天狗風
霊験お初捕物控〈二〉
宮部みゆき
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)天狗風《てんぐかぜ》
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(例)日本橋|通町《とおりちょう》
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(例)やっとう[#「やっとう」に傍点]
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〈カバー〉
一陣の風が吹いたとき、嫁入り前の娘が次々と神隠しに――。不思議な力をもつお初は、算学の道場に通う右京之介とともに、忽然と姿を消した娘たちの行方を追うことになった。ところが闇に響く謎の声や観音様の姿を借りたもののけに翻弄され、調べは難航する。『震える岩』につづく“霊験お初捕物控”第二弾。
宮部みゆき(みやべ・みゆき)
1960年、東京生まれ。'87年『我らが隣人の犯罪』でオール讀物推理小説新人賞を受賞。'89年『魔術はささやく』で日本推理サスペンス大賞、'92年『龍は眠る』で日本推理作家協会賞、『本所深川ふしぎ草紙』で吉川英治文学新人賞、'93年『火車』で山本周五郎賞を受賞する。また'01年は『模倣犯(上下)』がベストセラーとなり話題となる。著書は他に『ぼんくら』『初ものがたり』など。
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講談社文庫
天狗風
霊験お初捕物控〈二〉
[#地から1字上げ]宮部みゆき
[#地から1字上げ]講談社
●目 次●
第一章 かどわかし
朝焼けの怪/御番所模様
第二章 消える人びと
おあきの足跡/ささやく影/魔風/
再び、ささやく影/明けない夜
第三章 お初と鉄
姉妹屋にて/浅井屋脱出/夢の娘/矢場の男
第四章 武家娘
吹き矢/鉄と御前さま/御前さまと和尚
第五章 対決
しのの涙/桜の森/お初と御前さま
解説 清原康正
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天狗風《てんぐかぜ》――霊験お初捕物控〈二〉
第一章 かどわかし
朝焼けの怪
江戸深川は浄心寺《じょうしんじ》裏の山本町で、ひとりの娘がこつぜんと姿を消した。それがそもそもの事の始まりだった。
消えた娘の名はあきという。今年十七になる下駄屋のひとり娘で、半月後には浅草駒形堂近くの料理屋へ縁付くことが決まっている身の上だった。想い想われて定まった縁談で、本人も花嫁衣装を着るその日を心待ちにしていたのに――
おあきが姿を消したのは、朝焼けの濃い春の朝のことだった。
その日、下駄屋のあるじであり、おあきの父である政吉《まさきち》は、長い夜のあいだじゅう、ひどく嫌な夢にうなされ、眠る前よりもくたびれたような心持ちで寝床を離れた。毎朝日の出前に起き出して、仕事場へ足を運び、神棚をおがんで道具をいじってからでないと朝飯がしっくり喉《のど》を通らないという性分《しょうぶん》の政吉は、夢の名残《なごり》でしくしく痛む頭をおさえて、仕事場へとゆっくり階段をおりていった。
政吉を痛めつけた夢は、目覚めたあともなお、彼を震えあがらせるだけの力を持っていた。生乾きの下帯を身につけてしまったかのような気色悪さが、背中から腰のあたりにへばりついている。階段を踏みしめる膝《ひざ》が、一歩ごとに頼りなく震えた。
どうもいけねえと、政吉は思った。このところ、柄にもなくあっちこっちへ気を遣いづめの暮らしをしてきた。それがまずいんだろう。きっとそのせいだろう。
ひとり娘のおあきを嫁に出すことが、寂しくないわけはない。縁組が決まって以来、日に日につややかさを増してゆく娘の立ち居ふるまいや、かがやくような笑みを浮かべる桜色の頬《ほお》を見るたびに、悔しいような腹立たしいような、胸の奥の急所を指先でぐいと突かれるような思いも味わってきた。
今のような一本立ちの職人になり、狭いけれど自分の店を持つことができるようになるまでの苦労ときたら、本当に言葉にはできないほどだ。思い出話をしていると、いい歳をして今でもふと涙ぐんでしまうほど、それは辛いことの連続だった。そんな暮らしを乗りきってくることができたのは、一にも二にも、娘のおあきがいたからだ。
そのおあきがいってしまう。手元からいなくなってしまう。もう政吉が守ってやることも、喜ばしてやることもできなくなる。そりゃあおあきが惚《ほ》れた男だろうけれど、政吉から見たらとんだ青二才だ。あんな男に大事なおあきを預けることなど、俺にはとうていできねえと、腹の底から大波がこみあげてくることもしばしばだ。
だが政吉はこれまで、そういう気持ちが顔や態度に出ないように気をつけてきた。ぎゅうと抑《おさ》えつけた気持ちがあふれ出そうになるのを、奥歯を噛んでこらえてきた。それが裏目に出て、妙な夢になったのかもしれない。
夢のなかで、政吉はおあきを殺そうとしていたのである。
(いったい、親父が娘をあやめようとするなんてことがあるもんか)
雨戸をたてきった暗い廊下を歩きながら、政吉はいく度となく首を振った。
昨夜の夢のなかで政吉は、どことも知れない大きなお屋敷のなかにいた。呆《あき》れるような広い座敷の真ん中に、ひとりでぽつんと立っている。そういうところから始まった。
夢の政吉は、なにやらひどく心急ぐ気持ちになっていた。誰かを追いかけているらしい。その誰かは、このお屋敷のなかにいる。だから政吉は動き出した。ほとんど走るようにして、目の前にある豪奢《ごうしゃ》なふすまに手をかけた。
ぴしりんという小気味好い音を立て、ふすまは左右に開いた。そこにはまた、うしろの座敷と同じような広い畳の海が広がっている。政吉はそこを飛ぶようにして横切る。次のふすまを開ける。するとまた座敷が広がる。
次から次へと座敷を走り抜けながら、政吉はふすまを開けてゆく。だんだん気が急《せ》いてくる。そのうち、頭の上のほうから大勢の人が笑い騒ぐような声が聞こえてくることに気がつく。つと目をあげると、声のぬしは、ふすまの上の欄間《らんま》に彫りこまれた、あでやかな観音さまであるとわかった。
手のこんだ透かし彫りで形をつくられた観音さまは、ひとつの座敷におひとりずついて、それぞれに違う姿勢、違う声音、違う笑顔をしておられるが、皆一様に、政吉をさして笑っている。
(ほら、あれをごらん)
ひとつの欄間から次の座敷の欄間へと、観音さまたちがささやき交わす声が聞こえる。
(おかしいねえ、ああして探している)
(探している)
(でも見つかるものかい)
(見つかるわけがない)
夢のなかの政吉は、ありがたい観音さまが、あんな下卑《げび》た声で笑いなさるわけはないと考える。あれはきっと、もののけだ。もののけが観音さまのお姿を借りて、俺をたぶらかそうとしているんだ――
汗をかき息をきらして走り続け、ふすまを開けては次の座敷に転がり込みながら、政吉は死に物狂いで自分に言い聞かせた。夢のなかで走りながら、これは夢だ、夢だ、夢にちがいねえと、必死に自分に言い聞かせた。
だが座敷は延々と続く。開けても開けてもふすまは途切れず、どこかへたどりつくわけでもない。欄間の観音さまたちの笑い騒ぐ声はどんどん高くなる。まるで飯盛り女かなにかのようだ。優雅な衣から白い腕をのぞかせ、政吉をさし招くようにして笑い続ける。
ああその肌のなんと美しいことだろう。その目になんと色香のあることだろう。
まるで――まるで――おあきのようだ。
そのとき政吉は、夢のなかの我と我が手に、のみを握りしめていることに気づいた。
俺はどうしてこんなものを持っているんだ? 政吉は夢のなかで絶叫した。
すると、頭の上を次々と通り過ぎてゆく観音さまたちが、口々に答える。
「それはどうしてかって、おまえが娘をあやめるためさ」
「おあきをあやめる? この俺が?」
「そうとも、そうとも」
「俺がおあきをあやめるわけがねえ。おあきは俺の可愛い娘だ」
政吉は言い返す。なんとかして立ち止まり、頭の上の観音さまを、まともに見据えて口ごたえしてやろうと思うのだが、どうしても足が止まらない。息が苦しく、喉がひゅうひゅう鳴っているのに、それでも走り続けずにはいられない。
そこへ観音さまたちの声が降ってくる。
「おまえはおあきをあやめる」
「可愛くともあやめる」
「きっとあやめる」
「あやめてしまわぬわけがない」
「違う、違う、違う!」と、政吉は叫ぶ。
「おあきは俺の娘だぁあ!」
だが観音さまたちは、歌うようにして言いつのる。
「娘だとてあやめる」
「だって、おあきはおまえを捨ててゆくのだから」
「育ててくれた親の恩を忘れて」
「惚れた男のところへいってしまう」
「この先おまえが病になろうと」
「おあきは振り返りさえするものか」
「おまえなど足蹴《あしげ》にして」
「おあきは笑っているだろう」
「おまえの墓に苔《こけ》がむしても」
「おあきは放っておくだろう」
「おまえの骨が野にさらされても」
「おあきは悲しみもせぬだろう」
「だからおまえはおあきをあやめる」
「あやめてしまう」
「あやめずにおかれるものか」
今や政吉は声を出すこともできず、冷汗の粒をうしろに飛ばしながら、乱れほどけかかった髷《まげ》からはみだした白髪まじりの髪をなびかせて、泣き泣き走っていた。「嫌だ、嫌だ、俺はおあきをあやめたりしねえぞ!」
振りしぼった声でそう叫んだとき、頭上の観音さまたちの顔が、にわかに変わった。
色香漂うまぶしいほど美しい女の顔だったものが、耳まで口が裂け、牙《きば》をむきだした鬼の顔に変じた。次の座敷、次の欄間、すべての観音さまたちが、衣を肩にたくしあげながら、欄間の上から政吉めがけて、いっせいに飛びかかり追いかけてきた。
「どうしてもあやめられぬというのなら、わたしがおまえをあやめてやろう!」
夢のなかの政吉は悲鳴をあげた。あまりの恐ろしさに、思わず叫んでいた。
「わかった、そんならおあきをあやめる!」
政吉は身震いした。
我にかえると、仕事場に続く階段をおりきったところに突っ立っていた。どうやら、寝床を抜け出すときに置いてきたはずの夢を思い出しているうちに、ぼおっとしてしまったらしい。
(縁起でもねえ)
両手で顔をこすり、大きくひとつ息をつき、廊下を歩き出した。
いやはやとんでもない夢を見た。今日は一日、身をつつしんでいたほうがよさそうだ。下手をすると怪我《けが》をするよという、夢のお告げなのかもしれないから、刃物を手にしねえですごそうか。
あるじであり親方である今の政吉は、それもむずかしいことではない。弟子たちや、通いの職人たちの仕事ぶりを、懐手《ふところで》して見守るだけでも用は足りる。
夜明け前、まだ雨戸を開けてない家のなかを、こうしてひとり、仕事場までおりてゆく。政吉のそんな習慣を、娘のおあきや古女房のおたつは笑っている。おとっつぁんは、うちのなかだけでは、まるで偉《えら》い検校《けんぎょう》さんのようだ、と。
なるほど慣れ親しんだ家のなかでは、政吉は、夜目のきく猫のように、明かりなしですいすいと動くことができる。だが、一日の始まりに、起きたとたんにこうして暗やみのなかを仕事場へとおりてゆくのは、政吉にとって、習慣以上の意味のあることだった。
夜のうちに、人々が寝ているあいだに、神さまが家のなかに降りて来られて、仕事場を歩きまわり、道具にお手を触れ、そこになにか「気」のようなものを残していかれる――
まだ若い下職人のころから、政吉はそんなふうに信じてきた。それにはそれだけの根拠もあった。
たとえば、夜業《よなべ》仕事をして、仕事場を荒らしたまま寝入ってしまうと、翌日、決まって何かしらわずらい事が起こるのだ。職人の誰かが手を切るとか、その日入るはずの木材が届かないとか。ささいな事から大事《おおごと》まで、さまざまではあるが、必ずなにかが起こる。
それは、仕事場を清めないままいぎたなく寝てしまったので、夜のうちに降りてきた神さまが怒ってしまい、「気」を残していってくださらなかったからだと、政吉は思うのである。
だから一日の始めには、ひとり仕事場へ降りてきて、昨夜のうちに神さまが降りてこられたこと、「気」を残していってくだすったことを確かめ、それにお礼申し上げる。政吉にとっては大切な儀式なのだった。
それは、朝の日の光が入らぬうちにしなければならない。光が入ると「気」が散じてしまうからだ。
政吉は気をひきしめて、仕事場の戸に手をかけた。すると、なかで人の気配がした。
「おとっつぁん?」
おあきだった。
きちんと着替えて、髷《まげ》もきれいに整えてある。ずいぶん前から起き出してそこにいた、という様子だ。
おあきは、きれいに掃《は》き集めた削り屑《くず》を入れた木箱の脇に、膝をそろえて腰かけていた。彼女が部屋から持ってきたのだろう、ろうそくがひとつ、足元で淡い光を放っている。
今まで、こんなことは一度もなかった。
「おめえ、そんなところでなにをしてるんだい」
思わずとがめるような口調になった政吉に、おあきは笑いかけた。
「朝からそんな恐い顔をしないでちょうだいな」
「恐い顔って……」
さっきまでの恐ろしい夢の端っこが、舞い戻ってきて政吉の頭をよぎった。
「そんなに恐い顔をしてるかい」
おあきは、明るい瞳を父親に向け、甘えるような声で言った。「おとっつぁんてば、さいごのさいごまで、あたしが仕事場に出入りするのが気に入らないのね」
下駄職人の仕事は、けっして荒っぽいものではない。が、刃物を使う商売であることにはちがいない。
それを思って、政吉は、おあきが生まれたときからずっと、彼女が仕事場へ足を踏み入れることを厳しく禁じてきた。
