模倣犯 上 ─The COPY CAT─
宮部みゆき
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)真智子と坂木|達夫《たつ お 》だった。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から〇字上げ]
-------------------------------------------------------
[#改ページ]
直木賞受賞作『理由』以来三年ぶりに放つ現代ミステリー
公園のゴミ箱から発見された女性の右腕。
それは「人間狩り」という快楽に憑かれた
犯人からの宣戦布告だった──
ある日突然、破壊される人生
帯コメントより
公園のゴミ箱から発見された女性の右腕は、連続女性殺人事件の犯人からの宣戦布告だった。比類なき知能犯に挑む、右腕を発見した少年と孫を殺された老人を待ち受ける運命とは? 魂を抉る驚愕と感動の3551枚!
公園のゴミ箱から発見された女性の右腕、それは史上最悪の犯罪者によって仕組まれた連続女性殺人事件のプロローグだった。比類なき知能犯に挑む、第一発見者の少年と、孫娘を殺された老人。そして被害者宅やテレビの生放送に向け、不適な挑発を続ける犯人――。が、やがて事態は急転直下、交通事故死した男の自宅から、「殺人の記録」が発見される、事件は解決するかに見えたが、そこに、一連の凶行の真相を大胆に予想する人物が現れる。死んだ男の正体は? 少年と老人が辿り着いた意外な結末とは? 宮部みゆきが犯罪の世紀≠ノ放つ、渾身の最長編現代ミステリ。
小学館HP紹介文より
[#改ページ]
──注意──
底本は2段組のため、「改段」となっている場所も「改ページ」で対応してあります。
底本では、見出しの数字部分のフォントは、サイズが大きくなっています。
──底本データ──
模倣犯 上
四六判/726頁──四六判788×1,091(mm×mm)
ISBNコード: 409379264X
一行24文字・一頁21行・段組2段
一部 1〜18
二部 1〜20
一部 二部
1……5 10……167 1……333 11……546
2……12 11……181 2……340 12……554
3……51 12……209 3……354 13……561
4……80 13……230 4……394 14……587
5……110 14……244 5……442 15……615
6……117 15……266 6……449 16……636
7……124 16……279 7……469 17……650
8……147 17……310 8……477 18……667
9……154 18……321 9……498 19……679
10……505 20……708
[#改ページ]
[#地から2字上げ]装偵/川上成夫
[#地から2字上げ]装画/大橋 歩
[#改ページ]
模倣犯 上
[#改ページ]
第一部
[#改ページ]
[#地から5字上げ]「こんなの公平じゃないよ」
[#地から2字上げ]「さあやれ、さあやれ、みなの衆」
[#地から2字上げ]──シャーリー・ジャクスン
[#地から2字上げ]『くじ』
[#改ページ]
1
一九九六年九月十二日。
あとあとになってからも、塚田《つか だ 》真一《しんいち》は、その日の朝の自分の行動を、隅から隅まできちんと思い出すことができた。そのとき何を考えていたか、寝起きの気分がどんなだったか、いつもの散歩道で何を見かけたか、誰とすれ違ったか、公園の花壇にどんな花が咲いていたかという些細《 さ さい》なことまでをも。
そういう、すべてを事細かに頭に焼き付けておくという習慣を、ここ一年ほどのあいだに、彼は深く身に付けてしまっていた。日々の一瞬一瞬を、写真に撮るようにして詳細に記憶しておく。会話の端々までも、風景の一切れさえも逃さず、頭と心のなかに保存しておく。なぜなら、それらはいつ、どこで、誰によって破壊され取り上げられてしまうかわからないほど脆《もろ》いものだから、しっかりと捕まえておかなければいけないのだ。
だからその朝、彼が二階の自室から階段をおりてゆくと、途中で新聞受けがカタリと鳴ったことを覚えている。いつもよりちょっと遅めだなと思って、階段の曲がり角の壁にある明かり取りの窓から外をのぞくと、灰色のTシャツの袖をまくり、スクーターにまたがった小太りの新聞配達員が、ちょうど目の下を通り過ぎてゆくところだった。彼のTシャツの背中には、浦和レッズのチームマークとマスコットがプリントされていた。
玄関のドアチェーンをはずしていると、彼の気配を聞きつけたロッキーが前庭で吠え始めた。鎖をジャラジャラ鳴らして喜んでいる。真一がドアを開けると、鎖の長さの許す範囲内で懸命に伸びあがり、喜びを身体いっぱいに表して飛びついてこようとした。そのとき真一は、ロッキーの腹の毛の一部が妙に薄くなっていて、皮膚が透けて見えていることに気づき、怪我でもしたかなと思った。なんとかロッキーを捕まえて押さえつけ、もっとよく見ようとしたのだけれど、散歩に連れていってもらえる嬉しさにはね回っている時のロッキーは、とても真一の手に負えるものではなかった。仕方がない、散歩から帰ってきたらおじさんにも見せて、なんなら獣医へ連れていかなくちゃと思いながら、ロッキーをつないでいる鎖を、庭の一角に立ててある杭《くい》から外した。そのときに、昨夜降った雨の名残《 な ごり》で、鎖が湿っぽかったことをよく覚えている。手のなかでひんやりと重く感じられたことも。
ロッキーはこの石井《いし い 》家に、真一よりも半年ほど前から住み着いていた。今は遊びたい盛り、いたずら盛りで、いつも元気を持て余している。ぬいぐるみみたいに毛並みのきれいなコリー犬なのだが、真一が石井夫妻から聞いた話では、純血種ではないそうだった。そう言われてよく見ると、コリー犬にしては少しばかり鼻が短くて、胴体も寸詰まりの感じがするけれど、それがかえって愛嬌があって良かった。
真一の方は、石井家に住むようになって、そろそろ十ヵ月になる。朝晩ロッキーを散歩に連れ出すことは、今ではすっかり彼の仕事となっていた。石井夫妻は、もともとそれほど犬好きというわけではないらしく、ロッキーの散歩は、夫妻にとって、ずっと気《き》億劫《おっくう》な仕事であったようだ。実際、真一は時々、おばさんは本当はロッキーみたいな大きな犬が怖いんじゃないかなと感じることもある。だから、ロッキーが真一になつき、真一もロッキーの世話を楽しむようになると、ふたりとも口々に、大いに助かると言った。
それならばなぜ、ロッキーを飼ったのだろう? 世話をするのが大変だったのならば、どうして? 真一は、その質問を、幾度か喉元までのぼらせては呑み込んできた。尋ねれば答えてくれるだろうけれど、きっと気まずい雰囲気になってしまうだろうことが、容易に想像できるからだ。
ええとね、あの犬にはちょっと可哀想な事情があってね、だから──と、夫妻は話す。そうなのだ、石井夫妻は、気の毒なものを放っておくことのできない性分なのだから。そして真一は頷く。そうか、ロッキーには、ほかに引き取り手がなかったんですね、と。そして心のなかで思う。僕と同じだ、と。石井夫妻はそんな真一の顔を見ていて、今君がロッキーは僕と同じだと思ったことを我々は知っているよという顔をする。夫妻がそれを知っていることを真一も知っている。そして皆で知らんぷりをするのだ。
首輪から鎖をはずし、散歩用の革ひもに付け替えて、真一はロッキーを街路に出した。ロッキーは元気よく真一を引っ張り始めた。散歩のコースは決めてあるのに、この犬ときたら毎朝違う方向へ行きたがる。それも、アスファルトに覆われていない場所へ入ってゆくのが大好きなのだ。きっと、土の感触が足の裏に心地よいのだろう。真一も時には、ロッキーの気の向くままに任せて引っ張られてゆくのだが、今朝はそうもいかなかった。昨夜の雨のおかげで、あちこちに水たまりができている。舗装してある道を選んで歩いた方が無難に思えた。で、ロッキーを引っ張り返し、いつものコースへと足を向けた。
細い路地を抜け、明治通りへ出る。早朝のことで、さすがに車の交通量も少ないが、その分、どの車もスピードを出して飛ばしている。歩道に出た真一たちの胸元をかすめるように通過していったタクシーに、抗議するようにロッキーが吠えた。
明治通りを西に向かい、白髭橋《しらひげばし》東の交差点を渡って、大川公園へと進んでゆく。すっかり秋めいて夜明けの遅くなったこのごろでは、ちょうどこのあたりへさしかかったところで背後から朝日が昇り、右手に見える高層団地群の窓ガラスに光が反射してきらめき始める。
先へ行きたがるロッキーを制して立ち止まり、真一は、昇りつつある太陽を振り向いた。
昔の真一を知っている友達ならば、彼が今、毎日朝日を拝んでいるなどと聞いたら、ひっくり返るほど驚くことだろう。以前は、大多数の高校生と同じく、真一も夜型の若者だった。朝、決められた時刻に起きるのが苦手で仕方がなかった。学校の授業が午前十時ぐらいから始まってくれればいいのにと思うクチだった。
それが今では、すっかり変わった。自分でそのことに気づいたのは、石井家に世話になるようになってからのことだ。いつの間にかオレって、めちゃくちゃ早起きして、朝日が昇ってくるのを眺めるようになってた──と。
なぜなのだろうかと、自問自答してみたことがある。明確な答は、まだ出てこない。つまり、筋道立った理論的な答は。ただ、気分的には、自分で自分の行動の意味を理解しているつもりだった。
確かめたいのだ。また一日が始まることを。毎日、毎朝、自分が生きている──いや、昨日一日を生き延びて、今日という日を迎えることができたということを。まだ自分の人生は終わっていないということを。この先に控えているのは何ともしれない新しい一日ではあるけれど、とりあえず昨日は過ぎ去った、昨日という日を、自分は無事に生き終えた、と。そうしないと、生きている実感がわいてこないのだ。ちょうど、どこまで行っても風景の変わらぬ広大な砂漠を歩く探検家が、時々振り向いて足跡を確かめてみないと、自分が進んでいるのか停まっているのかわからなくなってしまうのと同じように。
それでも時々、こうして朝日を仰いでいてさえも、本当はオレはもう死んでるんじゃないか、死体の上を、ただ太陽が行ったり来たりしてるだけなんじゃないかという、空しい気分に陥ることもあった。
立ち止まったまま朝日に目を細めていると、傍らでロッキーがわんと吠えた。振り向くと、大川公園の方からジョギング・スーツを着た女性が走って近づいてくるところだった。
「おはよう」と、彼女は真一に声をかけた。真一はほんのちょっと頭を動かして応じた。見ようによっては会釈に見えないこともない──という程度の動作だ。
「おはよう、ロッキー」
ロッキーはしっぽを振って伸びあがった。ジョギング・スーツの女性は笑顔になった。
「雨がやんでよかったわね」
足をとめず、束ねた髪をリズミカルに揺らしながら、彼女は真一たちの傍らを通り過ぎていった。
彼女とは、毎朝、だいたいこのあたりですれ違う。
名前も、どこのどういう女性なのかも知らない。年齢は──さあ三十代だろうか。たぶんこの地域に住んでいるのだろうけれど、走りっぷりから見るとかなりのランナーのようだし、隣か、そのまた隣の町からはるばる走って来ているのかもしれない。彼女の方も真一の名前は知らない。ロッキーの名も、教えたことはない。何かの折に、真一がロッキーを呼んでいるのを聞いて、覚えたのだろう。
いくら彼女が挨拶を投げてきても、真一は、会釈以上の反応を返したことがない。それでも彼女は挨拶してくれる。真一は黙っている。その繰り返しだ。
「そら、ロッキー、行こう」
声をかけると、ロッキーは大喜びで駆け出した。地面を蹴り、耳を寝かせ鼻面をつき出してどんどん走る。ピンと張った革ひもをつかんで、真一もそれを追いかけた。
大川公園の門でいったん足をとめ、ロッキーの足取りを緩やかにさせてから、園内に入った。護岸を整備して造成した細長い緑地に植え込みと花壇を配し、舗装した遊歩道を通しただけのシンプルな公園で、散歩にはちょうどいい場所だ。ここに来ればいつも、犬を連れた人々を幾組か見かける。なかには毎日のように会う人もいるのだけれど、真一の方からは毛頭声をかける気はないし、そういう気配を向こうも感じるのか、あのジョギングの女性のような、気さくな挨拶を投げられたことはない。ホッとすることだった。
遊歩道は大きくS字型を描いており、公園の西側は隅田川に面している。土手の階段をのぼって堤の上に出ると、青黒い川の水面と、対岸の浅草方面の街並みを一望に見渡すことができる。頭上を高速六号線が走っているので、なんとなく圧追感はあるものの、真一はこの堤の上からの眺めが好きだった。石井家に来るまでは川のそばに住んだことがなかったので、護岸公園からのこの眺望は、真一にとってはまだまだ目新しいもののなかに属しているのだ。
隅田川を右手に、堤の上を、ロッキーと一緒に走った。秋の気配を含んだ朝の風は頬に冷たく、洗い晒《ざら》しのシャツの袖口をはためかせ、ロッキーの背中の長い毛をなびかせた。川上からエンジン音と共に浚渫船《しゅんせつせん》が走ってくると、ロッキーは立ちどまり、しっぽを振りながらわんわんと吠えた。相手が水上バスだったりすると、デッキにいる乗客たちが手を振ってくれることがあり、ロッキーはそれが気に入っているのだ。だが浚渫船はそんな愛想を振りまいてくれることはなく、川の泥の臭いをかすかに漂わせながら、ロッキーを置いてきぼりに下っていってしまった。
「あれはお客さんが乗ってる船じゃないんだよ、ロッキー」
笑いながら、真一は犬の頭を撫でた。ロッキーがその手を舐め返した。犬の舌は荒れていて、ほの温かかった。
土手の上をしばらく走り、また階段を下りて遊歩道に戻る。コスモスの群がなよなよと咲いている花壇の脇を抜け、出口の方へ向かって進んで行くと、前方から激しく犬が吠える声が聞こえてきた。植え込みに遮られて姿は見えないが、喧嘩でもしているみたいな、気の立った吠え方だ。ロッキーもピンと耳を立て、何なら自分も参加しようかという感じで身構えた。真一はロッキーの首輪をとらえ、彼が飛び出さないように押さえながら先へ進んだ。
植え込みを回って歩いて行くと、吠え声の主が見えてきた。大型のシベリアン・ハスキーで、遊歩道のすぐ入口のところで吠えている。そばで飼い主が懸命に宥《なだ》めているが、犬は興奮し無我夢中で収まる様子もない。
飼い主は若い女の子だった。以前にも見かけたことのある顔だ、真一と同じ歳くらいか、やや年上か。すらりと背が高く、臑《すね》が長く、筋力もありそうで、ひ弱なタイプには見えないけれど、今は全力をふりしぼって、かろうじて猛り狂うシベリアン・ハスキーを押さえているという感じだった。
「キング、どうしたの、やめなさい、キング!」
強い声で犬を叱りつけながら、踵《かかと》に体重をかけ、犬をつないだ太い革ひもを引っ張っている。だがキングは吠え続け、今にも彼女を引きずって前に突進しそうだった。
キングが吠えかかっているのは、公園のゴミ箱だった。大型の、バランス蓋付きのものだ。胴体の部分に「燃えるゴミ専用」と表示してあり、蓋の下から半透明のゴミ袋がはみ出している。
「キングってば、どうしちゃったのよ」
飼い主の女の子は、明らかに困り果てているようだった。額に汗が浮いている。助けを求めるように、素早く周囲に視線を配り、その目が真一の目とぶつかった。そして言った。
「うちの犬がおかしいの」
真一はひゅっと怯《ひる》んだ。女の子と──特に知らない人と話をしたくはない。それこそ、今の人生で、真一がもっとも望んでいないことなのだから。人間関係を広げること──たとえそれが、どんな些細なものであっても。
「ね、キング、なんでそんなに吠えるのよ」
飼い主は怯えたような声を出し始めているのに、犬はますます興奮して、ゴミ箱に前足をかけている。蓋がぐらぐら動いている。
キングにつられるように、ロッキーも吠え始めた。真一は叱りつけ、頭を叩いてその場に座らせた。ロッキーは唸ったが、真一がもう一度頭を叩くと耳を垂れ、腰をおろした。真一はロッキーを抱えるようにして遊歩道の端に離れて行くと、植え込みのぐるりを囲んでいる柵に、手早く革ひもを結びつけた。
キングは完全にゴミ箱にのしかかり、蓋の隙間に鼻面を突っ込んでいる。何かを探しているようにも見えた。
「キングってば、駄目よそんなことしちゃ!」
飼い主の女の子は割れた声で叫んだ。けれども、それを目の当たりにしてもまだ、真一は彼女の手助けをしに行くこともできず、どうしたらいいかも判らなかった。他人《 ひ と 》と関わり合いになりたくない──ならない方がいい──
キングの狂乱に刺激され、一度は黙ったロッキーがまた吠え始めた。真一はロッキーを振り返り、叱りつけ、そのとき、とうとうキングがゴミ箱をひっくり返した。
キングもゴミ箱と一緒に地面に倒れた。その拍子に、飼い主の手から革ひもが離れた。自由の身になったキングは、横倒しになったゴミ箱の中身に飛びかかった。内側の半透明のゴミ袋を引っぱり出し、爪と牙とで引き裂く。つぶれた紙カップ、ファーストフードの袋──ゴミの臭いがプンと鼻をつく。
「嫌だ……臭い!」
革ひもを手放し、ぺたりと地面に座り込んでいるキングの飼い主が、鼻にしわを寄せた。
「何かしら、この臭い?」彼女は真一に呼びかけてきた。「この臭いのせいでキングがおかしくなっちゃったのかしら?」
だが真一は女の子に応えず、キングを見ていた。目が離せなくなっていた。たった今、キングが、ずたずたになったゴミ袋から引っぱり出したものから。
茶色の紙袋だった。キングはその端を噛んでいた。顎を動かし、また噛んだ。袋が破れた。中身がのぞいた。異臭が強くなった。思わず顔をしかめた真一は、キングの強い顎に噛みしめられ、紙袋から引っぱり出されたものの正体を、まともに目にした。
人間の手だった。肘《ひじ》から下。指先が真一の方を向いていた。こちらを指さし、差し招くかのように。訴えかけるかのように。
キングの飼い主が、早朝の空気を切り裂くような鋭い悲鳴をあげ始めた。棒立ちになったまま、真一は反射的に手をあげ、耳を覆った。これと同じような出来事が、ほんの一年ほど前にもあった。同じことがまた繰り返される[#「同じことがまた繰り返される」に傍点]。悲鳴と[#「悲鳴と」に傍点]、血と[#「血と」に傍点]、そしてただ呆然と佇むだけの俺と[#「そしてただ呆然と佇むだけの俺と」に傍点]。
無意識のうちに、真一はじりじりと後ずさりを始めていた。だが、差し招く手、死んだ腕から視線をはずすことはできなかった。その手の爪は、花壇に咲き乱れるコスモスの花弁に似た、淡い紫色に染められていた。
[#改ページ]
2
電話が鳴り始めたとき、製造場の壁の時計を見あげると、午前九時をちょっと過ぎたところだった。今日の工程は、まだ全部終わっていない。有馬《あり ま 》義男《よし お 》は、苛性《 か せい》ソーダの水槽の前に立ち、両腕を肘まで浸けて、木綿豆腐用の枠を洗っていた。
「あれ、また桔梗亭《ききょうてい》からじゃないですか」
フライヤーのそばで木田《 き だ 》孝夫《たか お 》が振り返り、義男に向かって笑いかけた。
「そろそろ来そうな頃合いですよ」
義男はゴム手袋を脱ぐと、傍らの水道パイプにひっかけ、事務所の方へと向かった。電話の呼び出しベルは、そのあいだも鳴り続けた。六回、七回、八回──義男が事務所と製造場の境目の引き戸のところまで行ったときに、十一回目が鳴った。
「違うな、桔梗亭じゃないよ」と、振り向いて義男は言った。「あそこの旦那は、こんなに辛抱強くねえもんな」
それに応じて木田が何か言ってよこしたが、換気扇の音にまぎれてしまって、義男の耳には聞こえなかった。
狭い事務所のスペースの半分を占めている、ふたつの大豆の桶の脇をまわり、事務机のいちばん端に乗せてある電話機に手が届くところまで行く。受話器を取りあげ、こんな時間にかけてきてこれだけ根気よく鳴らすところを見ると、この電話はたぶん真智子《 ま ち こ 》からだろうと思いながら耳をあてると、思ったとおり、娘の声が聞こえてきた。
「もしもし、お父さん? テレビ観た?」
おはようの挨拶も抜きに、いきなりそう言った。義男は反射的に、事務所の隣の座敷に目をやった。そこには十二インチの小さなテレビがあるけれど、むろん、今は消してある。
「観てないよ」と、義男は応じた。「何かあったのか」
「テレビつけてみて。あ、でももう別のニュースになっちやってるかもしれない」
真智子は、うわずったような、かすれた声を出していた。たぶん泣いているのだろうと、義男は思った。
「ニュースでなんかやってたのか」
こらえきれなくなったのか、真智子が嗚咽《 お えつ》するのが聞こえた。
「泣いてちゃわからん。何をやってたんだい」
「し……死体が見つかったんだって」
義男は無言で受話器をつかんで立っていた。製造場で、木田がフライヤーから網を引きあげる音が聞こえた。ついで換気扇が停まった。本当ならまだ回しておかないといけないのだが、電話の邪魔にならないようにしてくれたのだろう。
「死体って、どういう」
真智子は泣いている。しゃくりあげる声だけが聞こえる。義男は受話器を握り直した。苛性ソーダのせいで手がぬるつく。ゴム手袋をはめていても、いつもそうなる。
「警察からは何か言ってきたのか?」
「それは、何も」震える声で、鼻をすすりながら、真智子が答えた。「ただテレビで観ただけ。だけど女の死体だっていうから」
「朝のニュース番組かなんかかい」
「そう」
「どこで?」
「墨田区の、大川公園とかいうところだって」
義男は目をしばたたいた。大川公園なら知っている。隣の区だし、ここからなら車で二十分ぐらいの場所だ。桜の名所で、一昨年だったか、組合の花見の会で出かけていったこともあった。
「朝から大騒ぎだったわよ」と、真智子が小さく言った。「レポーターとか、いっぱいいて」
声がいくぶん落ち着いたようだった。このごろはいつもこのパターンだ。急激に感情を高ぶらせて泣いたり悲しんだりするけれど、すぐに諦めたように静かになってしまう。そしてまた高ぶる。よくない傾向だと、義男は思っていた。
「その──それっていうのは」
死体と発音したくなくて、義男はもごもご言った。
「女っていっても、若い女のか?」
鞠子《まり こ 》ぐらいの年頃の、と訊くことはできなかった。
「そうらしいわ。ただ、バ──バラ、バラでね」
「バラバラ?」義男は思わず大声で問い返した。製造場が静まり返っているので、声がコンクリートの床に反響した。
「そうなの。今朝見つかったのは、腕だって」
木田が事務所の入口に来て、こちらを見ている。気遣わしそうな顔で、眉間《 み けん》にしわが寄っていた。今のやりとりを耳にしたのだろう。声を出さずにくちびるを動かし、
(鞠ちゃんですか?)と訊いた。
義男は首を横に振り、声に出して答えた。
「わからん。真智子がちょっと取り乱してんだ」
「あたしは取り乱してなんかいませんよ」と、電話の向こうで真智子が言った。また声が乱れ始めた。「だけど見つかったのは女の腕だっていうから」
「鞠子と決まったわけじゃねえだろう。そうあわてるな、なあ」
「だってお父さん……」
「何かあれば警察が連絡してきてくれるだろうし、それを待った方がいいんじゃないか? あんまり考えすぎるなよ」
とたんに、真智子が泣き声を張りあげた。
「考えすぎるなとは何よ!」
義男は目をつぶった。父だ娘だと言っても、義男は今年七十二歳、真智子は四十四歳になる。どちらも大人だ──というのさえ照れくさいようないい歳の人間だ。それなのに、父は娘をどう慰めていいかわからず、娘は針山みたいになってしまった心を自分でも扱いあぐねて苦しんでいる。
「む、む、娘がいなくなって──もう三月《 み つき》にもなるんだもの悪いこと、考えるなって、そんなの無理だわよ」
「わかってるよ、それはわかってるよ」
「わかってなんかないわよ。お父さんは娘がいなくなった経験なんかないもの」
真智子の言うことはめちゃくちゃで、声はがらがらで、顔を見なくても涙がぼろぼろであろうことはよくわかる。こんなふうに感情をぶつけることができる相手が父親だけしかいないということが、今の真智子の不幸に輪をかけているのだと、義男はよく承知していた。だから余計に、何をどう言って宥《なだ》めてやればいいかわからないのだ。
「こっちから警察へ行ってみるか」と切り出してみた。「大川公園で見つかったんなら、担当の警察もこっちの方なんだろ。俺が一緒に行ってやるから。それとも、まず坂木《さか き 》さんに連絡してみるか」
「……うん」か細い声で、真智子は答えた。
「坂木さんには、これから電話してみる。今朝の事件のこととかも知ってるだろうし」
「あの人なら、見つかった──その、なんだ、それを確認するにはどうしたらいいか教えてくれるだろう」
「うん、よく訊いてみる。じゃ、あたし、そのあとお父さんところへ行くわ。お店の方は大丈夫なの?」
「孝《たか》さんがいるからよ」
「ああ、そうよね。そうよ」真智子の声が喉にからんだ。「あたしったら何言ってるんだろう」
「少し落ち着きなさい。それと、茂《しげる》さんには知らせたのか?」
真智子は黙った。義男も黙って待った。
しばらくして、真智子が言った。「あの人は、いいのよ」
「よくはねえよ。父親だ」
「今どこにいるか知らないもの」
「会社に電話してみりゃいいだろう」
真智子は頑《かたく》なだった。「知らせても、出てきやしないわよ。手間なだけよ。いいよ、お父さんが来てくれれば、あたしひとりで」
義男は、電話機の横に立ててある古びたローラデックスに目をやった。体裁はいいが、使いにくい電話帳だ。そのなかに、真智子の夫の古川茂の連絡先電話番号も書いてあるはずだった。こっちからかけてみようか──
と、真智子が鋭く言った。「お父さんも電話しないでね、古川には」
義男はため息をついた。「わかったよ」
それきり電話は沈黙している。じゃ、あとでなと言って切ろうとしたとき、真智子の震え声が聞こえた。
「ねえ、お父さん」
「何だね」
「見つかったのは、鞠子だよね、きっと」
こみあがってきた感情の塊を噛み殺して、義男は静かに言った。「だからそう決めつけなさんなよ。取り越し苦労をしなさんな」
「鞠子なんだよ、きっと。鞠子だったらどうしよう」
「真智子──」
「あたしにはわかるの。母親の勘でね。あれは鞠子よ。だからあたし──」
「とにかく坂木さんに訊いて、警察へ行ってみようよ。支度しなさい、な?」
まるで娘時代に戻ったみたいにしおらしく、「はい」と答えて、真智子は電話を切った。ため息とともに、義男も受話器を置いた。
「親父《お や じ》さん」木田が呼びかけてきた。「鞠子さんのことで何かわかったんですか」
義男はかぶりを振った。ちょっと言葉が出ず、両手を垂らしてぼんやりした。木田は首からかけた手ぬぐいを両手でつかみ、身構えるみたいな格好をして待っている。
「墨田区のさ、大川公園って知ってるか」
木田はすぐうなずいた。「知ってますよ。花見に行ったことがありますよね」
「今朝、あすこで女のバラバラ死体の一部が見つかって、テレビで騒いでるんだそうだ。それが鞠子じゃねえかって」
「ああ」と、木田は意味のない声を出した。手ぬぐいで顔を拭うと、もう一度「ああ」と言った。
「だけど、そうと決まったわけじゃねえんだよ。なのに真智子はえらいカリカリしてて」
「無理ないですよ、だって自分の娘がさ──」
言ってから、そんなことなど義男もよくわかってると思ったのか、木田はちょっとうなだれた。
「親父さんも辛いですね」
義男はテレビに目をやった。つけてニュースを見てみようかと思ったのだ。だが、すぐに気持ちをかえた。どうせすぐに警察へ行くのだ。その前に余計なものを見て、真智子と一緒になって動揺してしまったら、かえってよくない。
「もう、かれこれ三月ぐらい経ちますよね、鞠ちゃんがいなくなって」
事務所の壁に貼ってある豆腐組合のカレンダーを見あげて、木田がぼそりと言った。
「今日でちょうど九十七日だよ」と、義男は答えた。
木田は手ぬぐいではたかれたみたいな顔をした。「親父さん、数えてるんですか」
「うん」
製造場の階上《 う え 》の住まいの方に、事務所のと同じカレンダーが、もう一枚ある。たったひとりの孫娘が行方不明になって以来、義男はそのカレンダーの日付を、一日経つごとにひとつひとつ斜線で消していた。
「鞠ちゃん、帰ってくるといいですね」と、木田が言い、急いで言い直した。「帰ってきますよ、きっと」
義男は木田の顔を見たけれど、彼の励ましに返すべき言葉は出てこなかった。もう出尽くした。だから言った。
「仕事を片づけちまおう。ボイラーは停めたかい?」
今から九十七日前、六月七日の夜のことだ。古川鞠子という二十歳の娘が、JR山手線の有楽町駅前の公衆電話から自宅に電話をかけた。時刻は午後十一時半。新宿や六本木に比べたらはるかに早寝の繁華街である銀座でも、この時刻ならまだ人通りは多く、駅も明るい。ましてやこの日は金曜日だったからなおさらだ。電話に出た母親の真智子は、鞠子の周囲が騒がしいので、何度も聞き直さなければならなかった。
鞠子は言った。「こんなに遅くなっちゃうはずじゃなかったんだけど、ごめんなさい。今、有楽町なの。これから帰るからね」
「あんたひとりなの? 会社の人たちと一緒じゃないの?」
「今日はね」と、鞠子は言った。声は明るく屈託がなかったが、わずかに酔っているようだった。
「気をつけなさいよ」
「はあい、わかりました。お風呂たてといてね。あと、お茶漬け食べたいな。お願いね、お母さん」
そう言って、鞠子は電話を切った。カードではなく十円玉でかけていたらしく、彼女が電話を切る直前に、料金切れを示すブーという音がしたのを、真智子は聞いている。
電話のあと、真智子は風呂の支度をし、夕食をいつでも温め直せるように準備して──お茶漬けだけなんて、栄養にならないんだから──それからリビングでテレビを観た。夜のニュースショウで、低金利時代の賢い貯蓄法について特集していた。
古川家は、JR中央総武線の東中野駅から歩いて五分ほどのところにある。駅から家までの道は、線路沿いの、夜はあまりひと気のないところだ。真智子は、ごく普通の母親がごく普通に、深夜になってひとり帰宅する娘を案じる程度の心配を抱えて、ひとりリビングに座っていた。最初のうちは、特に時計を気にすることもなかった。四月に就職したばかりの鞠子だが、そろそろ職場にも慣れ、遊び仲間もできて、週末など、まっすぐ帰ってくることの方が珍しい。真智子も、娘の生活パターンの変化に、ようやく慣れ始めたころだった。華の金曜日、か。
有楽町から東中野まで、乗り換え時間も入れて、普通ならだいたい四十分ぐらいだ。そのうえに、深夜ということを考え、徒歩の部分も入れても一時間あれば鞠子は帰宅できる。そのつもりで、真智子は待った。十一時半から零時半になるまでは。
零時半を過ぎても玄関のチャイムが鳴らないと、真智子は、鞠子のヤツめ乗り継ぎに失敗したかなと考えた。
時計を見た。零時四〇分。それからテレビに視線を戻した。
また時計を見た。零時五二分。立ち上がり、玄関に行って、門灯が点《つ》いているのを確かめる。それからリビングに戻った。今度は、椅子に腰をおろすと煙草に火をつけた。真智子は一日にキャスターマイルドを十本ぐらい灰にするという程度の軽い煙草呑みだった。
時計を見上げた。今度は視線を動かさず、じっと見た。零時五五分から、秒針が音もなく二周するまで。
そこで初めて、遅いなと思った。
またテレビに視線を戻す。けれども、もう画面に集中することができなくなった。どのみち、ニュースショウが終わってしまうと、けたたましいだけで面白くない番組ばかりだ。
そういえば今朝、朝食を食べながら新聞を読んでいた鞠子が、深夜映画で面白いのをやると言っていた。これは観なくっちゃ、と。真智子は午前二時三時まで起きている自信がないので、ビデオに撮ってくれと頼んだ。それなら新しいビデオテープがなくちゃと、鞠子は言った。ウチにあるのは、もう重ね撮りを繰り返してるから画質がよくないもの、あたし買って帰ってくるわ──
そうだあの娘《こ》、ビデオテープを買って帰ってくるつもりなんだわと、真智子は思った。帰り道の途中にコンビニがある。そこへ寄っているのだろう。だからちょっと遅いんだ。きっとそうだわ。
そうしているうちに、時計の針は午前一時を過ぎた。一時一〇分も過ぎた。やがて一時二〇分にさしかかった。コンビニって、そんなに混んでいるものか? そんなに時間がかかる?
真智子は玄関でサンダルをつっかけて、外に出た。街路は静まり返り、街灯が青白く輝き、誰もいない。振り向くと、窓のレースのカーテンごしに、リビングのテレビ画面がちらちらしているのが見えた。その脇の時計も見えた。午前一時半が近づいていた。
明るい家。暗い街路。
あたしの娘が帰ってこない[#「あたしの娘が帰ってこない」に傍点]
「鞠子」と、声に出して、真智子は呟いた。そしてそれが、長い長い夜の始まりになった。
真智子の電話から二時間ほど経って、義男が製造場の隣に据えてあるウォーク・イン式の冷蔵庫のなかにいると、すぐ脇の駐車スペースで車の音がした。ドアのあいだから首を出してのぞいてみると、白いカローラがバックで停車するところだった。
真智子と坂木|達夫《たつ お 》だった。坂木が運転席にいる。身体をねじって振り向きながら、義男の顔を認めて、しわっぽい顔にさらにしわを刻んで会釈をした。
「おはようございます」
義男も挨拶を返したが、そのとき、胸のなかにぽつんとひとつ、重りが落ちてきたような気がした。大きな重りではない。鮒《ふな》釣りに使うくらいの、指先でこねて自由に形を付けることのできる、小さな鉛の塊だ。
最大の重りは、鞠子が失踪したあの夜以来、ずっと胸の底に沈んでいる。沈み続けている。動くことも、浮かぶことも、わずかに水面を波立たせることさえしない。ただずっとそこにあって、暗い水面を透かしていつでもその存在を確かめることができる。持ち上げたらさぞ重かろう──と思いながら、あの下には何かひどく惨《むご》いつぶされ方をしたものが眠っていて、重りを持ち上げたらそれも一緒にあがってきて、我々はそれに直面しなくてはならないのだ──と思いながら、何の変化もない水面を見つめ続ける。それが、不可解な失踪をした者の帰りをひたすら待つだけの家族の毎日なのだ。
だが今、坂木の顔を見たときに落ちてきた小さな重りは、その水面にわずかなさざ波を立てた。二時間前の、真智子の取り乱した電話でさえ、立てることのなかったさざ波を。
──坂木さんも、大川公園で見つかったのが鞠子じゃないかと思ってるんだ。
そうでなければ、わざわざ一緒に出向いて来てくれるわけがない。
坂木達夫は、警視庁東中野警察署の生活安全課の刑事である。髪が薄いせいもあって老けて見えるが、歳を聞いてみたら四十五歳だった。義男から見れば息子みたいなものである。おまけに、ふたりともよく似たずんぐり型の体型をしており、一度ならず親子に間違えられたことがある。
九十七日前、六月七日の夜が更け八日の朝が来ても鞠子が帰ってこなかったとき、真智子は義男に電話をかけてきた。そのときすでに、鞠子の親しい友達のところにはすべて電話をかけ終えていた。誰も鞠子と一緒ではないことがわかっていた。
義男はすぐに、警察に相談しろと言った。鞠子は一人娘で、競り合う兄弟姉妹もおらず、小さいときからめいっぱい可愛がられて育った。周りは大人ばかりだったから、ペットみたいな面もあった。それだけに、大人になってみると、周囲の人々に(我儘《わがまま》だな)と感じさせる言動も、時として目に付いた。
だがそのかわり、鞠子は、両親にとって、祖父にとって、親戚一同にとって、自分がどれだけ重要な人物であるかということだけは、充分以上に認識していた。彼女の一挙手一投足に、皆がどきどきしたりハラハラしたり、右往左往するのだ。
だから鞠子は、どんな時でも、自分の行動がスケジュール通りに進まないで、どこかに着くのが遅れるとか、あるいは予定を取りやめるとかいう場合には、必ず、例外なく、神経質なくらいにきちんと、しかるべき方法でしかるべき相手に報《しら》せるという習慣を持っていた。待ち合わせに遅れる時には、たとえそれがほんの十分のことであっても、相手に報せた。あたしが時間通りに動かないと、約束を違《たが》えると、心配する人たちがたくさんいる──鞠子にはそういう刷り込みがかかっているのだ。またそうでなければ、華の週末をデートや女友達との食事や遊びなどで楽しんでいる二十歳の娘が、さあ帰ろうという時になって、家にいる母親に、わざわざ電話などかけて寄越すはずがないだろうと、義男は思う。
その鞠子が、黙って帰宅しないのはおかしい。いや、おかしい以上のことだ。たとえば駅で真智子に電話をかけたあと、一度サヨナラと手を振ったはずのボーイフレンドが引き返してきて、やっぱり今夜はもうちょっと一緒にいたいよと言ったとしたなら、そして鞠子もその気になったとしたなら、その旨を必ず──彼とホテルに行くのとは言わないまでも──今夜は予定が変わって帰りがうんと遅くなるよということを、真智子に報せてきたはずだ。それが鞠子だ。鞠子という娘なのだ。思春期の反抗したい盛りのときだって、黙って家を飛び出してしまうことのできなかった娘だ。母親と大喧嘩して友達の家に行き、一晩泊《と》めてもらうということになったときも、やっぱり自宅に電話をかけてきた。繁華街をふらついたりしてるわけじゃないんだからねと、喧嘩腰で報告しただけだけれど、それでも報せてはきた。そういう娘なのだ。
しかもその上に、去年の暮に真智子の夫の茂が家を出て、古川家は事実上母娘ふたりだけになってしまった。生活に支障はないものの、これでますます、母・真智子の毎日は娘・鞠子を中心に回ることになったのだ。それをうっとうしいと思うことがあったとはしても、だからといって今までの習慣をぶち破り、母親に余計な心配をかけることができるほど、鞠子はドライではない。
だから義男は真智子に、まっすぐに警察へ行けと言ったのだ。そうして、向こうさんはたぶん、あんまり本気で相手にしてはくれないだろうけれど、それに負けちゃいけない、鞠子がこういうことに関してはどれだけ几帳面な娘であるか、連絡もないまま外泊するなど考えられないことであると、一生懸命説明しろと言い聞かせた。そうして、木田に店を任せると自分も東中野署へ飛んで行った。
そこで出会ったのが坂木達夫だったのだ。狭い応接室みたいなところで、うつむいて目を真っ赤にしている真智子と向き合い、まるでその責任が全部自分にあるみたいな顔をして一緒にうなだれていた。
坂木から名刺をもらったとき、義男は彼の何から何まで気に入らなかった。貧相な雰囲気も、生活安全課という区役所の苦情処理係みたいにお気楽な所属部署も。二十歳の娘が、夜、東京のど真ん中で、突然消えてしまったのだ。帰るべき家に帰ってこなかったのだ。それを訴えに来た家族に応対するのが生活安全課[#「生活安全課」に傍点]だと? 猫の子を探してもらおうというんじゃないんだ。
その憤激は、坂木がゆっくりと、私の課では家出人捜索を扱うのですと説明したときに、頂点に達した。
「鞠子は家出したわけじゃない。これから帰るよとわざわざ電話してから家出するバカがどこにいます。あの子は帰って来るつもりだったのに、帰ってこれなくなったんですよ」
何か事件に巻き込まれて──という言葉を、義男はあわてて呑み込んだ。真智子はハンカチのなかに顔を埋めてしまっている。
「お気持ちはよくわかります」と、坂木は言った。鈍重な話しぶりだと、義男は思った。小さい目をちまちまとしばたたくところも気にくわない。もっと有能な刑事はいないのだろうか?
「しかし、若い人には若い人の考え方がありますからね。あまり早いうちに大騒ぎをしては、かえってお嬢さんに恥をかかせることになりかねませんでしょう」
「だから、鞠子に限っては、そういうことはありゃせんのです」
「皆さんそうおっしゃるんですよ、親御さんは」
「そんな……」
義男は口がきけなくなってしまった。もともと多弁な方ではない。商店主というのは、だいたいふたつに分かれる。ひとつは多弁で話の旨いタイプ。もうひとつはすぐに言葉に詰まるタイプ。前者には、スーパーとか電気店とか、販売や修理を専門にする店に多い。後者は、義男みたいに製造と販売を一緒にしている店に多い。
坂木刑事は、泣いている真智子と顔を強《こわ》ばらせている義男とを見比べて、ちょっと椅子を引いて座り直すと、穏やかに続けた。
「しかし、若い娘さんが突然姿を消すというのは、大変なことです。事件の可能性もあります。それは私どもももちろん承知していますよ。少しでもそういう様子が出てきたら、大がかりな捜索に取りかかることになります。けれども、今、この段階では、それを始めるには早すぎると思うのですよ。お母さんにもおじいさん──おじいさんでよろしいんですね?」
「そうです」と言って、義男は額の汗をぬぐった。刑事の言うことはわかる──それは理屈だろう──でも──
「ご心配はわかりますが、あまり悪い方にばかりお考えになりませんようにお願いします。さっき伺ったのですが」と、刑事は義男の方を向いた。「この鞠子さんの父親、お父さんの古川茂さんは、現在別居中だそうですね」
「そうです。杉並の方に住んでおります」
「お嬢さんがそちらにおられるということは考えられませんか」
「ないです」叩かれたみたいに素早く、真智子が顔を上げた。「それは絶対ありません」
坂木は動じなかった。わずかに薄く笑みを浮かべ、宥《なだ》めるように、「絶対かどうかはわかりませんよ。お母さんに電話をかけたあと、有楽町で偶然、お父さんに会ったということだってあり得る。それで話をしているうちに夜が更けて、お父さんのところに泊めてもらったということだって考えられるでしょう。ただ、そのことをお母さんにお知らせするタイミングが、ちょっと遅れたというだけで」
真智子は目を閉じたまま首を振った。
「そんなことはないです」
「ご主人のお勤め先は? どちらです」
「丸の内ですよ」
「じゃあ、有楽町で会うことだって──」
「それはありますよ、そういうことなら」真智子は焦《じ》れ始めた。声が高くなった。「父親と食事して帰ってくることだってあります。あの子はあの子なりに、あたしたち夫婦のあいだのことを心配してますから。だけど、あの子が父親と一緒に飲み歩いて遅くなったとしたって、泊めてもらうってことはありません。父親だって泊めません。うちまで送ってきますよ」
「しかし──」
「茂は別の女と住んどるんです」と、義男は言った。「ですから、娘を家にはあげません。私も会いに行ったことがあるが、入れてはもらえませんでしたよ」
坂木の目の焦点が、ちょっとぼけた。彼が(家庭の事情が複雑なようだな)と考えて、そのために、やっぱり家出の可能性が強いなどと思ったりすると困ると、義男は考えた。だから続けて言った。
「それはそれで、夫婦にとっては深刻な問題です。ですが、そのことと、鞠子が帰ってこないこととは関係ありませんよ。両親が離婚しそうだからって家出するような娘じゃない。それも今ごろになって──ばかばかしい」
吐き捨てるように言ってしまってから、義男はひやりとした。ここで坂木に気を悪くされてしまっては困る。この刑事が窓口なのだ。
だが坂木は、内心はともかく、外目には気にしている様子を見せなかった。まだ焦点を見失ったような顔をしているが、それは何か、今の話題とは別のことを考えているせいであるようだった。
「とりあえず」軽く咳払いをして、坂木刑事は目をあげた。「今日一日は、様子を見てみましょう。心当たりの場所に連絡してみてください。私の方からも、まめにご連絡をします。いいですか、お嬢さんが照れくさそうな顔をして帰ってくるという可能性は、充分あるんですからね──」
以来、坂木刑事はずっとその態度を通してきた。一週間、十日、半月、一ヵ月──鞠子の帰らない日々が続き、東中野署でも事件性の強い失踪と見て捜査を始め、都内の交番に鞠子の写真と失踪当時の服装を記したチラシが貼り出されるようになってもまだ、彼の態度は変わらなかった。事件かどうかはわからないんですよ。思いこんでは駄目ですよ。警察は手を尽くします。でも、悪い方にばかり考えてはいけませんよ──と。まるで、彼が一度でも(これは事件だ)と思ってしまったら、その瞬間にそうなってしまうとでも信じているかのように。
言ってみれば、坂木はこの九十七日間、義男と真智子ののぞきこむ心の暗い水面に落ちて来る重りを、ぎりぎりのところで、可能な限りすくいとり、外へ捨てる作業に専念してきたのだ。だがしかし、今朝に限っては、それが違った。
「一緒に来てくだすったんですか」
ふたりを店の奥の座敷に招じ入れながら、義男は言った。自分でも、声が緊張していることがわかった。
「ちょうど非番だったもんで」
いつもながらの穏やかな声で、坂木は言った。ぐったりと肩を落とし、疲れ切ってあとからついてくる真智子とは対照的だ。坂木は真智子をちらと振り向くと、
「古川さんがだいぶ取り乱しておられるようなんで、一緒の方がいいと思いましてね。それに、これから墨東《ぼくとう》警察署へ出かけられるとしたら、私がいた方が話の通りが早いでしょう」
努めて穏やかな言い方をしていた。
真智子が座敷にあがるとき、義男は彼女の肩を軽く叩いた。まだ午前中だというのに泣きはらした目に、新しい涙がにじんでいる。
「なあ、坂木さんもおっしゃるとおり、まだ鞠子だと決まったわけじゃないんだからな」
真智子はうなずいた。
「お茶をいれるわね」と言って、奥の台所の方へと消えた。彼女が、座敷と台所を隔てるガラス戸を閉めるのを確かめて、義男は坂木に向き直った。
「本当のところ、どう思われます」
坂木は義男の顔を見た。正面からまっすぐに見た。それなのに、視線がきつい感じがしなかった。これがこの男の特徴だった。いつでもこうだった。精神の肩が弱いのだ。周囲に向けて、キャッチボール程度の球しか放ることがない。義男はふと、この人のかみさんや子供は幸せだろうなあと思うことがある反面、刑事には向いてねえ人だなあとも思う。
「即断はできません」と、坂木は応えた。目顔で灰皿を探しているので、義男は煙草盆を差し出し、自分もハイライトを一本つけた。今朝起き抜けに封を切ったばかりなのに、気がついたらこれが最後の一本だった。真智子を待っている間、煙突みたいにふかしていたのだ。
「古川さんは、鞠子さんに間違いないと思いこんでおられるようですね」
「あいつはちょっとヒステリーなところがあるんですよ」と、義男は小さく言った。「でも、あいつの勘はよく当たる。鞠子が失踪したときだってそうだった」
「今日で九十七日ですね」
義男は驚いた。「坂木さんも数えてるんですか」
坂木はうなずき、ふと煙を吐き出すと──坂木は紙みたいに軽い煙草を吸っていた──言った。「出がけに墨東警察署に連絡をとってみたんですが、今のところはまだ、最初に発見された右腕以外のものは見つかってないそうです。あっちでも大捜索をやってるんですよ。公園中を引っかき回してね」
「私らはそういうことには詳しくないが……」
義男は言いよどんだ。テレビの推理ドラマの登場人物のように、バラバラ死体だの殺害状況だのと、ぺらぺら言えるわけもない。
「バ──バラバラってのは、そのなんだ、ひと所に捨てられるもんじゃないでしょう? バラかして──そのためにバラすんでしょうから」
「そうですね。でも、念のためということがありますから。大川公園は広いし、ゴミ箱もたくさんある」
「ゴミ箱?」
「ご存じなかったですか。問題の右腕は、公園の入口近くのゴミ箱のなかに、紙袋に入れて捨てられていたんです。茶色の紙袋ですね。スーパーなんかで使ってるみたいな」
真智子がコーヒーカップを載せた盆を持って台所から出てきた。まだ目は充血したままだが、とりあえず涙は止まったようだった。
「日本茶が見つからなくて」
坂木にコーヒーを勧めながら、言った。「どこに置いてあるの?」
「そうか……俺はここんとこ、ギャバロン茶しか飲まねえからな」
高血圧によく効くというお茶だ。最初に、雑誌で読んだとか言ってそれを買ってきてくれたのは鞠子だった──と、義男は思い出した。
──おじいちゃん、血圧、上が二〇〇を超えちゃうこともあるんだって? そんなの人間の血圧じゃないよ、キリンだよ。
笑いながら、でも心配そうな目をしていた。
──しょっぱいものを食べちゃ駄目よ。お豆腐食べるときもね、お醤油じゃなくて、ポン酢にするといいの。ね?
唐突に、錐《きり》でもみこまれるように胸が痛んできて、義男は手で顔を押さえた。幸い、真智子は自分のことだけで手一杯のようで、何も気づかなかった。思いつめたような目をしてコーヒーを飲んでいる。
だが、坂木は気づいた。目をそらして、コーヒーカツプを手に取った。
その右腕が、鞠子のだったらどうしようか。どうなるだろう。真智子と同じ動揺に翻弄されながら、義男は頭のなかで繰り返した。肉親になら、右腕一本だって、見ればわかる。鞠子かどうか。見てしまえばわかってしまう。確かめに行く勇気を、今、振り絞ることができるだろうか。
「お客さんみたいですよ」と、坂木が言った。
目をあげると、店先に、黄色いポロシャツを着た若い女性が入ってくるところだった。義男を見て、笑顔になった。
「おじさん、お豆腐ください」
「はいよ」立ち上がり、義男は店に出た。
「絹一丁と、木綿一丁ね」
近所のマンションに住む主婦である。午後から夕方まで、ここから自転車で十分ぐらいのところにある歯医者でパートの受付をしている。半月ほど前、歯肉炎の薬をもらいに行ったら、「あら、お豆腐屋さんのおじさん」と声をかけられて、それでわかった。
「今日はがんもどき、揚げた?」
「悪いね、まだなんだよ」
義男の店では、夏場にはがんもどきを揚げないのだ。秋もかなり深くならないと店には出さない。
「そろそろつくってよ。夜は肌寒いくらいになってきたじゃない。おじさんのがんもどき食べちゃうと、スーパーのはまずくって」
「ありがとうよ」
ショウケースごしに豆腐を入れたビニール袋を渡し、小銭を受け取る。毎度、と言って送り出そうとしたとき、女性が足を止めて言った。
「おじさん、なんか元気ないわね。どうしたの?」
溌剌《はつらつ》とした声なので、座敷にいるふたりにも聞こえたろう。義男は笑ってみせた。
「もう歳なんだよ」
「嫌ねえ、そんなことないってば」
笑いながら、彼女は外へ出ていった。もう一度「毎度あり」と声をかけてから、傍らの小さな洗面台で、義男は手を洗った。ついでに顔にも水をかけた。
座敷に戻ると、真智子がまた泣いていた。
「お父さんもやっぱり、予感がするのね」
義男は黙っていた。座って、コーヒーの残りを飲んだ。
「木田さんはどちらです」と、坂木がきいた。
「配達なんだ。十二時前には戻るから」
「じゃあ、それから出かけましょうか」淡々と言って、坂木は真智子に向き直った。
「道々お話ししたように、なにしろ右腕だけですからね。確認できるかどうか、それ自体がわかりません。あまり思い詰めないでくださいよ」
うなずきながら、真智子はそばに置いてあったハンドバッグを引き寄せ、蓋を開けた。
「坂木さんがね、鞠子の指紋がついてるものを持っていった方がいいっておっしゃって」
取り出して、義男に見せた。半透明のビニール袋に入れた、小さな櫛《くし》だった。
東中野の鞠子の部屋は、失踪後もずっとそのままにしてある。誰に言われなくても真智子はそうしたろうが、坂木もそう勧めていた。
「それもあくまで、念のためですよ」と、坂木が急いで言った。「何しろ、状況がまださっぱりわからないんだから。見つかった右腕から、指紋が検出できるかどうかもわからないしね」
真智子が大事そうに櫛をしまいこむのを見て、義男は言った。「真智子、すまんけど、ハイライト買ってきてくれないか。切れちまった。俺は店番してるから」
「いいわよ」と、真智子は立ち上がった。
「煙草屋、どっちだっけ」
「店を出て右だ。ポストのそばだよ」
真智子が出てゆくのを、義男は待った。彼女が見えなくなってから坂木に顔を向けると、彼は茶箪笥の上に載せてあるハイライトのカートンを見ていた。
「真智子がいない方が、はっきり言えるでしょう」と、義男は言った。「あんたが一緒に来てくだすったんで、ああこれはと思ったんですよ」
坂木はまだ、カップに半分ほどコーヒーを飲み残していた。それを見つめながら、ぼそりと言った。「煙草屋は遠いですか」
「近所だよ。でも、今日はそこは休みだ。探しながら買って帰ってくるんだから、十分ぐらいはかかるでしょう」
そのつもりで、真智子を外に出したのだ。
「坂木さんのところには、テレビ局よりも早く情報が入るんでしょう。率直なところ、どうなんですか。大川公園の──その、見つかった腕っていうのは何か特徴があるとか、その──」
坂木は下を向いたまま、手で顔をこすった。面に浮かぶ余計な感情を義男に見せずにおくために、こすり落としているみたいな手つきだった。
「まだわかりません。ただ、若い女性の右腕であることは間違いないようです。それですと、鞠子さんである可能性もありますね」
「その程度ですか。だけど坂木さんは疑ってるんでしょう?」
「万が一ということを考えてはいます」
会話は続かなかった。坂木の肩が落ちている。何か新しい──そして決め手になる情報を隠しているように、どうしても義男には思えて仕方がない。だが、どう探り出したらいいのかわからなかった。
ちょうど客が来た。二人連れだった。相手をしているうちに木田が帰って来た。坂木の車と並べて、有馬商店のヴァンを停めていると、真智子が戻って来た。煙草だけでなく、スーパーの袋を手に提げていた。
「ずいぶんかかったな」
「巨峰を見つけたの」と、袋を掲げてみせた。
「鞠子が好きだから、奮発しちゃった」
父は娘の顔を見た。娘も父の顔を見た。真智子は涙目で笑っていた。
もしかすると真智子は、正気の縁から片足を踏み外しかけているのかもしれないと、義男は思った。
墨東警察署までの道のりは長く、乗り合わせた三人に、ほとんど交わす言葉はなかった。真智子は窓の外に目をやったきり、呼吸の音さえひそめて、自分ひとりきりの世界にこもりきっていた。膝の上に載せた両手は静かで、ただ指先が、思い出したように時々震えた。
墨東警察署は五階建てのビルで、建てられてからまだ一年と経っていないように見えた。地下がパトカーや公用車両の駐車場になっているらしく、坂木が署の前の外来者用駐車場に車を停めている間に、ビルの下から続けて二台のパトカーがするりと走り出てきた。
義男の記憶と方向感覚に間違いがなければ、二台とも大川公園の方に向かっていた。
車を降りると、義男は真智子の腕をとった、ひとりでは歩けない様子だった。制服姿で右手に木刀みたいなものを持った警備担当の警官が、入口の階段に近づいてゆく三人をじっと見つめている。
そのとき義男は、警備の警官のすぐ脇、階段を下りきった反対側に、高校生ぐらいの少年がひとり、背中を丸めるようにして座っているのを見つけた。何かから身を守るように、両手で頭を抱えて。
大川公園から墨東警察署まで、塚田真一は、キングの飼い主の女の子といっしょに、パトカーで運ばれてきた。後部座席に肩をくっつけるようにして乗り込んだのだけれど、移動しているあいだじゅう、女の子はずっと泣いていたし、真一はうなだれていた。パトカーに乗せられるふたりを見ていた野次馬の群のなかからは、
「なんだ、また学生が何かやらかしたのかい」という声が聞こえてきた。
ゴミ箱の紙袋から転がり出てきた人間の腕を見たとたん、真一は動けなくなってしまったし、女の子の方はその場にしゃがみこんで泣いたり叫んだりするだけでこれもまったく役に立たず、結局、最初に一一○番通報をしてくれたのは、女の子の悲鳴を聞いて駆けつけてきた散歩中の中年の夫婦だった。なかなか冷静でてきぱきした人たちで、パトカーのサイレン音が近づいてくるに連れ、どこからか湧いてくるように集まってきた野次馬の群からふたりを守りつつ、警察が到着するまでのあいだ、好奇心旺盛で不用意な連中がゴミ箱に近づかないように見張ってもいた。そのうえ、現場での事情聴取だけでは足らず、真一たちが警察まで出向くことになったとき、キングとロッキーを預かり、それぞれの家まで送り届けようと申し出てくれた。
「住所を聞いたら、どっちの家もうちの近所ですから」
最終的には、彼らにパトロール警官がひとり同行し、真一や女の子の家族に事情を説明する、という運びになった。そうして、まだ身体は強《こわ》ばったまま、ありがとうという言葉の代わりに、何とかひとつ頭をさげて挨拶した真一に、夫の方が、ちょっと声をひそめてこう言った。
「びっくりしたんだろうし、気持ちはわかるけど、男だろ? もっとしっかり、しゃっきりしろよ。彼女にいいところを見せないとな」
言葉といっしょに、真一の肩をぽんと叩き、離れて行った。真一には、あの女の子は僕の彼女でもなんでもないとか、どうしてこんなにも僕がショックを受けたかその本当の理由をあんたは知らないじゃないかとか、いろいろと言いたいことはあった。言い返せば、それは相手を納得もさせただろう。だが言葉は出なかった。ひとり、顔が熱くなった。それでもまだ背中は冷たく、膝は震えていた。
パトカーに同乗していた刑事は──かすかにナフタリンの匂いのする背広を着て、髭《ひげ》の剃《そ》り跡が青々していた──車中では余計なことを訊かなかった。名前を名乗ったようだが、真一には聞き取れなかった。耳に聞こえるのは、ゴミ袋の中身を見たときの女の子の悲鳴──それにかぶって蘇ってくる自分の悲鳴。そして何度まばたきしても、目に見えるのは、ゴミ袋から出てきた手の指先。まっすぐに真一を指さしていた。おまえだ、と名指しするかのように。おまえだ、真一。おまえのところに戻ってきたぞ。一度は取り逃がしたけれど、こうして戻ってきた。今度こそおまえをつかまえるために。
あの手は死神の手だと、真一は思った。
墨東警察署では、女の子といっしょに、階段をひとつあがったとっつきにある会議室みたいなところに通された。しばらくのあいだは、私服の刑事ばかりが数人出たり入ったりして、真一たちをちらっと横目で見たり、ちょっと声をかけたり──ご苦労だね、少し待っていてくれよ──しながら、忙しげに話し合っていた。そのあいだに、制服の婦人警官が、紙カップに入れたコーヒーを持ってきてくれた。
若い婦人警官の優しそうな雰囲気に安心したのか、女の子が顔をあげた。目が真っ赤になっている。
「あの、すみません、ティッシュもらえませんか」
鼻をかもうにも、ハンカチひとつないのだ、婦警はすぐにうなずいて、どこからか新しいポケットティッシュを持ってきた。
「ほかには何かある? お手洗いは大丈夫かしら」
「平気です。ありがとう」
女の子は婦警に向かってほほえみかけた。婦警も微笑を返し、つと[#「つと」に傍点]真一の方に視線を向けると、声をかけてきた。
「君は大丈夫ですか? 気分が悪そうだけど」
真一は黙ったまま顎だけをうなずかせた。婦警はまだ何か言いかけたが、思い直したように口を閉じ、部屋を出ていった。
会議室のドアは開けられたままで、外の人声も聞こえてはくるけれど、真一は女の子とふたりきりになった。それを待っていたように、女の子が話しかけてきた。
「なんか、お互いにとんでもない目に遭っちゃったね」
真一はうつむいて、彼女の顔を見なかった。彼女は、座っているパイプ椅子をずらし、近寄ってきて声をひそめた。
「今朝散歩に出るときには、こんなことになるなんて思ってもみなかったじゃない? 何があるかわかんないよね」
「うん」と、真一はうなずいた。女の子の可愛らしいトーンの声が、かえって辛かった。どうしてこんな明るい声が出せるんだろう、と思った。
真一は手で額を拭い、大きく息を吐いた。
他人事《 ひ と ごと》だからだ。彼女にとっては、直接自分の身には関わりのないただの事件だからだ。だから、ショックがおさまればまた元の自分に戻れる。俺とは違うんだ。
「まだ自己紹介もしてなかったよね。あたし、水野久美」そう言って、彼女は真一の顔をのぞきこんだ。
「あなたも高校生?」
真一はまた無言でうなずいた。久美の顔が、心配そうに曇った。
「ヤダな……。ねえ大丈夫? ひどい顔色よ」
「大丈夫だよ」
「びっくりしたもんね」久美の声が、芝居がかって裏返った。「あたし、夢に見そう」
それから、ちらっと舌を出した。「でも、ちょっとスリリングだよね」
そこで真一の我慢が切れた。椅子を押しやって、唐突に立ちあがった。そのまま部屋の出口に向かった。
久美は驚き、中腰になった。「どしたの? どこ行くの? 勝手に歩き回っちゃダメよ」
その声を置いてきぼりに、真一は廊下に出た。そこで、部屋に入ってこようとする大柄な中年の刑事と鉢合わせしかけた。相手はびっくりして、必要以上に大きく身を引いた。
「何だね、どこへ行く?」
「すみません、吐きそうなんです」真一は短く言った。「外の風に当たってきたいんだけど、いいですか」いいですかと言いながら、立ち止まることなく階段の方へ向かった。大柄な刑事が急いで真一の腕を取った。
「ちょっと待った」
「すぐ戻りますから。お願いです」
そこへ、廊下の反対側から別の刑事がやってきた。ノーネクタイにサンダルばき、突き出た腹のせいで、余計にだらしなく見える。
「おいおい──」
何事だ、と近寄ってきたその刑事にも、
「遠くへはいきませんから」と短く言って、真一は小走りに階段へ向かった。曲がり角で、大柄な刑事がついてこようとするのを、ノーネクタイの刑事が引き留めているのが、目の隅に見えた。
自動ドアを踏んで外に出た。陽の光がまぶしく目を射た。建物の前のコンクリートの階段をみっつ降り、端に寄ると、いちばん下の段に腰をおろして、真一は手で目を覆った。出入口で警備をしている警官が近づいてくるかと思ったけれど、真一が腰を据えて動かないので、様子を見ているのか、声もかけてこなかった。その有り難い沈黙のなかで、真一は頭のなかで再生されるすべての映像、すべての音響のなかに身を置き、それらが彼を苛《さいな》むに任せた。一度思い出してしまった以上、ひととおり終わらないと、途中で断ち切ることはできないのだ。そのことはもう、嫌というほどよくわかっていた。
五分か十分か、そうやって自分で自分の身体を抱き、じっと固まっていた。記憶の嵐が過ぎ去り、やっと身体を起こすことができたとき、自分が泣いていないことを知った。震えてはいるけれど、涙は流していない。とっくに枯れてしまったのだ。
気がつけば、爽快と表現していい中秋の好天気だった。署の前の四車線の大通りを、様々な車が行き来している。すぐ右手の歩道にバス停があり、背広姿の男性がひとり、立ったまま新聞を大きく広げて紙面を読みふけっている。新聞の端が風ではためき、足元の木の葉がからからと転がってゆく。
世の中には何の変化もなく、陽光は黄金色で、空気は澄み、平和そのものだ。真一は頭を振り、両手で顔をこすった。
そのとき、署の前の車回しに、一台の車がすべりこんできた。白のカローラだ。建物の前で右折すると、来訪者用の駐車場に停まった。ドアが開いて、なかから人が降りてきた。
三人いる。背広を着た中年の男と、灰色のシャツの上に灰色のチェックの上着を着込んだ年輩の男──ふたりともずんぐりしていて、歩き方も似ている。親子だろうか。
そうしてもうひとり、女性がいた。やはり中年──石井夫人ぐらいだ。いや、真一の母親と同じぐらいの歳格好だ。
ひどく様子のおかしい女性だった。酔っぱらっているみたいだ。歩きながらふらふらと右へ揺れ左によれ、見かねたのか灰色シャツの年輩の男性が彼女の腕をとらえていっしょに歩き出した。かばうように歩調をあわせる年輩者に、中年の女性が笑みを向けた。その笑みも、どこかあるべき焦点を失っているように見えた。
どういう人たちだろうと、真一は考えた。警察を訪れるのだから、その目的が明るいものであるわけはないが、被害者側の人びとだろうか。それとも加害者側だろうか。
見つめていると、こちらに近づいてくる三人のうちの年輩者の視線が、真一のそれと、つと交差した。真一は年輩者を見た。灰色のシャツの色に似て、暗い顔だった。禿《は》げあがった額に秋の明るい日差しが映っているが、それは不幸のあった部屋いっぱいに陽があたっているみたいなものだった。
年輩者も真一を見た。不審そうな目つきのなかに、わずかに、かすかに、同情か心配のようなものが混じっているように感じられたが、それは真一の思いこみかもしれない。年輩者の視線は真一の顔を見回し、それから墨東警察署の入口の方へと戻った。先を進んでいた背広姿の男が、警備の警察官と話をしている。その声が、強い風にちぎられ切れ切れになって真一の耳にも届いた。
「──娘さんなんじゃないかと」
真一ははっと身を起こした。首をよじって、自動ドアの前にたたずむ三人と、警備の警察官の横顔を見あげた。
この人たちは、あの腕の持ち主が自分の娘ではないかと思って訪ねてきたのだ──平手打ちのように、その考えが真一に打ちかかってきた。目が覚めた。そうか、この人たちはあの腕の身元を知りたくてやってきたのだ。
これからもきっと、何組となく、そういう家族がこの墨東警察署を訪れるのだ。みんなあんなふうに日差しから顔をそらし、うつむいて、署内で待っている答が最悪のものではないことを願いながら。真一は再び、まっすぐに彼を指さしていたあの腕のことを思った。切断されたあの腕の持ち主は、家に帰りたがっていた誰かの腕であり、その腕をとり指を握るためにここにやってくる人たちにとっては、真一の方こそ死神だ。知らなければ信じずにいることのできた娘の死を見つけ出してしまったのだから。
背広姿の男が、警備の警察官に挨拶をして署のなかに入ってゆく。年輩者と、彼に抱えられるようにしてあの女性があとに続く。三人の姿が消える直前、何を思ったのか、年輩者ひとりだけが、急に振り向いて真一を見た。素早い動作で、すぐにまた前を向いてドアの向こうに入っていってしまったけれど、問いかけるようなその目に、真一は心に残るものを感じた。
このとき、振り向いた灰色シャツの年輩者は、真一を見て、この兄ちゃんは、まるでたった今自転車から転がり落ちて、慰めてくれるおっかさんを探している子供みたいな顔をしている──と思っていた。だが、真一が実際に年輩者の口からそれを聞くのは、もっとずっと先のことになる。
署の入口には、また真一と警備の警官だけが残った。少し寒くなってきた。中に戻ろう──と、立ち上がりかけたとき、うしろで声がした。
「塚田《つか だ 》真一君だね?」
振り向くと、さっきのノーネクタイの刑事が立っていた。
「そう……です」
真一が答えると、刑事はコンクリートの階段を降りてきて、真一の隣に腰をおろした。真一も、引っ張られるようにしてまた座った。
ノーネクタイの刑事はポマードの匂いをさせていた。真一の返事にせわしなくうなずきながら、上着のポケットから煙草を取り出した。だが、強い風に、百円ライターの火はすぐに消えてしまう。分厚い手のひらで炎をかこうようにしてやっと火をつけると、うなるような声と共に煙を吐き出しながら、言った。
「塚田君、佐和《 さ わ 》市の教師一家殺害事件の塚田君だろ?」
刑事が煙草と悪戦苦闘しているあいだ、ただぼうっとしていた真一は、この急な言葉に、声を失ってしまった。刑事は煙草をふかしながら真一を斜交《はす か 》いに見た。
「私は警視庁の武上《たけがみ》って者だ。佐和市の事件の時には、犯人のひとりが逃走中に都内の知人宅に立ち回ったりしたもんで、ちょっとばかり捜査に関わった。それで、君の名前も覚えてた」
「……そうでしたか」と、真一はやっと言った。そういえば、ひとりは都内で捕まったんだっけなと、思い出した。
武上という刑事はまたせかせかとうなずくと、言った。「お父さんとお母さんと、妹さんと、気の毒なことだったな」
何と応じたらいいのか、真一にはわからなかった。本当にそうですと言えばいいのか、ありがとうございますと言えばいいのか。あの事件は、気の毒なんて言葉でひとくくりにできるものではなかった──少なくとも、彼にとっては。だけど何か答えた方がいいのだろう。相手は同情してくれているのだし、警察官なのだし、犯人逮捕に努力してくれた人たちのひとりでもあるようなのだから。
だが、真一が言葉を探しているうちに、武上刑事は気短な感じで煙草を吸い捨て、吸い殻を靴の踵で踏みにじると、腹を立てているみたいな口調で言った。
「すまんな、慰めにもならんよな、気の毒だなんて言っても」
「いえ……」
「私には、普段から、被害者や遺族と話をしたりする機会がほとんどないのでね。どうもうまく言えねえんだ」
「私」という自称の丁寧さと、ほかの言葉遣いのあいだのギャップが、武上刑事の困惑ぶりを物語っているようだった。
「君は今、こっちの方に住んでるのか」
「はい」と、真一はうなずく。まるで死神に導かれたみたいに、と思いながら。
「親戚の家かなんかかい」
「父の友達の家です。幼なじみで、やっぱり中学校の教師をしてます」
「そうかぁ」刑事は冷たい風に目を細くした。
「そうすっと、君は養子になったのかな」
「ううん。まだ正式には。だから名字も塚田のままなんです」
ああそうかというように、武上はうなずいた。
本当に話し下手な人であるようで、会話の区切り区切りに不自然な間があいてしまう。でも、立ち上がる気配は見せない。
真一は訊いた。「武上さんは、今朝の大川公園の件でこっちに来てるんですか」
「うん」
「大事件だから」
「まだわからん」と、首を振る。「切断された腕が見つかったというだけじゃ、殺人かどうかははっきりしねえだろう。死体損壊・死体遺棄というだけかもしれん」
言ってから、失笑した。「そんなわけはねえな。プンプン臭うよな。ありゃ殺人だろう、うん」
「嫌だな」と、真一は言った。「すごく嫌です」
武上が真一を見た。「あれを発見したのが塚田真一君ていう高校生だって聞いて、俺も仰天したよ。一年ぐらいのあいだに、ひどい目に遭うよな、君も」
「なんか、僕には変なものがついてまわってるのかもしれない」
武上は、真一の背中をどんと叩いた。「バカなことを言い出すもんじゃねえよ」
真一もそう思いたかった。けれど、死神の指のイメージは、そう簡単に心から離れてくれそうになかった。
「今の家は、居心地いいのかい」
「いい人たちです、おじさんもおばさんも」
「ほかに子供は?」
真一は首を振った。「僕ひとりです。あと、犬がいるけど」
「犬か。犬はいいよな」武上は言って、両手を膝にあて、立ち上がる仕草をした。「どれ、もう気分は大丈夫かい」
「はい。スミマセンでした」
「じゃ、ご苦労だけど、事情聴取を受けてくれよ。終わったらすぐ帰っていいから、学校も、午後の授業には間に合うと思うよ」
日頃から、学校は休みがち──石井夫妻にも黙ってサボることも多いから、今日も行かなくたってかまわないし、行く気もない──と、言いかけてやめた。武上が先になり、真一が後に続いて、署の建物の方へ戻り始めた。自動ドアの前で、また新しい車がやってくる音が聞こえ、真一は振り向いた。
今度はタクシーだった。後部座席から、母娘らしいふたりの女性が降りてきた。ふたりとも、針で突っついたらはじけそうなほど、張りつめ、強ばった顔をしていた。
彼女たちの方に目をやったまま、真一は言った。
「腕の身元を確かめに来た人たちかな」
「どうかね……」
「さっきもひと組、そんな感じの家族が来ましたよ」
ちらりと視線を交わした、あの灰色シャツの年輩者の顔を思い出した。
「女の子の巻き込まれる、ひどい事件が多いからな」
と、武上が言った。低い声だった。
「ひと昔前までは、身元不明の遺体があがったとかいっても、家出人を抱えてる家族の反応は、これほど敏感じゃなかったんだ。だけど、このごろどんどん変わってきてるよ。みんな、知識を持つようになってきたからな。つい最近は、大阪の方で、女性ばかり殺してバラバラにする殺人事件があったばっかりだし」
母娘らしいふたり連れに追いつかれないうちに、真一は建物のなかに入った。階段をあがってさっきの会議室へ向かう途中で、思い出したように足を止め、武上が訊いた。
「君は、ご家族の事件の公判には出るのかい。もう始まってるよな?」
第一回公判は事件の半年後、今年の三月に行われた。真一はそれには出ていないし、傍聴もしていない。これから先、出廷しなければならないのかどうかということは、真一にとってもひどく気になることだったのだけれど、まだはっきりしていなかった。だから正直にそう言った。
「担当の検事さんは、僕のことは、できるだけ出したくないって言ってます」
「君だって、出たくねえよな」
「証人席でいろいろ訊かれると、当時のことを思い出して辛いからって意味ですか」
「そうだよ、うん」
「それは──ないな」
「本当かよ」
「誰にも何も訊かれなくても、しょっちゅういろいろ思い出してるから、同じことです」
武上刑事は、視線をさげて、自分の太い腹のあたりを見つめた。今、何かひどくまずいことを言ってしまったらしいが、その原因はこのでかい腹にあると責めているみたいな顔をしていた。
「すいません」と、真一は言った。「余計なこと、言いました」
武上は分厚い手のひらを振った。「俺はどうも、口がまずい」
刑事の辛《つら》そうに歪んだ大きな顔を見ていると、場違いに、唐突に泣けてきそうになって、真一はぐっと顎を引いた。
「どっちにしろ、うちの事件の公判は、一回目以来ずっと開かれてないし、このあともしばらくないと思います」
「なんでだい」
「三人を分離公判にするかどうかでもモメてるし、向こうが精神鑑定を望んで、今やってるところだから」
武上が目を見開いた。「三人ともかい?」
「うん、三人とも」
「驚いたね。主犯のあのおっさん──樋口《 ひ ぐち》だっけな、あいつもか」
主犯の「あのおっさん」の顔を、真一は思い浮かべた。涙の衝動は消えて、代わりに、胸の底がうずくように痛み始めた。
「そうです、樋口です」
「誰が見たって、あいつは正気だよ」
「鑑定でも、モメてるみたいです」
武上はぴしゃりと額を叩くと、怒ったような鼻息を吐いた。
「連中は何を主張してるんだ? 心神喪失か」
「心神|耗弱《こうじゃく》って聞いてます」
「計画犯罪に、何がコウジャクだよな?」
真一は黙って、ちょっと笑ってみせた。正確には、笑顔のように見える表情をつくってみせたのだが。
「なあ、真一君」あらたまって顔をあげ、武上刑事は言った。「ご家族の事件は、本当にひどいことだった。残された君も被害者なんだからな。さっきみたいなことは考えるなよ、な?」
形だけ、真一はうなずいた。
「君は悪くないぞ」と、刑事は言った。「君には何の責任もないんだからな。そのことはよく覚えておいてくれよ」
──担当の葛西さんたちも、みんなそう言っていた。
真一が頭をこっくりとさせると、刑事は会議室の方へと歩き出した。真一はその後をついていった。まるで引かれ行く罪人のように、足元ばかりを見つめながら。
坂木刑事がてきぱきと話を通してくれたおかげで、さしたる面倒もなく、義男と真智子は墨東警察署の三階にある小さな部屋に通された。談話室のような造りになっていて、テーブルとソファがあり、壁際に古ぼけたチャンネル式のテレビが据えてある。その脇の小引き出しの上に内線電話機があった。
義男たちを座らせると、
「しばらく待っていてください」と言い置き、坂木は部屋を出た。出がけに、真智子のハンドバッグから、鞠子の櫛と写真を受け取っていった。
義男と真智子はふたりきりになった。肘掛け椅子に浅く腰掛け、わずかに前屈みになり、真智子はうつろな目を床に向けていた。車に乗っているときと、姿勢も様子も、ほとんど同じだ。ここが墨東警察署であることがちゃんとわかっているだろうかと、義男は危ぶむ気持ちになった。
「真智子、大丈夫か」
返事はなかった。乾いたくちびるを半開きにして、真智子は床の一点を見ている。
連れてくるのではなかったと、義男は後悔し始めていた。大川公園で発見された腕が鞠子のそれではないかと思いついたときから、真智子の心は現実を離れ、暗い妄想・悪い想像のなかにどっぷりとはまりこんでしまっているのだ。これでは、たとえあの腕が鞠子のものではなかったとわかったとしても、真智子は元通りにならないのじゃないか。
人の出入りが多く、騒々しかった一階や二階と違い、三階のフロアは静まり返っていた。ここまで歩いてくる途中で、きちんと閉じられたドアの前をいくつか通過した。ことによると、この階には、普段は部外者を入れないのかもしれない。義男たちが落ち着いていられるように、坂木が頼んで計らってくれたのだろうか。
静かに座っていると、すぐ脇にいる真智子の、不規則で浅く、早い呼吸音が耳についた。まるで、高い熱を出した子供のようだ。赤い顔をして目を閉じ、横になっている小さな子供。
ずいぶん昔──そう、本当に昔のことを、義男は思い出した。この真智子が四歳ぐらいの時か。昭和三十年ごろ──義男が有馬豆腐店を興して、まだ半年と経っていない時だ。真智子が夜中に高熱を出して、抱えて医者に連れていったことがあった。肺炎だった。おまえの責任だと、俊子《とし こ 》をこっぴどく叱りつけて、泣かれたものだった。
その俊子も、亡くなって八年になる。女房が生きていたならば、こんなとき、俺よりはもう少しうまく真智子を力づけてやれるだろうにと、義男は思った。それとも、俊子のためには、義男を残して先立ったおかげで、たったひとりの孫娘の身に凶事が降りかかったかもしれないという不安に苦しめられずに済んだことを、喜んでやるべきなのだろうか。
と、突然、真智子が泣くような声を出し、長く震えるため息を吐いて、義男を見た。
「時間かかるわね、お父さん」
義男は無言で、何十年かぶりに──嫁に出すときだってそんなことはしたことがなかった──膝に置いた娘の手と手をつないだ。真智子はしっかりとその手を握り返してきた。
ふたりはそうやって待った。一時間ぐらい経ったとき、坂木が急ぎ足で戻ってきた。彼が部屋に入ってくると、真智子が義男の手を離し、すくいあげるようにして身体ごと立ち上がった。
「どうですか?」
「放ったらかしで申し訳ない」坂木は額に汗をかいていた。「まだごたごたしてるんです」
「はっきりしたことがわかるまで、相当かかりますか」と、義男は訊いた。場合によっては、真智子を説得して一度家に連れ帰ろう。
「公園の捜索の方はまだ続いてるんですが」坂木は言って、真智子の斜《はす》向かいに腰をおろした。「今のところ、最初に見つかった右腕以外の発見物は出ていないようなんです。私もここでは部外者なんで、いろいろ面倒くさいんですが、しかし、あの腕の身元が早くわかった方がいいには決まってますんでね」
「何かわかったことがあるんですな」
坂木は義男と真智子の顔を見比べると、これは真智子に訊くべきことだと決断したのか、向き直った。
「今朝見つかった遺体の腕は、かなり新しいもののようなんです」
「新しい……」
「ええ。死後ひと晩ぐらいしか経っていないようだという話です。ですから、様子がよくわかる」
「それで?」
乗り出した真智子に、坂木はゆっくりと訊いた。「古川さん、鞠子さんは爪にマニキュアをしますか?」
真智子の表情が、ひゅっとあいまいになった。「マニキュア──さあ、会社にはしていったことはないですよ。禁止されてるんです。銀行ですから、そういうところはうるさくて。でも……出かける予定のあるときなんかは、色の薄いのをしてることもあったかも」
「失踪した日はどうでしたか? 覚えておられますか」
真智子は両手で頭を抱えた。
「どうだったかしら……着てるものは覚えてるんですよ……ピンクのスーツでした。夜、遊びに行くからって、お洒落して出たんです。買ったばっかりのスーツでした。何もない時なんか、どうせ制服があるんだからってジーパンで出勤したりしてたんですけど、あの時はちゃんと──だけどマニキュアは──」
「あの腕が爪にマニキュアをしとるんですか」
「ええ。何というんですかね、私はこういうことには詳しくないんですが、濃いピンク色……薄い紫色……とにかく、そんな色合いのマニキュアだっていうんですね」
「女の腕だってことには間違いないんですな?」
「それは確実です。男ではないし、皮膚の状態から見て、年齢も若い。二十代か三十代だそうです」
「マニキュア……」真智子はまだ頭を抱えて呟いている。
「いや、そんなに考え込まないでください」
坂木は真智子を抑えようと、穏やかに言った。
「そういう習慣があったかどうか、念のために訊いてみただけです。鞠子さんは、姿を消してから九十七日経っている。あの腕の主は、死亡してからひと晩しか経っていない。となると、もしもあれが鞠子さんだとしても、マニキュアぐらい、いつでもどこでも塗る機会はあったでしょうから」
真智子はがくりと両手を下げた。「ああ、そうか……そうですよねえ」
「それともうひとつ」と、坂木は指を立てた。
「鞠子さんは、右腕の内側に痣《あざ》みたいなものがありましたか?」
「痣?」
「ええ。切手くらいの大きさの、薄い痣だそうです。ただこれも、元々あったものか、あの腕があんなふうになったときに何らかの原因でできたものか」
「死」とか「殺人」とかいう言葉を使わないようにするために、坂木は苦労していた。
「──まだわからないんです。でも、痣なんて、鞠子さんにはありませんでしたよね? 私は聞いてませんし」
真智子は、勢いよく何度もうなずいた。
「ええ、ええ、ありません。痣なんてこさえたことはありません」
「あの腕に痣があるわけですか」
「ええ。さっきも言ったように、ああなってからまだ時間が経っていませんからね。目で見てわかる痣だそうです」
「じゃ、鞠子じゃないわ!」
両手を胸の前で組み、にわかに明るく解放された顔をして、真智子が叫んだ。「お父さん、鞠子じゃないよ!」
義男も心の半分ほどが解放されたような気がしたが、まだ、手放しで喜ぶことはできないとも思った。坂木は、痣がいつできたものかはわからないと言っているのだ。振幅の激しい真智子の精神状態も心配だ。
「よかったな」と、宥めるように言った。
「少し落ち着いて、座りなさい。な?」
そのとき、部屋の出入口に人の影がさした。義男が見あげ、坂木が振り向いた。制服を着た婦警がひとり、のぞきこむようにして坂木の視線をとらえると、声をかけてきた。
「坂木さん、ちょっとおいでいただけますか」
なぜ、真一や水野久美に対する事情聴取に長い時間をかけるのか、その理由は、担当の刑事と話をしてゆくうちにわかってきた。それは別に真一たち第一発見者を疑っているからというわけではなく──先に帰された水野久美は、そういう憤懣を口にしていたらしいけれど──彼らがあの右腕を発見する直前に見聞きしたことと、それに加えて、毎日大川公園へ散歩に行っていて、ここ数日内に何か変わったこと、たとえば妙な場所に停まっている車や、見慣れない人物、不審な行動をしている人物などを見かけはしなかったか──ということまで、念には念を入れて聞き出そうとしているからだった。
警察というのは、同じことを何度でも、しつこく繰り返して尋ねるものだ──と、真一は知っている。だからそれは苦にならなかったし、腹も立たなかった。それに、真一を担当した刑事は、武上刑事から何か聞かされているらしく、実に優しく気を遣いながら接してくれた。だがその一方で、一年ほどのあいだに二度も残虐な殺人事件と殺人事件を思わせるものを発見することとなった彼の身の上に、若干の好奇心を抱いているようにも見えた。おかげで、真一はひどく疲れた。
途中で一度、昼食のための休憩が入った。担当刑事が、「こんなもので悪いんだけど」と言いながら、仕出し弁当を持ってきてくれた。一緒に食べるのじゃ面倒くさいなと思っていると、彼は部屋を出ていったので、ほっとした。
考えてみれば、朝から何も食べていないのに、食欲はまったくなかった。そのくせ、腹が鳴った。冷たい弁当を、味わいもしないで、ただ黙々と半分ほど食べた。その間中、フロアのあちこちで電話が鳴り、人声が騒がしく、足音が行ったり来たりした。
昼食のあと、さらに小一時間かけて、事情聴取はやっと終わった、必要な時はすぐに連絡がとれるようにと、住所と学校名をもう一度確認し、真一はやっと帰宅を許されることになった。
「ご苦労だったね、引き留めて申し訳なかった」と、担当刑事が言った。「そうそう、下の待合室にお母さんがみえてるよ」
「母が?」
一年前の事件のことを聞きたがっているように見えた人物の言葉だったので、真一は反射的にこう言いそうになった。
──母なら死にました。
「お母さん、石井|良江《よし え 》さんか。君の家から電話があってね、昼過ぎには終わりますと申しあげたら、迎えに行きますと。もう三十分ぐらい待っておられるかな」
「そうですか」
一階へ降り、担当刑事に教えられた待合室の方へ歩いて行くと、ごったがえしているホールの向こう側で、石井良江の方が先に真一を見つけた。
「真《しん》ちゃん」
普段着の上に薄いジャケットだけ羽織って、化粧もしていない顔だ。ちょっと手を振り、小走りに真一の方に近づいてくる。
「よかった。人が多いんで、見つけられないかと思った」
待合室といっても、型押しのプラスチックの椅子が並んでいるだけだ。すぐ前が交通課で、外来者も多く、署内ではいちばん深刻な雰囲気の少ないところだった。
「とんでもない目に遭っちゃったね。くたびれたでしょう」
「ちょっと疲れました」
「お昼は済んだの?」
「弁当をもらいました」
「温かいもの、食べたくない? お蕎麦《 そ ば 》でも食べて帰ろうか」
「おばさんは、学校はいいんですか」
「心配ないのよ。あたしは今、担任も持ってないからね。今目は休みをもらったわ」
石井|善之《よしゆき》・良江の夫妻は、それぞれ地元の中学校で働いている。勤務先は別々の学校で、善之の方は、この春、教頭になった。良江は国語の教師だ。殺された真一の父親と善之が幼なじみでごく親しい関係にあり、石井夫妻には子供がなかったこともあって、事件のあと、ぜひにと申し出て真一を引き取ってくれたのだった。
父方にも母方にも兄弟姉妹がおり、父母の生前にはそれほど疎遠ではない付き合いをしていたのだが、いざという時、どの家庭も真一を引き取ることに難色を示した。そのことは、真一の心を、かなり深く傷つけた。事件の発生した事情が事情であっただけに、やっぱり自分は許されないのだと考えた。
そのことは、こうして石井夫妻の元へ引き取られてからも、ずっと引っかかっている。血こそつながってはいないけれど、両親とは夫婦ぐるみでずっと仲の良かったこの人たちの心のなかにも、オレに対する非難の気持ちは隠れているんじゃないかと、いつも水面下すれすれのところで考えている。口に出してしまうのは怖い──というより、今ではひどく億劫なことになっていて、知らないふりを続けてはいるけれど、真一は常に、石井夫妻の心の内を量《はか》りかねながら呼吸をしていた。
「ロッキーは?」
「お巡りさんに連れられて帰ってきたわよ。話を聞いてびっくりしたわ」
「ごめんなさい」
良江の顔が同情的にゆるんだ。「真ちゃんが謝ることじゃないじゃないの」
真ちゃん。そういう呼ばれ方に、真一はまだ馴染んでいない。母は彼を「真一」「お兄ちゃん」と呼ぶことはあっても、「真ちゃん」と呼んだことは一度もなかった。中学二年のとき、真一に初めてガールフレンドもどきの女の子ができたことがあって、その子が家に電話をかけてくるとき、いつも「シンちゃんいますか?」と言い、妹がそれを真似て彼をからかったことがある。恥ずかしくて腹が立ったので、まる一日のあいだ妹を完全に無視してやったら、メソメソ泣いて母に言いつけ、おかげで真一はこっぴどく叱られた。家族の誰かから真ちゃんと呼ばれたのは、後にも先にもその時だけだ。
良江は「真ちゃん」と呼び、善之は「真一君」と呼ぶ。もう「真一」でも「お兄ちゃん」でもない。この先一生、誰も彼を呼び捨てにはしてくれず、お兄ちゃんとまとわりついてくることもない。一年経っても、まだその事実に慣れることができない。真一は目をつぶった。
──やっぱり、警察なんかに来たからいけないんだ。
思い出したくない細かなこと、考えたくない大きなことが、あとからあとから頭に浮かび、心にわきあがってくる。早くここを出たかった。
良江は来訪者用の駐車場に車を停めていた。通勤に使っている、彼女の赤い軽乗用車だ。
「真ちゃんには窮屈な車だよね」と、ドアを開けながら良江が言った。「買い換えようかしら。いっそ4WDとかね。あと一年もすれば、真ちゃんだって免許を取りたいだろうし」
良江は、さっさと警察の建物を後にするように、気持ちの面でも、真一を今朝の事件から引き離そうとしているようだった。どういうことを聞かれたのかとか、どんな状況だったのかとか、普通の親なら絶対に尋ねそうなことを、敢えてひと言も訊かなかった。それはかえって不自然だった。
良江自身、そのことはわかっているのだろう。車に乗り込むとき、なんだか暗い顔をした。
もしかして武上の顔が見えないかと、真一は警察署の玄関の方を振り返った。忙しくしているのだろうから、もう外にいるはずもなかったけれど、もう一度彼に会い、ちょっとでもいいから声をかけてほしかった。さっき彼のとってくれた距離感が、今の真一がいちばん必要としているもののように感じられた。
武上はいなかった。が、諦めて車に乗ろうとしたとき、自動ドアが開いた。目をあげると、二時間ほど前にも見かけた、あの母娘らしいふたり連れが出てきた。母親の方が、娘にすがりつくようにして泣き崩れていた。娘も泣いていた。よろけながら、街路の方へ出てくる。
車のドアに手をかけたまま、真一は立ちすくんだ。ああ、あの腕──と思った。あの腕の持ち主は、あの人たちの家族だったのか? だから泣いてるのか? あんなふうに手放しに、苦しそうに。
「真ちゃん?」
呼びかける良江の声を置き去りに、真一は走り出した。駐車場を横切り、バス停の方へと向かってゆく母娘を追いかけて、懸命に走った。
「あの!」
声をかけると、娘の方が振り向いた。細面のきれいな顔をしていた。目は赤く、頬を涙が伝っているが、それでもひと目でそれとわかる美人だった。
「あの……あの……」
言い迷う真一に、泣き続ける母親を支えながら、娘が向き直った。
「なんでしょう?」
声は泣き声で、鼻にかかっていた。
「あの……僕……いえ、あの、もしかして、身元がわかったんですか?」
「え?」
首をかしげ、娘は母親と顔を見合わせた。それからそろって真一を見つめた。
「身元って?」
「今朝の、大川公園の──」
娘は驚いたように身を引き、しげしげと真一を観察した。真一はあわてた。
「すみません。野次馬じゃないんです。僕は、いえ、僕があの腕を見つけたんです。見つけちゃったんです。だから、あの──」
「ああ」娘の涙で潤んだ目が晴れた。「いえ、あの腕の身元は、まだわからないの」
「だけど……」
娘と母親は、手で涙を拭いながらちょっと微笑した。
「ただ、うちの兄ではなさそうだってことがわかったんです」
「お兄さんですか……」
「ええ。あたしたちが聞いたニュースでは、男の腕か女の腕かはっきりわからなかったのね。それに、家がこの近所だから、もしかしてと思って。兄はずっと行方不明なんです」
「安心して泣けてきちゃってねえ」と、母親の方が言った。「だけど、よく考えてみたら、息子が帰ってきたというわけじゃないのにね」
「それだって、やっぱりよかったのよ」と、娘が言った。「よかったのよ」
自分に言い聞かせるかのような口調だった。そうして、またお互いに支えあうようにして去っていった。真一は取り残された。
違ったのか。違っていたのか。それじゃあ、あの母娘連れよりも先に来た家族の方だろうか?
いや、そうとは限らない。だいいち、東京中で、日本中で、失踪したまま行方のわからなくなっている人びとは、いったい何人いるのだろう? 千人? 二千人? もっとか? そのうち、犯罪がらみの失踪だと推測される人たちだけでも、どのくらいの数になるのだろう。そのうちのいったい誰の右腕を、塚田真一は見つけたのだろう。見つけてしまったのだろう。
「真ちゃん」
良江がすぐ後ろに来ていた。背後から、真一の肩を抱くように腕を回した。女性にしては長身の良江は、伸び盛りの真一と並んで、ほとんど同じくらいの背丈があった。
「うちに帰ろう。ね?」
真一は、黙ってうなずいた。そう、今の時点で彼が「うち」と呼べるたったひとつの屋根の下へ、無性に帰りたくなった。
六千三百人だ──と、有馬義男は考えていた。
坂木が呼び出されて出ていったあと、真智子は妙に浮かれた状態になり、盛んに自分の取り越し苦労を笑い、義男にも明るく話しかけた。真智子の気持ちをしっかりと引き立てておきたい一心で、義男もそれにあわせていたが、まだ喜んでいい段階ではないと、内心では気を引き締め続けていた。
しかし、希望は出てきたのだ。だから考えていた。六千三百人だと。鞠子が失踪してから半月ほど後に、全国で、一年間に、いったいどれぐらいの人間が家出したり行方不明になったりするものなんですかという義男の問いに答えて、坂木が挙げた数字だ。
「昨年度は、総数では約八万二千人でした」
「桁が万の位なんですか? 千や百じゃなく?」
「ええ。ただ、これには様々なケースが含まれていますからね。鞠子さんの場合のような──」
このときは真智子がそばにいなかったので、坂木の言い方も率直だった。
「──不審な失踪で、何らかの犯罪に巻き込まれた可能性も考えられるというケースに限れば──これを特異家出人というのですが──一万五千人ぐらいですよ。そのうち、女性が約六千三百人」
「そんなにいるんですか」
六千三百分の一だ。義男は心のなかで繰り返していた。六千三百分の一。あの腕が、鞠子のものである可能性は、たったそれだけだ。小さいじゃないか、え? 大丈夫だ、鞠子は死んじゃいない。殺されて右腕を切り落とされたりしちゃあいない。
息苦しいような思いでまた待ち続けた。すると坂木は、今度は三十分ほどで戻ってきた。が、部屋に入ろうとはせず、ドアの陰に立ち、真智子から姿を隠して、目顔で義男を呼んだ。
義男は、心臓がどきんとするのを感じた。五年ほど前、しつこい不整脈に悩まされたことがある。あのときの症状がにわかに蘇ったみたいだった。
(有馬さん)
坂木は、肘掛け椅子に座って煙草を吸っている真智子から隠れ、呼びかけてくる。真智子は慣れない煙草に、しかも強いハイライトの煙にむせながら、それでも落ち着いた様子で座っている。
義男はさりげない風に声をかけた。「真智子、俺はちょっとトイレを借りてくるよ」
「場所、わかる?」
「見当つくだろうよ。探すよ」
廊下に出ると、坂木が義男の腕を引き、素早くドアを閉めた。
「どうしたんです?」
声をひそめる義男に、坂木は眉間にしわを寄せ、耳を寄せないと聞き取れないくらいの小声で言った。「古川さんの様子はどうです?」
「今はちょっと持ち直していますが」
「できましたら、とりあえず家に──有馬さんのお宅──いや、やっぱり古川さんの家がいいな」
坂木も動揺しているようだ。義男の心臓がまたどすんと上下した。
「できたら、有馬さんがいっしょにいてくれませんか。あとからここの捜査員たちが伺います。時間をおかずに、すぐ伺うことになると思います」
にわかに干上がった喉に、声がひっかかった。義男は何度か喉に湿りをくれ、声を絞り出した。「どうしたんですか? 何があったんです」
坂木の目は、真っ暗な闇のなかをのぞきこんでいるかのように、ほとんど光を映していなかった。
「大川公園から、あの腕のほかに、あるものが見つかったんです。やはりゴミ箱のなかからで──ルイ・ヴィトンの小さなハンドバッグなんですが」
聞いただけでは、義男には、どんなバッグなのか想像もつかない。だが、坂木が言おうとしていることの先行きは、見当がついた、嫌でも。耳をふさいでも。目を閉じても。
ゆっくりと、致命的な瞬間を少しでも後に延ばそうと、途切れ途切れに、義男は訊いた。
「それが、鞠子の──鞠子の物だっていうんですか?」
うなずくかわりに、坂木は手で額を押さえた。
「バッグのなかから、女性用のハンカチや化粧道具といっしょに、古川鞠子さんの定期入れが出てきたんです」
[#改ページ]
3
眠い目をこすりながら起き出してみると、寝室の窓にはもう午後の光がさしかけていた。今日は上天気で、近所の家々の窓やベランダには、色とりどりの布団が勢揃いしてぶらさがり、太陽を浴びている。
──あ痛《イタ》ぁ。またやっちゃった。
前畑《まえはた》滋子《しげ こ 》は、自分で自分の額をぴしゃりと打った。今にも姑《はは》の声が聞こえてくるような気がする。
「朝寝坊っていうのはね、九時とか十時とか、少なくとも午前中のうちには起きる人のことを言うんだよ。昼過ぎになって起きてくる人のことを、誰が朝寝坊なんて言うもんか」
つい最近、義母が昭二《しょうじ》に言っていた台詞《せ り ふ》である。結婚以来四十年、毎朝五時半に起きて朝食の支度にかかるという暮らしをしてきた義母としては、我慢にも限界があるというので思わず口から出た言葉だったろう。滋子もその気持ちは理解できるし、確かに、いくら仕事を持っていると言っても、主婦である滋子が毎日のように午後まで寝ているというのは、みっともないことでもある。滋子も義母の言うように、なんとか午前中のうちには起きようと思うのだけれど、前夜の仕事の進み具合によっては、明け方になってから布団に潜り込むようなこともあるので、どうも思うにまかせない。
キッチンでやかんを火にかけ、時計を見ると、なんと二時に近い。起き抜けの煙草をくわえて火をつけ、湯がわくのを待っている間ぼんやりと吹かしていたが、今、誰かがこんなところに回覧板でも持ってきたひには、格好のネタにされてしまうと思った。
「滋子さん、また昼過ぎまでパジャマでうろうろしてたわよ」などと、すぐに言いふらされるだろう。で、また昭二が叱られる。滋子は急いで着替え始めた。
インスタントコーヒーを一杯飲むと、身体が起き出して、空腹で胃がぐうぐうと鳴った。何か詰め込みたいのを我慢して、滋子は先に布団を干しにかかった。昭二の敷布団を抱えてベランダに出て行くと、まるでそれを待っていたみたいに、隣のベランダに重田《しげ た 》のおばさんが現れた。布団叩きを持っている。
「あら滋子さん、おはよう」
何がおはようだと思ったが、滋子は景気よく笑ってみせた。「こんにちは」
重田のおばさんはニコニコ愛想笑いをしながら、憎い相手にパンチをぶちかますような勢いで布団をバシバシ叩き始めた。
「よくふくらんだねえ。今日はいい天気だもの」
「ホントですね。昨日の雨が嘘みたい」
重田のおばさんの目がきらりと光った──ように見えた。
「滋子さんも、もっと早く布団を干せばよかったのに」
滋子も愛想笑いをした。「ちょっと出かけてたもんで。それに、うちのベランダは昨夜《ゆ う べ》の雨が吹き込んで、午前中はまだ湿っぽかったんです」
「あらそう」重田のおばさんはもっともらしくうなずいた。「滋子さん、その頭で出かけてたの? ひどい寝癖だよ。じゃあね」
おばさんはとっとと部屋に引っ込み、一本とられた滋子は取り残された。寝癖か。髪に触れてみると、なるほどボサボサである。
──フンだ、クソばばあ。
隣の住人である重田のおばさんは、滋子の義母の幼友達で、恐ろしいほどにツーカーの間柄である。おまけにこのごろでは、滋子の失態を細大漏らさず義母に伝えることを生き甲斐にしているらしい節《ふし》が見える。曰《いわ》く、滋子さんは夜中にゴミを出していた、滋子さんは宅配便の配達が来ても寝ていて気づかなかったので、うちが荷物を預かってあげた──油断も隙もあったもんじゃなく、滋子にしてはいい迷惑だ。
昨年の夏、前畑昭二にプロポーズされたとき、あたしはあたしの仕事を続けたい、それは絶対の条件だと滋子は言った。
「だから、昭二さんの家の仕事は手伝えない。それに同居もしたくない。ご両親といっしょに住んだりしたら、あたし仕事できないもの。それでもいい?」
俺は一向にかまわない、自由にしてくれと、昭二は言った。
「家の仕事は継いだけど、オレはオレ、シゲちゃんはシゲちゃんだ。兄貴夫婦も同居はしてない。だからいいよ、シゲちゃんの好きにしなよ」
ただ、子供ができたら仕事はやめてくれよな──というようなことをボソボソ付け加えた昭二だったが、滋子はこう答えた。
「それはその時の話よ」
という次第で、滋子にとっては楽な結婚生活になるはずだったのだが、「──はず」というのはあてにならないものだ。家業を手伝わなくてもいい、同居もしなくていい、ただ、うちの近くには住んで欲しいと、義母が強硬に主張し始めたのである。
「昭二はうちの大事な働き手だし、忙しいときは夜勤もやるからね。歩いて通える距離に住んでもらいたいんだよ。うちの方からなら、銀座だか新橋だか知らないけど、滋子さんが仕事してる出版社まで、四十分もあれば出ていけるんだしさ。いいじゃないか」
まあそれぐらいは仕方ないかな──と譲歩した滋子だったが、姑はさらに畳みかけてきた。
「近所に住むなら、何も他人様《 ひ と さま》に家賃を払うことはないだろ。うちのアパートに住みなさい。家賃も安くしといてあげる。ちょうど、三階の南向きの角部屋が空いてるからさ」
前畑家は自宅と工場のほかに地所を持っていて、そこに三階建てのアパートを建てて賃貸しているのである。夫の実家に資産があるというのは、滋子にとっても悪い話ではない。だが、そのアパートに住むとなると話は別だ。何かと不自由になりはしないか。
それだから、滋子としては大いに抵抗したいところだったし、なんだかんだ言い訳して断ってしまうつもりでもいた。が、思いがけず、埼玉に住んでいる滋子の両親、とりわけ母親に意見されてしまった。
「あんた、家で工場《こう ば 》をやってる人のところにお嫁に行くのに、家業はいっさい手伝いませんなんて贅沢言って許してもらってるんだよ。せめてそれぐらいお義母《 か あ 》さんの言うことをききなさい」
「なんでよ。言っとくけど、あたしは前畑鉄工所へ就職するんじゃないのよ。前畑昭二と結婚するだけなんだから」
「結婚てのはそんなもんじゃないわよ」
「母さん、どっちの味方なの?」
「あんたの味方よ。悪いことは言わないから、母さんの言うことをききなさい。意地を張って肩身の狭い思いをするのは誰でもない、あんたなのよ。それを心配してるのよ」
母も義母も、古い古い女の歴史の糠味噌《ぬか み そ 》につかって生まれ育った人なのだ。いい加減、飴色になってしまっているのである。女の自立だの、結婚は両性の合意のみに基づいたものであるだのと言ってみても、空念仏だ。おまけに、唯一の味方であるはずの昭二さえもが、
「俺も、工場の近くに住めると助かるなあ。家賃も負けてくれるっていうんだし、いいじゃんか、シゲちゃん」
などという情けないことを言い出してくれたおかげで、滋子がはっきりとは承諾しないうちに、話は決まってしまった。それに加えて、それでもまあ、同居でないだけまだましか──などと思っていたのもつかのま、引っ越してきてみたら、隣にはチクリ屋の重田のおばさんがいたという有様だ。
「あれはBCIAね」と、滋子は言ったことがある。
「BCIA?」
「ババア中央情報局よ」
「シゲちゃん、さすがにうまいこと言うなあ」
能天気に笑う昭二を、張り倒してやろうかと思ったものであった。
義母としては、一向に滋子が妊娠する気配がないので、それもカリカリする原因のひとつになっているらしい。だいたい、結婚話が持ち上がったときだって、滋子に聞こえるところで、
「三十一歳? それじゃ、女としちゃもう使いものにならないかもしれないじゃないか」などと公言してはばからなかった人である。これには珍しく昭二が激怒して、俺の女房は赤ん坊を産む道具じゃないと怒鳴り返してくれたので、滋子は嬉しかった。が、こうして結婚生活が落ち着いてみると、その昭二がしきりと子供を欲しがる。いや、彼が欲しいから欲しいというのならば滋子も闇雲に否とは言わないのだが、よくよく聞き出してみると、「お袋がうるさくてさ」というのだ。それではお話にならない。
現在までのところ、授かるならば産もうという方針で、とりたててバースコントロールなどしていないのにも関わらず、赤ん坊の気配は訪れない。義母ほど身も蓋《ふた》もない考え方をしてはいないけれど、滋子としても、体力に余裕があるうちに子供は欲しいし、焦りがあるような、寂しいような、それでいて何か執行猶予を受けているような、ほっと安心するような、妙な気分だった。
台所のテーブルで、トーストにジャムをつけてもそもそと頬張りながら、滋子は朝刊を読んだ。昭二は晩酌をしながら一日の新聞をまとめて読む人なので、朝刊は手つかずで、広告のはさまった状態のまま、テーブルの上に載せてあった。
妻が夫より先に新聞を読む──家族のなかで女が先に新聞を読む。それも、些細ではあるけれど、義母のカンに触ることであるようだった。また昭二もわざわざそんなことを話さなくてもよさそうなものだが、従業員たちといっしょにしゃべっているときに、何気なく話題に出てしまったのだろう。うちじゃ、滋子が先に新聞を読むんだよ、と。なんせマスコミで働いてるからさ。
「何がマスコミだよ」と、例の如く義母は言ったそうだ、滋子は滋子で負けずにCIAを持っていて、その局員は、工場の事務所で働いている経理係の若い女の子なのだが、彼女があまりに上手に義母の口調を真似るので、話をするたびに、思わず笑ってしまう。
「滋子さんが何を偉いことを書いてるもんかね。インタビューだの何だのっていったって、あたしが知ってるような人なんか出てきやしないじゃないか。『レタスのおいしい料理の仕方』なんて記事書いてさ、あんなのを読むのは、お米のとぎ方も知らないバカ女ばっかりじゃないか」
言い方は辛辣《しんらつ》だが、義母の申し状は、確かに滋子の痛いところをついていた。いや、滋子としては、「レタスの調理法」に意味がないと思ってはいない。そういう雑誌を興味深く読み、日常の役に立てている女性たちのみんながみんな、義母の吐き捨てるような「バカ女」だとも思ってはいない。滋子はフリーランスのライターとして、足かけ十年女性誌や家庭雑誌の世界で働いてきた。自分の書く記事を読んでくれる読者をバカにしていたら、とうてい勤まる仕事ではなかった。
けれども今、昭二と家庭を持ってみて、思うのだ。これでいいのだろうかと。取材対象あっての仕事だから、相手の都合にあわせて、どうしても滋子の仕事時間は不規則になり、勢い、それは生活の不規則さにもはねかえる。おまけに滋子は夜型で、記事の原稿は夜中でないと書けない。だから朝寝坊にもなるわけだ。
昭二はそれを、「最初からわかってたことだよ」と、嫌な顔もせずに許してくれる。けれど滋子は、時々無性に申し訳なくなる。旦那に朝御飯をつくってあげることもできず、掃除もサボりがち、季節の衣替えも遅れてしまって、去年の冬なんか、昭二は十二月になっても秋物の薄いジャケットを着て震えていた。通勤着が要るわけじゃないからいいんだよと笑い、自分のことなんだから本当は俺が自分でやればいいんだと言う昭二の顔を見ていて、後ろめたさにかえって腹が立ってきた。そんな物わかりのいい顔しないで、怒ったらいいじゃないの。俺はこんな生活をするために結婚したんじゃないぞって。
そして思うのだ。自分の家庭もきちんと切り回すことのできないあたしに、家庭雑誌の記事を書く資格があるのだろうか?
独身時代には、家庭持ちでないあたしが家庭向けの記事なんて──とは、一度だって思わなかった。仕事は仕事、プロとして間違いのない記事を書けばいいと、実に簡単に割り切ることができていた。それなのに──
「結婚とは便利を幸せにすり替える仕掛けだ」という格言があるそうだが、滋子にとっては、結婚とは、独身時代には後ろめたく思わなくて済んだことのひとつひとつに罪悪感を持たざるを得なくなる仕掛けだった。
──旦那を放り出してまでやるだけの価値ある仕事を、あたしはしてるんだろうか?
いつのまにかぼんやり考えこんでしまっていた。滋子はフンと鼻息を吐いて、新聞をたたんだ。立ち上がり、ついでにテレビをつけた。悩む前に洗濯でもするか。その方がずっと現実的というものだ。
ワイドショウの時間帯だった。テレビには緊張した顔のレポーターが映っていた。緑の多い公園のような場所で、レポーターの背景に、パトカーが数台と、行き来する青い作業服の男たちが見える。洗濯機のある洗面所の方へ行こうとして、滋子は足を止めた。
「──発見された右腕は、現在行方不明で捜索願が出されている女性のものと思われまして──」と、レポーターが報告する。
滋子は目を見開いた。急いでテレビの前に座ると、ボリュームをあげた。
中継画面だった。レポーターがスタジオの女性キャスターとやりとりをしている。
「それでですね、斉藤《さいとう》さん、現場の大川公園からは、ほかのものは発見されていないのですか?」
「現在のところでは、ないようです」
「その右腕が、見つかったハンドバッグの持ち主のものだということははっきりしているんでしょうか?」
「いえ、それもまだ正確に特定できたわけではありません」
「わかりました。それではまた何かわかりましたら呼んでください」
カメラがスタジオに切り替わり、画面の右下に白いテロップが出た。「猟奇殺人か? 公園にバラバラ死体」とある。
「それにしても怖い事件ですね。ぜひ早く解決してほしいものです。では、ここでちょっとコマーシャルです」
滋子はチャンネルをかえ、もっと詳しいことを教えてくれそうな局を探した。キー局はみんなワイドショウかドラマの再放送の時間帯だ。イライラしながらあちこちの番組をのぞいてみたが、どうも要領を得ない。さっきのワイドショウでも、ほかの話題に移ってしまって、バラバラ事件の話などどこかへ行ってしまった。
舌打ちして、ちょっと考え、滋子は洗面所へ走った。風呂場の壁にラジオがぶら下げてある。昭二が風呂に入りながらナイター中継を聴くのが好きで、わざわざ防水ラジオを買ってきたのだ。チューナーを動かしてNHKに合わせると、アナウンサーの声が聞こえてきた。
「そうしますと、現場の状況はだいぶ錯綜《さくそう》しているというか、あわただしいようですね」
今の事件のニュースだ! 滋子はラジオに耳を寄せた。
「そうですね、繰り返しになりますが、現在わかっていることは、発見されたショルダーバッグは、今年の六月に行方不明となり現在捜索願が出されている古川鞠子さんという二十歳の女性の所持品であると、ただし、この右腕が古川さんであるかどうかはまだ確認できていない、調査中であるということです」
三度《 み たび》、滋子は手のひらで額を叩いた。今度は驚きのせいだった。風呂場の壁の鏡に、がくんと口を開いた滋子の顔が映っていた。
ふるかわ、まりこ。
──あたしのリストの女の子だ!
なんてことなの、と滋子は呟いた。書きかけの、ずっと引き出しにしまいこんだままの原稿の書き出しが頭に浮かんできた。
「消える女性たち。彼女たちはなぜ、どこへ、何を求めて姿を消してしまうのか? あるいは、何が彼女たちを消す≠フだろうか?」
その回答が、どうやら事件となって、滋子の前に現れてきたようだった。
「なんてこと」と、もう一度声に出して、滋子は言った。眠気は飛んでいた。武者震いのようなものが、背中を駆けあがってきた。
あれはそう、二年と半年前──一九九四年の春のことだった。ちょうど『サブリナ』が廃刊になったころだから、正確に覚えている。
『サブリナ』は、一九八五年に創刊された月刊雑誌である。当初は、二十代前半の独身女性を対象に、映画・演劇や書籍、イベントやスクールなどの情報を提供しようというコンセプトを持っていた雑誌だった。ファッションやグルメの情報も載せてはいたけれど、同時に、国際問題や環境問題についての易しい解説欄や、女性ジャーナリストによる対談コーナーなども設けてあったりして、内容的にはそれほど薄い雑誌ではなかったと、今でも滋子は思っている。
だが、そういう軟派でも硬派でもない中途半端なところが災いして、『サブリナ』は創刊以来常に赤字状態。とりわけ、八○年代後半の日本経済はバブル時代に突入、世の中全体が贅沢三味、現金《げんなま》の色に染まり始めたころだったから、カタログ雑誌的側面を排した地味なつくりの『サブリナ』には、世の中の事象のすべてが不利だったのだ。ただ、皮肉なことに、そのバブルの好景気が底のところで『サブリナ』の版元を支えてくれていたことも事実ではある。
担当していたのは「伝統の手仕事」というページで、もともと職人芸的な仕事に興味のあった滋子には、個人的にも楽しいものだった。当時の滋子にとって、『サブリナ』での仕事はメインの収入源のひとつだったが、もうひとつの大きな収入源に、就職情報誌のインタビュー・ページの仕事というものがあった。規模も業種も多種多様の企業の人事担当者と、就職希望の学生たちの両サイドから話をきくという「本音を聞かせて」というコーナーで、こちらはバブル景気のおかげで大盛況だったのだが、内容的には、タイトルどおりの本音などまず聞き出せることはなく、バブルの売り手市場に浮かれた就職希望学生たちの贅沢な言い分と、それに振り回されるふりをしつつ結構したたかな企業側の二枚舌の台詞《せ り ふ》のあいだで、消耗することの多い仕事でもあった。
それだけに、『サブリナ』での仕事には、何か心を落ち着かせてくれるような温かみを感じた。滋子は大勢の手職の人びとに会った。今でも手仕事で桶をつくっている職人や、和裁の仕事をしつつ後継者を育てている先生や、常に「次の世代の職人さんが仕事をするとき困らないように」ということを頭に置きながら仕事をする表具匠《ひょうぐしょう》──彼らの話を聞き、その目を見ていると、もしかしたら人間のまっとうな生き方というのはこういうところにこそあるのではないかと思ったりしたものだ。正しいとか間違っているとか、有利だとか不利だとかいうことはわからない。それを決めることなどできない。だが、まっとうなのだ。間違いなくまっとうだ──そう思った。前畑昭二とは、ちょうどこの仕事をしているころに知り合い、付き合いが始まったのだけれど、滋子が自分でも思いがけないほど強く彼に惹かれていったのも、『サブリナ』での経験があったからこそかもしれない。自分の手で額に汗して何かを成すという生き方をしている人に対する尊敬と憧れの感情を、滋子は、「伝統の手仕事」を通して初めて知ったのだから。
そんな次第で、滋子と『サブリナ』編集部との付き合いは濃く、当時の板垣《いたがき》編集長とも気の合う飲み仲間であった。「伝統の手仕事」の企画そのものは連載十四回で終了し、そのあとの滋子はいわば遊軍扱いで、編集長の立てた企画に沿ってどこへでも出かけて取材し記事にする──という仕事の仕方をしていたのだが、それもまた楽しかった。だから、バブルが夢のように終わり、世の中が不景気の奈落に落ち、落ちたところは金づまりのベタ凪《なぎ》の海みたいで、にっちもさっちも動きが取れない──という時代がやってきて、いよいよ『サブリナ』も危ないという話を聞かされたときには、ずいぶんとショックを受けた。ここでまたもう一度、バブルに媚びない地味な『サブリナ』を支えていたのは結局のところバブルな好景気だったのだ──という皮肉の構造を思い知らされることになったのだ。
廃刊が決定となってまもなく、滋子は編集長に呼び出され、ふたりでじっくりと飲んだ。明け方まで開いている店を探して、とことん飲んだ。そのときに、廃刊と同時に自身の更迭《こうてつ》も決まっている編集長が、いい加減酔っぱらってもつれた舌で、もそりとこんなことを言った。
「シゲちゃんには、世間に振り回されない仕事をしてほしいな」
「振り回されない仕事って?」
同じように酔っぱらっていた滋子は、からむような言い方をした。
「あたしみたいなしがないライターに、そんな仕事はできませんよ。企画あってこそのライターだもん」
「そうだよね、ライターはね……」編集長は酔ってうるんだ目を居酒屋のカウンターの上に泳がせて、なんだか怒っているみたいに口元をわななかせた。「だから、シゲちゃん自分で書けばいいんだよ。あなたなら書ける」
「何を?」
「本を書いてごらんよ。シゲちゃんの興味のあるものを題材にさ。ルポを書くんだよ」
「ルポぉ?」酔った勢いで、滋子は大声で笑った。「まさか、あたしなんかにゃ無理ですよ。できるわけないよ、編集長ってば」
「いや、できるよ。やってごらんよ」
できるできないの酔っぱらい同士の繰り言で、その後の会話はアルコールの霞の彼方に隠れてしまい、滋子も正確には覚えていない。だが、陽が昇ってから帰宅して、泥のように眠り、昼すぎに這うようにして起き出して、壮絶と言っていい二日酔いに悩まされているとき、何かが心のなかにカツンと引っかかっているのを、滋子は感じた。
──自分で書いてごらんよ。
だけど、あたしに何が書けるっていうのよ?
そうして、滋子は『サブリナ』のない日常に戻っていった。心に引っかかっているもののことは、日毎夜毎に、どうしても忘れがちになった。大きな収入源だった『サブリナ』を失った経済的なダメージを回復するために、余計なことを考えてはいられなくなった──というのも正直なところだった。
それから半月ほどして、五月の大型連休のときに、滋子は初めて、昭二と旅行に出かけた。彼の運転する車で、伊豆の下田へ遊びに行ったのだ。ふたりの交際は、滋子の「伝統の手仕事」連載第三回が掲載されている月に始まったもので、だからこのころにはもう充分親しくなっていたのだが、ふたりきりで旅行するのは、掛け値なしにこのときが初めてだった。
「奥手ねえ」と、友達に笑われたものだけれど、それも無理はない。
旅行は楽しいものだった。実際、滋子が予想していた以上に愉快だった。昭二の運転は慎重このうえなく、高速道路では抜かれてばかりいた。滋子が運転を代わったときに、悪戯《いたずら》半分にやたら飛ばしてやったら、彼は真顔で青くなり、
「危ないよ、シゲちゃん、危ない!」と叫んで笑わせてくれた。
あとになって、そう結婚してからだ、昭二が白状したことには、
「あのころのシゲちゃん、元気なかったろ? 『サブリナ』の廃刊がこたえてるんだなあって思ったんだよ。だからさ、気分転換に旅行でもと思ってさ」
「あたしが落ち込んでるときなら、旅行にも誘い易いと思ったわけ?」
「図星」
ということだったらしいけれど、旅行中の昭二は本当に明るくて、何かと滋子の気を引き立ててくれた。当時のふたりは、もう大人同士の付き合いなのだし、当然のことのように男女の関係になっていたのだけれど──しかし、それについても昭二は慎重で、なかなか誘ってこなかったものだ──このときは、下田のホテルで三泊したのに、その方面ではなかなか巧くいかなかった。なぜかと言えば、昭二があんまり面白いことを言っては滋子を笑わせるので、かえってムードが出なかったのだ。
「笑ってると、デキねえもんだね」と、あとで真面目に言っていた。確かにそうだと、滋子も思った。それはそれで素敵なことだとも思った。
そんなふうに、底抜けに明るい気分で過ごした三泊四日の、最後の日のことだった。滋子がもう一度遊覧船に乗りたいとねだり、ふたりで港の遊覧船の発着所に向かった。連休中のことだから、待合室も混んでいた。家族連れが多くて、子供が泣いたり叫んだり、それはもう大騒ぎ。滋子はさすがにちょっと疲れ、次の船にはまだ二十分ほど余裕もあったので、外で煙草を吸ってくると言い置いて、待合室を出た。滋子は煙草呑みだが、昭二はまったく吸わない──学生時代に悪戯《いたずら》に吸ったことがあるだけの人なのである。
好天に恵まれた大型連休で、この日も太陽は高く、海は輝いていた。上着を着ていると汗ばむほどの陽気だった。滋子は煙草を吹かしながら、海沿いの道をぶらぶらと歩いた。低い堤防のすぐ向こう側には海があり、小さな漁船が繋がれている。ゆったりと上下するその船には、岸からジャンプして飛び乗ることもできそうだった。道のところどころに網が積みあげてあり、磯の香りがぷんと鼻をついた。目をあげれば、イルカやクジラの格好をしたカラフルな遊覧船が、満員の乗客を乗せてのどかに湾を横切ってゆくのが見える。すべてが、あつらえたような海辺の休日の光景だった。
煙草を消し、踵《きびす》を返して待合室の方へ帰ろうと、滋子は歩き出した。そのとき、気まぐれな春の風が吹き付けてきて、滋子はちょっと手をあげて目の上にかざした。海風混じりの強い風が頬にひやりとあたり、スカートの裾をひるがえした。そして、つま先のあたりに何かがぴしゃりと当たった。
見ると、風に巻かれて飛んできたのだろう、チラシのようなものが、滋子の靴に引っかかっていた。何気なく身をかがめ、拾いあげてみた。と、そこに女性の顔があった。写真をコピーしたもののようだった。その顔の上に、
「この人を探しています」
と、手書きの文字で書かれていた。
──尋ね人のチラシだわ。
ずっとどこかの掲示板にでも張り出されていたものであるらしく、すっかり黄ばんでごわごわになっている。端のところが切れて、穴が空いていた。
写真の下には、やはり手書きの細かい文字で、びっしりと文章が続く。
「この人は一九九二年一月八日に家を出たきり帰ってきません。家族が心配して探しています。お心当たりの方は、どうぞお知らせください」
女性の名前は田中《 た なか》頼子《より こ 》、三十六歳。下田市内の温泉旅館「湯船荘」で仲居をしていた。身長百六十センチくらい、小太り、盲腸の手術痕あり。近視なので眼鏡をかけていることもある──連絡先は市内の住所で、田中昭義という名前だった。夫だろうか。
──主婦の家出か。
頼子という女性は、このチラシの写真では着物姿である。仲居の制服かもしれない。粒子の粗い白黒写真で、綱かいところは判然としないけれど、笑っている顔で、前歯が出っ歯なのが目につく。美人ではないけれど、なんとなく肉感的な感じのする人だ。
男がらみの家出かな、と滋子は思った。出ていったのは二年以上も前のことだ。このチラシもかなり古そうだけれど、それでも二年は経っていまい。残された家族──ご亭主は、チラシを作り続け、貼り出し続け、探し続けているのだろう。
せっかくの旅行に、嫌なものを見たような気がした。滋子はチラシをくしゃくしゃに丸めようとした。だが、なんだかそれがはばかられた。けっして上手だとは言えない筆跡の、でも一生懸命な書き方が、滋子の心にかすかな同情心を生んだ。仕方がないのできちんと折って、待合室の方まで持っていった。そこでゴミ箱に捨てた。
「シゲちゃん、船が出ちゃうぞ。早く早く!」
昭二に呼ばれて、滋子は桟橋を走った。ふたりが乗ったのは、イルカの形をしたピンク色の遊覧船だった。
連休が終わって間もなく、滋子は旅行雑誌の仕事で川越に行くことになった。「小江戸」とも呼ばれるこの町は、水路と水運が発達していた江戸時代には、江戸の中心部と直結するにぎやかな町で、首都圏のベッドタウンと化してしまった現在でも、その当時の風情を濃く残している。近代的な街並みのなかに混じる古い築地塀《つい じ べい》や鐘楼に江戸の面影を見つけるために、多くの観光客が訪れる街だ。滋子の仕事も、日帰りの旅行スポットとしての川越を取り上げて記事にすることだった。
JRの駅の周辺などは、都心と同じようなビルと整備された道路と人混みで、本当に小江戸なのかと疑いたくなるような感じだったけれど、そこは滋子もベテランだし、旅行雑誌の編集者もカメラマンも心得たもので、取材はスイスイと進んだ。陽が落ちる前に行程のすべてを済ませて、駅へと戻ってきた。とりあえずどこかでお茶でも──と、手頃な店を探しながら歩いているとき、バスターミナルのなかの掲示板に張り出されているチラシが、つと目についた。
尋ね人のチラシである。公的なもので、コピーではなくきちんと印刷されている。心当たりの方は最寄りの交番か川越警察署へ──という文章を読んでいると、同行していた編集者が近づいてきた。
「何を読んでる……ああ、家出人捜索願か」
このチラシで探し求められているのは、若い女性だった。年齢・二十歳。学生。名前は岸田《きし だ 》明美《あけ み 》とある。
このときまではケロリと忘れていたのに、滋子は下田で見たチラシを思い出した。
「あたし、このあいだ遊びに行った下田でもこういうチラシを見たんですよ。そっちは手書きで、家族がつくったものみたいだったけど」
「多いよねえ」
「どういうことなんでしょうかね」
「どういうって、何が?」
「失踪でしょ? 突然いなくなっちゃったわけでしよ、こういう人たちは」
編集者は腕組みをした。「まあねえ。だけど最近は、事件がらみも多いんじゃない? これなんか、若い女の子だからね。けど、わかったもんじゃないな。バブルからこっち、何が起こっても不思議じゃないから」
滋子はチラシの写真を見つめた。岸田明美は、長い髪をきちんと整えた、なかなかの美人だった。少し化粧が濃いようにも見えるが、これは写真のせいかもしれない。全体として、どこにでもいる若くて明るい女性である。
「そういえば、最近は『蒸発』って言い方をしなくなったね」と、編集者が言った。「ひと昔──いや、ふた昔前になるかなあ。ちょっとした流行《は や り》言葉にもなったんだけど。今でも、こんなふうにふっと消えちまう人ってのはいるんだけど、誰も『蒸発した』なんて言わないよねえ。社会現象として取り上げられるなんてこともなくなった。失踪なんて、当たり前のことになっちまったからかな」
「何でいなくなるのかしら」と、滋子は呟いた。
「さてね。いろいろあるんじゃないの?」
「もしもあたしが蒸発したら、誰か探してくれるかしら」
昭二は探してくれるだろうな──と思いつつ、滋子は言った。編集者は笑った。
「僕が探しますよ。締め切り前だったら」
「そんなもんなのね」
ふたりで笑って、掲示板の前を離れた。それでも、滋子の心には、チラシの女性の顔写真が残った。下田の田中頼子と、川越の岸田明美。
消えてしまう人──いなくなってしまう人。そこに、滋子の興味が小さな焦点を結んだ。
ひととおり、テレビやラジオのニュースでできる限りの情報を得ると、滋子は電話をかけようと思った。仕事机の上の古ぼけたローラデックスを回してみたが、目当ての名刺が見つからない。イライラしながら二度も探して、それからようやく、坂木は滋子に名刺をくれなかったのだということを思い出した。彼の連絡先は、取材帳にメモしてあるのだった。
急いで取材帳を取り出す。同業のライターたちのなかには、パソコンで資料管理をする者も増えてきているが、滋子はそのあたり旧式で、仕事の内容ごとに取材帳を分けてつくり、それをあいうえお順に本棚に並べて保管している。目的の取材帳は、「本業」のライター仕事のためのそれがぎっしりと並べられている棚の一段下に、備品や消耗品をしまっておく引き出しの陰に隠れるようにしてひっそりとおさまっていた。長いこと、手に取ることも忘れていたのだ。
ページをめくると、あった。見返しのところに電話番号の一覧表をつくってあり、上から三番目に「坂木達夫 東中野警察署」と書いてある。急にどきどきしてくるのを感じながら、滋子は受話器をあげた。
しかし、坂木は不在だった。応対に出た署員の話では、急用ができて自宅から現場に直行している、という。滋子はまたどきりとした。急用か。大川公園の事件のことだろう。そうに決まっている。前畑滋子から電話があったということを必ず伝えてくれと言い置いて、滋子は電話を切った。
坂木が捕まらないということが、なおさらに滋子の心を高ぶらせた。取材帳をめくり、二、三人の思い出しておく必要のある人物のプロフィールを急いで読み直すと、また電話をかけた。今度は市外通話だった。電話番号欄の一番上に書かれている番号、伊豆の下田である。下田警察署の風紀課、氷室《 ひ むろ》佐喜子《 さ き こ 》。
思い出してみると、滋子が最後に佐喜子と会って話をしてから、もう一年半ほど経っている。しかし、ダイアルしながらちらりと頭をよぎった懸念──佐喜子は異動しているのではないか──は、杞憂であったようだった。彼女は下田署にいた。ただ、部署名そのものが変わっていた。風紀課ではなく生活安全課だという。
電話に出た相手の声を聞いたとたんに、滋子にはそれが佐喜子だとわかった。ほっとして、嬉しくなった。
「氷室さんですね? わたしは前畑滋子と申しますが」
「まえはたしげこさん──」と、相手は繰り返した。「失礼ですが?」
角張った口調だった。そうそう、彼女はこうなのだと、滋子は思い出した。だが、酒が入るとこれが全然違ってくる。そのことも思い出した。
「いきなりお電話してごめんなさい。もうずいぶん前になりますが、失踪女性のルポルタージュを書くために取材をさせていただいた者です。えーと──」
そのとき、はっと気づいた。当時の滋子は、まだ旧姓の木村滋子だったのだ。急いで言い直そうとしたとき、電話の向こうの声が明るくなった。
「ああ、滋子さんね? 木村さんでしょう」
「そうです、そうです。ご無沙汰しています」
「ご結婚なさって、前畑さんになったんですよね。お葉書をいただいていたのに、うっかりしていてごめんなさい。お元気ですか」
「はい、おかげさまで。こちらこそずっと音沙汰なしで失礼しました」
「あれからどうしたかなって、時々気になっていたんですけどね。進み具合はどうですか?」
何だか、取材に行ったのがつい先月とか先々月のような感じの話し方である。滋子が知っている限りでは、氷室佐喜子は実に几帳面な気質で、待ち合わせの時間に遅れたり、約束を違えたりすることなど皆無の人だった。その彼女が、一年以上の空白を、「どうしたかなって気になってた」という程度の言葉で表現するのだ。やっぱり地方の空気はのんびりしているのだろう。
それだけに、その感覚につけ込むようで、「はい、なんとかやっています」というようないい加減な返答はしかねた。かと言って、正直に、「いえ、その後あのルポは全然進んでないんです。いろいろありまして頓挫《とん ざ 》しちゃって……。あいだに、わたし結婚したりしましたし、白状すると興味も薄くなってきちゃって」なんて答えるわけにもいかない。
困っていると、「もしもし?」と問い返された。滋子は思いきって話を本題に持っていくことにした。
「お忙しいところ申し訳ないんですけど、氷室さん、テレビのニュースは観ましたか?」
「テレビ?」
「はい。東京の墨田区の大川公園というところで、女性のバラバラ死体の一部が見つかったんです。右腕ですけど」
佐喜子はちょっと絶句した。
「まだご存じなかったですか」
「ええ……今日は朝から忙しくてね。で、それで?」
佐喜子の口調が少し緊張したのを感じ、滋子も背中をピンと伸ばした。
「実は、その右腕の正確な身元はまだ判らないんですけど、いっしょに見つかったハンドバッグの持ち主は判りましてね。それが古川鞠子さんなんです」
佐喜子は記憶力がよかった。そのことではたびたび驚かされたものだ。だから滋子は黙って待った。
思ったとおり、少し経って、佐喜子は正確なリアクションを返してきた。
「古川鞠子──たしか、あなたが取材対象にしていた女性じゃなかったかしら」
「そうです、そうです」
「坂木君の担当よね? 彼から聞いた覚えがあるから」
「ええ、そうです。お電話してみたら、現場に出ていてお留守でした」
佐喜子は黙った。滋子も黙った。ここは佐喜子に先に何か言ってほしかった。
「即断は禁物だけど……」
「ええ、そうですね」
「恐ろしいことになりそうね。滋子さんは取材を続けるんですか」
「はい、もちろんです」
「そうよね……わかりました。私からも坂木君に電話してみます。滋子さんの連絡先は変わっていないのかしら」
滋子は電話番号を告げた。ちょうどそこで、室内の誰かが佐喜子を呼んだ。その声が聞こえた。
「教えてくだすってありがとう。じゃ、また」と、佐喜子は早口に言って電話を切った。
滋子は受話器をつかんだまま、取材帳に目を落とした。ちょっと考えてから、受話器を置いた。
ほかの誰より、何よりも、今は坂木だ。坂木と連絡がつかない限り、動きようがない。滋子は仕事机を離れ、リビングに戻った。テレビをつけてみたが、新しいニュースは入っていなかった。
それでもじっとしていられなかった。取材帳を持ってきて、リビングのテーブルに載せ、失踪女性のリストのページを広げてみた。数えてみると、七人の名前があがっている。少女もいれば、中年の主婦もいる。そのなかで、特に太字で書かれている名前が二つ。
・川越市 岸田明美 二十歳 学生
一九九四年四月二十日ごろ失踪
・下田市 飯野《いい の 》静恵《しず え 》 二十五歳 家事手伝い
一九九四年八月五日失踪
そしてリストのいちばん下に──
・東京都 古川鞠子 二十歳 OL
一九九六年六月七日失踪
ぽつりと書き足してある。
滋子は、約三ヵ月前の自分の筆跡で書かれた「古川鞠子」の名前を見つめながら、にわかに後ろめたい気分に襲われた。この件について坂木が連絡してきてくれたとき、自分のとったあいまいな態度を思い出したのだ。
一九九四年五月、川越で岸田明美のチラシを目にしたあと、滋子の心のなかに、もやもやとした好奇心と興味と衝動のようなものがわき上がってきた。そうして、
「自分で書いてごらん。シゲちゃんならできるよ」という『サブリナ』の編集長の言葉が、しきりと思い出されるようになった。
──あたしがもし、今自分でルポを書くとしたら。
自分で考え、自分の企画で書くならば、今いちばん取り上げたい素材はこれだ、と思った。失踪する女性たち。どうして消えるんだろう。安楽な生活を捨て、家庭や友達や恋人から離れて。どんな事情が、彼女たちをそこから追い立てるのだろう。
滋子の心に引っかかっていたのは、岸田明美だけではなかった。むしろ、下田で見かけたチラシの女性、滋子が幸せな休日を過ごしていたときに、まるでつま先にすがりつくようにして飛んできたチラシのなかの田中頼子という女性の、あの反っ歯の目立つ笑顔の方が、目の前でちらちらすることが多かった。たぶん、滋子の幸せと、チラシのなかの彼女の境遇とが、あまりにも対照的すぎたからだろう。
──書いてごらん、シゲちゃん。
編集長の言葉を信じてみてもいいんじゃないか。
それでも、その年の六月になって、今度はひとりで踊り子号に乗り下田へ向かったときは、まだ本気になっていなかった。だいたい、いきなり訪ねて行ったって、何の後ろ盾もないフリーのライターの滋子に、下田署の警察官たちがまともな対応をしてくれるかどうか怪しいものだ。ダメならダメでいいや、というぐらいの軽い気持ちだった。
しかし、滋子はツイていた。応対してくれたのが氷室佐喜子だったからだ。彼女は滋子の──自分でも目的がはっきりしていないと思う──あやふやな取材申し入れに真面目に耳を傾けてくれた。佐喜子は薄気味悪いくらいの聞き出し上手で、滋子は、なぜ田中頼子という女性を取材対象にしたいと思うのかということを説明しているうちに、気がつくと、昭二のことや自分の仕事のこと、わけても『サブリナ』廃刊でがっかりしたことなどまで打ち明けていた。自分でもなぜかわからないが、田中頼子や、川越で見た岸田明美のことが気になってならないのだ、ということも。
「なるほど……。それで、失踪女性についてのルポをお書きになりたいわけですね」うなずいて、佐喜子は言った。
「そうなんですけど、でも、そんなことできるんでしょうか」
佐喜子が笑い出したので、滋子は赤くなった。今までずっとライターとして仕事をしてきたけれど、それらはほとんどすべて、出版社や依頼会社の名前を前に出し、お膳立てを整えてもらった上での仕事だった。冷静に振り返ってみれば、滋子は、自分ひとりの力で、自分だけの足で歩いて取材に行ったことなど、ただの一度もなかったのだった。本当の「取材」の仕方など、何も知らないのだった。
「できるかどうかは、あなた次第ですよ」と、佐喜子は言った。「実は、田中頼子さんのことでは、ほかにも週刊誌の記者さんが取材に来たことがありましてね」
「それは──」
「田中さんの失踪は、まあ一種の駆け落ちだったんです」
彼女は、勤め先の旅館「湯船荘」のマネージャーと、手に手をとって家を出たのだという。
「事情がそんな具合だったので、私たち警察としては、失踪人として扱って捜査する必要はないんじゃないかと判断していました。だから、あなたがご覧になったチラシも、公的なものではなかったんですよ」
「はあ……それで、田中さんは今?」
「居場所はわかったようですよ。ご主人が執念で探し出しましてね」
正直言って、滋子は拍子抜けした。その顔を見て、佐喜子はまたちょっと笑った。
「ただ、問題がありましてね。マネージャーとふたりで駆け落ちするとき、旅館のお金をいくらか持ち逃げしていたんですね。『湯船荘』はこの下田では老舗《し に せ》ですから、ちょっとしたスキャンダルになりました。それで、週刊誌の記者も来たわけです。記事にはならなかったみたいだけど」
滋子は目をぱちぱちさせた。チラシのなかの田中頼子の男好きする顔が、ニヤニヤ笑っているように思えた。
「そんな事情ですから、あなたが田中頼子さんの周辺について取材するのは、かなり難しいかもしれませんね。湯船荘の方でも警戒していますから。それに、駆け落ちが失踪の理由ということになると、田中さんは、あなたが書こうとしているルポの取材としてはあまり適切じゃないかもしれませんしね。彼女は、あらためて分析するまでのこともない、実に古典的な動機で家を出たわけだから」
滋子はがっくりしてしまっていた。ちょっとばかり張り切って自分のものを書こうとしてみたら、これだ。
──でもまあ、分相応をわきまえろってことかな。
なにしろ、ちゃんとした取材の仕方も知らない滋子なのだ。
だが、そんな滋子の内心を知ってか知らずか、佐喜子は真剣な口調で続けた。「でも、お書きになろうとしているルポに、私は興味を感じますね、昨今は、人が失踪するということについて、みんな無感覚になってきています。『蒸発』なんていって騒がなくなったし」
「わたしの知人も同じようなことを言ってました……」
「でしょう? でも、人ひとりがいなくなるというのは大変なことですよ。そのルポはお書きになるべきですよ。失踪者の家族も、そういうルポが出ることによって捜索の助けになると思えば、きっと協力してくれると思います」
佐喜子の真面目さに、滋子は(このルポは、どこに発表するあてもないものなんです)と言い出せなくなってしまった。
「田中さんの件はさておいても、その川越の女性の件は調べてみてもいいんじゃないですか。広報を通して丁寧に取材申し込みをすれば、誰か会ってくれるはずですよ」
何かあったらこちらからも連絡するからと、佐喜子は滋子の住所や電話番号を尋ね、手帳に控えた。引っ込みがつかなくなった気分で、滋子は下田署を出た。
その次の週に川越へ出向いていったのも、半分は、もしも氷室佐喜子から電話がかかってきて、
「取材はどうなりました?」と問われたらイヤだな──という思いがあったからだった。あの真面目な女性刑事に向かって、メンドウくさくなっちゃってやめました──なんて、とてもじゃないが言うことはできない。
そんな気持ちで出かけていった川越の警察署では、剣もほろろの応対をされたが、滋子は何だかほっとした。ぞんざいにあしらわれたのは辛かったけれど、これで免罪符を得たような気がして、肩の荷が降りた。ところが、意外なところから意外な反応があった。
昭二である。川越から帰ってすぐにデートしたとき、実は最近こんなことがあってね──と、滋子が打ち明けると、彼は目を輝かせた。
「シゲちゃん、凄いよ。それ書きなよ。絶対に書くべきだよ」
「……へ?」
「シゲちゃんが興味を持ったなら、書くべきだよ。俺、ずっと思ってたんだ。シゲちゃんは今でもいい仕事してるけど、ひとつにまとまって本になる仕事だって、絶対にできるって。『サブリナ』の編集長さんが言った言葉を信じろよ。頑張れよ」
ここでもまた、滋子は真面目すぎる反応にぶつかったのだった。
「あたしに書けるわけない──」
「書けるさ。やってもみないうちに、何言ってんだよ」
「どうやって書けばいいの? 下田の件は肩すかしだったし、川越の方だってどうしようもない。あたしは週刊誌や新聞の記者じゃないんだもの」
「最初から書きゃいいじゃないか。下田でチラシを見つけたところから。で、調べてみたら駆け落ちだった。でも、シゲちゃんは、ひとつひとつの事件だけを書きたいわけじゃないんだろ? そもそも『どうして人は失踪するのか』ってことを書きたかったんだろ? だったら、起こったことと、そのときシゲちゃんが考えたことを正直に書いていけばいいじゃないか。あたしにはわからない。でも、調べていくうちにはわかるかもしれないって。こういうケースもあります、ああいうケースもありますって。人間てのはおかしなことをするもんで、だけどその理由はどこかにあるはずなんですよってさ」
滋子はまじまじと昭二の顔を見た。家業の鉄工所を継いで、真面目に働き、自分の車を手入れすることだけが楽しみで、酒も飲まないしギャンブルもしない。本を読んでいるところも見かけたことはない。そんな昭二のどこに、こんな考え方が隠されていたのだろうか。
「ショウちゃん、商売を間違えたね。編集者になればよかったのに」
「よせやい」と、昭二は照れた。
だが、昭二の激励は、少しばかり滋子に活を入れた。もう一度態勢を立て直し、取材して、自分の文章で書いてみようという気持ちにさせてくれた。
そうなると、とっかかりは、やはり川越の岸田明美しかない。もう警察に頼るのはやめにして、滋子は根気よく電話帳を調べ、岸田明美の家族の住まいをつきとめて、直接会いにいってみた。警察が何をどう調べているのかもよくわからない状態だけれど、娘さんの事件について調べてみたい、何か情報をつかんだら捜索のお手伝いにもなるかもしれないという滋子の熱心な言葉に、彼女の両親、特に父親は、やや困惑気味の様子だった。赤の他人が──という気持ちなのだろう、滋子は思った。だとしたら、こちらが本気であることを伝えるには、とにかくやって見せるしかない。
滋子は、岸田明美の生活を、人となりを、彼女の失踪当時の行動を、地味に、静かに調べていった。明美は非常に裕福な家庭の一人娘だ。父親は土地でも名の知れた資産家だが、若いころから女性関係の噂が絶えないことでもまた有名だった。当然のことながら妻とのあいだには争いが多く、明美は物質的には恵まれていても、情緒的には不安定な家庭で育った。そのせいか、彼女自身もまた浪費家で、異性関係が派手で、地元の級友たちの誰に尋ねても、芳《かんば》しい評判は出てこなかった。決まった恋人の名前もあがらない。明美が付き合っていた男性の名前は数々あがるのだが、多すぎて特定することができないのだ。
「岸田さんは、中学生ぐらいのときから、早く家を出たい出たいと言ってたし」
と、級友の一人の女性は言った。
「いい男でも見つかったんで、追いかけて行っちゃったんじゃないですか? 放っておいたって、またその男に飽きたり捨てられたりしたら、帰ってくるんじゃないかしら」
あの両親が、明美が家出したことを心配しているなんて信じられない──と語る、男性の級友もいた。
「娘のことなんか、これっぽっちも気にしてないような冷たい人たちですよ。本気で探そうとしてるのかなあ。捜索願だって、世間体が悪いから一応出してみたって程度じゃないの?」
滋子も、岸田夫妻──とりわけ父親の方と話しているときに、そこはかとない違和感というか、まだ事情のすべてを打ち明けてもらってはいないなと感じることはあった。その壁≠ェイコール世間体なのかなと思う時もあった。ところが、岸田家に取材に通うようになって半月ほどのち、父親がバツの悪そうな顔をして、
「実は──明美が失踪してから十日ばかり経って、こんなものが届いていたんです」
と、一通の手紙を差し出した。手書きの丸っこい女文字で、岸田夫妻あてになっている。差出人のところには、同じ字体で「明美」とだけ書いてあった。
「お嬢さんからの手紙ですか?」
「そのようです。娘の字ですからな」
手紙は短く、勝手な真似をして悪いと思うけれど、しばらく家から離れてみたい、お父さんの築いた財産の傘の下にいては、近づいてくる人たちが、本当にわたしを大切に思ってくれているのか、それともお金目当てなのか、見分けがつかない、それがとても寂しい、寂しく辛い、だから一人で、誰もわたしの家が裕福だと知らない土地へ行って暮らしてみたいというようなことが書き綴ってあった。一人の人間として成長し、自信がついたら家に帰ります──
可愛らしい女文字、花柄の便箋で、感傷的で勝手な言い分ではあるが、きちんとした筆致だった。滋子が漠然と想像していた「岸田明美」という若い娘が、こういう文章を書くとはちょっと思えなかったが、父親は苦虫をかみつぶしたような顔で、明美は子供のころから作文は上手かったのだと言った。
さらに父親は、上京する明美のためにつくってやった仕送り用の口座に、今でも送金しているとうち明けた。つまり、失踪後もそこから定期的に金が引き出されているから、不足しないように足しているというのである。
滋子は呆れた。こんな手紙を寄越していながら仕送りをあてにする娘も娘だが、送金する親も親だ。
「口座にお金がなくなれば、明美さんは帰ってくるとお考えにはなりませんか?」
滋子がそう尋ねると、父親は不機嫌そうに答えた。
「帰ってきて、なぜ送金を止めたと文句を言われるのは嫌なんですよ」
黙るしかなかった。ただ、この父娘関係に、これまでとは違う興味も覚えた。これは書ける[#「これは書ける」に傍点]──という気がした。
「でも、これだけの材料があるならば、捜索願は取り下げてもよろしいんじゃないですか?」
「こんな手紙を警察に見せるんですか? 娘の身勝手を天下にさらすようなもんだ。今さらできませんよ」父親は鼻先で言った。「警察だって、どうせ探してやいないんだ。届けは届けとして出ているだけなんだから、放っておいたってかまわんでしょう」
そうかもしれないが──
「でも岸田さん。そうすると、ここまでうち明けていただいた上で、まだ、わたしがお嬢さんの失踪について書くことは──」
滋子はおそるおそる尋ねた。明美の捜索の助力になればという動機で、滋子のルポに協力するというのが、最初の意向だったのだから。
岸田明美の父親は、レストランの予約をキャンセルするぐらいの気軽さで、あっさりと言った。「やめてもらわないと困りますな。いえね、あんたが最初にうちに来たときは、これほど熱心に明美の身辺を調べるとは思ってなかったんですよ。近所や、うちのものたちの手前もありますからね、門前払いするわけにもいかないんで、今まではまあ──そのなんちゅうかね、お付き合いしましたけれども、このへんでお開きにしてもらうしかありませんなぁ」
開いた口がふさがらなかった。そのまま電車に乗って、滋子は家に帰った。道中もずっとぽかんとしていた。帰宅してパソコンに向かうと猛然と腹が立ってきたが、やがて考え直した。ここまでの経過を、あまさず書けばいい。これもまた、現代の失踪者の背景のひとつだ。滑稽で特異かもしれないけれど、充分に材料として使える。そう思ったら、かえって筆が進んだ。結果的には、岸田明美の章はかなり長いものになった。
そうこうしているうちに、下田の氷室佐喜子から連絡があった。それまでにも、佐喜子とは時々電話で話し合っていたのだが、今度は別口だった。下田署管内で、若い女性の失踪事件が一件発生したというのだ。
「家出とも事件がらみともなんとも判断の付きにくい事件なんですが、取材してみますか? 目立たないように動けばうちの署の方は問題ないし、家族の方に話してみたら、捜索の助けになることならどんな取材でもお受けすると言っているの」
佐喜子は滋子を、真面目な女性ジャーナリストだと紹介してくれたようだった。滋子は佐喜子の好意を有り難く思ったが、同時にこれは、こちらの信頼を裏切るようないい加減な仕事をしたら許しませんよ──という佐喜子の意向の表明なのだとも思った。
こうして滋子は、下田の飯野静恵の失踪も取りあげることになった。こちらは岸田明美のケースとは違い、家族とのあいだに目立った問題があるわけでもない。だが、聞き取り取材をしてみると、そういう平和でのんびりした生活に、本人がひどく倦《う》んでいた様子がわかってきた。滋子はそれも、原稿に書いた。それだけでなく、取材のノウハウがわかってくると、都内の警察署をまわり、ライター仲間のつてを頼って事件畑の記者にも紹介してもらって、さらに取材対象を増やしていった。取材帳はどんどん厚くなり、リストには名前が増えた。取材を始めてすぐに本人が帰ってきたり、音信があった場合もあり、そんなときは本人にインタビューすることもできた。
滋子はそれらをまとめて、少しずつ、少しずつ、初めての「自分だけの原稿」を書き溜めていった。
そういう滋子の仕事ぶりが気に入ったのだろう。あるとき佐喜子がこんなことを言い出した。
「実は私、出身は東京なんですよ。高校生のときに父親の仕事の関係で下田に移ってきたんですけどね。だから東京には幼なじみの友達が何人かいるのだけど、そのうちのひとりが、今、東中野署で刑事をしていてね」
それが坂木達夫であった。
「私は長いこと交通課にいたから、家出人捜索にはまだそんなに長いこと関わってないんだけど、坂木君はそちらの方面のベテランなんですよ。いろいろと教えてくれるかもしれない。会ってみますか?」
こうして、滋子は東中野署の坂木刑事に会った。子供の時の呼び名をそのままに、彼を「坂木君」と呼ぶ氷室佐喜子の紹介でやってきた滋子に、坂木は親切に応対してくれた。最初の頃は傍観者の立場をとっていたが、滋子の仕事の内容が判ってくるにつれて、彼自身も興味を持ってきたようで、独自に調べたり、意見を述べたりもしてくれるようになった。
滋子は、ひとりきり、締め切りもなく掲載のあてもなく、手探りで書くこのルポルタージュに、次第次第に熱中していった。力が入るのは、自分でも思いがけないほどだった。その分、「本業」のライターの方の仕事を減らせればよかったのだが、生活のことを考えるとそうもいかず、かなりの無理を重ねる毎日が続いた。
それがいけなかったのだろう。昨年、一九九五年の梅雨時だ。滋子はアパートで原稿を書いていて、血を吐いた。猛烈な胃痛に部屋中を転がり回った。救急車が来るまでの十数分のあいだに、これであたしは死ぬのだろうかと思った。
十二指腸潰瘍だった。ひどい状態で、手術が必要になっていた。一ヵ月間を、滋子は病院で過ごした。
病気とそれによる入院は、滋子から体力と気力を奪った。急に心細くもなった。三十一歳だった。どれほど熱心に仕事をしていても、ふと将来への不安を感じる年頃でもあった。実家の母が病院へやってきて、枕元で泣かれたことも芯からこたえた。
そんなころに、見舞いに来た昭二が言ったのだった。
「俺なんかがこんなこと言っても、シゲちゃんには迷惑なだけかもしれないってずっと不安で、なかなか言い出せなかったんだけどさ」
「なあに……?」
「結婚しない?」
滋子は泣き笑いした。「いつ言い出してくれるかなあって、ずっと思ってたよ──」
こうして、結婚話はとんとんと進んだ。昭二が「俺なんかが……」と自分を卑下したのは、彼が家業を継いでいることとか、いい大学を出て「マスコミ」で働いている滋子と比べたら、自分は無学だし、高卒だし、身体使って働くことしか知らないし、家族はうるさいし──などなど、いろいろな引け目を感じていたからであるらしかった。確かに、彼にすこぶるつきの口うるさい母親がくっついていることは、滋子にとっても大問題だった。が、それ以外のことは何でもなかった。滋子もいっしょに工場で働け──と命令されない限りは。
そのためにも、滋子は仕事を辞めたくなかった。ライターとしての仕事に愛着もあった。入院している間、見舞いに来た雑誌の編集者やスタッフたちに、「やっぱりシゲちゃんでないと」と言われると、なおさらその思いは強くなった。
だから昭二にも、それを条件として出した。彼は喜んで承諾してくれた。
「うちの義姉《 ね え 》さんは、シゲちゃんが書いてる『ハウスキーピング』の料理のコーナーを愛読してるんだぜ」
こうして、滋子の新しい人生は始まった。幸せに、温かく。
だが、ただひとつ、そこに積み残されたものがある。失踪女性に関するルポルタージュである。
退院後、アパートで静養しているときに、そこまで書いたルポを読み返してみた。今、すぐにこの続きに取りかかるだけの覇気は、そのときの滋子にはなかった。結婚の準備に忙しく、時間もなかった。が、その時点で原稿用紙二百枚くらいになっていたものを、知り合いの編集者に見てもらおうか──という気持ちにはなった。果たして、これはものになるだろうか?
誰に見せると言ったら、やはり『サブリナ』の板垣元編集長だろう。彼に連絡し、会社まで出向いて、滋子は原稿を渡した。今はシルバー世代向けの雑誌の編集部のデスクをしている彼は、一週間後に電話をしてきた。
「どうでしょう?」
受話器を握る手がちょっぴり汗ばんだ。
「うーん」と、彼は言った。「いいものだと思う」
滋子は頬が火照《 ほ て 》った。いいものだ[#「いいものだ」に傍点]。だけど、それならなぜ「うーん」と唸る? 感心しているような唸り方には聞こえなかった。
「だけど、地味だよね。素材としては古いし。主役はこの二人──岸田明美と飯野静恵という女性たちみたいだけど、どっちも、パッとしないよね」
「……」
「シゲちゃんがノンフィクションの書き手としてやっていけるという僕の考えに変わりはないよ。これを読んで、自分に自信を持ち直したくらいだ。俺の目に狂いはなかったってね」
でも──と、ビジネスライクな口調で続けた。
「これは、新人の一作目としてはどうかな。インパクトがないよ。もっと派手な──いい意味でエグい素材を扱ってごらん。失踪っていう素材には、もう手垢がついちゃってるからね。これがもし、本当に犯罪がらみの、たとえば連続殺人事件のルポかなんかで、リストの女性がみんな同一犯人の手にかかった被害者だった──なんてことであれば、僕も飛びつくけど、ただ失踪女性たちの実状や個々のケースについて書き並べただけじゃ、売り込みようがないんだよね、率直なところ」
この原稿はしまって、新しい素材を見つけて書き始めろよと、最後に言った。
「シゲちゃんならできるよ」
「ありがとう」
電話を切ったとき、滋子の目に、自分が書いてきた原稿の文字が、急に色あせたものに見えた。
こうして、失踪女性についてのルポは、『サブリナ』元編集長の言葉のとおり、滋子の仕事机の引き出しにしまいこまれることになった。彼の言葉に反発し、少なくとも最後まで書き上げてやる! という根性は、遺憾ながら、病後で体力をなくし結婚を控えて心がふわふわしている滋子のなかには、わきあがってこなかったのだった。
昭二も、ルポについては口に出さなくなった。それでも彼の思うところは推察がついた。あのルポを書くために、滋子はずいぶんと無理をした。睡眠時間を削り、食事もさらに不規則になった。それが病気の原因であることは確実だ。だから、滋子と新しく所帯を持とうとする昭二としては、滋子が仕事をするのはかまわないけれど、無理を重ねるという間違いは二度と犯してほしくないのだ。
たった一度だけ、昭二が訊いてきたことがある。
「シゲちゃん、あのルポはまだ書いてるのかい?」
「──あんまり。気乗りしなくなっちゃって」
元編集長とのあいだのやりとりについては、黙っていた。
「そうかあ。まあいいよ。締め切りがあるもんじゃないんだろ? 書きたくなったら書けばいいさ」
こうして、現在まで来てしまった。原稿は引き出しのなか。取材帳は棚の隅。だから、今年の六月に、坂木がわざわざ電話をかけてきて、古川鞠子の失踪事件について教えてくれたとき、滋子は気が引けて仕方がなかった。
「この鞠子さんには、両親の熟年離婚に悩んでいた節がありましてね。父親に若い愛人ができてしまったんです。それが家出のきっかけになっているのかもしれない。うちの署では、そういう事情があるので、事件として捜索する必要を認めないと判断しています。でも、失踪の仕方が不自然で、事件性もあると、私は個人的には感じているんですよ。母親は心配で窶《やつ》れる一方ですが、お祖父《 じ い 》さんがなかなか気骨のある老人で、捜索の助けになるならば、取材にもきっと協力してくれるでしょう。取り上げてみてはくれませんか」
坂木は熱心に訴えたが、エネルギーが失せている滋子の耳には、それは少しばかり言い訳がましく聞こえた。本来なら彼が調べるべきことを、上層部の許可がおりないからと言って、滋子に押しつけようとしてるだけなんじゃないか。そんなふうに思う一方で、その感情が自分の坂木に対する後ろめたさの裏返しなのだということも、ちゃんとわかっていた。だから、余計に煩わしかった。
坂木の手前、ルポを書き続けているようなふりをして、おざなりに、リストのいちばん下に古川鞠子の名前を書きはしたものの、それをどうするという気持ちもなかった。
だがしかし。今、今日、このときに、状況は激変した。
古川鞠子だ。よりによって彼女だ。リストの最後の女の子だ。
──これが連続殺人のルポかなんかだったら。
板垣元編集長の言葉が、滋子の耳に蘇る。古びた原稿の束の上に手を置くと、自分の鼓動が聞こえた。
[#改ページ]
4
大川公園バラバラ死体遺棄事件の特別捜査本部は、九月十二日午後二時、墨東警察署内に設置された。その後、大川公園での新たな発見はなく、現在は付近の地取り捜査と、右腕の身元と別途発見された女性のハンドバッグの持ち主の特定が急がれていた。
特捜本部は、墨東署の二階の訓辞場がそのスペースに当てられ、事務机などの備品が運び込まれ、電話が引かれ、訓辞場の入口には、事件名を墨書した看板が掲げられた。書いたのは、この事件の捜査を担当することになった本庁捜査一課第四係に所属する、巡査部長・武上|悦郎《えつろう》である。
四係では、たいていの場合武上が事件名の看板を墨書することになっている。験《げん》をかついでいるからだ。
「ガミさんが書くと、解決が早い」
と、四係のヘッドである神崎《かんざき》警部は言う。
武上が第四係入りしたのは五年前、最初の事件で、「達筆だから」と看板書きを頼まれ、その事件が一週間でスピード解決し、縁起がいいからと次の事件の時も頼まれ──という具合で、定着した習慣である。一度だけ、捜査本部を設置した先の所轄署にやはり同じようなエピソードを持っている字の巧い刑事がいて、じゃあどちらが──と迷い、結局ふたりで上下に書き分けたことがあったが、その事件は迷宮入りになってしまった。
「験かつぎの二股はいかんということだね」と、神崎警部は苦り切ったものだ。
ほかのことでは徹底した合理主義者で、およそ迷信や縁起担ぎの類を受け付けない神崎警部が、なぜ看板書きにだけはこれほどこだわるのか、武上は時々不思議に思うのだが、直《じか》に尋ねてみたことはない。余計なことだ。彼としては、新しい事件に遭遇して看板を書くたびに、自分にくっついてくれているらしい──くっついていると四係の連中が考えている──運のようなものが落ちていないようにと願うだけである。
捜査本部入りするとすぐに、武上は自分に割り当てられた仕事に取りかかった。彼はデスクである。これはもちろん正式な役職名ではなく、本部内での役割を通称にしただけのものであるが、特捜事件には絶対に必要なポジションであり、どの係にも必ずひとりはこれを専門とする刑事がいる。四係では、それが武上なのである。
デスクの仕事は、事件の捜査の進行に従ってどんどん増えてゆく膨大な捜査資料・調書・報告書などを整理することと、司法関係の提出書類を作成することである。どちらも重要な仕事だが、特に前者には経験とノウハウが要る。武上を一人前のデスクに育て上げてくれた先輩刑事は、「几帳面であるという素質も必要だ」と言っていたが、武上自身には、そこのところはなんともわからない。仕事を離れると、自分ぐらい身の回りのことについてだらしのない人間も珍しいと自認しているし、二十年連れ添った女房もそれにはうなずいているからだ。
先輩に逆らうわけではないが、武上としては、几帳面な人間はむしろデスクには向いていないのではないかと思うこともある。司法関係の書類をつくるだけなら、几帳面できれい好きな人間がいいだろうけれど、捜査書類の整理となると、話はまったく別になってくるからだ。特捜本部には最低でも八十人から百人くらいのメンバーがおり、それだけの人間が書類を書き、提出し、ファイルを借りだし、また戻し、忘れた頃になって過去の供述書や実況検分調書を見たがり、また戻し──という作業をするのである。彼らの書類に対する考え方、扱い方といったらランダムそのものだから、几帳面な人間だったら、常に書類をきれいに整理整頓しておくことだけに気を取られ、苛《いら》つき、ガミガミ怒鳴り、自分が一日がかりで整えたファイルの配列が三十分でごちゃごちゃにされることについて、始終悩んでいなくてはならない。
だが、幸い武上はそういう性分ではない。見場がきちんとしていることより、能率優先と考えている。特捜本部でデスクとして働くとき、何よりも大切なのはそのことだと、部下の刑事たちにも、折に触れて話して聞かせる。もっとも優れたデスク役は、忍者のように目立たないものだ、と。そこにいて仕事していることを忘れられてしまうのが望ましい。
今回、所轄の墨東署は、武上の下で働くデスク要員として、四人渡してくれた。バラバラ殺人事件は長引くことが多く、地取り捜査の範囲も広くなるので、本当なら最低でもあとひとりは欲しいところだったが、当面は仕方がない。訓辞場の北東の隅、窓際にデスクのポジションを決めると、武上は彼らを集め、それぞれに簡単な自己紹介をした後、レクチャーを始めた。
「諸君のなかで、以前にもデスク担当をしたことがある者はいるか?」
尋ねると、四人のうちのふたりが手をあげた。ひとりはこの署内で強盗殺人事件を、もうひとりは以前所属していた署で営利誘拐未遂事件を扱ったときだという。武上は、その時彼らのヘッドにいた本庁の捜査員の名前を聞いた。ひとりは武上と入れ違いに退官した警部補で、もうひとりは今も本庁にいる武上の飲み仲間の巡査部長だった。木村という男だ。やはり、デスクの専門家である。今は二係にいる。
「基本的には、私のやり方も木村巡査部長と同じだ。だから君は、前に教えられたノウハウをそのまま活かしてくれていい」と、武上は手をあげた刑事に言った。「ただ、私の方が木村さんよりだいぶ多くゼロックス・コピーを使う。ミスコピーの綴りも作る。それがいちばん大きな違いかな」
てきぱきと、武上は基本的な作業手順を説明していった。調書の整理の仕方、写真帳の貼り方、ファイリングの仕方、電話連絡簿の作り方、新聞のスクラップの仕方。次には、それらの書類を人物順と日付順、事実関係順に三通りつくり、机の上に配置するその方法。
「詳しいことは、これを見てくれ」
いつも持ち歩いているくたびれた書類鞄から、コピーした便箋をホチキスで綴じたものを取り出した。三部ある。
「俺の個人的なマニュアルだ。手書きだから、読みにくいところがあったら聞いてくれ。公的な書類については、日ごろ君たちが署でやっている手順と変わりないから省いてあるが、殺人事件となるとややこしくなる書類もある。疑問に思ったら遠慮しないで質問していい。俺は特捜本部がここにあるかぎり、自分の椅子からほとんど動かないからな」
これは文字通りの事実である。武上は、最初の非常招集で特にお呼びがかからない限り、現場にも臨場しない。彼の仕事は後方にある。
「このことは、君らも同じだ」と、武上はせかせかと続けた。もともとせっかちな気性だし、デスクの仕事は特捜本部が立ち上がったのと同時に始めなければならない。おそらく今夜遅く、日付が変わってから開かれることになるであろう捜査会議に間に合うように揃えなければならない書類も多い。どうしても早口になった。
おまけに、どこの署に出かけて行っても、何度同じレクチャーをしても、「私」と重厚に自称することができるのは最初だけで、途中からどうしても「俺」になってしまう。彼の野太い風貌とガラガラ声に怯える部下がいるとも思えないが、何か不明なことがあったとき気楽に尋ねることのしにくいヘッドだと思われてしまうことはよくあった。だから、その点についてはくどいほど念を押した。どんな小さなことでも、迷ったりわからなかったりしたら俺に聞いてくれ、捜査担当班以上にチームワークが大切なのがデスク担当なのだと言った。
「君たちも、容疑者があがって裁判所と行き来する必要が出てくるまでは、ほとんど署内のこの机に釘付けだ。尻が平らになるぞ」
四人のなかではいちばん若い刑事が、ちょっと笑った。楽しそうな笑いではなかった。自嘲気味だった。
「大事件を扱うのに、地味な後方支援のいわば雑用係に回されて、不満に思っている者もいると思う。どうしても我慢ができないと思ったら、それも正直に言ってくれ。この役目には向き不向きがある。それに、やる気のない者にいてもらっては困る。他所《 よ そ 》よりも、ここがいちばん困る。じゃ、かかろうか。とりあえず机を六つ集めてくれ。席を決める」
武上は、四人の刑事たちのひとりひとりの顔を見て、名前を呼んで、彼らの席を決めた。呼ばれた方は、多かれ少なかれ驚いた顔をした。名札を付けているわけでもないのに、もう正確に顔と名前を一致させて覚えているのか──。
武上をデスクとして有能たらしめている所以《ゆ え ん》は、実はこの記憶力にもあった。映像的というより、どちらかといえば活字的な記憶力ではあったが、多くの事象が、彼の頭のなかにコンパクトにたたまれて収納されており、彼はそれらを一瞬で引き出すことができる。だから、デスクに座っている彼のところに、四係の誰かが質問に来ることもよくあった。誰々の供述書にこういう言葉が出てこなかったか? 実況検分調書に載っていた現場の家の台所には明かり取りの窓があったろうか?
