子の供養をした……とか思いんさったか? 旦那さんはやっぱり、育ちがよろしすぎるわ。
赤子を産み捨てて、泣いた女やこ見たことがねえ。血ぃが止まったら、すぐにまたオカイチョウし狂ぃよったで。それでまた、のこのことうちのおっ母の所に来る。
仕方ないわ。百姓の楽しみいうたら、食うこととオカイチョウすることだけじゃけぇ。
妾は食うことには不自由しっぱなしじゃが、オカイチョウには困ったことがねえ。ほほほ。有り難い祟《たた》りとでも言うべきかな、妾は特に予防をせんでも、妊《はら》まんのよ。この女郎屋にも畜生腹いうんか、犬みてぇにすぐ妊む女が居るけど、妾はいっぺんも無い。
多分な、妾自身がまだ……水子のまんまじゃからよ。あっはは。
それにしても……あの水子らは、死ぬ前に何かこの世を見るんじゃろか。まぁ見えたとしても、この世とは思わんかったろうな。
地獄に戻ったと思うたろうな。子潰し婆とその子と産みの母と、鬼が三匹おったけん。
ふふふ、ええ夢見さしたげる言うて、悪い夢を見させるように仕向けとるなぁ。もう懲り懲りか? 次は別嬪《べつぴん》で優しい床上手を買いんさい。
えっ……なんでうちらが村八分にされたかが気になるて? 旦那《だんな》さん、結構きょうてえ話が好きなんじゃろう。悪い夢を見たがっとんじゃろ。
まぁええわ。いろいろあるけど、まずうちらが余所者《よそもの》いうことじゃな。あの村の者いうたら、中国山脈の向こうには三つ目の子供やら角が生えた男やら、あそこが横に裂けた女が居《お》ると信じとるようなのばっかしじゃけんな。余所者いうだけできょうてえんじゃ。
出は四国じゃ言うとった。おっ父もおっ母もな。四国の村に居られんようになって、岡山まで逃げてきたんじゃわ。巡礼のふりして乞食をしてな、津山まで流れ着いた。
何したかて? それはまぁ、ええがん。妾《わたし》じゃて、喋《しやべ》りとうないこともあるんよ。
……旦那さん、さっきからこの部屋が粗末と怒りんさるけどな、妾から見たら岡山城と変わらんのんよ。妾らが住んどった家いうたら、元は牛小屋じゃったけん。
妾はここへ売られてきて初めて、畳を見たで。天井いうものを見たで。女郎は牛馬と同じじゃいうけど、なんのなんの、立派に人間様じゃ。妾は売られて初めて人間の生活ができたわけじゃ。布団《ふとん》が無いけん、妾は地べたに丸まって寝とったんじゃ。じゃから、こうして夜業《やぎよう》も平気なんよ。仰向けに寝たら、なんかすうすう風が脇《わき》を吹いて寒い。
あの辺り、夏にゃあ必ず北大風が来た。竜巻みてぇな風に、屋根は何べん飛ばされたか。
うちらの住んどるとこは、裏手が山で目の前が川原《かわら》じゃった。冥途《めいど》と娑婆《しやば》の境は、何もあの世だけじゃないんよ。山には餓死者が転がっとるし、川原は捨てた水子だらけじゃ。
その川原の前は、村の人らの田圃《たんぼ》じゃった。痩《や》せこけた石だらけの貧しい田圃。そいでも羨《うらや》ましいな。うちは田圃は持っとらん。持っとったらこねぇな所に売られて来んで。
おっ父は日雇《ひよ》うの小作人じゃった。なんぼ百姓に学問は要《い》らんいうても、おっ父は困り者じゃったで。なんせ数は五つまでしか勘定できんのじゃけ。
仕事も嫌いでな、行ったり行かなんだり。たまに金入ったら、皆飲んでしまう。
それに気候が悪いけん、いっつも凶作じゃろ。妾ら、おっ母が余所の子供を殺す金でどうにかこうにか生きとった。もう、息をしとるというだけじゃ。
それのに、妾は北大風が村の者の田畑を荒らすの見て嬉《うれ》しがっとった。虐《いじ》められとったからじゃねえ。きれいなからじゃ。
黄色い稲穂を真っ黒な風がなぶってな、まるで山から大きな鬼が降りてきて、足跡をつけていくように見えたんじゃ。その足跡はいっつも、うちの中で消える。
その鬼は妾にしか見えんのよ。……ええ男じゃったわ。旦那さんには負けるけど、ふふ。
しゃあけど、家の中も外も夏場は臭《くそ》うてかなわなんだ。川原にはいつでも水子の死骸《しがい》が浮いたり沈んだり腐ったり。すぐに小《こ》んまい骨になるけどな。
不思議なことに、真っ黒けに腐ってぱんぱんに膨らんだような死骸のに、生きとるやつがおった。気のせいじゃねえわ。喋りよったけん、その水子。
何を話したかて? それも……言いとうはないな。あんまり、ええ話じゃなかったけん。
旦那さん、ナメラスジてわかるかな? 魔物が通る道筋じゃ。もとは尊い神様の使者の道筋じゃったのに、信心が廃《すた》れた途端きょうてえ場所に成り果てるんよ。
村人はうちらのことだけじゃ無《の》うて、あの土地の話をする時も声をひそめる。
うちらは、ナメラスジの真上に住んどったんよ。ようもまぁ、忌まれる条件をここまで揃《そろ》えたもんじゃが、妾らは平気じゃったよ。これ以上何も悪うなることが無いけんな。
……親は妾を奉公に出したがったけど、お陰さんでどこも雇うてくれなんだ。妾の友達いうたら、沢で腐っとる水子の死骸だけじゃ。それで妾はおままごとをしとった。
生きた近所のガキは憎たらしいけど、死んどるのは可愛《かわい》いもんじゃ。目や口がまだ出来上がっとらん分、素直でおとなしい。
ただ、気に入った水子に名前つけて可愛がっても、すぐ朽ちて骨になるんよな。なぜかいつまでも朽ちん不思議な子もおったな。その子は産み月に三か月ばかり足りん子でな、なんでか歯が生えとった。惜しいことに狐《きつね》に食われてしもうたんよ。歯だけ残っとった。しばらくして、人の言葉を話す狐が出ると噂《うわさ》になったな。妾は遇《お》うたことはないけど。
ちぃと色っぽい話をせえ、て? あはは、初めてのアレか。オカイチョウか。
相手はおっ父じゃ。ほんまじゃ。
おっ父は数が五つまでしか数えられんくせに、言い訳だきゃあ立派にしたで。おっ母と間違えたとな。なんぼ数がわからんでも、五十の婆と十にならん娘を間違えるかな。
加減がわからん人じゃけん、妾をどつく時も蹴《け》る時もあそこを突いてくる時も、自分のしてえようにする。おっ母はその頃には片目が見えんなっとって、妾がおっ父にやられとる時はその見えん方の目をこっちに向けるんじゃ。そうじゃ、おっ母の目を潰《つぶ》したんもおっ父じゃ。言わんでもわかったじゃろ。
……なんぞ楽しいことはなかったんかて?
旦那さんは先に、辛い時は何か楽しいことを考えると言いんさったな。
妾は違う。辛いことは辛いことで紛らわすしかないんじゃ。
辛いこというたら、おっ父とやるオカイチョウとひもじいことじゃ。
ひもじゅうてならん時は、おっ父とのことを考えるんよ。そいでおっ父に乗られとる時はひもじさを強う考えるんよ。ああ、あっちの方がもっと辛い、てな。
おっ父? 死んだよ。
ここへ売られる前の年にな。病気じゃねえ。酒飲んで、家の前の川原に落ちたんじゃ。あねぇな浅いとこでも溺《おぼ》れるんは、やっぱり酔うとったんじゃな。
頭の後ろにへっこんだ傷があったけぇど、石でぶつけたいうことになった。どつかれたんじゃねんか、と要《い》らんこと言う村の者もおったけどな。あねぇな男をそこまで恨む者はおらんじゃろ。旦那《だんな》さん、憎うてかなわん虫や魚がおるか? おらんじゃろ。ははは。
それこそ虫の息いうんかな、見つけた時はわずかに息があってな、近所の拝み婆さんが竹筒持ってきたわ。中に米粒入れて耳元で振るんよ。三途《さんず》の川から戻ってこいちゅうて。
……おっ父は戻って来なんだ。それだけじゃ。道が六つあって迷うたんかな、ほほほ。
しゃあけど妾《わたし》はその時生まれて初めて、米を見たで。最初、虫かと思うたわ。腐った水子にたかる蠅《はえ》の子かと間違えた。
米を初めて見たのはおっ父が死んだ時じゃけど、米を初めて食うたんは、妾が売られた日じゃ。半分は麦じゃったけど、妾はこねぇに美味《うま》いもんがあったんかと驚いたで。口ん中が極楽になった。甘い甘い……甘いて言葉を初めて口にしたし、感じたわ。
売られてもええ、と思うたな。今? 妾はあんまり客がつかんけん、滅多に食べれん。そいでも年季があけたら、全部米の飯を食うて祝おうかな。地獄じゃないんじゃけん、食おうとしたら飯が火ぃ噴いて燃える、なんてこたぁなかろう。
おっ父の話? 旦那さんも可笑《おか》しい人じゃな。恐がりじゃなかったんかな。まぁええわ。おっ父の話を聞きたがる人は初めてじゃけん。
通夜をしたんはおっ母と妾だけじゃ。いや、おっ父がもう一人、戸口に立っとった。じいっと自分の亡骸《なきがら》を見回してから、一度も振り返らんと出ていったわ。嬉《うれ》しそうでも辛そうでもなかったな。妾のこともおっ母のことも、見もせんかった。
村八分でも普通、葬式には来てくれるもんじゃけど、墓地までついてきてくれたんは墓掘り人夫だけじゃったな。坊主を頼む金はないけん、墓掘りがうろ覚えのお経を真似《まね》て詠《よ》んでくれた。それで充分じゃ。本物のお釈迦《しやか》様が詠んでくれても成仏は無理じゃけん。
それでも一応は、巡査さんが来たで。ほれ、後ろ頭どつかれたんじゃねんか、とか要らんこというのがおるから。
妾が小《こ》まい頃は樫《かし》の棒を持っとったけど、あの時は剣じゃったな。ちょっと小せえけどなかなかの男前の巡査さんでな。ちぃとも偉そうにせんのんよ。しゃあから妾は余計に口を開けられんようになってしもうた。
前にも言うたろう、妾は人に優しゅうされたことがないけん、優しゅうされると辛《つろ》うて辛うてかなわんのじゃ。責められとるような気持ちにさえなる。じゃからやっぱり、地獄が気楽でええんよな、妾らには。人間扱いされたら困ってしまうんよ。鬼の子じゃけん。
それのになぁ……妾がじぃっと下向いとったら、あの巡査さんは頭|撫《な》でてくれた。てっきりどつかれると縮まっとったのに。それで、我慢せんでええ、と言うてくれたんよ。
こうも言うた。ワシがきょうてえか? きょうてえならきょうてえと泣いてもええ。
可笑《おか》しかろう。妾はその時まで、自分が我慢をしとるとかさせられとるとか、きょうてえ思いをしとるとかさせられとるとか、思うてもみんかったんよ。
妾は辛い思いをしとったんじゃ。
妾はきょうてえ思いをさせられとったんじゃ。
知らんかった。わからんかった。……その日妾は、生まれて初めて人の前で泣いたんよ。
……あ、気にせんといて。妾、その巡査さんのこと思うたらこうして涙が出るんよ。
哀《かな》しいからでも辛いからでもないし、嬉しいからでも懐かしいからでもない。
これは……なんじゃろな。息を吸うたら吐くように、雨が降ったら濡《ぬ》れるように、あの巡査さんのことを思うたら涙が出るんじゃ。
女郎買いが来た時、津山|遊廓《ゆうかく》だけは嫌じゃ、津山遊廓だけはこらえてつかあさい、と地べたに頭すりつけて頼んだんはな、あの巡査さんが来るかもしれんと思うたからなんよ。
あの巡査さんじゃて男じゃからなぁ。客で来て妾を買うことになるかもしれんじゃろ。
妾は最初の日から今日まで、いっぺんも好いた男とオカイチョウしたことがない。
それでええんじゃ。妾は女郎に生まれついたんじゃけえ。
……じゃけど、どうしてもどうしても、好いた男とだけはしとうないんじゃ。
ほんまはしたいんじゃけど、したらいけんのじゃ。
……あ、ああ、こらえてつかあさい。旦那さんのことは好いとります。ほんまです。
それでまぁ、こうして岡山の方の貸し座敷に来たわけですわ。
おっ父を殺した者は今でもわかっとりません。
恨む気? ないわ、そんなん。どっちかいうたら感謝しとるわ。どつかれることも蹴《け》られることもないけんな。オカイチョウも慣れさせてもろうたから、今は辛うない。
おっ父が死んでから、おっ母はもう片方の目も薄うなってしもうてな、そいで妾を売ることになったんじゃ。荷車に乗せられていく妾を、見送りだけはしてくれた。
おっ母より、その後ろの痩《や》せた稲穂が目に焼き付いとるな。立ち枯れた山には水子とも烏《からす》ともつかん泣き声がこだまして、あねぇに空は青いのに川の水は泥色で。おっ母の後ろには、死んだおっ父が立っとった。肩すぼめて、立ち枯れた木みてぇじゃった。なんでか目玉がぽっかり空洞になっとってな、何も見とらんかった。
おっ母は妾がおっ父とオカイチョウしょうったことも知っとったよ。やきもち妬《や》いて、何遍か妾を殺そうとしたで。おっ母は女じゃったんよな。
お前はあん時くたばっとったはずじゃ。姉の方が死んだんじゃのうて、ほんまはお前が死んどるんじゃ。……とかなんとか訳わからんことを喚《わめ》きょうた。
川原《かわら》に突き落とされて、藁打《わらう》ち槌《づち》で無茶苦茶にどつかれた時は、ほんまに死ぬかと覚悟したけど、赤子の時に川原で二日生きとったほどの妾じゃあからな、ふふふ。
そねぇなおっ母じゃけど、たまには昔話もしてくれた。人気の役者を家のお座敷に呼んだとか、庭には米俵が積まれとったとか、女中に教えてもろうた手毬歌《てまりうた》とか、西洋の菓子の色の鮮やかさとか……まるっきり嘘《うそ》じゃあないんよ。
なんでて、おっ父もまったくおんなじことを言うもん。機嫌のええ時はおっ父も四国におった頃の話をしてくれるんじゃけど、それ、おっ母の話とおんなじなんよ。おっ母の話す家や親の話と、おっ父の話す家や親の話がじゃ。
まるでおんなじ家と親を語っとるんよ。変じゃろ? おっ父の家と親、おっ母の家と親いうたら、大概は別々のもんじゃろ。
ああ、もう。言いとうはなかったけど言うてしまうわ。なんかおかしいなと思いだしたんは、だいぶ大きゅうなってからじゃわ。ひょいっとある日気がついたんじゃ。同じみてえじゃのうて、同じなんじゃないんか、と。
そうじゃ。その通りじゃった。おっ父の親とおっ母の親は、同じじゃ。おっ父とおっ母は実の兄妹なんよ。同じ腹から生まれとったんよ。
薄緑の影が射す東の庭の土蔵の中。薄紅の桜の模様の襖《ふすま》がある奥の座敷。紫陽花《あじさい》が二重に植えられた中庭を見下ろす縁側。……二人に聞かされたもんじゃから、すっかり妾も見てきたつもりになっとる二人の家のそこここで、兄妹まぐわいよったんじゃ。
それが知られて、親元にも地元にも居られんようになったんじゃろう。
それで津山くんだりまで流れて来たんじゃ。晴れて夫婦になったはええけど、やっぱり村の者にもなんとなしにわかったんじゃろな、普通の夫婦じゃないいうんが。
村八分にされたんは、そういう訳じゃ。村の者じゃて、ほとんど苗字《みようじ》が同じのになぁ。つまり身内で縁組しとるんじゃで。まぁ、ここまで血の濃い夫婦は他に無かろうけどな。
妾が鬼の子と呼ばれたんは、そういうことじゃ。
鬼の子じゃからかな、妾は鬼がよう見える。
腹が減ってどうしようもねえ時、餓鬼が頬《ほお》にふれる辺りまで寄ってくる。そいつらな、わざと妾にあの巡査のことを思い出させるんじゃ。そしたら涙を流すけん。
餓鬼の中に、涙しか吸えん奴《やつ》がおってな、そいつの仕業じゃ。そいつが妾の頬を舐《な》めるためじゃ。生前、何をしたんかな、そいつは。
糞《くそ》しか食えん餓鬼と、涙しか吸えん餓鬼は、どっちが業《ごう》が深いんじゃろうな。
旦那《だんな》さんは……餓鬼の居る地獄へは行かんな。妾はそういうことはわかるんよ。ナメラスジの生まれじゃけん。
じゃあ極楽かて?……妾は女郎のくせに正直でなぁ、それも売れん由の一つじゃろうけど。
旦那さん、極楽ではないな。けど安心してつかあさい。無間《むけん》地獄でもないけん。
旦那さんは、直《じき》に人間に生まれ変わりますわ。死んだらすぐにな。あの世は見る間もなかろう。分限者《ぶげんしや》か貧乏人かまではわからんけど、まぁええじゃないですか、人間なら。そいで男に生まれてこれるんなら。
妾ら、いっつも話しょうりますもん。今度は分限者に生まれてきてぇなぁ。それが無理なら、ともかく男に生まれてきてえなぁ、て。
妾はどっちも嫌じゃな。妾はもう、この世には生まれて来とうないで。ほほほ。
えっ、なんか寝られそうになってきた? そりゃえかったわ。どうぞごゆるりと……。
あれ、何をぱちっと目ぇ開けておられるん?
――小桃《こもも》?……ああ、小桃か。嫌じゃわ、他の女の話やこ。
旦那さん。小桃はもう、この貸し座敷には居りません。
年季明けじゃあない。どこぞの分限者に落籍《ひか》されたんでもない。
小桃は死んだんですらぁ。
まぁまぁすっかり目ぇ覚まさせてしもうたな。いや、そんな起き上がらんでもええが。
小桃は……自分で死んだんじゃ。
自分で死ぬような子じゃないて? そうよなぁ。あれはちいっと顔は可愛《かわい》いかしらんけぇど、ぼっけえ阿呆《あほう》じゃったけん。他の妓《こ》みなに笑い者にされとった。
妾も……ぼっけえ嫌いじゃったわ。ほんま、大嫌いじゃった。
朋輩の悪口はいけん? ましてや死んだ者のことを?
……その通りですらぁ。しゃあけど嫌いなもんは仕様がねぇじゃろ。
小桃の話を聞きたい? しゃあないなぁ。あの妓はお内儀《かみ》さんの金剛石の指輪を盗んだんじゃ。そいで小桃が自分が盗《と》ったと吐いたんよ。
布団《ふとん》部屋で酷《ひど》い目にあわされたわ。妾もここへ売られてきたばっかしの頃、いっぺんやられたことがある。なんぼ辛い目には慣れとる妾でも、気がおかしゅうなりかけたで。
いいやぁ、旦那さん。どついたり蹴《け》ったりはせんよ。商売道具じゃけんな、体は。
体に傷をつけんように痛めつける。責め手は女の方が惨《むご》たらしいに決まっとる。力は弱い分、長く苦しむんよな。力のある男がどついたら一発で気を失うけん。
内儀さんが指図して、皆がよってたかって責める。丸裸にして手拭《てぬぐ》い口に噛《か》ませて、暴れんよう何人かで押さえる。……妾も押さえたで。ようあんだけ出るなというほど、小桃は小便を漏らしたわ。梁《はり》から吊《つる》されて松葉燃やした煙で燻《いぶ》される、あれはぼっけえ苦しいもんじゃ。死んで楽になりたいと本気で願うで。
飲まず食わずで縛りつけとったら、元々おかしい頭がもっとおかしゅうなって、小桃は笑いっぱなしじゃったわ。だぁだぁ涙流して笑いよった。
妾ら売られてきた牛や馬とおんなじじゃいうてもな、涙だけは一人前に出る。
……なんでここまで言うかて? ええ気味じゃからじゃ。思い出したいからじゃ。
小桃は一家心中の死に損ないでな。遠縁の百姓家に貰《もら》われていったけど、十六になるんを待ち構えとったように売り飛ばされたんじゃわ。
業突張《ごうつくば》りの養い親でなぁ、盆や正月にはしゃあしゃあと金送れと言うてくる。そのたび小桃は借金増やしとった。なんぼ小桃が二番手三番手の売れっ妓でも、かなわんで。
しゃあけど、旦那さんも知っとろう。あの小桃は地獄に居るくせに、頭ん中だけ極楽じゃった。自分は金で売り買いされとんじゃない、て言い張るんじゃで。
男は自分を好いとるからここまで会いに来てくれるんじゃ。惚《ほ》れ合《お》うた男が訪ねて来てくれるんじゃと信じとった。こねえな阿呆《あほう》は居らんで。
「うちの家はほんまはぼっけえ分限者《ぶげんしや》なんじゃ。世が世ならお姫さんなんじゃ」が口癖で。必ずその後、「そんならなんでここに居る」て虐《いじ》められよったわ。
妾? 妾は……ああそうじゃ、妾だけが小桃を構《かも》うてやりょうた。可哀相《かわいそう》なからじゃないんよ。質《たち》が悪いんじゃ、妾は。もっと面白《おもしれ》えこと言わせて、後で笑い者にするためじゃ。
小桃が妾を「仲が良い」言ようったて?
なんちゅうことほざくんじゃ、あの阿呆。誰がお前なんかと……!
……ああ、すんませんな、旦那さん。ほんまに嫌いじゃけん。嫌いでかなわんけん。
小桃は布団《ふとん》部屋で首を括《くく》ったんです。
最期の力じゃったんかな。……ここだけの話じゃけど見つけたんは妾なんよ。水子の死骸《しがい》は慣れとるけど、一人前の死骸はきょうてえ。開きっぱなしの、何も映さん目がなぁ……。
小桃は無縁仏で戒名もない。近くの投げ込み寺≠ノ放り捨てられた。水子並みじゃ。
残りの借金をどうこうされるんが嫌で、養い親は報《しら》せても来んよ。誰一人、線香やこうあげんわ。馴染《なじ》みの客もな。死んだ女郎やこ、道端の馬糞《ばふん》以下の値打ちじゃけんな。
一応は巡査も調べに来たけどな、泥棒がばれたのと借金を苦にしての首括りじゃと、すぐに帰っていったわ。あん時の巡査とは全然違う、しょぼたれた年寄りの巡査じゃ。
お内儀《かみ》さんらも、あれこれ調べられたら困ることがぎょうさんあるんじゃろ、指輪のことも黙っておったわ。
坊さん呼んだのは、あんじょう極楽に行ってくれや、じゃのうて、どうかここに祟《たた》りをなさんでくれよ、と頼むためじゃった。
よう見たらその坊さん、妾《わたし》が小《こ》んまい頃に近くの寺におった坊さんじゃ。妾に地獄草紙を見せて悪さをした坊さんじゃ。全然気がついとらんかったで。今なら金さえ払や、何でもさしてやって極楽拝ませてやれるのになぁ、ほほほ。
あねぇなのに拝まれたら、小桃も成仏どころか立往生するで。
……「美味《うま》いもの食えて昼寝ができて、きれいな着物着られていつも笑《わろ》うとれる所はないじゃろか」て誰かがぼやいた時にな、小桃は「極楽はそういうとこじゃ」て答えたんよ。
すぐ誰かが言い返したわ。「阿呆。極楽は死なにゃあ行けんのじゃ」てな。
そしたら小桃、「そんなら死んでもええなあ」じゃて。
「女郎がなんで極楽に行けるんじゃ。なんもええことしとらんが。地獄に決まっとる」と誰かが怒ったら、ぼっけえ怯《おび》えとった。
あの頭が温《ぬく》い小桃のくせにな。あん時はさすがにちょびっと哀れでな、「ひょっとしたら閻魔《えんま》さんにも間違いはあるけん、小桃はいっつも嬉《うれ》しそうにしとるから、極楽の方に回してくれるかもしれん」と笑うてやったんよ。小桃も笑うたな。
阿呆じゃわ、つくづく。この妾のことを信じるくらい阿呆はおらん……。
――けどな、とうとう指輪は出てこんかったんよ。
小桃はどれほど責められても、それだけは吐かんかった。自分がやったとは吐いたのになぁ、在処《ありか》は黙ったままなんじゃ。誰かを庇《かば》うつもりじゃて?……そりゃないわ……。
地獄かなぁ、今頃は。閻魔様にはだんまりは通じんよな。
まぁ生きとっても地獄の手前に居るようなもんじゃけ、変わらんな。
……旦那さん旦那さん、もう寝られたん?……ほんまに寝たようじゃな。なんじゃかんじゃ手間かけさせて、寝付きええがん。
さぁて、ほんなら姉ちゃん、今度は姉ちゃんが目ぇ覚まして。
妾の話の相手をしてぇな。妾が寝られんように、話をしてぇな。
こうでええか? 枕《まくら》した方がええか? もうちょっと左に倒れてくれ? わかったわ。……ああほんま、ええ月じゃな。極楽はいっつもお天道《てんとう》様が出とんかな。地獄は永劫《えいごう》、真夜中か。
姉ちゃんは知っとるよな。妾はほんまは、小桃が嫌いじゃないんよ。
あの巡査とおんなじくらい、好きかもしれん。
しゃあけど、小桃は憎まにゃいけんのじゃ。
巡査さんを思うて涙流すんはええけど、小桃を思い出して泣いたら絶対にいけん。
姉ちゃんならわかってくれるなぁ。
小桃は極楽に行くんじゃ。
あれは淫売《いんばい》じゃったかもしれんけど、心はきれいなきれいな女じゃった。
指輪を盗んだのが妾じゃと、あの子は知っとった。知っとって庇《かぼ》うてくれたんじゃ。
あの子はこの妾だけが話を聞いてくれるて、妾を好いてくれとったもん。
妾はそんな小桃を折檻《せつかん》する手助けまでしたんで。
そのうえ……姉ちゃんは知っとるよな。
小桃を絞め殺したんはこの妾じゃ。
指輪泥棒をしゃべられたら困る、思うてやったんじゃないで。
妾はあの子を極楽に行かしてやりたかったんじゃ。
絞めるのは簡単じゃった。後ろから絞めたんじゃけど、小桃は首をこうして傾《かし》げて、妾を見たで。きれいなきれいな目をしとった。他人を信じる目をしとった。きょうてえな。
痙攣《けいれん》が伝わってきた時、妾ははっきりわかったんじゃ。小桃はこれで極楽に行ける。
そいで、妾は地獄が決まった、とな。
閻魔《えんま》様に決めてもらわんでも、妾は生きとる間に決めたんよ。
自分で決めた。地獄に行くとな。
生まれてこのかた、自分で何かを決めたことやこ、いっこもない。決めたいとすら、願《ねご》うたことがなかった。その妾がただ一つ自分で決めたこと。
それが地獄へ行くことじゃった。堕《お》とされるんじゃない。自分で行くんじゃ。
小桃を憎むのは、そういうことじゃ。
もし妾が小桃を好いてますと言うてみぃ、閻魔様は小桃にはこねぇな悪人の友達がおるんか、と思うじゃろ。こねぇな悪人が友達なら、小桃も悪人じゃと思うて地獄に堕とすかもしれん。じゃから妾は小桃を憎む。
憎んで憎んで殺したんじゃ。小桃は一番信じとった奴《やつ》に絞め殺されたんじゃ。
こねぇに可哀相《かわいそう》なことがあろうか。閻魔様がなんじゃかんじゃ文句つけても、仏様はきっと手を引いて極楽に連れていってくれるじゃろ。
あねぇなええ女を、しかも泥棒の罪までかぶってくれた女を妾は絞めた。自分で首|括《くく》ったように見せかけた。お互いの望みをかなえるためには、これしか無いんじゃ。
姉ちゃん。妾が地獄に行くということは、姉ちゃんも地獄に行くということじゃとわかっとるよな。姉ちゃんがどれほど尊いことを考えたりしても、おえんのじゃで。どれほど有り難いお経を唱えても無駄じゃで。
姉ちゃんはおっ父も殺しとらんし泥棒もしとらんし朋輩も殺しとらんし、淫売《いんばい》もしてねえのに、地獄に道連れじゃ。
いんにゃ、道連れはこの妾の方かもな。……構わんじゃろ、別に。
もともと地獄にぼっけえ近い所に生まれ育ったんじゃしな。
そもそも間違《まちご》うて生まれてきたんじゃけん。間違うて生かされたんじゃけん。
たった一人で地獄を巡るのもええけど、姉ちゃんと二人いうのはええなぁ。
――ちょっと旦那さん。あんた、もしかして狸寝入《たぬきねい》りしとったんかな。
*
まぁまぁ、そんな硬《かと》うにならんでもええがん。
なんか妾、きょうてえ話をしたかな? そりゃあ旦那さんの夢じゃ、夢。妾は何にも喋《しやべ》っとらんよ。なんとまぁ子供みてぇじゃな、こんな丸まって。ほほほ。
……じゃけどつくづく変わったお人じゃなぁ。夢の話の続きを聞きたいて? まぁええわ。夢ですからな、これは夢。それに女郎の言葉を真に受けたら阿呆じゃで。
覚めたら忘れてつかあさい。忘れんかったら、もっともっときょうてえ夢の続きが、毎晩旦那さんの眠りを妨げますけん。
さっき喋りょうた姉ちゃん≠ゥ。とことん夢いうことにしとってくれるんなら、会わせてさしあげますけん。
ちょっとええですか、体ぁ起こしますで。髪もこうしてほれ、ほどいてみせましょ。
旦那さん、妾がどうしてこんな変な顔しとるか、わかりましたでしょ。目や鼻が左のこめかみに向こうて吊《つ》り上がっとるんは、こういう訳があるんですわ。
まぁまぁ、口が閉まらんようになった? すごい汗。こうして扇《あお》ぎっぱなしでもやっぱり夏じゃけんなぁ。それにしてもよう流れる汗じゃ。それのに、肌がぶつぶつじゃがな。
これが姉ちゃんじゃ。双子《ふたご》いうことになるんかな。あれまぁ、旦那さん。妾は、姉ちゃんはいけんかった≠ニいうただけで、死んだとは一言もいうとりゃせんかったじゃろ。
いけんかった≠「うのは、人の姿でなかったいうだけじゃ。命は無《の》うなってない。
双子は先に生まれた方が弟や妹になるんじゃで。妾は逆子《さかご》で足から出てきたけん、頭にくっついとった方が姉になるのは道理じゃろ。普通に頭から出りゃ、妾が姉のにな。
こういう変わった双子は、江戸の頃《ころ》の文献にもあるて聞いたで。
言うたのは例の生臭《なまぐさ》坊主じゃから、あんまり当てにならんけどな。
え? これは双子じゃないて? それなら何なんじゃろか。
……人面|瘡《そう》?
そうかもしれんなぁ。これは姉ちゃんというよりやっぱり化け物じゃから。
そうじゃ、生まれた時から、妾《わたし》の頭の左っかわに、こうしてくっついとったんですわ。しかも顔だけがな。目も鼻も口もありますじゃろ。髪と眉《まゆ》は無いけどな。
そんな目ぇつぶらんと、ちゃんと見てやってつかあさい、これは夢なんじゃけん。
歯も三本ばかし生えとる。この歯がなぁ、困るんじゃ。癇癪《かんしやく》起こしたり機嫌悪うなったりしたら、これで妾の頭をかじってなぁ、痛いのなんのて。
赤子の握りこぶしくらいしか大きさもないくせになぁ。
今さら言い訳も立たんけど、おっ父を殺したのは……そりゃあ直接に藁打《わらう》ち槌《づち》を後ろから降りおろしたんは妾じゃけど、殺せぇ殺せぇと咬《か》みつきまくって妾をそそのかしたんは、この姉ちゃんなんよ。自分もオカイチョウしたいけどできんから怒ってなぁ。
ほれ、都合が悪うなったら目ぇ閉じて、ただの腫物《はれもの》みてえなふりをするんじゃけん。
せめてもの救いいうたら、前や後ろじゃなかったことじゃな。ははは、女郎は右を下にして寝るてわかっとったんか。妾が女郎になることは、前世からの約束じゃな。
ここの人が知っとる訳なかろう。おっ母しか知らん。おっ父はとうとう知らずに死んだんじゃで。おっ父は妾の股《また》にしか目がいかんかったけんな。
風呂《ふろ》も一人で入って、髪も誰にも見られんように洗うけん、誰も知らん。
たった一人、知ったのが小桃じゃ。
首絞められる時、これはさすがに苦しいけん振りほどこうとするじゃろ。そん時に妾の髪をつかんで……姉ちゃんがのぞいたんじゃ。
小桃?……この世で最期に見たものがうちの姉ちゃんなら、何の未練も残さず逝けるわ。
……旦那《だんな》さん、目ぇ覚ました後は、このことは忘れるこっちゃ。
うちの姉ちゃんの悪意は物凄《ものすご》いで。体無い分、思いの念は強いでぇ。
……姉ちゃん、姉ちゃん、見してやりんさい。
ほれ。にぃぃって笑うたら、こねぇな化け物でもちいとは可愛《かわい》かろう。
姉ちゃんが口にくわえとるんよ、金剛石の指輪。
妾が欲しがったんじゃねえ。姉ちゃんが欲しがったんじゃ。
こんな姿をしとるからじゃろうな、姉ちゃんは時々、「きれいな物が見たい」て泣く。
ああ、そうじゃ。口では言えんけどな、頭と頭がくっついとるけん、妾と姉ちゃんは考えることが互いにわかるんじゃ。
巡査さんのこともよう姉ちゃんは考えようる。涙は出せんけどな。
妾らもう、尊いもんとか有り難いもんとか、そんなのはどうでもええんじゃ。今さら尊いもんを拝んでなんになろうか。
死ぬまでにきれいなきれいな、きれいな物が見たいんじゃ。
しゃあけど、こねぇな指輪、最初見たときは目がくらんだけど、今見たらつまらんな。ただの光る石じゃが。
これなら、あの水子がぎょうさん流れとった川原《かわら》に転がっとった小石の方がええ。時々な、赤子の顔が浮いた石が見つかるんよ。みな笑い顔じゃ。親を恋しがっとるんじゃ。
そいでもこの指輪、姉ちゃんの歯にぴたっと合《お》うてな、くわえとったら具合がええんじゃて。光に当てたら、それこそ小石よりはきらきら光って嬉《うれ》しいそうじゃ。
ああ、もう。おんなじこと何べんも繰り返させんでつかあさい。
これは夢じゃ。覚めたら忘れてくれると思うて、妾は全部|喋《しやべ》りょうるんじゃ。
忘れられんかったら……?