万にひとつでも、怪我をさせてはいけない。とりわけ女の子のことだ。たとえば手の甲の傷であろうと、ひょっとすると将来に障《さわ》るようなことになるかもしれない。
同じようなことを思う職人は、大勢いる。石屋しかり、砥屋《とぎや》しかり。だが、どんなに心を配り気をつけていても、はずみで間違いが起こってしまうことがある。それを防ぐには、とにかくなにがあろうと子供を仕事場に近づけないことだ――と、政吉は思い決めてきた。
「あたし、お嫁にいってしまうのよ」
おあきは、しんみりと目を伏せて言った。
「もうこのうちの娘ではなくなってしまうの。だからその前に、おとっつぁんがたくさんの下駄をこさえて、鼻緒《はなお》をついで、日銭《ひぜに》を稼いであたしを育ててくれたこの仕事場に入ってみたかったの」
政吉は戸口のところで立ちすくんでいた。脇の下に、じんわりと汗がにじんできた。
「こうして――」
おあきは手をのばし、柄《え》のところにぼろ布を巻きつけた、政吉ののみを手に取った。
「おとっつぁんの汗のしみこんだ道具にさわってみたかったの」
のみを手にしたまま、おあきは政吉をふり仰いだ。
「いいでしょう、おとっつぁん。思い出に」
だが、政吉は答えることができなかった。
「あたし、ゆうべおかしな夢を見たのよ」
政吉の強《こわ》ばった顔が見えないのか、おあきは笑みをたたえたまま、言葉を続ける。
「ひとりぼっちで、どこかわからない広いお屋敷のなかにいるの。そしてね、誰かに追いかけられてるの」
政吉は、引き戸に手をかけて身体をささえた。心の臓がどきどきしてきた。
おあきも夢を見たって? 俺と同じような夢を。俺の夢とつながっているような夢を。
「とっても恐ろしかったわ」
肩をすぼめるようにして、まだ手のなかでのみをもてあそびながら、おあきは言う。
「あたし、一生懸命走って逃げるのよ。次から次へとふすまを開けてね。でも、お座敷も次から次へと続いていて、どこまでいっても終わりがないの」
乾いた喉に湿りをくれて、政吉は言った。
「おめえは逃げてるんだな?」
「ええ、そうよ」おあきはうなずいた。「泣きながら逃げてるの。つかまったら、殺されてしまうってわかっているの」
そこでおあきは、わざとらしく声をあげてうふふと笑った。
「おかしな夢だったわ。それで目がさめたときに思ったの。これはきっと、お嫁にいって他所《よそ》さまの家に入ることを、あたしが心の底で怖がっているあかしだろうって。そしたらちっと、涙が出たわ。本当いうとあたし、お嫁になんぞいかないで、ずっとおとっつぁんとおっかさんのそばにいたいって気持ちもあるんだもの」
立ちつくしたままの政吉の頭のなかで、政吉自身の、だが信じられないほど野太い声が、こう言った。
(この嘘つき娘め)
政吉ははっとみじろぎした。自分がそんなことを考えたなんて、信じられない。
「あたしはね、おとっつぁん、下駄屋の娘よ」
と、おあきが続ける。
「はきものを扱う家の娘が、料理屋の嫁になるの。あちらさんの親戚筋のなかには、嫁は下からもらえとは言うけれど、なにも地べたで商いするような家からもらうことはないって、陰口をきいてる人もいるそうよ」
そんなことを言われているのか、そりゃ可哀相だ――あたりまえの政吉、いつもの政吉が、おあきにそう言ってやろうとする。が、口が動かない。
かわりに、また心の奥で、あの野太い声がうなるように言う。
(そうか、それがおめえの本音か。苦労して育ててくれた親の恩を棚にあげて、親の商売がいやしいばっかりに嫁入り先で肩身のせまい思いをしなくちゃならねえと、文句のひとつも言いたいってぇ腹か)
俺はいったいどうしたんだ? 額《ひたい》にも冷汗を浮かべ、政吉は必死で考えた。俺はおあきにとんでもねえ因縁《いんねん》をつけようとしている。
おあきの手のなかで、のみの刃が光る。
「あたし、はきもの屋の娘だって陰口をたたかれてるって知ったとき、とても悲しかったわ、おとっつぁん」
目をあげて政吉のほうを見つめ、おあきは言った。
「だけど思ったの。ちっともはずかしくないって。そんなこと、あるもんですか。あたしはおとっつぁんのこと自慢にしてきた。おとっつぁんのこさえた下駄は、一度はいたら他所《よそ》の下駄にはかえられない、冥途《めいど》へもはいて行きたい下駄だっていう評判を、子供のころから聞いてきたんだもの、ねえ」
おあきの口元に浮かんだ笑みを、政吉はじっと見つめた。
(この、嘘つきの口め)
頭のなかで声が鳴り響く。
(その汚ねえ手で俺の道具にさわるな。恩知らずの足で俺の仕事場を歩くな)
ああ、どうしてこんなことを考えるんだ?
「おとっつぁん、どうしたの?」
かすかに、おあきの声が気がかりそうな色を帯びた。
「どうしてなにも言ってくれないの?」
立ち上がり、のみを手にしたまま、こちらへ近づいてくる。政吉は棒をのんだように突っ立ったまま、おあき、来るな、来るなと喉の奥で叫んでいた。
そののみを持って俺のそばに来るな。
だがおあきの目元、口元、その顔の表情を見つめて、今や政吉の心と身体を乗っ取りかかっているあの野太い声が、ますます声を張りあげてわめきたてる。
(そんな得意そうな顔をして、俺にほめてもらおうってつもりか。本当は親を馬鹿にしているくせに、口先だけでだまそうってつもりか)
「これはおとっつぁんの大事な道具」
ささやくようにそう言って、おあきは手のなかののみを政吉に差し出した。
受け取るな! と、政吉は自分で自分に叫んだ。だがそれは声にならず、右手が勝手に動き、おあきの手からそれを受け取る。
そして柄を握りしめる。
「あたし、そののみの手触りを忘れないわ。おとっつぁんの苦労を忘れない。それを心に刻みつけるために、いっぺんでいいから仕事場に入ってみたかったの」
おあきは瞳をうるませていた。
「言い付けを勝手に破ってごめんなさい。さあ、雨戸を開けましょうか。もうお陽さまがのぼってるわ」
政吉にひらりと背を向けて、おあきは仕事場の表戸《おもてど》のほうへと動いた。その一歩が半歩遅れていたら、おあきの命はそこまでだったろう。
おあきを追って、政吉は腕を振りあげた。そのとき、おあきの開けた雨戸の透き間から、朝の光が差しこんだ。
あたりが、真紅に染まった。
異様な朝焼けだった。
真っ赤な光は、狭い雨戸の透き間から、流れ込むようにして入ってきた。またたくまに仕事場じゅうに広がり、すべてのものを赤く染めあげてしまった。
のみを持つ手を振りあげたまま、政吉は赤い光に目がくらみ、くらくらとたたらを踏んで引き戸にぶつかった。右手が泳ぎ、のみが下にさがった。
「なんてすごい朝焼けかしら!」
驚きに声をはりあげて、おあきが言った。仕事場から外に一歩出て、ぽかんと口を開けている。
「こんな朝焼け見たことがないわ」
おあきがこちらを見返る前に、政吉は素早く身体を縮め、うめきながら彼女に背を向けた。うめき声がもれたのは、そういうふうにしておあきから離れようとすると、身体じゅうの骨がばらばらになるほどの痛みが走ったからだ。
なんとかこののみを、手から離したい。
政吉は右のてのひらを開こうとした。額から汗がしたたった。指の一本一本が、にかわで貼りつけられてしまったかのように、ぴったりとくっついている。左手で右手の指をこじあけようとしても、びくとも動かない。
「おとっつぁん、どうしたの?」
おあきの声がする。
「ねえ、おとっつぁんたら」
おあき、俺に近寄るな! 政吉は心で叫んだ。神さま仏さま、おあきをお助けください! このままじゃ、俺はおあきをあやめてしまう。
目を閉じ、身をかがめて引き戸に体当たりした。なんとか廊下に転がり出よう――
その苦しい努力の最中に、政吉は不意に、ごうっというような音を聞いた。
それは唐突にやってきた。政吉の背後、表戸のほうで、右から左に、東から西に、耳をろうするほどに大きな音。
風の音だ。近づいてくる!
そう、風だ。二百十日の風より強く、木枯らしより冷たい。政吉を吹き飛ばすような勢いで、瞬時に仕事場へなだれこんできた。
政吉の足元で、木箱のなかの削り屑が舞いあがった。道具のいくつかが宙に飛んだ。積み上げてあった鼻緒の箱が音をたてて床にくずれた。
政吉は両手をあげて頭をかばった。右手からのみが離れて落ちた。のみは床を転がり、風にまかれて二、三度跳ねると、表戸の板に突き刺さった。鋭い音が耳を刺した。
同時に、風が止《や》んだ。
政吉は振り向いた。
仕事場の床のうえ一面に、削り屑が散らばっている。道具が散乱している。あたりまえの朝日の光が、それらを照らしている。
異様な朝焼けは消えていた。
「おあき?」震える声で、政吉は呼んだ。
返事はなかった。おあきも消えていた。
御番所模様
日本橋|通町《とおりちょう》にある一膳飯屋姉妹屋に、古沢右京之介《ふるさわうきょうのすけ》がぶらりと訪れたのは、享和三年(一八〇三)の春の桜の盛りのある日、昼の時分どきをすぎて、姉妹屋がようようひと息いれているときのことだった。
「あらまあ、古沢さまだ」
近づいてくる彼の姿を、のれんをしまいかけていた兄嫁のおよしが、目ざとく見つけて声をかけた。それを聞いて、お初《はつ》は前掛けをはずしながら戸口へ飛んで出た。
「久しくお見限りでしたこと」
明るく声を張り上げて、ちらと横目でにらみながら、お初は右京之介を出迎えた。
お初はこの春、十七歳になった。ひとつ歳をとるたびに、これで少しは娘らしくしおらしくなるかと兄夫婦を期待させるが、そうはいかない。あいかわらず勝ち気のほうが先走り、ぴんしゃんとしたもの言いにもかわりがない。
「まともな娘なら縁談だって来る年ごろだ」
ぼやく兄の六蔵《ろくぞう》を尻目に、姉妹屋を切り回して飛んであるいている。少し下がり気味の目尻とふっくらした頬の愛らしい、看板娘である。
「お初どのは、いつも元気ですね」
にこにこと、右京之介はこたえた。
あいかわらずひょろりと背ばかり高く、色白の顔に、紐《ひも》でくくった丸めがね。それはそれで算学《さんがく》の道の探究にいそしむ若者らしくて似合ってはいる。が、もとを正せばこの右京之介は、南町奉行所で鬼と恐れられる腕利きの吟味方与力、古沢武左衛門《ぶざえもん》の嫡男《ちゃくなん》なのである。まっとうにゆけば、父上の跡目《あとめ》を継いで、ふたりめの鬼として江戸の町ににらみをきかしているはずのお方だ。
それがどこをどう間違ったのか、あるいは間違ったのではなく正しい方へいったのかもしれないけれど、父上の許しも得た上で奉行所のお役目をしりぞき、念願だった算学の道へ進むことになったのは、昨年の夏のことであった。
その夏に、右京之介はお初とともに、ある大きな事件に巻き込まれたのだった。恐ろしい思いも悲しい思いも味わったその出来事のなかで、右京之介は自《みずか》らの身の振り方を考え、今の道を選んだ。そしてお初は、得難い友としての右京之介を得ることとなった。
だが、それぞれにこまごまと忙しい日々をおくっている身の上のことである。正月に顔をあわせたきり、このところ、右京之介はずっと、姉妹屋を訪れていなかった。開口いちばんお初に文句を言われることも、覚悟はしていたらしい。懐から出した手ぬぐいで、額に浮かんだ春の汗をぬぐいながら、姉妹屋の醤油樽《しょうゆだる》に腰をおろすと、右京之介は切り出した。
「そうふくれないでください、今日は、お初どのをお誘いに来たのです」
「わたしを?」
と、お初は目をまあるく見開いた。
「まあ、どこへ連れていってくださるのですか?」
「夜桜を見に」と、右京之介はこたえた。そして、彼の好きな熱いほうじ茶を大きな茶わんで運んできたおよしに向かって言った。
「夜桜見物といっても、ご心配には及びませんよ、およしどの。御前がごいっしょです」
与力の家柄である右京之介が「御前」と呼ぶのは、南町奉行所の奉行、根岸肥前守鎮衛《ねぎしひぜんのかみやすもり》のことである。
お初と、今年六十七歳のこの老奉行とのつながりは、なかなか面白い縁のとりもちによるものだった。
お初が御前さまに出会い、そのそばに親しく従うようになって、今年で二度目の春を迎えた。そもそもは、下々の世情のこと――とりわけ、人の心を動かす不可思議な出来事や噂話、いい伝えのたぐいに深い興味を持っておられる御前さまが、お初の持っている「霊験」について聞き及び、ぜひ会いたいと働きかけてこられたことがきっかけだった。
お初には、人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるという、不思議な力が備わっていた。時には人の心を読んだり、人の生き死にや物事の成り行きなどを見通したりすることさえできる。
お初自身が、身体の内側に眠っているこの力に気がついたのは、つい数年前のことである。身体が大人になり、女のしるしを見たときに、急にはっきりしてきたのだ。だが、幼いころに親を亡くし、以来、親代わりとなってお初を育ててきてくれた兄の六蔵と、兄嫁のおよしは、もっと以前から、お初になにか常人にはないものがある――まるで、みっつめの耳や目があるように――ということを、かなり早いうちから悟《さと》っていた。
その兄の六蔵は、おかみの御用をつとめる岡っ引きである。今年三十七、年季が要《かなめ》のこのお役目ではまだまだ尻が青いけれど、身の軽さと動きの速さ、くらいついたら離れないしつこさと、曲がったことが大嫌いだという一本気なところとでは、そこらの岡っ引きにひけをとらない。大店《おおだな》の集まるこの日本橋通町を縄張として一歩も譲らず、御番所の旦那がたからも一目置かれる存在となっているのも、そのためだ。
