TITLE : スワロウテイル
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ウッディー・ウエストウッドの墓
円都(イェンタウン)
アゲハ
インドの宝石
スナイパー
いやなにおいの夜
ウッディー・ウエストウッドふたたび
マイ・シェリー・アモール
クラブ・マイウェイとスワロウテイルズ
蝶の記憶
密 告
イェンタウン狩り
死の砦
三度目のウッディー
あとがき
あたしは自分の誕生日も知らない。国籍もない。そして名前もなかった。
あたしの生まれた街はあたしにはよそよそしくて、肌寒くて、どこかいやなにおいだった。
日本人サラリーマンのパパが中国人で密入国者のママを捨てたのはあたしが生まれる前の話。
だからあたしはパパの顔を見たことがない。
それでいて父親似のあたしのことがママは大嫌いだった。
やがてママに捨てられたあたしは、あるフィリピン人に引き取られた。
胸に蝶《ちよう》のタトゥーのある娼婦だった。
彼女はあたしに名前をくれた。
『アゲハ』という名前だった。
あたしはその名前が気に入った。
その名前は、ちょっといいにおいがした。
ウッディー・ウエストウッドの墓
ウッディー・ウエストウッドはニュージャージー州生まれの海軍将校だった。ベトナム戦争から帰還したウッディーは思うところあって仏教に傾倒した。退役後、日本に移住したのもそのせいである。それでも血の滴るステーキと、ハンティングの趣味が捨て切れなかったウッディーは仏教の教えに一部オリジナルな解釈を加えてその両立を計ろうとしたようだ。
ウッディーの最期は大好きなハンティングの最中に訪れた。愛犬デリンジャーが追いつめた手負いの鴨《かも》を仕留めようと引き金を引いたウッディーは銃を構えたままあおむけに倒れて息を引き取った。心臓発作によるショック死であった。
葬儀は故人の遺志に従って仏式の葬儀で行われた。
よく晴れた仏滅の日だった。
金髪の豊かな髭《ひげ》をたくわえた故人の遺影を坊主のお経がなぐさめた。わざわざ本国からかけつけた彼の親族、知人のほとんどがこの異例の葬儀に戸惑った。何より彼らを困らせたのは正座だったにちがいない。全員がトライし、ほとんどがリタイアした。辛くも成功した何人かはその得意げな面持ちもつかの間、読経《どきよう》半ばにして苦《く》悶《もん》の表情で畳の上に転倒した。
遺体を乗せた霊《れい》柩《きゆう》車《しや》は火葬場へは向かわず外人墓地へ運ばれた。そこで坊主とバトンタッチをしたカトリックの神父が聖書を読んだ。出席者の全員がこれには驚いた。この突然の交代劇を敢行したのはウッディーの妻ヘレンだった。最後に至って亡き夫の遺志に背いたのにはわけがあった。
かつて知人の日本人の葬儀に出席したヘレンは火葬場で卒倒したことがある。卒倒する瞬間の彼女の脳裏をよぎったのは新婚時代の遠い記憶だった。ウッディーと迎える初めてのクリスマスイヴの日のことだ。二人は準備で朝から忙しかった。午後になってオーブンの七面鳥がいい艶《つや》に焼き上がる頃、クリスマスツリーを飾り終えたウッディーがキッチンにいたヘレンに後ろから抱きついた。驚くヘレンを軽々と持ち上げたウッディーはそのままベッドルームに飛び込んだ。ベッドルームのドアが再び開いたのはそれから三時間後だった。キッチンに戻ったヘレンがオーブンをかけっぱなしにしていたのに気づいたのも、したがって三時間後ということになる。あわてて引きずり出した頃には七面鳥は既にきれいな骨格標本になっていた。
火葬場の窯《かま》から出てきた知人のありさまはあまりにもそれに酷似していた。卒倒から目覚めた彼女は絶対に火葬だけは嫌だとその時肝に銘じたのである。
埋葬を終えたヘレンが守衛の男をつかまえて、古い記念写真を見せながらそんな昔話に熱中していた。色黒の守衛は日本人ではなかった。へたに英語の器用な彼はかえって老女のエンドレスな与太噺《ばなし》の相手を切り上げることができずにいた。そこにヘレンの旧友のバーバラが割り込んできて、愛犬の墓を一週間後に興味本意で暴いた少女時代の想い出話を始めた。
「あれはすごかったわよ。人間も死ぬとああなるのかと思うとゾッとしたものよ。あんな風になるんだったら一気に焼いて決着をつけたほうがきっと本人もラクよ」
「あなた、たとえ犬とはいえお墓を暴くなんて、なんという罰当たりな……」
ヘレンは信じられないという風に首を横にふった。
「悪気はなかったのよ。罪のない子供の悪戯《いたずら》だったのよ」
二人の老婦人は不意に涙ぐみ、一緒に胸元で十字を切った。
守衛は隙《すき》を見てその場から立ち去った。
夜になって雨が降り出した。
ウッディー・ウエストウッドは蓋《ふた》のあいた棺《ひつぎ》の中で上半身を起こして座っていた。そのうつろな眼はぼんやり夜の闇に注がれてはいるものの、恐らく何も見えてはいないだろう。死後硬直した彼の腕はライフルを握ったままの形になっていた。禿《は》げた頭の上で雨粒が激しく踊った。
ウッディーの安らかな眠りを妨げたのは黒い合羽《かつぱ》姿の二人の墓荒したちだった。二人はウッディーの身ぐるみをはいで、金目の物をあさっていた。
指輪にブレスレット、カフス、それに胸元に抱いていた小さな観音像。ちょっとは値打ちモノかも知れない。ふたりはそれを片っ端からポケットに詰め込んだ。
「まさかもう一度下界の空気を吸えるとは思わなかったろ。ありがたく思え」
中国語訛《なま》りの英語を使うその男は、仲間からヒョウと呼ばれていた。最近この街でも急激に増えつつあるいわゆる不法入国者である。
パンツとソックス以外の全ての衣類をはぎとられたウッディーの裸体を、ふたたび棺に横たえたヒョウは相棒のリンが土をかぶせる間いいかげんな念仏をうなった。かくしてウッディーの本懐ははからずも彼らによって達成されたようである。黙って念仏を聞くその顔は満足そうに微笑《ほほえ》んでいる風にも見えた。
二人は雨の中を駆け抜け、トラックに戻ると運転席の窓をたたいた。
「フニクラ! フニクラ!」
居眠りをしていたフニクラはヒョウにたたき起こされた。その顔は昼間ヘレンにつかまっていたあの守衛だった。フニクラは目をこすりながら外に出た。傘がなかなか開かず、フニクラはあっという間にびしょ濡れになった。
「クソッ!」
ようやく開いた傘と一緒にフニクラは墓地の裏門へ走り、鍵を閉めた。その間にヒョウとリンはトラックの幌《ほろ》つき荷台の中に飛び込んだ。フニクラが車に戻って急いでエンジンをかけると、途端にラジオがけたたましい勢いで鳴り出した。フニクラは思わず素《す》っ頓《とん》狂《きよう》な叫び声を上げてヴォリュームを絞った。
発車したトラックの荷台で合羽を脱いだ二人はびしょ濡れの頭をその辺にあったボロ布で拭《ふ》きながら一息ついた。ヒョウはズボンを脱いでそのポケットからシケモクをひっぱり出したが濡れて駄目になっていた。
運転席と荷台には廃品でこしらえた通話用のパイプがつながっていて、そこからフニクラの声が届いた。
「首尾はどうだったい?」
「まあまあだ。でもへんな白人だぜ。十字架のかわりに仏像のマスコットにぎってやがったよ」
「仏教が好きだったらしいぜ。USAから日本に来る奴《やつ》らはたいていビジネスマンか日本史研究家だからな」
「なあ、そっち煙草あるかい?」
「え? なに?」
「煙草!」
「煙草?」
しばらく間があって、パイプから煙草が一本転がってきた。
「サンキュー」
リンは幌から両腕をだして、雨で手を洗っていた。
「死にたてなんだからそんなに汚くねえよ」
そう言いながらヒョウも自分の手が気になりだして、煙草をくわえながら同じようにして手を洗った。
「なあ、仏像と、あとなんだい?」
フニクラの声はふたりには聞こえなかった。
雨がひどくなってきた。
フニクラをアパートの前で降ろしてリンが運転を代わった。人のいいフニクラは雨の中いつまでも手をふっていた。
アパートの前では夜中だというのに道路工事が続いていた。アスファルトを砕く激しい音に怒り狂った黒人が窓から声を嗄《から》して怒鳴っていた。隣の部屋のアーロウである。
アーロウはフニクラを見つけると大声で叫んだ。
「おい、フニクラ! そのバカどもを棺《かん》桶《おけ》に入れて連れてってくれよ!」
フニクラは苦笑して玄関をくぐった。
部屋に戻るとドアに『OPEN』の看板が出ていた。フニクラは舌打ちしてそっとドアをノックした。ややあって中年の日本人が顔を出した。びしょ濡れのフニクラを怪《け》訝《げん》そうに眺めるその中年男は全裸で、手にはポラロイドカメラを持っていた。
「誰?」
フニクラは愛想笑いを浮かべて、日本語で言った。
「ハァイ、オタノシミ? ゴメンネ。ボク、ジャマシナイネ」
きょとんとしている中年男ごしにフニクラは部屋の奥に呼びかけた。それもタガログ語で。
「おい! ちょっといいかな?」
それに答えて部屋の中から女の声が返ってきた。それもまたタガログ語で。
「お兄ちゃん? 看板見えなかったの?」
「おお、悪い。雨でずぶ濡れなんだ。タオル取ってくれないか?」
「看板見えなかったの?」
「見えたけどさ。寒くて死にそうだよ」
頭の上を行ったりきたりするタガログ語にしびれを切らして男が英語でフニクラに言った。
「ホァット? フゥ?」
「あ、ちょっとタオルを取って欲しいんだけど」
フニクラの英語が男にはもうわからなかった。
「なに?」
今度は女が日本語で男に言った。
「ちょっとこっち。タンスの引き出しにタオル入ってるから彼に渡してあげて。あと毛布と」
男はうなずいて部屋に引っ込んだ。
「誰? あれ?」
「え? 兄貴」
「兄貴? 実の兄貴」
「そう。ホントのアニキさん」
そのぐらいの日本語のやりとりならフニクラにもわかった。男が引き出しをガタガタやっている隙に、ちらっと部屋の中をのぞいたフニクラは仰天した。妹のグリコが下着姿のままSM縛りで天井から吊《つる》されている。
「何よその顔!」
そう言ってグリコが笑った。「ちょっと見ないでよ、バカ」
あまりのことに何も答えられずにいるうち男が戻ってきた。フニクラにタオルと毛布を渡すと無愛想にドアを閉めた。フニクラはドアを叩《たた》いた。そして再び顔を出した中年男に、
「ナニヤッテルノ? アレハ?」
「え?」
「ちょっと、邪魔しないでよ!」と、奥からタガログ語でグリコ。
「アレ、ナニ?」
「アートだよ。アート」
いまいましそうに男はドアを閉めた。
毛布をかかえたままフニクラはドアに向かって叫んだ。
「グリコ! そういうの、別料金よ! わかってるね! ちゃんともらってね!」
隣のドアが開いてアーロウが顔を出した。
「俺を眠らせてくれよ! ヘイ、フニクラ! 俺を眠らせてくれよ!」
「わ、わるかったよ。アーロウ、ゆっくり休んでくれ」
アーロウのドアが閉まるとフニクラはひとり言のようにつぶやいた。
「眠れ、眠れ、アーロウ。いっぺんウチの墓場で眠ってみるかい? 永遠に……」
間髪入れずアーロウが飛び出して来た。予想外の大男である。アーロウはフニクラの襟首をつかんで軽々と持ち上げた。
「おもしろいじゃねーか! おもしろいじゃねーか! でも俺は眠いんだよ! わかるか、兄弟よ。俺は眠いんだよ!」
謝ろうにも喉《のど》が締めつけられて、フニクラは泡を吹きながら宙を泳いだ。
部屋の中では男がシャッターを切り続けていた。さかさまになりながらグリコは時計を見た。
「お客さん、あと二十分しかないよ」
「…………」
「そろそろフィニッシュして、アレしないと……フィニッシュできないよ」
「ああ……ね、お兄さんと二人暮らしなの?」
「そう」
「名前は?」
「グリコ。もー、何回聞いたら覚えるの?」
「それは、君だろ? お兄さんは?」
「お兄さんは、ナオミ」
「ナオミ?」
「フニクラナオミ、あたしはフニクラグリコ」
「何それ。誰がつけたの?」
「お兄さんの友達。クニの」
「へんだぜ、それ。日本名のつもりなのかね」
「よく言われるわ」
「フニクラってどう書くの?」
「どう?」
「漢字で」
「ああ、フニはフニの花のフニ……クラは……ちょっと忘れた」
「フニの花ってどんな花だよ」
「お客さん、カメラマン?」
「そう」
「すごいよ。有名?」
「え?」
「今まで誰撮ったことある?」
「え?……いろいろ」
「こういう写真?」
「これは趣味」
その趣味に凝りすぎて持ち時間を失った彼はグリコの上で削岩機のように激しく震動した。折しも窓の外の工事の音と重なって、その様子にグリコは吹き出しそうになった。
「何が可笑《おか》しいんだよ!」
「なんかロボコップみたいだよ、お客さん」
ベッドが激しく軋《きし》んだ。時計を見ながらグリコが、
「お客さん、あと二分だよ」
ロボコップ男は顔を真っ赤にして腰を振り続けたが結局フィニッシュできずに時間切れとなった。
「五千円であと十五分延長してあげようか?」
男はベッドにうつぶせになったまま首を横にふった。
客が帰ってようやく中に入る許しを得たフニクラにグリコは鼻をつまみながら言った。
「死体臭いわよ。シャワー浴びてよ」
「あの客は初めてかい?」
「なんの話? 面白い話じゃないんだったら聞きたくないわ」
グリコはベッドの上で男がくれたポラロイド写真を見ていた。
「……お客の悪口ばっかり。あと昔話と」
写真の一枚に蝶《ちよう》の絵のアップがあった。それはグリコの胸の谷間の蝶のタトゥーだった。蝶の下にアルファベットでこう書いてある。
『GRICO』……。
グリコは気に入った何枚かを部屋の壁に貼《は》った。そして残りをゴミ箱に捨てた。
フニクラが覗《のぞ》き込んで顔をしかめた。
「こんなの貼るなよ」
「あんたにはわからないわ。これはアートよ」
「ああ、さっぱりだね」
フニクラは浴室に入ってシャワーのコックをひねった。フニクラは顔に笑みを浮かべている。それがフニクラの普段の顔であった。そんな自分の顔を思いがけず鏡の中で発見したフニクラは不意に陰《いん》鬱《うつ》な気分になった。
グリコが入ってきて、鏡の前でメイク落としのクリームを手のひらに伸ばした。
「なあ、俺はいつもこんな顔してるのか?」
「え?……そうよ」
「…………」
グリコはクリームを顔にぬりながら改めて、
「どんな顔?」
「この顔さ」
「そうよ。……なに? どういう意味?」
「笑ってる」
「笑ってるじゃない」
「いっつもか?」
「笑ってるよ。うす笑い」
「気持ち悪くないか?」
「気持ち悪いわよ。でももう慣れたわ。なによ今まで知らなかったの?」
「そんなに前からか?」
フニクラの顔から笑顔が消えた。
「でも笑わないともっと薄気味悪いわよ」
「きっと自分に嘘《うそ》をついて生きてるんだ、俺は」
「なに?……どうしたの?」
「だからこんな顔してるんだ」
「…………」
「俺はこの国が性に合わないのかも知れない。マニラにいた頃はこんな顔じゃなかった」
「陰気な話はやめてよ。部屋にカビが生えそうよ。人間の口はそんな話をするためについてるんじゃないわ」
グリコはクリームだらけの顔でふりかえった。
「笑ってなさいよ」
笑えと言われてもフニクラは笑えなかった。
「ほら、笑って。ほら」
「…………」
「人生笑ってたほうが楽しいじゃない。それともぶすっとして棺桶《かんおけ》にでも入ってるほうが幸せっていうの?」
そう言いながらグリコはフニクラの顔にクリームで笑い顔を描いた。
「いいじゃない。そのほうがずっと男前よ」
おだてられてフニクラの顔にいつもの笑顔がもどった。こうやって見ると、まんざらでもないじゃないかと思い直せる笑顔だ。ロビン・ウィリアムスのような笑顔だ。なかなかにして憎めない。フニクラは満足げにあごを撫《な》でた。
「そ。それでいいのよ。その笑顔よ。あたしのタイプじゃないけどね」
円都(イェンタウン)
この街をあたしたちは『円都(イェンタウン)』と呼んでいた。
円が欲しくて世界中からいろんな人種がやって来て、まるでかつてのゴールド・ラッシュを思わせた。円を掘りに来る街。それがイェンタウンだ。
日本人はこの呼び名を嫌い、自分たちの街をそう呼ぶ移民たちを逆にイェンタウンと呼んだ。ちょっとややこしいけど、あたしたちにとってイェンタウンとはこの街のことで、日本人が言うイェンタウンはあたしたちのことなのである。
日本人はあたしたちイェンタウンのことを軽《けい》蔑《べつ》していた。まるで円に群がる蠅か何かのように思い込んでいた。でもそれは仕方がない。あたしたちの中にも日本人のことを、円を作る機械のようにしか考えていない連中も少なくなかった。どっちもどっちだ。そしてあたしはどっちも好きにはなれなかった。
そんな中でヒョウは少し違うにおいのする人だった。
ヒョウは工場の裏の広大な空き地に住んでいた。
改造した廃車を三台並べて、これをヒョウは家にしていた。
空き地はいろんなガラクタの宝庫だった。『ゴミを捨てるな』と書いた看板を目指して日本人たちが毎日粗大ゴミを捨てに来た。ヒョウは使えそうな家具や自転車を見つけると器用に修理して値札を貼り、トラックの前に並べた。そして『青空旧貨商場』と書いた大陸風の派手な彩色の看板をトラックの上に堂々と掲げて、露天商を開業した。
ガラクタを目当てにやって来るのはだいたい中国人やイラン人あたりで、ヒョウに何かいい出物はあったかと訊《たず》ねた。ヒョウはすかさず自分の商品を売り込むのだが、大抵みんなは粗大ゴミの中からいたんだガラクタの方をひきずって帰った。
さっぱり売れないので自分の商品を一部粗大ゴミに混ぜてみた。ガラクタの中から掘り出し物を見つけて大喜びしている中国人やイラン人をつかまえて、
「それは売り物だよ。ちゃんと値札が貼《は》ってあるだろう」
と言って強引に売りつけるというあんまりな商法だったが、大抵は相手を怒らす結果で終わってしまうことがわかって改心してやめた。のんびり脳天気に客を待つことにした。
ある日自転車で巡回中の警官がやって来てこっぴどく叱られたことがある。
「こらイェンタウン! 誰に断わって店営業してんの。ここは国有地だよ!」
ヒョウは日本語がほとんど駄目だったので何を言ってるのかさっぱりわからなかった。それより警官の自転車のタイヤがパンクしていたのでサービスで修理してあげた。ついでにジャスミンティーをごちそうしたら警官はすっかり上機嫌になって無断営業も見て見ぬふりにしてくれた。
「この土地は何だか知ってる? 二十一世紀未来都市計画なんて言ってさ、長年住んでた住民を追い出して、家壊して、さら地にして、何を作るのかと思ってるうちに計画がストップしちまったんだ。追い出された方はたまんないだろう。家まで壊されて、空き地じゃあ。シャレにならないよな」
警官はヒョウが日本語がわからないのを知っているのかいないのか、とにかく一方的に話を始めて、話し出すとなかなか終わらなかった。それでカップにお茶さえ注いでいれば上機嫌な人だった。警官はそれからも度々やって来た。
「今度の交通安全週間はシートベルトを忘れずにっていうスローガンでやってるんだよ、こっちは。なのに若い連中はさっぱり言うことをきかないよね。死ぬのはおまえらなんだよ! って言ってもさ、わかってるよ、だからほっといてだってさ。あのバカ者どもが! でも、そんな若者に育てた親や学校教育の存在も忘れちゃいけないよね」
こんな話をしたいがためにその警官は、広い空き地をわざわざ縦断往復するのであった。
そのうち店のほうも少しずつ買い手がつくようになった。
一番のお得意さんは日本人の女の子で、近くにデザイナー養成学校でもあるのか、それらしい妙な格好の女の子たちが面白がって買いに来た。
ひとりヒョウのファンがいて、何もなくてもブラブラ回りをうろついていた。ヒョウも最初のうちは愛想よく声をかけていたが、相手はいつもヘラヘラしてるだけで何も答えなかった。ちょっと薄気味悪い子だった。ヒョウはその子の顔を見るのが次第に憂《ゆう》鬱《うつ》になっていった。
夜になると、ヒョウはトラックのまわりにランプを置いた。そして『青空旧貨商場』をはずして『月下酒家』という看板に置き換えた。やがてその灯に誘われて同胞たちがたむろするようになり、ちょっとしたイェンタウンたちのサロンができあがった。酒を酌み交わしながら数カ国語が入り乱れた。中には誰とも言葉が通じずに黙って酒だけ楽しむ者もいた。
その中で知りあったのがリンだった。
リンはサロンの中では唯一の韓国人だった。ちょっと無口な彼は正体の知れないところがあったが、なぜか気があった。しかもリンは頭も切れ、手先も器用でそばに置いておくと何かと役に立った。
夜の訪問者は必ずしも友好的ではなく、夜中にいきなり幌《ほろ》の中に侵入してきて力ずくで物資を略奪してゆく不届き者も少なくなかった。特に同胞の中国人が多くて、ヒョウはその時ほどやりきれない思いに駆られることはなかった。しかしリンが住みつくようになって以来、防衛力は格段にアップし、今のところ全戦全勝だった。リンはケンカもやたらに強かった。
フニクラもサロンの常連だった。墓荒しも、フニクラがある日酒を飲みながらこんなことを言ったのがそもそもの発端だった。
「日本人の墓は骨《こつ》壺《つぼ》しか入ってねえからどうでもいいけど、外人墓地はありゃ掘り返してみたらすごいぜ。棺《かん》桶《おけ》に結構なんだかんだとつまってるんだ」
その話を最初に面白がったのはリンだった。リンはどうやら墓荒しが可能か、フニクラに閉門時間や夜の警備、鍵の保管場所などをあれこれ聞いてシミュレーションして楽しんだ。リンはそういう犯罪の企てを考えるのが好きでたまらないみたいで、銀行襲撃計画とか完全犯罪の方法とかいう話題に目がなかった。フニクラの話で案外墓地のセキュリティーがいいかげんなことがわかると、リンの興味はそこで失せた。反対にそこから興味をそそられたのがヒョウだった。そんなに簡単ならやってみようじゃないか、と言いだしたその日が第一の犯行の記念すべき夜となった。
墓からあげた盗品は『青空旧貨商場』の商品として店先に並び、やはりデザイナー養成学校風の女生徒たちによく売れた。
ウッディー・ウエストウッドの墓荒しの翌日、グリコが訪ねて来た。
雨あがりでぬかるんだ空き地を渡ってきたグリコの足は泥だらけになっていた。
「泥の中を歩くなんて懐かしいわ」
「いやな昔を思い出すかい?」
「……そうね。よく田んぼで遊んだわ。泥だらけになって」
グリコはぬかるみを足で玩《もてあそ》びながら祖国のことを回想した。ヒョウはそんなグリコをからかって言った。
「なんだい? カエルでもつかまえたのかい?」
グリコはぬかるみの中に手を突っ込んで、カエルをつかまえたふりをしてヒョウの方に走って来た。ヒョウはあわてて逃げたが、自らぬかるみに足を取られて泥まみれになってしまった。
「てめえ!」
「なによ! 自分で転んだんじゃない」
ヒョウは水場でシャツを脱いだ。グリコがホースでその背中を洗った。
「リンは?」
「さあ。昼間はたいがいいないんだ」
「あ、そ」
「最近おまえの兄貴とリンで新事業を始めたんだぜ」
「新事業?」
「へっ。死んだ金持ちがお得意さんなんだ」
「何? 保険金殺人とか?」
「ハッハッハ。そんなのは日本人に任せときゃいいさ」
「墓掘り返してんでしょ」
「何だ。知ってんのか。フニクラに聞いた?」
「うん」
「結構いろいろ出てくるんだよ。どうせ死体と一緒に腐らせちゃうんだったら、生きてるやつがリサイクルに使ってやったほうが合理的ってもんさ。コンビニ襲ったりするより罪ないだろ?」
「ろくな死にかたしないわよ」
「だから生きてるうちにいろいろやっとくのさ」
「墓荒しもリサイクル。この店もリサイクル。あんたの人生って、リサイクル人生ね」
「なんだそれ」
「よくわかんない」
ヒョウはグリコを後ろから抱きしめた。
「昨日は何人客取ったんだ?」
「え?……五人」
「……そうか」
そう言いながらヒョウはグリコの髪をなでた。そして耳元でこう囁《ささや》いた。
「……リハビリしようか」
グリコがくすぐったそうに笑った。
それから二人は幌《ほろ》の中にこもってセックスをした。
グリコは不感症の女だった。セックスを商売にしているグリコの職業病だった。ヒョウにしてみればまるで人形を抱いているような味気なさだ。
「感じるか?」
「感じない」
天井を見上げたままグリコは答えた。そう言われてヒョウが一瞬でも手を休めると、
「もっと……」
と、グリコは催促する。ふたりはこのセックスを“リハビリ”と呼んでいた。