武上はすぐに答える。そして、堆《うずたか》く積み重なっているファイルのなかから、あるいは書類棚のなかから、机の引き出しから、目的の調書を取り出し、供述者が目当ての言葉を述べているページを、台所の窓の位置について書き取ってある図のページを、すぐに開いて差し出す。相手が驚きつつそのファイルのページをめくり始めるころには、武上はもう次の仕事にかかっている。
しかしこの優秀な記憶力は、時に重荷になることもあった。特に今日はそうだった。部下たちといっしょに作業にかかりながら、頭のなかに、ふと塚田真一の顔が浮かんできて仕方がない。あの途方にくれたような、迷子になったような、心細そうな顔が。
なんと運の悪い子供だろう。家族を殺害され、その傷が癒えるどころかまだ血が流れているうちに、別の殺人事件に巻き込まれるとは。
父親の友人宅に寄宿していると言っていた。落ち着くことのできる家なのだろうか。学校生活はどうなっているのか。あのあと、気になってもう一度会議室をのぞいてみたが、彼はもう帰宅したあとだった。迎えが来ていたと聞いて少し安堵したのだが。
真一にも話した通り、武上は、塚田一家殺害事件の容疑者逮捕に少しばかり関わったのだが、もとよりそれは直接的なものではなく、真一の名前を知っていたのも、千葉県警の捜査員たちの会話のなかに出てきたのを漏れ聞いたからだった。その名は武上の頭の奥の、被害者のラベルを貼ったファイルのなかに収められていた。
彼の連絡先を調べるのは易しい。捜査に差し障りがないようだったら、一度様子を聞いてみようか──そう思いながら、武上は新しいファイルのナンバリングを続けた。
一報が入ってきたのは、その時だった。
午後も遅くなって、有馬義男は真智子を連れて、真智子の自宅の東中野の家に帰った。帰路の彼女はふわふわと明るく、しきりに自分の取り越し苦労を笑っていた。義男はそれに調子を合わせるのに苦労した。
大川公園で鞠子のハンドバッグが見つかったというニュースは、見えない手で義男の首を締め上げていた。時々大きく息をつかないと、呼吸が苦しくなるほどだった。この事実をどう受け入れるかということと、それを真智子にどう伝えるかという、二重の苦難があるのだった。
真智子の気持ちの振幅が大きいことも、ますます心配になっていた。公園の右腕が鞠子のものでなかったとしても、そして、ハンドバッグの件を無視するとしても、鞠子が行方不明のままであるという事実は変わらないのだ。真智子が、今朝以来のヒステリックな思いこみを訂正する気持ちになってくれたのは結構だが、そのことをいつまでも笑っていられるほど事態が好転したわけではない。それなのに、彼女はずっと笑みを浮かべていた。
東中野の家に入ってみると、洗面所の蛇口が開けっ放しになっていた。リビングの窓にも鍵がかかっておらず、灰皿がひとつひっくり返って、カーペットの上に灰が散っていた。家を出るときの真智子の気持ちを、それらのものが物語っていた。だが、真智子はそれらのことに気づいてさえいないように見えた。大騒ぎをしたことをしきりと義男に詫びながら、おなかは空いてないかとか、店の方は大丈夫かとか、気楽なことばかり訊いてくる。
「少し座ったらどうだい。お茶なら俺がいれるよ」
「いいわよ、あたしがやる」
真智子が台所に立ったとき、ドアチャイムが鳴った。義男はぎくりと強ばった。刑事たちが来たのだろうか。
「出てくれる?」と言われる前に、急いで玄関に走った。ドアを開けると、真智子と同年輩の女性が、こちらの様子をうかがうような顔でのぞきこんでいた。
「あの……どちらさまで?」と、女性の方が義男に訊いた。
「真智子の親父ですが」
「ああ、鞠子ちゃんのおじいさんですね」
女性は大きくうなずくと、家の奥をのぞきこむような仕草をして、声をひそめた。
「奥さん、大丈夫ですか」
義男は返事に困った。何について訊かれているのだろう。
「ニュースでやってるもんだから……」と、女性は続けた。「鞠子ちゃんのバッグが見つかったって」
義男は靴下裸足のまま玄関に飛び降りた。女性は驚いてドアから後ずさりした。
「ニュースで流れとるんですか」
「ええ、さっき聞いたんですよ」
義男は肩越しに後ろをうかがった。真智子は気づいていないようだ。さらに声をひそめた。
「私らも、さっきまで警察にいたんです。これから、バッグのことで刑事さんたちが来ることになってまして」
「そうなんですか……」女性の目がきょときょとと動いた。「何かお手伝いできることがありましたら、声をかけてくださいよ。うちは斜め向かいの小林《こばやし》です」
礼を言って、義男は彼女を押し出すようにしてドアを閉めた。近所の主婦なのだろうが、真智子とどういう付き合いなのか義男にはわからないし、今の状況では、第三者を近づけたくはない。
台所では、真智子が鼻歌を歌っていた。
ざわざわと、義男の背中に悪寒が走った。ニュースか。テレビやラジオをつけさせてはいけない。早くリビングに戻ろうと思うのだが、膝が動かず、さっき飛び降りた上がり框《かまち》へなかなか上がれない。真智子が妙に陽気になることによって現実から逃げているように、義男も今のこの事態から逃げ出したくなっているのだった。
と、真智子が台所からリビングへ出てきた。そしてテレビを──テレビをつけた。いきなり笑い声が聞こえてきた。何かバラエティ番組のようだった。義男は一瞬、目を閉じた。ニュースが始まる前にテレビを切らせないと──と、リビングに戻りかけたとき、坂木たちがやって来た。
義男は身構えるような思いで坂木たちを迎えた。が、真智子は明るかった。
「坂木さん」と、声をあげて玄関に出た。
「今日は本当にすみませんでした、お世話をおかけして」
ますます不安になるほどの明るさだった。わずかなあいだに感情のメーターを激しく上下させたために、サーモスタットが働かなくなってしまった彼女の頭のなかには、何故にわざわざ坂木たちがこの家に足を運んできたのか──という正常な疑問が浮かんでこないのだと、義男は悟った。胃がきりきりと差し込んでくるような気がした。
いかん、これは本当にまずいかもしれない。
一行は坂木のほかにあとふたり、ひとりは背広姿の警視庁の刑事で、もうひとりは墨東警察署の婦人警官だった。一見して坂木がいちばん年上と判る組み合わせだ。鳥居《とり い 》と名乗った警視庁の刑事はまだ三十代半ばのようだし、制服姿の婦警など鞠子とおっつかっつの年齢で、かなり緊張している様子だった。
刑事たちは固辞したが、真智子は茶菓を出したり灰皿を並べたり、なんだか嬉しそうに動き回った。思うことは、(あの腕は鞠子のじゃなかった、ああよかった)ということだけなのだ。「ひとりで大騒ぎしちゃって、あたしも本当におかしいですよねえ」などと、自分に照れている。そのくせ、義男がテレビを消そうとすると、叱るように声を荒らげて「駄目よ! つけとかなきゃ、いつニュースが入るか判んないでしょう」と言った。
「じゃあ、音を小さくしていいか」
「それならいいわよ」そしてまた、ふわふわとにこにこする。
義男は、真智子のそういう態度に坂木たちがどう反応するか、そればかりを見ていた。鳥居が片手にさげていた大きな紙袋──無印で、ビニール引きで、今は座っている彼の膝の脇に置いてある──それも気になった。ちょうど、女物のハンドバッグがそっくり収まるくらいの大きさの紙袋だった。
「奥さん、本当におかまいなく」
坂木が台所にいる真智子に声をかけ、それから義男の顔をうかがった。
「ずっとあの様子なんですか」
義男はうなずいた。「おかしいでしょう」
坂木の顔が暗くなった。鳥居はちょっと眉根を動かし、真智子の方を見やり、それからまともに義男を見た。整った顔立ちだが、口元がへの字型で、気むずかしそうに見える。
「有馬さん、古川鞠子さんのハンドバッグが発見されたということは──」
「坂木さんにうかがって知ってます」
それどころか、もうニュースでだってやっているじゃないか、と言いかけて、やめた。
「あなたでは、お孫さんの持ち物かどうか見分けはつかないですか?」
真智子は台所でコーヒーをいれている。いい香りが漂ってきた。
義男は首を振った。「残念ですが、私にはまるでわからんです」
「それじゃ、やむを得ませんね」
断定的にそう言うと、鳥居はその場で椅子から立ちあがった。台所の真智子に向かって、角張った口調で言った。
「奥さん、コーヒーは結構です。少しお伺いしたいことがありますので、こちらに来ていただけませんか」
切り口上に呼びかけられて、真智子はびっくりしたように目をぱちぱちさせた。義男はたまらなくなって、急いで台所へ行くと、真智子の腕をとってリビングへ連れてきた。
「あたし、ここへ座るの?」真智子は急に怯えだした。「お父さん、なあに? あれは鞠子じゃなかったんでしょ? まだ何かあるんですか、坂木さん」
義男は肩を抱くようにして真智子を座らせた。坂木が辛そうに、言葉を探しておろおろしている。
「奥さん、実はですね──」
坂木の言葉をさえぎるように、鳥居が割って入った。「古川さんがお帰りになった後なんですが、大川公園で発見された物がありまして」
鳥居はてきぱきと説明していった。真智子が身をすくめ、義男にすり寄ってきた。
「これが発見されたバッグなんですが」
鳥居は身をかがめ、紙袋から中身を取り出した。真智子が置いた灰皿を脇に押しやり、ひとつひとつ並べていった。ベージュ色の柄の散った茶色のバッグ。肩紐が長いから、正確にはショルダーバッグと呼ぶのだろう。それとお揃いの柄の財布。無地の、レースで縁取りされたピンク色のハンカチ。やはり淡いピンク色の、ポーチというのだろうか、ファスナーのついたごく小さなバッグ。そのなかに入っていたものであるのだろう、円いコンパクト、ブラシ、鏡、四角いコンパクト、そして封を切ってある売薬の頭痛薬。すべてばらばらにして、ひとつひとつビニール袋に入れてあり、タグがつけてあった。
真智子は目を見開き、それらの物を見つめていた。彼女が身体を硬く強ばらせていることが、隣に座っている義男にはよくわかった。
「お嬢さんの持ち物でしょうか。見覚えはおありですか?」鳥居が訊いた。極力そうしているのか、それともこれがこの男の地であるのかはわからないが、平静な事務的な口調だった。
真智子は目を見張ったまま、両手を膝に、手を拳に握っていた。黙ったまま、ただ呼吸だけしている。
「どうだい?」と、義男はそっと訊いた。
「鞠子のもんかい?」
若い婦警が、そっと鳥居の横顔をうかがって──彼は微動だにせず真智子の顔を見つめている──から、柔らかく身を乗り出した。
「すぐに思い当たらないようでしたら、申し訳ないんですが、お嬢さんのお部屋の箪笥《たん す 》などをですね、調べてみていただけませんでしょうか。わたくしがお手伝いいたします」
義男の手の中に汗が浮いてきた。心臓が不規則に足踏みをするのを感じた。横目で鳥居を、坂木を見た。定期入れは? 定期入れはないのか? 坂木はそう言っていたではないか。鞠子の定期入れが出てきたと。
「じゃ、これは──」と、鳥居がさらに続けて何かを取り出そうと紙袋の方に手を伸ばしかけた。義男は息を呑んだ。定期入れ──
そのとき、真智子が呟いた。「娘のです」
「は?」と、鳥居が真智子の方に身をかがめた。「何とおっしゃいましたか?」
真智子は硬直したまま、ハンドバッグを見つめ、飛び出しそうなほどに目を見開き、くちびるだけを動かして繰り返した。
「あの子のです」
「間違いありませんか?」
真智子は、出来の悪いロボットのように、ゆっくりとぎくしゃくうなずいた。
「就職祝いに、あたしが買いました物ですから、間違うわけないです」
真智子は両手を口元に持って行った。その手がぶるぶる震えていた。そのまま、目だけ動かして坂木を見た。
「あたし、坂木さんには、お話し、してましたよね? あの子が、ヴィトンのバッグを持ってたって」
坂木はうなずいた。励ますように、
「ええ、伺ってましたよ。失踪当時の服装や持ち物をお訊きした時にね。これがそのヴィトンのバッグですか?」
真智子はうなずいた。何度も、何度も。きょときょとと落ち着かない目の動きは、彼女の混乱ぶりを物語っていた。震え、怯えて、これが鞠子の物だと答えながらも、その事実の意味することをまともに考えられないのだ。
「どうしてこれが、大川公園なんかに──」
真智子が言いかけたとき、鳥居が紙袋から最後の品物を取り出し、テーブルに乗せた。
定期入れだった。ビニール袋の中に、開いた状態で入れてあった。
義男は見た。「古川鞠子」という文字を。
「有楽町─東中野」。まっさらの新品ではないが、まだまだ新しい。社会人としての鞠子そのままの、ワイン色の革の定期入れ。
「あの子のですね」と、真智子が呟いた。耳を寄せないと聞き取れないほどの小声だった。
「なんでこれが、大川公園になんかあるんですか。鞠子、どうしちゃったんでしょう」
誰に訊くともなく、真智子は訊いた。警察官たちは、三人とも答えなかった。坂木が助けを求めるように義男の顔を見た。
「まだ、よく判らんのだそうだよ」義男は真智子の腕に手を置くと、ゆっくりと言った。
「公園の事件と関わりがあるかどうかも判らんのだと。だけど、これがゴミ箱のなかから見つかったんで、鞠子の物かどうか、皆さんで確かめにいらしたんだよ」
「ゴミ箱──」真智子は惚《ほう》けたように義男を見つめた。「お父さん、鞠子は自分のハンドバッグなんかをゴミ箱に捨てたりしないよ」
「ああ、そうだよな」
真智子の顔から血の気が引いていた。青ざめると、目の周りのしわや肌の荒れが、惨《むご》いほどによく目立った。手の甲も痩せ、シミが浮き、ざらざらに乾いている。義男の記憶のなかにある娘時代の真智子は美しかった。親の贔屓目《ひい き め 》でなく、町いちばんの美人だった。その真智子が、ひとつひとつ歳を重ねながら、自分の美を吸い取らせるようにして大切に育てあげた鞠子だったのに。
「有馬さんのおっしゃるとおり、これが事件とどう関わりのあるものか、まだわかりません」と、鳥居が言った。「ただ、お嬢さんの失踪に、事件性が出てきたということは申し上げられます。ご苦労ですが、もう一度、お嬢さんの失踪当時の状況を我々にお聞かせ願えないでしょうかね」
「鞠子の……失踪」
「はい、そうです」
「お父さん」と真智子は義男を呼んだ。目はテーブルの上の物を見つめたままだ。「あたしにはよくわからないのよ。どうしたらいいの? 何を話せばいいの?」
鳥居は苛立ちを隠せない様子だった。義男は彼に腹が立った。だが、今は真智子を宥めることの方が先だ。このままにしておいたら、真智子は本当に正気をなくしてしまいかねない。
「いいんだよ、ちょっと顔を洗ってきなさい」
「だけど……」
「いいから、いいから」
真智子を立ちあがらせると、婦警もいっしょに腰をあげた。
「大丈夫ですか? 洗面所はあちらですね?」と、真智子に声をかけ、腕をとって支えてくれた。ふたりが台所の奥の洗面所の方へゆっくりと進んで行くのを見守り、義男は椅子に沈み込んだ。
「あの通り、娘は動転しとります」と、鳥居に言った。「今朝方からおかしくて、私は気が気じゃなかった。すみませんですが、詳しいことはまた明日にしてもらえませんか。本当に申し訳ないですが、お頼みします」
深く頭を下げて、義男は顔を隠した。鳥居に対する怒りを隠した。嗚咽《 お えつ》しそうになる自分を隠した。
「しかし……」鳥居が渋っている。「我々としてはできるだけ早めに──」
「事情なら、私から詳しくお話しできます」と、坂木が言った。「有馬さんのおっしゃるとおり、古川さんは今、精神的に不安定なんですよ。おわかりでしょう? 私も心配です。何とか今日はこれで引き揚げることにできませんか」
鳥居がさらに何か言いかけたとき、ポン・ポンというような音が、つけっぱなしにしてあったテレビから聞こえてきた。一同は反射的にテレビに注目した。臨時ニュースのテロップが出ていた。
「何だ……?」と、鳥居が呟いた。この場の三人のうち、目をすぼめることなく、とっさにテロップの小さな文字を読みとることができるのは、彼だけなのだ。
坂木が立ち上がり、テレビに近づいた。そして「え?」と声をあげた。「有馬さん、チャンネルをかえるリモコンは──あ、ここか」
彼はあわてた様子でチャンネルを切り替えた。義男にはテロップを読むことができなかったので、何がなんだかわからなかった。
「どうしたんです?」
画面には報道センターが映っていた。他の番組の途中で切り替えられたものであるようだった。男性アナウンサーが、あわただしく緊張した表情で話し出した。
「ただ今入ってきたニュースですが、先ほど、午後三時一〇分ごろのことですが、私どもの報道局に、匿名の人物から電話がかかってきました。その内容ですが、昼のニュースでもお伝えしました墨田区大川公園のバラバラ死体遺棄事件に関わるもので、以下のような内容でした」
アナウンサーは、伝言を読むようなゆっくりとした口調になった。
「『あの公園からは、もう何も見つからないはずだ、あそこには右腕しか捨てていない。古川鞠子のハンドバッグは捨てたが、あの右腕は彼女のものではない。彼女たちは別の場所に埋めてある。それを警察に教えてやってくれ』と、このように話していました」
義男はがくんと口を開いた。坂木もそうしていた。鳥居は仁王立ちになっていたが、身を翻して外に出ていった。
「──なお、局ではこの電話をテープに録音しました。現在、この電話がいたずらなどではなく、事件と関係のあるものかどうか調査中です。言葉遣いなどから、電話の主は男性と思われますが、声はですね、ボイスチェンジャー、電話の声を変える機械ですね、それを通しているのか、機械的な、合成音のような声だったそうです。詳しいことはまた追いかけてお伝えします。繰り返しますが──」
「お父さん」
呼ばれて、義男はぎくりと振り返った。真智子が台所の通路の脇に突っ立っていた。顎の先から水が滴《したた》っている。
「今の、何?」
「真智子──」
「今の何よ」
後ろから真智子を抱えるようにして婦警が立っていた。
「古川さん、落ち着きましょう。座ってください。顔を拭かなくちゃ」
真智子は聞いていなかった。叩けば砕けてしまいそうなほどに張りつめ、引きつった顔に、目ばかりが大きかった。
「鞠子は別の場所に埋めてあるって、そう言ってたよね? 言ってたよね?」
「真智子、いたずらかもしれんよ、な?」
「いたずら?」真智子の顔が壊れた。「いたずら? じゃ、鞠子は帰ってくるよね?」
鳥居が駆け戻ってきた。目が怒っていた。
「坂木さん、私は墨東署に戻り──」
そのとき、真智子が急に動いた。不意をつかれた婦警は捕まえ損ねた。真智子は靴下裸足で玄関に飛び降り、外へ飛び出した。
「鞠子! 鞠子を迎えに行かなくちゃ!」
「真智子!」
義男も駆け出した。坂木があとに続いた。ふたりとも靴をはかず、ドアを抜けて表に出た。玄関の脇に自家用車が一台停めてあった。鳥居たちが乗ってきた車だろう。飛び出した勢いで義男はその車のドアにぶつかった。真智子はもう、家の前の私道の中程まで走って行ってしまっていた。
「鞠子、鞠子!」と叫んでいた。近所の家のそこここで窓やドアが開いた。
悪夢のなかで走っているような気がした。公道へ飛び出して行く真智子の背中が、恐ろしく遠く見えた。義男は走ったが、走っても走っても真智子に追いつけなかった。
「お父さん、ほら、鞠子が帰ってきた!」
私道のはずれで立ち止まり、真智子は振り返った。公道を走る車を、バスを、歩道の人びとを指さして、顔いっぱいに笑っていた。それなのにその目が歪んでいた。
「鞠子が帰ってきた!」
「奥さん、危ない!」
坂木が真智子の背中に飛びかかった。わずかのところで、彼の手は空をつかんだ。真智子は公道へ飛び出した。義男は目をつぶった。クラクションが鳴った。急ブレーキの音が聞こえた。衝突音が響いた。誰かが悲鳴をあげた。坂木の声が割れた。「奥さん!」
ゆつくりと、義男は顔をあげ、目を開けた。トラックの大きなタイヤと、妙に白く、柔らかそうな真智子のふくらはぎが見えた。俯《うつぶ》せに転がり、ぴくりとも動かなかった。
「──あの、どうしても報道局のスタッフの人と話をしたいんだけど、駄目ですか?」
「いえ、できますよ。だから私が伺ってもいいし、それとも誰か特定の者でないと?」
「いえ、誰でもいいんだけど。じゃあ、あなたでもいいです」
「失礼ですがどちらさまですか」
「名前は名乗りたくないんです」
「そうしますと、ご意見やご要望のようなことで?」軽い笑い声。「そんな偉そうなことじゃないんです。ただ、ちょっと情報を」
「情報……」
「うん。今日、大騒ぎしてたでしょう、大川公園のバラバラ死体のことで。死体って言っても、まだ出てきたのは右腕だけですよね」
「はあ、そうですが」
「あと、ハンドバッグもあったっけね。女の子の。あれは、古川鞠子って人のものだってことははっきりしたんですか?」
「どういうことでしょうか」
「どういうことって、そんな難しい話じゃないですよ」と、また笑い声。「あのね、教えてあげようと思ったんです。大川公園からは、もう何も出てこないですよ。もちろん、古川鞠子さんの死体とかもね。ハンドバッグはあそこに捨てたけど、彼女は別のところに埋めてあるんです。だから、あの右腕も彼女のものじゃないです」
「もしもし? あなた、あの事件のことを詳しく知ってるんですか?」
「まあね。だから、警察の手間を省いてあげようと思ったんです」
「あの右腕は誰のものなんですか?」
「それはちょっと、言えないなあ。そのうち警察が調べるでしょう」
「ちょ、ちょっと待ってください。そういうお話でしたら、最初からちゃんと伺いましょう。あなたは大川公園のあの事件について我々にお話になりたいわけでしょ?」
「そうだけど、言うことはこれだけだから。今はね。今はまだ。じゃあ、切ります」
「もしもし? 待ってください、待って──」
通話はここで終わっていた。
武上悦郎はカセットプレイヤーのスイッチを押し、テープを巻き戻した。また頭から聞き直すのだ。プレイヤーに付属している小さなイアフォンが武上の耳に合わず、ちょっと身動きするたびにはずれてしまうので、指で押さえていなければならない。ただ録音状態は非常に良好で、会話の内容に聞き取りにくいところはなかった。
この電話が、受け手のテレビ局にかかってきたのが、本日の午後三時過ぎのことだったという。通話は五分とかからずに終了している。それからおそらく一時間かそこらは、電話の相手が話していた情報の信憑性をめぐり、内部で侃々諤々《かんかんがくがく》やったのだろう。それでも最終的にはゴーサインが出されて、こういう電話があったという事実と、通話内容とが同局のニュースでオンエアされたのが午後四時一五分すぎのことだった。
地取りをしていた刑事が、聞き込み先で偶然テレビを見て、すぐさま捜査本部に一報を入れてきた。驚いた本部側は急いでテレビ局に連絡し、問題の通話を録音したテープの提出と、電話を受けた人物への事情聴取を要請したのだが、これがまったくの門前払いを食った。完膚《かん ぷ 》無きまでの「ノー!」であった。
過去にもこのようなケースで報道機関と警察が対立したことは何度かあり、捜査本部としても、今回も、ある程度の軋轢《あつれき》や遅滞は覚悟していた。だが、場合が場合である。本部側にも焦りがあった。結果として、今日発生して今ニュースになっている事件についての情報は取れないわ、その情報をめぐって世間では騒ぎになっているわ、あと一、二時間後に最初の公式な記者会見をしなければならないわ──ということになってしまって、特捜本都長である竹本《たけもと》捜査一課長はカンカンに怒っている。記者会見にも、このテレビ局の報道記者だけは出入り禁止だと怒鳴っていたそうだ。もし本当にそんな措置をとれば、また報道の自由だのなんだので輪をかけて小うるさいことになるから、実際にはやらないしできもしないだろうけれど、歴代の捜査一課長のなかでも達弁ぶりでは五本の指に入る竹本課長のことだから、痛烈な皮肉のひとつやふたつ、言わずにはおさまらないだろう。
まあしかし武上としては、一種のニュースソースを、権力側つまり警察にそう簡単に渡せるものかというテレビ局の考え方は理解できる。先方としては、当たり前の筋を通しただけのことであろう。それに、この電話の主がただの目立ちたがり屋で、内容も嘘っぱちだと判明した場合には、恥をかくのは報道した側なのだから、構わないじゃないかとも思う。それよりも、武上にとって──いや、捜査本部全体にとって何よりも大切なのは、この電話がもたらした情報の真偽、それだけなのである。
という次第で、先ほどから武上が何度も聞き直しているテープは、問題の通話について報じたテレビ番組からダビングしたものだった。テープは複数作成し、そのあとそれを聞きながら部下とふたりで文章に書き取り、できあがったものを突き合わせ、清書し、ゼロックス・コピーにかけたものが、本部の机の上に山積みしてある。今夜の捜査会議で配付されることになるだろう。
この電話は、テレビ局の大代表電話ではなく、ダイヤルインで報道局の専用電話にかかってきたものだった。だから、電話の受け手も報道局の記者である。テレビでその記者が語っているところによると、電話の主は最初、
「報道局の電話番号はこれでいいのか」
と訊いてきたという。そうだと答えると、
「ある重要なことについて、スタッフの人と話がしたい」
と言った。どういうご用件でしょうかと応じると、相手はまた、
「ここは本当に報道部なのか、事件の報道を扱うところなのか」
と念を押すように訊いた。そのしつこさにちょっと引っかかるものを感じ、ボイスチェンジャーにも嫌な印象を強くして、記者は通話録音のスイッチを入れた。で、そこから先の会話が録音されたというわけだ。
武上が耳にイアフォンを当てていると、部下のひとりが、筒に巻いた大きな書類を抱えて戻ってきた。墨東警察署から捜査本部入りし、デスク要員に配属されたなかではいちばん若い、篠崎《しのざき》という刑事である。小柄で細身で、眼鏡をかけた顔が神経質そうな印象を与えるが、仕事は飲み込みが早く、てきぱきとしている。
彼は今、武上とふたりで、捜査の進み具合を記録してゆく土台となる地図を作っていた。大川公園周辺地域の航空写真と住居地図を重ね合わせ、トレースして細部を書き込んでゆく作業である。この地図は、今後の捜査のあらゆる局面での基本となるものだから、正確に作る必要があった。あらゆる脇道、空き地、家と家のあいだの些細な空間までも書き記し、可能な限り現実に近いものにしておかねばならない。そうでないと、これから出てくる大量の捜査情報──不審車の存在、目撃証言、地取り捜査で得られた証言を上乗せして書き込んでいったとき、現実とのズレが生じてしまうからだ。
武上はいつも、こうして、基本となる詳細な地図をひとつ作る。そして、最初の捜査会議の段階までで判明した事実をそこに書き込むと、今度はそれの写しを作り、次の捜査会議までで判ったことがあると、写しの方に書き加え、またその写しを作る──という具合に作業を進める。そうすると、いつでも、捜査情報の満載されたいわばその時点での完成版の地図と、そこにたどりつくまでの過程を記録した地図との両方が存在することになるからだ。こうしておくと、あまり歓迎したくないことだが、捜査が暗礁に乗り上げたり、どこかで方向を間違ったりしたときに、どの時点でおかしくなったのか検証する際に、役に立つ。まあそれも、「まま役に立つ」という程度のことだが、それでもやらないよりはやっておいた方がいいと思うのだ。
最初に作る土台の地図には、そういうわけで、神経症的な精密さが要求される。捜査が進めば、全体地図だけでなく、ある部分的な場所の拡大図も必要になる。その拡大図では、ガスメーターやマンホールの位置まで書き込む。ひとりでは手に余ることなので、毎回誰かに手伝わせるのだが、今回は名指しで篠崎に頼んだ。仕事を始めてまだ間もないが、彼の働きぶりを見ていて、任せて大丈夫だと思ったからだ。
篠崎は、書類を机の上におろすと、テープに聞き入っている武上の顔を、ちらりと見た。武上は目をあげた。
遠慮がちに、篠崎が口を開いた。「それ、本物だと思われますか」
ダビングするときに、篠崎も通話記録を聞いている。武上はテープを止めイアフォンをはずすと、机の上に置いてあった煙草に手をのばした。
「まだなんとも言えないな。今度みたいな派手な事件が起こると、野次馬的にデタラメの情報を流して喜ぶ輩《やから》が必ず出てくるから」
「これも、その類のものである可能性が強いでしょうか」
武上は煙を吐き出した。「君はどう思う?」
篠崎は椅子に座り直すと、眼鏡の縁をちょっと持ち上げた。
「ガセネタの可能性は、あると思います」
「うん」
「ただ、この人物の話し方から、知的な感じを受けるんです。年齢は若そうですが」
「俺もそう思う。君と同年代ぐらいじゃないかな。君、歳はいくつだ」
「二十八です」
武上はうなずいた。この通話の人物も、まだ三十歳にはなっていないだろうと思っていた。ひょっとすると篠崎よりももっと若いかもしれない。ボイスチェンジャーのせいで奇妙な音声になってはいるが、この人物はまず間違いなく男性だろうし、話し方で、だいたいの年齢も察しがつく。
「こういう感じの知的な人間が、武上さんがおっしゃったみたいな意味の野次馬根性でこんなことをするかな──とは思います」
武上も同感であった。
「でも、相手としてテレビ局を選んだところに、ミーハーな感性を感じます」と、篠崎は真面目な口調で続けた。「どうしてこの捜査本部宛に連絡してこなかったんでしょうね」
「それじゃあ話題にならんからさ」
「やっぱりそうですよね」と、篠崎はうなずいた。「廊下で聞きかじったんですが、記者会見の時間が繰り上がったそうです。まもなく始まるとか」
「テレビの件があるんで、早目にやらないと収まりがつかなくなってきてるんだろう」
「そうですね。どうも、うちの署長はだいぶ緊張しているみたいです」
武上は煙草を消すと、ふふんと笑った。
「署長さんは、黙って並んで座ってりゃいいんだよ。受け答えは管理官やうちの課長がやるんだから」
「でも、うちではこういうタイプの大事件は初めてですから──これ、借りてきました」
篠崎は筒に巻いてあった書類を広げた、ブループリントの大判の地図だった。大川公園は現在一部が改修工事中で、その詳細は市販されている地図ではわからない。篠崎は、墨田区役所まで出かけていって、この青図をもらってきたのだ。
篠崎は、なんだか考え込んだような口調で言った。「こういう電話が──これが偽物であれ本物であれ──かかってくることも、それに対してマスコミが敏感に反応することも、みんな、あの幼女連続誘拐殺人事件のことが頭にあるからだと思います」
数年前に発生した、首都圏で四人の幼い女の子がさらわれ、殺害されて発見されたという事件である。現在公判中のこの事件の容疑者は、被害者を殺害後、マスコミ宛に手紙を書いたり、遺体を焼いた骨を遺族に送りつけたりしていた。
彼がなぜそんな行動をとったのか、その理由は、現在のところはまだ謎である。いくつか解釈はされているし、そのなかには限りなく正解に近いものがあるのだろうけれど、公的にはまだ結論は出ていない。しかし、篠崎が言ったとおり、日本ではきわめて珍しいタイプのこの事件の発生以後、犯罪に対する社会の見方・反応の仕方は激変した。
幼女連続誘拐殺人事件が起こったとき、そうか、ついに日本でもこういう事件が起こるようになったか──と、社会は悟った。日本もここまで来てしまったか、と。だとすると、理由はどうあれ、自分のしでかしたことを公にひけらかすような犯罪者が、第二、第三と登場してきてもおかしくない。皆が皆、意識的にではなくても、そのように考えている。いつ来るか、いつ来るか、と。だから今度のこの騒動があるのだ。
いや、逆に言えば、そういう社会の身構えるような雰囲気に呼応して──そういう空気があるからこそ──この手の犯罪者が出てくるのではないかと、武上は思う。誤解を恐れずに言うならば、犯罪もまた「社会が求めている」形でしか起こり得ないものだからだ。
「そうだな。しかし、どのみち──」と、武上は呟いた。「このテープの主が事件の関係者ならば、放っておいても、必ずまた連絡してくるだろう」
篠崎は黙ってうなずいた。それから、ふっと目をあげた。武上もつられて顔をあげると、大柄な体躯の刑事がひとり、本部のドアを勢いよく開けて入ってきて、こちらに近づいてくるのが見えた。
大股に歩み寄って来ながら、その刑事は武上に会釈をした。
「ガミさん、ちょっとお願いがあって」
武上と同じ四係の秋津《あき つ 》信吾《しん ご 》である。三十代前半の、武上から見れば腕白盛りの刑事だ。
「地取りで、ちょっと貴重な情報をつかみましてね」
回転椅子を引き出して腰をおろすと、秋津はせっかちに言い出した。
「事件の前日、大川公園で写真を撮っていた素人カメラマンがいるんです。公園の北側の公団住宅に住んでいるサラリーマンなんですけどね」
「写真てのは、どんな?」
「これがラッキーでね。なんでも『大川公園の四季』とかいうシリーズもので、とにかく昨日や今日撮り始めたものじゃないんです。一月の頭から、公園のあっちこっちを撮影してるんですわ。で、事件の前日も、秋の夜の大川公園というコンセプトで撮りまくってるんですよ。それも公園内部だけじゃなく、外の道路や、裏手の駐車場なんかもね。大川公園の風情と、周りのビルや道路との風景の対比もテーマだとか言って」
なるほど、それならば秋津が興奮するのもよくわかる。不審者や不審車両の洗い出しなどに、写真ほど大きな武器となるものはない。おまけに前日となれば、これは貴重だ。
「ところがね、このおっさん変わり者で」と、秋津は顔を歪めた。「報道写真展なんかでも入選したことがあるらしい御仁《 ご じん》なんですが、自分の作品を警察なんかに渡したら、二度と返ってこないんじゃないか、勝手に利用されるんじゃないかって、えらく疑うんです。ネガを貸してくれって頼んでも、信用できないの一点張りでね。で、ガミさんの方から話してもらえないかと思って。捜査資料として借り受けてもちゃんと返すし、流用はしないって説明してやってくれませんか。僕がいくら話しても、おまえの言うことなんかあてにならない、責任者連れてこいって、相手にしてくれないんですよ」
篠崎が脇で微笑した。が、秋津と目があうと、あわてて笑みを引っ込めた。そして、何か用を思い出したみたいにぱっと席を立った。
秋津はニヤニヤしながら篠崎の後ろ姿を見送った。「ガミさん、さっそく白羽の矢を立てましたね」
「え?」
「彼ですよ使えそうなんですね」
「なんでわかる?」
秋津は篠崎の席の方へ顎をしゃくった。
「地図を描かせてるじゃないですか」
武上は苦笑した。「そのサラリーマンの連絡先を教えてくれ。電話してみよう。俺が直接会いに行くよ」
「有り難い。恩にきます」秋津は片手で拝む真似をすると、必要な事項をメモして寄越した。武上がそれを受け取って確認すると、彼は忙しそうに立ち上がった。
「記者会見、見にいかないんですか」
「そんな必要ないよ」
「まあね。でも残念だな。課長が何を言うか、あとで誰かに教えてもらわないと。俺、これから中野の病院へ行かないとならんのです」
「病院?」
秋津はちらっとあたりに目をやった。大半の捜査員が出払っている本部は、今のところはまだ閑散としている。それでも、長身をかがめて武上の方に顔を寄せると、秋津は声をひそめた。
「鳥居さんがね、やっちまったんですよ」
「何を」
「古川鞠子、ほら、あのハンドバッグの持ち主の失踪女性」
「ああ」
「彼女の母親にバッグを確認してもらいに出かけて行ったんですけどね、これがまただいぶ神経が参ってて、危ない状態だったらしいんです。だけど、鳥居さんてのはあの調子だから、まともにガンガンやっつけて、それで母親がすっかり変になっちまって、家を飛び出して車に跳ねられた」
武上は眉根を寄せた。確かに鳥居は融通のきかないタイプで、事情聴取などで相手を怖がらせたり怒らせたりしてしまい、まずい結果を招くことが、今までにもよくあった。しかし、被害者の遺族と断言していいかどうかはまだわからないが──と、そんな形でトラブルを起こしたのは初めてだ。
「まったくね、いつかはやるんじゃないかと心配してたんだけど」と言いつつ、秋津は妙に嬉しそうだった。
秋津と鳥居は歳も近く、言ってみればライバルで、日頃からあまり折り合いが良くないのだ。それでも、武上が苦い顔をしてみせると、秋津は真顔をつくった。
「で、古川鞠子の母親の容態は?」
「あまりよくないみたいです。そんなわけで俺はこれから病院へ。鳥居さんと交代です。なんか、母親の父親──だから、古川鞠子のおじいさんですか、その人がその場にいて、鳥居さんの胸ぐらつかんで暴れたとかでね」
秋津は急いで去っていった。彼がいなくなってからも、武上は、しばらくのあいだ眉をひそめていた。
中野中央病院の救急外来待合室から、義男は何度も古川茂の会社に電話をかけた。かけても、かけても、本人が出てくれなかった。
救急車で運び込まれた真智子は、今はまだ手術室にいる。途中で一度、手術着の首のまわりを汗で濡らした看護婦が、空になった点滴のパックを手に廊下に出てきたとき、駆け寄って様子を訊いてみた。重傷だが命は助かりそうだということだった。
慰めるように義男の顔を見て、「大丈夫ですよ」と看護婦は言った。真智子よりちょっと若いくらいの年齢だった。ベテランなのだろう。落ち着いて、きびきびとしていた。
出し抜けに、本当に唐突に、積み上げてきた緊張というカードの家が崩れ、義男は泣けてきそうになった。優しげな看護婦に、あんた幸せですかと訊いてみたくなった。あんた人生旨くいってますか、家族はいますか、みんな元気ですか。うちの娘は、あまりにも哀れなことになっちまっていて、どうしてこんなことになっちまったのか、何が悪かったのか、どうしてやったらいいのか、私にはさっぱりわからんのです──
義男の様子を、看護婦は心配してくれたようだった。そっと肩に手を置いて、勇気づけようとするように軽く揺さぶった。
「本当に大丈夫ですからね、気をしっかり持って待っていてあげてください。あと一時間はかからないと思いますからね」
看護婦が足早に去っていったあと、義男は廊下に立ちつくし、両手を下げて、襲ってきた絶望の波が、少しでも引いてくれるのを待った。そうしてようやく、古川に報せなくてはと思ったのだ。
十分おきぐらいに電話をかけても、電話中とか、来客中とか、ちょっと席を離れているとか、電話口の秘書はいろいろなことを言った。
「お電話のあったことは伝えてあります。こちらからおかけ直しいたしましょうか」
だが、病院のどこの電話にかけてもらったらいいのか、義男にはわからなかった。救急待合室のグリーンの公衆電話には、そこの番号を書いた札がつけられていなかった。どうやら取り去られてしまったらしい。だからまたかけ直すと言って、言葉通り何度もかけた。
古川はたぶん、テレビのニュースで報じられていることについて、まだ全く知らないのだろう。一部上場の電機メーカーの広報部長という要職にある彼の立場からすれば、それも不思議なことではない。仕事時間中は、テレビなんか見ているはずがないのだから。
しかし、周りの社員たちもそうなのだろうか。昼休みに喫茶店でニュースを見て、あれは古川部長のお嬢さんのことじゃないかと気づくような部下はいないのだろうか?
もっとも、古川が、鞠子の失踪や真智子との別居のことを、会社でどんなふうに話しているか、義男にはまったくわからない。古川の部下たちは、彼の個人的な事情を知らないのかもしれない。堅い会社のサラリーマンにとって、別居だ離婚だという話は、出世の障害にもなることだろうから、古川は黙《だんま》りを決め込んでいるのかもしれない。
義男としては、とにかく至急連絡をとりたいと言うことしかできないのだ。前後の事情を抜きで、「古川の家内が交通事故に遭ったんだ」と告げたら、そりゃあ秘書の女性もびっくりしてすぐに取り次いでくれるかもしれないが、肝心の古川は、かえって、もっと電話に出たがらなくなるかもしれない。秘書に用件だけ聞かせて、しばらくのあいだなりを潜めたまま、様子をうかがうようにするかもしれない。そして、二、三日経ったところで義男に連絡してくる──それが、いかにもありそうなパターンだ。
同じ真智子の入院でも、鞠子がいれば、事情は変わったろう。古川は鞠子に連絡をとる。それで済むことだ。だが今は、その鞠子がいない。それどころか、鞠子をさらって殺してどこかに埋めたと、得々と話す輩《やから》の声が、テレビ電波に乗って全国に流れている。それを知って、真智子はこんなことになってしまった。壊れてしまった。それなのに、古川は電話に出てくれない。
こんなにも疲れているのに、やはり怒りは湧いてくる。湧いてはくるけれど、あまりにも疲れ切ってしまっていて、もう怒りを外に出すことができない。義男は受話器をフックに戻すと、よろよろと待合室を横切った。熱でもあるのかぐったりした子供を抱いた若い母親や、診察室に呼ばれるのを待っている顔色の悪い中年男性が、共感し、問いかけるような視線を投げてきた。あなたはどこが悪いのですか? 家族の誰が倒れたのですか? 怪我ですか? 重いのですか? 先生は何とおっしゃっていますか──
みんな悪い、すべて悪い、ここにいる誰よりも、うちの状況は悪いんです──そう思いながら、狭くて薬品の臭いのする通路をたどり、手術室前のベンチまで戻った。
同じベンチに、坂木と、東中野の家から同行してきた婦人警官が座っている。成り行きが成り行きなだけに、婦警は居心地悪そうな様子で、ほとんど何も話さない。坂木が義男に近寄って、そっと声をかけてきた。
「古川さんが捕まらないんですね」
義男はぐったりとうなずいた。
「私が煙たいんで、電話に出ようとせんのですよ」
坂木はむっとしたようだった。彼の目はちょっと充血していた。
「そんなことを言ってられる場合じゃないですよ」
「何が起こっとるのか、まだ知らんのでしょう」
「別の女性と住んでいるんですよね? その人のところには連絡できないんですか」
「電話番号を知りません。教えてもらえませんでね。真智子も知らなかったはずだ」
腹立たし気に、坂木は息を吐いた。
「別居してるっていったって、まだ責任があるだろうに」
「真智子と古川がどういう話し合いをして、どういう結論を出して別居したのか、私は知らんのですよ。真智子は、そのうち古川も頭を冷やして帰ってくるだろうと言うだけで、それ以上は何を訊いても話さなかったし、私も訊き辛くてね。しかし、ずっと様子を見てると、どうも真智子が言っているような具合には思えんでね。鞠子が失踪したときだって、古川は帰ってこなかったし」
「有馬さん……」言いさして、坂木も言葉に詰まったようだった。しばらく黙り込み、ややあって、「血が出てますよ」と呟いた。
「は?」
「右手です。手の甲の関節のところが擦り剥けてます」
義男は膝の上に乗せた手を持ち上げてみた。坂木の言うとおりだった。血がかたまって、そこのところがゴワゴワする。
「さっきの刑事さんを殴った罰ですな」
義男の言葉に、坂木は短く応じた。
「もっと殴ってやったってよかったんです」
ちょっと離れて座っている婦警が、心なしか首を縮めた。
「本庁には、時々ああいうのがいるんですよ。事件に巻き込まれた関係者の気持ちも考えないで、あれじゃまるで機械だ」
真智子がトラックに飛び込み、路上に伸びているのを目にした瞬間、義男はわけがわからなくなってしまった。真智子に飛びつこうとして坂木に止められた。
「うかつに動かしちゃいけない」と言いつつ坂木が真智子にそっと触れると、彼女の耳から血が流れ出し、鼻がつぶれているのが見えた。身体の下になっている右腕は、どうみても骨折しているとしか思えない角度で曲がっていた。
そこへあの刑事、鳥居とか言う刑事が追いついてきたのだ。そして、「いったい何事ですか」と大声で言った。いかにも苛立たしそうな、邪魔くさそうな言い方だった。義男は、輪をかけて何がなんだかわからなくなり、気がついたら鳥居の胸ぐらをつかみ、めちゃくちゃに殴りかかっていたのだった。
救急車が来たり、近所の人たちが駆けつけてきたりの騒動のあいだに、鳥居はいなくなっていた──というより、病院にはついてこなかった。ずっとくっついてきている婦警は、何が目的なのかわからないが、義男を警戒しているようにも、済まながっているようにも見えた。
義男は両手で顔をこすった。手の甲がヒリヒリした。手術室からは、人が出てくる気配がない。静かで明るく、冷え冷えとしていた。
そのとき、坂木が顔をあげた。救急待合室からこちらに来る通路の方から足音が聞こえてきたのだ。義男も目をあげた。大柄な、元気のよさそうな若い男がひとり、いくぶん強ばったような真面目な顔をして近づいてくる。きちんと背広を着ていたが、ワイシャツの襟がゆるんでネクタイが曲がっていた。
義男の目をとらえると、頭をかがめるようにして挨拶をした。
「古川鞠子さんのご家族の方ですね? 有馬義男さん」
義男は座ったまま、頭だけうなずかせた。
「警視庁の秋津と申します」ちらりと手帳を見せて、頭を下げた。「先ほどは、うちの鳥居が大変申し訳ないことをしました。お詫び申しあげます」
ああ、あの刑事の仲間か──と、義男は気が抜けた。
坂木が立ちあがり、挨拶をした。秋津と名乗った若い刑事は、坂木の存在と彼の立場を承知していたようで、すぐにうなずいた。
「古川さんのご容態はいかがですか」
秋津の問いに、義男の横顔をちょっと見てから、坂木が答えた。命には別状がなさそうだということ、手術もまもなく終わるのではないかということ。
「その後、事件の方は何か進展がありましたか」と、坂木が訊いた。
秋津は首を振った。「大川公園からは、もう何も出ないでしょう。例の電話の人物も、今後の様子を見ないと何とも言えません」
ふたりの刑事は、義男から少し身を引くようにして立ったまま、小声で話をし始めた。義男はぼんやりと手をつかねて座っていた。あの婦警も同じようにしていた。
「婦警さん」と、義男は呼んでみた。相手はびっくりしたように背中を伸ばした。
「お帰りにならんでいいんですか」
「はい」と、彼女は答えた。思いの外可愛い声だった。「古川さんの容態がはっきりしたら、有馬さんをご自宅までお送りします」
「そのために一緒に待っていてくださるんなら、もういいですよ。どっちにしろ、私は今夜ここに泊まらせてもらうから」
「でも、最近はこういう病院は完全看護で、泊まれないと思いますよ」
「何とかなるでしょう」義男は言って、秋津と話しこんでいる坂木の方にちょっと顎を向けた。「それに坂木さんがいてくれるから、私は大丈夫ですよ。もう暴れたりしませんよ。お帰りになってください。ご苦労様でした」
「でも……」婦警は戸惑っているようだった。
「古川さんの事故についても、また事情を伺ったりしなければなりません。ご連絡をとるには、どうしたらいいんでしょう」
ああ、そうか。そっちもあるのだ。一日のうちに、警察から事情を訊かれなければならないようなことが、次から次へと起こってしまったのだった。
義男は彼女に、真智子の家と有馬豆腐店の電話番号を教えた。どちらかで連絡がつくようにしておく、と言った。それを確認して、婦警はやっと立ち上がった。まだ決めかねているような態度だったが、秋津と話している坂木に近寄ると、何か話しかけ、坂木がうなずいて応じ、それでやっとほっとしたのか、待合室の方へと去っていった。
義男はほっとした。坂木と秋津の存在も忘れて、閉じたままの手術室のドアを見つめ、しばらくのあいだぼんやりとした。
「有馬さん」と、坂木に声をかけられて、ふっと我に返った。坂木は近寄ってくると、義男の脇にしゃがんだ。
「捜査本部の方も、鞠子さんの事件について調べる都合があって、古川茂さんと連絡をとりたいそうなんです。なんといっても父親ですからね。で、秋津さんの方から会社に連絡してもらつちゃどうでしょう」
義男は頭をあげ、壁際に立っている秋津を見た。鳥居という刑事より、一見してずっと人当たりがよさそうな感じがするが、くちびるの線が頑固そうなへの字を描いている。彼は義男の顔をまっすぐに見て言った。
「事情は伺いました。騒ぎにならないように気をつけて連絡をとります。我々も、鞠子さんのお母さんがこういう状態になってしまった以上、お父さんからもいろいろ伺わなければなりませんしね。有馬さんにも重ねてご協力をお願いします」
「私はほとんど役に立たないと思いますが」
義男はゆっくりと言った。ひどく疲れていた。
「それじゃ、古川のことはお願いします」
承知しましたと言って、坂木にうなずきかけると、秋津は待合室の方に出ていった。歩きながら、背広の内ポケットから携帯電話を取り出すのが見えた。
「警察から電話が行っちゃあ」義男はふっと力無く笑った。「古川はたまげるでしょうな」
「それぐらい、いいんです」と、坂木はきっぱり言った。
「さっきの婦警さん」
「ええ」
「私を見張ってましたよ。刑事さんを殴ったことで、傷害罪かなんかになるんですかね」
坂木は苦笑した。「さあ、それはないでしょう。あの婦警、有馬さんを心配してたんですよ」
心配、か。
「警察は──本当に、何とかしてくれるんですかね」
ちょっと間をおいて、坂木は答えた。「努力します」
ふたりは黙り込んだ。頭を並べ、うなだれて待つ以外に、もうすることはなかった。
手術はずいぶんと長くかかった。あの親切な看護婦の言葉は、結果的には嘘になった。真っ白な顔に酸素マスクを付け、頭を包帯でぐるぐる巻きにされた真智子が手術室から出て来た時には、もう午後七時を過ぎていた。
義男は真智子に近づくことも、集中治療室に入ることもできなかった。担当の医師は、手術室前の廊下で、容態について説明してくれた。右腕の複雑骨折と、跳ね飛ばされて腹部を強く打ったために内臓が傷《いた》んでいること、頭の傷は思ったほど重くないが、強度の脳|震盪《しんとう》を起こしているので、経過を慎重に見守る必要があるということ──
「現在のところは、脳波には異常がありませんからね。大丈夫だとは思いますが」
「ちょっとだけでも、顔を見てはいかんですか」
「集中治療室の窓越しに様子を見るだけなら結構ですよ。ただ、少しショックを受けられるかもしれませんがね。チューブで機械につながれてるみたいに見えるから」
医師の言うとおりだった。真智子は白いベッドの中央にぺたりと横たわり、青白い光のなかで、様々な機械に囲まれていた。中年太りだと、本人も気にしていたはずの太りじしの身体が、しぼんだように小さくなって、ほとんど実体がないみたいに見えた。
真智子でないように見えた。いや本当に、真智子ではなくなってしまったのかもしれなかった。
(お父さん、鞠子が帰ってきた!)
あのときの、完全に現実離れした陽気な声。魂が裏返り、裏地が破けた──そんな声だった。
「ともかく、命が助かってよかった」と、坂木が呟いた。義男は集中治療室の窓に手をあてて、ただ真智子の横顔を見つめていた。
これから先のことは、すべて俺ひとりの肩にかかってくる──鞠子の身に起こったことを知り、真智子を守り、それをすべて俺が背負っていかなければならない──
独りだった。有馬義男は途方もない孤独のなかにいた。しかも、それはまだ始まったばかりだった。
[#改ページ]
5
センセーショナルな事件でも、発生後の展開がスピードを欠くと、報道というものの広大な斜面を滑走することができず、途中で止まってしまうことがよくある。最初の飛び出しの勢いがよければ、ある程度は惰性で滑り続けることもできるが、それも数日単位の話だ。大川公園のバラバラ死体遺棄事件は、その典型だった。
九月十二日の発生から、十三、十四、十五日と経過しても、事件そのものには大きな発見も動きもなかった。従って、報道もどんどん下火になっていった。それでもワイドショウなどでは、例の電話の主の人物像を推理したり、テープを音響分析にかけた結果を報道したりして間《ま》を持たせていたが、週を越えたあたりでさすがにそれもなくなり、世間の話題は別のところに移っていった。
前畑滋子が、東中野署の坂木達夫をようやく捕まえることができたのは、事件から五日後、九月十七日の午後のことだった。生活安全課に電話してみると、坂木が電話口に出たのである。すぐに、滋子と会えると言った。
ふたりは、それまでにも何度か待ち合わせに使ったことのある新宿の喫茶店で落ち合った。勇躍という感じで出かけてきた滋子は、約束の時刻より二十分も前に着いてしまい、コーヒーを飲みながらあらためてリストやルポの原稿を読み直しているところに、坂木がやって来た。
「ずっとご連絡してたんです」
文句を言うつもりはなかったのだけれど、坂木が向かいの席に腰をおろすと、滋子はやっぱりそう言った。言ってしまってから、坂木がひどく疲れたような、憔悴《しょうすい》した顔をしていることに気がついた。
「すみません。古川鞠子さんのことでお忙しかったんでしょうね」
坂木は黙ったまま背広の内ポケットから煙草を取り出し、注文を取りにきたウエイトレスに、機械的に「コーヒー」と言った。だが、ウエイトレスが奥のカウンターの方に戻りかけると、あわてて、「いや、ホットミルクにしてください」と言い直した。
胃をやられてるんだなと、滋子は思った。
「電話をもらっていたことは知ってました。何度か訪ねて来てもくれてたんですね。申し訳ないことをした」と、坂木は切り出した。
「私の方も、前畑さんにお会いして、二、三確認しておきたいこともあったんですよ。ただ、ここんところはどうにも動きがとれなくて」
「私の方はちっとも構いません」と、滋子は言った。「ただ、すごくびっくりしてますよ。坂木さんは、わたしが書きかけていたルポのことは覚えていらっしゃいますよね?」
坂木は重くうなずいた。「もちろん」
「古川鞠子さんについての情報は、坂木さんが教えてくださったものでした」
「そうでしたね……」
「実はわたし、あのあと、ちょっと身体を壊したり身辺がゴタゴタしたりして、ルポの方は止まったままなんです」
「そう」と、坂木は顔をあげ、ちょっと目をしばしばさせた。「そうでしたか。結婚されたことは知ってましたがね、いや、その後お仕事の方はどうなっているのか、それを確認したかったんですよ」
「でも、こうなった以上は続きを書き始めるつもりです。事件のこととあわせてね。最初に考えていたタイプのものとはちょっと違うルポになると思うけれど」
ウエイトレスがホットミルクを持ってやって来た。彼女が去るのを待って、滋子は思いきって言った。
「古川さんの事件を中心に書きたいんです。つまりは今度の事件をね。坂木さんにはわかっていただけると思いますけど、わたし、このルポを書きながら──」と、滋子はテーブルの上に載せた原稿の上に手を置いた。「失踪する女性たちの心の内とか、彼女たちに何が起こったのだろうかとか、ずっと考えてきました。解答が見つからないまま、ただ彼女たちが消えてしまったその状況をずっと書きつづっていくだけでも、わたしにとっては意味のある仕事だったけれど、今度は場合が場合です。古川さんの事件は、わたしにとってもなんだか他人事じゃないような気がして」
坂木は黙って煙草をふかしていた。
「野次馬根性だけで言うんじゃないんです」と、滋子は続けた。「彼女に何が起こったのか、心配なんです。だから知りたいんです」
熱をこめて話しながら、頭の片隅で、
(ただの失踪ネタだけじゃ地味だから)
(これが連続殺人かなんかだったら)
という板垣元編集長の声が聞こえていた。
(今よりもう少し、意味のある仕事を──意味がありそうに見える仕事を[#「意味がありそうに見える仕事を」に傍点])
という自分の本音も聞こえていた。が、滋子はそれを無視した。坂木の顔だけを、まっすぐに見つめていた。
坂木はホットミルクのカップを手に取ると、ひと口飲んだ。不味《 ま ず 》そうに飲んだ。それから言った。
「今度の事件では、私は捜査本部に入っているわけじゃないんですよ」
「違うんですか」
「ええ。大川公園から古川さんの所持品が出てきたことはご存じですね? その一件があるので、私は彼女の失踪届を扱って前後の事情を知っているということで、ある程度協力はしていますがね。本部の仕事に関わっているわけじゃない。大川公園のバラバラにされた右腕の件は、私には埒外《らちがい》の事件なんです」
「でも、わたしにとっての問題は古川さんのことだから」
正直に言えばかなりがっかりしたのだが、滋子はそう言った。とにかく、滋子にとって、取材の窓口になりそうなのは坂木ただひとりなのだから。
坂木はまた新しい煙草に火を点《つ》けた。滋子がよく連絡をとっていたころは、こんなふうに続けて煙草を吸う人ではなかった。
「その古川さんのことですがね」と、坂木は顔をあげた。「前畑さん、鞠子さんのことであなたがどうしても取材をしたいというのなら、私には止め立てすることはできない。しかし、多少関わりがある者の立場から言わせてもらうならば、それは止めておいてほしい」
滋子は目を見開いた。
「何故でしょう?」
「鞠子さんのご家族が、今、あなたの取材に応えられるような状況ではないからですよ」
それなら、想像がつかないでもない。むしろ当然のことだろう。だけど──
「私があなたに会って話をしたかったのも、そこに問題があるからなんです」と、坂木は続けた。「ルポを書き始めた当時のあなたには、私も協力することができた。失踪というだけでは、我々はなかなか本格的な捜査に乗り出せません。あなたがルポを書いて発表してくれることで、いくらかでも世間の目を惹くことができるなら助かる──そう思って、私も手を貸してきたんです。実は、鞠子さんの件についてあなたにお話しするときには、事前にちゃんと、鞠子さんのご家族の了解をとってあったんですよ。当然のことですがね」
滋子はうなずいた。下田署の氷室佐喜子も同じようなことを言っていた。そうして、失踪者の家族に話をしたうえで、滋子を紹介してくれたりしたのだ。
「しかし、事情は変わりました」と、坂木は言った。
「少なくとも、古川鞠子さんに関しては激変しましたよ。放って置いても、マスコミはとにかく、捜査本部は彼女の件を調べてくれますからね」
滋子は黙っていた。坂木の話には、まだ続きがありそうだったからだ。
「私の言い分は、手前勝手に聞こえるでしょう」と、坂木は言った。「最初のうちは協力していたくせに、いざ大事件になったら手のひらを返して秘密主義になる──勝手だと思いますよ。だから、さっきも言いましたが、あなたがどうしても鞠子さんの件を取材するとおっしゃるなら、止めることはできない。あなたもジャーナリストのひとりだからね。しかし、あなたは、さっきご自分でも言っていたが、けっして野次馬根性を満足させるためにこのルポを書いていたわけじゃないでしょう? 目的は、派手な事件を追いかけることじゃなかったはずだ」
坂木はテーブルの上の原稿に目をやった。
「鞠子さんのことも他人事とは思えないとおっしゃった。それならば、今これから、古川家の人たちに取材をするのは控えてもらいたい。とてもじゃないが、あの人たちは今、それどころじゃないんですよ」
滋子は目を伏せ、空になったコーヒーカップを見つめていた。
坂木の言うことはよくわかった。かつての滋子なら、あのルポを書き始めたころの気持ちのままの滋子ならば、すぐに納得できるはずの話だった。派手で話題性のある事件を追いかけているのではない。だったら、今の段階では他の失踪女性について書き続け、鞠子の件は、事件がもっと落ち着いてからゆっくりと書いていっても、一向に差し支えないはずだ──
そうなのだ。しかし、今は滋子の側の事情が違ってしまっている。書く目的が違ってしまっている。頭のなかで、編集長の声が聞こえている。書きかけのルポを、これでは売り込めないと断言した、あの声が。
(連続殺人かなんかだったなら)
そして何よりも、滋子自身の気持ちが違ってしまっている。いや、本当の本音が出てきたというべきなのかもしれない。こんな大きなチャンスを逃したくないという本音が。
そして滋子が今目を伏せたままでいるのは、口に出してそれと言わなくても、坂木にはちゃんとその辺がわかっているのではないか、彼はもうすべて見抜いているのではないかと思うからだった。見抜いているからこそ、以前の滋子の言葉を盾にして、建前を述べているのではないか──
どちらにしろ、結論はひとつだ。坂木はもう、窓口にはなってくれないということだ。
「下田の氷室君も、私と同じ立場になったら、同じように言うと思いますよ」と、坂木は続けた。「あなたが書きたいと思っていたものを、我々はよく知っているはずだからね」
今は、古川鞠子の家族を追いかけ回してくれるな──
滋子も先週、テレビで見て知っている。鞠子の母の古川真智子は、娘の悲報に動転して車の前に飛び出し、今入院中だということを。鞠子の父親は現在別居中で、マスコミ関係者とりわけテレビのレポーターに追いかけられることを嫌がり、逃げ回っているということを。鞠子の祖父にあたる人は豆腐店を経営しているのだが、事件後すぐは、レポーターに押しかけられて店を閉めなければならなかったということも。
今、滋子が、劇的な展開を見せ始めた鞠子の件についてルポの続きを取材しようとしたなら、同じ迷惑をかけることになる。だからやめてくれと、坂木は言っているのだ。その言葉には、滋子も滋子の本音を吐かない限り、いやあたしだってこんな大きな事件、見逃すわけにはいかないのだと言い切らない限り、逆らうことはできない。
本音が吐けるか、滋子──滋子は自問した。今本音を吐こうが吐くまいが、坂木の立場に変化はない。言ってしまったっていいじゃないか。坂木さん、あたしだってそれほどお人好しじゃないですよ、と。
滋子は顔をあげ、言った。「よくわかりました。坂木さんのおっしゃるとおり、わたしのルポの目的は派手な事件を書くことにあるわけじゃありませんから」
坂木の頬が、安堵でゆるんだ。「そうですか。ありがとう」
滋子は考えていた。こうして、これからじっと待っている──という手もないではない、と。鞠子の事件が解決するまで、静かに待っている。そうすれば、事態が落ち着いたころにはまた、坂木がいい情報源になってくれることだろう。古川家の人たちとも渡りをつけてくれるかもしれない。ルポはそれから書けばいい。鞠子の事件とまったくつながりのない他のルポライターやジャーナリストたちよりは、時間的には遅くても、いい仕事ができるかもしれない。
けれども、そこには決定的に欠けてしまうものがある。リアルタイムの衝撃だ。ほかの何よりも、自分がこつこつ書いていた──書こうとしていたルポのなかに、予想外の事件が眠っていたということに気づいたとき、滋子自身の受けた衝撃だ。ほかのジャーナリストやルポライターたちになくて、滋子にだけある衝撃だ。
それを活かすためには、待っているわけにはいかない。これはもう、そういう意味では滋子自身の事件なのである。だからこそ、大きなチャンスなのだ。
坂木が滋子の顔を見ていた。視線があった。滋子が何を考えているのか、彼には判っているように見えた。
もうそれ以上、話し合うことは見つからなかった。
坂木と別れると、滋子はいったん家に帰った。アパートに戻ろうとして、途中で気を変え、昭二の工場へと向かった。ちょうど三時の休憩時間にぶつかる。無性に彼と話をしたくなった。
大川公園の事件が起こったあと、今日になって坂木と連絡がつくまでのあいだ、滋子が衝撃と興奮を分かち合う相手といったら、昭二しかいなかった。事件の当日も、一緒にニュースを見、上の空の滋子が焦がしてしまった夕食を食べながら、昭二は懸命に励ましてくれた。
「シゲちゃんのあのルポが、こんなふうに活きてくるなんて思いもしなかったよ」と、彼も興奮していた。「だけど、こういう取材って大変なんだろ? あんまり無理はするなよな」
「大丈夫よ」
「それに、危ないことはないのかな」
「危ないって?」
昭二は顔をしかめた。「ひでえ事件だろ? 殺されたのは女の人だしさ」
滋子は大笑いをした。「ヤダな、そんなの全然見当違いの心配よ」
「そうかあ」と、昭二も笑った。
前畑鉄工所の看板は、近くのバス停をおりたところからすぐに目につく大きなものだ。町工場とは言っても、近隣では抜きん出て広いスペースを持っている。大手の自動車会社の孫請けで、つくっているのは微細な自動車部品ばかりだが、売り上げは安定しており、滋子が知っている限りでは、経営には不安はなかった。
昭二は工場の外の歩道に腰かけ、若い工員のひとりと話をしながら缶コーヒーを飲んでいた。若い工員の方が、先に滋子に気づいた。
「若奥さん、こんにちは」
滋子が手を振ると、昭二は笑顔で立ち上がった。「なんだよ、珍しいな」
「これからアパートに帰るとこ。今晩、何食べたい?」
若い工員は、気を利《き》かせたのか工場のなかへ戻っていった。ほかにも数人、滋子に気づいて会釈をしてくる工員たちがいた。煙たい義母のいる事務室の方からは見えないように、昭二が道路の方へ出てきてくれた。
「何がいいかな。そうだな──酢豚」
「了解。ホントにショウちゃん、中華が好きね」
「あと、サラダかな」
「忙しい?」
「今週はね。どこ行ってきたんだ?」
「刑事さんに会ってきたの」
「あの事件のことか」
「うん」
薄暗い工場の方から、鉄と油の匂いが漂ってくる。か細いラジオの音が聞こえた。
「ショウちゃん、あたし、やるからね」と、滋子は言った。「いいものを書くから」
「やってくれよ、やってくれよ」と、昭二は笑った。「けど、また倒れたりするなよ」
「うん、それは気をつける。ねえ、そのためにも、あたしほかの仕事断ってもいい?」
昭二はびっくりしたように目を見開いた。
「料理の連載とか、あの旅行雑誌のコラムとか?」
「そうよ。今度のルポに専念したいの。でも、それは売れるかどうかもわからないものだから、つまりはあたし、失業するわけ。それでもいい?」
ずっと考えてはいたことだった。すぐには決断しきれないだろうと思っていたのに、坂木と話し、昭二の顔を見たとたんに決心がついた。猛然と闘志が湧いてきた。
「いいさ。構わないよ」と、昭二は大きくうなずいた。「滋子、頑張れ!」
[#改ページ]
6
塚田真一は迷っていた。
ロッキーを連れて、獣医のところから石井家に帰る途中、大川公園に寄ってみようかと思ったのだ。事件以来、訪れていない。毎日のロッキーの散歩にも、別のルートを選んでいた。
十二日の事件のあと、問題の右腕を発見したのが真一であることが、同級生たちのあいだに、じわじわと知れ渡っていた。ニュースでは、真一の顔や名前が出ることはもちろんなかったし、真一の口からは誰にも話していないのだが、見つけたのが公園の近所の高校生であることや、犬を連れていたことは、ワイドショウや週刊誌では報じられた。そのことと、あの日真一が学校を休んだことなどを結びつけて、みんな考えたのだろう。
「おまえだろ?」とか、「あれってもしかして塚田君じゃないの?」などと質問されては、嘘をつくこともできない。ついてもいいが、かえって面倒だ。で、「そうだよ」と応えると、そこでもまた、なかなか事件にふさわしい騒動が巻き起こった。
どんな感じだった? びっくりした? 警察に事情を訊かれたんだろ? やっぱり取調室に入ったの? 何を訊かれても、真一はぼそぼそと短く、最低限の言葉で応じた。相手の好奇心が募るような答え方はできなかったし、するつもりもなかった。そうしているうちに、皆の興味も冷めてゆくだろうと思ったし、事実そのとおりだった。週明けには、もう誰も何も言わなくなっていた。
あらためて真一を安堵させたのは、今度の件と、真一自身の身に降りかかった事件とを結びつけ、照らし合わせて何か言う──という人物が、今の学校にはひとりもいないという事実だった。もちろん、石井夫妻はいるし、担任の教師も事情は承知している。転校してくるときに、話さないわけにはいかなかったからだ。だが、夫妻は何も言わないし、担任も、真一の様子を見ていて、さしたる変化がなさそうだと思って安心したのか、わざわざ声をかけたりせずに放っておいてくれた。有り難いことだった。
だが、真一のなかでは、何も片づいていなかった。
大川公園の事件そのものについては、その後も、刑事が家にやってきて事情を訊かれるなんてことはない。あれだけ時間をかけて調書を取ったのだから、もう尋ねることもないのだろう。しかし、あんな形で事件の発見者になったこと──新しい犯罪の発見に立ち会ったことで、これまでどうにかこうにか封じ込めてきた記憶が、いっぺんによみがえってしまった。真一自身の、塚田家の事件の記憶が。
十二目以来、夢をみるようになった。長かったり短かったり、断片的だったり筋が通っていたり、形はいろいろだが、すべて塚田家の事件の夢だ。夢の中の真一は、事件が起こることもその詳細もすべて承知しており、そのうえで現場に戻り、ドアを開けようとしていたり、姿の見えない母親を捜して家のなかを歩いていたりする。
夢に登場しつつ、夢の外にも同時に存在して、夢のなかの自分に向かって懸命に警告している。その扉を開けるな。そこに落ちているスリッパを拾うな。スリッパを裏返して、そこについている赤いネバネバしたものを指で触れたりするな。それが何であるか、おまえはもう知っているはずじゃないか。
またあるときは、家で何が起こるか知っている自分が、懸命に走って帰宅しようとしている夢を見る。夢のなかの定石どおりに、走っても走っても前に進まない。バスは走りすぎ、タクシーは一台も来ず、町には人影も見あたらず、公衆電話は通じない。知らせたいのに、叫びたいのに。父に、母に、妹に向かって、逃げろ、家から出ろ、そこにいちゃいけないと。
頼むから逃げてくれ、と。そして、汗びっしょりになって目を覚ます。
日曜日の深夜、ことのほかはっきりとした光景を夢に見て、たまらなくなって階下へ降りていった。外の風にあたりたくなって、リビングの窓を開け、床に座り込んだ。庭につながれているロッキーが、真一に気づいて寄ってきた。犬のほの温かい首を抱きながら、自分がぶるぶる震えていることに気がついた。
そのとき、後ろから声をかけられた。振り返ると、パジャマ姿の石井善之が、裸足で床を踏みしめて立っていた。
「寒くないか」と、善之は言った。そして、真一の隣に並んで腰をおろした。ロッキーは鎖をチャラチャラ鳴らしながら、善之にもお愛想を振りまいて、彼の膝に鼻面をこすりつけた。
「こいつはすっかり真一君と仲良しになったな」と、善之は言った。「どうした、眠れないみたいだね」
「すみません。うるさくしたつもりはなかったんだけど」
「そんなつもりで言ったんじゃないよ。私もトイレに降りてきたんだ」
低い声で、善之は言った。
「ただ、真一君が夜眠れなさそうだって、良江がずっと心配してる」
「おばさん、気がついてたんだ」
「うん」
「すみません」と、真一は言った。それしか言葉が見つからなかった。
塚田家の事件や真一の心理状態に関わる話が出てくるときは、たいていこういうやりとりばかりになる。真一はすみませんと言い、石井夫妻は謝ることなんかないと言う。そして、みんなですまながり、後ろめたい暗い気分になる。
だが、今度は違った。もう謝るなと言うかわりに、石井善之はこう言った。
「大川公園のことなんかあって、いろいろ思い出しちゃったんだろう? せっかく、少しはおさまってたのにな」
「うん……」
「前から話してみようと思っていたことなんだが、真一君、一度カウンセリングを受けてみないか?」
真一は顔をあげた。「カウンセリング?」
「そう。心理療法士とか、精神科の先生とかに会ってさ、治療というと大げさだけど、要するに話を聞いてもらうのさ。いや、君が病気だって言ってるわけじゃないよ」と、善之は早口になった。「だけど、心が傷ついてることは確かだ。そういうのをPTSDっていうそうだよ」
真一はロッキーの首を撫でた。「それって、聞いたことがあります」
「そうか。外傷後ストレス障害という意味だそうだ」書いたものを読むみたいに、善之はゆっくりと言った。「大きな犯罪とか、天災とかのせいで辛い目に遭った人が、あとあとまでその記憶のために苦しむ」
「テレビで見たことあります。阪神大震災のあと、やってた」
「そうだな、うん」善之は真一の顔をのぞきこんだ。「どうだい? 気が進まないなら無理にとは言わないが、考えてみてくれないかな。診てもらうあてはあるんだよ。知らない病院にいきなり行くっていうわけじゃない」
善之のことだから、いろいろ手を尽くしてつてを探してくれたのだろう。だが、すぐには決断がつかなかった。医者に診てもらって、それでいいのかどうか。
そんなことで、自分が許されるのかどうか。
「考えてみます」と、小さく答えた。
「その気になったら、いつでも言ってくれよな」
「はい。それよりおじさん」
「うん?」
「ロッキーの腹──ほら、ここんとこ。毛が抜けて薄くなってるでしょう? この前気がついたんだけど、ゴタゴタしているうちにすっかり忘れてた。皮膚病かな? 医者に連れていかないとまずくないですか」
急に話題を変えられて、善之は肩すかしをくったような顔になった。
「どれ? どこだい? ああホントだな──」
こうして、月曜日の夕方、真一はロッキーを連れて獣医のところに行くことになったのだった。幸い心配するほどのこともなく、塗り薬を塗っただけで、ロッキーは元気よく真一を引っ張っている。そうして大川公園の近くを通りかかったのだ。道の反対側、渡ればもう公園の入口である。
交差点で足を止め、真一は公園の方を見やった。空はまだ明るいが、緑が濃く沈んで見える。公園を見おろすようにそびえている北側の高層住宅は、まるで巨大な巣のようだ。車両の進入禁止の看板が立てられている出入口から、中学生ぐらいの男の子の一団が自転車をこいで外へ出てきた。にぎやかな声がはじける。道路には交通量も多く、ロッキーが耳をぴくぴくさせている。
PTSDか。
治療が必要だ。外部からの救助の手が必要だ。真一はそういう状態だ。ひとりでは乗り越えることができない──
それでも、乗り越えないといけないのではないか。その責任があるのではないか。たったひとりだけ、生き残ってしまった以上は。
口に出してそう言えば、石井夫妻は「それは違う」と反論するだろう。真一に何の責任があるか、と。責任があるみたいに思いこむことそのものが、もう心に傷を負っている証拠なのだと。墨東警察署で会った──なんて言ったっけ──そう、タケガミだ、あの刑事も言っていた。君には責任はないよ、と。
いや、違う。違うのだ。
責任はあるのだと、真一は思った。それがほかのケースと違うところなのだ。塚田家を襲った事件の、そもそもの種をまき、きっかけをつくったのは真一なのだ。真一が軽はずみな発言をしたから、だからあんな──
(なんか、棚ボタみたいな金が入ったらしいんだよ、うちの親父)
頭を強く振って、真一は記憶を振り払った。その拍子に、首輪につないだ革ひもを強く引っ張ってしまい、ロッキーがたたらを踏んで真一の靴の上に足を乗せた。
「ごめん、ごめん」
犬の首を叩き、真一は顔をあげた。大川公園に渡る方向の信号が、ちょうど変わるところだった。青信号が点滅している。それに勢いづけられて、ロッキーを引っ張り、走って向こう側に渡った。
大川公園の事件は、俺とは関係ない。なんのつながりも責任もない。ただの目撃者、発見者だ。だからビクビクする必要もない。そのことを、しっかりと自分に言い聞かせよう。本当に恐れなければならない幽霊はほかにいる。大川公園にはいない。それさえはっきりさせられなくて、どうしてとるべき責任をとることができるだろう。
ゴミ箱から出てきたあの腕、あれが真一の方を指さしているように見えたのも、あれが死神の腕のように思えたのも、みんな真一のいくじがないせいだ。いくじがないということのなかに逃げ込もうとしているせいだ。
もう、いいかげんにしろ。そんなことはやめなくちゃいけないと、真一は自分で自分を叱咤《しっ た 》した。ちょっとしたことでビクつくのは、おまえが周りのみんなに同情してもらいたがってるからだ。だから見てみろよ、おじさんはおまえが心の病気だと、医者へ行こうと言い出した。おまえにとっちゃもっけの幸いじゃないか。本当はそんなことじゃないのに、ただ責任逃れをしたいだけなのに。大川公園のことでいい口実ができたなんて、あれでまた、みんなに心配してもらえるなんて、本音ではそう考えているんじゃないのか。
あまりに卑怯だ。
大川公園から逃げてはいけない。あの日、ゴミ箱から転がり出た右腕のなかに見たものを、現実から、とるべき責任から逃げる口実にしてはいけない。またあのルートを歩いてみよう。そして、もう何でもないこと、大川公園の事件はよその事件で、自分はそのなかに隠れることはできないのだということを確かめなければならない。
ロッキーを引っ張って公園のなかを走り抜けた。犬は喜んでくっついてくる。園内には人影が少なく、時おり自転車が横切ってゆくだけだ。
警察による公園の封鎖は、事件の二日後には解けたと、友達から聞いていた。調べるだけ調べて、もう何も出てこなかったのだろう。テレビ局の中継車も、先週の週末あたりからぱったりと来なくなった。公園は元通りのたたずまいを取り戻していた。バラバラ事件などなかったかのようだ。当たり前の静けさと緑の匂い、遊歩道に散らばるゴミ。
息を切らして、真一はある場所、公園の南側の出入口に近い、あのゴミ箱のあったところへやってきた。
ゴミ箱はなくなっていた。
呼吸を整えながら、しばらくのあいだ、突っ立ってその場所を見つめていた。大きなゴミ箱のあった場所には、遊歩道の上に、ゴミ箱の底の形の痕がついていた。もうゴミ箱はないのに、それでもそこにゴミを投げる人がいるらしく、空き缶がひとつと、潰れた紙袋がいくつか、地面の上に落ちている。
警察が持っていったのかもしれない。それとも、ああいうことのあったゴミ箱だから、廃棄されてしまったのか。真一はほっと息をついた。
場所に間違いはない。後ろの植え込みには、コスモスの群が首をしなしなさせて咲いている。あの日、ここでキングとその飼い主を見かけた。あの女の子──確か水野とか言ったっけ。どうしてるだろう? あの子は、俺みたいなストレスに苦しんではいないだろうな。(ちょっとワクワクする)なんて言ってたもんな。
ここにはもう何もない。ここでの事件は、おそらくまたとても不幸で悲劇的な事件なのだろうけれど、真一には、真一の置かれている立場には、なんの関係もないことだ。ゴミ箱が消えていたことで、かえってそれがはっきりしたような気がした。
「帰ろう、ロッキー」
革ひもを引いて歩き出した。歩調が遅くなっていた。出口を出て、また公園の北側の横断歩道のところまで、歩道を歩いた。
そのあいだずっと俯《うつむ》いていたから、周りが見えなかった。誰かの視線を感じたということもない。だから、背後から軽い足音が追いついてきて、真一とロッキーを追い越して行ったときも気にしなかった。気がついたのは、横断歩道の手前まで来て、誰かが前方にいて、まるで真一を待ち受けるように、こちらを向いているのが見えたときだ。
やはり俯いたままでいたから、最初は足──膝から下しか見えなかった。ハイカットのスニーカーを履いて、白いソックスが足首の上にのぞいていた。形のいい、かっこいい脚だ。ミニスカートだ──
真一がすぐそばまで近づいても、そのかっこいい脚の持ち主は身体の向きを変えなかった。ずっとこちらを向いていた。真一は頭をあげた。
同年代の女の子だった。赤いプルオーバーを着て、同系色のヘアバンドで長い髪をおさえていた。整った、おとなしそうな顔立ちだ。
どこかで見た覚えがあった。
「塚田君ですね?」と、彼女は声をかけてきた。「塚田真一君でしょう?」
その声にも聞き覚えがあった。
彼女は真顔だった。痩せて、顎の線が鋭い。強ばった口元で、薄いくちびるだけが独立した生き物のように動くだけで、目にも鼻にも頬にも、なんの表情もなかった。
「あたし、樋口めぐみです」
彼女は名乗った。それとほとんど同時に、真一も、彼女が誰であるかを思い出した。
[#改ページ]
7
塚田真一がロッキーを連れて大川公園を歩いていた、ちょうどそのころ、有馬義男は、JR東中野駅の階段をとぼとぼと降りていた。これから、古川家で古川茂と落ち合い、真智子の入院費など、当座の細かな事柄について相談する予定になっていた。午後四時過ぎ、これからしばらくは有馬豆腐店のかき入れ時である。木田ひとりに店を任せて出てくるのは気が引けてたまらなかったが、古川が、この時間帯でないと都合がつかないと指定してきたので、仕方がなかったのだ。
当の古川は、義男よりも先に着いていて、古川家の前の路上に立って待っていた。彼がローンを背負って買ったはずの家なのに、ドアを開けてなかに入ることはもちろん、玄関のステップに足を乗せることさえせずに、家に背中を向けて突っ立っていた。
「鍵は持ってないのかね」
古川に近づきながら、義男は声をかけた。
「別居するとき、真智子に渡してしまったので」と、古川は言った。「お久しぶりです、お義父《 と う 》さん。いろいろご迷惑をおかけしまして」
頭を下げる古川の肩越しに、この家の玄関脇に掲げてある表札が見えた。「古川茂 真智子 鞠子」。そこではまだ、名前が三つ、仲良さそうに肩を並べている。
義男はすぐには応じる言葉も見つからず、黙って玄関のドアを開けた。壁を探ってスイッチを見つけ、明かりをつける。古川も黙って後をついてきた。義男は一瞬、古川が靴を脱いであがるとき、「おじゃまします」と言うのではないかと思ったが、さすがにそれはなかった。
家の中には湿気《 し け 》った空気が淀んでいた。一昨日真智子の着替えを取りにきたとき、ゴミは全部処分して外に出しておいたはずだったが、まだ、台所の方からかすかに生ゴミの臭いが漂ってくる。義男は鼻をふんふんとさせた。
古川はリビングの端に立ち、部屋のなかを見回していた。テーブルの上のガラスの灰皿、壁のカレンダー、飾り棚の上の絵皿、窓のカーテン──間違い探しでもしているかのような熱心さで、ひとつひとつのものを観察している。義男の方は、そんな古川の横顔をながめていた。確かに、女婿《むすめむこ》と顔を合わせるのは、実に久しぶりのことだった。
古川は真智子と同い歳、四十四歳である。真智子とは高校時代の同級生で、三年間机を並べた間柄だ。高校を卒業したあとは進路が別れたが、二十三歳のときにクラス会で再会し、交際が始まってほどなく結婚──というパターンだった。
式をあげるとき、実は、真智子はすでに鞠子を身ごもっていた。妊娠五ヵ月目だった。披露宴の時には、列席者みんながそのことを知っていた。新郎新婦の友人たちがそのことをネタにお祝い気分を盛り上げてくれて、それはそれで悪いものではなかったけれど、新婦の父親である義男としては、やはり、ある種の決まり悪さを感じずにはいられなかった。当時の写真を見ると、どんな瞬間を切り取ったスナップのなかでも、義男はバツの悪そうな笑みを浮かべている。美人で発展家で跳ねっ返りの一人娘を持った父親の照れ笑いを。
そんな事情があったから、当時、義男としても妻の俊子としても、ふたりの結婚を許すも許さないもなかった。こうなった以上、古川茂には真智子と家庭を持つ義務があると、義男夫婦は頭から決めてかかっていた。彼は大きな会社に就職し、高給とはいかないまでもちゃんと家庭を維持していけるだけの給料をもらえる身分になっていたから、その点でも問題はなかった。結婚話はとんとんと進み、若夫婦は古川の会社の社宅を新居に、やがて生まれてくる赤ん坊を迎える準備を整えながら、新生活に入っていった。そこには何の問題もなかった。
そう、あのころは、何の問題もないと思っていた。
「よその家に来たような顔をしとるね」と、義男は言った。
古川は、放心から覚めたような顔をして義男を振り返った。
「ええ……そうですね。実際、そんな感じがしますよ」
古川は手を伸ばし、リビングのテーブルの上を撫でた。
「埃が溜まっているな」
「掃除をしとらんから」義男は台所へ向かった。「お茶でもいれるから、座ってください」
古川はソファの端に腰をおろした。テーブルの上に、間に広告をはさんだまま積み重ねてある新聞を手に取ったり、広げてみたりして、言った。
「新聞、止めておいた方がいいですね」
「もう頼んだよ。今日は来てないはずだ」
「お義父さんは毎日こっちに来てるんですか」
「一日おきだよ」
義男は、薄い緑茶を入れた客用の湯飲みを持ってリビングに引き返した。
「真智子の寝間着は、病院で貸してくれるんでね。ただ下着とかタオルとかが要るから、病院の行き帰りにこっちへ寄るようにしてるんだ。だけど、私じゃあ女の下着のことはわからんから、孝さんの奥さんが揃えてくれたりしてるよ。洗濯もしてくれる」
「お世話になります」と、古川はまた頭を下げた。そのとき義男は、彼の頭のてっぺんがずいぶんと薄くなっていることに気づいた。
古川茂は、やや痩せぎすで、体格的にはちょっと貧弱な感じがするものの、見てくれはけっして悪くない男である。真智子と結婚した当時は、美男美女の組み合わせだとうらやましがられたり冷やかされたりしたものだ。真智子はそれを楽しんでいたし、夫が男前だということをずいぶんと自慢にもしていた。
現在の真智子からは、かなり想像力を働かせないと、若いときの可憐な姿を推し量ることは難しい。だが古川は、今の彼、中年の坂を下り始めた現在の彼として勝負のできるだけの魅力を、まだ充分に備えていた。若い頃は素敵だったろうと、想像する必要もない。あと十年経ったらどうかはわからないけれど、今のところは、まだ。
そのことは、真智子も認めていた。
──あの人、会社でもモテるらしいから。
まだ古川と巧くいっていた頃──真智子の側では巧くいっていると思っていた頃──笑いながらそう話していたことがある。
──部下の女の子たちから、デートのお誘いを受けたりするらしいのよ。近頃の若い子って、怖いもの知らずだから困るわよ。
今、古川と共に暮らしている女性は、彼より十五歳年下である。古川の行きつけのクラブで働いていて、彼と知り合ったのだ。
クラブ勤めといっても根っから水商売の女性ではなく、ほんのアルバイト程度だったらしい。義男はこの女性と会ったことがないし、真智子も彼女については頑として語ろうとしなかったが、鞠子が一度だけ、古川の女について、憤懣混じりの口調でこんなふうに言っていたことがあった。
「あのね、なんか普通の人なのよ。あたしより地味なくらい。はっきり言って、あたしの方が美人よ。ずば抜けて個性があるってわけでもないし、頭が切れそうでもないし、お父さんがなぜあの人に惹かれたのかわかんない」
そのとき義男は、(むしろ、そういう漠然とした女の方が曲者《くせもの》なんだ)と思ったし、口に出してそう言いかけたのだが、結局は黙っていた。
伊達《 だ て 》男の古川も、髪が薄くなってきている。女とは巧くいっているのだろうか。今度のことは、彼らの関係にどういう影響を及ぼしているのだろう──
「それでお義父さん、入院費の方なんですが」
古川に声をかけられて、義男は我に返った。
「ああ、その話をしに来たんだった」
古川はうなずいた。「いろいろ考えたんですが、真智子が生活費を引き出すのに使っていた口座から金を出してもらった方が分かり易いと思いましてね。通帳とカードがここにあるはずです。どこかの──引き出しのなかだったと思うんですが」
「その通帳を、私が預かっていいってことかね?」
「ええ、そうしてください」
「あんたは関わらんのですか」
詰問するつもりはなく、口調もそれほど強いものではなかったはずだ。だが、古川は目をそらした。
「今更、私にはそんな権利はありませんよ。でも、金はその口座にきちんと振り込みます。今までも、毎月そうやって給料の半分を振り込んできましたし、この家のローンは私が払っていますから心配ありませんし」
「──あんた、病院には行ってくれたんですか」と、義男は訊いた。
「行きましたよ。警察から連絡を受けてすぐに」
「じゃあ、真智子に会ったんだね?」
「ええ、会ったと言ってもガラス越しに見ただけですが」
「可哀想だとは思わなかったかい」
一瞬、口をへの字に結んでから、古川は言った。「思いましたよ。あんな姿になって、ベッドから動くこともできない。あのときは、意識も回復していなかったし──」
「今日になってもまだ回復してないよ」
古川は驚いた顔をした。「本当ですか?」
本当だった。担当の医師もこれには懸念を表明していた。脳波には異常がないのに──と、首をひねっている。
真智子は目を覚ましたくないのだと、義男は考えていた。目を覚ませば、また辛い現実と向き合わねばならなくなる。眠ったままでいた方がはるかに楽だ。
「真智子にはもう、あんたしか頼る人がいないんだよ」
義男の言葉に、しかし古川は首を横に振った。口からこぼれ出た言葉は、丁重ではあるが冷たかった。
「真智子には、お義父さんがいますよ。私よりもずっと頼りがいのあるお義父さんが」
「茂さん──」
「申し訳ないとは思います。だが、判ってください。本来なら、私と真智子はとっくに離婚しているはずだったんです。別居のままで留まっているのは──」
「真智子が承知しなかったからだっていうのか?」
気色ばんだ義男を、押し返すように顔をあげて正面から見つめ返すと、古川は言った。
「違います。真智子は承知していた。少なくとも、私にはそう言っていた。だが、鞠子があんなことになったから、鞠子がいないあいだに親が勝手に離婚していたなんてことにしたくなかったから、だから待つことにしたんです。由利江《 ゆ り え 》もそれで承知してくれたし」
「由利江?」問い返してから、義男は気づいた。古川の女の名前だ。
「今度のことでは、私も由利江も夜眠れないくらい心配しています」
当たり前じゃないか。自分の娘が行方不明になって百日近く、やっと手がかりが出てきたと思ったら、それがバラバラ殺人を匂わせるものだったのだ。枕を高くして眠れる方がどうかしている。
「しかし、私たちにはもうどうすることもできません。真智子のことはお義父さんに任せるしかないし、鞠子のことは警察に頼むしかない。じっとしているしか方法はないんですよ」
でも、金は何とかします──と、古川は強く言った。
「それだけは私の義務ですから。通帳を探しましょう。保険の証書なんかも一緒に保管してあるはずだから──」
「結構だよ」と、義男は言った。
「は?」
「結構だと言ったんだ。金は要らない。あんたに出してもらうことはない」
「お父さん……しかし、それじゃあ」
「困りゃしない。真智子の入院費は私が出す。それでいいから、もう帰ってくれ」
義男は立ち上がり、腹立ちまぎれに空になった湯飲みをむずとつかむと、台所へ行った。蛇口を開けて流しに水を張る。しかし、大きな水音も、義男の耳の奥で血が沸騰する音をかき消すことはできなかった。あまりの腹立ちにめまいがしそうだった。
昨日、古川がこの家で会いたいと連絡してきたとき、思わず喜んだ義男だった。警察を通して連絡をとってもらったことで、古川の立場をまずくし、彼が真智子を見捨てる言い訳をつくってしまったのではないかと気に病んでいたところだったから、真智子のことで相談したいという彼の申し出に、心の底からほっと安堵したのだ。古川も真智子を心配しているのだ、やはり真智子のことは気になるのだ、これを機会に、夫婦が元の鞘《さや》におさまることもあるかもしれないと、期待さえしてしまったのだ。
だが、蓋を開けてみればこれだ。古川の心配は金の心配。まるで、判った判った、請われただけ払うからあっちへ行ってくれと言わんばかりの態度ではないか。真智子も義男も、たかり屋まがいの扱いをされているではないか。
「お義父さん……」古川は立ち上がり、困ったように両肩を下げて、義男を見ていた。
「私としても、これがせめてもの誠意の示し方だと思って決めたことなんですよ。真智子の入院費は私が負担します」
「だから、要らないと言っとるんだよ」
「ああいう集中治療は高くつきますよ。失礼ですが、お義父さんの店のあがりだけで払い続けていくのは大変──」
「うちにだって多少の蓄えはある。そんなことまであんたに心配してもらうことはないよ」
怒鳴るようにそう吐き出して、義男は蛇口をひねった。ががっと音がして、水が止まった。沈黙が落ちた。
怒りと一緒に、どうしようもない惨めさがこみあげてきて、いてもたってもいられなかった。足元がそわそわした。あの無神経な刑事をぶん殴ってやったように、古川の顎を、歯が砕けるほど強く殴りつけてやったらどんなにかすっとするだろう。
「あんた……古川さん」
もう何年も、義男は面と向かって古川をこう呼んだことはなかった。ずっと「茂さん」と、彼が真智子と別居してからさえもそう呼んできた。だが、今はもう違う、もう駄目だ。古川は赤の他人より始末が悪い存在になってしまった。
「わかったよ、真智子のことはもういい。けどね古川さん、あんた、鞠子のことはどうなんだ? 気にならないのかい? あんたの娘なんだ。鞠子の事件のことは気にならないのかい?」
「気になると言ってるじゃないですか」古川も鼻息荒く応じた。「だけど、警察に任せるしかないんです。私に何をしろっていうんです? 何ができるんですか」
義男は台所のシンクの縁を握りしめた。身体が震え出すのを感じた。
「私に連絡したいときは、会社に電話してください」玄関の方へ向かいながら、古川は言った。「ちゃんと取り次ぐように、秘書に言ってあります。由利江が心配するので、このことを家のなかには持ち込みたくないんですよ。お願いします」
思わず、義男は声を張り上げた。「家のなかって、あんたの家はここじゃないのか?」
すると古川は足を止め、肩越しに振り返って、言った。「ここじゃありません」
そうして、出ていった。ドアが几帳面に、きっちりと音もなく閉じられた。義男は台所で立ちすくんでいた。シンクの縁に両手でつかまり、目をつぶった。閉じた目の裏で、怒りが赤く、ちかちかと閃《ひらめ》いた。血がざわめく音で、耳の奥がいっぱいになった。
だがしばらくすると、そこに、ほかの音が聞こえてきた。怒りに硬直した義男の脳は、それを閉め出し、無視しようとした。だが、その音はしつこく、絶え間なく続き、その存在を主張した。
義男は目を開いた。
その音は、リビングのなかいっぱいに鳴り響いていた。出所が判らなかったが、何かがリビングの隅でちかちかとまたたいていた。赤いランプだった。ついさっきまで、義男の目の裏で閃いていた怒りと同じ色のランプが点滅していた。
電話だ。義男は急いで台所を出た。
受話器を持ちあげると、しつこい呼び出し音は止まった。が、電話の向こうからは何も聞こえてこなかった。「もしもし」と言って、義男は耳を受話器にくっつけた。
遠く、音楽のようなものが流れてくる。義男には馴染みのない、速いテンポのメロディで、歌詞はどうやら英語のようだ。なんだろう、これは。
「もしもし、どちらにおかけですか」
問いかけると、音楽が止まった。そして、電話の向こうの未知の相手が受話器を握り直しでもしたのか、がさがさと雑音がした。
「古川鞠子さんのお宅ですか」と言った。
義男は受話器をちょっと耳から離すと、受話器を見た。鞠子の友達だろうか?
聞こえてきた声は、妙な響きを持っていた。銀行のキャッシュコーナーで、機械を操作すると聞こえてくる合成音声──「マイドアリガトウゴザイマシタ」──あれによく似ている。
「もしもし?」と、義男は繰り返した。「すみませんがどちらさんでしょうか」
「古川鞠子さんのお宅なんでしょ?」機械のしゃべるような声で、相手はまた言った。
「もっとも、彼女は今はそこにはいないけど。行方不明になって、三ヵ月ぐらい経ちますよね」
義男はもう一度受話器を見た。今度は眉根を寄せ、額にしわを刻んでいた。いたずら電話だろうかと思った。大川公園での一件の後、ああいう事件が報道されると、関係者の家にいたずらや嫌がらせの電話がかかることがある、気を付けるように──と、坂木から忠告されていた。
「誰だか知らんが、あんた、ふざけた真似はしないことだ」義男は声を励まし、きっぱりと言った。「他人の迷惑を考えなさいよ」
そして電話を切ろうとした。が、受話器の向こうから、機械音が大声で笑うのが聞こえてきて、思わず手を止めた。
「そんなつれないこと言わないでよ、おじさん」笑いながら言う。「古川家の人とちょっと話をしてあげようと思って、わざわざ電話をかけたんだよ。失礼なことを言うと切っちゃうよ。それでいいの?」
そうして、子供がすねているときみたいな抑揚をつけて、おかしな機械音はこう続けた。
「せっかく鞠子さんの居場所を教えてあげようと思ったのにさ」
一瞬、義男は硬直した。あわてて受話器を耳に押し当てた。
「なんだって? あんた、何を言い出すんだね?」
「ところでおじさん、誰? 僕は誰と話してるのかな」
「あんたこそ誰なんだ」
「それは秘密ってやつさ。ヒ・ミ・ツ」機械音はキイキイ笑った。「それにおじさん、失礼だよ。人に名前を訊く前に、まず自分から名乗らなきゃ」
「わ、私は──」気が急《せ》くのと興奮とで、義男はちょっとどもった。「私は鞠子の祖父です」
「ソフ? ああ、おじいちゃんか。そうだ、おじいちゃんは豆腐屋やってんだよね。テレビで見たよ。ワイドショウとかで騒がれて、お客が増えたろ? みんな野次馬根性が強いからね」
「あんた、鞠子の居所を知ってるのか。鞠子はどこにいるんだね」
「まあまあ、そう急がないで。それについては、もうちょっと親しくなってから話そうよ」
また受話器を持ち直したのか、それとも座り直したのか、雑音が入った。それからカチリという音が聞こえた。
ライターだ──と、義男は気づいた。こいつ、煙草に火をつけたのだ。すっかりくつろぎやがって、何様のつもりなんだ。
しかしこの電話を切ってしまうわけにはいかない。いたずら電話かもしれないけれど、そうでないかもしれない。はっきりするまで、もう少し話を聞き出さなくては。
「もしもしおじいちゃん? まだそこにいるんだろ?」
「ああ、いますよ」
義男は懸命に考えていた。どういう言葉遣いをすれば適切なのだろうか。強気に、高飛車に出た方がいいのか。それとも丁寧に下手に出た方がいいのか。どんなふうに話を持っていけば、手早くこいつの正体を見極めることができるのだろう。
「しかし、おじいちゃんも大変だよね」のんびりした言い方で、機械音は言った。「鞠子さんはいなくなるわ、彼女のおふくろさんは怪我して入院するわでさ。おじいちゃんはずっとこの家で留守番してるわけ?」
「──ときどき、様子を見に来ているんだ」
「そうか、商売があるもんね」
キイキイしたおかしな声だけれど、これはキャッシュコーナーなどの発する本当の合成音とは違うと、義男は判断をつけた。合成音にはこんな抑揚や調子の変化はない。この声は、報道番組などで証言者の身元を隠すために音声を変える、そういうときの声みたいだ。
そして、大川公園の事件のとき、テレビ局にかかってきた電話の声が、ボイスチェンジャーを通したおかしな声だった、ということを思い出した。あの電話の主が本当に犯人だったのか、ただの人騒がせな便乗屋だったのか、報道ではまだ断定していない。坂木もその点については何も言っていなかった。
義男も、テレビ局にかかってきた電話の再生を、何度かテレビで聞いたけれど、あの声と今の電話の声が同じものであるかどうかまでは判断がつかなかった。同一人物なのかどうか──しかし、どうやら今のこの電話の主も、ボイスチェンジャーとかいうものを使っているらしい。それだけは確かだ。
「あんた、もしかしてテレビ局に電話をかけた人かね?」
すると相手は感心したように声を大きくした。「あれ、わかる? おじいちゃん、頭いいね」
あっさり認めた。かえって嘘くさい。
「そう、あれも僕だよ。今のこの電話からかけたんだ」
「声に細工しとるよな。機械でやるんだろ」
「ボイスチェンジャーを使ってるからさ。テレビでもそう言ってたでしょ。凄いなおじいちゃん、ボイスチェンジャーなんてものを知ってるんだ。歳の割にススンでるね」
からかわれている、あしらわれていると判ってはいたが、義男は懸命に腹立ちを抑えた。怒ってはいけない。少なくとも今はまだ。
「あんた、本当に鞠子のことを知ってるのかね」
「なんでそんなこと訊くのさ」と言って、相手は笑った。「そうか、僕が犯人を気取った人騒がせ野郎なんじゃないかと疑ってるわけ?」
「疑っちゃいないが、こっちには判らないことだからね」
「そうかぁ。それじゃ、何を話しても信じてはもらえないんだね。残念だな」
義男はあわてた。「そんなことはないよ。いろいろ教えてもらいたいよ。鞠子のことを、あんたは知ってるんだろ?」
「まあ、ね。だけどおじいちゃん、冷たいね」
「冷たい?」
「そうじゃないか。さっきから聞いてりゃ、鞠子鞠子ってさ、孫娘のことばっか心配してるじゃない。大川公園で見つかった右腕の持ち主のこと、気にならないの? あれは鞠子さんじゃなかったんだからさ、ということは、ほかにも、少なくともひとり、女性がひどい目に遭わされてるってことになるわけだろ? そっちのことは心配しないわけ? それって社会性に欠けるよ」
義男はぎゅっと目を閉じ、相手の屁理屈に動揺しないように、動揺したことが声に出ないように、心を静めようとした。だが心臓は正直で、胸から飛び出しそうなほどに激しく動悸を刻んでいる。空いている方の手は、身体の脇で、空をつかんで堅く拳を握っていた。
このおしゃべりの、悪党の、この軽口野郎をぶん殴ってやりたい。電話線のなかに潜り込んで向こう側に行くことさえできたら、一秒とかからずに首をねじ上げて、ねじ切って──
「もしもしおじいちゃん? 黙っちゃったね。反省してるわけ?」
「大川公園の女の人のことなら、やっぱり心配だよ」と、義男は低く言った。「あの人にも、夜も眠れないほど心配しとる家族がいるだろうからね。鞠子のことと重ね合わせて、同じように気になるよ」
「嘘つきだな」と、キイキイ声は突き放すように言った。「他人の娘のことが、自分の孫と同じように心配だなんて、真っ赤な嘘だ」
ああ言えばこう言う、こいつはいったい何者なのだ。
「僕は嘘つきは嫌いだ」と、相手は言った。言葉の内容とはうらはらに、笑っているような口調だった。楽しんでいるのだ。
強《し》いて自分を落ち着かせ、義男はゆっくりと言った。「あんたも、身内が行方不明になったりしたら、今の私らの気持ちがわかるよ。残されたもんがどれだけ苦しんだり悲しんだりするか、骨身にしみてわかるようになるよ。これは言葉で説明できるようなことじゃないんだよ。私には巧く言えないよ。でも、鞠子のことも、あの大川公園の女の人のことも、一瞬だって頭から離れたことはない。代わってやれるものなら代わってやりたいよ。本当にそう思うよ」
ちょっと黙ってから、相手は笑いを引っ込めて、言った。「おじいちゃん、そんなに鞠子を助けたいんだ」
ここで初めて、電話の主は「鞠子」と呼び捨てにした。
「助けたいよ。早く家に帰ってきてほしいよ。もし──もしももう死んでいるとしても、早く居所を突き止めて、母親の元に返してやりたいよ」
「鞠子はもう死んでると思うわけ?」
「あんた、テレビ局にかけた電話ではそう言ってたよな? 鞠子は別のところに埋めてあるって」
「言ったよ」ふふんと笑って、「けど、僕が本当のことを言ってるかどうか、わからないじゃない? あれは嘘かもしれないよ」
「そうだな。あんたが本当のことを言っているかどうかわからない。そもそも、さっきもあんたが自分で言ってたように、あんたがあの事件や鞠子の件と本当に関係があるかどうかも、私らにはわからないんだ」
「それ、知りたいかい」
「教えてくれるのかね?」
「ヒントくらいなら。だけど、無料ってわけにはいかないな」
金か。こいつの目的は金だったのか?
「いくら払えばいいのかね」
するとキイキイ声が大笑いをした。
「嫌だね、おじいちゃんたちの頭の古さがよくわかるよ。すぐに金のこと考えるのは、国が貧乏だったころに青春時代を過ごした世代の悪いクセだ」
「じゃあ、どうしろって──」
相手は少し考えるように間をおいた。だがそれはポーズであって、事前にこの問答を想定し、義男に何を要求するか、ちゃんと予定してあったのだろう、ややあって話し出したときには、まるで商売の取引をするときのようなてきぱきとした口調になった。
「僕はこれから、またテレビ局に電話をかける。このあいだとはまた別の局にしようかな。ひとつのところばっかり贔屓《ひい き 》にしちゃ悪いからね」
タレントにでもなったみたいなことを言いやがる──と、義男は思った。
「そしてこう言うよ。今夜のニュース番組に、もちろん生放送で、古川鞠子のおじいさんを出演させてくれって。そこでおじいさんが、鞠子を返してくれって犯人に懇願して、土下座をするからって」
義男は黙ったまま、受話器を強く握りしめた。
「あれ? 土下座は嫌なの?」
「いいや、やるよ、それぐらい何でもない。本当にあんたが約束を守って鞠子を返してくれるなら」
「僕を信じてよ」
「信じたいよ。でも、それにはやっぱり拠所《よりどころ》がないとな。あんたが本当に鞠子の居所を知っているという証拠を、何かくれないかね」
義男としては、思い切った駆け引きに出たつもりだった。が、相手はクツクツ笑った。
「おじいちゃんもなかなかやるね。バカじゃないね。僕、おじいちゃんが気に入ったよ。いいよ、その取引に乗る」
どうしようかな──と、ピクニックの計画を立てる子供みたいに楽しそうに呟いた。
「新宿かな……」
「新宿?」
「そんなにピリピリ切り返さないでよ。今考えてるんだからさ」
義男は黙った。リビングの壁の時計をちらりと横目で見てみた。午後五時。窓の外はまだ明るい。車の音も、人声も聞こえる
それに引き替え、義男のいるこのリビングは薄暗く、あまりにも静かだ。
ふと、この電話の向こうの人物──たぶんまず間違いなく男だ──こいつが電話をかけている部屋に、明かりはついているのだろうかと思った。どんな部屋なのだろう。最初のうち音楽が聞こえていたところをみると、ステレオかラジオがあるのだろう。そして電話機──煙草を吸っていたから、灰皿も。それとも、ビールやコーラの空き缶を灰皿がわりに使っているのか。
小ぎれいなマンションの一室なのか、古ぼけたアパートなのか。ひょっとすると木造モルタルの家の一室で、こいつが階段を降りていくと、階下の台所で母親が夕食をつくっているのかもしれない。話し方からして若い男のようだから、そんなことだってあり得る。長電話だったわねと母親が言う。それに応じてこいつは、うん、友達と話し込んじゃってさと言う。自分のしていることなどおくびにも出さずに、表向きは平和に、平凡に、無害に暮らしている。会社員? それとも学生? 今のこの段階では、たとえこいつと電車で隣に乗り合わせても、義男にはそれと知る術《すべ》がない。顔も形も知らず、肉声さえ聞いたことがないのだから。ああ本当に、電話線のなかに潜り込めたらどんなにいいだろうかと、義男は全身で考えた。
「よし、こうしよう」と、相手が言った。義男ははっと顔をあげた。
「新宿にね、プラザホテルってあるんだよ。西口の高層ビル街に。わかるかい?」
「大きなホテルなら、行けばわかるだろう」
「大丈夫かなあ。おじいちゃん、サンダル履きで行っちゃ駄目だよ。追い出されるよ」
「わかった」
「そこのフロントに、僕からのメッセージを預けておくよ。これからいろいろ準備するから──そうだな、七時に。七時にそのホテルに来てよ。早く来たって無駄だし、おじいちゃんがウロウロしてたら、僕はメッセージを届けないよ。だから時間は厳密に守ってね。それを読めば、次にやるべきことがわかる」
「それだけかね?」
「一度にいろいろ言ったって、おじいちゃんわからないでしょうが。こっちは親切で言ってるんだぜ。あ、それから忠告しておくけど、ゼッタイにおじいちゃん一人で来るんだよ。警察なんか連れてきたら、この取引はオシマイだ」
含み笑いをすると、相手は楽しそうに声を弾ませた。
「おじいちゃんが新宿の街で道に迷わないように祈ってるよ。スリに気をつけてね。じゃ、頑張ってくれよ」
それだけ言うと、電話は唐突に切れた。呼びかけてももう無駄だった。義男は手のなかで無機質な発信音を発する受話器を見つめた。にわかに、それが忌まわしく肌の冷たい動物であるかのように思えてきた。
新宿プラザホテルは、駅の西口からタクシーで五分ほどの場所にある高層ホテルだった。電話の主の忠告に従い、義男はポロシャツの上に上着を着て、きちんと革靴を履いていった。それでも、金色と白金《プラチナ》色でいささか過剰なくらい華やかに演出された広いロビーをまっしぐらに走って横切ってゆく義男の姿は、ホテルに出入りするほかの人びとの目を惹いたらしい。フロントを目指して進んでゆくあいだに、数人の客たちに振り返られ、好奇の視線を投げかけられた。
時刻はぴったり七時だ。義男一人だ。キイキイ声との約束は、きっちりと守っている。
もちろん迷った。腹の底が焦げそうなほどにあせって、取り乱して迷いに迷った。坂木に連絡しようか、捜査本部に知らせようか。何度も受話器をあげた。だが、結局はできなかった。もし悪質なイタズラだったなら、警察の貴重な時間を無駄に浪費させることになる。もし本当に犯人からの電話、犯人からの要求だったとしたならば、義男が約束を破ることで、手がかりを失ってしまうかもしれない。それ以上に恐ろしいのは、義男が約束を違《たが》えたことで犯人が怒り、まだ生きているかもしれない鞠子の命を縮めてしまうかもしれないということだ。
もっと以前にロビーで張り込んで、フロントを見張っていようという誘惑にもかられた。だが、相手はおそらく義男を知っている。おじいちゃんがロビーにうろうろしていたら、メッセージは届けないというのが、ただの脅しでなかったとしたら? そうしたら、義男が鞠子を殺すことになってしまう。
そう思うと、どんなに悔しくても気が急いても、ここは相手の言うとおりにしておくしかないと、思い決めた。ここでは義男の側に選択の余地などないのだ。
幅の広い一枚板のカウンターに取り付くと、息を切らしながら、義男は、いちばん近くにいた制服姿のホテルのフロント係に声をかけた。
「あの、なんですか、私あてにここに手紙が届けられているはずなんですが」
近寄ってきたフロント係は、目尻の下がった親切そうな顔の若い男で、取り乱した義男の様子に動じることもなく、穏やかに問い返してきた。
「失礼ですが、お客様のお名前は」
「ありま、有馬義男といいます」
「有馬様ですね」フロント係は繰り返すと、カウンターの下の仕切をのぞき込み、カードのようなものを何枚かめくると、つと手を止めた。「有馬義男様」義男の顔を見てもう一度確認すると、従業員は一通の封筒を取り出した。「こちらの封書でございます」
義男はカウンターに身を乗り出すと、従業員の手からひったくるようにして封書を取り上げた。手が震えた。
どこにでもある白い二重封筒だった。表書きに、ワープロの文字で「有馬義男宛」と印字してある。差出人欄は空白で、蓋はきっちりと糊づけしてあり、封のしるしに赤い大きなハートのマークが描いてあった。
義男はすぐに封を切ろうとしたが、封筒の紙質が丈夫なものであるうえに、手がぶるぶるして汗がにじんで、巧く開けることができない。封の蓋は、底意地悪いくらいがっちりと糊づけされている。見かねたのか、さっきのフロント係が進み出て、
「はさみをお使いになりますか」
「あ、ありがとう。拝借できますか」
銀色のはさみで、息苦しさに目がまわりそうになるのをこらえながら封を切った。なかには便箋が一枚、四つ折りにしてぺらりと入っているだけだった。義男はそれを取り出した。
白地に縦罫の便箋の中央に、やはりワープロでこう書いてあった。
「このホテルのバーで待て八時に連絡する」
義男はそれを二度続けて繰り返し読んだ。三度目に読み終えて、顔をあげた。さきほどのフロント係が、まだカウンターのすぐ向こうにいた。
「ここのバーは、何階ですか」
「メイン・バーの『オラシオン』は最上階の二十四階にございます」
「エレベーターはどっちに行けば──」
「右手奥のクロークの脇に直通エレベーターがございます」
義男はすぐにそちらへ向かおうとした。が、そのときになって急に大事なことに気づき、足を止めてフロントを振り返った。
「あの、この手紙ですね、どんな人が届けに来たかわかりますか」
「は?」と、相手は首をかしげた。「こちらのメッセージを届けにいらした方という意味でしょうか」
「はい、はい」義男は何度もうなずいた。
「何時ごろ来たでしょう。どんな様子のもんだったでしょう。たぶん、若い男だと思うんだけども」
フロント係は穏和そうな顔をちょっと曇らせた。「少々お待ちくださいませ。お受けしたのが私ではありませんので、係の者に聞いてみましょう」
「ありがとう、ありがとう」
義男が深く頭を下げると、禿げあがったおでこが音をたててカウンターにぶつかった。端の方で何かコンピュータみたいな機械を操作していた女性フロント係が、こらえきれなくなったようにクスクス笑った。ちょうど、鞠子と同年輩の女性だった。義男が彼女を見ると、彼女は笑いを引っ込め、目をそらした。
フロントの端に寄り、カウンターにすがりつくようにして立って待っているあいだ、数人の客がフロントに立ち寄り、鍵を受け取ったり、何か書類を書いて、荷物を従業員に持たせて客室に上がっていったりした。上等な背広姿のサラリーマンや、華やかなワンピースを着た若い女性。視線をロビーの方に向けると、そこにも楽しそうに談笑する人々や、アタッシェケースを足元に傾け、ソファに深く腰掛けて煙草をふかす紳士。ロビーの奥のラウンジは、明かりを落とし、各テーブルに蝋燭《ろうそく》を灯《とも》し、ピアノ演奏が始まり、席のあちこちにくつろぐ客たちの姿が見える。
きれいで贅沢で、なんの憂いもない景色だ。義男は呆然とするような非現実感を覚えて、自分はいったい何をやっているのだろうと思って、急に疲れた。こういう高級ホテルなんて、普段は足を踏み入れたこともない。有馬豆腐店が契約をしている得意客のなかに、小さい日本旅館はあるけれどホテルはない。豆腐組合の会合で使うホテルは、浅草とか秋葉原あたりの、もっとこぢんまりとしたところばかりだ。
あの電話の主は、義男がプラザホテルへやってきて、今のような場違いの感を覚えることを、ちゃんと予想していたのだ。サンダル履きで行っちゃ駄目だよ──なんて、よく言ったものだ。
さっきのフロント係が戻ってきた。彼より若い、まだ二十歳くらいの男の従業員を連れていた。同じホテルの制服を着ていたが、胸元にとめたバッジの色が違っていた。
「お待たせいたしました」フロント係は義男に会釈すると、隣の若い従業員を手で示した。
「こちらの者が承ったそうですが──」
あとを引き取って、若い従業員が言った。
「女子高生でした」
義男は耳を疑った。「はあ?」
「有馬様ですよね? 手紙を持ってきたのは女子高生でしたよ。制服を着ていたので間違いありません」
「女子──高生」
「はい。来たのは、今から五分くらい前のことだと思います」
義男は唖然とした。ほんのちょっと前のことじゃないか。ひょっとしたらホテルの出入口で、その女子高生とすれ違っていたかもしれない。──
「その女子高生、どこの学校の子だったか、わかりませんか」
「さあ……」若い従業員は首をひねり、何故かわからないがニヤニヤした。「制服は、どこのもみんな同じに見えますからね」
「校章とか、つけていませんでしたか」
「そんなこと訊いて、どうするんですか?」
ニヤニヤ笑いを続けながら、斜交《はす か 》いに義男を見て、若い従業員は訊いた。端にいる女性フロント係も、口元を押さえてまた笑い出した。
「どうって──ちょっと事情がありましてね。どうしても知りたいんです」
「わかりませんね」と、若い従業員は素っ気ない。「お泊まりのお客様のことならそれなりにつかめることもありますけど、そうじゃないようだし」
最初からいたフロント係の方が、彼に向かって、たしなめるような視線を送った。そうして義男に言った。「お役に立てなくて、申し訳ございません」
「いや、いや、いいんです」義男は首を振った。どうやら、諦めるしかなさそうだ。フロント係の方に頭を下げると、ロビーの中央に向かって歩き出した。
「あ、バーにいらっしゃるなら、エレベーターは反対側です」と、親切なフロント係が言った。義男は気づいて、あわてて方向を変えた。フロントでまた、抑えた笑い声がおこった。「エロじじい」と、女の声が小さく言った。義男に聞こえるように言ったに違いなかった。
最上階のバーのなかでも、義男は、米櫃《こめびつ》のなかに紛れ込んだ一粒の小豆《あ ず き》のような異分子で、そうであるが故に異様に人目を惹いた。何を頼んだらいいのかよくわからないので、水割りと言うと、ウイスキーの銘柄をざらざらと並べ立てられ、それもみんな聞き覚えのないものばかり、仕方がないのでいちばん最初に挙げられたものを選んだ。
居心地の悪さは相変わらずだったけれど、それ以上に頭が混乱していたので、周囲の人々の好奇の視線も、ウエイターのぞんざいな態度も、気にならなかった。そんな余裕などなかった。
──女子高生。
懐からあの手紙を取り出し、読み返してみる。端正で素っ気ないワープロの文字と、命令口調の文章。有馬義男「宛」と書く野放図な無礼さ。いかにも、電話で話したあのキイキイ機械声の主らしい。しかし、届けてきたのは女子高生だという。
──仲間なんだろうか。
あの電話の主は、どう考えても男だ。いくら声に細工しても、話し方でわかる。義男は長年客商売をしてきた。大勢の人間を見てきた。なかには信じられないような突飛な行動をとる人間もあった。とりわけここ五、六年のあいだに、一見しただけでは年齢も性別も判然としないような人間が増えてきた。
それでもやっぱり長年の勘で判ることはたくさんある。その義男が直感で思うのだ。あれは男だ。すると彼は独りではなく、ほかに協力者がいるのだろうか。それも女子高生の。だとすれば、そして彼らが本当に鞠子の失踪や大川公園の事件にからんでいるのだとすれば、今時の若い女子高生のなかには、誘拐や殺人や死体遺棄にまで関わるような娘がいるということになってしまう。
ふと、鞠子が高校生のころのことを思い出した。鞠子の入学した私立の女子高校も、制服はセーラー服だったが、義男の目には、少し襟刳《えりぐり》のくりが深すぎ、スカートの丈も短すぎるように思えた。直接鞠子にそれを言うのは気が引けたので、真智子に尋ねてみると、彼女もそう思うと言った。
「けど、最近はどこの学校でもみんなああいう感じらしいのよね。制服がおしゃれになってて、鞠子の学校だって、有名デザイナーのデザインした制服なのよ」
その分、金も余計にかかるのだと、真智子は笑いながらこぼした。
それでも、そのセーラー服は鞠子によく似合った。真智子が入学式のとき撮ったスナップ写真を一枚送ってくれたので、それを事務机のなかにしまっておいたものだった。木田がそれを見つけて、こんなに可愛く撮れてるんだから。壁に飾っておけばいいのにと笑った。そこまでするのはみっともないと、義男は言った。
テーブルの上に置かれた水割りの氷が溶けて、かちりと音がした。義男は時計を見た。バーへ上がってきてから、三十分以上が過ぎていた。
(八時に連絡する)
おそらく、電話をかけてくるのだろう。それにしても、なぜ一時間も気を持たせるのだろう。やきもきさせて楽しんでいるのだろうか。それを近くで観察していたりして──
はっとして、義男は周囲を見回した。バーのなかは薄暗く、観葉植物や衝立《ついたて》に遮られて見通しがよくない。義男はカウンターのいちばん端、従業員たちの出入口のそばの席に案内されて座っていた。こちらからはあまり見通しがよくない。しかし、その気になって見ようとすれば、ボックス席の方から義男を観察することは、それほど難しくなさそうに思えた。バーというのは、どこでもたいてい、こういう造りになっているのだろうか。
いくらきょろきょろしても、時間の無駄だった。若いカップル、ビジネスマンらしい男たち、外人客──たとえ、そのなかのどこかにあの電話の主が潜んでいたとしても、義男にはわからないのだから。黙って、ひたすらに溶けていく氷を見つめ、時が経つのを待つしかないのだ。
どこの誰であるにしろ、あの電話の主は、少なくとも時間には几帳面な気質であるようだった。義男の腕時計の針が午後八時二分をさしたとき、バーの奥のどこかで電話が鳴った。義男は身を堅くした。まもなく、ウエイターのひとりが、静かな声で客に呼び出しをかけた。
「有馬様、有馬様、お電話でございます」
義男が手をあげて立ち上がると、そのウエイターはちょっと驚いたようだった。本当にあなたなのかという顔をした。
コードレス電話の受話器が運ばれてきた。
「通話」の赤いボタンが点滅している。こういう電話器を扱い慣れていないので、義男はひどく緊張した。うっかり間違えて、電話を切ってしまってはいけない。
「通話ボタンを押してください。それでお話しになれます」と、ウエイターが言った。義男はボタンを押し、受話器を耳にあてた。
「もしもし?」と、低く呼びかけた。
あの機械音みたいな声が聞こえてきた。さっきの電話より、少し声が遠いようだ。
「やあ、おじいちゃん、愉快にやってる? ちゃんとホテルに着いたみたいだね」
喉が干上がったようになって、すぐには声が出せなかった。義男は空咳をした。
「ああ、バーにいるよ。手紙のとおりにしたよ。次はどうすればいいんだね」
「何を飲んでるんだい?」
「──水割りだよ」
「芸がないなあ」と、陽気に笑った。「そうか、何をオーダーすればいいかも教えておいてあげればよかったね。おじいちゃんがピンクレディなんかを頼んだら、ウエイターも驚いたろうけど」
「そんなことより──」
「まあ、急がないでよ。おじいちゃん、そこ居心地いいかい?」
「慣れないから、バツが悪いよ」
「そうだろうなあ。な? よくわかったろ?」
「何が」
「今の時代は、格好よくスマートでなかったら生きていけないってことさ。じいさんみたいに歳くってのろくさくなったら、生きていく価値なんかないんだよ」
義男は黙った。電話の主のなかに、不意に凶暴さが宿ったのをはっきりと感じた。
「じいさんなんか、一流ホテルじゃまともに扱ってもらえないんだ。いい経験になったろ?」
「あんた、私に何をさせたいんだね?」
「何もないさ。ただ、社会勉強をさせてあげようと思っただけだよ」
「手紙を届けに来たのは女子高生だったって、ホテルの人が言ってたよ。あんたの仲間かね」
すると、相手は爆笑した。「あれも、じいさんを楽しませるための仕掛けだよ。気にいった?」
「それより、次はどうすればいいんだね。ここでずっとしゃべっているわけにもいくまいよ」
「気が変わった」と、電話の主は冷たく言った。「じいさんとの遊びはこれで終わりだ。とっとと鞠子の家に帰りなよ。グズグズしてたら、目障りだってウエイターに追い出されるぜ」
そして電話は音をたてて切れた。
義男は疲れ果て、意気消沈していた。ただのいたずらに振り回されただけなのか、それとも事件と関係のある人物との接触だったのか、それさえわからないままにし損じてしまった──と思うと、自分の駄目さ加減に腹も立った。ホテルへ行けという指示を受けた時に坂木に連絡して、一緒に行ってもらえばよかったのかもしれない。独りで行動するのじゃなかった。坂木なら、もっと賢明な受け答えをして、相手を誘い出すことができたのじゃないか。
自宅に帰ろうと思った。ホテルからタクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げるときまではそう思っていた。ゆっくり休みたかった。だが、頭のなかで、消すに消せないままぐるぐると繰り返されている電話の主とのやりとりの、ある一節が心に引っかかった。
──とっとと鞠子の家に帰りなよ。
「とっとと家に」ではなく、「鞠子の家に帰りな」と言った。あいつは、鞠子の家が義男の家ではないことを知っていた。知っていて敢えてそう言うには、何か意味があるのではないか?
「運転手さん、すまんけど、行き先を変えてください。東中野に」
古川家の前でタクシーを降りると、義男は急いで玄関に走った。門灯は点《つ》けたままにしてある。鍵に異常はなく、窓もちゃんと閉まっていた。またこっちに電話がかかってくるのだろうか? 義男は急いでドアを開けようとした。
そのとき、ドアの脇の郵便受けから、封筒の端のようなものがはみ出していることに気が付いた。家を出るときには、こんなものはなかった。
義男は封筒を取り出した。ホテルに届けられていたのと同じタイプの白い二重封筒だった。中身が紙の類だけではなさそうな手触りがした。封はしてなかった。義男は封筒を開けた。
四つ折りの便箋が一枚と──女物の腕時計がひとつ、入っていた。黒い革バンドの、華奢《きゃしゃ》なつくりの、セイコーの時計。
考え込むまでもなかった。義男はその時計をよく覚えていた。今年の春の就職祝いに、彼が鞠子に買ってやったものだからだ。裏側に、鞠子の名前を彫ってもらった──
時計を裏返すと、門灯の明かりで読みとることができた。
「M・FurukaWa」
便箋には、ワープロの文字が並んでいた。
「これで僕が本物だってわかったろ?」
[#改ページ]
8
武上悦郎は写真を睨んでいた。
拡大鏡を右手に、鼻先を写真にくっつけるようにして目をこらしている。すぐ隣では部下の篠崎も同じ格好をしていて、その姿勢のまま、ふたりは時々、他者には意味不明の断片的な言葉を交わしていた。
「かわ──じゃないですかね」
「三本川のかわ[#「かわ」に傍点]か」
「ええ」
「そうかな。もう少し画数の多い──縦線が見えるような気がするんだが」
「ええ、見えますよね。でもそれって、この服の生地の柄じゃないですか。細かい縞柄《しまがら》というか」
「生地自体が畝《うね》織りになってるのかも」
「あ、それあり得ます」
「しかし、そんな制服があるかね? 制服の生地ってのは、もっとぺらぺらしてねえか」
「うーん……」
特捜本部になっている訓辞場のすぐ隣の、小さな会議室である。テーブルの上には無数の写真が散らばっている。ファイルも数冊積み重ねてあり、整理済みの写真はナンバリングした上で机の端に並べてあった。
この一連の写真は、秋津が聞き込みで見つけ出した素人写真家が、右腕が発見される前日の大川公園を撮影したものだった。手強《 て ごわ》いこの素人写真家を、武上が直々に出向いて説得し、ネガを借り出すことに成功したのが事件発生の翌日のこと。それから現像し、まずは画面に写っている車両のナンバーをすべて書き出して照会に回し、それから写真そのものの分析にかかった。
ふたりが今、雁首《かんくび》をそろえて取り組んでいる写真は、大川公園内の問題のゴミ箱のすぐそばに立つ、若い女性を写したものだった。手前はコスモスの花壇で、女性はその向こう側にいる。だから上半身しか見えない。しかも半身《はん み 》になっている。ただ、彼女が着ているのが一見して会社の制服とわかるデザインのベストスーツで、しかもベストの胸元に会社名らしい縫い取りがあるのが見えるのだ。で、武上と篠崎ふたりがかりで、なんとかこの縫い取りを解読しようと努力しているのである。
なぜ、この女性を特定することがそれほどまでに大切なのか。それは、彼女の写っているこの写真のなかに、問題のゴミ箱に近づいて行こうとしている──ように見える──黒っぽい人影が一緒に撮影されているからだった。残念ながら、この人影は樹木の陰に隠れているうえ、ピントもあっておらず、写真からは、服装や歳格好、顔かたち、性別などはまったく判別できない。おおよその身長だけは割り出せたものの、それも百六十センチから百七十センチという程度の確度のものだ。
ただし、それらの茫漠とした情報のすべてを押しやって、圧倒的に強い興味をかきたてるだけのものを、この黒っぽい人影は持っていた。文字通り、手に持っていた。ピンぼけのこの人物は、その左手に、どうひっくり返して見ても、逆立ちして見ても、茶色い紙袋としか思えない物体をぶら下げているのだ。そしてこの人物は、あのゴミ箱の方向に向かって歩いているように見える。
これが、発見された右腕がゴミ箱に投棄される直前の場面を撮影した写真である──と期待するのは、いささか早計であるように、武上は思う。そんな都合のいいことがあるわけはないと、常識的にもそう思う。ただ、往々にして思いもかけないような形で展開するのが捜査というものであるということを身に染みて知っている武上としては、しかもこの写真に残されている場面が場面であるだけに、放っておくわけには絶対にいかない。
この写真を写した素人写真家は、撮影当時、フレームのなかに入っていたこのふたりの人物──若い女性と正体不明の人影──を覚えているかと問われると、口を尖らせて怒りまくったそうだ。私は人物を撮ったわけじゃない、コスモスを撮ったんだ、というわけである。
「人なんか見ていませんよ。私は人物は撮らないんだ。嫌いだからね」
というわけで、公園での聞き込みと、この写真そのものが与えてくれる情報だけを拠所《よりどころ》にするしか手がなくなった。一枚を科警研に送り、コンピュータ分析にもかけてもらっているのだが、まだ回答が返ってこない。そこで、武上たちが原始的な拡大鏡片手に身を乗り出すことになったのだ。
女性の胸元の縫い取りさえ読みとることができたら、身元の特定はそう難しくない。一連の写真は事件の前日つまり九月十一日の午後三時から六時ぐらいにかけて撮影したものだそうだ。この日は平日だから、その時間帯なら、会社員はまだ勤務時間中だ。制服姿のこの女性も、そう遠くから大川公園に来ているはずがない。おそらく、社用で外出した行き帰りに公園を通り抜けたか、ちょっとサボって散歩した、という程度だろう。ごく近所の会社に勤める女性という可能性は非常に高いのだ。
「川繁──と読めませんか」
「しげるの繁だな」
「そうです、川繁──重機かな。ごちゃごちゃした漢字ですよね」
そのとき、会議室のドアにノックの音がした。武上が返事をすると、ドアが開いて秋津が顔をのぞかせた。
「事情聴取、終わりました。テープを持ってきましたけど」
「おう、ありがとう」
秋津はドアを押さえたまま、半身だけ会議室のなかに入れて、ちょっと声を落とした。
「ガミさん、会ってみませんか」
「誰に」
「決まってるじゃないですか。じいさんにですよ。やっぱり直に話を聞いてみた方が、会話の再現が巧くいくんじゃないですかね」
武上は壁の時計を見た。火曜日の午後二時過ぎ。
「じいさんはまだいるのかい」
「ええ、取調室の方に残してあります」
「警部はなんだって?」
「ガミさんが会いたいなら、そうしたらいいって」秋津はちょっと顔をしかめた。「じいさん、かなり参ってますよ。無理もないけど。なんか可哀想になりましたね」
武上は迷った。剛毅な秋津が可哀想がるような状態の人物に、あまり会いたくはない。被害者の遺族や事件の関係者と顔をあわせる機会が極端に少ない──ということも、武上がデスク仕事を好んでいる理由のひとつなのだ。
「ホテルや古川家の方の捜査は進んでるんだろ」
「ええ。僕もこのあとは現場です。プラザホテルの方でね。手紙を届けに来た女子高生を特定しないと」
「犯人は周到な野郎だ」と、武上は言った。「その女子高生は、たぶん駅で声をかけられて、小金をもらって引き受けたんだろう」
「俺もそう思いますよ。一味じゃないだろうな。ただ、だとしても、この子は犯人と直に接触してますからね。貴重な証人だ」
秋津は険悪な顔で、手にしたカセットテープを見おろした。「それにしても、こいつを聞くと胸が悪くなりますよ。犯人の野郎、七十のじいさんをいたぶって楽しんでやがる」
昨日の出来事である。大川公園の事件に関連があると思われる失踪者・古川鞠子の自宅に、一連の事件の犯人とおぼしき人物から電話がかかってきた。ちょうど居合わせた鞠子の祖父が電話をとり、犯人の要求に従って行動したのだが、結局相手の正体をつかむことはできなかった。
ただし、大きな収穫はあった。古川鞠子の祖父が帰宅してみると、彼女の腕時計が郵便受けのなかに投げ込まれていたのである。
言ってみれば、これは犯行宣言だ。大川公園の右腕と古川鞠子の失踪とは関連があり、おそらくは同一犯もしくは同一犯行グループの仕業であると、推定や憶測ではなく、もう完全に断定してもよくなった。
(それにしても、なあ)
武上はほぞを噛む思いだった。古川鞠子の家の電話機に、録音機を設置しておくべきだった。テレビ局への電話の件があったあと、ちらりと考えないではなかったのだ。早く神崎警部に進言しておけばよかった。ただ、古川家は母親も入院し、留守宅になっていると聞いたし、テレビでもそれが派手に報道されたので、犯人が古川サイドに接触してくる可能性は薄いと考え直してしまったのだった。
武上がこのプラザホテルでの一件について知ったのは、昨日の夜のことである。すぐに、仮眠をとっていた篠崎を叩き起こして、ふたりで、大川公園の事件発生以降の報道番組・ニュースショウ・ワイドショウをすべて録画したビデオを片っ端から観た。そうして、どの番組でも、古川鞠子の父親のフルネームを報道していないこと、住まいが東中野であることは言っているが、番地までは画面中に出していないこと、鞠子の祖父が古川の留守宅に時々立ち寄っていることも報じてはいないことを確認した。
ということは、だ。
まず、犯人はどうやって古川家の電話番号を知ったか。いちばん考えやすいのは、鞠子がその種の情報が記載されているものを所持していて、それが犯人の手に渡っている──という場合だ。これについては、入院中の鞠子の母親がまだ事情聴取に応じられる状態ではないので、多少不確かな部分がある。ただ、鞠子の自室の机の引き出しからは、彼女の健康保険証が出てきた。彼女はまだ運転免許を持っていなかった。勤め先の銀行の社員証には、社員個人の住所や電話番号は記載されていない。鞠子の部屋の引き出しには、小さな電子手帳もあった。友人や知人の個人情報が几帳面に入力されており、彼女が自室に引いていた専用電話の電話番号と、留守番電話用の暗証番号も入っていた。おそらく、いつもは持ち歩いていたのだろう。失踪当日は、たまたま持って出るのを忘れてしまったのだと思われる。さらに、犯人は彼女の定期入れを大川公園に捨てている。つまり、捨てる以前はそれを持っていたわけだが、定期には姓名・年齢・性別は記入されるが、住所は記載されない。ほかに、自宅の所番地を記入するもので、若い女性が身につけていそうなものは、ちょっと見あたらないのではないか。
次に考えられるのは、東中野の古川茂の名前で一〇四に照会をかけることだ。古川茂は古川家の世帯主で、電話は当然この名で登録されている。しかし、古川鞠子の父親の名前が報道されていないのでは、おそらく犯人もこの手は使うことができなかったはずである。「古川」の姓だけで、所番地を正確に告げて照会するという手段についても同じだ。犯人が事前に鞠子の家の所番地をつかんでいなければ、この手は使えない。
ただし、このケースでは例外がふたつある。ひとつは、犯人が鞠子のごく親しい知人である場合。もうひとつは、犯人が鞠子を殺害する以前に、あるいは監禁中(現在もそうかもしれない)に、彼女から彼女の個人情報を聞き出しているという場合である。
次には、中野区の「古川」を電話帳で調べ、端から電話をかけて、該当する家を探すという手段。しかし、捜査本部で同じことをやってみた結果、中野区内の他の「古川家」にはその手の問い合わせ電話は一本もかかっていないということが判明し、この線は消えた。
捜査本部では、今朝早くから、古川家の近辺に多くの人員を動員し、集中的な聞き込みをかけている。昨夜のプラザホテルでの一件は、時計を届けにゆくあいだ、鞠子の祖父を古川家から遠ざけておくためのトリックであったと考えていいだろう。犯人もしくは犯人グループは、昨夜午後六時二〇分から八時までのあいだに、古川家を訪れている。目撃証言がとれれば、捜査は大きく前進するだろう。報告書や調書があがってくるのを、武上は心待ちにする思いだった。
武上は、手近に置いてあった青い表紙のファイルを取り上げた。他のたくさんのファイルと違い、これだけはまだ表題をつけていなかった。なかには、例のテレビ局にかかってきた電話を始めとして、今度の事件に関して報道機関や捜査本部にもたらされた様々な一般からの情報──自分がやったという酔っぱらいの告白から、隣の浪人生が怪しいという主婦の通報まで──が、すべてワープロで文書にして綴じ込んである。今や、このファイルをふたつに分ける時が来た。ひとつは、野次馬的な雑情報のファイル。もうひとつは、テレビ局宛の電話の記録を筆頭に、今秋津が持ってきたテープから起こす文書を二番目に綴じ込み、表題をつけたファイル。
「事件関係者からの間接的な接触」と。
「会ってみるかな」ファイルを見ながら、武上は言った。
「じいさんにですね?」
「うん。じいさんじゃ失礼だ。お名前は──俺はまだ聞いたことがなかったな」
「有馬さんですよ。有馬義男。じゃ、呼んできます」
秋津が姿を消すと、篠崎が言った。「僕もいていいんでしょうか」
「うん。記録を取ってくれ。こっちでもテープを回そう」
「はい。じゃ、準備します。それと、これどうしましょう」
写真の件だ。
「おまえさんの目に賭けよう。川繁重機で調べてみるように、本部に報告してくれ」
「重機の方は自信ありませんが、川繁は確かだと思います」
「やってくれ、やってくれ」
篠崎が眼鏡をかけなおしながら出ていくと、武上は大きく背伸びをして椅子から立ち上がり、ふと気が向いて、会議室の隅に据えてある小型テレビのスイッチを入れた。ここは打ち合わせや休憩にも使われることがあり、報道番組を観るときなどのために、テレビが置いてあるのだ。
ちょうど午後のワイドショウの時間帯だった。プラザホテルの前にレポーターが立ってしゃべっている。武上は灰皿を引き寄せて、テレビの方へ乗り出した。
画面が切り替わり、ホテルの制服を着た女性が映った。レポーターがマイクを差し出している。
「じゃ、あなたはそのときフロントにいたんですね?」
「はい、そうです」
「どんな女子高生でした?」
「うーん……そうですね、小柄で、どこにでもいるような感じでした」
「特に派手とかそういうことは」
「なかったですね」
ついで、彼女の隣に立っている、同じホテルの制服を着た若い男性にマイクが向けられた。
「あなたはその女子高生から手紙を受け取って──」
レポーターを遮るようにして、若いホテルマンはしゃべりだした。「そうなんですよ、びっくりしてますよ。こんなことになるなんて。もっとよく顔を見ておけばよかった」
「あとで有馬さんがいらして手紙を渡したときも、いたんですよね?」
「ええ、気の毒でたまりません。本当に、もっとお役に立てればよかったんですが」
同僚の女性も、沈痛そうな顔でうなずいている。なんだか目が潤んでいるようだった。
と、出入口の方で声がした。笑い声のようだった。
武上は顔をあげた。ずんぐりと小柄な、頭の禿げた老人が立っていた。ポロシャツの上に灰色の上着を着て、胸ポケットから煙草の箱をのぞかせている。
笑っていた。明るい笑いではなかった。くたびれたような、暗い目をしていた。
「この人らは、昨日は私のことを『エロじじい』なんて言いおったんですよ」と、テレビ画面に向かって言った。
武上は椅子から立ち上がった。「有馬さんですな?」
老人はうなずいた。「そうです。お世話をおかけしとります」
ちょっとばかり、俺の親父に似ている──と、武上は思った。背格好が。特に猫背気味のところが。先年亡くなった武上の父親は、結婚が遅かったので、有馬義男よりずっと年長だった。が、今の有馬は、彼の実年齢よりも遥かに老け込んで見えた。
[#改ページ]
9
身支度をして外出する間際まで、前畑滋子はテレビを見ていた。突っ立ったまま、ほとんど釘付けになっていた。
大川公園の事件は、劇的な展開を見せつつあった。昨日の夜、あの事件で遺留品のハンドバッグのみが発見されていた古川鞠子の家族に、犯人とおぼしき人物が接触してきたというのだ。相手をしたのは鞠子の祖父で、犯人は彼を振り回した挙げ句、自分が本物であることを証拠づけるために、古川鞠子の腕時計を返して寄越した。
おかげで、今日は朝から、ニュース番組でもワイドショウでも、まさに狂ったようにこの話題ばかりを報道している。特別番組を組んでいる局もあった。そして滋子もそれに見入っているというわけだった。
──いったい、この犯人はどういう人物なんだろう?
テレビ番組のなかでも何度となく問われている疑問を、滋子も頭のなかで繰り返していた。そして、やはりテレビ番組のなかでそうしているのと同じように、判り切った答を出していた。
──残酷で、意地悪で、冷血な殺人犯。
ここでもっとも大切なのは、「意地悪」という要素だ。残酷無比な犯罪は、過去にもたくさん発生している。冷血そのものの犯人だって、数多く存在している。けれども、自分が手にかけた被害者の遺族に、こんな悪質ないたずらめいたことを仕掛けてくる犯罪者は、かつて我が国にはいなかったのではないか。
──こいつの目的は何なんだろう? 最終的な目的は?
古川鞠子の祖父は、犯人からの接触を受けたとき、最初のうちは、鞠子を返してやるから代わりに金を払え、と要求されるのではないかと思ったと述べているという。実際、それならば筋は通る。金銭目当ての行為であるならば。
だが、犯人は金を要求してはこなかった。ただ、孫娘の身を案じている実直な老人を、好き放題に引きずり回しただけだ。では、最初からそれが目的だったのだろうか? 古川鞠子の家族をいたぶることが?
──何のために?
その疑問は、アパートを出て駅まで歩いているあいだも、電車に揺られているあいだも、電車を降りて朋友社まで歩いているあいだも、滋子の頭のなかの、本人にはけっして広いとは思えない思索場所いっぱいに踊り狂っていた。その不愉快なポルカは、滋子の頬を強《こわ》ばらせ、目に険悪な光を帯びさせ、くちびるの線を歪めさせた。朋友社の受付を通り、待ち合わせ場所である一階奥の喫茶室のテーブルに座り、コーヒーをオーダーし──そのあいだじゅう、滋子はずっとその状態だった。だから、
「おいおい、どうしたの? 凄い顔してるじゃないか」
と声をかけられたのも、まあ無理のない話だった。
「編集長……」滋子はようやく我に返り、席から腰を浮かせた。「ごめんなさい、考え事をしてて」
「何を考えてたんだよ。久しぶりなのに、なんだか抗議でもしに来たみたいな顔だよ」
穏やかに笑いながら、板垣が滋子の向かいに腰をおろした。
現在の板垣は、この朋友社が十月に創刊する文芸雑誌の新雑誌準備室に所属している。そのことは、昨日、彼に電話をかけたときに聞かされた。「文芸雑誌?」と問い返した滋子に、板垣は大笑いをしてみせた。
「俺には小説なんかわからないと思ってるんだろう? いや、確かにわからないんだよな、これが。だから困ってるんだよ」
そして、ちょっとお目にかかりたいのだけれどという滋子の申し出に、ふたつ返事でうなずいてくれたのだ。いいよ、どうせ暇なんだから、と。
滋子はつくづくと板垣を観察した。『サブリナ』廃刊後、最後に彼に会ったのは滋子の結婚披露宴の時だった。その当時と比べるとわずかに痩せたようだが、四十代半ばという板垣の年齢を考えたら、妙に太るよりは痩せた方がいい。
「ホントに久しぶりだね、シゲちゃん」煙草に火を点けながら、板垣は言った。「『ハウスキーピング』の料理のコラム、ずっと読んでるよ。相変わらず気持ちのいい書き方をしてるね」
滋子は軽く頭を下げた。「ありがとうございます。やっぱり編集長に誉められると嬉しいですよ」
「編集長はよしてくれよ」と、板垣は笑って手を振った。「俺は今んところは無役だし、新雑誌が立ち上がっても編集長にはなれないからさ」
「ホント? そんなことはないでしょ。『サブリナ』のほとぼりだってもう醒めただろうし……。それに、『サブリナ』はいい雑誌でしたよ」
「俺だってそう思ってるよ。でも、俺は元々あんまり上の受けがよくないしね」板垣は指を立ててビルの上階の方を指した。「またシゲちゃんと仕事をしたいけど、文芸誌じゃシゲちゃんの使いどころが難しいし、それに俺には権限がないしなあ」
板垣の口調のなかに、かつてはなかった自虐的な感じが──ほんのわずかだけれど──混じっている。電話では気づかなかったけれど、こうして顔を合わせてみると、板垣の気力の弱りみたいなものが、滋子には感じられた。
滋子が昭二と結婚し、新しい家庭生活を築くことに夢中になっているあいだに、板垣の身辺に何かあったのだろうか。それとも何もなかったのか。板垣が期待しているようなことが。そういえば、ずっとショートホープしか吸っていなかった板垣なのに、今、指先でくゆらせているのはマイルドセブン・ライトだ。なんだかそのことも、板垣の立場と彼の気力の低下を象徴しているように、滋子には思えた。
そして唐突に、今まで考えもしなかったことを考えた。それはすぐに滋子の口をついて出た。
「そうか、今日あたしが相談に伺った件は、もしかしたら編集長にとっても大きな仕事になるかもしれないんだわ」
独り言みたいな言い方だったので、板垣は妙な顔をした。
「何だい?」
滋子はテーブルに両手を載せ、わずかに身を乗り出した。「一年以上前になりますけど、あたしが持ってきたルポの原稿のこと、覚えてます?」
そうして話し始めた。順を追って事情を説明していくうちに、椅子に寄りかかっていた板垣は、座り直し、煙草を消し、滋子と同じような姿勢になっていった。
──乗り気なのかしら?
東中野署の坂木刑事が手のひらを返したように冷たくなり、情報もとれなくなった、この種の刑事事件のルポをまったく手がけたことがないので、次にどういう手を打ったらいいのかまったくわからず、立ち往生している──というところまで話し終えると、滋子はようやくひと息ついて、すっかり冷たくなってしまったコーヒーを飲んだ。
板垣は、鼻からふうっと息を吐いた。
「いやしかし……驚いたな」と、首を振り振り、「偶然てのはあるもんだね」
「ええ、ホントに。あたしもびっくりしました。まさか自分が書いていたルポの女性が今度の事件に関わってくるなんて……」
板垣は滋子を見た。「え? ああ、そうだね、それもとんでもない偶然だ。だけど、俺が今言ったのはまた違う意味でね」
「違う意味?」
「うん」板垣は煙草のパッケージを探った。空だった。彼はそれを灰皿の脇にぽんと置き、顔をあげた。
「シゲちゃんも覚えてるだろう? 前にそのルポの原稿を見せてもらったころは、俺は『シルバーライフ』にいたんだよ」
朋友社で出している、文字通りシルバー世代向けの月刊誌の編集部である。
「ええ、覚えてます」
「ずっとあそこでデスクをやってて、今の新雑誌準備室へ異動したのはつい先月のことなんだ。まあ、それでもって現在の俺の立場も推して知るべしってところだけど、それは関係のない話だ」板垣は苦笑した。「『シルバーライフ』は、どう贔屓目《ひい き め 》に見ても成功した雑誌とは言えない。『サブリナ』の半分も売れてないよ。なんで廃刊にならないのかさっぱりわからん」
滋子は黙って板垣の顔を見ていた。それに気づいて、板垣は目をしばたたかせた。
「ごめん、これもどうでもいい話だ。で、何を言いたいかというとね、その『シルバーライフ』で、防犯についての特集を組んだことがあるんだよ。セキュリティ会社のサービス内容の現状についてとか、地域的に独自の防犯活動をしている自治体の紹介とかね」
「それは、お年寄り世帯のためにですね?」
「うん。きっかけになったのは、阪神大震災でね。ほら、独り暮らしの老人が被災するケースが多かったろう? それで、春の特集号で、主に地震や火災・水害に対する老人世帯の備えというのをやったんだ。それが評判がよくて、第二弾を考えているときに、物騒な事件がいくつか続いて起こった。去年の秋だったけど」
ひとつは、埼玉県内で、資産家の夫妻が強盗に射殺されるという事件だった。銃器を使った凶悪犯罪で、大きく報道されたものだが、その事件の衝撃も収まらないうちに、今度は、都内で、独り暮らしの老女が、押し入ってきた強盗に金品をとられたうえ、放火されて焼殺されるという惨《むご》い事件が起こった。
「編集部でも、ちょうど企画を詰めているときでね、こうなると、天災に対する備えの次は、人為的な犯罪に対する防犯だなということになった。で、取材を続けているうちに、みっつめの大事件が発生したわけだ」
千葉県佐和市の教師一家殺害事件である。
「ひどい事件だった。シゲちゃんは覚えてないか?」
滋子は首をひねった。去年の秋──
「十月の中旬だったよ。犯人はすぐ捕まった。そういう意味では、犠牲者の数が多かった割に、粗末な事件だったと言ってもいい」
「もしかして……父親と母親と、たしか中学生ぐらいの女の子が殺された?」
「そうそう、そうだ、胸くそ悪くなるようなやり口だった」
滋子は思い出し、ゆっくりとうなずいた。昭二と新婚まもなくのころで、彼が口うるさく「ああいうひどい事件もあることだし、戸締まりをしっかりしろよ」と言っていたっけ──
「殺された教師一家は四人家族で、市内の分譲マンション住まいだった。両親はふたりとも都内の私立の中学校で働いていたんだ。子供がふたりいた。高校生の長男と、中学生の長女。ただ、この長女は、両親のいる学校ではなく、地元の公立中学に通っていた。それが事件のミソだったわけなんだが」
事件が起こったのは、昨年十月半ばの週末、金曜日の夕方のことだった。両親はまだ勤めから帰らず、中学生の長女がひとりで留守番をしているところに、きちんとスーツを着た中年の男がひとり、手に菓子折を下げて訪ねてきた。応対した長女に、男は言った。
──あなたのお母さんに担任してもらっている、うちの息子のことで相談したいことがあって伺った、突然で申し訳ないが、とても困っているので、ぜひ話を聞いてほしい。
事情を聞いた長女は、快くその男を家にあげた。母親はまもなく帰ってくる予定だったし、男の態度は丁寧で、物腰も柔らかく、いかにも息子のことで頭を痛めている父親という印象を受けたから、少しも疑わなかったのだ。むしろ、同情さえしていた。
ところが、居間に通されると、中年男の態度は豹変した。長女を襲って、上着のポケットに隠し持っていた紐で縛り上げると、台所から包丁を持ち出してきて、おとなしくしないと殺すと長女を脅しつけた。
中年男は、長女を床に転がすと、どこかへ電話をかけた。と、まもなくふたりの若い男がやってきた。彼らは中年男の仲間であり、どうやら、今まで家の近くで見張っていたらしい。若い男たちはそれぞれナイフを持参してきており、長女の首にそれを突きつけて、すぐにはその存在を悟られないよう、一緒に奥の寝室に身を隠した。助けを求めたり、これから帰ってくるであろう両親と長男に警告したりする術は、まったく封じられてしまった。
そこへ母親が帰ってきた。娘を人質にとられた母親は、抵抗する術もなく同じように縛りあげられた。三十分ほど後に帰ってきた父親も同じだった。三人は縛りあげられ、恐怖に震えながら、三人組の強盗の前に為す術もなくすくみあがっているしかなかった。
三人組は、すぐには行動を起こさなかった。長男を捕らえてしまうまで待つつもりであるようだった。ところが、夜八時近くまで息を殺して待っても、長男は帰ってこない。しびれを切らした三人組は母親を問いつめ、長女を殺すと脅迫して、とうとう白状させた。長男は隣町にある友人宅に遊びに行っており、今夜は泊まる予定になっている、と。
本当はそうではなかった。この友人宅はレストランを経営しており、実際には、長男は遊んでいるのではなくアルバイトをしており、夜十時には帰宅することになっていたのだ。が、泊まると言っておけば、この連中も長男のことは諦めるかもしれないと、母親は思ったのだろう。彼らがこれから何をするつもりであるにしろ、その計画から、長男だけは逃れさせることができるかもしれないと。
事実、そうなった。
「三人組は、貯金通帳や印鑑を出させ、金目のものを物色し終えると、三人を殺した」と、板垣は言った。「計画では、一家を四人とも殺し、夜中になって人目がなくなったら、何事もなかったように立ち去るはずだった。そして月曜日に銀行が開いたら、即座に行動して、引き出せるだけの金を引き出す。周囲の人たちが、教師一家に異変があったことに気づいて事件が発覚するまでには、月曜日いっぱいはかかるだろうというのが彼らの目算だった。だからこそ、週末を選んで押し入ったんだ」
そういう計画ならば、長男の帰りが金曜の夜であろうと土曜の朝であろうと、大した差はない。彼らは死体の傍らで息をひそめ、殺害現場に腰を据えて、長男の帰りを待つことにした。このとき、教師一家が一戸建ての家ではなく、大規模マンションの住人であったことも災いした。近所づきあいが希薄で、「プライバシーを尊重する」防音設備の良さを売り物にしているマンションの。
「誰も、何も気がつかなかった。やがて長男の帰宅時間がくるまではね」
それにしても、ずいぶんと大ざっぱな計画だと、滋子は思った。
家族の身柄を拘束し、殺害し、そのまま立ち去る──しかしその後、週末のあいだに、誰かが彼らの遺体を発見しないとは限らない。友人や親戚が訪ねてくるかもしれない。電話だってかかってくるだろう。誰かが、教師一家のまったく応答のないことを不審に思うかもしれないではないか。そうして発覚し、事件が表沙汰になり手配されれば、預金通帳もキャッシュカードも使えなくなる。複数の人間を殺したにも関わらず、目的はまったく達成されないことになるのだ。
滋子がそれを口にすると、「そのとおりだよ」と、板垣はうなずいた。
「この事件には、妙に計画的なところと成り行き任せのところが混在している。稚拙と言えば稚拙きわまりない。実際、三人を殺した後の展開もそうだった」
教師一家の長男が週末だけのアルバイトをしていたのは、アルバイト先のそのレストランが、週末は非常に忙しいからだった。だから、一応十時までという取り決めはあったものの、十一時近くまで残業することもよくあった。そんなときは、長男は必ずその旨を家に電話連絡し、アルバイト先の主人や従業員が、彼を家まで送り届ける習慣になっていた。
「さっきも言ったように、このレストランは、長男の友人の家だった。家族ぐるみの付き合いで、お互いによく知っていた。だから教師夫妻も安心してアルバイトにも行かせていたし、帰宅が遅くなったときも、遠慮なくそういう配慮をしてもらえたんだ」
そして事件の夜も、長男は残業することになった。
「十時ちょっと前に、彼は家に電話をかけた」と、板垣は続けた。「教師一家の電話には留守録音装置がついていたので、犯人の三人組は、電話を留守モードにしておいた。長男は、留守電が応答するのを聞いて、みんなで出かけているのだろうか、外食だろうかと思ったと、警察に話したそうだ。そこで、帰宅が遅れることと、レストランの主人つまり友人の父親が車で送ってくれるということをテープに吹き込んだ」
犯人たちは、モニターを通してその留守録音を聞いていた。
「彼らは混乱した。実にまずいことになったと、大慌てしたんだ」
眉をひそめながら、滋子は言った。「長男と、彼を送ってきた友人の父親を一緒に殺してしまえばいいじゃないかというふうには考えなかったわけですか?」
「当然考えたろうさ。だけど、そんなことをしたら、いったいどうなる?」板垣はちょっと肩をすくめた。「レストランを経営している友人宅は、友達を送って行ったはずの父親がいつまで経っても帰ってこなかったら、絶対にヘンだと思うだろうさ。そして訪ねてくるかもしれない。で、訪ねてきた者をまた殺す? きりがない。しかも発覚の危険はものすごく大きくなる」
「そうですね……」
「そこで彼らは決断した。この計画は失敗だ、ずらかるに限ると。しかも、これもまた稚拙であり雑であり妙ちきりんなところだけれど、現場をそのままにして逃げ出したんだよ」
滋子は目を見張った。「そのままにして? 死体を放り出して?」
「そうだ。隠すことも、運び出して発覚を遅らせることもしなかった。そうと決めたらもうなりふり構わず、どたばたと逃げ出した。だからこの時は、マンションの共同通路を逃げて行く彼らの足音や話し声を、近所の住人たちが聞いている」
「だけどそれじゃお金は──盗れなかったわけですね」
「犯行当時に教師一家の住まいに置かれていた現金二十万円ほどを盗っただけだったそうだ。通帳やカードも置いて行った。使えない以上、盗んでも仕方がないと判断したんだろうな」
「だけど三人も殺しておいて……」
「お粗末すぎて話にならないだろう? 尋常じゃないよな。手口が残虐な割に、目的に対する執着心がびっくりするほど欠けている。こんな事件、ほかにはちょっと見あたらないと思うよ」
三人組が逃げ出したあと、長男が帰ってきた。何も知らず、何の心構えもないまま。
滋子は胸の底が冷えるような気持ちがした。ドアを開けて、高校生の彼は最初に何を見たのだろう? 血痕か? それとも、もっと悲惨で具体的なものだったか。
板垣の口調も重くなった。「あまりにも可哀想すぎるというほかに、言葉がないよな」
「──独りだけ生き残ったんですね」
「運良くね。幸運にもね」
しかし板垣の顔には、もしも自分が同じ立場に置かれたら、それを「幸運」とは思わないと書いてあった。滋子は、生き残った高校生の長男も、きっと同じ心情にあるだろうと思った。
「犯人は半月くらいで捕まったっておっしゃいましたよね。私もそれを新聞で読んだ記憶があるけど……。何がきっかけで逮捕されることになったんですか? 目撃者でも?」
「それが、これまたこの犯行グループの稚拙なところでさ」板垣は苦笑した。「いや、笑い事じゃないんだけどね。犯行に及ぶ前に、彼らは数回、この教師一家の住むマンションに下見に来ていたんだ。そのときは、彼らの自家用車を使った。ちなみに、犯行当日はレンタカーを借りてきてたんだけどね」
そしてその下見の時、マンション敷地内の駐車禁止区域に車を停めていた。
「当然、常駐の管理人が見咎《 み とが》めて、どこの車だろうと気にしていた。駐車禁止区域に車があることで、苦情も来ていた。でも、住人の誰かを訪ねてきた客の車である可能性も高いわけで、すぐに抗議するわけにもいかないし、管理人としては、違法駐車があまり度重なるようだったら注意を促しますと約束する程度のことしかできなかったんだ。ただ──」
板垣は人差し指を立て、ちょっと目を細めた。
「ただ、この用心深い管理人は、大切なことをひとつやっておいた。その車のナンバーを書き留めたんだ」
そして、事件後それを思い出した。警察は事情を聞き出し、車を洗い出し、AとBとを結びつけてC地点へ行ってみたら、そこに犯人の三人組がいたというわけだ。
思わず、滋子はため息をついた。なんという悲惨で馬鹿らしい事件だろう。
「当時はずいぶん話題になった事件だったけど、今はまったく報道されていないね」と、板垣は言った。「たぶん、もう裁判が始まっているはずだけど……」
「生き残った長男はどうしてるのかしら」
滋子の呟きに、板垣があらためて身を乗り出した。「そうなんだよ。彼の消息、どうなってると思う?」
滋子はきょとんとした。板垣の目が輝いている。
「おいおい、しっかりしてくれよ。そもそも、何のためにこの事件の話を始めたんだっけ?」
そうなのだ。この事件の話は前置きだったはずなのである。
「とんでもない偶然がどうとかって……」
「そうさ。驚かないでくれよ」板垣は芝居がかって声を低くした。「この高校生の長男君が、大川公園の事件で右腕を見つけたんだ。彼が第一発見者だったんだよ!」
滋子はちょっと声を失った。話の脈絡を見失ったような気がした。
「な……なんですって?」
「だから驚くなって言っただろ。彼が、シゲちゃんを巻き込んでる今度のバラバラ事件の死体の最初の発見者なんだ。彼は未成年だし、関係者といっても単なる発見者だから、今はまだ彼のことはマスコミには伏せられている。放っとけばそのうちかぎつけられちまうだろうけどね」
板垣は気を持たせるように間《ま》をおいて、微笑した。
「でも偶然はこれだけじゃない。まだある。これこそシゲちゃんに直に関わりのある偶然だ。俺をびっくりさせた偶然だ。というのはね、俺はこの一連の話を、昨日、まさに昨日だぞ、この喫茶室で、『シルバーライフ』時代に一緒に仕事をして、この防犯特集で組んでいたライターから聞かされたんだよ」
滋子は目を見張った。「本当ですか?」
「ホントさ。嘘なんかつかないよ」
板垣はまともに滋子を見つめている。滋子も見つめ返した。
そして言った。「そのライターさんは、私の知っている人ですか?」
「知らないと思うよ。成田っていうベテランライターだけど、俺も『シルバーライフ』で初めて組んだんだ」
「それでその成田さんは、教師一家の事件を今でも取材してる?」
「いや、していない。『シルバーライフ』の防犯特集の時に関わったきりだ」
「じゃ、今度の大川公園の事件については?」
「関心がないようだった。ライターとしてはね。彼はそういうタイプじゃないんだよ。ただ、この偶然に驚いていただけさ」
滋子はほっとして椅子に寄りかかった。
「実は彼、佐和市の事件の当時に、問題の長男に会ってるんだ」と、板垣は続けた。「もちろん『シルバーライフ』の取材でね。ほとんど何も聞き出せなかったそうだけど、とにかく会ってはいる。それも何度かね」
滋子はうなずいた。ハンドバッグから煙草を取り出し、火を点けようとした。
「俺にも一本くれないか」と、板垣が言った。ふたりは黙って煙草をふかした。
やがて、滋子は言った。「それでわかりましたよ、昨日と今日、続けて大川公園の事件の話を聞くなんて、ホントに偶然ですね」
「うん」
「だけど、それでわたしがどうこうってことは──」
「どうだろうね」板垣はとぼけた。滋子はそうっと彼の顔を仰いだ。
「シゲちゃん、どのくらいのやる気があるんだい?」
「やる気?」
「ああ。この先、大川公園の事件に対する取材合戦は壮絶なものになるだろうと思うよ。昨日今日の展開から見て、こいつは前代未聞、空前絶後の事件になりそうだからね。はっきり言って、何の後ろ盾もないシゲちゃんが、そのなかで互角にやっていけるとは、俺は思わないな」
滋子は顔をあげた。だけどあたしには、今まで書いていた女性たちのルポがある──
「書きかけのルポなんか、なんの価値もない」と、板垣はにべもなく言い放った。「問題は、これからどうするかだ。どういう切り口で、シゲちゃんがシゲちゃんだけのルポを書くか。俺はその原稿を見てみない限り、何も言えない。何の約束もできない」
「──判っています」
「ライバルはそこらじゅうにいるぞ。だいいち、新聞や週刊誌の記者たちが、いちばん現場に近いところにいる。彼らこそ最前線だ。彼らと同じように取材して書いていこうなんて思ったら、百年経っても追いつけないだろうな」
そう、それは事実だった。
「いいかい、シゲちゃんだけの裏道を探さなきゃ。ただし、その裏道は中途半端になっているあのルポじゃないぞ。あれをあてにすることができるのは、もっとずっと先の話だ。今はまず、前畑滋子の裏道の入口を探さなくちゃな」
滋子は再び目を伏せた。しかし、今度は文字通り伏せたわけではなかった。見開いた目で、しっかとテーブルを見つめていた。そこに競うべき相手たちがいるとでもいうかのように。だが、心は勇ましく高ぶっているものの、具体的にはどうしたらいいのか、さっぱりわからなかった。だからこそ、心ばかりが昂揚するのかもしれなかった。
「さっきからヒントをあげてるんだけどな」と、板垣が言った。
滋子はさっと目をあげた。『サブリナ』時代にも、よくこういうことがあった。滋子が行き詰まっているとき、いつも板垣が適切なナビゲーター役を果たしてくれたのだ。
「キーマンは、この長男だよ」
「高校生の……?」
「そうだ。彼だよ。家族全員を殺されて、たったひとり生き残った孤独な少年だ。そんな彼が、大都会の魔手にはまって殺された女性の遺体を発見した。なんていう取り合わせだ。あつらえたみたいじゃないか。ここに、現代社会の青春の残酷な一面がある──そうじゃないかい?」
安っぽい雑誌のリードみたいな台詞だが、板垣は笑っていなかったし、滋子も笑わなかった。
「シゲちゃん、彼を追えよ。彼を切り口にしてこそ、シゲちゃんが今まで書いてきたあの地味なルポも生きてくる。生き残りの少年を入口に書いていけば、必ずシゲちゃんの書きたかった失踪女性たちのルポとクロスする部分が出てくる。孤独や、恐怖がね。古川鞠子の名前を取材ノートのなかに見つけた瞬間の、シゲちゃん自身の恐怖とも、必ず共鳴するはずだ。そしてそれこそ、新聞や雑誌ではフォローしきれない事件の記録になる。キーワードは突然破壊される人生≠セ」
滋子は何度もうなずいた。やっと解答を与えられたような気がしてきた。でも──
「その子と、どうやって接触すればいいのかしら」
板垣は笑い出した。「近づいて、こんにちはって言えばいいのさ」
「そうじゃないんですよ、彼の居所が──」
「そんなのはこっちで調べるさ」と、板垣はあっさり言った。「忘れてるかもしれないけど、ウチだって週刊誌を出してるんだぜ。長男君のことだけじゃなく、今度の事件と、佐和市の事件についての詳細も、判ったことは判っただけシゲちゃんに流してあげるよ。ツテはいくらだってあるんだ。だからさ、遠慮するなよ。要するに俺は、事件記者みたいなデータの取材はこっちでやってあげると言ってるんだよ。俺はそういう形で協力する。そのかわり──」
「そのかわり?」
「良い物を書いてくれ」と、板垣は重々しく言った。「良い物に仕上げて、それを俺に渡してくれ。掲載媒体のことも考えるけれど、最終的には一冊の本にするのが目標だ。それでどかっと成果をあげようじゃないか」
滋子はちょっと口元を緩めた。「つまり、さっきわたしが言ったみたいにね? これは編集長にとっても大きな仕事になるかもしれないって」
「そういうこと。本当に編集長にしてくれよ。頼みますよ」
ふたりは笑った。滋子は急に気が楽になってきた。
「そうそう、まず手始めに、問題の生き残った長男の名前を教えてあげるよ。いつまでも匿名じゃ失礼だもんな。真一だ。塚田真一君。シゲちゃん、彼に食いついて、死んでも離れるんじゃないぞ」
[#改ページ]
10
デスク係の篠崎が解読した「川繁重機」は、実在していた。
正確には「株式会社川繁重機東京本社」である。大川公園から南に四街区ほど下がったところにある、四階建てのビルだ。
「工場は佐倉と川崎にあって、この東京本社も近々佐倉工場の敷地内に新築されたビルに移転する予定になってるそうです。その前に見つけることができて、いや、運が良かったですよ」
川繁重機を訪ねた秋津は、すぐに、写真に写っている社員を特定することができた。経理部に勤める佐藤《 さ とう》秋江《あき え 》という二十二歳の女性で、大川公園事件の前日、園内を横切って銀行へ行ったことを記憶していた。
武上は彼女への事情聴取について秋津が書いた報告書をコピーし、ファイルに綴じ込んで、読んでいた。デスク係の机で、そばに篠崎がいる。篠崎は、問題の写真を科警研で分析した結果を記した報告書を整理していた。なんとなく浮かない顔をしている。
武上も同じくパッとしない心境だった。
佐藤秋江はなかなか頼りになる証人だった。言葉は明晰で、記憶力もいい。事情聴取にあたった秋津も、「やあ、なかなかしっかり者の可愛娘《か わ い こ》ちゃんでした」と、やに下がっていた。
このしっかり者の可愛娘ちゃんは、大川公園の北側にある東武信用金庫隅田川支店へ行くために、二日か三日に一度は園内を通り抜けるのだ、と話している。
「園内を抜けると信号待ちをしなくていいので、ちょくちょく通り抜けています」
そういう折に、よくホームレスを見かける、という。
「大川公園には多いみたいです」
付近の聞き込みでも、園内にホームレスがいるという情報はあがってきていた。公衆便所の陰や、雨よけの屋根のついたベンチなどに段ボールの塀をめぐらせて住み着いているのだ。墨田区役所にも、その件でいくつか苦情が寄せられている。
佐藤秋江は言う。「わたしは昼間しか通らないので、朝や夕方のことはわかりませんけれど……」
武上は、傍らに広げてある公園の地図に目を落とした。それから報告書のファイルを見た。ゴミ箱から右腕を発見した塚田真一と水野久美は、ホームレスの存在については言及していない。時間帯によるのだろうか。
「東武信金に行くときは、いつも閉店時間ぎりぎりに行きます。例外はほとんどありません。その時間までに、経埋部で銀行へ行かなくちゃならない仕事をまとめておいて、出かけます。そうでないと、用事ができるたびに銀行へ行かなくちゃならなくて、面倒ですから。だから、この写真を撮られたのも、二時半とかそれぐらいじゃないかと思います。三時に近い時間帯だろうと思います」
写真に写っている影の長さから、捜査本部でも撮影時間帯については同じような推定をしていた。撮影主の御仁は、一度にたくさん写すから、どれが何時ごろ撮ったものかなんていちいち覚えとらんと怒るだけで、全然頼りにならなかった。
さらに佐藤秋江は、自分の写っている写真を見せられると、彼女の背景に、ぼんやりとした輪郭を見せているもうひとりの人物について、こう言った。「あのとき、そばにホームレスの人がひとりうろうろしていました。ゴミ箱の近くでした。断言はできませんが、この、後ろに写っている人は、そのときの人だろうと思います」
一般に「ホームレス」と呼ばれる人々が、すべてひとしなみに危険だとは、むろん、武上も思わない。だが、若い娘の心情としては、足を早めて通り過ぎてしまうのは仕方がないだろう。だから佐藤秋江は、そのホームレスの姿も、彼の所作についても、よく観察してはいなかった。
「その人が、ゴミ箱に何か捨てようとしていたのか、それとも取りだそうとしていたのか、わたしにはわかりません。見ていません」
彼の特徴についても、
「わかりません。ただ、ホームレスだとわかったというだけです」
脇で篠崎がため息をついている。武上は苦笑した。
「まあ、そうがっかりしなさんなよ」
「はあ……」
科警研からの写真の分析結果にも、佐藤秋江のうしろにぼんやりと写っている人物は、おそらくいわゆるホームレスだろうと綴られている。服装と髪の長さからの推定だ。写真をコンピュータ解析し、画像をひとつひとつの粒子にまで分解して、余分なものを濾《こ》したり、必要な粒子の色を濃くしたりして、もう一度ひとつの画像にまとめる。すると、元の写真よりは、写っているものの正体が鮮明に見えてくるのだ。
当該の人物の推定年齢、三十歳から五十歳、身長が百六十センチから百七十センチ。残念ながら、顔は確認することができない。
この人物は、おそらく犯人と接触しているはずであると、捜査本部では考えている。犯人に頼まれて、問題の紙袋をゴミ箱に捨てたのだ。だから、このホームレスを探し出すことができれば、犯人の人相風体の一端でも知ることができるかもしれないのだが──
問題は、現在の大川公園には、ひとりのホームレスもいないということだった。篠崎の落胆も、そこに理由があった。
「まあ、事件以来、連日のように我々が出入りしていますからね」と、篠崎が元気なく言った。「関わり合うのが嫌で、連中が逃げてしまったって仕方ない」
彼らは彼らなりに、一度ねぐらを定めると、容易なことでは動かない。だが、なんらかの事情があってそこを離れたら、ほとんどの場合、二度と戻ってこない。行方を突き止めるのは至難の業だ。
もっとも、ひとつのエリア内のひとりのホームレスが消えた──というケースなら、まだ探しようがあった。同じエリア内に、彼を知る者たちが残っているからだ。だが、今回のように、全員がきれいさっぱりいなくなってしまったとなると、手の打ちようがないのである。しばらくほとぼりが冷めるのを待ち。彼らの誰かが戻ってきてくれるのを期待するしか手がないだろう。しかし、捜査本部にはそんな悠長なことを言っている時間はなかった。
武上は、有馬義男の思い詰めたような顔を頭に浮かべた。
一連の事情聴取のあと、あの老人は、もしも犯人が本当にどこかのテレビ局に連絡して、有馬義男が全国の視聴者の前で土下座をすれば古川鞠子を返してやる──と言ってきたら、そのとおりにする、と話していた。今のところはまだ、犯人の方が沈黙しているが、過去の経過から見ても、そういうことをやりかねない野郎だ。いや、きっとやるだろう。
有馬義男の決心も固そうで、そんなことをしても犯人が約束を守るかどうか判らないと説明しても、やってみなきゃ判らないでしょうと突っぱねた。捜査本部の要請を容れて、江東区深川四丁目にある彼の店と、東中野の古川家の電話に通話録音と逆探知の装置をセットすること、彼の身辺に警備をつけることは承知してくれたが、ことこの件だけは、たとえ本部長が土下座してやめてくれと頼んでも、有馬義男はやるだろう。止められまい。
武上は憤懣やるかたない思いだった。できることならば、犯人が再度そんなふうにして有馬義男をいたぶる前に、奴を逮捕したい。だが、よほどの奇跡でも起こらない限り、現段階での先行きは暗い。
「こうなると、新宿の女子高生の線に望みをかけるしかなくなりますね」篠崎が言った。
プラザホテルにメッセージを届けた女子高生である。彼女も犯人と直に接触している可能性が高い。
「何とか見つけ出せるだろう」と、武上は応じた。「その女子高生が佐藤秋江並みのしっかりした女の子であってくれるように祈ろうじゃねえか」
「どうかな」と、篠崎は悲観的な事を言った。
武上はもう一度佐藤秋江に関する報告書を読んだ。そして、大川公園の地図と照らし合わせながら、彼女の証言による彼女の歩行ルートを目で確認していった。気むずかしい素人写真家の撮った写真にも目を落とした。
そうしているうちに、ふと気が付いた。
思い違いかと思った。それで、急いで事件当日の現場写真のファイルを取り出した。ページをめくり、三百六十度ぐるりの角度から問題のゴミ箱を写した一連の写真を見た。
一度見て、思い違いではないと判った。念のためもう一度見て、地図を確かめ、今度は大川公園管理事務所の管理職員の供述調書のファイルを取り出した。
大川公園内の清掃とゴミ処理のサイクルはきちんと決められている。開放型の公園なので、きっちりとした開園・閉園時間がないため、職員の勤務時間を基準に規定してあるのだ。それによると、通常の箒《ほうき》とちりとりを使った清掃は一日二回、午前九時、午後二時。ゴミ箱のゴミの回収も、この通常清掃の度《たび》に行われる。職員が、手押し車を押して園内を回り、半透明のゴミ袋を交換するのだ。
このことは、今さら調べるまでもなく判っている。だからこそ、前日午後二時にゴミ箱を空けて以降は翌日午前九時まで中身はそのままだと判っているからこそ、何かを捨てようとしているホームレスの写真にどきりとしたのだ。
だが、その「どきり」に紛れて、ひとつ見落としをしていたと、武上は気づいた。
「おい、篠崎」と、大きな声を出した。篠崎がぱっと顔をあげた。
「大川公園の地図に、ゴミ箱の位置は描きこんであるよな?」
篠崎はすぐにうなずいた。「はい、描きました。位置も個数もはっきりしています」
「それは、右腕を発見した当日の位置と個数だよな?」
「はい」篠崎は目をぱちぱちさせた。「そうですよ」
「これを見てくれ」武上は写真のファイルを篠崎の前に滑らせた。「事件当日と、ゴミ箱の位置が違ってないか?」
「川繁」のネームを読みとろうと、ふたりでさんざん睨んだ写真である。コスモスの花壇と佐藤秋江の横顔と問題のホームレス、そしてゴミ箱。
「見てみろ。当日の現場では、ゴミ箱の位置がコスモスの花壇から離れた場所にある。前日の写真だと、花壇の全景の後ろにゴミ箱が写っているが、当日の位置関係にあったら、コスモスの花壇を撮った写真にゴミ箱が写るはずがないんだ。微妙なところだが、少なくとも、ぱっと見てゴミ箱と判るように写るはずがない」
篠崎はかじりつくようにして写真を見た。頭をコマネズミのように振りながら見比べて、やがて顔をあげた。
「おっしゃるとおりです」と、うなずいた。すぐにきびきびと立ち上がり、
「もう一度、ゴミ箱の位置を確認するための解析を頼みましょう。あと、ゴミ箱の位置が移動することがあるのかどうか、事件前日の清掃のときはどうだったか──」
「調べてもらうように、報告書を戻そう。そっちは俺がやる」
その日の夕方までには、詳細を調べ上げることができた。
武上の勘に誤りはなく、ゴミ箱は確かに位置を変えられていた。前日撮影された写真のなかのゴミ箱は、事件当日に比べて、約二メートルほど花壇寄りに置かれているのである。
前日、午後二時にこの付近を清掃しゴミ袋を取り替えた管理職員は、ゴミ箱を動かした覚えはないという。
「それに、動かすのは大変ですよ。重たいからね。やろうと思えばできないことじゃないけれど、私らはやりません」
コスモスの花壇のそばのこのゴミ箱の定位置は、事件当日のそれであるという。
「ということは、事件前日の午後二時のゴミ回収のあとに誰かがこのゴミ箱を動かし、翌朝の右腕発見の時刻までのどこかでまた元に戻した、ということになるな」
とりあえず捜査本部に居合わせたメンバーだけで神崎警部を囲み、臨時の会議を行った。その席で、神崎警部は言った。
「しかし、ゴミ箱の移動に何か意味があるかね?」
集まっているのは五、六人だが、敢えて発言する者はいなかった。むしろ妙な顔をしていた。ゴミ箱の場所ぐらい、多少違ってたってなんだっていうんだい──?
「意味はあります」と、武上は言った。「おそらく、これをやったのは犯人ですよ」
誰かが失笑をもらした。
「犯人がなぜそんなことをする?」
「写真を撮らせるためです」
「写真? この素人写真家の写真かね?」
「そうです。この写真家は、大川公園にいりびたって撮影していたんですよ。犯人はそれを見かけて知っていたに違いない。そしてそれを利用しようと思ったんです」
神崎警部は白髪混じりの眉根を寄せた。
「どういうことだ、それは」
「有り体に言えば、警部、我々は引っかかったんです。引っかけられたんですよ」
「誰に」
「犯人にです」武上は、机に載せた写真をどんと叩いた。「こいつめ、ゴミ箱を移動して、わざと写真家の撮影範囲に入るように仕組んだんです。そして居合わせたホームレスに頼んで──たぶん金を払ったんでしょうな──様子をうかがっていて、写真家が撮影を始めたころに、ゴミ箱に紙袋を捨てさせたんです。それが写って、写真として残るように。無論、このとき捨てさせたのは、なんてことない普通のゴミですよ。実際には、右腕を捨てたのは、たぶん夜になって──ゴミ箱の位置を元に戻しに来たときじゃないかと思います」
皆は顔を見合わせている。まだ失笑を浮かべている者もいた。しかし、武上はひるまなかった。
「周到な奴です。たぶん、何回となく大川公園を下見しているはずだ。写真家を利用することも、そのとき見かけて思いついたんでしょう。こいつに怪しげな場面の写っている写真を撮らせれば、警察は絶対に引っかかるに違いないとね。大あわてで写真を解析し、ゴミを捨てようとしている人物を探すだろう。あの右腕は、この写真の撮影時刻に捨てられたと思いこむだろう、とね」
神崎警部はしばらく沈黙した。ややあって、顔をあげると言った。「しかし、そんなことをして、犯人に何の利益がある? 遺体投棄時刻を錯誤させたとしても、それほど大きな意味があるとは思えないがね」
「楽しいんでしょうよ」と、武上は言った。
「犯人は、こういう事件が起こったとき、我々がどういう捜査をするか、かなりよく知ってるんですよ。知識があるんです。警察なら、必ずあの素人写真家を見つけ出すに違いないと確信していたんです。そして警察がどう動くか──想像して愉《たの》しんでるんでしょうよ。今、この瞬間にもね」
集まっている刑事たちは、半信半疑の顔をしている。
「まあ、ともかく」と、神崎警部が言った。
「その素人写真家に、もう一度事情聴取してみよう。何か見聞きしているかもしれない。もしもこれがガミさんの言うとおりなら、犯人はかなり以前から写真家の存在を知って、行動パターンを承知していたはずだからな、直に接触もしているかもしれない」
そうして、刑事たちに散会を命じた。皆は、さっさと離れていった。武上だけが残った。神崎警部は武上を目顔で呼ぶと、空いていた机をはさんで腰をおろした。
「ガミさん、言いたいことがまだありそうだね」
武上は腰を下ろすと、手で顔をぬぐった。
「申し訳ありません。デスク係から捜査方針に対して意見を言うのがルール違反であることは百も承知なんですが」
「そう堅いことを言わんでもいいさ」警部は苦笑した。「ただ、ガミさんが怒るなんてのは珍しいからな。このあいだ、有馬義男に会ったんだって?」
「ええ、会いました」
「気の毒な老人だ。彼のことがあるんで、さすがの冷静なガミさんも頭に血がのぼってるんだな」
警部の言うとおりだと思った。有馬義男の受けた仕打ちのことは、武上の心のなかに重苦しく残っている。しかし、それだけではない。
「今回のこの写真の件では、引っかけられたのが私だから──写真を分析しているのが我々デスクだからこそ頭にきてるんです。この私が犯人に引っかけられたんですよ」と、武上は言った。「写真を見つけて、興奮して解析にかかったのは我々です。遣体投棄の瞬間が偶然写真に写っているかもしれないという可能性に喜んじまって……」
「しかし、過去にもそういう偶然はあった」と、警部はゆっくりと言った。「いや、偶然の目撃や、偶然の遺留品、偶然のアクシデントが原因で捜査が進展して犯人に行き着く──それが捜査というものの実体じゃないか?
聞き込みや地取り捜査は、まさしくその偶然に賭けて行われるものなんだしな」
「おっしゃるとおりです」
「そうだな、ガミさんに向かって言うべき台詞《せ り ふ》じゃなかったよな」警部は今度は苦笑でなく微笑した。
偶然は、こと犯罪者に対しては、常に敵に回る。かなり緻密に計画された犯罪でも、ほんのちょっとしたアクシデントで流れが変わってしまうものだ。何かをちょっと見落としたとか、当日雨が降ったとか、タクシーがすぐにつかまらなかったとか、そんなちっぽけなことがきっかけになって、犯人をうろたえさせ、証拠を残させることになるのだ。捜査というのは、それを根気よくたどってゆくことである。
だから今回も、そうしてきた。事件前日に撮影された写真が、「偶然」見つかった。まさか犯人も、こんなところでこんな写真を撮られていたなんて、夢にも思わなかったろう、完全犯罪を描いた小説や映画とは違って、現実の事件にはこういうことがあるものなのだ──と。
今度の事件の犯人は、現実の事件のそういう側面と、よくできた偶然をそれほど深く疑ってかからず、疑うよりは先にそれを調べてみることを習性としている警察官というものを、ちゃんと理解しているのではないかと武上は思うのだ。
「私は推理小説のたぐいは一切読みませんが」と、武上は言った。「そういう小説のなかに、もしも、犯罪に関係ある現場が偶然写真に写されていたなんてくだりが出てきたら、ご都合主義だと怒るでしょう。しかし、実際の捜査では、ああそういうこともあるさと思う。事実は小説より奇なりと言いますが、実際には、事実は小説よりもずっと単純で、不出来な創り話みたいなものが多いじゃないですか」
「時々、情けなくなるほどにな」
「ええ、そのとおりです。だから今回も、あの写真がトリックである可能性を疑ってみなかった──まず調べてみることが先決でね。どっちにしろ、調べてみれば虚か実かわかるんですから」
この犯人は、我々がそうすることを予想してたんですよ──と、武上は言った。
「ゴミ箱は、犯人の手で動かされたものです。奴としては、ちょっとしたお楽しみの賭だったでしょう。まず、ゴミ箱とホームレスが写真に写るかどうか。写った写真を警察が見つけるかどうか。見つけたら、それをどう解釈するか。こいつはおしゃべりですから、我々がこの件をずっと放っておけば、またテレビ局にでも連絡して、写真について何か言ってくるかもしれませんよ」
神崎警部は腕を組んだ。ちょっと顔を歪めて、「そして笑うのか? 警察は、あれをトリックだと見抜けなくて捜査してるんじゃないの? とな。あるいは、写真の存在にさえ気づいてないんじゃないの? とかな」
武上はうなずいた。「そういう奴です」
「しかし、どのみち、ずいぶん危ない橋を渡ったもんだな。いたずらのためにしろ、本当に右腕を捨てさせるためにしろ、犯人は園内にいたホームレスと接触している」
「新宿では、女子高生ともね」
「そうだ。彼らを見つけ出せば、必ず目撃証言がとれる。策士策にはまるというやつだな」
「実はそこが不安になってきました」
「というと?」
「あの写真が偶然撮られたものだと思っているうちは、なんてことはなかったんですよ。でも、あれが細工だと気が付いたとき、ちょっとぞくっとしましたね。こいつは後先のことをちゃんと考えて、その上でこういう手の込んだ悪戯《いたずら》をやっている。だとしたら、細工をより完璧にするために、そして身の安全をはかるために、悪戯の材料は、あとできちんと始末しちまうんじゃないか、そこまでやる奴なんじゃないか、と」
神崎警部は武上の顔を見た。武上は警部の顔を見た。
「ホームレスと──」
「女子高生です」と、武上は言った。「生きているでしょうかね?」
ここに、ひとりの不安な母親がいる。
高校二年生の娘が、今日でもう丸二日帰宅していないのだ。心当たりに電話してみたけれど、どこにもいない。
過去にも、娘が家出したことはあった。ごく最近も、四、五日帰ってこなかった。ぷいと戻ってきたときには、制服を紙袋に入れて、母親にはまったく見覚えのない新品の洋服を着ていた。化粧もしていた。
そのときには、叱りつけるよりも先に、母親は泣き出してしまった。お願いだからこんな馬鹿なことはしないでちょうだいと、ほとんど懇願するようにして訴えかけた。娘はそれを、冷たく観察するような目で見ていた。
この時の家出の原因は、母親がこっそりと娘の部屋を調べたことにあった。与えている小遣いでは購《あがな》いきれないような高級な服や装身具、化粧品が所狭しと乱雑に積み上げられていた。どこでこんなものを、どうやって買ったのだろうと、おののきながら机の引き出しを調べると、アドレス帳が出てきた。母親はそれをめくってみた。友人たちや店の名前、電話番号がぎっしりと書いてある。男の名前もある。だが、そのなかに名前も店名もなく、ただ電話番号だけが十個ほど書き並べられているページがあった。
怪しいものを感じて、母親はそこに電話をかけた。リストのいちばん上の番号を回した。
電話はすぐに通じた。しかし、応対した相手と、どうにも話がつながらなかった。中年の男性のようで、丁寧な口調なのだが、そこがどんな店なのか、洋服屋なのか美容院なのか見当もつかない。相手は、電話してくれてありがとうと言う。今、話せるかと言う。君はいくつか、と訊く。
母親は意を決して、実はわたしは高校生の娘の手帳からこの番号を見つけてかけているのだが、いったいどちら様につながったのでしょうかと尋ねてみた。
相手は沈黙した。そうして、それなりに親切な男なのか、ぼそぼそと答えた。
──ここはテレフォンクラブですよ、お母さん。
そして、電話を切った。
その日、学校から帰宅した娘を、母親は激しく責めた。いったいなんてことをしているの。テレフォンクラブを利用して遊び回る女子高生なんて、テレビのなかのものだと思ってた、あんたがどうしてそんなことをするの、と、時に涙を流しながら、時に悲鳴のような声をあげながら。
娘は怒った。怒りながら言い返した。あたしにもプライバシーってものがあるのだ、と。
「それにあたし、学校にはちゃんと行ってるもん。文句ないでしょ?」
確かに学校には行っている。通学するときは服装も地味だ。だがしかし、そういう仮面の隙間から、娘の「私生活」の乱れが、まるでミニスカートの裾から下着が見えるみたいに、淫らにちらちらのぞいている。だからこそ、母親は娘の部屋を調べたのだった。
激しい言い合いのあと、頑《かたく》なな顔をして、しかし表向きには何事もなかったように通学している娘を見ながら、母親は必死で対策を考えた。知識を集め、テレフォンクラブというものの実体や、一部の女子高生たちの信じられないような遊びの内容について、知りたくもないことを知りもした。
だが、どうしたらいいかはわからなかった。
悶々《もんもん》とする母親に、娘は次第に敵意を露《あらわ》にするようになった。自分の生活の内情について、あからさまなことを打ち明けるようにもなった。決して、自らの行いを反省してのことではなく、自分が何をしているかを話して聞かせることが、母親に衝撃を与えるいちばん効果的な方法だと気づいたからである。
「地味に制服を来て清潔な顔していると、中年のおじさんがいっぱい寄ってくるのよ」と、彼女は言う。「で、デートしてお金をもらうの。さもなきゃ洋服買ってもらうの。最初から派手にしてると、いいおじさんがついてこないのよ。危ない奴がついてきちゃうのよ」
得意げな顔で言い放つ。
「テレクラを通して会う人なんか、一回こっきりで後腐れないもの。お金さえもらえればいいわよ」
母はおそるおそる、まさか売春をしてないだろうねと尋ねる。すると娘は大笑いして、
「カッコいい人とだったら、ホテル行くわよ。いいじゃない、誰も困らないもん。みんなが愉しいのよ」
母親は、娘をなじる言葉さえ涙なしには口にすることができない。すると娘はまた怒り、
「偉そうな顔して泣いてみせたって、無駄よ。母親らしいことなんかしてこなかったくせに」
そうだろうかと、母親は自問した。母親らしいこととは何だろう? わたしは何をしてやらなかったのだろう?
思い余って、ひとり家を離れて遠地へ単身赴任をしている夫に電話をかけてみた。娘の教育のことで、夫に電話をかけるなど、彼女にとっては初めてだ。ひとり娘の世話は今までずっと、彼女ひとりの肩にかかっていた。
夫はひどく忙しそうで、疲れ切っているようで、母親は詳細を話しかねた。とりわけ、娘が売春しているようだ、などとは。ただ、娘が家出してしまい、友達のところに行って、数日帰ってこなかった──という話をした。反抗期なのかしら、心配で、と。
夫は怒り、おまえがだらしないからだ、と言った。母親は、唯一と言っていい相談相手があてにならないことを知った。
それからずっと、ひとりで悩み、耐えてきた。暗中模索を繰り返し、娘に優しくしては撥《は》ね付けられ、怒ってみては怒鳴り返され、頼んでみては軽蔑された。
そして今、娘が二度目の家出をして、二晩帰ってこない。今度はどこにいるのだろう? 今度も、四日経ったら帰ってくるのではないかしら?
その日の夕方、電話があった。母親の知らない人物、初めて聞く声だった。
おかしな声だった。機械音みたいだ。現金自動支払機の出す声みたいだった。
「お母さん? 彼女は家にいる?」と訊いた。
「彼女というのは、うちの娘のことでしょうか」
そうだよと、相手はキイキイ笑った。
「いないよね。いるわけないんだ。僕のところにいるんだから」
「え? そちら様にご厄介になってるんですか?」飛びつくような思いで、母親は言った。
「そう、ご厄介になってるよ。だけど、ちょっぴり僕を手伝ってくれた娘だからね。大事に扱ったつもりだよ」
それはお世話様でございました──母親の言葉を途中で遮り、その声は続けた。
「お母さん、彼女を迎えに来てよ」
「娘をですか?」
「うん。今夜帰るって言ってるから」
母親は目に涙がにじんでくるのを感じた。娘が帰ってくる──しかも迎えに来てくれと頼んでる。
「どこへ行けばいいんでしょう?」
「お宅の近所に、児童公園があるでしょう? 象の形のへんてこな滑り台がある児童公園」
確かに、ある。母親にはすぐにわかった。そのへんてこな象の滑り台は、家族が今のこの家に引っ越してきた当時からそこにあった。象の胴をよじ登り、長い鼻の部分を滑り降りてくるという趣向の滑り台だ。母親はそこで、幼かった娘とよく遊んだ。娘は「ゾウさんの滑り台」が大好きだった。
「わかります。そこに行けばいいんですね?」
「うん」と、キイキイ声は言った。「今夜、午前二時に。少し遅いけどさ」
母親は何度も礼を述べ、相手はその礼の言葉の途中で電話を切った。母親は涙を拭き、鼻をかんだ。ひとりぼっちで悩み抜き、心の平安を失い、娘の帰宅のことしか考えられない彼女の心には、相手が何者であるかとか、この状況はなんだか不吉ではないかとか、そんな「雑念」が入り込む余地がなかった。
そして深夜二時、児童公園に赴《おもむ》いた。
公園に街灯は少なく、暗かった。月のない夜だった。空はどろんと曇り、星も霞んでしまっている。わずかに、植え込みや草むらのなかから聞こえてくる虫の音だけが、秋の夜の趣を感じさせるものだった。
公園に足を踏み入れるとすぐに、母親は、滑り台の上に誰かが座っていることに気が付いた。ゾウさんの頭の上に、夜より黒いシルエットが見える。
母親は走って近づいた。滑り台を仰ぐと、それが制服を着た娘であることが判った。膝を抱えて座っている。
「お母さんよ、迎えに来たよ」と、声をかけた。「降りてきてちょうだい。怒らないから」
けれども娘は降りてこない。はやる心を抑えかねた母親は、下から手を伸ばし、娘のスカートの裾をちょっと引っ張った。
娘の身体はぐらりと傾いた。そして、まん丸いゾウさんの胴から、頭を下にして転がり落ちた。
母親は悲鳴をあげ、落ちた娘に駆け寄った。抱き起こした。しかし、母親の腕のなかで、娘の身体は冷たく、変なふうにこわばっていた。両目を見開き、声のない悲鳴をあげているかのように口を半開きにして。彼女に代わって、首に残った惨たらしいロープの痕《あと》が、その身に何が起こったのか、どうして悲鳴をあげねばならなかったのか、ただありありと物語っているだけだった。
[#改ページ]
11
前畑滋子の暮らす葛飾区南部の町から墨田区の大川公園は、距離的にはそう遠くない。だが、得てしてそういうものだけれど、遠くないのがかえって逆目に出て、滋子は今までこの公園を訪れたことはなかった。都内でも有名な桜の名所のひとつなのだから、仕事の関係でも一度や二度は訪ねていて不思議はないのだが、どういうわけか縁がなかった。
朋友社の板垣は、ほんの二日ほどで、塚田真一の現住所と彼の通学している高校まで調べあげ、滋子に教えてくれた。真一は今、亡父の友人だった石井という教師夫妻の家に寄宿しているという。住まいは大川公園から歩いていける距離にあり、高校もすぐ近くの都立高校だった。だから滋子は、まず事件の大本《おおもと》の現場である大川公園を少し歩いてみて、それから石井家を訪問して塚田真一に会うことにしようと決めた。
どこへどう手を回したのかわからないが、板垣は塚田真一の写真まで手に入れてきた。
「教師一家殺人事件の当時、うちの週刊誌の記者が撮ったものなんだ」と説明した。「もちろん、雑誌に載せてはいないよ。名前も出していないしね」
その写真は、葬儀の様子を写したものだった。出棺時だ。二台の霊柩車のあいだに、詰襟の学生服を着た少年が、遺影を両手で抱えて立っている。顔はわずかに横を向いて、少年の隣でマイクを握り、会葬者たちへ挨拶をしている男性の方を見ている。この男性はおそらく少年の親戚筋の人物だろう。喪主は塚田真一だったに違いないが、彼に挨拶をさせるのはあまりに酷だという配慮が働いたのだろうと滋子は思った。
望遠レンズで狙ったものであるらしく、塚田真一の表情までがよく撮れていた。顔の部分だけをトリミングして見せられたなら、ただの眠そうな男の子の写真だと思ってしまうところだ。まぶたがちょっと下がり、口元もしまりがなく、顎もゆるんでいる。
けれども彼は、両親と妹の三人が並んで写った遺影を胸に抱いているのである。遺影と対《つい》になると、塚田真一のとろんとした表情は、まったく別の意味を持って写真のなかに存在するようになる。
それは廃墟に立つ人の顔だ。一夜明けてみたら、人生のすべてが粉々に破壊されていた──そして自分はその破片の上に立っている、と気づいた人の顔だ。破片を拾い集めたいのだけれど、どこから手をつけたらいいかもわからない。どれが妹の骨だろう、どれが母の髪だろう、どれが父の肉だろう。
目をこらして、滋子は少年の抱く遺影を見た。さすがにあまりはっきりとは写っていないけれど、父と母が妹をはさんで立っている様子だけは確認できる。三人別々の写真を用意せず、この写真を遺影として選んだのは誰だったのだろう。よくこんな、あまりにもこの葬儀に都合のいい写真が存在していたものだ。もしかすると、この写真は塚田真一が写したものだったかもしれない。家族旅行の折にでも、「いいよ、僕が撮ってやるよ」とカメラを手に、にっこり笑う家族三人に向けてシャッターを切った。だから彼だけ写らなかった。そのとき、「三人は縁起が悪いんだ」とか、「真ん中のヤツは死ぬぞ」とか、妹をからかったりしたかもしれない。遺影を抱いたとき、塚田真一はそのことを思い出したかもしれない。
目鼻立ちのはっきりとした、なかなか可愛い少年だった。それだけに、事件が塚田真一に及ぼした影響を想像すると、滋子は、彼に会いにゆくのを躊躇《ちゅうちょ》してしまう。写真のなかの、この呆然としている少年が、一年後の現在、どんなふうになっているか──
「シゲちゃん、余計なことを考えて怖《お》じ気《け》づいたらいけないよ」
写真を渡すとき、板垣はちゃんと先回りして、滋子にそう釘を刺した。それを思い出して、滋子は苦笑しつつ写真をポケットにしまい、家を出てきたのだった。
|東 向島《ひがしむこうじま》の駅で電車を降り、地図で道筋を確認しながら大川公園に向かった。駅前の雑踏や街並みから受ける印象は、滋子の現在の住まいがある町とよく似ていた。小さなビルや商店や住居や工場が渾然《こんぜん》一体となって立ち並んでいる。昭二と結婚する以前は、学生も多く若やいだ雰囲気を持つ高円寺に住んでいた。葛飾に移ったときには、なんとなく都落ちしたような気分を味わったものだ。けれど今は、初めて訪れた町で、ああ葛飾のウチの方と感じが似てる──と思うと安心感を覚える。変われば変わるものである。
大川公園は、隅田川と広い幹線道路に挟まれて、縦に細長い。しかし、ごみごみした街並みのなかでは、場違いに広大で緑の濃い空間だ。漠然と想像していたよりもずっと規模の大きな公園だったので、滋子はちょっと驚いた。
園内に入り、右腕が発見されたゴミ箱を探しながら歩いていった。週刊誌に、現場付近の簡単な見取り図を載せていたものがあったので、切り抜いて持ってきた。それを見ながらルートをたどってゆくと、コスモスの花壇に出た。ゴミ箱は、そのすぐ近くにあった。
大型の蓋付きのゴミ箱だ。まだ新品のようである。きっと事件のあと取り替えたのだろう。番号が打ってあるわけでもなく、何か書いてあるわけでもない。なんということのない、普通の公園のゴミ箱である。ちょっと蓋をずらしてのぞいてみると、七分目ぐらいまでゴミが入っていた。
今さらゴミ箱を調べてみたって、何がどうということがあるわけもない。なんだか照れくさくなって、滋子は周囲を見回した。人影はまばらである。たまに見かける人は、みなのんびりと歩いているか、とっとと通過して行く。陽ざしは柔らかく、快いが、花壇の縁や遊歩道に沿って点々と並んでいるベンチにも、腰掛けている人はほとんどいない。静かで、のどかだ。ところどころに、事件の詳細を報じ情報提供を呼びかける警察の立てた看板が目に付くくらいで、あんなことがあったことをうかがわせるような雰囲気は、もうこの園内には残っていなかった。
それでも、滋子は園内を一周してみることにした。やはり情景はつかんでおきたい。それにまだ時間も余っていた。
塚田真一を引き取った石井夫妻は、ふたりとも教職についているという。ならば昼間は家には誰もいないだろう。滋子は一度だけ、石井家に電話をかけていた。昨日の夜、八時頃のことである。
女性の声が出た。たぶん、石井夫人だろう。
滋子は敢えて名乗らなかった。「塚田君いらっしゃいますか」とだけ言った。
相手は明るい口調で、「今、お風呂なの」と応じた。「ごめんなさいね」
「こちらこそ、夜分に済みません」
滋子もそれを計算した上で名乗らなかったのだが、石井夫人は滋子を真一の友達と勘違いしたようだった。滋子も努めて女子学生っぽい話し方をしていた。
「こちらからかけなおさせましょうか」
「いえ、遅いですから、明日またかけます」
「そう、ごめんなさいね」
「塚田君は、何時頃なら学校から帰ってきますか?」
「四時半か五時には帰ってますよ。今はクラブもやってないみたいだから」そう言ってから、石井夫人は訊いた。「あなた、水野さんかしら?」
一瞬、滋子は困った。水野?
