模倣犯 下 ─The COPY CAT─
宮部みゆき
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《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)クビを| 鋸 《のこぎり》引《び》きに
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(例)[#地から〇字上げ]
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あまりに切ない結末!
魂を抉る驚愕と感動の
三千五百五十一枚
炎上しながら谷底へ落ちていく一台の車。
事故死した男の自宅には、数々の「殺人の記録」が、
事故を操る真犯人の正体は……!?
まやかしの希望は、
絶望よりも邪悪である
帯コメントより
公園のゴミ箱から発見された女性の右腕は、連続女性殺人事件の犯人からの宣戦布告だった。比類なき知能犯に挑む、右腕を発見した少年と孫を殺された老人を待ち受ける運命とは? 魂を抉る驚愕と感動の3551枚!
公園のゴミ箱から発見された女性の右腕、それは史上最悪の犯罪者によって仕組まれた連続女性殺人事件のプロローグだった。比類なき知能犯に挑む、第一発見者の少年と、孫娘を殺された老人。そして被害者宅やテレビの生放送に向け、不適な挑発を続ける犯人──。が、やがて事態は急転直下、交通事故死した男の自宅から、「殺人の記録」が発見される、事件は解決するかに見えたが、そこに、一連の凶行の真相を大胆に予想する人物が現れる。死んだ男の正体は? 少年と老人が辿り着いた意外な結末とは? 宮部みゆきが犯罪の世紀≠ノ放つ、渾身の最長編現代ミステリ。
小学館HP紹介文より
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──底本データ──
模倣犯 下
四六判/706頁──四六判788×1,091(mm×mm)
ISBNコード: 4093792658
一行24文字・一頁21行・段組2段
二部 21〜26
三部 1〜34
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二部     三部
21……3    1……111   18……496
22……10    2……119   19……476
23……22    3……146   20……503
24……65    4……186   21……533
25……80    5……207   22……561
26……104   6……225   23……587
7……235   24……595
8……243   25……599
9……263   26……622
10……270   27……628
11……293   28……643
12……327   29……651
13……382   30……658
14……396   31……662
15……411   32……669
16……431   33……687
17……452   34……695
あとがき700
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装偵/川上成夫
装画/大橋 歩
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模倣犯 下
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21
十一月四日、月初めのこの日の何時頃に、兄への呼び出し電話がかかってきたのか、正確なところを由美子《 ゆ み こ 》は知らない。この日は、高井家にとって大変な始まり方をした日だったので、兄の動静の細かいところまで気を配っている余裕がなかったのである。
和明《かずあき》と由美子の父、高井|伸勝《のぶかつ》は、無口だし気むずかしいところもあったりして、日頃からけっして満点パパではない人である。それがこの日は、輪をかけて機嫌が悪かった。起き抜けからむっつりした顔をしており、由美子がおはようと声をかけても、返事もしない。商売屋の子は、勉強はできなくても挨拶だけはちゃんとできなくちゃいけないと、子供のころから厳しく躾《しつ》けられてきた由美子は、父親のこの態度におやと思った。癇に障った。
家族の中の「不機嫌」はちょうど流感のようなもので、高い確率で素早く伝染してゆくものだ。午前十時、店の内外の掃除を終えて、テーブルの上に載せておいた椅子を順番におろして店内を整えようというころには、由美子だけでなく、母の文子《あや こ 》にも、なんとなく腹立たしい八つ当たり気分が伝染《 う つ 》ってしまっていた。これに影響されなかったのは、和明だけである。
とはいえ、和明は和明で、ここのところずっと何やら考え込んでいる様子で、家族とのコミュニケーション不全病にかかっているから、クッション役は期待できない。実際、由美子の見るところ、兄はひどくぼんやりしていて、彼を除く家族三人が伸勝を端緒とする「トゲトゲ病」にかかっていることにさえ、気づいていないようだった。
由美子は、兄のこの奇妙な憂鬱状態が始まったばかりのころから、ずっと彼を観察してきた。兄を尾行することさえやってのけた。それでも、未だに、兄がなぜこんなふうになっているのか、その理由がつかめないでいる。テレビドラママニアで、テレビ雑誌しか手にしないはずの兄が、妙によく新聞雑誌を読むようになったこと、何の用もないであろうはずの大川公園なんかに出かけていったことを考えあわせて、兄の悩みが、今最も世の中を騒がせている連続女性誘拐殺人事件と関わりがあるような感触を得ないでもなかったが、しかし、これはあまりに荒唐《こうとう》無稽《 む けい》な考えで、由美子のなかに不安を生み出すほどの切実な現実味を伴っていなかった。
だって、あたしの兄さんが、なぜ、あの目立ちたがりで頭のおかしい連続殺人犯人のことで悩まなくちゃならないんだ? あんな犯罪、兄さんの世界とは関わりのないことだ。あたしは兄さんをよく知ってる。兄さんが、あんな事と関わりを持つわけがない、原因は必ず別のところにある、だけどそれは何だろうか──
この時点で、自分の思考が果てしない堂々巡りを始めてしまったことに、由美子はまだ気づいていなかった。ほんの少し見方を変えてみれば、別の視点が生まれてくるということにも気づいていなかった。たとえば、高井和明は、連続女性誘拐殺人事件の犯人を知っており、その犯人がごく親しい知人であるが故に、それを警察当局に告げようかどうしようかと思い悩んでいるのかもしれない──と。
由美子自身のなかには、子供のころに刷り込まれてしまった、兄を、この優しくおとなしく静かな兄を、男としてはひどく頼りない兄を、その人間としての能力を、どうしても軽く見積もってしまう癖が残っていた。まだまだそれは、現役の感情として由美子を支配していた。その気持ちは、
──兄さんがあんな恐ろしい事件に関わるわけがない。
という信頼感の方向に由美子の頭を向けることもあれば、
──兄さんなんか[#「なんか」に傍点]が、あんな事件と関わりを持つことができるわけがない。
と、ひそやかに彼を軽んじる方向に向けることもあった。そしてそれについて、本人はまったく無自覚だったから。十一月四日のこの時点では、由美子は、兄のここ半月ばかりの不可解な行動や落ち込みように対して、半ば投げ出したような「お手上げ」の気分になっていたのだった。
十一時の開店時間が近くなり、伸勝がのしのしと店内を横切って、暖簾《 の れん》を出しに行った。いつもならこれは由美子の仕事なのだが、父さんがやりたいのなら勝手にやればいいじゃないということで、由美子はプンとしてお冷やのグラスを磨いていた。年に一度か二度は、こういう日があるものだ。みんなしてトゲトゲ。
と、暖簾を通してある太い木の竿が、がたんと地面に落ちる音がした。店先へ目を遣ると、伸勝がまるで誰かに土下座でもしているかのように、両手両膝を地面について這いつくばっている。頭を低く垂れ、額が道路にくっつきそうだ。
「お父さん!」
そう叫んで、奥の厨房から文子が飛んできた。一拍遅れて、由美子も続いた。父と母のそばに駆け寄り、ぐったりと目を閉じた父の土気色の顔を見た瞬間、由美子は、うちのお父さんは倒れたのだと悟った。
「お父さん、しっかりして!」
悲鳴が口からほとばしる。と、高井伸勝は、本当にうるさそうな顔をして、
「大きな声を出すな、頭ががんがんする一と、娘を叱りつけたのだった。
──ああ、意識はあるんだ。
思った瞬間に、由美子は腰を抜かして座り込んでしまった。
「まあ、ひと言で言えば年齢のせいですよ、高井さん」と、白衣の医師はにこやかに言った。
診療所の診察用の寝台は使い込まれた年代もので、体格のいい伸勝がその上に横たわると、みしみしと鳴った。身体の大きな父親が古びた俵型の枕にちょこんと頭を乗せ、神妙に仰向けになっている様はなんとも可愛くて、由美子は口元がほころぶのを感じた。
「高井さんのお父さんも、晩年は高血圧だったんじゃないかと思いますよ。この体質は遺伝するからね。高井さんも、毎日血圧を測って、場合によっちゃ降圧剤のお世話になる──そういう年代にさしかかったということだ」
やわらかく説教をするような口調の医師は、しかしまだ四十代になったばかりで、伸勝よりは年下である。聞き分けのない頑固者の親に言い聞かせるように、伸勝と文子の顔を均等に見ながら話をしている。
「これはちっとも恥ずかしいことじゃないし、隠すことでもない。もっと早く来てくれていたら、店先でひっくり返ったりしなくてもよかったのにねえ」
「本当ですよ。すみませんでした」と、文子が恐縮する。
「言いにくかったんだ」と、伸勝は天井を向いたままぼそぼそ言った。「おまえらが、すぐ騒ぐから」
「騒ぐのは当たり前じゃないですか。心配だもの」
「まだまだ、借金があるからなぁ。俺が寝込んだら、店は──」
「そんなことじゃありませんよ。あなたの身体が心配なんです」
医師は、伸勝の腕に血圧計をセットしながら笑っている。
「大丈夫だよ、高井さん、これぐらいの高血圧とめまいだけが原因で死ぬ人はいないから」
医師が聞き出してみると、伸勝は、数日前から、朝起き抜けとか、座っていて立ち上がったときとか、荷物を持ち上げたときなどに、めまいを感じるようになっていたというのである。今朝は、起き抜けのめまいがとりわけひどく、やたらに不機嫌だったのもそのせいだった。自分自身、不安だったのだろう。
由美子は、医師と向き合って座る母のすぐ後ろについて、薬と消毒薬の臭いを感じ、この診療所に持ち込まれる小さな病と、大きな病の小さな兆候について訴える患者たちの声、それに答える医師たちの声を背中に聞いていた。区が金を出し、医師を集めて開いたこの診療所は、高井家にとってもかかりつけの場所で、由美子もこの夏、軽い鼻炎を患ってここの耳鼻科に通ったものだった。
伸勝が店先でへたりこんでいるのを見たときは、頭のなかで、もっと大きな総合病院の集中治療室や、廊下を走る看護婦のナースシューズの足音や、手術室前の廊下の白壁を背にして座る固いベンチのことなどが、ぐるぐると思い浮かんだ。それどころか、由美子の気の早い脳味噌は、父の葬儀に母と兄と並んで立つ自分の喪服姿まで──それはほんの一瞬のことではあったけれど──想像し目の裏に映し出して見せてくれたほどだった。
あれが現実にならなくてよかった。ゴールがこのお馴染みの診療所でよかった。あんな想像は、まだまだ早い──とは言っても、由美子の学生時代からの友達には、もう父を送ったり母を送ったりしている女の子たちがいるのだけれど。
伸勝が救急車は嫌だというので、家族三人で彼を車に乗せ、和明が運転してここまでやってきた。診察室に入ると、伸勝はまだ青白い顔色ながら、家長らしいきっぱりした口調で、和明に、店を空にするのはよくないから、おまえは先に帰れと命令した。和明は素直に応じて──父の様子から、大事はないと悟ったのかもしれない──車だけ診療所の駐車場に残し、家に帰った。キーは由美子が預かった。
結局、外来の診察台に横になったまま、伸勝は点滴を受け、それが終わると帰宅許可が出た。大きな袋に一杯の薬がお土産だった。帰りの車は由美子が運転したが、ほっとしたのか文子はよく笑い、後部座席にもたれかかっている伸勝の顔からも、朝のあの不機嫌はきれいさっぱり消えていた。
「今日は一日、お店休みますからね」と、文子が宣言した。「店は開けません。わかりましたね、お父さん」
伸勝は不満そうだった。「俺は大丈夫だから……」
「いいえ、駄目です。先生もおっしゃってたでしょう? 今日は休めって」
「俺たちが診療所にいるあいだに、和明が店を開けてるかもしれないぞ」
「そんなことがあるもんですか。あの子はそんな無茶しませんよ」
文子の言うとおりだった。釜の火も落とし、すっかり冷たくなった厨房で、和明はちんまりと座って待っていた。暖簾はしまってあり、店の外には、「本日臨時休業」と和明の字で書いた張り紙がしてあった。
「なんだ、あの字は。汚ねえなあ」
帰るなり、伸勝はそのことで文句を言った。
「それに、本日臨時休業ってのはお客さんに失礼だ。休ませていただきますと書け。礼儀だろうが」
今まで、長寿庵は臨時休業などしたことがなかったので、こんな張り紙を書くのは初めてのことなのである。和明は苦笑しながら半紙を取り出してきて、何枚か書いては父に見せ、合格するまで十枚以上の紙を無駄にした。由美子が店先を見に行くと、
「本日、まことに申し訳ありませんが都合により休ませて戴きます。明日は営業いたしますので宜しくお願い申しあげます」
と、バカ丁寧な言葉が和明の字で綴られていた。
思いがけない休みとなったが、何しろ事情が事情なので、出かけるのも気が引ける。由美子は自室の掃除をしたり、テレビを観たりして午後を過ごした。文子も台所を片づけたりしているようだった。店の方には和明がいて、時折鳴る電話に応対していた。だから、彼個人あての呼び出し電話も、このときかかってきた可能性が高い。
夕方五時ごろになると、薬が効き、ぐっすりと午睡をしたのも良かったのか、伸勝は元気になり、これから店を開けると言い出した。文子が、いつにないきつい口調で叱りつけて、これを止めた。由美子は母が父を叱るのを初めて見た。それだけ、今日の母は辛く、不安で、怖かったのだろうと思った。父が店先でひっくり返ったとき、母の脳裏にも、由美子のそれと同じような集中治療室や葬式の映像がよぎったのだろう。
母とふたり、夕食をどうしようか、お父さんにはやっぱりお粥《かゆ》だろうかなどという話をしているところに、和明が店からあがってきて、ちょっと急用ができて出かけたいんだけどと言い出した。
「急用? 何かあったの?」と文子が訊く。
和明はおどおどしていた。「いや、そんなんじゃないんだ。ちょっと友達で集まろうっていうだけなんだけど、急に話がまとまって」
兄は昔、おねしょをするとこういう顔をした。お母さん──またやっちゃった。そう白状するまで、手をもじもじ、足をぐずぐず踏み変えていた。今もやっぱり、同じようにしている。兄さん、ちっとも成長してないんじゃないのと、由美子はちょっとおかしくなった。
「親父が具合悪いのに、まずいとは思うんだけど……」
「それはいいわよ。もう大丈夫なんだから。先生も、この程度の高血圧でどうこうなんてことはないっておっしゃってたじゃないの。今日はお休みとれたんだから、出かけておいで」
母が日頃から。和明と由美子が、他の同世代の青年たちのような週休二日、年に十四日の有給休暇という生活を送ることができずにいることに、不憫《 ふ びん》な気持ちを抱いているようであることを、由美子は知っていた。特に和明のことでは、それでなくても奥手の子だし、出会いの少ない職場だし、今時商売屋にお嫁に来てくれる女の子は少ないし──と、折に触れてはため息をついている。和明が出かけたいと言い出したら。反対するはずはなかった。
由美子は、さっき父を叱っていた母の口調を思い出し、それを真似るつもりで言った。
「お兄ちゃん、栗橋さんに呼び出されたんじゃないでしょうね?」
和明はびくりとした。「え?」
あら、図星だ。「そんな顔するところを見ると、栗橋さんなんでしょう。やめときなよ、あの人と付き合うの」
和明はあわてて首を振ると、「違うよ。確かに栗橋も来るけど、電話をかけてきたのはあいつじゃないよ。言ったろ? 友達が集まるって」
「まあ、いいじゃないの」と、文子が笑った。
「ゆっくりしておいで」
「ありがとう」
思いがけず真顔になって、和明は言った。文子と由美子が顔を見合わせてしまうほど、真面目な口調だった。まるで──そう、出征するみたいだ。そんな場面、映画でしか見たことがないけど、そんな感じだ。
和明は急ぎ足で自分の部屋へと引っ込んだ。文子がその背中に、「アイロンかけたシャツ、引き出しに入ってるからね!」と呼びかけた。
「変なお兄ちゃん」と由美子は言った。時の勢いというか、今までは自分ひとりの心にしまっていたことが、ぽろりと口をついて出た。「ねえ、お母さんも感じない? このごろずっと──そうね、半月ぐらい、お兄ちゃん様子おかしいよね?」
「そうかしら」文子はあっさりしりぞけた。
「あんた、お兄ちゃんのこと、あんまりバカにしちゃいけないよ」
「バカになんて、してないよ」
たしなめられて、由美子は、話の接《つ》ぎ穂《ほ》を失った。
三十分ほどして、由美子が店で電話番をしながら──出前ですか、相済みません、本日は臨時休業でございます──雑誌を読んでいると、和明が降りてきた。明るいチェックのシャツに、茶色のジャケット。膝の出たジーンズをはいていた。
「いってらっしゃい」
声をかけると、それまで由美子の存在に気づいていなかったらしく、出し抜けに叩かれたみたいに飛び上がった。
「行って──きます」
高井和明はそう応じて、勝手口から外へ出ていった。背中を丸め、前屈みにせかせかと歩く。あの歩き方は、お父さんとそっくりだと由美子は思った。
それが、生きている兄の姿を見た最後になった。
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22
栗橋浩美が高井和明を呼び出す電話をかけたのは、十一月四日の午後五時過ぎのことだ。このとき彼は、上越新幹線氷川高原駅におり、駅舎のなかの公衆電話を使った。
この日は忙しかった。前夜遅くまで木村の相手をしていたにも関わらず、朝は七時に起きて、車を洗ったり、「山荘」の掃除をしたり、一階のリビングの奥の、日頃は納戸代わりに使っている小部屋を片づけて、高井和明を泊めることができるようにしたり、おおわらわだったのだ。
昼食はピースがつくった。カンヅメのスープを温めて、パンを焼いただけの簡単なものだったが、身体を動かしたせいか、ふたりとも大いに食べた。食べ終えると、階上の木村のところにも同じメニューの食事を持っていってやった。
昨夜から飲まず食わずの木村は、それでも食欲がないらしく、最初のうちは皿に手をつけようとしなかった。この日は、食事を運びに行ったこのときまで、ピースも栗橋浩美も木村の部屋に顔を出さず、彼を放置した格好になっていたから、木村としては、食事よりも休息よりも水よりも切実に、今の状況に対する「説明」と「情報」に飢えているようで、口から唾を飛ばすようにしてあれこれ質問を投げてきた。
「大丈夫だよ、僕たち、まだあなたを殺す気はないから」
何度となく、ピースはそう言って木村をはぐらかした。「まだ」のところに、わずかに力を込めて。
諦めたのか疲れたのか、木村は、昼食の盆の上に乗せられた水のグラスをとり、ほとんど何も考える様子も見せずに、一気に半分ほど飲んだ。ピースに促されて、栗橋浩美は部屋の外に出た。小一時間ほどして木村の部屋に戻ってみると、グラスとスープの皿が空になっており、木村は鎖につながれた足を床に投げ出し、ベッドにもたれて眠りこけていた。頭ががっくりとうなだれて、顎の先が胸にくっつき、そのせいか呼吸が苦しそうだった。
「ちょっと薬の量が多すぎたかな?」と、ピースは顔を曇らせた。「睡眠薬は使い方が難しいんだよ」
ピースとふたりがかりで木村をベッドに寝かしつけ、梱包用のロープで彼の身体をベッドに縛りつけた。騒がれるとうるさいので、さるぐつわをした方がいいと栗橋浩美は主張したが、ピースは首を振ってその案を退けた。
「睡眠薬のせいで、寝てるあいだに吐くことがあるんだ。さるぐつわなんかしてると、吐いたもので窒息しちまう。この人にはまだ死なれると困るから。そんな危ない真似はできないよ」
しかし、栗橋浩美も簡単に引き下がるつもりはなかった。なんといっても、今夜この「山荘」にはカズがやってくるのだ。木村がこの部屋で騒ぎ立て、その声をカズに聞きつけられたら、ひどく面倒なことになる。
「大丈夫だよ。カズは二階に立ち入らせないから」と、ピースは言う。
「だけど、声は聞こえるぜ」
「こんなふうに」と、木村を指して、「仰向けにベッドにぐるぐる縛りつけられていて、階下まで聞こえるような大声を出せるわけがないじゃないか」ピースはヒロミの肩をポンと叩いた。「それに、忘れないでくれよ。二階には僕もいるんだよ。隠れてはいるけど、やるべきことはしっかりやるし、用心も怠らない。だから、安心しろって」
結局、木村にさるぐつわをはめることはなく、万が一彼が眠っているあいだに吐いてしまっても大丈夫なように、枕の上で顔を横に向けさせておいて、部屋を出た。それからふたりで念入りに火の元を点検し、戸締まりを厳重にして、車に乗り込んだ。
いつものとおり、「山荘」のある別荘地を抜けるまでは、ピースが運転し栗橋浩美は後部座席に隠れていた。氷川高原駅に通じる幹線道路へ出る直前に、路肩に車を寄せ、栗橋浩美は助手席に移った。そしてふたりで、今後の計画と手順を再確認しながら駅へと向かって走った。
「でもさ、ヒロミ、考えてみるとさ──」
九月十二日、栗橋浩美が家の近くの公園の脇に停めた車のなかからテレビ局に電話をかけているところを、偶然立ち聞きした──あの瞬間から、高井和明という哀れな人間の行き着くゴールは決められていたんだよと、ピースは言った。
「カズは、僕の創った話を信じてるんだね?」
氷川高原駅に続く道はよく整備されており、車も少ないので、運転は楽だった。ピースはハンドルに手を載せて、口元に気持ちよさそうな微笑を浮かべている。
「信じてるよ」
栗橋浩美は答え、助手席で足を組みかえると、シートにもたれた。ドライブは快適だった。このあと大仕事が控えているけれど、それに向かって心が昂揚してゆくのを感じることはできるけれど、しかし、ピースとふたりで冬枯れの雑木林のあいだを時速百キロで抜けてゆくこの道中には、なにかしらロマンティックな匂いさえするのだった。
「さんざん気を持たせてきたところだし、すごく上手くできた話だからね。俺がカズだったとしても信じるだろうな」
ピースは嬉しそうだった。ちょっとでも拒絶されると石のように固くなる彼の瞳は、ささいな賞賛にも輝く宝石の原石でもあるのだ。
テレビ局への電話を聞かれてしまった可能性が高い以上、その事実をごまかしたり、それはカズの勘違いだなどとうそぶいてはいけないと、ピースは言った。まず必要なのは、俺は確かに電話をかけた、古川鞠子の遺体は大川公園からは出ないよなどと、テレビ局の報道記者に言ってやったと、事実を認めることだと。
そのうえで、なぜそんなことをしたのかという「動機」をでっちあげればいい。
ピースの指示に従って、栗橋浩美はカズに、こんなふうにうち明けたのだった。
──カズ? カズか? ああ、よかった、家にいたんだな。連絡がついてよかった。あのな、落ち着いて聞いてくれよ。いよいよチャンスが来たんだ。もちろん、何のことを言ってるか判るよな? あの事件だよ。犯人のしっぽをつかむのに、うってつけのチャンスが来たんだ。だからカズに手を貸してほしい。手伝ってくれるよな?
──あんまりグズグズ説明してる時間はないんだけど、これからやるべきこととも関係してくるから、これまでの事情をざっと話しておくよ。最初からおまえが察していたとおり、俺は犯人を知ってる。身近な奴だ。
──名前? うん……それは教えられない。今はまだ、勘弁してくれよ。ごめんな。ただ、カズも知ってるヤツだ。俺よりは付き合いが浅いと思うけど。
──俺がどうしてそんなことに気づいたかっていうと、そいつね、別荘を持ってるんだ。大きな家で、ちょっとしたペンションも顔負けって感じのさ。九月初めだったかな。そこへ遊びに行ったときに、それだけ大きな家だもんだから、俺、迷っちゃってさ、物置みたいなところに入っちまったんだ。
──そしたらそこに、古い椅子とか使われてない電気ストーブとかと一緒に、あのハンドバッグが……大川公園のゴミ箱から出てきた古川鞠子って女の子のハンドバッグが置いてあったんだ。古新聞に包んで、家具の後ろに隠してあってさ。俺、物置を出ようとして、うっかりしてなんかにぶつかっちまって、そしたら古新聞の塊が落ちてきて肩にぶつかってね。開けてみたらハンドバッグだったってわけだ。
──え? うん……そうだよ。間違いない。そのハンドバッグには、女物の札入れと定期入れが入っててさ。確かに古川鞠子って名前が書いてあったよ。だから早合点でも勘違いでもなんでもない。
──そのときは、まだ大川公園事件は起こってなかった。だから俺、なんだこのバッグって思っただけで、気にしなかった。その友達、女関係が派手だからさ、昔付き合ってた彼女のかな、それにしちゃ財布まであるのはヘンだなって思ったけど、でも定期はもう期限切れだったからね。
──それで、別荘から東京に帰るときに、ひょいと思い出してさ、そいつに言ってやったんだ。おまえ、物置に前の彼女のハンドバッグ隠してるだろって。早く捨てないと、今の彼女をこの別荘に連れ込んだとき、まずいことになるんじゃないのって。もちろん、からかったんだよ。
──そしたらあいつ、一瞬すごく怖い顔になってさ。なんていうか、両目がまるで碁石みたいに真っ黒になって、ありゃ生き物の目じゃないな、俺、びびったよ。なんかすごくいけないこと言っちまったのかなって。
──だけど、俺がびびったのを見ると、そいつ笑い出してさ。にやにや笑うんだよ。それでこういったんだ……そのうち、あのハンドバッグが凄い騒ぎを起こすことになるんだって。だけど栗橋、おまえはもうこのこと忘れた方がいいと思うよって。
──俺、帰りの電車のなかで、寒気がしてしょうがなかった。なんだかあいつ、正気じゃないような感じがして。
──それから一週間ぐらいして、大川公園の事件が起こったってわけさ。
──俺は仰天したよ。あの夜は全然眠れなかった。朝になって、勇気を出して、あいつのところに電話してみた。だけど、東京の家にもいないし、別荘にもいないんだ。俺、もうパニクっちゃってさ。すぐに警察に行こうと思った。
──だけど、そのときよく考えたんだ。俺は確かにあのハンドバッグを見たけど、見たのは俺だけで、それってちゃんとした証拠にはならないかもしれないだろ? それにあいつ、すごくちゃんとした人間でさ、いい会社に勤めてるし、高給取りなんだよ。とてもじゃないけど、あんな恐ろしいことをするようなヤツには見えないんだ。
──ということはさ、たとえ俺が警察に駆け込んでいって全部ぶちまけても、それをまともに信じてもらえるかどうか、すごく怪しいじゃないか。それにさ、ひょっとしてこの話を信じてもらえたとしてもだよ、今度は逆に、警察があいつのところに行って、あんたの友達からこれこれこういう訴えがあったんだなんてバラされたら、俺どうなると思う?
──その場合、もしもあいつが犯人じゃなくて、このことが全部俺の勘違いなんだとしたら、俺、大事な友達をひとり失うことになっちまう。
──だけど、あいつが犯人だったとしたら、俺……すごく危険な立場に立たされることにならないか? あいつは、俺がハンドバッグを見たことを知ってる。俺の証言で警察が動いたと思ったら、きっと俺の口をふさぎにかかるだろう。だって、人殺しなんだぜ。ためらったりなんかするもんか。
──しかも、あいつ、普通じゃない。このハンドバッグのせいで凄い騒ぎが起こるんだって言ったときのあの顔、完全に頭のネジが緩んでるような感じだった。俺、ホントに怖かったんだからさ。
──だけど、どうしたらいいかも判らなかったんだ。確証がない。友達を疑うなんて、嫌だよ。しかも小さなことじゃない、人殺しだぜ。誘拐と殺人だ。簡単に口に出していいことじゃない。万が一、間違っていたら、あいつの人格とか人生に取り返しのつかない傷をつけることにもなる。
──それで、一生懸命に考えてさ、思いついたんだ。俺が犯人のふりをして、テレビ局に犯行声明みたいなのを出してみようって。もちろん、でたらめなことを言うんだよ。そうしておいて、あいつの反応を見るんだ。あいつが犯人なら、まるっきり嘘の犯行声明に対して、何かしら、普通の人とは違った反応を見せるはずだろ? だけど犯人じゃなかったら、ごく当たり前の、あんなひどいことをする人間が今度はそれをネタにして自慢げにテレビ局に電話なんかかけてきたって、怒ったりする反応を示すだけのはずだ。そこで見極めようって思ったんだ。
──だから、カズに聞かれちまったあの電話は、そういう電話だったってわけさ。
──俺のこと、信じてくれる?
そして高井和明は信じた。子供のころからずっとそうだったように。ヒロミの言うことならなんでも信じた。
のろくさいカズは、一度だってヒロミの嘘を見抜いたこともなく、いつだってどんなバカみたいな嘘だって丸飲みにして信じてくれた。そんな例は数知れなくて、思い出せばきりがない。ヒロミがカズに電話して、インフルエンザのせいで学級閉鎖になったから、明日はオレたちのクラスだけ学校休みだってさと言えば、カズは簡単に信じて、翌日休んだ。長寿庵の前のスクールゾーンを、同じ学年の子供たちがぞろぞろ下校していく時刻になっても、あいつは学級閉鎖であることを信じていて、けろりとして店の掃除なんかしていた。あいつに輪をかけてバカなあいつの親も、カズの言うことを真に受けて、学校に確認の電話一本入れようとせず、夕方になって様子を見に訪ねてきた担任教師にそろってこっぴどく叱られた。
冷たい梅雨の雨が降る日でも、ヒロミがひと言「今日の体育の授業はプールだよ。雨だけど、水温が高ければプールに入れるんだ」と言ってやれば、カズは信じて水着に着替え、クラスじゅうの笑いものになった。担任の先生まで大笑いして、カズを水着のまま廊下に立たせた。
中学二年のとき、カズが瞳れのまなざしを向けているクラス一可愛い女の子の名前を差出人に、ラブレターをでっちあげてやったこともある。下駄箱のなかに忍ばせたそのラブレターを、カズは文字通り胸に抱きしめた。そして予想通り、ラブレターをもらったけどどうしたらいいかとヒロミに相談を持ちかけてきた。あのバカがうっかり返事を書かないように、うまく指導してやる一方、ヒロミは嘘のラブレターを書き続け、カズの喜ぶ顔をながめ、陰ではピースとふたり、腹を抱えて笑い転げていた。どうしてかと言ったら、そのころクラス一可愛いその女の子はピースのガールフレンドだったからだ。
その年のクリスマス、カズは女の子にプレゼントを用意した。カラフルな包み紙で不器用にくるんだプレゼントの中身は不格好なクマのぬいぐるみで、女の子はそれを、包み紙を開きもせずに突っ返して寄越した。カズがそれをどう処分するか、ヒロミとピースは賭をした。ヒロミは「捨てる」、ピースは「妹にやる」。ここでもヒロミはピースに勝てず、クリスマスが終わったある冬の日、高井由美子がぬいぐるみのクマを抱いて友達と遊んでいるのを目撃して、ピースに千円払うことになった。
万引きの罪をカズになすりつけたことなど、数えきれないほどたくさんある。駅前のデパートで女性の下着を盗み、それを近くのマクドナルドで待たせていたカズの鞄のなかに押し込んでおいたこともある。あいつがハンバーガーを買う金を出そうと鞄を開けると、派手なレースの縁取りのついたパンティがマクドナルドのカウンターの上にはらりと落ちた。いや実際、あれほど愉快だったことはない。
カズはいつも、ヒロミとピースの掘った落とし穴にはまるために存在した。ヒロミとピースの仕掛けた罠に足をはさまれ、ヒロミとピースの用意した観客に笑われるために存在した。
「なんでだろう?」
ふと、声に出してそう言ってしまってから、栗橋浩美は自分で自分に驚いた。
「何がなんでなんだ?」と、ピースが訊いた。
「なんで、カズはああも簡単にオレたちに騙されるんだろう? 全然疑わないし、こりないし、怒りもしないでさ」
栗橋浩美の問いに、ピースはうっすらと笑みを浮かべたが、すぐには答えなかった。
車の前方に、氷川高原駅へと通じる新幹線の高架が見える。灰色のコンクリートの堂々たる高架は、冬枯れの始まった氷川の山や森のあいだに突然出現した、太古の生物の背骨の化石のようだ。
「考えてみると、凄いよな」ピースは軽く目を細めて言った。
「何が凄い?」
「あの新幹線の高架も、この道もさ、もとは山や林や森や丘だったところを切り開いて造ってあるんだぜ。人間の技術ってのは大したもんだよ」
「……」
「だけど、すべての人間が凄いわけじゃない。すべての人間にそんな技術が開発できるわけじゃない。世の中にはさ、有能な人間と無能な人間の二種類がいるんだ」
「カズは無能だから、騙されるのか?」
ピースは首を振った。「あいつは無能以下だ。だけど役に立つ。そういう人間なんだ。誰かの役に立つために存在する。それだけのことだよ」
そう、それだけのことだ。
だから、高井和明は信じた。子供のころからずっとそうだったように。ヒロミの言うことなら何でも信じた。電話一本で、言われることを何でも鵜呑みにした。
それでも、その後の展開にはちょっと慌てさせられた。電話の向こうで、カズがもごもごと口ごもりながら、今日は家を離れられないんだと言い出したときには、さすがの栗橋浩美も息が止まりそうになったものだった。
──親父さんが倒れた? 高血圧?
栗橋浩美は、視界が真っ赤な霞で閉ざされていくのを感じた。高血圧でぶっ倒れそうなのは俺の方だ──よりによって今日のこの日にカズの親父が倒れるなんて。そんなバカげたことで、この美しい計画に傷がつけられるなんて。
(長寿庵は、二時から五時まで休憩時間だろ? その間に呼び出すんだ。誰にも言わずに、すっと家を抜け出してくるようにって。むろん、ヒロミから電話があったことも、あいつの家族には内緒にするように念を押すんだぞ)
ピースの指示はそういう内容だった。
だが、親父が倒れたとなると、ちょっとやそっとのことでは、カズは家から離れようとしないだろう。最初から、強力な吸引力のある話をしてやらないと、引っかかってこないだろう。
日をあらためるか? だが、木村をそう長いこと山荘で生かしておくことはできない。女の子たちと違って面白味もないし、やはり油断がならない。逃亡されたらおしまいだ。やっぱりあいつは、今夜のうちに殺してしまいたい。
そして、木村の死亡時刻──あとあと警察が正確に割り出すであろう推定死亡時刻のカズのアリバイをはっきりしないものにしておくためには、なんとしても、今夜から明日にかけて、カズを家から引き離さねばならない。どんな手段を使ってでも、そうしなければならない。
一瞬強く目を閉じて、栗橋浩美は決断した。
「だけど今日は、本当にチャンスなんだよ。これこそ、俺がじっと待ってたチャンスなんだ!」
懸命に自分を抑え、罵《ののし》り言葉を吐き出しそうになる口元をコントロールして、芝居を続けた。
「問題の友達の別荘に、また招待されたんだよ。招待って言っても、実は客として行くんじゃなくて、掃除しに行くんだ」
なんで掃除なんかとカズは訊く。
「普段使われていない別荘の掃除って、けっこう重労働だからさ、男手が要るんだよ。それに俺、今失業中だろ? 高い日当は、やっぱり有り難いんだ。ただ、あいつがわざわざ俺に掃除をさせようとするってことには、やっぱり何か意味があると思う。もういっぺん物置のなかに入らせて、そこにはもう何もないことを見せようと思ってるとか……。あるいは逆に、俺が別荘のなかで何か調べ回ろうとするかどうか、確かめようとしてるのかもしれない。刑事ドラマでも言うじゃないか、泳がすって」
ひとりでそんな場所に行くのは危ないと、高井和明は言った。栗橋浩美の言葉に疑いを抱いている様子はまったくない。
「もちろん判ってるさ。俺だってひとりじゃ危ないと思うよ。だから電話してるんじゃないか。カズ、俺と一緒に来てくれないか? 向こうの提案を逆手にとってさ、ひとりじゃ掃除が大変だから、友達を連れてきたって言えばいいだろ? な? 頼むよ。俺に力を貸してくれるって言ったじゃないか」
親父のことが心配だからと、カズはぐすぐす言った。
「だけど、親父さんは命に別状があるわけじゃないだろ? 俺の方は、命が危ないかもしれないんだよ。お願いだよ、頼むよ。ひとりにしないでくれよ」
ひとりにしないでくれよ[#「ひとりにしないでくれよ」に傍点]。
自分で口にしたその言葉が、思いがけず記憶を刺激して、栗橋浩美はふとまばたきをした。これは──既視感《デジャ・ヴュ》というやつだ。俺、以前にも、カズに向かってこういう台詞を口にした覚えがある。
ひとりにしないでくれよ。だけど、カズに向かって? ピースではなく?
電話の向こうから、カズが呼びかけてくる。栗橋浩美はあわてて気持ちを引き締めた。ぼんやりしている余裕などない。
「お願いだ、カズ。一緒に来てくれ」
ほとんど懇願するような口調になっていた。筋書きはでっちあげだが、懇願する気持ちは本物だった。ピースの決めた筋書きを変えたくない。どうしても、カズには山荘へ来てもらわなくてはならない。
判ったよ、行くよと、カズが言ったとき、栗橋浩美は膝ががくがくするのを感じた。
「ああ、ありがとう。本当にありがとう」
礼の言葉も、心底本気で口にした。俺たちの身代わりになってくれるカズ。とことん、俺たちのために存在してくれているカズ。
「それじゃ、こうしてくれ。今から家を出て、東京駅に行くんだ。上越新幹線に乗るんだよ。氷川高原駅って判るか。別荘地の多いところでさ、ホラ、昔、一緒にスケートに行ったことがあるじゃないか。あのころはまだ特急しか走ってなかったけど。え? 覚えてない? そうか、ヘンだな、俺はよく覚えてるのに」
一緒にスケートにいったのは、ピースだったかな。
「東京駅から氷川高原駅まで、一時間もかからないよ。駅で降りたら、レンタカーを借りてくれ。俺は車、ないんだ。え? なんだ、話してなかったっけ? 俺、今免停なんだよ。違反点数が溜まっちゃってさ。だから、車はカズが都合してきてくれ」
ここからは、ピースの設定通りでいい。栗橋浩美はひとつ息を吐くと、心の舵を取り直しながら一気にしゃべった。
「俺はね、氷川高原駅の近くのホテルにいる。ちょっと判りにくいところだからさ、レンタカーを借りたら、俺の携帯電話に電話してくれよ。そしたら、落ち合う場所を指示するから、そこで俺を拾ってくれ。問題の友達の方には、俺から連絡して、カズを連れていくって報せておく」
手順を繰り返して確認してから、高井和明は、栗橋浩美が予想もしていなかった台詞を吐いた──何か武器になりそうなものを持っていこうか、と。
思わず、栗橋浩美は笑った。
「どんなものだよ? 麺棒か?」
言ってしまってから、まずかったと思った。今ここで笑ってはいけないのだ。自分たちの命と、犠牲になった無垢《 む く 》の女性たちの命と、これから犠牲になるかもしれない女性たちの命という、あまりにも大きなものを抱えて、反対側の皿の上に「友人への疑惑」という真っ黒なものが載せられている秤の上に足を乗せようとしている局面なのだから。
「ごめん、いろいろ考えすぎて、俺、頭がおかしくなりそうなんだ。でも、いいことに気がついてくれた。テレビ観たろ? 犯人には共犯者がいる可能性もあるんだよな。身を守るためのものは、俺が用意する」
承知して、カズは電話を切った。栗橋浩美はもう、待つだけになった。
道は緩やかに左に曲がり、やがて氷川高原駅が見えてきた。新幹線の駅にふさわしい近代的な造りで、ガラスが多用されている。新幹線のホームと在来線のホームをつなぐ通路もガラスばりで、そのなかをちらほらと人が歩いているのも見える。連休だし、秋の観光シーズンだけあって、予想していたよりも人出があるようだ。人目に気をつけなければと栗橋浩美は考えた。
駅前に通じる道に出たところで、ピースは車を停めた。栗橋浩美は身軽に助手席から降りた。
「じゃ、計画どおりで」
「計画どおりで」
そう言い交わして、ふたりは別れた。栗橋浩美は、走り去るピースの車を見送り、それが視界から消えるのを待って、駅の方へと歩き始めた。風が冷たく、ジャケットの襟をかきあわせた。
タクシー乗り場の脇を通り過ぎるとき、すぐ後ろから小さな女の子の笑い声が追いかけてきて、ぎくりとして足を止めた。勢いよく振り向くと、その女の子とぶつかりそうになった。
「あら、ごめんなさい!」
笑いながら女の子を追いかけていた女性が、あわてて女の子の腕をつかまえながら謝った。たぶん、母親だろう。
栗橋浩美は笑みを返した。女の子は幻影ではなく実在しており、近づくとお菓子の甘い匂いさえ感じることができた。幽霊ではないし、悪夢でもない。
「こちらこそ」と、母親に声をかけた。よく見るとなかなかの美人で、金のかかった服装をしている。
「走ると危ないよ」
女の子にも笑いかけ、ふと衝動にかられて、ちょうど彼の腰の高さにある女の子の頭に手を置くと、軽く撫でた。また、クリームのようないい匂いを感じた。
「すみません、失礼しました」
女の子は母親に手を引かれ、彼のそばから離れていった。おとなしい子だなと思っていたら、ちょっと遠くへ離れてから唐突に振り向き、また栗橋浩美の顔をじっと見つめ、いきなりあかんべえをして寄越した。
栗橋浩美は吹き出した。女の子の髪のすべすべした感触が、手のひらによみがえる。あのまま、あの子の首をぐるりと後ろにひねってやったらどうだったろう? きっと、フィンガークッキーを折るときのような可憐な音がしたに違いない。首の骨が折れると、甘い匂いがいっそう強くなったことだろう。あれは幼い女の子の魂の匂いなのだから、魂が身体の外に揮発するときこそ、もっとも強く薫るはずなのだ。
いつか試してみたいものだ。この件が片づいたら。ピースと練り上げる物語の次の章で。
そう、次は子供──子供、子供だ。子供がいい。
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十一月四日、午後七時三五分。上越新幹線氷川高原駅北口のロータリーに、型式の古い白い乗用車が乗り入れてきた。運転席に乗っていた小太りの若い男が、ちょうど客待ちで停車していたタクシーの運転手に、市内の地図を示して、市の北側にある別荘地帯「氷川高原グリーンヒル」に通じる道を尋ねた。運転手が教えてやると、小太りのドライバーは丁寧に礼を言い、東京よりずっと寒いと言って、窓を閉めた。
それから十数分後、氷川高原駅前の交差点から北へ百メートルほど離れた交差点に、かなり古い型式の白い乗用車が停まっているのを、氷川高原駅前交番のパトロールカーが目撃した。車は横断歩道をまたいで停車しており、パトカーは注意を与えようと近づいていったが、ちょうどそのとき、交差点の歩道にある電話ボックスのなかから小太りの若い男が出てきて、急ぎ足で車の運転席へと向かっていくのが見えた。どうやら、電話をかけていたらしい。ひどく急いでいるようで、走って車に戻っていく。寒そうにすぼめた丸い肩と、強《こわ》ばった顔がちらりと見えた。
小太りの若い男は、運転席に乗り込むとせかせかとシートベルトを締め、交差点を直進し、氷川高原駅北の別荘地帯へ向けて走り始めた。パトロールカーは交差点を左折したので、その時点でその車は視界から外れた。とりたてて追跡や調査を必要とするドライバーには見えなかったし、東京練馬ナンバーの車だったので、この時刻に到着した観光客が、滞在先のホテルやペンションに連絡を入れていたのだろうというぐらいの感想しか抱かなかった。
午後八時半を過ぎたころ、氷川高原グリーンヒルへ通じる公道に面しているカフェテラス「銀河」のウエイトレスが、午後六時前からずっと窓際の席に陣取っていた若い男の客が、ようやく腰をあげて外へ出ていくことに気づいた。若い男は、しばらく前からしきりと窓の外を気にしており、どうやら誰かと待ち合わせをしているようだった。おそらくは、その相手が約束の時間に遅れたのか、ずっといらいらした様子を見せていた。
新しい客だった。グリーンヒルという高級別荘地の入口に立地するこの店には、常連客が比較的多い。ウエイトレスは、たいていの客の顔は覚えている。この若い男は、間違いなく初めての客だった。
それでなくても、一度会ったら忘れない顔だ。若い男はなかなかのハンサムで、背も高く、都会的な服装をしていた。髪が少し長めで、顎のまわりをうっすらと無精ひげが包んでいる。サラリーマンではあるまい。ウエイトレスは興味をもって観察していた。コーヒーのおかわりを持っていくついでに話しかけようかなどとも思っていた。
しかし、席に近づいていくと、すぐに、若い男の様子が、あまり穏やかではないことが判った。ウエイトレスの職業的カンに間違いはない。彼はただ待たされてイライラしているだけではなく、怒っているし、怯えてもいるように見えた。ウエイトレスは、とっさに、彼は音楽家の卵ではないかと思った。グリーンヒルのなかに豪壮なスウェーデンハウスを建てて永住している有名な作曲家がおり、東京からわざわざ訪ねてくる音楽関係者を邪険に扱うことで知られている。以前にも、こっぴどく叱られて東京へ帰る途中なのか、この店で泣いていた若いバイオリニストを慰めたことがあった。彼女はその作曲家に呼ばれてわざわざやって来たのに、さんざん待たされた挙げ句、演奏を始めて五分で「出て行け!」と怒鳴られたのだそうだ。
この若い男の客も、そのクチだろうかとウエイトレスは考えた。でも楽器を持っていないようだから、音楽評論家とか、音楽雑誌の編集者かもしれない。ウエイトレスの思考は勝手に先走りをし、夢想が広がった。そうしているところへ、ようやく待ち人が来たのだろう、くだんの若い男の客が立ち上がり、走るようにしてレジへと向かったのだ。
ウエイトレスもレジへ飛んでいった。ここで待たされているあいだに、彼はコーヒーばかり五杯も飲んでいた。ウエイトレスは、もう一度間近で若い男を観察した。彼の着ているセーターは高級品だった。くたびれたような横顔も、鼻から顎にかけての線がきれいに整っていた。この人には品と知性があると、ウエイトレスは思った。
「ずいぶん待たされましたね。お疲れさまでした」と、彼女は声をかけた。
釣り銭をズボンのポケットにねじ込み、店の外に走り出ようとしていた若い男は、ぎょっとしたように彼女を振り返った。
「あら、ごめんなさい」相手の反応があまりに激しいので、彼女も驚いた。「いえ、ずっとあの席でお待ちだったもので」
若い男は、じろじろと彼女をながめまわした。そしてひと言吐き捨てた。「余計なことを言うんじゃないよ」
乱暴にドアを開けて外に出ていく。彼と入れ違いにドアを抜けて吹き込んできた外気の冷たさに、ウエイトレスはぶるりと震えた。わあ、感じ悪い。何よ、あれ。
腹立ちまぎれに、彼女はレジのなかでつま先立ちになって外を見た。若い男は、店のすぐ向かいに停まっている白い乗用車に乗り込むところだった、運転席から半ば身体を乗り出して、小太りの男が何かしゃべっている。距離があるので声は聞こえないが、なんだか口論しているような感じがした。
──やだぁ、あの車。まるっきりポンコツじゃない。笑っちゃうわね!
ウエイトレスは本当に鼻先で笑って、あの若い男の客が座っていた席を片づけるためにレジを離れた。コーヒーカップと灰皿を盆に乗せ、ダスターでテーブルの上をふいた後、もう一度窓の外をながめてみた。ポンコツの白い乗用車は消えていた。どちらに向かって走っていったのか、彼女には判らない。もう、興味もなかった。
「なんで新幹線で来なかったんだよ! ちゃんと言ったじゃないか。新幹線なら一時間もかからないけど、車じゃ三時間以上かかる。だから新幹線使えって言ったんだ。さんざん待たされたじゃないか!」
高井和明の車に乗り込むなり、栗橋浩美は怒鳴った。腹が立って腹が立って、頭がおかしくなりそうだった。生意気にも、カズが俺の指示に逆らった! 俺の言うとおりにしなかった!
計画では、氷川高原駅でカズにレンタカーを借りさせ、その車内でいろいろ打ち合わせをしようという口実で、あちこち走り回させるつもりだった。もちろん、走り回る目的地のなかには、氷川高原一帯で木村が立ち寄った場所が含まれている。
木村本人から、ピースの車に拾われるまでの行動と行程を細かく聞き出しておいたのも、まさにこのためだった。木村が立ち寄った場所に、高井和明も立ち寄らせる。そうやって、誰かカズの姿を目に留め記憶してくれる目撃者をつくりだすことができるならば、後々いい証言をしてくれるだろう。
それなのに、カズが新幹線を使わなかったおかげで、こんなに時間をくってしまった。あたりはもう真っ暗、別荘地帯では、誰も外など歩いていやしない。どこを走り回っても、目撃者など期待できない。この大バカ野郎。
「ごめんよ。ただ、新幹線を使っちまうと、すぐに東京へ帰れないと思って」
カズはもごもごと言い訳をした。車はグリーンヒルの外側をぐるりと走る町道へ乗り入れている。一車線の舗装されていない道で、あたりは鬱蒼とした森だ。街路灯もとびとびにしか設置されていないので、カズはびびっているようだった。車はのろくさいスピードで進んでいく。
「帰るって、なんで帰るんだよ?」
「やっぱり、親父が心配だから」
「俺のことは心配じゃないのかよ!」
「心配だよ。だから、ヒロミの手伝いが終わったら、夜中でも朝でもいつでも東京へ帰れるようにと思って車で来たんだ。新幹線だと、終電や始発の都合があるから」
こいつは本当にバカのなかのバカだ。
「おまえ、俺の立場が判ってんのか? 俺がどんな危険にさらされてるか判ってんのか? ホントにあいつの別荘の掃除だけしてハイさようならって帰れるとでも思ってんのかよ? 俺たちは、殺人者かもしれない奴を調べようとしてるんだぞ!」
栗橋浩美は、ピースとふたりでつくりあげた嘘のストーリーのなかに、すっかりはまりこんでいた。一瞬、演じているという自覚さえなくした。俺は親しい友人に殺人の疑いをかけてしまい、苦しんでいる善良な男だ──苦しみのあまり、自力で友への疑惑の霧を晴らそうと努力する立派な男だ──
「ヒロミが危ない立場にいることは、俺も判ってる」
無舗装の道を、どこんどこんと不器用に進む車の運転席で、滑稽にも飛んだり跳ねたりしながら高井和明は言った。「だから、そのためにも車があった方がいいじゃないか。いざとなったらふたりで逃げ出せるように」
その言い方があまりに誠実で一生懸命だったので、栗橋浩美は危うく失笑しそうになり、表情を隠すために、窓の方へと顔を背けた。
──ピースと相談し直さなきゃならない。
緻密な計画を、もう一度頭のなかで繰り返してみる。
1 カズを東京からおびき出す。これは、十一月四日午後から五日の深夜までのアリバイを不明にしておくためだ。
2 カズには、必ずレンタカーを借りさせる。
3 その車で、木村の立ち回り先を走り回る。その際、栗橋浩美は後部座席で横になるなどして、なるべく人目を避ける。
4 カズを山荘に連れ込み、物置を調べるという口実で、木村の衣類や所持品に指紋をつけさせる。
5 四日の深夜に山荘でカズを眠らせ、そののち木村を殺す。木村の死体を、カズの借りたレンタカーのトランクに積む。
6 五日は夜になるまでカズを拘束し、山荘に留め置く。そのあいだに、本当の真相を話してやってもいい。
7 夜になったら、カズのレンタカーで山荘を離れる。栗橋浩美が車を運転し、赤井山中のお化けビルまで行く。そこでカズは、レンタカーの排気口からガスを引き込み「自殺」する。遺書はピースが作成しておく。
最初にピースからこの計画を聞かされたとき、栗橋浩美は、「犯人」であるカズの自殺があまりに唐突すぎないかと疑問を述べた。まだ警察に追いつめられたわけでもない。木村を殺したのは、生意気な女評論家を困らせてやるためのイタズラで、「犯人」としてはひどく気分のいいことであるはずだ。それなのに、その殺人の直後に自分で自分の命を絶つなんて、おかしくないか?
するとピースは自信たっぷりに笑った。
「連続殺人者の自殺は珍しいことじゃないんだ。アメリカじゃ、未検挙の氏名不詳の連続殺人者によって行われていた犯行がぴたりと止んだ場合、真っ先に、犯人が自殺したものと推定する。それぐらい多いんだ。破壊衝動というのは、外側にばかり向かうもんじゃないってことさ」
「そうかな……。アメリカじゃそうだとしても、日本の警察はまだ、そういう考え方に慣れてないんじゃない?」
「大丈夫だよ。これがモデルケースになるように、僕が素晴らしい遺書を書くから、心配するな」
それよりも、この計画で肝心なのはと、ピースは声を強めた。
「カズに氷川高原駅でレンタカーを借りさせるってことだ。どうしてもレンタカーでなきゃいけない」
なぜなのか、栗橋浩美には判らなかった。ピースは説明した。
「いいかい? 今度の木村の件で、カズがカズの自家用車を使ったとしよう。トランクに木村の死体を入れておけば、木村の痕跡はカズの車に残る」
それは、高井和明こそ連続誘拐殺人犯人だという証拠のひとつとして取り上げられるだろう。
「だけど、それは反面危険でもあるんだ。いいかい? 木村の死体がカズの自家用車から見つかったならば、警察は、カズが犯行のたびに自分の車を使っていた可能性が高いと考えるだろう。だとすると、木村以前の被害者たち、古川鞠子や日高千秋を始めとする女たちの痕跡も、何かしら、カズの車のなかに残っているはずだということになる。髪の毛一本でも、衣服の繊維でも。警察の科学捜査力をもってすれば、必ず探し出すことができる」
確かにそのとおりだ。
「だが、現実には、カズの自家用車からは女の子たちの痕跡は発見されない。当然さ。犯行には、カズの自家用車は使われていないんだからね。そして、警察のなかに、このことに疑問を感じる向きがまったくないとは、僕には思えないんだ。誰かが疑問に思うかもしれない──高井和明は、他の犯行のときには別の車を使ったんだろうか。それはなんだかヘンだ。こいつは本当に真犯人なんだろうか。やっぱり、別に共犯者がいるんじゃないのかと。危険だよ」
だからこそ、木村の死体とカズの自殺死体は、カズの借りたレンタカーで発見される必要があるのだと、ピースは力説した。
「いくら警察だって、カズが犯行のたびに別々のレンタカーを借りていたと想定される場合、日本中を走り回ってそのレンタカーを特定しようなんて思わないだろうし、それは不可能だからさ」
そこまで説明されれば、栗橋浩美にも、カズにレンタカーを都合させることの重要性はよく判った。なによりも、連続女性誘拐殺人はカズひとりの仕業であり、彼が真犯人なのであり、彼の他には誰も関わっていないと警察に思いこませることが肝心なのだ。犯人はこいつだ、単独犯で、二人組ではない、と。
それなのに──栗橋浩美は、運転席の高井和明を横目に見て、奥歯を食いしばった。このカモは、最初の一歩のところで俺たちの計画を狂わせやがった。
「とにかく、別荘に行こう」
栗橋浩美は、窓の向こうに広がる夜の闇を見つめた。これ以上このカモに計画を狂わされないうちに、拘束してしまわなくては。
「山荘」の窓には明るく灯がともり、車が近づいていくと、ピースが玄関のドアを開けて出てくるのが見えた。カズの車を出迎えるように、笑みを浮かべて近づいてくる。その白い顔に、栗橋浩美は一瞬わけもなく恐怖を感じた。
「遅いなあ。僕の方が先に着いちゃったじゃないか。掃除も済んだよ」
カズが車を停めると、ピースは車道に敷いた砂利を踏みしめながら近寄ってきて、大きな声で言った。
カズが素早く横目でヒロミを見た。しかしその「素早い」はカズの素早さであって、ピースにはその仕草が丸見えであったろう。カズの横目の視線に応じるヒロミの狼狽《ろうばい》した表情も、ピースにはお見通しのはずだった。
──到着が遅いんで、ピースはきっと、何か計画を狂わせるようなことがあったと察してくれたんだ。
「山荘」に近づいてくるのが、どう見てもレンタカーとは思えないポンコツ車であることから、素早く推測をめぐらせたのかもしれない。ピースの頭は電光石火だ。
「冷えるだろ? 腹減ってない? とにかく入ってよ。車はそっちに停めておけばいいから」そう言って、ピースはにっこり笑った。
「なんだ、ヒロミが連れてくる友達って、高井君だったのか。しばらくぶりだね。僕のこと、覚えてるかい?」
カズはのろのろと車を降りると、ヒロミに誘われたとかお邪魔するとか、当たり前の挨拶をのろくさく口にした。ピースはますます上機嫌の様子で、ふたりを「山荘」の方へと手招きした。
「そんなところに突っ立ってないで、入れよ。とにかくコーヒーでもいれるからさ」
「行こう」と、ヒロミはカズの脇腹をつついた。「入らなきゃヘンだ」
カズは、まるで映画のなかの潜入捜査官みたいに視線を斜《はす》にして、うなずいた。「そうだね。でも……びっくりしたよ。ヒロミが疑ってる相手が彼だったなんて」
「奴のあだ名、覚えてるか?」
「うん。ピースだろ」
「いつもニコニコ笑ってるからな。あいつが連続殺人の犯人だなんて、信じられないだろ? 俺が苦しんでるわけも判るだろ?」
カズは返事をしなかった。ピースが「山荘」のドアを開けて待っている。ふたりは小走りに砂利道をあがった。
リビングは明るく、暖炉では薪が燃えあがり、エアコンも点《つ》いていて、頭がぼうっとなりそうなほどに温かかった。
「きれいに片づいてるね」と、栗橋浩美は言った。「遅刻しちまったおかげで、俺は日当、稼ぎ損なったな」
ピースはキッチンでコーヒーをいれながら、楽しそうに笑った。
「ガラクタを物置に押し込んで扉を閉めたってだけのことだよ。だから大丈夫、仕事は残ってるんだ。それに、僕は当分こっちにいなくちゃならないんでね」
「だってさ。良かったな」ヒロミはカズに笑いかけ、素早く目顔で合図を送った。とにかく今は、ピースの言うとおりにしておこう、と。カズは心得顔をつくってまばたきを返した。こいつ、ウインクしようとしてまばたきしちまったんじゃないかと、栗橋浩美は笑い出しそうになった。
とにかく「山荘」まで来た。カズを連れ込んだ。その安心感で、とりあえずひと息ついた感じがした。
ピースがコーヒーを持ってきた。栗橋浩美は、今日はもう半年分ぐらいのコーヒーを飲んだような気分だったので手をつけなかったが、カズは遠慮しながらもカップを手にとった。今のところカズには、彼のはめられた筋書きに疑いを抱いている気配はなく、視線は、絶えずピースの方へと向けられている。そんなにちらちら見たら、かえっておかしいと思われるだろうに、本当にバカな奴だ。
「ちょっとトイレ貸してくれるか? どっちだっけ」早口に言って、栗橋浩美は立ち上がった。こっちだよと、ピースが先に立って案内してくれる。ふたりでリビングを横切り、廊下に出て、ピースがドアを閉めた。閉めた途端に、早口に押し殺した囁き声を出した。「カズ、自分の車で来たんだな?」
栗橋浩美はうなずいた。事情を話すと、ピースもうなずき返した。
「判った。仕方ない、計画変更だ。ちょっと考えさせてくれ」
「木村は?」
「薬で寝てる。あれからもう一度飲ませたから」
「カズは、用が済んだら東京へ帰る気でいる。親父が心配だって。家に電話をかけるかもしれない。どうする?」
ピースは微笑した。「大丈夫だよ。電話はジャックを抜いて使えないようにしてあるから。故障だって言うさ」
そしてリビングに戻って行った。
栗橋浩美が用を足して戻ってみると、ふたりはしきりと話をしていた。夕食のメニューを相談しているらしい。
「僕がつくるから、たいしたものはできないけど」と、ピースが笑う。
「そうでもないぜ。ピースは料理がうまいんだ」
カズはおずおずとふたりの顔を見比べている。「そばとかうどんとか丼物なら、オレにもできるけど」
ピースは、そう言われて初めて思い出したという感じに、大げさに喜んでみせた。「そうか! カズは蕎麦屋をやってるんだもんな?」
結局、夕食はピースがカレーをつくることで落ち着いた。カズが手伝いを申し出た。
「それと……悪いけど電話を貸してもらえると有り難いんだけども。うちにかけたいんだ」
遠慮がちなカズの申し出に、ピースは本当に残念そうな顔をした。
「ごめんよ、今、電話使えないんだ。なにしろ古い家だから、屋内の配線に問題があるらしくてさ。僕も困るから修理を頼んでるんだけど、ホラ、NTTはサービス悪いからね。来るのは明後日だって」
「家の人には、行き先を伝えて来たんだろ?」と、栗橋浩美は訊いた。白々しい質問だった。家族には何も言うな、きっと止められるに違いないし、話が面倒になると、口止めしたのは彼自身なのだ。
もっとも、カズが「氷川高原の方に、ヒロミに会いに行く」と言い置いてきたところで、まったく心配することはなかった。警察に訊かれたら、予定通りに答えるだけだ。
──ええ、高井君が来ました。はい、この山荘にね。十一月四日の夜だったかな。ピースと僕は十月末からここに泊まり込んでるんです。そこへカズから電話がかかってきて、ちょっと寄ってもいいかって。急な話だったから、びっくりしましたよ。
──今考えると、彼はあのときもう、木村さんていう気の毒な人の死体を車のトランクに入れてたんですね。ああ、そうですか、木村って人が行方不明になった場所は、この山荘からそう遠くないんですね……。
──カズは狂っていたんだと思います。狂気が高じて、自殺する直前だったんだ。木村さんを殺したのは、なんかこう……道連れというか、そういう感じだったんじゃありませんか。不意に僕らに会いにきたのは、たぶん、別れを言うためだと思います。僕ら、幼なじみだったから。
──僕の知っていたカズは、友達を大事にする、優しい男でした。信じられないですよ、だから。
「──行き先は、特に言ってこなかったんだ」と、カズが言っている。その声に、栗橋浩美は我に返った。
「じゃあ、心配してるだろうな」ピースが顔をしかめる。「遅くなっても、帰った方がいいんじゃないかい? 駄目じゃないかヒロミ、カズを無理に誘ったんだろ。昔から、ヒロミはいつも、カズには無理ばっかり押しつけてきたからなあ」
「ひとりで来るのはつまらなかったからさぁ」
「いいんだよ」カズは首を振る。「オレも、たまには外へ出たいところだったから。それに、どっちにしろ親父が具合悪くて、今日は店も休みだったからね」
カズが鍋の火加減をみている隙に、ピースと栗橋浩美は素早く視線を交わし、微笑しあった。だが、ピースはすぐに、カズの方に目を向け直した。
「後は細火にしておけばいいな」
ほとんど、いとおしむような優しい視線だった。
「やっぱりカズはプロだね。おかげで、旨いカレーが食えそうだ。片づけは明日でいいから、のんびりしようよ」
タ食は不自然なほど和《なご》やかだった。ピースは、懐かしい、懐かしいを連発し、しきりと中学校時代の思い出話をした。カズもそれに応じて昔話をした。実際、栗橋浩美自身も演技を忘れて懐かしさを感じ、あれこれと思い出したほどだった。
やがて話は、三人それぞれの「今」へと向かった。
「家業を継ぐなんて、立派だよ」大いに健啖《けんたん》ぶりを発揮してカレーを平らげながら、ピースは言った。「僕なんて、親父やおふくろから見たら期待はずれの息子だろうな。早い内から、親父と同じサラリーマンになるなんて真っ平だって公言してたし、今だって自由業だしさ」
カズはピースの方を盗み見るように見て、おずおずと訊いた。「今、仕事は何をしてるんだい?」
ピースは笑った。「何をしてると思う?」
カズは栗橋浩美の顔を見た。ヒロミは、せいぜい冷淡に言い放った。「一応は塾の講師なんだけど、週に三日ぐらいの仕事だし、つまりはぶらぶらしてるんだよ。こいつ、金持ちだからな」
「すごい別荘だもんなあ」と、カズも受ける。
「人を不労所得者みたいに言わないでくれよ。僕だってけっこう働き者なんだぜ」
「会社勤めはしたことがないの?」と、重ねてカズが訊いた。「ヒロミからは、ピースは高給取りだって訊いてたんだけどね」
栗橋浩美は、飲み込みかけていたカレーが喉に詰まりそうになった。親しい友達が連続殺人事件の犯人ではないかという疑いをかけているという罠の内明け話をして聞かせたとき、オレ、そんなこと言ったっけ?
嘘をつくのは易しい。難しいのは、ついた嘘を覚えておくことだ。
ピースがさりげなくフォロウにかかった。「過去形ならばね」
「じゃ、会社を辞めたんだね」
「組織の部品にされるのは真っ平だったからね」
「不安じゃなかったのかい? オレは勤め人の経験がないから判らないけれど、やっぱり相当な覚悟がなかったら、一度就職した会社を辞めることはできないんじゃないの」
「そうでもないさ。能力さえあれば、仕事は向こうから転がってくるものだからね」
ようやく、栗橋浩美はカレーを飲み込んだ。むせそうだったので、急いでグラスの水に手をのばした。
食べ終えた皿を重ねながら、カズが言った。「ヒロミも同じようなことをよく言うよね。能力さえあれば、仕事には困らないと」
栗橋浩美はわざと大声で笑ってみせた。「そうさ、で、今はピースのお手伝いさんをしてるわけよ。こいつがここにこもって仕事するときは、掃除とか買い出しとかやるわけだ」
「ピースはここでどんな仕事をしてるんだい?」カズは訊いてから、急いで付け加えた。「いや、立ち入ったことを訊いたみたいだけど」
ピースは首を振ると、身軽に立ち上がってキッチンへ向かった。「ビールが足らないだろ?」
冷蔵庫を開ける。冷えたビール瓶をぶらぶらさせながら戻ってきて、にっこりした。
「僕はね、実はここで芝居を書いてる」
ぎくりとして、栗橋浩美はスプーンを取り落としそうになった。一瞬、ピースがカズに本当のことを──カズ自身も登場人物のひとりとして利用する芝居を書いていることを、真実を、暴露するつもりなのではないかと思ったからだ。
「どんな芝居だい?」と、カズは訊いた。
「大学時代の友達が小劇団をやっててさ、僕はそこの、いわば座付き作家なんだ。ほとんど金にはならないけどね」
新しいビールをグラスに注ぎながら、
「でも、演劇界じゃなかなか注目されてるんだぜ。ペンネームを使ってるから判らないだろうと思うけど」
カズは恥ずかしそうにうつむいた。「オレ、芝居観ないからなあ。映画にもめったに行かなくなっちまったし」
「最近は、みんなそうだよ」
「でも凄い話だ。ピースは売れっ子の作家になるかもしれないんだな」
その憧れをこめた賞賛に、芝居抜きでピースは嬉しそうだった。今まで書いた作品のことや、今創作中の作品の内容、劇団の俳優たちのエピソード、興行の苦労の多いこと──熱を込め瞳を輝かせて次々と話をしていく。カズはすっかり聞き入ってしまい、栗橋浩美も感心していた。
すべては嘘だ。ピースは小劇団になんか関わっていないし、芝居なんて──今のこの「芝居」以外は一行だって書いていない。俳優にも女優にも知り合いなんかいない。全部嘘ばっかりだ。なんとまあ見事な口から出任せだろう。
食事が終わると、ピースが言い出した──疲れたろ? 風呂に入ったらどうだい? 栗橋浩美はカズに目顔で合図をおくり、ふたりで辞退をした。するとピースは、じゃあ僕は失礼して風呂に入ると言い出した。
ピースが去り、ふたりになると、真っ先に、だがけっして勢い込んだ様子ではなく、足元にぽろりと物を落とすような感じで、カズが呟いた。「おかしいな」
思わず、栗橋浩美は聞き返した。「何がおかしいんだよ?」
カズは黙ってキッチンの方を見やった。
「皿を水につけておかなくちゃいけないな」
「カズ──」
「調べる場所は物置だけかい?」
「うん……」栗橋浩美は焦りを感じた。なんだか急に、カズが扱いにくくなったような気がしてきた。なぜだ?
「ピースが寝てしまってから、物置を調べよう。空いてる部屋があったら。そこも」
「判ったよ」
カズは皿を洗い始めた。栗橋浩美は、またトイレに行くと言って──うまい言い訳など、そうそう考えつくものじゃない──風呂場へ走った。ピースは本当にのんびりと浴槽につかっており、鼻歌など歌っていた。
「おい──どうするんだよ?」
声をかけると、風呂のなかでちゃぽんと水音がして、返事が聞こえた。
「車ごと、カズを始末しないとまずいな」
「車ごと──」
「ガソリンをかけて、犯行に使用した自家用車ごと焼身自殺ということにするか。燃えちゃったら、警察だって詳しくは調べられないからね」
ピースはくぐもった笑い声をたてた。
「でもそれには、カズに、カズの死に場所であるあのお化けビルまで、生きて車を運転して行ってもらわないとまずい。その口実をひねり出す時間を稼ぐためには、また睡眠薬でも使うしかないな」
「判った」栗橋浩美は答え、一段と声を潜めた。「ピース?」
「うん?」
「木村はいつ始末する?」
「もう、いつでもいいよ」
「じゃあ、オレにやらせてくれ。緊張続きでストレスが溜まっちゃったよ。スッとしたいんだ」
「どうぞ、どうぞ」
ピースは言って、くすくす笑った。
「僕が寝ているあいだに、物置を調べるんだろ?」
「もちろんさ。そういう筋書きだろ?」
「木村の財布を隠しておいたから、カズに触らせて指紋をつけさせてくれよ。忘れずにね」
そしてまた鼻歌を歌い始めた。愛する人の死を嘆く、古い古い流行歌だった。
栗橋浩美とカズの宿泊用に、一階のリビングの隣にある予備の寝室をひとつ準備すると、ピースは先に休むと言って二階の彼の部屋に引っ込んだ。午前零時近くになっていた。もっともらしく装うために、それから小一時間を待って、ようやく筋書きどおり、栗橋浩美はカズを一階の物置の「調査」に連れ出した。
物置のなかは、事前に、不自然でない程度に片づけてあった。木村の名刺が入った財布は、一番奥の壁際の棚の上に載せてある古いゴルフバッグの陰に、さりげなく隠してある。
「古川鞠子のハンドバッグを見つけたのは、あっちの、ほら今スーツケースがふたつ重ねてあるところがあるだろ? あそこだったんだ」
声を潜め、身をかがめ、手にした懐中電灯を神経質そうに振り回してみせながら、栗橋浩美は言った。わざとらしく懐中電灯など使うのは、彼自身のアイデアだった。もしもピースがトイレかなんかに起きてきて、物置のドアの隙間から明かりが漏れているのに気づいたりしたら、ヤバいだろ?
ごたごたと荷物の詰め込まれた物置のなかで、カズは大柄で鈍重な身体を持て余しているようだった。ちょっと動くと、何かにぶつかる。埃が鼻に入るのか、くしゃみをする。彼がハクションとやるたびに、栗橋浩美は飛び上がってあわてるフリをしなくてはならない。
「気をつけてくれよ! ピースに聞こえるじゃないか!」
どんなにバカバカしい芝居でも、ここでもっともらしく振る舞って、なんとしてもカズに、木村の財布を触ってもらわねばならない。指紋を残してもらわねばならない。その意味では、栗橋浩美は、筋書きのなかで彼が果たさねばならない役割以上に必死になっていた。
それに、夕食時のころから、急にカズが扱いにくい感じになってきたというのは、彼の錯覚ではなかった。この物置調査でも、カズは栗橋浩美の望むような反応を、なかなか示してくれなかった。指示に従わないわけではないし、ふざけているわけでもない。大真面目だし、少しばかり怯えているようにさえ見える。だが、何か今ひとつ、栗橋浩美がこの場合にはこうであろうと思いこんでいたカズとは微妙に違っているのだった。
それが、焦りを呼んだ。ピースなら、余裕|綽々《しゃくしゃく》でカズを誘導することができるんだろうな。ピースなら、こんなサル芝居、完璧にこなしてカズを丸めこむんだろうな。だけど俺には向いてないみたいだ。そんな弱気の虫と、それに対する苛立たしさが、余計に栗橋浩美の言動を芝居がかったものにしていった。
「なあ、ひょっとしてここが殺人現場だったらどうする?」
物陰を探すような仕草をしながら、栗橋浩美は言った。
「ピースはここで女の子たちを殺してるのかもしれないぜ?」
壁際に据えられた古い衣装箪笥を調べていたカズは、のろのろした手め動きを止めて、栗橋浩美を振り返る。
「そんなことないよ。きっと。そんなこと考えない方がいいよ」
栗橋浩美の苛立ちが、また募る。なんでカズがそんなこと言うんだ? カズならカズらしくしろよ。いつものカズなら、俺がこんなこと言って怯えてみせたら、倍も三倍も怖がって、
(どうしよう、ヒロミ。早く警察に報せようよ)
とか何とか泣き声を出すはずじゃないのか、そしたら俺は、
(待てよ、待て。もうちょっとよく調べよう。何か証拠になるものがなきゃ、話だけじゃ、警察は信じてくれない)と冷静に宥めるんだ。そういうふうになるはずだったんだ。俺はそういうのを期待してたんだ。
それなのに、なんか違うじゃないか。
栗橋浩美は、懐中電灯であちこちを照らしながら、木村の財布が隠してある棚へと近づいていった。早くこれを、カズに発見させてしまおう。そして物置から出よう。どうもうまくない。なんか、俺だけひとりで空回りしてるような感じがするのは、気のせいかもしれないけれど、なんか、こんなことを続けていたくはなくなってきた。
「この陰とかに、何かないかな……」
呟きながら、棚の方へと首を伸ばしたとき、後ろからカズが呟くのが聞こえてきた。
「まるで、少年探偵団みたいだな」
思わず、栗橋浩美はきっと振り向いた。カズの口調に、わずかではあるが、からかうような色合いが混じっていると感じたからだ。
「なんだって?」と、鋭く問い返した。そして、カズの声がした方に懐中電灯を向けた。
カズは物置のドアのすぐ脇にいて、何をするでもなく両手をだらりと下げ、大きな丸い頭をかしげて、栗橋浩美の方を見ていた。カズの手の中の懐中電灯は、床ばかりを照らしている。栗橋浩美の懐中電灯にまともに顔を照らされて、まぶしそうにちょっと顔を背けた。
「なんて言ったんだ?」
「少年探偵団みたいだって言ったんだよ」と、カズはもう一度言った。今度はからかっているという感じではなかったが、いずれにしろ声に力がなかった。まるで──そう、まるで、子供のお遊びにさんざん付き合わされて疲れてしまった大人のように。そして次には、もう気が済んだろ、さあ帰ろうと促すのだ──
「おまえ、何言ってんだよ。もっと真剣になれよ。ことは殺人事件なんだぞ」
「判ってるよ」と、カズは言う。「だけど、どっちにしろ、ここには何もなさそうじゃないか」
「そんなことないさ。ちょっと待てよ。ここに──ここに何かある!」
栗橋浩美はぐいと手を伸ばし、隠しておいた木村の財布を取り出した。自分の手で見つけだしてしまうなんて、段取りとは全然違うけれど、四の五の言ってられない気分だ。とにかくこれをカズに触らせりゃいいんだろ?
「見てみろよ、これ。財布だ。男物の財布だ。名刺が入ってるぜ」
カズの目の前に木村の財布を突き出した。カズはそれを右手で受け止めると、懐中電灯を近づけて、しげしげと観察した。
「どこにあったんだい?」と、訊いた。
「あの、奥の棚の上さ」
「そうか……」カズは二つ折りの財布を開けると、ちらりと中身を見た。左手が懐中電灯でふさがっているので、右手だけで、指先で財布の中身を確認する。それじゃ、ちゃんと指紋がつかないじゃないかと、栗橋浩美はまた苛ついた。
「本当だ。名刺が入ってる」
「木村──庄司。会社の名前も入ってるな。日本林業住宅ホームだって」
「なあ、カズ」
栗橋浩美は、彼自身が「興奮した囁き声」だと認識している声を出そうと、精一杯努めていた。
「あの連続誘拐殺人犯の奴さ、テレビの特番で女評論家に、女しか殺せないいくじなしとか言われて怒ってさ、じゃあ次は中年の男を殺せばいいんだろうみたいなこと、言ってなかったか?」
カズは返事をしないまま、財布をいじりまわしている。心なしか、その指先が震えているように見えて、栗橋浩美は溜飲がさがった。そうだ、怖がれ。俺がこんなに上手く芝居をうってやってるんだから、おまえは怖がるべきなんだよ。
「この財布の木村って人は、きっともう殺されてるはずだ。やっぱりピースが犯人なんだよ。こいつが証拠じゃないか。俺の思い過ごしじゃないし、勘違いでもなかったんだ!」
カズは無言のまま財布をふたつに折った。ぱたんという音がした。
「大きな声を出しちゃまずいよ」と、低く言った。「それじゃ、どうしようか、これ。証拠として持っていくかい?」
「そうしよう。おまえ、持っててくれよ。ピースに見つからないようにな」
やっとこれで、物置から出ることができる。ふたりは足音を忍ばせてキッチンへと戻り、懐中電灯を元あった食器棚の下の引き出しへとしまった。そして、ふたりの部屋へと引き上げた。
「間違いのない証拠を見つけられたな。もう、他の部屋を調べる必要はないな」やっと解放された気分で、栗橋浩美は浮き浮きと言った。「俺たち、大変なことに関わっちまったけど、でもカズ、大手柄だぜ。警察から表彰されるぜ。マスコミにも引っ張りだこだ。なんせ、あの連続殺人犯を突き止めたんだからな」
木村の財布は、今もカズの手の中にある。何も知らないこのバカは、財布をひねくりまわして指紋をベタベタくっつけてくれている。さっき付けてしまった栗橋浩美の指紋など、もう判らなくなってしまっているだろう。有り難いバカだ──そんなふうに鼻先で考えるだけの余裕が、栗橋浩美のなかに戻ってきた。面倒だったけど、やることはちゃんとやったぜ、ピース。
カズは客用にきちんと整えられたベッドに腰かけ、財布から取り出した木村の名刺を、部屋の明かりの下でもう一度確認している。栗橋浩美は近づいて、上からのぞきこんだ。
「新しい名刺だな。この会社、テレビでコマーシャルをやっているのを見たことがある。大手だな」
「ここの電話番号に電話してみようか」と、カズが言った。
「なんでだよ。なんでそんなことする必要があるんだ?」
「この木村っていう人が今どこにいるか、行方不明になってるかどうか、調べたいじゃないか」
栗橋浩美は動転した。カズみたいなノータリンが、こんなことを言い出すはずがない。そんな予定はなかった。
「そんなの調べてどうするんだよ? 何になるっていうんだよ?」
「大切なことだよ。この財布の持ち主の身元を確かめないことには、なんでこれがここにあるのか判らないだろ? ただの、ピースの知り合いがここに忘れていっただけのものかもしれないじゃないか」
栗橋浩美は凶暴な衝動に襲われて、もう少しでカズを殴り跳ばしそうになった。ほとんど腕があがりかけた。お前がなんでそんなことを考えるんだ? お前は何も考えられないバカのはずじゃないか。俺たちの言いなりになる、簡単に騙される抜け作のはずじゃないか。
こんなの、筋書き通りじゃない。ピース、ちっとも筋書き通りにいかないじゃないか、どうなってんだよ?
「俺、電話をかけてみるよ、ここに」カズはベッドから立ち上がろうとした。栗橋浩美は、衝動的にその胸を突いて、カズはどすんと転がった。
「今、何時だと思ってんだ? 会社に人がいる時間じゃねえよ」
栗橋浩美を見上げるカズの目の底に、ほんのかすかではあるけれど、初めて、対抗心のようなものが閃いた。栗橋浩美は自分で自分の目を疑った。こいつ、本当にカズか? いつもいつも、ちょっと揺さぶってやればバカみたいに金を出すし、犬みたいにお手でもお回りでもなんでもやった、あのカズなのか?
「大きな会社だからさ、きっと当直の警備員がいるはずだろ」と、カズは言った。落ち着きを保とうとしているのか、丸い喉仏がごくりと上下した。「こういう社員がいるかどうか、教えてもらえるかもしれない。事情を話して、緊急事態だって言えば──」
カズはまたごくりと喉を鳴らすと、首を振った。カズにしてはとんでもない早口で、ぐいと財布を握りしめ、続けた。
「いや、やっぱりそんなの駄目だな。こんなことで慎重にしてたって、いいことない。警察へ行った方が早いや。俺、これ持って警察へ行く。ヒロミも来るだろう? 警察を呼んで、この別荘に来てもらおうよ。そのときに、古川鞠子のハンドバッグのことも話せばいい。警察だって、事件が事件なんだから、きっと真面目に取り合ってくれる」
じわじわと感じていた違和感が、今やはっきりとした形を成し、栗橋浩美の前に結論を突きつけていた──計算違い。カズを見くびっていた。カズは思ったほどバカじゃなかった。
「お前──お前自分が何言ってるか判ってんのか?」声が裏返りそうになっていることが自分で判る。冷や汗が浮かんでいるのが判る。カズにあわてさせられている自分が判る。
こんなはずじゃなかった。なんでこうなるんだ? 今まで、あんなに上手く計画を運んできた俺たちじゃないか。警察も、殺した「女優たち」の遺族も。マスコミも、日本中を手玉にとってきたんだ。誰も俺たちの正体に気づかず、ただ大騒ぎをするばかりのバカどもだ。俺たちに、ピースと俺に、かなうものはなかった。
それなのに、なんでカズを操縦することができないんだ?
手順は全部頭に入っている。物置を調べ、木村の財布を発見し、それにカズの指紋を付けさせる。そしたら、今夜はここに泊まって、明日ピースの様子を見ながら慎重に行動しよう──そう言ってカズをここに足止めする。眠れないからちょっと飲もうと誘って、睡眠薬入りのウイスキーを飲ませる。カズは死んだように眠り、ピースと俺が木村を始末し、その死体をカズの車のトランクに運びこみ、タイミングよく遺書が郵送されるように手配をして、もう後はカズを片づけるだけというところまで準備が整うまで、目を覚まさない。そういう運びになるはずだった。
それなのに、なぜこんな簡単なことで躓《つまず》くんだ? なんでこいつは素直にここに泊まろうとしない? なんで木村の会社に電話しようだの、このまま警察へ行こうだのと言い出すんだ? こいつにそんな意思があるはずないのに。
「ヒロミ、一緒に警察へ行けるだろう?」
畳みかけるように、カズは──高井和明は問いかける。
「今までのヒロミの話は本当のことなんだろう? それなら一緒に警察へ行こうよ。ぐずぐずしてちゃいけない」
今までの話は本当のことなんだろう? カズの口から、どうしてこんな質問が飛び出して来るんだ?
「急ごうよ。やっぱり、車で来て良かった」
カズは栗橋浩美を押しのけるようにして立ち上がると、ドアへと向かった。前後を忘れ、計画を忘れ、筋書きを忘れ立場を忘れ、栗橋浩美は声を振り絞った。
「待てよ、待てよ! そんなのまずいんだ!」
ドアを開けながら、高井和明は振り返った。まともに栗橋浩美の顔を見た。こんなことも初めてだった。カズが俺の目を見るなんて。俺とまともに顔を合わせるなんて。こんなゴミみたいな奴が。
「何がまずいんだい、ヒロミ」と、カズは尋ねた。「どうしてまずいんだ、ヒロミ。教えてくれよ。俺にどうして欲しいんだ?」
「駒になって欲しいんだ」
と、ピースの声がした。カズが開けたドアの向こうに、いつのまにかピースが立っていた。顔いっぱいに微笑んでいた。その手には、木村を殴り倒すときに使った金属バットが握られていた。
「駒には駒であって欲しいんだ。ただそれだけさ」
そう言って、ピースはバットを振り上げた。鈍い音がした瞬間、栗橋浩美は目を閉じた。それでも、まぶたの裏に鮮血の色が見えた。
木村庄司には、とうとう彼が始末される時がきたということが、どうしても理解できないようだった。事前に、ぴくりとも身動きすることができないようにベッドに縛りつけておいたので、抵抗される心配はない。ピースはまたぞろ、彼の枕元に折り畳み椅子を引き寄せて腰かけ、一時間近くかけて、これから木村の身に起こることと、それが起こすはずの波紋と、そのことがピースとヒロミにとってどれほど重要なことであり、彼らふたりは木村に出会うことができてとても喜んでいるということを説明して聞かせた。まるで、耳の遠い年寄りに、これから施す治療について優しく言って聞かせる医師のようだった。
それでも、木村は理解しなかった。どうせ殺すならば、もっと早く殺すことだってできたのだから、今頃になって殺すのは理屈に合わないなどと、コドモの屁理屈のようなことを言った。ピースは、我々の計画のためには木村に今まで生きていてもらわねばならず、しかしもうその期限が来たので、今度は死んでもらわねばならないのだと、辛抱強く説明を繰り返した。
「君たちは、他人の命をなんだと思ってるんだ?」
肩のすぐ上までロープで縛られているので、木村は、ちょうど大怪我をして全身をギプスで固められている人のように、枕の上で首を上下左右に動かすことしかできない。それでもその不自由な姿勢で精一杯首を伸ばし、ピースに食ってかかった。
「他人の命は、他人の命だと思っているだけですよ」と、ピースはにこやかに答えた。
「僕らは、原則として、知人や友人は殺さない。死なれると悲しいですからね。でも、他人なら平気だ」
「その他人にだって、家族や知人や友人がいるんだ! 彼らの死を嘆き悲しむ人たちが」
「そりゃそうでしょう。でも、僕らには関係ない」
「こんなことをして、何が楽しいんだ?」
「楽しいんですよ。あんたもやってみれば判る。ただ、才能が無いとできないことだから、誰にでもできるわけじゃない」
ピースは、あなたの遺体はちゃんと家族の元に帰るから、安心しろと言った。
「僕らには、全然美的でない中年男性の死体を手元に残しておくシュミはありませんからね。警察があなたを発見して、検死解剖をして、調べるだけ調べて気が済んだら、奥さんのところへ返してくれますよ。それとね、奥さんももう、あなたの身に何か起こっているってことは察知してるはずだから、あなたが死体で帰ってきたところで、死ぬほどのショックは受けないだろうと思うなあ。この一晩で、覚悟ができたんじゃないかな」
「そんな……私は今まで、家内に連絡もせずに外泊したことなんてなかったんだ。心配してるに決まってるじゃないか! しかし覚悟だなんて、そんな簡単に」
今までの状態を「外泊」と表現する木村の言葉のセンスが、ピースは大いに気に入った。
「だけど、折り鶴のことがありますからね」
「折り鶴?」
「あなたをここに閉じこめてすぐに、奥さんとの馴《な》れ初《そ》めについて話してもらったでしょ? あのあと、僕たちは奥さんに電話をかけました。で、ご主人のために折り鶴を折った方がいいですよと、言ってあげたんです。だから彼女は、あなたの身に何か不吉なことが起こってるんじゃないかって、予測してると思いますよ。そうしてもらうために、あなたから、あなたと奥さんのあいだの大切なエピソードを聞き出したわけだからね」
ピースはにこにこと笑った。
「頭を殴って昏倒《こんとう》させ、縛り上げて閉じこめた男に、奥さんとの馴れ初めを教えろと強要する──なんておかしな野郎だって、あなた思ったでしょう? バカなんじゃないかって。こんな奴相手なら、何とかなるって。ところが違うんだな。僕にはちゃんとした計算があって、馴れ初めを聞き出したんです」
「私の家内を──不安にさせるために?」
「そう。あなたがここで苦しんでるあいだ、奥さんにも苦しんでもらうために。だってその方が劇的ですからね。僕は別に、積極的に他人を傷つけようと思ってるわけじゃない。サディストじゃないんだから。ただ、演出家として最大の効果を求めてるだけです。最もドラマティックな筋書きを求めてる。そのために、細部にも趣向をこらすんです」
ピースはそれだけ言うと、一旦立ち上がり、ドアを開けて栗橋浩美を呼び入れた。両手で抱えなければならないほど大きな羽枕を持って、栗橋浩美は木村の部屋に入った。
木村は白目がむき出しになるほど大きく両目を見開いた。
「君は──君は味方のはずだろう? 君はこいつが連続殺人犯だって知ってて、私を助けてくれるはずじゃなかったのか?」
土気色の顔を冷や汗で濡らしながら、必死で首をばたつかせ、叫ぶ。栗橋浩美は、枕を抱え直してピースに声をかけた。
「こういう状態で、簡単にああいう嘘を信じてしまう人間の心理の綾について、よく研究できたかい?」
「できたとも」
ピースは晴れやかに言った。
「窒息死っていうのは、あんまり苦しくないんですよ、木村さん。念のため、あとからもういっぺんロープを使って絞め直すけど、そのときにはもう、あなたは少なくとも仮死状態にはなっているはずで、だから何も感じないと思う。保証します」
だが、枕を顔に押しつけられても、木村はまだ喚《わめ》いていた。あまり、頭のいい人間のやることではなかった。
ヒロミとピースはてきぱきと働いた。木村の死体を浴室に移動し、汚れた着衣をはがして、とりあえず物置にしまう。彼を監禁していた部屋を掃除する。マットレスや毛布は、あとで陽に干せばいい。
汚れを落とした木村の死体に、新しい下着を着せる。新しいと言っても最近買ったものではなく、この山荘の整理箪笥にしまってあった買い置きの品だ。ここから足がつく心配は、全くない。着替えが済むと、今度はふたりがかりで死体を運び、カズの車のトランクへと押し込んだ。木村の持っていた書類鞄も放り込む。鞄のなかに、彼の所持品はすべて納めたが、ただひとつ、携帯電話だけは、記念にもらっておくことにした。
今までも、「女優たち」それぞれから様々な記念品をもらってきたけれど、それらは皆アクセサリーやバッグなどの女らしい小物ばかりで、携帯電話というのは初めてだ。
「おっさんの腕時計や結婚指輪をとっておく趣味は、僕らにはないもんな」と、ピースは笑った。
作業が一段落したころには、山の端がほのかに朝焼けに染まっていた。さすがに二人とも疲労を感じ、とりあえず仮眠をとろうということになった。それでも、いくらも眠れはしなかった。興奮しているのだ。特に相談したわけでもないのに九時前には目を覚まして、すっきりと疲労もとれて、今日のメインイベントをやりとげる決意を固めた。
「まず、朝飯にしよう」ピースは言った。「悪いけど、今朝は何にもつくる気にならないな。ドライブインまで食べに行こうよ。今日は忙しいから、しっかり食っておかないと」
出かける前に、物置に放り込んであるカズの様子を見に行った。
身体に痕《あと》を残さないようにするため、薄いベッドスプレッドを巻き付け、その上から荷造りロープで縛ってある。いわゆる簀巻《 す ま 》きという形だが、カズは太っているので、まるで芋虫だ。栗橋浩美は、思わずクスクスと笑った。
カズは既に、昏倒から醒めていた。栗橋浩美の笑い声に、口をきょときょとと動かした。身体の右側を下にして床に転がされており、そこからでは、栗橋浩美の顔を見上げることもできないのだった。
「なんだ、起きてたのか」と、栗橋浩美は言った。笑いがとまらなくて、愉快でたまらなかった。
ピースの腕前は職人芸的に確かで、金属バットで殴っても、けっして殺しはしない。特大のたんこぶができて、そのたんこぶからパッと血が飛び散って、人によってはちょっと鼻血を出して、あとは数時間意識を失うだけだ。しかしその数時間が貴重なのだ。まったく安全に邪魔されずに、こうして拘束し、さるぐつわをかませ、監禁してしまうためには。
「留守番しててくれよな。俺たち、朝飯食ってくるから」
山を降りると、すぐ近くの国道へ出る三叉路のところに、ドライブインがある。普段は、ピースとヒロミが一緒にいるところを別荘地の誰かに見かけられると厄介なので、利用したことのない店だ。だが、今は、ふたりして餓狼のような気分になっている。いいじゃないか、いっぺんくらいという相談もそこそこに、専用駐車場に車を入れた。
山荘から一歩外に出ると、事件についても計画についても、ひと言も話さない。ふたりが、ずっと厳格に守り通しているルールだった。もちろん、どこで誰が聞いているか判らないからである。ふたりは食事に熱中し、大いに食べた。
計画はもう大詰めで、道ははっきり見えている。その嬉しさと達成感が、彼らを陽気にしていた。栗橋浩美は、舌の先がうずうずしてたまらなかった。早く、この先のことについてしゃべりたい。ピースはもう、「高井和明の遺書」を執筆し終えたのだろうか?
車に戻ると、まだ駐車場から外に出ないうちから、切り出した。「なあ、カズはどこで始末するんだ? 遺書はできたの?」
ピースは、彼らと入れ替わりに駐車場に入ってきた赤いスポーツカーに場所を譲るため、先方の運転手と、手振りと目顔で会話しているところだった。栗橋浩美が目をやると、赤いスポーツカーの運転席には、ボーイッシュな印象の若い美人が座っていた。助手席には、彼女の友人なのだろうか、丸ぽちゃ顔で野暮ったいロングヘアの、やはり若い女が座っている。紅葉見物だろうか。優雅なものだ。
ふたりの女は、店の入口に近い便利な駐車場所を譲ってくれようというピースに、感謝の微笑みを投げる。
赤いスポーツカーと別れて道に出ると、ピースは楽しそうに言った。「謎だよな。どうして女の子の二人組というと、きまって、片方が美人で片方がブスなんだろう?」
「美人同士は友達になれないんじゃないか?」
「でもさ、友達になった時点では美人とブスの組み合わせでも、付き合ってるうちに、ブスの方が美人から学ぼうとしない? 化粧の仕方とか、ファッションとか、ダイエットの仕方とかさ。もしも僕がブスな女で、親友がとびきり可愛くて垢抜けた女の子だったら、必死になって学ぼうとするぜ。アドバイスも求めると思う」
「うん……ピースならそうだろうな。そういうのを、向学心が旺盛だっていうわけ」
栗橋浩美は言って、肩をすくめた。
「だけど、世の中そうじゃない人間の方が多いわけだって。向学心どころか、そもそも学ぶ能力が無いんだよ。生まれつき持ってないんだ。さっきのブスも、その典型」
ピースは声をたてて笑った。「つまり、あの手の人間は、今僕が考えたみたいな疑問を心に抱くこと自体がないってわけか?」
「そのとおり」
上機嫌でうなずいて、しかしそのとき、栗橋浩美はふと思った。こりゃ、カズのことだ。カズも今まで、俺たちから何ひとつ学ぼうとしてこなかった。
カズはあの、助手席のブスで野暮ったい女と同じだ。ピースや俺のような「美人」のそばにいたら、余計に自分が惨めな存在であることが強調されるのに、けっして離れていこうとしない。そのくせ、俺たちから学んで、俺たちのようになろうともしない。カズは魯鈍でぐずでデブで能なしのまま、ずっと助手席に座り続けていた。
なんでカズはああなんだろうと、どうして俺たちの言いなりで、いつだって騙されるんだろうと、疑問を抱いたこともあった。だが、答は簡単なのだ。美人とブスの仲良しコンビと一緒だ。栗橋浩美が判ることがカズには判らない。あいつには人生を学ぶ能力がない。ただそれだけのことなのだ。
だがそれでも、カズは俺のそばにいた。それもまた、ブスが美人の友達に、終生変わらずブスのまま、友情を捧げ続けるのと同じだ。周りの者は、とっとと友達付き合いをやめるか、さもなきゃ相手から学んで自分を同じレベルに引き上げるか、どっちかをすればいいだろうにと思うけれど、本人はそんなこと、思いついてもいないのだ。説明されても理解できないのだ。そもそも、そういう能力がないのだから。魚がウサギに、どれほど懇切丁寧に、こうしてこうすれば陸の上で呼吸ができると説明されても、そうか判ったよと肺呼吸をマスターすることができないのと同じ。能力と機能が欠けているのだ。
そう、ピースはこのことを言ってたんだな。カズが俺たちに騙され利用され続けるのはなぜかって訊いたら、カズはそういう人間だからだって答えた。それは、この意味だったんだな。
それだから、山荘に戻り、いよいよカズを物置から引きずり出して──文字通り、ベッドスプレッドの端をつかんで、リビングまで床を引きずって運んだのだ──暖炉の脇の壁に寄りかからせ、顔と顔を合わせたとき、最初に栗橋浩美の口をついて出たのは、「ありがとう」という言葉だった。「ホントにさ、俺のためにずっと、カズ、そばにいてくれたよな。おまえの友情には、俺、感謝してるよ」
自分で自分の言葉に感動してしまって、栗橋浩美は、目尻にうっすら涙がにじんでくるのを感じた。カズのために泣くなんておかしな話だし、あってはならないことだ。この涙は、カズみたいな友達を持つことのできた自分への感動の涙なのだった。
高井和明は、知性のない家畜のような小さな目をしばしばとまばたきしながら栗橋浩美を見た。左の目がひどく充血していた。右目の方は何ともないようだから、これは涙ぐんでいるのではなく、バットで殴られたことの後遺症だろう。あるいは、殴られて床に倒れたときに、左目を何かにぶつけたのかもしれない。
と、カズが口を開き、くぐもった声で呟くように言った。「こんなことじゃないかと思っていたんだ」
ピースがひゅうと口笛を吹くと、面白そうに目を見開いて、栗橋浩美を振り返った。
「だってさ。へえ、ヒロミ、そうらしいよ」
栗橋浩美はカズに歩み寄り、その場にしゃがみこんで、目の高さを合わせた。ピースはリビングのソファに腰かけると足を組み、煙草に火を点けた。これは珍しいことだった。ピースはめったに煙草を吸わない。自動販売機で買ったキャスターマイルドが、半年経っても半分ほど入ったままで机の引き出しのなかに残されていたりするほどだ。
「こんなことじゃないかって、どういうことだよ?」と、栗橋浩美は訊いた。「俺のこと、ずっと疑ってたってことか?」
犯人が他にいるという作り話を、カズは信じていなかったということなのか。
「そうだよ」
高井和明は、しきりとまばたきをしながら返事をした。どうやら頭を動かすと痛いらしく、頷かないようにしている。首をちょっと前に倒し顎を突き出して、亀みたいに固まっている。
「俺の話、おまえは信じていなかった?」
「そうだよ」
「なんでだよ? よくできた話じゃないか」
「あんな話が本当にあるわけないからだよ」淡々と変わらぬ口調で、カズは言うのだった。「まるで下手なドラマみたいな話だった。あんな話、誰だって信じない」
栗橋浩美は、久しく消えていたあの急激な怒りの発作がわきあがってくるのを感じて、自分でも驚いた。「女優たち」を殺し始めて以来、あの発作とはすっかり縁が切れていた。この二、三年のあいだは、自分の激怒の発作の心配をするよりも、些細なことでもプライドを傷つけられると石になってしまうピースの性癖の方を気遣って過ごしてきたくらいだ。怒りの発作がどんなものであるかということさえ忘れかけていた。
それは車のハンドルを握っていて、突然コントロールを失うことに似ていた。滑らかに舗装された風光明媚な観光道路を時速百二十キロで快調に飛ばしていて、何の気がかりもなく、孤独で快適なドライブのなかにだけ存在するホワイトアウトのような心の空白状態にあるとき、急にがくんとハンドルがロックするのを感じる──両手のなかで、あたかもハンドルが突然それ自身の意思を持ったかのように、操縦されることを拒否する。そしてアクセルを踏んでもいないのにスピードがあがっていく。車はぐんぐん加速して、目の前にある障害物を破壊しながらさらに加速して、車体そのものが破壊の衝撃でみしみしと歪む音さえ聞こえ始め、それでもスピードはあがり続け、その速度についていくことのできない運転者である栗橋浩美の精神は、加速によるGに堪えかねて運転席からどんどん後ろに追いやられ、しまいには後部座席のシートにぴったりと押しつけられ、そこでただ陶然と、突き進む車のボンネットが目の前のものすべてを破壊し尽くしてゆくのを眺めている──
「やめろ、ヒロミ、やめろって!」
再び現実が焦点を取り戻し、ハンドルロックが解けた瞬間に、栗橋浩美は背後からピースに羽交い締めにされていることを知った。足元に、簀巻きにされたカズが芋虫みたいに転がっていた。床の上に血だまりができていた。栗橋浩美は自分が拳を握っており、その拳に血がついているのを見た。
息がはずんでいた。喉がひゅうひゅう鳴っていた。怒りの発作に襲われたのが久しぶりであるだけでなく、これをこんなにも自由に解放したのは初めてであることに、そのとき気づいた。
「これ以上はやめるんだ! カズの死体を解剖されたときに、生前に殴られたり蹴られたりした痕跡があるなんてことがバレたら、筋書きが台無しじゃないか!」
ピースの声が、彼の鼻息と呼気と共に首筋にかかった。背後から栗橋浩美を抱きかかえる彼の腕は、思いのほか細かった。それだけではない、背中に密着している彼の身体の感触は、今まで思ってもみなかったものを連想させた。
日高千秋の身体だ。古川鞠子の身体だ。ドンペリを飲みたがった不運な女の子の身体だ。あいつらはみんな弱かった。ほんのひとひねりで殺してしまうことができた。日高千秋の首に縄をかけ、力いっぱい階段の上から突き落としたとき、栗橋浩美には、彼女の華奢《きゃしゃ》な背骨が彼の手に押されてたわむのを感じることができた。あの感触は、今でもはっきりと手のひらに残っている。舐めれば日高千秋の味がするほどに。
古川鞠子を監禁しているあいだに、気が向くと彼は彼女を殴り、それから犯した。古川鞠子は好きなタイプだったから、それはとても楽しいひとときだったが、レイプが度重なると彼女はだんだん無感動になり、泣くことも怒ることも叫ぶこともしなくなり、だから彼はつまらなくなって、彼女を絞首刑にして殺す直前、犯しながら手で首を絞めてやったことがある。彼女の顔が真っ赤になり、ゆで卵の白身みたいなきれいな白目に血管が浮くまで絞めてから手を離すと、彼女はげえげえいって吐いた。汚物が彼の身体にかかり、彼は怒って彼女をまた殴った。だが、殴ったときの感触よりも、首を絞めたときの、彼女のすんなりとしたきれいな首の骨が彼の手のなかで若竹のようにたわんだときの感触の方が鮮やかで、彼はまた絞めたくなったけれど、そこで彼女を殺したらピースに叱られるのでやめた。
今では名前さえ記憶していないあの不運な女の子は、そうすれば命を助けてもらえると思いこんでいたみたいで、進んで自分から彼の相手をしようとした。その分、ぜんぜんつまらなかった。その代わり、彼女がここを出たら何をしたいと思っているか、命拾いをしたら生き方を変えてどんな人生を歩みたいと思っているか、問いかけて答えさせては楽しんだ。彼女はスカスカの頭を酷使して、ない知恵を絞って必死にあれこれ言った。美容師の資格を取りたい。保母になるのもいい。あたし子供が好きなんだ。ずっと音信不通の親に会いに行くのもいいかもしれない。ひどい親だったけど、あたしにも悪いところはあったから、これからは少しは親孝行したい。思いつくそばから口に出して、それらの答のうちのどれかが彼の心の琴線に触れれば、それが彼女をこの監禁状態から解放する鍵になると信じ込んで、しゃべりにしゃべった。
それでも彼女の脳味噌がネタ切れになり、同じような言葉の繰り返しが始まると、彼は不意に手を伸ばして彼女を殴り、倒れた彼女に馬乗りになって首を絞めた。それは素晴らしい感触だった。女の首や背中やあばら骨がぎしぎしときしむ音を、彼は耳ではなく彼自身の身体で聞き取った。骨が鳴る音を、骨が感じ取ったのだ。
「女優たち」はみんなそうだった。岸田明美でさえ、思い出してみればそうだったのだ。栗橋浩美はあの女の首を絞めた。あのときはとっさにしたことだったけれど、あれは最善の方法だったのだ。
「女優たち」の身体。あのしなやかで柔らかな骨。栗橋浩美という圧倒的存在の前で、簡単にしなり、簡単に折れる、か弱い存在。
それと同じ感触を、今、ピースの身体に感じる。彼らは子供のころから頭脳派で、とっくみあって喧嘩をしたり、遊んだりすることなどなかったから、栗橋浩美がこんなふうにピースの身体に触れるのは初めてのことだった。
ピースの身体は、「女優たち」を思い出させた。いや違う、「女優たち」じゃない。ピースの「女優たち」じゃない。栗橋浩美の女たちだ。彼の女たちだ。
つかまれた腕を振り払い、向き直って、ピースの首を絞めてやりたい。一瞬、突風が吹き込むようにそう思った。一陣の風は、栗橋浩美の心の閉じていた窓をすべて、外に向かって開け放った。全部の窓の外に、ピースの顔があった。弱々しい身体があった。簡単なことだ、殴って、絞めてやるなんて。今度は車のコントロールを失うのではなく、しっかりとハンドルをキープしたままアクセルを踏むのだ──
「……捕まるに決まってる」
栗橋浩美の足元で、カズが言葉を発した。芋虫が言葉を発した。
「──なんだって?」
栗橋浩美は我に返った。開いていた窓は、一斉にぱたんと音をたてて閉じた。
「いくら細工をしたって、こんなことをやったら、いつかは捕まるって言ったんだ」
カズは床の上から顔をあげた。鼻がつぶれ、血がだらだら流れていた。左のまぶたが切れ、右目がふさがっていた。カズがうんうんいいながら首を持ちあげ、なおもしゃべろうとすると、血と唾液の混じったものが口の端から滴《したた》り落ちた。
栗橋浩美が発作から回復したのを感じたのか、ピースが羽交い締めを解いた。彼の身体の感触が消えると、さっきの衝動もきれいに消えた。消えるときに箒星《ほうきぼし》のような尾を引くこともなかった。それは最初から存在していなかったもののようにすっぱりと消えてなくなった。栗橋浩美には、さっきのあの刹那、自分が何を考えていたのか、もう思い出すことができなくなった。
「捕まったりはしないんだ」
栗橋浩美の前に出て、カズのそばにかがみこみ、倒れた彼を抱き起こして元のように座らせながら、ピースが言った。
「僕は捕まったりしない。計画は完璧だ。うっとりするような美しいストーリーなんだ。そしてね、カズ、何よりも大切なのは、社会もみんな、僕の織りなすこのストーリーを歓迎していて、続きを待ち受けているってことだ。続きと、最高のクライマックスと、余韻のあるラストをね。だから君には協力してもらわなくちゃならない。共演者として」
いつもながら、ピースの口調には説得力が溢れていたけれど、カズはピースを見ようともしなかった。彼のふたつの目は、悲惨な状態の顔のなかで必死に焦点をあわせ、栗橋浩美だけを見つめていた。
「ヒロミ、判ってるだろ? オレの言うこと、判るよな?」
血と唾液を滴らせながら、彼は言った。
「ピースの言うことなんか、信じちゃ駄目だ。だってそうじゃないか、君に比べたらずっとバカでとろいオレのことだって、騙せなかったんだ。オレは一度だって、ヒロミの作り話を信じちゃいなかった。ヒロミが犯人で、ヒロミがあの女の子たちを殺しているんだろうって、ずっとそう思っていたんだよ」
「それなら……」栗橋浩美は、自分の両手がだらりと下がるのを感じた。「それなら、なんでおまえ、ノコノコここまで来たんだよ?」
「止めさせたかったからだ」
無残にへしゃげた鼻から、切れたくちびるを伝って血が流れる。それを吐き出しながら、懸命に身を乗り出して、カズは続けた。
「こんなこと、止めさせたかった。ちょっとでも早く止めさせたかったんだよ。一緒に警察へ行こうって、ヒロミを説き伏せるつもりだった。あんな嘘じゃ、オレだってひっかからない、すぐに捕まるよって」
ピースは両手を腰にあて、粗相をしたペットを叱る飼い主のような口調で言った。
「そういうのを独りよがりというんだ。あいにく、ヒロミはひとりじゃない。僕が一緒だ。そして指揮者は僕だ。だから、カズには勝ち目がない。カズには、今までの人生のなかでだって、一秒だって勝ち目があったことがないじゃないか」
「警察へ行こう、ヒロミ」
あくまでもピースを無視して、カズは言い募る。
「こんなことを重ねちゃいけない。君はそんな人間じゃないはずだったんだ。君はすごく辛い思いをしてて、だからそれで人生が歪んで──」
「俺の人生が歪んでる?」栗橋浩美は大声を出した。「おまえなんかがなんでそんなことを言うんだ?」
「歪んでるじゃないか」
栗橋浩美がまた殴ろうと手をあげると、カズはぐっと顎を引いて壁に頭をつけた。しかし、黙ろうとはしなかった。
「ヒロミはもっと違う人生を歩けたはずじゃないか? 俺みたいな能なしは、親の商売さえ満足に継げないで、半人前だよ。自分だってそんなことはよく判ってるよ。だけどヒロミは俺とは違う、子供のときからずっと優秀で、なんでもできて、どんな人生だって選べたはずだった。だけど今はどうだい? ちゃんとした仕事もないじゃないか。収入だってあるのかい? 友達は? 恋人は?」
「うるさい」栗橋浩美は笑った。ピースの方を向いて、確認するように笑った。ピースは笑わず、ただ首を振っている。
「もっと立派になれるはずだった栗橋浩美じゃないか。一色証券にいれば、今頃は本当にエグゼクティヴになってたかもしれないのに、今はただの失業中だ」
「エグゼクティヴだって? 洒落た言葉を使うじゃないか。ワイドショウで誰かが言ってたか?」
カズはへこたれなかった。栗橋浩美から視線をはずすこともなかった。
「計算違いが起こってるんだよ。ヒロミはこんなことをする人間じゃなかったはずなのに。俺はそのこと、よく知ってる。だから止めようと思ってここまで来たんだ」
「だから、それは無理だと言っている」厳しい口調で、ピースが決めつけた。「僕らの計画に水を差すことなんて、カズには不可能だよ」
「ピースに騙されちゃ駄目だ」声を振り絞って、カズは言った。「丸め込まれちゃ駄目だ、ヒロミ。俺は子供のころからよく知ってる。判ってる。だから言うんだよ。ヒロミがずっとずっと幽霊に苦しめられてきたことだって知ってる。だから頼むよ、もうこんなことは止めるんだ。正気に戻ってくれ、ヒロミ」
「驚いたなぁ」
腕組みを解くと、ピースはふざけた仕草ですとんとソファに腰を沈めた。
「高井和明がまとまった言葉をちゃんとしゃべるのを、僕は初めて目撃したよ。一応、年月と共に成長してたんだな、カズも」
それまでピースを無視し、栗橋浩美ばかりを真っ直ぐに見つめていた高井和明は、このとき初めて、ぐいと首をねじ曲げてピースの方に向き直った。
「当たり前じゃないか。成長してるさ」吐いて捨てるように、カズは言った。「おまえらは、いったい今いくつだと思ってるんだよ? 二十九だぞ? 十九歳じゃないんだ。もう子供じゃない」
ピースは喉の奥まで見えるほど口を開けてゲラゲラと大笑いをした。
「そうだよ、僕らはいい大人だ。だけど大人にも能力差っていうのは厳然としてあるんだよ。君は劣った人間なんだ、カズ」
「いいや、大人じゃない」カズは負けていなかった。果敢に言い返した。「ピースもヒロミも全然大人じゃない。さっきから、おまえらのしゃべってる話を聞いてると、まるでガキの自慢話だ。まるっきり子供だ。子供ってのは、みんな自分が世界でいちばんだって思いこんでる」
辛辣《しんらつ》に、思い切り力を込めて、カズは言い捨てた。
「ふたりともガキだ。後先考えずに嘘をつくことだってそうだ。見え見えの出任せを言って、それで大人を騙せると思ってる。子供だからそういうことをするんだ」
「うるさい!」一転して、ピースが怒鳴った。彼が大きな声を出すのを見たのは初めてのことだったので、栗橋浩美は思わずびくんとした。その様に気づいて、ピースはヒロミの方に矛先を向けてきた。
「なにをビクビクしてるんだ、ヒロミ! なんでカズの言うことにビクついたりしてるんだよ! 情けないぞ!」
ああそうだ……栗橋浩美は考えた。俺はビクついてる。ちょっぴりな。だけどピース、いちばんビクついているのはおまえだ。
だけど不思議だ。今までだって、「女優たち」から罵られたり、軽蔑の言葉をぶつけられたりしたことはあった。ひとりじゃ何もできないいくじなしとか、女しか殺せないだらしのないヤツだとか、決まり切った台詞ではあったけれど、命がけで、全身全霊でぶつけてくる非難の言葉ばかりだった。
それらの言葉に、ピースがひるんだのを見たことはない。ピースのなかでは、「女優たち」のそれらのささやかな逆襲も、計算済みのことのようだった。いつだって余裕で受け流していた。
それなのに、そのピースが今、カズのつたない言葉に激して怒鳴ったりしている。カズの何が、ピースを揺り動かしているのだろう? 自分の心の混乱の靄《もや》を透かして、栗橋浩美はピースの顔を見つめずにはいられなかった。
「なんだよ?」見つめられて、ピースはまた怒った。「なんで俺の顔なんか見るんだ?」
栗橋浩美は黙ってかぶりを振り、カズの方に視線を移した。それを待っていたかのように、カズは顔を上げてその視線を受け止めると、言った。「ヒロミ、こんなことはもうおしまいにしよう。やめるんだ。やめられるはずだよ。ヒロミには助けが必要なんだ」
「助け?」と、栗橋浩美はおうむ返しに繰り返した。「助けだって?」
「うん、そうだよ」
カズは勢いづき、簀巻きにされた身体をなんとかして前に乗り出そうと、懸命に首を伸ばした。
「ヒロミがこんなふうになってしまったのは、ずっとヒロミを追いかけ回しているあの幽霊のせいだ。そうだろ? ヒロミは本当に長いこと、あの幽霊に苦しめられてきたんだ。小さい女の子の幽霊だろ? ヒロミが見ず知らずの女を殺すのは、そういう女たちが、あの幽霊の女の子の身代わりだからだよ。ヒロミが本当に殺したいのは、ヒロミを苦しめてる幽霊の女の子なんだ」
「こいつは恐れ入った!」ピースが手を打って天井を仰いだ。「一億総評論家の世の中だとは知ってたけど、高井和明ごときが犯罪心理学の台詞を吐くとはね!」
カズはピースを相手にしなかった。栗橋浩美だけに向かって、続けた。
「俺は知ってる。ヒロミを苦しめて、ヒロミの人生を狂わせてるのは、女の子の幽霊だよな? ヒロミを追いかけて、身体を返せって言うんだろ? まだ赤ん坊のころに死んだ、ヒロミの姉さんの幽霊だ。ヒロミは、この世に何日も生きてることができなかったお姉さんの名前を、そのまま付けられたんだよな?」
ピースがしつこく割って入った。「おいカズ、どこでそんな話を仕入れてきたんだ? 栗橋浩美君は、彼につきまとっている女の子の幽霊を殺したいから、その代替物として生身の女を殺す──どこの誰が、そんな説を唱えているんだよ? おまえの寸足らずのアタマでひねり出せるような説じゃないもんな?」
栗橋浩美はピースを見た。ピースの目の色が変わっていた。本気を出してカズの相手をしている──もう、いなしてはいない。
「ヒロミ……」懇願するように頭を下げて、高井和明は言った。「お願いだよ、俺の言うことを聞いてくれ。ピースに丸め込まれちゃいけない。ピースはヒロミを助けてはくれないよ。ただ利用するだけだ。ピースの口車に乗せられて、何人女を殺したって、ヒロミを苦しめてる幽霊が消えてなくなるわけじゃないんだよ」
「──なくなったんだ」と、栗橋浩美は嘘をついた。「消えていなくなったんだよ」
「ヒロミ、相手になるな!」と、ピースが怒鳴った。「こんなヤツの言うことに耳を貸すな! こんなバカに何が判るっていうんだ」
「何が判る──」
「そうだ、カズなんかに何も判るわけないじゃないか」
カズは辛そうにかぶりを振った。「そういう物の言い方が子供だっていうんだよ、ヒロミ。ガキのやることだって言ってるんだ」
「俺はガキじゃない」
「そうかな? だけど、言ってることはガキのころと一緒だよ。よく考えてみろよ」
カズの充血した目に涙が溜まっている。そのせいで視界がにじむのだろう、しきりとまばたきを繰り返しながら、しかし小さな目は栗橋浩美を見据えていた。
「俺はね、ヒロミ。確かにグズでのろまなカズだよ。子供のときと変わってないところもたくさんあるよ。だけど、少しは変わった部分だってあるんだ。俺はね、まだまだ力は足らないけど、働いて、うちの店盛り立ててさ、うちの蕎麦を気に入って通ってきてくれるお得意さんを増やすために、俺なりに一生懸命やってきたんだよ。それが俺の──俺の生活で、俺の人生なんだ」
言葉を切って、血の混じった唾を吐き捨てると、くちびるを震わせながら続けた。
「ヒロミから見たら、蕎麦屋なんて地味でカッコ悪い商売だろうよ。大金持ちになれるわけじゃないし、女にモテるわけでもない。だけど、俺は俺でけっこう頑張ってるんだ。グズでのろまのカズも、こうやって頑張って大人になったんだよ。判るだろ?」
ピースが脇でせせら嗤《わら》い、「そうさ、のろまが大人になって、またのろまで愚鈍な子供をつくるんだ」と呟くのが聞こえた。
「俺には、いつだってヒロミが憧れだった。ヒロミはなんでもできて、成績もよくて足も速くて、みんなに人気があってさ。俺に無いもの、みんな持ってた。うちの妹──由美子だよ、あいつだって子供のころ、俺なんかじゃなくて、栗橋君がお兄ちゃんだったらいいのにって言ってたくらいだ。俺だってそう思ったよ。ヒロミに生まれ変われたらいいのにってさ」
栗橋浩美は訊いた。「おまえ、なんで俺にそんな話するんだ」
訊いてしまってから、はっとした。なんでこんなこと訊くんだろう。なんで相手になってしまってるんだろう。
「子供のころのヒロミはカッコよかったって言ってるんだよ。特別な人のように見えたって。そのまま大きくなって、俺なんか手の届かないようなカッコいい人生を掴むように見えたって。だけど、今はどうだ?」
不自由な姿勢から、出せる限りの声を張り上げて、高井和明は言った。
「今のヒロミはどうだ? ただの失業者で、遊んで暮らす何の目的もない男で、しかも人殺しだ。何人女の子をさらって殺したって、遺族の家やテレビ局に電話をかけて、有名人を気取ってしゃべったって、それが何になる? 誰もヒロミのことを偉いなんて思わない。昔の栗橋浩美みたいにカッコよくはなれない。間違ってるんだよ。ヒロミはこんなことをしてちゃいけないんだ」
「お前なんかに……そんなことを言われる筋合いはないね」
「いいや、ある。あるよ。俺はヒロミに憧れてたんだから、憧れのヒロミが、こんな情けないただの人殺しになっちまったのを見ていられないんだ。だけど、ヒロミが人殺しを重ねるのは、ピースなんかに騙されるのは、けっしてヒロミが悪いからじゃない。ヒロミは今でも苦しんでるんだ。女の子の幽霊に憑《とりつ》かれてるんだ。幽霊に追いかけられて、夢中で逃げてるうちに、人生の道を間違っちまったんだ。だから、本当にしなくちゃならないのは、女の子の幽霊を退治することなんだ」
「幽霊はいなくなったって言ってるだろ? 女たちを殺し始めたら、幽霊は消えたんだ!」
高井和明は食い下がる。「だから、それこそが、殺された女たちが女の子の幽霊の身代わりだっていう証拠じゃないか! ヒロミは人を殺したいわけじゃないんだ。ただあの幽霊から逃げたいだけなんだ。だけど、永遠に捕まらずに、女たちを殺し続けるわけにはいかないよ。女たちを殺すことを止めたら、幽霊はまた戻ってくる。刑務所のなかまで追いかけてくるよ。それじゃ、意味ないじゃないか!」
「バカバカしい」吐き捨てて、ピースがソファから立ち上がった。そのまま、まるで決闘のように向き合っている栗橋浩美と高井和明には目もくれず、足早にリビングを出ていった。
ピースが居なくなると、栗橋浩美は、急にがっくりと気落ちするのを感じた。そのままがくんと膝を折って、高井和明のそばにへたりこんだ。
「幽霊の話なんか、しないでくれ」と、小声で言った。生まれて初めて、高井和明に向かって頼んだ。「幽霊のことなんか、聞きたくないんだ」
「お願いだ」高井和明はうめくように呟くと、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。ピースの存在が消えたことで、突っ張っていた何かが折れたことは、カズも同じであるらしかった。彼は手放しでおいおい泣いた。
「お願いだよ……こんなことはもうやめてくれ。人殺しはいけない。いけないんだ」
「だけど……」
もう後戻りはできないのだ。
「俺は捕まりたくないんだ」
「捕まらなかったら、これを終わりにすることはできないんだよ」顔を振って涙を払い落としながら、カズは言った。「元の人生に戻るためには、こんなことを終わりにして、清算しなくちゃいけない」
急に弁解じみた気持ちになって、栗橋浩美は一気にぶちまけた。「俺だって、好きで始めたわけじゃない。ピースに利用されたなんておまえは言うけど、それだって違うんだ。ピースは俺を救ってくれたんだ。明美を殺しちまって、どうしたらいいか判らなくて、ピースに助けてもらって、それが始まりだったんだから」
「明美?」カズの腫れたまぶたが動き、小さな目が見開かれた。「明美って、前にヒロミが付き合ってた女かい?」
「お前が知ってるはずないよ」
「知ってるよ。何度も見かけたことがある。栗橋薬局に美人が出入りしてるって、近所じゃ有名だったんだよ。由美子も言ってた。うちが新装開店のときに、鉢植えを持ってきてくれたじゃないか。あのときも一緒だったろ?」
新装開店? 鉢植え? 栗橋浩美の記憶ははっきりしなくて、よく判らない。
「ヒロミ……あの人を殺したのか? それが最初だったのか?」さすがに動転した口調で、カズは問いただした。「見ず知らずの女ばっかりじゃなかったんだな? あの明美さんがきっかけだったんだな? そうなんだな?」
栗橋浩美はこっくりとうなずいた。
「だったら、どうして逃げきれるはずがある? 警察はいつか必ずヒロミのところにたどりつくよ。どんな小細工をしたって無駄だ──」
カズが言葉を言い終えないうちに、リビングのドアがバンと開き、ピースが颯爽《さっそう》と登場した。にこにこしながらカズのそばに歩み寄ると、左手でぐいと頭を掴み、右手に握った注射器を首筋に突き立てた。
ぎゃっというような声をたてて、一瞬暴れ、しかしたちまちカズは昏倒した。ピースは注射器を抜くと、ふうとため息をつき、笑顔のままでヒロミを見上げた。
「こういううるさいのは黙らせておくに限る」
栗橋浩美は背中が冷たくなった。「それ、何だ?」
「獣医の使う麻酔薬。大型犬でもイチコロってやつだ」
「そんなもの、どこで手に入れたんだ?」
「ちょっとつて[#「つて」に傍点]があってね。薬が抜けて検出できなくなるまで……そうだな、四時間ぐらいかかるかな。それまで時間をつぶさなくちゃならないけど、まあ仕方ない」
足先でカズの頭をこづくと、楽しそうに言った。「いいことを思いついたんだ。岸田明美を使おう」
「え?」
「岸田明美だよ。カズ、あの女を知ってたんだろ? 話が聞こえたぜ」
「……」
「あの女に、カズが目をつけてたことにしようじゃないか。幼なじみの恋人で、とうてい手の届かない高嶺の花の女性。高井和明は、分不相応にも横恋慕をしていた。だけど明美は振り向いてくれない。当然だ、彼女には栗橋浩美という立派な男がついているんだからな」
ピースはにやりと笑った。注射器の針と一緒に、白い歯がきらりと光った。
「横恋慕が高じて、高井和明は岸田明美を殺した。そしてそれは彼のなかの残虐性を目覚めさせるきっかけになった。高井和明は、これまでの人生でずっと、彼に鼻もひっかけてくれなかった女たちに復讐を始めた──女たちを狩ることによって。どうだい? いいストーリーじゃないか。まさに大衆が求めている筋書きだ」
「ピース……それ、今思いついたのか」
「そうだよ。なかなかだろ?」
子供は後先を考えずに嘘をつく──それで大人を騙せると思っている。
もう一度、カズの頭を爪先で突っつくと、ピースは上機嫌で言った。「社会が求めてるのは真実だの真心だのなんて安っぽいものじゃなくて、極上のストーリーなんだ。美しい筋書きこそが、本物の力を持ってるんだ。こいつには、どうやらそれが理解できないらしいけど」
パチンと指を鳴らして、ピースは栗橋浩美を見た。
「カズの死に場所──彼に自殺してもらう場所も、これで決まった。岸田明美と同じ、あの赤井山のお化けビルに行こう」
気絶しているカズを彼の車の後部座席に放り込み、栗橋浩美が運転席に座り、「山荘」から赤井山に向けて出発したのは、午後二時過ぎのことだった。
言うまでもなく、「山荘」から赤井山のあたりを目指すのは初めてのことである。だが、地図を調べてみると、車という足の便さえあれば、案外短時間に到達することのできる距離なのだと判った。東京から赤井山へ向かったり、東京から「山荘」へ向かったりするよりも、ずっと楽なくらいだ。北関東の山々のあいだには、それほど細かく道路網が敷かれているということであろう。
ピースはヒロミと綿密な打ち合わせをし、新しくこしらえた筋書きをヒロミに説き聞かせて理解させた上で、ヒロミよりも三十分ほど遅れて「山荘」を離れる予定になっていた。彼は一旦東京へ戻り、高井和明の家族の様子を探るために、長寿庵に顔を出す。それから、必要なものの調達をして、夜になるのを待って赤井山のお化けビルに向かい、そこでヒロミと合流する。
栗橋浩美は運転席に座る前に、自分のジャケットをカズの身体の上にかけ、カズのジャケットを着込んだ。さらに、カズの身体が、窓越しにちょっとのぞきこんだぐらいでは見つけられることのないように、膝掛けやクッションを重ねて隠した。この車が「山荘」を出ていくところや、麓の道を走っているところを目撃された場合を想定して、あくまでも念のためではあるが、こういう細部をおろそかにしてはいけない。サングラスをかけようかとも思ったが、いつも運転するときにサングラスをかける習慣がなく、視界が狭まると鬱陶しいので止めた。万が一、事故でも起こしたら大変だ。そのかわり、カズがジャケットのポケットに突っ込んでいた、毛糸の帽子をかぶることにした。手編みであるらしい、不格好な灰色の帽子だ。眉のすぐ上まですっぽりとかぶると、人相が変わって見えた。
アイドリングしていると、白い息を吐きながら、ピースが運転席側の窓に近づいてきた。栗橋浩美が窓をおろすと、ピースはぐいと顔を近づけて、言った。
「いいかい、もしもカズが逃げようとしたり、一緒に警察へ行こうとか、ヒロミはピースに騙されてるんだとか、くだらないことを言い出したら──」
ピースは、「くだらない」というところに強く力を込めた。
「僕が東京へ行ってるって、そう言ってやれ。ピースが東京にいて、カズの家族を手のなかに握ってるぞってね。つまり、おとなしくしなかったら、カズの代わりに大事なお父さんお母さんと妹が泣きを見るってわけだ」
「判った」
栗橋浩美は短くうなずいて、窓を閉めにかかった。ピースはちょっと眉をひそめながら身を起こし、あわてて窓から離れた。「何だよ」と、文句を言った。露骨に気分を害した様子だった。吐き出す白い息の形まで尖って見える。
栗橋浩美はしかし、聞こえなかったふりをした。アイドリングはもう充分だろう、車を出そう。
そのとき、ピースが広げた手のひらで運転席側の窓をばんと叩いた。飛び上がるような音がした。栗橋浩美は驚いて振り向いた。ピースの歪んだ顔が、窓いっぱいに張り付いていた。
「聞いてるのか? え?」と、彼は大声で言った。「ここを開けろ。開けろよ!」
ほんの二、三秒のあいだではあったが、栗橋浩美はその命令を振り切り、このまま車を出してしまおうかと思った。ガラス一枚をへだてて、ピースと顔と顔をつきあわせているのが、ひどく滑稽なことのように感じられた。しかし栗橋浩美はひどく疲れていて、この午後はもうどんな滑稽なものを見せられても笑えないような気がした。ましてや、これから一時間半から二時間の道のりを運転して赤井山まで行くのだし、それから先の予定もあるのだし、そしてそれらは決して軽い労働でこなせる予定ではないのだし。
それでも、栗橋浩美のなかに、子供のころから長いことかかって作りあげられてきた順位付けが、最後には勝った。ピースが一番。いつだって、一番なのはピース。栗橋浩美は窓を開けた。カズのボロ車のパワーウインドウは、騒々しく息を切らしながらのろのろと開いた。
ピースはまた険しい顔をこちらに突き出したが、窓がのんびりと上下しているあいだに気勢が削《そ》がれてしまったのか、すぐには何も言わなかった。ただ、口を尖らせて栗橋浩美を睨んでいる。
「何だい?」と、栗橋浩美は訊いた。「オレ、何か聞き忘れてる?」
ピースはちょっと視線を下げると、まばたきをして表情をつくりなおした。ホントは僕、凄く怒っているけど、まあカンベンしてやってもいいよ的な真面目顔。
「カズに惑わされるんじゃないぞ」と、ピースは言った。「あいつの言うことには何の意味もない。あんな無能な人間に、僕たちの考えや目的が理解できるわけがない」
「うん」と、栗橋浩美は短く答えた。毛糸の帽子のせいで、こめかみや額がちくちく痒かったので、指を突っ込んで掻いた。
「言っておくけど、カズがお前に友情を抱いてるなんて、あれは大嘘だぞ」
ピースは車体に手をついて寄りかかりながら、ボンネットに反射する午後の光に、まぶしそうに目を細めた。
「本物の友情ってのは、クラスが──クラスって、学校のクラスじゃないぜ、そのものズバリ、階級だ──階級を等しくする人間同士のあいだでしか生まれないものなんだ。だってそうだろ? 優秀な人間を理解するには、優秀な魂が必要なんだから。だからカズが、オレはヒロミに友情を抱いているって、たとえ百万回叫ぼうとも、それは単なるカズの思いこみに過ぎないんだよ。カズにはヒロミを理解する能力がないんだから」
百万分の一秒──いや、それよりも短い刹那、栗橋浩美の頭の隅で、反論がちかちかとまたたいた。カズには能力が無いって、どうして断定できる? カズを「山荘」に招き寄せてからこっち、オレたちはカズを思惑どおりにコントロールすることができなくて四苦八苦させられてきた。そんなカズが、果たして本当にそれほどの「無能」なんだろうか。
だが、それを口に出してはいけない。カズの「無能」に疑いをさしはさめば、それはいずれ自分たちの「力」にも疑いを抱くことに繋がる。カズが「無能」でないのなら、彼の誠心誠意の訴えのなかには聞くべきものがあるということになり、そしてそれに耳を傾ければ、ピースとヒロミの大切な世界の一角にひびが入る。
──おまえたち、ふたりともガキだ。
そうさ、オレたち二人は大いなるお子様だ。ただのお子様じゃない。偉大なお子様なんだ。
ピースがまだ何か言っている。言葉の端っこだけが、かろうじて聞き取れた。
「──明美が肝心なんだからな。いいね?」
明美? 岸田明美の話か。
「遺書はすっかり用意してある。保存しておいた前のテキストに、明美に横恋慕したくだりを書き足して、全体を整えたら、ずっと完成度の高いものになったよ。いかにもカズが書いたって感じにするために、文章の格調を二段階ぐらい落とさなくちゃならないのが残念だ」
そこまで言ってやっと気が済んだのか、ピースは車から手を離した。もう引き留められたくなかったので、栗橋浩美は窓を開けたまま、
「じゃ、また夜にな」と穏やかに声をかけた。そしてゆるゆるとアクセルを踏み込んだ。
バックミラーのなかで、「山荘」をバックに立つピースの姿が小さくなっていく。それと入れ替わるように、後部座席で昏睡しているカズの、震えるようないびきが大きく聞こえるようになってきた。
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カズは、車が国道に出たあたりからもぞもぞと寝返りをうったりうめき声をあげたりするようになり、それから三十分ほどで目を覚ました。栗橋浩美は、地図で予習したルートに忠実に、すでに全行程の半分近く走り抜けていた。
意識を取り戻したカズは、映画のなかの吸血鬼が棺から起きあがるときのように、いきなりむくりと半身を起こした。彼の太った身体の上から、膝掛けやクッションが落ちた。栗橋浩美はルームミラーごしにその様子を見ていたが、声をかけることができなかった。なんと言えばいいか判らなかったのだ。
カズの必死の訴えと、彼の言葉に触発されて蘇ってきた幼い頃の思い出に触れたときから、栗橋浩美は、自分が騎手なのか馬なのか、はっきりしなくなってきつつあった。騎手だろうと馬だろうと、とにかく相手よりも優位な側に回りさえすればいい。騎手なら馬を走らせる騎手、馬なら騎手を乗せてやる馬。馬に振り回される騎手や、騎手に走らされている馬ではなく。が、今のこの気持ちのままでは、どちらに回っても、ひとりでは何もできないような気がする。
──ひとりでは何もできない。
ずいぶん昔に、この言葉を使って非難されたことがあったのを思い出した。あれは誰だったろう──誰か女の子だったような記憶がある──あんたなんか、ひとりじゃ何もできないいくじなしのくせに! そんなふうになじられたのだ。
「ヒロミ」と、カズが声をかけた。「首が痛いよ」
大きな手で首筋を撫でている。ピースの注射針が刺さったところだろう。
「どこへ向かってるんだい?」と、カズは訊いた。怯えている様子は見えなかった。困惑しているというのでもない。まだ薬が抜け切れていないからかもしれないが、妙に落ち着いているようだった。
「おまえ、怖くないのかよ」栗橋浩美は前を向いたまま訊いた。「自分がこれからどうなるのか、心配じゃないのかよ」
カズは大きな頭をぐらぐらさせ、目をつぶったり開けたりした。頭のふらつきをとろうとしているようだ。その動作をしながら、言った。「ヒロミのことは、怖くないよ」
「あいにく、オレはおまえが期待してるほどのお人好しじゃないんだ」
もうガキじゃねえんだからなと付け加えようとして、呑み込んだ。
「おまえ、今いち理解してないみたいだけど、オレは大勢の女を殺してるんだよ。殺人なんて、オレにはなんてことない些細な作業なんだ。おまえがまともな人間ならば、オレを死ぬほど怖がって然るべきなんだ。逃げだそうとするのが当然なんだ」
「ふらふらする」と、カズは呟いた。両手を目の前で広げてみて、「やあ、指が震えてる」
「薬のせいだ。犬の麻酔薬を打たれたんだよ、おまえは」
のろのろと身体を動かして、カズは座り直した。「ひどいことをするね、ピースは」と、小さな声で言った。
栗橋浩美は黙っていた。若い男女の二人連れが乗ったオープンカーが、追い越し車線を走り抜けていく。女の髪が宙に舞う。かすかに、音楽の切れっぱしが聞こえてきた。ハードロックのようだった。
「これからどこに行くつもりなんだい」
カズの質問を、栗橋浩美は訂正した。
「どこかに行くんじゃない。お前を連れて行くんだ」
たじろぐ様子もなく、カズはうなずいた。
「そうかい。じゃあ、オレはどこに連れて行かれるんだい」
「岸田明美の死んだ場所」
カズはルームミラーのなかの栗橋浩美の顔を見ていた。その視線を、栗橋浩美は強く感じた。
「あいつが死んだのは、不可抗力だった。オレが殺したんじゃない。殺すつもりなんかなかった」
「うん」と、カズはうなずいた。「信じるよ。だけど、あの人の死んだ場所に、どうしてオレを連れて行くんだい?」
ちらと目をあげて、ルームミラーのなかの小さな象のような目が自分を見つめ続けていることを確認してから、栗橋浩美はひとつため息をついた。
そして話を始めた。今までのすべてと、これからのすべてについて。話は長くかかり、時に行きつ戻りつして、カズは理解が追いつかないと待ったをかけ、さらに詳しい説明を求め、理解が及ぶとうなずいて先を促した。
そうやって、今までの連続殺人の成り行きを説明していくうちに、栗橋浩美は奇妙な既視感を覚えた。遠い昔、これと同じようにして、長い長いうち明け話を、カズに聞いてもらった覚えがあるような気がする。今までずっと忘れていたけれど、確かにそういうことがあったような気がする。
「ああ、あったよ」
いつの間にか、心に浮かんだその疑問を口に出していたらしい。カズはうなずいた。
「たった一度だけだったけど、そのときヒロミ、オレにうち明けてくれたんだ。身体を返せって追いかけてくる女の子の幽霊に憑《つ》かれてるって」
そう……だったっけ。
「いつだ?」
「中学二年のときだった。やっぱり、ちょうど今ごろの季節だったよ。全校マラソン大会の翌日で、代休でさ。駅前の本屋でばったり会ったんだ」
長い話のあいだに、車は赤井山に通じる美しい有料道路「赤井山グリーンロード」の入口にさしかかっていた。赤井山をうねうねと越えてゆくこの道の途中、八合目あたりに、あのお化けビルがある
「この距離からじゃ見えないな……」と、栗橋浩美はつぶやいた。
「何が?」と、すかさずカズが尋ねる。
「なんでもねえよ」
すぐ左手にガソリンスタンドが見えてきた。栗橋浩美はハンドルを切ってそちらへ寄っていった。カズが完全にこちらの制御下に入っても、ふたりでいるところを目撃されないように気をつけろと、ピースには念を押された。が、今はなんとなく、ピースの警告が遠いもののように感じられて、危機感さえも薄くなっていた。長い長いうち明け話のあいだに、肩にかかっていた重荷をカズに預けてしまったような気分になりかけていた。
「いらっしゃいませ!」
元気のいい女の子の声が出迎える。まだ高校生ぐらいで、ミニスカートの下からすらりとのびた健康的な足を、惜しげもなく秋の日差しにさらしていた。
車を停めたとき、このスタンドにも、明美と一緒に立ち寄ったことがあるのを思い出した。そう、彼女が死んだ、あの夜に。
「満タン」
近づいてきた若い男の店員に、顔を伏せるようにして声をかけると、栗橋浩美はすぐに車から降りようとした。
「ヒロミ」と、カズが呼びかけてきた。「俺を自殺に見せかけるなんて、絶対に無理だよ。ピースは口ばっかりだ。そらで話をつくるなら、何だってできる。でも現実はそんなに甘くない。ちょっと冷静に考えてみろよ。こうやって俺と一緒にいるところを見られたら、ヒロミが疑われずに済むわけがないじゃないか」
まっとうな理屈だった。栗橋浩美はドアに手をかけたまま、カズをにらみつけた。だが何も言えなかった。カズの言うとおりだったからだ。
栗橋浩美も、ピースから計画を聞かされたとき、同じ疑問を抱いたのだ。だがピースはきかなかった。──もちろん、カズと一緒にいるところを、無防備に目撃されちゃ駄目だよ。
それならば、夜になるまでじっと「山荘」に潜んでいた方が賢明だと思うのだが、それでは、今度は演出が足らないのだ[#「演出が足らないのだ」に傍点]と言う。
──自殺する直前のカズが、すべての引き金になった岸田明美殺しの現場に佇《たたず》んでいるのが目撃されている……というふうに持っていきたいんだ。だから、カズにはどうしても、陽のあるうちに赤井山のお化けビルに行ってもらいたいんだ。大丈失だよ、ヒロミ。用心して離れていれば、誰もヒロミとカズが一緒だなんて思わないさ。カズだけが目撃されれば、それでいいんだ。あいつはあの体格だから、目立つからね。絶対に上手くいくよ。
目撃者というのは、そんなに単純なものだろうか? いくらカズと距離をとっていたって、同じ車に乗って出発するのだ。カズが「自殺」した後、このスタンドの誰かが、お化けビルに居合わせた誰かが、グリーンロードですれ違った運転者の誰かが、
「高井和明という男はひとりじゃなかった、もうひとり、同年代の男の連れがいた」
そう証言するかもしれない。
もしもそういう証言が出てきたら、警察やマスコミは、それを重大なものとして受け止めるだろう。だって犯人は二人組かもしれないのだから。あの特別番組へ電話をかけたのは、かえすがえすも迂闊《 う かつ》なミスだった。
ということは、たとえ首尾良くカズを「自殺」させたって、警察は「残る一人」の追跡をやめようとしないだろうし、追われる危険は少なくなるどころか高くなるということじゃないのか。
高井和明の幼なじみの栗橋浩美は、外部から見たとき、カズを中心とした同心円の、何番目の円の上にいるように見えるだろう。今までずっと、栗橋浩美自身は、いちばん中心から遠い円の縁に居ると思ってきた。だが、本当にそうだろうか? カズに金をねだり、カズの家を訪ね、カズの妹に「お兄ちゃんにつきまとわないでよ」とけんつくを食らわされる。無職の幼なじみ──第三者の目には、栗橋浩美は高井和明という中心に最も近い場所で、やたらにくるくる回っているように見えているのかもしれない。
カズと言えば、ヒロミ。
高井和明とつるみそうな奴? ああ、栗橋浩美だろう。
高井和明をそそのかして悪いことをさせそうな奴? そんなの、栗橋浩美ぐらいしかいないだろう。
みんながそう思う。ごく自然に。
栗橋浩美は車から降りると、逃げるように離れた。だが頭の中の思考は追いついてきた。
カズを犯人に仕立て上げて殺したところで、状況はいっこうに改善されない。むしろ危険度は増すだけじゃないのか……少なくとも、栗橋浩美にとっては。
「オレは……逃げられないじゃないか」
思わず、声に出してそう呟いた。
スタンドに、また新しい車が一台入ってきた。ぴかぴかに磨き上げられた赤のジープ・チェロキーだ。若いカップルが乗っており、男の方が運転していた。
店員が車に近づくと、男が応対し、女は助手席のドアを開けて、ひらりと身軽に車から降りた。ミニスカートにハイカットのブーツを履いており、おそらくはそれが彼女のいちばんの自慢なのだろうが、うっとりするようなきれいな足をしていた。
「コーヒー買ってくる」女はくるりと車の方を振り向き、男に訊いた。「温かいの? 冷たいの?」
「冷たい方」男が大声で答える。
「オッケイ。ついでにお手洗い行ってくるね」
女が歩くと、短く切りそろえた彼女の栗色の髪がぱっと散った。彼女は栗橋浩美のすぐ傍らを通り過ぎた。柑橘《かんきつ》系の淡いコロンの匂いがした。シャンプーの残り香かもしれなかった。
チェロキーに残った男は、地図を取り出して、店員と頭を付き合わせるようにして何か話している。道を訊いているらしい。店員はやけに親切で、ふたりはしきりに屈託無げな笑い声をあげる。ああ、あの三叉路で迷う人は多いんですよと、店員が言うのが聞こえた。でも大丈夫、ここから戻ればすぐですよ。どうやらこの男女は道に迷い、グリーンロードに迷い込んだものであるらしい。
女が戻ってきた。自分の足がきれいであることを充分に承知しており、歩くという作業は彼女にとって、その美しい足の機能を外の連中に見せつけることなのだと判っている──そんな歩き方だと栗橋浩美は思った。あの女を捕まえて足輪をつけてベッドにくくりつけたら、どんなに面白いだろう。あの細い首に先をわっかにしたロープをかけて、目隠しをして階段まで歩かせる──せいぜい気取って、精一杯きれいに見えるように歩けよと励ましてやって、笑ってやって、そして力いっぱい背中を押して階段からつり下げてやるのだ。
どんなに楽しいだろう。そう考えてぼうっと立っていたら、通りがかりに女がちょっとよろけて栗橋浩美にぶつかった。缶コーヒーをふたつ持った彼女の右肘《みぎひし》が、栗橋浩美の脇腹に軽く触れた。
「あ、ごめんなさい」
女は急いで肘を引き、栗橋浩美に謝った。そのとき初めて、目と目があった。女の目が栗橋浩美の目をとらえ、そして大きく広がった。
「ごめんなさいね」
思いの外しおらしく、もう一度謝ると、女は足を早めてチェロキーに駆け寄った。ドアを開けて車に乗り込む。男は運転席側の窓から手を出して店員に支払いをしていたが、女につつかれて彼女の方を振り向いた。女は彼にコーヒーを渡し、それから声を潜めるように首をちぢめて何かを早口にささやいた。
男が、フロントガラスごしに、素早く栗橋浩美を見た。女も見た。男が何か言い、女が首を横に振る。栗橋浩美にも、容易に想像のつく場面だった。気味悪い人にじろじろ見られちゃったと女が言う。何か言われたのかと男が問う。ううん、大丈夫。触られたのか? ううん、触られたわけじゃない。でも、早く行きましょうよ。
自分でも意識しないうちに足が動き、栗橋浩美はチェロキーの方へ近づいていった。それはほとんど走るような速さで、だが彼の目に見えるものはすべてスローモーション、女の表情がゆっくりと歪み、男にまた何か言い、男は急いでエンジンをかけ、振り向いて背後を確認し、車はぐいとバックして、スタンドの店員が車を誘導する大きな声が聞こえてくる──
車に近づいて何をしようとしているのか、何を言おうとしているのか、確たるものが頭のなかにあったわけではない。女の髪をつかんで車から引きずり降ろし、彼女の上に馬乗りになって首を絞めてやりたかったのか。男の両目に指を突き立てて目を潰し、あの平和そうな明るそうな何の憂いもない得意げな笑顔を消してやりたかったのか、それともただ声を張り上げて、オレは気味の悪い男なんかじゃない、おまえたちと同じただの若者で、洒落た服を着てスマートに車を乗り回して、あくせくしなくても財布は金でふくらんでいて、世の中のうざったい事は全部他人任せで生きて行くことのできる上等な人間なんだと主張したかっただけかもしれない。
そして他の何よりも、この一瞬、残りの全人生を引き替えにしてでも、栗橋浩美はあの運転席の男と代わりたかったのだった。今のこの立場をスタンドの洗車機の前に置き去りにして、足のきれいな栗色の髪の女と一緒にこの場から立ち去りたかった。
栗橋浩美の鼻先をかすめて、チェロキーはぐいとハンドルを切り返し、グリーンロードに出た。帽子をとって店員が挨拶する。
「ありがとうございました!」
エンジンをひと唸りさせてチェロキーが消えた後、そこにはぽつんと女の子がひとり立っていた。
あまりにリアルで、女の子の髪が傾いた午後の日差しに輝き、そよ風にスカートの裾がなびくものだから、栗橋浩美はそれが女の子の「実体」だと思った。スタンドに来ている客のひとりだろうと。
が、女の子は真っ直ぐに栗橋浩美を見つめ、その足元には影がなかった。歪んだ口を開いて彼女は言った。「あたしの身体を返してよ」
栗橋浩美はなすすべもなく、ただまばたきをした。すると女の子は消え、背後から誰かが栗橋浩美の肩に手を乗せた。
栗橋浩美は飛び上がった。あまりに大きな声をあげたので、スタンドの人びとが一様にこちらを見た。一ヵ所だけ、まるで回路が切れて電気が通わなくなっているかのように冷静で醒めきっている脳のある部分で、栗橋浩美は考えた──オレはこうやってたくさんの目撃者の注目を集めてる──みんながオレの顔を覚えてる──変な奴だったと記憶してる──
彼らは思い出すだろう。マスコミにマイクを向けられて。刑事に手帳を示されて。ええ、そうでした、スタンドのここに立ってたんですよ。顔色真っ青で、大きな声をあげて、若いアベックが乗っている車を追いかけて道路まで出ようとして。
逃げることはできない。
「ヒロミ、大丈夫か?」
カズだった。いつの間にかカズが車から降りて、栗橋浩美の背後に立ち、心配そうに目をしばたたきながらのぞきこんでいるのだった。
振り向いてカズの顔を見おろし、栗橋浩美は、カズの首筋の注射針が刺さったところが鬱血《うっけつ》し、十円玉ぐらいの痣《あざ》になっていることに気がついた。「自殺」したカズの死体を調べる検死官は、きっとこの痣に気づくだろう。自分で自分の首筋のこんな場所に注射を打つなんて無理だ、これは第三者の手で打たれたものだと判断するだろう。
逃げられない。ピースの計画は、カズの言うとおりだ。ちょっと離れたところから見てみると、穴だらけだ。今までだってずっとそうだったのかもしれない。あまりにぴったりとふたりきりで閉じこもり、自分たちだけの世界に閉じこもっていたから判らなかっただけで。今まで捕まらなかったのは、単に時間が足りなかったから。警察が、ピースの穴だらけの計画からだらだら流れ出た証拠を集めて分析するのに、もう少し時間が必要だったから、ただそれだけのこと。
「幽霊が戻ってきたんだ」と、栗橋浩美が呟いた。「おまえにうち明けた、あの女の子の幽霊が。女たちを殺してるあいだは、ずっとどこかに消えていたのに」
栗橋浩美は震えていた。急に寒気を感じて、手足がしびれたような感じになってきた。
「車に戻ろう」と、カズは静かに言った。
「東京へ帰ろう」
栗橋浩美はしゃにむに首を振った。「お化けビルに行かなくちゃいけないんだ」
「どうしてだい?」
「そこで待つって、ピースと約束したんだ。計画したんだから」
なんでオレはこんなこと言うのだろう。ピースの言うとおりにしたって無駄だ、ピースの計画は穴だらけだって、たった今気がついたばっかりじゃないか。
カズは逆らわなかった。「じゃあ、いいよ。そのお化けビルとかいうところに行こう。ヒロミが運転してくれるかい?」
栗橋浩美が運転し、カズは助手席に座った。ピースの計画と指示に従うのならば、栗橋浩美はこんなことを許してはいけないのだった。カズは後部座席に押し込んでおけばいいのだ。
だが、もうそんなことなどどうでもよくなっていた。それでいて、ピースの計画の大筋を変えることはできずに、のこのこお化けビルまで出かけていこうとするのだった。細部は逆らうことができても、ピースの計画抜きで、自分で次の筋書きをつくることなど、栗橋浩美にはまったく不可能なことなのだ。だから、引き受けてしまった仕事を断りたくはないけれど、注文主の出す厳密な条件をクリアせずになんとかごまかそうとする下請け業者のように、矛盾だらけのことをやってしまうのだ。
スタンドを出て走り始めたばかりのころ、栗橋浩美はしゃべりにしゃべって、カズはお化けビルで死ぬんだとか、ピースの計画は完璧なんだとか、うわごとのように言い続けた。
知っているのだ。わかっているのだ。本心は全然違う。ピースの計画は完璧なんかじゃない。現実を直視すれば、カズの言っていることの方がはるかに的を射ている。だからヒロミの言葉は空しく、言えば言うほど空回りをして、自分で自分を説得しているようなその口調には、狂信者の熱気はあっても、ひとかけらの真実もなかった。熱にうかされたような言葉を吐き出すことによって、ただただただ自分自身が疲れて追いつめられ、次の道を見失っているのだということが、残酷なほど露骨に剥き出しになってゆくだけだ。
栗橋浩美のひとりしゃべりが一段落するまで、カズは黙って耳を傾けていた。やがて、栗橋浩美が電池切れの玩具のロボットのようにぷっつりと口をつぐむと、ゆっくりと顔を上げ、できるだけ穏やかな声で切り出した。
「ヒロミ、東京へ帰ろう」
栗橋浩美は前ばかりにらんで運転を続けていた。
「今ならまだ間に合うよ。ヒロミがずっと心を病んできたことは、オレ、よく知ってる。ヒロミがやってしまったことは、半分はヒロミの心の病気のせいで、半分はピースに担がれたからだ。だから、もうこんなことは止めよう」
「馬鹿なこと言うな」
目をぎらぎらさせ、汗ばむ手でハンドルにしがみつきながら、栗橋浩美は言った。
「そんなお人好しのこと言うのは、おまえだけだ。誰がオレのしたことを許したりするもんか。女の子の幽霊の話なんか、みんな鼻先で笑い飛ばすだけに決まってる」
「そんなことはないさ。オレは信じたもの。それに、たとえばオレの目の障害を治してくれた大学の先生たちだって、きっと信じてくれると思うよ」
カズは言って、両手で自分の両目を押さえた。
「オレのこの目も、ずいぶんと、ありもしないものを見せてくれたからねえ」
オレの目はね──両手で自分の両目をそっと押さえながら、カズは続けた。
「右目と左目が、バラバラの働き方をしていたんだってさ。普通は、左右の目が協力してひとつのものを見る像を結ぶっていう言い方を、先生はしてたな──だけどオレは、右目がちゃんと働いていても、左目はまるっきり怠けていて、そのせいで、ものが普通に見えなかったんだ」
栗橋浩美はぼんやりと記憶をたどった。あれは中学生のときだったか。夏休みだったかな、それとももっと前だったか。カズのいた水泳部の顧問の先生に──名前、なんて言ったっけ、ムシが好かなかったから覚えていない──職員室に呼び出されたことがあった。水泳部なんて、栗橋浩美には全然関係なかったし、とにかくあの先生のことは嫌いだったから、何度呼び出されても最初は無視していた。だけどあるとき、ピースにそのことを話したら、そういう呼び出しを無視するのは穏やかじゃないから、行って話だけでも聞いてこいと忠告されて、それで嫌々行ったんだった──あれで、四度目くらいの呼び出しだったろうか。
職員室の、先生の机のそばに椅子を置いて、そこに座らされた。他の先生たちが周りでざわざわしており、こいつ、こんなにぎやかな場所でオレのこと叱るつもりなんだったらタダじゃおかねえぞと思って内心身構えていたら、切り出された話がカズのことだったんで、大空振りをした気分になった。そう、そうだった。あれはカズの話だった、カズの目が──
「あの先生、なんて言ったっけ」と、栗橋浩美は呟いた。「ほら、水泳部の」
カズは飛びつくように嬉しげに答えた。
「柿崎先生だ」
「──おまえ、今でも付き合いあるの」
「年賀状のやりとりはしてるよ。今じゃ立派な柿崎校長先生だけど」
そこで初めて、首をひねって栗橋浩美を見た。
「ヒロミが柿崎先生を覚えてるのは不思議だね」
栗橋浩美は説明しなかった。黙ってまた記憶をたどった。
柿崎先生が栗橋浩美を呼び出したのは、何のことはない、彼が高井和明の近所に住んでおり、小学生のころから友達付き合いをしているからだった。柿崎先生は言った。
──高井はちょっと、目が悪いんで、これから専門の先生に診てもらうことになってるんだが、おまえ、小さいころから高井と付き合いがあって、何か気づいたことはなかったか? 具体的に言うと、そうだな、おまえには読める字が高井には読めなかったり、高井がひどく方向音痴だったりとか。幼なじみなら、何か気づいたことはなかったか? 正確な診断を下すために、本人の自覚症状だけじゃなく、周りから見てどうだったかというデータもほしいんで、高井のことを昔から知ってる友達に、いろいろ教えてもらいたいんだ。
柿崎先生は熱心で、栗橋浩美に対してとても丁寧で、終始「高井のために力を貸してやってほしい」という様子だった。栗橋浩美は内心、オレがカズのことバカにして食い物にしてることを、この先生はぜーんぜん気づいてないんだバカみたいだぜと思いつつも、先生にこんなに親身になってもらえるカズがちょつぴり羨ましかった──そう、羨ましかった。その感清が鮮やかに蘇ってきた。
羨ましかったから、柿崎先生と会ったあと、カズをひっかけて虐《いじ》めてやった。そのことも思い出す。
一連の記憶は、今までほったらかして、一度も手をかけたことのなかった引き出しのなかに眠っていたけれど、しかしその引き出しに鍵はかかっていなかった。開ければ、記憶は次々と飛び出してきた。その勢いとその鮮明さに、栗橋浩美はほとんどめまいを感じそうになった。
あの夏──そうだ、あれは中学二年の夏の初めだった。オレが柿崎先生と会ったのは、夏休みの直前の、梅雨が明けたばかりの放課後のことだった。空は抜けるように青く、校庭全体を、強く明るい夏の日差しが照らしつけていた。バスケットゴールの影が、砂地の校庭の上にくっきりと落ちていた。
夏がやってくる。心の浮き立つような、じっとしていられないような、ある年頃の子供だけが感じることのできる特権を持っている、あの不思議な昂揚感。まざまざと思い出すことができる。
そうだ、俺は柿崎先生と話をした。カズの目の障害の話を聞いた。そしてそのことを覚えていたから、夏が終わって訪れた秋のマラソン大会の後で、ばったりとカズに会ったとき、自分の見る「幽霊」の話をうち明けたのだ。ひょっとしたらこの「幽霊」も、単なる視覚障害のなせるわざなのではないかと思って。
ああ、そうだ覚えている。思い出すことができる。あのマラソン大会の前後、どういうわけかピースは長いこと学校を休んでいたのだった。二週間、いやもっと長かったかもしれない。先生は事情を承知しているようだったけれど、教えてくれなかった。ピース本人からも、何の説明もなかった。
長い欠席から復帰してきたとき、ピースは心持ち痩せていて、笑顔が少なくなっていた。痩せたろうと指摘すると、背が伸びたからそう見えるだけだと言った。長期欠席のあいだ、いったい何をしていたんだと訊くと、家の用事で、ヒロミには関係ないとあっさり退けられた。
それでも、ほんの一日二日で、ピースは元のピースに戻った。だから気にしなかった。ピースとヒロミのコンビが復活し、日常は元の安定を取り戻した。
安定。そう、ピースとふたりでいて初めて構成することのできる「安定」。だからピースの不在のあいだ、栗橋浩美はひどく孤独で、寂しくて、そのせいか恐ろしく頻繁に女の子の幽霊に遭遇した。毎晩のように夢を見たし、起きていても見た。考えてみれば、あの女の子の幽霊が夢の枷《かせ》から自由になり日中も姿を現すようになったのは、ピースが不可解な不在をしていたこの時期からのことではなかったか。
俺はとっても寂しかったんだ。栗橋浩美は思い出した。寂しくて寂しくてたまらなかった。だからあのとき、ばったり顔を会わせたカズに、思わずうち明けてしまったんだ。おまえ、ヘンなもの見るんだろ? そういうの、どんな気分だ? 今治療を受けてるんだろ? オレがヘンなもの見るのも、医者に診てもらえば治るかな?
そうだった。確かにそういうことがあった。今までなぜ、こんなにもきれいさっぱり忘れていたのだろう?
車は快調にグリーンロードを走り抜け、赤井山の急な斜面を登り、ヘアピン状のカーブをひとつ、ふたつ、そしてもうひとつ曲がると、前方の頭上にぬうとお化けビルの骨組みが姿を現した。その瞬間、ハンドルを握りながら、栗橋浩美は全身が鳥肌立つのを感じた。怖い、俺は怖い。あそこに行くのが怖い。なぜかといったらあそこには──あそこには──
(岸田明美がいるから)
明美がいて、栗橋浩美を待っているから。
彼女を葬って以来、こんなことを考えるのも感じるのも初めてのことだ。明美だけじゃない、殺してきた女たちの魂に、脅かされることは一度もなかった。
それは当たり前のことだった。なぜなら、ピースとヒロミは、彼女たちの肉体ばかりか魂までも完全に支配したのだから。生前も死後も、彼女たちがピースとヒロミの手に落ちて以降は、彼女たちは完全な被支配者であり、奴隷であり、人形でしかなかったから、だから彼女たちのさまよえる魂に脅かされるはずなど全くなかった。
だが、今はその確信が揺らいでいる。岸田明美はあそこにいる。彼女の幽霊が、お化けビルを背に、あの穴の縁で、栗橋浩美を引きずり込もうと、彼女のいる暗い闇のなかへ連れていこうと、手ぐすね引いて待っている。
「嫌だ」唐突に、声が出た。「嫌だ。お化けビルになんか行きたくない」
栗橋浩美は強くブレーキを踏んだ。車はつんのめるようにして急停車し、シートベルトを締めていなかった高井和明は、大きく前のめりになって、あやうくフロントガラスに突っ込みそうになった。
幸い、後続車はなかった。それでもここはカーブを抜けたばかりのところで、ぐずぐずしていては事故を引き起こしてしまう。高井和明は手を伸ばし、ハンドルを握りしめているというよりはハンドルにしがみついている栗橋浩美の手をつかんで、揺さぶった。
「ヒロミ、しっかりしろ。早く車を動かさなくちゃまずい!」
栗橋浩美は両目を見開き、呼気を荒くして、前方のお化けビルを仰いでいた。その目は完全に据わっており、高井和明の言葉はまったく耳に入っていない。
高井和明は必死の思いで栗橋浩美を揺さぶりながら、首をよじって後ろを振り向いた。カーブミラーに一台──二台の車が映っている。
「ヒロミ、行こう!」
栗橋浩美は硬直している。
「ヒロミ!」
思い切って、高井和明は栗橋浩美の頬を殴った。殴られて、栗橋浩美の頭は、木偶《 で く 》人形のようにがくんと横を向いた。ああダメだ──高井和明はパニックになりかけた。ダメだ、ヒロミは完全におかしくなってる。俺が運転しなくちゃダメだ、だけどどうやってヒロミを運転席からどかそう?
「ヒロミ!」
もう一度、絶望的に叫んだ。そのとき、栗橋浩美の目が晴れた。彼の目は、カーブを曲がって近づいてくる後続車をとらえ、次の瞬間にはアクセルを踏んで車を発進させた。大きくバウンドしながら走り出した車は、何事もなかったかのようにグリーンロードを走り始めた。
冷や汗がゆっくりとひいていくのを感じながら、それでも、高井和明は、しばらくのあいだ後続車から目を離すことができなかった。すぐ後ろの車はタクシーだった。客の顔は見えないが、ふたり乗っているようだ。運転手は中年の小太りの男で、高井和明の視線を感じているのかいないのか、まるで無関心な表情で淡々と車を走らせている。
「大丈夫かい、ヒロミ?」
声をかけても、栗橋浩美は高井和明の方を見向きもしなかった。硬直したように首を縮めて、前方をにらんでいる。そして、固い声で呟いた。
「お化けビルに行くのはやめた」
高井和明に、異存があるわけがない。
「いいよ、やめよう。どこかでUターンできるかな?」
次のカーブを曲がると、グリーンロードはしばらくのあいだ緩やかな直進の上り坂になり、その中程に緊急の場合の停車スペースが設けられていた。栗橋浩美はまっしぐらに進むと、そこへ車を乗り入れた。一旦エンジンを切ると、ハンドルの上に頭を伏せた。
高井和明は安堵のため息をつき、額の汗をぬぐった。自分の手が震えていることに気がついた。
ここで運転を代わろう。そして、この車ごと、ヒロミを東京へ連れて帰るんだと、高井和明は思った。
「ヒロミ、代わるよ」栗橋浩美の肩に手を載せて、高井和明は優しく言った。「オレが運転する。ヒロミは休んでた方がいい」
しかし、顔をあげて振り向くと、栗橋浩美は首を振った。
「オレが運転する」
「でも……」
「おまえ、運転を代わって、オレをお化けビルに連れていくつもりなんだろう? そうはいかない。オレが運転するんだ」
高井和明は迷った。間近にのぞきこむ栗橋浩美の瞳のなかには、混乱と恐怖が真っ黒な渦になってぐるぐると回っている。この状態で運転を続けさせるのは心配だし、不安だった。
だが、強引に栗橋浩美をねじ伏せ、彼の手から車を取り上げても、事態を望む方向に運ぶことは、かえって難しくなるだけだろう。高井和明が切に望んでいるのは、栗橋浩美をピースの影響下から引き離し、悩み惑乱しコントロールを失っている彼を、これ以上傷つけないように気をつけて操縦しながら、東京へ連れ帰ることだ。帰ったら、栗橋薬局には行かず、まずうちへ連れていって、ヒロミを休ませ、食べさせ、着替えをさせてから、警察へ連れていくんだ。そこですべてを話させるんだ。
その目的のためには、栗橋浩美を刺激して暴走させ、取り逃がしたりしてはいけない。運転したいというのなら、ここは譲ってやった方がいいかもしれない。
「判ったよ、じゃ、頼む」
ゆっくりと穏やかに言って、高井和明はうなずき、微笑んだ。
「だけど、慎重に頼むよ。ヒロミだって、こんなところで事故って、オレと心中するなんて嫌だろ?」
「当たり前じゃないか」
言い捨てて、栗橋浩美は両手でぺろりと顔を撫でた。彼の手もぶるぶると震えていた。
「カズ、煙草持ってるか?」
高井和明は、ジャケットの内ポケットに入れていたキャスター・マイルドのパッケージと、百円ライターを渡してやった。栗橋浩美は、急ぐあまりにパッケージ内の煙草を膝の上にばらまいてしまったりしながら、ようやく一本くわえて火を点けた。そして、飢える者が食べ物に食らいつくようにガツガツと吸った。
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高井和明は、栗橋浩美の膝の上に散らばった煙草を拾い集めてパッケージのなかに戻しながら、思わず涙ぐみそうになるのをこらえていた。
──なんで、こんなことになっちまったんだ。
ずっとずっと昔、栗橋浩美は、高井和明の大切な幼なじみだった。こいつのことなら、幼稚園のころから知っている。一緒にジャングルジムにのぼり、一緒に滑り台をすべった。東京に大雪が降ったときには、ふたりで雪玉をころがして大きな雪だるまをつくった。雪だるまの両目は、商店街の燃料店のオヤジさんが分けてくれた木炭を折ってくっつけた。だから、できあがった雪だるまは、目を四角にして怒っているような顔になってしまって、由美子が怖がって泣いた。仕方ないので目玉を取り去ると、今度はのっぺらぼうが怖いと言ってまた泣く。高井和明は、ワガママな妹だとちょっぴり腹を立てたが、栗橋浩美は怒らなかった。雪だるまの顔がユミちゃんから見えないように、向きを変えてやればいいんだと言って、高井和明にも手伝わせて、うんうん唸りながら雪だるまを動かした。
栗橋君は優しいねと、母は言ったものだ。由美子のために、由美子が泣かないで済むように、ただそれだけのために、重たい雪だるまを、あんな真っ赤な顔をして、手を冷たくして、一生懸命動かしてくれるなんて。うんそうだねと、幼かった高井和明はうなずいた。母に誉められるヒロミがうらやましくて、ちょっぴり悔しかったけれど、でもその想いよりも、ヒロミの優しさに感動する気持ちの方が強かった。
そうだった。幼友達の栗橋浩美は、いつだってカズに優しかったのだ。今では信じられないことだけれど、ヒロミはカズをかばい、カズを助け、カズの足らないところを補いかばってくれた。草野球で、大事なところで三振ばっかりしているカズが仲間に虐《いじ》められると、ヒロミがホームランをかっ飛ばして、そいつらをぎゅっとにらみつけてくれた。カズが漢字の書き取りで落第点をとり、放課後教室に残されていると、先生の目を盗んでこっそりやってきて教えてくれた。どうしても書くことのできない難しい漢字を、代わりに書いてくれたこともあった。
思い出なら星の数ほどある。どの思い出も星のように輝いている。高井和明の追憶という小宇宙のなかには、思い出と思い出が結びついて形を成した星座がいくつもある。そこにも、ここにも。
ああ、でも、それが変わり始めたのはいつごろからだったろう? 最初の変化の兆しが見えてから、栗橋浩美という幼友達がまるで別人のようになってしまうまで、あまりに短い月日しかかからなかったから、高井和明には、不穏な変貌の起点がどこであったのか、今でもしかとは判らないのだ。
だがしかし、変化の開始時期は判然としなくても、変化の原因が何であるかは判っている。
ピースだ。
ピースは転校生だった。彼がヒロミとカズの学校にやってきたのは、小学校四年の春のことだった。痩せっぽちでのっぽで、でも妙に明るいにこにこ顔の、おとなしそうな男の子だった。
転校生は、みんな優等生に見える。みんな勉強がよくできそうに見える。だけれど、ピースは見かけだけでない本物の優等生だった。カズは、ヒロミよりも成績がよく、ヒロミよりも足が速く、ヒロミよりもでかいホームランを打ち、ヒロミよりも女の子に人気のある少年に、このとき初めて出会ったのだった。
──なのに、ガキで、バカで、マヌケで、気がきかないこの俺は、そういうピースに対して、ヒロミがどんな気持ちを持つかってことを、一度だって考えたことがなかったんだ。
ピースとヒロミは、本能的な直感で、互いを強力なライバルだと認めあった。だから最初のうちは、手の内を探りあうように、距離をおいて、相手の周りをぐるぐるとまわっていた。少なくとも、カズにはそのように見えた。そして、ライバルである以上、彼らが親しくなるなんてことは、永遠にあり得ないように思っていた。
だが、現実は逆だった。あるときふと気がついてみると、ピースとヒロミは固く結びあったコンビになっていた。そこにはもう、カズはもちろん、他の誰も入り込むことのできない絆ができあがっていた。いったいなぜなのか判らない。何が彼らをあんなふうに一足飛びに「親友」にしてしまったのか。先生たちでさえ、首をひねっているようだった。
ヒロミとカズの、幼なじみの蜜月は終わった。いつの間にか、高井和明は、栗橋浩美にとっては、道ばたの蝉の死骸と同じくらい価値のないものに成り下がっていた。
ピースとヒロミは、目立たないように、狡猾《こうかつ》に、陰湿に、カズを虐《しいた》げるようになった。あのふたりは陰陽の電極で、だから、組み合わさったことで未知の電気が流れるようになったのかもしれない。生まれたエネルギーは放出されることを望み、その標的がカズであったのかもしれない。たったそれだけのことだったのかもしれない。
それでなくても、高井和明にとっては辛い少年時代が始まっていた。小学校も四年生以上になると、学力の差がはっきりと目に見えるようになってくる。このころはまだ誰にも理解されず気づかれることもなかった視覚障害のために、高井和明ははっきりと「劣った」生徒のレッテルを貼られ、学校でもそういう扱いをされるようになり始めていた。高井和明自身も、一生懸命勉強しているつもりなのに、先生の話を必死で聞いているのに、なぜこんなに成績が悪く、なぜこんなにバツ印ばかりつけられるのだろうかと、恐ろしいような絶望感を感じ始めていた。
幼い追憶の夜空に輝いていた星座は、真っ黒な雲に覆い隠されて、ほんのかけらも見ることができなくなってしまった。輝くヒロミはもうカズの友達でもなんでもなく、カズは先生にも見放されるような、地下のもぐらになってしまった。
それでも、カズはヒロミを恨むことができなかったし、嫌いになることもできなかった。なぜかしら変わってしまったヒロミ。遠くなってしまったヒロミ。でも、昔はあんなにいいヤツだった。あんなに温かい友達だった。それを忘れることはできない。辛いことばかりの学校生活を乗り切ってゆくためにも、せめて思い出だけは捨てずに、しっかりとすがりついていたかった。
だから、虐められてもからかわれても、ひどい目に遭わされても、ガマンすることができたのだった。
月日は過ぎた。
そして中学二年のあの夏、高井和明は、柿崎先生という救い手に会った。視覚障害の治療を受け始めたときに、人生は音をたてて変わった。
もしもあのまま真っ直ぐ進んでいれば、栗橋浩美との付き合いは切れ、虐めっ子としての彼の記憶が、幼なじみの優しい追憶に打ち勝ち、高井和明は、栗橋浩美と関わりのない人生を歩むことになっていただろう。陰湿ないじめっ子のヒロミに、逆襲するぐらいの強気になって、彼をはねつけるようになっていたかもしれない。
だが、現実にはそうはならなかった。なぜならあのとき、偶然出会った本屋の店先で、思い詰めた目に涙さえにじませて、栗橋浩美が尋ねたからだ。オレが幽霊を見るのも、目が悪いからかな? 目の治療を受けたら、幽霊に追いかけられずに済むようになるかな? あのときの、ヒロミの怯えた顔。途方にくれた、疲れ切った顔。それは逆風の中の年月を飛び越えて、幼なじみのカズの心を震わせた。
しかし、唐突なその告白から一週間もすると、ヒロミはまた元のよそよそしいヒロミになり、ピースと組んでカズをバカにするようになり、ヒロミのために真剣に脳みを分け合ってあげるつもりになっていたカズは、また肩すかしを食うことになった。元の木阿弥に戻ったようにも思えた。
だが、一度秘密を打ち明けられてしまった以上、カズは元通りにはなれなかった。ヒロミのあの恐怖に震える顔を、忘れることはできなかった。ヒロミがあの取り澄ました顔の下で、実は一分一秒を幽霊に怯えながら暮らしているのだということを、もう忘れることはできなかった。
──虐められても、からかわれても、何をされてもガマンをしよう。じっとこらえて、笑っていよう。そうすれば、いつかまたきっと、ヒロミがあんなふうに、心の内側を打ち明けてくれるときがやってくる。そのときに、そのときこそは、しっかりと受け止めて、一緒に解決してやるんだ。ヒロミが本当に友達を必要とするときに、応えてやれるようになってなくちゃいけない。
カズという少年は、そう決心したのだった。
どれほど抜け目なく立ち回ろうと、弱い者を虐めたり、ものを盗んだり、人を騙したりすることを続けていれば、いつかは誰かにそれと悟られる。いくつかの事件が積み重なるうち、他でもないカズの両親も、ヒロミを見る目を変えてゆき、やがて、もう栗橋君とは付き合うなと言うようになった。栗橋君をソンケイしていた由美子でさえ、ある時期から彼を嫌うようになった。
それは学校でも、近所の人たちも同じだった。ピースとヒロミのコンビは、何も気づかない人たちのあいだでは天使のような二人組であり、気づき始めた人たちのあいだでは、裏表のある不愉快な少年たちであり、そして彼らはそういう評判を身にまといながら高校へ進み、一旦は高井和明の視界から見えなくなった。
それでも、カズはヒロミのことを忘れなかった。いつかは、ヒロミがオレを必要とするときが来る。そのときがきたら、幼いころにヒロミがオレをかばってくれたように、オレもヒロミをかばわなくては。
ずっと、ずっとそう思ってきた。
栗橋浩美が大学生のころには、近所での彼の評判は、昔の優等生の看板が恥ずかしがって逃げ出してしまうほどの急降下をしていた。金遣いが荒い。女出入りが激しい。いくら大学生だからって、あんなふうに遊んで暮らしていていいもんか。
そういう悪評は、ヒロミがせっかく就職した一色証券を退職し、その後も職に就かずぶらぶら暮らすようになってしまうとピークに達し、そのまま定着してしまった。
思い出してみれば、そういう悪評の高まりと共に、ヒロミはまたカズのそばに戻ってきて、あからさまに彼にたかったり、彼を騙したりするようになったのだった。少年時代よりもずっと、世間の目は厳しくなり、騙されにくくなり、計算は狂い、ヒロミはヒロミなりに居心地の悪さを感じるようになり、だから故郷へ、無条件で彼に「騙される」お人好しでバカのカズのところへ戻ってきたということだろう。だが、それでもよかった。高井和明はヒロミを見捨てたくなかったから。
ピースとの付き合いも続いているようだったけれど、ピース本人が高井和明の前に現れることはなかったし、ヒロミの口からピースの話が出ることもなかった。それは高井和明の望むところでもあった。カズが助けたいのは幼なじみのヒロミだけで、ピースなんてどうなってもよかった。
思い出す。長寿庵の新装開店の日、ヒロミは大きな蘭《らん》の花の鉢を持ってきてくれた。祝いの品だと差し出されたそれを、母はとても愛想良く受け取ったけれど、店内に飾ろうとはしなかった。由美子に至っては、もうお兄ちゃんに近づかないで、お金をたからないでと文句を言うために、彼を追いかけていったほどだ。由美子は隠しているつもりのようだったけれど、高井和明はちゃんと気づいていた。
そう、あのとき、ヒロミが派手な車の助手席に、車に負けないほど華やかで、車よりも金のかかりそうな女を乗せていたことも知っている。その女が、栗橋薬局の周りでうろうろしているというウワサを聞き込んできたのは母だったが、そのときの母の言葉では、「水商売風の女」ということで、しかし名前は判らなかった。高井和明も、彼女の顔は容易に覚えたが、名前は知らなかった。
昨夜から今日にかけて、ヒロミとピースの告白を──いや、彼らの側から言うならば「自慢話」を──聞かされるまでは。
運転席で、煙たげに目を細めながら、栗橋浩美は煙草を吸っている。指が震えるので、細かい灰が膝の上に落ちる。高井和明はまばたきして涙を押し隠し、助手席に座り直して、煙草のパッケージをダッシュボードの上に乗せた。
ヒロミは、岸田明美の死がすべての始まりだったと言った。彼女を殺してしまい、どうしていいか判らなくなって、ピースに相談した。ピースは、ひとつの死を隠すために、今回の連続殺人の筋書きをこしらえた。
そして、ピースとヒロミのふたりで実行してきたという。
高井和明は、自分があまり賢くはないということを、自分でよく知っていると思っている。視覚障害のために、普通なら易々と得られるはずの知識を取り逃がし、それを取り返すために人よりも時間をくってしまった。真面目に勉強したけれど、進学は難しかったし、そのことには自分でも納得していた。
勉強は学校ばかりじゃない、世間で勉強することだって山ほどあると、人は言う。だが、その「世間知」の方だって、オレの場合は怪しいもんだと、高井和明は自覚している。親の商売を手伝い、親の庇護の下から出たことのない人生だ。ひとりになっても親父と同じように店を切り回していけるかどうか、自信はない。
世間ずれもしていない。恋愛だって、今までまともにしたことはない。女性と一対一で付き合ったこともない。母も妹も、そのことには気づいているだろう。ヘタをすると、一生独身のままかもしれない。
自分はもともと不器用だったのか。それとも、視覚障害で苦しんだことが、自分をこんな内気な人間にしてしまったのか。どちらか判らない。判っても、今さらそれでどうということはないと、高井和明は思っている。自分はこういう人生だ。分相応に生きるのがいい。自分の能力の内側で。
しかし、そんな賢くもなく、ずば抜けた個性も持たず、世間知もなく、経済も芸術も哲学も、ひとしなみに判らないオレのような人間にさえ、ピースの企みが途方もなく馬鹿げていて、危なっかしくて、あっちこっち破綻だらけだということはよく判る。ピースは自分を天才のように思っているらしいけれど、端からみれば、彼はただの自尊心肥大症にすぎない。
──オレを殺して、遺書をでっちあげて、連続殺人事件の犯人に仕立てあげるって。
高井和明は臆病な人間だけれど、この企みを聞かされても、ちっとも怖いと思わなかった。あまりにバカバカしく、あまりに子供っぽい。警察が、世間が、ピースの考えたとおりにばかり動くものか。
長いこと、ヒロミが心をほどいて近寄ってきてくれる時を待ち続けてきた。だが、それは間違いだったと、高井和明は悟った。もっと早くに、こちらから出向いていって、ヒロミをピースの元から連れ帰るべきだったのだ。
高井和明の目からみれば、今や、ピースは悪巧みの好きなガキ以外の何者でもない。心を病み、幽霊に憑《とりつ》かれているヒロミが、ピースとくっついていてロクなことにならないのは当然だった。
「ヒロミ、もう大丈夫かい?」
煙草を吸い終えて、ハンドルに手を載せ、ぐったりとうなだれている栗橋浩美に、彼は声をかけた。
「そろそろ行こうか」
そして、ヒロミが泣いていることに気づいた。
高井和明の意識は、瞬時に過去へと引き戻された。薄暗い本屋の奥、ぎっしりと本の詰まった背の高い書棚にぐるりを囲まれ見おろされ、足元には戸外から吹き込む落ち葉、黴《かび》と埃の匂い、そして青ざめた幼なじみの顔。
──幽霊を見るのは、俺の目が悪いせいかな?