あおむけのグリコがふと気配に気づいて目を開けると、幌の隙間《すきま》から誰かの顔が見えた。グリコと目が合ったそいつはすぐに姿を消した。
「どうした?」
「え? なんでもない」
ヒョウはグリコを柔らかく愛《あい》撫《ぶ》し続けた。
“リハビリ”を終えて幌から出て来たグリコをさっきの覗《のぞ》きが遠巻きに見ていた。あのファンの女の子だった。
「どうした?」
「え? 別に」
ヒョウがグリコの肩に手をかけた。
「あれ誰?」
「え?」
ヒョウもその子に気づいた。
「また来てるのか」
ヒョウは少し嫌そうな顔をした。
「さっき覗いてたのよ、あたしたちのこと」
「うそ」
「ほんとよ」
「……たまんねえな。日本の女はピーピングまでするのかよ」
「なんなの?」
「……俺のファン」
「え?」
ヒョウはいきなりグリコにディープなキスをした。彼女に見せつけるためだ。
女の子は泣きながら逃げて行った。
「ほんとだ。やっぱりあんたのこと好きだったのね」
「これでもう来ねえだろう」
「ひどい奴《やつ》。女心を踏みにじって!」
午後になって二人は釣《つ》り竿《ざお》を持って自転車で近くの入り江にでかけた。ヒョウに言わせると釣りは趣味ではなく、蛋《たん》白《ぱく》源《げん》の確保という点で重要な労働なのだそうだ。
入り江の一角に秘密の穴場があった。行ってみると先客がいた。
……リンだ。
リンは防波堤に釣り竿をひとりで五本も立てていた。
「なんだよ。ここにいたのかよ」
リンはちょっとふりかえっただけですぐまたそっぽを向いた。
「どうだい? 釣れるかい?」
「まあまあだ」
グリコがリンのバケツをのぞくと、何匹か大きいのがせまそうに泳いでいた。
ヒョウは少し離れた場所に腰をすえた。その隣にグリコも座った。
グリコはヒョウに抱きつきながらリンの方を見た。
リンは長めの髪を風に遊ばれるままにして、一心に海を見つめていた。グリコはその横顔にしばらく見とれていた。
「リンはだめだぜ」
グリコがふりかえるとヒョウはニヤニヤしながら竿を振った。
「あいつ女に興味ねえよ」
「うそ」
「たぶん」
「じゃあ、なに? アレ?……男?」
「さあ。聞いてみろよ」
「……まさか」
「なんだよ」
「あんたたち、そうなの?」
「おい、よしてくれよ!」
グリコが大声でリンに言った。
「あんたたちホモなの?」
「……ちがうよ」
リンはグリコを睨《にら》みつけて、冷静に答えた。
グリコは叱られた猫みたいに小さくなった。
「……そんなマジになんなくても」
おだやかな波だった。
空き地に戻るといつもの顔ぶれが勝手に宴会を始めていた。ヒョウたちはさっそく火を焚《た》いて魚を焼いた。炎を見ると気分が昂《たか》ぶるのは万国共通の本能なのだろうか。ガルシアがケイナでフォルクローレを吹き始めると、ドゥバイが薪の丸太でリズムをたたき、マルチェロがカンツォーネを歌い出した。さながら各種民族音楽混《こん》淆《こう》のワールドミュージックだった。グリコがそれにコーラスをつけながら焚き火のまわりを踊った。
みんなは拍手喝《かつ》《采さい》で沸き上がった。
ひとしきり男たちを楽しませたグリコは一番大きい魚をもらって家に帰って行った。
その後ろ姿を見送りながらマルチェロが即興で歌詞をつけて歌った。
「おお、グリコ イェンタウンのマドンナ
昼は歌い 昼は踊り
夜は窓辺で 月に照らされ
恋をいざなう花となる
おお、グリコ おお、グリコ
イェンタウンのマドンナ」
イタリア語で歌ったマルチェロは今度は英語でくり返した。
ヒョウはそれを聴いて少し感傷的になりながら中国酒を茶碗ですすっていたが、隣のリンの視線に気づいて照れ隠しにこう言った。
「ラオチュウにカンツォーネはあわねえよ」
アゲハ
グリコは今でこそ自宅のアパートで客を取っていたが、三年前まではこの住まいもなく、みすぼらしい売春宿の二階の小さな部屋で同じ外国籍の女たちと雑魚寝して暮らす毎日だった。
日本に来て右も左もわからなかったグリコに店のママのマリリンは何かとよくしてくれた。
マリリン・ママはビア樽《だる》のような巨漢の女だった。
そのマリリン・ママが久しぶりに訪ねて来た。
「ウチの店にひとりコブ付きの娘がいてさ、コブだけ置いて逃げちゃったのよ。店に出すには早すぎるし、本当のところすごく困ってるのよ」
要するに預かってくれということだ。その店のこういうネットワークは完璧だった。グリコが店にいた時もよく母親に置き去りにされた子供たちがいた。ところが不思議なことに四、五日もするとその子たちもどこかに消えてしまうのである。
「あたしママが海にでも捨ててるんだって今の今まで信じてたわ」
「なんだって?」
「だってやりかねないじゃない」
「面倒見た甲斐《かい》もないわね」
「ふふっ」
「で、どう? あんたんとこも大変だろうけど」
「そうよ。子供の面倒まではねえ……」
「手のかかんない子だよ」
「手のかかんない子供なんていないわよ」
のらりくらりとグリコはかわした。マリリン・ママもずいぶん粘ったが結局あきらめて超重量級の腰をあげた。玄関まで見送ると、マリリンはグリコの顔をなでて、それから頬《ほお》に巨大なキスをした。
「あんたも、身体には気をつけてね。なんか困ったことがあったらいつでも言いにおいで」
ドアがあいて二人が出て来た。
あたしがグリコを見たのはそれが最初だった。
どういう印象もなかった。ただマリリン・ママの店に出入りしている女たちと同じにおいだけを感じた。
あたしが階段の隅に座ってそっちを見ているのにグリコが気づいた。
「あの子?」
「そう。手のかかんなそうな子でしょ」
「子供っていうからもっと子供かと思ったわ。……ねえ、いくつ?」
グリコはあたしに聞いた。あたしはだまっていた。かわりにマリリン・ママが答えた。
「十二だっけ? 正確にはわかんないのよ」
「名前は?」
「ないのよ」
マリリン・ママがそう言った。
「え?」
「名前。ないのよ」
「なんで?」
「いいかげんな母親だったのよ。戸籍もないし。犬や猫じゃないんだから」
「犬や猫だって名前ぐらいつけるでしょ」
「身の回りの手伝いでも何でもするわよ。頭のいい子だから面倒は掛らないと思うわ」
グリコはしばらく爪をかんでいたが、マリリン・ママの期待いっぱいの顔に根負けしたみたいで、ちょっと不機嫌そうにこう言った。
「面倒見てる暇なんかないからね」
マリリンは大喜びでグリコを抱きしめた。
「何にも心配ないよ! でも名前だけは考えてあげてね!」
こうしてあたしはグリコの家で世話になることになった。その夜、グリコは帰って来たフニクラにあたしを紹介した。
「よく働くんだって、この子。もうお兄ちゃんは御払い箱ね」
「そりゃいいや! ハッハッハッハッ!」
フニクラはグリコのジョークを笑い飛ばしたが、やや不安になって後半ひきつり気味だった。それでもフニクラは何かとあたしをかわいがってくれた。仕事から帰ると必ずおみやげをくれた。おみやげと言ってもガムとか、チョコとかだったけど、あたしもそれが愉《たの》しみになった。
ある日の午後、グリコはあたしにカーラーを巻かせながら自分はマニキュアを塗っていた。
あたしはさっきから鏡に映ってるグリコの胸元が気になって仕方がなかった。うすいシャツの間からへんなものが見え隠れしていたからだ。
あたしの視線にグリコが気づいた。
「これ?」
あたしはあわてて視線をそらした。
「こんなのが珍しいの?」
あたしがコクリとうなずくと、グリコは胸をちょっと開いてそれを見せてくれた。
きれいなアゲハチョウのタトゥーだった。
「きれい」
「そう?」
「アゲハでしょ、これ」
「アゲハ? なに? 日本語?」
「そう」
「アゲハっていうの? バタフライのこと」
「このバタフライのこと」
「へえ」
あたしは顔を近づけて蝶《ちよう》を眺めた。
「ちょっと、息がくすぐったいわ!」
グリコは思わず自分の蝶を爪でゴシゴシ掻《か》きむしった。塗りたてのマニキュアのことをすっかり忘れていた。気がついたら胸と指先がたいへんなことになっていた。
「あーあ!」
あたしのせいかな?……ひとまず謝った。
「……ごめんなさい」
「あたしのドジよ」
グリコはティッシュで胸を拭《ふ》いた。あたしは好奇心にかられてグリコに訊《き》いた。
「自分で描いたの? それ」
「まさか。描いてもらったの」
「うまいね。誰が描いたの?」
「そりゃ、プロよ。タトゥーの専門家」
「タトゥー?」
「タトゥーよ。知らないの?」
「?」
「ほら、こすっても取れないでしょ。洗っても取れないのよ」
「針でチクチク刺すやつでしょ。みんなやってた。でもこんなきれいなのはじめて」
今まで知ってたタトゥーなんて、汚い字で『I LOVE YOU』とか、そんなものばっかりだったからちょっとびっくりだった。
「まあ、女はこんなので肌を汚すもんじゃないわ」
「……いいな」
あたしはすっかりこの蝶が気に入ってしまった。
「さ、理科の時間はおしまいね」
そう言ってグリコは蝶をしまった。あたしはもうちょっと見ていたかったが我慢した。
グリコがマニキュアを塗り直しながら、ちょっと長い昔話を始めた。
「マリリン・ママの店で働く前だったかな、これ彫ったの。あんときは日本に来たばっかりでなんか心細くってさ。友達もいなかったし。知らない国であたしとお兄ちゃんたちと。お兄ちゃんね、最初二人いたのよ。でもひとり交通事故で死んじゃってさ。それもあたしたちの目の前でね。ひき逃げよ。町のどまんなかで。真っ昼間。すぐに救急車が来てさ、もう大騒ぎよ。だけど頭から脳みそが出てたから手遅れよね」
グリコは気持ち悪そうに舌を出してみせた。あたしもそれを真似した。
「それからお兄ちゃん、救急車に乗せられて、白衣着た男の人が何か叫んでたんだけど、今思えばたぶん、この人の知り合いはいますか? とか言ってたんだと思うのよ。だけどあたしたち日本語ぜんぜんわかんなかったし、すごい野次馬の中でおろおろしているうちに発車しちゃったの。その後が大変よ。救急車がどこに行ったのかわかんないでしょ、あたしたち日本語も全然でしょ、だから調べたくてもどうにもなんないのよ。それでどうしたと思う?」
「……わかんない」
「うん。それが当たり。結局わかんなかったのよ。死んだお兄ちゃんが何処《どこ》に行っちゃったのか、その後どうなったのか、いまだにわかんないのよ。間抜けな話でしょ」
グリコはこんな重たい話をケロッと軽い調子で話した。身の上話をするたびに泣き出す弱いアジア女たちを腐るほど見てきたあたしには、こういうノリのほうがどんなにかよかった。
「日本に来る時、密入国だったから日本人になりすまさなきゃいけないからって、日本に詳しい友達に日本人っぽい名前考えてもらったの。フニクラナオミ、フニクラグリコ、死んだお兄ちゃんはフニクライエタって名前だったんだけど、せっかく日本人の名前つけたって何の役にも立たないわよね。きっと病院に運ばれた時は名もないただの移民者よ。国籍もわからず、まあわかってるのは人間だってことぐらい? そう思うと悲しいわよね。それでこのタトゥーを彫ってもらったのよ。これでグリコって名前はわかるし、胸に蝶《ちよう》のタトゥーがあればどっかでのたれ死んでも目印になるじゃない。まあ言うなればこれがあたしのIDカードってとこね」
そしてグリコはシャツをひっぱって自分の胸をのぞいた。
「……なんだっけこれ? 日本語で」
「え?」
「これ。日本語で」
「アゲハ」
「アゲハ?」
「そう。アゲハ」
「アゲハか。いい響きよね。……ね!」
同意を強要されてあたしもほとんどお義理でうなずいた。
「そうだ。アゲハってどう?……あんたの名前。いいと思わない?」
あたしはあっけにとられた。
「あんたっぽいよね。……ね!」
再びグリコに同意を強要されたあたしはちょっと困った。
「アゲハ」
「…………」
「アゲハ」
「…………」
「アゲハ!」
あたしを呼んでいたのだ。
「は、はい」
ためらいながら返事をするとグリコは満足げに笑みを浮かべた。それからグリコはマジックであたしの胸にも蝶の絵を描いて、その下に『AGEHA』と記した。
「これで迷子になっても大丈夫ね」
そこまで子供じゃない。でもグリコの子供扱いにはイヤみがなかった。それがあたしを仲間と認めているグリコなりの表現に思えた。
その夜、あたしは毛布の中で自分の名前を何度も思い返した。はじめて手に入れた名前に興奮してなかなか眠れなかった。
マジックの蝶は二、三日で消えてしまった。
インドの宝石
墓荒しは決して割のいい仕事ではなかった。なにしろ都合のいい御遺体が毎日入荷されて来るわけではないからだ。フニクラは昼間守衛をしながらよさそうな葬儀を物色した。そしてウッディー・ウエストウッドの夜から三週間目にしてようやく手頃なターゲットが現れた。
タラム・タッジ・タルグーシュリ。インド人の大富豪の息子である。親に勘当されて日本に帰化し、三十五歳という若さで死んだ。自前のクルーザーが転覆して溺《でき》死《し》したのである。勘当されたとはいえさすが大富豪の息子らしい死に方である。葬儀も父親こそ参列していなかったがなかなか盛大なものだった。
フニクラが大喜びでアパートに戻って来た。急いで身じたくをして出かけようとするフニクラをつかまえてグリコが言った。グリコは夕方だというのに起きたばかりで口に歯ブラシをくわえていた。
「アゲハも連れてってよ」
「え?」
フニクラは明らかに嫌な素振りをした。あたしだって嫌だった。夜の墓場なんて好きな子供はいない。
「あたしの仕事場に置いとくと教育に悪いでしょ」
「こっちだって教育に悪いよ」
「そりゃそうだけど。こっちのは真似されると困るじゃない? 墓荒しなんか見たって真似したくなんかなんないでしょ」
……あたしはどっちの真似もしたくはなかった。でも結局フニクラが折れて、あたしは夜の墓場に連れて行かれることになってしまった。
フニクラとあたしは先ずヒョウのところに立ち寄った。
「俺んちの新しい妹だ」
フニクラはあたしをヒョウとリンに紹介した。ヒョウがあたしに名前を聞いた。
「アゲハ」
「アゲハ? おもしろい名前だな」
「グリコがつけてくれたの」
「そうかい。よろしくな」
そう言ってヒョウはあたしの頭を力一杯なでまくった。
「ちょっとすごい御遺体だぜ」
今夜のフニクラはちょっと興奮気味だった。ヒョウがフニクラの意図を履き違えて言った。
「溺死体だろ? ありゃすごいんだってな」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「ガスが溜《たま》って風船みたいだって聞いたことあるよ」
「大丈夫。二、三日海に沈んでたんなら大変だけどカレはちょっと沈んでただけだから。遺体はすごくきれいだったよ」
「男じゃきれいでもしょうがないよな」
「ハッハ。女だったらやっちまうのか? ヒョウ」
「やれるのかな」
「アソコは冷たくて気持ちいいかもな」
「フニクラ、お前やったことあんじゃねーの?」
「ハッハッハ。やめてくれよ」
そんな会話が荷台にも聞こえて来た。あたしは荷台の隅で丸くなっていた。目の前にリンがいてあたしのことを見ていた。無口なリンはあたしに何も話しかけてこなかった。だからあたしも黙っていた。
例のようにフニクラはトラックに残り、ヒョウとリンが掘りに出かけた。あたしはちょっと好奇心がわいて二人に同行した。ヒョウはフニクラが描いた地図にしたがって迷路のような道を選びながら進んだ。
ようやく辿《たど》りついた墓をふたりは急いで掘り始めた。あたしはとりあえず横で見ているしかなかった。
蓋《ふた》が見えてきた。
「死体が入ってるの?」
あたしは我ながら間抜けな質問をしてしまった。
「あたり前だ。生きてたらもっと怖いぜ」
そう言ってヒョウが笑いながら蓋をあけた。ものすごくいやなにおいがあたりにたちこめた。
ヒョウは蓋を持ったまま叫びそうになるのを何とかこらえた。きれいなインド人の男性の死体があるはずの棺《ひつぎ》の中には、白骨化寸前のミイラが横たわっていた。
「フニクラの野郎! これがインドの財宝かよ!」
リンがあたりの墓標を見ると、どうも隣がタラム・タッジの墓らしい。ヒョウが地図の見方を間違えたようだ。
「帰ろう」
リンが即断した。
「え? なんで? これ掘ろうぜ」
ヒョウがタラム・タッジの墓を指さした。
「今日は失敗したんだ。もう駄目だ。出直そう」
「バカ言うなよ。せっかく来たんだぜ。きれいなインド人の顔を拝んで行こうぜ」
「どうせ今日から永遠にここにいるんだ。あせるなよ」
そういいながらリンはミイラの墓を埋め始めた。仕方なくヒョウはリンの指示に従った。
墓を閉じ終えて帰ろうとするとフニクラが駆けて来た。
「誰か来たぞ!」
あわててあたしたちは木陰に身を隠した。
数人の人影がやって来てタラム・タッジの墓の前で立ち止まった。
「危ないとこだったぜ」
ヒョウはリンの判断に敬服してその肩をたたいた。当のリンはあくまでポーカーフェイスのままだった。
杖《つえ》をついた老人が回りの者に手をひかれながら墓標の前に立った。老人ははじめ何やら怒りにまかせて怒鳴っていたがそのうちひざまずいて手を合わせながら泣き出した。
「ボンボンのおやじだ。そういえば葬儀に来てなかった。縁を切ったメンツがあったんだろう」
フニクラが声を殺して解説してるうちに感極まって目頭を押えた。
「こんな夜中に人目を忍んで……!」
その先の言葉をつまらせて涙するフニクラをあたしたちはただ見守るほかなかった。
その翌日のことだ。フニクラは朝の墓地を掃除しながら、昨夜の墓荒しの痕《こん》跡《せき》をさりげなく消していた。ふとタラム・タッジの墓を見た。豪華な花輪の傍にちいさな花束が置いてあった。あの父親が置いて行ったものにちがいなかった。
フニクラは昨夜の出来事を思い返し、黙《もく》祷《とう》した。
そしてふと足もとのその花束をもう一度見てはっとした。思わず手に取って確かめてみた。
その花束に何とも精《せい》緻《ち》な細工が施されていて、ひとつひとつの花の真ん中に宝石がぎっしり詰まっていた。フニクラはあたりを気にしながら急いで宝石をむしり取ると次々にポケットに放り込んだ。
スナイパー
下水道の暗《くら》闇《やみ》の中を襤褸《ぼろ》を纏《まと》ったひとりの浮浪者が急ぎ足で進んでいた。
行く手にうっすらと赤い光の点が円を描いている。もうひとり仲間の浮浪者がいて煙草の火で合図を送っているのだ。
二人は合流するとさらに奥へ進んだ。通路はやがて途切れ、目の前に大きな地下運河が広がっていた。
「どっちだ?」
「左です。一八〇メートル先の左側にちいさな横穴があって、そこを三八メートル進んだ天井が外に抜けてます。各ポイントに印がありますから……」
浮浪者は上着の襤褸を脱ぐとヒューと息を吸って汚水の中に飛び込んだ。それを確認した仲間はトランシーバーで連絡を取った。
「ただいま十四通路から。そっちへ向かった」
汚水の中はほとんど視界ゼロだった。横穴のほんの一〇メートル手前でようやく目印の懐中電灯が見えた。横穴はせまかったが浮浪者は難なく通過した。三八メートル先の天井から懐中電灯を回す仲間の合図が見えた。
天井の穴の所で水は終わっていた。
待ち受けていた次の仲間たちの前に浮上して来た浮浪者は何とリンであった。
リンは水から出るとそのまま梯《はし》子《ご》を伝って上に昇った。つきあたりで今度は横に延びる通路に出くわした。下から仲間が声をかけた。
「右に進んでください。太い通路に出ます」
誘導に従ってリンは右に進む。急ににぎやかな音が聞こえ出す。
太い通路に出ると盗聴盗視班の機材で床は足の踏み場もなかった。オペレーターや諜《ちよう》報《ほう》部員たちでごったがえす通路をリンは脇《わき》目《め》もふらずに突き進んだ。諜報部員のひとりが後から追いかけて来てリンに何か書類を渡した。書類の一番表に中年の白人女性のポートレートが二枚貼《は》りつけてあった。一枚は素顔、もう一枚はサングラスをかけていた。リンはそれをはがして一《いち》瞥《べつ》するとポケットにしまった。男は懸命にリンにくっつきながら説明を始めた。
「本人は黒のワンピースに帽子をかぶっています。二両目の車両の三列目のシートに……」
リンがその説明を遮断して他の書類を男に突き返した。
「顔はわかったよ」
男は一瞬戸惑ったが、黙ってリンの後に従った。
二人はそこから非常階段で上に昇り、薄汚い廊下を進んだ。
「つきあたりの部屋がそうです」
リンはようやく最終地点にたどりついた。あれだけの行程にも拘《かかわ》らずリンの息はまったく乱れていなかった。脈拍でも測ったらきっと平常時とかわらないだろう。
ドアを開けると部屋の中はがらんとしていた。
正面の窓の前のアーミー姿の男がライフルのスコープの具合を調整していた。その男の顔は額から頬《ほお》にかけてひどい火傷の跡があった。リンはその顔に見覚えがあるらしく、微《かす》かに笑みを浮かべてその男の名を呼んだ。
「ノスリ」
男は舌をふるわせて見せた。
「よぉ、ナツロウ! 元気そうじゃねえか」
ノスリというその男はリンのことを『ナツロウ』と呼んだ。
「日本にいたのか」
「昨日まで中東でドンパチやってたんだけどな。あっちに比べりゃここは天国だぜ。それにしてもずいぶん汚ねえな。おめえ。あー、臭え。あんまりそばに寄るなよ」
「ハハッ」
ノスリはリンを敬遠しながらライフルを手渡した。
リンはライフルを握って感触を確かめてから窓の外を見た。
モノレールの線路がすぐそばを走っていた。
「標的のプロフィール見たかい?」
「いや」
「もと障害物競走の女性チャンピオンだってよ」
「え?」
「このレールの上を全速力で走るんだってよ」
「なんだよ、それ」
「ハッハッハ。なんだったら二発当ててみなよ」
部屋の中にわずかな震動を感じてリンはライフルを構えた。
地下からレシーバーで通信が入った。
「来ます」
震動が激しくなる。ライフルもその干渉を受けて小刻みに震えた。リンののぞく望遠スコープの中はそれではすまない。激しく揺れて照準を定めるどころではなかった。
「チッ。おまえかよ、こんな場所見つけてきたの」
「まさか。トビヤマのおやじだろ」
「……来てるのか?」
「まだ会ってないのか?」
次の瞬間、轟《ごう》音《おん》と共にモノレールが窓の前を通り過ぎた。リンの目が車窓の中にさっきの写真の女の顔を捕えた。ほとんど同時にその顔と胸が炸《さく》裂《れつ》した。モノレールが走り去り、リンが顔を上げた。
ノスリが口笛を鳴らした。
「やるじゃん」
地下のスタッフはモニターを凝視していたが誰もヒットの瞬間を確認できなかった。VTRをプレイバックしてストップモーションで確認してもわからなかった。
「うまくいったのかな?」
リンが降りて来た。それに続いてさっきリンに説明を試みた男がやって来て、号令を送った。
「撤収だ!」
スタッフは一斉に撤収を開始した。搬出作業に紛れてリンも現場から離れた。
ビルを出たリンは何食わぬ顔で繁華街を歩いた。
サイレンと共にパトカーがリンの横に止まった。中から数人の警官が飛び出して来てリンを追い抜き、その先のコンビニエンスストアに駆け込んで行った。
そしてしばらくすると数人の中国人を連行して出て来た。強盗でもやらかしたのだろう。イェンタウンの日常的な風景だ。店員に事情聴取している警官がリンに気づいて声をかけた。
「お前たちはこんな悪さしてくれんなよ。ヒョウにも言っとけよ。まあこんなご時世だけど法を破ったらおしまいだからな。法を破る奴《やつ》には法の裁きが下る。あたり前か」
話し出すと止まらない例のお巡りさんだった。
リンは苦笑いでごまかしながら通り過ぎた。
野次馬のバリケードから脱却したリンの横に今度はベンツがつけて来て後部座席の窓があいた。サングラスの男がリンを見ずに話しかけて来た。
「あいかわらずいい腕だ。いいものを見せてもらった」
「戻ってたんだ」
「昨日中東からもどった」
「ノスリに聞いたよ」
「そうか」
「…………」
リンは言葉につまった。まるでこわい父親にいたずらを見つかった少年のようだった。
「墓荒しが趣味らしいな、最近は」
「……暇つぶしさ」
「平和な街だからな、ここは」
「……まるで病院みたいだ」
「この国全体が病院みたいなもんだ。……いやな国だ」
それだけ言うとベンツは走り去った。
リンがヒョウのねぐらに戻ったのは夕方だった。ヒョウは大きな鍋《なべ》で何か作っていた。
「おお、リン、いいところに来た。ちょっと味見してくれよ」
「え?」
「ラーメンだよ、ラーメン」
ヒョウの手製のラーメンはうまかった。
「どうだ? なかなかだろ」