「え? いいえ違います」
「あらあら、ごめんなさい。学校が一緒じゃないみたいだったから訊いたんだけど」
こちらこそ失礼しましたと言って、滋子はそそくさと電話を切った。切ったあとで、怪しまれたかなと思った。真一の元には、他のマスコミ関係者からの接触も始まっているかもしれない。でも、その割には、石井夫人は開けっぴろげに話してくれたものだ。相手が女だから油断したのかもしれない。
大川公園のなかをぶらぶら歩きながら、滋子は時おり腕時計を見た。四時になったら公園を離れ、石井家の近くに行くつもりだった。玄関のベルを鳴らしてみて、誰も出てこなかったら、道ばたで塚田真一の帰りを待つ。誰か出てきてくれたらそれに越したことはないが、こちらの用件を言って鼻先でドアを閉じられるよりは、路上で塚田真一を捕まえた方が効率的という気もする。
滋子はかなり緊張していた。園内を歩いていても、実は何も見ていなかった。頭のなかで、自己紹介の仕方、真一と会ったときの話の切り出し方などを、何度も何度も練習していた。口に出してぷつぷつ呟いていると、通り過ぎる人が、怪訝《 け げん》そうな顔をして滋子を見た。
ぐるりと一周してコスモスの花壇のところへ帰ってくると、あと十分ほどで四時になるところだった。滋子はコスモスの花壇を通り過ぎ、出口へ向かった。そのときに、すぐ脇のベンチに、さっきは見かけなかった人物がぽつりと座っていることに気がついた。
女の子だった。もう少し太った方がもっと可愛らしいかもしれないけれど、細面のきれいな娘《こ》だ。ブルージーンズに純白のスニーカー、赤いプルオーバーを羽織って、長い髪はポニーテールに結ってある。その鮮やかなトリコロールの出立ちと裏腹に、彼女の表情はひどく暗く、怒ったような、思い詰めたような目をして前方を睨んでいた。その顔があまりに真剣なので、滋子も思わず視線を引きつけられてしまった。
ボーイフレンドと喧嘩でもしたのだろうか。それとも親と衝突したのか。十代の女の子に、こんな恨みがこもったような怒りの表情を浮かべさせる原因は、いったい何だろう。
そしてふと、今朝方から報道されているニュースのことを考えた。三鷹市内の児童公園で、女子高生の絞殺死体が発見されたというものだ。彼女こそ、つい先日、新宿プラザホテルに古川鞠子の祖父に宛てたメッセージを届けた女子高生であるらしいということで、また大騒動が始まっている。なんでも、遣体が発見される直前、女子高生の自宅に、あのボイスチェンジャーを通したキイキイ声による電話連絡があったというのだ。
プラザホテルを舞台にした一件の折には、ホテルを訪れた女子高生は、地味でおとなしい感じの子だったと報道されていた。今回遺体で発見された少女は、確かに学校でこそ地味にふるまっていたものの、一方では、売春まがいのことをやってまで金を稼ぎ、派手に遊び回るという二重生活をしていたらしい。三十代の女性である滋子にとっては、理解不可能な少女の生活がそこにある。
この少女が、身元不明の右腕の持ち主と古川鞠子に続く、同一犯人の手にかかった第三の犠牲者であると断定しても、まず間違いはないだろう。そして彼女は、社会がはっきりとその「死亡」を確認することのできた、初めての犠牲者だ。右腕の持ち主も古川鞠子も、まだ正式には生死が判明していない。滋子がそう言うと、昭二は顔をしかめて、
「腕を切られてるんだから死んでるんだろうさ」と言った。「あれはバラバラ殺人じゃないか」
そうだろうかと滋子は思う。右腕の持ち主が、この先、生きて還ってくることは、気の毒ではあるけれど、まずあるまい。だが今現在は、犯人の手元に監禁されて、まだ生存している可能性がある。今度の事件での犯人の一連の行動を見ていると、こいつなら、生きている人間の腕を切り取り、それを捨てて社会の反応を見るというような残酷なことでも、平気でやるのではないかという感じがするのだ。古川鞠子の件にしても、彼女の所持品をテコにして警察や家族を振り回すやり方の裏には、もうひとつ企みが隠されていそうな気がする。犯人は鞠子を手中におさめていて、彼女の所持品を使った犯人の悪戯によって巻き起こる騒動の一部始終を、ほかの誰でもない、まず鞠子本人に見せたいのではないのか。見せて苦しめたいのではないか。それは陰険きわまりない非道なことではあるけれど、もしそうだとすれば、鞠子にはまだ生きている可能性が充分以上に残されると、滋子は思う。
よしんばそれが深読みに過ぎないとしても、他のふたりの女性については生死を明らかにせず、もったいぶって警察を振り回しているのに、あの女子高生に限っては、ゴミでも捨てるように遺体を投げ返してよこしたということに、滋子はなんらかの意味を感じずにはいられないのだった。女子高生はただの道具だったのか。それとも、彼女に関してはなにがしかの罪悪感を感じたから、遺体だけでも早く発見されるようにし向けたのか。
そこに犯人の女性観が見え隠れしてはいないか。今のところ、犯人の手にかかっているのは若い女性ばかりだ。彼の現代女性に対するスタンスが、これまでの経緯のなかにぼんやりと浮き上がってきてはいないか──そんなことを考えながら、滋子はベンチの女の子の顔を見るともなく見つめていた。
と、当の女の子と視線があってしまった。滋子はとっさにぱっと目をそらした。急いで出口の方へと歩き出した。女の子の視線が追いかけてくるのを感じたが、振り返らずにどんどん歩いた。
石井夫妻の住まいはすぐにわかった。公園から早足で歩いて十分ぐらいの距離だ。建てられてからまだ数年という感じのきれいな二階家だ。駐車スペースを兼ねたささやかな庭があり、コリー犬が一頭、鎖につながれている。滋子が近づき、塀越しに家の南面にある掃き出し窓の様子をうかがおうと首を伸ばすと、犬は起きあがってきて尻尾を振った。可愛いが、これでは番犬にはなるまい。
表札には、石井夫妻の名前だけが出ていた。窓にもベランダにも洗濯物はない。若者好みのスポーツタイプの自転車が停められているということもない。塚田真一の気配は、一瞥《いちべつ》した限りでは感じられなかった。
そこで犬が突然ワンと吠えた。滋子はびっくりして塀から離れた。吠えたけれど、犬はまだ尻尾を振っている。かまってもらいたいのだろう。滋子は道を横切り、反対側へと渡った。石井家の向かいは昔風のモルタル壁のアパートで、共同玄関のドアが開けっぱなしになっている。滋子はそのドアの内側に一歩入り込んだ。巧く身を隠すことができた。
犬はまだ、断続的にワン、ワンと吠えている。しかし石井家の窓は開かず、ドアからも誰も出てくる様子はない。滋子は腕時計を見た。四時一五分過ぎだった。
背後のアパートの部屋のどこかから。再放送のテレビ時代劇の音声が聞こえてくる。しばらくすると、犬は吠えるのをやめた。ドアの陰で壁にもたれて、外の様子を見守りながら、滋子は塚田真一との初対面のリハーサルを繰り返した。初めまして、わたしは前畑滋子という者です。いや、前畑滋子と申しますの方がいいか。塚田真一君ですね? それとも、真一君でしょ? ちょっとお話がしたいのだけど、いいかしら。
服装にも気を遣って来たつもりだった。あんまりラフな格好では怪しげだし、スーツというのも角張っている。結局、白いブラウスに秋物の薄手のジャケット、カーキ色のチノパンツに、革のローファーを履いてきた。清潔で、かつ軽快に見えるといいのだが。鞄だけは、いつも仕事のとき持ち歩いて、よく使い込んだ大型のものをさげてきた。ね、嘘じゃないのよ、わたしは取材する側の人間なのと、鞄に説得力を持たせたい。だけど、ただあなたを追いかけ回すために来たわけじゃないんです──
そのとき、犬がまた吠え始めた。今度は立て続けに吠えている。ドアから首を出してのぞいてみると、鎖を引っ張るようにして犬は飛び跳ね、狭い庭を行ったりきたりしている。嬉しがっている。きっと、家人の誰かが帰ってきたのだ。滋子は身構えた。
ほとんど同時に、道路の右手の方から誰かが走ってきた。ジーンズにトレーナー、肩にズックの鞄を担いでいる。塚田真一だった。滋子にはすぐ判った。呼び止めようと、ドアの陰から外へ出た。そのとき、声がした。
「待ってよ! 逃げるなんて卑怯よ!」
悲鳴に近い声だった。声の先端が、矢尻のように尖っていた。塚田真一は、その声から逃げるように走ってくる。家の玄関のステップに飛び乗ると、ジーンズのポケットを探り始めた。鍵を出そうとしているのだろう。その横顔は強《こわ》ばり、怯えたように両肩をすくめている。
「待ってよ、待ちなさいよ!」
真一に向かって叫びながら、追いかけてくる。若い女性の声だった。そして声の主の姿が視界に入ってきたとき、滋子は仰天した。つい先ほど大川公園で見かけたあの女の子なのだ。怒ったように空を睨んでいた、あの暗い表情の少女なのだった。
真一が鍵を取り出してドアを開けにかかったとき、女の子も石井家の玄関のステップに飛び乗った。真一の背中のズックの鞄に手をかけて引っ張った。
「お願いだから逃げないで!」
真一は無言で鞄を引っ張り返すと、振り向きもせずにドアを開けた。家の中に滑りこむと、少女の鼻先でばたんとドアを閉めた。少女はドアにくっついて叫んだ。
「どうして? なんで話を聞いてもくれないの? 開けてよ、開けてください!」
ノブをがちゃがちゃいわせたり、ドアを叩いたりしながら、大きな声で真一を呼ぶ。
「塚田君、塚田君聞こえてるんでしょ?」
しかし、石井家からは何の反応も返ってこない。犬はまだ吠えている。庭に面した窓のカーテンがわずかに動いたように見えたが、それも一瞬のことだった。
少女の狂乱ぶりに、驚きを通り越して、滋子はいささか呆れ始めた。何事だろう、この騒ぎは。近所の人々も、声を聞きつけて、玄関口から顔を出したり窓からのぞいたりしている。
しかし、少女は一向に周囲を気にする様子を見せなかった。ドアから後ずさりして数歩離れると、道路に面した二階の窓を見あげて、今度はそちらに呼びかけ始めた。
「塚田君、隠れたって駄目よ。わたし、今日は帰らないから。会ってくれるまで帰らないから」
滋子のすぐ頭の上で、誰かが吹き出した。見上げると、このアパートの住人なのだろう、エプロン姿の中年の女性が、口元に手をあてて笑っている。石井家のすぐ隣の小さな作業所のようなところでは、灰色の業務服を着た男がふたり、シャッターの隙間から首を出して、やはり苦笑しながら少女と石井家の二階を見比べていた。
「絶対帰らないんだから!」
そう宣言すると、少女はドアに背中を向けて、石井家の玄関のステップに座り込んだ。滋子は正面から彼女の顔を見ることになった。上気しているのか、公園で見かけたときより血色がよく見える。しかし、怒ったような思い詰めた目つきはそのままで、歪《ゆが》んだくちびるが、少女の可愛らしい顔立ちを台無しにしていた。
「おねえちゃん、彼氏と喧嘩かあ」
隣の作業所の男性が、冷やかすように声をかけた。すると少女はきっと顔を振り上げて相手を睨みつけた。
「そんなんじゃありません!」
「おお怖《こ》わ」作業所の男性たちは笑い転げ、シヤッターをくぐって姿を消した。少女は両腕できつく膝を抱えると、そこに顎を埋めた。滋子の目には、彼女が激情のあまり涙ぐんでいるように見えた。
確かにこれは、子供っぽい恋人同士の他愛ない痴話喧嘩のように見える。しかし滋子は、さっきちらっと見た塚田真一の、恐怖に震えあがっているかのように強ばった横顔に、引っかかるものを感じた。滋子にも痴話喧嘩の経験はある。昭二とだって喧嘩をする。昭二以前に交際していた男性とは、喧嘩という以上の深刻な諍《いさか》いもした。けれど、どういう形であれ、自分と恋愛関係にある女に大声で責めたてられたりとっちめられたりしたとき、男があんなふうに震えあがるというのは珍しい。女が怒ったくらいで、男は怯えたりしない。恥じたり、怒り返したりはするだろうけれど、怖がりはしない。むしろ、女が妙に笑ったり泣いたりすることの方に怯えるものだ。それは十代の少年少女のあいだだって変わりないだろう。これが本当にただの痴話喧嘩ならば、塚田真一は首を縮めて逃げながら、隣の作業所の男たちのようにニヤニヤ笑うか、さもなければ振り返って少女を怒鳴りつけるか、どちらかの対応をしていそうなものだ。
滋子はそっとアパートの入口を離れると、道を渡り、少女に歩み寄った。滋子の影が少女の顔の上にかかるまで、少女は目を上げなかった。
「こんにちは」と、滋子は声をかけた。「ごめんなさい、お節介を焼くつもりはないんだけど、あなた大丈夫?」
少女はちょっと滋子の目を見たが、ぷいと視線をそらしてまた膝を抱いた。両の瞳が、頑《かたく》なな小石のように黒く光っている。
「こんなことしても、逆効果だと思うけど」と、滋子は言った。少女の顔をのぞきこんで、
「塚田君と話をしたいなら、ほかの手を考えた方がいいんじゃないかな。それに、今日はやめといた方がいいと思うわよ。このままだと彼、あなたが何をやっても出てこないと思うな」
少女はぶすりと、他所《 よ そ 》を向いたまま吐き捨てた。「ほっといてください」
「あなた、塚田君のお友達?」
「ほっといてください」
「だけど──」
「ほっといてよ! あたしにかまわないで!」
少女はいきりたつと、滋子に向かって噛みついた。滋子の頬に少女の唾が飛んだ。まるで高圧電線だった。彼女の華奢《きゃしゃ》な身体の内側に、エネルギーが満ち満ちている。しかしそのエネルギーは、けっして明るいものではなかった。怒りと悲嘆──そしてこれは何だろう、何がこんなにもこの少女を苦しめているのだろう?
滋子は少女にも聞こえるようにため息をついた。そして身体を起こし、石井家の二階の窓を仰いだ。カーテンが揺れ、そこに塚田真一の顔がのぞいている。一瞬、彼と滋子の視線があった。
少女は座り込んだまま、身体を縮め、自分の腕で自分を守るように膝を抱きしめている。
泣いていた。
滋子はまた、向かいのアパートの入口へと、道を渡った。歩きながら、バッグを探って携帯電話を取り出した。電話を手のなかに隠すように持つと、首をよじって石井家の二階を振り仰ぎながら、ちょっと手を上げた。真一はまだ窓際にいた。滋子の手のなかの携帯電話が、彼には見えるはずだ。滋子は素早く電話を左右に振ると、声を出さずにくちびるを動かして、(電話をかけるわ)と言った。
真一の姿が窓辺から消えた。滋子の意図を察してくれたのだろう。
アパートの入口のドアの陰に隠れて、石井家の番号をプッシュした。呼び出し音が鳴り始めるとすぐに、先方が受話器をとった。
「なんだか変な成り行きですけど」と、滋子は切り出した。「玄関の女の子ね、帰るつもりはないって。どうします?」
返事が来るまで、ひと呼吸の間《ま》があった。困惑ぶりが伝わってきて、滋子は塚田真一が気の毒になってきた。
「……すみません」と、彼は小声で言った。
「放っておくわけにもいかないもんね。どうしたらいいかしら」
真一はこの問いには答えず、滋子に訊いた。
「あの、この近所の人ですか?」
「ううん」滋子は小さな電話機に向かって微笑した。「実は、わたしもあなたに会いに来た者なの」
真一はちょっと黙った。それからさらに小声になって言った。「僕に?」
「ええ。塚田真一君ですよね?」
「……そうです」
この瞬間、塚田真一以外の存在になれるのならば、たとえそれがアブラムシであろうとミミズであろうとかまわない──と思っているような口調だった。違います、と答えられるならどんなにいいだろう、と。
「わたし、前畑滋子という者です。あなたに会ってお話をうかがいたくて来たの。実はわたし、ルポを書いていてね。大川公園の事件の。あなたは第一発見者なのよね?」
「ええ、そうです」そう言ってから、真一の声がちょっと大きくなった。「本当は、僕ひとりじゃないんだけど」
これは初耳だった。
「そうなんですか。知らなかったわ。いろいろ話を聞きたいんだけど、会ってもらえるかしら」滋子はふっと吹き出した。「断られても、わたしは玄関に座り込んだりはしないつもりだけど、でもぜひお会いしたい」
真一は黙っている。滋子と一緒に笑いはしなかった。ほんの少しでも。
「玄関の女の子、塚田君のガールフレンドなんですか?」
ぴしりと返事がかえってきた。「いえ、違います。そういうことじゃない」
「そう……。そうだろうと思ってた。彼女には、帰ってもらった方がいいのよね?」
真一は答えなかった。代わりにこう言った。
「このままじゃ、絶対帰らないと思う。だから逆に、僕が家を出られればいいんだけど」
「あなたが?」
「はい」
「彼女を置いてってこと?」
「そう」
「もうすぐご両親……石井さんのご夫妻もお帰りになる頃よね?」
「そうです。前畑さんていいましたよね?」
「ええ、そうよ」
「僕のことをご存じなんですね」
両親という言葉を言い換えたからだろう。滋子は手のなかの電話に向かってうなずいた。
「ええ、承知していますよ。石井さんは、あなたの亡くなったご両親のお友達よね」
「そうです。だから心配かけられないんで」
呟くような言い方だった。
「だけど、あなたどうやって家から出るつもり?」
「裏側のベランダから、塀を伝って道に飛び降りて」
「裏手にも道路があるの?」
「あります。一方通行の道だけど」
「じゃ、こうしましょう。わたしがタクシーをつかまえて、その道まで塚田君を迎えに行く。準備ができたらまた電話をかけますよ。それでいい?」
「いいです」ややあって、「ありがとう」
「どういたしまして」
通話ボタンを押して電話を切り、そのままの姿勢で、滋子はちょっと考えた。実にスムーズに運んだものだ。塚田真一の方から出てきてくれるとは。あの女の子に感謝しなくては。
少女はまだ石井家の玄関先で頑張っていた。少し寒そうだけれど、頑なな顔つきに変化はない。滋子は彼女の前で足をとめかけたが、少女が視線をそらしたので声をかけるのをやめた。
表通りに戻り、タクシーを拾った。真一の言ったとおり、石井家のある街区の後ろに、車一台がかろうじて通れるくらいの道があった。車のドアを開け、石井家のベランダを見あげながら電話をかけると、真一がすぐに出てきて、今降りますと言った。
言葉通り、窓が開いて少年が姿を見せた。身軽な感じでベランダの柵《さく》をまたぎ、一階の庇《ひさし》の上に降りる。
「気をつけてね」
近所の目を気にしながら、滋子は小声で呼びかけた。あの少女に気づかれないように注意しなくては。
塚田真一はさっきと同じ服装で、同じズックのバッグを背負っている。塀に足をかけ、そこからぴょんとタクシーの後ろに飛び降りた。少年が立ち上がると、思っていたよりは小柄だと滋子は思った。これからまだまだ背が伸びる年頃なのだろうけれど。
「前畑さんですか」
「ええ。さあ行きましょ」
真一を乗せ、タクシーは走り出した。車が石井家から離れると、少年が小さくため息をつくのが聞こえた。
「あんまり近所にいない方がいいわね。どこかで喫茶店でも見つけましょう」
滋子の言葉に、真一は返事をせず、うなずきもしなかった。黙って車窓の外を見つめている。滋子も、タクシーのなかでは、強いてそれ以上話しかけずにおいた。
結局、お茶の水まで出ることにした。山の上ホテルの喫茶室が静かでいいと思ったのだ。取材で人と会うためによく使う場所なのだと真一に説明した。彼は無言のままだった。
ホテルの前でタクシーを降りると、先に降りた真一が、滋子の目の前に立ちふさがるようにして待っていた。
「あの、今の料金」
「あら、いいのよ、とんでもない」
少年は首を振った。「そうはいかないんです。いくらでしたか」
鞄を開けようとする。ほほえましくて、滋子は思わず笑った。真面目な子だ──
「ホントにいいのよ。取材させてもらうんだから」
「だから駄目なんです」滋子の顔を、今初めてまっすぐに見て、塚田真一はきっぱり言った。「僕は取材には協力できないから」
虚をつかれて、滋子はぽかんとした。
「え?」
「取材は勘弁してください。僕、話すことは何もないです」
「だって、一緒に来てくれたじゃない」
「利用しちゃったみたいですみません。どうしても家を出たかったから。だからせめてタクシー代は出します」
「ちょっと待ってどういうこと?」
「取材は駄目なんです」
「塚田君──」
滋子はちょっと言葉を呑んだ。少年の顔はどこまでも真剣で、あの少女から逃げていたときと同じように、ひどく怯えた様子に見えた。たえまなく瞬きを繰り返すまぶたの奥で、目が泳いで逃げ道を探している。
話が違うと、怒ることができなかった。そういえば、スムーズに運びすぎだったとは思う。けれど今、真一のあまりにも追いつめられたような目を見ていると、可哀想になってきて、怒りの感情が湧いてこないのだ。
「それじゃ、ともかくこうしましょ」笑みを浮かべて、滋子は真一の腕に軽く手を置いた。
「ちょっとお茶でも飲まない? あなただってすぐには家に帰れないだろうし──あの女の子がまだ頑張ってるだろうからね──あなたをここまで連れ出したのはわたしなんだから、責任を持ってお宅まで送っていくわ。そのうえで、また取材の申し込みにうかがいます。石井さんご夫妻にもお会いしてね」
少年は腕を引き、滋子から離れた。そして素早く首を振った。
「それも無理だと思う」
「取材が嫌なら、少し時間をおいてもいいわ。何度でもうかがいます。承知してもらえるまでね。あのね、あたしはけっして、特ダネとかを追いかけてるわけじゃないの。記者じゃないから。話せばわかってもらえると思うの」
「駄目なんです」真一は、ほとんど頼むような口調で言った。「待ってもらっても、何度来てもらっても無駄です。僕はもう、あの家には帰らないから」
「帰らないって──」滋子はぎょっとした。
「嫌だ、塚田君、家を出るっていうのは、本当に家出するっていう意味だったの? そうなの?」
「そういうことです」
少年は滋子の肩越しに、行き先を探すような視線を泳がせた。一刻も早くこの場を離れて遠くへ行きたいという様子だ。
「そんなこと、黙って見てるわけいかないわよ。あなた未成年者じゃないの。だいいちどこへ行こうっていうの? あてはあるの?」
「し、親戚のところへ行きます」
滋子は顎を引き、真一の顔を正面から見据えた。今の言葉の真偽を確かめたかったのだ。少年は滋子の視線から逃げた。嘘だ、親戚のところなんかいくはずがないと、滋子は思った。行く先などないのだ、この子には。
「黙って出ていくなんて、石井さんご夫妻に、申し訳ないとは思わない?」
「申し訳ないから出て行くんです」
「どういうことよ?」
きっと顔をあげると、真一は声を張り上げた。「話す必要ないですよ、そんなこと。あなたに関係ないじゃないですか」
ホテルのドアボーイが、ちらちらとふたりを見ている。滋子はひるまなかった。
「そりゃ、あたしは赤の他人よ。だけど、成り行きからいっても放ってはおけないわよ。それに忘れちゃ困るわよ。塚田君、あたしを利用したんだからね」
「だから、タクシー代は払います」
「お金の問題じゃない!」
滋子が怒鳴ると、真一はびくっと身をすくめた。ごく幼い子供が母親に叱られたときのような反応だった。
「だったら……どうすりゃいいんですか」と、力無い声に戻って呟いた。「大川公園の事件のこと、話せばいいんですか。そしたら気が済みますか。僕は大したことを知らない。ほかのマスコミの人たちからも、そんなに取材とか受けてないですよ」
それまで見過ごしていたことに、滋子は急に気づいた。真一がひどく疲れているようであることに。疲れ切っていることに。彼の神経の張りつめ具合は、敗走する兵士のそれなのだ。満身|創痍《そう い 》になりながらも、安心して休むことのできる場所にたどりつくまでは気を抜くことができない。だから必死で自分を駆り立て、持ちこたえているのだ。
「塚田君、すごくくたびれてるね。あんまり眠ってないんじゃない?」
真一は黙ってうなだれた。
「事情はよくわからないけど、だいぶ困ってるみたいね。家を出ようっていう理由も、その辺にあるんじゃないの?」
ちょっとうなずくと、真一は呟いた。「そうだけど、そのことは話したくない」
瞬時に、滋子は心を決めた。
「わかった」と、場違いに元気よく言った。
「それなら、利用されついでに協力してあげる。とりあえず、あたしの家に来なさい」
「え?」
「ひと晩泊めてあげる。で、先のことを考えなさい。家出したあとのこと、ちゃんとした計画なんか立ててないんでしょ?」
「うん……」
「あなたみたいな、いかにも高校生ですっていう感じの男の子が、仕事と住まいをいっぺんに探すのは難しいよ。住み込みの仕事なんてそんなにないし。テレビドラマと違うんだから、家を飛び出した主人公が、コマーシャルをはさんで場面が変わったらもうアパートを借りてます、なんてわけにはいかないのよ、現実は」
真一はしばしばとまばたきをして、滋子の顔を見つめた。滋子は笑い出した。
「ああ、それとね、ヘンな気を遣わなくていいわよ。あたしは結婚してて、ご亭主がいます。今日のいきさつを話せば、塚田君をひと晩泊めるくらい、迷惑がったりしない人だから大丈夫」
あ、だけどひとつと、滋子は指を立てた。
「石井さんご夫妻に連絡なさい。事情を話せないなら仕方ないけど、とにかく無事で元気でいて、自分の判断で家を離れたんだってことと、今夜泊まる場所はあるってことだけでもね」
「それは……家を出るとき置き手紙を書いてきたけど」
「なんて書いてきたの?」
「しばらく帰りませんけど、心配しないでくださいって」真一は、ちょっと遠い目をした。
「どっちみち、おばさんが帰ってきてあの子に会えば、事情はわかるだろうし」
あの子というのは、玄関先に陣取っていた女の子のことだろう。彼女のことが家出に関係しているのだ。さらに突っ込んであれこれ聞き出したい衝動を──今ここでは──抑えて、滋子はうなずいた。
「まあ、それならいいか」
信じられないという様子で、真一は首をふった。「ヘンな人ですね」
「あたし?」
「うん。お節介焼きだ」
「そうね。でも、塚田君があたしの立場でも、やっぱり同じようにすると思うよ。放ってはおけなくてね」
だってね塚田君、あなたは今、本当に追いつめられて窶れた顔をしている──と、滋子は心のなかで思った。
「だけどシゲちゃん、こんなことしてまずくないのか?」
滋子のそばで、昭二が声をひそめて言った。
「こんなことって?」
「誘拐とかにならないのかよ? 彼の親は何も知らないんだろ?」
塚田真一は、リビングのソファに座っている。ぼうっとテレビをながめている。滋子と昭二は台所にいて、夕食の支度をしながら早口で会話を交わしていた。
滋子が真一を連れてアパートに帰ってきたとき、玄関のところで、ちょうど工場から引きあげてきた昭二とばったり会った。ただいま、今日は早めに仕事をあがったんだと話す昭二をドアの内側に押し込み、気後れしたようにたじたじとしている真一を引っ張り込み、滋子は事情を説明した。
実は帰宅する道々、滋子は内心ヒヤヒヤしていた。まったく面識もつながりもない高校生の男の子をいきなり連れてきて一泊させると告げたとき、昭二がどんな反応を示すか、はっきり言って未知数だったからだ。真一には自信たっぷりに大丈夫だと請け負ったものの、あれはいわば勢いとハッタリであって、もしかしたら昭二に文句を言われるかもしれないと、首が縮む思いもしていたのだった。
昭二はすぐには文句も言わず、怒りもしなかった。ただただ困惑した顔で、上から下まで塚田真一を眺め回した。真一の方はますます小さくなり、「やっぱり申し訳ないから帰ります」と逃げ出していきそうな気配だったので、滋子は彼の肘をつかんで離さないようにしていた。
「よくわかんないけど……でも、行き先のない子供を放り出すわけにはいかないよな」
あやふやな感じながら、昭二がそう言ってくれたとき、滋子は心底ほっとした。ひょっとするとあとで喧嘩になるかもしれないけど、とりあえず今は何とか乗り切れそうだ。そこで張り切って夕食の支度にかかった。真一と昭二とふたりきりで顔突き合わせて座らせておくと、どちらも気まずいだろうと思ったので、昭二には手伝ってもらうことにした。
今夜は買い物に出る時間がなかった。だが、真一を置いてこれからスーパーに出かけたら、その隙に彼は逃げ出してしまうかもしれない。ありあわせのものを工夫してつくるしかないので、なんだか妙にごたごたした夕食になりそうだった。
「誘拐なんてことにはならないわよ」タマネギを刻みながら、滋子は言った。「そんなの考え過ぎよ」
「そうかなあ……俺、不安だな」
「ショウちゃんて、案外気が小さいのね──卵をそんなに泡立てないで。かきまわすだけでいいのよ」
「シゲちゃんはいいよ」昭二はムッとしたようだった。「自分のことだからさ。だけど俺はよくわかんないまんま巻き込まれてるんだぜ、疲れて帰ってきてるのにさ」
「そのことはホントに悪いと思ってる。けど、今は勘弁して。ね、お願い。あとで埋め合わせするから。絶対するから」
昭二は顔はむくれたままだったが、ふふんと笑った。「この卵、どうすんの?」
「そこへ置いといて。冷蔵庫からチーズ出して」
冷蔵庫から戻ってくると、昭二は真顔になって、
「でもさ、ルポライターとかジャーナリストとか、普通はこんなことするのかな。取材の相手とあんまり関わりすぎるのってよくないんじゃないの?」
それは滋子にも痛い質問だった。昭二の言う「普通のジャーナリスト」ならば、こういう局面ではどう行動するのか。
「さあ、それはあたしもわからない」と、正直に言った。「だけどあの子が気の毒でね」
「気の毒っぽい感じはする。けど、なんで家出しなくちゃならないのか、それがわからないんじゃどうしようもないよ」
「話したくないんだって。だけど、だいぶ込み入った事情がありそうなのよ」
「そうかなあ。俺、それはシゲちゃんの深読みだと思うよ。親と喧嘩したんだって。それだけのことだよ。賭けてもいいよ」
そうだろうか。滋子にはそうは思えない。
「あれくらいの年頃だと、何でも大真面目な顔して言いたいもんなんだよ。しかもあの子、親を亡くして他人のところに引き取られてるんだろ? ちょっとした喧嘩でも馬鹿に深刻に思えるんだよ。大げさなんだよ」
「ショウちゃんもそうだったの? お義母さんと」
昭二はちょっとたじろいだ。「まあな。そうそう、お袋と言えば、こんなことがバレたらまたうるさいからさ」
「バレるわけないわよ。黙ってれば」
「だけど隣のBCIAがいるからさ」
「何か言われたら、あたしの従弟だってごまかしとけばいいじゃないの。さあ、できた。お皿取って」
食べ盛りの年代でも、こんな状況が状況だから、箸も進まないのだろう。真一は食事をとろうとしなかった。滋子がうるさいくらいに勧めても、黙って恐縮しているだけだ。昭二は滋子と真一の顔を見比べながら、時々わざとらしいくらい明るい声を出して、
「腹、減ってるだろ? 遠慮するなよ」とか、「滋子はわりと料理が巧いんだよ」とか言うのだけれど、真一はそれにもちょっと首を縮めて反応するだけだった。
気まずい食事が終わるころには、滋子は真一を連れてきたのは失敗だったかと思い始めていた。どこかホテルにでも泊めてあげた方がよかったかもしれない。だけど、目を離したらきっと行方をくらましてしまうだろうし……。
「疲れたでしょ。布団敷いてあげるから、早く寝なさいな。明日のことは、明日またゆっくり相談しよ、ね?」
「風呂は? 風呂に入った方がさっぱりするんじゃないの?」
「あ。そうね。うっかりしてた。着替え貸してあげる」
「俺のスエットとかパジャマがいいんじゃないの。買ったばっかりでおろしてない新品があるだろ。こいつってさ、バーゲンっていうと見境なしに買い込んできて──」
二人でかしましく話しかけても、真一はうなだれて口をつぐんでいる。滋子は、あたしと昭二は、ウケないネタを連発しながら舞台で冷や汗をかいている漫才コンビみたいだと思った。
堂々巡りの状態に、とうとう昭二が腹を立て始めた。怒るのは、この場の彼の当然の権利でもあったろう。
「あのなあ」と、かなり厳しい声を出して真一に向き直った。「子供ったって、小学生じゃないんだからな。他人の家に世話になってんだから、それらしくちゃんとした態度をとれよな。なんだよそのむくれた面はよ」
「ショウちゃん──」
「滋子は黙ってろ」昭二は一気に強権発動ときた。「俺は大人の礼儀を教えてるんだ。甘やかすことない」
真一は顔を上げ、椅子から立ち上がった。
「やっぱり、失礼します」
「ああ、そうしろそうしろ。こっちだってその方が助かる」
「だけど、どこへ行くのよ」
「勝手に行かせりゃいいだろ? ひと晩やふた晩、野宿したって過ごせるよ」
真一はズックの鞄を持ち上げると、玄関の方へ向かった。滋子は彼の腕をつかんだ。
「短気を起こさないでよ。ショウちゃんも。お願いよ。塚田君を連れてきたのはあたしよ。あたしが言い出したの。塚田君は最初から他所へ行くっていってたの」
「だから、行かせりゃいいだろうが」
「よくそんな冷たいことが言えるわね!」
「冷たい!」昭二も椅子から飛び上がった。
「俺が冷たいだって?」
「冷たいじゃない!」
「俺は働いて帰ってきてるんだぞ! そしたら知らないヤツが家にいて、なんだか知らないけどむくれてて、それを今まで我慢してたんだぞ! それでも冷たいっていうのかよ!」
「働いてる働いてるって、働いてるのがそんなに偉いの? 誰だってやってることだわよ!」
にらみ合う滋子と昭二を、真一はぽかんと見つめていた。それからその顔に、ほとんど苦痛に近いほどの絶望の色が浮かんできた。
「喧嘩しないでくださいよ」と、妙に気抜けした声で言った。
滋子は真一を振り向いた。そして思わず、彼の腕をつかんでいた手を離してしまった。迂闊に触れてはいけないものが、そこにはあった。
「塚田君……」
昭二も険しい顔のまま、けれど明らかにひるみの色を見せて突っ立っている。真一は彼の方を向いた。
「すみません、僕が悪かったです。親切にしてもらったから、ちょっと図々しくなってました」
「だけど、言い出したのはあたしよ」
真一は首を振った。「そういうことじゃないから。でも、ありがとうございました」
「どこへ行くつもり?」
「どこかへ泊まります。それぐらいの金は持ってるから」
「家へ帰れよ」昭二がぶすりと言った。「家出なんて、カッコだけなんだろ」
「昭二さん」と、滋子はたしなめた。真一は昭二の顔を見ている。
「俺だって経験あるからさ。親と喧嘩して後に引けなくなってさ」
「……そういうことじゃ、ないんです」
「じゃ、なんなんだよ!」昭二は怒鳴った。
「子供が家に帰れない理由なんて、何があるっていうんだよ!」
「昭二さん、大声出さないでよ──」滋子は昭二に近寄った。「静かに話しましょ。ね、塚田君、だけど、あたしもそれは気になるのよ。なぜ家出しなくちゃならないの? その理由を聞かせてくれない? そしたら、もっと力になれるかもしれない」
塚田真一は両肩を落とし、その口から言葉は出てこない。
昭二が馬鹿にしたような口調で言った。
「そら見ろ、言えないんだ。大した理由なんかないんだからさ」
「昭二さんは静かにしてて」
滋子は真一の顔から視線をそらさず、対決するように見つめ返した。この睨み合いに勝たなくては、真一は本当に離れて行くだろう。ここが踏ん張りどころだった。
真一の頭が、わずかに右にかしいだ。まぶたがひくりと動いた。そうして言った。
「──書くんでしょう?」
「え?」
「僕の家出は、大川公園の事件とは何の関係もないことなんだ。だけど書くでしょう、僕が話せば。何でも書き立てるんだ。それが前畑さんの仕事なんだから。目的なんだから」
滋子は胸をそらして言い切った。「大川公園の事件に関係のないことなら、あたしは書かない」
「嘘だ」
「嘘じゃないわ」
「うちに取材に来た人はみんなそう言いましたよ」
昭二が一歩前に踏み出し、滋子をかばうように立った。「滋子は嘘をつかないよ。書かないと言ったら書かない。ワイドショウなんかと一緒にしないでくれ」
威張ったような昭二の口調に、真一はきっと目を上げた。滋子は口をはさもうと身を乗り出しかけたが、それより先に真一は言った。
「立派なことを言うけど、ホントかな。聞いても書かずにいられるかな? 自分で書かなくたって、他所へ情報を売ったりするんじゃないのかな?」
「てめえ、なんて口をきくんだ。滋子を何だと思ってる」
固めた拳を振り上げた昭二を、滋子は引き戻した。「やめてよ」
「それなら話してあげようか」真一はヒステリックに早口になってきた。「今日、見かけたでしょう? 僕を追いかけてきた女の子。あの子、どこの誰だと思いますか? 何で僕を追いかけるんだと思う?」
今日が初めてじゃないんだと、真一は言った。
「もう何度も、学校の行き帰りに待ち伏せしたり、電話をかけてきたりしてる。僕も必死で、石井さんの家にだけは訊ねてこないでくれって頼んで、向こうも一度は聞いてくれたんだけど、僕が顔をあわさないように避けてたら、とうとう今日は家まで追いかけてきたんです。ずっと、おじさんとおばさんには知られないように、ずいぶん頑張ってきたんだけど、彼女があの様子じゃ、今頃はもうバレちゃってるだろうな」
昭二がへらへら笑った。「君のガールフレンドなんだろ? はらませちゃって、責任取れとか言われてるんじゃねえのか?」
ひどい言葉に、滋子は昭二をひっぱたいてやろうかと思った。が、その前に凍りついてしまった。
昭二も硬直していた。声を呑んで。
塚田真一は震えていた。全身で震えていた。身体の両脇で拳を握りしめ、その拳も小刻みにぶるぶると動いていた。
「な、なんだよその顔は」昭二は空《から》元気で言い返した。「なんだっていうんだよ?」
「あの、女の子は──」と、塚田真一は話し始めた。不用意に呑んでしまった腐った水を懸命に吐き出そうとするかのように、胃をひっくり返すようにして、一語一語、身体の一番深いところから言葉を引きずり出して。
「樋口めぐみっていいます。本当は高校二年生なんだけど、今は学校をやめてる。やめざるを得なかったんだって」
「樋口めぐみ……」
むろん、滋子の知らない名前である。しかし聞き覚えがあるような気もした。急いで目を通した佐和市の教師一家殺人事件に関する記事の中に、樋口の名前がなかったか──
電撃のように思い出して、滋子は声をあげた。「樋口? あの樋口?」
「ヒグチって誰だよ?」と昭二がわめいた。
「俺にはわからないよ」
滋子にはわかった。滋子にわかったことを、真一もわかった。塚田真一は、一家皆殺し事件のたったひとりの生存者は、無惨に口の端をひん曲げて、滋子に向かって笑おうとした。
「樋口|秀幸《ひでゆき》はね、僕の親父と、おふくろと、妹を殺した犯人なんです。めぐみはそいつの娘なんだ。ひとり娘なんですよ」
昭二が唖然と口を開いた。「犯人の娘が、なんで君に会いに来るんだよ? なんで君を追いかけ回さなきゃならないんだよ?」
ひとつ息を吸い、その息を止めて、真一は低く答えた。「彼女の父親に会ってくれって」
「君に?」
「僕に。この僕に。面会して、父の話を聞いてくれって。そうして、そうして──」
真一の声が乱れ始めた。友達と喧嘩をして、しゃくりあげながら母親の元に帰ってきた小さな子供のように、とぎれとぎれに言葉を吐きだした。
「会ってみたら、きっと僕にも、樋口も犠牲者だってことがわかるって。そしたらきっと、あいつの減刑嘆願書に署名したくなるだろうって。めぐみは僕にそれをさせようとしてるんだ」
真一がなんとか落ち着きを取り戻すまで、滋子も昭二も黙って見守るしかなかった。真一を居間に連れ戻し、ソファに座らせると、滋子は彼の隣に腰かけた。
真一の涙はすぐに止まった。だが呼吸は切迫し、苦しそうで、ずいぶん長い間、窒息しかけた人のように空気を求めてあえいでいた。確かに彼は溺れかけていたのだ。苦悩という暗い沼の底で。今やっと、両手で冷たい水をかき分けてあがってきて、岸に向かって助けを求める声をあげたのだった。
「大丈夫?」
しばらくして、真一が震えながら大きくひとつ息を吐き出したとき、彼の顔をのぞきこんで、滋子は訊いた。「お水をあげようか」
「……はい」
コップの水を差し出すと、「ありがとう」と受け取った。わずかながら、その手はまだ震えていた。
「ごめんよ」と、昭二が首を縮めながら言った。「なんか……俺かなりひどいことを言ったな」
うつむいたまま、真一は首を振った。滋子は昭二にちょっと微笑みかけた。今は、彼も少しばかりの慰めを必要としている。昭二は弱々しく笑みを返してきた。それで滋子も慰められた。これでやっと、ふたりで真一を慰めることができる。
「樋口めぐみは──」と、滋子はゆっくりと切り出した。「父親の減刑嘆願運動をしているのね?」
真一はうなずいた。「彼女だけじゃなくて、近所の人たちとか、会社の元の従業員とかも協力してるそうです」
事件について、昭二は詳しいことを知らない。滋子は彼に説明し、真一に確認をとるつもりで話をした。
「樋口秀幸はね、塚田君たちが住んでいたマンションの近くで、クリーニング会社を経営している社長だったの。専用のクリーニング工場を持ってて、かなり繁盛してて、従業員も十人ぐらいいて」
会社の名前を「白秀社」という。
「もともとは、親から継いだ家業のクリーニング店を、樋口が一代でそこまで大きくした会社なのよ。経営は上手かったんでしょうね」
「従業員が十人ぐらいって言ったら、うちと同じくらいの規模だけど……。あ、俺の家は鉄工所なんだよね」昭二は真一に言った。「まあ、零細企業だよな」
「そうね。でも、樋口の望みは凄く大きくて、ただその望みは、白秀社を大きくするということだけに留まらなくてね。不動産に手を出したわけ」
昭二は顔をしかめた。「いつごろ?」
「言うまでもないって感じね。バブル期よ」
「で、バブルがはじけると──」
「いっぺんでコケた。あの時期、不動産の転売で儲けようとしていたほとんどの会社や個人がそうなったようにね」
負債は負債を呼ぶ。樋口秀幸は、一九九五年の秋には、総額十億円以上の借金を抱えることになってしまった。白秀社は倒産、樋口の個人資産もゼロになる。社員たちは離散した。
「日本中のあっちこっちでそういうことが起こってるよな。馬鹿だけど、気の毒な気もする──」昭二は呟き、黙ったままうなだれている真一に、あわてて言った。「だからって、樋口って奴をかばうわけじゃないよ」
「ええ、そうよ」滋子は続けた。「同情の余地はないと、あたしも思う」
破産の憂き目を見ても、もう一度やり直そうという健全な気力さえあれば、樋口には道があったはずだ。またクリーニング屋で働き、こつこつと資金を溜め、自分の店を興す。その店を大きくする。気の遠くなるような辛抱と労力と根気が要ったろうが、彼はまったくつぶしのきかないサラリーマンではなく、技術があった。やり直すことはできた。
しかし、時代の大津波に、あっという間に財産を呑み込まれ持ち去られた樋口には、もうその辛抱ができなくなっていたのだろう。失ったものを、一度に、手っ取り早く取り返そうとしたのだ。資金をつくって、早く会社を興したい──資金さえあれば──資金さえ──
銀行も公共の金融機関も、むろん樋口にはにこりともしてくれない。景気も傾いてゆく一方だ。あのバブル期、日本中に溢れていると思われた金は、ただの幻影に過ぎなかった。幻滅と焦燥の挙げ句、樋口はひとつの結論にたどり着いた。
盗むということに。
「それで銀行でも襲ったんならまだ話はわかるけど、なんでまた彼の家を? 君のお父さんは、仕事は何してたの?」
昭二の問いに、真一はうなだれてコップのなかを見つめたまま答えた。「──教師です」
「学校の先生か。先生が大金持ってるわけないよな?」
滋子は真一の横顔をうかがった。話し続けてもいいだろうか。
「お父様、遺産を相続したばっかりだったんだそうよ」
「遺産?」
「ええ。少しまとまった額をね」
「ああ、じゃあその噂を聞いて」
「そうね。近所のことだから、樋口の耳にも入ったんでしょう。本当に運が悪かったとしか言いようがない──」
言いかけて、滋子は口をつぐんだ。真一がぎゅっと目を閉じている。痛みをこらえているかのように。
「塚田君、大丈夫?」
真一は返事をしなかったが、ややあって目を開いた。またちょっと、息が乱れ始めた。
「どっちにしろ、悪いのは一方的に樋口の側じゃねえか。な?」
昭二は腕組みをして、滋子の顔を見た。
「そりゃまあ、家族の側からしたら何としたって助けたいだろうからさ、減刑嘆願書かなんだか知らないけど、署名を集めるのも結構だけど、それを塚田君に──それってやっぱ、虫がよすぎるよ。俺、なんかムチャクチャ腹立ってきた」
樋口秀幸は、社員たちの信頼を集めていた。それなのに会社を倒産させてしまい、自分を頼っていた彼らとその家族を路頭に迷わせてしまったことに、痛切な責任を感じていた。それもまた、再起を焦る彼を暴走させる大きな要因になっていたことだろう。
「犯行は、樋口ひとりだけでやったことじゃなかったの」と、滋子は続けた。「元の社員がふたり、協力してた。今、三人とも拘置所のなかにいるわ。減刑嘆願運動には、彼らの家族も関わっているのかしら?」
「たぶん」と、真一はうなずいた。
「減刑してもらえるという、そういう希望の根拠はどこにあるんだろう? どこに言い訳の余地があるってんだ?」
それは滋子も知りたいところだった。真一の顔を見た。
「樋口めぐみは何か言ってた?」
真一は何か言いかけ、少し考えてくちびるを動かし、結局は黙ってしまって、ただかぶりを振った。
「私たちはバブルの犠牲者ですとでも言い張るつもりなのかね?」
今や昭二は完全に腹を立ててしまい、語気が荒々しくなっていた。
「冗談じゃねえよ。そもそも、不動産を転がして儲けようなんて考えたことが間違ってたんだからさ。地道に商売してる人間には、そんな言い訳は通用しねえよ」
前畑鉄工所も、経営はかつかつである。いつだって綱渡りで、ただその綱の太さが時期によって変わるというだけだ。それだけに、昭二の怒りは、滋子の抱くかなり観念的なそれよりも、はるかに激しいかもしれない。
「樋口めぐみのこと、知っているのは塚田君だけ?」
「今までは」
「石井さんご夫婦は別として、たとえば先方の──樋口側の弁護士さんとかはどうなのかしら。めぐみがあなたに会いに来てることをご存じなのかしら」
「知らないんじゃないかな」と、真一はぼそりと答えた。「知ってても、止められないのかもしれないけど。あいつは住所不定だから」
「樋口めぐみが? だけど、遺族の感情を逆撫でしてるわよ。塚田君、担当の検事さんには話さないの?」
「話してません」
「相談してみたら? いえ、わたしは裁判のこととかよくわからないけど……。裁判自体は進んでるの?」
「向こうが精神鑑定を求めてて、今は中断してます」
「精神鑑定?」昭二がまた怒った。「なんだよ、それって。あれだろ、あのときは酔っぱらってたとか薬やってたとかで、自分のしてることがわからなかったとか、そういうことだろ? 責任逃れじゃないか」
「そう怒鳴らないで。そんな大ざっぱなことじゃないのよ。それに、被告人の権利なんだから」
「殺された方はどうなるんだよ」
「それとこれとをごっちゃにしちゃいけないのよ」
「シゲちゃん、どっちの味方なんだ?」
思わず、滋子は苦笑してしまった。ホント、単純なんだから。
「笑い事じゃねえよ」昭二はぶつぶつ言う。
「こんな話、聞いたことねえぞ。塚田君は踏んだり蹴ったりじゃないか」
ぐいと膝を乗り出すと、昭二は真一の肩をつかんで揺さぶった。
「話はよくわかった。さっきはごめんよ。君が家に帰れない理由も呑み込めたよ。樋口めぐみになんて、会いたいはずがねえもんな。それだけ図々しい自分勝手な女じゃ、怒鳴りつけたって諦めて引っ込んだりしないだろうし」
昭二は丈夫そうな歯をむき出しにして笑みを浮かべた。
「安心しろよ。今日からは俺たちが君をかくまってやる。俺と滋子は、君の味方だからな」
[#改ページ]
12
九月末、十二日の事件発生から約半月を経て、武上悦郎は、墨東警察署内訓辞場の外に掲げられた墨書の立て看板を書き改めた。大川公園バラバラ死体遺棄事件と、先日三鷹市で発生した女子高生殺害事件が、同一犯人もしくは同一犯行グループの手によるものと推察されるため、ふたつの事件の特別合同捜査本部が設置されたからである。
ちょうどこのころ、大川公園事件の特捜本部では、有力な容疑者をひとりあぶり出していた。公園から南に二キロほど下がった川沿いの公営住宅に住む二十五歳の無職・田川《 た がわ》一義《かずよし》という青年である。
実はこの田川の名は、捜査の端緒のかなり早い段階から、捜査本部のファイルのなかに登場していた。墨東警察署並びに近隣の城東・荒川・江戸川・久松警察署管内に現在居住中の、性犯罪と殺人・傷害など暴力的犯罪(武装強盗や重窃盗、放火は除く)の前科を持つ人物をリストアップしたファイルだ。大川公園事件の発生直後につくられたこのファイルには、合計二十三名の名前が載せられていた。
前科者《ぜん か しゃ》に対する偏見を煽り、彼らの正常な社会復帰を阻害するという批判はあれど、今回のような重大事件が発生したとき、まずはそれ以前に発生している類似の手口による犯行やその犯人を洗ってみるというのは捜査の常道である。特捜本部内では、二人一組計六人の専従班がつくられて、このファイルを元にした捜査を開始した。調べ始めると、二十三名のうち七名が、現在別の事件の容疑を受けて身柄を拘束されている、もしくは判決が下って受刑中であるとわかり、最初の段階でオミットされることになった。
残り十六名中十四名までは現住所や連絡先が確認できた。二名は所在が判らず、担当の保護司も彼らの現況を把握していない。しかしこのふたりは、それぞれ、酒場での喧嘩と、近所づきあいのいざこざから発生した傷害致死の罪を問われて受刑したもので、そこから考えると、今回の事件に関わっている可能性はかなり低いと考えていいだろう。
さて、リストの十四名のうち、特捜本部が特に強くマークしたのは、リストナンバー6の四十九歳の男性と、ナンバー11の二十六歳の男性だった。ふたりとも、婦女暴行・強制|猥褻《わいせつ》・猥褻目的の略取誘拐の罪を問われており、ナンバー6の方は累犯者でもあった。ナンバー11の方も、公的な記録には残されていないが未成年時代に数件の累犯があることを、彼が刑を受けることになった事件の捜査担当者たちが知っていた。ふたりの事件の犯行現場は、いずれも首都圏に限定されている。
ナンバー6は久松警察署管内に、ナンバー11は城東警察署管内に居住している。リスト専従班はここで二手にわかれ、それぞれの所轄署の協力を仰ぎながら、このふたりの現在の生活状態・居住環境の徹底的な調査を開始した。
この時点で、残りのファイルは武上の手元に戻されてきた。リストの十四名から最重要マークのふたりを除いた残り十二名のうち、性犯罪の前科を持つものはふたり、ナンバー2とナンバー13だ。いずれも犯情としては軽微と言えるものだが、念のために現況を確認する捜査が行われ、ふたりとも今回の捜査対象からはずしていいのではないかという報告書があがってきたものを綴じ込み、武上はいったん、そのファイルのことを忘れた。この時点では彼も、ナンバー6とナンバー11に気をとられていたのである。しかし、後に急浮上してくる田川一義は、実はこのとき伏せられてしまったナンバー13であった。
特捜本部が、大川公園を基点にぐるりの管内に住む人物という犯人像を打ち出したのは、この犯人が大川公園付近に対するきわめて詳しい土地|鑑《かん》を有しているらしく思われるからである。大川公園は、三年前の春から秋にかけて、全面的な改修工事を行っている。現在進行中の一部補修工事も、その改修のときに予算等の関係で手が回りきらなかった部分について行われているのだ。三年前の改修工事は、園内の施設をはじめ、植え込みや公園出入口の位置なども変更されるほどの大規模なもので、区役所の公園管理課員の話によると、改修前後で園内の様子が一変したという。
となると、現在の大川公園内についてよく知っているらしきこの犯人は、十年も昔に大川公園の近くに住んでいたとか勤めていたというのではなく、きわめて現在に近い過去から大川公園の様子を知っている人物だということになってくる。とりわけ、武上の考えた例のゴミ箱のトリックを仕掛けるのには、常々大川公園に出入りして、ゴミ回収のサイクルについての知識がなくてはならず、それには遠方にいてはままならないであろう。
ところで、このゴミ箱のトリックに関する一件は、捜査会議での検討にもかけられたのだが、結果は賛否両論、武上の意見に賛成する者と、それは考えすぎだと否定する者とが半々の状態だった。面白いことに、日ごろ何かと武上を慕ってくれている秋津刑事が反対論側で、彼と折り合いのよくない鳥居刑事が武上側になった。もっとも、秋津が反対だから鳥居は賛成にまわったというだけのことなのかもしれないが。
「ガミさんは少し、犯人を買いかぶり過ぎてますよ」と、会議のあとで秋津は言った。
「それほどの度胸と頭のある奴じゃないと思うな」
「女子高生を騙して連れ出すのに、度胸と頭は要らんかね」
秋津は苦い顔をした。「三鷹のあの娘《こ》は、だいぶ問題行動があったそうじゃないですか。可哀想だとは思うけど、簡単に引っかけられたんじゃないのかな」
遺体で発見された女子高生は、日高千秋・十七歳、池袋にある私立女子高校の二年生である。彼女の制服姿の写真を見せると、プラザホテルの従業員たちは、ひと目で、これがあの日手紙を届けにきた少女だと確認した。制服も間違いないという。これが根拠となって合同捜査本部ができたわけだが、この事実が公式発表され報道されたあとも、今までのところは、犯人の側は沈黙している。
武上は犯人を買いかぶっているつもりはないが、相当に賢い、すばしこい奴だろうと思っている。おしゃべりでもある。警察が正式にふたつの事件の関連性を認めた以上、かなり高い確率でそれに対するコメントを出してきそうなものだと、正直言って期待していた。おしゃべりな犯人は、しゃべらせた方がいい。そのうちきっとボロを出すからだ。
しかし、今回は沈黙している。有馬義男に対してもちかけたテレビで土下座すれば云々の一件についても、その後は何も言ってくる様子がない。ひょっとすると、犯人の側に何か起こっているのかもしれないと、武上は考える。
その「何か」は、別に大げさなことでなくていい。風邪を引いて寝込んでいるとか、仕事が忙しいとか、出張中だとか、家族で海外旅行をしているとか、そんな当たり前のことでいいのだ。この事件の犯人像には、そういう日常の些末な事どもがぴったりと当てはまるのである。
「彼」もしくは「彼ら」──この種の計画的犯罪が複数の犯人の連携プレイで行われることは、日本国内ではほとんど例がないが、共犯者がいるかもしれないという可能性の問題として──今度の事件を操っている人間は、若い女性をさらって殺すという犯情の卑しさと裏腹に、かなり魅力的な、言葉をかえていうならば、「まさかこんな人が」と思われるような人物ではないかと武上は思う。ひょっとすると、社会的な地位も持っているかもしれない。経済力もそこそこありそうだ。有能で人当たりがよく、人好きがして、結婚しているか恋人がいるか、結婚している場合は子供もいるかもしれない。とにかく、どう見ても「犯罪者」のイメージからはほど遠い、健全で正常な社会人だろうと、武上は考えるのである。
犯人と有馬義男の会話、日高千秋の母親との会話、テレビ局へかけてきた電話。何度となくその記録を読み返しながら、これはどういう人間だろうかと考えてきた。話の内容はともかく、言葉の選び方はきちんとしているし、語彙《 ご い 》も貧弱ではない。教育を受け、その教育を身につけている人物を、武上は思い浮かべる。声が変造されているので、年齢は絞り込めないが、それでも二十代から四十代というところだろう。その年代でそこそこ教養もあるということならば、定職についていない可能性は薄い。失職しているケースがあるとしたならば、リストラでやられたか、円高不況による倒産か──
引っかかる点はいくつかあった。たとえば、有馬義男をプラザホテルに呼び出しておきながら、じいさんなんかはああいうホテルではちゃんとした扱いを受けられないんだと揶揄《 や ゆ 》しているところである。これは、単に有馬義男を侮辱するために言った言葉なのか、それとも犯人のなかにあるコンプレックスの裏返しなのか。つまり犯人自身が、高級ホテルで「ちゃんとした扱い」を受けられない類の人物であるのかということだ。
ここで武上は考え込む。確かにあの種の気取ったホテルは人を見て扱いを決めるところがある。だがそれも、この十年ぐらいでだいぶ様変わりしてきているように思う。それだけ社会全体が豊かになってきたのだし、多様化してきたという証拠でもあろう。学生がジーンズによれよれのTシャツ姿でデイパックを背負ってホテルのロビーで待ち合わせしているのを、しばしば見かけるくらいである。
七十過ぎの豆腐屋の主人の有馬義男が高級ホテルに気後れし、その気後れのせいで、頭の悪い従業員にバカにされるというケースなら考えられるし、実際、あの夜そういうことがあったらしい。しかし、おそらくは有馬義男よりずっと若いであろう犯人の口から、自発的に──有馬義男が「あんなところではどぎまぎしてしまうから嫌だ」などと言う前に──じいさんはちゃんとした扱いを受けられないよという言葉が出てくる。そういう発想がある。これはかなり奇異なことだと、武上は思うのである。
するとこれは、犯人の「親」の世代の体験や思想から出てきた言葉なのではないか。だとすると、犯人の現況ではなく、彼の生育環境を推し量るひとつの手がかりになるかもしれない。
もうひとつ気になることがある。この犯人はおしゃべりだが、それと同時に、被害者たちにも実によくしゃべらせているということだ。
古川鞠子の件で有馬義男に接触するのに、犯人は彼に電話をかけた。古川家にも訪ねてきている。どうやって自宅の住所や電話番号を調べたのか? 当時もいろいろ考えて説を立ててみたが、三鷹の日高千秋殺しがあって以来、武上は、これは犯人が被害者たちからそれらの情報を聞き出したに違いないと考えるようになった。
日高千秋の遣体は、彼女の自宅近くの児童公園内で発見された。象の形をした滑り台の上に座らされていたのだ。母親の証言によると、この滑り台は、幼いころの日高千秋が大好きだったものだという。母親自身はそのことを忘れていた。犯人の側から、
──お宅の近所に児童公園があるでしょう? 象の形のへんてこな滑り台がある児童公園。
と言い出したのだ。
なぜ犯人が千秋と象の滑り台のことを知っていたのか?
たとえば犯人が日高千秋の幼なじみや親しい友人で、以前から滑り台のところをよく知っていたと仮定してみる。その場合は、この友人某が大川公園の事件にも噛んでいることになるわけだ。今のところ、千秋と鞠子がなんらかの形で知り合いだったという可能性は出てきていないから、彼女たちをつなぐ輪は犯人の側にしかない。となると、この犯人は、千秋の親しい友人(子供時代の思い出まで知り得るような)であると同時に、古川鞠子の住所や電話番号なども知り得る立場にいる人物ということになる。
この仮説には、少し無理があるのではないか。千秋も鞠子も女子高生というのならまだ可能性もあろうが、片方は高校二年、片方は就職したばかりの銀行のOLである。鞠子の出身高校は千秋の在学校ではない。住まいこそ、東中野と三鷹という同じ中央線沿線だが、それ以外にはこれという共通点が見あたらないのだ。
捜査会議では、ひとつ奇抜な意見が出た。犯人は鞠子の同僚か上司ではないかというのだ。なるほど会社の人間なら古川鞠子のパーソナルデータをつかむことはできよう。では、日高千秋とどうつながるか?
千秋は売春行為をしていた。母親も薄々察知していたし、同級生のなかには、千秋の口からかなり露骨な打ち明け話を聞かされている少女もいた。それによると千秋はまったくのフリー、つまりグループに属したりリーダーがいたりするわけではなく、常に単独行動で、主にテレフォンクラブを利用し、相手の男性を呼び出し、相手が乗ってきそうで千秋も気に入ればホテルに行く──というパターンを守っていたようだ。千秋がこんなことを始めたのは、彼女と非常に親しかったある同級生の影響と誘いがあったからのようで、しかしこの同級生は今年の六月、校内で窃盗行為を働いたということで退学処分を受けている。その後も千秋との付き合いは続いていたらしいし、特捜本部でも彼女の現況をつかんで事情聴取をしているが、この少女も「一本釣りタイプ」のようである。そちらはそちらで別の事件になっている。
さて、この奇抜な意見の提案者が言うには、古川鞠子の職場の人間が、日高千秋の客になったことがあるのではないか、というのだ。そういう形でミッシング・リンクがつながり、こいつが犯人だというわけである。なるほど説としては面白い。しかしその場合、なぜ殺したかという動機が今ひとつわからなくなるし、だいいちこの説を採ると、いまだ身元の判明しない第三の被害者、右腕しか発見されていない女性をどこにはめこむのか。彼女も職場の同僚や元同僚、あるいは売春行為をしていた若い女性ではないかというふうにもっていくのは、いささか強引だろう。それよりは、これは不特定多数の若い女性を狙った犯行であり、被害者同士に相互のつながりはなく、ただし、犯人が殺害に及ぶ以前に、被害者個人から話を聞き出しているのだろうと、素直に考えた方がいい。
ただし、日高千秋と犯人のあいだに面識があったかどうか──これは即断を許さないところである。プラザホテルに手紙を届けたあの日、初めて町で(あるいはテレクラで)接触したのか、犯人が以前から千秋の売春行為の相手であり、あの日も呼び出されて出ていったのか、そこはまだわからない。もしも犯人が千秋と前々からなじみの「客」なのだとしたら、彼女が残した日記、手帳、アドレス帳、ポケットベルの通信記録などを洗い出すことで、何か手がかりがつかめるかもしれない。
それでも、今の段階でひとつだけはっきりしていることがある。日高千秋がこの犯人と思われる相手の男性を「気に入っていた」ということだ。打ち解けていたということだ。それも、子供のころの思い出話を話して聞かせるほどに。
日高千秋は、プラザホテルに手紙を届けた二日後に遺体となって発見されている。しかし、遺体を調べてみると、死亡してから二十四時間以上は経過していない[#「死亡してから二十四時間以上は経過していない」に傍点]ことが判明した。これは特捜本部にとってもやや意外な事実であった。では、手紙を届けてから殺害されるまでの二日間、彼女はどこで何をしていたのか?
犯人のそばにいたのだろう。彼女の自由意志で留まっていたのか、拘束されていたのか、それはわからない。一晩目は自由意志で、二日目つまりプラザホテルの一件が報道され、千秋があの手紙の意味するところに気がついて以降は拘束ということだったかもしれないし、その説がいちばん妥当だと武上は思う。もちろんその「自由意志」は、たぶんに犯人からの働きかけによるものに違いないが。なにしろ、翌朝になれば、彼がプラザホテルに届けさせた手紙がどんなものであるか、千秋は知ってしまうのである。そして千秋は彼の顔を知っている。名前や経歴は嘘を言えば済むが、人相特徴を知られている以上、千秋を自由の身にすることは絶対にできない。
今となっては、千秋が最初からの共犯者であったとは考えにくい。大川公園事件が起こったとき、母親は千秋に、ああいうこともあるから夜遊びはやめなさいと言った。それに対して千秋は「あたしは男に殺されるほどバカじゃない」と言い返したという。日常の生活態度も、乱れてはいるがそれなりに変化はなく、事件の報道を特に興味を抱いて見たり読んだりしている様子もなかったそうだ。もしも千秋が共犯ならば、そこまで平静ではいられなかっただろう。いくらすれていると言っても、十七歳の少女なのである。
日高千秋は途中から巻き込まれた。だが彼女を巻き込んだその相手に、おそらくは相手が犯意を見せるその瞬間まで、彼女はかなりの好意と信頼感を抱いていた。母親でさえ忘れていた象の滑り台のエピソードを話したということが、彼女の相手に対する心情を物語る、何よりの証拠だ。
解剖報告によると、最後に食事をとったのは殺害される直前のことであるらしい。ハンバーガーのようなものだという。ジャンクフードだが、女子高生にとっては好ましい食べ物だったかもしれない。つまり、千秋は食事もきちんと与えられていたのだ。体内からは残留精液は検出されなかったので、犯人とのあいだに性交渉があったのかどうかは判然としないが、手ひどい暴力をふるわれた痕跡は残っていない。首に残ったロープの痕を除けば、千秋の全身の肌はつるりときれいだった。髪にシャンプーの成分が残っているし、足の指のあいだから湯垢が検出されているので、二日間のあいだに入浴もしくはシャワーを浴びていた可能性もあるという。
千秋の死因は、ロープで首を絞められたことによる窒息死だ。ただし、首にかけたロープを手で絞めあげられる──という形ではない。いわゆる首吊り≠させられて[#「させられて」に傍点]死んだのだ。「縊死《 い し 》」なのである。報道では、このあたりが不正確に伝えられることが多く、頻繁に「絞殺」という言葉が使用されているが、これは事実と違う。「絞殺」と「縊死」では、首に残る独特の痕跡(これを索状痕《さくじょうこん》と呼ぶ)がまったく違うので、すぐに識別がつくのだ。
被害者を強制的に縊死させたという形の殺人事件は、武上もこれまで扱ったことがない。十年ほど前に、難病に苦しむ妻が自殺しようと鴨居からさげたロープに首をかけて、踏み台に登ってはみたけれど、怖じ気づいてためらっているところに帰宅した夫が、妻に泣いて頼まれて、目をつぶって踏み台を蹴ってやったという事件なら経験したが、これは妻の残した遺書もあり、彼女が日ごろから自殺願望を口にしていたという周囲の証言も、夫が彼女の看護のため精神的にも経済的にもギリギリのところまで追い込まれていたという医療関係者の証言もあって、自殺|幇助《ほうじょ》と認定された。罪には問われるが、殺人ではない。
そういえばこの事件の際、捜査にあたった同僚の刑事が、
「もしも俺がこの夫と同じ立場に置かれたら、やっぱり踏み台を蹴ってやると思う。でも、踏み台を蹴り倒すと同時に、女房の体を抱き留めてやる。それをしなかったのは、やっぱりこの夫のなかに、殺意があったからじゃないか」と言っていた。このころ武上は、もろもろの事情で妻とギクシャクしていた時期だったので、同僚の言葉に大いに動揺したものだった。俺だったら踏み台を蹴って、そのまま家も職も捨てて逃げてしまうかもしれないと、かなり深刻に考え込んだ。もちろん、こんな話は女房には一言も話してない。
日高千秋の首に残った索状痕は、明らかに縊死の際のそれであった。だが彼女は、首吊りの状態になってから相当暴れたらしく、首筋にロープがこすれて、皮膚に擦過傷ができていた。まだ意識のあるうちに、もがきながら必死でロープを緩めようとしたのだろう、両手の爪のあいだには、ロープの繊維がたくさん残っていたし、右手の中指の爪は割れていた。
これは、覚悟の縊死の場合には絶対にあり得ないことだ。間違いなく、千秋は犯人に強いられて、首吊りをさせられた[#「させられた」に傍点]のである。
犯人は彼女を、どうやって誘導したのだろう。言葉巧みに、イタズラだと説明したのだろうか? 千秋が男性であったなら、首を吊って意識が飛びかけるくらいの状態で自慰をすると気持ちいいよ──と唆《そそのか》すという手がないでもない。実際、この隠れた趣味に浸っていて、うっかり首が強く絞まりすぎてしまい、事故死するという例は少なくない。だがこれは男性ばかりだ。千秋にはあてはまらない。
それに千秋の遺体は、発見されたとき、きちんと制服を着ていた。靴下まで、制服にマッチしたものを履いていた。ただし下着と靴下は母親の知らない新品で、おそらく犯人が買い与えて着替えさせたものと思われる。
犯人と一緒にいるあいだ、千秋がずっと制服を着たままであったとは考えにくい。もう少し、動きやすい服装をしていたのではないか。学生鞄や他の所持品は発見されていないので確認はできないが、これまでの行動パターンから推して、千秋自身が着替えを持っていた可能性もある。入浴していたかもしれないというのだから、なおさらだ。
だとすると犯人は、千秋を強制して、あるいは騙して縊死をさせる前に、まず彼女を制服に着替えさせたことになる。確かに、千秋を母親の元に返す際には、制服姿である方がショッキングだ。犯人の側から言えば、演出効果が高いということになる。
しかし、既に自分がプラザホテルに届けた手紙が何であったのか、どんな事件に関わっているのかを察知して、少なからず怯え始めていた千秋を誘導するのは、犯人にとっても簡単なことではなかったはずだ。強制して何かさせるのも、頭で思うほど易しいことではない。彼女が泣き叫んで命乞いするような状況下にあったとしたら、まずコントロールはきかないだろう。
それなのにこの犯人は、千秋を着替えさせるという手間をかけた上で、縊死させている。いったいどうやったのだ? どんな手を使って日高千秋を動かしたのだろう?
犯人と日高千秋のあいだに──というよりも千秋の側に、ギリギリになっても、首にロープをかけられて、踏み台を目の前に持ってこられても、まだ話せば何とかなる、まだ自分の言うことを聞いてくれるんじゃないか、あるいはこれは手の込んだ冗談で、この人が自分をこんな目に遭わせるわけはないと信じてしまうような、この人が古川鞠子やあの右腕の持ち主の女性に非道いことをしたとわかっていても、でも自分だけは大丈夫だと、信じざるを得ないような心情が形成されていたのではないか。
そして、武上がこの犯人──日高千秋が最後に接触した人物を、かなり魅力的な、人好きのする男だろうと推測する根拠も、かかってこの一点にある。
武上はあれこれ考えた。大学生ぐらいの年齢がいちばんありそうか。スカッとしたかっこいいお兄さんだ。しかしそれでは経済的な面で難があるかもしれない。あるいはちょうど秋津ぐらいの年代──三十半ばの働き盛り。そしてふと、日高千秋の父親が忙しい企業戦士で現在も単身赴任中であること、千秋と父親のあいだも、母親と父親のあいだも、会社中心の父親の生き方が災いとなって、長い間うまくいっていないことを思い出した。となると、千秋の父親の年代というのも考えられる。神崎警部と昼飯を食べたとき、自説を披露した上で、ひょっとすると犯人は日高千秋の父親に似ているかもしれませんよと言ってみた。警部は真顔でそれを聞き、あとで母親から父親の写真を借り受けることになった。
そういう試行錯誤があったから、前科者リストのなかからナンバー6とナンバー11が浮かび上がってきたとき、武上は彼らの外見、押し出し、経済力などがひどく気になった。彼らに張り付いている専従班が写真を撮ってきたときも、写真を縦にしたり横にしたりしながらとっくりと観察した。自分が女子高生だったら、この男と付き合いたいと思うだろうか。寝てもいいと思うだろうか。打ち解けて仲良くなって、思い出話をしたくなるだろうか。
前科者の洗い出し専従班の一方には秋津が、一方には鳥居がいる。対立することの多いこのふたりの意見もきいてみた。秋津はナンバー6の方の担当だが、彼自身はこの人物が犯人である可能性は薄いと考えていた。
「おっさんすぎるんですよ」と、彼は言う。
「我々が見ても、むさいおっさんだと思うくらいだから、若い女の子が近寄るかな。前歴が災いして、今のところ定職についてないんで、金にも困ってる。前回の収監中に女房と離婚して、出てきてからはずっとひとり暮らしをしています。その点で行動の自由はあるけど──それに彼氏、今は車も持ってませんよ」
プラザホテルの一件で見せた機動力や、千秋の遺体を運搬した時の手際などから見て、犯人は自家用車を所有しているであろうというのが特捜本部の見解である。
ではナンバー11はどうか。多くの点で武上の描く犯人像に共感しているらしい様子の鳥居は、
「可能性は、かなり」という言い方をした。
ナンバー11の青年の起こした直接の事件は、交際のあった女友達から別れ話を持ち出され、それを怨みに思って彼女をつけ回したが、相手も警戒していたため、そこで標的を変えてその女友達の妹に近づき、当時高校一年生だった同女を下校途中に拉致してホテルに軟禁、暴行傷害に及んだというものである。
五年前の事件で、ナンバー11は当時大学三年生だった。隙を見て逃げ出した被害者が近くの交番に駆け込み、巡査がホテルに急行したとき、彼はベッドで眠りこけていた。
逮捕した青年から調書をとっているとき、担当の取調官は、彼の話のなかで、被害者側の姉と妹がしばしば混同され、時刻や曜日の観念も乱れていること、軽い見当失《けんとうしつ》があることなどから、精神状態に疑問を抱いた。また当時、彼の住む家の近所で、夜間、帰宅途中の若い女性が襲われ、殴られたり髪を引っ張られたりする事件が数件起こっていたのだが、これも彼の仕業であることが判明、その際、被害にあった女性のうちのひとりが、名前を呼んでののしられたと証言し、その名が彼と交際していた女性の名前であったことが判った。どうやら彼の目には、若い女という女がみな、自分を袖にした憎い女に見えていたらしい。
結局、検察側からの申請で精神鑑定が行われ、鑑定書が公判に提出されたが、心神|耗弱《こうじゃく》や心神喪失とは認められず、責任能力は充分にあったという認定で、懲役五年の判決がおりた。被告人は控訴せず、受刑した。
「彼が未成年のころにもいくつか事件を起こしていたことは、もちろん公判には持ち出せませんでした。それでも弁護側が控訴しなかったのは、早いところ罪を認めて、彼に治療を受けさせた方がいいという判断があったからでしょう。五年が重いか軽いか意見の分かれるところですが、担当検事が女性でしたのでね」
鳥居は人当たりは悪いが──有馬義男の件でそれは実証済みだ──仕事はてきぱきとしている。てきぱきしすぎているから人と摩擦を起こすのだが、武上は彼の几帳面な仕事ぶりを高く買っていた。ナンバー11についても、鳥居は詳細なファイルをつくっていた。
「未成年のころに起こした事件というのも、内容的には似たようなものでしてね。自分に冷たくした女の子や、交際を嫌がる女の子をつけまわして、連れ出そうとしたり、日に百回も電話をかけたり、家に押しかけて乱暴しようとしたりという具合です。徒党を組むタイプではありません。まあ、粘着質の孤独な男ということですか」
「しかし暴力的だな」
「そうですね。受刑中は模範囚で、五年を三年とちょっとで仮出獄しています。保護司とは定期的に会っていますし、保護司に紹介された医師のカウンセリングも受けています。両親と同居して、定職はありませんが、徒歩で行けるところにあるファミリーレストランでアルバイトして、本人はいつかは大学へ戻って卒業し直したいという希望を持っているようです」
「専攻は」
「法学部です」と、鳥居はにこりともしないで答えた。
「じゃ、仮出獄以来はずっと落ち着いていると」武上は鳥居の顔を見た。「しかし、君はこいつが大川公園の事件に噛んでいる可能性があると思う。なぜだね?」
「ひとつには、外見ですね。僕は武上さんの犯人像に賛成ですから」
「確かに、写真で見ても様子のいい青年だな」
「少し顔色がよくないですが、身長も高いしがっちりした身体付きだし、なかなかハンサムなんですよ。なんでフラれるんですかね」
自問するように、鳥居は言った。そういえば彼も独身である。
「教養もあります。学生時代の成績もいい。高校時代の同級生の話じゃ、学年でもトップクラスだったというんですね。生徒会長も務めてます。選挙で選ばれたんですよ」
武上はゆっくりとうなずいた。
「日高千秋の遺体を滑り台の上まで担いで運びあげるには、かなり力が要ったはずです。その点でも彼は条件に合う。車も持ってますしね。軽乗用車ですが」
赤い塗装のツーシートのおもちゃのような車だという。
事件発生前後の大川公園付近、古川鞠子の腕時計が届けられた時刻前後の東中野の古川家、プラザホテル近辺、日高千秋遺体発見前後の児童公園周辺──この四ヵ所の不審車両の洗い出しは現在も続いている。今までの報告書のなかには、ツーシートの赤い車は浮かび上がってきていない。赤い車は比較的珍しいので、目撃者の記憶に留まりやすいのだが。
「その点はちょっと保留になりますね。でも、僕はやっぱり決定的にこいつがくさいと思う」
つい最近、ナンバー11の青年に結婚話があったというのである。
「聞き込みでわかったんですが、アルバイト先でガールフレンドができて、これが年上の女性でしてね。相手は結婚を考えた。で、彼の周辺を少し調べたらしいんです」
興信所を使ったのである。
「調査員が近所に話を聞きに来たそうです。彼の現住所の近所の住人たちは、彼の前科について知りません。大人しい青年だという話をしただけだったそうです。ですが、興信所の方が独自のルートで彼の前歴を調べ出してしまった。それで交際相手が逃げ出して、アルバイト先でひと悶着あって、運のないことに、せっかく誰も知らなかったはずの過去の事件まで広まってしまったんです」
「いつのことだ?」
「今年の四月中旬」鳥居は言って、ちょっと目を動かした。「古川鞠子が失踪したのは、確か六月の初めでしたよね?」
「うん。六月七日だ」
「これまで彼が起こした事件は、すべて、それ以前に起こった女性関係のもめ事が引き金になっています。交際相手が逃げたり、彼を振ったり、嫌ったりとね。今回の場合もまさにそれです。これが引き金になって、また女が憎いの発作が始まって、エスカレートしてきてるんじゃないですかね」
「その、相手の年上の女性は?」
「勤めを変えて、彼から離れました。居所はわかったので、会いに行くつもりです。もっと詳しいことがわかるでしょう。それともうひとつ、彼の勤めているファミリーレストランはチェーン店で、本社は新宿にあります。採用面接や最初の研修には、みんなそこへ行くんですよ」
「新宿のどこだ?」
「西新宿セントラルビル。プラザホテルのすぐ隣です」
武上は腕組みをした。「張り込みをやってるんだよな?」
「二十四時間態勢で」
「捜査会議にはいつかける?」
「まだわかりません。もう少し裏をとるようにと、警部に言われています。アリバイの確認が難物で」
「わかった。俺の方も、いつでも資料をまとめられるように準備しておこう。それともうひとつ──」
「なんですか」
「ナンバー11は、今どういう生活をしてる? アルバイトは続けてるわけか?」
「続けています。前科が判明したから解雇ということにはなっていないし、本人も辞めていない。このへん、どういう心理なのかわかりにくいですがね。同僚の話だと、過去のことは冤罪《えんざい》だったんだというようなことをしゃべっているようです」
「遠出したり、病気で寝込んだりしてるわけじゃないな?」
「そういうことはありませんよ」
鳥居と別れたあと、武上は机に肘をついて考えた。ナンバー11が真犯人である可能性は、彼の目には半々ぐらいに思えた。確かに犯人像の条件にはかなり符合するところがあるが、彼が犯人だった場合、このところの沈黙が説明つかなくなるのである。ただ単なる気まぐれなのか──。
前科者リストを元にしての捜査は、神崎警部の方針で、可能な限り慎重に進められていた。とりわけ、対象がナンバー6とナンバー11に絞られたころから、その進捗状況を、捜査会議の場でさえ全面的には報告しないようになっていた。番記者を通して外部に情報漏れが起こることを、警部がひどく嫌ったからである。
神崎警部は、駆け出しの所轄署勤務時代に、三億円事件をめぐる誤認逮捕事件を経験している。若い神崎刑事のまだ軟らかい心に、この一件は大きな影を落とした。この種の間違いから派生する被害がいかに大きいか──それは誤認された「被害者」だけでなく、捜査当局も然りだ──払う代償がいかに高いか、身に染みて感じたのだ。同時に、付和雷同しやすい我が国のマスコミに対する強い不信感も、神崎のなかに深く根づいた。彼ほど夜討ち朝駆けのやりがいがない警察官は珍しいというのが、番記者たちのあいだの評判である。特捜本部長の竹本捜査一課長もマスコミ批判の多い人物なので、今回、その点では実にスムーズな意思統一が果たされ、社会的影響力の大きい割には捜査途上の情報公開の少ない事件として、今回の事件は存在している。
当然のことながら、マスコミ側からは強い反発があった。半月を経過しても手がかりさえつかめていないらしい捜査本部に対し、手厳しい論調の記事や報道が目立つ。武上はそれらの報道のスクラップもしていたし、この事件について報じたテレビ番組のビデオ撮りも続けていた。ビデオの方は本部内だけでは手が回りきらないことだし、本来の業務でもないので、主に武上の妻がこれを担当していた。ニュース番組はともかく、昼間のワイドショウ関係については、武上よりも彼女の方がずっと詳しいということもある。
事件が熱いうちは、武上がそれらのテープを通しで目にする時間的余裕はほとんどなく、あとで観ることになっても、そこから事件に関する新しい発見を得ることはほとんどない。しかし、なんでも記録しておきたいタイプの武上の気性を知り抜いている細君は、几帳面に録画を続けてくれている。
今日も午過ぎに、細君は武上の着替えをさげて署を訪れた。会議中の武上は細君に会うことは出来なかったのだが、あとで袋を開けてみると、下着やワイシャツと一緒に一本のビデオテープが入っていた。細君の手書きのメモが添えられている。あるニュースショウで、ボイスチェンジャーを使ったいたずら電話被害についての特集を組んでいた、参考になるかもしれないから持ってきてみた、というのである。
特捜本部が沈黙気味なので、マスコミはマスコミでいろいろな観点から事件に切り込もうと試みているのだ。その夜仮眠をとりに行く前に、会議室のテレビとビデオデッキを使い、武上はテープを再生してみた。一緒に篠崎がいた。細君のメモによると、コマーシャルも入れて二十分ほどの特集だというので、武上は手ぶらで見始めたのだが、篠崎はすぐにメモ帳を広げ、そこで扱われている案件について書き留め始めた。武上は少し、嬉しいような気がした。
特集では、まずボイスチェンジャーという機械の仕組み、流通ルート、価格、利用の仕方などの簡単な説明から入った。そのあと、昨年一年に首都圏で発生したいたずら電話被害の総件数(むろん、判明している限りのものであるが)と、そのなかでボイスチェンジャーが使用されている件数を紹介する。これが思いの外少なかった。
「やはり、いたずら電話は生の声でという心理が働くのでしょうか」と、特集のナレーターが言う。篠崎がそれを書き取る。
コマーシャルをはさんだ次の場面では、ボイスチェンジャーを通しても、声紋をごまかすことはできないという説明が始まった。その通りである。ボイスチェンジャーは、まさに「耳で聞いたときの声を変える」だけで、声紋そのものを変えることができるわけではないのだ。捜査側にとっては幸いなことに、そこまでの技術はまだ開発されていないのである。このことが、案外知られていない。
武上たちが追っている犯人は、自分の生の声を証拠として残さないために、ボイスチェンジャーを使用している。彼の場合、最初に電話をかけたのがテレビ局だったのだから、よほどのバカでない限り、そういう配慮をするのは当然だ。しかし彼は、それでは声紋まではごまかせないということを知っているだろうか? まったく知らないでいて、もしかするとこの番組を観て大いにあわてたかもしれない。
特集の最後のコーナーは、ボイスチェンジャーを使ったいたずら電話の被害者のインタビューだった。ふたり登場し、ふたりとも女性であった。顔にはモザイクがかけられ、音声も変えられている。ひとりは埼玉県に住む主婦、もうひとりは都内で一人暮らしのOLだという。主婦の方は、日に百五十回を越える回数のいたずら電話を受け、身体を壊してしまったと訴えた。OLは、電話の内容が彼女の私生活に立ち入ったものであったので、職場の同僚の仕業ではないかと疑い、そのために仕事を辞めざるを得なくなったと話す。どちらのケースでも、警察が捜査に乗り出しているが、犯人はまだ捕まっていない。
インタビューの後半で、埼玉県の主婦は、涙声になりながら、いたずら電話によって受けた直接的な被害のほかにも、もっとひどいことがあると打ち明けた。彼女の暮らす新興住宅地の狭い人間関係のなかに、いたずら電話の件が知れ渡ったとき、そういう被害を受ける彼女の側にも何か原因があるのではないかという根拠のない噂が流れたというのである。
「不倫をしていて、その相手が嫌がらせしてるんじゃないかとか、主人の愛人がやってるんじゃないかとか、ひどいのは、わたしが売春とかテレクラ遊びをしていて、そこで電話番号を知られたんじゃないかとか、本当に嘘っぱちばっかりなんだけど、証拠をあげて言い返すこともできないし、悔しくて悔しくて──」
特集番組が終わり、ビデオを停めると、武上は篠崎に訊いた。「大川公園一帯で、過去にボイスチェンジャーを使ったいたずら電話の被害が出ているかどうかという調査はやってないよな?」
篠崎はすぐに答えた。「そういう報告書はあがってきてないです」
「やった方がいいな」
「だけど、そういう例があるのなら、今までの聞き込みで出てきてませんか?」
「被害者側が言いにくいのかもしれん。うっかりいたずら電話うんぬんなんて言い出して、嫌な噂を立てられたり、痛くもない腹を探られたりしたら嫌だ──今の主婦の話、聞いたろう? ああいうことがあるからな」
篠崎はちょっと目をしばたたかせ、立ち上がった。「まず、ここの管内のいたずら電話に関わる捜査の依頼や苦情の記録を調べてみます」
そのころにはすでに、前科者リストナンバー6とナンバー11の存在に焦点が当てられていたので、武上もこのボイスチェンジャーの件に大きくこだわったわけではなかった。念のためというぐらいの感じだった。
ところが翌々日の二十七日、劇的な変化がいくつか起こった。
ひとつは、ナンバー11の今年六月七日のアリバイが立証されたことである。六月七日──古川鞠子失踪の当日だ。
アルバイトしているとは言え、気楽な勤めのナンバー11のアリバイ確認は、鳥居も言っていたように、なかなか困難なものだった。日高千秋失踪の日には、彼は朝から自宅におり、アルバイトに出て午後六時にあがり、それから再び外出している。行き先は不明。これも彼への嫌疑を強める要素だった。しかし肝心の六月七日前後がはっきりしていなかった。わかっていることは、彼が六月六、七、八、九日の四日間、アルバイトを休んでいたということだけである。どこで、何をしていたのか?
その答が、根気強い聞き込みの結果、彼の高校時代の同級生の口から、あっさりともたらされた。その四日間、ナンバー11と友人は、ある自己啓発セミナーに参加していたというのである。
ナンバー11の友人の青年も親がかりのフリーターで、就職経験はなく、自分で事業を経営する夢を抱いていた。彼は無数の経営者養成セミナーや自己啓発セミナーへの参加歴を持っていた。ナンバー11とは高校時代から断続的に付き合いがあり、彼の前科についても知っていたが、同情的な立場をとっていた。そこで、彼の社会復帰の助けになればと、過去何度かにわたって、一緒にセミナーへ行こうと誘いをかけていたのだが、それがようやく実現したのが六月の四日間だというのである。
この証言は、すぐに裏がとれた。問題の自己啓発セミナーを主催した会社に照会をかけると、ナンバー11と友人の参加記録があり、そのうえセミナーの性質上、四日のあいだ、参加者は一歩も外へ出ず、外部からの通信もよほどの緊急の場合でなければ遮断されていたということが判明した。セミナー会場は千葉県館山市にあるこの会社の専用施設で、参加者は駅から送迎バスに乗り込み、自家用車は利用できない。地元のタクシー会社に当時の運行記録を調べてもらったが、会場から館山駅や東京へ、あるいは館山駅や東京から会場へという利用は、その四日間一度もなかった。友人以外の参加メンバーからも、ナンバー11と四日間、寝起きを共にしていたこと、一緒に研修を受けたこと、勝手に外に出ることも、あまつさえ東京へ戻ることなど不可能であったという複数の証言を得た。
ナンバー11のこの事件における体重は、にわかに軽くなった。鳥居は目をひきつらせて悔しがったが、こればかりは如何ともしがたい。ナンバー11に密な共犯者がいて、古川鞠子の拉致はその共犯者だけにやらせたのだと考えるのは、事件の性質からみて乱暴に過ぎる。もう一方のナンバー6についてはもともと容疑が薄かったということもあり、前科者リストを元にしての捜査は白紙に戻ったように見えた。
しかしこのとき、入れ替わりに登場してきたのがナンバー13、田川一義だったのである。
最初のきっかけは、不審車両洗い出しを担当している刑事たちからあがってきた報告書だった。大川公園事件発生一週間以内の時期の公園近辺の不審車両を一台一台つぶしてゆく過程で、同じレンタカー会社から、同一人物が三度に渡って車を借り出していることが判明した。品川区大崎に住む二十五歳の会社員である。車を借りたのは九月四日、十一日、十二日。十一日といえば事件発覚の前日である。車種はいつもバラバラで、彼の借りた車はいずれも公園近辺に停車しているところを目撃されたり例の素人写真家の写真に撮影されたりしている。本人を訪ねて事情を訊くと、この三台の車はいずれも、知人に頼まれて借りたものだという。その知人が田川一義だった。
「彼、前科がありますよね」と、大崎の会社員は話した。田川一義は二年前、二十三歳のときに、勤めていた事務機器リース会社の女子更衣室の壁に穴を空け、そこにカメラを据えて隠し撮りを行ったり、撮った写真を匿名で被写体の女性に送りつけたりして、罪に問われたものである。大崎の会社員は、当時の山川の同僚だった。
「やったことはすごく悪いことだけど、それで会社も辞めたし、彼も反省してね。償いはしたと思うし、可哀想で──。まあそんなに親しいわけじゃなかったけど、時々一緒に飲んだりする付き合いは続けてたんです」
前科となった事件を起こして以来、田川は一種の対人恐怖症のようなものにかかった、という。
「みんながみんな、自分のやったことについて知ってて、軽蔑の目で見ているような気がするっていうんです。そんなのノイローゼだっていうんだけど、どうしてもその考えが頭から離れないって。で、田川は一時はひとりじゃ買い物にも出かけられないようになって。なんとかしないとまずいと思いました」
彼の起こした事件も写真がらみだったが、田川は子供の頃から写真愛好家で、ひとりで撮影旅行をする習慣があった。
「人前に出るのが怖いんじゃ、就職もできないでしょう? 事件が事件だからあれなんだけど、このうえ趣味の写真まで取り上げるのはかえってよくないって、彼の親も言ってたんですよね。撮るものさえ間違えなけりゃいいわけだから。山とか海とか、そういうものだけ撮ってりゃいいし、なんていうかリハビリにもなるだろうし……」
撮影旅行には、車があった方が便利である。荷物も運べるし、そこで泊まることもできる。しかし、田川は自家用車を持っていない。
「で、レンタカーを借りる手配を、僕がしてたんです。本当はよくないことなんだろうけど、別に調べられなきゃわからないし、料金はきちんと田川は払ってくれてたし」
九月の三回に渡るレンタカーの手配も、快くしてやった。田川は、有明の野鳥の森に撮影に行くと話していたそうだ。しかし、その車は大川公園付近をうろついていた──。
この報告とほぼ同時に、武上の提案を受けて取りかかったいたずら電話被害の調査にも収穫があった。ボイスチェンジャーを使ったいたずら電話が、昨年一年のあいだに三回、墨東警察署管内で発生しているのである。そのうちの一件が、田川一義が暮らす公営住宅内の若い主婦が被害者となったものだった。
届け出のあった事件ではなく、聞き込みで判ったことだ。被害者が受けた電話は二回、いずれも卑わいな言葉を一方的にしゃべるというもので、被害者の私生活に立ち入った発言はなかった。大川公園の事件が起こり、犯人がテレビ局に電話をかけてきたとき、この被害者の主婦は、世の中には似たようなことをする奴がいるのだということは思ったものの、ふたつを結びつけて考えてはみなかった、という。
田川一義とこの主婦は、公営団地の同じ棟の住人である。あとの二件のいたずら電話はともかくとして、この件に関しては、捜査本部は大いに興味を抱いた。田川一義に対する徹底的な捜査が、ここで開始されることになったのである。
こうして月がかわり、十月に入った。
武上は田川一義のプロフィールをまとめていた。両親が早くに離婚し、彼は十歳のときから現在まで母親と二人暮らしである。五十歳になる母親は人形町にある洋品店で店員をしているが、他には収入がない。田川は地元の工業高校を卒業した後、職場を転々とし、二十三歳のときに事件を起こして辞めることになった事務機器リース会社にも、まだ半年しか籍をおいていなかった。
保護司の話によると、田川の対人恐怖症は、まったくの詐病《さびょう》ではないらしい。人が皆自分を軽蔑し、陰で後ろ指をさしているということを、田川は繰り返し保護司に語っている。彼は彼なりに更生を目指しており、今回の事件に関わっているはずはないと、保護司は信じているようだった。
依然、犯人は沈黙している。次はいつ、どこで、どんなふうにしゃべってくるか。どんな動きを見せるか。田川なのか。田川ではないのか。
[#改ページ]
13
「やあ、おじいちゃん。元気かい?」
受話器を取ると、聞こえてきたのはその声だった。例のボイスチェンジャーの声だ。
有馬義男はあわてて周りを見回した。ちょうど客が来ていて、木田が応対している。義男は電話機の脇に設置したカセットレコーダーの録音ボタンを押し、受話器を握り直した。手のひらに浮いてきた汗を、ズボンの腿《もも》の部分にこすりつけて拭う。
「おじいちゃん、聞いてないの?」
「いや、いるよ。ここにいる」義男は急いで返事をした。「あんただね?」
相手は機械の声で笑った。「あんたって誰のことさ?」
「プラザホテルに私宛の手紙を置いていった人だろ?」
「そうだよ。だけど、何もそう回りくどい言い方することないじゃない。僕はおじいちゃんの孫の鞠子をさらった男だよ」
木田はまだ客の相手をしている。義男は身を乗り出すと、事務机の前の小さな窓を開け放った。有馬豆腐店の狭い駐車場をはさんで、すぐ隣に、二階建てのモルタル壁のアパートが立っている。そこの一階の窓が開いており、座っている刑事の顔が見えた。義男は彼に向かって手を振った。
所在なげな様子だった刑事の顔がぴりっとした。彼が行動を起こすのを見届けて、義男は空唾を呑み、電話の向こうに呼びかけた。
「もしもし? もしもし?」
相手は沈黙している。切られてしまったか?
「もしもし!」
「おじいちゃん」
出し抜けに戻ってきた相手の声は、まだ笑いを含んでいた。
「何か悪さをしてるでしょう」
「悪さって何かね」
「わかってるよ。警察がいるんでしょ? あんなことがあった後だもの、当たり前だよね。僕だってそれぐらい計算に入れてる。だからこの電話を逆探知しようなんて考えたって無駄だよ。これ、携帯電話だからさ」
客の相手を終えた木田が、まず傍らにやってきた。義男は手近にあったメモを破り、
「ケイタイでんわ」と書きなぐって彼に見せた。木田は店を出て隣のアパートへ走っていった。
プラザホテルでの一件以来、義男の身辺は警察によってがっちりと固められている。刑事たちは店の電話に録音機を接続し、ちょうど空室になっていた隣のアパートの一室を借り受け、逆探知の設備を整え、警備の拠点として利用していた。ひとり暮らしの家には空いている部屋がいくらもあるので、義男の方としては泊まり込んでもらってもよかったのだが、警察側は、万にひとつ、犯人が電話だけでなくじかに義男の元に接触を試みる──東中野の家に鞠子の腕時計を届けにきたときのように──ことがあった場合に備え、張り込んでいることの目立ちにくい隣のアパートを選んだのだった。
犯人が逆探知のしにくい携帯電話を使ってくる可能性は高いと聞かされていたので、義男はそれほど落胆しなかった。ただ、携帯電話の割には、相手の声の背後に何も聞こえず、静かだなと思った。室内からかけているのかもしれない。
音もなく回るカセットレコーダーを見つめながら、できる限り話を引き延ばすためには、どういうふうに持っていったらいいだろうかと考えた。これも警察から指導されていることだ。
「犯人はどうやら有馬さん、あなたを気に入っているようです」
プラザホテルの件の後、墨東警察署で顔をあわせた神崎という警都がそう言っていた。
「今後もあなたに何か働きかけてくることは充分に考えられます。テレビで土下座しろなどということも、かなり本気で言っているんでしょう。我々としては、どんなことであれ、犯人からの情報がとりたい。もしも向こうから接触があったときには、できるだけ奴にしゃべらせてください」
義男は問うた。「警部さんは、どうして犯人が私を気に入ってると思われるんですか」
神崎警部は鋼のように固そうな黒い目を光らせて、理由はわからないと答えた。ただ、会話の雰囲気、先方の出方からそう感じるのだ、と。
義男は言った。「奴が私を気に入ってるのは、私が弱々しいじじいだからでしょう」
「あなたは弱々しいじじいですか?」
警部は、有無を言わさない強い視線を義男に向けた。
「確かに犯人は、あなたを見くびっているようだ。しかしそれは、それだけこちらが有利だということです。犯人には、好きなだけあなたを弱々しいじじいだと思いこませておけばいい。そしてそれを利用するんです。そのためには、あなたはけっして弱々しいじじいであってはならない」
義男は背中を伸ばすと、両足を踏ん張った。
「あんた、私に話したことを忘れてたのかい?」
「何のこと?」
「テレビに出て私が土下座をしたら、鞠子を返してくれると言ったじゃないか」
「そういえばそうだったね」
「だから私はずっと待ってたんだよ。あんたからいつ連絡が来るかと思って」
「おじいちゃん、本当にそんなことでき──」
言いかけて、犯人は急に激しく咳《せ》き込み始めた。いったん受話器を口元から離したのか、声が遠くなった。ボイスチェンジャーを通って聞こえてくる咳き込む音は、激しく耳障りな雑音であると同時に、妙に人間的な感触があった。こいつも人間なのだと、義男はふと背中が寒くなるような実感を得た。
相手の咳が鎮まるのを待って、呼びかけた。
「あんた、風邪を引いたのかね」
ごほん、ごほんと喉を鳴らしながら、犯人が電話口に戻ってきた。
「ちょっとね」
「咳が出るときは、煙草はやめた方がいいよ」
相手の声が尖った。「僕が煙草を吸うって、なんで知ってる? なんでだよ?」
返ってきた反応の鋭さに、義男の方が驚いた。
「前に話をしたとき、ライターの鳴る音が聞こえたからだよ」
そのとき、電話線のなかへ潜り込んでいってこいつをぶん殴ってやりたいと思った、孫娘の命のかかったやりとりなのに、おまえは煙草なんか吸っていた、だからよく覚えてるんだ──
「おじいちゃん、耳がいいんだね」
「私も煙草呑みだからわかったんだ」
「僕はともかく、おじいちゃんはもう煙草なんかやめた方がいいよ」言ってから、犯人は短くけいれんするような笑い声をあげた。
「でもまあいいか。どうせもう棺桶に片足突っ込んでるんだもんな」
義男は黙って機械の笑う声を聞いていた。隣へ行っていた木田が戻ってきた。強ばった顔で義男をのぞきこんでいる。
「それであんた、今日はどんな用だね? テレビのことは忘れていたようだけど」
「おじいちゃんの声が聞きたくなったんだ」
「私なんかの声が」
「うん。鞠子は無事かって訊く声がね」
義男は目をしばたたいた。神崎警部と会った後、書類仕事を主にしているという中年の刑事のところに連れていかれ、もう一度、犯人との会話を再現する作業をした。その刑事──たしか武上とかいう名字だった──との話を思い出した。
「次に犯人から連絡があったとき、お辛いでしょうが、向こうから何か言い出すまで、わざと、お孫さんの消息について訊かずに待ってみてくださいませんか。有馬さんが黙っていれば、必ず奴の方からしゃべり出します。奴はそれについてしゃべりたくてしょうがないんですから、有馬さんが何も言い出さなければ、肩すかしをくったような気分になって、自分から話を持ち出して、うっかりと不用意なことも言うかもしれません」
義男は慎重に言った。「鞠子のことは、いつも心配しとるよ」
「ホントかなあ。その割には、彼女のこと全然訊かないじゃない」
「訊いても、あんたなかなか教えてくれないじゃないかね」
「だから警察に頼むってわけ? 最低だね。警察なんてバカばっかりなのに」
「そうかねえ」
「そうさ。彼らには何も見つけられないよ」
「あんたは頭がいいんだね」
「おじいちゃん、僕をバカにして怒らせようってわけ?」
「そんなことはしないよ」
「じゃあ、謝れよ」
「謝る?」
「さっきの言い方だよ。なんだよ、頭がいいんだねなんて、完全に人をナメた言い方じゃねえか」
「そんなつもりはなかった──」
機械の声は、親と口げんかする子供さながらの早口で義男を遮った。「言い訳なんか言えって言ってんじゃねえんだ、謝れって言ってんだよ、クソじじい!」
義男はまたゆっくりとまばたきをした。それから一語一語はっきりと、噛みしめるように言った。「それはどうも申し訳なかった。お詫びするよ」
「お詫びいたしますって言え」
「お詫びいたします」
「つけあがるんじゃねえよ、じじい」
義男は受話器を耳にくっつけたまま、木田の顔を見た。彼は不安そうに身体を縮め、傍らの柱をしっかりと指でつかんでいる。
「じいさん、僕はじいさんのことは全部お見通しだからね。じいさんのやりそうなことなんか、みんなわかってるんだ。だからジタバタしないで、僕の言うことだけ聞いてろよ、いいな?」
「わかったよ、よくわかった。ひとつお願いがあるんだが、鞠子が生きてるなら、せめて声だけでも聞かせてくれないかね?」
相手は即座に突っぱねた。「駄目だ」
「鞠子はそこにいないのかい?」
「駄目だっていったら駄目だ!」
犯人はまた咳き込んだ。ひどく苦しそうに聞こえた。風邪の治り際に、しつこく残っている咳だと、義男は思った。
「じいさん──ゴホン、ゴホン、いい気になって──ゴホ、ゴホ、ゴホ」
そのとき、急に頭のなかに閃くものがあって、義男は目を見開いた。机のまわりを探すと、すぐ後ろの大豆の桶のなかに、豆を計る器があった。義男はその器を頭に乗せると、受話器を握ったまま、電話機のコードをぎりぎりまで引っ張り、店先まで出ていった。
木田が仰天して見つめている。しかし、義男が目顔と顎で合図をすると、電話機を机の上から取り上げて、壁の接続コードを引っ張ってくれた。コードがゆるみ、義男は店の冷蔵ケースの外側まで出ていくことができた。
豆を計る器は、プラスチック製の小さな手桶である。それを髪の薄い頭にのっけて往来を見渡している義男は、有馬豆腐店の前を行き来する人びとの目につき、驚きや笑いを誘った。自転車に乗って通り過ぎる女性が、ぎょっとしたように肩越しに振り返っていった。
「じいさん、聞いてるのか?」
「はい、聞いているよ」
「じいさん、僕を怒らせてただで済むなんて思ってないだろうな?」
「怒らせるつもりはなかったんだよ。ただ、鞠子の無事を教えてほしかっただけなんだ」機械の怒鳴り声が義男の耳に殴りかかった。
「鞠子をどうしようと僕の勝手だ! じいさんには何の権利もないんだ、わかったか!」
落ち着いて、ゆっくりと、義男は言った。
「私は鞠子の家族なんだ」
「家族だからって権利なんかないんだ。僕の言うとおりにするしかないんだ。何度言ってもわからないんだな。ボケて忘れちまってんだな」
道ゆく人びとも、プラスチックの手桶を頭に乗せて電話をかけている義男を、そのように評価していることだろう。
「可哀想なじいさんだな。私は惨めで哀れで汚いじじいですって言ってみろよ」
「私は惨めで哀れで汚いじじいです」
「生きている価値はありませんと言え」
「生きている価値はありません」
「ホントに馬鹿なじじいだ」
せせら笑うような機械音が聞こえた。
「退屈したらまた相手してやるよ、じいさん」
電話は切れた。しばらく受話器を見つめ、プー、プーという空しい音に耳を傾けてから、義男は木田を振り返った。
「切れちまった」
「親父さん、何を謝ってたんです?」木田は電話機を抱えたまま近寄ってきた。義男の頭の上の手桶を指さすと、「あの野郎がそんなことをやれって言ってきたんですか?」
「いいや、違うよ」
奥でブザーが鳴った。義男は受話器を木田に渡すと急いで座敷へ行った。隣のアパートと直通になっているインタフォンが鳴っているのだ。
「有馬さん、大丈夫ですか」刑事が呼びかけてきた。
「私は大丈夫です。録音は採りましたよ」
「周辺を捜索していますので、こちらから合図するまで、店から動かないでください。奴が近くにいる可能性がありますのでね」
インタフォンを切ると、義男は木田に言った。「俺もそう思ったんだ」
「何をです?」
「あいつが近くにいて、この店を見ながら電話をかけてきてるんじゃねえかと……。携帯電話なら、そういうことができるんだよな?」
「ええ、できますよ」木田はうなずいて、目を見開いた。「ああ、だから桶なんかかぶって店先へ出て行ったんですね?」
「うん。あいつがそれを見てれば、きっと笑ったりするだろうと思ってさ」
「でも、どうして……」
「奴め、じいさんのことなんかお見通しだって言ったんだ。それに、ひどい咳をしててさ」
苦しそうだった。あれは芝居ではない。
「よくあるだろう、風邪を引いて寝込んでてよ、熱が下がって咳もとまったからって、起き出して外の風に当たったりすると、急にまた咳き込んだりすることがさ。だから、あいつめその辺に立ってたりするんじゃないかと思ってさ」
木田は怯えと怒りのないまぜになった目で街路の方を見た。その隙に、義男はそっと木田から離れて目を拭った。
鞠子はもう死んでるんだな──
今までだって、九十パーセントくらいは諦めていた。でも、残りの十パーセントの望みを繋いでいた。刑事たちも、鞠子が生きて犯人の元に捕らえられている可能性はあると言っていた。
でも、その希望はもうない。鞠子は死んでいる。間違いない。確信がこみあげてきた。
今日、義男はあいつをずいぶん怒らせた。その仕返しに、あいつが義男をいじめて楽しむつもりなら、今、どうすればいちばん効果があるか、よくわかっているはずだ。鞠子の声を聞かせ、鞠子に「おじいちゃん、助けて」と叫ばせる──それがいちばん効き目がある。
あいつはそれをしなかった。即座にはねつけた。いついつならいいとか、これこれをすれば声を聞かせてやるとか、そういうことを匂わせるようなこともしなかった。かわりに、義男を言葉で侮辱しただけだった。
鞠子はもう死んでいる。鞠子はもう奴の手の届かないところにいる。それだけはよくわかったと、義男はぼんやり考えていた。
犯人は再び有馬義男に電話をかけてきた。では、現時点で限りなく第一容疑者に近い存在である田川一義は、有馬義男が犯人と会話していたその時、どこで何をしていたか。
実は、彼の住まう公営住宅から徒歩五分ほどのところにある理髪店で髪を刈っていたのである。専従の「田川班」はこの時、店の出入口を監視できる路上に一台の車を停め、そこから双眼鏡で彼の行動を追っていた。田川が自宅を出たとき、徒歩で尾行を開始した刑事のひとりは、田川が理髪店に入った後、少し間をおいてから、道を尋ねるふりを装って店内に入った。
中年の店主ひとり、散髪台も二脚しかない小さな店である。店主と会話しながら田川の様子を観察した。彼はこのとき、椅子に腰掛け雑誌をめくりながら順番を待っていた。刑事は店主に礼を言って外に出ると、そのまま監視の態勢に入った。彼が定位置についたとき、客がひとり帰り、入れ替わりに田川が呼ばれて鏡の前に座った。
田川の行動の監視と身辺の洗い出しが始まってからまだ間もないので、この理髪店が彼の行きつけの店なのかどうかはわからない。大きなガラス窓を通して外から見ている限り、店主は愛想よく田川に語りかけているが、田川は表情を変えず、言葉を発する様子もない。店主と目が合わないようにするためか、目を伏せている。彼の「対人恐怖症」の一端を証明するようにも見える光景だった。
実際、田川は家に閉じこもっていることが多い。たまに外に出る場合も、通りを渡った反対側にあるコンビニエンス・ストアへ雑誌を買いに行くとか、北側へ二街区ほど離れたところの商店街にあるレンタルビデオ・ショップへ出向く程度である。衣食住は母親に任せ切りになっている様子で、無職の状態のまま、就職活動もしていない。母親ひとりの稼ぎでは生活はかなり苦しいものと思われる。監視を開始してまもなく、ガス会社の集金人が訪れ、滞納分の支払いを督促して帰っていった。
理髪店の店主は手際よく田川の髪を刈ってゆく。田川は目を閉じている。車内で監視中のふたりの刑事たちは、平日の昼日中に散髪できる彼の身分について、やや皮肉な冗談を飛ばし合った。理髪店の出入口が面している二車線の道は、近くにある小学校のスクールゾーンで、午後の早い時刻、帰宅する黄色い帽子の一年生たちが四、五人、手をつないだり後先になったりして店の窓ガラスの前を通り過ぎて行く。そのなかのひとり、赤いランドセルに白いワンピースの女の子が、友達の言葉がおかしかったのか、よく響く高い声をあげて笑った。そのとき、店内の田川が急に目を見開き、女の子の方へ視線を投げた。猫が鼠に対する時のような、本能的とも言っていいほどの素早い反応だった。田川は女の子を見つめ続け。彼女が視界から消えてもまだしばらくそちらの方向へ目をやっていた。双眼鏡を手にこの瞬間を見ていた車中の刑事は、あとで同僚たちに、いささか素人くさい感想を述べることになる。曰《いわ》く、「ゾッとした」と。
理髪店に行かれるなら、レンタカーだって自分で借りに行かれそうなものだ、友達を代理に立てたのは、やはり借りた車を後ろ暗い目的に使っているからではないのか──車中の刑事が考えているとき、散髪が終わった。店主が田川の肩掛けを取り替える。そのとき、田川が店主に何か言って立ち上がった。店主が店の奥を指す。田川はそちらへ向かう。
「トイレかな」
田川の姿が視界から消える前に、車中の刑事は徒歩尾行をしている刑事に、念のために裏口に注意するよう無線で指示をした。その通話が終わった次の瞬間、有馬豆腐店脇のアパートに張り込んでいる「有馬班」から、今、犯人から電話がかかっているという連絡が入ったのである。
微妙なタイミングだった。計ったようなタイミングでもあった。
「電話だ。店内の電話を使ってるんじゃないか?」
「そんな危ない橋は渡らんだろう。こんな狭い店なんだぜ」
田川班も本部に連絡を返す。待機せよとの命令が来る。通話は携帯電話によるものだという無線が入る。
「田川は携帯を持ってるか?」
「見かけたことがないな」
「また友達から借りてるってわけじゃねえだろうな。いい友達だぜ、クソ!」
田川はまだ戻ってこない。店主は箒《ほうき》で床を掃いている。犯人との通話はまだ続いているという無線が入る。
「店内に入って確認しますか?」
本部は待機を命じる。車中の温度があがる。通話はまだ続いている。
床を掃除し終えた店主が店の奥に消える。ガラス窓ごしの店内から人影が消えた。鏡に映った裏返しの時計の秒針だけが動いている。
犯人からの電話が切れたと、無線が入った。
「店主はどこへ行ったんだ?」
そこへ田川が戻ってきた。散髪台に腰掛ける。ひと呼吸おいて、店主が現れた。傍らのワゴンの上から整髪料を取り上げ、田川の髪に振りかける。車中の刑事たちは大きく息を吐いた。
散髪が終わると、田川は来た道と同じルートを通って帰宅した。田川班も戻った。
理髪店の店主に事情を訊くと、
「あの若いお客さんですか? トイレに行ったんですよ」
二、三度目の客だという。いつもあんな感じで、無愛想で、店主もまともに彼の声を聞いたことはないという。
「はっきりいってネクラって感じですよね。電話? 店の電話は使ってませんよ。トイレから携帯? かけてたかなあ。かけてたとしてもわかんないよね」
「え? 咳? あのお客が咳をしてたかって? してなかったと思うけどなあ。風邪をひいてるようには見えませんでしたよ。ねえ刑事さん、あの人、何かやったんですか?」
このことについて他言しないよう、堅く念を押して、刑事たちは引き上げた。
田川班からの状況報告を受けてすぐに、武上悦郎は、有馬班へ行くため、篠崎を連れて墨東警察署を出た。ノーネクタイにジャンパーを羽織った格好だ。篠崎もスーツからジーンズにシャツという出立ちに着替えた。
「これなら、どこかから見張られてたとしても、豆腐組合の親父とその使用人に見えますね」と、篠崎が言った。彼が肩からさげている大型の鞄には、録音装置が入っている。テープをダビングし、その足で科警研に届けるのだ。
豆腐店には木田という店員がいて、有馬義男は隣のアパートに呼ばれていた。ひどく気落ちしているように見えて、武上は心配になった。声にも張りがない。
篠崎を科警研に遣《や》ったあと、武上は、有馬豆腐店周辺の写真撮影にとりかかった。詳細地図をつくるため、町内会で出している商店地区案内図のようなものがあれば貸してほしいと頼むと、義男は壁に貼っているのをはがしてきた。
「気分は大丈夫ですか」と、武上は訊いた。
有馬義男はゆっくりと目をしばたたくと、顔をこすった。
「鞠子はもう帰ってこんでしょうな」と、ぼそっと言った。そしてなぜそう思うのか、理由を語った。声が嗄《か》れていた。
武上は、義男の推測はかなり的を射ていると思った。しかし、それを口に出すのははばかられた。黙って聞き、下手な慰めの言葉を口にしないことで、義男の意見を受け入れた。
刑事という職業に就いていると、縦にしても横にしてもどうしようもないような人間を、自分の性根を腐らせ他者を傷つけ身内を泣かせるためだけに生まれてきたような人間を、げんなりするほど間近に目にすることが多い。だがその反面、ごく普通の人のごく普通の言葉、態度、生き方の在りように、いずまいを正さずにはいられないような気持ちになることもある。今、武上はそういう気持ちだった。
有馬義男は、犯人が考えているよりも遥かに頭も切れ、胆力のある人物だ。犯人が、孫娘を盾にしたかけひきを仕掛けてこないということで、彼女の死を確信する──そうしようと思うなら、まだ推測の範囲内に納めておくことができるのに、敢えて事実に向き合おうとする。どれほど惨く、辛いことであっても、いたずらな希望的観測にすがることを、自分で自分に固く禁じて。ただの力弱い老人のできることではない。ここにこうして豆腐屋の親父として落ち着くまでの有馬義男の人生に、武上はふと思いを馳せた。
有馬義男はぼんやりと窓の外に目をやり、呟いた。「このことを、どうやって真智子に伝えてやればいいんだか……」
古川鞠子の母親はまだ入院中である。命に別状はなかったものの、容態はよくないようだと聞いていた。部下の失態がからんでいることでもあり、武上としても一度きちんと話をしておかねばならないことだった。
「具合はいかがですか」
義男は首を振った。「怪我の方は、それなりによくなってきとるんですがね……。実は、口をきかんのですわ」
武上はちょっと目を見開いた。義男は机の上を見回し、引き出しを開け、そこに煙草を見つけて一本取り出した。
「しゃべらんのです」と言って、百円ライターで煙草に火をつけた。その指がわずかに震えていた。
「意識が戻って以来、ひと言もですか?」
「そうです。しゃべらないし、こっちの話も聞こえないふりをしよる、惚けたみたいにぼうっと横になっとって、眠ってばかりいます」
現実逃避のひとつの形なのだろう。
「医者はなんと?」
「こういう症例は難しいとおっしゃいました。とにかく怪我を治して、それから精神科の医者やカウンセラーに会ってみたらどうかっちゅう話です。今も、精神科の先生にときどき様子を見にきてもらっとるんですが」
突然、夜中に泣き出すこともあるという。
「大声を出したり騒いだりするわけじゃあないんです。黙ったまんま、何時間でも涙をぽろぽろぽろぽろこぼして泣いとるそうなんです。私はそういう場に居合わせたことはないが、いったん泣き始めると夜通しでも泣いてるそうなんで、それも身体によくないですからね。そういうときは、精神安定剤なんかをいただいとるようです」
事情聴取に行ったときの鳥居の態度が、古川真智子の気持ちを傷つけたことに対して、少しあらたまって、武上は謝罪した。
「本人もいたく反省しています」
義男は手を振って制した。「もう、済んでしまったことです。それより──」
店口に客が来ている。義男はちらりとそちらを気にした。木田が忙しそうだ。有馬豆腐店は繁盛している。
義男は一段と声を低くした。「それより、警察は犯人を捕まえられますか」
率直な質問だったが、まだ先がありそうだったので、武上は答えずに義男の顔を見ていた。老人は煙草を消すと、少し顔をしかめ、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「いや、私らが警察の人のなさることにあれこれ言えるはずはないです。精一杯のことをしてもらってるんでしょう。ただ、なんだか──この犯人は、まともな人間の手で捕まえられる野郎じゃないような気がするんですよ」
「異常者だということでしょうか」
「異常……」義男は首をかしげた。「頭がおかしいちゅう意味なら、そうじゃないです」
武上は黙ってうなずいた。
「頭がおかしい人間なら、私も見たことがあります。実は、お客にもひとりいましてな」
木田の立っている店口の方を手で指すと、義男は真顔のまま続けた。
「ひと月に一度くらいですが、来るんですわ。プロレスラーみたいに身体のでかい若い男でね。金を持たんで豆腐を買いに来る。で、払いはどうするかっていうと、そのとき居合わせたお客に、『払え』って言うわけです。言われた方は目を白黒させますわな。それでも、なにせ相手は力が強そうだし、面倒なことになったら嫌だから払うって言います。私が店番をしとるときは、止めさせますよ。金がなかったら豆腐は買えないって言い聞かせてね。そうすると、怒鳴ったり地団駄を踏んだりします。それでもこっちが後に引かないと、悪態ついて帰りますよ。うちに現れるようになって一年くらいになりますかね。この地区の商店主のあいだじゃ有名な男です」
「交番の巡査も知ってるでしょう」
「ええ、知ってますよ。心配して見に来たりしてくれますからね。ありゃ、なんか悪い薬の中毒患者じゃないかと心配しとられました」
ここで、義男はちょっと微笑した。しわの一本一本まで笑っているかのように、表情が柔らかくなった。
「ところがそのでかい男とね、店じゃないほかの場所で会ったことがあるんですよ。そうすると向こうから声をかけてきましてね、『ようじいさん、じいさんの豆腐は旨いな、ホントに旨い、スーパーのよりずっと旨いから、また買いに行ってやるよ』と、こうですよ」
武上も苦笑した。
「あれもおかしい男なんでしょう。若いのに、可哀想なことだ」と、義男は言った。「ああいう『おかしさ』なら、私にもよくわかります。でも、鞠子の──鞠子の件の犯人には、そういうおかしさじゃないおかしさがある。刑事さんはそうは思われませんか」
「確かに」ゆっくりと、武上は言った。
「この野郎には、この野郎にだけわかる物差しがあるんでしょう。当たり前の人間が頭で考えて作り出すことのできる物差しと、かなり違う物差しですよ。だから刑事さん、わたしゃ心配なんです。どんなに頑張っても、物差しが違っとったら、警察は犯人に届かんのじゃないですか」
武上に、申し述べたいことはいろいろあった。義男の冷静な頭の働きに感嘆しているということも言いたかった。しかし、頭のなかでさまざまなシミュレートをした結果、出てきた言葉はこれだった。
「犯人も人間であることに聞違いはない。人間なら、捕まえられます」
自分自身にも、それを言い聞かせていた。
「風邪をひいていましたね。咳をしていた。野郎も人間ですよ」
そう、風邪だ。あの咳で、武上の「犯人の側に何か起こっているのではないか」という推測が当たっていたらしいことが判った。そして武上は、田川一義を容疑者リストからはずした。捜査本部は別の意見を持っていることだろうけれど、武上個人は、自信を持ってそうすることにした。携帯電話がどうのこうのは問題外だ。ためらいはなかった。犯人は未知の人物だ。今は、まだ。
「人間か」有馬義男は呟いた。「人間ですか」
それから一週間後のことである。進展のないままの一週間、すべてが水面下の一週間、膠着《こうちゃく》状態でありながら瞬く間の一週間、田川一義は依然として捜査本部の監視下に置かれ、武上は新しい地図を描き、科警研はテープを音響分析にかけ、有馬義男は店番の合間に古川真智子の病室を訪れ、マスコミ方面においても、犯人が再び有馬家に電話してきたという事実の衝撃も、いくらか薄らいだその一週間の後──
古川鞠子の遺体が出た。
[#改ページ]
14
東京都中野区中央。山手通りと青梅街道の交差点から三街区ほど北側へ入った場所に、坂崎引っ越しセンターという会社がある。
「センター」という名前は大きいが、社員はアルバイトの学生も含めて五名、四十五歳の坂崎社長自らが運転手を務めるという、ごくこぢんまりした会社である。表看板はあくまで引っ越し業だが、その合間を縫って便利屋的な仕事も多く引き受ける。たとえば、家の中で大きな家具の場所を置き換えたい、組立家具がうまく組み立てられない、傷みの激しい瓦屋根に防水シートをかけたいのだがひとりでは無理だ、粗大ゴミを外に出したいのだが、アパートの外階段を降りることができない──等々、些末《 さ まつ》な用件でも電話一本で引き受け、親切に対応するというので地元住民のあいだの評判は非常に良い。旗揚げからまだ六年という新しい会社だが、口コミで噂が広がり、一昨年あたりからは東京東部地区からもぽつぽつと依頼が来るようになった。テレビの情報番組で、ユニークな会社として取り上げられたこともある。
東京二十三区内の西部地域でも、中野区のこのあたりや、新宿区北部、練馬区、豊島区には、朝鮮戦争のころから高度成長期にかけて建てられた分譲一戸建て住宅や低層の公営住宅、長屋式のアパートなどが、まだかなり残っている。バブル経済がもう一年長く続けばどうなっていたかわからないが、ところどころに唐突に出現する駐車場や不格好な空き地、空き部屋の目立つテナントビルなどに混じって、これらの古い住宅は、現在も立派にひとつの街並みを形成しているのだ。新宿副都心の高層ビル群と、ハイカラが過ぎて失笑を誘うような新都庁の窓を見上げながら暮らすこれらの家々の住人たちは、一様に平均年齢が高い。連れ合いに先立たれた高齢者が独りで住んでいる場合も珍しくない。「古《いにしえ》」という言葉の似合うような町には、多少の不便を忍んでも好んで住み着く若者たちも、単に「中古」という歴史しか持たないこれらの町にはやってこようとしないから、人の出入りはごく限られ、定住民の数はむしろ減ってゆく一方だ。
こういう町だからこそ、便利屋稼業が必要とされるのである。若い単身者や子育て中の夫婦たちの暮らす町ならば、家具の置き換えぐらい自力でなんとでもできる。通販で買った組立家具を、組み上げることができないまま、梱包を解いただけの状態で手をつかねてしまうこともあるまい。しかし、核家族化の進行しきった現在、高齢者の多い町では、話はまったく別である。坂崎社長はここに目をつけた。その結果、会社は見事軌道に乗り、大儲けはできないもののこつこつと売り上げを伸ばし、そして社長自身は、地域のために何事か貢献しているというささやかな自負心を得ることもできた。
十月十一日金曜日のこの日も、早朝から引っ越しが一件入っていた。坂崎社長は午前五時に起床した。社屋は月額十八万円で借りている築二十五年の木造住宅で、社長一家はこの二階に住んでいる。商売道具の二トントラックは、徒歩五分ほどのところにある二階建て駐車場に停めてあるから、「坂崎引っ越しセンター小さな荷物も運びます 小さなお手伝い引き受けます」という手書きの看板がなかったら、ちょっと見ただけでは、ここが引っ越し会社だとはわからないだろう。なにしろ、家の出入口の脇には社長夫人の丹精した鉢植えが並んで花を咲かせ、その脇には社長の子供たちの自転車や三輪車が停めてあるのである。
寝床から抜け出した坂崎社長は、階段を降りて玄関の鍵を開け、郵便受けから新聞を取り出すために外に出た。そのとき、子供たちの自転車の車輪のあいだに、紙袋がぽつんと置かれていることに気がついた。カラフルなデパートなどのそれではなく、ハトロン紙でできたそれで、大きさは五十センチ四方くらい。持ち手がついていて、口のところを一ヵ所セロハンテープでとめて閉じてある。
何だろうと思った。近づいて見てみると、ゴミにしてはまだ袋もきれいだし、とめてあるセロハンテープは新しい。こんなところに忘れ物だろうか?
持ち上げると、思ったより重い手応えがあった。坂崎社長は顔をしかめた。セロハンテープをはがさず、袋の口の隙間からなかをのぞいてみる。と、土の塊が見えた。湿っていて、枯れ草みたいなものがちらほら混じっている。
何だこりゃと、いささか不愉快になった。捨て場所に困った鉢植えの中身でも持ってきて放置していったのだろうか。この町には、他人様《 ひ と さま》の家の玄関先に空き缶を捨てていったり、地区のゴミ集積場に収集日でもないのにゴミを放置していったりするような、常識のない行いをする輩《やから》は少ないと思っていたのだが。
ぷりぷり怒りながら、社長は紙袋をぶら下げて、家の脇に回った。隣家とのあいだの五十センチほどの隙間に、外から見えないように気をつけて、とりあえず紙袋を押し込んだ。土砂は不燃ゴミで、次の回収までまだ数日ある。それまで保管しておかねばならない。まったく失礼な話だ。
家に戻ると、社長夫人が起き出してきて台所で湯を沸かしていた。社長は口を尖らせて紙袋の件を話した。夫人も嫌な顔をしたが、あとで中身を見て、きちんと捨てられるようにしておこうと言った。
「あなたの言うとおり、鉢植えの土をどうやって処分したらいいかわからなくて、うちに預けに来たのかもよ」
「だったら、ちゃんとそう言って持ってくりゃいい」
「それだとお金をとられると思ったんでしょ」
朝食をとっていると、社員たちが出勤してきた。今日の引っ越しは弥生町の一戸建てに暮らしている八十五歳の老婆の依頼である。いよいよ独り暮らしが危ないというので、八王子に家を建てて暮らしている長男夫婦の家に同居するのだそうだ。そちらでは母親のために六畳一間をあけて待っているが、今の一戸建てに入っている荷物をそっくり持ち込むことはできない。この仕事は引っ越しであると同時に、廃品の処分作業にもなりそうだった。
打ち合わせを済ませ、社員たちを連れて弥生町に向かったのは午前七時過ぎ。八時にはもう作業にかかっていた。依頼者の老婆は古い家財道具の処分を嫌がり、あれもこれも持っていきたいと言い張って社長たちを困らせた。長男夫婦からは、運び込んでいいものと処分するものとを、事前にリストにして渡されている。しかし老婆の方は承知していないのだった。料金を支払うのは長男夫婦なので、坂崎引っ越しセンターとしては、あいだに挟まれた形だ。独居老人の引っ越しにこういうケースは珍しくないし、社長も経験があるので、なだめたりすかしたり、時には一緒になって長男夫婦の悪口を言ってやったりしながら作業を進めていった。
そうだよな冷たいよな、誰も手伝いにこないんだもんな、だけどおばあちゃん、怒っちゃ駄目だよ、せっかく息子さんと一緒に暮らせるんだからさ──などと言っているとき、社長の作業ズボンのベルトにはさんである携帯電話が鳴った。
夫人からだった。「あなた、ちょっと」
声の様子がおかしかった。震えを帯びている。
「あの──今朝あなたが言ってた紙袋。調べてみたんだけど」
「ああ、あれか。なんだよ、金塊でも入ってたか?」
額の汗を拭いながら、社長は笑った。だが夫人は笑わなかった。
「そんなんじゃないわよ。笑い事じゃないの。なんかね、骨みたいなものが入ってるの」
「ホネ?」
「そうなの。土が入ってたでしょ。あのなかに、頭の骨みたいなものが見えるのよ。あと、手とか腕とか……なんかそんな骨も。どうしよう、一一○番しようか」
「ちょ、ちょっと待て」
社長もびっくりしてしまい、すぐには判断がつかない。だが、うっかり一一○番通報したりして、あとで恥をかくのも嫌だ。周りで立ち働く社員たちの耳を気にして道ばたに寄り、声をひそめた。
「とにかく、俺が帰るまで待ってろよ」
「だけど、あなた今日一日仕事じゃないの。八王子でしょ? 荷物とおばあちゃんを送り届けなきゃならないんだから。夕方まで待ってるなんて嫌よ。気味が悪くて」
「見えないところにしまっときゃいいだろうが。大丈夫だよ、骨なんかであるもんか」
「頭蓋骨そっくりなのよ」
「模型だよ、模型。それこそ、うっかり捨てられなくてうちに持ってきたんだよ。おまえもバカだなあ、いい歳こいてそんなもの怖がるなよ」
なおも渋る夫人を叱って電話を切り、仕長は仕事に戻った。首尾良く荷物を積み込み、老婆をトラックの助手席に乗せて出発。高円寺の陸橋を過ぎたあたりで、また携帯電話が、鳴った。
「あなた──」
「またおまえかよ。なんだ? 今運転中だぞ」
夫人の声は、今度は震えているどころではなく、完全に裏返っていた。
「テ、テレビ局の人が来てるのよ」
「あん? 『スペシャル東京』の人たちか?」
かつて坂崎引っ越しセンターを取り上げてくれた情報番組である。
「違うよ、ニュースの人たち。HBSだって」
ローカル局ではない。全国ネットだ。前方の信号は青だったが、社長は車を端に寄せて停めた。そんなところがうちに何しに来たんだと問わないうちに、夫人の半泣きの声が聞こえてきた。
「あの紙袋の中身──やっぱり骨だって。HBSに電話があったんだって。あれ、行方不明になってる女の人の骨に違いないって、そういうのよ」
坂崎社長の目の前が真っ暗になった。
坂崎社長が老婆をなだめすかしながら引っ越し荷物を積み込んでいるころ、HBSの代表電話番号にこんな電話がかかってきた。
「もしもし? 大川公園や三鷹の女子高生殺しの事件で報道局の人と話したいんだけど」
ボイスチェンジャーを通した声だった。前回、大川公園事件の犯人が他局に電話をかけてきた一件以来、事件について言及する電話だったら、とにかく一度は報道局へ回せという社内通達が出されている。このため交換手は、結果的にはろくでもない悪戯電話とわかるような通話を、何十本となくつないできた。今度もどうかなと思いつつ、報道局を呼び出した。
先方では、居合わせた記者が、通話がつながる前に録音装置のスイッチを入れた。これはあくまで念のためで、今まで事件に便乗した人騒がせな悪戯人間たちのためにさんざっぱら時間を空費させられているので、さほど期待していない。くわえ煙草で電話に出た。
第一声、ボイスチェンジャーの声はこう言った。「これは悪戯じゃないよ」
はいよはいよと記者は思った。みんなそう言うんだよ。
「いい情報をあげようと思って電話したんだ。君、報道局の記者なんだろう? 運が良かったね。生まれたとき金のスプーンをくわえてなかった?」
「どういうご用件でしょうか」
「そんなにむっつりしてると、電話を切っちゃうよ。それだと一生後悔するぜ。いいかい、君が今受けてる電話には、社長から表彰されるくらいの価値があるんだよ」
くわえ煙草が煙いせいもあって、記者は目をしばしばさせた。折しも、昨夜遅く能登半島沖の日本海で外国籍の漁船が沈没し、乗組員の安否もまだ定かでないというニュースが飛び込んできており、報道局は騒がしかった。
「それほど価値のある情報なら、ぜひ伺いたいものです」と、できるだけ真面目な口調で応じた。後ろを通りかかった記者が目顔で聞いてきたので、片手を振って顔をしかめてみせた。悪戯だよ、悪戯。
「僕はマスコミ各社に対して公平でありたいから、今度はあんたたちのところに電話したんだ」と、ボイスチェンジャーの声は言った。「いいかい、よく聞けよ。中野坂上の駅の近くに、坂崎引っ越しセンターって会社がある。小さい会社だから見落とさないようにね。そこに、古川鞠子の遺体がある」
記者はちょっと座り直した。
「古川鞠子? 今そう言いましたか?」
「言ったよ。ちゃんと聞いとけよ。鞠子の遺体を紙袋に入れて、坂崎引っ越しセンターに預けてあるんだ。有馬のじいさんが可哀想だから、返してやるつもりでさ」
キイキイと笑うと、その笑いに自分でむせながら、
「行って調べてごらん。特ダネだ。たぶん、まだ警察だって知らないことだと思うよ。坂崎引っ越しセンターの連中が一一○番通報してれば話は別だけど。どっちにしろ急いだ方がいいぜ」
電話は切れた。記者は一瞬唖然としてから、急いで中野区の坂崎引っ越しセンターの電話番号を調べた。実在している。電話もある。かけると、中年の女性の声が出た。記者は身分を名乗り、そういう情報がもたらされたのだが、そちらに不審な紙袋はありますかと尋ねると、相手は大いに狼狽した。
「ヘンな……骨みたいなのが入ってて、どうしようかと思ってて」
通話相手の坂崎社長夫人は、このとき社長の携帯電話に連絡したばかりだった。薄気味悪いのと不安とで、記者に尋ねられるままに話をした。
「そのままにしておいてください。すぐに我々が確認に向かいます。警察には報せないでください。悪戯ということもあり得ますから」
このとき、記者がこう指示したことが、捜査妨害に当たるのではないかと、後々国会でも取り上げられるほどの騒動になるのだが、とりあえず今困り果てている坂崎夫人は、力強い記者の声にやっと頼れるものを見つけたような気持ちになってしまい、そのアドバイスに従った、すると、三十分としないうちにテレビ局の取材クルーが到着したのである。
HBSの記者が、両手に軍手をはめて紙袋の中身を確認した。土砂に混じって、まぎれもない人骨が現れた。頭蓋骨、下顎《 が がく》骨、手や足の骨、肋骨──ほぼ完全に白骨化した遺体がそこにあった。
「模型じゃないんですか」
蒼白な顔で呟いた坂崎社長夫人は、電話に飛びついた。もう記者も止めなかった。社長夫妻の三男、まだ幼稚園児の子供が母親のただならぬ様子に怯え、一一○番する彼女の胴に両手ですがりついている様子までも、テレビカメラは追いかけた。
坂崎家の異変に気がついた近所の人びとも様子を見にやってくる。記者は現場からのレポートに取りかかる。坂崎家のすぐ向かいの家ではテレビをつけ、HBSにチャンネルをあわせて、ドラマの再放送が中断して臨時ニュースが始まったことを確かめた。やあ、本当にここがニュースの現場になってるんだ。
混乱と騒動のただ中で、紙袋から取り出された白骨死体は、爆心地の静けさのなかに取り残されていた。床にビニールシートを敷いただけの上に、バラバラになって広げられていた。湿った土砂の詰まった眼窩《がん か 》は、自分の運び込まれた見知らぬ家の見慣れぬ室内を見上げ、そこに家族や友人の顔を探している。それが「彼女」であり、歯医者のカルテとの歯形の照合により、「古川鞠子」であることが最終的に確認されるのは、この日の深夜のことになる。
こうして鞠子は帰還した。これ以上ないほどに孤《ひと》りぼっちの帰還を。
HBSが緊急臨時ニュースを放送し始めたその時刻、塚田真一は、山の上ホテルの喫茶室の一角に、石井良江と向き合って座っていた。隣には前畑滋子がいて、気遣わしそうにふたりの顔を見比べている。
真一が前畑家に居候するようになった直後に、滋子は石井家に電話をかけた。勧められたけれど、真一はその電話に出なかった。なんと言っていいかわからなかったからだ。滋子は良江と会う約束をし、通話を切ったあと、
「石井さんご夫妻は、もう事情を知っていらっしゃるわよ」と言った。
心配していたとおり、真一が家を出たあの日、樋口めぐみはずっと石井家の前に頑張っていて、帰宅してきた良江を捕まえ、真一を匿《かくま》うな、彼を出せと迫ってきたのだそうだ。
「おばさん、びっくりしただろうな」
「あなたのこと、すごく心配してたよ」と、滋子は言った。
そんなふうにして、面会の約束はとっくにできていたのに、実際に顔を合わせるまでには、こんなに日にちがかかってしまった。真一の顔を見て、彼がまずまず健康そうであることを確かめるとすぐに、石井良江は、それについて謝った。
「すぐにも飛んできたかったんだけど……実は、怖くてね」
「怖い?」滋子が首をかしげた。
良江はうなずき、真一の顔を見た。
「真ちゃん、あの娘さん……樋口めぐみさんが、どうして真ちゃんがうちにいるって知ったのか、見当つく?」
真一は黙って首を振った。
「興信所を使って調べたんですって」
そう言って、良江は嫌な臭いをかいだかのように鼻にしわを寄せた。
「真ちゃんの荷物をうちに運び込むときの、引っ越しトラックが手がかりになったんだそうよ」
ぼんやりと、真一は思いだした。佐和市のあの家、殺人現場の家から、机と椅子と、小さな本棚と、わずかな衣類を運び出した。あのトラックか。
「あのとき、主人は反対したんですよ。佐和市の家から荷物を持ってくることはない、あんなに辛いことがあった家なんだから、全部置いてこいって。でも、わたしが反対しましてね」と、良江は滋子に言った。
「少しは……持ってこさせてあげて欲しいって。でも、主人の言うとおりにしておけばよかった。それなら、うちを調べ出されることもなかったのに。ごめんね、真ちゃん」
良江の声がかすれたので、真一は下を向いた。目の前に赤い灰皿がある。それを見つめながら言った。
「机とかを持っていきたいって言ったのは僕なんだから」
良江はハンドバッグからハンカチを取り出すと、目尻を拭った。
「おふたりの責任じゃないですよ」と、滋子が静かに言った。「真一君が追い回されてる、そのことが異常なんです」
「あの娘《こ》、狂ってるんですよ」石井良江は吐き出すように言った。「あんないけずうずうしい……親が親だから、娘も娘なんです」
「興信所を使ったということも、彼女が石井さんに話したんですね?」
「ええ、目をギラギラさせてね。あのときは、真ちゃんがいなくなってるんでわたしも動転してて、何がなんだかわからなかったんだけど、あの娘、それからずっと毎日のように訪ねてきたり、電話をかけてきたりしましてね。いくら真ちゃんはここにはもういないって言っても、最初のうちは全然信じようとしないで、わたしたちが真ちゃんを隠してるって言うんです。出せ、出せって。だけど、しばらくするとさすがにわたしの言ってることが本当だってわかってきたんでしょう。少なくとも、真ちゃんは石井の家にはいないってことがね。そしたら今度は、どこに匿ったんだと、こうですよ。わたしが知らないって言い張ったら、それならいい、自力で探し出すからって。それで、興信所云々の話も始めたんです」
良江はちらっと、ホテルの出入口の方を振り返った。
「だからそれ以来、ひょっとしたら尾行されてるんじゃないかとか、わたしも主人もすっかり神経質になってしまって……。怖くて怖くて、なかなか外出できなかったんです。なにしろ、相手があの調子ですからね。何だってやりかねないでしょう? つい一昨日には、盗聴器を探し出す専門の業者に来てもらって、家中調べてもらいました。万が一ということがあるからって、主人が心配しましてね」
「ごめんね、おばさん」と、真一は言った。「本当にごめんなさい」
「どうして真ちゃんが謝るの。真ちゃんが悪いわけじゃないのよ」
良江は言って、また声を詰まらせた。
「電話でも申し上げましたが、真一君には今、わたしたち夫婦と同じアパートに住んでもらっているんです」と、滋子が言った。良江を安心させるため、できるだけ柔らかな口調で話そうとしている彼女の気配りが、真一にはよくわかった。
アパートの家主は、むろん前畑鉄工所である。一階の南側の六畳間に四畳半の台所付きの部屋が、ちょうど空いていたのだ。実は、この部屋を真一のために借りる際に、滋子が彼女の姑とのあいだに軽いいさかいを起こし、間に入った昭二が大骨を折ったという事情を、真一は知っている。近くにいるから、嫌でも耳に入ってしまうし、察せられてしまうのだ。
(だけどこのことは、石井さんには言っちゃ駄目よ)と、滋子には釘を刺されている。
(気にしないでね。昭二も言ってたでしょ? あたしたちは真一君の味方なんだから)
家賃や生活費についても、滋子夫妻とのあいだで話し合いをして、真一が一定の金額を支払うことに決めた。真一は自分名義の預金を持っており、それは親が残してくれた遺産で、原則として彼が成年に達するまでは引き出せないようになっている。だが、一部は自由に使うことができるので、とりあえずはそこから金を調達することにした。
石井良江は、真一の財産管理をしてくれている吉田という弁護士に会い、事情を話し、対策を相談していた。その結果を報告することも、今日の会見の目的のひとつである。
「吉田先生も驚いてらしたわ」と、良江は言った。「それは放っておけませんねって。やっぱり、一度は担当検事さんに相談に行くべきだって。吉田先生の方からも、樋口秀幸の弁護士に──あちらは『弁護団』だそうだけど事情を話しておいてくださるそうよ」
「きちんとした法的手段で、樋口めぐみの行動をやめさせることはできるんでしょうか」
良江はため息をついた。「吉田先生は、こういう例はちょっと聞いたことがないから、すぐにはお返事できないっておっしゃってね。樋口秀幸に不利になる証言をするなと脅したということなら、これはもう脅迫なんだけど、めぐみが言ってることは、それとは違うから──。わたしには同じようなことだと思えるけれどね」
滋子が言った。「動機がなんであれ、彼女は一種のストーカーですよ。行為禁止命令とか、とれないんでしょうか。真一君の半径二百メートル以内には近づいちゃいけないとか、そういう禁止令」
「それにはすごく時間がかかるそうです」
「でも、やるだけやってみたら?」
真一は首を振った。「駄目だって。あいつは住所不定なんだから」
「あたしと初めて会った──あのときも、真一君、そういうふうに言ってたね?」
滋子の不審そうな問いかけに、真一は暗い目をあげた。「僕も同じこと考えて、あいつに言ったことがあるんですよ。警察に通報するぞ、裁判所に訴え出て何とかしてもらうぞって。そしたら鼻で嗤《わら》われた」
「何だって言うの?」良江が声を尖らせた。「何を笑ったりするのよ?」
「警察はあたしを捕まえたりしない、未成年だから、家出してるってことで保護されるだけだし、法律に触れることなんか、何にもしてないんだからって。裁判所だって同じだ、あんたが裁判所に何を訴えようが、あたしの居所は誰にもわからないんだから、どこにも引っ張り出されやしないし、どんな決定が下されたって、書類なんか届けようもないんだ、だから何をやったって無効だわよってね。確かにそうなんです。あいつはあいつなりに、勉強してるんですよ」
「母親はどうしてるんでしょう?」滋子が顔をしかめたまま呟いた。「母親も住所不定なのかしら」
「吉田先生は、まずそれを確かめてみるっておっしゃってたわ。母親がめぐみのしていることを知ってるのかどうかね」
「母親から叱ってもらったら、少しは効くかもしれませんね。そんなことをしたって、かえって逆効果だって」
戦意を喪失して、ほとんど無関心なような口調になって、真一は言った。「言うことを聞くかな」
「聞かせるんですよ」と、良江が怒ったように言った。
「それでも、あの娘をどこかに閉じこめておくわけにはいかないんだから」
「本当に、めぐみひとりの考えなのかしら」と、滋子が呟いた。
「と言うと?」
「いえ、高校生の女の子の考えることとは思えないんですよ。ほかの誰でもない、真一君から減刑嘆願書の署名を取り付けることができたら効き目があるっていうアイデアがね。だけどまさか弁護団がやらせるわけはないし、もしかしたら父親がそそのかしているのかも」
良江が目を見開いた。「樋口秀幸が?」
「ええ。だって、めぐみさんは父親に面会できるんじゃないですか?」
「なんて親娘なの」
良江は両手を固く握りしめた。まるで、事実がそうであると決まってしまったかのようだ。
「けだものだわ。人を三人も殺しておいて、いけしゃあしゃあと。けだもの以外の何物でもありませんよ」
滋子がちらっと横目で真一を見た。そして目を伏せると、お冷やのグラスに手を触れた。
「どうしてさっさと死刑にできないのかしら」
良江の目が充血してきた。彼女の血管が怒りと共に膨らみ、波打つ様子が目に見えるようだ。
「なんで裁判なんかしなきゃいけないの。あいつらがやったってことは、最初からわかってるじゃないですか。それを……今だって、裁判が止まってるのは、あの連中が精神鑑定を要求したからなんですよ。何が精神鑑定よ。なんでそんな要求をきいてやらなくちゃならないんです?」
「おばさん、そんなふうに言ったら駄目だよ」
おばさんは教師じゃないか──真一がそう言いかけたとき、激しい口調で良江が遮った。
「わかってますよ、わかってるわ、わたしだってそんなことは百も承知よ。だけど真ちゃん、悔しくないの? あいつらはあなたの家族を、問答無用で殺しちゃったのよ? ただお金が欲しかったっていうだけで。そんな権利がどこにあったの? あんなひどいことをやっておいて、どうしてあいつらはぬくぬくと生きていられるのよ? なんで裁判所はあんな連中の権利ばっかり守るのよ?」
「おばさん……」
「誰も彼も、殺された側のことなんか、これっぽっちも考えてくれやしない! 犯人にも人権がある、人権は守らねばなんて、お題目みたいに繰り返すだけで、それじゃ、殺された方は殺され損じゃないですか。裁判所が何もしてくれないんだったら、あたしが行ってあいつらを殺してやる、ええ、殺してやりますとも!」
はあはあと息を切らしながら、良江は肩を怒らせて座っている。大きく見張った両目から、拭う間もなく涙がこぼれ落ちた。
「僕だって悔しいよ、おばさん」
真一は、かろうじてそう言った。
良江ははっと顔をあげた。そうして、わななく手をあげて口元に当てた。
「ごめんね……悔しくないのかなんて訊いて……そんなつもりじゃなかったのよ」
真一は小刻みにうなずいた。でも、良江の目を正面から見ることはできなかった。
「悔しいよ」と、でくの坊みたいに繰り返した。「許せないよ。殺してやりたいよ。殺したって親父もおふくろも妹も返ってきやしないけど、それでもいいから殺してやりたいよ。あいつらと同じ空気を吸ってることが我慢できないよ。あいつらにこの世にいて欲しくないよ」
「真一君」滋子が首を振る。「もういいわ」
「だけど駄目なんだ」真一は言った。「あいつらを殺すだけじゃ駄目なんだ。それじゃ片がつかない。どうして片がつかないのか、おばさんはよく知ってるはずだよ」
良江は青ざめた。「真ちゃん……まだそんなことを気にしてるの……」
「僕にも責任があるんだ」真一は、ゆっくりと、固い物を胃から戻すようにして言った。
「あいつらを殺しても、それは残るんだ。それをどうしていいか判らないから、僕は逃げ回ってる」
きっぱりと、滋子が言った。「この話、もうよしましょう」
石井良江はお冷やのグラスをつかんでいる。グラスの内側で水が震えていた。
外に出ると、街のにぎわいが滋子と真一を包んだ。御茶ノ水駅へ向かう良江と別れ、とぼとぼと歩いてゆく彼女の背中が人込みにまぎれるのを確かめると、真一は言った。
「少し歩きたいんだけど」
「あたしもその気分だった」
なんとなく、秋葉原方面に向かって歩き出した。しばらくして、真一は訊いた。
「前畑さん、訊かないね」
「何を?」
「うちの事件のことで、僕に責任があるっていうのはどういう意味かって」
「うん、訊かない」滋子は真顔だった。「あなたが訊いてほしいと言うまで訊かないって決めたの」
真一は両手をズボンのポケットに突っ込んだ。そのとき肘が滋子の肘に触れた。
ふたりは黙って歩いた。少しずつ疲労感がとれていくように感じた。
「おばさん、すごくこたえてる」と、真一は言った。「あんなことを言う人じゃないんだ。殺してやるなんて……僕も初めて聞いた」
「取り乱しておられたね」
「そうでなかったら、言っちゃ悪いけど、どこの馬の骨かわかんない前畑さんたちに、あっさりと僕の身柄を預けるはずもないしね」
滋子は笑った。「なるほどね」
「前畑さんから見れば、僕もどこの馬の骨かわかんないわけだけど」
「だからおあいこよ。ねえ真ちゃん、テレビかラジオ買っていかない?」
秋葉原駅の近くまで来ていた。電気店街に、平日でも人の流れは濃く、立ち並ぶ店のビルの壁に窓に、派手な広告や案内が並んでいる。
「部屋に何もないと、寂しいでしょう」
ふたりは横断歩道を渡った石丸電気一階の、テレビがたくさん並べられている場所で、滋子は足を止めた。
陳列されたテレビ画面が、どれもこれも同じ場面を映していた。立ち止まって画面に見入る人たちが、歪んだ半円形を描いている。
ニュースの中継画面だった。真一は見た。滋子も見た。音は消してあったが、見るだけで内容はわかった。
「あの事件だ……」と真一は言った。「遺体が出たんだね」
滋子は人垣をかきわけて前の方に出た。真一は彼女の後ろ姿を見ていた。このところの滋子は、真一が大川公園で例の右腕を発見したくだりを原稿に書いている。水野久美にも会いに行くことになっている。しかしこの遺体発見で、取材予定も変わるだろう。
若い女性の顔写真がアップになった。「古川鞠子さん」という字幕がついている。そうか、公園でハンドバッグが見つかった、あの人か。美人だな。可愛いな。笑ってる──
ふと、真一は考えた。この事件の犯人、いつかは捕まるのだろうか。捕まってほしい。でも捕まったときには、きっとまた、こいつをかばう人たちが登場するのだろう。犯人もまた、社会の犠牲者だと。それに反論する声は、小さくてか細くてかき消されてしまう。
この世に満ち溢れているのは、みんな犠牲者ばっかりだ。真一は考えた。それならば、本当に闘うべき「敵」は、いったいどこにいるのだろう?
臨時ニュースが始まった頃、有馬義男はひとりで店番をしており、テレビは観ていなかった。
木田は配達に出ていた。突然、桔梗亭《ききょうてい》から予定外の注文があり、冷蔵庫のなかの在庫からやりくりをつけたのだが、木田は文句たらたらだった。
「あそこの親父は我儘《わがまま》すぎますよ」
義男は笑って木田を送り出した。先週の犯人からの電話以来、ふたりとも事件のことについて話し合ったことはなく、何もなかったようなふりで、日常の仕事を続けている。隣のアパートに陣取る警察官たちのことも、ほとんど話題にはのぼらない。その方が楽だった。
午前中は客が少ない。事務机について帳簿をつけたり、新聞を読んだりしながらの店番である。今日の社会面には、大川公園を端緒とする例の事件の続報は載っていない。それを確かめてからスポーツ欄を読んでいると、店先で「おじさーん」と呼ぶ声がした。
得意客のひとりの、近所の若い主婦である。午後はパートタイムで働いており、そのせいか午前中によく顔を見せてくれる。たいがいはひとりで自転車に乗ってくるが、今日は子供連れだった。五、六歳の女の子で、母親の自転車のすぐ後ろに、補助輪付きのカラフルな自転車を止めていた。
「いらっしゃい」
義男が出ていくと、主婦は冷蔵ケースのなかをのぞきこんで明るい声を出した。
「あ、がんもどき始めたんだ」
「昨日からね」
「じゃ、四つください。あと、絹ごし一丁ね」
義男が手を洗い、商品を袋に入れていると、女の子が自転車から降りて店内に入ってきた。
「おじさんにご挨拶は?」と、母親が命じる。
「こんにちは」と、義男は先に笑いかけた。女の子はもじもじしている。
「お子さんでしょ。いっしょにうちに来たのは初めてだね」
「下の娘です。幼稚園の年長なの」
「お嬢ちゃん、お名前は?」
義男がかがんで尋ねると、女の子は母親のうしろに隠れてしまった。
「嫌ねえ、引っ込み思案で困ってるんですよ」
「女の子はその方が可愛いよ」
「あら、これからの女はそれじゃ駄目よ。おじさん、やっぱり古いわね」
品物のやりとりを済まさないうちに、奥で電話が鳴りだした。若い主婦は気さくに言った。
「いいわよ、おじさん電話に出て」
「悪いね」
義男は小走りで事務机に戻って電話に出た。坂木達夫の声が聞こえてきた。
「有馬さん、テレビ観てますか?」
鞠子の失踪が大事件へと拡大して以降も、坂木はときどき電話をくれて義男を励ましてくれたり、一緒に真智子の病室を訪ねてくれたりを続けている。しかし、今耳にする彼の声は、これまで聞いたこともないような、張りつめてビリビリとした響きを持っていた。
「観とりません。何かやっとるんですか」
「点《つ》けてみてください。HBSです」
「また何かあったんですな?」
「隣の刑事たちからは、何も言ってきませんか」
「はあ、何も」
「じゃ、彼らもまだ知らないんでしょう。有馬さん──」坂木はちょっと、息を呑むようにして間を置いた。それから言った。「どうやら、鞠子さんが見つかったようです」
一瞬、義男は立ちすくんだ。そのまま何も言わず、ごとんと受話器を置くと、すぐに座敷にあがってテレビを点けた。画面いっぱいに、鞠子の顔写真が映しだされていた。
警察に求められて、アルバムのなかから探し出して提出した写真だ。今年の正月に写したものだ。ここでは顔の部分しか使われていないけれど、すぐにわかった。鞠子は笑っている。その手にはみかんを持っているはずだ。あのとき続けて写したもう一枚のスナップのなかでは、そのみかんの房を口にくわえておどけてみせている。
「おじさん?」
店先で、あの若い主婦が呼びかける。
「どうしたの、おじさん」
近所の住人だし、鞠子の事件のことはもちろん、彼女が義男の孫娘であることも知っているそれでもこれまでに、彼女が義男に向かって、事件について口にしたのはたったの一度きりだった。プラザホテルの一件が報道された後、豆腐を買いに来て、お釣りを受け取るついでのようにこう言ったのだ。
「おじさん、元気だしてね。負けちゃ駄目よ」
気丈な声だった。「負けちゃ駄目」という言葉も新鮮だった。あのときは、「お気の毒に」とか「ご心配でしょう」とかいう言葉にはない力を、彼女は義男のなかに吹き込んでくれた。
しかしその彼女の声も、今はかすかに震えを帯びている。店先からも、遠目にテレビ画面を見ることはできるから、彼女にも事態が察せられたのだ。
義男は画面を見た。中継する記者の声を聞いた。そして画面がまた念を押すように鞠子の顔のアップに戻ったとき、ゆっくりとテレビの前を離れて店先に戻った。
「おじさん……」と、主婦が呟いた。
泣き出しそうな顔をしていた。小さな女の子は、母親の背中にくっついている。
「もしかしたら、お孫さんが見つかったのね? テレビでニュースを流してるのね?」
義男はうなずいた。その拍子にふらりと身体が傾いて、冷凍ケースに手をついた。
「なんてひどい」若い主婦は片手で額を押さえた。「なんてひどいの」
彼女の空いた片手が、子供の手を探り当てて固く握りしめた。子供は母親を見あげた。それから義男の顔を見た。そしてまた母親に目を戻すと、小さく言った。
「お母さん、なんで泣いてるの?」
白骨死体が、正式に古川鞠子であると認められたのは、その日の深夜、午前二時を大きく回ったころのことである。遺骨は墨東警察署に安置され、義男はそこへ出向いて行った。坂木がついてきてくれた。
歯形による身元の鑑定がスムーズに進んだのは、坂木のおかげだった。鞠子が失踪してしばらく後に、彼が、そのころはまだ正気を保っていた真智子にそれとなく持ちかけて、鞠子のかかりつけの歯医者の名を聞き出しておいてくれたのだ。
しかしそのことを、坂木は詫びるような口調で説明した。まるで、彼がそんな下準備をしていたから、こんな悪い結果が出てしまったのだとでもいうかのように。
義男は首を振った。
「鞠子のことは、もう諦めとりましたよ。帰ってきてくれてよかった。これで葬ってやれる」
坂木は口をつぐんでしまった。義男が本気で「諦めていた」はずはないと思っているのだった。
義男自身も、本当に諦めていたのかどうか、よくわからなかった。言葉に力が入らなかったし、足は空を踏んでいるようだった。思うこと、考えることのすべてに実感がなかった。
鞠子がもう白骨になっているなんて、どうしても実感がわかなかった。
墨東警察署には、古川茂が先に到着していた。年輩の刑事がひとり、彼に付き添っていた。
「お義父さん」と、古川は言った。「残念です」
彼は青黒いような顔をしていた。目が赤くなっており、顎のあたりに髭がのびかけていた。昔から髭の濃い男なのだ。その髭に白髪がたくさん混じっていることに、義男はふと気がついた。
四人で地下の遺体安置室に降りていった。そのドアは褪《あ》せた灰色で、上部に曇りガラスがはめ込まれていた。廊下の壁に寄せてベンチがひとつ据えられており、その前まで来ると、線香の匂いがした。
どうぞ、と付き添いの刑事が手振りでドアを指し示した。そのとき、古川が言った。
「お義父さん、申し訳ないですが、私を先に行かせてください」
義男は無言で古川を見上げた。
「鞠子とふたりきりで会いたいんです。あれは私の娘です」
坂木が何か言いかけたが、義男は頭をひとつうなずかせると、後ろに退いてベンチに腰かけた。
刑事と古川は灰色のドアの内側に消えた。坂木が義男の隣に座った。
静かだった。ドアと同じ灰色のリノリウムの廊下のあちこちに、点々と黒い染みがある。義男はそれを数え始めた。
足跡の断片みたいな靴底の形の染みもある。出口の方を向いている。ここを訪ねてきたときは空身だったけれど、帰りは何か背負っていて、その背負っているものが重いから、足跡が残ってしまったのかもしれない。
ここを訪れるのは、どういう人だろう。ここに何を持ってきて、何を失い、何を得て帰っていくのだろう。諦観か。絶望か。悲嘆か。激怒か。
いやしかし、ここから得るものなどあるのだろうか。あの靴跡をつけた人物は、背中に何も背負ってなどいなかったかもしれない。ただ、ここを出ていくときは、生きることそれ自体が重荷になってしまって、だから靴跡が残ったのではないか。
染みを探しながら七つまで数えたとき、ドアの内側から古川の泣き声が聞こえた。
「無念です」と、坂木が言った。
義男は両手で顔を覆った。手の中の暗がりに顔をつっこんで、そこにたくさんの鞠子の顔を思い浮かべていた。産院のガラス窓の向こう側にいた赤子の顔。よちよち歩いて手を叩いて笑う顔。幼稚園の制服を着て、制帽が大きすぎて、写真を撮りながらそれを義男が笑ったら、怒って泣き出してしまったあの顔。ピンク色の服なんか、もう子供っぽくて着られないとふくれてみせたときのあの顔。実は同級生からラブレターをもらったと、ちらりとベロを出しながら打ち明けたときの顔。
(で、鞠子はその子が好きなのか?)
(タイプじゃないの。どうしようか、おじいちゃん)
真智子と喧嘩をして、ひと晩泊めてくれと家出してきたときの顔。裾を切ったジーンズをはき、太股《ふともも》を丸出しにしているのを咎《とが》めると、そんなことを気にするおじいちゃんの方がいやらしいと、しばらく口もきいてくれなかった、あの顔。
(お父さんに愛人がいるらしいの)
そう打ち明けたときの、あの顔。
(おじいちゃんには、おばあちゃん以外に好きな女の人ができたことあった?)
そんな余裕はなかったよと答えると、少しきつい目をして、
(そんなの、答にならないよ。逃げてるよ、おじいちゃん)
そう言って口を尖らせた、あの顔。
最後に会ったときはどんな顔をしていたろう。義男の血圧が高いことばかり、しきりに心配していたような気がする。
(ボーナスが出たら、血圧計をプレゼントしてあげる。毎日計って、気をつけてね)
だが、最初のボーナスの日が来る前に、鞠子はいなくなってしまった。
「鞠子」と、古川が呼ぶ声が聞こえる。
義男も心のなかで呼びかけた。鞠子、お帰り。よく帰ってきたな。もう大丈夫だ、もう何も怖いことはないよ──
そういえばずっと昔に、同じことを言って鞠子を慰めたことがあった。あれは鞠子が六歳のときだ。古川家が住んでいた会社の社宅の庭に、大きな柿の木があった。友達と一緒に、木のてっぺんになっている柿の実をとろうと騒いでいて、向こう見ずにぐいぐい登って、ふと下をみたらとても高くて、怖くて動けなくなってしまった。ちょうど訪ねていった義男が、登っていって抱き下ろしてやった。そして泣きじゃくる鞠子に言ったのだ、もう大丈夫だぞと。だけど、二度とこんな危ないことをしちゃいかんぞ──
鞠子──と、義男は心のなかで繰り返した。鞠子、あのとき、もう二度と危ない目に遭うようなことはしないと約束したじゃないか。それなのに、どうしてこんなことになったんだ。誰がおまえを騙して、二度と登らないと約束した高い柿の木の上に、おまえを連れて行ったんだ。そいつは今どこにいる。そいつはどんな顔をしている。教えてくれ。おじいちゃんに教えてくれ。そしたら、どこまででも追いかけていって、おじいちゃんがそいつを捕まえてやるから。
鞠子、鞠子。俺の宝だったのに。
「有馬さん」
坂木が義男の肩に手を置いた。その手の温もりを感じながら、古川茂の叫びを聞きながら、ぴたりと閉じられた灰色のドアの前で、声を殺して、義男は泣いた。
「もしもし?」と、キイキイ声が言った。
電話には、木田孝夫が出ていた。留守番役の彼のために、アパートの「有馬班」の刑事がひとりやってきて、付き添っていてくれた。その刑事が電話の録音ボタンを押した。
「有馬豆腐店?」と、機械の声は続けた。
「そうです」口元が震えるのを感じながら、木田は応じた。
「おじいちゃんじゃないね。そうか、やっぱりおじいちゃんは警察へ行ってるんだな」
「あんた、犯人なんだろ」と、木田は言った。
「何の用だ。これ以上何をしようってんだ、え?」
「へえ、威勢がいいね」キイキイ声は愉快そうに語尾をつり上げた。「あんた、親戚の人?」
「俺が誰だっていいだろうが」
木田にも中学生の子供がふたりいる。ひとりは息子、ひとりは娘。鞠子のことは、親しい知り合いを襲った悲劇であると同時に、木田にとっても他人事ではなかった。
「ずいぶん偉そうな口をきくヤツだ」と、機械の声は言った。「僕にそんな態度をとると、あとで後悔するよ。それに、どうして僕に感謝しないんだい?」
「感謝だと? 何を感謝しろって言うんだ!」
「鞠子を返してやったじゃないか」
「貴様──」
「えらい苦労したんだぜ。一度埋めちまったものを掘り返してさ。汚れ仕事で大変だったんだ。だけど、おじいちゃんが気の毒だからわざわざやってやったんだぜ」
木田は怒りのあまり目が回りそうになった。
「貴様は人間の屑だ!」
相手は笑っている。木田は吐き捨てた。
「貴様のようなヤツを、俺はよく知ってるぞ! 一対一じゃ何もできない臆病者だ! こんな嫌がらせの電話をかけたり、女の子をいじめることはできても、大人の男相手じゃ喧嘩のひとつもできない野郎だ!」
「本当にそう思うのかい?」機械の声は、笑うのをやめた。「僕が男を相手にしないとでも?」
木田は息を呑んだ。隣で刑事が会話を引き延ばせと合図してくる。
「へえ……そうか、それならこっちにも考えがある。見てなよ、おっさん。だけどおっさん、また誰か、今度はいい歳の男が死んだら、それはおっさんのせいだよ」
電話は切れた。隣と連絡を取り合った刑事が、「また携帯電話だ」と呟いた。木田は電話機をつかむと、コードを引っこ抜いて壁に叩きつけた。電話機はリンと鳴ると、木田を嘲《あざけ》るように腹を上に向けて床に転がった。
[#改ページ]
15
武上悦郎は酔っていた。
十月二十一日、古川鞠子の白骨遺体が発見されてから、十日後の午後のことである。夕暮れが近く、武上の家の茶の間の窓に、蜜柑《 み かん》色の日差しが斜めに差し込んでいる。
酔っていると言っても、深酒をしているわけではない。風呂上がりに缶ビールを一本、それもごく小さいものを飲んだだけだ。それがこんなに回ってしまうというのは、バテている証拠だろう。
古川鞠子関連の書類仕事には急ぎのものが多く、この三日間、武上はほとんど不眠不休、食事もろくにとらなかった。白骨遺体をしかるべき鑑定にかけるのも、歯形の照合にも、関係各所に提出するべき文書があり、それを書くのは武上の仕事だ。白骨遺体発見現場付近の実況検分調書と写真の綴りも大車輪でまとめねばならなかった。その合間に、合同捜査本部ができて以来初の公式記者会見が一昨日の夜に開かれたのだが、その席で読み上げられる発表文書の事実経過報告に問題点がないかどうかチェックし、記者団から投げかけられる質問の内容を想定して仮想の問答集をつくるというおまけまでついた。三日が過ぎると、さすがの武上も疲れ果てて、トイレの便座に座ったまま居眠りをするような状態だった。
大川公園事件発生の九月十二日以来、すでに四十日を経過した。この間、まったく帰宅することがなかった。見かねた神崎警部が、二、三時間でもいいから家に帰り、風呂に入って出直してこいと送り出してくれたのである。そういう神崎警部もまったく家に帰らず組で、着替えのワイシャツが間に合わず、襟垢がついたのを着ていた。
武上の住まいは大田区の大森、私鉄の六郷《ろくごう》土手《 ど て 》の駅から歩いて五分ほどの場所にある。終戦後につくられた文化住宅の名残のあるちまちまとした家々が、町工場のなかに混じり合って立ち並ぶ、密度の高い街である。武上の住まいも、かつてはその手の文化住宅であった家を十年ほど前に建て替えたものだ。建て替えは武上の身上《しんじょう》で行ったが、猫の額ほどの土地は妻が親から相続で受け継いだものである。そうでもなければ、一介の地方公務員の給料で、なかなか都内に一軒家を持つことはできない。
つい数年前まで、隣近所はきっちりと立て込んでいたのだが、バブルの暴風が来たりて去ったあと、あちこちに空き地ができた。武上家の隣にも板金塗装会社のトタン造りの建物があったのだが、倒産したか地上げにあったかして無くなってしまい、今は駐車場になっている。おかげで茶の間と台所は風通しも日当たりもよくなり、申し訳ないようではあるが、すこぶる快適だ。
風呂上がりの身体をその窓際に置いて、ぽうっと風に吹かれながら、武上は隣の駐車場に停められている車のナンバーを読んでいた。短時間でも休息するために帰ってきたのだから、事件のことは考えたくないのだが、それがなかなか難しい。こういうときは、頭のなかをくだらないことで埋めておくに限る。武上はナンバーを読み、それを暗記しようとしてみたり、数字のゴロあわせをつくってみたりしていた。
それでも、古川鞠子のことを考えた。
ああいう遣体発見は、捜査本部にとってこれ以上の屈辱はなく、被害者の遺族にも癒しようのない深い傷となる。創傷ではなく裂傷だ。縫うこともできず、治っても治りきらない痕《あと》が残る。長年の奉職で、感情をコントロールする術《すべ》に長《た》けている刑事は多く、武上もそのひとりだが、合同捜査本部内の若手たちはそうもいかなかったらしく、墨東警察署三階の男子便所の小便器が割れて、修理を頼まねばならなかった。
「誰が蹴ったんでしょう」と、篠崎が感心していた。「割ろうったってなかなか割れるものじゃないのに」
その篠崎は今、武上家の風呂につかっている。彼も感情的には安定している方で──これは経験によって培ったものではなく、気質であろう──武上と一緒によく働いてくれたが、疲労の度合いは武上より深かったようだ。デスク要員のなかで、幸か不幸か武上に気に入られたがために、彼も一度も帰宅せず組だった。ところが、少し休んでこいと許可を出したら、どうせアパート暮らしだから、自宅に帰っても何も変わらないので、空いている机の下にもぐりこんで仮眠をとりますというので、引きずり出してきたのである。
武上の妻は近所の薬局でパートで働いている。武上たちと前後して帰宅し、あわてて買い物に出て、食事の支度をしているところだ。娘はまだ大学から帰らないから、家のなかは静かなものだった。
武上はしつこく車のナンバーを眺め続けた。記憶力のいい男のことだから、二周もすると、停まっている車のあらかたのナンバーを覚えてしまった。馬鹿なことに頭を使うものだと思うが、やめられなかった。やめれば、古川鞠子のことを考えてしまう。
それでもしばらくして、どうしても事件の方へと流れて行く思考に逆らうことを諦めた。敢えて、まだ身元の判明していない、右腕しか発見されていない女性のことを考えた。
右腕だけでは手がかりが少なすぎる。ひょっとするとうちの娘じゃないか、妻じゃないかと案じて問い合わせをかけてくる人びとはかなりの数にのぼったが、まだ特定には至っていない。マニキュアの色と、腕の内側に小さな痣《あざ》があるというのが、わずかながら特徴と言えるものだったが、ぴたりとあてはまる失踪女性の名前は、今のところまだ登場してきていない。
──犯人はどうするつもりだろう?
古川鞠子については、あんなふうに大騒ぎを起こして返してよこした。遺族である有馬義男にも接触してきている。しかし、右腕の持ち主については沈黙したままだ。
犯人は、犯人だけは、右腕の女性がどこの誰であるか知っているはずである。彼女の家族──遺族──と連絡をとる術も判っているはずだ。それなのになぜ、古川鞠子の場合と同じようなふるまいをしないのだろう。
「お父さん」
台所から妻が呼びかけてきた。武上はびくっとして顎をあげた。
「なんだ?」
「お風呂場がいやに静かなんだけど、篠崎さんでしたっけ、大丈夫かしら。ちょっと声をかけてみてくれない?」
武上は立ち上がり、風呂場へ向かった。ガラス戸ごしに呼んでみたが、返事がない。戸を開けて首をつっこんでみると、篠崎が浴槽に顎までつかって、すやすや眠りこけていた。
武上は彼の頭をこづいた。「おい、寝るな」
篠崎は驚いて目を覚ました。その拍子に頭まで湯のなかに潜ってしまった。
「あ、すみません」と、ごぼごぼ言った。
「あんまり気持ちよかったもんで」
「寝ると死ぬぞ」
「はい、もう出ます」
戸を閉めると、寝ると死ぬなんて雪山じゃないんだからと呟いているのが聞こえてきた。今度、篠崎に、参考資料として、湯の追い炊きがかかった浴槽につかったまま眠り込んで溺れ死に、茄でられてしまった遺体の写真を見せてやろう。
篠崎の頭からいい匂いがした。あいつめ、娘のシャンプーを使ったなと思った。武上の娘はお年頃で、両親やむさくるしい弟とはけっして同じタオルやシャンプーを使おうとしない。彼女専用のものがあり、誰かが勝手にそれを使うと烈火の如く怒るのだ。篠崎が娘に殴り飛ばされないうちに、とっとと飯を済ませて本部へ戻った方がよさそうだ。
ついでに玄関をのぞくと、郵便受けに夕刊が来ていた。武上家では三紙を購読しているので、夕刊でもけっこうな嵩《かさ》がある。茶の間に持っていって順番に読んでいると、篠崎が風呂場から出てきて、妻に礼を述べていた。こざっぱりと着替えている。
新聞に、目新しい報道はなかった。今日午前中の公式発表を、忠実に再現した記事が並んでいる。坂崎引っ越しセンター周囲の不審車両の捜査と、センター関係者への事情聴取を続けているという内容だ。
「何か出ていますか」と、篠崎が訊いた。麦茶のグラスを持っている。彼は下戸なのだ。
「何もないな」
古川鞠子遺体発見のあと、捜査本部内で、田川一義の実名は伏せた上で、本部が容疑者をしぼりこんでいるという事実だけは公開するべきだという意見が、かなり強硬に盛り上がってきた。つまりは、捜査本部も何もしてないわけじゃないんだとアピールしたいという積極派である。
結果的には、積極派の意見は押さえ込まれた。当然のことだと武上は思う。鞠子の白骨遺体が現場に遣棄された時間帯は確定できていないが、発見日前日の夜中のあいだであることは間違いがない。そのあいだ、田川一義は大川公園近くの公営住宅の自宅から一歩も外へ出ていない。そのことは、専従監視班が確認している。本部としては、今はむしろ、田川にかけている捜査力を軽減するか、それともこのまま継続するか、再検討を迫られているくらいなのである。容疑者をしぼりこんでいるなどと、口にするのもおこがましい。
このことは、単独犯説にしぼるか複数犯説も視野にいれて捜査するかという、捜査方針の分かれ目でもあった。また、単独犯説をとり、田川を不在証明有りとして容疑対象からはずすためには、彼がなぜ何のためにレンタカーを乗り回して大川公園付近をうろうろしていたのか、納得のいく解答を見つけなくては安心できない。
「『週刊ポスト』だったかな。捜査本部が能ナシだって、ぼろくそ書いてました」
「今は何を書かれても仕方ないな」
武上が言ったとき、電話が鳴った。受話器を取ると、秋津の声が聞こえてきた。
「ガミさんですか?」と、急《せ》きこんで尋ねた。何かあったと、武上は直感した。
「どうした?」
「『日刊ジャパン』を読みましたか?」
宅配制をとっていない駅売り専門の夕刊紙だ。
「いや、見とらん。何か載ってるのか?」
「田川の件が漏れてるんです」悔しいというよりは、唖然としている様子だった。「名前は出てないし写真もありませんが、記事の内容を読むと田川のことに間違いありません」
「見出しは?」
「連続女性誘拐殺人事件に重要容疑者か。いったいどこから漏れたんだろう?」
「本部からに決まってる」
押さえ込まれた積極派が、意図的なリークをやらかしたのだ。リーク先がいわゆる七社会ではなく夕刊紙であるというところに、武上は嫌なものを感じた。
「田川の直近監視班からの報告じゃ、もうテレビ局が押しかけて来てるようですよ。詳しい情報をつかんでるんでしょう。連中、田川に何を訊くつもりなんだか」
武上は電話を切り、篠崎を振り向いた。
「署に戻るぞ」
塚田真一は、配達されてきたばかりのコカ・コーラのケースを倉庫に運び込んでいた。制服のサイズが大きめなので、立ったり座ったりするたびにズボンをずり上げなければならず、それを見ては店長が笑う。
前畑アパートに暮らすようになってすぐに、真一は、アパートから徒歩で十分ほどの場所にあるこのコンビニエンス・ストアでアルバイトを始めていた。父母の残してくれた預金のおかげで当座の生活には困らないとはいえ、遊んで暮らすのは気が引ける。暇だし、だいいち不健康で仕方がない。樋口めぐみの動向がはっきりわからない以上、まだ学校へは戻れないので、アルバイトをするのがいちばん妥当な道であるように思えた。
元は酒屋だったのを、フランチャイズ方式で大会社の傘下に入ってコンビニに模様替えした店である。酒屋の跡取り息子の店長はまだ三十代の若さだ。実は、前畑昭二の小学校時代からの同級生であり、現在の飲み仲間でもあった。
おかげで、働き易い職場だ。真一はすぐに仕事に慣れた。店長の妻が明るく気丈な性格で、滋子以上に親身になってあれこれと世話を焼いてくれる。制服のズボンも、男物ではそれ以上小さいサイズが無いので、そのうちウエストを縫い縮めてあげると言っているのだが、なかなかその暇ができないらしかった。
コーラのケースを運び終え、掃除用のモップを持って床を拭いていると、ガラスの自動ドア越しに、前畑滋子が急ぎ足でこちらにやってくるのが見えた。片手に財布を握りしめている。押しボタン式の信号が青に変わるのを待つことさえ嫌って、車と車の隙間を縫うようにして横断歩道を渡り始めた。なんだろうと、真一は背中を伸ばした。自動ドアを踏んで、滋子は店に入ってきた。まっすぐレジに向かうと、すぐそばのストッカーから夕刊紙を一部抜き出した。
「こんにちは、これください」
笑顔がない。レジの店長が、「どうしたの、滋子さん」と声をかけた。
滋子はレジの前に立ったまま、財布を脇の下にはさんで、夕刊紙をめくり始めた。『日刊ジャパン』だった。
「何かあったんですか、滋子さん」と、真一は訊いた。滋子はくちびるを噛み、食いつくような目つきで記事を読んでいる。真一も彼女の肩越しにのぞきこんだ。
「連続女性誘拐殺人事件に重要容疑者か」
目を見張った。
「容疑者が」滋子は息を切らし、紙面から目を離さないままで言った。「大川公園事件の容疑者が出てきたの。今、テレビでも騒いでるわ。またHBSよ」
「テレビが? もう?」
「ええ、この記事が出る前に、局の方がこの人物に接触をしてね。『月刊ジャパン』とHBSは系列会社だからね。そしたらこの人、インタビューに応じたらしいの。だから大騒ぎよ」
「独占スクープってやつか」店長が言った。
「どうも大川公園の近所に住んでる人物らしいのよね。コマーシャルになったから、記事の方を読もうと思ってあわてて来たの。真ちゃん、一緒に戻るでしょ?」
滋子はまた小走りで店を出ていく。店長が時計を見た。「しょうがねえなあ」
店長には、真一が滋子の仕事を手伝っていると説明してあるのだ。
「明日一時間余計に働いてくれりゃ、いいよ」
「すみません」
ズボンをずり上げながら、真一は滋子のあとを追った。
顔にモザイクをかけられ、音声を変えられた「容疑者」田川一義は、しかし饒舌《じょうぜつ》だった。
HBSの取材クルーに接触されるまで、自分に一連の事件の容疑がかけられていることについてはまったく知らなかったと、彼は語った。なぜそんなことになったか、その理由についても見当がつかないと。
インタビューにあたった記者は、田川の前歴と、彼の運転するレンタカーが大川公園事件発生の前後に公園の周囲で目撃されているという事実を持ち出した。すると田川は、自分の前歴について、いっそう激しい口調でしゃべり始めた。
「あれは僕がやったことじゃないのに、はめられたんだ」
彼が言うには、当時同じ職場にいた二十七歳の先輩に、彼の言葉で言うならば「更衣室フェチ」の男がいて、隠しカメラ事件の犯人もその男なのだという。
「だけどそいつは社長の縁故で入社した奴だったから、そんなことがバレるとまずいんで、僕が罪をなすりつけられたんですよ」
なぜ公判でそのあたりを主張し、闘わなかったのかという質問には、
「そんなことをしたら、十年も十五年も裁判の結果が出ないまんま、宙ぶらりんにされちまうでしょう。悔しいけど、自分の人生をめちゃくちゃにされないためには、できるだけ早く罪を認めて、軽い刑で済むようにしてもらうしかなかったんだ」
記者は、殺人事件などとは違うのだから、法廷で争ったとしてもそれほど長引くとは思えないんですがねと発言した。すると田川は声を張り上げた。
「あんたは当事者じゃないんだから何も判らないじゃないですか」
インタビューが中断しそうなほどの田川の興奮ぶりを、カメラは逐一映しとる。記者は矛先を変えて、九月四日、十一日、十二日の三回に渡り、知人に借りてもらったレンタカーをさらに又借りするという手間を踏んでまで車を手に入れ、大川公園の周囲で何をしていたのかと質問した。とりわけ十一日は事件発覚の前日である。
田川の激発は、急におさまった。亀が危険を感じて首をひっこめるのにも似た、あからさまな防衛の姿勢だった。自分は大川公園には行っていない、ぬれぎぬを着せられるような羽目に陥って以来、すっかり人間不信になってしまい、外へ出るのが辛かったので、車の手配を知人に頼んだ、野鳥を撮影に出かけて、有明の森を振り出しにあちこち回ったから、いつどこにいたのかはっきりとは覚えていない──
午後のワイドショウの枠をいっぱいに使っての独占インタビューだったが、やりとりそのものはそれほど長時間ではなく、番組の後半は収録された内容を繰り返したり、事件の概要についてまとめたビデオを放映したりする程度のものに終わった。扱いだけは大きいが、これが本当に情報として確度の高いものなのかどうか、また捜査本部はこの件について何か公式なコメントを出しているのかということについては、まったく触れられることがなかった。
前畑滋子はビデオデッキで番組を録画しながら、田川──この段階ではまだ一視聴者である彼女にとっては「Tさん」の発言を聞き、時おり映し出される彼のぼんやりとした身体の全体像や、手や足の爪先の動きなどを、睨みつけるようにして見つめていた。
インタビューのあいだ、Tは絶え間なく貧乏揺すりをしていた。とりわけ、記者が質問を──Tにとって答えにくそうな内容の質問をしているときほど、貧乏揺すりは激しくなった。彼の両手は、それを止めようとするかのように、両膝の皿の上にすっぽりとかぶせられていたが、膝が動揺を始めると、手も腕も、ひいては両肩までもが揺れ動いた。その様子を滋子はじっと観察していた。
Tは男にしては華奢なきれいな手をしていた。その手の右手の中指に、凝った細工の指輪をはめていた。銀製で、幅が一センチ以上もある大ぶりなものだ。かなり古びたジーンズに、足元はくたびれたスニーカーという彼のいでたちのなかで、一種異彩を放つアクセサリーだった。
Tにとって何か意味のある品なのかもしれない。その指輪をよく見ようと、滋子は何度も身を乗り出した。テレビ画面では無理だったので、番組終了時に急いでビデオに切り替え、画面に一時停止をかけては目をこらした。しかし、なにしろ対象が小さなものなので、なかなか上手くいかない。表面が平らではなく、でこぼことレリーフのようになっているということを見分けるだけで精一杯だった。
「何か気になるんですか」
滋子の脇のソファで、黙ってテレビを観ていた真一が声をかけてきた。
「ううん、大したことじゃないの。彼のはめてる指輪がね、珍しいなって思っただけ」
「指輪?」
滋子はもう一度画面にポーズをかけ、指さして示した。真一はうなずいた。
「ああ、これか」
そうは言ったが、気のない声だった。滋子も変なことを気にかけると、彼は思っているらしい。
「それより、どう思いますか」と訊いてきた。
「こいつ、怪しいかな」
「判らないわ」と、滋子は素直に首を振った。
「まず、彼の乗った車が大川公園付近で目撃されたという証言がどこから出てきてるのかはっきりしないでしょ。警察サイドから出ているものなのだとしても、どのくらい信用していいかは問題よね」
「このインタビユーについて、警察は何も言わないのかな」
「少なくとも、今の時点では何も表明しないつもりらしいわね」
「テレビが先にこういうことをして、あとあと問題にならないんですか?」
「本人がインタビューに同意してるんだから、それはないと思うわよ」
真一は肩をすくめた。「こいつ、何で出てきたのかな」
滋子は彼を見た。真一は、ポーズをかけたままアップになっている、モザイク模様のTの顔を見つめていた。
「出てきてインタビューに答えたって、いい目は出ないってことが判らないのかな。前歴のことばっかり訊かれてたじゃないですか」
滋子は微笑した。「本当に、前科については冤罪だったのかもしれない。それを訴えるいいチャンスだと思ったのかもよ」
テレビ画面に目を遣りながら、真一は物憂げにまばたきをした。「そうかもしれないけど、それは嘘かもしれない。テレビを通して、あれはぬれぎぬだって嘘をついてるのかもしれない」
「うん、どちらの可能性もあるよね」
「どっちだか判らないのに、彼には話すチャンスを与えるんですか?」と、真一は言った。
「こいつのために被害に遭った女の人とか、知ってる人にはすぐに判る形で『本当はあいつがやったんだ』って指された人の言い分は聞かないで?」
「あとから出てくるかも──」
「だけどそれじゃ公平じゃないよ。先にしゃべり散らしたのは彼だ。このTの方だ」
滋子は口をつぐんで、真一の様子を見ていた。彼が口にしているのは先ほどのインタビューのことであるけれど、頭のなかで考えているのは、どうやら別の事件のことであるようだった。
「僕、バイトに戻ります」と、真一は立ち上がった。
コンビニへ戻る途中、アパートのすぐそばの公衆電話で、真一は電話をかけた。まだ帰宅していないかとも思ったが、幸い、本人が電話口に出てきた。
「あ、塚田君? 今のテレビ観てた?」
水野久美である。大川公園を飼い犬のキングを連れて散歩しており、真一と一緒にゴミ箱から右腕を発見した少女だ。
彼女とは、樋口めぐみの一件で石井家を飛び出す少し以前から、時おり話をするようになっていた。ゴミ箱での一件からしばらく後、早朝にロッキーを連れて大川公園を歩いているとき、またばったりと彼女に会った。真一は気づかないふりをして通り過ぎようと思ったのだが、久美は追いかけてきた。そして、あれからずっと気になっていた、一緒に墨東警察署の会議室にいたときの彼女の軽率な言葉について、きちんと謝りたいと思っていたと言った。
「あたし、怖いのを通り過ぎてなんだかハイみたいになっちゃって、ワクワクするなんて言ったの。塚田君の気持ちも考えないで、ごめんね」
あの時の久美は、真一の過去の事件について何も知らなかったのだから、謝ることもないのである。だが彼女は謝り、そしてそれ以上は、真一の家を見舞った事件について、何も尋ねようとしなかった。
翌日もその翌日も、久美とは同じような時刻に大川公園で顔を合わせた。真一はすでに樋口めぐみの登場に危機感を感じている折で、日々落ち着くことがなかったけれど、早朝の一時《ひととき》、久美の明るい顔を見ると心が和《なご》んだ。彼女が先に電話番号を教えてくれたので、真一も教えた。こんなことは、佐和市での事件以来初めてのことだった。
その後、真一がとうとう石井家を飛び出したあと、入れ違うように久美が何度か電話をくれて、ひどく心配をしていたということを、良江から聞いた。そこで、前畑アパートに落ち着いてからは、時どき久美に電話をかけるようにしていた。
「テレビなら観てたよ」と、真一は答えた。
「まだどうだか判らないけどね」
「そうよね、でも怖かった。あの人、ちょっと普通じゃないような感じするもの」
「キングとロッキーは元気かな」
真一が家を出た後、石井夫妻に代わって、久美がロッキーの面倒をみてくれていた。彼女は大の動物好きなのだ。将来は獣医になりたいのだと、真一には話している。
「元気よ。いい毛並みしてるわよ」久美は笑った。「だけど、時どき塚田君のことを探してる。鼻を鳴らして庭を歩き同ったり、階段の方を向いて吠えたりするの」
「あいつ甘ったれなんだよ」
新聞勧誘員が無料券を二枚くれたから、今度の日曜日にロードショウを観に行かないかと、久美は言った。洋画の話題の大作だった。
「きっと混むと思うけど、無料《 た だ 》だからさ」
真一がすぐには返事をしないでいると、久美は「どうかしたの?」と訊いた。
「最近、あいつに会った?」
久美とのあいだで「あいつ」と言えば、それは樋口めぐみのことである。ロッキーの世話をしに石井家に通っていて、既に久美は過去二回ほど、めぐみと顔を合わせているのだった。当然、彼女の背後の状況や、真一を追い回さねばならない理由についても知っている。
「うーんとね、会ってない」
久美は嘘が下手だった。
「会ったんだね。いつ?」
「……昨日」久美は言って、呟いた。「あたしってバカね」
「嘘つく必要なんかないんだからさ。どうだった? 嫌な思いをさせてたらごめん」
「なんてことないよ。いつもどおり。あたしのこと睨みつけて、石井さんの家のまわりをうろうろして。あたしはロッキーをお風呂に入れてたんだけど……」
久美の口調が変わったので、真一は何か「いつもどおり」ではないことが起こったのだと判った。
「あいつ、水野さんに何かしたの?」
ちょっと黙ってから、久美は答えた。「話しかけてきた」
今までは、樋口めぐみが直に久美に接触してくることはなかった。遠巻きに見ているだけだったのだ。これはむしろ意外なことだった。これまでの樋口めぐみの態度を知っている真一としては、すぐにもめぐみが久美に飛びつき、おまえは真一の友達か、真一の居所を知っているなら教えろと迫ってもおかしくないと思えるのだが、なぜかめぐみはそれをしていなかった。同年代の女の子同士の見えないバリアのようなものが、互いのあいだを隔てていたのかもしれない。
「何ていって話しかけてきた?」
「石井さんの奥さんは留守ですかって」
「おばさん、いなかったの?」
「買い物に行ってたの」
久美が石井良江の不在を告げると、めぐみは家の二階の窓を見あげ、それから久美の方を振り返って、言った。
「あなた、いくつ?」
久美はびっくりして、泡だらけのロッキーごしに樋口めぐみの方をうかがった。めぐみは眉のあたりに険《けん》のある表情を浮かべていたが、取り乱しているようには見えなかった。
十六歳だと、久美は答えた。
「そう、いいわね」と、めぐみは言った。「苦労がなくて呑気で、自分のことばっかり考えてりゃいいんだもんね」
そして、くるりと踵《きびす》を返して去っていったという。
「あたし、頭きちゃって」ぷりぷりしながら、久美は言った。「自分のことばっかり考えてるのはどっちの方よって、怒鳴りそうになっちゃったわよ」
「何も言わなくてよかったよ。飛びかかってこられたら大変だろ」
真一は笑ってそう言った。声は笑って聞こえるように。だが、公衆電話ボックスのガラスに映った顔は、少しの笑みも浮かべてはいなかった。
「担当の検事さんや弁護士さんには、彼女のこと相談してないの?」
「電話では話したよ。すぐにやめさせようって言ってくれた」
「だけどやめてないよ。少なくとも、訪ねてくることはやめてない」
大人の忠告や苦言や警告では、めぐみを止めることはできないだろう。真一も、それには期待をかけていなかった。これは塚田真一と樋口めぐみの、ふたりだけの勝負なのだと思い始めていた。
勝負。しかし、何をめぐっての勝負だ? ついさっき見た「容疑者」Tの、痙攣《けいれん》のような貧乏揺すりを繰り返す痩せた膝が頭に浮かんだ。社会に対して発表するべき正当なことを胸に抱いて登場した人物に、あの貧乏揺すりはふさわしくない。しかし、それで正邪を判定することは危険であり、TにはTの言いたいことを述べる権利がある──
どちらがより迅速に、効果的に、言いたいことを言いたいように言い、それをどれだけ広く報道してもらい、社会に信じてもらえるか。今や、善悪の判断基準はそれしかない。だからこそ、Tはインタビューに応じて出てきた。めぐみが真一を樋口秀幸に会わせようとしているのも、それが樋口秀幸側の言い分を世間にアピールする最も効率的な手段だからだ。
皆、無意識のうちに知っている。宣伝こそが善悪を決め、正邪を決め、神と悪魔を分けるのだ──と。法や道徳規範は、その外側でうろちょろするしかない。
樋口めぐみは、マスコミに向かってしゃべったりするだろうか。次にとるべき手段として、そういう方法を選んだりするだろうか? あの激しい感情の下に隠されている戦略的な頭脳は、彼女にそれを命じるだろうか?