旦那さん、あんた今度こそほんまに戻って来られんようになるよ。
まずはこの二階から生きて降りられんよ、ほほほ。
実はな、旦那さん。妾は十六で売られてきて、今年で七年。年季が明けるんよ。苦界《くがい》……そうじゃな、生きて沈む苦界もあと半年ばかりじゃ。
ここを出て好き勝手に生きてええんよ。好きも勝手も、意味すらわからんけどな。
借金もみな返し終わった。
しゃあけど、おっ母はもうあの家に居らんのじゃ。
巡礼に行くいうて、金みんな持って四国に行った。
いや、帰ったんかな。庭に鯉《こい》の泳ぐ池もあるいう、大きな屋敷にな。
じゃから、妾はここを出たら一人じゃ。
まぁ、姉ちゃんが地獄の谷底までついてきてくれるけどな。
考えたら妙じゃなぁ。どねえに淋《さび》しい境遇になろうとしても、いつでもぴたっと姉ちゃんがいっしょに居るんじゃけ。
旦那さんなら知っとられるじゃろう。今年の暮れにここ岡山と津山の間を陸蒸気《おかじようき》が走るんじゃ。鉄砲玉みてえに早《はよ》う、鉄でできた乗り物が走るんじゃてな。
妾は借金返したら、ここで稼いだ金はなんも無い。
しゃあけど、陸蒸気の片道の切符が買えるだけの分は残してあるんじゃ。
ここで出してくれる食事いうたら、夜中に茶漬けが一杯じゃ。あとは自前の仕出して知っとろう? 妾はそれを倹約して倹約して貯めた。
なぁに、餓えるのは慣れっこじゃけん、そねぇに辛いことはない。
好いてもない男とのオカイチョウもな。
女郎の決まりごとはいろいろあって、冬でも足袋《たび》を穿《は》いちゃいけんというんがある。妾はちゃんと足袋も買《こ》うてあるで。
白い白い、きれいなきれいなきれいな足袋じゃ。妾はそれ穿いて、陸蒸気に乗って津山まで帰るんじゃ。それだけを思うて、ここも務めあげた。
姉ちゃんは切符は要《い》らんけんな、ふふふ。足袋も要らんな。
まぁ、金剛石の指輪をくわえとりゃええがな。
終点は、津山。そこからは山ん中、田圃《たんぼ》ん中、畦道《あぜみち》や藪《やぶ》の中を歩かにゃいけん。真っ白い足袋もどろどろになるじゃろ。
帰りたいんかて?
いいや、そこしか帰るところがないからじゃ。
誰もおらん、誰も待っとらん、荒れ放題の掘っ立て小屋じゃ。外で寝る方がましいうほどの代物じゃ。血と糞と怨念《おんねん》のしみついた臭い場所じゃ。
子潰《こつぶ》し婆がおらんなっても、相も変わらず水子はあの川原に捨てられて泣いとるじゃろ。
それでも妾はあそこに帰る。
できたら陸蒸気が津山で停まらず、地獄まで直《じか》に通じとったらな、と願うわ。
陸蒸気に乗って、ええ気持ちでうつらうつらしたとするじゃろ、そしたら……寝過ごして津山駅を行きすぎて、ほんまものの地獄に着く。うつらうつらと血の池じゃ。
その地獄に着くまで、窓からはどんな景色が見えるじゃろ。いきなり、針の山や血の池は見せんよな。鬼も急には出て来んじゃろ。まずは壊れた人間から現れる。
きっとなんにもない景色じゃろうな。
赤い地面、黒い空。真ん中を流れる泥の川。飛ぶのは痩《や》せた鳥。
大方、それは生まれる前に見た景色じゃな。
なあ姉ちゃん。一緒に帰ろうな。
さぁ、旦那さん。ごゆるりと……休んでつかあさい。ええ夢を見られたらええな――。
*
旦那さん、起きてつかあさい。もう朝ですて。ほれ、小使の鳴らす鈴の音が聞こえましょう? 見てみられぇ、窓の向こう。染めたほどの青さじゃ。
なんですか、そねぇにぼうっとした顔をして。
寝られんかった? 夢は……夢やこ見とらんでしょう。
ぐっすりとお休みになっとられましたけん。
さあさあ、変な夢とか忘れて今日も達者に働かにゃあ。
急《せ》かしてすんませんけどな、妾は今日、手洗いと風呂《ふろ》掃除の当番なんじゃ、ほほほ。
……何を目ぇしょぼしょぼさせてますの? 髪? そりゃ当たり前でしょう、お客に寝乱れた姿は見せるもんじゃない。お客様が起きるまでに、きちっと身仕度は済ませるもんじゃ。
お近いうちに是非また来てつかあさいよ。
えっ? きぬぎぬの別れをしたいて?
口を吸うあれか。なんか恥ずかしいわぁ。
でも旦那さん……必ず目をつぶってつかあさいよ。
――――――。
かちん、て何かが歯に当たった?
そりゃあ妾の歯でしょう。
なに? その歯が何か硬い金物をくわえとった?
よう言うわ、もう。ああ、髪が乱れてしもうた。
髪の間から何かのぞいた? ぺろって赤い舌が見えた? もう、朝っぱらから、ようまぁそんな面白いことを。
……旦那さん、なに口にくわえとられるん?
きらきら光っとる……やっぱりきれいじゃな。
――うちの姉ちゃん、旦那さんに惚《ほ》れたみたいじゃわ。どうされます?
[#改ページ]
密告函《みつこくばこ》
[#ここから2字下げ]
岡山県下にては虎列剌《コレラ》病|蔓延《まんえん》につき××村役場裏に密告函《みつこくばこ》なるものを設けたり。近隣に疑似患者及び隠蔽《いんぺい》患者あらばその名を投函すべし。尚この密告函は錠前付にて投函せし者も匿名にてよしとすなり。
伝染病予防の為これを大いに奨励せんと決したり。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き] 明治三十四年六月一日 和気××村役場
「さすが岡山市役所は違うで。元は士族様の屋敷じゃったというが、眩《まばゆ》いような白壁でな、女学校出の別嬪《べつぴん》も仰山おった。煤《すす》けたどこぞの村役場とは大違いじゃ」
その煤けた村役場ではただ一人の洋装だが、足元は草履《ぞうり》の柴田助役は日に何度も唐突な胴間声《どうまごえ》を上げる。殊に村長が腰の怪我《けが》で役場に来なくなった先月からは、その回数が増えた。低い天井の吊《つ》り洋燈《ランプ》はその度に揺れ、暗い壁に助役の貧相な影絵を描いた。
その声が語るのはいつも優越感と劣等感が綯《な》い交《ま》ぜになった卑屈な自慢話、高慢な卑下とでもいうべきものだ。岡山師範学校を出たのが最大の自慢だが、同窓生はみな岡山や神戸に出て一廉《ひとかど》の者になっている。自分は助役にまでなったとはいえ、戸数わずか三十ばかりの寒村では威張る相手も知れていた。
「白壁で無《の》うてもええが、女学校出の別嬪は欲しいですのう」
柴田助役に言わせれば「ちぃっとばかし読み書きが出来るだけの百姓ども」は、その仕事内容と同じに彼に対する反応も判で押したように決まっていた。
「助役さんがもうちょい偉《えろ》うなったら、ここも建て替えて貰《もら》えるじゃろうに」
いちいち、相槌《あいづち》を打って助役様のご機嫌を取るのが五人、やんわりと皮肉や当て擦《こす》りで返すのが二人だ。そうして何も口を挟まずに、仕事から手を離さないのが一人だけいた。
この役場では一番若く、まだ三十にならない片山弘三は、黙って単調な穀物検査票の確認を続けている。口元には微《かす》かな苦笑が浮かんでいるが、それは助役への侮蔑《ぶべつ》めいたものではない。悪意は持っておりませぬよ、という控えめな愛想なのだった。明確にそんな思いを言葉にしてみたことはないが、岡山市役所や県庁に出かけては卑屈になって戻ってきてその反動で威張る助役よりは、自分の方がわきまえているし満たされている。
弘三はこの村ではまず平均的な農家の三男で、高等小学校を出ると職に就いた。成績が良かったので役場に採用されたが、その学歴では到底出世は望めないなど、親にも本人にも何程の事ではない。読み書き算盤《そろばん》という知的な仕事で生計を立て、村会議員や村長、助役といった村の名士の側に仕えているだけで上等なのだ。親にとって弘三は、家を継いだ長男や近郷の豪農に婿養子《むこようし》に入った次男より自慢の息子なのだった。その程度の自慢の息子であり続けるのは容易《たやす》い。昨日の続きを今日もすればいいだけだ。そうして与えられた仕事だけを片付けて定刻に帰宅すれば、妻子もまた永劫《えいごう》に変わりない。
弘三はすでに陰ってしまった手元に目を落とし、控えめな溜《た》め息をついた。仄暗《ほのぐら》い洋燈に羽虫が飛び交っている。すでに季節は夏だ。薄い木綿の単衣《ひとえ》に汗染みが浮いている。妻のトミがこまめに洗濯してくれても、湿った布地は肌に貼《は》りつく。
「そりゃそうと、またぞろ流行《はや》り出したらしいな」
盛んに扇子を動かしていた助役が、今度は声を顰《ひそ》めた。弘三の隣の男が首筋に留まった蚊を叩《たた》いてから、同じく声を顰めた。
「うちらの集落でも、もう死人が出とりますわ」
この時だけ弘三の手が止まった。ちょうど今めくった証票に記された者の名前が、暗い灯火の下でもはっきり読み取れたのだ。近所の老人の名前だった。つい先《せん》だって、助役達が声を顰める伝染病のため避病院へ隔離され、すぐに死んでいた。
「虎《とら》将軍に勝つのは狼《おおかみ》さん、か。一ぺん役場で木野山神社まで詣《まい》るかのう」
「しゃあけど木野山神社は上房《じようぼう》郡だか川上《かわかみ》郡だかじゃで。そねぇな遠くまで行くんか」
虎列剌の別名が虎将軍で、高梁《たかはし》の木野山神社が使い神を狼としているのは弘三も知っていたが、その後に彼らが妙な笑いとともに口にした女の名前は知らなかった。
「わざわざ遠くまで行かんでも、お咲の親に拝ましゃあよかろう」
「商売上手じゃけん、お咲の親は。もう木野山から分霊して頂いたと触れ回っとる」
「いや、商売上手は何ちゅうてもお咲じゃろ」
顔をあげた弘三は、薄暗い壁際に座る柴田助役の背後に奇妙な影を見た。助役の影しか映らないはずなのに、もう一つあるのだ。荒い土壁に浮かぶその影は、助役の影に覆い被《かぶ》さっていた。何故それだけでくっきり、女とわかるのか。
弘三は自分の全身が痺《しび》れていることにしばらく気づかなかった。目が乾くのは瞬きもできないからだ。傾《かし》いだ粗末な木の机と椅子《いす》に挟み込まれた格好で、弘三は母でもなく妻でもなく、何故か先日虎列剌で死んだ老人の名前を唱えた。螺子《ねじ》の弛《ゆる》んだ壁の八角時計が侘《わび》しく鳴った途端、弘三は訳のわからぬ呪縛《じゆばく》から解けた。すでに人の顔も朧《おぼろ》な室内で、弱い灯火が虫の声を立てている。助役はもう立ち上がって出入口の方にいた。こちらに背を向け、戸外を眺めながら煙管《きせる》を吹かしている。あの怪しい影はどこにもない。ただ、今度は助役自身の影もなくなっているのだった……。
重く汗を吸った着物は不快に冷たい。弘三は恐怖を感じたと認めることこそが恐ろしかった。認めた瞬間あの影はこの背中に来ると信じたから、自らに言い聞かせる。あれは小使が洋燈の火屋《ほや》の掃除をしていないから妙な曇りが壁に映ったのだと。
だが再び弘三は異様な何かを目のあたりにした。助役の煙管の先から、煙が風に逆らって棚引いたのだ。次の瞬間、耳元に女の息を感じた。その女は聞き取れないほどの含み笑いを残し、壁を抜けて表に出ていった。弘三は首筋の毛を立てながら、しばしその壁を透かした。疲れとるんじゃ。無理|遣《や》り、呟《つぶや》いた――。
弘三の家がある集落への道は緩い坂道だ。岡山市内では点燈夫が道添いの軒燈に火をつけて回るが、こんな寒村には望めない。坂道を登り切るとまず浮かび上がる細井の家の灯が、弘三にとっての軒燈だ。庭に大きな柿の木のあるその家の灯は、もうじき我が家が近いことを知らせる喜びの道標だ。広い庭にはいつも誰かがいた。爺《じい》様が藁打《わらう》ちをしていたり、主人が薪割《まきわ》りをしていたり、幼い娘が弟の守《も》りをしている時もある。嫁が洗濯する横で婆《ばあ》様が豆を筵《むしろ》に干している日もある。その内の誰かが必ず声をかけてくれ、弘三は挨拶《あいさつ》を返すのだ。声をかけたのが嫁なら余計なお喋《しやべ》りもしたくなるが、それは村の誰それが嫁に行くだの、もう山陽ラムネは飲んだかだの、当たり障りのない世間話に限られた。密《ひそ》かに他の話をしたい気持ちはあるが、祭りの相撲大会では常に横綱を張り、先の日清戦争では金鵄《きんし》勲章まで授かった静吾郎の腕の太さを思えば、気弱な愛想笑いしか浮かべられない。
だが今日に限って、庭先には誰もいない。障子に橙色《だいだいいろ》は映っているが、物音がしない。弘三は不審というより不満を覚えた。まずはここで迎え入れられるのが習慣なのだ。
ふいに柿の木の下で何者かが動いた。白っぽい着物のその者を、弘三は最初ここの爺様と思った。残光の中、ひどく落ち窪《くぼ》んだ目と痩《こ》けた頬《ほお》が異様に目立ったからだ。しかし体格が違う。爺様は子供と見紛うほど小柄だったはずだ。その者は弘三より遥《はる》かに大きい。
弘三は動けなかった。目が吸い寄せられてしまう。いきなりその者は柿の木の下にしゃがみ、水が漏れる音を立てた。続いてなんとも言えない生臭い腐臭が鼻をついた。地面に白濁した水が広がっていく。激しく腹を下していたのだ。甲高い悲鳴が届いた。鳥の鳴き声ではない。裸足《はだし》で飛び出してきた嫁が駆け寄り、弘三はようやくその異様な者が爺様でも幽鬼でもなく、静吾郎だとわかった。あっ、と弘三は声に出してしまった。
虎列剌だ。静吾郎は感染して発症しているのだ――。
橙色がこの上なく不吉な色に陰る。背中を擦《さす》る嫁は、強い眼差《まなざ》しで弘三を見上げた。同じ村の者を見る目ではない。隔離に関わる役場の者を睨《にら》んでいるのだ。歯軋《はぎし》りする嫁は、普段の愛らしい下膨れの笑顔からは想像もつかない形相で喚《わめ》いた。
「何でもない、早《はよ》う帰りんさい」
弘三は無言で駆け出していた。鼓動と足音が重なった。胸が苦しいのに息を止めてしまう。忘れかけていた幼い頃の恐い絵草紙がそのままの毒々しさでよみがえるが、あんな解りやすい幽霊など正に絵空事だ。西風に排泄物《はいせつぶつ》の臭《にお》いは巻き上げられ、影となり黴菌《ばいきん》となって弘三を追いかけた。家が無くなっていたらどうしようと、弘三は本当に子供のように泣きたくなった。薄墨色の雲が低く重く、村全体を覆っていた。
「どうしんさった? 川にでも落ちたんか」
トミは目を見開いて、ほとんどずぶ濡《ぬ》れの弘三を迎え入れた。すぐに桶《おけ》を運んできて、上がり框《かまち》に据えた。着物をはだけさせ、甲斐甲斐《かいがい》しく体を拭《ふ》いてくれる。
「細井の静吾郎が、とうとう虎列剌に罹《かか》ったらしい」
ようやく息を整えて、弘三はそう告げた。手拭《てぬぐい》を濯《すす》いでいたトミは、丸い顔を少しだけ曇らせた。トミはいつでも感情を顕《あらわ》にしない。弘三が真面目で何の間違いもない男と称されるように、トミも落ち着いた賢い女と評判だ。幼くして親を亡くし祖父母に育てられた所為《せい》もあるのか、殊に目上の者に受けが良い。弘三の言葉にもさほど驚いた様子も見せない。手早く弘三から着物を脱がすと、手拭とともに桶に入れた。幼い二人の娘、カズ子とミサ子は異様な雰囲気に怯《おび》えたか、奥の六畳間から出て来ようとしない。
「安心せられえ、父ちゃんは病気なんぞ伝染《うつ》っとらん」
トミはまず子供達を振り返ってから、着替えを取り出すために箪笥《たんす》を開けた。
「田辺んとこも一家で寝込んだんよ。あの消毒薬、家の周り中に撒《ま》いとった」
弘三が幼い頃から、石炭酸を水に溶いた消毒薬は虎列剌患者の家の周辺に撒き散らされた。排泄物の臭いと混ざり合ったそれは、恐ろしくも懐かしい原風景の一つなのだ。
「田辺んとこは一家|揃《そろ》ってじゃから、避病院に連れていかれたわ。細井んとこは……あんたが知っとるいうことは、やっぱり隔離は避けられんな」
患者の出た家は、極力それを隠蔽《いんぺい》しようとする。「避病院は生き血を抜く」という噂《うわさ》の恐怖に比べれば、まだ感染が広まった方がましなのだ。弘三の立場からすれば、馬鹿な噂だと打ち消して入院を勧めなければならない。事実、役場勤めの弘三は避病院の視察もしていた。臭いには辟易《へきえき》したが、そこでは薬の投与や薬湯への入浴が為《な》されているだけで、生き血を抜いて殺す処置などするはずもない。六割方、患者は助からないとしてもだ。
細井の家に感染者が出たことを通報し、速やかに避病院への隔離手続きを取る。これが弘三の職務だ。しかし弘三は、これまでにも感染したとおぼしき者の噂は何度も耳にしていたが、すべて知らぬ顔で他の誰かが通報するのに任せた。もしくは、人知れず死ぬのを待った。通報者がわかれば村八分とまではいかなくても、隔離された者とその一家に恨まれるのは必至だからだ。実際、それで刃傷沙汰《にんじようざた》も起こっている。
裸のせいばかりではなく鳥肌が立った。静吾郎の嫁の突き刺す目つきが思い出され、背筋が冷えた。無論あの一家も、罹病《りびよう》した静吾郎をどうにか隠そうとしていたに違いない。それが自分に目撃されてしまった。もし誰かの通報で静吾郎が隔離されれば、あの一家はきっと通報者、いや密告者は弘三と恨むだろう。避病院が如何《いか》にきちんとした施設であるかを懇々と説いても無駄だ。あいつは同じ集落の者を売ったと憎まれるのだ。
トミ。弘三は思わず声をあげていた。後ろから乾いた清潔な着物を羽織らせてくれているトミは普段は小さな物静かな女だが、こんな時はすがりつきたいほど大きい。弘三は叱られた子供が必死に言い訳をするように、胸に抱いている不安を口にした。娘達はようやく囲炉裏の前に出てきて、無心にお手玉などしている。この何でもないが平穏な日々を、どんな形であれ変えられるのは堪《たま》らない。それこそ、虎列剌に感染する以上の理不尽だ。
「ようわかった。何も心配することは無い。あんたはいつも通りにしとったらええ」
帯まで結んでやってから、トミは小さく囁《ささや》いた。そうして暫《しばら》く考えた後、ある思いつきを口にした。絶対に確かな対処ではないが、ここはトミに任せるしかない。
一先《ひとま》ず安心は得られた弘三だが、さすがに助役の背後で見た怪しげな影の話はしなかった。静吾郎は現実に生きているが、怪しい影はあくまでも怪しい影に過ぎないのだ。如何にトミでも、幻までは手に負えないだろう。そう、あれは五臓の疲れから来るものだ。差し当たっての心配事は静吾郎だけだ。それはトミに頼れば良い。トミはこうやって永劫に夫を立ててくれるし、死ぬまで賢くしっかり者の嫁として家を守ってくれる。だから、妙な噂になっている女の話などはしなくてもよいだろう……。
浅い眠りではあったが、翌日弘三はいつもの時間に目を覚ました。トミの朝飯は漬物《つけもの》を除けばすべてが熱い。トミは辛うじて平仮名が書ける程度の教育しか受けていないが、衛生観念はしっかりしていた。飲食する物はすべて火を通すし、虎列剌が流行りだせば昼飯に弁当は持たせず家まで帰らせる。そんな女は村でも珍しかった。
ついでに言えば自分は嫁ぐ時に持参した着物だけを着回しているのに、役場に勤める身の上なのだからあまり粗末な身形《みなり》では恥ずかしかろうと、弘三には夏と冬に着物を新調してくれる。内職の麦稈真田紐《ばつかんさなだひも》編みも熱心にやり、義兄の家の田圃《たんぼ》仕事も黙々と手伝う。弘三の親にとって弘三が一番自慢の息子であると同じに、トミもまた一番の嫁なのだった。
――柴田助役が昼近くになってから役場に顔を出した時、みな内心ではひやりとしたにもかかわらず、何時《いつ》もと同じ反応を示した。すなわち、
「仕事のし過ぎで夏風邪ひいたんでしょう。しんどかったら戻って休まれたらええ」
如何にも心配そうな顔でそう声をかけたのが五人、
「そねえな顔で座っとられたら、役場に来る者みな逃げ出すがな」
眉《まゆ》を顰《ひそ》めたのが二人だが、さすがにこの二人も、「ひょっとしてあの伝染病」とはたとえ冗談めかしても口にはできないのだった。
「いんや、お前らが心配する病気じゃあねえ。腹も下っとりゃせん」
自分からそれを口にした助役ではあるが、その声はいつもの声ではなかった。精一杯張り上げたのだろうが、擦《かす》れてしまっていた。いつもなら微苦笑を浮かべるだけの最後の一人、弘三はともすれば助役の背後に向きそうになる目線を必死に余所《よそ》に向けていた。快晴の午前中とはいえ、天井の低いこの木造の古い建物ではあちこちに影ができる。小筆を握る自分の手の下にさえ影は落ちるのだ。
助役の顔は静吾郎のそれとあまりにも似ていた。目が窪み頬が痩けるとまではいかないが、目の下の隈《くま》はどす黒く唇までが土気色だ。丸顔なので歳《とし》の割に皺《しわ》は少なかったのに、今日は鑿《のみ》で刻んだような皺がやけに目につく。席に座っても、絶えず血走った目をあちこちに向けている。助役の腹心の部下とされる一人が、そっと呼ばれていた。弘三はひたすら単調な書類への記入を続けながら、そちらを向かないよう努めた。
伏せた頭上を、ある女の名前が過《よぎ》った。それは不吉な影となって流れていった。
「柴田助役はお咲に祟《たた》られとるんじゃ。あの女は……本物じゃけん」
お咲。その名前が耳に届いた瞬間、何者かの力で弘三はそちらを向かされた。開けた戸口に女が立っていた。派手だが安物とわかる銘仙をだらしなく着崩した、若い女だ。品のない底意地の悪い表情が、どうしてこれほど美しい顔立ちから作れるのかを不思議に感じたのも束《つか》の間、その女が柴田助役を見ていることに気づいた弘三は悲鳴をあげかけた。
実際に、悲鳴はあがった。ただし弘三ではない。柴田助役が胸を押さえて土間に転がったのだ。弘三も弾《はじ》かれたように立ち上がった途端、女は消えた。走り去ったのではなく、本当に消え失《う》せたのだ。……それこそ影も残さずに。
心臓|麻痺《まひ》を起こした助役は役場の男達に担がれ、村で一軒だけの診療所に運ばれた。戻ってきた者によれば、今すぐ死にはしないがかなり弱っているのは間違いないらしい。
「ともかく虎列剌じゃのうてよかったで。心臓麻痺は伝染《うつ》らんけんな」
最も忠実な部下とされる男がそんなふうに吐き捨てたのには、格別の驚きはない。
「お咲と揉《も》めたんじゃろ。ありゃあ相当きつい女じゃけ」
柴田助役はさすがに村の名士という立場から、迂闊《うかつ》にそこいらの娘や嫁には近付かないが、いわゆる玄人《くろうと》筋の女とは始終揉めている。ではお咲もその筋の女か。弘三は生まれてこの方村を離れたことはないし、勤め先も役場だ。村人すべての顔と生活を知っていると言っても過言ではない。ではお咲は流れ者か。小心な弘三は、そのことを誰かに確かめるのは躊躇《ためら》われた。それに自身で、その女を解き明かしたくもあった。色褪《いろあ》せたこの村と今の生活に、赤い花の咲く予感があったのだ。決して良い予感とは限らないが……。
――黄昏時《たそがれどき》の坂道はいつもの道なのに、今日は足取りが重い。緩やかな坂道は何ら変わりないのに、彼方の家の灯は違っていた。庭の柿の実色に照る色合は同じなのに、あそこからまた静吾郎が出てきたら……と思うと弘三は緊張してしまう。柿の木の下でまた灰色の排泄物を大量に垂れ流していたらと想像すれば、足が竦《すく》む。
庭にはやはり誰かがいた。声をかけてくるかと渇いた喉《のど》に無理遣り唾《つば》を飲み込んだ時、不吉な橙色と同じ色なのに、ひどく暖かく好ましく輝く灯が浮かび上がった。弘三は我知らず駆け出していた。約束通りトミが迎えに来てくれたのだ。
細井の家はやはり露見するまでは静吾郎を匿《かくま》うつもりらしく、弘三とトミに気づいた二人はぎこちなく挨拶をした。平穏な橙色の向こうに病み衰えた病人を匿っているとは一見誰も気づかない、穏やかな日暮時だった。だが心なしか柿の葉陰は黒々と大きく広がり、家全体を陰らせているようにも見える。爺様も嫁も何食わぬ顔で庭に出ているが、やはり顔には影が落ちている。トミはそんな庭をにこやかに横切り、掲げた提灯《ちようちん》を揺らしながら細井の者達に挨拶をした。何のわざとらしさもない自然な態度だ。
「この人最近、鳥目になって夜道が危ないんよ。心配で迎えに来たんじゃ」
弘三が強《こわ》ばって何も相槌《あいづち》を打てないと見るや、トミはさらにもう一押しした。
「静吾郎さん、ちょっと具合悪そうじゃったらしいけど、もう元気になったんじゃね。この人が夜明け頃、荒神様の前の田圃で草刈りしとるのを見たんよ」
辛うじて、弘三は首を縦に振る。脱水症状で木乃伊《ミイラ》化している静吾郎が草刈りに出ているはずはないのだが、静吾郎の父親と嫁は曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。この程度の演技で、「じゃああの時の姿もよう見えんかったんじゃな」と安心してくれるかどうかは苦しいが、他に打つ手はない。ともかくトミに任せれば、大抵の問題は片付くと信じる他ない。
二人揃ってお辞儀をすると、連れ立って帰り道を辿《たど》った。弘三は一先ず安心を得たからか、別の懸想《けそう》をしていた。昼間見た卑しい笑いを浮かべた美しい女はお咲だったのか。ただ通りすがりの女がちらりと覗《のぞ》いただけかもしれないのに、弘三の中でお咲はひどく艶《あで》やかな妖《あや》しい自分の女≠ノなっているのだ。無論こんな話をトミにできるはずがない。
「……ざまがええ。あの嫁は昔から気に入らなんだ。すぐ男に色目を使《つこ》うてからに」
急速に陰りゆく宵闇《よいやみ》の中、一瞬弘三の足は止まった。吐いた言葉も冷酷だが、幻の女に劣らずトミの顔に冷酷な表情が浮かんでいる。弘三はそれを見なかったことにした――。
その後細井家は、一週間と経たない内に三人の葬式を出すことになった。静吾郎と母と嫁だ。老いた喪主と残された子供達はせめて葬儀が済むまで待ってくれと訴えたが、避病院の関係者によって家の中も周辺も大量の水溶き石炭酸を撒かれた。どんなに夏風邪を拗《こじ》らせたと喚《わめ》こうが、虎列剌による死は村中に知れ渡った。その葬儀の日に今度は爺様が発症して避病院に隔離され、二日だけ生きた。子供達は別々に親戚《しんせき》に引き取られていった。
細井一家に哀れさや痛ましさは感じたが、弘三はそれよりも安堵《あんど》の気持ちが勝った。お前が通報したと責められずに済んだからだ。もし本当にすぐ通報していればこれほどの死者も出ず、あの灯は今宵も暖かく灯《とも》るのだと、考えなくもない。考えれば静吾郎のあの顔が浮かぶから、考えないようにしている。トミはそんな話はおくびにも出さない。これまでと変わりなく忠実に、弘三の身の回りに心を砕くだけだ。
道標としていたあの家は、日暮時も灯が灯らなくなった。黒々とした闇を抱いて、荒れるに任せている。立派な家なのに入り手がないのは、石炭酸と排泄物の臭いが染みついているのと、一家の亡者が柿の木の下に現れると噂が立ったからだ。
弘三は帰り道、坂道を一目散に駆け抜けるようになっていた。死者が生者のふりをして話しかけてくるのではと怯《おび》える気持ちもあるが、何よりぼうっと障子に橙色が灯ったら、と想像すれば叫び出したくなるからだ。
村はやがて本格的に夏を迎えた。ただでさえ食当たりの多い季節だが、トミの気遣いのお陰で弘三一家はみな健やかに過ごしている。虎列剌《コレラ》感染者数は岡山県下でも記録的なものとなり、虎将軍に勝つ狼様を拝めと、木野山神社への参拝者は長蛇の列をなした。街道や港での検疫に弘三も駆り出され、しばらくはお咲について夢想する暇もなかった。それにあれ以来、女の幻は現れていない。
柴田助役は自分でも死期が近いと悟ったからだろうか。助役にまでなったとはいえ、これといった功績も何も残してはいないと焦ったからだろうか。それともただ純粋に、村に虎列剌が蔓延《まんえん》するのを何としても防ぎたい一心からだったのだろうか。
誰の目にも死期の迫った柴田助役は、病床から或《あ》る提案を為した。奇案というべきか名案というべきか、咄嗟《とつさ》に誰も判断がつきかねた。
「密告函《みつこくばこ》=H なんじゃいそれは」
「近隣に虎列剌患者と疑える者がおったら、その名前を書いて箱に入れさすんじゃ。通報者の名前は無しでええ。鍵《かぎ》もちゃんと付けちゃれ。そしたら安心して密告でける」
やがて役場裏に、それは設置された。持ち重りのする頑丈な樫《かし》の木箱にブリキ板を貼《は》りつけ、わざとらしいほど大きな錠前がぶら下げられた、その名も密告函。ちゃんと取り付けたと、見舞いも兼ねて弘三達は病院まで報告に行った。完全に死相の浮いた柴田助役は乾き切った唇を動かして、誰かの名前を呼んだ。それは擦《かす》れた囁《ささや》き声でしかなかったため、他の三人には聞き取れなかったらしいが、弘三には聞こえた。……あの女の名前だった。
遥か空の上、いや、ひょっとしたら自分の耳たぶのすぐ後ろから、女の笑い声がした。忌まわしいもののはずなのに、甘い吐息は首筋に心地よかった――。
柴田助役の死後、その密告函の設置が村に公布された。鍵を渡されたのは当然、一番若い弘三だった。何だか人の恨みを買いそうな仕事だなどと、口に出せる弘三ではない。密告するのは自分ではないのだ。匿名の密告者なのだ。恨むならそっちを恨め。……密告函の開封を請け負ったことを、トミには一応告げた。トミもまた同じ事を口にして慰めてくれた。
弘三の座り机は裏口の前にあるので、誰かがこっそり裏口に回れば気配はすぐ伝わる。まるで自分が感染者のような足取りで訪れ、素早く箱の口に紙片を押し込み逃げていく。終業の二時間前、それを開封する。入っとるか? 同僚が覗《のぞ》き込む。かさかさと虫の死骸《しがい》の音を立て、紙片はこぼれ落ちてきた。
狭い村のことだ。見覚え聞き覚えのある名前が幾つも混じっている。上役の名前すらあったが、これはさすがに握り潰《つぶ》した。どう見てもその男は健康だ。ただ、故人となった助役に負けないほど女関係にとかくの噂がある男だった。大方、それで恨みを買ってこんな嫌がらせを受けるのだろう。面倒事は嫌だから、素知らぬ顔をする。
この密告函が早くにあれば、自分は静吾郎の名前を書いただろうか。手を止め、窓から山並みを仰ぐ。そこに橙色《だいだいいろ》が灯った気がして、弘三は慌てて目を伏せた。その目線の先に或る女の名前があった。「祈祷師《きとうし》の娘お咲」
咄嗟《とつさ》に、弘三はその紙片も握り潰《つぶ》していた。激しく動悸《どうき》を打った。深奥に熱い塊があった。それをどうにか抑え、何気ない顔で上司の元に何枚かの紙片を持っていく。上役は例の名前を書かれた男だ。彼は柴田助役が乗り移ったような大声で命じた。
「明日からこれらの家を偵察に回れや。何も虎列剌患者を引きずり出せとは言わん。あくまでも穏便に、どこの家も回っとるからと頭を下げるんじゃ」
嫌だ、と顔に出たのは一瞬だ。恨みを買うのはあくまでも通報者と自らに言い聞かせ、素直に受けた。さすがに帰宅後トミには愚痴ったが、トミも不快な表情は一瞬だった。
「見て回るだけなら感染はせんじゃろ。わたしもこれまで以上に気をつけちゃるけん、仕事だけはきちっとしようや。な」
トミの気丈さ、優しさに打たれた弘三は、ついあの女の名前をも口にしてしまった。余所《よそ》から流れてきたとはいえ、女同士なら何か知っているかと期待したのだ。
「お咲? あの似非《えせ》祈祷師の娘か。お森様の外れの空き家に、勝手に住み着いとるわ」
予想以上の反応が返ってきた。トミもお咲を知っていたのだ。