「ああ」
「これもメニューに足そうと思ってな。でもこれが結構大変なんだよ。材料仕入れたりしなきゃなんないだろ? それであいつら金なんか置いていきゃあしねえからすぐ赤字だ」
「こんなとこで商売やろうなんてどだい無理だろ」
リンが箸《はし》で広大な空き地を指さした。サッカーをする子供たちの姿が遠くに見えた。
「儲《もう》けるつもりはないんだよ。でもせめて、もうちょっといいとこに店出したいよな」
「ラーメン屋?」
「なんでもいいのさ。自分の店が欲しいんだ。俺の子供の頃からの夢、何だと思う?」
「さあ」
「当ててみなよ」
「……え? なんだよ」
「社長になることさ」
「なんの社長」
「だから何だっていいんだって。どうせ子供の夢なんだから」
「今だって立派な社長じゃん」
「なんの?」
「ここの」
「ここの? コラ。首しめるぞ」
「でもマジでうまいよ、これ」
「そうか?」
リンはうなずきながらラーメンをすすった。ヒョウは大声でサッカー少年たちに呼びかけた。
「おーい! ラーメン食うか?」
子供たちがふりかえった。奇妙な中国人が何か叫びながら手招きしている。子供たちは怖くなって逃げて行った。
「ちくしょう、あいつら!」
そしてまた自分のラーメンをすすり出したヒョウはふと顔を上げて鼻をクンクンさせた。
「……なんか、くせえな」
「え?」
「なんかドブくさいぜ」
「そうか?」
リンは自分の服のにおいをかいだ。それはもうすごいにおいだった。ヒョウも気になって自分のにおいを嗅《か》ぎはじめた。
「俺は違うぜ」
リンはしらを切ってごまかした。
いやなにおいの夜
アーロウの怒り方はほとんど狂気に近かった。しかし怒っていない時のアーロウは全く別人のように優しい男だった。
「俺が短気じゃなかったら女房も逃げたりはしなかっただろうな」
アーロウは椅《い》子《す》にまたがってひとりでキャッチボールをしながら言った。
夜グリコが営業中の間、あたしはアーロウの部屋にいることが多かった。アーロウは話し好きで、あたしはいつも聞き役だった。
アーロウの話はいつも同じだった。逃げられた女房の話と、ボクシングの話。これがアーロウの思い出のすべてだった。あたしは雑誌を読みながらアーロウの話を頭半分で聞いていた。
「ビリーはいい女だった。腰がぎゅっとしまっててな。あいつ俺にゾッコンでさ。俺のファンでさ。試合の後に花束くれたんだ。ファンですってさ。あれ? 俺がボクシングやってたって話したっけ?」
「ヘビー級だったんでしょ」
「あれ? いつ話したっけ?」
「…………」
「むかしはこれでもけっこう有名だったんだ。まあチャンプにはなれなかったけどな。そうそうビリーの話だ。ビリーのやつ花束をくれたんだ。ファンですって言ってさ、サインくれって言うんだけど、俺はまだグラブをしたまんまだったから書けなかった。バカなやつさ。そしたらあいつ俺の目を見てかわいそうって言いやがった。そんときの俺は右目のまぶたが切れてこんなふうに腫《は》れてたのさ」
アーロウはボールをまぶたの上につけて見せた。あたしはちらっとそれを見てあげて、また雑誌に目を落した。
「そしたらビリーのやつ、いきなりそのタンコブにキスしやがるんだぜ! まいったよ。それ以来ずっとあいつにまいりっぱなしさ。今でもずっとな」
アーロウはしょんぼりして立ち上がるとキッチンに向かった。ちょうどターンテーブルの上のソウルが終わって部屋が静かになった。
隣からグリコの仕事をする声が聞こえた。
あたしは急いでレコードの途中に針を落しなおした。
キッチンからアーロウが声をかけた。
「なんか飲むかい? ミルクは?」
「いらない。ミルク嫌いなの」
「あと水か酒しかねえぜ」
「なんにも」
「え?」
「いらない」
アーロウはジンのボトルとレモンとナイフ、それにグラスを持ってやって来た。アーロウの手の中でその全部がミニチュアみたいに見えた。
アーロウはレモンをナイフで切りながら話を続けた。
「あいつのあのキッスのお陰かな。その後いくら試合をしても何度パンチをくらっても右目は腫れないんだよ。ところが左のほうがその分ひきうけちまって。結局左目の網膜剥《はく》離《り》で引退さ。もうちょっとでチャンプとタイトルマッチができたんだけど、残念だったよ。マイク・タイソンがチャンプの頃だ。知ってるかい? マイク・タイソン」
「知らない」
「チンケなチャンプさ」
アーロウは切ったレモンをグラスに落してジンを注ぐと指でかきまぜた。
「それから日本のジムからトレーナーの話が来てビリーと二人で来たんだ。ところがジムに行ってびっくりさ。なにしろ選手はみんなチビばっかりなんだ。俺たちみたいにパンチ力がねえ。そんなやつらの試合って見たことあるかい? 十二ラウンド全部使ってチンタラ打ちあってスタミナの残ってるほうが判定勝ちってゲームさ。こんなのガキだって退屈しちまうよ。ところがそれでも日本じゃけっこう客が入るんだよな。わからねえよ。日本人は。盆栽って知ってるか? ああいうのが好きなんだよ、日本人は。まあトレーナーになったからには俺は俺のボクシングを教えるまでさ。ところが日本人にはこれがわかってもらえねえ。ボクシングなんて結局は殴り合いじゃねえか。殴って早く相手をリングにぶっ倒しゃいいだけじゃねえか。それが通じねーのさ。もっと頭を使えって言うんだよ。ゲームを組み立てろとか何とか……。特にハマザキってやつが気に食わなかった。もとフライ級のチャンプさ。俺は頭にきてそいつをぶん殴っちまった。そしたらそいつ舌出して気絶しやがってさ。フライ級って言ったって仮にも世界チャンプだぜ。なさけねえよ。それで俺はクビさ。フン! 畜生!」
そしてアーロウはお手製のカクテルを一気に飲みほした。それでも怒りはおさまりそうになかった。こうなったら見境いなく怒り出すのをあたしは知っていた。
「……ねえ、あれやってあげようか」
あたしはアーロウの気をそらす必要があった。
「え?」
「あれよ。マジック」
「おお! そうだ。やってくれ」
アーロウはあたしのマジックが好きだった。それをやると機嫌がよくなった。
あたしは雑誌をたたんでアーロウの向かい側に座った。
アーロウはもう上機嫌になっていた。
「レディース・アンド・ジェントルマン。お待ちかね、本日のメイン・イベント。ミス・アゲハのマジックショー。種もしかけもありません。それでは赤コーナー、世界ミスインターナショナルチャンピオン、七八ポンド、おチビのアゲハ!」
アーロウはわけのわからない口上を述べて拍手した。
あたしは右手でコインを持って、左の肘《ひじ》をテーブルの上に置いた。アーロウにもう何度も見せてるつまらないマジックだった。
「じゃあ、このコインを腕にこすりつけて消すわね」
アーロウの視線はすでにあたしの腕に釘《くぎ》付《づ》けになっている。あたしはコインを腕にこすりつける。コインがすべってテーブルに落ちた。
「ごめん。失敗。もう一回ね」
もう一度腕にこすりつける。またすべった。あたしはコインを拾って、ついでに肘の角度を変えてみる。アーロウはあたしの失敗に目もくれずに腕に注目し続けてる。あたしはもう一度こすりつける。こすりかたはだんだん激しくなり、そしてだんだんゆっくりになる。
「この辺が問題なんだろ!」
アーロウが興奮して顔をさらに近づける。鼻息が腕をくすぐった。
最後は腕全体を大きくなでるようにしてゆっくり手を離す。
「あれ?」
コインはもうない。
「すげえよ! すげえ! 一体どういう仕掛けなんだい?」
「仕掛けなんかないわよ」
そう言いながらあたしは首を横に傾けると耳の裏に隠しておいたコインがチャリンと音をたててテーブルの上に落ちる。あたしは驚いたふりをして天井を見上げる。アーロウもつられて天井を見上げた。
「ねえ、見た? いま天井から落ちて来たわよ!」
「クソッ、また見れなかったよ! クッキー食うかい?」
アーロウはクッキーを取りにキッチンに行った。
「テレビに出ろよ、テレビ。みんなびっくりするぜ!」
そしてあたしはまたソファに戻って雑誌を広げた。
その夜はいやなにおいだった。
夜はいつもいやなにおいだったけど、その日は特にひどかった。
グリコは客とシャワーを浴びていた。初めての客だった。
彼の下腹部に大きな手術の傷跡が生々しく残っているのにグリコは気づいた。
「ねえ、どうしたの? この傷」
グリコが珍しがって男の傷口をさわった。
「手術したの?」
「ああ、あんまりさわるなよ」
グリコがふざけて指で押すと、男はひどく痛がった。
「あいたたた! バカなにすんだよ」
「あ、ゴメン」
「まだちゃんと塞《ふさ》がってねえんだよ」
「なんか固かったよ。中になんかあるみたい」
「そうなんだよ」
そう言って男はグリコの耳に顔を近づけてひそひそ声でこう言った。
「ちょっとヤバいもんが入ってんだよ。見つかるとまずいからおなかの中に隠したんだよ」
「え? なにそれ。嘘《うそ》でしょ」
「いや、ホントなんだよ」
なにやら芝居がかった男の話し方がいかにも嘘っぽかったがグリコもうまく相手に合わせた。
「なに? なにがはいってんの? 麻薬?」
「ははっ。まあそんなもんかな」
「拳《けん》銃《じゆう》?」
「ははは、そんな物騒なもの入れといてまちがって弾が出ちまったらどうすんだよ」
「トイレでリキんだとたんにバンってなったらおかしいね。みんなあの音だと思って、もう死んでるのに誰も気づかないの。それであいつトイレ長いなって言われて!」
「そんな格好悪い死に方したくねえよ」
あたしが部屋に戻ると、バスルームで笑いころげるグリコと男の声が反響していた。今日は残業らしい。こういう時あたしは耳栓をしてクロゼットに入って寝るようになっていた。ちょっと窮屈だったが寝心地は悪くなかった。
鼻にからみついたいやなにおいが今夜は気になって仕方がなかった。
クロゼットのドアをしめてしばらくするとバスルームから先に出てきた男が何か言っている。
「おい、タオルは?」
「そこにクロゼットがあるでしょ」
男はクロゼットをあけてギョッとした。あたしも不意をつかれてびっくりした。
「ハーイ」
とりあえず愛想笑いをして見せた。
「なにやってんだお前。誰だ?」
男は足もとがもつれていた。ひどく酔っているようだ。
あたしはどうしていいかわからずにとりあえず外に出た。
「あいつの妹か?」
あたしは首をかしげて見せた。
男は不意にあたしの肩に手をかけた。あたしはゾッとしてその手をふりほどこうとしたが、男の力は予想以上に強かった。男はそのままあたしをベッドに押し倒した。
その時グリコがのんきに鼻唄を歌いながらバスルームから出てきた。グリコの角度からは男の背中しか見えなかった。
「お客さん、何やってるの?」
そう言ったグリコは半分笑っていた。男がベッドにうつぶせになってひとりで泳ぎの練習でもしているみたいに見えたからだ。
「ちょっとここプールじゃないよ。ベッドこわれるよ」
男がそのままの体勢で言った。
「おい、おまえも手伝え。足押えてろ!」
グリコが男の両足をつかんだ。
「バカ、俺じゃない」
「?」
グリコは何のことだかわからないまま、はしゃいで男の背中に飛びついた。そして男の腋《わき》の下をくすぐった。
「バカやめろ!」
「キャハハハハハ!」
「やめろってば!」
「何ひとりでやってるの? ひとりでさっさとイッちゃイヤよ」
そう言ってグリコは後ろから男の頬《ほお》にキスをした。その時ようやくあたしの顔が目に入った。
「ちょっ、ちょっと……」
一瞬グリコは言葉が出なかった。
「暴れるんだよこいつ。おまえの妹だろ」
男には全く罪の意識がなかった。
「ちょっと、この子は違うのよ!」
「金なら払うよ」
「ダメよ!」
「金払うっていってんだろ!」
同時にグリコは男に突き飛ばされてベッドから転げ落ちた。男は再びあたしに襲いかかった。
グリコはあわてて立ち上がって男に飛びついた。
「ちょっとやめてよ! 何すんのよ! ケイサツ呼ぶわよ!」
「バカ。警察なんか呼んだらつかまるのどっちだよ」
男はグリコの腕をつかんで起き上がった。下半身はしっかりあたしを押え込んだままだ。それでも両手が自由になったあたしはあたりを見回した。
「俺は客だぞ! 金払わねーぞ!」
男はそう言ってグリコの顔を二、三回ひっぱたいた。
あたしは枕元にあった時計をつかんで男の頭めがけて投げつけた。男がひるんだ隙《すき》に逃げ出そうとしたが駄目だった。男は頭を押えながらもあたしにからませた両足に猛烈な力を込めた。あんまり強くしめるもんだから息ができなくなった。
「おまえらなんか勘違いしてないか?」
男は再びグリコを殴った。
「遊んでもらってなんぼだろうが。え? ちゃんと遊ばせろよ!」
次の一撃でグリコは壁に叩《たた》きつけられた。
男は股《また》の下でもがいているあたしの両手を押えて舌なめずりした。
「初めてか。お前、いくつだ?」
壁のほうを見ると、グリコが立ち上がるところだった。立ち上がったグリコはあたしの目線に気づいた。
「アーロウ!」
あたしはとっさに叫んだ。
「グリコ! アーロウを!」
グリコは急いで部屋を飛び出し、アーロウの部屋のドアをたたいた。
「なんだい」
ドアをあけたアーロウにグリコがすがりついた。
「アゲハが! アゲハが!」
アーロウはグリコの取り乱しぶりを見て険しい表情になった。急いで隣室に駆け込んだ。
アーロウはそこにあたしの上に跨《また》がる中年男を見た。
「ファック!」
そして次の瞬間、アーロウは怒りのボルテージを一気に最大にしてしまった。
「なにやってんだ、この変態野郎!」
アーロウは男の襟首をつかもうとしたが襟がなかったのでそのまま首をダイレクトにわしづかみにして持ちあげた。
「ウグッ!」
この時点で首の骨が折れていたのかも知れない。アーロウは構わず男の体を放り投げ空中に浮いたところを右のストレートで決めた。
「この、ブタ野郎!」
数年ぶりに封印の解かれた右ストレートはすごかった。ヒットした瞬間に男は死んでいたかも知れない。そのまま吹っ飛んだ男は窓を突き破って外に飛び出した。ダメ押しとも言える三階からの落下がフィナーレを飾った。
「シット!」
アーロウはあわてて窓の外をのぞきこんだ。
地面の上にあおむけに倒れた全裸の男がぼんやりアーロウを見ていた。
「ヘイ、大丈夫か?」
アーロウは声をひそめて呼びかけた。
男はピクリとも動かない。首は不自然な曲がりかたをしてるし、顔もなにかあんまりなくらい不自然にへこんでしまっていて、どう見ても生きているようには見えなかった。
グリコはあたしの肩を抱いてくれた。あたしは恐怖とショックでガタガタ震えていた。
「大変なことをしちまったぜ」
アーロウは死体を見に部屋から飛び出して行った。
ウッディー・ウエストウッドふたたび
グリコは深夜の空き地を全力で縦断した。
トラックの中で休んでたリンはその足音だけで目を覚ました。のんきに鼾《いびき》をかいてたヒョウもグリコの突然の来訪でたたき起こされた。
「ヒョウ!」
驚いて目を覚ましたヒョウは、そこにただならぬ様子のグリコを見た。
「どうしたんだ?」
「……ア……!」
「?」
「……ア……ハァ、ハァ……!」
「なんだよ。走って来たのか?」
グリコは動《どう》顛《てん》して言葉が出てこない。
「落ち着けよ」
「……アーロウが……アーロウが……」
「アーロウがどうしたんだよ」
「殺しちゃったの!」
「え?」
「殺しちゃったのよ!」
「誰を?」
「殺しちゃったのよォ!」
仕事から戻って来たフニクラは部屋の惨状を見て呆《ぼう》然《ぜん》とした。アーロウはあたしを膝《ひざ》の上にのせてベッドに座っていた。
「何があったんだ? グリコは?」
フニクラはアーロウに問い詰めたが返事はなかった。脱いだシャツを持って何気なく浴室に入って、フニクラは絶叫した。バスタブの中に男の死体があった。アーロウがまた部屋まで担ぎ上げたのだ。
「何だ! あれは?」
「殺すつもりはなかったんだよ!」
逆上したアーロウのでかい声でフニクラはかえって少し落ち着いた。
「ちょっと状況を説明してくれよ、アーロウ」
「……殺すつもりはなかったんだよ」
アーロウは泣いていた。
「あいつが、このおチビちゃんにあんなことするから……」
アーロウは大きな手であたしの頭をなでた。あたしの方はもうすっかり大丈夫なのに。
「な、アゲハ。何があった?」
あたしはフニクラが何を言っているのかわからなかった。
「おい、アゲハ! 何があったんだよ!」
あたしはきょとんとしてフニクラを見上げた。
グリコがヒョウとリンを連れて戻って来た。そしてそのまま浴室に入って行った。
「なあ、グリコ! 何があったんだ! 説明してくれよ!」
「え? そんなの後よ!」
ヒョウとリンはものすごい手際のよさだった。あっという間に死体を袋詰めにして出てきた。
「どうするんだ?」
フニクラが心配そうに聞いた。
「運ぶんだ。フニクラ、手伝え」
「運ぶって……どこに?」
「お前んとこの墓場さ」
「……え?」
「埋めるのにそれ以上都合のいい場所があるかよ」
それからヒョウたちは死体を車に運び、荷台の中のソファに横たえた。
「あたしもうあのソファでするのいやよ」
グリコがヒョウに言った。
「何を?」
「リハビリ」
ヒョウはしかめっ面で、そんな話今するなよ、という顔をした。
「……とりかえとくよ」
グリコはあたしと一緒に助手席に乗り込んだ。リンが運転席に座ってエンジンをかけた。
「俺はどうすりゃいいんだ?」
うろたえながらアーロウがヒョウの袖をひっぱった。
「あんたは隣の住人だ。今夜は部屋で寝てたんだ。いいな。何も見てない。何も聞いてない。そうだろ」
「しかし」
「あいつ誰だい?……誰も知らないんだ。何もなかったんだ。わかるな」
「……わかったよ」
ヒョウはアーロウの肩をたたいて荷台に飛び乗った。
車が発車した。アーロウは不安な面持ちで見送った。
墓地についてからのリンとヒョウのコンビはまたしても迅速だった。
死体はウッディー・ウエストウッドがひきうけることになった。
「また会えたな」
棺《かん》桶《おけ》の蓋《ふた》を開いたヒョウがウッディーにあいさつした。ひさしぶりのウッディーはずいぶんひどい様子になっていたがライフルを構えるポーズは相変わらずだった。のぞきこんだグリコは思わず吐きそうになった。あたりに異様な臭気が漂っていた。
「気にくわねえ奴《やつ》だが面倒見てやってくれよ」
そう言ってヒョウはフニクラと一緒に男の死体を棺《ひつぎ》に落した。裸の男が二人、並んで横たわっている姿は気持ちのいいものじゃなかった。
土まみれの手を何気なくはたいたフニクラが指に何か付着しているのに気づいた。見ると紐《ひも》のようなものが絡まっている。
「なんだ?」
フニクラはそれを指からほどいて投げ捨てた。しかし今度は投げ捨てた指にまた絡みついた。フニクラはいまいましそうに手を振り切った。同時にカラカラと変な音がした。フニクラはあらためて紐をひっぱってみた。またしてもカラカラ音がして、紐はひっぱるだけ伸びた。
みんなが気づいた時、フニクラはカラカラやりながら際限なく伸びるその紐と格闘中だった。
「なにやってんだよ」
「ヒョウ、なんだいこれ? どこまでひっぱっても終わらないんだ」
ヒョウは紐の先端を追った。紐は死体の腹から伸びていた。驚いてヒョウがふりかえると、フニクラもひきつりながら、
「そうなんだよ。何だい? これ」
「寄生虫か?」
「なんだって?」
フニクラは恐怖におののいて紐を手からふりほどいた。
「なに? どうしたの?」
グリコがのぞきこんだ。
「へんな紐が出てるんだよ」
「え? なにそれ」
「あいつの腹から」
「え?」
リンが勇敢にも死体に接近して紐の様子を確かめた。確かにそれは男の腹部の傷口から始まっていた。グリコが思い出した。
「あ、そういえばこいつおなかに傷があったわ」
「それは俺も見たよ」と、ヒョウが言った。
「なんかヤバいもんを隠してるとか言ってたけど」
「ヤバいもん?」
「なにかわかんないけど」
「腹を切って何か隠すのはよくある手だ」
と、リンが言った。
「……冗談だと思ったのに」
グリコは顔をしかめた。ところがその後もっとしかめなければいけないことが待っていた。リンがナイフで男の腹を切り裂いたのである。全員の口から「ウッ」という声が洩《も》れた。リンはそのうえ切った腹の中に自分の腕を突っ込んだ。
さらにテンションの高い「ウッ」が口々に洩れた。
「何かある。腹膜が破れて腸の間にひっかかってるな」
「バカ! 解説すんな!」
ヒョウが怒鳴った。
リンはもう片方の手もつっこんで強引に腸もろとも引き摺《ず》り出した。
「うわぁ!」
もう見てられる状況ではなかった。フニクラは耐えきれず嘔《おう》吐《と》した。リンがそれを見て顔をしかめて言った。
「きたねえな。あっちで吐けよ」
もう誰も反論する元気はなかった。
「あった」
リンはまるで子供が土の中からカブトムシでも見つけたような顔をした。しかしリンが見つけたのはカブトムシでもモグラでもないはずだった。リンはそれをヒョウに投げた。
それはビニールの袋にくるまれたカセットテープだった。カセットは男が三階から落ちた衝撃のせいでバラバラに砕けていた。ビニールも破れて血が中に侵入していた。
「カセット? なんのカセットだろう」
「さあ。ちょっと調べてみるよ」
リンが墓から上がってきてカセットを回収した。
墓地を後にしたあたしたちは空き地に向かった。
ヒョウとグリコとあたしは引っ越し荷物で一杯の荷台に乗っていた。
みんな妙に無口になっていた。
運転席でフニクラがハンドルを握りながら隣のリンに聞いた。
「ほんとにこれで見つかんないのかな」
「大丈夫さ。日本の警察は世界一タコだ」
リンはひとり飄《ひょう》々《ひょう》としていた。
「誰に習ったんだよそんなこと」
そんなやりとりがパイプから荷台にも聞こえてきた。
「グリコ、歌え」
ヒョウが言った。
「え?」
「歌え」
「何を?」
「なんでもいいから」
「なんで?」
「いいから!」
グリコは何か歌おうとしたが、何も浮かんでこなかった。
「歌えるわけないじゃない! こんな時に!」
グリコは子供みたいにべそをかいた。ヒョウのひどい声が聞こえてきた。一瞬何の歌だかわからなかったが『マイウェイ』だった。運転席のフニクラが一緒に歌い出した。グリコもあとを追って歌った。
最初元気に声をはりあげていたヒョウも二人の暗い声につられてトーンダウンした。
あたしはもうさっきからずっと耳の調子がおかしかった。よく聞こえないのだ。その理由を今頃あたしは思い出した。
「忘れてたわ」
あたしは耳につめていた栓をはずした。途端にヒョウとフニクラのひどい声が耳を突き破って頭の中に響き渡った。あたしはまた耳栓を元の場所につけ直した。
まるでお通夜のような『マイウェイ』をBGMにしてトラックは夜の闇を駆け抜けた。
マイ・シェリー・アモール
代議士金城にとっては迷惑な話だった。
警察は須藤寛治失《しつ》踪《そう》事件に関する事情聴取を金城に要請した。金城はそれに応じて警察に出頭したものの終始機嫌が悪かった。
「金城さん。そう感情的にならないでくださいよ。これは単なる事情聴取なんですから。こちらの質問に答えていただけるだけで結構ですから。すぐ済みますから」
担当刑事の亀和田はそうしていくつかの質問を金城に投げかけた。
「順番にいきます。まず須藤寛治氏はあなたの元秘書でしたよね」
「そうだ」
「辞められたのはいつですか?」
「そんなの俺が覚えてるか」
「こちらの調べでは今年の三月二十一日ということですが……」
「わかってるならいいじゃないか」
「それでよろしいですか?」
「覚えてないよ。でも、まあ、そんな頃だ」
「辞めた理由はなんだったんですか?」
「あいつが勝手に辞めると言い出したんだ。去るものは追わん」
「それ以降に須藤氏とお会いになったことは?」
「ない」
「それでは最近彼が何をしていたかは御存知でしたか?」
「知らん」
「何も?」
「噂《うわさ》は下の者から少しは聞いたことがあるが、そんなのは噂話だ」
「それはどういう?」
「噂話も調書に書くのか?」
「一応は……」
「記録に残るのか?」
「まあ、しかしそういうことはあまりお気になさらずに……」
「書くんだな」
「は?」
「ちゃんと書けよ!」
急に金城は嬉《うれ》しそうな顔をした。
「あいつは辞めてからずっとウチにこもってセンズリかいてるって話だったよ。さあ、調書に書け! ホラ、書け!」
亀和田は絶句した。記録係もさすがに手を止めた。
「どうした? なんで書かない? え? お前らこっちの供述を選ぶのか? ホラ、書けよ」