これまでにも、お初の持っている奇妙な霊感が、六蔵のお役目の上で、時おり、役にたつことがあった。そのことを、六蔵とおよしは、お初のために、できるだけ内緒にしておこうと考えてきた。
だが、隠し事というのはいつかは露見するものだ。じわじわと、六蔵が手札を受けている南町の同心石部正四郎《いしべせいしろう》などの口からまわりまわって、ついにはお奉行さまの興味をひくことになった――という次第である。
「御前さまから夜桜見物のお誘いというと、また何か?」
お初は首をかしげた。これまで、御前さまからお初にお召しがあるのは、たいてい、何事か不可思議な事件が起こったとか、そういう風聞を耳にされたとかで、
「お初、おまえはこれをどう思う?」
「ひとつ調べてはみぬかの、お初」
などなどの話をしたくなったときと決まっている。
「さて、それはいかがなものでしょうか」
右京之介は微笑して、お初を見た。謎めかしているわけではなく、本当に知らないようだった。
「そのあたりのところは、私にもしかとはわかりません。ただ、夜桜というのは、もともと妖《あや》しいものですからね」
「ええ」と、お初はうなずいた。
正直に言うと、お初はあまり、桜という花が好きではない。どうも得体《えたい》の知れない花だという感じがするのである。
「御前は、久しぶりにお初どのに会えると、それは楽しみにしておられたようですが」と、右京之介は続けた。「気が進まないようならば、無理にとはおっしゃらないでしょう。大丈夫ですか」
「あたしも、このところ御番所に伺う折りがなくて、つまらないと思ってたところです。喜んで参ります」
右京之介は、丸い眼鏡の奥で、安心したような目をした。
「それならよかった。では、夕暮れ前に、私がお迎えに参ります。実をいうと、私も、夜桜見物の場所や、そこに集まる顔触れを、まったく知らされていないのです。どうやら御前は、何事か我々を驚かす趣向をお考えになっているようですよ」
そのあと、桜餅《さくらもち》を食べほうじ茶を飲みながら、右京之介はひとしきり、算学の道場での出来事とか、このごろの暮らしぶりなどについて話をした。それというのも、およしがまた聞き上手で、放っておいては話の続かない右京之介をうまく操《あやつ》ったからで、彼にしてはずいぶんと雄弁なひとときとなった。
それで勢いがついたのかもしれない。帰りぎわ、縄のれんをくぐって出てゆくとき、頭の上の看板をひょいと見あげて、右京之介はこんなことを言い出した。
「この看板、そろそろ描きかえなければならないですね」
姉妹屋の看板は、一膳飯屋によくある、鬼と姫を描いたものだ。「おにひめ」つまり「おにしめ」の洒落《しゃれ》である。ただ、普通はひとりである姫をふたり並べて描いてある。むろん、姉妹で切り回す店だから姫もふたりという意味だ。そして、ここには本当に鬼の親分六蔵がいるからというわけで、鬼の顔は、六蔵に似せて描いてある。
それを、右京之介は描きかえろという。
「どうしてでございます」と、お初は口をとがらせた。
右京之介は、眼鏡の紐にちょいと触って、急にまごまごした。
「少し見ないうちに、お初どのはとても娘らしくなられましたからね。もうこの看板の姫の顔では、少し幼すぎると思ったまでです」
それだけ言うと、ではと手をあげて、すたすたと歩き出した。お初は一拍ほどおいて、ぷっと吹き出してしまった。
「そういう右京之介さまは、また背がのびましたね、だ」
去ってゆくひょろ長い彼の背中にそう言って、お初は店のなかに戻った。するとおよしが声をかけてきた。
「算学の道場じゃ、洒落たもの言いまで教えてくれるようねえ」
「あらやだ、聞いてたの」
「そりゃあもう。ねえ、吉さん」
およしは加吉《かきち》を振り向いた。洗った目笊《めざる》を振って水を切りながら、加吉も白髪頭をうなずかせる。
「古沢さまは、本当に明るい、いいお顔になられましたね。やっぱり御番所を退《ひ》いたのがよかったんでしょう」
加吉は五十を少し出たところ、猫背でちょっと目つきの暗い、一見とっつきの悪そうな男である。だが実は、昔|神楽坂《かぐらざか》のある大きな料亭で板場を任されていたこともある、一流の腕の持ち主だ。そんな板前が、どういう理由でもって姉妹屋にいてくれるのか、お初は子細を知らされていない。知っているのは六蔵とおよしと加吉本人だけである。
兄夫婦の仲がよろしいのはまことに結構だが、ときどきこういうふうに仲間はずれにされることがあるのは面憎《つらにく》い。
「あの看板ねえ」と、およしは片手を頬にあて、小娘のように首をかしげた。
「たしかに、そろそろ描きかえたほうがいいかもしれないわね」
「だいぶ長いことぶら下げてますからねえ」
「だけど、うちの人のことだからね、描きかえるなんて話を持ちかけたら、きっと言うわよ。そんなら、ついでに鬼二匹に姫ひとりにしてもらえ、なんて。どうせあたしなんか、姫より鬼に近い大年増《おおどしま》でございますよ」
勝手にふくれるおよしに、加吉がとりなした。「おかみさんはまだまだきれいですよ」
「大きにありがとう。吉さんだけよ、そんなふうに言ってくれるのは。ああ、あたしも、十五、十六の花の盛りに戻りたいもんだわ」
女はみんなそう思うものなのだろうか。
「だけどそれだと、義姉《ねえ》さん、また一から苦労のやりなおしじゃない?」
およしは大げさに首をすくめた。「そういえばそうね。若い女は大変よねえ」
「月にむら雲、花に風ってね」加吉が言う。
「今夜のお初お嬢さんの夜桜見物には、風が吹かないとよろしいですが」
「ほんとね」お初はたすきを締めなおした。
「でもその前に、もうひと働きだ。吉さん、芋《いも》洗いは引き受けたわ」
約束どおり、右京之介は夕暮れ時にまた姉妹屋へやってきた。お初は着物をきちんと着がえ、髷《まげ》も見苦しくないように結いなおし、おろしたての足袋をはいて、右京之介を待っていた。
御番所に伺うときは、いつもこういうふうにして、身形《みなり》には気をつけることにしている。いくら親《ちか》しくおそばに仕えているといっても相手はお奉行さまであるし、それに、御前様はときどき、予告抜きで、お初を人に引き合わせることがあるからだ。
こういうことには気働きのいいおよしが、「お花見なら、やっぱりこれがなくちゃあ」と言ってこさえておいてくれた御馳走が詰まった三段重ねの重箱を風呂敷《ふろしき》で包んで、右京之介といっしょに外へ出たとき、時の鐘が茜色《あかねいろ》の空の向こうから聞こえてきた。
「きれいな夕焼け」
空を見あげたお初の手から、右京之介は重い風呂敷包みを取りあげ、代わりに持った。
「これは、御前もお喜びになるでしょう」
「義姉さん、はりきってこさえましたから」と、お初はにっこりした。「それで、どこへ行くんです?」
右京之介は困ったような顔で言った。「昼間も申し上げたとおり、お誘いに行ったときには、私にもどこで花見をするものやらさっぱりわかりませんでした。御前に命じられたのは、とにかくお初どのを誘いに行けということだけで」
「はあ」
「それが、午後になって御番所から道場に遣いの人が来ましてね。場所が決まったというのですが……」
右京之介は、ここでますます困惑顔になった。少しばかり照れたような感じで、お初の目をまっすぐ見ない。
「どこなんです?」
桜の名所といったら、江戸には数多い。上野、浅草、深川――けれど、御前さまのことだから、世間に知られているような場所ではなく、どこか突飛なところを頭に置いておられるのだろうと、お初も覚悟はしていた。
「船宿なんです」と、右京之介が小声で言った。
「船宿?」
「はい。柳橋の『新月』というところだそうで」
なるほど確かに、ゆっくりと歩く右京之介の足は、大川のほうへ向いている。
「その船宿のお庭に、世間には知られていない桜の名木があるとかいうことでしょうか」
「さあ……そんなものはないと思いますが、あそこには」
お初は、隣を歩く右京之介の顔をじいっと見た。彼は眼鏡ごしにちらとお初の目を見て、あわてたように顔をそらし、風呂敷包みの陰に隠れてしまった。
じわりと、お初のほっぺたが熱くなった。
えへんと空咳《からせき》をして、右京之介が妙に早口で言った。「御前のおっしゃるには、その『新月』から屋形舟をあつらえて、ふたりでそれに乗って待っておれと」
「右京之介さまとわたしで?」
「……はあ」
「御前さまはどこに?」
「あとから参ると、それだけしかおっしゃいませんでした」
「だって、舟は川の上をすべってゆくでしょ? 御前さまはどこでわたしたちをつかまえるおつもりなのでしょう」
「船頭に任しておけばよろしいというおおせでした」
お初は、ますます頬が熱くなるのを感じた。なんでしょう、それじゃまるで、逢い引きじゃないの。
どおりで、右京之介さまがへどもどしているはずだ。
「いったいぜんたい、どういう趣向なのかしらん。楽しみだわ」
照れ臭いのを押し隠して、わざと元気な声を出してみた。そんなこと、わたしはなぁんにも気にしませんよ、別に右京之介さまとふたりきりになろうとなんだろうと、というふうな態度を見せようと思ったのだけれど、あまりうまくいかなかったようだ。
右京之介はさらに縮こまり、歩きながら、なんだかねじ曲がったきゅうりのような格好をしている。
「川の上から夜桜を見ようということなんでしょうよ、きっと」
「そうでしょうか……」
「御前さまは風流なおかたですから」
「まあ、そうですね」
右京之介はどんどん照れる。お初も同じ気持ちなのだけれど、これがこの娘の勝ち気なところで、照れてるところを悟られたくない。おまけに、あまりにも正直に顔を赤くしている右京之介を見ているうちに、ひょっと妙なことを思いついてしまった。
お初は足を止めた。「古沢さま」
右京之介も立ち止まったが、お初のほうを見ていない。「なんです」
「そんなにへどもどされるのは、どうしてでございます?」
右京之介はあわてた。「私はけしてへどもどなどして――」
「してますよ」お初は決めつけた。「船宿、よろしいじゃありませんか。屋形舟もね。俳句のひとつもひねれるかもしれませんよ。そんなに後ろ暗いお顔をなさるようなことじゃありません」
右京之介は風呂敷包みをあっちこっちさせながら足を踏みかえている。
「それなのに、そんなにおろおろなさるってことは――」お初は彼を横目で見た。「その『新月』って船宿は、よほどの悪所なんじゃありません?」
「いや、とんでもない」
飛び上がるようにして否定した右京之介に、お初はさらに言った。「そうかしら。さっきおっしゃいましたよね? 『新月』には桜の名木なんてないと思うって。どうしてそう言えるんです?」
重箱の風呂敷包みを抱えているので、右京之介は、いつもの癖の、眼鏡の紐をいじくるという動作をすることができない。それだから、足ばかりばたばた踏みかえている。
「それはその――」
「『新月』にいらしたことがあるんでしょ? だから悪所だってご存じなんだわ」
ずばりと決めつけられて、彼は泡でもふきそうな様子になった。
「行ったことはないですよ」
「行ったことは、ない?」
「はあ、話に聞いたことは……ありますが」
とうとう白状した。
「どなたから?」
「道場の朋輩《ほうばい》たちからですね……」
「『新月』には、算学のお勉強によろしい書物でもございますの?」
これはまあ、いびりである。右京之介たちの年ごろの若者が船宿に出入りすると言ったら、そこですることの相場は知れている。こっそり、女子《おなご》と逢うわけで――
「いやいやその……ですから私は行ったことはないのです」
「嘘おっしゃいませ」
「嘘ではありません」右京之介は冷汗ものである。「ただ、『新月』といったら、それはあの……我々には名の知れた宿であるからして……」
お初はぷうとふくれた。通りかかった人々が、振り向いて見るほどの見事なふくれっ面《つら》である。
「お初どの、そう怒らないでください」
どうして怒っているのか、お初自身にもよくわからないのである。
「御前さまが、そんな怪しい連れこみ宿みたようなところに、私をお呼びになるわけないと思います」
「そういう仰《おお》せなのです」
「本当に御前さまのお誘いなんですか?」
勢いで口に出してしまった言葉であるが、言ったとたんにお初は後悔した。右京之介が、まともにざっくりと傷ついたからだ。
「お初どのはそんなふうにお疑いになるのですか?」
ここで「ごめんなさい、今のは本気じゃなかったの」と言えるくらいなら可愛いのだが、そうはいかないところがこの娘の不幸だ。「知りません!」
何が知らないんだかわからないことを言い捨てて、お初はずんずん歩きだした。右京之介が、情けない顔つきであとを追う。
「お初どの……」
柳橋までの道中、このふたりと擦れ違う道行く人たちは、さぞ面白い思いをしたことだろう。
着いてみたところの「新月」は、がっくりくるような安宿であった。
柳橋には船宿が多い。多くは遊興や、人目を忍ぶ人と人との秘密の一時のために使われる宿たちで、舟はそのための目くらましの手段のようなものであるけれど、それでも、構えは立派な建物が目に付く。「新月」は、大川から引いた堀割に面して、あたりに並ぶそれらの船宿たちのあいだに隠れ、いかにも「私はあいまい宿でございます」という風情《ふぜい》でたたずむ、古びた二階家だった。
正直と言えば正直。取り柄はそこだけだ。
おかんむり気分があとを引いていた――というより、行きがかり上そういう顔をし続けていなければならなかったので、用意されていた屋形舟に、お初はぷんぷんしながら乗りこんだ。もちろん、右京之介とは口もきいてあげないし、彼の顔を見てもあげないというわけだ。
江戸は水路の多い町であるし、川遊び、舟遊びもことのほか風流なものとされている。春には花を愛《め》でる舟が、夏には花火舟が、秋には紅葉と澄んだ青空とを楽しむ舟が――という具合だ。