「全然効き目はないのに金だけふんだくるて、評判の悪い流れ者の祈祷師の夫婦がおってな、今も虎列剌で一儲《ひともう》け企《たくら》んどるそうじゃ。木野山神社に分霊して貰《もろ》うたなんぞ、大嘘《おおうそ》もええとこじゃ。今に罰が当たるで。鳥居や狼様の像までどこからか盗ってきとんよ」
別嬪《べつぴん》か、と聞ける雰囲気ではない。トミは薄い眉《まゆ》を顰《ひそ》め、眉間《みけん》に皺《しわ》を刻んでいた。
「お咲は有名な淫乱《いんらん》女じゃ。金さえ払やあ誰にでも身を任せる。いんや、金を払わんでもええという話もある」
なるほどトミが最も嫌う種類の女だろうが、弘三は今までにない昂《たか》ぶりを覚えていた。夜這《よば》いの盛んなこの村だから、トミと結婚する前にも何人かの娘や後家の寝床には忍んでいた。トミとて結婚前は何人かの男を知っていたはずだ。
今は結婚もして役場勤めの身だから、慎まねばならないのは重々承知している。してはいるが、と弘三はトミをまさぐりながら夢想する。密告函にかこつけて行けばお咲もすぐ会ってくれるだろうし、村人の妙な噂の種にもならずに済むではないか。このトミにだって言い訳は立つ。それにお咲は感染者ではない、私怨《しえん》から投書されただけだと弘三は勝手に決め付けていた。自分がこれから忍んでいく女には美しく艶《なま》めいていて欲しいからだ。
囲炉裏の火だけが明かりの中、トミがお咲に変化したりという怪談じみたことは起こらない。ただ、汗ばむトミは今夜に限ってまったく違う女の匂《にお》いがした――。
翌日から弘三は、役場から来ましたと告げては、各家を偵察に回るようになった。つまり密告函に名前があった者の家だ。匿名で函は鍵付きとしたため、単なる私怨の投書も少なからずあったが、それらはすぐ分かる。本当に感染者を隠している家は、やはりなかなか入れてくれない。しかし弘三には大義名分があった。「本当かどうか確かめるだけだ」と。これで職務も全うした上、黙っていても「恨むなら密告者を」と念を押せる。
今日は四通の密告をもとに偵察に回るが、実質は二軒だ。内二枚はあのお咲だった。それは弘三が握り潰す。真っ先に行きたいが、まだ心の準備ができていない。この女は感染はしていない。昨日も今日も噂を聞いた。投書しているのは袖《そで》にされた男か男を盗られた女だ。しかしこれほど男関係があれば、蔓延《まんえん》させていると責められても仕方なかろう。そのうち自分が、この悪い女を脅しに行くのだ。それを想像すれば、弘三は自分が自分を超えるような恍惚《こうこつ》感に浸された。
まずは、花筵《はなむしろ》の作業場を持ち何人もの手伝いを雇っている富裕な安西家だ。昔から藺草《いぐさ》の香漂う家だった。密告函にはかなりの達筆で、ここ一月ばかり安西の主人の姿を見ないとあった。商売敵が投書した可能性もあるが、一応は覗いてみなければならない。
厚みが三尺ある茅葺《かやぶ》き屋根の安西宅は、炎暑の下でもひんやりとした佇《たたず》まいだ。土間は清潔に掃き清められ、離れの作業場からも規則正しい織り機の乾いた音が聞こえてくる。藺草の青い匂いが立ち籠《こ》め、ここの夏は清潔だ。ただし、虎列剌患者を匿っていなければ。
弘三は静かに深呼吸をしてみる。例の甘ったるく厭《いや》な腐臭は嗅《か》ぎとれない。
「役場からですが、なんかここの御主人を最近見んて心配する者が居りましてな」
いきなり、密告函に投書があったとは告げない。最初それで失敗した。誰が密告したと騒ぐ者や、役場に怒鳴り込む者がいたのだ。年嵩《としかさ》の上役が巧《うま》く治めてはくれたが、役場勤めが何より自慢の親までが、「そねぇに嫌われる仕事なら辞めさせてもらえ」と泣いた。
そんな時上役は、親だけでなく怒鳴り込んで来た者にも懇々と説いてくれる。「弘三もわざわざ嫌われる仕事をしとうはないが、村に病気が流行《はや》るのを止めようと頑張っとるんじゃ」。要は、文句を言わず黙って従うから押しつけているだけなのだが、上役にそう誉められるのは悪くはない。穀物検査証票を間違えずに検印しても評価はされないのだ。
被《かぶ》った手拭《てぬぐい》を取りながら出てきたのは、その御主人の嫁だ。寒村には珍しく色白で豊満なヒロエは、弘三が幼い頃から愛想のいい小母《おば》さんだったが、今はその目に険があった。
「要らん世話じゃ。弘チャン、あんた虎列剌の患者が隠れとらんか嗅《か》ぎ回りようるんじゃてな。そねえな犬もせんような卑しい仕事は辞めとき」
さすがの弘三もこれには血が昇ったから、強い口調で言い返してしまう。
「卑しゅうても何でも、仕事じゃけんな。悪いけど小母ちゃん、一応は小父《おじ》ちゃんに会わしてや。報告はせにゃあならんけん」
「……病気で寝とるんじゃ」
思いがけない弱い態度に、こちらのきつい物言いをすぐ後悔した。ここの主人はやや取っ付きにくかったが、ヒロエには小さい頃よく抱かれたり飴玉《あめだま》を貰ったりしていたのだ。
「しゃあけど、絶対に虎列剌じゃないんよ。な、もう帰ってそう言うといて」
他人にも自分にも強く出られない弘三だが、さすがにあの細井の一家離散は胸に刺さる棘《とげ》になっていた。ここでまた自分が見逃したために一家離散、悪くすれば一家全滅の事態を招けばと考えを巡らせれば、踏み止まらざるを得ない。細井の家の橙色を失い、安西家の藺草の匂いをも失いたくはなかった。
「こらえてや小母ちゃん。虎列剌でねえのは信じるけん、会うだけ会わしてくれ」
ヒロエは手拭を被りなおすと、丸味のある背中を向けた。無言で弘三について来いと言っているのだ。弘三は母屋とも作業小屋とも遠い離れに連れて行かれた。長い濡《ぬ》れ縁は一歩ごとに軋《きし》み、庭木は乾いているのに踏み石の苔《こけ》は湿った暗い色だった。姿のない小鳥が囀《さえず》る中、ヒロエはやはり背を向けたまま障子を開けた。青いほど冴《さ》えた障子紙に、濃い葉影が揺れている。そこにはさらに格子があった。――座敷牢だ。
闇《やみ》の中にいたのは、異形の者でも妖怪《ようかい》の類《たぐい》でもなかった。安西の主人だった。ひたひた寒気が迫る。二人が掴《つか》みかかってきてここに押し込められたら、と瞬時でも想像してしまった自分を殴りたかった。そんな想像をして本当になったらどうするのだ。
ヒロエと弘三は格子の前に立ち尽くす。昼でも薄暗い部屋には、素裸の主人が端然と座していた。座り机の上には巻紙と筆が、これもきちんと並べられてある。ただ、紙には何も書かれていなかった。その時ゆっくりと曇っていた空が晴れ渡り、強い陽射《ひざ》しは室内にも射し込んだ。弘三は息を呑《の》む。
三方を囲む白い土壁一杯に、墨で自分の名前をびっしりと書き連ねてあったのだ。安西康治安西康治安西康治……書き殴った大きな字も、細心の注意を払った丁寧な楷書《かいしよ》も、崩れて読み取れない字もあった。その全てが自分の名前なのだ。
全裸で正座など極悪人の仕置きのようだが、主人は威厳を保っていた。着物を着ているこちらが恥ずかしくなってくるほどだ。
「自分の名前がわからんのか。自分の名前しかわからんのか。どっちじゃ」
そっと障子を閉めたヒロエの背中に聞いたが、それには答えてくれなかった。
「虎列剌でねえことがわかったら、帰りんさい」
弘三は当然、安西の主人はただの夏風邪で寝ていたと報告するつもりだった。何が不安で不服なんじゃ。思わず呟《つぶや》く。村では最も富裕な家に数えられ、家族もみな仲が良いではないか。ヒロエはすでに角を曲がって姿がない。ふいに蜩《ひぐらし》の声がぴたりと止まる。
静寂が満ち、女の吐息がかかった。弘三は闇雲《やみくも》に駆けた。とにかくこれは忘れるのだ。次の家に向かわなければならない。与えられた仕事さえきちんと済ませて定刻に帰りさえすれば、永劫変わらぬ自分と家族がいるのだ。それだけは変わらないのだ――。
次の家の老婆は、納戸《なんど》に長らく寝たきりになっていた。家人に戸を開けさせたら、いきなりワッと蠅《はえ》の大群が舞い上がり押し寄せた。腐った川魚の臭《にお》いで息もつけない。この一家は揃《そろ》って知恵の足らない者達なのだ。後退《あとじさ》りしながらも、袖《そで》で鼻と口を覆った弘三は、老婆を覗《のぞ》き込む。藁《わら》に横たわるそれは、すでに真っ黒に腐敗し膨らんでいた。この臭いを怪しまれて通報されたのだ。老婆は真っ黒に膨らんだ舌を突き出し、確かに笑っていた。
「死んどるがな。それもかなり前にじゃろうが」
酸《す》っぱいものが込み上げるのを堪《こら》え、弘三はぼんやり佇《たたず》むここの嫁に怒鳴った。だらしなく胸元をはだけた嫁は途方に暮れた顔で、蚤《のみ》の喰《く》い痕《あと》をぼりぼりと掻《か》いた。
「いんにゃ。昨日も婆さんは喋《しやべ》ったで。大角豆《ささげ》は筵干《むしろぼ》しにしたかて……」
それこそもっと酷《ひど》い業病を感染させられそうな気がして、弘三は飛び出した。駐在所まで走らねばならない。仕事じゃと言い聞かせても、もうこのまま家に逃げ帰りたかった。役場に戻れば、またあの密告函は中身を増やして待ち構えているのだ。
――炎天下を走り回ったり肝を冷やしたりで、弘三は疲れ切っていた。上役達も一応は同情してくれるが、密告函の処理を手伝ってくれようとはしない。濡れ手拭で顔から肩まで拭くと、弘三は死んだ柴田助役がいつも座っていた椅子に目をやった。まだ次の助役が決まらないので、そこは空席のままだ。艶《つや》っぽい女の幻さえ、今は懐かしい。
ほとんど機械的に裏手に回ると、新たな投書が入っているはずの密告函を運び込み、中を改める。中身は重さのない紙片だというのに、函はずしりと重い。それこそ怨念《おんねん》が籠もっているからか。因果な仕事じゃなあと揶揄《やゆ》されても、弘三はいつものように微苦笑できない。重く凝った腕を入れて取り出した紙片は、さらに弘三を嘲《あざけ》り笑うものだった。
「キトウシノムスメオサキ」「おさき」「お咲なる女」「蔓延の原因なりしお咲」
全部女の字だ。男を盗られた女達かと想像し、弘三は口が乾いた。そっと役場を出る。この異様な興奮と疲れの只中にある今なら、あの女に簡単に会える気がした。
暮れかけても陽射しのきつさは変わりない。白く抜けた道で、弘三は西の方角を仰ぐ。お森様のある方だ。古くからの信仰の対象だが、今は廃《すた》れている。そこに新たな似非《えせ》の神様の眷属《けんぞく》が住み着いたのか。弘三はそこにお参りする氏子の顔で、埃《ほこり》っぽい道を辿《たど》った。
大雨には必ず切れる川の下流に、その家はあった。最も土地条件の悪い地帯で、台風でも来ればたちまち床上まで浸水する粗末な家々が疎《まば》らに並んでいる。ほとんど潰れた藁葺き屋根のその家を見つけた時、さすがに今なら引き返せるかと来たのを後悔しかけた。破れた戸口にどこから盗んできたのか鳥居を立てかけ、粗雑な狼の石像をしつらえてある。庭の草だけは刈り取ってあるものの、それが逆に荒涼感を強めていた。
立ち止まる弘三の耳に、異様な唸《うな》り声が届いた。まさに地の底から響く幽鬼の呪文《じゆもん》だ。足が動かないと気付いた時、同時に女の気配がした。その女はいきなり、背後から覆い被さってきたのだ。あの生きていた頃の助役に覆い被さっていた影だ。ただこの影は重みと温《ぬく》みを持っていた。痺《しび》れる耳元に息を吹きかけてくる。腐りかけの無花果《いちじく》の匂いがした。その甘美な腐臭の元は、いかにもその匂いに相応《ふさわ》しい湿った艶のある声を出した。
「お父とお母が祈祷《きとう》をしよんじゃ。効き目やこ、ありゃせんのになぁ」
小さく叫べば瞬時に金縛りは解けたが、弘三はしばらく動けなかった。さっきまで背中に貼《は》りついていたとは思えない距離に、その女はいた。手を伸ばしても届かない先だ。派手だが粗末な銘仙と、だらしなく解けかけた帯の先が生温かい風に揺れていた。簡単に結った髪もほとんど解け、汗で額や頬《ほお》に貼りついている。背後から高く低く呪文を唱える声は響く。それに被せるように、女は白い喉《のど》を震わせた。朗らかで残酷な笑い方だった。
幻の女が幻でなく、そこにいた。迷宮の彼方にではなく、迷宮の入口にいきなり居たのだ。しかし弘三の上擦る声は、役人そのままの問い掛けしかできない。
「あんたは、虎列剌《コレラ》に感染はしとらんな?」
お咲は仰《の》け反《ぞ》りながら、けたたましく笑った。それだけで弘三は、この女にいいようにされる自分が先の先まで見通せた。会う前から悪どい女とわかっているのに、どうしようもなくこの女は美しかった。これなら充分、どこぞのお姫様じゃと詐欺を働ける。まさにこの女は、人を騙《だま》すためだけに美貌《びぼう》を持って生まれてきたのだ。
「病気は何もありゃせん。何なら確かめに来てもええ」
異様な興奮が抑えても抑えても突きあがってくる。自分でも不可解だ。単調さを不服ともせず、激しく動悸《どうき》を打つ経験など良くも悪くも望まずに生きてきたのではなかったか。今日は立て続けに異様な世界に落ちかけ、もう勘弁してくれと辟易《へきえき》する反面、何かまた刺激を求めているのか。それともただ目の前の女に魅入られてしまっただけか……
己れの前には助役が取り憑《つ》かれてしまったのだ。それを強く念じても、お咲に触れたい欲望は自分が自分でなくなる激烈さだ。己れの中で一点|冷《さ》めた部分だけは不思議がっている。なぜそんなにこの女に惹《ひ》かれるか。
無意識に、お咲に向けて手を伸ばす。お咲はその手を拒まず、軽く掴《つか》んで揺さぶった。野良仕事や縄|綯《な》いなどまったくしない手は、これまで触れたどの女より柔らかかった。人を騙す仕事は、当人は何も消耗しないらしい。騙し盗ってきたものは内部に蓄積され、それがこの淫靡な艶やかさに磨きをかけるのだ。
「わしは本当に……行くで」
お咲は身を翻し、踏み抜きそうな縁側に駆けあがった。吸い込まれるように中に入っていく。ぴたりと妖しい呪文は治まり、鳶《とび》の鳴き声だけが低い山間《やまあい》にこだました。破れ障子の向こうは真っ暗だ。何か幕を張っているのか、とにかく蝋燭《ろうそく》の一本も立てていない闇がこちらから覗けた。いや、陽光の下に開け放していてもそこは闇なのかもしれない。唐突に女の甲高い悲鳴があがった。お咲かどうかはわからない。
弘三はただ棒立ちになっていた。自分は今の今まで幻を相手にしていたのか。白い尖《とが》った糸切り歯の残像も腐った果実の残り香も、触れた手の柔らかな感触もこれほど残っているのに。やがて強い西風に道端の砂塵《さじん》が舞い上がり、木々が大きく傾いだ。何か形のない獣が、青田の上を凄《すご》い勢いで駆け抜けていく気配だけが伝わった。その獣が立ち去ってしまえば後は死ほどの静寂が訪れ、遥かな上空からは獣の遠吠《とおぼ》えが微《かす》かに響いた。
今しも、中から祈祷を受けた者達が出てくるところだった。こんな小さな家によく入れたなというほどの人数だ。誰にも見覚えがないところを見れば、近郷の村の者か。それらしい白い着物の初老の夫婦がお咲の親だろう。父親は、これは完全に人を騙すのが前世から約束された者だ。整ってはいるが、来世はきっと獣だという徳のない顔だ。母親は、これはもう完全に気がふれていた。
「こねえに、虎に食いつかれた」
お咲の母親とおぼしき女は、脳天から突き抜ける甲高い声をあげつつ着物の袂《たもと》をたくしあげて、裾《すそ》をまくり上げる。二の腕と腿《もも》が剥《む》き出され、そこだけ妙に張りのある肌が照った。くっきり歯形は付いていたが、どう見ても人間のそれだった。なのに「さっき飛び込んだお咲が付けたんじゃろ」とは、誰一人口にしないのだった。
「虎将軍は追っ払《ぱろ》うた。安心しんさい。狼様がもう守ってつかあさる」
弘三は、さっき駆け抜けたのは虎ではなく狼という気がしてならなかった。そんな弘三に気づいたのは、お咲の父親だ。口調だけは丁寧に穏やかに話しかけてきた。
「巡査じゃあなかろう。役場のお人かな」
しどろもどろに、弘三は言い訳をした。似非と評判ではあっても、目の前で怪しげな呪文を唱えられてはやはり寝覚めが悪い。暗い家の中からこちらを窺《うかが》うお咲の目線もある。
「はあ、視察に回っとるんです。いや、あの、人が大勢集まりゃあ、あの病気が伝染《うつ》り易うなりますけん。どうか気をつけてつかあさい」
お咲の父親は神妙に頷《うなず》いたが、口元には完全に弘三を舐《な》めきった笑いを浮かべていた。母親の方は狼さんが狼さんがと髪を振り乱し、首筋の歯形を披露していた。集まって祈祷を受けていた者達だけが静かに、口々に覚えたての呪文を低く唱えていた。弘三は困惑したまま、破れ障子に目をやる。ふいに、白い女の手が突き出された。
その手は妖しく手招きなどしていないが、細長い人差し指は真直ぐ弘三を指していた。陽に晒《さら》され続けた弘三は、強い疲労感を覚えた。白い手に剛毛が生えていると錯覚したのは、流れこんだ汗のせいなのか。立ち枯れた裸木の枝が、虚空《こくう》を掻《か》いていた。
……気がつくと弘三はただ一人、その場に取り残されていた。お咲の一家も祈祷を受けていた村人達も誰一人いない。湿った夏草のそよぐ音と、侘《わび》しげな野の花にまとわりつく蜜蜂《みつばち》の羽音と、何かに急《せ》き立てられているような蜩《ひぐらし》の鳴き声と。これが聞こえるものすべてだった。お咲の一家が住んでいるはずの家も、何の気配も感じられなかった。弘三は、どこかひどく冷めた部分で判断する。立ち去るなら今だ。恐怖感がまだどこかにとどまっていて、背筋まではい上がってはいない今を逃せば、自分もまた気がふれる――。
「そりゃ大変な難儀じゃったなあ。早《はよ》うに寝んさい」
トミには、今日のとんでもない出来事を話して聞かせた。ただし、お咲については脚色を加えてある。自分はお咲を遠目に見ただけで、ただ薄気味悪い女としか感じなかった。今後どんな形であれ関わり合うことはないし、関わりたくもないと。
囲炉裏の炎が揺れ、扁平《へんぺい》なトミの顔にも陰影ができる。鍋の中で蕩《とろ》けるほど煮込んだ薩摩芋《さつまいも》の上に、蕎麦《そば》粉を入れて掻き混ぜる。カズ子もミサ子も、この雑炊は甘味があって好物なのだ。食べればすぐにその場に転がって寝てしまう。悪夢そのままの安西の主人や納戸に放置されていた老婆、あの奇怪な者達と同じ地続きにあるとは思えぬ平穏な情景だ。
しかし自分はあの女と関わってしまった。あの爪《つめ》の中には虎列剌菌以上の毒が仕込まれているとしても、引っ掻かれるくらいはしてみたい。弘三はトミと寝床に入りながらもお咲を思っている。布団代わりの紺木綿の重い夜着丹前を被《かぶ》り、さすがに今夜は目を瞑《つむ》るなり眠りに落ちた。格子の向こうの端然と座った裸の男と、納戸で腐っていた老婆と、闇の彼方から手招きしてきた女と。そして、密告函。悪夢の元には事欠かない。隣のトミは無表情に、煤《すす》けた低い天井を見上げていた――。
なぜ自分一人にやらせるのか。手分けして助けてくれてもいいだろうに。役場の裏手に回りながら、弘三は顔を顰《しか》めた。日に日に密告函はその嵩《かさ》を増していく。周りの者はみな弘三が不満を抱くなど想像もしないらしい。信頼されているのか馬鹿にされているのか。死んだ羽虫の音を立て、紙片はこぼれ落ちる。生きている間も嫌な男だったが、死して尚も柴田助役はこの村役場に嫌な形で君臨し続ける。
虎列剌は遂に役場の同僚の一家をも襲った。空席に目を遣《や》り、その男の顔を描こうとしたができなかった。正面に見上げたことがないからだ。虎列剌による全国の死者は日清戦争の戦死者数をとうに越え、祭りは大抵が中止された。村ごと交通遮断される所も増え、寺社や校舎は臨時の避病院に充てられ、死装束のための晒布《さらし》は品切れとなった。トミもあちこちの葬式で死装束を縫わされている。最早、あの世は行く所ではなく帰る所だった。
紙片は十枚近く入っていた。金釘流《かなくぎりゆう》の字で、怪しい隣人や憎い奴《やつ》の名前を記してある。お咲の名は今回に限ってはなかった。それだけでもう、今回はどれも本物の感染者と信じられる。噴き出す汗が粘っこい。ついに弘三は、声に出してしまっていた。
「あんまり多いけん、誰か手伝《てつど》うてくれんじゃろうか」
室内は静まり返った。誰一人弘三を見ず、誰一人答えてはくれなかった。泥の人形めいた彼らに弘三は戦慄《せんりつ》した。もう一度頼むことも、下手な冗談でこの場を和ませることもできなかった。指先が震えた。あやかしの異郷に迷い込んだ唯一人の人間の気持ちはこれかと想像したが、実際は弘三こそ人間様の世界への闖入者《ちんにゆうしや》なのだった。自分がみなにどう思われているか、その沈黙によって突き付けられた。……のろのろと支度をし、外に出た。
弘三は、奉職以来初めて仕事を投げた。仲間の妖怪《ようかい》に会いにいくためにだ。
「初めて会《お》うた時、あぁあ、とうとう会うてしもうたと思うたじゃろ」
お咲は何もかも見透かす。弘三が会う前から自分に焦がれていたことも、今は消沈しているが、その助けを嫁には求めていないことも。狼《おおかみ》の石像の陰から軽やかに出てきたお咲は、今日は格子柄の紺木綿の着物だが、やはりだらしなく着崩している。この女にとって着物は着るものではなく脱ぐものなのだ。無造作に結いあげた髪に、血膿色《ちうみいろ》の珠の簪《かんざし》を挿していた。その赤色を一瞬|閃《ひらめ》かすと、お咲はひらりと背を向けた。
「わたしもじゃ」
その一言で、弘三はこの女を自分の物とした。襟足の白粉《おしろい》が垢《あか》で浮いていたが、それすら艶《なま》めかしい。素足の指が挟む鼻緒はこれも血の色だった。爪だけが清楚《せいそ》に珊瑚《さんご》の色だ。人が住んでも廃屋のままの家は、獣の胎内だ。湿って生温かく、お咲の中と同じだった。ゆるく吹き抜ける風には石炭酸の臭いがあった。どんな格好をさせても、お咲はいつのまにか背後から覆い被さってくる。いつか助役の背後にあった影と同じだ。
弘三は頭を抱えた。この女に実際に会ったのは二度目だというのに、仕事も家族も捨てて二人で暮らしたい欲望は膨れあがる。トミとのように慎ましくではない。あの座敷牢の主人のように、自分だけの歓びの中に閉じ籠《こ》もるのだ。壁にはお咲お咲と書いてもいい。仕舞いにはあの納戸に放置されていた婆さんのように真っ黒に膨れて腐ってもいい。いや、すでにもうどこかが腐りかけている。
「今度からお父に拝んでもらい。安うしといちゃるけん」
粘つく板の間に裸で伏せたまま、物憂くお咲は囁《ささや》いた。つまり次からは金を払えと要求しているのだ。傍らに座り込む弘三は、荒れた庭先からの風を受けた。目の前を二匹|繋《つな》がったままの蜻蛉《とんぼ》が過《よぎ》った。雄雌どっちが気持ちええんじゃろか。呟《つぶや》いてみる。
他の投書を全部破り捨てて川に流し、弘三は役場に戻った。今日のはどれも嘘《うそ》だったと告げれば、みな曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。泥人形達は夕闇《ゆうやみ》の中、その輪郭を溶かしていた。
あれ以来弘三は、密告函《みつこくばこ》の中身をどれも握り潰《つぶ》すようになった。視察に回るふりをしてお咲の元に通うのだ。虎列剌で死ぬ者は死ねば良い。投げ遣りに歩く弘三は、お咲の親にすれ違う。偽の狼様を連れて石炭酸の臭う家を回る夫婦は、似非だろうがなんだろうが似合いの美しい夫婦であった。お咲の母親は裾が捲《まく》れるのも気にしない。白い腿《もも》だけは娘と似ていた。揃って粗末な灰色無地の着物に擦り切れた草履なのに、なぜか二人は極彩色なのだった。呪文かと思えば子守歌を歌っている。弘三とすれ違っても無言だ。この夫婦は夫婦だけの望んだ黄泉路《よみじ》を進んでいた――。
「昼はあんたのために空けとるんよ」
お咲の家の前は、いつも強い風が吹いていた。崩れた土壁の中から誰かが嗤《わら》う。覗《のぞ》く目がある。鳥は弘三の噂をし、前を流れる川には密告函から抜き取って捨てた紙片が花弁となって流れていく。そしてお咲はいつも生温かい。
「お前は、柴田助役とも出来とったんか」
すうっと、お咲の瞳孔《どうこう》が縮まるのがわかった。硝子玉《ガラスだま》のような瞳《ひとみ》は、しまったと怯《おび》える弘三を映している。つい口が滑ったのだが、お咲はふうっと赤い口元をほころばせた。
「後妻にするとか旨《うま》い事ばっかし言うてなあ。そのくせすぐ殴る蹴《け》る。可哀相《かわいそう》なんはわたしの方じゃ。痣《あざ》だらけにされて、金はけちられて」
お咲と情交の後は、お咲の親に拝んで貰う。見様見真似にしては堂に入った父親のお祓《はら》いと、むしろ悪いものを呼びそうな母親の呪文とが山間に流れていく。弘三はいつも祈祷料としては多めの金を渡した。その金は障子紙になり米になりお咲の着物になった。給金は任せてあるから、弘三がこのところ度々金を持ち出すのをトミは当然知っている。弘三は和気銀行への預金を増やしたと言い訳した。日清戦争後に続々設立された銀行へ預金するのは余裕の証明だが、弘三の僅《わず》かな預金はお咲のためにすべて引き出されていた。
トミは黙って内職を増やした。それほど良い嫁なのに、お咲を知ってからはこの女が鬱陶《うつとう》しく、時に憎しみさえ抱いている自分に気づく。お咲はええぞ。そんな罵声《ばせい》を、囲炉裏端で一心に繕い物をしている俯《うつむ》いた横顔に投げ付けたい衝動にも駆られる。だがトミはちらりとも反抗的な態度や眼差《まなざ》しは向けない。密告函の件で気が立っているのだと耐えている。ある晩|些細《ささい》なことから手をあげた時も、トミは寝床でぐずる二人の娘を諭していた。
「お父は大変なお仕事で気疲れしとるだけなんよ」
さすがに胸は痛んだが、今も草鞋《わらじ》編みをするトミを寝床から見上げながら夢想するのはお咲なのだった。もう少しましな家に住みたい。そう甘えたお咲。無論、他の大勢の男にも媚《こ》びているに違いない。助役は死んだが、金を持った男が現れてお咲を気に入ればそれで終《しま》いだ。自分はあっさり捨てられるだろう。あの黒い影すら自分には取り憑《つ》かない。お咲は自分にはそんな強い執着はないのだ。それが逆にこっちの執着を強めた。
囲炉裏の埋《うず》み火に浮かぶトミは、角度によってお伽話《とぎばなし》の鬼婆になる。トミはお咲と違って、決して自分を裏切らないし悪企みなどできるはずもないのに。寝返りを打てば、カズ子とミサ子の愛らしい寝顔がある。その枕元《まくらもと》には団扇《うちわ》が置いてある。行商人がくれたこの団扇は娘達の気に入りだ。赤い夏の花が描かれてあり、その下にトミが二人の名前を書いてやっていた。平仮名しか書けないトミだが、それはいかにも素朴な情愛の込められた字だ。その団扇の字と娘の寝顔を見れば、弘三も気持ちが揺らぐ。
「……は鬼の子を産め 蛇の子を産め 角の生えた子を産め……」
トミが呪文を唱えているかと、一瞬体が堅くなる。トミは古い子守歌を歌っていた。雨戸の破れ目には漆黒の夜空がある。鬼の子は、蛇の子は、角の生えた子は、本当に今この村のどこかで生まれているのかもしれない。産んでいるのは村外れの女だ。
――一度はその歌に深く眠らされた弘三だが、真夜中に目を覚ましてしまった。娘達は交互に愛らしい寝息を立てて熟睡している。しかしトミの姿がなかった。
起き上がって見回したが、土間にも囲炉裏端にもいない。外の便所だと無理に自分を納得させたが、一向に帰る気配がない。囲炉裏の埋み火の弱い赤色に、不安は掻きたてられた。まさかあんな喧嘩《けんか》で妙な気を起こすとは思えない。幼くして親を亡くしたトミはすでに実家と呼べる家もない。それにしても耳が痛むほどの静寂だ。月が欠ける音さえ聞こえる。ふいに戸が鳴った。風ではない。トミが音もなく入ってきたのだ。どこに行っとったと聞けるはずなのに、弘三は眠ったふりをして縮こまった。トミはそっと隣に来て着物を脱いでいる。ここらの者は半裸で寝るのが普通で、外便所くらいそのまま行く。トミはわざわざ着物を着てから行ったのか。まさかどこぞで男と密会していたのか。それこそ、お咲ではあるまいし……。
ひんやりと夜気の匂《にお》いがした。隣に見知らぬ女がいるようだった。死んだ祖母が寝床で語ってくれたお伽話が思い出したくないのに思い出される。耳元で死んだ祖母が囁く。
「……その女房はな、こっそり寝床を抜け出すと村外れの墓場に行っとった。そこで新墓を掘り返して死人の肉を食らい、骨を齧《かじ》りよったんじゃ……」
虎列剌で死者が多数出たため、村の墓地には新墓が急増していた。葬ってしばらく経つと、土饅頭《どまんじゆう》は大きく陥没する。棺桶《かんおけ》が腐るからだ。役場へ行き帰りする路でもそれはよく目につく。改めて土を盛り直すのだが、棺桶からはみ出た死者は久しぶりの日の目を仰いで、盛大に腐る速度を早めるのだった。弘三は静吾郎の墓の脇《わき》を通る時の気持ちを、そっくりそのまま感じていた。何か見たくないものがすぐ隣にいる、と。
トミの寝息は聞こえない。こそりとも動かない。弘三は薄目すら開けるのが恐かった。なぜ一言、どこへ行っとった、と聞けないか。田圃《たんぼ》の水が気になってなぁ、といった実に他愛無い理由かもしれないのに。死人を食ってきたなど、あるはずがないではないか。
隣にいるのはもしやお咲、などとまたしても嫌な想像をしてしまい、弘三はひたすら堅く瞼《まぶた》を閉じた。トミではなく、とうに死んだ祖母が歌っている。
「……は鬼の子を産め 蛇の子を産め 角の生えた子を産め……」
誰に対してそんな恐ろしい子を産めと脅しているのだ。その部分がどうしても曖昧だ。泣きやまぬ子は、か。役立たずの嫁は、か。男を誑《たぶら》かす女は……か。
翌朝、トミの様子は何も変わりなかった。ここら辺りの朝飯は大抵が昨夜の残りの冷えた麦飯にお茶をかけるのだが、トミはしっかり煮込んだ雑炊にする。碾割《ひきわり》麦に菜っ葉を入れた湯気の立つそれを啜《すす》りながら、弘三はすでに喧《やかま》しい蜩の声をぼんやり聞いた。どこの嫁もトミを見習えば、虎列剌も流行らないだろう。しかし、と箸《はし》で菜っ葉を掬《すく》う。それでもトミは凡庸な女だ。対して、お咲のような女はどこにもいない――。
役場は蜩が密集する木々に囲まれているが、葉陰を通して炎熱に炙《あぶ》られている。その下の密告函も陽射しに温もっていた。重症患者はあらかた死亡するか隔離されたため、入っている紙も随分減った。今日などたった二枚だ。その一枚は、すでに避病院に入れられた老人の名前だった。そうしてもう一枚を開いた時、弘三は陽射しにではなく目眩《めまい》がした。
「おさきをとらへるべし。これらまんえんのもとなり」
お咲を捕えるべし。虎列剌蔓延の元なり。首筋に吹き付ける冷たい風は、カズ子とミサ子の団扇が扇《あお》いだものだった。閉じた瞼《まぶた》に、赤い花弁が散った。
改めてその字を見返す。やはりあの団扇の平仮名を書いた者の手によるものだった。いや、似た字を書く者など幾らでもいる。弘三はそう思おうとした。しかし確かに昨夜、トミは着物を着て外に出ていた。月明かりを頼りに村役場まで無言で歩くトミが、ありありと思い描けた。そのトミは弘三にとっては、新墓を暴く鬼嫁だった。