そう問いかけたあと、あのときもやっぱりヒロミは泣いた。泣き顔を見られたくないのか背中を向けたけど、それでも、彼の目を涙が濡らすのを、高井和明ははっきりと見てしまった。
あのときと同じ心の痛みを、カズは感じた。いや、年月が重なっている分、今の方がもっともっと心が痛い。ヒロミを放っておいちゃいけなかった。もっと早く、もっと以前に、近づいて手をさしのべるべきだった。どれだけ笑われようと虐められようと、ひるんではいけなかった、カズをバカにするヒロミは、ヒロミの表面にいる強がりのヒロミで、本当のヒロミはあのときからずっと、本屋の奥の薄暗がりのなかで、瞳に涙をためて、カズが迎えに来るのを待っていたのだ。
「大丈夫だよ」
手を伸ばし、栗橋浩美の肩を叩いて、高井和明は言った。
「もう怯えなくていいよ。正直に全部話せば、きっと警察だって判ってくれる。これ以上逃げたり隠れたりすることの方がずっとずっと良くないんだ」
俺がついてるよと、高井和明は言った。誰かに向かって、俺がそばにいるからもう心配ないよなんて台詞を投げるのは、生まれて初めてのことだった。
にわかに霧が晴れて視界が広がったように、高井和明は悟った。今までは、俺は誰かに頼られるような人間じゃないんだから、誰かに向かって手を広げることなんて、しちゃいけないと思ってきた。だけどそれは間違いだったんだ。俺は根本的に間違っていたんだ。
誰かに向かって手を広げ、俺がついてるよ、一緒なら大丈夫だよと声をかけた瞬間に、人間は、頼られるに足る存在になるのだ。最初から頼りがいのある人間なんていない。最初から力のある人間なんていない、誰だって、相手を受け止めようと決心したそのときに、そういう人間になるのだ。
栗橋浩美は、膝の上にぽろりと涙を落としながら、かすれて聞こえにくい声で呟いた。「この車のトランクに、死体が乗っけてあるんだ」
思わず、高井和明は後ろを振り返り、リアウインドウ越しにトランクをながめた。
「お前に罪を着せるために、乗っけてきた死体なんだ」
栗橋浩美はつっかえつっかえ、木村という男を殺したいきさつを説明した。高井和明は、膝のあたりからじわじわと恐怖心がこみあげてくるのを感じたが、けっしてそれを顔に出さないようにしようと努めた。
「それに、初台の俺のマンションには、このトランクのなかの死体の後に発見させるはずだった女の死体があるんだ……死体っていっても、そっちはもう骨になってる」
「その、女の死体の方は、今までどこに隠してあったんだい?」
「あの山荘の庭に埋めてあった」
栗橋浩美は答え、手の甲で鼻の下をぬぐった。
「あの庭には、他にもたくさん死体が埋まってる」
高井和明は、深く深呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。殺人。死体を埋める。ヒロミがやったんじゃない。ヒロミは利用されただけだ。仕組んだのはピースだ。
「それなら、早く警察にそれを話して、掘り出してもらわなくちゃいけない」
もう一度ヒロミの肩に手を置き、今度はがっちりとつかんで、ひと言発するごとに揺さぶりながら、高井和明は言った。
「もう終わりにするんだ。これが終わりになれば、幽霊も消えるよ」
栗橋浩美は鼻をすすった。「俺にはそんなふうには思えないよ。今じゃ、幽霊はどんどん増えてる」
「え?」
「もうあの女の子だけじゃない。明美の幽霊も見える。殺した女の幽霊がみんな出てくるような気がする」
「それは、思い過ごしだ」
栗橋浩美はのろのろと首を持ち上げて、やっと高井和明の顔を見た。
「思い過ごしだ」と、カズは繰り返した。
「ヒロミが罪の意識を感じるようになったから、幽霊が出てくるみたいに思えるんだ。今までは感じなかったことを感じるようになったから。それはけっして、悪いことじゃない。だって、ヒロミが人間に戻ったってことなんだから」
栗橋浩美は、病臥する者がベッドから主治医を見あげるように、カズを見あげた。
「さあ、車を出してくれよ。もう行こう」
カズが促すと、ヒロミはやっと、エンジンをふかした。
カズは大丈夫だって言う。大丈夫だって言う。大丈夫だって言う。
グリーンロードを引き返し、赤井山を下りながら、栗橋浩美は頭のなかでそればかりを繰り返していた。
カズは俺を助けてくれるって言う。カズは俺を助けてくれるって言う。
幽霊が出るのは、俺のせいじゃないって言う。
カズは助手席に座っている。体温が感じられる。カズが太っているからだろうか。今まで、何人もの女を助手席に乗せた。ピースも乗せた。だが、隣り合って乗っても、こんなふうに身体の温かみを感じたことはない。
そういえば、自分の身体の温かみだって、ずいぶん長いこと感じたことがなかったような気がする。
俺はもう逃げられない。ピースの筋書きなんか無視して、カズに助けてもらった方がいい。だが警察は、俺をどんなふうに扱うだろう? 警察は、幽霊を信じてくれるだろうか。女たちを殺すことで、俺は幽霊を遠ざけていた。その事情を、警察は判ってくれるだろうか? それとも、ただの言い訳と退けるだろうか。
下りの道は空いている。運転は苦にならない。手は少し震えるけれど、ハンドルをしっかり握っているあいだは大丈夫だ。何もせずにただ車に乗っているよりも、運転している方がずっといい。
道がくねり、急なカーブが迫る。栗橋浩美はしっかりと車をコントロールする。カーブを曲がるたびに、山が近づいたり遠のいたりする。いつの間にかそのリズムは、栗橋浩美のなかで正気と狂気が入れ替わるリズムにかぶさり、山が近づけばヒロミは怯え、山が遠のけばヒロミは──
──やっぱり全部をカズのせいにして俺だけ逃げることはできないかな?
目まぐるしく、栗橋浩美の現実が入れ替わる。
トランクのなかの死体。木村という男。千羽鶴を折るのが好きな男。
彼を殺したのは俺じゃない、やったのはピースだ。
いや、やったのはカズだ。
「カズだ」
思わず、声に出して言った。隣のカズがこちらに首をよじる。
「なんだい?」
栗橋浩美の目が、進行方向の正面から、助手席の方へと移る。その通過地点にルームミラーがある。見るともなく、ヒロミはルームミラーを見る。そしてそこに、じっと彼を見据えている一対の目を発見する。
驚愕《きょうがく》のあまり、一瞬ハンドルから手を離す。ミラーから目をそらすことができない。
「ヒロミ?」
短く警告的なカズの呼びかけ。栗橋浩美は激しくまばたきし、ミラーを見る。
そこにはもう何も映っていない。
「少しスピードを落とした方がいい」と、カズが言う。「ヒロミ、焦らなくていいよ。ゆっくり行こう。道も空いてるし」
栗橋浩美はスピードを落とす。車は緩やかな下り坂にさしかかる。遥か前方に、一台の乗用車の尻が見える。あれにくっついて行こう。そのことだけを考えていればいい。
と、また、視界の隅に一対の目が映る。
栗橋浩美は身をよじって振り向く。車はゆらりと頭を振る。カズがあわてて栗橋浩美の手を押さえ、ハンドルをキープする。
「大丈夫か、ヒロミ?」
カズの問いかけに、ヒロミは震える声を抑えようともせずに答える──後ろに誰かいる。後ろで俺をにらんでる。
死者の瞳から逃げることはできない。
「誰もいないよ、ヒロミ」
カズの落ち着いた声がする。
「幽霊はいない。幽霊はヒロミを苦しめたりしない。警察へ出頭しようとするヒロミを苦しめる幽霊なんていない」
栗橋浩美はまた運転に集中しようと試みる。またヘアピンカーブだ。山道はこんなに続いたろうか? どうして真っ直ぐな道に出られないんだ?
山肌が身を乗り出すように近づき、そっくり返るようにして離れる。
「ヒロミ、スピードを落とせ」
カズが言いながら、ハンドルを握るヒロミの手に手をかぶせる。その感触を感じる。と同時に、またルームミラーに一対の目が映る。
今度は、栗橋浩美は振り返らなかった。目はルームミラーに釘付けになった。錯覚だ。妄想だ。じっとにらみつけてやれば消えてしまう。
一対の目は消えなかった。あろうことかまばたきさえした。そしてじっと栗橋浩美を見つめている。
栗橋浩美はぎゅっと目を閉じた。また、車が頭を振った。
まぶたを開くと、ルームミラーのなかの目は消えていた。
「俺は警察へ行くんだ」
声を出して、栗橋浩美は言った。
「もうこんなことは終わりにするんだ」
カズが栗橋浩美の横顔を見つめている。ひどくあわてたような表情を浮かべている。なんでそんな顔をするんだよ、カズ? 俺は警察へ行くって宣言したんだ。後ろの幽霊にもはっきり聞かせてやったんだ。だからもう、邪魔をするなと。
「ヒロミ、運転を代わろう」
カズがするりとシートベルトをはずし、栗橋浩美の顔と、前方に延びる道路を半々に見比べながら言った。
「ヒロミは疲れてるんだ。これ以上の運転は無理だ」
「いいんだ」と、ヒロミは首を振った。
「だけど……」
「いいんだ、俺は幽霊には負けない」
しゃっくりするような奇妙な笑い声をたてて、ヒロミは言った。
「長いこと幽霊と付き合ってきたんだ。今さら負けたりしないよ」
「女の子の幽霊とね」と、カズが呟いた。なぜかしら、急に辛くなったみたいにうつむいてしまった。
「そうだよ。赤ん坊のままで死んだ姉貴の幽霊さ」
栗橋浩美は陽気な笑い声をあげた。いいじゃないか、俺はこんなに元気に笑うことができる。オッケーだ。全然オッケーだ。
「だけどヘンだよな? 姉貴は生まれて一ヵ月もしないうちに死んだんだ。なのに、なんで俺の前に現れるときは、小さい女の子の格好をしてるんだ? 幽霊って育つのか?」
あたしの身体を返して[#「あたしの身体を返して」に傍点]。
「赤ん坊のまんまで出てくるんなら理屈は判るよ。だけど、死んでから大きくなるわけないんだからさ、俺の見る女の子の幽霊は、姉貴じゃないのかもしれないな。今までは頭っから姉貴だって思いこんでて、疑ってみることもしなかったけど」
心がどんどん昂揚してゆく。迷いや悩みや恐怖心が、強風に吹き飛ばされたみたいに消えてゆく。そうさ、そうなんだ。
だけど、それならなぜ、追いかけてくる何かから逃げようとするみたいに、どんどんスピードをあげずにはいられないんだろう?
「カズ、煙草くれよ」
高井和明は、爆弾の解体でもしているかのような慎重な手つきで煙草を一本取り出し、ヒロミの口にくわえさせ、ライターで火を点けた。
深く吸い込むと、目から涙がにじんだ。早く、早く、もっと早く。アクセルを踏み込め。今度こそあいつを振り切るんだ。
「ヒロミは、ヒロミのおふくろさんから、亡くなったお姉さんのことは何も聞かされていないんだね」
確認するように、カズが呟いた。
「何かって、何だよ」
「お姉さんが……赤ん坊のときに死んだ、その事情っていうか、いきさつっていうか」
「赤ん坊によくある突然死だったって」
栗橋浩美は、くわえ煙草で肩をすくめた。
「寝ているうちに死んじまったんだ。わけもわかんなくてさ。だからおふくろは諦めきれなくて、姉貴の名前を俺にくっつけたんだ」
女の名前なのに──と、栗橋浩美は吐き捨てた。
「俺ね」高井和明は、ためらいがちに言い出した。「ヒロミのおふくろさんから聞いたんだ」
「何を」
「おばさん、もう先月になるよな、怪我して入院したよな?」
「ああ、した」
「怪我は軽かったけど、おばさん、ちょっとノイローゼ気味になってたろ?」
栗橋浩美は大声をあげて笑った。その拍子に、煙草がぽろりと口の端から落ちた。しかし本人はそれに気づかなかった。高井和明も、窓越しに外に目をやっていたから、煙草の落ちる瞬間を見ていなかった。
「おふくろ、姉貴があの世から迎えにくるなんて喚いてさ、大騒ぎしたんだ」
笑いながらそう言って、しかし栗橋浩美はまた涙がにじんでくるのを感じていた。おふくろはまだ姉貴を諦めてない。まだ姉貴を取り返したいと思ってる。俺なんかじゃなく、姉貴が欲しかったって。
「そんなに姉貴がいいんなら、とっととあの世に行って、姉貴と一緒に暮らせばいいって、俺、言ってやったんだ」
爆発するような勢いで、栗橋浩美は言い放った。しかし、カズは静かに首を振る。
「おばさんがヒロミの姉さんを忘れられないのは、愛があるからじゃない」
両の手のひらで顔をつるりとぬぐい、その手に何かがついていないかどうかと確認するかのようにじいっと見つめてから、カズは続けた。
「おばさんは、ヒロミの姉さんを怖がってるんだ。ずっと怖がってた。ヒロミが姉さんの幽霊を見るようになってしまったのは、おばさんのせいだったかもしれない。おばさんの心の恐怖を、子供のころのヒロミが感じ取って、幽霊をつくったのかもしれない」
カズは手のひらを握りしめ、顔をあげた。
「驚かないでくれよ。ヒロミの姉さんは、突然死で死んだんじゃない。おばさんが殺したんだ。おばさんが、おばさんの手で赤ん坊を死なせたんだ。自分でそう言った。俺は、この耳でそれを聞いた」
栗橋浩美の視界のなかに、また山肌がせりあがってきた。山は彼を圧倒し、押しつぶすように立ちはだかった。
両手の中で、ハンドルが踊るのを感じた。
「ヒロミ、気をつけろ!」
横合いからカズが凄い勢いで腕を伸ばし、ハンドルを押さえた。車は頭を振りながら山肌に吸い寄せられるようによろけていたが、カズがハンドルをとると、危ういところで反対側に頭を振り向けた。
「大丈夫か?」
まだ片手でハンドルを押さえながら、カズが懸命に首をよじってヒロミの目を見た。狭い車内でハンドルを取り合うような格好になっているので、まるで相撲ごっこでもしているみたいだった。
「ああ……大丈夫だよ」
栗橋浩美は呟いて、乾いたくちびるを舐めた。くちびるからは血の気が失せ、目はとろんとしているようだ。涙ぐんでいるのかもしれない。
「ごめん、こんな時にこんな話をするんじゃなかった。口が滑った」
慎重にヒロミの様子を見ながらハンドルから手を離し、カズは顔をくしゃくしゃにした。
「東京へ帰ってからにすればよかった」
「いいんだ」
栗橋浩美は運転席で座り直した。オーケイだ、運転は続けられる。大丈夫だ。自分自身に言い聞かせる。俺は正気だ。
「それより、もっとちゃんと聞かせてくれよ。オフクロが赤ん坊の姉貴を死なせたってこと、なんでおまえが知ってるんだ? オフクロが入院してたことと、なんか関係があるのか?」
カズは首を振った。「話したいけど、後にするよ。家に着いてからにしよう」
「それじゃ駄目だ。気になって運転がおろそかになる。聞かせてくれよ」
「ヒロミ……」
「心配するなって。もう運転をミスったりしないからさ」
栗橋浩美はまたくちびるを舐めた。なんでこんなにカサカサに乾いちまうんだろう?
グリーンロードの両脇を囲んでいた山肌が切れ、車の左手に視界が開けた。眼下に赤井市の町並みが広がって見える。玩具のブロックをたくさん敷き詰めたみたいに色とりどりだ。とてもきれいだ。
その光景が、栗橋浩美を安心させた。もう山は迫ってこない。もう押しつぶされるような圧迫感を感じることもない。
「話してくれよ、カズ。俺は聞きたい」
促されて、高井和明はまた両手で顔を拭った。両手で顔をぺろりと撫で、その手をしみじみと観察するのは、彼のクセであるらしい。だが、子供のころにはこんなクセはなかった。子供から大人になるあいだの道筋のどこかで、この仕草を身につけたのだろう。ヒロミの知らないどこかで。ヒロミだって、カズのすべてを知っているわけではなかった。そうだ、知ってないことだってたくさんあった。それだからこそ、ピースの企んだ今度の計画がおじゃんになったのだ。
「俺がおばさんの見舞いに行ったとき──」
カズはぼそぼそと話し始めた。
「先月の、あれは何日だったかな」
カズが訪ねて行くと、栗橋寿美子はベッドで熟睡していた。枕の上にきちんと頭を載せ、仰向けになり、口がだらしなく半開きになっていた。
「よく眠ってるようだから、俺はすぐ帰ろうかと思った。だけど、ベッドのそばから離れようとしたとき、おばさんが何か言ったんだ。俺を呼んだみたいだった。それで足を停めて、おばさんに声をかけてみた」
すると栗橋寿美子は、ベッドに仰向けになったまま、かっと両目を見開いた。高井和明は仰天し、あやうく病室の外に逃げ出しそうになった。
「おばさんの目は血走っていて、瞳がきょときょとと泳いでいた。そして、いきなり手を伸ばして俺の二の腕を捕まえると、叫んだんだ──助けて、殺されるって」
カズはなんとか栗橋寿美子を落ち着かせようとして、大汗をかいた。寿美子は彼にむしゃぶりついてきて、もう少しで彼を床に押し倒すところだった。
「おばさん、怖い夢を見たんだねって、俺言ったんだよ。入院して環境が変わったから、変な夢を見るんだねって」
寿美子は堰《せき》を切ったようにしゃべりだした。ヒロミが追いかけてくる、ヒロミはあたしのことを恨んでる、ヒロミはあたしを殺そうとしている。
「俺は笑ってみせて、言ったんだ。ヒロミがおばさんを殺すわけないよ、ひとり息子じゃないか。俺の幼なじみでもあるんだよ、ヒロミがおばさんを殺すわけないよって」
すると寿美子は、初めて見るようにしげしげと高井和明を見つめてから、彼にしがみついていた手を離し、頭を抱えた。そして唸るような声で繰り返し、繰り返し言うのだった──あんたは何も知らない、誰も何も知らない、みんな何も知らないから、あたしはそのうち取り殺されちまうんだ。
そして、途方に暮れて大きな手をつかねて立ちすくんでいる高井和明に向かって、すべてをうち明けたのだ。
──今のヒロミの姉にあたる赤ん坊のヒロミは、突然死で死んだわけじゃないんだよ、あたしが殺したんだ、顔に枕を押しつけて。
運転席の栗橋浩美は、ひどく寒いような気がして、両肩を縮めた。何かの反射作用のように膝ががくがくと踊った。その拍子に、汚れたスニーカーに包まれた右足の爪先が、さっきぽろりと取り落とした吸いさしの煙草を蹴り飛ばした。煙草は消えていた。
「オフクロは、なんで姉貴を殺したんだろう?」
栗橋浩美は小声で訊いた。カズも小声で答えた。
「今で言う、育児ノイローゼってやつだろうと思う」
「そんなのが、三十年近くも昔にあったのかな?」
「あったさ。ただ、名前がついてなかっただけだ」
高井和明は言って、丸っこい目を悲しげにしばたたかせた。
「俺の視覚障害だって、ずっと認められてなかったんだ」
まるでそこにいない誰かを弾劾《だんがい》するような強い口調で、短く言い足した。
「今だって、認められてない病気で苦しんでる人がいっぱいいるんだ」
病気──育児ノイローゼ? しかし、栗橋浩美にはそんなふうには思えなかった。母方の祖母が男と心中したという過去を思い出した。そして、その過去について、父がどれほどあしざまに罵っていたかということも。
俺は騙されて寿美子を押しつけられたんだと、父がいぎたなく喚いていたことも。
ひょっとしたら親父が、オフクロを疑ったんじゃないのか? 誕生したばかりの長女のヒロミ。赤ん坊のヒロミ。それは本当に俺の子かと。オフクロをなじったのではないか。
あるいは、赤ん坊など要らないと、親父が突っ放したのかもしれない。勝手に産んだんだから、勝手に育てろ。俺は、お前の血を引いている赤ん坊など欲しくない。お前のようなインランの血を引く赤ん坊など。まして女の子だ。大人になれば、お前とそっくりになるに決まってる。
そして、追いつめられたか、怒ったか、絶望したか、ヤケになったか──とにかくオフクロは、ヤリ場のない感情のはけ口を赤ん坊に求めた。赤ん坊の命に。
赤ん坊は枕で窒息させられた。三十年前、まだ、母親が故意に子供を殺すなどという出来事は、一般的に認識されていなかった。医者は突然死だと認定した。
寿美子は黙っていた。あたしが赤ん坊を殺したと白状することはなかった。
そして、懲りもせずに二番目の赤ん坊をつくり、産み落とし、その子に殺した赤ん坊の名前をつけた。
ヒロミ。
ヒロミはこの世にいる。こうして育っている。だからヒロミは死んでいない。あたしはヒロミを殺したことなどない。
そうやって、寿美子は過去を拭った。
そういえば今まで、両親から、亡くなった姉の法要に出席しろと言われたことがない。てっきり、俺に内緒でこっそりやっているのだろうと思っていた。だが、本当は、法要自体、営まれたことがなかったのではないか。
「ヒロミ……」
カズが、気遣うように声をかけてきた。
車は赤井山の二合目あたりまでグリーンロードを降りてきていた。次の崖っぷちのやや急なカーブを曲がりきれば、あとは緩やかな下り坂だけだ。
「カズ、煙草くれ」と、ヒロミは言った。自分が死人のような顔色になっていると、よく判っていた。ハンドルを握る両手も冷たかった。
カズが煙草をくわえさせてくれ、火を点けてくれた。栗橋浩美は煙を深く吸い込み、むせながら吐き出した。
そのとき、ルームミラーのなかに、ちらりと誰かの目が映った。
栗橋浩美は身を固くした。視線が前方のカーブから離れ、ルームミラーへ吸い寄せられた。思わず足に力を込めたので、アクセルを踏み込んでしまい、スピードがぐんとあがった。カズがはっとしたようにヒロミを見返った。
また、ルームミラーのなかに何か映った。
──あたしの身体を返して。
あの女の子だった。あの女の子の目がふたつ並んで、ルームミラーのなかから栗橋浩美をにらみつけている。
栗橋浩美は、両の目に涙が溢れてくるのを感じた。手が震え、背中が寒くなり、頭のなかがかあっと熱くなった。今まで一度も口にしたことのない言葉、頭に思い浮かべたことさえなかった言葉が、胸の内側にこみあがってきた。
──お姉ちゃん。
ルームミラーのなかのふたつの目を見つめて、栗橋浩美は呼びかけた。
──お姉ちゃん、俺の姉ちゃん。
母親の手で殺された可哀想な赤ん坊。
だけどもしかすると、お姉ちゃんは幸運だったのかもしれない。だってお姉ちゃんの死は一瞬だったから。だけど俺は、二十数年かけて、少しずつ、少しずつ、殺されている。
ルームミラーのなかの目が消えた。そして、もう遠く離れてしまって背景に見えるはずもないお化けビルの輪郭が、一瞬だがくっきりと浮かび上がった。
栗橋浩美は、びくりと飛び上がった。その拍子に、火の点いた煙草が口からぽろりと落ち、膝の上に転がった。
「どうしたんだい?」
カズが尋ねる。車は最後のカーブにさしかかっている。ヒロミがびくりとした拍子にまたアクセルを踏んでしまい、スピードはさらにアップした。
車はまともに、カーブのガードレールへ突っ込んでいこうとしていた。
「危ない、ヒロミ、スピードを落とせ」
カズが言って、またハンドルに手を伸ばしかけた。
そのとき、栗橋浩美がじっと見つめていたルームミラーのなかに、また一対の目が現れた。「お姉ちゃん」の目ではなかった。岸田明美の目でも、古川鞠子の目でもなかった。栗橋浩美は一瞬の当惑のなかでその目をひたと見つめ、その目の色を読みとった。
次の瞬間、叫び声をあげていた。
ルームミラーのなかに現れたのは、栗橋寿美子の目だった。それはヒロミをにらみつけていた。ヒロミに狙いをつけていた。今や母の秘密を知ってしまったヒロミは、母にとって危険な存在になっていた。
そして栗橋浩美は絶望的な確かさを以て悟った。俺の人生は呪われているのだ。最初から最後まで呪われているのだ。呪っているのはあの女の子の幽霊ではなく、オフクロその人だった。女の子の幽霊は、俺と同じ被害者、俺と同じ犠牲者。
膝の上が熱いような気がした。焦げ臭いような気もした。カズが何か騒いでいるような声も聞こえた。
しかし栗橋浩美は、ルームミラーのなかの一対の目と、死のにらめっこを続けていた。目をそらしたら殺されると思った。自分も姉のように殺される。姉がその存在を消されたように、栗橋浩美も存在をリセットされ、そして彼らの悲痛な声は誰の耳にも届かぬままに、実の親の手で墓石の下に封印されてしまうのだ。
若い女たちを殺してきたのは間違いだった。本当に殺すべきは、自分の母親だったのだ。女の子の幽霊を恐れてきたのは間違いだった。もっと早くに、あの女の子をこの腕に抱き取り、一緒に逃げ出すべきだったのだ。逃げて逃げて、もう親父にもオフクロにも殺されない場所へ。
「ヒロミ煙草だ! シャツに火がついてる!」
カズの叫び声、現実に引き戻されたその瞬間、化繊のシャツはいとも簡単に燃えあがって栗橋浩美を包み込んだ。炎が襟首を駆け上がるのを感じた。そして今度は髪が燃えあがった。
車は完全にコントロールを失った。
衝撃が来た。カズが懸命にハンドルにかじりつこうとしながら、フロントガラスに押しつけられて、それでもまだ叫んでいた。栗橋浩美は炎に包まれながら、それでもまだルームミラーを見つめていた。そこにははっきりと、母・寿美子の顔が映っていた。母の顔は笑っていた。幽霊ともども栗橋浩美を葬ってしまうことができて嬉しいのだ。
車はガードレールを突き破り、優雅な弧を描いて崖の上の宙へと躍り出た。
フロントガラスの視界いっぱいに暮れゆく空が広がり、その茜《あかね》色が、栗橋浩美を包む炎の色と重なった。カズの悲鳴が聞こえ、彼が大きな両手をフロントガラスに突っ張るのが見えた。
ルームミラーのなかの母の顔が、炎のゆらめきのなかに消えていった。
車は落ちていく。あまりにも緩やかで、いっそ心地よいほどのその軌道。栗橋浩美は口元に笑みを浮かべていた。ルームミラーのなかに入っている母親を道連れに、心中するような気分だった。これで姉さんも喜んでくれる──俺は仇を討った──
車が頭から落下して崖下の地面に激突したとき、ルームミラーは木っ端微塵に割れた。その刹那、最後にそこに映ったものを、栗橋浩美は見た。
そこには、楽しげに笑っている、また新たな一対の目があった。それは寿美子の目ではなかった。
ピースの目だった。
──違う!
喉の奥で叫んだとき、フロントガラスを突き破った崖下の岩石が、栗橋浩美の頭蓋骨を砕いた。
人は誰でも死の直前に、それまでの自分の人生の出来事をくまなく思い出す──ひとつひとつの光景が走馬燈のように鮮やかに、頭のなかを駆けめぐる──
栗橋浩美は思い出した。十三歳の夏、塩素の臭いでむせ返るような暑いプールサイドで、カズを水のなかに突き落とし、あがってこようとする彼の頭を何度も何度も水面下へ押し込んだことを思い出した。すぐうしろでピースが見つめており、クラスメイトたちが笑っていた。だが、最初のうちは陽気に大騒ぎをしていた彼らも、必死に水面に飛び出してきてまた押し込まれるまでの短い間に、カズが悲鳴のような声をあげ始めると、急におとなしくなってしまった。クリハシ、もうやめろよと誰かが小声でぶつぶつ言った。もうやめたほうがいいよ。死んじゃうよ。
だが栗橋浩美はやめなかった。やめることができなかった。どうしてもカズを溺れさせてしまいたくて、昂揚し狂喜し、楽しくてしかたなかった。
とうとう誰かが背後から体当たりをしてきて、栗橋浩美がよろめく隙に、プールに飛び込んでカズを引っ張りあげた。カズはみっともないほどにはあはあと激しく息をして、プールの縁をひっかくようにして大慌てで水からあがってきた。栗橋浩美はすっかり興ざめしてしまい、ぷいと横を向いてシャワー室の方へ足を向けた。クラスメイトたちの視線が背中に突き刺さった。そして、ピースがいつのまにか姿を消しているのに気づいた。だが、シャワーを浴びて更衣室の方へ出て行くと、ドアにもたれてピースが待っていた。いつものように、日に焼けた顔をほころばせてにこにこ笑っていた。
──みんながいるところでやるのはまずいよ。戦略的失敗だ。
そう言って、白い歯を見せた。
栗橋浩美の頭のなかに、また別の光景が広がった。彼はごく幼くて、どこか真っ暗な場所で膝を抱えて座っていた。泣いているせいで目が熱く、頬が濡れていた。おしっこにいきたいのだけれど、それを一生懸命ガマンしていた。なぜならその暗がりから出ていけば、お母さんに叱られるとわかっているからだ。
そうだ、子供のときにはこういうことがよくあった。怒った寿美子に、物置のなかに閉じこめられるのだ。物置のスペースは半畳分ぐらいしかなく、しかもそこにごたごたと物が詰め込まれているので、栗橋浩美がそこに入るためには、膝を抱え頭を縮め、だんごむしのように丸くならなければ駄目だった。窮屈で息が苦しく、三十分ぐらいで頭が痛くなってくる。だけれど、お母さんがいいと言ってくれるまではそこから出てはいけないのだった。
何をして叱られたのだろう? お母さんは何を怒っているのだろう。首が痛いし、おしっこがもれそうだ。でも、ここでもらしてしまったら、もっともっと叱られるだろう。このあいだお父さんがしたみたいに。
記憶はまた別の場所へと飛んだ。栗橋浩美はまた寿美子に叱られていた。台所の椅子に座り、うなだれて足をぶらぶらさせていた。寿美子はしきりに何か言っているけれど、栗橋浩美の耳には入らない。本当はこんな小言など聞かず、外へ遊びに行ってしまいたいのだ。
もう少し大きくなったら──そう思っていた。もう少し身体が大きくなり、力が強くなったら、お母さんに怒られたって、ちっとも怖くない。あんまりうるさいようだったら、殴ってやればいいのだ。この家のなかで栗橋浩美がいちばん強くなりさえすれば、もう誰の命令に従う必要もなくなる。何ひとつ、ガマンしなくちゃならないことはなくなる。
お母さんはまだ怒鳴っている。ああ、うるさい、うるさい。すると、ヒロミのすぐ隣に座り、煙たそうに煙草をふかしながら、ヒロミと一緒になって怒られているような顔をしていたお父さんが、不意に頭を持ち上げて、やかましい、おまえはしつこいぞと大きな声をあげた。
そんなにぐちぐち同じ事を繰り返して叱ったってしょうがない。子供には、いっぺんだけびちっと言ってやればいいんだ。お父さんはがみがみと唾を飛ばしてそう言った。するとお母さんは馬鹿にした。あんたなんか、まともに子供を躾《しつ》けられるもんか。するとお父さんは顔を真っ赤にして、ヒロミの細い腕をつかむと、ぐいとねじりあげ、内側の皮膚のやわらかいところに、吸いかけの煙草の先の、真っ赤になっているところを押しつけた。いいか、躾ってのはこういうふうにやるんだ、よく見とけ──
栗橋浩美は思い出す。あの腕の火傷の痕は、なかなか消えなかった。悔しいから、カズにも同じ痕をつけてやろうとして、煙草を持っているところを長寿庵のおばさんに見つかり、叱られたことがあったっけ。
記憶、記憶、記憶。人間は記憶そのものだ。唐突に、そんな洞察が頭の底の方で閃いた。たくさんの記憶を、皮膚という皮一枚でくるりと包み込むと、それが人間になる。子供から大人へと成長するにつれて身体が大きくなるのは、それだけ中身の記憶の嵩《かさ》が増えていくからだ。
今、栗橋浩美という人間の皮膚は破れ、それが包み込んでいた記億が外へ流れ出ている。最初はじわじわと、だが次第に勢いを増しながら。記憶という中身がすっかり流れ出てしまったら、栗橋浩美はぺしゃんこの風船のようになって、この場に横たわるだろう。
そうなったら、そこからやり直しがきくのではないか。ぺしゃんこになった栗橋浩美の容れ物に、新しい記憶を流し込み、ふくらまし、新しい栗橋浩美をつくりあげるのだ。栗橋浩美は生まれ変わるのだ。
きっとできる。今ならできる。ずっと俺と一緒にいてくれた、俺の本当の親友のカズがいるから。カズのこと、俺は何も判っちゃいなかった。
カズ、カズ。カズは生きているだろうか
生きていてほしい。俺も生きたい。生き直すんだ。もうピースに騙されたりはしない。
強い決意に、身体が熱くなるような気がした。だがそれは、神経の中枢が機能を停止する直前の、最後のひと働きにすぎなかった。
俺が死んだら誰がピースの嘘を見抜くのだろう──その思考を最後に残して、記憶の流出は終わった。栗橋浩美は死んだ。
高井和明は、車がガードレールを突き破り、宙に飛び出していくあいだじゅう、両目を見開いてその一部始終を見つめていた。一瞬が無限に引き延ばされ、うっとりするようなスローモーションで、彼は事故の全体を経験していた。
シートベルトで押さえつけられていなかった彼の身体は、止める術もなくフロントガラスを割って飛び出し、その瞬間に彼は外気を肌に感じた。茜色から夕闇色に変わりつつある空が、視界いっぱいに広がった。それからゆっくりと頭が下にさがり、彼は落下してゆく自分を意識した。
死ぬわけにはいかない。カズはそう思っていた。ここで死ぬわけにはいかない。やっとヒロミを取り返したのだ。これから一緒に、解決し、やり直し、考え直さなくてはならないことが山ほどある。対決しなければならないこともある。
怖いとは思わなかった。強い意志の力が、彼を支えていた。こんな事故で死んだりするものか。ヒロミ、ヒロミは大丈夫だろうか?
高井和明が落下してゆく軌道の先には、排気ガスにすすけ、幹の痩せた木々が、不満気な子供たちのように肩をよせて寄り集まっているささやかな雑木林があった。非力で不健康な木立だが、その枝の先は尖っていた。
のんびりと弧を描きながら、高井和明は落ちていった。彼を歓迎するように枝を天に向けて待ち受ける、ひねこびた木立の群の真ん中に。やがて、ごつごつとした枝の先が柔らかな首の肉に食い込み、頸動脈まで突き刺さったときもまだ、カズはヒロミの身を案じていた。
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コロシヤ。
コロシヤノカゲハ
コロシヤノアトヲ オイカケル
ドコマデモ ドコマデモ
イツノヒカ コロシヤヲ
コロシテ ウメルタメニ
古い、古い思い出だ。なぜ今になってよみがえったのだろう?
栗橋浩美の運転する車が死に向かって跳躍したその瞬間、ピースは誰かに名前を呼ばれたかのようにふと目をあげ、振り返ってリビングの壁の時計を見た。午後四時一八分だった。そしてそのとき、まるで何かの合図のように、突然記憶の底から浮上してきたのだ。懐かしい「コロシヤ」の詩が。
あれを書いたのは、確か小学校の六年生のときだった。国語の時間に、担任の先生が生徒たちに命じたのだ。次の授業までに、なんでもいいから好きな詩を書いてもってきてごらんなさい。どんな内容のものでもいいわよ。
ピースは学業で苦労したことのない子供だった。母親がそれを、口に出さずに誇りにしていることを、彼はよく知っていた。
記憶力がよかった。文章の読解力にも優れていた。先生の話など聞かなくても、教科書に書いてあることを、ただ読むだけで理解することができた。他の子供たちが二桁のかけ算や分数計算に四苦八苦しているとき、ピースは、あまりあっけなく練習問題を解いてしまうことのないように、クラスメイトの学習ペースに歩調を合わせる訓練を積んでいた。
大人の顔色を読むことにも長《た》けていたので、先生が今何を要求しているのか、即座に感じ取ることができた。いつだって、集団のなかで頭ひとつ分だけ飛び出していられるように、自分を調整していた。きっかり頭ひとつ分だけ。それ以上でも以下でもいけない。
先生は、ピースほどの聡明な子供が、いったいどんな詩を書いて持ってくるか楽しみにしていた。まん丸な「期待」が、まるでアドバルーンのように先生の頭上に浮かんでいるのを見ることができた。賢いだけでなく、感性も鋭い子供。先生はピースをそう評価していた。あの子の書く読書感想文の素晴らしさといったら! 学校中に見せて回りたいほどだわ! そんなあの子のことだもの、きっと素敵な詩を書くことができるに違いない!
ピースはもちろん、先生の期待に応えるつもりでいた。先生を感心させ、喜ばせるつもりでいた。それでなくても、文章を書くのは大好きだった。
賢い彼は、どんな文章を書けば大人たちが喜び、クラスメイトたちが感動するか、ちゃんと心得ていた。そのために必要な言葉は、周囲を見回せばいくらだって転がっていたし、時にはふわふわと宙に浮いていた。ひっつかんで見栄えのいいように並べれば、それで一丁あがりだった。ときどき、こんな簡単なことができずに作文を苦手としているクラスメイトたちが救いようのないほどマヌケに見えて、いっそ不思議なほどだった。
詩を書くのは初めてだった。作文と違って短くまとめなければならないので、かえって難しいかもしれない。とりかかってみて、初めてそう思った。
それでも、作文用紙に向かって三十分ほど経つと、言葉が浮かんできた。ピースはさらさらと書き付けた。
それが、「コロシヤ」の詩だった。
書き終えて、つくづくと文字をながめ、なんでこんなものを書いたのだろうと思った。これは良くない作品だった。先生がこれを見たら、感心するかもしれないけど、それと同時に、優等生のピースの心の内にあるものについて、ある懸念を抱いてしまうだろう。彼は本能的にその危険を察知した。急いで紙を取り替え、新しいのを書こうととりかかった。
ところが、何も思い浮かばない。心に浮かぶのは、さっき書き付けた「コロシヤ」の一節ばかりだ。
鉛筆を置いて、ピースは「コロシヤ」の詩を手に取った。一呼吸おいて、それをびりびりに破り始めた。細かくちぎって、ゴミ箱に捨てた。
それでも、詩の一節一節は、消えることなく彼の頭のなかに残っていた。
結局、新しい詩は、春先の雨の優しさについて書いた他愛のないものになり、それを読んだ先生は、一応は誉めてくれたけれど、期待したほどではなかったというような目をした。
以来、ピースは詩が嫌いになった。詩は危険なものだと判ったからである。「コロシヤ」の詩のことも、それきり忘れてしまった。
それなのになぜ、いい大人になって、それもこんな特別な時に、急に思い出したのだろう? ピースは苦笑した。
ヒロミに話した計画は口先だけのもので、ピースは、ずっとここでくつろいだ午後を過ごしていた。自分は東京へ行く、東京へ行って、「長寿庵」の高井家の人々を見張っている。だから、カズが裏切って警察へ駆け込んだりしたら、すぐに高井家の人たちを皆殺しにするぞ──そう脅しをかけたけれど、本当はそんな面倒なことをするつもりはなかった。カズはいくじなしだから、抵抗しやしない。ヒロミの言いなりに、夜まであっちこっち馬鹿みたいにぐるぐる走り回った挙げ句、すんなりとお化けビルで殺されることになるだろう。だからピースは、ヒロミと約束した今夜午前零時までにお化けビルに行きさえすればいいのだ。
心の片面では、ピースは高井和明を舐めきっていた。彼を計画のなかに取り込むことで、筋書きの細部がだんだん変化してきているという事実にも、ほとんど痛痒《つうよう》を感じていなかった。栗橋浩美がカズの言動に心を動かされるかもしれない可能性や、それによって栗橋浩美の不安定な精神が土台から崩れるかもしれないという危険性についても、まったく考えていなかった。
しかし、心のもう一方の面では、ピースはカズの危険性を熟知し、筋書きが狂いつつあることを理解していた。まるで、潮のながれに押されて徐々に航路から逸れて行く船のようだ。ピースはカズの存在に影響され、ヒロミに対する支配力を削られつつあった。
だが、それがどうだというのだ? ピースはひとり、にやりと笑う。面白いじゃないか。アクシデントが起こって初めて、リーダーの指導力が問われるのだ。筋書きが乱れてこそ、俺は本領を発揮することができる。今の今までは、ちょっぴり退屈なくらいだった。これからが本当に面白いのだ──
分裂するふたつの心の狭間《はざ ま 》で、時がゆっくりと流れて行く。カズはどうするだろう? ヒロミはどうするだろう? 今夜の決着は、どんな形になるだろう? そんなことを考えているうちに、「コロシヤ」の詩がよみがえってきたのだ。
ああ、今なら判る。幼いころの自分がなぜあんな詩を書いてしまったのか。あれは、自分の心の内から取りだした言葉だったのだ。作文はそこらにあるものをつなぎあわせるだけで創ることができるが、詩はそうはいかない。詩を書くという作業は、自分の心のなかに内視鏡をさしこみ、そこから組織の一部を切り取って、標本をつくり、目の前に並べてゆくことに等しい。
だから危険なのだ。
夕焼けが夜の闇に変わり、時計が時を刻む。より深く自分の思いのなかに沈みこみ、半ば眠ったようになっていたピースは、点けっぱなしにしていたテレビのけたたましい音に、ふと我に返った。
新しいニュースが飛びこんできていた。画面に赤井山と、グリーンロードが映っていた。中継の記者が、引きつった顔でまくしたてていた。
交通事故。車に乗っていた若い男ふたりが死亡し、トランクからは別の死体が発見された──
彼らこそが、連続誘拐殺人事件の犯人二人組ではないのか。記者はレポートする。
しかも、報道はそれだけではなかった。この番組はHBSのニュース番組だった。彼らは一日夜のあの田川一義ショウ≠ノかかってきた電話の声紋鑑定を、独自に進めていたのだった。その結果が出たというのだ。
「声紋鑑定により、報道特番にかかってきた電話の人物は二人いると考えられます。声紋のパターンが明らかに異なっているのです。これはHBSのスクープです。連続女性誘拐殺人事件の犯人は複数犯と考えられます。グリーンロードで事故死した二人組の男性が、そのまま電話の二人組であると断定することは、現段階ではまだできません。できませんが、しかし──」
しゃべるほどに興奮が高まる。記者もアナウンサーも真っ赤な顔をしている。
そうか。筋書きはそっちに転んだか。
固まった油が溶けるようにゆっくりと、ピースの表情が緩んで笑みが広がった。やがて彼は声をたてて笑い始めた。次第に高まるその哄笑《こうしょう》に、「山荘」の庭の土の下の物言わぬ亡骸《なきがら》たちも、目覚めて震え始めるようだった。
[#改ページ]
[#改ページ]
第三部
[#改ページ]
[#地から5字上げ]「両親に真相を隠す方法でもあればいいんだが。
[#地から7字上げ]こんなことを話さずにすめばいいんだが」
[#地から2字上げ]──ヒラリー・ウォー
[#地から1字上げ]『事件当夜は雨』
[#改ページ]
師走の訪れと共に、木枯らしが身にしみるようになった。
出入口の自動ドアが音をたてて開いたり閉じたりするたびに、枯葉まじりの冷たい風が吹き込んでくる。店を訪れるお客さんたちも皆、寒そうに首をすくめ肩を縮めている。
「昨日発売の、『ドキュメント・ジャパン』の臨時増刊号、あります?」
入ってきたばかりの大学生風の若い男性客が、カウンターに近寄って尋ねている。半日のうちに、このお客さんで八人目だ。いや、俺が病院に行ってるあいだにも何人か来てるはずだから、もっと多いだろう。塚田《つか だ 》真一《しんいち》は、床を拭く手を休めてモップの棒を杖がわりに寄りかかり、ちょっと背伸びしてカウンターの様子をうかがった。
「申し訳ありません」店長が謝っている。
「うちでは、『ドキュメント・ジャパン』自体を扱ってないんです。コンビニであの雑誌を置いているのは、『カウント・ショップ』さんぐらいだと思いますね」
「そうなんですか……」
若い男性客は残念そうに額のあたりをぽりぽりかいた。ちょっと照れ笑いをする。
「昼過ぎからあっちこっち探し回ってるんだけど、書店じゃどこも売り切れなんですよ」
「そのようですね。キオスクも駄目ですか?」
「ダメダメ。キオスクには置いてないんです」
「もともと、発行部数も少ないじゃないんですかね。普段はそれほど売れる雑誌じゃないんだから」少しうち解けた口調で、店長が言った。「この増刊号だって、版元じゃこんなに売れると予想してなかったんでしょう」
「そうかなあ」
若い男性客は、すみませんと言い残し、何も買わずに出ていった。もう何軒か、書店やコンビニを回ってみるつもりでいるのだろう。店の前の横断歩道を足早に渡っていくのが見える。
店のいちばん奥まったところにある冷凍ケースの前で、さっきからしきりとおしゃべりしながら冷凍食品とアイスクリームの品定めをしている若いカップルが、カウンターでのやりとりを耳にしたのか、『ドキュメント・ジャパンて何?』などと言っている。真一は、何も知らない人もいるんだなと、ちょっと驚いた。
「テレビ番組かなんかかしら」と女が言う。
「新番組か?」男は冷凍ケースの中身の方に気をとられている。
「キオスクがどうとか言ってなかった?」
「じゃ、雑誌だ」
「売り切れるようなものなら、買わなきゃまずいんじゃないの? あたし、ほしいなあ」
「本屋へ行ってみるか?」
「本屋はめんどいよ。ここで買えないの?」
真一は吹き出しそうになるのをこらえて、モップかけの作業を再開した。ついさっき牛乳を買いにきた子供づれの女性が、清涼飲料水の瓶を三本も床に落として粉々にしてくれたものだから、余計な手間が増えてしまったのだ。
他人の話を聞きかじり、流行物なら買わなきゃまずい、ほしいと言いながら、実は何も理解していないし本当に話の内容を聞いてもいない。こんなカップルは、『ドキュメント・ジャパン』の読者というよりも、むしろ取材対象の方に向いているんじゃないかと真一は思った。「現代お気楽男とふわふわ女の最新恋愛事情」なんてね。いや、硬派のルポルタージュ専門誌を自称する『ドキュメント・ジャパン』は、そんな軽い見出しはつけないんだっけ。
また自動ドアが開いて、今度は四十歳ぐらいのエプロンをかけた女性が、『ドキュメント・ジャパン』の臨時増刊を求めて現れた。店長はまた謝る。女性はぷりぷりしながら出ていった。さっきのカップルはやっと冷凍ケースの前を離れたと思ったら、日用品の棚のところでふざけあいながら笑い転げている。真一はようやく床を拭き終え、モップを床に引きずらないように注意しながら事務室のドアの方へと向かった。
「お、ご苦労さん」
店長が眼鏡ごしに柔らかい目をして呼びかけた。
「片づけたら、レジ代わりますよ。店長、昼休みまだでしょう?」
そろそろ二時半になるところだ。真一は、早めの昼食を済ませているので、このまま勤務時間いっぱい働いても平気である。
店長に代わってレジに入ると、またひとり、『ドキュメント・ジャパン』の臨時増刊号を求める客がやってきた。店長と同じ台詞《せ り ふ》を述べてお引き取り願う。この客は五十がらみのおじさんで、どうやらこの近所の工場で働いているらしく、しみだらけのつなぎを着て、機械油の臭いをぷんぷんさせていた。煙草が切れたので、ついでに買いにきたんだけど、そうかい、ないのかい残念だ、作業所でラジオを点《つ》けっぱなしにしてるんだけど、その番組のなかでも言ってたんだよ、『ドキュメント・ジャパン』の臨時増刊号が面白いって。あの事件の犯人たちのことが、小説みたいにわかり易く書いてあるそうじゃないか──。親しみの感じられるおじさんだったので、真一はあやうく、その臨時増刊号に、僕のよく知ってる人が文章を書いてるんですと、口に出してしまいそうになった。このおじさんならば、へえそうなのかい、にいさんの知り合いが書いてるの、そりゃすごいねえと、喜んでくれそうな気がしたのだ。
前畑《まえはた》滋子《しげ こ 》のルポの連載先が『ドキュメント・ジャパン』に決まったのは、まだあの事件が進行中のころのことだった。ところが、滋子が最初のまとまった原稿を仕上げた途端に、犯人二人が自動車事故で死亡し、事件は急速に収束に向かった。編集部は編集会議を開き、一連の連続誘拐殺人事件を特集した臨時増刊号を十二月一日に発売することを決定、『ドキュメント・ジャパン』本誌に連載予定だった滋子のルポも、その臨時増刊へと媒体を移すことになったのだった。
犯人たちが死亡してから、既に一ヵ月が経過している。連日連夜、狂ったように特番を組んでいたテレビ局も、さすがにネタが尽きたらしく、この一週間ほどで、昼間のワイドショウでちょこっと続報を流したり、夕方のニュース番組のなかで十分ほどのミニ特集を組んだりするくらいのところまで沈静化した。そのうち、別の新しいニュース、スキャンダルを追いかけ始めて、あの事件のことなど忘れてしまうのだろう。
新聞や雑誌媒体は、速報性でテレビに劣る分を取り返すように、一ヵ月のあいだにじっくりと事件の詳細を報道するという姿勢を貫いて、多くの読者を集めていた。彼らはまだこの事件から手を引いていない。ただ、新聞や週刊誌では紙数に限りがあるから、なかなかまとまった記事を載せられないという恨みがあった。
それだから、『ドキュメント・ジャパン』の臨時増刊号は、実に最適な時に発売されたのだ。あの事件から、テレビはもう離れてしまった、新聞雑誌では伝えきれない、著名なジャーナリストやノンフィクション作家の手になる単行本がまとまるまではまだ間がある──その間隙をついて、事件についてまだまだ知りたい、教えて欲しいという読者の現在進行中の要求に応える形で登場したのだから。
予想以上の売れ行きを見せているのも、けっして不思議ではない。世間の人びとはみんな、あのふたりの犯人たちがやったこと、彼らの考えていたこと、彼らの人となり、事件の細部、自動車事故で死ななかったらやっていたに違いないことなどを、知りたくてたまらないのだ。知ることで整理をつけて、安心したいのだから。
「『ドキュメント・ジャパン』は週刊誌ですから、まだ続きがあるんですよ」
「へえ、そうなのか」
「ええ。あの事件のことを、ずっと追いかけて報道するんだそうですよ。女性のルポライターが力を入れて調べてて」
「そりゃいいね。大いに頑張ってもらいたいね。いったい何がどう間違って、あんなとんでもねえ野郎ができちまったのか、知りたいもんな」
煙草と釣り銭を受け取ると、つなぎ姿のおじさんは油の臭いをふりまきながら外へ出ていった。真一はその背中にありがとうございましたと大声で言った。
──滋子さんは、船出したんだな。
ほんの少しほの温かく、淡々と、そしてある部分でキリがついた≠ニいうすっぱりとした気持ちで、真一は考えていた。
このところの滋子は多忙で、食事さえなかなか一緒にはできない。これまでずっと、滋子の賄《まかな》いに頼ってきた真一と昭二《しょうじ》の二人で、スーパーから買ってきた惣菜と、豆腐とネギのみそ汁で、もそもそと夕餉《ゆう げ 》の卓を囲むこともしょっちゅうだ。それでも、こうして連載第一回目が日の目を見たことだし、今週のうちに一度くらいは、台所のテーブルに、前畑夫妻が顔をそろえることだってあるだろう。それは、連載の上首尾な船出を祝う食卓になるかもしれない。
そのときが来たら、真一は前畑夫妻にこれまでの礼を述べて、あのアパートを出ようと決めていた。そのために、彼らには内緒で、住み込みの勤め先をいくつか探していた。
引き留められるかどうかは、五分五分だと思っていた。滋子は止めるかもしれないが、昭二は絶対に止めるまい。
連載が決まって、校正刷りとかいうものが届けられて、滋子が仕事部屋にこもってそれと格闘しているとき、昭二が真一に、そっと耳打ちするようにしてこんなことを言った。
──なあ塚田君。嫌じゃないか?
真一は、おそらくは滋子から直にそういう種類の問いかけを受けるだろうと思っていたので、相手が昭二だったことには驚いた。
──嫌じゃないかって、何がですか?
問い返すと、昭二はごつい手で頭のうしろをかきながら、言いにくそうに言葉を並べた。
──だってさ、滋子は犯罪のことを書くんだよ。塚田君のご家族の事件のことじゃないけど、でも、残酷で非道な出来事だという点じゃ、一緒だ。あいつはその関係者じゃない。警官でもないし、犯罪心理のことを研究する学者さんでもない。新聞記者とか雑誌記者とかでもない。ただのフリーの物書きだよ。事件とは何の接点もない。それなのに、あれこれ調べてああだこうだと書く。犯人のことだって、いろいろ推測したり考えたりして書く。もちろんそれが意味のない仕事だとは、俺も思わないよ。滋子以外にも、たくさんの人たちが、これからあの事件について様々なことを書いたり言ったりするだろうからな。それは必要なんだろう。ああいうことがどうして起こったのか、二度と起こらないようにするにはどうしたらいいのか、みんなで考えるためにさ。
──そうでしょうね。
──でもさ、結果としてそれが……書いたものが広く読まれれば、滋子としてはそれが実績になるわけだろ? 手柄になるわけだ。金だって、ちょっとは入ってくるかもしれない。そういうの、塚田君は嫌じゃないか? 何の傷も受けてないし苦しんでもいない第三者に、そんなことをされるのは嫌じゃないか? 他人の不幸をネタに勝手なことをするんじゃねえよって、思わないか?
真一は、滋子から同じ問いを投げかけられたら答えようと思っていたことを、そのまま言った。
──そう、思います。
昭二は、覚悟はしていたがやっぱり辛いという顔をした。覚悟はしていたが、これほどはっきり言われるとは思ってなかったという顔でもあった。
──そうか、そうだよな。
──はい。だから僕、滋子さんの文章が雑誌に載ったら、もうここにはいられないと思っています。
ああ、やっぱりそうなるか、そうだよなぁというように、昭二はうなずきながら手で顔を撫でた。
──滋子のこと、怒ってるか?
──とんでもない、怒ってなんかいません。感謝してます。
──だけど滋子が君をここに住まわせたのは、君がこの事件の最初の発見者だったからだろ? 取材源として利用しようとしたんだ。
──でも、それだけじゃなかった。滋子さんも昭二さんも、困っている僕を助けてくれました。そのことは、本当に有り難かった。
真一はずいぶんと努力して、言葉を探して話した。気持ちは決まっているし、迷いもないけれど、自分でわかっていることでも、他人に説明しようとすると、なかなか上手くいかないものだ。
──昭二さんが今言ったみたいに、どうしてこういうことが起こるのか、二度と起きないようにするにはどうしたらいいのか考えるために、犯罪について調べたり、犯人について考えたり、推測したりすることは必要だと思います。だから滋子さんの仕事にも、意義がたくさんあると思う。滋子さんだけじゃなくて、女性がそういう仕事をすることにも、すごく大きな意味があると思いますよ。だって、残酷な犯罪の犠牲者になるのは、女性が多いでしょう? だけど今までは、それについて女性が発言したり文章を書いたりすることは、ジャーナリズムっていうんですか、そういう世界では少なかったじゃないですか。
──そう、なのかなぁ。
昭二は当惑しているようだった。
──だから僕も、滋子さんには頑張ってほしいです。でも、近くにいるのは辛い。いろいろなことを思い出すし、考えちゃうし、それに時々だけど、やっぱり、ジャーナリストだなんだっていったって、他人事だから気楽じゃないかって、思ってしまうこともあるから。だから、僕も辛いけど、滋子さんだって僕が近くにいたらしんどいんじゃないかと思います。
──うん、俺もそう思うよ。
昭二はゆっくりとうなずいてから、滋子の仕事場の方を振り返った。そのまま言った。
──でもさ、塚田君が辛いのは当然だし、辛いことから距離を置くのも当たり前だけど、滋子は、しんどいだの辛いだのいって逃げちゃいけないんじゃねえかとも思うんだよ。辛いくらい、覚悟の上じゃなきゃ。だからさ、塚田君が、自分が辛くてやってられないっていうなら、俺は何も言えねえ。言う資格がねえ。でも、塚田君が、自分は大丈夫だけど、滋子のために良くないって思いやってくれてるんだとしたら、それは違うぞ。滋子にそんな気を遣うことはねえ。そんな、甘やかしてやる必要はねえよ。
意外なほど鋭く、厳しい言葉だった。真一は思わず、しげしげと昭二の横顔を見つめ直した。彼はまだ滋子の仕事部屋の閉じられたドアを見つめていて、真一の視線には気づかなかったけれど、それでかえって、彼の心の内が見通せるような気がした。
無防備な横顔は、真一に語っていた──
ついさっき、昭二は言った。なぜこういうことが起こるのか、二度とこういうことを起こさないためにはどうすればいいのかみんなで考えるために、滋子のしているような仕事は必要だと。だが、その言葉に、犯罪報道について尋ねれば百人が百人こう答えるであろう、その模範解答のような言葉に、昭二その人は、心の芯からは納得していないのだ。そういうふうに考えておかないといけないと、自分を宥めてはいるけれども、それでも割り切れないものが残っているのだ。その割り切れなさは、もしかしたら真一以上に深刻なものかもしれない。そのどこか不得要領な違和感は、ひょっとしたら、真一が滋子の仕事ぶりをそばで見守ることが辛いと感じる以上に、厄介なものかもしれない。
滋子は以前、発表するあてもなく、どこに依頼されたわけでもなく、失踪する女性たちのルポを書き始めたとき、いちばん励ましてくれたのは昭二だ、と話していたことがある。シゲちゃんならできる、シゲちゃんにしか書けないものが書ける、頑張れと。
そのときの彼の励ましが真実だったなら、今になって及び腰になるのは卑怯だという言い方もできるだろう。失踪と連続殺人では深刻さの度合いが違うなどという言い訳は通用しない。ルポはルポ、悲劇は悲劇だ。
だが、おおらかに滋子を励ました昭二も、今そこで不安そうに顔を曇らせている昭二も、どちらも本当の昭二なのだ。どちらかがウソで、どちらかが真実というわけではない。二つにひとつではないからこそ、彼は悩んでいるのだろう。
ふっと、考えてしまった。
──この二人は、大丈夫かな。
余計な心配だ。真一は、自分の考えを追い払った。気のいい昭二は、もしも滋子のルポが評判をとれば、きっと大喜びして、誇りに胸をふくらませるに違いない。そうして、今語ったような事柄は、忘れられはしなくても、心の隅に片づけられてしまうだろう。
それ以来、昭二とはこの件で話をしてはいない。そして真一の予想はあたった。『ドキュメント・ジャパン』の連載第一回が評判を呼ぶと、昭二は手放しで喜んだのだ。書店で何冊も買い込み、工場の従業員たちにも配った、本当に嬉しそうな顔をしているし、真一の前でもそれを隠そうとしない。滋子を甘やかす必要はないと、厳しく言い切った彼の顔は、どこか後ろの方にしまい込まれてしまったようだ。
ここを離れよう──という決心は、それでますます強固なものになった。自分はもう、前畑夫妻と一緒にいるべきではない。
レジのカウンターに手をついて、ガラス越しに外をながめ、真一はなんとなくため息をついた。オレだって、自分の将来のこと……これからのことを考えなきゃ。
ドアが開いた。真一は反射的にいらっしゃいませと言い、視線を入ってきた客の方へ移した。
目の前に、樋口《 ひ ぐち》めぐみが立っていた。
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石井夫妻の元を離れてから現在のアパートに落ち着くまでの数十日のあいだに、真一はしばしば樋口めぐみの夢を見た。文字通り眠って見る夢もあり、真っ昼間に見る夢もあった。白昼夢というやつだろうか。
夜の夢は、どのシチュエーションでも、真一が逃げ、樋口めぐみが追いかけるというパターンに変化はない。現実を残酷なくらいありのままに映し、真一は歯をくいしばり冷や汗をかきガタガタ震えながら彼女から逃げているのだった。覚めるときは、まるで緊急脱出装置を使って夢から飛び出してきたかのように、勢いよく飛び起きる。目を覚ましてもまだ逃げ続けようとしているみたいに、毛布の下で足が前後に動いているときもある。
それとは対照的に、白昼夢の方は、もっと短時間の、ほとんど一瞬のあいだに見るものばかりだった。たとえば、バス停でバスを待っている。いつもながらバスは定刻通りには来ず、バス停の真一の後ろには長い行列ができる。真一は何の気なく振り向く。そして、行列の最後尾に樋口めぐみが並んでいるのを見つける。あるいは、前畑滋子に夕食の食材を買ってきてくれるよう頼まれて、スーパーまで出かける。広い店内を、メモを片手にカートを押しながら探し歩いて、ひょいとひとつの角を曲がると、すぐ先の通路を樋口めぐみが横切ってゆく。
白昼夢の場合は、樋口めぐみは真一を追跡していない。真一がそこにいることにさえ気づいていない。一方的に真一だけが気づき、彼女に見つからないうちにこの場を逃げ出さなくては──と、パニックの波に襲われる。しかし、はっと息を呑んだりまばたきをしたりして、一瞬の後には、樋口めぐみはバス停の行列の最後尾にもいないし、スーパーの通路にもいないということが判るのだ。単なる見間違い、居もしない彼女の姿を、真一の心が勝手に像を結んでつくりあげてしまった、ただの幻覚だということが判るのだ。
そしてその後しばらく、ひどく惨めな気持ちになる。なぜオレはこんなにビクビクするんだろう。なぜこんなに怯《おび》えて、在りもしないものを見たりするんだろう。
それだから、コンビニのレジのカウンターを挟んで真正面に樋口めぐみが立っていることに気づいたとき、とっさに、これもやっぱり幻覚なんだろうと思った。白昼夢の新しいバージョンだ。まばたきすれば、すぐに消える。
だが実際には、まばたきどころか呼吸さえ止まってしまったようになって、真一はただバカみたいにまじまじと樋口めぐみの顔を見つめていた。記憶のなかの彼女──夢や幻覚に登場する樋口めぐみよりも、今、目の前にいるこの少女は少しふっくらしていた。髪も短く切ってある。白いふわふわしたセーターにブルージーンズという出立ちだが、どちらも新品のようで、店内の照明を受けてセーターの毛足が光って見える。
「こんにちは」
淡いピンク色のルージュをひいたくちびるを開いて、樋口めぐみはそう言った。
「こんなとこにいたんだ。やっと見つけた」
真一は胸苦しくなってきた。ずっと息を止めているのだから当然だ。その反動のように、大声で叫びだしたいという衝動がこみあげてきた。叫びながらカウンターを乗り越え、自動ドアを抜けて外へ逃げ出すのだ。そして再びここへは帰らないのだ。
ちょうどそのとき、さっきのカップルがレジに近づいてきて、樋口めぐみを押しのけ、カウンターの上にどすんと音をたててカゴを乗せなかったら、本当にそうしていたかもしれない。真一はいきなり頬をぶたれたみたいにして我に返った。
カップルの男が、気短そうに顔をしかめて真一を見ている。女は彼の腕に腕をからめて、やはりじろじろと真一を見ている。樋口めぐみは、ちらっとカップルの方に目をやると、素直に脇に退いた。
「い、いらっしゃいませ」
真一はカゴの中身を取り出し、レジを打ち始めた。指がひどく震えるので、操作を間違えないようにゆっくりと作業した。男は苛立たしそうに身体を揺すっている。女は彼にぶらさがったまま、ねえナントカカントカのホテルへ行こうよと、甘ったれた声で言った。
どんな悪夢にも幻覚にも、コンビニのアルバイト店員として働く真一を、樋口めぐみがじっと観察しているなどという場面は登場したことがなかった。それでいて、やっぱり今の真一は夢を見ているような気がした。夢だから身体がうまく動かないのだ。夢だから足がぶるぶる震えるのだ。
商品を引き渡し、「ありがとうございました」と頭を下げる。カップル客が出て行く。彼らが居なくなれば、真一はまた悪夢のもとと直面しなくてはならない。
「久しぶりだね」
カウンターの正面に戻って、樋口めぐみが言った。夏休みのあいだ顔をあわせることのなかった同級生に、新学期の最初の日に挨拶しているみたいな気軽な口調だった。あまつさえ、彼女はほほえんでいた。
真一は目をそらし、カウンターの上に視線を固定した。ざわざわと悪寒がした。
「話したくない」
考えるよりも先に、その言葉が口からこぼれ出ていた。
「だけど、あたしと話さないわけいかないよ」
あいかわらず気軽な口調で、樋口めぐみは言い返した。声も笑っていた。
「話したくないんだ。あんたと話すことなんかない」
そこまで言うと、やっと恐怖を押しのけて怒りがこみ上げてきて、真一はぱっと顔をあげた。
「あんたの弁護士に頼んで、あんたがオレを追いかけ回さないようにしてもらったんだ。こんなことするのは、あんたの親父のためにもならないって、弁護士さんは言ってたよ。だから帰った方がいい。帰った方が、あんたのためなんだ」
驚いたことに、樋口めぐみはいっそう大きくほほえんだ。その顔が、ほとんどきれいだと言っていいほどに整っていることに、真一は初めて気がついた。
いや、彼女はもともと可愛い女の子だったのだろう。彼女を囲む状況が、彼女の魅力をすり減らし、食いつぶしていただけで、もともとは美人だったのだ。それは、真一だって、こんな状況下でさえなければ、同じ歳の女の子から逃げ回るほどの腰抜けではないというのと同じだろう。
だがしかし、今の樋口めぐみはきれいに見える。落ち着いて見える。過去に何度か真一を追いつめにかかったときの彼女とは別人のようだ。ヒステリックに泣きわめきながら追いすがってきた彼女とは、何かが根本的に違っている。
その「何か」が、本能的に真一を身構えさせた。向こうの出方が変わってきてる。用心しなきゃ。
「弁護士さんから言われなかったかよ? オレを追いかけたってムダなんだ。オレはあんたの頼みを聞くつもりはない。あんたの親父に会いになんか行かないよ。そもそも、被害者の家族が被告人に面会に行くなんて不可能だって、弁護士さんは言ってたよ」
「不可能じゃないわよ」樋口めぐみは、言葉の使い方にやかましい国語教師のように、つと眉毛をあげて真一を咎《とが》めた。「あんたがどうしてもそうしたいって言えば、面会できるわよ」
「オレは面会したくないんだ!」
奥の事務所に続くドアが開いて、店長が出てきた。「いらっしゃいませ」と、樋口めぐみに声をかける。真一は遠くに投げられた命綱を引き寄せるようにして、店長の顔を見た。
店長はカウンターに近づいてきた。どうしたんだ? というふうに、目顔で質問している。しかしどう説明したらいいだろう?
とっさの判断に迷っているあいだに、樋口めぐみが、あっけにとられるような明るい口調で言いだした。「すみません、こちらの店長さんですか?」
「はい、そうですよ」
「真一くんがお世話になってます。わたし、彼の従妹です」
樋口めぐみはぺこりと頭をさげた。店長は笑いだした。
「なあんだ、そうですか」
なにを照れくさがってるんだよという表情で、冷やかすように真一を見る。真一は喉がふさがってしまって、言葉が出なかった。
店長は前畑昭二の友人ではあるが、真一の抱える事情までは知らない。説明するなら、一から始めなければならない。
「あのね、店長さん。実は真一くんは困った子なんですよ」樋口めぐみは愛想良く、いくぶん舌足らずな口調で言いだした。彼女がこんな口のきき方をするのも初めてだ。「この人ったら、家出してるんです。お父さんお母さんと喧嘩して。でね、あたしは連れ戻しに来たの」
「え、ホントですか?」
店長が驚いて真一を振り返る。しかし真一は樋口めぐみの顔を見ていた。ぬけぬけとした大嘘を並べる彼女の顔は底抜けに明るく、屈託なく見える。
しかし、彼女の目は変わっていない。間近にのぞきこむと、ちっとも変わっていないことがよく判る。泣いたり叫んだりしていないだけで、彼女の本質は同じなのだ。めぐみがちょっと顎をそらして笑うと、照明が彼女の瞳に落ちてぎらぎらと光った。それを見るだけで、真一にはもう何の説明も要らなかった。
ここでめぐみを強引に退けたら、何をするか判らない。そんなことに、店長を巻き込みたくない。
「塚田くん、ホントなのか?」
心配そうな店長の方へ顔を向けて、真一は素早くかぶりを振った。
「すみません、今はちょっとうまく話せないんです。こみいってるんで。申し訳ないんですが、今日はこれで帰らせてもらっていいですか?」
店長は勝ち誇ったように頬を輝かせている樋口めぐみと、真一の強《こわ》ばった顔を見比べた。
「ああ……しょうがないよね、従妹さんが迎えにきたんじゃなあ。うん、帰っていいよ。明日は来られるかい?」
「はい、明日は必ず」
真一はカウンターを出てオフィスに戻り、大急ぎでコンビニの制服の上っ張りを脱いだ。あわてたせいで、袖のどこかがびりりといった。カウンターの前では、樋口めぐみが店長になんやかやと話をしている。笑っている。
いつも持ち歩いている小さなデイパックを肩にひっかけると、真一は大股で店内に戻った。樋口めぐみの腕をつかむと、自動ドアの方へ引っ張った。
「じゃ、すみません店長」
「ホントにごめんなさい」樋口めぐみはまだ愛想のいい芝居を続けている。「真一くんがお世話になりましたぁ」
真一は彼女を引きずるようにして道路の向かい側に渡ると、角を曲がってぐんぐん歩いた。前畑鉄工所やアパートと逆の方向へ足を向けていた。この道を真っ直ぐ行くと、確か公園がある。とにかくそこまでめぐみを連れていこうと思った。
「ちょっと、ねえ、痛いじゃない」
めぐみは文句を言った。しかし、通り過ぎる町の人たちの耳には、彼女の声は明らかに嬌声に聞こえるだろう。なれなれしく、甘ったるく、じゃれかかるような口調だ。真一はそのことにぞっとした。
「引っ張らなくてもついていくわよ。あたしの方が真一くんを探してたんだからね。引っ張るならあたしの方が引っ張るんだから」
「オレの名前を呼ぶな」
「なんでよぉ」
「呼ぶなったら呼ぶな!」
目指す公園が近づいてきた。真一はぐんぐん進んだ。公園の脇に小さな喫茶店があるのをめざとく見つけて、めぐみはそちらを指さした。「ね、あのお店可愛い! あそこに行こうよ」
樋口めぐみと喫茶店に入り、差し向かいに座ってコーヒーを飲むくらいなら死んだ方がましだ。真一は取り合わなかった。
幸い、公園に人気《ひと け 》は少なかった。もう学校は退けている時刻だが、今の子供は公園なんかでは遊ばないのだ。真一は樋口めぐみを園のなかほどにある植込みのそばまで引っ張ってゆき、そこで突き飛ばすようにして手を離した。
「痛いなぁ、なによ」
めぐみはわざとらしく腕をさすると、すねたような上目遣いで真一を見た。
「乱暴しなくたっていいじゃない」
頭が沸騰してしまって、喉が干上がり、真一はただ息を切らして突っ立っているだけだった。コイツ狂ってる──正常じゃない。とうとう頭がおかしくなっちまったんだ。現実を受け入れることができなくて、かたくなに目をそらし続けているうちに、頭のネジがいかれちまったんだ。
「おまえ……どういうつもりなんだよ」
やっと、それだけの言葉を吐いた。
「どういうつもりって、なあに?」めぐみは空とぼけた。「あたしはいつだって、真一くんのこと探してるだけよ。そして最後には必ず見つけるんだ」
「何度も言ってるだろ? オレはおまえの親父に会うつもりはないんだ。永遠にな。おまえの親父のしたことを許すつもりもない。絶対に許さない。おまえの親父が死刑になるのを、オレは待ってるんだから」
死刑という言葉を聞いた途端に、樋口めぐみが身にまとっていた見せかけの少女像が砕け、いきなりむき出しの樋口めぐみに戻った。ここにはコンビニの店内のような照明はないのに、空は曇っているのに、彼女のふたつの瞳にはまたぎらつく光がはじけ、それまでほほえんでいた頬は引きつり、白い歯が牙のように尖ってくちびるのあいだからはみ出した。
「パパを死刑になんかさせない! パパは無実よ!」
「無実じゃない」真一も声を張り上げて言い返した。「おまえの親父は人殺しだ。オレの家族を皆殺しにしたんだ。百回でも千回でも言ってやる。おまえの親父は金欲しさにうちに強盗に入って、三人の人間を殺したんだ!」
樋口めぐみは一瞬ひるんだようにまばたきをしたが、すぐに体勢を立て直した。
「ええそうよ、殺したわよ、あんたのバカな妹や気取り屋のおふくろや無能な親父を殺したわよ、殺してやったわよ!」
そして、獲物に食らいつくけだもののように猛り立ち、甲高《かんだか》く叫んだ。「だけど、パパをそそのかしたのはあんたよ! あんたがそそのかしたくせに!」
一撃をくらったように、真一はがくんと硬直した。めぐみは、自身の放った攻撃の有効性を知り尽くしていた。彼女の顔に、大輪の花が咲くように笑みが広がってゆく。
「あんたがそそのかしたんじゃない」
興奮でうわずる声を抑えようとするのか、めぐみは片手をくちびるにあてた。
「あんたが、あんたの家《うち》には大金があるって言いふらしたもんだから、だからパパはついふらふらとその気になっちゃったんだわ。責任はあんたにあるのよ。あんたはパパに謝らなくちゃいけないのよ」
肩にかけていたデイパックが、どさりと足元に落ちた。真一はめまいを感じた。
「ごめんね。大きな声を出しちゃって」
形勢が圧倒的に有利になったことを確認するように、樋口めぐみはうなだれた真一の顔をのぞきこんだ。
「あたしだって、こんなこと言いたくないのよ。ホント、言いたくないのよ。だけど真一くんがどうしてもうちのパパに会ってくれないって意地を張るから、だからつい言い過ぎちゃうの」
甘えるように真一の腕に触れる。
「ね、パパに会ってよ。会って話せば、きっとパパを許せるわよ。そしたらずっと楽になるわよ。あたしたち、みんな同じ悲劇の犠牲者なんだから」
真一は目を閉じた。まぶたの裏は鮮血の色をしていた。その色彩が真一の心をかきたてた。
──オレはこいつを殺してやる。
殺してやる。今なら殺せる。なんのためらいもなく、素手で殺してバラバラに引き裂いてやる。
真一の手が、ぴくりと動いた。頭はうつむいて視線は道路に釘付けになり、身体はかちんかちんに固まってしまって、肩を動かすことも、足を一歩前に踏み出すこともできないのに、手が、指だけが動いていた。眠っていた凶暴なものが、獲物の匂いをかぎつけて目を覚ましたかのような感じだった。触れるものを求めて、五本の指の指先が、てんでんばらばらの方向へ動いていきそうだ。そしてそのうちの一本でもめぐみに届いたら、残りの指全部が彼女に向かって一斉攻撃をかけるのだ──
そのとき、公園の先の道路から、誰かの呼びかける声が聞こえてきた。
「塚田君!」
真一は目を見開いた。誰の声なのか、すぐに判った。その声は真一の呪縛を解き、彼はすぐに自分自身の舵を取り直した。
声のした方向を振り返ると、水野《みず の 》久美《 く み 》が手を振りながらこちらに近づいてくるのが見えた。彼女は明るい笑みを浮かべており、足取りも軽やかだったが、その目は、一緒に視界に入っているはずの樋口めぐみをまったく無視し、ひたすらに真一だけを見つめていた。事情は判ったから、あたしが助けに行くまでそこで待ってるのよ! と、無言のうちに励まされているような気がした。
「あーら」樋口めぐみが口の端をつりあげて笑った。「ガールフレンドのご登場だわ」
公園の柵《さく》の手前まで来ると、水野久美はそこから駆け足をして一気に真一に近づき、ぽんと腕を叩いた。
「どうしたの? コンビニの方へ行ったら、早引けしたって店長さんが」
「うん」と、真一は言った。自分の顔がまだ引きつっていることも、身体が震えていることもよく判っていたし、水野久美がそれに気づいただろうということも判った。言葉がうまく出てこなかった。
「今日はもう仕事がないなら、映画に行こうよ。ね?」そう言って、水野久美は真一の腕に腕をからめた。彼女の顔は、ほんの一秒も樋口めぐみの方に向けられることがなかった。
「ねえ、ちょっとこの人、失礼じゃない?」まだニヤニヤ笑いながら、樋口めぐみが真一に話しかけた。「あたしに全然挨拶しないの、どういうこと? ねえあんた、あたしが塚田君と話をしてるのよ。引っ込んでなさい」
真一が何か言ったりしたりする以前に、水野久美は素早く切り返した。わざとらしく驚いたような表情を浮かべ、樋口めぐみではなく、真一の方へ首をかしげて、
「あら、今何か言った? どうしたの? 行きましょうよ。さっきからずっとこんなとこに独りでいたの? 寒いじゃない」
水野久美は、この場には真一しか居ない、水野久美の目には、樋口めぐみの存在など映っていないという芝居をしているのだ。彼女はいかにも陽気そうに真一の腕をぐいと引っ張り、駅の方へと歩き出した。
「さ、行きましょ」
「ふざけるんじゃないわよ!」樋口めぐみが叫び声をあげて、真一を引き戻そうと飛びかかってきた。とっさに真一も避けたが、それよりもさらに水野久美の反応の方が素早かった。彼女は真一を背中にかばうと、樋口めぐみの目の前に立ちふさがった。そして手を挙げると、迷いのない的確な動作で、はっしとばかりに彼女の頬を打った。
いきなり沈黙が落ちた。樋口めぐみは呼吸さえ止め、両目をいっぱいに見開いて棒立ちになっている。その青白い頬に、水野久美の手の痕が赤く浮きあがった。
水野久美は、真一が初めて耳にする威厳のこもった声で、きっぱりと言った。
「塚田君につきまとうんじゃないわよ、このバカ女。何回同じことを言ったら判るの? あんた脳ミソないんでしょう。脳ミソのあるべきところに、腐った豆腐でも入ってんじゃないの」
樋口めぐみが口ごもるのも、真一は初めて目にした。くちびるだけがぱくぱく動いているが、声が出てこない。頬についた手の痕は、奇抜な化粧のように、くっきりと色鮮やかに彼女の頬を彩っている。
水野久美はたたみかけた。「あたしは塚田君のガールフレンドだけど、事件の頃にはまだ知り合ってなかったから、詳しいことはわかんない。だけど、あんたの親父が塚田君の家族を殺して、今は裁判中なんだってことは知ってる。いい加減に悪あがきはやめなさいよ。あんた一人がその壊れた頭でいくら騒ぎたてたって、事実は変わるもんじゃないのよ。あんたの親父だって、あんたがこんなことやってるのを喜ぶわけがない。面会に行って訊いてごらんなさい。あんたが話をするべき相手は塚田君じゃない、あんたの親父よ」
ひと息にそれだけぶちまけると、水野久美はあらためて真一の腕を取り、身体を寄せて決然と歩き出した。真一は樋口めぐみを振り返りたい衝動にかられたが、それをしてはいけないと自分に言い聞かせ、水野久美に歩調を合わせて足を運んだ。
「あたしは諦めない」
弱々しく震える声で、樋口めぐみが叫んだ。真一と久美はそれを無視した。
「あたしは諦めないわよ。ゼッタイにあんたに責任とらせてやる。パパに謝るべきはあんたの方なんだ。あんたがそそのかしたんだから。あたしの家がめちゃめちゃになったのだって、みんなあんたが悪いんだから」
その言葉が背後から背中に突き刺さり、真一は口を開いて何か言おうとした。今の樋口めぐみの罵倒の意味を、水野久美に説明しようと思ったのかもしれない。しかし、彼女は軽くかぶりを振ると、「話は後にしようね」と優しく言って、さらに足を早めた。
ぱたぱたと足音が尾《つ》いてくる。樋口めぐみが追ってくるのだ。「振り向いちゃダメ」と、水野久美が言った。真一はうなずいた。二人はもう公園の出口まで来ていた。
樋口めぐみの足音は、だんだん勢いを失い、やがて止まった。かわりに、投げ出すような言葉が聞こえてきた。
「あたし、身体売ってるのよ」
すぐ隣で、水野久美が思わずという感じで両眉をつりあげた。真一も歩調が乱れた。しかし、二人で気を揃え、立ち止まらずに進んだ。
「聞こえた? あたし身体売ってんのよ。おっさんと契約してるの。そうしないと生活できないのよ。パパが居ないから。ねえ、あたしおっさんの慰みものになってんのよ」
樋口めぐみの声は、次第次第に甲高くなっていく。
もうわめいているのと変わらない。
「それがどういうことだか判ってんの? 毎日毎日、薄汚い親父に素っ裸にされて責められるのがどういうことか、あんた判る? 真っ昼間から、おっさんの股ぐらに顔を押しつけられるのがどういうことか、あんたに判るの?」
真一は冷や汗が脇腹を伝うのを感じた。水野久美は表情を動かさないまま、その腕でしっかりと真一をつなぎ止めたまま、首だけ肩越しによじって、そっと言った。
「不幸なことね」
樋口めぐみに聞こえなくてもいいというような、小さな声だった。むしろ真一に聞いて欲しかったのかもしれない。
ふたりはまた歩き出した。公園の内外を通りかかる人びとが、まだ泣きわめき続けている樋口めぐみを遠巻きに、笑ったり顔をしかめたりしている。真一はひどく後ろめたいような、残酷なことをしているような気がして、ぎゅっと目を閉じた。
「ごめんよ」
真一が呟くと、水野久美は手をのばして彼の手を一瞬だけきつく握りしめ、ちょっと笑った。
「いいのよ。塚田君が謝ることじゃない」
ふたりは公園から真っ直ぐ歩きに歩き、とにかく何かを振り切るように一生懸命に歩き、気づいてみたらひと駅分ほども歩いてしまい、やっと見つけたファーストフードの店に落ち着いたところだった。初めて入る店だった。空いていた。あまり美味しくないのかもしれない。だが、二人が囲んでいるテーブルの周囲に客が居ないのは有り難かった。
「紅茶、美味しくないね」カップを持ち上げて、水野久美は鼻先にしわを寄せた。「だけどまあ、あったかいからいいか」
「冷え切っちゃったもんな。まさか、こんな距離を歩いたとは思わなかった」
もうひと口紅茶を飲み、水野久美はちょっと首を縮めた。
「あたしの方こそ、塚田君に謝らなくちゃ。あんな凄い啖呵《た ん か》切っちゃって。ビックリしたでしょ?」
真一は微笑した。「ああいう水野さんは初めて見た。でも──」
「でも?」
「いや、やめた」
「いやぁね。言いなさいよ」彼女はぷっとふくれた。「ああ、おっかないって思ったんでしょう。でもしょうがないわね。気の強いところは、ウチの女たちの血筋なの」
水野久美には、姉と妹がひとりずつ居る。仲のいい三人姉妹であるらしく、洋服や靴やアクセサリーなども、しょっちゅう貸し借りしているようだ。
「ウチのお母さんもお姉ちゃんも、態度の悪いウエイトレスとか、電車のなかで絡んでくる酔っぱらいとかに、すっごい勢いで啖呵切ることがあるのよ。妹なんか、逃げだそうとした痴漢に足払いかけたことがあるし」
妹は中学三年生だが、小学校のころから近所の道場に通って柔道を習っているのだそうだ。だから水野久美も、護身術のイロハを妹から教わっているのだという。
「水野さんが来てくれなかったら、どうなってたか判らない」
真一は真顔になってそう言った。だが水野久美は、まだ厳しい話題に入りたくはないという様子で、わざとのようにニコニコ笑った。
「正義の味方、くれないのおクミ参上! って感じだった?」
真一は微笑して、首を振った。
「オレ、あのままだったらたぶん、あいつを殺してたと思う」
水野久美の顔から、笑みがすうっと消えた。
「嫌な話でごめんよ。だけど本当なんだ。カッとなって人を殺すっていうのがどういうことなのか、よく判ったよ」
「──彼女、今日は何を言ったの?」
水野久美の尋ね方が、いつもとは違って遠慮がちで、どこか怖がっているような感じだった。真一は、彼女が樋口めぐみの叫びをしっかりと耳に留めていたのだと悟った。あんたがそそのかしたんだ──という、あの告発を。
「あ、ごめん。言いたくないことなら、言わないで」
「いや、いいんだ。そのうち話さなくちゃと思ってたから。ただ、勇気が出なくて」
水野久美は、真一がなぜ樋口めぐみに追いかけ回されているのか、その一連の事情については、既によく知っている。しかし──
「水野さん、今までオレを見ていて、樋口めぐみがあんなふうなのは確かにひどいけど、それ以上に、彼女を怖がって逃げ回ってばかりいるオレの方もだらしないと思わなかった?」
真一は真面目に訊いたのだが、水野久美は、真面目な顔を保つのが難しいという表情で、ちょっと目をぱちぱちさせた。
「そんなことないわよ」
「そうかなぁ。オレは、自分で自分のこと、ナサケナイ奴だと思ってたよ」
「ま、ちょっぴりね。でも、先方の弁護士さんには抗議したんだし、行為禁止命令だってとろうと努力したじゃないの」
「そうだけど、オレ自身ががつんと一発反撃したことはなかった。今日のキミみたいに。あんなこと、オレはいっぺんだってやったことなかった」
このとき、なぜかしら水野久美の表情がふっと緩み、まるで恥じらうみたいに軽く目を伏せたことに、真一は気づいた。なぜだろうと思って、彼女の顔を見ているうちに、やっと気づいた。そうか、オレは今初めて、彼女のこと「水野さん」じゃなく「キミ」って呼んだんだ。
「キミみたいに闘ったこと、一度もなかった」確認するようにもう一度繰り返して、真一は続けた。「それはね、オレの方にも負い目があったからなんだ。その負い目っていうのが、あいつが言ってた、『そそのかしたのはあんただ』ってことなんだよ」
「──どういうこと? 塚田君が犯人たちに、塚田家に強盗に入るようにそそのかしたってこと?」
「結果的にはね」
樋口めぐみの父親である樋口|秀幸《ひでゆき》の目的は、あくまでも金だった。傾きかかった自分の会社を立て直すための金だったのだ。
だから当初、彼と彼の部下ふたりは、銀行の現金輸送車を襲うことを計画していたのだという。一般の民家など、押し入ってみたところで金があるかどうか判らないからだ──と、取調官に供述したそうだ。
しかし、現実問題としては、現金輸送車を襲うのは、そう簡単なことではない。捕まってしまっては元も子もないので、樋口たちも手をつかねていた。ところが、そんな折、樋口の部下のひとりが、住まいの近くのゲームセンターで、お気楽な高校生が友達とゲームに興じながら、父親が遠縁のおじさんの遺産を相続したので、棚ぼたで大金が転がり込んだという話をしているのを聞きつけてしまったのだ。
「そのお気楽な高校生が、ほかでもない、塚田真一だったってわけだよ」
水野久美はまじまじと真一を見つめた。
「オレなんだ。オレがおしゃべりしてたんだ。浮かれてさ」と、真一は首を振った。「遺産の話ってのはもちろん本当で、親父がね、もうずっと付き合いもなかった遠縁の人から、税金を除いて一千万円ぐらいの金をもらうことになったんだよ。親父にもオフクロにも、そういう話を他所《 よ そ 》でするんじゃないよって、注意されてた。だからもちろん、オレも気を付けてたんだ。だけどあのときは、小学校のころから仲の良かった友達とふたりきりで、しかもゲーセンは騒々しいから、誰の耳にも入りゃしないと油断してたんだ。親父はその一千万が入ったら、大型のキャンピング・カーを買いたいって言ってた。だからオレ、友達に、そしたらおまえも、夏休みとか一緒に旅行に行こうぜって、そういう話をしてたんだ」
水野久美は、逃げるように手元に目を落とした。彼女がこんな顔をするのを、以前にも見たことがある。ふたりが知り合ったあの日、大川公園でゴミ箱から転がり出た女の右腕を発見したあの日、事件の様子はおぞましいし、むごたらしいもののように思うけれど、でも発見者となったことについては、
──なんだかワクワクしない?
彼女はそう言って、しかし真一に無言のままじっと見据えられて、やっぱり今と同じように目をそらしたのだった。それは彼女が後ろめたいと思っているしるしであり、彼女が正直で善良であるということの単純な証拠だった。真一はあらためて、オレはもしかしたら自分で気づいている以上にこの娘《こ》が好きなのかもしれないと思った。
「だから樋口めぐみの理屈としては」と、真一は続けた。「金に困って追いつめられていた彼女の父親の耳に入る可能性のあるところでそんなバカな自慢話をした塚田真一こそが諸悪の根元なのであり、そうやって大金の話を聞きつけることさえなかったら、パパは強盗殺人なんかしなかったんだから、加害者というよりはむしろ被害者なんだという主張なわけさ」
ひとつ息をつき、しかしひるんでしまわないように、大急ぎで最後まで言い切った。
「そしてオレは、彼女の言うことはちょっぴり正しいって感じてる。ちょっぴりだけど、確かに正しいって。誰かに聞きつけられたらまずいことになるかもしれないから、だから親父もおふくろも、大金が転がり込んできたなんて話を、うかうかと外でしゃべるなって、オレに釘をさしたんだ。それなのにオレは、その忠告に従わなかった。その結果、あんなことになった。確かにオレには責任がある。だから、樋口めぐみに追いかけ回されると、逃げずにはいられないんだ」
水野久美は紅茶のカップを取り上げた。すっかり温《ぬる》くなってしまって、不味《 ま ず 》そうに見えた。彼女はその表面に神聖なご託宣が映っていると信じているみたいに、真剣な眼差しで赤い液体を見つめた。
どういう巡り合わせなのか、今、店内には彼女と真一しか居なかった。他の客はおろか、ウエイトレスさえ姿が見えない。カウンターの奥へ入ってしまっているようだ。BGMを流していない店だからとても静かだった。向きあって腰かけている水野久美は、呼吸の音さえたててないように感じられた。だから真一は、静寂のなかで、今にも自分の考えていることが聞こえてきそうな気がした。
卑怯者め、塚田真一よ、この卑怯者め。おまえはなぜ水野久美にこんなことをうち明けて聞かせるのだ。おまえの真意はどこにあるのだ。
おまえはただ、彼女に否定してもらいたいだけなのだ。求めているのは、あなたは悪くない、悪いのは殺人をした樋口秀幸たちだし、樋口めぐみの理屈は単なる言いがかりでしかないという、慰めと励ましだけなのだ。おまえは彼女を味方につけたいだけなのだ。可哀想がってもらいたいだけなのだ。おまえはもう、外の世界と、他の人間たちと、そういう形でしか確かなつながりを持つことができないのだ。判っているのだろう、塚田真一よ。おまえの手のなかにはもう、同情と励ましという周波数でしか外界とつながっていない無線機が残されているだけなのだ。
「あたし──」
水野久美が紅茶の表面を見つめたまま呟いた。真一はびくりと身構えた。
「何?」
彼女は顔をあげると、もうそこから読みとれるだけのものは読みとってしまったから充分だというように紅茶のカップをすとんと降ろし、真一の目を見た。
「あたし、今日は約束もないのに急に来ちゃったんだけど、よかった?」
ちょっと拍子抜けした。だからもう帰るというのだろうか。
「急に塚田君に会いたくなったのよ。会って話したくなって。『ドキュメント・ジャパン』を読んだから」
「そう……。うまく手に入ったんだね」
「お父さんが、会社で誰かが買ったのを借りて帰ってきたの。あたしが読みたがるだろうと思ったからって」
水野家では、娘が発見者となったこの事件に、ことのほか強い関心を寄せているらしかった。もうあんな事件のことを考えるなと叱って蓋をしてしまうのではなく、右腕の発見者となったという経験が、彼女の心のなかで然るべきところに落ち着いてしまうまで、じっと見守ろうとしているようだ。
「滋子さん、取材たいへんだろうね。大勢の人に会って話を聞いてるでしょう? 警察の情報だって、いろいろ書いてあるし。新聞記者みたいね」
水野久美は前畑夫妻の両方を知っているので、真一と同じように、前畑滋子のことを「滋子さん」と呼ぶ。真一は単に、昭二と滋子がごちゃごちゃにならないように呼び分けているだけだが、水野久美の場合は、自分の名前でちゃんと仕事をしている女性に対して、「前畑さんの奥さん」と呼ぶのは失礼だからだそうである。
「滋子さんは、もともとはああいう堅いルポを書いていたわけじゃないんだってさ。あれは初めての仕事なんだって。だから、いろいろ戸惑うことも多いみたいだけど、今度の件は大きなチャンスだから、すごく頑張ってる。睡眠時間もずいぶん削ってるんじゃないかな」
「あの連載、何回続くの?」
「原稿が続く限り」
滋子によると、『ドキュメント・ジャパン』の編集長は、あのふたりの犯人──栗橋《くりはし》浩美《ひろ み 》と高井《たか い 》和明《かずあき》については、十年かかっても細かいところまでとことん調べ上げて報道する覚悟だと言っているのだそうだ。
「じゃあ、今出ているのは、本当に最初の最初の部分なんだね」
「うん。滋子さんは、あいつらが死んじまう以前から、被害者たちのことについて書き始めてたんだけど、犯人があのふたりだってことがはっきり判った時点で、全体の構成を変えたんだってさ」
臨時増刊号の連載第一回を、滋子は赤井山中の通称「お化けビル」という廃墟を訪ねるところから書き起こしていた。もともとは大きな総合病院が出来るはずだった場所だが、資金不足などが原因で建築が止まり、土台と鉄骨の骨組みだけが雨ざらしになっている、地元ではいわゆる「心霊スポット」として有名なところだという。
グリーンロードで事故を起こしたとき、彼らは赤井山を下って東京方面へと向かう側の車線を走っていた。そして事故の一時間足らず前には、グリーンロードの東京方面側出口に近い場所にあるガソリンスタンドで給油をし、それから赤井山方面に向かって走り去ったことが確認されている。つまり、あの日あの時、彼らは一時間ぐらいのあいだにグリーンロードを往復して、復路で死亡事故を起こしたということになるわけだ。
しかも彼らはその時、車のトランクに死体を積んでいた。だから、グリーンロードを走って赤井山に向かったのは、その死体の遺棄場所を探していたからではないかと、みんながそう考えた。警察も考えたし、マスコミも考えた。現実には、死体は赤井山中に捨てられることなく、トランクに積まれたまま再び山を下ってきたわけだが、それはその「お化けビル」訪問が一種の下見であったからで、腹づもりとしては、そこに死体を捨てるつもりだったのではないか、と。
「トランクの死体──木村さんていう川崎のサラリーマンの人ね、あの人が殺されたのは、犯人たちがテレビの特番に電話かけてきたとき、出演してた女性評論家に、あんたたちは力の弱い女しか殺せないイクジナシだって言われて頭にきたからだって、あれホントなんだね。滋子さんのルポにも書いてあった」
「正確に言うと、本当に本当だったのかどうかは判らないよ。犯人たちが何を考えていたのかはね。もう死んじまってるから」
真一は慎重に言葉を選んだ。この件について彼自身が滋子に質問したとき、彼女がそうして答えてくれたから。
「ただ事実として、それまでは女しか狙わなかったあいつらが、女性評論家にからかわれたあと、男性を選んで殺したことは確かだから、そう推測しているだけなんだ」
木村《 き むら》庄司《しょうじ》という最後の犠牲者は、氷川高原の別荘地へ会社の車で出張しており、その帰路のどこかで不運にも犯人たちと遭遇してしまったらしい。警察では木村氏の足取りをトレースして調べているけれど、正確に彼がどこで消息を絶ったのか、まだ判明していない。彼の財布、携帯電話などの所持品も見つかっていない。捨てられたのか、それとも犯人たちがどこかに隠してしまったのか。
電話と言えば、犯人たちは木村氏を拉致した後、木村氏の夫人に電話をかけている。木村氏の遺体が発見された直後、夫人が警察に、そういう事実があったことをうち明けたのだ。犯人は木村夫人に親しく話しかけ、「ご主人のために千羽鶴を折れ」と言い置いて電話を切った。木村氏は手先が器用で折り紙が上手く、ふたりの馴れ初めには、折り鶴が関係していたのだと夫人は言う。そのことを知っていて、犯人は「千羽鶴を折れ」と言ったのだろう。
遺族に対するこの仕打ち、被害者から個人的情報を聞き出してそれを利用する手口は、日高《 ひ だか》千秋《 ち あき》の死体を母親に発見させた際のそれと共通している。木村氏の細かな所持品が奪い去られていることは、古川《ふるかわ》鞠子《まり こ 》の遺族のところに彼女の腕時計が届けられた時のことを思い出させる。死亡事故が起こらず、犯人たちが生き延びていたならば、木村夫人の元にも、亡き夫のネクタイやハンカチや腕時計が送りつけられることになっていたのではないか。
木村夫人の元にかかってきた電話の声も、他の犠牲者のそれと同じく、ボイスチェンジャーで変換されたものだった。彼女は、女性評論家が結果的に犯人を挑発するようなことをしてしまったHBSの特番を生放送の画面で観ていたが、そのことと仕事柄出張の多い夫の身の上とを結びつけて心配することはなかった。それは日本全国のサラリーマンがそうだったろうし、妻たちだってそうだったろう。誰も、よもや自分の頭の上に災厄が落ちかかってくるとは思わないし、また思いたくない。だから木村夫人は、ボイスチェンジャーの声で電話がかかってきたとき、電話機に付属している通話録音のボタンを押して、会話を録音するということを思いつかなかった。あまりにも不意打ちの思いがけないことだったから、今の声を録音しておけばよかったと思いついたのは、電話を切った後のことだった。従って、木村夫人が受けた電話の声と、HBSの特番にかかってきた電話の声の声紋を照合する作業は行うことができなかった。
栗橋浩美と高井和明。そろって二十歳代の若者。彼らがグリーンロードで死んだとき、日本列島全体が声をからして絶叫した。教えてくれ、こいつらが本当に犯人なのか、教えてくれ。
こういう事件には、スケールの大小はあれ、模倣犯が付き物だ。最初のうちは警察も断定を避け、慎重に構えていた。実際、死亡事故が起こったばかりのころ、一日二日のあいだは、木村庄司という「いい歳の男」の死体を積んでいたからと言って、そのことだけで、栗橋浩美と高井和明が即古川鞠子たちを殺した犯人であるとは限らないという意見は、あちこちでささやかれていた。人を殺すこと自体を愉しむような変質的な犯罪者は、めったなことでは被害者の選択に関する嗜好《 し こう》を変えないものなのだという。いくらテレビで挑発されたからと言って、それまでは女性を拉致して殺すことを面白がっていた彼らが、急に好みを変えることは難しいだろうというのである。だからあのふたりは、HBSの特番を観て、一連の連続女性誘拐殺人事件の尻馬に乗るチャンスが来たとばかりにバカなことをしでかした、ただのお調子者の殺人者である可能性もあると。
しかしその後、栗橋浩美の初台のマンションの部屋から、右腕を欠いた白骨化した女性の遺体が発見されたことが発表されるに及んで、模倣犯の可能性は根こそぎ吹き飛んだ。さらにその部屋からは、遺体ほど衝撃的ではないが、この部屋に住まっていた人間が確かにあの一連の事件に関わっていたことに間違いはないと思わせる、数々の物的証拠が出てきたのだ。その多くは写真である。
今や、栗橋浩美と高井和明というあのふたりの若者が犯人であることを、日本国民の誰も疑っていないと言っていいだろう。しかし彼らは死んだ。もう事件は起こらない。若い娘はもう暗闇にびくびくしなくていい。悪夢は去ったのだ。
そして前畑滋子のルポも、ふたりが犯人であるという「事実」の上に土台を築き、幕を開けている。だからこそ、冒頭に「お化けビル」が出てくるのだ。「女しか殺せないいくじなし」となじられて、その批判を逆手にとり、じゃあ「いい歳の男を殺してやろう」と計画した彼らのことだ。目的通りに「いい歳の男」である木村庄司の死体を遺棄するについては、せいぜい工夫をこらし、舞台効果を考えたろう。彼らが「お化けビル」に出かけて行ったのは、言ってみれば下見、ロケハンのつもりだったのではないか。そこが木村庄司の死体を世間に向かって掲げて見せるにふさわしい舞台であるかどうか、実況検分に出かけたのではないか。
前畑滋子は、「お化けビル」の廃墟に立って書き起こす。ルポの冒頭はこうだ。
そこは見捨てられた場所ではなかった。最初から用意された場所なのだ。
あるひとつの舞台劇のために、ひとつのセットが組まれた。それは完璧な廃墟のセットだ。素晴らしい出来だ。後は脚本があがってきて、ここで俳優たちが文字で書かれた筋書きに命を吹き込むのを待つばかりだ。
そして脚本は完成し、ここで芝居が演じられる。陰鬱で気が滅入るような芝居だが、しかし素晴らしい出来だ。嫌というほどの真実が盛り込まれた芝居だ。
しかし、芝居はいつかは終わる。終われば、完璧な廃墟のセットも用無しだ。しかし、あまりにも美しい廃墟だから、取り壊すのは惜しい。誰かこのセットにふさわしい脚本を書くものはいないか。誰かこのセットを使い、もう一度このセットを活かしてはくれないものか。
廃墟は待ち続ける。ふさわしい筋書きが現れるのを。だからけっして見捨てられたわけではないのだ、廃墟は辛抱強く時を待つ。
そしてとうとう、最初の脚本と同じくらいに素晴らしい脚本の書き手がやってくる。今再び彼らが、この廃墟に命を与えてくれるだろう。
この廃墟は脚本のためにつくられた。最初の脚本は強欲と幻滅の物語であり、後の脚本は支配と絶望の物語である。前者はバブル時代にこの場所に建てられようとしていた施設とそれをめぐる金の物語であり、後者はこの場所で社会に向かってひとつの死体を掲げ、もはや現代に殺人のタブーは存在しないことを納得させようとしたふたりの若者の物語である。
前畑滋子は「お化けビル」を歩く。雨ざらしになって変色した鉄骨を見あげ、ゴミに汚れた敷地を歩き、しみだらけのコンクリートの土台に腰かける。そしてあの十一月五日の午後、茜色の夕日の下で、ここが木村庄司の死体を「公開」するにふさわしい場であるかどうか、厳しい舞台芸術家の目で検分するふたりの若者の姿を想像し、筆を進めてゆく。ふたりは小一時間後には死にゆく運命にあるが、むろん、自身はそれを知る由もない。
「悲しいって感じた」と、水野久美はぽつりと言った。「もの悲しいっていうより、もっともっと悲痛な感じがしたのよ」
前畑滋子のルポを読んで、むろん、真一もそれを感じた。連載第一回の全編を通して滋子は嘆いていた。なぜならこれは支配と絶望の物語なのだから。
「俺も、悲しみは感じたよ」
水野久美はまた真一から視線をそらし、窓の外を見た。「どういう悲しみ?」
「どういうって……」
「滋子さんは、何に対して悲しんでるって感じた?」
「ああ、そういう意味か」真一は力を抜いて椅子の背にもたれた。「もちろん、犠牲者に対してだよ」
一拍おいて、水野久美は反問した。「そうかな?」
「そうさ」反射的に言い返し、真一は水野久美がひどく堅い表情をしていることに気がついた。ちょっぴり怒っているような。
「あたしにはね、滋子さんは、ああいう事件が起こってしまったことそのものを悲しんでるって感じがした。ああいう事件を起こしてしまう人間そのものが悲しいって嘆いてるって感じがした」
「それは……」
真一は言葉に詰まった。そりゃそうだよ、だってそんなの当然じゃないかと言いかけたのだが、そんなふうに続けて述べると、彼女と対立しているような感じになってしまいそうだったからだ。
「そうだよね。人間には、ああいうことをしてしまう部分があるんだよ」水野久美はきびきびと言った。
「それはすっごく悲しいことだけど、事実なんだからしょうがないよね。ああいう犯罪は今度が初めてじゃない。今までだっていっぱいあったじゃない。戦争とかだって、人間が邪悪だから起こるんだ。だから人間がああいうことをやってしまうことそのものを悲しいって感じるのは本当に当たり前のことなんだ。だけど……」
言葉を切って、水野久美はくちびるを噛んだ。さっき真一が言葉に詰まったように、彼女も、今この先を続けると、真一と喧嘩になるか、真一を傷つけるかしてしまいそうで、だから迷っているのだというふうに見えた。
「だけど?」と、真一はやわらかく訊いた。問いつめるのではなく、促すように。
水野久美は深々とため息をついた。それからやっとまた真一の方に向き直って、ほんの少しだが笑みを見せた。
「これはやっぱり、あたしが女だから感じることなんだろうと思う。だから、怒らないで聞いてね」
「うん」
「あたしね、滋子さんにはもっともっと悲しんでほしかった。人間に対してじゃなくて、殺された人たちに対して。犯人たちに対して、怒ってもらいたかった。最初っから事件を遠くに見て、またひとつ人間の罪が重なったっていう書き方じゃなくて、髪振り乱してゲンコツ振りあげて、唾をとばして怒鳴ってわめいてほしかったんだ」
真一は目を見開いた。そんなふうには考えたことがなかったからだ。確かに滋子の文章は抑制がきいており、冷静とさえいえる筆致だったが、しかし犠牲者を悼《いた》む気持ちは充分に伝わってきた。
「ああいう事件を調べてルポを書くのに、そんな感情的な書き方したら、ダメなんだよね?」水野久美は、自分で自分を宥めようとするように、ちらりとベロを出して笑いながら言った。「ううん、そもそもそんな感情丸出しのヒトは、ジャーナリスト向きじゃないもんね。あたし、このことでお父さんやお母さんとも話したんだけど──あたしよりずっとたくさん本を読むヒトだから──ふたりとも言ってた。感情的なルポルタージュっていうのは、どうしてもキワモノに見えちゃうし、ホントにキワモノであることも多いんだって。ふたりして、滋子さんの文章はいいってほめてたよ。連載の続きが楽しみだって」
だけどキミは納得していないんだね……という言葉を、真一は無言のうちに心のなかで噛みしめた。
やっぱりあたしが女だから感じることだと、彼女は今そう言った。水野久美は、日高千秋や古川鞠子のことを、真一が感じるよりも、ずっと身近に感じるのだ。だからこそ、彼女たちの身の上に降りかかった災厄に対して、腹が立ってたまらないのだ。犯人が憎くてたまらないのだ。だからこそ、前畑滋子が同じ女性という性に居る存在でありながら、激情を抑えて事件を俯瞰《 ふ かん》していることに、ある種の素っ気なさのようなものを感じてしまったのだ。
「それでね、あたし考えたの」
水野久美の話にはまだ先があったのだ。一段落したと思って自分の考えのなかにひたっていた真一は、はっと目を見開いた。
「何を考えたの?」
「犯罪ってものがみんなこういうふうに文章にされる──起こってしまった後でね、分析されるっていうか、解明されるっていうか」
「因数分解される」
「うん。そうだとするとね」
久美はまた黙る。真一は彼女の産毛の浮いた頬を見つめて、ようやく彼女が本当は何を言いたかったのかが判ってきた。そもそも俺たちは何の話をしていたんだっけ? 樋口めぐみのことだったんじゃないか。
思い決めたように素早くまばたきをすると、彼女は続けた。「誰かが──塚田君の家の事件を因数分解するとするじゃない?」
「うん」
「そうすると、やっぱりああいう書き方になるんだよね? 犯人を責めたり怒ったり、亡くなった塚田君の家族のためにおいおい泣いたりするんじゃなくて、結論は最初から決まってて、ああ人間はなんて愚かで悲しいんだってことになるんだよね?」
「……」
「それで、そういう因数分解のなかでは、樋口めぐみも悲しい被害者になるんだよね? 特に彼女は、自分が悪いことしたわけじゃないもの。父親が罪を犯して、それで家族が壊れて、確かに彼女、人生が狂って気の毒な面はいっぱいあるよ。だけどそれでも、今の彼女が塚田君に対してやってることは、あたしには邪悪そのものに見える。でも、それでもやっぱり、因数分解のなかでは彼女も悲しい因子になるんでしょう?」
水野久美はこれを言いたかったのだ。だから突然真一に会いにきたのだし、さっきも唐突に滋子と『ドキュメント・ジャパン』の方へと話題を変えたのだった。
「あたしが言いたいのはね、そういうことが正しい分析なんだとしたら、そこではどんな屁理屈だって通るってことよ。悪いことはみんな消えちゃって、可哀想な人ばっかりが残るじゃない。残るのは被害者ばっかりで、邪悪なものはみんな指のあいだからすり抜けちゃうじゃない。だけど、それはやっぱりおかしいよ。変だよ。だから塚田君だって、樋口めぐみの言いがかりに負けちゃいけないよ。彼女の言い分は彼女だけのもので、それを塚田君が背負ってあげることないじゃない」
──そうだよ、オレが背負っているのは、めぐみの言い分じゃない、自分の後悔を背負ってるんだ。
「あたし、塚田君は滋子さんのルポを読んで、きっと怒ってるだろうと思った。どうしてもっと被害者のために声を大にして叫んでくれないんだろうかって。だって塚田君、すぐそばにいるんだもん」
だが真一は怒らなかった。
俺はなぜ怒らなかったのだろう。水野久美のように。女性じゃないからか。やっぱり男だからか。「性」の立場では、大半の被害者たちよりは犯人たちの方に感情移入がしやすいからか。
そうではない。けっしてそうではなかった。怒るよりも、人間の愚かさを嘆くよりも、ほかの何よりも、真一が強く悲しみを感じたのは、殺された古川鞠子や、日高千秋の家族が、今どれほど強く自らを責め、罪悪感に苦しみ、巻き戻せない時に苛《さいな》まれているか、それを思ったからだった。
真一は、家族を失った事件の原因をつくった。誰がどう慰めてくれても、真一の迂闊《 う かつ》なおしゃべりが、モノ狂いのように金を必要としていた樋口秀幸たちの耳に入らなければ、父も母も妹も、今でも元気にしていたことだろう。だから自分を責めている。責められるだけ責めている。受けて当然の罰を受けているのだ。
だが、真一は思う。鞠子の祖父や母親、日高千秋の両親はどうだろう? 彼らに、真一と同じような落ち度があったとは思えない。鞠子の祖父が、千秋の母親が、不用意なときに不用意なことを言ったから、残虐な犯人を招き寄せたわけではないのだから。
それでも、彼らは今きっと、自分を責めていることだろう。ああすればよかった、こうすればよかったと。取り返しのつかない時間に向かって、百の、千の、あったはずの物語、救えたはずのタイミングを想像していることだろう。
それを思うだけで、真一はたまらなくなる。
本当に軽率な間違いをおかし、本当に責任の一端を負わねばならないこの自分と、鞠子や千秋の遺族を一緒にすることはできない。でも、味わう地獄は一緒だ。滋子のルポを読んだときだけではなく、事件のことを考えるときにはいつも、真一が感じるのはただそれだけだ。この瞬間にも、このひとときにも、あの頑固そうな豆腐屋のおじさんは、葬儀で泣き濡れていた小柄なお母さんは、自分がああしなかったら鞠子は生きていたろうにと、自分がこうしていたら千秋は殺されずに済んだろうにと、自分で自分を責め苛んでいることだろう、と。
どんな調査も、どんな報道も、どんな分析も、そこまでは届かない。
近寄って、手をとって、言ってあげたい。あなた方が悪かったわけじゃない。本当に自分の迂闊さが原因で家族を凶悪犯罪に巻き込んだ、この僕が言うんです。あなた方は僕より悪くない。あなた方には罪はない。あなた方が自分を責めることはないんです。ほかの誰にも断言はできないことだけど、僕ならきっぱりとそう言い切れる。
滋子のルポは、仕事としてはきっと意味のあることなのだ。だが真一は、その意味など最初から届かないところにいる。滋子に怒ってもらおうと、泣き叫んでもらおうと、他人事じゃないかという意味では一緒だ。水野久美には、それがわからないのだ。怒って泣き叫んでほしいと言うのは、それがわかっていないからなのだ。
どうしてこんなことが起こるのか、二度とこんなことが起こらないようにするにはどうしたらいいか、みんなで考える。
慄然《りつぜん》として、真一は悟った。その「みんな」に、久美は入っているのだろう。だが、真一や鞠子や千秋の遺族は入っていない。
それに気づくと、ほんの今し方、久美が与えてくれた手のぬくもりが、なおさらに寂しかった。二人のあいだに横たわる溝の深さに、彼女は気づいていない。だから簡単にまたぎ越えて、真一の手を引っ張っている。でも、繋いだ手と手のあいだの深淵を見おろした真一は、もうそこから動けなくなってしまった。
「塚田君──」
呼びかけられて目をあげると、水野久美が彼を見つめていた。病人をいたわるような目をしていた。
「それは間違いよ」と、彼女は言った。
「え?」
「今、塚田君が考えてること、間違いよ」
「俺が何を考えてるかわかるの?」
わざと喧嘩腰の言い方をした。
「わかるよ」ひるまずに、水野久美はうなずいた。「わかる。だってずっと話し合ってきたんじゃないの」
「話し合う?」険のある言い方をした。今度は、さっきのほど「わざと」しているという感じがしなかった。「話し合うって、俺たちが?」
水野久美はまばたきをした。彼女という画像が乱れたみたいに。
「俺たちには、話し合うことなんてないよ。キミはキミだし、オレはオレだ。樋口めぐみにどう対処するかだって、オレの問題であってキミは関係ない。なんでキミと話し合わなきゃなんないの? だいいち、オレの抱えてる問題、キミには理解できないじゃないか。キミはオレみたいな立場に追い込まれたことないんだからさ。そうだろ?」
その修辞的な問いかけに、意外なくらい素早く、水野久美は「そうだね」と言った。
それから小さく、「ごめんね」と言った。
真一は聞こえないふりをした。彼らの周囲に満ちていた沈黙が、仲裁を買って出るような感じで、すっぽりとふたりを包み込んだ。
やがて、「出ようか」と真一は言った。
「うん」と、水野久美は言った。そのまま、彼女を最寄りのバス停まで送り届けるあいだ、どちらも口をきかなかった。
ひとりでバスに乗り込み、少なくともひと停留所分は塚田真一から離れるまで、水野久美は泣かずに頑張っていた。あまりに必死で頑張っていたので、神経が張りつめ過ぎてしまい、もう泣いてもわめいても大丈夫という距離が開いても涙が出てこなかった。
昨夜、夕食の後で姉と話したことが思い出された。水野久美はきわめて仲のいい家族のなかで育ったので、少女から娘になる分岐点の年頃になっても、たいていのことは家族と話し合った。けれど、こと恋愛問題になると、うち明けられる相手は、十九歳の姉ひとりだけだった。
久美が塚田真一という少年と「付き合い」始めたばかりのころから、姉はふたりの先行きを心配していた。きっとそのうち喧嘩をする、しかも相当深刻な喧嘩で、お互いに傷つけあって、憎みあって別れることになるだろう、と。 ──可哀想に、会うのが早すぎたのよ。
と、姉は言った。
──あんたのカレが、自分と自分の家族の上に起こったことをそれなりに消化して、ある程度その傷を癒してからだったなら、あんたたちうまくいったと思う。だけど今はダメよ。何をやってもダメ。
──あたしじゃダメなの?
──あんただけじゃない。誰でもダメ。普通の女の子じゃダメよ。うんと大人の、母親みたいな人じゃなきゃ受け止めてあげられないよ。あるいは、まるっきり頭カラッポで、二十四時間自分のことしか考えてないような女の子なら、なんとかなるかもしれないけどね。あんたはそのどっちにもなれない。母親になるには若すぎて経験がなさ過ぎるし、あんたはあたしたち三人姉妹のなかじゃいちばん賢いし。
悪いこと言わないから、早いうちにカレから離れなさい。そう忠告されて、水野久美はぷんぷん怒った。姉は苦笑いをして、好きになっちゃったらしょうがないんだよねと言って布団をかぶってしまった──
お姉ちゃんは聞違ってなかった。乾いた目と砕けた心で、水野久美はぼんやりと考えた。
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武上《たけがみ》悦郎《えつろう》は、三階の小会議室を出ると、短い廊下を通り抜け、足早に階段を降りた。小脇に抱えた丸筒のなかには、九月十二日の大川公園事件発生以来八十日のあいだに描き重ねた地図の写しが納められている。
師走に入って、連続誘拐殺人事件の特別合同捜査本部は、墨東警察署二階の訓辞場から、二階の北端にある会議室へ移されていた。武上たちデスク担当は、三階の元は資料室だったという小会議室へ机を移して、そこで仕事を続けている。些細な用事でも、一日のうちに数え切れないほど二階と三階を往復しなくてはならない。
特別合同捜査本部が、十一月五日夕刻に群馬県赤井山中で交通事故により死亡した二人組の若者こそが探し求めていた犯人たちであると公式に認める記者会見を開いたのは、十一月七日の早朝のことだった。この会見の模様は全国放送され、駅頭では号外も出た。しかし、会見の最初のほうでは、国民一般の反応は、さほど激しいものではなかった。というより、もう既にこの二人組の若者に関しての感情の爆発や情報の流通量は臨界点にまで達していたので、それ以上高ぶりようがなかったということだろう。やれやれやっと認めたか、とっくに判っていたよ、お上のやることは、こんな場合でさえ時間がかかるものだ──というところだったのだろう。
人びとは既に、充分な衝撃を受けているつもりだったのだ。十一月五日の夜、のんびりと眺めていたテレビの画面に、トランクに死体を積み込んだ若者二人組の車が転落事故を起こし、二人は死亡したというテロップが流れた時に。そのうちの一人の住まいから、一連の女性誘拐殺人事件の被害者のものと思われる写真やビデオが発見されたという続報が、放送中のドラマを中断して始まった報道特別番組のキャスターの口から語られた時に。嵐のような報道合戦はその瞬間に火蓋を切り、死亡した二人組は、そこでは完全に確定した真犯人として扱われた。
それだから、五日深夜から七日早朝の記者会見までのあいだ、特捜本部には、警察はなぜもっと迅速に公式発表をしないのだという抗議の電話がひっきりなしにかかってきた。なぜマスコミの先行報道を許すのだという怒りである。むろん、本部の側も黙りこくっていたわけではなく、転落事故に関する情報や、車のトランクに詰め込まれていた遺体の身元についてなど、判明した事実があれば小刻みに発表していたのだが、やはりそれではなかなか社会の納得を得ることが難しかったのだろう。
公式発表まで、なか一日の猶予期間があったのは、けっして特捜本部の側に躊躇があったからではない。状況から推して、赤井山中で死んだ二人組が連続誘拐殺人犯であることに、ほぼ間違いはないと思われた。発表が遅れたのは、二人組の一人、栗橋浩美が住んでいた初台のマンションの一室から発見された物証の山をひと通り確認するために、最低でも四十時間が必要だったからなのである。
武上が初めて栗橋浩美の部屋に足を運んだのは、公式記者会見が始まる二時間前、七日の夜明け前のことであった。鑑識捜査は終了し、写真撮影もすべて終わっていた。武上がそこへ赴いたのは、マンションのオーナーと施工会社から借り出した青図や間取り図と現況の室内を照合し、より正確な実況検分地図を作るためであった。
部屋は七階だった。エレベーターであがってゆくあいだ、赤井山中の事故の一報の後、篠崎《しのざき》がつっかえつっかえ「く、空気清浄機だったそうです」と言ったときのことを、武上は思い出していた。神崎《かんざき》警部が無言のまま武上に握手を求め、それから低くうなるような声で、「骨が出た」と言ったときのことを思い出していた。
栗橋浩美の部屋のなかはひどく乱雑で、ドアを開けると生ゴミの臭いがプンと鼻をついた。鑑識班はゴミ箱の中身まですっかり持ち帰っているはずだが、臭いはなかなか消えないのだ。あるいは、ここで発見された白骨死体の臭いも混じっているのかもしれない。
「ひょっとすると俺の背広が臭ってるのかもしれません」
同行した秋津が、武上の顔色を鋭く読んで、自身も顔をしかめながら言った。
「このマンションのゴミ捨て場のゴミも、全部署へ運び出しましたからね。それを手伝ったんで」
秋津が窓を開けようとしたので、武上はそれを止めた。臭いにはすぐ慣れる。まだ室内に残っている人間の体温を感じてみたかった。
ワンルームの部屋は十畳ほどの広さで、パイプベッドとテレビセット、オーディオ・コンポ、衣類収納箱などがごたごたと詰め込まれていた。散らかって足の踏み場もない。そのなかで一ヵ所だけ、ミカン箱ほどの大きさにフローリングの床が見えている場所があった。
秋津が指さした。「ここに紙袋がふたつ置いてありました。ひとつには女物の衣類が、もうひとつには白骨化した遺体が入っていたんです」
武上は周囲を見回し、篠崎の言っていた空気清浄機を探したが、それは既に持ち出されていた。作動音を音響研究所で鑑定にかけるのだ。現物を見た秋津の話では、かなり高性能の価格の高いものだという。これだけ乱雑な部屋に暮らしながら、高価な空気清浄機を置いていたというところに、武上は黒いユーモアを感じた。
長い警官人生のなかで、武上は多くの犯罪者の巣を目にしてきた。制服警官のころには自分の目で見る機会が多かったし、デスク専門になってからは写真で見た。
どんな巣にも共通するのは、とり散らかっているという印象と、寒いという体感だった。その犯罪者が引き起こした事件が深刻で凶悪であればあるほど、散らかり度合いがひどくなるように思われた。
凶悪事件を起こすほどに、金銭的に、あるいは感情的に追いつめられていた人間の住まいなのだから、清潔で居心地よくなっているわけがないというのは当然の理屈だ。しかし、武上が感じる「散らかっている」という印象は、いつでも、単に物質的なものばかりではなかった。
乱れた感情の残滓《ざん し 》が、風呂の残り湯のなかに浮いている微小なゴミのように、そこにもここにも漂っている。それらがべっとりと肌にからみついてくるような気がする。武上は迷信深い気質ではないし、霊魂の存在や幽霊の実在についても乾いた見解を持っているが、凶悪事件を起こした人物が事件の直前まで寝起きしていた場所には、ある種の悪い「モノ」が残ってしまうということだけは、経験則として信じていた。親しい不動産業者に言ったことがある──自殺者が出た部屋や、強盗や殺人の被害者が住んでいた部屋は、不幸な場所ではあるが危険ではない、本当に危ないのは、犯人が住んでいた部屋の方だと。
「写真やビデオはこのベッドの下にありました」
秋津が言って、しゃがみこんでベッドの下へ腕を差しのばした。
「プラスティックの衣装ケース……高さが二十センチぐらいのヤツでしたが、それがふたつ、ベッドの下の奥の方に押し込んで隠されていたんです。開けてみて仰天、というわけですよ。ビデオは本数が少なかったけれど、写真は山ほどありました」
「カメラは?」
「それが見あたらないんです。栗橋浩美の実家の方からも、今のところ出てきていません。どこか別の場所にあるのか、事故車の車内にあって、転落した拍子に外へ放り出されているのかもしれないですね。雑木林のなかだし、なにしろ急斜面だから、発見できなかったのかも」
「どっちにしろ、記者会見が始まる前に見つけることは難しいだろうな。さて、始めるか」
武上は青図と巻き尺を取り出した。秋津は腕まくりをした。まだ臭いに慣れないのか、口で息をしている。武上は、臭っているのは彼の背広ではないと思いながら、黙々と仕事にかかった。
小一時間作業をして、一服するために廊下へ出た。渋い顔でタバコのフィルターを噛みながら、秋津は腕時計を見た。
「ぼつぼつ始まるな」彼は言って、煙を吐いた。「我々の頭の上で爆弾が爆発しますよ」
腕まくりしたままの彼の二の腕に、うっすらと鳥肌がたっていることに、武上は気づいた。
こうして、秋津の言う「爆弾」は、記者会見が始まって十五分の後、十一月七日午前七時二十二分に爆発したのだった。
被害者たちを記録した写真などの物証が栗橋浩美の部屋から出てきたことは、公式発表の以前にもマスコミに情報が流れ、ニュースでも報道されていた。ただしその段階では、情報は巧妙に制限され、出てきたのはあくまで「判明している被害者の記録」であるというように、あいまいにぼかされていた。
しかし、実際は違っていたのだ。栗橋浩美が部屋に保管していた写真やビデオのなかには、古川鞠子でも日高千秋でもなく、もちろん木村庄司でもない、複数の女性たちが映されていた。そのうちの一人を、未だ身元不明の右手を切断された白骨死体の女性だと仮定しても、その他にあと七人の女性の映像を確認することができたのだ。
そして公式記者会見の大きな目的は、むしろこれについて公表するところにあったのだった。案の定、犯人ふたりについて既に取材戦争を始めていたマスコミも、事件解決のダメ押しを期待してテレビを見ていた一般の人びとも、足元をすくわれたような衝撃を受けてひっくり返った。
まだあと七人も殺されていたのか? 彼女たちの遺体はどこにあるのだ? 死んでいるとは限らないって? そんなバカな。それは希望的観測というものだ。
栗橋浩美と高井和明は、都合十人もの人間を手にかけたことになる。なぜそんなことをしたのだ? 遺体さえなく、殺害の事実さえ確認できない残りの七人のほかにも、まだ被害者はいるんじゃないのか? その七人が殺されたのは、古川鞠子や日高千秋よりも先なのか後なのか?
だいいち、栗橋浩美と高井和明は、なんだってそんな記録をとっておいたんだ?
この疑問に対して、ある感傷的な文章家は、八日付のある夕刊の紙面でこう綴っていた──他者を滅ぼす精神は、心の深いところで、自己を滅ぼしたいという要求をはらんでいる。栗橋浩美と高井和明は、彼ら自身が死ぬことを無意識のうちに望み、それを予見していた。彼らを突き動かしていたのは、自他共に破壊することを望む人間の本能に近い衝動だった。だからこそ、彼らが死んだあと、彼らに代わって証拠が語るべきことを語れるように、すべてを残していったのだ、と。
文学的かもしれないが、勝手なことを書きやがると、武上は鼻で笑った。彼らが写真やビデオを自室に保管しておいたのは、単にそれが楽しかったからだ。被害者たちの生前の最後の姿を映したものを見れば、彼らが彼女らに与えた苦痛や、彼女らの命乞いの懇願や、彼女らの生殺与奪を握っているという圧倒的な支配力の喜びを、いつでも手軽に再生して味わい直すことができる。それが面白かったから、そして、自分たちは未来永劫捕まることなどありっこないとタカをくくっていたから、写真をはじめとする物証を手元に残すことに、何のためらいも不安も覚えなかったというだけのことだ。
彼らが二人組であったことも、互いの嗜好や感情をエスカレートさせる要因であったろう。人間はひとりでは弱い。犯罪の場にあってさえ、ひとりではひ弱なのだ。しかし仲間がいれば、感情は共鳴し思考はクロスチェックを受けてより強固なものへと固まってゆく。栗橋浩美と高井和明は、互いに互いを共振させあい、二人ながらに狂っていったのだ。
そこには感傷など入る余地はない。文学的な要素も皆無だ。自他共に破壊する本能だと? 武上にいわせれば、そんなものはクソくらえだ。
ケダモノに人間の理屈をあてはめることに慣れすぎると、猿の毛づくろいにさえ深遠な哲学が宿ってしまう。犯罪から遠く離れて傍観しているだけならばそれも結構だが、それは現場の警察官たちの体感や実感とはおよそかけ離れたものだ──
手狭になった二階の特捜本部のドアを開けながら、武上はふと、今朝がた篠崎が眠い目をこすりながらぱらぱらとめくっていた雑誌のことを思い出した。『ドキュメント・ジャパン』という堅い報道雑誌の増刊号に、この事件の詳細についてルポした連載が始まったのだそうだ。そういえば秋津が取材のアプローチを受け、断ったという話もあった。
聞けばずいぶんと売れているそうだが、何が書かれているのだろう。やはり「文学」だろうか。かすかに苛立ちを感じる一方で、武上は冷静な見方をしていた。そういうルポが出てくるということは、社会的にはこの事件がすでに盛りを過ぎたということだ。夕刊紙やテレビは誰でも見るが、雑誌を買い、連載を追いかけてまで真相を知りたいと願う人びとが、そう大勢いるとは思えない。いや、今は大勢いても、長続きするとは思えない。
しかし、社会はそうでも、武上たちはまだまだこの事件にどっぷり首まではまっていた。まるで地獄の血の池に落とされた亡者のように、時には池の底に潜って、そこから真実と、女性たちの身元と、彼女たちの安否を探り出してこなくてはならない。
特捜本部の縮小で、実質人員は半数になっている。それでも、訓辞場の三分の一ほどの広さしかない会議室内はこったがえしていた。電話もそこここで鳴っている。武上は椅子をふたつ避けて、三つ目は避けきれずに爪先を引っかけ、座って電話中だった若い刑事に目顔で謝ってから、目的の机へと向かった。
鳥居も電話中だった。室内が騒々しいので、受話器をあてていない方の耳に指をつっこんでいる。彼の机の脇に椅子をふたつ並べて、歳のころは五十歳ぐらいの夫婦連れらしい男女が、互いにしっかりと手を握りあいながら、電話する鳥居の横顔を見つめている。武上は胸が痛んだ。何年刑事をやっていても、こういう光景には慣れることができない。
規模こそ縮小されたものの、捜査本部が依然として活発な活動状態にあるのは、むろん、写真に写っている女性たちのためだった。彼女たち全員を見つけること──それが今の最大の目的だ。掃いて捨てるほどの物証を残してすでに死んでしまった犯人たちの行動の裏付け捜査を綿密に進めているのも、彼らの行動範囲のなかに、未発見の遺体が隠されている可能性が高いからだった。
それだけに、十二月一日付で特別合同捜査本部を縮小するという発表をしたときには、一時マスコミでさんざん叩かれた。抗議の電話や手紙もまたぞろ殺到した。事件はまだ終わっていないのに、捜査の手を緩めるつもりかという突き上げをくったのである。まあ、ああいう発表の仕方をすればそういう印象を与えてしまったとしても言い訳はできないだろうと、武上は思う。警察というところは、自己表現がよくよく下手なのだ。
しかし、実態はそんな悠長なものではない。確かに、警視庁もこの事件ばかりに大量の人員を割き続けることができないというのは本音ではある。だがそれ以上に、七人の女性たちの身元を洗い出すためには、警視庁の力だけでは足りないという事実もあった。
記者会見の後、特捜本部が彼女たちに関する情報を公開した直後に、一人の身元が割れた。その二日後に、もう一人の身元も判明した。ひとりは前橋市、ひとりは田無市の女性である。栗橋・高井の殺人者コンビが機動力を駆使していたことは百も承知だったが、こうなると残る五人もどこの出身者であるか、どこで失踪しているのか予測がつかない。だとすれば、いたずらに墨東警察署の特捜本部に人員をためこんでおくよりも、首都圏で進めなければならない作業に必要なだけの人員を残してあとは身軽になり、関東全域の県警と連絡を取り合いながら捜査を進めた方が効率がいいというものだ。特捜本部縮小には、そういう意味があったのである。
最初に身元の判明した写真の女性は、群馬県前橋市の伊藤《 い とう》敦子《あつ こ 》という三十歳のOLである。失踪したのは一九九四年三月の十五日ごろで、古川鞠子の失踪よりも二年以上も前のことだ。
伊藤敦子は前橋市の出身で、東京の短大を卒業したのち、地元の電子機器販売会社に就職している。営業補佐の仕事だったが、真面目な働き者で、社内での評判は上々だった。両親とふたつ年下の弟と共に市内の家に住み、大の犬好きで、毎朝出勤前に飼っている二匹の柴犬を散歩させるのが日課だったという。
問題の一九九四年三月十五日、この日は平日なのだが、敦子は有給休暇をとって休んでいた。一年ほど前から彼女は会社の近くの絵画教室に通い始めており、熱心に打ち込んでいた。とりわけ風景画を描くのが好きで、週末には頻繁にスケッチのための小旅行に出ていたという。誰かを同行するということはなく、彼女自身の持ち物であるミニ・ヴァンに画材とイーゼルを積んで、ひとりで出かけるのだ。この十五日も、朝出がけに母親に、渋川の方までスケッチに行くと話している。いいロケーションの石切場の跡地があり、ぜひ描いてみたいのだと言っていたそうだ。母親は彼女にサンドイッチの弁当をこしらえて持たせ、帰りが何時頃になるか、出先から一度電話をするようにと言った。こうしたスケッチ旅行の場合、朝早く出立するので、伊藤敦子が出先で宿泊してくることはほとんどなかったという。渋川ならば、車という足さえあれば前橋から遠い場所ではなく、敦子も、夕飯までには戻れるだろうと言って出ていった。
その日の午後二時ごろ、自宅の母親の元に、石切場跡でスケッチをしているという敦子からの電話が入った。素晴らしい景観で、スケッチを楽しんでいる、ただ雲行きが怪しいので、雨にならないうちに帰る、ここにはまた出直してきたいと弾んだ声で語った。
──まるで、貸し切りみたいにわたし一人っきりなの。いつもはスケッチしていると近寄ってきてあれこれ言う人がいて鬱陶しいんだけど、今日は静かで嬉しいのよ。
敦子はそう言ったが、母親は、採掘をやめた寂しい石切場跡に、娘がたった一人でいることを思うと落ち着かない気分になった。今どこから電話しているのと尋ねると、石切場から二キロほど下ったところにあるコンビニエンス・ストアからかけていると答えた。彼女は携帯電話を持っていなかった。母親は、なるべく早く帰るようにと告げて、電話を切った。
それきり電話がかかることはなく、彼女は深夜になっても帰宅しなかった。母親は翌十六日早朝まで待って、前橋警察署に駆け込んだ。
当初、前橋署ではこれを失踪事件ではなく、事故ではないかと考えていた。石切場跡は安全な場所ではない。うっかり足元をあやまって転落し、発見する者もいないまま動けずにいるのかもしれない。母親の言葉を頼りに、渋川方面の石材会社をあたってゆくと、営業を休止している会社の石切場はすぐに発見することができた。上越線渋川駅から北に五キロほどのぼった山中である。途中、店舗の前にグリーンの公衆電話を据えたコンビニエンス・ストアもあり、そこの店員が、昨日の午後に若い女性が一人で飲み物を買いにきたことを覚えていた。彼女は電話をかけるので小銭を両替してほしいと言い、会計を済ませると前の公衆電話でしばらくのあいだ楽しそうに話していたという。
しかし、問題の石切場跡に駆けつけても、伊藤敦子の姿はなかった。彼女のミニ・ヴァンも敷地内には見あたらなかった。それでも万が一を頼み、目につきにくい場所に落下していて本人が捜索隊の呼ぶ声に応答できない場合も考えて、石材会社の社員を案内役に立て、警察犬を投入し、陽が落ちてからは投光器を運び込んで深夜まで捜索を続けたが、敦子の髪の毛一本発見することができなかったのだった。
翌日には、捜索の範囲をひとまわり広げた。今度は敦子本人ではなく、敦子のミニ・ヴァンを見つけることが目的だった。彼女がどこに車を停めたにせよ、車がそこにそのまま残っていれば、敦子の身に何か変事が起こった可能性は非常に高くなる。一方、車が無くなっていれば、その可能性はかなり低下する。もちろん、車ごと拉致されるケースも考えられるから、これはあくまでも相対的なものであるが。
敦子の車は発見されなかった。しかし、目撃情報が出てきた。十五日の午後四時半ごろ、渋川駅近くの時間|極《ぎめ》駐車場で、年格好・服装が敦子によく似た女性が停めた車から降り、駅前の売店に向かって歩いていくのを見たと、駐車場の隣のガソリンスタンドの店員が証言したのである。車がミニ・ヴァンだったかどうかはっきり覚えていなかったが、彼女が一人だったことは確かだと言った。伊藤敦子は身なりは派手ではなかったが、三十歳という年齢よりはかなり若く見え、長身の美人だった。この店員は男性で、彼女の美貌に惹かれたので、カップルかどうかちょっと気になったのだという。しかし彼は、敦子がいつ売店を出て車を発車させ駐車場を離れたのかは知らないと言った。美人を見かけ、口笛のひとつも吹いただけで気が済んでしまったからだという。しかしこれで、敦子が石切場で事故に遭ったのではないことだけははっきりしたわけだった。謎は渋川の駐車場を離れた後に彼女がどこに向かい、どこで消息を絶ったのかということにしぼられてきた。
ところが、週明けの聞き込みで、意外な事実が発覚した。敦子とずっと親しくしてきたという同僚の女性が、彼女がかつて数年にわたって直属の上司と不倫関係にあり、そのことで悩んでいたという事実をうち明けたのである。問題の上司は現在は他の支店で勤務しており、ふたりの関係も一年ほど前に一旦は清算がついていた。しかし、同僚の女性の話では、敦子は最近、その上司から再三にわたってよりを戻すように働きかけられ、ひどく困っていたという。
「彼女が絵を習い始めたのが、ちょうどふたりが別れたころだったんですけど、最初は気晴らしに始めたことがどんどん面白くなって、言ってたんです──こうして絵を描いていると、なんだか悪い夢から覚めたみたいな気がする、もうあんな間違いはしないって。敦子、すっかり立ち直っていたんですよ」
伊藤敦子の両親も弟も、娘と上司の不倫関係については寝耳に水だった。驚いた母親が敦子の身の回りのものを調べてみると、交際の経過について詳細に記した日記が出てきた。それによると、ふたりの交際は上司の側の働きかけで始まったもので、終始彼が主導権を握っていたと思われる。またこの上司は、結婚を餌に、何かと名目をつけては敦子から頻繁に金を引き出していた。彼女が彼と手を切る決心をつけたのも、不倫関係の苦しさに耐えかねたというよりも、金銭目当ての身勝手な男の甘言に騙されていたことに気づいたからのようである。
一躍、敦子の元上司は前橋警察署の刑事たちの注目を集めることになった。身辺を探ってみると、冷蔵庫の裏側から綿埃を掻き出すように易々と、芳しくない噂を集めることができた。借金も多く、生活は派手で、女出入りが激しいために夫人とは諍《いさか》いが絶えず、彼女はふたりの子供を連れて何度か家を飛び出している。それらの黒い情報を仕入れた時点で、刑事たちはこれを失踪事件ではなく、潜在的な殺人事件としてとらえるようになった。伊藤敦子の両親も、娘は復縁を迫る男の魔手にかかって命を落とし、遺体はどこかにうち捨てられているのではないかと、半ば覚悟を決めざるを得なくなった。
しかし、証拠はない。問題の上司も、十五日は一日会社で勤務をしており、敦子が失踪したと思われる時間帯にはアリバイがある。会社が退《ひ》けて以降はそのアリバイも断片的なものになるが、それだけでは彼を責めて自供に追い込むほどの力はない。伊藤敦子の失踪は宙ぶらりんになり、時間だけが経過した。
それだけに、栗橋・高井の手に掛かった可能性のある七人の女性のプロフィールのなかに、伊藤敦子に該当するものがあるのを見つけたときの両親の驚きは大きかった。
特捜本部は彼女たちのプロフィールを公開するに対して、大変なジレンマに直面した。栗橋浩美の部屋にあった写真はどれも非常に鮮明で、被写体の女性たちの顔もはっきりと確認できるものばかりだったが、それをそのまま公開することは不可能だった。彼女たちは一様に縛られ、手錠をかけられ、鎖につながれ、着衣をはがれ、時には顔や身体に歴然とした暴力の痕を残していた。武上はこれらの写真を資料として整理しながら、彼女たちが縛られていなくても、殴られていなくても、半裸でなくても、彼女たちのこの顔に浮かんだ表情だけで、充分に一般公開をはばかるものだと感じた。
そこには絶望よりも悪いものがあった。そこが栗橋・高井の、過去の何よりも悪魔的な部分だった。
写真の彼女たちは、耐えきれずに悲鳴をあげていると思われる場合以外は、笑っているのだった。微笑している場合もあり、歯が見えている場合もあった。むろん、心から笑っているわけはない。笑えと命令されたから笑っているのだ。笑顔をつくれと強要されたから、笑顔をつくっているのだ。多くの場合、彼女たちは無惨に口の端をひん曲げて笑っていた。口元は笑っていても、目は死んだように表情が無く、頬が涙で光っている写真もあった。
殴られて青|痣《あざ》ができた目を見開き、今にも叫びだしそうなのをこらえて、恋人と共に肩を並べてスナップ写真におさまるときのようなおとなしやかな笑いを浮かべざるを得ないのは、そうしておけば命だけは助けてもらえるかもしれないと、彼女たちが信じ込まされていたからだ。犯人たちの言うとおりにしておけば、もしかしたら助かるかもしれない。彼女たちがそういう希望の切れっ端にしがみつかざるを得ないように、栗橋と高井は誘導していったのだ。
被害者を手中におさめ、正体をむき出しにした後でも、彼らが被害者の口から個人的情報を聞き出すことができたのも、同じ理由によるはずだ。この人たちはわたしにわたしのことを話せという、わたしのことが知りたいという、ならば、話せばなんとかなるかもしれない、自分のことをしゃべり、自分が生きた人間で、その身を案じている家族や恋人が友人たちがおり、彼らには彼女をガラクタのように殺して捨てる権利はないのだということを思い出してもらえるならば、助かるかもしれない──そう思いこまされたからこそ、被害者たちはしゃべったのだ。
そんなまやかしの希望は、絶望よりも邪悪だ。絶望の効果をより大きくするためのスパイスに過ぎないのだから。
結局、特捜本部は妥協策を見いだした。写真を元に、詳細な似顔絵を作成し、それを公開することにしたのだ。その似顔絵と、推定身長・体重・身体的特徴を元に、ひょっとしたらそれは失踪中の自分の身内ではないかと名乗り出てきた肉親のうち、かなりの精神的打撃を受けることを覚悟して写真の顔を確認することを承諾した人びとにだけ、実物を見せることにした。
伊藤敦子の両親は、かなりの確信をもって写真を目にした。栗橋と高井の個人的記録にぶつかる前から、母親の方にはもう、あれは敦子だと判っていたようだった。
伊藤敦子の身元が確定した後、武上は、前橋警察署で敦子の件を担当した石田という刑事から当時の報告書の写しを送ってもらい、ファイリングする前に通読した。彼は当時の風紀課の所属で、書類も表向きは失踪事件として作成されていた。不倫相手の元上司については、報告書に別項を設けて言及するにとどめてあったのは、やはり決め手に欠けていたからだろう。
石田刑事とは電話で話もしたが、なんだかやる気がなさそうな印象を受けた。彼は伊藤敦子の件がこんな形で解決したことに驚いていたが、その話は早々に打ち切って、前橋警察署は、不当に個人のプライバシーを侵害したかどで、くだんの元上司から民事訴訟を起こされそうになっているのだと、くどくどと愚痴をこぼした。今にも、伊藤敦子が栗橋・高井に殺されていたおかげで自分たちはこんな側杖《そばづえ》を食う羽目になったのだ、どうせ死ぬのが一緒なら、くだんの元上司の手にかかってくれていた方がよかったというぐらいのことを言い出しそうな感じだった。
写真を見るために特捜本部へやってきたときの伊藤敦子の両親は、今、鳥居の机の脇で手を握りあっている中年男女のような、怯えた顔はしていなかった。娘が失踪している二年あまりのあいだに、怯えるためのエネルギーなど使い果たしてしまっていたのだろう。
失踪者の帰りを待つ側にも、絶望と希望は邪悪な二人三脚で訪れる。ある日は頭の上を絶望が覆い、ありとあらゆる忌まわしい映像を繰り広げたかと思うと、その翌日には希望が翼を広げて舞い降りてきて、娘が台所でコーヒーをわかしている幻影を見せるのだ。それはほとんど想像力の自家中毒と言っていい。
特捜本部内に設置された被害者対策班のこの椅子に座ることを、鳥居が自ら志願したとき、多くの者は意外な感じを受けた。武上も大いに驚いた。
だがしばらくすると、これは彼なりの自省の表れなのだと理解した。大川公園事件の発生直後、無神経なふるまいで古川鞠子の母親を錯乱状態に追い込んだことを、やはり重たく背負っているのだ。その借財を返したいと思っているのだろう。秋津はやや意地悪く目を細めて、鳥居が後悔して借金を返したいと思っているのは出世に障《さわ》る汚点を帳消しにしたいからだと評していたが、そこまでつっこむのは酷だと武上は思う。
ようやく鳥居が電話を終え、武上に気がついた。武上はそばにいる男女に失礼と声をかけてから、丸筒を差し出した。
「頼まれた地図だ。大川公園のものだけでいいのか?」
鳥居は礼を言って受け取った。
「こちらのご両親が──」と、ふたりの中年男女をさして、
「半年前に家出したきりの娘さんじゃないかと確認に来たんですが、その娘さんはよく大川公園に出入りしていたというんです。失踪当日も、公園に出かけていたらしい節がありまして。それで念のために」
武上はうなずいた。ひょっとしたら、写真を見る勇気を奮い起こしてもらうための時間稼ぎかもしれないが、大川公園に関連する失踪者という情報は大切だ。話を遮ったことを詫びてから、武上は机を離れた。わざわざ自分で足を運んできたのは鳥居の様子が気になったからなのだが、どうやら頑張っているようだ。少しだけ安心した。
三階の小会議室に戻ろうと歩いていると、ちょうど反対側の廊下から篠崎が歩いてくるのが見えた。トイレに行って来たのだろう、無精たらしく濡れた手をハンカチでふかずにぶらぶらさせている。呑気そうな風情だが、しかし顔は暗かった。
心配と言えば、ここ数日篠崎が元気をなくしているように見えることも、武上の心に引っかかっていた。もともと口数の多い青年ではないし、ごくおとなしくひ弱な感じで、歩く姿も何となく内股なので、気はいいが口の悪い気味のある秋津に「お嬢さん」というあだ名をつけられてしまったくらいだから、元気がないと言ってもとりたてて目立つわけではない。デスク担当の他の連中は、誰も気づいていないだろう。武上が「おや?」と思ったのも、この事件で武上の下で働くようになって以来、同じ指示や命令を二度言わせたことがなかった呑み込みのいい篠崎が、凡ミスを繰り返すようになったからだった。四部とれと言ったコピーを一部しかとらなかったり、ファイルしておけと命じた書類が紙ばさみにはさみこんだままになっていたりと、ひとつひとつのミスは些末《 さ まつ》なものばかりだが、しかしこれまでの篠崎にはけっしてなかったことだった。
皆一様に、疲れていることは確かだ。土台のところでは、士気もけっして高いとは言えない。犯人たちは死んでしまい、未発見の被害者ばかりが残っている。あと五人、遺体の身元が判ろうと判るまいと、遺体が発見できようとできまいと、傷の深さに変わりはない。もちろん遺族にとっては大違いであり、事実確認の意味でも意義は大きいが、しかし刑事たちの頭の上に空しさの雲がかかっていないと言えば嘘になる。
「篠崎、大丈夫か」
武上が声をかけると、篠崎はびくんと飛びあがった。神経質そうに銀縁眼鏡の縁を押しあげて、「あ、すみません」と言った。何も悪いことをしていないのにすぐスミマセンというのが、近頃の若者気質であるらしいのだ。
「腹でも下したか」小会議室のドアを開けながら、武上はわざと磊落《らいらく》に言った。「仕出し弁当屋を替えなきゃいかんかな」
「いえ、大丈夫です」
篠崎は言って、武上に続いてドアの内側に入った。階下の特捜本部の喧噪《けんそう》とはうってかわって、室内は静かだ。ごく普通の役所の事務室の雰囲気が漂っている。電話のベルさえおとなしやかに聞こえる。墨東警察署備え付けの古めかしいコピー機が、紙を吐き出しながら気息《 き そく》奄々《えんえん》として漏らすがあがあという音だけが、唯一の雑音である。
篠崎は今、特捜本部に集められた失踪女性たちに関する情報を整理している。被写体となっていた女性たちに直接心当たりがあるという情報から、電話で寄せられたり差出人不明の投書に書き殴られた確度の低い情報まで、いったんここでひとつに集め、そのうえで武上の指示した分野別に分類し直して、パソコンに打ち込みデータベースを作成しているのだ。幸い篠崎はパソコンを扱い慣れており、キーボードを打つのも上手い。
残り五人の女性の身元を洗い出すだけならば、何もこんな作業は必要なかった。しかし、今ここで殺到している情報を整理し、いつでも取り出せるようにしておけば、また別の失踪事件や殺人事件のときに、思いがけず役立つこともあるかもしれない。そう思って、神崎警部に頼み込み、専用のパソコンを一台購入してもらった。世間の関心が高まっているうちに、煙のように姿を消したまま消息を絶っている無数の男女のことを、彼ら彼女らの周囲の人びとが今さらのように思い出しているうちに、集められる情報はできる限りたくさん集めて、保管場所を作っておいた方がいい。
そういう次第で篠崎は、爆弾の破裂した公式記者会見以来、日々押し寄せる失踪者のリストと、彼らの抱えていた事情と、彼らを取り巻く怪しい状況と、彼らを探す家族の声に取り囲まれて働いている。流砂に呑まれるように足をとられて、ひとつひとつのケースについて考え込み過ぎ、それで元気をなくしてしまうのはもっともなことだと武上も思う。
しかしそれならば、もっと早いうちにがっくりきているはずだ。実際のところ武上は、最初の一週間ぐらいで篠崎が参ってしまうだろうからと、もうひとり交代要員を用意していたのだ。ところが篠崎はいっこうにめげる様子を見せず、熱心に仕事を続けてきた。だから任せきりにしてきたのだ。それがほんの数日前から、急に風船がしぼむように意気消沈してしまったというのが解せない。単なるエネルギー切れとも思いにくいのだ。
前橋の伊藤敦子の次に身元が判明したのは、東京都田無市内に住む家事手伝いの三宅みどりという十七歳の娘だった。彼女が両親とふたつ年上の姉と共に住む自宅から姿を消したのは、一九九三年六月一日のことである。厳密に言えば、最後に娘の姿を見たのはたぶん六月一日の昼ごろだったと思うと、両親が証言をしているのだ。三宅みどりは、自宅から徒歩五分ほどのところにある両親の経営する喫茶店「キー・ラーゴ」に顔を出し、小遣いをねだり、母親が二万円を渡すと、それを財布に入れて店を出ていった。彼女がそのまま外出したのか、一旦自宅に帰ったのか、両親には判らない。どこへ出かけるのか彼女に問いかけることもなかった。そういう生活だったのである。
三宅みどりは一家の持て余し者だったと、はっきり語るのは彼女の姉である。小学校高学年ぐらいから学校の授業についていかれなくなり、中学では立派なはみ出し者になり、髪を染め化粧をしピアスを付けて登校して、両親は何度も学校に呼び出されている。高校は受験だけしたが、希望のところには入れず、滑り止めのところは本人の意に染まず、結局入学後三ヵ月で辞めて、あとは家でブラブラしていた、それが家事手伝いの真相である
学校へ通うという生活習慣の根本がくずれると、三宅みどりの暮らしは加速度的にだらしなくなっていった。長女の話では、みどりは、夜通し友達とつるんで遊び歩き、朝帰りして、陽の高いうちはぐうぐう寝ている。両親や姉との会話はほとんど無い。せいぜい金の無心だけである。彼女あての電話が夜中でもかかってきてうるさくてしょうがないので、父親が携帯電話を買い与えると、なおさら家人と話などすることがなくなった。ごくまれに一緒に食卓を囲んでも、みどりはむっつりと不機嫌で、すごく不愉快だったと長女は吐き捨てる。ところがそんなとき、携帯電話が鳴ると、彼女は嬉々として電話の相手と話し出す。目の前にいる家族よりも、手のひらに隠れてしまうようなちっぽけな機械を通してコミュニケートする相手の方が、ずっと近い距離にいるのだった。
三宅みどりにとっては外泊も日常茶飯事だった。両親も咎め立てはしなかった。二、三日続けて家を空けることも頻繁にあったが、金がなくなれば帰ってきたから、今さらのように説教をして無駄なエネルギーを費やすことはしたくなかったと、父親は乾いた口調で語った。母親も、もうかなり以前にみどりとの親子関係をどう続けていったらいいのか判らなくなっていたらしく、その途方に暮れたような口調は堅苦しい事務文章で綴られた調書の文面からも充分に想像することができた。唯一、妹への怒りを素直にぶちまける長女の調書の方が、まだ家族の感情を残しているようにさえ感じられた。
そういう状況だったから、六月一日の昼ごろに「キー・ラーゴ」で二万円を渡したきり、みどりの姿が消えても、家族は心配しなかった。彼女の不在が五日を越えて、いくらなんでもそろそろ帰ってきそうなものだと案じられ始めても、両親は何のアクションも起こしていない。むろん、警察にも相談には行っていない。
それでもみどりが出かけたきり一週間が経過すると、さすがに母親は不安を覚えた。彼女はみどりの具体的な交友関係をほとんど掌握していなかった。なにしろ、みどりの「友達」や「知人」は、おしなべて、昨夜新宿のコマ劇場の前でナンパされた男の子で、本名も住所も知らず、判るのは顔と通称だけだというようなレベルの存在で、その反面人数だけは大勢いるのである。
悩んだ挙げ句、長女と相談して、ようやく地元警察署の少年課へ足を向けた。そこに、一年ほど前にみどりが深夜の路上で喧嘩傷害騒ぎに巻き込まれたとき、世話をしてくれた刑事がいたからである。
事情を聞いた刑事は、失踪者の捜索願を出すことを勧めた。実際には、みどりのようなケースで警察がすぐに捜索に取りかかることはない。しかし、一週間も帰宅しないというのはやはり剣呑《けんのん》だし、地元や近隣の町の交番に書類が回れば、巡査が本人を見つけて声をかけるという機会も増える。ただ、これまでの経過や家族との関係から推すと、みどりが何らかの事件に巻き込まれて姿を消したというよりは、家出をして友達のところに転がり込んでいるとか、新宿や渋谷あたりで元気でピンピンして遊び歩いていて、懐具合も悪くないので帰宅することを忘れているなどの方の可能性が高く、従って今の段階ではあまり騒ぎ立てない方がいいのではないかという意見だった。
「刑事さんは温厚そうな親切な人で、みどりは本当は悪い子ではないと言いました」
と、長女は語っている。
「ただ自分の居場所が見つからなくて、寂しくて、その寂しさをどう表現したらいいか判らないから、暮らしが荒れているんだというんです。だから捜索願を出すのも、みどりが帰ってきたとき、ほらお父さんもお母さんもお姉さんも、警察に駆け込むくらいにあなたのことを心配していたんだよと本人に知らしめるためだと言いました。そして、みどりが帰ってきたら、今度は少しばかりきついお灸を据えてあげるといいと」
アドバイスを受けて帰宅した母親と長女は、しかし捜索願を出さなかった。自分が反対したのだと長女は言う。
「今までだって、さんざんあの子に振り回されてきました。いつだってあの子がメチャクチャなことばっかりするから、父も母もあの子のことばっかり考えていて、わたしのことなんかほったらかしだった。みどりは困った子だ困った子だって言いながら、やっぱり両親はあの子のこと考えてた。あの子のワガママなら何でも聞いてやっていた。だけどわたしはいつもひとりだったんです。それなのに、まだその上に、こんなふうに家出してまた心配かけて、ケロっとして帰ってきたら、ホラみんな案じていたんだよなんて、優しい言葉をかけてあげなくちゃならないんですか? 冗談じゃない。かまってもらいたい、心配してもらいたかったのは、ずっとわたしの方だった。みどりなんて、家出して帰ってきたら、みんなあんたのことなんかどうなったっていいと思っていたよ、なんで帰ってきたのっていうくらいの冷たい扱いを受けなくちゃ、何も判りっこないんです。それぐらいしてやらなくちゃ、目が覚めないんです。それでもまだ両親があの子を甘やかしたくて、そのために捜索願なんか出すんだったら、わたしがこの家を出ていくって、そう宣言しました」
その結果、捜索願は出されなかったのである。
一ヵ月経っても三宅みどりは帰らなかった。半年経っても音信さえなかった。しかし、長女の渾身《こんしん》の反抗の一撃で出鼻をくじかれてしまった両親は、月日が経てば経つほど、募る懸念とは裏腹に、捜索願を出しにくくなっていった。何の証拠も裏付けもないまま、三宅みどりは家出したことになり、都心で友達と一緒に暮らしているのだろうというような希望的観測が、家族の結論となっていった。
一方、地元少年課の刑事は、みどりの失踪が長引いているのを知って、かつて喧嘩傷害事件の際に彼女と一緒に補導された少年少女たちのあいだを聞き込み、みどりの消息を尋ねるなど、若干の捜索を行った。が、はかばかしい成果はあがらなかった。ひとりの少女の口から、みどりが失踪当時かなり頻繁に売春していたこと、舞台は主に新宿で、そこで売春仲間というか、ある種の元締めのような男とつながっていたことまでは聞き出せたのだが、その少女も具体的な名前などの情報までは持ち合わせていなかった。手がかりはあっさりと切れた。
栗橋浩美のマンションから、三宅みどりを写した写真が出てこなかったならば、彼女は永遠に家出したことになっていただろう。それはそれで、一種の平穏な状態が続いていただろう。
三宅みどりは被写体として魅力的だったらしく、コレクションの七人のなかでは写真の数がいちばん多かった。なかには着衣できちんと髪をなでつけ、椅子に腰かけて正面を向いているスナップもあった。だから、似顔絵を見て特捜本部を訪ねてきた両親と長女にも、それを見せることができた。両親はすぐにみどりを確認し、担当の刑事に、彼女の生存の可能性を訊いた。こんなちゃんとした写真が残っているくらいなのだから、みどりは確かに犯人たちと関わりは持ったけれど、それは普通のナンパみたいなものであって、誘拐殺人の被害者にはなっていないのじゃないかというのである。
担当の刑事は、みどりの他の写真も目にしていたから、そんな可能性は千分の一も存在しないことを知っていた。できるだけ遠回しな表現で、それを説明した。これは難しかった。お嬢さんが下着姿で首に犬の首輪をはめられ、床に這いつくばっている写真があります、カメラの方を向いている顔は殴られて痣だらけです、ナンパでそういうことがあるでしょうかということを、どうやったら穏当に表現できるだろう?
両親はうなだれ、泣き崩れた。しかし長女は納得しなかった。彼女は他の写真も見たいと言い張った。その根拠がふるっていた。あんなひどいことをする犯人たちに、こんな普通のスナップを撮らせるくらいなのだから、妹も彼らの共犯ではなかったかというのである。これにはさすがの担当刑事も仰天した。ではあなたは、あなたの妹さんが、犯人たちが女性たちを誘拐する手伝いをしていたとでも仰るんですかと問いかけた。すると長女は蒼白な顔で言い張った。ええそうです、あんな大勢の女の人たちがあんな簡単に誘拐されたのは、犯人たちのなかにも女がいて、油断させたからじゃないですか? 妹は、それぐらいのことをやりかねない人間でした。
結局、どうしてもとねばる長女の勢いに負けて、三宅みどりが写っている写真をすべて見せることになった。写真屋がサービスでくれる薄っぺらいアルバム五冊分の写真を、長女は三十分ほどかけて全部見た。
それから、署のトイレに駆け込んで吐いた。
武上はそのときちょうど特捜本部の方にいたので、婦人警官に抱きかかえられた彼女が、ふらふらしながらトイレから出てくるのを見かけた。後で事情を聞いて、長女の頭の良さに感心したし、その頭の良さがちっとも彼女を幸せにしていないことに暗澹《あんたん》とした。
しかし、とにかくこうしてふたつめの墓標が立った。伊藤敦子と、三宅みどり。武上は老眼鏡をはずし、眼鏡の痕を指でもみながら、口の中でもごもごとふたりの名前と失踪時期を呟きながら考える。
三宅みどりの失踪した一九九三年六月と言えば、古川鞠子はもちろん、前橋の伊藤敦子の失踪した一九九四年三月十五日よりもさらにさかのぼる。この分では、残り五人の被写体となっている女性も、いったいいつ失踪したのか判らない。いやむしろ、いっそ残りの五人全員が、古川鞠子の失踪よりも以前に誘拐殺害されていたのではないかと、武上の勘は耳元で囁く。
これはあくまでも勘で、強力な証拠があっての推測ではない。しかし武上には、消息不明の五人の女性と、失踪当時の状況がはっきりした伊藤敦子と三宅みどりをあわせた七人は、栗橋浩美と高井和明が大川公園事件という本舞台の幕を切って落とす以前に、いわば「練習台」として使った犠牲者ではないかという気がしてならないのだった。だから、彼女たち全員の誘拐監禁殺人は、古川鞠子たちのそれよりも昔の出来事ではないかと思うのである。
理由のひとつに、これらの写真やビデオのコレクションのなかには、古川鞠子や日高千秋が含まれていないということがある。これは、大川公園事件で派手に世間にデビューした栗橋と高井にとって、もう個人的な記録など意味がなくなっていた、それよりももっと面白いことに興味が移っていたからではないのか。その「面白いこと」とはもちろん、誘拐と殺人を通して社会にメッセージを送りつけ、テレビ局に電話してぺらぺらしゃべり、事件に興味を持つ人びとを振り回し、警察を怒らせることだ。
言ってみればそれは、あのふたりが、自分たちのやっていることを社会に向けて公表したい、社会が自分の「作品」を目にしてどんな反応をするか見てみたいという欲望を抱いたということだ。だが、そこへ到達するまでには、必ずその前の段階が必要だったはずである。自分の「作品」をつくりあげ、工夫をこらし、足りないところは補い、実験を重ねる。完成したものを検分し、ふたりのあいだだけで評価をしあい、満足したり反省したりして、また次の「作品」に取りかかる。そういうことが繰り返されて、彼らが「作品」を成すのに必要なノウハウや技術を手に入れ、熟練してきたからこそ感じるある種の退屈に気づき始めてこそ、次へ進もうという欲望は芽生える。
趣味で小説やマンガを書いたり、自主映画を撮ったりする人びとも、よほど度はずれた自信家でもない限り、最初からできあがった作品を広く社会に公開する勇気を持ち合わせてはいないだろう。最初は自分や仲間内だけの手のひらの内側にそっと隠して、ささやかな自己満足にひたり、その自己満足をエネルギー源にして次の作品へとつなげるのだ。ある程度の経験を重ね、自信がついてきて始めて、自分のつくっているものが他者の目にはどう見えるかということが気になり始める。栗橋・高井の心理も、それと同じ経緯をたどったのではないか。
伊藤敦子、三宅みどりの自宅には、犯人たちから電話がかかることも、遺留品が送りつけられることもなかった。マスコミに対して彼女たちの殺害を匂わせる情報がもたらされることもなかった。これも、栗橋・高井が彼女たちに対してはまだ「練習」していたからだと考えられないか。「練習」という言葉が残酷ならば、彼女たちを捕らえ、虐げ、最終的には殺害という形で絶対の支配力を持つ──そのことだけで、まだ彼らが満足していたのだと言い換えてもいい。
人間の引き起こす災いの根っこにあるのは、ただひとつ、支配と被支配の関係だけだと武上は考えている。だが、このことをこれほど露骨にむき出しにした事件も珍しい。栗橋と高井のやったことを追跡調査するのは、まるで人間の邪悪を露天掘りするようなものである。腐臭を放つ真っ黒な鉱脈が、どこまでもどこまでもくっきりと見えている。だから彼らの野望が、自己満足から社会の喝采を要求する段階へと膨らんでいく様を想像するのは簡単至極なことだった。ごく当たり前の人間が持っているごく当たり前の欲望を、もっとも手っ取り早いがもっとも破壊的なルートで実現したのが彼らだったのだから。
人は誰でも、自分の幻想という小さな王国のなかでは、ちっぽけな王冠をかぶり王座に座っている。そういう部分があること自体は、けっして邪悪でもなけれは罪深くもない。むしろ、軋礫《あつれき》の多い現実世界を生き抜いてゆくためには、なくてはならないことなのだ。
だがしかし、この王座に腰かける王にも、専制君主への憧れはある。それもまた誰でも持っている自然な心の指向性だ。彼もしくは彼女は、早晩外の世界へと目を向ける。領土を広げ、自分の築いた城塞《じょうさい》都市の内側に入る国民の数を増やすのだ。ある程度の「練習」を重ね、自分の力量を確かめたくなった時点で、王は出立《しゅったつ》を決意する。
しかし、その先は千差万別だ。彼もしくは彼女がどこまで行かれるか。何をもって満足するか。どれぐらいの規模の王国をつくるか、そこで善政を敷くか圧制者となるか。結局のところ、それが人生ではないかと武上は思う。ある女は従順で優しく心の温かい妻として、ひとりの男の女王となり幸せな人生をつかむかもしれない。ある男はある土地で立志伝中の人物として語り伝えられる企業家になり、何百人かの社員の王となって満足するかもしれない。ある女は女優となり、ある時代の女たちの夢と男たちの憧れと欲望を集めて自分の王国を築くかもしれない。ある男は学者となり研究に打ち込み、富は得られず世間に知る人は少なくともその分野では重要な実績を積み、そこを彼の王国とするかもしれない。
人は皆、そうやって生きているのだ。武上だって、デスク担当として有能だという周囲の評価の上に、彼のささやかな王国を築いている。そして、少なくとも妻は彼の国民だ。同時に、彼は妻の国民だ。互いに互いの圧制に我慢ができなくなればいつ移民してしまうか判らない危うい関係ではあるけれど、しかし国民であることに間違いはない。我々は、幻想のなかにしか存在しない国土を奪い合ったり分け合ったり共同で開拓したりしながら、互いに互いの国民であることでようやく暮らしていかれるのである。人間が弱いものだというのは、つまりはそういうことだと武上は思う。
しかし時に、話し合ったり合戦したり手打ちをしたり意気投合したり愛し合ったり語らったりする手続きを抜きに、王国を拡大したり、移民しようとする国民を引き留めようとしたり、強引に国民を増やそうとする王が現れる。そういう王は、実際に法に触れて犯罪者になる場合もあるし、ならない場合もある。だが、どちらの場合でも、破壊的な人間であることに違いはない。
破壊的な人間は、けっして誰かの国民にはならない。ただ王であるばかりだ。だから孤独である。孤独であるが故に、けっして自分を裏切らず絶対の服従をしてくれる永世国民ほしさに、ある者は物理的に、ある者は精神的に、他者を殺してはばからない。その物理的な例の極北にいるのが連続殺人者《シリアル・キラー》であり、栗橋と高井もその孤独な王の一員に過ぎない。彼らの行軍の後には、死体の山と血の川が残った。
そして彼らは、自分たちがそういう王であることを社会にも認めさせようとして大川公園事件を起こした。事故死しなければ、まだまだ続けたろう。王は進軍を始めたばかりだったのだ。彼らは得意の絶頂にあった。だからこそ、写真やビデオに撮られた女性たちは過去のもので、ひょっとすると栗橋浩美は、少なくとも大川公園事件を起こして以降は、そういう記録を収めた箱が自分の寝起きするベッドの下にあること自体、すっかり忘れていたのではないかと武上は考えるのだった。
連続殺人者はたいていの場合単独犯で、二人組というのは珍しい。アメリカでは複数の例があるが、そもそもこの種の連続殺人自体の発生例が少ない日本では、事実上は栗橋浩美と高井和明の組み合わせが初めてではないか。彼らに興味深いところがあるとすれば、むしろそちらの方だと武上は思うし、それは特捜本部全体の意見とも一致している。
なぜ二人だったのか? 特に少年が起こす凶悪犯罪に多いグループ犯は、犯情は悪質でも、底のところには暴徒に近い集団心理のメカニズムが働いているので、栗橋・高井の場合とはまったく事情が異なる。二という数字には、それよりも多い数には無い意味が潜んでいるのだ。
リーダー格はどちらだったのか。ふたりがまったく対等に話し合いながら行軍していたとは考えられない。たとえ半歩でも、どちらかが先を歩いていたはずだ。
あのふたりは奇妙な組み合わせだった。写真で見る限り、栗橋浩美は非常にスマートでハンサムな若者だったが、対照的に高井和明は太り気味のずんぐりした体格で、近所のウワサでもいっこうに冴えた話があがってこない。一方の栗橋はどこにいても目立つ青年だったようで、女性にも人気があり、彼が犯人だったということがはっきりしたとき、ニュースを聞いた元同級生の女性が公衆の面前でわっと泣き出したという話を、秋津が聞き込んできたことがある。
ふたりは小学校以来の付き合いで、幼なじみだったが、常に栗橋浩美が主役で、高井和明は彼の腰巾着のようなものだったらしい。中学校時代の担任教師は、高井和明が栗橋浩美と彼の別の友人たちのグループに虐《いじ》められ、いわゆるパシリのような存在になっていた時期があったと話している。しかし、心配だったので高井和明をこっそり呼び出し、彼の胸の内を訊いてみると、意外な答が返ってきたという。
──ヒロミはホントはすごく寂しがり屋だし、それを知ってるのは俺だけだから、今はこんなふうだけど、きっとそのうちまた元のような友達に戻ると思う、あいつのことホントに判るのは俺だけだから。
この担任教師も、高井和明に対しては、性格は素直で優しいがいささか鈍重だという評価を下していたので、この返事に驚くと同時に、それは彼の勝手な思い込みではないかと危ぶんだ。が、いくら説得しても、高井和明は考えを変えなかったという。
利発と鈍重。攻め手と受け手。栗橋と高井の関係には、そんな印象がつきまとう。だとすれば、リーダーがどちらだったのかという謎の解答は、自ずと判明してくる。
神崎警部はふたりの少年時代を掘り下げて調べるため、別働チームをひとつ作った。先週以来秋津がそこに配属されているので、武上はあがってきた報告書だけでなく、彼からも直に話を聞くことができる。まだまだ新たな事実は出てくるだろうから即断はできないが、これまでのふたりの友人関係から推察する限りでは、主犯栗橋、従犯高井という線はまず崩れないだろうと秋津は言っている。
神崎警部がこの別働チームを作ったとき、武上はにわかには警部の意図をはかりかねた。事件の全貌を明らかにするためには、いささか遠回りな方法だからである。ひょっとすると神崎警部は、ふたりの共犯関係を疑っているのだろうかと思った。
実際、裏付け捜査をしていても、高井和明の行動にははっきりしない点が多いのである。栗橋浩美と違い、彼の場合は物証もほとんど出てこない。
まず、事件の経過全般にわたって、所在があやふやだった。唯一、白紙にインクを落としたように黒々としているのは、十一月四日午後八時過ぎ、上越新幹線氷川高原駅から車で別荘地帯の方へ十五分ほど走ったところにあるグリーンヒルという高級分譲別荘地近くのカフェテラス「銀河」で、栗橋浩美らしい男と高井和明らしい男が待ち合わせをしていたという証言である。これはウエイトレスによるもので、彼女はふたりの顔もはっきりと覚えていた。
午後六時ごろにまず栗橋浩美が来て、窓際の席に陣取った。最初に席を決めるとき、待ち合わせなので後から一人来ると言ったそうだ。三十分もしないうちにたいへんイライラした様子になり、ウエイトレスはそういう彼をさりげなく観察していたという。そこへ、八時過ぎになってようやく高井和明がやって来たという順番だ。
この前日の十一月三日夜には、氷川高原の別荘地帯のどこかで、十一月五日に遺体となって高井の自家用車のトランクから発見された川崎の会社員木村庄司が消息を絶っている。木村夫人が留守番をしている自宅に、ボイスチェンジャーの声で折り鶴を云々という電話がかかってきたのがこの日の午後十一時ごろのことだったので、木村庄司の拉致はそれ以前のことだろう。だから、素直に考えるならば、栗橋と高井は三日十一時までに木村を拉致し、いずこかに監禁し、今後の計画をふたりで話し合うために、「銀河」で落ち合ったということになるだろう。
ただ腑に落ちないのは、この三日、高井和明は東京にいるのである。彼が東京を離れるのは、翌十一月四日の午後五時ごろのことだ。そして約三時間後に「銀河」で栗橋浩美と落ち合うわけである。
この日の朝、高井の父親がめまいを起こして倒れ、病院にかつぎ込まれるという騒動があって、高井は父親に付き添って病院に行ったり、自宅に着替えを取りに戻ったりしている。父親の治療が済み、帰宅許可が出て家族が家に戻ったのが昼過ぎだった。高井和明の家は「長寿庵」という日本そば屋を経営しており、彼もそこで父親を手伝って働いているのだが、この日は大事をとって臨時休業にした。高井家は三階建てのこぢんまりしたビルで、一階が店舗、二、三階が家族の居室となっている。
高井和明には、三歳年下の由美子という妹がいる。以下は彼女の証言だが、夕方五時半ころ、母親と夕食の献立を相談しているときに、店の方にいた和明が家の台所にあがってきて、これから出かけると言った。和明は専用の電話を持っておらず、彼宛の電話は店の電話にかかってくる。由美子は、兄が外から電話で呼び出されたのだと察した。その相手は、栗橋浩美だろうとも思った。
栗橋と高井の関係が、主人と家来のような形になっていることを、高井家の家族も承知していた。由美子はこれが非常に不愉快で、何度となく兄に栗橋との交際を止めるように忠告したという。栗橋は高井から金もずいぶん引き出していたようだ。
突然出かけると言いに来た高井和明は、ひどくあわてた様子だったという。それだから、由美子も電話の相手は栗橋浩美に違いないと察したわけである。和明は誰と会うのかという問いには何も答えず、そそくさと自分の車で家を出た。その後、赤井山中のグリーンロードで死亡するまでのあいだ、彼がどこで何をしていたのか、家族はまったく知らない。音信もなかったという。母親の話では、高井和明がこんな形で家を空けるなど、かつて一度もあったためしがないので、五日の朝、警察へ行こうかと考えていたという。父親がそれを宥め、もう一日様子を見ようと言っているうちに、グリーンロードで事故が起こったのだ。
十一月三日は、高井和明は一日中家にいた、だから氷川高原の別荘地帯で木村庄司の拉致に荷担することはできない。家族はそう証言する。東京から氷川高原までは車で片道三時間程度であり、夜間ならばそれよりももう少し短縮できる。実際、十一月四日には高井和明はそれぐらいの時間で自宅から「銀河」へ到着している。アクロバティックに考えるならば、十一月三日の夜も、高井和明は家人に知られずに車で外出し、朝までのあいだにこっそり帰宅していたのだという意見も出せるだろう。
だが、木村夫人が犯人からの電話を受けた三日午後十一時までに氷川高原あたりまで行き、木村庄司の拉致に関わろうとするならば、少なくとも午後八時には東京を出発しなくてはならない。「長寿庵」の営業時間は午後八時までで、この日は家族以外にも閉店までいた客が高井和明の働いているのを確認しているから、これはまずあり得ない机上の空論だ。
となると、少なくとも木村庄司の拉致に関しては、栗橋浩美の単独犯行だということになってくる。彼がひとりで拉致をし、木村夫人にからかいの電話をかけ、一晩をどこかで木村と共に過ごし、翌日、それも午後かなり遅くなってからようやく共犯者・高井和明を呼び寄せる。
これは、かなり奇妙な共犯関係ではないか。
そしてもうひとつ、非常に大きな疑問が出てくる。何も知らない高井和明が東京で父親の世話をやいているあいだ、栗橋浩美は木村庄司と共に、いったいどこにいたのだろう?