記録係が亀和田を見た。亀和田は書けと合図した。金城は聞こえよがしにくり返した。
「須藤寛治は、金城輝の事務所を退職し、自宅でセンズリ……公文書には何て書くんだ? オナニーか? マスターベーションか?」
「金城さん……」
「ああそうだ。自慰行為はどうだ? どっちの手かも書くのか? 右手か、あいつは?」
「金城さん……」
「あいつは女好きだったからな。そうじゃなかったらきっとどっかの女と今もやってる最中なんじゃないのか?」
亀和田は大きくため息をついた。
「金城さん、もうちょっと協力していただけませんか」
「してるじゃないか」
「一応お知り合いが行方不明なんですから」
「女が膣《ちつ》痙《けい》攣《れん》でも起こして抜けなくなってるんじゃないのか?」
結局最後までその調子だった。
金城を送り出してから亀和田は怒りに駆られて椅《い》子《す》を蹴《け》飛《と》ばした。
「あの野郎! 警察を小馬鹿にしやがって! いつかしょっぴいてやる!」
部下の小山が亀和田をなだめた。
「まあ亀和田さんまで興奮しないでくださいよ。あれがあいつのやり方なんですから」
「わかってるさ!」
「それにしても金城はクロですかねえ?」
「あたり前だ! あいつ以外に誰がいる? 須藤は辞めさせられたはらいせに金城の収賄に関する資料をなにか持ち逃げしたんだ。そしてそれに気づいた金城は資料を公開されるのを恐れて須藤を消した。見ろ」
亀和田は書類を机の上に広げた。
「須藤はここ数日間ダウンタウン周辺をうろついていて自宅に戻ってない。どういうことだ?」
「何かから逃げていたんでしょう」
「もっとはっきり言え」
「金城の追撃から逃げていた」
「そうさ。ダウンタウンに逃げ込めば見つかりにくいのは誰でも思いつく。実際見つかりにくいのも事実だ。シンプルだが頭のいいやり方だ。しかし結局捕まった。そしてどうなった?」 マイ・シェリー・アモール
「たぶん……」
「はっきり言え!」
「殺された……」
「そうだよ。殺されたんだよ! なにが膣痙攣だ! あの野郎! 自分が殺しといて何言いやがる!」
警察は須藤の失踪を完全に金城のせいにしていた。金城にしてみればとんだ濡れ衣である。なにしろ真犯人はアーロウなのだから。
あの夜以来、アーロウは部屋に閉じこもってばかりいた。隣の部屋からは一日中キャッチボールの音が聞こえていた。
「あの音が止まったら教えてね。アーロウが自殺してるかも知れないから」
グリコはあたしに冗談まがいにそう言った。
人殺しのあった部屋でする食事はひどくまずかった。グリコも自分の仕事に身が入らないみたいで早じまいの日が多くなった。
フニクラは相変わらず墓地の守衛を続けてはいたが、本当のところやめたくてしかたがなかった。死体を埋めたウッディーの墓の悪夢が夜な夜な彼を苦しめ、そして昼間はその悪夢の元凶と顔をつきあわせて働くのだ。神経の細いフニクラには耐えられない労役だった。
グリコは毎日新聞を買ってきて読みあさっていた。ラジオが一日中つきっぱなしになったのもあの夜を境にしてからだった。
『金城の元秘書、謎《なぞ》の失跡!』
そんな見出しが紙面をにぎわせていた。
金城には政治献金がらみの疑惑が噂されていた矢先だけに須藤失跡は彼の謀略ではないかと書く雑誌もあった。そう思われて死ねれば須藤も本望だろう。売春宿の窓から落ちて死んだなんて情けなくて誰にも言えない話だ。
ヒョウとリンは須藤の腹から出てきたテープを復元して聞いてみた。ただのミュージックテープだった。
「なんでこんなもの腹にわざわざ埋め込んだんだろう?」
ヒョウの疑問も当然だった。ところがリンが妙なことを言った。
「何かの暗号かも知れない」
「え?」
翌日ヒョウがちょっと留守にしているあいだにリンは妙な機材をいくつもトラックの中に運び込んだ。戻ってきたヒョウはそれを見て何事かと驚いた。
リンはプリンターからプリントアウトされた長いデータを見ていた。
「なんだい、それ」
「あのテープを解読したんだ」
「……どうやって」
リンは昨日のカセットの音を流しながら、持参の機械を操作した。音色が自在に変化し、整理されていくうちに妙な信号音だけがピックアップされた。
「これをプリントアウトしたんだ。簡単な仕掛けだ」
「……俺には何が簡単なのかさっぱりわかんねえよ。で、なにが出てきたんだ?」
「帳簿のコピーだ」
そう言ってリンは須藤の記事の出ている新聞をヒョウに渡した。
「ああ、これは読んだよ」
「解けるかい?」
「え?」
ヒョウは考えてみた。
「……つまりこれは金城の事務所の帳簿なわけか」
「そう。ウラ帳簿だ」
「で? なんであいつの腹にはいってたんだ?」
リンは答えを教えてくれなかった。
犯罪者の心理というのは恐ろしいものだ。
日々のプレッシャーはどうにもならなかった。その苦しみを紛らわせるかのようにみんな何かとヒョウのところに集まることが多くなった。
この空き地に縁のなかったアーロウまでが顔を見せるようになっていた。共犯者同士の奇妙な連帯感がいつの間にかできあがっていた。
リンは暇つぶしにあたしに格闘技を教えてくれた。あたしもそれを暇つぶしにした。そのうち暇なヒョウも加わった。
三人で空手ごっこをやって遊んでいるとアーロウがやって来た。アーロウは格闘技の練習をしているあたしたちを見てあきれていたが、そのうち調子に乗ってあたしにボクシングを教え始めた。あたしはリンと戦ってみてくれと言ったがアーロウは乗らなかった。
「もう人に向けてパンチはふるえないよ」
そう言ってアーロウは一気に暗くなった。そしてあたしにボクシングを教えたことまで後悔した。あたしはそんなアーロウにお茶を飲ませて慰めた。
ある日全員がそろっている時にあのおしゃべりな警官がやって来たことがある。アーロウのひきつった顔が見物だった。警官は相変わらずのつまらない無駄話をして帰って行った。
「何だって? なに話してたんだ?」
アーロウが心配そうにグリコに聞いた。
「くだらない話よ。あれを訳せっていうの?」
夕方になるとみんなで釣りに出かけた。
怯《おび》える心を癒《いや》すかのような、海の風とゆるやかな時間だった。
そうして半年が過ぎた。
リンはある日ぶらりと出かけたまま、全然帰って来なかった。
「あいつはいつもそうさ。珍しいことじゃない」
とヒョウは言っていたがリンの正体不明なところを考えれば確かに不思議な気はしなかった。
アーロウはアパートを出て行った。しばらくビリーのところに世話になると言っていた。
「そろそろあたしたちも潮時かな。この部屋」
あたしもこの陰《いん》鬱《うつ》な部屋に居続けるのは嫌だった。そう思っていた矢先に幸運が訪れた。その幸運を運んで来たのは意外にもフニクラだった。
ある日の夜遅く、フニクラがヒョウを呼び出して、ひとつの宝石を見せた。
「どうしたんだよ、これ」
「インド人の富豪の墓を覚えているか? あの勘当されたせがれの……」
「え? ああ、あのおやじ様がやって来た」
「そうそう。あそこで拾ったんだよ」
「拾った? 墓開けたのか?」
「いやいや。あの後、翌朝もう一度見たら花束が置いてあったんだ。あの父親が置いて行ったんだろう。ところがよく見たら花にこんな宝石がくっついてるじゃない」
「それがこれ?」
ヒョウはその一粒をまじまじと眺めた。フニクラが首をふった。
「いや……これ」
フニクラは手のひらぐらいの茶《ちや》巾《きん》袋をポケットから出してテーブルの上でさかさにした。
同じような宝石がばらばら出て来た。
ヒョウは息をのんだ。
「ホンモノか?」
「さあ。花束の飾りだろ。イミテーションかも知れないけど。置いてっちゃうぐらいだから」
「でもインドの大富豪だもんな」
「そうなんだよ!」
フニクラは声を大にしてうなずいた。
「モノホンぐらい置いていきそうな気がするだろ?」
「だよな……」
ヒョウは手のひらにのせて灯りにすかして見たりしていたが、ふとフニクラを見て、
「なんで今まで黙ってたのよ」
「…………」
「…………」
「……忘れてたんだよ」
ヒョウはフニクラの頭をひっぱたいた。
さっそくふたりは翌朝宝石を鑑定してもらうことにした。鑑定人に怪しまれるのを恐れてグリコを連れていくことにした。
三人は久しぶりに街の空気に触れた。
宝石のいきさつを聞いていなかったグリコは単純にはしゃいでいた。
宝石店の前でヒョウとフニクラが立ち止まった。ふたりで何かひそひそ話しているのを見て、
「なになに?」
とグリコは首をつっこんだ。ふたりは急に話をやめて顔をそらした。なにかうさん臭そうなその態度にグリコはピンと来た。
「ここやるの?」
「え? やるって何を?」
ヒョウが聞き返した。
「宝石強盗」
「バカ!」
ヒョウはグリコの頭をひっぱたいた。
「お前、ここでこれ鑑定してもらってみてよ」
そう言ってヒョウはフニクラのポケットに手をつっこんで宝石を一粒だけつまみあげた。そしてグリコの手のひらにのせた。グリコの目がまるくなった。
「なに。どうしたのこれ!」
「いいから、ちょっと見てもらってくれよ」
不承不承、グリコは店に入って行った。
しばらくしてグリコは宝石を現金に換えて出てきた。その目はどこか虚《うつ》ろだった。
「おい! いくらだった?」
待ち切れずにヒョウはグリコの肩をゆすった。そしてグリコが札束をにぎりしめているのに気づいて奪い取った。
「いくら?」
フニクラも息せき切ってのぞきこんだ。
帰りの車の中でヒョウは換金した札をかぞえていた。あちこち巡って残りの宝石も全部現金に換えたのである。
「九十六、九十七、九十八、九十九、百」
百枚ある。ヒョウの声は震えていた。ヒョウはゆっくりその束を輪ゴムでしばった。そして膝《ひざ》の上のバッグに入れた。
それから今度はグリコがそのバッグに手をつっこんだ。百枚の束をつかんでこう言った。
「いち……」
そして、
「に……」
カウントにあわせて同じ束がもうひとつ出て来た。これで二百万である。グリコのカウントはゆっくり続いた。それにあわせて百万円の束が次々に出てきた。
「さん、し、ご、ろく……」
ヒョウもつられて一緒にカウントした。
運転しながらフニクラも声をあわせた。三人のカウントは次第に大きくなり、最後には絶叫状態になった。
「七十八!」
それが最後だった。
三人は発狂したように笑いころげた。
「ハッハッハッハッハッハッハッハッ!」
「ハッハッハッハッハッハッハッハッ!」
「ハッハッハッハッハッハッハッハッ!」
「ハッハッハッハッハッハッハッハッ!」
「ハッハッハッハッハッハッハッハッ!」
「ハッハッハッハッハッハッハッハッ! 七十八ってことは?」と、グリコ。
「ハッハッ、七千八百万ってことだろ?」と、フニクラ。
「七千八百万? おい、フニクラ、わかんねえよ。全然ピンと来ねえよ!」と、ヒョウ。
「それって家が何軒建つの?」
「家? 家は……このへんだったら……一軒ぐらいは建つのかな?」
「……そんなもんなの?」
「そんなもんって、おまえ、大変なもんだぜ!」と、ヒョウ。
「そうだよな。ハッハッハッハッハ!」と、フニクラ。
「ハッハッハッハッハッハッ、ッッツ、ゲホッゲホッゲホッ!」と、グリコ。
その大金があたしたちの生活を大きく変えたのは言うまでもない。
店を一軒手に入れた。
マリリン・ママに口をきいてもらって、中国人ブローカーの陳が一役買ってくれた。麻薬や銃の密売をやっている危険人物だったが、そうとは思えないくらい世話好きで人のいい男だった。
陳の見つけてきたテナントは全員が気に入った。
さっそく陳はややこしい契約の話を始めた。
「……それから契約するのにダミーの日本人オーナーが必要ね。そいつも誰かいいの探しとくよ。月に三十万払ってくれればいいよ」
「そりゃ高すぎる」
「仕方ないよ。オーナー立てないと店開けないよ」
「……わかったよ」
陳はニッコリ笑った。心配ないよ、任せなさい、というサインだった。話がひとつ進むごとに陳はこの顔をした。
「あとお店の子だけど……」
陳は袋いっぱいのフィリピーナの写真をフニクラに渡した。
「いい子ならたくさんいるよ。みんな仕事なくてこまってるから」
フニクラとグリコが考えていたのもマリリン・ママのようなスナック仕立ての売春の店だった。ところがヒョウには別のアイディアがあった。
ヒョウは店の一角に箱を置いてその上に登り、店を一望した。
「グリコ、ちょっとここに立ってみろ」
「え?」
グリコはよくわからないままその箱の上に立った。ヒョウはそれを一番遠くから眺めた。
「いいよ。絵になるよ」
「またなにかたくらんでるんでしょ」
ヒョウはひとりで満足そうに頷《うなず》いていた。
「なによ? ストリップでもやる気?」
「ライヴハウスだ」
「え?」
全員の間の抜けた「え?」が妙な具合に重なった。お互い顔を見あわせた。
「ライヴハウスをやろう」
「…………」
「グリコが歌うんだ」
「……嫌よ」
グリコは本当にいやそうな顔をした。
フニクラとグリコの猛反対にもかかわらず、ヒョウはライヴハウス建設を推進した。遠巻きに話を聞いてた陳が賛成派に回った。
「お金があるならできるだけカタギの仕事に見せかけたほうがいいよ。警察の目をごまかすんだったらなおさらね」
それが陳の意見だった。
「見せかけるんじゃねえよ。マジでやるんだよ」
「ハッハ。せっかくの資産をそれで使い果たすつもりかい?」
グリコたちは陳の意見に同意した。しかし結局はそれが折衷案となった。ヒョウはライヴハウスを作り、フニクラはその裏で売春斡《あつ》旋《せん》業を営む。グリコはマリリン・ママのように店に出たり女の子たちの面倒を見て気ままに暮らせる。
「あんな大金手に入れたのにおまえらには夢がないのか?」
ヒョウはふたりに毒づいた。
「あたしは自分のお店を持つのが夢だったんだもん」
「俺は……」
と、フニクラ。
「俺はグリコが体を売らないですむような暮らしができれば……それが夢だよ」
フニクラの思いがけない言葉にグリコはたじろいだ。人前でそんな恥ずかしいこと言うなという顔だった。
「ちいせえよ。ああちいせえ」
ヒョウはため息をついた。
「夢ってのはな、でっかいから夢なんだよ!」
なにはともあれ方針は決まった。
それからヒョウは日本語の達者なグリコを連れて地元のライヴハウスを転々としてバックバンドを探した。東洋人のいかがわしい店で演奏する日本人なんかいるのかと思ったら予想外に多かった。音楽に関しては国境がないのだろうか?
希望者があまりにも多くて、オーディションをすることになった。
ひとり目の日本人は髪の長いギタリストだった。ヒョウにはそいつがうまいのか下手なのか全然わからないのでとりあえず採用した。
次はスキンヘッドのドラマーだった。最初の長髪のギタリストは既に審査員席にいた。ヒョウは彼に意見を求めた。
「いまひとつだな」
スキンヘッドは落とされた。それからは長髪がイニシアティヴを握って選考を行った。おかげでオーディションはスムーズに進んだ。
初日のオーディションでとりあえずひとバンド出来上がりそうだった。オーディションはあと二日予定されていたが、今日のぶんで決まればもう打ち切った方がいいと長髪が進言した。彼はもうリーダー気取りだった。ヒョウはちょっと弱気で、あんたがそう言うならそうしよう、と答えた。
オーディションにまぎれてサラリーマン風の男がやってきた。
「名前は?」
長髪は既にオーディションそのものを仕切っていた。
「あの……浅川です」
「楽器は?」
「は?」
「自分の楽器だよ。得意なの」
「え?」
男は当惑していた。
「なに? オーディションに来たんじゃないの?」
「いえ、あの……ここのオーナーなんですけど」
グリコが通訳するとヒョウとフニクラが驚いて立ち上がった。
「じゃあ、陳さんの紹介?」
「え、ええ」
グリコとヒョウは浅川を楽屋に案内した。自分も行ったほうがいいかと、フニクラがおろおろしているのを尻目に長髪はオーディションを再開した。
楽屋で浅川は何かに怯《おび》えたような顔で部屋の中をキョロキョロしていた。グリコの通訳でヒョウが店の状況を説明したが、浅川は半分上の空だった。
「あの、もしお店がつぶれたりした時、ぼくはどのぐらいの負債を負わなければならないんでしょうか」
浅川の最初の質問がこれだった。浅川は何か怯えていた。
「負債? というと?」
「あの、あたし今最高額一億円の生命保険に入っているんですけど、それで足りますか」
ふたりには浅川の言ってることがわからない。
「あの、場合によってはそのうち三千万円は今の借金の返済にまわっちゃうかも知れないんでたぶん七千万円ぐらいしか払えないかも知れないんですけど」
「あんた保険会社の人?」
思わずグリコはそう勘違いした。
「いえいえただのサラリーマンです」
そう言って浅川は名刺を差し出した。
「オーナーと言ってもそのぐらいしかお力になれなくて申し訳ありませんが」
「なに言ってんだよ。あんた俺たちに名前を貸してくれるだけでいいんだぜ。月々いくらだっけ? 名前貸し賃」
「三十万です」
「そう。それはちゃんと払うよ。ちょっと高いけどな」
「だから……あたしがここのオーナーになるわけですよね」
「表向きだけだよ。あんたは金なんか払ってくんなくていいよ。なんであんたが払うんだよ。ここは俺たちの店だぜ」
「いや、でも……つぶれたら……」
グリコが怒った。
「つぶれるつぶれるって言わないでよ。オープン前だっていうのに」
「あ……どうも申し訳ありません!」
浅川は膝につくぐらい頭を下げた。
「でも、本当に死んでもそれしか出せませんから」
なにか死神にでも取り憑《つ》かれたような陰気なオーナーだった。
オーディションの方はほとんど長髪の一存でメンバーが一通りそろった。
「特にサックスのやつがいいよ。あれは掘り出し物だ」
長髪は得意げに言った。
合格したメンバーはその場のノリでいつの間にかセッションを始めていた。
なかなかいい感じだった。
聞いているうちにグリコは気分が悪くなってきた。こんな立派な演奏をバックに自分が歌えるわけがない。
「ねえ、ヒョウ、ついでにヴォーカルもオーディションしてよ。あたし歌えないよ」
「なに言ってんだよ。これはお前のバンドだぜ」
そんなものいらない。グリコはそんな心の叫びを飲み込むとますます気分が悪くなってきた。
そのうちバンドの連中が何かいさかいを始めた。長髪のギターが下手でやってられない、と言うのだ。リーダー気取りだった長髪はいつの間にか気まずそうな顔で小さくなっていた。
おかげで翌日もオーディションをすることになった。その日はかわりのギタリストひとりを選べばよかった。二日目が終わってようやくそろったメンバーでとりあえず祝杯をあげた。ところが夜になってから各メンバーがこっそりやってきて、あいつはやっぱり下手だとか、性格が悪いとか、もっとうまいやつを知ってるからあいつははずしてくれとか、密告合戦が始まった。
しかたなくもう一日オーディションを行った。昨日握手しあって結束を固めたばっかりのメンバーが一夜にして仇《かたき》同士のような関係に豹《ひよう》変《へん》した。そのうち新顔の演奏そっちのけで、下手だのなんのと、お互いをののしり始めた。こうなるともうヒョウやグリコにはどうにもならない。
終わってみると昨日の顔ぶれはひとりも残っていなかった。まったく新しいメンバーでもう一度祝杯をあげ直した。幸いなことに今度のメンバーはみんな気のいい連中だった。
ヒョウがグリコをヴォーカルにして何か一曲演奏してくれとリクエストすると、メンバーは大喜びでポジションについた。
グリコは真っ青だった。
ところがメンバーの方から自然にグリココールが起きた。子供をあやすようなやさしい呼びかけが功を奏して、照れるグリコをうまくのせてマイクの前に立たせることに成功した。
ヒョウは感心した。
「このメンバーだったら間違いないよ」
フニクラも満足げにそう言った。
「スタンダードで何か歌えるのある?」
ギターが言った。グリコは戸惑ってヒョウに助けを求めた。
「マイウェイ!」
ヒョウはよっぽどこの歌が好きらしい。みんながゲラゲラ笑うのがヒョウにはわからなかった。
「じゃ、名曲マイウェイ?」
そう言いながらピアノがイントロを弾いた。ドラムとベースが後に続いた。グリコは最初のきっかけを逃して真っ赤になったが、くじけず二回目でうまく乗った。
驚いたのはメンバーたちだった。
照れながら歌ってもグリコのうまさは抜群だった。アマチュアバンドの彼らにはちょっと刺激が強すぎたかも知れない。
みんなはいつのまにか途中で演奏をやめてしまった。
驚いたグリコにメンバーはもっと歌えと手を差しのべた。グリコはひとりアカペラで歌い続けた。みんなその歌声に聴き惚《ほ》れた。
歌い終わってしばらく沈黙が流れた。グリコはどうしようという顔でまわりを見回した。フニクラとヒョウが拍手をしようと両手をあげた。ところがそれより早くサックスが次の曲のイントロを勝手に弾き出した。
スティービー・ワンダーの『マイ・シェリー・アモール』。
はやく次を聴かせてくれよ、そんなメンバーたちの顔だった。もう誰にも止められないセッションが幕をあけた。
「やっぱ血が違うよな」
ギターがベースにこっそりささやいた。「なんか自分の演奏までうまく聴こえるぜ」
ソウルフルな演奏は自然にボルテージを上げて、ヒョウは思わずつぶやいた。
「完璧だ」
そしてヒョウは不意にこみあげてきて鼻を押えた。ふと横を見るとフニクラが感極まってしゃくりあげていた。
クラブ・マイウェイとスワロウテイルズ
『マイウェイ』と名づけられたあたしたちのクラブは、開店当初から快調だった。
夜六時に店を開くと、最初は中華料理中心のメニューで二時間。そして八時になるとグリコとバンドがステージに立って歌を披露する。
バンド名を考えるのにみんなで一晩徹夜した。結局グリコの胸のシンボルマークを生かそうということになって『スワロウテイルズ』という名前が生まれた。それにあやかってメンバー全員が胸に蝶《ちよう》のタトゥーをつけた。と言ってもそれは贋《にせ》物《もの》のシールだった。あたしも一枚もらって胸に合わせてみたがサイズが大きすぎてまるでブラジャーみたいだった。
スワロウテイルズの演奏は毎日五十分。土曜日だけ二時間のステージである。その後は十二時までバー。ごく普通に酒と料理で客をもてなす。
そして十二時過ぎると店のライトが落ちて、女たちの登場である。女たちはお客を誘って次々に近くのホテル街に消えてゆく。料金はホテル代込みで二万円。三〇%のマージンが店に落ちるようになっている。
どう見てもいかがわしいところは隠せなかったが、ヒョウの采《さい》配《はい》で規律は守られ、店の雰囲気は妙なくらい健全だった。
昼間グリコはバンド仲間と近くの貸しスタジオで練習した。夕方になると店の女の子たちが銭湯帰りに立ち寄ってよく見学していた。そんな彼女たちにもマイクで遊ばせてあげているうちにいつの間にか強力なコーラス隊までできてしまった。
毎日がお祭りみたいな騒ぎだった。そんな日々をヒョウは満足げに眺めていた。
あたしの仕事は主に子供のおもりだった。女の中には子連れも何人かいた。いわばかつてのあたしみたいな境遇の子供たちを連れてあたしは近くのダウンタウンで遊んだ。ダウンタウンには他にもたくさん子供たちがいた。中でも悪がきのリーダーのホァンが何かと偉そうにしていて、あたしたちにもちょっかいを出してきたが、あたしはバカにして相手にしなかった。そんなこっちの態度が気にいらなかったのだろう。ある時とうとうホァンに決闘を申し込まれてしまった。
ホァンはカンフーを使った。あたしはリンに習った格闘術で応戦した。実戦で使うのは初めてだったがリン直伝の空手は驚くほどの威力だった。ひと蹴《け》りでホァンは泡を吹いて気絶してしまった。これにはあたしも驚いた。活を入れてようやく目を覚ましたホァンはそれ以来あたしのことを「ボス」と呼び、ひとりで勝手に絶対服従を誓った。
思えばあたしがこういう子供社会に触れたのはそれが初めてだった。今までずっと大人たちと暮らしていたあたしにとってはちょっと不思議な世界に思えた。
あたしたちの環境が目まぐるしく変化して行ったその頃、リンはあのノスリと共にある高層ビルの一室に潜伏していた。
ターゲットは某国の諜《ちよう》報《ほう》部員だった。言ってみれば彼らの同業者のようなものである。行動スケジュールを秘密にしている諜報部員を捕捉するのは難しかった。しかし追跡を重ねるうちにある高層ビルのオフィスが密会場所のひとつになっていることがわかった。それでリンとノスリが召集を受け向かい側のビルに陣をかまえたのである。何時やって来るとも知れない長期戦だった。