[#改ページ]
16
容疑者「T」は、その後も連日、テレビや週刊誌をにぎわせた。古川鞠子の遺体が発見されて以来、目立つ進展のなかったこの事件に、彼の存在は格好の刺激剤になったわけである。
彼自身のマスコミに対する姿勢や態度、距離の取り方は一貫していた。テレビに出ることはあっても、画像はビデオ撮り、音声は変えられている。話の内容も同じことの繰り返しだ。過去の前歴について冤罪を熱心に訴え、問題の事件への関与は厳しく否定する──
しかし、十一月に入るといきなり、その状況に変化が起きた。テレビ局では最初に「T」に接触したHBSが、再びやってのけたのだ。十一月一日午後七時オンエアのHBS緊急報道特別番組。
そこに、「T」が初めて生出演することになったのだから。
緊迫というよりは、奇妙に昂揚した雰囲気に包まれて、ゴールデンタイムの特別番組は、予定通りに始まった。
スタジオには司会進行役のアナウンサーとアシスタントのほかに、ゲストコメンテーターとしてミステリー作家と、女性評論家の顔が並んでいる。田川は彼らの座っている雛壇《ひなだん》の左側の偏光ガラスの衝立《ついたて》で仕切られた一角に、椅子をあてがわれて腰掛けていた。
「Tさん」と呼びかけられ、肉声ではない声で応じる彼の姿は、テレビ画面の上ではぼんやりとした人影にしか見えない。それでも時折、彼の膝や足先、手の動きなどがアップになると、そこにいるのは確かに生身の人間であると、視聴者にも実感できるのだった。
褪《あ》せたジーンズに包まれた膝は、相変わらず激しい貧乏揺すりを繰り返していた。それを両手で押さえつけるようにして座っている両肩を張った姿勢は、前の番組の時よりもさらにはっきりと、強い怒りの感情を現していた。今にも誰かを糾弾しようとするかのように、頭を前に突きだし身を乗り出して、投げかけられる言葉に、飛びつくようにして反応する。明らかに彼は、これまでのインタビューを通して、さらにはっきりと自分の役回りを自覚したらしかった。
犠牲者の役回りである。
二十一日のスクープで、マスコミに足元をすくわれた形となった合同捜査本部は、田川の容疑に関する公式の記者会見を開かず、しかし報道を黙殺もしないという、妥協的な手段をとってきた。記者発表で、田川の名前が捜査対象者のリストのなかにあったこと、一時監視態勢をとっていたことを認めた上で、古川鞠子の白骨遺体が遺棄されたと考えられる時間帯の田川の不在証明は確認されているという事実を公表したのだ。田川はやや灰色だが決め手はないと突き放したのである。この発表の行間からは、当面のところ、合同捜査本部としては彼の身柄を確保する等の手段に出る予定はないということだけでなく、本部内における「容疑者」としての田川の地位が相対的に下落しつつあることも──それがブラフかどうかはまた別の問題として──読みとることができる。
つまり、こういう処理をすることによって捜査側は、今回リークされた情報はそれほど大きな価値を持つものではないと、婉曲に主張したことになる。騒ぐなら勝手にやれというわけだ。
HBSは受けて立った。田川も然りである。彼の「怒り」の姿勢が明確になった理由も、かかってこの捜査側の態度にあった。インタビューでは、「自分の身に一連の事件の容疑がかけられていることについてはまったく知らなかった」と明言していたのに、この番組では、「尾行されていると気づいていた、怖かった」「友達から電話があり、刑事が来て前科についてあれこれ訊いていったけどどうかしたのか」と言われたとか、新しい話がごろごろ出てくる。
HBS側は、警察側の反応を観察し、田川が真に犯人であった場合のスクープの確率に賭けるよりも、ここは田川を「前科があるばかりに不当な疑いをかけられた犠牲者」と位置づけ、同時に、このような不毛な捜査ばかりやっていて犯人の影さえあぶり出すことのできない合同捜査本部の怠慢と不手際を追及するという形をとった方が、現況では得点が高いと判断した。だから番組の構成も、冒頭で事件の概要を振り返り、田川とやりとりをして彼の訴えを聞き、そののち、この種の連続殺人犯捜査に対する我が国の捜査技術の未熟さについて取り上げ、欧米先進諸国のそれと比較して問題点をあぶり出す──その話し合いの場でも田川に発言させる──という形になった。
一方で、特設スタジオに二十台以上の電話機を用意し、視聴者からの電話やファクシミリによる情報提供を呼びかけた。コメンテーターたちが発言したり、田川が彼らの質問に答えたりしている間じゅう、騒がしいBGMさながらに電話のベルは鳴り続け、無数の情報が、ただ情報であるというだけで、一様に貴重なものとして取り扱われる様を、全国の視聴者に見せつけていた。
有馬義男は、自宅でテレビを観ていた。
十月二十一日の午後のワイドショウに、初めて「T」が登場してきたときは、そのことを知らずに店番をしていた。夕方から混み始めた店先でお客のひとりが、おじさんのところの事件の犯人が捕まったらしいよと教えてくれて、驚いてスイッチをひねった。そうしていくつかのニュースをはしごしたり、あとからやってきたお客が補足説明を加えてくれたり、『日刊ジャパン』を持ってきて見せてくれたりして、ようやく事情が判ったのだった。
本当に最初の時点では、一瞬、息が止まりそうになるほどの強い期待を抱いた。犯人が捕まった? そのことを耳にしただけで、身体全体を武者震いのようなものが駆け上がった。だが、強《し》いて自分を冷静に保ちながらいろいろな話を聞き集めていって、報道される情報を見つめるうちに、身体のなかを駆け上がっていった武者震いが、冷たい落胆となってゆっくりと爪先あたりまで降りてくるのを感じるようになった。
それでも、やっぱりこのHBSの特番を観ていた。観ないわけにはいかなかった。この「T」という人物を疑うのは聞違いかもしれず、いや間違いの可能性の方がどうやら大きいらしいけれども、それでも「T」を見ないではいられなかった。彼の顔形や姿が、偏光ガラスで隔てられているのが悔しかった。これを取り去って、はっきりと生でこの人間を見れば、自分にはきっとこいつが鞠子を殺した犯人であるかどうかが判ると、義男は思っていた。理由などない。根拠など口では説明できない。ただ判るのだ。
なぜなら、きっと鞠子が教えてくれるはずだからだ。こいつだ、この男だと。天啓がひらめくように鮮明に、稲妻が一点をめがけて落ちるように的確に、義男の頭のなかに、鞠子の指先が見えるはずだからだ。
番組ではちょうど、話題の中心が田川のところへ戻っているところだった。コメンテーターのミステリー作家が、大川公園付近でレンタカーが目撃されたときの、彼の行動について質問している。目撃証言は間違っているのか、本当に公園には行っていないのか。
「行っていないと思うけど……」と、音声を変えられた声で田川は答えた。「だけど、二ヵ月近く前のことだから、よく覚えてないんですよ」
「そもそも、車は何のために借りたんですか」
「写真を撮りに行くためです」
「それなら、どこに何を撮りに行くつもりだったのか覚えてないかなあ。夕飯のおかずを覚えてないというのとは、ちょっと意味が違うと思うんだけど」
田川がしどろもどろし始めると、司会者が割り込んだ。
「しかし、記憶というのはあいまいなものですからね」
すかさず、もうひとりのコメンテーターが割り込む。「そうそう、だいいち、何をしに車を借りたって、それは個人の自由でしょう? 疑わしいところがあるわけじゃないのに、レンタカーの使い道まで追及するのはプライバシーの侵害ですよ。犯罪の捜査は大事なことですけどね、だからと言って個人の自由を軒並み侵害してもいいってことにはならないじゃないですか。何よりも優先されるべきは個人の自由なんですよ」
「それだと、犯罪捜査はほとんど不可能ですよ」
「そうじゃありません。そこが我が国の警察組織の前近代的なところですよ。すぐに捕まえてきてぎゅうぎゅう締め上げて白状させて、そういう冤罪事件が過去にもどれぐらいあったか判らないでしょう?」
いったい何をするための番組なのだろうと、義男は画面を見ながら考えた。何を言い争っているのだろう。これが何のためになるのだろう?
コメンテーターふたりの論争を中断して、コマーシャルが入った。鞠子と同じくらいの年齢の女性が登場する、インスタントコーヒーのコマーシャルだった。次は化粧品のコマーシャルだった。やはり若い女性が出てきた。画面のなかで、新しい口紅をつけたくちびるを尖らせている。次は女性の下着のコマーシャルだった。ブラジャーとパンティを身につけただけの若い女性が、配達されてきた宅配便を受け取るためにドアを開けるという内容だった。殺されて切断されてゴミ箱に捨てられた、首を絞められて公園の滑り台の上に置き去りにされた、白骨にされて土に混じって他人の家の軒先に放り出された、そういう若い女性の事件を扱うはずの番組を支えているコマーシャルは、生き生きとして美しい、若い女性の映像ばかりだった。そしてそれらの映像は、もしかしたら、どれかひとつ間違ったら、ある種の危険な想像力を持つある種の危険な人間の心に、強い駆動力を持たせるかもしれない作り方をされていた。
鞠子のことを、あの消え方を、あの死に様を、戻ってきた汚れた骨のあの軽かったことを、目で見て、手で触れて、声で聞いて知っている義男には、コマーシャルのなかで乱舞する若い女性たちのあでやかな姿が、その商品の宣伝のためのものではなく、別の目的のために存在するもののように思えてならなかった。わたしたちは玩具《おもちゃ》、綺麗な玩具、とっかえのきく玩具、捕らえても、殺しても、埋めても、好きなようにしてかまわないただの玩具──そう呼びかけているように思えてならなかった。
鞠子を殺したのは、ほかの誰でもない、この呼びかけに応えた人間ではなかったのか。呼びかけたのは鞠子ではなかったのに。右腕を切り落とされた名も知れぬ女性ではなかったのに。あの不運な女子高生ではなかったのに。呼びかけたのは別の何者かだったのに、差し出されたのは鞠子たちの存在だった。いつからこういうことが始まったのだ。誰がこんなことを始めたのだ。そして、誰がこんなことを止めさせてくれるのだろう?
少なくとも、テレビじゃない──テレビだけは違う。そう思って、義男はスイッチを切りかけた。だがそのとき、コマーシャル明けのスタジオが映った。様子が一変していた。
会議室にいた刑事が大声で報せにきて、武上は廊下へ飛び出した。篠崎がついてくる。ふたりで会議室へ足を踏み入れると、画面はちょうど、特設スタジオの電話機の前からメインスタジオの雛壇に切り替わったところだった。
「犯人から電話だって?」画面に目を据えたまま、武上は怒鳴るように訊いた。「どこだ、どの電話だ」
「今、雛壇の上の電話につながったところです」
「録画は?」
「撮ってます」篠崎が応じて、身を乗り出してテレビのボリュームをあげた。
画面のなかの司会役のアナウンサーが、ひきつったような顔で受話器を取り上げ、耳にあてる。「もしもし?」と呼びかける声が、下手な芝居みたいにわざとらしくはっきりしていた。
「もしもし」
スピーカーを通して、電話の主の声が響き渡った。切り返してきたのは、あのボイスチェンジャーのきいきい声だった。
「やっこさん、特設スタジオの情報募集電話の番号にかけてきたんです」武上の脇で刑事のひとりが言った。「コマーシャルのあいだのことだったみたいです。大騒ぎしてこっちへつないだんですよ」
画面の下には今も、白抜きで電話番号のテロップが出ている。ただいま、電話がたいへん混み合っています
「向坂《さきさか》さん、こんばんは」
きいきい声は、アナウンサーの名を呼んで挨拶をした。
「番組、ずっと観てましたよ。興味深いね」
アナウンサーは完全に気を呑まれてしまっていた。受話器を支える手が震えている。
「あのですね、あなたはどなたですか?」
「僕? 僕は名もない人間ですよ」
テープを巻き戻しては、武上はこの口調を聞いてきた。奴だ、間違いない。
アナウンサーは大きく息を吸い込むと、思い切ったように言った。「先ほど、特設スタジオの電話にかけていただいたときには、あなたは、自分はこの事件の犯人だ、話したいことがあるから電話したとおっしゃったそうですが?」
きいきい声は、陽気な感じで笑った。「そうそう、そう言いました。なかなか信じてもらえなかったけど」
「あなたがおっしゃったのは本当のことですか?」
「嘘なんかついてどうなります?」
スタジオがどよめいた。
「では、あなたは犯人なんですね?」
「そう思ってもらって結構ですよ。だけど、僕は無名だ」また笑って、「そのスタジオに生出演してるのに、どういうわけか姿を隠してるTさんに比べたら、よっぽど無名ですよ」
カメラがTをアップで映した。偏光ガラスの向こうの人影は、雛壇の上のコメンテーターたちと同じように、電話の受話器を握るアナウンサーの方へと身体を乗り出している。
「あなたは、何をお話しになりたくて電話してくださったんですか」
「僕に敬語なんか使っていいんですか? 今の僕は女性の敵、いや、日本国民の敵ですよ」
「しかし我々には、あなたが本当の犯人であるかどうか判りません」
「それじゃ、警察と同じだよね。あなたがたがさんざんバカにしている警察とさ」
面面の隅で、アシスタントディレクターが大きな紙に書いたものをアナウンサーに向かってかざしている。誰かが画面の端を走って横切る。カメラがぶれる。
「Tさんと話をしたくて、電話したんです」と、きいきい声は続けた。「ちょっと相談がしたくてね。彼を電話口に出してくださいよ」
アナウンサーは目を泳がせた。懸命にフロアを見回して、スタッフからの指示を探している。うろたえる彼を抑えるように、コメンテーターの評論家が大声を出した。
「あのね、あなたの声はスタジオじゅうに聞こえてますよ。それにあなた、どうせテレビを観ながら電話してるんでしょう? だったら、そのままTさんに向かって話をすればいいじゃないんですか」
偏光ガラスの後ろのTが、身構えるように座り直した。
「駄目ですよ、助け舟を出しちゃ」と、きいきい声はからかうように言った。「僕はTさんとやらを、その衝立の陰から引っぱり出したいんだ。自分では何もできないくせに、人の尻馬に乗っかって有名になろうとするような奴はどんな顔をしてるのか、全国のお茶の間の皆さんにお見せするためにね」
「こいつ、何を始めるつもりなんでしょう?」と、篠崎が呟いた。
取引だと、武上は瞬時に直感した。有馬義男にし向けたのと同じ事を、奴はまたやろうとしている──
「交換条件を出したいんだ」と、きいきい声は言った。「お偉いTさんにね」
武上は腕を組むと、目を細めてテレビ画面を見つめた。今しがたきいきい声の発した台詞が、脳のいちばん深い底にまでゆっくりと沈んでゆき、そこで横たわり、場所を確保するのを感じていた。
自分では何もできないくせに、人の尻馬に乗っかって有名になろうとするような奴はどんな顔をしてるのか──
対象を揶揄《 や ゆ 》し、軽蔑しているこの台詞は、普通はこういう状況下で発せられる種類のものではないはずだ。たとえば、学生時代の友達が有名人になったことを吹聴しつつ、だけど実は俺の方があいつよりずっと凄いんだと自慢するとか、地元からオリンピックの金メダリストが出たときに、凱旋パレード車に用もないのに一緒に乗り込んで手を振るような輩に向かって投げかけられる台詞ではないか。成し遂げられたひとつの「偉業」──そこまでいかなくても、少なくとも「良いこと」の、そのおこぼれにあずかろうと、勝手に、その権利もないのに割り込んでくる──そういう人間に対して吐き捨てられる台詞ではないのか。
どうやらこのきいきい声の主は、一連の殺人を「良いこと」「凄いこと」「凡人にはできないこと」として自慢に思っているらしい。では、この殺人はこの犯人にとって、積極的な自己主張の手段なのだろうか。山男たちが世界の高峰に挑むように? スポーツマンが世界記録を目指すように? それだから、自分の「功績」を勝手に転用しようとする人間が現れると、放ってはおけずに反撃にかかるのか。
「Tさん、聞いてるのかい? 俺はあんたに話をしてるんだよ」
きいきい声に呼びかけられて、偏光ガラスの向こう側の田川一義は、明らかにそわそわしている。カメラが彼の肩から下をアップでとらえる。貧乏揺すりがいっそう激しくなって、まるで画面がぶれているかのようにさえ見える。
「あなたは何をおっしゃりたいのですか?」アナウンサーが、裏がえりそうな声を必死で抑えて、訊いた。「交換条件というのは何ですか」
「とっても簡単なことさ」と、きいきい声は言った。「Tさんに、テレビ画面に登場して欲しいんだ。本名も言って欲しい」
顔をしかめて聞いていたコメンテーターのミステリー作家が割り込んだ。
「Tさんがその条件を呑んだら、あなたもマスコミに登場してくれるんですか? 名前を教えてくれる?」
きいきい声はケラケラ笑った。ボイスチェンジャーを通ってくる笑い声は、古いSF映画の敵役の気の触れた宇宙人のそれのように、現実離れした音色を持っていた。
「あんたの書くご都合主義のつまんない小説のなかには、そういう犯人が出て来るんだろうけど、僕はそれほどお間抜けじゃないんだよな」
バツの悪いことに、スタジオで笑い声が起こった。ミステリー作家は真面目な表情のまま、きいきい声の言葉に動揺したような様子を見せなかったが、画面の端に立っていたアシスタントの若い女性が笑っているのを見て、きっと目尻をつり上げた。
「交換条件というのは何なんでしょう。Tさんがこの場で素顔を見せたら、代わりにあなたは何を提供するというんですか?」
アナウンサーは、マイクに食いつかんばかりにして問いかけた。かかった大魚に振り回される釣り人を、武上は連想した。この場の主導権は、明らかにきいきい声の側にあった。電話一本で電波を乗っ取り、さぞかし気分がいいことだろう。
「HBSは逆探知を──」
「してないでしょうし、できないでしょう。それに、どうせまた携帯電話ですよ」
首を振って篠崎がそう言ったとき、画面の下に新しいテロップが出た。「現在、電話とファクスの受付を一時停止しております。ご了承ください」
しかし特設スタジオでは電話が鳴り続けている。今までよりうるさいくらいだ。
「僕の提供するものは、とてもシンプルさ」と、きいきい声が続けた。「とてもシンプルだけど、大事なものさ」
「何を提供してくれるんです?」
「大川公園に捨てた右腕の、残りの部分だよ」
ここで、いきなりコマーシャルが入った。
「何だよ、これ?」
前畑昭二がテレビのリモコンを放り出した。
「いちばん肝心なとこじゃないか! なんでコマーシャルなんか入るんだよ!」
滋子は昭二の隣に座り、彼と同じように画面に釘付けになっていたのだが、ほっと息を吐いて煙草に手を伸ばした。
「しょうがないんじゃない。どのコマーシャルをどの番組のどこで何分何秒入れるかって段取りは、全部コンピュータで仕切られてるんだろうから、現場で急に変えることはできないんでしょう」
「これで犯人が気を悪くして電話切っちまったら、HBSはどうやって責任とるつもりなんだろう」
HBSには犯人逮捕の責任はなく、今の場合だって一方的に犯人からの接触を受けただけなのだし、取材源を秘匿《 ひ とく》する権利から言えば、今日のこの番組の出来事について警察に報告したり詳細を報せたりする義務もない。だが、昭二の言葉はいいところをついていると滋子は思った。このきいきい声の野郎は、自分の発言──しかも、彼としては非常に重大な交換条件を提示している発言を途中で遮られたことに、腹を立てるかもしれない。そういう奴だ。
長すぎるコマーシャルが終わると、次には「ここまでの放送は──」というスポンサーの紹介が始まった。ちょうどその時間帯だった。それが終わると「ここからの放送は──」と、別のスポンサー紹介だ。本当に、テレビ局とは融通のきかないものである。
それが終わって、ようやく画面が切り替わった。アナウンサーが蒼白になっていた。
「番組をご覧の視聴者の皆様に、お詫び申し上げなければなりません」
悲痛なアナウンサーの声を聞きながら、武上は頭をぼりぼりとかきむしった。会議室の刑事たちも舌打ちをしたりうめき声をあげたりした。
きいきい声の電話は切られてしまったのだった。アナウンサーの説明によると、コマーシャルが始まるとすぐに、
「あんたたちは僕の話を真面目に聞く気がないんだな」と怒鳴るなり、通話が途絶えたのだという。子供っぽいヒステリー反応だが、この犯人ならありそうなことだ。
「やってくれたもんだ」と、武上は言った。
「せめて電話ぐらいちゃんと受けられんものかね」
「もうかかってこないでしょうか」
「今夜は無理じゃないか」
「せっかく遺体を取り返せたかもしれないのに」
いや、この場合は遺体を「取り返す」のではない。恵んで返してもらうのだ──そう思ったけれど、わざわざ口には出さなかった。釣り竿の先の大魚に振り回されて足元がよろよろしているのは、HBSだけではないのである。
テレビでは、通話が途絶えたときの様子をビデオ録画したものを繰り返し流している。合間に、カメラがスタジオに切り替わると、特設スタジオの電話が、そろって気が触れてしまったかのような鳴り方をしているのが聞こえる。今度は視聴者からの怒りの電話だろう。
偏光ガラスに守られた田川の影は、やや落ち着きを取り戻したようだ。犯人からの通話が切れて、ほっとしているのは田川ひとりだけだろう。
残念だった。犯人の交換条件に田川がどう反応するか、ぜひ見てみたかった。それは犯人の情報を集めることにもなり、田川の情報を集めることにもなる。そして、田川とこの犯人がどういう関係なのか──まったくの他人なのか、それともある種の共犯関係にあるのか、他でつながりはあるがこの事件に関しては何もないのか、見極める手がかりもつかめたかもしれなかった。
武上は会議室を出て、自分の机に戻りかけた。ところが廊下を半分も行かないうちに、篠崎が走って呼びに来た。
「武上さん、またかかってきました!」
急いでとって返すと、アナウンサーが衣服の襟元にとめたマイクをつかむようにして話をしている最中だった。
きいきい声が聞こえてきた。「さっきみたいな邪魔が入らないと約束してくれたら、話を続けてもいいよ」
アナウンサーは、コマーシャルは入れないと約束をした。現場で簡単にそんなことができるかどうか武上には判らないが、今度通話が途中で切れたなら、この番組の担当者たちは間違いなく首が飛ぶだろうから、必死で努力するに違いない。
「さっきも言ったけど、交換条件の内容はこうだ。Tさんがテレビの前に登場すること。そしたら、僕はあの右腕の持ち主の遺体を返してあげるよ」
「必ず、その約束を守ってくださいますね?」
「守りますよ。こっちが言い出したことだから」
「Tさん、こういうことなのですが、いかがでしょう」アナウンサーは偏光ガラスの方を振り向いた。
待ってましたというように、コメンテーターたちが噛みついた。
「それはあんまりじゃないの? Tさんひとりに責任を負わせることになるんですよ」
「Tさんの権利も守らなければ──」
きいきい声が割り込んだ。「権利なんてものより、大事なものがあるんじゃないかな」
「何だっていうのよ?」
評論家はもう喧嘩腰である。目が闘争的に光っている。
「あなた、自分のことをずいぶん偉いと思ってるようだけどね、コソコソ隠れて人殺しをして、しかもか弱い女性ばっかりを狙ってね、こうやって電話をかけてきてしゃべり散らすなんて、最低のクズ野郎のやることですよ。判ってるの? あんたは史上最低の卑怯者よ」
「それじゃ、か弱い女性じゃなくて、一人前の男を狙って殺せばいいわけかな」と、きいきい声は言った。「そういうことを僕に勧めてくれるわけですか」
武上は思い出した。以前に、有馬義男との電話の会話のなかでも、こいつは同じようなことを言っていなかったか──いや、有馬義男ではなく、彼の店で働いている店員の男との会話だったろうか。報告書で読んだ記憶がある。
──おっさん、また誰か、今度はいい歳の男が死んだら、それはおっさんのせいだよ。
テレビの評論家は負けていない。「あんたそう言ってあたしを脅かしてるつもりなんだろうけど、そうは問屋がおろさないわよ」
「脅してなんかいませんよ。そもそも僕は、あなたみたいな自称評論家を相手にするつもりもないんだ」
「なんですって!」
「あなたは何を評論してるんです? どんな資格があって、何を偉そうにふんぞり返って、世の中のことをああだこうだと論評できるのかな? 教えてもらいたいね」
ふたりのやりとりを聞いていて、唐突に、ふと寒気が走るような感覚と共に、武上は思いついた。こいつ、人が変わっていないか?
こねている理屈に変化はない。事件関係者やマスコミに対する斜《はす》に構えた姿勢も同じだ。そして同じきいきい声だ。言葉遣いも変わっちゃいない。
だがしかし、何かが違う。微妙だけれど、決定的に違うような気がする。コマーシャルに邪魔されたことで怒って電話を切った人物と、今ここで評論家とやりあっている人物が同一人物だとは、武上には思えないのだ。
「別人じゃないか?」と、声に出して言ってみた。「違ってないか? 話し手が変わってないか?」
「犯人がですか?」篠崎がきょとんとして問い返した。「そうかな。そんな感じはしないけど」
「ガミさん、思い過ごしだよ」と、刑事のひとりも言った。「こんな屁理屈こねる奴がほかにもいるわけないでしょうが」
そうだろうか。俺の勘違いか。
この事件に関して、犯人単独犯説とグループ説は、未だに並列状態にある。捜査会議でも決定的なコンセンサスは得られていない。この種の明らかに性的な動機をはらんだ連続誘拐が、複数犯の共同作業として行われる例が、国内では非常に少ない──殺人にまで発展している例としては、事実上皆無である──が故に、単独犯説が身体ひとつ分くらいリードしている状況ではあるが、しかし、決め手はないのだ。犯人の機動力を考えると、複数犯の可能性の方が高いという意見もある。事件の経過上重要な時点での田川のアリバイが立証されているにも関わらず、彼に対する容疑が薄くはなっても皆無にはならない理由もここにある。
犯人はふたり組か?
「こんな話をしてたってしょうがないよね」と、きいきい声が言っている。「それより問題はTさんなんだ。彼の意見を聞いてくださいよ。僕の出した交換条件に乗るのか乗らないのか、どっちなのかな」
偏光ガラスの向こう側の田川は、激しく膝を揺らしている。隠れようのないスタジオのなかで、偏光ガラスだけを盾に、貧乏揺すりを繰り返しているこの男は、ひどく滑稽なさらしものと化していた。スタジオ内の誰も、田川の味方ではなかった。
しかし、彼は動こうとしなかった。アナウンサーが呼びかけても、返事もかえってはこなかった。彼の衣服に留め付けられているマイクが、彼の激しい息づかい、動揺の様子を示す衣擦れの音を拾ってはくれないかと、武上は耳を澄ませた。
「英雄になるチャンスなのに」と、きいきい声は言った。「それにねTさん、君はマスコミを甘く見てるようだから、忠告してあげるよ。今の君は、前科があるというだけで、犯人を捕まえることができずに焦っている警察から不当な疑いをかけられた犠牲者の役回りをもらってるけどさ、そんなの、今だけだよ。君は純粋なスケープゴートじゃないんだ。疑われるべくして疑われてさ、世間もそのことを知ってるんだ。テレビ局だって、用が済んだら、君を犠牲者の表彰台に載せるためにかけた梯子《はし ご 》をはずして、君を見捨てるんだよ」
武上は、不本意ながら感心した。犯人の指摘は正しい。まともな頭の働きを持っている人間なら誰にでもわかるが、なかなか言葉にはしにくい事柄だ。
「僕の与えるチャンスをつかんで、せめて申し訳が立つように、一部分でも英雄になっておいた方がいいよ」
田川の歪んだシルエットが動揺した。彼は立ち上がろうとしているようだった。武上は身を乗り出した。
「そうそう、それでいいんだ」と、きいきい声は喝采した。
「バカだな、本気で顔を出すつもりなんだ」と篠崎が声をあげた。「それがどういうことを意味するのか、まるで判ってないんですよ」
田川は椅子から腰を浮かせた。アナウンサーがあわてて止める。
「Tさん、本当によろしいんですか?」
田川はまた座ってしまう。それでも武上には、彼がきいきい声の言った「一部分でも英雄になった方が」という言葉に引きずられつつあることが手に取るように判った。
犯罪者に限らず、ある種の事件を起こし易いタイプの人間をして事件の方向へ向かわしめるのは、激情でも我執でも金銭欲でもない。英雄願望だ。それは、武上が長年の奉職を通じてつかんだ真実だった。酔っぱらって喧嘩の挙げ句他人を殴り殺してしまうのも、銃器を手に強盗に入った先で必要もないのに人質を撃ち殺してしまうのも、クラクションを鳴らされたというだけで後続車の運転手を刺殺してしまうのも、車両内での喫煙をとがめられたというだけで、相手をホームに引きずり降ろし線路に突き落としてしまうのも、すべては英雄願望のためだ。自分は英雄だ、ほかの連中とは違う、俺は英雄なのだ、きっとそうなのだ、その俺様に向かって注意をするとは何事だ、盾つくのは生意気だ──
地べたを這いまわるくだらない人間たちよ、この俺という英雄の前に跪《ひざまず》け。それが彼らの本音なのだ。彼らほど、「英雄」という言葉に魅せられ易く、他人の上に君臨し人びとから賞賛されたいという欲望の強い人種はいない。今、田川の演じている「不当な迫害を受けた犠牲者」も、「殉教者」的側面の強い英雄であることに変わりはないのである。
だから、田川はきっと立ち上がる。武上はテレビのなかの偏光ガラスで歪んだ影に向かって目を凝らした。
「君の行動ひとつに、あの可哀想な右腕の持ち主の運命がかかってるんだぜ」と、きいきい声は言った。「彼女が家に帰れるかどうかということが、君の行動にかかっているんだよ、Tさん」
落ち着いた話し方だった。激発しているようなところ、今の状況に、きいきい声自身が興奮してしまっているようなところは感じられなかった。武上はまた、先ほどよりも遥かに強く、疑惑を感じた。人が入れ替わっていないか? こいつは、最初に電話をかけてきた人物、今まで有馬義男やテレビ局や坂崎引っ越しセンターに電話をかけてきた人物とは別人ではないか?
今までの奴は、余裕たっぷりの様子をつくろいながらも、いつだって自分がいちばん熱くなってしまっていた。確かに頭は悪くないが、ちょっとしたことですぐカッとなり、言葉遣いも乱れた。有馬義男に、「私は惨めで哀れで汚いじじいですと言え」と強要したときなど、ほとんどヒステリー状態だった。
しかし、このきいきい声の主は違う。今までの奴よりもずっと──そう、ずっと「大人」だ。
「今、君ができることで、もっとも正しいことは、僕の交換条件を受け入れることだと思うんだけどな」きいきい声は、辛抱強い説得の調子で言った。「僕の言葉に従わなかったら、君はきっと後悔するよ」
偏光ガラスの陰の田川が、座ったまま顔をあげた──ように見えた。マイクに向かって、彼は訊いた。「本当に、俺がカメラの前に出ていったら、あの右腕の女の人の遣体を返してくれるのか?」
スタジオのなかが静まり返った。相変わらず、電話だけがうるさく鳴り響いている。しかし出演者は皆無言で、息を呑んだようになって田川の方を見つめている。
「ああ、もちろん」と、きいきい声が答えた。
「約束は守るよ」
そのとき、けたたましかった特設スタジオの電話のベルが、一斉に止まった。
沈黙のなか、ぎくしゃくと立ち上がると、胸元に留め付けられているマイクを気にしながら、田川一義は、偏光ガラスの覆いの内側から足を踏み出し、カメラの前に、全国のお茶の間の視聴者の前に、その生身の姿を現した。
「こいつ……」
飲みかけのコーヒーのマグカップを口元で止めて、前畑昭二が呆気にとられたような声を出した。
「こいつなの? こんな奴?」
現れ出た「Tさん」は、自ら「田川一義です」と名乗った。「たがわかずよし」の「たが」のところで、プライバシーを守るための音声の処理も止まり、「わかずよし」のところから彼の肉声になった。思いの外さわやかな、いい声だった。
ひょろりとして痩せぎすの、骨張った体格の男だった。シャツにジーンズというスタイルで、髪も整えてないからだろうけれど、二十五歳という実年齢より、四、五歳も若く見えた。
「責任感のなさそうな顔してるな」と、昭二は続けた。「まあ、こういう顔の奴、近頃じゃそこらじゅうにいるけどさ。な?」
滋子はリビングのソファで昭二の隣に座り、足を組んで、火の点《つ》いた煙草を指のあいだにはさんだまま、じっとテレビのなかの田川の顔を見つめていた。昭二の同意を求める問いかけには答えず、無意識のうちに歯を食いしばっていた。
台所のテーブルでは、今しがたアルバイトから帰ってきて夕食をとり始めたばかりの塚田真一が、箸と茶碗を持った手を宙に浮かせたままテレビを見つめている。
「ホントに取引に乗ったんだ」と、彼は呟いた。「ホントに出てきちゃったんだ」
「警察はどうするんだろうな? このテレビ、観てるのかね?」
滋子が怖い顔をして黙っているので、昭二は真一に話しかけた。
「どうするって、この人がこうして出演してるところに真犯人から電話がかかってきたんだから、この人は犯人じゃないんでしょう」
「最初からできレースってこともあるぜ」
昭二の声がうるさいので、滋子はテレビのリモコンを取り上げてボリュームをあげた。
きいきい声は何も言わない。田川一義も、うわずったような声で自己紹介をしたきりで、あとは言葉が続かないようだ。アナウンサーが仕切りに入った。
「もしもし、まだ電話はつながっていますか?」きいきい声に呼びかけた。「もしもし?」
「ええ、まだつながってますよ」と、声が返ってきた。
「ご覧のとおり、田川さんは約束を果たされましたよ」
「そうですね。ずいぶん若い人なんだね」
滋子は煙草の煙に目を細めた。ずいぶん若い人なんだね──「きいきい声」だって、かなり若い男だろうと推定されているのに。
「田川さん、ありがとう」と、きいきい声は言った。「だけど、名前だけじゃ自己紹介が足らないな」
「どういうことですか」アナウンサーが訊いた。田川は緊張して突っ立っている。
「田川さん、前科があるんでしょう。いつどこでどんなことをやったのか、詳しく話してくれない? 今までずっと、あれは全部ぬれぎぬだって言ってたでしょう。だったら、話したってさしつかえないと思うけど」
「しかしですね、それは──」
「本人が言いにくいなら、あなたが言ってくれてもいいよ」きいきい声は笑った。「要するに、視聴者の皆さんにわかりやすく説明してくれれば、いいんだからさ」
「それでは約束が違いませんか? あなたはさっき、田川さんがカメラの前に登場すればいいんだとおっしゃったでしょう?」
「やっこさんがいつどこで何をやったかという説明なら、喜んでしてやる」
「お茶の間の視聴者の皆さんも喜ぶだろうな」
会議室の刑事たちが、口々に毒づいたり揶揄《 や ゆ 》したりする。武上は顎に手を当てて画面に見入りながら、顔をしかめていた。
電話をかけてきた初《しょ》っ端《ぱな》には、きいきい声は怒っていた。人の尻馬に乗って──という言葉は、語法としては正確ではないが、少なくとも彼の怒りの性質とその原因がどこにあるかということをきちんと表していた。
しかし今、テレビカメラの前に立つ田川をいびっている「きいきい声」は、怒っているようには感じられない。ただ意地悪で「前科についてしゃべれ」と要求しているわけではないように感じられる。何か目的があるのだろうか。
スタジオではまだアナウンサーときいきい声が押し問答を繰り返している。田川はだんだん青ざめる。確かに今までの番組ではしきりと前科について「冤罪だ、真犯人はほかにいる」と弁解していたはずなのに、ここでは口を開こうとはしない。過去の番組と現在までのあいだに、誰か然るべき人物に──たとえば弁護士とか──忠告されたのだろうか。余計なことをしゃべると墓穴を掘りますよ、と。
ありそうなことだと、武上は内心うなずいた。そのとき、会議室のドアが開いて、誰かが入ってきた。テレビの前に集まっている人垣のあいだから手をさしのべて、武上の肩を叩いた。
「ガミさん」
振り向くと、秋津信吾だった。緊張した目つきで、太い眉毛が真っ直ぐになっている。
「ちょっと来てください。電話が入ってるんです」
武上は急いで会議室を出た。秋津は大股で廊下を引き返し、本部のある訓辞場のドアを肩で押して開けた。
「どんな電話だい?」
「田川についての情報なんです。大川公園の西側に、ヴェラ大川公園ていう一棟建てのマンションがあるんですけどね、そこの住人で」
ふたりが訓辞場に入っていくと、端の方に据えてある電話受付用の机の島のところに数人が集まり、その中央で四係の井上《いのうえ》刑事が電話に出ていた。すぐ脇に神崎警部が立っており、武上を見ると素早くうなずいてよこした。
「桐野《きり の 》容子《よう こ 》という三十歳の主婦です」モニター用のヘッドフォンを差し出しながら、秋津が言った。「うちの子供が、車に乗った若い男に誘拐されかけたことがある、その男が田川だ、間違いないと言ってるんですよ」
有馬義男は、事務机の電話機の前で迷っていた。
電話機の脇には、この店を訪れた刑事たちが渡してくれた名刺をはさんだホルダーが広げてある。豆腐組合の委員たち、大豆の卸問屋の担当者、保健所の職員、信用金庫の渉外担当者たちの名刺に混じって、合同捜査本部の刑事たちの名刺は、丸い石ころのなかの金属片のように尖った異彩を放っていた。そのなかの一枚、武上悦郎の名刺には、彼のデスクに繋がる直通電話の番号がボールペンで走り書きしてあった。何かあったら、いつでもいいから遠慮なく連絡してくれと言って、渡してくれたものだ。
すぐ隣のアパートには、今も「有馬班」の刑事たちが頑張ってくれている。そちらに駆けつけてもいいのだが、そこの刑事たちは、義男の目には少し若すぎるように見え、こんな大事なことを口に出して告げることができるほど、気の置けない存在には感じられないのだ。武上ならば、彼らよりは話しやすい。武上とて義男から見れば息子のような年代だが、それでもまだ気安い感じがする。それはあの、独特の武張《 ふ ば 》ったような彼の顔つきが生む雰囲気のせいだろう。
さっきから、人が代わっている──義男はそれを告げたいのだった。今、田川一義をはさんでアナウンサーと会話をしている「きいきい声」は、過去数回にわたって義男と会話し、義男をからかい、義男の心を手の中で引き裂くようなことをしてきた「きいきい声」の主とは別人だ。どこがどう違う、何が根拠だと問いつめられても具体的なことは説明できないが、それでも感覚で「違う」と判る。
判っている。人が入れ替わったのだ。あのコマーシャルが入り、あいつが怒って一度電話を切った後、またかけ直してきた。あの時に代わったのだ。間違いない。今の「きいきい声」は別人だ。
しかし、信じてもらえるだろうか。気のせいですよと一蹴されてはしまわないか。ただの思いこみですよ、有馬さん、我々はそんなふうには感じなかった、と。もしも義男の直感が真実ならば、犯人はふたりいる、少なくともふたり組だということになるのだ。これは捜査本部にとっても大きな情報であり、それによって今後の対処の方法が全然違ってくるかもしれない。
電話をかけようか。話そうか。やめておこうか──
モニターを通して聞く女の声は震えてうわずっていた。井上がしきりと宥めながら話を聞き出そうとするが、桐野容子の半泣きの声は、ともすると同じことをぐるぐると繰り返して訴えかけてきた。
「いいですね、奥さん、落ち着いてください。奥さんのおっしゃることを整理してみますから、間違っていないかどうか聞いていてください」と、井上が言った。「奥さんのお嬢さん、長女の舞子《まい こ 》ちゃんですね、小学校四年生、この舞子ちゃんが、今年の六月の初め頃、友達と大川公園に遊びに行って、その帰りに、若い男に声をかけられたと、まず最初はそういうことですね?」
「ええ、そうですそうです」桐野容子は忙《せわ》しく言った。「舞子は自転車の練習に行ったんです。あの子だけまだ乗れなくて。補助輪があれば乗れるんですけど。それでお友達が教えてくれてたんですけど、喧嘩しちゃって先に帰っちゃって、あの子ひとりで夕方五時過ぎまで公園にいたんです。五時前には必ず帰ってきなさいって言ってるのに」
「奥さん、判りました、落ち着いて。それで、舞子ちゃんはひとりで家に帰ろうとしたときに声をかけられたんですね?」
自転車を押していたら、重そうだから一緒に押してあげようかと言って、若い男が近づいてきたのだという。
「舞子ちゃんは、知らない人と話してはいけないとお母さんに言われていたので、急いで逃げるようにして家に帰ったと、そういうことですね?」
「そうです。だけどその男の人が、あとを尾《つ》けてきたっていうんです。本当に走って逃げ帰ってきたんです」
「六月の何日のことか覚えていますか?」
「日にちまではちょっと……」
「なにしろ六月の初めのことなんですね? それで二度目のときはどうでしたか?」
「それから二、三日してからだと思うんですけど、舞子がまた自転車の練習をしたいって言いまして、でもわたし心配でしたから、一緒について行きました。下の子の寛子《ひろ こ 》がまだ二歳なもんで、だっこして連れて行って、それで夕方の──そのときはやっぱり五時半くらいでしたか、そろそろ帰ろうって門の方に歩いていくときに、寛子がおしっこって言い出して、わたしトイレに連れて行きました。公園の出口はもうすぐそこで、舞子にはそこで待ってるように言ったんですけど、トイレから出てきたら、自転車だけ置いてあって舞子がいなくなってたんです」
桐野容子は、大声で娘の名前を呼んだ。広い園内に人気《ひと け 》は少なく、歩路も木立も静まり返っていた。
「わたし怖くなって、何度も舞子を呼びながら探しました。そしたら、公園の出口の方から舞子がすっ飛んできたんです。真っ青な顔をして泣いてました。わたしにかじりついてきて、ヘンな人に車に乗せられそうになったっていうんです。このあいだのヘンな人だって。舞子の顔を見たら、右のまぶたのところが切れて血が出ていて、どうしたんだって聞いたら、わあわあ泣きながら、手を引っ張られたんで振り払って逃げようとしたら、顔を叩かれたんだって。その男が、手の甲でもって舞子の顔を叩いたんですよ。指輪をしてたもんだから、それで顔が切れたって。舞子、銀色の指輪だったって覚えてました」
恐ろしくなって交番に届けようかと考えたが、とりあえず自宅に帰り、事情を話すと、おまえがぼんやりしているからだと夫に叱られ、姑にも、みっともないから他所には言うなと怒られた。子供が痴漢に狙われるなど、母親がだらしのない証拠だというのだそうである。
「仕方がないからずっと我慢してたんですけど、そのあと舞子は外に遊びに行かれなくなってしまいまして、わたしも怖くて、学校の帰りも迎えに行ったりして、気をつけるようにはしてたんですけど、夜もよく眠れなくなってしまって。だけど夫も義母もわたしのことを叱るばっかりで、何も考えてくれないんです」
その後は公園に出かけなかったので、ヘンな男とは遭遇しなかった。しかし、七月に入って、一度ほど無言電話がかかり、また近所の人に、お宅の窓を若い男がのぞきこんでいたという注意を受けたりもして、母子はほとんどノイローゼになってしまった。
「うちはマンションの一階なんで、洗濯物とか干すときも気をつけてたんですけど、それからは一切ベランダにも出られないようになってしまって」
「そういう状態で、今までずっと過ごしてこられたわけですか?」と、井上が訊く。
「ええ。夏休みに入った頃から、舞子はやっとお友達と一緒なら外に出て遊ぶようになりましたけど、ひとりではどこにも行きません。わたしも出しません」
「判りました。それで奥さん、先ほどテレビをご覧になっていて、舞子ちゃんを連れ去ろうとしたそのヘンな男が、田川一義だと判ったわけですか?」
「気がついたのは舞子なんです」
「彼の顔を見て?」
「いえ、最初は指輪です。あの人、銀色のごつい指輪をはめてるでしょう? あれを見て舞子が、お母さんこの人だって泣き出して」
ヘッドフォンを押さえながら、武上は井上に向かってうなずいた。
「そのあと、あの人が顔を見せたでしょう? 顔を見て、もう聞違いないってことになって。舞子は怖がって、わたしにしがみついて離れませんでした」
「今、舞子ちゃんもそこにいるんですか?」
「いえ、今はわたしひとりです。すぐ前の公衆電話からかけてます。家から電話すると、義母に切られてしまいますから」
「お話はよく判りました、奥さん」
神崎警部がしきりとうなずいて促している。それを目で確認して、井上はてきぱきと言った。
「大きな情報をありがとうございます。よく連絡してくれましたね。もう心配はないですよ。これから我々がご自宅に伺います。奥さんのお話をきちんと調書にして、田川の写真や車の写真などを見ていただきたいんですが、よろしいですね?」
「だけどあの……わたし夫にも義母にも叱られます」
「我々からきちんとご説明して、誤解を解きましょう。ヘンな男に狙われたのは、舞子ちゃんや奥さんの責任ではありません。もちろん今後は、奥さんやお子さんたちが安心して暮らせるように手配をします。よろしいですね? 電話を切ったら、まっすぐご自宅に戻って待っていてください。今電話に出ている私は、警視庁の井上|勲《いさお》という者です。我々は何人かで伺いますが、そのなかに私もおります。すぐに伺いますから、お待ちになっていてください」
「あの、パトカーで来るんですか? それだとあの……」
「パトカーではなく、静かに伺います。ご安心ください」
井上が受話器を置くと同時に、武上もヘッドフォンをはずした、
「田川の写真と、今の番組のビデオを用意しましょう」立ち上がりながら、神崎警部に言った。「それと六月に奴が借り出したレンタカーの写真も」
「やっこさんがレンタカーで何をやってたか判ったってわけだ」秋津が言って、悔しそうに拳を打ちあわせた。「しかし、何だって今まで出てこなかったんだろう? ヴェラ大川公園には何度も通ってるんですよ。過去の聞き込みじゃ、こんな話はかけらも出てこなかったんです」
「よほど姑さんが怖いんだろう」
事件への関わり合いを恐れ、世間体をはばかって、何を訊かれても口をつぐんでしまう人びとは、けっして少なくない。特に今回のように、姑から。子供が痴漢に狙われるのは母親がだらしないからだなどという無茶苦茶な論旨の攻撃を受けては、気の弱い嫁はひとたまりもあるまい。
本部のこの机の上にも小さな液晶テレビが置いてあり、アンテナを伸ばして、さっきまで武上が観ていた特番にチャンネルがあわせてあった。井上が電話に出ているあいだは音を消してあったのだが、今誰かがスイッチを戻し、音声がよみがえった。
きいきい声は、すでに電話を切っていた。スタジオでは出演者のトークが始まっており、田川はもう偏光ガラスの向こう側には戻らず、アナウンサーの隣に席を与えられて、顔を紅潮させて座っていた。特設スタジオの電話のベルは鳴り乱れ、番組アシスタントの女性が視聴者から送られてきたファクスを束にして司会者席に届ける。
「この変態野郎」
秋津がテレビのなかの田川一義に毒づいた。
「貴様の首根っこを押さえてやる」
武上がテレビ画面から目をそらすと、神崎警部と視線があった。そのとき、自分の心のなかに漂い始めている疑念とも疑惑とも推測ともつかないものが、警部の頭のなかにも浮かんでいることを、武上は見て取った。
総毛立つような推論だった。すぐには筋道立てて口に出すことがはばかられるような考えだった。
──「きいきい声」は、大川公園の近くで田川が何をやっていたか、知っていたのではないか?
知っていたから、田川に、テレビで素顔をさらすことを要求したのではないか。被害者が──それは桐野舞子だけに限らないかもしれない──田川の顔を見分け、通報してきてくれることを望んで、その可能性に賭けて、田川の顔がテレビ電波に乗るように仕組んだのではないか?
にわかに活気づいた捜査本部の喧噪《けんそう》に紛れてしまうような小さな声で、武上は自らの考えを話し、問うた。
「思い過ごしでしょうか」
「まだ判らん」と、神崎警部は首を振った。
「即断は危険だ。偶然ということもある」
「ガミさん、いちばん新しい地図をください!」
出かける支度をして、秋津が大声で呼びかけてきた。今の通話の録音テープをデッキからはずし、武上は机から離れた。
「田川一義の自宅の家宅捜索令状をとるように手配してくれ」
神崎警部は、口の端をわずかに曲げて笑みを浮かべた。
「本人には任意同行を求めよう。英雄殿だ。今さら逃げも隠れもするまいよ」
HBSの特別番組が終わったあとも、有馬義男はずっと電話の近くに座り込み、考えていた。名刺のホルダーもまだ広げたままで、いつでも電話がかけられるようになっている。しかし、決心がつかなかった。
番組終了直後に、木田が自宅から電話をかけてきて、親父さんテレビ観てましたかと問うた。
「妙な茶番劇みたいなもんだったが、ずっと観てたよ」
「大丈夫ですか」
「べつに、大丈夫だよ」
「俺は頭にきちまって、夕飯がまずくって」
木田はだいぶ酔っているようだった。
「孝さんにも心配かけて、申し訳ないね」
「親父さんが謝ることじゃないですよ。なんで謝るんですか」
からむような口調になってきた。
「駄目ですよ親父さん、親父さんは被害者なんだ。鞠ちゃんがあんなひどい目に遭わされて、親父さんだって奥さんだってボロボロになっちまったじゃないですか。それなのになんで怒らないで謝るんですよ。親父さんたちは何も悪いことしちゃいないのにさ」
だみ声で、くどくどと同じことを繰り返す。義男はしばらくのあいだその繰り言につきあってから、ふと思いついて訊いてみた。
「孝さん、さっきのテレビを観てて、妙なことに気がつかなかったかい」
「妙なことって?」
「ほら、コマーシャルが入って一度電話が切れちまったことがあったろ? その前と後で、犯人の──あのへんてこりんな声の主がさ、違っているような気がしたんだよ」
木田にはピンとこないようだった。
「どういうことです?」
「孝さんも一度、あいつと話をしとるよな? その時の野郎と、今日の番組の後ろのほうで、あの田川って奴に話しかけてた野郎とは別人じゃないかって、思わなかったかい?」
「どうかな……俺は何も感じなかったけど。親父さんは自信があるんですか」
「はっきり言い切る自信はねえんだよ。だから、警察にも話そうかどうしようか迷っててよ」
「別人だとしたら、どうなのかな」木田はもごもごと呟いた。「なんか問題あるんですか。そうか、今日のテレビにかけてきた奴はインチキだってことになるわけか」
「いや、そうじゃないがね」
木田は酒に強い方ではなく、酒好きでもない。その彼が、ろれつが怪しくなるほど酔っぱらっている。素面《し ら ふ》では番組を観ていることができなかったのだろう。俺も酔えたらいいんだがと、義男は思った。
鞠子の失踪以来、義男はずっとアルコールを断っている。最初は、彼女が無事に戻るまでは酒断ちをしようと思って始めたことだった。彼女が白骨遺体となって帰ってきた後は、目標が別のところにできた。
理由はただひとつ、健康のためだ。一日でも長生きするためだ。
鞠子が帰ってきたとき、有馬班の刑事たちは、絶対に犯人を逮捕すると、義男に約束してくれた。この仇は必ず我々が討ちますと。
しかし、それにはどれくらいの時間がかかるのだろう? 一年? 二年? 殺人事件の時効は十五年だという。ではその十五年いっぱいかかるかもしれない。
その日まで、有馬義男は死ぬことができない。だから酒も飲まず、煙草も止め、降圧剤はきちんと飲み、眠れない夜でも横になって身体を休め、味気ない飯も薬だと思って喉に押し込んで暮らしている。鞠子のような若者を殺し、義男を生きながらえさせている皮肉な運命にも、喜んで頭を下げて頼もう。あんたが途中で奪ってしまった鞠子の寿命を、俺にくれと。鞠子を生き返らせることができないのなら、せめて彼女から取り上げた年月を、このじじいに与えてくれ。有馬義男に、「死」よりも速く走る足を与えてくれ──
「親父さんは、どうして大丈夫なんですか」
喉にからんだような声で、木田はまだネチネチと続けた。半分泣いているようだ。
「なんであんな番組なんか観てるんですか。俺だったらおかしくなっちまう。親父さんはヘンだ。可哀想だ。俺は親父さんがわからねえよ」
木田の妻がそばにいて、彼から受話器をもぎとったらしい。がたがたと音がして、彼女の声が聞こえてきた。
「有馬さん? すみません聡子《さと こ 》です。ごめんなさい、うちのひと、すっかり酔っぱらってて、ひどいこと言いまして」
「いいんだよ。孝さんにしちゃ珍しいことだ」
「テレビ観てるうちに様子がおかしくなってきちゃったんです」聡子は涙声だった。「鞠ちゃんのことは赤ん坊の頃から知ってるんだって、お酒飲みながら泣くんですよ。それで、どうしても有馬さんに電話するんだって」
聡子は平謝りだった。義男は彼女を宥めて、電話を切った。そうしてしばらくのあいだ、頭を抱えていた。
するとまたベルが鳴った。木田だろうと思って受話器をあげる──
「クソじじい」
きいきい声だった。思わず義男は立ち上がった。
「まだ生きてるのかよ、クソじじい。孫娘より長生きしてて恥ずかしくねえのかよ」
義男の心臓が、絶えて久しく経験したことのないスピードで鼓動を打ち始めた。この声はいつもの声だ。今までさんざん聞かされてきた声だ。怒りっぽくて感情的で、鼻っ柱ばかり強い子供の声。
そう、そうだ。義男は気がついた。田川をテレビカメラの前に誘導したあの声と、義男が耳にしているこの声との違いは、大人と子供の違いなのだ。こいつはそう、計り知れないほど危険でありながら、いつだって子供っぽかった。
「あんた──」乾いた喉から声を絞り出して、義男は言った。「なんで電話かけてきた」
「うるせえ!」きいきい声は怒鳴った。「俺に質問なんかするな! 謝れ! 俺に謝れ!」
取り乱している。まるでガキのヒステリーだ。ますます激しくなる動悸を感じながら、義男は思いきって口に出した。
「あんた、八つ当たりしたくて電話してきたんだな? そうだろ?」
「なんで電話しようと俺の自由だ!」
「そうかな。あんた、仲間ともめたんだろう」
いきなり、沈黙が来た。義男は息を吸い込んだ。
「あんたはひとりじゃないんだな。そうだろう? ふたりか三人かは知らないが、とにかくあんたひとりが全部をやってのけてるわけじゃないんだろう。むしろあんたは誰かに使われてるだけなんじゃねえのかい?」
乱れた息づかいが聞こえてくる。図星なのだろうか。的の真ん中を射たのだろうか。
「あんた、さっきのテレビで勝手に電話を切って、そのことで仲間に叱られたんだろう。それで、テレビ局に電話する役目も取り上げられたんだろう。それが面白くなくて、あんたはこのじじいに八つ当たりをしたいんだ。そうじゃねえのか?」
拳のなかに、じっとりと汗が溜まってきた。それを感じながら、義男は待った。
「バカなじじいだ」
喧嘩に負けた子供が、逃げだしながら肩越しに喧嘩相手に唾を吐きかけるような感じで言い捨てると、電話は切れた。
そこから何か真実の断片を搾《しぼ》り取ろうとするかのように、義男は受話器を握りしめた。目を閉じて、自分に言い聞かせた。間違ってはいない。今のやり方で間違ってはいない。俺は確かに今、「犯人」に一撃を与えた。初めて相手を動揺させた。
焦ってはいけない。小さいけれど、これは勝利だ。相手も生身の人間だということが、今初めて判ったのだ。時間はある。時間はこっちの味方だ。きっと捕まえることができる──
有馬義男の主張を聞いた特別合同捜査本部では、即座にHBSの報道特別番組を録画したビデオテープの音声を資料に、声紋分析にとりかかった。
これまでも、報道機関や被害者の遺族あてにかかってきた電話で、録音により資料を残すことができた音声については、同じように声紋分析を行ってきた。その結果、大川公園のゴミ箱に古川鞠子のバッグを捨てたと言ってきた電話も、有馬義男をプラザホテルに呼び出した電話も、日高千秋の母親にかかってきた電話も、すべて同一人物によるものであると推定されていた。
しかし今回は、
・番組中にかかってきた電話の主が、これまでに特定された通話の主と同一人物であるかどうか。
・さらに、特番のコマーシャルの以前と以後にかかってきた電話の人物は、同一人物であるかどうか。
この二点を調べねばならない。しかも分析に使用できる素材は、テレビ番組を録画したビデオテープだけだ。HBSが、犯人からの電話を直に録音したテープの提出要請を断ったからである。コマーシャル以降の電話の人物については、番組にかかってきたこの通話しか資料がないのだから、捜査本部としては何としても直録音のテープが欲しかったのだが、要請は受け入れられなかったのだ。
分析は、慎重の上にも慎重に行われねばならなかった。もし有馬義男の勘が的中していて、コマーシャルの以前と以後で違った人物が電話をかけてきたという事実が強く推定される場合には、これは、一連の事件が複数犯人によるものだという仮説を強く裏付けることになる。これまでも、犯人の機動性から見て複数犯ではないかという意見は何度となく提出されてきたのだが、ほかに確かな裏付けはなく、あいまいなまま保留されてきた。しかし、声紋分析で電話をかけてきた人物は二人だったということがわかれば、複数犯説の強力な補足材料になるだろう。
有馬義男の訴えを受けた刑事は、それほどに大事な分析鑑定であるから、どれほど急いでも三日から四日はかかると説明した。そのあいだは、マスコミ関係に取材を受けても、このことはけっしてしゃべらないでくれと、義男に念を押すことも忘れなかった。
義男はそれを約束した。捜査の手助けになる大事な事柄だし、こちらとしては警察の邪魔になるようなことをするつもりは毛頭ないから、しっかりと沈黙を守るつもりだった。だが、声紋なんてもののことはよくわからない。何をどう調べるのか、どれほどあてにできるものなのか。尋ねてみると、当の刑事も不得要領で、同僚たちのあいだを聞き回り、そのうち鑑識班の若い警察官を連れてきて、こいつが質問に答えますから何でも訊いてください、ときた。義男はちょっと──場違いながら──苦笑した。
「声紋つまりサウンド・スペクトログラムの分析と識別が、そのまま人間の個人識別の方法としても有効ではないか──ということを考えたのは、アメリカのベル電話会社の科学者なんです。名前は何ていったっけな? ちょっと失念しましたが、そう古い話じゃありません」
若い鑑識係官は、はきはきと説明した。「そもそもは戦争中に、ドイツ軍の通信を傍受して、その声を個体識別することはできないかという発想から始まった研究だったんですが、その時点ではあんまり進展しなかったんですね。一九六〇年ごろになって、FBIが声による個体識別に興味をもって、ベル電話会社に働きかけて、それで今日の声紋分析の土台ができあがったんです」
「スペクトロなんとかちゅうのは、何です?」義男はあやふやに問い返した。
「人間の話し声を録音したテープを特殊な装置で読みとりまして、回転するロールみたいなものに記録するんです。そうすると、何本もの線で構成された波みたいな模様ができる。これがサウンド・スペクトログラムです。サスペンスドラマなんかで見かけたことがあると思いますよ。今では読みとりもデータ処理も表示も、みんなコンピュータでやってますけどね」
声紋にはふたつと同じものはない。指紋と同じだ。ただ、個体識別の材料として、指紋よりも難しい点がいくつかある。
「ひとつには、録音媒体が高品質のものでないと、分析鑑定の結果に誤差が生じる可能性が高いということです。ですから今度も、HBSの持ってる元データが欲しいんですよ」
「短い会話じゃ駄目なんでしょうな?」
「それはあまり問題ではないです。九十秒ぐらいあれば充分です。今回もその点では大丈夫ですよ」
もうひとつの問題点は、同一人物の声紋でも、加齢──つまり歳をとることによって変化する可能性があるので、比較分析の場合、片方の音声《サンプル》があまりに古いものである場合は、判定が難しくなることだという。
「これも、今回は関係ないですけどね。でも、そういう難点があるので、裁判では声紋は|動かぬ物的証拠《ハード・エビデンス》としては認められません。状況証拠のひとつ、あるいは、捜査の段階で指針となる資料として使われるというのが現状なんです」
義男は自分の耳で聞いたもの──あの電話の声というよりは、声がまとっている雰囲気のようなもので、コマーシャル前と後の人物が別人だと思ったのだった。しかし、機械にはそんな小器用な判別はできまい。心配になってきた。それに──
「あいつらは、その、あのボイスチェンジャーとかいうものを使ってましたな? 機械は騙されんのですか?」
若い鑑識係員は、警察官募集のポスターのモデルみたいに爽やかな顔で笑った。
「ご心配なく。ボイスチェンジャーで声紋を変えることはできません。分析鑑定すれば、すべてお見通しです」
そしてちょっと不敵な角度で口の端を吊り上げて、こう続けた。
「お孫さんを恐ろしい目に遭わせた奴は、ずいぶんと物知りで利口ぶっていますが、このことについてはまるっきり無知なんじゃないかと思いますよ。声紋だけじゃない、携帯電話のこともよく知らないようですね」
まったく初耳の話だったので、義男は驚いた。「携帯電話が何ですか」
「犯人は、携帯電話なら、有線の電話と違って逆探知できないと思い込んでいるみたいです。確かに、有線電話と同じようにして発信番号を突き止めることはできません。でも、発信エリアを絞ることはできます[#「発信エリアを絞ることはできます」に傍点]。どの中継基地のアンテナを通してかかってきた通話か──ということは、調べられるんですよ。それさえまったくわからないということじゃ、電話会社だって課金できませんからね」
そんな話は、刑事たちからはおろか、ニュースでも報道特番でも聞いたことはない。義男は鑑識係員の顔を見あげた。若々しく、やる気に溢れた顔だ。
「そうすると今までの犯人からの電話も、どんなエリアからかけられたもんか、調べはついとるんですか? そうなんですな? どうしてそれを教えてくれんのです?」
爽やかな鑑識係員は急に及び腰になった。しゃべりすぎたと思っているのが明らかだ。
「さあ、それは鑑識の僕にはわかりません。きっと捜査の必要上、公にしない方がいいことなんですよ。まだ有馬さんにお話しするべきことでもないんです」
「でも──」
食い下がろうとする義男を穏やかに押し返し、鑑識係員は言った。
「お辛いでしょうが、とにかく今は声紋分析の結果が出るのを待ってください。有馬さんの直感が正しいかどうか、結果が出ればわかります。それによって捜査方針も変わって、一気に犯人に近づくことだってできるかもしれないです」
仕方がない。待つしかないのだ。今までも待ってきた。これからも待つのだろう。少なくとも声紋分析の結果は、三日もすればはっきりするのだ。それぐらい何でもない。これまでだって、何の進展もなければ光明もないまま、もっと多くの日々があっけなく過ぎてきたではないか。
しかし、今度の三日は違っていた。
[#改ページ]
17
一九九六年十一月五日、火曜日。
先週末からの秋の連休の終わった翌日、群馬県|赤井《あか い 》市東北部の山中を抜ける県道十二号線、通称「赤井山グリーンロード」は、紅葉見物の観光客たちでにぎわっていた。
グリーンロードが開通したのは七年前の四月のことである。赤井市のなかでも山がちで、JR線赤井駅へのアクセスも不便であるため、市内の他の部分に比べて著しく開発の遅れていたこの北東部を、一気に生まれ変わらせる計画の一環として造られた道路だ。現在のグリーンロードが走っている道筋は、明治の中頃まで赤井市で林業が盛んだった頃に使用されていた林道のルートである。全体に険しく勾配《こうばい》が急で、カーブが多いのもその名残であろう。
当時は、この道路の敷設と同時に、赤井山南斜面の造成開発計画も進行中であった。二百戸の分譲建売り住宅を開発し、建て替えを計画中だった市内の有名私立総合病院をこちらに誘致し、あわせて病院付属の医療介護付き高齢者向け集合住宅を建設するというこのプロジェクトの方は、しかし、途中で立ち往生してしまった。原因はほかでもない、資金難である。バブル経済崩壊の余波は、北関東の小さな市の小さな経済活動とそこから生まれる利害関係にも大打撃を与えずにはおかなかったのだった。
そもそもこの計画の仕掛人であり、市の自然保護林である赤井山中の森林の開発許可を、市議会での反対を押し切って強引に取り付けた市議会議員と、ここに新設される予定だった私立総合病院の院長とは、女婿《むすめむこ》と舅《しゅうと》の関係にある。それだけに、この開発計画が発表された当初から、批判の声は強かった。それでも彼らが強気でいられたのは、東京から招いた開発業者が乗り気だったことと、大手都銀を後ろ盾にした住宅資金専門融資会社から、湯水のように金を引き出すことができたからだった。
ところがその融資元は、不動産取引の総量規制が始まり、右肩上がり一方だった日本経済がにわかに逆に傾斜して未曾有《 み ぞ う 》の不景気がやってくることを敏感に察知したとたんに船から降りてしまい、開発会社も及び腰になってきた。強力なエンジンと燃料を欠いた市議会議員と病院長は、そらみたことかと言わんばかりの冷たい視線のなかで、それでも一、二年は計画続行のために奔走したのだが、分譲建売り住宅の造成完成時期にあわせて支店の出店を計画していた大型小売店からも撤退を告げられ、とうとう諦めざるを得なくなったのが一九九三年の秋のことである。赤井山開発計画という船は沈没した。土台工事が終わっただけで放り出されたマンション建設予定地には雑草が生い茂り、鉄骨が組み上がっていた総合病院と付属の高齢者向けマンションは、風雨にさらされて、赤錆《あかさび》に覆われた骸骨のような惨状を、山の南斜面にさらしている。残ったのは、無人の山中を行くグリーンロードだけであった。
しかし市民たちのなかには、むしろこれで良かったというような雰囲気もあった。赤井山中を上り下りするグリーンロードが、春の花や秋の紅葉の時期、格好のドライブコースになったからだ。さらに、赤井山を越えた向こう側の小山《 お やま》市には、小山遊園地がある。そこに向かう客たちも、それまでは幹線道路の混雑を我慢しながら通行していたのを、グリーンロードという山越えの道にそれて行くようになった。つまり、マンションも病院も建たなくても、グリーンロードそのものには、そこそこの交通量が見込めるのだった。
大型小売店には逃げられたが、グリーンロード添いのそこここに小さな休憩所や喫茶店、レストランが建てられるようになってきた。やがて市は後追いだが正式にいくつかの認可をして、山頂にドライブインと展望台をひとつずつ建設した。当初の目的を失ったこの道路は、観光道路として、華々しくはないが意外な成果をあげたのである。
しかし、そうなると逆に、失敗に終わった開発計画の残骸である鉄骨や土台工事の痕跡が、醜い傷として目立つようになってきた。不良債権として宙ぶらりんになっているので、迂闊《 う かつ》に撤去も処分もできないところが、余計に癪《しゃく》にさわるのである。おまけに、この種の放置された建物に付き物の怪談話が広まって、市内だけでなく東京あたりからも若者たちが押し寄せるようになった。彼らはこの立ち腐れの建物群を、一口に「お化けビル」と呼び、グループで、またはカップルで、盛んにここを訪れた。挙げ句に喧嘩から傷害事件を起こしたり、足場の悪いところで転落事故があって怪我人が出たりと、不祥事が相次いだので、市ではこのあたり一帯を立入禁止にしたが、周囲にロープを張った程度の禁止措置では、好奇心の強い若者たちを止めることはできそうになかった。
グリーンロードには、麓の入口と頂上の展望台付近と、二ヵ所にガソリンスタンドがある。麓のスタンド「グリーンロードナショナルステーション」の方が、規模は大きい。今ここで、五台ある給油台の左から二番目の脇に立ち、給油を終えて出ていく観光客に帽子を取って挨拶した店員も、そんな若者たちのひとりだった。長瀬《なが せ 》克也《かつ や 》という、赤井市生まれの十九歳の青年である。
つい二日前の非番の夜に、彼も「お化けビル」へ行ってきたばかりだった。ガールフレンドの聡美《さと み 》と、彼女の友達の杏子《きょうこ》という女の子と、その友達のボーイフレンドの四人で、いわゆるダブルデートと洒落こんだのである。買ったばかりの彼の新車に乗り込み、さあどこへ行って遊ぼうかということになったとき、聡美がお化けビルに行きたいと言い出した。実はそのとき、克也はかなりがっかりした。彼も一時はお化けビルの荒涼とした眺めに興味を感じ、しばしば訪れては騒いでいたので、もういい加減に飽きがきていたからである。
しかし、聡美たちは強硬だった。なんとなれば、杏子は霊感が強いので、以前からぜひ一度お化けビルを訪ねて、そこで何か感じないか試してみたいと思っていたからだという。克也は霊感とか霊能力とかの話には興味がないので、勘弁してくれよというのが本音だった。しかし、女の子ふたりは熱に浮かされたように地縛霊《 じ ばくれい》だの金縛りだのの話ばかりしているし、杏子の彼氏は彼女の言うなりで、克也と共闘してくれる気配も見せない。渋々、克也は新車の鼻先を赤井山中に向けることになったのだった。
そんな成りゆきだったから、結果は惨憺《さんたん》たるものだった。グリーンロードを走り、お化けビルの朽ち果てかけた骨格が前方にぼんやりと見えてくると、まず杏子が騒ぎ出した。胸が苦しくて息ができないというのである。赤井山の斜面を、無数の白いものが漂いながら駆け上がったり駆け下りたりしているのが見えると言う。吐きそうだというから克也は車を停め、杏子を外に出した。夜のグリーンロードは交通量がとても少ないけれど、お化けビルを目指してくる若者たちの車は例外なく百キロ以上出して飛ばしてくるものばかりなので、路上では気をつけていなければならない。路肩でしゃがんでいる杏子の背中を、一緒に涙声になりながらさすっている聡美の姿を眺めて、克也は心底うんざりした。杏子の彼氏はと言えば、車から降りてのんびり煙草を吸っているだけで、杏子をなだめたり介抱しようという素振りもみせない。変わったカップルだと、克也はこれにも呆れた。こいつ、彼女をホテルに連れ込んだとたんに、この部屋には霊がいるなんて騒ぎ出されても、怒りもせずただぼうっとしているだけなんだろうか。付き合いきれねえよ、ホント。
さんざん泣いたり震えたりしたくせに、それでも女の子たちはお化けビルに行くという。車を走らせながら、腹立ちを抑えるために、克也はありったけの自制心を働かせなければならなかったが、十九歳の若い男が女の子を助手席に乗っけているときに持ち合わせている自制心など、ウエットティッシュでひと拭きすればぬぐい去られてしまうほどのわずかなものだ。克也はだんだん無愛想になり、運転も荒っぽくなった。それで聡美とケンカになり、一度フンイキが悪くなると、止める要素が何もなくて、どんどん険悪になった。──お化けビルなんて、二度と行くもんか。
まっ暗なだけで、何があるわけじゃない。聡美ともお別れで、二日経った今でもムシャクシャする。
今日のナショナルステーションは、平日だというのに妙に忙しかった。まだ連休の気分を引きずっているのと、何よりも紅葉のシーズンだからだろう。いつもは午後一時から四十五分間もらうことになっている休憩時間もとることができなかった。四時近くになってやっと、店長に、ちょっと休んでいいよと声をかけてもらった。克也は空腹でふらふらになりながら、事務所の奥の休憩室に入った。
休憩室では、同じアルバイト仲間の女の子が、部屋の隅にあるポータブルテレビを観ながらサンドイッチを食べていた。ワイドショウ番組のようだ。このところずっと大騒ぎを続けている、東京の連続女性誘拐殺人事件を取り上げている。克也は買い置きのカップラーメンに湯を入れながら、女の子をからかった。
「キミちゃんも気をつけないとさらわれて殺されて埋められちゃうぜ」
キミちゃんは真剣な顔で画面に見入っている。「ホント、怖くてしょうがないんだ、あたし」
「知らない男の車に乗らなきゃ平気だよ」
「だけど、無理矢理引っ張り込まれるってことだってあるじゃない?」
食べかけのサンドイッチを持ったまま、テレビの方に手を振って、
「力ずくで車に引っ張り込まれたら抵抗できないよ」
本当に怖がっているようだ。
「それでどっか連れて行かれて監禁されちゃったらさあ」
「携帯電話かポケベルを隠し持ってて、助けてくれって報せろよ」
「そうかあ、その手があるかあ」
キミちゃんは真顔でうなずく。そして彼女がサンドイッチの残りを口に放り込んだそのとき、外の方から、車が急ブレーキをかけるときの、あの独特の空気を裂くような鋭い音が聞こえてきた。
「あ!」と、キミちゃんが目を見開いた。
思わず身構えるように肩を張った克也の耳に、衝突音が届いた。どかんとかどすんとかいう短い音ではなかった。ばりばりと長く尾を引き、克也には、車の車体がねじれながら引きちぎられてゆく様子さえ見えるような気がした。
事務所を飛び出すとすぐに、向かって右手の遠く、グリーンロードが山の斜面に沿って急カーブを切っているあたりに、薄い煙が立ち昇っているのが見えた。
昼頃までの混雑が一段落して、この時間帯、グリーンロードの流れはスムーズになっていた。上りは空いてきているし、下りにもまだそれほどの数の車は走っていない。事故に気づいた人びとが車のスピードをゆるめ、窓から顔を出して、事故のあったとおぼしき方向をみやったり、なかにはハンドルを切ってスタンド入りしてくる車もあった。おい誰か一一〇番しろと、店長が怒鳴っている。
後ろから追いついてきたキミちゃんが、空に昇る煙を見つけ、両手で頬を押さえた。
「たいへん……」
克也はバイト仲間の店員に訊いた。
「燃えてるのかな?」
「どうかな、煙は見えるけど……」
もくもく、という感じの煙ではない。こうしているうちにも色が薄れていくようだ。
「俺、ちょっと様子見てくる」
あたしも行くと、キミちゃんがくっついてきた。ふたりで路肩を走り、緩い上り坂を駆け上がってゆくと、やがて事故現場が見えてきた。
グリーンロードは全体にカーブの多い道路だが、そのなかでも特に曲がりのきつい場所だった。赤井山山頂からくねくねと降りてきた道が、山肌沿いに一度大きく右へ曲がり、すぐに急角度で左へ折り返している。克也はこの道に慣れているし、運転には自信をもっているから、怖いと思ったことは一度もない。だが過去に何度か、ここで事故が発生していることは知っていた。現につい一ヵ月ほど前も、同じ下り車線で、カーブを曲がるときにハンドルをとられた乗用車が、追い越し車線の方にふくらんでしまい、接触事故が起きて怪我人が出た。そのときは、鼻面のつぶれた車をレッカーでナショナルステーションまで引っ張ってきて、ついでに怪我人の面倒もみたものだった。
今回のこの事故は、怪我人程度では済みそうにないと、克也は思った。事故車が見えないのだ。見えるのは、下り車線から上り車線に向けて、道路を長々と斜めに横切って残されているスリップ痕だけ。しかもそのスリップ痕は、上り車線のガードレールのところで消えている。ねじれ、ひきちぎられたガードレールのところで。今そこに、中年の男女がふたり立っていて、下をのぞきこんでいる。
「大丈夫ですか?」
克也が反対側から声をかけると、男の方が振り返り、崖下を指さした。どうやら、下り車線を走ってきた車が、急カーブのところでハンドルを切り損ね、対向車線の方まで飛び出し、さらに勢い余ってガードレールを突き破り、道路脇の崖下へ転落したらしい。
「おたくらの車ですか?」
中年男性は声を張り上げた。「冗談じゃない、うちのはあれだ」
壊れたガードレールから五メートルほど下ったところに、ミッドナイトブルーの乗用車が一台停まっていた。
「後ろを走ってたんだ。まったくとんでもない話だよ」
ぽつりぽつりと通りかかる車も、みなスピードを落としている。下り車線の側の路肩にいた克也たちは、隙を見て上り車線の側に渡った。
「近くのスタンドの者です。一一〇番はうちがしましたから、すぐパトカーが来ますよ」
「あたしたちは関係ないのよ」中年男性の連れの女性が、尖った声で言った。「あたしたちの車を、凄いスピードで追い越していったかと思うと、カーブのところで反対車線に飛び出しちゃったの。巻き込まれないでよかったわ」
「危ないよ、落ちるよ」
克也がガードレールの切れ目から崖下をのぞこうとすると、キミちやんが袖を引っ張った。
「大丈夫だよ」
足元に気をつけながら身を乗り出すと、十メートルほど下の崖の途中に、白い乗用車の尻が見えた。頭からまともに落下して、崖の段差の部分に衝突し、そのまま逆立ちしたような格好になっているのだ。
「あちゃー、ひでえや」
車体からは、今は煙は出ていない。なんとなく、事故のために出火したのではないような感じがした。では、何が燃えていたのだろうか。
事故車のそばには、人の姿は見えなかった。まだ車内に閉じこめられているのだろう。逆立ち状態なので、リアウインドウがこちらを向いているが、さすがにこの距離から内部をのぞきこむことは難しかった。だが、ナンバープレートは楽に読みとることができた。練馬ナンバーだ。東京の車だ。
「なんか燃えてましたよね?」
「見えたかい?」中年男性は、顔をしかめた。
「事故の前から燃えてたんだよ。窓から煙が流れ出てた」
「ホントですか?」
「本当さ」
連れの女性を振り返る。彼女もうなずいた。
「なにしろ猛スピードで追い越されたもんだから、ぎょっとして見たんだ」
「車内で火が出て、それで運転を誤ったのかもしれないわね」
「どっちにしろとんでもない話だ」
衝突の衝撃のためか、トランクの蓋が十センチほど開いてしまっている。上から見おろすと、車が口を半開きにしているみたいに見える。
「引っ張り上げるのに、クレーンが要るね」
克也の腕につかまりながら下をのぞいて、キミちゃんが囁いた。
「人、死んでるかな」
克也は笑った。「なんだよ、臆病のくせに、そんなことを期待してんのかよ」
「違うわよ、そんな意味じゃないわよ」
キミちゃんがふくれっ面で言い返したときに、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。克也は路肩に出て、近づいてくる赤色灯に向かって手を振った。
「男だったな」と、中年男性が言った。「男がふたり乗ってた」
「男ふたり?」
「ああ、そうだ」
「若い人ですか」
「どうだろう、追い越されたときに見ただけだから」
「若いと思うわよ、派手なシャツを着ていたから」
警察がやってくると、関係者でも目撃者でもない克也とキミちゃんは、スタンドへ戻った。ふたりと入れ違いにクレーン車も到着した。ミッドナイトブルーの車のふたり連れは、警察に彼らの目撃した事故の状況説明をしたあと、ひどくくたびれた顔をしてナショナルステーションへやってきた。
「あたしたちは関係ないのに」と、女性の方が嘆いている。
窓ガラスを拭きながら、克也は笑った。
「ツイてなかったっすね」
「笑い事じゃないよ、ホントに」
話しているうちに、またパトカーのサイレンが聞こえてきた。克也は顔をあげた。
「あれ?」
確かにパトカーだった。ナショナルステーションの前を、けたたましく横切ってゆく。
「別件かな」
だが、サイレン音はまもなく消えた。ちょうどあの、事故現場のあたりのようにも思えた。
「なんでパトカーが何台も来るんだ?」
「救急車なら判るけどね」
「クレーンは来たものの、引き上げるのに手間取っていたんだよ。急な崖だし、フックを固定するために作業員が下へ降りるのが難しくてね」
そうこうしているうちに、また一台、別の車がサイレンを鳴らしながらナショナルステーションの前を通過した。今度はパトカーではなかった。黒っぽい普通乗用車だった。だが、パトライトを点《つ》けていた。
「嫌だな、あれも警察の車?」
交通事故なのに、なんで刑事物ドラマに出てくるみたいな車が? あれって、覆面パトカーとかいうんじゃないのか?
また一台、今度はパトカーだ。いったいぜんたいどうなってるんだ?
克也は現場の方へと足を向けた。後ろから店長が声をかけてきた。
「おい、野次馬はやめとけ」
返事はしなかった。どうにも不安で──そう、不安がこみあげていたのだ。何か変だ。何か起こってる。
今までこんな感覚を覚えたことはなかった。長瀬克也の生活のなかに、こんな感覚が入り込むはずはなかった。どんな雑誌だってテレビ番組だって、「不吉な予感」なんてものについての特集を組んではくれない。だから克也はそんなものについて知るはずはないし、そんなものに縁があるはずもなかった。
だが今、どうしてもじっとしていられないのだ。何か起こってる。さっき事故現場で感じた、あの背中をすっと冷たい手で撫でられるような感覚は、克也の知識や経験ではなく、本能のどこかが知らせて来た警告のような気がした。
下り車線の側に渡り、路肩を小走りに近づいてゆくと、ちょうどクレーンが高く首を伸ばし、事故車を吊り上げて路上に戻そうとしているところだった。
克也は足を止めた。それ以上先に行こうとしても無理だった。警察官たちがガードを固めている。下り車線は一車線通行になっており、封鎖されている側には警察の車がずらりと停められている。
「おい、君は?」
ガードの警察官が、険しい顔で克也の前に立ちふさがった。
「事故処現中だから、近寄っちゃ駄目だ。離れなさい」
克也は上を見ていた。吊り上げられた車を見ていた。内部に人がいるからだろう、車は逆さ吊りにはされていなかった。ちゃんと天井を上に向けて、まるで船積みされる新車のように粛々と吊り上げられていた。車の前部は見る影もなく押しつぶされ、フロントガラスは粉々だ。ドアも歪んでひしゃげている。そしてトランクの蓋が、さっき現場で見たときよりもさらに広く開き、クレーンで吊り上げられる動きにつれて、かすかに上下に揺れている。
「君、近づいちゃ駄目だよ」
警察官に肩を押され、克也は半歩下がった。その一瞬、上空の車から視線がそれた。
そのときだった。がくんというような音がした。はっとして見上げると、事故車が大きく手前に傾いていた。フックがどれかはずれたのだ。警察官たちが声をあげ、彼らの輪が歪んだ。「危ない!」と、誰かが声をあげた。
とっさに、克也も後ろに身を引いた。さらにがくんと車が傾き、どうすることもできないでいるうちに運転席のドアが開いた。歪んだドアは、がくがくとはずれるような感じで口を開いた。
「危ない、ドアが落ちる!」と、克也は叫んだ。
だが、ドアは落ちなかった。落ちてきたのは別のものだった。運転席側のドアの隙間から、何か黒い塊が滑り出て、どすんとくぐもった音をたてて道路に落下した。
それは克也のいる方向に頭を向けていた。
「それ」は人間だった。
ドアが開き、「積み荷」をひとつ落としてしまったことでバランスを失った事故車は、さらに無慈悲に傾き続けた。クレーンの操縦手が必死にレバーを操作し、少しずつ高度を下げ、なんとか路面に着地しようとしていた。車の傾きは止められず、とうとう宙づりのまま、半ば斜めに傾いた横倒しの状態になってしまった。
今度はトランクの蓋が動いた。わずかに開いていた隙間が広がり、次の「積み荷」はそこから落下した。
それは以後長いあいだ、長瀬克也の悪夢のなかに登場し、主役を演じることになるものだった。
今度落下したもの──「それ」も人間だった。背広を着ていた。ナイフのようにたたまれた格好で、意志があるかのようにトランクの蓋のあいだから上手に滑り落ちた。まるでそう、そこから脱出したかのように。
背広を着た「それ」は、長瀬克也に横顔を向け、地面にうずくまっていた。何もかもとっさのことで、周囲の警察官たちも立ちすくんでいる。その刹那、目の前の警官の広い肩越しに、克也は「それ」の顔を見た。「目」を見てしまった。
「それ」は目を見開いていた。その目が克也の目とあった。
[#改ページ]
18
群馬県赤井市のグリーンロードでの交通死亡事故についての第一報が、墨東警察署内の連続女性誘拐殺人事件合同捜査本部に入ってきたのは、事故発生から二時間後のことだった。
事故車が東京ナンバーであり、乗り合わせていたのが若い男性のふたり組だったこと、車のトランクに、身元不明の男性の変死体が積み込まれていたことなどにより、群馬県警赤井警察署は、事態の重大性を充分に認識していた。むろん、合同捜査本部側も、この事故とトランク内の変死体に対して強い興味を抱き、さらに詳しい情報が入ってくるのを待っていた。
事故により死亡したふたりの若い男性の身元は、事故後間もなく判明していた。ふたりとも運転免許証を所持していたのである。
助手席に座っており、事故の際に車から外へ投げ出され、斜面で遺体が発見されたのは、高井《たか い 》和明《かずあき》・二十九歳。住所は東京都練馬区内で、その住所地に彼の両親と妹が同居していた。和明は高井家の長男で、父親と共に「長寿庵」という日本そば屋を経営していた。
事故当時運転席側に乗っており、事故車を吊り上げる際に地面に落下してしまった方の男性は、栗橋《くりはし》浩美《ひろ み 》・二十九歳。彼も住所は練馬区内であり、やはり同住所に両親がいた。が、実際には栗橋はそこに住んでおらず、両親の話により、新宿区で独り暮らしをしているということが判った。栗橋は一人っ子で、ほかに兄弟姉妹はいない。
事故の以前に、高井と栗橋の車が「煙を出して燃えていた」という目撃証言が複数あった。調べてみると、確かに、栗橋の遺体の一部と彼の座っていたシートに焼け焦げの痕が残っていた。焼け焦げは栗橋の身体の前面と足の間に広がっており、これはどうやら栗橋が運転席で煙草を吸っていたか、もしくは煙草に火を点けようとしていたかして、その火が彼の着ていた木綿のシャツと化繊のジャケットに燃え移ったものであったようだ。二人ともシートベルトをしていなかった。衣服に火がついて、あわててはずしたのか、それ以前から締めていなかったのかは判らない。また、それが栗橋の運転ミスを招き、事故の原因となったのかどうかということも、さらに詳しい検証を重ねてみないと断言はできないところだった。
事故の一報は、双方の家族にとって驚愕と混乱と悲嘆の報せであり、通常ならばこれは、大いに同情を寄せられるべき事態である。だがこの事故には、ほかでもないトランク内の変死体という途方もない「異物」がまつわりついている。ざわざわし始めたマスコミ各社の動きにも注意をはらいつつ、ふたりの若者の遺族への対応は、迅速かつ慎重なものでなくてはならなかった。
肝心のトランク内の変死体は、身元の手がかりとなるようなものをまったく所持していなかった。きちんと背広を身につけていたが、上着やズボンのネームは切り取られ、所持品も無い。状況から推すならば、この変死体は、明らかにどこかに遣棄されるべく、トランクに隠されて運搬される途中だったということになる。
遺体には目立った外傷が無かった。しかし、六日早朝に行われた検死の結果、死因は窒息死と判明。絞殺や扼殺《やくさつ》ではないが、両手首と足首、口と鼻のまわりに粘着テープの痕が残っており、おそらくこの粘着テープで呼吸をふさがれ、死亡したものであると考えられた。
この段階で、トランク内の「変死体」は、はっきりと「他殺体」となった。墨東警察署の合同捜査本部と赤井警察署内に、一段と濃い期待と緊張の空気が流れ出した。
「変装して行くのか」
武上が声をかけると、秋津信吾は読んでいた報告書から目をあげ、ちょっと顔を歪めた。
「それで効果があるならやってもいいですけど、まあ無駄でしょうね。テレビじゃもう大騒ぎですよ」
六日の昼過ぎである。秋津はこれから、上京してきた群馬県警の刑事に同行し、高井和明と栗橋浩美の自宅の家宅捜索に向かうことになっていた。
公的には、高井たちの事件と連続女性誘拐殺人事件との関連性が認められたわけではない。しかし、すでに世間はすっかりその気になっているようで、合同捜査本部の一挙手一投足が注目されている。今の段階では、秋津はあくまで同行するだけのオブザーバーだが、マスコミの記者のなかにはもちろん彼の顔を知っている者はおり、秋津が動いたということになると、また情報が飛ぶことになるだろう。
「練馬警察署からも捜査協力があるそうですから、僕は本当に行って見てくるだけですよ」
「おまえさん、今度の件をどう思う」
「赤井市のふたり組が、我々が追っているふたり組であるかということですか」
秋津はごつい手で目をこすった。慢性的な寝不足で、まぶたがたるんでいる。
「ガミさんはどう思います?」
武上はすぐには答えず、報告書に目を落とした。科警研から送られてきた、十一月一日のHBS特番中にかかってきた「犯人」からの通話を音響分析した結果を綴ったものだ。
これは今日の午前中の連絡便で、武上の手元に着いた。赤井市での事故の一報がなければ、午後の緊急捜査会議でこの綴りが取り上げられ、その結果次第では、今夕か明日の午には担当刑事課長による記者会見が開かれることになっていただろう。
有馬義男の直感は正しかった。
科警研は、報道特番のコマーシャル以前とコマーシャル以後の電話の人物は別人であると結論を出していた。コマーシャル後の人物については、分析鑑定対象の資料が二次録音されたビデオテープであるという難点があったが、それもこの結論を出す際には大きな障害にならなかったようだ。ふたつのサウンド・スペクトログラムには明瞭な波形の違いが見られた。彼らは二人いるのだ[#「彼らは二人いるのだ」に傍点]。
一連の連続女性誘拐殺人犯は、複数犯だったのだ。
これまでの「犯人」からの通話も、科警研によって音響分析にかけられてきたが、HBS特番のコマーシャル前≠フ人物の声紋は、それらの声紋とピタリと一致するという。番組後に有馬義男にかかってきた電話の声も、同じ人物だという。つまりコマーシャル後≠フ人物は、あの特番で、それまでずっと彼らの犯罪の広報役を務めてきた相方が、カッとなって喧嘩をやらかしたので、急遽《きゅうきょ》出てきたのだろう。この未知の人物は、あのとき初めて世間に向けて声を放った。一方、彼にお株を奪われた形になった相方の方は、有馬義男に八つ当たりの電話をかけた──
おそらく彼らは、ボイスチェンジャーを使っても声紋分析はごまかせないということを知らないのだろう。あるいは、知ってはいても、そこまで調べるわけはないとタカをくくっていたのだろうか。単独犯だろうと複数犯だろうと、捕まえられなければ同じだ。
音響分析報告書には、この件の結果だけではなく、ほかにも興味深い事実やそれから派生する推測が列記されていた。人間の耳では聞き分けることのできない微少な雑音でも、コンピュータ処理すれば波形としてキャッチすることができる。音響分析というのは、分析対象から雑音を濾《こ》しとり、濾しとったものをまた分析にかけ──という根仕事だが、そういう地味な作業の繰り返しの結果が、ちょうど出揃う頃合いだったのだろう。
電話に向かってしゃべる声は、電話しているその場所に存在する壁などの障害物に反響し、元の声よりも百分の一秒から千分の一秒遅れて送話器に届くことにより、元の声とは若干ズレて、少し違う波形を描く。その波形差は、どんな材質の障害物に反響したかということによって変化する。だから、当該の通話録音から採取したその波形を、さまざまな建材でつくられた室内で実験・取得したサンプル波形と比較対照すると、その電話がおおむねどんな場所(つまりどんな障害物のある場所)からかけられていて、そのとき電話をかけている人物がどんな状況であるか(動いているか停まっているか)を、かなり確かに推測することができるというのだ。
分析によると、これまでに「犯人たち」からかかってきた電話は、
・すべて室内(静かな場所に停め、エンジンを切った状態の自家用車内も含む)からかけられている。
・大川公園に捨てられた右腕が古川鞠子のものではないと知らせてきた電話は、自家用車のなかからかけられている。近くに盲人用信号がある。
・有馬義男をプラザホテルに呼び出した電話の声の背後には、特徴的な雑音が入っている。間断なく一定のトーンで続いているところから機械の作動音だと思われるが、波形のサンプル比較によれば、冷蔵庫やエアコン、パソコンのファンの作動音は除外される。なおこの特徴的な雑音は、十一月一日のHBSあての電話を含めた他のすべての通話からは検出されていない。
・十一月一日のHBSあての通話は、コマーシャル以前も以後も、同一家屋のなかの、同一の室内からかけられている。番組後に、コマーシャル以前の人物が有馬義男あてにかけた電話も、同じ場所、同じ室内からのものである。この電話をかけたとき、当該の人物は終始静止状態にあり、ほとんど移動していない。さらにその室内は木造であり、壁や床の構造部分にも、コンクリートは使用されていないものと推測される。
・HBSあての電話と、その後にコマーシャル以前の人物が有馬義男にかけた電話の背後にも、明瞭な低音の機械作動音が存在する。サンプル波形の比較対照により、これは暖房用ボイラーの稼働音と考えて、ほぼ間違いがない。
暖房用ボイラー。木造家屋。
──ロッジ。別荘か。
赤井市から山を越えて北側の氷川湖のあたりまでは、北関東の別荘地帯である。どんぴしゃりだ。
武上のそばで、秋津も立ったまま科警研の報告書のコピーを読み直していた。
武上は報告書を綴じ込むと、分厚い手で拳をつくり、それを額にあてた。秋津が報告書から目をあげた。
「あのふたりが、我々の『ふたり』だとしたら──」
「だとしたら?」
「なんというかな。古いことわざにも真実があるってことを、人生の折り返し地点を通り過ぎて初めて実感することになるな」
「ことわざですか」
「うん。『天網恢々《てんもうかいかい》粗にして漏らさず』というじゃないか」
武上は、秋津が笑うだろうと思っていたのだが、彼は真顔のままだった。
「天罰か」と言った。「トランクの男の死体、あれがポイントですよね」
「……」
「あれも、HBSの特番で話に出ていたことですよね?」
か弱い女性ばかりを狙って云々《うんぬん》という話に、犯人の側が、じゃあおっさんを狙えということかと応じてきた一件だ。
「もしもあいつらが俺たちのホシならば、あれが最後の犯行ってことになるんでしょうよ」
そしてその死体を遺棄する途中で交通事故に遭った──
「俺はね、ガミさん、居眠りしてて嫌な夢を見たんですよ」
「俺は久しく、夢など見ないな」
「えらくはっきりした夢でね。鳥肌が立ちましたよ」
秋津は言って、天井を仰いだ。
「その夢のなかではね、今度の件も、仕組まれたことなんですよ。事故で死んだふたりは、俺たちのホシじゃないんです。ホシがね、あの高井と栗橋という若者を犯人に仕立て上げるために彼らの車のトランクに死体を隠して、事故を起こさせて殺したんです。本ボシは、どこかで腹を抱えて笑ってるんです。そして、合同捜査本部が解散して、俺が家へ帰ろうと駅に行くと、そこに号外が出てるんですよ。また女の死体が出てきて、テレビ局に電話がかかってきたって」
ひと息に言って、秋津はため息をついた。
「そういう夢でした」
武上は、ゆっくりと言った。「人為的に交通事故を起こさせるのは、非常に難しい」
「ええ、そうですね……」
「まだ事故の分析は終わってないが、事故車には機能的な異常はなかったそうだぞ」
「でも、車内で火事が起こってましたよ」
「栗橋が煙草の火を落としたんじゃないかと見られてる。それに、グリーンロードのあのカーブは、地元じゃ有名な事故多発地点だそうだ」
秋津は黙っていた。
「今の話は夢じゃないな。ましてや正夢でもない。俺の辞書では、今みたいな話を『取り越し苦労』というんだ」
秋津がちょっと笑ったので、武上は安心した。
「ぼつぼつ出る時間じゃないのか」
時計を見て、秋津は立ち上がった。武上は彼を送り出すと、報告書を片づけた。そして、秋津が来るまで手がけていたファイル整理の仕事に戻った。
秋津の気持ちは、武上にもよく判った。実際、秋津が見た「夢」の内容とほとんど同じことを、武上も考えていたからである。
もし、赤井市のあのふたりが我々のホシならば、捕らえる前に、犯人が勝手に死んでくれたということになる。しかもふたり揃って。死体運搬の鼻歌まじりのドライブの道中、ひとりが膝の上に煙草を落とし、火が出て大慌て、焦って運転を誤り、車はガードレールを突き破って転落、奴らは肩を並べて首を折った──
あまりにも、できすぎてはいやしまいか。
以前、大川公園のゴミ箱の一件の時、神崎警部と話したことを思い出していた。現実には、信じられないような偶然がある。我々はそれを、捜査を通して何度となく経験している。だから、たとえば犯人が遺体の一部をゴミ箱に捨てる瞬間の写真が存在していたとしても、その写真が捏造《ねつぞう》でない限りは、さして不思議には思わない。犯人は、そういう捜査側の心理の裏をかいたのだ──
今度もまた、それではないのか。我々は罠《わな》にはめられつつあるのではないのか。
しかし一方で、武上の勘と経験は彼に、写真で切り取られる一瞬の場面をお膳立てすることと、交通事故を故意に起こさせることとでは、次元がまったく違うと訴えかけていた。ましてや、まったく無垢《 む く 》の人間ふたりを犯人に見せかけるため、トランクに死体を隠して云々など、頭で考えるほど易しいことではない。
家宅捜索で、必ず何か出てくるだろう。現実とはそういうものだ。不審な材料は揃っている。高井と栗橋、あのふたりがたぶん、たぶん、たぶん「犯人」だ。
しかし──
天罰かと、さっき秋津は呟いた。そう、もしもこれが本当にそういうことなら、武上も二十年近い奉職の歴史のなかで初めて、人殺しの上に天罰が下ったのを見たことになる。
これが初めてだ。今までにはなかったことなのだ。
午後は長かった。デスクという役割に満足し、そこで使命を果たすことを自分の仕事と割り切っていた武上だが、今は、今だけは、なれるものなら秋津になりたかった。高井の、栗橋の、ふたりの若者の私生活の一端をこの目でのぞいてみたかった。現場に出ていきたかった。
気を紛らすために、会議室にこもり、些末《 さ まつ》だが大切な書類仕事に没頭した。なるべく時計を見ないようにしていた。だから、篠崎が会議室のドアをノックしたとき、正確に何時だったのか、武上は覚えていない。
ドアを開けて会議室に入ってきた篠崎は、途方にくれた子供みたいな顔をして、会議室の机の向こう側に突っ立っていた。目が激しくまばたいていた。
「どうした?」と、武上は訊いた。
不安と期待が胸の奥で塊となり、本来は心臓のあるべき場所で、心臓になりかわって動悸をうっていた。
「どうしたんだ?」
もう一度声をかけられて、初めて篠崎は動いた。机を回って武上に近づくと、わずかに震える声で言った。
「く、空気清浄機だったそうです」
すぐには意味がわからなかった。武上がそれと悟る前に、篠崎は、泣き出しそうに顔を崩して続けた。
「秋津さんが、栗橋浩美の独り暮らしのマンションで空気清浄機を見つけたそうです。たぶん、あれだろうということです。犯人の電話の背後に聞こえていた特徴のある作動音です」
武上はちょっと口を開き、また閉じ、椅子から立ち上がった。
「忙しくなるぞ」
会議室のドアを開けながら。背中で篠崎に言った。篠崎は「はい」と答えた。
この日のこの時、自分が誰と何を話したのかということについても、武上悦郎にははっきりとした記憶がない。せき止められていた事態が一度に動き出し、情報が奔流のようになって合同捜査本部のなかを流れていた。
しかし、ただひとつだけ、忘れようにも忘れられないことがある。喜びと混乱の渦中で、本部に入ってきた武上の顔を見つけたとき、指揮官の神崎警部が部下の輪の中を抜けてきて、武上に向かって手を差し出した。これも初めてのことだった。
無言のまま武上と握手をすると、神崎警部は言った。
「骨が出た」
声もなく、武上はただうなずいた
「右手の部分だけがない。紙袋に入れられていたそうだ。栗橋浩美の部屋だよ」
一九九六年十一月六日、午後六時二〇分。
すべてのキー局で、放送中だった番組を中断し、番組枠を変更して臨時ニュースが流れ始めた。連続女性誘拐殺人事件の容疑者ふたりが判明したというニュースであった。
このとき、有馬義男は店にいた。客の相手をしていた。古川鞠子と同年代の、若い女性客だった。
前畑滋子は家にいた。机に向かっていた。書きかけの原稿はちょうど、塚田真一が大川公園でゴミ箱に近づいたあの場面にさしかかっていた。
そして塚田真一は、アルバイト先に遊びに来た水野久美を、駅まで送ってゆくところだった。久美がしきりと面白いことを言い、真一は笑っていた。たとえ一時《いっとき》でも、真一が声をあげて笑うようになったのは、ごく最近のことだった。
皆の頭上を、ニュースは流れる。
「犯人」はふたり組だった。彼らは死んだ。死んで捕らえられた。神無きこの国に、しかし今この瞬間だけは、神の鉄槌《てっつい》が振り下ろされた音を、人びとは聞いていた。
[#改ページ]
[#改ページ]
第二部
[#改ページ]
[#地から7字上げ]「ひとつ疑問なのは、われわれが見たのが、
[#地から7字上げ]そいつの本来の姿なのかということです」
[#地から2字上げ]──ジョン・W・キャンベル・ジュニア
[#地から2字上げ]『影が行く』
[#改ページ]
1
栗橋《くりはし》浩美《ひろ み 》が初めて人を殺したのは、彼の満十歳の誕生日のことだった。そのときにも「ピース」がそばにいた。ピースが彼に、人殺しのやり方を教えてくれたのだ。
ピースは転校生だった。小学校四年の春に、島根県の松江市というところから東京の練馬区に引っ越してきたのだ。そして新学期から、栗橋浩美と同じ小学校の同じクラスに机を並べることになったのだった。彼らは間もなく「親友」になり、やがて一緒に最初の「殺人」に手を染めることになる。
栗橋浩美は一九六七年の五月十日に生まれた。ピースは同じ年の四月三十日の生まれだったから、ほんのわずかに「兄さん」だった。栗橋浩美が、両親と共に暮らす練馬区内の家から一歩も離れたことがないのと対照的に、ピースは赤ん坊のころから日本各地を転々としていた。父親の転勤のせいだと、ピースは説明していた。
転勤の多い仕事に就いている父親をもっているというだけで、栗橋浩美にとって、ピースは充分に尊敬に値する友達だった。ある年代までの子供たち──とりわけ男の子にとっては、父親の仕事がその子本人の価値をも決定づけるだけの意味を持つものだからだ。
栗橋浩美の父親は小さな薬局を営んでいた。母親も手伝って、夫婦ふたりでこぢんまりと営業していた。父親が親から譲り受けた家業だった。
親の代からの商売だから、薬局というより、「町の薬屋さん」と呼んだ方が正確な、優しい店だった。年寄りがひとり、杖をついて腰痛に効く湿布薬を買いにきたり、道路工事の人たちがドリンク剤を店先で立ち飲みしたり、夜十一時をまわってから近所のアパートの住人がシャッターを叩き、急に発熱した子供のために氷枕を買いにきたりするような、気軽な店だった。
栗橋浩美が中学校にあがるまでは、一家の住まいである木造二階建て家屋の一部が店舗になっており、その家は優に築三十年を超えていた。全体に古くて、あちこちに傷みがきていた。栗橋浩美は父方の祖父母の顔は知らないが、家のなかには、彼らが生前使っていたさまざまな道具や、彼らの衣類や日用品を詰めた箱がたくさん残されていた。それらは物置をふさぎ、押入をふさぎ、棚の上を占領していた。だから栗橋浩美がいくら片づけても、部屋のなかはちっともきれいにならなかった。
彼は何度か、棚の上や押入のなかから古いがらくたを引っぱり出しては捨てようと試み、そのたびに父親や母親からこっぴどく叱られた。それでも負けずに何度もやった。とりわけ、ピースが両親と暮らしている小ぎれいなマンションに遊びに行ってきたあとなどは、どこを見回しても古くて雑然としていて、黄ばんだ紙や布や段ボール箱に占領されている自分の家がたまらなくけがらわしく思えてならず、思い切って火をつけて全部燃やしてしまいたいとさえ思うのだった。
どうしてうちはピースの家みたいにならないんだろう? どうしてソファが無いんだろう? どうして花瓶に花が活けてないんだろう? どうして壁に絵がかけてないんだろう? どうしてあんなふうに、製薬会社が持ってきた社名入りの野暮ったいカレンダーをそこらじゅうに貼るんだろう? どうして座敷の隅に段ボール箱を重ねて放っておくのだろう? どうして始終布団を敷きっぱなしにしてるんだろう? どうしてトイレが洋式じゃないんだろう?
どうしてうちの父親は一流の会社員じゃないんだろう?
ピースの父親はたいそう忙しく、土曜日の午後や日曜日に栗橋浩美が遊びに行っても、家にいたためしがなかった。「ゴルフ」に行っているという時も多かった。ピースの母親はいつも、ストッキングに包まれたきれいなくるぶしがちらちらと見えるくらいの丈のスカートをはき、きれいな色のブラウスやセーターを身につけて、にこにこしていた。おやつに出してくれるお菓子はたいていの場合手作りか、さもなければ都心のどこかの「有名な」店で買ってきたか、どこか他所《 よ そ 》から「いただいた」ものだった。お菓子だけでなく、ピースの家には、始終どこかから何かが届けられていた。それは高価な洋酒だったり、果物だったり、きれいなテーブルクロスだったりした。
栗橋浩美は、小学校の四年、五年、六年の三年間を、ピースと同じクラスで過ごした。そのあいだじゅうピースは、どうせ父さんはまたすぐに転勤になるから、たぶん中学校はまた他の土地で入学することになるだろうと言い続けていた。お別れだね、と。栗橋浩美にとって、それはとても辛いことだったけれど、反面、心の動くことでもあった。どこか他所の土地へ――今度は大阪かもしれない、福岡かもしれない、札幌かもしれない──ピースが移ってゆき、自分は泊まりがけでそこに遊びにゆくのだ。ピースの母親は、折に触れてそう誘ってくれていた。ヒロ君とはずっと仲良くしてもらいたいから、もしまた他所へ行ってしまっても訪ねてきてね、と。それはとても上等なこと──特別扱いを受けているような感覚を、栗橋浩美の子供心に植えつけたのだった。
そんな気持ちが高じると、さらに想像することもあった。新しい転勤先の町に暮らしているピース一家を訪ねているときに、突然東京で大地震が起こり、栗橋浩美の両親は死んでしまう。あの汚い古い家の下敷きになったのだ。そして独りぼっちになってしまった栗橋浩美を、ピース一家が温かく迎えてくれる。今日からピースとヒロミは兄弟だ──
そうなったらどんなに幸せだろうと、栗橋浩美は考えた。それはまったく別の家に、別の境遇に、別の人生のルートに生まれ変わることであるように、彼には思えた。
現実には、ピースは栗橋浩美と同じ中学校に入学した。地元の公立中学だった。同じクラスにはならなかったが、教室はすぐ隣だった。
お父さんの今春の転勤は見送られたらしいと、ピースは言った。それだけでなく、今後ももう地方都市にはいかなくなるかもしれない、東京に落ち着くことができそうだという。それは「出世」を意味するのだと、ピースは誇らしそうに言った。
その時点で、大地震の妄想は、非現実的なものになってしまった。何かほかの形で、ピースの家族の一員になることはできないだろうかと、栗橋浩美は考えた。とにかく自分が独りぼっちになればいいのだ。あの両親がいなくなってくれさえすれば、ピースの家族は両手を広げてヒロミを迎え入れてくれることだろう──
そうして、久しく忘れていた「殺人」を思い出した。ピースとふたりで成し遂げた最初の「殺人」を。十歳のときの、あの行為を。
あれは、栗橋浩美にとっては本当に効き目のある「殺人」だった。あのとき彼は確かに、殺してやりたいと思う人間を殺すことができたのだった。だから今度だってできないはずはないと思った。ピースが力を貸してくれさえすれば。
ある日、とうとう我慢ができなくなって、ピースに打ち明けてみた。親がいなくなってくれたらいいんだけど、どうすればいいと思う?
するとピースは、ひどく驚いた顔をした。
「親がいなくなったら困るじゃないか」
「そんなことないよ」
「あるよ。親戚にでも引き取られることになったら、惨《みじ》めな思いをすることになるんだぜ。もっと悪い場合には、施設に入ることになるかもしれない」
「シセツ?」
「そうさ。保護者が居なくなった子供は、そういう場所で育てられるんだよ。今みたいな気ままなことは言ってられなくなるんだ」
栗橋浩美は、声を失うほどに落胆した、親が居なくなったらうちへ来ればいいと、ピースが言ってくれなかったからだ。
「それじゃあ、殺すことはできないね」
そっと言ってみると、ピースはちょっと真面目な目になり、つくづくと栗橋浩美を見つめてから、笑顔になった。
「殺すって、小さい時にやったあの事かい?」
栗橋浩美はうなずいた。
「あれじゃ、本当は誰も死んだりしないよ。あれはただのおまじないだったんだから」
ピースは母親そっくりのにこにこ顔で笑った。そもそもこの丸い笑顔が、彼のあだ名の由来なのである。ピースマークそっくりの、文句のつけようのない可愛い笑顔。
「おまじないなんて……」
「そうだよ、おまじないだよ。だけどヒロミには効いたじゃないか。それでいいだろ?」
その夜、栗橋浩美は久しぶりに悪夢を見た。幼いときから馴染《 な じみ》の夢、でも、十歳のあのとき「殺人」を実行して以来は、一度も見たことのなかった夢だった。それなのに、それが再びやってきた。ピースのせいだ。ピースがあの「殺人」を、ただの「おまじない」だなんて言ったからだ。だから、殺したはずの者が、なあんだ本当は殺されていなかったんだって気づいて、また出てきてしまったんだ──
それは、小さな女の子の出てくる悪夢だった。その女の子が寝ているヒロミの枕元に覆い被さり、ヒロミの口を無理矢理開けさせて、そこからなかへ入り込もうとするのだ。ヒロミの身体を乗っ取ろうとするのだ。
女の子の手は小さく、冷たくて柔らかい。それなのに、ヒロミの上顎と下顎に指をかけ、強引に口を開けさせようとするその力は、大人よりも強い。夢だ、夢だと自分で自分に言い聞かせても、ヒロミは顎にかかる女の子の指の感触を感じ、彼女の呼気が頬にかかるのを感じた。ヒロミのなかに入り込もうという作業をしているあいだ、女の子は絶えずぶつぶつと呟いていた。
──返して。あたしの身体を返して。これはあんたのものじゃない。あたしのものよ。
悲鳴をあげて、栗橋浩美は飛び起きた。もう中学一年生だというのに、布団のうえにおしっこをもらしていた。恐ろしさと恥ずかしさに、彼は顔を覆って泣いた。
悪夢のなかの女の子が誰なのか、栗橋浩美は知っていた。夢のなかでは、女の子はヒロミとそっくり同じ顔をしていた。
浩美の両親も、その女の子のことをよく知っていた。彼女を悼んで、母親は今でもまだ時どき涙を流すことがあった。
女の子は、栗橋浩美の姉だった。生後一ヵ月で亡くなった栗橋家の長女だった。彼女の死から二年後に誕生した長男に、両親は亡き姉の名前を、漢字だけ変えてそのままつけた。それが「浩美」だった。
栗橋浩美は、世間的には一人息子でとおっていた。栗橋夫妻の大事な一人っ子、栗橋薬局の大事な跡取り息子だった。しかし家庭内に入れば、彼の背後にはいつも、亡き姉の「ヒロミ」がいた。彼はそうやって育ってきた。
その「ヒロミ」を殺して退治することを、ピースが教えてくれた。そして一度は成功した。だけどそのピースが裏切ったから、「ヒロミ」はまたよみがえってきた。ふたりはまた、一緒の人生を歩むのだ。
そのことを、彼はピースに話そうかと思った。ヒロミが戻ってきちゃったよ、と。しかし、どうしても言うことができなかった。親がいなくなったら「シセツ」に入れられるよと言ったときの、あの当たり前のことを話すような顔つきに、なんだかピースが遠い存在になってしまったように思われたからだ。ヒロミが帰ってきたなんて話しても、きっと笑われるだけだろう──
ピースに笑われたくはない。ピースに、おまえは子供なんだなとか、おまえって臆病なんだなと思われたくはない。
それから間もなく、栗橋家に家の建て替えの話が持ち上がってきた。浩美は知らなかったが、かなり以前から両親の間では話し合われてきた事柄のようだった。
汚い古家にうんざりしていた栗橋浩美は、これに大喜びをした。ピースの家族の一員になれなくても、ピースの家と同じような暮らしができればそれでいいのだ。
その年のうちに家の建て替えは終わった。店舗も新しくなった。が、仮住まい先から引っ越して戻ってくると、ほどなく、家のなかでは何も変わっていないことを、栗橋浩美は知った。祖父母のがらくたの大半はそのまま、また新しい押入にしまいこまれた。新しい棚を占領した。家のなかにまでだらしなく侵入してくる商品の箱や在庫のストックもそのままだ。栗橋薬局が新しくなっても、やってくる客たちもそのままだった。野卑な口をきく工事人や、入れ歯をがたがたさせて何を言っているかよく判らない年寄りばかりだ。
栗橋浩美が中学二年の夏休み、ひとつの事件が起こった。外出している両親にかわり、店番をしていた浩美が、客の老婆を殴ったのだ。十四歳の子供とはいえ、男の子だ。しかも渾身《こんしん》の力をこめて殴りつけたので、老婆は前歯を二本折り、店のコンクリートの床の上に転倒した際、腰骨を骨折した。
両親にも、交番の巡査に対しても、栗橋浩美はじっと沈黙していた、老婆を殴った理由を明かさなかった。老婆は八十七歳、かなりもうろくしており、彼女の側から事情を聞き出すことはきわめて難しかった。そしてそのことが、結果的には栗橋浩美を助けることになった。
仲裁に入ってくれた地元商店街の束ね役で、区議会議員でもあるスーパーの社長が、栗橋薬局の味方をしてくれたことも幸いした。この老婆は、栗橋薬局の近くにあるこの社長経営のスーパーで、たびたび金を払わずに商品を持ち帰り、問題になっていた。商店街の他の店からも、老婆がひとりで買い物に来ると、いろいろとトラブルが起こって困っていたという声があがった。老婆側の言い分が聞き出せないことを幸いに、社長は栗橋薬局での一件を「事件」ではなく、不幸な「事故」として決着させることに成功した。老婆は殴られたのではなく、転倒して怪我をしたのだということに。
しかし、本当はそうでないことを、誰よりも栗橋浩美がよく知っていた。老婆が汚く、惨めで、しかもその日で三日も続けて浣腸薬を買いにきたことに腹を立て、浩美は老婆を殴ったのだ。死んでしまえばいいと思いながら殴ったのだ。
この本当の気持ちを、栗橋浩美から打ち明けられたのは、ピースひとりだけだった。いや正確には、ピースの方が見抜いたのだ。
「あれ、ホントは事故なんかじゃないんだろ? おまえが殴ったんだろ?」と、彼は訊いたのだった。
栗橋浩美は黙っていた。その顔をしばらく見つめて、ピースは笑った。あの丸い笑顔を明るく咲かせて、こう言った。
「いいんだよ、気にするなよ。きたねえババアはオレだって嫌いだよ。ヒロミは、何も間違ったことをやったわけじゃないよ」
このとき栗橋浩美は、ピースに慰められたのではなく、誉められたように感じた。
ピースはやっぱり、判ってる。オレを判ってくれてる、オレの味方なんだ。
こうして彼らは親友であり続けた。ピースは栗橋浩美よりずっと成績がよかったので、高校も大学も別々のところへ進んだが、会う機会は減っても彼らのつながりが切れることはなかった。さながら運命に糊付けされたかのように、ふたりは離れることがなかった。
いや、離れられなくなっていた。そしてそれが、やがては新しい「殺人」を呼ぶことになる。
おまじないではなく、殺された死者がよみがえることもない、本物の殺人を。
[#改ページ]
2
一九九四年、三月一日。
練馬区|春日《か す が》町七丁目の日本そば屋「長寿庵」の店の前には、地元の商店街組合やひいき客などから送られた花輪が並べられていた。新装開店を祝う花々である。
この日はまた、店主の高井《たか い 》伸勝《のぶかつ》の誕生日でもあった。五十八歳になる。いつもは誕生日など意識するどころか、忙しさにまぎれて忘れてしまうことの方が多い彼も、この日ばかりは、念願の新装開店のその日と自分の生まれた日とが重なったことに、ひどく厳粛な意味を感じていた。二重の祝い事に、朝から顔がゆるみっぱなしだった。
「長寿庵」は、高井伸勝が三十歳の年に、当時この場所に建てられていた木造の貸し家の一部を店舗にして開業したのが始まりである。自身も昔、飲食店経営にたずさわったことのある大家が、独立して店を興そうという伸勝に好意的で、店舗改装を請け負う信頼のできる業者を紹介してくれたり、地元信用組合に融資のコネをつけてくれたりしたという、恵まれた船出だった。
このころ、春日町のあたりはすでに大規模な宅地化が始まっており、商売の見通しは明るいものだった。が、大家が「長寿庵」と高井伸勝を助けたのは、別段、将来の儲けを見込んだからでも、投資家ぶってみたかったからでもなかった。高井伸勝の人柄が気に入ったから、手を貸す気になったというだけのことだった。伸勝は石のように無口な男だったが、働くことをいとわない真面目な気質で、不思議と年長者に信を置かれることが多く、そのおかげで、これまでの修業時代でも、何度か得をすることがあった。
もっとも、伸勝がもう少し愛想がよく、さらに言うならば女性にもてる男であったならば、そば職人としての独立も、もっと早いものになっていたはずだったから、一概に「得」ばかりとは言えない部分もある。実は、伸勝を一人前のそば屋に仕込んでくれた神田多町のそば屋「勝寿庵」では、主人夫婦が、跡取りのひとり娘の婿に伸勝を──と念願していたのだが、当の娘がそれを嫌がり、家を出る出ないの騒ぎまで引き起こしたので、主人夫婦も諦めざるをえなかったという経緯があったのだった。伸勝はほとんど感情を外に表さない男だが、このときはひどく傷ついた。彼自身は、跡取り娘に対してほのかな愛情を寄せていたから、なおさらである。
伸勝は勝寿庵を辞めることになった。このとき二十八歳、すでに独立してやっていくことができるだけの腕前を持っていたが、いかんせん資金が足りない。勝寿庵の主人の紹介で赤坂のそば屋に移り、そこで働くことになった。
そして、この店の常連客のひとりに、練馬区に広い地所を持つ地主が居て、伸勝の腕を見込み、店主とも相談したうえで、どうだ独立して店を出してみないかと持ちかけた──というのが、「長寿庵」の始まりである。結果的には、勝寿庵を離れたことで運が開けたわけだ。
トタン屋根の長寿庵を旗揚げして間もなく、伸勝には縁談もおこった。これは先の赤坂のそば屋の主人の紹介で、相手は伸勝もよく知っている娘だった。一時期、一緒に働いていたことがあるのである。文子《あや こ 》というその娘はなかなかの器量よしで、やがてふたりが結婚すると、そばは旨いが愛想なしの店主のおかげで今ひとつぱっとしなかった長寿庵の雰囲気が、ぐっと明るいものになった。
以来、夫婦は実直に働き続けてきた。結婚後すぐに長男の和明《かずあき》が生まれ、三年後には長女の由美子《 ゆ み こ 》を得た。食べさせる口が増えた分、生活は苦しくなったが、伸勝も文子も貧しい家の生まれだったから、そのことがさほどの苦にはならなかった。これが世間並み、みんなこんなものだろうと思っていたのだ。ふたりは黙々と働き、長寿庵は繁盛した。売り上げはじわじわとあがり、やがて経営にも余裕が出てきた。
こうして、長寿庵が無事に開店十周年を迎えたころ、大家が、この家と土地を買わないかという話を持ちかけてきた。自分ももう歳で、あまり長くはない。子供らの代になったら、あんたたちにここをずっと貸し続けてやれるかどうか、定かでなくなる。そうなる前に、独立してみてはどうかというのである。商売はうまくいっているのだし、融資の方はなんとかできるだろうから、思い切ったらどうかという。
なにくれとなく世話をしてくれてきた大家に、自分ももう長くはないなどと言われて、伸勝夫婦にとっては寂しいことだったけれど、実際問題として、大家の言うとおり、現状のままでは、将来には不安があった。
夫婦は頭を付き合わせて話し合い、最終的には、大家の勧めに従うことにした。大枚の借金を背負うことになり、少しばかり蓄えていた金も吐き出してしまったが、しかし、これで彼らは小さくても一国一城の主になったのだった。大家も一緒に喜び、次の目標は店と家の建替えだな、先々のことを考えて、鉄骨のビルにしなよなどと言った。それから間もなく自宅で倒れて入院し、半月後に息を引き取った。あまりにも手際のいい、はかったような逝き方だった。
残された伸勝夫婦にとっては、いつかは長寿庵を立派な店に建て替えることが、大きな目標になった。それは、世話になった大家からの遺言に応えることにもなるのだ。
長寿庵の店の経営は、ほとんど波風も立たず順調だったが、一時期、大きな危機があった。地価高騰のバブル期に、盛んに地上げにあったのである。それというのも、亡き大家から地所を相続した大家の子供たちが、長寿庵と地続きの土地を大手の開発会社に売り渡したためだった。買い手の開発会社の側から見れば、ひと続きの地所の端っこが欠けていて、そこに古びたそば屋が一軒あるなどというのはあまり気持ちのいいことではなく、もろともに買い上げてしまいたいと考えるのも道理だろうが、伸勝たちはこの土地から動く気はさらさらなく、妥協のしようのない利害の対立で、この時期、伸勝はずいぶんと心労がかさんだ。幸い、先方がちゃんとした会社だったので、闇雲に追い出そうと暴力団を差し向けてくるような真似はしなかったが──それに、長寿庵の敷地は、そこまでされるほど広いものでもなかったし──お客に混じってやってくる開発会社の社員たちに毎日応対し、あれこれとやりあわなければならないわけで、それでなくても口の重い男としては、いささかうんざりするような日々だったわけだ。
やがて、ふくらみきったバブル経済がぱちんとはじけ、土地の高騰が急落へと転化すると、開発業者の攻勢もぱたりと途絶えた。それどころか、亡き大家の子供たちが売り渡した土地に建設されるはずだった大型マンションも、どうやら計画だけで頓挫《とん ざ 》してしまったようだった。長寿庵はそれを横目に、ほっと胸をなでおろしたものだ。
そんなこんなを乗り越えて、ようやく店を建て替えての新装開店である。高井伸勝は、どれだけ胸を張っても足らないほどだった。大家の遺言どおり、鉄筋の三階建てのビルで、一階が店舗、二、三階が住まいになっている。ビルの名前は「長寿庵ビル」。娘の由美子はもう少し洒落た名前にしようとだだをこねたが、伸勝は断固言い張った。長寿庵のビルなんだから、長寿庵ビルでいいんだ。
伸勝にとって、高井家の人びとにとって、この日は最良の日だった。文子は何度となく口に出してそう言った。今日が人生最良の日だと。すると由美子が、これからだって最良の日は来るんだから、人生最良の日のひとつと言ってよ、と笑った。そういえばそうだと、文子も笑った。父親に似て、やはり口の重い和明も、そばでにこにこしていた。中学を卒業してすぐに父親の手伝いを始めた和明は、ゆくゆくはこの店を継ぐことになっていた。
未来には、良いことばかりが待っているはずだった。右肩上がりに、長寿庵と高井家の将来は開けているはずだった。
誰ひとり、それを疑ってはいなかった。
「お兄ちゃん、電話よ」
レジの脇のピンク電話の受話器を持って、由美子は奥の調理場に声をかけた。
「栗橋さんからよ」
和明は手拭きで濡れた手をふくと、カウンターをまわって、急ぎ足で電話のところに出てきた。白い帽子の縁に汗がにじみ、額もてらてら光っている。新装開店に、店内は混み合っていた。調理場はフル回転だし、母親とふたりでお運びをしている由美子も、忙しさに目がまわりそうだった。
兄が近寄ってくると、由美子は送話器に手をあてて、ちょっと声をひそめた。
「ねえ、またなんか呼び出しだったら、断らなきゃ駄目よ」
うんうんと和明はうなずいた。
「ちゃんと断るのよ。お兄ちゃん、お人好しなんだから」
それだけ釘をさしておいて、やっと受話器を差し出した。和明は、電話に向かって、律儀に「はい代わりました」と言った。
由美子は面白くなかった。せっかく今日は最高にいい気分で仕事してたのに、とんだ奴に水をさされてしまった。由美子はこの電話の主、和明と小学校時代からの友達の栗橋浩美という青年を、好ましいとは感じていなかったのだ。本音を言えば、嫌いだった。もう兄に近づいてもらいたくないとまで思っていた。
兄の幼友達だから、由美子自身、栗橋のことは子供のころから知っている。栗橋浩美は、長寿庵の前の道路をまっすぐ北側に行ったところにある商店街のはずれの、栗橋薬局のひとり息子だ。商店主仲間ということで、親同士も知り合いだった。
幼いときには、由美子は兄のあとをくっついて歩いて、栗橋にもよく遊んでもらった。白状すると、鈍重な兄よりも栗橋の方がカッコよく見えて、ずっとずっと好きだった。彼は足が早く、スポーツも得意で、運動神経の鈍い和明が草野球のメンバーに入れてもらえずに情けない顔をして草っばらの端っこに座っているあいだ、生き生きと走り回ったり投げたり滑ったりしていた。学業成績の方も、九九を覚えるにも大変な苦労をした和明とは対照的に、栗橋浩美は何をやらせても優秀で、成績はいつもクラスのトップ、学年でも三本の指に数え上げられるほどだった。
由美子には日記をつける習慣がある。小学校四年生の時から始めて、現在まで、ずっと途絶えることなく続けてきた。日記帳もすべてきちんと保管してある。今度の家の建替えで荷物を整理したとき、押入の奥にしまい込んであった小学生時代の日記帳を広げてみて、そのつたない文字と幼い文章に、自分で自分を笑ったり恥じたり愛しく思ったりした。なかでも、小学校五年生の一学期のとき、栗橋浩美に対し、
「お兄ちゃんが栗橋くんみたいにスポーツやべんきょうができたらいいのに。由美子は栗橋くんが好きだと思います。お兄ちゃんはバカです。お兄ちゃんのかわりに栗橋くんがお兄ちゃんになるといいと思う」
と書き綴っているのを見つけたのには、ひとりで顔を赤くした。そう、このころはまだ、栗橋浩美は由美子にとって、憧れの星の王子様だったのだ。
古びて黄ばんだ日記のページをめくりながら、由美子は様々なことを思い出し、その度に、子供のころの自分が、実にいろいろな局面で兄の心を傷つけてきたということを、あらためて実感した。それがあまりにも恥ずかしく辛いので、一度は、思い切って日記を処分してしまおうかとも思った。が、それもなんだか卑怯な気がしてきて──過去のことはなかったような顔をして口をぬぐってしまうなんて──強いて自分を押しとどめ、結局は捨てずにとっておくことに決めた。
その晩、和明に、「あたしがお兄ちゃんの悪口をいっぱい書いた日記が出てきちゃった」と打ち明けると、彼は笑って、「俺はホントに鈍かったから」と言った。
実際、和明の学業成績は、小学校でも中学校でもひどいものだった。彼はけっして怠け者ではなく、性格も素直で、先生に予習をしてこいと言われれば必死で予習をし、宿題を出されれば忘れたことはなかった。それでも成績はあがらなかった。
運動能力の方も、学業と同じくらいに、同級生たちと比べて、悲しくなるほど劣っていた。特に、中学校にあがると、学校で行うスポーツ活動の種目が増える分、その劣り具合が激しく目立つようになった。
そのことに絡んで、一度大きなもめ事が起こったことがあった。和明は最初、一年生の春に、軟式テニス部に入部したのだが、二学期の初めに顧問の教師から退部の勧告を受けて、泣く泣く辞めることになったというものである。あまりに鈍いので、他の生徒たちの足手まといになるから辞めてくれという顧問の教師の言葉に、日頃はおとなしい文子が激怒し、学校へ乗り込んで校長と直談判するところまで行った。が、当の和明が、級友たちの手前をはばかってか、それ以上のもめ事を望まず、素直に退部したので、ことはうやむやになってしまった。
この当時のことも、由美子は日記に書いている。お兄ちゃんがニブいからみっともないというような文章を、腹立たしげに乱れた大きな文字で書き殴ってある。読み返すと胸が痛み、目が潤んでくるのを由美子は感じた。
軟式テニス部には、栗橋浩美も入っていた。ここでもまた、幼い由美子は「栗橋くんはやめさせられたりしないのに」と書いている。しかし、兄と幼友達であるはずの栗橋が、顧問の教師に追い出されようとしている和明の味方にはなってくれず、慰めようともしてくれなかったことについて、非難めいた感想を抱いてはいない。当時、軟式テニス部員たちのごく一部ではあるが、顧問教師のやり方に反発し、和明と一緒に退部しようという動きをみせる生徒たちもいたのだが、栗橋は終始、知らん顔をしていた。そのことについて、子供の由美子は何も感じていない。あたし、本当に何も判ってないガキだったんだと、今の由美子には思えるのだ。
軟式テニス部を離れた和明は、次に水泳部の門を叩いた。ここは顧問の教師が穏和な人で、部員のなかには、それまでは水が怖くてまったく泳げず、入部して一から水泳を習ったという生徒がいた。その指導方法を見て、和明の担任教師が勧めたのである。その選択に誤りはなく、ここでの和明は、軟式テニス部にいたときのような引け目を感じず、他の部員たちから白い目を向けられることもなく、少しずつ水に馴染んでいくことができた。
そのうえに、大きな転機も訪れた。
水泳部の顧問は、柿崎《かきざき》先生といった。当時三十代半ばの、小柄だが筋骨たくましいスポーツマンタイプの教師であった。この人が、和明が中学二年の夏休みに人った最初の日に、和明の両親に会うために、長寿庵を訪ねてきたのである。驚いた伸勝と文子は丁重に迎えたが、柿崎先生の話を聞いて、さらに驚くことになった。先生は、和明の学業成績や運動能力が伸びないのは、彼の能力が足りないのではなく、視覚障害のせいではないかと思うと切り出したのである。
この日のことも、由美子は日記に記している。大きなはっきりとした文字で、「お兄ちゃんは目が悪いらしい」と書いてある。そしてこの柿崎先生の来訪が、やがては、和明の辛かった子供時代を終わらせ、由美子にとって星の王子様だった栗橋浩美をその王座から失墜させる出来事へと繋がってゆくのである。
由美子が店内のいくつかのテーブルを回り、どんぶりを下げたりお冷やを足したりして戻ってきても、和明はまだ電話中だった。由美子は顔をしかめて兄の様子を見守った。何かしきりにしゃべろうとしては、電話の相手に押しまくられて口をつぐみ、またしゃべろうとしては押し戻されという感じで、ひどく困った顔をしている。
このピンク電話機は、長寿庵が出前の注文を受ける電話である。私用での長電話は御法度《 ご はっ と 》だ。そのことを、和明だってよく承知している。彼としては早く通話を終わらせたいのに、栗橋浩美がしつこく食い下がっているのだろう。
腹立たしくなってきて、由美子は兄のそばに近づくと、受話器の向こうの栗橋に聞こえるようにわざと声を大きくして、言った。
「お兄ちゃん、うちは今かき入れ時で忙しいのよ。早く電話終わりにして」
和明はおろおろと目を泳がせて由美子を見た。電話に向かって、
「俺、仕事時間中だから、ホントに困るんだよ」と、情けなくなるような気弱な口調で言った。それがふがいなくて、由美子はさらに腹が立った。お前とはもう付き合わない、二度と電話をかけてくるなと、なんで怒鳴りつけてやらないんだろう。
それでもどうにかこうにか電話を切ると、和明は額の汗を拭った。
「まいっちゃうよな」と、由美子に笑いかける。「栗橋はいつもマイペースだから」
「あんなのはマイペースでも何でもないわよ」と、由美子は声を尖らせた。「ただ自分勝手で他人の迷惑を考えられないだけよ」
「まあ、そんなふうに言うなよ」
和明はのんびりした口調で言って、のそのそと調理場の方へ引き返して行く。由美子はなおも畳みかけてやろうと思ったのだが、そのとき電話が鳴った。今度は出前の注文だった。由美子は怒りを押し殺し、商売用の明るい声を張り上げた。
それから小一時間、汗だくになって夢中で働いた。新装開店で出前の注文が多く、電話がひっきりなしに鳴る。アルバイトの出前持ちの男の子は、腹が減って目が回りそうだと嘆きながら走っている。今日は彼ひとりでは手が回り切らないようなので、由美子も応援に出ることにして、いったん調理場の奥へ入って支度をしていると、また店の出入口の引き戸ががらりと開いた。反射的に顔をそちらに振り向け、大きな声で「いらっしゃいませ」と叫んでから、入ってきた客が誰であるか気がついた。栗橋浩美だった。
「あら、栗橋君じゃないの」
隅のテーブルの器を下げていた文子が、すぐに声をかけた。
「こんばんは、おばさん」と、栗橋も応じた。会釈というよりは、顎をちょっとしゃくるような、首をすくめるような格好をして、にやにや笑っている。春物の薄いジャケットとノープレス・パンツという出立ちで、右手首にダイバーズ・ウオッチのような大きな腕時計をはめていた。男性用のファッション雑誌から抜け出してきたような姿だ。
「店、きれいになったね」
「ありがとうございます。おかげさまでね」
文子は愛想がいい。彼女にとっては、栗橋浩美はあくまでも息子の幼なじみの青年なのだ。確かに、栗橋浩美にはちょっぴり悪い評判のたった時期もあったけど、それはそれでもう済んだことだし、とにかく和明とは子供の頃からの付き合いなんだし──というわけだ。
このへんが、由美子には理解しがたいところだ。呑気すぎる。おまけに、なんで「おかげさまで」なんて言うんだろう。それでなくても由美子は、日頃から、母親が何かにつけて「おかげさまで」と口にすることが気に入らなかった。いくら商売人だからって、何でもかんでもそうへりくだってばかりいることはないじゃないか。
調理場の和明が、栗橋の来たことに気づいて、そちらを見ている。由美子は素早く兄の表情を確認した。薄笑いを浮かべてはいるが、けっして、友達の訪問を喜んでいるという顔ではなかった。
文子が笑顔のまま言った。「今日はこんなに繁盛させてもらっちゃってて、おばさんたちも和明もてんてこ舞いなのよ」
由美子は調理場の柱の陰から栗橋の様子をうかがった。悪びれる様子もなく、彼はにやにやし続けている。
「うん、忙しそうだね。俺さ、新装開店祝いを買ってきたんだよ」
肩越しに、親指で外を指さすと、
「車に積んであるんだけど、ちょっと持ってきてもいい?」
「え? そりゃあ有り難いけど……」
栗橋はスタスタと店を出てゆく。ちょうど入ってきた三人連れの会社員風のお客さんたちとすれ違い、そのお客さんたちがテーブルに落ち着いて注文を済ませた頃になって戻ってきた。腕に、ひと抱えもあるような大きな鉢植えを抱いている。胡蝶蘭《こちょうらん》だった。大きなリボンをかけ、「祝新装開店」という札がくっつけられていた。
「あらまあ。あら、まあ」
びつくりした様子で、文子は目をぱちぱちさせている。
「よかったら飾ってよ」
栗橋は胡蝶蘭を文子に差し出した。母親がおっかなびっくりの手つきでそれを受け取るのを見ていられなくて、由美子も店へ出ていった。
「あれ、由美ちゃん、久しぶりだね」
栗橋は目を細め、嬉しそうに声をかけてきた。「店、立派になってよかったな」
由美子は無言のままちょっと頭を下げ、大きな胡蝶蘭の鉢を抱えてよろけそうになっている母親に手を貸した。そしてきりっと目をあげると、言った。
「こんな高価なもの、いただくわけにはいかないんですけど」
鉢を栗橋の方へ差し出して、返そうとした。栗橋は笑って手を振った。
「嫌だなあ、遠慮なんかしないでよ。おばさん、受け取ってくれるよな?」
文子は困っている。「そりゃ、嬉しいけど……でもこれ本当に高いものだろう?」
「いいじゃないか、新装開店の祝いなんだから。俺の気持ちだよ」
いかにも闊達そうにそう言うと、由美子の険しい顔からするりと目を離し、奥の方をうかがった。
「カズ、いるだろ? ちょっと話があるんだ。五分もかからないからさ、おばさん、いいだろ?」
文子が何も言わないうちに、混み合う店内を抜けて調理場へと入って行ってしまった。由美子は舌打ちした。
「こんな鉢植えなんかでだまくらかそうったってそうはいかないんだから」
文子が由美子の顔を見た。「あんたも、そう口の悪いことばっかり言っちゃいけないよ。だまくらかすなんて……」
「お母さんこそどうかしてるわよ。あの人が、なんだかんだってお兄ちゃんをいいように使ってるの知ってるでしょ? お兄ちゃんに近寄らせちゃ駄目なのよ」
「だけど幼なじみなんだよ」文子の口調が、やや叱責の色を帯びた。「男同士の友達付き合いには、女には判らないところもあるんだからさ。だいいち、栗橋君はあんたの幼なじみでもあるんだよ」
由美子は吐き捨てた。「お母さん、甘いわよ」
お客さんたちが好奇の目を向けてくる。由美子と文子は商売人の本分を取り戻し、そそくさと店の奥へ引っ込んだ。大きな胡蝶蘭の鉢は、とりあえずピンク電話の脇に据えた。
栗橋は、和明を調理場の隅に引っぱり出し、しきりと何か話しかけている。ちょっとうなだれ気味の兄の横顔が曇っている。由美子は急いでふたりのあいだに割り込もうとしたが、そこへ父親の声が飛んできた。
「由美子、角田ビルの出前の分、あがってるぞ。おまえが行くんじゃなかったのか?」
怒ったような声だった。仕方なく、うん、行くわよと返事をして、心は兄たちの方に引っ張られつつ、由美子は躊躇《ちゅうちょ》した。嫌に熱心に、栗橋は和明の顔をのぞきこむようにして話している。何を言っているのだろう?
「由美子、早く行け!」
とうとう、高井伸勝が声を荒らげた。調理台の上にかがみ込み、今できたばかりのどんぶり物の上で忙しく手を動かしてゆで三つ葉をあしらっているが、顔は完全に怒っていた。
伸勝の声に、由美子もどきりとしたが、栗橋と和明もびっくりしたようだった。栗橋はぱっと話をやめ、素早く伸勝の方を盗み見た。その目がちらっと由美子の視線とも交差した。さっき胡蝶蘭を差し出した時のような、にこやかな目の色ではなかった。
仕方なく、由美子は急いで出前に出かける準備をした。盆を持ち上げて通用口の方へ向かうと、背後で栗橋がわざとらしく明るい声で、「じゃ、頼んだよ」と言うのが聞こえた。それから彼は調理場全体に向き直り、さらに明るい声をあげた。
「忙しいとこ、すみませんでした、おじさん」
高井伸勝は、調理の手を休めないまま、栗橋の方へ頭を下げた。「お祝い、ありがとう」
「とんでもないですよ」
栗橋は屈託なさそうに言い放ち、店内を通って外へと出てゆく。由美子も急いで通用口を出た。出前の盆を持ったまま、店の正面に回って栗橋を追いかけようと思ったのだ。
彼は店の真ん前の道路に車を停めていた。ちょうど運転席のドアを開け、乗り込もうとしているところだった。ツーシートの赤いスポーツタイプの車で、新車のようだった。どこもかしこもプラモデルみたいにぴかぴかに光っている。
しかも、彼には連れがいた。助手席に女が乗っている。髪の長い若い女で、車のボディの色と同じ真っ赤な服を着ていた。
由美子の顔を見ると、栗橋は車に乗るのを止め、振り返った。彼が振り返ると、車の助手席の女も顔を振り仰ぎ、由美子を見た。
栗橋はまたにやにやしている。「よう、由美ちゃんよく働くな」
由美子は両手で盆を抱え、栗橋から二メートルほど離れたところに立っていた。第三者の目から見たら、どうにも間の抜けた場面だった。洒落たスポーツカーに乗り込もうとするハンサムな若い男と、あか抜けした連れの女。その前に、どんぶり物の鉢を乗せた盆を捧げてバカみたいに突っ立っている女。
「お兄ちゃんに何を言いにきたんですか」
つっけんどんに、由美子は訊ねた。
「一度はっきり言わなくちゃって、思っていたんです。お兄ちゃんにつきまとわないでください。お兄ちゃん、気が弱いから栗橋さんの言いなりになっちゃうけど、本当はすごく嫌がってるんですよ」
「カズが? 俺のこと?」栗橋は空とぼけた顔をした。「なんでさ。俺たち、幼なじみじゃない」
幼なじみ。その言葉を持ち出されるのがいちばん腹立たしい。
「子供のときから知ってるってことが、幼なじみってことじゃないですよ。栗橋さん、お兄ちゃんにさんざん迷惑かけてきたじゃないですか」
「そうかなあ」
「あたしは全部知ってます」声を励まして、由美子は続けた。「ついこのあいだだって、お兄ちゃんを呼び出して麻雀のツケを払わせたんでしょう? 十二万円も。あなたがお兄ちゃんを呼び出すときって、そんな時ばっかりじゃないですか。飲みに行こうとかいって、みんなお兄ちゃんに払わせてるんでしょ? 全部聞いてるし、知ってるんですよ、あたしはね」
栗橋は、助手席の女の方に顔を向け、笑いかけた。赤い洋服の女は、ちらっと由美子の方に視線を走らせると、ふんと鼻で笑った。
「出美ちゃんにはさあ、男同士の付き合いなんて判らないんだよ」
へらへら笑いながら、栗橋は言った。車のドアにもたれ、すっかり余裕の姿勢だった。
「カズも相変わらずだな。気の強い妹に叱られてさ。可哀想だよ」
「あたしはお兄ちゃんが困ってるから──」
「カズは困ってなんかないぜ。俺たちは幼なじみで、昔っからの遊び仲間なんだからさ。由美ちゃんだって、俺と幼なじみのはずなのに、なんでそんなにギャアギャア言うんだ?」
栗橋は由美子の方を指で示すと、助手席の女に言った。「この子さ、俺にラブレターくれたことがあるんだよ」
肉美子は顔が熱くなるのを感じた。思わず、両手で盆の縁をぎゅっと握りしめた。
「そんなの昔の話じゃない!」
「お、赤くなって可愛いな」
栗橋と連れの女は笑い出した。笑いながらも、女がうんざりしたように顔を背けるのを由美子は見た。それが怒りと惨めさをさらに増幅させた。
「あれはラブレターなんかじゃなかったわよ」
「おいおい、そうムキになるなよ。ヘンだなあ、由美ちゃん」
「ヘンなのはあたしじゃない、あんたの方じゃない」
栗橋は大げさに肩をそびやかした。「怖いねえ、あんた呼ばわりされちゃったぜ」
由美子は両足を踏ん張ると、ぐいと顎を引き締めた。出前持ちの格好をしている若い女にできる限りの威厳を見せつけようと、奥歯を食いしばった。
「あたしは昔から、栗橋さん、あんたがお兄ちゃんをいろんな形で利用してたってことを知ってます。そのことについては、両親よりよく知ってるのよ。あんたの言う、ラブレターの一件があったからね。あんたが中学二年生のときの夏休みよ。覚えてるでしょ?」
由美子の反撃の勢いに、さすがに栗橋もちょっと驚いたようだった。ドアにもたれていた身体を起こした。
「由美ちゃん、そんな怖い声を──」
「あれ以来」栗橋の声をぴしゃりと断ち切って、由美子は続けた。「あたしは一度だってあんたを信用したことはないし、あんたを好きになったこともない。幼友達だなんて、思ったこともないわよ。だから今だって、あたしだけは知ってるの。判ってるの。あんたがお兄ちゃんを食い物にしようとしてるってこと。お兄ちゃんだってそのことは判ってるのよ。判ってるけど、お兄ちゃんバカみたいに優しいから、あんたに引きずられちゃって」
助手席の女が、甘ったるい声で言った。
「この子なに──? ヒステリーじゃなーい」
由美子はひるまなかった。「あんな鉢植えなんか持ってきてうちの機嫌をとろうとしたって無駄ですからね。父さんや母さんは騙されるかもしれないけど、あたしは騙されない。そうよ、あんたと幼なじみで、あんたの正体を子供の頃からよく知ってるから、絶対騙されないんだから。もうお兄ちゃんに近寄らないで。いいわね?」
由美子の独演会の途中で、栗橋は車に乗り込み、エンジンをかけた。「いいわね?」という由美子の念押しを聞かずに、彼は車を発進させた。
後には、出前持ちの由美子だけが取り残された。寒さではなく、怒りに震えながら、盆を捧げ持って。そして、今のこの激しい感情に引きずり出され、心の奥底からよみがえってきた苦い思い出を噛みしめていた。そうだ、あの夏──和明が中学二年のあの夏──柿崎先生がやってきて──
[#改ページ]
3
柿崎先生の訪問は突然のことだったので、長寿庵では大いにあわてた。午後の「準備中」の時間帯だったので、店は閉めていた。伸勝と文子が遅い昼食をとっているところへ、教師は訪ねてきたのである。
奥の狭い座敷に落ち着くと、柿崎先生は急な訪問を詫びてから、ほかでもない和明君のことなのですが、と切り出した。当の和明は、このとき、由美子を連れて区営プールに遊びに行っており、留守だった。
学業成績のこと、運動能力のこと、友達付き合いのこと、和明については、心配が絶えなかった、文子はまた、彼女にとっては可愛い息子である和明に対して、教師の口から非難めいた言葉が発せられるのかと、絶望的な思いになった。水泳部に移って一年近くになるが、軟式テニス部にいたときと違い、クラブ活動は楽しいし、柿崎先生はいい先生だよと、折に触れて和明は母親に報告していた。それなのに、息子がそれほど信頼している先生が、また息子を突き放すようなことを言いにきたのだろうか──そういう思いこみばかりが先走り、文子は教師の言葉をすべて聞き終えないうちに、呟いていた。
「あの、和明は水泳部にいられなくなるんでしょうか。また何かまずいことがあったんでございますか」
柿崎先生はきょとんとした。それから、水と太陽の日差しになじんで芯まで真っ黒に日焼けした顔をほころばせると、首を振った。
「すみません、わざわざお訪ねしたので、ご両親を驚かせてしまったんですね。しかし、私はそういう用向きでうかがったんではありません、和明君はいい子です。頑張り屋で素直で、本当にいい生徒だと思います」
これを聞いて、安堵すると同時に、文子は思わず涙ぐみそうになった。今まで誰も、どんな教師も、和明をこんなふうに評価してくれたことはなかった。「手が掛かる」とか、「能力が劣っている」とか、「ほかの子供の邪魔になる」とか、聞かされてきたのはマイナスの評価ばかりだった。
「それでもあの子は、学校では皆さんの足手まといになってるみたいで……」
涙を呑み込みながら文子がそう言うと、柿崎先生は、ほかでもないそのことでうかがったんですと続けた。
「ご両親は、ずっと和明君の日常生活を観察してこられて、彼が目が悪いんじゃないかと思ったことはありませんか?」
文子と伸勝は顔を見合わせた。口の重い伸勝は、黙ったまま女房に向かって首をひねる。
文子は言った。「近視とか、そういうことでしたら、ないと思いますが。視力検査でも、両目ともずっと一・五ですよ。乱視もないって言われました」
教師はうなずいた。「ええ、それは私も知っています。確かに視力は良好ですよね。ですが、和明君を見ていると、プリントや黒板に書かれた文章がちゃんと読めなかったりすることがあるように思えるんですよ。視力はいいはずなのにね。それに、彼は計算も苦手ですね?」
文子は悲しくうなずいた。「小学校でも、なかなか九九が覚えられませんでした」
「怠けていたわけではないですよね。彼は一生懸命やっている」
「そりゃ、本当にそうです」と、伸勝が初めて応じた。「あいつは真面目に一生懸命宿題をやりよります」
「そこなんです」と、柿崎先生は身を乗り出した。「そこが不思議で仕方がないんですよ。水泳部での活動を見ていると、和明君はけっして知力が低いとは思えません。人の意見を聞いて理解して、それに対して自分の意見を言うこともできるし、たとえばプール掃除や道具の手入れなどでも、みんなと手分けして進めることができるような効率的な分担を考え出して提案するなんてこともしてくれるんです。知力が低いどころか、彼は平均以上の判断力や想像力を持っているように、私には思えます」
文子は顔をあげ、もう一度夫の顔を見た。伸勝は教師の顔を見ていた。彼の寡黙は、単に言葉数が少ないというだけでなく、顔全体の寡黙なのだが、今はそのむっつりとした顔の底に、わずかに動くものがあった。
「私の知人に、医者が一人いるんです」と、柿崎先生は続けた。「大学のときにサークルで一緒だった人物なんですが、しばらく研究のためにアメリカに渡っていまして、先月帰国したんで、久しぶりに会ったんですよ。彼は臨床医ではなくて研究者で、今は、東都医大の八王子校舎の研究室にいるんですが、専門は、視覚障害なんです」
「しかくしょうがい……」
「はい。平たく言えば、目の異常について研究しているんです。それでまあ、よもやま話をしているうちに、彼が非常に珍しい話をし始めましてね。正確に言えば、日本では珍しいけれど、アメリカでは立派な視覚障害として認められて、専門の治療機関まで設けられている症例についての話なんですが、今回の渡米では、その症例について研究することが彼の主な目的だったというんです」
「はあ……」
判ったような判らないような顔をしている高井夫妻に微笑みかけて、柿崎先生は言った。
「難しい専門用語は抜きにして──ちゃんと使いこなせるかどうか、私も自信がありませんから──易しく言いますと、その症例というのは、視力は両目とも平常もしくは平均値より上なのにも関わらず、目がよく見えない──正確に言うなら、正しくものを見ることができないというものなんです。さっきも言いましたように、アメリカでは二十年以上も前にこういう症例が存在することが認められていて、ずっと研究が進められてきました。現在の患者の大半は子供たちですが、これは大人にはこの症例が無いということではなくて、あっても誰にも気づかれず、本人さえ気づかないまま大人になっているケースが大半だからだろうということです。なにしろ、こういう機能障害があるということそのものが認識されたのが、歴史的にはごく最近のことですからね」
文子はもじもじした。「それであの、それはどういう目の病気なんでしょうか」
「病気ではないんです。視力に異常はないんですからね。言ってみれば『機能の異常』ということで」
「機能の、異常?」
「はい。お母さん、我々には目玉がふたつありますね?」
「はい、ふたつ……」
「そして我々は、そのふたつの目玉を使って物を見ているわけです。ところが、ごく稀にではありますが、健康の目玉がふたつあるのに、そのうちのどちらか片方しか使うことが出来ずに物を見ている人がいるのだそうです。つまり、片方の目は開店休業で、まったく働いていないわけですよ」
「そりゃその……」喉にからんだ咳払いをして、伸勝が言った。「ものもらいなんかにかかりまして、眼帯をしますわな、ああいうもんですか」
「いや、それがそう単純ではないんです。この場合は、片方の目玉、片方の分の視神経とその働きを司《つかさど》る脳のその一部分がまったく機能停止しているわけで、単に眼帯などで視界を遮られている状態よりも、もっと複雑な悪影響が生じるんだそうです」
手をあげて、柿崎先生は指を折りながら数え上げた。
「もっとも深刻なのは、この疾患を持っている人には、文字の形をちゃんと認識することができないということです。たとえば、彼らには、『あいうえお』という文字が、我々がそれを目で見て認識するのと同じ形には見えないということです。彼らには文字や数字が、我々が見て取るのとは別の形に見えている、だから覚えられないし、書き取れない。書き取ったとしても、それは『正しく』ないわけです」
文子は手で口元を押さえ、「そんなバカみたいな話があるんでしょうか」と言いそうになるのを、危ういところで止めた。
「ですから、この疾患を持っている人は、大人でも子供でも、ちょっと珍しいくらいに字が汚い場合が多い。和明君は、字が下手だというのでよく叱られているようですね?」
文子は急いでうなずいた。「妹の由美子の方が上手なくらいでして。ノートなんか、親のわたしが見ても何が書いてあるか全然判らないんです」
「お父さんやお母さんは、子供のころいかがでしたか? 和明君のように宇が汚かったですか?」
文子が夫の横顔を見上げると、伸勝は照れたように笑った。
「私もあんまり字は上手くないです」
「だけど、和明ほどじゃないでしょう」と、文子は言った。「だからあたしはいつも、ヘンだヘンだと思ってたんですよ。和明だけがなんていうか──度はずれて字が下手なんです」
柿崎先生はうなずいた。「それと、先ほどからお話に出ている、和明君が算数や数学が苦手だということですね。これも、今お話しした目の疾患を持つ人に特徴的なことなんですよ。彼らには、数字の列や形も、私たちが見るような列や形には見えない──違う風に見えるんです。だから、本人は真面目に言われたとおりにやっているのに、結果が違ってしまうんですね。しかし、彼の見ているものと周囲の人びとの見ているものが違っているのだということが、なかなか判らない。疾患を持っている本人にさえ判らないんです。だって、当たり前の話ですが、彼にとっては、自分の見ているものが現実なんですからね。自分の見ているひらがなや漢字と、隣の席の田中君が見ているひらがなや漢字がまったく違う形をして違う並び方をしているだなんて、思いもしなくて当然なんですからね。ですから、この疾患を持つ人──とりわけ学齢期の子供は、ほとんどの場合、知能が低いと認定されてしまうという、不幸な目に遭うことになるんです」
文子はゆっくりと目をしばたたき、柿崎先生の健康そうな顔を見つめた。ようやく彼女にも、先生の言わんとするところが呑み込めてきたのだった。
「それじゃ先生は、和明もそういう症状じゃないかと──?」
「ええ、その疑いがあるんじゃないかと思いました」と、先生はきっぱりとうなずいた。
「知人にそれを話してみると、彼も同意見でした。それで一度、彼の大学の研究室へ検査を受けに連れてきてみないかというんです」
検査と聞いて、高井夫婦がにわかに怯《おび》えた色を見せたので、先生はあわてて言った。
「検査と言っても、なにも難しいことをするわけじゃありません。和明君にいろいろなものを見せて、どう見えるか聞いたり、書取りをしてもらったりしてデータをとっていくんです。それと、何度も繰り返すようですが、これは病気ではないんですよ。知人もそれをはっきりと言っていました。視覚障害つまり一種の脳の機能障害ではありますが、病気ではない。薬を飲んだり手術をしたりして治すものではないんです。必要なのは、両目がきちんと機能するようにもってゆくための『訓練』だけなんですよ」
文子の顔に希望の光がさしてきた。こらえきれなくなって、目が潤んできた。
「それから。念のために申し上げておきますが」と、柿崎先生は続けた。「この機能障害がなぜ起こるのか、原因は何なのか、まだはっきりとは判っていないそうです。ただ、遺伝的なものでないことはほぼ確実だそうですし、赤ん坊のときに間違った育てられ方をしたからだというような単純なものでもないそうです。ですから、仮に和明君がこの機能障害の持ち主だったとしても、ご両親には何の恥じるところもありませんし、責任もありませんよ」
気配りのある言葉に、文子は救われたような気持ちになった。伸勝は黙って小さくうなずいている。
「先生、和明にはこのお話を──」
「まだ、きちんと話してはいません。ただ、先生には、君の能力に問題があるようには思えない、勉強がうまく進まないのは、君の責任ではないほかの原因のせいだろうと思うということは話してあります。このことで、一度ご両親に会いにいくかもしれないということも言ってあります」
この話を受け入れてもらえるようならば、まずはご両親の口から和明君に話してあげてみてくれないかと、先生は言った。
「そして彼がもっと詳しいことが知りたいというようならば、私からいくらでも説明すると言ってみてあげてくれませんか。そのうえで、またご両親と一緒に集まって相談して、検査を受けにいくかどうか決めたらどうでしょう。知人はいつでも声をかけてくれと言っていますから、遠慮は要りません」
大学病院とか研究室とか、権威のありそうな場所に本能的な怯えを覚える高井伸勝は、首を縮めて言った。「そういうところに出かけるのは、なんだかおっかないような気がしますんですが……その辺の眼医者さんじゃ駄目なんでしょうか」
柿崎先生は笑った。「残念ながら、町のお医者さんでは相談に乗ってはもらえないと思いますよ」
「治してもらうなら、ちゃんとしたところに行かなくちゃ駄目ですよ」と、文子は気丈に言った。「遠くたっておっかなくたって、出かけるんですよ」
それからしばらくのあいだ、柿崎先生は伸勝夫婦と話をしながら和明の帰宅を待った。が、夏の午後のいちばん暑い盛り、プールにつかりにいった子供は容易に戻ってこない。どのみち明日は水泳部の練習日だし、また連絡をしますと言い置いて、先生は帰った。
夕方五時からの営業のため、仕込みに追われながら、文子はあれこれと考えた。希望がわいてきて、心がふわりと温かくなるのを感じた。自分の子供を贔屓《ひい き 》目にするわけじゃないけれど、あんな真面目で素直ないい子はいないと、ずっと思ってきた。だから、今まで学校でどれだけひどいことを言われても耐えることができたのだ。それは間違ってなかった。和明は、他人には判らないハンデを背負わされていたのだ。あの子が悪いわけではなかったのだ──
高ぶる心を抑えて調理場を動き回っているとき、外から救急車のサイレンが聞こえてきた。だんだん近づいてくる。
「何だろう」手を止めて顔をあげ、伸勝が言った。「近いな」
文子は店から往来に出てみた。長寿庵の前の道路を、救急車が商店街の方に向かって走り抜けてゆくところだった。耳をつんざくサイレンには、たとえ自分にまったく関わりのないことであっても、不吉な感じを覚えた。
救急車が通り過ぎ、店に戻ろうとすると、すぐ先の横町の角を折れて、柿崎先生に負けじと日焼けした和明と、同じく小さなコーヒー色のお姫様と化した由美子が、何やら早口でぽんぽんと言い合いをしながら帰ってくるのを見つけた。出し抜けに、子供に対する愛情に圧倒されそうになって、文子は大きく「おかえり」と声をかけた。
ふたりの子供たちは文子を見つけた。由美子が走って駆け寄ってくる。和明が「ただいまあ」と声を張り上げる。そのとき、今度はパトカーのサイレンが聞こえてきた。
パトカーは赤色灯をくるくると閃《ひらめ》かせながら、さっきの救急車と同じ方向へ走ってゆく。和明と由美子は立ち止まり、目を丸くしている。文子はふたりの子供たちのそばに走り寄って、一緒にパトカーを見送った。
「商店街の方だね」
和明が言って、かすかに不安そうな、気遣わしげな、心配そうな顔をした。それは、さっき調理場にいて救急車のサイレンが近づいてくるのを耳にしたとき、伸勝が仕事の手を止め、「近いな」と呟いて顔に浮かべた表情と、とてもよく似ていた。怪我をしたのは誰だ? 倒れたのは誰だ? 火が出たのはどこだ? 誰が助けを求めているのだ?
それは「大人」の反応だった。頭上のどこか遠く高い場所に猛禽の影がさし、その翼が空を切る音を最初に聞きつけた雁の群のリーダーのように、首を伸ばし、耳を澄まし、敵が、危険がどこにいるのかを見定め、ひ弱な子供や老人を守るべくしゃんと背筋を伸ばす「大人」の。
この子にはこういう、実年齢よりもはるかに老成した部分があるのだということに、文子はそのとき初めて気づいた。普通、和明ぐらいの年齢の男の子が、町中を走り抜けてゆく救急車やパトカーを見かけた場合には、好奇心や野次馬根性をこそ抱いても、不安を抱くことはあるまい。何が起こっているのか確かめようと、パトカーや救急車の後を走って追いかけることはしても、道ばたに足を止め、心配そうな目をして赤色灯を見送るようなことはするまい。
実際、文子がそんなことを考えているあいだにも、由美子が、
「お兄ちゃん、パトカー見に行こうよ」と言った。和明は笑って首を振り、
「危ないから駄目だよ」と言った。
「つまんないの」
文子には、これまで、今さら思い出すまでもなく、和明には普通の子供と違う部分があると感じる機会が山ほどたくさんあった。そしてその度に、それは和明が「遅れている、劣っている」ことを示しているのだと解釈するべく、馴らされてきた。
だが、今日という今日は違う。柿崎先生の話してくれた事柄が、文子のなかに、今まで押しつけられ、馴らされてきた「和明像」に、別の光をあててくれたからだ。そうなってみて初めて、今まで単に「鈍い、覇気がない子供」と解釈して斬り捨ててきた部分に、「老成」という言葉があてはめられるのだと気づいたのだった。
親として不明だった──そう思うと、申し訳なさでいっぱいになった。あたしはこの子本人の言葉よりも、先生が何というかということばっかり気にしていたのだ。
「うちへ入りましょ」と言って、文子は由美子の手をとった。「ふたりともお腹が空いたでしょう」
長寿庵の人びとのところに、商店街で何が起こっていたのかということについて情報が入ってきたのは、その夜店を閉める頃になってのことだった。商店街でいちばん大きい「まことやスーパー」の経営者で、区議会議員でもある高橋《たかはし》社長が、その件でじきじきに伸勝を訪ねて来たのである。
伸勝も文子も、高橋社長の来訪にひどく驚かされた。今日はびっくりすることばかりの一日だと、文子は思った。それに、正直言ってかなり迷惑だった。店じまいをしたら、伸勝とふたりで和明に向き合い、昼間柿崎先生から聞いた話について、ゆっくりと説明し話し合おうと思っていたからだ。今夜は外部の誰にも邪魔をして欲しくなかった。
「ちょっと込み入った話なんで、電話じゃなんだからね。閉店してからの方が迷惑じゃないだろうと思ってさ」
「はあ、なんでしょうか」と、伸勝も当惑気味だった。
「実は今日、商店街の方でもめごとがあってね。パトカーが来たの、聞こえなかったかい?」
「知ってますが……」
「あれでね、実は頭痛いんだよ。それでちょっと相談がさあ。座っていいかい?」
閉店後の静かな店で、高井夫婦と高橋社長は、客用のテーブルをはさんで向き合った。
高橋社長は伸勝より五歳ほど年長なだけだが、潔いくらいにきれいに禿げている。せっかちな人柄のせいか、その頭はいつも汗で光っている。磊落《らいらく》とか気さくというよりは、あと半歩踏み違えると「下品」の横道にそれてしまうような態度の人物だが、なんと言っても大繁盛の「まことやスーパー」の社長なのだし、区議会議員を務めるのも現在二期目なのだから、人望はそこそこあるのだろう。
長寿庵は商店街の外にあるので、直接的には商店街の活動に関係ないのだが、商店街の商店主たちの集まりである「あおい会」というグループに、一応加わっていた。高橋社長は「あおい会」の会長経験者で、現在も実質的な束ね役である。その関係で、伸勝はもちろん高橋社長と面識があったし、慰安旅行にも一緒に行くし、宴会で同席したこともある。が、商店街で起こった出来事に関して相談を持ちかけられるほど「あおい会」に深入りはしていないし、皆に頼りにされているわけでもない。それなのに何だろう?
嫌な感じだった。
不安を覚える高井夫婦に、高橋社長は、本当は俺もこんな話をするのは嫌なんだというように大げさに顔をしかめながら、説明を始めた。
「薬局の栗橋さん、知ってるだろ? 商店街のいちばん北側の」
「ええ、知ってます」
「たしか、栗橋さんとこの息子とお宅の息子、同級生だよな?」
伸勝が確認を求めるように文子の顔を見た。文子はうなずいた。
「はい、栗橋さんとこの浩美君はうちの和明と友達だと思います。小学校のときから一緒ですから」
「そうだよな、向こうもそう言ってるからさ」
向こうというのは、栗橋薬局のことだろうか。
「それでな、ここからが本題なんだがさ、今日の午後のパトカー騒ぎってのは、なんだよその、栗橋の息子が引き起こしたんだ」
文子は身を乗り出した。「浩美君が? 何をしたんですか」
高橋社長は酸っぱいものでも食べたような顔をした。「客を殴っちまったんだ」
伸勝がおもむろに腕組みをすると、深い息を吐いた。
「浩美君が店番してたんですか?」
「そうなんだよ。親父もお袋も出かけててね」
「じゃ、ひとりで」
「うん。そこへ例のババアが来てね」
「ババア?」
「この店は被害を受けてないから知らないかな。聞いたことないかい、困りもんのババアのこと」
長寿庵では誰も何も知らなかった。
「いや、本当はさ、ババアなんて呼んじゃいけないんだろうけどさ、しかし俺たちもいい加減腹が立ってね。この婆さん九十近い歳なんだけど、面倒見てくれる家族もいなくてさ、駅の西側の都営住宅でひとり暮らしをしてるんだ。で、買い物しにこっちまで出てくるわけなんだけど、実は万引きがひどくてね」
「万引き……」
「うん。本人はそれと意識してやってるわけじゃないだろうと思うんだよ。惚《ぼ》けの悲しさでね、わかんなくなってるんだろうと思うんだよ。しかし実際困るんだ。うちの店でも、金を払わないで商品を持って出ていっちまったり、パンとかハムとかその場で勝手に封を開けて食い散らかしたりしてね。牛乳やジュースなんかも、パック開けて飲んじまうんだから始末が悪いや。何度注意しても、本人はぼやーっとしてて、あたしゃ何もやってませんよってな顔なんだ。我慢しきれなくなってこっちが怒ると、ひゃあひゃあ悲鳴をあげたり泣き出したりしてな、何も知らない人がぱっと見たら、こっちがか弱い婆さんを苛めてるみたいに見えちまってさ。どうしようもないんだよ。結局、婆さんがいじり回した商品を持たせて、はっきりしている分だけ金をもらってね──それだって、全額払わせることなんざできないよ──それでこっちは泣き寝入りさ」
そういえば、野菜を仕入れている八百屋の奥さんから。一度そんなような話を聞いたことがあったと、文子は思い出した。その八百屋でも、何度か被害に遭ったと言っていたような気がする。
文子がそれを口に出すと、社長は大声で肯定した。
「そう、そう、八百徳だろ? あそこは大変だったんだ。四月ごろだったかな、婆さんが店先でオレンジ剥いて食い始めたんで、金払ってからにしてくれって言ったら、聞こえないふりで逃げようとしたんだってさ。八百徳じゃ今までにも何度もそういうことをやられてたんで、いい加減腹に据えかねてさ、婆さんを追いかけてふんづかまえたんだな。そしたら婆さん、わけのわかんないことをごにょごにょ言いながら、売り物の大根だの人参だのが並んでる店先で、小便もらし始めたんだよ。そりゃもう大騒ぎだよ」
八百徳としては大損害だろう。
「そんなこんなでさあ。うちのレジ係の主任なんか、あの婆さんは惚けてなんかいませんよ、惚けたふりをして無料《 た だ 》食いや商品の持ち出しをしてるんだ、計算してやってんですよって、えらい剣幕なんだよな」
「それで、今日栗橋さんとこで殴られたのが、そのお婆さんなんですか?」
文子の質問に、高橋社長はやっと話の本筋を思い出したらしかった。ぽんと手を打つと、
「そうなんだ」
急に大真面目な顔に戻った。
「四時頃だったかな。栗橋薬局の隣、ほら、洋品屋があるだろ?」
「村田さんとこですね」
「そうそう、ブテック村田」
社長は唾を飛ばしながら「ブティック」を「ブテック」と言った。
「あのムラタのかみさんが、栗橋薬局で物が倒れるような大きな音がして、誰かが悲鳴をあげてるのを聞いてね、急いで駆けつけたんだ。そしたら例の婆さんが床に倒れて、ひいひい泣いてたっていうんだな。婆さんは頭から血を流してて、そりゃひどい有り様だったそうだ。商品の陳列棚が横倒しになってて、胃薬だの絆創膏《ばんそうこう》だのが床中に飛び散らかっててさ、で、栗橋の家の息子が、真っ白な顔をして婆さんのそばに立ってたっていうんだな」
ブティック村田のおかみさんは、栗橋浩美に、いったいどうしたのと尋ねた。が、浩美はそれには答えず、おかみさんの方を見ることもせずに、しゃにむに拳を固めて、床に倒れている老婆に襲いかかろうとした。老婆は歯の無い口を開いて悲鳴をあげ、床を這って逃げ出した。
「ムラタのかみさん、あんたたちは知ってるかな、太ってて大女だからさ、こりゃまずいってんで身体ごと体当たりして栗橋のガキを止めたんだ。それでもガキも凄い勢いで暴れてね、ムラタのかみさんも跳ね飛ばされそうになったもんで、大声で助けを呼んだ。近所の連中が集まってきて、かみさんと一緒にガキを押さえるわ、婆さんを助け起こすわでね。栗橋のガキはよっぽど頭に血がのぼってたんだろうな、婆さんを取り逃すと、自分を捕まえて押さえつけてる大人たちに殴りかかろうとして、向かいの製本所の親父が殴られてさ、そんなこんなで誰かがパトカー呼んだり救急車呼んだりしたってわけでね」
文子は栗橋薬局の浩美の顔を思い浮かべていた。和明の友達だが、もっと幼いころは由美子もよく遊んでもらっていた。活発で勉強もできる、いい子のはずだ。そんな乱暴なことができるような子供ではない──
「浩美君、今はどうしてるんですか」
高橋社長は、大きな角張った手をひらひらさせた。
「家にいるよ。パトカーだって、中学生の子供を連れて行きゃしねえもんな。だが、実際に怪我人が出てるから、警察も放っておくわけにはいかなくてさ、いろいろ話は聞いてったよ」
浩美の両親の栗橋夫妻は、パトカー騒動が起こっている最中に帰宅し、母親の方が一大愁嘆場を演じて、それはそれでまた大変だったという。
「浩美が警察に連れて行かれる、そんなことになったらあたしは死んでしまうなんて、大げさだがな。で、俺のところに話が来てね。丸く収まるように、善後策をこうじてやってくれというわけなんだね。まあ、子供のことだから、叱られて、婆さんの治療費を負担するくらいで済むと思うんだがね。それ以上のことは、お上もうるさく言ってこないだろう。それよりどっちかって言ったら、商店街としてはむしろ、あの婆さんをどうにかしてくれって要求を出したいよ」
「それはそうですねえ……」
しかし、その一件が長寿庵と、どう関わりがあるのだろうか。文子の顔にも伸勝の顔にも、その疑問が浮かんでいたのだろう。高橋社長はうんうんとうなずくと、禿頭を手でぺろりと撫でた。
「と、事情はこういうことなんだがね」
そう言って、高井夫婦の顔を並べて見た。
「パトカーが引き上げたあと、俺なんかも栗橋薬局へ呼ばれてね。ガキ──じゃないや、あいつは名前何ていったかな」
「浩美君です」
「そうそう、浩美だ、あいつから話を聞いたわけですよ。今日はいったいどういう事情でああなったんだってね。もちろん、相手があのババアだからね、こっちだって頭から浩美を叱ったりはしなかったんだよ。おまえの気持ちだって、俺たちはちゃんと判ってやれるよって持ちかけたんだがね」
栗橋浩美は当初、まったくしゃべらなかったという。石のように黙りこくったまま、白目を剥いて床を睨んでいたのだという。
「あんまり意固地なんで、こっちもちょっと腹が立ってきてさ。暴力はいけないよってな説教をしたんだな。そしたらあのガキ──いや浩美がね、オレが殴ったんじゃないって言い出したんだ」
「だけど、殴りかかろうとしているところを止められたんでしょう?」
「そうだけど、最初に殴ったのはオレじゃないっていうんだ」
文子はゆっくりとまばたきをして社長の顔を見た。
「ほかに誰か一緒にいたっていうんですか?」
文子の問いから一拍おいて、社長はうなずいた。「そうなんだ」
文子はぞくりとした。その先は、聞かなくても予想がつくように思った。
申し訳なさそうに禿頭を撫でて、社長は言った。「それがその──お宅のな、息子さんだっていうんだ。高井がうちに遊びに来てて一緒に店番してた。で、あの婆さんを殴った。殴って逃げ出したって、こう言うんだよ。オレもびっくりした、騒ぎが起こってからは、何がなんだかわからなくなって、ただただ怖くて暴れてしまった、スミマセンて、ぺっしゃんこにうなだれてさ」
文子はちょっと声を失ってしまい、いたずらに指先を空に泳がせていた。ずっと黙っていた伸勝が、ぶすりと言った。
「うちの子供らは、今日の午後はプールに行ってた」
そうだよ、と、別の声がした。子供の声だった。文子は急いで振り返った。調理場の奥に、柱に隠れるようにして、由美子と和明の顔がのぞいていた。
「プール行ってたよ」と、由美子は繰り返した。つぶらな目をまん丸に見開いて。
どうやらふたりして、大人たちの話を盗み聞きしていたらしい。高橋社長の来訪が、昼間のパトカー騒ぎに関係ありそうだと知って、子供なりに好奇心を感じたのだろう。
由美子はびっくり仰天という様子で目を見張っているが、文子の見るところでは、和明の方は明らかに怯えていた。それもそうだろう、彼が今日、居もしない場所にいて、やりはしないことをやったと、友達が大人共にこっそりと告げ口していると聞かされたところなのだ。
珍しく、文子よりも先に伸勝が口を開いて、子供らを叱った。「そんなところに隠れていないで、出てきなさい」
「やあ、こんばんは。急におじゃましてゴメンよ」と、高橋社長もにわかづくりの笑顔を浮かべた。視線は和明の顔の上に注がれている。
観察されている方の和明は、不安そうにゆるゆると目を動かし、もじもじしていたが、その目が文子の目とあうと、黙ったままわずかに嫌々するように首を横に振った。(僕は今日、栗橋薬局になんか行かなかった)という意味なのだろう。(僕は何にも悪いことはしてないよ)
それは文子にもよく判っていた。それだけに、ほんの一瞬だが、びくついている和明を哀れに思う気持ちの底に、苛立たしさが走った。何も悪いことはしてないなら、もっとしゃきっとしなさい、どうしてそんなにいくじがないの?