結論はひとつ。栗橋浩美には、東京・初台のマンションのほかに、拉致監禁と殺人のためのアジトがあったのだ。写真撮影も含めて、すべてはそこで行われたのである。
これは現況での特捜本部の公式見解であり、栗橋・高井のアジトを発見することが、現在の特捜本部のもうひとつの使命である。ふたりの周辺を丹念に掘り起こし、人間関係や事実関係を洗い出し、事件の全体像を再構築せよという至上命令のなかで、この使命は大きな位置を占めている。
ではそのアジトはどこにあるのか。手がかりはふたつある。
ひとつは、木村庄司が拉致された場所である。氷川高原一帯の別荘地。あの十一月三日日曜日に、彼が「見学してくる」と妻に言い置いて出かけた場所であり、おそらくは彼が犯人たちに拉致された場所である。
この日、木村庄司本人は、午後一時ごろに自宅の妻に電話をかけている。そのときにはまだ、氷川高原別荘地帯には着いていなかった。そこから六キロほど手前の有料道路出口を出たところで、昼食がてらの休憩をとったレストランから夫人に連絡したのである。そしてその日の予定を話した。これは夫人の記憶もはっきりしているし、このレストラン内に設置されていたグリーンの公衆電話の発信記録に、木村庄司の自宅の電話番号が在ることも確認されている。
木村庄司は自分用の携帯電話を所有していた。会社が与えたものではなく、彼個人で契約している私物である。ところがこの時の電話ではレストランの公衆電話を使い、その理由を妻に、
「携帯電話の調子がよくない」と告げている。
「どうも電池切れらしい。うっかりして、このところほとんど充電していなかったから」
木村の携帯電話は、現在までのところ発見されていない。遺体のそばにはなかったし、高井和明の車のなかにもなかった。だから携帯電話の不調の原因については確認できないが、こんなことについて本人が嘘を言うわけもなく、また木村夫人の話では、木村が携帯電話を持ち歩くようになってから、電池切れで困ったことが過去にも数回あったそうである。夫人は木村に、一回の充電でもっと長く使用することのできる新型の携帯電話に買い換えるように勧めていたそうだが、忙しさにまぎれてそのままになっていたのだという。
さて、その夜十一時ごろ、犯人たちは川崎の木村の自宅に電話をかけ、木村の妻がこれに応対している。このときのやりとりのなかで、犯人たちは木村を「何処で」拉致したか、はっきりしたことは言っていない。午後一時の本人からの電話以来、夫人も木村と連絡をとってはいないから、彼が拉致されたとき、妻に告げた予定どおりに氷川高原の別荘地帯にいたかどうかはわからない。
しかし、栗橋・高井の事故死の二日後、十一月七日になって、氷川高原別荘地帯から北に二キロ新潟方面に進んだところの雑木林のなかで、木村庄司の車が発見された。これで、事実が少しはっきりした。彼の車はカーナビゲーション装置を搭載しており、発見時は電源が切られていたが、スイッチをいれて立ち上げると、氷川高原別荘地帯北東部のマップが表示されたのだ(但し、木村庄司の携帯電話は、この車のなかにもなかった)。
この北東部は、氷川高原別荘地帯のなかではもっとも標高が高く、そのために別荘地としての開発が遅れている。だが、夫人から聞いた話と、職場の同僚の話を付き合わせてみると、木村庄司は非常に熱心な営業マンであり、あえて開発の遅れている地域を見学に行くぐらいのことがあっても、不思議ではないという。日が落ちてからでは見学どころではなかったろうが、それでも舗装道さえ通じているならば、帰り道にその道を通ってみるぐらいの好奇心はある人物だったという。
捜査本部では、木村はこの日の午後、新築予定の自宅の参考にするために別荘地内のあちこちの建物を見学し、日が落ちかかってから帰京するために車の運転を続けていたが、この氷川高原東北部のどこかで道に迷ったのではないかと考えている。人家のほとんどないところだし、あったとしても人気《ひと け 》のない別荘ばかりだ。携帯電話は調子が悪くてつながりにくい。カーナビだけを頼りに進んでいくしかない。そんな折に、栗橋浩美と遭遇してしまったのだろう。
そのときは、それほど遅い時刻にはなっていなかったはずだ。というのは、栗橋浩美は木村を自分のアジトに連れ込んだ上で、身柄を拘束し、午後十一時に木村夫人に電話をかけるまでのあいだに、彼から身辺のあれこれを聞き出しているからだ。それもとおりいっぺんの話ではない。夫婦のなれそめまで知っていて、それをネタに夫人に意地悪な言葉を投げかけている。これだけの情報を聞き出すには、それなりの時間を要しただろう。またそういうことを木村にしゃべらせるには、それだけの下準備も必要だったろう。移動中の車内とか、他人に目撃される危険のある場所ではなく、自分たちにとってはもっとも安全な[#「安全な」に傍点]アジトに落ち着いて、木村庄司に彼が置かれている立場を完璧に認識させた上でなければ──言い換えるならば、栗橋たちが彼の生殺与奪を握っており、犯人たちの質問に答えなければどうなるのか、よくよくわからせた上でなければ──これらのことをしゃべらせるのは難しいだろうからだ。
また、木村夫人に電話をかける前か、後か、どちらにしろ、栗橋浩美は木村の車を氷川高原別荘地帯を抜けた山林まで捨てに行かねばならなかった。いくら人目のない場所とは言え、まる一日も放っておけば、木村の車が山林パトロール隊などに発見される可能性も出てくる。おそらく、三日の夜のうちに行動したことだろう。この日、深夜に長寿庵を閉めたあと、高井がアクロバット的に東京と氷川高原別荘地帯を往復しているのでなければ、栗橋はこれら一連のことを一人でやり遂げなければならなかった。この二つを考えあわせると、彼らのアジトは、氷川高原東北部から、そう遠くない場所にあるのではないか──と思えてくる。
もうひとつ、この仮説を裏付けるのが、携帯電話の記録である。
栗橋も高井も、携帯電話は逆探知されないと思い込んでいたような形跡がある。実際、有線の電話のように、瞬時に発信番号を突き止めることはできない。が、ある場所にかかってきた特定の電話が、どのアンテナ基地から中継されてきたものかを調べることで、発信エリアを絞ることはできるのだ。そういうシステムがなければ、電話会社は使用者に料金を請求することができなくなってしまう。
九月十二日、栗橋浩美がHBS報道局にかけてきた電話は、練馬の中継基地を通っていた。二十三日、栗橋浩美が有馬義男にかけた電話は、新宿西部の中継基地を通していた。新宿西部の中継基地のアンテナがカバーする地区のなかに、栗橋浩美の初台のマンションが在る。練馬の中継基地の範囲内には、栗橋浩美の実家の栗橋薬局があり、高井和明の実家の長寿庵もある。十月四日、しきりと咳をしている栗橋浩美が有馬義男にかけた電話も、この中継基地を通っていた。
さらに、である。
十月十一日、古川鞠子の遺体が発見された当日の午後、有馬義男が遺体確認に出向いて留守のあいだに、栗橋浩美は有馬豆腐店に電話をかけている。この電話には従業員の木田孝夫が応対している。この電話は、都内ではなく、群馬県中部にある中原地区中継基地のアンテナを通っていたのだった。この中原地区中継基地のカバーする範囲内に、氷川高原別荘地帯と、その周辺十キロぐらいの山林地域がすっぽりと収まっているのである。
十一月一日、HBSの報道特別番組にかかった電話(CMの前のものも後のものも)も、番組終了後に有馬義男にかかってきた電話も、この同じ中原中継基地を経由している。
アジトは、おそらくこの地域に存在するのだ。
もっとも、渋滞にさえ巻き込まれなければ、車を使えば、氷川高原から都内まで三時間以内で移動することもできるし、都内には携帯電話のアンテナ基地の数が多く、数キロ単位で細かなエリアを管轄し、混み入っているが、人口の少ない山林地帯では事情が違い、一台のアンテナで広い地域をカバーしているので、中原中継基地が管轄している地域も相当に広い。そこで捜査本部では、アジト捜索の起点を、木村庄司の車のカーナビが表示していたマップ地点と定め、そこにコンパスの針を刺して、半径五十キロ以内を重点捜査範囲と定めた。なかでも氷川高原別荘地帯が最重点捜査地域であることは言うまでもない。一連の犯行には、別荘や貸別荘がうってつけの舞台になったと考えられることも大きい。一軒一軒を足で歩いて調べるローラー作戦を開始する際、武上は登記簿を原資料とする氷川高原別荘地内に存在する建造物の一覧表を作ったが、いかんせんこの手の不動産については、登記簿だけ見ていてはわからないことの方が多いので、綱かな資料の補足は群馬県警に協力を仰ぐことになった。
いずれこのアジトが発見された時に、その時にこそ、栗橋と高井の奇妙な[#「奇妙な」に傍点]共犯関係の内情が明らかになるのではないか。逆に言えば、彼らの二人狂い[#「二人狂い」に傍点]がどこから始まり、どういう経過をたどってどこへ帰着しようとしていたのか、それを白日の下に引き出して解明するためには、アジトの発見が切実に必要だということだ。
初台の栗橋浩美のマンションには、まるで海底に沈むヘドロのように、栗橋浩美の暗い夢がへばりついていた。しかしそこには高井和明の気配はなかった。徹底的な聞き込み捜査でも、高井和明が初台のマンションに出入りしていたという目撃証言はあがってきていない。今年の十月初めに、年齢と体格からしておそらくは高井ではないかと思われる男性が、栗橋のマンションの前に立っているのを見たという、新聞配達員の不確かな目撃証言が一件とれているだけだ。高井和明は、マンションの窓を、それもかなり高い場所を見上げて、しばしその場に突っ立っていたという。その奇異な立ち姿が新聞配達員の記憶に残ったのだろう。
高井和明に関してはもうひとつ、やはり十月の半ばごろ、彼らしい体格の人物が大川公園内をうろついていたという目撃証言が、こちらは複数あがってきている。塚田真一と水野久美が右腕を発見したゴミ箱のあたりを、これという目的もなさそうな彼が、うろうろと歩き回っていたというのである。
この種の大事件で容疑者が確定すると、ありとあらゆる方向から目撃証言があふれ出てくるものだ。その信頼性の幅は、既存の単位では測りかねるほどの広さに達する。人間の記憶は容易に作り替えられるものだし、思いこみや錯覚は嘘と違って後ろめたさや罪悪感に裏打ちされていないので、真偽のほどが見極めにくい。捜査側は老練な骨董商よろしく、懐で腕を組んで顎を引き、顧客が持ち出してくる「証言」という品物が真であるか偽であるかを冷静に見抜かねばならない。この場合、相手がどんなに誠実な人物で、どれほど熱心であろうとも、それを「証言」の鑑定に反映させてはならないのだった。
初台のマンション前と大川公園での目撃談は、この厳しい鑑定を通過させてもなお信頼性のあるものだと、武上は思っている。特捜本部の高井担当のあいだでは、そのほかにもいくつかの確度の高い証言が注目を集めており、それらは皆、高井和明という一見無害でおとなしい若者の仮面の下に隠されていた野獣性を示唆するもので、大いに刺激的なのだが、武上個人はそれをすんなり呑み込むわけにはいかないと思っていた。捜査記録であり報告書だからきちんとファイルして綴じ込むが、もしも武上がデスク担当でなく、現場の指揮官だったならば、これらの報告者にはっきりと証言に対する疑義を呈し、調べ直しを命じるだろう。
栗橋と高井の関係は、いったいどんな形のものだったのか。その形のどこがどう歪むことによって、ふたりで居ることがそのまま狂気の増幅装置になってしまったのか。何よりも切実に知りたいのはそれだ。それが判れば、幕を切って落としたように鮮やかに、事件の全体像も見えてくると武上は思う。
栗橋浩美と高井和明は、どんな会話を交わしていたのか。二人のやりとりは、どの程度頻繁なものだったのか。どちらがどちらに連絡をしていたのか。
高井和明の遺族は、高井は専用の電話を持っていなかったことと、以前はよく栗橋から電話がかかってきたり、彼が長寿庵に訪ねて来ることもあったが、近頃はそういうことが減っていた、特に、大川公園事件からこちらは、十一月四日に高井和明が不可解な言い訳を残して出かけるきっかけとなったあの電話が栗橋浩美からのものだったとするならば、それが久々の電話だった──というようなことを述べている。また、家族が知る限りでは、高井から栗橋への電話と言ったら、十月十三日に栗橋の母・寿美子が階段から落ちて怪我をし、入院した際に、見舞いの電話をしたときぐらいだともいう。このときの電話はかなり長いものであったらしい。
家族のなかの誰が、いつ、どこに電話をかけているか。そんな事柄は、案外記憶に残りにくいものだ。確かに高井は専用電話を持ってはいなかったが、店が開いていないときは店内の電話を使うことができたし、長寿庵の目と鼻の先には電話ボックスもある。高井が栗橋の手下的共犯者であったならば、打ち合わせさえしておけば、家族に気づかれないような連絡手段を確保するくらい、難しいことではなかったろう。
では、栗橋浩美の側はどうだったか。
当初、遺体からも事故車からも、グリーンロードの事故現場からも、携帯電話は発見されなかった。そこで捜査本部では、現場付近の捜索をする一方で、栗橋薬局と栗橋浩美の初台のマンションの家宅捜索を行った。
すぐに、一台の携帯電話が見つかった。初台のマンションに、専用の充電器と一緒に置かれていたのだ。契約書や料金の請求書なども、ミニキッチンの引き出しに放り込まれていた。
ところが、この携帯電話の通話記録をいくら調べても、HBS報道局も、有馬義男も日高家も木村家も出てこなかった。高井和明あての通話はたくさんある。その他の知人あてのものも出てきた。しかし、決め手となる場所への通話記録が見当たらないのである。これはどういうことか。
別の携帯電話が存在していたのだ。
つまり、栗橋は二台の携帯電話を使い分けていたわけである。そして、捜査本部が見つけたいと思うもう一台の方に関しては、請求書も口座振替の通知書も、購入書類の控えさえも存在していなかった。もちろん、本体も見つからない。おそらく栗橋浩美が持ち歩いていて、事故の際に車外に飛び出してしまったのだろう。その後も捜索は続けられているが、あんな小さなものだ、果たして発見できるだろうか。
栗橋浩美の名前と住所では、日本中の携帯電話通信会社の顧客登録を当たっても、初台のマンションに在った電話の番号しか出てこないところを見ると、おそらく、そのもう一台≠ヘ、プリペイド式の使い切り携帯電話だったのだろう。すでに何度も使い切られ、そのたびに買い換えられていた可能性も充分にある。それはあくまでも、この事件のために購入され、番号を知っていたのは栗橋本人と、共犯者である高井和明だけだったのではないか。
今後はこの手続きが変わる可能性が高いが、今現在は、プリペイド式携帯電話は、特に身分を証明するものがなくても簡単に購入できる。偽名でも、偽住所を書いても手に入れることができるのだ。栗橋がどこでこの携帯電話を手に入れたのか、調べるのはほとんど不可能だ。それでもまだ現物さえあれば、本体を調べて、そこに保存されている通話記録を当たることができるのだが──
携帯電話は逆探知をされないとタカをくくっていたはずの栗橋が、なぜわざわざ犯行用にプリペイド式携帯電話を使ったのか。捜査会議でもいろいろ意見が出た。万にひとつ、自分に疑いがかかったときに、素早くその電話機を処分し、要となる通話記録の残っている物証を減らそうとしたのではないかという向きもあるが、武上はそこまで深読みしてはいない。要は、うっかり携帯電話を落としたり、どこかに忘れたりしたときのために、用心していたということではないのか。
携帯電話を紛失するというのは、実によくあることだ。武上の娘など、日頃はそれほど忘れっぽい方ではないのに、携帯電話だけは別物であるらしく、この一年のあいだに二度も失くしている。逆に、駅のホームで携帯電話を拾ったこともある。そういう時には、拾った側は、落とし主の手がかりを探して、内蔵メモリに登録されている番号やメッセージを、さほどプライバシーを侵害しているという意識もないままに──善意でしていることだから──のぞいて見たりするものだ。自分が使っているものと機種が違えば、操作の勝手がわからなくて、持ち主の登録番号を呼び出そうとして、発信・受信記録を見てしまうことだってあるかもしれない。
そしてそこに、たとえばHBSの番号を見つけたら?
百万にひとつの危険かもしれない。だが、栗橋浩美はそれに対して準備おさおさ怠りなかった──
この事件には、まだまだ不可解な部分がたくさんある。わかっていることの方が少ない。そのなかでも、武上が山ほどの捜査資料を読み、それらを整理しながら、不気味な不可解さを感じる事柄はふたつある。そのうちのひとつが、この事件のなかに、異様なほど繊細で用心深い側面と、野放図で出たとこ勝負の側面が、ごたまぜになっていることである。プリペイド式携帯電話の件は、用心深さの一例だ。一方で、有馬義男を電話で呼び出して振り回したあの一件は、場当たり的行動の好例だ。
高井和明と栗橋浩美。どちらが繊細担当で、どちらが野放図担当だったのか。二人の間には、どんな力関係があったのか。どの想像も当たっているように見えて、しかし微細なパズルの断片は、どの想像のどの仮説からもはみ出してしまう。しかも、はみ出す断片が、そのたびに異なるのだ。
高井和明は、事件のなかでどんな役割を果たしていたのか。事件がエスカレートしてゆくうちに、彼の役割には変化があったのか。
──あるいは、栗橋の共犯者は高井ではなかったのか?
その突飛な考えは、ときどきふと頭に浮かぶ。そのたびに、武上は首を振ってそれを退ける。二人の事故死の状況から推して、高井が事件についてまったく知らなかったということはあり得ない。彼の役割の内容は謎だが、彼がある役割を担っていたということは、すでにして事実となっている。
事故を起こす直前、彼らはグリーンロード入口のガソリンスタンドで給油をしている。これについてはスタンドの従業員たちや居合わせた客たちからの証言があり、これらは全体として非常に信憑性が高い。なかでも特捜本部の注意を引いたのは、恋人の運転する車の助手席に乗り、栗橋・高井組とはほぼ入れ違いにスタンドを出ていった二十三歳の女性の証言である。
彼女は栗橋浩美の顔を見ただけでなく、彼に声をかけたことも覚えていた。彼氏がスタンドの従業員に道を尋ねているあいだにトイレに行き、自動販売機で缶コーヒーを買って戻ったのだが、その途中で栗橋浩美にぶつかってしまったというのだ。そこで彼女は「ごめんなさい」と謝った。そのとき、まともに彼と視線があった。
どういう印象だったかという刑事の問いに、彼女はこう答えている。
──ドラッグでもやっている人みたいに見えました。
薄気味悪かったので、彼女はすぐに車に乗り込み、彼氏にその旨を告げて、ふたりはすぐに出発した。すると、
──あの人が、追いかけてくるような感じがしたんです。
栗橋浩美が、彼らの車の方へ走って来るのを見たのだという。とても怖かったと述べながら、彼女は少し涙ぐんだ。
──スタンドが見えなくなるまで、振り返ってずっとあの人の様子を見ていました。道路の端に立って、ちょっとかがみ込むみたいな姿勢をしていました。誰かが駆け寄って、肩を抱くような格好をしていました。慰めているみたいに見えたけれど、よく判らないわ。
同じ場面を目撃していたスタンドの店長の話によると、栗橋浩美がアベックの乗っていた赤いジープ(正確には、彼らの乗っていた車はチェロキーだ)の後を追いかけるような仕草を見せ、道路に走り出たところまでは共通している。ところがその直後、彼は何かひどくびっくりしたような様子で後ずさりをすると、今度はジープの走り去っていった方向から逃げるように身体の向きを変え、そこを高井和明に引き留められて、抱きかかえられるようにして彼らの車の方へ歩んでいったという。
──当時はあのふたりがあの事件の犯人だなんて知らなかったから、それほど強く気にしたわけじゃないけれど、危ないな、ヤクでもやってるんじゃないのという話はしてましたね。栗橋浩美でしたっけ? 太ってない方の男。あいつは、足元がふらついてたもの。もうひとりの方も、顔色がよくなかったような記憶があるんだけど、あんまりはっきりしないな。
このふたりの証言のなかに、申し合わせたように「ドラッグをやっているんじゃないかと思った」という言葉が出てくるのは注目に値する。ふたりとも、「具体的に薬物中毒患者に接した経験があるのか」という質問には否と答えているので、彼らが抱いたこの感想も、映画やドラマで見る薬物中毒者からの類推に過ぎないものではあろう。しかし、少なくともこのガソリンスタンドにいたときの栗橋浩美が、第三者の目から見て、精神的なバランスを欠いているように感じられたということは重要だ。しかもそれを、高井和明が慰め、かばっていたということになればなおさらである。
連続殺人者《シリアル・キラー》が殺人に中毒し、それによって内部崩壊する例は珍しくない。ある段階を越えると急速に自殺傾向を強めることも、捜査側の経験則としてはよく知られている。栗橋浩美も、そういう意味で危険な場所にさしかかっていたのではないか。ひょっとするとグリーンロードのあの事故は、そういう精神状態の下で起こった発作的な自殺だったのではないかとさえも考えられる。
それらすべての謎を解く鍵を、高井和明が握っている。特捜本部でもその意見は強いし、武上は他の誰よりも強くそう信じている。彼はどういう関わり方をしていたのか。どのようにして、栗橋浩美の狂気を、彼も共有するようになったのか。
アジトを発見することができれば、そこには答が残されているはずだ。他の場所では何も見つけることができなくても、アジトにはきっと、栗橋浩美と高井和明の関係と役割分担を示す、事件の底に沈殿した澱《おり》が、ふんだんに残っているはずだ。
十一月四日に氷川高原駅に呼び出されて以来、栗橋浩美と一両日行動を共にし、彼を支えていた高井和明。この事件ひとつを取り上げて見るだけでも、彼がまったく無垢《 む く 》の第三者だったと考えることは至難の業だ。脅かされて仕方なく従っていたわけでもあるまい。彼は事情を知っており、積極的に栗橋浩美と行動を共にしており、脆弱《ぜいじゃく》になっていた栗橋浩美の精神のつっかえ榛として機能していた。
では、高井和明自身の狙いや目的は何だったのだろう? いやそれ以前に、彼が栗橋浩美と行動を共にするようになったのは何時《 い つ 》からのことだろう? どの時点からだろう?
武上はそれを、どれほど早く見積もっても、古川鞠子の拉致監禁以降ではないかと考えていた。もう少し遅かった可能性もある。それ以前の殺人は、おそらく、栗橋浩美の単独犯行だったのだ。そう考えた方が、あの大量の記録写真の存在意味がよく見えてくる。あの段階ではまだ、殺人と暴行とその記録作成は栗橋浩美の個人的趣味だったのである。
それが、何かのきっかけで高井和明という外部のファクターが加わったことによって、社会に対する挑戦的な姿勢が喚起され、ただの嗜虐《しぎゃく》的な趣味が、一種のメッセージ性を帯びた劇場型の犯罪へと発展した。それこそが、武上の考える「二人狂い」の形だった。この形は、栗橋浩美といういささか軽薄な人殺しの持っていた未熟な頭のなかだけで構築できる次元のものではなかったという気がして仕方がない。
社会に対する根深い劣等感や憎悪や疎外感がなければ、あんなことはやれない。栗橋浩美という人間だけでは、そのハードルは越えられない。だからこそ高井和明が居たのではないのか。喫水線を超すためのバラストの役割を果たすために。
今まで一度も世間から認められたことがなく、居ても居なくても同じように扱われ、同級生たちには軽んじられ、先生からは疎んじられた少年時代をそのまま引きずり、代わり映えしない日常を両親の庇護の下に送りながら、ぼんやりと生きていた青年。そんな彼が、殺人という非日常にどっぷり耽溺《たんでき》している幼友達の仮面の下の顔を見たとき、そこにどんなストーリーを描いたか。
なんとしてもアジトを見つけたい。爆心地には、すべてが焼きついている。
「武上さん、電話です」
声をかけられて、武上ははっと目を上げた。その拍子に、口の端にくわえていたタバコの先から灰が落ちた。武上は、ミミズの死骸のようにわずかによじれた長い灰を机の上から払い落としながら受話器をつかんだ。
「もしもし、ガミさんかい?」
聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「なかなか連絡しないで、済まなかったね。俺だ。建築家≠セよ」
回転椅子をきしらせて、武上は座り直した。タバコを消し、しっかりと受話器をつかんだ。向かいの机でパソコンのキーを叩いていた篠崎が、ちょっと手を止めて武上を見た。
「ありがとう。電話を待っていた」
武上がそう言うと、相手は笑った。
「まだ引き受けると決めたわけじゃない。実は迷ってるんだ」
「──仕方ない」
「興味はある。だが、また胃に穴があくのは怖いからね。女房は大反対だ」
「それも当然だ」
ちょっと咳払いして、建築家≠ヘ続けた。
「結局断ることになるにしても、ガミさんには一度会いたいと思ってさ。俺にこんなことを依頼することは、もちろん上の方には内緒なんだろう?」
「そうだよ」
「写真も無断で持ち出すことになるんだよな?」
「そのつもりで予備のファイルを作ったんだ」
「バレたらガミさん、良くて依願退職だぜ。今まで地道に築いてきた実績が全部パアだ。警備会社にでも勤めるつもりかい?」
「あんたみたいに、悠々自適の暮らしはできないだろうな」
相手はまた笑った。少し暗い笑いだった。
「一時間後に、例の場所で会えるかい?」
「大丈夫だ」
「ファイルを持ってきてくれ」
「……」
「この目で資料を見てみたい。見た上で、俺が役に立てるかどうか考えたい」
「判った」
「今さら念を押すまでもないけど、俺に判るのは建物のことだけだよ。それでいいんだな?」
「もちろんだ」
それじゃと言って、建築家≠ヘ電話を切った。カチリという音を完全に聞き終えてから、武上は受話器を戻した。
ふと見ると、篠崎がもの問いたげにこちらを見つめていた。しみじみと見つめ返すと、彼の両目の下に隈ができていることに気がついた。こいつもヤクでもやっているみたいだと、武上は思った。
「篠崎、ちょっと付き合え」武上は椅子を引き、立ち上がった。「散歩に出よう」
武上が「散歩」と言えば、それは実況検分調書に添付されている地図や図面と実物との突き合わせを意味すると、今ではデスク担当の全員が承知している。だから誰も不審には思わない。実際、篠崎もそのつもりでついてきたようで、メジャーが要りますねと言った。「格好つけに持ってきてくれ」と、武上は言った。
「本当は本当に散歩したいだけなんだ。おまえにちょっと、聞いておいてほしいことがある」
篠崎はきょとんとしてまばたきをした。何度か彼に会ったことのある武上の妻は、篠崎を評して「一年中、寝起きの小さな子供みたいな顔をしてる人ね」と言ったことがある。「ああいう人は、案外年上の女性にモテるものよ」と言ったこともある。無防備で保護欲をそそるという意味合いがあるならば、それは刑事に向いた資質ではなさそうだ。
篠崎は散歩用の道具一式を取りに行き、彼が戻ってくるのを待つあいだ、墨東警察署の正面玄関を出たところで、武上はタバコを二本灰にした。そうしていると、ふと記憶がよみがえった。大川公園のゴミ箱から右腕が転がり出たあの日、塚田真一とここに並んで座り、話をした。あのとき、タバコの煙越しに見た少年の、疲れ果てたような顔を思い出したのだ。
あの子は今どうしているだろう。犯人たちが死亡し、事件が大筋では収束に向かっていることを、あの子なりに安堵しているだろうか。
ぼんやりと記憶をたどっていると、あの時、少年に向かって言おうとして、結局は言えなかった言葉が胸の内に浮かんできた。
いくら武上が「君には責任はない。ご家族が亡くなったことに対して、君に罪はない」と言っても、少年はほとんど聞いていないようだった。武上は少年の家族の上に降りかかった事件の直接の担当ではないが、詳細は知っている。強盗犯が少年の家を襲ったのは、少年が友達と「うちに大金が入った」と話し合っているのを聞きつけたからだということも承知していた。だからこそ、「君には責任はない」と、しつこく言ったのだ。そしてその先に、もうひとつ言いたいことがあった。
──君、将来は刑事にならんか。
罪悪感を背負い、この世の邪悪に怯えて暮らすよりは、積極的にそれと闘う立場を選んでみれば、人生が開けるかもしれない。武上としては、早くに肉親を亡くした子供が、大人になったら医者になろうと決心するときのような、一種の悲壮で崇高な覇気を、塚田真一に与えたかったのだ。
だが、あの場では言えなかった。それほどに、少年の絶望と疲労が深いように見えたからだ。
「お待たせしてすみません」
篠崎が駆け寄ってきた。ここにもひとり、くたびれた元少年がいると、武上は内心、苦く笑った。
[#改ページ]
「さっき、俺宛にかかってきた電話があったろう」墨東警察署の建物を離れ、最初の四つ角を折れたところで武上は口を切った。
篠崎は、内気な恋人のように半歩後れてついてきた。武上は、ぶらぶらと大川公園まで行き、園内をぐるりと廻って帰ってくるつもりだった。それぐらいの時間があれば、話も終わるだろう。
あれは建築家≠ゥらの電話だったんだと、武上は言った。
「実は、仕事を頼んだんだ」
「また家を建てるんですか?」篠崎は、機械的に合の手を入れるように質問した。
「まさかな」
「そうですよね。どういう人なんですか」
「俺の昔の同僚だよ」
大川公園前の大通りに出た。武上は公園入口の方に足を向けた。
「十年前までは、本庁で一緒に働いてたんだ。いい刑事だったよ。ところがやっこさん、胃|穿孔《せんこう》ってヤツで倒れてね」
「胃に穴が空《あ》いたんですね?」
「うん。緊急入院して手術だ。しかも、それがなんと三度目だった。胃の壁が薄い体質なんじゃないのかね。カミさんは泣くやら怒るやら、そのうち警察に殺されるってやっこさんを説得して、で、退職することになったというわけだ」
「十年前と言ったら、まだ四十歳ぐらいじゃないですか」
「そうだよ。だが、やっこさんにはとりあえず生活の心配がなかった。夫婦二人暮らしで、カミさんは学校の先生。堅い仕事だし、何も夫婦そろってお上に奉職することもあるまいというわけだな」
「それで悠々自適の生活ですか」と、篠崎は言った。武上は、やっぱりこいつ、さっきの電話をしっかり聞いていやがったなと思った。
「貸ビル業ってのは、基本的にそんなに忙しいものじゃない」と、武上は続けた。交差点の信号が青になったので、大股に渡り始める。篠崎は小走りについてくる。
「身体の方がよくなると、やっこさん退屈になってきた。で、昔から興味のあったことについて勉強を始めた。やっこさん建築が好きなんだよ。子供のころは、大人になったら建築家になりたいと思ってたそうだ」
「それがなんで警官になったんでしょうね」
「わからん。職業訓練学校の索引で、警察学校と建築学校の項目が並んでたのかもしれないな」
篠崎は笑いもせず、真面目に「そうですか」と応じた。真剣に話を聞いているようでもあり、どこか上の空のようでもある。武上は、彼を散歩に連れ出した、もうひとつの目的の方を先に果たそうかと、ちょっと迷った。篠崎おまえ、何を悩んでるんだ? と尋ねるのだ。妙に元気が無いが、どうしたんだ?
大川公園の入口を抜けて、二人は園内に足を踏み入れた。事件の余波はとっくに収まったものの、冬枯れの時期である。人影はまばらだ。風が身にしみた。
武上はポケットをさぐるとタバコを取り出した。屋外で吸うタバコは旨い。
「三年ほど熱心に勉強して、やっこさん一級建築士になっちまった」煙を吐きながら、そう続けた。「だがそれで事務所を開くとか、どこかへ再就職するようなことはしなかった。またそっちの仕事に入れあげて、胃に穴が空いたら困るって、カミさんが反対してたからな。亭主に向かって働くな≠チてガミガミ叱るカミさんなんて、俺はやっこさんのカミさんしか知らないよ」
歩きながら、篠崎はくしゃみをした。
「だからやっこさん、建築を趣味みたいにして、まず自分の家を自分で設計して建て替えた。新築祝いにやってきた友達がそれを見てえらく気に入って、自分の家の設計を任せた。そうやって口コミで仕事が来るようになって、なにしろ生活には困らないヤツのことだから。やりたい仕事だけを受けて楽しくやってる。うらやましい人生だな」
「ホントです」気のない声で、篠崎は応じた。
「ところがやっこさん、一部じゃ変人≠ナ通ってる」
「変人?」
「うん。人間よりも建物が好きってなところがあってな。これはもう、刑事をやってるころからそうだった。一緒に現場へ臨場するだろ? するとやっこさん、関係者の話を聞いたり遺体を見たりするよりも、現場や周りの家や建物ばっかり観察してるんだよ。そこから得られる情報の方が、嘘つきの人間の言葉よりもはるかに信頼できるって言ってさ」
しょぼしょぼと元気なく、水を吹き上げているというよりはこぼしているという感じの噴水の脇のベンチに、武上は腰をおろした。
「たとえばこんなふうだ。やっこさんと俺が本庁で一緒の班になったばかりのころに、都内の一戸建ての家で主婦が殺されるという事件が起こった。発生は週末の金曜日、午前二時過ぎのことでね、残業と接待で疲れ切った亭主がやっとこさ家に帰ってきたら、一階の台所で女房がタオルで首を絞められて死んでいたというんだ。亭主はすっかり取り乱していて、最初の一一○番通報では何を言ってるかもよく判らないほどだった。
二階の子供部屋に寝ていた小学生の男の子は無事だった。この子は物音や悲鳴を聞いていない。侵入口も逃走口も風呂場の脇のいわゆるユーティリティ・ルームの窓であるらしくて、ガラスが外から割られて鍵が外されていた。あいにく、家の周りの地面はコンクリートで固められてるんで足跡は発見できなかったんだが、室内には、サイズ二十六センチのゴム底の靴跡が二つ残っていた。
亭主が帰宅したとき、照明が点《つ》いていたのは台所だけだったそうだ。この台所には窓が無いので、外からは明かりが見えない。亭主も、玄関のドアを開けてなかに入って初めて、女房がまだ起きていると知ったって言う。で、遺体を見つけて仰天したというわけだな。遺体はパジャマ姿の上に薄いウールのカーディガンを羽織っていて、裸足で室内履きをつっかけていた。四月末のことだったんで、寒くはなかったろう。被害者のベッドには、横になった形跡はなかった。
台所やリビングの家具の引き出しが開けられたり、マガジンラックがひっくり返されたりしていたが、室内はそれほど荒らされていなかった。ただし、食器棚の引き出しに入っていた現金五万円がなくなっていた。凶器のタオルは洗面所に置いてあったものだった。
通報で警官が駆けつけたとき、被害者の身体にはまだいくらか体温が残っていた。犯行はほんの一、二時間前のことだったんだ。遺体は台所から動かされた形跡が無い。ただ若干の格闘があったらしく、敷物が乱れていたり、調味料だの食器だのが床に落ちていたりした。被害者は犯人に背を向けて逃げだそうとしたらしく、殴られて倒れたところを後ろからタオルを輪にして首にかけられて、絞められている。さあ篠崎、おまえならこの状況をどう見る?」
ちょっと間をおいてから、篠崎は答えた。
「窃盗犯が、盗みに入ったところを主婦に気づかれて殺した──という線ですかね」
「最初から家のなかの人間を殺すつもりで押し入ったわけじゃない?」
「だったら、凶器を用意してくるでしょう。洗面所のタオルなんか使わないですよ。犯人は、家人がもう寝静まっていると思ってたんじゃないですか。ところが主婦が起きていた。帰りの遅い夫を待っていて、ねぎらうためかとっちめるためか、どっちか判らないけど。姿を見られて、犯人はあわてた。で、殺してしまった。目に付きやすい食器棚の引き出しだけ漁《あさ》って、見つけた金だけ盗った。階上《 う え 》にはあがらなかったから、子供には気づかなかった」
「マガジンラックは?」
「被害者と格闘したときにひっくり返したんじゃないですか? いや、違うか。格闘があったのは台所だ。じゃ、逃げるときにあわててつまずいたとか」
「残念ながら、ユーティリティ・ルームの窓まで行くのに、リビングは通らない」
篠崎は眼鏡をはずして子供のように目をこすった。武上は笑った。
「マガジンラックがなぜひっくり返っているのかという一点の疑問だけを脇に除けば、当時の俺たちの考えも、今のおまえの立てた仮説と同じだったんだ。こりゃ物盗りの仕業だろうなとな。ちょうどこのころ、この地域で、同一犯もしくは同一犯人グループによる空き巣や窃盗事件が頻発していたという事情もあった。パトロール重点地区に指定されてたくらいなんだよ」
篠崎は眼鏡を元通りに鼻先に乗せた。「で、種明かしはどうなるんです?」
ふふんと笑って、武上は続けた。「もちろん俺たちも、既婚女性が殺された場合は、まず夫を疑えという鉄則を忘れたわけじゃない。しかもこの場合は亭主が第一発見者でもある。夫婦仲はどうだったかとか、経済的な問題がなかったかとか、事件当夜の亭主の行動に不審なところがなかったかどうかとか、丹念に聞き込みをしたよ。だが問題は見つからなかった。彼らは裕福だったし、近所でも有名なおしどり夫婦だっていうんだな。それに、俺の見る限りでは、事件当夜の亭主の取り乱しぶりに嘘や芝居の匂いはなかった。あれは本物の錯乱状態だった。やっぱり、この地区を荒らしていた常習的窃盗犯が強盗殺人犯になったんだと考えるのが妥当だろうという結論に落ち着きかかった。
ところが、そういう俺たちのなかで、唯一やっこさんだけが、建築家≠セけがさ、最初からずっと言い張って聞かないんだ。あれは亭主の犯行だ、やったのは亭主だよってな。
なんで判るんだよと、俺は聞いた。するとやっこさん、家を見れば判ると答えた。
なんでこんな家を建てるかな、こんな家に住むから女房殺すようなことになるんだよ
そんなことを言いやがる。
この夫婦は金持ちだったと言ったが、家も建て売りじゃなく注文住宅でね。班のみんなが苦笑いするなかで、俺はへそ曲がりなのかな、建築家≠フ意見に興味があったから、やっこさんと二人で夫婦の家をつくった建築事務所に聞き込みに行った。すると意外なことが判った。この家を建てるとき、意見を出し注文をつけたのは、もっぱら亭主の方だったというんだな。被害者である女房の方は、ただ、はいはいと亭主の言うことに従っていただけで、彼女自身の希望や意見はほとんど出されなかったっていう。なにしろ、担当の建築士は、最初の挨拶のとき以外、彼女と口をきいたことがないっていうんだから」
「それが意外なことなんですか?」
「充分に意外だよ。思い切って、いささか異常だと言ってもいい。おまえも所帯を持って自分の家を建てようという時期が来たら、きっとよく判る」
なぜか判らないが、篠崎はすっと俯いた。
「家というのは亭主のものじゃない。とことん女房のものだ。だから、どんなおとなしい女だって、いざ家を建てるとなったら黙っちゃいないのが普通だ。ましてやこの夫婦は近所でも評判のおしどり夫婦だったんだぜ。亭主が女房の希望を訊かないのは、どう考えたっておかしい。建築士の話じゃ、彼女は黙って亭主の横に座って、亭主が何か言うたびに、人形みたいに首を縦に振っていたそうだ」
武上は短い指に火の点いたタバコをはさんだまま、腕をあげて空《くう》に家の形を描いてみせた。煙が尾を引いて、かげろうのようにゆらゆらする三角屋根の形をつくった。
「俺は建築家≠ニ一緒に、もう一度現場の家に行くことにした。その前に、会社にいる亭主を訪ねて、お手数だがまた家の中を検証させていただきたいと言うと、嫌な顔もしないで鍵を貸してくれたよ。建築家≠ヘ、亭主は自信を持ってるんだと言った。彼が犯人だなんて、誰にも判らないとな。だから、心のなかでは笑いながら、俺たちに家の鍵を投げて寄越すんだと。建築家≠ヘ家の前に立つと、まずこの家は背が低いと言った。これだけ立派な注文住宅なのに、一階も二階も安っぽい建て売り並みの天井の高さしかないと。やっこさんが言うには、予算の心配をあまりせずに家を建てられる人間なら、天井はできるだけ高くしようというのが自然の心理なんだとさ。それで背高のっぽの家になるのが嫌なら、いっそ平屋で建てる。ところがこの家は、二階家でありながら異様に背が低い。これは、この家の主である亭主の心の表れだ、亭主が女房と子供をこの家に閉じこめて、ちょうど小鳥の雛かなんかを手のひらに包んでぎゅうっと握るみたいに、窒息して死んでしまうギリギリ一歩手前まで押さえ込んでおきたいという心理を表しているんだと、建築家≠ヘ言った。
家のなかに入ると、それがもっとはっきりする。低い家の割に階段が急で、その階段の下がリビングになっているという、いわゆる吹き抜けの構造になってる。階段を上りきった二階のとっつきにあるのは夫婦の寝室と、それに隣接した亭主の書斎なんだが、そこからは台所を隈無《くま な 》く見通すことができるんだ。つまり亭主が二階の踊り場に立つと、台所で立ち働いている女房を頭の上から観察することができるんだよ。まるで刑務所で看守が囚人を監視するみたいにな。吹き抜け構造の家を建てる人間は、普通はそんなことをしない。台所なんて、言ってみれば家の舞台裏だ。たとえば来客があって家のなかを案内したときに、わざわざ吹き抜けから舞台裏を見おろさせるような造りをするなんておかしいと、建築家≠ヘ言うわけさ。
俺たちは亭主の書斎に入ってみた。机の正面に窓があって、そこから下をのぞくと、ユーティリティ・ルームの天窓が見えた。そのまま座っていろと俺に命じて、建築家≠ヘ下へ降りてユーティリティ・ルームに入った。やっこさんの頭のてっぺんの薄くなりかけたところが、書斎の椅子に座っている俺の目に飛び込んできた。つまり、これも監視窓さ。
建築家≠ヘ戻ってきて、この家は窓が小さいと続けた。外から人にのぞかれないように、ぶっちゃけて言えば、外から誰かに女房の姿をのぞかれないように[#「外から誰かに女房の姿をのぞかれないように」に傍点]、窓を小さくしてあるんだと言うんだ。それから俺たちは一階のガレージに入った。ガレージの亭主の車を停めてある位置から、リビングを見通すことのできる小窓がついていた。洒落た小窓でさ、船の丸窓の形をしてるんだ。だから一見、装飾窓のように見える。だがそこに窓のあることの意味をよく考えると、俺は首筋が薄ら寒い感じがした。建築家≠ヘ言った」
──見ろよ、この家はどの部屋にも電話の子機がある、洗面所にも台所にもある、トイレにもある、階段の踊り場にもあるんだ。ただ便利さのために設置した電話機じゃない、これはただの電話機じゃない、一種の遠隔監視装置だ。亭主は外から日に何度も電話をかけたのかもしれない。かけなかったかもしれない。だが、たとえかけなくても、俺が電話をかけたらすぐに出るんだぞという、無言の威圧を感じるじゃないか。
武上はもう一度、空に家の絵を描いた。
「俺たちは家のなかに引き返して、ぐるりを見回して、天井や壁を見あげた。二種類の壁紙を組み合わせて壁に線を描いてあるところや、部屋の仕切りの立て方の角度とか、ただ漠然と見たときにはデザインとしてシャープで格好いいと思っただけのものが、俺には急に意味があるように思えてきた。建築家≠ヘ言ったよ、この家はどこもかしこも鋭角だらけだ、鋭角ってのは問いつめる角度なんだよ、この家は、監視して、問いつめて、追い込んで、閉じこめる家だ、これが亭主の好みのままに建てた家であるならば、その亭主がどんな人間なのか、俺はひらがなを書くよりも簡単にあててみせることができるぜ」
──嫉妬深い暴君だ。殺《や》ったのは亭主だよ。亭主以外にいない。
「つまり建築家≠ヘ、家を見ればそこに住む人間の心を見ることができるっていうんだ。人間の心は、そのままその住まいに顕《あらわ》れる。人殺しの家は人殺しの顔をしている。詐欺師の家は詐欺師の顔をしている。やっこさんはそれを読み取ることができるんだ」
篠崎は眼鏡の縁に指をあてたまま、じっと武上の顔を見ている。武上はにやりと笑ってみせた。
「もちろん、だからと言って、何から何まで判るというわけじゃない。やっこさんも、俺に判るのは、ある人間の、その人間が生活空間としている建物から窺い知ることのできる、ある一面だけだ≠ニいう慎重な言い方をしている。だが、それだって貴重な捜査の材料になることに違いはないだろう? それに、やっこさんはとにかく建築物が大好きでさ、やたらと数を見てるんだ。たとえばこうやって道を歩いていて、造作の変わった家を見つけると、全然知らない家であっても、インターフォンを鳴らしてごめんくださいと訪ねて行くんだな。で、内部を観察できるときは観察するし、それができなくても、その造作の変わった家にどんな人物が住んでいるのか確かめてくる。その家の住人について、密かに調査をすることもある。変人呼ばわりされるのは、そのせいでもあるんだ」
武上は右手の人差し指でこめかみを叩いた。「やっこさんの頭のなかには、今までそうやって蓄積してきたソフトが詰まってる。それを活用しない手はないじゃないか」
「つまり武上さんは──」
言いかけて、篠崎は咳払いをした。ずっと黙っていて急にしゃべりだしたので、声がかすれていた。
「栗橋浩美の残した写真を、その建築家≠ノ見てもらうつもりなんですね? 彼らのアジトの場所を突き止める手がかりをつかむために」
武上はうなずいた。
「だけど相手は民間人ですよ。昔は仲間でも、もうとっくに退職した人です」
「そうだな」
「だとするとこれは、公式な捜査協力依頼をかけるという形ではなくて、あくまでも武上さん個人の依頼なわけですね?」
武上はもう一度うなずいた。
「それなのに、一般にはほとんど公開していない写真を渡して見せるんですね? ファイルも、そのために余分に作ったということですね?」
篠崎はそう言って、おそらくは武上がまたうなずく顔を見ないようにするためだろう、急いで目をそらした。
「僕にこんなことを話してしまっていいんですか? 僕が上司にかくかくしかじかと密告したら困るんじゃないですか?」
「おまえの上司は俺だ」
「ほかにもいます」
「密告したいか?」武上は新しいタバコに火を点けた。
「しなきゃならない義務があるんじゃないかと、今考えています」
「バカだねえ、義務はあるさもちろんあるよ」
武上が煙を吐きながらあっさり言ってのけると、篠崎は目をあげて彼を見た。
「だけども、おまえは密告したいか? したくねえだろ」
篠崎がなんとも切なそうな顔をしたので、武上は吹き出した。ついでに煙にむせてしまった。
「密告したくねえに決まってるんだ、おまえは。だが、それは俺を尊敬しているからとか、俺となら心中してもいいというくらいに惚れ込んでいるからとか、そういう理由があるからじゃない。興味があるからだ。違うか? おまえ、知りたいだろう? 建築家≠ェ本当にそんなにユニークな鑑定眼を持っているならば、あの写真を見て、まだ俺たちがまったく何の手がかりもつかんでいない栗橋浩美のアジトについて、いったいどんな意見を吐くか、聞いてみたいと思ってるだろう? だから密告なんかしないんだ」
「武上さんには、僕の頭のなかが透けて見えるんですか?」
「悪いが、見える」
篠崎はへへへと笑った。自転車から落ちて照れ笑いをする子供のようだった。
「だけど、なんで僕にうち明ける必要があるんです? 武上さんひとりの胸の内に納めて黙っていてもいいことなのに」
「そうはいかない。十年前だったら、俺ひとりが知ってりゃいいことだったが、もう、そうはいかないんだ。五十を過ぎたからな」
「え?」
「ある日突然頭の血管がぷちんと切れて、ぽっくりいく可能性だってあるってことだよ。人間誰だってそういう年齢にさしかかったら、ひとりで秘密を持っていちゃまずいんだ。あとがややこしくなるからな。若いやつらに申し送りをしておかないとな」
「縁起でもない……」
「縁起の問題じゃねえ。それに建築家≠ヘおまえの言うとおり民間人だから、定年がない。俺は時期が来たらハイさよならと退官する。でも、もしもおまえが建築家≠ニ相性がよければ、やっこさんがくたばるまで、一種の情報源としてあてにすることができるってわけだ。いい話だろう?」
「そうですね」篠崎は、お愛想のあいづちだけではない熱意をこめてうなずいた。「でも武上さん、あの写真から、アジトのことなんか判るでしょうか。僕は全部見たわけじゃないですが、少なくとも目についた限りでは、撮影場所を特定できるほど背景が写り込んだショットはなかったような気がします」
それは武上も承知している。栗橋浩美はあれだけの個人コレクションをつくりながらも、写真撮影に関しては最初から最後まで素人で、被写体のアップばかり撮っていた。もちろん、彼の目的は女性たちを写すことにあったわけだから当然だが。
だがそれでも、女性の背景にその部屋の壁紙が写っていることは多いし、彼女たちが座らされている椅子の背もたれに陽が当たっていたり、鎖でつながれているベッドの柱の脇にドアの枠がちらりと見えていたりと、ほんの切れっぱしだが情報がないわけではない。建築家≠ネら、そこから何かを引き出すことができるだろうと、武上は期待していた。
以前、まったくの別件で、建築家≠ェある犯罪の現場となった部屋のたった一枚の写真を元に、武上を驚かせてくれたことがあったのだ。まず、室内の明るさと床に落ちている家具の影の長さから、窓の位置と天上高、窓枠の大きさまで逆算し、おおよその床面積をはじき出した。そこから先はさらに手品のようで、その部屋が一戸建てではなくマンションであること、ただし地上五階以上にはないこと、室内に露出して見える柱の形から推して昭和六十二年以前に建てられた建物であること、少なくとも過去に二回、転売や賃貸のために、一年以上継続して居住した世帯が入れ替わっていること、そのうちの一組には就学年齢以下の子供が二人以上いたこと──などなどと列挙していった。それらは全部ぴたりと当たっていた。
「期待していいと、俺は思っている。建築家≠ヘきっと、あの写真からアジトについての手がかりを見つけてくれるよ」
「あんな写真を見て、また胃に穴が空いたりしないといいんですが」篠崎は言って、ため息をついた。「それにしても、あれだけの写真を現像した店は、まだ突き止められないんでしょうか」
過去をたどって調べていっても、栗橋浩美にも高井和明にも写真の趣味はなく、現像や焼き付けを自力でこなせたはずはない。となると、フイルムをどこかの店に持ち込み、現像してもらって料金を払っていたはずだ。
一般の写真屋が、お客の若い男が持ち込んできたフィルムに写っているのがあれらの女性たちの姿だということに気づいたら、どう対処するか。まず考えられるのは、「こういう種類のフィルムはお取り扱いしかねる」と断るということだ。多少の金を積まれようと、町の写真屋だったらまず絶対に間違いなくフィルムを突き返してしまうだろう。
そこから先が、少し枝分かれする。フィルムに写っていた光景に犯罪性を感じ、警察に通報する店もあるだろう。万が一のことを考えて、お客の男の名前や電話番号を控えておく店もあるだろう。近隣の同業者たちに連絡し、こういうフィルムを持ち込んできた男の客がいなかったかと尋ねたり、あるいはこれから来るかもしれないぞと警告したり、どうしようかと相談する場合もあるかもしれない。
いずれにしろ、栗橋浩美が一般の写真屋を利用していたならば、あの爆弾記者会見を経て写真の存在が世間に知れ渡った段階で、現像を手がけた店のどこかが──店は単数ではなく、必ず複数が利用されているだろうから──警察に申し出てくれたはずである。
しかし、今までのところ、そういう情報は入ってきていない。写真が綴じ込まれていた簡単なアルバムのうち数冊が、写真屋がお客にサービスで渡すものだったので、その線は綿密に調べられたのだが、あまりにも数多く出回っているもので、しかもそれは栗橋浩美がこの写真の現像の際に手に入れたものであるかどうかさえもはっきり判らないので──極端な話、家にあったものを利用しただけかもしれない──手がかりにはならなかった。
現在のところ特捜本部は、栗橋浩美はあの山ほどの写真の現像に、特定の危ない℃ハ真の取り扱いを高値で引き受ける写真屋を利用していたのだろうと考えている。素人でも、この手の危ない℃ハ真を扱う写真屋を探すのは、けっして難しくない。ピンク雑誌をめくればいくらでも広告が載っている。もちろん露骨に「普通の写真店で現像できないものを扱いますよ」
と宣伝しているわけではないが、そこは魚心あれば水心だ。
そしてこの手の写真屋は、一般の業者と違い、何があってもけっして警察には連絡してこない。叩けば埃の出る商売だ。何も言わずに口をつぐんでいるだろう。しかしそれでも、そういう業者の世界ではやはりこの件は話題になっているだろう。特捜本部としては、根気よくそれを嗅ぎ出し、追跡するしか手段がない。写真ルート担当班の頭《あたま》は武上と時々つるんで飲むことのあるベテラン刑事のひとりだが、半年以内に必ず栗橋浩美|御用達《 ご ようたし》の業者を特定してみせると宣言している。
「まあ、そのうち見つけるさ」武上は言って、よいしょと勢いをつけて立ち上がった。「どれ、ぶらぶら戻るとするか」
篠崎もぽんと立ち上がり、両手をはたいてからさっさと歩き出した。武上はのんびりと後に続きながら、建築家≠ノファイルを手渡すときには、おまえも一緒に来るようにと言った。
「そうすると僕も共犯になりますね」
「ますます密告しにくくなる」
参ったなぁと後ろ頭をかく篠崎に、武上はひょいと足をすくうようにして質問した。「ところでおまえ、最近何を悩んでる? 女のことか?」
篠崎が、劇的な犯人の逮捕劇こそ無いものの、初めて関わっているこの大事件に没頭しており、うたた寝すれば夢にうなされ、パソコンの画面の奥に殺された女性たちの悲しそうな顔の幻影がおぼろに浮かぶのを見ては首をうなだれていることを、もちろん武上は知っている。篠崎を苦しめているのは事件そのものの残酷さだ。だから、今あえて「女のことか?」と訊いたのは、今のこの状況ではそれがいちばんありそうもないことで、だからそんなふうに訊けば、いかにもお気楽そうな雰囲気をつくれると思ったからだった。
ところが、篠崎は足を止めると、すうっと真っ白になった。武上も驚いて立ち止まり、勢い余って右足の靴の踵《かかと》を左足で踏んでしまった。
「なんだよ、おい」
武上があわてたことで、篠崎は自分の反応がいかにバカ正直なものだったのか、あらためて気づいたらしい。大急ぎで眼鏡をずりあげると、いえ何でもないですとかなんとかもごもご呟いて、せかせかと歩き出した。
「おいおい、ちょっと待て」武上は彼の肘をつかんで引き留めた。「ただならない雰囲気じゃねえか、私生活のことに首をつっこむ気はないが、ここんとこのおまえの様子は目に余る。だからわざと訊いてみたんだ。おまえ、本当に何を悩んでるんだ? 上司として真面目に質問してるんだぞ」
篠崎は再び足を止めた。教室でおもらししてしまい、身動きさえしなければ級友たちにそれを悟られずに済むと信じて、じいっと椅子に縮こまっている小学生の男の子のように固まっている。武上は笑い出しそうになり、怒りたくなり、哀れにもなって、いっぺんに複雑な表情を浮かべることはできないので、ただ口を尖らせて黙っていた。
「実は……見合いをしたんです」と、篠崎が小さな声で言った。「いえ、したんじゃなくて、正確にはし損なったんですけど」
なんだ本当に恋愛問題で悩んでいやがるのか? と呆れながら、武上は訊いた。「いつの話だ」
篠崎の小さな喉仏がごくりと上下した。彼が何か言う前に、武上はせっかちにたたみかけた。「最近の話か? 俺がおまえの様子がおかしいと思い始めたのは、この半月ぐらい前からだ。そのころ見合いしたのか? で、おまえは気に入ったが相手は嫌だというのか? それともなんだ、見合い話が来たんでガールフレンドと揉めちまったか?」
「ガールフレンドなんて、いませんよ」篠崎は情けなさそうに目をしばしばさせる。「フラれてばっかりで、全然駄目なんですから。だから、このままじゃアンタなんか一生独身でいるに決まってるって、見合い話を持ってくるおせっかいな親戚がいまして。大伯母なんですけどね」
「ははぁ。そういうババアに限って、ロクな話を世話しないもんなんだがな」
篠崎の顔色がまた一段と白くなった。武上にはまだ話の焦点が見えなかったが、なんだか嫌な予感がしてきた。
「で、その見合いはいつの話だ」と、もう一度訊いた。
「九月十二日でした」と、篠崎が答えた。
武上は彼の言葉尻にかぶせて言おうと思っていた言葉を引っ込めた。九月十二日だと?
「大川公園で右腕が出た日です」篠崎は言って、あのゴミ箱のあった方向へ首をよじって振り向いた。「あの日、何もなければ僕は休みだったんです。代休をとってまして。見合いのために休みをとらされたんですけど」
「だが、右腕が出て見合いはおじゃんになった?」
「そうです」
それの何が問題なのだ? 顔色をなくすほどに?
「僕は見合いなんか望んでなかったので、渡されていた相手の経歴も写真も見ていませんでした。忙しかったし。当日の席でも、気のない顔をしていればすぐに壊れる話だろうと思っていました。その意味では、事件が起こって招集がかかったのは嬉しかった。仕事だって言えば、みんな諦めますからね。大伯母に電話して、見合いのことなんかきれいに忘れて、さっさと署に行きました、だから、相手の女性の名前も顔も家族構成についても、まったく何も知らなかった。まるっきりの白紙だったんです」
自分を励ますように息をついて、
「それがちょうど二週間ぐらい前、大伯母から電話がかかってきたんですよ。また見合いの話でした。今はそれどころじゃないって断ると、今度はしきりと謝るんです。前回は悪いことをしちゃった、まさかあんなことになるとは思わなかったって。今度は見合い相手の身内のこともよく調べるようにするからって。それどういうことですかって、訊きましたよ。そしたら──」
武上は風邪の引き始めのときのように、背中がぞくぞくするのを感じた。
「そうなんです」篠崎は、武上の顔色を読んでうなずいた。「僕にも信じられなかった。僕が見合いすることになっていた女性は、高井由美子というんです。練馬の蕎麦屋の娘さんですよ」
高井和明の妹である。
「そうか……だからおまえ……。だが、その見合いは流れたんだろう? 相手に会う必要はなくなったんだろう?」
恐ろしい偶然もあったものだが、済んだことならばもう気にする必要はない。しかし、篠崎は眼鏡を外してまぶたをこすると、元気なく首を振った。
「それならいいんですが……」
「まだ何かあるのかよ」
「大伯母の話じゃ、先方が今になって僕に会いたがってるっていうんです」
「どういうことだ?」
「見合いの段階では、先方も僕のことは、ただ地方公務員≠セとしか知らされていなかったらしいんですね。それがあんなことになった後で、たぶん大伯母が口を滑らせたんだろうと思いますけど、僕が墨東警察署の刑事で、大川公園事件から捜査本部に加わっているってことが伝わりまして」
篠崎の大伯母が、こういうケースできちんと口をつぐんでいられるような人物だとは、武上にも考えにくかった。なんとも皮肉なことだわねえの一言ぐらい、高井家側に伝えそうな感じがする。
「高井和明が死亡した直後は、あちらもとにかく大混乱だったから、僕のことを思い出す余裕もなかったんでしょう。ここのところやっと落ち着いて──と言っても、蕎麦屋は閉業状態だし父親は倒れて入院中で、母親と妹はマスコミを避けてあちこち転々としながら隠れ住んでいるらしいんですけど」
凶悪事件の犯人の家族が被る二次的な被害は、どんな白書の統計にもあがらず新聞報道もされない。しかし、厳としてそこにある。今回の事件の場合は、当の犯人たちがそろって死亡しているだけに、遺族の立場は余計に苦しいものになっていることだろう。本来ならば犯人が背負うはずの重荷のすべてが彼らの肩に載せられてしまうからだ。
「栗橋浩美の実家は薬屋だったよな?」
「はい。高井和明の家の蕎麦屋の近所なんですよ。彼らは幼なじみですから」
「そっちも、やっぱり閉店だろうな」
「今は両親共に行方不明のようです。調書や家宅捜索の記録を見ると、母親の方は息子の死んだ直後にはもう精神的に破綻していたみたいでしたけども」
武上はあらためて篠崎の顔を見た。
「高井の妹──由美子さんか。彼女も辛い状況にあるに決まってるよな。それなのに、今さら、流れた見合いの相手であるおまえに会いたがってるっていうのはどういうことなんだろうな」
篠崎は天を仰いだ。
「大伯母の話では、彼女、兄さんは犯人じゃないと主張しているというんです」
武上は黙ってタバコを出した。百円ライターを手のなかでもてあそんだ。
「兄さんは無実だ、事故に遭ったとき栗橋浩美と一緒にいたのは、何かどうしてもそうしなければならない理由があったからで、殺人には関わっていない、自分の車のトランクに、木村庄司の死体が積み込まれていることだって、絶対に知らなかったはず──そう言い張っているそうです」
「兄さんはそんな人間じゃない、か」武上は呟いて、ライターを擦った。小さな炎は、ともったかと思うとすぐに木枯らしに吹き消されてしまった。
「だからこそ僕に会いたいんですよ。刑事だから。もしも僕が新聞記者やテレビ局のレポーターだったとしても、やっぱり会いたがるでしょうね。彼女としてみれば、警察でもマスコミでも何でもいい、とにかく彼女の言い分を聞いて、受け入れてくれる突破口が欲しいだけなんです」
「それで、おまえは会ってやるつもりなわけだな」
今度は篠崎が黙った。
「会ってやろうと思ってるんだろ? そうでなきゃ元気を失くすわけがねえ。会ってどんなふうに話してやろう、どういうふうに対処してやろうと悩むからしんどいんだ。そうだろうが」
篠崎は首を巡らせ、なぜか武上の手のなかのタバコを見た。そのまま言った。「いけないでしょうか」
「いけない。会うな。これは命令だ」
「でも──」
「おまえ、会ってどうするつもりだ? 高井由美子に、おまえが何をしてやれるっていうんだよ?」
「納得がいくように、事情を説明してあげることはできるかもしれないじゃないですか」
「納得? 何の納得だよ。バカらしい」武上は吐き捨てた。「百年間膝詰めで説明したって、誰にも納得なんかさせられねえよ。高井由美子が兄貴は無実だと信じている限り、周りの人間にはどうすることもできないんだ。これはそういう種類のことなんだよ。忌々《いまいま》しいが、そうなんだ」
「でも、ちゃんと事実と真正面から向き合うようにしてやらなくちゃ、彼女は今後の人生を誤りますよ」
「何をお題目みたいなきれい事を言ってやがる」武上はだんだん腹が立ってきて、指にはさんでいたタバコを投げ捨ててしまった。
「いいか、よく覚えとけ。人間が事実と真正面から向き合うことなんて、そもそもあり得ないんだ。絶対に無いんだよ。もちろん事実はひとつだけだ。存在としてはな。だが、事実に対する解釈は、関わる人間の数だけある。だから、事実には正面も無いし裏側も無い。みんな自分が見ている側が正面だと思っているだけだ。所詮、人間は見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じないんだよ」
寒いのかそれとも感情が高ぶっているのか、篠崎は小刻みに震えていた。
「高井由美子が何を信じようと、それは自由だ。彼女が兄貴は無実だと思っていたいなら、放っておいて好きにさせてやった方がいい。そのうちどうしても現実と折り合いがつかなくなってくれば、彼女の考えも変わるだろう。やがては、兄貴は無実じゃないけれど、栗橋浩美に利用された犠牲者だと思い始めるかもしれない。あるいは、栗橋浩美のやってることを止めようとして止めきれなかった力弱い友人だったと思い始めるかもしれない。あるいは百八十度逆に針が振れて、兄貴は弱くてだらしなくてずるくて陰険な犯罪者で、そのために自分はこんなに苦しまなきゃならないんだと怒るようになるかもしれない。何だってあり得るし、何だっていいんだ。それこそ、高井由美子本人が納得して[#「納得して」に傍点]やってることならな。
もしも彼女が、兄貴は無実だと言い張って、その主張を通すためにめちゃくちゃな訴訟を起こしたり、誰かを肉体的に傷つけたり、精神的に悩ませたりするようなら、彼女のそういう行為自体をやめさせたり、忠告したり、訴訟の相手になってやることはできる。だが、できるのはそこまでだ。彼女の心のなかにまでは踏み込めないし、踏み込んじゃならん。それはたとえ善意からであっても、大きなお節介に過ぎないんだよ。
見合いして、もしかしたら結婚していたかもしれない相手として、おまえがおまえなりに彼女を気遣う気持ちはよく判るよ。そういう優しさは、俺たちみたいな仕事には、案外必要なものなんだ。だがな篠崎、おまえが高井由美子に会ったって、良いことはこれっぽっちもないぞ。彼女はいっそう深く傷ついて、いっそう強く自分の信じている事実≠ノしがみつくだけだ。それこそが、本当の意味で人生を誤ることじゃないのか? え?」
武上と篠崎の傍らを、コートの襟を立てた若いサラリーマン風の男が急ぎ足で通り過ぎた。こんなところで何を揉めているんだろうという目つきで、ちらりと武上の顔をうかがい、篠崎に同情の視線を投げて、枯れ落葉を踏みしめながら。
篠崎はゆっくりと口を開くと、白い息を吐きながら、つっかえつっかえ言った。「僕は──間違っているのかもしれませんが」
「ああそうだ、間違ってる」武上は鼻息も荒く言って、新しいタバコをくわえた。ぐいと力を込めて噛んだので、タバコがひしゃげた。
「その……彼女が……兄さんを無実だと思いこんでしまうのも仕方ないような……そういう状況があると思うんです。高井和明については、まだまだ曖昧なことが多いでしょう。栗橋浩美のあの写真みたいな、はっきりした目に見える証拠が無いから。彼が一連の犯行のなかでどういう役割を果たしたのか、特捜本部もまだきっぱりと見極めきっていないじゃないですか」
武上はタバコを吸いながら、ぐっと怒りを噛みしめるような顔で篠崎を見据えた。篠崎は怯えるように目をしばしばさせ始めたが、口をつぐみはしなかった。
「大伯母から聞いた話では、高井由美子は、警察が頭から彼女の兄さんを栗橋浩美の共犯者だと決めつけて、ちゃんと捜査してないんじゃないかと疑っているというんですよ」
「だから、彼女はそう思いたいんだろうよ」
「怒らないでくださいよ」篠崎はめげずに続ける。「高井和明が、死体を積んだ車に栗橋浩美と一緒に乗っていたのは事実です。しかも、グリーンロードのスタンドで目撃された状況から考えると、嫌々従っていたのではなくて、むしろ進んで栗橋浩美と行動を共にしていた様子がある」
「そうだよ。そりゃ見過ごしできない大きな事実だ」
「確かに仰るとおりです。これは大きいですよ。そして我々捜査側は、例のテレビ局にかかってきた電話の声紋鑑定から推して、連続女性誘拐殺人犯は二人組だと推測してました。そこのところに、飛んで火に入るという感じで、栗橋と高井の二人組が飛び込んできた。だから、一種の思考停止状態になってしまって、本当に栗橋と高井なのか、あの二人でいいのかという厳密な捜査をしてないんじゃないかと、彼女は疑っているんです。たとえば、実際、あの特番にかかってきた電話との声紋の比較鑑定でも、一致したのは栗橋浩美の方だけじゃないですか」
これは篠崎の言うとおりだった。栗橋浩美については、彼の初台のマンションの応答録音に本人の声が使われており、それをHBSの特番にかかってきた電話の声と照合すると、同一人物の声と断定できるという結果を得た。一致したのは特番の前半にかかってきた電話、つまり、コマーシャルによって通話が中断され、怒って切ってしまうまでの電話の声の方である。
それでは、そのあとでもう一度かけ直してきた電話の声の方はどうだったか。高井和明の声と断定できたのか。いや、できなかったのだ。鑑定するもしないも、彼についてはそもそも声のサンプルが存在しないのだ。アナウンサーでも俳優でも歌手でもない人間が、自分の声を録音して残しておく機会など、そうそうあるものではない。留守番電話機の応答録音というのは、稀な例外なのだ。そして高井和明は留守番電話を使っていなかった。専用の電話機さえ持っていなかったのだ。
だから声紋鑑定については、けっして警察が裏付け捜査をサボっているわけではない。材料が無いのだからできないのだ。しかし、そういう状況だからこそ、高井由美子が切ない無実の夢を見る余地が生まれてきてしまうのであり、篠崎が不器用な口振りで言おうとしているのもそのことなのだと、武上にも判ってきた。
「高井由美子は、HBSの特番にかかってきた電話の、あの前半でしゃべっていた男が栗橋浩美であるのなら、後半の男は高井和明だということになる、だけど、うちの兄さんはあんなしゃべり方をする人間じゃない、あんな状況であんなに落ち着いて、全国中継のテレビのなかで場を仕切るようなことのできる人間じゃない、だからあれは全然別人だと、声を振り絞るみたいにして話したそうです。大伯母はびっくり仰天してしまって、だから僕にそのことを言わずにいられなかったんでしょうね」
「で、おまえはそういう彼女の言い分を、担当の刑事に代わってもういっぺん聞いてやると、そういうわけか」
「ですから、言い分を聞きにいくわけじゃないです。警察はちゃんと捜査している、事実を調べずに頭から決めつけてるわけじゃないってことを説明したいんです。そういう意味で、彼女に納得してほしいんです」
「だから、そんなことをしても無意味だと俺は言ってるわけだ。おまえがどれだけ説明しても、彼女はずっと警察の捜査はいい加減だ≠ニ思いこんでいるだろう。彼女がそう思いこんでいたい間はな。もうやめよう、こんな話こそ無意味だ」
武上はとっとと歩き出した。
篠崎はしばらくのあいだ、置いてけぼりをくったように立ちすくんでいた。今のやりとりを心のなかの然るべき場所に納めてからでないと、底荷《バラスト》が足りない船のように、小さな波でゆらゆらと動揺してしまう。
武上はどんどん先を行く。篠崎は後からついて行く形になった。追いついて肩を並べる気持ちにはなれなかった。
武上の言葉は正論で、彼のアドバイスには従うべきなのだ。高井由美子の現在の心の持ち様についても、武上は正確に推し量っているのだろう。側《はた》から誰が何を言っても、彼女が兄の無実を信じていたいなら、信じ続けるだろう。たとえば高井和明が殺人をおかしている決定的な現場を映したビデオが出てきたとしても、彼女はそれを認めないだろう。
判っている。頭では判っているのだ、だがそれでも、篠崎は迷ってしまう。
──三十分でも一時間でもいい、会って話を聞いてほしいって、言ってたのよね。
大伯母は電話の向こうで、半ば嘲るような口調で言っていた。
──潔くないと思わない? いくら未来のことは判らないとは言え、あんなお嬢さんを薦めちゃって、あなたには申し訳ないことしちゃったわ。これから持っていくお話も信頼できないんじゃないかって、警戒されちゃうわねえ。
三十分でも一時間でもいい。権高で無神経な大伯母との電話越しのやりとりで、さぞかしプライドも心もズタズタにされたろうに、それでもそう言って食い下がったという高井由美子という女性に、篠崎はひどく後ろめたいものを感じた。いったいどんな顔かたちの女性なのかと気になって、ずっと放りっぱなしにしてあった見合い写真をアパートの押入のなかから探し出し、あらためて眺めてみたほどだ。
おとなしそうだ。そう思った。振袖姿の写真だったが、浮かべる笑みはぎこちなく、照れくさいというよりはいっそ恥じ入っているみたいで、一重瞼の奥の瞳も、明るく輝いてはいなかった。きっと、見合い写真なんか撮るのは気が進まなかったんだろうなと感じられた。
あなたに、あなたの兄さんが死んだことを、あなたの兄さんが連続女性誘拐殺人の容疑者のひとりであることを、ふたつでひとつの最悪のその報せをもたらしたのは、いったいどんな人間でしたか。篠崎は写真のなかの高井由美子に問いかけずにいられなかった。その人間は、あなたたち一家を正当に扱いましたか。あなたたちから事情を訊くときも、あなたたちに事情を説明するときも、その人間は正しくふるまいましたか。今あなたの周囲に、あなたが心のなかに抱え込んでいる煩悶《はんもん》をうち明けることのできる人間はいますか。
篠崎には、三十分でも一時間でもいいからという彼女の懇願を、厳しく退けることはできそうにない。どうしてもできない。
署の入口が見えてきた。武上は階段をあがって行く。と、中から特捜本部の刑事がふたり出てきて、すれ違いざまに武上に何か言った。武上はうなずき、出かけていくふたりを見送って、そのままそこで足を止めた。
篠崎が追いつくと、武上はぶっきらぼうに言った。
「三人目の身元が割れた。さっき鳥居が会っていた人たちだ。娘の顔を確認したそうだ」
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次の締め切りまではまだ余裕があったが、前畑滋子はこの一週間、ほかのことはほとんど何もせずに原稿の執筆に没頭していた。食事は外食か店屋もので済ませ、掃除もしていないので部屋のなかは散らかっている。洗濯だけは、あまり溜め込むと普段着のストックがなくなってしまうし、自動で機械任せにできるからなんとかこなしているという状態だ。
こんな状況を、昭二はちっとも怒らず、むしろ滋子を応援してくれている。何かと小うるさいことを言いたくてうずうずしている姑を牽制して、
「滋子は今、世の中にとって大切な意味のある仕事をしてるんだよ。みんなが滋子の仕事に注目してるんだ。前畑家には、そういう凄い嫁がいるんだってことを誇りに思ってくれよ。家事なんて、俺が分担してこなせばそれで済むことなんだからさ」
と、援護射撃も怠らない。
「親父だっておふくろだって、実は、『ドキュメント・ジャパン』のルポが評判になってることを自慢にしてるんだよ。コピーをとって、町内会の集会所で配ってるんだぜ。俺、笑っちゃったよ」
昭二の優しさは、今さらのように身に染みる。彼の無邪気な熱狂ぶりには本当に裏も表もなく、頬を上気させて滋子を誉めるその表情にはいささかのてらいもない。なんていい人なんだろうなぁと思うと、深夜風呂に浸かっているときなど、思わずひとりで微笑んでしまうこともある滋子だ。
しかし、昭二が朝早々に工場に出て行き、もううるさく話しかけられることもなければ、どこどこの誰々が滋子のルポを誉めていたという噂話からも、次の執筆はどれぐらい進んでいるのかというお節介な心配からも解放され、これから最低でも十時間は、頭のなかにあるルポの続きと、たったひとりで静かに向き合うことができるのだと思うと、滋子はやっぱりほっとするのだ。ああ、やっと邪魔者がいなくなった、と。
そんなときの昭二は、互いに憎からず想いあっているふたりの男女のそばに張り付いていて、早く二人きりにしてくれないものかと密かに疎まれていることが判らない気の利かない友人のようだ。そしてその鈍感な友人がやっと立ち去った後に、残った男女がつと目を合わせて照れくさそうに微笑みあうのと同じように、滋子はパソコンを立ち上げて書きかけの原稿に向きあうと、ふっと笑ってしまう。さあ、二人きりになれたよ。
師走に入って最初の金曜日だった。昭二は今夜は帰りが遅くなると言って出かけていった。近所の飲み友達に誘われたとかで、嬉しそうだった。
「シゲちゃんも連れてこい、才女の嫁さんに会いたいってせがまれたんだけど、忙しいからダメだって断ったよ」
有り難い。昭二がこの手の野次馬的好奇心旺盛な仲間たちに向かって滋子を見せびらかすようなタイプの亭主でなかったことも幸いだ。週末だし、ゆっくりしてらっしゃいよ、ただ飲み過ぎないでよねとだけ釘をさして、滋子は彼を送り出した。
ひとりになると、まず新しいコーヒーを一杯いれた。いい香りがし始めたころ、電話が鳴った。今朝はこれが最初の電話だ。やれやれ、と思った。
三度目のコールで受話器をとると、かろうじて年賀状のやりとりだけを続けている、学生時代の同級生だった。クラス会の名簿で滋子の電話番号を調べたのだろう。ひどく興奮していて、一方的に黄色い声で話をした。一昨日の夜、滋子が出演したテレビ番組を見たのだという。
その番組は夜十時からのニュースショウで、メインキャスターは滋子と同年代の女性、難しいニュースを判りやすく伝えるというのを売りにしている。滋子が出たのは番組のなかの特集枠で、正味は十五分ぐらいのものだった。大川公園を歩きながら、連続女性誘拐殺人事件について思うところを語るという形だ、インタビュー役はおらず、カメラマンが後ろからくっついてくるだけだから、つまりは独演だった。企画を持ち込まれたときには、そんなひとりしゃべりは素人のわたしには無理だと断るつもりだったのだが、『ドキュメント・ジャパン』の手嶋《 て じま》編集長に強く勧められ、結局出演することになった。
やってみると思いの外うまくしゃべれて、あとで、スタッフが誉めていたと聞かされた。それは案外お世辞ではなかったらしく、今後も『ドキュメント・ジャパン』に新しいルポが掲載されるたびに、同じ形で出演してもらいたいという申し入れを昨日受けたばかりだ。もちろん、承諾することになるだろう。
ただテレビ局側にも、ルポとの同時進行ばかりでは特色がないからと、独自の思惑があるらしい。つい昨日、担当のプロデューサーから持ち込まれた話のなかには、滋子が被害者の遺族を訪ねて、彼らの生の声を聞き出すという企画も含まれていた。まずは、古川鞠子の祖父の有馬義男を──と考えているという。
被害者の遺族へのインタビューは滋子がルポのために最初から予定していることであり、何とか実現にこぎ着けたいと努力を重ねているところだが、なかなかうまくいかない。マスコミに向かってしゃべるなど勘弁してくれという遺族の心情は当然だろう。ただでさえ難しいものを、テレビカメラの前でやろうというのは、やや無謀のように滋子は感じている。それに、もうはるか昔のことのように感じられるが、坂木達夫との約束も、心に残っていた。
友人からの電話を早々に片づけて、コーヒーを飲みながらパソコンに向かい、昨日までに書き上げた原稿を読み直した。滋子のルポは雑誌への掲載ペースよりも進んでおり、今手がけているのは連載では第四回にあたる部分だ。導入の第一回で、赤井山中グリーンロードの現場を訪ね、失踪女性のルポを思い立った経緯と滋子にとっての連続女性誘拐殺人事件との関連を描き、第二回と三回では事件の発生から栗橋浩美と高井和明の事故死までを時系列で記し、事件の概要の説明につとめるだけで終わってしまった。ルポが本格的にテーマを掘り下げたものになるのは、この第四回からなのだ。
ここからいよいよ、栗橋浩美と高井和明のふたりについて──彼らの心の内側に巣くっていた闇について、滋子の調べることができた事柄と、滋子の思うところを綴っていかねばならない。連載という形だから、取材と執筆をほぼ同時進行でしなくてはならないのが辛いところだ。しかし、滋子自身がそうやって、暗中模索で事件の核に通じる道を探り出してゆく過程を書くことにこのルポの意味があるのだと、手嶋編集長は言っている。つるりときれいにまとまっていて、不可解な部分はすべてきれいに削ぎ落とされている、まるで判決文のなかの事実認定の部分をそのまま写したようなルポになど用は無いというのである。
第一回目の原稿には、本当に苦労した。栗橋浩美と高井和明というふたりの若者について、明確な像を結ぶことができなかったからである。ところが、手嶋編集長は、それでいいのだといった。何度でもしつこく繰り返すが、滋子のこのルポに関してはそれでいいのだと、熱を込めて言うのだった。
「こんなとんでもない事件を扱うのに、最初のページからわたしはすべて解明しました、すべて判っています≠ネんて顔をして書きだしてみろよ。読者もいっぺんは読んでくれるかもしれない。だが、読んだ後で雑誌をゴミ箱に捨てて、何をひとりだけ利口そうな顔していやがるんだ∞こいつは事件を利用して、自分のことをアピールしたがってるだけの出たがり屋の女だ≠ニ思われるのがオチだ」
「だけど雑誌の記事は、読者に情報を与えるためのものでしょう?」
滋子が反論すると、手嶋編集長は鼻先で笑った。
「情報? じゃあ伺いますがね、情報って何だね? 今まであんたが書いてきたような、グルメ案内や新しいダイエットのやり方の解説か? そうだよな、お台場はお洒落なデートスポットですとか、ナントカのドラマのロケに使われたホテルはここですとか、感性を豊かにするためにはこの本を読んでイギリス直輸入のハーブティを飲みなさいとか、そういうゴタクも立派な情報だよ。喜んで受け取る連中がいるんだからな、そういう情報を扱うのは簡単さ。だから、女性雑誌のライターなんて楽なもんさ。調べるなんてもんじゃなくて、単に聞き込んだことや、売り込まれたことをそのまんま垂れ流しに載っけてればいいんだからな。読者の方は、たとえそれがあやふやなものであっても、まるっきりのデタラメであっても、雑誌に載ってるんだからちゃんとした情報≠セと思って有り難く頂戴するわけだ。そういうものに関しては、こっちが何も言わないうちに、受け手の方が情報≠得るつもりで向かって来るんだから、何を投げつけたってかまいやしないんだ」
滋子は絶句してしまった。頬が熱くなり、こめかみがズキズキし始めた。腹が立って腹が立って、逆に言葉が出てこない。
「侮辱だわ」ぶるぶる震えながら、やっとそう吐き捨てた。「今の言葉は、わたしだけじゃない、女性雑誌のライター全体に対する侮辱です」
編集長はまったく動じなかった。「本当のことを言っただけだがね」
「わたしたち、調べもせずに商品を薦めたり、売り込まれたからってホイホイとお店を紹介したりしたことは一度だってありません。ちゃんと自分たちの目で確かめて──」
「確かめる? どう確かめるんだ? その店でメシを食ってみるのか? そのブランドの服を着てみるのか?」
「できるときはそうします」
「だろうな。その程度なら簡単だし、あんたたちにとってもお楽しみだからな。じゃあダイエットはどうだ? やっぱり試してみるのか? 十日間でも二週間でも試してみて、自分は確かに二キロ痩せました、いえこの方法は効果がなくてダメでしたとか、確認したのかよ。それとも、本物の恋と偽物の恋の見分け方っていうのはどうだ? あんたそれを試してみて、裏をとってから情報≠ニして書いたのか? あんたそうやって恋を見分けて、目出度く旦那と結婚したのかよ」
「それは……」滋子はくちびるを噛んだ。
『サブリナ』ではそんな安易な企画をやらなかったという反論が喉元までこみ上げてきた。だが、言えなかった。確かに何度かそういう企画に沿った記事を書いたこともあるからだ。それが仕事だったから書いたのだ。そう要求されたから。読者はこういうものを求めているのだと言われたから。それを信じたから。
その場所では、読者は本当にそういうものを求めているのだろうかと自問自答することは、滋子の役割ではなかったのだ。本当にこれでいいのだろうかと考えていたら、仕事なんてひとつもなくなってしまったのだ。
そう言いたかった。言いたかったけれど、言えば言い訳と嘲られるのが判っていたから、ただただ強くくちびるを噛みしめることしかできない。
「うちでずっと書いてくれてる、西澤っていう女性ライターがいる」と、編集長は続けた。
「知ってるか?」
「もちろん知ってます」
半年ほど前、都市部でじわじわと増加している児童虐待についての詳細なルポを発表し、高い評価を受けた。単行本化されたものはその種のノンフィクションにしてはベストセラーと呼べるほどの売り上げを記録し、出版界で若手のノンフィクション・ライターに与えられる賞を受賞した。滋子よりも五歳ばかり若い女性だけれど、仕事ぶりは素晴らしい。
「彼女、ここんとこ急に名前が売れたからな。それまでは、地味なノンフィクションなんか出版しても、ブックページでも見向きもしてくれなかった女性雑誌が、しきりに接近してきてるんだよ。この前、ある雑誌が知的な女性になるために必読の本五冊≠挙げてくれと言ってきた。西澤はアホらしくて笑う気にもならないと言ってたが、それでも、自分が紹介することでひとりでも多くの人が読んでくれることになればと思って、これと思う本を五冊リストアップして送ったそうだ。雑誌が出るころになって、そのコーナーの担当の編集者に偶然会ったんで、ところであなたはあたしの挙げた五冊の本を読んでくれたのかと訊いたら、相手はヘラヘラ笑いながら読むわけないでしょう、自分で読む時間があったら、西澤さんに頼んだりしませんよ≠ニお答えになったそうだよ」
手嶋編集長は、爆発するような短い笑い声をあげた。
「あんたはこういうのを読者に与える情報≠セと思って仕事してきたんだろ? そしてその方式を、今度のルポにも持ち込むつもりなわけだ。そんなものは必要ないね。犯人たちの心理的背景と動機について、警察はこう言ってます、著名な犯罪心理学者はこう言ってます、フェミニストの女性評論家はこういう意見です、そんな聞き書きを並べて書いたって、何の意味もない。そんなものを書きたいなら他誌《 よ そ 》へ行ってくれ」
滋子はライターの仕事を始めて十年ほどになるが、もちろんいいこともたくさんあったけれど、嫌なことだって山ほどあった。それでも、生来勝ち気な滋子はめったに泣いたことがない。悔し泣きだって、人前ではしたことがない。だがこのときは、不意に目の奥が熱くなってきて、涙がこぼれそうになった。手嶋編集長の前で泣くのは癪《しゃく》なので、顎をそらして上を向き、涙が落ちるのを防ごうと思ったけれど、それではすぐに涙をこらえているとばれてしまうと思って、頑なにうつむいたまま、瞬きばかりを繰り返していた。
この歳になって、ちょっと厳しいことを言われたくらいで傷つくような柔なハートを持ってはいないはずだ。それなのにこんなふうにざくりとえぐられたような感じがするのは、手嶋編集長が、これまでの滋子の仕事と人生を、まったく何の共感も理解もなしに、ばっさりと切り捨ててゴミクズのように扱っているからだ。
ルポの連載媒体が『ドキュメント・ジャパン』に決まるまでには紆余曲折があった。その経過では滋子なりに悩んだし、結果的にはかなりの不義理もすることになった。滋子に失踪女性についてのルポを書いて本を出せと最初に勧めてくれた『サブリナ』の板垣元編集長など、滋子に完全に裏切られたと思っていることだろう。彼の提供してくれた連載枠は、彼の後輩が編集長をしている創刊したばかりの女性雑誌で、コンセプトとしては『サブリナ』に近く、社会的な問題も随時取り上げていきたいので、そこに滋子のルポを載せることができれば、お互いにとって利益になるという話だった。しかし滋子は、一晩考えた挙げ句、その話を蹴った。やはり、もっとジャーナリスティックな媒体が望ましいと思ったからだ。
──シゲちゃん、女性誌だから断るのか?
そう尋ねられて、滋子はあわてて否定した、提供された紙面幅では、一回の連載の枚数が足りないからということを説明した、一般的な女性雑誌では、広告やタイアップの都合もあり、この手の読み物に数多くのページを割くことはできないのだ。
板垣元編集長は結局引き下がったけれど、滋子の言葉を信じてはいないようだった。『ドキュメント・ジャパン』で連載第一回が始まったとき、電話をかけてきて、あちらの話はいつごろ決まったものなのかと訊いてきた。滋子は事実を答えたが、その電話は楽しいものではなかった。信頼し、尊敬し、頼りにしてきた戦友であり同志であり導師《 ラ ビ 》でもある編集長を失ったのだと思った。
それなのに、そんな思いまでしてやってきた先の『ドキュメント・ジャパン』では、滋子の仕事と滋子の考えを、頭ごなしに否定する。こんなひどい話があるものかと思った。
「泣いたりわめいたりするのはご自由だが、俺のいないところでやってくれ」
手嶋編集長は席を立ち上がった。
「自分の頭で考えることのできない人間に、いいルポは書けない。これは俺が経験則からつかんだ信念だ。申し訳ないが、曲げるつもりはないよ」
滋子は会議室の隅にひとり取り残され、ドアがぎくしゃくと閉まる音を聞いていた。
『ドキュメント・ジャパン』の出版元である飛翔出版は、いっそ零細と呼んだ方が正しいような小さな出版社だ。ここは一応自社ビルだけれど、もういい加減オンボロであちこちにガタが来ている。
滋子が自身でルポの話を持ち込んだ出版社は、どれも女性誌やグラビア誌で何度も仕事をしたことのある、いわばコネのあるところばかりだった。みな大手の出版社で、雑誌も複数発行している。ところが、結果的にはそれらの雑誌のどこでも話が具体化しないでいるうちに、滋子のルポの話は人づてで聞きつけた手嶋編集長が乗り出してきて、ばたばたと掲載の話がまとまった。
当時は純粋に嬉しかった。なんと言っても硬派の報道雑誌だ。昭二とも手を取り合って喜んだ。だが、薄暗く小汚い会議室にひとりでぽつんとしていると、自分の選択は間違いだったのではないかという疑念がこみあげてきて、寂しくてたまらなくなった。あたしったら、こんなところでいったい何をやってるんだろう? こんな思いをしてまで書きたいものを、あたしは本当に持っているんだろうか──
だがそれでも、結局滋子はルポを書き始めた。ここまで来た以上、そうするしかなかったからだ。滋子の原稿がどこまでも手嶋編集長の意に添わず、連載の企画がつぶれたらうんと気が楽になるだろうけれど、それだって、とにかく第一回の原稿を書かない限りはつぶれようがない。だから、あたしはいったい何をやっているのだろうという気持ちをそのまま映して、こんなことを書いても起こってしまった事件を取り返すこともできなければ犠牲者を生き返らせることもできないけれど、でもこの判らない事件を判らないままに書かずにはいられないという気持ちで書いた。
すると、手嶋編集長からオーケイが出た。なんだか狐につままれたみたいな気がしたものだった。
──今は、少しばかり判ってきたけどね。
パソコンのモニターにおぼろに映る自分の顔に向かってにやりと笑いかけながら、滋子は考えた。
手嶋編集長が言いたかったことは、要するに「経過《プロセス》を正直に書け」ということだったのだ。専門家や識者に意見を求め、彼らから提供された情報を咀嚼《そしゃく》できないままに垂れ流すのではなく、滋子が手探りで理解したり考えたりする経過をそのままルポにしろと。
連載第四回は、書き出しに苦しんでいた。栗橋浩美と高井和明。二人のどちらを主軸にして、どちらから書き起こそうか。今までの取材活動でつかんだ限りでは、栗橋浩美は成績もよくスポーツにも長《た》けた優等生タイプで、高井和明はそれとは対照的なオチこぼれタイプだったと思われる。その二人が幼なじみで、二十数年間の短い人生のあいだ、大きく離反することなしに互いに互いを伴走しあい、結果的には手を携えて凶悪犯罪をおかすことになった。どちらがどちらを惹きつけたのか。どちらがどちらにより強い影響を与えたのか。彼らの物語は、どこから書くのが正解なのだろう?
既にいくつかの雑誌やテレビ報道でも語られているが、少年時代の高井和明が視覚障害に悩まされていたという事実がある。機能的にはまったく正常であるのに、左目が事実上まったく働いておらず、右目ばかりで外界を認識しているので知覚に歪みが生じ、その結果、正しく文字を読んだり書いたりすることができず、他の子供たちと比べると著しく学習能力が低いように見えてしまっていたというのである。ちょっと聞いただけでは信じられないような話だが、実はこの機能障害については日本でまだ認められていないだけで、アメリカでは研究も進み、機能回復のための専門的訓練機関も設置されているという。
高井和明をこの苦しみから救い出したのは、中学二年生のときに彼が所属していた水泳部の顧問の柿崎という男性教諭で、滋子はぜひ彼の話を聞きたくて連絡を繰り返しているのだが、まだ面談することができずにいる。柿崎教諭の現在の住まいも勤務している学校も判っているので、何度か直撃もしてみたのだが、いつもかわされてしまう。滋子は、高井和明のこの視覚障害が彼のその後の人生に与えた影響と、彼と栗橋浩美の関係には強い繋がりがあると信じているので、柿崎教諭に取材できないことは実に痛い欠落なのだが。
その代わりと言っては何だが、地元の小学校で、二年生と三年生のときに、高井と栗橋の両少年を担任したことがあるという女性教師には取材することができた。彼女は現在五十歳だから、二人を担任したころは三十歳代で、既に中堅どころの教師だったことになる。だが、高井和明の視覚障害についてはまったく気づかなかったと言い、しきりと自らの不明を恥じていた。
彼女によれば、当時の高井和明は、とにかくおとなしいだけの鈍重な少年だったという。一方の栗橋浩美は頭の回転も速く、機知に富んだ愛らしい少年で、クラスでもいちばんの人気者だったという。そして当時は、この二人が格別仲良しのようには見えなかったというのであった。
──どちらかというと、栗橋君が高井君をいじめたりからかったりしていることの方が多かったように思いますね。
高井和明は孤独な少年で、友達らしい友達はひとりも居なかったそうだ。当時、学校の方針で一年に一度、生徒たちを対象にアンケート調査を行っていた。「尊敬する人は誰ですか」「お父さんお母さんが好きですか」「あなたの親しい友達は誰ですか。名前を書いてください」などの項目のもので、回答者は自分の名前もきちんと書かねばならない。回収したアンケートは担任教師と学年主任の手で分析検討され、家庭訪問や個人面談の際の大切な資料となる。
ところが、二年生のときも三年生のときも、「親しい友達」の欄に「高井和明」と書いたクラスメイトはひとりもいなかった。当の高井和明は、二年ともその欄に「栗橋浩美」と書いた。しかし、栗橋浩美は一度も高井和明の名前を書かなかった。その件で学年主任と話し合ったことがあったと、彼女は記憶している。
──高井君は、お父さんお母さんを尊敬していると答えました。その理由を述べなさいという欄には、「はたらきものだからです」と書いてました。ご存じでしょうけど、あのうちは蕎麦屋さんです。ほほえましいなと思いましたね。ただ、回答の文字が凄く汚くて、判読しないと読めないんです。それで本人を呼んで叱って、お母さんにも学校に来てもらって、特別につくった書取りの学習帳を与えて練習してもらったんですけどね……。
高井和明と同じ視覚障害を持つ人びとは、びっくりするような複雑な鏡文字を、いとも簡単に書いてしまうという。実は、彼ら彼女らにとってはその鏡文字こそが普通の状態で彼らの目に見えている文字であって、苦もなく書くことができるのだ。だから美術方面の才能に恵まれていれば、この特徴≠逆に活かして、成人してからデザイン関係で成功することもあり、そういう人びとは、自分が一風変わった視覚障害を持っているという事実にさえ気づいていない場合が多いという。
要するにこの視覚障害は、目の機能ではなく脳の機能の問題なのだ。左目がまったくものを認識していない¥態ということは、イコール左目を司《つかさど》る右脳の機能の一部が休んでいるということである。右目だと左脳が休んでいるわけだ。だから、適切な機能回復訓練をほどこして休んでいる脳の一部を起こしてやれば、劇的によくなる。特に子供の場合は、周囲がそれと気づきさえすれば、けっして回復作業の難しい機能障害ではないという。
ただ、だからこそ、「周囲がそれと気づきさえすれば」という部分が問題になってくるのだ高井和明は、中学二年のときに柿崎教諭が気づいてくれるまでは、ただの鈍い子供[#「鈍い子供」に傍点]として放置されていた。それまでの間に、彼の柔らかい子供の心に刻み込まれた傷は数多いはずである。それらの傷が、高井和明と、彼とまったく対照的な日の当たる少年時代を謳歌していた栗橋浩美という存在とのあいだに、奇妙にねじくれた絆をつくってしまったのではないのか。滋子はそれを考えていた。
想像すると恐ろしくなる。人は皆、自分の目に見えているものは、他人の目にも同じように見えているはずだと思う。いや、意識して「思う」どころか、そういうものだと決めてかかり、あらためてそれについて考えてみることさえしていない。ここに「朝」と書いてあれば、それは「朝」という漢字なのだ。自分が「朝」という漢字だと認識できる以上、すぐ隣で同じ授業を受けている同級生の目には、「朝」が「朝」でなくそれをひっくり返したような形に認識されているなどと、誰が考えようか。
「朝」という文字を「朝」と認識できない側の方からも、まったく同じことが言える。みんなこんなヘンテコな形のものを、楽々と覚えている。まさか自分だけに格別ヘンテコに見えているのだとは夢にも思わないから、みんなは凄いな、僕は頭悪いのかなと思ってしまう。現実に、周囲からは「トロい」と責められ、嗤《わら》われる──
高井和明は、柿崎教論によってそこから救い出されたとき、自分を長いこと閉じこめていた透明な牢獄を振り返って、慄然《りつぜん》としたことだろう。自分がこの目で見ていたものは、他の人たちが見ている映像とはまったく違っていたのだ、自分は劣っていたのではなく、最初から違うものを見せられていたのだ、みんなと違うものを見ていたのだから、反応が違うのは当然のことだったのだ。高井少年がそう認識したとき味わった安堵感を想像すると、滋子は心が痛むのを感じる。そしてその安堵の一方で、やはり過ぎた時間を取り戻すことはできず、多感な幼児期や少年時代の一部を、劣った者としてないがしろにされ、冷笑され、不当に嘲笑され、憐憫《れんびん》を受けてすごさねばならなかった高井和明のなかには、やはり癒えない傷が残ったのではないかと想像せずにはいられない。つぶされた可能性、絶たれた回路は、視覚障害が機能訓練によって消え失せても、元通りにはならなかった。そこにはケロイドが残ってしまったのだ。
彼をして、栗橋浩美という幼なじみのスター≠ノ固着させたのは、そのケロイド、その傷ではなかったのか。高井和明には取り返しようのない黄金の幼年・少年時代を、栗橋浩美はすべて持っていた。だから離れられなかった。
青年期の栗橋浩美は、滋子の目から見れば、単なる自尊心肥大症の負け犬でしかない。いい大学に入ったかもしれないが、そこで何を得たわけでもない。漫然と一色証券という一流会社に入り、社会という仕組みのなかで、今まで勝ち戦《いくさ》しか経験してこなかった彼が、自分より優秀な人間に出会って驚き、あるいは自分より劣っている(少なくともそのように見える)のに立場としては自分より上位にいる人間に頭を下げねばならないことを知り、子供の使いのような雑用もこなさねば給料はもらえないことを知り、会社という組織にとっては、彼のような若い未知数の社員は戦力以下の単なる部品に過ぎないことを知らされ、誰も彼を尊敬してくれず、特別扱いをしてもくれないことに腹を立て、俺はここでこんなことをしているべき人間ではない≠ニいう夜郎自大的結論に飛びついて会社を飛び出すまでの経緯は、現代ではけっして珍しいことではない。自分はこんなツマラナイことをするために生まれてきた人間ではない≠ニ思って退屈な「日常」から離陸したはいいけれど、結局はすることもなくブラブラと日々を遊び暮らしているだけの優秀な℃瘤メは、掃いて捨てるほどいるのだ。
しかし高井和明は、そんな栗橋浩美に幻滅を感じなかった。栗橋浩美がただの無職背年になっても、やっぱり高井和明にとってはヒーローだったのだ。だから彼について行った。だから彼に協力した。これでもう少し、高井和明が意思強固な人間であったなら、展開は違っていたかもしれない。どこかで高井和明がこの危険で暴力的なゲームから降り、警察に駆け込むという局面が開けたかもしれなかったのに。
どの報道を見ても、取材をしても、栗橋浩美の周囲には腐るほどの物証があるのに、高井和明の事件への関与についての物証は異常に乏しい。そのことでは捜査本部も頭を痛めているようだ。
木村庄司が消息を絶ち、家で彼の帰宅を待っている妻の元にボイスチェンジャーを通した声で電話がかかってきた夜には、高井和明は東京の自宅にいた。となると、これに関してはどう考えても栗橋浩美ひとりの犯行だということになる。翌日になって高井和明はようやく自宅を離れ、家族にも行先を告げずに一晩をどこかで過ごし、その翌日の十一月五日に栗橋浩美と共に赤井山中のグリーンロードで死亡する。事故死する直前に立ち寄ったガソリンスタンドでは、様子のおかしい栗橋浩美をかばうように行動する高井和明の姿が確認されている。
滋子は思う。彼らの協力関係≠ヘ、いつだってこんなふうだったのではないか。栗橋浩美が暴走し、高井和明がその尻拭いをするために、必死で後を追いかけてゆく。
最初は、栗橋浩美がひとりで始めたことだったのではないのか。彼の部屋に残されていた写真やビデオの女性たち。栗橋浩美は彼女たちを誘拐し、監禁し、拷問し、惨い目に遭わせ、殺害し、遺体をうち捨てた。その繰り返しによって、彼は自分のなかの自尊心を満たしていた。それがどれほど薄汚く、卑怯で意地汚いやり方なのか、少なくとも彼の理性的な部分では認識していたろうけれど、理性より遥かに強い怒れる自尊心≠ヘ、栗橋浩美が犯行をやめることを望まなかった。
社会が彼を受け入れ、彼が望むような地位を与えてくれないのならば、ちまちまと努力などするよりも、勝手に小独立国をつくり、そこで王になる方が早い。王たる者は、そこにいる者すべての生殺与奪の権を掌握しているのだから、何をしたっていいのだ。そのとき犠牲になった対象が若い女性たちであったのは、ごく単純に、栗橋浩美が性的なアンテナが同年代の女性に向けられていた若い男であったからだ。彼が幼児性愛者なら子供を狙ったろうし、同性愛者なら若い男を狙ったろう。だから、今一部の女性たちのあいだで、今回の事件の原因を「女性を消費物としてのみとらえてはばからない男優先社会」に求める風潮が出てきていることを、滋子はあまり快く思っていなかった。日本が男社会であることは隠しようのない事実だし、男性たちのなかには確かに女を玩具のように扱う考え方が根強くはびこっているし、それらが暴力的な性犯罪を生み出す土壌になっていることも厳然とした事実ではあるけれど、しかしその一点だけを以てこの事件を計ろうとすると、木を見て森全体を想像するような逆さまなことになってしまうと思うからだ。
栗橋浩美を動かしたのは、ほかの何ものでもない、彼が求めるようには彼を受け入れてくれなかった既存の現実に対する厳しい憤怒だ。そして高井和明は、盲目的に彼にくっついていって彼をかばったり手伝ったりすること以外に、その怒りをなだめる術を知らなかった。だからふたりは止まらなかった。滋子にはそう思える。間違っているかもしれないけれど、今はそう思えてならない。そして、それをそのまま文章に移す。
キーボードを叩き始めたとき、電話が鳴った。滋子は無造作に手を伸ばして受話器を取った。「はい」とだけ、投げつけるように応答した。
「あの……」
女性の声だった。若い感じがする。『ドキュメント・ジャパン』の編集部にこんな若い女はいない。
「はい、どちらさま?」
滋子のぶっきらぼうな問いに、相手はちょっと息を呑んだ。それから早口に問いかけた。
「前畑滋子さんですか」
「そうですけど」
「ルポを書いている方ですよね?」
「ええ、そうです」
「わたし──」ためらうように間をおいてから、かすかに震える声で相手は続けた。「わたし、高井由美子と申します。高井和明の妹です」
滋子は思わず受話器を耳から離し、じっと見つめてしまった。受話器はただの受話器で、滋子の手のなかで急に「冗談だよ」と歯をむいて笑い出すわけではなかった。してみると、これは現実であっておかしな夢ではないのだ。
「もしもし、もしもし? 前畑さん、切ってしまったんですか? もしもし?」
若い女性の声が必死に呼びかけてくる。滋子は急いで受話器を耳に当てなおした。
「ごめんなさい、ちょっとびっくりしたものだから」と、正直に告げた。「電話はちゃんとつながってます。切ったりしてませんよ。よく聞こえます」
震えるような安堵のため息が聞こえてきた。
「よかった……。突然電話をかけたりして、失礼かもしれないとは思ったんです。でも、どうしても話を聞いていただきたくて。ごめんなさい」
「いいんですよ、それは気にしないで。ただ、ここの電話番号は──」
「あ、それは、最初『ドキュメント・ジャパン』の編集部にかけて──あの、雑誌の後ろに直通の電話番号が載ってますよね。そしたら編集長という方が出て、前畑さんと直に話しなさいって、番号を教えてくださったんです」
滋子はつと苦笑した。手嶋編集長のやりそうなことだ。高井由美子がいつ編集部に電話をかけたにしろ、そのことについて事前に滋子に伝えておいてくれないのは、いかにもあの人らしい。
「あの、これいたずら電話じゃありません、わたしは本当に高井由美子です。それで、あの、前畑さんにお話ししたいのは──」
つんのめるようにしてしゃべる相手をやんわりと遮って、滋子は割り込んだ。「高井さん、電話ではうまく話せませんよ。お目にかかることはできませんか?」
相手の声音が晴れた。「会ってくださるんですか[#「会ってくださるんですか」に傍点]?」
「ええ、もちろん。わたしの方も、あなたやあなたのご両親からお話を伺うことのできる機会を探していたところなんです」
このルポを書き続けるための取材のなかで、栗橋浩美と高井和明の遺族に会うという作業は、もっとも困難なものになるはずだった。滋子にしてみれば、言葉は悪いがもっけの幸いと言うしかない。
もっとも、だからこそ、この幸運には注意せねばならない点がある。高井由美子の目的は何かということだ。そもそも、なぜ『ドキュメント・ジャパン』に電話をかけたのか。
とはいえ、今この場でそんなことをグダグダ質問していては、せっかくのチャンスを台無しにしかねない。詮索は後からじっくりやればいいことだ。滋子はてきぱきとした口調を保って続けた。「高井さん、どこでお目にかかりましょうか。ご都合のいい場所を指定してくだされば、わたしはどこへでも飛んで行きますが」
「場所──どこが──いいでしょう?」
「今あなたのいらっしゃるところへ伺いましょうか?」
「いいえ! ここはダメです。あの……このこと母には内緒なので」
「そこにはお母様も一緒にいらっしゃるんですか?」
「ええ……。母の古いお友だちの家なんです。わたしたち居候していて」
「都内ですか?」
「ううん、都内は危険だから。埼玉です。三郷《 み さと》市ってご存じですか」
「ええ、知ってますよ。わたしのところは葛飾だから。そう遠くないわね。お父様は?」
「父は高血圧がひどくなって、以前にもかかったことのある病院に入院しています。家の近くなんですけど……わたしも母も世話しに行かれなくて。マスコミの人に追いかけられて騒ぎになりますから。父のところにも、病院の先生が厳しい人で、絶対面会謝絶にしてくださってるんですけど、テレビ局の人とかが押しかけてきてるみたいです」
「お気の毒に。あなた方が悪いわけじゃないのにね。お父様のこと、ご心配でしょう」
高井由美子が泣き声のような声を出した。何か言ったらしいが、よく聞き取れない。
「ね、それじゃこうしましょう。わたしがあなたを車で迎えに行きます。今いらっしゃるところの近くに、目立つ建物とか公園とか、待ち合わせに使えそうな場所はありませんか?」
「目立つ建物……」
「駅やホテルは駄目ね。そんなところで待つのは嫌でしょう?」
グリーンロードの事故から数日経って、高井和明の遺体がようやく家族の元に返され、内輪だけでひっそりとした葬儀が営まれたとき、その模様を、一家を張り込んでいたスキャンダル好きのある日刊紙がすっぱ抜いた。さらには、密葬の行われた小さなセレモニーホールの近所に住む学生が葬儀の様子をビデオに撮り、この事件とは因縁の深いHBSに売り込むというおまけまでついた。ワイドショウで放映されたそのビデオのなかでは、高井夫妻と由美子の目元にはぼかしがかけられていたが、それでも背格好は判る。日刊紙の方には遺族の顔を隠すという配慮はなされていなかった。全体にピントの甘い写真だとは言え、その後同じ写真が引き伸ばされた上で某写真週刊誌に転載されたこともあって、高井夫妻と由美子は、世間に対していわゆる「面の割れた」状態になっているのだった。
実際問題としては、それらの報道から一ヵ月近く日にちが経っていることでもあるし、人気タレントさながらに、道行く人びとが誰でもすぐに高井由美子に気づくということはないだろう。その危険性はごく薄い。だが、それでも、由美子の受ける心理的圧迫に変わりはない。すれ違う十人、五十人、百人のうちの一人でも、「あれ?」と気づく人がいたならば、もうその瞬間におしまいだ。
あれこれと相談した結果、由美子の居候している家からタクシーで五分ほどの場所に高速バスのターミナルがあるというので、そのロビーで待ち合わせることに決めた。平日の昼間ならばほとんど人が出入りしない場所だし、滋子が車を停めてすぐに由美子を拾い上げることができる。高井由美子は携帯電話を持っていないというので、ターミナルに着いたらすぐにロビーで公衆電話を探し、そこから滋子の携帯に電話して、その番号を教えてくれるようにと指示をした。
「で、あなたはできるだけその公衆電話のそばで待っていてね。何かあったら、わたしはその電話に連絡しますから」
「判りました……」
「サングラスは持ってますか?」
「安物ですけど……」
「いいのよ。じゃ、それをかけてきて。わたしの方でそれを目印にして探すから。わたしはそうね……黄色いセーターを着ていきます。黄色い丸首のね、胸のところに大きなテディベアのアップリケがついてるヤツよ。去年のクリスマスにうちの主人がプレゼントしてくれたんだけど、あんまり派手で可愛らしくて、わたしみたいなオバサンが着られるような代物じゃなかったの。こんなところで役に立つとは思わなかったわね」
励ますようなつもりで少し笑ってみせたのだが、相手は乗ってこなかった。滋子は声を引き締め直して続けた。「大丈夫、ちゃんと迎えに行きますからね。帰りもちゃんと、安全な方法で送り届けます。あるいは、もしも今夜遅くなるようだったら。わたしのところに泊まればいいわ。とにかく、安心して出ていらっしゃい。お母様には、とりあえずはそうね、お友達のところに行くと言っておけばいいでしょう。あとでちゃんと説明すれば、心配かけることもないと思うわよ」
ひと息にそう言ってから、心の底からこみあげてきた感情をそのままに、優しく付け加えずにはいられなかった。
「よくわたしに電話してきてくださいましたね。ありがとう」
高井由美子がまた何か言ったが、また聞き取ることができなかった。滋子は待ち合わせ場所を確認して、電話を切った。
鼓動が早くなっていた。これが特ダネの感触というものだろうかとふと思い、自分で自分の額をぴしゃりと叩いて笑った。あたしは記者じゃないのよ、何が特ダネ[#「特ダネ」に傍点]よ。
だがこれまで、栗橋浩美と高井和明の家族から直に話を聞き出すことができたのは警察だけ、特捜本部の刑事たちだけだ。そして彼らは、外の社会に対しても、マスコミに対しても、二人の遺族が彼らのしでかした事についてどういう意見を持っているのか、一言も漏らしてはくれなかった。滋子は単身、その壁に大きな突破口を開くことになるのかもしれない。胸が躍るのは当然だった。
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受話器を置くと、高井由美子はそっと周囲を見回した。廊下はひっそりとしていて、誰もいないようだ。耳を澄ませても何も聞こえない。勝木《かつ き 》のおばさんはさっき買い物に出かけて行ったし、母はまだ階上《 う え 》の部屋で横になっている。
埼玉県三郷市の郊外にあるこの古い木造家屋は、持ち主である勝木のおばさんによると、「古いだけが取り柄のシロアリの巣」なのだそうだけれど、この一ヵ月近く、高井|文子《あや こ 》と由美子母娘にとっては、こここそが唯一の安全な避難場所であり、隠れ家であった。
由美子が「勝木のおばさん」と呼ぶ勝木|宏枝《ひろ え 》は母文子の幼なじみで、二人はもう半世紀近い年月を仲良く付き合ってきた。勝木夫妻には子供がいなかったせいか、由美子も幼いころからずいぶんと可愛がってもらった記憶がある。宏枝の夫は腕のいい大工だったが、心臓病で急死してちょうど五年を数える。以来、宏枝は夫の残したこの広すぎる木造二階建ての家で、思い出だけを伴侶に静かに暮らしてきた。そして今はその翼の下に、文子と由美子をかくまってくれているのだ。
十一月五日の和明の事故死以来、高井の家には平穏というものは微細なかけらさえも存在しなくなった。家族三人だけで和明を送った葬儀さえもすっぱ抜かれて、父の病状も急速に悪くなった。母は和明がお骨になると、骨箱を抱きしめてうつろな目をして一日中座り込んでいるだけで、食事もしない、風呂にも入らない、着替えもしない、眠りもしない、まるで薄汚れた人間の標本のようになってしまった。母娘二人きり、昼間からぴっちりと窓を閉め切り、「長寿庵」の看板も下ろして籠城しているところへ、外の世界から電話がかかり、インターフォンが鳴り、窓ガラスに石や生卵が投げつけられ、罵声が飛んでくる。とりわけ、栗橋浩美の初台のマンションの部屋で七人の女性たちの写真やビデオが発見されてから数日のあいだは、由美子は家の中でじっとうずくまっていても生きた心地がしなかった。今にもドアを蹴破って怒り狂った人びとが押し入ってきて、文子と由美子を外へ引きずり出そうとするのではないか。そして私刑《リ ン チ》にあってズタボロにされた母娘の死体は、電線から逆さまにつり下げられて見世物にされるのだ。
それでも家を離れなかったのは、ひとつには行く当てがなかったからだけれど、最大の理由は、葬儀のあと病院に担ぎ込まれる時に、父が由美子の手を握り、「店を頼む、店を頼む」とうわごとのように言ったあの声が、耳について離れなかったからだ。ただ幸い、雪隠詰《せっちん づ 》めの日々が続くと、見かねた近所の人たちが夜中にこっそり食べ物を運んできてくれたり、乱暴な野次馬を追い払ってくれたりするようになり、それは本当に涙が出るほど有り難かった。
栗橋夫妻はとっくに薬局を閉めてどこかに逃げ出したと教えてくれたのも、そういう近所の人たちだった。栗橋浩美の行状が荒れていたことは、地元の人びとのあいだでは周知の事実だから、由美子や文子と話をするとき、近所の人たちは皆、栗橋浩美のことをうんと悪く言って、「カズちゃんは人がいいから引きずられちゃったんだよね」という言い方をした。そして、いちばん悪い栗橋浩美の親がとっくに遁走しているのだから、あんたたちだって早くここから逃げていいんだよというようなことを匂わせて、けっして由美子たちとは視線をあわせようとしなかった。これはつまり、本音としては、みすみす見殺しにはできないからとりあえず助けるけれど、やっぱりあんたたちにここにいられるとみんなが迷惑するんだから、早く居なくなっておくれよという要求の隠喩《いん ゆ 》なのだと、由美子は次第に悟るようになった。
カズちゃんは引きずられちゃったんだよねと言う人はいても、カズちゃんは何もやってないよね、あたしらは信じてるよと言ってくれる人はいない。その事実が、由美子の心のいちばん柔らかい部分を少しずつ削ってゆく。削《そ》ぎ落とされた心のかけらは、身体のうんと深いところに沈んで、まるで砕けたガラスが水中に積もるように沈んで、そして夜の夢のなかでは由美子はそのかけらの山のなかに足を突っ込み冷たさと痛さに悲鳴をあげて飛び起きては、頬が涙で濡れていることに気づくのだった。
そんな折だ──あれは十一月の半ばを過ぎていたろうか。真夜中過ぎに、勝木宏枝が突然訪ねてきたのだ。冷たい小雨の降りしきる夜で、さすがに記者も野次馬もいなかった。ひょっとすると勝木のおばさんは、そういう天候が来るのを待っていたのかもしれない。
「ユミちゃん、ユミちゃん、勝木のおばちゃんだよ、開けてちょうだい」
窓をほとほとと叩く音と、呼びかける声を聞いたときには、眠れないままにぼんやりとしていた頭がいっぺんに冴えて、由美子は階下まで文字通り飛んで行った。戸を開けて、宏枝がフード付きのコートにすっぽりと身を包み、寒そうに立っているのを見つけて、ああ本当に間違いなく勝木のおばさんだと判ると、とたんに泣けてきてしまった。物音を聞きつけた文子も階下に降りてきて、一瞬立ちすくんだかと思うと、わめくようなうめくような声をあげて宏枝に抱きつき、ふたりがしっかりと抱き合って声をあげて泣くのを、由美子もしゃくりあげながら見守った。
やっと落ち着くと、宏枝は母娘にてきぱきと指示をとばし、着替えなど身の回りのものを荷造りさせた。
「とにかく今はここを離れた方がいいよ。うちにおいで。うちなら誰にも遠慮することなんかないからね。ごめんね、もっと早く迎えに来たかったんだけど、なかなかこの家に近づくことも難しくて。何度か様子を見に来てみたんだけど、なにしろ十重《 と え 》二十重《 は た え 》に囲まれてたもんだから」
由美子は勇んで荷造りにかかったが、意外なことに、今まではずっと半分死人のように意思を失っていた母が、ここに来て抵抗を見せた。お父さんに黙って店を放り出し、行方をくらませるわけにはいかない、というのである。由美子は焦りと怒りと困惑がごっちゃまぜになり、声を尖らせて母を叱った。今だって、お父さんの病院に世話をしに行くことだってできないじゃない、店だってあたしたち二人じゃ守るどころの騒ぎじゃないでしょ、とにかく今はあたしたちの身を守ることの方が先じゃないの!
それでも母は、最後まで進んで家を離れるというふうではなかった。説得されて、仕方なしに従うというふうだった。由美子は、この家とこの店は、父母にとっては人生のすべてが刻み込まれた金字塔なのだということを、あらためて感じた。
小一時間ほどして、由美子は両手にボストンバッグをさげ、宏枝は大きくふくらんだリュックを背負って外に出た。見あげる街灯の明かりのなかで、白い霧雨が舞っていた。文子は両腕でしっかりと和明の骨箱を抱きしめ、冷たい雨に濡れないようにかばっていた。
「さあ、行こう」
宏枝に声をかけられて、歩き出した。母は振り返らなかったが、由美子は振り返らずにいられなかった。誰かにあとを尾《つ》けられていないか、確かめるために。
予想どおり、高速バスのターミナルには誰もいなかった。それもそのはずで、ターミナル自体が営業していなかったのだ。由美子は締め出しを食った格好になってしまった。
落ち着いてよく考えてみれば、当たり前のような話だった。東北や上越地方へ向かう深夜の高速バスのターミナルなのだから、運行予定の入っていない平日の昼間など、施設を開けておく必要はないのだ。料金所と待合室のある建物の入口の両開きのドアには、しっかりと鍵がかけられている。揺さぶってみてもびくともしない。汚れて傷だらけのガラスごしに、三列に並べられたベンチの背もたれと、グリーンの公衆電話がぼんやりと見える。
由美子は右手でサングラスの蔓《つる》を押さえながら、そっと振り返ってまわりの様子をうかがった。バス乗り場にも人気《ひと け 》はなく、枯れ葉とゴミが木枯らしに巻かれて、歩道の切れ目のところでかさかさと音をたてている。
ターミナルの出口、歩道の端に、やはりグリーンの公衆電話をおさめたボックスがひとつあった。仕方がない、あそこで待とう。由美子は慎重に歩き出した。かけ慣れないサングラスのせいで、視界が薄暗いだけでなく狭まったような感じがする。気を付けないとつまずいてしまいそうだ。
由美子が電話ボックスのそばまでたどりついたとき、ターミナルの入口に一台の車が滑りこんできた。前畑滋子かと思って目をこらしてみたが、それはかなり旧式の灰色のヴァンで、ガラスごしに、運転席と助手席にごく若い男女が乗り込んでいるのが見える。がっかりして目をそらした。
ヴァンは入口のすぐ脇に車を一時停車した。見るともなく気にしていると、運転席から男が飛び降りて、すぐそばの公衆トイレに入っていった。派手なセーターとよれよれのジーンズ。助手席の女は窓を半分開け、タバコを吸っている。
由美子は電話ボックスに入って受話器を持ち上げた。カードを差し込んでみたが、発信音が聞こえない。何度やっても結果は同じだ。いぶかりながら箱のなかを見回すと、足元に、黒マジックで「故障中」と書かれた段ボール紙が落ちていた。さんざん踏みつけられて汚れている。ずいぶん前から壊れていたのだろう。重ね重ねツイてない。急に怒りがこみあげてきて、電話機をぴしゃりと叩いた。
ボックスを出て閉めたドアにもたれかかっていると、さっきの若い男がトイレから車の運転席に戻り、ぐるりとハンドルを切って出口へ向かってきた。由美子は顔を伏せ、それとなく背中を向けて、通り過ぎる車をやり過ごそうとした。灰色の車体が近づいてくると、カーラジオの音が漏れ聞こえた。
左のウインカーを点滅させて、車は由美子のすぐ傍らでいったん停まった。そのとき、半ば開けられた助手席側のドアから白い手首がちらっとのぞき、素早く何かを投げ捨てた。それは真っ直ぐに由美子の方に飛んできた。
とっさに顔をかばって持ち上げた右手の甲に、それはまともにぶつかった。ちくりと噛みつかれたみたいな痛みが走った。足元に転げ落ちたそれを見ると、二センチほどの長さのある、まだ火の点《つ》いたタバコだった。女が投げたのだ。
灰色のヴァンは左折してターミナルを出ていく。由美子の方を気にする様子はない。笑い声があがるわけでもない。わざとやったのではないのだ。単に吸い差しのタバコを窓から投げ捨てただけ。由美子の姿など目に入らず、気にもしなかったのだろう。
ヴァンは行ってしまった。由美子は手の甲の火傷《や け ど》の様子を見ようと、何の気なしにサングラスを外した。ピリピリと痛みを感じるが、外見上はどうということもなかった。それほど深刻なものではなさそうだ。ため息をついて、左手で右手の甲をさすりながら、歩道に転がってまだくすぶっているあのタバコを、踵《かかと》で強く踏んで消した。
そのとき、電話ボックスの一メートルほど先に、誰かが立ち止まっていることに気づいた。ウォーキングシューズに包まれた女の足が四本見える。目をあげると、ずんぐりむっくりのよく似た体型の中年女性が二人、由美子の方を透かすようにしてながめていた。
由美子はすぐに目をそらして知らん顔をした。が、サングラスを手に持っていることに気づいて背中が寒くなった。あわててかけようとしたが、さっきの女性たちがまだこちらを注視している。二人で意味ありげに顔を見合わせ、今にも由美子の方に近づいてきそうだ。
回れ右をして、由美子は待合室のある建物の方へと走り出した。後ろから声をかけられたような気がしたが、もちろん振り向かなかった。走って鍵のかかっている両開きのドアのところまで戻ると、そのガラスに二人の中年婦人の姿が映っていた。こちらに歩いてきている。由美子はゆるめかけた足をまた励まして、ターミナルの入口へと走った。出よう。ここから離れよう。ここにいるのは嫌だ。
どこかすぐ近くで車がエンジンをかける音が聞こえた。また誰か来たのか? それとも由美子を追おうとしているのか?
公衆トイレの前を走り抜けようとしたとき、中から出てきた男性とぶつかりそうになり、由美子は前のめりに倒れかけた。相手は驚きの声をあげ、怒ったように手を振り上げて由美子を見送る。そして大声をあげた。
「おい、ちょっとあんた!」
なんとか転ばずに体勢を立て直し、由美子は歯を食いしばって足を早めた。気づかれた。あたしが高井由美子だということを気づかれた。どんな目に遭わされるかわからない。逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。
「おい、お嬢さん、あんたサングラスを落としたよ!」
公衆トイレから出てきた男は、由美子のサングラスを拾い上げて大声で呼びかけている。しかし由美子には何も聞こえなかった。男が何を言っているのかわからなかった。わかるのは男が「大声を出している」という事実だけで、そしてそれだけで充分だった。
「チェ、なんだよ、せっかく人が親切に拾ってやったのに」
近頃の若い娘は他人様《 ひ と さま》にぶつかっても詫びもしないし、平気で物を粗末にする。用を足してすっきりしたところだったその男は、落とした拍子に右のレンズにひびが入ってしまった由美子のサングラスを、結局どうすることもできずにトイレ脇のゴミ箱に放り込み、その場を立ち去った。何があったんだろう、あの娘。彼の目に、ターミナルの出口の方を、肩を並べて遠ざかってゆく中年女性の姿がちらりと写った。平和なおばさんの二人連れだ。あの娘、いったい何でまたあんなに慌ててたんだ?
由美子はターミナルを離れ、道路をひとつ横断し、まだ足を止めることができずに走っていた。もともと土地勘のある場所ではない。走っているうちに方向がわからなくなり、ただ闇雲に街角を曲がり、赤信号で停まるのが怖くて青信号の方へと道を渡り、通行人とぶつかりそうになったりぶつかったりよろめいたりしながらまだ走っていた。
サングラスが無い。走っているうちにそのことに気づくと、それがまたパニックに拍車をかけた。素顔をさらして町中《まちなか》をうろつくなんて、まるで悪い夢のようだ。行き交う人が皆、由美子を見て驚いたような顔をしている。実際には、若い女性が何かに追われているかのように髪を振り乱して走っていることに驚き、いぶかっているだけなのだが、冷静な判断力を失っている由美子の目には、それがまったく違うものに見えていた。みんなあたしに気づいてる。みんなあたしを指さしてる。みんなあたしを責めて、追いかけてくる。追いつかれちゃいけない、逃げなくちゃいけない。
歩道の切れ目で足を踏み違え、その拍子に左の靴が脱げた。ぐきりという感触がして、足首がもげそうに痛んだが、それでも立ち止まらなかった。走りにくいので右足の靴も蹴って脱ぎ捨て、結果としてますます異様な風情になり、今度は行き交う人たちが立ち止まって由美子を見送るようになった。
すれ違いざま、会社員風のカップルが由美子を指さす。ねえ、何事? と女が言う。男が首をひねる。ちょうどお客を拾おうと車を路肩に寄せていたタクシーの運転手が、仰天して窓から首をのぞかせる。自転車に乗ろうとしていた学生が、ペダルに足をかけたまま唖然として由美子を見送る。車を停め、台車に荷物を積んでいた宅配便の配達員は、疾走する由美子の蒼白な横顔を見て、ついで彼女の後方に目を移す。なんてこった、いったいどんな野郎があの娘《こ》を追いかけてるんだ?
いやしかし、誰もいない。誰も見つけることはできない。走って彼女を追っている者など一人もいない。ただ、呆然とする配達員のすぐ後ろを、由美子の走っていった方向を目指して、一台のワゴン車がするりと走り抜けてゆくだけだ。
由美子はまたひとつ新しい交差点にさしかかった。歩行者信号が点滅している。走って渡りきろうとした。止まりたくない。靴下裸足の足で、歩道から飛び降りる。そこへ、やはり信号が点滅しているうちに左折してしまおうと曲がってきた軽トラックの鼻先が飛び出してきた。
急ブレーキの音がした。衝突は免れたが、突然現れた軽トラックの車体は由美子の視界いっぱいに広がり、かろうじて保たれていた身体のバランスがくずれて、その場にすてんと尻餅をついた。軽トラックのドアが開き、運転手が上半身をのぞかせる。気が短そうないかつい男だ。
「何やってんだ、バカ野郎!」
怒鳴り声が由美子の頭のなかに反響し、吸い込んだ息が吐き出せなくなり、声も出ず、膝に力が入らず、ただただ目を見開き両手を縮めて身体を抱きしめ、引きつけを起こした幼い子供のようにがたがたと震えることしかできない。涙も出ず、感情という感情のヒューズが全部飛んでしまって、聞こえるのは自分の速い息づかいばかりだ。
歩行者用信号は赤に変わった。見かねたのか歩道に立っていた三十歳代半ばの女性が一人、果敢に由美子に駆け寄り、助け起こそうとした。
「大丈夫? 信号が変わっちゃったから、危ないわ」
当の軽トラックの運転手はドアを乱暴に閉めると、まだへたりこんでいる由美子と救助の女性を大きく迂回して左折し、とっとと走り去る。黒い排気ガスだけが尾を引いて残り、由美子を抱きかかえようとしている女性は咳き込んでしまった。
由美子は目を開いてはいるが、気を失ったみたいにぐったりとしていた。歩道までほんの一メートルほどだが、女性一人では運ぶことができない。そこらには男性もいないわけではないのに、知らん顔で誰も手を貸そうとしてくれない。
そのとき、さっき軽トラックが鼻先を突き出していた場所へ、一台のワゴン車がすっと停まった。ドアが開いて男が一人降り立つと、迷いのない素早さで由美子と救助の女性の方に近寄った。
「あ、ありがとう」
救助の女性は彼に礼を言い、二人で由美子の腕を両側から支えて歩道へと運んだ。由美子は腰が抜けたようになっており、一人では立っていることさえできないようだった。
「救急車を呼んだ方がいいかしら?」
救助の女性は見知らぬ親切な若者に問いかけた。青年の知的な切れ長の目と、意思の強そうな毅然とした口元が印象的だった。髪は若干長めだが、こざっぱりと整えており、全体としてとても清潔な感じがした。
「いえその必要はないです」と、彼は答えた。きびきびとした頼りがいのありそうな声音だった。「彼女、僕の知り合いなんです。ちょっと具合が悪くて……これから病院に連れていきます」
「あら、そうなんですか」
救助の女性はつくづくと高井由美子を観察し直した。もちろん彼女は、高井由美子が高井由美子であることになどまったく気づかず、ただ気の毒に思うだけだった。今の彼女は、まるで映画で見るゾンビのようだ。狂ったような遁走でエネルギーを使い果たし、外界のことは何も聞こえず何も見えなくなっているのかもしれない。可哀想に。
信号が変わった。見て見ない振りをして信号待ちをしていた人びとが、見て見ない振りを続けながら道を渡って行く。
「ご親切にありがとうございました」
若者は救助の女性にそう言って頭を下げると、高井由美子に肩を貸してワゴン車の方へ連れて行った。救助の女性は、本当に気のいい優しい人柄だったから、道を渡りながら何度か振り返り、彼が気の毒な娘に優しく声をかけながら車に乗せるのをじっと見つめていた。娘は依然として無反応で、シートベルトも彼が締めてやっている。あの二人はどういう間柄なのかしらと思いながら、彼女はちょっといぶかり、首を振って微笑んだ。もういいじゃないの。実は待ち合わせの時間に遅れそうであることを思い出したのだ。今度は彼女が小走りになる番だった。
「由美ちゃん」
運転席に落ち着くと、若者は助手席の高井由美子に声をかけた。
「大丈夫かい? 足が痛いだろ? こんなところで何してたんだい?」
高井由美子は放心したままうつろにフロントガラスを見つめている。彼は負けずに声を励まして続けた。「バスターミナルの前を通りかかったら、由美ちゃんが凄い勢いで走っていくのが見えたからさ、あわてて追いかけてきたんだよ。途中で一度見失ってしまって、もう見つからないかと思った。なあ、何があったんだ? 誰かにひどい事されたのか?」
高井由美子はゆっくりとまばたきをした。
「バスターミナル」と、呟いた。
「そうだよ、バスターミナルだよ」若者は彼女の膝の上に投げ出した手の甲に手を重ねて、優しく揺さぶった。「誰かを待ってたのかい? それともバスに乗ろうとしてたの?」
高井由美子はまたまばたきをした。今度ははっきりと意思のあるまばたきだった。頭をすっきりさせようとして、視界をシャッフルしたのだった。
「ターミナル!」
彼女は大声で繰り返し、とたんにスイッチを切り替えたように正気に戻った。あたしったらいったいどうしたんだろう? ここはどこ? なんでこんな車に乗ってるの? 前畑さんとの約束は?
「たいへん、戻らなきゃ!」
「おいおい、どうしたんだよ?」若者が驚いて彼女の肩に手をかける。「由美ちゃん、大丈夫──」
首を巡らせて彼の顔を見て、高井由美子は悲鳴をあげた。助手席側のドアをひっかくようにして開け、外に飛び出そうとしたが、シートベルトで固定されているので上手くいかない。若者の手が彼女の肩をつかんで引き留めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。逃げることないよ、僕だよ、僕、網川《あみかわ》だよ、君の兄さんの友達だよ!」
「兄さん」と「友達」という単語が、またぞろ混乱しかけた由美子の心に引っかかった。ドアにしがみつくような姿勢のまま、彼女はゆっくり振り返った。
「網川さん──」
「そう、網川|浩一《こういち》。覚えてるかい? 店に遊びに行ったこともあったと思うんだけど」
彼はそう言って、由美子を安心させようと、にっこり笑ってみせた。男には珍しい、こぼれるような愛嬌のある笑顔だ。
「名前より、あだ名の方を覚えてるかな?」
網川浩一は、ちょっと照れたように鼻をこすった。
「君の兄さんとか友達には、僕、ずっとピース≠チて呼ばれてたからね」
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高井由美子が交差点で座り込み、親切な女性に助け起こされているころ、前畑滋子は指定された高速バスターミナルに到着し、建物の入口に鍵がかかっていることを発見し、あたりを見回しても高井由美子らしい若い女性は見あたらず、舌打ちどころか地団駄を踏んで悔しがっていた。
「そのへんを探してみましょうか」当惑気味に周囲を見渡しながら、塚田真一が言った。
「滋子さんはここにいてください。僕、ぐるっとひとまわりしてきます」
「シンちゃん、彼女の顔わかる?」
「わかると思いますよ。スポーツ新聞で見たから」
走り去る真一の背中を見送りながら、滋子は腹立ちをこめてため息をついた。まったく、なんて間が悪いのかしら──
計算違いは、まず、アパートを出るのに、思いがけず暇をくったということだ。由美子に「着ていく」と約束した派手なテディベアのセーターが見つからなかった。押入のなかのウール物専用の収納ボックスにしまっておいたはずなのに、どれだけ引っかき回しても出てこない。とうとう諦めて別の服を選ぼうと箪笥を開けたら、昭二がプレゼントしてくれたときの包装もそっくりそのまま、問題のセーターがそこに入っているのを見つけた。
着替えを済ませると、スニーカーの紐を結ぶ時間も惜しんで駐車場へ駆け降りたが、今度は、いつも乗り回している昭二のオンボロ車のエンジンのかかりが悪かった。何度キーを回しても、やる気なさそうにぐるぐると唸るだけでかかってくれない。そもそもこの車は、昭二と滋子の結婚祝いに、友人が五年落ちの自分の車を無料《 た だ 》でプレゼントしてくれたというシロモノで、滋子としては、どうせくれるならもうちょっと新しいのにしてくれたってよさそうなものだと、最初から少々不満があった。車の方も乗り手の心を読みとるのか、昭二が運転するといつだって調子がいいくせに、滋子がハンドルを握るとエンストしたり、今回のように始動しなかったりすることがちょくちょくあった。
「かかってよ、バカ、かかって」滋子は車を叱咤した。「大切な約束があるんだから。かかりなさいよ、アホンダラ!」
しかし車は動かない。滋子はドアを開けて飛び出すと、昭二のいる工場の方へ駆け出した。
「ねえ、車貸して!」
滋子が恐竜のように白い息を吐きながら事務所に飛び込むと、ちょうど電話に出ていた昭二がびっくりして振り返った。「なんだよ? え? あ、すみません、ちょっとこっちのことです」
事務服姿の姑が、机越しに怖い顔で滋子を睨んだ。「何なんですよ、騒々しい」
「スミマセン、空いている車があったら貸してほしいんです。急いで出かけなくちゃならなくて」
「あんたたちの車は?」
「調子悪くて動かないんですよ」
「だけど工場の車は仕事で使うんだから、勝手に乗り回されたら──」
小言を言う姑を尻目に、滋子は壁のキーストックに近づいた。前畑鉄工の営業用車両は二台あり、一台は実質的には昭二の両親が乗り回しているだけのセダンだが、もう一台はミニ・ヴァンで、車体の横っ腹に「前畑鉄工所」というネームが入っている。あいにく、今空いているのはそのミニ・ヴァンの方のようだった。セダンは、舅が銀行まわりにでも使っているのかもしれない。なにしろ師走だ。
背に腹はかえられない、滋子はミニ・ヴァンのキーをひっつかんだ。まだ電話の相手にぺこぺこしている昭二のつなぎの作業着の背中をちょっと引っ張り、「行って来るね」と囁いて、事務所を飛び出した。
「滋子さんたら、どこ行くのよ? まったくもう勝手なんだから!」
姑が怒っている。だが滋子の耳には、ガミガミ叱る姑の声など届いていなかった。プレイバックして聞こえてくるのは、高井由美子の今にも消え入りそうなSOSだけだった。
あわててしまったので、アパートでは道路地図を見ることができなかった。昭二はドライブが大好きだが、滋子はさほど運転好きというわけではない。三郷市への大雑把な道筋は見当がつくけれど、効率的に走るにはどのルートを選んだらいいのかと思うことまでは頭が回らなかった。
とにかく飯塚橋の交差点まで出ようとしゃにむに車を走らせていると、天恵のように、すぐ先の歩道を塚田真一が歩いているのを発見した。アルバイトの帰り道だろう。しかし元気のない足取りで、暗い顔をしていた。この子が暗いのはいつものことだけどこれはまた何かあったかなと素早く考えながら路肩に車を寄せ、滋子はクラクションを鳴らした。
「シンちゃん、シンちゃん!」
大声で呼んで手を振ると、やっと真一は滋子に気がついた。滋子は助手席の方へ身を乗り出してドアを開けた。
「乗って乗って!」
真一は驚いて目をぱちぱちさせた。「え?」
「いいから乗ってよ! 説明はあと!」
真一を車に引っ張りあげ、ばたんとドアを閉めるが早いか走り出した。すぐ後ろにいたタクシーに、パカパカとクラクションを鳴らされた。
「滋子さん、営業に行くんですか?」
前畑鉄工のミニ・ヴァンに乗っているせいだろう、真一は真顔でボケた。
「まさか。ねえ、地図見てよ。ここから三郷市に行くにはどうすればいいの? このまんま水元《みずもと》公園の方へ行くの? それともあの高速、なんだっけ、六号線とかに乗るの?」
「地図はどこですか?」
「今あなたがその上に座ってるわよ」
真一は尻の下からボロボロの地図帳を取り出して、ページをめくった。
「三郷市っていっても広いですよ。どのへんなんですか?」
滋子は高速バスターミナルのことを話した。真一はうなずいた。「それなら六号線の近くだ」
「知ってるの?」
「一度乗ったことがあるから。でも、ここから六号線に乗ろうと思ったらかえって遠回りですよ。このまま下を走った方が絶対に早いです」
「わかった。ナビゲーターをお願いね。それと、どっかで携帯電話が鳴ると思うんだ。鳴ったら出てね、それであたしに回して」
「誰からですか?」
そして滋子は事情を説明したのだった──
真一が戻ってくるまでのあいだに、滋子はタバコを二本灰にした。腹立たしくて情けなくて、そして心配で、じっとしていられずに足がうずうずしたけれど、しかしここを動くことはできない。仕方がないので車のまわりをぐるぐると歩き回っていた。
真一はターミナルの入口まで来て、両手で大きくバツ印をつくってみせた。滋子は手をあげて応えた。彼が声の届く距離まで近づくと、「ありがと、ごめんね」と声をかけた。
「僕らが遅くなったんで、じっと待っていられなくなっちゃったのかな」
「わかんない。ひょっとしたら、最初から来るつもりなかったのかも」
「そうかな……。電話したときは本当に滋子さんに会うつもりだったんだけど、勇気がくじけちゃったのかもしれないですよ」
真一も心配そうだ。滋子は腕組みしてもう一度ため息をつき、そのときふと、今までのせわしない道程では気づく余裕のなかったとんでもない事実が目の前にぶら下がっていることを意識して、はっとした。
「ねえ、シンちゃん」
「はい」真一はまだ周囲を見回している。
「通りがかりにシンちゃんを見つけて、あたし、天の助けだとばかりに連れて来ちゃったんだけど……」
「いいですよ、今日はもうどうせ何も予定なかったし」言って、彼は苦笑した。「予定なんて、いつもないけど」
「でもさシンちゃん、あの──高井由美子って娘さんね、あたしに何を言いたいのかわからないけども、彼女、あの高井和明の妹なんだよね」
「そうですね。まあ、本物ならね」
「シンちゃん、嫌じゃない?」
「嫌って?」
「だってホラ……相手は加害者の身内だよ。あたしは仕事で──今の仕事の上では彼女の肉声が聞けるってことはすっごく嬉しいことで、だから抵抗ないけど、シンちゃんはそうじゃないでしょう。あたしが勝手に彼女に会うならともかくも、シンちゃんに手伝わしてさ」
滋子は自己嫌悪で目がくらみそうになってきた。あたしったら、どうしてこうなんだろう。肝心なときほど、後先考えずに行動しちゃう。
「言われてみたら、不思議ですね」と、真一は他人事のような言い方をした。「今まで、そんなこと自分じゃ気づかなかった」
「シンちゃん、あたしのルポを読んでくれたよね?」
「はい」
「腹立たしくはなかった? あたし、加害者をやっつけるような書き方はしてない。事件そのものがひとつの悲劇だっていうふうに書いてる。だけどそれって、被害者や被害者の遺族の側から見たら、とんでもなく甘い見解だよね?」
あたしったら、なんで今さらこんなことを訊いているんだろう? 尋ねるならばもっと以前に尋ねるべきだったし、尋ねないならば永久に尋ねるべきことじゃないのに。そもそも、滋子には尋ねる権利はないかもしれないのだ。塚田真一に、滋子に向かって彼なりの解答を投げる資格があるというだけの問題なのかもしれないのだ。滋子には投げつけられたものを受け止めることしかできない。
真一は黙っている。木枯らしが吹きつけ、彼の前髪をさらって、すべすべした額を露にした。妙に可愛らしい感じがして、場違いなことを、滋子はふと考えた。あら、そろそろシンちゃんは散髪した方がいいわね──
そして、もしもいわゆるヤンママ風に十五、六歳で結婚し出産していたならば、自分にも真一ぐらいの子供がいたっておかしくはないのだということを思った。しかし現実には滋子は今の道を選び、赤の他人の塚田真一という少年と、こんな形で関わることになり、まるで保護者のように彼の面倒をみているつもりでいながらも、ここという場面では彼の心情などちっとも理解できていないということを自分から白状している。
「水野さん」と、真一が急に言って、滋子を見た。「知ってますよね?」
「うん。シンちゃんのガールフレンドじゃないの」
「実は、ケンカしたんです」と、うつむいた。
「あらまあ」
「彼女はちょっと怒ってる。滋子さんのルポを読んで。まさに滋子さんが今言ったとおりの理由で」
「……」
「で、どうして僕は怒らないんだって。歯がゆいみたいでした」
「……そう」
「実は僕、これまでとてもお世話になったけど、もうあのアパートにいてはいけないって、考えていました」
「いつごろから?」
そう問い返しながら、滋子は考えていた。いてはいけない≠カゃなくて、いられない≠カゃないの、シンちゃん。
「いつまでも居候してるわけにはいかないってことは、最初から思っていました。でも、決心したのは、滋子さんが今のルポの原稿を仕上げて──掲載が本決まりになったときです」
「そうだったの」
「やっぱり、良くないと思う」と言ってから、真一はしゃにむに首を振った。「いや、そうじゃない。良くないとかそういうきれい事じゃなくて、僕は滋子さんのルポに関わりたくない。辛いから」
当然だ。滋子は黙ってうなずいた。
「すみません。こんなドサクサ紛れに言うつもりじゃなかった」
「いいのよ。あたしの方こそ、どさくさ紛れにシンちゃんを車に乗せちゃったんだから。ごめんなさい」
滋子は頭をさげた。
「あとはあたし一人でやるから、シンちゃん、先に帰って。本当にごめんね。もう道はわかったわ、ありがとう。シンちゃんが高井和明の妹に会いたいわけない。あたしは底なしのバカだ」
「それは──」
「でも、お願いだから、あたしたちがいないあいだに、こっそりとアパートを出ていくようなことはしないでほしいの。そんなことをさせちゃったら、あたし、石井さんご夫妻にあわせる顔がないもの」
「もちろん、そんなことはしません。それに、先には帰りません。高井由美子だと名乗ってるその人を見つけて、一緒に連れ帰りましょう」
「だって!」
真一は、暗いながらも強い視線で、滋子を見た。「その電話してきた女性が本物かどうか怪しいものだけど、偽物だとしても本物だとしても、どんな目的で滋子さんに近づいてきたのか、僕は知りたいです。何を言いにきたのか知らないけど、それを聞いたら僕はきっと腹を立てると思うけど、でも聞かないままでもやっぱり腹立たしいですよ。すごく気になるし」
滋子は黙ってうなずいた。
「僕、滋子さんにひとつお願いしたいことがあったんです」
真一は呼吸を整えるように息をつくと、自分の足元に目を落とした。
「喧嘩しちゃった時に、水野さんにも話したんだけど──」
まるで、これから吐き出す言葉が、隙を見て自分に襲いかかってくるかもしれないと恐れているみたいに身構えて、真一は手早く語った。家族を襲った事件において、自分がおかした過ちについて、迂闊だったおしゃべりについて。
滋子は何も言えず、ただ目を見開いて聞いているしかなかった。
「こういう事情だったから、僕が自分を責めるのも、樋口めぐみが何もかもあんたのせいだ≠チて僕を追いかけてくるのも、仕方のないことなんです」
「それは違う!」滋子は思わず真一の腕をつかみ、揺さぶった。「それは違うよ、シンちゃん。仕方ないなんて考えちゃいけない!」
真一はグラグラと揺さぶられながら、それでもかぶりを振った。「いいんです。それはいいんだ」
「良くないわ!」
「僕は滋子さんだけじゃなく、誰とだって、このことで議論するつもりはないんです。僕に責任があるかないかなんて、議論したくはないんです」
滋子は叱られたように手を引っ込めた。
「ただ──」
「ただ?」と、小声で問い返した。
「あの二人組に殺された女性たちの家族も、きっと今は僕と同じように、自分を責めてると思う。僕みたいに、責められても仕方のない原因をつくったわけじゃないのに、何もないところで自分を責めていると思う。根拠がない分、あれもこれも全部ごっちゃまぜになってしまって、何でもかんでも自分の責任のように思えて、ひょっとしたらその方が、僕よりよっぽど辛いかもしれない」
また木枯らしが吹いてきて、滋子の身体を芯から冷やした。
「滋子さんのルポのなかで、遺族のそういう気持ちについて、ちょっとでも書いてもらいたいと思いました。怒りもあるし悲しみもあるけど、それ以前に──罪悪感で押し潰されそうになってる、遺族にはそういう苦しみもあるんだって、書いてもらえたらと思いました。それだけ、お願いしたかったんです」
滋子は「うん」とうなずいた。それ以上は、言うべき言葉など見つからなかった。
「高井由美子と名乗っている人が本物だったなら、同じことを、僕は言いたいです。その人が滋子さんに何を求めているにしろ、滋子さんを通じて言いたいことがあるんだったら、それを言う前に、遺族のそういう心情を思いやってからにしてくれって。だから、とにかくその人を見つけましょうよ。で、何が目的なのか聞きましょう」
「わかった」
きっぱりとそう言って、今度は真一の肩に手をおいた。彼はちょっと目をつぶり、短く何度もうなずくと、顔をあげた。
「このターミナルであることに間違いはないんですね?」
「そうなの。場所はここよ」
そのとき滋子は、ターミナルの入口からなかに入ろうと、一台のワゴン車がウインカーを点滅させながら停車していることに気がついた。オペルだ。昭二がドイツ車が好きで、あのオンボロから買い換えるなら絶対にオペルだと言ってはしきりとカタログをながめているので、車種には疎い滋子にもすぐにわかった。
運転席には若い男が乗っていた。隣にいるのは女性だ。ほの白い顔がわずかに見える。
オペルはターミナル内に入ってきた。滋子たちの車に近づいてくる。助手席の女性が、滋子の車に目をとめ、それから飛びつくようにして滋子のセーターを見た。テディベアのセーターを。
オペルは急停車した。ドアが開いて、シートベルトを外すのももどかしそうに、助手席の女性が降りてきた。怪我でもしているのか、足を引きずっている。
「前畑滋子さんですか?」
その声は電話の声、SOSの声だった。
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病院から帰ってくると、店番をしていた木田《 き だ 》が、古川《ふるかわ》さんから電話がありましたと、口を尖らせて報告した。
「金は振り込んだからって。あんまり恩着せがましいことをクドクド言うもんだから、俺、腹が立って、つい怒鳴っちまって。どうしても親父さんと話したいから、あとでまた電話かけ直すとか言ってましたけど」
有馬《あり ま 》義男《よし お 》は、なんとなく手をあげて振ってみせて、わかったということを示した。口もききたくないほど疲れていたのだ。ましてや古川|茂《しげる》のことなど、今もっとも話題にしたくない事柄だ。だが、木田の顔から不満そうな表情が消えないことに気づいて、これではいけないと思い直した。
「すまんなあ」
作業場のスツールをひとつ、真っ赤に燃えている石油ストーブのそばに引き寄せて腰をおろすと、両手を膝にあてて頭を下げた。
「あんたにまで嫌な思いをさせてさ。まったく申し訳ない」
ふくれっ面をつくっていた木田は、あわててショウケースのそばを離れ、義男に近づいた。
「親父さんが謝ることじゃねえでしょ。スミマセン、俺が文句なんか言うから」
「いや、茂は本当に不愉快な奴だから」
義男が古川茂に対する具体的な非難の言葉を口に出すのは珍しいことだった。とりわけ、木田に対して、この薄情な婿のことを愚痴るのはほとんど初めてと言っていいくらいだ。木田は、長いことこの機会を待っていたとばかりに、義男のそばにしゃがみこむと、顔をしかめてみせた。
「ねえ親父さん。俺は親父さんの気が優しいことはホントによく知ってるけどさ、いくらなんでも、茂さんのことではちょっと人が好すぎやしませんか? もっと強硬に出てさ、奥さんのためにも取るもの取って、ギュッととっちめてやった方がいいよ」
古川茂のことは話したくないと言ってみても始まらない。それでも義男は、ぼんやりと目を上げて店口とショウケースの方を見た。お客が来てくれれば、うまくごまかせるのに。
しかし、店の前に足を止める人影はない。自転車の停まる音もしない。おじさーん、お豆腐ちょうだいと呼びかける声も聞こえない。仕方なく、義男はあいまいに、「うん」と唸った。
鞠子の遺骨の帰宅、通夜と葬儀、そして十一月五日のあの二匹のケダモノどもの死亡事故──一連の事件の流れのなかで、有馬豆腐店は日本でいちばん有名な町の豆腐屋になった。しかし客足は衰えていた。一日店を開けていても、昔なじみの義理堅いお客が慰め顔で訪れてくれるだけで、それではとうてい商売にならない。
小売りだけではない。大きな予約注文がまったくなくなったのが、何よりの痛手だ。料理屋や弁当屋、四年前にこの地区に支店を出した大手スーパー。なかには、二十年以上もお得意さんだったところもある。それを全部切られた。皆、申し訳なさそうな顔をして、しかしその一方で、これは義男のためを思っての処置なのだという言い方もするのだった。
──有馬さん、この際、店たたんだ方がいいよ。今度のことで、えらくこたえてるじゃないか。倒れたりする前に、もう店はよした方がいいよ。真智子さんもずっと入院してるんだろ? 世話する手は有馬さんしかないんだろ? だけど病院通いも、店を開けながらじゃ大変だ。悠々自適に暮らせるぐらいの蓄えはあるだろ? そうでなきゃ、店を売ったっていいじゃないか。なあ、もう隠居しなよ。
大手のスーパーは、豆腐や練り製品は地元の業者から入れたいと言って、わざわざ有馬豆腐店まで足を運んできてくれた当時の仕入れ担当責任者が他所の支店に転勤になっており、やってきた新しい担当責任者は、有馬豆腐店が食中毒でも出したかのようなあからさまな迷惑顔で、こんな不吉なことで全国に名前を知られてしまった店から商品を入れることはできないと通告しに来た。木田は真っ赤になって怒ったが、義男は黙っていた。
それよりも以前に、元の担当責任者が、義理堅いことに、わざわざ細君を連れて鞠子の通夜に来てくれていた。商談で有馬豆腐店を訪ねたときに、遊びに来ていた学生時代の鞠子にお茶を出してもらったことがある。きれいな娘さんでしたと言って、目を真っ赤にしていた。そして帰り際になって、有馬さん、会社はあなたの店との取引をやめるだろう、まことに申し訳ないと、畳に頭をすりつけて詫びた。だから実際に通告が来たときには、義男にはもう、何を言うつもりもなかったのだった。
木田にはずっと手伝いに来てもらっているけれど、彼も暇を持て余している。時折ふと、風呂に浸かっているときとか、朝起き抜けにやかんの湯が沸くのを待ちながらタバコをふかしているときとか、木田に店を譲ってやろうかと思うことがある。どうせ売りに出すなら赤の他人ではなく、彼に譲るのがいちばんふさわしい。口に出せばすぐに決まる話だ。木田は最初こそ遠慮するだろうけれど、最終的には喜んで受けてくれるだろう。いや、やっぱりそれでは駄目か。あまりに辛い思い出がありすぎて、木田だってここで商売などしたくはないか。ここはもう駄目なのか。
「ねえ、親父《お や じ》さん」
せっつくように木田に呼びかけられて、つかの間、義男は混乱した。木田は古川茂をどうにかしろということを話題にしているのだということを思い出すまで、数秒かかった。これもやはり老化現象、つもりつもった疲労のせいだろうか。やっぱり、皆の言うとおりに隠居すべき時が来ているのか。
「茂のことは、放っておくしかないよ。金を払ってくれたなら、もういいじゃねえか」
そう言って、タバコに火を点けた。石油ストーブの上に乗せたやかんの注ぎ口から湯気が立ちのぼっている。「お茶でもいれようか」と、義男は木田を振り返った。
「俺がやりますよ」木田は、そんなことでこの話題を打ち切られてたまるものかという顔をして、さっと立ち上がった。てきぱきと茶器を揃えながら、
「男もああなっちゃおしまいです」と、ぷりぷり怒る。「まだあの女と一緒に住んでいるんでしょう? なんて言いましたっけ」
「さあな。なんて名前だったかな」義男は首をかしげた。芝居ではなく、本当に失念していたのだ。もっと大事なことで、もっと深く考えねばならないことが山ほどあるから、古川茂の不倫相手の女性の名前をしまっておく余裕など、義男の頭の引き出しのなかには残されていなかった。
「結婚するつもりなんですかね」
もちろん、古川茂はそのつもりだ。ずっとそのつもりで、真智子《 ま ち こ 》と「話し合って」きたのだから。だが鞠子があんなことになり、真智子が正気を失い、離婚届に署名することも判をつくこともできなくなってしまって、彼は身動きとれなくなってしまった。古い結婚の清算がなければ、新しい結婚はない。相手の女にはずいぶんせっつかれているようだが、こればかりはどうしようもない。
古川真智子は、大川公園で鞠子のハンドバッグが発見されたあの日、トラックの前に飛び出して、大腿骨を骨折するという大怪我を負った。現在では、その傷はすっかり癒えている。身体は元気になった。身体だけは。頭と心のなかがどうなっているのかは、義男にはわからない。担当の医師にもわかっているのかどうか、いささか心|許《もと》ない。
真智子はしゃべらない。動かない。何も見ないし、何にも反応しない。入院生活で二十キロも体重を減らし、二十年分も老けた。今の真智子は、何も知らない人の目には、義男の娘ではなく妹のように見えるだろう。いや、ひょっとしたら姉だと思われるかもしれない。あるいは年上の妻だと。
幸い、病院の担当医は親切で責任感の強い人物で、外科的な治療が終わったあと、どんな医療施設に真智子を任せればいいか、義男と一緒になって親身に考えてくれた。現在真智子が入院している保田クリニックという小さな医療機関も、彼が見つけだして渡りをつけてくれたところだ。今や真智子のたったひとりの家族となった義男が彼女の世話をしに通いきれる距離にあり、義男の経済力で負担できる範囲内の治療費しかかからないメンタル・クリニックというと、二、三軒しか存在していなかった。
それでも、保田クリニックの入院費は、義男にはかなりの負担となった。とりわけ、傾きかけた今の有馬豆腐店にとっては、二週間に一度来るクリニックの請求書は脅威だ。しかも、この請求書には終わりがない、真智子はいつよくなるかわからない。いや、このまま永久によくならない可能性だってあるのだ。
それでも義男ひとりだったなら、古川茂に金を出させようとは考えなかったろう。あれはもう赤の他人だ、頼ることはないと切り捨てていただろう。頭を下げて金を出してもらうなど、死んでもしたくない。あれは真智子を捨てていった男なのだ。
ところが、義男の親戚筋の勝気な女たちは、義男のそういう割り切りを、男のつまらない意地だと笑い飛ばした。そして、鞠子の葬儀に喪主として参加するために古川家に戻ってきた茂を捕まえ、よってたかってさんざんに罵り倒し、真智子の治療費として五百万円を出すという約束を無理矢理取り付けた。茂もよほど堪えたのだろう、青ざめ引きつった顔で、葬儀が終わると早々に女のところへ帰っていってしまった。
古川茂という理性的な男の、どこまでも理知的な頭のなかでは、鞠子の身の上に降りかかった凶事と、それが原因で真智子が精神のバランスを崩したことと、それらの出来事が起こる以前から彼が女をつくって家を出ていたこととのあいだには、ひとかけらの因果関係もなく、三者はまったく別々の事案として処理されているようだった。実際、理屈としてはそれで間違っていないのだろう。茂がマイホーム・パパで家にいたとしても、真智子と仲むつまじくフルムーン旅行の計画を立てていたとしても、鞠子が悪い時に悪い場所にいてあの二人組に遭遇し、拉致されてひどい目に遭わされ、無惨な姿になって返されるのをくい止める足しにはならなかっただろう。
だが、それでも──それでも[#「それでも」に傍点]と思うのが人間ではないのか。父親ではないのか。義男はそう思う。その思いを茂にぶつけたこともある。しかし、返ってきたのはやはり理屈だけだった──お義父《 と う 》さん、お義父さんは悲しみのあまり、誰かひとり、全部の責任を押しつけられる人間を探しているんですよ。悪者を探しているんですよ。諸悪の根元の犯人が二人とも死んでしまったから、彼らに代わって石をぶつけられる人間を求めているだけなんです。
その答を聞いて、義男はもうこの男と話しても無駄だと思ったのだった。以来、こちらから連絡をとったことはない。彼が支払うと約束させられた[#「させられた」に傍点]五百万円だって、本気であてにしてはいなかった。
「暇だなあ」木田のいれてくれた番茶を飲みながら、義男は呟いた。「今日もさっぱりだな」
「そのうちみんな戻ってきてくれますよ」木田は気丈を装って、笑顔をつくった。「うちの豆腐はそんじょそこらの豆腐とはわけが違うんだからね。親父さんの豆腐を食べたら、スーパーのパックものなんてさ──全然ね、話に──ならないっすよ」
木田の言葉が切れ切れになったので、顔を見ると、彼は涙ぐんでいた。どうしたのかと尋ねる前に、彼は自分から言った。
「すんません」と、鼻の下をぬぐって、「さっきひとりで店番してるとき、女子高生のグループが店の前を通りかかってね、笑い声が聞こえてさ、鞠ちゃんみたいな声だったんですよ。ホント、よく似てたんです。そのあと古川から電話でさ、あいつがちんたらちんたら言い訳するのを聞いてたら、急に、なんだか鞠ちゃんが不憫《 ふ びん》で不憫でたまらなくなっちまって──ひとりでいるときは大丈夫だと思ってたんだけど──すんません」
一方的に、簡単に考えていたけれど、この店を木田に譲るのは、けっして名案ではないのだと義男は悟った。木田は鞠子の成長するのを見てきた。鞠子のことを、歳の離れた妹のように思ってくれていた。日頃はどちらかといえばいい意味でも悪い意味でも鈍感で、のんびりしていて、泣き出すような男ではないのだ。
義男は考えた──店を処分して、木田には相応の退職金を払い、彼が独立したいというのなら機械類は餞別代わりにくれてやり、ここはきれいさっぱり失くした方がいいのかもしれない。建物はもう二束三文だが、土地はそこそこの値で売れるだろう。それで真智子の治療費も出せる。自分は働きに出てもいい。豆腐屋でなくてもいい。清掃会社に勤めてもいいし、スーパーの守衛でもいい。そうだ、そうしよう。
電話が鳴り始めた。木田がまだ鼻をぐずぐずいわせているので、義男は立ち上がって受話器を取った。古川茂の声が聞こえてきた。
「ああお義父さん、お帰りでしたか」
明らかにほっとした声だった。
「ちょっとお話をしたいんですが、今よろしいですか」
何の用だと義男は訊いた。「金の話なら聞いたよ。振り込んだそうじゃないか」
古川は電話だというのに密談でもしているみたいに声を潜めた。
「その件なんです。金のことで、ちょっと」
やっぱり払えないとでもいうのか。それならそれで結構だ。
「実は、今日振り込んだのは百万円だけなんです。当座は、それでもかなりの足しになるでしょう?」
義男は黙っていた。
「それでお義父さん、残りの四百万のことでご相談があるんです」
義男は頑固に黙っていた。仕方ないというふうに、古川は勝手に続けた。
「残りの金は──その、離婚届と引き替えにというわけにはいかないですか」
義男は、今度は意図的に黙ったのではなく、声が出てこなかった。
「真智子が正気をなくしていることは知っています。でも、まったくしゃべれないわけではないんでしょう? お義父さんがあいつの意思を確認して、あいつに代わって署名したということにしていただければ、役所の方にはそれで通ると思うんです。離婚届をもらえれば、私の方はすぐに残りの金を払います。いえ、あと六百万ぐらいは都合できると思うんです」
義男は電話を切ろうとしたが、古川が急き込んで言い募る言葉が耳に食らいついてきた。
「お願いします、お義父さん、なんとか承知していただけませんか。こっちにも事情があって──」
「事情?」思わず強い声で問い返した。「いったいどんな事情があるっていうんだね?」
古川茂は、一瞬、秤《はかり》の目盛りを読むように息を止めて沈黙した。それから言った。「実は──由利江が妊娠したんです。子供ができたんですよ。早く入籍してくれと言われて、それは当然の要求ですし」
由利江というのが、さっき思い出すことのできなかった古川の女の名前だったということに気づく前に、義男は叩きつけるように電話を切っていた。
そのとき、店口の方で女の声がした。
「ごめんください、有馬義男さんはいらっしゃいますか?」
頭のなかで何かが煮えたぎっていて、義男はすぐには返事をすることができなかった。店口の声に、木田が応じる声がした。
「どなたです? 取材の人ならお断りだよ」
女の声が、負けじと張り合うように言い返す。「記者ではありません。わたくしは弁護士です」
弁護士? 思わず、義男は切ったばかりの電話の方に目をやった。離婚の件で、古川茂が寄越した弁護士じゃないのか? そうでもない限り、有馬豆腐店を弁護士が訪れるようなことなどあり得ない。
事務室を出て店口へ行くと、ショウケースの前に、紺色の地味なスーツを着て右手に茶色のオーバーコートをかけた三十歳くらいの女性が立っていた。とても小柄だ。背が小さいというだけでなく、身体のつくりのひとつひとつがすべて小さい。
「有馬義男さんでいらっしゃいますか? 弁護士の浅井《あさ い 》祐子《ゆう こ 》と申します」
彼女は正面から義男を見て、ひとつ頭をさげながら、涼しい声でそう言った。勝気そうで賢そうで、義男は、ずっと昔、鞠子が子供のころに大好きだった絵本のなかに出てきた知恵者のうさぎを思い出した。
「有馬は私です」義男はショウケースに片手を乗せて、会釈した。「どういう御用でしょうか」
浅井祐子は彼女の後ろ、店の前の道路の方を振り返った。それで初めて、義男は、有馬豆腐店の戸口に隠れるようにして、中年の婦人がひとり、背中を丸めて立っていることに気がついた。
「日高さん、どうぞ」浅井祐子が励ますように言った。「有馬義男さんです。お目にかかれますよ」
日高さんと呼ばれた中年婦人は、浅井祐子とは対照的に、自分の足元ばかりを見つめて、恥じるようにコソコソと店口に入ってきた。やはり小柄でひどく痩せていた。こちらの女性は、どんなに努力しても知恵者のうさぎには見えなかった。年齢的にはけっしてまだ老け込む歳ではなさそうだと思えるのに、髪にはまんべんなく白髪が混じり、曲がった背中はいっそ痛々しいほどだ。
「日高さん?」と、義男の隣で木田がおうむ返しに呟いた。「日高さんて、ひょっとして……」
中年婦人がやっと顔を上げ、木田を見て、義男を見た。その目は涙でうるんでおり、真っ赤に充血していた。
ようやく、義男は思い当たった。「日高千秋さんの──」
「母でございます」と、中年婦人が言った。声が泣いていた。
「日高|道子《みち こ 》さんです」浅井祐子が彼女の肩を抱きながら言った。「どうしても有馬さんにお目にかかりたいとおっしゃいまして」浅井祐子と日高道子は、まず鞠子にお線香をあげさせてくれと申し出た。義男はそれを断った。うちには鞠子の遺骨はない、私はあれの祖父で、遺骨を引き取る権利がなかったからと説明した。
「写真を飾って、そこに花と線香を供えてますが、それも内々だけのものです。他人様にお見せするものじやない。どうぞ、ご勘弁ください」
「わかりました。でも、そうしますと鞠子さんは今どこに?」浅井祐子が、心配そうに眉根を寄せた。「失礼ですが、鞠子さんの事件の前からご両親が別居なさっていたことや、今現在、お母様が入院中であることは存じ上げています。ですからわたしたちも有馬さんをお訪ねしたわけで……」
鞠子の遺骨は納骨までのあいだ、義男の従姉《い と こ》の家に預けてある。この処置も妥協の産物だ。古川茂が、女と暮らすマンションには鞠子の骨箱を持ち帰りたくない、だが義男にも預けたくないとごねるので、皆でさんざん話し合ったり揉めたりした挙げ句、やっと見つけた苦肉の策だった。この従姉は古川茂を責めて五百万円を出させる約束を取り付けたいわば過激派の急先鋒で、義男には同情的であり、遺骨は義男が預かるべきだ、古川の許可なんか要らないから抱いて帰りなさいよと言ってくれたのだが、義男はそれを辞退した。義男が骨箱を預かれば、父親としての面目を保つことばかりは一人前の茂と、まるで宝箱を奪い合うようにして、そのことで始終争わねばならない。そんなことはしたくなかった。それに、生前の鞠子はこの従姉とも、彼女の年長の子供たちとも仲がよかった。じじいとふたりきり、有馬豆腐店で寂しい思いをするよりも、納骨までのわずかなあいだだけでも、明るくてにぎやかな家庭で過ごさせてやってくださいと頭を下げた。従姉は涙ぐみながら骨箱を抱いて連れ帰ってくれた。
「突然押しかけるような形になってしまって、本当に申し訳ございません」
奥の座敷に落ち着くと、浅井祐子はそう言って、あらためて丁重に詫びた。
「本来なら事前にご連絡をするべきなんですが、電話をかけてつながるかどうか心許なかったものですから……。それに、今日は有馬さんがまだお店を営業しておられるかどうか確認するだけでもいいと思って近くまで来てみたんです」
「店は、ずっとやっとります」義男は客用の湯飲みを並べながら言った。「電話も替えとりません。一時《いっとき》はうるさくてしょうがなかったですがね」
「取材ですか」
「だけならいいんですがね。いたずら電話も多かったですよ」
ハンカチで鼻先を押さえてうつむいていた日高道子が、そのままうんうんとうなずいた。
「奥さんのところもですか」と、義男は訊いた。
「ひどかったです」ハンカチ越しに、くぐもった声で道子はようやく答えた。「どうやって番号を調べるのかわかりませんけれども、知らない人から……千秋のことを……それは嫌らしい言い方をする電話ばっかりでした」
義男は黙って番茶を縁まで満たした湯飲みを差し出した。浅井祐子が、聡明そうな目で義男と日高道子を見比べていることがわかっていたから、ことさらにむっつりと表情を押し隠していた。
同じ犯人たちの毒牙にかかった犠牲者ではあっても、古川鞠子と日高千秋は立場が違う。一般社会はそう認識していたし、義男もやはり、そう思う。鞠子はまったく無垢《 む く 》な被害者だった。鞠子に対しては、いっそ犠牲者という言葉だけを使ってほしいほどだ。だが、日高千秋はそうだろうか?
確かに彼女はひどい殺され方をした。惨い目に遭わされた。しかしそれは、半分以上、彼女自身が招いて引き起こしたことではないか。
義男は思い出さずにいられない。犯人からの電話と、それによって引きずり回されたあの夜のことを。そして、心も身体もボロボロに疲れてやっと帰宅すると、郵便受けに鞠子の腕時計が入っていたのだ。あの茶番劇には、日高千秋が重要な役割を果たしていたのではなかったか。
声紋鑑定の結果、義男のところにうるさく電話をかけてきていたのは、二人組のうち栗橋浩美の方だったということがはっきりしている。ただ、義男を新宿のホテルまで引っぱり出したあの一件には、片割れである高井和明がどの程度からんでいたのか、まだわからない点が多いのだという。なにしろ彼の家は蕎麦屋で、彼はそこで両親と妹と共に働いていた。彼が調理場に入ってしまえば、家族以外に彼の存在を知る者はいなくなる。つまり、しっかりとしたアリバイを証言できる者がいないのだ。肉親の証言はまったくあてにならないと、警察では考えていた。
高井和明に関しては、万事がその調子だった。どの夜もどの日も、彼のアリバイははっきりしない。唯一の例外が、木村庄司という不運なサラリーマンが氷川高原で行方不明になった十一月三日の夜のことで、この日はたまたま高井和明が調理場にいることを、常連客が確認していたのだった。
しかし、アリバイなんて専門的なことは抜きにしても、義男は、この事件で終始主導権を握っていたのは栗橋浩美の方のように思っていたし、何度も電話で渡り合った相手も、きっと栗橋浩美だったに違いないという確信があった。あの夜の茶番劇を演出し、そのために日高千秋を利用したのも栗橋浩美の方だったはずだ。あの小賢《 こ ざか》しさ。人をバカにしたような口のきき方。栗橋浩美の顔を初めて写真で確認し、彼の世の中を舐めきったような目つきを見た瞬間に、義男は、ああ俺が相手をしたのはこの若造だと判断した。もう一人の方じゃない。あれはただののろま[#「のろま」に傍点]だ。だけどこいつは違う。こいつは蛇だ。真っ直ぐ走ることのできる蛇だ。だから狙われた者は逃げられない。そして、狙われた者が勇気を持って、追ってくるこいつを待ち受けてその頭を踏み潰してしまわない限り、こいつは殺せない。
栗橋浩美の顔写真を見て、彼の人となりについて、刑事たちから聞き、ニュースで知り、新聞で読み、情報が集まってくるに連れて、なるほどこいつなら、テレクラだか何だか知らないがそういう場所で日高千秋を引っかけ、思うように操るなんて、呼吸するくらいに簡単なことだったろうと、義男は確信を深めていった。ちょっと見には格好いい若者だ。こいつに引っかけられて、日高千秋は嬉々としてくっついていったのだろう。栗橋浩美は、彼女を使ってホテルにメッセージを届けさせるとき、どんな筋書きをでっち上げて、彼女に話したのだろう? このメッセージを待っているじいさんについて、どんなつくり話を聞かせたのだろう? そして、彼女はそれを面白がっただろうか?
面白がったに違いない。笑ったに違いない。そうでなければ引き受けるものか。
ホテルのフロントにいた若い女性従業員が、メッセージを受け取って読む義男を横目で見ながら、冷笑しつつ「エロじじい」と呟いたことを、今でも忘れてはいない。日高千秋も、そうだったのではないか。あの夜、フロントに歩み寄る有馬義男を、栗橋浩美と日高千秋が柱の陰からのぞき見しつつ笑いをこらえている──そんな光景が、義男の頭のなかにちらちらする。
日高千秋は殺された。死体は母親の手で発見されるよう、自宅の近くまで運ばれて、彼女が子供のころに好んで遊んだ滑り台の上に置き去りにされていた。確かに悲劇だ。殺害されるときには、彼女だってさぞかし怖い思いをしただろう。
だがしかし、彼女は無垢ではない。好んで危険地帯に踏み込んで、その報いを受けたのだから。その事実の上に足を乗せて立つならば、彼女が死後に多少の不名誉を被っても仕方ないのではないかと思うのもまた当然だ。一部のマスコミが、彼女に対して手厳しいことは書かず、しかし鞠子に対するときとは違う論調で報道したことに、義男は深く感謝していた。可愛い孫娘を、学校をサボって男と遊び回り、平気で売春するような性根の腐った女子高生と一緒にしてもらっては困る。
「有馬さんは、千秋に腹を立てていらっしゃいますでしょう」
まだハンカチで顔の半分を覆ったまま、湯飲みに視線を落として、うめくように日高道子が言った。それまでの彼女の態度から推すとあまりに率直すぎる言葉であり、義男はどう対応していいかわからずに、まるで通訳を求めるように浅井祐子の顔を見た。
浅井祐子は、黙って義男の視線を受け止めただけだった。本音をおっしゃっていいのですよという許しの表情のようでもあり、義男の善意を試す、底意地の悪さが見え隠れするようでもある。
「当然でございますよね。あれは……あの子は……」
日高道子はハンカチをぎゅっとつかんだ。「浅はかな娘でございました。騙されたにしろ、有馬さんにもご迷惑をかけるようなことに手を貸しました」
やっとのことで、義男は言葉を探し出した。
「奥さんは、わざわざそれを謝りに来てくださったんですか」
日高道子は手で顔を覆った。
「なぜあんな娘になってしまったのか、わたしにもわかりません。いろいろ手を尽くしてみましたけれども、学校にも相談に参りましたけれど、どうにもなりませんでした」
「奥さん……」
「雑誌にもたくさん書かれましたし、テレビでも千秋のことはずいぶん報道されました。あの子が……売春のお得意客のリストを持っていたって……そのことは、刑事さんからも訊かれました。テレビで、千秋と……千秋と……遊んだことがあるという男の人がインタビューを受けているのも見ました」
「そんなもの、わざわざ見なすったのかね、奥さん」思わず、義男は叱るような言い方になった。「なんでそんなことを」
「知りたかったんです」ハンカチで流れる涙をぬぐいながら、道子は言った。口が震えているのでろれつ[#「ろれつ」に傍点]が回らず、話しているそばから涙がぼろぼろこぼれる。
「わたしは千秋のこと、何も知らなかった。知りたいと思ってわたしなりに努力はしたけれど、全然届いていなかったんだってこと、あの子が死んでからやっとわかりました」
「ご主人は?」と、義男は浅井祐子の方に訊いた。「千秋さんのお父さんは、どうしていらっしゃるんですか」
先に道子が答えた。「夫とは別れました。千秋の葬式の時に会ったきりです」
「そりゃまた……お気の毒に」
顔に手をあててうつむいたまま、日高道子は呻くように言った。「夫は、千秋が死んだのはわたしのせいだと申しました。わたしが母親として至らなかったから、大事な一人娘をむざむざ殺されてしまったのだと申しました。夫はとても怒って、傷ついておりました。あんな形で千秋を失ったことで、自分の人生はめちゃくちゃに壊れてしまった、それもみんな、わたしのせいだというんです。わたしも千秋の母親で、わたしも千秋を失って悲しんで、苦しんでいることなど、これっぽっちも考えてはくれませんでした。わたしに向かって、千秋を返せと言ったんです」
道子はわっと泣き崩れた。店番をしている木田が、心配そうに座敷をのぞきに来た。義男は目顔で彼に(向こうへ行っていてやってくれ)と合図をした。木田は不承不承離れていった。彼は日高千秋に対し、また彼女の母親に対して、ひと言ふた言いってやりたくてたまらないのである。
義男もつい今し方までは木田と同じ意見だった。追い払うわけにもいかないから座敷に通しはしたけれど、日高千秋の母親が俺に何の用があるのだという気もした。
そんな尖った気持ちがしぼんでゆく。
「実は……」浅井祐子が、泣いている道子の肩をそっとさすってから、静かに切り出した。「日高さんは、栗橋浩美と高井和明の家族を相手取って、損害賠償の訴訟を起こそうと考えているんです」
「損害賠償?」
「はい。裁判となると、悲しいかな、形式的にはそうなってしまいます。ただ、目的はお金ではありません」
きっぱりとした言い方に、義男はかえって当惑した。
「金じゃないって、じゃあ何が目的なんです?」
浅井祐子は、よく澄んだ瞳をちょっと天井の方に向けて思案してから、
「時間──と申しましょうか」と答えた。
「時間?」
「はい。放っておけば早晩忘れ去られてしまうこの事件のために、時間を勝ち取るのです」
もっとよくわからない。
「今でこそ、テレビも雑誌もこの事件についてせっせと取り上げてくれています。でも、あと三ヵ月もしたらどうでしょうね。半年後にはどうでしょう。また別の悲惨な事件が起これば、そちらの方が大きく取り上げられるようになって、千秋さんや鞠子さんの名前なんて、完全に忘れ去られてしまいますよ。いわんや、栗橋浩美と高井和明の名前など、世間一般の人びとの記憶のなかには、かけらも残らないでしょうね」
「しかし、今は大騒ぎしとりますよ。当然のことだけどもね。鞠子たちのほかにも、あの七人の女の子たちのことがあるでしょう? だから警察だって必死になっとるし」
「今はね」と、浅井祐子は意味ありげにゆっくりと言った。
「どっちにしろ、私は一生忘れませんよ」義男は言って、この女性は、自分よりもはるかに若いのだということに思い当たった。義男の「残り一生」と、この先生がこれから生きていく年月との差は大きい。被害者の遺族と、単なる関係者という立場の差以上に大きい。
「やがては犯人の名前が忘れ去られ、被害者の名前も忘却の彼方へと追いやられる」少しばかり怒ったような口調で、浅井祐子は続けた。「それはつまり、事実が忘れられることです。栗橋と高井がどんなひどいことをしたかということが忘れられるということです。しかも、呆れるほど簡単に。わたくしたちは、それを少しでも先に延ばしたいのですよ、有馬さん。民事訴訟を継続することで、刑事事件の捜査では要求されないような事実の細部まで明らかにして、可能な限り詳細に掘り起こして、調査して、記録して、人びとの記憶の表面に、この事件が、できるだけ長く、できるだけ具体的に、ひとつの墓碑銘としてとどまっているようにし向けたいのです」
「そんなことができますかね」
「やらなければなりません」浅井祐子は小さな拳でテーブルをとんと叩いた。
「航空機事故が起きたり、天災で大勢の人びとが命を落としたりした場合には、その現場に慰霊塔が立てられたり、毎年慰霊祭が執り行われたりしますね? この事件も、それと同じように扱われるべきだと、わたくしどもは考えています。そう簡単に、社会にこの事件を忘れさせてはいけません。しかし現実には、犯人が二人とも死亡してしまったという皮肉な成り行きもあって、放置しておけば、早晩すべてがなかったことのように忘れ去られてしまうことは間違いないんです。でもそれは危険です。この場合は、忘れ去られるということがただ単に不当だというだけでなしに、危険なんですよ、有馬さん」
義男はもぞもぞとタバコを取り出したが、火を点けるような雰囲気ではなく、それを手に持ったまま浅井祐子の真面目な顔を見た。
「先生のお話はよくわかりました」
「ありがとうございます」
「けども……それで私に何をしろとおっしゃるんですかね?」
「有馬さんにも、日高さんと一緒に活動していただきたいのです」
義男は驚いて日高道子の顔を見た。彼女は顔をあげており、詫びるような目で義男にうなずき返してきた。
「話が前後して、わかりにくいようでしたらお詫びいたします」浅井祐子はてきぱきと続けた。「日高さんがわたくしどもの事務所を訪ねていらしたのが、先月の中頃、千秋さんのご葬儀が終わった直後のことでした。確か、お兄さまがご一緒でしたね?」
浅井祐子に問われて、日高道子がうなずいた。「わたしの兄が埼玉の方で市会議員をしておりまして、その兄の薦めで浅井先生の事務所をお訪ねしたんでございます」
「損害賠償の裁判を起こそうというのも、最初はそのお兄さんの考えだったんですな?」
「そうでございます」
「わたくしどもとしては、そのお考えに異論はありませんでした。すぐに責任を持ってお引き受けすることになったのですが、ただ、この事件の被害者はひとり千秋さんだけではありません。古川鞠子さんもおられますし、栗橋浩美のマンションで自骨死体が発見されただけで、未だ身元が判明していない女性もいます。さっき有馬さんがおっしゃったように、写真とビデオからその存在が推測される七人の新たな被害者も出てきました」
「はあ……」
「そこでわたくしどもは、この損害賠償請求訴訟は、集団訴訟とされるべき性質のものだと考えました。被害者全員の遺族が一致団結して裁判に当たるのです。そこでその旨を日高さんにお話ししたところ、日高さんも、単独ではない方が心強い、この気持ちを埋解してくれる他の遺族の方々と協力することができるなら、それに越したことはないと賛同してくださいました。しかし、それにはまず、遺族が集まらねばなりません。集まって、被害者の遺族の連絡会を結成する。それが第一歩です。そのために、本日はまず有馬さんをお訪ねしたということなのです」
ようやく話の本筋が見えた。つまり浅井祐子とその事務所は、その被害者遺族の連絡会の呼びかけ役、とりまとめ役を買って出ているというわけなのだ。
「我が国では、残念ながら、犯罪の被害者や遺族に対する心のケアが、ほとんどなされていないのが実状です。特に、公的機関による救済は皆無と言っていいほどのお寒い状況なのです」
「こんなことがある以前から、負け戦ではお上が頼りにならんということは、私らは骨身に染みてよく知っとりましたからな」と、義男は言った。「別に今さら驚きゃしませんがね」
「有馬さんは戦前のお生まれですものね」と、浅井祐子はすぐに応じた。
「まあ、昔のことですよ」義男は言って、今度こそタバコに火を点けた。深く一服するまで、浅井祐子は黙って待っていた。それから言った。
「政府が何もしてくれないならば、こちらから動き出さなければなりません。それにはまず、被害者同士が手をつなぐことから始めなければ」
薄い煙ごしに、義男は日高道子の泣き腫らした目を見た。痩せた顎を見た。痩せこけて骨の飛び出した肩を見た。
この不幸なおふくろさんも、娘の夢を見て飛び起きることがあるのだろうかと義男は思った。義男が孫娘の夢を見るように。そして叫んで、泣いて、それきり朝まで眠れずにじっと布団のなかで身を固くするようなことがあるだろうかと。
死別の悲しみは、やっと通り過ぎた。歩みの遅い葬列ではあったけれど、どうにか通過してくれた。喪失感と同居することにもそろそろ慣れてきた。だがその一方で、どうしても慣れられず、克服することもできず、振り払うこともできないものがある。
それは恐怖だ。自分自身の内側から、自身の想像力を糧にして生まれ育ってくる恐怖だ。義男は考えずにはいられない。一瞬たりとも頭から消すことができない。想像力を止めることができない。奴らは鞠子に何をしたのだろう[#「奴らは鞠子に何をしたのだろう」に傍点]? 何をさせたのだろう[#「何をさせたのだろう」に傍点]? 彼女が息絶えるまでに[#「彼女が息絶えるまでに」に傍点]、彼女が彼らの手の内に囚われていたときに[#「彼女が彼らの手の内に囚われていたときに」に傍点]、いったいどんなことを彼女に無理強いしたのだろう[#「いったいどんなことを彼女に無理強いしたのだろう」に傍点]?