退屈な空き時間を利用してリンは例のテープにまつわる背後関係を調べてみた。
「なあ、ここデルタの端末使えたよな」
「なんか使うのか?」
「ああ」
デルタ……正式にはデルタ・ワークス。イギリスのデータ・ネットワーク会社で、母体はイギリス海軍の諜報機関である。膨大にかかえるその情報の一端を民営化したデルタ・ワークスを通して民間企業に提供しているのだ。そうすることで自然に枝葉が伸びてゆくネットワークからまた新しい情報を吸い上げて行こうというのが本来のねらいである。
リンたちが普段使っているデルタは特殊なもので、それは軍事機密にまで条件つきでアクセスできるようになっていた。通称『オデッサ・シリーズ』と呼ばれるそのソフトはしかし今この仮設基地には届いていなかった。
リンはマウスを動かしながら笑った。
「なんかおもちゃだな、これ」
「しかたないよ。『オデッサ』とはくらべものになんない」
そのうちモニターに男の顔が浮かんできた。須藤寛治である。そこには簡単なプロフィールしか出ていない。より細かいデータを探ろうとしたが、記載されていなかった。
リンは舌打ちした。ノスリが横からのぞいて吹き出した。
「ホントだ。これじゃ履歴書の偽造ぐらいしか使いみちねえな」
「うん。せめて『TS』ぐらいないとだめだ」
「最近『Fシリーズ』でももうちょいマシなソフトが出てるはずなんだけどな」
『TS』とか『F』とかいうのもソフトのランクである。いずれにしても『オデッサ』を使い慣れてる彼らにはおもちゃみたいなものであった。
「……あ、ちょっと待ってな」
ノスリが携帯電話で何処かに電話をした。
「……あのさ『Fシリーズ』の117って、オデッサにつなげられたっけ? そっちのほうで開いてもらって。できない? こっちのIDコードで照会しても?……そうだよ! 頭使えよ」
ノスリがOKのサインを出した。そしてまた電話でやりとりしながら、リンのマウスを借りて画面を操作し始めた。
「で、どうすんの? こっちは……リモートにして?……それでインターフェイスは?」
そしてようやくオデッサがつながった。
リンはさっそくオデッサにテープの信号を入力した。そして関連人物をアクセスした。
モニターに該当人物が浮かび上がる。
「金城輝……」
リンはすかさずさっきの須藤寛治との関連をアクセスする。それだけで膨大なデータが出てきた。リンはその中から必要なことだけをピックアップした。
金城輝は連合新党の代議士で、須藤はその元秘書であった。金城がかつて暴力団との関連を追及された時に須藤が責任をかぶって政界追放になっている。
最近その須藤が行方不明になり、金城が参考人として警察の尋問を受けたことなどがそのデータから判明した。須藤の行方はオデッサにも出ていなかった。
「なんだよ。お前いつから諜報活動なんかやるようになったんだよ」
「え? いや、ちょっとな。プライベートだ」
「プライベートって情報かよ!」
突然、無線が入った。
「今、建物に入りました」
二人はあわてて配置についた。
リンは窓際のライフルを構え、ガラスに標的の男の写真を貼《は》った。
スコープが向かい側のビルに現れた諜報部員を捕捉した。誰かと会話している。
「もう少し待ってください。ひとりになるところを狙《ねら》ってください」
無線の声がナビゲートする。
しかしもうひとりの男を残してその諜報部員は出て行ってしまった。
「おい、どうなってんだよ! 出てっちまったぜ」
ノスリが双眼鏡をのぞきながら無線にどなった。
「ちょっと待ってください。あれ? おかしいな」
無線がしばらくとだえた。そのうちもうひとりの男も部屋を出て行った。入れ違いに女性が入ってきてテーブルを拭《ふ》き、灰皿をとりかえている。
ようやく無線から回答が来た。
「すいません。失敗です」
ふたりは呆《あき》れてため息をついた。
「次の定期連絡は午後六時です」
申し訳なさそうな声でそれだけ言うと無線は切れた。
スワロウテイルズのライヴは盛況で、日に日に客も増えて来た。この成功を誰よりも一番喜んだのは浅川だった。
「賭《と》博《ばく》で借金作っちゃって、どうにもなんなくて。金融屋に僕の名義、好きに使われて、ここのオーナーの話も……あなたたちがもし失敗してたら僕は死ぬしかなかったんです」
そう言って浅川は号泣した。
ライヴが終わったある夜、ひとりの男がグリコに会いたいとやって来た。
かわりに出たヒョウに男は名刺を差し出した。
『マッシュミュージックエンターテイメント ディレクター 本田幸一』
スカウトだった。
「感動しました。すばらしかった」
ヒョウは本田をグリコに引き合わせた。本田はグリコの手を握って、すばらしかった、をくり返した。
「ほんともったいない。ぜひウチで歌ってください」
そして本田はまた連絡すると言って帰って行った。
その夜、ヒョウは店を早じまいしてみんなを集めた。
「こんなチャンス滅多にないぜ。一発バシッと決めてくれよ!」
スワロウテイルズのメンバーの意見はだいたいこうだった。浅川がそれに猛然と反対した。
「だって今グリコがやめたらウチはどうなるんだよ!」
「あんたは自分のことしか考えられねえのかよ。グリコに一番いい道をなんで選んであげようとしないんだよ!」
議論は白熱した。
その間じゅうヒョウは黙って聞いていた。肝心のグリコは議論の内容をヒョウに通訳するので精一杯だった。だから急に意見を求められてもすぐには答えられなかった。
「グリコ、おまえのことだぜ」
「……そうだけど。あたしよくわかんないよ」
「ちゃんと考えろよ」
「こんなおいしい話二度とないかもよ」
メンバーが次々にグリコにまくしたてた。
「こんな店で歌ってたってどうしようもないじゃん!」
「こんな店とはなんだ! おまえクビにするぞ!」
浅川がヒステリックに怒鳴った。
「なんだと? お前だってどうせただの雇われオーナーのくせして!」
「マア、マア、マア」
フニクラが間に入って諫《いさ》めた。
「ヒョウの意見はどうなんだい?」
ギターがヒョウに聞いた。そこでヒョウはようやく口を開いた。
「それはグリコが決めることだ。俺は関係ないよ」
「ちょっと、そんな冷たいこと言わないでよ」
グリコは泣きそうな顔をした。
大人たちはすぐモメる。でもどっちの意見が通ろうともあたしはその結論だけを知っていればよかった。その結論だけが次のあたしの運命を決めるのだ。
それに比べて子供の世界は楽しかった。ホァンに勝って以来みんながあたしの家来になった。
王様気分もたまには悪くない。
ある日ホァンがどこから手に入れたのか覚《かく》醒《せい》剤《ざい》を持って来た。あたしたちは興味本位でそれをこっそり打とうとしたが針を刺すのが怖くて誰も打てなかった。
あたしは平気な顔をして注射を打った。
「どうだ?」
みんなは興味津々という顔であたしを取り囲んだ。
「どってことないわ」
あたしは強がってそう言ったが、内心ひどく気持ち悪かった。
「やっぱさすがボスはすげえや」
ホァンが感心して言った。
みんなと別れてから急にむかついてきて電信柱に吐いた。眩暈《めまい》がひどくて立てなくなった。電池の切れた人形みたいに心細かった。このまま誰にも気づかれずに死んでしまうのかと不安になった。
遠くにヒョウが見えた。声を出そうとしたが出なかった。ヒョウはあたしに気づいてやって来た。人が倒れているのに相変わらずのんびりした顔であたしをのぞきこんだ。
「どうした。こんなところで」
あたしはこの男に今どんな風に映っているのだろう。全然苦しそうに見えないのだろうか?
「……注射」
「注射?」
「注射打ったら気持ち悪くなって……」
あたしは刺した右腕を見せた。
「……なんの注射」
「覚醒剤」
「……なんだって?」
ヒョウの声が険しくなった。
「ウウ、どうなるの?」
あたしは不安でヒョウの腕をつかんだ。
「どのぐらい打ったんだ?」
「…………」
もう声を出すのもつらかった。
ヒョウはあたしを抱きかかえて走り出した。あたしは次第に朦《もう》朧《ろう》としてきて、誰かが会話している声が妙に近くなったり遠くなったりして聞こえた。
「死ぬの?」
「……え?」
「あたし死ぬの?」
「大丈夫。死なないよ」
どうやら声の片方は自分らしい。あたしがあたしをさしおいて何をしゃべってるんだろう。
「ねえ、死ぬの?」
「死ぬわけないだろ」
どこかで意識のスイッチが切れた。そこからはもう夢なのか、なんなのか、断続的な映像が暗《くら》闇《やみ》に浮かんでは消えた。
流れる電柱。
煙突。
有刺鉄線。
マンホールのふた。
暗闇。
暗闇に浮かぶ中国人たちの顔。
……みんながこっちを見ている。
トンネルの中のような街。
変な病院。
「阿《ア》片《ヘン》街総合病院 」。
「阿片」という意味がわからない。
看板のほかの文字……。
外科。
内科。
産婦人科。
泌尿器科。
そして、入れ墨。
(入れ墨って……?)
天井のこわれた蛍光灯。
怪しいおじさん(お医者さん?)
声が聞こえる。
「なんだい? ヒョウの妹かい?」
「覚醒剤打ったっていうんだ」
「そんなものどこで手に入れたんだ?」
「この辺もけっこう出回ってるからな」
陳さんの声。どうしてここに陳さんまでいるんだろう。
「世も末だな」
医療器具。
おじさんの茶色いヤニだらけの歯。
ヒョウの背中。
「阿片街総合病院」の看板。
そしてまた、入れ墨、の文字。
トンネルの中のような街。
暗闇に浮かぶ中国人たちの顔。
ヒョウの背中。
有刺鉄線。
ヒョウの髪の毛。
煙突。
流れる電柱。流れる電柱。流れる電柱……。
気がついたらヒョウの背中の上だった。固いおおきな背中の感触が手のひらに伝わってきた。
どこまでが夢なのかよくわからなかった。
「ここ、どこ?」
ヒョウは黙っていた。
「あたし、死んだの?」
「ああ。ここは天国だ」
それが嘘《うそ》だとわかった時にはもう『マイウェイ』の前だった。
ヒョウはその事件を誰にも言わなかったようだ。ただあたしはあの病院とトンネルのようなへんな街が夢だったのか、夢じゃないとしたらどこにあるのか気になって仕方がなかった。とりわけて、あの病院の看板の入れ墨という文字が頭から離れなかった。
翌日その話をホァンにした。
「ああ、知ってるよ。阿片街だろ?」
「行ったことある?」
「まさか!」
ホァンの顔が青ざめた。
「子供だけじゃ行けないよ。マフィアとか、密売人とかゴロゴロしてるんだぜ。日本の警察だって迂《う》闊《かつ》に入れないって話だもん」
「でもなんでそんなとこにヒョウや陳さんいたんだろう」
「陳さんは拳《けん》銃《じゆう》とか薬とか密売するのが仕事だから」
「そうか」
「今度行ってみようか?」
「え?」
「ボスと一緒だったら俺平気だよ」
あたしは曖《あい》昧《まい》な返事をしてごまかした。
阿片街はイェンタウンが作り出したスラム地区だった。そこでは公然と薬が売り買いされていて、ヒョウの行きつけの『桃源楼』は阿片の売り店だった。
ヒョウは陳さんとよくここに出入りしていた。
籐《とう》の安楽椅《い》子《す》に座ってふたりは阿片の長い煙管《きせる》を吸い、酒を飲んだ。
「なんのために国を捨てたんだっけな?」
ヒョウが中国語を使って話せるのはこの陳さんぐらいだった。
「なんか忘れっちまうよな……。陳さん、あんた生まれはどこよ」
「僕は福建省、シアメンね」
「ふうん。いいとこかい?」
「まあまあ、ね」
「なんで捨てたんだい?」
「捨ててないよ。お金たくさん貯めて、帰るよ。国に子供もいるからね」
「へえ。何人」
「十二人よ」
「ハハ、すげえな。みんなあんたの子かい?」
「そうね、二人は女房の連れ子だけどね。みんな仲良しだよ。あと一番下の娘はどうも僕の子供じゃないみたいだけどね」
「なんで?」
「計算あわないよ。種つけた時、僕日本にいたからね」
「じゃ奥さん浮気したの?」
「浮気するよ。僕も日本長いからさみしいんだろうね。僕も悪いのよ。だから僕は怒らない。そんなことでいちいち怒ってたらいい家庭は築けないからね」
「あんたできた人だな」
「ヒョウはどこ? 国」
「え?」
「お国よ」
「日本」
「そうじゃなくて日本に来る前よ」
ヒョウは話を変えた。
「今日さ、グリコ、オーディションなんだよ」
「ああ、フニクラに聞いたよ」
「……そう」
「うまく行くといいよな」
ヒョウは複雑な気分で煙管を吸った。
その時グリコはマッシュミュージックのスタジオにいた。
天井の高い部屋の真ん中に座らされて、グリコは緊張していた。数人のスタッフが入ってきた。グリコはあわてて立ち上がってお辞儀をした。
マッシュのスタッフはそれぞれ席についてグリコと対面した。その中に本田の姿はなかった。グリコは急に不安になった。
真ん中のひとりが書類を見ながら、
「フニクラグリコさん、でいいのかな?」
「はい」
「日本人じゃないんだね」
「はい。本国はフィリピンです」
「そうらしいね。プロフィールに書いてある。本名は……?」
「カディ・チャウエン」
「カディ・チャウエン」
「はい」
「ワーキングビザは持ってるかね?」
「え?」
「ないでしょ」
「はい」
不意に密談が始まった。しばらく成り行きを見守っていたグリコはちょっと不安になって質問した。
「あの、ホンダさんは?」
「え? ああ、本田君ね、ちょっと遅れてくるんだ。間に合うのかな?」
グリコの不安は一気に増幅した。密談が終わり、スタッフがこっちに向き直った。グリコは思わず肩をすぼめた。
「君?」
「はい?」
「今持ってるビザって何? 観光ビザ?」
「え?」
「もう切れてんの?」
「…………」
「……持ってないの?」
「…………」
「……パスポートは?」
「…………」
グリコは何も答えられなかった。迂《う》闊《かつ》に本当のことを言ったらそのあとどうなるんだろうとそればかりを考えた。
「はっは。大丈夫。ここは入国管理局でもなんでもないんだから。ほんとのこと、言ってくれないかな?」
「…………」
「パスポートないの?」
「……はい」
また密談が始まった。ひそひそ声の中に時々「イェンタウン」という言葉が混じっていて、グリコはもう駄目だと思った。ふたたびスタッフがグリコに向き直った。グリコはヤケになって先手を打った。
「あの、歌、歌ってもいいですか?」
「え?」
「あの……聞いてください」
いやな間があった。そして全員が苦笑した。グリコは真っ赤になった。
「歌うって、ここ、オケも楽器もないから」
「でもオーディションでしょ?」
「それより君、日本に帰化することは考えたことある?」
「え?」
「日本人になってみたいと思わない?」
「…………」
あんまり唐突な話で何と答えたらいいのかわからなかった。
「細かいことはこっちでやるから心配しなくていいよ。ただ君にその気があるかないかが問題なんだ」
「……はあ」
「今結論って話じゃないから、よく考えてみてくれないかな?」
「……はい」
「君の歌ね……」
「はい?」
「よかったよ、すごく」
「え?」
「こないだこっそり『マイウェイ』のぞかせてもらったんだ。オーディションで見るよりナマのライヴのほうがわかりやすいからね。ちょっと偵察させてもらったんだ。すごくいい。ここのスタッフ全員気に入ってるよ。だから是非一緒に仕事がしたいんだ」
「……はい!」
グリコは背中が総毛立った。足が地につかないような気分になった。
男はニコッといい笑顔を作って自己紹介した。
「マッシュの制作第一グループ、部長の門脇です」
それに次いで一人一人が挨《あい》拶《さつ》した。全員の挨拶が終わると門脇が言った。
「これから一緒にやっていくスタッフだ。よろしくね」
グリコはちょっと安心して、笑顔を見せた。
「あの、フニクラグリコです。よろしくお願いします」
そこにやっと本田が飛び込んで来た。本田は息を荒げながら言った。
「どうなりました? 門脇さん? どうでした?」
ヒョウが店に戻ったのは九時頃だった。中はグリコのライヴの最中だった。客はどんどん増えて行った。その勢いに反比例してヒョウは自分の野心が萎《な》えて行くのを感じていた。
ヒョウは久しぶりに観客としてライヴを見た。今夜のグリコはノリがよかった。後ろから肩をたたかれてふりかえるとフニクラだった。
フニクラはいきなり抱きついてきて、ヒョウの耳元で大声で叫んだ。
「グリコ、デビュー決まったよ! デビュー! 決まったよ!」
ライヴが終わって楽屋に行くとグリコはメンバーたちと楽しそうにしゃべっていた。
「それでいつデビューなの?」
「え? まだいつかは聞いてないけど。その前にいろいろ準備が大変なのよ。CD作ったり」
「そりゃそうだ」
「楽しみだな」
最近ヒョウはグリコがやけに日本語で話すようになったことに気づいていた。裏を返せば単に彼女の回りに日本人が増えたということだった。
グリコがヒョウに気づいて、Vサインを出した。
「ヒョウ! あたしデビュー決まったよ!」
それも日本語だった。ヒョウは首をひねって見せた。グリコはそれを英語でもう一度言い直した。
「そりゃすげえや! じゃあ今夜は祝杯をあげなきゃ」
「やった! 嬉《うれ》しい!」
「俺がおごるぜ」
「ホント? でも今夜は大人数よ。大丈夫?」
「大人数って誰と誰が行くんだい」
「みんなよ」
「……それは明日にしなよ」
「え?」
「とりあえず今夜は二人だけだ」
「え? 駄目よ。もうみんなと出かける約束しちゃったもの」
「だったらみんなはキャンセルだ。今夜は二人で祝杯をあげよう」
「だって……」
「いいから、みんなにそう言え」
ヒョウは終始にこやかに話した。英語のわからないメンバーたちは何も知らずに今夜の店をあそこにしよう、ここにしようと賑《にぎ》やかに話し合っていた。
「もう、あんた勝手すぎるわよ!」
ふてくされるグリコをヒョウは半ば強引に連れ出した。
「どこ行くの? あたし中華はいやよ」
ヒョウは途中のストアーで酒を買い込んだ。
「ちょっと、どこで飲むつもりなの?」
ヒョウは黙って歩き続けた。その道はグリコにも見覚えのあるところだった。
そしてたどりついたのはかつてのグリコのアパートだった。ヒョウは郵便受けに手を差し込んだ。
「合鍵ここだっけ?」
「もうないわよ」
ところが鍵は出てきた。ヒョウは残念でしたという顔をした。
「まだ空家なんだぜ。アーロウの部屋も。知ってた?」
部屋の中はガランとしていたが、グリコの置き捨てていった大物の家具はそのままだった。
「どういうつもりよ」
「え? なにが?」
グリコにはヒョウの演出が不愉快だった。ヒョウは買ってきた蝋《ろう》燭《そく》に火をつけて、床の上に酒を並べた。
「なにも変わってないな。ここだけは」
「…………」
「時計が止まってたみたいだ。……時のない部屋。そこにあたしの過去がある」
「やめてよ」
「ハッハ。いいじゃん。歌になるぜ。歌にしてくれよ」
ヒョウはボトルをあけてグリコの前に置いた。そして自分のボトルを持ってソファにドンと腰かけた。すごい埃《ほこり》が舞ってふたりは咳《せ》き込んだ。グリコは喉《のど》をきれいにするためにボトルをあおった。そしてもう一度咳き込んだ。
「……歌に引きずり込んだの誰よ」
ヒョウはボトルの口をチビチビなめた。
「……夢は大きくなんてカッコいいこと言ってたの誰よ」
「俺だっけ?」
グリコはあきれて吹き出した。
「……ほんとにいい加減なやつ」
「ハッハ」
「釣り、愉《たの》しかったよね」
「ああ」
「また行こうね」
「いつでもOKだよ」
「…………」
「…………」
ふたりはぼんやり蝋燭の火を眺めた。
蝶の記憶
幸福な毎日はやがて色《いろ》褪《あ》せ、それでも人はくり返す日々を止めることができない。歳月とか時間は、あたしたちのために用意されたものではないのかも知れない。
グリコがいなくなってもクラブ・マイウェイは毎日営業を続けていた。
ヒョウはすべてをフニクラと浅川に任せて店を出て行った。そして空き地の『青空旧貨商場』に帰って行った。置きっぱなしで埃《ほこり》だらけになっていたトラックの幌《ほろ》を開けると中に誰かいた。
「……誰だ?」
ソファに寝転がっていたリンがふりむいた。
「おどかすなよ。野良犬かと思ったぜ」
「ハッハ」
「いつ戻ったんだ?」
「おとといさ」
ちょっと元気のないヒョウにリンは気づいた。
「みんな元気か?」
「ああ。……そういやいろいろあったんだぜ」
ヒョウは明るい顔になってリンに今までのことを一気に話した。
インドの宝石に始まって、店を作って、バンドを作って、グリコの歌が最高で、それからスカウトの話があって、ついにデビューが決まって……。
「もう俺がついていてやらなくても大丈夫なんだ。ま、俺も店持てたし、でもなんかここが急に懐かしくなっちゃってさ。戻って来ちまったよ」
あまりにも駆け足の説明にリンは首をひねった。
「……よくわかんなかった」
「え? そうか?」
「まあ、あとでゆっくり聞くよ」
「そうだな。今日は久しぶりになんか料理でも作ろうか」
「いいね」
「そのときもう一回ゆっくり話してやるよ」
「いいね」
リンはニヤッと笑ってヒョウの荷物をトラックに放り込んだ。
店を任された浅川は会社を辞め、借金の返済のためこの店一本に賭《か》けて出た。
グリコの穴を埋めるために店の女の子の中から二人を選んで女性デュオを結成した。新しいバンドの名は『ココナッツ』。二人のフィリピーナ、ココとナナが、
「ココデース」
「ナナデース」
「フタリアワセテ、ココナッツ。ドウゾヨロシク」
と言って始まるライヴショーはたったの一回で今までの顧客の全てを失った。バンドメンバーも、こんなのやってられない、という態度があからさまだった。浅川は、とりあえず急場しのぎだからと、みんなを引き止めた。そして一カ月もしないうちにただのフィリピンバーのようないかがわしい店になってしまった。
プロへの階段を昇り始めたグリコはもうすっかり別な世界の人だった。デビューまであと一月余りと迫って街のあちこちでもグリコのポスターを見かけるようになった。
ポスターのグリコは頭の上にのせた片手で白い水仙を持ち、もう片方の手で大きな虫眼鏡を胸の大きく開いたシャツの前にかざしていた。そして虫眼鏡の中にはあの蝶《ちよう》の入れ墨が拡大されて映っていた。
フニクラは喜び勇んで店頭に何枚か貼《は》った。何度も貼り直して、角度を見たりしているうちに破いてしまって、フニクラはまたポスターを買いにレコード店に走った。浅川にしてもバンドメンバーたちにしても『ココナッツ』の失敗でこのところ元気がなかっただけにその朗報は嬉《うれ》しかった。みんなグリコの声が聞きたくなって、浅川が代表して電話をかけた。
マネージャーの星野女史がでた。高慢なキャリアガールで、腐ったような香水のにおいをまきちらす最低の女だった。
「今レコーディングの最中なのよ。こっちからまた電話させます」
グリコが出たと勘違いしたフニクラが浅川から電話を奪ってタガログ語で受話器にむかってまくしたてた。星野女史は驚いて電話を切ってしまった。
その数日後、星野女史が店にやってきた。店の中が一気に異臭に包まれた。
「臭い店ね。なんのにおい?」
自分のにおいを棚に上げて星野女史は言った。
星野はフニクラと、長い間話していた。そして何か封筒を置いて帰って行った。いまや『ココナッツ』と化したバンドのメンバーが集まってきた。
「なんだって?」
「もう兄妹だと思わないでくれって」
みんなその言葉に唖《あ》然《ぜん》とした。マッシュミュージックのやり口に怒りを覚えた。ところがフニクラはもうすでに納得しているみたいだった。
「ボクは不法入国者だよ。見つかったら国に強制送還されるんだよ。グリコは日本人になったんだから、もうボクなんかが近くにいないほうがいいんだよ」
「そんなこと言ったってあんたたちたった二人の兄妹じゃないのか?」
ロッカーはこういう時すぐ熱くなる。仲間とか友情のために戦うのがロッカーの本質みたいだ。
「ホンダさんも、カドワキさんもグリコの幸せ考えてくれてるから」
そう言ってフニクラがポケットに封筒をしまおうとした。一番熱くなっていたベースがそれを奪い取って中身を見た。お札が入っていた。
「なんだよ、これ。手切れ金じゃねえのか?」
「そういうんじゃないよ」
フニクラは弁解した。それがロッカーたちの火にさらに油を注いでしまった。
「なんでこんなもんもらっちまったんだよ!」
「そんなのすぐ返しちまえよ!」