自分とお咲の事をいつ知ったのだ。紙片を握り締めて低く唸《うな》る。ふいに、静吾郎の嫁を罵《ののし》ったトミの横顔が思い出された。何食わぬ顔をしながら、トミは弘三がどの女に懸想しているかをすべて見抜いているのではないか。だが何より怖いのは、今この手の中にある紙片だ。鬼に変化しつつある女の正体を教えてくれているのだから。
強い陽射しの戸外から暗い室内に入れば、しばらくは何も見えない。奥の机に柴田助役が座っているのも幻だ。ぽっかり空いた空洞の口から、団扇の模様の赤い花が咲いている……そこで弘三の視界は元に戻って助役の幻も消え失せたが、それだけだ。弘三の世界はもう元へは戻らないのだ。恐い女が、二人に増えてしまったからだ――。
表向き、トミは何も変わらなかった。虎列剌は一応終息に向かっているとはいえ、油断はしていない。相変わらず煮込んだ食物を出すし、熱湯をかけて乾かした着物には焼き鏝《ごて》まで当てている。義兄の家での田圃の草刈りも黙々と行なうし、得意の内職もさらに量を増やしていた。これは弘三が要らぬ出費を増やしたからだが、トミはそれについての文句も一切口にせず、和気銀行の証書を出せとも迫らない。
やはり、ただ似た字を書く密告者がいたというだけか。弘三は次第にそう思えてきた。あの夜だって、田圃の水が気になっただけかもしれないではないか。弘三は以前、自分が何も事を起こさない限り、家族は永劫《えいごう》変わりないと信じていた。事は起こしてしまった訳だが、顕《あらわ》にならない以上は何事も起こっていないと同然ではないのか。
それよりもお咲だ。お咲ははっきりと冷たくなっていた。昼間は空けておくなどと甘えた癖に、近頃はいつもいない。密告函もそろそろ撤去の話が出ているので、そうすれば外回りの理由がなくなってしまう。夜に忍んでいく勇気もない。トミの目もあるし他の男達と鉢合わせして騒ぎにでもなれば、役場は辞めさせられてしまう。
実はお咲は、最新の花形産業である耐火|煉瓦《れんが》工場の経営者に囲われ始めたのだ。親も大喜びだ。似非《えせ》の祈祷《きとう》で日銭を稼いで流れ歩かずとも、娘は岡山市内に家の一軒も持たせて貰《もら》えるかもしれないのだ。お咲がそれを捨て、貧しい村役場の男を取るなどありえない。
弘三もお咲には未練たっぷりだが、役場も家族も親もみな捨てるほど分別を無くしはしない。何よりお咲がまったく弘三に未練がないのだ。生霊となって祟《たた》ってすらくれない。いっそ本当に虎列剌で死んでくれればと願った。
その後、あのたどたどしい平仮名の「おさき」を見ることはなかった。その密告者は、弘三がお咲に飽きられたことを知っているのだ。苛《いら》つく弘三は役場では大人しくしているが、家では些細《ささい》なことでトミに手を挙げるようになっていた。トミは丸まって耐えるだけだ。小さく啜り泣くだけだった。カズ子とミサ子は怯えて次第に寄ってこなくなった。
――その夜は、墨で塗り潰《つぶ》したほどの暗夜だった。半鐘が鳴り響くのを夢|現《うつ》つに目覚めた弘三は、時ならぬ騒《ざわ》めきに最初は寝呆《ねぼ》けているのかと思った。だが、実際に不穏な闇の中で、ミサ子は眠っていたがカズ子は起きてぐずっていた。
「お母が居らん」
弘三は飛び起きた。いつかの晩と同じだ。トミがいない。思わずカズ子を抱き締めた。その時、半鐘の乱打される音をはっきりと捉《とら》えたのだ。小さな獣のように震えるカズ子を抱き、弘三も震えた。半鐘にではなく、或《あ》る予感に怯えたのだ。
突然に戸口が開いた。白い月光が差し込む。女がいた。咄嗟《とつさ》にお咲と見たが、激しく息を弾ませているのはトミだった。やはり着物は着ている。お母、とカズ子が弘三の腕から抜け出てトミに駆け寄った。ミサ子がようやく目を覚ましてぐずった。
「……どこへ行っとったんじゃ」
今夜はちゃんと、押し殺した声で聞く。近くに、遠くに、大勢の人間の荒い息遣いがある。狼《おおかみ》の遠吠《とおぼ》えと、この国にいるはずのない虎の咆哮《ほうこう》もこだまする。黒い鳥は羽撃《はばた》き、鶏までが真夜中に時を告げた。開け放たれた戸口から小さな地獄が見えた。山の端が赤い。
「火事じゃ、て聞こえたけん、急いで出てみたんよ」
後から思えば、寝床から咄嗟に飛び出せば着物を着ているはずがないとか、まずは傍らの自分を起こしたり子供を抱いたりしないかとか、疑念は幾らでも湧《わ》いてくる。だが弘三は目の前の妻にすがった。あの赤い空の下に誰の家があるか、弘三はすでに予感していた。
その時、戸口が激しく叩《たた》かれた。隣の主人だ。
「火消しの手伝いに出てくれえ」
天秤棒《てんびんぼう》に桶《おけ》を下げ、トミに子供を任せると弘三は飛び出した。
「あの狐憑《きつねつ》きの家じゃ」
隣の主人は険しい表情だった。どの男もあの女に惚《ほ》れるとは限らない。このように忌む男もいる。弘三はまだ夢の続きの中にいた。お咲の死の予感より真っ黒な何かが背後から迫っていた。闇にも濃度がある。明るい順に空、人家、山脈、道。最も濃いのが人だ。松明《たいまつ》を掲げて提灯を下げていても不吉な影法師だ。……それは、我が家にもいる。
地獄の始まりはこのような道筋だろう。大地はひたすらに平坦《へいたん》で、遮るものはないのに先が見通せない。切れば祟ると伝えられる森があちこちにある。青い燐光《りんこう》は獣の目なのかあやかしの者か。辿《たど》り着いた先には、ほとんど燻《くすぶ》るだけになった家の残骸《ざんがい》があった。
村の半数の男がいたのではないだろうか。すでに鎮火しているが、燠火《おきび》は不吉な赤に燻《くすぶ》っていた。川の水を汲《く》んでは掛けていたため、みな水からあがったように濡《ぬ》れていた。巡査もいるが、ごった返していてどこに知った顔があるかわからない。
「弘三よ。お前鳥目じゃなかったんか。よう夜道を走ってこれたなぁ」
背後に大きな男がいて、静吾郎の声で話しかけてきた。特有の甘く生臭い虎列剌患者の臭《にお》いさえ漂う。耳鳴りがした。顔は火照《ほて》るのに首から下は氷室に入れられたように冷えた。心臓までが凍りつきかけた時、急激に体温が戻った。背後にいたのは小柄な巡査だ。
「みな死んどる。警察で死骸《しがい》を調べにゃいかん」
巡査が長い棒で崩れた木材を持ち上げると、その下に確かに元は人間だった者がいた。異様な臭気が鼻をつく。影法師が固まって転がっていた。縮まった焼死体は何かを求める形に手を突き出していた。男か女かもわからないのに、弘三はこれがお咲と直感した。糸切り歯が光ったのだ。頭の芯《しん》が痺《しび》れ、未《いま》だ強い感情は湧《わ》かない。
鳥居も焼けてしまっていたが、石の狼様は残っている。ただし真っ黒に煤《すす》けて割れていた。弘三はこの中でお咲と過ごした時を思い返そうとして出来なかった。最初からこの黒焦げの影法師に付きまとわれていただけと思えてくるのだ。
巡査が村人の何人かに話を聞いて、手帳に書き付けている。
「真っ暗でようわからんかったけど、女が走って行きょうた。確かあっちの方へ……。その後で火が出たようなんじゃけど……ようわからんなぁ」
動けなかった。燠火は弘三の足元からも煙を立ち上らせた。下半身を焦がし全身を火膨れさせる。トミが暗い道を駆け抜ける絵は、あまりにも鮮やかだった。被《かぶ》さるのはお咲の笑い声だ。その時実にさりげなく近付いてきた者があった。あまりに自然なので、弘三はいつも通りお辞儀した。洋装なのに草履履きの柴田助役は、元気な胴間声《どうまごえ》をあげた。
「阿呆《あほう》じゃのう、お前も。手に負える女じゃなかったろう。あの女はとにかくしつこいけんな。生きとる間も死んだ後もじゃ」
何か答えようとして我に返る。助役はとうに死んでいたのではないか。歯が鳴った。巡査が、もう帰れという意味のことを命じているのが、遠い影絵になった。
――どうやって家路を辿ったか、弘三は覚えていない。戸を開けると、腰巻きだけのトミが出てきた。寝床に入っていたようだ。子供達はすでに寝息を立てていた。
「大変じゃったねえ。火事んなったのはどこの家なん?」
上半身裸のトミは、仄白《ほのじろ》い。黒焦げの女とは違う。その白さが恐ろしかった。ここは本当に安らげる我が家か。ここは本当に永劫変わりない自分のものなのか。この女はよく知った女なのか。……お咲の名とその死を、この口から言わせたいのか。
「流れ者のあの一家じゃ。いやもう疲れた。すぐ寝る」
その晩は何事もなかった。気は昂《たか》ぶっていたが、やはり疲れ切っていたのだろう、弘三はいつのまにか眠り込んでいた。悪い夢は見なかった。現実に見過ぎたからだ。
翌朝トミが整えた朝飯は、珍しく冷飯だった。
「こねえに暑うては、煮えたぎったものは口に入らんじゃろ」
漬物《つけもの》の皿を差し出しながら、トミは薄く笑う。だが娘達は黍《きび》の粥《かゆ》を食べていて、トミはその残りを啜《すす》っている。トミの横顔を盗み見たが、何の動揺も陰りもない。昨日の火事は夢だったのか。不審なトミ、不穏な噂《うわさ》。死霊どもと同じ幻なのか。
役場でも、昨夜の火事の話で持ちきりだった。巡査も話を聞きにやってきた。弘三はその話題からは出来るだけ遠ざかっていたい。お咲が死んだ、それについて悲しんだり惜しんだりの余裕もない。ただもう逃げたかった。あまりにも自然に現れた静吾郎や助役は、本当に気疲れのせいか。弘三はついうっかり、昨日助役に会ったと言いそうになる。
「阿呆じゃのう、お前も。手に負える女じゃなかったろう。あの女はとにかくしつこいけんな。生きとる間も死んだ後もじゃ」
耳元に懐かしい大声がよみがえる。弾《はじ》かれたように立ち上がり、弘三は裏口から出た。巡査に、嫁について聞かせろと来られたらどうすればいい。燦々《さんさん》と照る陽光の下、密告函は熱を持っている。すべてはここから始まった。振ってみると微《かす》かに音がした。善意なのか悪意なのか。真実なのか嘘なのか。善行なのか悪行なのか。トミは……よい嫁なのか。
いつまでも密告函を抱いて立ち尽くしている訳にもいかない。弘三はのろのろと中に戻った。巡査はまだいたが、弘三に特に話を聞こうとはしない。座り机に函を据え、弘三は惰性的に鍵《かぎ》を開けた。途端に耳元に恐ろしい悲鳴があがった。と思ったが、実はそれは自身の喉《のど》から発せられたものだった。みな一様に驚いて弘三を見、何じゃと聞いた。破れそうに心臓が高鳴っていた。弘三はもつれる舌で、それでも必死に言い訳をする。
「いや、あの、中に百足《むかで》が入っとった。わし、大嫌いでのう」
巡査共々、苦笑いしてくれたのでまずは安堵《あんど》したが、とても本当の事は言えなかった。開けた途端に炎があがったなど。しかもそれが人間を焼く臭いがしたなどと――。
中にはただ一片の紙片があるだけだ。そこに書かれてあったのは、もう隔離されてその日の内に死亡した子供の名前だった。それを抜き出すと蓋《ふた》を閉め、堅く施錠する。指先が冷えていた。もうこれを開けるのは嫌だと、はっきり思った。
役場に行けば密告函。うちに帰ればトミ。村外れに行けば黒焦げの廃屋。出世は望めなくても単調な雑用ばかりでも、村人の尊敬は得られる職場だった。ひたすら良く仕えてくれる妻のいる穏やかな家庭だった。妖《あや》しく美しく、一緒にいれば胸の高鳴る女が待っていてくれる村外れの密会場所だった。それがどうしてすべて恐ろしい場となり果てたのか。
県下一帯に配布される山陽新報にも、「怪しき女の走り去るを目撃す」の記事は出た。しかし死んだ一家はとかくの不穏な噂があり、特に娘お咲には恨む男女が多数いたというので、捜査は難航しているらしい。「黒焦げ美人殺人事件」は連日大きく報じられ、実名でお咲との関係を書かれる男も幾人かいた。柴田助役までかつて情夫であったと名前を出されていたが、弘三の元には記者は来ない。その他大勢で名前を出しても仕方ないからだ。
トミを怪しむ者は皆無だ。トミは何も文句を付けようのない出来た女なのだ。県立病院で解剖されたお咲一家だが、明確な傷痕《きずあと》や絞殺の痕跡《こんせき》はなく、失火で死亡と断定された。
密告函とトミだけが弘三を無言で圧迫した。開けるのが嫌でたまらないのに開けたい気持ちもどこかにある。別の用事で裏手に出れば、誰もいないのにひそひそと何者かが話し合っている。見回しても蝉《せみ》の鳴き声とざわつく木があるだけだ。密告函に近付き、弘三は息が出来なくなる。声はその中から聞こえるのだ。紙片が紙片と喧嘩《けんか》をしているのだ。
「ようも密告なぞしやがって」「そっちこそ汚ねえじゃろが」……
錯覚だと頭を振り、函を開ける。中にはただの物言わぬ紙切れがあるだけだ……と息を吐いたすぐ後に、弘三の机の上でも紙切れは遠慮無く声を上げる。
「やっぱり火ぃつけたんはあの女じゃろ」
またしても飛び上がり叫び、弘三はみなの注視を集める。普段、いるかいないか気にも留められない弘三だけに、余計に目立つのだ。あいつは最近ちょっと変になっとる。役場の者も気付いてはいるが、見て見ぬふりで函は撤去されない。確かめ役も弘三のままだ。弘三は壁の八角時計や天井の吊《つ》り洋燈《ランプ》と同じ、役場の備品に過ぎないのだった。
それでも弘三は密告函を開け続ける。怪異は連日ある。何事も慣れるというのか麻痺《まひ》するというのか、大声は次第に出さなくなった。虎と狼の咆哮《ほうこう》があがった時などは、なぜみなには聞こえないのかと妙に冷静に辺りを見回していたし、函いっぱいにお咲の顔があった時もそんな仏頂面ではなく笑ってくれたらいいのに、と苦笑したほどだ。
目が窪《くぼ》み頬《ほお》が痩《こ》けるのは虎列剌顔貌《コレラがんぼう》と称されるが、弘三は感染もしていないのにその顔になりつつあった。さっぱりしたものの方が喉を通るじゃろう、トミはにこやかに冷飯を出す。子供と自分は熱い雑炊を啜る。弘三はその冷飯もなかなか喉を通らなかった。
――虎列剌はようやく終息に向かったが、最後の最後に近所の家が揃《そろ》って感染した。さすがにもう、避病院がそんな恐ろしい場所ではないとは知れ渡っていたので、そこの一家は大人しく避病院に連れて行かれた。早速、例の消毒薬が大量に撒《ま》かれ、風向きによっては弘三の家にも届いた。そうしてあっけなく、密告函も撤去が決まった。
役場の建物|脇《わき》の納屋にしまいこまれ、次の虎列剌|蔓延《まんえん》の時を待つのだ。片付けながら弘三は、解放感も安堵感も得てはいなかった。次の時も自分が開けるのかと考えていた。しかしその時まで死にもせず感染もせず馘《くび》にもならず、またこの函を開ける役目を仰せつかっているとしたら、存外幸せなことではないのか。
お咲一家の火事は、「拝み屋の自分達が感染したのを苦に心中した」という噂が定着しつつあった。警察も捜査は続けているのだろうが、弘三やトミの元には何の沙汰《さた》もない。ただ、道端で知り合いの巡査に会って他愛無い世間話をしている時、ふと気が付くと近くの木の陰に物凄《ものすご》い形相のトミが立っていたことがある。確かにあの時のトミはこちらを窺《うかが》っていた。咄嗟《とつさ》に知らぬ顔でその場を離れた弘三だが、動悸《どうき》と寒気は一晩続いた。トミは本当に放火をしていて、それを弘三が疑っていることも知っているのではないか。
だが弘三はあれ以来どこかが麻痺していた。お咲の死霊に付きまとわれることもなく、トミに寝首を掻《か》かれることもなく、虎列剌に感染もせずにいた。思えば密告函が現れる以前の生活そのままだ。そのままなのにこんなに変わってしまったのだ――。
その日、弘三は新しい助役が岡山市役所から戻るのを迎えに行かされた。今度の助役は牛のように大きく大人しい男だった。変な屈託も何もない。無理な洋装もしないし、どこぞに女を囲っているという話もない。密告函などという発想も出来そうになかった。
街道を歩いていた弘三は、懐から手拭《てぬぐい》を出すため立ち止まった。汗を拭いながら何気なく土手の下を見下ろし、目を細めた。トミではないかと思える女がいたのだ。着物の縞柄《しまがら》に見覚えがある。やはりトミだ。呼ぼうとしてはっとした。トミは川の中にいるのだ。その川の前の家は、先日一家揃って隔離された家だった。
石炭酸も多量に流れこんでいるその川で、トミは裾を絡げて魚を追っていた。その顔は無表情で、淡々と捕まえた魚を魚籠《びく》に入れている。そんな所の魚なんぞ食ったら危ないがな……と呟《つぶや》き、弘三はいきなり氷の柱を抱かされた。トミは誰に食わすために、患者の出た家の前を流れる川で魚を捕っているのだ。
閑《のど》かな川のせせらぎが、耳朶《じだ》の奥を痺れさせた。家に帰れば、トミはきっとあの魚を弘三の前にだけ出すのだ。普段と変わらぬ顔をして、たっぷり虎列剌菌を含んだ魚を夫に食わせるつもりなのだ。土手に咲き乱れる黄色い花の鮮やかさに目が痛んだ。
なだらかに続く陽盛りの道の真ん中に、弘三は立ち尽くした。今日帰る我が家こそが密告函なのだ。悪意、不安、怨念、憎悪、恐怖……それらを匿名のまま鍵付きの箱に密閉する暗い場所。密告者は素知らぬ顔で、密告の相手に優しい言葉さえかけるのだ。美味《おい》しいよと、優しげに毒を食らわすのだ。
足元に長く伸びる弘三の影の横に、もう一体の影が伸びていた。艶めかしいその女の影は弘三の影に覆い被さると、朗らかに笑った。その笑い声に合わせて、川の中の女もうっすらと微笑《ほほえ》んだ――。
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あまぞわい
そうか、キン坊も「あまぞわい」の話を聞きてえんか。まぁ、キン坊もじきに大きゅうなって漁に出るようになるけん、知っとかにゃあおえんわな。
そわい、というんは潮が引いた時にだけ顔を出す浅瀬や岩礁《がんしよう》のことじゃ。潮が満ちたら隠れてしまうがの、おっ父の船で近くを通ったことはあるんじゃろ。そうじゃ、潮が引いてしもうたら、真っ黒けの洞窟《どうくつ》がのぞくあそこじゃ。わしらのように地べたより海に居る方が長かったような者でも、あそこは恐《きよう》てえな。
この島でええ死に方をせんかった者はあそこに居着くと伝えられとるけん。そいでも、祀《まつ》りはせん。なんでて、ほれ、満潮にゃあ沈んでしまうんじゃろ。お供えしてもみな流されるんじゃけぇ、祀っても何にもならんがな。
恐てえものは、この爺《じい》さんも何遍か見たことあるで。いや、その話はまた今度じゃ。キン坊がもうちぃっと大きゅうなったらしてやるわい。
まず知りてえんは、なんで「あまぞわい」と呼ばれとるかじゃろ。そわいはここらの瀬戸内に面した村や島ではあちこちに散らばっとる珍しゅうも何ともないもんじゃけん、大抵は名無しのただの岩山や砂浜なんじゃがの。長浜村とこの竹内島の間にあるそわいだけは名前がついとるんじゃ。そう、「あまぞわい」てな。
この爺さんが子供の頃もその名前で呼ばれとった。なんでも享保《きようほう》の頃からじゃと、わしはわしの爺さんに教えて貰《もろ》うた。その「あま」にゃあ、二通りの謂《いわ》れがあるんじゃ。わしが爺さんに聞いたんは、そのうちの一つ、「海女《あま》」の方じゃった。
そうじゃ、海に潜って魚や貝を獲る女じゃ。爺さんが生まれた頃にゃあ、もう居らんかったな。キン坊のおっ母も魚を裂いたり塩をまぶしたり、売りに出たりするだけじゃろ。せいぜい浜で蝦蛄《しやこ》や蟹《かに》を捕まえるくらいじゃ。この辺の海は遠浅じゃけ、潜れる海には浅蜊《あさり》くらいしか無《ね》え。といって沖に出りゃあ深すぎて、どねぇに海に慣れた女でも溺《おぼ》れる。
そいでも昔は、この辺の女も潜りよったんじゃな。そんな海女の中に、よう旦那《だんな》に仕える情の濃い女が居ったんじゃ。……情が濃い? それはキン坊ももうちぃっと大きゅうなったらわかる。ううん、まぁ、ええ時もあるし悪い時もあるのぅ、情の濃い女は。
その女の婿《むこ》はよう働く腕のええ漁師じゃったが、気の荒《あれ》えとこがあってなぁ、懐にいっつも包丁を呑《の》んどるような奴《やつ》じゃった。魚を捌《さば》くためとは言うとるが、やっぱり仲間を脅すつもりもあったんじゃろな。ところがある晩に海の上で嵐《あらし》に遭《お》うてな、その男の船がひっくり返りかけた。そん時、弾みで包丁を落としてしもうたんじゃ。
キン坊。お前も漁師の子なら覚えとけや。水の神様は、鉄が大嫌いなんじゃ。海に鉄物《かなもの》を落としたら、自分の命に替えても拾いあげにゃあならんのじゃで。それをせんと、恐てえことになる。おお、魚は獲れんなるし海にも出られんようになる。
そうじゃ、その男も包丁を落としたと気づいたが、何せ大嵐じゃ。船がひっくり返らんようにするのが精一杯での。拾いあげる余裕やこ、無え。他の漁師もそん時は包丁のことにまで気が回らんかった。嵐を乗り切るんが先決じゃけんな。そいでまぁ、どうぞこうぞ無事に浜辺に戻っては来れたんじゃ。海に神様の嫌う鉄を沈めたまんまでな。
さぁて嵐の後に、不吉な黒雲が村を襲うた。時化《しけ》じゃ。不漁じゃ。どねぇに網を打ってもほとんど魚は獲れん。満潮の時間になってもあのそわいはぽっかり浮かんだままじゃ。真っ黒けな洞窟から、鉄錆《てつさび》の厭《いや》な厭な匂《にお》いが漂うんじゃ。浜辺じゃ昆布《こんぶ》や貝まで腐って、稼ぎ時の秋祭りが来るというのに、どこの家にも何も無え。
男は内心、えろう怯《おび》えたで。自分があん時、包丁落として水の神様の怒りを買《こ》うたとわかったんじゃな。しゃあけど今更どうにもならん。どこら辺に落としたかもようわからんし。第一どねぇに泳ぎや潜りに自信があっても、あねぇな大きな海に落とした一本の包丁なぞ、どねんしたら見つけ出せるんじゃ。
じゃが、神様の祟《たた》りはそれだけじゃあなかった。その男は足腰立たんようになってしもうたんじゃ。赤子のように這《ほ》うてしか進めんなった。ただでさえ魚は獲れんのに、そねぇな体になっちゃあお仕舞いじゃ。追い打ちをかけたんが、村中に広まった「あの男が包丁を落として神様の怒りを招いた」という話じゃな。それこそ、村人みんなが刃物持って家に押し掛けてきそうな按配《あんばい》になった。
そこへ出てきたんが、その男の女房じゃ。気丈な女での、荒れ狂う村人どもを怒鳴りつけた。「わたしがきっと見つけ出します」てな。婿はもう、その頃にゃあ腑抜《ふぬ》けみてぇになっとったしな。村人も餓《う》えて気が立っとるけん、そんじゃあ生贄《いけにえ》の代わりに海に出てくれとなったんじゃ。女は本当に一人で船|漕《こ》いで沖に出て、潜ったんじゃ。
……それきり、女は浮いてこんかった。ただ、そわいには錆びた包丁だけが流れ着いたらしい。その包丁をどねんしたか、そこまでは爺さんの爺さんも知らんかったがな。あの洞窟の奥に今も刺さっとるかもしれんで。
ともかくそれで時化はぴたりと止んだ。魚も今まで通りに獲れだしたし、思いがけん大漁にも恵まれた。その漁師がその後どうなったかはようわからんが、まぁ細々《ほそぼそ》と生き長らえたんじゃろ。ただ、女房の供養をきちんとしてやっとらんのは確かじゃな。なんでて、今もあのそわいからは女の泣き声がするんじゃで。
哀れよのう、享保の昔からこの明治の治世まで、涙はずっと涸《か》れんのか……。どうしたキン坊、一人で小便に行けんのか。そねぇなことじゃ海には出れんぞな。ははは。これでわかったか、あそこが「あまぞわい」て呼ばれる訳が。なに? もう一つの「あまぞわい」の話も知りたいて? それはまた今度じゃ。もう寝んといけん。
のう、キン坊よ。女いうもんは、どねぇなろくでなしの男でも、いったん添うたら恋しゅうて恋しゅうてかなわんのじゃで。女は惚《ほ》れた男のためなら何でもするもんじゃ。身を捨てても尽くすし、死んだ後も慕《しと》うて泣き続ける。可愛《かわい》いもんじゃろ。
なに? 婆さんか。婆さんはキン坊のおっ父を産んですぐ死んだけんな。あまぞわいの海女ほどにはわしを慕うて泣いてはくれん。ははは。そいでも成仏はしとるで。初七日に玄関先に置く灰の盆を知っとろう。あれに鳥の足跡がつきゃあ、死者は成仏しとる。猫や犬の獣の足跡なら、三途《さんず》の川で迷うとる。婆さんの盆にゃあくっきり、可愛らしい雀の足跡がついとった。この爺が死んだら、キン坊がその盆を用意してくれえよ。
それ、小便についていっちゃるけん、もう寝ろや。うん? 外に出たら、あまぞわいから女の泣き声がするかもしれんて? すりゃあせん。もうあまぞわいは海に沈んどる――。
瀬戸内海のこの島で輝くのは海だけだ。屋根が飛ばぬよう置いた石の重みで傾《かし》いだ家々と、その低い軒先で暮らす真っ黒な漁師達は、生まれてから死ぬまでをこの砂混じりの風に吹き晒《さら》されてすり減っていく。
ユミはそんな景色の中からも取り残され、そんな人々の中にも入れてもらえず、日がな魚のように物言わぬ女だった。それはユミがとんでもない不始末をしでかしたからでも業病持ちだからでもない。漁村に生まれ育った女ではないという、ただそれだけのことだ。
どちらを向いて立っても、すえた臭《にお》いが鼻をつく。これは塩を含んだ夕凪《ゆうなぎ》か、死魚の発散するものか。ユミは垢染《あかじ》みた衿《えり》にちょっと鼻をつけてから、思い切り顔をしかめた。一番臭いのは己れではないか。魚でもないのに魚臭く、人扱いはされぬのに人恋しい。
この村に来てから焼けてすっかり黒くなってしまったとはいえ、この炙《あぶ》られる陽射しと足裏を焦がす砂の感触には慣れることができない。ここに来てから何度も剥《む》けた頬《ほお》の皮が突っ張り、眉間《みけん》には歳に相応《ふさわ》しくない皺《しわ》が刻まれる。農村の女よりも漁村の女は老けるのが早い。
苛酷《かこく》な夏を全身に受けて、最も痛むのは肩だ。鈍い痛みを陽に晒しながら、ユミはぼんやりと沖を見やった。黄金に染まる海を美しいと、瞬時でも見惚《みと》れた自分を憎んだ。どうせ黄金色ならば、海の残照よりも簪《かんざし》や帯留の方が良いに決まっている。
夜の明かりに浮かぶ簪の煌《きら》めきも、随分遠いものになってしまった。この竹内島の向かいには長浜村があり、その隣に岡山市がある。距離はさほど遠くないのに、二度と渡れぬ地になった。ほんの一年前まであそこにいたなど、当人にも信じられなくなっている。
白い肌が自慢だった。更に白粉《おしろい》をはたき、派手なだけで決して上等ではない着物だったが、ユミは合わせる帯にも気を配っていた。それが今では他の女房達のように肌脱ぎにこそなってはいないが、裾《すそ》を絡げて裸足《はだし》で砂浜を歩いている。かつては顔より髪ばかり誉められると不服だったが、その艶《つや》やかだった黒髪さえもすっかり潮に焼けて赤茶けてきている。どんなに町育ちを強調しても、外見だけは立派に漁師の女だ。
船影はまだ見えない。この世が終わるまで帰ってくるなと、信じてもいない水の神様とやらに祈った。その船には錦蔵が乗っている。昨日、ユミを強《したた》かに床に突き倒し肩を蹴飛《けと》ばした男だ。磯《いそ》では生まれながらの魚の村の女達が笑いさざめきながら、小蟹や貝を獲っている。ユミが近付けば盛んなお喋《しやべ》りはぴたりと止まる。農村に比べれば人々は陽気であけっぴろげで、と称されるのは嘘《うそ》ではないが、それでも排他的な田舎の村には違いない。
酌婦あがり。それがユミの呼び名だ。まるで錦蔵を誑《たぶら》かしてこの村に闖入《ちんにゆう》してきたように蔑《さげす》まれるユミは、だから亭主の錦蔵が漁に出ている間は、家で不貞腐《ふてくさ》れている他ない。何せここは岡山市とは違い、洒落《しやれ》た洋食屋も呉服屋も何もなく、漫《そぞ》ろ歩く並木の静かな道もない。着物を買ってくれる男もいなければ、一緒に芝居を観《み》に行ったりお喋りをしあう小綺麗《こぎれい》な女友達もいない。
いるのは荒っぽく真っ黒けに焼けた漁師と、同じく夏はみんな諸肌脱いで乳房を丸出しにして歩き回る声の大きな女房達だけだ。あるのはひたすら生臭い空気と海と空だけだ。気が触れぬのが不思議じゃと、ユミはため息をつく。
「お前は網も引けんし、子供でも潜れる浅瀬にも入れん。魚を捌かしゃあ猫も食わんほど引き散らかす。何の役にも立たんのなら、せめて亭主が漁から帰るんを迎えに出ぇや」
唯一、ちゃんと口をきいてくれるのは亭主の錦蔵とはいえ、口より先に拳《こぶし》や足が出る相手だ。出会った当初はそんなではなかった。それを思えば余計に辛《つら》くなる。
ほんの一年前まで、ユミはこの辺鄙《へんぴ》な漁村から隔たった岡山の中心地にいた。決して高級ではない料理屋だが酌婦をしていたのだ。贔屓《ひいき》にしてくれた客は、大方が小金のある商店主や近在の中農の跡取りだ。そんな男の相手でも嫌なことや煩わしいこともあったが、少なくとも美しく装って髪もきちんと結いあげ、客のものではあるが旨《うま》い料理も酒も口にしていたし、売れっ子ではないがそれなりにちやほやされていたのだ。
そんな客の中に、竹内島から通ってくる漁師の男がいた。それが錦蔵だ。当初はやたら声の大きいがさつな田舎者でしかなく、その風貌《ふうぼう》もそれこそ波に洗われたごつごつの岩礁を思わせる厳《いか》つさだったから、ユミは敬遠さえしていたのだ。それが度々ユミを指名するようになり、ついには借金や質入をしてまでユミ目当てに通いつめるようになったのだ。そうなるとさすがに情も湧《わ》く。
それに他の贔屓客は着物や草履を買ってくれてお世辞を口にはしても、所詮《しよせん》は場末の酌婦とユミを見下している。女郎扱いしてくる者も一人や二人ではない。だが錦蔵だけは違った。ユミの前借金五十円をすべて支払い、身請けを申し出てくれたのだ。その金は船を手放してまで作った金だった。店の主人に異論のあろうはずはない。ユミは特に売り上げがいい訳ではないし、若造りに濃い化粧で誤魔化してはいるが、三十路《みそじ》も遠くなかった。こんな好機を逃しては一生浮かばれないと、店の主人は父親のように勧めてくれた。
あんな辺鄙な魚臭い村であんな荒くれ男の嫁になるくらいなら、一生酌をしていた方がましだと陰口を叩《たた》く朋輩《ほうばい》もいたが、気のいい子は我が事のように喜んでくれた。そんなふうに外堀を埋められた格好で話は進んでいったが、ユミとて嫌々とか諦《あきら》めの気持ちで錦蔵に嫁ごうとしたのではない。
ユミは生みの親には物心つく前に死に別れており、父方の祖母に育てられた。細々と仕立てや燐寸《マツチ》のラベル張りの内職で育ててくれた祖母だが、ユミが小学校を出た年に床についた。ユミはすぐ料理屋に住み込まされ、前借金はすべて祖母の療養費となった。「女郎にだけは売らずに済んだがな」。それが口癖だった祖母はユミの花嫁姿を見ずに死んだ。本当は、「ユミの花嫁姿を見たい」というのを口癖にしたかったに違いない。
ユミが錦蔵に初めて特別な気持ちを抱いたのは、何かの弾みで錦蔵が口にした出身地の昔話によってだった。それは祖母がよく寝床で語ってくれた昔話に似ていたのだ。ぴたりと一致しているのではなかったが、錦蔵は「婆ちゃんの語ってくれたお伽話《とぎばなし》の島に住む男」だったのだ。
一度も見たことのない竹内島とやらは、お伽話の美しい島になった。海辺での暮らしも近隣の貧しげで暗く閉鎖的な農村に比べれば、あけっぴろげで陽気で居心地が良さげでもあった。農村は一部の土地持ち以外は、その日その日の口を糊《のり》する食物のために一生地べたを這《は》いずりまわらねばならないが、漁村には誰にも平等に一発の大漁で大金を得る好機を与えられてもいるという。