鞠子の遺体が還る前から。奴らが死んでしまう前から、その恐ろしい疑問は義男の頭のなかでじわじわと育ち始めていた。しかし、それが本当に芽を生やし、双葉を開き、茎を伸ばすようになったのは、あの七人の女性を記録した写真やビデオの存在が明らかになってからのことだ。それは恐ろしく強力なおぞましい肥料になって、義男のなかの、かつて一度も使われたことのない想像力を刺激した。耳に入ってくる情報のすべてが、義男のなかの恐怖心というフィルターを通って焦点を結び、時には夢に、時には幻覚に、時には幻聴となって、彼に襲いかかるようになった。
それらの恐ろしい幻影《ヴィジョン》のなかでは、鞠子は常に生きており、どれほど傷つけられても死ぬことを許されず、泣いたり、叫んだり、許しを乞うたり、いっそ死にたいと願ったりしていた。実際にはそんなことはなかった、それはあんたの傷ついた心が生む歪んだ妄想だ、一種の取り越し苦労だ、もうそんなことはやめろ──誰にもそう言うことはできない、誰にも義男の恐怖を鎮めることはできない、なぜなら奴らは死んでしまったのだから、栗橋も高井も死んでしまったのだから。
いっそ奴らが生きていてくれたなら、どんなによかったことだろう。皮肉な思いを噛みしめながら、義男はそう思うことがある。奴らの口から真実を吐き出させることができたなら、この永劫の想像の苦しみから逃れることもできたかもしれない。あったことはあった、なかったことはなかったと、奴らが語ってくれたなら。よしんばそれが嘘であったとしても、わずかでも救われたかもしれないのに。
その救いがないままの日々のなかで、私はときどき恐ろしい夢から飛び出すようにして目を覚まして、鞠子はもう死んで遺骨になり、安らかに墓に眠っており、もう誰にもいたぶられることはない、何にも傷つけられることはないということを思い出して、いっそ安心することがあるんだ──奥さん、千秋さんのお母さん、あんたにもそういうことがありますか。疲れ果てたような日高道子に、義男はそう尋ねてみたい。
だが、尋ねたところで、いったいどんな答が返ってくるというのだろう? 内にあるものを外にも見出し、互いの苦しみを確かめあうだけなのではないのか。
被害者の遺族の連絡会なんて、結局それだけのものに終わってしまうのではないのか。遺族が手をつなぎあって、本当に慰め合うことなんてできるのだろうか?
社会のために、次の邪悪を防ぐために、事件を忘れさせてはいけないだって? 確かにそのとおりだ。だが、それでは私らは、生きながら死に続けることになる。
いつの間にか、手のなかのタバコが長い灰に変わっていた。指先が熱い。義男は死んだ虫の亡骸《なきがら》のような灰を灰皿に落とすと、時間をかけてゆっくりと火をもみ消した。
「私には、わからんです」
やっと、それだけ言った。
「先生のおっしゃることはわかりました。そういう活動が……事件のことをあっさり忘れさせないようにするために、有意義なこともあるちゅうこともわかります。けども、私がそれに参加できるかどうかは、すぐにはお答えできませんです」
「もちろん、即答していただこうとは思っておりません」浅井祐子はすぐに応じた。
「今日はこちらの意図をご説明して、ご挨拶をするためにうかがったのです。それと日高さんが──」ちらっと道子の方を見て、「今この世の中で、自分の気持ちをいちばんよく理解してくれるのは、きっと有馬さんだけだろうとおっしゃいまして。それでどうしても、一度お目にかかりたいと切望されていたものですから」
日高道子が深々と頭を下げた。義男は目をあげることができないまま瞑目していた。
浅井祐子は書類鞄を引き寄せると、蓋を開け、なかから書類を取り出した。右肩をホッチキスで止めた二枚綴りのものである。
「本日お話しした内容を文章にまとめたものです。近々、連絡会の最初の集まりを持ちたいと考えているもので、それについても若干触れてあります。よろしかったら、お目通しください」
テーブルの上に書類を載せて、義男の方に差し出す。義男はもう一度頭を下げたが、手は出さなかった。
「今後もご連絡をさしあげてもよろしいですか?」
「それは……まあ」
「ありがとうございます」今度は浅井祐子が頭を下げた。「日高千秋さんと古川鞠子さんは、この事件の中心的なお二人です。今の段階では、身元が判明して、遺体も発見されてご家族の元に還っておられるのは、このお二人しかおられないもので……。今後、後から存在が判明した七人の女性たちの遺体が発見されればまた事情は違ってきますが、最悪の場合、損害賠償請求の原告となり得るのは、千秋さんと鞠子さんのご遺族だけというケースも考えられますし」
「ほかの人たちは、写真やビデオだけでは駄目だということですか」
「そうですね。今からそんな気弱なこと言いたくもないですが、可能性としては考えられることです」
「先生」と、義男は言った。「私には、奴らはあんな形で死んで、かえって得をしたみたいに思えることがありますよ」
「わたしもそう思います」浅井祐子は、再び瞳に怒りの色を浮かべながら言った。「栗橋と高井の事故死を、天罰だと評する向きもありますが、わたしはその意見には絶対反対です。彼らは彼らのしたことにふさわしい制裁を受けませんでした。ぬけぬけと罪を免れて、時間の経過と共に消えてゆこうとしています。わたしには、それは全然正しいことには思えません。本当の天罰ならば、そんなことはないはずです。天罰とは、そんな不当なものではないはずです」
浅井祐子と日高道子が帰ったあとも、義男はしばらくのあいだぼんやりと座敷に座っていた。
天罰なんて言葉があてにならないことはわかっていたつもりだった。善人に良い報いがあるとは限らない。悪人がすべて滅びるとは限らない。
木田が様子を見にきた。夕方の買い物時だというのに、お客はさっぱりやってこない。
「孝さん」と、義男は木田に呼びかけた。
「なんですか、親父さん」
「店をたたもうか」
俺はもう、疲れた──そう言いかけて、口をつぐみ、義男は手で顔を覆った。
[#改ページ]
総合出版社・光学館発行のティーンエイジャー向け週刊情報誌『ポップタイム』に、創刊以来十年に渡って連載されている長寿コーナーがある。「おハガキバトル」というこの企画ページで、十一月の第四週から十二月の第二週の三週間に渡り、栗橋浩美と高井和明による連続誘拐殺人事件についての特集を組んだ。
三週のあいだに編集部宛に送られたハガキは総計四百通に及んだ。『ポップタイム』の読者は八割方が女の子だが、この時寄せられたハガキは、中高生の男子からのものが、全体の四割近くを占めていた。
同じころ、同社の看板誌である週刊誌『ウィークリー・ジャーナル』でも、連続誘拐殺人事件が社会に与えた余波についての「波紋と響き」と題する特集記事を載せている。そのなかでは、長年『ポップタイム』おハガキバトルのページの窓口役を務めている声優の川野《かわ の 》レイ子が、若手俳優の高橋健二を相手にそれまでに寄せられた「おハガキバトル」のティーンエイジャーたちのハガキを読んだ感想を織り交ぜながら対談を行っていた。
[#底本、ここより行頭空白無し(一部例外有り)]
レイ子 最初に『ポップタイム』編集部内で企画を立てた時にはね、正直言って、ここまで反響があるとは思ってなかったの。事件が騒ぎになっているあいだには、ほら、あのHさんていう女子高生ね──
高橋 犯人に協力させられて、殺されて公園に置き去りにされた女の子だね。
レイ子 そう、彼女のことについて「おハガキバトル」のなかでちょっと議論をしたのね。そのときは、「援交やって殺されちゃうなんて、あのコはドジだ」っていう意見が多かったのよ。
高橋 それは援助交際するのがいけないんじゃなくて、ヘマをして殺されちゃったのがドジだってこと?
レイ子 そうそう。でも一方で、「知らない人のあとをついていくのはやっぱり怖いことなんだってわかった」っていう意見もあったのね。とにかく、Hさんのことはみんな身近に感じてた。だけど、事件全体についてみんながこれほどいろいろ考えてるとは思ってなかった。驚いたし、感動したわ。
高橋 あの事件は自分たちには関係ないというふうにはならなかったんだよね。でも、今回のあの二人組の犯人は、『ポップタイム』の読者から見たら、もうオジンだよね。
レイ子 そうよねえ。だけど、特に男の子からのハガキにね、「ああいうことをした奴らの気持ちがわかる」っていう意見がね、バカにできない数だけあったのよ。これはあたし、むむむって思ったわけ。それで今日高橋君に来ていただいたのも──
高橋 僕が去年、映画『シルフィ』で連続婦女暴行殺人犯を演じてるからだね。
レイ子 そうです。まあ。あたしと同じ事務所で来てもらいやすかったからということもあったんだけど(笑)。
高橋 この事件のことも、ときどき顔あわせるとしゃべってたしね。ところで僕、栗橋浩美と高井和明と同い歳なんだよ。
レイ子 学年も同じ?
高橋 そう、まったく同じ。ただ彼らは東京生まれだけど、僕は千葉の海っぺりの出身だから、そこは大きな違いがあるけどね。
レイ子 そういう地域性は、高橋君ぐらいの若い年代でも感じる? あたしはホラ、四捨五入すると四十だからね(笑)。地域性とか生まれ育ちの呪縛ってのがまだ残ってる年代だけど、高橋君もそうかな。
高橋 同じ千葉でも、住宅地や都市部に生まれたら感じないだろうね。だけどうちはホラ、じいちゃんも親父も漁師でしょ。
レイ子 昔で言う、網元さんなのよね。
高橋 そんな金持ちじゃないけど。でもケッサクなのは、僕が『シルフィ』に出たとき、主役級の役だってじいちゃんがすごい喜んでくれてさ、ところが映画見て怒っちゃったんだ。おまえ、なんであんな人間のクズの役なんかやるんだ≠チて(笑)。
レイ子 『シルフィ』は、逮捕された連続婦女暴行殺人犯と取調官との対決を、すごくストイックに撮った映画でしょ?
高橋 そう。僕が演じたのは、一見おとなしそうで、無害で優しそうな男なんだよね。ところがその仮面をはいでゆくと、全然別の顔が見えてくる。まあ、最終的には彼自身が肉親による性的虐待の犠牲者なんだということが判明して、全面自供するところで終わるんだけどさ。ところがその筋立てを、じいちゃんは気に入らないわけよ。僕も困っちゃって、ずいぶん説明したんだよね。
レイ子 あの主人公は、人間のなかの邪悪を象徴する存在なんだと。
高橋 そうだけど、八十歳のじいちゃんにそんな難しいこと言ったってわかんないわけよ(笑)。今度は刑事の役をやってくれ、世間体が悪くてかなわん≠セって。
レイ子 それなんだけどね、『シルフィ』で役作りしていて、犯人の心理のなかで、「あ、ここはわかるな、これは僕でもあるかもしれないな」っていうところはあった?
高橋 もしも一定の条件が揃ったら、僕だってこの犯人みたいなことをやりかねないって意味で?
レイ子 そう。
高橋 それはあったね。
レイ子 あったか……。
高橋 ただ、それは理屈で考えての話でね、エモーションがついてきてるわけじゃない。というのはさ、『シルフィ』の犯人は、自分自身も性的虐待の犠牲者だっていう、背景を持ってるんだよね。彼が女性を襲って殺すのは、自分を虐待した大人の女に対する復讐だと。そういう設定なわけだ。だけど現実の事件では、きっと動機ってひとつじゃないと思うんだよね。
レイ子 なるほど。
高橋 『シルフィ』はもちろんフィクションだから、観客が納得してくれるような明解な動機を持ってこないことには成立しないから、これは当然のことなんだけどね。でも、現実の事件のなかでは、たとえ犯人自身であっても、なんでこんなことやったんだって問いつめられたとき、これこれこうだからですって、はっきり答えられないんじゃないのかなあ。これは監督の天沢さんも同じこと言っててね、「余りが出るように演じろ」って。
レイ子 そりゃ難しかったでしょう。
高橋 難しいね。
レイ子 でも、おかげでギャラクシイ賞もらったんだよね。あらためて、おめでとう。
高橋 ありがとうございます。でもさ、僕は役者だから、演じるのが仕事だからね、苦しい屁理屈をつけてでも犯人役になりきる努力をしたけれど、「おハガキバトル」のバトルメイト(おハガキバトルの投稿者のこと)たちがさ、誰に強制されたわけでもないのに、レイ子さんのところに栗橋や高井の気持ちはわかる≠チて書いてくるっていうのは、なぜなんだろうか。
レイ子 そういうおハガキは、大部分匿名なの。だから、自分でも、犯人たちの気持ちがわかっちゃう、共感できちゃうことは、あんまり良くないことなんだって感じてるんだろうと思うのね。
高橋 そうだね。悪ぶって書いてくるのとは、ちょっと違うよね。
レイ子 だけど気持ちはわかっちゃう。それって、本人にとっても、すごく怖いんじゃないかしら。
高橋 あの二人組のどういうところが共感を呼んでいるのかな。
レイ子 はっきりとね、女の子をいじめてみたい≠ニ書いてきたバトルメイトの男の子もいたのよ。
高橋 それはまたものすごく正直だね。
レイ子 だけど大多数は、彼らが警察とかマスコミとかを相手取って、日本中をキリキリ舞いさせたでしょ? それがカッコよかった、見ていてスッとした、自分もああいうことをやってみたいという内容だったね。
高橋 それって、タレントになりたいとか、テレビに出て人気者になりたいとかいう気持ちと一緒かな。
レイ子 百パーセントそうだとは言えないと思うのよ。近いものはあるけど。
高橋 反体制の気持ちでは全然ないよね? 警察とメディアって、めちゃくちゃ体制側だけどさ。
レイ子 それはないと思うなあ。
高橋 レイ子さん、目立ちたいから声優になったの?
レイ子 それはどうかなあ……。あ、そういうときの動機もひとつじゃないよね。
高橋 だよね。僕も、女の子にモテたいから役者になったわけじゃない(笑)。売れないうちはチョー貧乏だから、全然モテないしね。だけど、人気出たらモテるかな? という下心はあった。確かにあった。でも、それが動機ではない。難しいよね。
レイ子 ただね、ああいう凶悪な犯罪をやってしまう人間と、それを見てああ、あの気持ちはわかる≠ニ思う人間とのあいだにある溝は、実はけっこう深いと思うのね。特にティーンエイジャーは多感だから、良いことにも悪いことにも共振しやすいじゃない。
高橋 心がやわらかいからね。
レイ子 そうそう。だから、自分だってああいうことやりかねないって感じたことを、ハガキに書いて送っただけで気が済んだって部分もあると思うのよ。実際にはそういう若者が多いんだろうと思うの。
高橋 レイ子さんが「おハガキバトル」にこだわって、インターネットもファクスも使わないで、とにかくハガキ書いて送ってくれって呼びかけてるのも、そのへんに理由があるんでしょ?
レイ子 ええ、そう。ファクスやインターネットだと、すごく速いじゃない? 書いたものを自分で読み返す時間がない。だから、かなりトンデモないことでもさらっと書いて送信しちゃって、だけどそのこと自体も割とすぐに忘れちゃいそうな気がするわけ。だけど、ハガキとか手紙ってのは、書くの大変だからね。それなりに時間をかけて考えたことを、一定のスペースにおさまるように文章にしなけりゃならないでしょう。しかも書いたあと、それ持って玄関で靴はいてポストまで歩いていって投函しなくちゃならない。
高橋 歩いてるあいだに考えが変わることもあるし、ちょっと言い過ぎたかなとか、カッコつけ過ぎたなとか。
レイ子 頭が冷える。だから逆に、あたしのところに届いたハガキに書かれてる声っていうのは、なんていうのかな、かなり煮詰まった声だと思うのね。それだけに、ハガキ出して、吐き出してスッとしたっていう度合いも、さらさらっとファクスに流すよりは強いような気がするんだよね。あたしの思いこみかもしれないけど。
高橋 いや、でもそれはあると思うよ。極端な話、ファクスや電子メイルでラブレターもらうより、やっぱり封書で欲しいじゃない。
ただね、今の話聞いてて思ったんだけどさ、バトルメイトのあの犯人たちの気持ちはわかる≠チて男の子たちは、犯人たちの反対側にいる遺族の人たちの気持ちについては、どんなふうに感じとろうとしてるのかな。
レイ子 うーん。ただ、遺族についてはあんまり報道されないじゃない。
高橋 確かに栗橋と高井に比べたら全然少ないけどね、でも、最初の方にはあったじゃない。さっき出た女子高生のHさんのお母さんもそうだし、おじいさんがいたよね、Aさん。
レイ子 お豆腐屋さんのね。犯人たちに振り回されて大変な思いをして……。
高橋 被害者であるお孫さんの腕時計を届けられたんだよね。僕、あのAさんが記者のインタビューに答えてるのを見てさ、ぼかしがかかってるから顔は見えないんだけど、声は聞こえるじゃない、その声を聞いてるだけで、ちょっと喉が詰まってきちゃってね。あの人、僕のじいちゃんよりは若いけど、同年代だからさ。きっとね、やっぱり犯人たちのこと、人間のクズだ≠ニ思ってると思うんだよ。そんな人間のクズに大事な孫娘を殺されてさ、だけどそのことについて訊かれたら答えなきゃならない。
思うんだけどさ、僕たちの世代は、じいちゃんたちが若いころ戦争で人を殺したってことを、なんか理解できないじゃない? いくら命令されたって、人殺しが嫌だったら、徴兵されるのが嫌だったら逃げちゃえばよかったじゃないかって。
レイ子 そんなこと、お祖父様に言ったことがあるの?
高橋 あるんだよ、幼いころ(笑)。
レイ子 お祖父様、なんて答えた?
高橋 おまえらには説明したってわからんて。
レイ子 そうかぁ。
高橋 でね、たとえば今、あのAさんが『ポップタイム』を読むとするじゃない。そして、バトルメイトたちがあの犯人たちの気持ちがわかる∞自分だって同じことをやるかもしれない≠チて書いて寄越してるのを知ったら、すごく不可解だろうと思うんだよ。だけどね、じゃあAさんに、なんで今の若い男の子たちはああなんだって訊かれたら、レイ子さん答えられる?
レイ子 うーん。
高橋 僕はね、説明してもわかりませんよって言うしかないと思うんだよね。戦争の話と、ちょうど対照的でさ。
レイ子 なるほどねえ。高橋君はあたしとは全然違うことをこの事件から感じてるんだね。あたしはね、やっぱり、基本的に「女の子を玩具《おもちゃ》のように扱って、壊れたら捨てる」みたいな男の子に増えてほしくないのよ。あたしは別にフェミニストじゃないけど、この歳になってオバサンひとりで『ポップタイム』で頑張ってるのは、男の子たちの頭に、女の子は男の子のために存在している玩具なんだという価値観を植え付ける連中と、どんなに不利な闘いでもいいから、闘い続けたいからなんだよね。だからさ、今『ドキュメント・ジャパン』で連載中のルポ──
高橋 前畑滋子さんていう女性ジャーナリストだよね。
レイ子 そうそう、あのルポを、女性が書いてくれてるってことに、あたしは快哉《かいさい》を叫んでるの。栗橋浩美と高井和明のしたことを、女性が分析してくれる。それって、すごい意義があると思うんだ。
あとね、ちょっと話が戻っちゃうんだけど、これは守秘義務があるんでボカした話し方しかできないんだけどさ、知人に、電話の相談室でボランティアしてる人がいるのね。悩みのある人が気軽にかけてきて、名前も名乗らずに、心の内をうち明けることができるっていうやつね。
栗橋と高井が死んで、事件の犯人だってわかるまでのあいだに、一日に何件も、あの犯人は僕です≠チていう告白の電話がかかってきたんだって。もちろん、みんな嘘よ。僕の友達が犯人です≠チていうのもあったそうだけど、すごく多かったのは、自分が犯人です、全部自分がやりましたっていう告白。
高橋 それはまた、バトルメイトたちとは違うパターンの反応だね。
レイ子 そう、これはまたベクトルが違うね。あたし個人としては、あの犯人の気持ちがわかる≠ニいうバトルメイトの男の子たちよりも、そういう嘘の告白をしてくる人間の方が不気味に思えるのよね。そんな嘘を言うことで、いったい何が得られるんだろう。そんな嘘から、その人たちは、いったいどんな栄養を得られると思ってるんだろう?
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10
前畑滋子が、日高千秋の母親日高道子が弁護士を雇い、栗橋浩美と高井和明の遺族を相手取って損害賠償請求の訴訟を起こそうとしているという情報をキャッチしたのは、十二月二十三日のことだった。
天皇誕生日の祭日だが、年末のこととて昭二は工場に出ていた。パソコンに向かって黙々とルポの続きを書いているところに、もうずいぶん昔に何度か一緒に仕事をしたことのあるフリーライターから電話がかかってきて、今の段階ではあくまでもうわさ話に過ぎないが──と断った上で、日高道子の雇った女性弁護士の名前や事務所、連絡先まで教えてくれたのだ。
滋子は教えられた情報をメモに取り、礼を述べてから笑った。「こんな情報、もし本当ならいい取材ネタなのに、どうしてわたしに投げてくれるんです?」
「僕は犯罪ものは手がけないし、前畑さんがいい仕事をしてるからだよ」
「それは光栄です」
「『ドキュメント・ジャパン』の手嶋さんは、私もまんざら知らない人じゃないんだ。この業界の、一種の名物男だからね」
「雑誌をつくっては潰すことにかけては、でしょう?」
相手は屈託なさそうに笑った。「『ドキュメント・ジャパン』は、彼の雑誌のなかじゃ、今のところ|最長不倒距離《バ ッ ケ ン ・ レ コ ー ド》じゃないかな? 前畑さんのおかげで、雑誌じゃとんでもなく珍しい増し刷りまでかかったそうじゃないか」
「元が少部数ですからね。そちらと違って」
「まあ、商売がらみの話はなしにしようよ」
相手はまだ朗らかな声を出している。
「その浅井っていう女性弁護士ね、日高道子だけじゃなくて、あの事件のほかの被害者の遺族にも声をかけて、なんか集まりを開くらしいという情報もあるよ」
「被害者の会を結成するわけですか?」
「そんなところかもしれない。しかし、その女先生、若いし未熟だからね。ひとりで仕切れるとは思えない。まだイソ弁だし。事務所が丸抱えでやるんだろうね」
滋子はメモの「浅井祐子弁護士」という文字の上に丸を描き、クエスチョンマークを足した。パソコンのモニターがスクリーンセーバーに切り替わり、3Dの迷路を行ったり来たりする忙しい映像が始まった。
もしも本当に被害者の遺族の会を結成するのならば──誰が結成するにしても──マスコミの要請を受けて、一度は正式な記者会見を開くだろう。もっとも、そこでは公的なコメントしか取材することはできない。滋子のルポにとって、被害者たちの遺族の肉声はぜひとも必要なものだけれど、それはそんな形で得ることなど不可能だ。事実としては押さえておかねばならないことだけれど、まだそれほど興味を惹かれることでもなさそうだと思った。
「前畑さん、まだどっちの遺族にも会ってないんでしょう?」と、先方が質問した。「栗橋たちの遺族にも、犠牲者の遺族にも」
「ええ」と、滋子は簡潔に答えた。嘘をつくときには多くをしゃべらないに限るものだし、もう電話を切りたかったのだ。ちょうど執筆に熱が入ってきつつあったところだった。
「浅井祐子だって彼女の事務所だって、本格的に被害者の遺族の会をつくる前に、きっと打ち合わせみたいなものをやるはずだと思うんだよ。個々の被害者の遺族を呼んでさ。そういう場があるという話をキャッチしたら、報《しら》せてあげるよ。行くだけでも行ってみれば、何か収穫があるかもしれないじゃない? もちろん、ウチの記者たちも行くだろうけどさ、前畑さんが狙ってるのは特ダネじゃないんだから、そのへんは気にしないでしょう」
滋子は、名乗られてもすぐには思い出すことのできなかったこのライターの顔を思い浮かべてみた。歳は滋子と同じくらいだったはずだ。仕事はきちんとする人だった。意地の悪いこともしなかったし、セクハラまがいのこともなかった。しかし、だからと言って、今、滋子にこんなに親切にしてくれるその裏に、何もないとは限らない。
「ええ、気にしません。ご親切にありがとうございます」やはり簡潔にそう言った。
「本当に前畑さんの仕事に期待してるんだからさ。僕はね、あなたは書ける人だと思ってた。自分の目に間違いがなかったことを、今しみじみ嬉しく思ってるんだ」
それだけ言って、やっと電話を切ってくれた。滋子はため息と一緒に受話器を置いた。
マウスを動かすと、モニター上に書きかけの原稿が戻ってきた。昨日からずっと、書いては削り、書き直し、消してはまた書いている一節だ。連載の第六回に相当する原稿だが、まだ起こしの部分しかできあがっていない。
文章が気に入らないわけではない。書き方を迷っているわけでもない。むしろそれ以前の問題がある。今これを書いてしまっていいのか、これを連載第六回として発表していいのかという問題だ。
第四回と五回で、栗橋浩美と高井和明の少年時代と、彼らの育った練馬の小さな町について書いたところだった。町の人びとは滋子の取材に協力的で、彼ら二人について知っていることをよくしゃべってくれた。彼らの遺族がすでにこの町を離れているので、気楽になったのだろう。
準備のための取材では、二人の同級生たちからも、かなり話を聞き出すことができた。地元に残っている者もいれば、地方に出たり、首都圏でも他所で生活している者もいたけれど、転居先を追うのは楽な作業だった。十人会えば八人までは滋子のルポのことを知っていた。ルポそのものは読んでいなくても、ルポにからんで滋子が出演したテレビを観ていたのだ。皆、一様に事件には興味を持っていた。だから、面会を取り付けること自体は難しくなかった。
彼ら彼女らの同級生だったころの栗橋浩美と高井和明について、滋子が質問する前から語り出す者もいれば、どんなに訊いても通り一遍の言葉しか返してこない者もいた。これは男女で差があるわけではなく、話したくてウズウズしている者と、「よくわからない」と首を振る者との比率は、だいたい五分五分だった。ただ、それでも皆、なぜかしら会ってはくれる。
ひとつには彼ら彼女らはまだ若く、自分の自由になる時間を比較的豊富に持っているからだろう。質問には答えないのに滋子に会いたがる者たちは、同級生があんな事件を起こしたことで不安にかられ、少しでもはっきりした事実を知りたいと、むしろ滋子を取材源と考えているのかもしれなかった。いみじくも、ひとりの女性がこんなことを言った──
「新聞も雑誌も、数を読めば読むほどわからなくなっちゃうんですよ。みんな、書いてあることが微妙に違うんだもの。どれが本当なのかしら」
彼女は中学二年の二学期に、高井和明と机を並べていたことがあったという。すごくおとなしくて不器用な男の子だという印象しか残っていないと言った。
「夏休み明けに席替えで隣になったの。真っ黒に日焼けしてて、びっくりしたわ。だって、スポーツとかして日焼けするようなタイプの男の子じゃ全然なかったんだもの。のろくさくて」
滋子は高井和明と水泳部で一緒だったという男性に話を聞いていたから、彼がずいぶんと熱心に真面目に水泳部で頑張っていたのだと話してやった。すると彼女は、信じられないというように首を振った。
「スポーツするようなタイプじゃなかったわよ。天文部とか科学部とか、なんかそういうことやりそうな男の子だった」
まるで自分の信念が裏切られたとでもいうかのような、ちょっと怒った口調だった。高井和明が、大人になってから連続殺人に手を染めたことよりも、少年時代に、スポーツをするようなタイプではないくせにスポーツをしていたことの方が、より罪深いとでも思っているみたいだった。
話してくれる同級生たちの誰から訊いても、高井和明については茫漠《ぼうばく》とした印象しかつかめない。おとなしかった。目立たなかった。居ても居なくても一緒だった。嫌いだったという者もいない代わりに、記憶もない。
この点で、栗橋浩美はまったく対照的だった。彼は同級生たちの多くに鮮明な記憶を与えていた。不思議なことに、彼がそんなことをするとは考えられないと答える者には圧倒的に女性が多く、やりかねないと納得している者には男性が多かった。
「あいつはね、生まれつきの嘘つきだった」と、吐き出すように言った同級生もいた。
「自分より強いヤツには取り入るのが巧かった。弱いヤツは徹底的にいじめた。ただし、外側からはわからないようにね」
自分がなぜそれを知っているのかと言えば、子供のころに重い中耳炎を患った後遺症で、左耳が難聴だった彼は、そのことをネタにして、さんざん栗橋浩美にいじめられたからだと言った。
「たとえばね、授業中に、僕がはっきり聞き取ることができないように、左側から、しかも小声で悪口を言うんですよ。ネチネチとね。それでこっちがキッとなると、え、ナンのこと? というトボけた顔をする。それで僕、ずいぶん先生に叱られましたよ。よそ見をするな、ソワソワするなって」
気の毒なことだとは思ったが、それよりも滋子の興味を惹いたのは、表向きは優等生で人気者であり、裏側では狡猾で意地の悪い本性を見せていた栗橋浩美が、「強いヤツ」として一目も二目も置き、けっしていじめたりからかったりもせず、積極的に近づいて仲良くしていた相手がたった一人だけいたという話の方だった。網川浩一という少年だ。
「網川? ああ彼、ピースね。よく覚えてますよ」
「ピースでしょ? ええ、そういえば栗橋君とも仲良かったわ」
「ピース? 懐かしいね。今何してるんだろう。彼からも取材してるんですか?」
同級生たちは皆覚えていた。そして、網川の名前を出すと、一様に顔をほころばせる。
「網川はすっごくいいヤツだった」という評価を、滋子はずいぶん聞かされた。しかもそれらの言葉は、当時は誰にも言えなかったけれど、実は昔、栗橋浩美からは陰湿な嫌がらせを受けたり、面と向かってバカにされたりしたんだよと語ったのと同じ口から発せられるのだ。
「網川は、小学校の時に転校してきてたんじゃなかったかな」中学一年の時、網川浩一と同じクラスで、学級委員を務めたという男性が言った。「いわゆる転校生の神話≠サのものでしたよ。勉強もできたし、スポーツもなんでも巧かった。家は金持ちだったけど、ちっとも派手じゃなくてね。みんなにピース≠チて呼ばれてた。先生までそう呼んでましたよ」
そして懐かしそうに笑いながら、
「あいつ、いつも笑ってるみたいな愛想のいい顔しててね。けっして丸顔じゃないんですよ。どっちかって言ったら面長の方だし、けっこうハンサムでね。だけど、笑ってる顔があのピースマークそっくりで、だからピースってあだ名になったんです。確か、前の学校でもそう呼ばれていたって言ってたな」
網川浩一は、クラスのなかのどんな目立たない生徒にも、親しみを込めてピースと呼ばれ、呼ばれれば、誰に対しても同じように愛想良く返事をしたという。
「栗橋がピースに近づいたのは、最初のうちは牽制を兼ねた様子見でね、つまり、おまえと俺とどっちが上か確かめようじゃないかってなもんだったと思う。でも、ピースはまたたく間に人気者になっちゃったし、ただチヤホヤされるだけじゃなくて、人望も出てきましたからね。そのうえ勉強でも何でもよくできるってことがわかってくると、いくら栗橋が負けず嫌いで威張り好きでも、こいつを敵に回したら損だってことがわかったんじゃないかな。ピースを蹴落とそうと下手にジタバタすると、自分の方がみんなから白い目で見られかねないって、ね。そういうところ、あいつすごく頭が良くて、判断が速かったから。だから、誰よりも俺がいちばんピースと仲がいいんだというふうに見せかけた──栗橋は、いつもそうやって見てくれをつくることに熱心だったから」
しかしこの当時、連載第四回と五回のために、これら同級生たちの証言を集めているあいだ、滋子はまだ、話題の網川浩一に接触できずにいた。彼だけが現住所をつかめなかったのだ。なんとも残念なことだと悔しくて仕方なかった。
ところが、取材を終えて原稿を書き始めた途端に、高井由美子が滋子の手のなかに転がり込んできて、しかもそこに網川浩一がくっついてきた[#「網川浩一がくっついてきた」に傍点]のである。これには仰天した。
だから今、連載第六回で、滋子は由美子とピースに出会った時のいきさつを書いているのである。由美子から電話がかかってきて、会う約束をし、しかし滋子が待ち合わせ時刻に遅れたので由美子がパニックを起こしてしまい、危うくトラックに轢《ひ》かれそうになったところを、たまたま車で通りがかりに彼女を見かけて追いかけてきていた網川浩一に助けられ、二人は一緒に滋子のところにやって来た──
出来過ぎた話だが、しかし事実だ。しかもこれは、今現在、滋子しかつかんでいない事実なのである。書かない手はない。
──だけど。
高井由美子という加害者側の遺族を、滋子が手の内に保護していることを、連載の今の段階で公表してしまっていいのだろうか?
なにしろ、高井由美子が滋子に持ち込んできた訴えの内容が内容なのだから。
そう、それが難問なのだ。高井由美子は、彼女の兄高井和明は栗橋浩美の共犯者ではない、無実だと主張しているのである。
──兄さんは、栗橋のやってることに気づいてたんだと思います。あいつがあの事件の犯人だって、知ってたんだと思います。
あの日、トラックに轢かれ損ねた彼女は、頬に大きな擦り傷をこしらえていた。その顔で、目を潤ませて、滋子の膝にすがるようにして言ったのだ。
──兄さんは優しい人でした。お人好しでした。幼なじみの栗橋を警察に突き出すのに忍びなくて、説得して犯行を止めさせようとしたんだと思います。だからああして栗橋のそばにいたんです。あんな形であいつと一緒に死んでしまうなんて、ホントに運の悪いお兄ちゃんです。だけどあたし知ってます、兄さんは人殺しなんかできる人じゃない。自分が殺されたって、人を殺せる人じゃないんです。兄さんは無実です。
高井由美子は、そのことをルポに書いてくれというのである。そのために滋子に会いに来たのだ。警察は相手にしてくれない、家族の証言なんかあてにならないと、歯牙にもかけない。だから滋子だけが頼りなのだ、と。
確かに、栗橋浩美に比べると、高井和明に関しては物証が少ない。少ないどころか、あの日赤井山中のグリーンロードで木村庄司の遺体を積んでいた車が彼の自家用車だったということだけを除いては、ほとんど無いと言ってもいいくらいなのだ。古川鞠子や日高千秋など、身元の判明している被害者の失踪した日時の高井和明のアリバイがはっきりしないという事実はあるが、はっきりしないということ即クロであるということではない。シロである可能性もあるということなのだ
実際、本人たちが死亡してしまったこともあり、捜査当局はまだ、この二人が連続誘拐殺人事件の犯人だと、公的に断定[#「断定」に傍点]──してはいないのだった。確定されていない被害者まで出てきた始末だし、捜査はまだまだ継続中だ。
ただ、状況から推して、この二人で間違いないだろうという空気はある。そして多くの国民同様、滋子もそう考えている。常識を物差しにすれば、誰だってそう考えるだろう。
滋子のルポは、あくまでも栗橋浩美と高井和明の二人が犯人だというところから出発している。もしも由美子の意見を入れたら、まずその土台から崩さねばならなくなる。由美子が充分な証拠と新しい観点を持っているのならば、それもできよう。しかし、話を聞いた限りでは、由美子の和明無実論は、所詮感情的な叫びの範囲を出るものではないと思われた。これでは駄目だ。
しかし、彼女の要望には従えない、彼女の望むようにルポの内容を変えることはできないと伝えれば、由美子は滋子から離れていってしまうだろう。今はまだ、それは困る。だからこそ、彼女の存在について書くタイミングが難しいのだ。
今まで書いた部分を読み返していると、今度はアパートの戸口でノックの音がした。滋子を呼ぶ声が聞こえる。真一だった。
「どうぞ、開いてるわよ」
塚田真一が、寒そうに首を縮めて入ってきた。外は風が強いようだ。
「これ、バイク便で届きました」
大きなクッション封筒を差し出す。『ドキュメント・ジャパン』の編集部からのものだった。
「どうもありがとう」
受け取ると、結構な重さだ。おそらく、高井由美子とのインタビューを録音したものを、文章に起こしたものだろう。由美子からは、これまでトータルで十時間ぐらい話を聞いた。彼女は感情的になっており、興奮して、何度も泣き出しては話が中断し、その場で聞いただけでは理解できないような部分もあった。最初は、テープを聴き直しながら滋子が自分で文章にしようと試みたのだが、なかなか上手くいかず、結局は手嶋編集長に頼んで、これらのテープ起こしに馴れた編集者を紹介してもらったのだった。
真一は、滋子の書きかけの文章が映っているモニターを見ていた。探るような視線ではなかったが、険しい目つきだった。
あの日、三郷のバスターミナルから戻ってくる車中で、由美子はぶちまけた。兄さんは無実です、わたしはそれを前畑さんに訴えるためにお会いしたかったんです。助手席にいた真一は、それを聞くとすっと青ざめ、あとはずっと黙りこくって、彼の方からは、由美子に何も言おうとしなかった。
もちろん滋子は、由美子や網川浩一と話をする際に、真一を立ち合わせはしなかった。真一も、その場ではそれを望みはしなかった。数日間、堅い顔をして考えこんでいた。それから滋子の仕事場に来て、高井由美子とはどれぐらい付き合うつもりですかと質問した。
──どれぐらいっていうのは、時間的なもの? だとしたら、まだまだ聞かなきゃならないことがたくさんあるわ。
──彼女の言い分をルポに書くかってことです。
──それはわからない。
滋子は正直に答えた。
──言い分を聞いて、そのなかでわたしが納得できるものがあれば書きます。そうでなければ書きません。でも、彼女から接触されたという事実については、遅かれ早かれ書かなきゃね。
──スクープだもんね。
そう言い捨てたときの真一は、わざと滋子を軽蔑していた。
──僕、考えたんですけど。
──何?
──三郷のバスターミナルで言ったことは、撤回します。もうしばらく、このアパートにいさせてください。
もしかしたらそうなるかもしれないと察するところはあったので、滋子は驚かなかった。
──それはもちろん歓迎よ。どことも知らない場所で住み込みなんかしてほしくないもの。
──それで僕に、滋子さんの手伝いをさせてください。
充分に間を置いてから、滋子は思いきって切り返した。
──手伝いをして、あたしを監視するの? 高井由美子を贔屓《ひい き 》にしないように?
真一は黙った。目の縁がちょっと赤くなった。
──そうです。それに、滋子さんが彼女の言い分を聞き終わったなら、彼女と話したい。
──バスターミナルであたしに話してくれたようなことについてね?
──そうです。
──わかった。遺族の気持ちを斟酌《しんしゃく》することは……お兄さんの無実について、どれほど強く確信していようと……由美子さんにとっても必要なことよ。実際、今の彼女はお兄さんのことで頭がいっぱいで、その気持ちを表現するときに、亡くなった方たちや遺族に対する思いやりを欠いているきらいがある。だから、シンちゃんが怒るのは当然だと思う。その怒りが、彼女の言い分を聞こうとしているあたしにも向けられることも、仕方がないと思うわ。
だからこそ、シンちゃんが自分の辛さと折り合いがつけられるならば、ぜひ手伝ってくださいと、滋子は言った。
──手伝って、あたしを監視して。ただし、由美子さんを贔屓《ひい き 》にしないように監視するんじゃないわよ。あたしがルポのなかで何を書いているかじゃなくて、あたしが、この事件で殺された人たちや、遺族の人たちのことを忘れたみたいにふるまい始めないかどうか、ただこのルポが評判になって、ルポとして完成すればそれでいいんだみたいな顔をし始めないかどうか、厳しく見張るためよ。そしてもしあたしがそうなったら、思いっきり蹴飛ばしてほしい。いい? やってくれる?
──はい。
真一は約束した。そう返事をした自分にも、そう提案した滋子にも、少しばかり驚いているみたいに目を見張って。
「進んでいますか?」と真一は尋ねた。それでも、モニターには近づこうとしない。
「ゼンゼンよ」
ちょうどそのとき、電話が鳴ってファクシミリの受信ランプが点灯した。ぶるぶると紙が吐き出される。
滋子はそれを切り取るとちらりと見て、真一の方に差し出した。いいんですかと訊いてから、真一は読んだ。
「どう思う?」と、滋子は訊いた。「これの取材に行ったらどうかって話なの」
ついさっきの電話の主からの追加情報だった。浅井祐子という弁護士が、日高道子と有馬義男、そして、栗橋浩美のマンションに残されていた写真から身元の割れた被害者である伊藤敦子、三宅みどりの遺族を集めて、ゆくゆく被害者の会を開くための事前会談の場を設けるという。日時は来年一月の十一日、午後二時からで、場所は飯田橋にあるアークホテルだ。
「手嶋編集長からの話ですか?」と真一は訊いた。
「そうじゃないの。別ルートから来た情報」
「じゃ、編集長に相談してからの方がよくないかな」
「そうなんだけど……」滋子は言葉を濁した。何から何までいちいち相談してからでないと動けないというのは情けなくない? あたしだって子供じゃないんだからさ。
滋子の表情を見て、真一は何か察するところがあったのだろう。そのまま踵《きびす》を返して出ていこうとした。
滋子は、モニターの方を向いたまま、彼を呼び止めた。「シンちゃんだったら、嫌だよね?」
真一は立ち止まった。「何がです?」
「遺族の集まりに、どこの馬の骨かもわからないルポライターが割り込んでくるなんて、さ。あたしは行かない方がいいのよね?」
真一は黙ったままこちらを見ている。滋子は一度強く頭を振ると、椅子を回して彼の方を振り向いた。「ごめん。まるでインネンつけてるみたいだわね。今の言い方じゃ」
真一はちょっと肩をすくめた。「僕の家の事件と、今度の事件とじゃ、事情が違う。まだはっきりしてない事柄が多いし、被害者も遺族や関係者も複数いるでしょう。協力しあわなくちゃならないこともあれば、情報も求めてもいるんでしょう。だからこそ、その会合みたいなものを開くんでしょう。ひょっとしたら、記者会見が予定されてるのかもしれない。そうでなくて、これがスクープみたいなものなのだったら、滋子さんだけに教えてくれるわけないと思うし」
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。電話とファクスをくれたフリーライターは、滋子と同年代だがキャリアは長く、顔も広い。滋子などにはとても持ち得ない独自の情報網を持っていて、つかんだネタであるかもしれない。ただ、もともとさほど親しい仕事仲間ではなかったし、さっきの電話でも、しばらく話をしないとフルネームが思い出せなかった。だからこそかえって、この情報の確度を突っ込んで尋ねにくかったのだ。
「滋子さん、何だか弱気になっていますね?」と、真一が尋ねた。
「うん、あたし弱気になってる」と、滋子は言った。
「なんでです?」
「あたしがこんなもの書いてていいんだろうかって思っちゃうの」モニターはまたスクリーンセーバーに変わっている。「あたしにこんなルポ書く資格があるんだろうかって」
「評価されてるのに」
滋子は首を振った。「怖いのよ」
「怖い?」
「ちゃんとした訓練を受けてもいないのに、人の命に関わる治療をしてるみたいな感じ。すごく大切な業務を、研修も受けずにいきなり任されてるみたいな感じ」
真一はちょっと考え、それから真顔で言った。「じや、止《や》めますか」
「……」
「僕は止めて欲しくないけど」
「ありがとう」滋子は微笑した。「つまんないグチだってことはわかってるのよ。だけど、このごろ時々どうしようもなく不安になるの。何の権利があって、あたしはこんなこと書いていられるんだろうって。ひょっとしたら、あたしの書いてることなんか、みんな間違いかもしれないよね」
「ちゃんと取材してるじゃないですか」
「でも、取材した小さな事実を積み重ねて、解釈するのはあたしよ」滋子は右手のひらで自分の心臓の上を叩いてみせた。「それはあたしがあたしの責任においてやるしかない。だけど──だけどあたし、実は人間のことも世間のことも大して知ってるわけじゃない。格別頭がいいわけでもないの。そんなあたしの解釈だもの、こうやって公に発表されて然るべき価値があるかどうか、わかったもんじゃないじゃない」
「重症ですね」
「そうね。なんでかなあ」滋子は椅子にもたれてそっくり返った。「最初のうちは、こんなことなかったんだけどね」
「犯人たちのことを書き始めてからじゃないですか?」
内心、滋子はぎくりとし、同時に舌をまく思いをしていた。この子は頭いいなあ。
「要するにそういうことね」と、肩をすくめる。「ゲロするわよ。あたし、栗橋浩美のことも高井和明のことも、実はなーんにもわからないという気がするの」
「だけど、彼らの共犯関係についての滋子さんの意見は、僕は納得いったけど」
一連の事件の大きな原動力となったのは栗橋浩美の大きすぎる未熟な自尊心であり、高井和明は子供のころからの解消されないコンプレックスのために、スター≠ナある幼なじみの栗橋浩美に盲従するしかなかったと──いう説である。
「もっともらしいよね。だけど、ホントにそんなことだったのかな」
「彼らは死んじゃってるから……」
「追究のしようもなくなった。だから、当て推量で何を書いても安全てこともある」
「滋子さんはそんな気持ちで原稿書いてないでしょう? それだったら、手嶋編集長だってそれとわかるだろうし、そしたら載せやしませんよ」
「シンちゃんは男の子よね」
真一は「へ?」と言った。
「だけどあたしは今まで一度も男の子になったことないんだ、あいにく」滋子は力なく笑った。「だからね、身も蓋もない言い方をすればさ、やっぱりあたしには、女をさらって殺す生き方をせずにいられなかった男の気持ちって、わからないのよ。どう逆立ちしてもわからないの。自尊心を満足させるために力弱い女性に矛先を向ける──理屈では説明されてるわよ、犯罪心理学の本にも書いてある。だけど、実感としてはわからない[#「わからない」に傍点]のよ。だからさ、栗橋浩美と高井和明の少年時代について取材して、友達や先生の声を聞いて、彼らが最終的にああいう形で道を間違ってしまうところに行くまでの経緯を再構成してみようと思ってチャレンジしても、なんかこう、絵空事みたいな感じがしちゃうわけよ」
滋子ははあっと息を吐いた。
「やっぱり、世の中には厳然として、女がルポを書くには不向きな題材ってのがあるんじゃないのか──」
言い終えないうちに、真一がひょいと壁から身を離して、小走りに滋子の仕事部屋から出ていってしまった。滋子はぽかんとした。また怒らせちゃったのかと思った。
どうすることもできずにスクリーンセーバーとにらめっこをしていると、真一がバタバタと足音をたてて戻ってきた。今度は週刊誌を一冊持っている。
「これこれ、忘れてました」と、滋子にそれを差し出した。「このなかで、声優の川野レイ子が滋子さんに期待するって言ってます。店でパラパラ読んでて気がついたんで、もらってきたんです」
滋子は週刊誌を受け取った。
「今、滋子さんが自信なくしてるのはわかるし、その理由も理解できる気がするけど、滋子さんが女だからこそ、この事件について書いてほしいって言ってる人もいますよ。なんか、それで励ましたことになるかどうかわからないけど」
両手をズボンのポケットに突っ込んで、今度はぶらぶらと滋子の仕事部屋を出ていく。途中でちょっと振り返り、
「滋子さん」
「なあに?」
ちょっと言いよどんでから、真一は顔をあげ、滋子の目を見て言った。「確かに僕は、高井由美子さんのことでは、滋子さんに嫌な態度をとったかもしれないけど」
滋子は真っ直ぐに彼の目を見返した。
「でも、だからといって、滋子さんのこの仕事を全部否定するつもりはないです。いえ、そんな気持ちになったこともあったけど──とにかく僕は──犯罪のことを考えるだけでもいやだから。それも正直な気持ちだから」
「わかってるつもりよ」
「でも──さっきも言ったけど、この事件は、僕の家の事件とかとは、違う部分がたくさんあります。本当に、わかっていないことの方が多いくらいだし。だから、事件について調べたり考えたりすることは、けっして無駄にはならないと思う」
ただ、問題はその「書かれ方」なのだ。滋子はうなずいた。「ありがとう」
「上手くいえないけど、滋子さんが落ち込んでるのが、その──僕がこの前とった態度とかのせいだとしたら──」
「それは違うわ。そういうことじゃない。でも、心配してくれてありがとう。もう気にしないで。あたし、ちょっと疲れているだけかもしれないし」
わかりましたと言って、真一は出て行った。滋子はまた一人に戻り、川野レイ子の対談のページを読み始めた。
──男の子たちの頭に、女の子は男の子のために存在している玩具《おもちゃ》なんだという価値観を植え付ける連中と、どんなに不利な闘いでもいいから闘い続けたい。
川野レイ子は、はっきりとそう言っていた。滋子は対談の最初のページに載せられている彼女の経歴紹介を見た。声優として、どんな仕事をしているのだろう? 洋画の日本語吹き替えだろうけれど……。
滋子はまるっきり認識不足で、現代の声優の仕事は『日曜洋画劇場』の範囲内に留まってなどいないのだった。経歴紹介に挙げられている作品はアニメーションのテレビ番組や映画ばかりで、滋子はそれらの作品をまったく知らなかった。
その方面に詳しそうな同業者に電話をかけてみた。運良くつかえまることができて、先方は実に手際よく、川野レイ子が安定した人気を保っているベテランの声優であることと、彼女が主な出演作でどんなキャラクターの声を担当しているか説明してくれた。
「この五、六年は、もっぱら少年ものばっかり引き受けてるよ。ファンタジーものや冒険もので、主人公の男の子の声をあてるわけ。シナリオも、すごいうるさく選んでる」
「女の子じゃないのね」
「彼女だって、昔はそんなふうな仕事の仕方をしてたわけじゃないんだよ。いろいろあってそうなったんだ」
「いろいろって?」
「ある種の主義主張に目覚めちゃったっていうのかな。ほら、アニメの世界には、童顔でボインの女の子のキャラクターがわんさと出てくるでしょう?」
滋子は笑った。「ボイン[#「ボイン」に傍点]とはまた、死語だわね」
「まあそうだけどさ。それでまたそういう女の子ってのは、たいていの場合、主人公の恋の相手としての添え物でしかないと、川野女史は主張するわけよ。これは、女性は男性の好みの容姿を持たなければひとつのコミュニティに受け入れられず、男性の付属物としてしか生きることが許されないという価値観の押しつけではないか! とね」
「それで、そういうキャラクターの声をあてることをやめちゃったというわけなのね」
「そう。ところでシゲちゃん、なんで川野女史のこと、気にしてるの? 例の二人組って、アニメおたくだったのかい?」
これには驚いた。古くからの知り合いでも、今は、前畑滋子と言えば栗橋浩美と高井和明ということになるらしい。
「あの二人はそういうタイプじゃなかったようよ。少なくとも、初台の栗橋浩美のマンションの部屋には、彼の自家製のビデオ以外のコレクションは見あたらなかったんだしね」
「そうだったよなあ」相手は今さらのように嘆息した。「あいつらは、既成のどんなものを参考にしてあんなことをやらかしたのかな? やっぱ、暴力的なポルノかなあ」
そういう議論は、一時テレビでも雑誌でもやかましく戦わされたものだった。これを機会にバイオレンスやポルノの規制を厳しくするべきだという声。表現の自由は絶対に守られるべきだという声。芸術作品が犯罪を喚起したからと言っても、それは芸術作品の罪ではなく、受け取る側の資質の問題だという声。性描写や暴力的猫写の羅列に過ぎない映画や小説やマンガのどこが芸術だという声。
それでも、今の電話の向こうのライターの発言には、滋子は耳をそばだてた。彼がごく自然に、当たり前のような口調で「参考にして」という表現を使ったからだ。
「ねえ、あの二人には、何かお手本があったんだと思う?」と訊いてみた。
「お手本て? ああいう種類の犯罪の?」
「ええ。事実でもフィクションでも」
「そりゃあったでしょう」
メチャクチャ自信たっぷりの断言である。
「なんでそんなにはっきり言えるの?」
「なんでって……だってシゲちゃん、人間て、そんなに独創的な生き物じゃないよ。みーんな何かを真似っこして生きてるんだよ」
それはものすごく大雑把な人生観であり人間観であると滋子は思ったが、とっさにそんなのおかしいわよと咎《とが》めることはできなかった。確かに──確かにそうかもしれないなぁと、一瞬立ち止まるようにして考えてしまったのだ。
だから、反論する代わりに訊いた。「あなたも誰かの真似してる?」
先方はアハハと笑って答えた。「うん、してるんだろうね」
「誰の真似?」
「特定の個人じゃないよね。僕が真似してるのは、概念かな」
「ガイネン?」
「一般社会の通念とも言う。あのね、マンガとアニメが大好きで会社勤めが嫌いで朝起きられなくてちょこっとばかり文章が書けて記憶力が良くてだけど自力では何か創ることはできなくて肉体労働には全然向いてない男が、マンガとアニメの業界で細々と食いつないで四十路《 よ そ じ 》近くになるとおおよそこんなもんになるかなぁっていう概念」
「何よ、それ」
「だからさ、僕みたいなライターなんて、日本中に掃いて捨てるほどいるってことさ。同じことを言い換えただけだよ」そして、ちょっと真面目な口調に戻って続けた。「まあ、あの二人組の場合は、その点でかろうじて特殊って言えば特殊かな。どれほど世の中が乱れようと、女の子さらって監禁してなぶり殺しにする男が、日本中に掃いて捨てるほどの数いるわけじゃないからね」
わかったようなわからないような理屈だ。滋子は手元のメモの上に「独創性」と書き、その上にバツ印をかぶせた。その脇に「特殊」と書いてクエスチョンマークを添えようとし、考え直してそれをマルで囲んだ。
「ねえ、彼ら、それを意識してたと思う? 彼らにとってのお手本があるってことを」
相手はうーんと唸った。「意識してたかどうかは怪しいよね。たとえば具体的に、『コレクター』って映画があったよね、あれみたいなことをやろう、とか、そんなふうには考えていなかったんじゃない? だって、それだったら、警察や取材力旺盛なマスコミが、とっくに、あいつらがお手本にした元ネタ≠探し出していてもいいころだもの」
「そうすると、あなたがさっき参考にした≠ニ言ったのは、そういう意識的な真似じゃなくて、もっと深い部分での刷り込みみたいなものかしらね」
「むむむ。難しいことを言うね、シゲちゃん」
「ごめんね。でも、美味しいお好み焼き屋ベスト一〇の取材をしていたころのあたしと、人間が変わったわけじゃないのよ」
相手は声をたてて笑った。「覚えてる? トンパチ軒。ほら。自由が丘のさ。またあそこで一杯やりたいね」
「ホントね」と受けると、それで話がそれていってしまい、結局滋子の投げた質問への明確な答は返ってこなかった。
電話を切った後も、滋子は一人で考え続けた。参考──何かを参考にした。はっきり意識的に真似たのではないけれど、既存の何かをなぞった。何かに倣《なら》った。
深い部分での刷り込み[#「深い部分での刷り込み」に傍点]。
それは何だろう? たとえば川野レイ子の憤る、女は男の玩具だ≠ニする価値観?
──それとも。
滋子は身を起こして、両手で顔をこすった。
──社会に受け入れられることのない肥大し過ぎた自尊心は、いつかは必ず、他者を殺戮《さつりく》し破壊する道を選択するという考え方そのもの?
それが動機[#「それが動機」に傍点]?
俺みたいな人間は、みんな、いつかはこういうことをやり始めるのさ──と、栗橋浩美は思っていた? 世紀末の今、世界中の先進諸国で、そういう犯罪者の実例は事欠かない。だからやった? ひとつの破壊的なパターンだからやった? それだけのこと?
俺みたいな人間はこういうふうになるんだよと栗橋浩美が言う。そうなのか、そういうものなのか、じゃあ仕方ないねと高井和明がうなずく。だけどいつかは捕まるんじゃないの? 捕まるかもしれないよなと栗橋浩美は答える。でもさ、どうってことないじゃないか。山ほど先例があるんだからさ。すると高井和明はまたうなずく。そうかぁ、山ほど先例があるのかぁ。そうだよと栗橋浩美は投げやりに言う。いわゆる先進国ってやつには、食うには困らないけど自我を満足させることのできない人間が溢れ返っていてさ、そういう奴らのなかから、ある確率で連続殺人者が登場するんだ、これは先進国の宿命なんだよ──
滋子は大きな声を出して言った。「バカバカしい」
あたしったら、なんてバカなことを考えるんだろう。これは犯罪者の動機≠カゃない。人を殺人や破壊行為に駆り立てるエモーションじゃない、これは──これは──
説明だ[#「説明だ」に傍点]。
分類だ。解釈だ。起こってしまった事件を、現代の事件史や風俗史のなかに納めるときに、ファイルの背表紙に貼るレッテルだ。そして分類をするのもファイルを作るのもレッテルを貼るのも、犯罪者の仕事ではない。それは──それは、どれほどの歪んだ機会《チャンス》を与えられようとも、犯罪者がやったようなことは決して決してやらないタイプの人間が担当する作業であって、だから犯罪者は常にただ分析され解釈される側にいるのであって、絶対にそちらの側からこちらの岸に渡ってくることはないのであって、だから、最初から自分の内側の黒い衝動について説明する的確な言葉や貼るべき正しいレッテルを持ち合わせている連続殺人者などいるはずがない。彼らは彼らなりに自身の内面について説明する言葉や考えは持っているだろうけれど、それは必ず舌足らずであるべきで、必ず補足説明と解釈を必要とするべきもので、そもそも、だからこそ、彼らは犯罪を起こすのだ[#「彼らは犯罪を起こすのだ」に傍点]。
だから滋子のなすべき仕事は、栗橋浩美のなかに、高井和明のなかに、ずっとずっと長いこと暗く淀んで溜まっていた、彼ら自身には説明不可能な、その存在について明確に意識さえしていなかった衝動について解き明かすことだ。それを文章化して白日のもとにさらすことなのだ。そしてそれは、滋子だけではなく、日本中のこの事件に注目しているライターたちやジャーナリストたちが我先に成し遂げたいと思っていることなのだ。
滋子はその競争のなかにいる。今は善戦している。だけど、やっぱり女の身では男の生理は理解しきれず、だから壁にぶつかっているんじゃないのか。このままではゴールには到達できそうにないと、弱気になっているのじゃないのか。
だからといって、前提条件をひっくり返してどうする。ルールを疑ってどうする。この事件は、アメリカではそれこそ掃いて捨てるほど起こっている連続殺人事件の殺人者の手口《ソ フ ト》が、本格的に日本に上陸し顕在化したという、そういう意味では画期的な事件だ。時代のひとつの節目となる事件だ。だけどその内側は、多くの犯罪心理学者が研究し、分析し、積み上げてきた知識で対抗することのできる、既に先例のある出来事なのだ。日の下に新しいものはない──
滋子は不意に寒気を覚え、うなじの毛が逆立つのを感じた。
今この国に、この事件を題材に文章を書いているライターは、ジャーナリストは、いったい何人いるのだろう。何十人? いや、いっそ何百人のレベルか? 実際、滋子のルポと同じような注目を集めているテレビ番組もある。緊急出版された事件に関する対論集もある。
それだけの数の人間たちが、それぞれに、オリジナルな取材をし、オリジナルな意見を持ち、オリジナルな分析をしている。
いや、していると思い込んでいるだけで、実は、目指すゴールはひとつなのではないか。
そのゴールとは、自分の「説明」に説得力をもたせる、ということ。だから取材範囲を競い、取材深度を競い、考察の深さを競い、独創性を競い、着眼点の斬新さを競う。でも、その競い方のパターンだって、いくつもあるわけじゃない。結局、相互に競いながら真似しあうことになってしまって、汲々とする有様までみんな同じ。
この事件で本当にオリジナルなものがあるとしたら、それはたったひとつだけなのかもしれない。犯人たちを動かしていた衝動。彼らが死んだときに、それも一緒に消え去ってしまった。再現不能、再生不可能。あたしたちが──いいえ、みんなと一緒よ[#「みんなと一緒よ」に傍点]、みんなでやってることよなんて顔をするのは卑怯だ[#「みんなでやってることよなんて顔をするのは卑怯だ」に傍点]──あたし、このあたし、この前畑滋子がやっているのは[#「この前畑滋子がやっているのは」に傍点]、彼らを動かしていた衝動の粗悪な模造品を、誰に何の許可を受けることもなく、ただその模造品がどれだけもっともらしくつくれたかを見せびらかしたいが故に、せっせとこしらえているというだけのことじゃないのか。
手を伸ばして、パソコンの電源を切った。ぷつんと音がしてモニターが暗転した。設置を手伝ってくれたパソコンに詳しい友人に、何があってもそれだけはしてくれるなと何度も釘を刺された乱暴なやり方だ。だが、そうやって書きかけの原稿から自分を切り離さないと、今にもめまいがしてきそうだった。
あたし、何やってるんだろう?
その年の暮れは、いつもと同じように、ある場所では粛々と、ある場所では華やかに、ある場所では暗澹と、ある場所では祝福に満ちて暮れていった。それもまたいつもと同じ繰り返しだった。日の下に新しいものはない。
人びとは大晦日を歓迎し、新年の到来を喜んだ。多くの犠牲者の出た恐ろしい連続殺人事件の記憶など、帳簿の最後のページにつけて、早く閉じてしまいたい。気の向いたときだけ、それをネタに考えたいときだけ、話題にしたいときだけ取り出すことができればいい。事件はもう終わった。後始末など、放っておいても、誰かが何とかしてくれる。それが先進文明諸国の正しいあり方というものだ。
考えてみれば、「今年は嫌な年だった、ひどい事件があった、大きな天災があった、早くこの事件を過ぎ去らせて、新しい年を迎えよう」と思う一年など、これまでにも何度となくあったのだ。それでもまあ、いいじゃないかそのうちの大部分は他人事だ、幸せなことに私は生きている、家族は平和だ、会社もちゃんと存在している。だからさ、古い一年は下取りに出して、新しいのをもらおうよ。
武上悦郎も、事件を抱えて年越しをするとき以外には、やはりそういうふうに考えて大晦日に臨む人間である。当然だ。彼は何も特別な男ではないのだから。しかし立場上、未だかつて彼は、事件を抱えていない年越しなどというものを経験したことがなく、だからいつだって、どんな大晦日だって、何かしら特別な不満足感や不信感や自己不全感を抱えたまま、テレビの「ゆく年くる年」を通して除夜の鐘を聞くしかないのだった。
それでも年越し蕎麦ぐらいは食おうと、デスク担当者が居残り残業をしている会議室に出前を取った。元日ぐらいは部下たちを家に帰してやりたいと努力したおかげで、会議室で武上と並んで蕎麦をすすったのは篠崎を含めて三人だけだった。武上以外はみな独身者で、帰っても誰も待っていないのだった。
武上は近頃、以前にも増して頻繁に、篠崎が、つと目標を失って途方に暮れたような目をしてファイルの山の狭間に座っているのを見かけるようになった。気になるな……と思いつつ天ぷら蕎麦をすする。篠崎は黙ってぼんやりしており、話しかけると、除夜の鐘というのはどこから数え始めるんですかとぽつりと訊いた。居合わせた年長者が最初のいくつかは捨て鐘だから数えちゃいけないんだと教え、テレビじゃわからないよという話に落ち着いて、皆で蕎麦のどんぶりを空にし、誰かが、年越しで働いてるのは俺たちだけじゃない、蕎麦屋も大変だよなぁなどと、ねぎらうような笑う口調で言って、武上は思いついたように除夜の鐘を数え、机の上の灰皿に溜まった吸い殻をゴミ箱に空けて、新年の最初の一服をつける。
同じ年越しの夜に、高井由美子は母と二人で炬燵《 こ たつ》にあたっている。勝木宏枝は台所で何か温かいものをこしらえている。母は眠そうに目をしばしばさせながら、どこか北国の山寺で、僧侶が吹雪のなかで鐘をつく様子を映しているテレビを観ている。ねえお母さんと由美子は言う。こんな大晦日、あたしは生まれて初めてよ。いつもはお店で後片づけに追われてて、ゆつくり炬燵にあたってなんかいないものね。
そしてその言葉が母に届いていないことに気がつく。聞こえないふりをしているのだ。当然じゃないか。由美子はくちびるを噛む。そして失ったもののあれこれを思い、記憶が心を削ぎ落としてゆくのを感じ、耐えきれなくなって炬燵にもぐりこむ。泣かないつもりだったけれど泣き出してしまい、そのせいで、時計が午前零時を過ぎてすぐに網川浩一から電話がかかってきたとき、ああ由美ちゃんまた泣いていたねと言われてしまった。それでも彼の声を耳にすると、傷口に手をあててもらったみたいに癒される気がして、受話器をしっかりと握りしめ、電話をかけてくれてありがとうと囁く。網川浩一は優しい口調で、明日は無理だけど明後日はそっちに行かれるから、そしたら初詣に連れていってあげられるからねと言う。由美子は彼の笑顔を思い浮かべてまた慰められる。ピースというあだ名は本当に彼にぴったりだ。少年時代、栗橋浩美とは仲良しだったことがあるけれど、兄の和明とはあまり交流のなかったこの人が、こんなに親身になって心配してくれるのはどうしてだろうかと思うけれど、突然社会のすべての領域から閉め出されてしまった由美子にとっては、そんな理由を知ることよりも、差しのばされた温かい指を握ることの方がずっと大切で、だからしばらく彼と話をして、電話を切るときには名残惜しくてまた泣いてしまった。
新しい年はね、由美ちゃんにとって大事な年になるよと網川浩一は言った。由美ちゃん、負けちゃ駄目だよと。それが高井由美子の新年の標語だった。
前畑滋子は昭二と二人で近所の神社に初詣に出かけた。舅と姑も誘ったが、寒いから明日行くと断られ、二人で腕を組んで出かけた。
滋子は仕事の行き詰まりを、悪質な感染症のように突然発症した自己不信を、夫にうち明けてはいなかった。年内の締め切りは終わっていたから、心配をかけるような話をする必要はないのだった。今はルポのことを考えるのも嫌だった。
二人でおみくじを引いた。滋子は吉、昭二は中吉だった。待ち人は遅いが来る≠ニ書いてあると昭二は喜んだ。待ち人って誰よと滋子は訊いた。もちろん赤ん坊だよと彼は答えた。ルポの仕事だってさ、あと何十回も続くわけじゃないんだろ? 今年は頑張らないとな、俺たちと昭二は照れくさそうに笑った。
有馬義男は病院にいた。元旦でも真智子は外泊を許されるような状態ではなく、義男の方から病室に一泊だけ泊まり込むことになったのだ。病棟の婦長と栄養士の好意で、病院の明日の朝食の雑煮は義男の分も供されることになっていた。真智子は眠り、義男は彼女のベッドの足元で居眠りをして、共に鞠子の夢を見た。
塚田真一は一時的に石井夫妻の家に帰っていた。夫妻と夜食を共にして、彼らが先に寝《やす》んだ後も、明かりを消したリビングに残り、窓から外をながめていた。仰ぐ夜空には冬の星が散っており、窓ガラスに手を触れるとしびれるほどに冷たく、真一はそこに額を押しつけて、しきりと水野久美のことを考えた。
彼女は電話をかけてこなかった。だからといって、彼女が真一と同じようにして彼のことを考えていないとは言えないけれど、想像は事実に勝てるものではなく、鳴らない電話が意味することはどこまでいってもただひとつで、だから真一は世界から切り離されたような気がして、庭でしきりに鼻を鳴らしているロッキーを、夫妻に内緒で家に入れ、犬の首を撫でてやるうちに、そのままソファで寝込んでしまった。ロッキーの身体の温かみのおかげで、それでも夢は見ないで済んだ。
こうして新年はやってきた。時間の矢の行く先は定まらず、誰にも見えないけれど、それが動いていることだけは確かなのだ。
[#改ページ]
11
一月十一日午後二時、有馬義男は飯田橋アークホテルのロビーのソファに腰をおろして、人混みのなかから、浅井祐子が見つけてくれるのを待っていた。
とりあえず一度は、もう少し詳しくあの浅井祐子という女性の話を聞いてみよう、日高道子だけでなく他の被害者の遺族にも会ってみようという気持ちになるまで、ずいぶん迷った。実際問題として、栗橋浩美と高井和明の遺族に損害賠償をさせるなんてことができるのかどうかも、義男には怪しく思われたからである。
犯人たちが死んでしまったから、一見したところ事件は終息したように見える。新たな犠牲者が出る危険はなくなったという意味では、確かにそうだ。だが本当に、真実ひとかけらの疑いもなくあの二人が犯人であると、裁判所が断言してくれたわけではない。警察はまだ、事実関係について捜査中なのである。
そんな状態で、果たして栗橋・高井の遺族を相手取り、裁判など起こすことができるものだろうか? できるとしても、その場合は、栗橋・高井があの一連の人殺しをしたということを、刑事裁判ほどの厳密さは必要ないにしても、ある程度、原告側で立証しなくてはならないのではないか?
だとしたら、それは問題外だ。素人集団で、悲しみに打ちひしがれ、自身の生活を支えてゆくのがやっとの遺族たちに、そんなことをやってのけられるわけがない。
義男には法律の知識などないし、幸せなことにこれまでは、民事裁判の被告にも原告にもなったことがない。ただ、組合の仲間のなかには、交通事故だの営業妨害だので、裁判沙汰に巻き込まれた経験がある者もいて、そういう話は耳にしている。そこから推して考えるに、今回の浅井祐子の話は──どうも信じがたい。素人向けに易しくかみ砕いているのかもしれないが、少なくとも年末に義男が聞いたあの話は、少し簡単に過ぎるというきらいがあった。
だいたい、栗橋浩美のマンションで発見された写真≠ニいう形でしか、事件との関連が判明していない伊藤敦子や三宅みどりはどうなるのか。この先、警察の捜査でもっとはっきりした物証が出てくればいいが、それがなければ、今のままでは損害賠償請求の原告側になることはほとんど不可能なのではないかと、義男は思うのだ。浅井祐子もこの点は気にしていたらしく、年末に訪ねてきたときには、
──最悪の場合には、原告側は日高さんと有馬さんだけになるかもしれません。
と言っていたけれど、それでは訴訟を起こす意味そのものが、ずいぶんと薄れてしまうのではなかろうか?
だから今日、義男はそのへんのところを確認するために出かけて来たようなものなのである。私のようなズブの素人でも、ちょっと世間を知っている者の目には、きわめて危なっかしく見える計画だけれども、弁護士先生、本当にやる気なのかねと。
ぼんやりと二本目のタバコを吸っていると、にぎやかなロビーの人混みのなかを縫って、日高道子がやってくるのが見えた。義男が立ち上がってこちらの存在を知らせる前に、彼女の方が気がついた。あいかわらず、世の中すべてに対して謝っているみたいに背中を丸め、首を縮め、伏せ目をおどおどと動かしている。
「浅井先生は──」
「まだのようですね」
日高道子はソファに座ろうともせず、恐縮した風情でちんまりと立っている。義男も仕方なく、立ったままタバコを消した。
「今日はもうお一方、三宅さんのお父様がお見えになるそうです」
「ははあ……」
「お母様の方は、まだお気持ちの整理がつかなくて、とても参加できないと」
「伊藤敦子さんのご両親はどうなんでしょうな」
「まったくとりつくしまがないというご様子だったそうです。うちは関係ない、娘の安否がはっきりしてさえいないのに、それどころじゃないと」
それはそうだろう。義男だって、鞠子がまだ家に戻ってきていなかったなら、損害賠償云々の話に耳を傾ける気持ちにはなれなかったに違いない。いくら浅井祐子が熱弁をふるい、目的は金ではないと主張しても、だ。
義男は、うなだれている日高道子の生気のない横顔をちらりと見て、自分としては、浅井先生の言うとおりに事が運ぶとは思えない、あの先生の正義への熱意は素晴らしいが、今の段階で損害賠償云々というのは、現実的ではないだけでなく、少々的外れではないかとさえ思う──と、口に出しそうになった。だがそのとき、日高道子が下を向いたまま何かぼそぼそと呟いたので、そちらに耳を向けた。
「なんとおっしゃいましたかな?」
「いえ、浅井先生は立派な先生だと……」
「はあ」
「わたしなどは、法律のことには疎《うと》いです。教育もございませんし、世の中のことも存じません。ずっと家におりましたので……。ですから、すっかり先生にお任せすることができて、本当に救われました」
義男はまた「はあ」と言い、手持ちぶさたなので次のタバコを取り出した。火を点《つ》けていると、日高道子が口ごもりながら続けた。
「──ずっと、千秋の後を追って死のうかと思っておりました」
「それはいかんですよ、奥さん」
「はい」日高道子は目尻を指で拭った。「それでも、もう生きていてもしょうがないような気がしてきてしまいましてね。おわかりいただけますでしょう?」
「そりゃもちろん、わかります。よおくわかりますよ。だが奥さん、死んじゃいかんです。お嬢さんだって喜ばんですよ」
日高道子は本格的に泣き出した。手で顔を覆う。「千秋があの世でひとりで寂しい思いをしているんじゃないかと思いますと、わたしも早く行ってやった方がいいんじゃないかって……」
義男はとっさにいろいろなことを考えた。千秋さんは美人だったそうだから、あの世でだってモテてるので寂しくないはずだとか、そもそもあの世なんてものはないんだからそんなことを考える必要はないですよとか、それは奥さんあんたが自殺したい一心でこじつけている言い訳だよとか。しかしそのとき、日高道子が指の隙間からうめくようにして漏らした言葉が耳に引っかかって、思考の流れをがらりと変えた。
日高道子はこう言ったのだ。「年末に、浅井先生からお電話をいただかなかったら、今ごろわたしはここでこうしてはおりませんでした。とっくに死んでおりました」
義男は彼女の青黒い顔を見た。よく眠っていないのだろう、目の下にはくっきりと隈が浮いている。「奥さんのところに、浅井先生から電話があったんですか?」
日高道子はハンカチを取り出し、それで鼻を押さえながらこっくりとうなずいた。
「どういう電話です?」
「ですから……千秋の無念を晴らし、この事件が簡単には社会から忘れられないようにするために、まずは損害賠償の裁判を起こそうと」
義男は日高道子の顔をじっと見た。日高道子も、怪訝《 け げん》に思ったのか目をあげた。「何か?」
「年末に、奥さんと浅井先生がうちへ来たときには、そういうお話じゃなかったですがね。奥さんが、埼玉の方で市会議員をしているお兄さんの薦めで浅井先生を訪ねた、裁判を起こすことも、お兄さんの発案だったとおっしゃいませんでしたかね」
日高道子の顔は、見る見るうちに、手にしているハンカチよりも白くなった。「それは、あの──」
「問いつめてるんじゃありませんよ。でも、話が違いますわな?」
「ええ、それは……」日高道子はいっそう深くうなだれると、涙を拭いた。「実はあの、最初に有馬さんにお話ししたことは、ですからあの、ウソということになりますか」
「作り話ですか……奥さん、座りませんか」
日高道子はソファに腰をおろし、義男も、彼女の小さな声をちゃんと聞き取ることができるように並んで座った。
「本当は、奥さんの家に、浅井さんから電話があったというのが最初のきっかけだったんですな?」
「はい、そうでございます」
「その電話で浅井さんは、この前、私のところでおっしゃったような熱意溢れるお話をされて、それにほだされて、奥さんは損害賠償請求の裁判を起こす気になられた、と」
「はい……」
「しかしそれなら、なぜ私にはウソをおっしゃったんでしょうな?」
「それは、あの、わたしが自分の意思で裁判を思い立って、わたしの方から浅井先生をお訪ねしたというお話の方が、ほかの皆さんを説得しやすいと、先生がおっしゃいまして」
「ははあ」
それは確かにそうだ。
「しかし、市会議員をしておられるという奥さんのお兄さんが、この件について奥さんの相談相手になっているということは本当なんでしょう?」
日高道子は小さくなった。「それが……」
「それも本当は違うんですか」
「はい、実は……」と、ますます蚊の鳴くような声になる。「わたしの兄が埼玉で市会議員をしているというのは本当です。ですが、兄とわたしとは、もう絶縁状態なんでございます」
「昔からですか?」
「いえ、千秋のことがあって以来……。あの、兄は教育問題に強いということを売りにしておりまして、ですから、千秋のような姪の存在はとんだ恥さらしだと」
義男はひどい胸騒ぎを感じ始めた。何かがとんでもなく間違っているという気がし始めた。
「そうするとお兄さんは、今度の件にはまったく関わっておられない?」
「はい……でも兄のことを言った方がやっぱり皆さんを説得しやすいと浅井先生が」
「奥さん、このことで、ほかに誰かにご相談になりましたか?」
「いえ、誰も」
「浅井さんとだけ話しておられる?」
「そうですが……」
「奥さんは、浅井さんの事務所にいらしたことはあるんですね?」
日高道子は首を横に振った。「いいえ、ございません。先生の方から、今のわたしの住まいに来て下さいました」
「じゃ、事務所をご存じないわけだ」
「でも、お電話したことはございます」
「誰が出ましたか?」
「男の方が。先生とご一緒の事務所におられる弁護士の先生だそうで、その先生も今日、こちらに見えられるはずですが」日高道子はきょろきょろと周囲を見回した。「それにしても遅いですねえ。道が込んでいるんでしょうか」
来ないのではないかと、義男はとっさに思った。いやしかし、こういうお膳立てをした以上は来るはずだ──
「奥さん、今、奥さんは一応、浅井さんの依頼人になっておられるんですよな?」
「はい、そうです」
「もうお金はお支払いになりましたか?」
「はい、着手金というお金を」
「おいくらです?」
「百万円です。これぐらいの規模の損害賠償請求裁判としては、とてもお安い金額だそうで」
「それは、浅井さんがそう言ってるんですね?」
「はい」
胸騒ぎはいっそう激しくなった。義男は、結果的には今日ここへ出かけてきて正解だったと思った。これは駄目だ──これは──
そのとき、ロビーの人の流れのなかに、浅井祐子の顔を見つけた。一人ではない。すぐ隣に、五十歳代だろうか、病み上がりのように元気のない様子の、背広を着た男が並んで歩いている。浅井祐子が、しきりとその男に話しかけている。そして彼女の後ろには、こちらもやはり五十歳ぐらいだろうか、小柄だががっしりとした体格の、顎のエラが張り出した男が付き従っている。背広の襟に、浅井祐子のスーツの襟にとめられているのと同じ、金色のバッジをつけている。弁護士のバッジであると思われる[#「思われる」に傍点]。
してみると、浅井祐子と並んでいる男は、おそらく三宅みどりの父親だろう。後ろの男が、日高道子のいう「同じ事務所の弁護士」だろう。
三人が近づいてくる。義男はできるだけしゃっきりと立ち上がった。その動きが視界に入ったのか、浅井祐子がこちらを見た。会釈をする。並んで歩いている男に何か言い、男が義男の方を見た。すり切れて疲労しきったその視線は、間違いなく愛娘を失った父親のそれであるように義男には思えた。
「失礼ですが、三宅みどりさんのお父さんでいらっしゃいますな?」と、義男は男に話しかけた。男は無言で、ほとんど反射的にうなずいた。
「私は有馬義男です。古川鞠子の祖父です」
ああというような声を、三宅みどりの父親は発した。だが、彼が続けて何か言う前に、義男は浅井祐子と連れの男の方へと向き直った。「浅井先生[#「先生」に傍点]」と、大声で呼んだ。「ひとつおうかがいしたいが、あなた、本当に弁護士の先生ですか」
出し抜けのこの質問に、日高道子も三宅みどりの父親も、一様に目を見開いて浅井祐子を見つめた。浅井祐子は、初対面のときと同じ、知恵者のうさぎのようなつるりとした顔をして、無表情に義男を見つめ返した。しかし彼女の連れの男の方は、一瞬だがたじろいだように目を動かした。
「いきなり、何をおっしゃるのですか」と、浅井祐子は穏やかに反問した。「有馬さん、どうかなすったのですか?」
「いえ、どうもしやしません。ただ、先生はご寛大な方だから、お気を悪くなさらないでしょうな? 私のような無教養なオヤジが、先生が本当にちゃんとした弁護士先生なのか心配になって、今日のこの集まりの前に、ちょっとばかり先生のことを調べたと申し上げても」
これは完全なはったり[#「はったり」に傍点]だったが、義男は強気で押し通した。これこそ歳の功だ。
「何をお調べになったんです?」知恵者のうさぎは微動だにしない。しかし、連れの男は目に見えてソワソワし始めた。
「私らの豆腐組合の城東支部の顧問弁護士の先生に、今度の浅井先生のお申し出の損害賠償裁判について相談してみたんです、ついでに、浅井先生がどこのご出身で、どこの弁護士会にいる先生か、名鑑を見ればすぐわかるからってね、調べていただいたんですわ」
知恵者のうさぎは、ゆっくりとまばたきをした。「わたくし、思うところあって東京弁護士会にも日弁連にも所属しておりません。ですから名鑑にも載っていないと思いますが」
「はあ、そうですか」
「有馬さん、とにかくこんなところで立ち話はなんですから、お部屋に参りましょう。わたし、フロントからキーをもらってまいります。もうちょっと待っていて下さい」
連れの男に目で合図をして、浅井祐子は義男たちのそばから離れようとした。逃げる気だ──と、義男は思った。そうは問屋がおろさない。しかし、私も一緒に行きますと言おうとしたとき、誰かがさっとそばにかけよってきて、義男の前に躍り出た。
若い女だった。ギラギラした目をしている。
「あの、有馬さんですか?」と、彼女は言い、まるで喧嘩を売るような高ぶった声で続けた。「あたし、高井由美子といいます。高井和明の妹です。聞いていただきたいことがあって来ました」
義男は驚いて二、三歩うしろに下がった。高井由美子がぐいと前に出て義男に触ろうとするかのように手を伸ばしてきたので、その手を払った。由美子はたたらを踏んでソファに手をついたが、すぐにぐいと頭をもたげて、「有馬さん! お願いです」と近寄ってきた。顔からは血の気が失せ、目尻がつり上がっている。
義男の頭のなかでは、目の前の若い女性がさっき口走った言葉が、まだきちんと落ち着き先を見つけていなかった。高井由美子──高井和明の妹。由美子──和明──妹。
妹? 高井和明の遺族[#「高井和明の遺族」に傍点]。
「君、やめなさい!」
浅井祐子と一緒にやって来た、三宅みどりの父親と思われる男が、高井由美子の腕をつかみ、義男から引き離そうとした。由美子はその手をもぎ離し、「やめてよ!」と声を荒らげる。
「離してよ! あたしは有馬さんに話があるんだから!」
男が怒鳴った。「私は三宅みどりの父親だ!」
高井由美子は、いきなり平手打ちを食ったかのように棒立ちになった。蒼白だった顔がいっそう白くなる。薄い紙が風を受けているみたいに、頬もくちびるも小刻みに震えている。
「あたし、あたしは、あの」
つっかえつっかえ何か言おうとする高井由美子の肩を、三宅みどりの父親はどんと突き放した。
「汚らわしい[#「汚らわしい」に傍点]」と、吐き捨てた。「近寄るな。私たちに近寄るな」
「あたしはただ、話を──」
「おまえの話など聞く耳は持たん!」
誰かが声をあげて泣き出した。日高道子だ。ソファの脇にしゃがみこみ、頭を抱えて泣いている。義男自身も足元がふらつくのを感じた。いったい何だってんだ。何でこんなことになってんだ、え?
ロビーにいる大勢の人びとが、立ち止まり、会話をやめ、頭をよじって義男たちに視線を向けていた。ロビーの端にあるフロントの従業員たちも、皆こちらを見ている。館内電話の受話器をとって、どこかに連絡している従業員もいる。一人がカウンターを回り、早足で出てきた。
浅井祐子は? 彼女の仲間は? どこへ消えた? 義男はぐるぐると周囲を見回したが何も見つけることはできず、ただ目が回り酔っぱらったようになって、それをこらえるためにはまぶたを閉じなければならなくなった。
ああ、俺は倒れる──
「危ない!」
誰かの声がして、次の瞬間、義男は背後から抱き留められた。それと同時に、耳慣れない女の声が、叱りとばすような勢いで高井由美子を呼んだ。
「由美子さん! ここでいったい何をやってるの? なんのつもりなの」
義男は目を開けた。床の上に尻餅をつくような格好で座り込んでいた。背中側から両肘を誰かに抱えられている。その誰かに寄りかかり、かろうじて頭を持ち上げていることができた。
目の前で、高井由美子が見知らぬ女に腕をつかまれ、背中を抱かれ、詰問されていた。三十代半ばくらいの、長身で細身の地味な身なりの女だった。とっさに義男は、高井由美子の弁護士かな、と思った。ここにも弁護士、そこにも弁護士。でも、本物はどれだ?
「あんた、あんた誰だ?」三宅が長身の女に指をつきつける。「あんたこそ誰なんだ──いや、待てよ、あんたの顔、見覚えがあるぞ」
長身の女は何か痛ましいものを見るように真摯な目の色をして、しっかりと三宅の視線を受け止めると、うなずいた。
「わたしは前畑滋子と申します」
三宅の目に認識の色が浮かぶと同時に、顔が怒りでどす黒くなった。「ああ、あんたか! あんなくだらないルポを書いてるライターだな?」
詰問ではない、痛罵《つう ば 》だった。前畑滋子という女はそれに対して言い返すことはなく、ただ視線をさげて黙礼した。そして由美子を引き寄せると、「帰りましょう」と囁いた。
「あなたはここに来ちゃいけなかった。不作法をお詫びして、すぐに帰るんですよ」
高井由美子の両目が、涙で泳いでいる。
「あた、あたし──だけど、あたし」
「さあ、お詫びして」
由美子は声を振り絞った。「だけど兄さんは無実なのよ[#「だけど兄さんは無実なのよ」に傍点]!」
三宅の顔が壊れた。彼のなかで、理性とか冷静さと秩序とか、そういったもろもろのものが砕けて落ちる音が義男には聞こえた。三宅はいきなり右手を振り上げた。止める間もなかった。平手ではなく拳で、彼は高井由美子を殴った。
由美子が吹っ飛ばされて、義男の視界から消えた。若い女性の悲鳴があがった。由美子ではなく、ロビーにいる人びとのうちの誰かだ。走ってきた警備員が、三宅に飛びつく。フロントにいた従業員がようやく場に加わって、前畑滋子と一緒に、倒れた由美子の方にかがみ込む。
「離せ!」警備員にはがいじめにされながら、三宅が暴れている。「殺してやる! こんな汚らわしい女は殺してやる! みどりの仇を討つんだ! 離せ! 離してくれ!」
怒りと悲しみで暴走する父親に、ついに警備員も振りきられた。三宅はしゃにむに由美子の方へと向かってゆこうとする。由美子はやっと抱き起こされ、今、床の上に座ったところだ、三宅の攻撃に、前畑滋子があっと声をあげて由美子をかばう。
義男は、背後から支えてくれていた腕が離れるのを感じた。その腕の持ち主は素早く前に出て、三宅を止めにかかった。驚いたことに、まだ若者というよりも少年と呼んだ方がいいくらいの華奢な男の子だった。少年が三宅の振り上げられた腕をつかむ。三宅が振り向き、その凶相が義男にも見えた。この気の毒な父親を止めてやらねば大変なことになる。そう思っても身体が動かない。義男はただ呆然と、三宅ととっくみあっている少年と、彼に加勢しようと三宅を押さえにかかる警備員を見つめていた。スロー・ダンスのようだ。なんておかしな光景なんだ。おかしいよなぁ、鞠子。おじいちゃんはここで何をやってんだっけかな、鞠子。
警備員と三宅と少年が、もつれあったまま床に倒れた。
がつん[#「がつん」に傍点]。
ぞっとするような音がした。ソファの脇のテーブルの上から灰皿が落ちた、
「シンちゃん!」前畑滋子の悲鳴があがる。
少年が床に倒れていた。三宅も警備員も、凍ったみたいに目を見開いて、自分たちの下敷きになっている少年を見ていた。少年の額から血が流れ出て、ロビーの絨毯の上にしみが広がってゆく。
「ああ、大変だ」
警備員の声か。フロントの従業員の声か。今にも泣き出しそうだ。
義男は這うようにして少年に近づいた。気絶している。こめかみのところがざっくりと切れている。テーブルの角にぶつけたのだ。彼の頭をかばうように覆い被さって、できるだけりん[#「りん」に傍点]とした声が出ていることを願いながら、義男は一同に向かって言った。
「この子の手当が先だ。お医者を呼んでください。さあ、早く!」
救急車が来るまで七分かかった。その七分間は、義男がこの場の指揮官だった。前畑滋子に高井由美子を預け、三宅と日高道子の世話をホテル側に頼み、滋子の名刺をもらって携帯電話の番号を聞き出し、この子は私が病院に連れて行く、着いたら電話するからと請け合った。
日高道子は泣き崩れているだけで何もできず、三宅も暴発の後はふぬけ[#「ふぬけ」に傍点]のように座り込んでしまい、もう義男の方を見ることもなかった。救急隊員がストレッチャーを押して駆けつけてくるのが見えたとき、義男は身を起こして、警備員とホテルマンに助け起こされて連れ去られる三宅の肩を、一度だけ強くつかんだ。不幸な父親は、身を震わせてむせび泣きを始めていた。
義男は一緒に救急車に乗り込み、若い救急隊員に、少年が怪我をした事情を簡単に説明した。少年の脈をとり、傷に触れないように注意深い手つきでまぶたをひっくり返して様子を見ていた隊員は、大丈夫、大丈夫、意識はすぐに戻るでしょうと、義男を慰めるようなことを言った。
救急病院は近くにあるが、道が混んでいるので時間がかかるという。傷口からはまだ血が流れ出ており、白いガーゼが見る見る赤くなってゆく。こんなに出血して大丈夫なのだろうかと思いながら見守っていると、道をあけようとしない不作法な車を避けた拍子に、がくんと車体が揺れた。救急車はけっこうガタガタと揺れる乗り物なのだということは、真智子のときに経験済みである。義男はとっさに、少年の頭が揺れないように手を伸ばして支えようとした。
すると、少年がぱちりと目を開いた。授業中に居眠りをしているところを起こされたみたいな無邪気な目覚め方だった。
「イッタイなぁ」と、子供こどもした声で言った。
救急隊員と義男は、思わず目を見合わせて微笑した。これなら大丈夫だ。
「痛いだろうね、この傷じゃ」と、隊員が応じる。「病院に向かっているところだよ。ちょっと我慢をして、頭を動かさないように」
「救急車か」少年はびっくりしたように言った。怪我をしたこめかみを上にしているので、少年は顔を横に、義男の方を向いていた。
「テーブルの角に頭をぶつけたんだよ」
「ああ、だからこんなに痛いんだ」少年は顔をしかめた。「なんだかよくわからないんですけど、あの、ほかの人たちは──」
「大丈夫だよ、心配しなさんな。前畑さんという人が後始末をしてくれる」
「滋子さんが」呟いて、少年はにわかに顔を曇らせた。「みんな怪我しなかったですか」
「うん。あんたがいちばん重傷だ」
「そんならよかった」心からほっとしたという口調だった。「なんかヘンだな。はっきりしなくて。どういうことになっちゃってたのかな。なんで怪我したんだろう、僕」
「頭を打ったんで、ちょっとだけ記憶が混乱してるんだ」救急隊員が言った。「無理に思い出さなくていい」
サイレンの音と、混雑する車の群のなかを抜けてゆくために、道をあけてくれとアナウンスする運転席の隊員の声が聞こえてくる。
「おうちの人たちに知らせなくていいのかね」と、義男は訊いた。「誰かいたら、病院から私が電話かけてあげるよ」
「前畑さんだけです」
「あんたのお母さんは? 心配するだろう。ひょっとすると入院しなくちゃならんかもしれないよ。保険証持ってきてもらわないと」
「あ、そうか。保険証」少年はまばたきをして、痛そうに顔を歪《ゆが》めた。「それも前畑さんでいいです」
まだ学生──しかも高校生ぐらいだろうに、あの前畑滋子という女性の助手でもしているのだろうかと義男は思った。
三宅がロビーの騒動での最中に言っていた、ルポがどうしたこうしたという話も、義男にはピンとこなかった。そういえば木田が、何かの雑誌で栗橋と高井の事件について誰かがルポを書いており、それがえらく話題になっているとかいうことを、憤慨したような口調で言っていたことがあったかな──という程度の認識しかない。義男にとって、あの事件はあくまでも鞠子の事件であり、そして鞠子については、もう辛いことは何も思い出したくないという気持ちでいることが多いので、事件について書いたものを読んだり、特集番組を見るようなことはないからだ。
それよりも、都心をのろのろと進む救急車のなかで、横になっている少年の小さく整った顔を見守っているうちに、なんとはなしに、この子とは以前にどこかで会っているかなぁという気がしてきた。最近のこの年頃の男の子も女の子も、義男の目にはみんな同じように見えるから、ただの気のせいかもしれないのだが。
「有馬さん」と、少年が呼んだ。「有馬義男さんですよね」
義男は驚いた。「うん、そうだよ」
「僕、前に有馬さんと会ったことあります」
救急隊員が血のしみたガーゼを取り替える。流れる血が目に入ったのか、彼は片目をつぶって痛そうな顔をした。
「私も今、そんなことを考えていたんだけどもね。勘違いかと思ってたが、やっぱりそうか。どこで会ったかねえ」
少年は言いにくそうにぎゅっと口を閉じた。救急車が左折する。義男は少年の肩を押さえて身体が傾かないようにしてやった。そして、彼がひどく痩せていることに気がついた。
「墨東警察署の前でした」と、少年は言った。
「すれ違ったんです。だから、会ったというよりは見かけたっていう感じでした」
記憶をたどってみたが、義男には覚えがなかった。
「僕、塚田真一と言います」
「塚田君か」
「はい。大川公園で、事件のいちばん最初に、ゴミ箱から──あの右腕を見つけたんです」
義男は思わず身を引いた。救急隊員は聞いて聞かぬふりをしてくれている。
「それで、警察で事情を聞かれてました。帰るときに、有馬さんを見かけました」
「そういうことだったか……」
「ええ。僕の方は、そのあとテレビでも有馬さんのお顔を見ることがあったから、覚えていたんです。だけど、有馬さんは僕のことを覚えてなくても当然です」
小さな声で、それどころじゃなかったんですからと付け加えた。
「塚田君、あの前畑さんて女の人と、知り合いか?」
「はい」
「ルポを書いてるそうだね。あの事件の」
「ええ、そうです」
車が揺れた。義男は後部の窓から外を見た。病院の看板がちらりと視界に入った。
「今日、前畑さんと僕と、高井由美子さんを探しに行ったんです」
「あのホテルにな?」
「はい。前畑さん、今日あの場所で、浅井さんていう弁護士さんと有馬さんたちが会うことを知らされていて、それを取材しないかって誘われて、だけど滋子さんは行くつもりなかったんです。やっぱりそういう取材は──するべきじゃないって。礼儀に外れるって。それなのに、その情報がどういうわけか高井由美子さんの耳に入ってて、彼女一人で出かけちゃったもんで、それに気づいて僕たち、あわてて後を追いかけたんです」
救急外来の入口に向かって、車がゆっくりとバックしてゆく。
「怪我の手当が済んでから、いろいろ話してもらうから、今はもういいよ」
義男はそう言って、先に救急車から降りた。引き出されるストレッチャーを待ち受けている看護婦に向かって、どうぞよろしくお願いいたしますと頭を下げた。人の良さそうな看護婦が、塚田真一の様子をちらりと見て、義男の孫だと勘違いしたのだろう。おじいちゃん、心配しなくても大丈夫よと声をかけてくれた。不意に義男は、ストレッチャーに乗っているのが鞠子であるような気がしてきて、胸が熱くなった。思えば、そんなふうにしておじいちゃん[#「おじいちゃん」に傍点]と呼びかけられたのは、彼女の死以来、初めてのことだった。
前畑滋子が、真一の運び込まれた外科クリニックに着いたとき、彼はまだ治療中で、面会することはできなかった。代わりに、「緊急処置室」という札の掲げられた白いドアの前の廊下で、有馬義男がぽつりと小さなベンチに腰かけ、背中を丸めるようにして前かがみになり、自分の両手をながめていた。
滋子が息を切らして走り寄ると、老人はちょっと驚いたように目を見張り、一旦ベンチから立ち上がると、滋子のために場所を空けてくれた。
「怪我は大したことないそうだから」と、開口一番に言った。「念のためにレントゲンを撮ったりしてるんで、時間がかかっとりますがね。もともと病院ちゅうのは、何をするにも手間のかかるところだから」
滋子は立ったまま老人に深く頭を下げた。
「ありがとうございます。有馬さんのおかげで、本当に助かりました」
有馬義男は節くれ立った手を持ち上げてひらひらと振ると、まあ座ってくださいとベンチを示した。滋子は浅く腰をおろした。切実にタバコが吸いたくなったけれど、この廊下は禁煙だった。
「私はあなたの書いてるものを知らんのです」と、有馬義男はいきなり言った。「だから、そう身構えなくてもいいですよ。知ってたら私も、三宅さんのお父さんみたいなことを言うかもしれないが、知らないのは幸せだね、どっちにとってもね」
滋子は黙って目を伏せた。ここで頭を下げるのはおかしいのかもしれないけれど、やっぱりそうせずにはいられない。本当のジャーナリストというのは、こんなとき、どんなふうに振る舞うものなのだろう?
「ホテルに残った人たちはどうしてますか。大丈夫かね」
「はい。幸い、警察沙汰にはならずに内々で済みました。三宅さんと日高さんは、お帰りになりました。お二人とも、有馬さんと連絡をとりたがっていて──」滋子はバッグからメモを取り出した。「これがお二人の連絡先です」
ありがとうと言って、有馬義男はそれを受け取ると、ちらっと見ただけで上着の内ポケットに納めた。襟元がすり切れた年代ものの上着だった。上から二番目のボタンがとれかかっている。滋子は、有馬義男は男やもめであり、殺された古川鞠子の母親である、彼にとってはたった一人の娘も、ずっと入院中であるということを思い出した。
事件がこの人の人生を破壊したのだ。今ここにこうして座っている小柄な老人の足元には、彼が真面目に働き通して守ってきたはずの人生の破片が、そこにも、ここにも、見渡す限り一面に落ちて散らばっているのだ。一歩歩く度に、この人はその破片を踏みしめて、それが砕ける音を聞かねばならないのだ。
あたしだったら耐えられない──そう思うと、滋子はすぐには顔をあげることができそうになかった。
有馬義男は滋子の方を見ずに、緊急処置室のドアを見上げながら訊いた。「──高井由美子という女の子はどうなったんだかね」
「申し訳ありません」
「あの子は本当に──」
「はい。高井和明の妹です。間違いではありません」
「そうかね」有馬義男はうなずいた。もう一度「そうかね」と呟いて、また内ポケットに手を入れ、今度はタバコを取り出したが、そこで初めて、廊下のあちこちにベタベタと貼られている「禁煙」の表示に気づいたのか、そのまましまってしまった。
「彼女は家に帰しました」
「一人で大丈夫かね」
「知人に迎えに来てもらったんです。それを待っていたので、わたしもこちらに着くのが遅れてしまって」
「知人」
「はい」滋子はやはり顔をあげることができない。「それが──高井和明の同級生なんです。由美子さんのことも子供のころから知っていて、ですから彼女のことを心配して、親身になって世話をやいているんです」
そうかねと、有馬義男は呟いた。
滋子はひどい罪悪感を感じた。古川鞠子の浮かばれぬ幽霊がすぐそばに立っていて、悲しげな顔で滋子を見つめているような気がした。鞠子には救助の手は届かず、由美子には救い手がいる。その事実だけを取り出して不公平だと言い切ることはできないはずだ。由美子は殺人犯ではないのだから。だが、それでもなお、それは不平等で不公正なことであるように感じられた。感じられてしまうものはどうしようもなかった。
「塚田君──だったかな、あの男の子」
「はい」
「彼の話じゃ、あんたと彼は、高井さんを止めるためにあのホテルに駆けつけたっていうことだった。そうなのかね」
滋子はもう一度、申し訳ありませんと頭を下げた。
「謝ってもらっても困るよ。そうなのかね」
「はい、そうです」
「あんた、私らがあそこで浅井弁護士と──まあ、ありゃ弁護士じゃないだろうけどね、今となってはそれがよくわかるがね──あの連中と会うってことを、誰から聞いたんだね」
「同業者から──としか申し上げられないんですが」
「そうかね。まあ、そうだろうね」
疲れたような顔をしてうなじをさすると、有馬義男は、今日彼があのホテルへ出向くことになるまでの事情と、「浅井祐子」が持ちかけてきた話の内容と、彼がそれを通して「浅井祐子」は偽物だと確信するに至るまでの経緯とを、ぼそぼそと説明し始めた。話し慣れた人の言葉ではないので、滋子は途中で何度か質問をしたり、聞き直したり、確認したりしたけれど、有馬義男はそれをうるさがる様子は見せなかった。滋子に話しながら、老人も頭のなかを整理しているように見えた。
「あんた、どう思いなさるね?」
話し終えて初めて、うかがうような目つきで滋子を見た。
「浅井祐子をどう思うね? 私は偽物だと思うけども、あんたはそういうことにも詳しいだろうから、別の考えがあるかね」
有馬義男の言うそういうこと≠ェ何を指しているか、滋子は考えた。法律のこと? 弁護士との付き合い方? それともいわゆる世間知?
そのどれについても、有馬義男の方が正しい判断力を身につけているように、滋子には見える。実際、ごく実直で真面目な労働者ではあるが、何ら特別な法律の知識も経験も持ち合わせていないはずのこの老人が、自力で、浅井祐子の持ちかけてきた話の胡散《 う さん》臭さを見抜いたことは驚きである。
「わたしの目にも、浅井という女性は食わせ物だと映りますね」
ほっとしたように、有馬義男はうなずいた。
「やっぱり、そうかね」
「はい。日高道子さんは騙されてるんですよ。今日だって、浅井祐子と彼女の仲間の男は、有馬さんと三宅さんを集めて、お二人から着手金という名目でお金を取る算段をするために、ホテルでの会合を計画したんでしょう。日高さんからは既に百万円とっているんでしょう? 三宅さんと有馬さんのお二人からも百万円ずつとれれば、合計で三百万円。割の悪い仕事じゃないですよ」
「で、私らから金をとったらどろん[#「どろん」に傍点]と」
「かもしれませんし、もう少し引き延ばして、新しい被害者の遺族も巻き込もうとしたかもしれませんね。どちらにしろ、今の段階で、しかも自分の方から売り込んで、栗橋と高井の遺族相手に損害賠償請求の訴訟を起こそうと考える弁護士がいるとは思えません。いずれにしろ、浅井祐子が本物の弁護士であるかどうかは、簡単に確かめることができますよ。わたしの方で確認してみてよろしいですか」
「やってもらえれば、有り難いです」と、有馬義男はあらたまった言い方をした。「私ら、とんだバカを見るところだった」
「……」
「日高さんを連れてうちに来たときの浅井という女は、そりゃもう立派な演説をぶって、正義の味方みたいな顔をしとりましたからね。一人娘を亡くして、そのことで旦那に責められて離婚して、迷子みたいになっている日高さんが惑わされたって無理はない。私だって、あの演説を聞いているときには感動しましたからな」
「そんなに雄弁だったんですか」
有馬義男は、浅井祐子がどんなことをどんなふうに語ったか、滋子に教えてくれた。曰《いわ》く、社会が簡単に事件を忘れることがないようにしたい、目的はお金ではない、被害者同士が手をつながなくてはならない──
「言うだけなら無料《 た だ 》ですからね」今の場合に、この台詞は不謹慎かとも思ったけれど、滋子はそう言った。「口先だけならば、どんな立派なことだって言える。こんなこと、今さらわたしのような若輩者が言うまでもなく、有馬さんはよくご存じだと思います」
「そうかねえ」有馬義男はくしゃくしゃっと苦笑した。「でも、そうでもないんだよ。だって私は四十年このかた豆腐屋をやってきて、正直に商売すれば、暮らしていくだけのものはちゃんと稼げた。それ以上のことを考えることなんか要らなかったからね。あんたみたいに──いや、浅井祐子みたいに頭働かすことはいっぺんもなかったからなあ。計算が面倒くさいんで、うちの店は、今でも消費税取ってないくらいだ」
滋子は黙って口元で微笑んだ。
「歳とってるからって、世間のことをよく知ってるとは限りゃせんですよ。ましてや、子供や孫を失うなんて──戦争でもないのにね──辛い体験をしたばっかりで、頭がごちゃごちゃになってる時だ。ああいう正義の仮面をかぶってくる連中に、コロリとやられちゃったってしょうがないところだった。私が気がついたのは、ほんとにたまたま[#「たまたま」に傍点]だよ」
「浅井祐子がまったくの偽物だという確証がつかめたら、警察に告発なさいますか」
有馬義男は首を横に振った。
「放っておきますか」
「うん。どうすることもないだろう、あんな輩。私らには、そんな心の余裕ないよ。少なくとも、私にはないよ」
それよりも──と、目を上げて、今までで一番鋭い視線を滋子の顔にあてた。
「高井由美子さんは、なんであのホテルへ来ることができたのかね。私らが集まることを、なんで知ってたんだね。あんたが教えたのかね?」
滋子は胸の奥がぎゅっとしぼられるような緊張を感じた。喉が渇いた。どんなふうに言い出しても言い訳みたいに聞こえてしまうことはわかっていたが、できる限り弁解がましくならないようにするにはどうしたらいいかと、必死で考えた。額に汗が浮いてきた。
「わたしが教えたわけではありません」
ああ、まるっきり言い訳だ。
「ただ、わたしのサイドから情報が漏れたことに違いありません。ですから、本当に申し訳なく思っております」
「そもそも、あんたと高井由美子さんは、いつごろから知り合いなのかね」
滋子は、由美子との出会いについて説明した。彼女から連絡があったこと、会って話を聞いたこと、網川浩一という、栗橋と高井の同級生とも、彼女を通して知り合ったこと。
「その網川とかいう人が、高井さんを迎えに来た知人なんだね?」
「ええ、そうです」滋子は、有馬義男の察しのいいことに驚いていた。「由美子さんとも網川君とも、わたしは何度も会っているし、話もしています。網川君は信用できる人だと思います。それで──」
また、他人に責任をなすりつけるような言い方になってしまう。滋子は舌を噛み切りたい気分だ。
「わたし、網川君には話したんです。今日、飯田橋のホテルで、有馬さんと日高さんが弁護士と会うということをですね。同業者がその情報をくれて、遺族に直に会ういい機会だから行ってみろと勧められたけれど、わたしとしては行く気になれないということを話したんです。ですから、彼は知っていました。それで……さっき由美子さんから聞いた話だと──」
有馬義男は、また察しのいいところを見せた。「あの子は今日の集まりのことを、その網川という男から聞いたと言ってる、と」
「……そうです」
滋子は穴があったら入りたい気分だった。事実を話しているだけだけれど、でも、今のわたしはなんと卑怯に見えることだろう。
「その網川という男が、なんで高井さんにそんなことを教えたかちゅうことだけれど」自問自答するように、有馬義男は呟いた。「それはつまり、高井さんが私や日高さんや三宅さんに会って、私らに直に、高井和明は無実だって訴えることができるようにしてやりたかったんだろうね」
「……たぶん」
「たぶんじゃないよ。あんたはご存じでしょう。さっきホテルで、あの娘は騒いでたじゃないか。兄さんは無実だって」
「ええ、そうです」滋子は足元に落ちている自分自身の薄ぼんやりした影のなかに逃げ込んでしまいたいと思った。「由美子さんは、有馬さんたちに直訴したかったんだろうと思います。ただ、彼女は今、精神的にも体力的にも限界にきていて、自分のことしか考えられない状態なんです。いきなりあんな場所に乗り込んでいって、有馬さんたちにそんなことを言ったらどんなふうに受け取られるかってこと、かけらも考えていないんです」
滋子が言葉を切ると、沈黙が降りた。有馬義男は、最初に見かけたときと同じように、前屈みになって両手を見つめる姿勢に戻ってしまった。
「私らに直訴したって、何もならないよ」
「ええ、そう思います」
「警察に行った方がいいじゃないかね」
「彼女は、警察は耳を貸してくれないと言ってます。あの人たちはただ、兄さんを犯人にするために捜査をしてるだけなんだからと」
ちょっと考え込むように間をおいてから、有馬義男は、滋子が──少なくともこの場では──予想していなかったタイプの反応を寄越した。こう質問したのだ。
「高井さんが無実だと言ってるのは、あの子の兄さんだけかね? それとも、栗橋浩美も無実だと言ってるのかね」
滋子はすぐに答えた。「兄さんだけです。栗橋浩美については、彼女も事件の主犯だと確信しています」
「じゃ、あの子の考えだと、兄さんはどういう立場になるんだね」
「高井和明は栗橋浩美が事件の犯人であることを知って、犯行を止めよう、自首させようとしていたと。栗橋が事故死したとき高井の車に乗っていたのも、高井が栗橋を警察へ連れていこうとしていたからだと」
「だったら、赤井山なんてところで何をしてたんだね。捜査本部は東京にあるのに」
「それは……」
「まあ、いい」有馬義男はぞんざいに手を振り、自分の反問をはじき飛ばした。「それで、あんたはどう思ってるんだね? あんたは高井由美子さんのその説を受け入れてるのかね。私はそっちの方を知りたいよ」
初めて、有馬義男の口調が尖った。
「だってそうだろう。もしも高井和明がそういう立場の人間だったなら、栗橋浩美と組んでいた本当の共犯者は別にいるということになるだろ。あんたは、あんたのルポとやらを、そういう方針で書いとるのかね。え?」
滋子はひどい気後れを感じた。心臓が──臆病者の滋子の魂そのものが──喉元までこみあがってきて、ぶるぶると震えている。子供のころ、近所の友達と、二階の物干し場から地面に飛び降りる勇気があるかどうか、試しっこをしたことがある。こんなにドキドキして喉が渇くのは、それ以来のことだった。昭二にプロポーズされたときだって、こんなふうにはならなかった。
「わたしは──わたしのルポは、そういう主旨で書いているものではありません」
有馬義男は、涙で潤んだようになっている目をしつかりと滋子の顔の上に据えて、真っ直ぐに見つめていた。涙目になっているのは、本当に涙ぐんでいるからではなく、年齢のせいだろう。滋子はまた、働きづめに働いてきた人生の晩年に待っていた不公平な出来事が、どれほどこの人の心と身体を傷めているだろうかと考えた。
「わたしのルポのなかでは、最初から、栗橋浩美と高井和明の二人を犯人と決めています。そのうえで、事件の全容と、二人をあんな非道な犯罪に走らせた内面的な理由とを解明したいと考えているんです」
しゃべりながら情けなくなった。まるで梗概《こうがい》みたいな説明だ。通り一遍で、命の通った言葉はひとことも含まれていない。
「前畑さん」詰問口調を和らげて、ほとんどうち明け話のような穏やかさを取り戻し、わずかに前に身を乗り出すと、有馬義男は訊いた。「そうするとあなたは、あの二人が事件の犯人であることを、いっぺんだって疑ったことはないんだね?」
「ありません」きっぱりと言い切ってから、不意にすきま風に吹かれたような認識が閃き、滋子は素早く反問した。「有馬さんは、あるんですか?」
有馬義男は無言のまま、また上着の懐を探った。タバコを取り出す。そして、それをぎゅっと握りしめた。
「ないよ」と、老人は小声で言った。「警察はほとんど説明しちゃくれんし、新聞やニュースや週刊誌であれこれ言ってることも、細かいところではそれぞれに食い違ったりしてる。それでも、全部あの二人がやったことだっていう──なんちゅうかその、大本の土台のところについては、誰も、一度もグラグラしとらんでしょう」
「ええ、そうですね」
二人の事故死の状況が状況だ。犯人が二人組であると判っている以上、由美子が主張するような「高井和明イコール善意の第三者説」なんかをわざわざ持ってこなくても、事実を素直に解釈した方が、ずっとシンプルで現実的ではないか。だから誰も、この土台の部分を疑ってかかるようなことはしていないのだ。警察が捜査を続けているのも、その裏付けになる事実を集めるためと、二人が犯人であることに疑義があるからではなく、まだ遺体もなければ安否もわからない、被害者と推定される女性たちがゴロゴロ残されているからなのである。
「警察は今、二人が女性たちを監禁し、殺害するために使っていたアジトを探しています」と、滋子は説明した。「初台の栗橋浩美のマンションには、監禁や殺害の痕跡はまったく残されていなかった。高井和明は親と同居していましたから、自室に被害者たちを監禁するなんて、まったく不可能でした。となると、どこかに必ず、彼らが自由に出入りして好き放題のことをやってのけられる場所があったはずなんです。木村庄司さんが殺された十一月四日の夜、栗橋浩美と高井和明が氷川高原にいたことなどから、アジトもその近辺ではないかと考えられているようですが」
有馬義男はうんうんとうなずいて、目をつぶった。古川鞠子の顔を思い出しているのかもしれなかった。
「そのアジトさえ発見されれば、物的証拠も増えるはずです。そうなれば、あれが二人の犯行であったことが、もっともっとしっかり裏付けられることになるでしょう。時間の問題ですよ」
「そうなったら、あの子がどれほど強く兄さんは無実だと思い込んでいても──」
「現実と直面しなくてはならなくなるでしょうね」意識して冷たく、滋子は言いきった。
「今の由美子さんは、事実から目をそらして、願望の世界へと逃げているだけです。だってそうでしょう、おかしいじゃありませんか。もしも彼女の言うとおり、高井和明が善意の第三者で、栗橋浩美を自首させようと努力していたのなら、そのあいだ、もう一人の本当の共犯者[#「本当の共犯者」に傍点]はどこで何をしていたっていうんです?
指をくわえて見物していたとでも? 事故が起こったのは本当に不幸な運命のいたずらでした。事故さえなければ、あの二人は警察へ駆け込んでいたかもしれない。それを黙って放置しておくなんて、そんなお気楽な共犯者がどこにいます?」
有馬義男が苦笑した。「前畑さん、あんた、私に意見したって駄目だよ。そういう説は、あの子に、高井さんに言ってあげにゃ」
滋子は赤面した。「ご、ごめんなさい」
由美子にも今の意見は言って聞かせてみたのだが、彼女は聞く耳持たない様子だった。本当の共犯者は、栗橋浩美と高井和明の動きを知らなかったのかもしれないと反論してきた。滋子は、それはどうかと思う。もしもそうならば、事故を起こした高井和明の車のトランクに詰め込まれていた木村庄司の死体はどうなるのだ? どんな説明がつく? 木村が消息を絶ったあくる日の夕方、高井和明は栗橋浩美に呼ばれて、わざわざ自分の車で氷川高原に馳せ参じているのだ。それらの動きには、いったいどんな説明がつくというのだ。木村殺しは栗橋一人の犯行だと? 殺してしまってから怖くなり、熱心に自首を勧めてくれている高井和明を呼び寄せて、死体を手みやげに警察へ出頭するとき、付き添ってもらおうとでも考えていたというのか。もう一人の共犯者には、まったく何の連絡もとらないまま?
バカバカしい。そんなもってまわった説のどこに真実があろう。それよりも、アジトの近くで栗橋浩美が一人で行動しているとき、偶然、格好の「いい歳の男」の獲物である木村庄司に遭遇し、その好機を逃さず彼を拉致し、安全なアジトに監禁してから、急いで東京の高井和明に連絡して呼び寄せ、木村の死体を社会に向けて公開≠キるための作戦を練っていたという方が、よっぽど判りやすく現実的だ。二人がそろって死体を積んだ車で赤井山に出かけて行ったのも、公開≠フ演出のためだったのだろう。あのお化けビル≠ェ、二人を惹きつけたのだろう。実際、HBSの特番で宣言したとおりの「いい歳の男」を殺して、心霊スポットとして物見高い人びとを集めているお化けビル≠フ朽ちかけた土台の上にでも放置しておけば、下手な映画やドラマよりも劇的な場面を全国のお茶の間に提供することになっただろうから。
「私はね、前畑さん」と、有馬義男は抑えた声で言った。「さっきも言ったけども、あの二人が犯人だってことを、疑ったことはないよ。今まで一度もなかった。ただね、なんちゅうか……どういう言葉で言ったらいいかわからんけども、ピンとこないということは、あるんだよ」
「ピンとこない……」
「だってそうだろう? 私には、生身のあいつらに会う機会が一度もなかったんだ。顔も写真でしか見てないし、背格好も、歩き方も、仕草も何も知らない」
それは滋子とて同じことだ。
「私にとっちゃ、あいつらは二人組の幽霊だよ。その幽霊がつるんで鞠子を殺した。確かにあいつらが殺したんだろうさ。だけども、私にはそれが……それが何かこう……」
空《くう》に浮かんだ見えない辞書のページをめくるように、有馬義男は目を細め顔をしかめた。そして、やっぱり見つからないというようにかぶりを振った。
滋子はため息をついた。「有馬さん、由美子さんが何を言おうと、もう気にかけないでください。あんな形で彼女を接近させてしまって、本当に申し訳ありませんでした。普通ならあり得ないことです。今後は、彼女があんな暴発的な行動を起こさないように、わたしがしっかりと監視します」
有馬義男は、しげしげと滋子を観察した。
「だけどあんた、今後、高井由美子さんとどんなふうに付き合っていくつもりなんだね?」
「どんなふうって……」
「あんたはあの子の言ってることに賛成してないんだろ? あの子の意見はあの子の願いでしかないって思ってるんだろ? それなのに、あの子と付き合えるのかい?」
「ええ、付き合えます」滋子はきっぱりと言った。「わたしは被害者の遺族ではありません。警察官でもありません。ですから、高井由美子がどんな独りよがりの意見を述べようと、感情を抑えて付き合うことができます」
「それであんた、あの子のことをルポに書くのかい?」
書くのだ。殺人者がその家族にはどんな顔を見せていたのかということを書くために。その顔しか見てない家族には、殺人者が殺人者のようには見えていなかったという事実を書くために。
「はい、書きます」
「あの子はそれを読んで、あんたに裏切られたと思いやしないかね? あの子はあんたを頼りにしとるんだろ?」
「由美子さんには、わたしが彼女の意見に与《くみ》しないということをはっきりと伝えてあります。誤解の生じる余地はありません」
「だから裏切りにはならないというんかね」語尾が、滋子を非難するように尖った。「私には、それはえらく酷いことのように思えるよ。あんた、本当にそんなことをやるのかね。やれるのかね」
滋子は奥歯を食いしばった。やっと出てきた言葉は、滋子自身が意図した以上に感情的なものだった。「有馬さん、あなたは人が好すぎます。高井由美子は、鞠子さんを誘拐して殺した男の──」
「そんなことはあんたに言われるまでもない」鉈《なた》で叩き斬るように、有馬義男は滋子の言葉を遮った。「鞠子の無念について、あんたに解説されるいわれはない」
「わたしはそんなつもりでは──」
「あんたはあんたの好きなようにやるがいいよ。だけども、高井由美子が高井和明の妹だから、どんな酷いことをしたっていいっちゅうことにはならないだろうが。だって、あの子が鞠子を殺したわけじゃないんだ。あの子が企んで鞠子をひどい目に遭わせたわけじゃないんだ。前畑さん、あんたと私はまるで逆じゃないか。あんた、誰のためにルポなんか書いてるんだね? あんたの目的は何なんだね? あんたこそ、私ら被害者の遺族の本当の気持ちなんか、全然わかっとらんのじゃないかね? そもそも、わかろうとしてないんじゃないのかね? あんたには、そんな必要なんかないんだからよ」
冷や汗が背中の真ん中を伝ってゆく。手のひらも汗びっしょりだ。滋子は身体が震えないように──いや、震えていることを有馬義男に悟られないように、ぐっと息を詰めて顎を引いた。
「有馬さん、お怒りはごもっともです。でも、わたしが被害者や被害者の遺族の皆さんの気持ちをまったく斟酌《しんしゃく》していないというのは、誤解です。そんなことはありません」
「そうかね。だけどあんた、それならどうしてルポなんか書けるんだね」
有馬義男の口調は、けっして意地悪でも攻撃的でもなかった。滋子の揚げ足をとろうとしているのでもなかった。
それなのに、滋子は太刀打ちできないと感じた。つばぜり合いさえできない。
「ルポを書いて、事件について解説するってことは、川のこっち側からもあっち側からも書くってことだ。どっちに肩入れしたって、まともなものは書けやせんでしょう。だいいちあんた、誰があんたのルポを読むと思っていなさるね? あんたの書いた物に飛びついて、事件の詳しいところを知りたがる人たちは、事件には関係のない人たちばっかりだよ。そうだろ? あの事件が対岸の火事だから、詳しいことを知りたがるんだよ。あんたはそういう人たちのために書いてるんだ。ほかの誰よりも、あんたがいちばんの野次馬だ。あんたには、高井由美子さんを利用する権利なんかない。ましてや、あの子を責める資格なんかないよ」
滋子は、すがるようにして、塚田真一の言葉を思い出していた。どうしてこういうことが起こるのか、人間はなぜこんなことをやらかしてしまうのか、僕はそれを知りたい、と言ってくれた。
「有馬さん」滋子は呼びかけた。「有馬さんは、彼らがなぜあんなことをしたのか知りたいとは思わないですか? 彼らがどうして鞠子さんにあんな酷いことをやってのけたのか、それを解明したいとは思わないですか」
「それで鞠子が還ってくるかね」
斬って捨てるような言葉だった。
へこたれてはいけない。滋子は押し返した。
「確かに、亡くなった方はもう戻りません。でも、次の事件を防ぐことにはつながるかもしれません」
「あんたは、そのためにルポを書くというのかね? だったら勝手にすりゃいい。私には関係のないことだ。今の私には、自分の面倒をみるだけで精一杯だよ」
「お気持ちはわかります、でも──」
「前畑さん、あんた、途方もない勘違いをしてるよ」
有馬義男は、いっそ哀れむような目で滋子を見た。
「私だって知りたいよ。連中がなぜ鞠子を殺したのか知りたいよ。そのとき何を考えていたのか知りたいよ。殺した後にどう感じたのか知りたいよ。一瞬だって、鞠子のことを可哀想だと思わなかったのかどうか知りたいよ。だがね、それは、あんたのような赤の他人の解説≠ニして知りたいんじゃない。あいつらの声で、あいつらの頭で考えたことを聞きたかったんだ。生身のあいつらにしゃべらせたかったんだ。解説≠ネんてもんは、どんなによくできていようと、筋が通っていようと、しょせんはお話だよ。作り話だ。そんなもんじゃなくて、どれほど支離滅裂だろうとも、私はあいつらの声が聞きたいんだ」
前畑滋子にはそんな必要はない[#「前畑滋子にはそんな必要はない」に傍点]。滋子の心のなかの正直な声が、揶揄《 や ゆ 》するように、あるいは言い訳するように耳の底に響いてくる。前畑滋子には、栗橋と高井の生の声など要らない。必要なのは素材としての彼ら[#「必要なのは素材としての彼ら」に傍点]、ルポのなかで自由に料理することのできる題材としての彼らだけだ[#「ルポのなかで自由に料理することのできる題材としての彼らだけだ」に傍点]。
「だから私は、高井由美子さんに会ったっていいんだ」何かまとわりついているものを吹っ切るようにうんと強く首を縦に振りながら、有馬義男は言った。「会って、あの子の言い分を聞いたっていい。嘘じゃないよ。あの子の知っている兄さんは、本当にあんな人殺しなんかするような人間じゃなかったのかもしれない。栗橋の共犯者は別にいて、今ごろほくそ笑んでいるのかもしれない。いや、積極的に、そうであってほしいとさえ思うんだよ。だって、高井和明は栗橋の運の悪い友達で、逃げのびている共犯者が他所《 よ そ 》にいるのなら、今度こそ本当に捕まえることができるじゃないか。あんたみたいな頭のいい他人の解説≠カゃない、本当の犯人の声を聞けるじゃないか。そいつはもう幽霊じゃない。そいつは本物だ。そいつの手が鞠子を殺したんだ」
ちょうど廊下をやって来た看護婦が、有馬義男の大声に、ナースシューズの底を鳴らしてきゅっと立ち止まった。一瞬だけ咎めるような厳しい顔をしたが、ベンチで向き合う有馬と滋子の雰囲気の険しさにひるんだのか、そのまま口を結んで、緊急処置室のドアを開け、そのなかに姿を消した。
「有馬さん」滋子はほとんど拝むようにして言った。「そういうお気持ちになるのは仕方ないかもしれない。犯人が二人とも死んでしまったのは、本当に残念なことでした。彼らが居なくなったことで、有馬さんの怒りや無念のぶつけどころもなくなって、宙ぶらりんになってしまった。それがどれほど苦しいことであるかは、わたしだって想像がつきます。だけど──」
だけど、それでも。
「そういうお気持ちを持ったまま、高井由美子に会うことはいけません。危険すぎます。だって、彼女は兄の無実という夢を、有馬さんは生きた犯人を捕まえるという夢を、それぞれに抱えて持ち寄ってしまうんですよ。事実を冷静に見ることなんかできなくなります。そして二人して、現実には存在しない幻の共犯者、生き残っている真犯人探しをするんですか? そうやって、残りの人生を棒に振るんですか? わたしはそんなことになってほしくない」
「あんたにはわからん」吐き捨てた有馬義男の声は、しかし震えを帯びていた。
「高井由美子には、有馬さんにも日高さんにも、どなたにも近づかないようにと厳命しておきます。けっして近寄らせません。ですから、有馬さんも今の話は忘れて下さい」
言い終えると同時に、滋子は立ち上がった。逃げ出すように見えるかもしれないけれど、それでもいい。
「塚田君の様子を見てきます」そう言って、素早く処置室のドアを開けた。驚いたことに、目の前に塚田真一が突っ立っていた。
少年の顔は蒼白だった。額にぐるぐると巻かれた包帯よりもなお白い。
「シンちゃん」滋子は言って、思わずくちびるを舐めた。立ち聞きしていたのだろうか? どのあたりから? どこまで?
「もう──帰っていいそうです」真一は言って、滋子を真似するようにくちびるを舐めた。後ろめたい感情を飲み込むときは、みんなそうするのかもしれない。遺伝子のなかに組み込まれた動作なのかもしれない。だとしたら、それはたぶん、冷や汗の遺伝子と隣り合わせに配置されているのだろう。
「そう、よかった。じゃあ行きましょう」
石井さんご夫妻には連絡をしてあるからと言いながら、滋子は先に廊下に出た。さっきと同じ姿勢で固まっていた有馬義男が、真一を見て立ち上がった。両目の縁が赤くなっている。
真一が進み出て、額の包帯に触りながら、「十針縫いました」と、報告するように言った。有馬義男は痛そうに顔を歪めると、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「失礼しましょう」滋子は彼の腕をつかんだ。
「有馬さん、本当にご迷惑をおかけしました。どうぞもうお帰りください。ありがとうございました」
真一を引っ張るようにして歩き出す。少年は首をよじって有馬義男の方を見つめながら、滋子に引きずられてゆく。有馬義男は中腰のまま、無言でそれを見送る。滋子は、弾薬を使い果たした戦闘部隊のように、剣を折られた決闘者のように、手駒をすべて奪われた王将のように、ひたすら出口を目指して退却してゆく。
ホテルの支配人と、警備担当の責任者と名乗る制服を着た男は、前畑滋子がいるあいだは、比較的穏やかな対応ぶりを見せていた。しかし、網川浩一が駆けつけるのを待って、滋子が真一の様子を見るために病院へと去ってしまうと、ガラリと態度が変わった。
暴力的なわけではないし、脅しつけるわけでもない。ただ、ねちねちといたぶるような、揚げ足をとるようなことばかり言うのである。それも、本日このホテルのロビーで由美子がしでかしてしまった言い訳のしようのない失態に対してではなく、あの一連の事件に関して、高井和明に対して、そして和明の遺族である由美子と、その友人である網川に対してである。
「つまりあんたらには、反省も何もないんだね? そうだろ? あんな非道なことをしたくせに、悪いと思っちゃいないんだな」
出っ張った腹を制服のベルトで無理に締めつけた警備主任は、鼻先を由美子の顔にくっつけるようにして言葉を吐きかける。彼の酸っぱい息をかぎたくないので、由美子は顔をそむける。すると、相手の顔もまた回り込んでくる。
「主任さん、そんなことを訊いて何になるんですか」網川が声を荒らげた。「重々申し訳ないと反省しているし、あなた方がホテルとして事故報告書を作っておかないとまずいというから、僕らはこうしてここに残っているんです。でもあなたは、さっきから今日の由美子さんの行動についてなんて、ちっとも訊こうとしないじゃありませんか」
職場から着替える暇もなく飛んできたという網川は、ラフなシャツにジャケットにブルージーンズというスタイルである。ちょっと見には学生のようだ。はなはだ威厳に欠ける。それだから、彼の毅然とした抗議も、警備主任の鼻息一発の前には何の効力もないようだった。
「偉そうなことを言うじゃないか」警備主任は鼻の穴を広げた。「あんたらがその気なら、これから警察を呼んだっていいんだよ。この女のやったことは立派な傷害行為なんだからね。逮捕してもらうかね、あんた、ん?」
また由美子の前に顔を突き出す。網川が前に出てかばってくれた。
「僕は現場にいたわけじゃないが、塚田真一君が怪我をしたのは由美子さんのせいじゃないと、前畑さんははっきり言っていた。あれを傷害行為と言うのは卑劣な脅かしですよ」
「何だと?」
網川の方に詰め寄ろうとする警備主任の肉厚の肩を、支配人がつかんで引き戻した。
「やめておきなさい。確かにこちらのおっしゃるとおりだ」
支配人は小柄な優男《やさおとこ》で、歳は四十歳代半ばというところだろう。男の割には妙に眉が細く、くちびるが紅でもさしたような薄紅色をしていて、なんとなく薄気味悪い。物腰は優雅といっていいほど滑らかで、口調も丁寧だけれど、由美子と網川を見る目は冷ややかに醒《さ》めきっていた。実際、今のこの支配人のなかには、自分が経営をあずかるホテルで起こった失態に対する懸念さえ、ほとんど存在していないのではないかと思えた。
あるのは──好奇心?
あるいは──勝利感?
言い訳のできない弱い立場にいる、彼らから見ればまったき「悪人」を、どう料理しようと自由だという──満足感?
「それにしても不思議ですね」支配人が薄赤いくちびるをペラペラと動かす。「高井由美子さん、あなたはどうして、そんなにまで頑なに高井和明の無実を信じることができるんですか?」
「由美ちゃん、答えるな」網川が素早く言った。「こんな質問に答えることはない!」
「おまえこそ、ごちゃごちゃ知恵をつけるんじゃない」警備主任が凄む。「だいたい貴様こそなんでこんなところにいるんだ? 身内でもないくせに」
「僕は由美ちゃんの幼なじみだ。高井和明君とも友達だった」
ケッというような声を出して、警備主任は網川を斜《はす》に見た。「だからかばうっていうのか? 図々しい奴だ」
「高井君があの誘拐殺人事件の犯人だと決まったわけじゃないんだぞ! 警察だってまだ捜査中なんだ。あの事件には、まだわかってないことが山ほどあるじやないか」
警備主任は手ぶりで自分の首のあたりを切るような仕草をして、「もしもあの二人が犯人じゃないってなことになったら、俺はこの首をやるよ」
「やめたまえよ、君」支配人がまた親切ごかしに割って入る。「どんな人間でも、自分の好きなものを信じる自由は保障されているのだ。なにしろ我が国は民主主義国家なのだからね」
「自由の国だから、人殺しも自由か」警備主任がつっかかる。「だけどな、あんた恥ずかしくないのかね? 申し訳ないとは思わないのかよ。あんたの大事な兄さんが殺した女の子たちは、ほとんどあんたとおっつかっつの歳だったんだぞ。あんた自分があんな目に遭わされたらどう思うよ?」
網川がいきりたって立ち上がった。今にも警備主任の胸ぐらをつかみそうだ。「そんな質問をするな!」
「なんでだね? え? 訊かれちゃ困ることなのかね? だいたいおかしいじゃないか。何年もかけてあんな大勢殺していたのに、一緒に住んでる家族は何も気づかなかったのか? 毎日顔をつきあわせて暮らしてたのに、ヘンだとは思わなかったのか?」
「あんたの言ってることは滅茶苦茶だ。由美子さんの言葉なんか何も聞いてないんだな。彼女は兄さんは何もしてないと言ってるんだ。それがわからないのかよ」
「それが図々しいと言ってるんだ」警備主任は凶悪に目を細めた。「なんだよおまえ、おまえもグルだったんじゃないのか? 幼なじみだなんて言ってるな。栗橋と高井も幼なじみだったんだろ。おまえも怪しいな」
網川浩一の顔がみるみる白くなった。それから、まるで一気に血が逆流してきたかのように真っ赤になった。
「なんてことを……」
怒りで言葉を失ったように、かすれた声でやっとそれだけ言うと、網川は由美子の腕をとった。「由美ちゃん、帰ろう。こんなところにいる理由はない」
「警察を呼びますよ」支配人が威嚇する。
「どうぞ呼んでください、ここであなたたちのやってることは、どう考えたっておかしい。これは事情聴取でも説諭でも何でもない。ただのいじめ[#「いじめ」に傍点]だ。そのあたりのことを警察がどう考えるか、僕も訊いてみたい」
「生意気な若僧だ」
「よろしいのですか? 一一○番しますよ」
「ええ、どうぞやってください!」
警備主任と網川が睨みあう。由美子は頭がガンガンしてきて、目が回り、倒れないように机の端に手をついて自分を支えた。そして、気がついたら何か言っていた。
「──てください」
警備主任が何か言い、網川も言い返す。その声の大きさにはばまれて、由美子の声は届かない。ぐるぐる回る視界のなかで、必死に自分を持ちこたえながら、彼女はもう一度言った。今度はさっきよりもちゃんと声が出た。
「──電話を貸してください」
支配人と警備主任は顔を見合わせた。網川が由美子をかばうように素早く寄ってきた。
「なんだって、由美ちゃん」
由美子は支配人の方を向いて言った。「電話を貸してほしいんです」
支配人は目尻をひくつかせる。「弁護士でも呼ぼうというのですか?」
「違います。警察を呼ぶんです」
「何言ってんだ、このバカ女」
「ちょっと、失礼だろうその言葉は!」
「いいんです網川さん。今日のわたしは本当にバカだったんだから」網川をなだめておいて、由美子は支配人を見て続けた。「墨東警察署の捜査本部に、知り合いの刑事さんがいます。電話すれば来てもらえると思います。わたしがこちらにご迷惑をおかけしたのは間違いないですから、処分していただくためにも来ていただいた方がいいと思います」
支配人と警備主任は、また、素早く視線を交わした。
「捜査本部のどういう刑事です?」
「あんたの取り調べをした刑事か?」
「由美子さんは取り調べなど受けていない!」網川が怒鳴る。
その方がいいと思ったから、由美子は黙っていた。その沈黙を、支配人と警備主任はそれぞれに解釈し、その結果出てきた答を比べあうように、また互いの顔を見た。
「どうします?」網川が追い打ちをかける。明らかに彼は、支配人たちがひるんでいるのを感じ取っているようだった。さっきから警察警察とそれが切り札のように言っているけれど、現実問題としては、彼らだって、ホテルの玄関口にパトカーが並んだり、従業員たちが刑事たちから順番に事情聴取をされたり、由美子と網川が、「事故報告書を作る」という口実でここに押し込められ、ひどい屈辱を受けたということを刑事たちに言いつけたりすることを、それなりに恐れているのである。
「まあ、もういいでしょう。そこまですることはありません」恩着せがましくため息をついて、支配人が言った。「お帰りになって結構です。絨毯のクリーニング代金と、破損したテーブルの補修代金は、あとで請求します。あの前畑滋子という人のところに請求書を送ればいいのでしょう? あの人はそう言っていましたよ」
潮時だった。由美子は網川を見上げ、網川は由美子を抱きかかえるようにして、二人で部屋を出た。警備主任だけが、二人の行き先を確かめるように後を尾《つ》けてきた。二人がどんどん歩いてドアを二枚通り抜け、フロント脇の通路に出ると、彼はそこで足を止め、「さっさと出て行くんだぞ」と吐き捨てて、重いドアをばしんと閉めた。
フロントの従業員たちが好奇の視線を向けてくる。しかし、声をかけてくる者はいなかった。ロビーにも騒動の名残はなく、行き交う客たちの一人として、由美子と網川の二人連れを振り返りはしなかった。
回転ドアを抜けて街路へ出ると、由美子は急に膝が萎《な》えた。網川が急いで由美子を支え、手近のガードレールに寄りかからせてくれた。
「大丈夫か?」心配そうにのぞきこむ。「顔が真っ青だよ」
由美子は力無くうなずいた。疲労と脱力感ばかりがあって、怒りも涙も見当たらなかった。今のところはまだ、骨を噛むような後悔さえなかった。バカなことをしたものだ──と考えていないわけではないけれど、その反省には実感がなかった。何もかも遠いことのように思えた。考えてみれば、和明の死んだ日以来、由美子の日々の暮らしからは、現実感などなくなっていたのだ。
それでも、網川には謝らなくては。彼にはまた助けてもらったことになる。
「ごめんなさいね。網川さんにはご迷惑をかけました」
「そんなことはいいんだよ」
彼は由美子の片手を取ると、しっかりと握りしめて、励ますように揺さぶった。
「だいいち、今日のことには俺も責任があるんだ。被害者の遺族の集まりのことを、由美ちゃんに教えたのは俺だもん。前畑さんにも土下座して謝らなくちゃ」
由美子は目を閉じた。ついさっきまでの自分の言動やふるまいが、まぶたの裏の闇のなかに早送りで再生される。キーキー叫んで暴れている。
「まあ……でもさ、大事にならなくてよかったよ」網川浩一はにこやかに言った。「ホテルの連中は野次馬のサディストだったけど、少なくとも、どっかのマスコミに──前畑さんみたいな良識派じゃないマスコミにかぎつけられたりはしなかったんだからさ」
彼の慰めに応じるためだけに、由美子は深く考えもせず、そうねと相づちをうった。
しかし、その見込みは甘かった。
[#改ページ]
12
篠崎|隆一《りゅういち》は、正月も元旦に着替えを取りにアパートへ帰っただけで、あとは捜査本部に詰めて過ごした。ひとり暮らしではお屠蘇《 と そ 》気分などなかったし、アパートの近所の店が軒並み正月休みになってしまうので、持ち帰り弁当ひとつ買うにも遠出しなくてはならない。それならば、捜査本部にいた方が食事の心配も要らないというものだ。
武上悦郎も、元旦の午後帰宅し、一泊しただけで二日の午後から出てきた。篠崎がデスク担当の縄張りである会議室にいるのを見つけると、げじげじ眉毛を上下させ、初詣ぐらい行ったのかと詰問口調で訊いた。篠崎が行ってないと答えると、実は俺も行ってない、これから近所の神社に一緒に行こうと、意外なことを言い出した。
墨東警察署のそばに、名もない小さな稲荷神社がある。二人してそこへ出かけた。ほとんど正月気分の感じられないさびれた境内で、武上はやけに大きな音をたてて柏手《かしわで》を打ち、かなり長いこと、じっと頭を下げていた。篠崎は、この臨時の上司の後頭部の髪がずいぶんと薄くなっていることに、このとき初めて気がついた。
新年恒例の署長の年頭の訓示のほかに、今年は捜査本部長の訓辞があったということを除けば、篠崎の新年はとりたてて新しいものではなく、デスク担当としての仕事に、去った年と来る年とで何らかの変化があったというわけでもなかった。写真の女性たち、残る四人の身元確定も難航している。大勢の親や兄弟や友人知人たちが、もしや自分の娘、姉妹、友や恋人ではないかと訪ねて来ては、失望と安堵の入り交じった表情を浮かべて帰ってゆく一方で、姿を消したきり誰にも安否を問われることもなく行方を探されることもないままになっている若い女性も、想像以上の数存在するのではないかと、篠崎はうすら寒いような気持ちで考える。
新年の十日になって、実家の母親から電話がかかってきた。十五日の集まりには参加するのだろうねという、半ば念押し、半ば懇願のような電話だった。篠崎は、新年一月十五日に、親戚一同が集まってささやかな宴会をするという一族の習慣について、今年はすっかり忘れていた。
篠崎は山梨県の石和《いさ わ 》温泉にほど近い小さな町の出身である。父親はそこで、町で一軒だけの自動車修理工場を経営している。子供のころから車にはさっぱり疎く、興味もなかった篠崎に代わって、すぐ下の弟が父の跡をとるべく一緒に働いている。だから篠崎もとっとと東京に出てくることができたのだった。それでも、長男であるにもかかわらず実家のことをほったらかしにしているという罪悪感も多少はあるわけで、年に一度のその集まりは、罪滅ぼしのための良い機会であった。両親も長男が東京で警視庁に奉職しているということを自慢にしており、篠崎が顔を見せれば喜んでくれる。
しかし、今年に限っては行きたくなかった。気が進まないのではなく、積極的に、行くのが嫌だった。理由は簡単だ。行けばその場には大伯母がいて、高井由美子との縁談の話が、格好の話題として持ち出されるだろうとわかっていたからである
大伯母は悪い人ではない。世話焼きで気持ちの優しい人だ。だが、それだからこそ、今年の集まりの場で、彼女が大きな声を出して、総領息子に危うくとんでもない娘を押しつけてしまうことになるところだった自分の眼鏡違いについて語り、謝り、大騒ぎをするところを、篠崎は見たくもないし聞きたくもない。
篠崎は──高井由美子に同情している。
武上に叱られて、一度は彼女に会うことを断念した。だが、心の底に、彼女に対する後ろめたさはずっとくすぶっている。
これが理屈にあわない感情だということは承知の上だ。個人的には、流れてしまった見合いの相手、写真でしか知らない女性のことである。一目惚れしたわけでもない。そして公的な立場としても、篠崎はなるほど墨東警察署の捜査本部で働いているけれど、高井和明の担当ではなく、事件の解明そのものにタッチしているわけでもない。デスクという、書類をつくって整理して、空いた時間にはパソコンにデータを打ち込んだり地図を描いたりしているだけの後方支援部隊の一員でしかない。どの断面から切っても、篠崎が彼女に対して罪悪感を覚えなければならない謂《いわ》れは、図柄として登場しないのである。
それなのに、心苦しい。
高井由美子は篠崎に会いたがっているという。兄は犯人ではないという訴えを聞いてもらいたがっているという。それを知ってしまったのに、篠崎は黙殺している。担当ではないから、高井由美子の言い分を──彼女の証言を聞いて調書をつくるのは彼に割り当てられた仕事ではないから、知らん顔をしている。
ひどく卑怯な気がする。
篠崎は子供のころから気が小さいと言われてきた。臆病だとも言われてきた。実際、彼が警察官となったことを両親が手放しで喜んでいるのは、あの肝っ玉の小さな兄ちゃんがよくもまあいい方に変わってくれたものだという、意外性のしからしむるところでもあるのだ。
しかし、実体は大いに違う。篠崎は今でも臆病者だし、怖がりだ。警察官になろうと志し、実際にそうなったのも、実はひどい臆病者だからなのである。
篠崎が小学校五年生の秋、故郷の小さな町で強盗殺人事件が発生した。旅館の主人夫婦が鉈で惨殺され、現金数十万円が盗まれたのだ。犯人が山に逃げ込んだために、大がかりな山狩りが行われ、それには父も叔父も、消防団の一員だった学校の担任の先生も参加した。結局犯人は、隣町へと続く峠の手前で、寒さと疲労と空腹でへたばっているところを発見されたのだが、凶器の鉈はまだ所持していた。その鉈を犯人の手から取り上げたのが、その先生だったのである。
犯人が発見されるまでは学校も休校になっていた。弟は自分も山狩りに参加したいとねだって母に叱られたりしていたが、篠崎は恐怖で震えあがり、あとで弟や友達にバカにされるという心配さえなかったならば、押入に隠れ、布団をかぶって震えていたい気分だった。鉈で打たれ、斬り殺されるなどまっぴらごめんだ。被害者の夫婦は、腕や脚が切断され、首も皮一枚でかろうじてつながっているくらいのひどい状態だったという噂が飛んでいた。想像するだけで血の気が引き、悪い夢を見てしまいそうだった。
だから、山狩りの後、いつものように授業に出てきた先生は、篠崎の目にはまるで異世界の英雄のように見えた。生徒たちの喝采を浴びてもニコニコと柔和に笑っている先生は、いっそ嫌味なくらいに見えた。男としては小柄で華奢な体格で、めったに生徒を叱るようなこともないおとなしい人だと──自分と同じような気の小さい人だと思っていたから、裏切られたような気さえしたものだ。だからその後しばらく、篠崎は先生を避けるようになった。
先生の方にも、篠崎のそういう気分は伝わったものであるらしい。二学期の終わりになって、突然職員室に呼び出された。先生はもともと弁のたつ人なので、篠崎は簡単に誘導尋問に乗せられ、内心を白状することになってしまった。
すると先生は笑った。自分は篠崎君の考えるとおりの臆病者だと言った。篠崎は怒った。そういうのは嫌味なケンソンだと言ってやった。先生みたいなヒトには自分の気持ちなんかわかるもんかと言ってやった。
すると先生は言った。臆病だからこそ、山狩りに参加したのだと。臆病だからこそ、犯人の手から鉈を取り上げたのだと。
──町に残って、犯人はどこにいるのか、ひょっとしたら今にも自分のうちに押し入ってくるのじゃないかと怯えているよりは、動き回っている方が気が楽じゃないか。
──犯人はとても疲れていて、もう暴れたり人を傷つけたりできるような様子じゃなかった。僕たちに発見されたことで、がっくりと気落ちしていた。だから、下手に刺激して気力を取り戻される前に、さっさと武器を取り上げてしまった方がずっと安心だと思ったから、近寄っていって、鉈をこっちに寄越してくださいと言ったんだよ。そしたら、何の抵抗もなしにすいと差し出してくれたから、受け取っただけだよ。
──怖い、怖いと思いながら隠れていると、もっと怖い。怖いから、立ち向かうということだって、人間にはあるよ。
──火事が怖かったら、火事を消すことのプロの消防士になればいい。恐ろしいことをする犯罪者が怖かったら、そういう人びとを探して身柄を押さえる刑事になればいい。それなら、何の抵抗する術も力もなく、ただ事件や災害に襲われるだけの立場より、実はずっとずっと安心だよ。
今思えば、これは一種の詭弁《 き べん》である。どんな災厄に対しても、やっぱり逃げて隠れるのがいちばん安全なのだ。ただ、先生の意見が核心をついていたのは、臆病者には臆病者なりの英雄のなり方≠ェあるというところだった。それが、それなりに多感で自己顕示欲の強くなる年頃の、臆病な少年の心のツボを押さえたのだった。
後年、篠崎が警察官になったことを報告すると、先生はハガキをくれて、君は心が優しいから、警察官に向いていると思います≠ニ書いてきた。篠崎は今でも、そのハガキをとってある。
武上がその代表だが、刑事には、刑事になるために生まれてきましたというタイプが存在する。なくとも、篠崎の目にはそう見える。そして自分は、それらの刑事とはまったく異なっているのだということも、よくよく承知している。だから。それらの本物の刑事≠ノ混じって、警察官としての本分を果たすために篠崎がしなくてはならないことは、ただひとつだとも思っている。
せいぜい誠実に奉職することである。
高井由美子の一件に関して、武上は、彼女に近寄らず、彼女のことは高井家を担当している同僚たちに任せるのが筋だと言う。篠崎も、その方が理屈は通ると思う。が、当の由美子が、はっきりと篠崎を名指しして、篠崎に会いたいと言ってきている以上、知らん顔はいけないのではないかと思ってしまうのだ。
武上は、それがいかん[#「いかん」に傍点]という。感情に動かされてはいけない。ほだされてはいけない。組織としての捜査本部の動きをかき乱すようなことをやってはいけないと。
だが篠崎は、武上の忠告を受け入れることは、武上の忠告の後ろに隠れることになるのではないかと思うのだ。じっと隠れたまま、高井由美子が篠崎に会うことを諦めてくれるまで、彼女の訴えをやり過ごす。それは卑怯だし、不誠実だし、何よりも、
──思いやりに欠ける。
バカ野郎、この件に関して思いやりなんてもんが必要なわけないだろうと、武上は怒るだろう。だが篠崎は──本来、臆病な自分を守りたいがために警察官になったまがい物の篠崎隆一という警察官は、自分が高井由美子という人にしてやれる唯一のことに、やっぱりこだわらずにはいられないのである。
そのくせ、武上に叱られることも、一方ではまた恐ろしい。今のところ、武上は篠崎をかなり買ってくれているような様子がある。実際、武上から学ぶことは山ほどあるし、彼のようなデスクのエキスパートになる道を進みたいと、近頃の篠崎は考えている。そういう形で、やがては本庁に呼ばれるような働きをすることはできないかと、分不相応な夢を心に抱いたりもしている。
だから、武上に逆らって行動を起こすことはできない。武上に、高井由美子に関わることはまかりならんと言われた瞬間に、足がすくんでしまった。臆病者の本領発揮である。
だから余計に後ろめたい。だからせめて、大伯母が高井由美子を俎上《そじょう》に載せて、未曽有の残酷な犯罪の話題で宴の席を盛り上げるその場に居合わせるのだけはやめておきたいと、篠崎は後ずさりする。
結局母親には、今は一日でも、捜査本部を離れることはできないと説明した。長男の働きに鼻を高くしている母は、その説明を快く受け入れた。会えないのは寂しいが、息子自慢をするネタが増えたのは嬉しい。そんな正直な心情が、母の声にはそのまま現れていた。
十三日の夜、篠崎はまたアパートに帰った。家主から電話があり、実家から何か小包が届いたので預かっているというのである。開けてみると、その小包には、衣類とか食料品とか、細々《こまごま》としたものが詰め込まれていた。忙しいと言っている倅《せがれ》のところに、東京で簡単に買うことのできる品物を送りつけてきて、かえって手間を増やすというのは、いかにも田舎の母らしいやり方で、篠崎は苦笑した。帰ったついでにゆっくりと風呂に入り、一泊して翌朝は午前七時に家を出た。武上はずっと捜査本部に泊まり込んでいる。電話番を自分が代わりに務めれば、十五日の祝日には、武上が家に帰れるだろうと思った。
駅に着くと、すぐに売店で新聞を何紙か買った。事件に関する新聞雑誌の記事のスクラップを作るのもデスク担当の役目である。北風の吹くホームで寒さに縮こまりながら社会面から目を通してゆく。近頃では、この事件の報道が一面に来ることはほとんどない。新発見の事実が無いからである。
ざっとめくっていって、次の新聞にかかろうかというときに、本日発売の写真週刊誌の広告が目に入った。一応チェックしようと目を落として、篠崎はぎくり[#「ぎくり」に傍点]と固まった。
見出しの脇に、高井由美子の写真が載っている。
被害者の会に乱入した高井容疑者の妹の乱暴狼藉一部始終
北風より冷たいものが、身内を走った。
問題の写真週刊誌をコートの下に隠し、デスク担当の部屋にそっと入ってみると、同僚が一人いてワープロで文書をつくっているだけだった。武上は食事に出ているという。篠崎はコートも脱がず、ファイル棚にそっと近寄って、几帳面な武上に指導されたとおり、あいうえお順に並べられた背表紙に目を走らせた。関係者の住所・連絡先一覧を探し出す。いちばん必要とされる頻度の高いものなので、同じものを五部つくってある。そのうちの三部が外に出ていた。残っている二部は、先週末に更新したばかりの最新のものだった。このファイルは武上が一人で作り、彼だけで管理している。普段は、許可を得なければのぞくこともできない。今、篠崎のやっていることは、デスク班の武上内規違反である。
同僚は軽やかにキーを鳴らしている。振り返らない。篠崎は素早くページを繰り、現在の高井由美子の連絡先を探した。埼玉県の三郷市だ。知人宅≠ニ、備考欄に武上のかっちりとした字で書き込んである。その下に、彼女の父親の入院している病院名も書いてあったので、一緒にメモした。
ファイルを元に戻す。同僚はキーを打つ手を止めて、大きくあくびをした。
「ちょっと出てきます」
篠崎はその背中に声をかけた。同僚はうんと返事をして、眠そうな目で振り返った。椅子の背もたれがギーと鳴る。
「ポケベルは?」
「持って出ます」
「そう。武上さんが、篠崎が出てきたら仕事があるって言ってたけど」
心臓がバクバクする。「そうですか。すぐ戻れると思います」
それだけを言って、会議室を出た。エレベーターを使うと、戻ってくる武上とすれ違うかもしれない。階段へ走った。高井由美子はもう、この新聞広告に気づいているだろうかと考えながら。
その朝、高井由美子は一人でテレビを観ていた。天気予報を見ようとチャンネルを替えていたら、朝八時半からのワイドショウ番組にぶつかってしまい、そこで「本日発売の写真週刊誌のトップ記事」として、十一日に飯田橋のホテルで由美子の引き起こした騒動が報道されているのを知ったのだった。
瞬間、周りがすうっと暗くなった。
テレビ画面には、当の週刊誌の写真が大きくアップで映し出されている。由美子がホテルの警備員の制止を振り切るようにして、有馬義男の方へ詰め寄ってゆく。その尖った横顔、つり上がった目、幼子の悪夢のなかに登場する悪い鬼さながらの歪んだ口元を、そっくりそのまま切り取って映像化した写真だ。こんなもの、いつ撮られたのだろう? 誰がカメラを持っていたのだろう? シャッターを切る音なんて、全然耳に入らなかったのに。
網川浩一から、被害者の遺族の集まる会合が開かれるらしいと教えられたのは、前日の十日のことだった。彼はそれについて、前畑滋子から聞いたのだと言った。滋子は取材に行くつもりがないらしい。遺族と接触するいいチャンスなのに、前畑さんは残念じゃないのかなあと、不審そうな口振りだった。
──僕が前畑さんなら、絶対に出かけていくな。
最初のうち、由美子はそれをぼんやりと聞き流していた。遺族の集まりなど、今の自分からはもっとも遠い場所だ。が、網川があれこれとしゃべりながら、有馬義男という豆腐屋の店主、古川鞠子のおじいさんで、犯人から数回にわたって電話を受け、やりとりを交わしたことのある人物が、その会に参加するらしいよ──と言うのを聞いたときに、由美子のなかでふと閃くものがあったのだ。
有馬義男という老人のことなら知っている。由美子がまだ今回の事件の局外者であり、一般視聴者と同じようにテレビを観ていたころ、画画のなかで、記者のインタビューに応じていた老人の姿を覚えている。そのときの、いたずらに取り乱したり怒ったりせず、じっと怒りや悲しみを噛み殺すようにしてうつむいていた顔を覚えている。
父が言っていた──あのじいさんは大したものだ、気丈な人だと。俺なんざ、もしも自分の子供や孫をあんな目に遭わされ、犯人に振り回されておちょくられたら、それだけでおかしくなっちまうよ。あの有馬さんて人はしっかりしてる。気骨があるんだなあ。
父は簡単に感心する人ではなかった。苦労に苦労を重ねて店を持ち、自力で人生を切り開いてきたという自負を強く抱いていたから、他者に対して手厳しいことは多く言っても、誉めることは少ない人だった。その父が、テレビを観ながら、新聞を読みながら、有馬義男という人に対しては、素直に尊敬の念を隠さず口にしていた。有馬義男とはそういう人だった。
しかも、テレビ局の一部の人たちを除けば、有馬義男は、ある意味で、いちばん濃密に犯人と接触した人物なのだ。一方的に犯人の言うことを聞いていただけでなく、会話のキャッチボールもしたし、挑発されてもそれに乗らず、冷静に切り返したりしている。
由美子はふと、水底に沈んだ石が水面を見上げ、そこに差しかかる陽光を見つけたように、目の奥が明るくなるのを感じた。
有馬義男は、栗橋浩美と高井和明のことを、今、どんなふうに考えているのだろう? いや、感じて[#「感じて」に傍点]いるのだろう? あの二人が犯人だと思っているだろうか? それとも、多少なりとも違和感を覚える部分があるだろうか?
報道によると、有馬義男に電話をかけ、侮辱的な発言をしたり、古川鞠子の命乞いをさせようとし向けたりした人物は、栗橋浩美であったことがほぼ確定的になっている。二回目以降の通話は警察によって録音されており、声紋鑑定をすることができたからである。つまり、有馬義男は、栗橋浩美の日頃は隠されていた邪悪な部分が剥き出しになったときの様子を知っているわけである。
その有馬義男は、高井和明についてはどう思っているだろう。彼が共犯者だと知らされて、納得しているだろうか?
そこからさらに一歩進めて、由美子は考えた──栗橋浩美の暗黒部分に、想像や推測ではなく、リアルタイムで直に触れたことのある有馬義男ならば、由美子の訴えに耳を貸してくれるかもしれない、と。兄の和明は、栗橋浩美という人間を、彼自身の心のなかにある底なしの泥沼から引き上げようとして、力及ばず、一緒に引きずり込まれてしまった不運な友人なのです。兄は共犯者ではありませんでした。
生身の栗橋浩美の邪悪を知っている有馬義男ならば、刑事や記者よりもずっとずっと身近に引きつけて、由美子のそういう訴えに耳を貸してくれるかもしれない。真の共犯者はほかにいるかもしれないという可能性に興味を抱いてくれるかもしれない──
今思えば、それは由美子の勝手な思いこみに過ぎなかった。だが、あの時は、思い立ったらすぐにでも有馬義男に会いたくて、話を聞いてもらいたくて、事件についてあの気丈な老人が考えていることを教えてもらいたくて、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。だから飯田橋のホテルに出かけていった。誰かに話せば止められるに決まっているから、黙って単独行動をした。
その結果が、あれだ。そしてそれが引き起こした余波が、これだ。
愚かという言葉を三乗しても、まだ足りない。今となっては、由美子自身にも計りきれないほどの愚行だった。
あの日、ホテルから家に帰って悄然《しょうぜん》としているところに、前畑滋子から電話がかかってきて、さんざんに叱られた。一言も返す言葉がなく、由美子はただ受話器を握ってうなだれるだけだった。滋子はすぐにも会いたいけれど、お母様の手前、あなたのところに駆けつけるわけにはいかない、原稿の方が一区切りついたら、今後のことを話し合いますからねと言った。最初から最後まで、厳しい口調だった。
それでも電話を切る間際になって、ホテルから家に送ってきてくれたときの網川浩一と同じことを言った──マスコミにかぎつけられなくてよかった、と。今はそれが、いちばん恐ろしいのだから、と。
テレビ画面いっぱいに映し出されている狂女のような自分の姿を見つめながら、由美子は腰が抜けたようにへたりこんだ。涙は出なかったけれど、寒けでがくがくして、歯の鳴る音がよく聞こえた。前畑滋子が「もっとも恐ろしい」と言っていた出来事が、今、起こってしまっている──
母と勝木のおばさんは、前夜から外出していた。勝木のおばさんの古い知り合いが、浜松で割烹《かっぽう》旅館を営んでいる。そこに出かけていったのだ。もちろん観光でも慰安の旅でもない。借金の相談に行ったのである。
長寿庵の新店舗は大枚の借金をして建てたもので、月々の支払いは、店が順調に営業していてようやく払える額だ。現在のように店を閉め、父の入院費は嵩み、母も由美子も居食いの状態では、すぐに蓄えを食いつぶし、金は底をついてしまった。勝木のおばさんは住まいの心配こそ無いものの、居食いの女ふたりを抱えて左うちわでやっていけるほどの資産はない。そこで、数人の知り合いに相談を持ちかけてみたら、浜松の知人というのが好意的な返事を寄越してくれたのだった。しかも、金をただ貸すのではなく、給料の前借りの形にしてもいいという。つまり、もしも話がまとまれば、母と由美子は、その旅館で住み込みの従業員をすることになるのである。そのうえに、地元の病院に、父を転院させる手続きもしてくれるという。
まさに願ってもない話だ。先方の善意と、勝木のおばさんの熱心な説得と懇願とが結びついて生まれた、高井家にとっては奇跡のような話だ。
勝木のおばさんに、最初にこの件について聞かされたのは、ホテルでの大立ち回りの翌日、十二日の朝のことだった。本当に話が固まるまではと黙っていたんだけど、もう、うち明けてもいいと思って──と、おばさんは嬉しそうな顔をしていた。
──二人とも、お客さんの前に顔を出すことはできないから、下働きだけどね、でも住み込みの部屋はちゃんとひとつもらえるよ。何より、今は都会から離れるのが正解だよ。
本当にそうだと、由美子も心から思った。前日の出来事の暗い余韻が帳消しになるような気持ちがした。
その日以来、おばさんと母と三人で、いろいろなことを相談してきた。特に気になるのは警察のことだった。ひょっとしたら警察は、高井家の三人が揃って東京を離れることに難色を示すかもしれない。それはなんとしてもわかってもらおう。今までだって、捜査に協力しないなんて言ったことは一度もない。なんでも言われたとおりに従ってきた。これからだってそのつもりだ。由美子たちには、捜査が進めば、和明は犯人ではないという、動かしがたい証拠があがってくるのではないかという希望がある。あまりにはかない希望だけれど、でもまだ諦めたわけではない。
それでも、生活はしていかねばならない。屋根も米も温かい布団も、無料《 た だ 》では維持できないのだ。働かなければ。それを理解してもらえるように、一生懸命に頼もう。
ずっと勝木のおばさんの家にかくまってもらっているだけでは、もう駄目だ。何かして動き出さなければ。このところ、由美子は努めてそう考えてきた。なんとかしなくちゃ。被害者の遺族の会に乗り込むような、あんなバカなことじゃなくて、もっと前向きなことを。もっと地に足のついたことを。お兄ちゃんの無実を証明するためにも、あたしはもっともっとしっかりして、高井家の柱になっていかなくちゃならないんだから。二度とあんな短兵急でみっともない失敗はしないんだ。絶対にしないんだ。
それなのに──
意気込みと決心が、土砂崩れに呑み込まれるように壊れてゆく。
浜松の親切な旅館経営者は、この写真週刊誌を見てもなお、由美子たちに好意的な顔をしてくれるだろうか。由美子たちを手元に迎え入れる勇気を維持してくれるだろうか。
そんな都合のいいこと、ありっこない。
あたし、何もかも台無しにしちゃったのかもしれない。
病院にいる父は、どんな形でこのニュースを知ることになるだろうか。同室の患者さんから聞かされるだろうか。お医者さんから教えられるだろうか。相変わらず血圧が高く、心臓にも不安があるという厳しい状態で、由美子のしでかした不始末は、どれほどの負担になるだろう。
母は──母はどうだろう。暮らしを立て直すチャンスを目の前に、事件以来初めて、わずかな希望と生きる気力を取り戻しかけているところなのに。勝木のおばさんだって、どれほど面目をなくし、由美子に失望し、がっかりすることだろう。由美子たちを背負い込んだことを、どれほど後悔することだろう。
ゆらりと上半身が揺れて、由美子は壁にもたれかかった。どすんという音がして、壁にかかっていたカレンダーが落ちた。そのまま目を閉じると、涙が流れ落ちた。
電話が鳴り始めた。由美子は動かなかった。誰からだろう? 怖くて出られない。お母さん? 勝木のおばちゃん? 前畑さん? 誰であってもおかしくないし、誰であっても同じだ。由美子はただ謝るだけだ。
ごめんなさい、ごめんなさい。
電話のベルは鳴りやんだ。だが、すぐにまた鳴り出した。今度は誰? 誰がかけているの? ごめんなさい、あたし謝ってるのよ。悪いと思ってるのよ。バカだったって後悔してるのよ。
だからそんなにリンリン鳴らさないで。
由美子は壁に手をついて立ち上がった。電話はまだ鳴っている。無視してその脇を通り過ぎる。廊下に出る。
古い家のことで、すきま風がそこここから忍び込む。廊下は寒い。身を縮めて歩く。
洗面所に人る。
四角い鏡に、自分の顔が映っている。だけどピンとこない。高井由美子って、こんな顔をしてたかしら? あたしって、どんな顔をした女だったのかしら?
洗面所の小物入れを開ける。
化粧品や石鹸、ヘアピン、うがい薬。細々とした物が並んでいる。由美子は手をあげ、それらの品を脇にどけて、奥の方を手探りした。
勝木のおじさんは、電気かみそりが嫌いな人だった。昔、理髪店で使っていたような、折り畳み式のかみそりで髭を剃っていた。
──亭主が亡くなった後も、捨てるに捨てられなくてね。ずっととってあるのよ。
おばさんの言葉に間違いはなかった。古風な髭剃り道具の一式が、おばさんの愛用している整髪料の瓶のうしろに隠れていた。
由美子はかみそりを手に取った。折り畳まれているそれを伸ばしてみる。
銀色だ。錆ひとつない。なんてよく切れそうなんだろう。勝木のおじさんが元気でいて、今でも毎日使っているかのようだ。
刃の部分に、由美子の顔が映った。くちびるが、頬が、そして目が映る。歪んでいて、人の顔ではないみたいに見える。でも、さっき鏡に映した顔よりも、自画像としては、ずっと納得のできる顔だった。ああ、あたしはこういう顔してる。確かにこういう顔してる。
電話のベルが鳴っている。急《せ》かすみたいに鳴っている。はいはい、わかりました。今、やっつけるから。今、このしょうもない高井由美子をやっつけるから。
電話のベルが鳴りやんだ。
由美子はかみそりの刃を左手首にあてると、ひとつ息を吐いた。
電話をかけても応答がないことがわかると、篠崎はすぐに電車に飛び乗った。居なければ居ないでいい、とにかくこの三郷市の知人の家に行ってみよう。彼にしては果断とも言えるくらいの素早い決断だった。
篠崎は比較的地理に強く、首都圏の交通網についても詳しい。墨東警察署から埼玉県三郷市のこの住所まで、まだ朝の通勤時間帯に入るこの時刻なら、おおよそ七十分というところだろうと見当をつけた。逆方向なので電車も空いている。
車中では、ポケベルしか持って出なかったことを後悔していた。誰かの携帯電話を借りてくればよかった。そうすれば、移動の最中も電話をかけることができたのに。仕方がない、常磐線に乗り換える際、わずかな電車の乗り継ぎ時間にホームからまた電話をかけてみた。依然として応答はない。嫌な予感がするな、と思ったが、強いてその考えを押し殺した。高井由美子は働きに出ているのかもしれない。まだ、写真週刊誌のことなど知らないのかもしれない。だいたい、知ったとしてもすぐにどうこうすることはあるまい。きっとあわてて、真っ青になっていることだろうけれど、それでもすぐに何かが起こるわけではあるまい。闇雲に悪い方に想像してしまうのは、今まで高井由美子のことを心から閉め出してきた反動だ。足をとられてはいけない。
それよりも篠崎は、こうしてあわてて飛び出してきたというのに、高井由美子に会ったら何を言おうかということを、全然整理して考えていないのだった。この件で警察に呼ばれて叱られるだろうけれど、そのときは素直に謝るようにとか、二度とこんなことをしてはいけない、かえって逆効果だからとか、自分がちゃんと話を聞くから、落ち着いて今の気持ちを話してくれとか──
見合い写真で見たあのおとなしそうな娘は、今、どんな顔をしているのだろう。そもそも、今さら訪ねていったところで、果たして篠崎に会ってくれるものだろうか? こんな報道があって初めて会いにきた篠崎を、かえって警戒するのではないだろうか。
考え事ばかりしていたものだから、うっかり綾瀬止まりの電車に乗っていた。舌打ちして飛び降りると、ホームを駆け下りて改札を抜け、タクシー乗り場に走る。どうしてこう間抜けなのだろう。
幸い、タクシーの運転手は篠崎の告げた番地だけを頼りに、きちんと目的の家まで運んでくれた。古びた二階家で、小さな庭まである。表札を確かめると「勝木」と読めた。メモしてきたものと同じだ。ここで間違いない。しかし、インターフォンのようなものが見当たらなかった。
周囲は同じような造りの地味な家ばかりである。平日の静かな朝だ。空気は身を切るほどに冷たいが、空はうららかに晴れている。隣家の二階の窓には洗濯物が翻っている、
「ごめんください」
思い切って声をかけた。玄関の引き戸の向こうはしんとしている。格子の隙間の曇りガラスごしに、赤い靴の輪郭がぼんやりと見える。高井由美子の履き物だろうか。
「ごめんください」
もう一度声をかける。返事はない。篠崎は引き戸の取っ手に手をかけた。
するりと開いた。古家だが、手入れがいいのだろう。
小ぎれいな玄関だ。あがり框《かまち》のところにスリッパが揃えてある。左手の作りつけの下駄箱の上には椿の花が活けてある。篠崎は後ろ手で引き戸を閉めると、玄関のなかに足を踏み入れた。
奥の方から、かすかにテレビの音が聞こえてくる──ようだ。人声ではない。でも、誰か在宅しているのだ。
篠崎はひとつ息を吸い込むと、上がり框の上に身を乗り出し、大声を出した。「ごめんください。墨東警察署の者です。高井由美子さんはご在宅ですか」
返事なし。
テレビの音声だけが一人しゃべりを続けている。篠崎は立ちすくんだまま耳をこらす。
これは朝の──ワイドショウ番組じゃないかな。聞き覚えのあるキャスターの声だ。武上方式では、テレビ番組で事件について流されている情報を集めてチェックすることもデスク担当の仕事になっているから、大川公園事件以来、篠崎は、それまで一度も観たことのなかったそれらの番組を丁寧に観ざるをえなくなっていた。
ワイドショウ[#「ワイドショウ」に傍点]
胸の底を、小さくて鋭くて悪意のある爪先で蹴りあげられたような気がした。ワイドショウ。なんでそんなもの観てるんだ? 高井母娘を匿《かくま》っている知人の家で、なんで彼女たちを材料に報道にいそしんでいる番組なんかにチャンネルをあわせているんだ?
どうしてテレビがつけっぱなしなんだ[#「どうしてテレビがつけっぱなしなんだ」に傍点]?
靴を蹴って脱ぎ捨てると、篠崎は家のなかに駆け込んだ。短い廊下に出ると、テレビの音がよりはっきりと聞こえるようになった。どっと笑い声。にぎやかな音楽。
すぐ右手が茶の間だった。テレビはそこにあった。こたつが据えてある。こたつ布団が、ほんの今さっきまで誰かがそこに座っていたことを示すように、膝の形にふくらんでいる。
壁際にカレンダーが落ちている。
「高井さん!」篠崎はこたつの脇に立って声を張りあげた。「お留守ですか? 高井由美子さん!」
テレビが騒々しい。篠崎はスイッチを切った。そしてもう一度呼んだ。
「高井由美子さん、どこにいるんです?」
カターンと、何かが落ちるような音がした。廊下の奥の方のようだ。響きのある音だった。そう──タイルみたいな物に──何かがぶつかって──
踵《きびす》を返すと、篠崎はまた廊下に出た。洗面所か、風呂場。それにしてもこのすきま風はどこから来るんだろう? 廊下のきしむ、懐かしい古い家。
ガラスの引き戸が開いている。白い陶製の洗面台が見える。鏡があって、少し錆びた蛇口から水が滴っていて、壁に据えつけられた小物入れの扉が開いている。
篠崎は洗面所に飛び込んだ。そして、すぐ隣の風呂場のなかに、若い女がうずくまっているのを見つけた。
とっさには、息が詰まってしまって言葉が出なかった。情報が一気に押し寄せてきて、目が回りそうだった。時間が止まった。
女は赤いセーターを着ている。膝の出たジーンズを穿いている。うなだれて、肩のあたりまでの長さの髪が顔の周りに垂れさがり、痩せたうなじがほんの少しのぞいている。彼女の両手はだらりと床に垂れている。古風なタイルの床に垂れている。その脇に湯汲み桶が転がっている。この寒いのに彼女はセーターの袖をまくりあげている。そして──
風呂場の窓から差し込む陽の光を受けて、女の手元にある何かがきらりと光った。
剃刀[#「剃刀」に傍点]だ。認識した瞬間、呪いが解けたように時間が流れ出し、篠崎は若い女に飛びついてその手をつかんだ。ほとんど体温の感じられない彼女の右手は、折り畳み式の長い剃刀をしっかりと握りしめていた。そのとき初めて、わずかだが床に血が流れているのが見えた。篠崎の時間は、今度は普通の倍くらいの速さで走り出し、彼女の手から剃刀をひったくるのと、彼女の左手をつかんで持ち上げ、そこにうっすらと血のにじむ切り傷が数本つけられていることを確かめるのと、彼女を揺さぶって顔をあげさせるのと、すべてをいっぺんにやってのけた。
「高井さん? 高井由美子さんだね?」
若い女の目は洞穴のようにうつろで、まったく焦点を結んでいなかった。首は折れているみたいにゆらゆらと揺れ、半開きのくちびるも色を失って、呼吸音さえ聞こえない。
だが、間違いはなかった。見合い写真で見た顔だ。一重瞼の目と、しもぶくれの頬。写真よりはずいぶんと顎がこけているけれど、でもこの顔だ。高井由美子だ。
篠崎は剃刀を洗面台の下に投げ捨てると、両手で彼女の肩をつかんで抱き起こした。顔を近づけて、一言発するたびに彼女を揺さぶりながら、
「高井、由美子さん、だね?」
由美子は答えない。瞳さえ動かない。
「写真週刊誌のこと、知ったんだね? それでこんなことをやったんだ。そうだね?」
幸い、左手首の傷はごく浅い。ためらい傷だ。出血も少ない。焦って駆けつけただけの甲斐はあったのだ。
「早まっちゃいけない。間に合ってよかった。とにかく座敷の方へ戻ろう。こんなところに座ってたら風邪をひく」
立ち上がらせようとしても、由美子の膝はぐにゃぐにゃと崩れるばかりで、全然動かない。靴下をはいた足はタイルに滑り、それに彼女は案外重たくて──それとも篠崎が軟弱なのかもしれないが、一緒に転んでしまいそうになった。仕方なく、彼女を引きずって風呂場から出し、洗面所の壁に寄りかからせた。剃刀がすぐ近くに転がっていたので、反射的に拾って、今度は背広の内ポケットに入れた。自殺しようと本当に思い詰めている人間は、助けようとする者のわずかな隙でもかいくぐって死んでしまうものだ。そういう実例には、篠崎も過去に出くわしたことがあった。
情けないことに、息が切れていた。これだから身体を鍛えとかなきゃ駄目なんだよなと思った。そんなことが頭に浮かぶだけの冷静さが戻ってきたことに気づいて、ちょっと余裕が生まれた。篠崎は彼女の顔をのぞきこんで笑いかけた。
「大丈夫だから。いいね、もう死のうなんて考えたらいけないよ。ご家族はどこにいるんだい? ここにはお母さんも一緒にいるんじゃなかったの?」
由美子の瞳が、わずかに動いた。母という言葉に反応したらしい。彼女は大儀そうにまばたきをすると、ぼんやりと篠崎の顔を見あげた。目と目があって、篠崎はほっとした。薬物の兆候はなさそうだ。ショックでぼうっとしているだけなのだろう。
「手首の傷の手当をしないとな。立てるかい? 申し訳ないんだけど、僕の力じゃ君を運んであげられそうにないんだ」
女の目の焦点があって、初めて彼女はしげしげと篠崎を観察した。
「あなた──誰?」と、小さく訊いた。
「あ、僕は」篠崎はちょっとだけ目をそらした。そんなつもりはなかったのに、やっぱりそうなってしまった。「わかるかな。篠崎です。篠崎隆一」
ふっと気抜けするような間があいた。高井由美子の口が、声にならない問いを吐き出すようにがくんと開いた。
「うん。その……君と見合いすることになっていた墨東警察署の刑事です」
篠崎の言葉に、由美子はうなずいた。何度も何度もうなずき、それから急に、紙をくしゃくしゃっと丸めたみたいに表情を崩すと、声をあげて泣き出した。
手放しの、子供のような泣き方だった。涙がポロポロとこぼれる。その声のあまりの悲痛さに、一緒に泣きたくなってしまうほどだった。鼻先がツンとした。
「申し訳ない、申し訳ない」由美子の肩を両手でさすってやりながら、篠崎は言った。
「もっと早くに君に会っておけばよかった。そうすりゃこんなことにならなかったのに。本当に申し訳ない。申し訳なかった」
この家の主の勝木という女性は良い家庭人であるらしく、ちょっと探すだけで、とてもよく取り揃えられた救急箱を見つけることができた。由美子の手首の傷を手当するくらいならば、それで充分に用が足りた。
左手首を包帯で包まれた高井由美子は、それまで以上に痛ましく、力弱く、悲しげに疲れ果てて見えた。篠崎は言葉を選びながら彼女に質問を投げ、彼女はときどき前後を取り違えたり、意味不明のことを言ったり、言い間違えたりしながらそれに答え、篠崎は、小一時間かかって、やっと、飯田橋のホテルでの騒動の詳細と、今の高井母娘の現状について知ることができたのだった。
「……バカなことをしました」
由美子は消え入りそうな声で呟いた。二人は陽のあたる茶の間に戻っていたが、彼女はひどく寒そうで、ずっと小刻みに震えていた。
「確かにあんまり賢明ではなかったけれど、でも、済んだことはもう仕方ないよ」篠崎は正直にそう言った。「ただ、今後は二度と、あんなふうに被害者の遺族に接触しちゃいけない」
由美子はこっくりとうなずいた。
「捜査本部の方も、もうこの件を知ってると思うから、たぶん今日にも呼び出されると思う。そのときは、素直に、起こったことを正直に話すようにね」
「わたし……何か罪になりますか」
そのことについて恐れているというよりは、いっそ罪になった方が楽だというような口調だった。
「怪我をした男の子の意向によると思うけど、今の様子ならそういうことはなさそうだね。君と同じように先方も事情を訊かれるだろうから、それを待たないとはっきりしたことは言えないけど」
由美子は左手首の包帯にちらりと視線を落とした。「こんなの、本気じゃなかったって思われるでしょうね。自殺なんかする気はなかった。ただ同情をひきたかっただけだって思われるんだわ」
「そこまで取り越し苦労をすることはない」
「だけど、わたしはただのお騒がせ女なんですよ、きっと」
「捨て鉢になってもいいことはないよ」篠崎は言って、救急箱を閉じた。「君がお兄さんは犯人じゃないって主張しているということは聞いてた」
「……」
「だけど、僕は直接捜査を担当してるわけじゃないから、詳しいことは知らない。担当の刑事は君やお父さんお母さんの話をちゃんと聞いてくれてるのかな」
由美子はうつむいたまま黙っている。
「警察にひどい扱いを受けていると思うなら、そう言った方がいい。確かに、まだ和明さんが犯人だと決まったわけじゃないんだから」
「そうなのかな」由美子がぽつりと言う。
「もうお兄ちゃんが犯人で決まりじゃないんですか」
「僕が知っている限りでは、そこまで決定的になってるわけじゃないよ。和明さんのことだけじゃない。事件のことが、何もかも」
「警察が……考えている高井和明って」
「うん?」
「わたしの兄ではないんです」
意味がつかめなかったので、篠崎は由美子の顔を見た。
「警察だけじゃない、今、世の中に報道されている高井和明って、わたしには全然理解できない人間です。兄はそういう人じゃなかった。あれは違う人間です」
一人の人間について多方面から情報を集積し、その人物像をつくりあげる。その点では、捜査にあたる刑事も、記事を書くジャーナリストも同じことをしている。しかし、そうやってつくりあげた人物像は、生身のその人間とは微妙に──時にはかなり違ってしまう。それは当然だし、ある意味では仕方のないことだ。情報集積にあたる人間それぞれに独自のベクトルがあり、情報というのは否応なしに一度はそのベクトルの上に乗ってからでなくては集まらないものなのだから。由美子の言っているのもそういう意味なのだろう。それでも、そうやって外側から固めない限り犯罪捜査はできないし、実像と違っていようがいまいが、その人間のしでかした犯罪の実体さえきちんと再構成することができれば、警察はそれをよしとする。いや、よしとしなければならない。そこまでが仕事である。
篠崎が、由美子の意見は判るが、彼女がそれを外に向かって表明する方法が不器用で、それが混乱の元なのだということを説明しようと言葉を探していると、電話が鳴った。途端に、由美子が昧えた目をした。
「お母さんかもしれない」篠崎はいちばん穏当なことを言った。「出てみた方がいい」
由美子は首を振った。母親ならば、なおさら話したくない、面目ないということなのかと篠崎は思った。
「僕が出てもいいのかな」
お願いしますと、由美子は頭を下げた。
「電話は二階にあがる階段の下にあります」
篠崎は急いで廊下に出た。コール音が十回を超え、受話器を耳につけると、いきなり男の声が耳に飛び込んできた。
「由美ちゃん? 由美ちゃんかい? 大丈夫? 今、一人なんだろう?」
篠崎は困った。できるだけ丁寧な口調で応じた。「高井由美子さんなら無事です。どちらさまですか」
はっと後込《しり ご 》みするような沈黙が伝わってきた。それから、相手は訊いた。「あなた、どなた?」
篠崎はまた困った。彼の立場は実に説明しにくいものなのだった。
「墨東警察署の者です」
「なんだって? じゃ、由美ちゃんを逮捕するのか?」
「いえ、事情をうかがいに来ただけです」
「写真週刊誌の──」
「その件です。失礼ですがあなたは?」
「僕は由美ちゃんの友人です」相手の声も居住まいをただした。「網川浩一といいます」
「網川さん」
復唱すると、茶の間からこわごわ顔をのぞかせていた由美子が飛びあがった。安堵と喜びの色を隠さず、篠崎の手から受話器をもぎとるようにして電話に出た。
篠崎はちょっと呆気にとられた。崖っぷちで遭難しかけていた高井由美子のために、救命ロープを持って駆けつけてきて、さあつかまりなさいと投げてやったのに、彼女は、ワンテンポ遅れて投げかけられた別のロープの方に飛びついていってしまったという感じだ。最初からあなたのことなんか勘定に入っていなかったというように。
網川という男からの電話に、高井由美子は、まさにしがみついていた。しゃくりあげながら泣いていたが、もう目が吊り上がってはいなかったし、震えてもいなかった。剃刀で手首を切ったということをうち明けているときも、また新たな涙は流したが、ちょっと目を離すとまたすぐに同じことをやりかねないというような張りつめた雰囲気は、もう彼女の周囲のどこにも残っていなかった。
そのあとの彼らのやりとりは、端で聞いているだけではあまりよくわからなかった。もっぱら電話の向こうの網川ばかりがしゃべっており、由美子はただそれに答えたり、うなずいたり、何か言われてまた泣いたり、謝ったりしているだけだからである。篠崎はひどく間の抜けた立場になり、急に室内の寒さを感じた。
網川がまた何か言い、すると由美子は横目でさっと篠崎を見た。受話器に向かって、
「え? うん、そう。墨東警察署の人に呼ばれるかもしれないって」
囁きかける様子は親しげで、反面、「墨東警察署」という言葉の響きには嫌悪と怯えが込められており、そしてその感情はどうやら篠崎に対しても向けられつつあるようだった。要するに、落ち着きを取り戻し、篠崎がどちら側の人間であるか思い出したということなのだろう。
ただ、篠崎にはちょっと引っかかることがあった。アミカワというのは、難しい名字ではないが、そうそうどこにでもある名字でもない。それを、どこかで耳にしたような、あるいは目にしたことがあるような気がするのだ。何かの勘違いだろうか?