「こっちへおいで」と、文子は呼んだ。高橋社長が(そりゃ、やりにくいよ)というような顔で彼女を見たが、文子には、当の和明抜きで、この先の話を聞くつもりはなかった。
「こっちへ来て座りなさい。さっきの話は聞いてたよね?」
文子が尋ねると、和明はおどおどとうなだれた。由美子は椅子にぴょんと腰かけると、悪びれる風もなく、うんと答えた。そしてひどく心配そうに大人たちの顔を見回した。
「栗橋君がおばあさんを殴ったって、ホント?」
思わず、文子はちょっと苦笑した。由美子にとって、栗橋浩美がただの「お兄ちゃんの同級生」以上の存在であることは判っている。今でこそそんなこともないが、和明と栗橋浩美が小学生だった頃は、由美子も始終彼らのそばにくっついていた。和明と栗橋浩美だけが幼なじみなのではなく、和明と由美子と栗橋浩美が幼なじみなのだ。そして今よりもずっと幼かった頃の由美子は、鈍くさい兄よりも、何をやらせても上手な栗橋浩美の方になついていた。
その気持ちの名残が、今も心に在るのだろう。由美子はひどく不思議そうに、困ったように顔を歪めて、自問自答のように呟いた。
「栗橋君、なんでお客さんを殴ったりしたんだろ? それになんで、お兄ちゃんがやったなんて言うんだろ?」
高橋社長が遮った。「まだ栗橋君がやったと決まったわけじゃないんだよ」
由美子は素早く切り返した。「そう? でも、お兄ちゃんがやったなんてこともないよ。お兄ちゃんもあたしも、今日は栗橋君と会ってもないよ。午前中は宿題してたし、二時にお店閉めてからプールへ行ったんだもん」
「ふうん、そうかあ。プールって学校のプール?」
「ううん、区のプール。若葉町の」
「ああ、そうか。じゃあバスに乗って行ったんだね? そうかそうか」
由美子に調子をあわせてうなずきながらも、高橋社長は注意深く和明の様子を見ている。栗橋浩美が、どれぐらいの説得力で高橋社長を説きつけたのかは知らないが、社長がここに、一応は和明側にこの話を報せておこう──という意図だけで来たのではなく、疑いを隠し持ってやって来たのは明らかだった。
「そうすると、栗橋君は何か勘違いをしてるわけかなあ、君はどう思う? えーと」
「和明です。カズアキ。娘は由美子といいます」と、文子は言った。
「そうか、和明君か」高橋社長は和明ににこにこと笑いかけた。「どう思う?」
和明は、しもぶくれの頬の端をわずかに震わせてうつむいている。社長がその顔をのぞきこもうとすると、まるで逃げるようにさらに深くうつむく。見ていられなくなって、文子は口を出した。
「すみません、和明はちょっと人見知りなんです」
「へえ、中学二年にもなって、それも商売屋の子なのに、珍しいねえ」
高橋社長は、和明にあまりいい印象を持っていないようだった。文子ははらはらした。こういう活動的な外向的な人は、ぐずぐずとはっきりしない子供とは、気があわないのだ。とりわけ、その子が男の子である場合はなおさら。
「プールで、誰か他の友達と会わなかったかい?」
由美子が答えた。「あたし、会った」
「誰と?」
「ノンちゃん。田中みのりちゃん。同じクラスの」
「由美子ちゃんとお兄ちゃんと一緒にいるときに会ったのかい?」
「ううん、そのときはお兄ちゃんは大人用のプールにいたから。わたしたちは子供用のプールにいた」
高橋社長は横目でちらりと和明を見た。和明は床を見ている。
「そうか、和明君は大人用のプールにいたのか」
「そうだよ。お兄ちゃんはあたしより泳ぎが上手いから。あたし、今日はお兄ちゃんに平泳ぎを教わったの。ね、そうだよねお兄ちゃん?」
妹の問いかけに、和明はようやく、下を向いたままのろのろとうなずいた。
「だから、栗橋君ヘンだよ。あたしたち今日、栗橋君とは全然会ってない」
「由美子、もういい」と、伸勝が言った。
「そんなことは最初から判ってる。栗橋の子はでたらめを言ってるんだ」
投げ出すような言い方だった。高橋社長は伸勝の顔を見ると、嫌な笑い方をした。
「まあ、怒らないでくださいよ、高井さん」
「別に怒ってるわけじゃありませんよ」
「私としても、事の後始末を頼まれた以上、事情を明らかにしなくちゃなりませんからね。関係者の言い分をひとつひとつ聞いてみないと」
「その、殴られて怪我をしたお婆さんは何て言ってるんですか?」と、文子は訊いた。
「その人に訊けば、いちばんはっきりするんじゃないんですか。誰に殴られたのか、お婆さんなら判るでしょう、当事者なんだから」
社長は大げさに手をひらひらさせた。「駄目ですよ、婆さんボケてるんだから」
「それだって、訊いてみなきゃ判らないじゃありませんか」
「訊いてみたけど、判らなかったんですよ。わけの判んないことをあわあわ言うだけでね」
だから私が苦労してるんじゃないですかと、押しつけがましい口調で付け足した。
「警察にお任せしたらどうなんでしょうね」
文子も業腹になって、そう言ってやった。すると高橋社長は大げさに目をむいた。
「とんでもないことを軽々しく言ってもらっちゃ困るなあ。警察沙汰になったら、商店街全体のイメージが悪くなるじゃないですか」
文子は吹き出した。「イメージだなんて、そんなの大げさですよ。デパートとかじゃないんですから」
だいたい、パトカーが来たことで、事件についてはもう近隣に知れ渡ってしまっているのだ。今さら隠し立てをしても始まらない。強いて穏便に済ませなければならない理由は、商店街の側には無いのだ。栗橋薬局と当の浩美の側にあるだけなのである。
「まあ、どっちにしたって子供のしでかしたことですからね。丸く収めるのは難しくないと思いますよ。私に任せておいてください」
長寿庵の人びとは誰も頼んでいないのに、高橋社長は勝手に請け負うと、膝をぽんと叩いて立ち上がった。「じゃ、そういうことで」
何が「そういうこと」なのか。「どっちにしろ」というのは正確にはどっちとどっちのことなのか。困惑一方だった気持ちに腹立ちが追いついてきて、文子は逆にすぐには口がきけず、そそくさと帰ってゆく高橋社長に、挨拶さえすることができなかった。
文子だけでなく、家族の誰も、社長に挨拶しなかった。伸勝は黙って太い腕を組み、口をへの字に曲げている。由美子も少しばかりくちびるを尖らせて、きょときょとと皆の顔を見回している。和明は相変わらず下を見ている。お客の居ない店内に、家族ばかりが四人集まって、なんでこんなに気まずいんだろうと、文子はそれにも腹が立ってきた。どうしてあたしたちが気まずい思いをしなくちゃならないんだ? 今夜、家族にとって、和明にとって、大切な話をすることになっていたはずなのに、なぜこんなことになってしまったのだ?
突然、腕組みしてどっかりと座り込んだまま、伸勝が呼びかけた。「和明」
うなだれていた和明は、びくっとして顔をあげた。あわただしくまばたきをして、父親を見上げた。
伸勝は息子と目と目をあわせた。そしてゆっくりと、太い声を出して訊いた。「おまえ、栗橋君と喧嘩でもしたのか?」
和明は目を見張り、ちょっと口を開けて、激しく首を横に振った。
「ちゃんと返事をしなさい」
和明はおろおろと文子を見た。母は助け船を出さなかった。黙って息子を見つめ、目顔だけで(お父さんにちゃんとお話ししなさい)と合図した。
つっかえつっかえ、和明は答えた。「け、ケンカとかはしてない」
「それじゃ、栗橋君と友達なんだろ?」
和明はかぶりを振った。それから、あわてて考え直したみたいに、「うん、友達」と言い添えた。
「どっちなんだ」
和明はひどくまごついたような顔をした。大人が子供に「神様って本当に居るの?」とか、「人間は死んだらどこに行くの?」とか尋ねられた時に浮かべるような、「本当のところは自分もよく知らないけれど、知っているようなふりをしていないとまずいし、ひょっとしたら、言葉で説明できないだけで本当は知っているかもしれないんだけど、自分でもよくわからない」というような顔だった。
やがて、まごついた顔のまま答えた。「友達、だと思う」
伸勝は腕組みをほどくと、大きくてごついけれど驚くほど色の白い手を両膝に置き直し、ため息をついた。
「そんなら、栗橋君はどうして、おまえがやってもいないことをやったなんて言ったんだろうな?」
「ヘンだよ」と、由美子が割り込んだ。「ヘンな話だよ。すっごいメチャクチャ──」
「おまえはちょっと黙っていなさい」
由美子はむくれて口をつぐんだ。
「和明、おまえは今日、由美子に平泳ぎを教えるために、一緒に区営プールへ行ったよな?」
和明はうなずいた。「うん、行った」
「栗橋薬局には行ってないよな?」
「行ってない」
「浩美君にも会ってないな?」
「会ってないよ」
「じゃあ、薬局のお客のお婆さんを殴ったりするわけないよな?」
和明は勢いよくうなずき、それから、初めてしゃんと首をあげると、答えた。「僕はおばあさんを殴ったりしていません」
伸勝も深くうなずいた。ほうっと大きく息を吐くと、言った。「お父さんも、おまえがそんなことをするはずはないと思うし、今日そんなことをやったはずはないと思う。つまりな、栗橋君は嘘をついたんだってことになる。だがな、どうして友達の栗橋君が、嘘をついておまえにぬれぎぬを着せる──この言葉の意味は判るな?──ようなことをするんだろう」
和明がためらっているあいだに、素早く由美子が割り込んだ。「栗橋君、ウソついたりしないよ」
「由美子」と、文子はたしなめた。が、由美子は頬をふくらませて父と兄の顔を見回した。
「栗橋君はウソつきなんかじゃないよ」
伸勝は怒らなかったし、怖い顔もしなかった。微笑して、由美子に訊いた。「だけどな、さっきまでの話を聞いてると、栗橋君が嘘をついてるとしか思えないんだ。由美子はそれをどう思う? それとも、栗橋君じゃなくてお兄ちゃんが嘘をついていると思うのか?」
由美子はじれったそうに足をばたばたさせた。「そんなこと言ってないよ。お兄ちゃん、由美子と一緒にプールにいたんだもん。そいで、帰ってきたら、うちの前を商店街の方に向かってパトカーが走って行ったんだよ」
「じゃあ、お兄ちゃんは本当のことを言ってるんだ。だったら、栗橋君がウソを言ってるってことになるよな?」
「違うよ」
「何が違う」
「栗橋君はウソつくような人じゃないもん。だからさっきからヘンだって言ってるじゃん」
「何がヘンなんだ」
「話がヘンなんだよ。栗橋君があんなこと言うはずがないし、だいいちおばあさんを殴ったりするはずないんだよ。最初のところから話がヘンなんだよ」
懸命に説明し、栗橋のために釈明しようと頑張る由美子のそばで、文子は和明の顔を見ていた。妹が、栗橋君はウソをつくような人じゃないと言った瞬間、和明ははっと目を見開いて由美子の横顔を見た。そしてそのとき、何かが急に、彼の内側でしぼんだみたいに見えた。どちらかと言えば大柄の、やや太り気味の和明だが、その身体に宿っている魂はきわめて小さくて、大きな身体という「巣」のなかで、翼を縮めている雛《ひな》に過ぎない。今、由美子が栗橋浩美をかばう言葉を聞いたとき、その雛が、いっそう小さくなって巣の奥に隠れていこうとするのを、文子は感じた。
「由美子はね、栗橋君はいい人だと思う」由美子は父に向かって熱弁をふるっている。
「おばあさんを殴っただなんて、ホントにそんなことあったのかな? なんかすごくヘンだって思う。由美子がヘンだって思うのはそこんところ」
高橋社長に向かっては「あたし」と自己主張していた由美子が、親と話すときには、甘えたように「由美子はね」と言い始める。それでも、真剣な訴えかけであることは間違いなかった。
そのとき、いきなり悟りを開いたみたいに、文子は気づいた。由美子がこうだから──由美子が「幼なじみ」の栗橋浩美を好いて、信用しているから、和明も何も言えないで黙っているのではないのか。
さっきの伸勝の問い、「栗橋君は友達か」という問いに、和明は最初かぶりを振り、それからあわてて「うん、友達」と言い添えた。あれも由美子の気持ちを| 慮 《おもんばか》ってのことで、和明と栗橋浩美のあいだには、何かひと言では説明しにくい、こじれたものが存在しているのではないか。彼らは大人の思う「友達」などでは無いのかもしれない。何か歪んでいるのかもしれない。そうでなかったら、どうして栗橋浩美が和明にぬれぎぬを着せたりするだろうか。
一生懸命に栗橋浩美をかばっている由美子の傍らで、不器用に口ごもってうつむいている和明を見ていると、文子は、哀れさで胸が詰まりそうになってきた。それに今夜は、家族でこんなことを話し合うはずじゃなかったのだ。
「由美子、もういい」と、文子はさえぎった。
「あんたはもう寝なさい」
「だけどお母さん──」
「寝なさい」
由美子は応援を求めるように父親の顔をみたが、伸勝は太い腕を深く組み、怖い顔で床をにらんでいる。由美子は不満そうに立ち上がった。
三人だけになると、文子は今日柿崎先生が訪ねてみえたことを話し始めた。そして、和明には視覚障害があるのかもしれないという話もした。和明は最初うなだれていたが、だんだん顔をあげ、ぽかんと口を開け、母親の言葉の意味がとりにくいところには質問を返したりして、熱心に聞き入った。
「僕が悪いんじゃないってことかあ」と、なんだか手品の種明かしをしてもらったみたいな顔をした。
詳しいことはまた明日──と、話を終えて和明が寝てしまってから、文子は風呂に入った。ひとりになると、なぜだか判らないが泣けてきてしまい、どうしても我慢ができない。自分で自分が泣いているのを見るのが嫌だったから、風呂場の鏡から目をそらし、やたらに顔をざぶざぶ洗った。
由美子の記憶では、兄は、彼女が話し合いの場を追い出されたあと、一時間以上も階上《 う え 》に戻ってこなかった。自分だけつまはじきにされたことが大いに面白くなく、何を話しているのかと、何度か階段の途中まで降りて行って聞き耳を立ててみたが、母のぼそぼそとした声がわずかに聞き取れただけで、話の内容は判らない。
──あたしだってもう子供じゃないんだ。
それに、いつだってグズでボヤッとばっかりしているお兄ちゃんよりは、あたしの方がずっといろんなことをよく判ってるのに。
由美子にとって兄の和明は、まだ由美子の語彙《 ご い 》では言い表すことのできない、由美子の理解力では自身でも把握し認識することの難しい、複雑な感情を呼び起こす存在だった。
和明はいつだってトロくて、ノロくて、さえなくて、ここいちばんというときに狙ったように失敗をする、駄目な兄さんだった。今まで、数え切れないほどの回数、こんな兄さん居なくなってくれればいいのにと思ってきた。誰かに、叱ったりしないから本当の正直なところを言ってごらん、あんたはお兄ちゃんが好きかいと問われたら、ためらいもなく「嫌い」と答えたろうし、「居なくなってくれたらどんなにかスッとするのに」とも言うだろう。
しかし──しかしそれは本当に正直な本音であるのか。
幼い由美子には、まだそれが判らない。こんなにイライラさせられるお兄ちゃん、草野球で三振ばかりして、トロトロ走ってベースにつまずいて、相手方ばかりか味方のベンチからも大笑いをされる、そして笑われているのは自分なのに、鈍重な顔をして頭をさすりながらいっしょになって笑うお兄ちゃん。だが、本当にそんなお兄ちゃんが大嫌いならば、どうして、お兄ちゃんがひとりで机に向かって宿題をやっている後ろ姿を見て、なんだか切ないような気持ちになったりするのだろう。お店でお釣りを間違えて、お客さんに叱られているお兄ちゃんを見ると、そのお客さんに対して腹が立つんだろう。
どうしてお兄ちゃんをバカにしきってしまうことができないんだろう?
そうなのだ。問題はそれなのだ。居なくなってくれればいいと思ってるくせに、どうして、今日みたいに、お兄ちゃんがやりもしないことをやったなんて言われると、腹が立つんだろう? お兄ちゃんのことなんかどうでもいいって放っておかれないんだろう? 由美子は寝つかれず、パジャマのまま机に向かって日記を書き始めた。まとまりのつかない自分の気持ちをそのままぶつけて書きなぐっていると、やがて階段をのぼってくる足音が聞こえた。急いでドアから顔を出すと、和明が居た。
「お兄ちゃん、どうなった?」と、由美子はつっけんどんに訊いた。「栗橋君のこと、どうなった?」
和明はぼうつと顔をあげて由美子を見た。眠気もないのか、象みたいに小さい目がぱちぱちしている。
「由美子、お兄ちゃんは目が悪いんだってさ」と、妙に急《せ》いたような口調で言った。「目が悪いんだって」
「何よ、それ。あたしそんなこと聞いてない。お兄ちゃんと栗橋君のこと──」
目が悪いんだってと呟くように繰り返し、和明は自分の部屋に入っていった。
「バカ」と、ののしって、由美子は階段の下の方へ首を伸ばした。もう一度階下に降りて、お父さんとお母さんにあたしの意見を聞いてもらおうか──
迷っているうちに、階下の明かりが消えた。風呂場のたてつけの悪い引き戸が開け閉《た》てされる音が聞こえる。由美子は諦めて、部屋に戻った。
それから一週間ほどのあいだ、栗橋薬局で起こった事件や、栗橋浩美のその後についての情報が入ってくることはなく、由美子はずいぶんとイライラした。薬局は閉まっており、浩美は家にはいないのか、いても閉じこもっていて出てこないのか、まったく姿を見せない。
高橋社長が事件のことで何か言ってくるということもなく、長寿庵は普通に営業し、由美子はそれまでと同じ夏休みの生活のなかに戻らざるを得なくなった。事件のことが知りたいし、栗橋浩美のことも心配だったし、あの栗橋君がどうしてお兄ちゃんがやったなんてウソをついたのか、その理由も知りたい。それなのに、誰も彼もあんたにもあたしにも関係のないことでしょというような顔をしている。文子に「プールへ行かないの」と訊かれたり、伸勝に「アイスクリームでも食うか」とか声をかけられたりするたびに、そんな場合じゃないでしょ! と叫びたくなるのだった。
その一方で、和明は何やら忙しげだった。毎日のように学校へ行っては──水泳部の練習日でないときも──なんとなく興奮したような顔で帰ってくる。柿崎先生から電話がかかってくることもあり、そういうときは、まず文子が出て、和明に代わり、また文子に受話器が戻って、長々としゃべっている。
「そうですか、で、検査は──」
「はあ、研究室が夏休みで──」
「はい、それはもう本当に有り難いです。和明も救われたみたいに嬉しそうで──」
よく判らないことを言っている。
実はこの件も、由美子にとっては不可解な不満となっていた。父も母も和明も、誰も由美子にちゃんとした説明をしてくれないのだ。
「お兄ちゃん、目が悪いってどういうことよ?」
尋ねると、和明は汗をかきかき説明してくれようとするのだが、それが相変わらず要領を得なくて、全然判らない。片目が見えてないとか言ってるけど、どういうこと? そんなのウソだよ、だってお兄ちゃん、片っぽずつ目をふさいだってちゃんと歩けるじゃない。
仕方がないので母に尋ねても、こちらもストレートな説明をしてくれない。
「実はね、ちょっと難しいお話で、お母さんにもよく判ってないのよ」と、文子は言う。ただ、その顔は明るくて、何かをとても楽しみにしているような、期待しているような感じだ。
「由美子にいい加減なことを教えたくはないから、ちゃんとしたことがはっきり判るまでは、まだ話さないでおくね。でも、悪いことじゃないのよ。お兄ちゃんにとってはすごくいいことなの」
伸勝は伸勝で、「お母ちゃんに聞きな」と言うだけだ。何を訊いても、大きな岩に向かって話しているようなものだった。
由美子は大いに不満だった。今までこんなことはなかった。三人でタッグを組むなら、そのメンバーはいつだって父と母と由美子の三人だった。その三人で、和明の勉強ができないことや、動きが鈍いことや、友達にバカにされていることを心配したり、対策はないかと考えたりしてきたのだ。
父と母と和明の三人のタッグなんて、許せない。だいいち、それで何を相談するというのだ。何が「お兄ちゃんにとってはすごくいいこと」だ。
家のなかで、由美子は一日中ぶつくさ文句を言ったり、当たり散らしたり、ワガママを言ったり、そのために伸勝や文子に叱られたりして、どんどんスネていった。
あの日──そう、薬局での事件の後、初めて栗橋浩美を見かけたのは、あれは八月の十五日、お盆のど真ん中だった。長寿庵も、十三、十四、十五日の三日間連休をとっており、十三日と十四日は、家族で一泊で大洗《おおあらい》海岸まで遊びに行った。十五日はのんびり休養日で、明日からまた忙しいんだから、今日ぐらいは昼寝だと、伸勝は朝からごろごろしていた。文子は買い物に行き、和明は友達のところで宿題をするとか言って、やはり昼前から外に出ていた。
由美子はひどく気がふさいでいて、友達と遊ぶ気持ちにも、家にいて父親と一緒に留守番をする気分にもなれなかった。実は、家族旅行の大洗海岸でも、何か小さなことで和明にイチャモンをつけ、とうとう帰りの電車のなかでは、伸勝にひどく叱られてしまったのだった。
由美子の仲のいい友達は、家族で帰省したり旅行に行っていたりして、みんな留守だ。こんなに落ち込んでいるときに、あまり親しくない友達と遊ぶのは気が進まない。
結局、自転車に乗って図書館に行くことにした。あそこならクーラーがきいていて涼しいし、夏休みは書架コーナーも閲覧室もいつも混み合っているけれど、お盆休み中の今ならガラガラだろう。
思った通り、図書館の自転車置き場には、いつもの十分の一くらいの台数の自転車しか停められていなかった。由美子は宿題のドリルと筆箱を入れたお稽古袋をさげて、軽い足取りで図書館へ入っていった。いつもなら雑誌を読んだり新聞を広げたりしている大人たちでいっぱいのロビーも空いていて、ふかふかのソファの席がみんなあいている。由美子は走っていってそこに腰をおろした。
しばらくのあいだ、そこで映画雑誌を見たり、ちょっと怖くて面白そうなミステリーを読んだりした。サンダルを脱いでソファの上に足をあげていたが、司書の人たちも何もとがめ立てせず、のんびりとしたムードだ。そうして、由美子が二冊目の映画雑誌のアニメの新作のページを読んでいるとき、バタン! と、飛び上がるような大きな音がした。
びっくりして目をあげた。司書の人たちも、カウンターから乗り出すようにしている。彼らが閲覧室のドアの方に目を向けているので、由美子もそちらに目をやった。
そこに、栗橋浩美がいた。
閲覧室のドアの前に立っていた。彼一人ではなく、彼と同じくらいの背格好の、由美子の知らない少年と二人でいる。そして、状況から見ると、今の大きな物音は、栗橋浩美か彼と一緒にいる少年のどちらかが、閲覧室のドアを凄い勢いで閉めた時のものであったようだった。
カウンターのいちばん端にいた男性の司書が、ふたりの少年に声をかけた。
「君たち、ドアは静かに閉めるんだよ」
由美子は、栗橋浩美たちが当然、「すみません」とか「ごめんなさい」とか言うと思っていた。が、ふたりの少年は司書の言葉をまるで無視した。ふたりで書架のコーナーの方へ真っ直ぐに歩いていく。
カウンターの男性司書は顔をしかめた。隣の女性司書と何か小声で会話すると、もう一度閲覧室のドアの方へ厳しい視線を投げつけてから、仕事に戻った。
ロビーのソファに座り込んで、由美子は目を見張っていた。心臓がどきどきした。あんな態度をとる栗橋浩美を見たのは初めてだ。
確かに、由美子は、中学生になってからの栗橋浩美をよく知らない。だが、一緒に遊んでもらった頃の彼のことなら、何だって知っている。優しくて頭がよくてスポーツができて、それに女の子の由美子がうらやましくなるような大きな綺麗な二重《ふ た え》瞼《まぶた》の目をしていて、うちのお母さんだって、「栗橋君は大きくなったらハンサムになるだろうね」と言ったことがあった。
由美子はサンダルを履くと、書架コーナーの方へと歩き出した。そこここにぽつり、ぽつりと人がいるが、今日は本当に空いている。探さなくても、栗橋浩美ともうひとりの少年の姿は、すぐに見つけることができた。
ふたりで由美子の方に背中を向け、書架コーナーのいちばん奥に立っている。由美子は書架の上にかかげられている番号札と、分野別の見出しを見た。彼らが立っている書架は「法律」の書架だった。
栗橋浩美は、もうひとりの少年が手に持って広げている辞書みたいに厚い本をのぞきこんでいる。ひどく難しそうな本なのに、ふたりはにやにや笑っている。由美子は足を止めた。彼らに近づいていいのかどうか──どんなふうに近づいたらいいのか──
そのとき、栗橋浩美の連れの少年が、気配を感じたのか、つと顔を上げた。その目が由美子を見た。彼は栗橋浩美に小声で何か言った。すると栗橋浩美も難しい辞書みたいな本から目をあげて由美子を見つけた。
由美子は立ちすくんだ。急に顔が赤くなるような気がした。こうして会うのは久しぶりだ。こんにちはと言えばいいんだろうか?
書架の前で、ふたりの少年は何か早口に話し合うと、やがて、栗橋浩美は由美子の方に一歩足を踏み出した。
「由美ちゃんじゃないか。カズも一緒に来てるのかよ?」
栗橋浩美の声は、由美子の記憶にある声より、もっとずっと大人びているように聞こえた。大人の男の人みたいに。
由美子は急いで首を振った。
「へえ、珍しいな。カズひとりじゃどこにも行かれないからさ、しょっちゅう妹とつるんでるんだぜ」
栗橋浩美のこの言葉は、由美子にではなく、連れの少年に向かってのものだった。バカにしたような口調で、あきらかに悪意があった。「こんにちは」と、由美子は頭を下げた。そして図書館を出ていこうと思った。急に逃げ出したくなったのだ。こんな雰囲気、こんな栗橋浩美は好きじゃなかった。
「ちょっと待てよ、由美ちゃん」栗橋浩美が呼び止めた。「カズは何してる?」
由美子はおどおどと振り返った。栗橋浩美は「法律」の書架を離れ、由美子の方に歩いてこようとしていた。
「俺のこと裏切りやがって、カズは何やってんだよ、え?」
栗橋浩美の連れの少年が、ふふっと笑った。笑いながら、手に持っていた大きな辞書みたいな本を、鋭い音をたてて閉じた。
由美子は周囲を見回した。だが、左右を見ても振り向いてみても、開架式の書架のあいだには、ほかに人影は見えない。この「法律」とかその隣の「化学」とか、うしろの「人文・社会」とかのあたりの書架は、いつもあまり人気《ひと け 》がないのだ。
栗橋浩美はずかずかと由美子に近づいてきた。床に絨毯《じゅうたん》が敷き詰められているので──乱暴な利用者たちのために、ところどころ剥げたり破れたりはしているが、まだ充分に用はなしている──足音はたたない。音もなく、書架のあいだをすり抜けるようにして由美子のそばに迫ってくる。その瞬間、由美子は、バカ気た妄想に──大人なら一笑に付してしまうようなおかしな錯覚にとらわれそうになった。
栗橋君は死んでしまったのだ。きっとそうだ。今、ここにいるのは栗橋君の幽霊だ。だから足音がしないのだ。だからこんなに怖い顔をしていて、あたしは恐ろしくってしょうがないんだ。だってそうでなきゃ、どうしてあたしが栗橋君のことを怖いなんて思ったりするだろう?
栗橋浩美の幽霊は、由美子を見おろすようにして立ちはだかると、彼女の夏服のワンピースの襟首をつかんでねじあげた。
「カズは何やってんだよ、あのトロいデブはよ、え? 答えろよ」
栗橋浩美は由美子よりも三十センチくらい背が高い。だから、そうやって持ち上げられると、襟首が絞まって息が苦しく、由美子は声を出すこともできなくなった。少しでも襟首に加えられた圧迫を緩め、呼吸を楽にするために、必死で背伸びをした。足をじたばたさせているうちにサンダルが片方脱げてしまい、そのために余計にバランスがとりにくくなって、なおさら首が絞まった。
「お、兄ちゃん」と、かろうじて由美子は言った。栗橋浩美の問いに答えようとしたわけではなく、無性に怖くて苦しくて、思わず口走った言葉がそれだった。
「──お、兄ちゃん」
栗橋浩美は由美子の身体を揺さぶった。由美子の後頭部が、書架のスチール製の棚にぶつかってごつんと音をたてた。
「兄ちゃんがなんだよ。低能のくせしてよ、俺に逆らいやがって、生意気なんだよ。絶対許さないからな。俺がそう言ってたって、カズに言っとけよ、いいな?」
そう言いながら、もう一度由美子の頭を書架にぶつけようと、大きく揺さぶった。由美子は思わず目をつぶった。さっきより大きな音がして、つぶった目の裏に火花が飛んだ。
目を開くと、涙がこぼれ出てきた。くちびるがぶるぶる震えて、頬を伝って流れる涙を受け止めた。
そのとき、通路の方向から鋭い声が飛んできた。「君たち、何してるの?」
大人の女の人の声だった。途端に、栗橋浩美は由美子を突き飛ばすようにして、襟首をつかんでいた手を離した。その目はもう由美子を睨みつけてはおらず、声が飛んできた方向を見ていた。涙でかすんだ由美子の目に、栗橋浩美の横顔が見えた。と思ったら彼は消えた。逃げ出したのだ。本が絨毯敷きの床の上に落ちる、ばさりという音がした。
「こら、待ちなさい!」
女の人の声は叫んだが、逃げ出した栗橋浩美を追いかけてゆく様子はなく、すぐに由美子に近寄ってきた。
「大丈夫?」
目をあげると、さっきカウンターに座っていた女性司書の顔がのぞきこんでいた。由美子は「大丈夫です」と答えようとしたのだが、口がわなわなしてしまって、うまくいかない。
栗橋浩美と、彼の友達であるらしいもうひとりの男の子の姿は消えていた。
「あの男の子たちに脅かされたかなんかしたの? お金をとられたとか?」
由美子はかぶりを振り、それからやっと声を出した。「ち、ちがいます」
「彼らは中学生よね? 知らない子たちなの?」
本当はそうではなかったけれど、由美子はうなずいた。司書の女の人は、由美子の泣き顔を上から下まで眺め回すと、喧嘩沙汰を起こした子供たちを諌《いさ》めるときの大人の顔──向こうも悪いけれどあなたもいけない、そもそも喧嘩することそのものが悪い──というような顔をした。
「怪我はしてないかしら。痛いところはない?」
「はい」
本当は頭がずきずき痛んでいたけれど、由美子はウソをついた。言葉とは裏腹に、女の人の口調と表情は、(怪我なんかされてたらあたし嫌になっちゃうわ)と言っていたから。
「あなたはまだ小学生よね? 図書館にはひとりで来たの? おうちに帰った方がいいと思うけど」
「はい、帰ります」
由美子はうつむいたままうなずいた。
さっき脱げてしまったサンダルの片方は、おそらく栗橋浩美が逃げ出すときに蹴飛ばしたのだろう、最初に彼らが立っていた「法律」の書架の下のところにまで転がっていた。そしてそのすぐそばに、辞書みたいな厚い本が一冊、裏表紙を上にして落ちていた。
司書の女の人もそれに気がついた。身をかがめ、由美子のサンダルを拾って足元まで持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
それから、辞書みたいな本を拾い上げて、背表紙のタイトルと蔵書ナンバーを調べ、「法律」の書架の上から五番目の棚のいちばん端に、その本をすべりこませた。そしてカウンターの方へ戻っていった。
由美子はまだ心臓がどきどきして、膝も震えていた。自分を元気づけるために大きくひとつ深呼吸をしてみたが、その息もひゅるると法えたような音をたてた。
涙の跡を消すためにごしごしと顔をこすった。うちに帰って、図書館で泣いたことがバレたら嫌だ。だって、どうして泣いたのかと尋ねられても、うまく答えられそうにない。この前はあんなに──あんなに一生懸命に栗橋君のことをかばってあげたのに、今日になって悪口を言うなんて、そんなのスゴく変なことだろう。そんなのは、正しい事じゃないような気がする。いや、たとえ正しい事であったとしても、お父さんもお母さんもそうは思わないだろう。由美子のことを、デタラメを言う子だと思うだけだろう。
図書館のトイレで顔を洗って帰ろう──そう思って、由美子は歩き出した。頭が痛い。そのせいでまた涙が出てきそうになった。
その場から二、三歩離れると、怖いことから逃れられたことをもう一度確認するようなつもりで、「法律」の書架の方を振り返らずにはいられなくなった。そうしてじっと見つめると、さっき司書の女の人が拾い上げて片づけたあの本、栗橋浩美の友達の男の子が手に持っていた辞書みたいに厚いあの本が、書架のなかに収まってこちらに背表紙を向けているのが見えた。何の本だろう?
タイトルは、『六法全書』と読めた。
幸い、両親の鋭い目から、昼間泣いたことや怯えたことを隠し通すことには成功したらしい。夕食時にも、父も母もいたって上機嫌で、さかんに、昨日は面白かった、来年は二泊か三泊して海水浴に行きたいねなどと言っている。とりわけ母の文子は、このところずっと──柿崎先生が訪ねてきた日以来──楽しそうな、心配事がひとつ滅ったような明るい顔をしており、それはちょっと浮わついているようにさえ見える一ほどで、由美子の様子がおかしくても、ほとんど気がつかないんじゃないかとも思えた。
家に帰ってからそっと調べてみると、頭の後ろに、指で触ると飛び上がるほど痛い部分ができていた。なんとなく腫れているような感じもする。頭全体が重たくて、傷は後頭部にあるのに、こめかみの方までずきんずきんと痛むような時もあった。
それでも由美子は、父母には何も言わなかった。もしも気づかれてしまったら。「自転車で転んで」とか、「よそみしていて電柱に頭をぶつけて」とか、言い訳をすればいいけれど、でもそれがうまく行くかどうかわからない。言い訳しているうちに悲しくなってきて泣き出してしまったら、お父さんやお母さんだっておかしいと思うだろう。
だけど、栗橋浩美に怪我をさせられたなんて、口に出すことさえ恐ろしい。一度言葉にしてしまったら、それが本当になってしまう。栗橋君があんなふうになるなんて、あってはならないことなのだ、由美子さえ黙っていて忘れてしまえば、あれは無かったことになる。
夜八時を過ぎたころ、自分の部屋でぼんやりとしていると、お風呂に入りなさいと文子に声をかけられた。
「今、お兄ちゃんがあがったところだから。早くしなさい」
「あたし、今日はお風呂いい」
「何言ってるの、汗だくでしょ、お風呂に入らないわけいかないわよ。浴びるだけでもいいから」
のろのろと身体を起こして、由美子は頭の後ろに手をやった。腫れている部分にふれると、ずきんとした。
(お風呂に入ったら、まずくないかなあ)
もっと頭が痛くなってしまうかもしれない。
ためらっていると、階下から文子の急かす声がした。休日だから全体にのんびりしているけれど、うちのお母さんは根が厳しいお母さんなので、理由もなしに言うことを聞かずにぐずぐずしていると、ぎゅっと怒り出す。仕方なく、由美子は部屋を出た。
階段をのぼってくる足音がした。和明だった。バスタオルを頭からかぶり、半袖のパジャマの前を開いて扇《あお》いでいる。昨日一日でまた一段と陽に焼けてしまい、階段や廊下の暗がりに入ると、歯並びしか見えないみたいなお兄ちゃんだった。
由美子は何も言わずに兄をやり過ごそうとした。しかし和明は、階段を上りきったところで立ち止まり、大きな頭をちょっとかしげるようにして由美子を見た。
「どいてよ」と、由美子は言った「お風呂に入るんだから」
和明は動かない。困ったように口をもごもごさせて、それからやっと言った。「由美子、今日泣いただろ」
由美子はきゅっと顔を上げた。
「図書館の帰り、泣いてただろ」
「なんでそんなこと言うんだよぉ」と、由美子は口を尖らした。「バカじゃないの、お兄ちゃん」
珍しく、和明は妹にやりこめられなかった。
「だけど俺、見たからさ、図書館の前の通りの信号のとこで。由美子、頭の後ろのところをさすってベソかいてたろ?」
びっくりした。「お兄ちゃん、いたの?」
「うん。秦野《はた の 》のアパートは図書館の方だから」
秦野というのは、和明が今日遊びに行っていた友達のことだ。
「誰かと喧嘩して、頭ぶたれたのか? 痛そうだったもんな。ちゃんとお母さんに言って、薬つけてもらえよ」
ひどくどぎまぎしてしまって、由美子は何も言えなかった。確かに頭の傷は痛いし、時間が経ってもちっとも痛みが消えないので、心細くなってきたところでもあった。
お兄ちゃんなんか関係ないとか、人のこと勝手に見てないでよとか、いろいろ言ってやろうとぐるぐる考えた。無視して行ってしまうという手もあった。お兄ちゃんなんかバカでグズなんだから、大嫌い。
だけれど、口からこぼれ出た言葉は、ぐるぐるひねりまわしていたどんな考えや言い訳や非難や作り話とも違っていた。
「お兄ちゃん」と、由美子は訊いた。「お兄ちゃん、栗橋君を裏切ったの? お兄ちゃん、栗橋君に何をしたの? 栗橋君、すっごくすっごく怒ってたよ」
だからあたし、ぶたれたんだ──そこまで言うと、泣きベソ顔になってしまった。
結局、その夜、由美子は風呂に入らなかった。和明が由美子を連れて下に降りて、両親に声をかけたからだ。
「ちょっと相談したいんだけど……」
彼がこんなふうにしっかりと妹をリードするなど、高井家では前代未聞の事態だった。(由美子は昼間、栗橋浩美に出くわした時と同じくらいびっくりしていた。後になって考えれば、長いこと自分を苦しめていたコンプレックスの元凶が視覚障害であったかもしれないと教えてもらったことで、短いあいだに、兄が急速に自信をつけたのだということが、由美子にも理解できたけれど、なにしろそのときにはまだ何も判らないので、このお兄ちゃんはお兄ちゃんそっくりの顔をしたサイボーグかなんかじゃないかというふうにさえ思っていた。栗橋浩美の幽霊と、高井和明のサイボーグ)
怖かったことを思い出して、由美子はまたベソをかいていた。和明は由美子の気持ちを代弁するように、一生懸命にしゃべって、昼間の出来事について説明した。驚きで目を見開いて話を聞き終えた両親は、つい先ほど由美子が兄に投げかけたのと同じ質問を、和明に問うた。
「栗橋君の言う、あんたが栗橋君を裏切ったっていうのは、どういうこと?」
和明はいったん口をつぐむと、小さな目をしばしばさせた。鼻の下に汗の粒が浮いている。生まれ変わったような気分の高井和明であっても、自己表現が下手だったり、語彙が少なかったりすることについては、以前と変わってはいない。
彼は今、目隠しをした人の手を引いて、その手を導き、目の前にある複雑な形をしたものに触れさせて、その複雑な形をしたものが何であるのか、言いあててもらおうとしているのだった。正しい順番に、正しい方向に導かなくては、正しい答は返ってこない。だからとても緊張した。なぜなら、和明自身が、ほかの誰よりも切実に、その「複雑な形をしたものが何であるか」という問いの答を必要としていたからだ。彼ひとりでは、その謎が解けないから。彼には、その「複雑な形をしたもの」の正体が判らないから。
「あのね」と、和明は口を切った。言葉を探すように、口のなかでしばらく舌を転がしてから、
「オレはね、ホラ頭が悪いから」
「悪いんじゃないわよ」と、すかさず文子がさえぎった。
「うん、うん、判ってる。判ってるけどさホラ、ずっと頭悪いってことになってたでしょ?」
不承不承、文子はうなずいた。
「そいでね、だから友達ってすごく少なくてさ、栗橋はね、すごく……なんていうか、大事な友達なんだよ、オレにとってね」
「うん、うん」と伸勝が声に出してうなずいた。
「だからオレたち、いろんなことを話したりしてきたんだよ。たとえばね、オレ、どうしてオレは頭悪くて、先生の言うことがひとつもわかんないんだろうって、栗橋にきいてみたりしたこと、あったんだよ」
文子はゆっくりとまばたきすると、訊いた。
「栗橋君はなんて言ったの?」
「生まれつきだから、しょうがないって」
文子の目が怒りで光った。
「だけど、そういうの可哀想だから、オレはおまえの面倒みてやるぜとか、それも言ったんだ。それでオレ、いつも栗橋にくっついてきたでしょう」
それは、和明の言う通りだった。
「なんかね、栗橋がいないと、オレひとりじゃ何にもできないようなね、そんな気がしてて。だから栗橋に嫌われたら困るって、ずっとそう思ってた」
和明は丸々と太った肩をすぼめて小さくなり、首を縮めた。
「だから、栗橋の言うことなら、何でも聞かなきゃいけないんだって思ってた」
文子はふと気がついた。今まで和明は、家族の皆がそれと意識することができないほど頻繁に、この姿勢、この顔つき、この格好を見せてきた。これがこの子のスタイルだった。この子の生活だった。同じ歳の子供の言うことを、何でも聞かなきゃいけないと、自ら思い決めた生活。
重い口を開いて、伸勝が訊いた。「そりゃ、具体的にどういうことだ? 栗橋君の言うことを何でも聞いてやるというのはさ」
質問という形で話の方向を示してもらって、和明はほっとしたようだった。父親の顔をちらっと仰ぎ、その顔が怒っていないことを確かめてから、言った。
「たとえばね、栗橋が何か忘れ物をしたとするでしょ? 小学校のころなんか特に、うちからつまんない物を持っていかなくちゃならないこと、あるじゃん」
自分が台詞を言う番が来たことに気づいたみたいに、由美子が急いで言った。「工作に使う牛乳パックとか、空き缶とかそういうの?」
「そうそう。でね、栗橋がそういうものを忘れたときは、オレが持っていったのを寄越せって言うんだ。最初っからオレがふたり分用意して持っていったこともけっこうあった」
「それでお前は黙って渡してやるのか?」
「うん」
「そうしないと殴られたり苛められたりするからか?」
「そういうこともあった」和明は素直にうなずいた。「けど、何もされないことも多かった。だけど、オレ、何もされないのも怖かったから」
文子は夫に言った。「だから、それがさっきからこの子の言ってることなのよ。栗橋君以外に友達がいなかったって──」
伸勝はむっつりと腕を組むと、顎の先が胸にくっつきそうなほどに深くうなだれた。
父親のその様子に、和明はまた身を縮めた。お父さんは僕を恥じている、僕を「イクジナシ」だと思ってる──
「よく判ったよ、和明」と、文子は声を励まして言った。「あんたと栗橋君は、そういう形で友達だったんだね」
出し抜けに、吐き出すように、伸勝が言った。「そういうのは友達じゃねえ。奴隷じゃねえか」
「あんた」文子は伸勝を諫《いさ》めた。「今はこの子を叱るために話を聞いてるんじゃないのよ」
そして和明に向き直ると、彼の膝に手をのせて、そっと揺すった。
「よく判った。あんたは今まで、そうやって栗橋君の言うことを聞いてあげてきた。そうすると、栗橋君がやったいたずらをかぶってあげたり、栗橋君の代わりに先生に叱られたりしたこともあったんだね?」
和明はこっくりした。目がせわしなくまたたいて、父親の表情をうかがっている。
「ずっとそうだった」
文子は、自分自身に言い聞かせ、事実を納得させるために繰り返した。
「ずっとそうやって付き合ってきた。だけど今度のことでは、勝手が違った。栗橋君が薬局のお客さんを殴って、騒ぎになって、大人たちに叱られそうになったとき、やったのは僕じゃない高井和明だって嘘をついたけど、あんたは今度は、その嘘に話を合わせてあげる気持ちがなくなっていた。そうだね?」
和明は縮こまってうなずいた。
「そんなに小さくならなくていいんだよ。あんたは悪いことをして謝ってるわけじゃないんだから、あんた、今度という今度は栗橋君の言いなりにならなかった。それは立派なことだったんだから」
「だけど、だから栗橋君はあんなに怒ってたんだね」と、由美子は言った。独り言に近い呟きだった。「あたしのこと、ぶつくらいに」
「そう。だから、お兄ちゃんのことを『裏切り者だ』なんて言ったのよ」と、文子は言った。どう抑えても、声に怒りが顕《あらわ》れてしまった。
「だけど、どうして?」文子は和明の顔をのぞきこんだ。「今度は、栗橋君の言いなりにならなかった。そういう──勇気が出せた。どうしてそれができたんだろう? お母さんにそれを教えてよ、やっぱり、柿崎先生にいろいろ力になってもらったから? それとも、あんたの成績がよくないのは、あんたが悪いんじゃなくて目が悪いからだって、判ったから──」
和明は顔をあげ、急いでかぶりを振った。
「違うよ、そうじゃない。お母さんから、僕の目が悪いんじゃないかって話を聞いたのは、栗橋がお客さんを殴った騒ぎの話の後だったじゃないか」
ああ、そうかと、文子は思った。順番に考えてみればそうだった。
「あら嫌だ。お兄ちゃんの方が、お母さんより物覚えがいいじゃないの」
にっと笑ってみせた。本当に誇らしかったからだ。しかし、和明は弱々しく笑みを返して、文子から目をそらしてしまった。そして続けた。
「なんか、話が前の方に戻っちゃうんだけど……」
「いいよ、言ってごらん」
「オレと栗橋がね、さっき話したみたいな格好で、ずっと友達でね、だけどそれは、いつもべったりそうだったわけじゃないんだ。栗橋には他にも友達がいるから」
「うん、そうだろうね」
「特にね、小学校の四年のときにさ、あいつ、オレよかもっと仲のいい──仲のいいっていうか、しょっちゅう一緒にいるっていうか」
「うん、言葉の意床は判るよ」
「判る? そう、そういう新しい友達が、栗橋にはできたんだ。転校生だけど」
「どんな子?」
和明はすかさず答えた。「ピース」
「え?」
「ピース」口の両端に指をあてて引っ張り、「にっこり形」をつくってみせた。
「ピースマークのピースだよ。顔がね、あのマークに似てるっていうんで、そういうあだ名なんだ。前の学校にいるときから、そうだったんだって」
「名前はなんていうの?」
和明は「ピース」のフルネームを言った。名字も名前も、文子には聞き覚えがなかった。
商売屋だから、どうしても子供には寂しい思いをさせがちだ。その分、学校の活動には熱心に参加することにして、父母会の役員なども積極的に引き受けてきた。その文子にも、思い当たることのない名字の子供だった。
「あんた、その子と同じクラスになったことある?」
「小学校のときだけ。でもピースはオレとは付き合わないし、うちにも来たこともない。中学では、三人とも入学したときからバラバラだよ。来年、三年のクラス替えでどうなるかわからないけど」
「そう……だから、お母さんピンとこないんだわ」
「ピース、成績とかすごくいいんだけど、けっこう学校を休むんだ」と、和明はぽつりと言った。「あんなに何でもできるのに……」
もったいないなあと言わんばかりの口調で、文子はちょっと吹き出しそうになった。
「ピースって子、栗橋君よりよくできるの?」
和明はすぐにうなずいた。「勉強は、学年でも一番。テストのあと、名前が貼り出されるからすぐ判るよ。栗橋はベスト十には必ず入るけど、一番にはなったことない」
「そうすると、栗橋君もそのピース君には一目おいてるわけね?」
「なんか、尊敬してるみたいに見える」
ずっと黙っていた伸勝が、彼らしくもない棘《とげ》のある口調で言った。「気にくわねえな。自分よりのろまのおまえはバカにして、上の奴にはへいこらするのか」
和明は、自分が責められたみたいにビクリとしたが、おそるおそるという感じで父親の言葉に異議をとなえた。
「栗橋も別にピースにへいこらしてるわけじゃないよ。ただ、なんかピースのことは偉いと思ってる……あこがれてるみたい。ピースの家は、凄い金持ちなんだってさ」
「金持ちがそんなに偉いか?」
「お父さん、和明にからんでどうするんです」文子は夫に腹が立ってきた。「少し余計なことを言わないで黙っててくださいな」
怒るかと思えば、伸勝は出し抜けにぬうと立ち上がり、部屋を出ていこうとする。
「どこへ行くんです?」
「トイレだよ」
荒々しく戸を閉めた。ぴしゃりという音に、文子たち三人は飛び上がった。
「ごめんね、話をこんがらがらせて」
和明は黙って首を振った。しかし実際、話の流れを見失ってしまったようで、当惑した顔をしている。
「栗橋君はピースにあこがれてる」と、文子は言った。「そこまで話したんだよ」
「そう、そう。オレにはそう見える」
「うん。それで?」
いきなり由美子が割り込んだ。「そのピースって人、今日、図書館で栗橋君といっしょにいた」
「本当に?」
「うん。あたしが頭ぶたれるのを見てた。あの人がきっとそうよ」
和明もうなずいた。「ふたりで図書館にいたんなら、きっとそうだよ。オレも、図書館でピースと栗橋を見かけたことあるもの」
だから図書館にはあんまり行かないんだと、小さく付け加えた。
「そういえば、あの人ピースマークに似てた」
「丸顔なの?」
「そうじゃないよ。あんなに丸くない。どっちかっていったらきれいな顔した人だった」
「じゃ、なんでピースなのよ」
「お母さんも、会えばわかるよ」と、和明は言った。「ピースって顔してるんだ」
「いい子なの?」
和明は黙っている。由美子は後頭部をさすっている。
「由美子が栗橋君に苛められるのを黙って見てたんだもの、いい子のわけないか」
文子がため息をつくと、和明もつられたように息を吐いた。
「それで? お兄ちゃんの話の続きは? ピース君が現れて、栗橋君は前みたいにお兄ちゃんのこと苛めたりバカにしたりしなくなった──だけど、かまってくれることも少なくなった。そういうことね?」
「そう」和明は小さく言った。文字通り、これは「小さい肯定」であり、余白がまだまだたくさんあると判って欲しいという感じに、意味ありげに。
「だからお兄ちゃんも、もう栗橋君の言いなりにはなるまいと決めた。それで今度も、栗橋君の嘘に口裏を合わせようとは思わなかった──そういうことね?」
「クチウラって何?」
「由美子は静かにしてて」
しばらく間をおいてから、和明はまた「そう」と答えた。さっきよりももっと小さな声だった。だから文子は待った。続きがあるのかと。
しかし、和明は黙っている。口を閉じたまま、ぼんやりと自分の前の空《くう》を見ている。
仕方なく、文子は言った。「つまり、それだけお兄ちゃんも大人になったってことかな?」
口に出してしまってから、つまらないホームドラマみたいだと、自分で思った。なんて陳腐《ちん ぷ 》なまとめの台詞だろう。
しかし、和明は逆らわなかった。
「そう」と、さらに小さな声で言った。
答える声が小さくなるたびに、和明と文子の問いと応答のあいだに隙間が増えるようだった。「返事」という言葉に詰め込むことのできない意味が、どんどんすり抜けてゆくようだった。だから文子はこのとき、この子が今見ているもの、今この子の瞳に映っているものをあたしも見ることができるならば、寿命が何年縮んでもかまわないと思った。
それは所詮、無理な話だった。だから彼女はこう言った。「お父さんたら、戻ってこないわね。台所でビールでも飲んでるのかしら」
それから数日後、高橋社長がまた長寿庵を訪ねてきた。今度の訪問は手短で、栗橋薬局での出来事が、公的には「事故」という形で決着したと報せにきただけだった。
「婆さんの家族がやっと見つかったんだ。倅《せがれ》夫婦なんだけどね」
首にかけた手ぬぐいでしきりに汗を拭いながら、社長は調子よく言った。
「向こうにも、ボケた婆さんをほったらかして独り暮らしさせてる後ろめたさもあるからさ、強気なことも言えないわけだよ。それは判ってるからさ、だいたいが子供のしでかしたことだのに、まともに出る所に出ましょうみたいなことを言ってくるようなら、こっちにも考えがあるぞってなことをほのめかしたら、すぐにへなへなでね。簡単に手打ちになったよ」
「じゃ、栗橋君は」
「今日はおとなしく家にいたよ」
そう言ってから、たった今思い出したよ、たいしたことじゃないからさあというようなわざとらしい気軽さで、社長は付け加えた。
「殴ったのはお宅の息子さんだなんて嘘をついたことを反省してるってさ。近いうちにお詫びに伺いますって、栗橋さん夫婦も言っていた」
しかし、その言葉とは裏腹に、栗橋夫婦も浩美も、長寿庵を訪ねてはこなかった。夏休みが終わり、二学期が始まって登校した和明に、文子は訊いてみた。お兄ちゃん、栗橋君に会った? 栗橋君、何か言ってなかった?
すると和明は、今さらそんなことというようなあっさりした口調で、
「何も言わないよ。顔はあわせたけど、それだけだよ」
「だって……」
「栗橋は、オレに謝ったりしないよ。そういうヤツじゃないもの」
「お兄ちゃん、悔しくないの?」
「あんまりね。慣れてるもの。それより、検査のことの方が気になるんだよ、オレ」
第二土曜日の午後に、いよいよ柿崎先生の紹介してくれた大学の研究室を訪れることになっているのだった。
「そうだね。お母さんもそう。ほかのことはもう、あんまり気にしないことにしようね。栗橋君とはもう付き合わなければいいんだもの」
これには、和明は返事をしなかった。それらしい顔をしてみせただけで、すぐに文子に背中を向けてしまった。
文子はまた、和明と栗橋のあいだには、まだまだたくさんの語られざる真実、秘密の出来事、内緒のつながりがあるんだと、母親の直感で感じた。文子の問いに対する和明の答の余白の部分に、文子には読めない文字で書かれた物語があるのだと。
(だけど……)
あの子だって、もう赤ん坊じゃない。お尻を叩いて白状させるわけにはいかない。これ以上はもう、自然に打ち明けてくれるまで、様子を見るしか手はないんだ──
そのとき、そんな穏便な道を選んだことを、中学二年生の二学期の我が子高井和明をつかまえて、叩いて揺すぶって責め立ててでも真実を吐かせなかったことを、十五年後に激しく後悔することになるなど、文子にはまだ想像もつかなかった。
[#改ページ]
4
一九九四年、三月一日。
栗橋浩美にとって、この日はごく平凡な日であった。少なくともこの日の午後八時すぎ、正確に言うならば午後八時一六分四五秒のその瞬間までは、なんということもない退屈な日だった。そしてそのまま終わるはずの一日だった。
この日が「長寿庵」の新装開店日だということは、昼頃に起き出して、母に言われて初めて思い出した。
「高井さんとこにお祝いを届けなきゃいけないね」
母はその言葉を、まるで「死んだ猫を庭に埋めてやらなくちゃならないね」とでも言っているみたいな口調で言った。そして、あたしは猫の死骸になんか触るどころか見るのも御免だから、あんたがやっておくれというような口調で、
「浩美、お花を買って届けに行っておくれね」と、彼に命じた。
起き抜けの顔で、浩美は母を見た。栗橋|寿美子《 す み こ 》は五十三歳だが、外見は七十歳を過ぎているように見える。久しい以前から足腰や肩や肘の関節痛に悩まされており、そのために、小柄でやせぎすの身体全体が奇妙にねじ曲がっているせいだ。本人はこれを「リュウマチだ」と称し、親しい人にも、さして親しくない人にも、一見《いちげん》の客にさえも、とにかく彼女のその不自然な姿勢に同情の視線を投げてくれた相手なら誰にでも、
「そりゃもう、生きたままバラバラにされるくらいに痛くて辛いんですよ」
と訴える。そして相手が気の毒がってくれると、朝寝床から起きあがったとき、この使い物にならなくなりつつある背骨がどんな陰気な音をたててきしむか、胃薬の在庫を取りに二階へあがっていこうとすると、階段の一段一段をのぼるたびに、この可哀想な膝がどれほどひどく痛むか、微に入り細に渡って説明を始める。しばらくすると、話を聞かされている相手は眉をひそめ始め、深刻そうに口元を歪めてみせる。しかしそれは寿美子に同情しているからではなく、早くこの場を逃れたいのだけれどそのためにはどうすればいいかわからないという当惑のためだ。寿美子はまったくそれに気づかず、彼女のおしゃべりの罠にひょいと足を突っ込んできた不用意な相手ににじり寄りながら、リュウマチがどれほど辛く苦しく人間から尊厳を奪う病であるかを訴え続ける。
そのくせ、寿美子が今まで一度も、自分の「リュウマチ」を診てもらうために病院を訪ねたことも、専門医を探したこともないのを、栗橋浩美はよく知っていた。そして心の隅でいつも、いつかこの薄汚い薬局の店先に、リュウマチの治療については日本一だという医者がふらりと現れてはくれないものかと思っていた。医者は寿美子をひと目見て、こう言うのだ。あんたは日本一のリュウマチの患者だ。だから私の病院に来なさい。そうしたら、母親がどんなに行きたがらなくても、ありったけの力を振り絞って抵抗しても、浩美は彼女の首に縄をつけて引きずってゆくだろう。その病院まで。その医師の診祭室まで。そして診察室のドアの前に陣取り、医師が寿美子を治療しているあいだじゅう、懐手をしてせせら笑いながら、彼女の悲鳴を聞いてやるのだ。先生、あたしはリュウマチなんかじゃない! リュウマチの治療がこんなに辛いなら、あたしはリュウマチじゃない! 寿美子が叫び続けるそのあいだじゅう、診察室のドアを押さえて彼女が逃げ出せないようにしてやるのだ。
栗橋浩美の見るところ、母は確かに病人だった。しかし、身体の病気ではない。アタマガイカレテルノダ。
「俺、今日は出かけるんだ」と、栗橋浩美は言った。母と息子は台所の小さなテーブルをへだてて向かい合い、母は椅子に座って林檎《りん ご 》の皮をむいていた。どうやら店番は父がしているらしい。
「だから、長寿庵には行かれないよ」
寿美子はさくさくと林檎をむきながら、上目遣いに息子を見た。
「またあの女の子と出かけるのかい?」
「女の子って、どの女だよ」
「髪の長い娘だよ。このあいだ店の前でうろちょろしてたじゃないか」
「俺の彼女はうろちょろなんかしねえよ。ちゃんと名前だってあるんだから名前を呼べよ」
「あんたが次から次へと女を引っかけるから、母さんは名前を覚えてる暇もありゃしない」
むき終えた林檎を果物ナイフですぱりと割った。まな板を使わず、皿の上で直に刃物を使うものだから、栗橋浩美の大嫌いな金属質の音が響いた。
栗橋浩美は黙って寿美子の頭のてっぺんを見おろした。なんのために林檎なんかむいてるんだろう? なんでこいつらはものを食うんだろう? なんでいつまでも生きてるんだろう?
そういえば、金がなかった。昨日、明美にねだられてブレスレットを買ってやって、それですっからかんだ。いっぺん、あたしのためにお財布を空にしてくれない? あいつはそう言ったんだった。あたし、男の人にお財布を空にしてもらうのが夢だったの──
「どっちにしろ、カズに会いに行く」と、栗橋浩美は母親の頭のてっぺんに向かって言った。母の頭頂部は髪が抜け、薄くなっていた。頭部の皮膚が透けて見えた。人間じゃないみたいだった。髪の透き間から頭の皮が見えるような生き物は、ロクなもんじゃねえ。
「花、買って持ってきゃいいんだな?」
寿美子は林檎を四つに割り、芯をとり、皿に盛った。盛りながら、ひとつをとって口に入れた。だからもごもごと返事をした。
「りっはなのをかふんだよ」
立派なのを買えということか。
「金はどこだよ」
寿美子は林檎を噛みながら彼を見ると、果物ナイフをテーブルに置き、すぐ脇の食器棚の引き出しに手を伸ばした。そこに財布がしまってあることを、浩美は知っている。彼が幼い頃から財布の置き場所はそこと決まっていて、けっして変えられたことがなかった。やがて彼が頻々とその財布から金を抜くようになり、寿美子がそのことに気づいても、財布の場所は変えられることがなかった。まるで黙約のように。許しのように。
しかしある時──そう、高校一年生の時だ──唐突に、急に眠りから覚めたかのように、栗橋浩美は悟った。母が財布の置き場所を変えないのは、彼を愛しているからでも、彼に優しくしたいからでも、彼を甘やかそうとしているからでもない。彼が怖いからだ。
その夜、栗橋浩美は初めて寿美子を殴った。何も怖いものがなくなったので、堂々と殴った。母は泣いたが、怒りはしなかった。父の則雄《のり お 》は見ないふりをしていた。風呂に入っていた。その夜は宵のうちに入浴を済ませていたくせに、あわててもう一度入りにいったのだ。
財布の置き場所は変わらない。それを変える権限があるのは、今では栗橋浩美だけだった。だからこそ、母がそこから金を引っぱり出し、こちらに差し出すのをながめているのはいい気分だった。
「一枚? 立派な鉢植えなら、二万は出さないと買えないぜ」
「そんなに高いやつでなくていいよ」
「結局ケチるんじゃねえの」
栗橋浩美は一万円札を小さくたたむと、たばこや鉛筆をはさむようにして、左耳の上にはさんだ。まだパジャマを着ていたので、そうするしかなかったのだ。
「出かける途中で長寿庵に寄ってくよ」と、彼は言った。「せいぜいでかい鉢を買ってってやるよ」
そしてカズからは、今日は五万円ばかり巻き上げてやろう──そう思った。こっちが一万円の鉢植えを抱えて行くんだからな。「長寿庵」は景気がいいんだろうからな。
寿美子は黙って、二つ目の林檎をむき終えたところだった。それを割って芯をとり、また皿に盛った。盛りながら、またひとつ口に入れた。それから皿を持って立ち上がると、店の方へとよたよた歩いていった。
林檎をむいて、親父とふたりで食う。だけど、親父に皿を差し出す前に、甘そうな蜜のいっぱい入ってるところは先に自分が食っちまう。そういう夫婦だ。そういう父母だ。そうしてふたりともアタマガイカレテル──
栗橋浩美は顔を洗いに洗面所へ行った。鼻歌をうたいながら。
アタマガイカレテイル。
父も母も。同じくらい頭がおかしい。栗橋浩美がそのことに気づいたのは、十七歳のときだった。その年の春に、彼が生まれるずっと以前、それどころか父と母が結婚するよりも前に死んでしまった母の母親の法事があったからだ。浩美から見れば母方の祖母の法事である。
寿美子は千葉の東金《とうがね》の近くの村の生まれで、家は半分が農業、半分が雑貨屋、どちらも中途半端で、貧しいことだけは本格的だった。
寿美子は次女で、中学を卒業して集団就職で東京に出て来た。二十歳で見合い結婚をして、以来実家にはほとんど帰っていない。実家は長男が跡を継ぎ、農業を辞めて雑貨屋をスーパーに変え、なんとかかんとか食いつないでいた。法事はその実家のしきりで、東金駅の近くの安っぽいセレモニー・ホールの一室で執り行われたのだった。
栗橋浩美の両親は、どちらも親の縁に薄かった。だから浩美は、父方も母方も、祖父母という存在を知らない。それでも、則雄がその父から家と薬局の商売を受け継いだ関係で、父方の祖父母のことは、まだしも時々話題に出たし、写真も身近に残っていた。だが、母方の親ときたら、まるで最初から存在していなかったみたいに、話題にさえのぼらないままに過ごしてきてしまった。そして、話題にならないことそのものを不思議にも思わなかった。
だから、出し抜けのその法事は──三十回忌とか三十三回忌とか、ずいぶん年数がかさんだ法事だったが──他人の葬式に無理矢理連れてこられたみたいな感じで、ずいぶんと居心地が悪いものだった。寿美子は妙にしみじみとして、やっとお母さんの法事がまともにできると、ずいぶんと喜んでいたし、だからこそその席に浩美もひっぱって行かれたのだが、親戚といっても知らない顔ばかりに囲まれて、浩美はむっつりと黙っているしかなかった。
絶対に行きたくないと言い張れば、出席せずに済んでいただろう。当時の浩美はもうすでに母親を殴ることのできる権限を得て、栗橋家に君臨していたから、寿美子の顎を一発砕いてやれば、日曜日に東金くんだりまで出かけなくてもよかったはずだ。
しかし、彼はそれをしなかった。よく知りもしない母方の親戚連中と顔をあわせるなんて御免だったし、挨拶なんかしたくもなかったが、わずかに少しだけ、この法事に興味を惹かれる部分があったからだ。
法事の打ち合わせのため、ここ一ヵ月ほどのあいだに、寿美子は何度も実家に電話をかけ、また実家からも電話がかかってきては、長いこと話し込んでいた。電話のたびに、市外電話なんだから向こうからかけさせろ、おまえの実家の法事なんだから、俺が高い電話代を払わなきゃならない筋はないと、則雄は文句ばかり言っていた。寿美子は則雄に隠れて長話をした。
その長話の断片を、浩美は聞くともなく聞きかじっていた。そして、がらくたの山のなかにきらりとひかる宝石を見つけるように、母のごちゃごちゃしたおしゃべりのなかから、輝くような言葉を聞き取ったのだ。
シンジュウ。
十七歳になれば、「心中」という言葉の意味ぐらい判っている。寿美子の母、浩美の顔も見たこともない祖母は、どうやら心中で死んだらしかった。寿美子がその言葉を発するときの、押し殺したような、まわりをはばかるような低い声に、その言葉のまがまがしさが現れていた。
では祖母は、夫以外の男と死んだのか。相手はどんな男なのか。尻をあぶられるような好奇心に、浩美は急に生き生きとした。珍しく優しい声を出して──ただその声の裏には、浩美の気の済むように返事をしてくれなかったら殴ってやるという威嚇《 い かく》をこめて──寿美子に尋ねた。おふくろのおふくろは、心中で死んだのかよ?
寿美子の話は、あまり要領を得なかった。彼女自身、はっきりした事実を知ってはいないようだった。よく聞き出してみるとそれも無理もなく、寿美子の母が死んだのは、寿美子がまだ十二歳の時だった。
「雑貨屋のお得意だった男の人の家で、首を絞められて死んでたんだってさ」
夫や子供の知っている限りでは、寿美子の母がその日その時間にその男の家にいる必要はなく、彼女がそこを訪ねなければならない理由もなかったという。
「男の人の方は、軒下で首を吊って死んでた。書き置きも何もなかったけども、物盗りじゃあなかったし、お母さん──あんたのおばあさんの死に顔もきれいだったし」
おまけに、ふたりが死んだ後になって、狭い村の住人たちの──当時はまだ雑貨屋のあるあたりは村だった──あいだからぽつりぽつりと、あのふたりはできていたようだという話がこぼれ出てきた。その結果、どうも心中らしいということで落ち着いたのだという。
「相手の男の人は、地主さんの縁続きの人でね。元は関西の出だったらしいけど、復員してきたはいいけど家族はみんな空襲で死んでて、家も焼けてさ、行き所がなくて、地主さんを頼って東金に来て、それっきり住み着いてたんだそうで……。おばあちゃんよりは四つばかり年下だったって」
フクインて何だよ? と尋ねると、寿美子は陰気な顔で、戦争から帰って来ることだよ、と言った。
「戦争って?」
「太平洋戦争だよ。学校で習ったろうに」
学校では戦争について教えるが、生徒はろくすっぽ聞いちゃいない。だが、学校で教えもしない「心中」ということについてはよく知っている。それなら、学校なんて何の意味がある?
寿美子はその程度しか話してくれず、だから栗橋浩美は祖母の法事に出た。知りたかった。教えて欲しかった。男に首を絞められて殺された祖母が、どんな顔をしているのか。どんな女だったのか。
法事そのものはつまらなかった。読経は退屈で、居眠りをしてしまった。初めて顔を見る伯父や伯母、従兄弟《 い と こ 》たちは魯鈍《 ろ どん》そうで、妙に愛想ばかりよくてにこにこしていて、まるで高井和明みたいだった。のろまのカズ。殴っても蹴ってもにこにこ笑って彼の後をくっついてくるカズ。
「やっとまともにお母さんを弔《とむら》ってあげられた」と、母の姉も言っていた。
死に方が死に方だったので、亡くなった当時は葬式さえあげにくかったという。祖母の方が年上で、しかも相手の男は地主の縁者で、だから祖母の方が誘惑してあんなことになったんだという、無言の圧力があったらしい。それでも寿美子の実家は村を立ち退《の》かなかったし、雑貨屋もたたまなかった。ただ「まともな」葬式をあげなかっただけで、首をすくめて通り雨をやりすごすようにして三十年以上過ごしてきた。村の人びとの、三人の子供を抱えて哀れにも取り残された寿美子の父、浩美の母方の祖父への同情があったからだろう。同情にすがって生きるなど、浩美の最も軽蔑するところではあるけれど、とにかくそうして祖父が寿美子を育てたから、今ここに栗橋浩美が存在している。
そして浩美はわくわくしていた。祖母はどんな女だったのだろう? 男を操り、狂わせ、一緒に死のうと決心をさせるほどの女とは、いったいどんな顔をしているものなのか。
そんな女の血が、自分にも流れているのか。
どうしても、それを確認したかった。祖母の顔を見てみたかった。どんな特別なものを、祖母は持っていたのだろう?
法事が終わると、一同は寿美子の実家、現在の伯父の家へ移動し、そこでささやかな精進落としの膳を囲んだ。大人たちはすぐに酒が回り、驚いたことに寿美子もいささか酔っぱらい、日頃家のなかでは見せたことのない酒飲みの顔を露《あらわ》にした。浩美は、ひょっとすると親父は、おふくろが本当は酒好きで、飲むとこんなふうになるのを知っていて、それを見るのが嫌だからこの法事に欠席したんじゃないのかと思った。後になって判ることだが、この推測は半分だけ当たっていた。
がさつな酒宴が進むのをじっとこらえて待っていた甲斐があって、一同の昔話が盛り上がり始め、やがてアルバムや記念写真の綴りなどが引っぱり出されてきた。みんな大騒ぎをして、てんでに写真の解説を始めたり、懐かしいと歓声をあげたりと、浩美は頭が痛くなりそうだった。「お母さんの七五三の写真」とか、「あんたがまだ一歳のとき、いっぺんだけこっちへ泊まりに帰ってきたことがあって、そのとき撮った写真よ」とか、どうでもいいようなものをさんざん見せられた上に、やがて寿美子がこう言い出した。
「だけど残念ね。お母さんの写真は、遺影も何も一枚も残ってないんだから」
「亡くなった後すぐに、お父さんが全部捨てたり燃やしたりしてしまったそうですねえ」と、伯父の妻がうなずいた。
浩美はがっかりした。祖母の写真は残されていないのか。こんなくだらない親戚の集まりを、バカぞろいの連中のおしゃべりを、じっと我慢して聞いてきたのは、祖母の顔を見たいがためだったのに……。
ところが、伯父が急ににやにやと笑い出した。伯父は男のくせに妙に口がでかく、顔全体が扁平な形をしているので、ひと目見たときから「がまぐちみたいだな」と浩美は思っていたが、そのがまぐち顔を満足そうに緩めて、いかにも嬉しげに笑い出したのだ。
「それがな、写真を手に入れたんだよ」
これでまた大騒ぎになった。「どこで?」とか「いつの写真?」とか「誰が持ってたのよ?」などなどの言葉が入り乱れるなか、伯父は悠々と立ち上がり、奥の座敷から一枚の古ぼけた写真を手にして戻ってきた。
「寿美子の入学式の時の写真だ。おふくろは着物を着て、寿美子がランドセルをしょって一緒に写ってるよ」
「そんな写真が残ってたの?」
「田崎《 た ざき》さんの家から借りてきたんだ。寿美子、覚えてねえか? おまえ、田崎さん家《ち》のフミちゃんと仲が良かったろう。この写真には、フミちゃんも並んで写ってるんだ。そもそも、フミちゃん家で撮った写真なんだ」
「あすこは、昔からお金持ちで──」寿美子はしきりとうなずきながら、「写真機を持ってたんだわよ。そうそう、それで撮ってくれたんだ。あたしらなんか、わざわざ千葉の写真館へ行かないとならなかったんだけど、あの家は自分とこで撮れたんだった」
遠目で見ても黄ばんでいるのがよくわかる、小さなスナップ写真だった。それが一同の手から手に回されていくのを、栗橋浩美はじっと見つめていた。写真の裏側にはセロハンテープの痕《あと》が残っており、アルバムからはがれたのか、はがされたのかしたものであると思われた。端っこの方が破れており、それを糊で補修した痕も残っている。
「ほら、浩美。これがあんたのおばあちゃんだよ」
ようやく寿美子がそう言って、栗橋浩美の目の前にスナップ写真を差し出した。彼はそれを手に取った。
興奮と緊張で、手のひらが汗ばんでいた。
栗橋浩美はスナップ写真を見た。
呼吸を止めた。
まばたきをした。
止めていた息を吐き出した。
寿美子が笑った。「あら浩美、あんたずいぶん真剣な顔して……」
栗橋浩美はまばたきをした。何度も繰り返して目をしばしばさせた。
だがそれでも、そこにあるスナップ写真に写っているものは変化しなかった。モノクロで、全体がセピア色になっていて、表側から見ると、破けた部分を糊で貼り付けた痕が、裏から見たときよりももっとはっきり見える。修復した奴が不器用でいい加減だった証拠だ。
だがそもそも、こんな写真のどこに修復する必要があったんだ?
栗橋浩美は下くちびるを噛んだ。
──豚みたいな女じゃねえか。
和服に黒い羽織を羽織った、小柄で頭の大きな女が写っていた。つんつるてんのワンピースを着て、大まじめな顔でランドセルを背負っている女の子と手をつないでいる。これが寿美子だろう。顔に面影がある。ガキの頃からクソッタレの顔をしている。
もうひとり、和服姿の女の右側に、白襟のワンピースにやはりランドセルを背負った女の子がいるが、これが写真の持ち主の「田崎のフミちゃん」に違いない。金持ちの娘だとか言ってたが、写真で見る限りは寿美子と大差ない。てんで貧乏くさいじゃないか。
そして何よりも、和服の女が問題だった。
写真を見つめたまま、栗橋浩美は訊いた。
「これがおふくろのおふくろなのかよ」
寿美子は陽気に答えた。「そうよ」
信じられねえよ、こんなの──
大きな顔。やたらに白い頬。肉厚のくちびる。消しゴムのカスみたいな形の小さな目。ぶかっこうな鼻が顔のど真ん中にでんと座っていて、いかにも鼻息が荒そうな感じだ。
「こいつが、男と心中したのかよ」
浩美の問いに、寿美子は笑いながら彼をこ。づいた。
「嫌ねえ、駄目だよ、自分のおばあちゃんをこいつ[#「こいつ」に傍点]なんて呼んだら」
いつもなら、寿美子にこづかれたりして黙っている浩美ではない。親戚の前だろうとかまうものかと、殴りかかっているだろう。おふくろも親父も頭が弱いから、何かあるたびにそうやって、家では俺が、この浩美がいちばん偉いんだということを教え込んでやらないと、すぐに忘れちまうんだから。
だが今は、そんな気分にもなれなかった。
この豚みたいな女、こんな不細工な生き物が、俺のおふくろのおふくろだって? しかも男と心中をして、その存在が、長いこと一族のあいだでタブー視されてきたんだと?
笑わせてくれるじゃないか。
「こいつが男と心中したなんて、俺には信じられない」
スナップ写真を寿美子の膝の上に放り出しながら、栗橋浩美は言った。
「こいつが男をとって食っちまったっていう方が、まだ信じられる」
一同は、しんとしていた。その顔も皆、栗橋浩美には家畜の顔に見えた。
法事から帰って一週間ほどのあいだ、栗橋浩美は父とも母とも口をきかずに過ごした。祖母の写真と、彼女の死に様と、それに対する母の一族の評価は、彼にとっておぞましいだけの代物だった。何が「やっとまともにお母さんの法事ができる」だ。
知らなければよかったと思った。だが、知ってしまった以上はそれと折り合い、それに解釈をつけなければならない。そのためには、自身の内側にじっと閉じ込もることが必要だったのだ。
学校にも行きたくなかった。それどころじゃなかったのだ。登校するようなふりをして盛り場やゲームセンターをうろついては時間をつぶす日が続いた。補導されそうになってあわてて逃げ出すというひと幕もあった。
今、ただひとり、話をしたいのは、意見を聞かせてほしいのは、ピースだけだった。しかし、そのピースは不在だった。電話をかけても家にもいない。仕方なしに知人に訊いてみると、親戚で不幸があったとかで、しばらく休むという連絡が入っているという。
タイミングが悪い。なんてまずいときに休んでくれるんだ。俺がこんなにもピースを必要としているときに。
苛立ちをまぎらわすために、「長寿庵」へ行ってカズをからかってやろうか、とも思った。実際に二度ほど足を向けてはみたのだが、二回とも空振りで、カズは居なかった。カズ──幼なじみの高井和明だが、高校には進まずに家業の手伝いをしているので、昔ほどは気軽に捕まえることができなくなった。それに、高井家では栗橋浩美をあまり歓迎してくれない。カズの両親も、幼なじみだから一応は愛想のいい顔をしてくれるが、腹の底では浩美を敬遠しているような様子が見て取れる。カズの妹の由美子ときたらもっとひどくて、小さい頃は浩美を慕ってくっついてきたのに、今じゃ顔を合わせても睨むような目つきをするだけだ。
なんでこんなことになったんだろう? 栗橋浩美はときどき考える。子供の頃は、自分の親も、友達の親も、友達も、みんなもっともっと俺にいい顔をしてくれて、もっと親切だったような気がする。それがいつからこんなふうにぎくしゃくしてきたんだろう?
栗橋浩美は嘘つきだったが、多くの嘘つきと違って、自分で自分を嘘つきだと自覚してはいなかった。それどころか、自分がついた嘘を、しばしば忘れた。だから、たとえば「長寿庵」の人びとが彼のことを「いい顔で」迎えなくなったきっかけが、中学二年の夏休みに店番をしていたときに起こした事件であること、そのとき浩美が高井和明にぬれぎぬを着せようとしたことが原因であることなど、察することさえできなかった。彼の側には、「長寿庵」の高井家が急に、理不尽に、意味もなく彼に対して冷淡になったようにしか感じられないのだった。
そしてそれが不満だった。
栗橋浩美が本当に頭がいいのなら──日頃家の中で親に向かって威張り散らしているように、彼がいちばん「偉い」のなら、高井家の人びとが冷淡になるなかで、なぜ和明だけが、カズだけが、変わりなく昔のままの付き合いを続けてくれているのか、それを考えてみることができるはずだった。それ以上に、子供の頃からさんざん苛められ、たかられ、ボロクソに言われてきたはずの高井和明が、彼の父母や妹が栗橋浩美を嫌っているのを知りながら、それでも離れていかずそばにいてくれるのはなぜなのか、考えてみる必要があることにも気づくはずだった。
だが実際には、栗橋浩美はそのどちらもしなかった。考えなかったし、気づかなかった。つき捨ての嘘はいくら重ねても負債にはならないと思いこんだまま。カズは嘘に気づかない。カズはいつだって利用できる──だけど、たまに居ないことがあるのは、けっこう最近は生意気になったってことだな、そのうち締め上げてやらなくちゃ──和明の不在をにこにこ顔で告げる高井文子に、同じように愛想笑いを返しながら、浩美は考えた。
こうして話し相手を欠いた一週間の終わりに、おかしなことが起こった。寿美子が風呂に入っているあいだに、まるで彼女の耳をはばかるかのように声をひそめて、そっと父が──声をかけてきたのだ。
そのとき彼らは茶の間にいた。テレビでは音楽番組をやっており、浩美はそれを見るともなく流し見ながら、足の爪を切っていた。
夜暗くなってから爪を切るのはやめろと、寿美子はうるさく言う。昼間はそんなことやってるヒマがねえんだと浩美は言い返す。するとある時、寿美子が言い出した。あんたが勉強しているあいだに、お母さんが爪を切ってあげるよ。
浩美は喜んでそのとおりにしてもらった。机に向かいながら、足元にうずくまった寿美子に向かって、裸足の足を突き出してやるのだ。これはとても快適だったが、三度目か四度目のとき、彼の足の爪を切っている寿美子の真剣な顔を見ていたら、急にむらむらしてきて、彼女の目をつついてやりたくなった。そこで彼女がかがみこんだ拍子にぐいと足を突き出すと、親指がまともに寿美子の目に入った。寿美子はぎゃっといって逃げ出して、十日ばかり目医者に通っていた。
以来、二度と爪を切ってはくれなくなった。仕方がないので、また自分で足の爪を切るようになったが、それが夕方だろうと夜だろうと、寿美子は何も言わなくなった──
「おまえ、法事から帰ってきた後、ふさぎこんでるな」と、父は話しかけてきた。
栗橋浩美は爪切りを持ったまま顔をあげた。父の顔は不健康に青黒く、むくんでいるように見えることに、初めて気づいた。
「親父、どっか調子悪いのかよ」と訊いた。
「心配は要らねえよ。ちゃんと肝臓の薬は飲んでるから」と、父は答えた。栗橋浩美としては心配して訊いたわけではなかった。父母のどこがどう悪かろうと、彼に関係はない。ただ、寝込んだりされると不便だから訊いただけだ。
父はまた風呂場の方を気にした。よほど、寿美子の耳には入れたくない話であるようだ。
「べつにふさいでるわけじゃねえよ。ちょっと風邪っぽいだけだよ」と、浩美は嘘をついた。男と心中したばあさんが家畜みたいな顔と身体つきで、そんな女の血が流れてると思うと吐き気がしてくるんだとは言わなかった。言っても、これは親父には関わりないことだからしょうがない。
「母さんの母さんの若い頃の話は聞いたろ?」と、父は小声で尋ねた。
「心中して死んだってことか?」
「うん、そうだ」
「聞いたよ。だから写真も残ってないとかさ」
「だろうな。当たり前だ」
父はそう言って、ふと浩美から目をそらすと、テレビ画面を見つめた。ミニスカートのアイドル歌手が歌っている。
「おまえの耳には入れたくなかったんだ」と、ぽつりと言った。
「俺なら平気だよ。昔の話だ」と、栗橋浩美は嘘をついた。今はここでこう言っておいた方が、父がしゃべりやすいだろうと思ったからだ。親父、何を言おうとしてるんだ?
「すまんな」と、父は言った。「俺は、今でも頭にきてるんだ」
「何がさ」
「母さんと見合い結婚するとき、仲人も向こうの家族も誰も、寿美子の家が心中者を出すような家だなんて教えてくれなかったんだ。そうと判ってて、母親が男と心中したような女を嫁にもらう男がいるか? なあ」
栗橋浩美は黙っていた。
「俺はいい恥さらしだ」と、父はぶつぶつ言った。「俺の一生の不覚だ。おまえも女にはよくよく気をつけた方がいいぞ」
それだけ言うと、父はのそりと立ち上がり、台所の方へ行った。冷蔵庫の扉を開ける音がした。閉める音がした。ビールでも飲もうというのだろう。浩美はその場で待っていた。
が、父は座敷に戻ってこない。しびれを切らして、浩美は立ち上がり、台所をのぞいてみた。
父はそこにいた。流しの縁をつかんでかがみ込んでいる
「親父?」
肩に手をかけて、顔をのぞいた。すると泣き顔が見えた。父は泣いていた。涙と鼻水を流しながら、しゃくりあげていた。
「俺を騙しやがって」と、うめくように言った。「俺を騙して寿美子を押しつけやがって。寿美子の家じゃみんなホクホクなんだ。長いこと俺を騙しといて、法事に出ろときた。どこまで俺をバカにすりゃ気が済むんだ」
父はおいおいと泣き出した。棒立ちになって、栗橋浩美はその泣き声を聞いていた。台所にいると、風呂場の水音がよく聞こえた。寿美子はざぶざぶと湯をつかいながら、さっきテレビで歌っていたアイドル歌手の歌を口ずさんでいた。
「実家じゃ、寿美子も酒を飲んだろう?」鼻水をすすりあげながら、父は訊いた。「普段は隠してるが、実はあいつは大酒飲みなんだ。俺はよく知ってる。俺は騙されたんだ」
果てしなく嘆きながら、父は自分で自分の身をかばうかのように小さく縮こまってゆく。しかし、今そうやって彼が我と我が身の不幸を訴えている相手は、彼が彼を騙したと罵《ののし》る女と、彼とのあいだに生まれた一人息子なのだ。
台所の床が、裸足に冷たい。父は鼻水を垂らしながら泣き、母は陽気に小娘の恋心を歌う。家畜のような祖母は心中で死んで、その死がちっともきれいなものじゃなかったことをみんなが知っている──
ろくな家じゃない。
その夜、栗橋浩美はまた悪夢を見た。例の小さな女の子の夢だ。夢のなかの霧のかかったようなどことも知れない場所で、女の子が彼を追いかけてくる。逃げても逃げても追いかけてくる。絶え間なく、「あたしの身体を返して」と叫びながら。
足元の定かでない霧のなかを、栗橋浩美は必死に逃げる。女の子の叫び声が背後に迫る。喉をぜいぜいいわせながら逃げ続け、女の子の声を振り切ったと思って、ほっと足を止める。すると女の子の声がすぐ隣から聞こえてくる。はじかれたように身を翻《ひるがえ》して、栗橋浩美はまた逃げる。
捕まってはいけない。捕まってしまったら乗っ取られてしまう。またあの女の子の華奢《きゃしゃ》だがしぶとい指が栗橋浩美の顎にかかり、彼の口を開かせる。女の子は頭から栗橋浩美のなかに入ってこようとするので、彼は喉が詰まって息ができなくなってしまう。
どこまで走っても霧は深く、行く先も見えない。それなのに女の子は的確に浩美を追い詰め、逃げ延びたかと思うと先回りをしている。どうして霧は俺の姿を隠してくれないのだろう──どうしてあの女の子には俺の居場所がわかるのだろう──
「あたしの身体を返して」
すぐ近くで声が叫んだ。浩美は顔をひきつらせて逃げ出した。そのとき、何かにつまずき、両手を前に投げ出すようにして転倒した。痛みはなかった。が、地面に倒れた腕の指の先が何かに触れた。俯《うつぶ》せになったまま、這うようにして彼はその手に触れたものに近づいた。何だろう? この霧のなかで、実体のあるものに初めて触れた。これは何だろう?
思い切ってぐいと腕を伸ばし、彼はそれをつかんだ。手前に引っ張ると、それはずるりと動いて彼の目と鼻の先に姿を現した。
それは女の死体だった。写真で見た祖母の死体だった。仰向けになり、頭をがっくりと右にかしげている。首には太い縄が食い込み、彼女は白目を剥き、半開きの口の間から膨れ上がった舌がのぞいている。
栗橋浩美は悲鳴をあげながら飛び起きた。ここから離れようと走り出したとき、死体の腕が素早く動いて彼の右足首をつかんだ。たまげるような悲鳴をあげながら、栗橋浩美は祖母の死体を振り払おうとした。しかし、死人の力は信じられないほどに強く、その指はとらばさみのようにがっちりと彼の足首を捕らえて離れない。
栗橋浩美は必死で祖母の指を引き剥がそうとした。足首に食い込む指の力は強く、彼はつかまれている右足の先の感覚がなくなっていくのを感じた。祖母の指は万力《まんりき》のように強く、より強く締めつけ、このままでは右足首がちぎれてしまいそうだ。
栗橋浩美は助けを求めて叫んだ。喉が痛くなるほどにまで声を張り上げた。すると小さな足音がして、霧の海がふたつに割れた。その中央に、あの女の子がにたにた笑いながら立っていた。
栗橋浩美は泣き叫んだ。
「あたしの身体を返して」と、女の子は言った。にたにた笑いが顔いっぱいに広がってゆくそれと同時に女の子の顔が変わってゆく。頬がむくんだように膨れ上がり、目が飛び出しそうになり、にたにた笑いの口元から青黒い舌がうねうねと顔を出す──
そうして女の子の顔が祖母の顔になった。
はっとして、栗橋浩美は足元を見た。さっきまで祖母に捕らえられていた右足首を見た。そこには母がいた。彼の足元にうずくまり、彼の右足を両手でつかんで抱え込んでいる。そして左足は父につかまれていた。彼もまた両手で栗橋浩美の左足にしがみついている。父は鼻水を垂らしながら上目遣いに彼を見ている。
「なんで母さんから逃げるの」と、母が言った。
「寿美子を俺に押しつけておいて、おまえだけ逃げようったってそうはいかねえぞ」と、父が言った。「おまえだけ逃がすわけにはいかないんだ。それじゃあ不公平だからな」
なす術もなく、栗橋浩美はただ叫び続けた。助けてくれ、誰か助けてくれ──
「あたしの身体を返してもらうよ」
そう言うなり、勝ち誇ったように両目を光らせて、絞め殺された祖母の死体の顔をした女の子が、栗橋浩美に飛びかかってきた。その指が彼のくちびるを押し開き、女の子の黒くてごわごわした髪の毛が喉の奥の方までぐいぐいと押し寄せてきて、彼の呼吸を止め、彼の叫び声を押しつぶす──
そこで目が覚めた。文字通り、寝床の上で跳ね起きた。すると目の前に母の顔があった。栗橋浩美はまた悲鳴をあげた。
「なによ、寝ぼけてるの? しっかりしなさい!」
布団の端に手をつき、栗橋浩美の方に身を乗り出して、母はそう言った。嫌悪に顔をしかめている。
ぶるぶる震えながら、栗橋浩美はまばたきをした。全身に冷や汗をかいている。手が震えている。息がはあはあする。全力疾走でもしていたみたいだ。
──そうだ、俺は走って夢から逃げ出してきたんだ。
あれは夢だったんだ。
「大きな声でうなされてるから、心配で見にきてみたんだよ」
寝乱れた髪を手で押さえながら、寿美子は言った。
「他人の部屋に勝手に入ってくるなよ」と栗橋浩美は言った。声がかすれていた。
「他人てことがあるかい。あたしはあんたの母さんなんだよ」
栗橋浩美はまじまじと母の顔を見つめた。そうしているうちに、母の頬の線が崩れ、口が裂け、舌が青膨れて祖母の顔に変わってしまうのではないかと思ったのだ。
が、何事も起こらなかった。寿美子は寿美子の不機嫌な顔のままだった。
「男の子なんて、産むもんじゃない」
ぶつくさ毒づきながら、寿美子は立ち上がった。
「育ててもらった恩も忘れて、母親を他人呼ばわりするんだからね。あんただって独りで勝手に大きくなれたわけじゃないんだよ。判ってんのかね」
文句を垂れ流しながら部屋を出てゆく。ぴしゃりとドアを閉める寸前に、とどめのように言い捨てた。
「やっぱり女の子が欲しかったよ。赤ん坊の弘美が生きててくれたらね」
独りになると、栗橋浩美は両手で顔をこすった。汗で手のひらがぬるぬるする。
──顔を洗おう。
ゆっくりと立ち上がり、震えている膝を何とか動かして、階下の洗面所へ降りていった。明かりを点け、洗面台の前の鏡をのぞきこむ、
そこに、あの女の子がいた。浩美の前の弘美、赤ん坊のときに死んだ彼の姉。
声を呑んで、栗橋浩美は洗面台の前から後ずさった。鏡のなかには彼の顔が映っている。青ざめて、目が腫れぼったくなってはいるが、間違いなく彼の顔だ。
──今のは目の迷いだ。
ごしごしと目をこすって、もう一度鏡を見てみた。ちゃんと自分の顔が映っている。
しかし、ゆっくりと不安がこみあげてきた。心の底に溜まったヘドロが、感情の波にかき回されて舞い上がり、本来なら澄んでいるはずの心の水を泥水のように変えてゆく。そしてその泥水のなかから──
──あたしはここにいる。
あの女の子が上がってくる。ヘドロの滴《しずく》をぽたぽた垂らしながら。
──あたしはあんたのなかにいる。
そうだ、あの夢の最後のところで、あの女の子はとうとう俺のなかに入ってきた。今までは危ないところで撃退することができたけれど、今度という今度は俺のなかに入り込んできてしまった。
──あたしはあんたのなかにいる。あんたに身体を返してもらう。
──いつか必ず、この身体を乗っ取ってやる、だってこの身体は本当はあたしのものだったんだもの。
栗橋浩美は両手を持ち上げると、自分で自分の喉元を押さえた。ゆっくりと力を込めて、自分の首を絞めてみた。
呼吸が苦しくなり、鼻が爆発しそうな感じがした。目尻に涙がにじんだ。
がくんと力を抜いて、彼は両手を身体の脇におろした。ぽたぽたと涙がこぼれ、冷たいビニールシートの洗面所の床の上に、彼の左右の足のあいだに落下した。
この家にいたら、俺は頭がおかしくなっちまう──と、栗橋浩美は考えた。
何から何まで、この家はおかしい。おふくろもおかしい。親父もおかしい。赤ん坊のまま死んだ姉貴もおかしい。
俺はこの家に捕らえられた囚人だ。逃げ出さないと、だんだんおかしくなっていってしまう。
ひたすらにそう思い続ける栗橋浩美は、本当に「おかしい」ものが彼自身の内にあるのか外にあるのか、それさえ判らなくなっていた。
アタマガイカレテシマウ──
顔を洗い、気に入った形になるまで慎重に髪をなでつけ、栗橋浩美は出かける支度をした。大きな鉢植えの花を買って運んでいくのだから、車で行かねばならない。
十七歳のあの悪夢の体験以来、一時は鏡を見るのが怖くなってしまって、洗面所に近づくことさえできず、髪もとかさず歯も磨かず、浮浪児のような格好をしていた時期もあった。そんな恐怖感を馬鹿らしいと嗤《わら》う自分と、その恐怖感に闇雲に忠実な自分とがいて、相反するふたつの力の引っ張り合いのなかで、栗橋浩美は十代の後半を過ごした。
自分の身につきまとうこの悪夢について、大人たちには打ち明けたことがない。教師も、親戚のおじさんおはさんも、栗橋浩美はまったく信用していなかったからだ。
打ち明けて話をしたのは、ピースだけだ。悪夢の一件の後、ようやく親戚の家から戻ってきたピースに連絡がついて、会うことができた。そのときに、何から何まで洗いざらい話した。そして助言を求めた。あのアタマノイカレタ両親から身を守るためには、俺はいったいどうしたらいい?
ピースは穏やかな顔をして、ぼんやりと栗橋浩美の足元を見つめていた。そうしてぽつりと言った。「早く大人になることだな」
「大人に──」
「そしてまともな人生をつかむんだよ。親の跡なんか継いだら駄目だぞ。自分で自分の人生を切り開くんだ」
「判ってるよ。そんなのはもう絶対だ。俺は家を出る」
「大学に入ったらな。今はまだ駄目だよ。高校生を辞めて家出したって、結局ろくなことにはならないんだ。ヒロミは手に職がついてるわけじゃないんだし、仕事のあてだってないんだからな」
「……じゃあ、どうすりゃいい?」
「勉強して、いい大学に入るんだよ。寮生活をすればいい。そして一流企業に就職する。それなら、もう親のことなんか放っておいて、立派に自活して自分だけのために生きて行かれるじゃないか」
「一流企業か」栗橋浩美は力をこめてうなずいた。「ピースの親父さんみたいに、な」
栗橋浩美は本気でそう言ったのだった。ピースの父親を──会ったこともなく、話で聞いているだけの存在だけど──尊敬し、憧れてもいたから。ピースの父親の社会的地位と経済力に支えられて、ピースが享受している生活が在るのだから。
しかしピースは笑いもせず、悦びもしなかった。照れているのでもない。その目は一段と暗く、視線はさらに下がり、声も低くなった。
「俺の言ったことを忘れちゃ駄目だよ。ヒロミの人生はヒロミのものなんだから、手放しちゃ駄目だ。親は金蔓《かねづる》だと思えばいい。むしりとれるだけむしりとって、用がなくなったら捨てちまえばいいんだから」
どうせ親の方だって、勝手なことやってるんだからさと、吐き出すように付け加えた。
ピースのそのアドバイスを金科玉条にして、栗橋浩美は高校生活を乗り切り、受験にも成功して、世間的に一流と呼ばれる大学に入った。思惑どおり、予定どおりだった。あとは大学生活を楽しみ、一流企業を目指すだけ──
それなのに、栗橋浩美は現在ここにいる。
二十六歳になったのに、職はなく、栗橋薬局の親の家に住み、十七歳のときに恐怖と嫌悪にさいなまれながらのぞきこんだ洗面所の鏡に、あいかわらず顔を映して髪を整えている。
こんなはずじゃなかったのに。
何が間違っていたんだろう? どこで曲がり角が違ったんだ?
「ピース」と、栗橋浩美は声に出して言った。
鏡のなかから返事がかえってくるはずもない。栗橋浩美は洗面所を出た。
駐車場から車を出そうとしているとき、携帯電話が鳴り始めた。栗橋浩美は急いで受話器を取った。
「ヒロミ? 今忙しい?」
岸田《きし だ 》明美《あけ み 》の声だった。甲高《かんだか》く、舌足らずな話し方だ。付き合い始めてまだ一ヵ月足らずのガールフレンドだが、妙に積極的で、しきりと接近してくる。寿美子が嫌味を言っていたように、栗橋薬局を訪ねてきて、栗橋浩美が不在だと、帰宅を待って近所をうろうろしていたり、近場の喫茶店で待っていたりする。電話も日に何度もかけてくる。明美は美人だし金回りもいいので悪い気はしないが、忙《せわ》しないことは忙しない。
「買い物の荷物が多くて困ってるの。ね、迎えに来てくれない? 新宿の伊勢丹にいるからさ」
岸田明美がどういう女性なのか、詳しいところを、栗橋浩美はまだ知らない。歳は二十歳で、都内の女子大に通っているというが、学校名は教えてくれない。
「恥ずかしいような程度の低いところなんだもん」と、本人は言っている。「就職だって、きっと苦労するだろうと思うのよね」
実家は埼玉県川越市内にあるという。岸田明美は家族ともうまくいってないようで、知り合った当時から、彼女はそのことを隠さなかった。
ふたりが初めて顔をあわせたのは、一ヵ月ほど前のことだ。栗橋浩美の大学時代の友人で神野《じん の 》という若手のイラストレーターが、銀座で個展を開いた。案内をもらった栗橋浩美が出かけてゆくと、受付に可愛らしい顔をしたスタイルのいい女の子が座っていた。それが岸田明美だったのである。
神野は大学生の頃からイラストレーターを目指していたのだが、一風変わった男で、今まできちんと誰かについて絵を習ったということがなかった。我流一本槍である。大学でも学部は栗橋浩美と同じ経済学部にいたのだから。
それでも描くものに個性があり、才能があるなら全く問題はないのだが、残念ながら神野にはそのふたつともが欠けていた。有り体に言えば、彼が書き散らすイラストはみんな下手の横好きで、とてもじゃないが商売になるようなレベルのものではなかった。その神野が、二十六歳の若さでいきなり個展を開くというので、内心は、ずっと神野をバカにしてきた栗橋浩美は、少しばかり心穏やかではなくなって、祝福というよりは偵察するぐらいの気持ちで訪れた。だから最初は、受付の美人のニコニコ顔も、いっそ不愉快なものとしか感じられなかった。神野の成功など、栗橋浩美にとってはちっとも目出度いものではなかったのだから。
ギャラリーの白壁をバックに麗々しく展示された神野の作品は、大学時代と同じく、技術も下手なら面白味もないという、凡作ばかりだった。少なくとも栗橋浩美にはそう見えた。なんでこんなヤツが個展なんか開けたんだろうと、首をひねりたくなるような代物ばかりが並んでいた。が、招待状を寄越した当の本人は喜色満面で、いっぱしの売れっ子イラストレーター気取りで客に応対している。そこここから祝いの花なども贈られてきているようだった。ますます腑に落ちない感じがした。
その日は個展のオープニングで、夕方から軽い立食パーティがあった。神野を祝ってやる気持ちなどかけらもなかったが、彼のこの成功が本当の本物であるのかどうかどうしても確かめたくて、栗橋浩美はパーティにも参加した。神野はとても悦び、パーティの途中で数人の客にスピーチをしてもらう予定なのだが、栗橋もちょっとしゃべってはくれないかと持ちかけてきた。大学時代の思い出話でいいんだ。栗橋浩美は承知したが、いざスピーチというとき、神野がパーティの客たちに向かって、「僕の友達の栗橋浩美君で、あの一色証券のバリバリの若手営業マンです」と紹介したのには驚いた。
確かに、一色証券は「あの」と頭につけて表現してもおかしくないくらいの最大手の証券会社だし、過去に栗橋浩美はそこに就職していたことがある。大学を出て、最初に就職した会社だった。ただし三ヵ月しかいなかった。会社側の言ういわゆる「試用期間」が終わったところですぐに辞めてしまった。
神野はそのことを知らないのだ。もっとも、それも無理はない。卒業以来は年賀状のやりとりくらいしかしていなかった間柄だ。
栗橋浩美は神野に調子をあわせ、確かに自分の仕事はやり甲斐があるけれど、バブル崩壊以来証券会社はおしなべて左前であること、世間的にも評判が悪くてなかなか辛いのだというようなことを面白おかしく脚色してしゃべった。それに、どんなに活動的に仕事をしていようとも、しょせん僕はサラリーマンにすぎませんが、神野君は独立したクリエイターです、とても羨ましい──などと持ち上げてやると、神野は子供のように素直に得意そうな顔をした。
スピーチが終わってマイクの前を離れ、ボーイから新しいワイングラスを受け取って部屋の隅の方へ歩いていくと、受付のあの可愛い女の子がニコニコしながら近づいてきた。やや舌足らずな高い声で「岸田明美です」と自己紹介をし、「証券会社にお勤めなんてスゴイですね」などとしゃべり始めた。
栗橋浩美は、女の小さく整った顔を見た。化粧もきれいに乗っており、長い髪は鏡のように輝いている。女子大生だというから専攻を聞くと、英文学だという。
「だけど難しいことは何も聞かないでね。何も頭に入ってないんだもの」と、赤いワイングラスを持った手を顔の前にかざし、隠れるような仕草をしてくすくす笑った。
「アタシなんかホントに頭はバカなの。だけど試験にうかって入れちゃったんだからしょうがないって感じで。栗橋さんみたく本当に頭のいいエリートから見たら、笑っちゃうような話でしょうね」
栗橋浩美は馬鹿ではないから、自分で自分を「頭がバカだ」というこの女が、本当は自分のことを相当以上に「いい女だ」と自信をもっているのだと判っていたし、またそんな彼女がこうして売り込んでくるのは、彼を「一色証券のバリバリの営業マン」だと思いこんでいるからだということも判っていた。だから彼女の求める「エリート」の笑みを浮かべて、神野の友達なのかと尋ねてみた。ひょっとしたら君もイラストレーター志望なの?
岸田明美は長い髪をさらさらと効果的に動かして首を振った。
「わたしはアルバイトで受付をしてるだけ。ここの社長とうちの父が、ちょっと付き合いがあって」
そしてさらににっこりと笑うと、栗橋浩美に一歩近づき、声をひそめた。
「このギャラリーのオーナーは女社長で、神野さんの後押しをしてるのよ」
栗橋浩美はあらためて彼女の顔を見た。それから、スピーチをしている客たちの前で楽しそうに笑っている神野をちらりと見た。そして岸田明美に目を戻すと、彼女はぱちぱちとまばたきをした。
(ねえほら全部言わなくたってわかるでしょ)と、その目が言っていた。
「へえ……」と、栗橋浩美は微笑んだ。「じゃあ、神野はいいパトロンをつかんだわけだね」
「そうなのよ」と、岸田明美は真っ白な前歯をのぞかせて笑った。見えている範囲内で、少なくとも五本は差し歯だなと、栗橋浩美は思った。子供の頃からよほど歯の質がよくなかったのか、さもなければモデルか芸能人を目指していた時期があったのか、どちらかだ。
「パトロンでもいなかったら、こんな立派な個展を開けるはずがないもの」と、岸田明美は続けた。声は小さいが、開けっぴろげな口調だった。
「僕は神野の友達だから、彼の才能を信じたいけどな」
「あらそうかしら」
岸田明美は栗橋浩美の顔をのぞきこんだ。おどけたようなその素振りの奥に、ちらりと悪意のようなものを見たと、栗橋浩美は思った。そして彼女が気に入った。
「嘘だよ」と、彼は白状した。「今日も、なんで神野が個展なんか開けるようになったんだろう、何かの間違いじゃないかと思いながらやって来たんだ」
「そうでしょ? あたし判ってたんだ」と、岸田明美は親しげに言った。「だって、栗橋さんの顔全体にそう書いてあったんだもの。だから、教えてあげずにはいられなくて」
「鋭いんだな」
「そうでもないってば。あたしは頭悪いのよ」
そう言いながら、岸田明美はちょっと身をくねらせた。髪が彼の肩に触れた。濃厚な香水の匂いがした。
その週のうちに、栗橋浩美はもう一度神野の個展に足を運んだ。今度ははっきりと岸田明美を誘うために。彼女もそれを待っており、また誘われて当然だと思っていたようだった。
その日は一緒に食事をし、その後、栗橋浩美の行きつけのライブハウスに行った。行きつけと言っても、ひとりではなく、女を連れていくためだけに行くのだ。その店では生演奏でブルースばかりを聞かせる。魂のあるブルースを聴きたいと思うなら、東京じゃこの店だけだよと言うと、女たちはたいてい感心した。だが本音では、その店も店で演奏される音楽も、あまり面白いとは感じられないと、彼女たちの表情は正直に告白している。栗橋浩美も実はブルースなどちっとも好きではなかったので、女を感心させることに成功すると、せいぜい二度、多くて三度しかこの店には足を運ばない。ロックやジャズやクラシックだと、女が本当にそのジャンルの音楽を愛好していたり、下手をすると彼よりも遥かに詳しかったりする危険があったが、ブルースならその危険はとても少ない。だからいつでもうまくいった。
次のデートでは、当然のように遠出をして、当然のように寝ることになった。岸田明美は積極的で、彼との関係が楽しくて仕方ないという様子だった。それもこれも、彼女が彼を一色証券の社員だと思いこんでいるからだし、彼の方もまた彼女にそう思いこませるように努めた。遠出のデートもわざと平日を選んだ。僕の仕事に土曜も日曜もないんだ、代休がとれたときが休日さ──というと、明美はあっさりと納得し、感心した。だから電話もわざと昼日中、彼女が彼の「勤務時間」だと思いこんでいる時間帯を選んで携帯電話でかけた。今、会議と会議のあいだでさ、やっとひと息いれて、会社の屋上からかけてるんだ──
もちろん、金は惜しみなく使う。本当の栗橋浩美は現在無職だったが、栗橋薬局のような商売屋は日銭には事欠かないし、そして彼は家のなかでは絶対権力者だったから、好きなだけ持ち出すことができた。岸田明美が漠然と無責任に想像している「一色証券の社員の懐具合ならこのくらい」という贅沢な願望をかなえてやることは、さして難しくなかった。
これは初めてのことではなかった。栗橋浩美には、こういう趣味があった。近寄ってくる女の前で、その女が夢想するタイプの理想のエリートを演じてみせ、夢がかなって悦びにひたる女を観察して、密かに大笑いをする──という趣味が。
目的は金ではない。確かに女も彼に金を「投資」してくれるけれど、彼の方も持ち出している。女から金を巻き上げようなど、栗橋浩美は思ったことがない。では女の身体が目的なのかと問われたら、それにも無条件で首を縦に振ることはできない。健康で常識ある普通の男が、健康で常識ある普通の女と出会ったとき、この女といつ寝られるかと夢想する──それはごく当たり前のことだし、栗橋浩美もそのごく当たり前の情熱は抱いていたが、それ以上のものはなかった。彼にあるのは、笑いたいという欲求だった。彼を好みの「エリート」だと勘違いして寄ってくる女たちの、その野放図でお人好しな幸せ気分を、腹の底で笑って笑って笑い倒してやりたいという欲求だった。
たいていの場合、彼は実にうまく女を騙した。彼が自分からそう望んで正体を露にする以前に、女の方に先に真相を察知されてしまったことはごく少ない。彼の手練手管にはまってしまうと、女は彼女自身はそれと知らないうちに彼の共犯者となり、自分で自分を騙し始める。そうして夢を紡ぎ始める。栗橋浩美はそれをほほえましくながめ、時には女の夢を補強してやりながら、期が熟するのを待つ。女の夢が、充分に壊し甲斐のあるくらいまで強固になるその時を。
そうしておいて正体を見せると、女はすぐには信じない。あまりにどっぷりと深く夢のなかにはまりこんでいるので、現実が見えないのだ。彼は女をつかまえて揺さぶり、ぬるま湯のなかから引っぱり出し、頬を叩いて目の焦点をあわさせ、彼の真の姿を見せる。無職で、働く意欲もなく、小汚い薬局を細々と営業する親にたかって暮らしているだけの二十六歳の男の顔を。
そうして、女のなかの大切な何かが壊れてゆく音に耳を傾ける。その音があまりに甘美なので、栗橋浩美の耳には、女が彼をなじったり、バカにしようとしたり、軽蔑したりする声が聞こえてこない。そして彼にその声が聞こえたとしても、それはちっとも彼を傷つけたりしない。
なぜなら栗橋浩美は知っているからだ。その気になりさえすれば、彼はいつでも、彼の望む形で、本当の「エリート」──彼の理想とする「生きる形」になれるということを。それはシナリオ・ライターだったり、ジヤーナリストだったり、コンピュータのシステム・エンジニアだったり、個人輸入のインテリア会社の若き社長だったり、弁護士だったり、時と場合によって様々な顔と職業をもっていた。栗橋浩美は何にだってなれた。彼が特別だと、社会のなかで「上の方に位置している」と考えているすべての存在に。
そしてそういう存在になったあかつきには、栗橋浩美は、そんな彼に真にふさわしい女性を見つけて、彼女と共に生きるのだ。だが今は、それにはまだ早い。だから、身の程知らずの大きな夢を抱いて彼に寄ってくるゴミみたいな女どもの相手をして、彼女たちが後生大事に抱えている未来への幻想を壊して時間をつぶしているのだ。それはとても面白く興味深い時間のつぶしかたで、栗橋浩美は、この経験はきっと彼の人間的な財産になると思っていた。
栗橋浩美は賢かったから、こういう目的のために女を騙すときには、余計な見栄を張ってはいけないということを理解していた。だから彼は、どんな存在になりすまして女を騙しているときでも、自分が小さな薬局を営む家に生まれたことを隠しはしなかった。父も母もおよそ教養のない、深みのない人間であることを隠しはしなかった。そのうえで、彼は、栗橋浩美は、その出自からぐいぐいと上を目指して伸びて行くのだという印象を女に与えた。それは、近寄ってくるごく普通の女たちを騙すためには、彼が資産家の息子であるとか、企業家の二世であるとかの嘘をつくよりも、はるかに効果的で確実な方法だった。
この国は自由だ。チャンスは誰にでもある。僕はその見本だ。そして僕は君の人生を切り開く希望だ。君の自馬の騎士だ──
栗橋浩美は、携帯電話の受話器に向かって、できるだけ優しい声を出した。
「僕が今日、休みをとってるってことをどうして知ってるんだよ?」
岸田明美は甘えるように笑った。「だって、そう言ってたじゃない。今度の代休は、うちでゆっくり休むんだって。だけどあたしのためなら迎えに出て来てくれるでしょ?」
そして、ちょっと間を置いてから優しく言った。「だって会いたいんだもの」
このところ彼は、彼女に夢中になっているふりをしている。そして彼女は今、そんな彼に甘え、彼を振り回す可愛い恋人を演じている。なぜなら彼がそう言ったから。彼女とふたりで居ると、彼女のことだけ考えていられると、仕事の疲れを忘れると。
「ああ、いいよ」と、栗橋浩美は笑った。
「しょうがないヤツだな」
電話を切った後も、彼はしばらく笑い続けた。近い将来、岸田明美のこのふくらんだ夢を叩き壊す時には、どんな音がするだろうか?
新宿駅東口で岸田明美を拾うと、栗橋浩美は車を青山方面に向けた。明美が雑誌で見つけた洒落たレストランが青山二丁目にある。遅目の昼食をそこでとろうと思った。
岸田明美はデパートやブランドショップの名入りの紙袋を五つもぶらさげていた。車に乗り込むと、笑いながら言った。
「浪費家だなんて怒らないでよ。あたしのものだけじゃなくて、ヒロミにプレゼントするものもあるんだから」
川越にある彼女の実家は裕福である。父親が手広く不動産業を営んでおり、地元の金融業界でもかなり顔の利く人物であるらしい。だから明美は今まで金に不自由した経験がまったく無いようだった。現在も仕送りは充分で、栗橋浩美に対しても「贅沢気分の付き合い」を要求する一方、彼女自身も気前がいい。
「しょうがないな、明美は金持ちのお嬢様だもんな」と、彼も笑顔で応じた。「俺みたいなしがないサラリーマンなんかとお付き合いしていただいて、ホントにいいのかな?」
「またそんなこと言ってる」
ふたりのあいだではよく交わされるやりとりだった。無論、栗橋浩美が「しがないサラリーマン」だなどと、岸田明美は毛頭思っていない。どんなに金持ちでも、所詮は田舎の不動産屋に過ぎない自分の父親と引き比べたら、彼女の思う「栗橋浩美という男」は、一流大学卒の一色証券社員だ。こんなやりとりは言葉の遊びである。
そして栗橋浩美は、こうした他愛ないやりとりに、二重の喜びを覚える。ひとつには、彼女の素朴な尊敬に。もうひとつには、自分がそこまで完璧に彼女を騙していることに。
「あたしはプレゼントを買ったんだから、今日はヒロミに豪華な夕食をおごってもらわなきゃね」
信号待ちで車は停まり、岸田明美は車窓の外の道ゆく人びとの方にこれ見よがしにきれいな髪を振って顎をあげてみせながら言った。ほら、あたしたちを見て。お似合いのカップルよ。絵になるカップルよ。過去も、現在も、そして未来にも、あんたたちとは次元が違うところにいる組み合わせなのよ。おあいにくさま。
そこで初めて、栗橋浩美は長寿庵へ鉢植えを祝いに持っていくことを思い出した。明美から電話をもらって以来、けろりと忘れていたのだ。今やっと、金の話が出たから、ほかでもない今彼の懐にある金がその鉢植えを買うための金で、鉢植えと引き替えに今日はカズから五万円はせしめてやらなくてはと考えていたことを思い出したのだった。
つまり、それぐらい、今の栗橋浩美の懐は寂しいのだった。
このところ、栗橋薬局の売り上げそのものがお寒い限りだった。処方箋を扱っていないことがまず客足を遠のかせているし、近所に大きなチェーン店のドラッグストアが開店したおかげで、それまで細々とつないでいた命脈も切れてしまった。ドリンク剤とか消化薬とかのちまちました商品が、ばたりと売れなくなったのだ。どう頑張ったって、栗橋薬局には、大手ストアのディスカウント商法に対抗するだけの力など出せやしないのだから、これはもう仕方のないことだった。
だいたい、現在の「薬屋」のイメージは、ひと昔前のそれとは格段に違ってきている。処方箋を扱う店は「薬局」で、そうでない大手はみんな「ドラッグ・アンド・コスメティック」で、そこの上客は慢性疲労のサラリーマンや赤ん坊の腹痛を心配する母親たちではなく、女子学生や若いOLたちだ。
栗橋薬局はそのどちらでもない。現在よりももう少しまともに両親と話をすることができたころ、浩美は彼らのそれぞれに、なぜ処方箋を扱わないのかと訊いたことがあった。父は薬剤師なのだから、やろうと思えばできるのに、なぜやらない?
すると父も母も、それぞれに互いのいないところでこう答えた。処方箋なんか扱って、万が一事故でも起こしたら大変だ──
「父さんは信用できないからね」と、母は言う。
「寿美子に任せられるか。事故が起こって騒ぎになるのはごめんだよ」と、父は言った。
そしてふたりして、「あんたが」「おまえが」薬剤師になって店を盛り立ててくれれば良いんだと言った。しかし彼は薬学部を選ばず経済学部へ進んだ。
栗橋薬局は立ち腐れてゆく。それでも浩美は、そこから吸い取れる限りの栄養分を遠慮|呵責《かしゃく》なく吸い上げてきたが、近頃では限界が見えてきた。
だから、カズに頼るのだ。いや、「頼る」なんて言葉はあいつにはもったいない。あいつは俺に利用されるためだけに存在しているのだから。
サラ金やカードローンも利用してはいるが、無利子で催促もしないカズという阿呆な財布と比べたら、ばかばかしくて深入りすることはできない。それにカズには金の使い道などないのだから、べつだん困りもしないだろう。いつだって、大して嫌がりもせずに金を寄越すじゃないか。
──順番を間違えたな。
気持ちよさそうに助手席でそっくりかえっている岸田明美を横目に、栗橋浩美は考えた。明美を迎えにゆく前に、長寿庵に寄るべきだった。それなら何の問題もなかったのに、なんでころりと鉢植えの件を忘れてしまっていたのだろう?
明美の電話のせいだ。こいつが急《せ》かしたからだ。そう思うと、不意に急激に腹が立ってきて、栗橋浩美はぐいとアクセルを踏み込んだ。前方を走る車との距離が詰まり、岸田明美が驚いたように声をあげてドアにつかまった。
「気をつけて。危ないわ」
栗橋浩美はまだ腸《はらわた》が煮えくり返っていたので返事をしなかった。彼は前の車のナンバープレートを睨みつけ、ハンドルを握る手に渾身《こんしん》の力を込めた。ぎりぎりと奥歯を噛みしめる。もしも今、両手の内にあるのがハンドルではなく、岸田明美の細い首だったとしても、力を緩めることなどないだろうし、その方が遥かに気分がいいだろう──
しかし、激怒の発作は、来たときと同じように唐突に去った。こういうことが、最近はよくある。自分でも何に向かって怒っているのか判らないまま、瞬間的に怒り狂っては冷めるのだ。
そして、「最近よくあること」は、これだけではなかった。明美から電話をもらった途端、鉢植えの件も、カズからたかりとらない限り金欠状態であることもケロリと忘れ、いそいそと彼女を迎えに来てしまった──こういうことこそ、激怒の発作よりもより頻繁に起こっていた。
それはつまり、栗橋浩美自身が、岸田明美が彼に向かって投影している幻想に惑溺《わくでき》し、その幻想に染まりつつあるということだった。彼自身がその気になってきてしまっているのだ。自分で自分を、一色証券の有能な社員であると、社会の有益な構成員だと、「エリート」だと思いこみつつあるのだ。これは立派な自家中毒だった。そして、多くの薬物中毒症患者がそうであるように、栗橋浩美もまだ、自分がそういう状況に陥りつつあることに気づいていなかった。
「なあ、ちょっと頼みがあるんだけど」と、栗橋浩美は切り出した。
「なあに?」
「今、急に思い出したんだ。今日はね、俺の幼なじみの家の新装開店祝いの日なんだよ」
「やっぱり薬屋さん?」
「いや、蕎麦屋だ」
「あら、可愛い」
蕎麦屋の何が可愛いのか判らないが、明美がにっこりしたので、栗橋浩美もにこやかに笑った。
「俺の幼なじみはね、立派な跡取りなんだよ。高校にも行かずに蕎麦屋の修業をしてさ、今じゃ親父さんとふたりで店を切り回してる」
「偉いわね」
明美の価値観では、蕎麦屋など偉いのえの字にも値しないはずなのだが、それでも彼女は鷹揚《おうよう》に言ってみせる。おとぎ話の王女様が善良な働き者のパン屋を誉めるように。
「新装開店祝いを持っていってやりたいんだけど、いいかな? 俺の家の近所へ戻ることになるんだけど……。腹、減ってるか?」
「それほどでもない。いいわよ、お昼は返上でヒロミに付き合うわ。お夕食を豪華にしてくれれば文句言わない」
「ありがとう」
グルメを気取ってはいても、「腹が減っているか」という問いにはけっして「うん」と答えない。それが明美だ。いや、若い女はみんなそうなんじゃないだろうか。
「何がいいかな? やっぱり花かな」
車を練馬方面へと返しながら、栗橋浩美は訊いた。
「そうね、お花がふさわしいわよ。豪華にね」
「胡蝶蘭の鉢植えとか?」
「ええ、素敵ね」
「だけど、あんまり高価なものを贈ると、あいつ恐縮するからさ。かえって悪いんだ」
「そうか……」
「一万円ぐらいでどうかな」
明美は笑って肩をすくめた。「都心じゃなくて、ヒロミの家の近所で買えば、胡蝶蘭でもそれぐらいの値段の鉢が見つかるんじゃない? 青山じゃ駄目よ」
「判ってるよ」吹き出してみせながら、栗橋浩美は言った。「だけど、それぐらいでちょうどいいと思うぜ」
「お店の名前、なんていうの?」
「長寿庵」
「長寿庵!」明美は大げさに笑い出した。
「古典的で可愛いわね! いいわよ一万円で。五千円でもいいくらいよ。『長寿庵さん江』って、リボンをつけてあげない? あたし、いっぺんやってみたかったのよ、そういうの」
再び激怒の発作に似たものがこみ上げてきたが、今度もまた、ハンドルを強く握ることでこらえた。なぜ怒りがこみ上げるのか、栗橋浩美は判っていなかった。「長寿庵」を嗤《わら》うことで、岸田明美がほかでもない栗橋浩美自身の本当の出自を嗤《わら》っているから。だから腹が立つのだと、意識することはできなかった。
しかし、怒りはあった。幻想に中毒していても、誰かが自分を指さして嗤っていれば、それは判るのだ。しかし、嗤われたことに対する怒りを打ち返すべき相手の顔は、曇りつつある栗橋浩美の思考の鏡のなかに、はっきり映っていたためしがなかった。
いつものように、カズからはうまく金を巻き上げることができた。こいつときたら、近頃はいつ栗橋浩美がやってきてもいいように、店で働いているときも自分の財布を身につけて持っている。そうしておかないと、浩美がレジから金を抜いてこいと命令するので、先回りしているつもりなのかもしれないが、どっちにしたってカモはカモだ。
明美が花屋の店先で物色している間に、カズに電話をかけておいたのもよかったのかもしれない。本日のあがりは八万円。カズが言うには、給料をもらったばかりなのだという。
「またあの彼女が一緒なのかい?」と、余計なことを訊いた。
「うるせえな、おまえに関係ねえよ」
「あんまりいつまでも嘘をつくのはよくないよ」
栗橋浩美は、きっとしてカズの──高井和明の顔を見据えた。丸くてでかい顔だ。カズは子供の頃はただのデブだったが、大人になると、てらてら光ったデブになった。だぶだぶ膨れてはいやしない、堅太りなんだと本人は言っているが、デブはデブだ、デブにどんな種類があるってんだ。
「おまえなんかにそんなことをいわれる俺じゃないんだ」
高井和明は、小さな目をしばしばとまたたいた。
「俺は心配してるんだよ」
「おまえの心配なんて」
「女の子を騙すのはよくないよ。ちゃんと就職して、働いた方がいいよ、ヒロミ」
親切ごかしの言葉よりも、言葉と同時に右腕に乗せられたカズの厚ぼったくなま温かい手の感触よりも、忠告するような口調よりも、何よりもこの「ヒロミ」が勘に触った。こんなデブのできそこないに、俺を「ヒロミ」なんて呼ぶ権利はないんだ!
噴火口めがけて急上昇するマグマのように、怒りが頭の頂点へと駆けのぼった。栗橋浩美はぐいと肩を引くと、腕を振り上げてカズを殴ろうとした。そこに人の気配がした。
カズがあわてて顔を振り向けた。妹の由美子が立っていた。栗橋浩美はびくりと身をこわばらせた。
激怒は蒸発した。彼は笑みを浮かべた。由美子に話しかけようかと口を開きかけたとき、長寿庵の調理場の奥から由美子に、出前に行けと怒鳴る声が聞こえてきた。大きな声だったので驚かされたが、おかげで危ない瞬間をごまかすことができた。栗橋浩美は愛想のいい挨拶を長寿庵に残し、カズの肩をぽんと叩いて外へ出た。
しかし、車に乗ろうとしているところで、また由美子に追いつかれた。痛いような視線を感じたので振り返ると、彼女が鋭い目をして、そのくせ出前持ちの格好で、てんで間抜けな光景をつくりあげてその場に突っ立っていたのだ。
「よう由美ちゃん、よく働くな」
栗橋が笑顔で声をかけても、由美子は返事をしなかった。瞬間、彼女の目が忙しく左右に動くのを、栗橋は見た。何を見ているのかと思ったら、彼の車と、その車の助手席の岸田明美を見比べているのだった。それで初めて気づいたが、車体の色と明美のミニスーツの色はまったく同じ、血のような赤だった。女なんてヘンなところを観察するものだ。
高井由美子は、喧嘩腰に妙なことを言い出した。お兄ちゃんに近づくなとか、あたしは全部知ってるとか。栗橋浩美はそれをいい加減にあしらった。由美子は俺にラブレターを寄越したことがあるんだ。遠い昔。子供のころ。まだ俺が今みたいな何者でもないころ。それを聞くと由美子はむきになって反論し、岸田明美が、彼女がそうしようと意図している以上のはすっぱさと意地悪さを全開にして、由美子がヒステリーだとバカにした。
やがて栗橋浩美は、由美子を置き去りにして車を出した。バックミラーに、出前の盆を捧げ持ったまま立ちつくしている由美子の小さな姿が映っていたが、角をひとつ曲がるときれいに消えた。まるで明かりを点けられたときの幽霊みたいに。
「ねえ」と、岸田明美が言った。「今の娘、ヘンね」
「明美の言うとおり、ヒステリーなんだよ。俺はあの由美子の初恋の人でさ、だけど俺は相手にしなかったから」
岸田明美は、妙に真面目な顔で前方を向いていた。
「あたし、あの長寿庵て店、二度と行きたくないわ」
「ああ、今日は付き合わせて悪かったよ」
「ヒロミの昔の友達とか、あたし嫌いよ」
「判ってるよ」
岸田明美はしばらく黙っていたが、やがて前を見たまま呟いた。「ヒロミ、あたしに紹介するなら、大学や会社の友達にしてね」
栗橋浩美はハンドルを握りしめた。
長寿庵を訪ねた後、岸田明美がいつまでも不機嫌そうな顔をしているので、青山のレストランでの食事も気まずいものになった。栗橋浩美もイライラしてきて、彼女を置いて帰ろうかと思った。
食事中、機嫌をとってやろうと下手に出て、なんでそんなに拗《す》ねてるんだよと訊いてみた。すると明美は、あんな汚らしい蕎麦屋みたいな貧乏くさいところは嫌いなんだというようなことをぶつぶつ言った。長寿庵は新装開店したばかりで、けっして汚らしいことなどないが、明美のなかにある彼女一流の価値観の物差しでは、町場の蕎麦屋は店の構えがどんなふうであろうと一律に「貧乏くさい」のだろう。
栗橋浩美は、岸田明美というプリズムを通して、自分のなかに居るふたつの人格を見ているような気がした。明美が「貧乏くさい」と蔑《さげす》む長寿庵は彼の生育環境の象徴であり、彼女に馬鹿にされることに激しく反発する自分がいる。だがそれと同時に、彼女の蔑みに共感し、彼女の嫌悪を理解する自分もここにいるのだ。それはちょうど、明美が実家の裕福さを誇りつつ、東京ではただの田舎者にすぎない自分を密かに恥じ、その恥を克服するために栗橋浩美に──正確には彼女が栗橋浩美に対して抱いている幻想に──しがみつき、ふたつに分裂しているのとそっくり同じだった。
俺たちは似ているのだ。
しかし、明美の使っている金が、彼女自身が稼いだ収入ではないにしろ、れっきとした親からの賜りものであるのに対し、栗橋浩美の虚栄を支えている軍資金は、彼が明美と共に蔑む長寿庵の高井和明から巻き上げてきたものなのである。
ドレッシングをまぶされて、レタスもきゅうりもつくりもののようにきれいにきらきら光る野菜サラダをつつきながら、栗橋浩美はちょっと目を閉じた。俺はここで何をしているんだろう? この女は俺にとって何なんだろう?
──ピース。
ピースなら、こういうときどうするだろう?
ピースなら、そもそもこんな羽目に陥ったりすることはないんじゃないのか。ピースなら、もっと賢い女と付き合うんじゃないか。
ピースなら、自分を偽ってふたつに分裂させるようなへまはしないんじゃないのか。
「ねえ、ヒロミ」
大儀そうにコーヒーをかき回しながら、岸田明美が話しかけてきた。
「ヒロミって、幽霊とか信じる?」
栗橋浩美はぱちぱちとまばたきをした。ぼんやりしているあいだに食事のコースが進んで、彼の前にも洒落たコーヒーカップが置いてある。何を食べたか記憶にない。そのうえに、この女はいきなり何を言い出すんだ?
「ねえ、幽霊の存在とか心霊写真とか信じる方?」と、明美は重ねて質問した。ちょっと身を乗り出してくる。香水が匂った。
「いきなり何だよ」と、栗橋浩美は言った。
岸田明美と話していると、ときどきこんなふうに話題がぽんと飛ぶことがある。もっともこれは、単に栗橋浩美がたまにぼうっと自分の内側に入り込んでしまう癖があり、そのあいだ彼女の話の筋道を見失っているということにすぎないのかもしれないのだが。
「先週、友達が南紀にあるリゾートホテルに行ってきたんだって。ほら和代《かず よ 》よ、高瀬《たか せ 》和代、わかるでしょ? 前に一緒に食事したことあるもの」
明美の友達の顔や名前など、覚えようというつもりがないのでさっぱり判らない。が、あいまいにうなずいておいた。
「彼女がね、そのリゾートホテルですっごい怖い思いをしたんだって。幽霊を見るわ、変な音は聞くわ、ポルターガイストでものは飛ぶわ、金縛りにもびんびんあって──震え上がっちゃったって、得意になってしゃべり回ってるのよ」
「そんな怖い思いをしたことが、得意になるようなことなのかな」
「あら、だって、それだけ霊感が強いってことだから」と、明美は当然のことのように言った。彼女のなかでは、「霊感が強い」ことイコール高級なことであるようだ。
「和代の話なんか、半分以上作り話に決まってるんだけどね」
明美はテーブルに両肘をつき、赤く塗った爪の先をひらひらさせた。
「でもあんなふうに嬉しそうにしゃべられると、ちょっと何かなあって感じで」
「ちょっと何って、何がだい」
「だから……」
明美は上目遣いに栗橋浩美を見つめた。
「だから、ヒロミは幽霊とか信じる? 見てみたいとか思わない?」
栗橋浩美はコーヒーカップを手に取ると、素っ気なく言った。「思わない」
「なんで?」
「いるわけないからさ、そんなもの」
「どうしてェ?」
「もしも幽霊が実在するなら、東京なんかそこらじゅう幽霊だらけになるよ。そう思わないか? この店の前の道路だって、交通事故で死んだ人の幽霊が出て来なきゃおかしい。三ヵ月ぐらい前に死亡事故があったんだからな。歩道に花と線香が供えてあったのを見たことがあるんだよ」
明美はじれったそうに舌を鳴らした。
「あたしが言ってるのはそんなんじゃないのよ。交通事故とかそういう平凡なもんじゃなくて、たとえば殺人事件とか、一家心中とか、男女関係のもつれで殺された女とかさ、そういう人の幽霊は、しかるべき場所に出てもおかしくないんじゃないかってことなの」
栗橋浩美はじっと岸田明美の顔を見た。
「今夜、どこかへ泊まりたいってことか?」
明美は吹き出した。「泊まらないの? このままおうちへ帰ってデートは終わり?」
「そういう意味じゃないよ。君、幽霊が出るんで有名なホテルに連れてってほしいとか考えてるんだろう。そうだろ?」
岸田明美はテーブルに頬杖をつくと、わざと「うふふ」と笑った。
「大当たり! ヒロミって察しがいいわ」
「バカらしい」
「どうして? いいじゃない、あたし、いろいろ調べてきたのよ」
ハンドバッグをごそごそと探り始める。
「東京の心霊スポットとかね、いろいろ情報があるの」
雑誌の切り抜きなどを持ってきたようだ。栗橋浩美は冷たく言った。「そういう心霊スポットとかいうのは、君の嫌いな貧乏たらしい汚い場所が多いんじゃないのか? 倒産した工場の跡地とか、無理心中のあった簡易旅館とかさ。そんなところに行かれるのかい?」
「もちろん、あたしはそんなところに行きやしないわよ」
明美は得意そうに雑誌の切り抜きを差し出した。週刊誌のモノクロのグラビアページのようだ。
「これ見て。お化けビルって呼ばれてるところなんだって。総合病院と高級マンションが建つはずだった場所なんだけど、バブルがはじけて計画が狂っちゃって、土台と骨組みができただけの状態でほったらかしにされてるの」
栗橋浩美は差し出された切り抜きを手に取った。なるほど、ページいっぱいに、寒々と鉄骨をさらして立ちつくすビルの骨組みが写っている。
場所は、群馬県赤井市北東部の赤井山中とある。グラビアページだから文章は短く、明美が説明したような事情と、いつの間にかこの人工的な廃墟が「お化けビル」と呼ばれ若者たちのデートスポットになったこと、また、不気味な雰囲気が自然に伝説を生み、いつの間にかここには多種多様の幽霊が出るという噂話が広まって、それがまた見物人を集めているなどの事柄が、少しばかり皮肉な口調で記事にまとめられていた。
グラビアはもう一枚あり、二枚目の方には、おそらく深夜なのだろう、暗闇を背景に褪《あ》せたように白くそそりたつお化けビルの足元で、肩を組んで記念写真を撮っているカップルの様子が写されていた。気味悪い場所だろうに、カップルはどちらも楽しくてたまらないという顔をしており、怖がっているような気配は微塵《 み じん》もない。
「ここ、近頃は首都圏じゃ有名な心霊スポットになってるそうなのよ」
明美が、いつもの彼女の語彙のなかにあるとは思えない「首都圏」という言葉を使って強調した。
「あたしは見逃しちゃったんだけど、テレビでも取り上げられたことがあったんですって。女性の霊能力者が訪ねたら、もうその場に立っていられないほどの強い霊気を感じて、気分が悪くなって倒れちゃったんだって。でね、自動書記みたいになって、男の人の名前を書いて、スミマセンスミマセンて謝るんだって。後で調べてみたら、ここの開発に失敗したディベロッパーで、管理職の人がひとり、プロジェクトがうまくいかなくて損が出たのは自分の責任だって遣書を残して、お化けビルのなかで首を吊って自殺してたんですって」
栗橋浩美は黙ってグラビアをながめていた。頬を寄せ合い、抱き合うようにして写真に写っているカップルの顔を。
なんという阿呆だ。知性のかけらもない。こういう人間がどうして生きているのだろう。なんでこんな人間を生かしておいて、みんな平気でいられるのだろう?
──みんな──みんなって誰だ?
俺には我慢できない。
岸田明美は熱っぽく言い募《つの》る。「ほかにもあるのよ。お化けビルで彼に別れ話を持ち出された女が、泣きながら道路に飛び出して車に轢《ひ》かれて死んじゃったの。彼女は彼と別れるなんて考えられなかったのね。で、以来彼女の幽霊が出るんだって。それが面白いのは、彼女は自分が死んだことに気づいてなくて、いつかは彼が迎えに来てくれると思ってるもんだから、お化けビルを見物にくる男の人の顔を、いちいちのぞきこんで歩くんだって。カップルで来ていても、男の顔だけのぞくんだって。こう、後ろから肩に手をかけて振り向かせて──」
栗橋浩美は目をあげた。岸田明美は、女の幽霊がするという動作を真似る格好をしたまま口をつぐんだ。
「こんなとこへ行って何をしようってんだ?」
岸田明美は彼を見つめた。そのまま、ゆっくりまばたきをした。
「くだらないと思わないのか? こんなのみんなデマや作り話だよ。こういうふうに開発計画が頓挫《とん ざ 》したバブルの傷跡は日本中のあっちこっちに残っててさ、みんな不良債権になってる。それをどうするかってのは、日本経済にとって深刻な問題なんだ。それを、きゃあ幽霊が出るから見に行きたいわなんて、いい大人がどの面《つら》さげて言えるんだ?」
岸田明美はまじまじと彼を見ている。気のせいか、顔が青ざめたようだ。
「俺は君を見損なったよ」と、栗橋浩美は続けた。怒ったふり[#「ふり」に傍点]をしたまま。
最初は本当に怒っていた。「こんなとこへ行って何をしようってんだ?」と声を張り上げたときは、本気で怒っていた。だからこそ、言葉も少しばかりくだけてしまった。が、彼のそういう態度に対する明美の反応を見た瞬間に、彼の怒りはすっと後ろに引き、代わりに興味を感じてきた。愉快にもなってきた。岸田明美を掴む──彼女をより深く屈服させ、より強く彼に惹きつけ、より完全に掌握してコントロールするための、これは絶好のチャンスだということが判ったからだ。
「君を見損なった」と、栗橋浩美は繰り返して強調した。周囲のテーブルに座っていた客たちが、ちらちらとこちらを気にし始めている。それも計算の内だった。
「君がこれほど知性や優しさのない女性だとは思ってなかったよ。何が自殺した管理職の幽霊が出るから面白い、だ。どうせそれだって作り話だ。だけどね、もしも本当だとしたら、俺はそれを面白がることなんかできないよ。プロジェクトに失敗して自殺するような男は職業人として根性がなさすぎると思うけど、それでも、そいつが死んだらやっぱりその死は心にこたえるよ赤の他人でも、気の毒だと思うよ。それを君はなんだ?」
岸田明美のくちびるが震え始めた。目尻に涙がにじんでくる。隣のテーブルの客が、彼女の顔を面白そうに横目でながめている。
「幽霊を見るのは霊感が強いからだって? それがなんだっていうんだ? 自慢するようなことか? 金縛りにあったりポルターガイストとかに出会うのが、そんなに大切なことなのか? それが人間として感性が豊かだったり心が優しかったりすることの証拠になるとでもいうのか? 冗談じゃない、とんでもない勘違いだ!」
岸田明美の目から涙がぽろりと落ちた。
「和代とかいう友達がそんな低級なことを自慢しているんなら、君ははっきり言ってやるべきだったんだ。そういうことにどれだけの価値があるのかって。人の命の大切さや、生きていることの意味を考えることの方が、はるかに大事なことのはずなんだ。それなのに君ときたら、友達の自慢話に対抗したい一心で、もっと話題になるような心霊スポットはないかと探したんだろ? 俺はそういうの大嫌いなんだ。人間として最低だと思うよ」
憤然として──という様子で、栗橋浩美は言葉を切った。ふっと鼻から息を吐く。これも計算のうちである。音をたててコーヒーカップを持ち上げると、ぐいと一口飲んだ。
岸田明美はぽろぽろと泣いている。マスカラが溶けた、黒い涙だ。隣のテーブルの客はもう好奇心を抑えきれず、首をよじって彼女を見ている。
「あ、あたし……」
とぎれとぎれに、明美は呟いた。
「あたし、パパ──にも、怒られたこと、ないのに」
パパというのは父親か、それとも別の男性のことかと尋ねようとして、栗橋浩美は途中でやめた。そういうことを訊くと、話題の焦点がずれてしまう危険がある。ここでは、岸田明美の人間性に対して栗橋浩美が怒っているという図式を壊してはならないのだ。彼女の男関係の話にすりかえさせてはならない。
「それは申し訳なかった」と、栗橋浩美は堅苦しく応じた。「でも、僕は僕の信念として君が言ったような考え方には同意できないんだ。怒鳴ったのは悪かった」
「いいの……ごめんなさい。あたしが悪かったわ」
すすり泣きながら、岸田明美はうなだれた。
「本当にごめんなさい。ヒロミの言うこと、全部正しいわ。ごめんなさい。あたしのこと嫌いになった? もう嫌いになった?」
手で顔を覆いながら、泣き声を出す。栗橋浩美はコーヒーカップを受け皿に戻し、うつむき、そっと笑いをかみ殺した。
「なんだかこんなことで喧嘩するのはバカみたいだな」と、優しく言ってやった。
「喧嘩じゃないわ。あたしがヒロミに叱られたのよ。喧嘩じゃない」
岸田明美はどこまでも従順になっている。見開かれた目には必死の光が宿っている。
栗橋浩美は満足した。
「いいんだよ。もうよそう。もう泣かないでよ」
そう言って、再びちらりとグラビアの切り抜きに目を落とした。
「なんなら、ここへ行ってみようか」
予想外の方向から攻める──これも、岸田明美のような女をコントロールするために必要なテクニックだ。
明美はぴくんと顔をあげた。驚きで口が半開きになっている。
「だってそんな……嫌よあたし、どうして? ヒロミ、まだ怒ってるの? あたしもうそんなところに行かなくていいの。連れていってなんて言わないわ」
栗橋浩美は笑った。「そうじゃないよ。バブルの爪痕を見にいこうって意味さ。それで君にもわかって欲しいんだ。ひとつ間違うと、こういう廃墟ができあがる──それぐらい社会ってのは厳しいし、俺はそのなかで生きてるんだってことをね」
能書きはなんとでも言える。頭から怒鳴っておいて、しかし結果的には(別の口実をこしらえてやって)望みをかなえてやる。甘やかされた明美みたいな女には、この手が有効なのだ。
そのとおり、彼女は大きな笑みを浮かべた。
「ありがとう、ヒロミ」
群馬県赤井市など、今まで行ったことが無い。地名さえ知らなかった。地図で場所や道順を調べると、山ひとつ越えたところに小山遊園地があったので、それでやっと距離感がつかめた。
青山のレストランに長居をしてしまったので、これから群馬まで出かけるとなると、日帰りは無理だ。宿泊先のホテルも雑誌で調べ、電話予約を入れた。急いでいたので、とりあえずルート沿いで交通に便利──という条件だけで選んだホテルだから、岸田明美を満足させることができるような高級仕様である可能性は少ないが、今の彼女なら文句は言わないだろう。栗橋浩美としては、思わぬ形で彼女に説教をし、彼女の弱味を攻撃したことで、資金的にもかなり助かることになった。
携帯電話からそれらの手配をしているとき、明美が心配そうにか細い声で、
「明日、会社の方はいいの?」と訊いた。
それでやっと、栗橋浩美も「多忙なビジネスマン」という、偽りの立場を思い出した。今日、平日なのに昼間から明美とデートしているのも、先週末の休みを返上したかわりの代休をとったのだという「設定」にしてあったのだ。
決まった勤めを持たず、仕事もなく、ぶらぶらしている本当の暮らしが、こういうときにぽろりとこぼれてボロが出そうになる。ヒヤリとした。
「しょうがない、明日は客先に直行して、会社には昼過ぎから出る、と電話しておくよ」
明美に向かって、にっこり笑いながらそう言ってやった。
「それでいいの?」
「ま、ごまかせるだろう」
「あたしはいいのよ、今夜無理に群馬まで行かなくたって──」
不意に怒りの波が突き上げてきて、栗橋浩美の頭のなかが熱くなった。
今さら何だ。もとはと言えばおまえがあんなくだらないことを言い出したから悪いんじゃないか。俺が調子をあわせてやってるのを有り難いとも思わないで、その言い方は何だ。
ちょうどそのとき、栗橋浩美は路上に停めた車の運転席にいて、関東近県の道路地図を開いていた。ページをつかむ指に力が入り、地図がぎゅうと歪んだ。怒りを指先だけに込め、何とか声を抑えて、彼は言った。
「それじゃ、やめようか?」
岸田明美は助手席に座り、心持ち彼から離れるように窓に寄って身を縮めていた。目を伏せていた。そしてその視線の先に、地図をつかんで震えている栗橋浩美の指先があった。
栗橋浩美はもう一度言った。今度はさっきよりも語気が強くなっていた。
「なあ、とりやめにしようか?」
岸田明美は動くことができなかった。顔を上げ、彼の目を見て微笑み、返事をすることができなかった。これまではずっとそうしてきたのに──ヒロミが怒ったり拗《す》ねたりしても、あたしがにっこり笑ってそばに寄れば、それで全部解決してきたのに──
三度目、今度こそ明らかに苛立ちを隠しきれない口調で、栗橋浩美は言った。
「なあ明美、このまま家まで送っていこうか?」
地図のページが、栗橋浩美の指の力でへしゃげてしまっている。紙よりももっと堅いもの──ボールペンとか鉛筆とか──(それともあたしの指とか)
そういうものでもへし折ってしまうことのできそうな力が、彼の指には込められていた。
岸田明美は初めて、栗橋浩美を怖いと思った。いや、「男」という存在に対して恐怖を感じたのは、これがまったく初めての経験だった。
彼女にとって、「男」は常に、御しやすいものだった。優しいものだった。手軽なものだった。面白いものだった。利用できるものだった。そして「女」にとってはなくてはならないものであり、だから「男」のそばにいない「女」は彼女にとって意味がなかったし、より使い勝手のいい「男」をそばに置いておくことにこそ「女」の人生の目的はあった。
だから、「男」が怖いはずはなかった。それなのに今、栗橋浩美は怖い──恐ろしい一面を、彼女に見せている。
もしも岸田明美が、これまでにも何度か「男」に怖い思いをさせられており、「男」の怖さを体験していたならば、今この場で彼女の隣に座っている栗橋浩美という「男」の放っている怖さが、それまでの男たちの怖さとは異質なものであることに気づいただろう。「男」の怖さは、しかし男の本質の一部でもあり、だから彼女が愛してやまない男たちの優しさや頼もしさや女への甘さと表裏一体になっている。
だが、栗橋浩美が岸田明美に対して放っている恐怖のオーラは、それとは根元的に違うところから発せられていた。「男」だから怖いのではない。「男」の機嫌を損じたから、怖い思いをさせられているのではない。
経験のある女なら、たぶんそれを感じ取って、「ええ、このまま今日は家に帰して」と言っただろう。そして帰宅して風呂に浸かりながら、栗橋浩美という男について、もう一度冷静に考え直してみるべきだと決断したことだろう。あの男は危ない。ただの怒りっぽい男じゃない。確かに魅力的だけど、何かおかしなところがある、あたしの本能が──「女」としてではなく、人間としてのあたしの本能がそう囁いている、と。
生存本能が。
しかし、それまで「男」の怖さを知らなかった岸田明美は、栗橋浩美に与えられた恐怖と、当たり前の「男」の怖さとを見分けることができなかった。彼女の生存本能が発する警報を聞き取るよりも先に、怖がらせられたことで打ちのめされ、屈伏し、今や相手の機嫌をとってこの場を丸く収めることしか考えられないようになっていた。
「ううん、家には帰りたくない」と、彼女は言った。「せっかくホテルも手配してくれたんだもの、あたしヒロミと一緒にいたい。出かけましょうよ」
彼女の語尾は、わずかに震えていた。栗橋浩美は地図から目をあげて彼女を見た。直にではなく、ルームミラーのなかに映る彼女の顔を。
見られていることに気づいて、岸田明美は顔をあげた。ふたりの視線があった。
先に笑ったのは、栗橋浩美の方だった。彼の笑みに調子をあわせるために、岸田明美は遅れて笑った。
ちょうどそのとき、たまたま車の前を横切ったひとりの女性がいた。目立つ車に目立つカップル。視線は自然にふたりの顔へと吸い寄せられた。そして岸田明美の笑顔を見た彼女は、ふと思った。
──あの女の人、ずいぶん泣き顔だわ。
ときどきそういう人がいるものだ。笑っているのに泣いてるみたいに見える顔の人。美人だけど、あの人もそういう顔なのね。そしてそれっきり、そのカップルのことなど思い出しもしなかった。
見知らぬ他人にそんな印象を与えていることなど気づかぬまま、岸田明美は笑顔をつくっていた。栗橋浩美が目をそらし、車のエンジンをかけるまで、ずっと笑っていた。彼が「よしよし、もう笑わなくていいぞ」と態度で示してくれるまで。忠実な犬のように。
道は空いていた。出発して二時間ほどで、ふたりの乗った車は赤井山中へと向かうグリーンロードの入口にさしかかっていた。
ドライブのあいだ、栗橋浩美はよくしゃべった。しゃべりづめだった。そして岸田明美を質問攻めにした。青山のレストランでの話を蒸し返し、明美の友人の和代の体験したという心霊現象について、しつこく尋ねては答えさせた。そして彼女が答える度に、揚げ足をとるような質問をしては彼女を苛《さいな》んだ。
──そもそも、どうして和代の言ってることが信用できるんだ?
──無人の廊下で女のすすり泣くような声を聞いたって? だけど本当に無人だったのかい? どうやってそれを確認したの?
──そこで自殺した女性がいたって、どうやって調べたんだ? 調べた資料は信憑性《しんぴょうせい》の高いものだったのか?
──心霊現象の存在を信じるということと、霊魂の存在を信じるということは、君にとっては同じことなのかい? どうなの?
──君はさっきから幽霊幽霊と手軽に言うけど、幽霊と霊魂とは同じものなのか?
岸田明美は疲れ果て、何度か、少し黙っていてくれないかと言い返しそうになった。そんなに苛めなくたっていいでしょ、と。もともと勝ち気な彼女には、こういうやりとりで一方的にやっつけられるなんて、我慢しがたいことだったのだ。
しかし、既《すんで》のところで言葉を呑み込み、必死で彼に調子を合わせた。またさっきみたいな怒った顔をされたくはない。あれは普通の怒り方じゃなかった。ヒロミには、あたしが青山で話したような話題はよっぽど不愉快だったんだ。彼の怒りは正しい。だけど、もう一度あんなふうに怒った顔をされたら、あたしは怖くて怖くて死にそうになってしまうだろう──
心霊現象の話題に飽きると、栗橋浩美はバブル経済の後遺症について語り始めた。話の大半は、岸田明美には理解不可能なものだった。頭の隅でちらりと、(新聞の経済面に書いてあることみたい)と思った。
高校生のころ、父親に頼まれて、雑誌や新聞の記事を切り抜き、スクラップをつくるという家庭内のアルバイトをしたことがあった。事務員にやらせるとミスが多いからと、父が直々に彼女に頼んだのだ。そして、その報酬に、信じられないような高額のお小遣いをくれた。岸田明美にとって、労働とはそういうことだった。
切り抜いたのは、もっぱら経済誌や不動産関係の業界紙の記事だった。内容どころか、見出しの言葉の意味さえ彼女には判らなかった。そして今、栗橋浩美がとうとうとまくしたてる言葉の洪水のなかには、そのころちらほらと見た言葉がたくさん混じっていた。それと最近のニュースのヘッドラインで、アナウンサーが深刻そうな顔でしゃべるときの言葉──
岸田明美がもう少し現実感に溢れた女であったなら、ここで、彼のこの演説を聞いただけで、栗橋浩美という男の中身を、多少なりとも推察することができたはずだった。なんだこの人、威張ってるけど、結局新聞や雑誌やテレビでつかんだ情報をしゃべり散らしてるだけじゃないの、と。
しかし、彼女にはそれができなかった。彼女が持ち合わせている現代社会をはかる秤《はかり》では、栗橋浩美の中身の空っぽさを、彼のかっこいい風袋《ふうたい》を除いた正味の軽さを、正確に見抜くことができなかったのだ。
グリーンロードの入口で、車は一度ガソリンスタンドに立ち寄った。栗橋浩美が店員とやりとりをしているあいだに、明美は洗面所を使った。トイレは清潔で、掃除も行き届いていたが、何か油でも跳ねかかったのか、洗面所の鏡が曇ってしまっていた。だから、そこに映る自分の顔が、霞のなかにいるかのようにぼんやりして見えた。
ひとりでトイレに入った途端に、岸田明美はひどい疲労感を覚えた。霞んだ顔と顔をあわせながら、うちに帰りたいと思った。それも東京の独り暮らしのマンションではなく、川越の実家へ。急に里心がついて、パパやママの顔が見たくなった。
これもまた本能の放つ警告だった。パパとママを思うのは、彼女が子供のように力弱い存在になっている証拠だ。彼女が弱者であり、今危険にさらされているのだということを、本能はそういう形で知らせている。栗橋浩美は危険だ──あの男と、少なくとも「今の」あの男と、これ以上一緒にいてはいけない。
帰ろうかと、彼女は思った。
ガソリンスタンドなら、電話してタクシーを呼んでくれるだろう。帰り道の足の心配をせずに、遠慮なくヒロミと喧嘩することができる。店員も周りにいるし、もしも彼が激怒して彼女を殴ろうとしたって、彼らが止めに入ってくれるだろうし、逃げることだってできる。
うんざりだと、岸田明美は思った。ヒロミにこんなふうに脅かされ、苛められ、虐《しいた》げられて、なんで我慢しなくちゃならない? あてがはずれた。あんな男だと思ってなかった。なんてしつこいの。なんて話がくどいの。
怖いけど、今ここでなら、あいつにはっきりそう言ってやって逃げることができる。もうあんたなんかと付き合わない──
あたしには、もっと優しくしてくれて、あたしのことお姫さまみたいに大事にしてくれて、敬ってくれる男がほかにもいっぱいいるんだから!
霞んだ鏡に向かって、明美はにこっと笑ってみせた。自信を取り戻しなさい、明美。
洗面所を出て車の方へ戻ってみると、栗橋浩美は車体にもたれて、店員と話をしているところだった。若い女店員だった。プルオーバーにミニスカートにブーツといういでたちで、とてもチャーミングだ。即座に値踏みして、そう──脚はあたしよりきれいだ、と明美は判断した。でも顔はどうかしら。
栗橋浩美はすっかりくつろいだ様子で、両手をジャケットのポケットに突っ込み、にこやかに笑いながら店員と話している。女店員はしきりと身振り手振りを交えながら、やはり笑顔で熱心に話している。
「もう本当に嬉しくて、その夜は眠れなかったんです」と、女店員が言う。
「そりゃそうだよね、僕だって興奮したろうと思うな」
ふたりは意気投合しているようだ。明美がすぐ脇に立っても、栗橋浩美は彼女に目を向けようともしてくれなかった。女店員も明美を無視している。
「何の話?」と、明美は訊いた。
栗橋浩美は、なんだ君もいたんだっけなと言いたげな顔で、斜交《はす か 》いに彼女を見た。
「グレイ・マーチンの話さ」
誰のこと? と訊くのが癪《しゃく》に障るような答え方だった。それでも当惑が明美の顔に出たらしく、すると女店員が割り込んできた。
「現代ポップアートの第一人者なんですよ。ニューヨークの画家です」
「あら、そう」明美は無理して微笑んだ。
「彼の作品を、今年の一月に開館したばかりの赤井市の美術館が買ったんだそうだ」
「そしたら、ご本人が来日したときに、わざわざ美術館を訪ねてきてくれたんです」
女店員は手を打って飛び上がるような仕草をした。
「感激だったわ! わたし、彼が歓迎レセプションの会場から出てくるのをずっと待っていて、握手してもらったんです」
栗橋浩美は愛しいものを見るように女店員の顔を見ている。女店員も上気した顔で栗橋浩美を見つめ返す。
「なんでそんな話をしてるの?」
「あのポスターさ」と、栗橋浩美は給油機のそばの柱に貼られたポスターを顎でしゃくって示した。「現代ポップアート展グレイ・マーチンの世界」とタイトルがついている。明美の目には、ポスターの中央に刷られた絵画は、何やらぐしゃぐしゃと色を塗り重ねたとしか見えないような代物だが、どうやらこれがグレイ・マーチンとかいう画家の手になるものであるらしい。
「あれを見て、関心を示してくれるような男の人が、この辺じゃすごく少ないんです」
「そう? 僕はグレイ・マーチンのファンなんだ。今度は美術館が開館している時間に来ようかな」
来たら、君を誘ってもいい? とでも言わんばかりの親しげな笑みを浮かべる。女店員もそれに寄り添う。
むらむらと、岸田明美は腹を立てた。しかしその立腹は栗橋浩美に向けられてのものではなく、ほかの女の持ち物である男に図々しく寄りついてくる田舎娘への立腹だった。
「早く行きましょう。寒いわ」
栗橋浩美の腕に腕をからめて、女店員から引き離した。対抗心でいっぱいになった心からは、里心も、栗橋浩美への不満も、一時的に消え失せていた。
最後の退路は断たれた。この瞬間に、岸田明美の運命は決まった。あとは、セットされた時限爆弾が爆発するのを待つだけだった。
[#改ページ]
5
──女の悲鳴が聞こえる。
芦原《あしはら》君恵《きみ え 》は飛び起きた。長年使い込まれて近頃いささかガタの来ている彼女のベッドが、ぎいと抗議の音をたてた。しかしそれ以外には、聞こえるものと言えば自分自身の心臓の鼓動だけだ。
それと、目覚まし時計のチクタクと針を刻む音。明日は朝練習があるので、タイマーの針は午前六時にセットしてある。遅刻しようものなら三年生ににらまれて大変なことになってしまうから、ゼッタイにゼッタイに六時に起きられるように、ゼッタイにゼッタイに寝ぼけ眼でアラームを止めてしまったりしないように、目覚まし時計はベッドから離れた机の上に置いてあった。今、蛍光色に光るその針は、午前○時五分過ぎをさしている。
──夢、見てたんだ。
君恵は震えながらひとつ息を吐いた。両手で自分の頬を押さえてみる。冷たい。毛布と布団の下で膝も震えている。三月一日──いや、五分過ぎでももう三月二日か──は、山がちの北関東ではまだ春ではない。冬中吹き荒れた空《から》っ風はやっと少し静まりつつあるものの、気温はまだまだ低いし、早朝には風花が舞うことさえあるほどだ。
でも、この手足の冷たさは、気温のせいではない。たった今まで見ていた夢のせいだ。
ベッドの上に座り、明かりを点けないまま、君恵は家のなかの物音に耳を澄ませた。
静まり返っている。お父さんもお母さんも、もう眠ってしまったらしい。君恵はなんだか肩すかしをくったような物足りない気分になった。我が家では、こんなものか……。
──あたしの同級生が家出して行方不明になってるっていうのにさ。お父さんもお母さんも平和に寝ちゃうんだからね。たまんないよね。
子供っぽい不満に口を尖らせてみる。
嘉浦《 か うら》舞衣《 ま い 》の母親から電話がかかってきたのは、昨夜の八時過ぎのことだった。舞衣がまだ帰宅しないので、心配で探している、お宅に伺っているのではないかという問い合わせだった。
芦原家には、舞衣は来ていなかった。電話に出た君恵の母がそう伝えると、舞衣の母親は、ほかに舞衣が行きそうな場所の心当たりはないか、君恵に訊いてくれと言った。受話器を手にしたまま、君恵の母は、いくぶん機嫌を損ねたような口調で、その質問を君恵に伝えた。
君恵はそのとき、リビングでテレビドラマを観ていた。舞衣の母親からの電話は、彼女にとっては「すっごいオドロキ」で、受話器の送話口を手で押さえている母親に、小声で打ち明けた。あたしはそりゃ嘉浦さんと仲悪いわけじゃないけど、それほど仲良しってわけでもないヨ。だから嘉浦さんがよその家に行ってるにしても、あたしにはわかんないヨ。
君恵の母は、舞衣の母に、うちの娘には心当たりがないそうですとあっさり伝え、電話を切った。
「あたしに言わせれば」と、母は不機嫌そうに言った。「中学生のくせに、夜八時を過ぎても家に帰らないでフラフラしているような娘に育てることが、そもそも問題だと思うね」
しかし、嘉浦舞衣はそういう娘だし、嘉浦家はそういう家なのだ。だからこそ、君恵も「すっごいオドロキ」を感じたのだった。あの舞衣のお母さんが、舞衣がたかだか八時過ぎに家に帰っていないからって、心配して探し回るなんて。
君恵の知っている嘉浦麻衣は、中学三年生──しかも新学期が来て三年生になるといういわゆる新三年生の十四歳にして、夜遊びの達人だった。舞衣はとても小柄で華奢で、体格だけ見るとまだ小学生みたいにも見えるのだが、近寄ってよく観察すると、茶髪にピアス、出るところはバッチリ出ているし、顔立ちは大人っぽく整っているし、声はちょっと破れたようなハスキーな音色で、それでいて舌足らずなしゃべり方をして、なんとも色っぽい女の子なのだ。
だから学校内でも学校の外でも、異様にモテな、モテるから、ちょっとコツさえつかんでしまえば、夜遊びの相手にも、資金にも事欠かなかった。君恵が漏れ聞いた話では、赤井山を越えて小山市まで遊びに行くこともしょっちゅうだし、月に数度は東京まで遠征にも行くらしい。むろん、電車なんかで行くのじゃない。ボーイフレンドの大学生や高校生に、四輸や二輪で連れていってもらうのだ。そんな生活をしているから、学校を遅刻するのは当たり前、黙って休むこともしばしば。だけどそれで通ってしまうのが、嘉浦舞衣という少女なのだった。
「うちで怒られたりしないの?」
君恵は尋ねてみたことがある。すると舞衣は寄り目になって熱心に枝毛の手入れをしながら、あっさりと答えた。
「怒るわけないじゃん、うちの親が。自分だって勝手なことばっかりしてんだもん」
ヘエそういうものかと、君恵は思った。
しかし、親が無関心でも、学校の先生たちはそうじゃないだろう──と思いたいところだが、舞衣の素行は、学校でもあまり問題にされていないように、君恵には見えた。そしてその理由は、きっと舞衣の色気にあるのだろうと解釈した。男の先生たちだって、きっと舞衣の色っぽさに気づいているに違いなく、なかには興味をもっている先生だっているはずだから、普通ならよほどうるさく言ってしかるべき遅刻や無断欠席でも、舞衣ならば許されてしまうんだろう──
もっとも、実際にはこれは君恵の考え過ぎであった。学校としても、嘉浦舞衣の素行には頭を悩ませており、一年生の時から何度も本人と話したり、家庭訪問したりして指導を重ねているのだが、肝心の親がめったに在宅しないし、本人も呼び出しに応じないし、応じてもそのときは黙ってハイハイと話を聞き、しかしいっこうに行状を改めないということの繰り返しで、いささか手に余るものだから放置してあるというのが現状なのだった。嘉浦家の側は、「義務教育なんだから、適当にやったって絶対に卒業できる」と、たかをくくっており、学校側には、「義務教育はこんな生徒まで引き受けなければならないんだから辛い」という嘆きがあり、それがちょうど旨い具合に釣り合ってしまって、現在の嘉浦舞衣の生活があるのだった。
夜八時を過ぎたぐらいで、家に帰るような舞衣ではない。が、それを百も承知のはずの舞衣の母親が、あちこち電話をかけて娘を探している──(ヘンなの)
驚きと入れ替わりに、君恵はなんとも言えない違和感を感じた。
「それにしてもあんた、なんでそんな子と仲が良いの?」
思い出したように母に詰問されて、君恵はあわてた。
「だから言ったじゃない。そんなに仲がいいわけじゃないよ。けど、一年の時から同じクラスで、二学期の席替えで隣同士になって、それで時々話しするようになって、ノートとか見せてあげることがあって、それだけよ」
舞衣の暮らしぶり、遊びぶりについて、君恵が情報を得るのもそういうときだった。舞衣の方から、自慢気に話してくれるのだ。先週は原宿へ行っちゃって、ホテル泊まっちゃってさあ。あ、そうだ、そのとき買ったキーホルダー、御礼にあげる。
舞衣は気前のいい女の子だ。少なくともそれは彼女の美点だ。そうだ、あのときもらったキーホルダー、お母さんに見つからないように隠しておかなくちゃ。
母の追及は厳しい。
「だけど、相手のお母さんはあんたの電話番号を知ってたじゃないの」
「そんなの、名簿を見れば判るじゃん」
君恵は、舞衣に自分の電話番号を教えたことがない。そんな覚えはないし、尋ねられた記憶もない。そもそも、舞衣は女友達を持ちたがるような女の子ではないのだ。
ひょっとすると舞衣の母親は、名簿を見ながら手当たり次第に電話をかけているのかもしれなかった。それなら判る。だけどもしそうならば、嘉浦家で、舞衣をめぐって、あの無関心な親をそれほどまでにあわてさせる事態が発生しているということになる。
舞衣はどうしたのだろう? 何事か起こっているのだろうか?
毎週楽しみに観ているテレビドラマの放映時間だったのだけれど、なんだか気持ちが削《そ》がれてしまい、君恵は途中でテレビの前を離れた。彼女がもう少し大人で、もう少し語彙が豊富だったなら、このとき感じたこの気持ち──(舞衣に何か起こったんじゃないか)
この気分を、「胸騒ぎがする」と表現したことだろう。
嘉浦舞衣は君恵の友達ではなかったが、同級生ではあった。そして舞衣の生活ぶりには、君恵の好奇心をそそる部分が充分にあったから、君恵は一面ではいつも舞衣を羨ましいと思っていた。
ただ、その羨望には必ず「一面では」という断りが入る。なぜならば、今日《き ょ う》日《び》の都市部の中学生の女の子であれば、舞衣のような暮らし方には、必ず危険が伴うことをちゃんと知っているからだ。あんなことを続けてたら、いつかきっと危ない目に遭う──いや、女の子は危ない目に「遭う」のではない、女の子は危ない目に「遭わされる」のだ。
それから二時間ほどして、また電話がかかってきた。君恵はもう寝る支度をしていたが、ベルの音に階段を駆け下りた。この時刻には、大宮市内で建築設計事務所を営んでいる君恵の父親が帰宅しており、彼が電話に出た。
電話はまた舞衣の母親からだった。まだ舞衣が帰らないが、本当に心当たりはないかという。かなり取り乱している様子で、困った父親は母親に受話器を渡した。
母は落ち着いて、舞衣の母親からいろいろと聞き出した。どうやら、舞衣は最初から出かけていたのではなく、七時ごろに母親と口喧嘩をし、怒って家を飛び出したという事情であるらしかった。つまりそれまでは家に居たのである。
「嘉浦さんのお父さんも、その喧嘩のときおうちにおられたんですか?」
君恵の母親の問いに、舞衣の母は、
「わたしは舞衣と喧嘩するちょっと前に仕事から帰ったんです。帰るなり喧嘩になったんです」と答えた。
舞衣の父親のことは言わなかった。言わなかったから、君恵の母は押して尋ねた。
「舞衣ちゃんのお父さんはどうなすってるんですか? 舞衣ちゃんが家出したことをご存じなんですか?」
別段、深い意図があってした質問ではない。君恵の母としては、舞衣の父親がこのことを知っているのかどうか、確認したかっただけだ。それに、もしも父親も一緒になって取り乱しているのでなければ、電話を代わってもらいたかった。興奮してやたら早口になっている舞衣の母親とでは、話がしにくかったからだ。
しかし、何をどう解釈したのか、舞衣の母親は、ここで突然ヒステリックに声を張り上げた。
「あなた、なんでうちの主人のことなんか訊くんですか? 主人がどうしたっていうの? そんなにうちの主人に興味があるんですか?」
芦原君恵の母親は絶句した。あまりに驚いたので、受話器を握ったまま棒立ちになってしまった。傍らに立っていた君恵の父親が、怪訝《 け げん》そうにのぞきこむ。そのあいだにも、受話器からは舞衣の母親の罵声《 ば せい》が溢れ出していた。
「他人《 ひ と 》の亭主に色目使ったりしたら承知しないんだから! ちょっと聞いてんの? あんたの魂胆なんかお見通しなんだからね!」
リビングの扉の陰から、君恵は、両親が顔を見合わせるのを見た。君恵のところからでも、受話器から溢れる声を聞き取ることができた。内容までは聞き分けることができなかったけれど、相手が怒鳴りまくりわめき狂っているようであることは理解できた。
君恵の母は蒼白になっており、その母の手から、父が黙って受話器を取り上げた。そして、顧客に向かうときのような丁重な口調でこう言った。
「申し訳ありませんが、私どもではお役に立てないようです。これで失礼します」
そして電話を切った。
君恵の母が、ぽつりと呟いた。「どうかしてるわ、あのお母さん。家出した娘さんの心配をしてあげてるのに、それがなんで、あたしがあの人のご亭主に色目を使ったことになるのよ?」
「まあ、頭がおかしいんだろうよ」と、父は宥《なだ》めた。
そうして君恵は思い出していた。一年生のと──そう、席替えで隣同士になったばかりのころだ。舞衣の夜遊びの話を初めて聞かされて、とっても驚いて、思わず言った。
「あたしがそんなことしたら、お父さんに殴られちゃう」
すると舞衣は薄笑いを浮かべながらこう言った。
「うちのパパはあたしのことを殴ったりしない。あたしのドレイだから」
「パパがあたしを可愛がるんで、ババアはしょっちゅうイライラしてんの」
舞衣の言う「ババア」は彼女の母親のことだ。母は「ババア」で父は「パパ」で「ドレイ」。そして──そしてこう言った──そう、こう言ったのだ。口の片端を吊り上げて、大人の女がするように、ふっとうなじに手をやりながら。
「うちのパパはホントのパパじゃないからさ、便利なのよ」
──便利なのよ。
君恵は両親に近寄った。慰めてもらいたいような、どうしようもなく心細い気持ちになっていた。
「嘉浦さん、あたしのお父さんは本当のお父さんじゃないって言ってた」と、君恵は言った。「なんか──なんかすごくヘンな感じがした、その話をしたとき」
母親との喧嘩。舞衣の家出。舞衣に何があったのだ? 何か起こっているんじゃないのか?
それから数時間、こうして今、芦原君恵は自室のベッドの上にいる。悪夢のなかで聞いた女の悲鳴は、たぶん嘉浦舞衣の悲鳴だった。だけど芦原家は静かに眠り込んでおり、その後は電話もない。
ひょっとしたら舞衣も頭を冷やして今頃は家に帰っているのかもしれない。帰っていないにしても、あの舞衣のことだ、そう心配する必要はない。今日に限って舞衣のお母さんが取り乱して舞衣の行方を探していたのは、喧嘩したせいだ。それだけのことだ。何も不安を感じることなんかない。現実的になるべきだ。だいいち、そう親しくもない同級生のことじゃないか。他人の家のことじゃないか。
それなのになぜ──なぜこんなに怖いんだろう? なんで夢のなかで悲鳴を聞いたりしたんだろう?
芦原君恵を怯えさせているのは、動物的な直感だった。まだ力弱い雛や仔《こ》だけが持ち合わせている一種の透視力だった。恐ろしい外敵が恐ろしいことをしようとして恐ろしい闇のなかに潜んでいる。外見はどうあれ、雰囲気はどうあれ、家庭環境はどうあれ、嘉浦舞衣も君恵と同じ雛であることに変わりはなく、その仲間の雛の上に降りかかる災厄を、君恵は予感しているのだった。
そして、予感ははずれていなかったのだ。なぜならば、家を飛び出した嘉浦舞衣は、このとき、赤井山中にいたからだ。お化けビルに居て、近づいている一対のヘッドライトを眺めていた。やれやれ助かった。あの車に乗せてもらって、ここから連れ出してもらおう、親切な男のドライバーだったら、少しばかりお金もくれるかもしれない。あたしが、ちょっと相手をしてあげれば──そう思いながら。
しかし、お化けビルに近づいてきたその車には、栗橋浩美と岸田明美が乗っていた。
[#改ページ]
6
──やっぱり帰ればよかった。
暗闇の前方に遠く、お化けビルと呼ばれる建設途中の残骸が見えてきたとき、岸田明美はそう考えていた。来るんじゃなかった。今日は何かとんでもないボタンの掛け違えばかり起こってる、と。
夜は暗く、月も見えない。赤井山中を抜けるグリーンロードは、真新しく舗装もしっかりした美しい道ではあるが、その新しさは、中途半端に開発が進んでしまった赤井山のなかにあると、病み衰えた身体に通された人造血管のように不釣り合いで、そこを走るものに、ひどく非現実的な感じを抱かせた。それもまた、明美の不安を募らせた。
お化けビルが見えてきたあたりから、栗橋浩美は急に無口になった。ガソリンスタンドを離れた直後など、わざと明美にはちんぷんかんぷんの現代アートの話をして、グレン・マーチンの絵がいかに素晴らしいかなどと力説していたのに、今はまるで、車を運転する自動機械になったかのように、じっと沈黙したままハンドルを操っている。
「ねえ……ヒロミ」
岸田明美は小さな声で言ってみた。
「やっぱりホントに薄気味悪い場所ね。あたし、車から降りたくないわ。通り過ぎるだけにしましょうよ」
浩美がその気になってくれるといい。こんな陰気な場所などさっさと通過して、ホテルであたしと寝る気になってくれたらいい──願いを込めて、できるだけ甘い声を出したつもりだったが、栗橋浩美は彼女の方を見ようともしなかった。
お化けビルが近づいてくる。こちらが近づいていっているのだけれど、岸田明美には、ビルの方が迫ってくるように見えた。建設途中で放置された鉄骨は、四、五階ぐらいまでの高さに組んである──いや、もっと高いだろうか。青白く、やせ細った人間の骨格のように、暗い森と山のなかに、闇の夜空を背負って、明美の方へと身を乗り出してくる──
月もなく星も見えない夜に、ほかに光源もないというのに、なぜこんなビルのできそこないが、こんなにはっきりと浮かび上がって見えるのだろう?
それは、これが幽霊だからだ──と、明美は思った。これがこの世のものではないからだ。やっぱり、お化けビルという呼称は伊達ではないのだ。これはやっぱり黄泉《 よ み 》のものなのだ。
「ヒロミ、帰ろう。あたし帰りたい」
岸田明美がそう叫ぶように言ったとき、車はグリーンロードから逸《そ》れ、お化けビルの足元へと続く狭い斜面を駆け上がった。
栗橋浩美は魅せられていた。
けして気分が良くはなかった。ひどく寒く、ガソリンスタンドを離れた頃から、左右のこめかみに鋭い痛みを感じ始めていた。ときおり彼を苦しめることのある、偏頭痛の発作だった。放置しておくとますますひどくなり、頭のぐるりを鉄の輪で締め付けられるような激痛へと拡大する。そのうえ吐き気がし始める。パターンは判っていた。よく効く強力な頭痛薬も、手元に持っている。
が、お化けビルを目にした瞬間に、頭痛など気にならなくなった。そんなささいなことなど気にしていられないほどに、心が高ぶり始めたのだ。
──俺は、この場所を知ってる。きっと知ってる。たぶん知ってる。以前にも、何度も見たことがある。この場所の景色を。
車を走らせ、お化けビルへと近づいていく間中、ずっとそう思っていた。助手席で明美が何かごちゃごちゃ言っていたが、彼女にかまってはいられない。俺はこの場所を知ってる。なぜだろう? どこで見たろう? 自問自答を繰り返しながら、ひたすらビルへと接近していった。
車を停め、お化けビル足元の地面へと降り立つと、栗橋浩美は身震いをした。
漠然とした思いは確信に変わった。そうだ俺はここを知ってる。だだっぴろいむき出しのコンクリートの土台の上に、無惨な鉄骨の組み合わせ。遠目には、暗い夜空を背景に、ちょうど人間の骨のように白っぽく見えた鉄骨が、近づいた途端に、周囲に満ちている夜よりも暗く、黒くなってしまった。それでもそのどちらの色も、俺は見たことがある。
お化けビルの足元は、ここを見物にやってきた野次馬たちの残したゴミや残骸に汚されて、ちょっとした花見の後のような有り様になっていた。早春の冷たい夜風がゴミの山をかき乱し、一方に吹き溜まりをつくっては、また一方に散乱させる。
埃《ほこり》っぽい夜風は、栗橋浩美の顔にもまともに吹き付けてきた。風はひどく目に染みた。まばたきをすると、思いがけないほど大粒の涙がひとつ、目尻から頬へと流れ出した。 ──俺、泣いてる。
栗橋浩美は驚いた。なんで泣くんだ?
そして思いついた。解答を見つけた。なぜこの場所に見覚えがあるのか。なぜここを知っているのか。
──ここ、俺が夢のなかで見る場所に似てるんだ。
あの夢。あたしの身体を返してくれと叫びながら、小さな女の子が追いかけてくる。どんなに走っても振り切れず、執拗に追いかけてくる。夢のなかの栗橋浩美は、逃走に疲れ、足がもつれ、転んでしまい、そして女の子に追いつかれ、彼女の小さいが恐ろしい力を秘めた手に顎を押し開かれて、恐怖に足をじたばたさせながら、彼女の頭が自分の口のなかに入り込んでくるのを感じる──
その夢のなかで、栗橋浩美はいつも泣いていた。走りながら、逃げながら、女の子が近づいてきたかと肩越しに後ろを振り返りながら。転んでしまい、彼女につかまり、彼女の手を顎から引き離そうと必死で闘いながら。
涙。今、お化けビルを見あげながら流しているのと同じ涙を、夢のなかでも幾度となく流してきた。
鉄の廃墟だ。俺が夢に見る場所だ。俺の知っている廃墟だ、ここは。
「ねえ、ヒロミ」
岸田明美の声がした。彼の背後、少し離れたところから。栗橋浩美は振り向かず、ビルを仰いだまま目を閉じた。
「寒いわ。帰りましょうよ」
寒い──確かにそうだ。耳たぶがちぎれそうだ。
だがそれでも、栗橋浩美は動くことができなかった。目をつぶったまま、大きく息を吸い込んでは吐いた。ここは夢で知っている鉄の墓場だ。こんなによく似た場所が本当に実在していただなんて。
俺につきまとう夢の場所。
夢のなかで追いかけてくるのが、赤ん坊のまま死んだ姉の「ヒロミ」であることは、もう判っていた。百も承知だ。姉は死に、後から生まれてきた自分は生きている。姉の名前を引き継いで。
しかし姉はそうは思っていない。彼が姉の名前を盗み、彼女の人生を盗み、彼女の「生」を横取りしたと思っている──いや、姉がそう思っているだろうと栗橋浩美は思っている。亡くした姉の思い出にひたるばかりで、生身の、目の前で成長してゆく弟の心のうちまで考えることのなかった父と母が、栗橋浩美にそう思いこませながら育ててきたから。
──もしも生きてたなら、お姉ちゃんはあんたよりももっといい子になったはずよ。
──お姉ちゃんが生きていてくれたらよかったのに。
──どうしてお姉ちゃんが死んでしまったんだろう。あんたは元気で育っているのに。
──死んだ子の歳を数えたってしょうがないなんて他人は言うけど、数えたいものなんだよ。だってとてもいい子だったろうから、お姉ちゃんは。
母は彼が何かねだっても、たいていは叱ってはねつけた。そんなお金がどこにある、と。そのくせ、可愛い女の子の洋服を見かけると買い入れて、それをながめながらため息をついた──
栗橋浩美は目を開けた。ビルの鉄骨の高いところで、破れたビニールの切れ端が何かにひっかかってはためいているのが見えた。まるでちっぽけなできそこないの幽霊のように。
俺はずっと、姉のお代わり──それも不完全なお代わりだと決めつけられて育ってきた。だから俺は姉が怖い。彼女が怒っているのではないかと思ってすごく怖い。だから追いかけられる夢を見る。
そしてその夢の舞台は、こういう廃墟だった。建築途中で見捨てられた鋼の墓場だった。
栗橋浩美は考えた。納得し始めていた。たぶん俺は、うんと小さな子供の頃に、ここと同じような見捨てられたビルの建築現場を目にしたのだろう。存在を否定され、否定されたまま存在し続けざるを得ない、悲しい場所を見たのだろう。
そしてそれが、俺にそっくりだと、幼い心で感じたのだろう。
だからこそ、俺が姉に追いかけられる夢の場所は、こういう廃墟なのだ。やっと判った。夢の原点が、俺には判った。
だけどここは現実の場所だ。ここにはしつこく俺を追いかけてくる幼い女の子などいやしない。いるはずがない。夢じゃないんだから。俺は目覚めたまま悪い夢の場所を探し当てた。これできっと、悪い夢から解放されるんじゃないのか。今夜はそういう夜なんじゃないのか。
栗橋浩美は微笑した。そしてつと、視線をそらした。お化けビルの鉄骨の奥の方に──このビルが完成していれば一階のロビーかホールになったに違いない広々としたコンクリートの広場の方に、何かがちらりと動いて彼の視線を惹きつけたから──
動いたものは、人の形をした影だった。
女の子だった。
栗橋浩美が車を降り、どんどんビルに近づいていってしまった後、岸田明美も車から外に出た。寒さに震え、両腕で自分の身体を抱き、風を遮ることのできる物陰を探してあたりを見回した。しかし足元は暗く、でこぼこでしかもゴミだらけだ。洒落た革靴を履いていた彼女は、すぐに動きがとれなくなってしまい、舌打ちしながら車の方へと引き返した。
車のなかで待っていようか。だけど、勝手にそんなことをしたら、おまえのためにわざわざ来てやったのにと、ヒロミがまた怒りだすかもしれない。それも怖い。
ダッシュボードの物入れに、懐中電灯がひとつ入っていた。明美はそれを取り出すと、スイッチを入れた。小さな丸い光がぽんと地面を照らす。頼りない明かりだが、それでも無いよりはましだ。
懐中電灯を手に、ビルの足元まで戻っていった、栗橋浩美は先ほどと同じ場所にじっと佇《たたず》んでいた。こちらには背中を向けているので、彼が何を見ているのか、何をしているのか、さっぱり判らない。そっと名前を呼んでみたが、振り向いてもくれないし、返事もない。
岸田明美は泣きたくなってきた。くちびるを震わせながら、懐中電灯で足元を照らし、栗橋浩美の後ろを通って、お化けビルの足元の左手の方へ──ひとかたまりの木立があり、風を遮ってくれそうだ──進んでいった。このあたりをうろうろして見物しているようなふりをして、ヒロミの気が済むのを待つしかない。
夜風が吹いて、ストッキング一枚の彼女の臑《すね》に、汚い紙切れみたいなものをぴしゃりと叩きつけてきた。明美は急いでその紙切れを取り除《の》けた。白地に赤い文字で刷られた、安っぽい居酒屋の広告だった。ここへ見物に来る連中のレベルが察せられるような気がして、なおさら惨めになった。
栗橋浩美は佇んだきり動かない。岸田明美は周囲の闇に怯え、風に震え、夜に呑み込まれそうになりながら、命綱にすがるような思いで懐中電灯を掴んでいた。少しでも風を遮ることのできる場所を求め、木立のあいだを歩いてみると、奥の方に、地面に大きな穴が開いている場所を見つけた。
差し渡し二メートルはありそうな大きな穴だ。そろそろと近づき、陵中電灯で底を照らしてみると、瓶や缶やビニール袋など、ゴミが積もっていた。どうやらゴミ捨て場であるらしい。
足を滑らせてこんな場所に落ちたら大変だ。そっと向きを変えて離れようとしたとき、背後からぽんと肩を叩かれた。
あまりに驚いたので、声も出なかった。呼吸も止まった。息を吸い込んだきり、ぎくりと身体を凍りつかせて目を見開くことしかできなかった。
「やだー、そんなビックリしないで!」
女の子の声だった。間近にいた。黒い影だが、明美より小柄で、確かに人の気配をもっていた。
明美はさっと懐中電灯を持ち上げ、影に向かって照らした。影はまぶしそうに手をあげて光を遮った。
「ちょっとぉ、やめてよ、あたしお化けじゃないもんね」
手をひらひらさせる。よく見ると、確かに幽霊でも影でもない。中学生ぐらいの女の子だった。ショートパンツにセーター、長い臑にソックス、足元は底の厚いブーツだ。
「あなた、こんなところで何してるの?」
急いで近寄って、岸田明美は相手の腕をつかんだ。ぐいと引き寄せて間近に見ると、びっくりするくらい綺麗な顔をした女の子だった。人形みたいに小さく整っており、子供っぽい不完全さがない。髪は長く、ヘアバンドでとめてある。その髪が風に流されると、ふわりと安っぽい香料の匂いがした。
「何にもしてるわけないじゃないー。あんたこそ何してんの、そこ、ゴミ穴だよ」
舌足らずな、一種独特の語尾を引っ張るようなしゃべり方に、明美はかちんときた。女同士じゃ、そんな甘え口調は通用しないんだよ。
「子供のくせに、生意気ね。あたしが何をしてようと勝手でしょ」
女の子は馬鹿にしたような笑い方をした。
「お化けビル見物に来たんでしょ? あそこの車、あんたの?」
明美はつんけんした。「あたしのじゃないわ。あたしの彼の」
「あ、そ。じゃあ助かる。あたしも乗っけてってくれない? あんたたちが行くとこまででいいからさ」
明美は少し大人の分別を取り戻した。いくら大人びた顔をしてるとは言え、この子はどう見たって中学生ぐらいだ。こんな夜中に、外をふらふらしているだけでも問題なのに、そのうえ車に乗せてくれとは穏やかじゃない。
女の子は機敏に先回りをした。ちょっと肩をすくめると、
「あたし、家出少女なの」と、さらりと言った。「お金持って出てくるの失敗しちゃってさ。ここ、彼氏とかとよく来るとこだから、とりあえず通りかかった車にここまで連れてきてもらって、ここからケータイで彼氏呼んでるんだけど、寝ちゃってるらしくてつながんないのよね。それでさ、もうちょっとまともな場所へ移りたいと思って。あんたたちが来てくれて助かったよ」
誰もまだ、彼女の希望をかなえてやるとは言っていない。明美は少女の能天気さに呆れかえった。
「まともな大人が、あなたの言い分を聞いてはいそうですかとヒッチハイクさせてあげるわけがないでしょ? ちゃんと名前と住所を言いなさい。そしたら家まで乗せていってあげる。そうでなかったら交番へ突き出すわよ」
すると少女は挑発的に頭をもたげ、ひょいと明美から離れた。
「そんならいいわ。あのビルの下にいる男の人、あんたの彼氏でしょ? あの人に頼むから。あんたみたいなヒステリー女よか、男の方があたし好きだもん」
かっとした岸田明美が言葉を返す間もなく、少女はゴミ捨て場の縁を回ってビルの方へと走り出した。なるほどこの場所についてよく知っているらしく、暗闇のなかでもつまずきもせずに軽やかな足取りだった。
岸田明美も、仕方がない、煮えくり返る腹を抱え、懐中電灯を頼りに栗橋浩美の方へと引き返し始めた。そして木立のなかを抜け、やっと視界の開けた場所に出たとき、前方の闇のなかで、栗橋浩美が悲鳴のような声をあげるのを聞いた。
岸田明美はぎくりとして足を止めた。闇の向こうから聞こえてきたのが確かに栗橋浩美の声であるのかどうか──直感的にはそうだと判っていたけれど、理性がついてこなかったのだ。あのヒロミが悲鳴をあげる?
|逡巡《しゅんじゅん》しているうちに、小生意気な少女を見失ってしまった。不用意に一歩前に踏み出すと、何かにしたたか向こう臑をぶつけた。その拍子に懐中電灯が手から離れ、地面に何度かバウンドして、消えてしまった。痛いのと腹立たしいのとで思わず声をあげて悪態をつき、明美は懐中電灯を拾いあげたが、何か壊れてしまったのか、どうしても点かない。そこへ、また栗橋浩美の声が聞こえてきた。
「明美、明美か?」
声の感じでは、彼はさっきよりずっと近くにいた。驚いたことに、その声はうわずって震えていた。
「あたしよ。こっちにいるわ。見える? 大きな木のあいだよ。足元が暗いから気をつけて」
ややあって、お化けビルの方向から、かすかな足音と共に栗橋浩美のシルエットが現れ、明美に近づいてきた。わずかに足を引きずるような、よろめくような歩き方をしている。明美もさっきぶつけた右の臑が痛くて、それをかばうようにしながら彼の方に歩み寄った。
暗い。しかしこれは、お化けビルの方よりもこちらの木立のなかの方が暗いとか、ゴミ穴の底がどこよりもいちばん暗いとか、判別のつく暗さだった。そのときになって初めて岸田明美は、お化けビル一帯には明かりが全くないけれど、グリーンロードを明るく照らす照明灯の光が、お情け程度ではあるものの、こちらの方に届いていることに気がついた。
そのことは彼女に、ここがグリーンロードからさほど離れていない場所にあるのだということを思い出させた。それは彼女を元気づかせ、正気に戻した。怖がってなんかいないで、とっととこんな場所から離れればいいんだ。それがいちばんまともなことだ、と。
「ヒロミ、早く車に戻りましょ。あたし、あちこちぶつけて青|痣《あざ》だらけよ」
そう言いながら、壊れた懐中電灯を足元に捨て、明美は栗橋浩美のシルエットに近づき、手探りで彼の手をとった。
その手は冷え切っていた。夜のように。闇のように。
グリーンロードの照明灯がもたらしてくれるわずかな明かりだけを頼りに、栗橋浩美の頬が濡れていることに気づくには、数秒の時間を要した。そして彼の涙を見た後も、それを理解するのに数秒かかった。
──ヒロミが泣いてる?