ユミも女として生まれたからには、誰かの嫁にはなりたかった。しかし女郎にまでは堕《お》ちなかったが、場末の酌婦だ。商店主や農家の跡取りが貰《もら》ってくれるとは思えなかった。そこへ現れたのが錦蔵だ。酔っての戯言《ざれごと》でもなければ、いい加減に手をつけて妾《めかけ》に囲おうというのでもない。身請けして正式に妻として迎えようというのだ。錦蔵は武骨で粗雑で気のきいたお世辞の一つも言えないが、それゆえに誠実で善良と映った。
そうしてユミは、望まれて小島の漁師の嫁になったのだが。恋女房がただの役立たずに落ち、麗《うるわ》しい夢の島が鄙《ひな》びた貧しい漁村に化け、誠実で頼れる男がただの粗暴な男に変わるまでに半年とかからなかった。
岡山の夜の座敷では熱に浮かされていた錦蔵も、地元の陽の下に連れ出した女を正面に見れば、それこそ風に当てられて頭が冷えたのだ。単純で純朴であるがゆえに、村人の陰口や嘲笑《ちようしよう》は真直ぐに錦蔵を打ちのめした。元々、ユミの身請けには大反対だった錦蔵の親や親戚《しんせき》達だから、ユミとは付き合いどころか口もきいてくれない。六男だか七男だかで放ったらかしにされていた錦蔵ではあるが、その勘当状態はさすがに堪《こた》えた。
熱に浮かされて売り飛ばした船への愛惜も、錦蔵を苛《さいな》んだ。いざ引き替えにした女が来てみれば、得たものより失ったものの大きさの方が実感できたのだ。
だが今頃になって手放した船を惜しみ、不漁続きまで自分のせいにされては堪《たま》らない。近頃は平然とユミの着物を質入し、錦蔵は再び岡山の料理屋や遊廓に通い始めていた。それでも足りず網元に借金までしている。同じ村の若後家とすっかりいい仲になっていることは、噂《うわさ》の輪に入れてもらえぬユミですら耳にしていた。泣いても酷薄な潮風は、瞬時に頬をひび割れさせる。耳元で唸《うな》る風は、錦蔵の罵声《ばせい》と肩の痛みをよみがえらせた。
錦蔵の父親も、女は殴って言うことを聞かせるものだと信じ切っている男だが、それ以上に死んだ祖父が悪い、と密《ひそ》かにユミは恨んでいる。何をしても女は許すと幼い錦蔵に教えこんだらしいからだ。
「このアマ」
まずその罵声が発せられる。次の瞬間、ユミは下に転がっている。魚を捌《さば》けないと殴られ、網を引く手伝いもできないと蹴《け》りつけられ、他の女どもがお前を女郎あがりじゃないかと笑《わろ》うとるぞと張り倒される。ここらの女房達と違い、ユミも負けずに喚《わめ》き散らしたり突っ掛かったりはできず、ひたすらむっつり恨みがましい目をするだけだ。それが錦蔵を余計に怒らせる。
今は没して見えないが、ユミはぼんやりと「あまぞわい」の方角に目を凝らした。まだ錦蔵が優しく、まだユミの頬も白かった岡山のお座敷で、錦蔵は生まれた村の言い伝えを教えてくれたのだった。その時の錦蔵を思い出せば、ため息は一層深くなる。
亡き祖母のお伽話が「あまぞわい」なら、錦蔵の語った昔話も「あまぞわい」だった。ただし、内容は大きく違っていたから、どうやら「あまぞわい」には二通りの言い伝えがあるらしい。ユミの祖母は岡山の出で、錦蔵は地元竹内島に生まれ育ったことを考えれば錦蔵の方が正しいようだが、最近のユミはやはり祖母の方が正しかったと確信している。
「死んだ爺さんが教えてくれた『あまぞわい』の話は、恐てかったのう。海女は今でも泣いとるんじゃ。女はいったん添うたら男が恋しゅうてかなわんもんじゃと、そん時教えられたんじゃな。身を捨てても尽くすし、死んでも慕い続けるとな」
ユミははっきりその爺さんを憎んだ。幼い錦蔵にそんな考えを植え付けたからこうなったのだ。海女は馬鹿な亭主のために落とした命を惜しんで泣いているに違いない。
まだ船は影さえ映らない。あまぞわいを沈めた海は、あくまでも静かに凪《な》いでいる。こうして阿呆《あほう》のように陽に炙《あぶ》られていても仕方ないと、ユミは一旦《いつたん》家に戻ろうとした。振り返りかけ、ふいに足の裏に異様な感触を覚えた。確かに焼け付く砂があったはずなのに、今ユミの足の下にあるのは冷えきった岩場なのだ。
痺《しび》れが肩から広がり、足元に達する頃にはユミは瞬きすらできなくなっていた。凍《こご》える足の下にようやく目を落とす。なぜいきなり岩の上に立っているのか。濡《ぬ》れて冷えた岩と足が同化しかけた時、ゆるゆると白いものが視界に入った。白い蛇と見たそれは女の手だった。そろそろと伸ばされたその白いふやけた手は、感覚を失ったユミの右足に触れる。感覚はないはずなのに、骨まで達する冷たさだった。
悲鳴までが喉《のど》で固まっている。左足に、ぞろりと肉の塊が当たった。頭に髪の一本もない女の顔だった。鼻筋の通った唇の薄い、ここらの漁師の女房には見当らない顔立ちだ。白目が真っ赤に充血している以外は、確かに美しい女なのだった。
渾身《こんしん》の力をこめ、ユミはその顔と手を振りほどいた。呪縛《じゆばく》が解けた刹那《せつな》、弾《はじ》かれた体は反転して後ろを向いた。真っ暗な洞穴。そこから坊主頭の女は這《は》い出していたのだ。
ユミに蹴飛ばされた格好の女だが、恨みに目をぎらつかせることも舌なめずりして歪《ゆが》んだ笑いを浮かべたりもしない。ただじっとユミを凝視し、岩場に這いつくばり……消えた。
絶叫は、荒い呼吸に阻まれてすぐにはあがらなかった。再び焼けた砂地に崩れ落ち、顔まで砂に突っ込んでから迸《ほとばし》った。喉が破れるのではと、妙に冷《さ》めた一点で危惧《きぐ》しながらも、ユミは叫び続けた。彼方に錦蔵の乗った船の形が現れても、悲鳴は止まらなかった。
「どうされた、なぁ、どうされた?」
ふいに頭上が翳《かげ》った。ユミは反射的に仰《の》け反《ぞ》りながらも、その声のした方を見上げる。漁師のような半裸の褌《ふんどし》姿ではなく、この暑いのにきちんと着物を着た男がいた。その身形《みなり》とここらの男にしては白い整った顔立ち、優しげな風情、それより何より、左肩が下がった独特の体つきと歩き方を見れば、誰なのかはすぐにわかった。
わかったが、口をきくのはこれが初めてだった。ユミは彼を見上げた時、何かわからないが心底の安堵《あんど》を得てしゃくりあげてしまったのだ。それは彼が自分の職業柄か、ユミを子供のように優しくあやしてくれたからかもしれない。
「いえ、あの、わたし暑さにやられたんじゃろうか、変なものが見えて、あの……」
微笑《ほほえ》む彼の足元に、点々と不思議な模様になる足跡が続いていた。彼は杖《つえ》をつくほどではないが、左足が生まれつき発育不全なのだ。それは除け者のユミとて知っていた。
「変なもの? ああ、あんたは漁村の生まれでないけん、暑さには弱いんじゃろ」
村一番の裕福な網元の息子は、贔屓している子供に向かい合った時のような笑顔だ。ユミは素早く涙を拭《ぬぐ》い、砂を払うと立ち上がった。あちこちに、魚を捌く女房達や小魚を獲る子供達がいるのだ。また何と噂をたてられるかわからない。ユミは後退《あとじさ》りする格好で彼から離れた。
本心では、まだこの男と何か喋りたかった。まったくの漁村育ちの男ではあるが、久々に町の匂《にお》いのする、つまり話が通じそうな相手を目のあたりにしているのだ。
しかし錦蔵に「あんな者にまで色目を使いやがって」と殴られてはかなわない。船はすぐそこまで接岸してきているのだ。ユミの身請けで自分の船を手放した錦蔵は、網元の所有する船に雇われて乗っていた。目の前の男の父親に使われているのだ。
「おお、旦那《だんな》が帰ってきたな。それじゃ」
左肩が大きく上下する独特の歩き方だが、物腰はあくまでも優しげで品があった。何を言っても怒鳴り声の錦蔵とは違う。何か美しい本の美しい活字を読み上げるような喋り方だった。ユミは錦蔵の身内の者にさえ口はきいてもらえぬため、久しぶりに錦蔵以外の人間と口をきいたことになる。束《つか》の間、肩の痛みも先程の恐ろしい情景も忘れていた。
だが痛みも恐れもぶり返す。船が港に着いたのだ。闇雲《やみくも》にユミを欲しくて船を手放した錦蔵だが、手に入れたユミは放り投げ、なくした船のことばかり恋しがっている。その癖、稼いだ金は岡山で使い果してしまう。今度は逆にユミを売って船を買い戻すかもしれない。
男達は猥歌《わいか》をがなりながら網ごと魚を引きおろす。翳《かげ》ってきた中で見る錦蔵はますます黒く獰猛《どうもう》で、ユミを認めてもちらりと顎《あご》をしゃくっただけだ。銀色の鱗《うろこ》が爆《は》ぜ、途方もない命の塊を無造作に仕分けながら先程とはまた違う熱気があがる。女房達も弾けながら押し合いへし合いし、網を引いた。腕は男並みに太い。一人所在なげに佇《たたず》むユミに、錦蔵は忌ま忌ましげに舌打ちする。誰かがユミをからかう猥褻《わいせつ》な言葉を投げ、笑い声が轟《とどろ》いた。
大漁と適量の酒とで、その夜の錦蔵は割合に機嫌が良かった。囲炉裏端で酌をしながらユミがさりげなく話題にしてみたのは、忌まわしい幻の話などではない。
「恵二郎のあの足は生まれつきじゃ。小せえ頃はよう虐《いじ》めたが、何せ網元の倅《せがれ》じゃ、今は頭があがらん。まぁ、あの体じゃあ漁師はでけん。何せ泳ぐこともできんのじゃけえ、お前より役立たずじゃ。そいでも良うしたもんで頭はええ」
恵二郎に対する男達の評価は、これに尽きるのだ。網元の息子、頭のいい教員。だが不恰好《ぶかつこう》に足を引きずって泳ぐことすらできず、嫁の来手がない。つまり、尊敬と軽視を半々に受けている。恐らく当人も漁師達に対し、優越感と劣等感の両方が絡み合っているであろう。
ユミは密《ひそ》かに連帯感を持つ。立場も生まれ育ちも何もかも違っているが、ユミもこの村では酌婦あがりの役立たずと馬鹿にされる反面、岡山の真ん中で派手に暮らした女と微《かす》かな憧《あこが》れと嫉妬《しつと》も受けているのだ。……だからあの独特の歩き方と足跡も、ユミにとっては物語の中の情景として美しかった。
しかし物語というならば、夕暮れ時に見たあの坊主頭の女もだ。あの不吉な物語の女なのだろうか。なぜ自分の元《もと》に現れたのか。潮風に始終がたがたと鳴る戸が今にも開き、真っ白にふやけた女が這いずって来るのではないかと想像すれば、錦蔵にでも寄り添いたくなる。
錦蔵はそんなユミを久しぶりに可愛いと思ったか、はだけた肩の青痣《あおあざ》にさすがに心が咎《とが》めたか、機嫌良くユミを引き寄せてきた。ユミはあの女のように、錦蔵の片足を掴《つか》んでみる。恵二郎の細い片足はどんな手触りか。ユミは目を閉じてそればかり想像してみる。
ユミは「あまぞわい」の話が好きじゃなぁ。岡山のそばの竹内島の話じゃ。
そわい、というんは潮が満ちたら沈んでしまうが、干上がったら出てくる浅瀬や岩礁《がんしよう》のことじゃ。海の水はなぁ、増えたり減ったりするんじゃで。それでまぁ、潮が引いてしもうたら出てくる小せえ岩山があってな。それがそわいじゃ。夏でもひんやり冷えた岩には真っ黒な洞窟《どうくつ》がのぞくんじゃて。どんなに黒い深い穴じゃろうなぁ。
その島でええ死に方をせんかった者はそこに居着くとか言われとるんじゃ。けど、祀《まつ》りはしとらん。満潮にゃあ沈んでしまうけん、お供えしてもみな流されるんじゃろ。祀っても何にもならんのじゃろうなぁ。
恐てえものか。婆も何遍か見たことある。いや、その話はまた今度にしょうや。その話は今夜はしとうない。いやいや、やめとけ。もうちぃと大きゅうなってから教えちゃる。
ユミが知りたいんは、なんで「あまぞわい」と呼ばれとるか、じゃろ。そわいはな、ここらの瀬戸内に面した村や島ではあちこちに散らばっとる珍しゅうも何ともないもんじゃけん、大抵は名無しのただの岩山や砂浜なんじゃけど、長浜村とその竹内島の間にあるそわいだけは、名前がついとるそうじゃ。そう、「あまぞわい」じゃな。
婆が子供の頃もその名前で呼ばれとった。なんでも享保の頃からと伝えられとる。ユミよ、そわいはそわいに違いないが、「あま」には二通りの謂《いわ》れがあるんじゃ。
婆が聞いたのは「尼」の方じゃった。尼僧様じゃな。今の岡山市内の南の方に尼寺があって、そこに一人大層きれいな若い尼さんが居ったんじゃと。周りの男どもは、話を聞いたり経をあげて貰《もら》うためにじゃのうて、その尼さんの顔見たさにその尼寺に行きょうったんじゃと。ユミみてえな可愛い顔しとったんかな、その尼さんは。
その尼さんに誰より惚《ほ》れ込んだのが、その竹内島の漁師の男じゃったと。よう働く腕のええ漁師じゃったらしいが、気の荒いとこもある男での、それが尼さんに惚れて惚れて。ついには尼さんを無理|遣《や》りに寺からさらって来たんじゃと。強引に嫁にしてしもうたんじゃな。ほんまは尼さんは、結婚しちゃあいけんのじゃぞ。
その漁師は、尼さんを嫁にした当初はそりゃあ嬉《うれ》しゅうて嬉しゅうて、大事にしたんじゃて。下にも置かずに可愛がったんじゃろう。ところがなぁ、なんぼきれいでもお上品でも男はすぐ女に飽きるもんじゃ。それになんというても尼さんは、お経をあげてなんぼのもんじゃろ。網も引けんし、ましてや生臭の魚なんぞ口にもできんし捌いたりも出来りゃあせん。そんなこんなでだんだん鼻についてきたのか、鬱陶《うつとう》しゅうなってしもうたんじゃろうな。……男いうもんは、ほんとうに仕様がないのぅ。
その上もう、同じ村に育った可愛いおなごが別にできとったらしいわ。そりゃ漁師にはやっぱり漁師の娘が似合いじゃろ。じゃが、そのおなごのことが尼さんにもわかったんじゃな。じぃっと家におるだけの尼さんは、幽霊みてぇな顔で漁師を責めたてたそうじゃ。
漁師はもう尼さんが家に居ると思うただけで厭《いや》で厭でかなわんなった。惚れた気持ちが強けりゃ強《つえ》えほど、憎い気持ちも同じに強うなるもんじゃ。そいでとうとう、漁師は尼さんを騙《だま》して海に連れ出したんじゃて。そうじゃ、真っ黒な洞窟のあるそわいにな。
そりゃあ干潮時に連れて行ったんじゃろ。何をどう言い繕うたかは知らんが、ともかくそこに置き去りにして、漁師は一人だけ船漕いで浜に戻ったんじゃ。泳げん尼さんは潮が満ちたらあっという間に溺《おぼ》れてしまうわな。
死体はあがらんかったそうじゃ。その漁師の男がその後どうなったかもわからんが、まぁ細々と生き長らえたんじゃろ。ただ、尼さんの供養をきちんとしてやっとらんのは確かじゃ。なんでて、今もあのそわいからは女の泣き声がするらしいで。
ユミよ、恐てえんか。はは、漁師にやこ嫁には行かんか。そねぇな恐てえものがある島にやこ、行きとうはないか。わからんで。厭じゃ厭じゃと強う思う気持ちは、その厭を引き寄せたりもするからのぅ。
もう一つの方の話はよう知らん。なんか、あまはあまでも、尼さんじゃのうて海に潜る海女さんじゃという話らしいがな。その海女さんは男を慕《しと》うて泣いとるらしいぞ。
なあ、ユミ。男いうもんは、どねぇに惚れぬいた女でも、いったん飽きたら本当に無慈悲に捨ててしまうんじゃで。男は飽きた女やこ、海の藻屑《もくず》にしてかまわんのじゃ。死んだ爺さんがそんなかったなぁ。いや、もうええ。ユミは顔も知らん爺さんじゃけ。
今も泣き続けとるなんぞ、考えたらたまらんな。恨んで泣いとるんじゃろうなぁ。そう思やぁ、男を慕うて泣いとるという「海女ぞわい」の話の方が救われるか。
ほれ、話は仕舞いじゃ。もう寝んといけん。そうか? そんなら、もう一つだけな。これもその竹内島の言い伝えじゃが、あそこはちぃっと変わった供養をするんじゃ。初七日に玄関先に灰を入れた盆を置いとくんじゃて。そこに鳥の足跡がありゃあ、死者は成仏しとる。猫や犬の獣の足跡なら、三途の川で迷うとる。あまさんの盆には何がつくじゃろか。
あまぞわいは今も女の泣き声がするんじゃて。男を慕うて泣いとんか、男を恨んで泣いとんか。案外、海女の方が男を恨んどって、尼の方が男を恋しがっとるんかもしれんぞ。……そういうもんじゃ。
そわいは宗谷という字を当てるのだと教えてくれたのは、錦蔵の爺さまでもユミの婆ちゃんでもなかった。
「あまぞわいは、尼宗谷じゃわ」
萎《な》えた片足を撫《な》でながら、ユミは言った。一体いつどこで、恵二郎と逢引《あいび》きの約束などしたのか。一体いつどこで、恵二郎と小学校の教室横の六畳間で抱き合うことなど思い描いたのか。頭脳|明晰《めいせき》なはずの恵二郎とて、似たようなものだった。
まさに寝物語として、恵二郎は「あまぞわい」の話をしてくれた。さすがに恵二郎はどちらの謂《いわ》れも知っていた。どちらが正しいのか確かめる術《すべ》はないが、ユミは亡き祖母の方をこれからも信じることにした。あの日、足にすがりついた女は尼だったからだ。
「尼さんの幽霊に逢《お》うた、と言うたら信じてくれるん?」
萎えた片足は子供のように小さく清らかで、とても不具などとは表現できない。別の愛らしい存在なのだった。
「信じるで。尼さんはユミさんにそっくりな境遇じゃけんな」
女は初めてだと言ったのに、この慣れたふうはなんなのか。射し込む西日は熱く、障子紙に映る葉影も濃い。浜辺を女房達の歌声が通り過ぎていく。大漁を祝うのになぜ物憂く投げ遣《や》りなのか。
子供達がみな帰ってしまった後の木造校舎は、死んだ魚を隠す場所のようだった。教員の休む部屋として畳の敷かれた六畳間は、誰が運んだか砂が落ちてざらついていた。昼なお暗い納戸《なんど》には、死んだ羽虫の死骸《しがい》が花弁のように積もっている。
やっぱり首から下は真っ白だ、と村で一番の賢い男は囁《ささや》いた。最初に逢った時から、こんな色だろうと想像していたのが当たったと、村でただ一人の泳げぬ男は呟《つぶや》いた。ユミはただ黙って、どこよりも丹念に萎えた片足を撫でた。
「婆ちゃんは若い頃の話は何もせんかったけど。もしかしたら、この竹内島に居ったことがあるんかもしれん。そうでなきゃ、あんな話は知らんじゃろ」
網も引かず魚も掴《つか》まぬ恵二郎の手は、ユミを撫でるためにその滑らかさを保っていたかのようだった。恵二郎はユミの呟《つぶや》きに、少しだけ微笑む。戸口の隙間《すきま》から砂が吹き込んで畳もざらついていた。湿った砂、乾いた砂、どこに逃げても隠れても足元には砂がある。そうしてどこの戸口からも海は見える。ここは村外れとはいえ、絶え間なく打ち寄せる波の音は大きい。土間に立てば、波濤《はとう》のきらめきは目に痛かった。
身繕いを済ませ、人目を気にしながらユミは外に出た。これが錦蔵に知れれば、まず間違いなく伝説の尼のようにあの岩礁に連れ出され、自分は沈められる。
そうなれば自分は夜毎|啜《すす》り泣くか。弱まらない陽射しの下、ユミはよろめく。泣くとしても錦蔵を恨んでではなかろう。恵二郎恋しさに泣くのだ。
「いいや、それは違うじゃろ」
ふいにユミは立ち止まる。またしても、あれだ。足の裏が凍える。ここはどこなのか。なぜ足の下に硬い岩があるのか。耳鳴りと海鳴り。冷えた耳たぶに冷えた息がかかる。坊主頭の美しい女は、いきなりユミの疲れた肩に顔を載せてきた。背後から覆い被《かぶ》さってきたのだ。息はどんな腐った魚より生臭かった。
「男に惚れるというんは、どうやっても最後には男を恨むことになる」
首筋が動かない。ユミは棒立ちになったまま、身動きできない。冷えきった尼は、憎々しげにユミの乱れた黒髪を握った。引き毟《むし》られるのではと、ユミは目を瞑《つむ》る。
「あんたも、最期はあまぞわいじゃ。潮の満ち引きだけで生死が決まる。男の気紛れで、女は生死が決まる。怨《うら》めや。泣けや」
尼のけたたましい哄笑《こうしよう》は、ユミの戒めを解いてくれるものでもあった。松林から激しい蝉《せみ》の鳴声が降っていた。ユミはこの熱波の中で震える。昨夜、錦蔵に殴られた耳の上が痺《しび》れていた。痣《あざ》のついたそこを、恵二郎は愛おしげに舐《な》めてくれたのだ。その耳たぶに、死霊の尼は厭な厭な説法をくれたのだった。
立ち止まると凪《な》いだ海が正面にある。女房達は決してユミには教えてくれない噂話に沸き返りながら、網を繕い小魚を取り分けている。遥か沖では打瀬網《うたせあみ》を引く錦蔵の船が曳航《えいこう》を続けている。艫《とも》と舳《へさき》の突き出した柱に袋網をつけ、底に住み着く魚を引く。自分が求め慕い、待ち焦がれているのはその船の男ではない。
ユミは乱れる髪を押さえ、声にならない声で叫んだ。恋しくて泣くのは自分だ。あの愛らしい片足を引きずる男を待ち続けるのだと。消えたはずの尼が、満足気に首筋に生臭い息を吹きかけてきた――。
あまぞわいは竹内島と長浜村の間にあり、干潮時であっても船でなければ渡れない。だがユミは居ながらにしてあまぞわいを見られる。朝焼けの茜色《あかねいろ》に染まる海に、それ自体が巨大な魚影に似た波を押し分け、錦蔵の乗る船が出航していく時。見送るユミは、嵐《あらし》が来てみな死ぬがいいと願っている。願う時、足の下には凍える岩がある。他の女房は早くも焼けた砂浜にいるのに、ユミだけがかじかんでいる。
岡山の東中島遊廓でも歌われないような猥歌を、赤銅色《しやくどういろ》に焼けた女房達は乳房を揺らしながらがなりたて、銀の鱗《うろこ》を飛ばしながら魚を割く。ユミはそれを横目に見ながら、そそくさと通り過ぎる。一人だけ裾を絡げないユミはお引きずりさん、と揶揄《やゆ》される。錦蔵が近くにいる時はさすがに遠慮されるが、一人の時は容赦なく蔑《さげす》まれる。
「魚にも酒飲ませて酔わせてみぃや」
漁村に住み漁師の女房となっても、あくまでもユミはいかがわしい酌婦なのだった。それと同時に、岡山の中心地で生まれ育ったお高い町の女、なのだ。
もしユミが他の女房達が嘲《あざけ》り笑うようないかがわしく小狡《こずる》い酌婦そのものであれば、開き直って女房達にも愛想笑いと追従《ついしよう》をして仲間に入れてもらえるよう頭を下げるだろう。また、もしユミが他の女房達に敵意を抱かれるほどの華やかな町育ちのお高い女であるならば、魚臭い薄汚れた女どもに何を言われようが痛くも痒《かゆ》くもないと、昂然《こうぜん》と頭をあげていられるだろう。
ユミはどちらにもなろうとしてなれなかった。いつも俯《うつむ》き加減に口を噤《つぐ》んでいる他なかったのだ。
そんなユミの曖昧《あいまい》さ、掴み所のなさが、ますます女房達には異端者、余所者《よそもの》として格好の標的になっていた。それは岡山で酌婦をしていた時と似ている。自分では大人しく従順にしているつもりなのに、客にはよく何様のつもりでお高くとまってんだと怒られていた。
思えば錦蔵は「岡山の女」が欲しかったのだ。白い肌に白粉をはたいた女に焦がれたのだ。白粉はすぐに落ちるし、肌も焼けば黒くなることに気づいたのは、船を売った後だったのか、ユミを身請けした後だったのか。
岡山の女でなくなり、漁村の女にもなれずにいるユミは、壁が崩れて戸の外れかけた暗い家でひたすら夕暮れを待つ。ほとんど錦蔵が金をくれぬため、浜辺に出て打ち上げられた小魚や海藻を拾いもする。食物が地面に落ちているなど、これだけは岡山よりいい。人を焼くのと同じ匂いがすると忌まれる小魚の味にも、もう慣れた。
やがて大気に湿り気が増す頃、ユミはぱさつく髪を撫で付ける。土間から見える砂浜に濃い松の木の影が落ちるのを待ちかね、ただ一足の草履を突っ掛けて出ていく。目指すのは村外れの小学校だ。哀しみなのか喜びなのか自分にもわからない熱さに押されて出かけて行く。
子供のいなくなった校舎の裏で恵二郎に会う。愛しい男なのに、背後に洞窟があるようだ。どこから吹き込んでどこへ抜けるかわからない風が吹いている。誰もいない。いるのは自分と恵二郎だけだ。
「わしは、女は諦《あきら》めとった」
卑屈にでも何でもなく、淡々と恵二郎は微笑む。左足は子供のままで、右足だけが余計に大きい。こちらに体重がかかるためだろう、漁師に負けぬほど逞《たくま》しい。だがユミは左足が好きだった。いつまでも頬摺《ほおず》りをしていた。
「わたしも、結婚は諦めとった」
寄り添いながら、ユミは低く囁《ささや》く。こんなところを誰かに見つかれば、共に破滅だ。恵二郎は網元の息子だからとんでもない目には遭わされないだろうが、あの錦蔵が我を忘れて襲いかかることは考えられる。昨日も口答えをしたと髪を掴んで引き摺り回され、土間に蹴落《けお》とされていた。その痣に丹念に舌を這《は》わせる恵二郎が可愛い。
狭い村のことだ、恵二郎とてユミの素性は知っているだろう。
「二人とも、諦めとったことが叶《かの》うたんじゃな」
小さく笑いあう。障子の陰でも誰かが笑った。村人が覗《のぞ》いているのではない。尼がいるのだ。そこだけ赤い舌の先で障子紙に穴を開け、血走った目を覗かせている。
「しゃあけど一つの願いが叶うたら、また願いを持つ。欲には限りも終わりも無い」
ふと、ユミは顔をあげた。恵二郎がいつになく昂《たか》ぶっているのが感じられたからだ。逆光の中、恵二郎の白い顔はいつになく紅潮していた。微《かす》かに左足が痙攣《けいれん》していた。
「わしは、ユミと所帯を持ちたい」
ユミはぼんやりと恵二郎の背後を透かしていた。突き上げる喜びも、崩れ落ちるような辛さも何もなかった。ただ、目を見開いていた。
「ユミがここに来た時から、気にはなっとった。なんでかわからんが、この女はここへ来たんじゃのうて、ここへ帰ってきたように思えたんじゃ」
水底に沈められたかのように、耳鳴りがして息が詰まる。もう一人女がいるのだ。ぞろりと黒髪を垂らし、青ざめてはいるが日焼けした肉付きのいい女だ。ここらの女のように肌脱ぎで、獰猛《どうもう》な感じさえする乳房に大きく抉《えぐ》れた歯形があった。鱶《ふか》に食われた傷痕《きずあと》だ。
ユミは体温を失った。体の深奥から震えがきた。実際は、何もかも筒抜けのこの狭い村で姦通《かんつう》の罪を犯したことへの戦慄《せんりつ》と、いずれ錦蔵に露見して殺されるという予感めいた痺れが呼び起こした幻だったのかもしれない。だが、幻はなかなか消えない。
無言で固まるユミに、恵二郎は強い感情を抑えながら続けた。
「無論、ユミが錦蔵の女房じゃとはわかっとる。離縁してくれなんぞ、この口からは言えん。なんぼ錦蔵が雇い人じゃというても、それは通らん」
轟々《ごうごう》と風が鳴っていた。耳のすぐ後ろで吠《ほ》えていた。海女は手に錆《さ》びた刃物を握っている。海水が滴り落ちているが、それは赤い。錆なのかそれとも……。
ユミはようやく戒めを解かれ、かすれた悲鳴とともに突っ伏した。海鳴りが吠えた。自分は孤立した海原に一人放り出され、来ない助けを待っている。
「わたしも恵二郎さんが好きじゃ。一緒になれたらどねぇに嬉《うれ》しいじゃろうか。しゃあけどそんなん、出来る道理がなかろう」
自分は錦蔵の女房だというだけではない。恵二郎は村一番の分限者の網元の息子なのだ。祝福するどころか誰一人容認すらしないだろう。そんな夢物語の前の現実として、あの酌婦あがりは網元の倅《せがれ》まで誑《たぶら》かしたと、ますます差別と排斥が激しくなるのは必至だ。
そうなれば錦蔵に殺されるまではいかずとも、身一つで村を追い出されるのは間違いない。こんな鬱屈《うつくつ》した村でも、いさせてもらう他はない。岡山にはもう帰る家も迎えてくれる人もいないのだ。
昂ぶりに任せて言い放ったとはいえ、恵二郎とてそんなことはちゃんとわかっている。もうそれ以上、何も言わなかった。ユミは少しだけ泣いてから、帰る、と低く呟《つぶや》いた。
辺りは静まり返っていた。遥かな沖から海風と海鳥の声がするばかりだ。黄昏《たそがれ》の色に染まるけば立った畳の上で、二人は手を握りあった。その手と手を包む、冷えきった手もあった。これから帰る家こそが、真っ黒な洞窟に思える。
ユミの方が先に出た。ユミはいつも振り返らない。置き去りにされる格好の恵二郎を見下ろすのが切ないからだ。黄昏の潮風には遠い秋の冷やかさが含まれていた。
すでにどこの女房達も船を迎えに出ている。賑《にぎ》やかで輪郭の濃い女達は、接岸されると網を引く手伝いに駆けていく。浅い海とて雑魚《ざこ》が大半だが、網を突き破らんばかりの銀の鱗の塊は夕闇《ゆうやみ》にも眩《まぶ》しい。ふらつきながら近付いたユミは、故意にか弾みでか突き飛ばされ浜辺に転がった。反転した空は青黒い鮫《さめ》の肌で、海は夥《おびただ》しい魚の死骸《しがい》を浮かべていた。
手が掴んだのはぞろりと長く滑る髪だった。真直ぐにユミの心臓を狙《ねら》う角度で、砂から錆びた包丁の切っ先が突き出ていた。ユミは啜《すす》り泣いた。そんなユミに誰一人手を貸そうともしない。いや、見向きもしない。のろのろと立ち上がれば、無表情に立ち尽くす錦蔵がいた。手には何もなく砂地にも尖《とが》ったものは貝殻しかない。
「何をしとるんじゃ。ほれ、帰るで」
大漁のためだろう、今日の錦蔵は機嫌がいい。手を貸して立たせてくれる。何の疑いもなく、ユミが後からついてくると信じている大きな背中を見ていると、涙がこぼれた。まだ、何かの望みや願いをこの背中に託しても許されるのだろうか。
浜辺には無数の足跡が残されている。波に洗われ風に消され、また新たな足跡が刻まれていく。恵二郎の足跡を探してみるが、それは一つもなかった。
その晩、ユミは奇怪な唸《うな》り声に眠りを覚まされた。板戸の破れ目から月光が青白く射し込む以外に明かりはない。闇の中、隣で寝ている錦蔵が唸っているのだった。あんた、と押し殺した悲鳴が出る。
「どうしたんじゃ、なぁ、なぁ」
揺すぶると、錦蔵は目を開けて跳ね起きた。獣のような息を吐く。
「いや、夢を見たんじゃ」
子供のように頼りなく羞《はず》かしげに、そう呟いた。瞬間、その夢の残像がユミの瞼《まぶた》にも映り、ユミはすがりつく。汗で熱の匂《にお》いがした。
「……あまぞわい」
耳鳴りがして、その言葉以外は聞こえなくなった。感覚が戻るまでに暫《しばら》くあった。
頭を抱える錦蔵は、そのまま再びごろりと寝転ぶ。
「……死んだ爺《じい》さんが、あまぞわいの洞窟に居《お》った」
海鳴りは近くに遠くに聞こえる。月光はあくまでも冴《さ》えている。
「もう一人、全然知らんどこかの婆さんが居った」
ぞくり、と背筋が冷えた。背中をなぶる青い月光は、刃物のように尖っている。ユミはその婆さんが瞼に浮かばぬよう、強く頭を振った。見知らぬ婆さんでも、死んだ婆ちゃんでも厭《いや》だ。震えを抑えるためにも、ユミは錦蔵に優しく手を伸ばす。
「その二人は何をしようったん?」
できるだけ甘い柔らかな声で囁き、背中を擦《さす》ってやる。
「……言えん」
錦蔵は心底|怯《おび》えていた。大きな男が丸まって縮こまっているのは滑稽《こつけい》ですらあるが、逆に怯えの大きさも伝わってくる。錦蔵は、爺ちゃんに恐《きよう》てえ話を聞かされて一人で小便にも行けなんだ子供の頃に戻っているのだ。
「言うて、本当になったら困る」
ユミはもう、それ以上は何も言わなかった。再び錦蔵の隣にそっと横たわりながら、錦蔵の夢に出てきた婆ちゃんを想う。幼いユミは、大きゅうなったらお嫁に行くと願っていた。今の自分はお嫁をやめたいと願っている――。
思えば、今の今まで事が露見しなかった方が不思議なのだった。小さな島の狭い村だ。村人すべてが顔見知りで、どこででも知った者に会うのだ。
いつものように人目を忍んで校舎の奥で逢っていたはずだったのに、障子をいきなり蹴破ったのは、錦蔵だったのだ。