だがしかし、どれほど人気のある遊びといったところで、これはやはり、ある程度暮らしにゆとりのある人々だけの楽しみである。いくら繁盛《はんじょう》している店だとはいえ、たかが一膳飯屋の娘にすぎないお初には、屋形舟に揺られるなどというのは初めてのことだ。
お初と右京之介が舟に乗り移ると、屋形舟の障子は外からぴしゃりと閉められてしまった。船頭は顔を見せない。しばらくして艫《とも》のほうに誰かが飛び乗ったらしく、舟がぐらりと傾いたかと思ったら、するすると動きだしてしまった。
畳四枚を細長く並べたぐらいの広さの舟のなかには、ちゃんと座敷がこしらえてあり、座卓も据えてある。が、その上には何も載せられていない。夜の水辺では冷えることがあるからか、隅のほうに小さな手あぶりがふたつ、用意されていた。
右京之介とふたり、座敷の端と端に座って、右京之介はしょぼんと背を丸め、お初はあさってのほうを向いて、舟に揺られてゆく。まことに妙な「花見」である。
舟が動き出して間もなく、どこを走っているのか確かめようと思って障子に手をかけたが、開かなかった。これにはお初も驚いたし、初めて少し恐くなった。反対側の障子も開けてみようとしたが、こちらも動かない。
「開きませんか」と、右京之介がきいた。
「全然」お初は首を振った。右京之介は謝るように肩をすぼめて、
「御前のおっしゃるとおりにしているだけなのですよ」と言った。
そのまま何をすることもできずにぼんやりと、四半刻も揺られたろうか。思いがけず、障子の外から、「おおい」と呼びかける声が聞こえてきた。
「おおい、おおい」と呼ぶ。よく耳を澄まして聞けば、それはお奉行の声だった。
顔を見合わせていたお初と右京之介は、はじかれたように立ち上がり、障子にとりついた。
「御前さまですか?」
お初の問いに、呑気《のんき》そうに奉行は答えた。
「おお、お初か。待たせたの」
「待ったどころじゃございません。はらはらしておりました」
「何をはらはらするのかの?」
からかうような申されかたに、思い出したようにお初は赤くなった。
右京之介が声を張り上げる。「障子が開かないのですが」
「なに、開かない?」
「はい、びくとも」
と、船端を人が歩く気配がして、「どうぞ」と別の声がかかった。この舟の船頭だろう。手をかけてみると、障子はすうと開いた。
表をのぞいて見て、お初は目を見開いた。この舟と同じくらいの大きさの屋形舟が、ぴったり並んで寄り添うようにして浮かんでいる。どちらの舟もゆるゆると進んでいる。向こうの舟の艫のところには、手ぬぐいをかぶり着物の裾《すそ》をはしょった船頭がひとり、櫓《ろ》を握っているのが見えた。
今年六十七歳の老奉行は、舟提灯《ふなぢょうちん》を右手に、自ら船端で身を乗り出して、向こう側から手招きした。
「こっちへ乗り移っておいで。こら右京之介、ぼやっとしておらんでお初に手をかしてやらぬか」
ふたつの舟の明かりと、奉行の手の提灯のほかには、明かりがまったく見えない川の上だ。船端へ出てみても、今この舟がどこを走っているのかさっぱり見当もつかない。右京之介の手につかまり、無事向こう側の船端に降り立つと、ほっとしたのとわけがわからないのとで、さすがに尖《とが》った声になってしまった。
「御前さま、こんなのがお花見でございますか?」
老奉行は、舟の周囲をすっぽりと包む夜の闇のなかで、からからと笑い声をたてた。
「そう怒るな。これにはちと理由《わけ》があっての。それに、桜なら持ってきた」
「桜をここに?」
「ともかくなかへお入り」
釈然《しゃくぜん》とはしないものの、重荷をおろしてほっとしたような顔をしている右京之介が、こちらの舟に渡ってきた。ここまで彼とお初を乗せてきた舟は、櫓の水音も涼やかに、するするとこちらの舟から離れてゆく。とうとう、船頭は姿を見せないままだった。
こちらの舟の障子を開ける。ふわあと暖気が流れてきて、お初はほっとした。座卓の上に、酒や料理が並べられている。
そしてそこには、もうひとり先客がいた。
その先客は、お初の顔を見ると、かすかに笑みのようなものを浮かべた。知りびとに向けられるようなその親しげな笑みには、でも、少しばかりの遠慮が混じっているようにも見えた。おそらくは、五十も半ばすぎだろう。小づくりの顔に、眉毛《まゆげ》だけがふさふさとしているが、それがもうだいぶ白くなってきている。
お初は座敷に足を踏み入れると、急いでその場に座り、きちんと指をそろえて頭をさげた。先客が誰であるかはまだわからなかったけれど、その人の身分はわかったからだ。お武家だった。
座敷の艫の側にしつらえてある刀掛けには、ふたり分の大小が預けてある。下座にすわっているところをみると御前さまよりは身分の低いお方だろうから、下の段に掛けてあるのが、この先客のものだろう。
平伏しているお初に、背後から奉行が声をかけた。「そうかしこまるでない。柏木《かしわぎ》も困っているではないか」
(かしわぎ?)
さて、聞き覚えのない名前だけれど……
右京之介とお初をせきたてて座に着かせ、奉行も自分の座におさまった。
「わざわざ呼びたてて申し訳なかった。だが、おいおい話すが、これはその必要があってのことでの」
ふたりにそう言っておいてから、奉行は先客のほうに顔を向け、お初と右京之介のそれぞれを紹介した。それから、にっこりしてお初を見つめた。
「それでお初は、この柏木を覚えてはおらぬか」
どうにも覚えがない。だがお初が口を開く前に、柏木と呼ばれたお武家が、優しい口調で割ってはいった。
「覚えておらぬのも無理はございませんでしょう。私がお初――お初どのに会ったのは、十四年も昔のことでございますからな」
十四年前といったら、お初は三つだ。三つのときといったらば……
お初は「あっ」と声を出した。
「柏木さま、あの柏木さまでいらっしゃいますか?」
すると相手は相好《そうごう》をくずした。「ほう、覚えていてくれたかね」
お初は目の前の人をまじまじと見つめた。頭のなかに残っている、うっすらと頼りない記憶と重ね合わせながら。
「わたくしは頑是《がんぜ》ない子供のころのことでございましたから、はっきりとは申し上げかねますけれど、でも、お名前をうかがいましたら頭に浮かんでまいりました」
柏木は嬉しそうにうなずいた。「なるほど。しかし、あの火事のときには、兄さんに抱かれてぴいぴい泣いていたあの子が、こんなしっかりした口のきき方をする娘さんになったのだねえ」
「火事とは?」と、右京之介がきいた。
「十四年前に、わたしはふた親を火事で亡くしたんです」と、お初は答えた。「そのころは馬喰町《ばくろちょう》に家がございました。紙屋だったものですから、火がまわるとあっという間で」
「ああ、そのことでしたか」右京之介がうなずく。「六蔵どのから、話は聞いたことがありました」
「柏木さまは、そのころ、高積改役《たかづみあらためやく》をつとめていらして――」
「今でもそのお役目だよ」と、柏木が言った。「このお役目をたまわって、私はもう二十年になる」
お初も驚いたが、右京之介はもっとびっくりしたようだった。
「すると柏木さまは、御番所の」
柏木はあらたまった様子で頭を下げた。
「お父上の古沢さまには、時折お目にかかることがございます。ただ私は、吟味方下役のお役目は、弱輩のころにほんの一年ほど申しつかっただけでございますのでな」
下役とは同心の意味だ。つまりこの男、柏木|十三郎《じゅうざぶろう》は、れっきとした南町奉行所の同心で、高積改役下役をつとめているというわけである。
右京之介は、なんとも身の置き所がないという様子に見えた。今は一介の算学の学徒であるとはいえ、一年足らず前までは、ゆくゆくは父の跡目を継ぐべく、与力見習として南町奉行所に仕えていた身の上だ。同じところで二十年も奉職している同心の顔を知らなかったでは済まされまい。
が、柏木もお奉行も、けろりとした顔で笑っている。
「右京之介が知らなかったのも無理はあるまいよ」
「私はお役目柄、ほとんど御番所にはおりません」と、柏木が言う。「たまに出仕いたしても、尻の暖まる間もなく逃げ出してしまいますしな」
たしかに、高積改役というのは、町へ出ないことには話にならないお役目である。町々や河岸のそこここを歩き回り、商家の軒先《のきさき》や蔵のまわり、空き地などに、荷物が堆《うずたか》く積み上げられてはいないか、人や荷車の往来の邪魔になったり、大風や火事のときに危険のたねになったりするような積まれ方をしてはいないかと、調べてまわるのが仕事なのだから。
十四年前の火事のときも、彼はお役目でお初に会っているのだった。北風の強い真冬の夜に、南伝馬町《みなみでんまちょう》がら出たこの火事は、お初の家のあった馬喰町あたりまで一帯をなめつくした大変な大火だったのだが、このとき馬喰町の一角にあった雑穀問屋の、店の前に無造作に積み上げておいた俵《たわら》やくくり荷のたぐいが荷崩れを起こして道をふさぎ、人々の退路を断ってしまった――という不運な出来事があった。柏木はこの件を調べるため、この火災で生き残った馬喰町近辺の人々を根気強く訪ねてまわり、話を聞き出していたのだ。
ただし、この高積改役は、御番所のなかでは閑職《かんしょく》である。追いかけなくても逃げる気遣いのない荷物を相手のお役目だ。危ない積み方をしてある荷物を見つけて、即刻直すようにと命じれば、相手はすぐにもそれに従う。けれど、改役がいなくなってしまえば、またぞろ元どおりに積み直してしまうということもしばしばある。つまりは、あってもなくても同じような、実に空《むな》しい徒労の積み重ねを毎日毎日繰り返しているのである。
しかも、他の役職とはちがって、袖《そで》の下の入り具合もうんと少ない。それはそうだろう、荷の積み方云々ということでは、どうにらみをきかせようとたかが知れている。にらみがきかないということは、ここというときに金が動かないということだ。だから御番所の与力、同心たちに、進んで高積改役になろうとする者などいないし、お鉢がまわってきたときには、舌打ちをひとつふたつして、やけ酒でも飲まねばおさまらないというくらいのものだ。
柏木十三郎は、そんなお役目を、二十年もつとめ続けている。そのことだけで彼の人柄が偲《しの》ばれてしまうし、御番所における柏木という同心株の値打ちもわかってしまう。
十四年前、火事のあとにお初を訪ねてきたときの柏木は、やっぱり今と同じように温和で小さくて、どちらかと言えば頼りないような風情の同心だったのだろう。だが当時はなにしろ子供の目で見上げたお方だ。おっかなかったという思い出ばかりが残っている。柏木の名を覚えてはいても、今のこのおとなしい顔を見てぴんとくるものがなかったのも、そのせいだろう。
「奉行所が嫌いでほとんど出仕してこぬ男というのに、私は興味をひかれてな」
根岸肥前守は、ゆったりと懐手をしながら言った。
「用向きをつくって召し出してみると、さてこの通りの男だ。なかなか面白い」
考えてみれば、御前さまも変わった人物ばかり好むお方だと、お初は内心思っていた。
(最初があたしで、次が右京之介さまだ。そして……)
巷《ちまた》に流れる不可思議な噂話や、奇妙な出来事、奇怪な風聞――普通なら、御番所で正面切って相手にすることなど、百年待ってもありそうにないことばかりだ。それを好んで聞き集め、ときには調べさせ、手ずから記録にして残してもおられる。そういう趣味|嗜好《しこう》がいったいどこから来ているものなのか、お初にはまるでわからない。
このお奉行さまご自身も、いろいろな逸話や噂に囲まれている方である。けして古くもなくまた格式が高いわけでもない根岸家に、これまた吹けば飛ぶような徒侍《かちざむらい》の家から養子に入ったという身の上でありながら、破格の出世を積み上げて、ついには江戸南町奉行になった。不思議な人だ。
「さて、こんな手間のかかる集まり方をさせたその理由《わけ》というのにとりかかろうかの」
あいかわらずゆったりとした口調で、老奉行は切り出した。
「内密に進めたい話ではあるが、かといっていずまいを正して聞いてもらわねばならぬということでもない。ふたりとも腹が空いたろう。箸《はし》をつけなさい。料理が冷めてしまう」
促《うなが》されて、お初は箸をとった。鰆《さわら》の焼き物や、穂先のやわらかい筍《たけのこ》の煮物。色合いの美しい菜飯。春の香りのする御馳走だった。
少しずつ食べ始めてみて、とても空腹だったことに気がついた。今までは、それどころではなかったのだ。
「あんな船に押し込まれて、どこへ連れてゆかれるものかと思ってしまいました」
思わず、文句のひとかけらが口をついて出てきてしまった。すると奉行は笑った。
「右京之介とふたり、なかなかおつな舟路ではなかったのか?」
「とんでもございません!」
「そう気色ばむことはない。むきになるのはおかしいぞ。お初は何に気をもんでいたのかの、右京之介?」
右京之介はちぢこまった。「さあ」
「まあ勘弁してやろうか。あのような手段をとったのは、どんなことがあろうとも、奉行所の者たちや、奉行所につながる者たちに、今夜の集まりのことを悟られたくなかったからなのだよ」
「なぜでございますか?」
お初の問いには答えず、奉行は柏木の白い顔のほうに目をやった。
「柏木が出仕して来ぬのは、奉行所に信を置くことができぬからだそうだ」
言い訳口調ではなく、柏木が言い添えた。
「けして、万事が万事というわけではございませんが」
奉行はうなずいた。「ある一部に、またはある事の取り扱い方にということだろうの」
お初は柏木のほうに向き直った。右京之介も真顔になって彼を見つめている。