ロッカーたちの中傷にフニクラは黙って耐えていたが、我慢できなくなって怒鳴った。
「自分の妹を泣く泣く手放したんだ! お金をもらうのはあたり前だろ! 妹を失って、お金も手に入んなかったらボクに何が残るんだ!」
ロッカーたちにはこの言葉が信じられなかった。
「悔しくねえのかよ、あんた!」
「悔しいよ。だからお金もらったんじゃないか! 何が悪いんだ!」
「目を覚ませよ! こんなもの!」
そう言ってベースがお札に火をつけた。フニクラはあわててそれを止めようとしたが間に合わなかった。フニクラは足で火を消して床に這《は》いつくばって、焦げたお札をかき集めた。
あまりに惨めな光景だった。
「……イェンタウン」
ギターが言った。その声に顔を上げたフニクラをメンバーたちの軽《けい》蔑《べつ》のまなざしが待ち受けていた。
「……そうだよ。ここはイェンタウンさ。イェン以外に何があるんだよ!」
そう言い返したフニクラの顔にベースが唾《つば》を吐いた。まるで儀式のようにひとりずつフニクラに唾を吐いて店を出て行った。
遠巻きに様子を窺《うかが》っていた浅川が飛び出して来てメンバーを引き止めたが、ベースに突き飛ばされて床に転がった。
フニクラは泣きながら叫んだ。
「そうさ。俺はイェンタウンさ! 何が悪い?」
なにか強く結びついていたものがものすごいスピードでどんどんほどけていく感じだった。
頼りにしていたものが不意になくなって、あたしもなんだか不安になっていた。そしてその気持ちがひどくなるにつれてあたしはなぜか無性にタトゥーが欲しくなった。贋《にせ》物《もの》のシールではない、本物のタトゥーだ。
願望はやがてピークに達し、ついにあたしは阿《ア》片《ヘン》街に潜入することにした。あの覚《かく》醒《せい》剤《ざい》でひどい目に遭った時にヒョウに連れて行かれた病院の看板に『入れ墨』という文字があった。なぜ病院に入れ墨なのかわからなかったけど、とりあえず今はあそこだけが頼りだった。
ホァンに案内されてやってきた阿片街はやっぱりあのトンネルの街だった。
怖がるホァンをつついてあたしたちは入り口をくぐった。
薄暗いトンネルの中は、両側に妙な店が並び、怪しい大人たちが右往左往していた。店先に並んで座っている老人たちは見たことのないような巨大な煙管《きせる》を吸っていた。
「あれがアヘンだぜ」
ホァンが小声で教えてくれた。
何より奇妙だったのは地面で、すべて板張りになっていて所々大きな隙《すき》間《ま》があいていた。覗《のぞ》いて見るとその下は地下の通路になっていて、ここより大勢の浮浪者たちがじっとこっちを見上げている。中には赤ん坊や、あたしと同い年ぐらいの女の子もいた。
「移民船で不法入国した連中だよ。家がないからここで暮らしてるんだ」
暮らすという言葉があまりにもそぐわない気がした。なんかまるでそこに誰かが捨てて行ったみたいな様子で蠢《うごめ》いていた。
あたしたちはさらに先に進んだ。
ある店の前で陳さんを見つけた。陳さんは中国語で誰かと激しく喋《しやべ》っていた。よく見るとテーブルの上に拳《けん》銃《じゆう》がずらりと並んでいた。これがあの優しい陳さんの本業なのだ。
あたしが声をかけようとするのをホァンが止めた。
「見つかったら追い出されるぜ。子供だけで来るところじゃないって」
言われてみればそうかも知れない。あたしたちは陳さんに見つからないように通り過ぎた。
さらに奥まで進むとついにあの病院が見つかった。
『阿片街総合病院』
「総合病院だって」
そう言ってあたしたちはクスクス笑った。
そこは総合病院という名があまりにもおおげさに思える小さな病院だった。看板を見ると確かに『入れ墨』と書いてある。あたしは意を決した。ポケットの中にしまっておいたお金をもう一度確認して中に入った。
ドアをあけると待合室の椅《い》子《す》にあの怪しいおじさんが暇そうに煙草をふかしていた。
あたしはようやく夢と現実をつなぐことができた。
「おや、こないだの……ヒョウの妹か」
「こんにちは」
「もう注射なんかやっちゃだめだぞ」
そう言いながらおじさんがこっちにやって来た。臆《おく》病《びよう》なホァンがあとずさりした。
「今日はなんだい? 風邪でもひいたのか?」
「おじさん……先生……」
「カッカ。どっちでもいいよ」
「看板に入れ墨って書いてあるけど……」
「ああ」
「あれってタトゥーのこと?」
「ああ。そうだよ」
「先生が彫るの?」
「ああ」
「いくら?」
「え?」
「値段」
「おまえが彫ってほしいのか?」
あたしはうなずいた。
ホァンがあたしの服の裾《すそ》をひっぱった。ホァンは今はじめてあたしがここに来たがった理由を知ったのだ。
「ボス、入れ墨すんのかい?」
「そうよ」
「すげえよ! ボス! サイコーだぜ!」
おじさんはニヤニヤしながらあごをさすっていたが、
「まあ、話はこっちで聞こうじゃないか」
おじさんはホァンに待合室で待ってるように言ってあたしだけ診察室に案内した。
診察室もあの夢うつつの映像そのままだった。
「どんな入れ墨がいいんだい」
「蝶《ちよう》。アゲハチョウ。胸のところに」
「ほう」
「でもお金これしかないんだけど」
あたしはポケットのお金を見せた。
「金はいらんよ」
「どうして?」
「そのかわり人を選ぶ。気にいった肌にしか彫らないんだ。ちょっと見せてごらん」
おじさんはあたしの胸を開いて、ルーペで肌を調べ始めた。
「タトゥーって、お医者さんの仕事なの?」
「いやいや。その辺の医者にはできんよ。入れ墨をやるには他の才能が必要だからね」
「他の才能? どんな?」
「絵描きの才能と、……あと占い師の才能」
「うらないし?」
「なかなかいい肌だ。繊細な細工にはもってこいだな。よし、じゃあそこに横になって」
あたしは言われるままに診察台に横になった。おじさんは入れ墨の七つ道具の入った箱を持ってきてその横に置いた。
「痛いの?」
「痛いよ」
あたしは唾《つば》を飲み込んだ。
施術が始まった。おじさんは針をふるいながら話を続けた。
「入れ墨はまあ生き物みたいなもんだ。自分の体の中にもうひとつ別な生き物を飼うようなもんだな。それは時々そいつの人格を変えてしまうこともある。運命を変えてしまうこともある。だから迂《う》闊《かつ》に何でも彫ればいいってもんじゃないんだよ。お前はなんで蝶が彫りたくなったんだ」
「グリコの入れ墨を見たから」
「グリコ?」
「あたしに名前をくれた人」
「お前の名前は?」
「アゲハ」
「ほほう。おもしろい名前じゃないか。だから蝶が欲しくなったのか?」
「グリコの蝶が気にいったの」
「どうして?」
「わかんない」
「きれいだったのか?」
「うん」
「蝶をはじめて見たのはいつだい?」
「え?」
「ちいさい頃、見ただろ?」
「……憶《おぼ》えてない」
「見たことはあるだろ」
「……うん」
「じゃ、思い出してごらん。憶えているはずだよ」
「…………」
あたしは遠く記憶をたどってみた。
カーテンに止まっているアゲハチョウが浮かんだ。
……あれはどこだろう。
誰の部屋だろう。
でもそこから先がどうしても思い出せない。
ただ、なにか悲しい気持ちが蘇《よみがえ》ってきた。
「ママ、ママ」
そう呼んでいるのは遠い昔のあたしなのだろうか?
「ママ、ママ」
少しずつ記憶が蘇ってきた。
「ママ、ママ。チョウだよ。ママ!」
蝶はゆっくりと呼吸するように羽根を動かしている。
金縛りから解かれるようにようやく記憶が自由になり、記憶の視線はグルリと回って部屋の反対側を映し出す。
ベッドがあってママが裸のまま眠そうな目でこっちを見ている。
その隣には男がやはり裸で寝ている。
ママは髪の毛をかきあげて、うんざり顔で立ち上がる。
「ねえ、つかまえて、はやく! 逃げちゃうよ!」
ママは何も言わずに新聞紙で蝶をたたき落す。
そして床に落ちた蝶をスリッパで踏みつぶす。
あたしはそのちぎれた羽根の一片をつまみあげる。
間近で見る蝶の羽根はグロテスクで美しかった。
……ふと気づくと頬《ほお》に涙が伝っていた。
おじさんが脱脂綿でその涙を拭《ふ》いてくれた。
「大丈夫。どんなにつらいときでもこの胸の蝶がおまえを守ってくれる」
「……ほんとに?」
「ああ。おじさんがそういう魔法をかけておいた」
でき上がった入れ墨は見事な出来栄えだった。
診察室を出るとホァンが心配そうに待っていた。あたしを見るなり体中をなめるように見回して入れ墨を捜した。
「ボス、どこにしたんだよ! 見せてくれよ!」
あたしはもちろん見せなかった。
(あたしは見せない、誰にも見せない)
あたしは心の中でそう誓った。
翌日の朝、あたしはクラブ・マイウェイとフニクラたちに別れを告げた。とりあえずヒョウのところに厄介になるつもりだった。
いつまでも見送ってくれる笑顔のフニクラが何かすごく悲しかった。でももうここにはいられなかった。あたしはあたしなりに自分の道を歩かなきゃ。
途中でホァンがあたしを見つけて追いかけてきた。
「どこ行くんだい、ボス」
「え、ちょっとね」
「ちょっとってどこだよ」
「ちょっとそこまでよ」
「ヘエ」
いきなりホァンが攻撃してきた。あたしは応戦した。決着は十秒でついた。
「やっぱりボスが強ええや」
「先生がいいのよ」
「先生? 格闘技の先生?」
「そ」
「俺にも今度紹介してよ」
「今度ね」
「ボスより強いのかい?」
「あたり前よ」
「じゃあイェンタウンで一番じゃねえの?」
「さあね」
そうしてあたしはホァンと別れた。別れぎわにあたしはホァンのにおいを嗅《か》いだ。
「なにすんだよ!」
ホァンは怒った。
「ちょっと臭いわよ。ちゃんとお風呂に入んなさいよ」
「やめてくれよ。ママみたいなこと言うなよ」
ホァンは臭かった。でもいやなにおいじゃなかった。
この突然の厄介者をヒョウは歓迎してくれた。ひさしぶりのヒョウは明るかった。
「なんか明るくなったな」
そう言ったのはヒョウの方だった。お互い明るくなったのかな?
「お店の方はどう?」
「イマイチだな。ずっとほったらかしてたから、顧客が逃げちゃったよ」
「あたしが手伝ってあげるよ」
「そりゃ助かるよ」
ヒョウはまじまじとあたしの顔を見た。
「なに?」
「いや、やっぱりなんか明るくなったよ、お前。なんかいいことでもあったのか?」
「ないよ」
あたしは病院の先生が言ってた言葉を思い出した。
「きっと魔法がきいたのよ」
「なんの?」
「内緒」
「ハッハ!」
あたしは車の陰に行ってこっそり胸の中をのぞいた。
胸の中で蝶はゆっくりと羽根を動かしていた。
密 告
週刊フェミニンはワイドショー好きな女性をターゲットにした女性誌である。その編集部をひとりの黒人女性が訪れた。アーロウの元妻のビリーだった。
ビリーは鈴木野清子という編集者に面会を求めた。現れた清子はもちろんビリーの顔に覚えはなかった。
清子はフロアの談話室に案内したが、ビリーがそこではちょっと話ができないという。こういう訪問者は珍しくなかった。フェミニンには女性相談コーナーがあって、手紙や電話で読者からの相談を受けつけていたがたまに直接話に来る女性もあって、それに対応するのも清子たちの仕事だった。清子はすぐに内緒で小さな会議室をキープした。
会議室で机をはさんでさしむかいに座ると、ビリーがフェミニンの先週号を出して来た。あらかじめ折り込みを入れていたページは清子が実名で執筆しているコラムだった。
「これ、あなたが書いてるんでしょ? 毎週読んでるわ」
「日本語読めるの?」
「少しね。勉強のためよ。あなたルポライターなの?」
「え? 基本的にはこの雑誌のエディターなの。でもやっと最近そのコラムをもらったのよ」
「すごいわ。あなた才能あるわ。きっともっとエラくなるわ」
清子はこの外人がちょっと不気味だった。さっさと話をすませてしまおう。
「で? 今日いらしたのは?」
「ああ、そうね。あなた、カンジ・スドウって人知ってる?」
「カンジ・スドウ?」
「ヤア。カンジ・スドウ……スドウ・カンジ」
「……さあ」
ビリーはファイルを出して机の上に広げた。それは須藤寛治についての雑誌や新聞の切り抜きだった。
「ああ、須藤寛治!」
「知ってる?」
「ええ。あの、行方不明になった……。覚えてるわ」
「ああ、よかった」
「これがどうかしたの?」
「あたしの前の主人が殺したの」
「え?」
「彼を殺したのよ」
ビリーはそう言うと、感極まって泣き出した。
清子はビリーを落ち着かせて話を聞いた。ビリーはアーロウから聞いた一部始終を清子に話した。
「アーロウも殺すつもりはなかったと思うの。ただ、あいつのパンチは普通じゃないから」
「ちょっと待って。それで死体はどこにあるの?」
「さあ。だから、隣の住人たちが運んで行ったって言ったじゃない。もうどこにあるかは彼らじゃないとわからないわ」
「そのアパートってどこ?」
「……どう説明すればいいかな、何か書くものある?」
ビリーは清子の差し出したメモにアパートの地図を描いた。その間に清子が質問した。
「警察は知らないことなのね」
「あたり前よ。バレてたらここには来ないわ」
「……そうよね。で、ひとつ聞きたいんだけど、あたしたちはどうすればいいのかしら」
「え?」
「アーロウを救いたいんでしょ」
「もし警察にバレたらアーロウは捕まる? 死刑?」
「さあ。でも人ひとり殺してるんじゃあ……」
「まあ自業自得よね」
「アーロウを救いたくないの?」
「誰を?」
「アーロウよ」
「……あんたの言ってることがよくわかんないわ」
ビリーは地図のメモをすぐには渡そうとしなかった。彼女はメモを清子の前にちらつかせてこう言った。
「さ、この地図、いくらで買い取ってくれるつもり?」
結局清子はビリーに三万円支払った。それで大喜びで帰って行ったビリーが清子は憐《あわ》れに思えた。だがそれより三万で売られたアーロウはもっと悲惨だ。そして何よりそれを買って記事を書く自分自身にウンザリした。
しかし清子はそんな感傷に一分で見切りをつけて、三万円の地図をたよりにさっそくアパートへと向かった。
外国人労働者たちの住む汚いアパートだった。部屋には鍵がかかっていて入れなかった。清子は暫《しばら》くアパートのまわりを徘《はい》徊《かい》していたが、ふと気になって郵便受けに手を突っ込んでみた。予感は的中した。見つけた合鍵で清子は部屋に侵入した。
部屋の中はガランとしていた。置き捨てられたクロゼットがそのままになっていた。引き出しを開けても中は空だった。
床には飲みかけのボトルが置き去られ、蝋《ろう》燭《そく》の燃え跡が点々としていた。
清子はふと思い立ってクロゼットを動かしてみた。またしても予感は的中した。クロゼットの裏にはブラシやピンなど落ちたまま忘れ去られたものが残っていた。その中に数枚のポラロイド写真が落ちていた。
清子は顔をしかめた。
グリコのSM写真だった。その中にはあの蝶《ちよう》のタトゥーのアップもあった。蝶の下の文字を清子は読んだ。
「……グリ……コ」
なにか見《み》憶《おぼ》えがあるような気がした。
「あれ? これ……なんだっけ……」
写真を見ているうちに自分がカメラを持って来ていたのを思い出した。
「あ、忘れるところだったわ」
おかげで写真のデジャヴュが頭から消し飛んでしまった。
清子は写真を何枚か撮影して帰った。そしてその夜さっそく記事を書き始めたが、ワープロの頭に見出しを打ったところですぐ行き詰まってしまった。
あまりにも荒《こう》唐《とう》無《む》稽《けい》なその見出しを読み直して、清子は自己嫌悪に陥った。
翌朝、清子は駅前で思いがけないものを発見した。それはグリコのデビューポスターだった。思えば通勤途中でいつも見かけていたのだった。ポラロイド写真を見た時のデジャヴュの原因がこれでわかった。
清子は興奮を押え切れず、人目をはばからずにポスターをはがして持ち去った。
ビリーは清子の編集部だけでは満足できずにほかの出版社を転々として情報を売り歩いた。だんだん欲も出て来て、値段もつりあげていった。本人にしてみれば結構な稼ぎになった。そこでやめておけばよかったのだ。ビリーは欲にかられてついに行ってはならないところに足を踏み入れてしまった。
金城の事務所だった。
代理人が話を聞くことになり、ビリーは部屋の奥に通された。
「須藤を殺した犯人を知ってるって?」
「ヤア」
「須藤は殺されたのか」
「ヤア。でもそれ以上はタダじゃダメよ」
そのころになるとビリーも商談にずいぶん慣れていた。
「いくら欲しいんですか?」
「そうねえ……」
ビリーはちょっと考えた。出版社よりは出してくれるだろう。いくらにしようかしら? そんなことを考えてると、男が言った。
「ちょっと場所を変えましょう。お金がらみの話はこんなところじゃなんだから」
「ええ、いいわ」
二人は部屋を出た。次にビリーが連れて行かれたのは地下の狭い場所だった。
「ここなら存分に話せそうね」
ビリーは部屋を見回して言った。ビリーはなぜここに連れてこられたのかまだわかっていなかった。
彼女の密告のせいであたしたちはとんでもない目にあうことになった。本人のビリーは地下の部屋で拷問責めの挙げ句、相手の欲しい情報を喋《しやべ》るだけ喋って殺された。自業自得だ。
ビリーのいきさつは金城に報告された。
須藤が死んでいたと聞かされて、金城は鼻で笑った。
「フン。須藤らしい死に方じゃないか。売春宿の窓から落ちたとはケッサクだ。で、テープのありかはわかったのか?」
「いえ。女はそこまでは知らないと」
「そうか」
「しかし手がかりはつかめましたので、既に手は打ちました」
「あいつを使え。あいつはいい。なんと言ったかな……蜂《はち》生《う》田《だ》……蜂生田だ」
「ご心配なく。先生がそうおっしゃると思いまして……」
「そうか。あいつはいい。あいつはな……」
金城がやたらにホメあげていた蜂生田というのはプロの工作員だった。
彼は三人の部下を連れて既にビリーの部屋にいた。そして今はアーロウと対戦中だった。ちょうど二ラウンド目の途中ぐらいだろうか。
「あんた、元ヘビー級ボクサーだって?」
蜂生田はアーロウを挑発していた。
「ホントかよ。さっきから全然いいパンチ来てないぜ」
アーロウのパンチはさっきから蜂生田によけられっぱなしであった。しかもアーロウの顔は既に十ラウンドなみに腫《は》れ上がっていた。
アーロウが左アッパーを繰り出した。蜂生田はよろけながら顎《あご》に蹴《け》りを入れた。グラついたアーロウの延髄にもう一発。それでアーロウはダウンした。
「こりゃ、カウントするまでもないな。レフェリー・ストップだな」
そう言って蜂生田は部下から銃を受け取って、アーロウの太《ふと》腿《もも》に一発ずつ弾を撃ち込んだ。
「ギアアァッ!」
「これでもう永遠にカムバックは無理だな、チャンプ。おまけに一生車椅子暮らしだ。でも生きてればまたいいこともあるさ、な、チャンプ。……テープはどこだ?」
「……テープなんか知らねえ!」
「じゃあ須藤の死体はどこに埋めた?」
「知るか!」
「そうだったな。死体は別のやつらが運んだんだっけな。ビリーに聞いたのを忘れてたぜ」
「ビリー? お前ら、ビリーになんかしたら承知しねえぞ!」
「バカ。承知しねえって、どうすんだよ。そんな体で」
アーロウの顔が怒りに震えた。しかし確かにどうにもならない。
「安心しろよ。もう何にもしねえよ。何にもできねえ。……だって殺しちまったもんなぁ!」
部下たちがゲラゲラ笑った。アーロウは自由の利く両手で蜂生田の足にすがりついたが、蹴飛ばされて床をのたうち回った。
「さあ、仕事にかかろう」
蜂生田の部下が鞄《かばん》を広げた。その中には変な機械が入っていた。伸びた二本のケーブルの先に鋭い金属棒がついていた。部下の一人がそれをアーロウの両肩にブスリと刺した。
「グアッ!」
アーロウが絶叫した。
「さあ、ひどくなる前に答えろよ。仲間の名前と居場所をな」
そう言って蜂生田は部下に合図した。部下がケーブルに電流を通した。アーロウは激しく痙《けい》攣《れん》した。
「さあ、言え!」
グリコはマネージャーの星野女史と二人で出版社のオフィスに向かった。そこで雑誌の取材を受ける予定だった。
車の中で星野女史の訓示が始まった。
「フェミニンって読んだことある?」
「いいえ」
「情報誌というのも恥ずかしい低俗な雑誌ね。でも購買層は広いの。そういう低俗な雑誌を読む人間の何人かが必ずあなたのファンになるわけ。これはあなたに限らず、もうメジャーなアーティスト全員の宿命と言えるわ。ファンはアーティストを選び、アーティストはファンを選べない。これは永遠の掟《おきて》だと思って間違いないわ。たとえば仮にあんたが偉くなって、コンサートでフェミニンの愛読者はお断わりなんてこと言ったとするじゃない? そうしたらどうなる?」
「……どうなるんですか?」
「アーティスト生命の終《しゆう》焉《えん》を迎えるのよ。気をつけなさいね」
オフィスにつくとフェミニンの記者がカメラマンを従えて待っていた。その記者とはなんと清子であった。
「初めまして。フェミニンの鈴木野です」
そう言って清子は星野女史に挨《あい》拶《さつ》しながら、グリコの顔を見た。これから始まる謀略にまったく気づいていない彼女の笑顔が清子にはいじらしく思えた。
清子は会議室に二人を案内した。あのビリーと面会した会議室である。ドアを開けて清子がグリコを促した。グリコは何も知らずに清子の罠《わな》の中に足を踏み入れた。
今日の会議室は特別な様子になっていた。白いホリゾントが張られ、ちょっとしたフォト・スタジオが出来上がっている。言うなればこれもダミーだ。写真を撮りたいからというのが彼女をここまで引きずり出せた仕掛けになっていたのだ。
ふたりはむかいあわせに座った。
カメラマンがカメラをセットする中、さっそくインタビューが始まった。
「出身地は?」
「東京です」
「ずっと、東京?」
「いえ。小学校から中学校までフィリピンにいたんです」
「へえ。なに? お父さんのお仕事で?」
「ええ。パパは商社マンだから……」
「タガログ語しゃべれるの?」
「ちょっとは。でももうあんまり覚えてないかな」
「音楽はいつごろからやってるの?」
「高校の時、仲間でバンド始めたんです」
「へえ。最初はどういう音楽やってたの?」
「ソウル系の。ほとんどオリジナルだったんだけど。たまにシュープリームスのコピーなんかもやったかな」
清子は平凡な質問を次々に繰り出した。
インタビュアーの前のグリコは妙にアカぬけていた。清子はこれがあのポラロイドの子かと思うとちょっと信じられなかった。
ドアがあいて、社の人間が顔を出した。
「あの、白いポルシェでいらっしゃってる方いますか?」
「はい」
星野女史が部屋を出て行った。計画通りである。カメラマンも引き続いて部屋を出た。グリコと清子の二人だけのシチュエーションがようやく出来上がった。しかしグリコはそのことにまだ気づいていない。
清子は胸の高鳴りを押えて単刀直入に切り込んだ。
「ちょっと話題がそれるけど、この男知ってる?」
そう言って清子は机の上に須藤の写真を出した。
「え? 誰ですか?」
グリコは写真の顔をのぞきこんだ。まだ何も気づいていない。
「アーロウが殴り殺した男なんだけど」
「………」
グリコの表情にみるみる変化が現れた。
「よく見てね。憶《おぼ》えてる?」
「……さあ」
「そんなことないでしょ。アーロウが殺したでしょ。あなたの部屋で」
「……え?」
「どこに運んだの? 死体」
「あなた、警察の人?」
「いいえ。ただのライターよ。雑誌のライター。だからあんまり怖がらないで正直に話してくれていいのよ」
しかしグリコはすでに警戒心の殻に閉じこもってしまったように見えた。だがそんなことは当然計算の内だ。
「じゃ質問変えるけど、あなた一年前ってどこにいた?」
「え? 一年前ですか?……どこって?」
「住んでたところ」
「……えっと」
「ここに見覚えない?」
清子はあのアパートの写真を見せた。
「住んでなかった?」
「え? ここに?……いいえ」
「あら……?」
清子は何かに気づいたふりをして、グリコの襟の下をのぞきこんだ。
「なに? それ」
「え?」
グリコは清子の視線を追いかけて、自分の胸元を見た。
「なんですか?」
「今、なんか見えたわよ。胸のところに」
「ああ、これ……」
「ちょっと見せてくれる?」
グリコが恐る恐る胸を開いた。
「きれいね。入れ墨? これ」
「……はい」
「いいじゃない。アーティストっぽくって。あれ?」
そこで清子はまた何かに気づいたふりをした。そしてポケットから例のポラロイド写真を出した。蝶《ちよう》のタトゥーの一枚である。