ユミは声も出せず、ただ着物の前を慌てて合わせることしかできなかった。恵二郎は水死した者のような顔色で、ただ座り込んでいた。
「誰とは言わんが、ユミと恵二郎がこそこそ何かしようると、耳打ちしてくれた者が居ったんじゃ。まさかとは思うたが……このアマ」
今日は台風の気があったため、錦蔵達は早めに引き上げてきたのだ。風の温《ぬく》さや波の不穏さに、町育ちのユミも漁師の経験のない恵二郎も気付かなかったのだった。
錦蔵はまさに赤鬼だった。荒い岩肌に似た顔をどす黒く怒りに染めていた。やはり岩礁《がんしよう》を思わせる太い腕を振り上げると、ユミの頬を張り倒した。それだけでユミは転がる。頬よりも打ち付けた腰が疼《うず》いた。
乱暴の手順はいつも同じだ。このアマ、と怒鳴られる。腰の辺りを蹴られると、髪をひっ掴まれる。そのまま後ろに引き倒すと、腹に跨《また》がって首がもげそうになるほど頬を張られた。抵抗などできるものではない。圧倒的な力なのだ。その勢いについていくのがやっとの有様で、悲鳴すらあげる間がない。
ユミが殴られている間、恵二郎はただ頭を抱えてうずくまっていた。たとえ自棄糞《やけくそ》な反撃を試みても、その腕の一振りで粉砕されるのは目に見えていた。といって一人で逃げ出そうともしない。ただうずくまっているのだ。
ユミが虫の息になったところで、やっと髪から手を離した。ユミは絞りすぎてぼろ屑《くず》になった手拭《てぬぐい》のように放り出され、息だけをつく。鼻血で鉄錆の匂いが満ちる。瞼は腫《は》れ上がり開かない。頭も何もかも痺れていた。刹那《せつな》、体が浮き上がり瞼に眩しい色が広がった。ユミは気を失ったのだ。
気を失ったのが苦痛のためなら、目を覚ましたのも苦痛のためだった。どんな格好をしても息の詰まる痛みと骨の疼きから逃れられはしないが、胸を大きく上下させながら仰向けになる。肺臓が軋《きし》む。腫れた瞼の隙間《すきま》から異様な光景が覗けた。
……赤鬼が洞窟《どうくつ》で人を貪《むさぼ》っていた。錦蔵はユミに行なった激しい暴力とは違い、恵二郎には静かな殺意を向けていた。恵二郎に覆い被《かぶ》さり、首を絞めあげていたのだ。
鬱血した恵二郎の顔が見え隠れし、ユミの上で天井がぐるぐると回った。起き上がろうとしてできなかった。ユミの手は尼が、ユミの足は海女が押さえつけていたのだ。
冷えきった女達は無表情に、ユミの体を押さえつけている。洞窟が迫ってきた。錆の匂いに満ちている。真っ黒に視界を塗り潰《つぶ》された。唸り声は恵二郎か自分か。ユミは再び気を失うことができた。尼と海女は幻の引き潮に乗り、あの洞窟に帰っていった――。
……瞼は腫れていたが、かろうじて開けることはできた。節々が痛んだが、どうにか半身を起こすことはできた。すでに薄暗い部屋で、まず見えたのは錦蔵の座り込んだ姿だ。身じろぎもせず、石に化したかのように固まっている。その膝《ひざ》の下から、長々と異様な影が伸びていた。その影には厚みがあった。
恵二郎なのだ。恵二郎が畳に伸びているのだ。こちらも微動だにしない。いや、錦蔵は動かないといっても荒い息はついているし、背中もわずかに動いている。恵二郎は本当に動かなかった。動かないのも道理だ。呼吸をしていないのだから。
初めてユミの喉《のど》から、甲高い悲鳴が迸《ほとばし》った。悲鳴をあげることだけが、ユミの生きている証《あかし》なのだった。その悲鳴で、錦蔵が裂けそうに目を見開いてユミを見た。悲鳴をあげる形に口を開いて固まっている。どうやら錦蔵は、ユミは死んだと思っていたようだ。己れの手で殴り殺したつもりでいたようだ。
錦蔵にとっては、息を吹き返したというより幽霊になって戻ってきたユミなのだから、再びその手を伸ばしてくることはなかった。とどめを刺すには精も根も使い果していた。怒りと興奮は、この現実の前ではいつまでも続かない。ユミは息を吹き返したが、恵二郎の方はどうやってもこちらに戻ってきそうにはないのだ。
いきなり、錦蔵はユミを抱き上げた。涎《よだれ》で不精髭《ぶしようひげ》が汚れていた。険しい顔はどす黒く歪《ゆが》み、眉間《みけん》の皺《しわ》は鑿《のみ》で刻んだほどに深まっていた。
「……やってしもうた。おい、やってしもうたんじゃ」
抱きかかえられたユミは、不自然に首を捻《ねじ》って横たわる恵二郎のどす黒く鬱血した顔を見せつけられた。鼻血が流れていた。口をかすかに開け、歯を覗かせていた。少しだけ、笑っているふうでもあった。絞められた際に失禁したものの臭《にお》いが鼻をうった。縮かんだ足の裏は失禁したもので濡《ぬ》れていた。
こういう時には気を失えないのだ。しん、と醒《さ》めてきて、酷《むご》い現実をまじまじとその瞼に焼き付けてしまう。今夜から悪夢ばかり見るのだろうと、ユミはどこか他人事《ひとごと》として思った。
頭の外側も中身も芯《しん》も、すべてが重苦しく痛んだ。どれが幻でどれが本当なのか判断できかねた。ついさっきまで語り合い抱き合っていた恵二郎が、物言わぬ骸《むくろ》となって目の前に横たわっているなど、どのように受け入れればよいのか。しかも、そうしたのが錦蔵だなどと。この後どういうふうに後始末をつければよいのか。
「……わかっとろうな、ユミ」
赤鬼は怯えきっている癖に、逃げる算段をつけていた。いったんは殺したはずの女に、助けを求めているのだ。恵二郎の方にこそ生き返って欲しいだろう。だが恵二郎は生き返ったとしても、人殺しの後始末は手伝ってくれないだろう。
「恵二郎は網元の倅じゃ。わしがその恵二郎を絞めたなぞとわかってみい、牢屋に入れられる、縊《くび》られるだけじゃ済まんのじゃで」
再びユミを畳に投げ出し、錦蔵は体を支えるために手をついた。死体を拝む格好だ。ユミも死体の格好をしたまま、天井ばかりを見上げた。ひび割れた頬を涙は伝い、開けた口に流れ込んできた。やはり、錆の味がした。
「わしの兄貴んとこも、弟んとこも、妹の嫁にいった先もじゃ。とにかく親戚《しんせき》中みな、この村には居れんようになる。無論、ユミもじゃで」
ああ、自分はこの男の嫁だった。今更ながらに知る。そうだ、そこに横たわる男の嫁ではなかったのだ。互いにそれを望んだことはあるにしても。
「陽が落ちてしまうまで、ここに居るんじゃ。誰にも見られんようにな」
自力で起き上がったユミは、そっと恵二郎の左足を撫《な》でた。ユミの手のひらに収まるほど小さな足は、まだ温もりが残っていた――。
そこを出る前に、畳を雑巾《ぞうきん》で丹念に拭《ふ》き取った。その雑巾も持ち帰って焼き捨てることにする。ユミは出る前に一度だけ振り返った。この部屋にもう入ることはない。明日からまた風だけ吹く砂浜を胸に広げ、その砂を噛《か》む日々を費やすのだ。
月明かりの中を、恵二郎を背負った錦蔵は黙々と歩く。背中で小さな片足が、愛らしく揺れていた。黄泉路《よみじ》にも似た暗い砂浜を、ユミもよろめきながら歩く。
浅瀬でだけ使う小舟を引き摺《ず》りだし、二人は無言で乗り込んだ。痩《や》せていた恵二郎だが死体は重い。三人が乗ると沈み込んだ。暗夜の海に漕《こ》ぎだすにはいかにも小さな舟だ。黙々と櫓《ろ》を動かす音だけがする。月は細く雲は暗く死体は重い。
舟はあまぞわいの近くにまで来た。今は没しているため、どこにあるともわからない。海女の泣き声も尼の泣き声もない。啜り泣くのはユミだ。誰かが風に乗るこの声を聞けば伝説は本当だと怯えることだろう。果たしてそれは尼と思うか海女と思うか。
「潮の道筋にもよるが、すぐには流れ着きゃあせんじゃろ。ええころに腐ったら首を絞めた痕《あと》もわからんようになるはずじゃ」
目も鼻もわからぬ影法師は、押し殺した声で告げる。死体を引き摺り、舳先《へさき》に押し上げる。思わずユミは手を合わせ、必死にうろ覚えの経文を唱えた。舟の外に沈めるのはあっけないほどすぐに終わった。恵二郎は静かに沈んでいった。漁村に生まれ育ったのに一度も海に潜らなかった男は、死んでから海に呼ばれたのだ。
ユミは惚《ほう》けたように舟の揺れに身を任せている。ユミは錦蔵の背後に、今この時間に覗《のぞ》くはずのない岩礁を見ていた。あまぞわいはぽっかりと黒い口を開け、恵二郎をも飲み込もうとしていた。
錦蔵の死んだ爺さんと、ユミの死んだ婆さんがいた。二人は老いた雛《ひな》人形のように行儀よく並んで座り、錆びた包丁を真ん中に立てていた――。
……どのようにして岸に着いたのか。いつ船を降りたのか。気がつけばユミは錦蔵に背負われ、家路を辿《たど》っていた。砂浜に錦蔵の足だけがめり込む。その後ろを、縮かんだ小さな足跡がつけてきている。ぽとぽと控えめな足音を立て、小さな足跡は家の前までついてきた。それは激しい潮風に吹きさらされ、すぐに消えてしまった。
「ユミと恵二郎が怪しい言うたんはうちの兄貴の嫁じゃけん、心配は要らん。たとえ巡査が来たとしても、余計なことは告げんはずじゃ。わしらが黙っとりさえすりゃあええ」
錦蔵の腕力の強さと気の短さを慮《おもんぱか》れば、他の村人とて下手なことは口にしないだろう。二人は固く抱き合って眠った。とうに岡山の酌婦や女郎や、同じ村の後家などの方に心を移しているとはいえ、命さえ左右する秘密を握る女はユミだけなのだ。憎しみと不安を無理|遣《や》り情に変えられるかどうかはわからないが、ともかくその晩は抱き合い二人は床に就いた。
耳を澄ませるが、男の恵二郎は啜り泣いたりはしていない。恵二郎を絞め殺した太い腕は、今宵はユミの枕《まくら》になった――。
恵二郎がいなくなったことは当然ながら翌日すぐに騒ぎになった。しかしいくら片足が不自由とはいえ、立派な大人の男だ。にわかに事件には結びつけない。それでも親は駐在所に届け出をし、近隣の山や林の中も村人によって捜索された。素知らぬ顔で錦蔵も加わった。
ユミは腫《は》れた顔を隠すため手拭《てぬぐい》をかぶり、家から出なかった。それに節々が痛んで、歩くのにも不自由したためもある。恵二郎のあの足のように縮かんで過ごした。隠れてさえいれば嵐《あらし》は過ぎ去るのだ。そう信じて耳を塞《ふさ》ぎ目を塞ぎ口を噤《つぐ》んだ。海女も尼も洞窟に潜んだまま出てこない。
恵二郎のいない朝が明けたというのに、あくまでも蒼空《そうくう》は深く、海は穏やかで漁師達は陽気だった。浜辺に濁声《だみごえ》の舟歌があがり、海鳥は喧《やかま》しい。あまぞわいは没しては現れ、現れては没し、不吉な言い伝えなど知らぬげに潮風に吹かれている。
恵二郎などいなかったし、出会わなかったのだ。ユミは必死にそう思い込もうとした。自分は望まれて望まれて、錦蔵の嫁になってここに来たのだ。ここらの女房達よりひどいざんばら髪に前をはだけた姿で、ユミはうずくまり続けた。
あれから何日経っただろうか。尼の幻も海女の幻も、ましてや恵二郎の亡霊など一度も出てこない。恋情に狂っていたからこそ見た幻だったのか。潰《つい》えた今はもう、何もない。不穏な噂も立たず、ユミの顔の腫れも体の痛みも引いていた。
うって変わって、錦蔵は優しくなった。料理屋に通いつめていた頃ほどではないが、手を挙げることもない。夫婦としてより、共犯者としての方が優しくなれるらしかった。下手にユミを刺激して、あらぬことを口走られたらまずいというのもあったろう。
繕いものをしていた手を止め、ユミは凝った肩を叩《たた》いた。そろそろ夕暮れ時だ。迎えに出なければならない。浜に集う女達は、さすがに網元の息子の噂には声を顰《ひそ》める。しかし恵二郎は、さっそく「岡山の女と駈《か》け落ちしたらしい。岡山駅で見た者が居る」などという無責任な噂を立てられていた。警察がどれほどの捜索をしているかはわからない。第一まだ事件と決まってはいないのだ。
ユミは裾を摘《つま》んで砂浜に出た。今しも錦蔵の乗った船は接岸するところだった。褌《ふんどし》一丁の男達が、膨らんだ網を引き摺り降ろす。女房達が歓声をあげて銀に輝く魚に群がれば、たちまち大漁の歌が弾ける。野卑なのに心地よい手拍子は遠くどこまでも届く。だが、月が黒雲に隠れるように、突然ふっつりとその歌は止んだ。
何とも言えない静けさに浜辺は浸された。赤鬼に似た錦蔵が、茫然《ぼうぜん》と立ち尽くして網目から覗く何かを凝視している。笛に似た悲鳴があがった。歌の続きではない。長々と尾を引く、本物の悲鳴だった。腰を抜かす女もいた。
網の中に、巨大な腐った魚がいた。
長く海を漂っていたため髪も眉《まゆ》も抜け落ちてしまい、鼻も溶けて人相すら定かではない人間だ。潮に巻かれて着物はすべて脱げおち、剥《む》けた裸身を晒《さら》している。海底にいたため真っ白だった体は、蒸せる砂浜ではたちまち真っ赤に膨張して蟹《かに》のように泡を吹き漏らした。股間《こかん》には蕩《とろ》けているが、男の痕跡《こんせき》があった。そうしてその男は、左足だけが小さく細い。それは誰の目にも明らかだった。
「……恵二郎じゃ」
女達の悲鳴と男達の怒号の中、ユミはその場にへたりこんだ。錦蔵は無言で立ち尽くすだけだ。酸《す》っぱいものが込み上げてきた。ユミはうずくまって吐いた。あのような異形のものと自分は抱き合っていたのだと、胃の腑《ふ》が痙攣《けいれん》するまで吐いた。
すぐに何人かが駐在所に走り、巡査をつれてきたが、あまりに腐敗が激しく傷《いた》んでいたため、一目見ただけでは死因はわからなかった。その後、県立病院に遺体が運ばれ検死も受けたが、やはりはっきりした死因はわからなかった。巡査が何人も各家を回って聞きこみをしたが、恵二郎は誰かに恨みを買う謂《いわ》れはないと、誰もが口を揃《そろ》えた。そのため、呆気《あつけ》ないほど早くに、自害か事故ということに落ち着いた。
自害の理由は当人も常々口にしていたが、なかなか嫁の来手がないというものだ。事故説はやはりその足のため、何かの拍子にどこかの岩場から落ちたのだが泳げなくてそのままになったというものだ。どちらも、実にもっともらしかった。誰かに殺されたとするより、よほど真実味があった。
錦蔵とユミは、一切その話をしなかった。誰かに聞かれたら困ると警戒したからではない。ないことにしてしまっているからだ。二人とも他の村人と同じように、恵二郎は自害か事故死だと思い込もうとしたのだった。
それからの夫婦仲はまた違った形になった。仲睦《なかむつ》まじくなったのでもなければ、再び錦蔵の暴力が始まったのでもない。よそよそしいただ同居するだけの男女となったのだ。
これまでの鬱陶《うつとう》しさとは違う。殴る亭主でも恐い亭主でもない。自分の罪を知る者なのだ。それは錦蔵にとってもだ。ユミは役立たずの嫁でも不機嫌な嫁でもない。自分をいつ密告するかわからない者なのだ。それゆえ、離れたくても迂闊《うかつ》には離れられない。
婆ちゃん、婆ちゃん、ユミはなんでこんなところに嫁に来たんじゃろな。
爺ちゃん、爺ちゃん、キン坊はなんで人殺しやこうになったんじゃろうな。
ユミや、男というものは、そういうものなんじゃ。
キン坊よ、女というものは、そういうものなんじゃ。
――さすがに村一番の分限者、網元の家の葬儀は祭りと見紛うほどのものだった。白菊は溢《あふ》れ返り、岡山から呼んだ総勢十人の僧侶《そうりよ》の読経は遠く長浜村にまで届いた。
村中総出で手伝いに集まり、今日ばかりは女房達もきちんと着物を着ていた。晒布《さらし》を引き裂きながら死装束を縫い、煮炊きの竈《かまど》は盛大に炎をあげた。村外れの墓地に続く列はどこまでも途切れなかった。人殺しの夫婦も、粛然と葬儀の列に加わった。
啜り泣きの声に目を閉じれば、それはあまぞわいの尼と海女の声になる。ユミは一心に経文を唱え続けた。足の裏にあの岩の冷たさが蘇《よみがえ》る。洞窟《どうくつ》の臭《にお》いと恵二郎の腐臭が混じりあう。あの日、恵二郎とともに水揚げされた魚はすべて処分されていた。その魚はみな、恵二郎の肉を食らっていたからだ。夥《おびただ》しい死魚は白い腹を光らせてまた海に戻っていった。
初七日が来るまで、ユミは密《ひそ》かに恵二郎の家の前に通い続けた。錦蔵の家にあっては貴重なはずの米の粉や豆を撒《ま》き、鳥が沢山ここに飛んでくるようにと願った。二言目には、お前のためにどんだけ金を使《つこ》うたか、と吐き捨てる錦蔵の目を盗んでは、少しずつ米粒まで持ち出した。それは例の、この島特有の初七日の風習のためにだ。
死者の家の前に、灰を入れた盆を置いておく。鳥の足跡がつけば死者は成仏している。その願う気持ちの中には、化けて出ないでくれというのもあった。
錦蔵は変わらず網元の家の船で漁に出ている。精悍《せいかん》な黒さから煤《すす》けた黒さに変わった顔色は、その船の持ち主の息子のことを考えているのか、ユミと引き替えに手放した自分の船を想っているのか。しかし岡山に遊びに出ることも、村の後家や娘に夜這《よば》いをかけることも慎んではいるし、無闇《むやみ》にユミを殴ったり怒鳴ったりもしなくなっていた。
ユミはそんな錦蔵が疎ましくもあったが、僅《わず》かな哀れみも抱いてはいた。それにこの村を離れてあの男と別れたら、自分はまた岡山の酌婦にでも戻るしかない。それならまだましな方で、ひょっとしたらついに女郎に堕ちるか、最悪の場合は人殺しの共犯として獄に繋《つな》がれることもあり得るのだ。
目を細めれば、きらめく海面の明かりは岡山の夜の店先の明かりにも見えた。この向こうには長浜村、その隣には岡山市があるのだ。なぜこんなに遠いのかと、ユミは睫毛《まつげ》で涙を震わせる。目に映る距離なのに、泳いでは帰れない。
――やがて恵二郎の初七日が来た。夜明けに灰の盆は出されるはずだと、ユミはこっそり錦蔵の寝ている間に家を出た。海鳥は早くも賑《にぎ》やかに鳴いている。雀の声も鶏の声もある。どうかどうか灰の上に、鳥の足跡があるように。猫なぞ近寄れば追っ払わなくてはならない。犬も寄せ付けまいと、落ちていた棒切れを拾いあげる。
高台にある恵二郎の家は当然ながら、厚みのある茅葺《かやぶ》き屋根の豪壮なものだ。こんな家にわたしが嫁入りできるはずはなかろう、と呟《つぶや》き、慌てて辺りを見回す。恵二郎が返事をしたりしたらどうしようかと思ったのだ。ましてや、嫁に欲しいなどと耳元で囁《ささや》かれたら誰に助けを求めればいい。
砂浜は風に洗われ、今はユミの足跡しかない。女の泣き声などない。群青色《ぐんじよういろ》に染《そ》む海原の中ほどに、あまぞわいが見える。見てはならない。
板塀の前の置き石に、その盆はあった。恐る恐る近付き、思い切って覗き込む。……ユミはその場に崩れ落ちた。錦蔵に殴られる時のように縮こまり、悲鳴を押し殺した。手から棒切れが落ちて、まるで錆《さ》びた包丁のように砂に刺さった。
あまぞわいの方角から、錆びた臭いが漂ってきた。目を閉じてうずくまるユミの肩に、冷えた女の手が載せられる。足元に、坊主頭の女が這《は》い寄ってくる。啜り泣きはユミの口から漏れた。尼と海女にしがみつかれ、ユミは砂にめり込んだ。
盆の灰には、鳥の足跡も猫の足跡もなかった。ただ、見覚えのある小さく歪《いびつ》な左足の跡がくっきりと押されてあったのだ。
ようやくのろのろと起き上がったユミは、辺りを見回す。誰もいない。何もない。痩《や》せた松の木に吹き付ける砂混じりの風の他は音もない。そろそろ村人は起きだす時刻なのにこの死に絶えた静けさは何なのか。耳元に、この世の者ではない者の息がかかる。
「この次にあまぞわいに居着くのは、ユミじゃで」
足跡から、優しい懐かしい囁きが聞こえた。
「わしを想うて泣いてくれるか」
どこまでも続く砂浜に、ユミはただ一人立ち尽くした。そのユミに迫るのは、片足を引き摺る足音だ。小さな左足の足跡だけが、点々と間隔を狭めながらユミに近付いてきた。ユミを囲むように、足跡は円を描いていく。からかうように、逃がさぬように。気がつけば灰の盆だけでなく、砂浜中にその足跡は押されているのだった。
ユミは弾かれたように駆け出していた。可憐《かれん》な足跡を踏みつけながら、浜中を逃げ惑った。渇いた喉《のど》は悲鳴もあげられない。足は徐々に海に近付いていく。爪先《つまさき》にひやっと冷たい海水が触れた後は、あっという間だった。膝《ひざ》から腿《もも》、腰ときて、ユミは海中に没した。
濁った蒼《あお》い水の彼方に、真っ黒な岩礁がある。あまぞわい。だが、そこには海女も尼もいない。そのそわいは、ユミのためのそわいなのだった――。
[#改ページ]
依って件《くだん》の如し
鈍色《にびいろ》の曇り空をそのまま映した貧しい水田と、その泥に塗《まみ》れた百姓と牛。まとわりつくのは血を吸う虫ばかりだが、その虫も吸っているのは血ではなく泥だった。
痩《や》せた昏《くら》い景色を抱くのは、その鈍色の空に押さえつけられた低い尾根だ。浅い山とは言われても、中国山脈は途方もなく広く果てしなく影は濃い。殊に今頃の季節になれば、彼方の村や見知らぬ異国、果ては西方浄土にまでこの青さは続くかと思われる。だが、いくら青葉が艶《つや》やかだろうと降りしきる霧雨に甘い花の匂《にお》いがあろうと、わずか戸数二十の陰鬱《いんうつ》な村はやはり泥の中に沈む。鍬《くわ》の掻《か》く泥の重さに立往生する牛は苦悶《くもん》する時、人間と同じ泣き声をあげた。その度に美しい田植え歌は中断され、濁った罵声《ばせい》が飛ぶ。
「悪いことなら口にすな。本当になるけん」
今朝も兄の利吉は、シズにそれだけを言った。シズは何時《いつ》ものようにただ頷《うなず》いた。この兄妹が暮らす筵掛《むしろが》けの小屋から覗《のぞ》く平坦《へいたん》な視界を遮るものは、不揃《ふぞろ》いに伸びて歪《ゆが》んだ細い木々と半ば崩れかけた藁葺《わらぶ》き屋根の家々、棘《とげ》だらけの夏草に覆われる石積みの粗末な墓だけだ。三十三回忌が済んだ古い位牌《いはい》は村外れの朽ちた粗末な木の堂に集められ、雨曝《あまざら》しになっている。古い死者の魂は行く当てなく村境を彷徨《さまよ》い、拝まれるものにも恐れられるものにもなれず、死んだ後も土の色の百姓でしかなかった。
ただ一つ、七回忌も済まないのにそれらの古い位牌とともに祀《まつ》られる死者がいた。小径の端に土盛りだけをした墓ともいえない墓があり、そこには女が埋められていた。その女は死してなお村人を恐れさせていた。牛もそこを通り過ぎる時は必ず身を竦《すく》ませる。人の目には見えないが、牛には今もその女が見えるらしかった。
シズは土間から外を仰ぐ。差し込む光はただ真っ白に眩《まばゆ》い。それでも一歩その外に出れば、目の前すべて泥色の季節。明治半ばの岡山の北は美しく、そして貧しかった――。
「なあ、兄しゃん」
シズは今年数えで七つになるが、喋《しやべ》れる言葉数は赤ん坊並みだ。兄しゃん。これ以外は滅多に口にしないが、それで事足りるから不自由はない。シズには父も母もなく、身内といえば一回りも歳《とし》の離れた兄の利吉だけだ。それに村人の大半はシズに話しかけるのを嫌がる。同じ年頃の子供達にも、遠くから石を投げつけられるだけだ。
利吉はシズが喋らなくても身振り手振りで充分に話が通じる。今朝もシズが目を見開いて小屋の外を凝視していただけで、すぐに先の言葉が飛んできた。
その時利吉は、シズが見ていたのと同じものをやはり見たのだ。
シズは血の気をなくして座りこんだが、利吉は平然としていた。いや、それを凝視して怯《ひる》みもしなかった。小屋の出入口にいたものは、棘だらけの草叢《くさむら》に獣の息を吐きかけながら、ただじっと佇《たたず》んでいた。
小屋の中が暗すぎるため、外を見れば猛々《たけだけ》しい草叢も遠景の山並みも荒れた小道も、すべてが白い光の中にある。その中にただ一点、真っ黒な闇《やみ》があった。
それは気がつけばそこにいたように、やはり気がつくと消えていた。
「悪いことなら口にすな。本当になるけん」
利吉はまったく何事もなかった態度で背を向け、竈《かまど》の前にしゃがんで火を熾《おこ》した。地べたに直に板囲いし、申し訳程度に藁で天井を覆うこの小屋では囲炉裏は切れない。出入口の横に石と泥土で拵《こしら》えた低い竈があり、煮炊きはそこでした。寒い季節はその側で寝もする。昼間も暗いこの小屋の中ではただ一か所、明かりの灯《とも》る場所でもあった。
シズは何故か、その竈の側に行くのはためらわれた。兄が添い寝してくれるから寝られもするのだが、普段は近づきたくない。とはいえわずか二坪ばかりの狭い小屋だ。いやでも視界には入る。だからいつも、精一杯その竈から遠い位置に当たる奥の暗がりにいた。
それほどまでしていたのに今朝は兄より先に目を覚まし、うっかり竈の方を見てしまったのだ。正確には外にいたのだが、シズには竈に隠れていたとしか思えなかった。うちの竈には恐《きよう》てえものが居る、とシズは確信していた。竈の中にではなく、竈の横に。
「悪いことなら口にすな。本当になるけん」
兄しゃん、あれは悪いもんか。しゃあけど本当になる、と脅すからには、あれは夢なんか。……うちには、夢とは思えなんだ。本当に居ったんじゃ。
湯気だけは旺盛《おうせい》に立つ欠けた茶碗を受け取りながら、シズは口の中だけで呟《つぶや》く。日雇いの小作人しか出来ない利吉の給金では、今朝のように荒麦の薄い粥《かゆ》が炊ければ上等だ。藁を齧《かじ》るのと変わらない蕎麦《そば》の団子とて、口に入れられるだけで有り難い。それもない時は雇い主の家で牛に食わす稗《ひえ》を分けてもらって凌《しの》ぐのだ。それもない時は、日がなこの崩れかけた小屋の中でうずくまっている他ない。もっとも雇い主である家からして、一升の飯の中に米は二合しか混じっていなかった。
この村は普通作の年の方が珍しかった。稀《まれ》に黄金色の穂波が輝けば、村人はかえっておののく。こりゃ竹の花も咲くで、来年は一粒たりとも実らんかもしれんでと。餓《う》えは幾年続いても、慣れるということがない。
燠火《おきび》になったのを確かめてから、利吉は出入口に下げてある戸の代わりの筵《むしろ》を巻き上げた。夜明けから間がないのに、盛んな季節の光の量と熱気は溢《あふ》れんばかりだ。利吉は手拭《てぬぐい》で鉢巻きを締め、汚れた単衣《ひとえ》の裾《すそ》をからげると躊躇《ちゆうちよ》なく外に出た。
たとえ妖《あや》しげな何かがまだ外にいようと、いつまでも煩わされている暇はない。貧しい朝餉《あさげ》が済めば二人はすぐに野良へ出なければならなかった。どの小作人よりも早く行き、どの牛よりも泥に塗れなければ許されない。
「兄しゃん」
シズも裸足《はだし》のまま後を追う。利吉は勢い良く抱き上げてくれた。すでに汗ばんだ兄の肌からは、濃い体臭が立つ。まだ若い牛や犬の匂《にお》いと似ていた。その匂いに包まれるこの時が、シズは一日の内で一番好きだった。野良仕事の後はさすがの兄も疲れ果てて抱いてはくれないからだ。
利吉は牛よりひどい物しか口にできず牛より沢山働かされているのに、村のどの男より上背があった。膂力《りよりよく》もあり、それこそ牛並みに荷物も運べたし泥田で鋤《すき》も引けた。痩《や》せてはいるが、赤銅色《しやくどういろ》に灼《や》けた背中や腕からは透ける血管までが逞《たくま》しかった。
「徴兵検査が楽しみじゃのう。真っ先に支那に遣《や》られるで」
村人の揶揄《やゆ》は必ずこれだ。逞しい体躯《たいく》への羨望《せんぼう》もあるが、その中には多分の恐れも含まれていた。はっきりと村八分の通達を突き付けられている訳ではないが、利吉とシズの兄妹は村人の婚礼や葬式の列には入れてもらえないし、祭りにも誘ってもらえなかった。利吉の年頃になれば村の娘との夜這《よば》いや逢引《あいび》きがあるのが普通だが、これもまた除者《のけもの》だ。それでいて重労働の雁爪《がんづめ》での田草刈りなどはみな利吉にやらせる。炙《あぶ》られるほどの炎暑の下を夜まで泥田の中を這《は》いずり回され、やっと麦だらけの黒い飯を二合ばかり貰《もら》えるのだ。
三つ四つのうちからシズも水汲《みずく》みや子守りをさせられて、まだ柔《やわ》い足はすっかり曲がってしまった。それでも二人は黙々と、牛以上に大人しく地べたを這っている。だが牛ではない以上、いつか爆《は》ぜて利吉が鎌《かま》を振り上げるのではと、村の誰もが密《ひそ》かに胸に描いていた。牛だってあまりの酷使には全身で抗《あらが》う。ましてや利吉とシズは村人に言わせれば、なんちゅうてもあの女の子供じゃけんな、だ。
実のところ村人は、利吉を恐れているのではなかった。利吉とシズを産んだ女を恐れていたのだった――。
「兄しゃん。今日はツキノワか」
兄の腕の中で、シズは薄目を開ける。村外れに近いこの陰気な森に抱かれた湿地は、どんなに天気が良くてもじめじめと暗い。森の向こうには古い仏を祀《まつ》る堂がある。皆に忌まれる墓も一つある。森の手前は小さな田圃《たんぼ》だ。
「ああ、ツキノワじゃ」
何の変哲もない田圃だが、ここだけは特別な呼び名が与えられていた。ツキノワ。魔物の通る道筋、恐ろしいものの棲《す》む場所だ。
利吉は腕の力も表情も何も変えず、そのツキノワを見下ろす小高い畔《あぜ》に立ち止まる。伸び放題の雑草の間を細い蛇が擦《す》り抜けた。答えるなり利吉はシズを降ろした。シズは湿った畦《あぜ》に座り込む。雇い主の一家が来るまで取り敢《あ》えずシズはする事がないが、兄は違う。すでに畦道を駆け降りていた。利吉は誰も来ない間に、大事な作業を済ませておかなければならなかった。唯一、祟《たた》りも汚《けが》れも畏《おそ》れない利吉にしか出来ない事だ。
積んであった藁《わら》を小分けにし、目分量できっちり十二に束ねる。それを泥田の中に注意深く運ぶと、丁寧に田を囲む形で置いていく。ツキノワは神聖な場所ではない。忌まれ恐れられ嫌われる場所だ。それでもそこに田圃が重なっている以上、田植えも稲刈りもしなければならない。狭い村には遊ばせる土地などないのだ。
古来よりツキノワは「牛と女が入ってはならない処」とされていた。理由などわからなくてもそれがツキノワなのだ。いつからそこがツキノワになったのか、村の古老ですら知らなかった。しかしその場所がこれからもツキノワであり続けることは、どんな子供でも知っていた。女が入ってしまったのだ。汚れた土地をさらに穢《けが》れで沈めたのだ。
ようやくシズが歩けるようになった頃、このツキノワの真ん中で死んだ女がいた。鎌で喉《のど》を掻《か》き切って、泥の中に仰向けになっていた女が。村人はその話も女も忌み嫌う癖に、いつまでも語り継いでいる。笑った唇の形が三つあったと。まずは月。鎌に似た白く細い三日月が、薄墨色の空にあった。次に女の首の傷口。三日月の形に開いた長く深い裂目はそこから泡を吹き出し、それが確かに笑う声に聞こえたと。そして最後にその女の顔にある唇。女は大笑いをするように、精一杯口を開けていたそうだ。
断末魔に苦しんだからか。……いんにゃ、やっぱりあの女は笑《わろ》うとったんじゃ。じゃけぇ葬式もせんとすぐ村外れに埋めに行った。あの女にゃあ子供が二人おった。その子供らはこの村で今も生きとる。あの女も村外れでまだ笑うとる……。
あの女とは、利吉とシズの母だった――。
東の空が薄青く染まるのを待たず、陽射《ひざ》しは強くなった。老いた男もまだ若い男も、皺《しわ》の刻まれた黒い顔で黙々とこちらに歩いてくる。このツキノワの田圃には、女と牛は来ない。利吉が藁束《わらたば》で囲んだ結界の中には、男だけが入って作業をする。