「あの……」由美子は彼に向かって受話器を差し出した。「網川さんが、話したいと言ってます」
篠崎は受話器を受け取ったが、送話口を手のひらで覆って、彼女に訊いた。「この網川さんという方は、あなたのご友人だということだけど」
由美子はビクリとした。なぜだろう?
「事件以来、いろいろ力になってくれている人なんですか?」
「そうです」小さな声で、彼女は答えた。
「失礼ですが、婚約者だとか?」
由美子は涙の消えない頬を赤らめた。「そんなことじゃないです」
そうですかと応じて、篠崎は電話に出た。
「話は聞きました。由美ちゃんがお世話になりました」網川浩一は歯切れよく切り出した。
「危ないところを助けていただいて、ありがとうございます。で、これから彼女を墨東警察署へ連れて行くんですね? だったら、一時間待ってください。僕も同行したいから、そちらへ向かいますから」
篠崎はいっぺんにたくさんのことを考えた。そうか、この男は篠崎が仕事でここに来たと誤解しているわけで、高井由美子にもその誤解を解く説明は今のところしていないわけで、ということは、さかのぼれば、彼女はこの網川という男に、篠崎が彼女のお流れになった見合いの相手であり、事件以来、彼女が篠崎に、兄の無実を訴えるために会いたがっていたという事情についても話してないのだろうな、と。
「もしもし?」網川はせっついた。「どうして黙っているんです?」
「いや、失礼。電話で説明すると、かえって長くなります。ただ、私は公務でこちらを訪ねてきたわけじゃないんです」
相手の声が、急に身構えた。「どういうことです?」
「それもあとでお話しできることです。なんでしたら、高井さんから説明してもらってもいい。いいですね、高井さん?」
由美子に尋ねると、彼女は狼狽して身を縮めたが、なんとかうなずいた。
篠崎は受話器を持ちあげ、網川に言った。「いいようですよ」
「それじゃ、すぐ行きます」身構えるのを通り越して、腹を立てているような口調になっていた。「刑事さん、彼女から目を離さないでやってください。自殺をし損じた直後って、実はいちばん危険なんです。絶対に彼女を一人にしないでください」
言われるまでもないという言葉が喉元まで出たが、口にはしなかった。わかりましたとだけ短く言って、電話を切った。途端に由美子が、弁護士が去って取調室に刑事と二人きりで残された容疑者みたいな顔をした。実際、今の彼女としてはその気分なのだろう。
とにかく待つしかなさそうだ。廊下は寒いから部屋に戻りましょうかと声をかけようとしたとき、切ったばかりの電話が鳴った。反射的に篠崎は受話器を取った。男の声が名乗るのを聞いて、冷や汗が出た。
どんぴしゃり、捜査本部の刑事だった。高井和明担当班≠フ一人で、篠崎と同じ墨東警察署所轄組だ。彼の書いた報告書なら、篠崎は何通も読んではファイルしている。
相手は篠崎が誰であるか気づかないようで、そちらに寄宿している高井由美子さんを電話口に出してほしいと、事務的に言った。迷わないではなかったが、この際、隠しようもないことだ。篠崎は名乗ると、驚いている相手に、これからこちらに来ますかと尋ねた。もちろん来るという。
「写真週刊誌で報じられた件ですね?」
「そうだよ。いったいどういうことなのか締め上げて聞き出してこいって、上の方はカンカンだ。何やってんだ、高井の妹は。おかげで今朝から俺たちがどれだけ絞られたか、いい迷惑だぜ。だいたい篠崎、おまえがなんでそこにいるんだよ? デスクだろ? いつから歩兵組に鞍替えしたんだよ。勝手なことやってんじゃないだろうな?」
「会ってから説明しますよ」そそくさと言って、受話器を置いた。さすがにため息が出た。所轄のホヘイ組に何を言われようがかまわないが、武上に叱られるのは辛い。覚悟はしていたつもりだったが、こんなに早くにバレるとは。いや、覚悟はしていたなんて言い方をする時に限って、本当の覚悟なんてできてないものなのだ。ましてや自分のような気の小さい人間のことだ。篠崎は己をよく知っていたから、余計に肝が縮んだ。
デスク担当を外されてしまうかもしれない。武上は、部下のミスを許さない上司ではないが、確信犯的な裏切りを許す指導者ではない。叱るのでもなく怒るのでもなく、篠崎を見限ることだって、大いにあり得る。今はまだ爆心地にいるようなものだからかえって感じないが、実はこれは、篠崎にとっては目の前が真っ暗になるような出来事なのだ。
「篠崎さん」と、由美子が小さな声で呼んだ。
「来るそうです、捜査本部から」篠崎はうなだれたまま答えた。「少し──いや、だいぶきついことを言われると思います。実際、あなたのやったことは感心できることじゃありませんからね」
由美子はうつむいてしまった。
「でも、網川さんという人が同席してくれるでしょうから、まあ、一人じゃないですからよかったですよ」
「篠崎さんは──」
「僕は所轄の連中に引き継いで、帰ります」
「そうじゃないんです。篠崎さんは何かあの──このことで叱られたりするんですか?」
意外な質問だったので、篠崎は思わず由美子の方を振り返った。彼女は心配そうに、下からうかがいをたてるような目をしていた。
「大丈夫ですよ」と、彼は答えた。関わってしまった以上、それしか答えようがない。
こういうことになるから、武上は止せ[#「止せ」に傍点]と言ってくれたのだ。つくづくバカだったなと、篠崎は思った。でも、もう一度同じような立場に置かれても、やっぱり同じことをするだろう。お人好しは、地獄の針の山の上にいても、やっぱりお人好しなのだ。
結局、所轄の刑事二人組の方が、網川浩一よりも早く到着した。彼らの強面《こわおもて》の顔を見るなり、由美子は色を失って震えあがったが、当の二人の刑事は、まず篠崎をつるし上げることの方が先だと考えているようだった。
仲間内のやりとりが、直に由美子の耳に入らないようにしてくれたのだけが、せめてもの武士の情けだろう。篠崎が事情を説明するのを聞くと、彼らは二人してさんざん篠崎をバカにした。
「おまえ、なに血迷ってんだ」
「そんなに女に不自由してんなら、俺がいくらでも紹介してやるのに」
「そういうことじゃないですよ」
「お人好しなんだ、おまえは」
「わかってます」
「あの女、ほったらかしといたって、自殺なんかするタマじゃねえよ。被害者の遺族を投げ飛ばして、頭カチ割って、相手は病院に運ばれたっていうじゃねえか」
「まだ事実関係ははっきりしていないでしょう? 決めつけないでくださいよ」
「おまえ、何か聞き出したのか?」
「たいしたことは訊いてません。二度手間になると思って控えてたんです」
二人で彼らの到着を待っていたあいだ、篠崎が由美子から聞いた事柄は、今の生活状態とか、父親の容態とか、今後の生活の目処《 め ど 》とか、そういう細々したことばかりだったのである。由美子はなぜか、あれほど篠崎に話したがっていたはずの兄の無実について、何も言おうとはしなかったのだ。水を向けてみても、そらされてしまった。
彼女は彼女なりに、こんな格好で篠崎を巻き込んだことを申し訳なく思っているのだなと、彼は感じた。もうこれ以上はいいですという意思の表明なのだろう。けっして頭の悪い女性ではないし、身勝手ばかりでもないということが、それでわかる。篠崎は少し救われたような気がしたが、でも、こうなると、彼女が本当に望んでいた事柄に対しては、彼はまったくの役立たずになってしまった。このあたりのことも、武上にはわかっていたのだろう。どう転んでも、篠崎が高井由美子の力になることはできないのだ。
バカにされたり怒られたりが済むと、とっとと帰れと追い立てられた。二人の言うとおり、この状況ではさっさと退散するべきだが、しかし、篠崎は網川浩一がどういう男なのか気になった。別に、高井由美子が心を寄せているらしい人物だからということではなく、彼の名字に聞き覚えがあるということの一点に、まだ引っかかっていたからである。
「実は、これから駆けつけてくるという高井由美子の知人なんですが」
と、高井班の二人に言ってみた。
「網川浩一というんです。どういう人間か、心当たりないですか?」
高井班の二人は顔を見合わせた。それから、一人がちょっと眉を動かして、手帳を取り出した。
「俺も知ってるな、その名前」
「若い男か?」
「ええ。彼女の友人ですからね」
「今の高井由美子に恋人も友人もいるわけねえだろう。みんな逃げ出してるよ」
手帳を繰っていた刑事が、おうと声を出した。「わかった。俺、会ったことがあるよ」
「誰です[#「誰です」に傍点]?」
「栗橋浩美の同窓生だ。小学校と中学校で一緒だった。つまり、高井和明の同窓生でもあるってことだな」
そうか──篠崎は目の前の霧が晴れるような思いだった。どうりで名前を見かけているはずだ。栗橋浩美と高井和明の同窓生なら、たとえ卒業名簿に一緒に載っているだけで、本人とはしゃべったことさえないという人物のところにさえ、刑事たちが聞き込みにまわっている。網川の名も、そうした聞き込みを元につくられた報告書のなかにあったのだろう。
「ただ、高井班にとってはあんまり重要な人物じゃない。栗橋班の方がよく知ってるんじゃねえかな」
「どうしてです?」
「網川浩一は、栗橋浩美と仲が良かったんだよ。中学時代の同級生なんか、みんな口を揃えて言ってるよ」
篠崎は黙った。栗橋浩美の友達──
「そんな人物が、なんで高井由美子に関わってるんだろう?」
「知らねえよ。ただ、この網川って男はいわゆる人気者[#「人気者」に傍点]だったらしい。だから栗橋も一目おいてたっていうか、まあ、喜んでつるんでたんだろう。誰に聞いても、めちゃくちゃ評判がいいしな」
「──優等生ですか」
「らしいよ。当時の担任教師なんかも、彼のことはよく覚えてた。ピース≠チてあだ名だったそうだ。ニコニコ愛想がいいってことなんだろうな。高井班の俺たちが聞き込みをしていても、この網川の名前はよく出てくるよ。それだけみんなの記憶に残ってるんだろうな。実際、網川はクラスのドンケツの高井の勉強をみてやったりしてたそうだ」
「泣かせるねえ」
「栗橋は、まあ成績も悪くないし女の子にはもてるし、一見よさげな生徒だったが、教師からすると扱いの難しいところが多々あったそうでね。でも、網川はそうじゃなかったらしい。本物のよく出来た子供だったんだろうな。詳しいことが知りたいなら、栗橋班の連中に訊いてみりゃいい」
「優等生は大人になっても優等生で、人殺しの兄ちゃんの側杖をくって苦しんでる妹を放っておけないってところかね?」
高井班の二人は笑ったが、篠崎は笑わなかった。なんだかあまり気分がよくなかった。
「彼は今、何をしてるんです? 職業は?」
高井班の刑事はまた手帳を見た。「学習塾講師」と、簡単に答えた。「センセイだな」
「先生ね……」篠崎は小突かれた。「おい、こんなことおまえにしゃべったってしょうもないことなんだ。聞いてどうするんだよ? 早く署に帰れ。武上さんにどやされるぞ」
武上の名を聞いて、篠崎もにわかに酔いが醒めたような気がした。急いでコートを取り、外に出た。
勝木家の玄関を出て、家の前に停められている所轄の車の脇をすり抜けて歩き出すと、道の右手の方からワゴン車が一台ゆっくりと近づいてくるのに気づいた。ワゴン車はそこで停まり、ドアが開いて、長身の男が一人、運転席からするりと降りてきた。茶色のジャケットにジーンズ、少し襟足が長めの髪。
若い男は勝木家の方に歩み寄ってくる。迷いのないしっかりした足取りで、近づくと顔がよく見えた。柔らかな線の整った顔立ちだが、ハンサムというよりは、知的で優しげな印象の方が強い。
二人はすれ違った。ほとんど肩と肩が触れ合いそうなほどの近距離だったが、男の方は篠崎に目もくれなかった。篠崎はすれ違いざまに振り返った。男の広い背中に遮られて、勝木家の表札が見えなかった。
玄関口まで行き、男が声をあげた。「ごめんください」
その声は、さっきの電話の声だった。間違いない、あれが網川浩一だ。
正義の味方[#「正義の味方」に傍点]だ──と、意味もなく思って、篠崎はちょっと寒かった。
駅に向かおうと、踵《きびす》を返して歩き出した。と、上着の内ポケットでポケベルが鳴った。取り出すと、液晶画面にカタカナでメッセージが並んでいた。
「バカタレ」
発信者が誰であるか、火を見るよりも明らかだ。篠崎はもっと寒くなった。
その日、前畑滋子は寝床から抜け出すのがひどく遅かった。ボサボサの髪をかきあげながら、はれぼったい目で時計を見たら、なんと十一時に近い。まだ眠っていたい気分だったけれど、さすがに昭二に申し訳なくなって起き出したのだ。
前夜、『ドキュメント・ジャパン』のライター仲間や編集者と、新年会の名目で飲みに行き、帰宅したのが午前三時過ぎだった。おかげで今朝は、昭二が起きて工場へ出勤して行ったことさえ、まったく気づかないという始末だ。昨夜は帰りが遅くなると言い置いて出かけて行ったので、帰ったときにはもう彼は寝ていたから、ずいぶんとバツの悪いことになっている。怒ってるかなぁと、ちょっと心配になった。お午《ひる》に、工場の方へ顔を出してみようか。今からではお弁当をつくるには時間がないが、何か美味しそうなものを買い込んで。
──でも、それも面倒くさいなぁ。
工場には舅姑《ちちはは》もいる。わざわざ文句を言われに行くようなものだ。昭二が帰ってくるのを待っていて、謝った方が簡単に済む。
それにしても、昨夜は楽しかった。真面目な話からクダラナイ話まで、テンションが下がることなくしゃべり続け、そういう熱っぽく親しみのある輪のなかで、滋子は初めて、『ドキュメント・ジャパン』という雑誌を支えているスタッフとして認められている──という実感を得ることができた。だから、午前様はいけないいけないと思いつつも、帰りたくなくて遅くなってしまったのだ。
少し頭が痛い。滋子は基本的にアルコールに強いので、二日酔いというのはめったにない。だからこれは、興奮疲れが残っているせいだろう。それでも出かけてよかった。
頭のなかはルポのことで一杯でも、滋子の日常は、やっぱり家事に時間をとられ、夫や舅姑との益体《やくたい》もない会話に気をとられることで過ぎてゆく部分が多いのだ。ルポライター前畑滋子になり切れるのは、一人でパソコンに向かっているときだけで、一日のうちの大半は、前畑鉄工の嫁として過ごさねばならない。連載が始まったばかりのころは、嫁が堅い雑誌に記事を書き、その雑誌が大いに売れているということを自慢してくれていた舅姑も、慣れてしまえばそんな自慢もすぐに忘れ、むしろ、滋子の嫁として至らない部分に、今まで以上に口うるさくなったようだ。外に出て、滋子をルポライター前畑滋子≠ニしてだけ知っている人びとのなかにいると、それらの日常の垢が洗い流されるような気がする。
ぼんやりとコーヒーを飲んでいると、アパートの外階段を誰かが駆けあがる、騒々しい足音が聞こえてきた。安普請なんだからと思っていると、足音は滋子の部屋の前まで近づいてきて、いきなりドアがばんと開いた。昭二が息を切らせて飛び込んできた。
「滋子いたのか、なんで電話に出ないんだよ?」
寒気に顔を赤くして興奮している。滋子はさっと眠気が飛んだ。昭二の目にただならない光が宿っているのに気づいたからだ。さっと立ちあがった。とっさに頭に浮かんだのは、誰かが倒れたとかそんなことだった。
「何かあったの? お舅《とう》さん? お姑《かあ》さん? どしたのよ?」
二人とも人間離れした高血圧で、降圧剤なしでは暮らせない人たちなのだが、年寄りの常ですぐに薬を飲むのを忘れたり、どうせ効かないんだからなどと勝手を言ってわざと飲まなかったりする。何かあったら困るのにと、心配していたのだ。
しかし、昭二は滋子の言葉を聞いて、一瞬拍子抜けしたみたいに目をしばたたき、それから爆発するような勢いで怒った。「何言ってんだ、親父もおふくろもピンピンしてるよ。おまえ何考えてんだよ!」
「だって……」滋子はたじたじとなった。昭二がこんなふうに大声を張りあげるのを目の当たりにするのは初めてだ。しかも、怒鳴られているのは滋子自身なのである。
「これを見ろよ!」
昭二は脇の下に雑誌を挟んでいた。それを取り出すと、テーブルに発止とばかりに叩きつけた。滋子のコーヒーカップがかしいでガチャンと鳴った。
写真週刊誌だった。滋子の頭は、すぐには事態を把握できなかった。表紙にでかでかと刷られた見出しを読んで、その意味を悟るまで二、三秒かかった。
「容疑者の妹の乱暴狼藉」
顔から血の気が引いてゆくのを感じた。血の流れる音さえ聞こえるようだ。雑誌を手に取っても、焦るばかりでなかなかページがめくれない。もたもたしていると、昭二が滋子の手から雑誌をもぎ取り、問題のページを開けて鼻先に突きつけた。
「おまえ何やってるんだ? 犯人の妹なんかに関わってさ、一緒になってこんな騒動起こして。どういうつもりなんだよ!」
滋子は震える手で雑誌を支え、なんとか読み進んだ。読みながら椅子にへたりこんでしまった。それでも彼女の持ち前の頭は、呆然としている主人をよそにせっせと働き、そこに何が書かれているか整理してゆく。
もちろんこれは、あの飯田橋のホテルで高井由美子が起こした騒動の記事だ。彼女の実名は出ていない。しかし被害者の遺族で、この騒動でも危うく被害者になるところだった有馬義男と、ルポライター前畑滋子はきっちりと実名だ。しかも滋子は、あろうことか、兄の無実を訴える高井由美子に対して、被害者の会に押しかけて主張を述べたらいいとけしかけ、彼女をあの場に連れていったということになっている。
もちろん、こんなのは嘘八百だ。なんてひどいデタラメだろう。鳥肌が立つ。
読み進むと、この記事、表向きの標的は高井由美子だけれど、実は本当の狙いは前畑滋子なのだということがわかる。特に後半の部分だ。書き連ねてある──前畑滋子は独占ルポを書くために高井由美子を丸め込み、他の取材者が彼女に接触しないように隔離している──それが警察の捜査を妨害することにもなっている。滋子は大川公園事件の第一発見者である少年A──真一のことだ、もちろん──を、彼の身寄りがないのをいいことに同居させているが、それはこの少年自身が数年前に起こった教師一家殺害事件の生き残りであるからで、今回のルポが終了した暁には、前畑は引き続いて、少年Aの事件についてまたルポを書き、センセーショナルに売り出す企てがあるので、彼を取り込んでいるのだ。少年はすっかり前畑に洗脳されており、今回も彼女の助手として騒動の現場に居合わせ、挙げ句には怪我をして救急車で運ばれる羽目になった──
「被害者の遺族はもちろん、事件に巻き込まれた人々の心の傷みや不愉快な気持ちにまったく斟酌することなく、ただ売らんかな主義の自称硬派の女性ルポライター≠フ正体もここにきわまったと言うべきだろう。ジャーナリストの正義と良心≠何よりも重んじるという『ドキュメント・ジャパン』編集部では、こういう人間を飼っておくことを、果たしてどのように考えておられるのか」
滋子の手から力が抜けて、雑誌がテーブルの上にばさりと落ちた。
「あたし」と、やっと声を出していった。
「あたしはこんなことやってない。信じてちょうだい」
昭二は無言だ。息づかいばかりが荒くて、見上げると、その顔はまだ紅潮している。
「これはデタラメよ、昭二さん」滋子はあらたまった呼びかけ方で夫を呼んだ。「何から何までデタラメなの」
昭二の顔が苦しげに、あっちへ歪んだりこっちへ歪んだりした。彼の頭のなかに、言いたいことがぎゅうぎゅうに詰まってしまっていて、それらが我先に外へ出ていこうとして、彼の顔を内側から押しているみたいだ。
やっとのことで、彼は言った。声がかすれていた。「隣の田中さんが教えてくれたんだ。歯医者の待合室でこの雑誌を見たんだって」
「これ、今日発売よね」
「朝から電話もかかってきたよ。工場の方にさ、友達から。だから親父もおふくろも知っちまって、二人ともカンカンだ」
滋子は額に手をあてた。
「工場から、何度も電話したんだ。なんで出ないんだよ」
「留守電にしてあったの。呼び出し音も切って。昨日帰りが遅かったから、朝電話で起こされるの嫌だと思って、寝る前にそうしちゃったの」
「何やってんだよ」昭二はそう言いながら、滋子と同じように椅子にへたりこんだ。顔の赤みがやっと薄れてきたが、強ばった表情はそのままだ。怒りに光っていた瞳からは輝きが失せて、どんよりしてきた。
力無い声で、昭二は呟いた。「俺、みんなになんて言えばいいんだよ、みっともない」
思わず、滋子は顔をあげ、夫の顔を見直した。彼はあくまで大真面目で、途方にくれたみたいに両手を投げ出している。
みっともない[#「みっともない」に傍点]。
滋子は言い訳のしようのないミスをした。それは確かだ。だから叱責はちゃんと受けよう。堂々と頬を打たれよう。それなのに、みっともないとは何だ。打たれようと差し出した頬に、唾をかけられたみたいだ。
「誰に対してみっともないのよ」と、滋子は訊いた。「それはどういうことなのよ」
昭二は滋子を見ると、また顔を歪ませた。滋子の声に潜んだ怒りの調子が彼を驚かせていた。そしてそのことに、滋子もまた驚いた。この人、今の言葉があたしにはどう聞こえたかわかってないんだ。あたしがどう感じてるかわかってないんだ。
「取材の上で、あたしは間違ったことをしたの」できるだけ自分を抑えて、滋子は言った。「対処の仕方を間違った。だけど、この記事で書かれているようなことはやってない。ミスはしたけど、こんなバカげたことはやってないし、やるはずもない」
昭二は平手でテーブルをばんと叩いた。
「だって書かれちまってるじゃないかよ!」
「嘘だって言ってるじゃない!」
「いくら写真週刊誌だからって、百パーセントの嘘なんか書くかよ! おまえが何かやらかしたから書かれたんだろうが!」
滋子は目を見張った。信じられない。これがあたしの知っている昭二だろうか? 滋子頑張れと励まし続けてくれた夫だろうか?
「あなたは」さすがに、声が震えだしてしまった。「あたしから何も訊こうとしない。どういう事情だったのかって、説明を求めようともしない。いきなり何よ、みっともない、みんなになんて言えばいいんだなんて、そんなあんたこそみっともないわよ」
「自分はちっとも悪くないって言う気か? 俺の方が悪いのかよ!」
「そんなふうには言ってない。ホラ、またあたしがやってもないことで怒る」
「女房がこんな恥ずかしい記事書かれて、怒らない亭主がいるかよ!」
「あなたはあたしが実際には何の恥ずかしいことをしてなくても、嘘八百でも、ただ恥ずかしいことを書かれたっていうことが、それだけが嫌なの? そういうことなの?」
「へ理屈をこねるな!」
「へ理屈じゃないわよ!」
あなたは一方的にこの記事に書かれていることばかりを鵜呑みにして、まわりの人たちに責められることばかりを気にして、子供みたいにあたしのところに逃げ帰ってきて、あたしが悪いって怒ってる。何をしたんだって問いつめる。
滋子は声を振り絞って言った。「みっともないなんて言う前に、どうしてあたしに訊いてくれないの? 滋子これはどういうことなんだって。おまえはどんな間違いをやって、こんな記事書かれるような羽目になっちまったんだって」
昭二はちょっとひるんだが、すぐに子供のように口を尖らせた。「滋子が何をやってるのか、俺にわかるわけないじゃないか」
「あたしが書いてるルポを読んでくれてたじゃない! どうしてそれでわからないのよ」
それどころじゃない、あなたはあたしの夫じゃないか。滋子を誰よりもよくわかっているのはあなたじゃないの?
「俺は滋子の後くっついて歩いてるわけじゃないんだ。何やってるかなんてわからねえよ」ふてくされたように昭二は言った。「出かけたらそれまでじゃないか。昨夜だっておまえ、いったい、何時に帰ってきたんだよ。どこで誰と会ってたんだよ」
滋子は頭に血がのぼって目が回りそうになった。
「昭二さん、あたしのこと信じてないのね」
「そんなこと言ってねえだろ」
「いいえ、言ってるわよ。お友だちにこの記事のこと御注進されたとき、なんて答えたの? そりゃタイヘンだ、教えてくれてありがとうとでも言ったの? 滋子がそんなバカな真似をするとは思えない。何かの間違いじゃないか、本人に訊いてみるって、そういう答は浮かばなかったの?」
「俺は──」
「ただ、ああみっともないって、そればっかりだったの?」
昭二は黙り込んだ。頬が震えている。
「おまえ──」
滋子は、あたしには名前があるわよ、おまえじゃないわよと、熱い頭で考えた。
「高井和明の妹なんかの味方をするのか? 人殺しの肩を持つのかよ?」
由美子と会ったことや、彼女の話を聞いたことなどについて、昭二に報告してはいなかった。それこそ、いちいち話さねばならないことではないからだ。それは滋子の仕事の領分だからだ。
話さなくったって、信じてくれていると思うからこそ話さないのだ。だけどそれは全然見込み違い。滋子の独りよがりだったということなのか。
「俺、滋子のことホントに自慢なんだ」昭二は泣くような声で言った。「どんなにか自慢に思ってるのに、これは何だよ」
滋子は感情を抑えようとした。感情のしっぽをつかんで引き戻そうとした。だが、急流のなかで浮き輪をとらえようとするほどに、それは難しいことだった。
「あたしはあなたに、あたしのこと自慢してくれなんて頼んだ覚えはないわ」
ああ、言ってしまった──
「自慢したのはあなたの勝手じゃない。それなのに、自慢できないような事が起こった途端、その責任をあたしに押しつけるの?」
二人のあいだに冷え冷えとした幕がおりてきた。
妙に冷め切った心のなかで、滋子はふと、もう十年近くも昔、ライターになったばかりのころ、交際していた男のことを思い出していた。彼はジャーナリストで、大きな野心を抱き、実際に頭も切れれば才能もあった。若かった二人はよく喧嘩をしたが、その喧嘩は、二人のあいだで何か非常に壊れやすい大切なものを投げ合うような喧嘩だった。
昭二とのこの喧嘩はまったく違う。二人のあいだには何も行き交っていない。何を投げ渡そうとしても昭二には届かない。そもそも彼には、滋子が投げているものが見えないのだ。だから、掴みようもないのだ。
ドアにノックの音がした。応じるのをためらっているうちに、ドアが開いた。塚田真一が、悲しげな顔をのぞかせた。
「おじゃましてすみません」彼は昭二に向かって言った。昭二はドアに背を向けたままだ。
「手嶋編集長から、僕の携帯電話に連絡が入ってるんです。滋子さんの電話、ずっと留守電になってるからって」
手嶋の名を聞いて、滋子ははっと身を起こした。「それで、何だって?」
「すぐ編集部に来るようにって」真一は昭二の大きな背中を気にしながら、申し訳なさそうにもごもご続けた。「有馬義男さんがいらしてるそうなんです。滋子さんに会いたいって」
店をたたむことを考えていても、何十年も続けてきた生活習慣は簡単には変わらず、有馬義男は、朝は午前四時前には目が覚める。お客が激減しているのだから、作る豆腐の量も半分以下になっている。手間が減っているので、このところずっと、木田にも午前六時から来てもらえばいいようにしてある。だから、一人だけこんなに早く起きたって仕方ないのだが、それでも目が覚めてしまうのだ。自然、ぼんやりと煙草をふかしたり、思い出にふけったりして、かたつむりのように静かに、無為な早朝を過ごすようになっていた。
ところがその朝は違っていた。義男が起き出してストーブに火を入れていると、表戸を叩く音がした。開けると、木田が寒気に耳たぶを真っ赤にして立っていた。新聞で広告を見て、コンビニで探して買ってきたのだと、丸めて握りしめていた薄い雑誌を差し出した。それを受け取りながら義男は、ああ孝さんも俺と同じで、用がなくてもやっぱり朝早くから起きてるんだな──というようなことを考えていた。
しかし、雑誌の見出しを見た途端、そんな考えは消し飛んだ。
「ひどいですよ」木田は震える声で言った。「なんて女だ。それに親父さんも水くさいじゃないですか。なんで俺に何も話してくれなかったんです?」
確かに、浅井弁護士≠スちとの一件の詳細も、飯田橋のホテルでのこの出来事についても、木田には一言も告げていなかった。浅井弁護士≠フことは、もう口に出すのも嫌だという思いがあったし、高井由美子と会ったときのことは、義男自身にもまだ整理がついていなかったからである。すまなかったねというようなことを、義男は半ば上の空で呟いた。
木田はひとしきり怒ったり嘆いたりしていたが、そのあいだも、有馬義男はあれこれ考えていた。飯田橋での一件以来、ずっと心にわだかまっていた事柄が、この機会を得て動き出したのが感じられた。それはもう、ごまかされたりなだめられたりするのを嫌がっていた。
時計が午前五時を過ぎると、唐突に「今日は休みだ」と宣言して、木田を家に帰した。店先には「本日休業」の札をかけ、今日の分の大豆を水から引き上げ、電源を落とした。
前畑滋子の名刺は、墨東警察署捜査本部の有馬番≠フ刑事たちの名刺と一緒に、名刺綴りの後ろの方のページにはさんでおいたのですぐに見つかった。電話をかけると、義男の大嫌いな留守番電話が応答したので、すぐに切ってしまった。それからは十分おきに、午前六時になるまで電話をかけ続けた。前畑滋子は留守なのか寝ているのか、ずっと留守番電話だった。最後の方は、機械相手に勝負をしているような気分になってきたが、どうやら今朝は勝ち目がないようだった。
受話器を置くと、名刺綴りと一緒に保管しておいた、いちばん新しい『ドキュメント・ジャパン』を取り出した。裏表紙に編集部の直通電話番号が書いてある。かけてみたが、呼び出し音が鳴るばかりで、誰も出ない。もう少し待たなくては駄目なのだろう。
簡単に朝飯を済ませると、戸締まりをしっかりと確認して、キルティングの半コートを着込んで襟巻きを巻きつけ、真智子の入院している病院に向かった。面会時間は午後二時からだが、病棟の婦長が親切な人で、真智子の病状についてもよく知っており、義男が行けばいつでも病室に入れてくれる。
着いたのは午前七時過ぎで、真智子はまだ眠っていた。看護婦の話では、前夜の真智子はひどく落ち着かず、また泣いたり叫んだりの発作がぶり返して、大変だったのだという。見ると、真智子の両手はベッドの柵に縛りつけられていた。若い看護婦は、暴れて自分を傷つけかねなかったので仕方なかったと、申し訳なさそうに説明した。義男は丁寧に礼を述べた。縛られたままの真智子の手を握ると、たいそう冷たかったので、温かくなるまで握っていてやった。
眠る真智子に、自分の考えていることをぼそぼそと話して聞かせた。個室なのだから誰に遠慮することもないのだが、義男は、自分の意見を外に向かって朗々と述べたり、筋道立てて理屈を言ったりすることとは、およそ縁のない生活をしてきたから。そういう不慣れなことをするときには、自然に声が小さくなってしまうのだった。
「──そういうわけだからな、真智子」娘の手を握って軽く揺さぶりながら、義男は言った。「もしも高井和明が本当に犯人ならば、俺はかけらだって同情するつもりもないし、あの妹の由美子っていう女だって、二度と相手をする気はないよ。ただ、確かめたいんだ。だからな、俺はこれから会って話を聞いてくるけども、それはけっして、鞠子の仇《かたき》に親切にするためじゃねえ。おまえ、わかってくれるな?」
真智子の寝息からは、かすかに薬の臭いがした。閉じた瞼は開く気配もない。義男はふと、実際の年齢よりもはるかに老いてしまった娘の病みついた寝顔を通して、直には目にすることのなかった孫娘の死顔を見ているような気がした。
「じゃ、行って来るからな」
言い置いて、病室を出た。階段をおりて、まだ外来患者の一人もいない、がらんとしたロビーの公衆電話から、もう一度前畑滋子に電話をかけた。また留守番電話だった。義男は頭を振って、メモしてきた『ドキュメント・ジャパン』の電話番号にかけた。今度は呼び出し音五回で男の声が出た。こんな朝早くにいったい誰だと、びっくりしたみたいな口調だった。義男が名を名乗り、写真週刊誌のことと用件を話すと、それを聞いてさらに驚いたようだった。意外なことではなかったが、その素直な驚きぶりに、義男はいささか腹が立った。ジャーナリストなんてのは、豆腐屋とは違うんだ、何があったって驚かない覚悟ができてないと務まらないんじゃねえのかねと呟きながら、駅へ向かった。
飛翔出版の『ドキュメント・ジャパン』編集部には、さっき電話に出たという若い男が待っていて、むくんだ顔にむさ苦しい長髪をかきあげながら、今、編集長の手嶋がこちらに向かっているのでちょっと待ってほしい──というようなことを早口で言った。義男は部屋の隅の椅子に座らせてもらうことにしたが、落ち着かなかった。室内は乱雑で、まるで古本屋の店先をひっくり返したみたいな有り様だ。煙草の匂いが壁にまで染みつき、ゴミ箱にはゴミが溢れている。椅子や机の下にまで段ボール箱や書籍が山積みになっており、その陰に、どう見ても寝袋としか見えないようなものまで置いてある。雑誌社が、こんなものを使って何をするのだろう?
さっきの男は、徹夜明けなのか眠そうな顔をして、義男からいちばん離れた場所にある机に向かい、何か作業をしている。ときどき義男の方を盗み見るが、その顔は笑っているようでもあり、困っているようでもあった。彼の視線がちらちら障って気になるので、義男は声をかけた。
「おたくさんは、写真週刊誌のことは知らんかったんですか?」
長髪の男はぎくりと顔をあげ、周囲を見回した。編集部にはほかに誰もいない、自分ひとりだ、だからあのジジイが話しかけている対象は俺なのだ──と悟ると、仕方なしに義男の方を向いた。
「その……さっき電話でおっしゃっていた件ですよね」
「そうです」
「実は僕、昨夜は泊まりだったんで、何も知りませんでした」
「ああそうですか」義男はうなずいた。
咎められたわけでもないのに、長髪の男は弁解するみたいに急いで言い足した。「僕だけじゃなくて、うちの連中はまだ誰も知らないと思いますよ。電話で叩き起こされたりしてない限りはね。みんな夜遅いですから」
「スクープちゅうもんは、夜でないととれないもんですか?」
長髪の男はまた髪をかきむしった。「別に、うちはスクープ狙ってる雑誌じゃないから、そういうことはないけど……」
「ああ、そうですか」
「ただ、みんななんか夜遅くなるんですよ。忙しいから」
「私は普通の会社と同じように、八時くらいからは誰かしらいるもんだと思ってお邪魔したんですが」
「下手すると、午過ぎないと誰も出てこないんですよ、うちは」と、長髪の男は笑った。
「前畑さんもそうですか?」
「彼女は──さあ、僕はセクションが違うからわからないなぁ」
長髪の男が前畑滋子と「何が」違うと言ったのか、義男には意味がわからなかった。
「私は朝から前畑さんに電話してるんですが、留守番電話ちゅうのばかりが出て、つながらんのです」
「ああ、それじゃ、寝てるのかもしれませんね」長髪の男はちょっと首をかしげた。「そういえば、昨夜は特集班の新年会だとか言ってたかな?」
「はあ、新年会ですか」
手嶋編集長はなかなかやって来ない。義男の見るところでは、長髪の男は徹夜仕事が片づいて、すぐにも帰りたいようだ。だが外来者の義男を一人でおいておくわけにもいかず、大きな図体をもじもじさせている。
義男はつくづく不思議になってきて、思わず言った。「あの、私の読んだ写真雑誌は、前畑さんだけじゃなしに、前畑さんのルポを載せているこちらさんのことも悪く書いとりましたよ」
「そうでしょうね。読まなくても、だいたい想像はつきますよ」
「気にならんのですか?」
「うちはそういうの、慣れっこですからね」
「はあ……」
「手嶋が来たら、そのあたりのこともお話できると思います。ちょっと待ってください」
待つのはいくらでも待つが、それにしても呑気なことだ。
「すみませんが、もういっぺん、前畑さんのところに電話してみてもらえませんか」
「え? 僕が? 電話ならどうぞ使ってもらっていいですよ」
「ここの電話は難しそうで、私には使えるかどうかわからんものですから」
もう七、八年も前になるが、自宅の電話機が壊れて買い換えたときも、使い方を覚えるまで大変だったのだ。ここのはボタンも多くて操作が複雑そうである。
長髪の男は素直に迷惑そうな顔をした。
「ゼロ発信だから簡単なのに……」
「すみません」
「前畑さんの連絡先って──どこにあるのかな──こいつか?」
周囲の机の上をごそごそやって、やっと受話器を持ち上げると電話をかけた。ちょっと耳をあて、すぐに、
「やっぱり留守電になってますね」
またぞろ、素直にほっとした顔でそう言った。義男は礼を言い、あとは黙った。
木田の話によると、『ドキュメント・ジャパン』というのは社会正義と真実を追究するたいそう硬派な雑誌なのだそうだ。しかしその社会正義と真実のなかには、ゼロ発信がなんのことだかわからない年寄りは勘定に入っていないようだった。朝四時から起き出して働く豆腐店の店主も勘定に入っていないようだった。義男は自分に言い聞かせた──雑誌社なんて知らない場所にやって来て、俺も緊張しているから、ちょっとしたことにも腹が立つんだ、だからあんまり尖っちゃいけねえ──
だがしかし、心の一方で、まともな勤め人が満員電車に揺られて会社に向かい、前夜どれほど眠るのが遅く、仕事が忙しく疲れていようとも、机につかねばならない時間帯に、電話を留守電にして眠っていたり、なんか忙しいから夜遅いんだと、午過ぎなければ仕事に出てこないようなそんな団体に、いったい社会≠フ何がわかるのだろうと考えずにはいられないのだった。そんな団体の考える社会≠ノは、義男が長年豆腐を売ってきたお客さんたちでさえ、勘定には入っていないのかもしれなかった。
飯田橋での一件があった後、義男はわざわざ『ドキュメント・ジャパン』を買って、前畑滋子のルポを読んでみた。続き物だから途中から読むことになるので、その分は割り引かなければ公平ではない。だが、それでもなお、義男はそれを他人事[#「他人事」に傍点]のように感じた。鞠子が殺されたあの事件について書いてあるもののようには感じられなかった。
たまたまその回のルポに、鞠子の名前が出てこなかったからではない。義男の体験した事件の部分に触れてなかったからでもない。義男が前畑滋子の文章を読んでみようと思い立ったのは、直接会って言葉を交わしたときの彼女の印象が実に一生懸命そうで、彼女なりに精一杯の誠実さをもって事にあたっているという印象を受けたからだ。実際、彼女の書いているものはきわめて真面目だった。だから、普通ならば身に迫って感じられるはずなのに、そうはならなかったのだ。
なぜなのだろうかと、義男は不思議だった。答が見つからなかった。だがしかし、今こうして手持ちぶさたにして『ドキュメント・ジャパン』の編集部に座っていると、その答がわかったような気がしてきた。
義男が前畑滋子のルポに心を動かされなかったのは、あれがあまりに「何もかもよくわかっている」というふうに書かれていたからだった。栗橋浩美の心の闇とか、高井和明の劣等感とか、自分の望むように社会に容れられなかった者の描く歪んだ夢だとか、いろいろな言葉を使ってあった。そして前畑滋子は、それらの言葉の意味をちゃんと理解して使っているようだった。ただ書き並べているのではなかった。
しかし、だからこそ、有馬義男には届かなかったのだ。
なぜなら、義男にはわからない。鞠子をあんな目に遭わせた人物が、なぜあんなことをしたのか。なぜ大勢の人を殺し、その遺族をいたぶるようなことをしたのか、まったくわからない。想像もつかない。だからこそ本人を捕まえて訊いてみたかったのだ。
それなのに、前畑滋子にはわかっている。『ドキュメント・ジャパン』にはわかっている。なんでわかるんだろう?
ここは最初から義男のような者のいる場所ではないのだ。ここは別の世界なのだ。ここで語られることは、ここの世界に住んでいる人びとにとってはいくらでも真実になり得るのだろうけれど、義男にとっては何の意味もないただのお話≠ナしかない。そうだ、前畑滋子はどれほどにか熱心に取材しているのだろうけれど、何もかも彼女がわかってしまったこと≠書いている限りは、それはしょせんお話≠ノすぎない。ここはそういうお話≠フ生産工場にすぎない。
高井由美子が本当に兄の無実を信じているのか、彼女の主張が耳を傾けるに値するものなのか、義男にはまだ判断がつかない。だが、前畑滋子がお話≠書いているのである以上、由美子が彼女のところへ行ったのは失敗だった。
「お待たせしました、有馬さんですね?」
声をかけられて見あげると、小柄で目つきの鋭い、四十代後半ぐらいの男がすぐ脇に立っていた。上着は着ているが、ノーネクタイでワイシャツの襟を開けている。
「編集長の手嶋です」
義男は立ち上がった。自分でそうしようと思っていた以上に急《せ》きこんで言い出した。
「私は有馬です。今朝の写真週刊誌を見て、できるだけ早くに高井由美子さんに会わせてもらいたいと思ってお訊ねしました」
手嶋という男は表情を変えなかったが、眉がぴくりと動いた。
「ああいう記事が出て騒ぎになると、高井さんはいろいろ責められて、話しにくくなるでしょう。その前に、私はあの人に会いたいです。ぜひ話を聞きたいです。高井さんは前畑さんと親しいようですが、上役の編集長さんから、前畑さんに言って、高井さんが私と会えるようにしてもらえませんですか、お願いします」
前畑滋子が駆けつけてくるのを待つあいだ、手嶋という編集長は義男に対して、ほとんど実のあることは言わなかった。彼が言ったのはたったひとつ、彼は前畑滋子の上司≠ナはなく、したがって義男の求める命令[#「命令」に傍点]──を彼女に対して下せることのできる立場にはいないということだけだった。前畑滋子はフリーのライターなので、編集長である手嶋の措置が気に入らなければ、滋子にはそれに逆らうこともできるし、極端な場合、ルポの原稿を他所の雑誌に持っていってしまうこともできるのだという。ただ、義男が滋子ときちんと話ができるような場をつくることは責任持って請け合うと言い、現に、彼女を叩き起こして呼びつけることまではちゃんとやってくれたのだった。
この手嶋という人物も、今までは飯田橋のホテルでの一件をまったく知らされていなかったという。それもまた、彼の言うとおり、前畑滋子が彼の部下ではないのなら、そういうものなのかもしれない。そして彼は前畑滋子に対してあからさまにひどく怒っているようだったが、なぜ怒っているのかということについて、義男に説明しようとはしなかった。それは手嶋と前畑滋子のあいだの問題だということなのだろう。
ようやくやってきた前畑滋子は、まだちゃんと櫛も通っていないような髪をして、化粧気のない顔に、左右色違いの靴下をはいていた。意外なことに、彼女と一緒にあの怪我をした少年、塚田真一もやって来た。少年の方はこざっぱりした身なりだったが、顔色は暗かった。状況を考えれば当然だが。
手嶋編集長は、前畑滋子が真一を同行してきたことについて、まず叱ろうとした。が、滋子が何か言う前に、真一がさっと進み出て、救急病院でお世話になった有馬さんに御礼が言いたかったので、自分が無理を言ってついてきたのだと説明した。こめかみの傷はよくなっているようで、肌色の絆創膏がとめてあるが、注意して見ないと髪に隠れてわからないほどだった。
「有馬さんの連絡先とか知らないので、なかなか御礼を言う機会がなかったんです」真一はとりなすように一生懸命に言うと、義男の方を見た。「あのときは、本当にありがとうございました」
義男は首を振った。「大したことなんぞしてないよ。よくなってよかったね」
「気が済んだかね? 君は席を外しなさい」手嶋は放り出すように言った。「確かに君には電話の取り次ぎを頼んだ。おかげで助かったよ。だがそれだけだ。有馬さんは前畑さんにお話があっていらしたんだ」
塚田真一は、簡単には引っ込まないつもりであるようだった。「飯田橋のホテルの騒ぎについては、僕も当事者の一人です。僕からも説明できます」
手嶋は眉一本動かさない。「有馬さんのご用件はそっちのことじゃない。だから君は関係ない。外に出ていなさい」
真一は聡《さと》そうな瞳を動かして、何か言い返す言葉を考えているようだった。この子はこの子なりに、一丁前に前畑滋子の援護をするつもりだったのだろう。健気なことだが、それよりも義男は、痛ましいような感情の方を強く感じてしまった。なんと運のない身の上の子供だろう。肉親を失い、普通ならしなくてもいい苦労や気遣いばかりを背負って独りぼっちだ。この前は、彼がなぜ前畑滋子のところに寄宿しているのか、その理由について尋ねる余裕がなかったけれど、ほかには頼りにできる大人がまったくいないのだろうか。だから滋子に感謝して、彼女のために懸命になっているのだろうか。
真一を応接室の外に追い出すと、手嶋は厳しい顔で前畑滋子を見つめ、義男がここを訪ねてきた用向きについて説明した。滋子は驚いて目を見開いた。
「有馬さん、その件については、あのとき病院でもお話ししましたよね? わたしには、有馬さんが高井由美子に会うのが良いことであるとは思えません。どちらも傷つくだけです。編集長──」
手嶋の方を噛みつくような顔で見ると、
「高井由美子の件では、わたしはミスをしました。それは弁解の余地がありません。ですけど、どうしてこんなことに有馬さんを巻き込むんです?」
「私は巻き込まれたんじゃない、自分からここへ来たんですよ」義男は落ち着いて言った。「あなたに電話が通じなかったから、私はこの編集長さんがあなたの上役さんだと思っとったから、それでここへ来たんです。できるだけ急いで高井由美子さんに会わないと、あの人はこれから大変でしょう。警察にだってまた調べられるかもしれんし、ああいう娘さんだから、どこかへ逃げ出して行方知れずになってしまうことだってあるかもしれない。それじゃいけないから、私は早くあの人に会いたいんです」
「ですから──」前畑滋子は声を振り絞った。「それがいけないと申しあげてるんです。何度も同じことを申しあげてますよ、わたし。会ってみたって、由美子さんは兄さんが無実だという夢を、有馬さんは、お孫さんを殺した犯人を生きて捕まえることができるという夢を、それぞれ持ち寄るだけなんです。何の解決にもならない」
「有馬さんは、事件を解決したいと仰ってるわけじゃない」手嶋が冷静な口調で割り込んだ。「ただ、高井由美子の言い分を聞きたいと仰っているだけだ。君にそれを止める権利はない。刑事でもなけりゃカウンセラーでもないんだから」
「編集長……」
「あんな騒動で高井由美子と直に顔を合わせる機会がなかったなら、有馬さんだって今仰ってるようなことはお考えにならなかっただろう。だが、会ってしまった以上、有馬さんがそこから何かを感じられたとしても仕方がない。君には、不用意にそんな事態を招いてしまった責任こそあれ、有馬さんを止める権利はない」
前畑滋子は白っちゃけた顔になると、口をつぐんだ。乱れた髪をかき上げる手つきに、腹立ちと疲労が表れていた。
「有馬さんがこんなことを君に頼んでいるのは、君が高井由美子と接触しているからだ。ほかには高井由美子と会うルートがないからだ。別に君が、この事について有馬さんに特別な忠告を与えることのできる人間だからじゃない。そこをはき違えるんじゃないぞ」
決めつけておいて、手嶋は義男に訊いた。「ただし、あなたが高井由美子と会うことがわかると、捜査当局はいい顔をしないでしょう。その辺は大丈夫ですか?」
義男はうなずいた。「今はもう、警察の人もうちへ張り込んだりはしとりません。内緒で会うことはできますで」
「それでも、もしもバレるようなことがあったら、今度はあなたが叱られますよ」
「そんなことはかまいやせんです」
手嶋はほんの少し顔を歪めた。「失礼ですが、警察の捜査に、何か不信感でも抱いておられるんですか?」
「いえ、よくやってくだすってると思います。このごろはもう、私らにはあんまり何も教えてくださいませんが、それでも、事件の真っ最中には、うちには犯人から電話がかかってきたりしたんで、よく来てくだすってました。警察の人がよくやってくだすってることは、私はこの目で見て承知しとります」
その警察の手違いで真智子があんなふうになってしまっていることを、手嶋が知っているかどうかはわからない。だが、義男はそれについては言わないと決めた。確かに、あの鳥居とかいう刑事はひどい奴だった。だがそのことと、捜査の有様《ありよう》とをごっちゃにして非難するのは筋違いというものだ。今の状況にどれほど打ちひしがれていても、それくらいの分別は、有馬義男のなかにきちんと残されていた。
病院で前畑滋子も言っていたことだけれど、今のところ、栗橋浩美と高井和明の二人組を事件の犯人だとする推定を大きくくつがえすような事実は出てきていないのだ。警察の裏付け捜査も、その線に沿って粛々と進んでいるのだろう。滋子の言っていたとおり、彼らが犯行に使ったアジトを見つけることができれば、今は物証の薄い高井和明についてだって、動かし難い証拠が出てくるかもしれない。そこには何も、おかしなものはない。こじつけがましく聞こえるところもない。だからこそ、義男自身だって、今までは一度も、あの二人以外に犯人がいるなどと考えたことはなかったのだ。
だから、よくよく突き詰めてみれば、義男の側に、高井由美子の言い分を聞かねばならない具体的な理由など存在しないのだ。会ってどうしようということだって、本当はないのだ。
それでも、一度彼女の顔を見てしまい、あのもの狂いのような表情を見てしまい、兄さんは無実だと訴える声を聞いてしまった。そのときから、義男には一種の呪い[#「呪い」に傍点]がかかってしまったのかもしれない。ひょっとしたら由美子の言っていることが真実なのかもしれない、ひょっとしたら栗橋浩美の共犯者はほかにいて、今もどこかでせせら笑っているのかもしれない。ひょっとしたら、ひょっとしたら、ひょっとしたら。
その呪いを解くためには、もっともっと高井由美子の訴えをよく聞かねばならない。彼女の言うことがめちゃめちゃならば、義男はいっぺんで自由になれる。そのことをこそ、実は望んでいるのかもしれない。彼女に会って、血が沸騰するような身勝手な言い分を聞かされることをこそ、義男は願っているのかもしれないのだった。
義男はそんな思いを、なんとか言葉にして手嶋に話した。とうてい上手く話せたとは思えなかったが、手嶋は厳しい表情で聞き入っていた。前畑滋子がその横顔を、半ば咎めるような、半ば謝るような目で仰いでいた。
手嶋は、彼のなかで何かを確認するかのように、何度か浅くうなずいた。そして座り直すと、義男の方に身を乗り出した。「有馬さんは、前畑のルポを読んでくださっていますか?」
「いえ、申し訳ないですが、全部は読んどりません。この前の騒ぎの後で、今週号ですか、それを読んだだけです」
「そうですか。それでは、前畑がどういう立場に立っているのかご存じではないですね」
ずっと黙っていた前畑滋子が、やっと顔を上げて言った。「私は栗橋・高井共犯説の上に立ってルポを書いてる、その基本的な説については疑いを抱いていないということは、有馬さんにはご説明してあります」
手嶋は滋子の方を見ずに、義男に言った。
「前畑がそういう方針を立てるに至ったには、それなりに拠り所があります。その拠り所というのはつまり、警察の捜査活動の内容や、関係者の証言について、うちの編集部が持っているルートを通して手に入れた情報のことです。もちろんそのなかには、高井由美子が警察の事情聴取を受けてつくられた調書も入っています。本来なら、これは公にはできない種類のものですが」
「はあ、わかっとります。マスコミの人は、特別でしょうから。そうでなければ記事は書けんでしょう」
義男の素朴な言い方に、手嶋は初めて、ちらりとだが苦笑いのような表情を見せた。
「さっきも申し上げましたように、私は前畑の上司ではありません。ですから、前畑が独自に調べた取材内容については、有馬さんにお見せすることはできません。しかし、うちのルートで採った情報ならば、話はまったく別です。ですから、まず、それらを有馬さんにお見せしましょう。高井由美子が捜査関係者に対してどんな証言をしているか、読んでみて下さい。そのうえで、やはり彼女にお会いになりたいということでしたら、私がその場を設けます。私が直に連絡をとって、高井由美子を説得します。この場合は、前畑は通しません。ただし、高井由美子は前畑をずいぶん頼りにしているようですから──」
手嶋の皮肉な口つきに、前畑滋子がぐっとくちびるを噛みしめるのがわかった。
「有馬さんにお会いするとき、前畑が同席することを望んでくるかもしれません。その場合はご相談します──それからもうひとつ」手嶋は人差し指をあげた。「今度の騒動について、なぜあんなことが起こったのか、前畑には、まず詳しい報告を、我々編集部にしてもらわねばなりません。それは上司でも部下でもなくても、原稿を掲載する契約を結んでいる媒体の側の我々に対して、釈明する義務が彼女にはあるからです。今まで黙って隠していたことは、失態の上に失態を重ねる愚行でした」
手嶋の言うことはわかるが、義男は前畑滋子にも少し同情した。どんな場合でも、目の前で他人が叱られているのを見るのは、あまり楽しいものではない。
「我々編集部の側も、今回の件について独自に調査をして、その結果を誌面に載せます。前畑にも、我々の次に、自身のルポのなかで読者に対して説明するという次の仕事があります。その二つは必ずやらなければなりません──現に、ずいぶん電話がうるさく鳴っていますね」
言われてみれば、応接室とは名ばかりの衝立で仕切られただけのスペースの向こう側から、電話のベルが聞こえてくる。一本だけではない。何本も同時に鳴っているようだ。
「取材の申し込みもあるでしょうし、読者からの抗議の電話もあるでしょう。実際、今まで前畑のルポを読んできてくれた読者には、前畑がいったい何を考えて、高井由美子を被害者の遺族の皆さんに近づけたのか、知る権利があるというものです」
前畑滋子は疲れたように首うなだれると、それでも語調だけはきっぱりと言った。「わたしは高井由美子を有馬さんたちに近づけてはいません。あれはミスでした。でも、故意にしたことではありません」
「それについてはこれから事情を訊く」手嶋もぴしゃりと跳ね返した。「これでいかがでしょうか、有馬さん」
暗に、今日はこれでお引き取りくださいと促されているのだ。義男は椅子から腰をあげると、頭を下げた。「よくわかりました。いろいろお世話になります」
「いえ、これは当然のことです。頭を上げて下さい。お詫びするのはこちらの方です。ご迷惑をおかけして、たいへん申し訳ありませんでした」
応接室から編集部内に出ると、手近の椅子に座っていた塚田真一がびくりと立ち上がって、義男の顔を見た。義男は思い出した──この前、救急車のなかで、この子は、大川公園事件の当日、墨東警察署の前で義男とすれ違ったことがあると言っていた。その時は思い当たらなかったが、今この子の表情を見て、ああ確かにそんなことがあったと思い出されたのだった。あの時もこの子は、こんな顔をしていた。自転車から落ちて、慰めてくれるおっかさんを探している小さな子供のような顔だった。
「前畑さんはまだ話が残っているようだよ」と、義男は言った。「悪いことは言わない、あんたは今日はもう帰った方がいいよ。気持ちはわかるが、大人の、しかも仕事の話に割り込んじゃいかん。駅まで出るなら、私と一緒に行こう」
ビルの外へ出て歩きながら、最初のうちは、有馬義男も塚田真一も黙りこくっていた。駅に向かう道の途中に、広々とした芝生のある公園がある。そこまでさしかかったときに、義男はあらためて少年に声をかけた。
「昼飯は食ったかね」
真一は集中力が切れたのか、ぼんやりしていた。義男はもう一度同じことを繰り返して訊いた。今度は通じた。少年はちょっとおろおろした。だが彼の、あれこれ考えたり気を遣ったりする脳ミソよりもずっと正直な胃袋が、義男の問いに応じてぐうっと鳴った。
義男は笑った。「食って帰ろう」
公園の入口のそばに、ハンバーガーやホットドッグを売る屋台が出ている。車で移動する形の屋台で、時計を見ると午後二時だから、そろそろ昼時は店じまいなのだろう。車の上に掲げた看板をおろしたりしている。義男はそちらに近づきながら、大きな声で呼びかけた。「まだいいかね?」
真っ赤なエプロンをかけた売り子の男が、「ハンバーガーは終わっちゃったよ」と返事した。「コーヒーも一人分だけだね。ミルクならありますよ」
「じゃ、それでいいよ」
義男が買い物を済ませ、両手に食べ物を抱えて戻ってみると、真一はまた途方に暮れたような顔をして、ぼうっと突っ立っていた。
「食わないかい? ホットドッグは嫌いか」
「あ、いえ、そうじゃないけど」おどおどと首を振った。「スミマセン」
義男は先にたって公園のなかに入っていった。幸い、日向《 ひ なた》のベンチが空いていた。そこに腰を据えると、すぐ向かいのベンチで、背広の上にコートを着た中年のサラリーマンが長々と寝そべっているのがまともに見えた。顔の上に週刊誌を開いて載せているその男は、すっかり熟睡しているようだった。
二人は食べ始めた。真一は義男にコーヒーを渡そうとしたが、義男は年寄りの胃にはミルクの方がいいと言った。
「有馬さんは、いくつなんですか」ふと思いついたみたいに、真一が訊いた。
「七十二」義男はホットドッグに噛みつきながら答えた。「あんたはいくつだね」
真一は、難しい暗算をするように首をかしげた。「十七です」
そういえば自分はまだたった十七年しか生きてないんだった──と、驚いているような口振りだった。
「前畑滋子さんはいくつか知ってるかね」
「三十歳くらいだと思いますけど」
「旦那さんはいるんだろ?」
「結婚してるかって意味ですか? だったらいますよ」
「やっぱり物書きの人だろ。新聞とか雑誌の記者とか」
「ああ、いいえ」真一は微笑した。「鉄工所の若社長さんですよ」
「へえ」義男は驚いた。物書きは物書き同士で寄り集まって人生をおくるものだと思っていたのだ。
「子供さんはいるのかね」
「いません。結婚して、まだそんなに経ってないみたいだから。僕もよく知らないけど」
うわさ話はできませんと、あわてて予防線を張ったようだ。義男はおかしかった。
「心配しなくても、前畑さんのことを探るつもりじゃないよ」
「別にそんなことは……」
「だけどあんたは、なんで前畑さんのところにいるんだね? ご両親は気の毒なことだったけども、親戚とかはいるんだろう?」
真一はホットドッグの包み紙をくしゃくしゃっと丸めた。答えたくなさそうだった。ただ、余計なお世話だという表情ではなかった。なぜ義男がそんなことを訊くのかわからないから、答え方が難しいということなのだろう。
塚田真一には、この年頃の若者なら誰でも当然持っているはずの不用意さ≠ニいうものがなかった。そういう不用意さは、時に大きな事故や事件を引き起こす原因となることもあるが、反面、それがなくては若者は若者でなくなってしまう。事実、少年は義男の目に、ひどく老けて見えた。
つい何日か前テレビで観た光景を、義男は思い出していた。海外のどこかの国で、内戦の後に残された地雷が大きな問題になっていることを報じた番組だった。戦いは終わったが、地雷は地面の下に仕掛けられたまま遺棄されており、以前は農地や宅地だった場所も、自由に使えないのだという。家畜も放し飼いにはできない。集落の周囲でさえ、安全が確認された通行可能な道の外に足を踏み出すことはできない。しかもその道幅といったら、三十センチぐらいしかないのだ。あとは全部危険地帯なのである。
真一にとっては、今の生活がまさにそれなのだろう。テレビのなかに映し出されていた、牛に水をやるために、丈の高い草のなかを、人の踏みしめた跡のある安全な道≠慎重にたどりながら歩いていった子供の横顔と、真一の横顔には共通する表情があった。何が起こったのかは知っているし、何がいけないのかもわかっているけれど、自分ひとりの力では現状をどうすることもできないので、我慢するしかないんだよという顔だ。
だが、それだからこそ、塚田真一の幅三十センチの道が、いったいどうして前畑滋子というルポライターのいる場所に通じることになったのか、義男には不思議だった。犯罪ならば、かつて自分の身に降りかかったことだけで、もう充分だろうに。
「自分でも……よくわかんないんです」
ぽつりと、真一がいった。手のなかのくしゃくしゃになった包み紙を見つめながら、本当に小さな声だったのだ。義男には最初、それがさっきの質問に対する答なのだとわからないほどだった。
「わかんないっていうのは、その──」
「前畑さんの、手伝いを」言いかけて、真一はしゃにむな感じで首を振った。「手伝いなんかになってないな。僕は単に居候してるだけです。前畑さんとこ、ご主人の実家がアパート持ってて、僕はそこの空き部屋に入れてもらってるんです。家賃もホントに気持ち程度ですから、無料《 た だ 》同然です」
「生活はどうしてるんだね」
「アルバイトしてるけど」
「自炊かい?」
「半分ぐらい。あとは滋子さんにお世話になってて」
義男も包み紙を丸めると、空いた手で鼻の下をこすった。「学校は?」
「行ってないです。ずっと」
「もう高校だよな?」
「はい。休学扱いだけど」
「じゃあ、戻ろうと思えば戻れるわけだな」
真一は痩せた肩をすくめた。
「前畑さんのほかに、面倒みてくれる大人はいないんかね」
できるだけ詮索がましくないように、叱りつけるような口調にならないように、用心しいしい義男は訊いた。
「後見人のおじさんとおばさんがいるけど」真一は言って、またかぶりを振った。「そこには帰れないから」
「帰りたくないんか、帰れないんか」質問してから、義男は自分で答えた。「両方かな。まあ、そういうもんだな」
「有馬さん」急にあらたまった声を出して、真一がきっと顔を上げ、義男を見た。「本気で高井由美子さんに会いたいんですか?」
今までは定跡どおりに駒を並べあってきたのに、いきなりとんでもないところに次の一手が来た。何を思ってそんな場所に駒を置くのか、少年の真意が知りたくて、義男はしばしじっと彼の顔を見た。真冬とはいえ、今日は風もなく、いっぱいに陽のあたるベンチはいっそポカポカしている。それなのに真一は寒そうに見えた。
なんということもなく手をあげて、義男は自分の後ろ頭を撫でた。刈ったばかりのうなじがざらざらする。
「話を聞いてみたいだけだよ」と、ゆっくり言った。「あの子にも、言いたいことが山ほどありそうだったし」
「腹立たないんですか」真一は怒ったように訊いた。「由美子さんは、彼女の兄さんは何もしてないって言ってるんですよ」
「腹は立つよ」
「じゃあ、なんで」
「万にひとつ、あの子の言ってることが本当だったらどうかね」
何か言いかけて、真一は黙った。義男は続けた。「まだ捕まってない真犯人が他所にいるとしたらどうかね。私はその方がずっと怖いよ。夜も寝られないね」
このことを考えると、思わず感情が激しそうになる。義男はかっとならないように、言葉を短くたたんで言い切った。
「本当に悪い奴がまだのうのうとしてるかもしれないなんて思うと、気がヘンになりそうになるよ」
「だからって……由美子さんに会っても何にもならないよ」初めて、拗《す》ねた子供みたいな口振りになって真一は言った。「素人には、彼女の言ってることが嘘か本当か見抜けない。警察に任せておけばいいじゃないですか」
「ずっとそうしてきたよ。でも、それじゃ気持ちがおさまらなくなっちまったんだ」
「だからって、会ってもいいことはない」
「前畑さんもそう言っとったね。私とあの子が、てんでに勝手な希望を持ち寄るだけだとかなんとか」
「僕もそう思う。話、よく聞こえたから」
義男は笑った。「そうか。それでもいいじゃないか。それで気が済めば。警察の邪魔になるようなことはせんからさ」
そのとき不意に、向かいのベンチで熟睡していたサラリーマンが、仰向いて目を閉じたまま大声をあげた。「バカ野郎!」
義男も真一も、危うく飛び上がりそうになった。サラリーマンの顔の上の週刊誌はいつの間にかベンチの脇に落ちていた。寝顔がよく見える。
「寝言だねえ」義男は笑った。「会社でよっぽど面白くないことがあったんだろうな」
「みっともないよ」真一は言い捨てた。
「本人も目が覚めれば恥ずかしがるかもしれないね。まあ、しょうがないよ」
義男はゴミをまとめてひとつにした。真一の手から包み紙を取り上げる。触れた指は冷え切っていた。
「帰る会社のないリストラ組の人かもしれないよ。ここのベンチで時間潰すしか、ほかに手がないのかもしれんよね」
立ち上がり、近くのゴミ箱にゴミを捨てる。ここのゴミ箱は大川公園のとは違い、中身のよく見える、金網でできたものだった。ベンチに戻ると、塚田真一がちょっと涙目になっているのがわかった。風が目に染みただけかもしれないし、そうではないかもしれない。義男は煙草を取り出し、火を点けた。
「煙草は吸うかい?」
少年はうつむいて首を振った。鼻をすする。義男は眠り続けるサラリーマンの頬の削げた横顔を観察しながら、ゆっくりと煙を吐いた。
「こんなことしてても何もならないのはわかってるんだけど、ほかにどうしたらいいかわかんないし」また鼻をすすって、真一は言った。鼻の頭が真っ赤だ。幼く見えた。
「前畑さんの仕事の手伝いをしたいなら、すればいい」義男は煙草を消した。「役に立てることだってあると思うよ」
「そのつもりだったんです」
「途中から違ってきちまったんかね」
「なんか──そうみたい」
「最初はどういうつもりだったんだろうね」
手の甲でごりごりと鼻をこすると、真一はちょっと笑った。「残酷な犯罪ってのはどうして起こるのか、それを知りたいって言った覚えがある」
「そりゃ立派な考えだ」
「立派だけどウソだ。笑っちゃう。カッコいいこと言ってみたかっただけなんだ」
義男は首をかしげた。「そうかね」
「そうですよ」
「今はウソのように聞こえることでも、口に出したときはホントだったかもしれないよ。時間が経てば考えは変わるからよ。だからって、前に言ったことが全部ウソだちゅうことにはならんだろ」
真一は腕で顔をこすった。
「あんまり、自分の気持ちを突き詰めて考えない方がいいよ。なんていうんだ──分析か。そんなのをしても、いいことはないからな」
義男はゴミ箱の方に目をやった。
「あのゴミ箱、縁までいっぱいになってるな。だけど、金網でできてるから、下の方に捨てられるものまでよく見える。見えない方がきれいなのになあ。見えたって、一旦捨てたものをもういっぺん取り出して使う人なんざいないんだからよ。昔は立派に役に立っていたものでも、ゴミになっちまえばもうそれはゴミなんだ。わざわざ掘り出すこたぁない」
柄にもない説教だ。真一は黙っている。ベンチのサラリーマンは眠っている。あのままじゃ風邪をひくだろうと、義男は思った。いい加減で起こしてやった方が親切かねえ。
真一がちょっと咳をした。それから、嗄《か》れた声で言った。「僕には、有馬さんがどうして由美子さんにそんなに寛大になれるかわからない。ぼ、僕にはできない。ひ、ひ、人殺しの側の言い分なんか聞きたくない」
思い詰めたように目尻を引きつらせていた。具合が悪くなって吐く寸前のように、口元がわなわなしていた。そして真一は、彼の家族の身に起こった事件について話し始め、そこで自分がしでかした過失について話し始め、樋口めぐみについて話し始め、彼女から逃げ回っている今の暮らしについて話し始め、彼が歩んでいる幅三十センチの道について話し始めた。もう涙目になることはなかったが、言葉は途中で何度もつっかえ、そのたびに、けっこう形のいい鼻が潰れてしまうのではないかと心配になるほど何度も何度もごしごしと顔をこすった。
真一がぶちまけているあいだに、向かいのベンチのサラリーマンが目を覚ました。眠そうにむくんだ顔で起きあがると、乱れた髪をかきむしりながら、一心に話し続ける真一を斜交いにながめて、不審そうな顔をした。
やがて真一が息を切らして話をやめると、向かいのサラリーマンはそれを待っていたかのように大きなくしゃみをした。少年はびっくりしてそちらを見た。サラリーマンはコートのしわをのばして立ち上がると、時間を気にする様子もみせずにぶらぶらと公園の出口へと歩いていった。義男と真一は、一種感心したような気持ちで彼を見送った。
「その樋口めぐみって子がそんなに執念深いなら」と、義男は言った。「あの写真週刊誌で、あんたが前畑さんのところにいるってことを書かれちまったのはまずかったね。また見つけられちまうかもしれないだろ」
「うん」真一はこっくりとうなずいた。実は、今の彼の心をいちばんかき乱している問題、ゴミ箱のいちばん上に乗っていて、いちばん見苦しいものはまさにそれであったのだと、やっと気づいたという顔だった。
「行き先のあてはあるのかね」
「わからないです」
「そんなら、私んところに来るかい?」口に出して、それがまんざら悪い思いつきではないことに、義男は自分で驚いた。真一も驚いていた。見張った目が、義男の記憶のなかに残っている鞠子の澄んだ瞳の色を、一瞬だが鮮やかに思い出させた。
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武上が、飯田橋のホテルで高井由美子の起こした騒動についての報告書や調書を手にしたのは、写真週刊誌の発売から五日後のことだった。
そのころには既に、テレビのニュースショウやワイドショウなどでは、この件については沙汰止《 さ た や 》みになっていた。夕刊紙やスポーツ紙などの報道も止んでいた。その裏には、由美子の大暴れが報じられた二日後に、都下で銃器を使用した残虐な強盗殺人事件が発生し、大方の興味がそちらに移行してしまったという事情があった。この強盗事件の犯人は未だ判明しておらず、おそらくは凶行に使用した銃器を所持したまま現在も逃走していると思われるから、巷《ちまた》の関心がそちらに集中するのもまた当然のことではあったのだ。
店長と会計係、アルバイト学生の三人が射殺されたこの事件は、発生の十二時間後には八王子中央署に特別捜査本部が設けられ、大々的な捜査が開始された。そこでデスク係の指揮をとることになった生田《いく た 》という警部補は、たまたま武上の旧《ふる》くからの知人であったので、デスク班立ち上げの当初、パソコンを使用した捜査資料などのデータ管理について、二人はしばしば電話でやりとりをした。
その話のなかで、ふとしたきっかけに、生田が武上に訊いた。ガミさんのところでは、事件について、インターネットから情報収集をしているか、と。
「情報収集とはどういうことだね?」
「ガミさんはインターネットはやってないのかい?」
「娘は時々のぞいて見てるらしいがね。俺はよく知らん」
武上家には、父と娘が購入資金を折半したデスクトップ型のパソコンが一台あり、娘の部屋に置いてある。パソコンデスクの代金を負担した父親としては、どうしてそれがリビングなどの家庭内における公共の場所に設置されないのかいささか不満ではあったのだが、娘に比べて家にいる時間が圧倒的に短く、かつ操作のあれこれについてはいちいち彼女の指導を仰がねばならない身の上としては、あまり大声で文句も言えなかったのだ。
「娘さんは熱心な方かい?」
「どうだろうな。女房の話じゃ、最近はキーボードが埃をかぶってるっていうから」
長女には、昨年末あたりから親しく交際している男性がいるらしい。電話で妻からそれを聞かされ、まだ親がかりの身で何が恋人だ生意気なと、ちょっとばかり腹を立てたのは数日前のことである。
「彼氏ができたんで、今はそっちに夢中のようだ」
「そうか、じゃああんまりよく知らなくてもしょうがないな」
インターネットのなかには多種多様なホームページやフォーラムがあるが、それらのなかで、生田が頻繁にのぞいて見ているもののひとつに、現実に発生した刑事事件についての意見を交換しあうという種類のものがあるのだという。
「週刊誌のライターをしている剣崎《けんざき》龍介《りゅうすけ》っていう男のつくってるホームページなんだがね。剣崎ってどこかで見たことのある名前だと思ったら、ほら、五、六年前になるかな、足立区で女子短大生がストーカー男に殺された事件があったろう? あのドキュメントを書いて本を出していた。まあ、なかなか硬派なものを書いてるライターだ」
「その剣崎が、自分のその、なんだ、ホームページか? そこで現実の犯罪についての意見を募ってるわけか」
「そういうことだ。これがまた書き込みが多くてね。言ってみりゃ、素人プロファイラーの大行進てところだ。現実に発生している事件について、一言発言したくてウズウズしている連中がこんなに多いのかと、俺も最初はびっくりしたよ」
「犯罪について語るのは面白いんだろう。その割には、刑事になりたいという人間の数は増えないが」
「近頃じゃみんな、犯罪心理学者になりたがるんだよ。もっとも、本物の犯罪心理学者がどういう研究をしているのかよく知らないで、イメージだけで考えてるんだろうがね」
生田が調べた限りで、他にも似たような主旨のホームページやフォーラムが複数存在し、規模の大小はあるものの、それぞれに活発なアクセス状況を見せているという。
「それでも、俺としては、剣崎氏のホームページがいちばん参考になる。彼の仕切りが上手いんだな。放っておけばただのおしゃべり集団で収拾がつかなくなるところを、折々にテーマをしぼったり議論の方向を誘導したりして、上手くまとめてるよ」
「だが、そこから何がわかる? 警察が見落としていたような新しい観点の推測がじゃんじゃん出てくるか?」
「さすがにそれはない。あったら俺らは飯の食いあげだ。だがな、ある事件が社会にどんなふうに受け止められているかということを知る材料にはなるな」
「それは俺たちよりも、社会学者が興味を持つことじゃねえかね」
生田は笑った。「違いない。だけどガミさん、これからの警察は、社会学者的な物の見方もできるように訓練していかないと、まずいかもしれないよ」
武上はふふんと鼻を鳴らした。昔から学者は嫌いなのだ。生田はちょっと咳をして笑いを切ると、
「それより、こんな話を持ち出したのはさ、その剣崎氏のホームページで、ガミさんたちの事件についての書き込みが、やっぱり多いんだがね──」
「今のヒットパレード第一位はそっちの事件だろうがな」
「スマッシュ・ヒットってやつか? まあ冗談はさておきだ、実は、何件か犯行の未遂報告の書き込みがあるんだ」
武上はちょっと受話器を握り直した。「未遂というのは、つまり──」
「栗橋・高井の二人組らしい男に自分も声をかけられた、車に連れ込まれそうになったという報告だな。明らかにイタズラだとわかる書き方のものや、書き込んだあと数日してウソだったと白状しているものを除いて、俺がチェックした限りでは十二件だ」
その種の被害報告ならば、捜査本部にはもっとたくさん寄せられている。調書や聞き取りの報告書が作成されているだけでも現在五十七件、そのうちの二十二件が裏付け捜査の対象とされている。武上がそれを告げると、生田は訊いた。
「その二十二件、地域としてはどのぐらいの広さだ? 首都圏か?」
武上は受話器のコードを引っ張ったままファイルに手を伸ばした。一ページ目に地域別の索引をつけてある。それをめくった。
「そう……二十件は首都圏だな。というより、都内がほとんどだ。あと一件が静岡市と、名古屋だ。名古屋の方は留保付きだ。少し場所が飛びすぎてるし、こっちの件と重なる時期に、あっちでも五件の連続婦女暴行事件が起こっててな。まだ犯人があがってないんで、一応ファイルにくくってはあるが、モノとしては別件じゃないかと思う」
「二十件のうち、具体的に都内は何件ある?」
「十六件」
「残り四件の内訳は?」
「二件が都下の福生《ふ っ さ》と東村山市だ。一件が横浜市郊外、一件が習志野《なら し の 》市」
なるほど、と言ってから、生田は言った。
「俺が剣崎氏のホームページで見つけた書き込み十二件は、全部地方都市だ。伊豆下田、福島、岐阜、奈良、小樽──」
思わず、武上は噴き出した。「トラベルミステリー並みだな」
「最初は俺も笑ったんだ」と、生田は真面目な口調で続けた。「だが、しばらくして、こいつはひょっとすると笑い事じゃないかもしれないと思い始めた。なあ、彼女たちは──この報告をしてきたのは、たぶん全員女性だろうからな──なんでまたインターネットのホームページにこんなことを書き込んできたんだろうな? 本当に被害に遭いそうになって、危ういところで難を逃れた経験があったのなら、警察に言えばいい。捜査に協力することになるんだからな。どうしてそれをしない?」
武上は最初に頭に浮かんだことを言った。「自分の危険な体験が、本当に栗橋・高井によるものだったのかどうか自信がないからじゃないか?」
「そうだよな。だが、首都圏の二十二件の報告者に対して、この十二件の報告者が軒並み自信に欠けてるっていうのは、おかしくないかね」
「そりゃ、距離が遠いからだよ。多少は自信に欠けても、都内なら捜査本部が身近にあるから、連絡しやすい雰囲気がある。そんなことを申し出れば、電話一本でハイそうですか書類作っときますご苦労さん──で済む話じゃなくなるってことは、報告する方だってわかってるからな。遠方からじゃ、わざわざ報せるのも気後れして当然だ」
「そのとおりだ、俺もそう思うよ。だからこそ、彼女たちは剣崎のホームページに書き込んだんだよ。インターネットなんていう便利なものがなかったころには、仮に同じようなケースがあったとしても、みんな黙っていて、せいぜいまわりの友人知人にうち明けるくらいでさ、そのままになっちまったんだ。それが、ネットという媒体が出てきたおかげで、俺たちの目に触れるところに表れてきた」
少し考えてから、武上は問い返した。「何が言いたいんだね?」
「調べてみる価値があるんじゃないかと思うわけだ、俺は」
「その十二件を」
「うむ」
「そういうところに書き込むには、本名を出さなくてもいいんだろう?」
「ああ。ハンドルネームでいい」
「それじゃ性別だってはっきりしないよな」
「そうだな」
「錯覚や思い込み、いや、まるっきり作り話だってこともあり得るよな」
「確かに」
「誰が書き込んできたか、たぐって調べるのは大変な作業だぞ」
「そうだ。でも、ひとつにはこういう手があるぞ。本部の側から彼女たちに向かって、呼びかけのメッセージを書き込むのさ。それについてもっと詳しい情報を教えて欲しいとね。その反応を見てから動いたっていい」
武上はうんと唸った。
「全国に散らばっているこの十二件の未遂報告のなかに、一件でも確かなものがあれば、そいつは大きな収穫じゃないか? 今我々が考えている以上に、栗橋・高井の行動範囲が広かったということが判ったら、奴らのアジト探しについての方針も変更しなくちゃならなくなる。それに──」
なぜかしら、生田はちょっと言いよどんだ。やはり。気を遣っているのである。
「気にすることはない、言ってくれ」
「遠方で起こった未遂事件が確定できれば、そこから栗橋・高井のアリバイ確認につながるかもしれないじゃないか。特に高井の場合は、今のところ確たるアリバイがないが、絶対にないとも言い切れないっていう、えらく中途半端な格好になっているからな」
生田の言うことは、武上にもよくわかった。たとえば、栗橋・高井が小樽で未遂事件を起こしていたとすると、同じことを都内で起こしていた場合よりも、移動距離がある分、当然のことながら物理的な時間を多くとられているはずなので、彼らの周囲の人びとの記憶が喚起しやすくなる。また、航空機の搭乗記録や特急の指定席券、宿泊先の記録など、裏付け捜査の対象となるものも増える可能性が出てくるのだ。
現在までのところでは、身元の判明している被害者のうち、もっとも遠方で失踪、後に殺害されているのが、群馬県渋川市山中の伊藤敦子のケースである。群馬と小樽や岐阜とでは、確かに事情はずいぶん違ってくる。
武上は、生田の遠慮がちな口調の底に、かすかな違和感を感じて問いかけた。「なあ生田さんよ。あんた、栗橋・高井の犯人説に疑問があるのかね?」
生田はまた咳払いをした。彼はずいぶんと静かな場所から電話をかけていた。
「栗橋については疑問はない」と、ゆっくり答えた。「高井については、ある」
「やっぱりそうか」
「ガミさんはどうなんだ?」
「俺はデスクだ。捜査内容について云々できる立場じゃない」
「なるほど、もっともだ。俺もうちの件については何も言えないよ」
「ただ──本部のなかでも、高井の犯行関与の度合いについては意見が分かれてる」
実は午後から会議があると、武上は言った。「議題はまさにそれだよ。上の方は、早くあの二人の犯行ということで確定したがってる。だが、現場には異論のある者もいる」
生田がため息をはいた。「しかし、おいそれとその疑いを外に漏らすわけにはいかないだろう?」
「うん。パニックになりかねない」
「模倣犯が出てくる可能性もあるからな。いやガミさん、実際に、ネット上にはもう出てきてるよ」
一連の連続誘拐殺人事件の自称真犯人≠ェ、剣崎のホームページにも書き込みを寄せているという。
「もちろん作り話だ。剣崎に突っ込まれたら、辻棲のあわない話やおかしな言い訳を始めたんでね、すぐにバレた。だが、似たような輩《やから》はこれからだって出てくるよ」
「だろうな……」
「もっと気の滅入る話をしてやろうか。先週だか、高井の妹が騒ぎを起こしたよな?」
「電話をもらったとき、その件の調書をファイルにしてるところだった」
「剣崎のホームページのなかでは、彼女が一連の犯行に関わっていたんじゃないかという推理が乱れ飛んでる。実は、栗橋・高井組の高井は、和明じゃなくて由美子じゃないかってな」
「根拠があるわけじゃないんだろう?」
「アメリカで実例があるそうだ。夫の強姦殺人に手を貸した女がいたんだとか。つまり、高井由美子は栗橋浩美に惚れていて、二人は恋人関係だったというわけさ」
「お話ならば、どうとでも作れる」
それでもそのホームページをのぞいてみようと、武上はアドレスを聞いて書き取った。
「それにしても、あんたがインターネット通だとは思わなかった」
「通じゃないよ。詳しくもないね」
「きっかけは何だったんだ?」
生田は書いた物を読み上げるように言った。
「放火犯は自分の引き起こした火事の消火現場を見に来る。殺人者は犯行現場に戻る。被害者の葬式に出る。テレビのインタビューに答えたりもする」
「うん、よくある話だ」
「犯罪心理学者は、そういう行動を、犯人の無意識下に、自分を捕らえてほしい、罰してほしいという欲求があるからだと説明する。それもあるかもしれない。でも、それ以上に、自分のやったことを認めてもらいたい、確認したいという衝動もあるんじゃないかと俺は思うわけだ」
武上は薄汚れた電話機に向かってうなずいた。「それで?」
「俺が剣崎氏のホームページをチェックするようになったのは、去年の二月ごろからだ。ちょうどそのころに、あったんだよ。コンビニを狙ったケチな強盗傷害だったが、犯人を捕まえてみたら、そいつがそこに何度も書き込みをして、新聞でも続報の載らなかった小さなその事件について、もっともらしい意見を山ほど書き並べてたんだ。深夜のコンビニが犯罪を誘発する条件と、人間の暴力性が、都市生活のなかで喚起される理由についてとかいうタイトルでさ」
武上は目をこすった。深夜にひとり、キーボードに向かう若い男のシルエットが、つと目の裏に浮かんだ。武上の想像のなかでは、その若い男の目は狂暴な光を宿してもいなければ、日常に倦《う》んで暗く澱《よど》んでもいなかった。ただ自分を表現することを楽しみ、その喜びに生き生きと底光りしていた。
「もしも──あくまでももしも≠セぞ」生田は低い声で続けた。「栗橋、高井のほかに第三の男がいるのだとしたら、そいつもその強盗犯と同類だろうよ。事件についてしゃべりたくてウズウズしているはずだ。遅かれ早かれ、いつかはしゃべりだす。まだ事件が進行中のころ、HBSの特番に電話してしゃべりまくったみたいにな。そして今度は、あの時みたいに、途中で止《や》めることはないだろう。一度しゃべりだしたら、止《と》まらないだろう。今度こそは自分の気の済むまで、飽きがくるまでしゃべり散らすだろうさ」
「気が済んで、飽きたらどうなる?」
まるで合言葉を言うように、武上の頭のなかにある言葉を、生田は口にした。
「必ず、また人を殺し始める」
電話を切ったあと、しばらく考えこんだ結果、武上はデスク担当の部屋を出て、一階に降りた。そこのホールの公衆電話から自宅にかけると、妻が出た。娘への伝言を書き取ってもらい、ついでに下着の替えがなくなったことを告げると、受話器を置いた。通話には十円しかかからなかった。
そろそろ会議が始まる。階上に戻ろうとエレベーターの方に足を向けると、ちょうど外出から戻ってきた篠崎が、通用口の方からやってきた。コートの上に、登校する中学生のようにきっちりとマフラーを巻いて、一月の寒気に、登校する小学生のように頬を赤くしていた。武上の姿を見つけると、その頬がちょっとひくひくした。
篠崎は、墨田区役所から帰ってきたところであるはずだった。図面用の筒を小脇にはさんでいる。改修工事の終わった後の、大川公園の最新版の地図だ。武上は先にエレベーターの箱に乗り込み、ボタンを押した。篠崎は首を縮めて乗り込んできた。二人とも無言だった。
ポケットベルに「バカタレ」と打ち込んで以来、武上は篠崎と一言も口をきいていなかった。仕事は忙しくさせているが、会話はまったくしていない。今も、話しかけてやるつもりはなかった。まだ怒っていたからだ。
高井担当の刑事たちからひとくさり苦情を言われた時には、武上は低姿勢を通して謝り続けた。しまいには、ガミさんがそんなに謝ることはないと、逆に同情される始末であった。篠崎のクビを切れと勧めてくれる者もいたし、実際問題として、上の方からは、たとえデスク担当であっても、捜査対象の人物に個人的感情を持つ刑事がいるのは好ましくないから、篠崎を外すようにという勧告≠燉た。それに対しては、武上は、すべては私の監督不行届きの結果であり、責任は私にある、今回だけは御宥恕《 ご ゆうじょ》をいただき、篠崎を捜査本部内で働かせてやってくださいと、これまた低姿勢で願いあげた。幸い、高井由美子が自殺未遂をやらかしたことや、それを発見したのが篠崎であったことは、何とかマスコミに漏れずに済んでいる。武上の謝罪プラスそちらの方の幸運のおかげで、捜査本部内における篠崎のクビは──とりあえず今のところは──つながっているのだった。
しかし、武上個人としては、篠崎のクビを| 鋸 《のこぎり》引《び》きにしてやりたいくらいだった。
墨東警察署の老朽エレベーターがぜいぜいいいながら上がって行くあいだに、篠崎は何度か口を開きかけた。彼に背中を向けていても、武上はそれを肌で感じた。だが、振り返らなかったし、口をへの字に結んでいた。
エレベーターの箱が止まり、ドアが開いた。武上はさっさと降りた。後ろで篠崎が、女の子みたいな声を出した。
「あの……」
武上は足を止めて振り向いた。口はへの字のままだった。
篠崎の貧弱な喉仏がごくりと上下した。
「いえ、なんでもないです」と、さっきよりもっと小さな声で呟いた。
武上は、努めて不機嫌そうな足取りで会議室へ向かった。まだ当分のあいだ、篠崎をカンベンしてやる予定はないのだった。
捜査会議は三時間に及んだ。
栗橋浩美のマンションから発見された映像のみの推定される被害者℃cり四人の身元は、未だに割れないままだった。若い女性が失踪したという事実は、否応なしに周囲の注目を集めるものだ。この四人に該当する女性たちを囲んでいた人間関係のなかの誰か一人でもいい、ひょっとしたら[#「ひょっとしたら」に傍点]という気になって、連絡してきてくれればいいのだが、それがどうも上手くいかない。
とはいえ、この四人に対して、日本国中が無関心だというわけではないのだ。照会は引きも切らずにかかるのだから。ただ、それがみんな外れときている。武上は、なで肩に疲労をにじませて報告を続ける推定被害者班≠フ刑事を見守りながら、再び、生田の述べていた説を考えた。
──日本中が無関心だというわけではない、というわけではない。
と、さっきの自分の考えを訂正した。
身元の照会は、全国津々浦々から来ているわけじゃない。日本中[#「日本中」に傍点]じゃあない。やっぱり首都圏が中心なんだ。
栗橋浩美と高井和明が、生田とのやりとりのなかで思わず武上が笑いながら言ったように、トラベルミステリー顔負けの行動力を持っていたとしたら、どうだ?
──残りの四人が、北海道や九州で拉致され、殺された女性たちだったとしたら。
女性たちの似顔絵は、全国紙に載せられている。テレビのニュースにも出た。ワイドショウでも取り上げてくれた。だから全国の人びとが目にしているはずだ。身近に失踪女性が存在する家庭や職場があったなら、きっと目にしているはずだ。黙って見過ごしにするはずはない。
──それでも。
たしかに情報には距離がない。だが、人間には距離があるのだ。生身の人間は、依然として距離に隔てられる存在なのだ。行方知れずになっているあの女が、もしかして東京の栗橋浩美のコレクション≠フなかに映されている女性の一人ではないかと、たとえば北海道のある町で、四国のある町で、不安に襲われた父や母や夫や恋人がいるとしよう。彼らが腰をあげ、上京し、墨東警察署を訪ねてくる──そのために要する勇気とエネルギーは、どのぐらいのものだろう?
それでなくても、負の想像力には(そんな縁起でもないことを考えたくない)という、強力な逆向きの力がかかるものだ。
武上には、かつてこんな経験がある。十代の少女の殺人死体遺棄事件で、被害者の身元がなかなか特定できず、身体的特徴と身につけていたわずかな遺品を公開し、情報を募ったときのことだ。すぐに何件かの問い合わせがあり、結果的にはそのなかに少女の両親がいたのだが、後で母親の方に聞いてみると、警察を訪ねていくかどうかで、夫婦で大喧嘩をしたというのである。
──夫は、娘がそんな事件に巻き込まれて殺されているかもしれないと考えるだけでも嫌だったんでしょう。わたしが警察に行くというと、おまえは自分の腹を痛めて産んだ娘が死んでいればいいとでも思っているのかと怒鳴りつけました。
実は、家出して一年以上経つこの少女は、捜索願さえ出されていなかった。それも、父親が反対したからだという。
──悪いことを考えなければ、見て見ないふりをすれば、悪いことは起こらないという考え方ですよ。夫は、目の前で起こっていることでも、自分の気に入らないことは見ようとしないんです。娘がグレ始めたときからしてそうでした。
結局、娘の遺体を引き取り葬儀をあげて間もなく、この夫婦は別居し、ほどなくして離婚した。犯人逮捕は、それよりも半年も後のことになった。武上が報告に訪ねてゆくと、娘の小さな位牌が収まった仏壇を前に、母親は、夫は今でも娘はどこかで生きていると信じていると、小声で語った。
この夫婦の例ほど極端でなくても、人間にはこういう心理はあるものだ。確かに、行方不明は死の報せよりも辛い。長引けば長引くほどその辛さは増すものだ。しかし、恐ろしい事実に直面したくないという正直な心情も、人間の行動に大きな影響を与える。
しかもそこに、距離≠ニいう壁が立ちはだかる。日本の国土は、そこで暮らす普通の人間たちにとって、けっして狭いものではない。
逆に、情報が素早く行き渡れば行き渡るほど、そのスピードに、生身の生活感覚がついていけないという弊害さえ出てきているかもしれない。誰が三日前の新聞をわざわざ読み返すだろう。一週間前の週刊誌を買おうと思ったら、どの本屋、どのコンビニで手に入れることができるだろう。
推定被害者班≠フ次には、アジト捜索班≠ェ報告に立った。こちらも難航していることにかけては同じである。未だ、これという成果はあがっていない。
栗橋浩美の初台のマンションに残されていた携帯電話の通話記録は、捜査本部にとっては貴重な情報源となっている。彼のクレジットカードの利用記録も然りだ。ところがその中には、貸し別荘を扱っている不動産業者とか、レンタカー会社、家具屋、家電屋など、初台のマンション以外の場所につながりそうなところが、今までのところでは一件も含まれていないのである。
収穫と言えば、むしろ、栗橋浩美が通っていたらしい飲み屋、小額の借金を繰り返していたサラ金、テレフォンクラブ、伝言ダイヤル──外側からではわからない交友関係を探る手がかりとなる情報を豊富につかむことができたということの方だろう。栗橋浩美には、少なくとも通話記録の残っているこの一年ほどのあいだは、特定の恋人やガールフレンドはいなかったようだということも判った。一方、高井和明にはかなり頻繁に電話をかけている。週に一度とか、十日に一度ぐらいの割合である。ただし、厳密に言うならば、これがすべて高井和明個人宛の電話であるかどうかはわからない。高井個人は、自分専用の電話を持っておらず、家業である蕎麦屋の「長寿庵」の電話を使っていたからである。たとえば、栗橋浩美が出前を取ったということだって無いとは限らないわけだ。高井は高井でも高井由美子犯人説は、案外こんなところにも根があるかもしれないと、武上はふと苦笑した。
アジト捜索班≠ェ、氷川高原を中心とするローラー作戦を続行し、成果があがらなければ対象地域をさらに拡大する方針を確認して現状報告を終え、その後に高井班の刑事が立ち上がった。高井由美子の一件の報告だろう。武上は席を立ってデスク担当の部屋に戻った。
室内には四人のデスク担当者がいて、それぞれに仕事に励んでいた。篠崎が武上に叱られているらしいことは、既に皆が承知している。そのせいで、このところずっと、なんとなく空気が重い。武上はちょっと手を打って皆の注意を引き、夕方五時から全体の打ち合わせをすると告げた。パソコンに向かっていた篠崎は、椅子を回して振り返っただけで、武上の顔を見あげることはなかった。
席に着こうとすると、伝言メモが目に入った。今は外出して姿の見えない担当者からのもので、お嬢さんからお電話がありましたと、几帳面な字で書き留めてある。武上は椅子を戻してまた一階のロビーまで降りた。
自宅の電話には、すぐに娘が出た。アラご苦労さまと、出前持ちのお兄ちゃんにでも言うような気軽な声を出した。
「あたしに用ってなあに?」
「ずいぶん早く帰ってきたんだな」
「午後から休講になっちゃったんだもん」
「アルバイトはどうしたんだ?」
「今日は無いの。ねえ何の用? ちょっと買い物に行きたいんだけどな」
彼氏のことを訊きたかったのだが、切り込む隙がない。娘の方も承知して、わざとやっているらしいのがなおさら面白くない。
武上は、メモを用意しろと言って、娘に剣崎龍介のホームページのアドレスを書き取らせると、彼女にやってもらいたいことを話して聞かせた。
「ふうん……面白そうね」と、彼女は乗り気のようである。
「おまえ、今でもパソコンを使えるんだろうな?」
「失礼ね、使えるに決まってるじゃない」
「じゃあ、まずはそのホームページをのぞいて、プリントアウトをして、こっちへ届けてくれ」
「お父さん」と、娘はあらたまった声を出す。
「何だよ」
「うちにはプリンターが無いのよ」
「買わなかったのか?」
武上の咎めるような声に、娘は逆襲した。「要らないって言ったのはお父さんよ。電子メールのやりとりをするだけなんだから、あんな場所ふさぎのものは必要ないって」
武上は頭をごりごりかいた。
「じゃ、買えばいい」
「ありがとう」
「何がありがとうだ」
「お母さんに言って、お金出してもらうからね。当然だわよ」
武上はひとしきり文句を並べた。無人の荒野をマシンガンを撃ちながら進むようなものであった。敵はとっとと穴を掘って隠れてしまっている。
「お父さん、このままちょっと待ってて。お父さんのメモったアドレスに間違いがないかどうか、まずこのホームページにアクセスして確かめてみるから」
保留音が聞こえてきた。だいぶ待たされることになるだろうと、武上は内ポケットの煙草を探った。が、火を点けないうちに、娘が電話口に帰ってきた。
「もしもし、お父さん。メイルが来てる」
「何だと?」
「お父さん宛のメイルよ。建築家≠ゥらだって」
「なんて書いてある?」
「会いたいって」娘はクスクス笑った。「これだあれ? お父さんの秘密の恋人?」
「バカを言うな」
すぐ電話をしてみようと思った。それにしてもなぜ、電子メイルなど送ってきたのだろう。このところ、武上がデスク担当の部屋に不在がちだったので、自宅の方へ連絡してきたのかもしれない。
五分も経たないうちにもう一度戻ってきた娘は、ちゃんと剣崎のホームページにアクセスできたと報告した。武上は結局、事件が一段落したらアルバイト料を払うことを約束させられて、電話を切った。
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塚田真一は、前畑家のアパートから出てゆくことを決めた。昭二と滋子ともよく話し合い、夫婦はそろってここに残ることを勧めてくれたけれど、真一の決心は変わらなかった。
例の写真週刊誌が世に出てから今日まで、真一は半ば居直ったような気分で、夜明け前のまだ静かな町中に、午時《ひるどき》ののんびりした食休みに、深夜のゆるやかな眠気のなかに、樋口めぐみのあの甲高い声が割って入ってくるのを待っていた。いつ彼女が前畑家のアパートを訪れても不思議はない。覚悟はできている──というよりも、どうせなら早いとこ片づけてしまいたいというくらいの、捨て鉢な気持ちにもなっていた。
しかし、今までのところ、樋口めぐみは姿を現していない。それでも真一は出てゆく。
たとえ開き直りにしても、樋口めぐみが来るのを待っているような、そんな受け身の状態でいる自分自身に、少しばかり嫌気がさしてきたのだった。めぐみに会えば、自分はまたうろたえるだろう。今までと同じように混乱し、怯えるだろう。
それでも、そのたびに逃げ出すことだけは、もうやめたい。いや、やめようと決めた。怯えうろたえながらも、踏ん張って一ヵ所に留まることで、何か変わるものがあるかもしれない。何か見えてくるものがあるかもしれない。追われるたびに逃げるのは、敏捷《びんしょう》なのでも機敏なのでもなく、ただ単に怠惰だからなのではないかという気がしてきた。ただ他の道を切り開くことができないだけなのに、そこから目をそらすために、逃げ回っていなくちゃならないからボクには他の事が何もできないんだという言い訳を、自分自身に対して与えるために、ただ機械的に逃げているだけだったのではないかと、真一はようやく考え始めたのだった。
『ドキュメント・ジャパン』での一件で、また有馬義男に会えたことが、あの老人に胸の内を打ち明けることができたのが、きっかけになったのかもしれない。あの人は逃げてはいなかった。傷ついて疲れてはいたけど、僕のように逃げることだけに精力を使い果たしてはいなかった。
──私のところに来るかい?
有馬義男のあの言葉は、真一への思いやりに満ちていた。それがかえって、どんなきつい忠告や強い励ましよりも、深いところから真一に揺さぶりをかけた。これからの人生を、こういう優しい人たちの陰に隠れて、その温情にすがって逃げ回りながら生きるわけにはいかないのだ。
一月十九日の午後、真一がささやかな手荷物をまとめ、段ボール箱ひと箱に衣類を詰めたものを、迎えに来てくれた石井夫妻の車のトランクに詰め込んでいると、頭上から風花が舞い落ちてきた。真一は驚いて空を仰いだ。吸い込まれそうなほど真っ青な空に、ところどころ雲が浮いている。小雪を降らせているのはあの雲だろうか。
今日は冷え込みがきつい。こうして立っていると耳たぶが痛いくらいだ。東京でこういうことは珍しいんだろうな──と思いながら、トランクを閉めて、子供のように両手を広げて雪を受け止めた。さわさわと顔に触れる雪は、天使の幽霊のように儚《はかな》くて冷たかった。
石井夫妻は滋子夫婦の部屋で、ずっと何やら話し合っている。真一はその話の輪に加わるのが嫌だった。荷物も片づけてしまったし、部屋の掃除も済ませてしまった。あとはどうやって時間を潰そうか。しばらく、このまま雪をながめていようか。どうせ風花は、長いこと降りはしないのだ。この北風があの雲を運んでいってしまえば、やんでしまうだろう。
真一は石井夫妻の白いセダンのドアにもたれ、降りしきる風花のなかで目をつぶった。そうすると、雪の舞う音が聞こえるようになった。しきりとおしゃべりをしながら舞い落ちてくる。何を言っているかはわからないけれど、そのささやきを聞いていると、不思議なくらい心が安まった。こんな安らぎは、久しく味わったことがなかった。そう、ずっと昔、まだ子供のころのことだ──
真一が小学校の二、三年のころだったろうか。箱根に家族旅行をしたことがある。教職員の保養寮が、芦ノ湖畔にあったのだ。運転好きの父は、鉄道を使わずに行きも帰りもドライブをしようと言い出し、行きはよかったのだが、帰りはあちこち寄り道をしたせいもあって道に迷ってしまい、予定よりもずっと時間がかかってしまった。
父と母が運転席と助手席に座っている。まだ幼い妹は母の膝の上に抱かれている。真一は後部座席を独り占めにしている。おなかがいっぱいなので眠くて仕方がない。だいいち、普段ならとっくに布団に入っている時刻なのである。
クッションを枕に横になる。車の振動が心地よくて、まるで子守歌のようだ。父と母が何か話をしている。地図を見ているようだ。真一はするりと眠りのなかに引き込まれる。そしてまたふと目が覚めると、横になっている身体の上に、父の重たいコートがかけられている。暖かい。後部座席で横たわったままの姿勢では、父と母の背中はほとんど見えない。頭のてっぺんがちょっとのぞいているだけだ。だが、話し声は聞こえる。真一が眠いせいか、父母が声をひそめているせいか、会話はまるで囁き声のように小さく聞こえる。二人は確かにそこにいる。車は走り続けている。我が家に向かって。
こうしていれば何も怖くない。こうしていれば何も起こらない。父さん母さんが僕とおチビの妹を守ってくれる。僕たちはずっと一緒で、どこまでも一緒で、だから独りぼっちになる心配なんてひとかけらもない。ゆったりとした波のような安心感に包まれて、真一は眠る──
すぐ間近で、クラクションの音がした。真一ははっと我に返り、目を開けた。
いつの間にか風花はやんでいた。セダンのすぐ後ろに、ワゴン車が一台停まろうとしているところだった。運転席と助手席に、網川浩一と高井由美子が座っていた。並んでいる二つの頭。そのシルエットが、一瞬だけさっきまでの夢と重なり、すぐに消えた。
「寒いのに、こんなところで何してるんだい?」
網川は車を停めると、すぐに降りて真一に近づいてきた。由美子の方は、彼ほど気楽そうな表情ではなかった。無理もない。
写真週刊誌の騒動のあと、由美子がきちんと滋子と顔を合わせるのは、真一の知る限りでは、今日が初めてのはずだった。電話ではやりとりしていたかもしれないが、そのあたりのことは、真一はよく知らない。飯田橋のホテルでの騒動の後始末は、真一には関わりのないところで進んでいた。
「塚田君、どうしたの?」由美子は網川の陰に隠れるようにして、真一に声をかけた。
「今日はアルバイト、ないの?」
「僕、引っ越すんです」真一は簡単に説明した。「後見人の石井さんのところに戻ろうと思って」
網川と由美子は顔を見合わせた。
「大丈夫なのかい?」と、網川が心配そうに訊いた。「石井さんのところに戻ったら、その、また追いかけられるんじゃないのか?」
網川浩一は、真一からは一度も、何も話をしたことがないのに、いつの間にか真一のことを──真一の抱える事情について、よく知っていた。滋子がペラペラしゃべるはずはないので、彼の想像で補っている部分もあるのだろうけれど、それにしても頭の回転の速い男だった。
「いつまでも逃げ回っているわけにもいかないし」と、真一は言った。「それに、あんなふうに報道されちゃった以上、僕が前畑さんのところに厄介になってると、滋子さんの立場がますます悪くなりますから」
高井由美子が肩をすぼめて、網川の肘にしがみついた。「あたしのせいね」と、小声で言った。
真一は黙っていた。由美子が心の底で望んでいるに違いない言葉を──あなたのせいじゃありませんよ──口にする気には、どうしてもなれなかったのだ。
すると、網川が急いで言った。「何言ってるんだ、それは違うよ、由美ちゃん。元はといえば、僕がおしゃべりだったのがいけなかったんだ。由美ちゃんの気持ちも考えずに、飯田橋で被害者の会があるなんてことを、うっかり口に出したから」
由美子はうつむいている。少し痩せたようだが、きれいに化粧をして、髪もきちんと整えてある。三郷のバスターミナルの前で初めて会ったときから比べたら、ずいぶんと落ち着いて、それに、少しばかり──
(あか抜けたっていうのかな)
そんな印象さえあるのだった。
(網川さんがずっとそばにいるせいかな)
高井由美子と網川浩一は、最初から滋子と真一の前に、二人一組のセットで現れた。網川はほとんど保護者のように、由美子から目を離さないし、由美子もすっかり彼に頼り切りのようだ。真一には、事件の直後から網川という救助隊が駆けつけるまでのあいだの、ひとりぼっちだったころの由美子の顔が、まったく想像できなかった。それはおそらく、滋子だって同じだろう。
この二人のことは、オレの知ったこっちゃない──真一は冷たく考えた。オレは最初から由美子さんの側には立ってないし、今後もできないから。いや、できたとしても、けっしてしない[#「しない」に傍点]だろうから。
「でも、そうするとまずかったかな。後にした方がいいだろうか」網川が言って、アパートの建物の方を見た。「急に時間がとれたから、電話もしないで来ちゃったんだけど」
「僕の方の用件は大したことないから、大丈夫だと思いますよ」
「そうか。それなら由美ちゃん、お邪魔しようか」
網川に促されて、由美子は歩き出した。が、すぐに足を止めて、真一の方を振り向いた。
「ねえ塚田君。このまま行っちゃうんでしょう?」
真一は無言でうなずいた。網川の腕にぶらさがっている由美子が、ひどく癇に障った。
「もう滋子さんの仕事を手伝わないの?」
「さあ、わからない」真一は短く答えた。自分でも、本当にそれはわからなかった。
「本当にすぐに行ってしまうの?」由美子は困ったように目をしばたたく。「それならあたし……塚田君に話しておかなくちゃならないことがあるんだけど」
そう言って、許しを求めるように網川の横顔を見上げた。彼の方は、由美子が何を言おうとしているのか、すでにわかっているようだった。
「ここで話すのかい、由美ちゃん」
由美子は目を伏せてもじもじした。
「何ですか」と、真一は訊いた。早くこの二人を追い払いたくなってきた。
「あたし、あの」由美子は舌足らずな言い方をした。「塚田君を追いかけてる樋口めぐみって女の子に、会ったことがあるの」
これには真一も驚いた。「なんですって?」と、声が裏返った。
「樋口めぐみと会ったことがあるんだ、由美ちゃんは」と、網川が割り込んだ。「去年の十月のことだそうだ。ね?」
由美子は両肩を縮めて小さくなった。「ええ、ホントなの。すごい偶然だと思うんだけど。確かに樋口めぐみさんに会ったの」
「どこで?」
由美子は言いよどんだ。網川の顔を見、真一の表情を窺い、それからやっと、「大川公園で」と、囁くような声で言った。
雲は去り、風花はやんだのに、かえって寒くなったようだった。青空の下、寒風のなかで、真一は由美子の話を聞いた。和明の跡を尾けて大川公園にたどりついたこと。そこで薄汚い少女にハンドバッグを盗まれそうになったこと。それが樋口めぐみだったこと。彼女のエキセントリックな様子。困っているところに行き合わせたのが石井良江で、倒れてしまっためぐみを二人で石井家に運び込んだこと。交番に連絡しても埒《らち》があかず、結局、由美子がめぐみを彼女の家に送って行くことになったが、途中で逃げられてしまったこと。
「塚田君は、石井さんの奥さんから、そのへんのことは聞いていた?」網川が尋ねた。
「全然」いささか呆然としながら、真一は答えた。「何も聞いてません」
「君に心配をかけたくなくて、黙っていたんだろうね。そんなことがあったなんて聞いたら、君がますます石井さんの家に帰りにくくなるって思ってさ」
おばさんが樋口めぐみを家のなかに入れていた──そのことがまず、真一には驚きだった。行きがかり上、ほかにどうしようもなかったのだろうけれど、それにしても大変な決断だったろう。
「おばさんは、樋口めぐみを殺してやりたいぐらいに思ってるんだけど」と、真一は呟いた。
「ええ、あたしがお会いしたときもそうだったわ」
「由美ちゃんたちを鼻先であしらったっていう巡査がいちばんけしからん」
「でも、それでよかったのよ」と由美子が言った。「大事にならなくて」
真一は、高井由美子の後ろめたそうなうつむきがちの表情の意味を、やっと悟った。
「そうか高井さん、このこと、滋子さんはもちろん、警察にも話してないんですね? そうでしょう」
由美子はきゅっとくちびるを閉じて、また網川の肘につかまった。網川も彼女を守るように寄り添った。
「話してないんだ。そうですね?」
北風のなかで、由美子の返事は聞こえなかった。ただ、顎がわずかに上下した。
「話せなかったんだよ」と、網川が優しく助け船を出した。
「そりゃそうでしょうね」真一は急に腹が立ってきて──いや、腹立ちや反感をおさえられなくなってきて、強い口調で言った。「このことを話そうとしたら、そもそもなんで由美子さんが大川公園になんか行ったのかっていう理由を説明しなくちゃならなくなる。そしたら、高井和明が、まだ事件が進行中の時期に、大川公園に出かけていってたってこともうち明けなくちゃならなくなる。まずいですよね。大いにまずいよ。だから黙ってたんだ。そうでしょう?」
由美子は網川の背中に隠れようとする。
「網川さん、あなたはそういうことを百も承知のくせに」真一はカッとなった。「なんでそんなにこの人をかばうんです?」
網川が由美子の肩を抱くと、由美子は彼の胸に顔を押しつけて、小さな声で泣き出した。網川は顔を歪め、辛そうに口の端を引きつらせながら、真一の方を見た。
「申し訳ない」と、かすれた声で言った。「このことについては、僕も飯田橋の一件の後に初めて聞いたんだ。やっぱりすごく驚いたよ。そんな大事なことを、由美ちゃんはずっと隠してたんだって」
由美子は顔もあげない。
「塚田君、君が怒るのは当たり前だよ。だけど、由美ちゃんの気持ちが、僕にはわかる。兄さんにとって不利なことを言い出す勇気がなかったんだ。それは仕方ないよ」
「優しいんですね、あなたは」
「友人だからね」網川はきっぱり言った。「それに僕は、このことを隠し通すことだってできたのに、思い切って君にうち明けたのは偉いと思う。もちろん前畑さんにも話すし、警察にも証言しよう。僕が責任持ってそれだけのことはさせる。実は今日、前畑さんに会いに来たのも、飯田橋の一件以来、由美ちゃんにはいろいろ考えることがあってさ、反省もしたし、目標もできたし、それについて前畑さんに聞いてもらいたかったからなんだ」
「滋子さんと何を話すんです?」
網川はちょっと由美子の顔をのぞくような仕草をしてから、ため息をついて、
「前畑さんとは袂を分かつということを言いに来たんだ」と、厳しい目をして言った。
「今後はもう、高井和明は犯人ではないということを訴えるために、滋子さんを利用するのはやめるということですか」
「利用しようとしたことは一度もないよ」
「ウソだ。滋子さんに自分の言い分を書いてもらいたかったから連絡してきたくせに」
「ジャーナリストである前畑さんに、こちらの言い分を聞いてもらいたかっただけだ」
「同じことじゃないか」
「いや、全然違う」網川の目がぐいと真一を捕らえるように睨みつけた。「君とこのことで議論をするつもりはない。だって君は、この事件の当事者ではないんだからね。第一発見者だったことは事実だが、それだけだ。確かに君は残酷な犯罪の犠牲者かもしれないが、だからといって、君に何の関わりもない事件についてまで、したり顔であれこれ言う権利はない。被害者の感情論で由美ちゃんを責め立てるのはやめてほしい」
真一は頭のなかが真っ白になってしまって、言葉が出てこなかった。網川の顔が変なふうに歪んで見える。
「網川さん」由美子が彼の腕に手を添えて、泣くような声を出した。「それ以上言わないで。塚田君が悪いんじゃないわ。隠し事をしてたわたしが悪いんだわ」
「いや、違う」網川はぐいと顎を引き、いっそ精悍な表情になって言った。「塚田君も悪くないし、由美ちゃんも悪くない。誰も悪くないのに、みんな苦しんで、お互いに傷つけあってるんだ。こんなこと、僕はもうやめにしたい。やめにしなきゃいけないんだ」
真一はまばたきした。何度そうしても、やっぱり網川の顔がかしいで[#「かしいで」に傍点]見える。それは真一の心がかしいで[#「かしいで」に傍点]いるせいだ。
「ごめんなさい」由美子が蒼白な顔で謝った。
「わたし、今までしてきたようなことを、全部改めようと思ってるの。兄さんが無実だってことを訴えるためには、もっともっとしっかりしなくちゃ。強くならなきゃ」
しゃべりながら由美子が顔にかかった髪をかきあげた。するとコートの袖が持ち上がって、彼女の左手首に包帯が巻かれているのが見えた。
「それ、どうしたんですか」と、真一は訊いた。自分の声も、普通じゃないように聞こえた。ビブラートがかかってるみたいだ。
「手首をどうかしたんですか」
由美子はあわてた様子でコートの袖を引っ張り、包帯を隠した。
「自殺しようとしたんですか?」
由美子は黙ってうつむいている。代わりに網川が口を開く。「そうだよ。飯田橋の一件が写真週刊誌にすっぱ抜かれたことを知って、目の前が真っ暗になってしまって──」
「手首を切ったと?」
「そうだ。剃刀でね」
真一は網川でなく、由美子に向かって訊いた。「本気だったんですか?」
「塚田君!」網川が気色ばむ。「何てことを──」
「僕は由美子さんに訊いてるんです。あなたじゃない」真一は由美子の顔から目を離さなかった。彼女はまたぞろ網川の背に隠れようとしている。
「本気だったに決まってるじゃないか」網川が怒りを隠さずに吐き捨てた。「誰が冗談で手首なんか切ったりするもんか。君みたいなガキに何がわかるっていうんだ。由美ちゃん、もういいよ、行こう。彼に何を言ったって始まらない」
網川は由美子の肩を抱いて背を向ける。真一は、網川の陰になってしまっている由美子の細い背中に、精一杯の声を振り絞って叫んだ。「由美子さん、あなたは樋口めぐみにそっくりだ!」
途端に由美子の歩調が乱れ、ちょっとたたらを踏んだ。網川がそんな彼女を引っ張るようにして、二人は真一からどんどん遠ざかってゆく。
「大川公園で樋口めぐみに会ったとき、あなただって思ったでしょう? あいつは現実を拒否してるって。自分の都合ばっかり考えてるって。そのときのあなたは樋口めぐみの仲間じゃなかった。同類じゃなかった。だけど今は違う。あなたはあいつと同じだ。同じ穴のムジナですよ」
網川と由美子は滋子たちのアパートの共同玄関までたどりつき、網川が重いドアを押し、由美子をせき立ててその内側へと押し込む。
「あいつもあなたも、自分の好きなものしか見てない。自分の望むものしか知ろうとしない。それで現実がどれほどねじ曲がってもへっちゃらなんだ。まわりを巻き込んで、狼狽《う ろ た》えさせて困らせて、それでも自分の言い分を認めてもらうためには何をやったっていいと思ってるんだ。そうでしょう?」
網川がぐいと振り向いて真一の顔を見据えると、乱暴にドアを閉めた。
「エゴイストだ!」
真一が怒鳴ると、その声をさらうように北風が吹きつけてきた。
前畑滋子は、石井夫妻を送り出すためにアパートの戸口へと出ようとしていた。そこへいきなり荒々しくノックの音がして、バンと扉が開き、網川浩一が顔をのぞかせた。目を伏せた高井由美子が、彼に抱きかかえられるようにして寄り添っている。
「何よ?」と、滋子は思わず大声を出した。狭いリビングでコートを着ていた石井夫妻が、驚いてこちらを見ている。
「すみません」網川は怒ったような声で言うと、滋子の肩越しに石井夫妻の方をうかがって、ぶっきらぼうな会釈をした。
「由美ちゃんがちょっと取り乱してるので、急いであがってきたんです。お邪魔してもいいですか?」
滋子は瞬間、ここ一週間ほどの展開や、今にも泣き出しそうな由美子を心配する気持ちや、滋子の方から由美子と網川に連絡をとって一度話をしようと思っていたことなど、前後の事情をすべて忘れて、純粋に反感を覚えた。こいつはなんだ? この芝居がかった登場の仕方は何様のつもりだ? 一瞬だが、その反感は、滋子自身が驚いてしまうほどに強力で鮮明だった。
「わたしたちはもう失礼するところです」石井夫人が、滋子に気を遣ったのか穏やかな声でそう言うと、夫の方を振り返った。「行きましょうか、あなた」
「塚田君は車のそばで待ってますよ」網川が、なぜかしら頑なに目つきをきつくして、言いつけ口でもするみたいな口調で言った。「早く行ってやらないと、風邪を引きますよ、彼」
石井夫妻は揃っていぶかしそうな顔をした。「真一がどうかしましたか?」と、石井が網川に尋ねる。
「どうもしませんよ。下にいたって申し上げただけです」
夫妻はちらりと顔を見合わせると、挨拶もそこそこに下へ降りていった。入れ替わりにリビングへと入った網川と由美子は、コートもとらずマフラーも巻いたまま、椅子に腰掛けようともしない。滋子は、とっさの驚きは収まったものの、さっき感じた鮮烈な反感からは抜け出しきれず、うまく頭を切り換えることができなかった。
「とにかく座ったら?」
二人にそう声をかけておいて、リビングを横切り、アパートの前の道路を見おろすことのできる窓へと近寄った。下をのぞくと、まだ石井夫妻の車が停まっている。バックで公道へと出ようとしているところだった。真上からでは、石井夫妻の顔も、真一の顔も確認することができない。
狭い道だが、石井夫妻の車は一回で上手に切り返し、エンジンをふかして走り去っていってしまった。下まで走って降りて真一に声をかければよかった──と思いながら、滋子はそれを見送った。
振り返ると、網川と由美子は、本当にとりあえず座っただけで、さっきまでと同じような堅い顔をしたままだ。
「塚田君と何かあったの?」と、滋子は窓際から訊いた。
「ちょっと言い合いをしたんですよ」網川が答えて、顔をしかめる。「あいつ、由美ちゃんにひどいことを言った」
「あたしが悪いんです」
「君は悪くない」
滋子はため息をついた。真一がこのアパートを出て行かねばならなくなった原因は、由美子の起こした騒動にある。滋子がルポの本筋の進行を一旦止めて、手嶋編集長から命じられたとおりに、飯田橋事件の原因と経過について連載の一回分のページを割いて読者に説明しなければならなくなったのも由美子のせいだ。そして由美子があんなことをしてしまったのは、飯田橋のホテルで被害者の遺族が集まるという事について、網川が迂闊に彼女に漏らしてしまったからなのだ。この二人がやらかした事の影響がいろいろなところに出ているというのに、当の二人は何をやってるんだ?
「シンちゃんと喧嘩したの?」
「喧嘩じゃありませんね」網川は真顔で言い切った。「彼は何か誤解してるんじゃないかな。まだ子供だからしょうがないが」
由美子は黙っている。滋子の方ではなく、網川の方ばかり見ているようだ。
仕方がない。みんなで機嫌を悪くしていたって、事は一ミリも先に進まないのだ。「まあ、いいわ。そのことは後にしましょう。来て下さったのは、ちょうどよかったんだ。あたしもお二人に会いたいと思ってたところだったの──」
テーブルの上を片づけ、由美子たちのために新しくコーヒーをいれ替えてやりながら、滋子は現状について説明した。二人は神妙な顔つきでそれを聞いていたが、滋子の話が一段落すると、網川が、妙にあらたまった感じで顔を上げた。
「前畑さん、ルポのなかのことは、前畑さんのご自由です」
滋子はちょっと笑った。「なんだか切り口上ね」
じんわりと、金属質の冷え冷えとした空気が三人の周囲に降りてきた。いや、網川と由美子がこの部屋に入ってきた瞬間から、その空気は存在していたのかもしれない。滋子が今まで惰性で気づかなかっただけで。
「今度の騒動で、はっきりしたことがひとつありますよね?」と、網川が言う。
「何かしら」
網川はうなだれている由美子を一瞥すると、斜《はす》向かいに腰をおろした滋子の顔を正面から見据えた。
「前畑さんは、高井和明が栗橋浩美の共犯者であるという推測に、いささかの疑いも持ってない。そうでしょう?」
滋子は敢えて返事をせずに、網川の続きを待った。
「だとしたら、由美ちゃんはもう、前畑さんに何を望むこともできないわけだ。由美ちゃんがいくらあなたのルポのために情報を提供しても、高井和明の無実を訴える足しにはならないんだから」
なるほど、と滋子が言うと、由美子がその言葉にぶたれたように首を縮めた。
「それで?」と、滋子は網川を促した。「結論はどういうことなの?」
「今後は、由美ちゃんはあなたには協力しません。今まで由美ちゃんがあなたに対して証言したことを、あなたのルポのなかで使うことも拒否します」網川は念を押すように由美子を見た。「そうだね、由美ちゃん?」
滋子はうなだれている高井由美子を見つめながら、去年の暮れ、初めて彼女が電話をかけてきたときのことを思い出していた。三郷市内のバスターミナルで落ちあうまでのいきさつを思い出していた。あのときの由美子の、この世のどこにも居場所が無いような、追いつめられた目の色を思い出した。
滋子は何を言おうかと決めることもなく、思わず口を開いて彼女に呼びかけていた。
「由美子さん──」
「あなたは由美ちゃんを騙していた」先回りして、網川がぴしゃりと割り込んだ。
「騙していた[#「騙していた」に傍点]?」
「ええ、そうです。今さらわざわざ思い出させることもないだろうけど、僕はあなたと由美ちゃんが接触する最初の時から一緒だった。だから、よく知っている。あなたは由美ちゃんの話を聞いて、由美ちゃんに同情するふりをしていた。彼女の生の声が聞きたかったからだ。それがルポにとって格好の材料になるからだ」
ふうと大きく肩を動かして息を吐くと、網川はせせら笑うような顔をした。「そりゃまあ、無理もないですよ。日本中のジャーナリストたちが、栗橋と高井の遺族から話を聞き出したくて血眼になってる。あなたよりもずっと有能で、経験も豊富なら実績もある人たちが、必死になってその方法を模索して、でもできなくて諦めてる。そのなかであなたは、ただ単に、由美ちゃんの藁《わら》にもすがるような気持ちが、偶々《たまたま》あなたの方に向いたというだけで、由美ちゃんをゲットした。こんな素晴らしい幸運を、わざわざふいにすることはない。僕があなたの立場だってそう思う。だからあなたは、カズが犯人じゃないかもしれないなんてことはこれっぱかしも考えていないのに、それを腹の底に押し込めて、由美ちゃんを引き留めておくためだけに、彼女の主張を信じてるようなふりをしたんだ」
滋子は膝が震えるのを感じた。「そんな計算ずくで付き合ったつもりはないけど」
「そうかな」網川は口を歪めた。「それなら前畑さん、自覚がないだけ、そっちの方がよっぽど重症ですよ。計算ずくでやっていたという方が、むしろすっきりする」
「ずんぶんな言い方ね」ようやく、滋子は腹が立ってきた。今の今までは、いきなり後ろから殴りかかられた衝撃でぼんやりとしていたみたいだった。
「わかってないな」網川はぐいと顎を上げ、目を光らせて続けた。「あなたは由美ちゃんに対して、ずいぶんなこと[#「ずいぶんなこと」に傍点]してきたんですよ。由美ちゃんはあなたに騙されてるかもしれない、利用されてるかもしれないと感じていた。でも、カズの無実を訴えるためには、あなたという窓口が必要だった。だから我慢してきたんだ。あなたの本音に気づいてないふりをしてね。そんなサル芝居は、もう終わりにするべきなんです」
滋子は腕組みをして身体を抱いた。そうやって腕を押さえておかないと、何かを投げたり壊したりしてしまいそうだった。
「由美ちゃんが飯田橋のホテルで騒ぎを起こして、それがあんなふうに報道されたことで、あなたは硬派のルポを書くライターとしての自分の身を守らなきゃならなくなった。それで正直な本音を吐いた。高井由美子の言い分なんか信じていない、高井和明が栗橋浩美と二人で一連の事件を起こしたという事実認定は、あなたのなかでは動かしようがないってことをね。だったらもう、由美ちゃんだって、我慢してあなたと付き合う必要はない」
「つまり、あなた方は今日、あたしに縁切りを宣言するために来たのね?」滋子はしっかりと頭を上げて言った。「そうなのね、由美子さん?」
由美子は両手で顔を覆っている。すかさず、網川が言った。「由美ちゃんを脅かさないでほしい」
「脅かしてなんかいないわ。あたしはただ、あなたのご説明じゃなくて、由美子さんの言葉を聞きたいだけよ」
「由美ちゃんはあなたとこんな形で袂《たもと》を分かつことを悲しんでる。だから、これ以上|虐《いじ》めないで下さい」
「ごめんなさい」顔を覆った指の隙間から、由美子が囁いた。謝るしか能がないのかこの女は──と、滋子はカッとなった。
「これからどうするの?」自分を抑えて、やっとその言葉を口にした。そうだ、それを知りたい。何かあてはあるのか?
「和明さんの無実を訴えるために、別の方法を見つけたの? 手だてはあるの?」
由美子がそっと手をおろして顔をのぞかせた。その目は滋子ではなく網川を見ていた。ずっと彼しか目に入っていないのだ。
網川はもう一度確認するように由美子の目をのぞいてうなずくと、滋子の方に顔を振り向けて宣言した。
「僕がルポを書きます」
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15
その週の水曜日のことである。
足立《 あ だち》好子《よし こ 》は、夕食の支度のために、夫と二人の従業員よりも一時間ばかり早く作業場から家の方へと引き上げた。まだときどき疼くように痛む左膝をかばいながら、台所へと入る。作業場の方は十年ほど前に改築してコンクリート造りになったが、住まいの方は築三十五年の古い木造家屋だから、この季節にはすきま風がひどい。火の気のない台所は冷え切っていて、よちよち歩きながら、好子は大きなくしゃみをした。
急いで石油ファンヒーターのスイッチを入れ、やかんに水を満たしてガスコンロにかける。火の色が暖かい。このまま座り込んで一息いれたいところだが、家に戻ってくれば一家の主婦となる好子には、そんな贅沢は許されない。冷蔵庫や収納庫を開けて、夕食の材料を取り出す。今日はひときわ寒かったから、粕汁をつくる。午《ひる》頃から献立は決めてあった。三人分の食事である。
去年の九月の初め頃、好子は納品の途中で交通事故に遭い、左膝を複雑骨折してしまった。入院生活は二ヵ月近くに及び、治療は痛くて辛く、リハビリはさらに過酷だった。
しかし、唐突にひとり暮らしを強いられることになった夫も大変だったことは同じで、好子を欠いた彼の食生活は、いきなり貧弱きわまるものへと転落した。
昔《むかし》気質《か た ぎ》の夫は、一人きりで食事をとるということそのものを、恐ろしく嫌っている。夫がその親から継いだ稼業の印刷屋は、今でこそ赤字でひいひい言っているけれど、昔は相当に盛業だった時代もあり、好子が嫁に来る以前には、従業員慰安旅行に揃ってハワイへ繰り出したこともあったそうだ。当然、使っている人の数も、今とは比べものにならないほど大勢だったし、日曜祭日もなければ深夜までの残業も当たり前だったから、従業員たちはみんなここで昼と夕の食事をとっていた。夫はそういう環境で生まれ育ったものだから、そもそも、一人きりで食事をしたこと自体がないのである。
好子が入院している時も、ぽつんと寂しくテーブルに向かっていると、独房に入れられたような気分になるとか言って、しきりに寂しがったものだ。娘たちは二人とも遠方に嫁いでいるし、まだ子供も小さいから、当てにはできない。好子は病院のベッドにくくりつけられたまま、どうしようもないことでグチをこぼす夫の顔をながめているしかなかった。治療の次に、これがしんどかった。
しかし、そうこうするうちに、夫は自力で解決法を編み出した。二人の従業員のうち、一人は立派な所帯持ちだが、一人は定時制高校に通うまだ二十歳の若者である。増本《ますもと》君という、今時珍しいような真面目な青年だ。夫はその増本君と、一緒に食事をとるようになったのである。増本君も一人暮らしだし、なにしろ安月給だから、食費が浮くのは大いに助かったらしく、快くこの習慣を受け入れてくれた。
むろん、男二人の不慣れな自炊だから、つくる料理は珍妙なものばかりだ。それでも、ひとりぼっちで砂を噛むような食事をするよりは、ずっと楽しくて良かったらしい。
十月の二十日に、好子がようよう退院したときには、増本君はすっかり足立家の台所になじんでいた。退院したばかりの頃には、好子の方も、家事を手伝ってくれる手があるのは有り難かった。その結果、好子がほとんど元通りの元気な身体になった後も、増木君が一緒に食事をする習慣だけは残ってしまったというわけだ。
台所がだいぶ暖まってきた。好子は野菜を洗い、鍋をかけ、慣れた手順をてきぱきとこなしていった。そのうちに、茶の間の古いボンボン時計が鳴った。七時だ。好子は鍋の火をとろ火にしておいて、茶の間に入ってテレビをつけた。そろそろ夫と増本君があがってくるだろう。
テレビ画面には、平日の夜十時からのニュース番組に出てくる女性キャスターが映っていた。好子は曜日を勘違いしそうになった。おや? と思って見ていると、どうやら特別番組であるらしい。去年の九月から十一月の初めまで、世の中をさんざん騒がせた連続誘拐殺人事件を扱った報道番組だ。
──おやまあ。
好子はちゃぶ台の前に座り込み、テレビ画面に見入った。二人の若い男の顔写真が映し出されている。今や、日本国民ならこの二人を知らない者はいないだろう。
右側の、ちょっと面長の顔だちが整っている方が、栗橋浩美だ。左の、太っていて目が小さく、眉毛の下がっているのが高井和明である。この二人が、わかっている限りでも三人だか四人の人を殺した──しかも、面白半分に殺したものであるらしい。
好子は、高井和明の方を知っている。栗橋浩美は知らないが、その母親の栗橋寿美子なら知っている。入院中、短い間だが、同じ病室で隣り合わせのベッドにいたことがあるのだ。寿美子は家の階段から落ちて怪我をして入院していたのだが、少し頭のネジがゆるんでいたというか、心が壊れかかっており、外来患者の子供をさらうという事件を起こして、病室を移された。その後、彼女の個室を高井和明が見舞っているところを、好子は見かけたことがある。
それどころか、彼とは話をしたこともあった。エレベーターの前で、ほんの二三言ではあったけれど、気持ちの優しい良い子だなぁと感じたものだ。病棟の婦長もそう言っていた。好子は、高井和明と栗橋寿美子の息子が幼なじみで、母親に冷たい息子に代わり、高井和明が寿美子の見舞いに来ているのだということも、婦長に教えてもらった。実際、好子の漏れ聞いた会話のなかでも、高井和明は栗橋寿美子に「おばさん、おばさん」と親しげに呼びかけ、思いやりをかけている様子が窺われたのだ。
だから好子は、退院して家に帰って間もなくの十一月五日の臨時ニュースを見て、冗談でなく心臓が停まってしまいそうなほどに仰天した。まず最初に、高井和明が栗橋浩美と一緒に交通事故で死んでしまったということに驚かされた。だが、その驚きなんて、次に来た本物の驚愕に比べたら、癇癪玉《かんしゃくだま》の破裂したぐらいの衝撃しかなかった。だって、あの高井和明が、栗橋浩美と組んで、若い女の子を何人も誘拐し、閉じこめてさんざんいたぶった挙げ句、死体を捨てたり、女の子の家族に電話してからかったり、自分たちのしていることを自慢げに吹聴するためにテレビ局に電話したりしていた張本人だ──というのだから。
最初はまさか[#「まさか」に傍点]と思った。栗橋浩美の方はともかく、自分の知っている高井和明が、あの大きな身体にはにかんだような笑顔のお兄ちゃんが、そんな大それた残酷なことをやるはずがない。何かの間違いだろう。
しかし、その後の報道は、好子のそんな気持ちを裏切るような材料ばかりを続々と提供し続けた。二人が事故死した車は高井和明の自家用車で、トランクには木村庄司という川崎の会社員の死体が押し込められていた。事故を起こす直前に、グリーンロードという有料道路のガソリンスタンドで給油した際、二人が親しげにやりとりをしているのを、スタンドの従業員たちが目撃している。前夜には氷川高原駅近くのレストランの駐車場で密談しているところを、これまたウエイトレスに見られている。どう考えても、二人は気を揃えて行動していたとしか思えない──
栗橋浩美の初台のマンションからは、おぞましい写真が山ほど出てきた。そこに写されている女性たち七人のうち、三人は身元がわかった。皆、行方不明の女性たちだった。そのマンションは栗橋浩美の住まいだったが、高井和明がその近くで目撃されていたことも、近隣の住人たちの証言で確かめられている。栗橋浩美の携帯電話の通話記録には、高井和明への電話の記録がいっぱいある。
共犯──という言葉が、どのニュースでもどのテレビでもどの新聞でも、この二人の関係を説明する単語として使われていた。
病院の婦長の言葉に間違いはなく、二人は幼なじみだったのだという。だが、その関係は対等なものではなく、栗橋が親分で、高井和明は彼の子分か、せいぜい腰巾着みたいなものだったという。栗橋は成績優秀なクラスの人気者で、高井はオチこぼれの虐められっ子だったのだという。
だからこの残酷な所業も、積極的に始めたのは栗橋で、高井は彼に引きずられ、感化され、ずるずると深みにはまっていったのではないかという。
好子にはわからない。そんなことがあるものだろうか?
人間というのは変わるものだ。子供のころには優等生でも、大人になったら箸にも棒にもかからないろくでなし[#「ろくでなし」に傍点]に成り下がるということだってある。子供のときには手の付けられない不良だったのが、立派に成人して地域のまとめ役になるってこともある。子供のころの高井和明が栗橋浩美の腰巾着だったからといって、二十歳過ぎても同じだとは限るまい。人間は成長するのだ。変わらないでいることの方がずっと、難しいのだ。
誰だって子供のころには、怖い虐めっ子から逃げ回ったり、特定の友達に頭が上がらなかったりするものだ。逆に、自分より気が弱かったり立場が弱かったりする友達を虐めることだってあるものだ。だがそれらの力関係が、大人になっても色濃く残っているなんて、そんなに頻繁にあることじゃない。少なくとも好子はそう思う。
好子は男の子を育てたことがない。子供は娘ばかりだ。しかし、増本君たちのような若い従業員の世話を焼いてきた経験なら豊富にある。小さな町工場の親父とおかみさんは、若い従業員たちの日頃の交友関係や金の出入りや女関係について、彼らの親よりも身近に見聞きする機会があるものなのだ。その経験則から判断する限り、高井和明が二十歳過ぎても栗橋浩美に逆らうことができなくて、次々と人殺しを重ねたなんて説は、たとえそれがどれほどもっともらしく、立派な評論家やキャスターやジャーナリストの口から出たものであっても、好子にとっては本当におハナシ、作り話にしか聞こえないのであった。
十一月五日以降、好子の入院していた病院には、警察の人も大勢来たし、マスコミも大挙して押しかけてきた。今でも好子は、十日に一度は外来で診察してもらうので、入院中に親しくなった婦長や看護婦たちが、仕事にならないとこぼすのを何度となく聞いた。それでもその一方で、みんななんとなく興奮し、日頃は縁のない世界の人びとと話をしたり、カメラやマイクを向けられることを楽しんでいるような風情もあるのだった。実際、看護婦たちは好子などより、栗橋寿美子や高井和明についての情報を豊富に持ち合わせているわけで、話す材料なら山ほどあるのだ。
好子と同室だった患者たちのなかには、まだ同じ病室に入院している者もいる。外来に来たついでにと見舞いに寄ってみると、やっぱり彼女たちも興奮していた。病室が活気づいていた。
話によると、警察が興味を持っているのは、高井和明が栗橋寿美子とどんな話をして、彼がどんな態度だったかということだった。何月何日の何時頃に訪ねて来たかというのも問題だった。また、栗橋浩美自身はここに来たことがないか──寿美子が最初にかつぎ込まれたときは別として──ということも、しつこく確認していったらしい。
マスコミの興味の焦点も、最初のうちは警察と同じようなものだったが、患者のひとりがうっかりと、寿美子の起こした子供誘拐未遂事件のことを漏らしてしまってからは、俄然《 が ぜん》様子が変わってきた。実は、病院側からは、当院の管理不行届きの問題にもなるので、この子供誘拐未遂事件については外部に漏らしてくれるなという要請があったらしいのだが、やっぱり、こういうことは隠しておけるものではない。
寿美子の起こした事件など──しかも、実際にはそれほど大げさなものではなかったのだから──大騒ぎして取り上げなくても良さそうなものだと、好子は思う。本筋の大事件とは何にも関係ないのだから。だが現実はそういうふうにはいかなくて、寿美子の頭がおかしかったことが、そのまま栗橋浩美のやった大それたことの裏付けのようになってしまって、ワイドショウなど、これだけで一週間以上も騒いでいた。
ほんのちょっと前まで同室だった患者たちも、口々に好子の考えは甘いと言うのだ。好子の前のベッドにいた中学生の女の子は、賢くていい子だと思っていたのだが、心理学だかなんだかの難しい言葉を振り回して、ナントかは遺伝するとか、幼児期のナントカがカントカすると人は犯罪者になるとか、いろいろ言っていた。彼女の世話をしている母親が、誇らしそうな顔をしてその口上を聞いているのを、好子は憮然《 ぶ ぜん》と見守った。
好子が聞いている限り、彼女たちの話題のなかでは事実と空想と作り話と噂がごっちゃまぜになっていた。腰骨を折ってベッドから動くことのできないおばあさんまで、トイレに行った帰りに高井和明とすれ違ったことがあると言い出すに及んで、好子はいささか哀しくなった。その時点ではまだ、好子の自宅には警察もマスコミも訪れてはいなかった。おっつけ誰かが行くよ、何を訊かれたか教えてねと言われて、重い気持ちで帰宅した。
それから数日後、本当に刑事が二人やって来た。栗橋寿美子と同室だった患者を順番に当たっているらしかった。一人ともきちんと背広を着てネクタイを締め、ドタ靴なんかじゃない、履き良さそうな上等の革靴を履いていた。テレビの刑事ドラマはウソだと、好子は思った。
刑事たちの話し方は丁寧でわかりやすく、好子はあまり緊張せずに、知っていることをきちんと話すことができた。刑事たちは事前にいろいろ調べてきたのだろう、好子の言葉にいちいち驚いたりしなかったが、話が進み、退院の日にロビーで、三度目に高井和明を見かけたとき、彼が心ここにあらずという様子で、たいそう蒼い顔をしていたというくだりにさしかかると、つと目を厳しくした。
「本当に様子がヘンだったんですよ。まるで、何かに後ろから追っかけられていて、逃げようとしているみたいに見えました」
刑事たちは好子の話を手帳に書き留めた。きちんと書いてくれたようなので、好子は意を強くした。
「何があったんだかわかりません。それは栗橋寿美子さんにお聞きになればいいと思いますけど、刑事さんたちは寿美子さんには会ってるんですか」
ニュースでは、栗橋夫婦は家を出て所在がわからないと言っていた。しかし警察なら居所は知っているだろう。
年長の方の刑事が、寿美子からも事情を聞いていること、しかし、彼女は精神状態が良くなくて、証言があまりはっきりしないことなどを簡単に答えてくれた。好子は栗橋寿美子も気の毒なことだと胸が痛んだ。
二時間ほどで話は終わり、刑事たちは引き上げていった。以来、二度と来ないし連絡もない。好子は次第に後悔を感じるようになった。もっともっと言葉を強くして、しつこいくらいに訴えればよかった──高井和明は悪人には見えなかった、大きな丸い身体の、気の優しいお兄ちゃんだった、と。せっかくのチャンスだったのに、無駄にしてしまった。
ドタドタと足音がして、夫と増本君が茶の間の入口に顔をのぞかせた。
「今日はしまいだよ。おい、夕飯は何だ?」と夫が訊いた。
この人は、もう孫までいる歳だというのに依然として子供みたいなところがあり、毎晩のようにこう尋ねるのだ。今晩のおかずは何だ? 俺の好きなものかな?
好子が「粕汁ですよ」と答えると、夫は喜んで手と顔を洗いに洗面所へと行った。後に続こうとした増本君が、テレビをちらりと見て、好子に訊いた。
「おかみさん、これって、あの事件の特集ですか?」
「そうみたいだよ」好子は台所の方へと戻りながら肩越しに返事をした。「ごはん時に暗い話はイヤだから、チャンネル替えちゃっていいよ」
増本君は返事をせずに、突っ立ったまま興味深そうにテレビを観ている。好子はおひたしを小鉢に盛ったり漬け物を切ったり、冷蔵庫からビールを出したり、こまごまと動き回っていた。
「おかみさん」増本君がテレビから目を離さずにまた呼んだ。「これ、ちょっとヘンですよ」
「ヘンて? 人殺しの話なんか嫌いだから、ほかの番組にしてちょうだいよ」
「いえ、いえ、そうじゃないんです」増本君は台所の方に近づいてきながら、「この報道番組は、ほかのとちょっと違いますよ」
「テレビでやることなんか、みんな同《おんな》じだわよう」
「違いますよ。だってこのキャスター、真犯人はほかにいるって言ってる」
増本君はパッとテレビを指さした。「ホラおかみさん、見てくださいよ」
好子はテレビの方に目を向けた。それと同時に、大写しになったキャスターが発言した。
「現在の警察の見解に、本当に間違いはないのでしょうか。見落としはないのでしょうか。我々HBSは独自の取材を重ね、そして、ある推論に到達しました」
一瞬、思い入れたっぷりの間があいて、そしてカメラが切り替わった。画面いっぱいに、大きな文字が躍る。
連続殺人事件の主犯は生きている
その夜の夕食は、食べた気がしなかった。一緒に食卓を囲んでも、好子はずっとテレビを観ていた。夫や増本君にただ機械的に給仕をしては、また画面に釘付けになってしまう。
「テレビでこれと似たような特番をやってるときに、犯人から電話がかかってきたよなぁ。あれはどこのチャンネルだったっけ」
「確か、あれもHBSでしたよ」
二人の会話がわずらわしい雑音に聞こえる。
1 一連の事件の裏には、今までまったく捜査線上にあがってきていない第三の人物が潜んでいる。この人物をXと呼ぶ。
2 事件の真犯人は、このXと栗橋浩美であり、主犯はXである。
3 高井和明は、一連の犯行には一切荷担していないが、栗橋浩美と事件の関わりに気づいており、そのためにXと栗橋に脅迫されていた可能性がある。
HBSの主張は、大きく分けてこの三つになる。それを裏付ける根拠として、
@[#機種依存文字「○内に1」] 高井和明には、彼が積極的に事件に関わっていたことを示す物証が少ない。
A[#機種依存文字「○内に2」] 犯人たちによって誘拐・殺害されたと思われる被害者たちのうち、身元が確定しており、かつ失踪日と場所を絞り込むことができるのは、以下の五名である。
・古川鞠子
一九九六年六月八日 午前一時頃
東京都内東中野駅周辺
・日高千秋
一九九六年九月二十三日 夕方?
東京都内新宿駅周辺
・木村庄司
一九九六年十一月三日 午後?
群馬県氷川高原もしくは湖畔地帯
・伊藤敦子
一九九四年三月十五日 午後?
群馬県渋川市山中
・三宅みどり
一九九三年六月一日 午後?