「どう……したの?」
彼の手をつかんだまま、岸田明美はそっと身をかがめ、彼の顎の下に回り込むようにして、顔を見あげた。
栗橋浩美はすすり泣いていた。
「どうしちゃった……の? ヒロミ、しっかり──」
とりあえず口をついて出てきた言葉も宙ぶらりんに、明美は驚きに目を見張った。
彼女が見つめるうちにも、栗橋浩美の両の目からは次から次へと新しい涙が溢れ出し、頬を伝って流れ落ちる。最初は明美の方が力をこめて掴んでいたはずの彼の手は、今や彼女にすがるような形でしっかりと彼女を捕まえていた。
栗橋浩美は身を寄せてきた。彼女を抱きしめようというよりは、彼女に抱きしめてもらいたいというように、ぴったりと。
「また追いかけられてるんだ」と、彼はしどろもどろに言った。「俺、怖いよ」
明美は口を開き、言葉を探し、結局空に白い息を吐いただけで、何もいうことができなかった。この目で見ているものが、この耳に聞こえているものが信じられないという体験をしたのは初めてだった。
──まるで子供みたい。
現在の明美の周囲に幼い子供はいない。彼女に想像できる「子供」のイメージは、自分や自分の友達の幼い頃の姿だ。そして今ここにいる栗橋浩美は、怖い映画を観たり漫画を読んだりして、夜中に悪い夢を見て泣き泣き起きて、パパやママにトイレまで一緒についてきてもらった頃の自分と同じようなものだった。
ただ一点、栗橋浩美はいい大人で、男で、しかもほんの今しがたまで、彼女に向かって権力をふるっていた男だということだけを除けば。
「怖いよ……捕まえられるよ」
栗橋浩美は明美にしがみついてくる。明美は思わず一歩後ずさり、彼の手を払った。
「どうしちゃったっていうのよ? ヒロミ、あたしをからかってるの? 何なのよそんな──そんな泣いたりして!」
明美に突き放されて、栗橋浩美はびくりと身を震わせた。振り払われてしまった手を呆然と空にさまよわせて、潤んだ口を明美に向けた。その目のなかに、傷ついて途方にくれたような色が浮かんでいるのを見つけて、岸田明美は総毛だった。
「ヒロミ、頭おかしくなっちゃったの? どうしちゃったのよ! お芝居ならやめてよ! もうあたしを脅かさないで!」
叫ぶうちに、彼女自身の声も泣き声に近くなってきた。膝が震え出すのを、彼女は感じていた。
「怖いんだよ、助けてよ」と、栗橋浩美は呟いた。また彼女にすがりついてこようとする。明美は闇雲に後ずさり、栗橋浩美の手に捕まらないように、必死で両手を振り回した。
「助けてよ、お母さん」と、栗橋浩美は言った。彼もまた必死で明美にとりすがる。「お母さん、俺何も悪いことしないよ、だから俺をあいつに捕まえさせないでよ」
岸田明美は悲鳴をあげた。「嫌よ!」
「お母さん……俺怖い」
「嫌だったら! 離して! 離してよヒロミ! 正気に戻ってよお願いだから!」
肘《ひじ》を掴まれて、岸田明美は彼女もまた狂気に捕らわれたかのように泣き叫んだ。全身の力を込めてもがき暴れると、栗橋浩美の手が肘から離れた。
明美は逃げ出した。取り乱した彼女の目には、周囲の闇さえも見えていなかった。ただ栗橋浩美から一歩でも遠く離れるために、彼女はいきなり走り出した。木立のあいだをすり抜け、つまずき、前のめりになりながらとにかく走った。
走って──その足が空《くう》を踏んだ。
こっちの方には、あの深い、暗い、底の見えないゴミ穴があったんだ──そう認識する以前に、岸田明美の身体は宙に浮き、一瞬だけ意志の力で引力に抵抗しようとするように空で足をかいて、そして落下した。
ゴミ穴の底へと。
栗橋浩美は夢のなかにいた。
ついさっき、このコンクリートと鉄骨の廃墟が彼の悪夢の場所に似ていると、それはここが見捨てられた場所だからだと気づいたばかりだった。気づいた彼は現世の人であり、ここから早く引き上げた方がいいと考えていた。そしてここは悪夢と似ているけれど、悪夢とは違う、なぜならここにはあの女の子がいないから──浩美を追いかけてきて憑《つ》き、彼の身体を乗っ取ろうとする女の子はいないのだからと考えていた。
彼の心は過去へ戻っていた。あの女の子に苦しめられながら育ってきた少年時代へと。女の子は彼を怨んでいる。彼を乗っ取って現世へ蘇りたいと執拗に狙っている。彼はそれと闘いながら、ひとりぼっちで悪戦苦闘しながら生きてきた。残酷なほどしばしばあの女の子──亡くなった彼の姉を求める両親は、一度だって彼の味方についてくれたためしがなかった。
俺は死者と闘いながら生きてこなければならなかった。俺にはまっとうな子供の幸せなんかかけらもなかった──しみじみとそう考えながら、栗橋浩美は闇のお化けビルを見あげていた。
そのとき、女の子が現れたのだ。
唐突だった。暗闇から、突然声が聞こえてきたのだ。
「ねえ、ちょっとぉ」
甘い声だった。栗橋浩美は驚いた。明美の声じゃない。誰がいるんだ?
首をよじり、身体をひねってそちらを向いた。その瞬間に、身体だけでなく心の向きまで変わってしまったのだ。
栗橋浩美は女の子を見た。少女も栗橋浩美を見た。グリーンロードの照明灯の遠い灯に浮かびあがる二人の姿は、闇と光の折衷が生んだ曖昧な幻のようだ。
少女は──つい先ほど岸田明美に舌足らずな口調で話しかけた嘉浦舞衣。中学二年生。容姿も言葉も考え方も、本人が家よりも学校よりも大事だと思う生活にあわせて大人びた感じにつくりあげられている。
舞衣が見たのは、様子のいいひとりの若い男名前はまだ知らない。背も高いし顔もまあまあ。こんな状況でなくて出会うならもっとラッキーだったかな。でも考えてみれば、ヒッチハイクさせてもらえそうな車を、こんな場所でこんな時間に待っている今、こんなかっこいい──けっこうカッコいいじゃん、こいつ──男に出会うなんて、フツーに会うよかもっと上等かもしれない。
栗橋浩美が見たのはひとりの少女。その顔はあくまでも白く、作り物のように整い、くちびるは赤く、目はつぶらで、何か言いたげに彼に向かって微笑むと、そのくちびるの隙間から舌がのぞく。
少女ではなく、彼にとってはあの女の子。悪夢の舞台の廃墟には、やっぱりあの女の子がいて彼を待っていた──
嘉浦舞衣は、栗橋浩美の方に向かって駆け寄った。
「助かったー! 怖かったんです!」
両手を前に差し出して、栗橋浩美に抱きつこうとした。若い男は少女にこんなことをされるとどぎまぎする。だけど嬉しくもなる。だってそりゃあたしみたいな美少女だから。
「スミマセン、あたしを車に乗せてここから連れ出してくれる? くれるでしょ? もう怖くて怖くて死にそう!」
はしゃいでいるようにも聞こえる嬌声《きょうせい》をあげて、舞衣は栗橋浩美に飛びついた。彼の身体にしがみつき、彼のジャケットのすべすべした上等の布の感触を頬に感じた。
次の瞬間、乱暴に押しのけられた。
舞衣はよろめいて尻餅をついた。
こんな展開を予想していなかったから、身構えていなかった。舞衣はまともに尻餅をつき、尾《び》てい[#表示不能に付き置換え(「低」の「にんべん」に代えて「骨」、第3水準1-94-21)]骨《こつ》をしたたか打って声も出ない。ただあえぐように呼吸しながら、こんなひどい扱いをした男のシルエットを見あげた。
栗橋浩美は震え始めていた。
女の子の手が触れた。彼に触れた。あの腕が身体に巻きついてきて、彼を締めつけようとした。甘い髪の匂いがした。彼の口をこじあけてなかに入ってくる、あの髪の匂いが。
闇と廃墟と白い顔の女の子。
──あたしの身体を返して。
「何すんのよ、ひどいじゃない!」
ようやく声を取り戻した舞衣がそう叫ぶ声を背中に、栗橋浩美は回れ右をして逃げ出した──
ゴミ穴の臭い。
岸田明美は仰向けに倒れていた。仰ぐ空に星はない。いや本当はあるのかもしれないけれど、時折ぼんやりとかすむ彼女の目には、はっきりととらえることができない。
ゴミ穴のなかに何があるのか、こうして横たわっていても判らない。見えない。感じられるのは、彼女の背中に突き刺さっている何か尖ったもの──それは、明美が勢い余って空中で半回転しながらここへ落下したとき、彼女の背中に激突し、背骨を折った。これは何だろう? 金属パイプ? それとも材木か何か? 誰がこれをこんなところに捨てたの?
背中の痛みは不思議と感じなかった。背骨が折れたせいかもしれない。ぼきりという音を確かに聞いた。今感じられるのは手足の冷たさと、うなじの下にも何かごつごつしたゴミがあって、その感触が気味悪いということだけだ。
──助けて。
口を開いて叫ぼうとしても、くちびるが動かない。
がさがさと音がする。誰かが近づいてくる?
ああ、ヒロミだ。彼女の視界に、彼女を見おろすヒロミの姿が入ってきた。
岸田明美は声を出そうとした。その拍子に涙が溢れた。怖かった。辛かった。助けて、助けて、助けて。懸命にそう訴えようとする。口は半開きになり、舌がはみだし、口の端から涎《よだれ》が垂れていたが、明美はそれに気づいていなかった。
このままじゃ死んじゃう。あたしを助けて。
栗橋浩美は彼女にかがみ込み、彼女の頬に触れた。それからひゅっと手を離した。彼女の頬が涎で汚れていることに気づいて手を引っ込めたのだ。
栗橋浩美の手を汚した明美の涎には、血が混じっていた。
「ねえ、ちょっと、あんたたちいったい何なのよ!」
明美は動こうとして身もがいた。さっきの少女だ。薄汚いロリコン男が夢に見るような女の子だ。こっちへ近づいてくる。
「何してんのあんた──あ!」
女の子の黒いシルエットが、明美にも見えた。女の子も明美を見おろしていた。
「たいへんじゃない! この人生きてんの? ここから落ちたの? あんたなんで助けないのよ!」
そうよ助けて。あたしを助けて。岸田明美は涙を流しながら祈った。お願い、早くこの夜を終わりにして。
しかし、彼女が聞いたのは栗橋浩美の彼女を励ます声ではなく、彼女が感じたのは栗橋浩美の彼女を抱き起こす腕の温かみでもなかった。
栗橋浩美はこう言った。「おまえが悪いんだ」
それが誰に向かって言われたものなのか、明美には判らなかった。
「おまえなんかに負けないんだ」と、栗橋浩美は続けた。譫言《うわごと》のように。夢見るように。
「おまえなんかおっぱらってやる。やっつけてやる」
岸田明美はあがき、もがいた。瓦礫《 が れき》とゴミを踏む音が聞こえ、少女の悲鳴が響き渡る。
「やめてよ、あんた何よ!」
悲鳴と悪態はやがて呻《うめ》くような声に変わり、激しくゴミを蹴散らしていた少女の足の動きが弱まるにつれて、明美が聞き取ることのできる物音は、夜風のかすかな囁きと、誰かの激しい息づかいだけになった。
やがてあたりに静寂が戻り、息づかいが明美に近づいてきた。
栗橋浩美の顔が、間近にあった。息が明美の頬にかかった。
ヒロミ、助けて。明美は精一杯の努力をしてそう叫ぼうとした。あたしを助けて。正気に戻って。あなたどうしちゃったの? どうして? どうして?
嘉浦舞衣にとって、このお化けビルは庭のようなものだった。明かりなんか要らない。ボーイフレンドたちとここを訪れるときだって、わざと明かりなしでスリルを楽しんだりするくらいだ。
しかし今は話が違う。
光は安全で闇は危険だと、そのふたつの判断基準しか持っていなかった古代の弱小な哺乳動物さながらに、舞衣は明るい場所を求めた。彼女はけっして聡明な娘ではなかったが、生命力は旺盛だった。生きることを楽しんでいた。彼女の本能は、今のこの状況は、彼女が享受している生命を危うくするものだと、さっきからしきりと警告していた。
──どうしよう。
このまま、この足で歩いてここを離れようか。あの男──いくら見かけがカッコよくたって、あれは駄目だ。すごく危ない。あたしを押しのけて逃げていったときのあの目の光。すっごくヘン。頭いかれてんじゃないのか、あいつ。
関わらない方がいい。そうでないと、きっと危ない目に遭わされる。あの男、近づかない方がいい。
──あの男と、さっきの女。あいつのカノジョ。
いったいあのふたり、ここへ何しに来たのだろう? ちらっと見たあの車、練馬ナンバーだった。東京からわざわざやって来たのだ。平日のこんな時刻に。
もちろん舞衣も、お化けビルが一種の観光スポットになっていることは承知の上だ。しかし、人が集まってくるのはたいてい週末の夜で、平日はこんな場所、墓場より人気がない。だからこそ舞衣も、今夜ここに逃げてきたのだから。
やっぱり、家を出てまっすぐにここに来るのではなく、ボーイフレンドのところに寄ってくればよかったと後悔した。彼は舞衣と同じ中学校の卒業生で、今は地元の私立高校の一年生だ。少しばかり気が弱いが、舞衣にはとても優しい。祐介《ゆうすけ》という名前なので、舞衣は最初ユウちゃんと呼んでいたけど、おふくろも俺のことそう呼ぶから、やめてくれよと困ったように言われた。じゃあなんて呼べばいいの? ユウスケでいいよ。呼び捨てで。舞衣に呼び捨てされるならいい。
ユウスケのおふくろは鬼ババアで、始終ユウスケのことを監視してる。舞衣と付き合うことにも大反対で、訪ねて行っても門前払い。だから今夜も、家を出てすぐにユウスケを頼るわけにはいかなかったのだ。
舞衣はお化けビルの、この見捨てられたような雰囲気が好きだった。むしろ他の人のいない、寂れかえっているときのこの場所が好きだった。だから、ひとりでここに来るのは少しも怖くなかった。ここからケータイでユウスケを呼んで、彼に来てもらって、お金貸してもらって、どうしたらいいか相談にのってもらおうと思った。デートはいつもそんなふうにしていたから、今夜だって大丈夫だと思ってた。舞衣がケータイで彼を呼び、ユウスケは鬼ババアの目を盗んで駆けつけてくる──
それなのに、今夜に限ってユウスケがケータイに応答してくれないもんだから、あんなヘンなふたり連れなんかと関わることになっちゃったのだ。
──こんなことなら、いっそのこと、あの運ちゃんにずっと小山市までのっけてもらっていけばよかった。
家出してすぐにヒッチハイクでつかまえた小型トラックの運転手の顔を思い出す。舞衣がお化けビルに行きたいと言うと、どうせ通り道だから構わないけどと、ひどく不思議そうな顔をした。何しに行くんだよ?
デートだよ。舞衣がそう答えると、ガキのくせに色気づきやがってと、嬉しそうに笑いながら言った。舞衣を助手席に引っ張り上げ、トラックを発進させるとき、何気なく肘を横に張って舞衣の胸に触った。こっちが気づかないふりをしていると、横目でちらちら見ながらもう一度触った。運ちゃん、三十歳ぐらいだったろう。いいおじんのくせに、あたしに手を出すなんて身の程知らずだった。
お化けビルに着いて舞衣がトラックから降りると、エンジンを止めて一緒に降りてきた。そして地面に足を降ろすなり、ズボンのベルトを緩めて、にやにやしながら舞衣の後を追いかけてきた。
バカらしい。舞衣は素早く闇にまぎれ、お化けビルのつくりだす夜より暗い影にまぎれ、運ちゃんがうろうろするのを、声を殺して笑いながら観察した。女欲しさにうろつく男の顔ほど滑稽なものはない。舞衣はそういう男の顔を、今までにも何度となく見てきたけれど、いつも笑ってしまう。笑って笑って、そして恐怖を打ち消すのだ。
舞衣は考えた。あたし、今夜はツイてない。脂っこい運ちゃんと、へんてこなカップル。もう逃げた方がいい。
だけど──ためらいつつ、舞衣は闇の向こう、あの男が走って逃げていった方向をすかし見た。
彼氏があんなにヘンになっちゃってて、あのタカビーな彼女は大丈夫なんだろうか。そろって頭がいかれてるんならあたしには関係ないけど、だけどあの男、あの女をどうにかしようとかしてここへ連れてきたんじゃないのかな? ただのお化けビル見物にしちゃ、様子がおかしすぎるもん。
もしもそうだったなら、放っておいて逃げ出したらいけないんじゃない? ちょっとでも、こっそりとでも様子をうかがって、あの女が大丈夫だってこと、確かめといた方がいいんじゃない?
──もう、怖くて怖くて死にそう。
さっきあのヘンな男に向かって言った言葉は、芝居っ気だけで口にしたものではない。舞衣は怖かった。
──だけど、だけど、あの女のヒト。
放っておいていいかな?
誰か呼んできた方がいいかな?
車が通りかからないかな?
迷いながら立ちつくしていると、男が姿を消した暗闇の方向から、がらがらと何か崩れるような物音と共に、女の短い悲鳴が聞こえてきた。
舞衣の身体の半分はグリーンロードの方に向かって逃げ出そうとしており、もう半分は悲鳴の聞こえてきた方へ駆けつけようとしている。どちらの方がより怖いだろう? 何が起こっているのか確かめるのと、見て見ぬふりをして逃げるのと。逃げて逃げて、そして途中で追いつかれるかもしれないのと。
あれはゴミ穴の方角だ──悲鳴が聞こえてきた側に耳をそばだてて、舞衣は見当をつけた。そうしているうちに、ごくかすかな、すすり泣くような声が聞こえてくることに気がついた。
女の声じゃない、男の泣き声だ。
笑ったり、怒鳴ったりしてるんじゃない。泣いてる。それも、なんて力の無い泣き声だろう。
それが、舞衣に決断させた。なんであれ危険なものは、あんなふうに泣いたりしない。慣れた場所を、つまずくこともなく一気に走った。
前方にさっきの男の頭が見えてきた。足を崩して、ゴミの穴の縁に座り込んでいる。泣いているのは、間違いなく彼だった。子供みたいに肩を上下させている。
安堵の波が、舞衣の身体の内側を洗った。泣いてるオ、ト、コ。彼女と喧嘩してたの? それであんなに態度がおかしかったわけ?
安堵は腹立ちを呼んだ。男の背中に歩み寄りながら。舞衣は大きな声を出した。
「ねえ、ちょっと、あんたたちいったい何なのよ!」
いい加減にしてほしいわよまったく、こっちはいろいろ勘ぐっちゃって──
近づいてゆくと、男はゴミ穴の縁から手を伸ばし、底の方へと身を乗り出していた。舞衣は穴のなかをのぞきこんだ。
そこに、さっきの女がいた。
まだ六歳ぐらいのころ、まだ本当のパパが生きていたころ、栃木市内の団地に住んでいた。五階建ての四階の、西向きの部屋だった。お誕生日に買ってもらった大好きなお人形さん、金色の髪のハニーちゃんを、ベランダから落としてしまったことがあった。あわてて拾いに行ったら、ハニーちゃんは空を仰いで雑草の茂る団地の裏庭におっこちていた。首が曲がってしまっていて、どうやってもまっすぐにならない。右手も鍵型に、舞衣には真似ることのできない格好になっていた。
ゴミ穴の底の女は、あのときのハニーちゃんそっくりだった。
「たいへんじゃない! この人生きてんの? ここから落ちたの? あんたなんで助けないのよ!」
男は女に向かって手を伸ばしてはいるけれど、女を引っ張り上げようとか、抱き起こそうとか、そういう動作はまったくしていない。
彼の両目は涙で真っ赤に充血し、頬は濡れ、ひっきりなしにしゃくりあげている。
なんなんだよコイツ! 心のなかで罵倒して、舞衣はゴミ穴の底へ駆け下りようとした。
そのとき。
「おまえが悪いんだ」
背後で男がそう呟いた。同時に、舞衣は後ろから襟首をつかまれ、絞め上げられた。男の力は強く、踵《かかと》が浮いた。バランスをとろうと宙に泳がせた腕の、東洋風の舞踏のような動き。
闇がやってきた。見る見る濃さを増してゆく闇が。それは明かりが無いせいではなく、か細い舞衣の喉が刻一刻と強く絞めつけられ、酸素が断たれ、そのために意識が薄れてゆくせいであることを、舞衣自身は理解することができなかった。
殺される? 呼吸ができなくなるのを感じながら、舞衣は狂ったように自問した。あたし殺される? こんなところで? 名前も知らない赤の他人に? 通りすがりの変人に? そんな馬鹿な、そんな馬鹿な、そんな話があるわけないじゃない!
殺されないように、あたしずっと頑張ってきた。死んだホントのパパとは似ても似つかないあいつ、ママのオトコに殺されないように。あいつがこっそりとあたしに何をしたか、ずっとずっと何をしてきたか、ひと言でも誰かに言いつけたら、殺してやるってあいつは言った。これ以上痛い目に遭いたくなかったら言うとおりにしろって言った。あたしじっとガマンしてきた。殺されたくなかったから。あたしを殺すなら、それはママのオトコだって、ずっと思ってきた。だからあいつにさえ殺されなければ、あいつのそばから逃げ出すことさえできるなら、あたしはゼッタイ安全で、きっと幸せになれるって思ってきたのに、だから今夜こうして家出して逃げてきたのに、どうして見も知らないこんな奴があたしを殺そうとするの?
そんなの不公平だよ──
今や彼女はゴミ穴の縁に仰向けに押し倒され、胴体の上にあのヘンな男が馬乗りになり、目から涙をぽろぽろ流しながら、さかんに何かわめきながら、舞衣の首を両手で絞めていた。
「おまえなんかおっぱらってやる、やっつけてやる」
死の瞬間、嘉浦舞衣は男の目をのぞきこんでいた。最期のときに、彼女の意識にのぼったのは、この男の両目の奥がゴミ穴の底よりも暗いということ。そして彼の流す涙が、目尻からまっすぐに落下して、開きっぱなしの舞衣の目のなかに滴ってくるということ。
それがひどく厭《いと》わしいこと、犯されるよりももっと汚らわしいことのように感じられて、嘉浦舞衣は目を閉じたいと願った。
願いながら死んだ。
どうして? どうして? どうして?
声にならない声で、ゴミ穴の底から夜の天井に向けて、岸田明美は繰り返し繰り返し絶叫した。なぜこんなことをするの? どうしてこんなことになっちゃったの? ヒロミ? ヒロミ! ヒロミ返事をして!
しかし、聞こえてくるのは、栗橋浩美の単調な泣き声だけだった。
どれくらい長い間、そうしていたか判らない。五分かもしれない。一時間かもしれない。
つい今しがたまで、あの少女の悲鳴が聞こえていたような気がする。一方では、悲鳴が止んでからもう何時間も経っているような気がする。あの悲鳴は何だったのだ。ヒロミが彼女に何をしたのだ。
それとも、彼女がヒロミに何かしたのか? あたしもヒロミに何かしたのか?
もう痛みも感じない。手足がしびれるだけだ。寒いかどうかも判らない。ごつごつしたものが背中に触れて、血が流れていたような感じがしたけれど、今はそれもはっきりしない。
──星が見えるわ。
暗い夜空に、小さな針穴のような星の光。さっきまで気づかなかった。曇っていたはずなのに。
星がだんだん数を増してくる。夜空に、白い部分が増えてくる。それは明美の意識の乱れ、死に行く脳がホワイトアウトしてゆく様だったのだけれど、しかし彼女はそこに星を見ていた。
明美の視界を満天の星が占めるようになったころ、再び栗橋浩美の手が彼女の頬に触れた。
今度はもう、彼はその手を引っ込めなかった。明美の涎が乾いているからかもしれない。血も乾いて頬にこびりついてしまったからかもしれない。
手は伸びて、頬の上を通過し、彼女の顎に触れた。どうするかと思えば、彼の指は彼女の口をこじあけた。そして、くちびるの端からはみ出していた舌を、彼女の口のなかに押し込み、再び口を閉じさせた。
「舌を噛むと、痛いだろうからさ」と、彼は言った。ごく落ち着いた声だった。数時間前、ガソリンスタンドで現代ポップアートの第一人者グレイ・マーチンの話をしていたときと同じような。
栗橋浩美の手で首を絞められていることが、岸田明美には判らなかった。感じられなかった。彼女はすでに瀕死の状態にあり、彼の手は最後のひと押しをしているに過ぎなかったから。
明美が絶命すると、栗橋浩美は彼女の首から手を離した。もう泣いてはいなかったが、頬に涙の痕《あと》が残り、目尻は赤く腫れていた。
殺してしまった[#「殺してしまった」に傍点]。
ふたつの死体を足元に、ただ呆然と、身体の脇に両腕を下げて、栗橋浩美は佇んでいた。ゴミ穴の縁に足をかけて、彼の背後にはお化けビルが、彼の頭上には夜の空が、彼の前には死の臭いが。
どうして殺したんだろう[#「どうして殺したんだろう」に傍点]?
これからどうすりゃいい[#「これからどうすりゃいい」に傍点]?
自分に問うてみても、答などない。
栗橋浩美は、子供のころから慣れ親しんできたことをした。解答の見つからない難問にぶつかったとき、いつもしてきたことを。助けを呼ぶのだ。
──ピース。
[#改ページ]
7
一晩経っても、嘉浦舞衣は帰宅しなかった。
翌朝、登校してみてそのことを知ったとき、芦原君恵は驚かなかった。担任の女性教師は朝から難しい顔をしていたし──それは多分に昨夜の寝不足と、嘉浦舞衣の母親のヒステリーを宥めるためにエネルギーを消費したせいなのだが──同級生たちは登校する道筋からこの話題で持ちきりだったから、話はすぐに耳に入った。教室でもみんなそこここに寄り集まって、舞衣の行状について噂している。
そんななかで、君恵はひとり、不安な確信を抱いてひっそりと息をひそめていた。
──舞衣は死んでいる。殺されてしまっている。
どうしても、そう思えてならなかった。
昨夜、夢のなかで耳にした女の悲鳴。あれは舞衣の悲鳴だった。彼女はあの時死んだのだ。誰かの手で、あんな恐ろしい叫び声をあげねばならないほど苦しい目に遭わされて、命を断たれてしまったのだ。君恵はそう信じていた。
大人たちに打ち明けたら、それはおまえの想像だ、妄想だと一蹴されることだろう。友達に話せば、目を輝かせて興味を示し、怖いと震え、嘉浦さんがそんなことになっていたら可哀想──と涙を浮かべ、そして君恵の居ないところでは、芦原さんホントは嘉浦さんのことキライだったんだね、だからあんなこと言ってさ、エンギでもないよねと囁きかわすことだろう。
それらのうちのどんな反応も、君恵は望んでいなかった。だからじっと黙っていた。
君恵は格別賢い子供ではなかった。優れて感受性が強いというわけでもなかった。ただ、中学二年生の女の子にしては上等の「分別」を持っていた。その分別が彼女に、今は黙って事態の推移を見守るようにと教えていた。君恵の心のなかの確信は確信として保管して、しかしそれを他人に語るのは待てと指示していた。語ればそれは、語った端から真実味を欠いてゆくであろうから。
そしてもうひとつ、君恵の冷めた「分別」は、なぜ嘉浦舞衣の断末魔の様子が、自分の夢に現れたのだろうかという疑問を、彼女自身に対して投げかけてきていた。あたしはそれほど舞衣と仲がよかったわけじゃない。親友だなんてとんでもない。だいたい舞衣には親しい友達はいなかった。ボーイフレンドはつくっても友達はできないタイプの女の子だったから。いや、ボーイフレンドは必要としても、友達は必要としないタイプの女の子だったから。
舞衣の生活ぶりに、好感を抱いてはいなかった。あんなふうにふるまうのは、何か家のなかに面白くないことがあるんじゃないかという想像も、してみたことはなかった。舞衣の暮らし、そしてそういう舞衣を認めて──あるいは放置している彼女の親のことは、君恵の想像の外にあった。
共感もない。同情もない。興味もない。多少の好奇心こそそそられたものの、舞衣に魅力を感じたことはない。そんな君恵がなぜ、昨夜に限って、舞衣の体験を、感情を、遠隔感知したのだろうか。
これで君恵が本当に「分別ある」大人になっていたならば、こうした事実から逆算して、昨夜の「夢のなかで舞衣の悲鳴を聞いた」という事実の方を否定してかかることだろう。あれはただの思い過ごしだと。あるいは、日頃から、身近に刺激的な大事件が起これば面白いと期待していたものだから、舞衣の家出を材料に、勝手な悪夢を練りあげてしまったのだと、自分自身に対して失笑するかもしれない。
しかし君恵はまだ少女で、自分の体験した事実という主人に対しては、犬のように忠実だった。自分の身に起こったことを疑ってかかるだけの腹の悪さは、まだ十代の少女の持ち合わせていないものだ。だから信じることができた。あの夢のなかの悲鳴は本物だった、思い過ごしなんかじゃない、と。
そして自分自身に向かって問いかけ続けた。どうしてあたしは舞衣の悲鳴を聞いたのだろう。なぜ「あたし」が聞いたのだろう。
半月が過ぎても、嘉浦舞衣は帰らなかった。
母親が地元の警察署に家出人捜索願を出したらしいという噂を、学校で聞いた。その噂には、舞衣の母親が再婚で、義理の父親と舞衣との間がうまく行っていなかったという新情報もくっついていた。
舞衣の実の父親は、まだ舞衣が幼い頃に、交通事故で亡くなったのだという。義理の父ができたのは三年ほど前のことだが、舞衣は彼になつかず、母親はふたりのあいだに立って気をもんでいたらしい。
「家出の原因も、そのへんにあるんじゃないの」
君恵の母も、顔をしかめてそんなことを言った。
「中学生のことだから、警察も熱心に探してくれるんじゃないかと思ってたけど、どうもそうでもないみたいね。なにしろあの子の素行が素行だったからね」
実際、家の近所でも赤井市内の繁華街でも、舞衣の写真を掲げた家出人捜索願のポスターなど見かけたことはなかったし、舞衣のことで誰かに何かを尋ねられるということもなかった。舞衣の両親にも、格別躍起になって舞衣を探しているという様子は見られなかった。
嘉浦舞衣は忘れられてゆくようだった。
大人ならば、家出という形で家庭を捨てても、それは単に、船がひとつの港を離れること、今いるこの港に帰る資格や権利を失うということでしかない。いやそれ以前に、どこを漂流しようとも、仕事や税金や社会保険やその他ありとあらゆる無線の周波数をあわせておかなければならないということによって、「社会」という大陸とは否応無しにつながっている。
しかし、子供の場合はそうではない。彼らが家を離れ家庭を捨てるということは、そのまま船籍を失うということを意味する。存在そのものが消えてなくなるのだ。嘉浦舞衣もそんな幽霊船のひとつになってゆく──
しかし、家出からちょうど一ヵ月後、新学期になってすぐに、この幽霊船は便りを寄越した。
このことは、風聞ではなく、きちんとした報告として同級生たちの耳に入った。担任の女性教師が、安堵の色を顔に浮かべて、朝のホームルームの際に言ったのである。
「嘉浦さんのお母さまから連絡があって、昨日、嘉浦さんからの手紙が届いたそうです」
教室はざわめいた。なあんだというような声が、一部であがった。
「みんなもいろいろ噂に聞いていたと思うけれど、嘉浦さんは義理のお父さまとのあいだがうまくいかなくて、いろいろ悩んでいたようなのね。でも、その手紙のなかでは、とりあえず元気でいること、ご両親に心配をかけてごめんなさいということが書かれているそうです。ご両親も少し安心なさったみたいでした。みんなも安心してね」
誰かがきいた。「嘉浦さん、どこにいるんですか?」
「東京にいるらしいですよ」
「住所とかはわからないんですか」
「今度の手紙には書いてなかったそうなの。でも、また手紙を出しますって書いてあるそうなので、そのうちわかるでしょう」
人騒がせなヤツだと、ひとりの男子生徒が大声で言った。「あいつ、目立ちたいだけなんじゃねえの」
教師は笑って首を振った。「そんなふうに決めつけたら可哀想よ。嘉浦さんの気持ちもわかってあげないとね。みんなだって、ご両親と喧嘩をして、このまま家を飛び出しちゃおうかとか思うことがあるんじゃない?」
妙になごやかなホームルームだった。嘉浦舞衣という「困りもの」の少女が、教室内のほかの問題やいざこざを、一時的に覆い隠してくれたかのように。
──手紙がきた?
芦原君恵はぽかんとしていた。
──舞衣の手紙? 元気で東京にいる?
それじゃ、あたしの聞いたあの悲鳴は何だったんだろう?
やっぱり、ただの思い過ごしか。ただの夢か。
さして仲良しでもなかった君恵が、舞衣の死に際の夢を見るはずもないじゃないかという謎も、ただの思い過ごしとわかれば、簡単に解ける。
──あたし、なんであんな夢を?
舞衣がキライだったから? 何か大きな事件が起こったら面白いし、それに巻き込まれるのが舞衣ならば、嫌いな子だからかまわないっていう感じ?
嘉浦舞衣が大事件に巻き込まれて死んだら面白いって、そう思ってた?
芦原君恵はひどく憂鬱《ゆううつ》になり、ふさぎこんでしまった。自分で自分が嫌になったのだ。
いつもの君恵は明るい気質だったから、彼女の母親はすぐにこの異変に気づいた。自身の少女時代も思い出しながら、うるさく尋ねるのもどうかと思案して見守っていたが、君恵の憂鬱はつのるばかりで、そのうち成績まで落ちてきた。
さすがに黙っていられなくなって、母親が君恵に声をかけた。そのころには、舞衣の手紙の一件からすでに三ヵ月以上の月日が経ち、季節は夏になっていた。
「何か悩んでるんじゃないの?」
不器用な問いかけに、君恵はすぐには応じなかった。自分の正直な気持ちを説明できるかどうか自信がなかったし、うまく説明できたらできたで、同級生の身に変事が起こることを期待していたなどと告白することで、母親に軽蔑されるのではないかと思った。
「独りで悩んでるより、誰かに話した方がラクになるってことはあるよ。お母さんじゃダメなら、友達でもいいからさ」
そう励まされて、君恵は考えた。友達に相談する──やっぱり軽蔑される。ひょっとしたら、芦原さんて案外コワい人だと思われちゃうかもしれない。
だったらまだ、お母さんに話した方がいい。友達に軽蔑されるよりは、親の方がまだいろいろと都合がいい。そう判断して、打ち明けた。
母親の方はひどく驚いた。そもそも、舞衣の家出で大騒ぎになったあの晩に、君恵がそんな怖い夢をみていたとは。この子、ずいぶん繊細だったんだわ。
でも女の子なんだから、神経が鈍いよりは鋭いくらいの方がいい。それに、家出したりすると怖い目に遭うんだと思っているのも結構なことだ。
君恵の母親に言わせれば、舞衣のケースなど子育ての失敗の典型的な例だった。親がしっかりしていないから、娘があんなふうになるのだ。
今思い出しても腹が立つ。あの夜の電話での言い草。常識から遠く外れている。それに舞衣の母親ときたら、服装も派手で、中学生の女の子の母親としては、あまりに若造りのように思えた。話し方も横柄で礼儀を知らず、そのくせ、相手が若い男の先生だったりすると、妙に甘えてベタベタした態度をとる。母とか妻とかいうよりも、女の部分ばかりで生きている人のように思えた。
それに、これは噂で聞いたことだから確かとはいえないが、舞衣とうまくいってなかったという義理の父親は、ずいぶんと若いそうじゃないか。まだ三十歳前で、舞衣と父娘というよりは、むしろ歳の離れた兄のように見える男性だという。舞衣の母親とは職場結婚だったそうだけれど、近所の人たちの話では、あの義理のお父さんは仕事を持っているようには見えない、しょっちゅう家でブラブラしているという。
親も娘も、ロクなもんじゃない。そんな一家のために、なんでうちの君恵が成績が落ちるほど悩まなきゃならないのよ。
むかっ腹が立って、思わずその気持ちをそのまま口に出してしまいそうになった。しかし、それではいけない、君恵は、そんなロクでもない同級生の身の上に対して悪い想像をしてしまったことで、白己嫌悪で悩んでいるのだ。
なんてお人好しな──いや、気持ちの優しい子だろう。
「ねえ君恵、嘉浦さんのことで悪い想像をしちゃったのは、あんただけじゃないと思うよ。お母さんだってそうだったし、先生もそうだった。みんな考えてたのよ」
「だけど──」
「たまたまあんたは想像力が豊かで、それに、家を出てひとりでいるとどんな怖いことに遭うかもしれないって怯えていたから、嘉浦さんの悲鳴を夢のなかで聞いたりしたんでしょうよ。それはべつに、あんたが、舞衣ちゃんがそういう目に遭ったらいいと望んでいたからというわけじゃないよ」
「そうかな」
「そうですとも」君恵の母親はにっこり笑った。「それよりお母さん、嬉しいな。あんた、ひとつのことを一生懸命考える子なんだね」
君恵は少しほっとしたようだったが、すぐに憂鬱が晴れたというわけではなかった。母親はあれこれ考え、担任の教師に相談した。すると教師は、悪夢の件は打ち明けないまでも、君恵が舞衣のことを本当に心配していること、彼女が帰ってきてくれるといいと思っていること、連絡がとれると嬉しいと望んでいることを伝えるために、舞衣の両親に会ってみたらどうかと提案した。
正直言って、君恵の母親は気が進まなかった。舞衣の母親になど、会いたくもない。だが、君恵にこれを話してみると、ぜひそうしたいという。仕方がない、一緒に嘉浦家を訪問することになった。
意外なことに、舞衣の母親はふたりの訪問を喜んだ。
蒸し暑い日のことだった。嘉浦家のリビングルームにはクーラーがなく、扇風機が生温《なまぬる》い風をかきまわしているだけで、君恵の母親はすぐに汗だくになった。勧められた麦茶も、グラスをよく洗っていないのかなんだか濁って見えて、とても手をつける気にならない。
君恵は最初のうちはどぎまぎしている様子だったが、舞衣の母親の反応がやわらかいのを感じると、安心したのか、自分の気持ちを積極的に語るようになった。その正直な態度は、舞衣の母親の心にも届いたのだろう、彼女は話のあいだに立ち上がると、舞衣から来たという例の手紙を持ち出してきて、見せてくれた。可愛らしい動物のイラストのついた封筒と便箋で、手書きの文字が並んでいる。
「心配かけてゴメンナサイ」という一文には、君恵の母親も、不覚ながらちょっと目が潤んだ。内容は同じでも、教師から「話」で聞くのと、実物を見るのとでは気持ちが違うものだ。
もしもまた手紙が来たら君恵に報せると、舞衣の母は約束した。もしも連絡がとれたなら、君恵の気持ちを舞衣に伝える、とも。
「よかったね」
帰り道で、君恵の母は娘の肩を抱いて言った
「すっかり喉が渇いちゃった。どこかでフラッペを食べて帰ろうよ」
君恵は肩の荷をおろしたような表情を浮かべていた。母はすっかり安心した。娘の心のなかに新しい葛藤が生まれているなどと、想像もしていなかったから。
しかし君恵は、別の問題を抱え始めていたのだ。
──あの手紙。
フラッペを口に運びながら、君恵はどうしても頭から追い払うことのできない疑惑を、氷と一緒に噛みしめていた。
──あの文字、本当に舞衣が書いたものだろうか? あの手紙、本当に舞衣の手紙なのだろうか?
確かに、字はちょっと似てる。だけど、あたしたちの丸文字はみんな似たり寄ったりだ。お手本があれば、他人が似たような字を書くことはできる。それよりも、気になるのはあの便箋と封筒だ。動物のイラスト。舞衣はあんなのシュミじゃなかった。あたしは彼女のノートを見たことがある。よく知ってる。舞衣はあんな子供っぽいものを選んだりしない。
──だけど、だけど
もしも手紙が偽物なら、他の誰かが書いたなら、それは何を意味する? どういう事態を?
考えるのが恐ろしくて、君恵はひたすらフラッペを食べ続けた。このことは黙っていよう。誰にも言わずに我慢していよう。だってこれは妄想だもの。忘れてしまおう。心に蓋をして。もう考えちゃいけない。考えなかったことにするんだ──
その決心は、かなり長いあいだ、頑《かたく》なに守られることになる。
[#改ページ]
8
──一九九六年九月十二日。
墨田区の大川公園で、ゴミ箱から切り落とされた人間の腕が出てきた──というニュースを初めて耳にしたとき、高井由美子は振袖を着ていた。いや、より正確に言うならば、振袖を着つつあるところだった。彼女は美容院の着付ルームにいたのである。
長寿庵から歩いて五分ほどの場所にある、「ビューティかまた」という美容院だった。彼女がいつも髪をカットしたりパーマをかけてもらったりしている馴染《 な じみ》の店だ。成人式のときも、ここで振袖を着せてもらった。
その同じ店で、由美子は今、初めてのお見合いの席に挑むために、また振袖を着せてもらっているのだった。
次の誕生日が来れば、二十六歳になる。このへんでいっぺんぐらい、お見合いを経験していてもいいんじゃないのという周囲の勧めに、とうとう抵抗しきれなくなっての、この有様だ。成人式を迎えるとき、父の伸勝が大枚はたいてつくってくれた豪華な振袖に手を通しつつ、由美子は内心、ひどく惨めな気分だった。
ビューティかまたは、ごくありふれた町の美容院である。経営者の蒲田《かま た 》紀子《のり こ 》という女性美容師が、若い見習いの女の子をふたり使って切り回しているだけの、こぢんまりした店だ。だから、ここの馴染客である由美子は、蒲田紀子とすっかり仲良しになっており、今日の見合いの当日を迎えるずっと以前から、折に触れては複雑な胸の内を彼女に打ち明けていた。
「やっぱり、気が進まない」
三畳間ほどの広さの着付ルームの中央で、かかしのように突っ立って両腕を広げながら、由美子はつぶやいた。
「会うだけ会ってみて、嫌なら断ればいいんだなんて、おばさんは軽いこと言ってたけど、そういうのってよくないよね。現実はそんな簡単なもんじゃないはずだもの」
由美子の暗い顔に、蒲田紀子は笑顔で応じた。
「いいじゃないの、難しく考えなくたって。ホテルのレストランで美味しいものが食べられるだけでも得だって、その程度に思っておきなさいな」
パチンと音をたててコーリンベルトのクリップを開け、ちょっと肩をすくめて、紀子は付け加えた。
「会ってみたら素敵なヒトかもしれないよ。素敵じゃなくても、いいヒトかもしれない」
「写真で見ると、なんか神経質そうなヒトだった。背も小さいし、小役人て感じ」
紀子はケラケラ笑った。「写真じゃわかんないってば。うちの亭主だって、写真だけで見ると神経質そうな顔してたよ。実物は全然違ったけど」
紀子は結婚後十年足らずで夫を亡くし、その後再婚もせずに、女手ひとつで子供ふたりを育て上げたという気丈な女性である。由美子は彼女の顔をちらりと見て、笑った。
「だけど旦那さんとってもハンサムだったじゃない。先生は恋愛結婚だったんでしょ?」
由美子は蒲田紀子を「先生」と呼んでいる。蒲田先生は、由美子の着物の襟元をあわせながら、ちょっと眉をつりあげた。
「そうよぉ、大恋愛。だけどあたしは亭主の顔に惚れたわけじゃなかったんだから」
「そうかなぁ。アヤシイな」
「こだわるところを見ると、ははあ、由美ちゃんは面食いなんだね?」
「そんなことないよ」
「話聞いてると、どうも外見至上主義って感じがするけどね。まあ、若いうちはみんなそうなのかもね。でも、男は──男だけじゃなくて人間はさ、見てくれじゃないんだよ、ホントは」
由美子は黙っていた。目を伏せて、そしてふと、着せ掛けられつつある濃い牡丹色の豪奢な振袖が、二十六歳になろうとする自分には、もうずいぶんと派手な色柄になっているように思った。
気が滅入ってきた。にこにこ笑ってお見合いの席に出て行くなんて、とてもじゃないができそうにない。ぼそぼそと呟いた。
「お見合いで結婚するなんて嫌だな……」
蒲田先生は由美子の背中をぴしゃんと叩いた。
「まだ結婚するって決まったわけじゃないのよ。本当に、嫌なら断ればいいんだから、それで済む話なんだからさ。ウジウジしてるの、いつもの由美ちゃんらしくないよ」
ビューティかまたの店内では、営業時間中はいつもラジオを点けている。こんなやりとりをしているあいだも、陽気なおしゃべりや流行の音楽が流れていて、しかし今の由美子には、それも耳障りな雑音と感じられた。恋人を得た喜びを謳う若い女性歌手の歌など、とりわけ今は聞きたくない。だから、番組が一段落してニュースが始まり、無味乾燥なアナウンサーの声が聞こえてくると、ほっとした。
そのニュースが、大川公園の事件についてのものだったのだ。時刻は正午過ぎで、だから由美子の聞いたものは第一報ではなく、続報のようであった。
「あらやだ、またヘンな事件があったんだね」
額に汗を浮かべて帯を締めながら、蒲田紀子が言った。
「物騒な国になっちゃったもんだよね」
切り落とされた右腕の身元はまだまったく判らないが、同じ公園内の別のゴミ箱からは、捜索願の出されている若い女性のハンドバッグが発見されたということを、アナウンサーは告げている。
「大川公園て、桜の名所だよね? あんなとこに、女を殺して切り刻むような男がウロウロしてるってことかしら」
「犯人が今でも大川公園にいるってわけじゃないでしょう」
「そりゃそうだけど、土地カンとかなんとか、いろいろあるんじゃないの? 勝手のわからない場所に死体を捨てたりしないでしょう」
そういえば蒲田先生はテレビのサスペンスドラマが好きなんだっけと、由美子は思い出した。
「だけど、可哀想だよね」と、由美子の帯の文庫結びの形を確かめながら、蒲田紀子は顔をしかめた。
「若い女の子がさあ……殺されて捨てられて。ねえ由美ちゃん、恋愛もお見合いも何にもできないで死んじゃう女の子だっているんだよ。だからさ、せっかくの晴れの日に、もうちょっといい顔しなさいよ」
先生はときどき、こんなふうに説教くさくなる。由美子は鏡をのぞきこむふりをして、返事をしなかった。
「さあ、できた」
蒲田紀子は立ち上がり、ちょっと後ろに下がると両手を腰にあて、由美子の姿を検分した。
「いい出来だわ。とってもきれいよ。帯は苦しくないね?」
「うん、大丈夫」
「せっかくのフランス料理、全然食べられなかったら気の毒だからね、あんまり締め付けてないよ。だけど、その分着崩れが怖いから、タクシーを乗り降りしたり、立ったり座ったりトイレに行ったりした後は、ちゃんと鏡を見てね」
着付をしてもらったときの、いつもの指示である。由美子は、判ってるとうなずいた。
家に電話をかけると、母の文子が迎えに来てくれた。文子は着物ではなく、地味なスーツで出かけると言って、まだ着替えもしていない。見合いは赤坂のホテルで午後二時からだから、ぐずぐずしてはいられなかった。
商店街を抜けて、ふたりで長寿庵へと引き返した。顔馴染の人たちから、やあ由美ちゃん綺麗だねとか、あれどうしたのとか、冷やかすような声がかかる。由美子はおざなりの笑みを返して、そそくさと歩いた。
「あんまり嬉しそうな顔じゃないけど……」
衣類を包んだ大きな風呂敷包みを抱えて、文子が言った。
「難しく考えないでいいんだから、ね? せめてもうちょっと笑ってよ」
甘えの気持ちもあって、由美子はもろにふくれてみせた。
「いくらお父さんがおばさんに弱いからって、あたしが皺寄せを受けるなんてね。たまんないわ」
由美子のこのお見合い話を持ってきた「おばさん」は、べつだん親戚でもなんでもない。管野《かん の 》秀子《ひで こ 》という、伸勝が若いころにお世話になった親方の知り合いの女性で、歳はもう七十歳近い。どういう事情があるのか知らないが、伸勝はこの人に頭があがらないらしい。それをいいことに、妙に元気のいいこのおばさんは、自分の子供や孫の世話をするだけではエネルギーが余ってしまい、それで由美子の将来にまで口を出してきたのだった。
「由美ちゃんみたいないい娘さんには、あたしが責任持っていい人を世話させてもらいます。これ以上ないっていうくらい、いいご縁を持ってくるから待っててね」
由美子が二十歳になるころから、そういうアプローチが始まった。高井家の側としてはむげにもできず、だが話半分に笑って聞き流してもきた。今までにも何度かお見合い写真を持ち込まれたことがあったが、それはそのたびに伸勝や文子が、
「由美子は自分の旦那は自分で見付けるって言ってるから」と、とりなしてウヤムヤにしてきた。しかし、それも度重なると苦しい言い逃れになり、由美子がひとつ歳を重ねるたびに、おばさんの攻撃は激しくなり、
「自分で見付けるのはそりゃいいと思うけど、でもお見合いで出会うのも悪くないのよ。昔からのしきたりは、なかなか捨てたもんじゃないのよ」
という台詞《せ り ふ》で、とりわけこの一、二年、ひっきりなしに責め立てられるようになってきた。とうとう根負けした伸勝が、
「おばさんの顔を立てると思って、由美子、いっぺんだけでいいから見合いしてみんか」と言い出した。それが今回の仕儀である。
「気軽に行けばいいのよ、誰も無理強いはしないから」と、文子は言う。「ちょっとお見合いでもしてみるか、というぐらいでいいんだから。それで相手がいい人なら、棚からボタモチじゃないの」
だけど写真で見るかぎり、見合いの相手はボタモチどころの騒ぎじゃなかった。ひ弱そうな小柄な男性で、体格も貧弱で、眼鏡の奥の目は糸のように細く、のっぺりと色白。
(ホントにもやしみたい)
きっと、すごいマザコンなんじゃないかしら。地方公務員だと聞いたけれど、ママに手を引いてもらわないと、お役所に出勤できないんじゃないの?
しかし、八つ当たりのように相手のことを悪く思うのは、実は自分の側に原因があるのだと、由美子は承知していた。承知しているからこそ憂鬱で、悲しくて、情けないのだ。
──あたし、まだ誰かと本当に恋愛したということがない。
そのことが、由美子の負い目になっていた。
──恋愛もできずに、お見合いする。おまけにその相手が、こんなハツカネズミみたいな人だなんて。
今まで、誰にも出会わなかったというわけじゃない。好きな人はいた。好いてくれた人もいた。だけどどうもボタンを掛け違うというか、何かタイミングが悪いらしくて、実ったためしがなかったのだ。好意を感じあっていて、首尾よく二、三度デートした男の人に、急に別の女性が接近してきて、そちらでまとまってしまうとか、由美子が好意を持った男性の、本人ではなくその友達にデートに誘われるとか。気落ちして誘いを断ると、当の由美子が好きな男性から電話がかかってきて、アイツがっかりしてるから、なんとか付き合ってやってくれないかと頼まれたりする。そんなことばっかりだった。
友達の大半は、もう結婚している。子供がいる。彼女たちの恋愛期間を、由美子は見てきた。結婚式にも呼ばれた。みんな幸せそうで、楽しそうだ。それはホントによかったと思う。
しかし一方で、彼女たちに恋愛ができて、なぜ自分にはできないのかと思うと、無性に腹立たしく、惨めな気持ちになってしまうのだ。あたしには何が足りないのだろう? 何がいけないのだろう?
奥手なのだと、言われたことがある。男心の操り方を知らないと言われたこともある。
「お兄さんがいるのに、お兄さんを身近に見てるのにさ、珍しいよ、由美子、ホントに男の扱い方を知らないよね」
そんなことを言う友達もいた。そしてそのとき、同席していた別の友達が、ちょっと笑いをかみ殺したような顔をしたことを、由美子はよく覚えている。
あの笑みをこらえた顔──あれはきっと、心のなかでこう呟いていたのだ。そういえば、由美子のお兄さんはああいう人だもの、由美子が男の人に慣れてなくてもしょうがないよね、と。
そう、兄の和明は、「ああいう人」だ。
中学校で柿崎先生に出会い、視覚障害であることが判明して、高井和明の人生は一変した。柿崎先生の紹介してくれた大学の研究室に通い、治療を受けてゆくうちに、学業の成績もよくなってきたし、それまで魯鈍だと思われていた行動にもメリハリがついてきて、どんどん元気になっていった。
でも、それにもある限界があったのだ。どんな大学の研究室でも、視覚障害は治せても、生来の気質は治せない。和明ははにかみやで、臆病で、泣き虫で、バカみたいにお人好しで、およそ男らしいところの少ない少年のまま成長し、やがて青年になり、そして今は二十九歳。由美子は思う。あたし以上にお兄ちゃんは、恋愛と無縁の人生を送ってきているに違いないと。肉親の、妹のあたしでさえ、お兄ちゃんのトロさには苛立つのだ。元気いっぱいで魅力にあふれた女性たちが近づいてきてくれるわけがない。
おせっかいなおばさんは、「まず由美ちゃんを嫁がせてから、カズちゃんの番ね」などと言っているけれど、あれは時間稼ぎの言い訳だろう──辛辣にそんなことを思いつつ、もっと辛辣に考え直す──いや、わかんないな、なにしろあたしに、とびきりいい縁談だなんて言ってあんなハツカネズミとのお見合い話を持ってくるくらいの人だから、お兄ちゃんのときだって、どんな仲人口をきくかわかったもんじゃない。
長寿庵の近くまで帰ってくると、その和明が、店の前を掃除しているのが見えた。由美子と文子に気がつくと、箒《ほうき》を動かす手を止めて、大きく顔をほころばせる。
「わあ、きれいだなあ、由美子。振袖がホントによく似合うなあ」
小学生みたいな手放しの感心の仕方で、由美子は気恥ずかしくなった。
「ねえ、きれいよね。それなのにお見合いは嫌だって、まだむくれてるのよ」と、文子が笑う。
「気に入られちゃって、すぐにも結婚したいなんて言われたら困るよな」と、和明はニコニコした。「オレ、寂しいなあ」
あたしのフクザツな気持ちを判ろうともしないで──兄に対したときにいつも感じる、優しさと怒りの入り交じった扱いにくい感情にとらわれて、由美子はそっぽをむいた。和明の方は、由美子が彼に後ろ姿を見せようとして身体の向きを変えたと思ったらしく、わざわざ背中の方に回って、
「帯もきれいだなあ」なんて言っている。
そんなところへ、店のなかから伸勝が顔を出した。
「おい、おばさんから電話だ」
「あら、なんですか」
「見合いは中止だそうだ」
びっくりして、由美子は髪が乱れるほどの勢いで振り向いた。
「どういうこと?」
「先方が、急に仕事で都合がつかなくなったそうなんだ」
文子は由美子の艶姿《あですがた》を見回すと、ため息をついた。「せっかくこんな綺麗に支度したのに……」
由美子はほっとした反面、肩透かしをくったような落胆を感じて、そんな自分が自分で嫌になった。なんだかんだ言いながらも、ちょっとばかり期待もしてはいたのだ。ひょっとしたら実物は写真より素敵かもしれない、なんてね。
このとき出会い損なった見合い相手と、高井由美子はやがて別の場所で出会うことになる。兄が起こしたとされる殺人事件の捜査本部に席を置く、ひとりの刑事である彼と。
ピースは嘘をつけばいいと言った。簡単なことだと言った。できるだけシンプルに、できるだけ熱を込めて嘘をつくのだと。
大川公園での右腕発見のニュースを、栗橋浩美は自宅で耳にした。茶の間のテレビで、母の寿美子と朝食をとりながら、わざとそうしたのだ。あの件が報道される瞬間の、寿美子の顔を観察したかったから。
おふくろはこういう事件が好きなんだと、栗橋浩美は知っていた。猟奇的なバラバラ殺人とか、痴情のもつれから起こった殺人事件とか、放火とか誘拐とか暴行とか、そういう類の話が好きで好きでたまらないのだ。その手の事件はすべて他人の身に降りかかることであり、自分は関係ないと思い込んでいるから。安心して他人の不幸を肴にできるから。
そんな寿美子のことだから、大川公園の事件にも、きっと興味を示すだろう。発見されたのが右腕だけだと知ったら、ずいぶんとガッカリするに違いない。生首じゃないのか、胴体じゃないのか、と。栗橋浩美はそんな母親の横にいて、ひそかに嘲笑ってやるのだ。母さん、あんた他人事だと思って言いたい放題だけど、実は全然他人事なんかじゃないんだぜ──この女たちを殺したのはオレなんだからさ、右腕を切って捨てたのもオレなんだからさ──そう教えてやりたくなる気持ちを抑えながら。
彼自身、興奮のあまり、昨夜はほとんど眠れなかった。
今朝は、NHKの総合テレビの放送が始まる午前五時に寝床を抜け出し、早々にスイッチを点けてみたが、さすがにその時刻にはまだ何も発見されていなくて、いったん気持ちを落ち着けようと努力した。ピースの予想では、右腕が発見されるのは午後のゴミ回収の際のはずで、だからまだ待たねばならない。そういう予定だった。
それでも、やっぱりテレビを消してしまうことはできなくて、ずっと点けっぱなしにしておいた。最初の最初の[#「最初の最初の」に傍点]第一報が入る瞬間を見逃したくなかった。ニュース番組の時間帯に発見されるとは限らないから、もしかしたら臨時ニュースの形でテロップが流れるかもしれない。あるいは、ワイドショウの番組内だったら、緊急に現場からの中継が行われるかもしれない。もしそうなったら、大川公園まで行ってみるのもいい。レポーターがマイクを手にしゃべくっているのを、野次馬の群れに混じって見物してやるのだ。もちろん、ニヤニヤ笑ったりせずに、悲しそうな、心が痛んでいるような顔をして。その演技がうまくいけば、レポーターにマイクを向けられることだってあるかもしれない。オレは目立つ顔をしてるから、レポーターはきっと寄ってくるだろう。そしたら、日本でもこんな事件が起こるようになって、とても不安で怒りを禁じ得ないと答えてやるのだ。こういうことをやる人間は、どういう立場のどんな人間であるにしろ、精神的敗残者で、何ひとつまともな社会的貢献はできず、ただその歪んだ復讐心を、力弱い女性に暴力をふるうことによって満足させているだけなのだ、捕まえてみたならば、きっとおどおどと気の弱い、溺れかけたネズミみたいな情けない男であるに違いない──そんなふうに言ってやろう。レポーターはきっと感心するだろう。
あれこれ想像し、さまざまな場面で事件について語る自分自身の姿を夢想するのは楽しかった。夢想のなかの栗橋浩美は実にカッコよく、知識人のように見え、若い女性レポーターは栗橋浩美に深い関心を寄せ、もっとこの人の話を聞きたいと思う──
想像のなかの自分の姿にうっとりと見惚れながら、朝からずっとくだらない番組を見続けた。今年も秋刀魚《 さ ん ま 》は豊漁だとか、秋の行楽シーズンの穴場のお勧めとか、時間の無駄としか思えないような番組でも、しかし、いつあのニュースが流れるかと期待しながら見守っていると、なんだかとても愛しく感じられた。上から見下ろすならば、どんなものでも小さくて可愛らしく見えるものなのだ。
何も知らない両親も、普段よりずっといい人たちに見えた。もう何年も感じたことのなかった両親への愛情が心に湧いてくるのを覚えて、栗橋浩美は新鮮な驚きを感じた。高みに立つと、すべてが変わって見える。何もかもが一変して、人生が自分の方に身を寄せてくるように感じられる。ピースが言ったとおりだった。
ただ隠しているだけじゃ物足りない──ピースはそう言ったのだ。それじゃつまらない。それに、隠しているだけじゃ、発覚の危険に追いかけられ続ける。だからむしろ、隠すのをやめよう。そして、オレたちが見せたい部分だけを見せるんだ。
最初のうちは、栗橋浩美にはピースの提案が理解できなかった。せっかく隠しおおせてきたのだ。せっかく隠れてきたのだ。どうしてわざわざ危ない橋を渡る必要がある? オレは嫌だよ!
栗橋浩美のその意見を、ピースは真面目に聞いてくれた。臆病者と、笑い飛ばしたりはしなかった。だから栗橋浩美も、臆することなく自分の気持ちを打ち明けることができた。ホント言うと、オレは怖いんだ。もうおとなしく隠れたままでいたいよ。
栗橋浩美の気持ちを聞いた上で、しかしピースはにっこり笑った。子供のころから変わることのない、あの円いやわらかい笑みだった。知識人[#「知識人」に傍点]の笑みだった。そして言った。怖いのは、隠れているから怖いんだよ、主導権を社会の側に渡してしまっているから怖いんだ。立場を逆にすれば、何ひとつ恐れることなんかないんだよ、と。
ピースは正しかった。いつだってそうだけど、今度もやっぱり正しかった。主導権を握ってしまえば何も怖くない。ただもう無性にワクワクして、心がこんなに躍って、じっと座っていることが難しいくらいに明るい気持ちになって、おまけに人に優しくなれる!
二年前のあの事件の直後に、岸田明美を手にかけた直後に、見も知らぬ少女を葬った直後に、ピースの勧めでワンルームマンションを借り、栗橋浩美は独り暮らしを始めた。事後処埋のためと、今後の計画の遂行のためには、ヒロミが独りきりになることのできる空間が絶対に必要だよ、と説かれたのだ。否は言えなかった。
以来、実家とマンションを行ったり来たりする生活を続けてきたが、実家に泊まったことは、今までは一度もなかった。それが昨夜は泊まったのだ。両親のそばに居たくて。彼らにニッコリと笑いかけてやりたくて。何も知らない、何も気づいていない、何もできないゴミみたいな人間である両親が愛しくて、哀れで、大事にしてやりたいような気持ちになって。
そして何よりも、今日のこの瞬間、右腕が発見されるこの瞬間、芝居の幕が切って落とされるこの瞬間に、何も知らないままの両親に立ち合ってもらいたくて。彼らの横顔を盗み見たくて。彼らが大川公園の右腕に向ける関心を、嫌悪感を、興味を、すべてを分け合いたくて。
やったのはオレだよ──と言わずに、すべてを知りながら知らん顔をして。
父はこのところ身体の具合がよくないとか言って、朝も起きてこなかった。寿美子は七時過ぎに寝床から這い出してきて、栗橋浩美が茶の間のテレビの前に座っているのを見つけて驚いた顔をした。バカに早いね、と言った。よく眠れたから、目覚めが爽快だったんだと彼は応じた。
大川公園のゴミ回収の時刻が早くやってきて、早くすべてがスタートしてほしいと思う反面、こんなにもワクワク楽しい待機の時間が終わるのは残念だという気もした。今日は一日、こうして昂揚した気分を味わっていたいとも思った。
寿美子のつくった朝食は美味しかった。固いトーストと、甘味の強い苺ジャム、香りのとんだインスタントコーヒー。しかし旨かった。何も知らない寿美子と一緒に食べているから旨いのだ。高所にいるから旨いのだ。
栗橋浩美が旨そうに朝食を食べるので、寿美子は気分がよくなったらしく、目玉焼きをつくろうかと言い出した。今までだったら、トーストを食べ終えるころになってそんなことを言い出すなんて、間抜けなババアだと怒鳴りつけてやるところだ。しかし今日は違う──いや、今日からは違う。栗橋浩美はひと回りもふた回りも大きな人間になるのだから、間抜けなクソババアにだって優しくしてやることができるのだ。
「うん、目玉焼き食いたいな、つくってよ」
寿美子にそう笑いかけたとき、テレビ番組のなかで動きがあった。栗橋浩美ははっとしてテレビを振り返った。
八時ちょうどだった。朝のワイドショウの時間だった。いつもなら愛想笑いを浮かべた司会役の男女が、どうでもいいような挨拶を並べながら登場するはずだった。昨日うちでこんなことがあってね──とか、だいぶ秋めいてきて今朝は涼しかったですね──とか、芸のないことをたいそうにしゃべって。
しかし、今朝は違った。いきなり中継画面が映っていた。大川公園だった。
栗橋浩美は、手にしていたコーヒーカップをテーブルの上に載せた。手が震え汗ばんで、取り落としてしまいそうになったから。
めまいがした。心臓が喉元までせりあがってきて、そこで早足のポルカを踊っている。頬が熱くなり、耳たぶの隅まで血がのぼってじんじんした。
見つかったんだ、と思った。オレの──オレたちの芝居が始まったんだ。
間違いなく、大川公園の右腕発見の報道だった。栗橋浩美は、歓喜に涙がにじんでくるのを感じた。現場にレポーターが立っている。赤いワンピース姿の若い女だ。ちょうどあの日の──ゴミ穴の底で死んだときの岸田明美みたいな服装だ。顔もよく似てる。偶然のその符合に、彼は声をあげて笑いだしそうになった。嬉しかった。
レポーターはあわてているらしく、早口につっかえつっかえしゃべった。甘ったるい口調だった。知性の無いところも岸田明美に似てるなと、栗橋浩美は思った。ますます楽しくなった。
たどたどしいレポーターは、それでもなんとかかんとか、右腕の発見されるに至った事情について説明をした。犬を連れて散歩していた女子高生が発見したのだという。犬が臭いを嗅ぎつけたのだ。そういえばあの右腕は嫌な臭いがしたと、栗橋浩美は思い出した。運んでいるあいだは消臭剤をたくさん一緒に入れておいたし、マンションの部屋も気をつけて換気をしていたから、我慢できないほどの臭いじゃなかったけれど、捨てるときにはぷんと臭った。
へえ……女子高生が見つけてくれたのか。それも嬉しいことだった。美人だろうか。肉感的だろうか。頭のいい娘だろうか。もしもこのレポーターよりも知性のありそうな娘だったら、オレはきっと気に入るだろう。会ってみたいと思うかもしれない。
ところが、続けて聞いていると、右腕発見の際、その女子高生が独りではなかったということが、後になって説明された。栗橋浩美は鼻白んだ。本当に話の下手なレポーターだ。
彼女と一緒にいたのは、男子高校生だという。同級生であるらしいと、レポーターは言う。どうやら早朝の犬連れデートを決め込んでいたらしい。栗橋浩美は舌打ちした。その男子高校生は、彼が割り当ててもいない役柄なのに、勝手に割り込んで舞台に登場してきた。こいつにも会ってみたい。会ってどんな奴だか確かめてやりたいもんだ。
ふと気がつくと、寿美子が目玉焼きの皿を手に、彼のすぐそばに立っていた。彼女の視線はテレビ画面に釘づけになっていた。どんよりと濁った目が、興味と好奇心に鈍く光っている。
「物騒な事件が起こったみたいだよ」
栗橋浩美はそう言うと、寿美子の手から皿を取り上げた。目玉焼きは焦げていて、黄身がカチカチに固まってしまっていた。寿美子はテレビを観ながら調理をしていたのだろう。
それでも、怒りの気持ちは湧いてこなかった。栗橋浩美は母の顔に注目していた。飢餓に苦しむ子供が差し出されたひと切れのパンに向けるような視線を、母はテレビに向けていた。そのとおり、寿美子は飢えているのだ。彼女でも論評を加えることのできる何かに。安全な場所から眺めることのできる刺激的な出来事に。
ふと、栗橋浩美は思った。オレが今の今、母さん、あの右腕をゴミ箱に捨てたのはオレだよと告白したら、おふくろは喜ぶんじゃないか。そんな面白いことをよくやってくれたと、はしゃぐんじゃないか、と。
しかし実際には、彼は慎重な、痛ましいものを見守るときの口調でこう言った。
「バラバラ事件だ。また若い女の子が殺されたんだね、きっと。ひどい話だよ」
寿美子はやっとテレビから目を離すと、栗橋浩美の顔を見た。
「こんな事件に巻き込まれるのは、巻き込まれる方にだって原因があるんだよ」
乾いてバリバリになった目玉焼きを口のなかに押し込みながら、栗橋浩美は心のなかでニヤついた。おふくろ、オレが予想したとおりの反応をかえしてくるもんな。
「だいたいがロクな女じゃないに決まってるんだよ。知らない男にほいほいくっついていく売女《ばい た 》だから、殺されたりするんだ」
「そうかなあ」
「そうさ」寿美子はちまちまとまばたきをした。彼女が栗橋浩美の顔を見つめてこういう仕草をするときは、彼の内心を見抜こうとしているとき、そして見抜いたつもりになっているときだと、彼は承知していた。
「あんたが昔、付き合ってたあの女なんか、そうだよ」
栗橋浩美は空とぼけた。「あの女?」
「髪の長い女だよ。もう二、三年前になるかね、しょっちゅううちの周りをうろついてたじゃないか。パンツが見えそうなミニスカートをはいてさ」
寿美子は岸田明美のことを言っているのだ。なにしろ、寿美子が把握している息子の「女」についての情報は、岸田明美のところで止まってしまっているのだから、明美の顔と姿しか思い浮かべることができないのである。
「あの子か」栗橋浩美はにっこりと笑顔をつくった。「彼女なら、もう付き合ってないよ。でも、そう悪い娘じゃなかった」
「あんたには女を見る目がないんだよ」
寿美子は意地悪な目付きをした。
「あんたは黙ってたって女に追いかけ回される方なんだから、気をつけなくちゃいけないんだよ。判ってるだろうね?」
「ああ、判ってる」
オレは判ってるよ、おふくろ。あんたが知ってる以上に、予想してる以上にいろんなことを判ってる。理解してる。
たとえば岸田明美の居場所を知ってる。彼女が今どこで何をしているか、母さん想像がつくかい? 土の下にいるよ。ウジ虫と仲良くしてるよ。いや、もうとっくに骨になって、目玉の溶けてなくなった頭蓋骨が地面の下から哀れっぽく空を見上げてる。なんなら母さん、彼女と一緒に、彼女と並んでそこに横になってみるかい?
栗橋浩美は目玉焼きを食べ終えた。旨かった。大いなる幕開けに、空気までが甘かった。死者たちの行進の始まりと共に、彼は生まれ変わったのだった。
計画を立てたとき、連中をいつ「くすぐって」やるかという時期の問題では、ピースと意見が分かれた。栗橋浩美は、当日がいいと主張した。ピースは慎重で、数日間は様子を見てからの方がいいと言った。
「だけどそれじゃ、もうひとつのゴミ箱のハンドバッグが見落とされちまうかもしれないぜ」
栗橋浩美は口をとがらせた。ピースは笑って、右腕が発見された後ならば、警察は大川公園のすべてのゴミ箱を底まで引っ繰り返して調べてみるだろうから、そんな心配は要らないと言った。
それでも浩美は不満だった。こちらは安全圏にいるのだ。何も心配することはない。鉄は熱いうちに打てというじゃないか。早く連中にオレたちの存在を教えてやろうよ──
連中、連中、連中。
ピースとこの計画について話し合うとき、「連中」という言葉はひとつの符丁として機能する。「連中」は事件の捜査にあたる警察の者たちのことでもあり、事件について報道するマスコミの者たちのことでもあり、事件について噂する街の人びとのことでもある。「役者」たちの家族も「連中」と呼んでやっていい。
そう、「役者」だ。これもまた符丁だった。「役者」とは死者たちのことだった。ピースと栗橋浩美が、ふたりで知恵をしぼってつくりあげたこの芝居の出演者たちのことだった。「女優」と呼ぶときもあったし、ピースはときどき「キャスト」という言い方もした。事件全体をうまく演出するためには、キャスティングが重要だ──というような話をするときに。
本日、一九九六年九月十二日の記念すべき幕開け。最初のシーンに登場するあの右腕の持ち主を、実は栗橋浩美は気に入っていなかった。冴えない「女優」だったからだ。彼好みの顔ではなかった。声も悪かった。なんだか破れた風船みたいにスカスカした声だったのだ。
しかしピースは彼女に決めた。というより、彼女みたいな「女優」が現れるのを待っていたのだと説明した。ちょっとした肉体的特徴があって、だけどなかなか身元が割れそうにない女の子。なるほどあの娘は右腕に小さな痣があった。そして本人がしゃべって聞かせてくれたところによると、彼女には家庭などなく、両親は無責任で彼女にはまったく関心を持っておらず、家出した彼女の行方など探そうと思っていない、むしろ家出してくれていい厄介払いだと思っている、と。
あの娘はよくしゃべった。歳は十七歳だと言っていたけれど、しゃべり方はもっと幼くて、語彙も少なかった。彼女をしゃべらせながら、ピースは何度となく言葉を訂正してやったり、表現を正してやったりしていた。
そう、あの娘はよくしゃべった。
オレたちはキミのことを知りたいだけだと言ってやったら、最初は信じられないという顔をしていた。カラダが目当てじゃないの? あたしとやりたくないの? ヘンなの、そんな男初めて。そしてひどく不安そうな目をしてピースに訊いた。あたし、ミリョクない? 少し太ってるのは判ってるし、今ちょっとニキビができてんの。だけど普段はこんなことないんだよ──
いいんだ、オレたちは金で女の子を買ったりしないんだよと栗橋浩美は言った。あの娘はどういうわけか、しきりとピースにばかり話しかけた。何か質問するときもピースに向かって訊いた。オレの方は見ようとしなかった。たまにちらっと視線を投げるだけだった。それが悔しくて、わざとあの娘の方に身体を寄せるようにして言葉をかけてやると、それでもあの娘はオレの肩ごしにピースを見上げて、ピースに訊くのだ──この人はこう言ってるけど、それホント? と。
チェ、やっぱりピースにはかなわないんだと、栗橋浩美は思った。どんなダイコン女優でも、どっちが監督なのか判るのか。演技指導する人間の指示にしか従わないっていうわけか。
でも、いいや。オレはピースでピースはオレで、オレたちは一心同体なんだから同じことさ。
そうだった、あの娘はよくしゃべった。途中からは、おしゃべりすること自体が楽しそうだった。今まで、誰もこんなふうにあたしの話を聞いてくれたことなかったんだもん。親だって学校の先生だって、あたしなんかそこにいないみたいに扱ったんだ。あたしが何か考えたり感じたりすることなんか、まるっきりないみたいに思ってたんだよ、きっと。
あの娘の両親は、彼女が七歳のときに離婚したのだと言った。それぞれすぐに再婚相手が決まり──ていうか、どっちも不倫してたんだよ──新しい生活をスタートすることになっていた。だからあたしは邪魔者だったんだ。
そんなことはないだろう、お父さんはともかく、お母さんはキミのこと、大切に思ってたんじゃないか? だって母親だからさ、お腹をいためてキミを産んだんだからさ。
そう言ってやると、あの娘は激しく首を振った。そんなのウソだよぉ、母親はみんな子供のことなんでもかんでも愛するなんて、そんなの──そんなの──シン、シン──
神話かい? 伝説かい?
そ、それ! シンワよ。あたしのおふくろは、あたしのことキライだった。どうしてかって言ったら、あたしの顔が別れたオヤジに似てたから。目のへんなんかそっくりなんだよね。だからあたしの顔見ると、オヤジのこと思い出すわけ。おふくろのオトコも、あたしの顔見るとオヤジのこと思い出すわけ。だからあたし、厄介者だったわけ。
オヤジの方なんかもっとそうよ。オヤジのオンナってすっごいヤキモチ焼きでさ、だからあたしの顔見ると、あたしがオヤジとオフクロがつくった子供だってこと思い出しちゃってさ、すっげえヒステリー起こしちゃってさ、あたし、お皿とか投げつけられたことあんだよ、信じられるぅ?
あたしどこにも居場所ないわけ。誰も心配してくんないわけ。あたし居なくなったって誰も気にしないわけ。だけどそんなの平気。あたしそうゆう自分のことケッコー好きだからさ、べつにいいのよ。
ピースはにっこり笑った。あの娘も思わずつられて微笑んだ。今まで、笑ったり嗤《わら》ったりしたことはあっても、微笑んだことのないあの娘をも微笑ませてしまうピースの笑顔。
そしてピースは言った──キミはオレたちが探してた女の子だ、キミの居場所はここだ、キミはオレたちの──
女優だ。
そしてあの娘はゴミ箱のなかに入った。
もうひとりの女優、あのハンドバッグの持ち主のことは、栗橋浩美はとても気に入っていた。あの娘はよかった。とても可愛かった。古川《ふるかわ》鞠子《まり こ 》。彼女の頬のあの色合いと感触は、栗橋浩美が子供のころ、うんと小さな子供のころ、とても好きだったゴムマリの手触りを思い出させた。淡いピンク色のゴムマリだった。ぽんと投げると、ぽんとはずんだ。だけど遠くにはいかなかった。いつでも彼の手元に返ってきた。彼から離れていかなかった。栗橋浩美がそれを古川鞠子に話してやると、彼女は淡いピンク色の頬を涙で濡らして、あたしも逃げたりしないからこの縄をほどいてと言った──
あれは、東中野の駅から住宅街の方へ続く夜道を流しているときだった。その夜は目的も計画もなく、ただ本当に流していた。そしたらピースが彼女を見つけた。後で訊いたら、ひと目惚れだったと言った。夜道で彼女は浮き立って見えた。彼女の周りだけ明るくなっていた。声を聞かないうちに、話をしないうちに、彼女がオレたちの大事な女優のひとりだと判ったと。
ピースは彼女に、急病人だと言ったのだった。友人が急に激しい腹痛を訴えて、苦しんでいる、近くに救急病院はないだろうかと。古川鞠子はいい娘だった。後部シートに倒れて急病人のふりをしている栗橋浩美に、心配そうな視線を投げてくれた。
そして言った──この近くには救急病院はありません。だけどわたしの家がすぐ近所だから、うちの電話で救急車を呼んだらどうでしょう? うちには母もおりますので、ご病人を寝かせてあげることもできます。
近くに自宅がある。古川鞠子はそこへ帰ろうとしている。オレたちの舞台には乗らず、帰ってしまおうとしている。
そんなことは我慢できない。
ピースは頭がいいから、古川鞠子の提案を受け入れた。ありがとう、感謝しますと礼を述べさえした。ご自宅はどちらの方ですか、僕は車をゆっくり転がしてついていきます。ピースはちゃんとした男だから、不用意に古川鞠子に「一緒に車に乗っていきなさい」などと持ちかけなかった。そんなことを言い出せば、相手が警戒してしまうと判っているから。
夜道には、他には誰もいなかった。
古川鞠子は「うちはあの角を曲がったところです」と指さした。本当に目と鼻の先だった。そして、もう一度車のなかの栗橋浩美に気遣わしそうな視線を投げると、背を向けて歩きだした。
ピースはそこを捕まえた。古川鞠子は、キャアとも言わなかった。目を閉じた女優はお人形のようだった。
鞠子を乗せて、彼らはゆっくりと車を発進させた。わざとのようにスピードを緩めて、彼女の指差した彼女の自宅のあるあたりを眺めて通り過ぎた。勝利感がこみあげてきて、栗橋浩美は武者震いをした。
古川鞠子はよく泣いた。よく怒った。それでも彼女の両親が不和で、父親が家を出ているということは聞き出すことができた。
可哀想にねと、ピースは言った。古川鞠子は目を伏せた。彼女はピースに反抗的だった。ピースのことが好みじゃなかったのかもしれない。鞠子と過ごした時間が短かったのは、そのせいもあったかもしれない。
それでも、栗橋浩美は彼女が好きだった。ピンク色のゴムマリの鞠子ちゃん。心のなかでそう呼んでいた。彼女のことを、幼なじみみたいに感じた。
だから本当なら、退場させたくなかった。ピースにも頼んでみた。一度だけだったけれど、頼んでみた。彼女をもう少し長くそばにおいておけないか、と。
脚本は変えられないよと、ピースは言った。それに、飽きないうちに次のストーリーに進んだほうが、絶対に楽しいよ、と。
仕方ないな、と諦めた。その代わりと言っちゃなんだけど、古川鞠子関係の「くすぐり」は、オレにやらせてよ。
ピースは声をたてて笑った。「くすぐり」はみんなヒロミのものだよ。僕よりずっと上手いからさ、任せるよ。
だから栗橋浩美は楽しみにしていたのだ。「くすぐり」を始められるときを。慎重論のピースを、懸命に説得した。「くすぐり」は早い方がいい。早く、大きく、火をかきたてよう。オレには自信がある。右腕が発見されたなら、すぐに始めよう。
ピースはにこにこした。そして折れた。ヒロミには負けたよ。たしかにヒロミの言う通り、話題づくりは早い方がいいかもしれない。僕の案は、ちょっと慎重すぎるかもしれないね。
やっぱり、ヒロミは頼りになるなあ──
「──あの、どうしても報道局のスタッフの人と話をしたいんだけど、駄目ですか?」
「いえ、できますよ。だから私が伺ってもいいし、それとも誰か特定の者でないと?」
「いえ、誰でもいいんだけど。じゃあ、あなたでもいいです」
「失礼ですがどちらさまですか」
「名前は名乗りたくないんです」
「そうしますと、ご意見やご要望のようなことで?」
「アハハ。そんな偉そうなことじゃないんです。ただ、ちょっと情報を」
「情報……」
「うん。今日、大騒ぎしてたでしょう、大川公園のバラバラ死体のことで。死体って言っても、まだ出てきたのは右腕だけですよね」
「はあ、そうですが」
「あと、ハンドバッグもあったっけね。女の子の。あれは、古川鞠子って人のものだってことははっきりしたんですか?」
「どういうことでしょうか」
「どういうことって、そんな難しい話じゃないですよ」
栗橋浩美はシートにもたれて笑い声をあげた。愉快だった。楽しかった。
愛車の運転席に落ち着き、窓を全開にしてそこに右肘を乗せていた。わずかにひやりとする風が心地よかった。
栗橋薬局のすぐ近くの、公園のそばに車を停めていた。公園と言ってもごく小さくて狭く、遊具も設置されていないので、子供たちはいない。立ち木と植込みがあるだけだ。老人がひとり、犬を連れて散歩している。
「くすぐり」を開始するとき、電話をどこからかけるか。場所の選定は大事だと、ピースから言われていた。携帯電話を使うので、逆探知の心配はほとんどない。だが、会話の背後に電車の音とか駅前のざわめき、子供たちの声、商店街の売込みなど、場所を特定する手がかりになる物音が入ってしまうような場所は選ぶべきでない。それだけは気をつけてくれ、と。
栗橋浩美は、事前にあちこちロケハンをしていた。これというポイントはいくつか見つかったが、実家の近くでは、この公園脇の一方通行の道路がベストだと思えた。静かだし、小学校のスクールゾーンのなかなので車の通行量が少ない。それどころか、子供たちが学校から家に帰ってしまった後なら、人通りそのものも少ない。人目を気にせず、植込みの緑をながめながら、のんびりと電話をかけることができる。
「あのね、教えてあげようと思ったんです」
左手のなかの小さな携帯電話に向かって、栗橋浩美は優しく話しかけた。
「大川公園からは、もう何も出てこないですよ。もちろん、古川鞠子さんの死体とかもね。ハンドバッグはあそこに捨てたけど、彼女は別のところに埋めてあるんです。だから、あの右腕も彼女のものじゃないです」
「もしもし? あなた、あの事件のことを詳しく知ってるんですか?」
こいつは報道記者だろうかと、栗橋浩美は上機嫌で考えた。それにしちゃあ、この情況で、少しおろおろしすぎじゃないかな。声が震えちゃってるぜ。
「あの右腕は誰のものなんですか?」
「それはちょっと、言えないなあ。そのうち警察が調べるでしょう」
相手はあわてている。栗橋浩美は笑いをこらえた。あんまり笑うと、軽薄な奴だと思われるかもしれないからな。
「そうだけど、言うことはこれだけだから。今はね。今はまだ。じゃあ、切ります」
そう言って、泡を食って呼びかける相手の声が漏れ出てくる携帯電話を見おろし、右肘を窓枠から持ち上げると、指先をヒラヒラさせてバイバイをした。そして「切」のボタンを押した。
顔一杯に笑って、深呼吸をした。上出来だった。すべてがパーフェクトに運んでる。さあ、引き揚げるか──
ふと顔をあげて、そこで凍りついた。バックミラーに見慣れた大きな顔が映っていた。
高井和明──カズだった。カズはおずおずと笑いかけてきた。
[#改ページ]
9
大川公園のバラバラ事件では、どうやら複数の若い女性が犠牲になっているらしい。しかもこの犯人はとんでもない野郎で、テレビ局へ電話をかけてきて、自分のやったことについてペラペラしゃべりまくっている。
こんな事件、前代未聞だ。こんな犯人、見たことない。ほかにもまだ何かやらかしているかもしれないし、それ以上に恐ろしいのは、これからまだ何かやるに違いないということだ──
日本中がそう思っている。目を見張り、仰天している。とりわけ、古川鞠子と同年代の若い娘たちと、彼女たちの親たちにとっては、この恐怖は他人事ではない。
しかし、この恐怖が、大多数の人びとにとって、どうにも対処のしようのないものであることも、また事実なのである。どれほど怯え、怖いと叫んでも、警察は何をしているのだと憤っても、社会の規範がゆるんでいるからこういう犯罪者が登場するのだと解析しても、それですぐに犯人が捕まるわけではない。他人事ではない距離にありながらじかに関わることのできない事件に対して、まともに神経を張り詰めていれば、ただそれだけで参ってしまうだろう。
だからこんなとき、往々にして人びとは抜け道を見つける。方法は色々だ。野次馬に徹して好奇心を燃やし、そうすることで「外野」になりきって、事件を自分から遠ざける。さらに踏み込んで、刑事か探偵気取りで推理を展開することで犯人を追う側に身を置く。あるいは、犠牲者となった女性たち──大川公園の件ではまだ正確には身元さえ特定されていないのだが──を、徒《いたずら》に貶《おとし》めるような事柄をあげつらい、それによって「あんな恐ろしいことに巻き込まれたのは、巻き込まれる側にもそれ相当の落ち度があったからで、だから自分にはああいうことが起こるわけはない」と、「理性的」に考える。
もっと単純に、「忘れる」という手もある。毎日忙しいんだもの、自分に関係のない事件のことなんか、そんなに関心もって覚えてないよと切り捨てるのだ。
由美子という若い娘が存在している高井家でも、最初の一日二日のあいだは、夫婦でひどくこの事件について気に病んだ。由美子ひとりで出前にゆくのをやめさせようかとか、外出をしばらく控えるようにとか言い出して、神経質なくらいの怯えぶりを見せた。だが、では現実の生活にその怯えをどんなふうに反映させられるかというと、何もできはしない。
だいいち、由美子の活動を制限してしまったら、まず高井家の家業である長寿庵の営業に差し障りが出てくる。娘を不用意に出前に行かせるのが剣呑《けんのん》に思えてきたから、すぐに代わりの出前要員に新しいアルバイトを雇う──などということができるほど、長寿庵は豊かではない。今日《き ょ う》日《び》、ほかの何よりも人件費が高くつくのだ。それに、闇雲に夜遊びを禁止したり門限を早めたりしたら、娘とはいえもはや子供ではない年齢の由美子本人が黙っているわけがない。
結局、他人の身に降りかかった不幸に同情しつつ、また若干の恐怖も感じつつ、忘れてゆくしかないのだ。情報を入れず、気にしないようにしてゆくしかない。商売熱心な高井家の人びとには、事件について連日鳴り物入りで大報道合戦を繰り広げている昼間のワイドショウなど縁のない代物だから、それはあまり難しいことではなかった。
由美子は、父と母が、由美子という年ごろの娘を持っているが故に、大川公園の事件について知ったり聞いたりすることを嫌がっていると、敏感に察知していた。そういう父と母であった。だから彼女も、とりたてて事件のことを話題にはせず、ニュースを観ても何も言わず、常連のお客たちのなかに、事件の話題を持ち出す者がいても、さりげなく受け流して相手にならないようにしていた。
もっとも由美子自身は、世間並みの関心を──つまりかなり強い関心を持って、この事件の推移を見つめていた。若い娘を狙う変質的な犯罪者──しかも頭だけは相当に切れるらしい──が、同じ東京都内を跋扈《ばっ こ 》しているのだ。注目せずにはいられない。事件の詳細について、もっともっと知りたいと思った。
テレビを観ることができないので、新しい情報の収集は、新聞と週刊誌に頼るしかない。それも大っぴらに読んでいると叱られるので、目立たないようにしなくてはならない。なかなか気を遣うのだ。
そんなことをしているうちに、兄の和明も、どうやら事件に興味を持っているようだということに気がついた。こういうことは珍しい。
和明は、プロ野球とテレビの連続ドラマが大好きだった。野球の方は由美子にはよく判らないのだが、どうやら弱小チームのファンであるらしい。九月半ばのシーズン後半になると、優勝にからんでいないチームの試合はスポーツニュースのなかでさえ結果ぐらいしか報道されないが、和明はそういう小さなニュースも丹念にチェックしていた。
一方の連続ドラマの方は、由美子も大好きだ。でも、テレビドラマについて、和明と話があうのがおかしいような恥ずかしいような気持ちになることがある。だってお兄ちゃんは男のくせに、と。なんだかテレビドラマおたくみたいだと思うこともある。実際、その場その場のストーリー展開や出演者の動向について詳しいだけでなく、どのドラマの脚本家が以前にどこで何を書いているかとか、この場面のロケはどこどこだとか、この設定はどこどこの大ヒットしたドラマの真似だとか、実に細かいところまで踏み込んで考えたり調べたりしながら、和明はドラマを観ているのである。
だから日常、和明が新聞を読んでいるとしたら、それはテレビ欄かスポーツ面である。雑誌を読んでいるとしたら、スポーツ誌かテレビ情報誌である。由美子にとって、午後の「準備中」の休憩時間に、調理場の裏口にスツールを出して陽なたぼっこをしながら、テレビ情報誌を読み耽《ふけ》る兄の姿は、あまりにも見慣れたものになっていて、景色として意識することが難しいくらいだった。
「お兄ちゃんがどこかって? ああ、裏で新聞読んでるんでしょ」というぐらいのものである。
ところが、大川公園事件発生以来、そんな和明が、新聞の社会面を読むようになった。それどころか、週刊誌や夕刊紙をわざわざ買ってきて読んでいる。兄の広げている紙面をちらりと横目でみると、見出しに「残りの遺体はどこにあるか」とか、「犯人像を推理する」などの言葉が並んでいる。明らかに、大川公園事件の続報や詳報を知りたくて、和明はそれらの新聞雑誌を買い込んでいるものであるらしい。
不公平なことに、和明がそうした記事を読んでいても、父も母も何も言わない。ひとつには、和明はそれらを読んでも話題には出さないので、何を読んでいるかしかとは判らないというせいもあるだろう。もともと彼は家のなかでも無口で、誰かが何かしゃべっていても、ただ笑って聞いているというタイプだから、それもまったく不自然なことではなかった。むしろ、和明が急に雄弁にしゃべり始めたら、家族は揃って彼の正気を疑うことだろう。
いずれにしろ、和明は日頃、ほとんど「社会」と関わらない生き方をしている。蕎麦屋として、町なかの店を切り回してゆくのには充分に足りるだけの技術を持っているようだけれど、お客とのやりとりはいまだに下手クソだし、お愛想のひとつも言えない。和明ひとりで長寿庵を継ぐのは無理なのではないかと、口には出さないまでも、父も母も考えているようだ。由美子がいなくちゃ──と。和明は真面目な働き者だが、ある意味では由美子よりもはるかに大事に、おかいこぐるみの育てられ方をしていて、まだまだ子供のままなのだ。
そんな彼が、大川公園事件にだけは興味を抱いている──
今までだって、大きな事件はいくつもあった。若い女性が巻き込まれた猟奇事件だってたくさんあった。それらには、和明はまったく興味を示さなかった。なのになぜ、大川公園事件だけは別物なのだろうか。
舞台が東京だから? しかし、練馬区と墨田区は二十三区内のなかでも端と端だ。切実に事件のまがまがしさを感じることのできる距離ではない。
やっぱり、今度の犯人がおしゃべりだからだろうか。目立ちたがり屋でマスコミに電話なんかかけてきたからだろうか。それが、さすがの浮き世離れした和明の心にも、異様なものとして映ったのだろうか。
「ねえ、お兄ちゃん」
事件から十日程経ったころ、とうとう好奇心を抑え切れなくなって、由美子はきいてみた。
「お兄ちゃん、珍しくずっと熱心に新聞読んでるよね? なんか、特別気になることでもあるの?」
午後の休憩時間だった。文子は銀行へ行くと言って出かけており、伸勝は、ちょっと疲れたと階上で昼寝をしていた。このごろ、さすがの働き者の父親にも時々こういうことがあるようになり、由美子はふと寂しさを感じることがある。やはり、父も歳をとってきているのだ。
由美子に声をかけられて、和明は新聞をたたんで振り向いた。その仕草に、遅蒔きながらも読んでいた記事を隠そうという意図が見えたので、由美子はちょっと笑った。
「ヤダなぁ、見られちゃ困る記事とか読んでたの?」
和明も照れ臭そうにエヘへと笑った。由美子は戸口の脇の壁に寄りかかり、胸の前で腕を組んだ。
「大川公園の事件の記事、読んでたんだよね? トーゼンよね、気になるよ。あたしも気になる。あっちでもこっちでも話題だし」
和明は新聞を膝の上に乗せると、白い上っ張りの胸ポケットから煙草を取り出した。タールが一ミリグラムという超軽量級の煙草である。由美子だって、友達と飲み屋に行ったりカラオケに行ったりしてたまに煙草を吸うときは、もうちょっと強い銘柄を選ぶ。だが、和明は二十歳を越して初めて煙草を吸い始めて以来、ずっとこればっかりだ。こんなの吸うぐらいならやめればいいのに。
不器用に煙草をくわえて火を点けると、目をしばしばさせながら煙を吐き出す。兄の細い目は、煙草の煙にいぶされると、余計に小さく哀しげなふうに見える。動物園の象の目だと、由美子は思う。
「お兄ちゃんが、ああいうふうな事件とかに気をとられるの、めったにないよね。けど、大川公園の事件て、それぐらい珍しい事件だよね」
和明は大きな顔を仰向けて由美子を見た。
「夜遊び、するなよ。心配するから」
と、優しく言った。
「わかってるよ。あの事件のほとぼりが冷めるまでは、出かけて遅くなってお父さんとお母さんに気をもませるようなことはしない」
和明はうんうんとうなずいた。
「怖い……奴がいるからな。世の中には」
「そうだねえ」
「お兄ちゃんだって、おまえが夜遊びしてると、なかなか寝られないんだ」
由美子は声をたてて笑った。
「そんなら、お兄ちゃんも夜遊びに出かければいいじゃない」
口元を微笑ませて、和明はうつむいた。口元から煙草をとって、足元に置いてあったコーヒーの空缶のなかにぽんと投げ捨てた。
ジュッと音がした。妙にはっきり聞こえた。お兄ちゃんと話すときって、なんかこうなんだ──と由美子は思った。普通、ほかの人と話してるときって、ただおしゃべりの声だけじゃなくて、バックにいろんな音が聞こえてるような気がする。おしゃべりの雰囲気が、周りの空気のなかに流れてるような気がする。だけどお兄ちゃんとおしゃべりするときはそうじゃない。静かなんだ。
「犯人、どんなヤツだと思う?」
せっかく兄とふたりなのだ。大川公園事件についてしゃべりたい。目下、日本国内最大の話題なんだから。
「やっぱり変質者だと思う? だけど、変質者にしてはしっかりしてるっていうか、テレビ局にかけてきた電話の話なんか聞いてると、かなり頭よさそうだよね?」
和明は大きな丸い頭を少しかしげて、考え込むような顔をした。普段から、由美子が三言《 み こと》話すあいだにやっとひと言話す程度のペースのお兄ちゃんだから、気にしてはいられない。
「昨日発売の『週刊ポスト』で、大川公園事件の特集をやってんの。でね、日本ではまだまだ少ないけど、アメリカではこういう連続殺人事件がすっごく多くて、野放しになってる殺人者が三十人以上いるって書いてあってね。怖くなっちゃった。日本も、これから似たような感じになっていくんだろうって。今度の事件は、そのさきがけだって」
和明はわずかに眉をひそめた。薄くて幅の広いこの眉毛も、よく言えば温和な、悪く言えばトロそうな彼の雰囲気をつくりだしている小道具のひとつである。由美子は、はっきりとした目鼻立ちによく似合う、濃くてしっかりした眉毛の持ち主だ。お父さんもお母さんもきれないな眉毛[#底本頁503「お父さんもお母さんもきれないな眉毛」ママ]を持ってる。なんでまたお兄ちゃんだけがこうなんだろ?
和明はまだ首をかしげている。ぽってりとしたくちびるが開いて何か言いかけ、思いなおしたようにまた煙草を取り出す。
「あたしにも一本ちょうだい」
由美子は子供みたいに手を出した。和明は妹が隠れ煙草|喫《の》みであることを知っているので、微笑しながら一本差し出してくれた。そして、由美子の煙草の先に火を点けながら、ぽつりと言った。
「ドラマみたいだ」
由美子は、彼が由美子の煙草に火を点ける、この状態がドラマの一シーンみたいだと言ったのだと思った。だから笑って切り返した。
「ドラマなら、もうちょっとカッコいい男がいるんだよぉ」
和明は目をしばたたくと、そうかぁと言って一緒になって笑った。そして自分の分の煙草には火を点けぬまま、それをひょいと耳の後に乗っけて、スツールから立ち上がった。
「オレは、洗い物しないと」
「あたしも手伝うよ」
和明は首を振った。「おまえは、美容院行くんじゃなかったんかあ」
そういえば、今朝起きたときあまりに髪がボサボサだったので、今日は休憩時間にカットに行くと、文子には話しておいたのだった。和明は、家庭内の由美子のそうしたささいな言動を、実に細かく耳にしていて覚えている。
「お見合いの支度の後は、かまた先生のところに顔出してないだろ。行ってこいや」
すっぽかされたお見合いの件は、まだあまり思い出したくない出来事だ。由美子は煙草を空缶のなかに投げ捨てた。
「美容院行くと、雑誌が読めるな」
「そうだね。情報集めてこようかな。かまた先生も、ああいう事件とかの話、大好きだし」
由美子は手早く白い上っ張りを脱ぐと、財布を取りに階上の部屋に向かおうとした。すると、後から和明の声が追いかけてきた。
「由美子、商店街へ行くか?」
由美子は振り向いた。「行かないけど……なんか用があるなら寄ってきてあげるよ」
「行かないなら、いいんだ」
また、奇妙な静けさが立ち籠めた。お兄ちゃんとの会話には、そう、行間に含みというものがないんだなと由美子は感じた。行間が真っ白なんだ。
「お洒落してきなよ」
そう言って、兄はにこにこした。水道の蛇口をひねると、大きな洗い桶のなかに腕をつっこむ。由美子はちょっと不思議な違和感を覚えたが、深くは考えなかった。和明が本当は何を言おうとしたのか、推測してみようとも思わなかった。
(商店街へ行くか?)
その言葉の次に、彼はこう続けようとしたのだ。
(栗橋薬局には近づいちゃ駄目だよ)
出掛けに、由美子はもう一度振り向いて兄の姿を見た。和明は黙々と洗い物をしていた。
[#改ページ]
10
有馬義男という人物については、最初から意識していたわけではなかった。
古川鞠子の家庭の事情に関しては、鞠子から話を聞き出していたので、栗橋浩美もピースもよく承知していた。そしてその時点では、キーポイントとなるのは鞠子の父親、古川|茂《しげる》だと考えていた。
栗橋浩美とピースの描くビジョンのなかの「登場人物」として、古川茂・鞠子父娘はきわめて魅力的な素材だった。若い愛人をつくって家を出た父親と、その可憐なひとり娘。父と母の夫婦の葛藤のあいだにはさまって苦悩する娘自身も、愛や結婚について敏感に真剣に考える年ごろである。父を許せない気持ちは強いが、しかしその反面、逆風をついて結ばれる愛の形には、多感な若い女性として心が共鳴してしまう。これで、鞠子目身が職場の上司と不倫な恋愛関係にでもあったらもっともっと面白くなると、栗橋浩美は考えた。だから彼女にあれこれと質問した──おまえ、うんと年上の男が好きだろう? オヤジに似てる男が好きなんだろう? 会社の上司とか、こっそり付き合ってるんじゃないのか?
思いがけず、古川鞠子はそれを鼻先で笑い飛ばした。彼らの手の内に入っていながら、彼らの許可なく笑うような「登場人物」は、まずそれだけで失格だ。その時はピースはそばに居なかったが、栗橋浩美は彼ひとりの裁量で鞠子に懲罰を与えた。朝から食事を与えず、トイレにも行かせなかったのだ。
これには鞠子も参ってしまった。人間、空腹はなんとか我慢できても、トイレばかりはどうしようもないのだ。午後三時過ぎになって、もうどうやってもこれ以上は我慢できない、トイレを使わせてくれと泣いてすがりついてきた。栗橋浩美は彼女をトイレに連れて行ったが、ドアを閉めることを許さなかった。トイレットペーパーも、彼女が使う前にホルダーから取り去っておいた。
古川鞠子はドアを開けたまま用を足し、泣きべそをかきながら、ペーパーが欲しいと要求した。栗橋浩美は笑いながらそれを彼女に向かって放り投げてやり、今のおまえの格好を見たら、おまえの恋人だって百年の恋も冷めるなと言ってやった。古川鞠子はしばらく涙ぐんでいたが、やがて小さな声で、わたしにはまだ恋人はいないんだと、独り言のように言った。
後で、この件では、栗橋浩美はピースにこっぴどく叱られることになった。独断で勝手な懲罰を与えたからではない。その点については、ピースはわりと鷹揚《おうよう》だった。計画全体を狂わせるようなヘマをしでかさない限りは、懲罰でもご褒美でも、好きなように与えたり取りあげたりしていいという了解ができていた。
ピースは、栗橋浩美が古川鞠子について描いたストーリーの陳腐さを怒ったのだった。父親が若い女を愛人にして家庭を壊した──その心の傷を癒すために、父に年齢の近い職場の上司と不倫関係を結ぶヒロインだと? なんてありふれてるんだ。テレビドラマだって、気恥ずかしくてまともには取りあげないような手垢のついた設定だ。ばかばかしくて話にもならない。
ピースは念を押した。自分たちが描いているビジョンにとって何よりも大切なのは、独創性なのだと。どこかで聞いたことがあるような話を持ち込んではならない。そんなことをしたら、すべての意味が消え去ってしまう。
それじゃあ、古川鞠子の「登場人物」としての独創性はどこにあるんだよと、栗橋浩美はきいた。不満だったから、口を尖らせた。するとピースはおかしそうに笑った。
──茂だよ。父親だ。
そう答えた。
──やがて彼の娘は無残なバラバラ死体になって家に帰るんだ。変わり果てた娘と対面したとき、彼は誰を憎むだろう? 犯人だろうか? それとも自分自身だろうか? 彼が恋愛に溺れて娘を顧《かえり》みなかったから、娘を守ってやることもできず、こんな悲惨な結果を招いてしまった……そんなふうに、我と我が身を責めるだろうか? そして、何がなんでも犯人をこの手で捕まえてやろうと執念を燃やすだろうか? あるいは、自己嫌悪と罪悪感の重さに堪えかねて、発狂するとか、自殺を試みるとか。
その方がずっとドラマチックじゃないかとピースは言った。鞠子には、薄幸の娘という役柄だけを割り振っておけばいい。どうせ彼女はもうすぐ死ぬのだ。興味の焦点は、彼女の死の放つ衝撃波を受けとめる遺族の側にあるんだ。そこで繰り広げられるドラマこそ、大衆にとって真に見応えのあるものだ──
そんなもんかなと、栗橋浩美は思った。それにしても、ピースが古川茂と彼の行状にこだわるのが、妙に古風な感じがした。どうやらピースは、男の浮気について厳しい考え方を持っているらしい。
──古川茂のようなことをする男がキライなんだね?
尋ねると、ピースはきっぱりうなずいた。
──そうだ。だってあまりに無責任じゃないか。家庭に対してさ。ああいう人間は、罰を受けて当然なんだ。
しかし、大川公園のゴミ箱から鞠子のハンドバッグが発見され、騒ぎが拡大を始めても、古川茂はマスコミの前に姿を現そうとしなかった。コメントも出さないし、インタビューにも応じない。会社からは長期の体暇許可を取り付け、愛人ともどもどこかへ身を隠してしまって、自宅に帰りもしない。
これじゃ、茂に関しては仕掛けようがないと、さすがのピースも不平を鳴らした。どうしようもない男だな、この古川茂って。
ついでだからこの男の愛人も「登場人物」にしてやろうぜと、栗橋浩美は提案した。しかしピースは首を縦に振らなかった。それは面白いし効果的でもあるが、あまりにも危険すぎるというのだ。
そして、苛立ちを抑えるためにも他の手段を考えようと努力するピースの目にとまったのが、雲隠れの古川茂に代わって鞠子の保護者代表として世間の前に顔をさらしている、祖父の有馬義男だったのだ。
──いい面構えのおじいさんだ。
ピースはそう言って老人を誉めた。
──格好の素材かもしれない。茂よりずっと逸材かもしれないぞ。
栗橋浩美はあまり賛成ではなかった。年寄りを巻き込むのは気が進まない。べつに、気の毒だからというのではなく、年寄りはキライだったからだ。それに、彼はあくまで、古川茂という生臭い男に魅力を感じていた。成人した娘がいながら、つまり彼女の子供から少女へ、少女から娘へ、娘から女へと成長していく過程を見守るという経験をしていながら、その娘とたいして変わらないような若い女に手を出す男。不快感は感じなかった。むしろ、栗橋浩美がまだ味わったことのない貴重な果実の味覚を知っている男というふうに解釈していた。訊いてみたかった。あんた、本当は娘とやりたかったんじゃないの、と。なんならやらせてやってもいいよ、鞠子は僕と一緒にいるから。あんたが心の底から願うなら、鞠子とやらせてやってもいいよ。それでもって、後で教えてよ。どんな感じがしたか、その感想をさ。
だからあの日、そう九月二十三日だ、栗橋浩美としては、あくまでも古川茂を捕まえるつもりで古川家に電話をかけたのだった。ところがその電話に、有馬義男が出た。
たしかに歯ごたえのある爺さんだと、話をしているうちに、栗橋浩美も感じるようになった。ピースの直感はいつも正しい。
有馬義男は、あんたが本当に鞠子の居所を知っているという証拠が欲しいと要求した。
きわめてまっとうで冷静な反応だ。爺さん、バカじゃない。栗橋浩美はうれしくなってきて、その取引に乗ると返事をした。頭をフル回転で働かせ、次の出方を考えた。すごい計画が閃いた。段取りを決めた。新宿のプラザホテル、七時に、あのフロントにメッセージを預けておくよ、と。
それからは大忙しだった。ワープロで短い文章を作り、古川鞠子の持ち物のなかから腕時計を取り出した。名前が入っていることは、彼女から取り上げたときに確認してある。今日の取引の材料として、女物の清楚なこの腕時計ほどふさわしく、絵になるものは他にないだろう。
ピースは不在だった。すべて独断専行でやることになる。後で許可をもらうことにもなる。いいだろうか?
いいだろう。相手はピースが「逸材」と評した鞠子の爺さんだ。ピースが望むとおりに話が運ぶことになる。有馬の爺さんを表舞台に引っ張り出し、重要「登場人物」のひとりになってもらうのだ。
携帯電話をジャケットのポケットに押し込むと、栗橋浩美は立ち上がった。
少女には名前がなかった。
親にもらった名前は、久しい以前から彼女の名前ではなくなっていた。日高千秋。芸のない名だ。命名者は父親で、赤ん坊が生まれる前から、この名前だけは先に決まっていた。当時父親がにわか勉強をした姓名判断の手法では、日高という名字と組み合わせたとき、最も相性が良く総画数も目出度くなる名前がこの「千秋」だったのだそうで、だから生まれる赤ん坊が男の子でも女の子でも千秋で決まり、この名前さえつけておけば丈夫で元気ないい子に育つこと聞違いなしだと、自信満々だったそうだ。
少女には両親が不仲であることが判っていた。不仲でありながら、父母のそれぞれに家庭を離れることのできない理由があることも判っていた。父には世間体があり、母には経済力がなかった。ふたりはよく喧嘩をしたが、父は怒りながら、母は泣きながら、なぜ自分はこんな人生を選んでしまったのだろうかと、答のない問いを投げつけあった。
自分というものを、トータルな、他人と差し替えることのできない独自のものとして意識する年ごろになると、少女はよく不安を感じるようになった。あたしは誰のために生きてるのだろう? あたしが生きていることを、誰が喜んでくれるのだろう?
父はいつだって自分のことだけで精一杯だ。母は失ってしまった時間に対する繰り言を述べ、今の生活にしがみつくことで精一杯で、少女のことなど本気で考えてくれてはいない。母が少女の身の上を気遣うのは、少女が母の生活の「担保」であるからで、愛情があるからではない。
少女は思う。あたしが事故とか病気とかで死んだら、パパとママはせいぜい悲しそうな顔をしてお葬式を出すだろう。そしてすぐに離婚するだろう。なぜって立派な理由ができたからだ。
パパは職場の上司や部下にこう言うだろう──妻とふたりでいると、失った娘のことを思い出して仕方がない、おまえが不注意だったから娘は死んだんだと妻を責めてしまうこともあるし、私がもっと家庭を大事にしていればと自分を責めるときもある、こんなことをしていても、互いの傷を突つきあうだけだから、思い切って別れることにした。
ママは周りの人たちにこう言うだろう──娘が亡くなってしまった今、主人とふたりでいても、思い出がのしかかってきて辛くなるだけなんです、わたしが至らない母親だったから、千秋を死なせてしまった、そのことが申し訳なくて申し訳なくて、もうあの人と暮らしていくことはできなくなりました。
パパもママも、いたく同情されるだろう。悲劇の人たちだ。そしてふたりは新しい人生を歩み始める。少女という担保を取り消して。
少女は可愛らしい顔をしていた。彼女が憂いていたり、涙ぐんでいると、かならず誰かがそばに寄ってきた。少女が見つめると、少年たちは顔を赤らめたり、熱っぽく見つめ返したりした。
家では得ることのない愛情が、外の世界では簡単に手に入った。微笑むだけでよかった。笑うだけでよかった。男の子に触れるだけでよかった。最初のうちは。
しかし、やがて、それだけでは満足できない時期がやってきた。相手も、少女自身も。少女は自分の身体が、愛情を得るための道具としてきわめて優秀だということに気づき、それを誇りに思うようになった。
一度寝てあげると、男の子はみんな優しくなった。寝てあげて、乱暴を働くような男には出会ったことがなかった。みんなが彼女が大事だから、彼女に去ってもらいたくなかったから、一度だけでなくもっと何度も寝たいから、彼女に優しくしてくれた。少なくとも、少女自身はそう思っていた。
楽しくて温かくて柔らかい時間が欲しかった。父と母は貧乏ではなかったから、お金は問題ではなかった。でも、楽しくて温かくて柔らかい時間を過ごした相手が、少女が欲しいものを買えるように、少女がもっと可愛らしく美しくなれるように、いくばくかのお金をくれたときには、断る理由はなかった。
そして相変わらず少女には名前がなかった。気に入った名前を、まだ自分では見つけることができないでいた。いつか本当になりたい自分になったとき、きっと名前も思いつく。あるいは、いつか本当になりたい自分にならせてくれる男に会ったとき、その男が名前をつけてくれる。少女はそう考えていた。
その日、新宿駅の東口で、少女は人を待っていた。相手は、テレフォンクラブの電話口で何度か話をした男性だけれど、会うのは今日が初めてだった。とても憶病でおとなしい人で、少女が何度か誘いをかけても、乗ってこようとしなかったのだ。
それが今日は、とんとんと話が進んだ。聞けば彼は就職が見つかったのだという。コピーライターになりたくて、ずっと広告代理店での仕事の口を探していたのだけれど、なかなかいいところがなくて失望続きだった。それがやっと、雑用や営業や事務仕事でなく、ちゃんとしたコピーライターとして彼を雇ってくれる事務所が見つかったのだという。
お祝いしてあげると、少女は言った。あたしと会わない? おとなしい男性は、会ってもいいのと恐る恐る問い返した。少女は晴れ晴れと言った。あたし、ずっとずっとあなたに会いたいと思ってたの。
新宿駅西口で、五時半に。少女は制服を着て行く。彼は手に赤いバラを一本だけ持って行くという。少女は笑った。なんだかドラマみたいだった。
少女は浮き浮きしていた。今まで、テレクラを通して会った人に、嫌な思いや怖い思いをさせられたという経験はない。それはすごくラッキーで、そんなラッキーはいつまでも続きはしないと友達には言われるけれど、少女はそうでもないと思っていた。だってあたしは特別なんだもの。特別にいいことがあるような仕組みになってるんだ、きっと。
コピーライターだって。本当になれるのだろうか。だけど、なれたらカッコいい。収入だってすごく多いし、有名人になるだろう。少女の心は現実を離れた高みにまで浮き上がり、そこでは少女は売れっ子コピーライターの妻で、洒落たイタリア風のファッションに身を包み、緑豊かなパティオのある自宅で、女性雑誌のインタビューを受けている。有名なコピーライターの妻である彼女が、このたびエッセイ集を出版することになった。夫のこと、自分の生き方、お洒落のこと流行のこと──しなやかで美しい大人の女性の感性、そう、もしもそんなふうになったら、あたしの名前は──名前──
「ねえ、彼女」
背後からぽんと肩を叩かれた。振り向くと、長身の若い男がニコニコ笑いかけていた。
「驚かせてゴメンよ。ちょっと声をかけてみたくなって──」
若い男は照れ笑いをした。整った顔立ちで、目がきれいだった。その瞳に向かって、少女は微笑んだ。
「なあに?」
それから十分と経たない内に、日高千秋は、声をかけてきた若い男と向き合って座っていた。
駅前のビルの二階にあるフルーツパーラーの窓際の席で、窓越しに、さっきまで千秋が待ち合わせのために佇んでいた場所を見通すことができた。席に落ち着き、オーダーを済ませてそちらの方に目をやると、ブルージーンズにスニーカーのずんぐりとした若い男が、ちょうど千秋が居たあたりの場所をウロウロしていることに気づいた。さすがに細かな表情までは見えないが、人を探しているような仕草をして、しきりにきょろきょろしているのは判る。千秋は吹き出した。
「どうしたの?」
向かいの彼が、ちょっと驚いたような顔で訊いた。ジャケットのポケットから煙草のパッケージを取り出しかけていた手が途中で止まっている。
「なんでもないんだ、気にしないで」
首をすくめて、千秋は言った。軽く上目遣いで相手を見る。千秋のこういう視線にはなんともいえない魅力があると、友達に言われたことがある。自分でも自信があった。
若い男は、千秋が見ていた方向に目をやった。ブルージーンズのずんぐり男は、未練たらしくまだうろついている。少し目を細くしてその男を見つめてから、向かいの彼は千秋の顔を振り返った。
「君、誰かと待ち合わせしてたんじゃないの?」
千秋は肩をすくめた。この仕草も彼女の得意のポーズだった。とっても可愛らしくやってのけることができる。
「気にしないで」
以前、ほんの半年ばかり付き合ったタレント志望の男の子に、日本人で、ハリウッド映画やアメリカのテレビシリーズに登場する役者たちのように本当にカッコよく肩をすくめる仕草をすることができるのは、少なくとも一九八○年以降に生まれた若者たちだけなんだと教えられたことがある。しゃべるときに身体や手足を動かしてアクションをするという習慣は、本来、心の綾を言い表す言葉の種類の少ない英語圏の人びとのものだ。しかし、一九七九年までに生まれた日本人は、どれほどアメリカナイズされているとしてもそれは単に「──ナイズ」であって本物ではないから、しゃべりながらアクションしようとすると、わざとらしく野暮ったくなってしまう。その点、一九八○年以降に生まれた若者たちは、もう「アメリカナイズ」という言葉そのものの意味さえ知らないくらいにネイティブに、アメリカの、英語圏の文化のなかで成長しているから、さりげなく自然にアクションすることができるんだ──それが、その少年の持論だった。
難しいことは、千秋には判らない。が、なんだかカッコいいような感じがした。だから、肩をすくめたり話しながら相手の身体に触れたり、首をかしげたりする動作を、みっちりと鏡の前で練習した。そして、これなら可愛い、色っぽい、さりげなくて感じいい──と思えるくらいにまで修練を積んでから、外へ出て実行に及んだ。だから、千秋の身振り手振りには年季が入っているのである。
実際、向かいの彼にも千秋の仕草の可愛らしさは効き目があったようだった。彼はにこっと笑うと、テーブルごしにわずかに千秋の方に身を乗り出した。
「僕が君に、彼氏をすっぽかさせちゃったことになるのかな?」
「彼氏なんかじゃないの。ホントよ。ただの友達」
目の前の彼に声をかけられる直前までは、コピーライター志望の若者との華やかな未来を空想──妄想していたことなど、千秋の頭からきれいに消え去っていた。しかも、遠目に見ても、千秋の待ち合わせ相手だったあの若者はさえなくて、見場が悪い。ホントにコピーライターになれるかどうかなんて判ったもんじゃない。それよりも今、目の前にいる彼の方がずっと素敵で、雰囲気も高級だった。
「さっき駅前でも言ったけど、僕は怪しい者じゃないんだ。実はカメラマンのタマゴでね」
向かいの彼がそう言い出したとき、オーダーした飲み物が運ばれてきた。彼はアイスコーヒー、千秋はフレッシュ・オレンジジュースだった。この店は学生や若者たちに人気があり、満員に近い店内では、そこここでカップルやグループ客の話し声がはじけていた。千秋と同じような高校の制服姿で群れている女の子たちのグループ客もいる。そのグループの女の子のひとりが、千秋と同じオレンジジュースのストローをくわえながら、さっきからちらちらとこちらに視線を飛ばしては、千秋と向かいの彼の横顔を見比べていたが、千秋が強くにらみつけると、目をそらした。
「モデルを探してるって言ってたよね?」
ストローをくちびるのあいだにはさみ、また上目遣いで相手を見ながら、千秋は甘い声で訊いた。
「うん……。ただ、先に断っておくけど、期待してもらっちゃ困るんだ。僕も僕の先輩も、芸能界とかにつながりはないし、ファッションモデルのスカウトをしてるわけでもない」
そう言って、ミルクもガムシロップも入れないままのアイスコーヒーを、グラスを持ち上げてひと口がぶりと飲むと、彼は酸っぱそうな顔をした。
「まずい?」千秋は目を丸くした。
「泥水だね、これ。まあいいけど」
無造作にグラスをテーブルの上に戻す。その仕草が、なんだか大人びた感じに見えた。パステルカラーのパーラーのなかで、彼の存在はいい意味で浮いて見えた。そう──この人って大人なんだ。なんか──社会人て感じ。サラリーマンみたくダサくないけど。
「僕と先輩が探してるのは、現代の日本人の顔をしている人たちなんだ。そういう人たちをモデルにしたくて、ずっと求めてる」
「あなたと、先輩?」
「うん。そうか、まだ話してなかったよね。オレって説明が下手なんだ」
彼は頭をかいた。長めの髪がさらさらと流れる。前髪を整った顔の前から払いのけて、彼はせかせかと説明を始めた。曰《いわ》く──
彼と彼の先輩カメラマンはフリーで仕事をしており、主に報道写真を手がけている。過去にも共同で写真集を出版したことがあるのだが、今回、二十世紀末日本人の肖像というコンセプトで新しい写真集をつくり、出版にあわせて共同写真展も開催することになった。そのために今、作品づくりに追われている。
「八割方はできてるんだ。オレと先輩とで、今までに撮ってきた作品があるからね。だけど人物写真が足りなくて。オレたち、事件屋だから」
「事件の写真ばっかり撮ってるってイミ?」
「そう。報道写真はそういうものだからね。オレね、最初の仕事は雲仙普賢岳《うんぜん ふ げんだけ》だったの」
そう言われても千秋には何のことなのかさっぱりわからなかったが、とっておきの笑みを浮かべてうなずいた。
「スゴイね」
「すごくはないよ。僕なんかまだまだ駆け出しだしね。これからさ」
彼はあっさりと言って、また泥水みたいなアイスコーヒーを飲み、また渋い顔をした。千秋は微笑みながらそれを見ていた。「僕」と「オレ」の混在する彼の話し方が好きになった。初対面の千秋とどんなスタンスをとって相対したらいいのか測りかね、でも親しみと熱意は感じ取ってもらいたいという彼の気持ちが伝わってくるように思ったからだ。
(いい人じゃん)
千秋の笑顔も最大級のものになる。
(今日このヒトに会えたの、あたし超ラッキーだったかも)
「それであたしのこと、その写真集のモデルにしたいの?」
「そうなんだ」
「あたし、そんなに美人じゃないよ。足だって太いし、背だってそんなにすらっとしてないし……」
彼は笑って千秋をさえぎった。
「だから、僕はタレントをスカウトしてるわけじゃないって言っただろ? さっき駅前に立ってたときの君の表情がよかったんだ。なんていうかすごく──すごく目が澄んでて、なんでも見通せそうな感じで、だけど不安そうで。それと──」
「それと?」
彼が言葉を濁したので、今度は千秋の方が身を乗り出した。
「それと何? 教えてよ」
彼は目を伏せて、窓の方に視線をそらした。言いにくそうにくちびるを噛んでいる。そして、ちょっと肩をすくめると千秋を見た。
「言うけど、気を悪くしないでくれよね?」
この瞬間、千秋は、かつて付き合ったタレント志望の男の子の並べたゴタクを信じるのをやめた。目の前の彼はどう見ても一九八○年以前の生まれだろうけれど、肩をすくめる仕草もくちびるを噛むときの表情も、こんなにも様になっている。
「──寂しそうに見えたんだ。君がね。とても孤独に見えた。それが、現代の肖像にぴったりに思えたんだ」
千秋は顔から笑みを消し、目の前の彼をひたと見つめた。この「見つめ方」もさんざん練習したものだけれど、少なくともこのときは、それらの手練手管を抜きに、見つめたいから見つめたのだった。
向かいの彼は謝った。「ごめんよ。やっぱり気を悪くしたかい?」
千秋は黙ってかぶりを振った。
「ううん。怒ってなんかいない。それよか、ちょっと嬉しいくらい」
「嬉しい?」
「うん。あたし……元気で明るいってよく言われるけど、寂しそうだなんて言われたことなかったもの」
本当は寂しいのにと、言外に言ったつもりだった。
今度は彼が黙ってしまった。千秋は顔をあげ、彼に向かって笑いかけた。
「あたし、モデルになる。あたしのこと、撮って」
「ホントにいいのかい?」
「うん!」
「あの……オレも先輩も貧乏だから、モデル料とかあんまり払えないよ」
「お金なんか要らない。サービスしちゃう」
「そうはいかないよ、ちゃんとしなくちゃ」
強くたしなめたが、すぐにその真顔を崩して、彼はほっとしたような笑顔を浮かべた。
「よかった。ありがとう。きっといい作品にするよ」
先ほどのグループ客の女の子が、また千秋たちを見ている。今度はひとりだけでなく、仲間の二、三人がみんな視線をこちらに向けている。その顔は一様に悔しそうで、腹立たしそうだ。
千秋は誇らしさで胸がはちきれそうな気持ちになった。こんなことは、掛け値なしに生まれて初めてだった。
「それじや、どうする? あたしどうしたらいいの?」
張り切る千秋に、向かいの彼はあわてた。
「今日はいいよ。いきなり君をスタジオに連れてくことなんかできない。もう暗くなってきたし、ご家族が心配するだろ?」
「家族? そんなのどうでもいいよ」
「よくないさ」
彼は言って、探るように千秋の顔を見つめた。
「君、おうちの人たちと仲良くないのかい?」
千秋は肩をすくめた。もっとも効果的な角度で、もっとも効果的な表情をくっつけて。
「うちじゃあたしのこと、誰も心配なんかしないから」
すると彼は、ぴしゃりと言った。「そりゃ君の誤解だ。子供のことを心配しない親なんかいるもんか」
千秋は驚いた。まともに見つめる彼の瞳に、真剣な心配と同情と、かすかな怒りの色があることに気づくと、心の底がきゅっと痛くなるような感じがした。
このヒト──なんなの? こんなヒト、初めてだよ。
彼の言うとおり、今回は大人しく家に帰った方がいいのかもしれない。その方が、彼の気持ちを損ねないのかも。
でも、帰りたくなかった。もっと長いこと、この彼のそばにいたかった。今離れたら、距離があいてしまうような気がした。
千秋は自分の気持ちに正直な娘だった。そしてそれを「善いこと」だと信じていた。自分の気持ちに正直であることと、貪欲でせっかちであることとのあいだには、わずかに皮膚一枚くらいの隔たりしかなく、そのわずかな隔たりをつくっているのが、自分の周囲の社会に対する想像力なのだということを、まったく知らない、教えてもらったこともない少女だった。
だから、自分の気持ちに正直になるためならば、嘘をつくのも平気だった。
「誰も……帰ってないんだもの」
「え?」
「うちには誰もいないの。パパもママも仕事に忙しくて。お手伝いさんがつくった夕御飯が冷蔵庫に入ってるだけよ」
向かいの彼はまた黙ってしまった。ひどく困っているように見えた。同時に、千秋に同情しているようにも見えた。
同情──誰かを自分のものにしたいと思ったら、最高のとっかかりになるのがこの感情だ。「同情」こそ、心に食い込む高性能のハーケンだ。千秋は少女の本能と知恵とでそれを体得していた。
「そんなら今日、スタジオに来てみる? テスト用のポラを撮ってみて、あと、君を撮るのに最適の場所を探すには、君の意見も必要だし……」
言い出して、向かいの彼は急いで付け加えた。
「もちろん、帰りはちゃんと僕が送っていくよ」
「うん! それならオッケーよ!」
「じゃ、オレ先輩に連絡してくる」
向かいの彼は席を立った。懐から携帯電話を取り出しながら、通路の方へ出ていく。千秋は彼の背中を見送ると、ひとり満足の笑みを浮かべた。
五分ほどして、彼は席に戻ってきた。首をひねっている。
「先輩がつかまらないんだ」
「スタジオにいるの?」
「いや、打ち合わせがあってね、ホテルにいるんだ。西口のプラザホテル」
突っ立ったまま、ちょっと膝を叩いて考えてから、彼は呟いた。「フロントにメッセージを預けておくか……。だけど参ったな、車取りにいかなきゃならないし」
「車? どこに停めてあるの?」
「南口のルミネの駐車場」
「じゃ、車出して、一緒にプラザホテルまで乗っていこうよ」
彼は顔をしかめた。「こんな道が混んでる時間帯に? 歩いた方が早いよ」
「あ、そうか」千秋は納得した。
「しょうがないな……ね、頼んでもいいかい?」
「あたし?」
「ああ。プラザホテルのフロントにメッセージを届けてきてくれる? そのあいだにオレ、車を出して西口の地下駐車場まで回しておくから。スタジオは下北沢なんだ。悪いけど急いでるから、さっと行ってきてほしいんだ」
千秋はうなずいた。「了解!」
実に手回し良く、彼はポケットから封筒を取り出した。「これがメッセージだよ」
疑うのなら、このときがチャンスだった。しかし、日高千秋は疑わなかった。
「ねえ、ところでヘンなことに気づいてる?」
「なんだい?」
「あたし、まだ名前言ってない。あなたの名前も聞いてない」
彼は笑った。「そうだね。オレ、中村健二」
「あたし日高千秋」
彼はテーブルの上の伝票を取り上げ、レジへと向かう。千秋は足取りも軽く店外の通路へと出た。
チャンスはこのとき、もう一度あった。レジのうしろの壁に、このパーラーの店長の顔写真が掲げてあったのだ。生真面目そうな中年男性が正面を向いて写っており、その下に、「店長中村健二」と名前が入っていた。
しかし、日高千秋はレジの壁を見あげなかった。彼女が見ていたのは現実ではなく、そうあってほしい夢の形ばかりだった。カメラマンの彼の正体も、中村健二が偽名であることも、彼の話のすべてがデタラメであることも、千秋には知る由がなかった。
命じられた通りにプラザホテルのフロントに伝言を届けると、日高千秋は走って新宿駅西口地下駐車場へ向かった。
中村健二は、千秋が彼を見つけやすいように、車の外に出て車体にもたれて立っていた。車は、いかにも行動派のカメラマンが乗り回しそうな──あくまでもイメージとして──大型の四駆だ。レンタカーだったが、ナンバープレートを見て千秋がそれと悟っても、別にかまわないと思っていた。社会派の報道カメラマンが、ぴかぴかのローバーやチェロキーを乗り回すほど金回りがいいはずがない。
事実、そのとおりだった。千秋は彼を見つけると、とっておき(なのだろう、おそらく)の笑顔をつくって駆け寄ってきたが、少女特有の身体をくねらせるような動作に隠して抜け目なく視線を走らせ、車を値踏みした。千秋がナンバープレートを見たのを確認すると、中村健二は自分から申し出た。
「レンタカーなんだ。ごめんよ」と、笑ってみせる。「君たち女子高生から見ると、ダッサイ極みなんだろうけど、オレも先輩も貧乏人だからさ」
爽やかに言い放ち、ひらりと身をひるがえして運転席に乗り込んだ。目の隅で、千秋の表情が微妙に変わるのを確かめた。期待通りだった。千秋は、(なーんだ、レンタカーじゃん)と思った彼女自身を後ろめたく感じているようだった。
こういう反応こそが、彼の求めていたものだった。軽薄な物質主義・拝金主義の女子高生たち。しかし彼女たちのなかには、自分のそういう部分とまっこうから対立する価値観に出会いたいという願望もあるのだ。お金がすべてじゃないという生き方をしている男たちへの、非現実的な憧れも眠っているのだ。だから、その部分を突いてやれば、容易に心をつかむことができる。
「ところで、フロントで誰かに声をかけられたりしなかった?」
千秋はつぶらな瞳を見張った。「誰に?」
「いや、何もなかったならいいんだよ」彼はニッコリ笑ってみせた。「誰かさんが、僕との約束をちゃんと守ったってことがわかっただけさ」
千秋は笑い出した。「なに、それ?」
「いいことだけど、あとで教えてあげるよ」
千秋が助手席に落ち着くと、中村健二は車を出した。車内は清潔でゴミひとつなく、無造作に地図が何冊か後部座席に放り出してあるだけだ。それと、手をつけていない缶入り飲み物がいくつか、グローブボックスのなかに放り込んである。
車は下北沢に向かう。ほどなくして道中のどこかで、信号待ちのときを狙って、彼はグローブボックスに手をのばし、缶入り飲み物を飲むつもりだった。なんか、侯乾かないか?
君もどう?
千秋は飲むかもしれないし、飲まないかもしれない。最初の分岐点だ。彼女が素直に飲まなかったならば、また別の手段を用意してある。
日高千秋は缶入りのウーロン茶を選んだ。実際、喉の乾きを感じているようだった。空気が乾燥しているせいかもしれない。
彼女が飲み干したウーロン茶の缶には、彼らのお道具のひとつとして常備してあるもので、几帳面な作業を苦にしないピースの手で、慎重な細工がほどこされていた。プルタブを引いて注射針が入るくらいのわずかな隙間を開け、そこから入眠剤ハルシオンの濃い水溶液を注入する。缶の中身を飲んだら、大の男でもフラフラになるくらいの量だ。そしてまたプルタブを元通りに戻す──なんの手も加えられていないかのように見せかけるために、細心の注意を払って。
バックミラーから新宿副都心の高層ビル群の姿が消えないうちに、日高千秋は眠ってしまった。ぐったりと首をうなだれ、身体がシートからずり落ちそうになり、それでなくても短い制服のスカートがまくれあがって、下着が丸見えだ。
中村健二は笑い出した。おかしくて仕方なかった。そして栗橋浩美に戻った。
パーラーの店長の名前を借りて名乗るなんていうやり方は、彼にとっては危険きわまりないものだった。日高千秋が店を出るとき、レジの前でちょっと視線を持ち上げただけで、嘘がばれてしまうことになるからだ。
だがその分、スリルは満点だった。日高千秋に彼の偽名を見抜くチャンスを与えることは、そのまま彼の運と彼女の運を秤にかけて試すことにもつながり、たまらなくワクワクする賭けになった。そして、世の中は自分の思い描く夢のとおりに運んでいくものだと根拠もなく思いこんでいるこの哀れなバカ娘は、ほんのわずかに首を動かしてレジの後ろの壁を見上げることをしなかったがために、今ここにこうしているのだ。千秋は賭けに負けた。彼女の守護天使は彼女に、視線を動かしなさいという示唆を与えず、そのかわり、彼女の命を栗橋浩美の手のなかに投げ与えてくれた。
もうどうしようと彼の──彼とピースの思いのままだった。
芝居は終わりだ。彼は軽快に車を走らせた。ちょっと寄り道をして古川家にプレゼントを届けたら、下北沢どころかもっと遠くに、東京を離れ、誰も知らない場所にある、栗橋浩美とピースだけの、この大がかりな計画の舞台裏へと。
有馬のじいさんは、やっぱり律儀ないくじなしだった。警察にも知らせず、こっちの要求を丸飲みしてくれた。これもまた賭けだったが、充分に勝算のある賭けだった。八時にホテルのバーへ電話をかけたら、ひと言誉めてやろうか。おじいちゃんは僕の期待どおりだったよ。それとも、うんとバカにしてやろうか。
予定では、ピースも今夜遅くには山荘≠ノ着くと言っていた。千秋を見たら、どう言うだろう? 栗橋浩美がひとりでやってのけたこの一幕について聞いたら、どんな感想を漏らすだろう? 最初は、危ない綱渡りだ、思いつきで行動したらいけないと怒るかもしれないが、効果のほどを見たなら、きっと満足してくれるだろう。そうそう、山荘≠ノ近づくときは、今夜は特に、誰にも見られないように用心しないとな。古川家に寄るときも、車は離れた場所に停めて、そうっと歩いていくようにしよう。
気分は上々で、栗橋浩美は自分でも気づかないうちに低く口笛を吹いていた。曲名は『マック・ザ・ナイフ』だった。この計画の実行にとりかかって間もない頃、深夜の音楽番組で、誰かが歌っていたのを耳にして、気に入ってしまったのだ。「ナイフ」という単語が入っているところが良いのだ。歌詞の意味など知らないし、どうでもいい。「ナイフ」という言葉だけがいい。
もっとも、実際には、ピースも栗橋浩美もナイフを使ったことはなかったし、これからもその予定はない。あんなものを振り回したら、後で掃除が大変だからだ。
それでも、どんなに気をつけて事を進めても汚れ物は出るし、それを片づけるときは、ピースと栗橋浩美のあいだでいつも責任の押しつけあいが始まるのだった。ふたりとも、汚れ仕事は嫌いだった。
──ピースのやつ、本気で部屋を改造してくれりゃいいのに。
内装業者に疑われることのない口実さえでっちあげることができるならば、いつも女の子たちを閉じこめておくために使っている部屋を、全面改装したっていいんだと、ピースは言っていた。床下に排水パイプを通して、床はコンクリート塗りにして、中央を少しくぼませて水はけをよくする。そして、排水穴を開けるのだ。それならば、ホースを引いてきて水を出すだけで、汚れ物を洗い流すことができる。
おまけに、そこに閉じこめられた女の子は、普通の部屋にいるときよりもはるかに効果的に、一瞬のうちに自分の置かれた立場を知ることになるだろう。その瞬間の顔が見たい。自分が動物のように扱われている、監禁されている、今まで親切にしてくれたあの素敵な男が話していたことは全部デタラメで、自分は騙されていたのだと彼女たちが悟る、その刹那の顔を。ああ、どんなにかいい顔をするだろう、彼女たちは。
栗橋浩美は口笛を吹き続けた。日高千秋は眠り続けた。ナイフは歌のなかにあるのでなく、栗橋浩美のなかにあった。
夢を見ていた。
日高千秋は夢を見ていた。夢のなかの彼女は、写真のモデルになっていた。カメラマンは彼女の前に立っており、異常に大きな──写真機というよりはテレビカメラみたいなカメラを構え、そのせいで彼の顔はまったく見えない。千秋は制服姿ではなく、裾の短いワンピースを身につけていた。色は大好きな黄色──ひまわりの色だ。足は裸足で、爪先は真っ赤に染めてある。
ライトがひどくまぶしくて、千秋は汗をかいていた。すかさず、メイク係の女性が近寄ってきて、千秋の顔にパフをあててくれる。髪をいじってセットしなおし、すごく可愛いわよ大丈夫、と囁く。千秋はメイク係に向かって微笑む。だが、さっきまでそこにいた彼女はなぜかもう姿を消していて、ただ千秋の鼻先に化粧パフの匂いだけが残っている。
カメラマンは大きなカメラを振り回し、まるで踊りでも踊っているみたいだ。動作してポーズをつけるのはモデルの方であるはずなのに、カメラマンの方が踊ってどうするの?
千秋はおかしくなり、笑ってしまい、その笑顔に向かってシャッターが切られる。カシャカシャカシャと、せわしない音が聞こえる。
暑い。光がまぶしくて、ひどく暑い。まともに顔をあげていることが難しいくらいの強烈なライトだ。モデルの千秋はちょっと休憩したくなる。疲れたんだけど、休ませて──だが、大きなカメラを手に今や踊り狂っているカメラマンは、千秋の言葉などまったく聞こえないようだ。なんでこんなおかしなことになるの? 千秋はカメラの前を離れようとする。もうたくさんだ。ちょっとやめてよ。だけれど千秋の右手を誰かが引っ張る。だから動けない。どうしてそんなに強く引っ張るの? 引き戻さないでよ、痛いじゃないの。それにどうしてこんなに暑いの? まぶしいの? ライトを消してよ。あたしは休みたいのよ──
カメラマンは踊り狂う。彼が足を踏みならし、床が鳴る、どすん、どすん、どすん。
──どすん!
そこで目が覚めた。
日高千秋ははっと身震いして顔をあげた。額にも鼻のまわりにも、汗の粒が浮いている。
目は開いたのに、視界がぼけている。焦点があわない──頭がフラフラする。胃は空っぽで、それなのに、吐き気がする。
いったい、ここはどこだろう?
六畳か八畳くらいの広さの部屋だ。床も壁も板張りで、千秋はふと、去年の夏に友達と遊びに行った軽井沢のペンションの部屋を連想した。木の匂いのする部屋。
しかし、今、千秋が居るこの部屋は、ペンションに比べたらおよそ殺風景で愛想がなかった。床には敷物ひとつなく、装飾品もない。ただ壁際にベッドがぽつんと据えてあり、千秋はそのベッドの頭の方にへたりこんでいた。ベッドの足にもたれかかるようにして、床に直に座っているのだ。ベッドの反対側の足元には、十四インチくらいの小さなテレビが、安っぽい台の上に鎮座して、何も映っていない灰色の画面を千秋の方に向けている。
千秋の座っている場所から見て真正面の壁に腰高窓があるが、そこにはカーテンさえかかっていない。窓は普通のアルミサッシュのようだが、きちんと閉められている。曇りガラスの向こう側に、頑丈そうな格子が透けて見える。窓からは明るい日差しが真っ直ぐに千秋の方に向けてさしかけており、さっきの夢のなかで感じたまぶしさも、どうやらこの陽の光のせいだったようだ。
──ここ、どこ?
千秋は二、三度強く頭を振ってみた。頭のなかに淀んだ空気が詰まっているみたいに、妙に空っぽで虚《うつろ》な感じがする。何も思い出せないし、考えが浮かばない。あたし、何してるの?
自分の身体を見おろして、ぎょっとした。制服が脱がされていて、下着姿だ。靴下もはいていない。汗をかいていて、臭いそうな感じ。とにかく立ち上がろうとした。床に投げ出していた足を引き寄せ、重たい身体を持ち上げ、肘をついて身を起こそうとする。と、右腕がぐいと引っ張られ、手首に痛みが走った。千秋はつと視線を落とした。そして目を見張った。
右手首に手錠がかけられているのだ。手錠のもう一方の輪は、ベッドの脚にひっかけられている。だから千秋は、ベッドの頭のところから離れることができないのだった。
夢のなかで手首を引っ張られる感じがしたのも、このせいだったのだ。夢を見ながら身じろぎすると、手首が手錠に引っ張られていた。そのせいだったのだ。
頭のてっぺんから爪先まで、全身の血が音を立てて引いて行くような気がした。その音が聞こえるようだった。これは何? どういうこと? いったい何が起こってるっていうのよ?
千秋は口を開き、叫ぼうとした。が、かすれた「うひゃあ」というような声しか出せなかった。が、まるでそれを聞きつけそれに反応するかのように、どこかでまたどすん! と音が響いた。千秋は縮みあがった。
窓の左手の壁に、ドアがある。この部屋の出入りに使われるドアに違いない。どすんという響きは、そのドアの向こう側から聞こえてくる。近くではない。なんか──頭の上の方から響いてくるような感じもする。
このベッドから手錠をはずすことができるなら、逃げ出せる。千秋は闇雲にベッドを押したり引いたり持ち上げたりしようとした。ベッドは安物のパイプベッドで、一見、千秋の力でもちょっと動かすくらいのことならできそうな感じがした。が、必死の思いでジタバタしても、ピクリとも動かず、一ミリも持ち上がらない。はあはあ言いながらよく見ると、ベッドの脚は床にネジ留めされているのだった。
千秋は泣き声をあげた。するとまた、どこか外の上の方でどすんと何かが響いた。千秋は脅え、頭を抱えてうずくまった。
そのとき、ドアが開いた。千秋の目に、開いたドアのあいだから室内に踏み込んでくる、二本の脚が見えた。清潔そうな白いスニーカーをはいた、男の足先が見えた。
千秋は目を上げた。
「やあ」と、その男は言った。「目が覚めたんだな」
その声が、千秋の記憶を呼び起こした。感じのいい青年──カメラマン。中村健二。新宿のパーラー。そして彼の車。
「あんた……」
ぶるぶるとくちびるを震わせながら、千秋は声を出した。
「あたしのこと、騙したんだ! ウソついてこんなとこに連れこんだんだ!」
彼はニヤニヤ笑っている。手ぶらで、ドアを背にして、ライトブルーのシャツに白い綿のズボン。千秋はこんなふうにつながれて汗をかき、髪は乱れ下着姿だというのに、なんてこざっぱりしているんだろう。そして、なんであんなに面白そうにニヤニヤ笑いをすることができるんだろう。
「自己紹介しておくけど、俺、中村健二なんて名前じゃなくて、栗橋浩美っていうんだよ」
男はゆっくりと千秋に近づいてきた。千秋はベッドを背にし、床に尻をつけたまま可能な限り後ずさりをした。
「近寄らないでよ!」
「べつに、何をしようってわけじゃないよ」
栗橋浩美は笑って千秋を見おろした。
「自惚《う ぬ ぼ》れんじゃないよ、おネエちゃん。汗くさいし汚いし、ふた目と見られないようなカッコだぜ」
千秋は目の前が真っ暗になり、めまいを感じた。栗橋浩美の言うとおりの有り様で、獣のようにうずくまっている自分がひどく恥ずかしい。だが、もともと誰のせいでこんな目に遭わされてるんだ? あたしが何をしたっていうんだ? 何なんだ、この男は?
栗橋浩美は床にしゃがみ込むと、千秋と同じ目の高さになった。
「あたしは何もしてないのに、なんでこんな目に遭わされなきゃならないの? そう思ってるだろ?」
にっこり笑うと、白い歯がのぞいた。
「だけど、君はもの凄く悪いことをしたんだよ、日高千秋さん」
栗橋浩美は立ち上がると、ベッドの足元のテレビのスイッチをひねった。画面が揺れ、ドラマか何かのワンシーンが映った。栗橋浩美はチャンネルを替えた。すると、ニュース番組──いや違う、これはワイドショウだ。ワイドショウのスタジオが映った。
「これこれ、ちょうどやってる」
栗橋浩美は、千秋が画面を見ることができるように、テレビの前を離れた。司会のアナウンサーが、現場中継のレポーターと話をしている。レポーターが立っているのは──立っているのは──
新宿西口のプラザホテルの前だ。
どうやら事件現場からの生中継であるらしい。だけど、何の事件だっていうの?
千秋の身体に、冷たい物を押しつけられたかのようなおののきが走った。もしかして、あたしのこと? あたしが騙されて連れてこられてこうして監禁されてることが、あたしの行方不明が、もう事件になって騒がれてるってこと?
だけどそうだとすれば、みんながあたしを探してるってことにもなる。冷たいおののきは、希望の動昨へと変わった。千秋はテレビから目を転じ、栗橋浩美と名乗った、顔は知っているけれど正体の判らない男を見あげた。
栗橋浩美はまだニヤニヤ笑いを浮かべたままだ。動じている様子はない。そして千秋の内心の感情を見抜いたみたいに、からかうような口振りで言った。
「お気の毒だけど、あの連中は君が行方不明になってるのを心配して騒いでるわけじゃないよ。君も、もっと他人の話を注意深く聞くクセをつけなきゃ駄目だね。さっき俺、なんて言った? 君はすごく悪いことをしたって言ったろ?」
ワイドショウの画面では、沈鬱な表情のアナウンサーが現場レポーターに呼びかける。
「犯人からのメッセージを届けてきた女子高生の身元に関する手がかりはまだつかめないのでしょうか?」
レポーターは首を振る。「残念ながら、まだつかめておりません」
「このような残酷な仕打ちに、女子高生が関わっているというのは衝撃的なことですね」
「まったくです。共犯者であるのか、あるいはまったく何も知らずに利用されているのか、現段階では決めつけることはできませんが」
「いずれにせよ、古川鞠子さんの安否を確かめ、もしも犯人の元にまだ監禁されているならば、一刻も早く救出することが望まれるわけですが」
千秋には、何が何だか判らなかった。残酷な仕打ち? 女子高生が関わってる? 犯人からのメッセージを届けた? どういうことよ? 古川鞠子? それ誰? 誰のこと? 千秋は叫びだしたくなった。助け出されなくちゃならないのはあたしなんだ!
「おバカさん。新聞も読まなきゃテレビも観ない。ニュースには無関心か」
偉そうに腕組みをすると、栗橋浩美はちょっと顔を横にそむけて吐き捨てた。
「日高千秋さん、墨田区の大川公園て場所で、女の切断された右腕が発見されたってニュース、知らないんだね? 古川鞠子という行方不明の女性のことも、何も知らないんだね?」
唖然と口を開けたまま、千秋は男の目を見つめた。今やそこには嘘も詐術もなく、ただ純粋な軽蔑の色だけが浮かんでいる。まるで憎むべき仇敵《きゅうてき》を睨みつけるように、その視線を千秋の顔の上に据えたまま、栗橋浩美は今ワイドショウが報道している事件について、そこで千秋の果たした役割について、彼女がプラザホテルに届けたメッセージの正体について、きびきびと説明をした。
話を聞くうちに、千秋は思い出した。大川公園の事件──そうだ、ママが何か言っていた。こんな怖い事件も起こってるんだし、夜遊びはやめなさいとか何とか。男の人は怖いのよとか、そんなふうなことも言っていた。
あのときあたし、なんて答えたろう? 千秋は自問した。ママになんて言って口答えしたろう?
──あたしは男に殺されるほどバカじゃないわよ。
そう言ったのだった。
千秋の目に涙がにじんできた。くちびるの両端がひくひくと引きつり、とぎれとぎれの言葉がこぼれ出た。
「うち、に、帰りたい。ママに、会いたい」
栗橋浩美は爆笑した。
「うちに帰ったって、パパもママも仕事が忙しくて、誰も居ないんだろ? お手伝いさんのつくった食事が冷蔵庫に入ってるだけなんだろ?」
大笑いしながら、彼は部屋を出ていった。千秋の泣き声を断ち切ろうとするかのように、後ろ手に激しい音を立ててドアを閉めた。
その後はしばらく、放っておかれた。
千秋はずっと、点けっぱなしのテレビと一緒に時を過ごした。リモコンも見当たらないし、手首がベッドに手錠でつなぎ止められたままなので、テレビのそばへ近寄って本体のスイッチを切ることもできなかったのだ。
ただ、そのおかげで時間の経過を知ることはできた。腕時計は取り上げられていたし、監禁されている部屋には時計がなかったので、他には時刻を知る術がなかった。
意識を取り戻した直後に見せられたワイドショウは、午前中の番組だった。その後、同じチャンネルでニュースを観て、正午の娯楽番組を観て、五分間の料理番組を観て、そしてまたワイドショウが始まった。プラザホテルの一件は、どの番組でも第一の話題として取り上げられていた。
報道されている事実を繰り返し確認していくと、さすがの千秋にも、自分の置かれている立場の危うさが呑み込めるようになってきた。今はまだ、世間の人びとは、千秋が大川公園事件の犯人の共犯者なのか、それとも利用されただけの無垢《 む く 》の第三者なのか決めかねている。が、心情的には「共犯者」だと思いたがっているような節がある。昨今の跳ねっ返りの女子高生たちだったら「何をやらかしたって不思議じゃない」という思いこみがあるからだろうし、またそうであった方が事件がより衝撃の度合いを増すからでもあろう。
つまり、外の社会の安全な場所と、千秋は今、二重に隔てられてしまっているのだ。ひとつには、女性を誘拐して殺して遺体を切断するような犯人の共犯者であるかもしれないという疑いをかけられている。もうひとつには、社会が認識しているのはあくまでも「謎の女子高生」であって、それはまだ「日高千秋」という個人ではないということだ。まだ「日高千秋」の身を案じて探している人間は、どこにもいないということになる。
ママは探してくれてるだろうか。昨夜ひと晩帰ってないんだもの……。だけど、外泊なんて、あたしはしょっちゅうやっていた。だからママも、たったひと晩あたしが帰らなかったぐらいじゃ、まだ心配してないかもしれない。今日一日ぐらい、様子を見ようとするかもしれない。
ほったらかしにされて、お腹も空いたし、喉も渇いた。まともに日差しの差し込む部屋にいるせいで、ずっと汗だくだ。おかげでトイレの欲求は遠のいていたが、さすがに午後三時を過ぎるころになると、我慢ができなくなってきた。
それまでにも何度か声をあげて、誰にともなく呼びかけてはいた。「ここから出して」とか。「誰もいないの?」とか。だが返事はなかった。一方で、テレビは際限なくおしゃべりを続けている。大川公園事件と、プラザホテルのメッセージの件について報道してくれているうちはまだよかった。一時間も経つと、番組内で別のコーナーが始まって、「こだわりの手作りケーキのお店巡り」とか「秋の色合いを楽しむファッションのひと工夫」とか、平和な画面が映し出されるようになった。これが辛かった。すぐ手の届く場所に安全と平和が在るように見えるのに、それはあくまで「見える」だけで、千秋の現況は何も変わらないのだ。テレビって、何て残酷なオモチャなんだろう。
日高千秋がもう少し想像力のある娘であるならば、栗橋浩美はまさにこの効果を狙ってテレビを点けっぱなしにしているのだ──と気づいたことだろう彼女の孤立感を募らせ、飢えや渇きをより切実なものとするために、実態のない「情報」ばかりを投げ与えてやる。ソフトではあるけれど、これも一種の拷問《ごうもん》なのだと、悟ったかもしれない。もっとも、悟ったところでどうなるものでもなかったが。
四時近くになるころには、トイレに行きたくて行きたくて、じっとしていられないほどになってきた。手錠に引っ張られて立ち上がることもできないので、足踏みする代わりに床に尻をおろしたまま両足をじたばたさせてなんとか我慢した。脂汗が浮いてきた。
「お願い! トイレに行きたいよ! ここから出して!」
腹の底から大きな声を出すのは、案外難しいものだ。とりわけこんなに空腹では。それでも、苦痛にせかされて何度も何度も呼びかけた。そうしているうちに、バカみたいなことにハッと気づいた。なんであたし、窓の方に向かって叫ばないんだろう?
「助けてぇ! 誰かここから出してぇ!」
何度も何度も、全身の力を振り絞るようにして叫んでみた。聞きつけてくれる人がいるかもしれない。あの男は、千秋をここにつなぎっぱなしにして出かけてしまったのかもしれない。
喉が痛くなってきた。唾も出ない。生理的な欲求も分刻みで強くなる。喉はカラカラなのに涙はにじむ。
そのうちに、ドアの向こうに足音が聞こえてきた。千秋は身構えて耳を澄ませた。階段をのぼってくるような感じの足音だ。ここは二階なんだろうか?
ドアが開いて、栗橋浩美の顔がのぞいた。ムッとしていた。
「うるさいなあ」
どうやら眠っていたらしい。髪が寝乱れてボサボサだ。まぶたが腫れぼったい。
千秋は這うようにして彼に近づこうとした。手首が引っ張られて抜けそうなほど痛かった。が、ほかの苦痛の方が大きくて、それどころではなかった。
「お願い、トイレに行かせて」
栗橋浩美はぱちぱちとまばたきをした。そしてぼんやりとテレビの方に目をやった。ワイドショウは終わり、ドラマの再放送が始まっている。
「なんだ、もうこんな時間か」
「お願い!」
懇願する千秋を、眠そうな目で見おろす。
「君って本当に救い難いバカだったんだな」
「お願いよおトイレ──」
「俺たちが君に猿ぐつわとかかませないで放っておくのは、ここがさ、ちょっとぐらい大きな声を出したって誰にも聞こえないようなへんぴな場所だからだってこと、判ってなかったんだな? 最初のうち静かにしてたのは、判ってるからだと思ってたのに」
「トイレに行きたい!」
「今になって、何が『タスケテ』だよ。誰にも聞こえやしないって、判ったろ?」
千秋は声をたてて泣き出した。もう一分でも我慢できそうにない。
栗橋浩美はズボンのポケットをごそごそと探ると、小さな鍵を取り出した。その鍵で、千秋をベッドにくくりつけている手錠をはずすと、千秋の両手首へとかけなおした。
「トイレは廊下の突き当たりだよ」
そう言って、ドアの方へ顎をしゃくった。
急ぐあまりに脚をもつれさせながら、千秋は部崖から飛び出した。
──夜。
千秋はまた手錠でベッドの脚につながれている。
お腹が空き過ぎてめまいがする。時々キリキリと胃が痛む。陽が落ちてから室温が下がり始め、今ではもう汗ばんではいないが、顔は脂ぎっている。床にへたりこんでベッドに頭をもたせかけ、うつらうつらとしているだけで、もう大きな声を出すこともできない。
あわててトイレに駆け込んだとき、下着を汚してしまった。手錠のせいで、うまく脱ぐことができなかったのだ。自分で自分の身体の臭いを感じることができる。惨めでおぞましくて、気力が失《う》せてゆく。
千秋がトイレを使い終えると、栗橋浩美は無愛想に近寄ってきて、彼女の首ったまをつかまえるようにしてこの部屋に引き戻した。だから千秋には、短い廊下と、廊下を隔てて向き合っているドアと、廊下のとっつきに頑丈そうな手すりのついた階段があることぐらいしか見てとることができなかった。
それでも、建物の雰囲気からして、ここはやはり別荘のようなところであるらしいと判断した。栗橋浩美の「へんぴな場所」という言葉に、大きな嘘はなさそうだ。実際、彼の言うとおり、周囲に人家や人通りがあったら、千秋をこんなふうに閉じこめるだけで放置しておくことはできないだろう。
──だけど、なんのために?
彼はなぜ、千秋を閉じこめているのだろう。目的は何なのだろう。身体が目当てなのだろうか。
──それなら、好きなようにさせてあげれば逃げられるかも。
命綱のようにその考えにしがみついて、さっきから繰り返し繰り返し吟味している。脅しつけられるよりも、バカにされるよりも、ただ放っておかれる方が不安で恐ろしい。
目を閉じると、母親の顔が浮かんだ。心配している。泣き出しそうだ。千秋、どうしてママの言うことがきけないの? と訴えるときの、いつもの顔だ。見るたびに鬱陶《うっとう》しくて、お金だけ残して早く死んでくれないかと思ったこともあった。だけど今は、ママのあの顔が見たい。
──うちへ帰りたい。ううん、帰るんだ。きっと帰るんだ。
自分で自分にそう言い聞かせたとき、再びドアが開いた。
栗橋浩美が部屋に入ってくる。風呂にでも入ったのかこざっぱりした顔をして、服も着替えている。白いシャツに、ゆったりとしたカーキ色のパンツだ。淡いミントの匂いがする。ローションだろうか。
「臭いな」
あからさまに嫌な顔をして、彼は千秋にそう言った。千秋は身を縮めた。見ると、栗橋浩美は片手にタオルを持ち、小脇に道路地図をはさんでいる。表紙を見ると、都内の地図のようだった。
千秋の視線に気づいて、彼はタオルを持ち上げた。「これ? 別に君の首を絞めるわけじゃないよ」
笑みもなく、犬の糞でも見るように千秋を鼻先に見て、
「うちに帰してあげる。だけど、ここの場所を知られるとまずいからね。目隠しするんだ」
千秋は目を見張り、思わず立ち上がりかけて手錠が手首に食い込んだ。
「ホント? ホントにうちに帰れるの?」
「帰してやるよ。もう君には用がないもの」
「ホントね? あたし、何も言わないから。あんたのこと誰にもしゃべらないから」
「しゃべるネタもないだろ?」
彼は笑って千秋に近づいた。手錠をベッドの脚からはずし、また千秋の両手首にかけなおす。
「でもその前に、手順を踏まないとね。どっちが先がいい? シャワーと食事。好きな順番を選びなよ」
千秋は目が回りそうになった。シャワー? 食事? 食べ物?
「あ、あたし──」
急いで答えなければ。でも、いきなりこんなことを言い出すなんて、ただ千秋をいたぶっているだけかもしれない。好きな順番を選べなんて言ってるけど、どちらかひとつを選んだら、もうひとつは与えてくれないかも。いいえ、どちらも口先だけなのかも。家に帰してくれるということだって。
「返事がないね。要らないの? どっちも必要ないのかい?」
千秋は叫んだ。「何か食べさせて!」
栗橋浩美はニヤニヤ笑いだけを残し、足早に部屋を出ていった。ドアは開いている。千秋は手錠をかけられているが、とりあえず足は自由だ。歩ける。逃げられる。今なら。
だけど、動けない。下手なことをして、せっかく彼が軟化しているというのに、台無しにするのは怖い。うちに帰してくれるって言ってるじゃないか。
でも、もしかしたら嘘かもしれない。まったくの嘘かもしれない。だったら今がチャンスだ。今がホントにただ一度のチャンスかもしれない──
もしも千秋がもっと冷静に頭を働かせることができたならば、今のこの状況設定も、彼女をいたぶるためのものだとわかったろう。逃げようか逃げまいか、千秋が迷って苦しむことを百も承知の上で、栗橋浩美はドアを開けっ放しで出ていったのだと。
五分ほどで、栗橋浩美は戻ってきた。ファーストフード店の紙袋をさげている。
「ほら、食べなよ」
紙袋のなかにはハンバーガーとコーラが入っていた。ハンバーガーは冷え切って堅くなっており、コーラは氷が溶けて水っぽくなっている。それでも千秋はむさぼるように食べた。最初のうちは、ずっと空っぽだった胃が食べ物を受け付けず、何度かもどしそうになったけれど、吐き気さえ呑み込むようにして、パンくずひとつ残さずに食べきった。
栗橋浩美はドアにもたれて、千秋の様子を満足げに眺めていた。それから言った。
「じゃ、次はシャワーかな」
彼は千秋の手錠をつかんで、まるで犬を散歩させるようにして連れ出した。千秋は、監禁されている部屋から廊下に出た。長い廊下で、今出てきたドアの反対側には腰高窓がある。残念ながら雨戸が閉めきってあって、外の様子はまったく見えないけれど、ここが木造のロッジ風の建物の内部であることははっきりした。
左右を見回すと、廊下の右手には階段があった。太い丸木の手すりが見える。栗橋浩美は千秋を左に誘導した。突き当たりに、ドアではなく、簾《すだれ》のようなスクリーンが下がっている入口があって、その奥がシャワー付きの洗面所になっているのだった。ビニールシート張りの床の上に、脱衣籠がひとつ、放り出されたように置かれている。なかに新品のバスタオルが入っていた。
「さ、どうぞ」栗橋浩美は、シャワーボックスの折り戸を押して、千秋を促した。ボックスの壁の棚に、シャンプーとボディシャンプーのボトルが乗せてある。
「しばらく使ってないから、埃っぽいかもしれないけど、この際そんなことは気にならないよな?」
もちろん、気にならなかった。シャワーボックスのそこここにこびりついている黒カビも、湯垢に汚れた床も、湯の勢いがなくてしょぼしょぼしていることも、まったく気にならなかった。汚れた下着をはぎ取るように脱ぎ捨てて、無防備な裸体をさらし、お湯の下に立ってしばらく経つまでは、ひょっとしたらこの場で襲われるかもしれないという考えさえ、頭をかすめなかった。だって、どうして今さら襲うわけがある? チャンスなら、いつでもあった。
それでも、いったんその考えが浮かぶと、そわそわと心が波立って、ゆっくりとお湯の感触を味わう余裕はなくなった。大急ぎで髪からシャンプーを洗い流して、そろそろと折り戸を開け、バスタオルをひったくるように取って、身体に巻きつけた。
脱衣所に出てみると、一杯に引き下げた簾のようなスクリーンの下に、栗橋浩美の爪先がのぞいていた。廊下で待っているのだ。鼻歌をうたっている。千秋の知らない歌だ。
「あがったの?」
上機嫌という感じで、彼は呼びかけてきた。
「じゃ、これ。着替えだよ」
スクリーンをあげて、栗橋浩美はひと包みの衣類を差し出した。千秋の制服だった。きちんと畳んであって、しわひとつない。さらには新品の下着と靴下。
「これ──もらっていいの?」
「いいとも」栗橋浩美は笑った。「せっかく身体を洗ったのに、また汚い下着をつけたんじゃ台無しじゃない?」
千秋は手早く身体を拭き、衣類を着込んだ。制服に包まれると、不用意に涙が出そうになった。着馴れた感触が、さっきまでの理不尽な状況からようやく脱出できることの、確かな証のように思えたからだ。
千秋が脱衣場から出ると、栗橋浩美はまだ鼻歌をうたっていた。歌いながらまた手錠をかけた。制服と手錠という新しい組み合わせ。まだ自由になったわけではない。安心しきるのはまだ早い。千秋の心は、パンチングボールのように激しく揺れた。自分でも、今心がどちらへ向かっているのかわからないほどだ。安全? 危険? 安堵? 警戒?
「ドライヤーがないから、髪は自然に乾くのを待ってもらわなきゃならないけど」
ちらっと千秋の濡れた髪に手をやって、彼は言った。
「ま、その方が髪が傷まなくていいな」
さっきまでの部屋に引き戻される。このまま階段を降りて、外に出られるわけではなかったのだ。まだ危険、危険。そうなの?
「ベッドに腰かけて」
千秋は言われたとおりにした。
「君の住所は生徒手帳を見て判ったんだけど、まさか家の前へ連れていくわけにいかないからさ。近くで車から降ろしてやるよ。どこか、夜は人目のない場所で、できれば公園かなんかがいいな。適当な場所を教えてよ」
栗橋浩美はズボンの尻ポケットから地図を取り出し、千秋の前に広げて見せた。コピーだが、三鷹市の、千秋が住む町のあたりの詳細な地図だ。では、本当に帰れるのだ。帰してくれるのだ。
「どこでもいいよ、車から降ろしてくれれば、あたし独りで歩いて帰るもの」
「そうはいかない。君を車から降ろすところを誰かに見られるような危険をおかすことはできないからね。知らない町をウロウロ走り回るのも御免だ」
それもそうかもしれない。千秋は必死で頭を働かせた。下手に逆らって、栗橋浩美の気が変わってしまってはいけない。
「公園なら、すぐ近くにあるよ」
「広いか?」
「わりと広いの。児童公園だけど、植込みとかいろいろあって──」
「場所は?」
千秋は地図を見た。公園の場所は、すぐに確認できた。指さして教えた。
「ふぅん……ここか」
そのとき、千秋はふと思い出した。
「そういえば、ここに、象の形をした面白い滑り台があるの。小ちゃいとき、よくママに連れてってもらって遊んだの」
なんでこんなこと思い出したんだろう。ママが恋しいなんて思ったせいだろうか。自分でも不思議だった。そういう自分が愛しく思えた。
「へえ、それはいいね」栗橋浩美が、妙に明るい声をだした。「実にいいね。ぴったりだ」
彼のその反応に、ごく客観的に見ればおかしなことではあるが、千秋はとても嬉しくなってしまった。誉められたような気がしたのだ。そして誉められることは、今の場合、そのまま千秋の命の保証がいっそう確実なものになったことを意味する──少なくとも、千秋はそう考えていた。だから、この男に気に入られ続けなければならない。
「あたし、その象さんの滑り台がとっても好きでね、名前までつけてたの。ピピネラっていうの」
「変な名前だな」
栗橋浩美は、千秋の指し示した児童公園の場所を確かめるように地図を検分しながら、あっさりと言い捨てた。彼のお気に召さなかったのかと、千秋はあわてて説明を加えた。
「ピピネラって、あたしが勝手にでっちあげた名前じゃないのよ。あなた、『ドリトル先生の不思議な旅』っていう童話、知らない? 動物と話のできるドリトル先生っていうお医者さんの話。そのなかに、カナリアのオペラ歌手のピピネラっていうのが出てくるの。あたしそのピピネラがとっても好きだったもんだから、大好きな象さんにも同じ名前をつけたってわけ」
「俺は嫌いだな。とにかくヘンな名前だよ」
栗橋浩美は、用は済んだとばかりにばたんと音をたてて地図を閉じた。そして手のなかのタオルを握り直すと、まるでその丈夫さを確認するかのようにしゅっとしごいてみてから、千秋を見た。
千秋は縮みあがった。栗橋浩美のその動作が、これからタオルで目隠しをしようというよりは、千秋の首を絞めようとしているかのように見えたからだ。
彼はにやりと笑った。「なんでそんなにビクビクするの?」
近づいてきて、千秋の首にぽんとタオルを巻いた。「こうやって、俺が君の首を絞めるとでも思う?」
千秋は心も身体も縮かんでしまい、緊張のあまり首筋が引きつって、鋭い痛みが走るのを感じた。ここでヘンなことを言ってはいけない、この男の機嫌を損ねてはいけない、こいつはこういうゲームが好きなのだ、だから相手をしてあげなくてはいけないのだ。だけれど、気の利いた返事をしようと一生懸命に考えても、何も浮かんでこない。
今までに何度となく、金持ちの中年オヤジを幻惑する方法を考えたり、テレクラを通じて出会った大学生風の青年の自己紹介のどこからが真実でどこまでが彼の夢想混じりのウソなのかを見分けたりするために、千秋はこの小さな可愛い頭をフル回転させてきた。そういうときには、この愛らしい頭の内側に住んでいる「日高千秋の知性」は、本当に判断が的確で頼りになったのだ。
だが、今の千秋の頭の内側には誰も、何もいないようだった。この危難に恐れをなして、千秋の本体である身体を置いてきぼりに、さっさと逃げ出してしまったみたいだった。
千秋の両目から、涙があふれ出した。首に巻かれたタオルの感触は、どんな想像のなかのそれよりもリアルだった。言葉など出てこなかった。
栗橋浩美は笑い出した。そして千秋の首からタオルを取り外した。
「バカだなあ。君って案外臆病なんだね? テレクラ遊びをするくらいだから、もっともっと勇敢なんだと思ってたよ」
彼はひょいと千秋の隣に腰をおろした。ベッドが彼の体重でぎゅうときしんだ。そして、つかの間まるで照れてでもいるみたいに下を向いてから、千秋の肩に腕を回した。
千秋はまたびくりとして身体をすくませた。栗橋浩美の二の腕の裏側が、彼女のうなじに触れていた。妙に汗ばんだ、そのくせ冷たい皮膚の感触だった。
「さっきから言ってるだろ? 君は無事に家に帰れるって。俺の言うこと、信じてよ」
千秋は手の甲で涙をぬぐった。口が酸素不足の金魚みたいにぱくぱくした。空っぽの頭のなかを家捜しするようにして言葉を探した。
「……殺さないで」
やっと、そう呟いた。こんなふうに懇願するのは、中学二年生のとき、彼女を捨てて隣のクラスの女の子と付き合うと宣言したボーイフレンドの家に、夜中に電話をかけたとき以来だと、ふと思い出した。そして、どうか考え直してほしいというその懇願は、結局受け入れられなかったということも。
「誰も君を殺しやしないよ。君って、俺の言うこと聞いてないのかな。この電話は不通なの? もしもし? もしもーし?」
栗橋浩美はふざけて、千秋の耳を電話の受話器に見立てた。彼の呼気がまともに耳と頬にかかり、千秋は胸が悪くなった。
「どうしてそんなに怖がるの? 男が怖いわけないだろ? それにさ、俺って、君の好みのタイプだったんじゃない? パーラーで会ってるときは、俺、そう確信してたんだけどな」
栗橋浩美は、恋人の耳に囁きかけるようにして、千秋の耳に囁いた。この場面だけを切り取って、何も知らない人に見せたならば、若い男が年下の恋人を宥めようとしているところだ、と解釈されるだろう。
実際、千秋には、栗橋浩美がまるで場違いな態度をとっているようにしか感じられなかった。この人はあたしを騙してここへ連れてきて、まる一日手錠でつなぎっぱなしにして、しかも自分が他にも女の人たちを誘拐したり殺したりした犯人であることを匂わせておいて、その後で、最初にあたしに接近してきたときみたいなムードをもう一度作り直そうとしてる。そして千秋が、命惜しさに懸命に彼に調子をあわせると、わざと意地悪なことをする。それで千秋が泣くと、また甘い恋人もどきに戻る。
なんでこんなことするのよ? 口に出さないまでも、もう何十回問いかけたかわからない。何が目的なのよ? だけどそう問いかけるのは怖い。目的は君を殺すことだと答えられたら怖い。だから、代わりにこう言った。
「あたしとしたいなら、していいから。なんでもしてあげるから、いじめないで」
しゃくりあげながら必死で口にした言葉だったけれど、栗橋浩美は失笑しただけだった。
「俺、少女趣味はないんだよな」
日高千秋には、栗橋浩美が、単にこういうことを──千秋の感情を左右して遊ぶことを──したいからしているのだということが理解できないのだった。過去に千秋の接してきた男たちは、おじさんでもおじさまでも青年でもあんちゃんでも男の子でも、みんな最終的には少女の肉体が目当てだった。そこにちょっぴり恋愛気分や、パトロン気分が混じっているのも面白いが、それ抜きでも、千秋の使い減りしていない新鮮な身体にありつければ、元はとれたと思う男たちばかりだった。非常に明快で判り易かった。千秋だけでなく、テレクラや路上での交渉を通して簡単に大人の男たちと寝る少女たちにとって、肝心なのはこの明快さなのだった。金と身体を物々交換して、きちんと割り切れる。だから安心していられるのだ。男たちは、少女たちが市場に出していない商品まで売れと迫ってくることはない。店先を通過して彼女たちの私室にまで踏み込み、そこにしまってある日記帳を寄越せと要求はしない。
だが、栗橋浩美がやっていることは、まさにそれだった。千秋の内側に入り込もうとしていた。それも千秋の命を挺子《 て こ 》にして。彼女の感情を揺すぶって、オモチャにしていた。
それは千秋が一度も値をつけたことのないものだった。こんなものに値がつくなどと、想像したことさえなかった。逆に言えば、私室にしまいこんでいるものにこそ最も高い値がつくのだということを、無意識のうちにでも学んだり教えられたりしている少女ならば、身体だけ切り売りすることなどできないはずなのだから。
「いじめないで、か」
栗橋浩美は呟くと、千秋を抱き寄せた。千秋は棒を呑んだように突っ張ったまま、彼の顎の下あたりに額を押しつける格好になった。自分のものか、彼のものか判然としない汗の臭いが、ぷんと鼻をついた。
「そういえば君、一度も訊かないね。俺が大川公園事件の犯人かどうかってこと」
千秋は黙って鼻をすすった。そんなこと訊かなくたって判りきってるじゃないと、心のどこかで何かがわめいていた。が、千秋の全身を覆うあまりにも濃い恐怖の壁に邪魔されて、そんな気丈な反応は表面に出てこなかった。
「どうしてあんなことをしたのかってことも、訊かないよな」と、栗橋浩美は続けた。「右腕を切ってゴミ箱に捨てる──誘拐した女の所持品だったハンドバッグもこれみよがしに置いてくる──」
彼の手が、千秋の髪を撫でた。
「いろんな点で、ふたりの女たちは君とは違ってた。似たようなところもあったけど、違ってる部分の方が多かったかな」
ふたり──こともなげに栗橋浩美はそう言った。ひとりは古川鞠子で、もうひとりは右腕しか出ていない遺体の主のことだろう。一日中ワイドショウとニュース番組ばかり見せられていた千秋は、こんなことになる以前よりも、はるかに大川公園事件について詳しくなっていた。だから、今の時点ではまだ、警察や世間の人びとが、あの右腕が古川鞠子のものであるかどうか判断しかねているということも知っていた。別人のものであるという可能性は高いが、断定はできない──と。
しかし今、栗橋浩美は「ふたり」と言った。古川鞠子とあの右腕の女性は別人なのだ。彼はふたりを殺している。被害者はふたりいる。そのことをちゃんと知って把握しているのは、日本中でこの日高千秋だけ──
いや、それだけじゃない。被害者は他にもいるのかもしれない。ぞっとする推測が、千秋の脳裏をかすめた。
「古川鞠子さんて人は、やっぱり死んでるの?」
小さな声で、千秋は訊いた。栗橋浩美はそっぽを向いたまま低く笑った。
「なんでそんなことを訊くんだ? なんでそんな訊き方をするんだ? なんで、あんたが殺したのかと訊かないんだ?」
笑うと、彼の体格の割に薄い胸が震えた。
「そうだよ、殺したよ、古川鞠子を」
栗橋浩美はますます強く千秋を抱きすくめ、千秋には彼の心臓の鼓動を感じることさえできた。彼は少し、どきどきしていた。彼の鼓動が跳ね上がっている方が、まるっきり冷静でいるよりも望ましいことなのかどうか、千秋には判らなかった。
「生意気な女だった」と、栗橋浩美は単調な声で続けた。「君みたいに可愛くなかった。泣いたりすがったりしないんだ。俺に向かって、あんたのやってることは間違ってるなんて、説教垂れたりしたな」
フンと鼻を鳴らした。笑ったのではなさそうだった。
「こんなことをしたって何の意味もないのにとか、俺のことを人間のクズだとか言ったよ。自分は不倫相手を選んで家庭を捨てた父親をよく見てきたから、男に幻想を抱いてはいないって。ただ、あんたみたいなのは男の内にも入らない、とも言った。よく言うぜ」
言外に、だから古川鞠子には、彼が男であることをたっぷりと教え込んでやったと言わんばかりの口調になっていた。千秋は緊張して沈黙を守った。なんでもしてあげる、好きなようにしていいから殺さないでという懇願は、この男には通じるはずもないのだと初めて悟った。
「もうひとりの方は……あの右腕だけの人は……どこの誰?」
千秋の小さな問いに、栗橋浩美は鋭く応じた。「そんなことを聞き出して、家に帰ったらママに話して、一緒に警察に駆け込もうってか?」
「そんな、そんなことしない! 絶対しない!」
千秋は激しく首を振りながら、栗橋浩美から離れようと抗《あらが》った。しかし彼の腕は千秋をがっちりとからめとっており、ますます強く、ぴったりと抱きしめられただけだった。千秋の鼻が、栗橋浩美の堅い喉仏に当たった。鼻が潰れそうで痛かった。しかし彼は力を弱めず、千秋の鼻の軟骨がゴリゴリいう感触を楽しんでいるかのように、さらに力を強めていった。千秋は息ができなくなり、口で呼吸をした。はあはあいった。
出し抜けに、栗橋浩美は彼女を解放した。突き飛ばすような勢いで、千秋ははずみでベッドから落ちそうになった。
「売女め」と、彼は不機嫌そうに言い捨てた。「さあ、遊びは終わりだ。君は家に帰るんだ。それで、世間の物笑いのたねになるんだ。判ってるのか? 君は俺たちに協力したことで、みんなから後ろ指さされて暮らすんだぞ。人生丸ごと台無しだ。売春婦の女子高生、それが判ってるのか? それでも帰りたいのか?」
「帰りたい」千秋に迷いはなかった。死にたくなかった。「うちに帰して。帰してくれるって言ったよね?」
栗橋浩美は千秋を見おろし、汚いものでも拾い上げるようにして手をつかみ、立ち上がらせた。
「後ろを向け。目隠しするからね」
今度こそ、タオルが顔に巻かれた。視界が真っ暗になった。
栗橋浩美が彼女の手を引いた。「こっちへ来るんだ。足元に気をつけて」
ふたりでドアを出た。千秋は興奮と恐怖と希望で目が回りそうだった。本当にここから出られる? 生きて帰れる? ホントに? 本当に? 殺されずに済む?
廊下に出た。今出てきたドアが閉まる音がした。千秋が方向感覚を失って突っ立っていると、栗橋浩美が背中を押した。千秋は押された方向へと足を踏み出した。確かこの先には階段があるように思えた。だから自然に慎重な歩き方になった。
「ちょっと待った。止まって」栗橋浩美が背後から千秋の両肩をつかんだ。「階段だ」
記憶に間違いはなかった。ここから階下に降りるのだ。千秋は両腕で身体を抱き、震えを止めようとした。
そのとき、足元の方から別の声が聞こえてきた。陽気で明るい、若い男の声だった。
「どうだい? 面白かった?」
千秋は仰天した。今の今まで、栗橋浩美が独りではないなどと想像したこともなかったからだ。
「割と良かったかな」と、栗橋浩美が千秋の頭越しに答えた。「今時の女子高生の顔を、よく見ることができたからね」
「……顔は可愛い子みたいだね」と、足元からの声が言った。この第二の男は階段の下にいるのだと、千秋は察した。階段の下にいて、千秋たちを見あげているのだ。
──だけど、なんのために?
「被害者には、梯子や階段を見せちゃいけないそうなんだ。見たら、絶対にのぼったり近づいたりしないから」と、階下の若い男の声が続けた。口調からして、どうやら千秋に向かって説明しているようだった。
「だから目隠しも必要なんだとさ」と、栗橋浩美が言った。「それに、君だって見えない方が怖くなくていいだろ?」
千秋の心臓がよじれて、胸の内で縮まった。全身にどっと冷や汗が流れた。なんだこの話は? 何が「怖くなくていい」んだ?
「あたし、うちに帰れるんでしょ?」
機嫌をとるように、精一杯穏やかな声でそう訊いてみた。栗橋浩美がいるだろう方向の、目隠しのなかの闇に向かって。
階下の声が言った。「さんざん大きな音をたてて実験してたの、気づかなかったかい?」
大きな音──どすん! どすん! というあの音のことか?