「私は今ではお役目を退いた身の上です」と、右京之介はゆっくりと言った。「奉行所では、これという働きをすることができませんでした。出仕していたのはごく短いあいだでございましたし。しかし、そんな私の目にも、いくつか、これはおかしい、理不尽ではないかと見える出来事があったと思っています」
お初はきっとなって右京之介を振り返った。「それは、御前さまのお裁きが、という意味ですか?」
右京之介はあわてた。奉行もあわてた。ふと顔をゆるめたのは柏木だけだった。
「まあ、そう古沢どのを苛《いじ》めるもんじゃないよ、お初――お初どの」と、優しく言った。
「私にも、古沢どのの申されることがよくわかる」
「ふたりが言っている理不尽なことというのはな、お初」と、奉行があとを引き取った。
「ひとつの出来事があり、そこで罪がおかされ、下手人が捕らえられ、奉行所に連れてこられる。そこから、その下手人が私の元に来るまでのあいだのことなのだよ」
「お白洲にあがるまでということでございますか?」
「そうだ。おまえもよく知っているだろうが、奉行所では――あるいは大番屋でも――これと目星をつけた下手人であるらしいと思われる者たちに、石を抱かせたり、水責めにあわせたりして、白状しろと責め立てる」
そのことなら、お初もわかる。六蔵がそのことで嘆いたり、あるいは逆に、「あんな野郎には、せいぜい石を抱かせて脛《すね》の骨でもへし折ってやらねえことには、絶対に白状しねえだろうよ」などと息巻いていたりするのを、ずっと見てきたのだから。
「私はできることならば、それらの拷問《ごうもん》や、一方的な取り調べなどを、すべてなくしてしまいたいと思っている」
柔らかな笑顔がいちばん似合う――お初はそう思っている――温和な顔をぐっと引き締めて、老奉行は静かに言った。
「しかし、それはなかなか難しいだろう。また、極悪人にその所業を白状させるためとあらば、必要なことでもあるだろうし。だがの、お初、右京之介」
お初は顔をあげ、奉行をまっすぐ見つめた。右京之介は眼鏡をずりあげた。
「私がいちばん心を悩ませているのは、それらの拷問によって、まったく無実の者たちが、身に覚えのない罪を認めてしまい、白洲の私の前に来ても、もう刀折れ矢尽きたという風情で、真実を訴えることさえできずに、首をうなだれて獄門台へと引かれてゆく――ということなのだ。しかも、時として、それらの者たちが問われている罪そのものが、あたり前の分別のある者の目で見たならば、はたして本当に存在しているのかどうかということさえ、疑わしい場合がある」
「どういうことでございましょう」
「言い掛かりということだよ、お初」
「言い掛かり――」
「たとえばある商家に賊が押し入り、家の者を殺して金を奪って逃げたとしよう。お上《かみ》のするべきことは、この賊を捕らえて罪を償《つぐな》わせることだ。だがしかし、思うようには賊を見つけだすことができぬ。すると奉行所のなかには、それならいっそのこと、この件は奉公人が主人に逆らって金を奪って逃げたということにしてしまおう――と考え始める者たちがいる。そして、その商家の奉公人のなかから、日ごろ行状によろしくないところがあるとか、他の奉公人たちから嫌われているとか、何かしら不利なところのある者を見つけだし引っ張ってきて、例のごとく拷問にかけ、やっておらぬことをやったと白状させてしまう。そういう事が、あとを断たぬのだ」
お初は目を伏せ、膝の上にそろえてのせてある自分の手を見つめた。
御前さまの言葉は易《やさ》しく、学問のない一膳飯屋の娘であるお初にも理解することができるものだった。それはお初に、これまでの暮らし――六蔵とおよしに育ててもらってきた十四年の歳月を、ふと顧《かえりみ》みさせた。
あたしは岡っ引きの妹なんだと、あらためて思った。今、御前さまがおっしゃったような、内側にどうしようもない黒い部分を抱えている罪と罰の仕組みのなかで、精一杯お役目を果たそうとしている一人の岡っ引きの身内なのだと。
もとより、六蔵が間違ったことをしてきたとか、今もしているというようなことを考えたのではない。ただ、ひとつの罪が犯され、その下手人を見つけて裁きを下すという手続きのあいだに、あの六蔵でさえ、あれほど一本気で心の芯《しん》は易しい人でさえ、ひょっとしたら、結果としては、御前さまの嘆きの言葉を招いてしまうような事どもを生じさせている側のひとりとして働いている――ということになってしまうのかもしれないと思ったのだ。
それはとても切ないことだった。お初が今こうして元気に楽しく暮らすことができるのは、ほかの誰でもない六蔵のおかげなのだから。
「そう悲しそうな顔をするものではないよ、お初」と、奉行が言った。「私が今話したことは、人ひとりの力ですぐにどうこうできるものではない。最も責任のある立場にいる私でさえ、ひとりでは手をつけられぬことなのだから」
右京之介が、心配そうな顔でお初を見つめていた。お初はちょっと笑ってみせた。少しむずかしかったけれど。
「それに、今の話は言ってみれば前置きでの。本題はこれからなのだ」
お初は座り直した。はす向かいに座る柏木が、わずかに身じろぎしたことに気がついた。これから先の話題にこそ、彼が係わってくるものであるらしい。
「今私の手元に、この柏木を通して、あるひとつの事件が報《しら》されておる」と、奉行は言った。「ところがこの事件も、ひとつ間違うとまた大きな過《あやま》ちを引き起こしそうな類《たぐい》のものなのだ」
ここまで話すと、奉行は柏木のほうに顔を向け、目で促した。そして自分はゆったりと腕を組んだ。
柏木は口元を引締め、それから顔をあげた。まっすぐにお初を見つめる目が、少し恐いほどに真剣だった。
「高積改役である私は、定町廻りの同心たちと同じくらいに、いやあるいはそれ以上に、日々町のなかを歩き回りそれに溶けこんでゆくことになる」
「それはよく承知いたしております」
お初はうなずいた。柏木もひとつ顎《あご》をうなずかせ、先を続けた。
「そうしているうちに、私にも、町中に様々な知己が生まれ、人のつながりができる。私はそれらの知己に助けられ、時には助け、時には敵対し、時には、彼らが人の世のしがらみに迫られて、あるいは欲に動かされて、覚えず犯した罪を見つけ出し、それにふさわしい裁きが下されるよう、手を尽くすこともあった」
柏木が言っていることは、六蔵が他人に彼の勤めとは何かと尋ねられたとき、もし彼があのように訥弁《とつべん》の男でなかったなら、口にしそうな台詞《せりふ》であった。
「だから私はこれまで、私ひとりの気持ちとしてはどうにもやるせないと思っても、私情に動かされて罪を見逃したことはない。またこれからもそんなことをするつもりはない。そこのところを、まずよくわかっておいてもらいたい」
わかりましたという言葉だけでは、柏木の口調にこもった熱に応えるに足りないような気がして歯痒《はがゆ》かった。お初は、まっすぐ柏木の目に目をあわせて、きっぱり言った。「はい、柏木さま」
やや口調をゆるめて、柏木は続けた。「私の知己のひとりに、政吉という男がいる。深川の山本町で下駄屋を営んでいる者だ。私とは同年配で、実を言えば、私とはまだ無足の見習いだったころからの付き合いだ。政吉が親方のところの住み込みで、一人前の職人とはおせじにも言えないような腕前のころから、私はあの男を知っている。今では一軒の店を持ち、手元で若い職人たちを育てている立派な親方だが、昔はどうにも不器用で、本当に下駄職人になどなれるものかと、他人事《ひとごと》ながら案じられるようなところがあった」
少しのあいだ、懐かしむように、柏木は目を細めた。
「その政吉に、今年十七になる、あきという名の娘がいる」
厳しい真顔に戻って、続けた。
「ひとり娘だ。そのおあきが、つい十日ほど前にふいと姿を消して、以来、まったく行方が知れぬままなのだよ」
お初と右京之介は顔を見合わせた。
「家を出奔《しゅっぽん》してしまったということでしょうか」と、右京之介が言った。
「それともかどわかしにあったということでしょうか」と、お初は言った。
柏木はふたりの顔を見比べて、首を振った。「まず、おあきが自分で家を出るということは、考えにくい。あの娘には決まった縁談があったのでね」
「嫁ぐことになっていたのですね」
「そうだ。しかも、それをとても喜び、楽しみにしていた。心待ちにしていた祝言《しゅうげん》は、本当ならあと四日後に挙げられることになっていたのだよ」
柏木はおそらく、政吉を通して、おあきが幼いころから嫁にゆく年ごろに育ちあがってゆくのを、ずっと見守ってきたのだろう。それだけに、おあきの失踪《しっそう》は、彼にとっても一段と辛いことなのだろうとお初は思った。
ふと、柏木には家族があるのだろうかと思った。むろん奥様はいるのだろうが、子供はどうだろう。
「そんなおあきが、自分から家を出るはずはない。それに、あの娘が家出をしたということで片付けるには、姿を消した事情が、あまりに異常すぎるのだ」
柏木は、政吉から聞き出したという事のあらましを、お初と右京之介に説明してくれた。
「真っ赤な朝焼け――本当に、切ったばかりの傷口から流れ出る血のように赤い朝焼けだったそうだ。その朝焼けのなかに、一陣の物凄《ものすご》い風が吹き、その風がおさまったとき、おあきは姿を消していたという。娘の家出とは、どうにも考えられないではないか」
お初もちょうどおあきと同い歳、十七歳の娘である。嫁入りを前にして、心は幸せいっぱい――でも、親元を離れる不安もあり、本当に幸せになることができるかどうかという、泣き出したいような心細さも感じる、そんな気持ちの動きは想像がつく。土壇場《どたんば》になっておじ気《け》付き、家を飛び出してしまうということもあるかもしれないと思う。祝言が目の前だったから、家出などするわけはないということは言えまい。むしろ、祝言が目の前だったからこそという言い方さえできるくらいだ。
ほかに想う人ができたということだってあるかもしれない。人の心のことだ。何があっても不思議じゃない。
でも、そのどちらにしても、柏木から聞いた今の話に照らしてみると、どうにもおさまりが悪い。悪いどころか、本当にあまりにも異様な姿の消し方だ。
右京之介が、柏木の心情を察しながらだろう、慎重に言葉を選んで、ゆっくりと言った。「たしかに、おっしゃるとおりのいきさつで娘が姿を消したのなら、これは家出ではなく、またかどわかしでもないということになりましょう」
「神隠しだわ」と、お初は思わずつぶやいた。遠い話としてなら何度も聞いたことがあるが、実際に身近でそれが起こったと聞かされたのは初めてだ。
「そうとしか考えられないんじゃありませんか」
「私もそう思う」と、柏木がうなずく。なぜかしら、苦しそうに眉《まゆ》を歪《ゆが》めて。
「しかし柏木さま」と、右京之介が言った。
「そのいきさつを話しているのは――つまり、おあきが姿を消したときのいきさつを見聞きしているのは、政吉ひとりだけなのでしょう? だとすれば、話は少し違ってくるように思われますが」
「政吉が嘘をついているということかね?」
「そうです。奇怪な朝焼けとにわかの突風――素直には信じ難い話ではありませんか」
お初は驚いて右京之介を振り返った。
さっき、柏木があれほどに、自分は私心に動かされて手加減はしないと言っていたのだ。もしも政吉の話に嘘を感じたのならば、すぐにそれに添って行動を起こすだろう。
「政吉は嘘をついてはいない」
まだ、どこか痛いところでもあるかのように顔をしかめたまま、柏木は言った。
「あれはそんなつくり話のできる男ではないのだ。だから私は、彼のいうことは本当のことだと考えている。どれほど信じ難い話であろうとも」
「柏木さまがそうおっしゃるのならば」と、右京之介がうなずいた。注意深く、柏木の顔を見守っている。
「おあきは不思議きわまる神隠しにあって姿を消したのだ――と、私は思っている」
ここで柏木は目をあげ、再びお初の目をとらえた。
「お初は、御前をとおして、不思議な事どもを見聞きすることが多いという話を聞いた。きっと、神隠しということがこの世にあることも信じてくれるだろう」
「あるのではないかと思います」お初はゆっくりと答えた。「もちろん、なかにはつくり話もあるでしょう。でも、このおあきという娘さんの場合は、ほかに考えようがないと思います」
お初は、心の片側でちらと奉行の胸の内を察した。御前さまは、わたしを柏木さまに引き合わせた。また柏木さまも、御前のお引き合わせだからと、わたしのような一介の町娘にこんなお話をしてくだすっている。それだけの信用を、わたしは勝ち得ているらしい。心してかからねばならない。
「しかし、現にひとりの娘が消え、いっこうに姿を現さぬ。このことは、どうやっても消えない。神隠しでございますと述べて、それで片付くものでもない」
ああと、右京之介が声を出した。「おかみに対しては、あるいは世間に対しては、おあきさんの失踪を、誰かの、何かのせいにしなければならないということですね」
「そのとおりなのだよ」柏木は苦しそうに言った。「おあきが姿を消したあと、政吉はかの女を探すために、町役人たちにも頼み、番屋にも駆け込み、近所の者たちにも助けをもとめてまわった。何より、縁組の相手に事情を話した。つまり、ことが公になったのだ。そのとたんにこれは、『不思議なことがあるものだ』で片付く話では済まなくなったのだよ」
深川には、六蔵とも懇意《こんい》の辰三《たつぞう》という岡っ引きがいる。六蔵よりも年配の、それこそいい意味で海千山千の人だ。
「辰三親分は……」
言いさしたお初にうなずいて、柏木は言った。「辰三は、熱を入れておあきを探してくれた」