東京都田無市
現在わかっている限りでは、いずれのケースでも、栗橋浩美にはアリバイが無い。無い[#「無い」に傍点]ということが確認されている。しかし高井和明は、アリバイが確認できていない──つまり、あるかもしれないが無いかもしれないという段階で留まっている。
B[#機種依存文字「○内に3」] 高井和明の遺族は、彼が事件とは無関係であることを根強く主張している。
C[#機種依存文字「○内に4」] HBS独自の調査で浮かび上がった、同一犯人による未遂事件の被害者の証言によると、その際の二人組の犯人のうち、一人の歳格好・人相は、高井和明とはまったく異なった特徴を備えており、同一犯人とは考えられない。
こうして並べられた四つの根拠のうち、やはり衝撃的なのはB[#機種依存文字「○内に3」]とC[#機種依存文字「○内に4」]だろう。キャスターは、四項目の順を追って説明すると言うが、そうなると自然、B[#機種依存文字「○内に3」]とC[#機種依存文字「○内に4」]は番組の後半に登場することになる。視聴者を最後まで惹きつけておこうというテクニックだろう。
栗橋浩美は犯人であっても、高井和明は犯人ではない。しかし犯人が二人組であることは、事件がまだ進行中である時に、HBSの特番にかかってきた犯人からの電話の声紋分析によってはっきりしている。そこで、第三の人物Xの存在が浮上する。そこまでは、好子にもスムーズに理解することができた。実際、好子は嬉しくて仕方がなかった。そうだ、そのとおりだ、あの高井和明は犯人じゃない。あんなに気だての優しい青年が、残酷な人殺しなどするものか。
さてHBSは、なぜこの謎の人物Xが、栗橋を押さえて主犯の座にあるのか、それについても推論を展開する。普通に考えれば、栗橋の初台のマンションからはあれだけ大量の写真と被害者のものと思われる白骨化した遺体が出ているのだから、栗橋こそ主犯だという結論が出てきそうなものだ。だがしかし、HBSは、ここでも例の特番にかかってきた電話を引き合いに出す。
あのとき、コマーシャルで犯人のおしゃべりが中断される前の会話と、その直後の怒って電話を切ってしまうまでの声の持ち主は、声紋分析によって、栗橋浩美であるということが判明している。そうすると、そのあともう一度かけ直してきた方の電話の声は、Xの声だということが推定される。ちなみに、高井和明の場合は、彼の声を録音したものが残されていないため、声紋を比較鑑定することができず、ここでもひとつ大事な物証が落ちこぼれていた。
さてXによるものと思われる後半の通話からは、先ほど電話を切ってしまったことに対する遺憾の意と、HBSとの話を先に進めようとする意欲が感じられる。もしも栗橋が主犯であり、Xが彼に従うだけの従犯であるならば、こういう態度をとることは難しいだろう。栗橋の方は自発的に通話を打ち切っているのである。
さらにもうひとつ、従来は見落とされていた注目すべき事実がある。このHBSの特番が放映された直後に、古川鞠子の祖父である有馬義男氏のところに、ボイスチェンジャーを使って、ある人物から電話がかかってきているのだ。この電話は録音がされていなかったために、通話内容については有馬氏の記憶に頼るしかないが、捜査本部でも、この電話は栗橋からかかってきたものだと、ほぼ断定している。
そして有馬氏が捜査本部に証言したところによると、このときこの電話の主すなわち栗橋浩美はたいへん怒っていた。HBSの電話を切ってしまったときと同じように怒っていたという。
有馬氏はHBSの特番を観ていたので、事実経過を知っていた。また、これは非常に慧眼《けいがん》であるが、声紋云々の事実が出てくる以前に、この時リアルタイムで既に、前の電話と後の電話が違う人物によってかけられているということを察知していた。当時はまだ、犯人複数説でさえ、仮説としては脆弱《ぜいじゃく》なものだと考えられていたことを鑑《かんが》みると、これは大変鋭い洞察だと言わねばならない。
そこで有馬氏は電話の相手に向かい、おまえたちは二人組ではないのか、おまえ一人で全部のことをやってのけているわけではないのだろう、むしろおまえは誰かに使われているだけではないのかというようなことを発言した。栗橋浩美と思われる人物は、すると、有馬氏を罵《ののし》って電話を切ってしまったという。
捜査本部では、この事実にほとんど着目していない。黙殺していると言ってもいい。なぜならば、栗橋浩美と高井和明の二人組が犯人であるという仮説に沿って動いている捜査活動の上では、この事実は非常に厄介なものになってくるからである。捜査本部が完成させようとしているジグソーパズルには、この断片はけっして収まることがない。
捜査本部は「栗橋主犯・高井従犯」説を組み上げようと躍起になっている。それなのに、有馬氏のこの小さなエピソードは、小さいながらも、この仮説を根底から覆してしまうだけの力を持っている。これは、捜査本部にとっては存在してはならないパズルのピースなのである。
もしも捜査本部が描く想像図のとおりに、栗橋が主犯で高井が彼の言うなりに従うだけの腰巾着であったならば、立腹した栗橋によって一旦切られた電話は、その番組中ではかけ直されることはなかっただろう。また、百歩譲って、仮に共犯者″h苻a明がこのときだけは勇気を奮い起こし、HBSとの交渉を続けようと彼の独断で電話をかけたとしたら、その場合は栗橋だって黙っていなかったに違いない。
犯人たちは常に携帯電話を使用していた。その上で用心を重ね、通話する場所も移動している形跡がある。HBSや有馬義男氏を始めとする被害者の家族に電話をかけるとき、犯人たちが必ず二人一緒に揃っていたかどうかもわからないし、極端な場合、被害者の家族への電話のうちには、どちらかが独断でかけていたものさえあったかもしれない。
だが、少なくともこのHBSの特番の際は、栗橋が怒って電話を切った後の共犯者の迅速な対応を見る限り、二人は同じ場所にいて、栗橋が電話をかける様子を、共犯者が見守っていたという可能性が非常に高い。そうなると、たとえばこの共犯者が高井和明で、彼が蛮勇を奮って電話をかけ直したのだとすると、栗橋浩美は、なぜそれを黙って見過ごしにしたのだろうかという疑問も出てくるのだ。
足立好子は食い入るようにテレビ画面を見つめ、キャスターが説明してゆく事柄の、一言半句も聞き落とさないようにと力んでいた。夫が少しばかり呆れたような顔をしているのも平気だった。なにしろあたしは高井和明に会っているのだ。話だってしているのだ。あの子は人殺しなんかする子じゃないって、ずっとずっと思っていたのだ。だけど警察もニュースもそんなふうには考えてくれなかった。ここへ来て、やっと味方が現れたのだ。好子は拳を握りしめていた。
「おかみさん、大丈夫ですか?」
増本君が心配そうにのぞきこむ。二時間の番組はちょうど前半が終わって、スポンサーの紹介が始まった。好子はふうとため息をつくと、台所へ立って茶をいれた。
「おまえ、あんまり熱くなるんじゃないよ」
夫が少しばかり怒ったような顔をした。
「人間なんて、外っ面《つら》を見ただけじゃ、なかなかわかるもんじゃねえ。ニコニコしてたって悪いヤツはいるんだ」
「そんなことぐらい、あたしだって百も承知ですよ」
コマーシャルが終わり、またキャスターが登場した。
「我々HBSは、いたずらにこの事件の新解釈を持ち出し、社会に不安をもたらすことを狙って、このような主張を展開しているわけではありません」
捜査本部がすべてを栗橋・高井のせいにして、早々に事件簿を閉じようとしているのは、こういう残酷で被害者の多い事件の解決に手間取ると、いろいろな点で社会によくない影響を及ぼすからである。お騒がせでいたずら好きの模倣犯の登場も懸念される。この手の犯人が法の網の目を逃れることができるという前例をつくれば、事件の残虐性に触発されて行動を起こす、模倣犯よりもさらに危険な本物の犯罪者の予備軍を刺激することにもなりかねない。
だから解決を急ぐ気持ちはわかる。わかるが、真実をなおざりにしてまで社会の平穏を優先することはできない。キャスターは勇ましくそう言い切って、おもむろにゲストを紹介した。
また評論家とか学者が出てくるものと思っていた好子は驚いた。キャスターの隣には、見たところ大学生のような青年が、少し緊張した面もちで座っている。彼一人だけだ。
青年はキャスターと挨拶を交わした。初めまして、と言う声は、意外なほど落ち着いていた。
「こちらにお迎えしたゲストは、網川浩一さんとおっしゃいます」キャスターはカメラに向かって言って、それから青年の方に振り返った。
「現在のお仕事は、学習塾の講師ということでしたね?」
「はい、そうです。小中学生を教えています」と、網川という青年は答えた。きちんと上着を着ているが、ネクタイは締めていない。シャツは清潔そうだ。髪は長めだが、きちんと櫛が通っている。顔立ちの整った、なかなか好感の持てる青年である。
「網川さんは、死亡した栗橋浩美と高井和明の同級生でいらっしゃいます」
眠そうな目をしていた好子の夫が、げえっというような不謹慎な声をあげた。
「同級生? こいつ、よくテレビなんかに出てきやがったな」
「ちょっと! 黙っててよ」好子はテレビのボリユームをあげた。
「番組の前半でお送りしたHBSの新しい見解は、実は、我々だけの見解ではありません。もちろん我々HBSも、一連の事件については取材を進めていましたが、今回、その途中経過としてこのような番組を視聴者の皆様にお届けすることになったきっかけは、網川さんから一通のお手紙をいただいたことでした」
画面に手紙が映し出される。横書きでびっしりと文章が連なっている。ナレーションの声がかぶさる。現在の警察の捜査活動方針には、僕は重大な疑問点を感じます──
「網川さんは、先ほども申し上げましたとおり、生前の栗橋浩美・高井和明の二人をよくご存じでした」
「はい。二人とも幼なじみですし、つい最近まで付き合いがありました」網川ははきはきと答える。
そしてその網川としては、今の状況を、どうしても見過ごしにできなかったというのである。
「僕自身、友人として忍びないものがありましたが、それ以上に、高井君の遺族の苦しみを見ていると本当に気の毒で、このまま黙っていてはいけないという気持ちがどんどん強くなってきたんです」
足立好子は、テレビ映りの良いこの若者の顔を、食い入るように見つめた。真っ直ぐな眉の線。意志の強そうな口元。賢そうなまなざし。長年、有限会社足立印刷で働いてくれたたくさんの若者たちを観察してきた彼女のふたつの目に、網川浩一というこの青年は、たいそう好ましく、誠実で頼りがいのある存在のように見える。いつぞやのあの──田川とかいう男のように、変な衝立の陰に隠れたりせず、堂々と出てきているところもすがすがしい。そういえば、結局のところ田川という男は、連続殺人事件には無関係だったようだけど、別のところで、小さな女の子を追い回すなどというイヤらしい事件を起こしていたのだった。
「高井君のお父さんは心労のあまりずっと入院したきりです。お母さんもこの数ヵ月、ほとんど外に出ることもままならず、隠れるように暮らしています」
網川青年はそう言うと、ちょっと言葉を切って口元を引き締め直した。
「でも、なかでもいちばん気の毒なのは高井君の妹さんです。彼女は、兄さんがあんなおぞましい事件に関わっているはずはないと、堅く信じています。実際、警察の方々に対しても、繰り返しそれを訴えているんです。高井君の家は蕎麦屋で、家族で仲良く営業していました。ですから、会社勤めをしているのと違って、家族の皆さんは高井君の生活のほとんどを知ることができる立場にあったんです。警察は、高井君が、店を閉めて家族が寝静まった後、こっそりと家を抜け出して事件を起こしていた、週に一度の定休日のときだけ事件に関わっていた──なんて説を立てていますが、そんなバカな話はないですよ。ちょっと冷静に考えてみてほしい。高井君は、三度の食事もきちんと家族と一緒にとっていたんです。生活ぶりに乱れたところなどまったくなかったと、妹さんは証言している。いったいどんな人間が、同居している家族にはまったく悟られることなく、まるでハンティングみたいに次々と、こんな手の込んだ人殺しを続けることができるというんです?」
網川青年はカメラに向かって訴える。
「予断を抜きにして、常識で考えてみて欲しい。それなのに、こんな当たり前の主張が、まったく聞き入れてもらえないんです。警察は頭から高井君を犯人と決めつけて、すっかり筋立てをつくってしまって、裏付けに使えそうな証拠ばかりを選んでいるわけですから、ご両親や妹さんの言っていることなど邪魔なだけなんです」
さすがに興奮したのか早口になってきた網川青年を制して、キャスターが割り込んだ。
「網川さん、今あなたは、高井和明さんとそのご遺族のことをお話しになっていますね。では、栗橋浩美さんとそのご遺族についてはどうお考えなのですか?」
網川青年はちょっとうつむいた。しきりとまばたきをする。が、次に目を上げたときには、また決然とした表情を浮かべていた。
「幼なじみとしては本当に辛いことですが、栗橋浩美については、僕も、彼が一連の事件の犯人であったことに間違いはないと考えています。ただし、彼には別の共犯者がいたんでしょう」
キャスターが、HBSの主張を書き並べたフリップを掲げてみせる。@[#機種依存文字「○内に1」]からC[#機種依存文字「○内に4」]までの項目を、もう一度順番に指し示す。
「栗橋浩美の共犯者は、高井和明ではなく、第三の人物Xであった」
キャスターにうなずいて、網川が口を開いた。「しかもそのXこそが、事件のいわば主犯と呼べる中心的な存在である──そう考えれば、以前の特番のなかのかけなおされた電話≠ニいう謎も、簡単に解けると思うんです。事件のすべてを計画し、お膳立てをした主犯は別にいる。栗橋は──こんな言い方をしてはいけないかもしれませんが、単なる使いっ走り%Iな存在に過ぎなかったんじゃないでしょうか。だからこそ、主犯が後から電話をかけなおしてきたんでしょうし、栗橋は栗橋で、番組が終わったあとで、有馬義男さんのところに八つ当たりみたいな電話をせずにはいられなかったんでしょう」
「しかしその場合に、高井和明さんは、何とも微妙な立場に置かれることになりますね」
キャスターはあくまでも冷静に続ける。しかし、「高井和明さん[#「さん」に傍点]」という呼び方だけは、ぬかりなく強調している。
「先ほど網川さんは、高井さんのご家族は、彼の生活ぶりにおかしな点はなかったと主張しているとおっしゃいました。しかし、十一月四日から五日にかけての行動は、明らかにおかしいですよね。栗橋浩美に呼び出されて、わざわざ自分で車を運転し、氷川高原まで出かけている。そして彼と親密に何事か相談している様子を目撃されている」
「ええ、ですからそれは──」
急いで割り込もうとする網川を制して、キャスターは続けた。「事故の起こった十一月五日も、直前まで、高井さんは、栗橋浩美と行動を共にしているところを、複数の証人に目撃されています。その証言によると、栗橋浩美が少し精神的に不安定な様子で、高井さんは彼をかばって行動しているように見えたということです。網川さんは、これについてはどんなふうにお考えなんでしょう? あるいは、網川さんだけでなく、高井さんのご遺族がどういう意見をお持ちになっているかということでも結構ですが」
足立好子は箸を置いて手を握りしめた。確かに、好子のような素人の目にも、十一月五日の高井和明の行動はおかしなものに見える。それに、四日から五日にかけて、夜はどこにいたのだろう? 今までの報道では、栗橋と高井は、二人して彼らのアジトに泊まっていたのだということになっている。五日に死体で発見された木村庄司も、おそらくはそのアジトに監禁されており、そこで殺害されたものであると。
網川青年は、呼吸を整えるように、わずかに間をおいた。それから、男にしては長いまつげを持ち上げて、ゆっくりとキャスターの方を見た。
「僕は、高井君は真犯人Xに脅迫されていたんじゃないかと思うんです」
キャスターが息を呑んだような顔をして網川を見つめる。実際には、キャスターがこの爆弾発言を今初めて耳にしたなどというバカなことがあるわけはない。生放送だって、リハーサルも下準備もちゃんとやっているに決まっているのだから、この進行は予定どおりのものであるはずだ。それでも、キャスターが怖いくらいに真剣な顔をしているので、好子もちょっと鳥肌がたった。
「脅迫されていた」と、キャスターは思い入れたっぷりに繰り返した。
「はい。順を追って説明します。まずいちばん最初の段階として、まず、高井君が何かのきっかけで、栗橋浩美があの一連の事件の犯人であることに気づいてしまった──ということがあったんじゃないかと思うんです」
栗橋と高井は幼なじみであるだけではなく、大人になってからもごく近所に住んでいた。確かに栗橋は、初台のマンションで一応一人暮らしをしていることにはなっていたが、定職に就かずブラブラしている身の上だから、実家にはしょっちゅう出入りしていたようだ。これについては近所の証言もある。
また栗橋は、高井からかなり頻繁に金を借りていた。実質的には、借りるというよりはたかる≠ニ呼んだ方がふさわしいやり方だったようだ。高井は栗橋の図々しい態度に、特に逆らうこともなく従っていた。捜査当局の栗橋主犯・高井従犯$烽フ根拠も、ひとつはここにある。
「警察は、二人がそういう形の──一種、親分と子分みたいな友達付き合いをしていたんだから、高井が栗橋に引きずられていてもおかしくない、という考え方をしています。でも、それならば、二人がそういうふうに友人関係を続けていたんだから、栗橋のやっていることについて、それまではまったく関わりを持っていなかった高井君が、何か察知するものがあって疑いを持つ──ということだって、充分にあり得ると思うんです」
「しかしですね、網川さん」キャスターがまた割り込む。「栗橋浩美がやっていたことは、たいへん凶悪な犯罪ですよ。そんな大それた事を、何も知らない友人に、そう簡単に察知されるような振る舞いをしますかね? 彼はけっしてバカではないですよ」
「栗橋は──」網川青年はちょっと言いよどみ、どこかが痛むかのように顔をしかめた。
「僕の知っている限りでは、確かに栗橋はとても頭が良かったです。でも、その反面、うぬぼれが強いというか……他人のことを頭からバカにしてかかるヘキがありました。このことは、彼が就職してたった三ヵ月足らずで辞めてしまった証券会社の同僚の人たちも、どこかのインタビューに答えて同じようなことを言っているのを聞きました」
そういえば、足立好子もそんなことの書かれた週刊誌の記事を読んだ覚えがある。あれは、栗橋浩美の中学生時代の友人の証言だったろうか。
「栗橋は、特に高井君のことをバカにしていました。もうよく知られていることですが、高井君は子供のころ目が悪かったんです。視力には問題がないのに、左目がまったく機能していないという視覚障害で、そのせいで学校の勉強についていけずに、実際以上に頭が悪いと思われていました。中学二年か三年のときにそのことがわかって、回復訓練を受けて、以来、ぐんぐん成績も良くなったはずです。でも栗橋は、昔からの高井君のイメージをそのまま引きずっていたんです。高井君の気が優しいことにつけ込んで金をたかるなんてことは、そうでなくっちゃできませんよ」
キャスターが、うーんと唸る。
「こいつ、素人の言うことにやたらに感心しやがるな」夫が文句をつけるみたいに言った。ビール二本ですっかりご機嫌になっている。
「もうちょっとしっかりしてくれないと困るよ、なあ?」
好子は返事をしなかった。粕汁もすっかり冷めてしまった。
「そういう栗橋だから──」網川青年の声が、また興奮で高くなる。「何も知らない高井君の前で、世間を騒がせている殺人事件の話をわざわざ持ち出して、あれは自分がやっているんだぐらいのことをほのめかしたとしても、ちっとも不思議はないと、僕は思います。栗橋には、そういうところがありました。目立ちたがり屋で自信家でしたから、良いことでも悪いことでも、自分がやったことについて、黙っていることができないんです。でも、なにしろ今回はたいへん凶悪な殺人事件です。被害者も一人や二人じゃない。いくら栗橋だって、相手を選んでほのめかさないことにはまずいことになるってことぐらいは、ちゃんとわかっていたはずです」
「だから高井さんに──」
「ええ、そうです。高井君をバカにしていたから、こいつなら何も気づくはずがないとタカをくくっていたから、安心して犯行についてほのめかしたということは、大いにあり得ると思います。でも、高井君は栗橋が思うほどバカじゃなかった。栗橋が何を言っているのか理解して、それがウソなのか本当なのか、疑う必要のあることなのかないことなのか、しっかり見分けたんだと思います」
そして栗橋浩美への疑いを深め、どうしたらよいかと煩悶する──
「しかし、それはあくまでも網川さんの想像ですよね?」
「確かに僕の推測です。でも、高井君の妹から、こんな話を聞いています。」
キャスターが別のフリップを立てる。最初に右腕が発見された、大川公園の写真である。写真と一緒に、栗橋と高井の住んでいた練馬の町から大川公園に行くまでの路線図が載せてある。
「視聴者の皆様はすでにご存じのとおり、これは事件の発端となった大川公園です」
キャスターに促され、網川青年は後を受けて続けた。「十月の半ばころ、高井君の妹さんは、外出する兄さんの後を尾《つ》けたことがあるそうなんです」
「尾行したということですね?」
「はい、そうです。なぜそんなことをしたかと言うと、そのころ高井君が沈みがちで、何か悩んでいるように見えたからだというんですね。ただこのときは、妹さんは、彼に恋人ができて、つまり恋愛問題で苦しんでいるのじゃないかと考えたんだそうです。そこで定休日に兄さんが外出する後を尾けてみた。兄さんがデートに行くのじゃないかと思ったからです」
しかし、高井和明はデートに出かけたのではなかった。しかも行き先は大川公園だったのである。
「路線図を見てもよくわかりますが、大川公園は、練馬に住んでいる人間が用もないのにわざわざ電車に乗って出かけてゆくような場所にはありません。日比谷公園や新宿御苑のようなデートスポットでもありません。妹さんはたいへん不審に思いましたが、公園に入ったところで兄さんを見失ってしまい、結局一人で家に帰ってしまったので、このとき高井君が何をしたのか、あるいは誰かと会ったのか、何もわかっていません。でも、このころ高井君が沈みがちで、悩んでいるように見えて、しかもわざわざ大川公園に出向いているという事実に変わりはありません。もしも彼が犯行に関わっていたのならば、こんな不用意なことをするわけがありません」
キャスターが、わずかに意地悪く笑いながら言った。「犯人は必ず現場に戻る──とも言いますよ」
網川は髪が乱れるほどに強くかぶりを振った。「この犯人はそんなにバカじゃない。警察側が、犯人は必ず現場に戻ってくるという経験則をもって捜査をするということを理解しています。たぶん、犯罪捜査についても詳しくて、流行の|犯罪心理分析官《プ ロ フ ァ イ ラ ー》関係の本だって、きっと読んでいるはずです。絶対に、無造作に現場を訪れたりはしませんよ。高井君は、犯人じゃないからこそ大川公園に行ったんです」
「何をしに[#「何をしに」に傍点]?」
「考えに行ったんです、きっと」網川青年は断言した。「栗橋浩美がほのめかしたことをどう扱えばいいのか、彼が本当に一連の事件の犯人なのかどうか。あの時点では、大川公園だけが唯一、事件に関係ある現場として公に報道されていた場所でした。高井君はそこに立ってみたかったんですよ。そこで、栗橋浩美がここに切断された右腕を捨てに来たなんてことが本当にあったかどうか、じっくり考えてみたかったんです、きっと」
キャスターは、また思い入れたっぷりにしかめ面をした。それからおもむろに言った。
「そしてその結果、疑いを強めた」
「そうです。僕は彼のことをよく知ってる。知ってるから言いますけど、その場合、高井君は一人で警察に通報したりしません。絶対にしません。そんな思いやりのないことができるヤツじゃないんです。だから彼は、栗橋と話し合ったと思う。そして、もしも本当に殺人なんて恐ろしいことをやっているのなら、自分と一緒に警察に行こうと勧めたはずです。ところが、栗橋は一人じゃなかった。主犯は別にいた。その結果、思いやりが裏目に出て、高井君は、もしもこのことを他所《 よ そ 》にばらしたら、おまえも家族も殺してやるとか──脅されることになってしまった。だから、目撃されている高井君の行動は、けっして自発的なものじゃない。脅されていたから、仕方なしに従っていただけなんです。それに彼は、栗橋が主犯に引きずり回されているだけだということも知っていた。だから栗橋に同情的で、殺人を重ねて精神的におかしくなりつつあった彼をかばうような行動をしていたんです」
網川青年が一連の主張を終えると、驚いたことに、キャスターは一冊の本を掲げた。
『もうひとつの殺人』というタイトルだ。著者は網川浩一である。キャスターが、今日の番組の主旨は、この網川の著書に沿って展開されたものであるということを説明する。
「なお我々HBSは今後も網川さんと協力態勢をとり、事件の真相解明に挑む方針を持っております」
「なんだよ、結局はてめえの本の宣伝か」と、夫がちゃちゃを入れた。しかし、足立好子はまったく別のことを考えていた。
──この網川って子に、会いに行こう。
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16
武上悦郎は、約束の時刻に十分遅れた。建築家≠ヘホテルのラウンジの椅子に深々と沈み、熱心に本を読んでいた。
武上が小走りにロビーを横切って近づくと、建築家≠ヘ本を閉じ、コミカルな感じに眼鏡をずらして、裸眼で武上の顔を見た。これは、読書のために老眼鏡を使うようになった証拠である。
「ガミさんが遅刻とは珍しいな」
「すまん、本を読んでいて乗り越した」
武上は斜向かいのソファに腰をおろした。よく見ると、建築家≠ェ読んでいたのは本ではなく、ブックレットのような薄いものだった。論文集か何かだろう。
「何を読んでたんだ?」
武上は古びた鞄から一冊の本を取りだした。灰色の表紙に、『もうひとつの殺人』というタイトルが、きっちりとした活字で刻まれているだけのシンプルな装丁である。厚さは二センチほどだし、写真や図版が多いので、読むのに手間がかかる本でもない。
「読み終わったのか?」
「まだだが、あと少しだ。そのせいで乗り越したようなもんだ。申し訳ない」
「これなら、俺はもう読んだ」
発売は一昨日のことである。その前日に、著者の網川浩一がHBSの特別番組に生出演して話題をつくった。版元は大手でこそないが、ノンフィクション系のベストセラーを世に出すことの多い一流出版社だ。
「売れてるらしいな。この網川という若造、なかなか商売が上手い」
「仕掛け人がいるんじゃないのか」
「どうかな……」建築家≠ヘ、見返しに掲げられている網川の顔写真を見ながら首をかしげた。「ガミさんは、こいつの出たテレビの方は観たのか?」
「あいにく観てないんだ。デスク班で録画してあるから、観ようと思えばいつでも観られるんだがね、内容的には本に書いてあることと一緒だというから」
「うん、それはそうだ。だが、生でしゃべっているこいつの顔を見ていると、なかなか興味深いものがあった」
武上は煙草を取り出した。「あんたはどう思う? 網川の主張する説──」
建築家≠ヘにやにやした。「まず自分がどう思うかを述べずに、先に質問をするとは、ガミさんにしちゃ弱気だな」
武上は煙草に火を点《つ》けながら、周囲をぐるりと見回した。このホテルは、武上が建築家≠ニ会うときに、いつも利用する約束の場所である。いつ来ても、これでよく潰れないものだと感心するほどに閑散としている。ロビーはひろびろとしており、椅子とテーブルが点在しているので、めったなことがない限り、隣のテーブルに客が居合わせるということもない。今日も、いつもながらに空《す》いていて、フロントのカウンターで従業員があくびを噛み殺しているだけである。
「実は、捜査本部のなかでも、事件に対する高井和明の関わり方については意見が割れているんだ」
「そうだろうな。割れて当たり前だ」建築家≠ヘ首を振る。「なにしろ物証が少ない」
「だからこそアジト探しが重要になってくるわけなんだが……」武上はうなじをこすった。
「それについては、今のところ、目ぼしい手がかりは皆無という状態だからな。若手のなかには、実は特定のアジトなんかはなくて、犯行のたびに、犯行現場の近くの手頃な廃屋だの、夜間は人のいなくなる工場や学校なんかを適当に探して使ってたんじゃないかなんて説を持ち出してくる連中まで出てきた」
「アジトはあるよ」建築家≠ヘきっぱりと言った。「一ヵ所だけ。特定の場所だ。今の捜査本部のアジト探しの方針も間違ってはいない」
武上は目をあげて建築家≠見た。相手はブックレットを上着のポケットにしまいこみ、傍らに置いていた薄い鞄のなかから。レポート用紙をホチキスで綴じたものを取り出した。
「今現在の、俺の意見をまとめてみた」と、それを武上に差し出す。「もっとも、大したことは書いちゃいない。口で説明しても十分ぐらいで済むよ。その書類は、あんたがわざわざメモをとらないで済むように用意しただけのもんだ」
「ありがとう」武上はそれを膝の上に載せ、最初のページを開いた。建築家≠フ几帳面な字が並んでいる。
「最初に言い訳をするようで申し訳ないが、ガミさん、今回のこの件は、正直言って俺には難しすぎる。なにしろ、建物の全体像どころか、ある一室の間取りさえわからないんだからな」
「ああ、それはわかっている」
建築家≠ェ推論の材料として使うことのできるものと言ったら、栗橋浩美のコレクションしていた写真に写っていた断片的な映像だけなのだ。壁の一部、柱の一部、天井の一部。床の一部。
「それでもいくつか俺なりに──そうだな、七十パーセントぐらいの確信を持って推論できる事柄があることはある。だから、それについて話す。ああ、それから──」
と、ちょっと苦笑して、
「俺には犯人は特定できない。ただ、複数犯の仕業だということは俺自身が確信しているから、犯人たちのことは彼ら≠ニ呼ばせてもらう」
建築家≠ヘ座り直すと、前屈みになって膝の上に肘をつき、両手の指をあわせた。
「まず第一に、一連の写真の撮影に使われた場所──つまり彼らのアジトは、一般の住宅じゃない。共同住宅でもなく、一戸建てだ。造りは二階建て以上で、家の内部に必ず階段があり、その階段の上部には吹き抜けがある可能性が非常に高い」
武上は手元のレポートに目を落としながらうなずいた。
「まず、一般住宅や共同住宅ではないという推論の根拠から行こう。これは簡単だ。部屋の天井が高いんだよ[#「天井が高いんだよ」に傍点]」
建築家≠ヘ右手の人差し指をあげ、つとホテルの天井を指さした。それから、その指を振りながら続けた。
「被害者たちが、椅子に座らされたり、椅子の足に手錠でつながれたりしている写真があるだろう? 何枚もある。それを全部並べて、何脚あるか数えてみた。二脚だ。つまりこの椅子は、彼らが被害者を監禁している部屋に、常に置いてあったんだろう。一脚は木枠に布張りの背もたれがついている。もう一脚はスツールだが、座る部分がエンドウマメみたいな変わった形になっている。スツールの方はほとんど脚しか写っていないんだが、一枚だけ、ちらりと座部の縁の部分が見える写真があるんでね」
レポートのなかに、そのふたつの椅子の簡単なスケッチが描いてある。推定されるその寸法も添えてある。
「その推定寸法は、一般的な椅子の寸法と、写真に写っていた被害者たちの身長から割り出される問題の椅子の高さや幅とを比べてはじき出したものだ。で、これを基準に、椅子が写っている写真一枚一枚が、どの角度・どの高さにカメラをセットして撮影されたものかを、コンピュータにデータをぶちこんでシミュレーションしてみると──」
建築家≠ヘ手をのばし、武上の膝の上のレポートをめくった。
「椅子が写っている写真は全部で五十八枚。さて、この部屋が、標準的な──つまり建築棊準法の範囲内で設計された天井高の部屋であると仮定するならば、この五十八枚のうち、最低でも二十二枚には、天井の一部が写り込んでいなければならないんだ。ところが実際には、五十八枚のうちたった九枚にしか天井が写っていない。そしてその九枚は、ほとんど床の上にカメラを置いて、そこから天井の方を仰ぐようにして撮ったものなんだな」
武上はうなずいた。だいたいどんな写真なのかは記憶にある。被害者を四つん這いにさせて、下からその顔を撮ったものだった。
「従って当該の部屋は、一般的な基準を超えた贅沢な天井高を持っているということになる。これは分譲住宅ではまずあり得ない。マンションなんかじゃ絶対にない。そこで、この家は個人の一戸建て注文住宅であるという、第一のフラグが立つことになるわけだ」
さらに──と、建築家≠ヘ次のページをめくるように促す。武上はそれに従う。
「この一戸建て注文住宅は、冬場の外気温が氷点下まで下がり、降雪の可能性も高い土地に建てられていると思われる。なぜかと言えば、まず窓ガラスだ。問題の部屋の窓枠や窓ガラスが、ほんの少しでも写り込んでいる写真は、全部で六十三枚あった。そのうち、窓枠とガラスが一緒に写り込んでいるものは四十七枚。レンズで拡大してチェックすると、かつて二重サッシ仕様だった窓枠を、改造して普通の一重サッシにした形跡が認められる。その改造時期は、そう昔のことじゃない。せいぜい四、五年前だろう。おそらく手入れや掃除が大変なんで、変えてしまったんだろうな。その代わり、使われている窓ガラスは遮音・防湿性に優れ、気密性の高いものだ。そして、おそらくはこの窓の改造と時期を同じくして、それまで問題の室内の壁面に取り付けられていたと思われるパネルヒーターが撤去されている。ほんのわずかだが、壁紙にその痕跡が認められるんだ。手間を惜しんだのか金をケチッたのか、パネルヒーターを取り去った後の壁紙を張り替えてないんだな」
建築家≠ヘ、鼻にしわを寄せて今にもくしゃみをしそうな顔をした。これこそが、彼の俺は不機嫌だ≠ニいう表情である。
「犯人たち──彼らによる連続殺人の、第一の被害者は誰か」
「それはまだ判明していない」と、武上は言った。「初台の写真コレクションのなかの、身元不明の誰かかもしれないし、まだほかにいるのかもしれない」
建築家≠ヘうなずく。「現時点でわかっているのは、最後の被害者は木村庄司だということだけだもんな」
「ああ、そうだ」
「俺は、この建物の居室の改造時期と、殺人の始まった時期とは、ほとんど同じじゃないかと思う。もちろん、微妙な前後差はあるだろう。最初の殺人は場当たり的にやっつけて、それが面白かったもんだから、被害者を監禁していたぶるための場所が欲しくなって、この部屋をそれに充てることになったのかもしれないし、あるいは、犯人たちは芯から悪魔的な連中で、最初《 は な 》からこの建物のこの部屋を準備しておいて、おもむろに人間狩りを始めたのかもしれない」
建築家≠ヘ、自分の口にしている言葉にたまらなく嫌な味がするとでもいうように、顔を歪めた。
「しかし、一連の連続殺人の非常に初期の時代から、この部屋が使われていたと見て間違いはない。連続して使われているからには、借り物じゃないだろう。内装替えには手間と金がかかる。借り物の家では、勝手に内部をいじくることはできない。従って、この家は誰か特定の個人の持ち物だという推論ができる。これが第二のフラグだ」
武上が何か言う前に、建築家≠ヘ急いで言葉を継いだ。「ところで、写真を細かく検分してみると、面白いことがわかった。壁紙の一部が黴《か》びていたり、床板がはずれていたり、長いこと使われていない照明用のソケットが天井に放置されていたりするんだ。これは何を意味するか? 可能性は二つだ。ひとつは、この家が、日常的に人間が住み着いている家ではないという場合。もうひとつは、日常的に住み着いている人間がいても、その人数が少なく、部屋数の方がずっと多く、従って家の手入れが行き届かないという場合」
「別荘か……はたまた、大きな広い家に住む独り者、か」
「そうなるな。しかし俺としては、別荘の可能性が高いと思う。それに、昨今は別荘地に定住している人間だって珍しくはないよ」
「氷川高原の別荘地帯は、あんたの言う寒冷地仕様の建物がゴロゴロしているところだな。新興の避暑地だから」
「一月二月は氷点下まで下がる。ただし雪は多くない。パネルヒーターや床暖房のない室内に、一晩や二晩被害者を押し込めておいたところで、それだけで凍死するほどの寒冷地ではない」
武上はホテルの高い天井を見上げた。煤《すす》けている。流行っていない証拠だ。
犯人たちが使っていたこの部屋のある建物も、全体としてそう美麗なものではなさそうな気がする。しかし個人の持ち物であることに疑いを挟む余地は少なそうだ。
「建てられてからどれくらい経っていると思う?」
「推測する根拠は床板の傷や摩耗の具合しかない。だから、床板が張り替えられていれば計算が違ってくる。でも、日常的に住み着いていない家や、住んでいても使っていない部屋の床を好んで張り替える持ち主は、そうそういない。だから、床板は張り替えられていないという前提で考えるとして、最低で築十年から十五年というのが妥当な線だ」
「二人の犯人のうちのどちらかが、中古の別荘を買ったのかもしれないな」
「それはあり得る。だが、俺としては遺産相続や贈与の線の方が強いと思う。この建物は安物じゃない。天井高もそうだし、床や柱の様子からして、建てるときには相当の金をかけていると思う。俺としちゃ、土台部分を知ることができないのが残念でたまらないよ」
建築家≠ヘ本当に悔しそうに首を振った。
「だが、犯人はそれほどの年輩者じゃないだろう。声紋だけじゃ年齢はわからないが、しゃべり方から推すと、どう考えたって二十歳代だ。うんと譲歩しても三十の半ばまでだろう?」
「ああ、それは俺もそう思う」
「そんな若造が、中古とは言えこれだけの物件を自力で買う──いや、買うことのできるケースだってあるだろう、タレントとか、一発ベストセラーを当てた作家とか、いわゆる青年実業家とかさ。だが、持ち主がそういう属性の人間だったら、本業の方に忙しくって、こんな酔狂な連続誘拐殺人なんざやってられないよ」
犯人はヒマを持て余している──定職に就かず、時間が自由になる人間だというのは、事件が始まった当初からの捜査本部の見解である。武上は同意した。
「そうすると、金持ちの息子とか、孫とか、とにかく金とヒマのあるロクでなしの若造の姿が浮かんでくるよ。もっとも、本人は今現在、それほどの金持ちじゃないかもしれない。しかし、それでもこの家は維持していけるし、働いているとしても、馬車馬のように励んでローンを返してる可能性は薄い」
武上はレポートのページを繰った。「階段と吹き抜けの件は?」
「これは写真からの分析というよりも、参考として一緒にもらった、日高千秋の検死報告書からわかることなんだ。彼女は窒息死だ。絞め殺されていた。犯人は素手で絞めてはいない。ロープを使ってる」
「ああ、そうだ。犯人たちは、文字通り彼女を吊してる[#「吊してる」に傍点]。絞首刑のように」
「だろう? しかし、絞首台なんてものはどこにでもあるもんじゃない。犯人たちはたぶん、彼女の首にロープを掛けて、どこか高いところから突き落としたんだ」
「一般の住宅で人を吊そうと思ったら、それがいちばん簡単なやり方だし、そんなことができる場所といったら階段しかない。しかし階段の上部が普通の高さの天井だったら、そもそも、人間の体重を──しかも、絶命するまでは苦しがって暴れるに違いないんだから──しっかりと支えることができるくらいに頑丈なフックを取り付けること自体が難しい。だが、梁《はり》があれば話は別だ。梁にロープを巻きつければいい。そして、階段部分の天井に梁が見えているなんて構造は、そこに吹き抜けでもない限り、ちょっと考えにくい。あるいは階段の上部に天窓があって、そこからロープを垂らしたのかもしれないが、そうやって吊した場合には、ぶら下げられたときに日高千秋の身体が壁にぶつかってしまうんで、彼女の身体のあちこちに、きっと打撲や擦過傷が残るはずなんだ。だが、検死報告書にはそんな記録はなかった」
「その階段、地下室へ降りる階段だという線はないか?」
「あるな。階段の上部に梁があるという条件から考えれば、その可能性も高いかもしれない。しかし、それはこの建物の立地条件によるよ。それに、被害者が監禁されている部屋には、普通の腰高窓がある。そこから太陽光も差し込んでいる。ということは、この部屋は地下ではないということだ。さらに、シェイドやカーテンをおろさずに被害者の写真を撮っているところをみると、万にひとつも、窓の外を誰かが通りかかって、ひょいと室内をのぞきこまれてしまう──なんて危険がない位置に、この部屋はあるんだろう。だとすると、やっぱり二階以上の高さにあるんじゃないか。まあ、庭が広いとか、周囲に人家がないという場合もあるだろうがな。それに、誰かを監禁や軟禁する場合、状況が許す範囲内で、できるだけ逃げ出しにくい部屋を選ぶのが、犯人の側の自然の心理だ。一階よりは二階、二階よりは三階というふうにならないか?」
「確かに」
「な? それじゃ二階が監禁部屋だとしよう。するとだな、日高千秋を吊して処刑しようとした犯人たちは、一階と地下を繋ぐ階段を使うよりも、二階と一階を繋ぐ階段を使う方が、これも心理としては自然じゃないかね? だから、地下室の存在については、これだけの材料からは何とも言えないな。ガミさんには、地下室にこだわる理由があるのかい?」
武上はかぶりを振った。「特に理由があるわけじゃない。ただなんとなく……だな。イメージというか、まあ思いつきだよ。気にしないでくれ」
「そういうイメージは、結構大切なものなんだ」建築家≠ヘ言って、片手で目をこすった。「俺はこのところ、ずっと問題の写真の山とにらめっこをしていた。もちろん、俺の目的は部屋と建物の解析なんだから、被写体になっている被害者の像は、極力気にしないようにしてきたよ。だが、それだって目には入る。夜、寝床に入って目をつぶると、被害者たちの顔がまぶたの裏にちらちらする」
そう言われてみれば、建築家≠フ目の下がうっすらと黒くなっている。
「何度も言うように、このケースは分析の対象になる材料が少なすぎる。だから俺は大したことはできない。だがな、やっぱりずっとにらめっこをしていると、あるイメージが湧いてくるんだよ」
なあガミさん──と、建築家≠ヘ低い声で呟いた。
「写真に撮られた女性たちは、もう生きてはいないだろうな」
武上は黙っていた。今さら言葉にするまでもない。被写体となった失踪女性たちの遺族の心情を考えて、誰も大声を出さないだけのことだ。
「七人も──遺体は、どこに隠されているんだろう」
「どこだと思う?」武上は座り直した。「あんたには何か考えがあるかい?」
間髪を入れず、建築家≠ヘ答えた。
「この家のなかだよ、ガミさん」
「──なぜそう思う」
「だからイメージだ」建築家≠ヘ言って、また目をこすった。「この家は──俺にはね、舞台≠ンたいに見える」
「舞台?」
「うん。ガミさんは洋モノの芝居なんか観ないよな?」
「洋モノも和モノも、そもそも観劇には縁がないよ。中学校の時に歌舞伎座見学に連れて行かれたきりだ。しかもそのときはずっと居眠りしていた」
だろうなあ、と言って建築家≠ヘちょっと笑った。
「俺はわりと芝居が好きなんだ。特に洋モノのミステリー劇なんかよく観る。筋立ても面白いが、セットがいいからね」
「なんだ、結局建物を観るわけじゃないか」
「まあ、そうなんだけどさ。向こうで当たった芝居ってのは、たいていの場合、セットも良くできてるんだ。ミステリー劇は室内劇が多いからね」
ちょっと首をかしげて宙をにらみ、建築家≠ヘ続けた。「ああいう芝居のなかじゃね、家というものは、そのまんま、秘密を隠すための箱なんだ。それも一年や二年じゃない、何十年も何百年もの永い年月にわたって、いくつもの秘密をしまっておくための箱だ。海の向こうの劇作家ってのは、そのへんのことをちゃんと承知してるんだよな。やっぱり歴史の差がある」
日本人は木と竹と紙で家を建て、たいていは一代限りで建て替える。持ち主よりも、家の方が長生きするなどということはほとんどない。ところが欧米では、石やレンガで家を建てるので、そこに住む者たちよりも、家そのものの寿命の方が遥かに永くなる。家は何代にもわたる住人の歴史の目撃者となり、密かなる愛憎を知り、事件を呑み込み、外部の誰にも気取られることのないよう、それを秘匿し続ける。
「ただ、隠すばっかりじゃ、そこに住んでる住人は、社会生活なんて全然できやしない。だからさ、家という箱のなかに、表向きに見せてもいい部分というのをこしらえるわけだ。それが舞台[#「舞台」に傍点]だよ」
だから、家の住人は、そこに出ていったときだけは登場人物[#「登場人物」に傍点]になる。ストーリーもそこで進行する。
「俺は、栗橋浩美の撮っていたこの写真の束を眺めているうちにね、なんかこう……舞台劇を観ているような気がしてきたんだよ。上手く言えないが……この被写体の女性たちね、彼女たちは、この監禁用の部屋に入れられた瞬間から、一種の登場人物にされてしまったんじゃないかとね。で、彼女たちをいたぶって、盛んに写真を撮ってる犯人も、やっぱり登場人物なのさ。話を進行させるために、こういう酷いことをする犯人を演じている」
「それはどうかな。俺には、この写真を持ってた栗橋浩美が、そもそもこういう行為を楽しんでいなかったとは思えないが」
建築家≠ヘ急いで言った。「ああ、そりゃもちろんだ。栗橋浩美は楽しんでいたろうよ。あいつはこういうことがやりたかったんだ。やりたくてたまらなかったことを実現してるわけだから、そりゃもう面白くって楽しくってこたえられなかったろうな。言い換えるなら、栗橋浩美は、てめえが登場人物の一人として配置されただけだなんてことには、これっぱかしも気づいていなかったってことだよ」
武上は腕を組むと、ソファの背にもたれた。自然と、唸るようなため息が出た。
「つまりあんたもやっぱり、栗橋は主犯じゃなく、もう一人の人物が勧進元で、栗橋はそいつに使われていただけだと言いたいのかね?」
建築家≠ヘ、目盛りを読むように目を細めて武上の横顔を見た。そして言った。「ああ、そう思う。栗橋は主犯じゃなくて、たぶん主役≠ネんだ。だから、舞台の上じゃいちばん目立つさ。だけどな、芝居を動かすいちばん偉い存在は、実は舞台の上にはいない。劇作家も演出家も、自分で舞台にあがって演じたりはしない」
芝居ってのは、観客に見せるために創られるものだ──と、建築家≠ヘ続けた。
「そしてこの場合、いちばん外枠の、いちばんマクロの観客[#「観客」に傍点]は俺たちだよ。一般大衆とマスコミだ。このことは、主役≠フ栗橋浩美も承知していたろう。だから彼の振る舞いは挑発的で、発言には愉快犯的な色合いが濃い。当然だ、彼は演じて[#「演じて」に傍点]るんだから」
「好んで、進んで、その役をな」と、武上は言った。「強制されたわけじゃない」
「そうだな。でも……果たして本当に栗橋浩美が進んで℃E人に手を染めたのかどうかも、実は怪しいもんだと俺は思う。いや、そんな顔をしないで、まあ聞いてくれよ」
建築家≠ヘ、武上が口を尖らせたのを素早く見て取ると、手をひらひらさせた。
「俺はね、誰だか知らないがこの舞台[#「舞台」に傍点]を仕組んだ主犯のヤツの最初の観客[#「観客」に傍点]は、ほかでもない栗橋浩美だったんじゃないかと思う」
「だけど彼は主役なんだろう?」
「ああ、主役さ。だからねガミさん、この主犯であり劇作家兼演出家である野郎は、いちばん最初に、栗橋浩美という人間のために、栗橋浩美がいちばん演じたがっている役柄と、その役柄が動き回るにふさわしい筋書きを書いてやったんだよ。な? 栗橋は喜んで主役をやるさ。そして、主役をやってる自分自身を観るんだ。この写真はたぶん、そのためのものだよ。栗橋浩美は、自分自身が、こういう残酷なことをする犯罪者の役を演じている様を、後から見物するために写真を撮ったんだ。ややこしいような感じはするけど、べつに何も難しい考え方じゃない。素人芝居なんかみんなそうじゃないか。最初の観客は、ほかの誰でもない自分自身だ。この事件はきっと、そういうふうにできてるんだよ」
被害者たちも同じ立場さ──と、建築家≠ヘ辛そうに言った。
「不運にも選ばれて、栗橋主演の舞台に参加させられてしまった共演者であり、観客なのさ。だから彼女たちは被害者の役を演じさせられつつ、そこで行われている犯罪劇を同時進行で見物している。そしてこの芝居は実にウケが良かった。栗橋浩美は大いに楽しんだし、被害者たちの恐怖は本物だった。だから劇作家兼演出家は考えた──そろそろ、もっと広い場所へ出ていって公演してもいい頃合いだと。いよいよ本当の意味でのマクロの観客を相手にしてもいいだろうと。劇団のラボ公演が成功したんで、本公演に昇格するのと同じ仕組みさ」
そして栗橋浩美は演じ続ける。さらに大勢の観客に向かって。演じながら、そういう自分を見物し続ける。
「一連の事件はね、ガミさん。大がかりな芝居だよ。主犯は筋書きを書いてる奴だ。栗橋じゃない」
「あいつにはそんな頭はない……」
「というより」建築家≠ヘ強くかぶりを振った。「なあガミさん、事故死する直前に目撃された栗橋浩美は、ひどく様子がヘンだったそうだな。それについては、捜査本部でも確認してるんだろ?」
ガソリンスタンドで若いカップルに接触しようとしたときのヒステリックな様子や、よろめいている栗橋浩美を高井和明が支えて車に乗せてやる様子など、証言は多く集まっている。
「それだよ。それこそが、栗橋が自分ではほとんど何も考えていない役者に過ぎないという証拠だと思うんだ」
「演じきれなくなってきたってことか?」
「いや、栗橋は、自分の演じてる殺人者の役柄に、言ってみりゃ自家中毒を起こしちまったんだよ。役者ってのはいろんな役柄を演じる。真面目な石部金吉が女たらしを演じることもあれば、気が優しくて虫も殺せないお人好しが連続殺人犯を演じることもある。ある役柄を演じているときには、その役柄になりきる。だけどね、それはどんなに熱を入れて演じても、芝居が終われば終わることだし、実際に人を殺したり女を騙したりするわけじゃあない。相手も役者だ。現実にはないことを現実化するために、共同作業をしているだけだ」
しかし、栗橋浩美の場合は違った。
「奴は本当に人殺しをした。被害者は死ぬ役を演じさせられていただけでなく、本当に死んだんだ。だから、栗橋が演じた筋書きの通り道は、死屍《 し し 》累々《るいるい》だ。奴の鼻にだってその死臭がにおったはずだ。手には被害者の血と脂がねばねばとくっついているのが感じられたはずだ」
建築家≠ヘ、自分の両手を目の前にかざして見せた。
「栗橋浩美が自分の衝動に従って誘拐や殺人を繰り返していたのだとしても、やっぱり同じような自家中毒症状が出てきたと思う。だがな、その場合は出方≠ェ違ってたんじゃないかな。ヘマをやり、ポカをやり、証拠を残して逮捕されたり、監禁している被害者に逃げ出されたり、誘拐現場で誰かに顔を目撃されたりな。だが、栗橋はそういう類の不始末はまだしでかしていなかった。あれほど心理的に不安定になっていたにもかかわらず、ドジは踏んでいなかった。どうしてかと言えば、第三者の書いた筋書きに乗って動いていただけで、自分の衝動や感情で動いていたわけじゃなかったからさ」
武上は顔をしかめた。少し頭が痛くなってきた。「栗橋は──もう主役を降りたくなっていたんだろうか」
「降りたくはなかったろう。なにしろ面白いし、彼にとっちゃハマリ役だ。だが、まっとうな人間としての精神がついてこなくなっていたと言ったらいいかな」
建築家≠ヘ言って、両手でまた目をこすった。
「話が遠回りになっちまったけど、ガミさん、これが俺の意見だ。この部屋のあるこの家は、犯人たちにとっては、単なるアジト以上の意味のある場所だ。舞台だ。そして舞台には舞台裏があり、役者はみんな──自分の出番が終わった出演者もみんな──そこに控えているものだ」
「だから?」武上は問うて、先回りして自分で言った。「あんたは、殺害された被害者の遺体は、みんなこの家のなかに隠されているというんだな?」
建築家≠ヘ大きくうなずいた。
「庭か、ガミさんの言うように地下室かもしれない。あるいは屋根裏かもしれないし、特大の冷凍庫があるのかもしれない。いずれにしろ、外には出していない。みんなここに残してある。だからここを見つければ、舞台を見つけさえすればいい。そうすれば、仕掛けは自ずとわかる」
「もしもあんたの言うとおりなら」武上は大きく息を吸い込んだ。「劇作家兼演出家も、その舞台にいるはずだな?」
「いるさ。そこが彼の場所だ。ホームグランドだ」
写真の上に焼きつけられた被害者たちの姿が、武上の目の裏に蘇った。あんなことが行われていた場所。そこがホーム。そこが舞台。そこが──「つまりそいつは──真犯人であり筋書きを書いて演出した野郎は、高井和明ではないというのが、あんたの意見だな?」
建築家≠ヘ悲しそうに口の端を下げた。
「そうだ。その点では、俺は『もうひとつの殺人』を書いた網川という若造とまったく同意見だよ。こんなことができるのは、気が優しくて力持ち、だけど世間知らずの蕎麦屋の兄ちゃんなんかじゃない。絶対に違う。この劇作家兼演出家の真犯人にとっては、高井和明なんて、舞台に迷い込んできて面白い効果をあげてくれた客演の役者にしか過ぎなかったろうと、俺は思うね」
武上は、建築家≠フ言うような舞台劇を想像してみようとした。連続殺人という大がかりな見世物。観客は全国民。たしかに、みんな固唾《かた ず 》を呑んでこの事件の進行を見守ってきた。被害者もまた登場人物──ちょうど手品師が、観客席のなかから人を選んで舞台にあがらせ、自分の手伝いをさせるように、犯人は彼女たちを選んで、ふさわしい役割を演じさせた。
そうなると、被害者たちの遺族も、必然的に脇役として登場せざるを得なくなる。彼らの哀しみ、怒り、嘆きはそのまま、この舞台劇の通奏低音のひとつとなる。犯人である演出家が特に気に入った遺族は、時には独りで歌ったり演じたりするパートを与えられる。それがたとえば、有馬義男──
武上は目をあげた。「きっかけは何だったんだろうか」
「きっかけ?」
「ああ。犯人が──演出家がこんな芝居を始めようとしたきっかけさ。動機と言い換えてもいい。何のモチベーションもなしに始められることじゃないだろう?」
建築家≠ヘなぜか目をそらした。武上の気のせいでなければ、それはたぶん建築家≠ェ、彼自身の頭のなかにすっと浮かんできた解答を口に出すことをためらっているからだった。
「犯人は人殺しをしたいんじゃない」武上はゆっくりと繰り返した。「あんたの意見に因れば、奴はただイベントを起こしてるだけだ。言ってみりゃ創作だ。じゃあ、その動機はなんだ?」
建築家≠ヘ、テーブルの方に目を据えたまま答えた。「ガミさん、創作活動に動機は要らないよ。作家に訊いてみろ。画家に訊いてみろ。どうしてそんなことをするんだと訊かれたら、連中はたぶん、みんな同じようなことを答えるはずだよ」
ただ、そうしたいからだ[#「そうしたいからだ」に傍点]──と。
沈黙が落ちた。もともと閑古鳥の啼いているホテルのロビーなのに、妙に目立つ沈黙だった。フロントで退屈そうにしている従業員が、ちらっと武上たちの方を気にした。意味のある沈黙の波が、彼のいるところまで届いたのかもしれなかった。
「だとしたら、恐ろしいことになる」
武上の低い呟きに、建築家≠ヘ黙ってうなずいた。
「こいつがただ、創作家の情熱にかられて殺人劇を演出しているだけならば、罪の意識なんかこれっぱかしも感じてないだろう。それだけドジを踏む可能性が少なくなる。絶望的なくらいに少なくなる」
犯罪捜査とは、犯人のおかした間違いを探す作業だと、武上は考えている。犯罪は難しい。この世でもっとも困難な仕事のひとつだ。どれほど頭の良い犯罪者でも、ひとつのミスもしないでクリアできるものではない。完全犯罪などあり得ない。そして犯人を追う警察側にとっては、彼ら彼女らのおかしたミスのひとつひとつが道標になり、足場に打ち込まれたハーケンになり、タイヤのスキッドマークになるのだ。
それならば、犯罪者はなぜそんな、我が身を危うくするミスをするのか? 良心の咎めを感じて手元が狂う場合もある。建築家≠フ言ったように、自身のおかした犯罪に自家中毒症状を起こして自滅する場合もある。昨今増えている、良心≠ネどという概念をそもそも持ち合わせていないような衝動的な犯罪者の場合はもっと極端で、連中には道徳や倫理観はなくとも、自分のやったことは非日常的な事柄であるという意識だけはあるので──善悪には関わりなく、とにかく日常生活とは異質な事柄であるということは本能的に埋解しているので──かえって自分のやったことの痕跡を隠したりごまかしたりすることに対してエネルギーを注ぐことができず、あれはなんか異次元の出来事みたいなもんだったというようなぞんざいな感性で行動する。その結果、常識を物差しに追う側にとっては、大きな手がかりとなるものを残してくれることが多い。
いずれにしろ、既存のそれらの犯罪者像は皆、建築家≠ェ提示している今度の真犯人像とは根本的に違うものだ。この真犯人は、日常と違う舞台を創ることを目的にしているのだから。彼の──おそらくは男であろうから──究極の目的は、殺人をすることでも女性を監禁して虐めることでもなく、そういう大がかりな事件を舞台に載せて、観客を集め、熱狂させることなのだから。それに対して、何の良心の咎めを感じることがある? 最初から非日常を演出しているのだから、それが完璧なものとなるように、彼は何度も何度もシナリオを練り直し、事態の進行や彼の選んだ登場人物の個性や力量に応じて場面を設定し直し、台詞《せ り ふ》を書き直していることだろう。
舞台劇は今も進行中なのだ。そしてそこでは、どんな原因によるうっかりミスも期待することはできない。他の犯罪者たちとは根本の目的を異にしているこの真犯人に対しては、今までとはまったく別の形であら探しをしてやらねば手がかりは出てこないだろう。
武上は、大川公園事件のゴミ箱の一件を思い出した。この犯人は、ホームレスに切断された右腕を捨てさせて、その光景が写真に撮影されることを計算していたのではないかと、篠崎と話し合った──
もちろん撮影は、されるかもしれないがされないかもしれない。されなかった場合にも、ミスにはならない。単に活きなかった演出[#「活きなかった演出」に傍点]として切り捨てればいい。しかし、もしもされた場合には、ピリリとアクセントのついた演出として舞台の上で光を放つ。やはり、あれはそういう仕掛けだったのだ。
そうだ、この真犯人にとっては、不発だった演出はあっても、役者のセレクションを間違えることはあっても、部分的に台詞まわしが野暮だったということはあっても、観客の側が外側からつついて、この舞台劇を終わりにさせることができるようなミスは、そもそもあり得ない。芝居の進行を止めることができるのはただひとり、演出家だけなのだ。
「観客が去れば──」建築家≠ェぼそっと言った。「演出家は幕をおろして帰っちまうだろう。一時はずいぶんウケたけど、さすがにみんな飽きがきたんだな、また違う趣向を考えなきゃ、なんて頭をかきながらな」
爪の先ほども罪悪感を感じずに。
「あんたはさっき、国民みんなが観客だと言った」と、武上は言った。
「ああ、そうだ。マクロの観客」
「だが、警察やマスコミは、観客であると同時に登場人物でもあるよな?」
建築家≠ヘ面白くもなさそうにニヤリと笑った。「そうだよ。もちろんだ。舞台に載っけられてる。その動きも演出家の期待通りだ。警察だけじゃない、ただ舞台の進行を見守っているだけの一般観客だって、いつ参加させられてもおかしくないんだ。これはそういう舞台劇なんだよ。観客参加型なのさ」
建築家≠ヘ、武上が脇に置いたバッグの方へ顎をしゃくった。「その本、『もうひとつの殺人』な、筆者の網川浩一なんざ、その典型さ。彼は芝居の理不尽な筋書きに腹を立て、観客席で思わず立ち上がった。その瞬間に、彼には役割が振られた。彼という登場人物が一枚加わったことで、今後の展開にも変化が出てくるだろう。しかし、真犯人はこのことだって予期していたはずだ。高井和明の関与に対する異議申し立てがどこからか出てくることを、期待して待っていたはずだ」
「そこまで──」
「ああ、先読みしていたろうさ」建築家≠ヘ、いっそ小気味よさそうな口調で言った。「ちょっと戻って考えてみよう。栗橋と高井の事故死は、あれは純然たる偶然のなせる技で、真犯人の演出家も、きっと驚いただろうと思う。二人があんな格好でおっ死《ち》ぬなんて、こればっかりは予想もできなかったはずだ」
「すると、栗橋と高井の事故死の以前には、別の筋書きがあったはずだな?」
「当然だ。それがどんな筋書きだったのかということは、残念ながら今の俺たちにはもう知りようがない。ただ、消失してしまったその筋書きのなかでは、高井はきっと重要な役割を振られていたはずだ」
武上は眉を吊り上げた。「あんたは、高井がなぜ栗橋と行動を共にしていたんだと思う?」
建築家≠ヘ武上のバッグの方を見た。「その本は第何章まで読んだ?」
「三章までだ」
「じゃ、書いてあったろう? 俺はその意見に賛成だ」
網川浩一は、こう主張している──高井和明は栗橋浩美が一連の事件に関わっているのではないかと気づき、彼を助けて自首させようとしていた、しかしその動きを真犯人Xに悟られて、警戒され、高井の身は危険な状態に置かれていた──
「網川浩一が言うように、高井は、Xによって脅迫を受けていた可能性もあると?」
建築家≠ヘ首を振った。「そこまではどうかな。どっちにしろ推測に過ぎないが、でも、これまでに明らかになってきた高井と栗橋の関係、高井の性格から推すと、家族を害するとかいう直接的な脅しを受けなくても、高井は、栗橋をXから引き離し、関係を断ち切らせることができるまでは、迂闊に警察にチクッたりしなかったんじゃないかな。高井は栗橋を守りたかった。助けたかった。なるべく傷の浅い形で彼を現実に引き戻したかったんだ」
武上はちょっと顔をしかめた。「まるで見てきたように言うな」
思いのほか大きな声で、建築家≠ヘ笑った。彼の胴間声が、がらんどうの天井に反響する。
「そうさ、見てきたように言うよ。だってあんたは俺にそれを求めてるんだろ?」
「網川の意見に同調しすぎていないか?」
建築家≠ヘ、つかの間、現役の刑事時代の目つきに戻って武上を見た。「俺が網川の本を読んだのも、彼の意見を聞いたのも、自分の説を組み立てた後のことだ。栗橋は主役であって主犯じゃない、シナリオを書いている奴はほかにいて、そいつが全てを仕切ってるんだと確信したときがスタートで、後は順次組み立てていった。そして、俺のこの考えに間違いがなければ、遅かれ早かれ何らかの形で高井和明を擁護する意見が出てきてもおかしくないし、それが出てくることを、真犯人Xは待ち受けているかもしれないなと思った。そこへ、網川が出てきたんだ」
武上はバッグから網川の本を取り出した。タイトルの『もうひとつの殺人』は、言うまでもなく、高井和明も真犯人Xの犠牲者のひとりだという意味でつけられたものである。
「本部のなかにも、主犯が別に存在するという意見は根強くあるって、ガミさん言ったじゃないか。そいつらは、高井のことをどう位置づけてるんだ?」
「バラバラだよ。非常に不運な偶然で栗橋と一緒に行動していただけで、事件については何も知らなかったという説から、栗橋と真犯人Xのことをよく知っていて、彼らに逆らいきれずにおろおろと傍観していただけの第三者だという説まで」
武上は本をテーブルの上に載せると、新しい煙草に火を点《つ》け、建築家≠ノ、インターネット上の剣崎龍介のホームページの一件を説明した。建築家≠ヘ目を輝かせた。
「それでガミさん、どうするんだ?」
「娘にそのページにアクセスさせて、ちょいと書き込みをさせてる。未遂事件の報告者の女の子たちと、個人的なメイルのやりとりができるようになればしめたもんなんだが」
建築家≠ヘ何度もうなずいた。「あんたそれを本部に報告したか?」
武上はかぶりを振った。
「なんでしないんだ。重要な証言になるかもしれないネタだぞ」
「本部はインターネットであがってくる情報なんて、ほとんど信用していない。あんただって、刑事時代の考え方を思い出してみれば、すぐにわかるはずだ。あれは匿名の世界だよ。なんでもありだ。あそこで飛び交ってるこの手の情報の信憑性《しんぴょうせい》なんて、海抜以下だ」
「俺の経験じゃ、匿名のたれ込みネタが、大事件に繋がったことだってある」
「確かにあるさ。だが、どのくらいの確率だ? 一万分の一か? インターネットの情報は、それよりももっともっと分母がでかいんだよ。いちいち気にして調べてたら、振り回されて踊りを踊るだけで一年も二年も過ぎちまう」
ふうんと鼻先で言ってから、建築家≠ヘニヤリとした。「だから娘さんを使ってるってわけか」
「そうさ俺の個人的調査だ。俺はデスク担当で、本部の捜査には一切関わってないからな。趣味の領域で何をやったってかまわないだろう?」
建築家≠フニヤニヤ笑いが大きくなった。「ガミさん、それで未遂事件報告者の女の子と対面できて、彼女を襲った二人組のうち、片割れは栗橋浩美によく似ていたが、もう一人の方は高井和明にはぜーんぜん似ていなかったという証言がとれたら、どうする?」
「どうもしない」武上はぶすっと言った。「しまっておくだけだ。その証言だけじゃどうしようもない。目撃証言、しかも後出しの証言なんざ、あてにならないものと相場が決まってる。だいいち、その未遂事件の二人が、イコール今度の件の二人組だという前提自体が怪しいんだ。女の子を車に連れ込んで乱暴しようなんていう男の二人組は、全国どこにでもゴロゴロいるんだからな」
「じゃあ、なんでその剣崎とかのホームページにこだわる? 時間の無駄じゃないか」
武上は煙草を吸いながら、「だから俺の個人的趣味だと言ってるじゃないか」と言い捨てた。
「俺はその……今までは巧く言語化できなかったんだが、今日こうしてあんたと話しているうちに、なんとなくわかってきた気がするんだ。俺は興味があったんだよ。だから調べてみたいんだ」
「何に興味が?」
「今度の事件が社会に対して及ぼした影響」ひと息にそう言って、武上はちょっと笑った。「それじゃあまりに抽象的すぎるな。ちょっと待ってくれ──」
宙を仰いで、
「こう言えばいいかな。今度の犯人たちは、前代未聞のことをやってのけた。連続殺人の実況中継だ。そしてその中継が一番盛り上がってる最中に、不可解な死に方をして謎を残した。こんなべらぼうな筋書きが、ごく普通に暮らしていて、直接的には事件に関係のない人間たちの心のなかに、いったいどんな感情を呼び起こすものなのか──俺はそれを知りたいんだ。特に、被害者たちと同じ年代の女性たちが、こんなとんでもない犯人の野郎どもと、彼らが存在する今の社会に対してどんな感情を持つのか、これがどんな悪影響を残して、どんなふうに負の因子として継承されてゆくのか」
ネット上の未遂報告は、まったくの勘違いかもしれないし、最初から作り話かもしれない。だが、そうだとしても、なぜそんな勘違いや作り話が生まれるのかということを探るのには意味がある。それらの砂上の楼閣は、今回の未曽有の事件を社会が消化してゆくために必要なものであって、だからこそ創り出されたのだろうから。
そして、そういう創作をするエネルギーは、実はほかでもない、犯人たちを動かしてあんな事件を起こさせたエネルギーと根を等しくするものなのではないかと、武上は思うのだ。
しばらく黙ってから。建築家≠ェ言った。「なんだ、ガミさんは俺の意見なんか聞く前から、今回の事件が大がかりな作り物であることに気づいてたんじゃないか」
「そうだろうか……」
「そうさ。だってガミさんは、大当たりしている芝居のどこが観客に受けているのか、何が観客を刺激しているのか、それを知りたいと言ってるのと同じなんだから」
建築家≠ヘ手を伸ばし、『もうひとつの殺人』を取り上げた。表紙をめくると、網川浩一の顔写真が載っている。
「新しい登場人物」呟いて、建築家≠ヘ武上を見た。「ガミさん、真犯人Xは、遅かれ早かれ彼に接触してくる。どんな形をとるかはわからない。だが、必ず接触してくるよ」
武上も、同じことを考え始めていたのだった。
[#改ページ]
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暦が一月から二月に変わるとすぐに、塚田真一は有馬豆腐店を訪ねた。木枯らしが吹きすさぶ寒い日のことで、最寄りの駅から住所を頼りにほんの五分ほど歩いただけで、指先の感覚がなくなり、耳たぶが痛くなった。
こぢんまりした構えの、古びた店だった。正面のシャッターが降ろされており、そこに手書きの貼り紙が貼ってある。
「お客様各位
長い間ご愛顧をいただきました有馬豆腐店は、本年一月三十日をもって閉店いたしました。お世話になった地元の皆様に、厚く御礼申し上げます。
[#地付き]店主敬白」
有馬義男が自分で書いたのだろう。上手いとは言えないが味のある字だ。
石井夫妻の家に戻るとすぐに、真一は有馬義男に電話をかけた。従業員らしい男の声が出て、真一が名乗ると、ちょっと驚いたような声を出してから義男に回してくれた。
──やあ、こんにちは。
老人は、声を聞く限りでは元気そうだった。『ドキュメント・ジャパン』からの帰り道、公園で話したときと同じような、穏やかな口調だった。
真一は前畑滋子のところを出て、石井家に戻ったことを話した。どうせまた樋口めぐみは押しかけてくるだろうけれど、もう逃げるのはやめようと決めたということも。そんなふうに考えられるようになったのも、義男と話したおかげだということも、素直に言った。面と向かって言うのは気が引けるけれど、電話なら大丈夫だったから、正直に話した。
──ふうん、そうか。
老人は、意外にもあっさりしていた。真一はちょっと拍子抜けした。良かったな、強くなるんだぞというような、いかにも年輩者の台詞らしいことを、今度も言ってもらえるかと思っていたからだ。
──で、これから先はどうするんだね? 学校に戻るのか。
──まだ決めてません。おじさんおばさんとも相談してるところです。
──そうか。じゃ、暇は暇なんだな。だったらやっぱり、私のところに手伝いに来てくれんかね? アルバイトでさ。
有馬豆腐店をたたむことにしたのだと、老人は言った。
──この前あんたと話したときにも、もう店をたたむことは決まっとったんだ。片づけが、えらい大変でね。そのために人手が要るんだよ。
真一が返事をためらっていると、おっかぶせるように続けた。
──寂しいもん同士で慰め合おうとか、そういうことじゃないよ。こんな半端なアルバイト、募集したって人が来るもんじゃねえ。便利屋を頼むって手もあるんだろうが、それほど大げさなもんでもないし、細かいことばかりだからね。
それで結局、真一は承知した。有馬義男が親切にしてくれるのは、真一を案じてくれているからだと思う。そしてその案じる気持ちから、自分はまだ何かを学べるかもしれない。その気持ちは強かった。だが、それと同じくらいに、義男のことも心配だった。
網川浩一の『もうひとつの殺人』が世に出たことで、このところ、連続女性誘拐殺人事件には、劇的な変化が起こった、高井和明は栗橋浩美の共犯者ではない、むしろ巻き込まれた被害者だ、真犯人Xはほかにいて、のうのうと逃げ延びている──網川の唱えるその新説をめぐって、テレビでも雑誌でも連日大騒ぎだ。
有馬義男のところにも、また取材記者やレポーターが詰めかけて、その様子がテレビでも放映されていた。網川さんの主張をどう思いますか? ご意見は? マイクを向けられても、有馬義男は何も答えず、お客さんの迷惑になるから帰ってくれと、押し返すばかりだった。二十二日の網川のテレビ出演(あれを劇的と表するのは癪《しゃく》に障るけれど、確かに演出効果は満点だった)以来、少なくとも二、三日は、有馬豆腐店は商売にならなかったことだろう。月末にはたたむと決まっている店だからこそ、静かにそっとしておいて欲しかったことだろうに。
日高千秋の母親は、同じように取材攻勢を受け、どれほど玄関のインターフォンを鳴らされても応じていなかった。そういえば、彼女が火付け役になって──と言っては気の毒かもしれないが──起こった、浅井祐子とかいうニセ弁護士がらみの一件も、網川浩一の登場とタイミングがかちあったので、大きく取り上げられることはなかったが、つい最近、続報がニュースになった。写真週刊誌ですっぱ抜かれなければ、警察には知られることもなかっただろう事件だから、あのスクープもまったくの空騒ぎだったわけではないことになる。
案の定、浅井祐子と仲間の男は詐欺師で、事件の被害者の遺族を集め、ありもしない損害賠償請求の裁判をチラチラさせて、着手金≠ニいう名目の金を騙し取ることしか考えていなかったようである。浅井祐子は詐欺容疑で逮捕されたが、仲間の男は身元は特定されたものの、姿をくらましてしまっている。二人とも詐欺や文書偽造の前歴の持ち主だ。
真一が見たあるニュース番組では、ゲストとして登場した本物の弁護士が、キャスターも相づちに困るほど、カンカンに怒っていた。そして今後も、凶悪事件の被害者の遺族をターゲットに、同種の詐欺事件が起こる可能性が出てきてしまったことを憂えていた。誰かがひとつの手口《ソ フ ト》をひねり出すと、それが使い回されるようになり、しかも使用されるたびにどんどん洗練され、巧妙になってゆくというのが、世の常なのだから。
「身近な人たちが犯罪の犠牲になるという悲劇は、突然に襲いかかるものだし、稀なことでもあります。ですから、被害者本人にしろ遺族にしろ、そういう嵐のような事態への対処の仕方がわからなくて当然です。お手本がないのだから。そこへ、親切ごかしに付け込んでくる悪い人間がいたら、防ぎようがない。一緒になって怒ってくれたり、被害を回復しようと提案されたら、信じてしまうのが人情というものです。ひょっとしたら詐欺かもしれないのだから疑ってかかれなんて、要求する方が無理だ」
怒りながら説明したその弁護士は、今回のような不逞の輩を跋扈《ば っ こ》させないためにも、国や自治体で、一日も早く、犯罪被害者と遺族をサポートする専門機関を設立してほしいと力説した。
「今回のことだって、最初に日高千秋さんのご遺族が浅井祐子に話を持ちかけられたとき、こういうことを言ってくる人がいるんですがどうしましょうと、遠慮なく相談できる場所がどこかにあったなら、未然に防ぐことができたはずなんです」
弁護士会でも、今後はこの種の事案への対応策を検討しなくてはなりませんと、最後まで怒ったままそうしめくくった。
別のニュース番組では、三宅みどりの父親が、あの日、高井由美子に殴りかかったときよりはずっと冷静だけれど、げっそりと窶《やつ》れた顔で、インチキな損害賠償訴訟と浅井祐子とかいう詐欺師のことは思い出したくもないと答えていた。さらに、マイクを向けた記者が網川浩一と『もうひとつの殺人』について尋ねると、本は読んでない、警察もまだ捜査中だというのに、素人の言うことがあてにできるわけがないと言った。
「それでも、もしも本当に真犯人Xが存在するとしたらどうですか?」
食い下がる記者に、三宅みどりの父親は、震える声で答えた。
「もしも[#「もしも」に傍点]? 私が考えるもしも≠ヘ、そんなことじゃないよ。私が毎日毎日、息を吸ったり吐いたりするたびごとに考えてるもしも≠ヘ、そんなことじゃない。もしも℃рェああしていたら、もしも℃рェああしなかったら、みどりは今でも生きていたんじゃないか、そればっかりだ。そのもしも≠ホっかりだよ。ほかのもしも≠ネんて、考える余裕などあるものか」
真一は前畑滋子に、遺族の気持ちはそういうものだと話したことがあった。まさにそのとおりのことを、三宅みどりの父親も話していた。
ほかのもしも≠考える余裕などない。その言葉は掛け値なしの真実だ。だが、網川浩一が唱えている新説は、だから考えないでいられるという種類のものではない。余裕のないところに、無理無理でも考えざるを得ないような問いかけを、彼は放った。きっと三宅みどりの父親だって、思いやりのかけらもないあの記者にはあんなふうに答えても、心のなかではきっと呻くように考えているはずだ。網川浩一が投げた説を中心としてわき上がるもしも≠フ方も。もしも真犯人が別にいたらどうするか[#「もしも真犯人が別にいたらどうするか」に傍点]。
有馬義男も同じだろう。
義男は真一がまだ若い、いや幼いから案じてくれている。真一は義男の年の功を尊敬しているが、その老齢は心配だった。自分に何かできることがあるなら──そんなことなど爪の先ほどもないかもしれないけれど、役に立ちたかった。義男は否定的な言い方をしていたけれど、寂しい者同士が集まって慰め合うだけだって、自分はかまわない。何かしてあげられることがあるのなら。
こうして、真一は有馬豆腐店へ──元有馬豆腐店へと足を運んできたのだった。
住まいの方の入口は、シャッターの左脇の細い路地の突き当たりだと教えてもらっていた。舗装もされていない、人ひとりが歩けばいっぱいになってしまうような、路地というよりは家と家の隙間である。そこを通り抜けてゆくと、家のなかから有馬義男の声が聞こえてきた。誰かと話している。来客のようだ。男の声だった。
もともとは勝手口だったらしい出入口の引き戸が開いていて、真一がひょいとのぞきこむと、こちらの方を向いてしゃべっていた有馬義男と顔があった。おおと声をあげて、老人は椅子から立ち上がった。老人と向き合ってパイプ椅子に座っていた来客も、振り返りながら腰を浮かせた。背広姿の大柄な男性で、三十歳ぐらいだろうか。
「やあやあ、よく来てくれたねえ、ありがとうよ」有馬義男が近寄ってくる。
「こんにちは」真一は老人に向かって半分、来客に向かって残り半分、というぐらいの気持ちで挨拶をした。察したのか、有馬義男は来客の方に軽く手を振ると、
「捜査本部の刑事さんだよ」と説明した。「今日病院に行ったら、真智子の見舞いにきてくれてたんだ」
大柄な刑事は立ち上がり、いぶかしげな顔もせずに真一に声をかけた。「塚田君だよね。秋津《あき つ 》です」
この事件の関係で真一が会ったことがあり、名前と顔が一致するのは、武上という中年の刑事一人だけである。真一は適当に丁寧に挨拶を返した。それでも、秋津というこの若い刑事に悪い印象は持たなかった。古川真智子の見舞いに行ったというだけで、大いに高い点数をつけていい。
「帰り道、洗濯物やら何やらの荷物をここまで運んできてくれたんだ」
真一のためにもう一脚のパイプ椅子を出しながら、有馬義男が言った。真一は椅子に腰をおろしながら、かつての店のなかががらんどう[#「がらんどう」に傍点]であることにびっくりして、周囲を見回さずにはいられなかった。
「大型の機械はもうほとんど運び出しちまってね」さすがに、有馬義男は少しばかり寂しそうだった。「フライヤーが残ってるだけだよ。あれは古いんで、廃棄処分するんだ」
なるほど、反対側の壁際に、小さなベルトコンベアのくっついた縦長の機械が据えられている。全体に真っ黒なのは、煤《すす》がついているからだろうか。油の匂いがぷんぷんしている。
「本当にたたんじゃうんですね」秋津刑事が言って、いたわるような目で有馬義男の顔を見た。「繁盛してたんだし、もったいないような気もしますがね」
「そうでもないんですわ。近ごろは、売り上げがガタガタに落ちてたからね」
「事件とは関係がないのにね」
「お客さんにとっちゃ、関係あるんでしょう。縁起でもない感じがしたんじゃないのかね。その気持ちもわからないじゃありませんよ」
「店の場所を移したらどうだったですかね」
「駄目駄目」有馬義男は首を振る。「私は七十二ですよ。他所の土地へ行って、一からお客を開拓しなおすなんて、もうできやしませんよ」
構えたところのない、親しげな話しぶりだった。秋津刑事は有馬義男を担当≠オているのかもしれない。考えてみれば、義男はただ被害者の親族であるというだけでなく、電話ごしにではあるが、犯人と複数回にわたって会話している事件の重要な関係者でもあるのだ。
「塚田君、有馬さんの手伝いをするんだって?」
秋津が真一の方に会話を振ってきた。真一は黙ってうなずいた。秋津は見るからに闊達な感じの男で、真一はなんとなく気後れした。居心地悪いな──と思いつつそわそわと周囲を見ていると、すぐ脇の事務机の上に、『もうひとつの殺人』が、ページを開いたまま伏せてあることに気が付いた。いかにも読みさしという風情だ。
「塚田君はこれ読んだかい?」
真一の視線に気づいて、秋津がすぐに訊いた。さすがに反応が早い。
「読んでないんです。テレビは観ました」
「著者が出てたそうだよね」
真一は有馬義男に訊いた。「有馬さんは全部読んだんですか?」
「半分ぐらいだよ」
「読まなくていいって言ってたところなんだ」秋津が遮るように割り込んだ。「確かな裏付けもなしに不安をあおるような書き方をしてあるからね」
「真犯人Xはまだ生きている──って」
「無責任なデマだよ」秋津は言い捨てた。
「被害者感情をまったく考えてないしな」
真一は気がついた。この秋津という刑事が古川真智子を見舞ったのは、有馬義男にこのことを伝えるためだったのだ。現在の捜査本部の捜査方針に大胆に異を唱える本が話題になっているから、それが被害者の遺族にどんな影響を与えているか、心配になって様子を見に来たということでもあるのだろう。なぁんだ、という気がした。
そのうちに、ぼつぼつ本部に戻らないといけないからと、秋津は立ち上がった。有馬義男は何度も礼を述べて刑事を送り出した。そして真一と二人になると、少し疲れたような声を出して言った。「警察も、あの本の扱いに困っとるようだね」
真一は驚いた。「気がついてたんですか」
「うん。でも、あの秋津って若い人は悪い人じゃないよ。先にも真智子の様子を見に来てくれたことがあるし、まめに顔を出しちゃ、まあ無難なことばっかりだけども、捜査の進み具合を教えてくれたりしてたからね」
真一は事務机に近寄り、本を手に取った。開いたページの片側には、ちょうど事故現場のグリーンロードの写真が載っていた。崖っぷちの急カーブ。壊れたガードレール。
「ここまで読んだんですね?」
「いんや。全部読んだよ」有馬義男は笑った。「秋津さんに悪いんで、半分しか読んでないですよって嘘ついたんだよ」
「──読んで、どう思いましたか」
「まだわからないねえ」
「まだって……」
「書かれてることが本当かどうか、わからんちゅうことよ。警察の意見と、百八十度違うもんなあ。丸飲みにもできんけど、無視するのも気分悪い。いよいよ、自分で調べてみないと駄目だわな」
真一はまじまじと老人の痩せた顔を見た。
「有馬さん?」
本当のことが知りたい。だから高井由美子にも会ってみたいと言っていた老人だ。しかし、だからと言って──
「私も前畑さんの真似をしてみようと思ってさ」きっぱりと、有馬義男は言った。「取材とかいうことは、そんなに難しいもんかね? 人に会って、話を聞けばいいんだろ? 私にもできないことはないと思うんだけどね」
真一は呆気にとられた。
「本気なんですか?」と、思わず訊いた。有馬義男が冗談を言っているのだと思おうとしてみたけれど、老人は真面目のようだ。
「本気だともさ」
「自分で調べるって──具体的にはどんなことを考えてるんです? まず誰に会うつもりです?」
老人は指をあげて鼻の脇をかいた。
「やっぱり、最初は高井由美子さんだな」
「あの人が、またあんなエキセントリックな態度だったらどうします?」
「もう、そんなことはねえだろうよ」
「何でそんなこと言えるんです?」
「あのあと、うちに電話がかかってきてね」
「高井さんから?」
「ああ。それとあの……この本を書いた網川って男も電話に出たな」
真一は本の見返しに掲げられている著者の顔写真を見た。いかにも好青年という感じの若者だ。あつらえたみたいだ、と真一は思い、何のためにあつらえたんだ? と、自分で自分に問いかけた。もしくは誰のために? オレ、何でこんなこと考えるんだろう?
「どうしても私に謝りたいって、電話口で泣いていた」
「高井由美子は泣くのが武器ですからね」
真一の辛辣な口調に、有馬義男はまた鼻の脇をごしごしかいた。
「網川浩一は何て言ってきたんです?」
「あのホテルで私らが集まることを前畑さんから聞いて、それを高井由美子さんに教えたのは自分だとさ。だから自分にも責任があると、やっぱり謝っとった」
「ゴメンで済めば警察は要らない」
「まあ、そう怒りなさんな」
有馬義男はパイプ椅子を引いて座り直した。コンクリートの床の上で、椅子がカタリとうつろな音をたてた。
「私があんたにアルバイトを頼むなんざ、間違っているのかもしれない」
真一は事務机の方に向いていたので、有馬義男の顔が見えなかった。
「でも、私はなんちゅうか……あんたとまたゆっくり話をしてみたかったんだよ。もちろん、私とあんたはそれぞれにひどい事件の被害者の遺族だけれども、立場は違うし、そもそも私らを苦しめている事件そのものが、全然別の事件だからね。だから話なんかしたって、どっちの助けにも利益にも何にもならんのかもしれんけども、それでも、私はあんたを放っておけないような気がしてね。ただのお節介なんだろうけどもね」
真一は小さく言った。「お節介でも、いいですよ」
「そうかね」
「だって僕もお節介ですから。有馬さんのことが心配だから、アルバイト引き受けたんです」
老人は笑った。その声が柔らかく明るかったので、真一は振り返った。
「私のこと、心配してくれとるのか。ありがとう。そんなら私らのジャンケンは、お節介と心配であいこ[#「あいこ」に傍点]だね」
「自分の面倒もみられない僕には、ホントはそんな資格なんかないんだけど」
有馬義男はぶんぶんと首を振った。「とんでもないよ。そんなことはない。だけどあんたら若い人は、よくそういうものの言い方をするね?」
「そういうものの言い方って──」
「自分には何々する資格はないとかさ、自分は何々だと思ってコレコレのことをしてきたけれど、本当はそれは偽りで、自分の心の底にはコレコレしたいシカジカの動機が隠されていたのだから、あれは間違いだったんだ、とかよ」
その言い方がいかにもそれらしくて、思わず真一は微笑した。
「よく言うだうが、そういうことを」義男も笑いながら続けた。「私なんざ、不思議でしょうがないよ。なんでそんなことをする必要がある? だからこの前も言ったっけな。いちいち自分のすることを深く分析するなんてやめておけって。心配なら心配、お節介だが手を出さずにいられないならお節介、それでいいじゃねえか」
机にもたれて、真一は足元を見た。灰色のコンクリートの床はきれいに掃き清められている。それでも、あちこちに染みや汚れがこびりついていた。三十年も、四十年も、一年三百六十五日、有馬義男はこの上を行ったり来たりして、豆腐をつくり、それを売って暮らしてきた。長い、長いあいだ。この染みも汚れも、そんな有馬義男の足跡だ。若いときも今みたいな人だったのだろうか。真一ぐらいのときも? いちいち自分の心を分析するようなシチ面倒くさいことはやめて、それより働け、働け。真面目に生きてりゃいつかは良いことだって巡ってくるよって、そんなふうに思っていられる人だったんだろうか。
だから今でも、何もかも失くした今でも、真面目に生きていたってこんなに非道い目に遭うってことが、嫌というほどよくわかった今になっても、こんなに強くいられるんだろうか。もともとそういう強い人だったから。
「身に降りかかった不幸を何とかするために悪戦苦闘するのは、ちっとも悪いことじゃないよ」
口調を変えて、有馬義男は静かに言った。ようやく、真一は目をあげて老人を見た。真一の顔を見て、義男はうなずいた。
「みんながやってることだ。私だってやってる。三宅さんだって、日高さんだってやってる。あのインチキ弁護士に騙されそうになったのだって、必死になって事件から立ち直ろうとすればこそだった」
真一は、あの日、三宅みどりの父親が高井由美子に殴りかかりながら叫んだ言葉を思い出した。離せ、みどりの仇を打つんだ──
「私なんぞがあっちこっち話を聞き回ったところで、何もできないかもしれない。警察だっていい顔はしないだろうしな。だけどな、私はもうじっとしているのが嫌なんだよ。さんざんいろんな人に会って、話を聞いて、やっぱり高井和明が怪しい、警察の言うとおりだっていう結論になって、あらためて腹を立てることになったら、そしたらこのジジイのやったことは、ただ時間くって回り道しただけだってことになるんだろう。だけどそれでもいいんだ。悪あがきでいい。そんなことは最初《 は な 》からわかっとるんだもの。私のやることなんざ、全部悪あがきなんだもんな。だって鞠子は帰ってこないし、真智子は正気には戻らん。何ひとつ元には戻らん。そうだろう? 何かを取り返そうと思ったって、そんなことは全部無駄なんだ」
無駄なんだ──だけど──
「そんでも私は、悪あがきしたいんだよ。何かをしたいんだ。鞠子も真智子も、この私だって、今までわざと他人様を傷つけたり苦しめたりしたことはないつもりだ。少なくとも、こんなひどい罰を受けなきゃならんようなことは、何もしていないつもりだ。だけど現実には、鞠子はあんな非道い殺され方をして、真智子はおかしくなって、私は店を失って一人きりになっちまった。この上、じっと座っていて、何かがやって来て私から残りの人生を、ほんのちっとしか残っていない人生を、また取り上げてゆくのを黙って見ているのは嫌なんだよ」
「でも、何をしたって結果は同じかもしれない」真一は言った。「有馬さん、今そう言ったじゃないですか」
「ああ、そうだよ。だけども、今となっては私には、大切なのは結果じゃないんだ。結果は理不尽で、全然納得がいかないよ。それは充分わかっとるんだ。だけど、そこまで行くあいだのことが大切なんだ。もう受け身でいるのはまっぴらなんだよ」
義男は真一の方に身を乗り出した。
「あんただって、一時は前畑さんの仕事を手伝っていただろ? どうしてこんな残酷なことが起こるのか、それを知りたいと思ったって言ってたじゃないか」
真一は激しく首を振った。「あれはカッコつけてただけだとも言いました」
「それだっていいさ。前畑さんを手伝おうとしていたときのあんたは、確かに何かしようとしていたんだからよ」
「そうじゃない!」大声で、真一は言い返した。「僕はそんな前向きな気持ちでなんかいなかった。前畑さんのところにいたのだって、ホントは他に行く場所がなかったからだし、便利だったからです。だからルポが出るときには、もう犯罪のことなんか見るのも聞くのも嫌だから、アパートを出ていくって言ったんです! あとちょっとで出ていくつもりだったんだ!」
「じゃあ、どうして留まったんだね? なぜ、そのときすぐに出ていかなかったんだ」
「高井由美子さんが現れて──滋子さんにあれこれ言い始めて──だから僕は」
舌がもつれて、真一は言葉を切り、唾を飲んだ。
「僕は気になって。滋子さんが、彼女の言うことを鵜呑みにするんじゃないかって。被害者の家族のこととか、全然考えないルポを書くんじゃないかって。だから残ったんです。誰に何も言われなくなって、遺族の人たちはみんな悲しくて、事件のこともまだよくわからないし、きっと自分たちのことを責めて苦しんでる。そこへ余計な、無神経なことを言い出さないように、見張るつもりで残ったんですよ」
「それだって、何かしようとしていたってことじゃないか。あんたがそのとき考えたことは、ちっとも間違ってなかったと私は思うよ」
「でも、ホントは石井さんの家に戻る決心がつかなかったから、だから由美子さんのことを言い訳にして──」
「ほらほら、まただよ」義男は首を振る。「また始まった。ホントは、だ。ホントは違ってた。ホントはこうだった。やめなさいよ。あんたがそのとき考えたことが本当なんだよ。本当のあんたは、そのときそのときその場にちゃんといるんだよ」
真一は黙った。どうしようもないほど口が震える。
「あんたはいつだって何かやろうとしてきたんだ。あんたの身に降りかかった災難から立ち直るために、何か道がないかって、ずっと探してきたんだ。その一瞬一瞬は、いつだってあんたにとっては正しい方向を向いていたんだよ。だけど、ちょっと続けて苦しくなると、すぐにそれが間違ってたような気分になって、やっぱりあれはホントじゃなかったって言い始める。まるで、いちいちあれは本当のことじゃないです≠チて断らないと、誰かに叱られるとでも思ってるみたいだ。誰も叱りゃしないよ。だって、あんたの人生はあんたのものなんだから。過去の災厄だけがあんたのものなんじゃなくて、これから先の人生だってあんたのものなんだ。誰にもお伺いをたてたりせずに、自分のためになることを自由に考えていいんだよ」
「だけど僕は有馬さんとは違うから!」真一は叫んだ。「僕は僕のせいで──」
「ご家族の事件は、あんたのせいで起こったわけじゃない」
きっぱりと、けっして叫びも怒鳴りもしないが、それでも真一を黙らせるだけの迫力で、有馬義男は断言した。
「確かにあんたはうっかりおしゃべりをした。だけどな、考えてごらん。友達とのおしゃべりだ。ご両親から口止めされていた、その約束は破っちまったかもしれない。だけど、それがあんなに大きな罰を受けるほど悪いことだったか? あんた、他人の身に置き換えて考えてごらんよ。もしも私があんたの立場だったら、あんた、私を責めるかね? 家族を手にかけた連中よりも、もともとは些細なおしゃべりをした私の方が悪いんだって、あんた私を責めるか?」
責めないだろう──と、義男は言った。
「あんた、今言ったね。私らの事件の遺族はみんな、残された自分たちを責めてるって。そうだよ、私もそうだ。日高さんも、三宅さんもみんなそうだろうよ。ああしてりゃよかった、こうしてりゃよかった。そればっかりだ。あんたがそのことを真っ先に思ったのは、あんた自身が自分のご家族の事件のことで、自分を責めているからだ。そしてあんたは、自分は自分を責めても仕方がないだけの理由があるけど、私らはそうじゃないと考えてくれてる。でも、違うよ。私から見たら、あんたにだって、自分を責める理由なんかない。ちっともない。私らは同じだよ」
指を折って数えながら、義男は続けた。
「私だってあんたと同じように、事件以来ずっと自分を責めてきた。そりゃもういろんなことを考えたさ。古川が家を出ていったとき、真智子と鞠子を説得してここで一緒に暮らすようにしていたら、あんなことにはならなんだ。鞠子が行方不明になったとき、もっともっと声を大きくして騒ぎ立てていたら、テレビの人捜し番組に出ていたら、まだ鞠子が生きているうちに、犯人が動き出して私に連絡してきたかもしれない。最初に犯人から電話がかかってきたとき、何から何まで犯人の言うとおりにへいこら[#「へいこら」に傍点]して、一人でプラザホテルにのこのこ出かけて行ったりせずに、警察に報せて張り込んでもらっていたら、鞠子を助けることができたかもしれない──」
「有馬さん」真一は思わずさえぎった。「それは違いますよ。だってあのときにはもう鞠子さんは──」
「わかってるよ。そんなことは言われるまでもないよ。だけども、考えずにはいられないんだ。理屈じゃないんだよ。私の心のなかでは。私がああしなかったから鞠子は死んだ、私がこうしなかったら鞠子は殺されなかったかも。一日だってそれを考えずにはいられない。な? 同じじゃないか。あんたが友達と他愛ないおしゃべりをしたせいで、ご家族三人を殺したようなものだと自分を責めるなら、私だって、犯人の指示に従ったことで鞠子を殺したようなものだと責められたって仕方がないだろ?」
息を切らして、義男は口をつぐんだ。はあはあしている。
深く呼吸をして、それから言った。「だけど、それは間違いだ。どうして間違いかって言ったら、現実に鞠子を殺したのは私じゃないし、あんたのご家族を手にかけたのもあんたじゃないからだ。犯人は別にいるからだ。それを忘れちゃいかん。絶対にいかん」
膝ががくがくしてきて、真一は床にしゃがみこみ、両手で頭を抱えた。有馬義男はゆっくりとパイプ椅子から立ち上がると、真一に近寄ってきた。そして、すぐ傍らに一緒になってしゃがんだ。
「人殺しが酷いのは、被害者を殺すだけじゃなくて、私やあんたや日高さんや三宅さんたちみたいな、残ったまわりの人間をも、こうやってじわじわ殺してゆくからだ。そうして腹立たしいことに、それをやるのは人殺し本人じゃない。残された者が、自分で自分を殺すんだ。こんな理不尽な話はない。私はもう嫌だ。それが嫌になったんだ。私はどれだけ自分自身に責められて、じわじわ殺されかけても、じっとこらえていられるほど強い人間じゃねえからな。弱虫だから、もうこんな非道いことには辛抱ができねえんだよ」
そっと真一の頭に手を置いて、義男は言った。「今度は、私のすることを手伝っておくれよ。近くにいて、このジジイの悪あがきを見ているだけだっていい。あんただけじゃない。こんな立場に置かれた人間は、みんなこうやってもがき苦しむんだ。それがわかったら。あんただって少しは自分を勘弁してやる気になれるかもしれんもんな」
老人の手が、軽く真一の頭を撫でた。
「誰よりもこっぴどくあんたを苦しめてるのは、樋口めぐみじゃない。あんた自身だ。彼女もそれをわかってる。だからあんたを追いかけてくるんだ。あんたが自分で自分を責めて痛めつけるのを見ると、彼女は少しばかり救われるんだろう」
真一は頭をあげて老人を見た。少し、ぼやけて見えた。「救われる……?」
「そうだ。不幸なのはあたしのせいじゃない、あたしが悪いんじゃないって、彼女はそう思うんだろうよ」
あたしたち、お互いに犠牲者よ。樋口めぐみはそう言っていた。
「あんたはもう、逃げ回るのをやめた」と、有馬義男は言った。「それは偉い。立派な決断をした。だがな、ぶたれるのが嫌で逃げていたのをやめて、ただぶたれるのに任せることにしたというだけじゃ、やっぱり駄目だ。ぶたれてぶたれてぶたれ続けて、良いことなんかあるわけねえだろ。だから、逃げずに留まって踏ん張るならば、もう彼女にぶたれるのもやめて、言い返してやんな。そうだよ、僕は自分で自分を責めてる。自分に責任があると思ってる。そうじゃないって言ってくれる人もいるけど、やっぱり自分では責任があるように思えて仕方がない。だから、充分に自分で自分を傷つけてる。だけどこれからはもう違う。どうしたら自分を傷つけるのをやめられるか、それを考えてる。今はまだどうしたらいいかわからないけど、一生懸命考えてる、と」
真一は呟いた。「そんなことを言ったら、あいつは、だったらまずアイツのオヤジに会えって要求するよ。自分が悪いと思ってるんなら、樋口に会ってそれを認めろって」
「そしたら言ってやれ。僕が僕自身の心の傷と罪悪感とどう折り合いをつけるか、その方法は自分で考える、だからあんたの指図は受けないって。あんたもあんた自身の傷をどう癒すか、自分で考えろ、あんたの親父をだし[#「だし」に傍点]にするな、とな」
あんたの親父をだしにするな──
何か言おうとして口を開いたが、それは言葉にならず、震えるようなため息になっただけだった。だが真一は、長い長い病が癒える、最初の兆しを見つけた病人になったような気がした。今、このため息と一緒に、自分の身体の芯にからんでいた厄介などす黒いものが出ていった──もちろんまだ病気は治っていないし、傷口もぱっくりと開いている。でも、原因は出ていった。
今まで、その厄介などす黒いものが場所を占めていた心の部分に、ぽっかりと穴が空いた。そうしてその空洞自体が震え始めて、その震えが真一の身体全体も震わして、気がついたら泣いていた。
長くは泣かなかった。多くも泣かなかった。それでも、安心して涙を流せることの喜びに、ただじっと丸くなっていた。この涙は今までのそれとは違った。頬を焼きもせず、こみあげるときに真一の心を削るようなこともなかった。
有馬義男はしゃがんだまま、そういう真一を黙って抱きかかえていてくれた。
真一は外向的で、親離れの早い子供だった。幼稚園も進んで通ったし、学校だって、グズッて休んだようなことは一度もなかった。キャンプだって、一人で親戚の家に泊まることだって平気だった。長男の独立心が旺盛であることを、教職者である両親は喜んでいた。
だから、最後に親の手で抱きかかえて慰めてもらったのがいつのことだったのか、もう記憶も定かではない。三歳か、四歳か。本当に幼いときのことだった。
それでも、今こうして抱きかかえてくれる老人の腕は、その遠い記憶のなかの両親の腕と、同じくらいに優しかった。同じくらいに力強かった。それでいて父でもなく、母でもなく、ただの大人の腕でさえなかった。
辛い道のりを共に歩く、同志の腕だった。
結局その日は二人で店と家のなかの掃除をして、夕方には義男は真智子の入院する病院へと出かけていった。真一も途中まで一緒に行き、歩きながら、今後のスケジュールづくりの相談をした。
「高井由美子さんに会うことは、もちろん警察には内緒だからなあ」老人は顎をひねった。
「前畑さんにも知られちゃまずいしな」
「もちろん僕は言いませんけど、でも有馬さんのところだと、今日みたいに刑事さんが来たりするんでしょう?」
「いっそのこと、私が長寿庵に行こうかと思うんだがね。昼間じゃまずいが、夜ならね」
「由美子さんは鍵を持ってるだろうから、できないことはないと思うけど」
大胆だな、と思った。
「ついでに高井和明の部屋を見せてもらえるといいんだが」有馬義男はちょっと首を振った。「もちろん、部屋を見たって何がわかるってもんじゃないんだろうけどもねえ」
「弱気になっちゃ駄目ですよ。さっきの勢いはどうしたんですか」
そうだなと、老人は笑った。
石井家に帰る道々、真一は、家の前に樋口めぐみが待ちかまえているといいなと考えていた。今のこの気持ちを、早く言葉に出して彼女にぶつけてしまいたい。それによって、さらに気持ちがしっかりと固まる。
だが、帰宅してみると、玄関の門扉の前には誰もいなかった。陽は暮れきって、西の空に一筋の茜色の光を残すばかりだ。真一はドアポケットに差し込まれた夕刊を引っこ抜きながら、ちょっと口の端を曲げて自分をあざ笑った。肩すかしを食ったような気分になるのは仕方ないにしても、これで魔法が解けたみたいにまた逆戻りをしては駄目だ。勢いに頼っているうちは本物じゃない。
ドアを開け、ただいまと声をかける。と、家の奥で軽い足音が聞こえ、すぐに石井良江が顔を見せた。
「シンちゃん、どこに行ってたの? お客様が来て、ずっと待ってたのに」
「お客?」
前畑滋子だろうか。とっさに考えたのはそれだった。様子を見に来てくれたのか。それとも、滋子には滋子なりの今後の計画があって、それにまだ真一が関わる必要があるのか。だとしても、これからの真一は、滋子と行動を共にすることはできないのだが。
「こんにちは、お邪魔してました」
明るい声が聞こえた。すぐに誰の声なのかわかったが、にわかには信じられなくて、真一は靴を脱ぎかけた姿勢をそのままに、目を見開いて突っ立っていた。
「仲直りしに来たんだけど、いい?」
水野久美が、両手を後ろに隠し、いかにも照れくさいという顔で笑っていた。
[#改ページ]
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一月二十二日夜、最初のそして劇的なHBSへの登場以来、網川浩一は、連日のように各局のテレビ番組に出演した。真摯な姿勢。爽《さわ》やかな弁舌。整った容姿と穏和な笑み。どこでも、彼は好印象をふりまいた。番組によっては、彼が訴えている「真犯人X説」に疑問を抱くゲストを招き、かなり挑発的に突っ込んだ質問をぶつけるようなこともあったが、いつでも網川は冷静で、熱意は充分に感じさせつつもけっして感情に走ることはなく、理知的な応答を続け、相手に対する礼儀正しい態度を崩すこともなかった。
彼の登場するニュース番組やワイドショウは、高視聴率を稼いだ。視聴率があがるのに比例して、彼の本も売れた。発売後一週間でベストセラー・リストのトップに躍り出て、それがまた話題になり、さらに売れる。増刷が間に合わず、都内の大手書店でさえも、平台に「入荷待ち」のポップを立てるところが出てくるほどだった。
世間の注目を一身に集めながら自説を主張する網川浩一に対し、捜査本部は沈黙を守った。『もうひとつの殺人』発売後、一月のあいだには一度しか開かれなかった記者会見でも、網川の唱える説に関連した質問には、「捜査は継続中なのでお答えできない」という紋切り型の回答が返ってきただけだった。
一月三十日、HBSは再びゴールデンタイムに特別番組を組み、網川を出演させた。そのなかで彼は、昨年の暮れに前畑滋子がそうしたのと同じように、赤井山中のお化けビルに立ち、そこを歩き、そこで語った。相手役を務めたのはHBSのメインのニュース番組を仕切る男性キャスターで、二人の会話は、ときどき、食事やおしゃべりをしながらテレビを流し観ている視聴者には理解がしにくいほどに、緻密な意見の応酬になった。
それでも、ひょっとしたら敏感な視聴者は気づいたかもしれない。この男性キャスターの言葉の端に、かすかではあるが隠しようのない網川浩一への不審感がのぞいていることを。それは彼の口から出る言葉ほどの論理性を持ち合わせてはおらず、だからこそ本人も押し隠そうとしているのだが、それでもわかる者にはわかったかもしれない。たとえテレビの前に座っているだけでも、この男性キャスターがHBSの上層部を相手取り、特番の企画に反対したことも、どうしても企画が通るならば自分は出演しないと頑張ったことも、頑張りきれずに最後には折れたときに、身近なスタッフたちに、せめて自分が相手をすることで、網川という好青年≠ノ対し、自分がどうしようもなく感じてしまうある種のうさんくささ[#「うさんくささ」に傍点]を、視聴者にも伝えることができるかもしれないと語ったことも、何ひとつ知らなくても、キャスターと網川のあいだに流れるそこはかとない緊張感から、それを読みとった視聴者もいたかもしれない。
しかし、だからどうだというのだ? 世間に登場したばかりのこの網川浩一という青年は、まだまだ新鮮で目新しく、魅力に溢れていた。どれほど硬派だろうと取材経験が豊富だろうと、あの男性キャスターの顔は、いささか見飽きた。言葉も聞き飽きた。しかし網川浩一には未知の魅力がある。彼は多くの人びとを惹きつけた。
スタジオの司会を受け持ったのは、昨年十一月一日のあの特番でも司会をしていた向坂《さきさか》アナウンサーで、当夜のビデオがもう一度画面に登場した。犯人たちとの電話のやりとりも、鮮やかに再生された。
生中継のお化けビルの現場で、モニターを通してそれを見、それを聞いて、網川浩一は言った。テレビカメラに向かって言った。全国の視聴者に向かって言った。
「最初の電話は栗橋だけど、かけ直してきた電話は、やっぱり、絶対に高井じゃない。カズはあんなしゃべり方をしません。僕は二人を知っていた。このことは本のなかでも順序立てて書きましたけれど、理屈だけじゃなく、直感でわかる。違います。絶対に、あれはカズじゃない」
彼の背後では、中継用のライトにまぶしく照らし出されたお化けビルが、野ざらしの白骨のように光っていた。
同じ夜──
赤井山南斜面の麓に広がる新興住宅地の一角、グリーンロードの照明灯が、ちょうど目の高さに、真珠のネックレスの切れっぱしのように見える場所。
クリーム色のサイディング・ボードの外壁に、青い西洋瓦を戴く洒落た一軒家の二階で、一人の若い主婦が、子供のベッドの脇に付き添っていた。小学校二年生の長男が、扁桃腺を腫らし高熱を出して、今日で三日も寝込んでいるのだ。
この子はしばしば扁桃腺炎にかかるので、体温が四十度近くにまであがっても、母親はさほどうろたえてはいなかった。いつもは一晩か、長くても二晩で下がる熱が、三日も続いていることにも、必要以上の不安を感じてはいなかった。もちろん心配で、夜中も何度か起き出しては様子を見ていたが、幸いかかりつけの医者は親切で地元でも評判のいい人だし、緊急の場合は往診も厭わずに来てくれる。大丈夫、子供の発熱はよくあることだし、数日続くことだって珍しくはない。今日の診察だって、先生は落ち着いていた。水分を充分与えて、安静にしてください。明日には下がると思いますよ。もう峠は越えてるから。
だが今回は、母親と同じくらい扁桃腺炎の高熱には馴れているはずの当の長男が、妙に不安気なのが気にかかっていた。いつもなら、ここぞとばかりにアイスクリームをたくさん食べたがるのに、今回はそんなこともない。元気になったら好きなものを買ってあげるとか、動物園に行こうとか話しかけても返事もしない。夫は、子供心にも、いつもよりも病状が重いので不安がっているだけだと言っていたけれど、だとしたらなおさら、不安を取り除いてあげられるような対処の仕方をしなければならないだろう。
とにかく今夜は一晩そばについていてやろう。手を握り、頭を撫でて。母さんが一緒にいるから大丈夫だよ。朝になってお陽様がのぼったら、熱も下がっているからね。
幼い子はうつらうつらして、ぽっかりと目を開けては母親の顔を見つけ、安心してまた眠り、また起きては母親を探す。そうして真夜中を過ぎたころ、子供のベッドに頭を伏せて眠り込んでいた母親は、小さな手で袖を引っ張られて目を覚ました。
「あ? どしたの? おしっこ?」
「うん」
母親は子供を抱いてトイレに連れていった。子供の身体は懐炉のように熱く、おしっこは薬の臭いがした。パジャマが汗に濡れていたので、着替えさせて寝かしつける。体温を測ると、まだ三十九度八分もあった。
「いっぱい汗をかいたから、侯が渇いたでしょ? ジュースをあげようか。それとも、リンゴをすった方がいいかな」
子供はすぐには返事をしなかった。目が赤く、潤んでいる。熱のせいだと思っていたら。みるみるうちにその目に涙がふくらみ、ぽろぽろと流れ落ちた。
「あらあら。どうしたの?」
あわててなだめる母親に抱かれて、小さな子は少し泣いた。それからしゃくりあげながら、熱が下がらないよと言った。
「そうねえ、今度は扁桃腺さんが意地悪してるんだね。でも大丈夫だよ、よくなるから。先生だってそうおっしゃってたでしょう?」
「僕、死ぬの?」
「死んだりしないわよ」
まあ、この子ったら。
「ナオキのお父さんみたいに、病院に行くの? ナオキのお父さんは、病院に行って帰ってこなかったんだよ」
「そうね、ナオキ君は可哀想だったよね。だけどあの子のお父さんは、扁桃腺炎とかじゃなくて、もっとずっと重い大人の病気だったのよ。あなたはそうじゃない。だからすぐに元気になるわよ」
「お母さん」
「なぁに?」
「ドロボーすると、バチがあたるんでしょ?」
突然、何を言い出すのだろう? 熱に浮かされているのかしら。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「ボク、バチがあたって熱が出たんだ。悪いことしたから、熱が下がらないんだ」と、子供は泣き泣き言った。「ごめんなさい」
母親は呆気にとられた。確かに躾は厳しくしている。年長の従妹の子供が中学に入るとすぐにグレてしまい、義務教育も終わらないうちに何度も警察のお世話になる様子をさんざん見せられたので、自分の子供はけっしてあんなふうに育てるまいと決心したのだ。悪いことをすると、必ずバチがあたるんですよと言い聞かせることも、その躾のうちだ。
「どうしてそんなふうに思うの?」子供の涙を拭ってやりながら、母親は優しく尋ねた。「悪いことって、何をしちゃったの?」
友達と喧嘩したのかしら。誰かを虐めたとか?
「ドロボーしたの」
「泥棒?」さすがに、ぎょっとした。「何を?」
「拾ったの。落とし物。だけどそれ、お巡りさんに届けなかったの。ほしかったから。コワれてるみたいだけど、カッコよかったからほしかったんだ」
「何を拾ったの?」
「電話。ケイタイ電話。この前の日曜日に、南赤井のグラウンドへ行ったときに、駐車場のそばの空き地で拾ったの」
この子は地元の少年サッカークラブに入っており、日曜日にグラウンドへ行ったのも、他のクラブとの交流試合があったからだった。まだ小さいので試合には出場できないが、年長の選手たちを、スタンドから応援した。家族で出かけたから、車で行った。
「空き地ンところに、川が流れてるでしょ。あそこで拾ったの」
母親に言わせれば、川というよりゴミ溜《ため》みたいな水たまりだった。赤井山のなかには、いくつかの小川が流れている。そのまま大きな河川まで続いているものもあれば、麓近くで流れが細くなり、土砂や岩にせき止められて水たまりみたいになってしまい、そこにゴミが集まるのだ。
「あなた、あんなところで電話を拾ったの?」
「うん」
とっさに母親が考えたのは、あんな不潔な場所で拾い物をしたときに、危険なバイ菌まで一緒に拾ってしまったのではないかということだった。だとしたら、これは本当に扁桃腺炎ではないのかもしれない。
「その電話、どこにしまったの?」
「ランドセルのなか」
「ずっと?」
「うん」
母親は急いで黒いランドセルの中身をあらためた。毎日毎日、学校へ持ってゆく教材が揃っているかどうか、子供と一緒に確かめている。忘れ物をしてはいけないというのも躾の内だからだ。でもそのときには、携帯電話になど気づかなかった。子供は天使のように可愛らしいが、何か隠し事をしようと思うときには、悪魔のように狡猾《こうかつ》に立ち回ることだってできるのだ。
「──ホントだ」
子供の言うとおり、ランドセルの底から携帯電話がひとつ出てきた。淡いブルーがかった銀色のボディ。アンテナが折れているが、さほど汚れてはいない。きっと、拾ったあとできれいに拭いたのだろう。だがボタンを押してもまったく反応がなく、液晶画面に明かりが点く様子もなかった。
「これ、壊れてるね」
「うん」
「きっと誰かが捨てたのよ。壊れちゃったから。だからゴミよ」母親はにっこりと笑いかけた。「ゴミを拾って来て隠しているなんてお行儀の悪いことだけど、でも、ドロボーではないわよ」
子供は目をパチパチさせた。「ホント?」
「本当よ。だからバチなんかあたらない。安心しておやすみなさい。眠れば、お薬がよく効いて熱も下がるから」
隠し事を打ち明けて、ほっとしたのだろう。子供はすぐに眠ってしまった。扁桃腺炎の熱が下がらなかったのも、案外、この屈託のせいだったかもしれない。
問題の携帯電話をエプロンのポケットに入れ、ベッドの脇に座り直して、あんまり厳しく躾けるのも考えものかしらと、母親は思った。悪いことをするとバチがあたるなんて、今時の子にはかえって言わない方がいいのかしら。それにしても携帯電話を拾うなんて。そうそうあっちこっちに落ちてるものじゃない。まあ、だからこそ物珍しかったんでしょうね。壊れていて使えないとわかっていても、お友達に見せたかったのかしら。
こんな高価なものを落として、落とし主は大損害だったでしょうね──それとも、壊れたから捨てちゃっただけ? 贅沢な話ね。世の中にはそういう人もいるのね。
うとうとと舟を漕ぎ始めながら、それでも脈絡なく考えていた。携帯電話──このあいだ、テレビでもやってたわね、偽名で契約して、最初の請求書が来る前に本体を捨ててしまって──使い逃げ──東京湾にはそんな携帯電話がいっぱい沈んでるって──最初から使い捨てタイプのもあるそうじゃないの──
頭の隅を何かがよぎり、母親はぴくりと顔をあげた。子供は赤い顔をしてすっかり熟睡している。
ちょっと前だけど、携帯電話のことで大騒ぎをしてなかったかしら。ほら、あの事件で。赤井山のグリーンロードであの二人組が死んで──あいつらとんでもない奴ら──
彼らの携帯電話が見つからないとか。事故現場で車から落ちてしまって、近くには沢もあるし、あの後は雨も降ったし雪も降ったし、警察もずっと捜索を続けていたみたいだけど、このごろはさすがに諦めて、だけど確か市報にも記事が載ってたんじゃない? 携帯電話を見つけたら交番に届けてくださいって。回覧板もまわってこなかったかしら? チラシをもらったような気もする。とっておいたかしら、あれ。
だけど──まさか、ね?
それでも短い夜の睡眠のあいだも、彼女はそのことを忘れなかった。翌朝、子供のベッドのそばで目を覚まし、小さな額に手をあててみると、熱はかなり下がっていた。彼女は立ち上がり、凝った背中を伸ばしながら階段を降りて、台所に入った。湯をわかしながら、チラシや広告を取っておく棚を探って見ると、赤井警察署が市民に配っていたチラシが確かに見つかった。
そうだ、警察は携帯電話を探していた。栗橋浩美という男が持っていたはずの電話だ。
彼女はエプロンのポケットからあの携帯電話を取り出した。夢ではなく、それはちゃんとそこにあった。
あの子はこれを、グラウンドのそばで拾ったと言った。赤井山グリーンロードから、五キロほど下がったところだ。そうだ、あり得る。こんな軽いものだもの、斜面を転がり、雨に流され、小川に運ばれて──
夫が起きてきた。ボサボサ頭で、大あくびをしている。
「あなた」と、彼女は言った。「ちょっと見てもらいたいものがあるの」
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19
二月十日の午過ぎ、武上悦郎が半月ぶりに自宅に帰ると、娘が待ち受けていた。
「お帰りなさぁい」と、陽気な声を出す。
「お昼つくっておいたけど、食べる? お父さんの好きな五目ご飯よ」
今朝方、午過ぎに戻ると妻に電話を入れておいたので、それを聞いて作っておいてくれたのだろう。妻は仕事に出ていて、この時間帯は留守だ。しかし娘とて、平日の昼間は授業があるはずなのだが。
「大学はどうした。また休講か?」
「ううん、今日は休んだの」武上|法子《のり こ 》はあっさりと言って、父親に叱られる前に急いで言い足した。「例のホームページのことで、お父さんに報告したいことがあったから。電話より、直に話したかったんだ」
父娘は台所の小さなテーブルを囲んだ。冷え込みは厳しいが好天で、流しの上の窓から、陽射しが明るく差し込んでいる。暦の上ではすでに春だ。どれほど気温は低くても、寒さの硬さが少しずつ和らいでいるのが感じられる。
グリーンロードの事故から、百日近くを経過したことになるのだ。大川公園事件から数えるならば、すでに五ヵ月。まだ残暑厳しいころに始まった事件が、秋を過ぎ冬を越し、春を迎えようかという時期になって未だ混迷のなかにある。正確な犠牲者の数さえ特定できていない。さらに今になって、武上個人の心のなかでは、事件の全体像まで揺るぎだしているという有様だ。
平和な台所で明るい陽光を浴びていると、にわかに、疲労感といらだたしさがないまぜになってこみ上げてきた。この事件だけでなく、長丁場の捜査に関わると、家に帰った途端、こんなふうに憑《つ》き物が落ちたように気落ちすることがあって、武上はそういうときの自分がひどく嫌いだった。
法子は若い娘らしく、盛んに食べながら器用にしゃべった。口がふたつあるかのようだ。しかし、彼女の闊達さと同じくらいに、彼女の報告の内容も、武上を驚かせた。
「会ってみる[#「会ってみる」に傍点]?」
「うん。明日の二時に約束したの」法子はこともなげにうなずいた。「羽田に迎えに行くことになってるのよ」
武上に頼まれてからこちら、法子は熱心に剣崎龍介のホームページにアクセスしていた。彼女がつかんだ限りでは、栗橋・高井と思われる二人組による拉致未遂事件についての書き込みは三十三件あった。ところが、そのうち、自身が被害に遭いそうになったと告げているものは八件しかない。他の書き込みは、被害報告未遂を受けて膨らんだうわさ話や伝聞、推測の域を出ないものばかりだった。つまり、武上が最初に生田刑事から注意を促され、このホームページに着目した時から比べても、そこでやりとりされている未遂事件に関する情報の精度は、明らかに下がりつつあるということだろう。精度というのが少し酷ならば、情熱とでも言い換えようか。
「最近はもっぱら、『もうひとつの殺人』が話題になってるのよ。網川って人があそこで提示してる新しい説の信憑性について、みんな盛んに議論してる。網川さんに直に意見を聞きたいから、版元の出版社経由で彼にメイルを送るって話も出てるし」
法子はそれらの活発なやりとりを横目に、未遂事件の報告者とメイルを交換したり、チャットという多人数で一度に会話できる仕組みを使って情報をやりとりしたりして、書き込み内容の真偽を、彼女なりに探っていった。
「信用性の低い話は、ちょっとやりとりしてると見当がつくの。お父さんなんかビックリしちゃうかもしれないけど、拉致されそうになったっていう話を事細かにアップしてて、それがまた読んでるこっちも鳥肌が立ってくるような具体的な話でね、これは本物だろうと思ってしきりと呼びかけてメイルを交換してると、別の人からメイルが来るわけ。何かっていうと、ノンノンさん──あ、ノンノンってあたしのハンドルネームよ──余計なお世話かもしれないけどご忠告します。あなたがこのところ熱心にやりとりをしている○○さんは、実は男性ですよ、わたしも以前に騙された、あの人、こういういたずらをするのが好きなんですよという内容なのよ」
つまり、未遂報告も作り話なわけである。
「別に珍しくないのよ。ネットおかま[#「ネットおかま」に傍点]っていうんだけど、ネット上では匿名になるだけじゃなくて、性別だって偽ろうと思えば簡単なんだから」
情報を探る段階では、法子つまりノンノンは、自分が刑事の娘であるということを公にしなかった。だいいち、そんなこと書き込んでもまず本気にされないものよと言う。
「でもね、ずっとやりとりを続けたり、その後の書き込みを見てるうちに、わりと親しくなった人がいてね、そのうちの一人が──」
角田《つの だ 》真弓《 ま ゆみ》という二十歳の専門学校生だった。小樽に住んでおり、一昨年の夏、彼女が危うく拉致されそうになったのも小樽市内で、しかも当時の彼女の自宅から徒歩で五分ほどの距離しか離れていない場所だった。
「角田さんは、実は東京の人なの。お父さんの仕事の関係で高校一年生のときに小樽に引っ越したんだけどね。ホラ、小樽ってガラス工芸が盛んでしょ? 彼女、すっかりそちらに興味を持ってしまって、今通ってるのもガラス工芸の学校なのよ。ご家族は、去年お父さんがまた東京へ異動になって、みんな戻っちゃったんだけど、そういうわけで彼女ひとり小樽に残ってるんだって」
「一昨年というと、その娘さんは高校生か」
「うん。夏休みだったそうよ。国道沿いのファーストフードのお店でアルバイトしててね、遅番の日は帰りが夜になるんで、気をつけるようにはしていたんだそうだけど……」
アルバイト先への足に、彼女はミニバイクを使っていた。問題のその夜──
「日時もはっきりしてるの。彼女、几帳面に日記をつけてる人だから。八月七日、時刻は、家に帰って時計を見たら十時五分だったそうだから、事件があったのは十時よりももっと前でしょうね」
当時の角田家は、小樽市郊外の新興住宅地にあった。父親の会社が用意してくれた借り上げ社宅で、新築の家だったが、周囲の家がまだ分譲中だったり、買い手がつかずに未入居のままだったりして、陽が落ちてからは人通りも絶え、街灯が少ないので全体に暗く、ちょっと横道に逸れると林と藪《やぶ》ばかりで、非常に寂しい住居環境だったらしい。
「彼女の家は、国道から住宅地内に入って二ブロック目のところにあったんだって。そこまでずっと、ミニバイクでぷるぷると走っていくわけよ」
すると、一ブロック目の東の角にある洒落た赤煉瓦の二階家の門扉に寄せるようにして、ミッドナイトブルーの3ナンバーの車が停車していた。この赤煉瓦の家はまだ分譲中で、素敵な家なのになかなか売れないようだということについて、角田真弓は母親と会話をしたばかりだった。
「だから、アラいよいよ買い手がついたのかしら、それにしてもこんな時刻に変だなと思って、スピードを落としてその車の脇をすり抜けようとしたら、車の前から出し抜けに若い男が出てきて──」
両手を大きく振りながら、角田真弓のミニバイクの前に立ちふさがった。真弓はごく低スピードで走っていたのでバランスを崩すようなことはなかったが、それでも驚いてバイクを停めた。
「手を振って立ちふさがった?」
「そう。事故を起こしたりして、救助を求めてるような感じだったって」
しかし、真弓のバイクが近づくまでは、その若い男が車の前に身を潜めて隠れていたようであることが癇に障った。彼女はヘルメットもとらず、ミニバイクのスターターに手をかけたま、ひたと男の顔を見た。
「その若い男、脅かしてすみません、ちょっと困ってて、道を教えてもらえませんかって、そう言うんだって」
ドライブしていたら道に迷って、今どこにいるのかもよくわからない、そのうえ友達が腹痛を起こして苦しがっている、近くに病院はないか──という。
「ジーンズに白いTシャツで、襟首のところにたたんだサングラスをひっかけていたそうよ。二十歳過ぎの、大学生みたいな感じだったって」
男の身長は百八十センチぐらい。車のヘッドライトは消えている。ミニバイクのライトは点いていたが、そのせいでかえって相手の顔がシルエットになってしまい、よく見えなかったそうだ。
「角田さんは女の子にしては大柄な方で、百七十三センチあるんだって中学校のころからバレーボールの選手で、身体は鍛えているので、男が何か怪しげなことを仕掛けてきたなら反撃してやろうというぐらいの気構えも持ってたそうよ。で、ここは住宅地で、回れ右をして国道へ出て、小樽市内へ向かう標識に従って走っていけば、ここから二キロぐらいのところに救急外科病院がありますよって、パキパキ答えたんだって」
すると男は、友達がひどく苦しそうなので、救急車を呼びたいと言い出した。あなた、携帯電話を持っていませんか?
角田真弓は携帯電話を持っていた。が、そのときには、言うに言われぬ直感か本能の働きで、持っていないと答えた方がいいと感じたのだという。だから嘘をついた。そして、
「救急車が待機してる消防署よりも、救急病院の方が近くにあるし、お友達が苦しくて運転できないなら、あなたが運転すればいいじゃないですかと言ったんだって」
若い男は頭をかきながら、さりげなく真弓のバイクに近寄ってきた。それでようやく、彼女にも男の目鼻立ちが見て取れた。
「どんな男だったんだ」と、武上は訊いた。
法子は一瞬気を持たせるように間をおいてから、「栗、橋、浩、美」と、一文字一文字を鋲で打ち込むような感じに答えた。
「一昨年のことだろう? そんなに記憶が確かなわけはない」
法子はハアと息を吐いて嘆いた。「あたしだってお父さんの娘よ。それぐらい考えたわよ。もうちょっと先まで聞いて」
このやりとりのあいだ、ミッドナイトブルーの車の運転席にも助手席にも人影は見えなかった。真弓は、友達が乗っているなど嘘だろうと思った。ぐっと横目で見ると、かろうじて車のナンバープレートが読めた。小樽ナンバーで、レンタカーだったそうだ。
真弓が頑なにバイクから離れず、すぐにも走り出そうという構えを解かずにいると、若い男は親しげな笑顔をつくって、自分は方向オンチだから、救急病院まで先導して案内してほしいと頼んだそうだ。しかし彼女は、国道を戻れば道は間違いようがないからと言い張って、相手の頼みを聞き入れなかった。
「でも内心では怖くってしょうがなかったから、ついつい目がね、明かりのついてる自分の家の方へ動いてしまったんだって。早くそっちへ行きたい、帰りたいって思うからよ」
若い男は目ざとくそれに気づくと、尋ねた。──君の家は近所なの?
真弓は返事をしなかった。この男に対しては、自宅がすぐ近所にあるのだと答えた方が安全なのか、自宅の位置を気取られない方が安全なのか、判断がつかなかったのだそうだ。
だが言葉にしなくても、相手は彼女の態度で悟ってしまったらしい。あやまたず、真弓の家がある隣のブロックの方を振り返った。角田家は、門灯も窓の明かりもついている。──近所なら、いいじゃないか。人には親切にするもんだよ。
そう言って、若い男はいきなり真弓の右腕を掴んだ。夏場のことで半袖のブラウスを着ていたので、彼女には直に男の手の感触が伝わった。ねっとりと汗ばんでいて、しかし力は強かった。掴まれた二の腕の骨がゴリッと鳴るほどだった。
真弓は悲鳴をあげ、とっさに足を上げて男を蹴ろうとした。男が素早く半歩下がって避けたので、足は空を切った。が、その隙に腕を振りほどき、真弓はバイクを発進させた。つんのめりそうな勢いで走り去りながら、男が追いかけてこないかと首をよじって後ろを見た。若い男は二、三歩追いかけてきたが、すぐにミッドナイトブルーの車のドアが開いて、男がもう一人降りてきた。遠ざかる自分のバイクのライトと、問題の車のブレーキライトのほかには光源がなく、かろうじて二人の男が並んだシルエットが見て取れただけだったが、声は聞こえた。笑いを含んだ、からかうような口調の声が聞こえた。
真弓は無我夢中でバイクを走らせた。わざと自宅の前を通り過ぎ、住宅地内を真っ直ぐ横切って反対側の出口から国道に戻り、市内に向かって走った。後を尾けられていないかと、たびたび振り返って後ろを確認した。誰も追ってきていなかった。五分ほど走って、まだ胸の轟きがおさまらないうちに、目についたガソリンスタンドに飛び込んで、自宅に電話をかけた。母親が出たので事情を話し、こっそりカーテンの隙間から外をのぞいてみるように頼んだ。母親はすぐに電話口に戻ってきて、誰も見当たらないと答えた。そのときになって初めて、角田真弓は、若い男に掴まれた二の腕に、くっきりと赤く指の痕が残っていることに気がついてぞっとした。
「結局、三十分ぐらいそのガソリンスタンドで時間を潰して、また家に電話をかけてみると、お父さんが帰ってきたところだったから、迎えに来てもらったんだって。それきり怪しいことはなかったけど、一週間ぐらいは夜もよく眠れなくて、家のまわりを変な男がウロウロしてるんじゃないかって思うと、窓も開けられなかったそうよ」
「警察には届けなかったのか?」
「被害に遭ったわけじゃなかったからね」
「そういう段階で届けておいてもらうと助かるんだがな」
法子は咎めるような目をした。「お父さんはそう言うけど、じゃあって交番とか行くと、その程度のことで騒ぐんじゃないよ、こっちは忙しいんだからってな応対をする人がいるんだから」
武上はむすっとして五目飯の残りをかきこんだ。
「彼女はこのこと、忘れてた」法子は真面目な口調に戻って続けた。「忘れることができるなら、長く覚えていたい種類の出来事じゃないもんね。ところが、グリーンロードの事故が起こって、栗橋浩美の顔写真がテレビで公開されて──」
テレビを観た瞬間に、記憶が蘇った。そのとき腰かけていた椅子から落ちそうになるほど驚いたという。
「だがな、そういう記憶は」
「あてにならないって言うんでしょ? わかってるわよ。でもね、角田さんは栗橋浩美の顔写真を見て思い出しただけじゃないの。彼の名前も覚えてたのよ」
「名前?」
「うん。さっき話したでしょ。彼女が逃げ出した直後、ミッドナイトブルーの車からもう一人の男が降りてきて、何か話すのが聞こえたって。その言葉はね──」──やめとこう、ヒロミ。あの女はデカすぎるよ。
「彼女、身長が百七十三センチあるのよ」と、法子は言った。「そしてね、車から降りてきたもう一人の男は、栗橋浩美と同じような体格だったって[#「栗橋浩美と同じような体格だったって」に傍点]。高井和明みたいなずんぐりむっくりじゃなかったって。シルエットで見たからこそ、記憶は確かだって彼女は言うの」
武上は顔をしかめた。丸飲みにするには危険な話だ。たとえすべて事実だとしても、必死で逃げ出すときに漏れ聞いた会話だ、どこまで正確に聞き取れたかどうか怪しい。体格が云々の目撃談にしても同じである。
しかし──心情的には、武上個人としては足の裏がうずうずするような感じがする。建築家≠ニのディスカッションを通して、真犯人Xの存在説に、かなり心が傾いているところだ。
「それでおまえは彼女に会う、と」武上はそれだけを言って、箸を置いた。立ち上がり、ポットから湯飲みに湯を注ぐ。「そこまで話を聞いた段階で、ちょっとバクチだったんだけど、あたし、彼女に事情を説明したの。もちろん彼女だけよ。ほかの人には言わないでねって念を押したわよ」
法子は東京の刑事の娘で、父親に頼まれて遠方の未遂報告の詳細を調べているのだ──ということを告げられて、当然のことながら、角田真弓はひどく驚いた様子を見せた。しかし、自分の話をあわてて訂正したり、つくろったり、法子が彼女を騙していたとなじるようなことはなかったそうだ。
「ただ、あたしの言ってることが本当かどうか、それは疑ってたわね。今も疑ってるんじゃないかな。ホントは記者か何かじゃないのって訊かれたりするもの」
法子は、自分の身元を確かにするためにも、真弓さえ嫌でなければ一度会いたいと申し出た。真弓はすぐには返事をせず──どうやら、誰かに相談していたようである──数日後にメイルを寄越して、近々家族のところへ行くから、その折に会うならば、と承諾したという経緯《いきさつ》だった。
「で、会ってどうするんだ?」
「嫌だな、そこから先はお父さんの縄張りよ。あたしこそ、お父さんの指示を仰ぎたいの。角田さんを説得して、墨東警察署へ連れていって、正式な調書をつくってもらうようにするの? それとも、話を聞きっぱなしにしておいていいの?」
武上は唸った。「俺としては、剣崎龍介のホームページっていう、なんていうかな、公的なようでいて実は私的に閉じている情報の空間に、今現在どんな未遂報告が書き込まれているか、それを概観してみたかっただけなんだ。実を言えば、証言者個人に直接会う必要までは感じていなかった」
「なあんだ」法子は箸を放り出した。「それならそうと先に言ってよ」
「おまえがそこまで熱を入れて調べると思わなかったんでな。すまんことをした」
法子はきょとんとした。父親にまともに詫びられたことなどほとんどない。
「まあ、いいや。ほかならぬお父さんのことだもんね」あっけらかんと笑う。切り替えの早いところは、武上よりは母親譲りの気質である。「だけど困ったな。それだと、角田さんに会ってもあんまり意味ないかな」
「意味がなくはないぞ。彼女が自分の証言を警察に提供したがっているのなら、おまえが案内して墨東警察署に連れて行ってやってくれ」
「そこのところは彼女もはっきりしないのよ……。今さらこんなこと言い出しても、警察が相手にしてくれないんじゃないかって思ってるのかな。でも、真面目にとりあってくれるよね?」
「もちろんだ」
「ただね、だからってすぐに捜査方針が変わるってことにもなんないでしょ? それだと彼女、がっかりしちゃうかなあ。『もうひとつの殺人』があれだけ話題になってても、捜査本部は表向きには栗橋・高井共同犯行説を捨ててないじゃない? 内部ではどうだか知らないけどさ」
内部では、『もうひとつの殺人』が世に出るはるか以前から意見が割れているのだ。だから今さらどうということもないように見えるのだと、武上は説明した。公的には、捜査本部としては、『もうひとつの殺人』に書かれている事柄が、どこまで事実として本当のことなのか、一読しただけではわからないというスタンスをとり、事実上黙認している。
一般社会の人びとは、あの本を読んで、こりゃ警察はあわてているだろうとか、怒っているだろうとか、いろいろ推測をしていることだろうけれど、組織としての警察はそれほど軟弱ではないし、懐が浅くもない。
ただし個人としては別である。武上と同じく、旧来の高井共犯説にグラつきを感じ始めている者たちもいるし、頭から網川浩一の説を否定して一顧だにしない者もいる。網川は売名と金儲けのために事実に脚色して面白おかしく書きとばしているだけだと、青筋立てて怒っている者もいる。秋津など、そのクチである。
──網川は、まるでこの事件のいちばん悲惨な被害者は高井和明とその遺族で、ほかの犠牲者や遺族はたいした目に遭ってないみたいな言い方をしてるじゃないですか。俺はあれが許せない。
「秋津さんてさ、子供のころに刑事ドラマ観て感動して、オレ大人になったら刑事になるって決心して、ホントに警察へ入っちゃったヒトでしょ?」法子がころころ笑った。「あのヒトなら、いかにもそんなこと言いそうだね」
「その話、知らんぞ」
「そう? ウチにお年始に来て、酔っぱらって言ってたことあるわよ。すんこいガタイのいい単細胞ね。でっかいアメーバだわ」
不覚にも武上は吹き出した。実際、秋津にはそんなところがある。
「俺が笑っちゃいかんな」
「でもさ、お父さん」法子は真顔に戻って身を乗り出した。「ホントのところ、内部じゃ今どっちの意見が優勢なの? 栗橋・高井共犯説? それとも真犯人X存在説?」
武上は鼻先で娘の質問を跳ね飛ばした。
「答えられるわけがないだろうが」
「じゃ、お父さん個人としては?」
「ノーコメントだ」武上は言って、逆襲した。「おまえはどうなんだ?」
「あたし?」法子は指で鼻の頭を指した。「あたしはね──うん……」
腕組みをして考え込むと、ひどく真剣な目の色をした。
「正直言って、判断がつかない。警察は捜査の過程で集めた情報を全部公開してないでしょ? だから、網川さんが書いてる事柄のなかに、既に捜査本部が調べて、高井和明の共犯説の可能性を否定するものではないと判断した材料が混じってたとしても、それとは判らない。彼の立ててる仮説は、一読するとすごくすっきりしてて説得力があるけど、土台をつくってるものが本当に事実だけなのかどうかは判らないわけよ。土台の段階で、彼の予断や事実確認の不手際が混じっているかもしれないっていう可能性がある以上、彼の説を鵜呑みにするのは、あたし嫌なの」
武上は少しばかり娘が誇らしかったが、黙って顔にも出さなかった。
「でもね、もしも事件の全貌が彼の推測したとおりのもので、真犯人Xがまだこの世に生きてぴんぴんしてるんだとしたら──」
女子大生の娘は、くたびれた刑事の父親の顔を正面から見つめた。
「真犯人Xが、網川さんのこと、このまま放っておくはずはないと思う。彼に対して、きっと何かしら仕掛けてくるに違いないって思うの」
それはまさに、つい先日武上と建築家≠ェ達した結論だ。Xは網川浩一に接触してくる。必ず。
「網川さんが注目を浴びてること、Xは面白く感じてないと思う。めちゃめちゃ不愉快なはずよ。だってさ、事件の主役の座を、今のところは、すっかり彼に奪われちゃってるものね」
「しかし、迂闊に動けば我々にその存在を確信させちまうことになるぞ」武上はわざと言った。「黙って隠れ続けていれば、アホな警察は栗橋・高井共犯説で事件に蓋《ふた》をしてくれるかもしれないんだ。わざわざ危険な橋を渡ることはあるまい」
「危険」法子は台詞《せ り ふ》でも言うように大声で、台所の天井に向かって言った。「真犯人Xにとって、危険って何かしら。そもそも警察に捕まることを、彼は危険だと考えているかしら」
「犯罪をおかしているという認識はあるだろうから」
「犯罪」また、大声で読み上げるように言う。「それもどうかな。彼──つまり真犯人Xのことだけど──これを犯罪だと思ってないかもよ、お父さん」
そう、舞台劇[#「舞台劇」に傍点]だ。武上は心底驚いていた。法子まで、俺や建築家≠ニ同じようなことを言い出すとは。
「それはおまえひとりの意見か? それとも、誰かほかにそんなことを言ってる奴がいるのか?」
「劇場型犯罪だってことは、みんな言ってるよね。テレビでも雑誌でも」法子はちらりとベロを出した。「でも、あたしはそもそもこれが犯罪だって、犯人が──この場合の犯人≠ヘ、栗橋であれ高井であれXであれ誰であれね──ちゃんと認識してるかどうかが怪しいって思う。これは個人的感想」
「なぜそんなふうに思うんだね?」
思わず知らず、武上は丁寧な聞き方をしていた。
法子はしばし、考えをまとめるように、じっとキッチンのテーブルを見つめていた。それから、その視線を動かさずに呟いた。
「あたしたち女性は、ほとんどの場合、殺される側にいる」
武上はどきりとした。
「だから、犯罪とか事件とかを見るときに、どうしても、男の人たちとは違う見方をしちゃうのかもしれない。でもそれはしょうがないと思うのよ。今度だって、わかっている限りでは、被害者は木村庄司さん一人を除いて全員女性でしょ? 他人事とは思えない」
そうだろう。運が悪ければ、自分もこの犯人の手にかかっていたかもしれない──と、戦慄《せんりつ》を覚えつつニュースを見るのと、自分のなかにもこういう暴力的な部分が潜んでいるかもしれないと思いつつニュースを見るのとでは、心の動きが違って当然だ。それどころか、実際問題として捜査本部が軽々しく栗橋・高井犯人説の看板をおろすことができないのは、迂闊にそんなことをすれば、一段落したはずの事件の温度をまた上げることになってしまうからだ。事件熱が上がれば、それに浮かされて、類似の犯行に走る男どもが現れる。同じような犯罪の芽は、いたるところに存在しているのだから。
「あたしには、ずっと、この犯人≠ェすごく愉しんでるように感じられてしょうがなかった」法子は痛そうに顔を歪めて言った。「それも犯罪≠愉しんでるんじゃない。わざと悪いことをして他人を怖がらせて面白がってるんじゃないのよ。そういうのとは根本的に違うの。まるでイベントの演出でもしてるみたい」
舞台劇だ。武上は再び思った。観客参加型の芝居だ。
「見物してる社会の人たちを、愉しませようとしてる。それだけじゃなくて、この犯人≠ヘ、殺された被害者たちだって、楽しかったはずだって思ってるんじゃないかって気さえするのよ。だって被害者たちもイベントの参加者なんだもの」
これには、さすがに武上も絶句した。「被害者たちまで──とはな」
法子は強く首を振った。「もちろん、現実にはそんなことあるわけないわよ。だけどあたし、想像しちゃったの。この犯人=A被害者を殺す前に、過去の想い出とか家族のこととか、本人から盛んに聞き出していた形跡があるんでしょ? アメリカなんかでよくある変質的な殺人犯みたいに、相手をモノとして扱ってたわけじゃなかった。相手もちゃんと人格のある一個の人間だってことを、わざわざ時間と手間をかけて何度も何度も確認して、それから殺してるわけよ。ね?」
武上は黙ったままうなずいた。
「それであたし想像したの──これから被害者を殺すってときに、犯人≠ェ彼女たちにこう言うのよ──君は死にたくないって命乞いするけど、今の君みたいなちっぽけな存在のまま生きてたってしょうがないじゃない? でも僕の手にかかって、僕のつくる連続殺人の被害者って形でこの一大イベントに参加したならば、君の名前は日本中で有名になって、みんなが君のことをよく知るようになって、みんなが君の名前や顔を覚えてくれて、みんなが君の死を悼《いた》んでくれるよ、これってすごく素晴らしいと思わない?」
謳《うた》うような調子でそこまで言って、法子ははっと我にかえったようにまばたきをした。
「とっても怖いけど、そんなふうに思ったの。でね、そうだとすると、犯人≠ヘ、被害者たちに対して悪いことをしたなんて、これっぽっちも思ってないんじゃないかしら。もちろん遺族に対しても同じよ。あんたたちの平凡で地味な[#「平凡で地味な」に傍点]人生に、思いがけないスポットライトを当ててあげたんだよって──参加者も一般社会の観客も、みんなみんな愉しんで、誰も損してないじゃない、僕は悪いことなんかしてないよ、僕のしてることのどこがいけないの? 誰かそれを説明できる? って」
法子はまるで犯人≠ノ乗り移られたかのように、その質問の答を求めて武上の方に乗り出した。父はいかめしい顔をさらに怖くして言葉を探した。
「人間が、純粋な娯楽のために他の人間の命を犠牲にするようなやり方を、現代の文明社会は許さないんだ。逆に言えば、それを許さないような社会の仕組みとルールをつくるために、何百年という時間が必要だったんだ。今さらそれを許せば、人類は歴史を後戻りをすることになっちまう」
「後戻りしたっていいじゃない」法子はわざと挑発的な言い方をして、口の端をにっと吊り上げた。「面白ければ[#「面白ければ」に傍点]」
武上は背筋が冷たくなり、頭が熱くなった。娘のなかに、彼のまったく知らない別の人格が潜んでいる──
「そんな怖い顔で睨まないでよ」
法子がにこにこしている。武上のよく知っている、おしめも換えてやった、一緒に風呂にも入った、九九を教えた、夏休みの工作づくりを手伝ってやった、あるときから父親に自室の回りをうろつかれるのを嫌がるようになった、そんな娘の顔に戻っていた。「おまえ、大学で芝居でもやってるのか?」
冷や汗を拭う思いで武上が呟くと、法子はあははと声をたてて笑った。
「ぜーんぜん。でも、ちょっと今のは説得力あったみたいだね」
「あり過ぎだ」
「これはきっと世代の差だね」法子は茶碗を片づけながら言った。「あたしはもちろん、今のような屁理屈を認めない。絶対許さない[#「絶対許さない」に傍点]。でも、そんなふうに考える連中が出てきても驚かない。あたしたちの世代にはそういう指向性があるから」
「命は無条件で大切なものだとか、社会の安全は守らなければならないとか、そういう考え方を笑い飛ばす?」
法子は首を振った。「そういうすべてのものよりも、退屈しないことの方が大切だ[#「退屈しないことの方が大切だ」に傍点]っていう指向性よ」
ちょっと考えてから、付け足した。「うん、そう。何よりも恐ろしいのは、人生に何も起こらないこと。誰にも注目されず、何の刺激もない人生を送るくらいなら、死んだ方がましだっていう、そういう指向性」
分かり切ったことを言うような、淡々とした法子の口調が、墨東警察署に帰ってからも、武上の頭から離れなかった。その言葉以前に法子が見事に分析してみせた、事件の真犯人≠フモノローグも、耳の底に蘇っては、武上を内部から揺すぶった。
──みんなを愉しませてる。べつに悪いことじゃない。
──あんたたちの平凡で地味な人生に、思いがけないスポットを当ててあげたんだ。
法子は何の難しい言葉も使わなかった。哲学的・社会学的なことを言ったわけでもない。武上にとって、法子はそれなりに自慢の娘だが、だからといって彼女が世間的平均値から抜きん出て優秀な娘だと思っているわけではないし、またそんなふうに思う根拠もない。父親がそうであるように、法子もまた、勤勉な普通人の一人である。
その普通人が、平易な言葉で語ることのできる犯罪──今度の連続誘拐殺人事件は、そういう種類のものだったのか。残酷で冷笑的だが、その酷薄さを生んでいるエネルギーは、同時代の同世代の人間には軽く理解可能の動力源から出てきているのか。
だとすれば、犯人もまた普通の$l間であるはずだ。
ちょうどその日の午後からは、武上の指示で、デスク班のうちの二人が、今の段階で出揃っている未遂報告事例についてのファイル作りに取りかかることになっていた。もちろんデスク班で取り上げる未遂報告事例は、現段階で捜査本部に届け出があり、かつ裏付け捜査の結果、記録として残しておく必要性を認められたものだけだから、件数的にはそう多くない。しかし、武上は独断で、本部の指示では「本件との関わり合いは認められない」として記録を閉じるよう指示された事例のなかからも、未遂事例の襲撃者が複数犯であるものは全部残して、ファイル化することにした。
担当デスク係の人数も、当初の二人から倍の四人にし、その四人を二班に分けた。第一班は、未遂事例の被害者が、襲撃者を「栗橋浩美・高井和明」の二人組だったと、はっきり断言している事例を担当する。第二班は、襲撃者についての証言が、そこまではっきりしておらず、二人組の襲撃者のうち一人については目撃していなかったり、声しか聞いていなかったり、あるいは犯人の身体的特徴が栗橋浩美や高井和明とは食い違う部分があったと報告されている事例を担当する。
ここで作成する「ファイル」とは、事件の聞き取り調書と捜査員の現地調査の報告書、写真等を、それらを元に、未遂事例の発生経過を現地の精密な地図の上に忠実に再現して書き込んだものと一緒に綴じ込んだ、総合的な一件書類を指す。従って、完成したこのファイルを一読すれば、誰にでもそこで報告されている未遂事例の経過について詳しく知ることができるのだ。さらに、ふたつの班でファイルが完成したら、それを対照・照合することによって、何か共通の──あるいは相反する、今まで見落とされていた事実が浮上するかもしれない。「栗橋・高井組」と思われる事例で報告されている襲撃者の動きや、被害者へのアプローチの手口と、そうではないケースのそれとのあいだに、何かしら具体的な相違点が見つかるかもしれない。
担当者を決めて作業を割り振ると、それぞれ仕事に戻ったデスク班員たちをぐるりと見回して、武上は篠崎を呼んだ。篠崎は亀の子のように首を縮めた。
「ちょっと来い」
武上はさっさと廊下に出た。篠崎は、たっぷり二十秒はためらってから、のろのろと出てきた。武上は、彼がデスク部屋のドアを閉め切らないうちに訊いた。
「おまえ、女子大生のお守りをする気はあるか?」
「──それでまあ、よくわからないんですけど、僕がお供することになったわけです」
篠崎は汗をふきふき説明する。武上法子は面白くってたまらないという様子で、今にも吹き出しそうに口元を尖らせていたが、とうとうアハハと声をたてて笑いだした。
「篠崎さんも、とんだ上司に見込まれちゃいましたね。でもいいじゃない、上司は選べるもの。あたしなんか、今さら親は選べないんですから」
はあ……と、篠崎は曖昧な声を出した。
羽田空港の国内線到着ロビーは、祝日の午後のことで、かなり混みあっていた。二人は到着ゲートの正面に立っていた。行き交う人混みにまかれて、右へ左へ押し戻されたり押し返されたりしてしまう。
篠崎は何度か武上家へ招かれ、武上夫人の手料理をご馳走になったり、風呂に呼ばれたり、酔いつぶれて泊めてもらったりしているから、もちろん法子とも面識はある。だが、大学生活を忙しくエンジョイしている彼女が、篠崎が武上家に居るとき、その場にべったりと居合わせたことは、今まで一度もない。だから、ちゃんと口をきくのは今日が初めてだ。それどころか、まともに顔を見るのも初めてかもしれない。
溌剌《はつらつ》とした娘だった。どちらかと言えば華奢な身体つきだが、内側からエネルギーが溢れているという印象を受ける。動作はきびきび、発言もはっきり、歩くのも早いし、姿勢もいい。少しばかり地声が大きいのと、意思の強そうな顎の形は父親譲りと見た。美人コンテスト向きの美形ではないが、表情豊かで利発そうな顔は、充分に魅力的だ。
それだけに、篠崎は二重にアガッてしまっていた。これまでの二十八年の人生で、こんなに元気の良い女性と二人で行動するのは、これがまったく初めての経験である。上司の娘というだけでも大緊張ものなのに──。
しかも武上法子は、そんな篠崎に向かって、しゃらっとこんなことを言うのである。
「篠崎さん、アガッてるでしょ」
「は? あ、はあ」
「さっきからずっと、右手と右足一緒に出すような歩き方してるもの。ヤダなあ、あたしそんなに怖いですかぁ?」
「いやその、僕は別に──」
「というか、あたしじゃなくて父が怖いのね。部下には威張ってんでしょ。ウチじゃ母には頭あがんないんですよ」
「ははあ、そうですか」
「だからいいですよ、気にしないで。それに篠崎さん、今さらカッコつけたって駄目よ。このあいだウチに泊まったとき、夜中に大声で寝ごと言ってたもの」
篠崎は髪の毛が逆立ちそうになった。
「ぼ、ぼ、ぼ、僕が?」
「うん」
「な、な、な、な、何を言いましたか?」
法子はまたおおらかに笑った。「そんなの、あたしには言えないわぁ」
篠崎は貧血を起こすか窒息するかその両方か、とにかく、自分というシステムが致命的なエラーを起こしそうだということだけはわかった。
「も、申し訳ありません!」
裏返った声でひと声叫び、最敬礼すると、法子にバンバン背中をぶたれた。
「嫌ね、よしてよ、そんなことしたらあたしが篠崎さん虐めてるみたいじゃない」
「いや、しかし──」
「それに、角田さんそろそろ着くころなんだから、ゲートの方を注目してなくちゃ。目印っていったら、あたしの着てるこの赤いダッフルコートだけなのよ!」
角田真弓とは、ド派手な赤いダッフルコートを着ている若い女を探してくれと、約束しているのだという。万が一赤いダッフルコートが複数存在したら、近寄って匂いをかいでくれ、樟脳《しょうのう》がぷんぷんするのがわたし武上法子です、うちの母は無臭の防虫剤は効いてるのか効いてないのかわからないから嫌だと言って使わないのよ。
確かに、よく匂う。
「クサいでしょ。でも、こんなところで役に立つとは思わなかったわ。混んでるもんね」
それで篠崎は、ようやく我に返って武上から申しつけられた業務命令を思い出した。羽田空港に、角田真弓を迎えに行く法子に同行し、彼女と一緒に角田嬢から直に話を聞き、もしも角田嬢が同意してくれるなら、墨東警察署までお連れするように──という指令だったのだ。
角田真弓についての情報は、そのときその場で武上からも簡単に説明を受けた。さらに今日も、法子と待ち合わせ場所で落ち合ってから今までのあいだに、さらに詳しい説明を受けることができた。
篠崎は、武上が私的な立場でこんな調査を進めていたことに、まず大いに驚いた。そして非常に興味を持った。高井由美子の自殺未遂騒動以来、すっかり武上から遠ざけられてしまったために、相談するきっかけを失っていたのだが、実は篠崎自身も、インターネット上で事件についての情報を収集していた。とりたててパソコンに明るいわけではないが、それを使うことに抵抗もないし慣れてもいる彼は、デスク班に配属された直後から、たまにアパートに帰ることがあると、せんべい布団で泥のように眠ってしまう前に、古い二層式の洗濯機をガラガラと回しているあいだに、温めたインスタント食品をかき込む合間に、ネットを検索しては、そこで飛び交う意見や情報を観察していたのだ。
ただ篠崎は、剣崎龍介のホームページの存在は知らなかった。法子と話し合ってみると、どうやら彼の検索の仕方が偏っていたらしい。帰宅する機会そのものも少なかったので、目が行き届かなかったということもある。
「篠崎さんはどんなことを検索してたんです?」
法子に尋ねられて、篠崎は頭をかいた。
「これまでに類似の事件がなかったかどうかっていうことを……」
法子は目を丸くした。「あら、それなら警察で資料を調べた方が早くない?」
「いえ、僕が調べたのは、現実に発生した事件じゃないんです。フィクションのなかに、今回の事件と似たようなものがなかったかどうかってことで……」
だから、映画や推理小説やテレビドラマについてのフォーラムや会議室ばかりをのぞいて歩いていたのである。
「へえー」法子は感心したような声を出した。「確かに、その手はありますね。で、どうでした? 見つかりました?」
それは「似たようなもの」の定義による。
「複数犯人による快楽殺人、連続殺人というものなら、けっこうな数が見つかりました。それでなくても、アメリカのミステリーには、今、この手のものが凄く多いらしいです」
法子は小鳥のように首をかしげた。「現実にも多いからかしらん」
「でしょうね。あっちは犯罪先進国ですから」
男性の快楽殺人者(もしくはその予備軍)が、女性を拉致し、一定期間以上監禁し、犯人側から一方的なコミュニケーションを仕掛け、それが上手く運ばないと──まあ上手く運ばなくて当然なのだが──最終的には被害者を殺害し死体を遺棄するというパターンのフィクションも、また数多い。実際、このあたりの要素を探しているうちに、篠崎は、こんなことをやってもあんまり意味がないなと思い始めてしまったほどだ。それほどに、フィクションのなかにはこの種の話が多いのだ。
「篠崎さん、現実の快楽殺人犯については検索しなかったの」
「しました。ただ、条件を付けたんです。その快楽殺人犯を巡って、捜査当局なり、本人なり、ルポライターなり、書き手は誰でもいいけど、とにかく誰かが何らかの手記やルポを発表しているケースに限る、と。しかも邦訳の出ているものですね。これは有名どころに限られます。ジェフリー・ダーマーとか、エド・ゲインとか、テッド・バンディとかね。このクラスになると、映画やテレビドラマにもなってるくらいですし。ああ、そうだ、だから逆に、手記やルポは出ていないけれど、映画やドラマは日本語版が出ているというものもあったな」
法子はカッコよく片足に体重を移して腕組みをした。「そっか、読み物やドラマとして情報化されてしまえば、それって、ノンフィクションでもフィクションに似てくるものね。作り手の視点から、ストーリー化されるから。つまり篠崎さんは、ストーリーのある、筋書きがきちんと立てられている前例を探していたわけなんですね」
篠崎は、彼女の頭の回転が速いのに感心した。なるほど、だてにあの親父の娘をやっているわけではないのだ。嬉しくなった。
「ええ、そうなんです。今度の事件の特微は、ほかの何よりも、犯人がストーリーを組み立てることを優先して動いていたことだと思うから」
しかしそのストーリーは、本当にオリジナルなものなのか? どこかにお手本があったのではないのか? 篠崎はそれが気になったのだった。
「それで結論は?」
篠崎は首を振った。「ストレートに、僕らが今手がけているあの事件を連想させるようなフィクションや犯罪記録には、今のところぶつかっていません。僕の探し方に穴があるのかもしれないし、もともとそんなに犯罪小説や映画に詳しいわけじゃありませんから、自信を持って結論を出すこともできないんだけど」
「ふうん」法子は赤いくちびるを引き締めてうなずいた。「この犯人どもが、とんだ物まね野郎だっていう可能性は、そもそも少ないのかもしれないけどね……わかんないけど」
ちょうどそのとき、ゲート前で、やはり誰かを出迎えるために待っていたらしい若い女性のグループが、あっというような声を出してさざめいた。グループは法子と篠崎のすぐ前にいたので、彼女たちが何を見て沸き立ったのか、すぐにはわからなかった。篠崎と法子は、ちょっと顔を見合わせた。
「タレントでも降りてきたのかな」
見守るうちに、ゲートを抜けて、サングラスをかけたスマートな女性が、ラフなジャケット姿の体格の良い男性にエスコートされて、足早にロビーの方に出てきた。見るからにあか抜けた美女で、颯爽《さっそう》としている。篠崎の記憶に間違いがなければ、あの顔は、ウィークデイの夜十時から一時間枠のニュース番組を持っている、人気女性キャスターだ。
「キャスターですよ」と、目をそらした。
ところが、法子は篠崎の袖をぎゅっとつかんで、注意を促した。彼女の視線の先をたどると、そこには別人の顔があった。女性キャスターの後を追うようにして足早に歩いている。若い男性だ。彼の脇にも、きびきびとした男性が一人付き添っている。先を行く女性キャスターが、振り返って後に続く二人の男に何か声をかけた。付き添いの体格の良い男がちょっと白い歯を見せ、若い方の男は生真面目にうなずいた。
「あれ──網川浩一さんね」
法子の声をかき消すように、ゲート前の女性のグループのなかから、「網川さん、本読みました」「頑張ってください!」という声が飛んだ。網川は彼女たちの方を見ると、ちらりと微笑んだ。女性キャスターも微笑した。また黄色い歓声があがった。
「あいつ──」
篠崎は人びとの肩越しにじっと網川浩一の横顔を見つめた。
「きっとまたテレビに出るのね」法子が言って、ちょっと笑った。「凄い人気。まあ彼は、今のところ、この事件が生んだただ一人のヒーローってところだもんね」
女性キャスターと網川たちのグループが、黄色い声に包まれながら移動を始めた。篠崎は、自身では気づかなかったが、かなり凶悪な表情を浮かべてそれをにらんでいたらしい。左腕の肘のあたりを、ほとほとと叩かれてはっと見おろすと、法子がほんの少し笑いを含んだ顔で見上げていた。
「凄く怖い顔してる」と言って、彼女は笑いを消した。「篠崎さんは、網川氏のこと、あんまり好きじゃないみたいね。やっぱり彼が、捜査本部の方針に真っ向から異議を唱えるようなことばっかり言ってるから? それとも、いかにも正義漢面してるけど、底の方によどんでる本音が見え見えだから?」
篠崎は驚いて問い返した。「本音って?」
法子は小さな肩をすくめた。「お金とか、売名とか」
「それが見え見え?」
「でしょ?」法子は小鳥のように口を尖らした。「それともあたしがひねくれてるのかな」
少し考えてから、篠崎は言った。「テレビって、そんなに儲かるものでしょうかね」
法子が吹き出した。篠崎は冷や汗が出そうになった。
「ああ、すみません。法子さんの言ってる意味はそういうことじゃないですよね」
そして、うっかり「法子さん」と呼んでしまったことに気づいて、さらに冷や汗が浮いた。
「武上さん」では、呼びかけるたびに彼女の親父殿の仏頂面が目の前にチラチラしてしまうし、「お嬢さん」では何だかナンパでもしているみたいで嫌になってくる。何と呼んだらふさわしいのだろうか。
「篠崎さんは、ここんとこの剣崎さんのホームページを見てます?」
ハンカチで額を拭いながら、篠崎は首を振った。「いえ、見てないです。何か新展開が起こってますか?」
到着便が吐き出した乗客の流れが一段落して、周りが少し空いた。篠崎はちらりと腕時計を見た。角田真弓の乗った便は、定刻通りならば今頃はもう着いているはずだ。そろそろ出てくるだろう。のっぽの若い娘だから、きっとすぐに判るはずだ。
「今の剣崎さんのホームページでトップの話題はね、網川浩一仕込み説≠諱v
「何です、それは」
網川浩一は、真犯人Xをあぶり出すために警察が仕込んで登場させたやらせ≠フキャラクターだというのである。彼は警察への協力者であり、捜査本部の方針に反対する意見を並べているのも、そのようにシナリオを書かれているからに過ぎない。捜査本部では、そうやって世間の耳目を網川浩一の上に集め、彼を臨時のヒーローに仕立てて、それに対してけっして良い感情を抱くはずのない真犯人Xが動き出すのを待っているのだ──という説だ。
「そいつはずいぶんうがった説ですね」
「でも、あっても不思議はない話よね」法子はケロリとして言い放った。「日本の警察って、すごく厳しく手足を縛られてるでしょう? 囮《おとり》捜査も禁止されてるし、どれほど緊急な必要性のある場合でも、盗聴ひとつできない。だから、かえって手の込んだ水面下の二回転半ひねりとかしなくちゃならなくなるんだわよ」
不謹慎だと思ったが、篠崎は笑った。
「笑い事じゃないわよ」法子は横目で彼をにらんだ。「今度の事件でも、マスコミにはさんざん叩かれてるじゃない? 目本警察の捜査方法は前近代的だ、広域犯罪に対応できない、連続殺人犯に対する備えができていない、云々かんぬん。だけど、そんなことを言うんだったら、警察をがんじがらめにしている規制を解いて、もっと自由な捜査ができるようにしてほしいわ」
娘として、父親の長年の苦労を見つめてきた上での、正直な感想なのだろう。過激だが、聞いていて悪い気はしなかった。
「それにしても、もしも僕らが網川氏を仕込んでひと芝居うたせているのだとしたら、少なくとも極秘でそういうプロジェクトが実行できる程度まで、捜査本部の内部的意見が統一されてるということになりますよね。高井和明の位置づけはともかく、真犯人Xは未だ生存しているということについてね」
「そうね……」法子は計るように篠崎の顔を見た。「そのへん、どうなんだろ」
「武上さんは何ておっしゃってますか」
「わかんないのよ」法子は眉をひそめる。
「うちの父はデスク担当でしょ? 後方支援担当だから、捜査本部のやり方について、なんじゃかんじゃ言うことは絶対にしないの。それはもうずっとそうなのよ。それじゃ個人的にはどうなのよって訊いたら、ノーコメントだって」
そうですかと、篠崎は呟いた。彼自身も、このことで武上と話し合ったことはない。高井由美子の自殺未遂事件以来、ほとんど口をきいてもらえなかったのだから、致し方あるまい。
「あ、来たみたい」
法子が背伸びをして到着ゲートの方を見渡しながら言った。ぱっと元気よく右手をあげる。篠崎は彼女の視線をたどっていって、見るからに健康そうなすらりと長身の若い女性の姿を発見した。
「角田真弓さんですか?」
彼女に歩み寄りながら、法子が訊いた。のっぽの若い女性は、用心深そうに法子と篠崎の顔を見比べながらうなずいた。
「わたしが武上法子です。こちらは──」
法子に促され、篠崎が手帳を見せて自己紹介をすると、角田真弓の切れ長の目が大きくなった。
「ホントに警察の方ですか……」
「ごめんなさい、おまけに連れて来ちゃったんです」法子は悪びれず、素直に謝った。
「ただ、篠崎さんはうちの父の直属の部下だっていうだけじゃなくて、わたしの友人でもあるんです。ですから今日は、捜査本部の一員として来たんじゃなくて、友達として来てくれただけなんですよ。だから、角田さんがやっぱり捜査本部に情報を提供するのは気が進まないっておっしゃるならば、篠崎さんもわたしも、これまでにうかがったお話はきれいに忘れますし、記録にも蓋《ふた》をして、けっして外には漏らしません」
篠崎は内心ひそかに狼狽してしまい、本来ならば何か言い添えるべき状況なのに、何も気の利《き》いた言葉が浮かんでこなかった。法子はいともあっさりと、彼を「わたしの友人」だと言った──もちろん角田真弓の信頼を勝ち得、気持ちを落ち着かせるためのロジックだろうけれども、それにしても篠崎にとっては大いなる驚きだった。
「角田さん、大丈夫ですか?」
気遣わしげな声を出して、法子が首をかしげた。なるほど、遠目にはカモシカのようにしなやかで健康そうに見えた角田真弓だが、近くで顔色を見ると、なんだか具合が悪そうだった。表情が曇っているのも、ただ緊張のためばかりではないようだ。
「飛行機に酔っちゃったのかしら」
「とにかく、ちょっと座りましょうか」
三人は到着ロビーを出て、空港ターミナルビルのなかを歩き、比較的静かなティールームに落ち着いた。角田真弓はそわそわと時計を見た。
「両親が迎えに来てくれるんです」
「何時頃?」
「あと一時間半ぐらい。本当よりも、ひと便遅い便で着くって言っておいたので……。ごめんなさい。あなたに会うこととか、今回のもろもろのこと、家族にはまだ内緒にしてあるんです。友達も先生も彼も、誰も知りません」
ひどく困ったような、疲れたような、怯えたような顔をして、下を向き、妙に早口だった。注文したコーヒーが運ばれてくるまでのあいだ、法子は他愛のない時候の話などをしながら、心配そうに彼女の様子を観察していたが、ちらっと篠崎の方を見て、(簡単にはいかないね)というような表情を浮かべた。篠崎は目顔でうなずいた。
こういう時には、むしろてきぱきと事務的にふるまった方がいいのかもしれない。ウエイトレスが去ってまわりが静かになると、篠崎は手帳を取り出し、これまでに法子が角田真弓から聞き出した証言を、一応確認させてくださいと切り出した。
「僕は法子さんから又聞きをしているだけなので、何か間違いがあるといけませんから」
角田真弓は「それは困る」とも「もう協力できない」とも言わず、しかし身を乗り出すような様子もなく、いっそう顔を青くした。篠崎は彼女と相対しながら、病気なのかな、と思い始めていた。実際、やりとりを続けているうちに、彼女はどんどんうつむいてしまい、今にも吐きそうな顔さえした。
「角田さん、大丈夫ですか?」法子がまた声をかけた。「ね、気分が良くないみたい。今日はやめにして、あたしたち引き上げましょうか」不意に、角田真弓が両手で顔を覆った。唐突な動作で、法子も篠崎もびくりとして身を引いた。
「ああ、どうしよう」と、手のひらのなかに顔を埋めたまま、彼女は呻いた。
「どうしたらいいかわからなくて」
「角田さん」法子は椅子から立ち上がり、彼女の隣の席に移った。「そんなに思い詰めないで。ごめんなさい、あたしが軽率でした。そんなに苦しめるつもりなんてなかったの。実は今日、あなたに会うって言ったら、父にも叱られたくらいで──」
角田真弓は顔をあげると、すがりつくような勢いで法子の方へ首を振った。
「いいえ、違うんです、そうじゃないの」
「角田さん……」
「わたし」角田真弓はしなやかな長い腕をよじっていた。「彼と会う予定があって、昨夜から札幌にいたんです。だから千歳空港から飛行機に乗ってきたの。それで、乗る直前までは、武上さんに会っても、もうお話しすることはない、警察には証言しない、わたしの話は忘れてくださいって言うつもりだったの」
篠崎は法子を見た。法子は真っ直ぐに角田真弓の整った顔立ちを見つめていた。
「それはやっぱり……彼と会ってて……下手に事件に関わるようなことがあったら、きっとこの人にも心配をかけるし、迷惑をかけるんじゃないかって思って……彼、公務員だから、いろいろと世間の目を気にしなくちゃならないことも多くて。彼のお父様もお母様も学校の先生だし」
法子が優しく言った。「ご結婚なさるんですね」
角円真弓は、少女のようにこっくりとうなずいた。「今年の秋に式を挙げたいって、彼とわたしのあいだでは話が決まっているんです。実は今度上京したのも、わたしの家族にそれをうち明けるためなの。だからわたし、あの、本当に警察沙汰なんて困るんです。剣崎さんのホームページに書き込んだのだって、ネット上ならば誰にもわたしだってわからないからって安心してたからだし……」
篠崎は心のなかで考えていた。でも貴女は、法子さんの問いかけに応じて話をして、こうして彼女に会いにきたじゃありませんか。それはやっぱり、自分の体験したことについて、危ないところで逃れた危機について、黙っていることが難しかったからじゃないですか。事件をめぐって様々な憶測や推理や報道が渦巻いている現在、貴女の証言が、わずかでも、解決への役に立ってくれるかもしれないという希望があったからじゃないですか、貴女のように、間一髪で危機を逃れることのできなかった他の犠牲者のためにも、事件にきちんとした決着をつけたかったからじゃないんですか。真犯人に──それが本当は誰であるにしろ──犯した罪にふさわしい罰を与えてほしかったからじゃないですか。
「ですからわたし、武上さんに会っても、それだけ言ってお詫びして、あとは回れ右をして逃げ出そうと思っていたんですよ。それなのに──」
法子は何も言わず手を伸ばして、角田真弓の背中を撫でた、実際、彼女はますます気分が悪そうに見えたのだ。
「千歳空港では気づきませんでした」と、うつむいたまま、角田真弓は続けた。「離陸して、ベルト着用サインが消えてすぐに、人の話し声が聞こえてきて──すごくにぎやかな声で。聞き覚えがあったんです。テレビでよく聞くニュースキャスターの声だったから」
法子が目を見開いて、篠崎を見た。彼は言った。「女性キャスターの?」
「ええ、そうです」角田真弓はうなずいた。目が潤んでいる。「札幌で何か番組の収録があったらしいんです。スタッフが一緒でした。それで……ほかにも一緒にいた人がいて」
法子がすぐに言った。「網川浩一さんですよ。一緒に到着ゲートから出て来たわ。やっぱりテレビ番組の収録だったのね」
「それじゃ貴女は、彼らと同じ便に乗り合わせていたんですね?」
「ええ」角田真弓はまた腕をよじりあわせ始めた。「わたし……この身長でしょう? 狭い座席は辛いので、まだ半人前のくせにちょっと贅沢だけど、飛行機に乗るときには必ずスーパーシートをとるようにしているんです。網川さんたちは、わたしのふたつ前の列に座っていました」
なぜかしら、角田真弓は身構えている。網川たちと乗り合わせたことが、なぜそんなに問題なのだろう?
「わたし……以前にもあの人がテレビでしゃべるのを聞いていました」と、角田真弓は首筋を堅くしたまま言った。「特にあの人が、高井和明は事件の犯人じゃないって主張してるって知ってからは、すごく興味があって、だからもちろん本も読んだし、写真を見ました。でもそのときは気づかなかったんです」
手で額を拭うと、角田真弓は顔を上げ、法子と篠崎の顔を見渡した。
「飛行機のなかで、網川さん、盛んにしゃべっていました。なんだか上機嫌という感じだったわ。それで、きっとスタッフのなかに、ヒロミという名前の人がいたんでしょうね」
今度は法子が身を固くする番だった。篠崎にも、ようやく、角田真弓が何を言おうとしているのか察しがついた。
「あの人は、会話のなかで、そのスタッフのヒロミという人の名前を呼びました。正確には覚えてないけど、それは厳しすぎるよ、ヒロミさん≠ニいうような言葉でした」
繋がれた大きな犬の前を、目をつぶって駆けぬける幼い子供のように、角田真弓は拳を握って勇気を奮い起こした。
「それを聞いて、わたし思い出したんです。本当に再現フィルムを見ているみたいにはっきりと思い出したんです。わたしが襲われて、死にものぐるいで逃げ出したとき、車から出てきてからかい半分の声で、栗橋浩美に話しかけたのは、あの人だったって。あの女はデカすぎるよ、ヒロミ≠チて、あの声でした。間違いありません。肉声を聞いたら判ったんです。あのとき、栗橋浩美と一緒にわたしを襲ったのは、あの網川浩一だったって」
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網川浩一が人気女性キャスターからインタビユーを受けている。場所はスタジオではなく、北海道の有名なスキー・リゾートホテルだ。ログハウス風の室内で、大きな暖炉には火が入っている。窓の外は一面の雪景色。女性キャスターは鮮やかな混色編みのセーターを着て、耳たぶには大きなイヤリングが光る。網川浩一はシンプルなブルーグレイのカシミアのセーターにジーンズ姿で、ゆったりと椅子の背にもたれ、長い足を組んでいた。
暖炉の火が揺らめくと、その前で向き合っている二人の表情にも微妙な影が落ちた。テーブルの上には手の付けられていないカクテルグラス。二人の話し声も、時折ほとんど囁きに近いところまでボリュームが落ちる。親しげで、ゆったりと贅沢で、静かな雰囲気だ。一時間半のインタビュー番組としては、ずいぶんと予算を使っている。
「クソったれ」と、前畑滋子はテレビ画面に向かって言った。
滋子は、赤井市のグリーンロード近くのビジネスホテルの一室でこの番組を観ていた。事前に新聞で番組欄をチェックしていたわけではない。簡単な食事を済ませて外出から戻り、テレビを点《つ》けたら偶然映ったのだ。栗橋浩美と高井和明の最期の場所から二キロと離れていないところで、テレビ画面にくっきりと横顔を浮き立たせ、憂い顔でしゃべりまくる網川浩一を目にすることになるとは皮肉だが、このごろの網川ときたらありとあらゆる機会をとらえてテレビや雑誌に出まくっているので、これだって特に意味のある偶然とは言えまい。
この番組は、網川がこれまで出演してきたニュース性の強いそれとは趣を異にし、彼の人物像に焦点を当てるということを売り[#「売り」に傍点]にしていた。従って女性キャスターの口から飛び出す質問も、事件そのものから大きく反《そ》れ、網川の少年時代の思い出についてとか、人生の目標とか、好きな女性のタイプなどというところにまで発展した。網川は終始爽やかな表情で、時には照れ笑いを浮かべながら質問に答えている。幼なじみの身に降りかかった冤罪《えんざい》を雪《そそ》ぐために颯爽と登場した無名の好青年は、短期間のうちに、すっかりいっぱしのタレントになってしまったようだった。
滋子は備え付けのミニ冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、プルタブを引きながら、ベッドの上にどすんと腰をおろした。まるで滋子に調子を合わせるように、画面のなかの網川がテーブルの上のグラスに手を伸ばした。透き通ったグリーンの、美しいカクテルだ。それは何? と女性キャスターが訊いた。ギムレットですと彼は答えた。昔から好きなんですよ、ハードボイルド小説に出てくる私立探偵みたいでしょう?
「クソくらえ」と、滋子はまた毒づいた。「このインチキ野郎」
悪態をついている自分の顔が、剥げちょろけた壁の一面に設置された鏡に写った。滋子は急に恥ずかしくなり、しかし腹立ちは抑えることができなくて、空いた手で髪をかきむしった。
『ドキュメント・ジャパン』の連載は頓挫しかけていた。高井由美子の起こした騒動の顛末についての報告原稿を書き、それが掲載された後は、滋子は完成原稿を仕上げていない。書けなくなってしまったのだ。
網川浩一と、彼のあの忌々《いまいま》しい本。『もうひとつの殺人』。みんな、そのせいだ。
一月の二十二日だから、ちょうど一ヵ月前のことになる。網川がテレビに出て、明日発売だという彼の著書を掲げて見せたとき、滋子は呆気にとられて、しばらくのあいだは息をすることさえ忘れていた。あんまり胸が苦しいので、ようやく呼吸を停めていたことに気づいたときには、酸素不足で目が回りそうになったものだ。
あの男──いつの間にかこんな本を書いていた。
網川が由美子を連れて訪ねてきて、滋子とは決別する、高井和明の無実の罪を晴らすために、今度は網川自身がルポを書くと宣言したのは、そのテレビ出演のほんの数日前のことだった。『もうひとつの殺人』は、けっして厚手の本ではない。四百字づめの原稿用紙にして、せいぜい三百五十枚くらいだろう。しかし、それだって三日や四日で書き上げられるものではないし、だいいち原稿が仕上がっただけでは本は作れない。校正刷りを作ってチェックをして、校了。製本、配本。どれほど急いだって、一ヵ月ぐらいはかかるはずだ。
つまり網川浩一は、あんなもっともらしい決別宣言をする遥か以前に原稿を書き上げ、滋子のところに来てなんだかんだ言ったときには、完成した書籍の見本刷りまで出来あがっていた可能性が極めて高い──ということになる。
なんと白々しい人間なのだろう。
去年の暮れ、十二月の初めごろだったろうか。高井由美子が初めて滋子に電話をかけてきて、三郷のバスターミナルで会うことになった。あのときから、最初から網川浩は一緒だった。あの日、彼が由美子と会ったのは偶然だったと言っていたし、由美子のあの混乱ぶりは芝居と思えなかったから、たぶんそれは本当のことなのだろう。
だが、冷静に逆算してみれば、彼はあのときすでに原稿を書き始めていた可能性が高い。半分ぐらいは仕上がっていたとしてもおかしくないぐらいだ。そしてそれを世に出すタイミングを計っていた。
だからこそ、彼は由美子に近づいたのではないのか? 最初から自分の本を効果的に売り出す目的で、そのために、由美子の協力が必要だった──いや、由美子を旗印として担ぐことが、もっとも効果的だったからこそ、彼女の身辺を探って、接近するチャンスをうかがっていたのではないのか。
それだけじゃない。年明けに起こった飯田橋のホテルでのあの騒動のこともある。あの日、有馬義男たちがあのホテルに集まることを彼に話したのは、確かに滋子だ。その前には真一にも相談した覚えがある。記憶に間違いはない。
だが、じっくりと思い出してみると、真一はともかく、どうしてあんな情報を網川に漏らすことになったのか、滋子にもよくわからないのである。情報をもらった翌日か、もっと後のことだったろうか。滋子は由美子と会った。そのときに網川もついてきた。その場では絶対に話さなかったはずだ。だって由美子の耳に入れていい性質の話ではないから。たぶん、そのあとの電話だ。あのころ網川は、由美子のことが心配だとか、こちらの様子を知らせるとかで、頻繁に電話をかけてきた。その折に、相手が網川だけだったから、滋子も油断してしゃべってしまったのだ。
そして、それらのことを思い出そうとすると、疑念が湧いてくるのだ。最初に網川の方から、何らかの働きかけがあったのじゃなかったか。彼の口から、たとえば、
──それにしても、今度の事件の被害者の遺族はとても大勢になるけど、遺族の会みたいなものはつくらないのかな?
──滋子さんは、遺族に取材はしないんですか? 機会があるんじゃないんですか?
そんな水を向けられたのではなかったか。
そうでなかったら、いくらジャーナリストとしての経験は皆無の滋子でも、自分からペラペラとあんな大事な情報を提供するわけがないのだ。確かにあたしはそそっかしいけど、そこまでバカで無防備じゃないと思えて仕方がない。
あのころは、網川を信用しきっていた。怯えてうろたえるばかりの由美子だけでは心|許《もと》ない、彼が一緒にいてくれてよかったとさえ、考えていた滋子だった。だから油断があった。大騒動の後、網川が、あの会合のことを由美子に教えたのは自分だと白状し、謝罪したときも、その謝り方があまりにも誠実で邪気がなかったから、心から反省しているようにも見えたから、深く追究することもしなかったし、咎めなかったのだ。
しかし、今となって考えてみれば、あれもすべて計算ずくのことだったとしか思えない。
何よりも問題なのは、あの場で由美子が騒動を起こしても、それが報道されることがなければ、問題はなかったということだ。それが報道されてしまったのは、あの場にタイミングよく写真週刊誌のカメラマンがいたからだ。そうだ、本当にもの凄いグッドタイミングで居合わせた。
当時は偶然だと思っていた。東京は狭い。カメラマンは数多い。写真週刊誌だって何誌もある。だから純粋に運が悪かったのだと思い込んでいたのだ。
だが、そうじゃなかった。今、振り返ってみれば、歴然としている。あれも仕組まれていたのだ。網川が、事前に写真週刊誌に情報を漏らしていたのだ。だからカメラマンが張り込んでいたのだ。網川は、遺族の集まりがあると知れば、由美子がじっとしてはいないと計算していたのだろう。あるいは、そのときも、彼女に対して何か働きかけ、唆《そそのか》すようなことを言ったのかもしれない。ただし、由美子本人には、けっして唆された≠ニ感じさせないようなやり方で。しかも、事後には、自分のしたことのバカさ加減に意気消沈した由美子の元に駆けつけて、彼女をかばうというフォローも忘れなかった。それでますます由美子は、そもそも自分がこんな軽率な真似をするように焚きつけたのが誰だったのか、まったく考えが至らないまま、彼に対する感謝の念を深め、ますます依存するようになっていった──
なんと狡猾なやり口だろう。
いいや、それでも──と、滋子は自分にむち打って冷静になろうとしてみた。よしんば網川浩一が悪魔のように悪賢い男であっても、彼が主張したいこと、本を書きテレビに出て訴えたい「高井和明は無実である」という説に、「真犯人Xは別人で、今もどこかでピンピンしている」という説に、強い説得力があるのなら、彼がただただそれを訴え出たいが故に周囲の者たちを利用したというのなら、まだ譲歩する余地がある。だから滋子は、『もうひとつの殺人』が出版されるとすぐに読んだ。
最初は突っ走るようにして通読し、二度目は彼の言う真犯人X生存説≠フ主張するところをいちいち箇条書きに書き出しながら読んでいった。高井和明にはアリバイがあるかもしれないこと、犯行に関わったという物証が皆無に近いこと、高井の遺族の無実を訴える声、報告されている数件の未遂事件の犯人二人組のうち、一人は栗橋を思わせる人相だが、もう一人の人相はまったく高井に該当しないこと。そして、HBSの特番に電話をかけてきたときの様子から推察することのできる、犯人二人の力関係──
どれもこれも、主張としては脆弱《ぜいじゃく》なものだと滋子は思う。襲撃されかけて危うく難を逃れた女性の証言に、百パーセントの信用性があるわけはない。人間の記憶はビデオテープとは違うのだ。アリバイや物証のことは、警察の捜査でひとつでも確実なものが見つかれば、それでクリアできてしまう種類のものだ。犯人たちがHBSに電話をかけてきたときのことだって、たった一度のそういう出来事だけを材料に、後から電話をかけ直してきた方が主犯格だなどと断言するのは軽率に過ぎる。人間関係というのは、状況や局面や、その日の当人の機嫌によってさえ変化するものだ。この日はたまたま、高井和明がしっかりと頭を働かせることができて、栗橋浩美のおかしたミスを咎め、上手に尻拭いをしたというだけのことだったのかもしれない。日ごろは高井に向かって威張り散らしてばかりいる栗橋は、その分だけひどく面目を失ったような気分になり、有馬義男に八つ当たりの電話をかけた──そういうことだったかもしれないではないか。
そのような反論の原稿を、滋子はすぐに書き始めた。そして一旦は書き上げ、手嶋編集長のところに持っていった。ところが、ざっと目を通した編集長は、反論としてはこれでは弱いと、滋子に原稿を投げて寄越した。
──ただの気分で反論しても駄目だ。
──どうしてです? 何が弱いんです? 網川浩一の主張だって、確たる証拠の上に立ってるわけじゃない。ただの気分でものを言ってるだけです。
──彼にはそれが許されるんだよ。
手嶋編集長の口が、冷たく滋子を見据えた。
──なぜなら、彼は栗橋や高井の幼なじみだからだ。生前の彼らをよく知っていたからだ。だから気分で発言しても、大衆は彼の言うことに耳を傾ける。私が知っていた誰々さんはそんな恐ろしいことのできる人じゃありませんでした。親に内緒で野良犬に餌をやっていた、学校では小鳥の飼育係だった、友達思いだった、あんなこともあった、こんなこともあったと並べてゆくだけで、それが論拠≠ノなっちまう。
だが滋子は違う。赤の他人だ。栗橋のことも高井のことも、その肉声すら耳にしたことがないのだ。
──もっと頑強な論理で対抗しないことには、歯が立たないよ。読者は君のルポなんざ相手にしなくなるだろう。よく考えてみたら、前畑滋子が書いてるルポは、所詮は憶測の羅列じゃないか。犯人のことを知りもしないで想像ばっかり書き並べてるじゃないか、とね。
──じゃ、わたしはどうしたらいいんですか?
──それを俺に尋くのかい?
手嶋は見下げ果てたような顔をした。滋子は背中が寒くなった。
──結局は、お嬢様芸だったということかね。ずいぶんとう[#「とう」に傍点]のたったお嬢様だけど。
手嶋はそう言ってにやりと笑った。
──そもそも君は、栗橋・高井の二人組の人間像を、どうやって作り上げてきたんだ? そこには、疑いの余地はまったくなかったのか? 君が縷々《 る る 》つづってきた栗橋と高井の歪んだ共生状態は、現実の彼らの有り様を取材した上に再現されたものじゃなく、最初から君の頭のなかだけで作り上げられていたおはなしに過ぎなかったのか? だから、もっともっともらしいおはなしが出てくると、またたく間に対抗する術《すべ》を失ってしまうのか?
──だけど警察は……最初から彼ら二人の犯行だと……。
──警察は君のルポのために捜査をしてるんじゃないよ。うちで掴んで君に見せた捜査資料だって、全部じゃない。現に内部では意見が割れてるらしい。網川が出てくるずっと以前から、捜査本部内に高井の犯行への具体的関与に疑問を持つ小グループがいたんだ。
──そんなこと、わたしは知りようがありませんでした。警察は取材を受け付けてくれないし。
──それこそ言い訳だ。今ごろ何を言ってるんだね、奥さん[#「奥さん」に傍点]。
滋子は逃げるように編集部を出て、アパートに帰った。それきり、一行も書いていないというわけである。手嶋は急《せ》かしてもこない。書けなければ休載にするしかないと、あっさり切り捨てるような言い方をしていると、部員からの電話で教えられた。
前畑の舅と姑は、網川浩一が世間の耳目を集め始めたばかりのころには、生意気な若造だの、こんな野郎は金目当てに決まっているだのとケチをつけて、結果的には滋子の味方をしてくれていた。それは昭二も同じで、今さら高井和明が無実だなんて何寝ぼけてんだ、正義のためにはシゲちゃんに頑張ってもらわないとな、などと鼻の穴をふくらませていたものだ。
ところが、網川があまりに露出度が高く、また自己演出にも長《た》けているせいだろう、このところ、義父母はすっかり彼の信者≠ノなりつつある。幼なじみの言うことなんだから、何かしら根拠があるんだろう、なにしろ当人が死んじまってるんだから、あんまり頭から決めつけるのは良くないんじゃないのなどと言い出す始末だ。挙げ句には、滋子さんも鞍替えしてこっちの説を唱えてみたら、そうでないと置いてかれちまうよ、ときた。彼らにとっては、これはその程度の流行《は や り》すたりの問題でしかないのだと悟って、滋子は愕然とした。だけどこれが当たり前なのだろうか? 世間の人びとの、対岸の火事に対する関心の質なんて、所詮はこれが限度なのだろうか?
さすがに昭二はそこまで露骨な変節ぶりは見せていないけれど、動揺していることは事実のようだ。滋子どうしたんだよ、旗色悪くないのかよと、心配そうな顔をしている。滋子は親警察派で、網川ってヤツは反警察派なんだろ? などと安易な分け方をするから、つい滋子も声を荒らげて、あたしだって警察にしっぽを振ってるわけじゃないわよと言い返してしまった。それで大喧嘩になったのが昨日のことである。前回の喧嘩以来、できるだけ衝突を避けて慎重にふるまってきたというのに、何もかもだいなしだ。
今朝、むっつりと朝食をとった昭二が、行ってきますも言わずに工場へ出勤していったあと、滋子は急いで荷物をまとめた。最初はどこへ行こうか考えてもいなかった。とにかく前畑家を出たかっただけだ。昭二への置き手紙には「取材に行きます」とだけ書いて、アパートを飛び出した。
とりあえず東京駅まで出て、八重洲地下街をぐるぐる歩き回りながら、行き先を考えた。そうしているうちに赤井市のお化けビルのことを思い出して、急に胸が詰まった。あれはルポの書き出しの場面に使った場所だ。滋子のルポが、今の網川の本のような派手な騒がれ方ではなかったにしろ、静かな好評を得て、テレビのニュース番組にも出演した。あのときもお化けビルから中継した。そうだもう一度あそこへ行ってみよう。初心に返るためにも、あの場の空気にもう一度触れてこよう。
こうして、滋子は午《ひる》過ぎには赤井市に到着していた。ホテルを決め、レンタカーを借りて真っ直ぐにお化けビルに向かった。真冬の好天で、空は染め抜いたように青く、ちぎれ雲が呑気そうに上空を散歩している。そんな空の下で見るお化けビルには、滋子が期待していたほどのインパクトがなかった。開発され損なった不運な土地が、未だにいささか貧乏くさい匂いを放ちながら、それでも周囲を取り囲む山の緑に癒され、森の木立に守られ、少しずつ自然に帰ろうとしている──そんな風情に見えた。それはけっして見苦しい景色ではなかった。むしろ心が安まるような眺めでさえあった。山は間違いを許す──自然はいつでも帰りを待っていてくれる。
しかし、それはそのまま、滋子がルポの冒頭に描いた情景が、雰囲気が、今ではきれいさっぱりこの地から洗い浄められてしまっているという証拠でもあった。それとも、ここは最初からこうだったのだろうか。初めて取材に来たのは去年の十一月の半ば──たかだか数ヵ月前のことでしかない。あのとき滋子の目に見えたと思った用意された殺意の舞台≠フ情景は、滋子の頭のなかの妄想でしかなかったということだろうか。
──最初からおはなし[#「おはなし」に傍点]に過ぎなかったのか?
滋子は意気消沈してホテルに戻った。それからずっと、ぼんやりと寝転がったり、窓から外を眺めたりして、午後の時間を無為に過ごしてしまったのだった。
テレビのなかでは、女性キャスターが網川の言葉に笑い転げている。バラエティ番組には一切登場しない硬派の女性キャスターは、笑い方まで知的だ。網川はどんな冗談を飛ばしたのだろう。全国の視聴者は、この若い男が何に依《よ》って立って世に打って出てきたのか、もう忘れているのだろうか。彼のマスコミ的出自からしたら、あの連続誘拐殺人事件が全面解決するまでは、かりそめにもテレビ画面でジョークを飛ばして大笑いするなどということが許されていいはずはない──そう思うのは、滋子だけだろうか。
滋子は空き缶をゴミ箱に投げ入れ、立ち上がってテレビを消した。どっちにしても番組は終わりに近づいていた。時計を見ると十一時になるところだ。
ふと、もう一度お化けビルに行ってみよう、と思いついた。ビルの名称の所以《ゆ え ん》については、滋子も知っている。陽の光の消えた深夜、あそこにどんな幽霊が|跳 梁《ちょうりょう》跋扈《ば っ こ》しているのだとしても、それがどんな悪意を持っているのだとしても、今の空っぽの滋子の心には、どんな種類の害を為すこともできないだろう。空虚なものを傷つけることは、誰にもできない。だが、栗橋と高井をこの赤井市の山中に惹きつけたものが、わずかでもまだあの場所に残っているのだったら、滋子はそれを感じ取りたい。そしてその何か磁力のようなものは、本来、夜の闇のなかでこそ顔をのぞかせるのではないのか。幸い、レンタカーは借りたままにしてある。滋子はコートをつかんで部屋を出た。
昼間一度走っている道なのに、夜になると様相が違い、滋子は危うく迷いそうになった。これだから山道は油断がならない。
途中で思い立ち、道路沿いの二十四時間ショップに寄って大型の懐中電灯を買った。お化けビルへと登る山道は、舗装道路ではあるが、かなり傾斜がきつい。それも、昼間陽光の下で走ったときよりもさらにきつく感じられる。何かしら不可解な結界の内側に、無理矢理入り込んでいこうとしているような気がして、滋子はコートの襟を合わせた。
お化けビルには一切の明かりが設置されていないので、夜目では、昼間来たときのように、あの骸骨のような鉄骨を見上げながら近づいてゆくことができず、ただ道なりに進んで行くしかない。それも妙に手探りの感じで、滋子の不安をかきたてた。考えてみれば、こんな時刻にここへ来るのはまったく初めてだった。今までは、わざわざ夜中にここを訪れる必要など感じたことがなかったのだ。
ヘッドライトに、見覚えのあるにわか作りの立て札がさっと浮かび上がった。「この先お化けビル」というこの立て札は、ここが一種の心霊スポットになったとき、地元の若者が作って設置したものだという。昼間はこんな立て札など気にもしなかったが、今は、不案内な土地で知人に会ったような気分になって、ほっとした。
車を降り、懐中電灯の明かりを頼りに進んで行くと、前方の暗闇のなかで、別の懐中電灯らしい明かりがゆらゆら動くのが見えた。ギターの音もする。立ち止まって耳を澄ませると、人声も聞こえるようだ。
どうやら先客がいるらしい。滋子は、近づいて行くこちらの明かりを認知してもらいやすいように、わざと大きく腕を振りながら歩いて行った。夜空をバックに、お化けビルの鉄骨が透けて見えるくらいの距離にまで詰めると、土台のコンクリートの上に、学生らしい若者が一人腰かけて、ジーンズに包まれた長い足をぶらぶらさせているのが見えてきた。
「こんばんは」と、滋子は声をかけた。
一見して、接近遭遇したことを後悔したくなるようなタイプの若者たちではなさそうだったので、ほっと安堵していた。一人は男の子、二人は女の子だ。ギターを抱えて膝に乗せているのも男の子だった。
「こんばんは」と、女の子たちが答えた。細くて高い、流行の可愛らしい声だ。凍るような夜に、呼気が白く浮き上がる。
「寒いのに、こんなところで何してるの?」
足元に注意しながら、滋子は彼らに歩み寄った。二人のうち一人の女の子──長い髪を額の真ん中で分けている娘の方が、凍る息を吐きながらにっこり笑って応じた。
「そんなのそっちもじゃない。おばさんは何しに来たの?」
おばさん[#「おばさん」に傍点]か。滋子は苦笑して、襟元に忍び込む寒さを閉め出すためにコートの襟をかきあわせた。
「夜のお化けビルを見にきたの。どんなふうに見えるのかなって思って」
「心霊現象にキョーミあるの?」
長い髪の女の子の目が、ちょっと光った。懐中電灯の光の加減かもしれないし、たまたま月が目に入ったのかもしれない。あるいは、彼女自身の好奇心が内側でチカリとまたたいたのかもしれない。
「どうかな……。幽霊というものが本当に存在して、それを自由に呼び出して交信する能力のあるヒトがいるならば、頼んでやってもらいたいことがいっぱいあるけど」
長い髪の女の子は、コンクリートの土台からぴょんと飛び降りた。そこにもたれなおして痩せた腕を組むと、友人たちの顔をちらっと見回してから、滋子に言った。「あたし、できるわよ。巫女《 み こ 》だもん」
滋子は本格的に笑いそうになって、意志の力でそれを封じ込めた。やっぱり、さっきこの娘の目のなかで光ったものは、お化けビルの命名の由来にふさわしいものだったというわけか。
「今もね、降霊会をしてたの」長い髪の女の子は、隣のショートカットの女の子を肘でつついた。「ね、そうよね?」
ショートカットの女の子は、友人の顔ではなく、滋子の顔を見ていた。それも、妙にしげしげと観察していた。そして彼女もまたコンクリートの土台から滑り降りると、用心深く滋子の方に近づきながら、言った。
「もしかして──前にテレビに出てませんでした?」
滋子は肯定した。ほかでもないここでロケをしたのだ。ここで出会う誰かが覚えていたとしても不思議はない。
「それって、ニュース番組でしたよね? あたし観たわ──ここに立ってレポートしてたでしょう?」
可愛らしい顔立ちの女の子だった。それこそ流行の言葉で言う小顔<^イプだ。明かりの少ないところだからはっきりとは言えないが、化粧気も無いに等しいように見える。ジーンズに包まれた足はすらりと長く格好良く、スタイルの良さがうかがわれた。
そうして女の子の顔を見つめ返していると、不思議なことに、滋子も彼女をどこかで見かけたことがあるような気がしてきた──勘違いかもしれない──昨今、このタイプの女の子はどこにでもいるから──
ショートカットの女の子は毛糸の手袋をはめた手で自分の胸を叩くと、せき込んだ口調で言った。「あのレポートって、あの連続殺人事件の犯人のことでしたよね? あいつらがグリーンロードで死んで、死ぬちょっと前にここに来てたから、それであなたここに取材に来たとか、そういうことだったでしょ」
「ええ、そうよ」深くうなずいて、滋子はさらに彼女に近づいた。そして出し抜けに気づいた。思わず声が大きくなった。「あなた、ガソリンスタンドの女の子ね?」
女の子のつぶらな目が大きくなった。「そう!」と、彼女もワンオクターブ高い声で答えた。「あたし芦原君恵です。あのレポートの撮影のとき、ちょこっとだけだったけどお話ししたことがあったわ。覚えてます?」
ギター青年と巫女の娘とはサヨナラして、滋子は芦原君恵だけを連れ、レンタカーで山を下りた。君恵が言うには、あの二人も車で来ているから帰りの足には心配がないという。
それでも、特に巫女の娘の方は、置き去りにされることに不満たらたらの様子だった。
「あれじゃ、友達付き合い解消ってことになっちゃうかもよ。良かったのかしら」
さすがに心配になって滋子が尋ねると、君恵は少し苦笑して首を振った。
「かまいません。どっちみち、そんなに親しいわけじゃないもん」
それほど親しくもない間柄の男女と、真夜中にお化けビル≠ネんぞに登るというのは、滋子の年代の大人には奇異なことに思える。
芦原君恵は地元の高校の二年生だった。同行していた髪の長い娘はクラスメイトだが、連れだって行動するようになったのは、君恵があの事件の目撃者となり、警察から事情を訊かれたり、一時は各社の記者に追い回されたりしたころからのことで、
「上総《か ず さ》あゆみっていうんだけど、変わってるんですよ、あの子」という。
「まあ、自己紹介が巫女≠セもんね」
君恵は助手席でクスクス笑った。「他人には見えない霊の存在がすごくよく見えるんだって。でも、笑っちゃいけないや。あたし、一時はずいぶん慰められたんだもの」
山を下りたところで滋子の携帯電話から君恵の家に電話をかけた。滋子が自分の素性を明らかにし、お嬢さんとはお化けビル≠ナ遭遇したと説明すると、君恵の母親は、ああそうですかとため息のような返事を寄越した。
「お母さん、あたしの夜の散歩のことはもちろん知ってるんです。本当は怒ってるんだけど、無理にやめさせても今はかえってよくないってお医者さんに止められて」
二人は結局、滋子の投宿しているホテルの向かいにあるファミリーレストランに落ち着いた。一応二十四時間営業だが、これで採算がとれるのかと思うほどに空《す》いていた。
「お医者さん?」
「うん。あたしあの事件のあと、ちょっと体調悪くなっちゃって」君恵は華奢な肩をすくめた。「夜眠れなくて、ご飯も食べられなくて。けっこう痩せたんですよ」
そう言われてみれば、滋子が会ったころにはまだ、もう少しふっくらとして健康的だったような気がする。
「一種のPTSDなんだろうね」
滋子の言葉を、君恵はすぐに理解したようだった。医師から聞かされているのだろう。
「あたし、犯人たちの事故を目撃しただけじゃなくて、それより前に、生身の彼らにも会ってるんですよ。その話はしましたよね?」
もちろん聞いた。栗橋・高井がお化けビル≠ノ向かう以前に、グリーンロードの入口のガソリンスタンドで給油をした際のことだ。
君恵は目立つ指輪をはめた指で、せかせかと髪をかき上げた。空いた手で、カフェオレの入ったマグカップの取っ手をいじっている。
「あんなひどい人殺しと、ほんの十センチぐらいの距離でやりとりしたんです。あのまま事故が起こらなかったらどうだったろう、自分だって怖い目に遭わされていたかもしれない、犯人はあの目であたしを見て、あたしのことどんなふうに値踏みしてたんだろう──そんなこといろいろ考えて、あたし苦しくなってきちゃって」
滋子は静かにうなずいた。「きちんとお医者さまにかかっているのは賢明だと思うよ。あなたも相当の心の傷を負ったんだから」
君恵は目をしばたたいた。
「でも、それならなおさら、あんな時刻にお化けビル≠ヨ行くようなことはしない方がいいんじゃないかしらね。ましてやあんな怪しげなお友達と」
ぷっと吹き出して、君恵は両手で口元を押さえた。滋子も笑った。
「あゆみには、あたしに憑いている悪いものがよく見えるから、何でも彼女の言うとおりにすれば、きれいに祓《はら》い落としてあげられるって」
「ホントにそれができるのならば、あなたはもうとっくに元気になってるはずよね?」
「そうですね。でもあたし、けっこう信じてたんです、一時はね。今夜なんかは、断るのも面倒くさいから惰性でくっついて行っただけだけど」
「何しに行ったの? 本当に降霊会をやってたの?」
「あゆみが、今夜あたりはお化けビル≠ノ憑いている強力な地縛霊とコンタクトできそうな気がするって言って。一緒にいた男の子、あれ彼女のカレなんです。いつもああやって彼がギター弾いて、あゆみがなんかこう──トランスみたいになるの」
滋子はコーヒーをかき混ぜながら、少し声を落とした。「芦原さん、あゆみさんを信じていたころ、彼女にお金を払ったりとかしてた?」
君恵は黙ってくちびるを舐めた。滋子もそれ以上は訊かなくても用が足りた。
「今後は付き合わない方がいいわ」
君恵はこくんとうなずくと、ゆっくりとカフェオレを飲んだ。滋子はバッグから煙草を取り出し、火を点《つ》けた。
「前畑さんは、今夜何しにお化けビル≠ノ行ったんですか?」
滋子は笑って答えた。「あそこに何かが憑いているなら、それがまたあたしに降りてきてくれないかなって思って」
君恵が可愛らしく眉をしかめたので、滋子は首を振って煙をはらった。「ごめんなさい。いい加減なことを言ったんじゃないのよ。本当にそういう気持ちだったの」
君恵は、滋子の連載ルポを読んでいないという。だからその雲行きがおかしくなっていることも、そのきっかけが飯田橋のホテルでの高井由美子の乱闘騒ぎにあることも、まったく知らないらしい。
「網川浩一って人のことは知ってる?」
君恵は首を振った。「事件のことを思い出させるようなことは、身の回りから遠ざけるようにって言われて。それ、誰ですか?」
「あたしと同じようなルポ書いてる人よ」と、滋子は簡単に答えるだけに留めた。網川の声高に唱える「真犯人X生存説」が、事件の後遺症に悩む君恵の心にどんな影響を投げかけるかわからないと思ったからだ。
「前畑さんは、巫女っていうか、降霊術のできる人って、本当にいると思いますか?」
「うん。それはいると思うよ。もっとも、降りてくるのが本当に霊≠ナあるかどうかは話が別よ。ただ、一般に降霊と呼ばれる現象を起こす技術や能力を持っている人は、いると思うよ」
君恵はまたぞろ顔をしかめた。女ジャーナリストの言うことは、いちいち小難しいと思っているのかもしれない。
「あたしね、もちろん今ではあゆみのやってることなんかほとんど信じてないけど……彼女はあれ、ファッションだから」
「そんな感じね。学校でも先生をああやってケムに巻いてるんでしょ」
「よくわかりますね!」
「あたしの友達にも昔、似たようなのがいたもの」
「そっか……でもあたし……なんか言いにくいけど、あたし自分こそが、ちょっと巫女体質なんじゃないかって思うことがあって」
滋子は余計なちゃちゃを入れずに君恵を見守った。君恵はそわそわと髪をいじると、滋子の方ではなく、空っぽのカウンターの方に目をやって続けた。
「中学二年のときにね、友達が行方不明になったことがあるんです。友達って言っても、特別仲良しの子じゃなかったけど」
その少女──嘉浦《 か うら》舞衣《 ま い 》は、学校では問題児扱いされていたのだそうだ。
「不良っていうのかな。そもそも学校にはあんまり出てこなかったし。髪を染めてピアスして、男の子たちと遊び歩いて、万引きで補導されて」
だから、三年前の三月の初め、舞衣が家出して帰ってこない、行き先を知らないかという親からの問い合わせの電話があったときも、誰も大事には受け止めていなかった。
「いつものことだって感じだったの。でもね、その夜遅くに、あたし夢を見たんです」
真っ暗な闇のなかに、舞衣の悲鳴が響きわたるという恐ろしい夢だった。
「場所はどこだかわかったの?」と、滋子は訊いた。口先で調子を合わせているわけではなく、君恵のあまりにも真剣な様子に、不安な興味をかきたてられたからである。
君恵はかぶりを振る。「お化けビル≠ンたいだったけど、はっきりとは──」
「確かに舞衣さんの声だった?」
かぶりが激しくなる。「証拠なんかないし録音とってあるわけじゃないから」
滋子は宥《なだ》めた。「でも、あなたにとっては事実なのね」
君恵は目尻が濡れていた。滋子は彼女が可哀想になってきた。彼女のことは、もう誰も省みてもくれず、積極的に手を貸してもくれない。しかし彼女だって、確かに、一連の事件に関わったが故に精神のバランスを危うくしてしまっている被害者の一人なのだ。栗橋・高井と短いやりとりを交わし、彼らの死に様を目の当たりにしたことで、君恵のなかの何かが損なわれてしまい、それが彼女のまだそう長くもない人生の軌跡にまでも、さかのぼって変形を加えつつある。
「あたし……あの、あれは舞衣だったと思う。あのとき、舞衣の身に何かが起こったんだと思う」
うわずったような声になっていた。
「それをどうしてあたしが察知したのかわからないけど、でも感じたの。あたしには、そういう回路が開いちゃったのかもしれない。そういう真っ黒い恐ろしいものをキャッチする回路が。だからね前畑さん、あたし余計に怖いんです。もちろん、あの二人組はもう死んだけど──」
「ええ、死んだわ。彼らはもうこの世にはいない」滋子はきっぱり断言した。
君恵はぐいと身を乗り出した。何かにつかまるみたいに両手でテーブルをつかむと、
「でも、何か残ってるかもしれないでしょ?」と、ほとんど叫ぶように言った。「霊魂とか……悪のエネルギーとか。そういうものが、あたしの回路に残って流れてるかも」
努めてやわらかく、滋子は問い返した。「そうだとしたら、どうなのかしら」
君恵は片手で口を押さえた。「あたしまた、ああいう人間を呼んじゃうかも。ああいう人間に会っちゃうかも。そしたら今度は──」
「今度は?」
「今度こそ、あたしが殺される番だわ」
滋子は黙って芦原君恵を見つめた。この娘をうちに送っていってあげなくちゃ。悲しく醒めた心でそう思い、しかしそのときふと、頭の片隅で、新しい考えが閃くのを感じた。
翌日、前畑滋子は芦原君恵の家に電話をかけた。彼女の母親と話してみたかった。午前《ひるまえ》にかけたのだが、本人が出た。
言葉の割には明るい声で、君恵は言った。
「電話は、自分のケイタイにしか出ないって言ってなかったっけ?」
「今日はダメ。あゆみからかかってくるから。うるさいから電源切っちゃった」
「あの巫女の彼女ね? わたし、あなたたちのあいだを気まずい状態にしちゃったかな」
「そんなことない。あたしも彼女にはウンザリしてたんだけど、うまく離れられなくて、きっかけを探してたんだ。そのこと心配して、わざわざ電話くれたの?」
滋子は用向きを説明した。君恵は驚いた様子だった。
「なんでウチのお母さんに? あたしが一緒じゃいけないの?」
「ううん、一緒にいてほしいわ。それで、お母様からも話をうかがいたいの。あのね、あなたの友達の、嘉浦舞衣さんの家出の当時のこと、もうちょっと詳しく教えてほしいのよ」
君恵の母親の芦原夫人は、滋子のルポを読んでいた。初対面の挨拶早々に、テレビで見るより小柄なんですねと言われて、滋子は苦笑した。
芦原夫人は、嘉浦舞衣が家出して行方しれずになった夜に、君恵が恐ろしい夢を見てうなされたこと、舞衣の身に何か起こったのではないかと怯えたことを、よく覚えていた。
「夢のお告げとかそんなものは、わたしにはよくわからないですけど……」
「あれはテレパシーよ」娘がさっと言葉を添えた。「舞衣があたしに、助けてって、メッセージを送ってきたんだ、あれは」
君恵の顔は真剣そのものだった。助けを求められたのに、何もしてあげることができなかった──本気でそう考えているようだった。だとすれば、この事件は、傍で思うよりも遥かに重く、君恵の心の負担になっているのかもしれない。
「わたし自身は、距離を隔てて、何の機械的通信手段も介さずに心を通わせることができるテレパシーという現象を、信じているわけじゃありません」滋子はゆっくりと切り出した。「舞衣さんが家出して行方不明になった夜に、たまたま君恵さんが怖い夢を見ていた──事実としてはそういうことでしょ? ただの偶然だと言うこともできます」
君恵が勢い込んで反論しようとしたので、滋子は手でそれを制した。
「でもね、女性の悲鳴が聞こえるなんていう怖い夢を見たとき、君恵さんが、それをとっさに舞衣さんの身の上に結びつけてしまったことには、ちゃんとした意床も理由もあると思うの。舞衣さんには、友達の目から見て、いつかそういう危険な事件に巻き込まれてしまいそうな危なっかしさや、捨て鉢なところがあったんじゃないかしら。どう?」
悔しげにうつむいた君恵に代わって、芦原夫人がうなずいた。「そうですね、あの子の素行が良くないのは、学校でも有名だったから。夜遊びはするし、知らない男の車にだって、誘われれば平気で乗り込むし」
「お母さん!」君恵が怒った。
「お母さんウソはついてないわよ」母も切り返す。「もちろん、舞衣ちゃんがあんたの大事な友達だったってことは知ってます。だけど、あんただって、舞衣ちゃんのやることにはついていかれないってコボしてなかった? 万引きに誘われて、逃げ帰ってきたことがあったじゃないの」
君恵は横目で滋子を見ながらあわてた。
「そんなことまで言わなくたって──」
「だけど事実じゃないの」
滋子はメモをとっていたが、たった今書いたばかりの一文の下に、濃いアンダーラインを引いた。知らない男の車にも、誘われれば平気で乗り込む。
「前畑さん、なんで舞衣のことなんか気にするの?」母親にやりこめられて、君恵は滋子の方に矛先を向けた。「何の関係があるってのよ?」
滋子は静かに答えた。「嘉浦舞衣さんは、家出したんじゃなくて、本当に事件に巻き込まれたんじゃなかったのかと思ってるのよ」
芦原夫人はつと首をかしげたが、すぐにその目が晴れた。「ひょっとして、あの二人──栗橋と高井でしたっけ、あの二人の起こした事件と関係があるんじゃないかってことですか? だって前畑さんはあの二人のことをルポに書いてるんだものねえ。そうでしょう? それで興味があるんですね?」
芦原夫人は、見かけ以上に頭の回転が早い。滋子ははっきりとうなずいた。
「だけど、舞衣が行方不明になったのは、もう三年も前のことだよ」君恵がブツブツ言った。「あいつらの事件と関係なんかある?」
「三宅みどりさんだったかしら。あのお嬢さんの件も、やっぱり三年ぐらい前でしたよね。そういえば、渋川の方でさらわれた人もいたじゃない」と、芦原夫人が言った。「だけど舞衣ちゃんは──」
「栗橋と高井は、なぜあの日、木村庄司の死体を積んでお化けビルに来たのか。それが気になるんです」と、滋子は続けた。「確かに、心霊スポットとして一部では有名な場所でした。でも、全国誰にでも知られているほど名の通った場所かと言ったらそんなことはない。わざわざお化けビルを選んだのには、彼らなりの都合とか事情があったんじゃないかと思うんです。土地勘があったか、以前にもそこで事件を起こしていたとか」
君恵は目を見開いた。「それが舞衣の?」
「ええ。そう思ったの。だから詳しく聞きたかったのよ」
芦原夫人は首を振る。「でもねえ前畑さん、事件のあと、警察がたくさん人を送ってきて、さかんに調べていましたよ。警察だって、今あなたがおっしゃったと同じように考えたんでしょう。栗橋と高井が、昔この地元で事件を起こしていないかって。だけど何も見つからなかったんじゃないかしら。ニュースではそう言ってたと思うけど」
「それは、彼らの仕業ではないかと推測することのできる、未解決の女性や女の子の失踪事件を探していたということですね、ええ、探してましたね。やって当然です。おっしゃるように、特に成果もあがらなかった。でも」滋子は声を強めた。「警察だって、そのとき、ただ漠然とローラー作戦で、昔この地元で行方しれずになった女の子はいませんかと聞き込んで歩いたわけじゃありませんよ。記録をあたったんです。赤井市と、県警に提出されている失踪人捜索願をね。だけど舞衣ちゃんの場合は──」
君恵が大きな声を出した。「最初から家出したって言われてたから、そういう届けが出てなかった!」
「ええ、そう。だから警察の調査の網の目からこぼれてしまったんじゃないかと思うの」
芦原夫人は片手を顎にあてて考え込んでいる。君恵はすっかり興奮して、席を立って滋子のすぐ隣へと移った。
「前畑さん、じゃあ舞衣の行方しれずの事件、これから調べるの?」
「ええ、そうしてみようと思ってる」
「あたし、手伝う!」君恵はソファの上でぴょこんと跳ねた。「絶対手伝う! ね、いいでしょ?」
「君恵」母親がたしなめるような声を出した。
「いい加減になさい。あんた学校だってあるんだから」
「いいじゃない、休むわよ」
「そうはいきませんよ」
「社会勉強の方が大事よ」
「学費はどうなるの? 払ってるのは誰?」
君恵はカッとなった。頬が赤くなった。
「お金のことを言うわけ? あらそう、じゃあ働いて返すわよ! それでいいでしょ? 何よ、親のくせに!」
ちょうどそのとき、場をとりなすように電話が鳴った。芦原夫人は動かずに、顔をしかめたままだ。君恵がぱっと立ち上がって、リビングを横切り受話器を取った。
「もしもし? あら」
どうやら友人からの電話のようだった。ケイタイが切れているので、こちらにかけてきたのだろう。芦原夫人は肩越しに君恵の方をながめ、電話の会話がまだ続きそうな様子を確かめると、滋子の方に膝を乗り出した。
「このまま、お帰り願えませんか」
「スミマセン──お嬢さんと喧嘩させるつもりはなかったんですが……」
「いえ、そんなことはいいんです。喧嘩はしょっちゅうですから。君恵は神経の細い娘で、例の事件以来ずっと不安定で」
母親らしい、悲しむようなため息をついた。
「ただ、前畑さんの調べ事に、娘を巻き込まないでほしいんです。あの娘にとって良い事は見つからないと思うので」
滋子は芦原夫人の目を見た。夫人もじっと見つめ返してきた。
滋子は声をひそめた。「舞衣さんの家出のことで、何かご存じなんですか?」
夫人はまた君恵の様子をうかがった。大きな声でにぎやかに話をしている。相手はあゆみではないらしい。
「嘉浦さんのご家族は、もう赤井市にはいません」と、短く答えた。「舞衣ちゃんがいなくなって、一年ほどしたら引っ越してしまったんです。悪い噂が広がって、面倒になったのかもしれません」
「悪い噂」滋子は繰り返した。
夫人はまた君恵を気にした。彼女は完全にこちらに背中を向けて、電話に夢中になっている。その隙を見て、夫人は一気に言った。
「舞衣ちゃんの母親は、身持ちの悪い女でした。舞衣ちゃんが家出していた当時同居していたのは、舞衣ちゃんの実の父親じゃなくて、まともな職にも就いていない若い男でした。その男が、舞衣ちゃんに手を出していたんです。母親が男と痴話喧嘩をするたびに大騒ぎをして、そこらじゅうに聞こえるような声であれこれ叫ぶので、あの家のなかで起こっていることは、実は近所じゃ有名でした」
夫人は横目で素早く君恵を見た。電話は続いている。
「ですからわたしも、君恵が嘉浦さんの家に遊びに行くのを厳しく禁じました。あのころ、うちだけじゃなくて、同級生の女の子たちの家じゃ、みんな嘉浦さんのところを警戒していました。舞衣ちゃんがグレてしまったのも、そういう事情があったからだろうと思います。だけどこのことは──舞衣ちゃんが母親の恋人にちょっかいを出されていたなんて、母親もそれを承知していただなんて、実の母親が、若い男を自分の元に引き留めておくために舞衣ちゃんの身体を利用していたなんてことは、君恵の耳には入れてません。今後も話したくありません」
滋子は夫人の顔を見てうなずいた。「よくわかります」
「ですから、舞衣ちゃんは自分から家を出たんです。母親が、彼女がいなくなってもちっともあわてなかったのも、裏側にそういうことがあったからです。あの子は家出したんです。さっき前畑さんがおっしゃったとおり、君恵が悪い夢を見たのはただの偶然でしょう。わたしの言っていることの裏付けが必要でしたら、嘉浦さんのアパートの近所の人たちに聞いてみてください。わたしから聞いてきたと言えば、みんな話してくれますよ」
そこまで言って、夫人は急に肩を落とした。
「君恵はおかしな妄想に憑かれていて、いつかはきっと自分も危ない目に遭うんだなんて思いこんでいます」
「ええ、それについてはわたしも話を聞きました。死ぬ直前の栗橋と高井に接触したことが、その妄想の元になってるみたいですね」
「カウンセラーの先生もそうおっしゃってます。だけど、じゃあどうしてやったら治るのかは教えてくれません。あんなガソリンスタンドでアルバイトすることを許さなければ良かったんだけど、学校よりずっと楽しいって君恵が言うし──あの二人が事故で死んだときだって、授業がお午《ひる》までだったから、ちょっとスタンドを手伝ってくるって、ホントにそれくらいアルバイトは楽しんでやっていて──それがこんなことになるなんて」
滋子は君恵の後ろ姿に目をやった。電話のコードをくるくると指に巻き付けながら話に興じている。若くしなやかな身体の線は、セーターとジーンズの上からでも、はっきりと見て取ることができる。
「若い女性には、危険の多い時代です」滋子は言って、慰めるように夫人を見た。「どれほど気をつけていても、ただ若い女性だというだけで事件に巻き込まれることだってあります。だからといって、闇雲に怖がっていては、一人で道も歩けなくなってしまう」
「そうですわね、ホントに」言い捨てるような口調で、芦原夫人は言った。「それに、世間を騒がせるような残酷な事件がひとつも起こらなくなったら、あなたのような方は商売あがったりでしょうし」
滋子は目をそらさなかった。夫人の方が目を伏せた。そして言った。「わたしには、そもそも、たとえ舞衣ちゃんの行方不明もあの二人組の仕業だったとしても、今さらそれを探り出すことに何の意味があるんだか、さっぱりわかりませんよ」
強く問いつめられれば、滋子だって、わたしにもそれはよくわからないのです──と答えざるを得なかった。ただ、思いついたから放っておけなくて、これまで見逃されていたことを見つければそこから新しい展開が出てくるかもしれないと期待して、調べようと思っているだけだと。滋子は、君恵に気づかれぬよう、そっと席を立って芦原家を辞した。夫人は見送らなかった。
嘉浦母娘が住んでいたアパートを訪ねてみると、大家も、当時からの入居者も、近所の商店街の店主たちも、進んで事情を話してくれた。何度かテレビで見ただけの滋子の顔をおぼろげに覚えていたり、ルポについて知っている人にぶつかったのも、運が良かった。
聞けば聞くほどに、嘉浦舞衣の家出は自発的なもののように思えてきた。アパートの大家の老人は、母親と大喧嘩をした舞衣が、あんな男に無料《 た だ 》でやらせてやるなんてもうゴメンだと怒鳴るのを耳にしたことがあるという。そりゃあんた、あたしみたいな年寄りだって、女の人に向かっては口にできないような言葉を使っとったよ、あの子。
だがしかし、家を出たのは自分の意志でも、その後どこへ行ったのか。この土地を離れるための足はあったのか。その部分が滋子には気になった。嘉浦舞衣の失踪には、何かしら気持ちの良くない要素があるという気がしてならなかった。テレパシーなど信じないと言ってはみたけれど、実は心の底では、君恵が見たという悪夢の印象に、滋子も引きずられているのかもしれなかった。
歩き回って、気がつくととうに昼時を過ぎていた。空腹で足が痛かった。ひと休みしよう──と周囲を見回し、国道を渡った反対側に、洒落たログハウス風のレストランを見つけた。
真新しい、木の匂いのする店だった。清潔で落ち着いている。しかし店内はガラガラで、客は滋子一人だった。どこへ座ろうと自由だったが、ストーブのそばを選んだ。すきま風で寒かったのだ。ひょっとしたら、昨今流行の手作りログハウスなのかもしれない──と思いながら腰をおろすと、目の前の壁に、網川浩一の笑顔を見つけた。『もうひとつの殺人』の表紙を掲げて笑っている。
写真に注目したまま、滋子は一度座った席から立ち上がって写真のそばに寄った。メニューを手に滋子の方に近づいてきていたウエイトレスが、それを見て嬉しそうな笑顔になった。
「それ、誰だかわかります?」問いかけられて、滋子はウエイトレスの方を見た。ピンク色のモヘアのセーターの上に赤いエプロンをかけ、口紅も同じ色調の真紅に染めた派手な女だが、年齢は滋子とおっつかっつだろう。彼女が隣に来ると、強い香水の匂いがした。
「網川浩一でしょう? 本を持ってるもの、すぐわかりますよ」
ウエイトレスはメニューをテーブルに置くと、写真の額をわざわざ壁から外して、滋子の前に示してみせた。
「これ、あっちの窓際の席でね」と、空いた手で反対側のボックス席を指す。「先週の土曜日、彼がテレビ撮影でこっちに来たとき、うちでお昼を食べて、そのときに撮った写真なんですよ」
得意そうな口ぶりだった。「彼」という呼び方も、滋子の失笑を誘った。しかしウエイトレスは、滋子の笑みを好意的に受け取ったらしく、はずんだ口調で続けた。
「なんといっても今いちばん話題の人でしょ。でも、ちっとも偉ぶってなくて気さくで、あたしも主人もすぐうち解けちゃって、次の本の構想なんかも聞かせてもらっちゃったの」
「彼、次の本を出すんですか?」
それは滋子には初耳だった。『ドキュメント・ジャパン』で仕事をしているライターたちが、網川の次作について話しているのを耳にしたこともない。網川の登場ですっかり影が薄くなってしまった滋子の内心をおもんぱかって彼の近況について口をつぐんでいるほど思いやりのある人びとではないから、これは本当に情報が入っていないのだろう。
「やっぱりあの事件についての本なんですね?」
「もちろんですよ」ウエイトレスはますますそっくり返った。時の人・網川浩一についての最新の情報をしゃべれるのが嬉しくてたまらないのだろう。「とことん書くって言ってましたよ。ホントに友達想いなのよね。なかなかできることじゃないもの」
滋子は、せいぜい皮肉に見えるようにちょっと眉毛を吊り上げた。「だけど彼、かなり大きな現実的な利益をゲットしてるんじゃありませんか? 本はベストセラーだし、今じゃテレビや雑誌に引っ張りだこでしょ? 売れっ子のタレントみたいですよね」
「ハンサムだからぁ」ウエイトレスは、自分の恋人のことでも話しているみたいにくねくねした。「テレビ映りがいいからね。でも、彼自身は、僕はタレントじゃない、タレントみたいな仕事はしたくないんだって言ってたわよ。そりゃ真剣な目をしてて」
「じゃあ何様のつもりなのかしら?」
それでようやく、ウエイトレスは、滋子が彼女と同じ網川浩一シンパではないかもしれない──という可能性に気づいたようだ。意外そうに顎を引いて滋子を眺め回すと、
「何様って、彼ってジャーナリストなんでしょう?」と言った。
「ジャーナリストね」滋子は繰り返し、席に戻った。バッグをとって、このまま店を出ようと思った。網川浩一が得意満面で演説をぶったような場所で、コーヒー一杯だって飲むのは御免だ。
しかし心の一方では、網川浩一に対して感じる反感は、特に具体的な理由に裏付けされているものではない──ということがわかっている。単なる好き嫌い──いや、もっと悪い、高井由美子の信頼感を得るというレースのなかで、彼に負けたから、彼の本のおかげで滋子のルポがかすんだから、だからあんな奴を認めたくないだけなのかもしれない。滋子の本音はそれを知っており、だからこそ、網川浩一について考えると、人間が誰でもひとつは隠し持っている感情の肥溜めのなかに両腕を肘まで突っ込んだような気分になってしまうのだ。
「お客さん、網川くん嫌いなんですか」
いかにも驚いたというように、ウエイトレスが訊いた。「彼」の次は「網川くん」と来た。親戚にでもなったつもりだろうか。
「あんまり好きじゃないわね」滋子はバッグを持ち上げた。「友達のため友達のためって、あの男のやってることは結局は売名行為だし、お金だって儲けてるわけじゃないの」
「本が売れて儲かったから悪いってわけじゃないと思いますけどねえ。それは結果がそうだったっていうことだけでしょ」
ウエイトレスの言葉は思いがけずまとも[#「まとも」に傍点]で、滋子の耳にチクリと刺さった。
「彼、もともとお金持ちの御曹司なんですよ。だからお金儲けを目的にするつもりなんか、最初からなかったって。『もうひとつの殺人』だって、自費出版で出すつもりで書いたんですってよ」
出入口に向かって歩き出そうとしていた滋子は、足を止めて振り返った。
「それ、本当ですか」
「本当ですよ。あの出版社に自費出版をやる部門があって、そこへ持ち込んで──」
「いえ、自費出版の話じゃないの。彼がお金持ちの息子だって話の方」
ウエイトレスは、滋子の興味を惹くことができたのが嬉しかったのか、手柄に感じたのだろう、笑顔に戻った。親網川チーム、ワンポイント・ゲットだ。
「本人が言ってたんだもの、確かでしょう。お父さんはいくつも会社を経営してる社長さんで、お母さんもお嬢様育ちで、彼自身も、一生働かなくても遊んで暮らせるぐらいの資産を持ってるんですって。だからホラ、彼って昔は塾の先生とかしてたでしょ? 会社勤めなんかしなくてもいい身分なんですよ」
滋子はもう一度、ウエイトレスの腕のなかにある網川の写真に目をやった。いわゆるひとつの爽やかな笑顔を浮かべてみました──というポーズ。あか抜けたファッション。
「そういえば、彼自身の個人的な情報って、ほとんど外に出てきてないわね」
ウエイトレスにではなく、自分自身に向かって確認するために、滋子は呟いた。しかしウエイトレスは勝手に補足してくれた。
「それはね、あの本を出すときに、最初から困難な道のりを覚悟してたんで、お父さんお母さんに迷惑をかけたくないから、わざと自分の情報を出さないようにしたんですって。もう成人してるんだし、自分の意志ですることに、親や親戚は巻き込みたくないって。だから今だって、プライベートなことって全然しゃべらないでしょう」
滋子はウエイトレスに目を向けた。「でも、あなたには話したのね。うち解けたから」
ウエイトレスはまた調子に乗ってきた。
「すごく話があっちゃって。だけど、内々では、彼が御曹司だってこと、けっこう知られてるみたいですよ。隠さなきゃならないことじゃないし、育ちがいいのは付き合えばわかるしねえ」
「彼が収録に来たのは、どんな番組だったんですか?」
「あのお化けビルを撮りに来たって言ってましたよ。ニュース番組のなかの特集コーナーだって」
以前に滋子が出たのと同じような企画だ。
「それとね、事故現場に花を供えてね。そのあとうちに寄ったの。寒かったせいもあったんでしょうけど、ちょっと涙目になっててね。高井和明さんのこと、本当に悲しんでるんですよ、彼。見ていると気の毒で、慰めてあげたくなって、食事や飲み物を運びながらいろいろ話しかけたわけなの。そしたら彼の方から、素敵なお店ですねって。このログハウスは輸入材で建ててありますねって、話を返してくれてね。ええそうなんですよ、うちの主人が独学で建てたんですって」
やっぱり手作りだったか。
「そしたら網川くん、実は僕もここと同じようなログハウスを持ってるって言い出して。うちのより古い建物だけど、すごく気に入ってて、ただ手入れがかなり大変ですよねって話になってね、うちの主人も交えて話が盛り上がったわけ。それでまあ、その話の流れのなかで、彼の家がお金持ちだってことも出てきたんですよ。別荘持ってるわけだものね」
滋子はウエイトレスの言葉のひとつひとつを心のメモに書き付けた。少しばかり意地悪な意図に裏打ちされた好奇心が、頭の隅でチカチカと点滅し始めたのを感じた。
網川浩一とは、そも何者なのか?