「なんかそれって、これとおんなじね」
清子はグリコに写真を見せた。グリコは我が目を疑った。驚きを隠すのに必死だった。
「…………」
「なんでおんなじなのかしら?」
「……さあ」
「これね、あのアパートで拾ったの。これ、あなたの入れ墨よね」
「……さあ」
「さあ、じゃないわよ! おんなじじゃない。ほら、自分で見比べてみなさいよ」
清子はグリコに写真を無理矢理握らせた。
「ほら、見比べてみてよ!」
しかしグリコは写真から視線をそらしたままガタガタ震えるばかりだった。清子はさらにダメ押しで、残りの写真をグリコの前に並べた。
あのSMの写真だった。
「…………」
「人間いろんな人生があるわよね。あなたの過去に興味があるの。教えてくれない? 悪いようにはしないわ。あたし警察じゃないもの」
「…………」
「毛虫から蝶に変身できたわけ? 今が蝶の人生?」
グリコはしばらく自分の手の中のポラロイドを見つめていたが、いきなりそれを口の中に押しこんだ。
清子があわてて阻止したが、グリコは歯を食いしばって抵抗した。
「バカね! そんなことしたって飲み込めないわよ! そんなもの!」
清子はグリコの顎《あご》を押えながら言った。確かにそうだった。口には入れたものの堅いポラロイドは喉《のど》を通りそうにもなかった。清子もあきらめてグリコから離れた。
グリコは口をモグモグさせながら、まだ飲み込もうと頑張っていた。
「無理よ。飲めないわよ」
清子は呆《あき》れながら言った。
「でもこれであんたがこの事件と深い関係があることが証明されたのよ。わかる?」
グリコの口が止まった。
「あんたのその取り乱した行動が何よりの証拠じゃない」
「…………」
「でしょ。どっちにしろあんたは逃げられないのよ。さ、わかったら、そのヨダレだらけの写真返して」
グリコの目に涙が浮かんできた。そしてべそをかきながら口から写真を出した。清子はその写真を指でつまみあげた。
「この子ったら。ほんと子供みたいなことして」
清子はグリコに少し愛着を感じた。
「今夜、時間もらえる?」
「…………」
「いいでしょ?」
「…………」
「このビルの右っかわに橋があるわ。そこで待ってるから」
清子は机に散乱している写真の中から一枚選んでその裏に待ち合わせ場所と時間を書きこんだ。
部屋に近付く足音が聞こえた。
「マネージャーさんには内緒ね」
そして写真を素早くグリコに渡した。
星野女史が入ってきた。
清子は再び意味のないインタビューを続けた。
「それで、デビューはいよいよ来週ですよね。今のご心境は?」
イェンタウン狩り
『月下酒家』はかつての賑《にぎ》わいを取り戻し始めていた。
常連客たちはあたしにグリコの近況を何かと聞きたがった。グリコは彼らにとっては最大の自慢のタネなのだ。ここで聞いた話をみんな翌日の自慢話にしていくのだった。しばらく彼女の話題に花が咲き、マルチェロがグリコのテーマを歌い出した。
「おお グリコ 我らがマドンナよ
いまやもう ここにはいない……」
それからグリコの成功を祈ってみんなで乾杯することになった。ヒョウが新しいボトルの口を切ってみんなに注いで回った。
「あれ、あんた新顔だね」
ヒョウはリンの隣に座っている薄汚い浮浪者に声をかけた。
「まあ気にいったらいつでも遊びに来てくれよ」
男は目深に被《かぶ》った帽子の下でニマッと笑った。ヒョウがちらっと見ると男はその帽子で顔の傷を隠しているようだった。
乾杯の挨《あい》拶《さつ》はやはりマルチェロだった。
「みなさん、グラスは回ったかな?」
「グラスなんて一個もないぜ。みんな縁の欠けたコップばっかりだ」
誰かが茶々を入れた。
「すいませんね」
ヒョウがふくれっ面をした。
「では、イェンタウンのしがない歌うたいが世界一の歌手へと羽ばたきますことを心より祈りながら乾杯!」
みんなは一気に酒を飲みほした。
それからガルシアたちの演奏が始まった。宴が盛り上がって来たのを見計らって、さっきの薄汚い浮浪者がリンをトラックの陰に呼び出した。
帽子のつばを上げたその男はノスリだった。
「ちょっと耳寄りな情報があってな。蜂生田って知ってるか?」
ノスリは蜂生田の写真を見せた。
「まあチンケな工作員さ。なにやら金城がらみで動き出したって話を聞いてさ。今日、ひとりの黒人が殺された。知ってるかい? アーロウなんとかって男」
「……ああ」
「ちょっと危ないかも知れねえぜ。お前の仲間」
「仲間?……仲間じゃないよ」
「そうかい?」
「ただの隠れ蓑《みの》にしてるだけだ」
「相変わらずつれない奴《やつ》だな。みんないい奴等じゃんかよ」
「……関係ないよ」
「チッ。じゃあ俺の無駄足ってわけかよ」
「…………」
「まあいいさ。今夜はヤケに酒がうめえよ。もうちっと飲んでから帰るとするよ」
それからノスリはヒョウを指さした。
「あいつ、なんてぇの?」
「え?」
「こんなナリした男に気にいったらいつでも遊びに来いってさ」
「…………」
ノスリがみんなのほうへ戻ろうとするのをリンが引き止めた。
「……ちょっと待てよ」
ノスリがふりかえってニヤッとほくそえんだ。ヒョウの声がした。
「おい、リン! なにやってんだよ!」
ヒョウがトラックの裏を覗《のぞ》いた時には二人の姿はどこにもなかった。
清子は橋の横に車を止めてグリコがやって来るのを待った。果たしてグリコがやって来た。
清子はグリコを乗せて走り出した。
グリコは相変わらず警戒心に満ちた様子で下ばかり見ていた。
「さっきはごめんなさいね。ちょっとおどかし過ぎたわ。でもこうでもしないと二人で話せなかったのよ。あたしは雑誌で記事書いてるけどなんでもかんでもネタにしちゃえとは思ってないのよ。でも今はあたしの好奇心が煮えたぎっちゃってるの。もうこれはどうしようもないわ。わかるかな? あなたが歌を歌う時と似てると思うわ。たぶん」
「……あたし好きで歌ってるんじゃないよ」
「あら、歌嫌いなの?」
「……あんまり好きじゃない」
「歌の嫌いな歌手。おもしろいじゃない。どうして?」
「あなたの好奇心のネタにされるのはまっぴらだわ」
「まあ、言ってくれるわね」
またグリコは黙りこんでしまった。
「ねえ、女同士じゃない。そんなに怖い顔しないでよ」
その時、後ろのほうでビシッという鈍い音がした。
「何かしら?」
バックミラーで後ろを見ると窓が割れていた。
「ちょっと、何?」
次の瞬間フロントのガラスが炸《さく》裂《れつ》した。清子は驚いて車を止めた。後からつけてきていた一台のワゴンがその横に止まった。そして中から銃を持った連中がぞろぞろと出て来た。
ふたりは真っ青になった。
ひとりが清子の側の窓に銃をつきつけた。
「開けろ!」
清子が迂《う》闊《かつ》に窓を開けると男の手が伸びてきて車のキイを抜こうとした。清子はあわてて遮ったが男はキイ・ホルダーをつかんで強引にむしりとった。清子の手だけがハンドルの脇《わき》に空しく残った。
「強引な止め方をして悪かったな」
そう言ったのは蜂生田だった。蜂生田は車の中からこっちをのぞいていた。
「プライベートだったらもっとやさしくしてやれるんだがな」
「……なんなの? あんたの仲間?」
清子がグリコに訊《き》いた。とりあえず清子の思いつくのはそれしかなかった。しかしグリコはまさかと首を横にふった。
「降りろ」
蜂生田の部下が言った。
「降りてどうすんのよ」
「いいから降りろ!」
「ちょっと待ってよ! 理由を言いなさいよ」
そう言いながら清子はキイの穴に残した手の中の感触を確かめていた。そこには抜かれたはずのキイがあった。男が無理にひっぱった時にこのキイだけホルダーからちぎれて残っていたのだ。あとはセルを回すタイミングを測るだけだった。
「ゴチャゴチャ言わずに出ろ」
男がドアに手をかけた。清子はあきらめたふりをして自分でドアをあけた。
一瞬の隙《すき》ができた。清子は賭《か》けに出た。
目の前の銃口が下がった瞬間をねらって思いきりキイを回しながら叫んだ。
「伏せて!」
清子の合図にグリコはすぐ反応した。車のエンジンがかかった。同時に頭の上を銃弾の嵐が駆け抜けた。清子は一気にアクセルをふかした。
それからどうやって発進できたのか清子にもわからなかった。
我に返った時はもう一二〇キロのスピードで疾走していた。
男たちはあわててワゴンに飛び乗った。清子のキイを抜くのに失敗した男を蜂生田が車から蹴《け》落《おと》した。
「アマチュアじゃねんだよ。俺たちは」
男をひとり置き去りにしてワゴンは発車した。
「ちょっと、この窓なんとかしてよ!」
清子に言われてグリコは割れたフロントガラスを肘《ひじ》でたたき落した。風がすごい勢いで車内に吹き込んだ。
「あんな車よりはこっちのほうが早いわよ」
そう言って清子はアクセルをふかした。
「やるじゃん、あんた」
グリコが感心して言った。清子が文句ありげな顔でふりかえった。
「あんた、なにやったのよ!」
「え? あたし? 知らないわよ」
「知らないって、とぼけないでよ。今度こそはちゃんと全部話してもらうわよ。あたしの車がこんなになっちゃったの誰のせいよ!」
「あたしのせい?」
ふたりが余計なことで争っているうちにいつの間にかワゴンがすぐそばまで来ていた。
「うそ! なにあの車。特注?」
銃弾が車の横っ腹に炸裂した。
「ちょっともうやめてよ! まだこれローン残ってんのに!」
しかし蜂生田たちの追撃は容赦なかった。清子が音を上げた。
「……もう、だめだわ。どうしようかな」
清子はいきなり減速した。ワゴンが隣に見えた瞬間、清子はハンドルを右に切って猛然とアクセルをふかした。
「伏せて!」
清子の車はワゴンに衝突し、はじき飛ばされた。グリコがふりかえるとワゴンは反動で対向車線に乗り上げて大型トラックと衝突した。
「すげえ……」
炎上するワゴンを見て思わずグリコはつぶやいた。
「ビリヤード得意なのよね、あたし」
清子は減らず口をたたきながらも鼻息は荒かった。
炎上するワゴンから脱出できたのは蜂生田ひとりだった。部下を失ってもなお蜂生田は平然としていた。
「ワゴンがやられた。武器もろともだ。手下もだ。新しくそろえ直せ。それから人足はもっとちゃんとしたやつをよこせ。これじゃあ仕事にならんぞ」
携帯電話で次の車と武器を手配した蜂生田は燃え盛る車を見ながらのんびり煙草をふかした。
清子の車は依然走り続けていた。どこへ、というわけでもない。とにかく走り続けなければならなかった。
「あんたたちの仲間もヤバいかもよ。下手するともう襲われてるかも」
そう言われるとグリコも落ち着いてはいられなかった。それを察知した清子がグリコを促す。
「話してちょうだい。あんたたち須藤を殺したんでしょ?」
グリコはようやく話し始めた。
「殺したのはアーロウ。でも彼は悪くないわ。ひどいのはあいつよ。アゲハを襲ったの。アーロウはただそれを助けようとして……」
それはビリーに聞いた話だ。聞きたいのはその後だった。
「アーロウを残して、あんたたち須藤の死体を捨てに行ったでしょ。どこに捨てたの?」
「埋めたのよ」
「どこに?」
「外人墓地」
「……墓地」
「お兄ちゃんが守衛をしていたの。だからそこに……」
「墓地とは考えたわね」
その時、グリコがふとあることを思い出した。
「……テープだわ」
「え?」
「きっとそうよ」
「何?」
「テープが出て来たのよ。あいつの腹の中から!」
「……なにそれ」
「あいつ、腹の中にテープを埋め込んでたのよ。おなか切って」
「なんですって?……じゃあ、それをあいつらが追いかけてるっていうのね」
「わかんないけど」
「何のテープだったの?」
「わかんない」
「誰が持ってるの?」
「ヒョウか……リン」
「ふたりは今どこ?」
「え?」
「どこにいるの」
「ヒョウは……お店かな……」
「お店?」
「あたしが歌ってた店」
「じゃあまずそこに行ってみましょうよ。道教えて」
ようやく行き先の決まった清子の車は大きくUターンしてクラブ・マイウェイに向かった。
クラブ・マイウェイはもう店じまいの時間だった。
店には女の子の姿もなく浅川がひとりで売り上げの計算をしていた。そこに蜂生田が現れた。
「すみません。もう閉店ですよ」
そう言ってふりかえった浅川は血の気が引いた。蜂生田が銃をこちらに向けていたからだ。
「ご、強盗だ!」
浅川は思わずそう叫んでテーブルの上に広げていた売り上げを隠すようにかき集めた。
「バカ。勘違いすんな。おい、ここにイェンタウンの男が何人かいるだろ」
「え?」
「連れて来い」
その時、ゴミを出してきたフニクラが店に戻ってきた。
「フニクラ、逃げろ!」
その声と銃声に驚いてフニクラは店内を見た。知らない男が銃を持っていて、銃口からは弾が連射されていた。その連射されている相手は浅川だった。浅川は何発も弾を体に浴びてまるで踊っているようだった。とっさに逃げようとしたフニクラを蜂生田の部下たちが包囲した。
浅川を仕留めた蜂生田が近づいてきた。蜂生田は英語で喋《しやべ》った。
「なあ、テープどこだ」
いきなり言われてもフニクラはピンと来なかった。フニクラはガクガク震えるだけで、言葉が出て来なかった。
「英語わからないのか? どこのイェンタウンだ、お前」
「……フィリピン」
「フィリピン?」
そこから蜂生田はタガログ語を使った。
「じゃあ、タガログ語でわかるのか? それともビサヤ語か?」
「…………」
「テープはどこだ?」
「……し、知らない」
「知らないわけないだろ。アーロウに聞いたぞ。須藤の腹の中から出てきただろ。カセットテープだ」
「……さあ」
「アーロウは死んだ。感電死だ。ビリーは胸に二発弾食らって死んだ。乳首に二発だ。わかるな。答えないとおまえもそうなるぞ」
フニクラは根性がない。そんな脅され方をして耐えられるわけがなかった。
「……ヒョウかリンが持ってるよ」
「どこにいる」
「ここにはいない」
「だから、どこにいるんだ」
「ちょっと遠く……ね」
「案内しろ」
蜂生田はフニクラを連れて店を出た。
グリコと清子が店についたのはその直後だった。店には浅川の無残な死体が転がっていた。
「知ってる人?」
「ええ。この店のオーナー。気の弱い人だったけど」
グリコは呆《ぼう》然《ぜん》と死体を見つめた。
ふたりはフニクラやヒョウやあたしを探した。
「連れて行かれたのかしら」
「……空き地かも知れないわ」
グリコが言った。
もう猶予はなかった。ふたりは浅川の死体をそのままにして店を出た。
車の中でグリコは急に目から涙をこぼした。
「どうしたのよ!」
「あたしのお兄ちゃんが死んだ時……」
「お兄ちゃん?」
「ふたりいたの。ひとり死んだのよ。交通事故で」
「…………」
「目の前に転がってる死体を見ても泣けなかったの」
「……こんな時に、なんの話?」
「今もそう。アサカワが死んでたのに、泣けなかったわ」
「…………」
「泣けないもんね、死体見ても」
「泣いてるじゃない」
「……これはお兄ちゃんのこと思い出したのよ」
「……こんな時に?」
「いいじゃない!」
清子はただあきれるばかりだった。
死の砦
もう明け方になっていた。
あたしは急に目を覚ました。胸のあたりがジンジン火照って痛かった。あたしは幌《ほろ》をこっそり抜け出して、水で胸を冷やした。
どうも胸の蝶《ちよう》が腫《は》れてるみたいな気がしてトラックの運転席に昇って、車内灯をつけて確かめてみた。ちょっと赤くなっている。彫りたてのタトゥーだから炎症をおこしたのかも知れない。
あたしは濡れたタオルを胸にあてて、運転席に横になった。
なんか異様にいやなにおいが鼻をついた。トラックのオイルのにおいだろうか。それにやけにあたりは静かだった。こんな時間だからだろうか。
心臓がドキドキしてきた。
全身の神経がなにかひどく研ぎ澄まされているような感じで、もう眠気はどこかに吹き飛んでいた。いやなにおいがいっそうひどくなってきた。
そして背中に低い地響きを感じた。
……車の音だ。だんだん近づいてくる。あたしはあわてて車内灯を消して外をのぞいた。
こんな時間に誰だろう?
車はすぐそばで止まった。エンジンを切ってしばらくそのままだった。
また同じ静寂が戻った。遠くで犬の吠《ほ》え声がした。
そのうちドアがあいて誰かが車から降りてきた。
フニクラだ。
物音に気づいてヒョウも目を覚ました。
「……ヒョウ!……ヒョウ!」
フニクラが声を殺して呼びかけた。
「ヒョウ!……ヒョウ!」
ヒョウが幌から顔を出した。
「なんだ? フニクラじゃないか。どうした?」
「ヒョウ、お前、テープ持ってるか?」
「え?」
「テープだよ」
ヒョウは怪《け》訝《げん》な顔をした。
「なんのテープ?」
「……あの男の……腹から……ホラ」
「え? なんの話だよ」
ヒョウはフニクラの様子がおかしいことに気づいた。
よく見ると膝《ひざ》がガクガク震えている。
「ホラ、あの男の腹から出てきたテープだよ」
「あのテープがどうした?」
「持ってるか?」
ヒョウはフニクラが乗ってきた車をちらっと見た。暗くて見えないが、他に誰か乗っているのだろうか? だいたいこんな時間にあんなテープを取りに来るフニクラというシチュエーションがあまりにも現実離れしすぎていた。ヒョウはただならぬものを直感的に悟った。
「ああ、ちょっと待ってくれ。探してみる」
そう言ってヒョウは幌《ほろ》の中にひっこんだ。
「あんなの、どうするんだ?」
「ちょっとな」
ヒョウはソファの奥に手を突っ込んで何かをひっぱり出した。新聞紙でくるんだその中身は拳《けん》銃《じゆう》だった。ヒョウはそれをそっと確認した。弾はちゃんと入ってる。
「ちょっと見あたんねえな」
そう言ってヒョウが顔を外に出した時、車の中から一斉に男たちが飛び出して来た。フニクラはまるで子供みたいな泣き顔になって嘆願した。
「殺さないでくれぇ!」
しかし連中の銃は無情にもフニクラを蜂の巣にした。泣きながらフニクラは炸《さく》裂《れつ》した。
ヒョウはすかさず拳銃を連射した。
三発命中して、三人が倒れた。あとの三発は空を切った。
まだ二人いた。
ヒョウは幌の中に逃げ込んでソファの下から予備の弾をつかみ出して弾倉にこめようとしたが、あわてていてなかなか指先が思うようにいかない。
相手はマシンガンを乱射して来た。弾は幌を貫通して部屋の中を思うがままに破壊しまくった。ヒョウはようやく弾を装《そう》填《てん》し終えたが横なぐりの弾幕に頭をあげることができない。
大胆にも男のひとりがいきなり駆け上がってきて幌をまくりあげた。
ヒョウはすかさず撃った。弾は男の胸を直撃したが、幌をまくりあげた手をおろさない。防弾チョッキを着ているのだ。
男は銃をヒョウに向けたが弾を受けたショックでちゃんと構えられず、少しよろめいた。その後ろからもうひとりが撃ってきた。ヒョウは手前の男の頭を狙《ねら》って一発撃った。男は倒れて仲間の弾幕をモロに浴びた。ヒョウも右の肩に傷を負った。
再び幌が降りて間を塞《ふさ》いだが、残りのひとりはお構いなしに撃ってきた。ヒョウは椅《い》子《す》を盾にして応戦した。幌が間にあって相手が見えないままお互い闇《やみ》雲《くも》に撃ちあった。
こっちの弾はすぐなくなった。また新しく装填している間も弾幕は途切れる事はなかった。
ヒョウはあたりを見回した。幌の横に隙《すき》間《ま》を発見して、躊《ちゅう》躇《ちょ》する間もなくそこから外に飛び出した。転がった地面に這《は》いつくばったヒョウは車のタイヤごしに男の足を見つけた。
ヒョウはそこに二発撃った。
一発が命中して、男は崩れ落ちた。今度は顔が見えた。ヒョウはそこに三発撃ち込んだ。
二発命中して男は死んだ。
ヒョウは立ち上がって、車の後ろに回った。男たちの死体を飛び越えながらフニクラのところに歩み寄った。フニクラの泣き顔はまるで笑っているようだった。
ヒョウは呆《ぼう》然《ぜん》とその顔を見つめた。
その時、一発の銃声が鳴り響いた。ヒョウは足に激痛を感じて地面に吹き飛んだ。車からもうひとり、男が姿を見せた。蜂生田である。
「おい、テープはどうした?」
「……きったねえ。まだいたのかよ」
「俺はテープはどこかって聞いてるんだよ」
「知らねえよ」
「知らない筈《はず》あるか。お前が持ってるんだろ?」
「知らねえよ……」
ヒョウは蜂生田を撃ったが命中しなかった。
「バカじゃねえの? もうお前それで弾切れだぜ」
ヒョウは観念した。
「……わかった。渡す。渡すよ……」
ヒョウは立ち上がると足をひきながら荷台に昇った。ひっくりかえった荷物の中からあのテープを拾い上げた。幸いにもそのすぐ傍に予備の実弾が一本転がっていた。ヒョウはテープと一緒にその弾を拾った。しかし装《そう》填《てん》できる余裕はなかった。ヒョウはとりあえずテープを蜂生田に投げた。蜂生田はそれを投げ返した。
「かけて見ろ」
「かけたってわかんねえよ」
「いいからかけろ」
ヒョウはラジカセにテープをかけた。その隙に弾をこめるのに成功した。ラジカセからはロックが流れはじめた。
「いいかげんなものよこしやがって。もっと頭使えよ、イェンタウン」
「ほんと、これだって。ちゃんと聞いてよ。ホラ。データー信号が混入してるの聞こえない?」
「でまかせ言うなよこの野郎!」
「ほんとに聞こえない? あんたプロかよ」
「…………」
「あとで調べてみろよ。ちゃんと入ってるからよ」
そう言ってヒョウはもう一度蜂生田にテープを投げた。テープは少し手前に落ちた。
「これだろ? とっとと持ってけよ。俺たちが持っててもしょうがねえ」
「わかってるじゃねえか」
「……こんな大げさなことしやがって」
蜂生田は二歩三歩前進してそれを拾おうとした。ヒョウは銃を構える用意をした。ところが蜂生田は拾う前にもう一度顔をあげて出し抜けに三発ヒョウに向けて銃を放った。
とっさにヒョウも撃ち返したがまたしても弾は逸れた。
蜂生田の弾は正確に三発、ヒョウの胴体を貫いていた。
ヒョウはそのままトラックから転落した。
蜂生田はヒューと口笛を鳴らした。
「いつの間に弾こめやがったんだこいつ。素人のくせになかなかいいセンスしてやがるぜ」
蜂生田はあらためてテープを拾い、悠々と去っていった。
気がつくとあたりはうっすらと白んできていた。
何度聞いても蜂生田にはただのロックにしか聞こえなかった。蜂生田はカーステレオのヴォリュームをマックスまで絞りあげたが、聴き取れなかった。
「まあ、いいさ。解析するのは俺の役目じゃない」
エジェクトボタンを押すとテープはすごい勢いで飛び出した。蜂生田はハンドルを握りながら腰を屈めてテープを拾った。そしてふたたび前方を見るとゴミ清掃車が車道の真ん中に立ち往生して行く手を遮っていた。
蜂生田はクラクションを鳴らした。
中国人の清掃員が手を上げて蜂生田を止めた。
蜂生田は警戒して既に左手に銃を隠し持っていた。
「車が煙吹いちゃって、ちょっとワキに寄せるの手伝ってくれよ」
中国人は片言の英語で言った。
蜂生田は助手席のオートウインドをあけて怒鳴った。
「早くどけろ!」
「どかねえから頼んでんだろ!」
蜂生田はアクセルをふかして側道を突っ切った。バックミラーに中国語で叫ぶ清掃員の姿が見えた。
「どこもかしこもイェンタウンだ。いつからここはイェンタウンの国になっちまったんだ」
窓から吹き込む風を嫌って蜂生田はオートウインドを閉めた。コツンという小さな音がした。続いて窓のモーターがウィーンと軋《きし》むようなうなりを上げた。
蜂生田は窓を見た。
車の外に誰かが立っていた。しかもすぐ目の前だ。
蜂生田は息をのんだ。
走行中の車の外に人が立っているのだ。まるで幽霊みたいに。おまけにそいつはライフルをこちらに向けて構えていた。
……リンだった。
ライフルの銃身は窓を越えて蜂生田からわずか数インチのところまで迫っていた。そしてその銃口は肩のあたりを狙《ねら》っていた。
こんなにあっさり射程ラインを許したのはこの時が初めてだった。しかもこんな至近距離だ。
その気配に蜂生田は全く気づかなかったのだ。自信過剰になっていた蜂生田は一瞬パニック状態に陥った。左手に銃を握っているのにそれを相手に向けることができない。左手を動かす前に撃たれる。蜂生田はそう思った。ところがリンはなかなか撃たなかった。
オートウインドがリンのライフルを上に押し上げて、それにつれて照準も肩から首へと動いてゆく。それがカウントダウンだった。すぐに撃たないリンのやりかたがプロを自負する蜂生田のプライドを打ち砕いた。
(こいつ、遊んでやがる!)