「それは、政吉さんの話を信じてのうえでのことですか。それとも、それはひとまず脇においてということでしょうか」
右京之介の問いは、肝心《かんじん》なところをついている。
「私にも、そのへんがどうなのかしかとはわからんが」柏木は率直に答えた。「辰三は、おあきの失踪には裏があると考えていたようだ。だとすれば、政吉の語った不思議ないきさつを丸ごと信じていたとは言えまい」
辰三親分のことならよく知っているお初も、それはそうだろうと思った。
「それでも辰三は、政吉と周囲の者たちのあいだにたって、宥《なだ》め役をつとめてくれていたのだ」
「宥め役?」
「おあきが嫁に行くことになっていた相手方が騷ぎ出したのだそうだ」と、懐手をときながら、奉行がゆっくりと口をはさんだ。「駒形堂の近くの『浅井屋』という料理屋なのだがの。ここはおあきの神隠しの一件を、何者かの企《たくら》みだと言いだした。しかも強硬にな。辰三としても辛いところだろう」
「浅井屋は御番所につてがある。定町廻りの倉田主水《くらたもんど》という同心だ」と、柏木が言った。
倉田――聞き覚えのない名前だった。
「浅井屋は倉田を動かし、辰三とはまったく別のやり方で、おあきの失踪をひとつの事件として取りあげるように、そしておあきを消した下手人を見つけ出すように、強く働きかけたのだそうだ」
ここでようやくお初にも、柏木が何を思い悩んで、あんな苦し気な顔をしているのか察しがついてきた。
おそるおそる、口に出してみた。「そして倉田さまは、浅井屋が満足して納得するような解釈を見つけ出した――そういうことでございますか?」
柏木はお初の目を見てうなずいた。「倉田は、ほかでもない政吉がおあきを消したのだと考えた。つまり、政吉の朝焼けや突風の話は嘘で、本当は、政吉がおあきをあやめたか、どこかへ隠したかしたのだとな」
「父親が娘を? そんな馬鹿な」
「しかし、政吉の話を嘘だと決めれば、それはいちばん通りのいい話だろう」
「だけど、政吉さんは本当のことを言ってるんでございましょう」
柏木はため息をもらした。「それが、つい昨日、これまでの話をひるがえしたのだ」
お初は目を見張った。柏木は言った。「政吉は、自分がおあきを殺したと認めたのだよ。これまでの話は、みなつくりごとだと」
隣で、右京之介がため息をつくのが聞こえた。お初は彼をかえりみた。
「そういうことになってしまったのですか」と、右京之介が言った。
柏木は悲しげに口の両端を下げていた。このことで、彼が本当にひどく心を痛めている様子がわかって、お初は少し感動した。遠い昔、大火でふた親を亡くしたあたしと向き合ったときにも、この方はやっぱりこんなふうな様子だったのかもしれないと思った。温かい人なのだ。
「では、政吉さんはもう、その倉田主水さまとやらに捕らえられてしまっているのですね? そして拷問にかけられ、ありもしないことを白状したというわけですね?」
それが、いちばん最初の話につながってくるのだろう。身体と心を痛めつけられて、真実ではない罪咎《つみとが》を認めさせられてしまう人々のこと。
だが、意外なことに柏木は首を振った。
「捕らえられてはいない。いや、もう捕らえられることはあるまいよ」
右京之介が短く息を呑んだ。「それは――」
「政吉は死んだ」柏木は辛そうにため息をついた。「つい一昨日の夜だ。娘をあやめたことを告白したあと、私がほんのわずかのあいだ目を離した隙に、首をくくってしまったのだ」
お初は目を伏せた。柏木の顔を見ていられなかったのである。
「政吉の女房は、あいつぐ不幸にすっかり打ちひしがれてしまい、病人のようになってしまった。今は差配人の家で面倒をみてもらっているが、飯も食わず水も飲まず、このままでは早晩《そうばん》、政吉の後を追ってしまうだろう。職人たちも、彼らだけではどうしようもなく、政吉がこつこつと築き上げてきたあの店も、もうおしまいだ」
「事件の方はどうなるのです? 政吉が死んでしまったことで、彼が娘をあやめたという結論で片づけられてしまうのですか?」
「そうなっている」柏木は言って、ようやく目をあげ、老奉行の顔を仰いだ。
「それだからこそ、私は意を決して御前におすがりすることにしたのだ。おあき殺しは政吉の仕業《しわざ》ではない。政吉が死んだのは、決して自らの罪滅ぼしのためではない。あれは何かに魅入られていたのだ。この事件は普通に考えて結論を出すことができるようなものではないのだと、なんとしても判っていただきたかった」
根岸肥前守は、御番所のなかで、それを訴えてくる者の身分や職責の上下にかかわらず、訴えごとがあればどんなことにでも耳を貸される――という評判を、お初も知っている。そういうことのできる風通しのよい形を、つとめてつくりあげようとなさっているのだ、と。だから柏木も、思い切った行動をとることができたのだろう。
「そして話を聞いた私は、これはおまえ向きの事件だと、すぐに思ったというわけだ」
お初のほうに向き直り、やわらかな微笑を浮かべながら、奉行は言った。
「どうかの、お初。この下駄屋の娘の神隠しの一件を、調べてみてはくれぬか。ひとつは、おあきの身に何が起こったのかということ。そしてもうひとつは、なぜ政吉が、柏木という味方がありながら、急に話をひるがえして罪を認め、首をくくってしまったのか、その理由を。このふたつを突き止めてみてはくれぬかの?」
言われるまでもない。待ってましたというところだ。
「はい、わたくしにできることでしたら、何でも」
元気のいい返答に、奉行は破顔した。
「そうか、やってくれるか」
お初は右京之介に笑顔を向けた。「右京之介さまも手伝ってくださいますでしょうし」
右京之介は頭をかいた。「どのくらいのことができるかわかりませんが、しかし、興味をひかれる事件ですからね。本来、ひとつしか答のないはずの遺題に、ふたつの答があるように見えているわけですから」
「ただ、柏木さまはよろしいのですか? わたしは一介の町の者でございます。いくら御前さまのお口添えとはいえ、本当にわたしどもにお任せくだすってかまわないのですか」
お初の問いに、柏木はちらと奉行の顔を見てから言った。「私は御前にうかがったのだよ。去年の夏に起こった一連の子供殺しの真相を突き止めたのは、お初、おまえであるとな」
お初と右京之介がふたりで巻き込まれ、係わりを持った恐ろしい事件のことである。表向きは下手人が捕らえられ、その者が番屋で急死したということで片付いたが、そのあとで、右京之介の父親である古沢武左衛門をも巻き込んで、もう一幕の騒動があった。
根岸肥前守が、年齢と立場にふさわしくない、いたずら小僧のような笑みを浮かべてお初を見た。その目が言っていた。(私は柏木に、事情をきちんと話したからの)
「では、柏木さまはわたくしが――」
「そうだ。余人にはない不思議な力――見えないものを見る目を持っているということも、教えていただいた」
「柏木さまはそれを信じてくださるのですか?」
柏木はうなずいた。「それがどういう力であるのか、子細はわからぬし、私には想像もつかぬ。しかしな、お初。十四年前、あの大火をたったひとり生き延びたときのおまえの様子を知っている私は、おまえなら、そういう不可思議な力に守られ、それを使うことができると言われたとき、さもあろうと思うことができたのだ」
お初自身の記憶には残っていないが、あの大火のとき、お初は、火の燃え広がる道がはっきりと見え、どこへ逃げたらいいかも見えた、だからそこを走ったと、まわりの大人たちに話したものであるらしい。柏木はそれをさして言っているのだ。
「そういうことでしたら、わたくしも、何も案ずるところはありません。精一杯、手を尽くさせていただきます」
頭をさげながら、お初は心の内に気力がこみあげてくるのを感じていた。
「ひとつ、うかがいたいことがあります。ひとつだけ」と、右京之介が言った。
「今度のおあきの件だけでなく、柏木さまは、この世に神隠しというものがあると思っておいでなのですか?」
いかにも右京之介らしい質問だった。
「というと?」
「いえ、先ほどからのお話をうかがっていると、柏木さまは、政吉がそういう嘘をつく者ではないからという理由からだけでなく、おあきが異様な姿の消し方をしたこと自体を、そういう出来事があったということそのものを最初から認めておられるように聞こえるからです」
柏木は「ほう」と声をあげた。「これは一本とられた」
奉行が快活な声をあげて笑った。「話してやるといい、柏木」
「なるほど古沢どの、おっしゃるとおり、私は神隠しというものを信じている」と、柏木は言った。
おそらく、お初と右京之介が、そろって目を丸くしたのだろう。この座について初めて、柏木が面白そうに笑った。そして、六歳の子供が神隠しにあった話をはじめた。
「もう四十年も昔の話だ。ちょうど今頃のような、桜の花の満開のころだった。夜も更けて、ぐっすりと眠っていたその子供は、急に小用を足したくなって目が覚めた。辛抱《しんぼう》をしようとしてみたが、どうにも我慢ができない。仕方なしに、寝床から抜け出した。幸い月夜で、明かりは要らなかった。
子供の家の小さな庭にも、桜の木があった。まだ若木で幹も枝も細く、満開になっても寂しいような花の眺めだったが、それでも月の光を浴びたその姿は、子供の目をも充分に惹《ひ》きつけて、眠気を覚ますような美しさだった。子供は、夜中に起き出したのが小用のためだったことも忘れて、思わず知らず桜に見惚《みと》れてしまった。花を見上げると、まるで桜がそれを喜んででもいるかのように、それまでは静かだった夜風がそよそよと騒ぎだし、子供の頭の上に、満開の薄紅色の花びらをひらひらと散らし始めた。子供は両手をあげてそれを受け止め、ますますうっとりとなってしまった。
ふと気がつくと、身体がすっかり冷えていた。子供はあわてて周りを見回した。すると、驚いたことに、いつの間にかまったく知らない場所に立っていた。厠《かわや》へと続く庭に面した廊下にいたはずなのに、もう見慣れた家も廊下もなければ庭もない。ただ一面に満開の桜の森のただ中に、ぽつりとひとり立っているのだった。
子供はこれを、夢だと思った。自分は寝ぼけているのだと。それにしても美しい夢だと。
桜の森の木立は枝を張りのばしあい、子供の頭上をすっかり覆い隠して、夜空も見えないほどだった。あわてて歩き出すと、その肩の上に、はらはらと桜吹雪が降りかかる。まるで桜の森が笑いさざめいているかのようだった。そのためだろうか、子供はちっとも怖くなかった。ずっとずっと、この美しい森のなかをさまよい歩いていたいような気持ちだった。
そうやって、さてどのくらい歩いていたろうか。さすがにくたびれてきて、子供はとある満開の桜の木の下に腰をおろし、そのまま眠ってしまった。ぐっすりと、それは安らかな眠りだった。しばらくして、誰かに強く肩を揺さぶられて目が覚めた。子供の母親の、やつれたような顔がすぐそばにあった。母親の目は落ちくぼみ、頬はこけている。目覚めた子供が『母上、どうしたのですか』と尋ねると、母は涙をこぼしながら叱《しか》りつけた。『あなたこそ、今までいったいどこに行っていたのです?』。子供は驚いて立ち上がった。そこは、日頃はあまり開け閉めをすることのない納戸《なんど》のなかだった。子供は古い行李《こうり》を積み上げたところにもたれて眠っていたという。桜の森など、どこにもなかった」
柏木はここまで言って、ひと息ついた。それから、そっと言い足した。
「子供は、たったひと晩夢を見ていただけだと思っていた。しかし、母の話を聞いてみると、事情はまったく違っていた。子供は、納戸で見つけられるまで、あの厠に起きた夜から、実に半月ものあいだ、姿を消してしまっていたのだった。母親がやつれていたのも、当たり前のことだったのだ」
お初はほうとため息をついた。「神隠し――」
「そうだ。子供の母は、あなたは神隠しにあったのだと言った。還《かえ》ってくることができて、本当によかったと、な」
右京之介が微笑しながら言った。「その子供とは、柏木さまご自身のことですね」
柏木はゆっくりとうなずいた。「そのとおりだ。私が身をもって体験したことだ。だから私は信じているよ。神隠しという不可思議な出来事が、この世には確かにあるのだということを」
柏木は言葉を切り、立ち上がると障子を開け、船端へと出ていった。どうしたのだろうと見守るうちに、両手に小さな植木をかかえて戻ってきた。
「今日の話のおつもりに、これを見せようと思って持参してきた」
盆栽だ。ごく小さな。しかしそれは、まぎれもなく、今を盛りと満開の花をつけた桜の木であった。
「これは、柏木さまの?」
「そうだ。私が丹精して、ここまでにした。桜の木は、盆栽にはなりにくい。かなりの腕前の植木屋でも、このような小さな形で花をつけさせることはできないのだそうだ。しかし私は、子供のときに見たあの桜の満開の森を忘れることができずに、何とかしてあの桜をつくりあげることができはしまいかと、いろいろ工夫をこらしてきた。そしてできあがったのが、これなのだよ」
これが今夜の夜桜か――と、お初は納得した。御前さまが「桜なら持ってきた」とおっしゃっていたのは、このことか。薄紅色の花は、ちらちらと花弁をこぼしながら、お初を見あげて咲いている。桜の花に仰がれる――なんと不思議な心持ちだろう。
こうしてお初は、桜の花に導かれ、事件のなかに足を踏み入れたのだった。
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第二章 消える人びと
おあきの足跡
さて、どこから手をつけたものだろう――お初は思案した。
「辰三親分に会いに行ってみましょう」