今まで誰も問いかけることがなく、エアポケットに落ちていた問いだった。栗橋浩美と高井和明の幼なじみで、和明の汚名を晴らすべく立ち上がった好青年。和明の妹の由美子を自分の妹のように愛し、案じ、会った者をひとしなみに惹きつける魅力を有し、頭の回転が速く、弁も立ち、ハンサムで姿勢の良い若者。それらの形≠見て、それに接するだけで気が済んでしまって、今まで誰も素のままの網川浩一を追求しようとはしなかった。
遊んで暮らしていかれるほどの金持ちの御曹司が、何故に、栗橋浩美と高井和明と同じ、公立の小中学校に通っていたのだろう?
調べて、わかってみれば何ということもない事情かもしれない。だが──
「彼、ここに名刺を置いていきましたか?」
滋子の問いに、ウエイトレスはうなずいた。
「ええ、もらいましたよ。でも、出版社気付になってたけど」
今現在、彼はどこに住んでいるのか。彼の両親はどこにいるのか。彼の子供時代は、本当に、彼が語っているとおりのものなのか。
「意地悪な好奇心というヤツだな」
電話の向こうで、手嶋編集長はせせら笑うように言い放った。
「ええ、わかってますよ、わたしはいけず[#「いけず」に傍点]なあら探し女です」
滋子はベッドの上に座り込み、取材ノートやアドレス帳、電話帳や地図を、ところ狭しと広げていた。
「でも、彼個人がどんな人間なのかってことは、実はとても重要な情報ですよ。わたしはこのまま、彼の学校時代の友人たちの家を回ってみます。ですから何とか──」
「戸籍謄本や住民票を勝手に調べることは禁止されてるんだ」
「ちゃんとした手続きを踏めば大丈夫なはずでしょ?」
「電話一本でなんでもお調べしますというわけにはいかないんだ。うちは興信所じゃなくて、雑誌編集部だからな」
「お願いします。気になるんですよ。引っかかるんです」
「たとえば彼に離婚歴があったり、子供がいたりしたら? それをネタに書き立てようっていうのか? ワイドショウ並みだな」
「わざとまぜっかえしているんだとしたら、時間の無駄だからやめてください。わたしは、網川浩一のスキャンダルを探してるわけじゃありません。ただ彼という人間を知りたいだけなんです。何も知らずに、彼の主張していることだけを信じるわけにはいきません」
「嫌な人間でも、主義主張は正しいということだってあるぞ」
「もちろん承知の上です」
手嶋編集長は、ため息と鼻息の中間のような音を発した。それから、おもむろに言った。
「捜査本部が、網川浩一の周囲を張ってる」
滋子は受話器をつかみ直した。「何ですって?」
「真犯人Xが網川に接触してくるかもしれないと期待してるんだ。それで彼の周辺に網を張って待ってるわけよ」
「じゃ、捜査本部も真犯人X生存説を認めたってことですか?」
「記者発表はしてないがね。実際、賢明な判断だとは思うよ。もしも真犯人Xが実在するのならば、彼を差し置いて世間に名を売って、注目も人気も独り占めしている網川浩一を、放っておくわけはないからね」
「網川本人は、警察の動きを知ってるんですか?」
「公式に知らされてはいないだろう。それをやっちゃ、捜査本部の面子《メ ン ツ》は丸潰れだからね。だが、うちの記者が気づいたくらいだから、網川シンパの記者やライターのなかにだって、警察の網を感じ取っている連中はいるだろうよ。彼らの口から報告が行ってるかもしれないな」
「どのみち、命を狙われるなんてことはないでしょうからね」
「そうかな。危ないかもしれないよ」
「真犯人Xだってバカじゃありませんよ。派手に動けば、かえって警察の目を惹きつけてしまうじゃないですか。ま、それも真犯人Xが本当にこの世にいるならばの話ですけど」
手嶋編集長は笑って電話を切った。滋子は電話機のフックを押すと、アドレス帳を眺めて次の連絡先を考えた。それから、思いついて自分の電話の番号をプッシュした。とりあえず留守番電話をチェックしてみよう。
電話がつながり、ボタンを操作すると、何と十件以上もメッセージが入っていることがわかった。滋子の留守番電話はテープ録音式なので、巻き戻しに時間がかかる。ベッドから裸足で降りて、冷蔵庫から冷たいオレンジジュースを取り出した。缶を開けてぐっと半分ほど飲んだとき、やっと再生が始まった。
最初の三件は、一種の業務連絡だった。四件目にはライター仲間からの伝言。その次は友人から。その次はまた業務連絡。メモをとるまでもない些細な用事だ。
次の再生──無言。
滋子は男のように荒っぽく舌打ちした。この暇人め。メッセージの録音時間は昨日の深夜だ。イタズラ電話だろう。
その次──また無言。次もまた無言。
滋子は鉛筆の端を鼻の頭に押しつけて、ちょっと首をかしげた。三つのメッセージは、五分おきくらいに録音されている。いやにしつこい、せっかちなイタズラではないか。
さらに次。ピーという電子音の後に、
「──前畑さん」
滋子は目をしばたたいた。この声は、高井由美子じゃないか。
「あの……遅い時間にごめんなさい。何度かかけてますけど、お留守で……」
間違いない、由美子の声だ。少しろれつがまわっていないような感じがする。
「お話ししたくなって、かけたんですけど……今さら会わせる顔がないこともわかってるんですけど……」
酔っているのだろうか。滋子が知る限り、由美子は下戸ではなかったが、酒好きでもなかった。うんと飲める口だったなら、和明の死後のいちばん辛かった時期に、とっくにアルコールに逃げ込んでいただろう。
それとも、薬でもやっているのだろうか?
「あたし……よくわからなくなってて」
耳を澄まさないと聞き取れないくらいの小さな声だ。メッセージはそこで切れていた。録音時間切れだ。次の再生が始まる。
「スミマセン……」
明らかにしゃべり方がおかしい。正常な状態ではないのだろう。それなのに、深夜に滋子に連絡してくる。不在とわかっているのに、留守番電話に向かってしゃべらずにいられない。いったいどうしたんだろう。滋子は、焦る余りに電話機を引っ張ってベッドサイドのテーブルから落としてしまった。
結局、残りのメッセージはすべて由美子からのものだった。だが、一生懸命に集中して聞いても、何を言っているのかよく聞き取れない。ただしきりに謝り、「よくわからなくなった」と繰り返すばかりだ。
由美子に何が起こっているのだ?
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『ドキュメント・ジャパン』編集部の手嶋編集長の計らいで、有馬義男がようやく高井由美子と会うことができるようになったのは、二月も二十日過ぎのことだった。
由美子と連絡をとることは容易だったと、手嶋編集長は説明した。ただし、前畑滋子を通してではなく、網川浩一を通してである。
「今の彼は、まるで高井由美子の保護者のようにふるまっていますよ。事実そうなのかもしれないが」
網川が例の本を書き例の主張を始めた段階で、高井由美子と前畑滋子のつながりも切れた。それどころか、滋子のルポは頓挫しかけているらしい。義男は少し心配になった。事実の行く先は義男自身にも見当もつかない。だが、最終的に姿を現した事実の有り様によって、彼女がこの硬派のルポの執筆と連載に失敗し、元の女性雑誌記事のライターとしての仕事も失うことになるとしたら、それはずいぶんと酷に過ぎると思う。
そして、そんなふうに感じる自分に皮肉なものを感じて、少しのあいだひどく滅入った。前畑滋子が仕事人としてどれほど酷な目に遭おうと、それが何だというのだ。鞠子が被った悪夢のような災厄に比べたら、それが何だというのだ。それなのに、前畑滋子の身の上に同情するなんて……。自分ではそんなつもりはないけれど、本当のところ、俺は鞠子の無念を忘れかけているんじゃないのか。鞠子から遠ざかりつつあるのじゃないか。
網川浩一は、義男が高井由美子に会いたがっているという話を聞くと、手放しで喜んだそうだ。本を書いたりテレビに出たりした甲斐があったと、ほとんど泣かんばかりに感激していたという。
「それでも私は、高井由美子さんとだけ会いたいんですがな」と、義男は手嶋編集長に言った。「編集長さんには立ち会ってもらうにしても、あの網川という育年にはいて欲しくないんです」
手嶋は特に表情を動かさずに問い返した。
「なぜですか?」
「だってあの青年は第三者でしょう。いくら友達だって、他人です。事件の関係者じゃない。私は彼の口上を聞くために出かけて行くんじゃないんですから」
おっしゃるとおりですと手嶋は認め、何度か交渉を繰り返してくれた。が、高井由美子は、網川の付き添いなしでは誰とも会う意志はないという返事を寄越すばかりだった。
「私は鞠子のおじい[#「おじい」に傍点]だけれども、あなたを捕って食うために会うわけじゃないから、怖がることはないと言ってみてください」
手嶋は伝えてくれた。が、それでも駄目だという。最終的には義男が折れて、先方は網川と由美子、こちらは義男一人、会見場所は由美子たちの指定するところ──という約束を固めるまでに、無駄な時間ばかりを費やすことになってしまったことになる。ようやく日取りが決まったという手嶋からの電話を切りながら、義男はため息をついた。
「女の子っちゅうもんは、ボーイフレンドができると、誰の言うことよりも、そのボーイフレンドの言うことが世界でいちばん正しいんだと思っちまうもんかね?」
と、水野久美に問いかけた。彼女はバンダナで髪を包み、セーターの袖をまくり上げ、ジーンズの裾をゴム長靴に突っ込んで、コンクリートの床をモップで洗い流す作業に没頭しているところだった。彼女から二メートルほど離れた店の奥、かつて大型のフライヤーが据えてあった地点では、やはり勇ましくモップを振り回して、塚田真一が天井を掃除している。そして二人は同時に手を止めると、ちょっと顔を見合わせてから義男の方を見た。
「何ですか?」と、久美が訊いた。
「ああ、いやいや」義男は笑って手を振った。
「何でもない、何でもない」
義男は、閉店した有馬豆腐店の後片づけのために、真一を雇った。すると、どういう次第か彼のガールフレンドの水野久美も、いつの間にか手伝ってくれるようになったのだ。
最初のうちは、真一にとっても久美の協力は意外なことだったようで、しきりに照れたり当惑したりしていた。が、義男はすぐに久美が気に入った。真一と彼女のあいだには、義男の知らない衝突と諍《いさか》いの経緯が──幼いなりに深刻な経緯が──あり、久美はそれを修正し、新しいところへ進むべく、真一のところに戻ってきたらしいと察しがついたからである。それに久美は気性が明るくはきはきしていて、しかもよく働いた。彼女を見ていると、義男は鞠子を思い出した。久美は鞠子と似てはいないが、鞠子を思い出させるものをたくさん持っていた。夢や希望、優しさ、咲きかけの美。
思いのほか時間のかかった店舗の片づけのほかに、義男は、思い切って東中野の家の荷物の整理も、若い二人に頼むことにした。さすがに真一はひるんだが、久美の方は元気良く引き受けてくれた。そして訊いた。
「だけど有馬さん、もしも気を悪くなさらなかったら──」
自分だけでなく、うちの母や姉にも手伝わせてくれないか、という。
「あたしだけじゃ手が回りきらないと思うんです。塚田君には女性の荷物のことわからないだろうし。あ、もちろん日当とかは要りませんよ。あたしが勝手に助っ人を頼むんですもん」
真一が目を丸くしているのを横目に、義男は笑って承知した。そして数日後、さかんに恐縮しながら久美の母親と姉がやって来て、一緒に東中野まで行き、まる一日大奮闘をして、ほったらかしになっていた家財や衣類を点検整理する作業をきれいにやってのけてくれたのだった。
義男と真一は、彼女たちの指図に従って、粗大ゴミを運搬したり家具を移動したりする兵隊≠ニして働いた。
「この家はどうなるんですか?」と、真一が訊いた。
「わからないねえ」
「名義は古川さんなんですよね」
「そうだよ。だからとっくに売られてたとしても不思議はないんだがね。まあ、こっちとしては荷物を片づけて掃除をしておくぐらいのことしかできないやね」
こうして、残るは「元有馬豆腐店」だけとなった。それも大型機械の処分や移転は済み、後は建物を磨き上げて、いつでも売りに出せるようにするだけ──となったわけだ。
若い二人はモップを振り回して奮闘し、義男は事務机のなかを片づけていた。真一も久美も、話の様子から今の電話がどんな内容だったのか察しているに違いないが、気をそろえたように知らん顔をして、何も尋ねなかった。だから義男は自分から報告した。
「あさっての日曜日、二十三日か、高井由美子さんに会えることになったよ」
二人のモップの動きが停まった。また顔を見合わせる。
「赤坂のメルバホテル≠チてところだ。場所知ってるかい?」
久美は首をかしげた。真一は「あんまり聞いたことないですね」と言った。
「小さいところなのかもしれないね。由美子さんは今そこに住んでいるらしい」
「ホテル暮らししてるんですか?」
「うん。金。かかるだろうねえ」
「誰が払ってるのかしら」
「網川って人じゃないの」真一がこともなげに言った。「今は高収入だろうし」
「網川さんが由美子さんの生活を面倒みてるってこと?」
「不思議なことでもないじゃない」真一はあっさり言って、モップの水をはらった。「それより、有馬さん一人で行くんですか」
義男は面子の説明をした。久美が心配そうに顔を曇らせた。
「向こうには弁護士役がついてるのに、有馬さんだけ一人で行くんですか」
「別に、何かの決着をつけにいくというわけじゃないがね」義男は言って、にっこりとしてみせた。一人でいるときよりも、笑うことがずっと易しく感じられる。
「だがねえ、やっぱり緊張するだろうから、終わったらすぐに、あんたらと落ち合って、どっかへ旨い鍋料理でも食いに行かれたら嬉しいねえ」
あいにくなことに、当日は朝から雨天だった。みぞれ混じりの凍りかかった雨が、厚い雲から間断なく落ちてくる。
会談は午後一時から始まる予定だった。塚田真一は、午前中から有馬豆腐店に顔を出し、倉庫のなかの古新聞の整理をした。早めの昼飯を老人と二人で食べて、十二時には家を出る老人を送り出し、元店舗と住まいの戸締まりをきちんとして、傘をさして駅へ向かった。
両国駅の入口で、午後一時半に水野久美と待ち合わせをしていた。義男と高井由美子の会談がどれくらいかかるものかわからないが、二人とも、メルバホテルの喫茶室かロビーで、終わるまで老人を待つつもりでいた。二人なら話題には事欠かない。喧嘩別れしているあいだに起こったことや考えたこととか、久美が石井家を訪れる気になったきっかけは何だったのかとか、話したいこと聞きたいことはいろいろあった。
雨は足元からも忍び込み、歩いていると身体が冷えた。それでも駅に近づいて、小さな駅の入口の前の歩道に、赤いチェック柄の傘の柄を肩に乗せるようにして立っている水野久美の姿を見つけると、ほっと温かくなった。混色織りのセーターが、久美の健康的な顔色によく映っていた。温かそうなキルティングのミニスカートから伸びる足は、ボア付きのブーツに包まれている。寒がりの森の妖精のように見えた。
水野久美は、狭い道の反対側にいる真一に気づくと、傘を傾けて笑顔になった。が、瞬く間にその笑顔が凍りつき、瞳の色が暗くなる。彼女の視線は真一の脇をかすめすぎて彼の背後に向けられていた。
真一はさっと振り向いた。傘の縁から滴《しずく》が飛んだ。その滴が跳ねかかるくらい近い距離に、樋口めぐみの青白い顔が浮かんでいた。
色あせたジーンズの裾に、雨水が染みて色が濃くなっている。ビニールの安っぽい雨合羽を着込んだ身体は、この前、最後に会ったときに比べて、さらに痩せたようだ。そういえば、前回彼女に会った時が、久美と喧嘩別れした時でもあったのだ。
石井家に戻って以来、ずっと気をつけてきたつもりだった。心構えもできているつもりだった。有馬豆腐店に出かけるとき、そこから帰るとき、朝起きて窓を開けるとき、近所のコンビニに買い物に行くとき、ロッキーを散歩に連れ出すとき──再びあの人なつこい犬と共に暮らせるようになったのは、ほかの何よりも大きな喜びだった──真一は常に意識し、準備していた。そこの角を曲がって、樋口めぐみに出くわすことを、支払いを済ませて店を出るとき、彼女の影が自分の後ろに落ちているのに気づくことを、夕暮れの電柱の陰に向かってロッキーがしゃにむに吠えたてるとき、そこに彼女が隠れているのを見つけることを、想定し、思い描いていた。
だがしかし、今までは一度もそれが現実化しなかった。覚悟を決めた真一は、拳のように堅くなった心臓が自身の胸の内側で密かに動悸を打つのを聞きながら、追われる者にふさわしく呼吸を潜め影を短く引き寄せているのに、追跡者は一向に姿を現さなかった。ひょっとしてもう諦めたのかもしれないと、かすかな希望の片鱗を、真一は心の隅に感じ始めていたところだった。
ところが、これだ。ちゃんと出てくるじゃないか。ちゃんと姿を現す。今までの空白期間は、こちらを安心させるための計算ずくのものだったんじゃないかと疑いたくなる。
それでも真一は、彼女が怖くなかった。少なくとも、これまでのような怖さは感じなかった。間近に樋口めぐみの痩せた顎を見つめながら、これまでの逃走・追跡・対決また逃走の繰り返しのなかでは一度も得ることのなかった、一種の勇気のようなものを心に感じて、自分でも驚いていた。有馬義男の励ましは、けっしてその場限りのものではなかったのだ。
──もう、逃げ回るのはやめな。
そうだ。追いかけっこはもう終わりだ。
「何の用だよ」と、真一は訊いた。自分の声が、きわめて平静に聞こえることに、さらに勇気づけられる気がした。
「ずっと後を尾《つ》けてきたのか? 用があるなら、そんなやり方はするなよ」
樋口めぐみは、凍死しかけた動物のように、のろのろと生気のない瞬きをした。そして真一を見た。真一は彼女の視線を受け止めた。真っ直ぐに。こんなことは初めてだった。
「オレ、今日はこれから出かけなきゃなんないんだ」
真一は、傘を反対側の手に移した。これで、めぐみの立っているところから、水野久美の姿がいっそうよく見えるようになるはずだった。ちらりと見ると、水野久美はさっきまでと同じ姿勢で、ただ顔から笑みだけをぬぐったように消し、両手で傘の柄を握りしめて、じっと雨の下に立っていた。
「友達と一緒なんだ」と、真一は久美の方を目顔で指し示した。「だから、おまえとゆっくり話す時間はないんだ。また別の時にしてくれよ」
樋口めぐみは化粧気のない顔をしていた。頬は土気色で、くちびるはひび割れていた。その目に知性の色がないように感じられて、真一は寒くなった。
「あたしと話しする気があるの?」と、彼女は低く問いかけた。
「あるよ」と、真一は短く答えた。「ちゃんとした場で、おまえもちゃんとするなら」
「あたしはいつだってちゃんとしてるわよ」
「それは受け取り方次第だけどな。ともかく、こんなコソコソしたやり方じゃなくて、きちんと連絡してきてみろよ。オレ、話を聞くよ。口先だけじゃない。本気で言ってるんだ」
そう宣言すると、真一は彼女に背中を向けて道を渡り始めた。水野久美が小走りに歩道の端まで近寄ってきた。
不意に、何かを読み上げるように一本調子に、樋口めぐみが大声で言った。「あたしたちはこんな悲惨な目に遭ってるのに、あんたはガールフレンドとデートだってさ」
真一は振り返らなかった。黙って水野久美を促し、雨のかからない軒の下まで行って、一緒に傘をたたんだ。久美はしばらく彼の横顔を見てから、道路越しに樋口めぐみの方を振り返った。真一は久美の手から傘を取り上げ、彼女の空いた手を握って、券売機へと歩き出した。
「あたし、やっとわかった。彼女、塚田君に憑《つ》いてる幽霊だったのね」
水野久美は、小声でそう囁いた。それから、しっかりと真一の手を握り返してきた。
メルバホテルの一階には、美しいエッチングガラスの衝立で仕切られた小ぎれいな喫茶室があった。しかも、久美が大いに喜んだことに、そこでは午前十一時から午後三時まで、ケーキバイキングを行っていた。
二人は窓際の二人掛けの席に座った。喫茶室はほとんど満員だったが、店内は騒がしくはなかった。ここでなら、あてもなく待つのもそれほど辛くはなさそうだ。
「有馬さんに給料もらったばかりだからさ。好きなものオゴるよ」
「だけどあんまり食べちゃうと、あとで水炊きを食べられなくなっちゃう」
真一は笑いながら、何気なく店内を見回した。そのとき、喫茶室の入口で、小柄で太った中年の女性と、たぶんその女性の息子だろう、体格のいい、真面目そうな顔つきの若者が、いかにも不慣れな様子で店内を見回していることに気がついた。そして、中年の女性が大事そうに胸元に掲げている品物に目を惹かれた。
本だった。遠目でもわかる。『もうひとつの殺人』だ。何かの目印のように、表紙を外に向けて抱えている。
──待ち合わせかな。
網川浩一の本を目印に、人と落ちあう約束をしている? 今現在、当の網川がこのメルバホテルの部屋のどこかにいることを考えると、それはひどく意味深な偶然のように感じられた。そんなことってあるかな?
喫茶室のいちばん奥で、三十歳ぐらいのスーツ姿の男性がさっと立ち上がった。急ぎ足でその二人連れの方へと近づいてゆく。本を掲げていた中年女性に話しかけると、しきりとおじぎを始めた。女性の方もペコペコする。連れの若い男性の方は、第三者的な茫洋《ぼうよう》とした風情でそれをながめている。
まわりが静かなので、耳を澄ますと、会話の断片がきれいに聞き取れた。スーツ姿の男性がせっせとしゃべっている。
──どうもご苦労様で。
──カメラマンももうすぐ来ます。
──お二人だけですよね。
──今まだ先約のほうがあって。
合流した一人と二人連れは喫茶室のなかに入ってきて、スーツ姿の男性が陣取っていたテーブルに落ち着いた。
「あの人たち、見える?」久美に向かって、彼らのテーブルの方を指し示して、真一は言った。久美はそっと振り返る。
「カメラマンがどうこう言ってるところを見ると、雑誌の取材か何かだろうな。網川浩一は、有馬さんの後、どこかのインタビューを受ける予定を入れてるのかもしれないよ」
とたんに、久美はしかめ面をした。「有馬さんと高井由美子さんの会見の取り次ぎをするってことは、マスコミの取材とは全然別次元の大事なことよ。それを一緒にやっちゃうって、そんなのありかしら?」
「そんな怒るなよ。ただ想像してるだけなんだから」
それでも、確かに気になった。雑誌記者か編集者であるかもしれない人間とカメラマンが揃ってここにいて、頭上のどこかの部屋では有馬義男と高井由美子の会見が行われていて、その場に網川浩一が居て──
真一はスッと立ち上がった。驚いて見上げる久美に、ちょっと待っててと言い置くと、喫茶室を出てフロントに走った。
午前中、出かける前に有馬義男は、「フロントで網川≠フ部屋番号を尋ねて、直にそこに来てくれ」と指示されたと言っていた。つまりフロントで訊けば部屋はわかるわけだ。けっして伏せられてはいない。
予想通り、フロントマンはすぐに部屋番号を教えてくれた。一〇一号室だ。大急ぎでエレベーターに乗り、十一階で降りると今度は迷路のような長い廊下を駆けた。部屋番号を確認しながら駆けてゆくと、驚いたことに、一〇一号室の前には、大きなカメラバッグと機材を廊下の床におろして、ジーパンにジャケット姿の女性カメラマンが、所在なさそうに佇《たたず》んでいたのだった。
「あの」真一は女性カメラマンに声をかけた。
「この部屋に取材に来た方ですか?」
三十歳ぐらいだろう、整った顔立ちの、いかにもしなやかで健康そうな女性カメラマンは、ほっと表情を緩めた。
「そうなんですけど、約束の時間は過ぎてるのにまだ誰も来なくて。行き違ったのかしら?」
「部屋はここですね? 網川浩一さん」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、僕がなかに入って訊いてきます」
真一はノックせずに静かにドアを開けた。女性カメラマンは、真一が新聞社か雑誌社かテレビ局か、とにかくどこかのメディアの助手だとでも勘違いしてくれたのだろう、少しも警戒することなく通してくれた。
出入口のドアのすぐ前に衝立があった。静かだ。真一はゆっくりとドアを閉めたが、そのあいだも人声はまったく聞こえない。衝立の陰から首を出してのぞくと、パステルカラーの洒落たソファに向き合って座っている、網川・高井由美子の二人と、有馬義男の背中が見えた。
網川が最初に真一に気づいた。端正なその顔に、滑稽なくらいの驚きの色が広がった。彼はその場で立ち上がった。
「あれ、君は!」
有馬義男が振り返り、やはり驚いて中腰になった。
「どうしたんだよ?」
真一は進み出て有馬義男のそばに立った。「邪魔してスミマセン、有馬さん」
そして有馬義男が何も言わないうちに、網川の方へきっと顔を向けて続けた。「取材のカメラマンが廊下で待機してます。どういうことですか?」
箱の底が抜けたみたいな、ぽかんとした沈黙が来た。有馬義男は真一を見て、それからさっと網川浩一を見た。高井由美子も網川を見ていた。
「どういうことだね、網川さん」
網川はチッと舌打ちした。瞬間、彼の顔の上をよぎったいかにも悔しそうな表情が、ひどく下賤に見えたことに真一は驚いた。
「待っていてください、これには事情があって」いつもの落ち着いた好青年に戻って、網川は有馬義男に言った。「ここにいらしてください」
「だけどあんた──」
「待っていてください!」網川は声を大きくした。高井由美子が、脅かされた子猫みたいにびくんとした。「ちゃんと説明できます。何か手違いがあったんでしょう。君、一緒に来てくれよ」
網川が「君」と呼んだのが自分のことであると、真一にはわからなかった。腕をつかまれて引きずられそうになり、やっとわかった。
網川はしゃにむに部屋の出入口のドアに突進し、ノブをつかんで引きむしるように開けた。するとそこにはさっきの女性カメラマンと、喫茶室で見かけた二人連れプラス背広の男性が、驚き顔で突っ立っていた。背広の男性は、まるで真一に握手を求めるように右手を突き出していた。ちょうど、ドアのノブを握ろうとしていたところであるようだった。
「初めまして、わたしは、足立好子と申します」
喫茶室にいた小太りの中年女性は、堅苦しい口調で自己紹介をした。ひどく緊張しているようで、化粧をした顔いっぱいに汗をかいていた。連れの青年は彼女の息子ではなく、家業の印刷屋で働いている従業員の青年だという。増本ですと、こちらは見かけから想像するよりも落ち着いた声で名乗った。
そのころになってやっと、真一は、この部屋がスイートルームであることに気がついた。だから、急に人数が増えて大所帯になっても、狭苦しい感じはしなかったし、一同が座る椅子にも不自由しなかった。
メルバホテルは構えこそさほど大きくないが、内装や家具備品、それらが醸し出す雰囲気は高級ホテルのそれで、きっと料金も高いに違いない。いくら網川浩一が今現在金持ちであっても、たった三人の会見のためにわざわざスイートをとる必要はない。ざっと見回しても、まるっきり生活感のない部屋だから、高井由美子がこの部屋に宿泊しているということもあるまい。だとすると、このスイートを用意したのは取材する側で、いわばこれはセットであり、現在のこの事態は、計画的に引き起こされたものだということだ。
「たいへん申し訳ありませんでした」
網川浩一は、椅子から立ち上がって深く頭を下げた。横で高井由美子が半泣きの顔をしている。初めてあのバスターミナルで会ったときも、やっぱりこういうベソをかいたような表情ではあったけれど、もう少し彼女自身の意志というか、姿勢というか、必死の情熱のようなものの感じられる顔をしていたと、真一は思う。だが、今の由美子はまるで網川浩一の付属物のようだ。
「こちらの足立さんと増本さんは、生前の高井和明君の、あるエピソードをご存じなんです。それで、僕の意見に賛同して、あの和明君が殺人者であるわけがないと信じて、僕に会いに来て下さったんです」
足立好子が太めの身体とがっちりとした肩をすぼめるようにして恐縮した。
「それで、こちらの『週刊ジャパン』でお二人と僕の会見を記事にすることになりました。その約束が今日の午後だったんですが──」
「我々が少し早く到着しすぎまして」背広の男性が如才なく割り込んだ。妙に愛想がいい。もらった名刺には、「週刊ジャパン デスク 城下《しろした》勝《まさる》」と刷られていた。
「けっして、有馬さんと由美子さんの会見に割り込むつもりはなかったんです。こうして一緒になってしまったのは、あくまでも手違いの結果でして」
真一は腹の底に黒い反間が湧いてくるのを感じた。到着が早すぎるどころか、喫茶室では「カメラマンが遅れてる」と言っていたではないか。あんたらが、あくまでも足立好子と網川との会見のためにこのスイートを用意したのであって、有馬義男の件はノータッチだというのなら、どうして彼をこの部屋に連れ込んだりしたのだ。どうして、有馬義男が部屋から引き上げた気配もないのに、網川からそういう連絡があったわけでもないのに、ずかずかとこの部屋にあがってきたんだ。
「私は、ここで高井さんと会ったことをマスコミに記事にしてもらう気はないですよ」
ずっと沈黙していた有馬義男が、手にとってながめまわしていた城下の名刺をガラステーブルの上に置きながら、静かな口調で言った。「私らのことが記事になるっていうのなら、最初から会いに来ませんでしたよ」
城下は網川の横顔を盗み見た。網川の方が役者が上で、まったく彼にはとりあわず、有馬義男に向かってもう一度頭を下げた。
「ご気分を害されたなら、本当に申し訳ありません。僕も、由美ちゃんと有馬さんの話し合いをマスコミに公開する気持ちなどまったくなかったんです。これは純然たる手違いです。ただ──」
芝居がかかった感じでぐいと顔をあげると、
「こちらの足立さんのお話は、ぜひとも有馬さんにも聞いていただきたいんです。肉声で、直接聞いていただきたいんです。その願いがあったので、敢えてふたつの会見場所をここに設定したんです。それはわかっていただけないでしょうか」
義男は眉間《 み けん》にしわを寄せて黙っている。さっきまでの高井由美子との会見のあいだに、どんなやりとりが交わされたのだろうかと、真一は考えた。有馬義男は怒っているのだろうか。失望しているのだろうか。ただ疲れているだけだろうか。
「お願いです、ぜひ足立さんの話を聞いて下さい」網川浩一は身を乗り出す。「もちろん、記事にはしません。いいね、城下さん」
城下ははいはいとペコペコした。
「写真もなしだ。撮らないでよ」網川は女性カメラマンの方に指を突きつけた。彼女は両眉をぐいと持ち上げ、何もしないわよと見せつけるみたいに腕組みをした。
真一の目には、それらの動作がみんな、安っぽいドラマみたいに見えた。
「足立さん、お願いします」
義男が承諾したわけではないのに、網川は足立好子を促した。いかにも働き者らしい荒れた手をよじりながら、彼女は話を始めた。しかし、しょせんはまったく素人である。話し慣れていないのは当然だし、こんな雰囲気のなかでは緊張してしどろもどろになってしまうのも無理はない。すぐに、何を言いたいのか、何を言っているのかさっぱりわからなくなってしまい、そのたびに、網川が横から口を挟むようになった。
ところが、意外なことが起こった。「おかみさん、あがってるから」と、増本という青年が助け船を出したのだ。「僕が説明します。おかみさんと旦那さんと僕と、一緒にテレビの特番を観ていたところから始まるから」
増本青年は、語彙こそ少なかったが、足立好子よりもはるかにてきぱきと、しかし要所要所で足立好子に「これでいいですよね?」と確認するようにうなずきかけながら、彼女の話をまとめて聞かせてくれた。真一にも、彼の話は楽に理解できた。そうかこの人は、栗橋浩美の母親、寿美子と病院で同室だったのか──見舞いに来た高井和明と会って、少しだが話もしているのか──
有馬義男は、途中で何度か質問を投げ、それに足立好子が言葉を探しながら答え、増本青年が補強した。網川浩一は強張った顔をしてそのやりとりを見守っており、高井由美子はうつむいており、城下記者とカメラマンはそわそわしている。
「犯人はボイスチェンジャーを使っていたから」と、増本青年は言った。「おかみさんが聞いた高井和明さんの声と、犯人の電話の声を比べたって、意味はないですよね」
「そうだねえ」と、義男はうなずく。
「けども、声は変えられても、話し方はそう簡単には変えられないでしょう? おかみさんは、病院で会った高井和明さんの話し方と、HBSの特番に電話をかけてきた栗橋浩美ではない方の電話の男とは、話し方が違うって感じるんだそうです。ね、そうですよね?」
足立好子は勢いよくうなずいた。両手を握りしめている。「あたしは学もないもんで上手く言えないけども、増本君の言うとおりなんですよ」
有馬義男は、足立好子の方に顔を向けて、しげしげと彼女を観察した。年齢的には義男の方が上だが、二人は世代としては同じところに属している。戦前に生まれ、戦中に辛い子供時代を過ごし、戦後に働きづめに働いて生きてきた世代だ。その世代だけに通用する、独特の人間判別法があるのかもしれないと、真一は思った。義男は今、その判別法で足立好子を計っている。計られている方もそれと承知していて、真っ直ぐに義男に対峙《たい じ 》しているのだ。
「おっしゃることはよくわかりましたよ、奥さん」
義男が言うと、足立好子はぺこりと頭を下げ、ごつい手で口を押さえて、急に涙ぐんだ。
「すみません……本当にすみませんねえ」
「おかみさん」増本青年がなだめる。
「可愛いお孫さんを亡くされて、どれだけお辛いか、あたしにもわかります。わかりますのに……こんなことお聞かせして」
義男は黙って首を振った。足立好子は大きな手提げ袋をかきまわし、ガーゼのハンカチを引っぱり出すと、それで顔を押さえた。
「さっきまで高井由美子さんのお話を聞いていて、考えていたんですがね」と、有馬義男は言った。「やはり、話だけでは駄目です」
由美子がはっとしたように目をあげる。網川がぐいと口元を引き締める。
「兄さんは人殺しなどする人間じゃないと信じるのは、身内の感情としては当然でしょう。病人にあんなに優しく接していた若者が、面白半分に女性を誘拐して殺すはずがないと思うのも、自然な気持ちです。でもねえ、足立さん。私はやっぱり話だけで自分の心を納得させることはできんですよ。揺れるけれど、納得はできない──いや、納得というよりは、むしろ安心≠ニ言った方がいいですわ。これでこいつが犯人であることに疑いがないと、安心したい。鞠子を殺した奴は確かにこいつだ、間違いないと確認して重荷をおろしたい。それには、やはり欲しいのは証拠です。動かしようのない証拠です」
増本青年がうなずいて、慰めるように足立好子の肩を叩いた。
「栗橋浩美の場合は、声紋鑑定をすることができた。だから彼に関しては疑いの余地がない。だが高井和明にはそれがないから、今は諸説乱れ飛んでいるわけです。生前の彼の声を録音したテープのひとつでもあれば、問題はすべて解決するんですがねえ」
今度は、箱の蓋を閉めきったみたいな沈黙が来た。一同うつむいているなかで、増本君という青年だけが、義男に向かってうなずきかけている。
「そんな都合のいい物証がポンと出てきてくれるなら──」網川浩一が、口元をかすかに歪めながら言った。「僕らだって、こんなに苦労せずに済むんです」
「そうだよねえ、網川君の言うとおりだ」城下が揉み手しながら言う。しかし、有馬義男はまったく彼らにかまわず、高井由美子に話しかけた。
「お兄さんの声が録音されているテープとかビデオの類を、警察はずいぶんと熱心に探したことでしょうな?」
直に尋ねられて、由美子はまたびくりとし、網川の横顔をうかがった。網川も彼女の方を見る。そうやって二人のあいだに流れる何ものかを言葉で断ち切ろうとするように、有馬義男は身を乗り出して続けた。
「私ぐらいの世代の人間にとっては、政治家でも芸能人でもない一般庶民が、自分自身の声が機械で録音されたのを耳にする機会を持つなんて、それ自体がほとんど想像できんことなんですわ。留守番電話だって、私はよう使えんからね。せいぜいラジオぐらいのもんですよ。ホラ、午後のラジオ番組で、電話でクイズとかやっとるでしょ? あれぐらいなもんです。だからね、あなたのお兄さんの声が録音されて残っていそうなものを、頭に思い浮かべることができん。あなたに頼るしかないです。警察にもさんざん尋ねられたでしょうが、もう一度考えてみてください。何かありませんかね?」
高井由美子は目に見えておどおどした。そんな彼女を見ていると、真一は心の底が、シュレッダー屑のなかに腕を突っ込んだときみたいにチクチクするのを感じた。すごく嫌な気分だった。ただそのとき、こんなふうにことさらに由美子を厭わしく思うのは、彼女のこの怯えぶりが、樋口めぐみから逃げ回っていたころの自分自身とダブって見えるからではないかと、ふと気がついた。そうすると、急に汗が出てきた。
「有馬さん、それは酷な要求だと思います」網川が言った。「有馬さんの辛いお気持ちは充分わかりますが、僕らはもう、物証は無い、高井君の無実を証明するためには、たくさんの状況証拠と心証を積み重ねていくしかないと、覚悟を決めているんです。どうかそれをご理解くださ──」
有馬義男は網川をさえぎった。「あんたが覚悟を決めるのは勝手だが、私がそれに付き合わなきゃならない義理はない。それは、この妹さんだって同じだよ」
この場を包み込んでいた、見せかけだけの平和的雰囲気の「箱」は、完全に壊れた。一瞬だが、網川は明らかに怒ったような表情をした。有馬義男は涼しい顔で見返していた。それは、これまで網川が出演してきたどんなテレビ番組でも、どんなインタビューでも、けっして生まれることのなかった「場」の誕生だった。
真一は一瞬、痛快な気がした。この場には一人の悪人も存在せず、立場と意見は違ってもみんな正義を求める人びとなのだから、そんな感情を抱くのは不謹慎であるはずだった。だが、それでも痛映さを覚えた。
「ラジオ──」と、増本君が呟いた。皆の視線が彼に集中すると、真っ赤になって頭をかいた。「いや、すみません」
「かまいませんよ。言ってみてください」と有馬義男が促す。
「そうスか、それじゃ、あの」
増本君は足立好子の顔をのぞきこむと、
「おかみさんは覚えてませんか? さっき有馬さんがおっしゃったみたいな、ラジオ番組の公開録音がうちの近所にも来たことがあったスよね? もう五、六年前になるかな」
足立好子はちょっと考えてから、丸い顔をほんの少しほころばせた。「ああ、そういえばあったね」
「あったッスよね? うちは印刷屋だから出なかったけど、商店街の人たちはけっこう出ました。レポーターとかけあいしたりして。後で、録音した番組を、あっちでもこっちでも聞かされて参ったスよ」
網川が露骨に焦《じ》れた。「で? 何が言いたいんだ?」
「ああ、ですから、高井さんの家は蕎麦屋さんでしょう? しかも地元で長いこと店やってたわけでしょう? ラジオの公開録音、来ませんでしたか? もしそういうことがあったなら、蕎麦屋さんなら、マイクを向けられる機会だってあったかもしれないと思いついたんスけど」
「仮に公開録音や中継があったとしても、カズはそんなところにしゃしゃり出る奴じゃなかった」網川は激しくかぶりを振りながら、さっさと否定にかかった。「背中を押されたって、マイクの前に立ったりしなかったよ。君は生前の彼を知らないから、そんなあてずっぽうな推理ができるんだ」
増本君は、シュンとして小さくなった。足立好子も一緒になって恐縮した。城下は貧乏揺すりを始めた。
そのとき、弱々しい声が聞こえた。
「ラジオ……は駄目だと思います」
高井由美子だった。真一がこの部屋に入ってから、彼女が自発的に発言するのを聞くのは初めてだ。
「駄目ですか」反問というよりは、助け船を出すように有馬義男が訊いた。
「ええ。兄は内気でしたから」
「ラジオの公開録音というのは、警察との話のなかでも出てきましたか?」
「いいえ、それは出ませんでした」由美子は上目遣いに増本君の顎のあたりを見た。「今、初めて出てきた話です」
有馬義男は増本君に笑いかけた。「そんなら、まだほかにも、警察が思いついてない可能性を、我々が思いつくことができるかもしれないっちゅうことだよね」
「無駄だと思うけどな」網川が切り捨てるように言った。「思いつきだけじゃ何にもならない」
そのとき、真一の頭の底で、何かがチカリと閃いた。それが何なのか捕まえるために、ちょっとのあいだ意識を集中して考えなければならなかった。
「網川さん、由美子さん──」真一は、考え考え呼びかけた。「あなた方はずっと、高井和明さんは栗橋浩美のやっていることに気づいていて、そのために悩んでいたと主張してますよね?」
「そうだけど、闇雲に主張しているわけじゃない。そう考えた方が、明らかに理にかなっていると言っているだけだ」
この際、そんな言い回しはどうでもいいのだ。真一は由美子に訊いた。「和明さんは、一人では解決できないような悩み事を抱えたとき、誰かに相談してましたか?」
由美子は絵に描いたような当惑の顔をして、また網川の表情をうかがった。真一は食い下がった。「あなたに訊いてるんですよ、由美子さん。あなたは家族でしょう? ひとつ屋根の下に暮らしてたんだから、ここにいる誰よりも、お兄さんのことをよく知ってたはずです」
城下が貧乏揺すりを続けながら割り込んだ。
「君は何を言いたいんだね? 由美子さんを問いつめたってしょうがないし、だいいち君にそんな権利があるわけじゃないだろ?」
由美子は救助隊が来たとばかりに目を背け、音もなく立ち上がると部屋の奥に消えた。ドアが開閉される音がする。洗面所だろう。真一は由美子が、この部屋の豪華な鏡に今の彼女自身の顔を映し、それがどれほど情けなくだらしなくいくじなく見えるものか、とっくりと確認して欲しいものだと思った。
彼女に続いて、網川も、急に何かを思い立ったみたいにパッと席を立ち、由美子の消えたドアの陰に消えた。残された一同の上にバツの悪い沈黙が落ちてきたが、そのバツの悪さをかき消すために誰かが何か発言するよりも前に、網川は席に戻った。そして、座るや否やいきなり真一に言った。
「君は少し口を慎んだ方がいいな」口を尖らせている。「ただの野次馬のくせに、言いたいことを言っている。可哀想に、由美ちゃんは動揺してしまった。おとなしくしていられないなら、部屋から出ていってもらうぞ」
「この子は私の身内みたいなものだ」有馬義男が反問した。「野次馬じゃあないよ。塚田君が何か考えてるなら、私は聞きたいね」
「それなら、あなた方の家に帰ってから話し合えばいいでしょう!」
網川は、一同が驚いて一瞬顔を見合わせるほどに、攻撃的な声を出した。そういう皆の表情を見て、自分が言い過ぎたことに気づいたのだろう、急に目を伏せると、片手を額にあててうつむき、ため息をついた。
「すみません……」
城下が、ようやく貧乏揺すりをやめて、とりなすように愛想笑いを浮かべた。「網川君は、ここんとこずっと取材続きでしてね、夜もロクに眠っていないんですよ。疲れてるんです。そのへんのところはわかってあげてください」
由美子が洗面所から戻ってきた。場の雰囲気を察知したのか、ソファの後ろで立ちすくむ。化粧直しをしてきたらしく、口紅の色が鮮やかになっていた。真一は、今度は、反感≠ニいうシュレッダー屑の山のなかに、裸で飛び込んだような気がしてきた。
「塚田君、帰ろう」有馬義男が立ち上がった。「これ以上お話しすることもなさそうだよ」
真一は黙ってうなずいた。足立好子がおろおろしている。しかし増本君は落ち着いていて、有馬義男と視線を合わせると、
「おかみさん、僕らも帰りましょう。網川さんに聞いてもらいたいことは全部お話しして、おかみさんの気も済んだスよね?」
足立好子の太い腕を、優しくつかんだ。おかみさんは息子のような従業員に促されて、急に安心したようだった。そうだね、と同意して、不器用にテーブルに膝頭をぶつけたりしながら立ち上がる。
城下があわてて引き留める。「だけど足立さん、あなたたちと網川君の会談は、うちで記事にさしてもらう約束になってるんですよ。だからカメラマンだって呼んで──」
増本が答えた。「そうなんスか。でもおかみさんも俺も、そのことは何も聞いてなかったスから。雑誌とかに出るのは、おかみさんの気持ちとは違うし」
「いいよ、城下さん。やめにしよう」網川が、うつむいたまま鋭く言った。「もういいよ」
城下は不承不承という感じで口をつぐんだ。
「由美ちゃん」手を額にあてて固まったまま、網川は、今度はソファの後ろの由美子に呼びかけた。ダーツの矢を投げるような鋭い呼びかけで、由美子は両肩をびくんと震わせた。
「君、皆さんをロビーまで送ってあげるといいよ」
由美子は、今度は有馬義男や真一たちの顔をうかがうように見ておろおろした。何ひとつ、自分では判断がつかなくなっているのだ。「私らなら見送りなど要らないですよ」有馬義男は静かに言った。
「いや、送っていきなさい」顔を上げて、かすかに由美子に笑いかけながら、網川は言った。「ずっと僕がそばに張りついていて、由美ちゃんとさし[#「さし」に傍点]で話す機会は一度もなかった──なんて、後で言われたくないもんな。一緒にロビーへ降りて、そうだ、喫茶室で話をしてくるといい。それなら、有馬さんだってご異存はないはずだ。申し訳ないけど、僕はここで少し休ませてもらうから。いいでしょう、城下さん?」
「ああ、もちろんどうぞ。横になるといい」
結局真一たちは、豪華なスイートルームに、網川と城下と女性カメラマンの三人を残して、ぞろぞろと廊下に出た。高井由美子はいちばん最後に部屋を出て、ドアを閉めるときにも、名残惜しそうに室内の様子をうかがっていた。彼女一人だけが、仲良しの輪≠ゥら締め出しをくったみたいな顔つきをしていた。
一同は、黙りこくってエレベーターを降りた。ロビーに出ると、真一はさっさと喫茶室に向かった。由美子はノロノロとついてきた。真一は肩越しに彼女を振り返ると、素っ気なく言った。「何も、本当に網川さんに言われたとおりにする必要なんかないんですよ。喫茶室に行くのは、そこに僕の友達が待ってるからなんだから」
水野久美は、真一に置き去りにされたまま、辛抱強く待っていてくれた。窓からぼんやりと外を見ていたが、彼らが近づいてゆくと、明らかな安堵の色に頬をなごませた。
「置いてきぼりにしてゴメン」
真一は言って、手早く足立好子と増本君を紹介し、事情を説明した。今日、足立さんは、僕らと同じように網川さんと面会する約束があったんだって。それがさ、やっぱり勝手に取材を入れられちゃってて──
水野久美の視線は、一人だけ紹介されずに、皆から一歩離れたところで下を向いている由美子の方へと流れた。有馬義男が言った。「高井由美子さんだよ」
水野久美は両目を見開いて、まじまじと由美子を見つめた。ちょっとのあいだ、息も止めているみたいだった。
久美はほんの少し斜視で、真一にはいつも、それがとても可愛らしく思えた。同時にそれは、ちょっと神秘的でもあった。彼女の視線のベクトルは、他の人間とは少しだけ角度がずれている。それ故に、他の人間たちの目には陰になって見えない何かが見えるのではないか──そんなふうに思えるから。
「怖くないですか?」と、久美は小さく訊いた。由美子はそろそろと視線を上げて、彼女の方をうかがい見た。
「怖い?」と、さらに小さな声で問い返した。「ええ。ここ、人が大勢いるから」
由美子はほっと息を吐いた。「いえ、大丈夫です。このホテルのなかなら」そしてまた、怯えるように肩を縮めて真一を見た。
「さっき、塚田君の話、途中になっていたでしょう? わたし、あの続きが聞きたいです。兄は、大きな悩み事があったとき、誰に相談していたかって」
一同は再び喫茶室に落ち着くことになった。水野久美が気をきかし、窓際から遠い、奥まったボックス席を選んだ。席に座って注文した飲み物が運ばれてくるまで、皆それぞれにくたびれたような安心したような顔をして黙っていた。
真一は説明を始めた。「ほんの思いつきなんですよ。だからあてずっぽうです。ただ、もしかして和明さんが、いわゆる電話悩み相談室みたいなところを利用することがなかったかなって、ちょっと考えたんです」
思い出したのだった。滋子のドキュメントが評判になっていたころ、声優の川野レイ子が、雑誌の対談で話していたことを。
「事件の犯人像がまったく見えなかったころに、電話相談室に、たくさんの電話がかかってきたっていうんですよ。曰く、自分が犯人だ。あるいは犯人を知っている。あるいは、自分の身近のあの人が犯人ではないかと疑っているんだけど、どうしたらいいだろうか」
はああと、増本君が感心した声をあげた。
「そうかあ、そういうことか」
「和明さんはとても内気な人だったというし、実際、ご家族にも何もうち明けていなかった。思いあまって、こっちの名前とか住所とかを明らかにしないで話すことのできる、そういう媒体に相談していた可能性はないかなと思ったんです。どうでしょう?」
由美子は口元に手をあてて、じっと考え込んだ。そのとき、隣に座っていた水野久美が、真一のシャツの袖を引っ張った。
「カメラ」と、小声で素早く言った。「写真、撮られてる」
真一はパッと振り返った。目がうわずって、周囲に見えるはずのものはたくさんあるのに、その何処にも焦点が合わない。
「どこ?」と、鋭く久美に問い返した。彼女は真一の袖をつかんだまま囁いた。
「塚田君から見て、向かって左の柱の陰。ゴムの木の鉢があるでしょ、あのすぐそば」
とたんに、ピントがあった。確かにいる。さっきのあの女性カメラマンだ。向こうも真一の視線に気づき、カメラをおろして顔をのぞかせた。
「どうかしたのかい?」
有馬義男の問いかけを背中に、真一は椅子を蹴って女性カメラマンのいるところまで走った。きっと逃げ出すだろうと思ったけれど、案に相違して彼女はその場を動かなかった。手元で何やらカメラを操作している。
「フィルム」足を止めて、真一はいきなり言った。
「フィルムを渡して下さい」
彼女に向かって、真っ直ぐ右手を突き出した。ロビーを通りかかる人びとが、何事かというように眉をあげてこちらを見ている。女性カメラマンは自分の手元ばかりを見て、カメラをいじる作業をやめない。
「フィルムを下さい」と、真一は大声で言った。「今、盗み撮りしたフィルムですよ。僕らは写真に撮られることに同意してません」
「社会的な価値のある情報なのよ」目を上げて、真一を斜《はす》に見ながら彼女は言った。「報道する権利が、こっちにはあるわ」
「どういう価値です? 写真週刊誌に売りつければお金になるってことですか? ついでにあなたの名前も売れる?」
「そうじゃないわよ。網川さんの努力の甲斐があって、被害者の遺族の有馬義男氏さえも、高井和明無実説に傾きかけてるって、世間にアピールできるってことよ」
真一は激しく首を振った。「有馬さんは高井和明無実説に傾いてるわけじゃない。さっきのやりとりをあなただって聞いてたでしょう?」
「だけど、高井由美子と仲良くお茶を飲んでるじゃないの。それは価値ある情報よ」
「写真を公開すれば、そういう偏った印象を広めることにはなりますね。つまり、網川さんはそれが狙いなんだ」真一は再度手を突き出した。「フィルムを下さい」
女性カメラマンは口元を歪めた。「あたし一人の判断じゃ渡せないわ」
「どうしてです? 撮影者はあんたじゃないか」真一は怒りを抑えるのが難しくなってきた。「あんた、いい歳して自分のやってることにも責任持てないのかよ」
女性カメラマンの瞳にも怒りの色が浮いた。
「浩一さんに訊いてみなきゃわからないのよ!」
真一のそばで、誰かがはっと息を呑んだ。驚いて振り向くと、高井由美子が立っていた。青ざめた月のような顔をして、両手を胸の前でぐっと組み合わせている。
「何よ」と、女性カメラマンは由美子に言った。「なあに? 何か言いたいの?」
震える声で、由美子は言った。「フィルムを渡してあげて」
女性カメラマンの眉が鎌のような形になった。「何言ってるの? あんたなんか黙ってなさ──」
皆まで言わせず、由美子は遮るように強く言った。「フィルムを渡して」
そして急に声を落とし、女性カメラマンの目を見て付け加えた。「浩一さんには、わたしから話すから」
女性カメラマンは、一瞬だけ由美子を睨みつけた。由美子は下を向いて自分の爪先を見つめている。それなのに、二人のあいだで視線よりも強い何かがぶつかって火花を散らすのを、真一は感じた。
突然、女性カメラマンは手にしていたカメラのなかからフィルムを取り出し、真一に投げて寄越した。真一はあわててキャッチした。その隙に、女性カメラマンはとっとと逃げ出して、エレベーターの方へと走っていってしまった。
彼女の姿が見えなくなると、由美子は真一の手のなかのフィルムに視線を落として、小さく言った。「ごめんなさい」
ああ、またこの人は謝っている。
「一緒にロビーに降りて、彼女が写真を撮ることができるくらいのあいだ、皆さんを引き留めておくようにって、浩一さんに言われたんです」
真一は黙っていた。腹が立つ一方で、頭のなかに、今まで思ってもみなかったある考えがわき出してきて、すぐには口がきけなかったのだ。心臓が胸の内で乱れ打っていた。これと似たようなことが前にもあったじゃないか、これと似たようなことが以前にも──
「わたし、もう部屋に戻らなくちゃ」由美子は真一の顔を見ないままにそう呟いて、身体の向きを変えようとした。
真一は素早く言った。「由美子さん、飯田橋のアークホテルで写真を撮られたときのこと、覚えてますか?」
由美子は足を止め、ようやく真一の目を見た。「あの写真週刊誌のこと?」
「そうです。あなたが有馬さんたちに会いに押し掛けてきて、騒動になった」
由美子は痩せた手首を持ち上げて、手で額を押さえた。「ごめんなさい。そういえばあなた、あのとき怪我をしたのよね」
「そんなことはいいんです。それより思い出してみてください。あのとき、有馬さんたちがアークホテルに集まることを、あなたに教えたのは誰でしたか?」
由美子は手をおろし、怪訝そうに首をかしげる。
「教えたのは、網川さんだった。滋子さんは、あなたの気持ちを騒がせたくなくて、黙っていた。そうじゃありませんでしたか?」
由美子は口を閉じて、白い顔を真っ直ぐに真一の方に向けている。怒っているのか驚いているのか、そこからは何の表情も読みとれない。
「僕、今ふっと思いついたんです。あのときも、今と同じような状況だったんじゃないでしょうか」真一は、思い切って言った。「網川さんは、あなたにアークホテルでの集まりのことを教え、そこに行けば有馬さんに直接会うことができる、直に話ができればわかってもらえるかもしれないと希望を持たせ、あなたを焚きつけた。あなたがたまらずにアークホテルに向かうことを、彼は期待していた。そして……」
さすがに動降が激しくなって、真一は息が切れた。
「そしてそのネタを、スクープを欲しがっている写真週刊誌に売りつけた」
由美子はさらに青ざめた。正面から見る彼女の瞳は色が薄かった。いや、彼女全体が薄れていた。まるで誰かに吸い取られて色あせてしまったみたいに。
「あのころのあなたの精神状態からいって、騒ぎになることはわかっていた。だから写真は派手なものになった。当然大々的に報道される。彼はそれを狙っていたんじゃなかったのかな? あとで滋子さんから聞いたけど、あの日彼はあなたのためにアークホテルへすっ飛んできたそうですね。あなたを助けるために。その後あなたが自殺未遂事件を起こしたときも、彼が助けにきた。そうやってあなたの信頼を勝ち得、それからおもむろに彼はルポを出版し、滋子さんと袂を分かち、あなたをがっちりと抱え込んで、心優しい正義漢としてマスコミの寵児《ちょうじ》への道を驀進《ばくしん》し始めたってわけだ」
由美子はじっと固まっている。
「あなたは彼に利用されてるだけかもしれない。最初から彼の手の上で転がされてたのかもしれ」
真一の頬がぴしゃりと鳴った。痛みは感じなかったから、とっさには平手打ちをくったのだとわからなかった。塚田君と、水野久美が呼ぶ声が聞こえ、彼女がそばへと駆け寄ってきた。
由美子は彼女自身の手を見おろし、まるでそれが意志に反して勝手に動いて真一を叩いてしまったのだと責めるかのように、眉をひそめて見つめていた。それからその手を拳に握ると、うつむいたまま半泣きの声で呻いた。
「なんて非道いことを」
真一を守るように彼の肘をつかんで立ちはだかった水野久美が、「非道いのはあんたの方よ」と言い返す。「なんで塚田君を叩いたのよ?」
「いいんだ」真一は言って、久美の肩を叩いた。「俺が由美子さんを怒らせたんだから」
有馬義男が、喫茶室の出口のところでこちらを見守っている。心配そうなその顔に、真一は目顔でうなずきかけた。それから、由美子の方に視線を戻した。
「もう部屋に戻った方がいいですよ。隠し撮りに失敗したんで、網川さんは怒ってるでしょう。彼があなたに向かって何を言うか、どんな態度をとるか、よく観察してください。なんなら、僕が今あなたに話した考えを、彼にもぶつけてみたらどうですか。彼、何て言うかな?」
由美子は両手で顔を覆うと、スカートの裾をひるがえして逃げ出した。彼女が転ばずにエレベーターホールの方へ消えたのを見届けて、真一はうなだれた。
「どうしたの?」水野久美がのぞきこむ。気がつくと、有馬義男がすぐそばに来ていた。「とにかく、ここから引き上げようかね」と、老人は静かに言った。「足立さんと増本さんは、もう帰ったよ。今後も連絡がとれるように、住所と電話番号は教えてもらったから」
真一は黙ってうなずいた。
「あんたの思いつきはいけるって、増本さんは言ってた。命の電話とか、悩み相談室とか、そういうところに当たってみるのは悪くないってな。警察にも話してみたらどうかねえ。ただ問題は、そういうところに電話の声の録音が残ってるかどうかってことだがよう」
「そうですね」真一は言って、促されるままに三人で歩き出した。
「ところで、まだ水炊きを食う元気はあるかい?」
「あります、あります」
「急に元気になっちゃった」と、水野久美が吹き出した。
有馬義男の連れていってくれた水炊きの美味しい店は、鍋料理屋ではなく居酒屋で、陽が落ちると早々に混みあってきた。義男はこの店の主人と親しいらしく、店の奥の四人掛けのテーブルを確保してもらったので、三人は、何の憂いもなく楽しげな客たちの、賑やかな話し声と湯気に包まれ、心温かくなりながら、三人だけの話をすることができた。
真一は、喫茶室の外のロビーで由美子に話したことを、義男と久美に説明した。義男は咎めるようなことは言わなかったし、久美は悲しげに黙って聞いていた。
「あんたの考えが、当たってるんじゃないかという気がするね」有馬義男は鶏肉をつつきながら言った。「そういうの、あたしらだったらマッチポンプ≠ニいうんだが……今はそんな言葉は死語かねえ」
「自殺未遂するくらいに追いつめておいてから助けてあげれば、いっぺんでトリコにすることができるかもね」久美が箸を置いて言う。「だけど、そんな手間のかかることをして何になるのかな。目的は何?」
真一はすぐに答えた。「自分の本を大々的に売り出せる」
「それだけ? うーん……どうかなあ。だって『もうひとつの殺人』はさ、べつに由美子さんを抱き込まなくたって書けたでしょう? ただポンと本を出しただけだって、あの内容ならば、充分に話題にもなったと思うよ」
有馬義男は考え込むように真一と久美の顔を見比べた。真一は首を振る。
「俺はそうは思わない。網川浩一が出てくるまで、世間は栗橋・高井二人犯行説にほとんど疑いを持ってなかった。警察は何度か、一連の犯行がこの二人組によるものだと断定はできない、特に高井の方には証拠が無いってことを発表してる。でも、何となくこの二人に決まってる≠ニいう空気ができてた」
「うん、それはそうだな」義男がうなずく。
「そういう空気の中に、ただポツリと『もうひとつの殺人』を出版してごらんよ。読者のなかには、そうだな、この著者の言うとおり、高井和明は巻き込まれただけかもしれないな≠ニ賛同してくれる人もいるかもしれないけど、今みたいな派手な動きは出てこなかったと思うよ」
「でも、真犯人X生存説≠ヘショックじゃない?話題性はあるわよ」
「刺激的すぎて、キワものっぽいよ。それだけ単独じゃね。証拠はなくても、高井和明の立場は、普通に暮らしてる人たちの普通の感覚では、どう好意的に考えたって怪しいんだ。自発的に栗橋と行動して、自分の車に木村庄司さんの死体を積んで、栗橋と一緒に走らせてたんだからね」
久美は「ううん」と箸を噛む。
「網川の主張は、そういう、漠然としてるけど強固な印象を、根こそぎひっくり返すくらいのインパクトを持ってなくちゃいけなかったんだ。それには下準備が要った。まず、由美子さんがアークホテルで被害者の遺族に直談判しようとする騒ぎを起こして、それが記事になって、彼女の追いつめられた心理状態が報道されて、世間に知られる。これが第一段階。次には、彼女にそんなことをさせるきっかけを作ったのが、栗橋・高井の暗い親友関係と犯罪への道≠ニいうテーマで話題のルポを書いている前畑滋子という新進気鋭の女性ジャーナリストであったということが報道され、また世間はびっくりする。これが第二段階。で、第三段階が、自殺未遂を起こすほどに追いつめられている幼なじみの妹の必死の訴えを聞き、無理解な世間と、取材のルールと取材される側の心さえ踏みにじって平気な顔をしている今のジャーナリズム──この代表が売り出し中の前畑滋子さ──それらすべてにもう黙っていられない!≠ニばかりに正義の剣を振りかざして立ち上がった網川浩一の登場──というわけだよ」
「ふむむ」と、義男が唸った。「なるほど、よくできてるねえ」
水野久美は、しばらくのあいだ、ふつふつと沸き立つ水炊きの鍋を睨んでいたが、やがて湯気ごしに真一の目を見て、ちょっと笑った。「塚田君、名探偵みたいね」
「そりゃどうも、恐縮です」真一はひょいとおじぎをした。
「確かに、なんか筋が通ってる感じがするよね。網川ってイヤな奴。実はあたし、最初から嫌いだった」
久美は莱箸を取って、鍋の中身をかき回した。義男が野菜を足す。
「でもね……こんな美味しい水炊きを食べてるせいかな、寛大な気持ちでもいられるの。ねえ塚田君、網川は確かに塚田君の言うとおり、自分を売り出すために由美子さんを利用してるのかもしれない。だけどね、それでも、彼の主張は主張としてちゃんと聞かなきゃいけないでしょ? 『もうひとつの殺人』に書いてあることは、あたし、けっこううなずけるの。高井和明さんは、鞠子さんたちの誘拐殺人事件に手を染めてはいないと思う。彼は巻き込まれたのよ。気の弱い人だったことは確かでさ、だから巻き込まれて抜け出せなくなっちゃったのよ」
「じゃ、鞠子さんたちを手にかけた真犯人Xは、まだどこかでのうのうとしてると思うのかよ?」
「そうなるわよね」
言ってしまってから、真一と久美は同時に有馬義男の顔を見た。老人は何も言わず、黙って灰汁《 あ く 》をすくっていた。煮汁がすっかりきれいになると、ついでのように言った。
「真犯人Xが本当にいるとしたら、そいつは、網川浩一をどう思っとるだろうね?」
[#改ページ]
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こちらからアクションを起こす必要などなかった。メルバホテルでの不本意な会見の翌朝、網川浩一から電話がかかってきたのだ。最初に電話に出たのは石井良江で、目を丸くして真一に受話器を差し出した。
「網川さんて、あの本を書いた人でしょう? いつ知り合いになったの?」
「いろいろあって」
真一は短く答え、リビングの時計を見た。まだ午前八時にもならない。今日は有馬義男のところでのアルバイトも休みの日なので、寝坊をしていてもよかったのだが、散歩をせがむロッキーに起こされてしまったのだ。しかし、受話器に向かって「おはよう」なんて挨拶をする気にはなれなかった。
「どうしてここの電話番号がわかったんですか?」開口一番、そう尋ねた。
「驚かせたなら謝るよ」網川は低い声で応じた。「ひと言お詫びをしたいと思って電話したんだ。昨日は本当に申し訳なかった」
意識して爽やかな口調になるのを抑えているのか、それとも本当に気が重いのか。真一には計りかねた。
「僕なんかより、有馬さんとあの足立さんておばさんに謝るべきですよ。僕はただの添え物なんだから」
「お二人にも電話したよ。足立さんとは話せたけど、有馬さんは不在だった。こんな朝早くからどこへ出かけているのかな。あの人は家で商売をやってるはずだろう?」
「豆腐屋はたたんじゃったんです。機械から道具から、一切合切を元の従業員に譲っちゃって。だけど長年の習慣だから、有馬さんは凄い早起きなんですよ」
「そうか……店はやめてしまったのか」
いかにも心が傷むというような口振りだ。真一は、洗濯物を山積みにしたカゴをかかえたまま、様子を見るような顔でそばに立っている良江に向かって、大丈失だからというようにうなずきかけた。彼女は仕方ないわねという顔で離れていった。
「とにかく、僕には謝罪なんか必要ないですから。おばさんが心配するんで、こういう電話はかえって迷惑ですし」
「ちょっと待ってくれ、切らないで」網川はあわてて言った。「ほかにも話があるんだ」
ちょっと黙ってから、ゆっくりと続ける。「昨日……君たちが帰ったあと、由美ちゃんの様子がおかしくてね。僕と話もしてくれないし、一人で考え込んでいる」
真一は壁に向かって顔をしかめた。「僕には、あの人の様子はずっとおかしく見えますよ。マスコミにまわりをウロウロされながら、ホテルになんかこもってるのがいけないんだ。あの人の家族はどうしてるんです?」
「母親は、とっくに東京を離れてるよ。どこかの温泉町で仲居してる。入院していた父親も、今はそっちで母親と一緒にいるらしい。彼女一人が置いてけぼりさ」
「お母さんが由美子さんを置いていったんじゃない。あなたがあなたの都合で彼女を引き留めたから、彼女はこっちに残ったんだ。由美子さんだって、今は東京を離れて、ご両親のそばにいるのが一番いいのに」
「親娘そろって傷を舐めあうのかい? そしてどんどん内にこもって追いつめられて、しまいには誰かが自殺する羽目になる」
真一が言い返そうとするのを遮って、
「こんな話を電話でしてたってらちがあかない。これから会えないかな?」
これにはちょっと虚をつかれた。
「僕なんかに会ってどうしようっていうんです? 有馬さんと由美子さんのご対面シーンほどの売りにはなりませんよ」
「大人相手に皮肉を言うもんじゃないよ」網川は冷静な口調だった。真一の方は、自分で口にした言葉で昨日味わった嫌な感情が喚起されて、ちょっと腹が立ってきてしまった。「君は、不幸な事件で家族を亡くした被害者だ。勇敢な|生き残り《サ バ イ バ ー》だ」
石井|善之《よしゆき》に勧められて、PTSDに関して一般向きに易しく書かれた本を何冊か読んでみたことがある。そのなかに「生き残り」という言葉も登場していた。ここでわざとそんな目新しい単語を使うところに、網川の人をたらす[#「たらす」に傍点]手つきが見えるような気がして、真一は腹の底から不愉快になった。だから黙っていた。そうやすやすとあんたなんかに懐柔されるものか。
網川は、真一が何か言うのを期待していたのか、しばらく黙った。が、やがて勝手に続けた。「そういう意味では、由美ちゃんと同じだ。彼女だって被害者なんだよ。それはわかってくれるだろ? だから、彼女の心のケアをしてゆくために、君の助言が必要なんだ。由美ちゃんの心の傷を、君こそがいちばんよく理解できるはずだから」
網川がしゃべっているあいだに、真一は、彼が今さらとってつけたみたいに由美子を口実にして真一と会いたがる理由を推し量ろうと、昨日の喫茶室前での出来事を、大急ぎで思い出していた。あの女性カメラマン──初めて会ったときには、真一の目にも魅力的な女性に映った。彼女とのやりとり。フィルムを渡せと要求したこと。ためらう彼女。
──あんた、いい歳して自分のやってることにも責任持てないのかよ。
──浩一さんに訊いてみなきゃわからないのよ!
真一は目を見開いた。そうか。これだ。
浩一さん[#「浩一さん」に傍点]。女性カメラマンはそう呼んだ。えらく親しげじゃないか。普通なら網川さんと呼ぶべきところだ。せいぜいが網川くんだ。それなのに浩一さん[#「浩一さん」に傍点]ときた。真一に責め立てられて、思わず口にしてしまったのだろう。いつの間にかそばに来ていた由美子が、それを聞いてはっとたじろいだ。女性カメラマンも一瞬だがバツの悪そうな顔をした。その表情を、由美子は、女性だけがそのやり方を知っている因数分解にかけて、二人の関係に疑問を持ったのかもしれない。だから様子がおかしくなった。そういうことじゃないのか?
無論、網川は喫茶室の前の出来事を知らない。だが由美子の様子が変わったのはわかった。だから昨日あそこで何があったのか知りたいのだ。それで真一から聞き出そうとしているのだ。
現在の網川浩一にとって、高井和明が愛《いと》おしんでいたたった一人の妹、彼の無実を信じてやまない悲劇の女性である由美子をがっちりと掴んでおくことは、端から想像するよりも遥かに大切な戦略的意味のあることなのだろう。実際、由美子が網川を頼りにしているということが、どれほどにか彼のイメージアップにつながっているか知れないのだ。高井和明には、一連の犯行に関与していたという動かし難い物証が全くと言っていいほど存在しないから、印象ひとつ、感情問題で世論の風向きなど簡単に変わってしまう。
飯田橋のアークホテルであんな騒動を起こしたおかげで、由美子には、自分勝手で反省のかけらもないヒステリックな女というイメージがついてしまった。が、網川はその後の巧妙な演出で、それを、自力では自身の無実を証明する術を持たない亡き兄のために孤軍奮闘する、健気で勇敢な妹というイメージに塗り替えた。それは見事な手際だった。今となっては、四面楚歌のなか、由美子が兄のために必死になっていることを強調するには、そして、網川がそんな彼女のために戦う戦士であることをアピールするには、むしろ、アークホテルでの騒動があってよかったとさえ思えるくらいだ。
真一のなかに、意地悪な好奇心が湧いてきた。大事な旗印である由美子の機嫌を損ねて、人気者網川浩一が泡をくっている。その顔を見てやるのも悪くない。
「いいですよ。僕はヒマな身の上だから」あっさりとそう言ってやった。「網川さんがどうしてもって言うのなら、会いましょう。ただし、念を押すけど、今度こそ取材は抜きですよ」
「もちろんさ。僕は同じミスを二度繰り返したりしない」網川はきっぱりと言った。「君の家の近くまで行くよ。場所を指定してくれ。どこがいい?」
ちょっと迷ったが、結局真一は大川公園を選んだ。あそこはいわば爆心地《グランド・ゼロ》≠ナあり、今はかえって取材陣も姿を見せなくなっているし、野次馬もいない。
約束は十時だったが、真一は三十分以上早く家を出た。ロッキーを一緒に連れてゆくことにした。良江に、コイツ朝の散歩だけじゃ足りないらしくてうるさいからと、外出の言い訳をするのに都合がよかったし、なんとなく一人で行くよりも心強いような気がしたのだ。
ぐいぐいと引き綱を引っ張るロッキーの元気良い足取りをながめながら、真一の心は現実を離れ、様々な考えや推測や疑惑の雲のなかにさまよい漂った。
動物には不思議な力がある。石井家に来て間もなく、まだ自分の身に降りかかった災厄だけで頭がいっぱいだったころから、いつでも真一は、ロッキーと歩いているときだけは、心の傷が癒される気がした。そのすべすべした毛並みを撫で、冷たい鼻面がふくらはぎをこすり、ロッキーの脚が真一の足の上にぽんとのっかるのを感じると、生き物の血のぬくもりが心に流れ込んで、真一に生きる力を分けてくれるような気がした。そして、今も、行きつ戻りつしながらときどき真一を見上げて楽しそうにしているロッキーを見ていると、カッとなっていた頭が冷えて、少し離れたところからものを考えられるようになってきた。
網川の言うとおり、真一は生存者だ。だがただの生存者じゃない。有責生存者だ。真一の不用意なおしゃべりが、一家皆殺しという犯罪を呼び込んでしまった。それはもう訂正もきかず、言い訳もできない。
今でこそ皆口をつぐんでいるけれど、樋口たちが逮捕されたばかりで、まだ詳細が判明していなかったころ、彼らの情報源が真一のおしゃべりだったという一点のみを取り上げて、真一も犯行に一枚噛んでいたのではないかと疑う人びとがいた。他人や警察関係者ではなく、親族のなかにだ。確かに真一は両親とよくケンカをした。妹もうるさいばかりで煩わしく、口ゲンカのあげく手をあげようとしたことだってあった。思春期の子供がいる家庭なら、ありふれた現象だ。だがそれさえも、真一への疑惑の眼差しを招く理由づけになったのだ。
周囲の目など、そんなものだ。人間は、それが自分の身に降りかかり、否応なしに逃れることができないものでない限り、真実に直面することなどない。自分にとっていちばん居心地がよく、納得がいって気分の良い解釈を真実≠ニして採用するだけだ。真一を疑った人びとは、自分がうっかりおしゃべりしたことが惨事を招くような事もあるのだという怖い可能性に直面するよりも、真一も一味だったという説を採用する方が安心だったのだろう。他愛ないおしゃべりが事件の原因だったという理不尽な現実を否定して、心の底に親と妹に対する凶悪な殺意を抱いていた目立たない少年を現実化する方が、より人生を受け人れやすくなったのだろう。ただ、それだけのことだ。
だが、そのそれだけ≠ェ問題なのだ。網川浩一に対して、今の真一はそれと同じことをやってないだろうか? 確かに真一はあいつが嫌いだ。むしずが走る。あのええカッコしい、目立ちたがりの正義漢面には耐えられない。だけど、だからといって、彼を否定する居心地の良い説を作り上げて、そのなかに座ってしまうのはフェアじゃない。
網川は本当に、由美子に同情し、高井和明の被った汚名に憤慨し、果敢に立ち上がった男なのか。それともただ単に世間に売り出す機会を待っていたジャーナリスト志望の自分勝手な男なのか。
少なくとも最初は、義憤に動かされて始めたことだったのに、急に時の人となり、もてはやされていい気になってしまった──ということだって考えられる。人間なんてみんな弱いものだ。特に、全国津々浦々に名前と顔を知られるなんてことは、そうそう誰の身の上にも起こることじゃない。網川がバランスを崩して、当初の目的を忘れはしないまでも、優先順位をはき違えてしまったとしても、そう激しく責めることはできないかもしれない。
彼が、彼一人が由美子の味方であり、白馬の騎士であるという態度をとりながら、一方で由美子に隠れて他の女性と付き合っていたとしても、もちろんそれは由美子の目からは不実きわまりないことに映るだろうけれど、網川は最初から由美子の恋人として登場しているわけではないのだから、そのことで彼を裏切り者と責める権利は、実は由美子にはないのである。
だが、たったひとつだけ、確かに言えることがある。由美子は自分の足で立つべきだということだ。どれほど辛くても、現実が過酷でも、一度逃げないと決めた以上は、彼女はそれと向き合わねばならない。網川が善意の人でも、有馬義男が闇雲な憎悪に走る人でなくても、由美子はそれに寄りかかってはならない。協力は仰いでも、任せて隠れてしまうことはできない。それだけはやってはならないのだ。
もしも網川が、由美子に対して同情心を持ち、幼なじみの彼の兄への想いもあって活動しているけれど、彼女個人への恋愛感情は持っていないということだったとしたならば、それはそれで仕方がない。そのことを以て網川を責めることは不当だ。確かに彼は由美子を担いでいる。由美子を切実に必要としている。だが、担がれている側の由美子の意志ひとつで、彼に利用されず、彼の協力を勝ち得ることだってできるはずだ。要は、由美子が舵を握ることにある。
大川公園に着いて、約束の東屋《あずまや》のベンチに腰をおろしたときには、真一の腹は決まっていた。網川に対して、率直に質問をぶつけてみよう。あなたは由美子さんをどう思っているのか。そして、由美子さんを傷つけないためには、あなたがまやかしの「白馬の騎士」の座から降りて、根本的に彼女の信頼を勝ち得るためには、まず彼女を自立させることが必要なんだと説得しよう。それこそが、生き残り≠ナある真一のできる、いちばん誠実なアドバイスだ。
真一の膝のすぐ脇に座っていたロッキーが、ひょいと顔をあげた。そちらに目をやると、網川が公園内の散歩道をこちらに向かって歩いてくるところだった。
今日も洒落たいでたちをしている。高そうな革のジャケットだ。サングラスをかけて、ちょっと顎をあげ、滑るように歩いて来る。彼も取材で何度かここを訪れているので、真一の指定した東屋はわかると言っていた。そのせいか、きょろきょろする様子はないが、まだ真一には気づいていない。真一は手をあげて場所を報せようかと思った──
しかし、目は網川を見つめながら、真一の手は、いつの間にかロッキーの引き綱を強く握りしめていた。
心臓がどきどきした。何だろう? なぜだろう、この感情は。かさかさした紙の蛇が、群をなして喉元を駆け上がってくる。むらむらとしたこの反感は、いったいどこから来るものなのだ?
網川は歩いてくる。モデルのように歩いてくる。ああオレはやっぱりコイツを信用できない[#「ああオレはやっぱりコイツを信用できない」に傍点]。闇雲なしかし強烈な直感が真一を打った。理屈も冷静な推論も反省も、いっぺんで消し飛んだ。なぜだ? なぜこんなに嫌な感じがするんだよ?
突然、ロッキーがわん[#「わん」に傍点]! と吠えた。網川が足を止め、こちらを向いた。サングラスを額の上にずらし、まぶしそうな顔をして真一を見た。それから、早足で近づいてきた。
真一はロッキーの首を撫でてやった。おとなしい犬で、今のような吠え方をするのは珍しい。黒目がちの瞳で真一を見上げるロッキーは、もの問いたげな表情を浮かべているみたいに見えた。
「待たせて済まなかったね」
網川は言って、身軽な動作で真一の向かい側に腰掛けた。真一が黙っていると、ロッキーの方に笑顔を向けた。
「いい犬だ。君のペット?」
真一は、内心の動揺が鎮まるまでは網川の目をのぞきたくなかった。網川は手を伸ばし、ロッキーに触ろうとした。真一は反射的に腕を動かしてその手を振り払った。意図した以上に乱暴な動作になった。
網川は目を見開いて、非常に珍しいものを見るみたいに真一の顔を、それから振り払われた自分の手を見た。
「人見知りする犬なんです」真一は短く言い捨てて、ロッキーの首輪を引っ張り、自分の膝のそばに寄せた。「だけど、おばさんをごまかすには、犬の散歩だって言って出てくるしかなくて」
まだ心臓がドキドキしていた。わずかにむかつくような感じもした。どうしてこんなふうになるんだろうという疑問は、網戸にとりつくうるさい羽虫のように、真一の頭の内側をつついている。
網川は微笑した。すぐそこにテレビカメラが待機しているのじゃないかと探したくなるような、非の打ち所のない営業用スマイル。
「僕も子供のころ犬を飼ってた。アーサーっていう名前のジャーマン・シェパードでね。すごく頭が良くて、頼れる犬だった」
懐かしそうな口調だった。
「アーサーと一緒にいると、この世に怖いものなんかないって気がした。僕のいちばんの親友、いちばん仲良しの友達だったんだ」
何気なく、真一は訊いた。「栗橋浩美や高井和明よりも?」
瞬間、網川の顔から表情が消えた。何も表示されないキーを押したみたいに、空白になった。真一は驚いた。たとえ一瞬でも、網川がこんなふうにノーガードの顔をするのは初めてだ。
「そうだよ。犬は特別だからね。特に子供にとっては」網川の顔に笑みが戻った。ミス入力は訂正された。「でも、栗橋もカズも大事な友達だったよ」
「そうでしょうね、当然」今度は意図的に皮肉を込めて、真一は大げさにうなずいてみせた。が、さっきのような効果をあげることはなかった。あれはラッキー・パンチだった。
「出てきてくれてありがとう」と、網川はあらたまったように言った。「君は僕のこと、あまり信用してくれてない。それはわかってるよ。だからこそ、こうして会えてよかった」
「僕はあなたのガールフレンドじゃないから、そういう台詞を吐いても無駄ですよ」
網川は吹き出した。「別に君を丸め込もうってわけじゃないよ。でも、まあいいか」
「由美子さんは今日、どうしているんですか?」
「どうって……ホテルにいる。少し頭が痛いから横になるって」網川は肩をすくめた。
「昨夜《ゆ う べ》からそうなんだ」
「それであなたは、有馬さんや僕が、あの人に何か吹き込んだんじゃないかって疑ってるんですね?」
「吹き込んだって言葉は適当じゃないな」
真一は迷っていた。ついさっきまでの殊勝で客観的な考えと、ほとんど本能に近い嫌悪感のあいだで揺れていた。いろいろ言いたいこともあれば聞き出したいこともあるけれど、何から始めたらいいのか、それもよくわからなかった。自分よりもずっと実力が上の相手と将棋を指しているみたいな感じだった。最初の駒をどこに置いても、完璧な反撃を食いそうな気がした。
そして結局、ひどく短兵急に口にした。「網川さん、恋人はいるんですか?」
網川はさも驚いたというように目をぱちぱちさせた。「なんでまたそんなことを訊くんだい?」
「由美子さんはあなたの恋人ですか」
網川はくちびるを一文字に結ぶと、目を伏せた。
「気をもたせるような、芝居がかったことをしなくたっていいですよ。僕はただ事実を知りたいだけだから」
網川は苦笑した。「君は若いんだなあ。いや、幼いんだね。君こそガールフレンドはいないの?」
「僕の話をしてるんじゃない」
網川は人差し指で鼻の脇をこすると、指を顔にあてたままじっと考え込むように間をおいた。それから、「人を好きになるには、いろんな形があるだろ」と、ゆっくりと言い出した。「恋にもさまざまな色がついてる。濃い色も、薄い色も、形だってとりどりだ。自分では恋だと思っていたものが、実は友情だってこともある。肉親愛に似たものだってこともある。二人の人に、まったく同じ色合いの恋を感じることだってある。そうじゃないか?」
真一は、網川が塾の生徒たちを集めて、こうして一席ぶっている様子を思い浮かべた。だがあいにく、この手の話術にコロリと参るほど、真一はもう子供ではなかった。
「演説はけっこうです」と遮った。「僕はすごく単純な感覚で質問してるんですよ。あなたと由美子さんは、二人でホテルにこもって暮らしている。傍目《はた め 》には恋人同士みたいに見える。常識的にはね」
「部屋は別だよ」
真一は鼻先で笑った。「恋人なんですか? 違うんですか? あなたには由美子さんのほかにも親しい女性がいるでしょう?」
「どうしてそんなことを訊くんだい?」
「由美子さんがあなたを避けて考え込んでるのは、あなたに裏切られたんじゃないかと思ってるからですよ」
真一は女性カメラマンの一件を話した。網川は無表情だったが、女性カメラマンが「浩一さん」と呼ぶのを聞いて由美子が息を呑んだというところでは、わずかだが眉をひそめた。しかし、すぐに笑顔を戻し、ため息をつきながら言った。「なんだ、そんなことだったのか……」
「ナンダはないでしょう。由美子さんはあなたに頼り切りだ。あなたに見捨てられたら独りぼっちだ。あなたにしがみつくのも無理はないです」
「僕のことを浩一さん≠ト呼ぶ女性は、ほかにもいるよ」
「だとしても、由美子さんは、今までそれを目の当たりにしたことがなかったんでしょうよ。あるいは、もともとあなたとあの女性カメラマンの関係を疑ってたのかもしれない。その疑いが裏付けられたので、ショックを受けたのかもしれない」
「僕と彼女は何の特別な関係にもありゃしないよ」
網川は余裕を取り戻した様子で、長い足を組んでベンチにもたれた。
「由美ちゃんが僕を頼ってくれてるのは、よくわかってる」少し仰向いて、呟くように言った。「僕も彼女の信頼に応えたいと思ってるよ。それは真実そう思ってる。でも……」
真一は先回りした。「恋愛感情はない?」
網川は真一を見た。そして、ため息と共に言った。「そうだ、恋愛じゃない。だけど由美ちゃんにはそれがわかってない。彼女は僕のことも、彼女自身の気持ちについても勘違いをしてる。実は、しばらく前から、僕らのあいだで、そのことは問題になりつつあったんだ」
「由美子さんが、あなたと彼女が恋人同士だと思い込んでいるから?」
網川はうなだれた。「……そうだ」
「だけどそれは仕方ない。あなたはずっと、彼女がそう誤解するようにし向けてきたんだから」
網川はゆるゆるとかぶりを振った。「それこそ誤解だ。僕はそんなふうにし向けてはいない」
「そんなの嘘だ」真一は斬りつけるように言った。また頭に血がのぼってきて、喉元がざわざわした。
網川は頭をかしげて、少しばかり悲しそうに真一をながめた。同情するようなその視線の色が、真一は身震いが出そうだった。
「君は、ご家族を失った事件で傷ついてる」網川は滑らかな声で言った。「由美ちゃんと同じだ。考えてごらん。君だって、君の心の傷を癒そうと、献身的に尽くしてくれる医者がそばにいたら、そしてその人が美しい女性だったら、そしたらどうだ? その人を好きになることだってあるんじゃないか? 相手は犠牲者としての君を助けようと手を差し伸べているのであっても、その手のぬくもりを誤解しないと、自信を持って言い切れるかい?」
真一は正面から網川の視線を受け止めた。「あんたは医者じゃない。心を癒す専門家でもない。思い上がるのもいい加減にしろよ」
震える声を抑えるために、真一は歯の隙間から言葉を押し出した。そうしないと、怒りで暴走しそうだった。今や、客観的な見解とやらは、その最後のかけらの一片まで、どこかにすっ飛んで消えてしまった。それではまずい、引き返せと、身体の底の底で、小さなもう一人の真一が、手足をバタバタさせながら忠告しているのがわかるのだけれど、後戻りすることはできなかった。本能は、感情は、あまりにも強力だった。
網川は真一を見つめた。そして、愛おしむように言った。「気の毒に。君にも助けが必要なんだ。今の君は、まるでハリネズミみたいに攻撃的になって──」
真一は拳を握った。光速よりも速く動く脳の映写機は、すでにその拳で網川をぶん殴るシーンを目の底に映し出していた。が、現実には拳は動かなかった。
ロッキーが唸っていた。真一の横で、頭を低くして、背中の筋肉も首の構えも、すぐにも網川に飛びかかることができるように、力を秘めて準備している。
犬には飼い主の思考が伝わる。犬は飼い主の心を読む。相対している男が真一の敵だと、ロッキーは察しているのだ。
真一はゆっくりと拳を開き、ロッキーの首を揉んでやった。網川はその様子を見ていた。賢明にも指一本動かさずにじっとしている。ロッキーの威嚇は、充分な効果があったようだった。
真一は、伏せた目の下から網川の表情をうかがった。犬に気をとられている彼は、真一の方に半ば横顔を見せて、わずかにうつむいている。ほんの数瞬のあいだだが、さっき園内を歩いてくる網川を一方的に観察することができたのと同じように、真一は網川の隙≠見た。
そして、そこから驚くべきものを感じ取った。
網川の瞳のなかには、この状況下ではけっして生まれるはずのない感情が躍っていた。それはそこにあってはならない種類のものだった。だから、ベビーベッドの上の果物ナイフのように、花束のなかのアイスピックのように、それは露骨に目立っていた。
網川は面白がっていた[#「網川は面白がっていた」に傍点]。
真一はそれを、ほとんど手で触れることができるくらいにはっきりと感じた。彼の愉悦を。彼の喜びを。彼の快楽を。
こいつは俺の怒りを[#「こいつは俺の怒りを」に傍点]、俺の混乱を[#「俺の混乱を」に傍点]、俺のぶつける言葉を玩具にして遊んでる[#「俺のぶつける言葉を玩具にして遊んでる」に傍点]。
こいつは、最初から、この状況を期待してここに来たんだ。
「本当にいい犬だ」網川は優しく、なだめるようにロッキーに話しかけた。「塚田君、少なくとも君はまったくの独りぼっちじゃない、こんな心強い味方がいる。安心したよ」
真一は足元がすうっと寒くなるような感覚を覚えた。
こいつは全部計算してるんだ。
目を開いた。ほとんど即座に真一は言った。「やっぱりそうだ。わざとやったんだな。僕の思いすごしなんかじゃない」
網川は怪訝《 け げん》そうな顔をした。「何だって?」
「わざとやったんだ。飯田橋のアークホテルの騒動だよ。あんた、あの日有馬さんたちがそこに集まることを、わざと由美子さんに教えたんだ。そして彼女を焚きつけたんだ。あんたには、ああいう騒動が起こることがわかってた。騒動を起こすために、わざと彼女に教えたんだ」
そうだ。さまざまなことのきっかけになったあの事件は、結局網川のお膳立てに乗せられて起こったことだったのだ。
アークホテルでの騒動が起こる以前は、網川は由美子の付き添いとして、前畑滋子と頻繁に接触していた。あれだって、網川自身がルポを書いて売り出すための下準備だったんだ。事件の捜査状況に関する情報を集め、世論の風向きを観察するためには、話題のルポを書いていた滋子のそばに張り付いているのがいちばん効率がよかっただろう。滋子はああいう開けっぴろげな人で、しかもあんな硬派な仕事をするのは初めてだったから、今振り返ってみるならば、素人の真一の目から見ても、ずいぶんと脇が甘かった。網川はそれを承知で、滋子を情報源として利用して、時期が到来したと見るや、アークホテルの一件をテコにして滋子と由美子を引き離し、囲い込んだ──
そして今や、彼はマスコミの寵児《ちょうじ》だ。
由美子は彼のトリコだ。
彼のまわりはファンでいっぱいだ。
だが、それじゃ足りない。網川は貪欲なのだ。いちばん手強い真一も、有馬義男も、みんなみんな手なずけたい。前畑滋子も自軍に引き込みたい。順番に、手際よく、作戦をたてて、いつかは全員を自分のコントロール下に置きたい。それがこいつの願望なのだ。だから喜んでいやがる。今の真一は暴れ馬だ。乗りこなすまで時間がかかる。だが手強いほど面白い。だからこいつは嬉しくってしょうがないんだ。
それがこいつの正体だ[#「それがこいつの正体だ」に傍点]。
圧倒的な直感の渦に巻かれて、真一はすぐには口もきけなかった。網川はなおも何か言おうとして真一の方に身を乗り出したが、つと目を見開いて、真一の後ろに目をやった。
「君の知り合いかい?」と、視線をそちらに固定したまま尋ねた。
真一は振り返った。そして、東屋の後ろの植え込みの向こうに、樋口めぐみの顔を見つけた。驚きはしなかった。閃光のように襲いかかってきた網川に対する洞察に、ほかの感情など動く余地がなかったのだ。
樋口めぐみは、いつものように恨みがましい目つきで睨んでいた。真一が反応できずにいるうちに、彼女はすたすたとこちらに近づいてきた。真一ではなく、網川の方に歩み寄ってきた。
「あんた、網川浩一って人?」と、彼女は訊いた。真新しいブルーのハーフコートの下から、裾上げしていないジーンズがのぞいている。血色は悪いが、髪はカットしたばかりのようだった。
「ああ、そうだよ」網川は立ち上がりながら返事をした。「君は塚田君の友達?」
樋口めぐみは、真一の方を見もしなかった。「あたしはこいつの敵」と、短く言い放ってから、網川をつくづくと見あげた。「ねえ、あたしあんたに本を書いてほしい。あたしのパパのこと書いてほしいんだ。やってくれる?」
真一は唖然とした。顔を殴られるかと身構えていたら、足元をすくわれたような感じだった。あたしのパパ? パパのことを本に書いてくれだと?
「君は──塚田君の敵?」
網川浩一は、真一と樋口めぐみの顔を見比べた。きわめて真面目な表情を浮かべているが、その目の奥にはまたあの光が躍っていた。面白くなってきたぞ[#「面白くなってきたぞ」に傍点]、こいつは愉快じゃないか[#「こいつは愉快じゃないか」に傍点]。
「ひょっとしたら君は、塚田君のご家族の事件の関係者なのかな?」
「そうよ」樋口めぐみは悪びれる様子もなしにうなずいた。真一の存在など、完全に無視している。「あたしのパパが主犯だったの。樋口秀幸。だけど、あんなことやったのには理由があったのよ。事情があったの。ホントなら、パパは人殺しなんかできる人じゃなかった。そのへんのところを、あなたに本に書いてもらいたいんだ」
「冗談じゃない」真一の口から、やっと言葉が飛び出した。「オレはそんなこと許さないぞ。誰が許すもんか」
「あんたの許可なんか必要ない」樋口めぐみは、真一を無視したまま口先だけで言った。「これはあたしの家族の問題なんだ。どうして、赤の他人のあんたにいちいち許してもらわなきゃなんないのよ?」
赤の他人[#「赤の他人」に傍点]、真一の目の前が真っ赤になった。胸の底から何か熱い血の塊みたいなものが急上昇してきて、それが頭へ昇った。手足の先にも駆け廻《めぐ》った。気がついたら拳を固めて、樋口めぐみに殴りかかっていた。
「やめないか!」
思いがけないほど素早く網川が進み出て、真一を阻み、突き飛ばすようにして樋口めぐみから引き離した。東屋のベンチに尻餅をついた真一は、視界の赤い霞のなかでもがくようにして立ち上がり、再び樋口めぐみに向かっていったが、また突き飛ばされた。網川が、今度は真一の両肩を押さえた。
「暴力はいけない。何の意味もないことだ」
冷静な声でそう言った。真一は息ができなくてあえいでいた。「赤の他人のあんた」という樋口めぐみの言葉と、「暴力はいけない」という網川浩一の言葉が、酸素の代わりに真一の肺の隅々まで入り込んで、内側から真一を食い破ろうとしていた。
「落ち着けよ。彼女を殴ったって何にもならない。いいね?」網川は真一に言い聞かせるような口調になっていた。まるでケンカの仲裁だった。真一はバカみたいにぐるぐる考えていた。これはケンカじゃないのに。オレが悪いわけじゃないのに。殺されたのはオレの家族なのに。殺されたのはオレの人生なのに。それなのに、ケンカを止めるようにして止められる。それなのに、関係のない他人だと言い捨てられる。
網川は真一にぐっと顔を近づけると、場違いな親密さを、共犯者のような親切さをにじませて囁いた。
「このところずっと、僕には警察の警護がついてるんだ。だから、ここで騒ぎを起こさない方がいいぞ。刑事が飛んできて、面倒なことになるよ」
真一はようやく目の焦点を合わせて、網川の顔を見あげた。「警護がついてる?」
網川はうなずいた。「真犯人Xが僕に接触してくるんじゃないかと思ってるんだ。言っておくが、彼らは警戒してるんじゃなくて、期待してるんだよ。僕は囮《おとり》みたいなもんさ。もちろん、このことはおおっぴらにはできない。だってそうだろ? 僕に警護をつけるってことは、捜査当局が公に、僕の説の信憑性の高さを認めたってことになるからね」
真一は急にぐったりと疲れた。何のためにここにいるのか、さっきまで何を話していたのかも、わからなくなってしまった。
「何ごちゃごちゃしゃべってるのよ」樋口めぐみが、首を伸ばしてこちらを窺っている。
「網川さん、あたしの話を聞かないつもり?」
網川は両手で真一の肩をぽんと叩くと、めぐみのそばに近づいた。ジャケットの内ポケットを探ると、名刺を取り出し、彼女に渡した。
「今夜、ここに電話をくれ。日をあらためて、ゆっくりと話をしよう」
樋口めぐみは名刺を受け取ると、にやりと笑った。そして初めて真一の方に目を向けた。そのまま言った。「あたし、あんたに手紙を書いたんだよ。出版社宛に送ったんだ。だけど返事は来なかった」
「手紙は山ほど来るからね」
「そう。だけど今日は運が良かった。一昨日だっけ、あんたテレビで、こいつのこと話してたよね?」と、鼻先で真一を指した。「それ観て、あたし、こいつの後を尾けてたら、いつかはあんたのところにたどりつくかもしれないって思ったんだ。でも、こんなに早く上手く行くとはね」
「もう行きなさい」網川は手を振ってめぐみを追い払った。「少しは塚田君の側に立って考えてごらん。君に尾けまわされて、塚田君がどんな気持ちがするか、想像したことはあるかい?」
樋口めぐみはくるりと踵を返すと、網川の問いかけには返事をしないまま駆け去った。その足取りの軽さに、真一はまた追いかけていって殴ってやりたくなった。だが、足が動かなかった。身体も重かった。何から何まで敗北感にまみれて、ただただこの場から消えていなくなってしまいたかった。
網川は、しばらくのあいだ真一を見おろしていたが、ちょっと声をひそめて言った。「さっき彼女が言ってたテレビ番組、君は観ていないんだね?」
観ていない。そんなものをやっていたこと自体知らなかった。だから黙ってかぶりを振ったが、急にそれだけでは足りない気がして、「あんたの出てるテレビなんて観るもんか」と言ってやった。
網川は落ち着いていた。「観てほしかったな」と、いたわるように言った。「僕には君の気持ちがわかる。君は、ご両親と妹さんを助けられなかったことで自分を責めてる。前畑滋子に付き合って、彼女が闇雲に栗橋浩美とカズを悪者にする手伝いなんかしていたのも、別の犯罪の関係者を糾弾することで、君自身よりももっと悪いヤツらをやっつけることで、少しでも心の重荷を軽くしたいからなんだ。だから君は、冷静に事実に向き合うことができずにいるんだ」
「あんたのご託宣なんか聞きたくもない」
「もちろん、テレビのなかじゃ君の名前は出さなかったよ。だって、悪いのは前畑滋子の方だ。彼女は君のそうした心理を知っていて、利用してたんだからな」
「滋子さんはそんな人じゃない」真一は言ったが、かすれた声しか出せなかった。髪をかきむしり、引っ張ると、その痛みでちょっと気力が戻った。網川を見上げて言った。「樋口秀幸のための本なんか、絶対に書かせないからな」
網川は憐れむように眉を下げて、首を振った。「ジャーナリストを止めることは、誰にもできない」
「あんたなんか、ジャーナリストじゃない」
「じゃあ、何とでも、君の好きなように呼べよ。でも僕は、書きたいものを書く。いいかい、塚田君」
網川は再び真一に顔を近づけた。真一は目を背けた。彼の息が耳にかかった。
「人間は誰でも心に闇を持ってるんだ。犯罪者だけが邪悪なわけじゃない。君だって、僕だって、同じように真っ黒な部分を持って生きてるんだ。そして僕はそれを書くんだ。だから、カズの汚名を晴らすことができたら、次はヒロミのことを書いてやろうと思う。確かに彼は恐ろしいことをやってしまったけれど、それにはそうせずにはいられなかった理由があるはずなんだ。そしてそれを、大勢の人たちが知りたがってる。どうしてかっていったら、みんな、自分のなかに栗橋浩美に似た部分≠ェ隠されてることを知ってるからさ。だから恐ろしいし、だから興味を惹かれるんだ。僕はそこに光を当てたい。そして僕なら、たぶん、前畑滋子よりもずっと上手に、その作業をやってのけることができる」
あんたのその立派な所信表明のなかに、犯罪の犠牲者の占める場所はあるのか──真一がやっと言葉を取り戻し、そう尋ねようと目を上げたときには、網川はいなくなっていた。
武上の名字を思い出すまで、しばらくかかった。名刺をもらっておけばよかったと、真一は強く後悔した。あの日、墨東警察署でたった一度だけ言葉を交わした刑事に、こんな形で会いに行くことになるなんて、思ってもみなかったのだ。
突っ放して考えるならば、栗橋・高井の捜査本部の刑事にすがってみたところで、網川浩一が樋口秀幸についてルポを書くことを止められるわけがない。彼らが接触することを止める足しにさえならない。だが真一は、とにかく誰かにこの憤懣を、この恐怖をぶちまけずにはいられなかったのだ。理屈も順序立てた話の道筋も、強い感情の前には吹っ飛んでしまった。こんなバカな話があるか? こんな不公平なことがあっていいのか? 言い分を聞いてもらえるのは、いつも殺人者の側ばかりなのか? 真犯人Xが接触してくることを期待して、警察は網川に警護をつけてるって? それほどに彼の主張は認められているのか? 捜査本部もとうとう網川に脱帽したっていうのか? 網川浩一は、それほど信頼のおける人物なのかよ?
オレはあいつが信じられない。あいつが嫌いだ。あいつには何かおかしなものを感じる。このほとんど本能的な嫌悪を、どうしてほかの連中は感じないんだ? 先に電話するという器用なことを考えつかなかったので、墨東警察署受付の脇のベンチで長く待たされた。一緒に待たされている人びとは、たぶん交通違反の罰金でも払いに来たのか、補導された子供を引き取りに来たのか、あるいは人を殺したと自首しに来たかしているのだろう。みんな等しく所在なさそうで、ちっとも切迫感がなかった。警察も所詮は役所なのだ。
「君が塚田真一君だね?」
声をかけられて、真一はそちらを見るよりも先にばっと立ち上がり、がっかりした。眼鏡をかけた気の弱そうな若い男が立っている。武上刑事ではない。
「武上さんに会いたいんですけど」早口に言って、首を振った。「困ったことがあったらいつでも相談にこいって言ってくれたんだ」
「うん、わかってるよ」若い刑事はとりなすようにうなずいた。「武上さんは今、ちょっと用があって本庁に戻ってるんだ。連絡してみたら、とりあえず僕が代わりに君に会って話を聞くようにって」
おずおずと、申し訳なさそうな口調だった。
「僕は篠崎といいます。ここの捜査課の者だけど、今は特捜本部の方で、武上さんの下で働いてるんだ。まあ、ここじゃ何だから、こっちへおいでよ」
狭い会議室に案内された。机の隅に、ノートパソコンが一台。スクリーンセーバーが動いていて、その脇にファイルが山積みになっていた。あわてて閉じたものらしく、ページが乱れて表紙からはみ出している。
「座って、座って」篠崎と名乗った刑事はせかせかと椅子を引いて真一に勧め、自分はパソコンのそばに腰をおろした。
「最初に断っておくけど、僕なんかに、完全に武上さんの代理が務まるわけはないからね。ただ君から聞いたことはちゃんとガミさんに伝えるし、僕で答えられることなら答えるよ。で、どうしたんだい?」
あまりにも型どおりの前置きで、真一は全然信頼できないと思った。ニコニコして愛想がいいのは、無能を隠すためだ。こいつじゃダメだ、帰ろう、と思った。
「怪我の方は、もう大丈夫なんだね。傷跡が残らなくてよかったね」
突然言われて、真一は驚いた。「怪我って──」
「あれ、飯田橋のホテルで怪我したの、君だったよね?」
「何で知ってるんですか?」
「僕らだって週刊誌は読むよ。ガミさんの指示で、ワイドショウやニュース番組のチェックもしてるし」ニコニコと、篠崎刑事は言った。「もちろん君の名前は出てなかったけど、ガミさんから聞いてたし。心配してたよ」
「武上さん、何で僕のことなんかをあなたたち部下にしゃべるんだろう」
真一は闇雲に攻撃的な気分になっていた。
「やたらにしゃべってるわけじゃないよ。ただ心配してたというだけだよ」
篠崎刑事はまたおずおずした感じになった。どうも気が弱い。こんな刑事を使ってるから、網川浩一なんかのいいようにされてしまうんだ。
「網川浩一の身辺警護をしてるって、本当ですか?」
篠崎刑事は、頬に微笑のあとを残したまま固まった。
「本当なんですか[#「本当なんですか」に傍点]?」
真一は声を尖らせた。篠崎刑事の口元がぴくりとした。
「そのこと、誰に聞いたんだい?」
「じゃ本当なんですね?」
篠崎刑事は、なぜかしら救いを求めるような目をしてノートパソコンを見た。それから、もごもごと答えた。「本当だよ」
真一はまたぞろ頭が熱くなってくるのを感じた。椅子を引くと、耳障りな音がした。
「帰ります」
「おいおい──」
「バカみたいだ。警察なんかちっともあてにならない」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。どうしてそんなに怒ってるんだい?」
「怒るのが当たり前でしょう? ちっとも捜査が進まないのに、なんであんな奴を特別扱いするんですよ。身辺警護をするってことは、あいつの真犯人X生存説≠ニやらを認めるっていうことでしょう?」
「まあ、そうなるよね」篠崎刑事は目を伏せた。
「本人は得意満面でしたよ。自分は囮みたいなもんだなんて言ってたけど、本心としちゃあなたたちを出し抜いて天下とったような気分なんだ」
「本人がそう言ったのかい?」
「鼻高々でしたよ」
「いや、そうじゃないんだ。本人が自分は囮みたいなもんだ≠チて言ったのかい?」
「言いましたよ。ついさっき、この耳で聞きました」
篠崎刑事は、縁なしの眼鏡の奥で細い目を見開いた。「塚田君は彼に会ったの?」
「呼び出されたんです」
「なんで網川氏が君を呼び出すんだろ」ぱちぱちとまばたきをして、刑事はしげしげと真一の顔を見た。「君たち、昔からの知り合いかい? ひょっとして、君は彼の塾の教え子だったとか」
「冗談じゃない」真一は吐き捨てた。「あいつはただ、探りを入れにきただけです。由美子さんのことでドジ踏んだから」
「由美子さんて、高井由美子さんのことだね?」篠崎刑事の声が跳ね上がった。「彼女に何かあったのかい?」
今度は真一がしげしげと若い刑事の顔を見る番だった。今の口調には、えらく個人的な感情が混じっているような気がしたからだ。
篠崎刑事はあわてたように眼鏡をはずすと、目をそらした。そしてシャツの袖で、凄い勢いでレンズを磨き始めた。
「刑事さん、高井由美子さんのこと知ってるんですか」
「もちろん、知ってるよ。関係者だからね」
「そうじゃなくて、個人的に」
レンズを磨く手を止めて、刑事は目をあげた。眼鏡のない彼の顔は、妙に無防備で子供っぽく見えた。真一と同年代ぐらいに見えた。
「君は前畑滋子さんのルポを手伝っていたんだろう?」
「それほど役に立ってたわけじゃないけど」
真一は答えて、椅子に座り直した。この刑事のことが、ちょっと気になってきた。
「で、高井由美子さんはずっと前畑さんの取材を受けていた。今は網川の元にいる。そのへんの事情は、僕らにはわかってるようでわかってないんだ。その……君が嫌でなかったら、話してもらえないかな」
真一はため息をついた。それはごく自然な反応のようなもので、篠崎刑事に向かってああ面倒だ≠ニあてこすったわけではなかった。しかし刑事はまたあわてた。
「いや、本当にその、嫌でなかったらでいいんだけど」
真一は首を振った。まだ笑顔にはなれなかったけれど、今のため息で身体のこわばりがとれたような感じだった。
「話します。うまく説明できるかどうかわからないけど。僕は頭かっかしてたし、警察の人が言う──なんですか、予断とか偏見とかそういうものも混じってるかもしれない」
「それはかまわないよ」刑事は静かに言った。「一昨日のテレビで、網川氏は、前畑さんについて、かなり一方的なことを言ってたからね。おあいこさ」
前畑滋子とのそもそもの出会いから説明を始めたので、話はけっこう長くなった。篠崎刑事はメモを取りながら聞いていて、時々日付を確認する以外は、質問らしい質問をはさむことはなかった。
感情の高ぶりが戻ってこないように、真一としては極力気をつけたつもりだった。それでも、一人語りが終盤にさしかかり、網川に対する不信感と嫌悪感を語るところに至ると、やっぱり頭が熱くなった。したり顔で樋口めぐみにうなずきかけている彼の顔を思い出すと、胸の奥からふつふつと怒りが湧いてきた。
「いろいろ……あったんだね」
篠崎刑事は鉛筆を置くと、眼鏡をはずして鼻筋を揉んだ。普通は疲れたときにする仕草のはずだが、なぜかしらそんなふうには見えなかった。ふと見ると、刑事の頬は少しばかり紅潮しているのだった。
「実は僕も、一度だけだけど、網川浩一に会ったことがあるんだ」と、篠崎刑事は言い出した。
「取り調べとか、事情聴取とかで?」
刑事は苦笑した。「いいや。そんな立場でじゃない。あのね、話が前後して悪いんだけど、僕らのポジションを説明しておくと、デスク係と言って、書類仕事の担当なんだ。ガミさん──武上さんはこの部門のエキスパートで、僕ら所轄者はいろいろ教えてもらいながら仕事をしてる」
つまりは、捜査担当ではないのだという。
「あくまで後方支援なんだ。もちろん、僕らは提出される捜査資料を全部扱うわけだから、それらを概観して個人的な意見を持つことだってあるけど、よっぽどの特殊なケースでない限り、それを捜査会議で発表するような立場にはない。取り調べも聞き込みもしない」
真一はひどくがっかりした。「武上さんも同じなんですね?」
「そうだよ。あの人は、一警察官としては、捜査本部の出している公式見解を支持するしかない立場なんだ」
それから、あわてて言い添えた。
「ただガミさんはベテランだから、僕らと違って影響力はある。現に、網川浩一に身辺警護をつけるよう、本部に進言したのはガミさんだから」
これはかえって逆効果だった。なんだ、頼みの綱と思って訪ねてきたのに、その武上刑事が、一番の網川浩一信者だったのか。
真一の顔に浮かんだ落胆と怒りの色を、篠崎刑事は黙って観察していた。それから、ゆっくりと言い出した。
「君は、だいぶ混乱してるよね」
「混乱?」
「うん。君の腹立ちはよくわかる。網川が君の目の前で、樋口めぐみの申し出を受け入れるような態度をとったのは、無神経を通り越して残酷でさえあるよ。でも、その件と、今ここの本部で扱っている連続殺人に対する彼の関わり方の問題とは、厳密に分けて考えないとね」
真一は黙って若い刑事の小作りな顔を見た。彼はパソコンの方を向いていた。
「僕も、網川は嫌いだ。信頼できない人間だと思う」篠崎刑事は、ためらいも見せずに言い切った。「おそろしく自己中心的な人間だとも思う」
「『もうひとつの殺人』を書いたのも、由美子さんの味方をしているのも、結局は売名行為に過ぎないという意味ですか?」
ちょっと言葉を選ぶように間をおいてから、刑事は首を振った。「売名行為──ではないと思う。正直言って、あれがこれほど話題を呼んで、現在のように、マスコミがこぞって彼の味方をして、一気に持ち上げてくれるなんてことまでは、彼も予想してなかったんじゃないかな。もちろん話題になることは期待してたろうけど、ここまでとはね」
「一気に有名人になりましたからね」
「うん」篠崎刑事は眼鏡をかけなおした。フレームが光った。「その嬉しい計算違いが、さすがにきいてきてるのかな。彼もちやほやされて浮かれて、脇が甘くなってるね」
「どういう意味です?」
刑事は真一にちょっと笑いかけた。「だってそうだろう? ここで君を傷つけて怒らせるなんて、本当はしちゃいけないことなんだ。あまつさえ、彼は次は栗橋浩美のことを本に書くとまで言った──。そりゃ、いずれは書くだろうさ。書かなきゃならない。だって、『もうひとつの殺人』の読者は、みんなそれを期待してる。彼は栗橋の幼なじみでもあるんだからね。でもね、それは公的にこの事件が終結して、栗橋浩美と高井和明が殺人者としての黒い認定を受けて、社会がそれをすっきりと受け入れて、一段落してからのことだよ。今はまだ早すぎる。網川浩一が世論の後押しを受けているのは、あくまでも、知られざるもうひとりの犠牲者≠ナある疑いが濃厚な高井和明の弁護に立ち上がったからであって、事件全体の分析が面白かったからじゃないんだ。それをはき違えたら、彼なんか一夜のうちに、今の人気者の立場を失うことになるだろうね」
「じゃ、僕の家族についての本も──」
「すぐに書いたら減点だよ。この事件が終息しないうちは、ほかの何をやっても減点なんだ。だって彼は、高井和明と由美子さんのために戦う正義の戦士なんだからね。戦いを終わらせないうちに、よそ見するなんてダメだ。それぐらいのこと、あれだけ頭のいい男なんだ、わかってるだろうに」
篠崎刑事は、一瞬だけちょっと怖い目をした。真一は驚いた。頼りなさそうなこの若い刑事が、その瞬間だけ豹変したように見えたからである。それとも、刑事という職業を選ぶ人間は、一見どんなおとなしそうな人でも、みんなこういう目をどこかに隠し持っているのだろうか。
「浮かれてるんだ[#「浮かれてるんだ」に傍点]」と、篠崎刑事はもう一度言った。「君にそんなことをペラペラしゃべるなんて。願わくば彼が、出演しているニュースショウのなかででも、同じような発言をポロッとしてくれればいいんだけどな。反発を受ければ、彼だって慌てるだろ? 今必要なのは、彼を慌てさせることだと思うんだ」
真一は、ざわっと心が騒ぐのを感じた。何か──何か真一の知らない、世間も知らない、網川浩一も知らないことを、捜査本部は考えているのではないのか
「刑事さんはさっき、網川浩一は売名が目的で活動してるんじゃないって言いましたよね? ここまでハイスピードで話題になるとは期待してなかったって」
「うん。そう思うよ」
「だったら彼は、何が目的だったのかな?」
篠崎刑事はゆっくりと目をしばたたくと、パソコンの方に、まるでそれが生きた会話の対象で、彼の言葉に賛同してくれるものであると信じ切っているような親しげな眼差しを向けて、静かに言った。
「彼の目的は──状況を仕切ること。それだけだったんじゃないかな」
「状況を仕切る[#「状況を仕切る」に傍点]?」
「うん。舞台の演出家になること。あくまでも彼が中心で、この一連の事件が動くこと。彼がすべてを掌握していると実感すること。彼だけが知っていることを世間に知らしめること。何度も言うように、人気もお金も、それの副産物だよね」
真一には抽象的に過ぎる答だった。すべてを掌握するって、どういうことだ?
「僕には、なんかよくわからない」
「わからなくて当然だよ。僕らだって、実はまだよくわからない。だからこそ、網川浩一を観察してるんだから」
篠崎刑事は言って、微笑した。
「ごめんよ、奥歯にもののはさまったようなことしか話せなくて。だけど、最初の話に戻るけど、網川が君のご家族の事件について本を書くという企てね、それについては心配しなくていいよ。そんなことはさせないから。それは──あってはならないことだから」
静かだが、意気込んだ口調だった。真一は、ひどく宙ぶらりんな慰められ方をしたみたいで、かえって落ち着かなくなってしまった。それでも、いかにも話はもう済んだという感じで刑事が立ち上がったので、つられて椅子を引いた。なんとか話をつなげたくて、大急ぎで考え、思いついた。
「篠崎さん、さっき一度だけ網川と会ったことがあるって言ったでしょう? どこで会ったんですか?」
篠崎はみるみる狼狽して、眼鏡が鼻筋からずれた。これには真一もかえって慌てた。「あの、オレそんなにおかしなことを訊きましたか?」
「いや、そんなことじゃないけど」
「ただその、もしかして刑事さん由美子さんの知り合いかなんかなのかなと思って。知ってるでしょうけど、彼女は今ずっと網川と一緒にいるから」
「ホテルにこもってるんだよね?」
「ええ。今でも由美子さんから事情聴取したりすることがあるんですか?」
「このところはずっと無いよ。家族に確認しなくちゃならないような種類の新事実が出てきてないし……。だからご両親が東京を離れるときも、こちらとしては止めなかった」
真一はややためらいを感じたが、思い切って言った。「由美子さんは、今あんまり良い状態じゃないです」
篠崎刑事は、狼狽よりも心配の色を濃くして顔を翳《かげ》らせた。「良い状態じゃない?」
「ええ。網川はあんなふうに人気者になって、忙しく飛び歩いてて、それは必ずしも由美子さんのためだけじゃなくて」ぼやかすのが面倒くさくなって、言ってしまった。「つまり、網川のまわりには女性が寄ってくるでしょ? あいつだって悪い気はしないでしょ。どうしても、由美子さんのことはほったらかしになるんです」
「彼女、ひとりぼっちの気分なんだね」
篠崎刑事は少女小説のような言い回しをした。だが、それは真一によく伝わった。
「そうか……」若い刑事はため息をついた。
「ただそれは、僕らがすぐにどうこうしてあげられることじゃない。できたら、君とかが力になってあげてもらえると嬉しいけど──君は彼女とぶつかってるからダメかな」
その口調はあまりにも悲しげなので、真一はまた考えてしまった。警察は、高井由美子にとって、さらに良くない事実をつかんでいるのじゃないか。今はまだそれを隠しているけれど、やがては公にすることは決まっており、だから由美子の心中を察して、こんな悲壮な顔になるのではないのか。
「刑事さんは、オレなんかには言えないこと、いっぱい抱えてるんだな」
真一の探るような問いに、篠崎刑事は力弱く笑っただけだった。
「ガミさんが戻ったら、きっと君に電話すると思うよ」
「でも、篠崎さんと同じようなことしか教えてくれないんでしょう?」
「それはどうか、わからない」刑事は真顔で首を振った。「でもね、僕らみんな、おそろしく真剣に取り組んでいるんだ。こんな事件、前代未聞だからね。二度とあってはならない種類の事件だからね。僕ら捜査する側も、人間というものに対する考え方を変えなくちゃならないほどの事件なんだから」
過去にも女性を狙った連続殺人は起こっている。人の命を紙屑のように扱う犯罪者だって存在している。確かに今度の事件は恐ろしいけれど、なぜ篠崎刑事はこんなに力むのだろう? 真一の心に、その疑問は引っかかった。棘《とげ》のように刺さった。そして初めて──大川公園で右腕を発見したときにも感じなかったような──深いところから来る悪寒に震えた。
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東京の自宅に戻るとき、昭二はまだ怒ってるかな、今度はあたしの方から謝らなくちゃと、前畑滋子は考えていた。やはり飛び出したことには反省していたし、頭もだいぶ冷えて、また前向きに取材に取り組む姿勢を取り戻していたからだ。とにかく、昭二とは素早く仲直りをして、高井由美子と連絡をとろう。彼女にはできるだけ早く会った方がいい。あの留守電のメッセージが気になる。
しかし、アパートのドアを開けるなり、そんな計画や段取りは吹っ飛んだ。
「どの面さげてノコノコ帰ってきたんだ」
それが昭二の第一声だった。滋子は、顔から音をたてて血が引くような気がした。昭二の形相が変わっているのが、すぐにわかったからである。
「ちゃんとメモを残して出かけたでしょう。取材だって書いておいたでしょう」
滋子はひるんだふりを見せないようにぐいと顎を引き、できるだけ冷静に穏やかに、昭二の目を見て答えた。
「喧嘩したまま出かけてしまったのは悪かったわ。だけど、あのままここで顔をつきあわせていたって、結局気まずいだけだと思ったの。それに、急ぎの取材があったことも事実だし」
ウソつき、本当はあてもなく飛び出したくせに……と、内心の声が揶揄《 や ゆ 》する。滋子はその声を身体の底へ追い返した。
「あたしの仕事の状況は、あなただって理解してくれてるはずでしょ? 今回に限って、どうしてそんなに怒るの?」
昭二は作業着姿で、箪笥《たん す 》の前にいた。何をしているところだったのだろうと、滋子はいぶかった。だいいち、普段ならまだ工場にいる時間帯だ。
「工場のほうはいいの?」
昭二は何も言わず、口をへの字に曲げて、その場に仁王立ちになったまま滋子を睨みつけている。その顔は蒼白で、心なしかやつれたようにさえ見える。あたしが書き置きを残して飛び出したことが、そんなにもこの人には衝撃的なことだったのかしら?
昭二はようやく口を開いて、しゃがれた声を出した。「親父が倒れたんだ」
「いつ? どうしたの?」
「おまえが飛び出して──一時間ぐらい後だった。頭が痛いって言い出して、先に家に帰ったんだ。それからしばらくして、おふくろが親父の様子がおかしい、眠ったまんま、揺り起こしても起きないって知らせにきて、それで救急車を呼んだんだ」
激しているのか、昭二は喉をつまらせた。
「脳卒中だって。ずっと意識が戻らないんだ。病院の先生は、助かる見込みは五分五分だって言ってる」舅《しゅうと》は高血圧で、かかりつけの医者からずっと降圧剤を処方してもらっていた。だが、昔気質の人の常で、すぐに薬を飲むのをサボり、家族がそれを咎めるとなんだかんだ理屈を並べたり、逆に怒ってしまったりするのでいつも手を焼かされていた。おまけに、どれほど医者に厳しく指導されても酒をやめなかった。
真っ先にそれが頭に浮かんだ。滋子も驚いて動転していたから、浮かんだ言葉を吟味する余裕もなく、口に出してしまった。
「また降圧剤を飲んでなかったのね、そうなんでしょ?」
とたんに、昭二の両目がつり上がった。一瞬、滋子には鬼のような顔に見えた。
「だから自業自得だっていうのか?」怒りのあまり語尾を震わせて、彼は怒鳴った。「倒れて死にかけてるのは本人の責任だっていうのかよ?」
昭二の勢いに、滋子は半歩後ずさった。「そんな意味で言ったんじゃないわよ」
「じゃあどんな意味なんだよ? 言ってみろよ。説明してくれよ」
「そんなに怒鳴らないでよ! どうかしてるわよ昭二さん」
昭二はいきなり箪笥の引き出しをけっ飛ばした。「親父が死にかけてるのに、どうもしないでいられるわけねえだろうが!」
両肩をいからせ、拳を握りしめ、息を切らしている。滋子は両手で胸を抱いた。心臓が飛び跳ねている。今何か言ったり身動きしたりしたら、きっと殴られる──と思った。
悲しいより恐ろしかった。昭二がまったく見知らぬ他人のように見えた。見慣れたはずのアパートの室内でさえ、他人の家のように見えた。
回れ右をして逃げ出したくなった。
「昭二、タオルはあったかい?」
背後で声がした。振り返ると、姑がドアのところからのぞきこんでいた。滋子と目があうと、充血したその目が大きく見開かれ、口元が歪んだ。
「あれまあ」さもさも驚いたという声を出す。「あんたも、いたんだね」
帰ってた[#「帰ってた」に傍点]という言葉を、わざと避けたようだった。わざわざ「いた」という言葉を選んだように聞こえた。この状況にもかかわらず、姑は余裕《 よ ゆう》|綽々《しゃくしゃく》のように見えた。それも当然だろう。なにしろ圧倒的に有利なのだ。
これまでには、二人が揃って滋子に辛くあたるようなことはなかった。滋子が姑に嫌味を言われたり叱られたりすると、昭二は必ずかばってくれた。そして自分たちが夫婦喧嘩をしても、それを母親のところへ持ち込んで愚痴るようなことはなかった。たまさか、滋子と昭二が口喧嘩をしているのを姑が聞きつけて、これ幸いと割り込んでこようとすると、昭二はきまって矛をおさめて、母さんには関係ないことなんだからと姑を牽制し、そのまま喧嘩そのものをやめてしまうのだった。
だが、今は違う。しかも、何よりも腹立たしいのは、こんな状況を招いたのが、滋子自身だということだった。
「お義父さんのことは、今聞きました」姑に向かい、滋子はできるだけやわらかく言った。「仕事で家を空けていて、すぐに連絡がつかなくて申し訳ありませんでした。これから病院に行くんですね? 一緒に──」
滋子の言葉を肘で押しのけるようにして、顔はそっぽを向いたまま、姑は言った。「あんたには、もう用はないよ」
滋子は口をつぐんで姑を見つめた。姑は横目で滋子を睨むと、勝ち誇ったように言い捨てた。「黙って出かけて、二日も三日も勝手にほっつき歩いて、ハイ帰ってきましたもないもんだ。まったく、どこまで図々しいんだろう」
滋子は懸命に努力して、やわらかい口調を保った。「怒るのは当然ですけどお義母さん、わたしだって、お義父さんが倒れたのを知っていたら、出かけたりしませんでした。タイミングも悪かったんです」
昭二は箪笥からタオルや衣類を取り出して風呂敷に包んでいる。病院に持ってゆくのだろう。滋子は半分そちらに気をとられながら、「とにかく、わたしもお義父さんのことは心配です。一緒に病院へ行かせてください」
突然、手を休めないまま昭二が言った。「そんな口先ばっかりのことなんか、もう言わなくていいよ。無理するなよ」
滋子は立ちすくんだ。「何ですって?」
「無理するなって言ってるんだよ」昭二は風呂敷包みを持って立ち上がった。「おまえは仕事の方が大事なんだろ? 仕事仲間とのお付き合いの方が楽しいんだろ? だったらそっちを優先しろよ。もううちになんかいなくたっていいよ」
姑が尻馬に乗る。「そうだよ、あんたなんかもう縁切りだ、嫁でも姑でもないね」
「母さん、行こう」
昭二は姑の腕をとってドアを開けた。二人で滋子に背中を向けて、今にも出ていこうとしている。
「ちょっと待ってよ! こんなのひどいわ」
滋子が叫ぶと、昭二は背中を向けたまま足を止めた。そして姑に風呂敷包みを渡すと、先に行っててよと短く言い、廊下へ押しやった。そしてバタンとドアを閉めた。
喉が詰まってしまって、滋子はすぐには何も言えなかった。昭二もじっと固まっている。
「本当に出て行けっていうの?」
やっとそう尋ねると、急に泣けてきそうになって、滋子はうつむいた。
昭二は振り返り、ひどく疲れたような目をして滋子を見た。実際、彼はくたびれているのだろう。ずっと病院に詰めていて、眠っていないのかもしれない。
「もう無理だよ」と、彼は小声で言った。「さっき、滋子、タイミングが悪かったって言ったよな?」
「ええ、言ったわよ」
「自分がいないあいだに親父が倒れるなんて間が悪いって意味だろ?」
「そうよ、それ以外のどんな意味がある?」
昭二は両肩を落としてため息をついた。「おまえ、それしか思いつかなかったのか?」
「どういうこと?」
「そんなこと思いつく前に、留守にしていてスミマセンでしたって思わなかったのかよ。大変でしたねって、思わなかったのかよ。申し訳ないって思わなかったのかよ」
「だって……だからタイミングが悪かったって言ったのよ」
確かに滋子は何も知らず、家族に迷惑をかけたかもしれない。だが、遊んでいたわけではないのだ。仕事を持っていれば、たとえばそれがルポライターのような職種ではなくても、ときにはこういう間の悪いことだって起こり得る。それなのに、なぜ真っ先に謝らなくてはならないのだ? 悪いことをしたわけではないのに。
「あたしは仕事を持ってるの。そっちだって無責任なことはできないの」
「家族に迷惑をかけてもか?」
「留守にしてたのは申し訳なかったわ。だからこれからその分一生懸命手伝うって言ってるの。どうしてそれじゃいけないの?」
昭二はゆるゆると首を振った。「それじゃダメなんだよ」
「何がダメなのよ!」
「俺なんかは頭が古いのかもしれない。だけどな滋子。俺はやっぱり、自分の女房には家族を第一に考えてほしいんだよ。自分がいないときに家族が病気になって、それを申し訳ないとも思わないで、仕事があるんだからしょうがないでしょっていうような女には、俺はやっぱり辛抱できないんだ」
滋子はしばらく昭二の顔を見つめていた。彼は目をそらしていた。
「昭二さん。だけどそんなの、最初からわかっていたことじゃない?」
あたしは結婚前からこの仕事をしていた。あなたはずっとあたしの仕事を応援してくれていた。そうじゃないの?
「あたしのルポが評判になったときには、あなた友達に自慢してたじゃないの。うちの女房は凄いんだって。そうだったわよね?」
滋子は一歩昭二に近づいた。
「だけどね、こんな仕事をしてたら、いいことばっかりじゃないのよ。今度みたいなことだってあるのよ。社会に評価されるような結果を出そうと思ったら、犠牲にしなくちゃならないことだってあるの。あなたの自慢の仕事のできるルポライターでありながら、妻としても嫁としても満点をもらうなんてこと、あたしにはできないわ」
「だから、もう無理だと言ってるんだよ」
冷たいというよりも、平坦な口調だった。
「俺たち、もう一緒にやってはいけないよ」別れよう──ということなのだ。滋子は、ようやくレンズの焦点があったような気がした。昭二は別れようと言っているのだ。
「あなたは」自分を落ち着かせるために、必死で指を握りしめた。「離婚だなんて大事なことを、こんな短いあいだに決めてしまうの? たったこれだけのトラブルで、結論を出してしまうの?」
「俺は、今度のことを、たったこれだけのトラブルだなんて思わない。すごく大事なことだったと思う」
「お義父さんが倒れたとき、あたしが家にいなかった。それがそんなに大事《おおごと》? 人生を変えるほどの大事件?」
「そうだよ」昭二は静かに答えた。「俺にとってはそうだ」
堂々巡りになる──滋子はそう思って、唇を噛んで言葉をこらえた。あたしは仕事を持ってるのよ! こういうことだってあり得るって、最初からわかっていたじゃない!
「滋子、おまえ、出先から電話一本寄越さなかったよな? だから、親父が倒れたこともわからなかった」
罪状を読みあげられてるみたい──と、滋子は思った。流刑になる前に。
「俺が問題にしてるのは、おまえが居なかったことじゃない。出かけたきり、家族のことなんかまったく省みようとしないおまえの気持ちが問題だって言ってるんだ。いくら忙しかったって、家の方で変わったことはないかって電話かけるぐらい、ほんの一分もあればできることじゃないか」
「喧嘩してたから、電話しにくかったのよ」
「そういう問題じゃない」
昭二はもう結論を出しているのだ。滋子は凍るような思いで悟った。
「おまえだって、自分で自分の本音に気づいてないだけだよ。家のことが気にならないっていうのは、今のおまえなら当然なんだ。外の社会の方が面白いし、おまえにふさわしいんだもんな」
滋子は目をあげた。「ふさわしい?」
「うん」昭二は子供のようにうなずいた。「俺なんか頭バカで、工業高校だってやっと出られただけだ。親父もおふくろも教養なんてかけらもない。おまえのやってることにはついていかれないし、おまえの足を引っ張るようなことばっかりやってる」
「そんなことないわよ」
昭二はふと笑った。「おまえの活躍を喜んでたからか?」
「そうよ、応援してくれてたじゃない」
「なんだかよくわからなかったけど、みんなが騒いでるから凄いんだと思ってただけだよ。親父やおふくろや工場のみんなはそうだ。テレビに出てる、雑誌に載ってる、凄いなあ、有名人じゃないか、金だって儲かるんだろ? そんなレベルだよ」
俺だって大差ないよと、昭二は呟いた。
「俺には──俺にはついていかれないような立派な仕事をやろうとしてる女房より、頭は悪くても教育はなくても、家族の誰かが病気のときにはつききりで看病してくれるような、そんな優しい女房の方がよかったんだ。そういう意味では、俺が間違ってたんだ。よく考えないで、滋子に向かってきれい事ばっかり言ってきた。応援するから頑張れなんて安請け合いしてきた。それ、間違ってたんだ」
だから滋子が悪いんじゃないよと、小さく付け加えた。
滋子には何も言えなかった。こんなふうに言われたら、何も言い返せなかった。仕事をやめて家庭に入ります、優しくてよく気のつく妻になりますなんて、言えるはずがない。「そのこと、ずっと感じてたの?」やっとそう訊いた。「昨日今日始まったことじゃないでしょ」
ちょっとためらってから、昭二はうなずいた。「うん、そうだね」
「どうして早く言ってくれなかったの?」
「俺も──自分が変われるんじゃないかって思ってたんだ。変わらなきゃいけないって思ってたんだ。滋子を応援するって約束したんだから、その約束を守れるようにならなきゃいけないって思ってたんだ」
滋子は目に涙がにじんでくるのを感じた。「ありがとう」
「お礼なんか言うなよ」昭二も初めて泣き声になった。「結局ダメだったんだから。親父が倒れて大騒ぎになったとき、俺、痛感したんだ。ああ俺にはもう自分をごまかせない、これ以上、滋子の生き方に合わせることはできないって」
滋子はゆっくりうなずいた。気持ちはおさまらなくても、理屈は通っている。昭二はただただ感情的になっているわけじゃない。
「滋子、このまえ言ってたよな」優しい声で、昭二は言った。「俺がさ、どうして犯罪のルポを書くのかって訊いたら、それが人間のなかにある闇をのぞくことになるからだって。その闇を理解することにつながるからだって」
ずいぶんカッコいいことを言ったものだ。滋子は苦笑混じりにうなずいた。「うん、そんなようなこと、言ったね」
「俺はさ、その答え聞いて、滋子は凄いな、俺にはかなわないって思ったよ」
だけど俺はさ──と、小さく呟いた。
「人間の心の闇のことなんかわからなくていい、頭が軽くてもいい、俺と同じように家族や人生のことを考えてくれる、優しい世話女房がほしかったんだ。それが俺の本音だったんだ。自分でも、やっとわかった」
滋子は黙ったまま、何度も何度もうなずいた。ごめんよと、囁くように言って、昭二はドアを開けて出ていった。
滋子は荷物をまとめ始めた。
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──はい、足立印刷です。
──もしもし? そちらは足立さんですよね?
──そうですが。
──ひょっとすると君は増本君?
──自分は増本ですけれども……。
──よかった。僕は網川浩一です。
──ああ。どうも。
──日曜日はわざわざご足労いただいてしまって。それに、嫌な思いもさせて、申し訳ありませんでした。
──あれ、そんな、僕はいいんスよ、そんなこと。
──足立さんも気を悪くしてはおられなかったかな?
──大丈夫です。おかみさんは、そういう人じゃないですから。気を悪くなんて。
──よかった。足立さんの証言は、ちゃんと次の本のなかで使わせていただくよ。もちろん、テレビでも。カズの人となりを証明する、大事な証言だからね。
──はあ。おかみさんに用ですか? 今、うちも昼休みで、おかみさん買い物に行ってるんですけども。
──いや、いいんだ。実はおかみさんじゃなくて、君に用があって電話したんだよ。
──は? 僕に?
──うん。増本君、今は一人かい? 誰かそばにいる?
──いいえ。社長は銀行に行ってますから。
──そうか、じゃあますます都合がいい。ねえ増本君、君に頼みがあるんだ。聞いてもらえるかな。
──何でしょう?
──電話じゃ話せない。会えないかな? 今夜でも?
──いやー、それはちょっと。うちも今忙しくて、社長と二人ですから、夜なべしてるくらいですから。
──この不景気に、けっこうなことだね。じゃ、明日は?
──やあ、でも……あの……どういう用ですか? 電話じゃ言えないなんて……。
──うん。大事なことだからさ。
──どんなことでしょう?
──だから電話じゃしゃべれないんだ。君だって立派な社会人なんだから、察してくれてもいいじゃないか。顔を見ないと話せないようなことなんだよ。
──それでも……オレちょっと……そういうことは苦手で。
──困ったなぁ。子供みたいだ。
──すみません。
──あのね、何も難しいことじゃないんだよ。君に手伝ってほしいだけなんだ。
──そりゃ、無理です。オレ、物書きの人の手伝いなんかできませんから。
──そうじゃないんだ。原稿を書いてくれなんて言ってないよ。ただちょっとね。
──ちょっと、何ですか。
──僕に電話をかけてほしいんだ。明日ね、昼間のワイドショウに出るからさ。
──番組に電話するんですか?
──うん。僕を脅すような、そういうことを言ってほしいんだ。内容は僕が考えるから。君はただテレビ局に電話して、それを読むだけでいいんだよ。
──脅すって……。
──知ってるだろ? 警察は僕の説を黙殺してる。いくら真犯人Xはほかにいるって訴えても、聞こえないふりをしてるんだ。だからさ、連中の目を覚ますためには、真犯人Xが本当に僕に電話をしてきたりすると、すごく効果的なんだよね。
──よくわからないんですけども。
──だからさ、君が真犯人Xのふりをして、テレビ局に電話してくれればいいんだ。簡単なことだろ? 電話なんだからさ。どこか、そこから離れた場所の公衆電話からかけてくれればいいんだ。できるだけ都心がいいな。ボイスチェンジャーもちゃんと用意するからさ。
──それはでも、警察やテレビの人を騙すことでしょう?
──そうだけど、でも、警察に本腰入れて真犯人Xを探してもらうために、敢えてやることなんだよ。ただ騙すわけじゃない。ちょっとした芝居をうつんだ。パフォーマンスさ。
──でも、やっぱりそれはインチキですよ。
──違うよ、君は頭が悪いわけじゃないんだから、わかるはずだ。
──オレは頭悪いけど、でもやっぱりそれはインチキだってわかりますよ。
──なんだよ、がっかりさせるなぁ。君は、おかみさんの意見に賛成じゃないのか? 僕に協力しないってことは、つまりはおかみさんに反対することになるんだぞ。
──そうは思えないです。オレは中学を出てからずっとここでお世話になってるから、社長のこともおかみさんのことも、よくわかってます。おかみさんは、曲がったことは嫌いです。人を騙すなんて、とんでもないって言いますよ。
──目的があるからやることなのに。
──駄目なものは駄目です。
──残念だよ、君に期待してたのに。君も僕と一緒に働いてくれる人だと見込んでいたのに。
──もう切りますから。
──わかったよ。だけど増本君、このことは、おかみさんにはしゃべっちゃいけないよ。余計な心配をかけるからね。
──そんじゃ。
[#ここで字下げ終わり]
電話は切れた。網川浩一は携帯電話を握りしめ、「クソ!」と吐き捨てた。
「あのバカ、脳味噌なんか空っぽのくせに、なんで素直に俺の言うことを聞かないんだ?」
有限会社足立印刷では、今そこに置いたばかりの受話器を見つめて、増本青年が考えこんでいた。
日曜日のメルバホテルでの話し合いは、いろいろゴタゴタもあったけれど、良いことだったと彼は思っていた。何より、おかみさんが胸の内を吐き出すことができてよかった。おかみさんの知っている高井和明という青年は、けっしてあんな恐ろしいことのできる人間ではなかった。それを思う存分話して、聞いてもらうことができてよかった。
それに、あの子は頭がいい。あの子──塚田真一と言ったっけ。高井和明の声が、悩み相談室とかそんなところに、録音されているかもしれないという意見。あれには驚いた。今まで誰も、テレビでも新聞でも、そんなことを思いついた人はいなかった。少なくとも、増本青年が知っている範囲内では。
あの提案は優れている。放っておいたらもったいない。だから、社長とおかみさんに相談して警察に行こうかと、あれ以来、増本青年はずっと考えていた。捜査本部では、ずっと市民からの情報を求めている。きっと聞いてくれるだろう。もちろん、自分の意見だとして持ち込むのではなく、ちゃんと塚田君の考えだということも言って、相談するのだ。警察なら、あっちこっちの相談所とかを調べて、もしかしたら本当に、高井和明の声を発見することができるかもしれないじゃないか。
だけど今、うちは本当に忙しい。これも、社長がどんなときでも真面目に商売をしてきたから、景気に左右されない手堅いお得意がたくさんいるからだ。こんなときに、余計な手間を増やして社長とおかみさんを煩わせるのは気が引ける。
「ただいま」
足立社長が銀行から帰ってきた。
「三間工務店からの支払い、ちゃんと入ってたよ」
「ああ、よかったですね。ご苦労様です」
「昼飯、食ったか?」
「はい。社長の分はとってあります」
「そんじゃ、急いでかっ食らうとするか」
笑いながら事務室へ入ってきた社長の顔を、増本君はじっと見つめた。話そうか、話すまいか。
それに、今のおかしな電話のことも──。あの網川浩一って奴は、実はけっこう嫌な奴なんじゃないだろうか。あんな提案を大真面目で持ちかけて、こっちがほいほい引き受けると思ってるなんて、まるっきり人をバカにしている。
(だけどおかみさんは、あいつのこと誉めてたよなぁ)
「何だ、俺の顔に何かついてるか?」
「いや、違います」
「おかしな奴だなぁ」
社長は笑う。増本君は考える。話そうか、話すまいか──
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行ってしまう。
彼は行ってしまう。
高井由美子は、ホテルの自室で一人、ベッドに座り込んで壁を見つめていた。朝食はとらなかったし、昼も何も食べる気になれなくて、ただぼんやりしている。かろうじて着替えだけはしたけれど、靴下ははかずに裸足のままだった。この数日、ずっとこんな調子だ。今日は何日だっけ? あれから何日経ったのだろう。
由美子の様子がおかしいことに、網川浩一はとっくに気づいているはずだった。今の由美子には、内心の動揺を押し隠すだけの気力はなかったし、本音としては、彼女の混乱した心を彼に読みとってほしかったから、むしろことさらに感情の乱れを表情に表していたので、これは当然のことだった。
それでも、彼は出かけて行ってしまう。人に会う用事があるのだと言っていた。忙しいのだと言っていた。約束なのだと言っていた。連日そうやって出かけている。由美子を置き去りにして。
一人にしてほしい、考え事があるから──そう言ったのは由美子の方だ。だから、一人になったのは当たり前だと他人は言うだろう。だけど内心は逆だったのだ。今まではこんなことはなかった。由美子が「一人にして」というと、網川は心配してそばにいてくれた。一人にすると、由美ちゃんはすぐくよくよ考え込むからと、そばに付き添っていていろいろ話をしてくれた。彼が由美子の言葉を額面通りに受け取って行動したのは、今度が初めてのことなのだった。
あの土曜の夜には、夜の闇の重さに耐えられなくなって、衝動的に、何度も何度も電話をかけた。前畑滋子にかけたのだ。衝動的に、訊いてみたくなったのだ。滋子さん、あたし間違ってますか。あたしのしてることは間違ってますか。あたしは網川さんと一緒に、兄さんの汚名を晴らすために戦ってるつもり。だけどそれは、外側からもそのように見えていますか。
あたしの本音は、滋子さんの側からも透けて見えていますか。
あたしは網川さんが好きです。網川さんにずっとそばにいてほしいです。網川さんに、あたしのことをいちばんに考えてほしいです。ずっと網川さんに守ってほしいです。
いつのまにかそのことの方が、兄さんの汚名を晴らすということよりも、あたしのなかで大きくなっていました。
その本音が、滋子さんの側からも見えていますか? 滋子さんに見えるということは、世間の人の目にも見えるということですよね? あたしはみっともないですか? あたしは勘違い女ですか?
前畑滋子は不在だった。彼女の声を録音した留守番電話が応答した。それに向かって話をしようと思ったけれど、あまりにも情けなくて、みっともなくて、結局やめてしまった。留守番電話には、中途半端な由美子の涙声が録音されていることだろう。
それを聞いて、前畑滋子はどう思うだろうか? 何を今さらどの面さげてと、怒るだろうか。どうせ網川浩一とケンカでもしたんだろうけど、あたしは彼の代理にはなれないわよと、鼻先で嘲笑うだろうか。それが怖くて、あれから電話はかけていない。
本が売れ、名前が売れ始めてから、網川は変わった。いや、彼自身が変わったというよりは、彼と由美子の関わり方が変わったというべきなのだろう。有名になり、人気が出て、ジャーナリストとして認められた彼は、由美子から少しずつ離れていこうとしている。優しさ、親切さ、思いやり、それらのものは何も欠けず、最初のころと同じように由美子を包んでいてくれるけれど、それでも彼と由美子のあいだには溝ができつつある。
本が出る前は、二人は同志だった。網川は強い戦士で、由美子は力弱い役立たずだったけれど、それでも立場は同じだった。高井和明という不器用で不運だった青年の、無実を訴えて立ち上がった戦友だった。
それが──今ではまったく違う。
網川浩一は世に出た。道を歩けば女の子たちから黄色い声が飛ぶ。激励の手紙やファンレターが山ほど届く。そのなかには、ラブレターに近いような内容の文面も混じっている。何を勘違いしているのか、写真を同封してきたり、電話番号やメイルアドレスを書いて、返事がほしい、二人で会いたいと訴えてくる女性たちも少なくない。
網川浩一は英雄《ヒーロー》になった。不幸な幼なじみのために、勇を鼓して社会に立ち向かい、人びとを説きつけ、その目を開きその耳を惹きつけた。今では、警察さえも、彼の主張を容れつつある。面子があるから公にはできないけれど、この一週間ほど、網川にはずっと警護が付いている。これこそ、捜査本部が彼の意見を認めたという、動かし難い証拠だ。
そして由美子は──取り残された。
由美子は英雄じゃない。網川と同じ場所に立つことはできないのだ。堂々と行進してゆく英雄の影を踏んで、こそこそとついてゆくことしか許されない。誰も由美子の方など見ていないし、気にしてもいない。
伝説や神話のなかの英雄は、怪物や魔物から救い出した姫と結ばれ、二人は手に手をとって、民衆の歓呼の声に迎えられることになっている。それがお約束だ。そういう決まりになっている。だから由美子は勘違いしていた。網川が社会に受け入れられたあかつきには、自分も一緒にそこに並ぶことができるのだとばかり思い込んでいた。
だがしかし、伝説と現実は違う。何よりも、由美子は最初から「姫」ではなかった。確かに英雄の手で救い出されたけれど、由美子はただの名もない田舎娘にすぎないのだ。田舎娘と英雄が結ばれることなどあり得ない。
英雄は都に凱旋し、そこで彼にふさわしい姫に迎えられる。田舎娘は英雄を見送って、すごすごと畑仕事に戻るのだ。
それを由美子は勘違いしていた。
英雄は、田舎娘に恋をしたから救いに来てくれたのだと思い込んでいた。
英雄は、困っている人を救うことが英雄のなすべきことだから、そうしただけだったのだ。
田舎娘が好きだったわけではないのだ。
世に出てからの網川のまわりには、彼にふさわしい「姫」たちがたくさん寄ってきた。みんな由美子よりあか抜けていて、美人で、頭もよくて、網川はそういう女性たちと実に楽しそうに時間を過ごしている。年上の人気女性キャスターと、臆することなく対等に話し合い、笑い、冗談を飛ばす網川をながめていると、由美子の胸は誇りでふくらむ。だがしかし、勘違いの夢から覚めてみれば、彼女には網川を誇りに思う権利なんてなかったのだ。
──浩一さん。
あの女性カメラマンと彼が親しくしていることは知っていた。バーで二人きり、遅くまで飲んでいることがよくあった。だけどそれは、仕事だと思っていた。思おうとしていた。そうやって、由美子は自分をごまかしてきたのだ。数多い物語のなかでは、英雄が名もない田舎娘と結ばれるおはなしだって、あっておかしくないんだから、と。あたしと網川さんは、高井和明という死者の魂でつなぎ止められているのだから、と。
でもそれは空しい思いこみでしかなかった。あの日曜日の一件、由美子には事前にまったく相談がなく、網川は勝手な取材のお膳立てをして、有馬義男や塚田真一を怒らせた。すると今度は、由美子を利用してもう一度彼らを騙そうとした。最初から最後まで、由美子はただの駒で、網川から計画を相談され、気をあわせて行動していたのは、あの女性カメラマンの方だった。その彼女が彼を「浩一さん」と呼ぶ声を聞いた瞬間に、由美子は、もうあいまいな霧のなかに身を隠して自分をごまかすことはできないと、無理矢理悟らされてしまったのだ。
そして彼は行ってしまう。
由美子をおいて、行ってしまう。
ドアチャイムが鳴った。由美子はのろのろと顔をあげてドアの方を振り返った。
チャイムがまた鳴った。苛立たしそうな、せき立てるような鳴り方だった。由美子がベッドから立ち上がり、ドアへ近づいて行くあいだにも、何度も何度も鳴った。
ドアを開けると、十センチほどの隙間から、あの女性カメラマンの顔がのぞいていた。ふたつの瞳が、すくうように下から由美子の目をとらえ、すぐに手が伸びてきて、外からドアを押し開いた。彼女はポケットのたくさんついた丈の短いベストを着て、タイトなジーンズをすらりとはきこなしていた。爪先の尖ったブーツを突き出し、ズカズカと室内に踏み込んできて、片手でドアを押さえたまま、怒ったように口元を尖らせて由美子を睨んだ。
「大丈夫なの?」と、いきなり訊いた。大丈夫ではいけないみたいな口調だった。
由美子は黙って彼女の脇をすり抜け、廊下へ出ようとした。すると腕をつかまれた。
「今朝出がけに、網川さんがあなたのこと心配して、あたしに様子を見てくれって頼んで行ったのよ。ここんとこ、ずっとふさぎこんで不機嫌だからって。だから来てみたの。別に、あたしだって好きでやってるわけじゃないわよ」
由美子はどろんと振り向いた。「網川さんが[#「網川さんが」に傍点]」と、わざと聞き返してやった。
「ええ、そうよ、浩一さん[#「浩一さん」に傍点]に頼まれたの」と、彼女も言い返してきた。由美子の心はまた痛んだ。結局、これは勝ち目のない戦いだった。
女性カメラマンはバタンとドアを閉めると、由美子とドアのあいだに立ちふさがった。両手を腰に当て、早口で言い出した。
「あなた、何か誤解をしてるようだから言っておくけどね。浩一さんが誰と付き合おうと、誰を恋人にしようと、あなたにとやかく言う権利はないんだからね」
由美子は黙って足元の絨毯を見ていた。
「そうやって悲しそうな顔をしてれば、みんなが同情してくれるって思ってるんだろうけど、そうはいかないわよ。浩一さんだって、あんたがあんまり覇気がないんで、近ごろじゃウンザリだって言ってるんだから」
彼女はますます早口になった。口にするそばから、自分の言葉を置いてきぼりにして逃げ出そうとしているかのように。
「あんたはけっして悲劇のヒロインなんかじゃないのよ。そこんところ、大きく目を開いて、よく現実を見ることね」
由美子は目を上げて彼女を見た。相手がひるんだので、心の底で少しだけ驚いた。
「な、何よ?」
「今の話、網川さんがあたしにそう言ってやれって、あなたに頼んだんですか?」
女性カメラマンは口をつぐんだ。自分の放った言葉に追いつかれ、追いつめられたみたいに、急に青ざめた。
由美子は繰り返した。「あなたに頼んだんですか?」
「彼は──それほど無神経じゃないわよ。あんただってそれは承知でしょう? だからこそ、彼によりかかってこれたんじゃないの」
由美子はドアを開けた。「出ていってください」
「由美子さん、あなたね──」
「もうお話しすることはありません。出ていってください」
「あら、そう」女性カメラマンは吐き捨てた。そして、たくさんのポケットのなかの、いちばん深いポケットに手を突っ込むと、封書を一通取り出した。
「これ」と、由美子の鼻先に突きつける。「フロントに届いてたの。あなた宛よ。お母さんからみたいね」
由美子は封書を受け取った。確かに、ホテル気付で由美子宛のものだ。切手が曲がって貼りつけてある。裏返して差出人のところを見ると、小さく歪んだ文字で「母より」とだけ記してあった。
女性カメラマンを追い出して、ドアを閉めるとチェーンをかけ、ベッドのところまで戻ってから、封を切った。封書は厚く、中身は手紙だけではなさそうだった。
逆さにして振ると、由美子の膝の上に、スナップ写真が二枚落ちてきた。おかしな写真だった。全体に薄暗い。被写体が曲がっている。しかもその被写体は、何か手紙みたいなものだった。由美子は目を近づけた。
みたいではなく、それは本当に手紙をアップで撮ったスナップ写真だった。枠いっぱいに、手書きの縦書きの文字が綴られた便箋が写っているのだ。表面がてかてかしているので、写されている文面が読みにくい。由美子は顔をしかめた。これは──
読み進むうちに、足元がぐらりと揺れるのを感じた。ベッドカバーの端をつかんで、かろうじて身体を支えた。
これは──いったい──
封筒の方をつかむと、指で探って中身を取り出した。こちらはぺらりと一枚、コピー用紙だった。ワープロ文字がびっしりと横に並んでいる。
「高井由美子へ
現実を直視しろ
この写真に写っているのは 高井和明の残した遺書の一部である 遺書のなかで 高井は 栗橋浩美と共に犯した残虐な犯罪について すべてを認め告白している 彼らの事故死は 少なくとも高井にとっては 覚悟の自殺であった 高井には 死をもってしか 栗橋にそそのかされて犯した自らの罪を償うすべが残されていなかった
この遺書は 網川浩一宛に送付されたものである 彼はずっと これを隠し持っていた
事件が栗橋と高井二人の手で起こされたものであることを 彼は最初から知っていた 知っていて隠していたのである
私は網川の周囲を探り ようやく この二枚のスナップを撮影することに成功した
言うまでもなく ネガはこちらの手元にある スナップを処分しても 事実は消せない
この真相が暴露されれば どんなことが起こるか
網川もおまえも もとのもくあみだ
網川にこの手紙を見せろ
こちらは取引を望んでいる
おまえたちは 今さら引き返せない
サル芝居を続けて世間を欺きたいならば 相応の出費を覚悟することだ」
差出人の名前はなかった。日付もなかった。
由美子の手から、手紙が落ちた。ひと呼吸おいて、身体ごと床の上にくずおれて座り込んだ。
現実を直視しろ[#「現実を直視しろ」に傍点]。
どれぐらいのあいだ、一人で座り込んでいたのだろうか。ワープロ文字が頭のなかでぐるぐると渦巻き、綴られていた文章のひとつひとつが、千切れてはまたつながり、輪になっては離れ、由美子を嘲笑うように極彩色にきらめいて、瞼の裏で乱舞し続けた。ふと思った──ひょっとしたら意識を失っていたのかもしれない──そうして悪夢を見ていたのかもしれない。
だが、自分の手元を見おろせば、そこにはまだあの手紙があった。我と我が指が、しっかりとそれを握りしめている。足元にはスナップ写真が二枚、由美子の方に表を向けて床に落ちている。確かに存在する。捨てられない。消すことはできない。
現実を直視しろ。
兄さんが[#「兄さんが」に傍点]、犯行を告白した遺書を残していた[#「犯行を告白した遺書を残していた」に傍点]。浩一さんは[#「浩一さんは」に傍点]、それを知っていた[#「それを知っていた」に傍点]。
ドアチャイムがまた鳴った。さっきのようなせっかちな鳴らし方ではなく。ゆっくりと訪《おとな》いをいれるように、二度、三度と。
由美子はベッドサイドのデジタル時計を見た。とっくに夜になっている。由美子が凍っているあいだに時は過ぎていた。
ドァをノックする音が聞こえた。呼んでいる。由美ちゃん、と聞こえる。由美ちゃん、いるかい? 開けてくれないかい?
網川だ。外出から帰ってきたのだ。
由美子は自分がふたつに分離するのを感じた。ひとつの由美子は、駆け寄ってドアを開け、彼の腕のなかに飛び込んで泣き出そうとしている。もうひとつの由美子は、このまま死のような沈黙のなかに潜んで彼をやり過ごし、そっと荷物をまとめて、彼の元から去っていこうとしている。
だが、そして何処へ行くのだ? 行くあてなどあるのか? この事実を抱えて、由美子の行き先など地上に存在するのか?
警察? 新聞社? それとも前畑滋子のアパートか? 彼女なら話を聞いて──きっと喜んで聞いてくれるだろう。だってこのスナップ写真と手紙は動かぬ証拠だ。前畑滋子は正しかった。彼女の情報源と信念の拠り所である警察もまた正しかった。高井和明は本当に殺人者だったのだ。それを証拠づけるものを持って駆け込む由美子を、どうして前畑滋子が邪険に追い払ったりするだろうか。
だけど、それで由美子はどうなるのだろう。
前畑滋子はしょせん他人なのだ。彼女は事件にはまったく関わりがない。取材してルポを書いただけ。お手柄をあげるだけ。由美子の人生を守ってはくれない。
「由美ちゃん、寝てるのかな?」
網川の声が呼んでいる。由美子はベッドにつかまって立ち上がり、ドアに近づいた。ノブを掴んで回す。どうしてこのドアはこんなに重いんだろう? 開けてはいけないと言っているみたいだ。ドアが意志を持つなんて、そんなバカなことがあるはずないのに。
両目を見開いて、網川は由美子の顔を見つめていた。由美子も彼の顔を見た。気がつけば、彼の瞳を正面からのぞきこんだのは、ずいぶんと久しぶりのことなのだった。
「入ってください」
由美子の言葉と、「大丈夫かい?」という網川の質問がかぶって、意味のない不協和音になった。
「入ってください。見せたいものがあるの」
由美子はそう言って、彼に背中を向けた。「手紙が──手紙が来たんです。写真が入ってるの」
ここから立ち去ろうとしていたもう一人の由美子が、霊のように静かに悲しげに、室内のどこかに漂いながらこちらを見おろしている。由美子はそれをはっきりと感じながら、網川に手紙を差し出した。
長い、長い沈黙。
正体不明の脅迫者からの手紙を読んだあと、網川浩一は由美子の部屋のソファに座り込み、顎に手をあてて、ずっと黙りこくったままだ。帰ってきたときには、疲れた様子ではあったけれど明るかった表情が、今はすっかり消えてしまっている。由美子は彼から離れてベッドに腰かけ、彼が何か言ってくれるのを、笑い出してくれるのを、怒りに顔を紅潮させるのを、ただひたすら待ち続けている。
網川は何を考えているのだろう? 今のこの事態に対して、何を考えることなどあるのだろう? 無機質なまたたきで時の経過を報せるデジタル時計をながめながら、由美子はふと、こうやってひたすら口をつぐんだまま時の経過を待っていれば、あんな手紙もスナップ写真も消えてなくなって、それどころかおぞましい事件の記憶もみんな消えて、世間の人たちもみんな忘れてしまって、すべてが解決して平明になった未来へと、すんなり移動することができるのではないかと思った。事件に抗《あらが》い、流れに逆らおうとするから苦しかったのだ。力を抜いて流されてみたら、ずっといい結果が出るのかもしれない。
デジタルがひらめいて、午前零時を表示した。
そのとき、由美子の耳に何かが聞こえた。何か人の声のようなものだった。隣室からだろうか──と、見回して気がついた。
顔を伏せたまま、固めた拳を口元に押し当てて、網川が笑っているのだった。くつくつ、くつくつと。目尻には笑いじわが寄っている。とても優しげな目元の笑いじわは、由美子が大好きな彼の特徴のひとつだった。
ほっとして、声をかけた。「それ、やっぱりイタズラなのね?」
網川はおかしそうに笑い続ける。手紙とスナップ写真は、コーヒーテーブルの上に広げられたままだ。彼はそれを見て笑っている。
由美子はベッドを降りて、彼の向かいに回った。椅子を引いて腰かけると、網川は由美子に顔を見られまいとでもするかのように、頭を低くかがめてなおも笑い続ける。
「イヤだ、そんなにおかしいの? でもわたし、最初にその手紙を読んだときには、心臓が停まるかと思ったわ」
網川はため息をつき、声を出して「あーあ」と言った。人がおかしなことがあって笑いすぎたとき、よくそうするように。そして足を組み替えて座り直すと、楽しそうに由美子の顔を見た。
「由美ちゃん、このスナップ写真に写ってる遺書とやらの文字ね、ホントにカズの書いた字だと思うかい?」
意外な問いかけだった。由美子はそんなこと、まったく考えていなかった。
「それは……」スナップ写真を手に取って、もう一度じっくり見直した。でも、よくわからない。小さすぎて、内容も断片的にしか読みとれないのだ。素直にそれを、網川に答えた。
「お兄ちゃんは字が下手だったの。すごく下手だった。お兄ちゃんが出前の注文を受けてメモを取ると、あたしにもお母さんにも読めなくて、文句をいったくらいだもの」
網川はスナップ写真に向かって顎をしゃくった。「その字もえらく下手だよね。だから由美ちゃんは何の疑いも抱かなかったわけだ。これはカズの書いたものだって」
実際には、衝撃が大きすぎて、そんなことまで頭が回らなかっただけだが、由美子はうなずいた。
「じゃ、イタズラなんでしょ? これ、遺書なんてニセモノなのよね?」
網川は薄笑いを口元に浮かべて答えない。
「お兄ちゃんがこんな遺書なんか書いたわけないもの。だけど、いったいどこの誰がここまで手の込んだイタズラをしたのかしら。ホテルのフロント宛に送られてきてたのよ。しかも差出人はお母さんだって。そう書いておけば、必ずあたしが開けるって思ったのね」
網川は、顔の角度はそのままに、目だけ動かして由美子を見た。じいっと、興味深い動物でも観察するように。それから言った。
「それ、本物だよ」
由美子は彼の微笑につられてほほえんでいた。その表情のままに、止まった。
「手紙の内容も真実だ。最初から最後まで、全部ホントのことだよ」
由美子はスナップ写真を取り落とした。それが手のなかで動いたように感じられたのだ。抗議するように身をよじって。
「そんな……」
呼吸が苦しくなる。また足元が砂地になって、下へ下へ、どんどん吸い込まれてゆく。
「カズの遺書は、彼らがグリーンロードで死んだ翌日に、僕のところに届いた」
網川は、台詞を棒読みするみたいに言った。由美子から視線をはずして、窓の方をながめている。まぶしそうに目を細めて。
「読んで仰天したよ。もうニュースじゃ大騒ぎを始めてたから、事件のあらましは知ってたし、とにかくこれは大変なものだと思った。とんでもない証拠を、僕は握ってるんだと思った」
「だけど……それならどうして……」
「すぐ警察に届けなかったのかって?」網川は問い返して、苦笑しながらかぶりを振った。「届けなくても、もうあの二人が連続誘拐殺人事件の犯人だと決まったようなもんだって思ったからさ。最初から、どのニュース番組だって、そう決めつけてた。だから、わざわざこんなものを届けなくたって、用は足りてると思ったんだ。それに、マスコミに追いかけられたり、警察に事情聴取されたりするのはゴメンだった。下手をすると、僕まで事件の関係者だったんじゃないかなんて、勘ぐりかねないからね、無能な刑事どもは」
由美子は身体がぐらりと傾くのを感じた。
頭に浮かぶのも、喉元にこみあげるのも、ひとつの思い、ひとつの言葉だけだった。どうして? どうして? どうして?
「僕は遺書を握りつぶして忘れることにした」淡々と、網川は続けた。「でも、そうこうしているうちに、報道を通して知る事件の捜査が穴だらけだってことを知った。カズに関しては物証が全然出てこないし、二人が犯行に使っていたアジトも見つからない。声紋鑑定にかける材料がないから、例のHBSの特番にかかってきた電話も決め手にならない。ないない尽くしだ」
それで思ったんだよ──と、少しばかり強い口調で、網川は言った。「これはちょっと面白いぞってね」
由美子はオウムのように彼の言葉を繰り返した。面白いぞ? 面白いぞ?