「布団を縛って落として実験したんだけど、さて本番は上手くいくかなぁ」
「何の実験──」
まだ下手《した て 》に出て、必死に無邪気なふりをして尋ねようとした千秋の声が途切れ、けたたましい悲鳴へと変わった。首に何かが引っかけられる──これはタオルじゃない──
「ホントに無事に帰れると思ったのか?」
そう言いながら、栗橋浩美は日高千秋の首に、先端を輪にした荷造り用のロープをかけた。ロープの反対側の端は天井の梁《はり》に結びつけてある。階段を利用した、彼ら手製の簡易絞首台だった。
日高千秋の口が悲鳴を吐き出し切る前に、栗橋浩美の両手が彼女の背中を突き飛ばした。足が空を踏み、千秋は天井からぶら下がった。最期に感じたのは、栗橋浩美の手の生温かさと、首に食い込むロープの感触と、彼女の体重を支えて梁がぎしりときしむ、その音──
そして絶命の刹那に耳に届いた、階下の男の明るい声。
「ヒロミも人が悪いよ」
ぶらぶらと揺れる二本の脚を見あげて、ピースは言った。
「さて警桑は、彼女を検死解剖して、どういう推論を立てるだろうね」
栗橋浩美は階段のてっぺんに腰かけていた。千秋のあの食べっぷり。入念なシャワー。
「食べ物をもらって、身ぎれいにしてた。絶対に共犯者だと思うに決まってるよ。少なくとも、単なる被害者とは分けて考えるだろうね。いい仕掛けだよ、ピース」
「彼女は、死後の自分がそういう立場に置かれることなんか、ちらりとでも考えてはいなかったんだろうな」
「そんな頭がある娘だったら、もうちょっと面白かったんだけど」
栗橋浩美は本気で残念がっていたのだった。ピースと二人でこの大芝居を続けてゆくのも楽しいが、もしも気の合う女の子の仲間が一枚加わってくれたら、もっと刺激的だろうなと思うこともあったからだ。もっとも、ピースにはそんなこと、なかなか提案しにくいのだけれど。
「それにしても、危ない綱渡りだった」
ピースが眉をひそめて言った。栗橋浩美は笑い飛ばした。
「それを言うなら、電光石火の早業と言ってくれよ」
ピースは本気で怒っているようには見えなかったが、笑顔にもならなかった。
「有馬のじいさんを使うってことは、ピースだって計画してたじゃないか。そろそろ次の仕掛けをしないといけないって──」
「言ったよ。でも、こんな形じゃなかった。もっと慎重にやりたかったんだ」
「結果が良かったんだから、いいだろ?」
「ヒロミは誰かに目撃されてるかもしれない」
「あんな場所で、女子高生と若い男の組み合わせに目をとめる奴なんかいないよ」
「それだけじゃない。有馬義男は警察に報《しら》せていたかもしれない。そして、指定した七時よりもずっと前から、ロビーで刑事が張り込んでいたかもしれない、刑事はフロントで日高千秋を捕まえて、そのままヒロミのところまで案内させていたかもしれない」
「あの臆病なジジイがそんなことをするわけはなかったよ。現にしなかったじゃないか」
「それは結果論だ」
「だからぁ、結果が良かったんだからいいじゃないかって言ってるんだよ」
振り返って考えてみれば、確かにピースの指摘するような危険はあった。でも、有馬義男を振り回すための仕掛けを思いついた瞬間から、栗橋浩美は確信していたのだ。絶対に上手くいく。このジジイは俺の言いなりだ。ジジイから見れば、鞠子を人質にとられているようなもんなんだから、こっちの命令に従うしかない。
そして新宿駅前で日高千秋を引っかけたとき──いや、所在なげに人待ち顔をしている彼女を見つけたそのときに、確信はさらに深まったのだ。この女の子は使える。うってつけだ。何て素晴らしいタイミングだろう。これこそ天の恵みだ。
「もし、日高千秋が使えそうもなかったら、プラザホテルに電話して、有馬のじいさんを他所《 よ そ 》へ移すつもりだったんだ。新宿じゅうを走り回らせたっていいと思ってた。時間はいくらだってあったんだし、最終的には、ジジイが外を走り回っているうちに、あの家の郵便受けに時計を放り込めればそれでよかったんだから」
その意味では、日高千秋はオマケだった。とても美味しいオマケに過ぎなかった。使い捨てだ。だから、いいじゃないか。
一方的な栗橋浩美の言い分を、ピースは静かに聞いていた。そして、変わらぬ穏やかな口調で言った。
「用心することは大切だ」一瞬だけ、栗橋浩美の目を正面から見据えた。「今後は、僕に無断でこういう思いつきの荒仕事をやらないでくれよ。僕らはチームなんだからな」
わかってるよと、栗橋浩美は答えた。ピースは俺の鮮やかな手際に、ちょっとばかし嫉妬してるのかもしれないな──と、頭の隅で考えながら。
「死体をどう処分するか、それは僕が考える。できるだけ効果的な演出をしたいからな。彼女から聞き出した家庭の話を、あとでゆっくり聞かせてくれよ」
期待しておりますと、栗橋浩美は恭《うやうや》しく頭を下げた。それでピースも、ちょっと機嫌を直したようだ。
「さて、片づけにかかるか」と、栗橋浩美は立ち上がった。「これだけは面倒で嫌なんだ。それに気をつけないとな。こいつ、なんかヘンな病気持ってる可能性もあるし。やたら男と寝まくってたわけだからさ」
ピースがあははと笑った。「そうか、だからこの娘には手を出さなかったんだね」
それぐらいは、栗橋浩美だって用心しているのさ。
[#改ページ]
11
鏡のなかの顔が笑っている。
腰から上を全部映すことのできる、大きな一枚鏡だ。このワンルームマンションを下見に来たとき、案内してくれた不動産屋が、部屋もユニットバスも小さいのに、アンバランスなくらいに立派なこの鏡が、案外若い女性の入居者に人気があるのだという説明をした。
その言い方からは、だから本当はこのマンションの入居者は若い女性の方が望ましいので、あなたには遠慮してもらいたいんだけどなあというような底意が感じられた。だから栗橋浩美はこの部屋を借りることに決めた。それを報告するとピースは笑い転げた。ヒロミって本当に曲がったことが大嫌いなんだな、と。
そうだ、あの不動産屋の担当者がやったことは「曲がったこと」だった。男の間借り人を望まないなら、最初から案内しなければいい。物件一覧に、「女性限定」と書いておけばいい。それをしなかったくせに、客が来てからごねるなんて、絶対にルール違反だ。
鏡をのぞきこんで、栗橋浩美はまた大きな笑みをつくった。きれいな歯並びだ。
あんたの歯は、ひとつひとつが男にしては小粒なので、口元がコセコセした感じに見える──と、寿美子が言ったことがある。そのころの栗橋浩美は多感な──とりわけ自分の容姿の善し悪しについては敏感な──十代の少年だったので、母の言葉にいたく傷つけられた。職業別電話帳をめくり、矯正歯科を探して電話をかけ、小さい歯を抜いて男らしい歯並びの総入れ歯を入れるとするとどれぐらい金がかかるかと訊いてみた。どの矯正歯科でも、ただ歯のサイズが小さいというだけでは異常ではなく、従って矯正する必要もないので、そんなことはできないと答えた。栗橋浩美はひどく不満だった。
しかし今は、この小さめの歯並びが気に入っている。寿美子は彼のことをいつだって低く低く見ようとするから「コセコセした感じ」なんて言ったのだ。真実は逆だ。歯の粒が小さいと、にこりと笑ったとき、都会的でスマートで洒落た感じがする。歯が大きかったり長かったりすると、田舎者で野卑で馬みたいに見える。
鏡のなかの栗橋浩美は、実は少しばかりやつれた顔をしていた。
日高千秋の遣体を象さんの形の滑り台の上に引っ張り上げるという大仕事をしたとき、思いがけないほど手間取ってしまい、汗をかき、そのあとすぐに着替えずにいたものだから、風邪をひいてしまったのだ。おかげで、千秋の遺体発見を大きく報道する連日のテレビのニュースを、このマンションの部屋の折り畳みベッドの上で、高熱にうつらうつらしながら観る羽目になってしまった。おまけに、咳が止まらない。
ひょっとすると単なる風邪ではなかったのかもしれず、熱は四十度近くまであがった。二日目にはさすがの栗橋浩美も耐えきれなくなって、病院に行こうと思った。頭がフラフラして足元が定かでなかったので、マンションの七階の高さの窓から病院の看板を探した。
さほど苦労せずに、マンションの南側を二ブロックほど行った先に病院の看板があるのを見つけることができた。「救急指定代々木」というところまでは見えるが、その下が見えない。それでも救急指定なら病院に間違いはなかった。
このマンションは初台の駅から歩いて十分ほどの町中にある。練馬の実家への行き来は乗り換えが多くて面倒だが、それだからこそ選んだのだった。実家と一本線でつながりたくはない。ここは栗橋浩美だけの城なのだから。たとえ、家賃を全額親に払ってもらっているのだとしても。
病院の名称は「代々木クリニック」だった。代々木八幡の病院なんだから当然だと思ったが、実はそうではなくて、院長が代々木という名字なのだった。この代々木院長は内科の外来の患者を一手に引き受けて、忙しそうに診療をしていた。だから、栗橋浩美を診てくれたのも彼だった。診察室で白衣を着て首に聴診器を下げているので、てっきり雇われ医師だと思っていたら、看護婦が彼を「院長」と呼ぶのでびっくりした。そして即座に代々木院長を軽蔑した。栗橋浩美の考えでは、病院の院長は風邪っぴきの患者などの診察をするべきではなかった。もっと困難で複雑な病気のときだけ乗り出してくるべきだった。院長たるものは、医師会の仕事や政治家との付き合いに忙殺されていて然るべきものだった。
しかし、とりあえず高熱で参っていたので、そんな台詞を口に出す元気もなかった。仏頂面をしていても、問診に答える態度がむっつりとしていても、病気のせいだと思うのか、医師はまったく気にしなかった。代々木院長は親切で、診察は丁寧だった。四十歳代の後半か五十になったばかりぐらいの小柄な男で、髪は半白で、とてもこざっぱりと清潔な感じがした。白衣を脱いでもきっと薬臭いに違いなかった。
肺炎の心配があるからと、レントゲンを撮られた。点滴もした。検査や処置を受けているあいだ、栗橋浩美はぐったりとしていたが、心の底では猛然と腹を立てていたし、失望してもいた。
本当なら、勝利に酔いしれているべき時なのだ。世の中のすべてが輝いて、しかし栗橋浩美に対して隷属しているように見える時なのだ。それなのに熱なんか出しちまって、背中を丸めて咳き込んで、テレビも疲れるから長時間観ていられない。新聞も読めない。ピースはひどく心配してくれて、すぐに病院へ行けよと勧めたが、感染《 う つ 》るといけないからしばらく会わないようにしようと言ったきり、連絡がない。もともと、このマンションには近づいたことのないピースではあったが、電話もかかってこないのはちょっと寂しかった。
日高千秋の死に様に、日本中が動揺していた。警察は「容疑者」を求め、マスコミは「犯人像」を求め、社会は怯え、世間はかまびすしく騒ぎ立てながら実は次の犠牲者はいつかと期待を募らせている。それもこれも皆、ピースと栗橋浩美の手柄だった。
代々木クリニックの診療課目は内科・外科・小児科・眼科・歯科の五つだが、小さな病院なので、内科と小児科の外来受付窓口は一緒だった。だから待合室もごった煮状態で、診察が終わって薬を待っているあいだの小一時間、栗橋浩美はしきりとぐずり泣きをしている幼児を膝の上に乗せた若い母親の隣に座っていなければならなかった。子供はやはり風邪で熱があるらしく、厚着をして赤い頬を火照《 ほ て 》らせていた。母親は昨夜眠っていないのかぐったりと疲労しており、泣きべそをかく子供を膝をゆすってあやすのだが、しばらくするとそれがぱたりとやみ、頭がこっくりと前にかしぎ、はっと目覚めてまた膝を揺すり始めるという一連の動作を繰り返していた。
待合室の端に、小さなテレビが据えてあった。画面はちらちらして映りが悪い。日高千秋をつないで置いたあの部屋のテレビよりももっと古い型のものだ。それでも、待ちくたびれた外来愚者たちの大半が、そちらに視線を向けていた。
もちろん、そのなかの番組で、事件を取り上げているからだ。
どこかしら身体を病み、治療や投薬を必要としている人びとが集っているこの待合室でも、目下のいちばん大きな関心事は、殺された女子高生であるわけだ。栗橋浩美はふと笑みをもらしそうになって、あわてて顔を俯《うつむ》けた。ここにいるオヤジたちやオバサンたち、若い母親たちはみんな、もしも生身の日高千秋に出会ったら、彼女に対して否定的な感情を抱いたに違いない連中ばっかりだ。あの右隅の椅子に座っている脂ぎった顔のオヤジなら、数万円の金でひととき千秋を買おうとしたかもしれないが、それだって彼女の善良さを愛したからじゃない。
このなかの誰も、日高千秋をまともな女子高生だと認めはしなかったろう。女子高生の皮をかぶった売春婦だと唾棄《 だ き 》するか、可哀想に他に能力がないから身体を売るしかなかったのねと軽蔑するか、好きでやってるんだからいいんじゃないのと好色の視線を向けるか、せいぜいそんなところだろう。だが、彼女は死んだ。殺された。途端に、日本中の同情を集め、涙をしぼりとる無垢《 む く 》な少女へと変身する。少なくとも、当面のあいだは。彼女の私生活が明らかになるまでは。
テレビ画面には、マイクを向けられて嗚咽《 お えつ》する中年の女性が映っていた。千秋の母かと思ったが、祖母だった。お人形のように可愛くて、天使のようないい子だったと言っていた。栗橋浩美は今度こそ、皮肉な笑いを抑えることができなくて、低く吹き出してしまった。天使は普通、見境なく男を誘ったりしないものだ。
ふと見ると、隣の若い母親の膝の動きが止まっていた。子供は目尻に涙を溜めたままうとうとしている。母親もまた居眠りだろうとつと目を向けると、彼女は栗橋浩美の方を見ていた。まともに目があった。栗橋浩美はまだ笑っているところだったので、あわてて顔をそむけた。
若い母親の探るような視線が後頭部に当たるのを感じることができた。テレビでは千秋の同級生たちがインタビューを受けている。みんなよくしゃべるが、しゃべりながら泣いている。千秋の暮らしぶりを知り、彼女の逸脱ぶりを見物していたに違いない少女たちだが、テレビカメラの前──いや、同級生の死というイベントの場では殊勝なものだ。ここでは泣いて世間に訴えかけるのが彼女たちに与えられた役割だと、ちゃんと心得ているのである。
しかし、画面としては、先ほどの祖母の場合と同じく愁嘆場である。それを見て笑う栗橋浩美を、隣の若い母親はいぶかっていたのだろう。迂闊だったと、ほぞを噛んだ。座り場所を変えようかと素早く周囲を見回したが、椅子は全部ふさがっている。仕方なしに目を伏せていると、やっと名前を呼ばれた。ほっとして立ち上がり、窓口まで行って薬を受け取った。ちらっと目の隅で確認すると、あの若い母親はもう彼を見てはいなかった。膝の上の子供の額に手をあてていた。
栗橋浩美は安堵した。待合室を出て行くとき、わざと母子の脇を通った。母親は顔をあげもせずに、何か子供と話をしている。一瞬でも栗橋浩美にバツの悪い思いをさせた報いに、このガキの高熱が一週間は下がらないようにと、栗橋浩美は祈った。どんな抗生物質を使ってもガキは治らず、そのうち死んでしまうのだ。そうなれば、この若い母親も、栗橋浩美のことも日高千秋のことも連続女性誘拐殺人事件のことも忘れることができるだろう。
栗橋浩美は自動ドアを踏んで代々木クリニックを出た。古びたドアがきしむような音をたてて開閉するとき、彼はもう部屋に帰って横になることしか考えていなかった。
子供を膝に乗せた若い母親は、身をよじって振り向き、彼の後ろ姿を見ていた。
薬が効いたのか、高熱は間もなく下がった。しかし関節痛と激しい咳は止まらなかった。要するに、栗橋浩美は寝込んでしまったのだ。
発病してから三日目に、体温が三十七度台になったので、タクシーに乗って練馬の実家へ帰った。事前に電話をしておいたので、寿美子は布団を敷いて待っていた。母親の看護に期待をかけてはいなかった──事実、寿美子は看病らしいことは何もしてくれなかったのだ──けれども、栗橋家は薬局だから病人には何かと便利だし、最低限食事だけはつくってもらうことができた。
それでも、起き上がれるようになるまで一週間かかった。体重が落ちて血色が悪くなった。おまけに、しつこい咳だけはまだまだ健在だった。ピースに電話をかけたときも、途中で何度も受話器を離し、咳き込んでしまうので、短い近況報告をしあうだけなのに、えらく時間がかかった。
実家でブラブラ過ごしているあいだに、さかんに日高千秋について報道しているテレビ番組をくさるほどながめて、有馬義男はどうしているかと思った。じいさんはテレビには出てこない。豆腐屋に押しかけたレポーターを店員らしい男が追い払っているところが映っただけだ。
じいさんに電話をかけてもいいかとピースに尋ねると、風邪を引いていることを悟られないようにするならば、と答えた。
「なんでだよ?」
たかが風邪じゃないか。
「彼らには、こっちが生身の人間だということを感じさせない方がいいんだ。正体のわからない怪物だと思わせておいた方が、なにかと都合がいいんだよ。ヒロミ、まだ咳がひどいだろう? 完全に治らないうちは、電話は控えろ」
しかし、ダメだと言われると余計にウズウズした。有馬のじいさんは、鞠子の腕時計を撫でて泣いているんじゃなかろうか。ぜひとも声を聞いてみたい。
それで、両親が留守にしている隙に、こっそりと部屋から電話してみた。
有馬義男は泣いていなかった。すごく期待はずれな感じがした。途中で咳が出始めて苦しくて、しかもジジイはしつこく「鞠子の声を聞かせてくれ」なんて言ってくるし、腹が立って切ってしまった。
どういうわけか、この電話の件は報道されなかった。今ではジジイのそばにも警察が張りついているだろうから、連中が公表を控えさせたのかもしれない。おかげでピースにも、忠告に従わなかったことを知られずに済んだが、なんとも欲求不満な感じが残った。
またぞろピースに電話して、日高千秋を使ってあんな劇的な演出をしたばかりなんだから、黙っているのはつまらないと訴えた。
「俺が風邪をひいているのがまずいなら、ピースが電話してみたっていいじゃないか」
するとピースは笑って、「必要に迫られない限りは、電話はヒロミにかけてもらうよ。僕じゃ、ヒロミほど上手くしゃべれないと思うんだ。自分じゃ気づいてないだろうけど、ヒロミは本当にうまくしゃべるからな。世間が求めている、この事件の犯人像にぴったりの語り≠やってくれてる。僕じゃ、とてもああはできない」
持ち上げられて、いい気分だった。今さらのように考えた。そうだよな、俺たち二人は、世間を震えあがらせる連続殺人者をつくりあげているところなんだ。こいつは創造的行為なんだ。
もちろん、最初のうちは、その連続殺人者≠フ幻の陰に隠れて、岸田明美、嘉浦舞衣殺しという過去の動かし難い事実から逃れることが目的だった。でも、今はそれだけじゃないような気がする。どこまでやれるのか、どこまでこの殺人者の肖像を精緻《せい ち 》につくりあげて、それを一人歩きさせられるのか、この目でじっくりと観察したいという欲求の方が強くなっているような気がする。
「次の仕掛けはどうする?」
気負い込んだ栗橋浩美の問いかけに、少し考えてからピースは答えた。「そろそろ古川鞠子の遺体を出してやってもいいかな、と思ってるよ」
「ええ? じゃ、掘り返すのか?」
「そうだな。だからちゃんと静養して、風邪を治してくれよ。力仕事を僕だけにやらせるのはずるい」
力仕事プラス汚れ仕事だ。
「わかった、わかった」
そういう次第で、病み上がりの今の栗橋浩美は「待機」の状態にあるのだった。まだ遠出する気力もないので、寝込んでいるあいだに溜まってしまった新聞や雑誌を読み、スクラップをつくり、女の子たちのビデオや写真や遺留品を整理したりして、のんびりと過ごしている。
これはこれでいい気分だった。自分の戦果を確認し、勲章を磨いているような気分だった。だからトイレに立ったついでに、洗面所の大きな鏡に自分を映して、笑顔をつくってみたりしたのだ。恋愛中の女の子が、機会を見つけては自分の顔を鏡や地下鉄の窓ガラスに映して笑顔を浮かべてみるように。あの気持ちがやっと判った。あれは幸せだから笑ってみるのだ。自分の顔に幸せが浮かんでいるのをその目で確かめたいからやっていることだったのだ。今の栗橋浩美もまったく同じ気持ちだった。幸せで、自分に誇りを持っていた。
鏡は人を映す──顔を映し、姿を映し、瞳の色を映し、その輝きを映す。それはただの物理的な作用で、映したからといって鏡がその人の何を知るわけでもない。鏡は無機質で無関心だ。だから人は、安心してその前で自分をさらけ出すことができる。自分を点検することができる。悦びや誇りの想い、世間への遠慮や謙譲の念に縛られて押し隠すことなく、おおらかに解き放つことができるのだ。もしもこの世に鏡が存在せず、互いに互いの顔を点検しあったり、自分で自分を観察したりするだけで生きていかなければならないとしたら、人は今よりももっと深く自分のことを点検しなければ気が済まず、安心できず、気を許すこともできなくなって、生きていくのがずっとずっと困難になるだろう──
そんなことを考えながら、時計を見あげた。午後五時半になるところだった。窓の外はすっかり暗くなっている。ベランダに干しっぱなしにしてあったタオルが、幽霊の切れっぱしのように頼りなげに揺れている。急いで取り込もうと窓の外に出た。
そしてそのとき、街灯の明かりの下に、高井和明が──カズの太った身体がのそりと立って、この窓を見あげているのを見つけた。
[#改ページ]
12
一九九六年十月十一日付 「都民生活相談ダイアル」受付記録
通しナンバー「96─101128」
相談受付者:加賀見一美
着信時刻:午後二時三〇分
通話時間:十五分
相談者:二十九歳 男性 未婚 自営業
相談内容:友人関係の悩み
幼なじみの友人が犯罪に関係しているような気がする。まだ本人に直に確かめたわけではないが、疑うに足る事実を見聞きしてしまった。警察に通報するべきだろうか。それとも、まず友人と話し合うべきだろうか。
備考:この相談者からの通話は初めてではなく、過去二年のあいだに三回、伊藤・折部の二相談員が相談を受け付けた実績がある。ただし、過去三度の相談はすべて、内気な性格のため周囲の人びととうまく打ち解けることができない、女性と交際ができないという、彼自身の問題についてのものであり、今回の案件とは関わりがない。
相談者が見聞きしたという、友人が関わっているらしい犯罪がどのような種類のものであるかについては、本人が話したがらず、こちらの質問にも答えない。
当職の受けた印象としては、この相談者は自分の抱えている心配事に対し、かなり大きな恐怖心を抱いているようである。今回のこの通話では、こちらの意見を求めるというよりは、胸の内を打ち明けてさっぱりしたかったようであり、やや一方的な感じで話し終えると、こちらから具体的な意見を提示するのを待たずに電話を切ってしまった。
伊藤・折部の二相談員と話し合ってみた。過去三回の相談内容や、その際の相談受付者に対する態度などから推察して、この相談者は、自身それについて悩んでいるとおりの内向的な気質ではあるが、真面目で考え深く、いたずらに虚言を述べて騒ぎを起こすようなタイプではないという点で意見が一致した。従って、彼の相談内容については、今後も注意を払って対処する必要があると考える。
一九九六年十月十六日付 「都民生活相談ダイアル」受付記録
通しナンバー「96─101601」
相談受付者:伊藤雄一
着信時刻:午前九時五分
通話時間:約四十分
相談者:二十九歳 男性 未婚 自営業
相談内容:友人関係の悩み
十一日受付通しナンバー「96─101128」の相談者からの再相談。相談窓口の電話受付が始まるのを待ってかけてきたという印象。
備考:加賀見相談員からの引継を受け、伊藤が担当。この相談者と話すのは今回で三度目である。前二回は二回とも、恋人ができない、女性とうまく交際できないという悩みを打ち明けるものだった。なお、前二回はそれぞれ一年から一年半以上の月日をおいて相談をしてきたのだが、それでも、この相談者は応対した当職の声と、各相談時に当職が述べた意見について詳細に記憶していた。相当に知能程度の高い人物と思われる。
前回の電話以降の様子を聞いてみると、友人がある「犯罪」に関わっているというのは、相談者の思い過ごしだったのではないかと思えてきた、という。「あんなひどいことができるような奴じゃないので」という台詞を、しばしば口にした。
相談者の態度は誠実で、口調も明るい。しかし、当職が、相談者が友人が関わっているのではないかと案じていた「犯罪」の内容について質問すると、言を左右にして返答をしない。但し、「あんなひどいことというのは、具体的にはたとえばどういうこと」と尋ねると、「新聞とかテレビで騒がれるような事件です」と答えた。
友人に対する疑いを解いたのは、特にはっきりとした反証や反論その他を得たからではなく、たぶんに気分的なもの、気持ちの変化のためであるようだ。「友達を疑うのはよくないことだと思う」と、自省的な発言もしている。
ただし今回は、そもそもなぜ友人が犯罪に関わっているのではないかという疑いを抱いたのかと尋ねると(前回は、この質問にも答えようとしなかった)、
「友達がおかしな電話をかけているところを聞いてしまったので」と答えた。
おかしな電話の内容については語らず。
一九九六年十月二十一日付 「都民生活相談ダイアル」受付記録
通しナンバー「96─102103」
相談受付者:加賀見一美
着信時刻:午前九時二分
通話時間:一分足らず
相談者:二十九歳 男性 未婚 自営業
相談内容:友人関係の悩み
備考:伊藤相談員を指名、同相談員が休日の旨を伝えると、すぐに電話を切る。
同日 受付記録
通しナンバー「96─102118」
相談受付者:加賀見一美
着信時刻:午後五時四〇分
通話時間:約一分
相談者:二十九歳 男性 未婚 自営業
相談内容:友人関係の悩み
伊藤相談員への伝言。
「いろいろ読んだりして不安だから、やっぱり確かめると伝えてほしい」
当職では話し相手になれないかと水を向けてみたが、非常に丁寧な口調で、女の相談員の人とはうまく話せないのだと断られた。
一九九六年十一月一日付 「都民生活相談ダイアル」
相談担当者日報(抜粋)
記録者:伊藤雄一
月初めの本日、かねて「友人が犯罪に関わっているようだ」という相談を寄せてきた男性から、その後の連絡が途絶えていることについて、担当者会議でも話題が出た。犯罪の性質・内容等がまったく明らかではないので、いたずらに想像をたくましくすることは厳に慎むべきであるが、経過の気になる案件である。各相談受付担当者と、この相談者から通話があった場合の対処の仕方について打ち合わせを行った。
──しかし、これ以降、都民生活ダイアルにこの相談者から電話がかかることはなかった。相談受付担当の伊藤、加賀見両氏には、相談者の身元さえ判らず、彼の話していた内容の真偽や、彼の心配の当否について、確かめる術は何もなかった。
警視庁墨東警察署内に設置された連続女性誘拐殺人死体遣棄事件特別合同捜査本部には、連日のように多数の情報が寄せられた。大川公園事件の発生した九月十二日から、十月三十一日までのあいだだけで、電話や投書による情報提供の総数は約二千件にのぼる。
電話・男性四十五歳・氏名不詳・会社員
「──そう、ですから私の家の斜向かいのマンションです。ワンルームマンションで、カーサ高井戸です。え? カーサ、かきくけこのカに、ササニシキのサ。え? ですからそこの住人で、いえ名前はわかりません。長髪でね、昼からビール飲んで騒いでますよ。ときどき、連中の部屋から女の悲鳴が聞こえて来るんです。え? 毎晩ですよ。そりゃもう。迷惑で迷惑で。だって凄い悲鳴なんだから。あいつら調べてくださいよ。頼みますよ」
電話・女性五十二歳・匿名希望・主婦
「そうでございます。いろいろ悩んだんですが、これだけの大事件でございましょ、やっぱりお話ししようかと。
はい、はい、そうです。ですからわたくしの娘の婿でございますね。ええ、身内の恥でございますからどうぞご内聞に願いたいのでございますけども、どうして娘があんな男にと思うような──いえ、親のわたくしが申しますのも何ですが娘は子供のころから成績もよろしかったですし容姿も整ってまして、レベル以上の娘だと思いますんでございます。大学を出ましてから──指導教授にはぜひ研究者として残るように勧められたんでございますけどね、女が博士号などとりましても仕方ございませんからねえ、うちは古風と申しますかそのへん堅いところがございまして。それでまあ、働く必要もないので花嫁修業だけしていればよかったんですけれども、それでは社会勉強になりませんのでね、父親の会社に、まあなんと申しますかしら秘書みたいな形で三ヵ月ほど勤めまして、そのあいだに婿と知り合ったんでございますの。
え? はい、ですからその婿が怪しいと、わたくしは──は? 根拠? もちろんございますけど、証拠というようなものは──それは警察のお仕事でございましょ? ですからねえ、婿は学歴もございませんし金遣いが荒くて──」
投書・無記名・性別不明
「ボクハ ヒトゴロシ シタクナイデスガ シテシマウ トキガアリマス ミナトヘキテトメテ クダサイ」
投書・無記名・ワープロによる文章・解読不明の暗号様の文章のなかに、一ヵ所だけこの記述あり
「警察はアホだ」
電話・女性三十八歳・氏名住所明記
「そうです。六月の、一日か二日くらいだったと思います。わたしが残業をするのは月初めですから。
わたしの家は、古川鞠子さんの家から五百メートルくらい離れたところです。はい、家族と住んでいます。両親です、この話は両親も知っていますし、ですから、相談してお電話をすることにしたんです。
はい? ええ、警察の方が聞き込みに見えました。そのときは忘れてたんです。本当です。いろいろな報道を読んだり見たりしているうちに思い出して。ええ、そうです。
駅からうちまで、歩いて二十分くらいですね。いつもは自転車を使うんですが、ちょうどあのころ、わたし右足首を捻挫してまして、自転車に乗れなくて、歩いてました。夜十一時を過ぎていたと思います。
道をきかれたんですよ。若い男のふたり組でした。ひとりがなんか……盲腸だとか言ってたかしら。急にお腹が痛くなったとかで、救急病院はどこですかって。近くに中野外科病院というのがありますから、教えてあげました。ありがとうと言って、丁寧な感じの男の人でした。
でも、後になって考えてみると、本当に急病だったのかなあって思えてきて。あんまり切迫した感じがなかったんですよ。それに、夜道を歩いていたら、後ろからすっと車が近寄ってきたという感じで、気味悪かったんです。待ち伏せしてたみたいで。
危険? いえ、感じませんでした。さっきも言いましたけど、紳士的な感じの人でした。学校の先生みたいな。車の色? 覚えていません。でも、四駆でしたよ。流行の。
モンタージュとか、つくるなら協力いたしますけど」
電話・男性六十歳・匿名希望・自営業
「だいたいがあんたらは税金ドロボウって言われたってしょうがないんだよ、こんな犯人もよう捕まえられなくてな、何やってんだ、世界に冠たる日本警察が何やってんだ、あたしらは何のためにあんたらの給料払ってんだよ、まったく!」
投書・氏名住所明記・男性・教員
「──教職にある者として、自分の教え子に疑いの目を向けるのは何よりも耐え難いことです。ここ数日、眠れない夜を過ごしつつ|逡巡《しゅんじゅん》して参りましたが、この凶悪な事件の一日も早い解決を望み、敢えて情報提供に踏み切ることにいたしました。
私が疑いを抱いているのは、三年前、私が担任を受け持った男子生徒です。在学中に傷害事件を二件起こし、うち一件は学校内だけで処理をしきれず地元警察の介入を依頼しました。入学当初から粗暴な行為が目につきましたが、数人の仲間と徒党を組んで校内を闊歩するようになったのは一年生の学期後半からです。
今回の残虐な事件につき、私が彼に疑惑を抱きました直接の理由は、在学中に彼に書かせた作文のなかに、きわめて直接的な、女性に対する暴力行為を指向する一文があったためであります。『ブスな女はひとまとめに檻《おり》にたたき込んでブッ殺せ』というような、一面ではきわめて幼稚な文意ではありますが、そも国語の授業の課題として書いた作文にこのような文意を盛り込み、教師の反応を見るという嗜好は、今回の犯人のそれに通底するものがあるように思料します。
以下に、この生徒の詳しいプロフィールと現住所・連絡先を記しておきます。私に電話等をいただく場合は、警察当局であることは伏せてご連絡願います」
電話・男性・氏名年齢不詳・非常に小さな声で、聞き取りにくい。
「──よく判らないんですが……。友人が、その……ヘンな電話をかけているところに行き合わせてしまって……。後でニュースを見るまでは気づかなかったんですが、あの、古川鞠子さんのおじいさんにかけてた電話じゃなかったかと思うんです……。
でも思い過ごしかもしれないんで……。
警察でも、携帯電話は逆探知しにくいっていうのは本当ですか?
その……僕はどうすればいいいんでしょうか。疑ってるだけじゃ……ダメですよね。確かめた方がいいんですか?」
──ここで受け付けた警官が彼の友人の名前を尋ねる。
「いえ……間違いかもしれないから──言えないです。すみません」
電話・女性・三十歳・主婦
「行方不明になっているのは、わたしが昔、大学生のころにアルバイトの家庭教師で教えてあげたことのある女の子なんです。今はもう二十歳過ぎてるはずですが。
はい、そうです。右腕に小さな痣《あざ》があって……。ひょうたんていうか、南京豆の莢《さや》みたいな形の痣です。大川公園事件のとき、切り落とされた右腕に痣があるとニュースで聞いてから、ずっと気にしてました。珍しいですものね、腕の痣なんて。
彼女の名前は浅井ゆかりさんです。今の住まい? ごめんなさい、それが判らないんです。昔の住所なら知ってますが、もう何年も前からその住所では年賀状も着かなくなってしまっていて。ご両親が離婚したみたいです。わたしが家庭教師をしていたころから、円満な家庭ではありませんでした……」
電話・男性・氏名年齢不詳
「もしかして、また警察官が犯人なんじゃねえの? だから隠してんだろ、え?」
[#改ページ]
13
一九九六年十月十一日。
古川鞠子の白骨遺体が発見されたというニュースを、高井由美子は、テレビのニュース速報で見た。
九月の末ごろには、日高千秋という女子高生の遺体が発見されて、彼女が殺害されたことは確かだけれども、プラザホテルに手紙を届けたりしているし、検死の結果などからも、必ずしも完全な犠牲者だったとは言い切れないなんて、大騒ぎをしたばかりだ。だけど、古川鞠子は違う。本物の犠牲者であるばかりではなく、祖父である有馬義男という人も、犯人たちにさんざん弄《もてあそ》ばれて、辛い思いをさせられている。
ちょうど昼時の、長寿庵が一日のうちで最も忙しい時間帯だった。店内の西側の隅の棚の上に据えっぱなしにしてある十四インチのカラーテレビから臨時ニュースが流れ出したとき、由美子は今しがた入ってきた常連客の会社員たちの注文を受けているところだった。
「俺、ミニカツ丼とかけそばのセット」
「天ざる」
「かも南蛮」
「相変わらずみんなバラバラだなあ」
「由美ちゃん、覚えられる?」
「覚えられますよ、あたしもうベテランだもん」
「そうかあ、じゃあ俺は天とじ──あ、出た」
目の前の客が、いきなりそう叫んだ。彼の目は由美子の肩越しに後ろの方を見ている。由美子はぎょっとして振り返った。とっさに、何かイタズラされたと思ったのだ。
「出た!」と叫んだ会社員は、ときどきおかしなことを言ったりしたりして由美子を驚かすという子供っぽい趣味を持っている客で、以前にも、ゴムでできたオモチャの蛇を上っ張りのポケットに入れられたり、スカートの下に手鏡を差し出されたりしたことがあった。やはり常連客である彼の部下の若いOLたちが長寿庵にやってきて、彼が会社内でも似たようなイタズラをしては女子社員たちの顰蹙《ひんしゅく》をかっていると、教えてくれたこともある。
「あれはもうイタズラじゃなくて、立派なセクハラよ」と、憤懣やるかたないという様子の女子社員もいた。
しかし今度に限っては様子が違っていた。どきりとして振り向いた由美子の目には、店内の満員のお客たちが申し合わせように揃って箸をとめ、おしぼりで顔を拭いていたのをやめ、お冷やを持つ手を宙ぶらりんにして、片隅のテレビを見あげている──という光景がとびこんできたのである。そしてそのテレビに、古川鞠子の顔写真が映っていたのだ。
──あの人の遺体が出てきたんだ。
「出た!」というのはそういう意味だったのだと、由美子にも判った。
昼時の蕎麦屋はどこでもたいがいそういうものだが、入れ替わり立ち替わり現れるお客の八割までは常連なので、親しくはなくても、互いに顔見知りぐらいにはなっている。それに会社員たちはたいていの場合連れだって昼食をとりにくるので、常連客たちのなかには、「長寿庵は我が社の第二食堂だ」と言う向きもあるくらいで、従って昼時の店内の雰囲気は和気|藹々《あいあい》としている。
それが、臨時ニュースの出現でさらに盛り上がった。お客さんたちみんなが一体化して、口々に何か言ったり、話し合ったりし始めた。
「やっと出たね」「可哀想に」「やっぱり相当以前に殺されてたのかしら」「今度は犯人の奴、なんて言ってくるだろう」「どこで見つかったんだよ?」「由美ちゃん、民放じゃダメだ、NHKにしよう。リモコンどこ?」
由美子もちょっとのあいだ、仕事を忘れてテレビ画面を見あげた。せっかちなお客がリモコンでチャンネルを切り替えて現れたNHKの画面では、スタジオのアナウンサーが厳しく緊張した面もちで現場中継のアナウンサーとやりとりをしている。それによると、白骨となった古川鞠子は、今朝早く、都内の運送会社の入口に、紙袋に詰められて放置されているのを発見されたものであるらしかった。
さらに、犯人はまた、HBSの報道局へ電話をかけてきたらしい。紙袋の発見を促すような内容だったという。するとまた別のお客が、「HBSはどうなってる? チャンネル替えてみてよ」と言い出した。画面がくるくると動いた。
HBSは現場中継をメインに流していた。レポート役の記者の脇に、犯人からの電話を受けたという報道記者が立っており、ふたりで犯人との会話を再現している。レポート役の記者の手には、紙袋の発見に前後する出来事を時系列に書き並べた一覧表があり、それによると、紙袋が発見場所に置かれたのは、今朝のきわめて早い時刻のことであるようだった。
「由美ちゃん、悪いねお冷やくれない?」
すぐ脇のテーブルのお客に声をかけられて、由美子ははっとしてテレビ画面から目を離した。いけない、いけない。お客さんと一緒になって夢中になってた。
「スミマセン」
急いでカウンターの方へと戻った。父はよそ見もせず黙々と湯気のあがる鍋の前で働いているが、母はカウンターごしにテレビを気にしている。同情と安堵の入り交じった、後ろめたそうな顔をしていた。
一連の連続女性誘拐殺人が始まってからこちら、由美子はさまざまな立場と年齢層のお客たちがこのニュースについて語る様子を見聞きしてきた。なにしろ、みんながみんなこの事件について話したがっており、話題にしているのだ。出前に行った先で、器やお金のやりとりをする短い時間にも、応対に出たその家の奥さんに、「ひとりで出前、怖くない?」とか、「うちも高校生の娘がいるから心配で」とか、声をかけられたりするのだ。
そういうたくさんの顔と声に触れてきて、気づいたことがあった。被害に遭った女性たちと同じくらいの年齢の娘や孫を持つ人びとは、ほとんど例外なく、この事件に関する話をするときに、なにがしか後ろめたそうな顔をするのだ。ちょうど今、由美子の母親がそうしているのと同じように。
それはたぶん、(ああ可哀想に)(気の毒に)という気持ちと、(うちの娘、うちの妹、うちの孫じゃなくてよかった)という気持ちが、同じ濃さ、同じ温度で混じり合うからなのだろう。そしてその混合物のなかに、(こういう犯罪者が現れて、いずれ誰かが殺されなくちゃならなかったとしても、狙われて殺される方にだって何かしら落ち度みたいなものがあったはずなんだ[#「あったはずなんだ」に傍点]、だからうちの娘は、うちの妹は、うちの孫は大丈夫)という感情が、一滴、二滴と添加されている。だけれどその気持ち、そういう本音を外に出すことは申し訳なくてできないから、だから後ろめたそうな顔になってしまうのだろう。
被害者たちと同年代の、まさに自分もターゲットになりかねない、なりかねなかった、なるかもしれない女性たちは、激しい不安や悲しみや怒りの色を浮かべるのはもちろんだが、時として無用にそして無遠慮に陽気になってこの事件を語る。犯人を「ヘンタイ」とあざ笑ったり、犠牲者の女性たちを不当に罵倒することで──「知らない男にノコノコついていくからよ」──やっと安心できるのかもしれない。その気持ちは、由美子にも判る。みんな怖いのだ。恐ろしいのだ。
そして男性たちは──いつだって妙に客観的だと、由美子は感じていた。本当に同情したり、あわてたり、怒ったり、気味悪がったりしているふうには見えないのだった。もちろん強い興味を持ってはいるのだが、その興味が切実なところに根づいているのは、被害者たちと同年代の娘を持っている父親たちだけではないかと思えるのだった。
そして由美子はふと思う。ごく根本的な、素朴な疑問を。なぜ、男は女を殺すのだろう。見も知らない女を。自分と何の関わりもない女を。まるで、女であるというだけで、いつかは殺されなければならないみたいだ。男には女を殺す、特別な権利があるみたいだ──
お冷やを盆に乗せて、つと顔をあげた。そのとき、調理場のすぐそこに立っている兄の顔が目に入った。
由美子の手のなかで盆が動き、その拍子にお冷やを入れたグラスが床に落ちた。派手な音がした。
「あ、ごめんなさい!」
由美子は急いでしゃがみこみ、破片を拾いにかかった。母が「すみませんねー」とお客たちに謝っている。ニュースに夢中になっているお客たちは、誰も気にしていないようだ。
由美子の心臓がどきどきと音をたてていた。破片を集め、雑巾で床をふき、手を洗い、新しいお冷やを運ぶ──そうしているうちにだんだんとおさまってきたが、「兄の顔を見てびっくりしてしまった」という事実から受けた衝撃は消えなかった。
──お兄ちゃん。
なんであんな怖い顔してたんだろう?
高井和明は、日頃からあまり表情豊かな方ではない。いつだってニコニコしていて愛想よく見えるから目立たないけれど、ニコニコ笑い以外の和明の表情のパターンは、実はとても乏しく貧しいものなのだ。みんなに嫌われないよう、いじめられないよう、そして「僕は大丈夫だよ」ということを示すことができるよう、ニコニコ笑いばっかり続けてきたせいでそんなふうになってしまったのだ。
その兄が、今、古川鞠子の白骨遺体が発見されたというニュース画面を見あげて、まるで出し抜けに殴られたみたいな顔をしていた。今まで、兄のこんな顔を、由美子は目にしたことがなかった。人は誰でも仮面はいくつか持っているものだけれど、高井和明の箪笥《たん す 》の引き出しのなかに、あんな仮面がしまい込まれているはずはないのだった。
連続女性誘拐殺人の報道に、和明が強い興味を示しているということには、由美子もとっくに気づいていた。新聞や週刊誌を読みふけり、ニュースももれなく観ている。お兄ちゃんにしては珍しいことだと思ったが、話してみてすぐに納得がいった。和明には由美子という妹がいるからだ。考えてみれば当然のことだった。由美子がいるから、和明はこの事件の成り行きに、ひと通りではない関心を寄せざるを得ないのだった。
だが、それならば今のあの強ばった顔はなんだろう? 和明は一体なぜ、あんなショックを受けたのだろう?
残酷ではあるが、古川鞠子という女性がもう殺害されているであろうことは、みんなが推測していることだった。まず生きてはいまいと、日本中の人びとが考えていた。あるいは、もしもまだ命があって犯人の手元に監禁されているのだとしても、いっそ殺された方がましだというような目に遭わされていることだろう──
だから、本当に辛い事実ではあるけれど、彼女の遺体──しかも白骨化した遺体の発見は、ある意味では救いでもあったはずなのだ。もうこれで、犯人にいたぶられることもない。もう恐ろしい目にも遭わされない。彼女は家族の元へ帰り、ようやく安らかに眠ることができるのだ。
ニュースを受け取る側の人びとが、店内のお客たちのように、これだけ大っぴらに騒ぐことができるのも、これがまた別の女性がさらわれたり殺されたりしたというニュースではなくて、すでに希望のなかった古川鞠子という女性の安否が判ったという情報であるからなのだ。この情報は、悲報ではあるけれど、悲しみの底にはひとつの安心があるのだった。このニュースを受け取る人びとは皆、鞠子を悼み同情し犯人に怒りを覚えることは当然としつつ、でも衝撃を受けることはないはずなのだった。
お兄ちゃん──どうしたの?
「ちょっといい?」
その夜の、十時過ぎのことだった。由美子は兄の部屋のドアをそっと叩いた。
ドアの内側からは、テレビの音声が聞こえてくる。ニュースショウのようだった。キャスターが、古川鞠子の白骨遺体発見について説明している。
和明は寝ぼけたような目をしてドアを開けた。由美子は彼の顔をのぞきこんだ。べつだん、わざと惚けて眠たい様子をつくっているのではなく、本当に今の今までうたた寝をしていたようだった。
「あれ、ごめんね、もう寝てた? だけどお兄ちゃん、お風呂まだでしょ?」
「うん」というような生返事をして、和明はのそりと突っ立っている。由美子を部屋に入れようとしない。
そういえば、長いこと兄の部屋に足を踏み入れたことはないのだった。「ちょっといい?」なんてノックをするのも、もしかしたら初めてだ。それでも、「何の用だ?」とか「何だよ?」とか尖った声を出さず、「どうしたんだよ」と気色ばんだり驚いたりしないでぼうっと立っているところ、いかにも和明らしかった。
「ナイショで話があるの。入ってもいい?」
和明は小さな目をぱちぱちまたたくと、うんうんとうなずいてドアを開けた。兄の部屋は思いの外きちんと片づいており、ゴミ箱がゴミで満杯になっているとか、着替えが脱ぎ散らかしてあるということもなかった。ベッドカバーがしわくちゃになっているが、これはさっきまで和明がここで眠り込んでいたからだろう。
「わあ、お兄ちゃんきれい好きなんだね」
どんどんと部屋の中央まで踏み込んで、由美子はベッドにぽんと腰をおろした。わざと勢いをつけて座ったので、ベッドがはずんで由美子はコロンと転げた。それがおかしくて自分で笑ってしまった。
「なんだあ、おまえ」と、和明も笑った。
「由美子、ビールでも飲んできたのか?」
「なんで?」
「酔っぱらってるみたいだぞ。そんな子供みたいなことをやって」
「あたし子供だもーん」
和明は畳の上にあぐらをかいて座ると、まわりを見回した。ベッドのすぐ脇に、コカ・コーラの絵柄の入った金属性の小さな盆に、灰皿と煙草とライターを載せたものがあった。和明はそれを引き寄せると、煙草に火を点《つ》けた。キャスター・マイルドだった。前はラークを吸ってたのにな──と、由美子はぼんやり思った。
「もっといい煙草盆、買えばいいのに」
コカ・コーラの柄の盆を観ながら、由美子は言った。
「これがちょうどいいんだよ」
「お兄ちゃん、今さあ、一日に何本煙草吸う?」
「十本ぐらいだよ」
「そう? 嘘だあ、一箱は吸ってるよ」
「そうかなあ」
「そうよ。このごろ増えたもん」
そう言ってから、由美子はふと気づいた。そういえばお兄ちゃんの煙草の量が増えたのも、連続女性誘拐殺人事件について気にし始めてからのことだった──
口にこそ出さないが、和明は(なんの話があるんだ)という顔で由美子を見守りながら、煙草を吸っている。ふたりの傍らの小さなテレビでは、ニュース番組が進行している。古川鞠子の白骨遺体が遺棄されていた中野区の坂崎引っ越しセンターという会社付近の地図が、画面いっぱいにアップになっていた。
和明が、ちらりとテレビを横目で気にした由美子は彼の顔を見ていた。
こうして向き合うと、(ねえ、昼間ニュースを見たとき、どうしてあんな怖い顔したの? あたしそれが気になってしょうがないの)なんて、質問しにくくなってきてしまった。だいたい、訊いてどうしようというのだ? 和明は優しい性格だから、古川鞠子に深く同情してしまった──ただそれだけのことだったかもしれないのに、なんで追究するんだろう。へんてこだ。なぜ、こんなに気になるんだ?
和明はまだ居眠りのしっぽを引きずっているのか、テレビを観ながら目をこすってあくびをしている。その様子はなんとものんびりとしていた。昼間の、あの衝撃で声も出ないかのような表情とは、百八十度違ってしまっている。
由美子は急に、気が引けてきた。あたし、バカみたいな独り相撲をしてるんじゃないのかしら。あれこれ考え過ぎてるだけなんじゃないのかしら。
この一連の事件のことは別にして、由美子という個人にとっても、この一ヵ月ぐらいのあいだは、心騒がしい時だった。先方の都合とやらでお見合いが潰れたあと、管野のおばさんがうちへすっ飛んできて、しきりに謝ったりそんな必要もないのに由美子を宥めたり、大騒ぎのひと幕があった。おばさんが言うには、由美子に妙な先入観を与えないためにただ「地方公務員」というだけで詳細を伏せておいたのだが、あのお見合いの相手は実は墨東警察署の刑事で、大川公園事件の勃発で超多忙になってしまったのだ、という。だけど、先方は写真を見て由美ちゃんのこと気に入ってたんだよ、由美ちゃんさえ相手が警察官じゃ嫌だってんじゃなけりゃ──と、おばさんはグタグタ言い、どっちにしろ相手は今こんな事件に振り回されてる状態で見合いどころじゃなかろうと父が割って入り、面目を失った形のおばさんは、十日もしないうちに次のお見合いの話をもってやって来た。預けられた写真と履歴書は、まだ由美子の手元にある。ちらりと眺めただけで、深く考えてはいない。やっぱり、「お見合い」という手段をとらないと恋愛のできない自分に、ひどく惨めで不完全なものを感じてしまうからだ。それに、今度の相手も大人しいだけが取り柄みたいな人に見えた。
どこの誰とも知らない男の手にかかって殺され、ゴミのように捨てられた古川鞠子は気の毒だと思う。だけどその一方で、彼女の身に降りかかった災いをテレビのニュースで観て、新聞で読んでいるあたしは何なんだろうと、由美子は思ってしまうのだ。もしもあたしの人生が今、古川鞠子の事件みたいな形で突然中断されたとして、誰か困るだろうか? 何かに影響が出るだろうか? 両親や兄以外に、由美子の不幸に衝撃を受ける人物がいるだろうか。
ノー、ノー、すべてノーだ。高井由美子の人生は、叩けば虚ろなコンという音がしそうだ。空き缶だ。
このままずっと、お店でどんぶりのお運びをして、出前の器を上げ下げして、近所の人たちからは「長寿庵の由美ちゃん」と親しまれ、だけどそのうちどこかで密かに「長寿庵の看板娘の由美ちゃんもトシとったね」「あの子、いくつになった?」「もう、いささか古い看板だよね」なんて、囁かれるようになるのだろうか。このルートに逃げ道はないのか。どこにも分岐点はないのだろうか。それとも、たくさんの分かれ道があったのに、あたしはそれを見落としてきてしまったのだろうか。
そんな迷いにとらわれながら日々家族の顔を見ていると、ときどき、ひどくムシャクシャしてくる。なんでこんな当たり前で、安全で、刺激のひとつもない暮らしに甘んじていられるんだろう? お兄ちゃんなんか特にそうよ、焦りを感じないの? 闘志が湧いてくることないの? もうすぐ三十歳なんだよ? お兄ちゃんの人生、このままでいいの? これで満足なの? 地団駄を踏んで、わめき散らしてやりたくなるのだ。あたしはツマラナイ! と。
そんなふうに考えているから、変化や刺激に飢えているから、和明が見せたちょっとした反応にも、過剰な解釈を加えてしまいがちなのかもしれない。和明の表情の変化になど、さほどの意味もないのかもしれない──
(だけど)
だけど気になるのだ。気になることもまた事実なのである。ニュースを観たときの、あの和明の顔。坂崎引っ越しセンターの看板の前に立つレポーターの真面目腐った表情を百倍しても、あのときの和明の顔には及ばない。あれは、他人事《 ひ と ごと》を見るときの顔じゃなかった。あさっての方向にばかりあがっていると思っていたファウルフライが、突然自分の頭の上に落ちてきた──そんなときの顔だ。
「由美子、ビール飲むか?」
声をかけられて、由美子は顔をあげた。見ると、ベッドの奥に隠すようにして、クーラーボックスに毛が生えた程度の小さな冷蔵庫が据えてある。
「へえ、可愛い冷蔵庫。お兄ちゃん、いつこんなの買ったの?」
「栗橋にもらったんだよ」
そう言いながら、和明はミニ冷蔵庫のドアを開けた。ビールとコーラの缶がいくつか、横倒しにして入れてあるのが見えた。
「なんで栗橋さんなんかから物もらうのよ。やめなさいよ」
思わずつっけんどんになった由美子に、和明は笑いかけた。
「そうかあ? おまえいつも、お兄ちゃんに言ってるじゃないか。栗橋さんにタカられてばかりいちゃダメだって。だからお兄ちゃん、この冷蔵庫はタカり返してきたんだぞ」
兄の手から冷えた缶ビールを受け取りながら、由美子はわざと顔をしかめてみせた。
「どっちも感心できることじゃないわよ。どうやってタカったの?」
「栗橋がマンション借りたとき、引っ越しの手伝いに行っただろう? もうずいぶん前のことだけどさ」
由美子は思いだしてみた。あれは……うちの新装開店のすぐ後のことだったような気がする。日曜日の朝、栗橋浩美が突然訪ねてきて、引っ越しするんだけど手が足りないからカズ手伝ってよと言ったのだ。言葉つきは「依頼」だったが、顔では「命令」していた。和明は抵抗もせず文句もいわず、ニコニコと出かけていって一日こき使われて帰ってきた──
「嫌あね、じゃあこの冷蔵庫、その借りたマンションに備え付けの備品だったんじゃないの? 勝手に持ち出すなんて、いけないんじゃないの?」
「大丈夫だよ。栗橋はもっといい冷蔵庫を買って使ってるんだから。ミニタイプでも、ちゃんとフリーザーのついてるやつ。それに、あの部屋にはずっと住み着いてるし」
「どうかなあ。オーナーさんにばれたら、やっぱり怒られると思うよ。だいいち、そんなの贅沢だ」
厳しく断罪して、由美子はぐいとひと口ビールを飲んだ。よく冷えていて美味しい。喉がすっとした。
「旨そうに飲むなあ、おまえ」
そう言って、和明は笑った。そして自分もビールに口をつけると、ひょいと脇に手をのばしてテレビのスイッチを切った。
「同じニュースばっかりやってるもんな。もう、うるさいよな」
事件について奏でているテレビというBGMがなくなって、由美子はなおさら、言い出しにくくなってしまった。ねえお兄ちゃん、昼間、なんであんなにビックリしたの?
「おまえが嫌うのも判るし、オレもたまに腹立ったりするけど、でも栗橋ってね、あれで結構──気の毒な奴なんだよ」
唐突に、和明はそう言い出した。由美子は思わずビール缶を持っていた手を膝の上におろし、まともに兄の顔を見た。兄は何か見えないものを探すかのような目をして、陽に焼けて赤茶色になった畳の目を見ていた。
「なんかいろいろ抱えてるんだ。今だってまともに働いてないけど、それもあいつなりの理由があるんだ」
いつもなら、すかさず口を尖らせて言い返すところだけれど、和明のいつになく積極的な様子に押されて、由美子は黙った。和明が栗橋浩美を指して「あいつ」と呼んだことにも、軽い驚きを感じていた。
「あいつが考えてるようなことって、たぶんお兄ちゃんなんかには判らないことなんだと思うんだよ。栗橋は頭いいからね、昔からそうだったろ? すごいはしこくて[#「はしこくて」に傍点]、何やらせても上手でさ」
そういう栗橋浩美に憧れて、兄を蔑んでいた時期もあった。由美子はまたひと口ビールを飲んだが、冷たいだけであまり味がしなかった。
「だけど栗橋には、栗橋にしか見えない、なんか言いようもないヘンテコなことがくっついててさ。それであいつ、辛いんだよ」
「辛いから、働かないの?」と、由美子は小さく訊いた。「あの人さ、大学だっていいところ入って、就職先も一流企業だったじゃない? だけど、仕事全然続いてないよね? すぐ辞めちゃうじゃない。あたしは、大人になってからはあの人と親しく話したことないから、ホントの深いところは知らないよ。けど、なんで会社辞めたのかってお兄ちゃんが訊いたら、上司がバカばっかりだったからって言ってたこと、あるよね」
和明は苦笑した。「うん、あったなあ」
「そういうの、よくないと思うんだよ。自分ばっかり偉くって、周りはみんなバカだって。そんなふうに思ってたら、何やっても上手くいかないんじゃない? 栗橋さんが辛くたって──何が辛いんだか知らないけど──そんなの自分でまいたタネじゃないの」
和明はビールを飲んだ。飲みながら、由美子の言葉を吟味するように、しばしばとまばたきをした。
「あたしには、あの人、威張るだけで中身のない人にしか見えない。お兄ちゃんの方がずっとずっと立派──」
由美子が言い終えないうちに、素早く和明は反論した。「そうかな。お兄ちゃんの方が立派か? 本当にそうかな?」
由美子は驚いた。兄から反論されることも珍しいが、問いつめられることなど空前絶後だ。
「お兄ちゃんにはそうは思えない」
書いてあるものを──規則とか法律とか、そういう動かし難いものを──読み上げて確認するみたいに一本調子に、和明は言った。
「栗橋が働いてないでブラブラしてても、へ理屈ばっかり言ってても、それでもやっぱり栗橋は栗橋でさ、お兄ちゃんよかマシなところがいっぱいあるんだよ。カッコいいしさ。頭切れるしさ。お兄ちゃんなんか、やっぱああいうふうにはなれないもんな」
「そんなことないよ……」
だけど、女の子にモテるのはどっちだ? 刺激的な人生をおくれそうなのはどっちだ? 同級生たちの記憶に残るのはどっちだ?
そんなことない、お兄ちゃんの方が立派よ──言いながら、由美子にもそれが嘘だと判っていたから、語尾が情けなく下降して消えた。
「だけどお兄ちゃんもな、由美子が心配するみたいに、栗橋に顎で使われてるだけじゃないんだよ。女の子には判りにくいかもしれないけど、男同士の幼なじみってさ、ちょっと特別なものがあるんだ。確かにお兄ちゃんはあいつのパシリみたいに見えるかもしれないけど、でも──」
ぼうっとしていた和明の目が、にわかに焦点を結んであるものを見つめた。しかしその「あるもの」は由美子の目には見えなかった。和明の心のなかにあるもので、外部からは窺《うかが》い知ることのできないものであるらしかった。
「でも、お兄ちゃんにしかできないことってのも、あるんだよ」
そう言って、和明は顔をあげ、由美子の目を見てニコニコしてみせた。由美子には、いつもの見慣れたこの兄の邪気のない笑顔が、時には間抜けで魯鈍にさえ見える笑顔が、急に仮面のように見えてきた。そしてまた、昼間のあのニュースを聞いたときの兄の表情を思い出した。あれは、思わず仮面をとって見せてしまった今のお兄ちゃんの素顔だったんじゃないのか。
「ねえお兄ちゃん、お兄ちゃん、大川公園事件のこと、ずっと気にしてるよね?」
話の風向きが急に変わったことに驚いたのか、和明は小さな目を見張った。
「な、なんだよ、いきなり」
「新聞、一生懸命読んでるでしょ? テレビドラマしか観なかったヒトが、ニュース観てるし」
「そんなの、今は日本中がそうじゃないか」
不器用にかわそうとする和明に、由美子はごまかされなかった。この点では、まだまだ妹の方が上手《うわ て 》なのだ。
「今日のお昼にね、古川鞠子さんの骨が見つかったってニュース、テレビでやってたよね? 初めてあれ聞いたとき、お兄ちゃん、度肝抜かれたみたいなすっごい顔したね? 怖いような顔だったよ。どうして? なんであのニュースにあんなに驚いたの?」
和明はどぎまぎしていた。長年の付き合いで、由美子にはそれが判る。兄の足の指がもじもじ動いている。昔、夕食のときに両親の前で、昼間学校でいじめられて泣かされたことを由美子に見抜かれて、決まり悪そうにしていたときと同じ反応だ。和明ったら、また泣かされたの? 男の子じゃないの、しっかりしなさい。それにしても由美子、よく判るわね? だってお母さん、お兄ちゃんのほっぺたに涙の跡がついてるもん。そして和明は太った身体を縮め、手足の指をもじもじと動かす──
「なんでそんなこと、気にするんだよ」と、和明は鼻の下をこすりながら言った。声がもごもごしている。「あんなひどいニュースなんだ、聞けば誰だって怖い顔するさ。ああいうニュースを笑って聞けるほど、お兄ちゃんはヒトが悪くない」
「そういうレベルの問題じゃないわよ、判ってるくせに」
「判らないねえ」
「それじゃあ言うけど、あたし、とっさにお兄ちゃんが犯人なんじゃないかと思っちゃったわよ、それぐらい凄い強ばった顔──」
由美子は途中で言葉を呑んだ。兄が見る見る青ざめたからだ。
「お兄ちゃん」呟くと、由美子の口のなかからビールの味が消え、苦みだけが残った。
「お兄ちゃんたら、なんでそんな真っ青になるのよ」
ちょっと笑った。笑えば、お兄ちゃんも笑ってくれるかもしれない。
「イヤだ、脅かさないで。ホントにお兄ちゃん犯人なの? おっそろしー」
ぽんと和明の肩を叩いた。兄が冷や汗をかいていることに気がついた。手のひらに、じっとりとした感触が残ったのだ。
「お兄ちゃん、どうしたの……」
冗談は冗談でなくなり、曖昧《あいまい》模糊《 も こ 》とした不安はもっとはっきりとした形を成す。不安が不安であるうちは幸せだ。不安の正体が見えないうちは。
和明はビールの缶を畳の上に置いた。ぶきっちょな置き方で、缶は倒れた。ぴちゃりと、わずかにビールがこぼれ、畳の上に涙の形の島をつくった。
「お兄ちゃんにも、うまく説明できないんだ」
かすかに語尾を震わせながら、和明は言った。下を向いているので、その目が今何を見ているのか、由美子には判らなかった。
「ただ、由美子に心配かけるようなことはしてない。ホントだよ。お兄ちゃんにはそんな勇気ないからな。もうちょっと勇敢ならなあ」
言葉の最後の方は、自分で自分に駄目を出しているみたいな言い方だった。
「勇敢なら……どうなの? それどういうこと?」
由美子の問いに、和明は、まずいことを言ってしまったと急に気づいたかのように、びくりと目をあげた。
「勇敢て、誰がだよ? 言っとくけども、お兄ちゃんは子供のころからこの歳になるまで、勇敢だったことなんか一度もないんだぞ」
まぜっかえされて、いつもの由美子なら怒るか笑うかするところだが、今は違った。(俺がもっと勇敢だったら)という兄の言葉の続きを、どうしても知りたかった。この言葉を口にしたときの和明は、今まで由美子が兄として認識してきた人とは違う顔をしていたから。
「お兄ちゃん、何か悩んでるの? 何かを決心したいんだけどできなくて、それで困ってるの?」
「なんだよ、真面目な顔してさ」
「ここんとこ、お兄ちゃんヘンだもの。あたし気になるんだよ」
「気になるのはオレの方だよ。おまえ、お見合いの話が先に延びちゃって、ちょっと落ち込んでたじゃないか」
「あたしは……そんなことないよ、お見合いなんて、もともとしたかったわけじゃないもの」
「そうかなあ。どっちにしろ、由美子はきっといい奥さんになるから、早く結婚した方がいいとオレも思うんだけどな」
「そんなの、お兄ちゃんに言われたくないわね」
そう言ったとき、由美子はふと思いついた。ひょっとしたらお兄ちゃんに好きな女性ができたのではないだろうか。だけどその人にうち明ける勇気が出てこなくて、だから(もっと勇敢だったら)なんて呟いたりしているのかも。
由美子は横目で兄を睨んだ。ただし、口元はわざとニマニマ笑みをつくって。
「何だよ、気味悪いな」と、和明は身を引いた。
「あたし判った。なるほどそういうことね」
「そういうことって、どういうことだよ」
「お兄ちゃん、カノジョが欲しいんでしょ。具体的に、好きな女の子ができたんでしょ。だから悩んじゃってるわけでしょ。そうでしょ?」
一瞬、和明の目が焦点を失った。由美子は間近で兄の瞳をのぞきこんで、これは当たりじゃないかと思った。
が、和明は笑い出した。ごまかしや照れ笑いではなく、どことなくホッとしたような笑い方だった。たとえば、肺炎の疑いがあると脅かされていたけど、レントゲンを撮ってみたらただのひどい風邪だった、なあんだ──というような時に、人が思わずもらす笑いだ。
「そうそう、お兄ちやんにもそういう悩みはあるんだよ。勇敢だったなら、もっと積極的になれてさ、恋人だってできるのにな。お兄ちゃんグズだから、いつも遠くから見てるだけだから、駄目なんだ」
しきりと首を振りながら、おどけたような口調でそう言うと、和明は大きな身体をよじってミニ冷蔵庫の方へ手を伸ばし、新しいビールの缶をふたつ取り出した。
「あたしはビール、もういいよ。酔っぱらっちゃうもん」
「そんなこと言わないで、お兄ちゃんに付き合ってくれよ」
和明は勢いよく缶ビールのプルタブを引いて開けると、コマーシャルに出てくるタレントみたいにぐいぐいと飲んだ。由美子はじっと兄を見つめていたけれど、さっきの質問への答が果たして兄の正直な本心なのか、今のこの態度がただの照れ隠しなのか、図星を当てたのか外したのか、どちらに対しても確信を持つことができなかった。
「お兄ちゃんの好きな女の人、どんなヒト?」
そっと尋ねると、兄はビールの泡の髭をはやした顔で、ちょっと間が抜けたみたいに口を開けた。そうして、考え考え答えた。
「そりゃやっぱり、可愛いタイプの人がいいなあ」
「髪は長い方がいい? 短くてもいい?」
「ロングヘアがいい。あ、でも、似合う人ならショートカットも可愛いよな」
「やっぱり、趣味は同じ方がいいでしょ。テレビドラママニアがいいよね」
「女の人にはあんまりそういうマニアはいないだろ」と、和明は笑う。「マニアってのは、男言葉みたいだもんな」
由美子の顔を見てはおらず、目は空の一点を見つめている。ちょうど、具体的に誰かの顔や姿を思い浮かべているかのように。誰かを想定しているかのように。ただの仮定、もしもの話をしているのではない差し迫った感じが、その視線の底にはあった。
お兄ちゃん、お兄ちゃんが好きな女の人、もしかしてあたしの知ってる人だったりするかな──由美子がそう尋ねようと口を開きかけたとき、唐突に和明は言った。
「──勇敢であってほしいよ」
「え?」
「勇気のある人であってほしい」
それは、男が女性に求める資質としては、かなり珍しい部類のものだ。由美子は合いの手の入れように困って、手渡された缶ビールを手の中で転がした。
「変な事件が起こってるからだよ」と、和明は自分で注釈を入れた。「だから、うっかりとあんな犯人の手にかかったりしないような知恵と勇気のある人がいいってことだよ。それは由美子だって同じなんだぞ。お兄ちゃん、おまえのことが心配だ」
「判ってるよ。お父さんにもお母さんにもうるさく言われてるし」
素直にそううなずいてから、でもどうしても我慢できなくなって、由美子は口を尖らせた。
「だけどねお兄ちゃん、どれほど知恵と勇気のある女だって、かなわないような悪い男もいるんだよ。連続殺人事件で殺されちゃった女の子たちだって、勇気や知恵がなかったわけじゃないよ。それでも、犯人にはかなわなかったんだよ。そういうとき、あたし、女ってすごく悲しいと思うよ。昼間も思ったの。女であるってだけで、ときどき、まるで無条件に殺されなくちゃならなくなるんだって。なんでだか判らないけど、そういう世の中なんだって」
ひと息に言い終えて、兄の反論を待った。いや反論というより、いつものように和明が(そうだよな、由美子の言うとおりだよな)(由美子はそういうことも考えるのか、お兄ちゃんよかずっとしっかりしてるな)という返事を返してくれるのを待ったのだ。
和明はゆっくりと頭を持ち上げて由美子を見ると、笑みも浮かべず、真剣な口調でこう訊いた。「そんなら、どうしたらいいと思う?」
「どうしたらって──」
「女の人が殺されないようにするにはどうしたらいいだろうな?」
今度は由美子の方がひるんでしまった。
「そりゃ──やっぱり、女性を殺したり傷つけたりする男を早く捕まえるしかないんじゃない?」
和明は、拍子抜けするほど素直にうなずいた。「早く捕まえないとな、ホントに。オレたち、安心して眠れないよな」
なんだか酔っぱらっちまったと、呆れるほど大きな口を開けてあくびをした。由美子はそれをしおに立ち上がった。
「寝る前に少し窓開けて、空気入れ替えた方がいいよ」
「ああ、そうするよ」
和明ものっそりと立ち上がる。カーテンをずらし、窓を開ける。
「じゃね、お兄ちゃんオヤスミ」
ドアのそばで振り向いた由美子は、窓際でこちらに背を向けている兄の丸い顔が、窓ガラスに映っているのを見た。そして、昼間と同じようにどきりとした。
和明は険しく歪んだ顔をしていた。由美子の目にその兄の顔は、どこの誰とも知らない狂気の画家が、高井和明というごく気の優しい男をモデルにして、自身の内側に渦巻く憤怒と絶望と恐怖をそっくりそのままモデルの上に仮託して描いた、兄に似て兄でないものの肖像のように見えた。
それからしばらくのあいだ、由美子はあれこれと考えた。和明のあの蒼白な顔。好きな女性がいるんだという、嘘か本音か判りにくい言葉。勇気のある人がいいと言ったときの、すごく切実な口調。
そうして彼女なりに立てた仮説は、やはり今の兄には心にかかる女性がいるのだということだった。和明はその人のことを本当に深く大切に思っているので、当面の凄惨《せいさん》な事件が解決せず、犯人の影も見えず、いつまた次の犠牲者が出るか判らないというこの状況下では、毎日が不安でたまらないのだ。古川鞠子のニュースにあんなに過敏に反応したのも、もしも自分の想う大切な女性が古川鞠子みたいな目に遭わされたらどうしようかと想像して、恐ろしくなってしまったからだ。
もちろん、彼が一連の事件の報道に強い興味を抱いているのも、早く解決して欲しいから、少しでも進展はないかと祈るような気持ちでいるからだろう。「もっと勇敢だったら」という言葉の解釈は難しいけれど、これはたぶん、由美子が最初に想像したとおりに、和明はまだその女性に胸中をうち明けていなくて、そんな自分を臆病だと感じているから、思わず口をついて出てしまった言葉なのだろう。うんと深読みするならば、自分にもっと勇気があり、勇敢な男ならば警官や刑事になって、この腹立たしい犯人を追いかけて自分の手で捕らえることができるのに──という意味合いが含まれていると考えることもできる。
推理したり仮説を立てては壊したりして、由美子は、こんなことしているあたしもヘンだと、自分で自分を笑うことがあった。あたしもヒマだ。お兄ちゃんのことをしつこくかまうよりも、自分で自分の頭のハエを追うべきなのに。
その次の店休日には、友達とデパートへ行こうと約束をしていた。いい気分転換にもなるし、お見合いについて親しい友達の意見も聞いてみたかったから、由美子は楽しみにしていた。ところが、出かける支度をしているところへ、自室の由美子直通の電話が鳴った。当の友達からだった。昨夜から親《おや》不知《し ら ず》が腫れてしまって、痛くてたまらないという。やっと歯医者の予約がとれたのでこれから治療を受けにいく、約束は来週にのばしてくれ、というのだった。
仕方がない、お大事にねと言って、由美子はむくれて電話を切った。その友達は由美子と違い、気楽な家事手伝いの身分で、そのくせ由美子よりはずっと贅沢にお小遣いを使っている。毎日ヒマなんだから、親不知ぐらいさっさと治療しとけばいいのにと、空に向かって八つ当たりのひとつもしたくなった。
外出用に着替えはしたけれど、まだ化粧はしていない。中途半端な格好だ。ひとりでもデパートへ行こうか、それともとっとと普段着に戻って、レンタルビデオ屋にでも行った方がましか──と決めかねていると、誰かが階段を降りてゆく足音が聞こえてきた。母は商店街に買い物に行っているし、父はさっきのぞいてみたら昼寝をしていた。あの足音は、兄に違いない。
そっとのぞいてみると、思ったとおり、和明が外出用のシャツを着て階下へ降りてゆくところだった。あのブルーとグリーンのきれいなストライプのシャツは、つい先週、母が買ってきたばかりの新品だ。
由美子はピンときた。お兄ちゃん、女の人に会いに行くんだ──一対一で会うのかグループで会うのか、その女の人のいるお店とか会社とかを訪ねるだけなのか、細かいところは判らないけど。
──そんなの、行って確かめて見れば判るんだわ。
由美子は急いで部屋に戻ると、ハンドバッグをつかんで廊下に出た。足音を忍ばせて階段を降りてゆくと、和明は玄関で靴を履いていた。由美子は頭を引っ込めた。
和明はやがて立ち上がり、ドアを開けて出て行った。由美子は階段を駆け下り、下駄箱から歩きやすい運動靴を選んで素早く履くと、ひとつ息を吐いて外へ出た。和明はちょうど、バス通りへと通じる道を左へ曲がるところだった。
由美子の尾行が始まった。
和明は練馬駅前へ行くバスに乗った。由美子は兄がバス停にいるあいだは家並みに隠れていて、彼がバスに乗り込むと、すかさず道に飛び出して通りかかったタクシーを停めた。当然ながら、駅にはタクシーの方が先に着いたので、走って駅に駆け込むと、とりあえず池袋までの切符を買い、また走ってバスのターミナルが見通せる場所まで戻った。ちょうどバスがターミナル内に入ってきたところだった。
案内板の陰に潜んで待っていると、和明が乗客たちのいちばん後にバスから降りてきた。ぼんやりとした表情で、周囲を気にしていない。少なくともこの駅や駅の近くで誰かと待ち合わせをしているということではなさそうだった。足取りもゆっくりで、格別急いでもいない。誰かを待たせているという感じではなかった。
和明は駅に入り、几帳面に小銭を数えて切符を買った。由美子は彼から十メートルほど離れてついていった。改札を抜けるときには心臓がどきどきして、汗が出てしかたなかった。たぶん十メートルでは近すぎるのだろうけれど、あんまり離れすぎて見失ってしまうのも怖い。和明がひょいと後ろを振り返ったりしないのを祈るしかない──いや、もしも見つけられてしまったら、びっくりしたフリをしてみせればいいのだ。あれお兄ちゃん、出かけるの? あたしもミッちゃんと新宿行くんだよ。何か買ってきてほしいもの、ある? そうだ、ごまかすことならできる。そしてついでに訊いてみようか、お兄ちゃん、どこ行くの?
池袋行きの電車が来た。和明は、降りてきた乗客たちを礼儀正しく脇に寄って通すと、またいちばん最後に乗り込んだ。
こうして客観的に距離をとっていると、兄の丸まっちい身体がずいぶんと大柄に見えることに、由美子は驚いた。乗り物に乗り降りするとき、兄が最後尾につくのも、その縦横に大きな身体が他の人々の邪魔にならないように、気を遣っているからかもしれない。
由美子は和明と同じ車両に、違うドアから乗り込んだ。兄は車両のなかでは前の方のドアの脇に立ち、さっきまでと同じような緩んだ表情で、車内吊り広告を見上げている。池袋につくまで、本を読むでもなく目を閉じるでもなく、ずっとそんな状態だった。
電車が池袋駅の構内に滑り込むと、由美子はあわてて移動し、隣の車両のドアから降りた。終点だから、乗客は全員降りる。今度もまた和明は、最後に降りてきた。迷ったり悩んだりする様子もなく、腕時計を見ることもなく、淡々とした足取りでホームを進んで行く。後を尾けていってすぐに、どうやら山手線に乗るらしいと、由美子は気づいた。
それでも、ホームの階段を降りて広い駅構内に出ると、行き交う人の流れに遮られて、由美子は何度か兄の姿を見失った。そのたびに、すぐに再発見して追いかけるのだが、一度など、気づかないうちにほんの二メートルほどの距離にまで近づいてしまっていて、あわてて隠れたりもした。
和明の足取りに変化はなく、急いでいる様子も、待ち合わせの相手を探すように周りを見回すこともない。やがて山手線のホームにのぼってゆき、折良く滑り込んできた電車に走って乗り込んだ。
由美子は隣の車両に飛び込んだ。危うくドアにはさまれるところだった。尾行というのは、テレビのサスペンスドラマで観るほど簡単ではない。飛び乗った山手線が内回りなのか外回りなのかも、すぐには判らなかった。
車両の後ろの窓ガラスごしに、隣の車両のいちばん後ろのドアの脇に立っている和明の横顔がよく見えた。眠たそうな顔をしている。ある目的をもってどこかを目指しているとは考えにくかった。ましてや、デートなんてありそうにないし、意中の女性の顔を見に行くということでも、どうもなさそうな感じだ。それほどに、兄の顔には緊張感がない。
和明のすぐ脇の座席には、若いカップルが仲良く並んで腰かけていた。声までは聞き取ることができないが、表情豊かに身振り手振りを交えて、しきりと話をしている。女性も男性も、ちょうど由美子と同年代のようだ。あるいは、もっと若いかもしれない。大学生ぐらい──身なりが質素だし、そうだ学生だろう。
カップルの女性の方は、ほとんど化粧もせず髪も無造作なセミロングだったけれど、可愛らしい顔立ちをしていた。由美子のいる場所からは彼女の顔がよく見えて、相手の男性の方は後頭部ばかりしか見えない。それでも、彼がガールフレンドの言葉にうなずいたり、笑ったりしている様子は、頭の後ろ側を観察しているだけでもよく判った。
羨ましいなと、由美子は思った。カップルを見て、素直にそう思うのは稀なことだ。たいていの場合、あまりに不釣り合いな組み合わせだったり、男の方がいかにもバカっぽかったり、女の方がやたらに派手そうだったりで、(なんであんなのとくっついてるのかしら)(あんなののどこがいいんだろう)とか、クサすことの方が多いからだ。そうやってクサす心理のなかにも、それでもやっぱりカップルは羨ましいという気持ちが潜んではいるのだが、(あんな男で手を打つくらいなら、独りでいた方がマシだ)という大義名分が、その後ろ暗く寂しい気持ちをうまく覆い隠してくれる。
今、あのカップルを観察していて、ストレートに(羨ましい)と感じ、それを自分で自分のなかに言葉で再構成してしまったのは、それほどにあのふたりが心地よい組み合わせで、楽しそうで幸せそうで、そして健康そうに見えるからだった。ふたりの放っているオーラの健全さは、ふたりが、お似合いの組み合わせであることを裏付けている。どちらかが無理して相手に調子を合わせているカップルからは、あんなオーラは出てこないものだ。蕎麦屋という庶民的な商売ではあるけれど、客商売の家に育ち店を手伝って過ごしてきた由美子には、経験の積み重ねで、それぐらいのことを見抜くだけの目ができていた。
なまじそんな目があり、客として店にやってくるいろいろなカップル──夫婦でも恋人同士でもその他でも──を無意識のうちに観察し続けてきたがために、かえって恋愛をしにくくなっているのかもしれない。そんなふうに考えたこともある。すると親しい友達に笑われた。そんなこと考えるのがよくないんだ、と。どんなインテリ女性だって、どんな世間知のあるオバサンだって、恋するときには恋するんだよ、いろいろ見ちゃっているから恋愛できないなんて、そんなの逃げ口上だよ、由美子。
電車ががたんと揺れて、由美子ははっと顔をあげた。和明の方を見ると、彼はさっきまでと全く変わった様子もなく、大きな身体をドアの脇の狭い空間に押し込めるようにして立っている。カップルが笑いさざめく様子も、彼らの会話も、由美子のいるところからよりもずっとよく判るだろうに、興味を惹かれないのだろうか。あるいは、うるさいなあとか思わないのだろうか。兄は今、何を考えているのだろう。
和明は、秋葉原駅で山手線を降りた。
彼の降車駅が判ったとき、由美子はとてもがっかりした。なあんだ、電気街に行くのか──
和明は、電気製品を買うなら秋葉原の電気街だと決めていて、家の近所の安売り店や、新宿の大型電気店などでは絶対に買おうとしないのだ。なんでわざわざ遠くまで行くのかと訪ねると、秋葉原は世界的に有名な電気街なんだぞと、理由にもならないようなことを答えた。
由美子は緊張が解けてしまい、急に、出がけにあわてて履いてきた運動靴が、身につけているワンピースと全然釣り合いがとれていないことに気がついた。これじゃ、まるっきり山だしだ。お兄ちゃんが出口を出るのを確かめたら、山手線に乗り直して有楽町に出て、マリオンかどこかで靴を買おう。銀座は物が高価《 た か 》いけど、まあいいや。
しかし、和明は駅の出口を出なかった。千葉方面へ向かう総武線のホームに立った。
由美子は急いで気を取り直した。総武線なんて、今まで乗ったことあったかしら。高校の時の同級生が新小岩とかいう駅から通ってきていて、総武線はチカンパラダイス電車だと嘆いていたことを思い出した。ずいぶん昔の話だけど、よく覚えていたものだ。チカンはもちろん山手線にも中央線にも西武池袋線にも出没するけれど、そのときの同級生の(チカンパラダイス電車でさあ)という言い方がいかにもあっけらかんとしていて、そのくせ、彼女の語る総武線のチカンの行状ときたらとんでもなく悪辣《あくらつ》なもので、そのアンバランスさが由美子に、特別な印象を与えたのだった。
ここでも、和明には行き先に迷う様子はなかった。やってきた電車にそそくさと乗り込むと、今度はドアの脇に立たず、真っ直ぐ進んで反対側のドアの前に立った。
由美子は同じ車両の反対の端に、吊り革につかまって立った。山手線よりは空いている。このままだと見つかってしまいそうだ。早く車両を移らなくちゃ──と思っているうちに、電車は両国駅に到着し、和明が立っていた側のドアが開いた。彼はさっさと降りた。由美子もあわてて後を追った。
古びた駅舎の両国駅は、池袋や秋葉原に比べるとずっと乗り降りの少ない駅で、和明と由美子のあいだは真っ直ぐに見通しがきく。いったん気を緩めてしまったせいもあって、由美子はなんだかくたびれてしまい、いっそ走り寄って兄に声をかけようかとも思った。だが、そんな由美子の気持ちと裏腹に、和明は足を早め、階段を降りるとすぐに駅前に停車しているタクシーの方に近づいて、そのうちの一台にあっさりと乗り込んでしまった。
由美子はびっくりした。和明はつましい人で、日頃はタクシーになど乗ったことがないのだ。練馬駅に向かうバスがどんなに遅れても、辛抱強く待っている。外出して帰りが遅くなっても、電車があるうちに帰途につき、終バスが出てしまうと、歩いて帰ってくるという人だ。
由美子もタクシーに乗った。幸い、兄の車はまだ駅前の信号に引っかかっていた。
「あのタクシーにくっついて行ってください」
指さして教えると、運転手はべつに不審そうな態度もせず、さっさとハンドルを切って和明のタクシーの後ろについた。助手席の窓を通して、前の車の後部座席に座っている和明の丸い大きな頭が見えた。
両国駅では電車のどちらのドアが開くか知っていたし、何のためらいもなくタクシーにも乗り込むし、和明が向かおうとしている場所がどこであれ、そこは彼にとって勝手知ったる場所──少なくとも、今日以前にも訪ねたことのある場所なのだろう。
由美子はどきどきしてきた。尾行は無駄ではなかったかもしれない。それにしても、お兄ちゃん、先週の店休日には何をしてただろう。どこかへ出かけていたろうか。思い出せない。こうしてみると、兄の行動範囲や外出先、栗橋浩美という特殊な幼友達を除いた交友関係など、由美子は知らないことの方が多いのだった。
練馬の家の近くと比べると、道は広いけれど、家並みは古いように感じられる町だった。団地やマンションも垢抜けないつくりだ。タクシーはぴったりと兄の車にくっついているので、見失う心配はない。由美子は、同じ東京にありながら全く知らない墨田区の町を窓の外にながめながら、出前のお客の多そうな町かなとか、蕎麦屋の数は多いかなとか、いろいろ考えたけれど、結論としてはあんまり住みたくないと思った。
やがて前方に、町場には不釣り合いなほどこんもりと繁った森が見えてきた。兄のタクシーはそちらへ向かっている。どうやら公園のようだ。入口にゲートがある。ちょうど、犬を連れた老人がひとり、ゲートを抜けて入っていった。
公園入口の前の信号のところで、和明の乗ったタクシーは停まった。ちょうど赤信号だったので、由美子の車も停まった。運転手が声をかけてきた。
「前の車は停まったよ。お客さんもここで降りるの?」
兄は料金を払っている。大きな足がにゅうとドアから出て、続いて丸まっこい身体が現れた。公園の入口の方を見ており、由美子には気づいていない。
「ううん、次の角のところまで行ってください。そこで停めて」
信号が青になった。和明が降りて空車になったタクシーと、由美子のタクシーとは、同時に走り出した。由美子は身体をよじって後ろの窓から兄の姿を探した。公園のなかに入っていく。
「運転手さん、停めて!」
タクシーはがくんと停まった。由美子は急いで料金を払った。
「ねえ運転手さん、ここどこですか?」
さすがに運転手は怪訝《 け げん》な顔をした。場所を確かめるようにちらっと横目で窓の外を見ると、釣り銭を返して寄越しながら由美子の顔を観察した。そして答えた。
「大川公園だよ」
驚きで、ちょっと言葉が出なかった。由美子の指先から釣銭が一枚滑り落ちた。
「お客さん、お金、落ちたよ!」
呼び止める運転手の声を後ろに、公園のゲートへと駆け寄った。しかし、和明の姿はもう見えなくなっていた。
「情報を求めています」
由美子は、大川公園の入口のゲートをくぐったすぐ先にある、大きな立て看板を見あげていた。白地に墨書されたもので、強調したい文字だけ朱色になっている。たいへんな達筆の人の手になるもののようで、漢字のはね[#「はね」に傍点]や返しの部分に迫力があった。
「本年九月十二日に、本公園内のゴミ箱から、切断された女性の右腕が発見されました。同時に、六月来行方不明になっていた中野区のOLの所持品のハンドバッグなども見つかりました。この事件は現在も捜査中であります。墨東警察署では、公園内で不審な行動をしている人物や車両を目撃した等の情報を求めています。事件の早期解決のために、皆さんの協力をお願いいたします」
立て看板の終わりには、墨東警察署の捜査本部の電話番号が書いてある。雨風にさらされてところどころ滲《にじ》み、かすれてしまっている。早期解決とここには書いてあるけれど、九月十二日といえば、すでにひと月も前のことだ。
由美子は看板から目をそらし、公園内部へと頭を向けた。紅葉にはまだ早く、夏の暑さに疲れすすけてしまった緑の木立は、いささか生彩を欠いているけれど、それでも東京のなかにこれだけ深い緑が集まっている場所は貴重だ。
塀の外から想像したよりも、園内には人が大勢いた。ベンチに座ったり、遊歩道をぶらぶら歩いたり、犬を連れていたり、自転車を押していたり。
園内の遊歩道は入り組んでおり、おかげで、由美子は今度こそ完全に和明を見失ってしまったのだった。見通しがいいので探せるかもしれないと、あちこち走り回ってはみたが、無駄だった。駅構内やホームの上にいる時と違い、和明のこの公園での行き先にまったく見当がつかないのだから、どうしようもない。
くたびれてしまって、由美子は手近のベンチに腰をおろした。ハンドバッグを脇に置き、両手で髪をかきあげて、ちょっと目をつぶった。
(ここが大川公園か……)
あの事件の始まった場所だ。この園内のどこかのゴミ箱に、女性の右腕が捨てられていたのだ。
(お兄ちゃん……)
和明は、ここへ何をしに来たのだろう。野次馬根性で現場を見にきたということではあるまい。そんな人ではない。それよりも、先夜のやりとりを、由美子は思い出す。古川鞠子の白骨死体発見のニュースに青ざめた顔を思い出す。
和明は、何か目的があってここへやって来たのだ。何か見たい物があったのだ。確かめたいことがあるのだ。
(ひょっとしたら……)
兄は、あの事件について何か知っているのではないのか。何か──何か関わりを持っているのではないのか。
(まさか、そんなことあるわけない!)
そのときだった、伏せた頭の上の方から、おばさんの声が呼びかけてきた。
「あらちょっと、あなた、お嬢さん!」
[#改ページ]
14
由美子は顔を上げた。すぐ目の前で、買い物帰りらしいおばさんが、あわてたように目をきょろきょろさせている。身体は半分、由美子の座っているベンチから右手の方に伸びている遊歩道と木立の方に向いていた。
「あんた、ハンドバッグをとられたわよ! 持って行かれちゃったわよ!」
はっとして隣を見ると、置いてあったはずのバッグがない。ぼんやりしているあいだに、持ち去られたのだ。
「あの、あの子──」
おばさんが、右手の遊歩道の方を指さした。目をやると、そこに少女がひとりいた。用心深そうに身体をよじってこちらを見ている。由美子と目があうと、はじかれたように走り出した。間違いなく、その腕に由美子のバッグを抱えている。
「待ちなさい!」
由美子は走り出した。垢抜けない運動靴を履いていたのが幸いし、逃げ出す女の子にすぐにも追いつけそうだった。女の子の様子はおかしかった。逃げているのだから必死に走っているのだろうに、なんだかヨタヨタしていて、足元が頼りないのだ。
「ちょっと、ちょっと待ちなさい、泥棒!」
大声で叫び、由美子は女の子の右肘のあたりをぐいとつかんだ。つかんだ瞬間に、その肘がひどくやせ細って骨張っているのを感じた。
由美子に捕まえられ、ぐいと引き戻されると、女の子はヨタヨタと尻餅をついた。勢い余って由美子も前のめりになり、膝をついて少女と一緒に地面に転んでしまった。少女は由美子の身体の下になり、ほとんど寝ころぶような格好になった。
「……もう、なんなのよ」
恥ずかしさと怒りで膝の痛みも忘れ、由美子はぱっと起きあがった。少女も半身を起こしたが、その顔は薄黒く汚れていた。今転んだために、土埃で汚れたというのではなさそうだった。
それに、彼女はひどく臭った。着ている服も垢じみている。長袖のシャツにジーンズ、運動靴はかかとのところがすり切れて穴が開いている。
少女は痩せこけていた。シャツの裾がジーンズからはみ出し、ぺたんこの腹部が見える。運動靴の下は裸足で、くるぶしの骨がつくりものみたいにはっきりと飛び出していた。
「あなた──」
ご飯食べてないの? 由美子がそう尋ねようとしたとき、少女は声を呑んで泣き出した。
地理不案内の勝手の判らない町で、しゃくりあげるように泣き続ける薄汚れた少女を抱え、由美子は困り果てた。
(泣きたいのはこっちの方だよ……)
それでもこの女の子を見捨てることができないのだから、あたしもお兄ちゃんに負けず劣らずお人好しだ、やっぱり兄妹だ。苦笑するどころではなく、自分で自分に大いに腹を立てながら、由美子はそんなふうに考えた。
「あんた、なんて名前?」
地面に倒れ伏したまま泣いている少女をどうにかこうにか助け起こし、ベンチにまで連れて行って座らせ、並んで腰かけて、由美子は訊いた。
「家はこの近所?」
少なくともここ二、三日は食事もせず風呂にも入らず、着替えもしていないであろう少女に対して、これはナンセンスな質問だった。由美子はたちまち、当の少女から猛烈な反撃をくらうことになった。
「バカ! 近くに住んでるわけがないでしょ!」と、少女は毒づいた。身も世もないように取り乱して泣いているくせに、その舌鋒はびっくりするほどに鋭い。
由美子は呆れてしまって、ちょっと言葉を失った。なんだ、この娘《こ》?
「そりゃまあ、そうだろうけど。その格好だもんね……」
言いながら、遅れてきたショックが追いついてきて、ムカついてきた。
「だけどね、あんた、せっかく人が親切に声かけてあげてるんだから、いきなり『バカ』はないんじゃない?」
少女も負けていなかった。頬を涙でてらてら光らせながら、声を張りあげる。「バカだからバカだって言ったのよ!」
しかし少女の目は、由美子を見ようとしていない。俯《うつむ》いて、足元ばかりに視線を向けている。恥じるように。怯えるように。「バカ」という痛罵《つう ば 》も、ひょっとしたら少女が自分自身をののしっている言葉なのかもしれない。だから由美子を見ないのだ。
そのことに気づいて、由美子は少し、気持ちが和らいだ。なんだかんだ言っても、この娘、あたしより十歳は年下にみえる。まだまだ子供なんだ。そして今、とっても弱り、困っている。
由美子はちょっと微笑んだ。「せめて、『バカじゃない』ぐらいにしておきなさいよ。あんた、可愛げがないね」
少女はぐいと手の甲で顔をぬぐった。依然として由美子の目から目を背けたまま、頑なに言った。「あんたなんて呼ばないでよ。あんた呼ばわりされることなんかないんだから」
今度こそ、由美子は吹き出してしまった。それに驚いたのか、少女はさっと首をよじって由美子を見た。
「あたし、『あんた』って呼んでるつもりはなかったのよ。『あなた』って言ってるつもりだったんだ」
笑いながら由美子は説明した。少女は黙っているが、いくぶん、目の吊り上がったような雰囲気が薄れてきた。
「だけどあたし、育ちが悪いから、『あなた』も『あんた』って聞こえちゃうのね。自分のこと言うときも、『わたし』って言ってるつもりで『あたし』になってるもん」
少女はまた、それが自分の義務であるかのように「バカみたい」と毒づいた。その声からは棘《とげ》が消えていた。
「ねえ、名前なんていうの? 教えてよ。そしたら、『あんた』って呼ばずに済むでしょ?」
そう訊いてから、由美子はあわてて付け足した。
「あたしは高井由美子。他人に名前を訊くときには、まず自分が名乗らなくちゃね。ついでに言っておくと、二十六歳だよ」
少女は上目遣いで由美子の顔をちらりと見た。それはとても卑しくて嫌な感じのするやり方だったけれど、まるで、生まれてこの方ずっと、視線とは他人から盗み取るものだと教えられ続けてきたかのように、少女にはそれが板についていた。
由美子はふと、高校時代のクラスメイトの顔を思い出した。素行不良で二年生の時に停学処分を受け、そのまま辞めてしまった女の子だった。彼女もよく、今のこの少女のような「かっぱらいの視線」を飛ばしていた。そして、こういう目つきをすると、人はみんな同じような顔に見えてしまうものだということにも気づいた、美醜を超え、年齢を超えて。
「名前、言いたくないの?」
「言いたくない」と、少女は素早く答えた。
「ふうん。じゃあヤマダハナコさんてことにしとこうか」
「嫌だ」
「ゼイタクねえ。じゃあ、なんか好きな偽名を決めなさいよ」
少女はまたちらりと由美子の目をのぞいた。由美子は、少女の瞳のなかに何があるか、逆にのぞき返してやろうと思った。が、監視カメラがこちらを向いているのに気づいて万引きを諦める非行少女のように、由美子の視線を感じ取ると少女は急に無表情になり、あたしは何もしていないわよと言わんばかりの、とりつくろった目になった。
「ご飯、食べてないんでしょ?」と、由美子は切り出した。「あたしには、あんたを助けてあげなくちゃならない義務はないんだから、本当ならさっさと立ち上がって家に帰っちゃってもいいのよね。だけど、それだとあたし、寝覚めが悪いような気がするの。だから、あんたが一食ご飯を食べて、ちょっとましな着替えが買えるくらいのお金を貸してあげようかと思うんだけど、どう?」
少女は堅い顔で下を見ている。歯を食いしばっているのか、妙にエラが張って見えるが、きれいな顔立ちだ。膝の上に乗せた両手がもじもじと動き、薄汚れたズボンのたるんだ生地をつまんだり離したりしている。明らかにドギマギしているのだ。それも、期待のドギマギだ。この娘はお金が欲しいのだ。助けを求めているのである。
「ただ、あたしお金持ちじゃないから、たくさんは貸してあげられない。今、お財布のなかには、小銭まですっかりあわせても二万円ぐらいしかないのよね。で、その半分を、あんたに貸してあげる」
少女が不意に顔を上げ、間違いの訂正を求めるみたいな口調で訊いた。「貸してくれるの? くれるんじゃないの?」
「よく知らない他人からお金もらうなんて、あたしは嫌なのよ。だからきっと、あんたもそういうことは嫌だろうと想像するわけ」由美子はきっぱり言った。「だからわざと、貸してあげるっていう言葉を使ってるの。だけど現実には、あげることになるんだよね。だってあたしはあんたがどこの誰だか知らないんだもの。返してもらいようがないでしょ?」
少女は大きくうなずいた。「そうよ。だから、それは変だって言ってるんじゃない。最初から返してもらう気がないんなら、どうして『貸してあげる』なんて言うのよ。言葉を入れ換えたって、そんなのゴマカシじゃない。だから大人はいい加減だっていうのよ」
由美子は驚いた。なるほど、この娘はこういうタイプの理屈を言うのか。
「いい加減て言えばいい加減かもしれないけどさ。でもね、そういう曖昧なやんわりしたことが物事をうまく運ばせるってことがあるのよ。それが世の中なんだって」
なんだかあたし、この娘の担任の先生になったような感じだわと思った。
「あんただって、あたしに、お金恵んであげるわって言われたら、嫌じゃない?」
「別にかまわないわよ。恵んでよ。だけどあんたって、ホントにバカね」
挑むように鼻先で笑って由美子を見る。
「忘れたの? あんた、あたしにバッグ盗られそうになったんだよ。それなのに、そのあたしにお金くれるの?」
由美子はわざと、大真面目に応じた。「それであんたがホロッとして、あたしの本当の名前はヤマダハナコとかうち明けて、実は家出してるのとか事情を話してくれて、それでドラマが始まるんじゃない」
意外なことに、少女は声をたてて笑い始めた。いや、由美子とて、彼女を笑わせてやろうと思って言った言葉なのだが、こういうふうに笑われるのは心外だ、と言おうか。
少女はちっとも楽しそうではなかった。そのヒステリックな笑いは、公園内の遊歩道を往来する人びとの足を止めさせ、振り返らせた。そして少女の笑い声は、そういう人びとがつられて笑い出してしまうような類のものではなかった。一度止めた足を今度は早めて、人びとは通り過ぎて行く。
出し抜けに、ずいぶん昔の出来事を、由美子は思い出した。縁日の玩具売りのおじさんのことだ。道ばたにござを広げて、スイッチを入れるとシンバルを鳴らすお猿のぬいぐるみや、耳をピクピクさせながらぐるぐる動き回るウサギの玩具を売っていた。子供たちに人気のおじさんだった。だけどあるとき、おじさんが動かして見せたお猿の玩具が壊れていて、止めようとしても止めようとしても止まらなくなった。スイッチを切っても、お猿はシンバルを鳴らし続けた。歯を剥き出し目を剥いて、うるさい音をたて続けた。必死でスイッチをパチパチするおじさんの指をすり抜けて、捕まえ直そうとするおじさんの手をかいくぐり、シンバルを鳴らすお猿は、それでもつくりものの顔だけは笑顔なのだった。最初は笑ってみていた子供たちも、だんだん静かになり、そのうちそろそろと後ずさりを始めた。由美子もそのひとりだった。幼かった由美子は、おじさんがやっと捕まえたお猿の背中のフタを開け、乾電池を取り出すところを見ていた。そして、それでもやっぱりお猿の動きは止まらないだろうと思っていた。だってあのお猿は狂っているのだから。狂ってしまうと、どんなものでもそうなるのだから。
目をギラつかせ、明らかに由美子を不愉快にさせようと笑い続ける少女の傍らで、由美子はあのときのおじさんになったような気がしてきた。
もう、長居は無用だと思った。ハンドバッグを開け、財布を取り出した。まだ崩していないきれいな一万円札を引き抜き、少女の膝の上に乗せた。
「それじゃ、これあげる。じゃあね」
少女の方を見ないで立ち上がり、そのまま歩き出した。背後で、笑い声がぴたりと止んだ。
「あたし、樋口めぐみっていうの」
少女の声が、追いかけてきた。思いの外小さな声だった。
意志に反して、由美子は立ち止まってしまった。そして、意志と相談をして、ゆっくりと振り向いた。
少女はまだベンチに座っていた。膝の上の一万円札はそのままだった。笑みの消えた頬に、涙の痕が薄黒く筋となってくっついている。
「あたしの父親、人殺しなの」
抑揚を欠いた口調で、樋口めぐみと名乗る少女は言った。告白でもなく弁解でもなく、舞台設定を説明するト書きを読むような、義務的な話し方だった。
「三人も殺したの。そのうちひとりはまだ子供だった。それで今、裁判を受けてるの。きっと死刑になるんだわ。あたしはそういう親の子供なの」
由美子は、いちばん最初に頭に浮かんだ言葉を、素直に口に出した。「そんなこと、あたしに教えてどうするの?」
樋口めぐみはかぶりを振った。「どうもしない。ただ、なんであたしがこんなとこでかっぱらいみたいなことやってるか、知ってもらおうと思って。一万円のお礼に」
「それはお礼じゃないわよ。あんたの──言い訳よ。あたしがこんなに意地悪で態度悪いのも、理由があるのよっていう言い訳よ」
めぐみはふっと笑った。「そうだね」と、初めて素直にうなずいた。
由美子は数歩後戻りして、めぐみのそばに立った。今さらのように、彼女の汚れた衣服と身体が臭った。
「お父さんがそんなことになって、それであんた、家出したの?」
「そうじゃないよ。あたしはそれほどヤワじゃないもの」
「じゃ、なんで?」
「パパが可哀想だったから、あたし、なんとかできないかと思ってパパがあんなことをしたのは、あたしたち家族を守るためだったんだ。けっして望んでしたわけじゃない。パパも追いつめられてたの。パパも被害者だったんだ。そのこと、みんなに判ってもらおうと思って」
「パパ」という単語は、樋口めぐみの本体から出たものだった。今の姿は借り物なのだ。本体は育ちのいい娘さんで、おそらく何不自由なく育てられたのだろう。由美子はそれを感じ取った。
「この公園の近くに、パパの殺した──殺しちゃった人の子供が住んでるの」
「子供?」
「うん。だけど小さいわけじゃないわよ。あたしと同じくらい。あいつ高校生だもの」
「じゃ、あんた、その高校生に会いにきたの?」
「そうよ。あいつに、パパに会って欲しかったの、パパに直接会って話をすれば、パパの気持ちが判って、あんなことしたのも仕方なかったって判って、どんなに反省してるか判って、きっと許してくれるはずだから。そしたら、裁判でもパパが有利になるからさ。だけどあいつ逃げちゃって……、家の人もあいつの店場所を教えてくれないし。それに汚いよ、あいつったらパパの弁護士に手を回してさ。あたし、あいつに会いにいかないようにって、弁護士に叱られたの。ママにもそう言われて、それで頭きちゃって、家出したのよ」
由美子は唖然として、樋口めぐみの顔を見つめ直した。この娘はけっして頭が悪いわけではなさそうなのに、自分の言い分が、どれほど利己的で自己中心的で破壊的なのか、まったく判っていないのだ。この血の巡りの悪さは、いったいどこから来ているのだろう?
「あいつに会わせてくれるまでは帰らないって、ずっと頑張ってきたんだけど、やっぱりお金ないと辛いね」
由美子の気も知らずに、樋口めぐみは苦笑混じりに続けた。
「かっぱらいをやったのも、さっきが初めてじゃないの。ここで野宿もしたし。だけど、お腹は空くし身体はかゆいし」
「諦めて、お母さんのところに帰りなさいよ」
やっとの思いで、由美子はそれだけ言った。また、後ずさりをしたい気持ちになってきた。
「その高校生、被害者のお子さんね、何年待ってもあんたのお父さんには会ってくれないと思うよ。だから帰った方がいいよ」
樋口めぐみは、鋭く顔をあげた。由美子に一歩近づいた。
「なんで? なんでよ? そんなの不公平じゃない」
由美子は一歩|退《ひ》いた。「不公平?」
「そうよ。パパだって好きで強盗なんかやったわけじゃないんだ」
それはあんたの側の理屈でしょ──口元まで言葉が込みあがっていたけれど、由美子は我慢した。もう、早くこの場を立ち去ることしか考えられなくなってきた。そもそもこんな公園なんかに来たこと自体、とんでもない間違いだったのだ。
「あのころパパがどんなに追いつめられてたか、誰も判ってくれやしない。パパの気持ちを聞いてくれようともしないのよ。ひどいじゃないの。いくら悪いことをしたからって、問答無用で死刑だなんて、あんまりじゃないの」
目尻の線を鋭く尖らせて、樋口めぐみは言い募る。目の前の由美子の存在をすら忘れているかのように、唯我独尊に激している。
由美子はちらっとあたりを見回した。通行人たちは、こちらに怪訝《 け げん》そうな視線を投げ、足早に通り過ぎてゆく。めぐみが彼女だけの悲嘆と激怒の世界にはまりこんでいるうちに、由美子も逃げだそうと思った。こんな娘、どうなったってかまうもんか。あたしはお兄ちゃんを追いかけてきたんだ。あたしが心配するべきはお兄ちゃんのことだ。
由美子はそっと踵を返し、横目で、めぐみの目があさっての方向を──彼女の目には、彼女の父親を不当に責め立てているという「社会」が、そこに見えているのだろう──向いていることを確かめつつ、そろそろと公園の出入口のゲートへ向かった。めぐみから離れるに連れてどんどん早足になっていく。花が咲き終えて寂しい感じになってしまったコスモスの花壇を回り込み、駆け出して外へ出ようとしたとき、めぐみが置き去りにされたことに気づいたのか、大声をあげるのが聞こえてきた。
「ひどい! なんで逃げるのよ!」
なぜと問われて理由を答える義務もない。由美子は走り出した。状況がよく判らないうちは封じ込められていた恐怖心が、ここに至って由美子を急襲した。強盗殺人犯の娘! その言葉がやっと、実体感を備えて由美子のなかに認識された。あの変な女の子は人殺しの娘なんだ! 関わっちゃいけない!
めぐみは何かわめきながら由美子を追いかけてきた。由美子は必死に走った。ここでも運動靴が威力を発揮した。空腹でふらついている樋口めぐみは、今の由美子の脚力に追いつけるはずもない。もうすぐ、由美子はゲートの手すりをかすめて外へ出ることができる。出たらすぐにタクシーを拾ってここを離れよう──
突然、樋口めぐみが金切り声を出した。「人殺し! あんたは人殺しよ!」
ぎょっとして、由美子はつんのめるようにして立ち止まり、後ろを見た。由美子に置いてけぼりにされた樋口めぐみは、コスモスの花壇の脇にへたりこみ、両手を地面についてぜいぜいあえぎながら、顔を歪めて声を限りに叫んでいる。振り向いた由美子に気づくと、それに勢いを得たのか、手を挙げて由美子を指さし、周囲の人びとに呼びかけるような口調になった。
「皆さん、あの女は人殺しです! 困っている人を見捨てて平気な残酷な女なんです! 血も涙もない殺人者なんです!」
呆れて物も言えないというのは、まさにこのことだった。由美子は唖然と口を開いた。
すぐそばで、笑い声がはじけた。出入口のゲートの向こうの歩道を通り過ぎて行く、ふたり連れの若い女性たちだった。制服を着て、きちんと化粧をして、きれいな顔をしている。彼女たちの目から見れば、由美子も樋口めぐみも同じような「変な女」に見えるのだ。
珍しそうに由美子と樋口めぐみの顔を見比べながら通り過ぎて行く人たちの姿が、急にはっきりと意識された。泣きたくなってきた。なんてみっともない。なんて恥ずかしい。どうしてあたし、こんな目に遭うの?
「やめてよ」
その場に突っ立ったまま、由美子は呟いた。大きな声が出せなかった。
「おかしなこと、言わないでよ」
その声が聞こえたのか、あるいは単にエネルギーが切れたのか、はあはあと息をあえがせながら、樋口めぐみは叫ぶのをやめた。その目は挑戦的に由美子を睨みつけている。それはもう、あのかっぱらうような視線ではなく、今や完全に「強奪」の目だった。樋口めぐみは由美子の心の平安を奪い取り、詳しくは判らないが彼女を苦しめている何物かを、由美子にも押しつけようとしているのだった。
そのとき、女の声が呼びかけてきた。「樋口さん?」
由美子は目を上げて、声の主を探した。コスモスの花壇の左手の方から、淡いブルーのセーターに白のコットンパンツという服装の、すらりとした女性が近づいてくるのが見えた。由美子のいるところからも、彼女の髪にちらほらと白髪が混じっているのが見てとれる。だが、顔は若々しい。まだ四十そこそこだろう。
「樋口さん?」と、その女性はもう一度めぐみに呼びかけた。親しみのこもった口調ではなかった。救助者の口調ではなかった。だが、彼女の表情は、どちらかと言えば、暴れている犯罪者を取り押さえにきた警官よりは、病人を迎えに来た救急隊員のそれに近いものだった。
樋口めぐみは、彼女の名を呼ぶ女性の方を見上げた。途端に、その顔がまた凶器のように尖った。
「なによ、何しにきたのよ!」
ブルーのセーターの女性は、めぐみのヒステリックな詰問には答えず、由美子の方を見た。どうやら、さっきまでの由美子とめぐみのやりとりを──めぐみの起こした騒ぎを──聞いていたらしい。
「お知り合いですか?」と、その女性は訊いた。由美子は急いで、しゃにむにかぶりを振った。
「そう……」ブルーのセーターの女性は、顔を歪めて樋口めぐみを見おろした。めぐみは、バカにするように顎をひとしゃくりすると、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「近所の方が、あなたがこの公園で騒いでるって知らせてくれたのよ」と、ブルーのセーターの女性は言った。優しい口調ではなかったが、努めて穏やかな声を出そうとしているのか、とてもゆっくりとした話し方になっていた。
「見ず知らずの方に迷惑をかけるようなことがあったらいけないと思って、来てみたの。だけど、手遅れだったみたいね」
ちらっと由美子の方に、申し訳なさそうな視線を投げて、それからまためぐみを見おろすと、女性は続けた。
「本当は、あなたが何をしようが、わたしたちには関係ないんだけどね。だけど、行きがかり上は、わたしがあなたを取り押さえないことにはどうしようもないでしょう? いい迷惑なんだけど」
めぐみは、噛みつくように言い返した。
「あんたが真一を隠すからいけないんでしょ? 真一が逃げるから悪いんじゃないの!」
ブルーのセーターの女性の顔を、素早いが隠しようのない怒りがよぎった。
「真一はわたしたちの息子です。あなたに呼び捨てにされる覚えはないわ」
「あんな人間のクズ、呼び捨ててたくさんよ」
きっぱりと、ブルーのセーターの女性は切り返した。「人間のクズは、あなたの父親の方だと思うわね。あんなひどいことをしていながら、罪を逃れようとして、あなたに指図して、こんなことをやらせているんだもの」
樋口めぐみは飛び上がった。そして文字通り、ブルーのセーターの女性に襲いかかった。
「パパはあたしに指図なんてしてないわ! パパは人間のクズなんかじゃない! 謝りなさいよ! パパに謝りなさいよ!」
しかし、その急激な動作で、今度こそ、樋口めぐみは肉体的な限界点を超えてしまった。ブルーのセーターの女性の胸ぐらをつかもうとして伸ばした手が、相手に避けられて空を切ると、めぐみはそのままフラフラと女性の腕の中に倒れかかった。不衛生な土気色をしていた彼女の顔が、見る見る紙のように白くなってゆく。
めぐみは気を失った。ブルーのセーターの女性は、大きなゴミ袋を抱えるようにして、めぐみの骨張った身体を抱きとめた。そして、そのままの姿勢で言った。
「ごめんなさい。何かこの人が悪さをしたようですね。この人のことはわたしが警察へ突き出すでもして処理しますから、どうぞお気になさらず、いらっしゃってください」
しかし由美子のなかのお人好しの血は、由美子があれこれ考える以前に、勝手にくちびるを動かし声を発した。
「でも、おひとりじゃその娘さんを運べないでしょう?」
「大丈夫、何とかします」
何とかできるようには見えない。ブルーのセーターの女性は、背丈こそ高いが、かなり痩せぎすで、しかも彼女もまた、病み上がりのように血色が悪かった。
ため息と共に、由美子は進み出た。「あたし、お手伝いします。どこへ運んでいきますか?」
ブルーのセーターの女性は、石井良江と名乗った。
由美子は彼女を手伝い、気絶した樋口めぐみを、大川公園から歩いて十分ほどのところにある石井家まで運んでいった。めぐみは痩せこけており、さして重くなかったが、石井良江はひどく大変そうで、道中の大半は、由美子がめぐみを背負っていくことになった。
石井家は、建てて四、五年というところの、洒落た二階家だった。玄関のドアを開けてめぐみを運び込むとき、石井良江は、なんとも言えない辛そうな表情を浮かべた。由美子が、めぐみをどこに寝かせようかと尋ねると、最初は「居間へ」と言い、あわてて「二階が……」と言い換え、「だけど二階じゃあがるのが大変だし……」と戸惑い、決めかねて途方にくれたような目をした。由美子は、石井良江にとって、樋口めぐみをこの家に入れること──めぐみにこの家の敷居をまたがせることは、実はたまらなく嫌なこと、避けたいこと、いっそ罪深くさえある行為なのだと感じ取った。
結局、樋口めぐみは居間の隣の小さな予備室のようなところに寝かされることになった。絨毯《じゅうたん》を敷いた床の上に、頭の下にクッションをあてがって寝かせ、身体の上に毛布を掛けた。真っ白だっためぐみの顔色も、運んでいるうちに元の土気色に戻っていた。息づかいも安らかで、気絶しているというよりは、熟睡しているという感じに見える。
作業が終わると、良江は由美子に丁寧に礼を述べた。そして由美子は、大川公園での出来事を語った。良江はうなずいて、これまでのことを話してくれた。そこで初めて、高井由美子にも、石井家と樋口めぐみと、めぐみが「真一」と呼び捨てていた塚田真一という少年をめぐる一連の事情が理解できたのだった。
「そういうことだったんですか……。やっと判りました」
石井夫妻が養子の身を案じ、樋口めぐみの狂気のような要求から彼を守ろうとするのは当たり前だ。めぐみには、塚田真一に何を要求する権利もない。
「今でこそ、わたしも夫も真一と連絡をとることはできますが、最初はあの子、黙ってこの家を出て行ったんです」
疲れ果てたように両肩を落とし、リビングのテーブルにうつむいて、良江は言った。
「当時はまだ、あの子、樋口めぐみに追いかけ回されていることを、わたしたちにうち明けられないでいたものだから……。黙って家出するしかなかったんですね」
「樋口めぐみに、あんなことしないようにって、強制すること、できないんですか」
良江は目を閉じ、首を振った。「先方の弁護士さんには何度もお願いしてるんです。弁護士さんも、何度も言い聞かせてくれてるんです。だけどあの娘は誰の言うこともきかないんですよ」
「あ、そうか……。だから彼女も家出して、誰にもとめられないようにして、真一君をつけまわしてるわけですものね」
「浮浪者みたいに成り下がってね」と、良江は吐き捨てた。
「わたし、恥ずかしいですけど、今の今まで、佐和《 さ わ 》市の一家三人殺人事件のこと、知りませんでした」と、由美子は言った。「新聞とか、あまり読まないもので」
初めて、石井良江が薄く笑った。「あの事件のことを知らないという方にお会いすると、わたしたちはほっとするんですよ」
コーヒーをいれましょうと、良江が立ち上がった。由美子は固辞したが、良江はてきぱきとキッチンに入り、用意を始めた。(まだ、あたしに帰ってほしくないのかな)と、由美子は思った。
「それであの、どうなさいます?」
「どうって?」
「めぐみさん、このまま泊めることはできないですよね? そんなこと、する義理もないですよ。警察を呼びますか? それとも、先方の家族とか、弁護士さんとかに連絡しますか? ここで何かあったのか、どういう成り行きだったのか、先方さんに説明する必要があるんだったら、あたしお手伝いします。証人になりますよ。めぐみさんと石井さんだけじゃ、当事者同士だし、それにめぐみさん、何を言い出すか判らないもの。証人がいた方がいいでしょう?」
「そうね……」
石井良江はやかんをガスコンロにかけた。よく手入れされた、豪華な対面式のシステムキッチンだ。青白い炎を見つめながら、ぽつりと言った。「思い切って、警察にお願いしようかしら」
「その方が、はっきりしていいかもしれませんね。一一〇番しましょうか」
「いいえ、それより、事情をよくご存じの警察の方に電話してみます」
良江は手を拭きながらキッチンから出てきた。
「真ちゃん──真一は、大川公園事件にもちょっと関わりがあって──いえ、関わりと言っても大したものじゃないんですよ」
由美子はうなずいた。「判ります。大川公園事件のことなら、ニュースとかで知ってますから。第一発見者の高校生が、真一君なんですね?」
「そうなの……。何もあの子ばっかり、続けてこんな辛い目に遭わなくたっていいのにね」
良江はぱちぱちとまばたきをした。涙をごまかそうとしたのだと、由美子は思った。
「あの事件の捜査本部に、佐和市の事件のことも知っている刑事さんがいらして、真一のことを心配してくださっていてね。名刺をいただいたので、そこへ電話してみましょう」
ところが、運悪く、名刺の人物は捜査本部に不在のようだった。電話はたらい回しにされ、結局は少年課につながり、最終的には近くの交番から巡査を遣るから詳しい話はそちらにしてくれということに落ち着いた。
巡査はものの五分もしないうちにやってきた。居間の窓からのぞいてみると、石井家の前に自転車が停めてある。自転車で、どうやって樋口めぐみを連れていくのだろうかと、由美子はむかっ腹が立った。お役所のやることは、みんなこうなんだから。
巡査は五十年輩で、ベテランのようだった。石井良江が順序立てて話をしているあいだ、ときどきチラチラと由美子の顔を見た。あまり気分のいいものではなかった。由美子は積極的に自分の立場を説明し、質問にもハキハキと答えた。
ただ、ひとつだけ、答えに窮する問いがあった。
「それで高井さん、あんた、大川公園に何しに来たの? 練馬からわざわざ電車に乗ってさ」
由美子は言葉に詰まった。兄の和明の後を尾けてきたら、どういうわけか大川公園にたどりついてしまったんです──そんなことを言えば、和明に対して妙な疑惑を招いてしまうかもしれない。いや、誰よりも由美子自身が、兄が何故、何をしに大川公園を訪れたのか、疑問に思っているのだ。
言いよどんでいると、巡査はちょっとからかうような口調で言った。「あんたも野次馬?」
その言葉を受けて、石井良江が由美子の顔を見た。気のせいか、その視線に小さな棘が感じられた。
「よくいるんだよね、そういう人が」
由美子が何も答えない内に、巡査は続けた。
「何しろ大騒ぎになってる事件だからね。現場が見たいんだとさ。若い女の子が多いんですよ、奥さん」
終わりのひと言は、石井良江に向けられたものだった。良江は巡査の方に目を向けて、「そうですか」と素っ気なく言った。
「あたしは……違います。野次馬なんかじゃありません」
ようやく、由美子は小さな声を出した。
「友達と一緒に銀座へ買い物に行く約束をしてたんですけど、すっぽかされちゃって。すごく頭にきて……山手線に乗ってぐるぐる回ってたんだけど、どうせひとりなんだから、今まで乗ったことのない電車に乗って、降りたことのない駅で降りてやろうって。両国の駅で降りて、国技館を見て、ずっと歩いてたら公園に出たもんだから、少しベンチで休もうって思って。それだけですよ」
「なんだ、彼氏にフラれたの」と、巡査はまたからかった。どうもこの人は、頭から由美子を軽んじているようであった。
「それで、わたしどもはどうすればよろしいでしょうか」
石井良江が話を本題に戻した。
「樋口めぐみさんを、うちでお預かりするわけにはいかないんです。たとえできたとしても、気持ちとしてわたしは嫌なんです。今はあんな状態だからしょうがないですけど……。警察であの子を保護していただけませんか」
巡査はもっともらしく渋い顔をした。
「しかしねえ、保護すると言っても、酔っぱらってるわけじゃないんだから、トラ箱に放り込むわけにはいかないですしなあ」
「でもあの子は家出人なんですよ。事情はお話ししたじゃないですか! 保護者に連絡をとって、家まで連れ戻してやってください」
「それはねえ、奥さん、警察としちゃ、あなた方の言い分だけ聞くわけにはいかないしねえ。なんだか信じられないような話だし。警察が出張《 で ば 》るよりも、奥さんが先方の親に電話して、迎えに来いと言ってやった方が話が早いですよ。その方が穏便だしねえ」
石井良江は、きっと気色ばんだ。「わたしは穏便な解決なんて望んでません!」
巡査は驚いたようにまばたきをした。良江は語尾を震わせて、一気に吐き出した。
「穏便になんて、誰が思うもんですか。この子とこの子の無責任で手前勝手な母親のために、真一が、今までどれほど辛い思いをしてきたかあの子の母親に電話なんか、死んでもかけたくないんです、わたしは!」
「まあ、まあ奥さん」巡査はすぐに立ち直り、これだから素人は困るというような態度に戻った。「そう熱くなりなさんな。相手は未成年者ですよ。ほんの子供です」
石井良江は、巡査に言いこめられたのではなく、彼の無神経さに言葉を失って、あえぐように口をつぐんだ。
由美子はむかっ腹が立ってきた。石井良江の怒りや悲しみの声は、巡査に代表される「社会」というものの前で、「そんなに熱くならないで」と簡単に退けられてしまうものであってはならない。だけど現実はそうなのだ。たまらなかった。
怒りが、由美子に行動を起こさせた。顔をあげると、巡査を正面から見据えてきっぱり言った。「それなら、あたしがあの子を家まで連れていきます。あの子の父親の弁護士さんのところでもいいわ、連れていって引き渡してきます!」
巡査は気圧《 け お 》されなかった。「威勢がいいけど、あんたね──」
「あたしの名前は高井由美子です!」
「高井さん、由美子さん、どこのどういう人とも判らないあんたに、任せるわけにはいかないよ。あんた、当事者じゃないだろ」
「かっぱらいについては当事者ですよ」由美子は頑張った。「あれは立派な窃盗未遂でしょ? あたしはあの子を現行犯で捕まえたんです。あの子がああいうことを繰り返さないように、保護者のところへ送り届けたって、不思議はないじゃないですか。警察がやってくれないんじゃね」
「警察だって何もしないわけじゃない」巡査は大声で言ってから、露骨に恩着せがましい口調になった。「かっぱらいの件を事件にしようと思うなら、したっていいんだよ。だけどそれだとあんた、手間をとられるよ。なかなか家に帰れなくなるし、ご両親だって心配するよ。本当にかっぱらいがあったかどうか、公園に行って証人を探さなくちゃならないし、調書だってとるからね。あんたのためを思って、事件にしない方がいいって言ってるんだ。だいたい、あの子の言ってることが本当かどうかも、はっきりしてないんだから」
「あたしが嘘をついてるっていうんですか?」
「可能性としちゃ、そうだよね」
「なんで嘘なんか──」
由美子が怒鳴り返そうとしたとき、背後から声が聞こえた。「いいわよ、あたしひとりで家に帰ればいいんでしょ」
石井良江も由美子も、巡査も驚いて振り向いた。まだ土気色の顔をした樋口めぐみが、ドアに片手をかけ、もたれかかるようにして立っていた。
「こっちこそ、こんな家の世話になんかなりたくないわよ。とっとと出て行くわよ」
思わずという感じで、石井良江が立ち上がった。「こんな家とは何ですか!」
「こんな家だからこんな家って言ったのよ。なによ、おばさん、ふた言目には真一、真一って、あいつの親でもないくせに。赤の他人なんだろ? おせっかいであいつを引き取っただけじゃないか。パパのやったことを責める権利なんか、塚田の家族と関係のないあんたには、これっぽっちもないんだよ」
石井良江の顔が、みるみる蒼白になってゆく。彼女の身体の中の血液が音を立てて逆流する様が、由美子にも見えるようだった。
「責める──権利──ない──ですって」
「そうよ。他人なんだもの。真一を引き取ったのだって、あいつが相続した保険金目当てじゃないの? ママがそう言ってたよ」
良江は由美子の脇をすり抜けると、稲妻のような素早さで樋口めぐみに近づいた。右手を振り上げると、満身の力を込めてめぐみの頬を平手打ちした。
「──出て行きなさい」と、良江は言った。低く押し殺した声は、彼女の身体のいちばん底の底、人格を支える固い岩盤のそのまた下を流れるマグマのように、煮えたぎる怒りに熱く燃えていた。
しかし、それが限界だったようだ。良江はふらりと身体を揺らすと、蒼白な顔をさらに白くして、その場にくたくたと座り込んでしまった。あまりに激烈な感情に、疲労が重なっているであろう身体が耐えられなくなったのであろう。
由美子はあわてて駆け寄り、良江を抱き留めて手近な椅子に座らせた。
「大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい。わたし──」
良江は手を動かし、立ち上がろうとするかのように椅子の肘をつかみかけたが、全然力が入らないようだ。由美子は彼女の前に屈み込み、
「いいんですよ、ここで休んでください。この人は、あたしがちゃんと家まで送り届けます。親に会って、ちゃんと事情を話してきます」
「あんたねえ──」まだ割り込んでこようとする巡査を、由美子は肘で押しのけて立ち上がった。
「お巡りさんは引っ込んでて。石井さんの話を信じてないんでしょ? 本気で相手にしてないんでしょ? だったらもういいわよ、かまわないで!」
へへへと笑う声がした。いつの間にか戸口まで後退して、樋口めぐみが笑っている。完全に面白がっている顔だ。由美子はカッとなった。頬が熱い。
それを見て取ったのか、めぐみは逃げ出した。玄関の方へと向かってゆく。
「それじゃ、あたし行きます」
そう言って、由美子は手を伸ばし、石井良江の右手を取ると、一瞬だけ強く握りしめた。それから、身をひるがえして樋口めぐみの後を追った。家を出たところで、すぐに追いつけた。
「あんたの家、どこ?」
樋口めぐみはのろのろと歩いていた。足どりがおぼつかない。空腹で疲れ果てていることには依然として変わりがないのだから、当然だった。
「電車に乗るにしろ、タクシーを捕まえるにしろ、お金が要るでしょ? あたしが家まで一緒に行く。だから場所を教えなさい」
車の行き交う通りが見えてきた。樋口めぐみは背を向けたまま、ひと言吐き捨てた。
「あっち行け、バカ」
「そうね。あたしはバカよ。あんたなんかを家まで送っていこうとしてるんだから」
めぐみはまた言った。「スベタ」
由美子は頭に血がのぼっていたが、それでも笑った。「スベタだって。あんた、古い言葉知ってるのね? だけど、スベタはあんたの方よ。遅かれ早かれそうなるのよ。だってそうでしょ? あんた、一旦は家に帰ったとしても、また塚田真一君を捕まえようとしてあっちこっちをウロウロするんでしょ? それにはお金が要るし、あんたかっぱらいは下手だし、だからそのうち身体を売るようになるのよ。その方が確実だもん。渋谷や池袋へ行って、それらしいオヤジが近寄ってくるのを待っててごらん。カンタンに売春できるから。そういう女をスベタっていうのよ。淫売っていうのよ」
樋口めぐみは足を止めた。まだ振り返らない。
「だけどあんた、淫売になってもパパのために頑張るんでしょ? いいじゃない、何でもやりなさいよ。だけどね、あたしは、今日に限っては、何がなんでもあんたを家まで連れ帰らなくちゃ気が済まないの。だって、このままあんたを放っておいたら、次には何をやらかすか判ったもんじゃないもの。またかっぱらいをやって、そのときは、あたしみたいな足の早い若い女じゃなくて、お年寄りを狙うかもしれない。子供を狙うかもしれない。それであんたは、その狙った人に大怪我をさせるかもしれない。そんなふうに心配していたら、あたし寝覚めが悪くって困るわ。だから、あんたが泣こうが喚《わめ》こうが暴れようが、首根っこつかんで引きずってでも家へ連れて行くわよ。言いなさい、住所はどこ?」
由美子は大股にめぐみに近寄ると、肩をつかんで振り向かせた。そして素早く襟首を締め上げた。こんなことをするのは生まれて初めてだけれど、案外うまくできるもんだわと一瞬思った。
樋口めぐみは泣いていた。由美子は彼女の襟首をねじあげ、その顔を間近に見た。彼女の身体はまだ臭った。泣いているせいで、さっきよりも強く臭うような気がした。
「あんたクサいわ」と、由美子は言った。
ふたりは大川公園の前からタクシーに乗り込んだ。めぐみが後部座席の運転手の後ろに落ち着くと、車を発進させる前に、運転手は窓を開けた。
樋口めぐみの現在の住まいは、江戸川区の一之江《いち の え 》にあると言った。賃貸アパートだが、家賃や生活費は母親の実家に援助してもらっているという。
「あんた、兄弟は?」
由美子の質問に、めぐみは素直に答えた。
「いない。あたし一人っ子だもん」
「じゃ、今はお母さんとふたり暮らしなんだね? それだったら余計に、今日みたいなことをしてお母さんに心配かけちゃいけないじゃないの」
めぐみはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。「どっちみち、ママはほとんど病人みたいで、何もできないんだ」
「最近そうなったの? それとも、お父さんが事件を起こしたあと、ずっとそうなの?」
「ずっとよ。泣いてばっかりいて、ご飯も食べないし。一時は精神科のクリニックに入院してたこともあるんだ。だから今だって、家事とか料理とか全然しない。アパートのなかは豚小屋みたいよ」
ルームミラーごしにちらりと見ると、運転手は鼻にしわを寄せていた。臭いのだろう。文句を言われる前に先手を打って、由美子は言った。「ごめんなさい、この子病人で、お風呂に入れないんです」
運転手は何も言わない。だが、運転が少々乱暴なようだ。由美子はバッグからポケットティッシュを取り出し、めぐみに差し出した。
「鼻をかみなさいよ。それと、あんたの側の窓を開けて」
これまでの毒舌ぶりが嘘のように、めぐみは言われたとおりに行動した。彼女を突っ張らせ、虚勢を張らせ、周囲の人びとを攻撃させていたエネルギーも、今は尽きているらしい。一度涙を流してしまったことで、タガが外れたのかもしれないと、由美子は思った。
「あたし、お嬢様だったんだよ」
ティッシュを丸めて手の中に握りしめながら、めぐみは言った。
「パパはクリーニング会社の社長だったの。ホテルとか会社とかと契約してた、千葉県でも指折りの大きな会社で、うちはお金持ちだったんだ。あたしの通ってた高校も、私立のすごくいいところで」
由美子は笑った。からかったり虐《いじ》めたりするつもりではなく、本当におかしかったから笑ったのだ。
「お嬢様のくせに、スベタなんて言葉を知ってたんだね。今時のお嬢様は油断ならないね」
めぐみは笑わなかった。真剣といえば、今までで一番真剣かもしれなかった。先ほどまでは、単に興奮していただけだ。
「いい学校だったから、パパの事件の後、すぐに退学にされちゃった」
「学校側が退学だって通告してきたの?」
めぐみはふるふると首を振った。その仕草は、十代の娘のそれだった。妙に可憐だった。
「はっきりとは言わなかった。だって、親が犯罪を犯したから娘を退学にするなんて、人権侵害じゃない? 本人は何もしてないんだもの。だから、遠回しにいろいろ嫌がらせとかして……友達にも邪険にされたし」
タクシーの前方に大きな駅ビルと、西武デパートが見えてきた。
「あたし、この辺は初めてくるから、どこを走ってるかも判らないわ」
ちょっぴり不安になってそう呟くと、目を上げて車窓の外を見ためぐみは、すぐに言った。
「錦糸町よ……運転手さん、左折してください」
命令されるまでもないという感じで、運転手はウインカーを点滅させていた。
「新大橋通りを行けばいいの?」と、ぶっきらぼうに訊いた。
「ええ、そうです」
運転手とのやりとりでは、めぐみの声の調子が違う。昔の「お嬢様」時代の可愛らしい声音を取り戻しているみたいだった。
「あの西武デパートの外商の人が、うちに出入りしてた」と、めぐみはデパートを指さしながら言った。
「外商? 凄いじゃない」
「うん。だからお金持ちだったのよ。佐和市の家はすごく広くて、専用のトイレとお風呂のついた客間もあったのよ」
金持ちかもしれないが、そりゃ成金趣味ね──と言いかけて、由美子は黙った。しばらくのあいだ、めぐみを自由にしゃべらせてみよう。
「パパは会社が危なくなってきてからも、本当のギリギリになるまでは、あたしにもママにも何も言わなかったわ。事件が起こったのは十月だったんだけど、お正月にオーストラリアへ行く計画まで立ててたんだもの。イルカと一緒に泳ぐことのできる入り江があるって、そこへ行くの楽しみにしてたの。ジェットスキーもしようって」
高井由美子は商売屋の娘である。商売屋の家庭では、その商いの状態の善し悪しが家庭内の空気にまで強く影響してくることを知っている。会社員の家の子は、父親が左遷され、給料が以前よりも三割も削られてしまったとしても、母親がそれによる経済的ピンチを声高に嘆くのを耳にしない限り、ほとんど気づかずに生活することができるだろう。しかし、商売屋の子供は違う。店の経営の状態は、そのまま父の、母の、笑顔の大きさ、声の明るさ、動作の活発さ、それこそ箸のあげおろしからスリッパの履き脱ぎにまで現れるものだ。そこから目をそらして生活することができないのが、商売屋の子供の宿命なのである。
しかし、樋口めぐみは今、彼女の父親が、事業が傾き、強盗殺人を犯してまで金を手に入れねばならぬと思い詰めていながら、妻と娘に対しては、まったくそれと悟られぬように振る舞っていたと話しているのだ。由美子には信じがたい。同時に、父親のそんな状態にも、父親の事業のそんな危難にまったく気づかず、彼の提示するのんきな海外旅行のプランにばかり目をやっていためぐみと彼女の母親の心理状態も理解しかねる。これはどういう家族だろう? この鈍感さは何だろう? 樋口めぐみのこの無神経さが、現在の彼女の塚田真一に対する超利己主義的な振る舞いの底に横たわっているものなのであれば、めぐみを説得したり、彼女に説教をすることによって、この無謀な振る舞いを止めさせることはほとんど不可能だろう。少なくとも、由美子や石井良江の手には負えない。あの交番の巡査なんか、もっと無理だ。
「あたし、ホントに楽しみにしてたのよ、オーストラリア旅行」
由美子の内心の思いにはまったく気づかず、樋口めぐみはどちらかというと弾んだ口調で話を続けていた。彼女にとって、回想こそもっとも楽しいものなのだ。
「パパが自由の身になったら、絶対に行くんだ、オーストラリア。家族でうんと楽しむんだから」
由美子は喉元まで、言葉がこみあがってきた。あんたのお父さんは、三人も人を殺してるんだよ。その三人のなかには、無抵抗の女の子まで混じってたんだよ。あんたのお父さんが晴れて自由の身になることなんて、あるはずがない。けっして、けっして。だからもう、そんな幻想を持つのはやめて、現実をよく見なさい──
しかし、横目でちらりと見た樋口めぐみの顔は、あまりにも明るく、底抜けの希望の光に輝いていた。由美子はそれに心を打たれるというより、むしろ恐怖を感じて口をつぐんだ。現世の法律や倫理や常識とは違ったものを規範として動いている小宇宙に、この娘は住んでいる。早くタクシーがどこかに着くといい。着いて、この娘を放り出せるといい。やっぱり、あたしには抱えされない。
由美子の沈黙を黙認と、あるいは許容と受け取ったのか、樋口めぐみはよくしゃべった。ときどき忙しく運転手に道を指示しながら、早口でしゃべり続けた。内容はすべて、樋口家がどんなに仲の良い家族だったか、彼女のパパがどれほど優れた人物で、有能な経営者で、部下たちから慕われていたか、地域住民としても一目置かれ頼りにされる存在だったかということばかりだ。考えてみれば、絶えて久しく、こういう話を聞いてくれる人は居なかったのだ。抑えていたものがほとばしり出るのを、めぐみ自身にも止めようがないのだろう。
樋口秀幸は、ひとりで強盗殺人をしたわけではない。共犯者がふたりいた。ふたりとも、彼が経営していたクリーニング会社の社員だった。いわば、社長の犯罪に社員が力を貸したというわけだ。石井良江から聞いた話だけでは、ふたりの社員が自発的に手を貸したのか、社長の無言の圧迫に強制されて共犯者となったのか、そこまでは判らなかった。その点がひどく気になって、由美子はつとめぐみの弁舌をさえぎった。
「ねえ、あんたのお父さんはいい社長さんだったんだね?」
めぐみの顔が輝いた。「もちろんよ」
「だから、部下たちは強盗殺人にも協力したの? 社長がやるなら俺たちもやるって」
由美子は、めぐみが怒り出すだろうと覚悟していた。当然だ、皮肉のこもった質問なのだから。
だが、めぐみは怒らなかった。男前の議員候補の演説に感動し、彼と握手をしようと駆け寄る女性有権者さながらに、潤んだ目でじっと由美子を見つめると、由美子の手を取ろうとした。
「そうよ。パパはそれくらい人望があったんだ。ふたりとも、少しも迷わないでパパについてきたんだ。今だって、あんなことになっちゃったのは自分たちが頭に血がのぼってしまったせいで、パパは悪くないって言ってるのよ」
由美子はそろりとめぐみの手を振り払った。あわてて目をそらした。
「ねえ、道は大丈夫? ここ真っ直ぐでいいの?」
タクシーは小さな交差点にさしかかっていた。右手には古い造りの団地の灰色の棟の連なりが見える。左手にはちまちまとした商店が軒を連ねて並んでいる。
「そうね、このへんかな」
めぐみは他人事のような言い方をした。
「でも、その前にちょっと停めてくれない? ねえ、お金貸してよ」
右手を出す。さすがに虚をつかれて、由美子は反応できなかった。
「何よ?」
「食べ物を買うのよ。そこにコンビニがあるじゃない。あたし、まだお腹がペコペコなんだもの」
確かに、右手の街角にコンビニが見える。
「だったら、あたしも一緒に行くわ。買うものもあたしが選ぶ」
「それじゃイヤよ。好きなものを買うんだから」
「あんた、自分の立場がわかってるの? よくそんなワガママが言えるわね」
運転手がドアを開けてくれた。由美子が先に降り、めぐみはグズグズと後に続いた。
「急ぎなさいよ、運転手さんに悪いじゃないの」
この機を逃してはいけない。ちゃんと見張っていなくては。由美子はそのことばかり考えていた。反面、空腹でふらついている樋口めぐみのことだから、そう極端なことをやるとは思っていなかった。
「いちいちうるさいわねえ」
のろくさい口調でそう愚痴ったかと思うと、めぐみはいきなり歩道に向かって由美子を突き飛ばした。両腕に渾身《こんしん》の力を込めて、容赦なく突き飛ばした。不意をつかれて、由美子にはどうすることもできなかった。身体をよじるようにしてコンクリートの歩道に倒れ、間の悪いことに、そこに自転車が走ってきた。あわてて避けてくれたからぶつからなかったけれど、由美子の頭のなかはパニックで真っ白になった。悲鳴さえ出ない。
「お嬢さん、大丈夫か?」
ドアを開けて、運転手が飛び出してきた。自転車の主は肩越しに由美子を振り返っただけで走り去った。
そんなことより──めぐみは? めぐみはどこに行った?
「あの子、どこへ行きました?」
「角を曲がって走って行ったけど──」
運転手が指さした方へ、由美子は駆け出した。今の転倒のショックで、まだ目がチカチカする。頭を打たなくて幸いだったけれど、腰を打ったせいで足が上手く動かない。目的の街角を曲がっては見たものの、そこにめぐみの姿はなかった。
痛む腰を押さえながら、それでも由美子はあちこちかけずり回った。しかし徒労だった。ちまちまとした家々が立て込んでいる地域だ。路地も抜け道もたくさんあるだろう。
このあたりが本当に樋口めぐみの現在の住まい──母親が住んでいるところ──ではないにしても、あの口ぶりからして土地|鑑《かん》はある場所だったのだろうから、その点でも由美子は大いに不利なのだった。
がっくりと気落ちし、それから腹が立ってきた。もう少しで泣けてきそうなほどに悔しくてたまらなかった。
「どうするの、お客さん?」
運転手にはここまでの料金を払った。タクシーが走り去ると、なおさら惨めになった。このお金はまったくの無駄だったのだ。
石井さんに報告しなきゃ。謝らなきゃ。ああ、でも電話番号がわからない。また泣きそうになった。
結局、コンビニの電話から一〇四を呼び出して、電話番号を調べてもらった。幸い、登録されていた。電話をかけると、呼び出し音が三回鳴って、つながった。良江だった。
事情を話しているうちに、声が震えてしまった。少なくとも声の様子では、良江はいくぶん回復したようだ。しきりと由美子に詫び、怪我を気遣ってくれた。
「たいしたことないです」
「見ず知らずの方をこんなことに巻き込んで、本当に何てお詫びしたらいいのか」
良江も涙声になっていた。
「いいです。それより、ちゃんとできなくてごめんなさい」
「謝らないで。あなたのせいなんかじゃないんです。わたしが行くべきところだったんですから。樋口めぐみのことも気にしないで。ああいう人なんです」
石井良江は、怪我のことも気になるし、差し支えなかったら由美子の連絡先を教えてくれないかと言った。由美子は丁重にそれを断った。本当に心配しないでください、良江は、強いて押し返して尋ねはしなかった。あるいは、由美子がもうこれ以上こんなトラブルには巻き込まれたくないと、警戒していると受け取ったのかもしれない。
実際、それが由美子の本音であるかもしれなかった。
電話を切ると、コンビニで道を尋ね、最寄りの駅まで足を引きずって歩いた。腰が痛い。脇腹も痛い。それでも、手でさすると少しは楽になった。ああ本当に、頭を打たなくて幸いだった。
電車に乗ると、後悔ばかりが苦い胆汁《たんじゅう》のようにこみあげてきて、口のなかまでいっぱいになった。
あたしはなんて軽率なんだろう。不用意に他人のもめ事にくちばしを突っ込んだ。だけど、あのときはそうした方がいいと思ったのだ。そうせずにはいられなかったのだ。あの無責任な巡査の顔。威張ってそっくり返るばかりで、何の役にも立たない。
だけど、あれは本当の話だったんだろうか? 佐和市の事件て、本当にあった事なのだろうか。実は由美子の方がお人好しで、世慣れた巡査の応対の方が正解だったのではないか。石井良江の方が変人ではないのか。樋口めぐみとのあいだには、何か別のトラブルがあったのではないか。由美子は担がれたのではないのか、だって、ホントに信じられないような話だもの。被害者の遺族に、減刑嘆願書を書けと迫る加害者の家族。ありっこないじゃない、そんなこと。
そんな、人の道に外れたこと。
非現実感がぐるぐると渦巻いて、電車に揺られながら、由美子は何度か、これは夢なんじゃないかと思った。誰かに話したって、信じてもらえるような話じゃない。
でも、この腰の痛みはホンモノだ。それだけに、なおさら悔しく恥ずかしい。こうなるともう泣くどころではなく、心のなかのいちばん大切な部分が、小さく縮こまって固くなってしまうだけだった。
練馬の駅に降りると、初めてほっとした。それでやっと、涙が出てきそうな感じが戻ってきた。あまりに非日常的な体験をしたので、兄の和明の行動への不審という、手近な心配さえ一時的に心から離れていた。すっかり忘れていた。
バスを降り、長寿庵へと、足を早めた。あと角をひとつ曲がれば我が家だというところで、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。足を止めて、耳を澄ませた。こっちへ近づいてくる。
由美子はまだ知る由もなかったが、このサイレンは、これから由美子が直面しなくてはならなくなる、新たな悪夢の始まりを知らせるものだった。樋口めぐみからは逃げられても、この悪夢からは逃げられないのだった。
[#改ページ]
15
その日、栗橋薬局は朝から店を休んでいた。栗橋浩美の目から見れば、いつだって開店休業のようなさびれた店だが、この日は本当の休業だった。寿美子の具合が良くなかったからである。
栗橋浩美は二日前から、練馬のこの実家に泊まっていた。気分のいい帰還ではなかったから、ひどく苛ついていた。そのうえに、リュウマチで膝が痛むの肩が痛むのと、寿美子が絶え間なく文句を垂れているので、夜もよく眠れなくなっていた。
だから、母親が階段のてっぺんから転がり落ちたそのとき、栗橋浩美は以前は彼の部屋だった二階の六畳間で昼寝をしていたのだった。眠りは浅く、十月も半ばだというのに、毛布も何もかけずにごろ寝していながら寝汗をかいていた。夢を見ていたのだった。
夜、よく眠れないとこぼす者が、なぜ昼は眠れるのか。昼間ならば周囲に闇がたれ込めていないからだ。闇に乗じて姿を現すものどもに脅かされることがないからだ。しかし、ひとたび眠りに落ちてしまえば、眠りの世界にはやはり闇がある。さらに輪をかけて悪いことに、眠りの世界では誰でも絶対的に独りぼっちだ。だから栗橋浩美は夢を見た。そして夢のなかにはあの女の子がいた。
ピースとふたり、彼らのゲームに興じ始めると、栗橋浩美の顔は明るくなり、身体の内に自信がみなぎり、つと視線をあげるだけで世界の端の端まで見通せるような気分になり、そうしてあるとき、あの女の子もピースとヒロミのゲームを喜んで見物しているということに気づいた。女の子は楽しんでいた。以前のようにヒロミを追いかけてきて、あたしの身体を返せと要求することもない。ただヒロミの夢のなかに出てきて、あたかも彼の影の一部になったかのように、彼が右に動けば右に、左に動けば左に、前へ歩めば前に、ぴたりと寄り添ってついてくる。そうして次のゲームを待っている。
女の子が満足している──ようやく満足させることができたと気づいて、栗橋浩美は生まれてこの方初めて味わう喜びにひたり、大いなる安堵に包まれた。だけどなぜ、女の子がこのゲームを楽しむのだろう? 生まれ落ちてわずかで「生」を奪われ、名を奪われ、存在を奪われたことを恨んで栗橋浩美につきまとってきた姉の亡霊が、なぜピースとヒロミのゲームを喜ぶのだろう?
しかしゲームはあまりにも楽しく、あまりにも絶対的で、そんなことをくどくど考えるよりも、ゲームそのものに打ち込んでいた方がずっとずっと良かった。だから大して気にしなかった。ところがそれが、あいつの──カズの顔がチラチラするようになってからこっち、なんとなくおかしくなってきてしまったのだ。
カズが初台のマンションにやってきたのは、日本中が日高千秋というおバカな女子高生の死に様に、まだ大騒ぎをしているときだった。栗橋浩美はひどい風邪の治りかけているところだったが、窓からひょいと下をのぞいて、こちらの窓を見上げているカズの顔を見つけたとき、また熱があがってしまいそうになったものだ。なんであいつがこのマンションを知ってるのかと驚いたが、そういえば引っ越しのときにこき使ってやったのだった。だから場所を覚えていたのだ。愚鈍な人間ほど、こういう物覚えはいいのだろう。
あの日、栗橋浩美はすぐに窓から首を引っ込めた。カズとは視線が合わなかったが、あいつのことだ、どのみちすぐにノコノコとこの部屋まであがってきて、ドアフォンを鳴らすことだろうと思った。そして思い出していた。初めて古川鞠子の家に電話をかけて、応対した有馬義男というじいさんと話をしているとき、その様子を偶然カズに見られたということを。
路上の車のなかから携帯電話をかけていた。ふと気がつくと、バックミラーにカズのバカみたいに膨れた顔が映っていたのだ。脳を患っている象みたいな知性のかけらもない小さな目がしばしばまたたいて、浩美に笑いかけていた。
最初はどきりとした。しかし、カズは何も気づいたふうもなく、いつものようにトロい顔をして挨拶をした。何してんのと、浩美に訊いた。栗橋浩美は大いに愉快になって、誘拐して絞め殺した女のじいさんに、彼女の死体がどこにあるか知りたいかと訊いていたんだよと答えてやりたくなったものだ。
愚鈍な奴はどこまでも愚鈍で、ゲームに参加するどころか、ゲームの存在さえ知らない。カズに疑われるわけもない。だからすぐに忘れてしまった。あのときは。だが、初台のマンションを見上げるカズの顔の、思い詰めたような真面目な表情には、あのときの安堵と哄笑をひっくり返すようなものが潜んでいるようにも見えたのだ。
ガラにもなく緊張して、栗橋浩美は待った。しかし、カズは彼の部屋まであがってはこなかった。ドアフォンは鳴らなかった。しばらくしてまた窓から外を見おろしてみると、カズは姿を消していた。
高熱の後遺症で、幻覚を見たのだろうかと思った。しかし、幻覚にしても、なぜカズなんかの幻覚を見なくちゃならないんだ? 栗橋浩美は笑って笑い、また忘れた。
ところがそれから、またカズの姿を見かけたのだ。今度は初台の駅前でカズはタクシーから降りてくるところだった。浩美は急いで電柱の陰に隠れた。カズは短い足をせわしなく動かし、浩美のマンションの方向へと消えた。
栗橋浩美は出掛けるところだった。ピースと約束の場所へ。それなのに、こんなところにカズが居る。俺が出かけるのを知っていて、留守のあいだに部屋を調べようっていうんじゃないだろうな──妄想だと判っていても、カズにそんな知力や行動力があるわけがないと判ってはいても、一旦そんなことを思いついてしまうと堪らなくなり、栗橋浩美は急いでマンションに引き返した。
むろん、カズは来なかった。ドアフォンは鳴らなかった。栗橋浩美はピースとの約束に遅刻し、こってり油をしぼられた。
カズ、カズ、カズ。忌々《いまいま》しい高井和明。あのデブが、なぜ俺の周りをウロウロするのだ?
その後、ピースと夜通し次の作戦を練り、くたくたに疲れ、しかし昂揚した気分でマンションに帰ってくると、携帯電話が鳴りだした。午前九時だった。通話ボタンを押すと、カズの声が聞こえてきた。
「おはよう、ヒロミ、起きてたか?」
栗橋浩美は頭に血がのぼり、激怒のあまり吐きそうになった。すぐには言葉も出せないでいると、カズは間抜けな声で続けた。ちょっと話したいことがあるんだけど、近い内に会えないかなあ。
「俺にはお前と話したいことなんかない」
ようやく、栗橋浩美はそう言った。古川鞠子の白骨遺体をどういう形で世に出そうか、ピースと熱を入れて討論し、充実した夜を過ごしてきたばかりだというのに、なんでこんな低級な人間としゃべらなくちゃならないんだ。
「俺、心配なことがあってさ。それでヒロミと会いたいんだ。いろいろ考えたんだけど、やっぱり本人にはっきり訊いてみるのがいちばんだと思ってさ。教えて欲しいことがあるんだよ」
ぞくりとして、栗橋浩美は携帯電話を耳から離し、しげしげと見つめた。手のひらにぴったりと収まる、スマートなデザインだ。そこからカズの声が聞こえてくる──栗橋浩美に対し、何事かを要求するカズの声が。
こんなことは許せない。
「おまえに借りた金なら返すよ」
金を返す≠ニいう言葉なら、いくらでも返してやる。
「金じゃないんだ。それは……いつでもいいんだ」
カズはもぞもぞと呟いた。
「じゃあ何だよ。おまえと違って俺は忙しいんだ」
ゲームがあるから。蕎麦屋の出前持ちのお前など、生涯に一度だって参加することのできないゲームが。
「なあ、ヒロミ」と、カズは呼びかけてきた。
俺の名前を呼び捨てにするな[#「俺の名前を呼び捨てにするな」に傍点]。
「子供のころ、中学二年のときだったかな、俺に話してくれたこと、今でも覚えてるかい? ほら、俺が目の治療に通うようになったころさ、本屋の店先で会ったときに──」
なんの話だか[#「なんの話だか」に傍点]、俺にはさっぱり判らないぜ[#「俺にはさっぱり判らないぜ」に傍点]、デブ[#「デブ」に傍点]。
「ヒロミ、今でも夢を見るのかい? 追いかけてくる女の子の夢を見るのかい?」
栗橋浩美は再び手のなかの電話を見おろした。それは普通の携帯電話の形をしていた。それなのに、こんな信じられないようなことを言ってくる。
「女の子の幽霊に憑《つ》かれてるんだって、俺に話してくれたことがあったよな? 覚えてるか? たった一度きりだったけど、ヒロミ、俺にうち明けてくれたろ? 俺の目の機能の回復訓練の話をしたらさ──」
できるだけ早口でしゃべろうとするカズは、舌が回らなくなっていた。能力以上のスピードで走ろうとする鈍足の子供のように、その努力は痛々しく、愚かしく、そして──
(大笑いだぜ)
と思いながらも、吹き出すこともなく、笑顔も作れず、栗橋浩美はいきなり携帯電話を投げ捨てた。それはカーペット敷きの床の上に落ちた。
しかし電話は切れていなかった。横倒しになり、途切れ途切れにカズの声でささやき続けた。
「もしもし? ヒロミ? 怒ったのか? ごめんよ、だけど俺心配で──いろいろ──俺おまえがあの事件に──おまえのこと苦しめてる女の子の幽霊は──」
うるさい、うるさい、うるさい!
栗橋浩美の耳に、高井和明の声が突き刺さってくる。事件。あの事件。俺は心配だ。
ゆっくりと床の上の受話器を拾い上げ、「切」のボタンを押した。文字通り「切る」ために。ぶつんと音を立てて。
高井和明を。
もう一度通話ボタンを押して、ピースの電話番号にかけた。呼び出し音が一回鳴り終えない内に、ピースは出た。いつだって人を待たせることのない男。いつだって用意のいい男。
「ピース、気づかれたらしい」と、栗橋浩美は言った。ようやく、心臓がどきどきし始めた。
「誰に?」と、ピースは訊いた。必要なことだけを、的確に訊く男。
「カズだ。高井和明だ。知ってるだろ? 顔は判るだろ? 長寿庵ていう蕎麦屋の──」
「なぜだ?」と、ピースは訊いた。
「オレが──ちょっと見られた。いや、立ち聞きされたんだ。たぶん、そのせいだろうと思う。大したことないと思って、今まで黙ってた」
できるだけ急がないよう、あわてているように聞こえないよう、注意して声を抑えて、ヒロミは先ほどのできごとを説明した。
聞き終えると、ピースは沈黙した。必要な数瞬間だけ。それから言った。
「高井和明なら、ちょうどいいかもしれない。大丈夫だよ、ヒロミ。かえって面白いことになる」
「面白いって──」
「彼を利用できるってことさ。それは僕に任しておけよ。それより、今すぐにヒロミがしなくちゃならないのは、カズに電話をかけ直すことだ。そしてこう言うんだ。さっきの電話で、カズが何を言いたかったのか、見当はついてる。だけどそれについては、今はしやべることはできない。どうしてかって言ったら危険だからだ。実は自分も今、すごく危険な立場にいる──」
栗橋浩美は、急いでメモとペンを探し、言われたことを殴り書きに書き留めた。
「詳しいことを話せって言われても、けっしてこれ以上のことはしゃべっちゃいけない。カズを丸め込むのはお手の物だろ?」
「うん。それには自信がある」
実際、狼狽した心が落ち着いて、調子が戻ってきた感じがした。
「緊迫した感じを演出するんだぞ。で、電話の最後に言うんだ。おまえが疑っているようなことはない。自分は疑われるようなことはしてない。でも、とにかく今はまだ何もしゃべれないから、カズもじっと辛抱してくれ、このことは誰にも話すなよって、念を押すんだ。いずれカズにも手を貸してもらわなくちゃならなくなる、そのときには協力すると約束してくれって、頼むんだよ。このときばかりは、頭を低くして頼むんだ[#「頼むんだ」に傍点]。真剣にね」
「わかったよ。簡単なことだって」
「真面目にやるんだぞ。こちらから事情を全部うち明けられる時が来るまで、待ってくれって。そうやって時間を稼ぐんだ。今ここで大切なのは、カズのあのお粗末な頭のなかにある考えを、あいつの頭のなかだけに封じ込めておくことだ。それには脅かしたりシラを切ったりするより、こういうアプローチの仕方の方が効果がある。絶大な効果がね」
「カズは俺の味方のつもりらしいから」栗橋浩美は言って、クツクツと笑った。「ケッサクだろ?」
おかしな奴だ。ホントに可笑しい。なんだって、女の子の幽霊の話なんか持ち出したんだろう。それが事件とどんな関係があるというんだ?
「僕らは、近々、古川鞠子の遺体を世間にお見せする計画を立てたよな?」と、ピースが言った。
「十日か十一日か。どっちだっけ?」
「まだ決定してはいなかったんだよ。ヒロミ、これから電話をかけ直してカズと話したら、そのあとはカズのことは放っておいていい。しばらくは、勝手に気を揉ませておきゃいいんだ。だけど、遺体が出たら、カズはまた騒ぎ始めるだろう。電話をしてきたり、会いに来たりするかもしれない。そのときには、もう一歩踏み込んだ芝居が必要になる」
「どうすりゃいい?」
「それはまた、山荘で話そう。どうせ鞠子を掘り出しに行くんだから、そのときゆっくり。まあ、僕に任せてくれよ」
僕が筋書きを練り直す──
翌日には、ピースは新たな筋書きをつくりあげていた。ヒロミは彼と落ち合い、その詳細を聞き、また話し合って、さらに検討した。
再び、栗橋浩美の心に、大いなる平安と安堵が戻ってきた。そのうえに、この新しい筋書きは刺激に満ちていた。それが栗橋浩美の闘志をかきたてた。
「病み上がりのヒロミには、少し大役すぎるかな?」
ピースは笑ってからかった。しかしヒロミは笑わなかった。
自分の役柄がどれほど重いものか、栗橋浩美にはよく判っていた。カズなんかにしっぽをつかまれたのは、運が悪かったとはいえ、ヒロミの落ち度だ。ピースはそれを取り返し、このゲームをさらに面白くてスリリングなものにする趣向を編み出してくれた。栗橋浩美は、名誉挽回のためにも全力でこれに応えなければならない。
「いいかい、本当に仕掛けの準備が整うまでは、できない辛抱もしなくちゃいけないよ。下手に出るんだ。同情をかうんだ。肝心なところははっきりさせないままにね。女の子の幽霊を呼び出してみろよ。そうすりゃ、ヒロミは芝居抜きで怖がることができるだろうからさ」
ピースのこの言葉には、ヒロミは少し傷ついた。
「カズを封じ込めるんだぞ。お人好しのカズを。ヒロミのことを理解してると思いこんでいるカズを。いいね? それは君にしかできないんだ、ヒロミ」
そう、俺にしかできない。
こうして栗橋浩美は栗橋薬局へ帰ってきたのだった。両親には、一人暮らしに飽きてきたと言った。母さんの飯が食いたいと。寿美子は料理らしい料理などしたことがないのだから、こんな台詞は歯が浮きそうだが、それでも母は喜んだ。
本当は、カズの近くにいなければならないから帰ってきたのだ。カズの様子を知るためには、物理的な距離があっては駄目だ。そして密かに情報を集め、カズをこちらに引き寄せなければ。
大切な役割だった。やる気も充分だった。しかし、カズの顔がちらちらする。それと同時に、まるでカズの言葉におびき寄せられたかのように、頻繁にあの女の子が夢のなかに登場するようになった。しかも前ほど満足気ではなく、ゲームを楽しんでいるのでもなく、カズの言葉で、女の子本来の役割が栗橋浩美を追いつめることにあったのを思い出したかのようで、暗い恨みに満ちた目をこちらに向けるようになった。
だから夜は眠りにくく、昼に眠り、それでも眠りの孤独の闇のなかで夢を見る。その目と鼻の先で、寿美子が階段から転がり落ちた。
寿美子は悲鳴をあげなかった。ただ、どすんどすんという落下と衝突の音はすさまじかった。栗橋浩美は眠りのなかから引っぱり出され、いきなり現実に戻って、ぼうっとする頭を左右に振った。
「助けてぇ」と、母の泣き声が聞こえてくる。
栗橋浩美は階段の方へ走った。寿美子は頭を下に、両足を階段の上に向けて、仰向けになって倒れていた。胴の真ん中が、ひと昔前のゴーゴーダンスでも踊っているかのようにねじくれて、そのせいで二本の足が奇妙に交差していた。
「何やってんだ」
階段の上に仁王立ちになったまま、栗橋浩美は声を荒らげた。怒鳴れば、母親が起きあがってくると思った。
「助けてェ」と、寿美子は泣いた。「背骨が折れたよ。頭が──」
「親父は何してんだよ!」
その声が聞こえたかのように、父が階段の下に顔をのぞかせた。右手に新聞を持ち、額の上に老眼鏡を乗っけたままだった。
寿美子の有り様を見ると、ひええというような声をあげた。
「救急車だ! 救急車を呼ばないと」
栗橋浩美は壁を伝いながらゆっくりと階段を降りていった。母に近づくのが嫌だった。スカートがめくれ、下ばきがむき出しになった寿美子の下半身も、歪んだ角度でにょっきりと突き出している不格好な足も、まともに見られるものではなかった。
「死んじゃうよ……ヒロミ、母さんは死んじゃうよ」
泣きながら、寿美子は言った。
「ヒロミが迎えに来るんだよ……母さんを迎えに来るんだよ」
階段を降りようとしていた栗橋浩美は、母親を足元に見おろしたまま、ぎくりと足を止めた。寿美子の太ってたるんだ顎の先が天井を向いており、彼女が泣き声をあげるたびに、それがぷるぷる動いた。
「ヒロミが来るんだよ……。浩美、お母さんはここだよ、あんたどこにいるんだい」
「俺はここにいるよ」
階段の途中に仁王立ちになったまま、栗橋浩美は大声で言った。しかし寿美子は不格好な足を彼の方にむき出しにしたまま、力無く泣き続けるだけだった。
「ヒロミ、お母さんはここだよ」
寿美子の呼ぶ「ヒロミ」が自分のことではないことぐらい、栗橋浩美にもよく判っている。だが、怒りを抑えるのは難しかった。なんでこうなんだ。なんでお袋は、いつまでもいつまでもバカみたいに死んだ赤ん坊にしがみついてるんだ。なんで何かというと死んだ赤ん坊を持ち出すんだ。
わざとやってるんだ。俺を苦しめるために。嫌味でやってるんだ。
栗橋浩美は階段を数段降りると、倒れている寿美子の右の腰を思い切り蹴った。反動で彼自身がよろめき、階段から落ちそうになるほどの勢いで蹴った。寿美子はギャッと叫び、身をよじりながら階段をずり落ちて、頭が階下の床に当たるごつんという鈍い音がした。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。どんどん近づいてくる。今にも赤い回転灯が見えるだろう。店先で父が「おおい」と呼んだ。大きな声だが、腹に力が入ってないので変なふうに甲高く裏返っていた。
「救急車が来たぞぉ」
寿美子は気絶してしまったのか、動くとまた蹴られると思って警戒しているのか、ボロ雑巾みたいによじれた格好のまま、ぴくりとも動かない。栗橋浩美は息を切らしていた。急に膝から力が抜けたようになって、階段の途中に腰をおろした。そしてふと、背後に気配を感じて、階上を振り仰いだ。
そこに、あの女の子が立っていた。今まで見せたことのない表情が、そこにあった。それは大人の男のニヤニヤ笑い、俺は知ってる、俺が知ってることをお前は知ってる、俺が知ってることをお前が知ってるってことを俺も知ってる、だから仲良くやろうぜというあのニヤニヤ笑いだった。
少女の口が動いて、言葉を形づくった。
──人殺し。
やがて階段の下まで駆けつけてきた救急隊員は、倒れている怪我人のすぐそばに座り込み、二階を見上げている若い男の存在に不審を感じた。
「まだ上にも誰か怪我人がいるんですか?」
と、隊員のひとりが声をかけた。
栗橋浩美は答えなかった。救急隊員は思わず彼の肩に手を置いた。
栗橋浩美は震えていた。震えながら、ニヤニヤ笑っていた。俺は知ってる、お前は俺が知ってるってことを知ってる、俺が知ってることをお前が知ってるってことを俺も知ってる、だから仲良くやろうぜ──
寿美子は死ななかった。
背骨も折れてはいなかった。階段からまともに転がり落ちたにしては、ずいぶんと軽い怪我だった。なるほど頭も打ったし、肩の靱帯《じんたい》をのばしてしまったらしいし、腰には痣があるし、身体中の痛みがひどくて自力ではトイレに行かれない状態だったが、それでも医師は「不幸中の幸い」と言った。
「右の肋骨《ろっこつ》にひびが入っていますが、肋骨で良かった、頭を打たなくて幸いだったと思って下さい」
栗橋浩美は、階段から落ちた直後、母親がわけのわからないことをしゃべったと、医師に告げた。レントゲンとかじゃ判らないような脳の傷があるんじゃないですか。
医師はにこやかに笑った。丸顔で穏和な、親切な医師だった。
「脳波もとりましたが、異常はありません。ですから大丈夫だと思いますよ。落下した直後におかしなことを言ったというのは、たぶんショックのせいでしょう。外科的な治療はいろいろ必要ですが、大事にはならないと思います。お母さんは運が強い。あまり太っておられないのも幸いしたんでしょうな。身が軽かったんです」
医師が母親の頭の中身を疑ってくれれば、彼女をずっと病院に閉じ込めておくことができるのに。栗橋浩美は残念だった。
大部屋が空いていないとかで、二人部屋に入れられた。担ぎ込まれてからずっと、あそこが痛いのここが痛いのと文句と泣き言ばかりを並べてきた寿美子は、親切な看護婦が病室を出ていくと、途端に悪口を言い始めた。本当はもっと安い部屋が空いてるはずなのに、金をとろうと思ってこんなところに入れるんだ。医者の言うことなんか信じられるもんか。
相部屋の入院患者は、一見してほとんど寝たきりであるらしいと判る、小柄な老女だった。頭の下にあてがわれている枕の方が、彼女の身体より大きいだろう。酸素マスクを着け、身体のあちこちに透明な管を生やして、とろとろと眠っている。
「あんまり大声を出すなよ。隣の人に悪いじゃないか」
栗橋浩美は寿美子を叱った。寿美子は口を尖らせて、あたしだって怪我人なんだとわめいた。
「怪我人ならおとなしくしろよ」
「我慢できないほど痛いんだよ」
寿美子は哀れっぽく目をしばたたいた。
「ああ、これだから男の子なんてつまんないんだよ。こういうとき、ちっとも頼りになりゃしない。女の子がいればよかったのに」
父は入院の手続きのために、受付に行ったばかりだ。こういう病院の窓口はいつも込み合っているから、二、三十分は帰ってこないだろう。栗橋浩美は寿美子の口元を見おろし、こいつの顔を枕で押さえつけて殺すのに、どれくらいの時間がかかるのかなと思った。そこへ看護婦が入ってきたので、急いで愛想笑いを浮かべた。
看護婦は美人だった。ピースが以前、白衣を着てたらどんな女も三割増しに見えるんだと言っていたことがあるが、この看護婦は本物の美形だった。そして、栗橋浩美の知っている誰かを思い出させた。誰だろう?
「血圧を測りますね」
看護婦が寿美子の腕に圧迫帯を巻き付ける。そのあいだも、柔らかな微笑みを絶やさない。「ごめんなさいね、うちの不躾《ぶしつけ》な息子が看護婦さんの顔をジロジロ見てる」と、寿美子が言った。看護婦はさっと顔をあげて、栗橋浩美を見ると、おかしそうに笑った。
栗橋浩美は思いだした。この看護婦が誰に似てるか判った。あの、八王子のOLだ。古川鞠子の次に捕まえた、ちょっと小柄な女だった。古川鞠子ほど気丈なところがなくて、泣いてばかりいたのでピースがうんざりしていたっけ。
「ホラ、看護婦さんが気味悪いってさ。あんた外へ出ていなさい」と、寿美子がなじって言った。看護婦は笑って、気にしないですよと浩美に言った。
「わがままなお袋なんで、ガミガミうるさいけど、すみません」と、栗橋浩美も笑顔で応じた。看護婦の態度には、彼に対して好意的なものがあった。当然だと思った。栗橋浩美には魅力があるのだ。それが判らないのは、通じないのは、寿美子だけだ。
その方が看護婦に対して効果的だと思ったから、栗橋浩美は病室を出た。廊下の突き当たりまで行くと喫煙室があり、誰もいなかったので椅子に腰をおろして煙草を吸った。
八王子のあのOLは、あんなきれいな指をしていただろうか。あんまり印象に残っていない。恋人からもらったというルビーの指輪をはめていて、それを取り上げないでくれと懇願した。もちろん取り上げたりしないよと、優しく言ってやった。彼女を部屋に連れていこうとすると、ピースが顔をしかめてやめろと止めた。生理中だよという。なんで判るか不思議だった。嫌な臭いがするじゃないかと、ピースは言った。感じないのか? ヒロミは鈍感なんだね。そう鈍感だった。べつにかまいやしない。女にも言ってやった。妊娠する心配がないんだから、かえっていいだろ、と。女はなんとなく納得したみたいな顔をしていた。どのみち、意識を取り戻してあの山荘にいることに気づいたときから、どういう目に遭わされるか覚悟していたんだろうから、しょうがないと思ったのかもしれない。でも、彼女があまりに怯えてコチコチになっていたので、行為はちっとも面白くなかった。
わたしをうちに帰してくれますかと、女は訊いた。もちろんさと、栗橋浩美はうなずいた。怖い思いをさせてごめんよ、君がこんな素直で性格のいい女性だって判っていたら、ここへ連れてきたりしなかったのに。俺たちは性悪な女を懲らしめるためにこういうことをやってるんだからさ。
女は黙っていた。彼女はきちんとスーツを着ていた。スカート丈も長めで、化粧も薄かった。性悪な女を狙っているというのなら、最初からわたしなんかに目をつけたりしないはずです、だからあなたは嘘をついているのねと、彼女の伏せた目が栗橋浩美を非難していた。だが、口に出して抗議はしない。彼が怖いからだ。栗橋浩美は楽しくてゾクゾクした。
翌朝、彼女をあの階段の上に連れていく前に、うちに帰してあげるよと嘘をついた。だけどね、俺が君を思い出すことができるように、記念になるものが欲しいんだ。君のその指輪、俺にくれない?
いたずらに逆らって機嫌を損じてはいけない。この男の気が変わらないうちに、ここから離れなくては。女の切れ長の瞳のなかに、そういう痛ましい計算が働くのを、栗橋浩美は観察していた。女がうんというのは判っていた。彼女は手錠をされたままの不自由な格好でなんとか指輪をはずし、栗橋浩美に差し出した。ありがとうと、彼は言った。その十分後、彼女の首にロープをかけて階段の上から突き落とすときも、ありがとうと言った。すごく面白かったよ、ありがとう。
いつか、この指輪を彼女の恋人のところに郵送してやろうと、ピースは言った。劇的で、話が盛り上がるからな──
煙草を二本吸って喫煙室を出ると、さっきの看護婦がこちらに歩いてくるところだった。彼の顔を見ると、華やかに笑いかけてきた。栗橋浩美も笑顔を返した。彼女が悪い気持ちでないことは、その足取りの軽いのを見れば判った。
看護婦は喫煙室の先のエレベーターに乗り込んで行った。姿勢がよく、立ち姿もきれいだった。背中と腰の線を見て、きっと男がいるんだろうなと、栗橋浩美は考えた。彼女のあの白い指を切り落として送りつけてやったら、その男はどんな顔をするだろう?
入院の支度の細々したことを済ませ、栗橋浩美が家に帰ったのは、夜八時を過ぎたころのことだった。寿美子は文句ばかり垂れ、父はおろおろと狼狽え、急にじじむさくなって背中を丸め、母さんが心細いだろうから今夜は病室に泊まるという。本当に心細いのはどっちだか知れたもんじゃないが、栗橋浩美は喜んで承知した。俺なら独りで大丈夫だから、付き添ってやんなよ。
帰り道でファミリーレストランに入り、食事をした。満腹すると、さすがに少しくたびれた感じになって、あくびが出た。
寿美子が退院するまで、店は休みだ。シャッターが降りているかどうか確認し、戸締まりを済ませた。家に戻って風呂を沸かしながらビールを飲んでいると、電話が鳴った。
ピースだといいなと思いながら、受話器を取った。聞こえてきたのは高井和明の声だった。
「浩美かい? ああ、帰ってたんだね。おばさんが救急車で運ばれたって聞いたもんだから。具合はどうだい?」
ちんけな町のちんけな噂のネットワークとやらは、いつだって怪我人の、病人の、死人の発生を待ち受けているのだ。怪我したのは誰だ? 病気なのは誰だ? そいつは死にそうなのか? いつになったら死ぬのか?
「早耳だな」と、栗橋浩美は言った。「誰に聞いたんだよ」
高井和明──カズは、浩美の皮肉な口調に気づかなかった。みんな気づかないのだ、この町の住人たちは。
「あけぼの屋のご主人が教えてくれたんだよ。階段から落ちたんだって? おじさんが真っ青になってたって」
「たいした怪我じゃないよ。骨折もしてない。あばらにひび[#「ひび」に傍点]が入っただけだ」
「そうか、ああよかった。そりゃ運がよかったんだね」
バカなカズは、大げさに安心したような声を出した。俺のおふくろの怪我に、なんでお前が心配するんだよ。誰が心配してくれと頼んだんだよ。
カズはきっと言うだろう。だって幼なじみじゃないか。
「おじさんは大丈夫か?」
「今夜は病室へ泊まってるよ」
「そうか……」
カズは口をつぐんだ。何か考え込んでいるふりをしている沈黙だった。ふり[#「ふり」に傍点]に決まってる。高井和明には本当に「考える」という動詞がない。なぜなら彼には脳がないからだ。栗橋浩美には判っていた。
「それなら安心だな」やっとこさそう言って、また口をつぐむ。
「なあ、カズ」栗橋浩美は先回りをした。「おまえ、おふくろのことだけで電話してきたわけじゃないんだろ?」
図星だったのだろう。電話の向こうの沈黙が深くなった。やがて、ほとんど聞き取れないほどの小声で、「うん……」と返事をした。
そうだ。そうでなくちゃいけない。十一日以降、テレビがあれだけ古川鞠子の遺体帰還で大騒ぎをしているというのに、カズは連絡を寄越さなかった。その点では、この前、初めてカズの件でピースと話し合ったとき、彼が口にしていた予測は外れたように見えた。
だが、外れてはいなかった。的中していたのだ。ただピースの予測以上に、カズという人間が臆病だっただけだ。古川鞠子の遺体が出て、またぞろヒロミを問いつめたくてたまらなくなったに違いないのに──だってピースの指示通り、栗橋浩美はカズにさんざん思わせぶりな話をして聞かせ、いつかきっとすべてをうち明けるから、そのときは手を貸してくれなんて言ったのだから──それでも、他に何か口実がなければ電話をすることができなかったのだ。
いや、少しはカズに点を甘くしてやるならば、これは単なる臆病ではなく、それほどまでにカズが栗橋浩美に忠実だという証拠だとも言えるだろう。待ってくれ、今は時間をくれ、危険だから、今はすべてを話すことはできないんだ。そのときが来たら、必ず知らせるからという彼の台詞を、愚直に信じ込んでいるのだもの。
「このあいだの……」カズはぐずぐずと言い出した。
「このあいだの話、な。全部言わなくてもわかってるよ。あんな恐ろしいこと、カズは口にしなくていいよ」
顔いっぱいにニヤニヤ笑いを浮かべて、栗橋浩美は優しく言った。電話ってなんて便利なんだろう!
「俺、気が気じゃなくて」優しい言葉に宥められたのか、カズの声が少し力を取り戻した。
「つい一昨日、あの古川さんていう人の遺体が出たよな?」
「うん、出た」
さあ、ここからが肝心だ。ピースの言うもう一歩踏み込んだ芝居≠セ。
「彼女は気の毒だったよな。安らかに──って、俺も思うよ。でもカズ、心配するなよ。犯人が捕まるまでそう遠いことじゃない──もう新しい犠牲者は出ないから。それだけは、俺が保証する」
カズは一瞬、絶句した。それから急《せ》き込んで尋ねた。「どうして? どうしてそんなことが保証できるんだ?」
「俺は犯人を見張ってる」特に心がけてゆっくりと、栗橋浩美はそう言った。「奴は今んところ、マスコミ相手にゲームをすることに夢中みたいだ。そっちの方にエネルギーを全部注いでる。だから、新しい犠牲者が出る可能性はすごく少ないと思うんだ。それに、今は日本中の女どもが用心してるからな。下手なことはできないだろうよ、奴も」
また、しばしの沈黙。
「ど、ど、どうしてヒロミは、犯人を見張ったりできるんだ? 正体を突き止めたのかい? どこの誰なんだ?」
「それは、言えない」これもピースの指示どおりの台詞だった。「今はまだ言えない。はっきりした確証がないんだ。物証と言ったらいいのかな。動かぬ証拠ってヤツさ。それが手に入らない限りは、いくらカズが幼なじみの親友だからって、俺は迂闊なことは言えない」
ぬかりなく、うかうかとカズを巻き込みたくないしな、と言い添えた。
「俺なら大丈夫だよ! ヒロミひとりが危険をしょいこんじゃいけない!」
予想どおりの反応だ。栗橋浩美は、ピースが考えてくれた台詞を、もっとも効果的な間を持たせてから、口に出した。「いや駄目だ。俺はひとりだけど、おまえには妹がいる。カズを危険に巻き込むってことは、由美ちゃんも危険にさらすってことだ。だろ? 犯人は女をなぶり殺しにするのが大好きな奴なんだぜ!」
カズは黙った。おののくような息づかいだけが聞こえる。そうだよな、震えちゃうだろ、カズ? おまえの大事な大事な妹のことだもんな。
その一瞬、高井由美子を山荘へ連れ込んでやりたいという、目もくらむような激しい欲望にかられて、栗橋浩美は武者震いをした。
「俺も由美ちゃんの身は心配だ。だから、本当にギリギリのときが来るまでは、カズを巻き込みたくない。警察やマスコミにこの話を漏らさないでくれって言ってるのは、それがあるからだ。犯人は捕まりました、でもその過程で由美ちゃんが犠牲になりましたってんじゃ、俺たちにとっては何にもならない。だろ? わかってくれよ」口調だけは静かにそう言った。囁くように。
「よりによってこんなときにおふくろが入院して、俺もちょっと動転しててさ。だけど、大怪我にはならなかったし、長くても半月かそこらで家に帰れそうなんだ。それに、考えようによっちゃかえってよかったかもしれない。俺がいろいろ──その、やってることを、おふくろに余計な詮索をされずに済むし、心配もかけないからな」
親孝行のヒロミ。いいじゃないか、今のは説得力がある台詞だった。アドリブだっていけるんだぜ、俺は。
「お願いだ、カズ。俺の頼みを聞いてくれ。今は時間がほしい」
「わかった」と、カズはきっぱり答えた。小学生の正義感。信じやすい単純な脳味噌。栗橋浩美は空いている方の手で口を押さえた。吹き出さないようにこらえるために。
ピースの新しい筋書き。それは、高井和明にすべての罪を押しつけるということだ。身動きのとれないような物証──死にたてピチピチの犠牲者の遺体をくっつけて、社会に提供してやるということだ。
それには慎重な準備が必要だ。タイミングも見計らわねばならない。そして、すべての条件が揃ったときに、カズを山荘に誘い込む。無防備に、誰にも行き先は秘密に(大事な妹を危険に巻き込まないために)したまま、カズが家を出て山荘にやって来れば、あとは一本道だとピースは言っていた。
それまでは、カズを遠ざけず、近づけ過ぎず、宙ぶらりんにしておかねばならない。それには、今のような芝居がもっとも有効だとピースは言っていた。
実際、有効のようだった。きわめて有効のようだった。
「わかったよ。俺は辛抱する。でも約束してくれ。俺の力が必要なときには、すぐに連絡してほしいんだ。な?」
「もちろんそうするよ。そのときになっておまえが後込《しり ご 》みしたとしても、無理矢理にだって協力してもらうよ」
よし、うまくいった。上首尾だ。栗橋浩美は会心の笑みを浮かべた。そのときになって、受話器を握る手が汗でぬるぬるしていることに気づいた。緊張。無理もないよな? 大一番の芝居だったんだからさ。
「なあ、ヒロミ」
「まだ何かあるかい?」
「俺、今日の昼間、大川公園に行って来た」
意外な発言だった。栗橋浩美は受話器をつかみ直した。
「何しに?」
「見覚えの──ある場所かもしれないと思って」
歯切れの悪い言い方だった。栗橋浩美の心を、イライラの棘がちくちくと刺し始めた。何だ? こいつ何を言ってるんだ?
「古川鞠子さんの遺体が捨てられていた坂崎引っ越しセンターって」わざと焦《じ》らしているみたいに、カズはのろくさく続けた。「ヒロミが引っ越しのとき頼んだ会社だ。覚えてないか?」
そのとおりだった。だからあの会社を選んだのだから。
坂崎とかいうあの社長は、とことん嫌な奴だった。うちは引っ越しもやるけど、本当の仕事は便利屋だ、困っている人を助けるのが人生の目標だ──そんなことを、こっちが何も訊いてもいないのに得々としゃべくった。説教くさい口調と、偉そうなあの口つき。
そもそもは、最初の見積もりのとき、見習い社員だけじゃ心許ないからとあの社長まで一緒にやって来やがって、栗橋浩美が所定の契約書の「職業」の欄を空白で差し出したときに、あいつの目が陰険に光ったのが始まりだった。君、無職なの? 実家の仕事を継がないのかい? 若いのにもったいないな。うちにも君より若い社員がいるけど、君と違ってロクに学校も出てないけど、でも真面目に一生懸命働いているよ──
口に出してそう言ったわけではない。だが、にわかに説教臭く「人生の目的」みたいなことをしゃべりたがる坂崎社長の目の奥には、はっきりとそういう思考が浮かんでいた。挙げ句に、君みたいな若い人が引っ越し屋を頼むのは珍しい、たいてい友達が集まってやってくれるものだ、なんてことまで言いやがった。それじゃ我々は商売にならないんだけど、あはは!