蜂生田は恐怖のあまり絶叫した。
「撃てよ!」
しかしそれが合図にはならなかった。リンがあくまで窓のカウントダウンに従ったからだ。
ほんの二、三秒の間が、恐らく蜂生田にはあまりにも長い時間に思えただろう。
銃口が蜂生田の額に達した時、リンは引き金を引いた。
破裂した蜂生田の頭が窓という窓を一瞬のうちに赤くペイントした。ワゴンはそのまま車線をはずれてガードレールに激突して止まった。
リンは既に車から飛び降りていた。
止まったワゴンはサイレンのようにクラクションを鳴らし始めた。
後ろから清掃車がやってきた。
「こりゃ大変だ! 救急車呼ばなきゃ!」
そう言って清掃員が降りてきた。
「あんた、ケガないかね」
リンはワゴンの運転席のドアをあけた。
後頭部を失った蜂生田がうつぶせになってハンドルにもたれていた。リンはその襟首を持ち上げてあおむけにした。クラクションが止まった。リンは蜂生田の膝《ひざ》に転がっていたテープを拾ってポケットにしまった。清掃員が後ろから覗《のぞ》きこんで言った。
「プロって言うには百年早いな」
その頃あたしはというと恐怖のあまりトラックの中から動けなかった。ただ黙ってシートの下にうずくまっているばかりだった。
蜂生田の車が去ってすぐ、一台の清掃車がやって来た。それはほんとにすぐだった。
中からリンと清掃員に化けたノスリが降りてきた。
ノスリは死体を次々に清掃車の後ろに放り込んだ。
「おい、ナツロウ。サボッてないでお前もやれ!」
ノスリはそう言いながらひとりでふたつの死体を軽々と肩に担いでいた。
リンはトラックの下に逆さまになって転がっていたヒョウのところで足を止めた。
「なんだよ、タフだな、ヒョウ」
ヒョウは生きていた。逆さまのままリンを見あげた。
「……やったのか?……あいつ」
ヒョウが苦しそうに息をしながら言った。
「しゃべるな」
「顔が血まみれだぜ」
リンは笑って顔をシャツで拭《ふ》いた。ノスリがやって来てヒョウを見た。
「こいつは?」
「シートに乗せてくれ」
「OK」
ノスリがヒョウの両腕をつかんで持ち上げた。ヒョウは痛みで絶叫した。
「それだけでかい声が出れば大丈夫だ」
そう言ってノスリはヒョウを担ぎ上げた。
「フニクラは……?」
ヒョウがリンに聞いた。フニクラの死体だけが地面に転がったままだった。
「……グリコ悲しむな」
そうしてヒョウは複雑な表情でフニクラに別れを告げた。
リンはそれからトラックの窓をのぞきこんだ。そしてシートの下にうずくまっているあたしを見つけたが、別に驚く様子もなかった。リンは黙ってあたしを見ていた。
あたしも見つめ返した。
リンは不意に口に指をあてて「シーッ」という仕草をした。あたしには何のことだかわからなかった。それだけやってリンは何も言わずに行ってしまった。
リンたちの清掃車が去って、あたしはようやく外に出た。もうこれでおしまいかと思ったらまた車がやって来た。あたしは一瞬トラックの陰に隠れたが、その必要はなかった。その車にはグリコが乗っていた。
途中で彼女たちは二台の車に遭遇した。一台は大破したワゴン。ふたりは車を止めて中をのぞいた。そして無惨な蜂生田の顔を見た。清子は道の脇《わき》の草むらに入って行ってそこで嘔《おう》吐《と》した。その時一台の清掃車が通り過ぎた。グリコはそこにリンの姿を見たような気がした。
そしてふたりはようやくここに辿《たど》り着いたのだった。
現場に降り立ったグリコは何よりも最初にフニクラの死体を見つけた。
実の兄の遺体を見ても予言通り涙は出なかった。
「知り合い?」
「お兄ちゃん。もうひとりの……」
「…………」
「これで遂にひとりぼっちだわ」
グリコは何を思ったのかフニクラの死体を清子の車までひきずった。
「ちょっと、どうするのよ」
「捨てるのよ!」
「え?」
「ちょっと手伝って」
「どこに?」
「海よ」
「どうして! あんたのお兄ちゃんじゃないの? それ!」
「死んだら誰もクソもないわ。それがイェンタウンなのよ」
そう言うグリコの目からようやく涙がこぼれ落ちた。
フニクラは海に葬られた。海を渡ってきたイェンタウンらしい最期だった。
三度目のウッディー
あたしたちは警察の取り調べを受けた。警察はグリコとあたしを隔離するためにわざわざ部屋を二つ用意してくれた。
刑事の亀和田はその二つの部屋を行ったり来たりで、汗だくだった。
「殺し専門のプロだそうだ。あの蜂生田という男。君も殺されなかったのはラッキーだったぞ」
「キヨコのお陰だわ」
「フェミニンの鈴木野清子か? 彼女にはまいったよ。なんにも話してくれないんだ。そりゃガンコなもんだ。なんか記事を今書いてるらしい。それを読んでくれって言うんだよ。金城の陰謀を暴いてやるっていきまいててね」
「……彼女らしいわ」
「だがそううまくはいかんよ。金城は我々が先に挙げる。もう時間の問題さ」
亀和田は金城逮捕に異様な執念を燃やしていた。スッポン、マムシ、イタチにサメにタコ坊主。どれもが刑事亀和田につけられたニックネームである。でもそんな亀和田でさえ貝のように押し黙ったあたしにはほとほと手を焼いたことだろう。彼はあたしの身許を聞き出すことさえできなかった。
「君のパパやママはどこにいるの?」
「知らない」
「いないのかい?」
「知らない」
「国はどこだい?」
「知らない」
「生まれた国だよ」
「知らない」
「生まれた国もわからないのかい?」
「生まれた時のことなんか、おじさん覚えてる?」
あたしはだいたいこんな調子だった。
(……何も喋《しやべ》るな)
あの時のリンのサインはきっとそういうことなんだろうとあたしは解釈していた。あたしはその言いつけを忠実に守った。
亀和田はそんなあたしに自分の娘と共通点を見つけたようだった。
「どうしてこの年頃の娘ってのはみんなこうなんだ?」
むしろグリコを相手にしているほうが楽みたいで、そのうちこっちには顔を見せなくなった。
グリコは元気がなかった。フニクラのこともあった。ヒョウたちが未だに消息不明なこともあった。
「ビリーが情報をマスコミに売り歩いていたんだ。アーロウが須藤を殺したいきさつをね。まったくひどい女だ。だがお陰で事件の様子がだいぶ見えて来た。ビリーの話によれば須藤は強《ごう》姦《かん》未遂。アーロウは過失致死。君たちは死体遺棄ってことになる。まちがいないか?」
「そうね」
「ちょっとややこしい事件だ。今日から当分勾留生活を送ることになるが、まあ覚悟しとくんだな」
「……OK」
「ところで須藤が死んだ時、彼は何か持ってなかったか?」
「え?」
「なにか……そう、書類か、帳簿みたいなもんかな」
「カセットテープなら持ってたわ」
「カセット?」
「ええ」
「どんな?」
「普通の。でも変なところにしまってあったけど」
「どこ?」
「おなかの中」
そう言ってグリコは自分の下腹部を指さしてみせた。
「それだ!」
亀和田のあまりの驚きぶりにグリコもびっくりした。
「それに間違いない! どこだ? 今どこにある!」
「リンが持って行ったわ」
「その後は……」
「知らない」
亀和田の歓喜も束の間だった。
「……結局そこか」
「リンたちの行方はわからないの?」
「さっぱりだ。リンにヒョウにフニクラ。フニクラは君のお兄さんだったな」
グリコはフニクラを海に捨てたことを警察には黙っていた。
「……みんな死んじゃったのかな?」
「わからん。ひょっとしてうまく逃げ延びてこの街のどこかに隠れているのかも知れん。この街は隠れるには最適なところだからな。阿《ア》片《ヘン》街なんかに逃げ込まれたらもう絶対見つからんよ」
亀和田はブラインドごしに街を眺めた。
「ほんとにいつからこんなになっちまったんだ。『円の都』か。昔は一ドル三百六十円だったの知ってるか?」
あたしたちはそれから亀和田と一緒に警察を出た。待機していたパトカーに乗り込んだあたしたちに誰かが駆け寄ってきた。マッシュミュージックの本田だった。
「俺はあきらめてないからね。こんどの不祥事は君のせいじゃない! 絶対一緒にやろう!」
パトカーが発車しても本田はしばらく追いかけて走った。
「もったいないんじゃない? あんな熱心なスタッフもいることだし」
そう言って助手席からふりむいたのは清子だった。
「また歌いなよ」
グリコは本田の粘りに少し心動かされたようだったが、結局きっぱりとこう言った。
「ああいう派手な世界ってガラじゃないでしょ? あたしなんたってイェンタウンよ」
その日はよく晴れた仏滅の土曜日。
亡きウッディー・ウエストウッドの未亡人のヘレンが親族と共に墓地を訪れた。愛する主人をなくしてから一年が過ぎていた。
ヘレンは花を墓前に供えながらハンカチで涙をおさえた。旧友バーバラが彼女を慰めながら、つられて目をうるませた。式にはまたしても坊主と神父が肩を並べていた。
神父が聖書の言葉を読みあげている最中に数人の背広姿の男たちがやってきた。着古されたその背広はどう見ても式典用ではなさそうだった。男たちは後ろでなにかひそひそ話をしていたが、すぐに黙って参列に加わった。
神父が聖書を読み終え、式典が終わると男たちはトランシーバーを取り出してなにか交信を始めた。するとほどなくして似たような格好の男たちがぞろぞろやって来た。その後からは警官隊が、そして工事用の黄色いクレーン車が次々に現れてウッディーの墓を包囲した。
警察官がヘレンに何か説明している。
ヘレンは烈火の如く怒り出し、警官に喰《く》ってかかった。
さっきまでの静かなセレモニーが嘘《うそ》のような騒ぎが始まった。クレーンのケーブルが墓を吊《つ》り上げ、ヘレンは貧血でその場にヘタヘタと座り込んでしまった。親族たちも、神父も、そして坊主も目を白黒させて成り行きを見守った。
こうして須藤寛治の死体発掘が始まった。
グリコとあたしは確認のため亀和田に連れられて現場入りした。
亀和田が空中で揺れてるウッディーの墓を指さした。
「あの墓に間違いないな」
「……はい」
その隣で清子が一生懸命カメラのシャッターを切っていたが、亀和田の注意を受けた。
「君、今日は参考人で来てもらってるんだから、困るよ、そういうの」
カメラを取り上げられそうになった清子はあわてて鞄《かばん》にしまった。
「開けますよ!」
警官が叫んだ。亀和田が人垣をかきわけながらあたしたちを最前列に連れて行った。ヘレンは自力で前進した。
「ヘレン!」
バーバラがその後を追った。
大勢の見守る中で御開帳は始まった。蓋《ふた》がゆっくりと開けられた。
全員が固《かた》唾《ず》を飲んだ。
亀和田がハンカチで口を押えながら言った。
「あれか?」
「え?……」
グリコはそれから言葉が出なかった。
そこには相変わらずライフル・ポーズのウッディーが黄色いミイラになって横たわっていた。ところがその隣に添い寝しているはずの須藤のミイラがどこにもなかった。
「あれじゃないのか?」
「え?……あれ?」
グリコの返答はしどろもどろだった。その時ヘレンが大声で叫んだ。
「あなた!」
バーバラが後ろからヘレンを抱きかかえた。ヘレンは泣き叫びながら言った。
「なんて姿なの! あれじゃあ北京ダックじゃないの!」
その時ヘレンの脳裏をよぎったのはウッディーと中華街を歩いた甘い記憶だったのかも知れない。バーバラがヘレンを慰めた。
「だから言ったじゃないの。火葬の方がマシだって!」
「もう嫌よ! どっちも嫌! ねぇバーバラ、もしあたしが死んだら一体どうやってお墓に入ればいいのよ!」
亀和田はようやく事の次第を理解したようだった。
「……間違えたのか?」
グリコは激しく首を振った。
「じゃあ、なんでないんだよ!」
「さあ……」
部下の小山刑事があたりを見回して言った。
「……試しに他の墓もあけてみますか?」
亀和田は小山の顔に自分の顔をこすりつけるようにして怒鳴った。
「どれを掘るって? なんならお前の好みの墓を言ってみろ!」
結局現場検証は打ち切られた。清子は鼻をふくらませて意気揚々とこう言った。
「これでまた面白い記事が書けるわ」
それよりあたしはウッディーの左手が気になってしかたがなかった。天に向かってかざしたその手は何かを握っていた。あんなモノ、この前はなかった。
あたしは飛び降りてそれを取ろうとした。
「あっ! バカ! さわるな!」
捜査員が驚いてあたしを止めにかかった。でももう遅い。あたしはもうそれをウッディーの手からむしり取っていた。
それは例のテープであった。
「リン……?」
それは間違いなくリンの仕業だった。あたしは可笑《おか》しくてもう少しで吹き出すところだった。
清子が飛び降りてきた。亀和田も声を上げた。
「あっ! そのテープ!」
清子はあたしからテープを奪い取って歓喜の叫び声を上げた。
「これだわ! これ!」
「おいこら! それをよこせ! それはこっちのモンだ!」
亀和田も飛び降りた。ところが着地に失敗してそのまま棺《かん》桶《おけ》の中に転倒した。
それがウッディーの断末魔となった。ウッディーは亀和田の腹に押し潰《つぶ》されて粉々に砕け散ってしまった。
ヘレンが気絶したのは言うまでもない。
さすが警察はプロである。あのテープはすぐに解析されて金城の不正が暴露された。亀和田は念願の金城逮捕にほくほく顔であった。
その亀和田に対してヘレンが訴訟を起こした。勝手に墓を暴いた上にウッディーの身体を粉々にしてしまったからだ。弁護士が起訴状に器物損壊と書いてヘレンは彼を首にしたんだと清子が面白可笑しく話してくれた。そしてその清子は今取り憑《つ》かれたように自宅で原稿を書いている。
「できたら本にして出版するわ。印税が入ったらわけてあげるわ」
そんなことを言っていた。
ようやく釈放になったグリコとあたしは懐かしい空き地へ帰った。
その日、『月下酒家』の常連たちがいつもより早く集まっていて、まだ日も暮れないうちから飲んでいた。みんなひさしぶりのグリコの顔を見て大喜びだった。
「さあ、鍋《なべ》が出来たぞ! ちょっとそこあけてくれ!」
そう言ってトラックの陰から鍋を持って現れたのはなんとヒョウだった。ヒョウはあちこち包帯を巻いていたが元気そうだった。
「よお、二人とも丁度いいとこに来たぜ! これから宴会始めようってとこだ。一緒にやろうぜ」
ヒョウは相変わらずの軽口をたたいた。
「何言ってんだよ。二人の出所祝いやろうって俺たち呼んだの誰だよ!」
マルチェロがそう言うとみんなが笑った。
グリコはちょっと涙ぐんでいた。あたしが横から耳打ちした。
「ヒョウに抱きつきたいんじゃないの?」
グリコはバカ、と言ってあたしの頭をたたいた。その会話がガルシアに聞こえてしまったみたいだ。ガルシアはでっかい声でヒョウに言った。
「ヒョウ! グリコが抱きつきたいってさ!」
「え? なんだって?」
「抱きつきたいって!」
「なに? 誰が抱きつきたいって?」
ヒョウがこっちにやってきた。そしてグリコの前に立ってもう一度言い直した。
「誰が抱きつきたいって?」
グリコはヒョウに力一杯抱きついた。みんなが一斉に歓声を上げた。傷だらけのヒョウは痛みをこらえきれずに絶叫したが、その歓声にかき消されてしまった。
あたしはお楽しみの二人に割り込んだ。
「ねえ、ヒョウ。あのテープ誰がやったの?」
「え?」
「棺桶の中のテープよ」
「なんのことだい?」
「リンとやったのね」
グリコがあきれて言った。
「え? あれ、あんたたちの仕業なの?」
ヒョウはとぼけて話題を変えた。
「あ、そう言えば二人におみやげがあるぜ」
「ちょっと待って、じゃあ死体はどこにやったの?」
「その前におみやげを見せなきゃ」
不思議とみんなもヒョウに同調して、おみやげを見ろ見ろという。
「そのトラックの荷台に入ってる。みんな俺たちのもんだぜ」
ヒョウは何か含みのある言い方だった。
そんなに言うもんだからあたしたちはそのおみやげを見に行った。
「なんのおみやげ?」
「インドのおみやげさ」
「インド?」
グリコには何のことだかわからなかっただろうけど、あたしはそれでピンときた。
「あそこに埋めたのね、あの死体」
ヒョウがうれしそうにうなずいた。
グリコが幌を開けた。
なんとトラックの中はインドの財宝でいっぱいだった。
「なによ! これ!」
グリコの驚いたその顔に思わずあたしは吹き出した。
「たぶん、魔法がきいたのよ」
そしてあたしはシャツをひっぱって中をのぞいた。胸の中の蝶《ちよう》は不意に吹き込んできた風に羽根をぶるっとふるわせた。翔《と》び立ちたくてうずうずしてるみたいだった。
たしかに今日の風は、いいにおいがした。
あとがき
この小説を書いたのは三年前。『打ち上げ花火、下から見るか横から見るか』を撮り終えたばかりの頃だった。 『打ち上げ花火』は自分の中でも特に思い出深い仕事で、撮影の間、子供たちと一緒に駆け回った日々がまるで本当の子供の夏休みを追体験しているようで、胸迫るものがあり、九月に入ってもずっとその余韻が尾を引き、何度もビデオに手が伸びかかったが、見たら最後、また夏休みに逆戻りしてしまいそうで懸命に我慢しながら僕はこの小説を書いていた。
『フライド・ドラゴン・フィッシュ』からちょうど半年が過ぎていた。まわりからあれの続編をやろうとそそのかされて、それで書き始めたのがこの小説の本当のきっかけである。続編とか言いながらあの主人公たちがほとんど出てこないような話にしてしまおう。それは最初から企んでいた。別な主人公たちが話を占領して、辛うじて関わって来るのが正体不明のナツロウ。……だいたいそんなぐらいから物語を作りはじめた。
やがて『円都(イェンタウン)』という架空都市が生れ、アゲハ、ヒョウ、フニクラ、グリコといった登場人物が生れた。
書き上がったこの小説はすぐに映画プロデューサーの河井真也氏のもとに届けられ、続けて僕はシナリオの作成に取りかかった。実はこの小説は当時出版が目的だったわけではなく、あくまで企画書のつもりで書いたものだった。映画やドラマの場合、先ず企画書というのがあって、わかりやすく言うと二、三枚のあらすじみたいなものなのだが、これがやるかやらないかを決める重要な鍵になる。僕たちはいつもそれで勝負しなければならないわけだが、かたや小説を原作にしている場合、先ずみんな小説を読むわけで、それは数枚のあらすじとはわけが違う。おんなじ話でも、ディテールまできっちり描けている小説のほうが面白いに決まっている。というわけで僕は企画を持って行く時には二、三枚の粗筋ではなく、膨大な枚数の小説を持ち込むことにしていたのである。そういう趣旨で書かれた小説なので多少のアラは勘弁して欲しいという言い訳を今ここでちょっとしているわけだが、かくしてプロデューサーの河井真也氏が読んで映画化しようと決断された段階でこの小説は任務を完了した。次にでき上がったシナリオの第一稿にバトンタッチして彼は深い眠りについたのである。
僕は映画『スワロウテイル』の準備に取りかかりつつ、その隙間でドラマを一本こなすつもりで、本当に軽くこなすつもりでシンプルでコンパクトなストーリーを書いた。それが最初の『ラヴレター』であった。ところが思わぬ巡り合わせでこれが映画になることになり、映画『スワロウテイル』は中断を余儀なくされた。 『ラヴレター』は『ラヴレター』で何かと大変で、映画となると準備から何から全部やり直さねばならず、もたもたしているうちに春になり、舞台となる小樽から雪が消え、僕らは更に一年近く待たなければならなくなった。ぽっかり空いたその隙間でやるには『スワロウテイル』はあまりにも大きすぎて不可能だった。やることがなくなって妙な虚脱感と解放感の中、思いついたふたつの物語が『アンドゥ』と『ピクニック』だった。意外に無欲な時にいいアイディアというのはやってくるものである。うまく企画も通って、小樽に雪がやってくるまでの期間でこの二作は撮影された。そして『ラヴレター』を通過し、石井竜也監督の『ACRI』の原作を書き終えて、今年改めて『スワロウテイル』が再開された。ところが、
……やべえ。
僕は思わずそうつぶやいた。久々にページを開いた『スワロウテイル』のシナリオはボロボロになっていた。『アンドゥ』は例外だったが、『ラヴレター』や『ピクニック』や『ACRI』たちは『スワロウテイル』からてんでに好きなページをちぎって自分のネタにしていたのだ。兄弟にモノ借りるのにいちいち断わりなんか入れてられるか。それが彼等の言い分だった。この衝撃的な事実に僕自身気づいてはいたのだが、まあ、ネタなんてほっといても腐るだけだからと思って見逃していたのだった。
そこから新たな格闘の日々が始まった。長い闘病生活とリハビリの果てに『スワロウテイル』のシナリオは社会復帰を果たし、どうにかクランク・インに間にあった。撮影が進む中、角川書店から小説を出版しようということで、書棚に眠っていた小説版『スワロウテイル』がウッディー・ウエストウッドのように安らかな眠りを妨げられて下界に舞い降りた。彼は寝ぼけまなこをこすりながら先日僕が編集作業をしているスタジオを訪れ、変り果てた弟、すなわちシナリオ版『スワロウテイル』の姿を見るや、声を荒げてこう言った。
「おいおい、お前本当にスワロウテイルかい?」
彼がのたまった通り弟は小説の兄とはまるで別な話と言っても過言ではないくらい変ってしまっていた。リハビリを克服して久しぶりに兄と対面した弟は、思わぬ兄の反応にどうしていいかわからずもじもじしていた。隣にいた僕はあわてて兄にこう言った。
「そりゃ無理もないよ、スワロウ。あれから三年も経っちまったんだぜ。昔のままでいろって言うのが無理な話さ」
彼は不服そうに、それはいいけど、じゃあ僕の出番はないね、と言って寝ていた書棚に帰ろうとした。僕は角川の編集の脇裕子と一緒に玄関で靴べらを探している彼を引きとめた。彼を思い留まらせたのは脇裕子のこの釈明だった。
「違うんですよ、スワロウ(兄)さん。あの映画は『スワロウテイル』じゃないんです。『スワロウテイル・バタフライ』っていうんです。あなたのはツバメの尻尾の話でしょ? スワロウ(弟)さんのはツバメの尻尾の形をした蝶の話なんですよ。ほら全然違うでしょ?」
まだ寝ぼけていたスワロウ(兄)君は、俺ってツバメの尻尾の話だったっけ? と首をひねっていたが、とりあえず機嫌を直して、今年の七月にちょっとだけ勘違いしながら書店に並ぶことになった。自分の表紙がツバメじゃないのに何時気づくか、それを思うと冷や汗が出て寝付きが悪い今日この頃だ。
岩 井 俊 二
スワロウテイル
岩《いわ》井《い》俊《しゆん》二《じ》
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平成13年6月8日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Shunji IWAI 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『スワロウテイル』平成11年3月25日初版発行