「由美子ちゃん、ディベートって知ってるかい? 討論会みたいなものだけど」
由美子はただ呆然と網川を見るだけだ。え? 何だって?
「僕は大学のサークルで何度かやってみたことがあるけど、すごく面白いんだ。得意だったんだよ、ほとんど負けなかったからね」
ディベートは純粋に討論の技術を競い磨く場だから、そこで主張する説が、自分の信念と食い違っている場合もある。たとえば、個人としては安楽死に反対でも、ディベートの場では安楽死擁護派として論陣を張ることもあるわけだ。
「僕はそれを応用してみようと思った──つまり、僕は日本中でただ一人、動かし難い証拠を持ってカズが事件の共犯者の一人だと知っているけど、そのうえで敢えて、カズは巻き込まれただけの被害者で、ヒロミと組んでいた真犯人Xが存在するという仮説を、世間に納得させることができるかどうか、チャレンジしてみようと思ったんだ」
由美子の頭のなかが真っ白になった。彼の言うことについていかれない。だが、網川はもう、何のためにこんな話をしているのかということさえ忘れているようだ。楽しげに、誇らしげに語り続ける。
「すごい困難な事だよ。見上げるほど高いハードルだ。連続殺人者を扱い慣れてないおバカな警察はともかくとしても、世論があの二人を犯人だと決めてかかっていたからね。どうしてかって言ったら。早く安心したかったからだ。怖い殺人犯は死んだ、ああもう大丈夫だって思いたがってたからだ。それをひっくり返すには、大変なエネルギーが要る。いつ仕掛けるかという問題もある。大衆を不安のなかに突き落とす作業は、タイミングが肝心だからね」
だから僕は、警察がのろのろ捜査するのを、もう少し眺めて待っていた──
「そしたら、何ともおあつらえ向きなことに、警察に輪をかけてバカな前畑滋子なんて女が、警察ベッタリのルポを書いてちょっとしたヒットを打ってくれた。ここが仕掛け時だと僕は判断した。捜査本部≠ネんていう漠然とした組織を相手にするよりも、個人の意見に反論して叩きつぶした方が、大衆にアピールするためにはずっと効果的なんだ」
由美子は何か言おうとしたが、顎がガクガクしてしゃべることができなかった。網川はそんな由美子をちらりと見ると、やっと少しばかり慰めるような口調になって、
「もちろん、由美ちゃんたちが気の毒だっていうこともあったよ」と、付け足すように言った。「やったのはカズで、由美ちゃんでもご両親でもない。だけどここが日本人の悪いクセでね、家族っていう単位に絶対的な信仰を抱いてるから、死んじまったカズには負わせることのできない責任を、由美ちゃんたちに負わせようとするのさ。僕はそんな愚昧《 ぐ まい》な大衆の攻撃から、由美ちゃんたちを救い出したいとも思ったんだよ」
由美子はやっと言った。「あたし──あたしはだけど──あたしは本当に、お兄ちゃんは犯人じゃないって信じてたのに」
網川は身を乗り出し、由美子の腕を軽く叩いた。「由美ちゃん、大人になれば、家族だって親友だって、互いの内面を底の底まで知り尽くすことなんてできないよ。カズの心には、由美ちゃんにはけっして見せることのない暗闇があったんだ。その部分については、前畑滋子の小説っぽい分析も外れてなくはないんだな。ま、彼女はロマンチストみたいだからね。女はみんなそうだけど」
「前畑さんが……?」
「そうさ。彼女のルポを読んだかい? 一応文章は日本語になってるけど、基本的な考え方は、アメリカの犯罪ノンフィクションから丸ごといただいてるだけさ。サル真似もいいところだよ。まるっきり事実を見ちゃいない。結局、自分の書きたいことを現実に転移して書いてるだけなんだ」
由美子は顔をあげた。涙がぽろりとコーヒーテーブルの上に落ちた。網川は由美子の泣き顔を、ぐずる子供をあやす父親のように見おろしていた。
「僕は成功した」と、きっぱりと言った。
「今や形勢はまったく逆転。日本中が僕の味方だ。警察でさえ、水面下では僕の説を信じて、真犯人Xが僕に接触してくることを期待してる。由美ちゃんは今や悲劇のヒロインだ。ずっと閉じこもってるからわからないだろうけど、外へ出てごらん、事件が始まったばかりのころには、まるで鬼や怪物を見るように君を遠巻きにしていた人たちが、走り寄ってきて抱きしめてくれるよ。あなたの悲劇はわたしの悲劇でもあるってなことを言ってね。すぐにも君をお嫁さんにほしいという男だって、きっといるよ」
由美子はただ、網川を見つめることしかできなかった。もう言葉も無かった。何を言ったらいいのかわからなかった。
「この卑しい脅迫者のことなら、心配しなくていい」網川はあっさりと言って、スナップをつまみあげた。「どこの誰だか、僕にはだいたい見当がついてる。直接僕に送りつけるんじゃなくて、由美ちゃんを狙ったところなんか、一見狡猾なようだけど、実はこいつが臆病者だってことをあらわしてるじゃないか。僕とまともに渡り合うだけの頭も勇気もないんだよ。大丈夫、こいつなら退治することができる。結局は金目当てなんだからさ」
網川は、由美子の心の内などわかっていると言わんばかりの態度だ。由美子が彼の意見に賛成すると、頭から決めつけている。だから由美子は、混乱する心のなかから何とか言葉を探し出して、吐き出さずにはいられなかった。
「本当のことを──言うべきだわ」
網川は、バラエティ番組のなかのお笑いタレントみたいに、大げさに驚いた表情をした。
「本当のことって?」
「この──遺書のこと」
「言ってどうするの?」
「どうするって──だってそれが真実なんだもの」
「それで由美ちゃん、また石もて追われる身になるのかい? お父さんもお母さんも、せっかく落ち着いた生活を取り戻したのに、また流れ者に逆戻りだ。それどころか、お父さんの病気は悪くなって、とりかえしがつかなくなるかもしれないよ」
わかってる。そんなことは言われるまでもなくわかってるのだ。でも──
「頭でわかることと、現実にそれを身に受けることとは、全然違うよ」網川は確かに由美子の心を読んでいるようだった。「今さらこの遺書を世に出して、真実とやらを明らかにしようなんて、そういうのはね、由美ちゃん、小学生の正義感というんだよ。だって、そんなことをして誰が得をするんだい? せいぜい前畑滋子が鼻の穴をふくらませてテレビに出るくらいさ。だけど彼女は、由美ちゃんのために何もしてくれやしないよ」
そうだ。前畑滋子はしょせん他人だ。由美子の人生を肩代わりしてくれるわけではない。それは、まさに由美子が考えていたことなのだ。
「それだけじゃない、君を取り巻く状況は、最初のころよりも、もっとずっと悪くなるよ。たとえば君が、僕の反対を押し切って、遺書を公開したとしよう。真実≠明らかにしなくちゃいけないと思ったからって、涙ながらに説明したとしよう。でもそんな話、世間は受け入れないよ。全部網川浩一が勝手にやったことで、わたしは何も知りませんでした、知らされて驚きましたなんて言ったって、誰が耳を貸すもんか。みんな言うさ──あんなきれい事を並べて、とんでもない女だ、どうせ最初からすべて知ってて嘘をついていたくせに。ずっと網川とツルんでいたのに、知らなかったわけがない。今ごろになって遺書を公開したのだって、警察が、高井和明がやっぱり犯人だったっていう動かぬ証拠を見つけだしたからじゃないのか。だから先回りして、少しでも自分の言い訳を通して、立場をよくしようとしてるだけじゃないのか」
由美子の惑乱した頭にも、網川のその言葉は伝わった──そう、彼の言うとおりだ。今さら真実を持って公の場に出ていっても、由美子には一人の味方もついてくれないだろう。
「だからさ、由美ちゃん」
網川はソファから立ち上がると、由美子の傍らに来て、膝をついた。
「この手紙とスナップ写真のことは、忘れてしまえよ。ね? なかったことにしよう。どう転んだって、僕らはもう離れられない間柄なんだ。僕らも一種の共犯者なんだよ[#「僕らも一種の共犯者なんだよ」に傍点]。だから僕を裏切ったり、僕から離れようとしないで、ずっとそばにいておくれよ。僕も由美ちゃんに、けっして損はさせないからさ。僕らは同志、盟友なんだよ」
由美子は両手で目を覆った。網川を見たくなかったし、見られたくもなかった。
手のひらでつくりあげた小さな闇のなかに、ほの白く浮かびあがるのは、兄の呑気そうな笑顔だった。それは、世の中の誰に対しても、敵意なんて、爪の先ほども抱いていない顔だった。由美子の信じていた顔だった。
寒い夜だった。凍える夜だった。澄み切った真冬の空を彩る満天の星も、微少な氷のかけらのように見える夜だった。
それは深夜の出来事だったので、すぐには大きな動きが起きることはなかった。午前三時。都心でも、メルバホテルのあるこのあたりでは、路上から通行人の姿が消える。すぐには誰も気づかないかもしれなかった。
それでも、音[#「音」に傍点]が聞こえたのだろう。後になって詳しい情報を得るまで、網川浩一は、第一発見者は深夜タクシーの運転手あたりだろうと考えていた。しかし実際は、どすん[#「どすん」に傍点]という物音を聞きつけたホテルの従業員が、もしやと訝《いぶか》[#底本ルビ「いかぶ」]りつつ外へ出てみて、嫌な予感が的中していることを発見したのだった。
網川の部屋に報せにきた従業員はとても若く、たぶん去年の春に採用されたばかりなのだろう、動転しているのがありありとわかった。手が震えていたし、顔は真っ青、こいつ泣き出すんじゃないかと思ったほどだ。チャイムを鳴らさず、ドアをどんどん叩いてお客を起こすなんてことも、本当は従業員マニュアル違反なのだろうが、そんなことなどまったく忘れている様子だった。
彼自身は驚いていなかった。どちらに転ぶか、半々だと予想していたから。それでも、右に転ぶか左に転ぶかで、今後の行動と計画がまったく違ってくる。だから彼はあれこれとシミュレーションをしていて、眠れなかった。一応は部屋の明かりを消し、寝間着に着替えていたものの、ずっと椅子に座って闇を見つめていたのだ。
おかげで、ドアを開けて従業員と顔をあわせたとき、いかにもさっきまで熟睡していて、明かりがまぶしくて仕方がない、まだ寝ぼけてぼうっとしている──という顔をつくることができたのは幸いだった。従業員が運んできたニュースに、すぐに驚いたり素早く反応したりできなかった──何だよそれ、どういうこと? 悪い夢じゃないの? そんな態度をとってみせるためにも、寝ぼけ顔は大いに役立った。
「わ、わかった。とにかくすぐ行きます。着替えて──いや、とにかくすぐ下に降りますから」
ずっと一人で黙り込んでいたので、舌もうまくまわらない。これもよかった。若い従業員は涙ぐんだような目で、
「は、はい。警察にはもう連絡しました」と、同じようにつっかえつっかえ言った。
「救急車は?」
「あ、呼んだと思います」
「思うじゃないよ、早く呼べよ!」
「あ、はい、すみません」
若い従業員が立ち去ると、網川浩一はゆっくりとドアを閉め、そこにもたれかかった。
ここは何階だっけ。最上階。十一階だ。それじゃ、救急車なんか呼んでももう無駄だよな。だけど一応は呼ばないとまずいだろ、ホテルマン君よ。
メルバホテルを滞在先に選んだのは、都心に集まっている出版社やテレビ局に通うには足の便がいいが、その割には閑静で、こぢんまりとしているのが気に入ったからだった。
近代的な高層ホテルとは違って、客室の窓が開き、そこから外に出ることができるということには、滞在を決めてから気がついた。そのときには、特に何も感じなかった。ずっとここに泊まるかどうかも、当時はまだわからなかったからだ。
だが、結果的にはそれが功を奏したことになる。
高井由美子は飛び降りた。十一階の窓から、地上へ。
網川浩一は、ぴったりとカーテンを閉じた窓に目をやった。ここはひとつカーテンを開けて、窓から下を見るべきなんだろうな。目を見開いて、自分も落ちてしまいそうなほどに身を乗り出して、由美子が落ちた場所を確かめようとするべきなんだろうな。
しかし、彼は動かなかった。なんだかひどく両倒な気がした。わかってはいたけれど、億劫な気がした。なにしろ、これから先は大変だ。今まで以上に慎重にふるまわなければならない。泣いてみせることだって必要かもしれない。気が進まないけれど。
子供のころから、どんな表情でも自由自在に浮かべることができた。どんな態度でも、完璧に演じることができた。その場その場で、そのときの相手の望むままに。時にはそれが、相手が自身では気づいておらず、無意識に望んでいる表情や態度であっても、網川浩一は鋭くそれを見抜いて、先回りして演じることができたのだ。
天分というものなのだと、彼は思っていた。
それでも、泣くことだけは苦手だった。嘘泣きは上手にできたためしがない。
高井由美子の自殺には、きっと彼の涙が必要だろう。守るべき姫を失った正義の騎士は泣くべきだ。だが、あれは嘘の涙だと見抜かれるくらいなら、いっそ泣かない方がいい。少々冷たい人間だと思われる危険を冒す方が、空涙を嗤われるよりも遥かにましだ。
あのスナップ写真もワープロ文の脅迫状も、由美子の手からきちんと取り戻してある。こんなもの、君が持っていたってしょうがないだろ? とにかく今夜はおやすみよ。そう言って、彼は由美子の部屋を出てきた。彼女はぽつんと座り込んでいた。顔には何の表情も浮かんでいなかった。付けるべき仮面がひとつも失くなって、途方に暮れているみたいに見えた。使い手に脱ぎ捨てられ、椅子の上にぽんと放り出された指人形のように見えた。操り人形なら、まだいい。糸が切られても、人形の本体が残るから。だが指人形は違う。操り手がいなくなったら、中身は空っぽの抜け殻なのだ。それどころか、人形としてさえ不完全なものになってしまうのだ。
栗橋浩美と高井和明が死んでから、十一月いっぱい、網川浩一はひたすら待っていた。捜査の進展を。発見される物証を。引き出される目撃証言を。それらがひとつでも彼の方を向いていたら、迅速に、ふさわしい行動を起こさねばならなかったから。
それでも、ただ待つのは辛かった。だから彼はいろいろと書いた。高井和明の遺書もそのひとつだ。あれは山荘≠ナ書いた。二人があんな形で死んでしまった以上、もう偽物の遺書など必要なかったのだが、それでも書いた。気晴らしに、時間つぶしに書いたのだ。氷川高原一帯の道路封鎖が解けるまで、ただあのあたりの道を走っているだけで検問に引っかかる可能性がなくなるまでは、とにかくじっと我慢して、山荘に身を潜めていなければならなかったから、時間はいくらでもあったのだった。
そして天運は、網川浩一に味方した。
栗橋浩美の所持していた携帯電話が事故現場から発見されなかったときには、快哉《かいさい》を叫んだものだ。あれを調べられたら、ヒロミとピースが始終電話をかけあっていたことが露見してしまう。あれがいちばんの危険材料だった。しかし発見されなかった。赤井山が呑み込んでくれたのだ。
あの山荘≠ヘ彼の名義にはなっていない。母親の所有物だ。しかも名字は彼と全然違っている。よほど突っ込んで調べない限り、ここと網川浩一のつながりなど、誰にもわかるまい。木村庄司を拉致した場所が場所だったから、山荘°゚辺まで警察の捜索の手が伸びてくる可能性は充分にあったけれど、人家も別荘も星の数ほどある。単純なローラー作戦では、けっして彼の名前が浮上することなどあり得ないという自信があった。
山荘へ来るときも帰るときも、けっして有料道路を通らないようにしていたので、彼の姿や彼の車が、どこかの監視カメラやオービスに引っかかって、撮影されているということはない。それも、ずっと気をつけていたのだ。いちばん最初から、ずっとずっと。
だからまず、事故現場と事故車(あの忌々しい高井和明の車だ)から、彼と栗橋浩美とを直接的に結びつける物証が出てこなければ、それはそのまま安全圏に入れたことを示していた。そのうえ連日の報道を見ていると、高井和明の孤独な私生活や、彼の視覚障害のことまでが、思いがけず彼の犯行≠フ動機付けとして語られるようになってきた。もともと闇よりも暗い真っ黒の犯人である栗橋浩美と一緒にいたこと、トランクに木村庄司の死体を積んでいたことだけでも、充分に不利な材料だったのに。
高井和明は、思っていた以上にうってつけだったのだ。網川浩一の代埋、犠牲の子羊として。
十二月に入ると、網川は自身の安全を確信した。警察は捜査を継続していたが、それはヒロミのマンションからあんな写真が出てきたからだ。彼が、ちょっとぐらいいいじゃないかと、山荘≠ゥらあれらの資料を東京へ持ち帰ったのは、一年ぐらい前のことだったろうか。網川はいい気分ではなかったのだが、女性達の所持品や衣類は絶対に外に持ち出しちゃ駄目だぞと釘を刺して、後は黙っていた。現像は山荘≠フ暗室でやっていたので、ネガはしっかり保管してあるから心配ない。栗橋浩美のねじくれた精神が、ああいう写真を取り出しては眺めることで何らかの満足を得られるというのならば、その有り様を観察することも、いずれ何かの役に立つかもしれないと思ったし、あんまり文句を言って口論になるのは避けたかったからだ。栗橋は自分では相当の頭脳の持ち主だとうぬぼれていたが、中身はてんでバカだった。カッとなると、その場の思いつきでとんでもないことをやりかねなかった。現に、いくつかやらかしてくれた。日高千秋の一件など、その好例だ。だから、差し障りのない範囲内では、ときどき本人の好きなようにさせた方がいいと思っていた。それでもコントロールが利きにくくなってきたら、もう切り捨てるしかない。
だから、事が拡大し始めてからは、できるだけ早いうちに栗橋浩美を処分≠オてしまおうと、網川はずっと考えていた。
栗橋に高井をくっつけて赤井山へ送り出したときには、とりあえず高井に罪を着せて、ほとぼりが覚めたらひっそりと栗橋を自殺させようかと考えていた。その時点では、世間は高井の話題で持ちきりになっていることだろうから、彼の幼なじみで、彼よりもずっとよくない評判の持ち主である栗橋の自殺は、必ず連続女性誘拐殺人事件と結びつけられるだろう。それでエンドだ。いいじゃないかと思っていた。
ところが、現実はあんなふうになった。グリーンロードでの栗橋と高井の事故死。二人がいっぺんに片づいて、網川の手間を省いてくれた。しかも幸運に幸運が重なり、網川は完全に事件の圏外に逃れた──
そのまま放っておいて、忘れたってよかったのだ。そうするべきだったのだ、きっと。
だが、何か物足りなかった。何か不満足な感じが残った。社会がこれだけ騒いでいる事件に、もう少し関わっていたかった。関わる権利は充分にある。なにしろ彼は当事者なのだから。
そんな折に、テレビで前畑滋子を観たのだ。彼女のルポも読んだ。連載第一回。あの感傷的な書き出し。絶望の約束された場所≠ニか何とか。えらく話題になり、前畑滋子は注目を浴びた。だが網川浩一に言わせれば、あんなものはただの作文でしかなかった。
腹立たしかった。イライラした。自分だったらもっと上手くやれると思った。こんな半端な女ライターがちやほやされるなら、自分などもっと高いところまで行けるだろう。
だいいちこれは、もともと彼の紡いだ筋書きなのだ。彼のドラマなのだ[#「彼のドラマなのだ」に傍点]。前畑滋子など、何の関係もない。一片の権利も持ち合わせてはいない。警察官でも弁護士でも犯罪心理学者でもない、どこかで聞いた覚えがあるような紋切り型の修辞や比喩を並べなければなにひとつ書けないようなあの女に、彼のドラマを横取りされて、どうして黙っていられるだろう?
取り返そう──そう思った。ドラマをこの手に。
ただそれには、不本意ながら遅れをとってしまった以上、前畑滋子と同じ道を通っては駄目だ。別のルートを開き、この事件に別の光をあてなければ。
それには、高井和明の無実を訴え、真犯人Xの存在をぶちあげるのが、いちばん効果的だった、派手で、人目を惹き、誰もがその続きを知りたがる。これ以上望めないほどの素晴らしいストーリー。
だから、網川浩一はそれを創りあげてきた。皆が望むように、創りあげてきた。
彼にはその能力があるのだから。
真犯人X。それはほかでもない、網川白身だ。だが、自分が疑われるかもしれないなんて、これまでつゆほども案じたことはない。だってそうじゃないか。網川が真犯人Xならば、どうしてわざわざ高井の疑いを晴らしてやろうなどとするのだ? 黙って隠れていれば、警察だってマスコミだってひいては社会全体だって、自動的に栗橋・高井を犯人だと認めて、事件そのものを終息させるのに。真犯人が、どうしてその流れに異を唱えるわけがある?
みんなそう考えるだろう。事実、そう考えている。網川は盲点に入ったのだ。これもまた、彼が子供のころから得意としてきたことだった。誰一人、彼を見れども、けっして見えることのない場所に身を置くこと。隠れる必要さえない場所に。
それで上手くやってきた。
高井由美子が兄の無実を叫んでいるということは、親しかった同級生として、栗橋家や長寿庵にちょっと近づいてみるだけで、すぐにわかった。彼女はその意見を隠そうともしていなかった。現に、高井の中学時代の恩師、柿崎先生に相談していた。柿崎先生は高井の葬儀に参列して、その話を聞いていた。網川はそのことを、直に柿崎先生から聞いた。あの先生なら何か知っているかもしれないと、連絡をとってみたらすぐに教えてくれたのだ。網川はあらためて、学生時代の自分がどれだけ教師たちの好意と信頼を集める頼もしい存在だったのかということを噛みしめた。
柿崎先生は、すでに他校の校長にまで出世していたが、この件に関してはずいぶんと弱気だった。患って手術をしたとかで、体力も落ちているようだった。
──高井由美子さんを気の毒に思うが、今の私には何もしてあげられない。かつての同級生たちだって、こんな事態になっては、手助けすることもできないだろうし、したくもないだろう。でも君、網川君、もしも良かったら、どんな些細なことでもいい、由美子くんの力になってやってくれないかね。君にこんなことを頼む権利は私にはないが、栗橋や高井の家族がどうしているかと案じて、私などのところにまで連絡をくれたのは、君一人なんだよ。
わかりました、僕にできることなら何でもやります。網川は先生にそう約束した。だからこそ、由美子が母親と家を離れて身を隠したときにも、柿崎先生を通して、彼女の行き先を知ることができたのだ。
あとは、彼女の近くに潜んで、接近するタイミングを待つだけだった。そしてそれも、思いがけないほどに上手く運んだ。あの日、わざわざ三郷のバスターミナルまで出かけて行く由美子の後を尾けたときには、彼女が何をしようとしているのか、さっぱり見当がつかなかった。が、行ってみればあのとおり。由美子の信頼をつかむだけでなく、あの前畑滋子の懐にまで飛び込む機会が転がり込んできたというわけだ。
由美子はずっと利用していても良かった。少なくとも当初の計画では、警察が真犯人Xを探しきれず、栗橋と高井を一連の事件の犯人として、「犯人死亡のまま書類送検」という形で決着をつけてくれるころまでは、由美子を手元に置いておこうと思っていた。
そしてそれでも網川は高井の無実を叫び続ける。そのパフォーマンスを続ける。だが、それだけでは次第にマスコミも離れてゆくだろう。テレビだって遠のくだろう。それでいい。静かに、穏やかに、自身の主張は変えずに貫きながら、ただマスコミがそれを取り上げてくれなくなった──という形で、栗橋と高井からは離れて行けばいい。
そして網川は、おもむろに次の本を書くのだ。素材は犯罪ものでもいいし、教育問題でもいいだろう。それが話題になったら、またマスコミが近づいてくる。栗橋・高井の件はどうなったのかと問われたら、自分の主張は変わっていないと答えればいい。ずっとそれを主張し続けるためにも、僕はジャーナリストとしての活動を続けるのだと答えればいいのだ。
その過程のどこかで、由美子とはやんわりと手を切ればいい。彼女の方で切られた≠ニ感じないように、上手く距離を空けて。
そういう計画だった。逆に言えばその計画では、網川がいいというまで、由美子の方から勝手に離反されては困るのだった。
だが、日曜日のあの失態以来、由美子の彼を見る目が変わってきた。疑ったり、責めたりしているのではない。ただあの瞳に、ある種の期待はずれ≠フ色が浮かぶようになったのだ。
もちろん、その期待はずれ≠ヘ、網川の提示した事件の筋書きに関するものではない。由美子はそんな賢い女ではない。あの女は身の程知らずにも、この網川浩一を自分のものだと思い込んでいたのだ。そしてそれが事実ではない、自分の錨覚だと気づいた途端に、裏切られたような気分になり始めたのだ。
拙《まず》い展開だった。
だから彼は、罠を仕掛けた。あの脅迫状と、偽物の遺書のスナップ写真を送りつけて。
そして彼女に、本当はカズが犯人だって、僕は最初から知っていたんだよと言ってやったのだ。
彼女がどう反応するか、そこからが五分五分だった。網川の話を信じ込み、もう二度と世間から爪弾きにされたくない、今の生活と今後の人生を守りたいという一心で、今までどおりに彼の元に留まり、彼の命令に従い、彼の指人形になるか。
それとも、死を選ぶか。
高井由美子は後の方を選んだ。
おかげで網川浩一は、これからしばらく、死者の魂を背負うふりをしなければならなくなった。
ようやくパトカーのサイレンが聞こえてきた。まだ遠いが、澄んだ夜気のなかを冴え冴えと響き、近づいてくる。
新しい一幕の始まりだ。網川はゆっくりと身体を起こした。そして、ちょっと笑った。
当分のあいだ、人前では笑顔を見せることができない。我慢して、沈痛な顔をつくらねばならないのだ。今のうちに笑っておかないと、自分が可哀想だと思った。
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26
高井由美子の自殺は、まさに激震だった。
塚田真一は、早朝、ロッキーの散歩をせがむ声に起こされた。寒さに震えながら着替えているところに、石井良江が駆け込んできた。そして、そのニュースを知った。階段を駆け下り、リビングに行くと、石井善之もテレビの前に釘付けになっていた。
「いつ?」
まだ寝ぼけているような頭を振って、真一は尋ねた。いや、眠気など飛んでいる。ショックで頭が働かないのだ。
「昨夜《ゆ う べ》だって。三時ごろだとか」
「泊まってたホテルの窓から飛び降りたそうだ」善之がテレビ画面を指さした。「ほら、あの窓だ。まっすぐ落ちて、ホテルの前の歩道に叩きつけられたらしい」
灰色のコンクリートの上に、白いチョークで人の形が描いてある。花が手向《 た む 》けられ、立入禁止の黄色いテープが張り巡らされているが、ホテルの玄関前は報道陣でごったがえしている。
「いったいどうして?」
真一は声に出して問いかけたが、良江や善之は返事をしなかった。善之はテレビに見入っているが、良江は不安げに眉を寄せて真一を見ている。
「大丈夫、シンちゃん?」
真一は踵を返すと、洗面所に飛び込んだ。冷たい水を顔にぶっかけて、何度も何度もぶっかけて、頭を垂れ、蛇口を全開にしたまま両手で洗面台の縁につかまった。
この前の日曜日、成り行きとは言え、由美子にとっては辛いことばかりが起こった。あの時の彼女の顔。あの女性カメラマンと対峙した時の由美子の表情。
自分のやったこと。自分の言ったこと。思い出してみる。この前の日曜日の一件だけじゃない。前畑滋子のアパートを出るときにも、真一は由美子にひどいことを言った。あのときは本当にそう思ったから、ただカッとなったから怒鳴ったわけじゃなくて、あれは真実そう思ったから言っただけだけど──
──あなたは樋口めぐみと同じだ。
──エゴイスト!
そうだ、ずっとそう思っていた。由美子は逃げていると思っていた。自分の足で立っていないとも思っていた。真一は彼女を責めた。彼女が気の毒だと思う気持ちもあったけれど、非難する気持ちの方が、いつだってはるかに強力だった。だけどその非難のなかには、本来は彼女に向けるべきものなんて、わずかしか含まれていなかったのじゃないか。非難の大部分は、真一の内側にあった憤怒、不公平な運命への怒り。ただそれを、手近な標的である由美子に向けただけではなかったのか。
日曜日以来、由美子に何があったのか? 女性カメラマンのことで、網川と喧嘩でもしたか? それとも彼女のことだから、黙って呑み込んでふさぎこんでいたか?
いや、そんなんじゃない。そんな単純な話じゃない。高井和明の死以来、由美子はいつも崖っぷちにいたのだ。崖っぷちに向かって立っていたのだ。そして彼女の背中を、強い風が押していた。一歩どころか半歩でも動いたら下に落ちるのに、彼女をよろめかせ、その半歩を踏み出させようと、強風が吹きつけていた。
その風のなかには、塚田真一の風も、確かに混じっていたはずだった。
玄関のチャイムが鳴った。良江が急いで出てゆく。テレビの音が大きくなる。
「おはようございます! 朝早くからすみません」
水野久美の声が聞こえた。
「あ、水野さん!」
「ニュースで見てびっくりして。塚田君は?」
良江が真一を呼ぶ。返事もできず、まだ顎の先から水を滴らせながら、真一は呆然と突っ立っていた。バタバタと足音がして、洗面所のドアが開く。
「塚田君!」久美が飛び込んできた。寒さで頬が紅潮している。ジーンズに赤いセーター。
「由美子さんのこと、聞いたでしょ? ね、大丈夫」
後についてきた良江が、気を利かせるつもりか、リビングの方に戻ってゆく。
真一は何か言ったが、自分でも聞き取れないくらい、言葉になっていなかった。
「え?」久美は近づいてきて、真一の腕に触ろうとした。彼はぴくりと手を引っ込めた。
「何て言ったの?」
久美はつぶらな瞳をいっぱいに見開いていた。半ば両手を差し出すように、指をこちらに向けて──
「どうして」真一はかすれた声を絞り出した。今度は言葉になった。「どうしてみんな、俺に大丈夫かって訊くんだ?」
「え?」
真一は久美を見た。「どうしてみんな、誰かが死ぬと、俺に大丈夫かって訊くんだよ。俺のせいじゃないのに」
「塚田君……」
息を呑んで、久美はへたりと両手をおろした。「そんな……そんな意味で訊いたんじゃないのよ。あたしはただ」
彼女の言葉など耳に入らなかった。譫言《うわごと》のように、真一は言った。「だけどホントにそうなのかな? 俺のせいじゃないのかな? ホントは俺のせいなんじゃないのかな?」
「何言ってるの──」
「だって、俺のまわりでいっぱい死人が出てるじゃないか。どんどん人が死んでるじゃないか」
目の裏に蘇る。大川公園のゴミ箱のなかから転がり出た、あの右腕。赤紫色のマニキュアに染められた爪が、まっすぐに真一を指さしていた。
死神。死神。塚田真一よ、おまえは死神だ。おまえこそが死神だ。生者を騙すことはできても、死者の魂は騙せない。おまえは自分が生き延びるために、自分のなかの暗い負債を吐き出して楽になるために、周囲に死を振りまいている──
「こんなに人が死んでるのに」真一は呟いた。「どうして俺はまだ死なないでいるんだろ。さっさと死んじまえばいい人間なのに、なんで俺だけ生きてるんだろ」
時が停まるような沈黙があった。流れる水の音さえ消えて、冷え冷えとした空気もそのままに。
素早く息を吸い込むと、水野久美が一歩進み出て、手を振り上げ、真一の頬を叩いた。
鮮やかな音がした。真一の目の裏に火花が散った。がくんと顎が下がった。
久美は真一と目があうと、自分の手を見おろした。真一の頬を打った右手を見おろした。手のひらが赤くなっていた。まるでそこに何か大事なことが書いてあって、急いでそれを読みとらなければならないとでもいうようなせっぱ詰まった目つきで、久美は手のひらを見つめていた。
それからその手を握ると、口元にあてて、ぽろぽろ泣き出した。
「ど、ど、どうして」とぎれとぎれに、涙の合間に、「どうして、そんなこと、言うの。どうして、そんな」
真一は何もできずに、久美に近寄ることもできずに、両腕を垂らしてただ突っ立っていた。久美はぎゅっと目を閉じると、どしどしと地団駄を踏んで、しゃにむに真一に飛びかかってきた。
「どうしてそんな、勝手なことを言うの! どうしてあたしたちの気持ちがわからないの! どうして死んじゃえばいいんだなんて言うの! どうしてみんなが塚田君のこと心配してるのがわからないの!」
華奢な拳を握りしめ、振り回し、あたるをさいわいに真一を殴ったりぶったりしながら、久美はずっと叫んでいた。やがて殴るのも叩くのもやめると、両腕で真一をつかみ、揺さぶりながら、なおも叫んだ。
「あたしはここにいるのよ! 塚田君だってここにいるのよ! どうしてまっすぐ前を見ようとしないの? どうしてほしいの? どうしてあげたらいいのよ? 教えてよ。どうしたら、塚田君を助けられるのよ? あたしはそうしたいのよ、あなたに元気出してほしいのよ、自分なんか死んだ方がいいんだなんて、言ってほしくないのよ。ねえ、それにはどうしたらいいの? 何が足りないのよ、教えてよ、お願いだから教えてよ。そしたら、何でもしてあげるから。あたしにできることなら、何でもしてあげるからぁぁぁ」
嗚咽《 お えつ》しながら、久美は真一にしがみついて、しかしその腕が緩んで、彼女はぺたりとその場に座り込んだ。
ゆっくりと、ごくゆっくりと、真一のなかで焦点があった。何か、身体の底で長いこと眠っていたつかみどころのない影みたいなものが、久美の呼ぶ声にようやく目を覚まし、真一のなかで手足を伸ばし始めるのを感じた。
彼は屈んで、両手を久美の肩に置いた。「ごめん」
最初は、ため息みたいな声だった。
「ごめん」
もう一度、今度は少し、はっきり言えた。
「ごめんよ」
久美は顔をあげた。涙で顔がぐちゃぐちゃだ。それでもとてもきれいに見えた。
「バカ!」
涙を飛び散らせながらひと言叫んで、久美は真一に抱きついてきた。彼もしっかりと抱き留めて、抱きしめ返した。久美の涙が耳を、頬、を、顎を濡らした。抱き合いながら、彼女はなおも思い出したように、真一を揺さぶった。そこに真一が確かにいることを確かめるみたいに。強く、強く
二人で有馬豆腐店を訪ねるころには、テレビでも本格的な報道が始まっていた。老人は、かつての店の奥の小さな座敷でそれを見ていた。ひっきりなしに煙草を吸っているらしく、灰皿に吸殻が山になっている。
「有馬さん」
真一が声をかけると、老人は大儀そうに振り返った。
「ああ、おはよう」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。なんで大丈夫かなんて訊くんだよ?」
二人ともおあがり──と言う老人の顔は、しかし、急に老けたように見えた。
「まだ細かいことはわからんね。局によって、遺書があると言うとるところもあるし、ないと言うとるところもある」
それは初耳だった。真一と久美は顔を見合わせた。
「遺書があれば、少しは事情がわかるかもしれないけど」と、久美が小声で言った。
「やっぱり──」
老人は言って、チビた煙草を吸殻の山のなかに突っ込んだ。煙草は消えず、薄い煙が立ちのぼる。
「やっぱり、私が訪ねていったのがいかんかったのかもしれんね。私はあの人に会ったりしちゃいかんかったんだね」
考えることは同じだ。真一は首を振った。「そうじゃないですよ」
「だけどな……」
「それに、会いに行ったのは有馬さんだけじゃありません。僕も一緒でした。それ以前にも、僕は由美子さんに怒ったことがあるし」
義男は黙って真一の顔を見た。真一も目をそらさずに、老人の視線を受け止めた。
「そんなことを言い出したら、きりがないです。何がいちばん悪かったのかなんて、考えたらきりがないです」
「そうですよ」と、久美も言った。
老人は何も言わなかった。テレビから目をそらして、また新しい煙草をくわえただけだった。
「それでも、ひとつだけ確かに言えるのは、由美子さんにあんな生活をさせてちゃいけなかったってことです。網川と一緒にしておいちゃいけなかった」
真一は、日曜目のあの一件の翌日、網川に大川公園に呼び出されたことを話した。そこに樋口めぐみが現れたことも、彼女が網川に、自分の父親の事件について本を書いてほしいと持ちかけたことも、網川が乗り気の様子だったことも、全部話した。そのせいで自分が狼狽し、動転して、そのまま墨東警察署の捜査本部へ行って、あてにしていた武上刑事には会えなかったけれど、篠崎という彼の部下と話をしたことも。
「今となっては、こんなことを言い出しても由美子さんの慰めにはならないけど、篠崎っていう刑事さんの話しぶりから、まだ表向きにしていないけれど、捜査が動いているんじゃないかって印象を受けたんです」
「動いているって言っても、なあ」
「何となくだけど、それに網川がからんでいるような感じもしました」
有馬義男は額にしわを寄せた。「どういうふうに?」
「具体的なことは言ってくれなかったけど、ただ、網川をあわてさせることができればいいんだけど、というようなことを、篠崎刑事は言ってました。そういうような言い方で、僕に、網川のことは心配するなって伝えようとしていたんじゃないかって──そんな気がするんですけど。ひょっとすると堅い証拠が見つかって、網川の説をひっくり返して、事件を固めることができそうな、見通しがついたのかもしれません」
義男は渋い表情のまま、再びテレビに目を向けて、リモコンを取り上げ、スイッチを切った。
「今日は、長寿庵に行ってみようと思っとったんだ」と言った。「近所の人たちに会って、高井和明がどんな男だったのか、聞かせてもらおうと思ってさ。だけども、やめにしたよ。当分、何もできないね」
これには、真一も久美もうなずくことしかできなかった。
「この事件で、これ以上の人死《ひと じ 》には出したくなかったよ」肩を落として、義男は言った。
「いったいこれは、いつ終わるんだろうね。いつになったら、終わりが来るんだろう」
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27
同じテレビ報道を、前畑滋子は『ドキュメント・ジャパン』の編集部で見た。
最初の日は、一日テレビを見ていた。編集部の誰とも口をきかず、誰かが買って来た新聞を片っ端から読み、読んでしまうとまたチャンネルを替えてニュース番組を探してテレビを見る。食事もしなかった。
次の日からは、まったくテレビを見なくなった。スタッフの何人かに、由美子の遺書が見つかったり、網川浩一が事情聴取を受けるとか、記者会見を開くなどの動きがあったら教えてくれるように頼むと、後は自分の机に向かった。疲れると、机に突っ伏したり、机の下に潜り込んで毛布をかぶって眠った。
家を出て以来、滋子はずっとここにいた。ここで生活していた。
『ドキュメント・ジャパン』編集部に机を置く場所をつくってもらって、夜は仮眠用のソファで眠った。前畑の家を出て、昭二と別れることになったので、当面行き先がない、アパートを見つけるまで編集部に居候させてくださいと頼むと、手嶋編集長はたいして驚いた顔もせず、寝袋ぐらいは自分で買って来いと言った。ライターや記者の面々も、少しばかり好奇心をそそられたような顔はしたものの、滋子から身の上話を聞き出そうと試みる猛者はいないようだった。
だから滋子は、『ドキュメント・ジャパン』編集部という砦のなかで由美子の死を知り、その後の網川を観察してきた。彼は由美子の死に動揺しているように見えた。少なくとも、彼が、レポーターが差し出すマイクから逃げるような仕草を見せたり、新聞各社の取材を断ったりするのは、登場以来初めてのことである。各テレビ局にはファクスを送って、由美子の葬儀が済んだところで記者会見を開くので、それまで待ってほしいというコメントを出した。ほかの誰よりも自分がいちばんショックを受けている、その心情をご理解願いたいと、ここのところの彼にしては、珍しくしおらしい調子のコメントだった。
無理もあるまい──滋子は皮肉に考えた。一人でどれほどの人気者になろうと、彼のルーツは高井由美子の白馬の騎士≠ナあってその看板を失ったら、すぐにも足元がグラついてしまうことはわかりきっていた。少なくとも栗橋・高井の事件が公的に終結するまでは、網川は由美子の庇護者として行動しなければならない立場にあったのだ。それなのに、その肝心の由美子を死なせてしまった。取り返しのつかないミスだ。
そう、網川にしては考えられないような大失策だ。滋子はそれをまた不審に思うのだった。彼はいったい、何をどう間違ったのだろう? それとも、滋子が少し網川浩一の頭脳を買いかぶりすぎていたのだろうか? 彼とて、まだ世慣れない部分の多い一人の若者にすぎず、由美子のような大きなマイナス材料を背負わされて生きていかねばならない女性を支えるには、やっぱり力が足りなかったというだけなのだろうか。
そして思い出すのだ──留守番電話に残されていた由美子の途切れがちなメッセージを。
──あたし、よくわからなくなってて。
由美子は何がどうわからなくなったと言っていたのだろう? 網川との関係か? 彼の真意か? それとも事件の真相についての確信か? 兄の高井和明は真犯人ではないという確信が揺らいだとでも言いたかったのだろうか?
あのときなぜ、すぐにも由美子の居場所を突きとめて会いにいかなかったのだろう。つまらない意地のせいだ。滋子の意見をはねつけて網川についていった由美子を、滋子は滋子なりにまだ勘弁する気になれなかったのだ。
そうだ、あたしは怒っていたんだ。滋子はあらためて気がついた。網川と行動を共にして、網川のキャンペーンの旗印としておさまっている由美子が、時折まるで悲劇のヒロインのように見えることに、むかつくような怒りを感じていたのだった。あんたはちっとも犠牲者なんかじゃない、本当の犠牲者は、古川鞠子をはじめとする殺された人びとなのだ、勘違いをするんじゃないよと、心のなかで糾弾していたのだった。
だから助ける気持ちにもなれなかったのだ。
だから、留守番電話に残された由美子のメッセージを聞き、彼女の現状に不安を覚えながらも、こちらから連絡をとらなかったのだ。放っておいたのだ。もちろん滋子自身も離婚の危機に直面して、それどころじゃなかったということはある。余裕がなかった。だけど、それはしょせん言い訳だ。滋子は由美子にかまいたくなかった。だから彼女を見捨てた。
そこから逃げることはできない。言い訳を並べて身をかわすこともできない。誰に非難されるよりも先に、滋子は自分を責めている。そのときが来たら、充分に罰を受けよう。
しかし、今はそのときではない。今の滋子にはやるべきことがある。網川浩一の過去を洗うという仕事。そも彼が何者であり、どこから来たのかを突き止める仕事。
そしてそちらの作業は、少しずつではあるが、前進しているのだった。彼の身辺を調べるのは、手間はかかるがけっして難しいことではなかった。どうして今まで誰もこの作業をしなかったのだろうかと、訝ってしまうほどだった。
盲点だったからだ。彼の主張、彼の存在自体があまりにくっきりと鮮やかだったので、彼がそのスポットライトのあたる場所へ出てくるまで、どんな道をたどってきたかなんて、誰も気にしなかったのだ。それに、彼はまだ登場して日が浅い。犠牲者が多く、事件が大きいのでつい錯覚しがちになるが、実はこの事件は、露になってから、半年も一年も経過しているわけではないのだ。すべての発端である大川公園事件が起こったのが、去年の九月十二日。赤井山グリーンロードで栗橋浩美と高井和明が事故死したのが十一月五日。そして、網川が事件のなかに登場したのは、年明けの一月二十二日。HBSテレビに出演したのが最初である。その翌日に、『もうひとつの殺人』が書店に並んだ。
そして、今はやっと三月六日だ。網川のテレビ出演から数えるならば、実は四十日ほどしか経っていないのである。ぽっと出のタレントだって、四十日では消えない。四十日では、まだ過去のスキャンダルだって発掘されない。
しかし警察はどうだろう。捜査本部は、すでに網川の身辺を調べているかもしれない。警察の捜査は綿密で組織的だが、目立たないように進めるし、わかったこともなかなか公にしない。だから、滋子のやっていることは、ひょっとしたらすでに捜査本部がやり尽くしたことで、ここを掘っても何も出てこないとわかって調べるのをやめたことを、徒《いたずら》になぞっているだけに過ぎず、結局何も出てこないのかもしれない。
自分でもそれがわかっている。だから滋子はときどき、ただ由美子の自殺という事実に直面しなくてはならない時をちょっとでも先に延ばすために、あたしは時間稼ぎをしているだけじゃないのかと自問せざるを得なくなる。そうするともう途端に気力が失せて、机に向かっていても電話をかけていても、その場で何もかも放り出し、穴を掘って隠れてしまいたくなるのだ。
「何してんだ、頭を抱えて」
滋子は顔をあげた。手嶋編集長が、からかうような目つきでこちらを見ていた。
「お望みの古い電話帳が見つかったよ」
分厚いイエローページを投げて寄越した。滋子は受け止められずに落としてしまい、苦笑しながら床からそれを拾い上げた。昭和五十一年版の二十三区内の職業別電話帳だ。ありがたい、これで調べを進めることができる。
滋子が今探しているのは、昭和五十一年当時、まだ小学生だった網川浩一が母親と暮らしていた賃貸マンションの管理業務を請け負っていた不動産会社の連絡先だった。このマンション自体は現在も賃貸物件として存在しているのだが、仲介管理をしている会社は八年前に前任会社から業務を受け継いだそうで、網川母子が入居していた当時のことは何も知らないし、もちろん記録もないというのである。前任会社は城東エステートという有限会社なのだが、現在はどこを探しても存在しない。後を引き継いだ業者も、当時の城東エステートの所在地などを記した書類は、とっくに廃棄処理してしまって手元にはないし、社長の名前さえはっきりとは覚えていないという。「確かね、城東エステートさんは会社を廃業しちゃったんです。それで自分とこで請け負っていた仕事を他社に回したんだよね。仕長さん、当時でもう六十を過ぎてたから、引退するつもりだったんじゃないですか。それにしたって、何を調べてるんです?」
網川母子がこの賃貸マンションに入居する際に、誰が保証人になっていたか、それを知りたいのだった。滋子の推測に間違いがなければ、それは「天谷《あまたに》英雄《ひで お 》」という人物であるはずだった。
網川浩一は昭和四十二年四月に、千葉県市川市で、網川|啓介《けいすけ》と網川|聖美《きよ み 》の第一子として誕生している。他に兄弟姉妹はない。また、網川夫妻が結婚・入籍しているのは、彼の誕生のわずか五ヵ月前であり、誕生後一年で離婚している。
この離婚の際、浩一は母親に引き取られ、母親の戸籍に入った。聖美は旧姓に戻らず、網川を名乗り続けた。彼女の本籍地は東京だったので、母子二人のこの新戸籍もその本籍地に置かれている。
ところがそれから二年後、網川浩一が三歳のころに、網川聖美は突然、東京都世田谷区在住の天谷英雄という人物と養子縁組をして養女となり、天谷姓に改姓する。普通ならば、聖美の実子である網川浩一も、このとき天谷の籍に入って母親と同じ姓になるかと思われるが、なぜかこのとき、浩一は父親である網川啓介の籍に戻される。網川啓介はすでに再婚しており、妻とのあいだに一人(女の子)をもうけていたので、浩一は戸籍上は義母と異母妹と共にいることになったのだった。
ただしこれはあくまでも戸籍上のことであり、浩一は実際には母親と共に暮らしていた。この当時の聖美と浩一の住民登録は、天谷英雄の住所地と同じところにされている。聖美はそこで数年を暮らし、やがて城東エステートの仲介物件である賃貸マンションに移転し、住民登録もそこに移す。もちろん浩一も一緒だ。こうして、栗橋浩美と高井和明が、転校生として網川浩一に出会うことになったわけである。
それにしても妙な話だ──と、ここまでを追いかけてきて、滋子は思った。
天谷英雄は昭和二年九月生まれだから、年齢的には聖美の父親であってもおかしくはないのだが、彼には妻とのあいだに男子三人女子二人の五人の子供がおり、その子供たちは聖美とおっつかっつの年代である。となると、聖美を養女にしなくてはならない理由が、跡継ぎがほしい、老後の面倒を見てくれる子供がほしいということではないことは確かである。この年代でも、五人の子持ちはむしろ珍しいくらいだろう。
さらに天谷は資産家である。ニュースなどで彼を紹介しなくてはならない場合は、たぶん、貸しビル業≠ニ呼ぶのがいちばんふさわしいだろう。首都圏に多数の不動産を所有しており、事実上そこからの収益だけで左うちわの暮らしをしている。
世田谷の自宅も、敷地は二百坪以上あり、広い庭のなかに大小三棟の住宅が点在している。滋子が確認できた限りでは、そのうちの一棟に天谷夫妻が、一棟に長男夫妻が、いちばん小さく貧弱な一棟に住み込みの使用人が住んでいるようである。長男以外の子供たちも、それぞれに結婚して独立しているが、住んでいるのは父親が所持している物件のなかか、父親名義の土地の上に建てられた家のなかか、いずれにしろ、誰も父親の手のひらの上からは出ていない。
養女≠フ聖美以外は。
これが文字通りの養子縁組であるわけはない。誰だってすぐにピンとくるだろう。ほぼ百パーセント間違いなく、聖美は天谷英雄の愛人だったのだ。資産家の男性が、法の庇護を受けることのできる立場にはいない自分の愛人に、何らかの形で財産を残してやりたいと思うとき、奇手として使うのがこの養子縁組≠ナある。妻の座には据えてやれないかわりに、娘として扱うわけだ。
さらに、やはり九十九・九パーセントぐらいの確率で、網川浩一は、聖美と天谷英雄のあいだにできた子供だろう──と、滋子は考えた。網川啓介と聖美との奇妙に短い結婚期間を考えあわせると、どうしてもそうとしか思えない。
ずいぶんと複雑な家庭環境だ。網川浩一は、母親に、正確に誰が父親だと教えられて育ったのだろう?
網川啓介か? それとも天谷英雄か?
いや、実際問題としては、彼女自身にもはっきりわからなかったのかもしれないという可能性もある。彼女が天谷と網川啓介と、同時期に二人と付き合っていたのだとしたら、充分にあり得る話だ。とにかく聖美は妊娠した──どちらの子だ? それぞれの男にはどううち明ける? 天谷は妻子ある身だ。すぐには責任をとることはできない。一方の網川啓介はどうだろう? 彼が天谷というもう一人の男の存在を知らず、聖美を愛していたのならば、妊娠をうち明けられて、あるいは彼の方が彼女の体調の変化に気づいて、かえって喜んだのではあるまいか?
そして二人は結婚した。浩一が生まれる。幸せの絶頂だ。しかし、聖美は天谷ときっぱり手を切れただろうか。天谷の方にも彼女と切れる気があったろうか。浩一は天谷の子供であるかもしれないのだ。
事態はけっして収拾したわけではなかった──だからこそ、網川啓介と聖美は一年で離婚したのだ。それから聖美が天谷家に養子縁組するまでの二年足らずの期間は、天谷家内の紛糾の調整期間だったろう。あるいは、この時期に天谷と浩一のあいだの親子鑑定が行われたという可能性もある。
結果として聖美が天谷の養女になれたのに、浩一は網川啓介の籍に返されたという事実は、どう解釈したらいいだろうか。確かに浩一は天谷と聖美のあいだの子供だったが、天谷夫人と子供たちの抵抗が強く、母子をまとめて天谷籍に入れることはできずに、聖美ひとりを養女にするところで妥協した──いずれにしろ、聖美が受け継ぐ天谷の資産は、その子供である浩一に渡るのだから──という解釈がひとつ。もうひとつは、聖美を養女に迎えるために、天谷と浩一の親子鑑定をしてみたら、皮肉にも浩一は啓介の胤《たね》だったことが判明した、という解釈だ。それでも天谷は聖美には執着があり、彼女は自分の庇護のもとに置いたが、自分の子供でもない浩一は、実の父親のところに追い出した──
しかし、受け入れる側の啓介だって困惑したろう。一度は自分の子ではないとあきらめた子供だ。しかも再婚し、今度こそ本当に愛する妻と娘に恵まれて、新しい人生を築こうとしている矢先に、浩一という過去からのおつりを押しつけられて、果たして彼は喜んだだろうか? 父親としての実感や浩一に対する愛情など持ち得ただろうか? それを要求するのはあまりに酷だ。結果として浩一は母親のそばにとどまり、やがては母子一緒に天谷家の敷地内からは出てゆくことになる。
しかし、母子の暮らしは、天谷英雄のバックアップなしには立ちゆかなかったろう。城東エステートの社長や社員に尋ねれば、当時のそのあたりの事情がわかるかもしれない。会社自体はもう存在していないのだから、かえって気軽に昔のことをしゃべってくれるかもしれない。
小説家じゃないのだから、あまり想像力ばかりたくましくしても仕方がない。滋子は頭を振って考えを整理した──どんな経緯があったにしろ、ひとつだけ確実なことがある。それは、幼年期から思春期を通して、網川浩一が、彼自身の居場所というものを、きわめて見つけにくい人生を強いられてきたということだ。彼が誰の子供であっても迷惑をする人がいる。怒る人がいる。いっそ彼がいない方がせいせいするという人が、確実にいる。
網川浩一の戸籍謄本を取り寄せれば、彼は今でも、戸籍上は父と義母と異母妹と一緒にいる。もしも滋子の以前に、網川浩一という人物のプライバシーに好奇心を抱いて、彼の家族関係を調べた記者やレポーターがいたとしても、この網川啓介の戸籍謄本をちらりと見ただけでは、大したことは気づくまい。ああ、父親は再婚なんだな、今の母親は彼にとっては義理の間柄だということを見てとるだけで、そんなことは昨今珍しくもないと思うだけだろう。もう一歩踏み込んで、浩一の母親である天谷聖美という女性を調べてみて、初めてこの奇妙な人間関係が見えるのだ。
生まれたときから居場所のない、どちらへ行っても誰かの邪魔になるという役割を押しつけられた子供。それが網川浩一だったのだ。いつもニコニコしているからピース≠ニあだ名されていたという少年は、実は不安定きわまりない家庭環境のなかで、味方といえば頼りない母親一人しかいなかった。
網川浩一のあの日立ちたがり、騒がれたがりは、愛情に飢えていることの裏返しではないのか。ニコニコ笑っているだけでは、大人社会では通用しない。有能であること、特別な人間であることをアピールして、自分で自分の居場所をつくっていかねばならない。
安易に彼に同情したり、彼のことをわかったような気分になってはいけない。滋子は自分にそう言い聞かせて、電話帳のページを繰った。不動産業者のページは呆れるほど多く、広告もたくさんあって、目がチカチカしそうだ。そんななかで見つけた頭に「城東」のつく会社は八社、そのうち「城東エステート」は二社。それぞれの所在地をメモし、上の方から電話をかけてみた。すぐに通じた。現在も営業している会社である。しかし、滋子の求める賃貸マンションの仲介管理はしたことがないという。電話を切って、もうひとつの方にかけ直す。求める「城東エステート」がこれで、廃業しているならば、この電話はつながらないはずだが──
「はいはい」と、老人の声が応答した。
滋子は手早く事情を説明した。話しながら、例の不動産会社は「城東エステート」ではなく、「城東建物」とか「城東不動産」とかそういう名称だったのじゃないかと、頭の隅で考えていた。
そのとき、電話の向こうの老人が言った。
「ああ、覚えてますよ、天谷さんね。あたしが会社をたたむ前に、最後に仕事したお客さんだから」
「天谷さんにマンションの賃貸の仲介をしたのは昭和五十一年ですよね? ですから、それが最後じゃないでしょう? そちらさまの廃業は八年前だから」
老人は笑った。「ああ、そうそう。あたしが言ってるのは仲介じゃなくて、ほかの仕事させてもらったからね」
滋子は耳から受話器を離し、ちょっと見つめた。「失礼ですが、あなたが元の社長さんですか?」
「そうですがな」
「会社は閉めてしまったのに、電話は生かしてあるんですね?」
「うちの電話だからね。会社と言っても小さかったからさ。家内工業だよ」
「そうですか。天谷さん──天谷聖美さんと彼女のお子さんのことで、ちょっとおうかがいしたいことがあるんです。これからおじゃましてもよろしいでしょうか」
「あたしはかまわんけど、天谷さんの奥さんに会いたいなら、直接行けばいいのに」
「どちらですか?」
「氷川高原だよ」
滋子は一瞬、耳を疑った。
「何ですって[#「何ですって」に傍点]?」
その夜──午後九時五分。前畑滋子は氷川高原駅に降り立った。
ホームからエスカレーターを走って降り、改札口を抜けて、店じまいするところだったキオスクで氷川高原一帯の地図を買った。そのまま、今度はタクシー乗り場へ向かう。年輩の運転手に、城東エステートの江崎社長が教えてくれた地番を告げると、車はすぐに走り出した。
「あの……ここは別荘地なんですよね?」
運転手は愛想良くうなずいた。「氷川高原でも、いちばん早い時期に開発が始まった別荘地ですわな。お客さん、こちらをお訪ねになるのは初めてですか」
はあ、という気の抜けた返事をして、滋子は長く震えるため息をついた。ここは確かに氷川高原であり、江崎社長が教えてくれた別荘地も所番地も実在する。それでも、まだ信じられなかった。都合のいい夢を見ているのではないかという気がした。
東京を発ってからずっと、激しい動悸が鎮まらないまま、ときどき息苦しくなるほどだった。車の振動にあわせるように、今も心臓が胸の奥で飛び跳ねている。そこで興奮が弾けているのか、目の裏がチカチカする。
網川浩一の母・天谷聖美は、今から八年前に、彼女の義父であり愛人であった天谷英雄から、氷川高原北の別荘地帯にある山荘をもらいうけているのだ。ほかでもない氷川高原に。木村庄司が拉致殺害された土地であり、捜査本部が栗橋・高井のアジトが存在している確率がもっとも高いと注目してきた地域だ。
そこに、網川の母親が別荘を持っている。
江崎社長は、突然の電話での問い合わせを怪しむ様子もなく、天谷英雄から聖美へと、その山荘の名義変更をしたのがウチの最後の仕事だったと説明してくれたのだった。
「天谷さんは長年のお得意さんだったから残念だったけども、私は糖尿病が重くてね、商売続けていくのがしんどなってしまって」
呑気な口調だった。どうしてこんなにのんびりしていられるんだ? この情報がどれだけ重大なものかわからないのだろうか? 開いた口がふさがらないとはこのことだ。
「ちょ、ちょっと待ってください、社長さん。社長さんは、天谷さんと聖美さんのあいだに息子さんがひとりいるのをご存じでしょ?」
「知っとりますよ、もちろん。山荘の名義変更だってあんた、その子のための財産分けだったんだから。ほかにも株券とか債券とか、なるべく贈与税がかからんようにあれこれ按配して、天谷さんぎょうさん分けてやったんですよ、その倅に」
「その子──天谷さんの子供──もう今では立派な成人ですけど、どうしているかご存じですか?」
「さあ、知らんわね。商売やめてしもたでね。天谷さんとは年賀状だけやりとりしとるけども、なんでも去年だか大病なさってほとんど寝たきりだっていうけどね」
「聖美さんの近況はご存じですか?」
「だから氷川高原の山荘に住んどるでしょ。名義変更したときに、本人が、都会はイヤだから空気のきれいなこっちに定住するんだ言うてたんですよ。それとも、あのあと気が変わったんかね」
もしも天谷聖美が山荘に住んでいたなら。定住してはいなくても、ときおり訪れて滞在する習慣があったなら。それを考えると、滋子の足元から冷気が這いのぼってきて、背中の方まですっぽりと包み込んだ。ひょっとしたらアジトとして使われたかもしれない山荘。天谷聖美は一連の犯行について知る機会があった? 知っていて知らぬふりをしていた? 人間はそこまで邪悪になれるものか?
いや、今さら驚くまい。網川浩一が、彼自身が真犯人Xであるのかもしれないという、天地が逆さまになるような可能性を認める以上、ほかのどんな可能性だって認めざるを得まい。何があったっておかしくない。
滋子は電話をいったん保留にすると──江崎社長は他人とのおしゃべりに飢えているのか、待たされることを少しも嫌がらなかった。──手早くメモを書いて手嶋の机に回した。至急、天谷聖美の現住所を調べられたし。メモを読んだ手嶋が顔色を変えるのを見て、滋子は思わず笑った。さっきのあたしも、きっとあんな顔をしたに違いないと思った。
「それで江崎さん、ご存じだったら教えていただきたいんですけども、八年前の財産分けね、どういういきさつで、天谷さんがまだお元気なうちにそんな手続きをすることになったんですか?」
江崎社長はそこで初めて、自分に質問をぶつけてくる電話相手の素性に疑問を持ったらしい。「あんたさん雑誌記者だとか言うてたけど、何調べてるの?」
「それはちょっと申し上げられないんです」
「天谷さんが持ってた銀座のビルね、松坂屋のそばのね、あれの件かね」
どうやら、資産家の天谷はまだほかにも火種を抱えているようだ。滋子は適当に答えた。江崎社長は勝手に納得してくれて、
「あれだったら私はよく知らないよ。あのビルは聖美さんとは関係ないしね」
「そうですか。でも聖美さんは、天谷氏と養子縁組をなさってますよね。ですから、天谷氏にもしものことがあった場合には、他のお子さんと同じように遺産を相続することができるはずですよね」
「それがだから、違うんだわ」江崎社長は楽しそうに否定した。「そういうことにならないように、本妻さんと子供さんたちが天谷さんをえらい突き上げよってね、それで八年前に、聖美さんには一応の財産分けを先にしよったんです。で、聖美さんはほかには何も要求しませんいう一筆を書いたの」
「まあ、そうだったんですか。でも、お二人のあいだの息子さんの分は?」
「それが、あんた、難しいところでね」
天谷英雄は、本当なら、聖美と網川浩一を同時に養子に迎えたかったのだという。
「聖美さんはともかく、子供さんにとってはいちばんいいのは、天谷さんに認知してもらうことですわな。ところがそれは本妻さんが絶対に承知せん。しょうがないから二人とも養子という奇手を使おうとしたわけですわ」
その際に、天谷は網川浩一とのあいだで親子鑑定を行った。もっともこれも、天谷の本妻と子供たちの強硬な要求に従ってのことであったようだ。
「ところがなあ、皮肉なことにその結果があんた、いかんように出てしもて」
浩一が天谷の子供である可能性は二十パーセント弱という結果が出たというのである。「聖美さんは結婚してたんですものね。じゃ、旦那さんの」
「そうだったんだわな。それであんた、子供は養子にできなくなってね。天谷さんは聖美さんに惚れてたから、自分の胤でなくてもかまわなかったらしいけどね、周りはそれじゃ承知せんわけよね。まあ、後になって聖美さんがいくら正式に養子縁組してもらってても天谷の家に居づらくなって出ていったのも、雀の涙ぐらいの財産分与してもろて遺産を放棄することになったのも、みんなみんな、子供が天谷さんの胤でなかったことが災いしたんだわね。だけど聖美さんとしちゃ、子供捨てるわけにはいかんでしょ」
「戸籍の上では捨てたようなもんですよ。父親の籍に入れっぱなしですから」
「あ、そうかね」
「もっとも、聖美さんもずっと、子供と一緒に住んでたみたいですけどね。子供は何事もなく東京の学校に通ってますから。現在はどうかわからないけれど」
「はあ、だからあんたさんは聖美さんの今の住所を探していなさるわけだね」
「そうなんです。ところで社長さん、天谷さんと聖美さんのあいだにできた子供さんの名前を覚えておられますか?」
江崎社長はかなり考えてから、「コウジとかいうたかねえ」と答えた。滋子は礼を述べ、またご連絡すると思うのでよろしくと言って電話を切った。いつでもいいよと、社長は嬉しそうだったけれど、日本中のマスコミに追いかけ回されるようになったら、こんなにニコニコ楽しくしていられるかしら、糖尿病にもよくないんじゃないかしらと、滋子はちょっと心配になった。
手嶋がすぐ後ろに立っていた。「天谷聖美は、三年前に住民票を氷川高原に移してる」
滋子は立ち上がった。「行って来ます」
懐中電灯を持って行けと、手嶋は言った。網川啓介と彼の妻と娘については、こちらで近況を調べておく──
山道に入って、タクシーは揺れがひどくなった、滋子は膝の上に載せたボストンバッグを抱きしめた。大きな懐中電灯と携帯電話、カメラ、メモ帳、小型テープレコーダー。今でも充分に重いバッグだが、帰り道には、このなかにもっともっと重いものを詰め込みたい。動かぬ物証というものを。
「所番地から行くと──この上の家だと思うんだけどねえ」
凍りついて真っ暗な真冬の森のなかを、ヘッドライトだけを頼りに進みながら、運転手が困ったように闇を見あげる。
「私らもこっちの方まではめったに来ないですよ」
「ずいぶん下の方で、二、三軒の別荘の脇を通り過ぎたきり、ほかには家は全然ありませんものね」
「そうですねえ。お客さん、ホントにここらでいいんですか?」
運転手は心配そうにちらりと滋子を見返った。滋子は、そのときちょうど、森の切れ目から顔を出した三角屋根のシルエットに目を奪われて、返事ができなかった。
あれだ、あの山荘だ。
「あの建物です。近くまで行って停めてください」滋子は懐中電灯を握りしめた。
暗かった。どこもかしこも真っ暗で、しかもつるつるに凍っている。氷川高原が、避暑地として人気があるが、冬場はまったく寂れてしまうのは、まさにこの気候のせいなのだが、滋子はいささかそれを甘く見ていた。歩きやすいウオーキングシューズを履いてきたが、それでも足元が滑って危険だった。滋子がよろめいたり転びそうになったりするたびに、大型の懐中電灯がつくりだす強力な黄色い光の輪が、元気のいい幽霊のように闇の木立のあいだを跳ね回った。
山荘は、確かにそこにあった。近づくにつれて全体像が浮かびあがってくる。ロッジ風のしゃれた三角屋根。広いポーチ。煙突が二ヵ所にある。鎧戸《よろいど》がきちんと閉められた窓。衛星放送用のアンテナが、屋根のてっぺんに取りつけられていることが、かろうじてこの建物が現実に人間を住まわせる家であることの傍証になっている。それがなければ、ここはまるで、山中に忽然と現れた山荘の幽霊だ。
明かりは見えない。一ヵ所も見えない。家の周りの斜路にも地均《 じ なら》しされた駐車スペースにも、東は一台もない。
ざわざわと森が騒ぐ。北風で滋子の耳はちぎれそうだ。革の手袋をしていても、指がかじかんできた。
ゆっくりと家の玄関の方向に近づいてゆくと、急に、後ろから別の足音が聞こえてくるような気がした。滋子はぱっと立ち止まった。木枯らしが耳元をかすめてゆく。自分自身の鼓動が聞こえる。今や、厚手のジャケットを着込んだ滋子の身体は、そのすべてが一個の大きな心臓と化してしまい、全身がどきどきと動悸を打っていた。
気を取り直して歩き出す。と、何歩も行かないうちに、また誰かの気配を感じる。今度は身体ごと振り切る。束ねた髪が背中で跳ねるほどの勢いで。しかし誰もいない。
息づかいが荒くなり、怖がっているのか興奮しているのか、自分でもよくわからなくなってきた。
山荘の入口に続く四段の階段をのぼる。シューズのゴム底が木の踏み板に触れて音をたてる。たん、たん、たん。そして滋子は玄関のドアの前に立つ。片開きだが背の高い扉だ。いかにも重く、頑丈そうだ。鈎《かぎ》型のノブに手を伸ばし、ぐいとつかんで揺さぶってみた。もちろん、鍵がかかっている。
ドアの右脇に、幅五十センチほどのエッチングガラスの嵌め殺し窓がある。洒落た明かり取りだ。高さは一メートルぐらいだろう。幅五十センチ──上着を脱げば、何とか通り抜けられそうだ。このところ痩せたのが幸いしたと、滋子はひとり、白い息を吐いて笑った。冷気が歯にしみるほど凍《い》てついているのに、血は煮えたぎるように熱く流れて滋子をせきたてている。
さあ、行くぞ。滋子は足元を見回す。中身の空っぽの植木鉢が、階段脇のポーチの隅に転がっている。かがんでそれをつかみ、持ち上げると、エッチングガラスの明かり取り窓の方に向かって振りあげた。
その腕を、突然誰かにつかまれた。
[#改ページ]
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「驚きましたよ」
滋子の隣で、大柄な刑事が言った。
警察は、不審人物を捜査車両に乗せるときには、必ず後部座席に乗せるものだ、真ん中に乗せて両脇を刑事で固めることもあれば、奥に詰め込んで手前に陣取ることもあるが、いずれにしろ、パトカーなどの後部座席のドアは内側から自由に開け閉めできないので、乗せられた不審者は雪隠《せっちん》づめになる──そんな話を聞いたことがあった。
滋子はまさに、今その状態に置かれていた。しかも秋津と名乗ったこの刑事は、ただ背が高いだけでなく、熊みたいにガタイが良かった。彼の身体で、反対側の窓はすっかりふさがれてしまっている。
車はどこにでもあるような白っぽいセダンだった。網川浩一の母親の別荘から、坂道を少し下ったところの森のなかに停められていた。車はほかにももう一台あり、そちらは黒に近い濃いグレイのセダン。
刑事たちは全部で五人いた。そのうちの一人、いちばん小柄で髪の白い年輩者がこの場の指揮官役であるようだ。他には指揮官役と同年輩のやせぎすの男が一人。それと秋津と、彼の後輩であるらしい若い刑事が一人。最後の一人は地元の氷川警察署の警察官のようだが、これも役付の、地元署ではそれなりの地位にいる人物のように見えた。ただし、話し方はこの人がいちばん丁寧だ。というより、いっそへいこら[#「へいこら」に傍点]していると言った方がいい。
別荘の前で滋子の腕を捕らえたのは秋津である。滋子は危うく心臓が停まりそうなほど驚いたが、彼は薄笑いを浮かべていた。すぐ後ろにいた若い刑事は、子供のころ、ビックリ仰天した表情をおもしろおかしく表現するとき、滋子の母親がいつも使っていた言葉を、そのまま体現していた。顔じゅう目だらけ口だらけ。
どうやら彼らは滋子よりも前にここに着き、引き上げる間際であったようだ。そこへ遠くから滋子の乗ったタクシーのライトが近づいてきたので、彼らは車のライトを消し、気配を殺して様子を見ていた。滋子が別荘へのぼる坂道の手前で車を降り、歩き出すと、秋津たちは滋子を尾けた。そして、滋子がまさに住居侵入をせんと試みた現場を押さえたというわけだろう。
滋子をここまで連れて降りてくるとすぐに、彼らは身分を明かした。が、どうしてここにいたのか、何をしていたのかについては、まったく説明してくれなかった。そのくせ、滋子がどうしてここにいたのか、何をしていたのかについては、厳しく問いつめた。警察のやることっていうのは、いつもこうだ。返事なし。質問だけ。
黙り比べをしていては、凍死してしまうと秋津は言った。滋子も、つまらない意地を張るつもりはなかった。実際、この展開に心底驚いていて、とにかく説明が聞きたかったから、まず自分がここに来た理由を話した。
すると彼らは滋子を車に押し込んで、隣に若い刑事を見張り番に残し、もう一台の車の方へ戻って、侃々諤々《かんかんがくがく》と議論を始めた。年長者たちを車に乗せて、秋津は開けたドアに片足をかけ、早口でやりあっている。指揮官らしい年輩の刑事は、無線連絡か、電話をかけているようにも見えた。彼らの吐き出す呼気が、真っ白に凍って見える。秋津が煙草を吸っているので、滋子も煙草が欲しくなり、若い刑事に灰皿はどこかと訊いたら、この車は禁煙だと言われた。
そうやって、三十分ほど経ったろうか。やっと秋津がこちらに戻ってきた。若い後輩を退けて、滋子の隣にどすんと腰をおろした。ほどなく、指揮官らしい白髪の刑事もやって来て、助手席に座った。追い出された若い後輩は、運転席に落ち着いた。
で、この状況なのである。
「それで?」と、滋子はルームミラーに目をやったまま、言った。そこには誰の顔も写っていなかった。そういう角度に調整してあるのかもしれない。
「それでとは?」秋津が問い返した。最初から今まで、彼がいちばん落ち着いているようであり、面白がっているようにも見えるのは、滋子の気のせいだろうか。
「わたし、どうなるんです? 住居侵入未遂で現行犯逮捕?」
秋津は大きな手でぺろりと顔を撫でると、コートのポケットから、くしゃくしゃにつぶれたキャスター・マイルドのパッケージを取り出した。が、中身は空になっていた。彼は舌打ちした。
「わたしも煙草持ってるけど、こっちの若い刑事さんに、ここは禁煙だって言われたの」
秋津は笑った。「窓開けりゃいいだろ、トメちゃん」と、後輩をからかう。若い刑事がちょっとむくれた。
「あなたと私、どちらも当節、肩身の狭いヘビースモーカー」歌うように、秋津は滋子に語りかけた。「あなたが煙草をくれるなら、私は粗末な火ですが差し上げましょう」
「秋津」と、助手席の上司が短くたしなめた。「ふざけるな」
「へいへい」と、秋津はその返事にも節をつけて歌った。
何だコイツ──と、滋子も思った。が、すぐに気づいた。この刑事さんたちも、あたしと同じように仰天していて、興奮してるんだ。
滋子が煙草を取り出し、秋津が火を点けてくれた。黙って一服、二服。
と、助手席の上司が前を向いたまま滋子に話しかけてきた。「前畑さん、我々はこれから少し話し合わなければならない」
滋子は彼を見たが、うなじと後頭部しか見えない。が、さっきまではあらぬ方向を写していたルームミラーに、きっちりと彼の目が映っていた。手品みたいだと思った。警察はこういうことをやって、疑わしい人物に揺さぶりをかけるのだろう。
「話し合うと言っても、わたしにはあなたが誰だかわからないんです。警察の方たちだってことはわかるけれど、階級も立場も、あなたのお名前さえ知らない。何でここにいるのかも教えてもらっていないんですよ」
この人たちは身分をあかしたものの、秋津一人を除いては、名乗っていない。警察手帳は、全員ちらりと見せてくれたけれど、この夜の森のなかだし、一度に五人分も覚えられるものではない。
滋子が彼らの名前や階級、捜査本部でのポジションを知ったら、それを情報源としてルポのなかに書いたり、誰かに言ったりするかもしれない。それを警戒しているのだろう。「まあ、そうだけど」秋津がくわえ煙草でもごもご言った。「あなたは僕のことは知ってるはずですよ取材の申し込みを受けて、断ったから」
滋子は考えた。確かに、捜査本部の誰か一人でもいいから、ほんの短時間でいいから会ってくれないかと、駄目を承知で申し入れたことがあった。そのとき断った男の声──電話だったけれど、この声だったろうか。
「だったらあなたにうかがいます。秋津さん」滋子は大柄な刑事の方に向き直った。「いったい何を話し合うって言うんです?」
彼は煙草を消し、吸殻を灰皿に放り込むと、名残惜しそうに長々と息を吐いて、煙を吐き出した。
「あなたはここが網川浩一の母親の別荘だと知って、調べに来た。そうですね?」
「そうですよ。正直にそう言ったでしょ?」
「ええ、まことに素直で正直で結構でした。ですから、その殊勝な姿勢を貫いて答えてください。このことは、誰に頼まれて調べに来たんです?」
滋子は彼の目を見た。「誰に頼まれたわけでもありません。自分で調べに来ただけです」
「ルポのために? あの雑誌に連載してる?」
「読んでくださってるんですか。それは光栄です」
「僕らは読んでません。資料としてデスクがファイルにしてるだけですよ」秋津は素っ気なかった。「それに先週からこっち、休んでるじゃないですか。行き詰まったのかな?」
滋子は返事をしなかった。
「それとも、新発見があったので、その裏をとるまでは書かなかっただけかな?」
探るような視線を感じて、滋子はさらに堅く口をつぐんだ。
「我々もあなたと同じです」と、秋津は続けた。わかりましたよ、こっちもカードを広げましょう。「網川浩一の母親が、彼女名義の別荘をこの場所に所有しているということを知って、調べに来たんです」
滋子はぞくっと震えた。寒かったからではない。車内は暖房が利いていた。
大あたりをあてた──という実感が、今さらのように湧いてきた。
「僕らの上司、捜査本部のてっぺんの指揮官は高血圧でね」秋津はちょっと笑った。「最初にこの情報をつかんだときには、危うく頭の血管を切ってひっくり返るところでしたよ。あのとき血圧を測ったら、ギネスものだったでしょうね」
助手席の上司も、思わずという顔で笑っている。真顔を保っているのは運転席の後輩だけだ。
「すぐに現地に行って、その別荘が確かにそこに建ってるのか、ただの廃屋や焼け跡じゃないのか、本当に実在するものなのか、蜃気楼《しん き ろう》でも書き割りでもないのか、その目で見て確かめて来いと言いました。で、僕らはここに来たわけです。わざわざ氷川署の署長を案内に立ててね」
やっぱりそうだったか。
「そしたら、あなたがやって来た。さっき報告したら、その高血圧のお偉いさん、また倒れそうになりましたよ。今すぐここへ飛んできて、あなたの首をねじ切ってやりたいと言いました。ジャーナリストだと? しかも女だと? 最悪だ、首を引っこ抜かない限り、絶対に黙らせることはできんぞってね」
滋子も笑い出してしまった。秋津もハハハと口を開けた。
「だから僕は言ってやりました。落ち着いてくださいよ、警部。まだよかったんです。僕らが先に来て、彼女は後から来たんだから。これが順序が逆だったときのことを考えてごらんなさいよって」
「そしたら?」
「バカ野郎と怒鳴って、電話を切っちまいましたよ」
滋子も秋津と一緒に声をたてて笑った。助手席の上司は、もう笑っていなかった。
笑ったことで、不思議に滋子は落ち着いた。この手でつかみとった事実が、滋子の心を鎮めてくれた。
ゆっくりと、こう言った。「わたしはジャーナリストじゃありません」
秋津がつと[#「つと」に傍点]まばたきをした。
「本物のジャーナリストじゃありません。確かにルポは書いてるけれど、ああいうものを書くことと、ジャーナリストになることは、全然別です。わたしは本物じゃありません。まがい物です。本物のジャーナリストならやらないような間違いばかり、たくさんしてきました。本物のジャーナリストになれるかもしれないなんて──大それた夢を抱いたのが間違いでした」
それは心底本気で口にする言葉だった。一片の偽りもない、滋子の本音だった。
「だったら何で書いたんです? 今だって、何で調べてるんです?」
「さあね」滋子は肩をすくめた。「自分でも、よくわかりません。ただ、しでかしてしまった失敗の大きさを確かめたかったのかも」
「詩的なことを言いますね」
「いいえ、全然詩的じゃないです。ただ気取った言い回しってだけのことだもの」
疲れを感じた。安堵したからかもしれない。これ以上、自分にはできることはないと、やっとわかったからかもしれない。車内の暖気に、眠気さえ覚えるようだ。
「安心してください。お約束します。このことは、誰にも話しません」
うなずきながら、誰よりも自分自身に向かって、(それでいいよね)と確認するようにうなずきかけながら、滋子は言った。
「警察の捜査を邪魔するようなことは、一切しません。もともと、この場所を突き止めたところで、そこから先は、わたしには何もできなかったんですもの」
「だけど、さっきは偉く勇ましかったじゃないですか。別荘に忍び込むつもりだったんでしょう?」
「勢いで、ね」
「動かぬ証拠を探し出すつもりだった」秋津は確認するように言った。「網川浩一が一連の事件に関わっていたことを示す物証を。被害者の遺留品とか、写真とか──」
「秋津」上司がまたたしなめた。今度は、(しゃべりすぎだぞ)という警告だろう。
「ええ、おっしゃるとおりです。そういうものを探したかった。今までの経過から見て、何か残されている可能性は高いですからね。で、それを見つけ出して──」
「見つけ出して?」
「わからない。警察に駆け込むつもりだったのかしら。少なくとも、テレビ局へ連絡して、中継クルーをひきつれて戻って来るつもりはなかったですよ」
秋津は大きく息を吐いた。「良かった。良かったですよ。我が国の裁判所は、アメリカあたりと比べると、まだまだ証拠の採用基準が緩やかですからね。僕らより先にあなたがあの別荘に踏み込んで、あれこれいじったり持ち出したりしても、ただそれだけで、あの別荘内にあるものすべてを証拠として採用することを禁じたりはしないでしょう。それでも、捜査には大きな障害になります。僕らはまず、ここの家宅捜索の令状をとることから始めなきゃならんのですから」
ちょっと考えてから、滋子は言ってみた。「もしもわたしがそういう行動に出ていたとしたら、網川浩一は、反撃したでしょうね。見つかった遺留品とか、証拠になりそうなものはすべて、ひとつ残らず、前畑滋子が彼を陥れるために仕込んだものだって」
秋津は黙った。みんな黙った。暖機運転のエンジン音だけが、深夜の森のなかに響く。それから、秋津が小声で訊いた。「別荘もまるごと、あなたの仕込みだって言い張るわけですか?」
「あの男なら言いかねませんよ、それぐらい」
「うむ」と、誰かが答えた。秋津かと思ったら、助手席の上司だった。
「約束します。わたしは沈黙を守ります」滋子は言った。「ただ、ひとつ条件があります」
「条件?」
「今この場で、わたしの質問に答えて下さい。警察の人たちは、一般人にペラペラ捜査内容について漏らすわけにはいかないってことは、わかってます。だから、何も言わなくていいです。わたしが言いますから。これからわたしが言うことが間違っていなかったら、黙っていてください。間違っていたら、違うと教えてください。それだけでいいです」
誰も口を開かない。承知という意味だろう。
滋子は、三度《 み たび》ルームミラーを見上げた。そこにはまた、車内のシートが映っているだけだった。
「網川浩一が、真犯人Xだったんですね」
返事なし。
「警察が彼に疑いの目を向けたのは、ここに彼の母親の別荘があるとわかったからですか? それとも、ほかにも疑わしい要素が出てきたんですか?」
秋津が咳払いをした。
「ほかにも何かあるわけですね」
今度は誰も声をたてない。
「だとすると、彼に関する捜査は、昨日今日始まったわけではないんですね。ただ、厳重に伏せられていただけで」
返事なし。
「わかりました。ありがとう」
滋子は言って、目を閉じた。
「彼を捕まえてください。由美子さんを助けるのには間に合わなかった。でも、真実は、どんなに遅くなっても明らかにするべきです。彼を捕まえてください。あの男の、どんな調子のいい言い逃れも、それらしい言い訳も、理屈だらけの弁解も、木っ端みじんに粉砕できるだけの証拠を集めてください。そして、彼を捕まえてください」
お願いします。それだけ言って身体を折り、頭を下げた。そのまま、身を起こすことができなかった。
しばらくして、秋津の手が、ほとほとと滋子の背中を叩いた。
「帰りましょう」
車は動き出した。
かなり長いこと無言のまま走ってから、秋津が言った。「あの別荘は、我々のアジト探しのローラー作戦のリストのなかにも入っていました。リストの、あと二十軒分ほど先に載っていました。たとえ他に何もなかったとしても、遅かれ早かれ、我々はあそこにたどりついていたでしょう」
低いが、力強い声だった。
「網川浩一は、確かに上手く立ち回ってきました。我々もしてやられた。彼がやってきたようなことは、もしも彼が真犯人であるならば、絶対にやるはずのないことだった。少なくとも、これまでの我々の常識に照らせばそうだった。だからそれが盲点になったんです。たとえばの話、他の補足的事実から彼に疑いを抱くまでは、我々だって、彼の声紋鑑定をしてみようなんて思いつきもしなかった。テレビ局だって、今はまだどこも、そんなことをやってないでしょう。だって、そんな必要がどこにある? ってなもんです。真犯人Xを特定するために、日本中の男を一人残らず調べなくちゃならないとしても、網川浩一だけは真っ先に除外できる。みんな、そんなふうに考えている。そりゃそうですよ。当然だ。真犯人は隠れるものだと、みんな思っていますからね。自分からノコノコ明るい場所に出てくるわけはないって。
しかし網川浩一は、そういう過去の常識では計れない人間だった。それはきっと、彼を犯罪に走らせた動機が、今までの我々の感覚では計れないものだからでしょう。正直言って、今でも僕はまだピンとこないところがある。網川は何を求めて、何のためにこんなことをやったんだろうかって。僕の上司の一人が、要するにあいつは大がかりな芝居をしたかっただけだって解説してくれたけど、それでもまだわからない。わかるのはただ、網川がとんでもない嘘つきだということだけですよ。恐ろしく口の上手い嘘つきです。
しかしね、前畑さん。嘘の有効期間は短いものです。その嘘が派手であればあるほどね。彼が世に出てきたのは一月二十二日。今日まで何日経ってますか? 四十日とちょっとだ。それでもよく保《も》った方ですよ。もう限界だ。もう終わりです」
滋子が何の反応も見せないので、秋津は彼女の顔をのぞきこんだ。滋子は眠っていた。窓にもたれて、子供のように眠っていた。
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時間が経つのが遅かった。夜が明けて日が暮れて、また夜が明けて日が暮れる。それがまるでカタツムリの歩みのようだ。
いつニュースが飛び込んでくるかと思うと、滋子は夜も眠れなかった。テレビをつけっぱなしにしたかったし、スタッフの誰かに様子がおかしいと悟られるのも嫌だったので、編集部の近くのビジネスホテルに部屋をとり、ずっとそこにこもっていた。電話にも出なかった。このままクビになってもかまわない。どうせ、ルポはもう終わりだ。ライターとしての前畑滋子もおしまいだ。かまいやしないと思っていた。
毎日毎日が、イライラとの戦いだった。焦燥で胃が焼け、キリキリ痛んだ。胃の底が抜けて、うっかり飛んだり跳ねたりしたら、身体の中身が全部足元にこぼれおちてしまうのではないかとさえ思った。食べられないし、眠れない。
捜査本部の発表はまだなのだろうか。いつになったら動くのだろう。グズグズしているうちに、誰かがひょいと滋子と同じようなことを思いついて、網川浩一の身辺を調べてしまうかもしれない。そしてその人物は沈黙を守らずに、網川にそれを告げるかもしれない。たとえそれが網川との対決を意図しての行為だとしても、結果的には、秋津が言っていたとおり、捜査にとってはひどい妨害行為になる。疑われているということを、網川に気づかせてはならないのだ。彼に対して、何かを捨てたり、隠したり、誰かを言いくるめて口裏をあわさせたり、言い訳の筋書きを練ったりする時間を与えてはならない。潜入工作員のように密かに行動して、網川を包囲して、ここぞという時に電光石火で息の根をとめなければ、網川はきっと、ぬるぬると身をかわして逃げ道を見つけてしまうことだろう。
まる四日間、滋子は奥歯を噛みしめて我慢した。そして五日目、とうとう辛抱が切れて、捜査本部の秋津に電話をかけようとしているところに、携帯電話が鳴りだした。
手嶋編集長からだった。
「今どこにいる?」と、短く訊いた。
「ホテルにいますよ。何でしょう?」
「一人でストライキをしたいなら、いくらしたってかまわん。自由業者のストライキは、イコール自分で自分を飢え死にさせることだからな。こっちは痛くも痒くもない」
何か言い返す気にもならない。いや、言いたいことはある。全部ぶちまけて、自分が見つけたものを手嶋にも見せてあげたい。でも、約束したのだ。沈黙を守ると。
「テレビ局から出演依頼が来た。HBSの報道特番だ。出る気はあるか?」
滋子はきょとんとした。「どういうことです?」
「先方の説明じゃ、これまでのところを総括するそうだ」
「そこにわたしが何の用があるっていうんです?」
「知らんな。ただ、その番組には網川も出るそうだ。高井由美子の自殺以来、生でテレビに顔を出すのは初めてだ」
滋子は電話を握り直すと、座っていた椅子から立ち上がった。部屋のなかを歩き回る。
「彼は何をしたいんでしょうね?」
「さあな。俺にはわからない。ただ、こんなときにあの男が考えそうなこと、テレビ局に持ち込みそうなアイデアを想像することならできる」
「それを聞かせてください」
「高井由美子の自殺以来、彼はかなり立場が悪くなった」手嶋編集長は続けた。「当然だろう。守るべき旗印を死なせちまったんだからな。あいつのことだから、すぐにも記者会見を開くかと思っていたら、そうしなかったのは、彼自身も、想像以上に自分を取り囲む雰囲気が冷たくなっていることに驚いたからじゃないかな」
滋子はうなずいた。
「だからこのテレビ出演は、劣勢を挽回するためのものだろう」
「どうやって挽回するんです?」
「高井由美子を守りされなかったのは残念だが、彼女が死んだのは自分のせいではないと訴えるのさ」
「訴えるのは自由だけど、それが受け入れられるかしら?」
「上手くやれば、受け入れてもらえるさ。簡単なことだ。他に犯人をつくればいい」
滋子は窓際に来ていた。下を見おろした。朝からどんよりと曇っている。関東北部はすでに大雪で、予報では夕方ごろから都心部にも雪がちらつくかもしれないと言っていた。
「他の犯人?」
誰だ? 決まってるじゃないか。それは由美子を見捨てた人間だ。由美子の訴えに耳を貸さず、彼女の言い分を否定した人間だ。
「そうだ」
「わたしですね」と、滋子は言った。「だからテレビにも出したいわけですか」
「当然だな。俺が網川でもそうするだろう。ただ、それが賢いやり方だとは思えないが」
意外だった。
「そうでしょうか?」
「ああ。今は、ひたすら高井由美子の死を悼んで頭を垂れる以外、網川には得策はないんだ。どんなもっともらしい理由を並べ立てたところで、たとえその相手に本当に責任があったとしても、彼が第三者を指さして非難を浴びせれば、それだけ自分の責任を回避しているように見える。それは絶対、そう見える。そんなこともわからないなんて、網川も少々やき[#「やき」に傍点]がまわってるんじゃないか。まあ、やっと付け焼き刃が剥がれてきたというだけのことかもしれないが」
滋子は手嶋の言葉をじっくりと噛みしめた。「だけど、彼はそれをやろうとしている」
「そうだ、やろうとしている。君は何か、奴にしっぽをつかまれていないか。高井由美子に非難の手紙を出したとか、電話をかけたとか」
「ありません。少なくとも自殺の直前には。わたしたちはずっと、関係が遠くなっていました」滋子は言って、自分でも驚いたことに、ちょっと笑った。「でも編集長。そんなものは必要ないですよ。彼は作り話をつくるでしょうから。必要なものを、必要なだけ。これまでもずっとそうしてきたんだから」
滋子の言葉に、ただごとではない凄みを感じたのかもしれない。手嶋はちょっと黙った。「君の方が、彼のしっぽをつかんでいるのか?」
滋子は微笑した。手嶋に今のこの顔を見られなくてよかったと思った。電話でさえこれほど鋭い人なのだから、対面で話したら、きっと悟られてしまうだろう。水を向けられて、滋子の方から、すべてぶちまけてしまうことだろう。
「いつですか?」
「番組か? 今夜だ。七時からだよ。遅くても午後四時までにはスタジオ入りしてくれと言っていた」
「出ればわたしは袋叩きにされる」
「おそらく。HBSは彼を売り出した。ここへ来ても彼の味方をするだろう。網川もそれを承知しているんだ」
「出なければ?」
「逃げたということで、欠席裁判にかけられる。そういう意味じゃ、君はどっちへ転んでも叩かれる運命だ」
今日の生放送の番組なのに、ギリギリになって出演依頼をかけてきたというのも、滋子が断ると決めてかかっているからだと、手嶋は言った。
「だったら出ても出なくても結果は同じ」
「そうなるな」
「それでも、わたしが出演すれば、テレビを見て、さっき編集長が言ったみたいなことを感じる視聴者だって、たくさんいるかもしれませんよね?」
「たくさんいるかどうかはわからん。だが、いることは確実だ。みんな、それほどバカじゃない」
滋子はぎゅっとくちびるを噛んだ。それから答えた。「わたし、出ます。出ると返事をしてください」
意外だったのか、手嶋はひるんだ。電話だから気配だけだったが、滋子は初めて彼が躊躇するのを感じた。
「いいのか?」
「いいです。編集長のおっしゃることに賭けてみます」
というよりも、捜査本部に賭けてみるのだ。今夜滋子は打たれるままになってもいい。どれほど非難されてもいい。でも真実が明らかになれば、網川が由美子を騙していたということが、彼こそが誰よりも冷酷な主犯≠セったということがはっきりすれば、今夜のこともまた、網川浩一という人間の正体を暴き、それを天下に知らしめるために、役立つ要素になるだろう。
「わかった。先方には俺から返事をする」
「はい、よろしくお願いします」
「前畑」
「はい?」
「何を考えているのか知らないが」手嶋はまたためらい、言葉を探すように間を置いた。
滋子は待った。
「気をつけろよ」
「そうします。ありがとう」
それから滋子は考えた。部屋中をぐるぐる歩き回り、ベッドに飛び乗り、飛び降り、鏡をのぞきこみ、髪をかきむしって考えた。
いいだろう、おとなしく打たれに行ってやろうじゃないか。あたしがあんたの正体を知っているということをあんたは知らない。だからかまいやしない、なんでもぶつけて来るがいい。
しかしそれでも、抑えようのない憤怒の念がこみ上げてきて、じっとしていると気が変になりそうなのだ。この期に及んでも、まだ網川は由美子を利用しようとしている。由美子の亡骸《なきがら》さえ利用しようとしている。それが許せない。それだけは許せない。
反撃するなら簡単だ。ぽろりとこう尋ねてやればいい。ところで網川さん、あなたのお母様は氷川高原の別荘地のなかに家をお持ちです。あなたはそこに行ったことがありますか? お母様とは名字が違うから、調べないとわからないことだけど、確かにあなたのお母様名義の別荘ですよね? 足を運んだことはありますか?
でも、それはできない。約束したのだ。滋子は本物のジャーナリストじゃない。スクープだの調査報道だの、みんなみんな滋子には届かない世界だ。秋津刑事との約束を、精一杯誠実に守るのが滋子の義務だ。
だけどこのままじゃ、この怒りと悔しさがあふれ出てしまう。網川と顔を合わせたら、この目にそれが出てしまう。そしたら網川に何か悟らせることになってしまうかも。
それでも、せめて一撃でもいいから打ち返したい。いずれ明らかになる真実を通してではなく、この手で。一発でいいから網川浩一を殴りつけ、目を白黒させてやりたい。
なるほど彼は大したものだ。彼のやったことは前代未聞だ。空前絶後だ。自分でさんざん人殺しをしておいて、その罪を他人になすりつけて、いけしゃあしゃあとその無実の人の遺族の味方をしてみせる。こんなことをやる人間を、誰が想像するだろう? だからこそ彼はこれまで隠れおおせてきたのだ。人びとの想像の及ばないところでプランを練り、筋書きをつくり、それに沿って演出をしたから。それは見事な手際だった。
彼はきっと鼻高々だろう。作家でもあり演出家でもあり主演俳優でもある。これほど独創的な筋書きは、今までどこにも存在していなかった。彼が創りだしたのだ。物真似じゃない。根っこのところからオリジナル。
ふと、滋子の頭の隅を、誰かとかわした会話がかすめた。
──人間なんて、みんな誰かの真似をしてるんだよ、シゲちゃん。
滋子は歩き回るのをやめて、立ち止まった。
そうだ、そんな話をしたことがあった。誰と話したんだっけ? ライター仲間だ。そうそう、彼はこうも尋ねた。栗橋と高井がアニメやマンガのファンだったなんてことがあるの? 彼ら、そこから手口を学んだの?
──そんなことないだろうな。もしそうなら、とっくに誰かがお手本になった作品を探し出して、騒いでるだろうから。
そうだ。そうだった。
網川浩一の犯罪に、手本などなかった。すべて彼の独創。思い切って斬新な独創と独演だった。
ああ、彼は内心、どんなに残念なことだろう。今までのことがすべて、自分の想像力が創り出したものだと明らかにすることができなくて、どれほど歯がゆいことだろう。本当は言いたくてたまらないはずだ。これほど見事にやってのけているのだもの。本音としては、実はね──と打ち明けて、みんなを驚かせたくてたまらないはずだ。
だが、いずれそうなる。遠からずそうなる。彼が逮捕されれば、みんなが驚く。日本中の人びとが驚く。すべてが網川浩一作・演出・主演のお芝居だったということに。
ひょっとしたら、彼はそのことも読み込んでいるのではないのか。意識して考えてはいないかもしれない。でも、心の水面下では、それも筋書きの最後の仕掛けとしてとってあるのではないのか。たとえ逮捕されても、網川浩一が日本中の人びとをうち負かしたという成果≠ノ変わりはない。誰も想像できなかったことをやったのだから。
滋子は両手で頬を押さえた。いつの間にか、びっしょりと汗をかいていた。
その成果≠ノ、傷をつけてやったら?
全国の視聴者の前で、彼の芝居、彼の演じてきたことも、所詮は誰かの物真似に過ぎないと言ってやったら?
嘘でもいい。かまいやしない。言ってしまった言葉は残る。それが網川のやってきたことだ。言った者が勝ち。どれだけ早く、どれだけ説得力をもって、自分が信じてもらいたい事柄を広く伝えることができるか。肝心なのはそれだ。事実や真実じゃない。彼はそのツボを外さずに行動してきた。今夜もそうしようとしている。滋子をだし[#「だし」に傍点]にして。
だったら、同じ手段でやり返してやったらどうだろう?
滋子は再び猛然と部屋中を歩き始めた。今度は考えるべきことが決まっていた。手段、方法、材料だ。それから考えを固めて、今度は電話をかけた。三本目の電話で、目的の人物をつかまえることができた。
「もしもし? あら山田ちゃん、久しぶりね。ごめんなさいね、急に電話なんかかけて。ええ、本当にご無沙汰だったわね。ねえちょっと急ぎの用事があるんだけど、頼んでもいいかしら。あなた今でも、外国のミステリーとか、犯罪ノンフィクションとかを集めてる? 日本で翻訳されていないようなものまで、ずっとコレクションしてたじゃない。そうそう、あなたは原文で読めるからね。凄いコレクションだったわよね。あたしに、そのなかから一冊貸してくれないかしら。内容はどんなのでもいいの。一般に知られてなくて、古いものなら何でもかまわないの──」
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HBSでは、滋子はまるで重要人物のように扱われた。局に着くなり個室の控え室に案内されて、ディレクターとの打ち合わせもそこでした。番組の流れを説明されたが、着席順だの紹介順だのの当たり障りのないことしか言わず、「話題の流れに応じて、自然にお話しください。司会はおりますが、こちらからは特に誘導しません」と言った。滋子はしおらしく承知した。ただ、事件について細かいことで記憶間違いがないように、スタジオにファイルを一冊持ち込むことをお許しいただきたい、とだけ言った。ディレクターは承知した。ファイルの中身を確かめようとはしなかった。
メイク係もそこに来た。さっと来て、用事を済ませるとそそくさと去った。誰も滋子とは話したがらない。話してはいけないと命じられているのかもしれない。
この扱いは、滋子を隔離しようとしているようでもあり、逃がさないように閉じこめようとしているようでもあった。
望むところだった。滋子も気持ちを落ち着けて、静かにそのときを待ちたかったから。
五時過ぎになって、誰かが控え室をノックした。ドアを開けると、どこかで見た覚えのある、端正な顔をした中年男性が立っていた。きちんと背広を着てネクタイを締め、メイクもしている。彼が口を開いて、
「前畑さんですね。本日はよろしくお願いいたします」
声を聞いて、わかった。向坂《さきさか》アナウンサーだ。十一月一日のあの特番でも司会をしていたし、先月だったか、網川浩一がお化けビルから中継をしたときの特番も仕切っていた。
向坂アナは控え室に入ってくると、きちんとドアを閉めた。滋子も手短に挨拶したが、相手の目的がわからないので、愛想のいい顔はできなかった。
「急な依頼でしたのに、出演をご快諾いただいて感謝しております」
向坂アナは、丁寧に頭を下げた。
「いいえ、どういたしまして」
この人、何だか緊張しているみたいだと、滋子は思った。今夜はよほど大変な番組になるのだろうか。何か、滋子も手嶋編集長も考えが及ばないほどの仕掛けが用意されているのだろうか。
出ない方がよかったろうかと、刹那《せつ な 》、後悔した。
「番組の直前に、司会役にすぎないアナウンサーのわたくしが何を言いにきたのかとご不審でしょう」
アナウンサーらしい、滑らかな話し方だ。いい声だ。それがわずかだがうわずっている。視線は滋子の肩のあたりから動かない。
「そうですね」
「わたくしは」言いかけて、向坂アナは言い直した。「わたくし個人の意志で、事前に前畑さんにお話ししたいことがあって参りました」
「何でしょう?」
「今夜の番組では、事件の検証をし直すとともに、高井由美子さんの自殺についても触れることになるでしょう」
「というより、そっちが本題でしょう?」
向坂アナはうなずいた。「おっしゃるとおりです」
「それぐらいわかっています。わたしがそのことで責任を問われることも。実際に責任があるかどうかは、わたしは当事者ですから何とも言えません。でも、彼女にもっと親切にすることはできなかったか、自殺を防ぐ手を打つことはできなかったのかと問われたら、何もできなかったと答えることはできません。ですから、非難は甘んじて受けるつもりです。ご心配なく」
向坂アナは、また頭を下げた。それからやっと、滋子の目を見た。正面から見た。
「わたくしは──番組の主旨がどうであれ、前畑さんお一人をつるし上げるようなことはしないつもりでおります」
滋子も相手の目を見ていた。
「今はそんなことをしている場合ではないと思いますし、高井由美子さんのことにしても、前畑さんお一人の責任ではありません」
向坂アナは言葉を切った。滋子が何か言うのを待っているのかもしれない。しかし滋子は黙っていた。
「前畑さんは──」さらにもう少しうわずった声で、向坂アナは言った。「わたくしたちテレビ界には、視聴率がとれるならば何でもいい、どんな悲劇でも残酷な犯罪でも、面白ければそれでいいと考える人間ばかりが集まっているとお考えかもしれません。残念ながら、それも現実の一部です。我々にはそういう部分が多々あります。しかし──」
滋子は、今度は先を促した。「しかし?」
「しかしわたくしたちも、真実を求める人間でもあるのです。何が正しくて何が間違っているか、真面目に考えることもなしに、ただ騒ぎ立てて番組を垂れ流している。そんなふうに見えるかもしれません。しかし、そうではありません。それだけではありません。わたくしは一人のアナウンサーに過ぎませんが、今夜はぜひそのことを、前畑さんに申し上げておきたかった」
それだけひと息に言いきると、我に返ったようにまばたきをして、びくりとした。お邪魔いたしましたと、また深く頭を下げて、向坂アナは出ていこうとした。
「あの、ちょっと」滋子は呼び止めた。「向坂さん、もしかして──」
二人は探るように顔を見合わせた。どちらも、互いが探しているものが同じものであるかどうか計りかねて、だから視線はぶつかっても、確たる手応えがなかった。
「いいえ、いいんです」滋子は首を振った。「わざわざおいでいただいて、ありがとうございました」
向坂アナは出ていった。滋子は椅子に戻り、鏡に向かった。
さっきは、こう問いかけそうになったのだ。向坂さん、もしかしてあなたも、網川浩一に何か不審なものを感じておられるのではないですか?
だが、尋ねなかった。尋ねていたら、勇み足になっていたろう。
考えてみれば、向坂アナは、事件が大きく動くときにその場に居合わせてきた人物だ。十一月一日、彼はスタジオで、栗橋浩美に代わって電話をかけ直してきた、あの時点では未知の犯人と話している。そしてその後、網川浩一に会った。彼と話した。彼の出演する番組の司会もした。
アナウンサーは、言葉を操ることが仕事だ。人間の声を扱うプロだ。もしも向坂アナが、そのプロの経験で、鍛え抜かれたその耳で、網川の声に、しゃべり方に、言葉の選び方に、何かを感じ取っていたのだとしたら? ただ、網川の巧みな誘導によってつくりあげられた流れのなかで、それを口にすることができずにいるのだとしたら? 誰も彼に尋ねてくれず、問いかけてくれないからしゃべれない。とうとう耐えきれなくなって、だから滋子のところにやって来たのではないのか。
──テレビ用のメイクをされると、あたしはかえって老けて見える。
鏡のなかの自分に向かって、滋子は考えた。
もしかしたら、時は満ちかけているのかもしれない。居眠りしていた神様が、自分が目を離している隙にとんでもないことをやらかしていた網川浩一の存在にやっと気づいて、よっこらしょと腰をあげたところなのかもしれない。
これから、全国の視聴者の前で礫《つぶて》を投げられようとしている身にとっては、それは悪い考えではなかった。全然、悪い考えではなかった。
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番組は、滑り出しを見る限り、思ったほど悪くなかった。スタジオもシンプルな造りで、出演者も少ない。雛壇《ひなだん》はふたつに別れており、一方には向坂アナウンサー、アシスタントの女性と、網川浩一。もう一方に前畑滋子、HBSの報道記者が一人と、HBSのメインニュースを担当している男性キャスター。自身も豊富な取材経験を持つ人物で、この人の番組は、滋子も昔からよく観ている。まさか、こんな形で並んで座ることになるとは、夢にも思っていなかった。
向坂アナは冒頭で、この特番は、事件についてここまでのところを総括し、捜査の最新情報を紹介し、そのなかで高井由美子の自殺も取り上げ、彼女がなぜ死を選んだのか、彼女の死を巡るいくつかの不可解な疑問点についても検討することが目的であると説明した。
今回もまた、特設スタジオにはファクスと電話がずらりと並べられている。アシスタントの女性アナが、電話とファクスの番号を記したフリップを掲げてみせた。
事件についての総括は、主にビデオで進行した。滋子には、ほとんど話す機会がなかった。スタジオがひどく暑いのを我慢しながら、じっとしているだけでよかった。
幸い、公開番組ではないので、直接視聴者の顔が見えないのも助かった。いくら覚悟を固めていても、ここで、自分に石をぶつける人間と目と目が合うのは嫌だった。真実が明らかになれば、きっと驚くであろうことがわかっているのに、今はまだ何も知らない。そんな人に面罵《めん ば 》されたくはなかった。
網川浩一は、これ以上ないというほどの沈鬱な顔をしていた。黙りがちで、向坂アナに水を向けられても、長くはしゃべらない。こんな彼を見るのは初めてだった。
しかし、番組が進行し、特設スタジオを呼び出して、ここまでのあいだに寄せられた視聴者の声を紹介する短いコーナーが過ぎると、様子が変わった。
顔に出さないようにこらえていたが、滋子は驚いていた。手嶋の読みはあたっていた。寄せられたファクスには、もちろん網川を励ましたり、由美子が亡くなっても彼を応援しているという内容のものが、たくさんあった。だが、由美子が自殺してしまった以上、彼はテレビなどに出るべきではないという声も、それと肩を並べるくらいの数寄せられていた。高井和明の無実を証明するには、テレビに出たりするよりも、警察の捜査に協力した方がいいという意見も、網川が余計なことをしなければ、由美子は辛かったかもしれないけれど、自殺はしないで済んだのではないかという意見さえあった。
網川は、それらの手厳しい意見を謹聴しているようなふりをしていた。だが、それはあくまで上辺だけのことだった。滋子にそれがわかった。
騙し絵みたいなものだ。誰かに一度それと教えられて、果物皿のなかにモナリザの顔が隠れているのを見つけてしまうと、次からは何度見ても、ちゃんとモナリザが見える。網川の正体に気づいた滋子には、彼の作為が、彼の芝居が、彼がいちいち表情をとりつくろっていることが、面白いほどよく見えた。
そしてふとした拍子に、すぐ隣の男性キャスターも、滋子とほとんど同じように、網川から距離を置いているのが感じられるのだった。ひとつひとつは些細なものだ。言葉の調子。会話への割り込み方。返事の仕方。だが、そこに込められた感情が確かに伝わってくる。
話題はいよいよ由美子の自殺へと移った。網川は我慢が切れたのか、急に達弁になった。由美子が窓から飛び降りたとき、彼は隣の部屋で原稿を書いていたこと。それぞれの部屋へ戻る直前に話したとき、彼女があまりにしょげているので、言葉を尽くして励ましたこと。それで彼女が少しは元気を取り戻してくれたようなので、また明日ねと声をかけて別れたこと。
「それなのに、彼女が窓を開けて下へ飛び降りるそのときに、僕はその場にいなかった。いちばん肝心な、彼女がいちばん僕を必要としていたときに、僕は壁の向こうにいたんです」
しゃべってしゃべって、顔を歪め、目を潤ませ、うなだれ、足を踏み、拳を握る。警察の由美子に対する厳しい事情聴取への非難。彼女の周囲の、とりわけ近所の人たちの冷酷な態度への怒り。由美子が飯田橋のホテルでの遺族の集まりに押し掛けて騒ぎを起こしたとき、それをすっぱ抜いた写真週刊誌への憤り──
話がそこにさしかかって、滋子はいよいよ来るなと身構えた。
「遺族の集まりの一件は、確かに僕にも責任がありました。でも、前畑さん」
網川浩一は、滋子に呼びかけた。
「あのころは僕よりも、あなたの方がずっと由美子さんの近くにいた。彼女はあなたを信頼していた。あの一件があって、あなたは彼女を切り捨てたけど、僕はもう少し、あなたに力になってほしかった。由美ちゃんを見捨てないでほしかった。今さらこんなことを言って責任転嫁をするわけじゃない。だけど、そのことでは、僕はあなたを恨まずにはいられない」
言いたいだけ言わせておいた。そして滋子は淡々と答えた。当時の自分には由美子の主張が受け入れられなかったし、そのことは彼女にもはっきり言った、遺族の集まりのことは自分の間違いでもあったから、事前に防げなかったのは本当に残念だった──
滋子が相手にならないし、誰もあからさまには網川に味方しようとしない。明らかに、網川は焦《じ》れていた。報道記者は、犯罪事件報道の難しさ、わけても加害者や容疑者の家族に対する接し方を考え直さなければならないということについて、一般論的な意見を述べた。すると彼は、そんなきれい事ばっかり言ってるから記者なんか駄目なんだと毒づいて、バツの悪い間ができた。
あいだのコマーシャルのときに、網川は顔を赤くしていた。アシスタントの女性アナがしきりと宥《なだ》めている。
番組は残り二十分。また、視聴者の声のコーナーが始まった。事前に説明を受けたとおりの段取りだったが、向坂アナが特設スタジオとやりとりをしているときに、網川はしばしば割り込んで発言した。
「ちょっと言わせて下さい、それはひどい」
「その意見は、僕じゃなくて由美ちゃんを責めてることになるんじゃないですか?」
「僕は自分のできることをやるだけです。これからだってそうですよ」
滋子は焦り始めた。最後にひととおり、出演者が発言する機会を与えられることになっている。しかし、この調子では滋子の割り当て時間は十秒ぐらいになってしまうだろう。そんな短時間で、上手くやれるだろうか。
向坂アナウンサーがまとめに入り、やっと滋子に発言の順番が回ってきた。網川は最後になるらしい。良かった!
「前畑さんは、今もルポをお書きになっていますし、事件について現在はどのようにお考えですか」
向坂アナの問いかけを受けて、滋子は顔を上げ、カメラに向かった。
「実は、つい最近のことなのですが、あることを発見しまして、驚いているところです」
「発見といいますと?」
滋子は、持参してきたファイルを開いた。そこには本が一冊はさんであった。三百ページほどの薄いもので、表紙などだいぶ傷んでいる。シンプルな黒地に、白と赤の活字でタイトルと著者名が組まれている。
「これは、十年前にアメリカで出版されたノンフィクションです」滋子はカメラの前に本をかざしてみせた。「著者は元ニューヨーク・タイムズの記者で、実際に起こった犯罪を元に、多くのノンフィクションを書いているライターです。これもそのひとつで、原書です。残念ながら、日本語に翻訳されておりませんので、ほとんど知られていないでしょう」
滋子は、用意してきた筋書きをしゃべった。知人が連絡してきて、今回の連続女性誘拐殺人事件の経過が、この本で取り上げられている事件と非常によく似ていると教えてくれた。わたしは原書が読めないので、頼み込んで大筋を翻訳してもらって読んでみると、確かにそのとおりだった──
「事件の経過が似ていると言いますと?」男性キャスターが質問した。「たとえば、犯人が二人組であるとか?」
「いえ、こちらの事件では犯人は一人です」
「では、女性を被害者に選んでいること、報道機関や被害者の遺族に連絡してくることなどが似ているというのですか? それが、この事件の顕著な特徴ですからね」
「はい、そうです。でも、それだけじゃないんです」滋子はあくまでもカメラに向かって語りかけた。姿は見えないが、全国に存在する視聴者に向かって。
「いちばん顕著な類似点は、この本で取り上げられている実在の事件でも、最初に犯人として疑いを集めた人物が死亡したあとで──」
「死亡するんですか、容疑者が」
「はい。そしてそのあとで、彼は無実だ、殺人犯ではないと、主張する人物が出て来るんです。犯人と目された青年の友人なんですけれどもね」
網川の顔が強張った。スタジオのどこかで、誰かがうへっというような声をあげた。
滋子は続けた。「実際、その主張は非常に説得力があって、マスコミにも広く取り上げられます。死亡した青年が犯人だと決めつけていた州警察も再捜査に踏み切りますし、連邦捜査局も乗り出します。ところがですね、それで判明した真相が、実に意外なことでして」
滋子は間をおいた。スタジオ内は静まり返っている。
「実は、疑われて死んだ青年は無実だ、彼は殺人者ではないと訴えて、全米の話題を集めた友人こそが、事件の真犯人だったというのです。そして、強力な物証がいくつも発見されて、逃げられなくなった彼は、どうしてこんなことをしたのかと問われて、こう答えます。だって、面白かったからさ。正義の味方のふりをして、みんなの注目を浴びるのが愉快だったからさ≠ニ」
滋子のかかげる本のタイトルは、『JUST CAUSE』。翻訳するならば「なぜかと言ったら」というぐらいの意味になるだろう。もちろん、内容は全然違う。犯罪小説ではあるが、まったく違う筋書きのものだ。滋子は、タイトルが気に入ったから借りてきたのだ。
「デタラメを言うな」
網川浩一の声がした。
出演者たちだけでなく、スタジオに居合わせた者たち全員が、彼を見た。これまで一度も見たことのない目で彼を見た。なぜなら、彼の放った声が、これまで一度も聞いたことがないような声だったから。
滋子は椅子の上でわずかに膝をずらし、網川の方に向き直った。
「デタラメではありません」と、静かに応じた。胸の内では心臓が躍りあがり、膝頭が震え始めている。本を支えている指も痺《しび》れたようになって、手のひらが汗ばんでいる。
「すべて、この本に書いてあることです。事実なんですよ。十年前、いえ、正確に言うとこちらの事件が起こったのは十一年前のことです。アメリカの、メリーランド州でね。すでにこういう事件が起こっている。ですからわたしは、わたしたちが抱えている今度の事件の犯人も、この十一年前の事件を知っていて、それが日本では広く知られていないのをいいことに、そっくり真似たんじゃないかと思うのです。サル真似ですよ、サル真似。大がかりな模倣犯です。読んでいて、わたしの方が恥ずかしくなるくらいでした」
網川浩一は両手を拳に握り、椅子から腰を浮かせた。
「いい加減なことを言うんじゃないよ[#「いい加減なことを言うんじゃないよ」に傍点]」
彼の声は割れていた。滋子は見た。騙し絵の部分は消えた。今では、それまで美味しそうな果物の陰に隠れていた網川浩一の顔が、くっきりと見えている。カンバスの上には、彼の顔しか存在しない。そうして彼は、モナリザのように微笑してはいない。永遠の謎のほほえみは、そこにはない。
あるのはただ、傷つけられたプライドに対する憤怒のみ。
見えるでしょう、皆さん。見えますよね?
「ちょ、ちょっと待ってください、前畑さん」報道部の記者が宥めるように手を伸ばし、滋子の机の前を軽く叩いた。「あなたのおっしゃることが事実だとしても、今回の事件が何から何まで、その、十一年前の事件をなぞったものだとは限らないでしょう? だってもしもそうだとしたら、網川君が──」
真犯人だということになってしまう。そこまで発言されたら、滋子は笑ってかわすつもりだった。そうですね、わたしもそこまで言うつもりはないですよ。そこで番組終了だ。言った者勝ちだ。
だが、報道部記者の発言はさえぎられた。ほかでもない、網川浩一によって。
彼はすっくと立ち上がった。椅子が大きく後ろに動いて、耳障りな音をたてた。しかし、彼の声はそんな騒音には負けなかった。スタジオじゅうに響いた。全国に響き、届いた。
「おまえは僕がサル真似をしたというのか?」
滋子に指を突きつけて、網川浩一は問いつめた。
「僕が、この僕が、ありものの筋書きを借りてきて、自分のものみたいな顔をして社会に提供したというのか? 僕が? この僕が?」
ひとこと言うたびに網川は自分の胸を叩いた。僕が[#「僕が」に傍点]、この僕が[#「この僕が」に傍点]?
石のような目をしていた。それは生前の栗橋浩美が恐れ、ピースのなかの不可解な謎として敬遠していた、あの目だった。外部からのどんな入力も受け付けなくなり、網川浩一という存在が、そのいちばん土台のシステム、剥き出しのエゴだけで動き始めていることを知らせる凶兆。
今、前畑滋子はそれを目のあたりにしていた。かつて栗橋浩美が見たもの。高井和明が見抜いていたもの。
網川浩一は、無惨に口の端をひん曲げてあざ笑い、なおも声を張りあげた。
「冗談じゃない! 僕がそんな真似をするものか! 僕がやったことはオリジナルだ! すべてが僕の創作だ。僕が、僕の、この頭で考えて、一人でやってのけたんだ!」
誰も何も言わなかった。中腰になっていた報道記者が、すとんと椅子に腰を落とした。
目も口も、ぽかんと開いている。
「僕はサル真似なんかしない。絶対にしない!」
網川浩一は叫んだ。首に青筋を浮き出させて、大音量で叫んだ。どんな音響効果でもうち消せないほどにはっきりと、彼自身の声で叫んだ。
「僕はケチな模倣犯なんかじゃない。前畑滋子、おまえこそ模倣犯じゃないか! サル真似はあんたの方だ。僕がやったこと、僕がつくった筋書きを鵜呑みにして、栗橋浩美の心の闇だの、高井和明の根深い劣等感だのと、わかったような顔をして書きまくったのはおまえじゃないか! おまえは自分の頭じゃ何ひとつ考えられない。他人の尻馬に乗ることしかできない。え? そうだろ? 認めろよ。そうだって言えよ!」
だけど僕は違う! ひときわ大きな声で、ほとんど絶叫して、網川は滋子に詰め寄った。
「僕は自分で考えたんだ! 全部自分で考えたんだ! 何から何まで! すべてオリジナルなんだ! 栗橋だってただの駒だった。あいつは筋書きなんか何にも考えられなかった。ただ女どもを殺したいだけだった。高井和明を巻き込む計画だって、全部僕が考えたんだ。僕が筋書きをつくって実行したんだ! 手本なんてなかった! サル真似なんかじゃない!
僕は模倣犯なんかじゃないぞ!」
もう放送時間は終わっているのだろうか。テレビではコマーシャルが流れているのだろうか。あたしは上手くやってのけたのだろうか。目には目を。歯には歯を。頭のなかはそのことでいっぱいで、視線は網川浩一の顔に釘付けで、麻痺したように椅子のなかに沈み込んだまま、滋子は身動きもできず、何を言うこともできなかった。
見てますか[#「見てますか」に傍点]、皆さん[#「皆さん」に傍点]?
「網川君」
男性キャスターの声が聞こえてきた。遥か彼方から呼びかけられているみたいに、かすかに。ひょっとしたら、あたしは気が遠くなりかけてるのかもしれないと滋子は思った。
網川に劣らずはっきりと、しかし遥かに冷静に、その声は問いを投げかけた。
「今の発言では、君が真犯人であることを認めているように聞こえる。我々は、そう受け取っていいのだろうか?」
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その日、塚田真一は、昼過ぎからずっと有馬義男と一緒にいた。不動産屋まわりをしていたのだ。老人の引っ越し先を探すためである。
「店をたたんじまった以上、一人であんなところに住んでるのも不経済だからな。真智子の病院の近くで探すよ」
それを聞いて、義男から頼まれたわけではないのだが、真一は一緒について行くことにしたのだった。この引っ越し先を探すのに、義男一人で行かせるのは忍びない気がした。それもやっぱりお節介かもしれないが、いいじゃないか。実際、有馬義男は、まったくの一人暮らしをするのは初めてだから、勝手がわからんので、真一にいろいろ教えてほしいなどと言った。
「今までも、所帯としちゃ一人だったんだがね。それでも、店を開けてるあいだは孝さんがいた。朝飯と昼飯は、いつも一緒に食ってた」
「そうか……それだと、だいぶ寂しくなりますね」
「ま、真智子が退院できりゃいいんだがな」
「木田さんは、どこに店を開くんですか?」
「すぐ近所だよ。いい貸し物件が見つかってね」
だったら、あの店をそのまま使っても──と言いかけて、真一は言葉を呑み込んだ。それはいけない。それはできないだろう。
二人して結構な数の業者をまわり、いくつか物件も見て、好さそうなところのチラシをもらったり、義男は手帳に控えたりした。老人がチョッキの胸ポケットに入れている小さな手帳は、大豆の卸問屋が顧客に配ったサービス品だった。銀行や信用金庫のくれる手帳は使いにくいのだと、老人はチビた鉛筆で几帳面に字を書きながら言った。
夕方になると、義男はこのまま真智子の病院に寄ると言った。
「もしよかったら、僕もお見舞いに行かせてください」
義男は喜んだ。「それじゃ真智子の夕飯の世話が済んだら、私らもどこかで夕飯にしようか。今日は半日付き合ってもらったから、奢るよ」
「いいですよ、勝手についてきたんだから」
「まあ、そう言いなさんな」
古川真智子は四人部屋の窓際のベッドで、静かにテレビを観ていた。一見したところは、顔色が悪いし痩せているということさえ除けば、どこが悪いのかわからない。怪我の方もだいぶ良くなっているのだが、まだ歩行がおぼつかないということだった。
真一が挨拶し、義男が優しく声をかけても、真智子は口をきかなかった。ぼんやりとした視線は、どこを見ているのかもわからない。焦点が合ったり、ぼけたり、また合ったり、それがどういう法則でそうなっているのか、外から見ただけでは見当がつかなかった。義男は一向にかまわず、真智子の夕食の世話をしながら、アパートを見てきたことや、木田の店が来週開店することなどを、楽しそうに話しかけていた。
それじゃ、また明日来るからな。義男が真智子に言い、相部屋の人たちに頭を下げて、一緒に病室を出るころには六時半を過ぎていた。階段を降りながら、義男は言った。
「担当の先生は、真智子は良くなると言ってくれてる」
「それは……」
「うん、あの人形みたいな様子を見たら、にわかには信じられんだろ。でも、良くなるってさ。実際、真智子にはこっちの声も聞こえてるし、私らが誰かとか、自分のまわりで何が起こってるかってことも、わかってるはずだって先生は言うんだよ。ただ、まだそこへ出て行く勇気がないだけだろうって」
そうですかと、真一はうなずいた。
「人間の心は、あんまり悲しいことがあったとか、恐ろしいことがあったとかいう時には、そういうふうに閉じちまうことがあるんだと。だけど、全部壊れちまったわけじゃない。一時は、本当に壊れたみたいになってたけどもな、無事な部分だって、真智子のなかに残っていたんだ。先生は、むしろ、足の治りが悪い方が気になるって。あんな状態だから、自分でリハビリをやってねえだろ。ひょっとすると、退院しても、しばらくのあいだは車椅子のお世話になることになるかもしれんね」
「それだったら、アパートも広い方がいいですね。バリア・フリーで」
「そうだな。あとは家賃との相談よ」
「古川さんは──つまり、鞠子さんのお父さんは、もう全然あてにはできないんですか」
義男は首を振った。「援助してくれるとか言ってきたけど、こっちから断っちまったんだ。少し、早まったかな」
「茂さんでしたっけ。真智子さんに対してだって、責任がありますよ」
「責任とか言い出すと、また面倒くさいよ。けども、あの男は」義男はよいしょと階段の最後の段を降りて、外来者用の通用口へ向かった。「あの男なりに、やっぱり気が咎《とが》めているんだろうな。それは認めてやらないといかんなというふうに、最近は思うようになったよ。以前は怒っとったから、そんなふうには思えなかったんだが」
茂だって、大事な娘を失ったことは確かなんだからと、小さく呟いた。
病院の建物を出たところで、真一は携帯電話の電源を入れた。病院のなかでは切っておいたのだ。すると、留守番電話に水野久美のメッセージが残っていた。十分ほど前にかかってきた電話だった。
かけ直すと、彼女は今どこにいるのと尋ねてきた。「道を歩いてるよ。有馬さんと一緒に」
「これから二人で、どっか行くの?」
「夕飯食おうかって。混ざりたい?」
そばで義男が笑って、「奢るぞ」と言った。
「来るか?」
「混ざるのは混ざりたいけど」久美は早口で言った。「テレビも見たいの。これから始まる特番に、前畑さんが出るのよ。網川と一緒に」
一瞬、真一は絶句してしまった。「何でまた?」
「わからない。HBSだけど、由美子さんの自殺のことだって、きっと取り上げられるはずよね? あたし、心配で。それで電話してみたんだけど──有馬さんはもう、こんなテレビなんか見たくないかな……」
義男は、見ると言った。「途中で買い出しをして、うちに帰ろう。何でもいいや、鍋にぶちこんだらそれらしいもんになるだろう」
結局、久美も駆けつけてきて、三人でテレビを見た。思ったよりも滋子が元気そうでよかったと、真一は思った。久美もそう言ったが、「でも、痩せたね」と顔を曇らせた。
「網川浩一もしょげてる」
「当然よ」
何か新しい発見や展開がある番組ではなさそうだった。ただ、やはり由美子の死の影響が大きいのか、視聴者から寄せられる声のなかに、網川を非難するようなものが混じっていることが、真一には意外でもあり、新鮮に感じた──
そうやって最後まで見ていたら、新鮮どころの騒ぎではなかった。
「僕は模倣犯なんかじゃないぞ!」
網川浩一が叫ぶ。その蒼白な顔をアップにして、番組はいきなりコマーシャルに切り替わった。清涼飲料水のコマーシャルだった。
誰も、ひと言も発しない。次のコマーシャルが始まった。今度は車だ。ミッドナイトブルーのセダンが走る。
ガチャン! と音がした。我にかえって、真一は振り返った。食事に使った皿や茶碗を重ねて台所に運ぼうとしていた久美が、それを取り落としたのだった。
「ケ、ケガして──」
ないかと近寄る真一を突き飛ばして、久美は義男のそばに飛んでいった。「有馬さん! 有馬さんしっかりして! しっかり!」
義男の顔は、さっきの画面のなかの網川よりも真っ白になっていた。鉛色のくちびるが、ぶるぶると痙攣している。身体は座った姿勢のまま固まって、手は拳に握りしめ。開くことができないようだ。
「息をして! 有馬さん、息をするんだよ、息をしろってば!」
「き、救急車」久美が這うようにして電話に向かった。
「だ、だい、大丈夫、だ」がくがくと顎を開いて、義男は呻くような声を出した。「大丈夫だ、大丈夫だよ」
激しくまばたきをして、義男は震え出した。ゆっくりと指を開き、それが動くことを確かめるように、じっと目を凝らしている。
「大丈夫だよ、私は大丈夫だ。息が停まったりしてないよ」二人の顔を見回して、義男は言った。
CMが切れて、出し抜けに画面が先ほどのスタジオに戻った。雛壇には向坂アナウンサーと男性キャスターがいるだけだ。スタッフが画面の前を走り抜ける。向坂アナは、画面外の誰かとしきりに話している。
「中継が戻った」真一は言った。「なんてこった。ホントなんだ。さっきのあれ──本当に生中継で──」
男性キャスターが、画面に向かって話し始めた。落ち着いているようには見えるが、さすがに急いていた。また画面の端にスタッフがちらちらする。
「なんてこった」と、義男は言った。「ああ、なんてこったよ。あいつが犯人だったのか。全部、あいつがやったことだったのか」
網川浩一がスタジオを飛び出したあと、滋子はスタッフに誘導されて控え室に戻った。誰か迎えに来るまで、ここにいて欲しいと言われた。そんな要求などされなくても、滋子は一人ではどこにも動けなかった。止めようがないほどに全身が震え始め、腰をおろすどころか、椅子を引いて動かすことさえできなかった。とうとうその場にしゃがんで、膝を抱いた。
外の廊下を人が走り抜けてゆく。声が飛び交う。どこだ? こっち、こっち! カメラを回せ! 四階だ、四階だ!
ファイルはスタジオに残してきてしまったけれど、本は大事に抱えていた。それを胸に抱きしめて、滋子は目をつぶった。ああ、ありがとう、ありがとう。上手くいった、上手くいった、上手くいったわ。
電話が鳴っている。しきりと鳴っている。控え室に残しておいた滋子の携帯電話だ。だが、立ち上がると目が回りそうで、電話のそばまで行くことができない。鳴っている。鳴っている。切れた。また鳴り出す。鳴り続ける。
ようやく、滋子は携帯電話をつかんだ。耳にあてて、またしゃがみこんだ。
「もしもし?」
男の声だった。手嶋だろうかと思った。
「もしもし? もしもし? 滋子、滋子か? 滋子、そこにいるのか?」
手嶋ではなかった。前畑昭二の声だった
「滋子! 滋子なんだろ! 返事をしろ! 返事をしてくれよ!」
「も──もしもし?」滋子には、自分の声がヘンなふうに聞こえた。さっきまでと違うからだ。マイクを通してない肉声だからだ。おかしいわね、たかだか二時間ばかり、テレビに出ていたっていうだけなのに、もう生身の声の方が違って聞こえるなんて。
「昭二さん?」
「滋子!」吠えるように、彼は呼びかけてきた。「ああ、良かった! 無事なんだな? おまえ、大丈夫なんだな? 今どこにいるんだ? おまえ、安全なとこにいるのか? え?」
泣き声がこみあがってきて、滋子は手で口を押さえた。「……うん。大丈夫よ」
「一人でいるのか? どこだ?」
「まだテレビ局。控え室」
「一人でいちゃ駄目だ! 危ないよ! 俺、そっちへ行くから! 行くからな、待ってろよ、滋子!」
「ショウちゃん」滋子は泣きながら笑った。「大丈夫よ。あたしは無事だから」
「バカ言ってんじゃねえよ! 網川はまだそこにいるんだ! テレビでやってるぞ! どっかに立てこもってるって! テレビ局のなかに!」
そういうことになっているのか。それで四階にカメラを回せって騒いでるのか。
「それなら安心よ、ショウちゃん。テレビで確かに、あいつは局のなかにいるって言ってるんでしょ?」
「うん。スタジオを出て、下へ降りようとして止められて──外へ逃げ出そうとしたみたいだけど、そうは問屋が卸すかってんだ──そんで、どこかに閉じこもっちまったとかって。でも、まだ詳しいことはわかんねえ」
「混乱してるのよ。でも、あいつはここにはいないから。このフロアにもいないんだと思うよ。静かだもの」
「そうか」昭二は長々と安堵のため息をもらした。「それでも俺、これからそっち行くわ。滋子の亭主だって言えば、通してくれるだろ。な?」
「わかんない」滋子はまた笑った。涙がこぼれた。「でも、今ごろは警察も駆けつけてきてると思うし、入れてくれないんじゃないかな。もともと、網川浩一には警察が張りついてたしね」
「そうなのか……」
「うん」
「そしたら、警察もあいつのこと疑ってたのか?」
「だいぶ前からね。だけど、これは内緒よ。誰にも言わないって約束したんだ」
「警察と?」
「うん」
少し、間があいた。それから昭二は、うわずったような声で言いだした。「滋子、おまえ、よくやった」
「そう?」
「うん。偉い。偉いよ。おまえが……おまえがあいつに……白状させたんだもんな」
そうだねと、滋子は言った。本格的に泣き出してしまって、もう言葉にならなかった。
「そうだよ」昭二は言った。「おまえがあいつに白状させたんだ」
泣いていた。
「滋子は偉い。よくやった。すごく頑張った」
「……うん」
「だから、もういいよ。網川が捕まるまで、隠れてろ。な? 見つからないように隠れてろ。あんな奴だから、まだ油断ならねえ。どんな汚い手を使って逃げ出すか、わかったもんじゃねえからな。隠れてろよ、いいな? 俺が行くまで、隠れてろ。俺が呼ぶまで、誰に呼ばれたって出ていっちゃ駄目だぞ! いいな!」
滋子は答えた。「うん!」
網川浩一は、HBS本館四階の資材室に立てこもっていた、人質はいない。彼一人でそこへ逃げ込み、ひとつしかないドアに内側から鍵をかけてしまったのだ。まず局の警備員たちが、次には網川に張りついていた捜査本部の直近監視班が、包囲を固めて網川に声をかけた。が、返事はなかった。
HBSは、以降のすべての番組の放送予定を変更し、網川が立てこもった資材室のある四階フロアからの中継と、報道特別番組のスタジオからの中継を織り交ぜて、この状況を伝えていた。他局も予定の番組を中断し、ニュース速報を報じ始めた。HBS報道スタジオのモニター画面には、各局の中継がずらりと映し出される、ただひとつ、網川浩一が今現在存在している四階フロアを映し出しているHBSだけを除き、その他のモニターには、実に様々な画面が切り替わり、切り替わりして登場した。報道スタジオ。HBSの社屋前からの中継、さきほどの特番の場面のビデオ。網川浩一の写真。かつて彼が出演した他局のビデオ。女性キャスターと話して笑う網川。高井和明の無実を訴えかける網川。
古川鞠子の笑顔を映したモニターもあった。日高千秋の生真面目そうな制服姿を映したモニターもあった。移り替わるモニター画面のなかで、網川と鞠子の顔が並んで映る瞬間もあった。高井和明と、栗橋浩美と並んで映る瞬間もあった。
携帯電話が鳴り出したとき、真一はまだ有馬義男と一緒にいた。水野久美もすぐそばにいて、テレビの前で、ぴったりと真一に身を寄せて、彼の腕につかまっていた。
「誰?」
真一が電話に出ると、久美が尋ねた。義男はテレビに目を向けている。
「もしもし?」
返事がない。久美と目を合わせ、間違いかな──と言いかけたとき、聞こえた。
「塚田君かい?」
真一は、胸の内側を蹴りあげられたような気がした。手痛い打撃を受けた心臓が、抗議するように激しく動悸を打ち始める。
「塚田君だろ。聞こえてるかい?」
網川浩一だった。
「誰から?」久美がもう一度尋ね、真一の顔色に怯えるように、はっと身を離した。
「誰からなの?」
真一は手のなかの携帯電話を見おろした。それから、ゆっくりと耳にあて直した。
「もしもし?」
間違いない。聞き間違えようがない。
義男が訝しそうにこちらを見ている。久美が、何だかわからないが何かから真一を引き離さないといけない──というように、ひしと腕にすがり直す。
やわらかく彼女の腕を押さえ、少し退《ひ》いて、真一はゆっくりと応答した。
「聞こえてるよ。僕は塚田です。あんたは網川さんだね」
久美が両手で頬を押さえると、一瞬、まるで真一が網川浩一その人であるかのように、彼が魔法のように真一と入れ替わってそこに現れ出たかのように、そしてその忌まわしい存在に触れたくないとでもいうかのように、後ずさりした。
義男が腰を浮かせ、真一のそばに来た。真一から目を離さないまま、手探りでリモコンをつかみ、テレビを消した。
「そうだ、僕だよ」網川は答えた。落ち着いた口調だった。真一が不本意ながら聞き慣れてしまった、あの闊達なしゃべり方を、彼は取り戻していた。
「今、どこにいるんだよ?」
網川はちょっと笑い声をたてた。「知ってるくせに、どうして訊くんだ? テレビ、見てたんだろ? 僕はHBSにいるよ。雪隠づめだ。出られないんだ」
「テレビじゃ、あんたが自分で立てこもったって言ってるよ」
「そう見えるようだね」
「出たけりゃ、出りゃいいじゃないか。ドアを開けてさ。簡単だ」
「その気になったら、そうするよ。でも、今はまだここにいる」
「時間を稼いだって、もうあんたに逃げ道はないよ」
「本当にそう思うか?」
その問いが、あまりに自信に満ちていたので、真一はひるんでしまった。
「警察があんたを囲んでるんだろ?」
「物理的にはね。でもそれはそれだけのことだ」
「ほかに何があるっていうんだよ」
「人間の心は、捕まえることも閉じこめることもできないって言ってるだけさ」
網川は笑った。実際、楽しそうだった。ここまで来ても、楽しそうだった。
「君に電話したのは、そのことを教えてあげようと思ったからだ。当分、外部には電話ができないだろうからね。たぶん、刑務所で落ち着くまでは」
まだ理屈を並べている。負け惜しみだ。こいつは生中継の番組で、全国の視聴者の面前で、滋子さんに化けの皮を剥がされた。その失点を、少しでもいいから取り返そうとしているのだ。卑しい奴だ。引き際を知らない奴だ。
それなのに、なんでこんなに不安な気分にさせられるんだろう?
「僕は書き続けるよ」と、網川は言った。「これからも筋書きを創り続ける。大衆にアピールする筋書きを。僕の発言に、きっと耳を傾け惹きつけられるだろう若者たちに与える筋書きを。それは、誰にも止められない。そして僕の言葉は、人間の心の闇を解き明かす光になって、彼らの道を照らすんだ」
今回だって、上手くいってたんだと、ほんの少しだけ悔しさをにじませて、網川は言った。「ただ、高井由美子が自殺しちまったのは、まずかった。あれは僕の失策だ。あれから流れが変わった。それは認めるよ。もっと慎重に動くべきだった。だけど僕は、いささか彼女にうんざりしてたんだ。感情に左右されてはいけないという、貴重な教訓を得たよ」
まるで、大事な一戦に敗北した監督が、記者に敗因を問われて答えているような口ぶりだった。そうですね、今日は負けました。でも、明日は頑張りますよ。
「何とでも言え」真一は声を荒らげた。「こんなに大勢の人を殺して、おまえは死刑になるんだ。何が教訓だ。そんなもの、おまえにはもう必要ないよ」
「あるさ。だって、たとえ死刑になるとしても、刑が確定するまで十年? 十五年? いや、二十年はかかるだろうな。それから執行までも時間がある。僕はいくらだって仕事ができる」
真一は腕をあげて額の汗を拭った。義男は真一のすぐそばに顔を持ってきて、携帯電話に耳を寄せている。水野久美は震えている。
「裁判だって、きっと愉快だろう」網川は続けた。「みんなが僕の話を聞きたがる。僕だけが知っている真実を聞きたがる。事件の全貌を明らかにするには、僕の協力がなくてはならないんだからね。ジャーナリストたちだって、競って僕に会おうとするだろう。犯罪心理学者たちは、僕を分析したがるだろう。そして僕のしたことは記録に残る。本だって、何冊も出るだろう。もちろん僕も書くよ。だけど、書きたい奴には書かせてやるさ。いくらだって取材を受けてやる。質問に答えてやる。そして相手ごとに違うことを言ってやるんだ。そいつが求めている答を投げてやるんだ。そして出来あがったそいつの本が、僕の書いた本と、僕の真実の告白と、どれほど食い違っているかを示して、笑い者にしてやるんだ。愚かな大衆には、僕を分析したり理解することなんてできない。ただ僕の存在を認めることしかできないんだ」
腹の底から、ほとんど怒りさえも通り越して、純粋な疑問が浮かんできた。そして真一は、それを口に出した。
「あんたは何者だ」
いったい何をしようとしているんだ。
「僕は網川浩一さ」と、彼は答えた。「誰もが忘れられない名前さ」
真一は目を閉じた。こんな電話、切ってしまおう──
「樋口めぐみがいるよ」と、網川は言った。
「何だって?」
「HBSのそばの駐車場で、僕の車のなかで待っている。今夜の番組が終わったら、ゆっくり食事でもしながら彼女の話を聞こうと思っていたんだ」
「話を聞くって──」
「大川公園で会ったときのこと、覚えてるだろ? 僕は彼女に頼まれた。樋口秀幸の事件を本に書いてくれって。僕はその依頼を引き受けたんだ。あれから、彼女とは連絡をとりあっていた。このところしばらくのあいだ、彼女は君の近くに姿を見せなかったろ? 僕が本を書くと約束したことで、彼女、気持ちが落ち着いたんだよ」
血が下がって、腰のあたりから身体の外へ出てゆくような感じがした。呼吸をしても、酸素が肺まで入ってこない。心臓まで届かない。
「局の駐車場に停めたかったんだけど、僕には警察が張りついてたからね。彼女と一緒にいるって悟られたくなかったから、外の駐車場に停めたんだ。彼女はそこで、おとなしく僕が迎えに行くのを待ってるよ。たぶん、こんな状況になってることを、全然知らないだろうからね。僕が行くまで、車で寝てると言っていたから」
彼女はもう君には近づかないよと、網川は言った。
「だから、会って話すならこれが最後のチャンスだ。今後は、いくら君の方から彼女に連絡をとろうとしても、彼女は応じないだろうからね」
「どうして俺が──」
「会って、話を聞いておいた方がいいよ。そうでないと、覚悟ができないだろうからさ。僕は樋口秀幸の本を書く。娘のめぐみさんの主張を充分に取り入れて、ね。その際に、君には取材しない。君のやったことは、ミスだったかもしれないけれど、あまりに大きなミスだった。ご家族の死に、君は責任がある。僕はそのことを書く。君の言い分は聞きたくない。事実だけで充分だ」
水野久美が真一の腕に触れた。空いている方の手で、真一はその手をつかみ、しっかり握った。
「抜き打ちは公平じゃないからね。身柄を拘束される前に、君に伝えておきたかったんだ」網川は駐車場の場所を教えた。「僕は車を買い換えたけど、広い駐車場じゃないから、一台一台のぞいて探せばすぐに樋口めぐみが見つかるだろう。何なら、彼女に土下座して頼んだらどうだ? 網川なんかに本を書かせないでくれってさ。誰も見ていないから、何をやったって恥ずかしくない」
笑っている。
「それだけ言いたかったんだ。じゃあな」
そのとき、じっと固まっていた真一の手から、有馬義男が電話を取り上げた。
「まだそこにいるか」
老人は、張りのある声で呼びかけた。
「おや?」
「私は有馬義男だ。古川鞠子のじじいだよ」
「へえ……塚田君と友達になったんですか」
義男は網川の問いには答えなかった。しっかりと携帯電話をつかむと、震えもせず、臆することもなく、一語一語はっきりと、警告するように、言葉をぶつけるように、話し始めた。
「私はあんたなんぞと話をしたくはない。だが、言っておきたいことがある。だからそれを、これから言う」
網川は沈黙している。
「あんたはいろんなことを言ってきた。今も、いろんなことを言った。偉そうに、もったいぶって、わかったようなことを、さんざん言った。だがな、あんたは自分が何者なのかってことは、全然わかっとらん」
「そうですか」網川は冷静に応じた。「それじゃ、僕は何者なんでしょうか、有馬さん」
有馬義男は答えた。「人でなしだ。ただの人でなしの、人殺しだよ」
怒っているようにさえ、真一には見えなかった。長いこと心にのしかかり、この身を苦しめていた謎が、やっと解けた。むしろ、義男は晴れ晴れとした目をしているようにさえ見えた。
「人間はな、ただ面白がって、ただ愉快に、ただ世間様からちやほやされて、派手に世渡りできりゃ、それでいいってもんじゃないんだ。てめえの言いたいことだけ言って、やりたい放題やって、それでいいってもんじゃないんだ。それは間違ってるんだ。絶対に間違ってるんだ。あんたはたくさんの人を騙したが、結局はその嘘もばれた。嘘は必ずばれる。本当のことっていうのはな、網川。あんたがどんなに遠くまで捨てにいっても、必ずちゃんと帰り道を見つけて、あんたのところに帰ってくるものなんだよ」
真一は聞いていた。耳を傾けていた。義男の言葉を。ただそれだけを。
「あんたさっきから、二言目には大衆≠ニ言ってるな。愚かな大衆だの、大衆にアピールするだの。あんたの言うその大衆≠ニやらは、いったい何のことだ? 私にはわからんね。あんたが生まれるずっとずっと前に、私らは国が滅びるかっていうくらいの大戦争をした。だけどそのときだって、ひとまとめにして大衆≠ネんて呼ばれるもんは、どこにもなかったよ。私らはみんな大日本帝国の国民だったけども、死んだり焼かれたり飢え死にしそうになったりする時には、みんな一人一人の人間だった。だから辛かったし、怖かったんだ。あんたは大衆≠セの若者≠セのの言葉を気軽に使って、それでもって何もかもひとくくりにしとるけど、そんなものは幻だ。あんたの頭のなかだけにある幻だ。大方、その大衆≠ネんぞという幻も、どこかの誰かが言っていたことを、そのまま借りてきたんだろうけどな。それがあんたの得意技だから。あんたは物真似猿だからな」
網川が声を張りあげた。「前畑滋子は嘘つきだ! 僕は模倣犯なんかじゃ──」
「黙って聞け!」
義男は一喝した。
「あんたがこんな非道いことをして殺したのは、あんたの言う大衆≠ニやらのなかの、取り替えのきく部品みたいなもんじゃなかった。どの人も、一人の立派な人間だった。その人たちを殺されて、傷ついて悲しんでる人たちもそうだ。みんな一人一人の人間なんだ。そしてあんた自身だってそうだ。どうあがいたって、どんな偉そうな理屈をこねたって、あんただって一人の人間に過ぎん。歪んで、壊れて、大人になるまでに大事なものを何ひとつ掴むことができなかった哀れな人間に過ぎんよ。そうしてあんたは日本中の一人一人の人間の目に、そういうあんた自身の姿をさらしてるんだ。あんたをじっと見つめているのは、あんたが頭のなかで考えてる大衆≠ネんてお人好しの代物じゃないよ」
携帯電話を握り直すと、義男はさらに声を強め、まるで目の前に網川が立て籠もっている資材室のドアがあって、そこに向かって呼びかけているみたいに、しっかりと視線を定めて言葉を続けた。
「あんたはさっき、自分のことを、誰もが忘れられない名前だって言ったな? そう言ったな? だが、それは違う。みんな忘れるよ。あんたのことなんか、みんな忘れちまう。ケチで、卑怯で、コソコソした嘘つきの人殺しのことなんざ、みんな忘れちまう。私らはそうやって、要らないことは忘れて生きてきたんだ。済んだことは忘れて生きてきたんだ。戦争のことだって、そうやって片づけて、忘れて生きてきたんだからな。だけども、あんたは忘れられないだろう。みんなが自分のことを忘れても、あんたは忘れられないだろう。そんで、なんでみんながあんたのことを忘れちまうのか、あんたなんか最初からこの世にいなかったみたいに忘れちまうのか、わからなくて悩むんだ。どうしてもわからなくて、悩むんだよ。それがあんたの受ける、いちばんの罰だ」
網川が何か言ったが、小さな声だったから、真一には聞き取れなかった。
「世間を舐めるんじゃねえよ。世の中を甘く見るんじゃねえ。あんたにはそれを教えてくれる大人がいなかったんだな。ガキのころに、しっかりとそれをたたき込んでくれる大人がいなかったんだな。だからこんなふうになっちまったんだ。この、人でなしの人殺しめ。私の言いたいことは、それだけだ」
言葉を切ると、義男は真一に携帯電話を差し出した。真一はそれを受け取ると、指先に力を込め、強くボタンを押して、通話を切った。
「行くのかい?」
「ええ、行ってきます」
いつの間にか、外ではみぞれ混じりの雨が降りしきっていた。戸口に立って、真一はジャケットのボタンをかけた。
「傘、これ持ってけ」義男はビニール傘を差し出した。「それと、金。金持ってけ」
「大丈夫ですよ、電車賃くらいなら持ってるから」
「だけど、この天気だ。何があるかわからねえ。持ってけ」義男は身体を叩いてサイフを探し、大急ぎで座敷にとって返し、そこらじゅうを探し回った。そして、くしゃくしゃになった一万円札と五千円札、小銭をつかんで持ってきた。
水野久美が真一にうなずきかけた。真一は、差し出された義男の手から、金を受け取った。
「それじゃ、お借りしていきます」
空を見上げて傘を開いた。冷たいみぞれが頬に降りかかった。
「すぐ帰ってくるよね?」と、久美が尋ねた。
「うん」
勇敢な子供のように笑って、久美はうなずいた。「じゃ、待ってる」
「うん」
教えられた駐車場は、入り組んだ赤坂の町の一角にあった。本当に小さな、コイン式の駐車場だった。
降りしきる雨を透かして、頭上にのしかかるように立ちはだかるHBSの社屋が見える。すべての窓に明かりが灯り、サーチライトの筋も空を照らしていた。
探し回らなくても、網川の車はすぐにわかった。薄暗い駐軍場の明かりだけを頼りにしても、後部座席で身体を丸め、膝掛けをかぶって眠っている樋口めぐみを、真一は見つけることができた。
窓を叩いた。何度も叩いた。ようやく彼女の頭が動き、顔がこちらを向いた。
傘をさしたまま、真一は窓に屈み込んだ。めぐみは何度かまばたきをし、頭を振ると、ぐるぐるとまわりを見回した。最初に、ダッシュボードの時計を見たようだった。午前零時に近い。
ひとしきり操作に迷ってあわててから、めぐみはやっと窓を開けた。
「何よ?」と、寝起きのかすれた声で言った。「あんた、ここで何してんのよ?」
「網川は来ないよ」と、真一は言った。
「え?」
「事情がわからないだろうけど、とにかく来ないよ。あとでラジオでも聴いてくれ」
「どういうことよ?」
右手から左手に、真一は傘を持ち替えた。幸い、凍るように冷たいが静かな雨だった。風もなかった。大きな声を出さずも、言いたいことが、ちゃんと言えた。
「俺は、おまえのこと、やっぱり許せない」
めぐみは険しい目で真一の顔を仰いだ。
「でも、おまえも犠牲者だってことは、わかってきた」
「今さら何言ってんのよ」
「だけど俺にはおまえを助けることなんかできない。おまえの親父さんを助けることができないのと同じようにな。俺にはできない。だから、誰かほかに、おまえを助けてくれる人を探しなよ」
めぐみは手で目をこすった。夢でも見ているのかしら、という顔だ。
「だけど気をつけろ」と、真一は続けた。「世の中には、悪い人間がいっぱいいる。俺やおまえみたいに、辛いことがあって、一人じゃどうすることもできなくて、迷って苦しんでるような人からも、何かしぼりとろうとしたり、騙そうとしたり、利用したりしようとする人間が、いっぱいいる」
雨は降りしきる。銀色に凍って。
「だけど、そうじゃない人だって、やっぱりいっぱいいるはずなんだ。だから、おまえはそういう人を探せ。本当におまえを助けてくれる人を。俺に言えることは、それだけだ」
しばし、じっと真一の目をのぞいてから、めぐみは尋ねた。「網川さんは?」
「あいつはもう来ない。あいつは、おまえを助けてはくれない。もともと、あいつにはおまえを助ける気なんかなかったんだ。自分のやりたいことをやるために、おまえを利用しようとしていただけだ」
「だけどあたしは──」
「本当におまえの言い分を聞いてくれる人を見つけろよ。おまえが──親父《おや じ 》さんのしたことに立ち向かえるように、手助けしてくれる人を。探せば、きっといるはずだから」
「そしたらあたし、言うわよ。そういう人に、言うわよ。本当はあんたが悪いんだって」
「いいよ。言えばいい。それがおまえの言い分なんだから」
「嘘だってつくかもしれないわよ。あんたそれでいいの」
「いいよ」
真一は微笑しようとしたが、それはできなかった。代わりに、また傘を持ち替えた。有馬義男が貸してくれた傘を。
「嘘をついて気が済むなら、つけよ。俺は平気だ。自分のしたことは、自分でちゃんとわかってるから。それに──」
「それに?」
「本当のことは、どんなに遠くへ捨てられても、いつかは必ず帰り道を見つけて帰ってくるものだから。だからいいよ。俺は俺で──これからの自分のこと、考えるから」
めぐみの顔に、それまで真一の見たことのなかった表情が、ゆっくりと浮かんだ。さほど遠くない過去、高井由美子という娘と出会ったとき、彼女がめぐみを労《いたわ》るように、その引きつって窶《やつ》れた顔の向こうに見える何かを慰めるように、目を向けてくれたときにだけ、わずかに浮かべたことのある表情。
「いつまでもここにいると、警察が網川の車を捜しに来るぞ」
「警察?」
「ゴタゴタは嫌だろ? 早くどっか行けよ。行くあてはあるのか?」
「ママのとこ」
「じゃ、行けよ。金、持ってる? 遠いとこだと、電車はそろそろなくなるよ」
めぐみは返事をしなかったが、真一はポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃの札を引っぱり出した。
「これは、俺の金じゃない。有馬さんて人から借りた金だ」
めぐみは口を尖らせた。「あとで返せって言うの?」
「そうじゃない。だけど、誰から借りた金かってことぐらい、知っておいた方がいいだろ?」
「あんたに貸してくれたお金なんでしょ? あたしがもらったら、まずいんじゃないの」
「大丈夫だよ。有馬さんは、俺がこうするってこと、わかってて貸してくれたんだ。だから貸してくれたんだ。そういう人だから」
めぐみは札を受け取った。
「ちゃんと家に帰れよ」
それだけ言って、真一は踵を返した。駐車場を出て、駅に向かった。振り返らなかった。それでも、めぐみの顔が見えた。薄暗がりのなかで見ためぐみの顔が、目の裏に鮮やかに焼きついていた。これまで、彼女の顔は何度も見てきた。怯えながら、怒りながら、逃げながら。彼女の詰《なじ》る顔を。媚びる顔を。責める顔を。それがあまりにも悪夢のようだったから、一人の人間としての樋口めぐみの目鼻立ちや、声や、姿をちゃんと覚えることができなかった。いつ見ても、初めて見るように脅威を感じた。だからこそ彼女に遭遇するたびに、驚きで新しい傷口が開いたのだった。
でも、今度は違った。背中を向けて遠ざかっても、電単に乗っても、氷雨に濡れながら夜道を歩いても、長いこと、真一は目の裏に彼女の顔を見ていた。
そして、ようやくそれに別れを告げた。
午前四時二六分、網川浩一は自ら資材室のドアを開け、待ち受けていた警官隊に投降した。前畑滋子との対決から、七時間半後のことだった。
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33
身柄を拘束されると、網川浩一は、まったくしゃべらなくなった。完全黙秘の姿勢を守った。
しかし、山荘≠ヘ雄弁だった。家宅捜索により、捜査本部は数々の物証を発見した。被害者の遺留品。毛髪。衣服の繊維。指紋。
そして遺体の捜索も始まった。広い山荘≠フ庭に、いったい何人の亡骸が埋められているのか。
山荘≠ヘ次々と秘密を吐き出し、白骨化した被害者たちを吐き出した。個体識別にはまた時間を要する。事件がどれほどの規模のものだったのか、最初の犯行がいつで、最終的に何人が殺害されているのか。現段階ではまだ推測さえできないと、捜査本部は発表した。
早期に個体識別のできた白骨遺体のなかには、網川浩一の実母・天谷聖美の遺体があった。庭の北東側の隅に、手足を折り曲げて埋められていた。その穴は、他の遺体が埋められていた穴よりも、ずっと浅かった。発見が早かったのも、そのためだ。
実母の殺害が、網川浩一の最初の殺人だった。天谷聖美が山荘≠ノ移り、ひとり暮らしを始めたときに、彼は彼女を殺し、遺体を埋めた。天谷家と絶縁した聖美には、事実上、浩一しか親族がいなかった。彼が母親を殺し、沈黙を守ったならば、彼女の安否を気遣う者は、地上には一人もいなかった。
なぜ網川は母親を殺したのか。山荘≠ニ、彼女の金を自分のものにしたかったからなのか。他にも理由があったのか。
網川は答えない。今はまだ、彼にとってはその時ではないから。準備が要るから。まだ筋書きができていないから。
しかし山荘≠ヘ倦《う》まず弛《たゆ》まず事実を吐き出し続けた。やがて数々の疑問に、網川が答え始めるよりも先に、明らかにできるものはすべて明らかにしてしまおうというかのように。網川の述べる答よりも、まず事実を、ここで成された事柄を、そこで死んだもの、殺されたもの。傷つけられたものを、光の下に晒してしまいたいというように。そしてそれを見てもらうことを請い願うように。どんな言葉より、どんな説明より。どんな解釈よりも確かなのは、事実なのだから。
捜索が続いているあいだ、静かな山中は捜査員たちと報道関係者でごった返した。野次馬も詰めかけた。立入禁止区域ギリギリのところまで押しかけて、警備の警官たちと騒動を起こす若者グループなども出てくる始末だった。
そんな喧噪のなか、あの十一月四日の夜、栗橋浩美が高井和明を呼び出して待ち合わせたカフェテラス「銀河」を、一組の夫婦が訪れた。小柄な夫人に支えられ、やっと歩いているという様子の夫は、明らかに患っているらしく、顎は尖り、顔色は土気色、足元もおぼつかない
彼らをテーブルに案内したウエイトレスは、あの日、栗橋浩美を若い音楽家と勘違いして声をかけたウエイトレスだった。彼女も警察から何度となく事情を聞かれたし、マスコミの取材も受けた。近頃ではやっとそれが一段落してホッとしているところだった。
「カフェ・オレを二つ」
オーダーを受けてテーブルを去ろうとするウエイトレスを、夫人が呼び止めた。
「おかしなことを伺うようですけど」
「はい?」
「あの事件で──このお店ですよね? 十一月四日の夜に、栗橋君と高井君が立ち寄ったのは?」
「ええ、そうですけど」ウエイトレスは警戒した。この人たちもマスコミなのかしら。
「どのテーブルに座ったのかしら」
尋ねてから、ウエイトレスの表情を見て、夫人は急いで言い足した。
「野次馬じゃないんですよ、わたしたち。主人が昔、あの子たちを知っていたもので」
ぐったりと椅子にもたれていた夫の方が、ゆるゆると目をあげてウエイトレスを見ると、うなずいた。
「夫は教師だったんです」と、夫人は言った。「特に、高井君のことはよく知ってました。水泳部の顧問だったから」
柿崎校長は警察の事情聴収にこそ協力しているが、テレビには出ず、どんなインタビューも取材も受けていない。だから、ウエイトレスには何もわからなかった。目の前にいるこの病人が、中学時代に高井和明の視覚障害に気づき、彼の人生に希望を与えた教師であったことなど、知る由もない。
何だかよくわからないけど、結局は野次馬じゃないの? ウエイトレスはそう決めつけた。「あの二人はここに来たようですけど、どのテーブルに座ったかなんて、わたしにはわかりません。店長だって覚えてないと思いますけど」
「そうですか。それならいいんです。ごめんなさいね」夫人は気弱に微笑した。「ただ、わたしたち、あの子たちが亡くなる前に立ち寄った場所を、全部回ってみようとしてるんです。主人がどうしてもそうしたいってね。お医者さまには止められたんですけど、どうしてもって。この後は、グリーンロードに行きます」
そのとき初めてウエイトレスは、見るからに具合の悪そうな夫の方が、少し涙ぐんでいることに気がついた。
つっけんどんにあしらったことに、急に気が咎めてきた。だから急いで言った。
「高井さんて、悪くなかったんでしょ? 細かいことはまだわからないけど、巻き込まれただけだったらしいですよね?」
「ええ、そうね」夫人は言って、手を伸ばし、夫のコートの襟をかきあわせてやった。
「どんな人だったんですかね、高井さんて」
すぐには、返事はなかった。ウエイトレスはテーブルを離れようとした。と、かすれたような小声が聞こえた。
「いい子だった」と、病気の夫は言っていた。身を屈めないと聞き取れないほどの弱々しい声だった。
「いい子だった」と、柿崎校長は繰り返した。慰めるように。抱《いだ》くように。
「本当にいい子だった。優しくて、いい子だった。いい子だったんだよ」
武上が率いるデスク班は、事件発生当初と同じくらいの忙しさのなかで、不眠不休で活動を続けた。つくらねばならない公的書類、まとめるべき資料やファイル、打ち込まねばならないデータ。片づけても片づけても、雪崩のように頭の上に降りかかってくる。
篠崎は頑張って仕事を続けていたが、オーバーワークで近視の度が進んでしまい、眼鏡をつくりなおさなければならなくなった。秋津はあいかわらず彼をからかい、「お嬢さん」と呼んでいたが、武上はそんな秋津をたしなめることなく、篠崎を酷使することもやめなかった。
「おまえには、この際、覚えておいてもらいたいことが山ほどある」と、武上は言ってきかせた。
「ここで経験できたことが、次の事件でも役に立つかもしれない。だが、ここで経験できたことは、次の事件では経験できないことかもしれない。だから、今できることは全部、今のうちにやっておけ」
篠崎はよく励んで働いた。故郷からまた見合いの話が持ち込まれたけれど、忙しいから駄目だとあっさり断ることができて、それだけは助かったと言った。
「結婚なんざ、いつでもできる」と、武上は言った。
「相手さえ見つかればの話です」と、篠崎は応じた。
「今ンところはまだ、高井由美子の思い出に付き合ってもらって我慢しろ」
「ガミさん──」
「おお、そうだ。法子から伝言だ」
「え?」
「俺はさんざん止めたんだが、あいつはおまえが気に入ったらしい。メル友なんだってな?」
「ガミさん、メル友なんて言葉を知ってるんですか」
「俺はITの武上と呼ばれているんだ。知らんのか」
「知りません。それで、法子さんは何て?」
「暇ができたら、映画でも観に行こうとさ。先に言っとくが、あいつは刑事の娘のくせに、出てくる人間がみんな銃を持ってて、やたらにドンパチ撃ち合うような、乱暴な映画が大好きなんだ」
「僕も好きです」
「だったら、勝手にしろ。俺は知らん。だがな篠崎」
「はい?」
「うちに泊まりに来ても、法子のシャンプーだけは使うなよ」
「ガミさんか?」
「ああ、こっちから電話しようと思っていたところだ」
「忙しいのはわかってるんだ」
「いや、ひとこと礼が言いたかった。あんたの分析は役に立った。ありがとう」
建築家≠ヘ、面白くもなさそうに笑い声をたてた。「いや、駄目だよガミさん。役になんて立たなかったさ。被害者を助けることにはならなかったんだから。みんな、もう殺されちまってた。俺たちは、試合終了後の評論家なんだ」
「それは確かにそのとおりだ」
「それでも、ガミさんが俺に感謝してくれるなら、ひとつ頼みがあるんだが」
先回りして、武上は言った。「捜索が終了したら、網川の山荘≠見せてくれ、だろ?」
「そうだ」
「いいよ。いつになるか約束はできんが、必ず連れてゆく。隅から隅まで見せてやるよ」
「ありがとう」
「あんたはやっぱり、骨がらみで警官なんだな」
「そうかね。だったら俺は、警官でいたかったから、警察を辞めずにはいられなかったんだろう。俺の捜査の仕方は変わってるからな。今さら、ガミさんに言うまでもないが」
「そうだな」
「網川の山荘≠見ておけば、次にあのクソ野郎のような奴が出てきたときには、今度こそ役に立てるかもしれない。誰かが殺されないうちに、助けられるかも。な?」
「うむ」
「だけどな、ホントはそれじゃいかんのさ。俺なんかが役に立つようなことがあっちゃ、いかんのさ。わかるだろ?」
「わかるとも」
「しっかり目を開いていてくれよな、ガミさん」
「俺はもう老眼だ」
「それでもさ」
「あんたは自由人だから、宮仕えの俺よりも長生きするだろう。俺がぽっくり逝っちまったら、部下をよろしく頼む。今度、連れていくから」
「そうだな。それも面白そうだ。そうやって俺たちは、続けるんだな。なんだかわからないが、続けるんだよ」
「ああ、そうだ」武上は答えた。「そうだよ。続けるんだ。今、やってることを」
前畑滋子は、それでも前畑家のアパートには戻らなかった。引っ越すことになったのだ。
しかし、一人ではなかった。昭二が一緒だった。
「おふくろはまだブツブツ言ってるけど」
トラックの荷台に、滋子のパソコン用の椅子を乗せながら、昭二は言った。
「時間が経てば、機嫌も直るよ。親父も元気になってきたし、大丈夫だよ」
「そうだといいね」
滋子は首に巻いたタオルで顔をぬぐった。今日はずいぶんと暖かい。陽射しはもう春だ。
「でも──シゲちゃん、ホントにいいのか?」
昭二が大きな両手を持て余すように身体の脇に下げて、滋子を見ていた。
「いいのかって、何が?」
「俺、ずいぶんとひどいことを言ったよ……」
「そんなの、あたしも同じよ。おあいこよ」滋子は笑って彼に近づき、彼が首に巻いているタオルを引っ張った。
「だから、もういっぺんやり直すチャンスをくれて、有り難かった。嬉しかった」
「俺も」昭二は照れて、目を伏せた。「考えてみたら、俺たちずっと親父とおふくろと一緒でさ、新婚生活も、半端だったもんな」
「お義父さんとお義母さんだけじゃなかったなぁ」
「そうか?」
「うん。BCIAもいたからね」
「ババア中央情報局!」
「そういうこと」
空になった台車を、二人で押してアパートに戻る。荷物はあと少しだ。
通りかかった近所の人が、「あら、お引っ越し?」
「はい、お世話になりました」
「遠くへ行くわけじゃないんでしょ? 前畑さんとこ、寂しくなっちゃうじゃないの」
「ちょいちょい遊びにきます」
その人が行ってしまうと、顔を見合わせて笑った。「あれも工作員の人か?」
「かもねえ」
布団と衣類のパックを台車に乗せる。
「シゲちゃん、ライターの仕事、続けていいんだぜ?」
「続けたくても、もうどこも使ってくれないよ。『ドキュメント・ジャパン』はクビになっちゃったし、元の雑誌とかだって、不義理ばっかりしたからね」
「そんでもさ、探せば、どっかあるよ」
昭二は手を休めて、滋子を見た。「俺はさ、グルメの記事とか、料理やお洒落のコラムとか書いてるシゲちゃんだって、好きだったよ。ずっと、いい仕事してたよ」
「ありがとう」滋子は微笑んだ。「そうだったよね。だけどあたし、そういう大事なこと忘れてた。自分がやってることより──隣の芝生が青く見えたっていうのかな。だから、できもしないことに手を出しちゃった」
「全然ダメだったわけじゃないってばさ」
昭二は言葉を探しているようだった。
「だから俺は、世間に騒がれるようなルポなんか書かなくたって、シゲちゃんは立派なライターだと思うよ。題材に何を選ぶかってことで、ライターの価値が決まるわけじゃない」
「そうだね。あたしも、もっと早くそのことに気づくべきだった」
「だからさ」台車の取っ手に手をついて、昭二は身を乗り出した。「シゲちゃんが、『ドキュメント・ジャパン』でやったみたいな仕事だって、必要だよ。そっちが偉いとか、硬派だとかそういうことじゃなくてさ、必要なんだよ」
「……」
「もう、あの網川みたいな奴は出てこないと思う、出てきちゃ困るよ」と、昭二は拳を握った。「だけども、あいつをひとまわり小さくしたみたいな奴だったら、ひょっとしたら出てくるかもしれないじゃないか」
「うん……」
「そのときにはさ、滋子。またやれよ。こいつはインチキだって、皆さん、こいつは嘘つきですよって、指さして大声で騒いでやれよ」
滋子の心に目に、網川の顔が映った。滋子に指を突きつけて、いい加減なことを言うなと怒声を張りあげた、あのときの網川の顔。
昭二はひとつ首を振ると、力を込めて言葉を続けた。「何よりも、たとえ誰も出てこなくたって、網川はいるんだぜ。あいつだって、まだまだ何か言うかもしれない。それでさ、何年か経って事件のほとぼりが覚めたら、あんな人間のクズみたいな奴の言うことでも、また信用する人たちが出てきちまうかもしれない。一時は、俺たちみんながあいつの言うことを信じちまったんだから、これから先だって、そういうことがあるかもしれない。特に若い子たちはさ、免疫がねえからな。そしたら、誰かがそれをぶっつぶさなきゃよ。あ、まただ、網川はまだこんな屁理屈を並べてやがる! こいつの言うことなんか信じちゃ駄目だよ、ちゃんと自分の頭で考えてごらんよ、ホントにこいつの言ってることがまっとう[#「まっとう」に傍点]だと思うかいって、大声で騒いでやらなきゃよ。そうだろ? 滋子だって、そう思うだろ?」
「思うよ。でも、あたしがやらなくても──」
「もちろん、滋子一人じゃないよ。みんなでやらなきゃいけないことなんだ。でも、滋子にもできるだろ? それ、必要なことだよ。滋子は一度、そういうことができたじゃないか。また、できるかもしれないぜ。できるんだったら、やらなきゃ女がすたるじゃないか」
滋子はしみじみと昭二の顔を見つめた。すると彼は真っ赤になった。
「そんときには、俺も、今度こそガタガタ文句ばっかり並べないで、手伝うからさぁ」
滋子は吹き出した。昭二も、最初は遠慮がちに、しかしすぐに声をたてて笑い出した。アパートの住人たちが、何がそんなに嬉しいのだろうかと、驚いて窓から外をのぞくような、屈託のない、明るい笑い声だった。
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34
逮捕から十日目、ようやく、網川浩一が一連の犯行への関与を認め、具体的な供述を始めたという報道があった。
その日の夜遅く、真一が自室にいると、石井家の電話が鳴った。出てみると、木田孝夫だった。
「遅くにごめんよ。俺なんかがいきなり電話かけて、びっくりしたろう。番号は、電話帳で探したんだ。気を悪くしないでおくれよ」
「大丈夫ですよ。どうしたんですか?」真一は座り直した。「有馬さんに何か?」
「うん」木田は言いにくそうだった。「夕方、うちの店に来てね。そのときにももう、ベロベロに酔っぱらってた。引き留めたんだけど、死ぬまで飲んでやるって言って、どっか行っちゃってさ。店閉めてから、近所をあっちこっち探してるんだけど、いないんだよ、もしかしたらあんたのところに寄ってないかと思ってさ」
「来てません。電話もない」
「そうか……」
「元の店の方は?」
義男はアパートに引っ越したばかりである。
「酔っぱらって、昔の家に帰ってるってことはないですか?」
「ないない。行ってみたけど、いなかった。どうしようかね。あの人は肝臓が悪いんだよ。ずっと薬をもらってるんだ。若いころには無茶をした時期もあったって──。あんなに飲んじゃ、本当にひっくり返っちまうよ」
真一は素早く考えた。「近所の店とかアパートを、もう一度探してみてくれませんか。僕も探してみます」
木田に携帯電話の番号を教えると、真一は上着に袖を通した。心あたりの場所が、ひとつだけあった。たぶん、そこで間違いはないはずだった。
有馬義男は、大川公園のゴミ箱にもたれていた。人気のない夜の公園で、地面に座り込み、すっかり酔っぱらって、それでもまだ酒瓶を離さない。
走って行って、それでも真一は、老人がまだ首や手を動かしているのを見て、ほっと安心した。足を緩めて、ゆっくり近づいた。
声をかける前に、老人の方が先に気づいた。とろんとした目で、真一を見た。
「何だ、おまえか」と、凄んだ。「何の用だよ」
「こんなところにいると、風邪ひきますよ」
「風邪がなんらってんだ、ふん」義男はしゃっくりをした。ろれつが回らない。「今さらなんだってんら、え?」
真一は老人のそばにしゃがんだ。思わず「うっ」となるほど酒臭い。
「どれぐらい飲んだんですか」
「飲んじゃ悪いか」
「身体に悪いじゃないですか」
何ほざいてんだべらぼうめ──というようなことを、義男は言った。
その夜は晴れていた。星がいっぱいだった。そこにも、ここにも、輝いている。
しばらくぶつぶつと毒づいてから、ゴミ箱に深くもたれなおして、義男は言った。
「網川がしゃべり始めたんだってな」
「ニュースでそう言ってましたね」
「言ってたな。うん、言ってた」義男はまたしゃっくりをして、宙を仰いだ。「これでようやく一連の事件は解決に向かいますってさ。NHKでよ、そう言ってたよ」
真一は黙っていた。
「解決だとよ」義男は繰り返し、酒瓶を持った腕を持ち上げた、抗議するように、それを夜空に向けて振った、「解決だとよ。終わるんだとよ」
真一は黙って、じっとしていた。
「終わるんだとよ、終わりなんだとよ」
どろんとした声で呟いたかと思うと、突然、義男は声を張りあげた。
「ふざけるんじゃねえよ!」
澄んだ夜気に、老人の声が響いた。
「終わってなんかいねえ! 何にも終わってねえぞ! だって鞠子は帰って来ねえ。鞠子は帰って来ねえんだ。そうだろ? え? そうだろ?」
酒瓶を放り投げると、義男は真一にむしゃぶりついてきた。袖をつかみ、肩をつかみ、真一を揺さぶって、大声で喚き続けた。
「な? そうだろ? 終わってなんかいねえよ。鞠子は帰ってこねえんだよ。鞠子を返してくれよ。鞠子を返してくれよ。俺の孫を返してくれよ。たった一人の孫娘だったんだ。返してくれよ」
真一はただ揺さぶられていた。義男の気が済むまで、揺さぶられていようと思った。
わあっと叫びながら、義男は真一を突き飛ばし、両腕で頭を抱えた。
「鞠子は帰ってこねぇよ。帰ってこねえ。もう帰ってこねえんだよぉぉ」
ようやく、真一は起きあがり、腕を伸ばして、義男を抱きかかえた。いつか老人が彼にそうしてくれたように、抱きかかえた。黙って、ただ抱きかかえていた。
そして、有馬義男が初めて、出会ってから初めて、事件が起こってから初めて、身も世もないようにむせび泣くのを、全身で聞いていた。
三月の陽射しのなかを、若い母親が、幼い娘の手を引いて歩いている。お買い物。お母さんとお買い物するの、あたし大好き。
若い母親は、町の一角で足を止めた。シャッターが降りた店の前。もともと古びていた「有馬豆腐店」の看板は、風雨にさらされてすっかりペンキが剥げてしまった。
家は空き家になると、とたんに傷む。店も同じだわと、若い母親は思った。
「おとうふやさん」と、幼い娘が言った。「おやすみ?」
「ううん。このお豆腐屋さんは、やめちゃったんだって。もうお店、やらないのよ」
「ふうん」
子供を連れて、よくここに豆腐を買いにきたものだ。ちょっと高いけど、消費税はとらないし、味は段違いだった。冷奴や湯豆腐のとき、ここの豆腐を使わないと、夫はすぐに気づいて文句を言ったものだ。今日の豆腐は旨くないな。スーパーで買ったんだろ。
店主の老人は、どうしているだろうかと彼女は思った。彼の孫娘を襲った不幸については、もちろんよく知っている。ニュースで聞いたり、新聞で見たりしただけじゃない。
──鞠子さん、だっけ。
その遺体が発見されたときに、若い母親は、ちょうどここに豆腐を買いに寄っていたのだ。あのときにも子供が一緒だった。
あの場では、有馬義男に、かける言葉など見つからなかった。孫娘が行方不明になっているというころには、「おじさん、元気出してね」なんて、言ったこともあったけれど、あのときばかりは、何と言っていいかわからなかった。
今ごろ、どうしているだろう。有馬さん。こんなことがなければ、こうやって看板があがっていても、「お豆腐屋のおじさん」と呼ぶだけで、名前など覚えることもなかったろう。
「おじさんのお豆腐、美味しかったよねえ」
褪《あ》せた看板を見上げながら、若い母親は幼い娘に言った。
「パパ、ここのお豆腐が大好きだったのにね」
「ね?」と、娘も言った。愛らしいその顔。若い母親は、急に胸が熱くなるのを感じた。この子だけは守りたい。何があっても、どんな不幸からでも、この子だけは守ってみせる。必ず守ってみせるから、神様、その力をあたしにくださいね。
「おじさん、きっと元気出してるよね?」
母親は娘に笑いかけた。
「ね?」と、娘も答えた。
「さ、お買い物に行こう」
「うん」
二人は手をつないで歩み去った。
ようやく暖かみを帯びてきた風が、閉じたきりの有馬豆腐店のシャッターを、遠慮がちな訪問者のように、かすかに叩いた。誰の返事もない。誰かが帰ってくるということもない。風は、また静かに通り過ぎていった。
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あとがき
本書はフィクションであり、作中に登場する人物も作中で発生する出来事も、すべて作者の想像の産物であります。
第一部のエピグラフは、シャーリー・ジャクスン作「くじ」(異色作家短編集12『くじ』所収 早川書房刊 深町真理子訳)より、
第二部のエピグラフは、ジョン・W・キャンベル・ジュニア作「影が行く」(ホラーSF傑作選『影が行く』所収 創元SF文庫 中村融訳)より、
第三部のエピグラフは、ヒラリー・ウォー作『事件当夜は雨』(創元推理文庫 吉田誠一訳)より、それぞれ引用させていただきました。
小説は作者一人の力でできあがるものではありません。今般もまた、大部の作品である本書の完成までには、多くの方々のご助力を仰ぎました、皆様、本当にありがとうございました。
取材の段階で、東邦大学医学部精神神経科の高橋紳悟助教授に、御多忙のなか時間を割いていただき、お話をうかがうことができたのは、たいへん幸せなことでした。本書に登場する連続殺人者は、あくまでもわたくし個人が創造したものであり、その現実的存在感の有無は、言うまでもなくわたくし一人の責任と力量にかかるものです。それでも、現実社会と向き合い、犯罪心理の研究に携わっておられる先生の今≠垣間見ることは、貴重な経験でありました。本書だけでなく、今後の仕事につながる取材をさせていただきました。厚く御礼申し上げます。
週刊ポスト誌上で三年余の連載期間をいただき、その後加筆改稿に二年の時間を加えて、五年がかりの仕事でした。これまでにない長丁場を、辛抱強く伴走し激励を続けてくださった編集部の西澤潤さん、高橋健司さん、やっとこういうあとがきを書いて、お二人に御礼を申し上げられる時が来ました。お二人だけでなく、週刊ポスト編集部の皆さんには、どれだけ感謝しても足りないと思っています。ありがとうございました。
また、予定の倍以上の期間に延長されてしまった連載に、最後まで素晴らしい挿絵をくださった山野辺進さんにも、あらためて御礼申し上げます。山野辺さんとは、デビュー短編で挿絵をつけていただいて以来のご縁ですが、今回もまた、いただいた挿絵から新しいヒントやインスピレーションを得るという、嬉しい形で連載を続けることができました。
多くの方々に支えられ、本書を書き上げることができて、今、心から喜んでおります。ただひとつだけ、悔やんでも悔やみきれないのは、連載開始当時の編集長である故・岡成憲道さんに、この本を見ていただけないことです。
「どんと腰を据えて、思いっきり書いてください。我々がバックアップしますから」
ぽんと胸を叩いて笑っていたお顔を、懐かしく思い出します。岡成さん、やっと本ができました。遅くなってごめんなさい。でも、どんなに時間がかかっても、必ず完成させますというお約束だけは、なんとか果たすことができました。
二〇〇一年三月吉日
[#地付き]宮部みゆき
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●『週刊ポスト』一九九五年十一月十日号〜一九九九年十月十五日号に連載したものに加筆改稿しました
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模倣犯 下
二〇〇一年四月二〇日 初版第1刷発行
二〇〇二年一月 一日   第7刷発行
著 者 宮部みゆき
発行者 遠藤邦正
発行所 株式会社 小学館
平成十八年九月一日 入力・校正 ぴよこ