このツキノワの田圃の持ち主は由次《よしじ》といい、さほど悪意もないが情もない四十半ばの小柄な男だ。由次は抱えてきた赤ん坊を背負《しよ》い紐《ひも》ごと無造作にシズに突き出した。嫁のナカは別の田圃に出ていて、その間の子守りはシズだ。由次夫婦は立て続けに女ばかり五人産み、どの娘も他村へ嫁いでいた。四十過ぎてまた身籠《みご》もり、今度は幾らなんでも男だろうと期待して産んだ。それがこの六女だ。だからシズなどに子守りを任せる。
髪が赤ん坊に触らないよう手拭で巻き上げてくれ、背負い紐をきっちり結わえてくれるのは、この中では最も年寄りの竹蔵だった。皺だらけの茶色い和紙を貼《は》りつけたような顔の小さな老人は、皆には竹|爺《じい》と呼ばれている。竹爺はこの村でシズと利吉に口を利《き》いてくれる、数少ない人間の一人だった。あとのもう一人は、今頃やはりナカと同じ田圃に出ている竹爺の女房だ。竹|婆《ばあ》と対で呼ばれる老婆は、顔も性質も竹爺によく似ていた。
「竹爺。教えて欲しいんじゃ」
シズが珍しく自分から口を開いたので、畔《あぜ》を降りかけていた竹爺は立ち止まって振り返った。その向こうには、黙々と苗を並べる男達が黒い影になっている。四つん這いになって牛の格好をしているのが利吉だ。
「……牛の化け物は居るか」
竹爺はしばらくそのままの格好でいたが、目尻《めじり》の皺を少しだけ動かした。
「そりゃ、『くだん』じゃろ。頭が牛で体は人間じゃ。どねんした。恐《きよう》てぇ夢に見て寝小便こいて兄しゃんに怒られたか」
今日の竹爺の笑い皺は傷口に見えた。シズはむずかる赤ん坊を背負ったまま身じろぎもしない。目は一点を見つめていた。その視線は一見、兄に向けられているようだった。
「どねぇなことをする化け物じゃ」
違うのだ。シズは今、兄を見てはいない。それでも竹爺は、歯のない口で笑った。
「良うない時に生まれてきて、良うないことを告げてから死ぬ化け物じゃ」
シズはまったく視線も表情も動かさない。生温い風に吹かれながら、ただ兄の後ろにいるものを凝視していた。竹爺はシズのそんな様子はいつものことと得心しているのか、おどけた掛け声とともに畔を駆け降りていってしまった。
あれはいったい何なのか。シズの目線の先にいるもの。今シズが見ている異形の何かは間違いなく今朝、戸口の外に佇《たたず》んでいたものだ。明け方は影しかわからなかったが、こうして陽の下に出るとはっきりわかる。
件《くだん》……そう呟《つぶや》こうとしたのに、別の名前が出てきた。口にした瞬間、それは消えた。
「母しゃん」
真っ黒な牛の頭をした女。頭が牛なのに、なぜ母とわかったか。シズに母の記憶はまるでない。恋しくもない。利吉は多少の思い出も恋しさもあるだろうに、やはり話もしないし墓参りもしなかった。それでも奇妙な事に母の死の情景はありありと思い描ける。
戸数二十の村では、三代前の不祥事から昨夜の晩飯のお菜まで何もかも仔細《しさい》にみなに知れ渡る。村八分同然でも、母が毎晩|夜這《よば》いをかけられていた話はシズ達の耳にも届く。二人の父親は同じ男ではないらしいということも。
さらにシズの父親についての奇怪な噂《うわさ》も、物心つく頃には知っていた。二人の母はなかなかの器量良しだったらしいが元々|癇性《かんしよう》なところがあり、利吉が十歳を過ぎる頃には狐憑《きつねつ》きかと恐れられるほどの奇矯な振る舞いを繰り返したため、さすがに夜這いをかけてくる男は皆無だったと。それならどうやってシズを身籠《みご》もったのか。利吉の父親ならまだ凡《およ》その見当はつくが、シズの父親は皆目わからないのだった。
「大方、牛の子じゃ」
そう吐き捨てたのはナカだった。ナカは二人への嫌悪感を誰より露骨に示す。由次も一時その二人の母の許《もと》に通っていたことがある上、ただでさえ不吉な土地のツキノワを持つ身としては、よりによってそこで自害などしなくてもいいだろうという憤怒もあった。それでもナカと由次は利吉とシズを使う。牛と同じに扱えるからだ。
ふいに田圃の中の利吉が立ち上がってこっちを向いた。シズは毒虫に刺されたようにびくりとする。兄の言いたいことはわかった。悪いことなら口にすな。本当になるけん。
……どうしたらええんじゃ、兄しゃん。悪いことをうっかり口にしてしもうたがな……。
やがて山肌が真っ黒に塗り潰《つぶ》される頃、ようやく利吉とシズは帰るのを許された。それこそ泥のように疲れ果てていた。何も履かない足の裏はこの季節なのに冷えきっている。二人は何も喋《しやべ》らない。また見てしまった異形のもののことも、一言も口にはしなかった。
――翌日は戸口にもツキノワにも、恐ろしいものはいなかった。その代わり、シズは牛の化け物より、亡母の死霊より恐ろしい目に遭わされた。
「明日から兄しゃんは当分、居らんなる。いつ戻れるかはわからん」
利吉は本来なら徴兵検査はまだ先なのに、すでに志願兵としての出征を決めていた。シズの何も知らないところで話は進み、すでに終わっていた。本当にシズは何も知らなかった。清《シン》と呼ばれる異国が海の彼方にあることも、その清と日本は戦争を始めることも。兄がいない間は、あの由次の家に住み込みとして入らされることも。
嫌じゃ、とも叫べず熱病めいて震えるシズに、利吉は一言一言畳み掛けた。
「このままじゃあ揃《そろ》って飢え死にじゃ。兵隊に行きゃあ食える。シズも由次さんとこで食わして貰える。それに兄しゃんが手柄を立ててみぃ。竹|爺《じい》竹|婆《ばあ》だけじゃなしにみなが優しゅうしてくれる。祭りにも出れる」
「兄しゃんが死んだらどうしたらええんじゃ」
「死なん。わしは絶対死なんのじゃ」
ふいにシズは氷を背負わされた。それが恐れと気づくまでに間があった。利吉自身にか利吉の影にか定かでないが、真っ黒な影の頭には異様な角があったのだ。
「教えて貰《もろ》うたんじゃ。わしは死なんし、この戦争も日本が勝つんじゃと」
闇《やみ》の中で兄の目も異様に大きい。まるで獣のように剥《む》き出している。
「何もかも教えて貰うた。……ツキノワの『件《くだん》』にな」
この村からは利吉を入れて二十三人が徴集された。志願兵は利吉ただ一人だ。
手に馴染《なじ》んだ鋤《すき》を慣れない村田銃に持ち替えて、岡山の兵隊達はまず広島の宇品《うじな》港に送られる。シズが兄を見送ったのは村境の坂道までだ。ほぼ村中の人間が集まっていた。尻《しり》を端折《はしよ》って手拭を被《かぶ》った野良着姿の村人達と黒い軍衣の男達とは、まったく別の世界に生きる者同士のようだった。つい昨日までは、黒い軍衣の方も草臥《くたび》れた縞柄《しまがら》の筒袖《つつそで》を尻絡《しりから》げして脚を剥き出しにしていたのだが。
竹爺におぶわれたシズは、皆に混じって万歳をさせられた。目の前で、干涸《ひから》びた村長がぎくしゃくと奇怪な踊りをしていたが、それも万歳だった。普段は日焼けと泥で男に負けず黒ずんだ顔の女達が、今日だけは白っぽい頬《ほお》を面のように強《こわ》ばらせている。
見慣れぬ帽子をかぶり、利吉は砂塵《さじん》の中に眩《まぶ》しそうに立っていた。足元に落ちる影よりも、利吉自身が黒々としていた。シズは兄よりも兄の影が恐ろしかったから、竹爺の骨が浮いた薄い背中にすぐ顔を伏せた。
傍らの竹婆は声を絞るように泣いていたが、竹婆の息子や孫がいる訳ではない。
「皆、わしらの子供に思えてよぅ、泣けてなぁ、泣けていけんのじゃ」
途切れ途切れの泣き声に女達が唱和した。黒い軍衣姿の男も何人か肩を震わせ、一人の女が笛のような甲高い声を放った。子供達はただぼんやりとしていた。
竹爺竹婆には息子が三人いたが、一人は西南戦争で死に、一人は七、八年前に県下でコレラが大流行した時に死んだ。残りの一人は神戸で働くと言い残して出奔したまま、もう三年近くも行方どころか生死すら不明だという。竹婆には坂道を登って来る三男の幻でも見えたのか、両手を突き出して泣いていた。
シズはひたすら竹爺の堅い背中に顔を押しつけていた。別れが辛《つら》いのでも行く末が不安なのでもない。見知らぬ国へ殺したり殺されたりをしに行く兄が哀れなのでもない。シズの首筋に、生臭い獣の吐息を吹きかけてくる何者かが嫌なだけだ。
結局シズは兄と一言も言葉を交わさなかった。利吉は由次夫婦と竹爺竹婆にだけ簡単な挨拶《あいさつ》をした。利吉は黙っていてもシズの気持ちはわかる。だから敢《あ》えて何も口にしなかったのだ。シズが口に出さずに叫んだ言葉は、ちゃんと利吉に届いていた。
「兄しゃんが、恐《きよう》てえ」
竹婆に揺すられて顔をあげた時、黒い兵隊達はすでに砂埃《すなぼこり》の舞う黄土色の坂道を下っていた。まだ不揃いな歩みにも拘《かか》わらず、刻々と着実に死へと行進していた。その先頭を切っているのは利吉だった。シズの前にも後ろにも、もう怪しげな何者かはいない。黄色い風だけが耳朶《じだ》を打った。砂埃の彼方の兄がもう振り返らないとわかった時、シズは少しだけ泣いた。頬にこびりついた砂粒が溶けて、汚れた涙になった。竹爺が継ぎ接《は》ぎだらけの袖で拭《ふ》いてくれた。耳たぶの裏で、乾いた風の音が鳴る。万歳三唱や啜《すす》り泣きに混じり、シズは確かに牛の咆哮《ほうこう》を聞いたのだった――。
「日本は清に勝ちょうるんじゃで」
それは由次もナカも他の小作人達も言っていた。村の男達が出征してまだそんな間がないのに、村で一軒だけ中国民報を購読している村長宅の者の口から伝えられる戦況は、その日のうちに村中に伝わった。どの村人の口からも、まるで見てきたように語られた。
「朝鮮の牙山《がざん》はもう日本軍に占領されとんじゃで」
中国山脈のどの山に登ればその朝鮮が望めるかと、シズは空ばかり見上げていた。異国の雨の中、真っ暗な丘陵から飛んでくる鉄砲の弾を兄はどんなふうに避《よ》けているのだろうかと、足元の小石を藪《やぶ》に投げてみたりもした。
「利吉も立派に務めを果たしょうる」
これは竹爺と竹婆だけが言ってくれた。痩《や》せた雀のように、シズは震えた。あらゆる雑用に一日中追い回され、常に炭俵を担がされているように重く疲れ果てたシズの楽しみは、田圃《たんぼ》や道で竹爺竹婆に会って相手をしてもらうことだけだ。僅《わず》かに休息を与えられた夕暮れ時、シズは竹爺と朝鮮の方を向いて手を合わせた。赤銅色に照る山肌は赤剥《あかむ》けた傷のようで、到底神仏を拝むために手を合わせる場所ではなかった。
――夏は酷薄な季節だ。村は戦勝の期待にばかり沸いているのではなかった。見渡す限りどの田にも亀裂《きれつ》が走っていたのだ。津山川の減水は噂《うわさ》だけではなかった。このままでは旱魃《かんばつ》を避けられないのは、誰の目にも明らかだった。
まだ真夏には遠いのに、この炎暑は何なのか。すでに陽炎《かげろう》が立っている。汗は流れるのではなく湧《わ》いてくる。蝉《せみ》時雨《しぐれ》はまさに銃弾となって降り注ぎ、夏咲く花までが枯れて朽ちた。本来なら青々としているはずの稲葉も黄ばみ、連日|雨乞《あまご》い祈祷《きとう》がなされた。
その枯渇した月日をシズは何をどうして遣《や》り過ごしたのか。あまり覚えていない。疲れは肩に腰に腹に溜《たま》り、餓《う》えは絶え間ない目眩《めまい》を呼んだ。住み込み先の農家はこれまで兄といた小屋とは比ぶべくもない大きな家ではあった。雑草が芽吹いていても屋根は立派に茅葺《かやぶ》きだし、磨き込まれて黒光りする板の間には赤々と火の絶えない囲炉裏が切ってあり、その向こうには赤茶けてけば立ってはいても畳が敷いてあった。上背のある兄とほぼ同じ高さだった元の小屋とは違い、ここの大屋根を支える梁組《はりぐ》みは太い角材を縦横に荒々しく組み合わせたもので、遥《はる》かな上にあるその陰影の濃さは昼間でも恐ろしいほどだった。
小作人や使用人の口には決して入らないが土間の右手の隅、大竈《おおがま》の横には米俵までが積んであった。しかしそれらはシズの目の前にあるというだけで、シズには遠い景色だ。なぜならシズの居場所も寝床も、牛小屋だったからだ。
この辺りの農家は大抵が内厩《うちうまや》で、牛馬は家の土間で飼われている。シズの奉公先にも農耕用の牛が一頭いた。出入口を入ってすぐ左手に頑丈な樫《かし》の棒を縦横に組んだ柵《さく》があり、そこに栗の木でできた鼻グリを嵌《は》めて繋《つな》がれていた。さすがに田圃で使うのは由次や小作人だが、飼葉桶《かいばおけ》で餌《えさ》を遣ったり餌の稲藁《いなわら》や乾草を刻むのはシズの仕事とされた。
牛と寝かされると知った時も、シズは恐れはしなかった。黒味がかった茶色のこの牛は穏やかな牛だ。いつも哀しい濡《ぬ》れた目をしている。何よりもあの不吉な牛とは違う。ただの牛なのだ。どこを触っても血と内臓の在処《ありか》がわかり、シズまで温《ぬく》もる。
牛小屋のちょうど上の屋根は、茅が抜け落ちて空が覗《のぞ》いていた。吹き込む風雨はそのまま牛小屋をなぶる。シズは寝そべる牛の脇腹《わきばら》に寄り添い、ともに風を受け雨に濡れた。月も一緒に眺めた。濡れた藁と糞《ふん》が悪臭を放っても気にならなかった。波打つ腹を撫《な》でていると、それだけで満たされた。牛は大きく温かく頑丈で、シズの手から嬉《うれ》しそうに餌を食《は》んでくれる。ただの牛はこんなにも優しいのだ。
シズは牛とともに寝起きし、時には牛の餌とまったく同じ稗《ひえ》も食わされた。シズの方には灰が混ぜられていないというだけだ。シズは決して土間から上には上げてもらえない。牛が上げてもらえないのと同じだ。ただシズには名前があり、牛は牛としか呼ばれないだけのことだ。牛と並んで藁に腹ばいになり、囲炉裏でいい匂《にお》いをたてる鍋の湯気を見たり畳の部屋でナカが赤ん坊のための着物を縫っているのを見ても、さほど切ない気持ちにはならない。ただ、夜には閉じられる障子だけは何やら気味の悪いものに映った。
煤《すす》けた白さの紙に、歪《ゆが》んだり引き伸ばされたりの奇怪な影絵が映る。生身の人間より、侘《わび》しい灯火に揺らぐ影法師の方がずっと生々しかった。いや、そこに頭だけ牛の人間が映ったらと想像してしまうのだ。
しかし、影法師は殴りかかってこない。時には本当に牛を追う棒切れでシズを殴るのは生身のナカだ。由次はシズを牛以下としているのか、視界にすら入れていないから何もしようとはしない。つまり、お互いに影絵だ。
「兄貴の方もじゃが、お前はこの村の誰にも似とらん」
これが激昂《げつこう》する際のナカの口癖だ。自分の亭主もかつてはシズの母親の許に通ったことを知っているから、うちの亭主ではないと己れに言い聞かせる意味もある。
「お前のおっ母なら化け物や犬ともやりかねん。大方、お前は牛の子じゃ」
今日も赤ん坊を背負ったまま転んでしまったシズを強《したた》かに杓子《しやくし》で殴りつけ、ナカは憎々しげに吐き捨てた。地面に伏したまま、シズはそれが本当ならいいのにと鼻血を拭《ぬぐ》った。少なくとも、牛の化け物よりは優しい牛や可愛《かわい》らしい犬がいい。
ここで牛と寝起きをするようになって、シズは奇妙な記憶を呼び覚ましていた。母しゃんが生きとった頃、あの家にも牛はおったんじゃ。竈《かまど》の後ろにおったんじゃ――。
日本は清に勝ち続け、水源は枯渇し続け、収穫の季節が巡ってきた。当たり前のように凶作となった。色だけは黄金の痩せ細った稲穂は、周りの雑草よりも丈が短い。ひび割れた田圃の土は、憔悴《しようすい》しきった百姓の顔色だ。
米を作っているのに米を口に出来ない村人は谷に降りては葛《くず》を掘り、藪《やぶ》に分け入っては笹《ささ》の実をもぎ、畦《あぜ》を這《は》っては蕨《わらび》を取った。どこへも降りられない烏《からす》が、いつまでも西の空に輪を描いた。四十を過ぎてまた身籠《みご》もったナカは、外便所の壁土を食い散らかした。シズが何もしなくても、杓が折れるまで叩《たた》きまくった。
「兄しゃんは勝ち戦をしとるんじゃ。撃って撃って撃ちめいどるんじゃ」
昨日から右目が腫《は》れて開かないシズは、牛のでこぼこした背中を撫でながら囁《ささや》いた。この牛は確かにシズの気持ちが通じている。ゆっくりとその大きな頭を上下させ、寄り添ってきた。不思議なことに兄がいた頃は赤ん坊並みにしか喋《しやべ》れなかったシズが、兄がいなくなった途端によく喋れるようになっていた。たぶん牛を話し相手に選んだからだ。
「しゃあけど困ったな。うちは兄しゃんの顔を忘れかけとる」
代わりに、いなかったはずの真っ黒な牛の顔が思い出されていた。竈の後ろにひっそりと隠れていた、あの牛の顔だった。
――ただ雪に閉ざされる冬は、音も果てもない世界となる。同じ岡山でも、南の方は滅多に積雪を見ない。肥沃《ひよく》な土地と温暖な気候に恵まれた県南の百姓は、冬でも積極的に畜産だ花筵《はなむしろ》だ最新の温室で葡萄《ぶどう》栽培だと小賢《こざか》しく立ち回って小銭を稼ぎまくり、この御時世だから倹約せねばと言いつつ、一升の米に麦を四合しか入れずにいる。それに比べて北の果てのこの村では、老いた男達は炭焼きをするしかないし、女は日がな藁仕事だ。皆、野山の物は団栗《どんぐり》まで食い尽くして青膨れている。
あかぎれだらけの手で縄を編まされ、川の氷を割って水汲《みずく》みや洗濯をさせられ、竹|爺《じい》や竹|婆《ばあ》に会うことすら叶《かな》わないシズは、頭の芯《しん》までかじかんでいた。中国山脈を覆う雪は陰影を青く染め、吹き下ろす風は乱反射する光に切り裂かれた。
凍り付いた枯葉が舞う朝など、シズは総《すべ》ての感覚をなくして倒れ伏すこともあるが、由次に引きずられて牛小屋に投げ入れられ、僅《わず》かに休ませてもらえるだけだ。熱に浮かされるとツキノワの夢を見る。あそこにも随分と行っていない。あのものはやはり雪を被《かぶ》っているか。誰もいない雪原にあの真っ黒な影を伸ばしているか。
清との戦況も、なかなかシズの耳にまでは届かない。兄と離れて半年以上も経てば、兄が恋しいというより兄は本当に居たのかどうかすら曖昧《あいまい》になってくる。お前には確かに母親もいたと言われるようなものだ。
牛と一緒の蚤《のみ》に食われ蝨《しらみ》にたかられ、シズの手足は竹婆と変わらない皺《しわ》を刻んだ。牛だけが添い寝をしてくれ、脇腹の下で足の先を温めてくれた。そうして恋しく待ってはいないのに、まったく唐突に水|温《ぬる》む朝と小さな花弁の花せめぎ合う春は訪れた。その春とあの『件《くだん》』の予言通りに、日清戦争は日本の勝利で終決した。
竹爺竹婆の許《もと》に親不孝者の三男坊は帰って来ないが、お国の誉《ほま》れの兵隊達は続々と帰還を始めていた。あそこの息子も隣の婿《むこ》も意気揚々と戻ってきて、春は盛大に桜吹雪を散らした。ところが今日か明日かと待ち侘《わ》びても、一向に姿を見せない者もいる。噂《うわさ》では、二十三人のうち七人がまだ帰らない。内、戦死の報《しら》せがきっちり来て、死者のない葬式を出したのが六人。利吉は残りの一人だった。
「死んだんじゃ」
雑草のように乱れた髪を掻《か》き毟《むし》りながら、ナカは吐き捨てる。囲炉裏の前に横座りしたまま、牛小屋のシズを憎々しげに睨《にら》んだ。ナカは秋に子を堕ろしていた。わざわざ津山から評判の堕ろし婆さんを呼んで処置したのだが、その時からナカは少しおかしくなった。処置自体は万全で、掌に載るほどの胎児は鬼灯《ほおずき》の茎に刺されてぬるりと飛び出し、後産《あとざん》の手当てもさすが評判に違《たが》わぬ子潰《こつぶ》し婆さん、だったはずなのだが。
「男じゃとわかっとったら産んでやったのに」
筵《むしろ》に包んで庭の柿の木の下に埋めたその子の股《また》には、小さな小さな男の印が突起していたのだ。蓬《よもぎ》のように乱れた髪を振り乱し、ナカは落ち窪《くぼ》んだ目ばかりを光らせていた。
「死ね死ね、皆死んでしまやぁええんじゃ」
シズは黙って飼い葉を刻む。歩けるようになったただ一人の娘の世話は、もっぱらシズと竹婆がしている有様だった。今は大人しく昼寝をしているが、泣き始めたらまたシズが背負ってその辺を歩かなくてはならない。牛はシズの手に、濡れた鼻を擦《こす》りつけた。
「山に藤が咲いとる。ああ、嫌じゃ。あの花が咲くと百足《むかで》やゲジが出る」
ナカの乱れた髪が風に踊り、背後の障子に揺れた。今頃はツキノワにも、何かの甘い匂《にお》いの花びらが降り注いでいるのだろう。シズは兄よりも無性にツキノワが恋しかった。あそこに見知らぬ母がいるからか。
牛の脇腹にもたれて蕎麦《そば》団子の夕食を取った後、シズは即座に深い眠りに落ちた。さっきまで泣き喚《わめ》いていた赤ん坊も、訳のわからぬ叫びをあげて由次に殴られていたナカも、皆やっと寝入ったらしい。牛も静かに脇腹だけを波打たせている。村全体が、針が落ちても気づくほどの静寂の中にあった。屋根の破れ目から注ぐ月光だけが明かりだ。
シズは牛の体温よりも生温かい夢を見ていた。真っ黒な牛が走っていた。砂埃《すなぼこり》をもうもうと巻き上げているのに、まったくの無音だ。牛は背中に一人の女を乗せている。女は白い着物の袖《そで》で顔を隠していたが、髪は艶《つや》やかに長く、短い裾《すそ》から出た裸足《はだし》の足は細い。顔を隠していても美しいとわかり、何もしなくても怖《こわ》いとわかる女だった。
母しゃん。シズは直感したが、口に出せない。その袖から顔が出るのが恐ろしかった。こっちぃ来んでええ、顔見せんでええ、こらえてくれぇ母しゃん。
……水底から浮かび上がるように目を覚ました。体が冷たいのは寝汗のせいばかりではなかった。出入口から大量の青い月光が差し込んでいた。戸が開け放たれ、そこに真っ黒な影法師が立ちふさがっていたのだ。
牛の頭はしていない。ちゃんとした人間の男だ。シズは寝そべる牛の脇腹に、息が詰まるほどくっついた。目が合った瞬間に襲われるだろう。きっと殺されるだろう。
シズの頭のすぐ上を、黒い影法師は横切った。妙な重量感のある足音は、裸足でも草鞋履《わらじば》きでもない。シズの歯が鳴った。あの日村外れの坂道で聞いた足音だ。兵隊以外は誰も履いていない軍靴だ。
その重い足音は土間を進み、一段高い板の間にそのまま上がった。牛の脇腹に隠れたまま、シズは恐る恐る薄目を開ける。障子は生白く月光に照っている。さっと筆で刷《は》いたような黒い線が一本、蠢《うごめ》いていた。ナカが大嫌いな百足だ。嫌らしい毒虫だ。
その障子が音もなく開けられた。生白い紙に奇怪な影が浮かぶ。シズはまばたきもできない。今までで一番恐い影絵に見入る。鎌《かま》を振り上げる男の影絵だ。なぜその男は頭がそんなに巨大で、尚且《なおか》つ曲がった角など生やしているのか。
不吉な影は獣の唸《うな》り声を出した。続いて咆哮《ほうこう》があがった。シズは声にならない悲鳴をあげる。さっと刷毛《はけ》で水滴を弾いたように障子に赤が散った。夜目にも鮮やかな色だ。シズは視界を黒から赤に塗り潰《つぶ》された。盲《めし》いたシズは牛の脇腹にしがみつき痙攣《けいれん》した。
耳だけは惨劇を捉《とら》える。畳の上を土足が擦る音。重く湿った何かが倒れる音。箪笥《たんす》の引き出しが投げられる音。柔らかな喉笛《のどぶえ》を切り裂く音と、硬い骨を刻む音。最後に激しい破裂音がした。障子が蹴破《けやぶ》られんばかりの勢いで大きく開けられたのだ。シズは思わず身を起こしてしまう。目を見開いてしまう。
真っ黒な影法師は仁王立ちになっていた。土間の隅の牛小屋をじっと透かしていた。もう一人いることに気づいたのだ。シズは息すらできない。隠れることもできない。固く丸まるだけだ。しかしどんなに息を殺しても、激しい鼓動が居場所を教えていた。背後の脇腹が、さっきまでとは違う波打ち方をする。牛は目を覚ましていた。異形の侵入者にも勿論《もちろん》気づいている。だが牛は鳴かなかった。シズを隠すためにだ。
土間の土を踏みしめる音は確実に近づいてきた。夜より闇《やみ》より黒いその者は、乏しい光を頼りにシズを覗《のぞ》きこむ。盲いたシズは何も見えない。闇しか見えない。閃《ひらめ》いたのは月光ではない。月は雲に隠れた。真の闇の中、鎌の刃だけが光っているのだ。
……が、賊は手にした鎌を振り上げなかった。わずかに立ち止まっただけで、そのまま土間を横切った。落ち着いた素振りで、ちゃんと戸を閉めて立ち去ったのだ。
再び静寂が戻る。それはわずかの間だった。乾いた音を立てて障子が倒れた。桟が折れ飛び、紙は断末魔の手の痙攣によって破られた。赤ん坊と由次の声はまったくない。虫の息で呻《うめ》くのはナカだ。ナカは障子紙と虚空《こくう》を引っ掻《か》きながら、最後の息とともに呻《うめ》いた。
「シズよ、ありゃあお前の……じゃろうが」
お前の。その次は聞き取れなかった。牛がいきなり吠《ほ》えたからだ。まるでその言葉をシズに聞かせまいとするように。西風に押された雲の切れ間から月が覗く。破れた障子の桟を血塗《ちまみ》れの手が握っていた。暗夜の中で手と月だけが白かった。辛うじて桟に張りついていた百足がその白い指の間を擦り抜けて畳に落ちた。あの男の後を追うのか、血の跡を引きながら這《は》っていった。
――翌日。草刈りにやってきた小作人達が惨劇を発見するまで、シズは牛の下にうずくまっていた。当初、動転した彼らはシズも死んでいると思い込んだ。シズは障子紙より白くなった顔で、死体のように硬直していたからだ。
小作人達が駐在所まで走ってこれを伝え、津山署からの応援を得て大勢の巡査が駆け付けた時は、すでに翌日の昼を回っていた。
「ここから無断で入ることはならんぞ」
その物々しい巡査達が幾ら三尺棒で追い立てても、集まった村人達は庭先にも縁側にもずかずかと入りこんでくる。戦争を除けば血腥《ちなまぐさ》い事件など、滅多に目にも耳にもすることのない寒村だ。そう、これはあの女のツキノワでの自害以来の事件なのだった。
それこそ出征兵士を見送った時以上の集まりになった。さすがに凶行の現場となった奥の六畳間には縄が張り巡らせてある上、これは帯剣の巡査が立ちふさがっているので容易には入り込めない。誰かが念仏を唱え始めると、それは蜜蜂《みつばち》の唸《うな》りのように広がった。また巡ってきた泥色の季節、田植え歌の代わりに重く流れるのは死者への歌だ。
シズだけはまだ子供のような童顔に柄だけは大きい巡査に抱かれ、囲炉裏の前に座らされていた。最初の報告では死者は四人だった。その四人目はこうして生き証人として保護されている。シズは生まれて初めて囲炉裏のある板の間に上がったことになるが、そんなことを考える余裕も何もない。せめて竹爺か竹婆がいてくれたらと願うが、二人はまだ姿を現さない。
巡査はどれも庇《ひさし》のついた帽子に木綿の黒い服で、兵隊とまったく区別がつかなかった。昨夜の犯人がこの中に混ざっていると聞かされたら、シズはうなずくだろう。いや、どうかこの中にいてほしいと、まだ血の気の戻らない唇を噛《か》んだ。
そうしている間にも昨夜のことを聞かれるが、口は開かない。巡査達は当然、それを冷めやらぬ恐怖のためと解釈していた。だから一番若い巡査が出来るだけ優しく抱いて背を撫《な》でているのだ。シズが優しくされるのに慣れていないことなど、どの巡査も思いつかない。まだ夏とは呼べない頃なのに、今年は梅雨《つゆ》入りも早く大気はすでに潤っていた。本来なら暑い夏を豊作に繋《つな》がると喜ぶべきなのだが、ここにいる巡査は誰一人そんな笑顔は見せない。ついに一人が呟《つぶや》いた。
「……かなわんのぅ。じゃが戸口を開けりゃあ皆がどやどや入ってくるしのぅ」
殺されたのは昨夜だというのに、由次の一家はすでに臭《にお》い始めていた。藁《わら》の堆肥《たいひ》とも違う人糞《じんぷん》とも違う、こちらの腸《はらわた》まで悪くなってきそうな重い臭気だった。さすがにシズには生々しい死体を見せようとはしないが、巡査の膝《ひざ》の上で少し尻《しり》の位置を動かせば、即座に畳の間は視界に飛び込んでくる。由次は死んだ顔も、悪意も情もない素っ気なさだった。一気に喉笛を掻《か》き切られた時、まだ熟睡していたのだろう。ほとんど抵抗の跡も苦悶《くもん》の様子もない。対するナカは目も口も開け、腰巻の裾も大きく割って脚も開いていた。この辺りの百姓は半裸で寝るのが普通だが、首の三日月形の傷口から全ての血を放出して蒼白《そうはく》なナカは、裸よりも裸だった。
二円の金を盗まれた引き出しは投げ出され、その空っぽの引き出しの下敷きになった赤ん坊はほとんど首がねじ切れていた。体は俯《うつぶ》せなのに顔は天井を仰いでいる。血を重く吸った畳はどす黒く変色し、川魚の死骸《しがい》の臭いを漂わせていた。
「あの喉笛の切り方は、ツキノワん時と同じじゃ」
誰かが漏らしたこの一言で、遠巻きにしていた百姓達は警察よりも早く犯人を挙げた。
「あの女じゃねんか」
「ほれ、シズもここの嫁にゃあ酷《ひど》い扱いを受けとったけんなぁ」
シズは色のない唇を震わせ、ようやく嗄《かす》れた声を絞った。
「……何も覚えとらん」
牛小屋の方に身を捩《ねじ》り、牛に助けを求める。牛は哀しげないつもの瞳《ひとみ》でシズを見返しただけだが、この牛も知っている。昨夜の賊が何者であったかを。
例のツキノワの件《くだん》を知る巡査もいた。が、幾ら何でも死者は犯人にできない。
「この子の兄貴は出征しとったそうじゃが」
シズを抱く大きな巡査が、やはり体に合わない高い声で誰にともなく聞いた。
「まだ帰って来ん。大方、朝鮮のどこかに居るわい」
答えた声は竹爺だった。いつの間に来たのか、入口に立ちふさがる巡査の脇《わき》から顔だけ覗《のぞ》かせていた。竹爺を見た途端シズは初めてしゃくり上げた。
「そねぇな小《こ》んまい子がぼっけぇ恐《きよう》てぇ目に遭《お》うて、何を覚えとる言うんじゃ。下手人《げしゆにん》も、こねぇに小んまい子なら顔も覚えれんと捨て置いたんじゃ」
蠅《はえ》が唸《うな》る土間の隅に、無数の足を蠢《うごめ》かす血染めの百足《むかで》が這《は》っていた。時候が時候だけに早く葬式を出したいところだが、ちょうど忌み日に当たっている。近親者だけが晩に由次宅へ泊り、葬式は翌日の事となった。無論、警察もこのまますぐに鼻を摘《つま》んで帰ったりはしない。恐らく鎌《かま》と思われる凶器も探さねばならない。
由次の弟は兄そっくりの無表情さで「牛は売らにゃあおえん」と牛小屋を一瞥《いちべつ》し、「あれもどこかにやらにゃあおえん」とシズに顎《あご》をしゃくった。牛を売る話はこれからだが、シズは即決だった。竹爺が「うちに連れて帰る」と、巡査から取り上げたのだ。
足も腰も曲がった竹爺におぶわれ、シズはあちこち破れた竹爺の襦袢《じゆばん》の背にずっと顔を押しつけ、一言も口をきかなかった。竹爺の背中は、利吉とは全然違う汗の匂《にお》いがする。臭くても生きた人間の匂いなら耐えられる。
「利吉も帰って来ん、うちの三男坊も帰って来ん。シズや、お前うちの子になるか」
歯のない竹爺は、突然立ち止まる。背後で鋭く、牛が鳴いていた。遠景の由次方は曇天の下、紛れもなく重たげな死者の家だった。村人達も黒く物言わぬ影だった。牛だけが鳴いていた。シズを探して泣いていた。