だから、それまではそんなことをチラリとも思っていなかったのに、引っ越し間近になって、カズを手伝いに呼んだのだった。俺には俺の電話一本でほいほい飛んでくる友達がちゃんといるんだよ、社長さん。
あとになって、そのことを話すとピースに笑われた。そんな不愉快な業者なら、断って他所を頼めばよかったのに。でも、それではあの社長の思うつぼだから嫌だったのだ。無職であることを指摘され、恥じ入っているように見えるのが悔しかったのだ。そう言って、負けん気が強いなと、また笑われた。
最初に坂崎引っ越しセンターを選んだのは、そこが職業別電話帳に広告を載せている引っ越し業者のなかで、ダントツに安かったからだということは黙っていた。
不愉快さは消えなかった。腹立ちも内向しただけでおさまらなかった。だから、古川鞠子の遺体をどこに捨てようかという相談になったとき、坂崎社長の目と鼻の先がいいと言ったのだ。袋に入れて捨ててやろうと言ったのだ。社長には小さなガキがいると聞いていた。願わくばそのガキめらが袋を開けて、一生消えないトラウマに苦しむようになればいい。ざまあみろ、何が人生の目標だ。何が人助けだ。
蘇ってきた怒りと不快感。ニュースで見た坂崎社長の青ざめた顔。そのときの爽快感。それらがない交ぜになって、喉元までこみあげてきた。だからすぐには言葉が出てこなかった。
「──カズは、よくそんなことを覚えていたな」
やっと自分を鎮めて、そう言った。
「つまんないことは物覚えがいいんだ。オレは。ガキのときからそうだった」
「そうだな」
普通なら笑うところだが、二人とも笑わなかった。
「だから大川公園も、ひょっとしたらヒロミと──何か関わりがあるかもしれないって思って。だとしたら、今は忘れていても、その場に行けばオレも思い出すかもしれないって気がした。ヒロミが知ってる場所なら、オレも知ってるかもって」
どうしてだよ? 腹の底で、栗橋浩美は毒づいた。どうして俺が知ってる場所が、そのままおまえの知ってる場所になるんだよ? どこにその可能性があるんだよ?
「でも、何も思いつかなかったよ。子供のころに遠足とかで出かけたことがあったのかなと思ったんだけど、何も感じなかった」と、カズは続けた。「それでそのまま帰ってきたら、おばさんが救急車で運ばれたって聞いたんだ」
受話器を顔のそばから離し、大きくひとつ深呼吸してから、栗橋浩美はゆっくりとカズに問いかけた。「でもな、カズ。今の話を聞いてると、おまえ、やっぱりオレが犯人なんじゃないかって疑ってるんだろ」
思いがけないほど素直に、カズは答えた。「あの時点では──ごめんよ、まだ疑ってた。でも、さっきの話を聞いて、その考えはきれいに消えたよ」
「ありがとう」
「でも、犯人はヒロミの身近な人間なんじゃないかってことは、今も疑ってる。そうなんだろ?」
「なんでそんなことを思うんだ?」
「だってさ、坂崎引っ越しセンター──」
「ただの偶然かもしれない。あの会社は、以前からも便利屋として評判で雑誌の取材とかも受けてるようだから」
「そうだね」カズは口をつぐんだ。「でも、身近な人間じゃなかったら、ヒロミが犯人に気づくわけがない。ましてや、今はそいつを見張ってるんだろ? 様子を観察してるんだろ? 危険だというのも、そいつが身近にいるからだ」
もっともな理屈である。拍手してやろうか、高井和明君。今まで誰にも拍手パチパチなんかしてもらったことないだろ?
ついでに教えてやろうか。おまえはいいところをついてるよ。犯人は俺だけじゃなく、おまえにとっても一時は身近だったことのある人間だ。ピースを覚えてるか? 彼だよ。最初の幕開けに大川公園を選んだのも彼だ──
「とにかく、カズは何も心配するな。余計なことを考えないでくれ」
自分ではせいぜい尊大な、頼もしい口調で言ったつもりだった。高井和明の耳にもそう聞こえていると思い込んでいた。電話線の向こう側のカズが、ヒロミはまるで怯えているみたいだと感じていることなど、まったく思いもしていなかった。
なぜなら世界は栗橋浩美のまわりをまわっているのだから。この事件の幕を切って落とす前、大いなる筋書きのために女たちを殺し始める前は、不当にも、世界は栗橋浩美の存在に気づいてないふりをしていた。だが、今は違う。
「そうする。でも、いつでも連絡を待ってるよ。早く犯人を捕まえよう」
カズの真摯《しん し 》な口調が、無性に気に障った。これはおかしなことだった。上手く演じたという証拠なのに。丸め込めたという証拠なのに。
「じゃ、おふくろのことも心配してくれてありがとう」
「迷惑でなかったら、オレ、お見舞いに行くよ」
栗橋浩美は電話を切りかけた。引き留めるように、カズが呼んだ。
「ヒロミ?」
「何だよ」
「あの──女ども≠ネんて言い方は、やめなよ。ヒロミらしくない」
何のことを言われているんだかさっぱりわからなかった。ただ目の前が、まるで潮が満ちるようにぐんぐんとこみあげてくる真っ赤な激怒の海に満たされて、
「そんなこと言ったかな。疲れてるせいだろう。もともと口が悪いしな。気をつけるよ。じゃあな」
かろうじてそれだけ言うと、あえぐように息を吸い込み、電話機を床に投げつけずに済むまで、壁を蹴ったりガラスを割ったりせずに済むまで、じっと身を固くしていた。
切れた電話の向こうでは、そのとき、高井和明が手で顔を押さえ、まだ電話の脇に立ったまま、じっと俯いていた。店は休みだ。そばには誰もいない。明かりさえ消してあるから、奥の廊下の明かりが少し差し込んでくるだけだ。
その暗闇のなかで、高井和明は考えていた。闇よりもなお暗く沈んでゆこうとする心を懸命に励ましながら。考えていた。
ヒロミは、オレに嘘をついてる。
でも今はまだ、その嘘がどこから来るものなのか、じっと見極めるしかない。彼が本当にあの犯罪に絡んでいるのだとしたら──それは正しい推測だと、彼の心の底の彼が囁く──「新しい犠牲者は出ない」という言葉にも、それなりの信憑性はあるはずだ。
じっと待って、ヒロミの出方を見よう。次にどんな嘘をついてくるか、それを見極めてから動こう。チャンスは、きっとあるはずだ。
ヒロミは一人じゃない。それだけは確実だ。誰か、ヒロミを操っている人間がいる。
高井和明にとっては、一連の事件を終わらせることと同じくらいに、栗橋浩美をその人物から助け出すことも、重要なのだった。
なぜなら、それができるのは、たぶん高井和明ただ一人だけだから。
彼らは幼なじみなのだから。
[#改ページ]
16
栗橋寿美子の病院生活は、都合十日間に及んだ。しかし、入院したばかりのころには、担当医は彼女の夫に、家に帰れるまで半月ぐらいはかかるだろうと告げていた。それがここまで短縮したのは、怪我の治りが早かったからではない。理由は偏《ひとえ》に、彼女の精神状態にあった。
と言っても、最初のうちは、誰が見てもはっきりそれと判るほどの狂気にとらわれていたわけではない。ただ、非常に落ち着きがなく、不眠を訴え、絶えず「ヒロミ」という亡くした子供のことばかりをしゃべりまくるというくらいだった。だから当初は、担当の医師や看護婦たちも、階段からの転落事故のショックと、病院という日常とは違う空間での閉鎖された生活のために、少しばかり精神的に不安定になっているのであり、そのうち回復すると考えていた。だが、寿美子のこの状態は、一向に変わらず、むしろエスカレートする傾向さえあったのだった。
これはどんな病院でも共通することだが、外科病棟というのは、他の病棟と比べて雰囲気が明るいものだ。入院患者たちはおしなべて「怪我人」であり、リハビリなどで辛い思いをすることはあっても、彼らの大半は回復への目処《 め ど 》がついており、前途への希望がはっきりと見えているからである。
寿美子は、緊急入院したときに入ったふたり部屋から、翌日には、同じ階の大部屋に移った。八〇五号室の六人部屋で、寿美子はそこの六人目の患者となったのである。以前からいた五人の患者たちは、下は自転車に乗っていて乗用車に引っかけられて怪我をした中学生の女の子から、上は自宅の風呂場で転倒して腰骨を打った八十五歳の女性までという、幅の広い顔ぶれだが、やはり明るい雰囲気のなかで、それなりに仲良く入院生活を過ごしていた。
が、寿美子がここに移ってすぐに、八〇五号室の患者のひとりから、担当の看護婦に苦情が持ち込まれた。苦情の主は寿美子の隣のベッドにいる五十八歳の足立《 あ だち》好子《よし こ 》という女性で、栗橋寿美子が消灯後も一晩中ぶつぶつと独り言を言っているので、気味が悪いしうるさくてよく眠れないというのだった。
「あの人、昼間は仏頂面してて、あたしたちが声をかけても返事もしないのよ。だから気心が知れないしね。それに……」
足立好子は担当の看護婦たちと親しかったので、かなりうち明けた話をした。曰《いわ》く、栗橋寿美子は少し頭のネジが緩んでいて、彼女だけに見ることのできる幻の人間と会話をしているらしいというのである。
「子供ね、子供相手にしゃべってるのよ」
看護婦は心得ていた。寿美子が最初に収容された部屋を担当していた看護婦から、栗橋さんは昔ヒロミちゃんという女の子を亡くしていて、その子のことをしゃべりたがるからという申し送りを受けていたからである。
「ヒロミちゃんていうのは、早くに亡くしたお子さんの名前なんですよ。今でも忘れられないんでしょうね。病院の雰囲気や独特の臭いが、余計に記憶を刺激しちゃって思い出すんでしょう」
「そうかしら……」と、足立好子は考えた。彼女にはふたりの娘がおり、つい三ヵ月前に長女が出産したばかりである。おかげで好子は、初孫の可愛さをしみじみと味わわせてもらっている。赤ん坊は可愛いものだ。自分の子や孫なら、それはもう無条件で無上に可愛い。そんな愛らしくいとおしい存在を失った傷は、年月が経っても癒えないだろう。想像することはできる。
「それに栗橋さん、入院以来ずっと夜よく眠れないって言ってて、弱い睡眠薬を出してますからね。薬のせいでトロトロしてて、半分寝言みたいな独り言を言うんじゃないかしら。どうしても気になるようなら先生に相談してみますけど」
「そう、じゃあいいわよ、もうちょっと様子見てみますよ」
足立好子は基本的に気のいい女性なので、すっかり栗橋寿美子に同情的な気分になっていた。気の毒な人なんだ、あんまり気味悪がったりしてはいけない。たとえ返事をしてくれなくても、まるで無視されても、時々は声をかけたりしてみようと思った。
──だけど、それでどうなるってもんでもなさそうだけどねえ。
実際、栗橋寿美子は同室の患者たちとはまったくの没交渉で、話もしないのだった。そのくせ、看護婦や医者には、あちらが痛いこちらが痒い、熱があるの血圧が高いのめまいがするのと、機関銃のようにまくしたてる。そして医者や看護婦が立ち去ると、ぴたりと口をつぐみ、またじっとテレビに見入るか、横になってうつらうつらとする。その繰り返しだった。
大した怪我ではなさそうなのに、動くと我慢できないほど痛いといって、自力ではトイレに行かず、おまるを使うこともしばしばだ。ベッドのまわりは雑然としていて片づかず、寿美子自身も髪をとかさず歯磨きもしないので、ひどく見苦しい様子になっている。なるべくこぎれいにし、花やぬいぐるみを飾って居心地よくしようとしている他の患者たちの足を、ひとりで引っ張っていた。
足立好子は一計を案じた。声をかけても無反応な寿美子ではなく、毎日一度は彼女のところに面会に来るご亭主に、働きかけてみようと思ったのである。ひどい猫背で、病室に入って来るときも、まるで空き巣狙いのように背中をかがめて後ろめたそうに忍び入ってくるあのご亭主も、それほど愛想のいい人には見えないけれど──今までだって、来るときも帰るときも、同室のあたしたちに「妻がお世話になります」の挨拶ひとつしたことがないんだから──何もしないよりはましだろうし、やっぱり亭主も変人でどうしようもなかったとしても、その場合は、あんたの奥さんの独り言のせいでこっちが不眠症になりそうだと、文句のひとつも垂れてやれば、ちょっとは気が晴れるというもんだと思った。
しかし、栗橋寿美子のご亭主は、愛想こそ悪くなかったものの、まるでノミのように気が小さくて、お話にならなかった。いつものようにコソコソと、妻の着替えの入った大きな紙袋を持ってやってきた彼に、好子はこう声をかけた──本当に、掛け値なしにこう言っただけなのだ──
「こんにちは、ご主人もご苦労様ですね。でも優しいんですねえ、毎日いらして」
栗橋寿美子の亭主は、好子の声を聞くなりペコペコとお辞儀をし始めた。
「すみません、女房がご迷惑をかけまして、本当にすみません、こいつはちょっと変わっているもんで」
好子は面食らったが、笑ってみせた。
「そんなことありませんよ。大部屋じゃ、みんなお互いっこですから、迷惑なんて」
しかし、ご亭主はロクに好子の顔を見もせずに、頭ばかりを下げて、逃げるように部屋を出ていってしまった。そのあいだ、当の寿美子と言えば、眠っているのかそのふりをしているのか、好子の方に背中を向けて毛布をかぶったままである。
好子はすっかり呆れてしまい、本当にがくんと口を開けた。前のベッドの中学生の女の子が、顔をくしゃくしゃにして笑いをこらえながら、
「おばさん、ダメダメ」と小声で言った。ホントに駄目だねと、好子も思った。そして、しみじみと家が恋しくなった。
好子の家は印刷工場で、夫と二人の従業員と力を合わせて切り盛りしている。好子が納品の途中で衝突事故に遭い、左膝を骨折して、こうして入院してしまったことで戦力が減り、今はみんな大変な思いをしていることだろう。早くよくなって、早く帰りたい。看護婦の言っていたように、栗橋寿美子が病院に入ったことで、病院で死んだ子供のことをありありと思い出してしまい、精神的に危うくなっているのかどうかは判らないけれど、この病院独特の臭いや空気に長いこと浸かっていると、心がくじけてしまいそうになるのは本当だ。今さらのように、そのことが身にしみた。
そんな折の、ある午後のことである。好子がベッドでぼんやりとサスペンスドラマの再放送を観ていると、看護婦が廊下をバタバタと駆け出して行く足音が聞こえてきた。救急車のサイレンは聞こえないから、外来の急患でも来たかなと、考えるでもなく考えていると、またバタバタと駆けてくる。間もなく、また別のバタバタが駆け抜ける。どうやら、看護婦たちがあっちへ走ったりこっちへ駆けたりしているようなのである。
好子は起きあがった、同室の患者たちも廊下の方を気にしている。
「なんだろうね?」
「救急にしちゃヘンだよね」
隣の寿美子のベッドは空である。三十分ほど前だろうか、むくりと起きあがり、よちよちと病室を出ていったので、珍しい、ひとりでトイレに行くのかなと思ったのだった。
「ねえ、ねえ、どうしたの?」
ちょうど通りかかった看護婦に、ドアの脇のベッドの患者が呼びかけた。看護婦はちょっと迷ったような表情で、素早くあたりを見回すと、ドアの陰から半身だけ病室の方にいれて、素早く囁いた。
「外来に来てる子供さんが、いなくなっちゃったんですよ。みんなで大騒ぎして探してるの」
幼稚園の子供だという。母親がここの歯科外来に通院しており、薬が出るのを待っている間に姿を消してしまったというのである。
「警察呼ばなくていいの?」
看護婦は大げさに顔をしかめた。「それじゃ問題が大きくなっちゃうから、だから必死で探してるんだってば」
看護婦はそそくさと立ち去り、それぞれに怪我人で、捜索に協力するわけにはいかない好子たちは、互いの心配の表情を確認しあいながら、ただ顔を見合わせていた。
栗橋寿美子はまだ帰ってこない。サスペンスドラマも頭に入らなくなってしまって、好子はテレビを消した。そしてそのときに、寿美子が出ていったのは三十分前ではない、あれからもう一時間は経っているとあらためて気がついた。なぜならば、あの人は、このサスペンスドラマの前の番組の、ワイドショウがまだ始まったばかりのころに出ていったのだから。
──あの人も、子供を探すのを手伝ってるんだろうか?
寿美子は足を傷めたわけではないので、歩き回れないことはない。昔赤ん坊を亡くした痛手から立ち直れないでいるあの人は、子供が行方不明と聞いて、じっとしていられないんじゃないか。そうだとしたら、それはちょっといい話だし、変人の栗橋寿美子も捨てたもんじゃない。
気のもめる時間が、それから一時間ほど経っただろうか。先ほどの看護婦が顔を見せて、「子供さん、見つかったから安心して」と、皆に知らせてくれた。一同はほっとして喜び合った。
「どこにいたの?」
「屋上にね」
「あらやだ、なんでそんなところに」
「さあね、子供のことだからね」
看護婦は早足で行ってしまった。なんとなく、ちょっと奥歯にものがはさまったような感じが残った。様子、ヘンだよね──
そして、栗橋寿美子は戻ってこない。その夜は、とうとう戻ってこなかった。そして、翌日になって彼女の荷物を取りに来た看護婦が、真相を教えてくれたのだった。
「昨日のお子さんね、実は、栗橋さんが連れ出してたのよ」
病室の一同は、眠気も醒めるほどに仰天した。腰骨を折っているはずのおばあさんが、ベッドがきしむほどの勢いで半身を起こしたほどだ。
「なんですって?」
「あの人、やっぱり頭が混乱してるのよ」
手早く栗橋寿美子の身の回りのものをまとめて紙袋に突っ込みながら、看護婦は精一杯親切に言った。
「亡くした赤ちゃんがまだ生きてるような、おかしな錯覚をしちゃったんでしょうね。それで、よその子供を連れ出しちゃったわけ」
「それで屋上に? 屋上で何をしようってのかしら」
「さあねえ」
「あのおばさん、病院を追い出されるの?」向かいのベッドの中学生の女の子が訊いた。
「だから看護婦さん、荷物まとめてるんでしょ?」
「ううん、追い出したりはしないわよ。だけど大部屋は無理だから、個室に移ってもらうの。もっとナースセンターに近いところにね」
「追い出しちゃえばいいんですよ」と、おばあさんが怒る。「別の病院に入るべき人ですよ」
「そうは言ってもね。引き取ってくれる病院があるかしら。それより早く治療をして、退院してもらう方がいいわよ」
その夜、面会に来た夫に、足立好子は栗橋寿美子をめぐる事の顛末《てんまつ》を話して聞かせた。好子という大事な働き手を欠き、日々を忙殺されている夫は、やや疲れた顔で、しかし興味深そうに身を乗り出して好子の話を聞いた。
「このベッドに寝てたんだよなあ」
夫は、寿美子が引っ越して以来ずっと空いている、好子の隣のベッドに腰かけていたのである。
「気味悪くないわよ、ベッドはどうってことないんだから」
「でも、怖い話だな。入院する前は、おかしなところなんかない人だったんだろう? やっぱりこの雰囲気が独特だから、赤ん坊が死んだときのことなんかを一気に思い出しちまって、ヘンになっちまったんだろう」
夫はベッドの上で、子供のようにぽんとはねてみせた。
「しかしね、栗橋さんてのはおまえとおっつかっつの歳なんだろう? だったら、赤ん坊を亡くしたっていっても、それは三十年ばかり昔のことだろうよな。それだけ経っても忘れられないもんかね?」
「忘れられませんよ。お腹を痛めた子供のことなんだから」
「家族はどうしてるんだろうねえ。知ってるんだろうか、子供を連れだしたこと」
「もちろん、病院が話してるでしょうよ。そうでなかったら、無責任だからね」
子供連れ出し事件の後は個室に落ち着き、看護婦の監視の目に見守られながら、静かに過ごしているらしい。もう大丈夫だろう。
ちょうどこのころ、好子はリハビリの最中だった。それはもう汗と涙の大変な作業で、こんなに辛い思いをするくらいなら、治らない方がいいと思うくらいだった。毎日午後の決まった時刻に、五階のリハビリ室に行くために看護婦が迎えに来ると、好子は登校拒否の子供のように、微熱が出たみたいに寒気がしたり、お腹が痛くなったりしそうになった。
そうやって五階に行ったり来たりしているうちに、偶然、「栗橋寿美子」の名札のかかった病室の前を通りかかった。ああ、五階に移っていたんだとびっくりした。病室のドアは開け放しで、人の声がしている。思わず、そっと首を伸ばしてのぞきこんだ。
「おばさん、少しは元気が出ましたか」と話しかける、若い男の声が聞こえてきた。
ベッドの周りのカーテンが半分ほど引き回されているので、足立好子のいる病室の出入口の脇のところからは、ベッドの上の栗橋寿美子の姿を見ることはできなかった。声が聞こえるだけである。
「元気なんて、出やしない……」と、愚痴っぽい口調でぼそぼそと応じている。
「そんなこと言ったらいけないですよ。それだと、良くなるもんも良くならないからさ。それにさ、この前オレが来た時よか顔色もよくなってるじゃないですか」
寿美子に話しかけている若い男は、ベッド脇のスツールに座り、好子の方に完全に背中を向けていた。大柄で太めの体格の青年なので、古ぼけた小さなスツールはほとんど彼の身体の下に隠されてしまい、そのせいで、大きな鏡餅がどすんと鎮座しているかのように見えて、ちょっと面白い光景だった。好子は声をひそめてふふと笑った。
あるいは、そういう笑いが出たのは、寿美子に話しかける青年の口調から、温かさや思いやりが感じられたからかもしれない。医者や看護婦以外の誰かが、寿美子にこんな優しい物言いをしているのを、好子は初めて耳にしたのだった。
好子と一緒の八〇五号室に居るあいだ、あのビクビク屋のご亭主のほかに、寿美子を見舞いに訪れた客はひとりもいなかった。寿美子が救急車で担ぎ込まれた当時のことを知っている入院患者の話では──どんな場所にも、必ずこの手の「情報屋」はいるものだ──寿美子とご亭主のあいだにはどうやら息子がひとりいるらしく、緊急入院のときには付き添って来ていたそうだが、その息子がその後病室に姿を見せることはなかった。少なくとも、八〇五号室の好子たちは一度も会っていない。
病室は、ひとりの人間が、自分はいかに孤独であるかということを、他人に対しても、自分自身に対してもさらけ出さねばならなくなる場所だ。いつもはドアを閉じ窓を閉めることで世間から隠している生の個人生活が、ここではいっぺんにむき出しにされてしまう。その結果、他でもない当の入院患者本人が、今まで自分の生活のなかで確実につかんでいると信じていた愛情や、築いていると確信していた人間関係が、ただの嘘や無関心や思いこみや勝手な期待によってつくりあげられた幻影に過ぎなかったということを目の当たりにして、絶望的な気持ちになってしまうことがある。二ヵ月近くの入院生活のなかで、好子自身もそれを体験したし、そういう病室仲間たちを見てもきた。
好子とほとんど同じ時期に、やはり交通事故で入院してきたある老婦人は、見るからに品のいい穏やかな人で、隣同士のベッドになると、好子はすぐにこの人が好きになった。老婦人の怪我は右肩の骨折で、それほど重いものでもなかったが、それでも入院したばかりのころは痛みにうめき、眠れない夜を、同じように眠れずに冷や汗を流し唸っている好子と、共に慰め合って過ごしたものだった。老婦人には離れて暮らしている独り息子がおり、一流会社で相当の出世をしているこの息子と、その息子のよくできた嫁と、彼らのあいだにできたふたりの子供──この一家が、老婦人の人生の喜びと希望と自慢のすべてのたねになっているようだった。
老婦人は繰り返し、繰り返し、好子に話して聞かせた。息子の優しさを。嫁の思いやりの深さを。孫の愛らしさを。それはもう心の底からの愛と誇りをもって、聞いている好子の胸にもじんと響いてくるような語り方だった。
しかし、老婦人が入院しているあいだ、自慢の息子が、嫁が、孫が、彼女を見舞いに訪れることは、ついになかった。
三週間ほどで老婦人は転院していったが、その行き先は、入院患者の大半が行き場のない老人たちだということで有名な総合病院だと、後で看護婦から聞かされた。好子はこの病院の名前と場所を覚えておいて、自分が動けるようになったら、きっと見舞いに行こうと思った。が、そのことを夫に話すと、悪いことは言わないからやめておけと止められた。
「おまえが見舞いになんか行ったら、そのおばあさんはかえって辛い思いをするじゃないか。時には、見て見ぬふりをしてやることも親切ってもんだよ」
好子は納得できなかった。同じ八〇五号室の、腰骨を折っている老女にも話をしてみた。老女は静かに首を振り、あたしも足立さんのご主人に賛成だと言った。
「もしあたしがあの息子自慢の人だったらば、そんな老人収容所みたいな病院に追いやられているところへわざわざ足立さんが来てくれても、あらどなたさまですかって、知らん顔をするだろうと思いますよ。きっとそうですよ。だから、行かない方がいいよ」
好子は考え込んでしまった。身体の自由がきかない歯がゆさと心細さもあいまって、その晩、年甲斐もなく、少しばかり涙ぐんだ。病院とは、そういうところなんだろうか──
そんな思いがあるからこそ、どうみたって変わり者の栗橋寿美子のところに、最初っから他人との関わりを拒否しているような変人のところに、こんな優しい見舞客が来ていることが、好子にはことさらに嬉しく感じられたのだった。世の中に、そうそう嫌なことばっかりあるわけじゃない。悲しい人ばっかりいるわけでもないのだ。
「おばさん、みかん好きだったよね。温室ものだけど、甘そうなのを買ってきたから、食べてください」
青年がごそごそと紙包みを差し出している。「みかんなんて、よく覚えてたね、カズちゃん」栗橋寿美子が、ちょっと驚いたような声を出した。
「オレが遊びに行くと、よくみかんくれたじゃない。冬はいつも、箱で買ってたよね。小学校のときだったかな、オレとヒロミのふたりで一箱の半分くらい食べちゃって、すっげえ叱られたことあったな」
「そんなこと、あったかねえ」
足立好子は、ふたりの幼い男の子が、競い合うように両手をまっ黄色にしてみかんを食べまくり、大いに叱られているところを想像した。また笑いだしそうになり、立ち聞きがみつかるとまずいので、そっと足音を忍ばせてその場を離れた。自分の病室に戻っても、まだニコニコしていた。
あの青年は誰だろう。話の内容からして、栗橋寿美子の息子の幼なじみか、従兄弟《 い と こ 》かなんかだろうか。どうやら青年の呼び名は「カズちゃん」であるらしく、栗橋寿美子の息子の名前は「ヒロミ」であるらしい。
足立好子はけして詮索好きな人間ではないが、「カズちゃん」がどんな青年であるのかということには、温かな興味がわいた。だからその日以来、リハビリ室のトレーナーや、病室担当の看護婦など、病院内で出会う人たちに折を見ては声をかけて、栗橋寿美子の様子を尋ねるようになった。栗橋さん、具合はどうでしょうね? このあいだ、息子さんがお見舞いに来てたようだけど?
とはいえ、八階の人々は五階の出来事については詳しくない。結局、好子の好奇心の一端を満足させてくれたのは、たまたま巡回に来た外科病棟の婦長だった。
「リハビリの帰りに見かけたんですけど、栗橋さんのところに息子さんがお見舞いに来てますねえ」
そう水を向けた好子に、婦長はちょっと首をかしげてから、ああ、あれはねと朗らかな口調で答えた。
「息子さんじゃないのよ。息子さんのお友達ですって。大柄な、ちょっと太めの男の子でしょう?」
女王陛下のような婦長にかかると、立派な青年も「男の子」である。
「そうです。お鏡みたいな体格の」
自身もたっぷりした体格の婦長は、好子のたとえにコロコロと笑った。
「近所のお蕎麦屋さんの跡取りで、栗橋さんの息子さんと幼なじみらしいのよ。息子さんが忙しいんで、代わりに来てるんだそうですよ。いい子よね」
「ええ、ホントに」
噂をすれば影がさすということわざのとおり、婦長とそんな話をした日の午後、リハビリ室の帰りに、当の「カズちゃん」と、五階のエレベーターホールで一緒になった。ふたつ並んだエレベーターの、「カズちゃん」は下りの箱を待ち、好子は上りの箱を待つ。カズちゃんは手にふくらんだ紙袋を持っていた。「カズちゃん」は近くで見ても太っていたが、両手はがっしりとしており、いかにも働き者という感じを受けた。ぼんやりと、いくぶん眠たそうな顔をして、なかなか動かないエレベーターの表示ランプを眺めている。
「病院のエレベーターは、遅いですからね、待たされるわね」と、好子は話しかけた。
「カズちゃん」はちょっとびっくりした様子で、象のように小さくておとなしい目をぱちぱちさせ、好子の方を見おろした。
「ああ、そうですね」と、いささか間抜けな声を出した。「下ですか?」
「いえ、あたしは上。下へ降りて、真っ直ぐうちへ帰れるといいんだけども」
「カズちゃん」は、好子の杖や、大げさなサポーターで固められた左足を見た。
「大変ですね」と、本当に大変そうに言った。
「もうリハビリなんだけど、あたしはおばあさんだから、思うようにいかなくって」と、好子は笑った。
「僕なんか太ってるから、足を折ったらえらいことになりますよ」と、「カズちゃん」は笑った。「ひいひい泣いて、リハビリ逃げちゃうかもしれませんねえ」
如才ないというよりは、はにかんだような受け答えだったが、せっかく話しかけてきた好子を邪険にしたくないという、一生懸命な感じが現れている言葉だった。好子も婦長のように鷹揚に、いい子だなあと思った。
下りのエレベーターが来た。「カズちゃん」は、「お大事に」と好子に声をかけて乗り込んだ。エレベーターのドアがゆっくりと閉まりきるまで、好子は微笑んで見送った。
「おまえ、思いこみが強いなあ」と、夕食時刻に面会に来た夫に笑われた。
「栗橋さんのところに見舞いに来るっていうだけで、頭っからいい青年だって決めつけてるじゃないか。何をしたっていい子だいい子だって思うんだろう」
「だけど、感心じゃないの。幼なじみの友達のお母さんのところに通ってあげるなんて」
「世の中いろいろだからな。どういう目的で来てるかわからんぞ。あんまり簡単に感動しないことだな。単純なんだから、おまえは」
好子はむくれた。「何もそんな、ひねくって考えなくたっていいじゃないの」
「ひねくれちゃいねえよ。ただ、一足す一はいつも二とは限らないんだぞ」
「いつだって二ですよ。そうじゃなきゃ帳簿つけられないじゃないの」
「わからんヤツだなあ」
好子のリハビリは、早く家に帰りたいという本人の熱意に支えられ、順調に進んだ。検査でも異常は発見されず、十月二十日に退院という運びになった。
退院日が決まれば、それだけ張り合いもある。好子は子供のように指を折って日数を数え、リハビリに励んだ。そうやって自分のことに夢中になっていたせいか、あれきり「カズちゃん」に遭遇することはなかったし、栗橋寿美子の病室の前で何か聞きつけるとか、見かけるということもなかった。
栗橋寿美子の容態も精神状態も安定しているのだろうと、好子は考えていた。もしも彼女がまた外来の子供を連れ回すようなおかしな真似をすれば、すぐに「情報屋」が聞きつけて噂に流してくれるだろうし、看護婦たちからも話を聞くことができるだろう。「カズちゃん」がああして見舞いに来てくれることが、きっと彼女に良い影響を与えているに違いない。病院の臭いや雰囲気にも慣れ、遠い昔に亡くした赤ん坊の記憶も、もともとしまい込まれていた場所にまた安置され、彼女の心をかき乱すこともなくなっていることだろうと、好子は半分そう願い、半分はそう信じていた。
退院の日は、朝早くから身の回りの始末をして、夫が迎えに来るのを待ち受けていた。担当の看護婦に、あんまり興奮すると血圧があがっちゃって、退院許可が出なくなっちゃうよと、笑顔で脅かされたほどだった。
それでも無事に許可は出され、八〇五号室の仲間たちに別れを言い、待っているのに今度は夫がやってこない。零細企業だから忙しいのは判っているが、それにしても酷な遅刻だ。結局、夫がやってきたのは午後三時過ぎで、空腹も手伝い、好子はおかんむりだった。気をきかせた看護婦が、お昼を食べていきなさいと勧めてくれたのに、もう病院食はこりごりと思っていた好子は断ってしまったのである。
プリプリする好子に、夫も言い返し、口喧嘩をしながら大荷物を持ってエレベーターを降りて行った。外来の受付は午後二時までなので、受付は午前中ほど混雑していないが、見舞客はずっと出入りしているので、ロビーの椅子はかなりふさがっていた。
好子は杖をつきながら歩いていたが、看護婦に警告されたとおり、興奮のせいで息が切れてきた。
「ちょっと座らせて」
好子は周囲を見回した。二列ほど先に空いている椅子がある。
「じゃあ、おまえはここで待ってろ。車を出してくるから」
夫は好子を座らせ、足元に荷物を置くと、さっさと行ってしまった。好子はまだ怒りの気分で、返事もしなかった。
ほっとひと息ついて、足をさすりながら周囲を見回した。やっとここから出ていけると思うと、そこここで見舞客と談笑したり、テレビや雑誌をながめているパジャマにガウン姿の入院患者たちに対して、少しばかりの優越感と、同じくらいの後ろめたさを感じた。
ロビーのテレビでは午後のワイドショウ番組をやっていた。また、例の連続女性誘拐殺人事件を取り上げている。入院しているあいだ、昼間はワイドショウ以外に見るものがないので、すっかりこの事件について詳しくなってしまった好子だった。今日はまた、古川鞠子という気の毒な女性のことをとりあげている。
それでも、所在なくテレビのチラチラする画面をながめていると、視界の隅を、見覚えのある大きな丸い身体が横切った。
「カズちゃん」だった。蕎麦屋だというから、今は午後の休憩時間だろう。そのあいだに、栗橋寿美子の見舞いに来た──来て、帰るところのようだ。エレベーターを降りてきて、真っ直ぐに正面出入口の方に向かっている。
好子はびっくりして、「カズちゃん」を目で追った。白い丸首のシャツに白いズボンという、仕事着みたいなものを着ていたが、彼の顔が、その衣服に負けず劣らず真っ白だったからだ。
カズちゃんが自動ドアにさしかかると、ちょうど夫が外からやってきた。ふたりは自動ドアのところですれ違った。カズちゃんがどすんと好子の夫にぶつかった。夫は小柄なので、よろよろとよろめいて尻餅をつきそうになった。しかしカズちゃんは夫の方に見向きもせず、足早に行ってしまった。まるで、何かから逃げているかのようだった。
──どうしたんだろう?
「まったく近頃の若いもんは、失礼しましたも言えねえんだからな」
夫は怒りながら好子のそばにやって来た。好子はしかし、「カズちゃん」が消えていった方向を見つめていた。なんだか、ただごとではないような感じを覚えたからだ。
──何かあったんだろうかね? また、栗橋さんが何かやったんだろうか?
遠からず、足立好子はもう一度、「カズちゃん」の顔を見ることになる。他でもないテレビの画面を通して。そしてそのとき、ロビーで感じた漠とした嫌な予兆を、あらためて噛みしめることになる。
[#改ページ]
17
十月の残りは、ある日はダンスする少女のように軽やかに、ある日は死にかけたかたつむりのように鈍重に過ぎていった。
事件に進展はなかった。ピースとヒロミがなりを潜めているのだから当然だ。今や、二人の頭のなかには、高井和明を犯人に仕立て上げることしかなかった。被害者たちはもう十分な数に達した。必要なのは犯人だ。社会が求める犯人だ。
心理学的な裏付けは充分だと、ピースは主張する。高井和明が社会に対して抱いていた 怨 恨《ルサンチマン》が、すべてを説明してくれる。彼は負け犬として生まれて、負け犬として生きることしか許されなかった。それに対する復讐が、彼を一連の犯行に駆り立てた。犠牲の対象が女性になったのは、彼が鬱屈した欲求不満を抱える男性である以上、自然の摂理と言えよう。
あとは、カズにくっつけてやる|動かぬ証拠《ハード・エビデンス》。それさえあれば事足りる。アリバイなんて心配しなくていい。三十近くなっても親と同居して、特定の恋人もいない、趣味もない男の行動パターンなどたかが知れている。いついかなるときのアリバイを問われても、カズの答はひとつしかない。「家にいました」そしてそれを裏付ける証言を持ち合わせているのは家族だけ。肉親のアリバイ証言の信用性など、羽毛よりも軽い。
二十一日に、『日刊ジャパン』のスクープがあって、栗橋浩美はひどく驚かされた。容疑者「T」。その人物については前から知っていた。彼は言ってみれば、ピースが仕掛けておいた地雷≠フひとつだ。もくろみどおりに、警察はそれを踏んでくれた。ピースは実に周到だ。なんだか神がかってさえいるようだ。
夜遅くなって、カズが電話をかけてきた。あの「T」というのが犯人か、と尋ねた。ほとんど迷うことなく、栗橋浩美は「違う」と答えた。そして心の声を呑み込んだ。(だって犯人はおまえなんだからな、カズ)
カズはがっかりしたようだった。
「あんなヤツのことは放っておけばいいよ」
栗橋浩美の言葉に、わかったよと元気なく応じた。そして、何か別に言いたいことがあるような感じで、グズグズと電話を引き延ばしたが、結局何も言わなかった。
栗橋寿美子が退院すると、カズは祝いの花を携えて栗橋薬局を訪ねてきた。栗橋浩美は、母が女児を連れ回す事件を起こしたために、予定よりも早く病院を追い出されたことを、カズには言わなかった。これからはリハビリのために通院するんだ、なあ母さんと、陽気に言っただけだった。
カズはどういうわけか、寿美子に話しかけるときにも、ちょっと緊張しているような感じだった。彼女の車椅子の背もたれには手を触れても、直に彼女に触れることはなかった。壊れ物を遠巻きに見るような目で、それでいてひどく優しいのだ。
帰り際になって、店の戸口で、栗橋浩美は彼に言った。「例の件──」
「どうだい? 新聞もテレビもTのことで騒いでるけど──」飛びつくように、カズは尋ねた。栗橋浩美は首を振ってみせた。
「そうか……」
「カズ、俺はこれから、ちょっと家を空けることがあると思う」
「マンションに戻るのか?」
「そうだけど、それだけじゃない。これも例の件のために必要なことなんだ。だけど電話するよ。変わったことがなくても電話する」
「わかったよ」カズはおとなしく帰っていった。「気をつけろよ」
最後にちらりと、どう見ても同情しているとしか思えない視線を投げてきた。それは栗橋浩美の心に引っかかった。不審と不愉快が、ズボンにくっついた雨の日の泥はねのように心にこびりついた。
それですぐに、ピースと連絡を取った。ところがピースは、二十一日以来、にわかに注目を浴びることになった容疑者「T」に夢中なのだった。彼についてしゃべっているときは、カズを犯人に仕立て上げるという計画についてさえ、忘れているように思えるほどだ。
「上手くいくときっていうのは、ホントにこんなもんなんだな。やっぱり引っかかってきたか! 田川一義、期待通りの人間だったな」
「ヤツを使った演出をするのかい?」
「そうだよ。やらない手はないさ! 大川公園を選んだ理由は彼にあったんだってことを忘れたのか? それに僕らは、古川鞠子を返して以来、何もしてないんだ」
「カズの件は先送りかい?」
「なんだよ、怒ってるのか? 大丈夫だよ、そっちは焦ることない。いや、田川を繰り込んだ筋書きの先にカズを設置すれば、なおさら面白くなるからさ」
ピースの気まぐれだ。ま、反対しても聞くわけないからなと、栗橋浩美は諦めた。
「とにかく、山荘で話そうよ。いつからなら行ける?」
「いつでもいいよ。塾の方は休むから」
ピースはそろそろ、今働いている進学塾の講師も辞めようと思うと言っていた。事件は大詰めに来ているし、もともと講師の仕事にも飽きがきていたから、と。
「生徒たちには、バックパックを背負って世界中を旅行したいから辞めるんだと言ってやるんだ。みんな喜ぶだろうな。あの年頃の子供たちは、そういう旅と、そういう旅をすることのできる人間に瞳れてるからね」
「なんとでも好きなようにしていいよ。とにかく早く雑用を片づけてくれよ」
結局、二人は十月二十七日から山荘≠ノこもった。アジトであるここに来ても、やはりピースは「T」に熱をあげていた。栗橋浩美は苛立ちを抑えて、時折カズに電話をかけ、状況に変化はない、何かあったらすぐに連絡すると話して、彼を引っかけた針がはずれないように用心しながら、釣り竿を支えることを続けた。もっともそれは、バカみたいな易しい作業だったが。
こうして、暦は十一月にかわった十一月一日──朝刊を見るなり、ピースが子供みたいにはしゃいだ声をあげた。
「これを見てみろよ! 今夜の報道特番に、あいつが生出演するぞ!」
ほんの数時間ほどで、ピースは田川を使った今夜の一幕の演出を創りあげてしまった。実際、栗橋浩美も興奮した。とても面白そうなのだ。もちろん、テレビ局に電話するのは、また栗橋浩美の仕事である。
「ライブは初めてだからな」
「しっかりやってくれよ」
遅い昼食をとったあと、疲れたから少し昼寝をするというピースを引き留めて、栗橋浩美は言った。「なあ、しつこいって思うかもしれないけど、俺はカズのことが気になるよ」
生あくびをしながら、ピースは笑った。「カズは君が背負う重荷だね、栗橋君」
「だけどさ、古川鞠子の遺体を出したときと同じことが、今度も起こるぞ。特番のあと、きっとカズはまた俺に電話してくる。どうなってるかって」
「それで思い出した」ピースはだらけた顔を引き締めた。「ヒロミ、長寿庵は今日は営業日だよな?」
「そうだよ」
「するとあいつは、ゴールデンタイムもテレビなんか観ないで、調理場にいるんだな?」
「だろうね」
「誰か一緒か?」
「親父さんと二人だ。店にはおふくろさんと妹も出てるけど」
「調理場は、客からは見えるか?」
「見えないよ。カズはああいうのろくさいヤツだから、お客の相手はしないんだ」
ピースは嬉しそうに笑った。「ということは、アリバイ証言をできるのは、またぞろ家族だけってことだよな?」
まず間違いなくそうなるだろう。
しかし栗橋浩美は不安だった。「でもさ、念には念を入れて、俺たちがライブをやってるあいだは、カズをどこか人目につきにくい場所におびき出しておいた方がよくないか?」
ピースは自信たっぷりに、「そんな必要はない」と断言した。「あとでアリバイ証言を求められるのが家族だけなら、そんなもんは気にすることはない。だいたい、ここで必要なアリバイ証言は、家にいましたっていうことだけじゃないんだ。テレビ局に電話なんかかけてませんでしたというところまで保証できなきゃ、役には立たない。だけど、三十近いいい大人の倅《せがれ》が、調理場をちょっと抜け出して電話をかけるかどうか、そこまで監視している家族がいるか?」
「カズのとこじゃ、わからないよ。あいつは専用電話も携帯も持ってないから」
「でも、店の電話のほかに、家のなかの電話もあるんだろ?」
「番号はひとつだけどね」
「じゃ、問題ない。全然オーケイだ」ピースは楽しんでいるようだった。「僕らがカズを犯人に仕立て上げたあかつきには、高井家の人たちは、警察に責められて辛い思いをするだろうな。それは本当に、過酷なことになるだろうな。あの時間、息子は電話なんかかけてませんでした! お母さん、本当にそんなことが断言できるかね? 和明は赤ん坊じゃないんだ、あんたらの目を盗んで電話をかけて、素知らぬふりをして調理場に戻ることなんて、簡単だったろうよ。あんたらはそれでも倅は無実だって言い張る気かね? 動かしようのない証拠が、ほかにあるのに!」
一人芝居みたいにそんなやりとりをやってのけて、すっかり上機嫌になってしまった。
「ヒロミの言うとおりだ。少し、高井和明のことも話し合おうか。なんだか、僕は乗ってきた感じがする」
高井和明にとって、連続女性誘拐殺人事件の犯人になるのは、とても素晴らしいことだろうとピースは言うのだった。
「いい役だよ。主役だ。被害者は全部脇役なんだからね。どんなに衝撃的な連続殺人事件だって、誰も被害者のことなんか覚えちゃいない。歴史に残るのは犯人の名前だけなんだから」
「判ってるよ。俺だって判ってる。だけど、犯人役をやるってことは、警察に捕まるってことなんだし……」
「冗談じゃない、警察なんかに捕まるわけがないじゃないか」
栗橋浩美は驚いた。「カズは警察に捕まらないのかよ?」
「当然だよ。いくら僕たちが上手く立ち回ったって、生身のカズを警察の手に渡してしまったら、彼を犯人に仕立て上げることは、まず不可能だ」
「なんでだよ?」
「考えてごらん。生きて、口をきくことができるなら、カズは絶対に、自分は殺人なんかやってないと主張するさ。それどころか、携帯電話で有馬義男のところに電話をかけているのを立ち聞きしたことから始めて、幼なじみの栗橋浩美君への疑惑を全部ぶちまけるだろうよ。そうなったら、警察の目はヒロミの方へ向けられる」
「俺に──」
「身辺を調べられたら、ヒロミも僕も一発でおしまいだ。お互い、鞠子の件でも千秋の件でも、とにかく全部の事件についてのアリバイがない。当然だろ、僕たちがふたりでやったことなんだから。それに対して、カズにはアリバイがあるかもしれない。どの事件にも関わっていないという物証が、どこかから出てきてしまうかもしれない。彼が生きていて、口がきけて、頭を働かすことのできる状態で警察に渡しちゃ駄目なんだ。僕たちふたりにとって、それは墓穴を掘るに等しい行為だ」
栗橋浩美は、ほんの一瞬だが、ピースを試してみたい気分になった。だから言ってみた。
「だけどさ、ピース、俺は捕まっても、ピースは大丈夫かもしれないぜ。俺が何も言わなきゃいいんだものな。すべて俺とカズのふたりでやったって、俺がそう言えばいいんだもんな」
するとピースのくちびるが真一文字になった。
「ヒロミは、僕をそんな人間だと思ってるのか? そんな卑怯者だと?」
栗橋浩美は答えられなかった。ややこしいことを言ってしまったと後悔したが、もう間に合わない。
「ずっとふたりでやってきたんだ。ふたりでやり遂げてきたんじゃないか。それなのにヒロミひとりを警察の手に渡して、僕だけ知らん顔していられるもんか」
「ごめん、悪かったよ。今のは冗談だって」
栗橋浩美はしおらしく謝ったが、自分で口に出した「卑怯者」という言葉に興奮してしまったのか、ピースはまだ怒った顔をしていた。イライラと爪を噛む。
ピースは子供のころからずっと変わらないなと、栗橋浩美は考えていた。「卑怯」「いくじなし」「頭が悪い」「ひねくれている」──等々、悪口には我慢ができないのだ。それを口にした人間のことを絶対に忘れないし、絶対に許さない。
「とにかく、僕はそんな卑怯なことはしない」と、ピースはしつこく繰り返した。栗橋浩美は宥《なだ》めにかかった。
「判ってるよ。本気で言ったわけじゃない」
「それなら、二度とそんなくだらないことを言わないでくれ」
「ああ、言わないよ。絶対に言わない。今だって、本気じゃなかったんだって」
ピースは栗橋浩美の顔をにらみつけている。が、何を思ったのかくるりと笑顔になると、「でも、悪い話じゃないかもしれないな」と言い出した。
「もしも僕が事故かなんかで急死して、いなくなっちまったら、ヒロミひとりで高井和明を犯人に仕立て上げるのは無理だろう? その場合には、今のアイデアがいいかもしれないな。ヒロミは警察に捕まる──そして、共犯者は高井和明だと言い張るんだ」
「縁起でもないことを言わないでくれよ」
「まあ、聞けよ。昔、実際にそういう事件があったんだ。昭和二十年代だったかな。『梅田事件』といって、今じゃ大冤罪事件として有名だ」
やれやれ、また蘊蓄《うんちく》の披露が始まったと、栗橋浩美はちょっとげんなりした。だが、ピースに機嫌を直してもらうには、黙って傾聴しておいた方がいい。
「ある男が──名前はなんて言ったっけな、忘れちまった──複数の強盗殺人事件を起こしたんだ。そして捕まった。なにしろ凶悪な犯行だったんで、死刑になるのは目に見えていた。男は、自分ひとりだけがそんな目に遭うのは不公平だと思った──どうせ死刑から逃れられないのならば、誰かを巻き込んでやれ。そして、すべての犯行を、知人の梅田という男と一緒にやったと、嘘の自白をしたんだ」
「そんな嘘の自白、警察が信じたのか?」
「信じたんだよ。たまたま、犯行の手口があまりに悪質で大胆なんで、警察側は、最初からこれは複数犯人だと決めてかかって捜査してたんだな。実際は、単独犯だったんだよ。だが、警察は複数犯だという見込み捜査をしていた。だから、真犯人のこの男の嘘の自白に飛びついて、梅田というまったく無実の第三者を逮捕して、責め立てた。堪えられなくなった梅田氏も、身に覚えのない罪を『自白』しちまった。彼にはアリバイがあったんだが、そのアリバイを裏付けることができるのが、たまたま家族だけだったんだ。確か、妹だったかな。で、家族の証言は信用性が低いということで相手にされなくて、裁判でも有罪になった」
「真犯人はどうなったんだ?」
「死刑だよ。だが、最後まで、梅田が共犯だという嘘をつき続けた。獄中で梅田氏が無実を訴え始めて、それに力を貸す弁護士が現れると、なんとさ、真犯人はその弁護士に取引を持ちかけた。大枚の金を払えば、梅田はやってないと言ってやってもいいというんだな。自分の女に金を残してやりたいとか、そういう話だったかな。弁護士は拒否した。そんな話が通るわけはないからね。すると犯人はとうとう最後まで、絞首台に上る直前まで、梅田が共犯だと主張し続けたということだ。もっとも、今では梅田氏の無実がはっきりと確認されているけどね」
ピースはまた、爪を噛み始めた。苛《いら》ついているときのクセなのだ。
「ああ、情けないなあ……なんでこの男の、真犯人の名前を思い出してやれないんだろう? 僕の記憶力もすり減ってきているのかな?」
「いいじゃないか、昔の話だろ?」
「そうはいうけどね、そもそも、この事件が無実の罪をなすりつけられた梅田氏の名前を冠して『梅田事件』と名付けられていること自体、俺は不満なんだ。この事件には、真犯人の名前こそ冠されるべきなんだ。彼の事件なんだからね」
ピースの目が、熱を帯びたように輝いた。遠い昔、一緒に面白いゲームをしたり、プラモデルを組み立てたりするたびに、栗橋浩美は、これとそっくり同じ輝きを、ピースの目の中に見つけたものだった。だから、やっぱりピースはずっと変わっていない。ずっと少年のままなのだと、また思った。だからこいつ、女にモテるのかなという思いも、ちらりと頭をよぎった。
「真犯人は、梅田氏を恨んでいたわけじゃない。利害関係があったわけでもない。そういうチャチな理由で、梅田氏に罪をかぶせたんじゃないんだ。ふたりは戦争中に軍隊で一緒だっただけで、だから赤の他人ではなかったけれど、親しい友人でもなかった。常識的に考えたら、真犯人の側に、そんな嘘をついて梅田氏をハメなければならない理由なんてなかった。だからこそ警察も、真犯人が嘘八百を言っているとは思わなかったんだな」
栗橋浩美は生返事をした。早く話題を元に戻したかった。カズをどうするか計画を立てていたんじゃなかったのか?
しかし、ピースは栗橋浩美の気のない態度に、すっかり幻滅したような顔をした。
「おい、しっかりしてくれよ、ヒロミ。僕がどうして梅田事件のことをしゃべってるのか、判らないのか?」
「……」
「梅田氏に対して真犯人がやったことはどういうことか、考えてみろよ」
「ぬれぎぬを着せたんだろ?」
それこそが、俺たちがこれから、カズに対してしようとしていることだ。
「現象としては、そうだ。事実はな。だが、真実は違う」
ピースは身を乗り出し、栗橋浩美の目をのぞきこんだ。
「真犯人は、梅田氏に、完璧な『悪』の形を見せたのさ。そうだろう?」
純粋な悪──
「梅田氏に恨みがあったわけじゃない。金だの何だのが目当てだったわけでもない。後で弁護士に取引を持ち出したのだって、僕は本気で言ったんじゃないと思ってる。まともな弁護士なら、断るに決まっている取引だからね。目的は、梅田氏側を苦しめることにあったのさ。だって、そんなことを申し出られたら、最終的には断るにしても、いろいろ考えて悩むじゃないか。本当に金を払えば真実を言ってくれるんだろうか、とね。実際、梅田氏の冤罪が晴れる以前に、真犯人は死刑になってる。梅田氏と彼の弁護士は、やっぱり後悔したに違いないよ。あのとき、金を払っていればよかったんじゃないかって。苦しんだはずだ。真犯人は、自分の死後に彼らがそうやって煩悶することを知っていて、あえて取引を持ちかけたりしたんだ」
ピースは楽しそう──いや、誇らしそうだった。
「本当の悪は、こういうものなんだ。理由なんか無い。だから、その悪に襲われた被害者は──この場合は気の毒な梅田氏だ──どうしてこんな目に遭わされるのかが判らない。納得がいかない。何故だと問いかけても、答えてはくれない。恨みがあったとか、愛情が憎しみに変わったとか、金が目当てだったとか、そういう理由があるならば、被害者の側だって、なんとか割り切りようがある。自分を慰めたり、犯人を憎んだり、社会を恨んだりするには、根拠が必要だからね。犯人がその根拠を与えてくれれば、対処のしようがある。だけど最初から根拠も理由もなかったら、ただ呆然とされるままになっているだけだ。それこそが、本物の『悪』なのさ」
「俺にはよく判らないよ」と、栗橋浩美は小声で言った。実際、理解できなかったのだ。
「ひどい事件だったら、他にたくさんあるじゃないか」
「もっとひどい事件? もっと大勢を殺し、もっと大勢から奪ったということか? 何を? 命を? 金を? そんなものに意味はない。ただ貪欲で、無神経だというだけだ。それは犯罪ではあるかもしれないが、『悪』じゃない」
そうだろうか。こういう話になると、栗橋浩美はいつだってついていかれないのだ。
栗橋浩美には、大それた考えはない。最初からなかったし、今も難しいことは考えていない。
二年前、あの廃墟のゴミ穴で、岸田明美をあんな形で殺してしまい、女子中学生を殺してしまい──実際、あのとき俺は頭がおかしくなっていたんだ──怖くて怖くて、どうしようもなくてピースに相談した。するとピースは言った──心配するな、警察なんかに捕まりゃしない、僕に考えがある、任せておけ。
ピースは廃墟に駆けつけてきてくれた。栗橋浩美がひとりでふたつの遣体を引きずり、隠れていた廃墟の地下室まで。そして一緒に遺体を運んだ。ひとつはピースの車のトランクに入れ、ひとつは後部座席に横たえて毛布をかけた。そして運び去った。
どこかに埋めようかと、栗橋浩美は言った。永遠に見つからない山の中にでも。するとピースはぴしゃりと言った。バカな、どこへ埋めたって、いつかは発見される。それだけでなく、手放してしまえば、それからずっと、発覚の危険に怯えながら過ごすことになる。
そして、ピースは真っ直ぐ山荘≠ノ向かった。氷川高原にある別荘で、親父から相続したものだと聞いて、栗橋浩美は驚いた。大人になってからは、学生時代のようにいつも一緒に行動していたわけではないが、それでもピースとはずっと親しくしてきたつもりだ。それなのに、今まで一度だって、父親が亡くなったことを知らされていなかった。そういえば、俺はとうとうピースの親父さんの顔を見たこともなかった──と、そのとき気づいた。
「おふくろさんは? 元気なのか?」
「うん。今は東京を離れてるけど」ピースは短く答えた。あまり、身内のことを詮索されたくなさそうだった。それは子供のころからそうだった。
「だから山荘は、僕ひとりの持ち物だし、ほかの者は出入りしない。大丈夫だよ」
夜明けまでのあいだに、二人は手分けして山荘≠フ庭にふたつの遺体を埋めた。土に穴を掘る道具は、物置にちゃんと揃っていた。昔は庭師が入っていたのだが、ピースは他人が家に出入りするのが嫌いなので、断ってしまったのだという。ただ、道具だけは買い揃えておいたのだという。
「自分で手入れする気になる時も来るかもしれないと思ってさ」
夜明け前には作業は終わり、二人は山荘≠フなかに入って朝食をとった。ピースは週末ごとにここに滞在しているそうで、冷蔵庫にも食品庫にも、いろいろと買いだめがしてあった。山荘≠フ造りも調度品も、それだけで充分に贅沢な感じがしたが、その手慣れた利用の仕方にも、栗橋浩美は感心した。
「一人でここに来て、いつも何をしてるんだ?」
その質問に、ピースは笑って答えた。「一人で来るとは限らない」
「ああ、そうか」
「一人になりたいときにも来るけど、そういうときは、ぼんやりと山や森をながめてるだけで充分だ。ここに来ると、生きてるなっていう実感が湧いてくる」
あくせく働いてるだけの連中にはわからないだろうけれど、その感覚は、俺にはわかると栗橋浩美は思った。
「そうそう、写真を撮ることもあるよ。大学時代に、ちょっと凝ってさ。機材もひととおり揃えたし、一階の奥の物入れを改造して、小さい暗室も作ったんだ。自分で撮った写真は、そこで現像してた──今はほとんど使ってないけどね」
ピースはふたりの所持品を調べた。女子中学生はすぐに身元が判った。持っていたアドレス帳に──男友達の名前が書き並べてあった──彼女自身の住所氏名も書いてあったからだ。
彼女は家出をしてきたと言っていた。態度も、とても中学生のものとは思えないほど世間ずれ、男ずれしていた。ピースは女子中学生のアドレス帳の筆跡を真似て、彼女の親に手紙を書いた。これで、当分は時間が稼げるだろう。この娘の場合は、親が無責任な人間なら、これで片づいてしまうかもしれないと、ピースは言った。そして事実、そのとおりだった。
岸田明美の実家にも、ピースは手紙を書いた。
「彼女がヒロミと付き合っていることを、家族は知ってるのか?」
「知らないはずだよ。明美は男出入りが激しかったし……」
「はずじゃ困るんだ。もっと確実でないと、仕掛けがかえって墓穴を掘ることになる」
「大丈夫だよ。あいつは親とうまくいってなかった。携帯電話もアドレス帳もバッグに入れっぱなしだったから、こっちの手元にあるだろ。親父だろうがおふくろだろうが、彼女の交友関係なんか、たどりようもないよ」
それでもしばらくブツブツ言っていたが、結局ピースは手紙を書き上げた。栗橋浩美の手元にあった岸田明美からの手紙の字をお手本に、ちょっと練習しただけで、実に見事に彼女の字体をなぞって。
内容にも感心した。
「お父さんの築いた財産の傘の下にいては、近づいてくる人たちが、本当にわたしを大切に思ってくれているのか、それともお金目当てなのか、見分けがつきません──か」
「感傷的だろ?」ピースは笑った。「世間知らずのお嬢様の言いそうなことだよな」
岸田明美のハンドバッグのなかには、アドレス帳だけではなく、彼女名義の預金通帳とキャッシュカードも入っていた。親からの仕送りが入金される口座のものだ。残金は三十万円弱。
ピースは、手紙が先方に届いた頃を見計らって、この口座から十万ばかり引き出そうと言った。
「でも、そんなことをして危なくないか?」
「大丈夫さ。彼女はじゃぶじゃぶ仕送りをもらって遊んで暮らしていたんだろ? そういう暮らし方しか知らないわけだ。だったら、親から離れたいなんて立派なことを言ったって、生きているならば、この金をあてにするさ。絶対にする。だから、少しずつでも金を引き出しておいた方が、家族は安心するよ。ああ、あんな勝手な手紙を寄越しても、やっぱり仕送りに頼らないとやっていけないんだなってね」
ピースの意見はすべて的を射ていた。偽造した手紙が明美の実家に着いても、栗橋浩美の身辺には何の変化もなかった。ある日突然、明美の父母から電話がかかってきて、
「明美から、あなたと親しいお付き合いをしているとうかがっていました。娘は家出をしたきり戻りません。居所を知りませんか」
と問いただされるということもない。やはり明美は、ボーイフレンドの身元について、詳しく家族に報告するようなタイプではなかった。彼女の両親は、明美に親しい男友達がいることは承知していても、彼女という直の情報源を抜きにしては、その男の身元を特定することができないのだろう。となれば、仮に捜索願などが出されても、警察が栗橋浩美の元までたどりつくこともできないということになる。
少し気が楽になり、変装気分でスーツを着込み、真面目そうな黒縁眼鏡までかけて、明美の住んでいたマンションに偵察に行ってみた。部屋は引き払われて、すでに入居者が替わっていた。両親が片づけに来たのかもしれない。
それだけではなかった。手紙を送って半月ほど後、十万円を引き出した口座に、新たに二十万円が送金されてきた。それを確認したとき、栗橋浩美は思わずピイッと口笛を吹いてしまった。
岸田明美の両親は、ピースがつくった筋書きを、百パーセント信じ込んでくれたのだ。娘は生きている。勝手な親離れ宣言をして出ていった。しかし仕送りがなくては暮らせない。仕方ない、気が済めば帰ってくるだろう。それまで金だけは送ってやろう──というわけだ。
「何とも麗《うるわ》しい家族愛だね」ピースは皮肉な口つきで言い捨てながらも、この金は使いでがあると喜んだ。
栗橋浩美は、尊敬と感謝の念に、まぶしくてピースの顔がまともに見られないほどだった。やっぱりピースは凄い。なんという嘘つきの才能だろう。いや、ここまでいけば嘘じゃなくて「創作」だ。この手で岸田明美を絞め殺したはずの彼自身でさえ、ピースのつくった筋書きの方がもっともらしく思えて、明美は元気にしてるかななんて、考えてしまうことがあるほどだ。
これで安心だ。もう何の心配もない。栗橋浩美の頭の上の暗雲は、すべて晴れた。
もともと、殺そうと思って殺したわけじゃない。状況が彼に、あんな行為をさせたのだ。栗橋浩美だって、覚えず殺人行為に駆り立てられたという意味では被害者だったのだ。やっとその、不当に押しつけられた殺人者の枷《かせ》を外すことができた。
しかし──すべてが落ち着いたころになって、ピースは不穏なことを言い出した。
「でも、この程度の偽装工作じゃ、そう長くは保たないぞ」
「え? どういうことだよ?」
「どうもこうもないよ。冷静に考えてみろ。この筋書きだと──まあ、あの嘉浦舞衣とかいう不良娘は別としても──岸田明美は、いつかは親元に帰るってことになってる。でも現実は違う。彼女はもう死んでるんだからな。だから、五年後か、十年後か、あるいはもっと早く、家族が疑いを抱くってことは、充分に考えられるよ。明美はまだ帰ってこない。遊びたい盛り、青春真っ盛りの時期は過ぎたのに、身を固めて父親の財産の傘の下でおとなしく暮らす人生を選ぶ潮時だというのに、帰ってこない──」
おかしい。あの家出の理由、あの手紙。ずっと引き出し続けられている口座の金。明美は本当に自分の意思で家出したのか。本当に元気で生きているのだろうかと、家族が疑いを抱く時期が必ず来ると言うのだ。
「そのころには、俺と明美のつながりなんか、たどりようもなくなってるよ」
うんと気楽に言い飛ばした栗橋浩美を、ピースは真顔でたしなめた。
「それはわからない。絹糸のような細い線でも、たどってこられたらおしまいだ。今は疑いをそらして、いわば時間を稼いでいるだけなんだってことを忘れるなよ。それに、何よりも、こいつは事件だとにらんで捜査に乗り出したときの、日本警察の能力を舐めてかかっちゃ危険だ」
「そんな……脅かすなよ」
「脅かしているわけじゃない。冷静に考えているだけだ。それに、こっちに打つ手がないわけじゃないんだから」
「打つ手?」
これ以上、何をするというのだ?
「今後のために、カモフラージュが必要だ。木を隠すなら森の中さ」
「どういうことだ?」
問い返した栗橋浩美に、にっこりと笑ってピースは言った。
「関東のあちこちで、同じような女性の失踪事件を起こすのさ。そしてある時点で──充分時間が経過したところで、『犯人』が活動を始める。犯行声明を出したり、遺体をいくつか捨てたりしてね。そして最終的には、岸田明美も、彼女と一緒に死んだあの家出の女子中学生も、その『犯人』の手にかかったというふうにもっていく。遠回りのように思えるかもしれないけれど、これこそ絶対の安全策さ」
あのときのピースの笑顔には、何の屈託もなかった。
「もちろんその『犯人』は架空の存在だよ。僕とヒロミでつくりだす、蜃気楼《しん き ろう》だ。ヒロミはその蜃気楼の陰に隠れて、永遠に安全になるってわけだ──」
そう、最初はそうだった。すべては、岸田明美とあの女子中学生──名前さえ忘れてしまった、舞衣とかなんとかいったっけ──あの殺人から、警察の目をそらすために始めたものだった。ピースがそう言ったから、栗橋浩美は賛成したのだ。名案だと思ったのだ。目的ははっきりしていた。蜃気楼の連続殺人者をつくりあげ、その陰に隠れること。
それなのに、ピースはときどき、今のように意味不明なことを言う。「完璧な悪の形」だって?
「僕とヒロミがやろうとしていることも、ただの犯罪じゃない。僕らも『悪』を体現しようとしてるんだ」
栗橋浩美の思いをよそに、ピースは熱っぽく言葉を続けた。栗橋浩美は、その快活な声に、回想から引き戻された。
「すべての被害者に、すべての被害者の家族に、永久に解けない謎を投げかけてやるんだよ。なぜだ? うちの娘はなぜ殺された? 犯人はなぜ我々をこんなに苦しめる? なぜ、なぜ、なぜなんだ? だが、誰にもそれは判らない。こざかしい連中がいろいろ推理をめぐらせるだろう。警察も躍起になるだろう。だけど判らないんだ。だって何もないんだからね。それを知っているのは僕だけ──いや、僕たちだけさ」
そう言って、ピースはちょっと肩をすくめた。
「本当はそれだけでも充分やりがいがあるし、大変な仕事なんだ。ただ、ヒロミが迂闊で、高井和明にしっぽを捕まれたみたいだっていうから、急遽計画を膨らませて、彼を巻き込むことになったんだからな」
判ってるよ、そのことは何度も謝ったじゃないか──栗橋浩美は心のなかで呟いた。
「でもまあ、いいんだよ」ピースは上機嫌だった。「高井和明に、梅田氏が見たものを見せてやることも一興だ。すごく興味深い物語だ。そう思ったから、高井和明のために筋書きを変えることを、喜んで承知したんだからね。本当言うと僕は、梅田事件の真犯人を、ずっと羨ましく思ってきたからね」
ピースののぼせたような口振りに、栗橋浩美は初めて、かすかな不安を感じた。これまでは、どんなことでもピースに従ってきた。マスコミにも、殺した女たちの遺族にも電話をかけ、話題をつくった。遺体をばらばらにして、思わせぶりに右腕だけを捨てたり、古川鞠子のときなど、一度埋めて隠したものを掘り出して放置した。すべて「蜃気楼」に実体を与えるためにしたことだ。栗橋浩美がその後ろに隠れるために、影の色を濃く、より濃く、より真っ黒に塗り重ねてきたというだけのことだ。
だが、ピースの本音は、また別のところにあるんじゃないのか。もちろん、自分たちのやっていることが露見したら、困るのは彼だって同じだ。だけど……。
「高井和明を犯人に仕立て上げるためには、疑わしい状況を積み重ねた上で、彼に死んでもらわなくちゃならない」
あっさりとそう言って、ピースは栗橋浩美を振り返った。
「自殺してもらうんだ。連続誘拐殺人事件の犯人が彼であるという告白を書きつづった遺書と、物的証拠を身の回りに残してね」
「そんなに、うまくいくだろうか」
「心配するな。遺書は僕がつくる」
確かに、ピースの「手紙」をつくる才能は、岸田明美の手紙で実証済みだ。
「長い遺書でなくていいんだ。それに、連続殺人犯が自殺するのは珍しいことじゃない。言ってみれば彼らは二重人格だからね。一方は殺人を楽しみ、殺人に中毒している人格。もう一方は、殺人が悪いことであり、良心の痛みを感じている人格だ。このふたつの人格のせめぎ合いに疲れて、自分の肉体と精神を抹消する道を選ぶ。アメリカじゃ、そういう実例に事欠かない。ある連続殺人が解決しないままぱったりと途絶えた場合は、犯人が別の罪で収監されたか、自殺したと考えるのが常識になってるくらいだからね」
ピースは専門家みたいなことを言う。たぶん資料や本を読んで調べたのだろうけれど、こういうとき、けっして「──だそうだ」とか「というふうに書いてある本を読んだ」などとは言わず、「──だ」と、まるでそれが最初から自分の知識であるかのような言い方をするのがピースのクセだった。
今日はちょっと俺、ピースのこと批判的に見ていると、栗橋浩美は思った。ピースが悪がどうのこうのなんておかしなことを言い出すからだ。
ピースはてきぱきと続けた。
「それと、物証は僕らが保管してあるものを持っていけばいい。ただ、僕は高井家に足を踏み入れたことがないから、実際に高井和明の部屋に物証を仕込むのは、ヒロミの仕事だけどね。うまくやってくれよ」
まるで店長がアルバイト店員に指示するみたいな口調だった。栗橋浩美は、口のなかでモゴモゴ「うん」と応じた。任せとけとか、わかったよなんて答えるのは、本当にピースのアルバイト店員に成り下がったみたいで、癪《しゃく》だったのだ。
ピースは上機嫌に戻っており、そんな栗橋浩美の些細な抵抗には、まったく気づいていなかった。
「ところでさ、そろそろ時間だ」
テーブルの上から新聞を取り上げ、テレビ欄を広げてにっこりした。
「僕らは今夜、ちょっとしたイベントをやるんだったよな?」
栗橋浩美はうなずいた。「田川一義がテレビに生出演するから──」
「愚かだよな。オ、ロ、カ」ピースは歌うように呟いた。「まあ、古川鞠子の骨を返して以来、僕ら病欠をとっていたようなものだからね。今夜はうんと盛りあげよう。しっかり頼むぜ、ヒ、ロ、ミ。な?」
[#改ページ]
18
田川一義という人物を、ピースは五年ほど前から知っていた。文字通り、くまなく知っていた。身元だけではなく、彼の隠れた性癖や、過去の所業もすべて。
ピースは大学を出たあと、たとえ一時でも栗橋浩美のようなサラリーマンへの道へは進まず、関東地方で華々しくチェーン経営している大手進学塾に、時間給の講師の職を得た。
「子供を教えることは生涯の夢だけど、今の学校制度の下で教師になるんじゃ、僕の夢は絶対にかなえられない」
面接試験では、そういって一席ぶったそうだ。先方は喜んでピースを採用した。当の進学塾は、現行の学校制度のなかで勝ち組になるべく勉強に励む子供たちを、さらに叱咤激励するためのシステムとして機能していたのだけれど、理想は別のところにあるという太っ腹な部分を見せたわけだ。
ピースはそこで、人気講師として三年間働いた。そして、独立して学習塾を開くという先輩格の講師の誘いを受けて退職し、その学習塾を半年ほど手伝ったあと、「目指すところが違う」と、袂《たもと》を分かった。栗橋浩美はとっくに一色証券を辞め、ブラブラ暮らしを続けていたところだったので、ピースも同じようにするのかと思ったら、まったくあてが外れた。すぐ次の職場に移るのだという。
「前の塾の生徒の父兄のなかに、面白い仕事をしてる人がいてさ。実はそっちに引き抜かれたんだ。先輩の手前、秘密にしてたんだけどね」
その面白い仕事≠ニは、栗橋浩美の語彙《 ご い 》のなかでいちばんふさわしいものを探して表現するとするならば、要するにカウンセラーだった。患者のメンタルケアをする──というと医者に似ているが、実態はもちろん違う。よろずの相談事を持ち込んでくる依頼人の相手をして、一緒に解決に道を探すという仕事だ。ただ、会社名は「株式会社ウエルリヴィング・サポート」といい、表看板は出版社ということになっていた。ウエルリヴィングつまり上手に生きる<Rツを綴った書物をたくさん出版し、大げさな広告をつけて売りまくっていたからだ。面談形式のカウンセリングは、それらの本を買った読者へのサービスということになっていた。もちろん、料金はかかるのだが。
ピースはそこのカウンセラーになったのだ。同じ肩書きの人間は、ウエルリヴィングのなかに四人いたが、ピースが最年少だった。若い人たちの相談事に、ライブな感覚で対応することのできる若いカウンセラーが求められているという話だった。
会社内の詳しい内情は、栗橋浩美にはわからない。ただ、そこに在籍していた一年足らずのあいだ、ピースは相当な高給をとっていた。いろいろと面白いことを見聞きすると、ずいぶんと楽しそうでもあった。
「カウンセラーという肩書きに出会うと、自動的に完全武装解除してしまうタイプの人間というのがいるんだな。おいおい、僕にそこまでしゃべっちまって大丈夫なのかよ? って、こっちの方がハラハラするくらい、開けっぴろげに告白されるもんだから、参っちゃうよ」
いい加減バカバカしくなったと、ピースが辞めて間もなく、ウエルリヴィングはちょっとした新聞沙汰を起こした。カウンセラーの一人が、相談に来た女性の読者≠ノ、求められていない種類のサービスをしようとして、刑事告発されたのだ。ピースはニュースを見てゲラゲラ笑い、こんなことは僕がいたあいだにも掃いて捨てるほど起こっていた、表沙汰にならなかっただけだと言った。
「まあ、外部にバレちまったってことは、潮時ってことだったんだろうね」
そういう当人は、その時にはまた以前とは別の大手の学習塾に就職し、時間給の講師として、人気者に戻っていた。そして、今もそのままだ。引き受けているコマ数が少ないので、ちょっと見にはブラブラ遊んで暮らしているように見えるけれど、生徒たちからダントツに支持されている、明朗快活で頼りがいのある教え上手の講師であることに間違いはない。
そして田川一義は、ピースがウエルリヴィング時代につかんでおいた貯金≠セった。
いよいよ都内を舞台に、世間に対するパフォーマンスを始めようと具体的な計画を練り始めたときから、筋書きをより面白くするためには、誰か第三者を巻き込んだ方がいいというアイデアはあった。ただ、このころはまだ、後になって高井和明のような邪魔が入るとは思いもよらず、第三者といったって、まったく面識のない人間をどうやって筋書きのなかに組み込んだらいいかもわからなかったから、アイデア倒れに終わりそうな感じだった。
そんな折に、ピースが田川一義のことを思い出したのだ。今の人生を変えたい、自分でも嫌になるこの性癖を矯正《きょうせい》して、まともな職につき、恋愛し結婚し、まっとうな社会の一員として生きていきたい──そう思い詰めてウエルリヴィングを訪ねてきた田川一義が、自身について洗いざらい打ち明けた事柄を。
「あいつなら、巻き込めるかもしれない。警察は、捜査の端緒として、必ず性犯罪の前科者を洗うはずだからな」
ウエルリヴィング時代の内部記録のうち、印象に残った面白そうな≠烽フを、ピースは密かにコピーして持ち出していた。だから、田川一義の現住所を調べるのも造作ないことだった。
そして彼の今の住まいに近い、大川公園を最初の舞台に決定したのだった。
現実では、ピースが予想したよりもわずかに展開が遅かっただけで、田川は第一容疑者として浮上してきた。マスコミにも追いかけられるようになった。彼は一貫して、自分は連続女性誘拐殺人犯ではないと訴えている──
やがて特番が始まった。二人はそれを山荘≠フリビングにゆったりとくつろいで見物した。このイベントが済まないうちは食事もアルコールもおあずけだったので、コーヒーだけ飲んでいた。
ピースの合図で、栗橋浩美は電話をかけた。特番の画面の下に、ずっとテロップで掲示されている番号に。すぐにスタジオ内は大騒ぎになり、栗橋浩美は胸が誇りでいっぱいにふくらむのを感じながら、アナウンサーやコメンテーター相手にしゃべりまくった。
そしてとうとう、田川の顔を天下のさらし者にしてやるための取引──その絶好のタイミングが訪れたのに──
「コマーシャルだと!」
テレビの前で、栗橋浩美は叫んでいた。携帯電話をつかんで振り回し、怒りの余りに、ボイスチェンジャーを握った手で、そのままブラウン管を殴りつけそうになった。
「何考えてんだ? 俺よりもスポンサーの方が大事ってか?」電話に向かって怒鳴りつけ、
「あんたたちは俺の話を真面目に聞く気がないんだな!」
通話を切ってやった。自分の鼻息が熱く感じられる。とんでもねえ、こんな侮辱は初めてだ。絶対に許されることじゃない。
しかし、ピースは冷静だった。安楽椅子のなかでちょっと座り直すと、
「電話をかけ直すんだ、ヒロミ」と言った。いや、ただ言ったのではない、「指示した」のだった。
「何でだよ?」
「かけ直さなきゃ、話がつづかないだろ?」
「嫌だね! こっちから下手に出てやることなんかないじゃないか!」
ピースの瞳は物憂げだった。「これはそういう問題じゃない。力関係じゃ、最初から圧倒的にこっちが優位なんだ。だからコマーシャルぐらいのことで争うのは愚の骨頂だ」
「グ──俺がバカだって言うのかよ!」
「この程度のことも受け流せないなら、愚かだね」
小憎らしいほどに長いコマーシャルだった。テレビには下着姿の女が映っていた。栗橋浩美の脳裏に、以前見たことのある女たちの下着姿が浮かんでは消えた。そういえば、このところずっと新しい獲物を捕らえていない。悲鳴も哀願も命乞いも聞いていない。パフォーマンスを始めたら、筋書きに不必要な新規の犯行を同時進行させるのは危険だというピースの方針。だから、日高千秋以来、誰もここに連れ込んでいないのだ。
ピースの、ピースの、ピースの方針。忌々しい。全部ピースが決めるんだ。
「俺は電話なんかかけ直さないぞ」栗橋浩美は携帯電話をつかみ直すと、ぐいと踵を返してリビングを横切った。乱暴にドアを引き開ける。
「後悔しても知らないぞ」
ピースの間延びしたような静かな声が追いかけてきた。居眠りして、寝言でも言っているみたいだ。
「後悔なんかするもんか!」
言い捨てて、階段をかけあがった。女たちを閉じこめるために使ってきた部屋のドアが、なぜか半分開いていた。この前来たときに、閉めきっておくと臭気が抜けないからとか何とか、ピースが言ってたっけ。
栗橋浩美は部屋に入ると、明かりを点けずにベッドに歩み寄った。どすんと腰をおろすと、湿っぽいマットレスが尻の下でギシギシ鳴った。
雨戸を打ち付けてあるので、室内は暗い。廊下の明かりが、切り取ったような平行四辺形に床に落ちている。栗橋浩美はそれを睨んだ。睨んで睨んで睨み続けながら、尻を揺すってベッドをきしませた。ギシギシ、ギシギシ、ギシギシ。それからむちゃくちゃに髪をかきむしって、この部屋の古いテレビのスイッチを入れた。HBSにチャンネルをあわせると、アナウンサーが空《くう》に向かって呼びかけていた。犯人≠ェまた電話をかけているのだ。信じられなかった。ピースが自分で電話してるのか?
階段を駆け下り、リビングに飛び込むと、ピースは安楽椅子にゆったりと腰掛けて、携帯電話を耳にあてていた。栗橋浩美に気づくと、鋭く視線で(静かに!)と警告した。送話口には、栗橋浩美が使っているものよりも、ひとまわり小型のボイスチェンジャーが添えられている。ピースも持ってたのか。いつ買ったんだ? 電話するのは俺の役目なんだから、あんなものひとつしか要らないはずなのに、なんでだよ?
ピースは通話を終えても、テレビ画面のなかのゴタゴタがおさまるまでは、何を話しかけても答えず、こちらを向いてさえくれなかった。すぐに番組終了時間が来て──これもまたスポンサーと番組枠の優先だ──勇ましい英雄さながらにテレビに顔をさらした田川一義のアップにクレジットタイトルがかぶると、ピースはテレビを消した。
それから、やっと言った。「残りの台詞は僕が言っておいたよ」
平坦な口調だった。立ち上がると、伸びをした。「僕は風呂に入ってくる。夕飯はそれからにしようよ」
栗橋浩美の方を見ることはなかった。怒っているしるしだった。
栗橋浩美はリビングのなかをうろうろと歩き回った。どうしてそうするのか、頭ではわからなかった。ただ足が動きたがったのだ。エネルギーを発散したがっていた。腹が立つ。面白くない。なんで俺ばっかりバカにされるんだ? 怒鳴りつけてやりたい。罵《ののし》ってやりたい。誰を? 怒鳴りつけても罵っても安全な誰かを。
不意にある人物の顔が頭に浮かんできた。受け身一方、いつだって栗橋浩美に虐められるだけの犠牲者だ。あの豆腐屋のジジイ。鞠子のじいさんだ。あいつもテレビを観ていたろうか? 俺の申し出がコマーシャルでぶち切られるところを観ていたろうか。
栗橋浩美は有馬義男に電話をかけた。
通話は三分と続かなかったろう。交わす言葉は少なかった。だが今夜、あのジジイは強気だった。恐ろしいことを言った。
──あんたはひとりじゃないんだな?
──あんたひとりが全部をやってのけてるわけじゃないんだろう。
──仲間にしられたんだろう。
──あんたはこのジジイに八つ当たりをしたいんだ。そうじゃねえのか?
バカなジジイだと罵って電話を切ったあと、栗橋浩美は自分が冷や汗をかいていることに気づいた。あのジジイ、俺たちが二人だって見抜いた。ひとりじゃないって見抜いた。俺がピースに叱られてることも見抜いた。
吐き気がしそうだった。その場にしゃがみこまずにはいられなかった。やがて風呂から戻ってきたピースに、栗橋浩美は言った。
「もしかしたら、すげえヤバイことになったかもしれない」
栗橋浩美の話を、ピースはほとんど表情を変えずに聞いていた。途中でいきなり立ち上がったので何をするかと思えば、さっきの特番をビデオ録画していたものを再生し始めたのだった。画面の方を向いて見入るわけではない。ただBGMのように流しているだけだ。
「有馬のじいさんは、きっとこのことを警察にしゃべるだろうよ。警察があんなジジイの言うことを真に受けるとも思えないけど、マスコミはわからない。面白がってジジイをテレビに引っぱり出して、犯人二人説をぶちあげるかもしれないぜ?」
どうしよう──と身を乗り出したとき、ピースがまた身をかわすようにして立ち上がり、片手でビデオのリモコンを取って、本体に向けてボタンを押した。その姿勢は、ドラマや映画で見る銃撃の形にそっくりだった。
「ここだ」と、ピースは無表情のまま言った。ビデオ画面は、栗橋浩美の電話のおしゃべりがコマーシャルで寸断されたところでポーズがかけられていた。
「ヒロミはここで短気を起こした」
抑揚のない口調で宣告されて、自分の非は承知していても、栗橋浩美はカチンときた。
「わかってるよ。だけど、俺ばっかりが悪いわけじゃないだろ。俺に何にも言わずに勝手に電話をかけなおしたピースだって迂闊だったんだ」
ピースは繰り返した。「ヒロミは短気を起こした」
栗橋浩美は黙っていた。ピースは自分の間違いを指摘されることが大嫌いだ。それはよく知っている。嫌になるほどに。
ピースはもう一度銃撃の姿勢をとると、ビデオを消した。ついでにテレビのスイッチも切った。そのまま、暗いブラウン管に自分の顔を写して突っ立っている。
山の夜の静けさが、山荘≠フなかまで染みいってくるようだった。ここにいるときは、二人で盛んにしゃべったり議論しているとき以外は、いつもテレビを点けている。こんな静寂は初めてだった。
栗橋浩美の辛抱が切れて、何か言おうとしたときに、そのタイミングを待ち受けていたみたいにくるりと振り返って、ピースは笑った。いつもの穏和な笑みだった。
「大丈夫さ。有馬義男が何を言ったって、ボイスチェンジャーを通した声だ。誰にも聞き分けられやしない」
ほっとして、栗橋浩美も微笑んだ。
「そうだよな? うん、そうだ」
「腹が減ったな」ピースはキッチンへと向かった。「飯にしようよ。乾杯もしなくちゃな。だってそうだろ? 田川一義の顔を満天下のさらしものにするという計画は、これ以上ないほど上手くいったんだもんな?」
翌朝、目がさめてすぐにテレビをつけると、どの局も昨夜の特番の話題で持ちきりだった。栗橋浩美はコーヒーを沸かしながら、チャンネルをあちこち替え、コーヒーができあがったところで、やはりHBSがいちばん詳しいだろうとそこでとめて、じっくりと腰を据えて観賞を始めた。昨夜の特番の司会を務めたアナウンサーが、今朝はゲストの立場でまた出演している。
だが、番組内で今話題にしている事柄が何なのかわかると同時に、それはもう女子アナの今朝の化粧ののり具合さえもよく観てとらないうちに、ピースを起こしに階段をかけあがることになった。こんなイベント、一人で観てはもったいない!
ワインの飲み過ぎで頭が痛いと文句を言うピースに、栗橋浩美は大笑いのあまりしゃっくりをしながらぶちまけた。
「田川一義が警察に引っ張られたぜ!」
驚いたことに、田川はこの半年のあいだに、大川公園周辺で実際に幼女を標的とした猥褻《わいせつ》事件や猥褻未遂事件を起こしていたのだという。昨夜のテレビ出演で全国に顔をさらしたことと、はめていた特徴的な指輪も手がかりになって、被害者が彼を特定したのだ。
「それで被害に遭った女の子のおふくろさんが、あわてて一一○番したんだとさ!」
栗橋浩美はひっくり返って笑った。
「しっかしさぁ、ここまで上手くいくとは思わなかったよ! ピース、まさか田川の最近の行状を知ってたわけじゃないんだろ?」
ピースはブラックコーヒーを飲みながら、まだ頭が痛いのか半分だけ顔をしかめて、残り半分で楽しげに言った。
「もちろん、現在の奴の密かなるお楽しみについてなんか、何も知らなかったよ。でも、ああいうタイプの性的な変質者は、専門的なカウンセリングを受けても治らないことが多い。田川はただ世間から隠れていただけで、治療も指導も何も受けていなかったんだから、性癖を変えられないまま陰でコソコソやってたって不思議はないとは思っていたけど」
「ってことは、こういう展開は、俺たちにツキがあるって証拠だ」
「そうなるね」
しかし、満足げな言葉のキャッチボールは、田川の話題が一段落すると同時に、はたと途絶えてしまった。ワイドショウの司会をしている栗橋浩美の好みの女子アナが、こんなことを言い出したのだ。
「さて昨夜の特別番組では、電話での会話がコマーシャルで中断されたことを怒った犯人が、一度電話を切ってしまい、またかけなおしてくるというハプニングが起こりました。ところが番組終了後、視聴者の皆さんから、およそ二十件ほどのお問い合わせがありました。コマーシャルによる中断の前に電話してきた犯人と、後で電話してきた犯人は別人ではないかというお問い合わせです」
栗橋浩美は笑顔のまま凍りついた。ピースのコーヒーカップを持つ手が、宙ぶらりんの高さで止まった。
「私自身は、なにしろ現場はたいへん混乱し緊張しておりましたので、そういう印象は受けなかったのですが──」昨夜の司会役のアナウンサーが言う。「しかしそういうお問い合わせがあったということを重大に考えまして、HBSとしては独自に、昨夜の犯人との電話による会話を録音したテープを音響研究所に送りまして、声紋鑑定を依頼することにいたしました」
その音響研究所は世界的な権威者がどうたらこうたらで、過去にもこれこれとなになにの事件で重要な手がかりを──というような話を、栗橋浩美はほとんど聞いていなかった。耳に入らなかったのだ。なぜなら、ゲストの一人の男性タレントが、
「だけど犯人からの電話は、いつもボイスチェンジャーを通してるでしょ? あのヘンテコな声になってますよね。あれでも声紋鑑定なんかできるんですかね?」
こんな質問を投げ、すると同席していたもう一人のゲストのジャーナリストが、
「大丈夫です。声紋は、ボイスチェンジャーを通しても変わらないんですよ。ごまかすことはできないんです」
と、答えたからである。
栗橋浩美は、身体中の血液が、ゆっくりと心臓に集まってくるのを感じた。どくん、どくん、どくん。
彼のなかの負けん気は、たとえこっちが二人だってことを気づかれたところで、それが犯人逮捕に直結するわけじゃないと主張している。確かにそのとおりだ。冷静になりたまえ、栗橋君。
しかし彼の本音、彼の魂の本音は、ごく気の小さい半ズボンの少年のように、警察に、社会に、これまでバカにしきってきた多数の人びとに、自分たちの正体の一端でも知られたという事実に、その場でおもらしをしてしまうほど震えあがっていた。
どうしてそんなに怖いのだ? 最悪の場合でも、複数犯だと知られるだけじゃないか。だけど──だけど──
「ピース、みんな気づいてる」と、彼は呟いた。「有馬のジジイだけじゃなかった。聞いたか? 二十件も問い合わせがあったって」
ピースはコーヒーを飲むのをやめてしまって、テレビのリモコンに手を伸ばした。
「チャンネルを替えるなよ!」と、栗橋浩美は言った。自分でも驚くほど強い声が出た。
ピースもぴしゃりと言い返した。「他の局でこの件を扱ってるかどうか確かめたいんだ」
ぐるぐる、ぐるぐる。目が回りそうなほどチヤンネルを替える。朝っぱらからテレビ画面のなかは音と色の洪水だ。女子アナが真顔でフリップを立てている。おなじみの犯罪ジャーナリストの顔が並んでいる。
結局、他の二局でもこの問題を取りあげていた。視聴者からの問い合わせが来たというのは、テレビ局にとっては大問題なのだ。放ってはおけないのだ。調べずにはいられないのだ。
大きな、大きな、大きなお世話だ。
「騒ぐことはないよ」リモコンを放り出して、ピースは立ちあがった。「鑑定の結果がちゃんと出るかどうか、わかったもんじゃない」
「だけど!」
「あわてるなって。僕は新聞を買ってくる。三大新聞じゃなんて言ってるかな」
サイドテーブルから車のキーを取りあげて、戸口へと急いで行く。栗橋浩美は立ちあがり、ちょっと目を見張ったまま声をかけた。
「ピース」
「何だよ?」
「パジャマのまま行くつもりか?」
ピースは自分の身体を見おろした。そして、何も言わずにむすっとしたまま寝室の方へ向かった。
栗橋浩美は、あわただしく着替えを終えたピースが車に乗り込んで出かけるまで、ずっと突っ立って見送った。一人になると、すとんと椅子に腰をおろした。脱力感が襲ってきた。
胸のなかに渦巻いている疑問を、言葉にするのが恐ろしかった。だから一人になったことが有り難かった。ピースがずっと一緒にいたら、どうしても口に出さずにはいられないだろう。問いつめずにはいられないだろう。
──ピース。俺が切った電話をかけなおしたとき、ボイスチェンジャーをかけても声紋はごまかせないってことを、知っていたのか? 声紋から二人組だと見抜かれてしまう危険があることをわかった上で、それでもかまわない、大したことじゃないって判断して、電話をかけなおしたのか?
ピースは「そうだよ」と答えるだろう。「その程度のこと、もしも知られたって全然危なくないからさ。それよりも、あそこで田川をハメる計画を中断する方が、はるかに拙《まず》いと思ったんだ」
だが、それは嘘だ。嘘に決まってる。ピースも声紋鑑定のことは知らなかったんだ。だから今、あんなに泡を食っているんだ。
栗橋浩美は、自分でも気づかないうちに両腕で身体を抱き、首を縮めていた。これまでまったく考えもしなかった事柄が、山荘の空っぽの空間の、ありとあらゆる方向から、彼をめがけて攻め寄せてくるような気がした。
声紋鑑定の件は[#「声紋鑑定の件は」に傍点]、はたして俺とピースの[#「はたして俺とピースの」に傍点]、最初の間違いなのだろうか[#「最初の間違いなのだろうか」に傍点]?
致命的な間違いを、ほかにも、これ以前にも、やらかしてるんじゃないのか。ただ気づかなかっただけ、知らずにいるだけで。
しかし警察は見落とすまい[#「しかし警察は見落とすまい」に傍点]。
俺たちはただ、二人で悦にいっていただけじゃないのか。計画はカンペキだ。漏れはない。誰も俺たちを追うことはできないと。
だが、現実にはあちこちに手がかりを残してきているのじゃないか。警察はそれを余さず拾い上げ、分析し、少しずつ確実に、じりじりと包囲の輪を狭めているのじゃないか。まだ捜査の手が届かないのは、単に物理的な時間の問題に過ぎないのじゃないか。
ピースはヒロミの十の懸念に、十の「大丈夫だ」という答を返してきた。だから安心してきたのだ。だが、その十のうちひとつが全然間違っているということは、残りの九だって疑わしいということじゃないか。
栗橋浩美は両手で頭を抱え、目をつぶった。もう取調室にいるような気がした。天板が傷だらけの小汚いテーブルをはさんで、向かいに座ったチビデブハゲの刑事が、歯のあいだから爪楊枝を突き出して、鼻先でせせら笑う。刑事が笑うと、爪楊枝もピクピク動く。
──おまえら、本当に無神経でバカだな。
──おまえらの通った後には、手がかりがぽとぽと落ちていた。俺たちはそれをたどるだけでよかった。あっさりおまえらにたどりつくことができた。
──ご親切なことだ。まるで『ヘンゼルとグレーテル』だよ。ところでおまえはどっちなんだ? ヘンゼルちゃんか? グレーテルちゃんか?
──道々、パンを千切って落としてくれた親切なカワイコちゃんは、おまえかい?
身震いしながら、栗橋浩美は目を開けた。テレビはまだしゃべり続けている。騒々しい音声のなかで、栗橋浩美は夢想した。
──はい、パンを千切って落としたのは僕です。
そう答える。
──僕はこんな恐ろしいこと、早くやめたかった。最初からやめたかった。でもあいつが怖くて、引きずり回されて。だからせめて、捜査する皆さんに手がかりを残そうと思いました。早くあいつを捕まえてほしかったから。
怯えて、打ちひしがれて、身も世もないように涙を浮かべながらそう訴える。そうすれば自分の罪は軽くなるかもしれないから。そうだ、そうしよう。そうすればいい。そんな自分の姿が目に見えるようだ──
だが、次の瞬間に気がつく。刑事に泣きついているその顔、訴えているその声は、自分のものではない。栗橋浩美のものではない。
ピースだった。
[#改ページ]
19
新聞を手に戻ってきたピースは、不可解なほど上機嫌に戻っていた。
「三大新聞は、声紋のことなんか何も書いてない。ワイドショウなんかかまうもんか。大丈夫だよ」
そして楽しげに朝食の支度をしながら、しきりと早口でしゃべった。
「ただこれで、カズを身代わりの犯人役にするという計画を急がなくちゃならなくなったな。声紋鑑定の結果が出て、犯人が複数だということがテレビや夕刊紙で騒がれたりすると、世間のバカな連中は、たとえ警察や大手の報道機関が何も言ってなくても、そう思い込むだろうからね。だから鑑定の結果が出る前に、カズを完璧な犯人に仕立てて社会にデビューさせる必要がある。生身の犯人が出てきたら、声紋鑑定の結果がどうのこうのなんて、誰も気にするもんか!」
強気だった。
「カズさえ登場すれば、鑑定じゃ複数犯だったなんて情報が流れても、鑑定って間違うことがあるんでしょ?≠ニいうぐらいで、すぐ忘れられてしまうよ。大衆はいつもそうなんだ。事実だの真実だのよりも、わかりやすくて派手なストーリーの方を受け入れる。特に今は、みんな犯人逮捕を切望しているからね。絶対に上手くいく」
本当か? 栗橋浩美は胸の底で問うた。どうしてそんなに自信たっぷりになれるんだ?
だが、栗橋浩美は、そう口に出して反論しようとは思わなかった。そんなことをすれば、また余計な時間をくう。栗橋浩美としては、早く「蜃気楼」を完成させ、高井和明にその「蜃気楼」を着せかけて、始末してしまいたい。そうやって、すべてを終わらせたい。
女の子たちを思うがままにいたぶるのは面白いけれど、死体の始末は汚くて嫌だし、どんな美人でも、死に様はみんな醜くて興ざめだ。この件は、もう仕舞い時だ。
「判った。で、カズをどうすればいい?」
精一杯、積極的に聞こえるように声を励まして、栗橋浩美は言った。実際、カズをおとしめる悪戯《いたずら》は、いつだって大好きなんだから、きっと楽しくやれるはずだ。
「HBSの生番組で、僕たちに向かって、か弱い女ばかり狙ういくじなしと罵った奴がいた」と、ピースは言った。口元に、かすかに笑みが浮かんでいる。「だから今度は、大の男をやろう。そしてそれが僕らのつくりあげる蜃気楼の──いや、この連続誘拐殺人事件の犯人である高井和明の、最後の殺人だ。彼はその遺体を始末して、自殺する。そう、これが終盤戦《エンドゲーム》だよ」
栗橋浩美はうなずいた。間もなく、彼の人生そのものがエンドになることを知らずに。
大の男を狙うのは、確かに難しい。
ただ、それは、HBSの特番で、あの女性評論家が侮蔑的に口元を歪めて発言したように、栗橋浩美とピースのふたりが「か弱い女性しか相手にすることができないいくじなし」だったからではない。ふたりは充分に「勇敢」だったし、拉致や殺人を重ねて経験を積み、作業には熟練してきつつあった。
それでも「難しかった」のは、他の何が理由でもない。答は単純だった。女性評論家が犠牲者としてお望みの、立派な大人の男を殺害することは、実に汚い仕事だ。汚いから、栗橋浩美もピースも気が進まなかったのである。
それでなくても、殺人の後始末は大仕事だ。栗橋浩美は、今までの「女優」たちのなかでは古川鞠子がいちばん気に入っていたし、ピースはピースで、彼一流の論理で選んだお気に入りの「女優」が数人いた。しかし、それぞれそのお気に入りの死体の後始末をするのも、気が重くて仕方なかったほどだ。死体は汚物で汚れているし、ちょっと時間が経つと臭い始める。古川鞠子はとりわけ目がきれいで、白目などゆでたての卵の白身のようだったけれど、階段の絞首台からぶら下がった後は、その白目が無惨にも、赤い毛細血管で覆われてしまった。栗橋浩美はがっかりしたものだ。
人質たちを閉じこめ、殺害するための拠点として使ってる山荘を、栗橋浩美は単純に「基地」と呼んでいるが、ピースは「楽屋」と称している。「女優たち」がマスコミを通して世間に登場する以前に活動する場所だから、そう呼ぶのがふさわしいというのだ。そして「楽屋」では、「女優たち」も美しいばかりではないのは当たり前なのだから、死体の始末も我慢してやらねばならないんだと説教をする。
山荘は、建物自体も大きいが、敷地はさらに広く、裏庭には独立した焼却式のゴミ処理機が設置されていた。しかしピースは、そこで「女優たち」の死体はもちろん、彼女たちの汚物のついた着衣の類を燃やすことさえも厳禁していた。燃してしまえば仕事がぐっと易しくなり、その分不愉快な思いも少なくて済むのだから、栗橋浩美は不満だった。なんで駄目なんだよと、何度もピースに食い下がった。するとピースは、そのたびに言うのだ。
「あの焼却炉は、けっして最新式のものじゃない。煙の濾過器がついてないんだ。それがどういうことか、判るだろ? 下手なものを燃やしたら、煙が臭う。臭えば、発覚の危険が増える」
山荘は小高い丘の中腹にあり、周囲には他の建物が見あたらない。しかしピースは、煙はどこをどう流れるか判らないと主張した。とりわけ、丘の麓の別荘地の人びとを警戒しているようだった。
ピースは、東京の栗橋浩美のマンションにはけっして近づかない。栗橋浩美も、計画に使ったり実行する都合上、東京のピースの住まいには出入りするが、職場にはけっして行かないし、電話もしない。山荘を訪れるときは、非常に注意深く慎重に行動する。ひとりで山荘に行くときは、必ず夜中に車で行く。途中は、どこにも寄らない深夜営業のレストランにも、給油所にも。ピースとふたりで行くときも、やはり夜を選び、寄り道は避け、別荘地に近づくと、栗橋浩美はピースの車の後部座席に隠れる。山荘に出入りしているのは、ピースひとりであるように見せかけるためだ。冬場は厳しい寒さに襲われる山荘では、暖房用のボイラーに重油を使用しているが、その業者と相対するのはもちろんピースだけだし、業者が来るときには、栗橋浩美は山荘の奥で息をひそめている。もちろん、食料や日用品の買い出しはピースひとりの仕事である。
そこまでして、ふたりが一緒に行動しているところを他人に見られないように気を遣うのは、それが安全装置であるからだとピースは言う。ふたりのうちひとりが、何かヘマをしたり、不運に襲われて、言い逃れも対処のしようもない状況で警察に捕らえられたときのための用心なのだと。
「僕が捕まっても、ヒロミのことは言わない。だからヒロミが捕まっても、僕のことは言わない。そして自由な方のひとりは、捕まった方を助け出すために大急ぎで行動する……。ね? だから、今の僕らの間柄を世間の目から隠しておくための安全装置は、どうしても必要なんだよ」
これほどに慎重なピースの考え方を栗橋浩美も理解している──しているつもりだ。だからこそ、安全装置の件などは、納得して取り決めに従っている。しかし、焼却炉の使用を控えることに関しては、あまりに慎重過ぎるし、いたずらに事を面倒にしているだけだと思うのだ。
しかし、栗橋浩美がそういう不平を並べると、ピースは苦笑して言う。
「あいかわらずだ、ヒロミ。後かたづけが嫌いなんだな。子供のころからずっとそうだ」
几帳面なピースの指示に従って、栗橋浩美は「女優たち」の汚れ物を洗い、遺品を整理し、処分できるものはそっと捨て、保管するものは保管する。山荘にはそれらの品物のための部屋があり、そこはまるで、刑事ものドラマの証拠品保管室のような眺めになりつつある。大川公園に捨てた古川鞠子のハンドバッグも、有馬義男と遊んでやったときに使用した彼女の腕時計も、一時はここに保管されていた。
栗橋浩美は、ピースに相談し許可を得た上でなければ、ここから保管品を持ち出すことはできなかった。「女優たち」の遺品だけでなく、彼女たちを撮影した写真や、ビデオテープも然りである。
「こういう決定的な物的証拠は、一ヵ所にまとめておいた方がいいんだ。もしも僕が捕まったら、ヒロミは何をおいてもここに駆けつけて、ここにあるものを全部処分してほしい。逆に、もしもヒロミが捕まっても、ヒロミが僕のことを誰かに言わない限り、物的証拠は全部ここにあるんだから、心配ないってわけさ」
それは確かに、ピースの言うとおりだ。頭がいい奴だと思う。もっとも、「もしも僕らのどちらかが捕まったら」という言葉を口に出すときのピースは、いつだってお気楽そうで、実際にはそんなこと、百パーセント起こり得ないと確信しているみたいに見えた。
同じ理由で、ピースは、「女優たち」の遺体を山荘の敷地の外に捨てたり埋めたりすることも禁止している。だから彼女らは、ピースの創る「筋書き」の進行上、遺体を外に出す必要が出てくるまで、みんな山荘の敷地内にいる。古川鞠子だって、わざわざ掘り出してから帰してやったのだ。日高千秋だって、象さんの滑り台の趣向がなければ、しばらくはここにいることになったろう。
春には彼女たちの上に花が咲き、秋には落ち葉が彼女たちの無名の墓を彩り、冬には真っ白な雪がすべてを覆い隠す。そしてピースとヒロミは、山荘の窓から敷地全体を見おろしながら、物言わぬハーレムの女たちを愛《め》でるような気分を味わうのだ。
栗橋浩美は、子供のころ、昆虫採集というものをやったことがない。なんであんなものが面白いのだろう、なんで大人たちは、昆虫採集に熱中すること、があたかも男の子の聖なる義務であるかのように考えるのだろう──と、不思議で仕方がなかった。それでも、色鮮やかな蝶々を集めるならまだ理解もできたが、カブトムシだのクワガタだの、不格好で不気味な生き物を必死になって集めているクラスメイトは、ただのバカとしか思えなかった。さもなきゃ、立派な変質者の予備軍だと思っていた。
しかし、今こうして見渡す山荘の敷地の無名の墓の群は、ピースと栗橋浩美の目にしか見えることのない、美しい蝶々の標本箱だった。そのことをピースに言うと、彼も深くうなずいた。
「僕も昆虫採集は好きじゃなかった。虫取り網なんかより顕微鏡が欲しいって、親父にねだった覚えがあるよ。親父は大喜びで買ってくれたっけ」
そして、微笑しながら付け加えた。
「だけど、僕が昆虫採集を嫌っていたのは、採集すること自体が嫌だったからじゃない。意味のないものを集めたって無駄だと思ったからなんだ。意味のないものに、物語はつづれないからね」
その夜、もう誰の目も気にする必要がない時間帯になると、栗橋浩美はピースと一緒に外へ出た。そして、月明かりを頼りに山荘の敷地内を歩き回りながら、今後の計画について話し合った。どれほど気が重い仕事でも、あの小賢《 こ ざか》しい女性評論家を社会的に断罪してやるために、そして、高井和明に罪をなすりつけ、大きな盛り上がりをつくりつつ、今のこの物語を終幕にもっていくためには、どうしても、いい歳の男をひとりは殺さなくてはならない。できるだけ軽快に、できるだけ面白く、この厄介な仕事をやり遂げるにはどうしたらいいだろう?
「無教養な男は嫌だ」
これは、ピースが最初から言っていることだった。
「僕たちと話し合い、僕たちのやろうとしていることを理解することのできる人間でなきゃ困る。あのホームレスを始末したときみたいな徒労は、もうごめんだよ」
警察が引っかかるかどうかは判らないが、もし引っかかれば面白い──そういう意図で、大川公園のゴミ箱に右腕を捨てるとき、ちょっとした細工をした。右腕を捨てる場面が、わざと素人カメラマンのファインダーのなかにおさまるように計らったのだ。現場の下見をしに、ピースが数回にわたって大川公園を訪れたとき、その素人カメラマンが大川公園でずっと撮影をしていることに気がついて、発想した悪戯だった。
無論、そのホームレスには、すぐに死んでもらわねばならなかった。ピースとヒロミは迅速に行動した。ホームレスは酒にも食べ物にも彼の話を聞いてくれる人間にも飢えていたから、扱い易かった。ただ、一緒にいるところを目撃されないよう、注意してさえいればよかった。
もちろん、そのホームレスはこの敷地内に眠ってはいない。「女優たち」と一緒にすることなどできるわけがないからだ。丘の頂上近くの林のなかに、ふたりして大汗かいて深い深い穴を掘った。そこに彼を葬るとき、ピースは穴の底に向かって唾を吐いた。そしてこう言った──知性のない人間には生きる価値がないんだ。
ホームレスのひがみっぽい身の上話や、虚勢ばかりの「俺は本当はちょっとしたニンゲンなんだ」という作り話に付き合わされたことへの、ささやかな仕返しというわけだった。
「だけど、相手が大人の男だというだけでも難しいのに、そこそこの教養があるという条件をつけるとなると、もっともっと大変じゃないか? 少しは妥協しないと危ないよ」
栗橋浩美はそう言って、足元の落ち葉を蹴った。この時期になると、山荘の周辺は既に初冬の趣を見せる。現にピースも栗橋浩美も、厚手のジャケットを着込んでいた。
ピースは答えず、栗橋浩美のまき散らした落ち葉が風にまかれてひらひらと飛んでゆくのを見つめていた。やがて、
「ちょうどこのあたりだったね。あの娘《こ》を埋めたのは」と言った。
栗橋浩美は目を上げて、二メートルほど先の落ち葉の上に、月の光を浴びてわずかに光るものがあるのを認めた。
「そうだね。ドンペリの瓶があるからさ」
あの娘──大川公園の右腕の持ち主だ。
大川公園のなかに、古川鞠子の所持品と、彼女のものではない遺体の一部を捨てる。それによって、ただ単に古川鞠子の遣体だけを捨てるよりも、二重三重にドラマチックな幕開きを演出することができる。ピースはこのアイデアをとても気に入っていた。
そして最初は、ゴミ箱に捨てる古川鞠子ではない女の遺体の一部は、首にしようと考えていた。やっぱり衝撃的だからね、と。ところが、栗橋浩美はこれに反対だった。考えてみれば、ヒロミが正面切ってピースのアイデアに反対し、しかもそれが筋の通った反対だとピースが認めたのは、後にも先にもこのときだけだったような気がする。
「切り落とした首は醜いぜ。ちっとも美的じゃないよ。もっと別の部分がいいと思う。たとえば手とかさ。モデルとか手タレをやってるような女の手がいいんじゃないか?」
ピースは納得し、進んでその案を採用した。手のきれいな女を探そう──
そうして、あの女の子に巡り会ったのだ。あれは千葉の、そう浦安駅の近くだった。どうも千葉の方は獲物が少なく、また八王子や中野の方へ河岸《 か し 》を変えようかなどと話し合いながら、ピースが車を運転し、ヒロミは後部座席に潜んでいた。
午前三時を過ぎていた。九月になったばかりの残暑の残るころだったけれど、さすがにこの時刻は涼しくてしのぎやすく、町は静かに眠りについていた。しかし、あと二時間もすれば夜明けがやってくる。時間はない。もう帰ろうかとピースが言って、漫然と道を右折したとき、いきなり目の前にふらりと女が現れたのだ。
獲物を探して流していたから、ピースはごくごくゆっくりと車を走らせていた。突然女が現れたことで驚きはしたが、車は鼻面を女にぶつけることさえなく、きゅっと停車した。女の方は、車を押し返そうとするかのように片手をボンネットの上に突っ張って、ヘッドライトがまぶしそうに目を細めているだけで、怖がったり怒ったり恐縮したりしている様子がなかった。
「危ないじゃないか」
ピースがそう言って車から降りて行く。栗橋浩美は辛抱強く後部座席に隠れていた。毛布をかぶっているので、もしも女が窓越しにこちらをのぞきこんでも、すぐには気づかれないだろう。
「君、酔ってるんだね」と、ピースの声が聞こえる。女は笑い声をたてている。
「そうなの、酔っぱらってるの、あたし」
しばしのやりとりの後──やりとりと言っても、ほとんどピースが女を宥めているだけだったが──ピースが運転席に、女が助手席に乗った。
「家まで送ってあげるから、ちゃんとシートベルトを締めてくれよ」と、ピースが言う。
「家なんて、帰ってもひとりだもん、つまんない。どっか連れてってよ。いい車じゃないの、ドライブ行こうよ」と、女が言う。スタイルとファッションは一人前だが間近に見ると、女というよりまだ女の子だとわかった。
「しょうがないなあ。ヘンな女を拾っちゃったよ」
ピースはぼやきながら、でも少し笑いながら車を出した。阿吽《 あ うん》の呼吸で、そのときにはもう栗橋浩美にも、ピースが助手席の女の子を獲物と決めたことが感じ取れていた──
「きれいな腕だった」
積もった落ち葉のなかから半分ほど首をのぞかせているドンペリの瓶を見つめながら、ピースは呟いた。
「ボンネットに突いた腕が、すらりとして色が白くて、そこにあの痣。まるで付け黒子《ぼ く ろ》みたいに印象的だった。この腕こそ探していた獲物だってすぐに判ったよ」
彼女は三日、ここにいた。死ぬ前に、どうしてもドンペリニョンという高価なシャンパンが飲みたいとねだるので、ピースがわざわざ買ってきた。そしてその瓶を彼女の墓標にした。
「面白い女の子だったな」懐かしそうに、ピースは言った。「しゃべってると、いろいろ触発されるものがあったよ。彼女からは、今度のストーリーのアイデアをずいぶんもらったと思う」
そして、つと口元を引き締めると、まばたきをした。栗橋浩美の方を見る。ピースの顔は、月光を映して青白く端正だった。
「今も、彼女からアイデアをもらったみたいだ。思いついた」
栗橋浩美はピースの方へ近寄った。
「大の男を釣り出すのに、子供を使うというのはどうだい? 高井和明を巻き込むためには、子供というファクターは、いちばん効果的だと思うんだけど」
ピースは言って、微笑した。くちびるの隙間から、月より白い歯が見えた。
子供なら、「都合のつくあてがある」という。
「ずいぶん簡単に言うんだな。子供に手を出すなんて、凄く危険な綱渡りになるんだぜ。判ってるのか?」
「綱渡りなら、今までだってずっとそうだったじゃないか」と、ピースは気取って肩をすくめた。時々こうやって、タレントみたいな仕草をしたがる癖が、この男にはあるのだ。
「だけど!」栗橋浩美は語気を強めた。この件に関してばかりは、あっさり譲るわけにはいかない。「子供を都合するって、どうするんだ? 誘拐するのかよ。そんなことをしたら、親は絶対に警察に報せるぜ。そしたら、俺たちが捕まる可能性は百倍にも千倍にも高くなるんだ。それが判んねえのかよ!」
ピースの顔から、急に表情が消えた。栗橋浩美はびくりとした。ピースとは長い付き合いだけれど、こんなふうに無表情になる瞬間を、今までに何度か目の当たりにしてきた。何度ぐらいだろう──そう、両手の指を折って数え上げることができるくらいのわずかな数だ──少なくとも、栗橋浩美の目にとまった範囲内では。
それはたいてい、何かがピースの気に障ったときだ。そしてピースの気に障ることというのは、ピースが間違っていることを、誰かに指摘されることなのだった。しかも、その指摘が正しいものであるときなのだった。
そういうときは、相手がたとえ教師だろうと上司だろうと関係ない。ピースは石のように頑なになり、黙り込む。その黙り込み方は、普通の人間が心を傷つけられて口をつぐんだり、腹を立てて口をきかなくなったりするときの様子とは、まったく違うのだった。
あたりまえの人間ならば、そういうとき、むくれて口を閉ざしても、目の動きや態度や身体全体の雰囲気で、周囲に何らかの感情を伝えるものだ。
──そこまで言うことはないだろ?
──そんな怖い顔することないじゃないか。
──判ったよ、どうせ俺は駄目な奴だよ。
──フン、いつだってそうやって俺のことをバカにするんだな。
たとえ抑えようとしても、そういう生の感情は、外部に伝わってしまう。だから、間違いを指摘した側にもそれが通じて、また会話なりアクションが再開される。人間関係とは、そういうことの積み重ねによって紡《つむ》ぎあげられていくのだ。
だが、ピースは違う。相手が誰であれ、どんな立場の人物であれ、ピースの間違いを指摘したら。その瞬間にその人物は、ある奇妙な装置のスイッチを押してしまったことになるのだ。そのスイッチは、ピースという人間の、人間らしい感情の発露の一切を停止させてしまうスイッチなのだ。
SF映画の好きだった少年時代──いや、ピースや栗橋浩美の年代の男性で、子供のころにSF映画が好きではなかった者がいるだろうか──栗橋浩美は、ピースがこういう感情的に白紙の状態の顔をするのを見ると、そのたびに思ったものだ。ピースって、本当はよくできたアンドロイドなんじゃないか。そしてこのアンドロイドは、
──おまえは間違っている。
──その考えは浅はかだ。
──おまえはそこにいる誰々よりも能力が劣っている。
等々の、ピース自身に対して否定的な言葉を投げかけられると、何らかの防御プログラムが走って、その場で停止してしまうのだ。
大学時代、初めてパソコンに触れて、インストラクターの女の子を大いに笑わせながらレクチャーを受けたことがある。なにしろこちらはど素人だから、操作が判らなくなって立ち往生してしまうことが多かった。画面が固定され、ウインドウを閉じることも、コマンドを打ち込むことも、カーソルを動かすことさえできなくなってしまうのだ。インストラクターの女の子は、この状態を指して、「ハングアップ」とか「暴走」とか言っていた。だが、栗橋浩美個人は、パソコンに相対してこの現象に出くわすと、そのたびに思っていた──パソコンが、またピースになっちまったぜ。
そうなのだ──栗橋浩美が知る限り、これがピースの唯一の欠点だった。短所とは言いたくない。幼いころから常に彼の手本であり、彼のリーダーであり、彼の慰め手であり、優秀な人間同士にしか感じることのできない、理解することもできない、様々な外界との葛藤を、いつも分け合ってくれてきたピースには、短所などない。俺に短所がないように、ピースにも短所はない。だから、誤謬《ごびゅう》を指摘されると感情が欠落することは、文字通りの欠点──「欠けた点」でしかない。
それだけに、栗橋浩美はずっと気をつけていた。ピースのそのスイッチを押してしまわないように。なぜなら、そのスイッチをオンにしてしまうと、ピースは向こう三日間くらいは口をきいてくれなくなってしまうからだ。遠い昔、子供だった栗橋浩美自身が、たった一度だけこのスイッチを押してしまったときのことを、彼は今でもよく覚えていた。そのときの寂しさや、このままピースとのつながりが切れてしまうかもしれないという恐怖を。
それなのに、よりによって今、こんな状況下でそれをやらかしてしまうとは。今はまずい。今はとにかくスピード第一で、カズを犯人にしてしまわなければならないのだから。
「いや、そんな……怒るなよ」
栗橋浩美は急いで言った。笑おうとして口元をゆるめたが、すぐに真顔に戻した。もう手遅れだと思ったからだ。
ピースは完全に栗橋浩美を無視していた。あのドンペリの瓶の方に顔を向け、ちょっとながめていたが、すぐにくるりと背を向けて、山荘の方へと戻り始めた。
栗橋浩美は、去っていくピースに声をかけなかった。そんなことをしても無駄だ。少なくとも今夜は。
だが、俺の意見は間違っていない──そう思っていた。子供を巻き込むのは危険すぎる。
世間は、若い女が誘拐されたり殺されたりしたら、表面的には大騒ぎをする。ワイドショウなんざ、連日のように現地生中継、「新しい情報はありませんか?」「何か新展開がありませんか?」──そして、「本当に気の毒ですね」「犯人への怒りを禁じ得ません」「早く無事に発見されることを切に望みます」
だが、本音はどうだろう? 誘拐され殺された若い女に対して、世間が示す同情のうち、何パーセントが本物だろう? せいぜい八十パーセント……いや、もっと少ないかもしれない。
誰も反論することのできない、誰の反対意見も届かない、彼自身の内側の暗い場所で、栗橋浩美は考えた。
──残りの二十パーセントには、無言のあざけりがこもっているのだ。「ほら、またひとりすべた[#「すべた」に傍点]が死んだぞ」と、後ろ指をさす声が潜んでいるのだ。何も悪いことをしていないのに、さらわれて殺されるわけがない。きっと愚かだったのだ。きっと強欲だったのだ。きっと男に飢えていたのだ。だから、百パーセント本気で悲しんだり怒ったりしてやる必要などないのだと。
──だからこそ、ピースと俺のやっていることに対して、世間はこんなにも騒いで喜んでくれるのだ。
──女は商品だ。どんな社会問題も、ひとりの女がさらわれて残酷に殺されたというニュースの前には完敗するしかない。女は商品であり、スターなのだ。それが判っているからこそ、ピースもこの山荘で死んだ女たちを「女優」と呼ぶのだ。
──だが、子供は違う。子供は駄目だ。子供は商品にはならない。少なくとも、まだ、今のうちは。今の日本では。
栗橋浩美は冷え切ったポケットに両手を突っ込み、他の誰でもない自分自身に、自分がちょっぴり疲れていることをアピールするために、声を出してため息をついた。
大の男を獲物にするなんて、考えるからこんなことになるのだ。女だけにしておこうよ、ピース。あんな女性評論家に挑発されたからって、受けて立つことはない。
夜空に星が光っている。ここでは本当に星がきれいに見える。「女優たち」を埋める作業はいつも大仕事で、ピースとふたり、ショベルカーが欲しいと本気で話し合うこともあるくらいだが、スコップで穴を掘る手を止めて、時おり振り仰ぐ夜空の美しさにだけは文句がない。
あれはそう──何人目の「女優」のときだったろう。古川鞠子のときじゃなかった。その前の、箱根で引っかけた短大生のときだったろうか。やっぱり今ぐらいの季節だったはずだ。空気が澄み切っていて、寒かったけれど、雪はなかった。そう、ここでは冬場に雪が降るし地面が凍結するので、十二月、一月、二月の三ヵ月間は庭を墓場にすることができないのが困りものだった。
星を見上げて目を細め、栗橋浩美は記憶をたどった……うん、やっぱりあの短大生のときだ。いい脚をしていた。マイクロミニをはいて、ロングブーツで、冷えないのと聞いたら、あたしはダイアナ妃も着ている高い保温用下着を着ているからへいちゃらなのと笑っていた。
彼女を埋めたのは、どこだったっけ。ピースが描いている地図を見ないと、ちょっとはっきりしない。だがともかく、あの夜は凄い星月夜だったのだ。ピースがそう言ったのだ。星月夜だと。
──うん、星が凄いな。でも月は出てないじゃないか。
──おいおい、しつかりしてくれよ。星月夜は、月は出ていないのに星がいっぱいで月夜のように明るい夜のことを言うんだよ。
──へえ、知らなかったよ。
──ひとつ勉強になったろ?
──さすがだね、先生。
素晴らしい星空だった。夜の底に無数の小さな穴があいて、そこから光がシャワーのように降り注いでいるかのように見えた。俺たちは星と一緒に墓を掘ってるんだと思った。こんな星空の下に墓を掘ってもらえる女は幸せだと、思わず口に出してそう言った。ピースはスコップを地面に突き、それにもたれてひと息入れながら、言った。
──天が祝福してるんだよ。
──誰を?
──決まってるじゃないか、僕たちふたりをだ。
その言葉に誘われるように、栗橋浩美は大きく反り返って星を見上げた。そしてそのとき、確信したのだ。ピースは正しい。俺たちは祝福されている。世界は俺たちの手の中にある。
おお、あの昂揚感。あの勝利の感触。あの幸せな気持ち。
でも、それと引きかえに捕まるのは嫌だ。さらしものになるのは嫌だ。自由を奪われるなどとんでもない。何とかしなくては、絶対に。
栗橋浩美にもピースにも、もう地図と記録を参照しなくては、この庭のどこに誰が、そして全部で何人の死体が埋まっているのか、まったく判らなくなっている。それでも、この庭には幽霊の影もなく、山荘を取り囲む自然は無関心で惨《むご》く、美しい。
山荘のなかに引き揚げてゆく栗橋浩美を、ドンペリの瓶の黒い影が見送っていた。
翌日の昼ごろ、栗橋浩美が起き出してリビングに降りていくと、ピースが電話をかけていた。携帯電話ではなく、山荘に設置されているホームテレフォンを使っていた。
ピースはちゃんと朝食をとったらしい。洗った皿が食器乾燥機のなかに入れてある。広い対面キッチンで、あくびをしながらコーヒーをいれ、栗橋浩美は、聞くともなくピースと電話相手の会話を聞いていた。しかし、ピースが相手を「アキラ君」と呼んだ途端に、手にしていたマグカップを取り落としそうになった。
ピースは上機嫌で、笑ったり手振りを交えたりしながら話し込んでいる。暖炉の前に据えてある彼のお気に入りの安楽椅子にどっかりと腰かけ、脚を組んで、室内履きをぶらぶらさせている。くつろいで、楽しそうだ。
「そうなんだ、先生はだから今休職中でね」と、ピースは電話に話しかける。「ちょっと旅行に来ていてさ。それで、アキラ君が絵はがきを集めていることを思い出したんだよ。絵はがきならどんなものでもいいのかい? え? 写真のじゃ駄目なの?」
栗橋浩美は、キッチンのカウンターごしに、信じられないような思いでピースを見つめていた。ピース──子供に電話なんかしてる。
アキラ君てのが、昨夜言ってた「都合のつくあてのある」子供なのか? その子を使うつもりなのか? 本気でやるつもりなのか? 危険すぎると指摘したのに!
さっきからピースは自分のことを、先生、先生と言っている。つまり相手は教え子なのだ。
馬鹿な──塾の教え子に手を出すなんて論外だ。そんなことをすれば、捜査に取りかかった途端に警察は、やすやすとピースへとたどりつくだろう。あの連中は、こういうルーティンワークにかけては有能なのだ。被害者と犯人の物理的つながりを探せ。探したら引っ張れ。その先に犯人がついている。
立ちすくんでいる栗橋浩美の前で、ピースは話を終えて電話を切ろうとしている。
「元気で頑張るんだよ。じゃあ、またな」
受話器を元に戻した。そのまま、電話機のダイアルのあたりに目をやって微笑んでいる。楽しい電話の後には、人はよくそんなふうにするものだ。電話は切っても、まだ心の端がつながっているとでもいうかのように。
栗橋浩美は、マグカップのなかのコーヒーをステンレスのシンクのなかにぶちまけた。
ピースが顔をあげ、栗橋浩美の方を見た。口元には、まだ笑みが浮かんでいる。
「おはよう。昨夜は、遅くまでテレビを観ていたみたいだな」
栗橋浩美は黙っていた。ピースは椅子の背に寄りかかり、脚を組み替えた。
「心配するな。子供を使うことは断念した」
栗橋浩美ははっと顔をあげた。はずみで、マグカップが手から離れ、キッチンの洗い桶のなかに落ちた。
ピースはそっくり返って頭の後ろで手を組み合わせ、リビングの頭上のシャンデリアを見上げながら言う。
「今の電話の子、僕の生徒なんだ」
「……そうじゃないかと思った」
「昨夜、都合がつくあてがあると言ったのも彼のことだ。彼のことを頭に思い浮かべていた」
「やっぱりな」
「だけど、止めたよ」はずみをつけて起きあがりながら、ピースは陽気に言った。「昨日の議論では、ヒロミが正しい。僕は間違っていた。完敗だ。子供に手を出すのはやめよう」
それならなぜ、電話なんかしたんだ?
栗橋浩美の内心の問に答えるように、ちょっと遠い目をして、ピースは言った。
「僕たちの方針変更で命拾いをした子供の声を聞きたくなったのさ。話をして、笑って、なあアキラ君、先生は昨夜は君を殺して埋めようと思ってたんだけど止めたよって、腹の底で考えるのは、さぞ愉快だろうと思って。実際、愉快だったよ」
ピースは口元に笑みを残したまま、精悍《せいかん》な目になった。
「さあ、計画を練り直そう」
結局、その日は午後いっぱいを、話し合いに費やした。大の大人の男、しかもピースの注文によれば、普通以上の常識と教養のある男を拉致して殺害するには、いったいどうすればいいのか。
地図を広げ、これまでの記録を参照し、HBSの特別番組のビデオテープももう一度、再生しなおしてみた。ふたりとも、すっかり話に夢中になってしまった。
とっぷりと日が暮れて窓の外が真っ暗になり、明かりを点《つ》けるころになって、ふと思い出したように時計を見上げ、ピースは舌打ちをした。
「うっかりしてた。もうこんな時間だ。買い物に行ってこなくちゃならないんだった」
山荘に居るあいだは、車で外部に出かけなければならない役割はピースが分担することになっている。山荘に出入りしているのはピースだけだという建前を押し通すためには、栗橋浩美がひとりで車を運転し、この辺りを走り回るなど、できるはずもないことだからである。そのかわり、掃除や洗濯などは栗橋浩美の役割となる。
午後六時になるところだった。ここから、いつも日用品を買うために利用している幹線道路沿いの大きなスーパーマーケットまで、車で小一時間かかる。スーパーは七時までなので、あまりもたもたしていては、買い物する時間がなくなってしまう。
「いいじゃんか、今夜はあるもので済ませようよ」
話し合いは楽しかったが、あまりにも熱を入れ、気分が昂揚したせいか、栗橋浩美はいささかくたびれていた。ピースの顔にも疲労の色が見える。一食ぐらい、インスタント食品でかまわないと思った。
「そうはいかないんだよ。コーヒー豆が切れてるんだ」
ピースはせかせかと厚手のジャケットを羽織り、サイドボードの上に放り出してあった車のキーを取り上げた。
「ちょっと行って来るよ。何か要るものはないか?」
「特にない。煙草ぐらいかな」
「吸いすぎるとよくないから、買ってこない」
「チェ、どっちでもいいよ」
ピースは笑いながら出かけていった。しばらく後、前庭で車のエンジンをかける音が聞こえてきた。
栗橋浩美は、大きく背伸びをしてソファに寝ころんだ。三人がけのソファは、長身の彼が両手をあげ脚を伸ばすと、左右の肘かけからはみ出てしまう。
ピースが外出しているとき、よくこんなふうにソファに仰向けになり、天井を見あげることがある。しみじみとして気分がよく、心が落ち着き、満足感に満たされるからだ。
ピースの親父さんは、この山荘のほかにも、かなりの額の預金や有価証券を遺産として残してくれたのだと聞いている。つましく暮らせば、働かなくても済むほどの財産を。だから、ピースが働いているのは、純粋に「社会に興味がある」からだし、まだ「世捨て人になるつもりはない」からだそうだ。
彼は今また、都内の進学塾に時間講師の仕事を見つけ、一週間に十時間ほど子供たちを教えている。そこからの給料は、東京で借りている賃貸マンションの家賃を払ったらなくなってしまうほどの額だというが、それでも余裕|綽々《しゃくしゃく》だ。ときどき困ったような顔をして、
「おふくろが、また金を送ってきたんだ。小遣いが足りないだろう≠セってさ。まったく、あの人も金が余って困るなら、慈善事業でも始めればいいのに」
などとこぼすことがある。そういうときは、かなり嫌味な感じがする。ピースは日頃、めったに母親のことを話さないし、訊いてもほとんど答えないのだから、なおさらだ。
それでも、断片的に聞いたことを総合すると、ピースのおふくろさんは、夫を亡くしたあと自分も病気がちになり、伊豆だか箱根だかの贅沢な保養施設に入居して、悠々自適で暮らしているらしい。だから、将来僕と結婚する女性は、姑にいびられる心配だけはしなくていいんだよと、笑っていたことがある。
恵まれた環境。資産の恩恵。経済的余裕は、心の余裕に直結する。だからピースはいつだってあんなふうに悠々としていられるのだ。
(もしも僕が貧乏だったら)
ピース自身、笑いながら言ったことがある。
(僕のつくる犯罪劇は、こんなふうにスマートなものじゃなくなっていると思うよ)
もし、もっと貧しかったら。
醜男だったら。
背が低かったら。
教養がなかったら。
(きっと僕は、犯罪なんかに手を出そうとしなかったろう)
岸田明美の一件を始末し、連続女性誘拐殺人事件という大がかりな犯罪劇の幕をあげようとするとき、ピースはそんなふうに告白した。
(犯罪には、子供のころから興味があったんだ。だけど、血なまぐさい話に惹かれたわけじゃない。なんていうのかな……犯罪を起こす奴ら、揃いも揃って、どうしてあんなにバカばっかりなのかなと思って、それが不思議だったんだ)
嫉妬にかられて女が男を殺す。欲情のために男が女を殺す。借金話がこじれて借り主が貸し主を殺す。保険金欲しさに夫が妻を殺す。経営者が社員を殺す。
(みんな、すぐばれるような簡単な事件ばっかりだ。警察がちょっと辛抱強く調べれば、人間関係の輪のなかで、犯人が見つかる。そんな犯罪は、ちゃんとした頭脳のある人間のやることじゃない。原始人のやることだ)
じゃあ、無軌道な若者の──おうおうにして若者たちの──犯罪はどうなのかと尋ねると、ピースは鼻で笑った。(あれは原始人以下だね。野獣だもの。自分の欲望や感情をコントロールすることができないんだ)
(本物の、完成された犯罪。真の悪に裏打ちされた、薄っぺらではない犯罪は、ちゃんとした教養ある人間の手でないと成し遂げられないものなんだ)
もっとも、当時、この説を聞かされたばかりのころは、栗橋浩美は少なからず傷ついた。彼自身、岸田明美と嘉浦舞衣というふたりの人間を、一種の錯乱状態のなかで殺してしまったばかりだったから、ピースが吐き捨てるように「原始人だ」と呼ぶ連中のなかに自分も入ってしまうと思ったのだ。
だが、ピースは首を振った。
(ヒロミは原始人じゃないよ)
原始人じゃない──
(ただ、あのふたりを殺したときのヒロミは病人だったんだ。幻覚に襲われて、心を病んでいた。持ち前の知性が、すっかり曇らされていたんだ。僕は忘れていないよ。ヒロミは子供のころからずっと、後を追いかけてくる女の子の幻覚につきまとわれていた──一度は僕が追い払ってやることができたけれど、すぐにまた戻ってきてしまった。そうだろう?)
そうだ。そのとおりだった。嘉浦舞衣の首を絞めたのは、彼女があの廃墟のビルの夜の底で、長年彼を苦しめてきた女の子の幽霊そっくりに見えたからだった。
(ヒロミがそんなふうになってしまったのは、親のせいだ。父親も、母親も、本当の意味で親たり得る人物じゃない。それでもヒロミが本当の意味で人格を損なわれてしまって、それこそ原始人や野獣のような犯罪者にならないで済んだのは、偏《ひとえ》に君自身の努力と知性の力だよ。自分で自分を誇りに思った方がいい)
俺が、自分自身に誇りを。
(そうじゃないか。小学校のころから、ヒロミは優等生だった。成績優秀、スポーツ万能、女の子にもモテたし、クラスの人気者だった)
ピースにはかなわなかったけどな──そう応じると、ピースは本当に嬉しそうに笑った。
(ひとりじゃないってのは、良いことだよな? ひとりじゃ、高レベルの会話は楽しめない。そうだろ? 僕にはヒロミがいてくれて幸運だったし、ヒロミも僕がいて幸運だったんだな)
そうだ。これ以上の幸せはなかった。これからも、ずっと、ずっと。
仰向けになって、リビングの吹き抜けの天井を見あげながら、煙草をくわえて火をつけた。なんだかとても気分がよくて、煙を輪にしてひとり遊びをしていると、携帯電話のベルが鳴り出した。彼の電話だ。窓際の、コーヒーテーブルの上に載せてある。
はずみをつけて起きあがり、急いで電話に出た。驚いたことに、父親からだった。
「なんだよ、何の用?」
旅行に出ていることを、両親には教えていない。初台のマンションにいることになっている。急用があったら携帯電話を鳴らせと言い置いてはきたが、まずかかってはくるまいと思っていたし、こっちからは、家には一度も電話していない。
「母さんの様子がおかしいんだ」
父は声をひそめ、もごもごと言った。
「昼過ぎに出かけたと思ったら。今し方帰ってきて、デパートの袋をみっつもよっつもさげているんだよ。開けてみたら、みんな子供服だ。女の子用の」
栗橋浩美はげんなりした。先ほどまでの穏やかで幸せな気分が、窓を開けた途端に消えてなくなる煙草の煙のように、すうっと消失してしまった。
「おふくろ、再入院させた方がいいね。いや、再入院じゃないや、あれは外科だったんだから。今度は、頭の病院にね」
栗橋寿美子は階段から落ちて肋骨にヒビが入り、入院生活を経験してからというもの、すっかりおかしくなってしまった。救急車のなかでも、すでに精神に変調をきたしていた。他でもない、栗橋浩美の悪夢の源、ピースに指摘された女の子の幻影を、寿美子もまた見るようになったのだ。
女の子の幻影の正体は、栗橋浩美が生まれる二年前に、生後一ヵ月ほどで亡くなった姉の「弘美」だった。乳幼児の突然死であったそうで、眠ったまま死んでしまったのだ。昼日中、寿美子が弘美におっぱいをやって寝かしつけ、それからおしめを洗い、それを干し、弘美の様子を見ると、まだよく眠っている。なにしろ、赤ん坊は眠るのが商売だ。寿美子は安心し、自分も赤ん坊の隣にちょっと横になった。ところが、睡眠不足の若い母親は、ほんの十分のつもりが、二時間近くも眠ってしまった。
目を覚ました寿美子は、部屋のなかが薄暗くなっていることに気づき、あわてて時計を見て狼狽した。もうこんな時間──それにしても、よくまあ弘美が目を覚まして泣かなかったもんだわ、お腹が空いているだろうに。
目を覚まさず、泣きもしなかったのも当然のことで、隣の赤ん坊は冷たくなっていた。
赤ん坊のこととはいえ変死なので、死因は詳しく調べられた。その結果、原因がよく判らない突然死なので、乳幼児突然死症候群という診断が下されたのだ。
──一般に思われているよりも、これによる乳幼児の死亡者数ははるかに多いのです。あなたがたご夫婦だけの悲劇ではありませんし、あなたがたに落ち度があったというわけでもありません。早く立ち直って、次の赤ちゃんをもうけることがいちばんです。
当時の担当医にはそう言われたと、寿美子が話しているのを聞いたことがある。
しかし、栗橋寿美子は立ち直らなかったし、忘れることもなかった。二年後に生まれた「弘美」の弟に、漢字が違うだけの「浩美」という名前をつけたのが、その証拠だ。
この命名に、父親は渋ったし、当時は存命だった父方の祖父母も猛反対したという。赤ん坊に、死んだ者の名前などつけるものじゃないと。しかし寿美子は断固として受け入れず、父親を説き伏せて届けを出させてしまった。この子は死んだ子の分まで大事に育てる。そのために、死んだ子とふたり分の幸せを与えてやるために、同じ名前をつけるの。だから、いいじゃないですか。
だが、いいことなど、全然なかった。
栗橋浩美は、赤ん坊のときから、死んだ姉の「弘美」と比較されて育った。寿美子は文字通り、死んだ子の歳を数え、死んだ子ならばああだったろう、こうだったろう、それに比べてこの浩美は──という育て方をしてきた。しかも、栗橋浩美が物心つくようになると、寿美子はさらに凶悪な手段を用いるようになった。何かというと、呟くのだ。大きな声では言えないけど──という格好をつけられる程度の小声で、しかし子供の栗橋浩美の耳には充分に聞き取ることのできるくらいの音量で。
──どうして弘美が死んで、この子が生きてるんだろう。世の中、うまくいかないものね。
栗橋浩美が、逃げても逃げても追いかけてくる女の子の夢を見るようになったのは、六歳のときからだ。初めてその夢を見た夜のことを、今でもはっきり覚えている。
あれは彼の誕生日だった。父親が、小さなケーキを買ってきてくれた。ケーキには色とりどりの細いロウソクがついていた。全部で十本あった。六歳の栗橋浩美は、余った四本のロウソクは、母にねだって自分がもらおうと思っていた。とてもきれいな色だったので、机の上に飾りたかったのだ。もう、それくらいの数は充分に数えられるようになっていた。
ところが、食卓に出てきたケーキには、八本のロウソクが立っていた。
父が驚いて、なぜ八本なのだと訊いた。すると寿美子は平然と応えた──弘美の誕生日の祝いも一緒にしてやりたいからだと。あの子は、生きていたら八歳になっているはずなのだから。
陰気で小心で、家の外でもなかでも怒ったことなどない父親が、さすがに色をなして寿美子を叱りつけた。それじゃ浩美が可哀想じゃないか。しかし寿美子はまったく堪《こた》えず、六という数は八のなかに入っているのだからかまわないはずだ、弟なんだから、姉さんを懐かしむのが当たり前だ、それが嫌なら、ケーキを食べなければいいんだと言った。
六歳の栗橋浩美は泣き出した。しゃくり上げていると、今度は父に叱られた。男の子が泣くんじゃない!
すると、向かいに座っていた寿美子がつと立ち上がって、両手でケーキを持った。そしてそのまま台所の窓から、外に向かってケーキを投げ捨ててしまった。
元の席に戻った寿美子は、涙で濡れた栗橋浩美の顔を見おろして、何の感情も交えない口調で言ったものだ──こんな騒ぎになるんだから、もう二度と、うちではあんたの誕生祝いなんかしませんからね。
遠い、遠い思い出。しかし、色|褪《あ》せることはない。痛みも悲しみも苦しみも、あの日のままだ。
栗橋浩美は、携帯電話を耳から離し、手の中に握りしめた。このまま通話を切ってしまおう。──今は大事な時だ。父の声など聞きたくない、母のことなど思い出したくない。
階段から落ちた寿美子は、救急車のなかで、緊急治療室で、盛んに「ヒロミが迎えに来る、迎えに来る」と叫んでいた。栗橋浩美は、それが本当であるといいと思っていた。姉の弘美が本当に母を迎えに来て、あの世だか彼岸だか地獄だかに連れていってくれるといい。だが姉は一向に迎えに来ず、母の怪我は大したものでもなく、身体は健康になって、しかし頭だけが狂った。
──自業自得だ。
思い切ってもう一度受話器を耳に当てると、栗橋浩美は言った。「とにかく、俺は帰れないんだ。勝手にやってくれよ」
受話器の向こうで、寿美子が泣きわめいているのがかすかに聞こえる。
「そんなこと言って……俺ひとりじゃどうしようもねえから電話したんだのに」
父が情けない声を出す。
「お前だって、母さんのこと心配だろう?」
「何を言われたって、俺はここから動けないんだよ。じゃあな」
「ちょっと待ってくれよ、浩美、おまえどこにいる──」
父親の声を押し返すように通話を切って、携帯電話を椅子の上に放り出した。この電話の番号を教えたのが失敗だったと、くちびるを噛む。静かな室内に、自分の鼻息が妙にはっきりと聞こえて、ひどくわずらわしい感じがした。
この山荘はログハウス風の造りで、築十年以上経っているにも関わらず、こうしてリビングにいると、まだ木の香りが漂ってくるような感じがする。太い丸木の梁や柱、寄せ木細工のような凝った模様を描く床板。
ここに、父親が電話をかけてきた。父の声の後ろに、狂った母のわめき声が聞こえていた。そのことで栗橋浩美は、聖域が汚されたような不快な気分になった。
両親は邪魔者だった。俺の子供時代を散々なものにしただけでは満足できずに、あいつらはしつこく俺につきまとって、俺のこの新しい人生、ピースとふたり、秘密の栄光に包まれた輝かしい人生にまで、くっついてこようとしている。割り込んでこようとしている。そんな権利などどこにもないのに。
ふと、思いついた。今までなぜこんな簡単なことを考えつかなかったのだろうかという、新鮮な驚きと共に。
──親父を殺しちゃったらどうだろう?
うちの親父は全然教養人じゃないし、知的な会話など望むべくもない。親父の興味の中心は三度の飯とプロ野球、あとは週刊誌のエロ記事ぐらいのものだ。その点では、ピースの掲げる理想の獲物にはほど遠い。
だが、たやすい獲物であることは確かだ。それにもうひとつ、大きなメリットがある。
親父が「被害者」になれば、俺は被害者の遺族だ。ピースはその遺族の親友だ。
そして、やがて発見される「犯人」がカズであるということが、さらにこの悲劇に輪をかける。
何も知らない世間の前で、おめでたいマスコミの前で、俺は途方にくれてみせるだろう。父親の惨い死に様。しかも、手を下したのが自分の幼なじみであるという残酷な事実に打ちのめされた好青年の役割を、全身で演じてみせる。そしてピースはそんな俺の肩を抱き、慰め励ましながら、持ち前のあの冷静で聡明な視線でもって、一連の事件全体を分析し、引っ込み思案で優しかった子供のころのカズが、残虐な殺人者へと変貌していく過程に思いを巡らせ、洞察力に富んだ発言をするのだ。
俺とピースは、真の演出者でありながら、そこでは役者として登場し、自分たちの書いた脚本に沿って、役を演ずるのだ。自作自演、なんという快感だろう。
これまでの筋書きでは、ピースと俺は、永遠に事件の表側に登場することはできなかった。カズを犯人に仕立て上げたならば、彼の幼なじみということで、多少とも取材の対象になったり発言の機会を与えられたりもするだろうけれど、それはごく限られた範囲でのことだ。だが、被害者の遺族であるということになれば、局面はまったく違ってくる。
世間は皆、俺の──栗橋浩美の声を聞きたがるだろう。幼なじみの手で父親を屠《ほふ》られた青年の魂の叫びを聞きたがるだろう。無数のマイクが差し出され、無数の記者たちの目が俺に注がれる。なんなら、手記を書いてもいいかもしれない。どこか、大手の雑誌に独占掲載させるのだ。それからおもむろにテレビに出る。ワイドショウは駄目だ、少しこなれて[#「こなれて」に傍点]からならいいけれど、最初からああいうところに顔を出すと、品下《しなくだ》った感じになってしまう。自分を安売りしてはいけない。しょっぱなはやっぱり、もっと硬派のニュース番組がいい。いちばん理想的なのはNHKだ──
山荘の周囲を暗闇が満たし、リビングの窓ガラスには、山荘の室内と、コーヒーテーブルのそばに立つ栗橋浩美の姿がくっきりと映し出されていた。その映像が、栗橋浩美の幻想に拍車をかけた。彼は窓ガラスのなかの自分の顔に向かって微笑みかけた。いや、笑っちゃいけない──インタビューの始めには、固く暗い表情をしていなくては。微笑むのはいちばん最後でいい──美人の女性アナウンサーに、傷つきながらもなんとか立ち上がって生きていこうとする好青年の微笑を見せてやるのだ。カズは僕の幼なじみでした、けっして悪い奴じゃなかった、彼を殺人に駆り立てたのは、今の社会です、彼もまた、現代社会の犠牲者なのだと思います──
そのとき、窓ガラスの上を一筋の鋭い光が横切った。うっとりと自分の顔に見とれていた栗橋浩美は、まぶしさに思わず目をつぶった。車のタイヤが、未整備の土と砂利を踏む音が聞こえる。ピースが買い物から戻ってきたのだ。
急いでリビングを横切り、栗橋浩美は玄関に向かった。早くこの思いつきをピースにうち明けたかった。鬱陶しい父親を片づけ、我々の描くストーリーをより劇的にするための妙案を思いついたことを、大きな声で宣言したかった。
ピースは山荘の玄関の丈の高いドアをいっぱいに開き、戸外の夜の闇の方に向かって愛想のいい笑みを浮かべていた。
「さあ、どうぞ。ご遠慮なく」と、呼びかける。誰に向かって?
栗橋浩美は足を止め、口元まで出かかっていた言葉を呑み込んだ。宙を踏むような浮かれた足取りをおさめるためには、文字通り廊下の壁に手をかけてブレーキをかけねばならなかった。
「そうですか、じゃ、お邪魔します」
丁寧な口調で発せられた言葉と共に、玄関のドアを通り抜けて、ひとりの男が入ってきた。きちんとした背広姿、短い髪、歳は四十歳代前半。がっちりとした体格。かすかに匂う整髪料の香り。山荘のなかに突然入り込んだ異分子。第三の男。
「やあ、遅くなってごめん」と、ピースはにこやかに栗橋浩美に声をかけた。第三の男も口元に笑みをたたえて栗橋浩美の方を見上げる。
「途中の、切り通しのところで車がエンコしてさ、困っておられたんで、お連れしたんだ。えーと──」
第三の男は栗橋浩美に言った。「木村《 き むら》と申します」
「そうそう、木村さんだ。東京の住宅会社にお勤めなんだって」
そのときの栗橋浩美は、自分がどんな表情をしているかということに注意をはらっていなかった。それほど驚いてしまっていたのだ。生のままの、むきだしの栗橋浩美の顔には、ピースの計算された愛想のいい表情にはない不穏なものが表れていたらしく、木村という男の口元から柔らかな線が消えた。
「申し訳ありません。お言葉に甘えて連れてきていただきまして」と、木村は慇懃《いんぎん》に言った。「電話を拝借することができれば、すぐに業者が来てくれるでしょう」
ピースがあははと声をあげて笑う。「気にすることはないんですよ。あんな真っ暗な誰も通らない山のなかの道で、いつ来るかわからない業者を待つなんてぞっとしないから、うちに来て下さいって誘ったのは僕の方なんだから」
そして、まだ突っ立ったままの栗橋浩美の方に手を振ると、
「彼は栗橋君といいます。僕の幼なじみで、ずっとここに泊まり込んで仕事を手伝ってくれてるんです。ちょっと愛想なしですけど、いい奴ですから。とにかくどうぞ。玄関先で立ち話はヘンだし、寒いでしょう?」
ピースは木村の背中を押すようにして玄関の内側に入れ、ドアを閉めた。木村はまだ、栗橋浩美の様子を気にしている。
「ど、どうぞ」栗橋浩美は不器用な手つきでスリッパを揃え、木村の足元に差し出した。とにかくここは、話をあわせるしかない。
「床暖房が入ってるから、冷たくはないと思いますけど」と、ピースがどこまでも陽気に口をはさむ。
「じゃ、失礼します」
木村はやっとスリッパをはいた。ピースが先に立ってリビングへと案内してゆく。栗橋浩美は、脇の下にすっと冷たい汗が流れるのを感じた。
ピース……いったいどういうつもりだ? あんな男をここに連れてきて……しかも俺の名前まで教えて。何が、彼は栗橋君といいますだよ。愛想笑いなんかしやがって。
あいつを、あの木村という男を獲物にするというのか?
馬鹿な。無謀だ。無謀すぎる。この山荘の近くで拾った男を殺すなんて、あまりに危険すぎる。
ただ殺して、埋めてしまえばいいというものじゃない。この殺しは、世間に見せるためのものなのだ。獲物の死体を天下にさらさなければ意味がない。ということは、たとえば着衣を剥ぎ所持品を奪っておいても、いずれは獲物の身元が割れるということだ。身元が割れるということは、捜査する警察側に、獲物の殺害された当時の行動や居場所を確認されやすいということだ。
東京の会社に勤めているって? しかもあの背広姿だ。この土地には、仕事でやって来たのだろう。昼間の立ち回り先だってはっきりしているはずだ。猟犬のような警察の連中が、それを見逃すわけがない。
ピースが木村を見つけたという切り通しの道は、この別荘地のある山から、麓の小さな町へ降りてゆくふたつのルートのうちのひとつで、土地の人間には「旧道」と呼ばれている道である。「新道」の方が道幅が広いし、周囲も拓《ひら》けているので、現在では「旧道」はあまり使われることもなく、小動物がしょっちゅう横切るので、ぼやっと運転していると危ないくらいだ。だからこそピースは好んでそちらを通っているのだが、だからといってけっして見捨てられた道ではなく、地元の農家の車も通るし、乾燥した気候の続く秋から冬にかけてなど、山火事を警戒するための営林署のパトロールも巡回する。今、この瞬間だって、道ばたでエンコしている木村の車を誰かが発見し、車両ナンバーを警察や役所に通報しているかもしれない。
木村を殺してはいけない。あまりに危険だ。奴は獲物には不適格だ。
にわかに膝ががくがくしてくるのを感じながら、栗橋浩美は急いでリビングに引き返した。足がもつれそうになって、途中でスリッパが片方脱げてしまった。
木村はリビングのソファに座り、煙草に火を点けていた。ピースは彼に話しかけながら、キッチンでコーヒーをいれている。
「──という約束で、親父から借りてるってわけです。まあ、ていのいい掃除人ですよ」
「そうですか、しかし、素晴らしい別荘ですね」
「だいぶ古いんですよ」
ピースはコーヒーを三つのカップに注ぎ分けると、そのうちのひとつを木村の前に運んで行った。
「ありがとうございます。しかし、どうぞおかまいなく。私の方は電話さえ拝借できれば……」
ピースの歓待に、木村も少しばかり困惑している様子が感じられた。ピース、いったいどういうふうに言いくるめて、こいつをここまで連れてきたんだと、栗橋浩美は心のなかで詰問していた。
「判りました。ちょっと待っててください。うちで懇意にしてるスタンドに電話してみます。ここまでガソリンを届けてくれますから」
そう言いながら、ピースはキッチンから出てくると、リビングの出入口で棒立ちになっていた栗橋浩美の袖を引いた。
「ちょっと来てくれ」と、小声で素早く囁く。ふたりは忍び足で廊下に退いた。ドアを閉め、さらに階段の登り口の下まで移動した。
「いったい何を考え──」
栗橋浩美の言葉を遮って、ピースは言った。
「電話のジャックを抜いてこい。玄関脇のホームテレフォンの本体のジャックだ。あれさえ抜いてしまえば、あいつがリビングから勝手に外に電話することはできない。早く!」
言われたとおりに、栗橋浩美は玄関に走った。ホームテレフォンの本体は、玄関のインタフォンの本体と一体になったもので、受話器はついているが、パネルのような大きなものだ。そのジャックを素早く抜いて、また階段の登り口へととって返す。
ピースはそこにいて、野球のバットを握りしめていた。階段の下の部分に小さな物入れがあり、そこには古い野球道具やバドミントンのセット、スキー板などがゴタゴタと詰め込んである。そこから引っぱり出したのだろう。
「あいつが獲物だ」と、ピースは静かに言った。抗議しようとする栗橋浩美を押しとどめると、横目でリビングのドアの方を盗み見て、続けた。「危険は承知だ。だから、あいつを檻に閉じこめたら、すぐに車を取りに行こう。ガソリンを足して、そのまま運転して、ここから離れるんだ。計画は立ててある」
栗橋浩美は激しく首を振った。「あいつは東京のサラリーマンなんだろう? やばいよ。あいつが今日こっちに来ていることを、大勢の人間が知ってるはずだ。あいつが失踪したら、みんながこのあたりを捜索しに来る。ましてやあいつを殺して死体を公にしたら、警察の目はこの別荘地に向けられちまうよ」
「それぐらい、僕だって考えているさ」ピースは落ち着き払っていた。ただ、ふたつの瞳の奥に、興奮という衣裳を着た小さな踊り子がくるくると回っているのが見える。
「あいつは昨日から東京を離れているんだ。新しく造成された別荘地に、お得意さんが別荘を建てるんだとさ。それで検分に来たんだ」
氷川高原は昔は冬場のスキーしか観光材料のないところだったが、北部にダム建設のために小さな人造湖が出来、そこが夏場のウインドサーフィンやジェットスキーを楽しむ客でにぎわい始めてからというもの、急に拓けた。新たに開発の進められている地域は、別荘地としても、この山荘のある古くからの別荘地帯よりもはるかに大型で、そのかわり一般向けの印象が強いところだ。
「連休だけどさ、仕事熱心な日本の住宅会社のサラリーマン氏は、氷川に続く優良で安価な別荘地が近くにないかと、今日一日、このあたりをぐるぐる走り回っておられたんだ。検分ついでに、いいところを見つけたら、企画書を書いて次の会議に提出するってわけさ。競争の激しいサラリーマンの社会では、そうやって密かに休日中にも仕事をしないと、出世できないってわけだ」
ピースは言って、素早くウインクした。
「そういう次第で夢中で走り回っていたもんだから、地理のよくわからない山のなかでガス欠になり、しかも携帯電話も電池切れを起こしていることに気づかなかったってわけだ」
僕たちのために用意されたような獲物だと、ピースは囁き、バットを握りしめた。
「さあ、行くぞ」
[#改ページ]
20
十一月三日、午後十時。
神奈川県川崎市|中崎台《なかさきだい》に在る、日本林業住宅ホーム川崎社宅の一室で、ひとりの女が熱心に一軒の家を造っていた。その「家」の土台は五十センチ四方に切ったベニヤ板で、家の柱は彼女が社宅の近所の家具製造工場から折に触れてもらいうけてくる木ぎれでできていた。
女は子供のころから手先が器用だった。これはどうやら、女が二十歳のときに逝ってしまった父親から受け継いだ能力であるらしい。女の母親は、繕い物にしろ電気のヒューズの交換にしろ子供の工作の宿題の手伝いにしろ、指先を使ってしなければならない作業のすべてが不得手で、よくそのことで父親にからかわれていたからである。
今からちょうど二十年前、女は、二十三歳のときに職場結婚をした。当時、まだ営業第二部と呼ばれていた今の本社の営業推進部の同僚と結ばれたのである。
女の夫となった青年は、当時二十五歳で、背丈こそそこそこあったが、ひどく痩せていた。青年は会社の独身寮におり、ほとんど酒もたしなまず、賭事などもせず、休日にはプラモデルをつくっているという、おとなしい気質の男だった。それでも、たまに会社の運動会に出たり、研修の一環としてのハーフマラソン大会に出場したりすると、そのひ弱そうな外見を裏切る活躍ぶりを見せて、同僚たちを驚かせるという一面も持っていた。
女が彼と親しくなったのは、入社して二年目の年の暮のことである。忘年会の流れで、二次会、三次会と同僚たちと飲み歩き、気がついてみたら、すでに終電も出てしまっていた。メンバーは五人で、内訳は男性がふたり、女性が三人。男性はふたりとも練馬の独身寮の住人だったが、女性は三人とも自宅の方向がてんでんバラバラで、タクシーを相乗りしてひとりずつ落としていくにしても、彼ら全員の所持金をあわせても足りないほどの料金がかかりそうであった。
幸いなことに、彼らは新宿にいた。始発待ちの時間をつぶす場所も、他の盛り場よりは容易に見つけることができるだろう。しかもその日は金曜日で、明日は会社が休みだ。日本林業住宅ホームは、その年の新年度から、月に一度、第二土曜日を休日にするという、限定的な週休二日制を採用していたのだった。
次の行き先を相談しているうちに、まだ飲み足りないし遊び足りないという三人と、もう酒は要らない、コーヒーでも飲みたいという二人に分かれてしまった。その二人が、女と青年であったのだ。
元気な三人は、二丁目にある居酒屋に行くという。残りの二人は、「ラブホテルなんかで休むんじゃないぞぉ」「気をつけてねえ」という冷やかしの言葉を浴びせかけられながら三人と別れ、駅の東口近くにあるビルの地下の、終夜営業の喫茶店に入った。
店内は混み合っており、紫煙と深酒の臭いがコーヒーの香りをかき消してしまっていた。二人はそこでどうにか向き合った二人掛けのテーブル席を確保し、注文を済ませた。
席に落ち着くと、酔いと疲労が待ってましたとばかりに自己主張を始め、女はうとうとしそうになった。向かいに座った痩せた青年は、彼女ほど疲れてはおらず、放っておけば一分とせずに船を漕ぎだしそうな彼女を、困ったような、同情しているような目で見つめた。
──タクシーで送っていってあげたいんだけど。
面目なさそうに、彼はいった。
──実は俺、もうここのコーヒー代ぐらいしか持っていないんだ。
素直な言葉であった。そしてそれ以上、余計なこと──空っけつであることの言い訳や、妙な強がりは言わなかった。そのことと、彼の素直な態度が、女のぽうっとした頭と心に、ずいぶんと心地よく感じられた。
──いいんですよ。わたしの財布の中身もそんなところだから。遊び過ぎちゃいましたね。
女はそう言って、眠気を覚まそうとまばたきをした。コーヒーを運んできた店員が、監視するような目つきで女を見た。店員が行ってしまうと、青年は小声で女に言った。
──こういう終夜営業の喫茶店はね、お客が寝てしまうと、起こして追い出すんだ。しんどいだろうけど、寝ちゃ駄目だよ。
──うん、判りました。
それでも、目を開いているだけで大変だった。コーヒーをすすったが、まずいし香りもないし、何の目覚まし効果もない。身体が湿まった分、かえって眠気が増してしまった。
さっきの店員が、カモシカの群のなかの弱い個体を狙い、遠巻きに様子を見ているライオンのように、女を見つめている、完全に目をつけられてしまったようだ。重いまぶたを意思の力で懸命に持ち上げながら、なんだか面倒くさくなってきてしまって、女はぼんやり考えた──いっそ、追い出された方がいい、外の寒い風にあたれば、目が覚めるだろう。
しかし、そうなったらなったで、今度は寒気がきっと骨までしみて、どこか暖かい場所、時間をつぶすことのできる店を探したくなるだろう。探して、うまく見つかるとは限らない。満席で断られるかもしれない。今は忘年会シーズン、しかもこの週末はピークだ。
起きていなくちゃ。起きていなくちゃ。女はコーヒーカップをつかもうと手をのばし、その手がはずれて何もないところをつかみ、その拍子に頭ががくりと下がってしまった。
そら、タイムアウトだ──と言わんばかりに、店員が勝ち誇って近づいてくる。そのとき、青年が言った。
──そうだ、面白いものを見せてあげるよ。
彼は上着の内ポケットから手帳を取り出すと、白紙のページをぴりりと破った。長方形のその白紙を、テーブルの上できちんと折り畳み、余った部分を手で丁寧に切り落として、真四角の白紙をつくった。そして、それを折り始めた。
──折り紙?
──うん。
間近で見ると、青年の指はとても細くてしなやかで、その動きには無駄がなく、とても几帳面だった。女はテーブルに片肘ついて頬を支えながら、青年の作業を見守った。
間もなく、折り鶴ができあがった。どうということもない、普通の折り鶴である。もちろん、女もそれを折ることができる。
だが、眠気で曇っている目で見つめていた限りでも、青年が今ここで鶴を折って見せた手順は、女の知っているそれとは異なっていたように思えた。
青年は、完成した折り鶴を、指先で摘んで持ち上げた。そして、ピンと跳ねた尾の部分をつまんで、ちょっと引っ張った。
すると、折り鶴が羽ばたいた。細長い首も、羽根が上下に動くにつれて、優雅に前後に振れるのだった。
──あら……動いた!
女は驚いて、青年の顔を見た。彼はニコニコ笑っていた。
──どうやって折るの? 教えて。
──いいよ。
青年はまた手帳を取り出し、白紙を破った。女は少し目が覚めてきた。つと目をやると、さっきの店員は別のテーブルにお冷やを運んでいくところだった。
一時間もしないうちに、女は自分の手で羽ばたく折り鶴を自在に折ることができるようになっていた。青年は誉めた。
──手先が器用だね。
──小さいときから、それだけは自慢だったの、じゃ、これもやってみる? 簡単だよ。
次から次へと、青年は珍しい折り紙の折り方を披露してくれた。女はすっかり夢中になり、眠気も飛んだ。女のおごりで追加したコーヒーを飲むときと、トイレに立ってついでに顔を洗ってきたとき以外は、手を休めることはなかった。
青年はこれらの折り紙を、早逝した叔母に習ったのだという。入院生活が長かった彼女は、折り紙だけが楽しみだった。一方青年は、模型やプラモデルを組み立てることが大好きで、叔母の教えてくれることをすぐに飲み込み、身につけることができるだけの器用さを持っていた。
女は青年に、亡くなった父のために千羽鶴を折ったときのことを打ち明けた。父は胃ガンで、診断がついたときにはもう手遅れの状態だった。それでも一応は手術を受けることになり、その手術当日までに、彼女は徹夜で鶴を折ったのだった。
──それでも父は亡くなってしまったけど、千羽鶴がきれいだってとっても喜んでくれたんで、棺のなかに入れたの。こういうふうに、羽ばたく千羽鶴を見せてあげたかったわ。
夢中になっているうちに、気がつくと午前五時を過ぎていた。ふたりは店を出て、駅へと歩いた。ふたりで折った作品は、青年が女の持っていた七つ道具のなかの糸と針で器用につなげてくれたので、女はそれを首にかけていた。
十二月の早朝の凍てつくような寒気のなかを、ふたりは寄り添って歩いた。駅の階段をあがるとき、青年が女の手を引いてくれた。
それからちょうど一年後に、ふたりは結婚した。挙式は簡素だったが、女は千の鶴が美しく羽ばたく様を刺繍した打ち掛けを羽織った。
結婚二年目に長女が、翌年には年子で長男が生まれた。生活は苦しく、社宅暮らしには気苦労も多かったが、女は幸せだった。何より夫は真面目で優しい人だったし、子煩悩で、家事を手伝うことも厭わなかった。子供たちのためにも折り紙を折ったが、毎年、結婚記念日になると、きれいな千代紙を買ってきて、そのときは彼女のためだけに、羽ばたく鶴を折ってくれた。
こうして、二十年が経った。
長女は今年短大に進み、栄養士の資格をとるために勉強している。長男は来春に大学受験を控えているが、こちらは父親の血を引いたのか、建築関係に興味があるようだ。それぞれに反抗期はあったし、長男の方は、穏和で優しい父に物足りないものを感じるのか、一時はずいぶん荒れたこともあったが、今はそれもおさまっている。進路のことなど、最近は父親に相談しているようだ。
幸せな人生だと、ふと噛みしめるように、女は思うことがある。父が長生きしてくれていたら、この様子を見せてあげられたのに。
子供たちが大きくなってしまうと、さすがに折り紙には興味を示さなくなり、夫婦のあいだでも──結婚記念日の羽ばたく鶴は別として──折り紙が話題になることは少なくなった。そのかわり、夫婦揃って、ミニチュアの家を造ることに凝り始めた。ただ造って並べ、眺めるだけではない。そのミニチュアは、彼らがこれから建てようと計画している念願のマイホームの雛形なのだ。だから、窓もドアも開くし、生活動線をチェックするために、縮尺も正確に計って計算して設定する。そしてできあがったミニチュアをたたき台に、今までも何度となく話し合いを重ねて、改良する部分は改良し、コストダウンのために諦める部分は諦めるというふうに、マイホームの青写真を書き換えてきた。
今夜、女が取り組んでいたのは六軒目のミニチュァだった。長男の意見を入れて、屋根裏にロフトをつけたタイプのものだ。ロフトは物置にしてもいいし、親父の書斎にしてもいいと、長男は言った。夫婦はすっかり乗り気になって、今までのプランにはなかったこの形のミニチュアを、初めて造ってみたのだ。
夫は現在、日本林業住宅ホーム東京本社の、営業推進部長補佐という肩書きを戴いている。結婚後、あちこち支店や支社を回り、営業をはずれて事務職へ回ったこともあったが、今のこの部署の肩書きは、住宅会社では花形だ。真面目に働いた甲斐があった。だからこそ、マイホームのための土地も確保でき、上ものを建てる計画にも取りかかることができるだけの収入を得ているのだが、その分、夫はひどく多忙になった。日曜日でも休めないことが多々あるし、代休もとりにくい。
女は手を休め、ミニチュアにかがみ込んでいた腰を伸ばして、時計を見た。十時半を回っている。遅いな──と思った。
昨日から、夫は出張に出ている。群馬県北部の氷川という別荘地に、スウェーデンハウス風の別荘を建てたいという顧客がいて、現地の下見に出かけたのだ。しかしその仕事自体は昨日で終わる予定で、今日は一日、本当に久しぶりの羽を伸ばせる日曜日である。
で、何をしているかと言えば、別荘見学をしているのだった。
──氷川のあたりは、高級な別荘地だからな。いい造りの家がたくさんある。俺たちの家のために、いろいろ見学してくるよ。写真も撮ってくるからな。
本当なら、彼女も一緒に行きたいところだったが、子供たちを置いてはいけない。残念だが留守番だ。そして、夫が留守のあいだに、今のこの模型を完成させてしまおうと思った。そうしておけば、夫がいい見本をたくさん見て帰ってきて、新しいプランを立てたとき、すぐにそちらのミニチュア作成にとりかかれるからだ。
社宅というのは難しいところなので、彼らが家を建てようとしていることを、まだ外部には話していない。だから、夫はこの見学の目的を、上司や同僚や部下たちには、氷川へ行くついでに、別荘地として売り出したり再開発することができそうな場所をロケハンすることだと言ってあるそうだ。夫が仕事一途の真面目人間であることを熟知している職場の人びとは、笑って送り出してくれたそうだ。
女は椅子から立ち上がり、少し距離をおいて、完成間近のミニチュアをながめた。ロフトをつけると、やはり家が縦長の感じになる。彼女自身は、家はどっしりと幅広の方が好きなので、その点がちょっと気になる。
そこでまた、時計を見た。十一時に近い。
──遅いわね。
出がけに夫は、休暇の翌日からびっしりと仕事があるし、見学してきた別荘についていろいろ話をしたいので、この日は夕方までに帰ると言っていた。だいいち、別荘見学は、明るいうちでなければできまい。
──電話もないし……。
夫は携帯電話も持って出かけている。彼女はリビングを三歩で横切り、電話の受話器を取り上げると、暗記している夫の携帯電話の番号をプッシュした。すぐに繋がった。
「おかけになった番号は、現在、電源を切られているか、通話のできない場所に──」
おなじみの、録音されたメッセージが返ってきた。女は受話器を置いた。
──この時間だもの、道が渋滞してるわけでもないでしょうに。
もう一度時計を見た。見たところで、時間が巻き戻るわけもない。ミニチュア造りに夢中になって、今の今まで夫の帰りが遅いことを意識していなかったのが、妙に悔やまれた。
──事故かしら。
ふとそう考えてから、女はあわててその考えを追い払った。よくない考えは、抱かないに越したことはない。よくない予想をするということは、その予想に向かって呼びかけるということだ。その結果、それまでは彼女の存在に気づいていなかった「よくない出来事」が、彼女の方に寄ってきてしまう。
ミニチュア製作に戻ろうと、女は一歩踏み出した。その途端、電話が鳴った。女は驚いて飛び上がったが、次の瞬間には受話器をつかんでいた。安堵の波が押し寄せてきた。
「もしもし? あなた?」
受話器の向こう側には、沈黙があった。
「もしもし?」
電話線の内部のウロが、そのまま夜の真っ暗な空間に通じてしまったみたいな、何もない沈黙だ。
「あなたなの?」
返事はない。女はあわてて声をつくろい、外向きの口調で言った。「もしもし? 何番におかけですか?」
すると、唐突に声が聞こえた。銀行のCD機が「イラッシャイマセ」としゃべるときみたいな合成音声だった。
「木村さん?」と、声は問いかけた。
「はい、木村でございますが」
くくくと、遠くで合成音声が笑った。そして尋ねた。「千羽鶴、今でも好きかい?」
女は絶句した。心臓がどきんとした。
「はい? 何ですか?」
「旦那のために、千羽鶴折りなよ」と、合成音声は言った。「折って、それをカンオケに入れな。今から準備しておいた方がいいよ」
電話は切れた。受話器の向こうが、また夜の闇になった。
午後十一時を報せる時計のチャイムが鳴った。女はびくりとして、通話の切れた受話器をつかんだまま、時計を見あげた。そして、その針の形を見ているうちに、唐突に思い出したのだ。そういえば、父の臨終が、午後十一時ちょうどであったということを。
電話を終えて、栗橋浩美が階上へとあがっていくと、階段をのぼりきらないうちから、大きな声が聞こえてきた。あの木村という男の声だ。
「こんなことをして、なんのためになる? 君たちにどういう得があるっていうんだ?」
ピースがそれに答え、何か話をしている。彼の口調は穏やかで声も小さく、階段のところまでは聞こえない。栗橋浩美は、手のなかの携帯電話をちらと見おろし、ちょっと微笑して、声の聞こえてくる部屋へと近づいた。
「信じられないようなでたらめな話だ──」
ドアを開けると、木村の喚き声が、生の映像を伴って目の前に出現した。木村は顔を振り上げて栗橋浩美を見あげた。食いついてくるような視線だった。
「君、君は正気なのか? 君たちふたり、自分たちがどんな馬鹿なことをしているか判ってるのか?」
会社で部下に朝礼の訓示を垂れるときには、さぞかし説得力のあるいい声なのだろう。だが、今の木村の声はひび割れて裏返り、彼自身にも、音量や口調のコントロールができないようだ。
木村はベッドに腰かけていた。両手を背中に回させ、そこで両手首に手錠をかけてあるので、腕をあげることさえできないはずだった。髪は乱れ、こめかみに乾いた血がこびりついている。リビングに招き入れた直後に、ピースが彼の側頭部をバットで殴りつけたときにできた傷から流れ出た血だ。気絶はするが死なない程度に殴る──実際にやってみると難しい仕事だが、日々医学書や護身術の本を読んだりビデオを見たりして研究しているのが役立ち、ピースは的確に木村を倒して、ふたりがかりでここへ運び込むことができたのだった。
木村の両足首には金属製の足枷《あしかせ》をはめ、その足枷は付属の鎖でベッドの足につないであった。鎖の長さは五十センチくらいなので、木村は立ち上がることはできても歩くことはできない。
この足枷は、ピースが新宿の怪しげな店で面白がって買ってきたものだったが、立派に実用に堪えた。足を動かすことができないように固定するだけなら、ロープで縛っておけば充分なのだが、足枷には大きな心理的効果がある。気絶から回復して、自分の両足に鎖付きの足枷がはめられているのを目のあたりにすると、たいていの人間は、一気に背骨を抜かれたみたいになってしまうものだ。
ピースはベッドから一メートルほど離れたところに据えた折り畳み椅子に腰かけていた。だから、このふたりの様子は、まるで犯罪ドラマの一シーンみたいだった。収監されている囚人を獄中の房に訪ねてきた面会者。
「奥さんに電話しといたよ」
手のなかの携帯電話をかかげて見せながら、栗橋浩美は木村に告げた。
「あんたのために千羽鶴を折るってさ」
食らいついてくるようだった木村の視線が弱まり、焦点を失ったみたいになった。
携帯電話を見て、木村は何を考えているのだろう。栗橋浩美の手からそれを奪い取ることができれば、通話するだけで外部に助けを求めることができる──そう思っているのか。それとも、自分の電話が電池切れにさえならなければ、こんなことにはならなかったのにと思っているのか。彼の携帯電話のストラップには小さな千羽鶴がついていた──
「木村さん、なかなか理解してくれなくて困っていたところなんだ」
固い折り畳み椅子の上で痛そうに尻を動かしながら、ピースが言った。まるでその声で呪縛が解けたかのように、にわかに生気を取り戻して木村が叫んだ。
「当たり前だ、理解なんかできるもんか!」
「嫌だな、そんな大きな声を出さないで下さいよ」ピースは顔をしかめた。「僕たちは、怒鳴りあったり喚きあったりするのは嫌いなんです。それにね、木村さん、泣いたり怒ったりすることで僕らの気持ちを変えられると思っているんだとしたら、それはとんでもない見当違いなんだよね」
勉強したくないとだだをこねる子供を諭《さと》す家庭教師のような、淡々とした優しい口調だ。
栗橋浩美は、こういうときのピースのこのしゃべり方が気に入っていた。今までも、この部屋で、死にたくないと泣いたり、助けてくれとすがったり、あんたたちはきっと捕まって死刑になるんだからと凄んだりする女性たちを、ピースはこうやって穏やかに説き伏せてきた。それを聞くたびに、栗橋浩美はうっとりするのだ。何も知らず、何も判らず、本物の知性というものを持たず、ただ無駄な資源の浪費と時間の垂れ流しに過ぎない彼らの人生に、ピースと栗橋浩美というふたりの優れた人間が、しかるべき「意味」を与えてやるのだ。そしてそのために、これからしなくてはならないことを説明するのだ。言ってみればインフォームド・コンセントみたいなものだ。こんな心地よいことはない。
「あんたにはね、木村さん、演じてもらいたい役割があるんです」と、ピースは続けた。
「それについては、さっきから何度も説明してるでしよう? あなたは僕らの紡《つむ》ぐストーリーの大切な駒になるんだ。欠けてはならない駒にね。だからあなたの名前は、少なくとも現代の事件史にはしっかりと残る。それって素晴らしいことでしょう?」
「冗談じゃない!」
ひと声大きく叫んで、木村は息切れしたみたいにがっくりと首を落とした。どうやら、やっと、自分が相手にしているものの手強さが判ってきたようだ。
「何が冗談じゃないんですか?」と、ピースが礼儀正しく尋ねる。「もちろん僕らも冗談なんかでやっているんじゃない。真剣そのものですよ。大プロジェクトなんだから」
ゆるゆると首を振ると、木村はしわがれた声を出した。「何の権利があって、私を駒になんかするんだ。君たちには、他人の命を奪う資格はないんだぞ」
「なぜそんなことが言えるんです?」ピースは真顔で問い返した。「どうして僕たちに、他人の命を奪う権利がないなんて、他人のあなたに断言することができるんです? 僕に言わせれば、あなたの方こそ、僕らにそんなおざなりのことを言う権利なんか持ってないんだ」
木村は激しくまばたきをした。そうすれば、今目の前にいるピースの姿を消してしまえるとでもいうかのように。
だが、ピースも栗橋浩美も実像なのだ。まばたきで消える幻影などではない。
「どっちにしろ、あんたには助かる道はないんだ」と、栗橋浩美は言った。「あんたは本当におあつらえ向きの獲物でさ、今日の昼間のあんたの行動や居場所を正確に知ってる人間がいないからね」
「僕たちは、そういう人間を探していた」と、ピースは相変らず穏やかな口調で言った。
「しかも、ちゃんとした大人の男で、教養があって、社会的な地位もそこそこある人物。そんな獲物を捕まえるのは、すごく難しいことでね。だから、半分諦めかけてたんだ」
ピースはにっこり笑った。
「そしたら、そこにあなたが現れた。あなたの車を見つけたあの瞬間──素晴らしい瞬間だったよ。木村さん、あなたは神の存在を信じる?」
出し抜けに問われて、木村はバカみたいに口をぱくぱくさせた。
「か──神だと?」
「そう、神。人間の運命を左右することの出来る素敵な存在」
「君は……何を言いたいんだよ」
「僕は、あなたの車が山道で立ち往生しているのを見つけた瞬間、やっぱり神は実在すると思った。僕が求めて、求めて、求めて、だけど難しくて諦めかけていたものが、目の前に転がってきた。これは天の配剤だと思ったんだ」
ピースは栗橋浩美の方を振り返ると、もう一度大きく微笑んだ。
「ヒロミにも味わわせてやりたかったよ……あの瞬間の勝利感。全世界が味方についてくれてるって感触」
「馬鹿な……」木村が力無くうなだれて首を振ると、足枷がかちかちなった。
「神は実在するんだ」と、ピースは続けた。「そして僕たち人間に、できるだけドラマチックなことをやってもらいたがってるんだ。僕の紡ぐストーリーを楽しんでいるんだ。だから味方してくれてるんだ」
ピースの穏和な顔に、将来の夢を尋ねられて、サッカー選手になりたいと答える小学生のような、誇らしげで輝かしい表情が浮かんだ。それでいて、少しはにかんでいる。
「あんたの車、俺が氷川の先まで運んでいったからね」栗橋浩美は木村に言った。それで木村は、やっと頭をあげて栗橋浩美を見た。
「車──」と、木村は呟いた。「私の車」
そんなものがあったことさえ忘れていたという風情だった。そうだ、私は車に乗ってここに来たんだ、私は車を運転していたんだ、これは夢じゃないんだ。
「あんたが気絶しているあいだに、俺があんたの車に乗ってね、氷川に行ったんだ。高速の氷川インターのちょっと先に、ショッピングセンターがあるだろう? あそこの、無料駐車場に停めてきたよ。駐車場って言ってもただ整地しただけの野っぱらみたいなところだけどね。ひょっとして盗まれちまうかもしれないけどさ、それはそれでまた面白いことになるからいいね」
「君も、正気じゃないのか?」
まだ明るい笑みを満面に浮かべたまま、ピースが栗橋浩美を見た。栗橋浩美は大げさに肩をすくめてみせた。
「俺たち、ふたりとも正気だよ」
「君たちは友人同士なのか?」
「ああ、そうだよ。幼なじみなんだ。なあ、ピース」
ピースはくすくす笑いながらうなずいた。
「幼なじみ……それなのに、こんな恐ろしいことを一緒にやってるのか? 幼なじみなら、親御さん同士も知り合いなんだろう? 君たちが捕まったら、親御さんたちはいったいどんな気持ちに──」
ピースがこらえきれないように爆笑した。
「ああ、おかしいなあなたは。あなたの価値観は、僕から見ると本当に愉快な、典型的な可もなく不可もない日本人的価値観だよ。そんなもの、実は何の役にも立たないんだけどね。でも、僕のストーリーを面白くする上では、あなたは本当に大切なキャラクターだ。あなたに会えてよかった」
ピースはぽんと勢いをつけて折り畳み椅子から立ち上がった。
「ヒロミ、僕は夕食をつくるよ。木村さんに、今後のことを話してあげてよ」
軽い足取りで部屋を出ていこうとする。が、ドアに手をかけたところで、陽気に振り返った。
「そうだヒロミ、パスタをつくるけど、ソースは何がいい? トマトがいいかい、それともクリーム?」
まるっきり躁状態だ。ピース本人も言っているとおり、木村という男が目の前に転がってきたことが、よっぽど嬉しいのだろう。
「トマトがいいな」
「判った。三十分ぐらいでできるからな」
ピースがドアを閉めると、栗橋浩美はわざと木村の方を見ずに、ことさらにゆっくりと歩いて、さっきまでピースが座っていた折り畳み椅子へと近づき、慎重に腰をおろした。そして、その一連の動作のあいだじゅう、木村の視線が追いかけてくるのを感じた。次に栗橋浩美が何をするのか、何を言うのか、何を仕掛けようとするのか、必死で読みとろうとする視線が。
椅子にしっかりと座ってしまうまで、栗橋浩美はわざと目を伏せていた。足枷をはめられた木村の両足が、落ち着きなく動いているのが見える。
おもむろに顔をあげて、栗橋浩美は言った。
「大丈夫、心配しないで。俺は正気です」
一瞬、木村は言葉を失って、ただ栗橋浩美の顔を見ている。
「あいつの──ピースの言葉に嘘はありません。あいつは、一連の連続女性誘拐殺人の犯人です。もう二十人近く殺しているんです」
「だけど、君は──」
「俺は、あいつの共犯者じゃないですよ」栗橋浩美は真顔で、正面から木村の顔を見つめて言った。「あいつが犯人じゃないかって気づいたけど、確証がなくて。証拠が掴みたくて、あいつに取り入ったふりをしてるんです」
木村の目の中で、黒目がおろおろと泳いだ。息を詰め、全身の神経を張りつめさせて、差し出された救助梯子が本物かどうか、必死で見極めようとしている。
「あいつがあなたを殺そうとしていることで、確証はつかめました。もうしばらく辛抱してください。あいつにあなたを殺させるようなことはしませんから」
ようやく、木村が大きく息を吐いた。
「なんて……なんて話だ」
「信じられないでしょう?」
「まるで映画みたいだ。だけどこれは現実なんだよな?」
「ええ、現実です。ピースは、気絶からさめたあなたに、家のことや奥さんのことをいろいろ聞いたでしょう?」
「ああ、聞いた。バカみたいにいろいろ聞き出された」
「折り鶴のことなんかも」
「ああ、そうだ」
「今までの被害者たちも、みんなそうやってプライバシーを詮索されたんです。あいつ、そういうのが好きなんですよ」
「完全に狂ってる」
「ええ、たぶんね」素早く言って、栗橋浩美は椅子から立ち上がった。わざとドアの向こうの様子をうかがうような目つきをして、声を潜めた。
「とにかく、あいつに逆らわないで。逃げようなんてしないでください。いいですね? あいつを刺激したくない。あなたの命は、僕が命がけで守りますよ」
栗橋浩美は、木村を監禁している部屋から出て、階段をおりた。トマトソースのいい匂いが漂ってくる。
キッチンに顔を出すと、ピースはパスタを茄でていた。
「彼は信じたかい?」と、短く訊いた。
「うん、信じた」と、栗橋浩美も短く答えた。
「これで、逃げ出そうとしなくなるだろう。まだ殺すわけにはいかないから、なるべく静かにここにいてもらわないとならないんだ」
パスタの湯気ごしに、ピースは栗橋浩美に微笑みかける。
「さあ、飯にしよう。また明日は大変だからね。明日こそが本番だ」
栗橋浩美はうなずいた。「うん。カズだな」
[#地付き]〈上巻了〉
[#改ページ]
模倣犯 上
二〇〇一年四月二〇日 初版第1版発行
二〇〇二年七月 一日 第11版発行
著 者 宮部みゆき
発行者 遠藤邦正
発行所 株式会社 小学館
平成十八年八月二十一日 入力・校正 ぴよこ