彼が今、おあきの一件をどのように考えているのか、腹積りを探ってみるところから始めるのがいちばんよさそうだ。
「それならば私は、倉田主水という人物について、少し調べてみましょう」と、右京之介は言った。「我々はここしばらく、二手に分かれたほうが賢明だと思います。辰三は、お初どのと私が雁首《がんくび》をそろえて出かけていったら、あまり腹蔵《ふくぞう》のないところを話してくれそうにはない。なにしろ、昨年のことがありますからね」
なるほどと、お初はうなずいた。
夜桜見物の翌日、早朝からの忙しい商いが一段落したところで、お初は着物を着替え、鏡をのぞいて、できるだけ元気|溌剌《はつらつ》な可愛い娘に見えるように笑顔も何度かこさえて確かめた。子供のころからお初のことをよく知っている辰三には、切り口上《こうじょう》や深刻なものの持ちかけ方では通らない。なるたけ甘えて、こっちのわがままを聞いてちょうだいなというふうに持ってゆくのが肝心だ。
御前さまの命《めい》に従うために、お初がこんなことを考えていると知ったなら、おそらく辰三は目を回してしまうだろうけれど、小娘というのは、もともとけっこう小ずるいものなのだ。ましてや、奉行直々の密命を受けた岡っ引きの妹となればなおさらである。
さて、支度《したく》を終え、およしに、夕方までには戻りますからと言っているところに、六蔵が帰ってきた。久しぶりの帰宅である。
このところ六蔵は、ある凶状持ちを探し出すために、たびたび家を空けていた。行き先は八王子――賭場《とば》が多く開かれ、御府内では居心地悪いことの多い連中が集まる町である。六蔵は口には出さないが、こう頻繁《ひんぱん》に出かけてゆくところをみると、おそらく、相当てこずっているのだろうと、およしと話したりしていた。
だが、ただいまと戻ってきた兄の顔を見たとたん、お初は、今回の首尾がよかったのだと、すぐにわかった。
「おかえりなさい」
明るく声をかけたお初に、六蔵も機嫌のよさそうな目を向けた。真っ黒に日焼けした顔は、骨太のずんぐりした身体つきとがあいまって、岡っ引きというよりは、寄せ場帰りの入れ墨者――という風情である。
実際、岡っ引きの前身は、そういう者が多い。六蔵が、お初と奉行のあいだの信頼関係についてよく知っていながら、往々にして、お初が捕り物めいたことに首をつっこむことに難色を示すのも、そのせいなのだ。
「片がついたんですか」
六蔵の手から埃《ほこり》だらけの荷物を受け取りながら、およしがきいた。
「ああ、ようやくな」
短く答え、六蔵はお初にきいた。「どっかへ出かけるところかい」
「そうなの」
澄まして答えたが、そうかいじゃあ行っておいでという具合にいくはずもなく、六蔵はちょいと恐い目をした。お初は渋々付け加えた。
「新しいお役目ができたのよ」
「またぞろ厄介《やっかい》に巻き込まれようという算段か」
「厄介事のほうがあたしを放っておいてくれないの」
強気に言い返したところで、お初はふと、くらっとめまいのようなものを感じた。こめかみが、畳針で突かれたように鋭く痛んだ。
すぐそばに立っている六蔵の、これまた荷物と同じくらい埃にまみれた着物の左肩のところに、血に染まった男の顔が、ひょいと浮かんで見えた。右の眉毛の上に大きな黒子《ほくろ》があり、小鼻の張った、どちらかと言えば品のない顔だ。
男の顔が血まみれになっているのは、左の頬がざっくり切られ、大きな傷口が開いているからだった。それで男が絶命したのかどうかはわからないが、口の端にはあぶくが浮き、目が泳いでしまっている。
「兄さん」と、お初は六蔵に呼びかけた。「頬っぺたを切られたのは、兄さんの味方?」
六蔵はぎょっとした。
「眉毛のところに大きな黒子のある人よ。顔を切られてひどい怪我をしたでしょう」
六蔵の傍《かたわ》らで、およしがほんの少し青ざめた。かの女は長年岡っ引きの女房をやっており、それなりに気丈な女ではあるが、よほど切羽詰《せっぱつ》まって必要なことがないかぎり、六蔵のお役目の内容を、見たり聞いたりしようとはしない。見てしまい、聞いてしまい、知ってしまえば、座る腹も座らなくなってしまうからだと言っている。
お初は義姉のため、急いで言った。「ごめんね、義姉さん」
「いえ、いいのよ」およしは夫を見あげた。
「誰か死んだんですか」
安心させるようにぽんぽんとおよしの腕を叩き、六蔵は首を振った。「俺の手下には何事もなかった」
「それならよかった」
「顔を切られたのは、八王子のほうで俺たちを手引きしてくれた小者のひとりだ。食わせ者の野郎で、実は二股|膏薬《こうやく》でな。こんなに手間取ったのも、わかってみれば、実はそいつのせいだったんだ」
小者というのは岡っ引きの下で働く者で、下っ引きとも呼ばれる。親分である岡っ引きにも、一皮むけば正体の怪しい者がごろごろしているくらいだから、その子分となればもっと危なく当てにならない連中が多い。
「兄さんには怪我もないみたい。よかったわね」
お初は言って、にっこり笑った。が、心の内は、少し乱れた。
ほかでもない兄の肩に、怪我をした男の顔が浮かんでいるということは、そしてその男がけしからぬ動きをした裏切り者だったということならば、その男に傷を負わせたのは、六蔵だという意味だからだ。
もっとはっきりさせようと思うならば、六蔵の手に触れてみればいい。彼の着物にさわってみるだけでもいい。八王子で行なわれた大捕り物と、その血なまぐさい光景が、お初の目にありありと映ることだろう。
だが、そんなことはするまい。知らなくてもいいことはある。それが見えてしまう自分が、お初はときどき悲しくなる。
たぶん、お初が出かけたあと、およしは六蔵の旅装を解いて、ほかのどんな仕事よりも先に、それをきれいに洗い清めることだろう。万にひとつも、お初がそれに触れ、いろいろなことを「見て」しまうことのないように。「見て」しまうと、お初は、見たものを隠してはいられなくなる。必死で隠そうとしても、隠していることを悟られてしまう。
それでは、いいことはない。
「じゃ、あたし出かけてきますから」
言い置いて、戸口のほうへ向かい、引き戸に手をかけたとき、向こう側から「ごめんくださいまし」と呼びかける声がした。
お初はがらりと戸を開けた。夫婦者が立っていた。死ぬほど仰天《ぎょうてん》したという風情で、抱き合うようにしてぴょんとうしろに飛びすさった。
「ごめんなさい。ちょうど出ようとしてたところだったんです」
「いえ……いえ、大丈夫でございます。お気遣いなく」
夫婦ふたり、そろって四十路《よそじ》の半ばというところだろう。仕立てのいい着物を着て、髷もきちんと結ってあるが、おかみさんのほうはいささかやつれた様子で、両目の下に濃いくまができている。旦那のほうも目が赤く、お初の通り道を開けようとして右へ動いたときに、少し足をひきずっているように見えた。
「六蔵親分はおいででございましょうか」
丁寧《ていねい》な口調は、おそらく商人のものだろう。
「ええ、おります」
どうぞと脇へ寄って、お初はふたりを先に通した。夫婦者は寄り添うようにして戸口からなかに入ってゆく。
詮索《せんさく》はよして、お初は入れ代わりに外へ出た。おそらく、なにかの頼みごとだろう。大きな、そして忌まわしい出来事が起こったのでなければいいけれどと思いながら引き戸を閉めたとき、またちくりとこめかみが痛んだ。背筋がすっと、寒くなった。
はっと身構え、思わず目を閉じた。まぶたの裏一面に、真っ赤なものが見えた。流れ出る血のような、毒々しく、重さを伴っているように感じられる、どろりとした赤。
目を開くと、それは消えた。
頭をよぎったのは、おあきが消える直前に見たという、異様な朝焼けのことだった。あんな朝焼けは見たことがないと、政吉は言っていたという……
それだろうか? 今のような赤さ、それだったのだろうか。でもなぜ、それがここで? 頭をあげ、姉妹屋から見れば裏手にある、岡っ引き六蔵の住まいのこの玄関口で、お初は身構えた。あたりには、およしの丹精している植木の鉢。のどかな飴《あめ》売りの太鼓の音。子供たちの声。斜向《はすむ》かいのご隠居さんは、また義太夫の稽古《けいこ》をしている。そんななかで、お初は身を強《こわ》ばらせた。
今このときこの場から、あたしも消えるんだろうか? 異様な朝焼けのような赤色を見て、次には突風が吹いてくる?
だが、そんなことはなかった。飴売りの声が遠ざかってゆくだけ。ご隠居さんの義太夫が、かろうじて傍迷惑《はためいわく》の一歩手前でとどまりながら、うなるように響いているだけ。
心の臓がどきどきしている。お初は胸に手をあて、ほうとため息をもらした。膝が震えていないのを確かめながら、歩きだした。
しばらくのあいだは、誰かにあとをつけられているわけでもないのに、ときどき振り返らずにはいられなかった。
深川につく頃には気持ちを取り直していたが、辰三の住まいをおとなう前に、門の前で足を止め、笑顔を稽古してみた。なんだか、頬のあたりがつっぱらかっているようで具合が悪いと思っているとうしろから笑い声があがった。
「道端で、男衆をたぶらかす稽古なんぞしてちゃいけないね、お初ちゃん」
振り返ると、あでやかな笑顔に紅も濃く、文字春《もじはる》が立っていた。出稽古の帰りなのか、粋《いき》な角度で三味線を担《かつ》いでいる。
逆立ちして見ても小唄の師匠以外の何者にも見えないこの人が、どうしてお初を知り、またここで声をかけてきたかと言えば話は簡単、この文字春師匠――名はおはる――が、辰三親分の女房だからである。
「うちの人のところへ来たのかい? あいにくちょっと出てるけれど、おっつけ戻ってくるだろう。まあ、お入り」
岡っ引きというのは、それだけで楽に食ってゆくことのできるお役目ではない。そも商いではないのだから、当たり前だ。この稼業だけでゆうゆう自分と家族の口を養っておりますなどという岡っ引きがいたら、それは間違いなく、後ろ暗いことをしているのである。
だからたいていの場合、女房や子供に別の生計《たつき》の道をもたせている。六蔵の場合は、およしの姉妹屋である。ほかにも、湯屋をやったり菓子屋をしたり、実にさまざまだ。だが、江戸の町中を探しても、小唄の師匠を女房にしている親分は、まず辰三だけだろう。ふたりが所帯を持って、五年ほどになる。
文字春は、たしかなところはわからないが、辰三より年齢も八つか九つ上のはずである。極上の菜種油《なたねあぶら》ようなとろりと艶のある肌と、白髪の一筋も見えない髷を見ているととても信じられないが、彼女の少し斜に構えたような目付きと、かすかにしゃがれた声、そして何よりも、人の心の内側の、あまり言われたくないような部分まで見透かしてしまいそうな眼差しに相対すると、彼女がいわゆる年季をつんだ女であることは、子供にでもわかるだろう。
文字春はお初を座敷にあげると、少し顔をそらし目を細めてお初を見つめ、
「いい女っぷりになってきたことだねえ」と微笑した。「六蔵親分は武骨だけれど男前だから、あんたもきっといい女になるだろうと思ってはきたけど、思っていた以上だね」
「師匠にそう言われたって、兄さんにゆってみようかしら。妙におだてられるとお初は木に登っちまうからやめておくんなさいって言うでしょう」
文字春はいい声で笑った。「今度話してみようよ。だけど、こんないい女が、うちの親分になんの用だい?」
「友達のことで、ちょっと話が」と、お初は切り出した。「山本町の下駄屋のおあきちゃんの神隠しのことで……」
おあきの名前を聞いたとたん、文字春のきれいな眉がちょっと歪んだ。
「お初ちゃん、あの娘さんと知り合いだったのかい。初耳だね」
「あたしはけっこう、顔が広いもの」
もともと嘘をつくのは苦手だし、人の裏表を見通すことに長けている文字春相手では余計に辛かったけれど、ここはしゃらっとした顔をし通さねばならない。
「おあきちゃんが突然いなくなったって聞いたときはずいぶんびっくりしたけれど、つい昨日になって、おあきちゃんのおとっつぁんもおっかさんも、今はあの家にはいないってことを知らされて、もっと驚いたわ。いったいどうなってるのかしら」
「さあ……そのへんのことはあたしにはわからないね」と文字春は言った。「親分のお役目には、口を出さないようにしてるからね」
「でも、何か聞いていない?」
「耳もふさぐようにしてるからね」
がっくりである。でも、そういう文字春の気の持ち方は、岡っ引きの女房の在《あ》り方のひとつとしては立派なものだ。なんでもかんでも亭主の仕事に首をつっこむばかりが能じゃない。
「そんなことで、あんまり頭を悩まさないほうがいいよ、お初ちゃん」と、文字春は優しい声を出した。「ああいう厄介事や心配事をなんとかするのが、うちの親分やあんたの兄さんの役目じゃないか。任せておけばいい」
「それはそうなんだけどね。でも、心配だもの」
返事をしながら、お初は、兄さんや辰三親分がうらやましいと思っていた。知り合いだから心配だなんていう言い訳なしに、堂々と、お役目を正面に押し立てて話ができるんだもの。
「親分が帰ってきたら、話を持ち出してみてもいいでしょう?」
「そりゃまあ、止める筋合いもないけどね。でも、うちの親分が何か話すかどうかは、わからないよ」
たしかに文字春の言うとおり、辰三親分というのは、だいたいが口の重い人である。お役目のことを、ぺらぺらしゃべりまくったりはしない。まあしかし、それは覚悟の上である。だからこそ笑顔の稽古もしてたのだ。
「おあきちゃんのことが心配ならさ、早く見つかりますようにって、願《がん》かけでもしておやりよ。そのほうがずっといいし、あんたの気持ちも少しはおさまるだろうさ」
「そうかしらね」
「そうさ。そんなことより、あんた本当にきれいにおなりだね」