竹爺竹婆の家は、遠目には潰《つぶ》れた藁《わら》の山だ。一応は藁葺《わらぶ》き屋根なのだが、柱が傾《かし》いで戸の代わりに筵《むしろ》を下げてある。土間の低い竈《かまど》の前で、竹婆はしゃがんで待っていてくれた。「恐てかったじゃろう、ようまぁ助かったもんじゃ」
一段高い板の間には畳代わりの筵が敷いてあり、真ん中には囲炉裏も切ってある。どうやら今夜からはそこで寝られるようだ。しかしシズは由次の所の牛が恋しくて、囲炉裏の鉤《かぎ》に吊《つる》した鍋が豆のいい匂いを立てていても、ここを飛び出したい衝動を抑えていた。あの牛もここへ引き取ってくれと頼むなど、到底無理であることはシズにもわかる。
あの牛は間違いなくもうじき売られる。一家の厄災を背負った「ケガエ牛」として二束三文で叩き売られるのだ。由次もナカも赤ん坊も、あの牛の背に跨《また》がって黄泉路《よみじ》を辿《たど》る。その手綱を引くのはあの真っ黒な影法師だ。
それでもやはり疲労は溜《た》まりに溜まっていたのだろう。シズは竹婆と一緒に筵を被《かぶ》り、被ったところまでしか覚えていない。気づいた時は夜明けだった。悪夢さえ見る暇はなかった。由次達の死霊は別の場所に出ているようだ。惨劇を思い出すより牛を思い出す方が胸が痛んだ。山で鳴いているのは、あれは山犬か。
竹爺竹婆がまだ黒い空洞の口を開けて寝ている間、裏手の小川まで水汲《みずく》みに行こうと土間で手桶《ておけ》を探した。媚《こ》びるつもりではなく、働くことは息をすることと同じに身についていたからだ。竈の横の手桶に手を伸ばした時、シズはいきなり背後から呼ばれた。
「シズよ。裏手の川にゃあ行くな」
まだ薄暗い土間にいたシズは、息が止まりかける。萎《しな》びた乳房を揺らし、白い蓬髪《ほうはつ》を背中まで垂らした竹婆は幽鬼そのものだった。
「ちぃっと離れとるが、うちの前の土手を渡って行けぇや。そこの川のがええ」
入口の筵からは、夜明けの薄青い空が透けていた。シズは数えの八つにしてもう、知らないふりが最高の処世術とわかっていた。裏手の小川のせせらぎはすぐそこに聞こえても聞こえないふりをして、朝露に濡れた雑草が足裏に刺さる土手を走りぬける。裏手の小川より泥に濁った川の端にしゃがむ。背後に黒い影が射さないよう、無心に水を汲んだ。
――緩い坂道を上がっていく途中で、すでに臭いは目に染みるほど強くなっていた。月のように暈《かさ》を被った陽《ひ》の鈍い光芒《こうぼう》は、ただの草を刃物として浮かび上がらせる。雨の気配を含む灰色の雲は、由次の家の屋根に垂れていた。
いつもと変わらぬ野良着姿で、村の者達が寄り集まっている。葬儀の準備だ。あの汚れて破れた障子は取り払われ、畳も清められていた。牛は土間から出され、庭の柿の木に手綱で括《くく》りつけられている。黒々とした瞳《ひとみ》にも曇天が映っていた。
土間に筵を敷き詰め、あちこちに持ち寄ったランプを灯す。死装束は決して物差しや鋏《はさみ》を使わない。本来は畳の縁《へり》を物差し代わりにするが、さすがにここの畳は触れるのをためらう。板の間の木目とおおよその目分量が頼りだ。どの女の顔にも、ランプで異様な橙色《だいだいいろ》の陰影ができている。黙々と晒《さらし》を引き裂く姿は死者よりも死者だった。
竹婆も針を持ち、背を丸めて白い手甲《てつこう》を縫っていた。シズもうっかり家の中に入ろうとしたら、ナカの親戚筋に当たる険しい顔つきの女に犬のように叩き出されてしまった。シズはぼんやりと起き上がり、ぼんやりと牛の側に近づいた。牛だけは大人しい動作でシズを迎えてくれた。目の脇に蠅がびっしりたかっている。一晩二晩で、由次宅からは夥《おびただ》しい蠅が発生していたのだ。蠅だけが肥えて丸々としている。
突然シズの目の前に黒い腕が突き出された。由次の弟が牛の仲買人を連れて来たのだ。菅笠《すげがさ》をかぶった歳《とし》の見当のつかないその男は、無言のままいきなり手綱を解いた。由次の弟はぶつぶつと「買うた時の半値にもならんわ」と不平を漏らしているが、「ケガエ牛」は買い叩かれるものと決まっている。家族の厄災を背負って行くからだ。
哀しみも辛さも突き上げてはこない。ただ哀れだった。引いていかれる牛をシズは五、六歩だけ追いすがった。邪魔だと由次の弟に突き飛ばされる寸前、牛は振り返った。歯を剥《む》いて唸《うな》りながらシズの耳元に、ある言葉を囁《ささや》いた。それはあの夜ナカが死に際に呻《うめ》いたのと同じだった。あの夜はそれをシズに聞かせまいと牛は吠《ほ》えたのに、別れの間際に教えてくれたのだ。
耳の奥で風が鳴った。その言葉とは、ある者の名前だった。よく知った名前だった。
由次の弟も牛の仲買人も、それは聞いていなかった。彼らにはただの唸りだったのだ。本来、ただの牛は人の言葉や人の名前を喋《しやべ》ったりはしないものだ。
シズは地面に腹ばいになったまま、引かれていく牛を見送った。遮るものは何もない昏《くら》く長く細い道。牛の背には由次とナカと赤ん坊が乗っていた。すでに死装束をまとって、やや俯《うつむ》き加減に牛に揺られている。一家は一度だけ振り返った。首にくっきりと開いた黒い三日月形の傷痕《きずあと》は、もう血など流してない。その目や口と同じにただぽっかりと空洞になっているのだった。
「ああもう、敵《かな》わんわ。鼻が曲がる」
シズが立ち上がった時、背後には騒々しい草履《ぞうり》の音がしていた。腐敗臭に耐えかねた女達が逃げ出してきたのだ。辛抱強く中に座っているのは竹|婆《ばあ》だけだった。竹婆は暗い橙色の火影《ほかげ》に映し出される巨大な影を揺らめかせ、死者の頭に被せるトギリ頭巾《ずきん》を一心不乱に縫っていた。竹婆も居丈高で人使いの荒いナカを忌ま忌ましく思っていたはずなのだが。
そんなことにはお構いなく、女達はてんでに色々なお喋りをしていた。
「岡山の兵隊は何百人も死んどるらしいで」
はだけた胸元を団扇《うちわ》で扇《あお》ぐ女がそう言ったのを、シズは聞き逃さなかった。何百人。シズにとってその数は多いのやら少ないのやら見当もつかない。しかし女の身振りと口調から、それは大層な数に思えた。砂でざらつく足の裏を探りながら、シズはぼんやりと牛のいなくなった道の彼方を透かした。
生温かい涙が首筋に滴った。シズのその涙は売られていった牛への哀別もあったが、何よりも、どうか兄しゃんがその何百人の中におりますようにと祈る気持ちだったのだ。兄は誉《ほま》れの何百人かの中にいて、岡山の皆に拝まれて讃《たた》えられるものになっていて欲しい。決してそれ以外の者にはならないで欲しい。
「放《ほ》ん投げて行っちゃあいけんじゃろ。早《は》よ戻りんせえ」
土間で竹婆が叫んでいる。丸い棺桶《かんおけ》はすでに運び込まれてあり、魂の抜けた一家はそれぞれ膝を抱えて真新しい死衣装を着て、この中で急激に腐っていくのだ。死臭を嗅《か》ぎ付けた烏《からす》の群れが、屋根の破れ目から美味《うま》そうな死者を探していた。
三つの棺《ひつぎ》は男達に担がれ、村外れの墓地に運ばれた。野辺の送りにシズは行かず、竹爺達が戻るまでぼんやり庭先の柿の木の下に座っていた。完全に死者がいなくなっても、臭《にお》いはまだ庭先にまで漂ってくる。ふいに首筋に、鎌でそっと撫《な》でられたような風が起こった。何でも予言のできるツキノワの件《くだん》なら、犯人を教えてくれる。けれどただの牛であるあの牛も犯人を言い当てた。恐ろしい名前だった。
その晩、囲炉裏の縁で筵《むしろ》を被って寝ていたシズは、ふと夜中に目覚めた。壁の破れ目から鈍く青い光が差し込んで、辺りは真の闇《やみ》ではない。ぼそぼそと寝転んだままの竹爺と竹婆が喋っていた。彼らはシズを食う相談などしている訳ではないが、死者をなぶり者にしていたのだった。
「……皆、臭《くせ》え臭えと飛び出したじゃろ。あん時わしゃあ、用意されとった冬の着物を箪笥《たんす》にこそっと戻したんじゃ。ザマがええ、あのナカも由次も冬になったら、寒い寒いて化けて出るで。ようもようも宮太が怪しいなぞと親戚連中はほざいたもんじゃ」
宮太が三男坊とは知っていたが、声もなく笑う竹婆は恐ろしかった。それにやったことも酷《ひど》い。夏に死んだ者の棺には冬の着物も入れてやるのが決まりだ。さもなくば、竹婆が嘲笑《あざわら》ったように死者は冬に化けて出る。寒い寒いと震えながら。
「しゃあけど本当に、やったのはどこの者なら。余所者《よそもの》か。しゃあけど余所者なら、もうちっと金の有りそうな喜太郎ん所とかに行かんか」
「……ほんまに、この子の母親かもしれんで」
ぽつりと竹婆は漏らした。その声には、冗談ではない響きがあった。シズは固く目を閉じ固く全身を縮こまらせる。竹|爺《じい》は何も答えない。
「しゃあけど、ええ。シズは可愛《かわい》いけん」
声を殺してシズは泣いた。どうかどうか、本当に見も知らぬ死んだ母しゃんがやったのだとしたら、どんなにいいだろうかと願ったからだ。
ある日の黄昏時《たそがれどき》が選ばれ、村人は子供を除くすべてがツキノワに集められた。竹爺と竹婆も呼ばれた。ここに居れと言われたが、シズはそっと後を追った。老杉の下に隠れて、ツキノワと村人を覗《のぞ》いた。誰もが土気色に沈んでいた。これから呪《まじな》いを行なうからだ。
利吉がいつも藁《わら》で囲いを作らされていた田圃《たんぼ》の真ん中に、今は奇怪なものが立て掛けてあった。誰が作ったのか、稚拙な等身大の藁人形だ。縦横に無造作に組んだ藁を部分部分で括《くく》り、頭や手足を作ってある。竹を支柱に立たされているその人形は、稚拙であるが故の迫力を持っていた。呪《のろ》いという本来の目的がとても明確になるからだ。
この藁人形が、由次一家を殺した犯人と見立てる。まずは由次の弟が先を尖《とが》らせた棒を持ち、奇声を発して胴に突き通す。どこかの女の悲鳴があがった。
「恐がるこたぁ無《ね》え。こうすりゃあ下手人《げしゆにん》はどこに居っても苦しむんじゃ。どこへ隠れとってもわかるんじゃ」
由次の弟は隣の若い男に棒を渡した。その男は由次に雇われていた小作人の一人で、最初に警察に引っ張られた経緯もある。どうも由次に金を借りていたらしい。彼は藁人形を犯人ではなく由次に見立てて突き刺した。棒の先端は完全に向こうに抜けた。続いて棒はその男の嫁に手渡される。腹の膨らみはすでに臨月に近いその女は、泣き泣き棒を振り上げた。先端は人形の頭を掠《かす》め、藁屑《わらくず》が飛び散った。順繰りに棒は渡っていき、竹爺の番が来た。竹爺は一度だけシズの方を振り返った。空洞のような眼差《まなざ》しだった。藁人形は黄金色の血を撒《ま》き散らし、すでに原型を失いかけていた。シズはそれが、よく知った者の死骸《しがい》に見えて仕方なかった。
手で顔を覆うが、指の間から見てしまう。ツキノワの中に、ずたずたに引き裂かれた男の死骸と、鎌《かま》で喉《のど》を掻《か》き切った女の死骸が転がっていた。シズは悲鳴をあげる。その悲鳴で二つの死骸は消えた。ツキノワの中にはただ、藁屑になった人形が転がるだけだ。
ずっしりと肩に何かの重みがかかった。動けない。口も開かない。首筋に生温かな吐息がかかる。乳臭く生臭い懐かしい匂い。死んだ赤ん坊だった。とうに死んだはずなのに、背中にまつわる肉の温もりや柔らかさはこんなにも重い。シズは喉を震わせ、子守歌を歌った。いや、歌わされた。
倒れていたシズを背負い、家に連れて帰ったのは竹爺だった。シズは竹爺の背中に負われていた時のことを、かすかに覚えている。シズの背中にはもう、何者もいなかった。畔道《あぜみち》は真っ暗で、中国山脈も死に絶えたように真っ黒で、ただ鎌の形の三日月だけが空の高処《たかみ》にあった。ざわめく老杉の梢《こずえ》から出た女の唇の形の三日月は、確かに笑っていた。
早くに寝付いたためか、真夜中にシズは目を覚ました。喉が塞《ふさ》がるほど渇いていた。真っ暗な土間で水瓶《みずがめ》の位置がよくわからず、シズは裏手の小川のせせらぎを耳にすると、ふらふらとそちらに出ていった。ふとシズは何かの臭《にお》いを嗅《か》いだ。小川の前の草叢《くさむら》にその臭いはあった。ここに居てはいけない。シズは後退《あとじさ》りした。そうだ、竹婆に言われていた。そこの川にはあまり行くなと。……この狭い村には、入ってはいけない場所が沢山ある。あまり会ってはいけない人や思い出してはいけない人が大勢いるように。ここの小川は三途《さんず》の川へも通じている。やはり飲んではならぬ水だった――。
あれからちょうど一年が過ぎ、再び泥の季節は巡ってきた。雨乞《あまご》いをせずとも今年は雨が多く、苗は風になぶられれば緑の波になってうねった。蓑笠姿《みのかさすがた》の百姓が朝も晩も生きた藁人形のように泥田で苗を植え、牛に重い鋤《すき》を引かせた。深い泥に腰を抜かす牛も出た。田植え歌の節回しが早くなり、ツキノワさえも秋の黄金色を待ち焦がれる風情だ。村人は雲の切れ間の光芒《こうぼう》に手を合わせた。
無人となった由次方には、由次の弟の息子夫婦が入っていた。障子紙も張り替えられ、屋根の穴は塞がれ、内厩《うちうまや》には新たに買い入れた褐色の牛が繋《つな》がれた。
由次の一家を殺した犯人は未《いま》だ手掛かりもなく、凶器も見つかっていない。例のツキノワでの呪いももう三度ばかりしたが、藁人形が潰《つぶ》れて舞い散るだけだった。それを見て必ず泡を吹く子供がいた。どうしようもなく汚穢《おわい》に満ちた場所となっても、ツキノワの苗は青々と伸びる。
一人だけ放蕩者《ほうとうもの》だったという竹爺の三男坊も消息は途絶えたままだったが、何よりもツキノワに藁で結界を拵《こしら》える役目の男が帰って来てはいなかった。
シズはあれからずっと竹爺竹婆の許《もと》で暮らしていた。すでにシズは田植えの手伝いも出来るほどになっていた。あちこちで仕事はある。シズは「名誉の戦死を遂げた者の遺族」として、あからさまな差別は受けなくなった。黙々と腰を屈《かが》めて苗を植え雑草を刈るシズは、時には駄賃以外に蒸《ふか》し芋《いも》や煎《い》った大豆なども貰《もら》えるようになっていた。口もきいて貰えだしたから、時候の挨拶《あいさつ》も覚えた。もう牛と喋《しやべ》ったりしなくていい。
――ナカが嫌った藤の花が濡《ぬ》れて一層鮮やかに揺れる真昼。兄は夕立ちと一緒に、まったく唐突に戻ってきた。肩に頬《ほお》に、ナカが嫌った紫色の花弁を貼《は》りつかせて。
昼間だというのに山脈が真っ黒に陰るほど外は暗く、蓑を着込んで歩く百姓達は泥に汚れた藁《わら》人形だ。田植えの合間の昼飯に帰ってきていた竹爺竹婆は、入口でほとんど腰を抜かした。二人の中ではとうに死者となった者が戸口に立っていたからだ。
特に竹婆の怯《おび》え方はひどかった。手を合わせて経文を必死に唱え、今にも目の前の利吉に取り殺されるような悲鳴をあげた。ただ、「宮太よ宮太よ迷うたか」と喚《わめ》いたのは錯乱によるものか。竹爺はさすがに口を開けて立ち尽くしただけだ。
「宮太じゃねえ。利吉じゃ」
それでも竹婆は、なかなか立ち上がれなかった。血の気のない顔色で、いつまでも鳥肌を立てていた。それはシズも同じだ。
「シズよ、兄しゃんじゃ。どねんしたんなら」
忘れかけていた兄の声を聞いても、シズは答えられない。その時シズは、板の間に犬ころのように丸まって震えていた。雨漏りで筵《むしろ》は濡れ、余計に体を冷やす。シズはひどい夏風邪をひいていたのだ。目は霞み、元々|歪《ゆが》んでいる柱や壁がもっと曲がって見える。頭も霧がかかったように朦朧《もうろう》としていて、目の前で起こっていることはみな夢の続きだった。そう、兄が帰ってきたなど。
鉄瓶の白湯《さゆ》を飲んでようやく落ち着いた竹婆は、決まり悪そうに笑った。竹爺も妙に強《こわ》ばった顔をしていたが、すぐにいつもの竹爺に戻って何やら盛んに喋り出した。
「……噂《うわさ》では聞いとったが、そねぇな恐《きよう》てえ事があったとはのぅ」
いつも無口な利吉が、妙に饒舌《じようぜつ》だった。シズは立ち上がるのも辛く、ただうずくまって兄と竹爺達の会話を聞いていた。三人は土間の上がり框《かまち》に腰を降ろし、囲炉裏の火で着た物を乾かしていた。兄はあの日の黒い軍衣や軍靴ではなく、いつもの草臥《くたび》れた縞柄《しまがら》の筒袖《つつそで》だ。ただ裸足《はだし》ではなく草履を履いていた。
「早《はよ》う帰りたいんは山々じゃったが、怪我《けが》の具合も良うならんでなぁ、あっちで知り合《お》うた広島の者の家で療養さしてもろうたんじゃ。世話になったけん、ちいとでも礼せにゃあと鉄道工夫をしとった。きついがええ金になったで」
そこで兄は、シズがずっと世話になったからと某《なにがし》かの金を框に置いたようだ。竹爺も竹婆も歯のない口で不器用に礼を言うのが、水底にいるようにくぐもって聞こえた。
兄は手を伸ばせば触れる所にいるのに、シズは筵の縁を握りしめて寝たふりを続けている。懐かしいはずの体臭はどこか微妙に変わっていた。
「それにしても、ようまぁシズが無事じゃったもんじゃ」
利吉は死んだ牛の臭《にお》いがした。その臭いを漂わせ、犯人について語っている。
「まだ捕まらんとは恐てえのぅ」
いや、もう捕まって殺されとる。シズは塞《ふさ》がれた喉《のど》で唸《うな》る。血塗《ちまみ》れの藁人形は、今日も首の傷口を開けた女と並んでいる。
もう一日ここへ寝かせといてやれと口を挟んだのは竹婆だったが、シズが目を覚ました時は、兄の背中の上だった。竹爺に借りたか、雨よけの蓑《みの》にシズを包んで背負っていた。夕立はすでに上がりかけ、重い雲の切れ目から光の線が降っていた。濡れた木々は色を増して光り、彼方の田圃《たんぼ》から天空へ向けて吹き出すように虹が掛かっていた。一点白いのが太陽だろう。兄は元の小屋に向けて歩いていた。草鞋《わらじ》でぬかるみを踏みしめ、肩は大きく上下した。その肩にしがみつき、シズは恐いことを考えるのはやめた。
シズはいつも寝ていた隅の藁に潜り込んだ。小屋はさほど荒れ果ててはいなかった。兄は例の竈《かまど》で火を熾《おこ》している。
「米粉の粥《かゆ》を作っちゃるけんな」
熱はまだ高いのだろう。竈の前に真っ黒な牛がいるように見え、シズは心臓が縮み上がるのを覚えた。そうだった、あの竈は恐い場所なのだった。シズは目を瞑《つむ》る。暗い瞼《まぶた》の裏に赤いものが散る。竈の火ではない。ツキノワで引き裂かれた藁人形が流す血だ。
「もう百姓はせんで。鉄道に行った方が金になる」
シズも村人の噂や竹爺竹婆の会話でぼんやりとは知っていた。あちこちで始まった山陽鉄道や中国鉄道の開通工事で多くの人手が求められていると。百姓よりよほど儲《もう》かると、遠く笠岡や岡山まで出稼ぎに行く男はこの村にもぽつぽつと出始めていた。
利吉は中国鉄道が募集した工夫に採用され、津山まで工事に出ることになった。
「再来年《さらいねん》には岡山にまで通じるんじゃで。切符は五十銭もするが、乗しちゃるけんな」
百姓仕事が嫌なのはツキノワに行くのが嫌なのではないか。シズはそれを聞けない。
ともかく利吉は牛にも近づかずツキノワにも立ち寄らず、泥田に足を踏み入れることはなくなった。二時間かけて津山の現場に行き、また二時間かけて帰ってくる。昼の弁当はシズが炊いた。メンコと呼ばれる木製の弁当箱に三合麦飯と漬物《つけもの》を入れ、藁の背負《しよ》い籠《かご》で背負って出掛けた。その間、シズは近隣の田圃に出る。シズはツキノワのあの女の娘≠ナはあるが、戦勝の殊勲者の妹≠ノもなれたのだ。一緒に田植え歌も歌えた。
――いつにも増して「女は業《ごう》人間じゃ」と、自棄糞《やけくそ》気味の朗らかな声が上がるのがこの季節だ。もうじき祭りが始まる。女は何日も前から準備に追われ、飯も立って食う有様だ。村の中心たる火の見|櫓《やぐら》がある広場には、この時にしか口にしない鮮魚を売る行商人が来る。県南の方ではばら鮨《ずし》だが、こちら北の方では鯖《さば》鮨を作るのだ。海に近い南部と違い中国山地に抱かれたこの北の果ての村では、無塩と呼ばれる生魚など年に一度の秋祭りぐらいでしか口にできない。
実入りのよくなった利吉は、魚も沢山買ってくれた。籠に入った塩まみれの鰯《いわし》だ。鰯にまぶした塩だけで麦飯のおかずになる。村人もここぞとばかりに魚を買い込む。小さな川魚しか口にできない村人には、この魚だけで華やかな祭りなのだった。シズも屈託のない子供らしい笑顔を見せるようになっていた。今年は祭りに参加できるのだ。いつものように利吉と二人だけ、雑木林の向こうからぼんやり明かりだけを見つめなくていいのだ。
兄とはあれからただの一度も「恐い話」はしていない。ツキノワはツキノワで、死んだ母は死んだ母でしかなかった。由次宅の一家惨殺は藁《わら》人形のお呪《まじな》いをさんざんかけたのだから、犯人は今頃苦しみ悶《もだ》えて死んだはずなのだ。そう、犯人なら元気に祭りを待っていたりするはずがない。ましてやツキノワの奇怪な牛の化け物など、この賑《にぎ》やかな祭りの前に現れるはずもなかった。秋の豊作は約束され、戦争も勝って終わったのだから。
白壁のように顔を塗りたくり、毒々しい派手な花柄の着物を着た三味線弾きの女が、甲高い鳥の声で歌う。その隣で大道芸の軽業をする男の子達は、五人ともシズと同じくらいの小ささだった。無表情な大男の太鼓に合わせ、柔らかく小さな体は仲間の上で土の上で空中でくるくると回った。どこの子供も遠い祭りの日、旅芸人の子供に淡い恋心を抱く。老いた飴《あめ》細工売りが温めた飴を膨らまし、花の形に捩《ねじ》った飴に真っ赤な食紅《しよくべに》を塗れば無邪気な歓声があがる。その隣には、玩具《おもちや》売りの屋台が停まっていた。涼しげな品揃《しなぞろ》えだ。硝子《ガラス》細工の風鈴は可憐《かれん》な夏の音を立て、とりどりに彩色された団扇《うちわ》は蝶の羽根のように風に揺れた。だがずらりと並んだ狐のお面は少し不気味だ。
いつも裸足《はだし》の子供達も、この日はとりどりの花緒の下駄を履いている。シズも兄に朱色の花緒の下駄を買って貰っていた。篝火《かがりび》とアセチレン瓦斯灯《ガスとう》だけでは少し離れると人の顔もよく見えなくなる。それでもシズには、こんな明るい夜は驚きだった。
火の見櫓を中心に踊りの輪が出来ている。地を這《は》い腹に響く太鼓と、遥《はる》か上空に流される軽い笛の音色。星は端から端までびっしりと帯を作り、いつもは不気味に重苦しく黒々とした中国山脈の連なりまでが、今夜は芝居の書き割りめいて軽い。近くの鬱蒼《うつそう》とした雑木林だけは暗すぎて嫌な雰囲気だが、そこを渡る風は清《さや》かに青かった。
いつもは村外れで雨曝《あまざら》しの古い位牌《いはい》と、改めて手厚く祀《まつ》らなければならない新しい仏の位牌も持ってこられ、縁台に並べられた。真新しい位牌の中には日清戦争の戦死者のものもあり、惨殺された由次一家のものもあり、ツキノワで果てたシズと利吉の母のものもあった。シズの手を引いていた利吉が、ふと立ち止まる。利吉はじっと位牌に目を注いでいた。牛そっくりの黒々と濡れた目で、由次一家の位牌を見ていた。
再び利吉は歩き始める。一間ばかり歩いてまた立ち止まった。店ではないのに人集《ひとだか》りがしていた。兄に背中を押されシズは前に出る。そこには異様に背の低い、頭だけ歪《いびつ》に大きな男と、赤い着物をだらしなく着崩した、それでいて妙に艶《つや》のある仄白《ほのじろ》い年増女《としまおんな》が並び、何やら奇妙な節回しで調子を取っていた。
「ありゃあ夫婦じゃで」という誰かの囁《ささや》きが、子供心にも淫靡な何かを喚起させた。シズはまったく唐突に、これは女の方がより強く惚《ほ》れている夫婦だと感じた。
その夫婦はやはり巡業している芸人で、一抱えもある木箱を地面に置いていた。そこに小さな窓を設けており、どういう仕組みになっているのかシズにはわからないが、覗《のぞ》くと中に鮮やかな絵物語が展開されるらしい。奇妙な節回しで語り始めたのは女だった。
「……の地獄巡りの物語に御座い」
いったいいつ、シズがその硝子の填《は》まった窓を覗き込むことになったのか。シズは右目で地獄を見ていた。左目は瞑《つむ》っていたが、やはり暗黒地獄の中にあった。
地獄は一枚絵ではなく、紙芝居のように場面が一定の間をおいて変わった。どこにも亡者と鬼と血があった。骨に皮をまとった亡者はやけに無表情で、鬼に追われても切り刻まれても灼《や》けた鉄棒を尻《しり》に突っ込まれても、激しい苦悶《くもん》はしていない。嬉々《きき》としているのでもないが、地獄にいるのが当然といった諦観《ていかん》すら漂わせていた。シズの後頭部から、祭りの賑わいは抜けていった。あるのは足元にのめり込む地獄だ。
不浄なものを浄と思い、浄《きよ》いものを不浄と思った亡者の行く屎糞《しふん》地獄、殺生し盗みをした者が墜ちる黒縄《こくじよう》地獄、描かれた赤は毒々しいまでに赤く、背景の黒はどんな夜よりも黒く、鬼は残酷なことをしながらもどこか愉快そうで、亡者は責め苛《さいな》まれながらも一様に無力で大人しかった。
極彩色の地獄巡りは、どういうわけか自分の母親を犯した者が堕《お》ちる無彼岸常受苦悩処で終わっていた。その亡者を責め立てるのは普通に角を生やした赤鬼ではなく、牛頭人身の牛頭《ごず》だった。その亡者は熱した鉄を口に流し込まれながら、何を思っているのか口元が笑う形になっていた。おそらく母親を思っていたのだろう。
……覗き窓から顔をあげたシズは、全身の血が抜けて蝋《ろう》のように白くなった。冷えて冷えてどうしようもなく寒かった。亡母の堕ちた地獄がどこかはっきりわかったからだ。そして兄と自分がこれから堕ちる地獄も先に知らされてしまった。
背後にいたはずの兄の姿は、どこにもなかった。雑木林が大きく揺れて、何かの獣の吠《ほ》える声が長々と後を引いた。踊り回る村人は、地獄の小役人だ。篝火で兄が焼かれていないかシズは本気で恐れた。無論、そんなことはされていなかったが、とにかくいなくなったのは間違いない。アセチレン瓦斯灯の炎は勢いよく燃えても、広場を隈無《くまな》く照らせはしない。暗夜の中をシズは必死に駆けた。高く低く手拍子が鳴る。嗚咽《おえつ》のような歌声が満ちる。雑木林の向こうはツキノワだから、決してそっちに向かってはならない。
小走りになりながら、シズは泣いていた。そんなシズの目の前に、ふいに白い手が突き出された。白い袖口しか見えないが、確かに女の手だ。シズはその手に飛び付いた。ひんやりとした血の通わない……死者の手だった。シズは絶叫した。しながらもその手を引っ張った。ずるずると白い手はどこまでも伸びてきた。シズが離さないのではない。その白い手が離してくれないのだ。
袖の向こうは闇に溶けているが、シズには見えた。牛の頭を持つ母だ。
……どこも切られていないのに、シズは全身の血を搾《しぼ》りだされて青ざめていた。せっかくの下駄が片方なくなっている。シズは雑木林の前に一人でへたりこんでいた。
「おおい、シズじゃねんか」
その雑木林の中から兄の声がした。続いて兄が現れた。その横に十五、六の桃割れに髪を結った娘を連れている。娘の青と白の派手な格子柄の着物は胸元も裾《すそ》も乱れていたが、それを恥ずかしがるふうもない。落ちていた片方の下駄を拾いあげてシズに渡してくれながら、何やら舌足らずな甘えた声を出した。見た目は十五、六でも、中身はシズより幼いらしかった。それでいてしっかりとその娘は女、なのだった。
「なんでこねぇに手が冷てえんじゃ」
祭りの後、兄はシズの手を引いてくれながらふとそう呟《つぶや》いた。あの娘は親に連れられて先に帰っていった。あの覗き絡繰《からくり》の女房と同じくらい、あの娘は傍らの男に惚《ほ》れていた。男に強く惚れるというだけで堕ちる地獄もあることを、シズはさっき覗き窓から見て知った。兄に手を握られても、シズの手はなかなか温《ぬく》もりを取り戻せなかった。雑木林の中で兄とあの娘が何をしていたかよりも、雑木林のあちらのツキノワが気にかかる。血塗《ちまみ》れの潰《つぶ》れた藁《わら》人形は、祭りの賑わいを聞いただろうか。
……藁に丸まって寝ていたシズは、夜中に目を覚ましてしまった。燭台《しよくだい》もランプもないこの小屋では、夜の明かりは差し込む月光だけだ。シズは隣に兄がいないのに気づいた。闇がさらに濃くのしかかってくる。ふいに暗がりから、奇妙な呻《うめ》き声がした。シズは息が止まりかける。飛び起きざま、思わず声のした方を向いてしまった。
由次の一家がそこにいた。薄い夏着物のナカは震えながら赤ん坊を抱いていた。その赤ん坊が呟いた。寒いんじゃ……と。
彼らを透かして竈《かまど》が見えた。そこにも何かがいた。どこかが痺《しび》れて現実感が浮遊する。由次の一家はゆっくりと消えていったが、その向こうのものは消えなかった。
一人はあの祭りの晩に兄といた娘だった。あの日の母の亡霊のように、白い足だけが闇に浮いている。後は闇に溶けて見えない。その白い足の間に真っ黒な何かが乗っていた。牛が鋤《すき》を引く動作で、そのものは動いていた。……兄だ。
見開いたシズの目に幼い日の原風景がよみがえった。これとまったく同じ場面だった。竈の前に男と女がいたのだ。こうして牛のように唸《うな》っていたのだ。幼すぎたシズにはその重なった二人の影が、まるで一頭の異形の牛に見えたのだ。あの情景が再びここにある。同じだ。違うのは下に組み敷かれた女だけだ。上にいた男はあの日と同じ兄だったが、女が違う。あの幼い日の女は母だった。シズの兄は、シズの父でもあったのだった。
月は雲に隠れたか、真の闇が降りてきた。耳元で牛の吐く息がした。シズは頭を抱えて息を止めた。牛はあの名前を囁《ささや》き続ける。あの名前を――。
翌朝。兄は何事もなかった顔で出掛ける支度をしていた。どうしても起き上がれないシズは、そのままの格好で呻いた。黙り続けた方がいいのかもしれないが、やはり口にせずにはおれなかった。
「兄しゃん。……鎌はどこに隠したんじゃ」
竈の上の羽釜《はがま》はふつふつと白い湯気をあげている。利吉の背中はまったく動かない。やがて利吉はゆっくりと答えた。まったく振り向きもせずに。
「お前も気づいたんじゃねんか。竹爺んとこの宮太は神戸になんぞ行っとりゃせん。……裏手の川の前に埋められとんじゃで」
シズはあの異様な臭《にお》いと、竹婆のいつかの蒼白《そうはく》な顔を思い出した。
「そこをちょいと掘り返させて貰《もろ》うて、埋めた。骨んなった宮太が持っといてくれる。何より、あの竹爺竹婆がしっかり隠してくれるから安心じゃ。それより、これも食うか」
利吉は背負い籠を引き寄せ、何かの包みを取り出した。羽釜を降ろして鍋をかける。
「神仏の罰が当たるとか何とか言うとるが、これは本当は旨《うま》いんじゃ」
シズは久しぶりに、あの懐かしい牛の匂いを嗅《か》いだ。竈の上で、あの優しい茶色の牛かどうかはわからないが、牛の肉が煮えていた。
「メオイじゃ。呪いじゃ。シズは色々とあの牛に要らん知恵をつけられようるけん。こうして食うてしまえばええ」
黄昏時《たそがれどき》にはすでに涼しい風が吹く。落ちる影も濃い。竈に映る角の生えた兄は、ゆっくりと美味《うま》そうに牛の汁を啜《すす》った。鍋の中を静かにかき回すのは、白い袖からのぞく痩《や》せた母の手だった――。
角川ホラー文庫『ぼっけえ、きょうてえ』平成14年7月10日初版発行