文字春はにっこり笑い、誰かいい人ができたのかとからかった。玄関の戸が開く音がして、お初は大いに助かった。
「今帰ったよ」
辰三の声だ。文字春がお初にほほえみかけてから、「お帰り、おまえさん」と応じた。
「お初ちゃんが遊びにきてるよ」
お初の顔を見ると、辰三はにこりとした。
「めずらしいな。どうした、うちのやつに小唄を習う気にでもなったか」
辰三はよそ行きの羽織を着て、腰に十手をはさんでいた。上機嫌のようである。
「近くまで来たから、おじゃましたんですよ」と、お初は笑顔で言った。文字春がちらりとこちらを見たが、気づかないふりをした。「それにね、親分。ちょっと教えてほしいことがあって。山本町の下駄屋のおあきちゃんのこと。あの娘《こ》が神隠しにあったっていうのは本当?」
お初の言葉を聞いた瞬間、ちょうど羽織を脱ごうとしていた辰三は、びっくりして、手を止めた。
「なんだお初ちゃんは、あのおあきって娘を知ってるのかい」
「そうなの。友達なの。もうすぐお嫁入りだっていうのに急に姿を消したって、それだけでも驚いたのに、おあきちゃんのおとっつぁんやおっかさんまで消えちまったっていうんだもの、いったいどうなってるのか心配で、親分にきいてみようと思って」
辰三は十手をはずし、よっこらしょという気楽な風情でお初のそばに腰をおろした。
「不幸なことがあったもんだよ」
そう言った。いつもの辰三の、少しひからびたような、それでいて、聞いている者の気持ちをやわらげるような声だった。
「おあきちゃん、見つからないの?」
「見つかるだろうよ、ただ、亡骸《なきがら》でな」
さらりと言われて、お初は辰三の横顔を見つめた。
「おあきちゃんはもう死んでいるっていうことですか?」
「そうだよ。気の毒だが、あの娘はもうこの世にはいねえだろう」
「だけど、誰がおあきちゃんを?」
「それについては耳にはさんでねえのかい? 何も知らないのかい?」
「うん……」
辰三は少し言いよどんだ。それは純粋に、お初の心をおもんぱかってのためらいであるように見えた。
「嫌な話だ。おあきと知り合いだったなら、なおさら辛い話だぞ」
「あたしなら、大丈夫よ」
お初の顔をのぞきこむようにして見て、辰三は話をした。
「おあきは、実の父親の政吉に殺されたんだ。神隠しにあったというのは、政吉のでっちあげた話だよ」
なるほど、辰三親分はそう言うのか。
「じゃあ親分は、神隠しってことがあるのを信じないの? そういう話は、みんなでたらめだと思うの?」
辰三は、ちょっと困ったような顔をして、懐で腕を組んだ。助けを求めるように、文字春の顔を横目で見る。
察しのいい文字春は、笑みを浮かべて言った。「お初ちゃんはどう思うんだい? 神隠しはあると思う?」
「きっとあると思うわ。今度のおあきちゃんのことも、神隠しなんだと思うわ。だって、おあきちゃんのお父さんが、怪しい朝焼けがどうの突風がどうの、それでおあきはさらわれましたなんて、手の込んだ作り話をするはずがないじゃありませんか。見たまま聞いたまま、本当のことを言ってるのよ」
辰三親分は、眉根をつりあげた。「お初ちゃん、おあきのいなくなったときのことについて、えらく詳しく知ってるようだな」
お初はあわてた。語るに落ちるとはこのことである。
「噂になってるもの」と、澄まして言ってはみたが、冷や汗ものだ。
「そうか……ありもしねえ話が広まらないように、俺も倉田さまもずいぶんと気を配ったつもりなんだがな」
辰三の口から、あっさりと倉田主水の名前が出た。
「おあきちゃんのことを調べておられるのは、その倉田さまという方なんですか?」
「ああ、そうだよ」
「最初っから?」
「そうだ。なんでそんなことを訊くんだね?」
柏木の話を聞いた限りでは、倉田主水が乗り出したのは、おあきの縁談相手の浅井屋に焚きつけられたからであるように感じられたが――
「でも、辰三親分が手札を受けているのは、その倉田さまという方じゃないでしょ」
岡っ引きは公職ではなく、あくまでも奉行所の与力や同心に、個人的に雇《やと》われているだけの身分である。この雇う雇われるの関係を、「手札を預ける」「手札を受ける」と称する。手札とは今で言う名刺のようなものだから、つまり岡っ引きの側から見て「手札を受ける」とは、ある与力や同心の名前を出して、その代理の者だと自称して活動していいという許可を得たということになるわけだ。
「そうだよ。俺が手札をいただいているのは、南町の太田さまだからな。倉田さまは北町の方だ。だが今月は北の月番だし、俺は以前にも太田さまから頼まれて、倉田さまの手伝いをしたことがあるんだ。そういうことはよくあるだろう? 六蔵親分だって、余所《よそ》の旦那の助っ人をしにいくことがあるはずだ」
「うん……」
「どうもお初ちゃんは、あれこれと噂を耳に入れすぎているようだなあ」辰三は言って、文字春に苦笑してみせた。「おあきと友達だったというんだから、まあ仕方がねえか。倉田さまのことで、なんぞ悪い噂でも仕入れているんじゃねえのかい?」
お初は驚いた。辰三はずいぶんと率直だ。それならば、ここはお初も余計な細工をせずに、真っ直ぐに聞いてみた方がいいというものである。
「そうなんです」と、うなずいた。「そもそも、おあきちゃんは本当に不思議な神隠しにあってしまったのに、おあきちゃんがお嫁入りすることになっていた浅井屋さんが、神隠しなんて嘘だとか騒ぎ立てて、事を大きくしてしまったんだって聞きました。倉田さまも、浅井屋さんが担ぎ出してきたんだって」
辰三は、なんだやっぱりそうかという様子でうなずくと、煙草盆《たばこぼん》を手元に引き寄せた。
「俺も熱い番茶がほしいな。それと、お初ちゃんに饅頭《まんじゅう》でも出してやってくれよ。ほら、もらったばかりのがあったろう」
「ああ、そうね。気がつかなくて」文字春が急いで立ち上がった。
「お初ちゃんはどんな噂を聞かされたか知らないが、倉田さまはどうしてなかなか立派な旦那だよ」
よく使い込んだ煙管《きせる》の先の煙草に火を点けると、長々と煙を吐き出しながら、辰三は言った。
「確かに、ほかの旦那衆に比べて、ちょっとばかし――いや、かなり頭が固くて融通《ゆうずう》がきかねえかもしれねえ。だが、お調べはいつだってちゃんと筋が通っていなさるし、道理にかなわないことなら、誰がなんと言っても聞き入れねえ。賄賂《わいろ》をもらってお目こぼしをしたり、たいした証《あかし》もねえのになんとなく怪し気な人間を選び出して手っ取り早く下手人に仕立て上げたりするような、いい加減なことはけっしてなさらない旦那だ」
「だけど、おあきちゃんのことは――」
「まあ、ちょっと俺の話を聞きな」辰三は片手でお初を制すると、煙管をぽんと火鉢の縁に打ちつけた。「お初ちゃんの言うとおり、確かに下駄屋のおあきの一件は、最初のうちは本当に神隠しだと思われていた。おあきの親父の政吉も、お袋のおのぶも、住み込みの職人たちも、近所の連中も、政吉の話を聞いて、おあきがおかしな突風にさらわれて姿を消したんだと思って、騒いでいたんだ。
やがてその噂は、俺の耳にも届いた。なんてったって、ここは俺の縄張《しま》だからな。で、噂を聞いた俺は、ほう神隠しかそいつは凄《すご》い――と放っておくわけにはいかないわな。政吉に話を聞きにいったよ」
「政吉さんは、ちゃんと話をしたんでしょ?」
「ああ、話はした。だがな、お初ちゃん。およそ『ちゃんと』という様子じゃなかったぜ。政吉はえらく怯《おび》えていて、俺の目を見ようともしないし、始終ぶるぶる震えていやがるんだ。両目は幾晩も眠っていないみたいに真っ赤だったしな」
「ひとり娘が神隠しにあったんだもの、心配でいてもたってもいられなかったんだわよ」
お初がそう言ったところへ、文字春が辰三の湯飲みや饅頭を載せた器を持って戻ってきた。辰三は旨《うま》そうに熱い番茶をすすった。
「確かに、お初ちゃんの言うとおりかもしれねえ。だがな、俺は岡っ引きだ。人ひとりが煙のように消えていなくなったとき、神隠しだ、はいそうですかと知らん顔をしているわけにはいかねえ。それはおめえの兄さんの六蔵親分だってそうに違いねえ。政吉の話が本当かどうかはさておいて、俺には、おあきを探し出さなくちゃならないお役目がある」
岡っ引きとして、辰三の言うことは至極《しごく》もっともだから、お初は黙っていた。
「そうこうしているうちに、おあきが消えてしまったことが、縁組み相手の浅井屋の耳に入った。浅井屋は仰天したさ。あちらさんとしては、政吉とおのぶから、実に不思議な神隠しで娘は消えましてございます――と言われて、はいそうでございますかと納得するような気分じゃなかった。どうしてかと言ったら――」
辰三は、わずかに言いよどんだ様子だったが、お初の顔を見て、また苦笑を浮かべると、続けた。
「このことは、あんまり余所でしゃべっちゃいけないぜ。ここをあいまいにしておくと、お初ちゃんがまたあれこれ考えちまうだろうと思うから、うち明けるんだからね」
「はい、わかりました」と、お初はきっぱり言った。
「おあきが浅井屋に嫁入りするというのは、こりゃ大変な玉の輿《こし》だ。そもそもこの縁談は、浅井屋の息子がおあきに一目惚れしたことから始まったんでな。お初ちゃんも知ってるだろうが、おあきはそりゃ器量よしだったから」
おあきの顔は知らないが、ここは調子をあわせておかないとまずい。お初はうんとうなずいた。
「幸い、浅井屋の息子の想いは通じて、おあきと恋仲になることができた。息子は自分の親も口説《くど》いて、なんとかおあきを嫁にもらうことを承知してもらってから、政吉夫婦に話を持っていった。政吉夫婦としちゃあ、断る理由はない。何より、浅井屋のお内儀《かみ》がおあきを気に入って、伜《せがれ》の嫁にぜひと望んでくれているというんだから、何の心配も要らない堂々の玉の輿だ。ところがな――」
気を持たせるように、辰三は饅頭を口に放り込み、もぐもぐと噛んだ。
「――祝言が近づくにつれて、政吉夫婦はやっぱり心配になってきたらしいんだ。とりわけ、政吉の方がな。このことは、店の職人たちも認めていたよ。やっぱり、あんな敷居の高いところに嫁にいくより、下駄職人の婿《むこ》をとってこの店を継いだ方が、おあきにとっては幸せなんじゃないかと、ときどきひどく不安そうに呟いていたそうだ」
親心としてはそういうものだろうか。つり合わぬは不縁の元という、古い諺《ことわざ》もあるくらいだし……。
「もっとも、おあき本人はもう有頂天でな。玉の輿より何より、惚れた男と一緒になれることが嬉しいわけだ。おあきなりに、親父の政吉が取り越し苦労していることに気づいていて、おとっつぁんは心配性で困ると、笑って話していたそうだよ。実際、政吉があんまり余計なことばかり心配するうえに、気が進まなくなったらいつだって縁談を白紙にしていいんだなんて言い出したんで、おあきは政吉と口喧嘩をしたことさえあったそうだ。俺はこの話を、浅井屋のお内儀から直《じか》に聞いた」
「ははあ」と、お初は言った。半分、ため息のような合いの手である。
「もともと浅井屋は、政吉の店のいい得意先だったからな。分不相応な縁談だと、恐れ入る気持ちもわからないじゃない。だが、本当に本音はそれだけだったかな。ここから先は俺の想像だが、政吉は、大事な一人娘に、やっぱり店を継いでほしかったんじゃねえかと思う。自分の育てた職人たちのなかから、これと目をつけた奴と所帯を持たせればいい。そうすればずっと親子一緒にいられるし、政吉自身が一生かけてこつこつ築いてきた店を次の代へと渡すこともできるからな。
ところが、親父の知らないあいだにおあきは好きな男をこしらえていて、そこへ嫁にいくという。確かに傍目から見れば目のくらむような上等の縁談だ。これに文句を言ったら罰《ばち》があたるよ政吉さんと、みんなにも言われるだろう。だから親父としては喜んでみせなきゃならねえ。しかし、心の底の底には、娘に裏切られたような気持ちが潜んでいたのかもしれねえ。だとすると、祝言間際のこの神隠しにも、なんかきな臭い匂いがしてくるじゃねえか――」
お初がなんとも言えないでいると、文字春が目顔でうなずきかけてきた。
「俺はそんなふうに考えていた。そこへ持ってきて、浅井屋側から相談が来た。浅井屋のお内儀も、俺と同じようなことを考えていた。そして、北町の倉田さまに相談をしてみたと言うじゃねえか。いきなり御番所の旦那のところに訴えかけるというのも剛気な話だと思ってよく聞いてみると、なんのことはねえ、倉田さまと浅井屋は縁続きなんだよ。倉田さまの叔母上が先代の浅井屋に嫁入りしているんで、今のお内儀と倉田さまは従姉弟同士になるんだそうだ」
あらまあと、お初は思った。柏木から聞いた話とは、ずいぶんと印象が変わってくる。柏木は、このことを知っていたのだろうか。
「それでまあ巡り巡って、俺は倉田さまと一緒におあきの一件を調べることになったんだ。そして、調べれば調べるほど、政吉の様子がおかしいことが気になってきた。とうとう倉田さまは、政吉がおあきを殺して、神隠しの話をでっちあげたんだというふうに考えるようになった。それで政吉を正面切って問いつめてみると――」
さすがに、辰三は言いにくそうに口をつぐんだ。お初はその先に来る言葉を知っていたが、殊勝に黙っていた。
「つい一昨日の、夜のことだ。政吉は首をくくっちまった。確かに自分がおあきを手に掛けたと白状して、すぐのことだった」
お初はぬるくなった番茶を口に含み、ゆっくりと飲み下しながら考えた。今の辰三の話のなかには、柏木が出てこない。辰三は柏木を知らないのだろうか。
「親分、お話はよくわかりました」と、お初は言った。「実はあたし、この噂を、政吉さんはおあきちゃんを手に掛けたりしていないって信じている人から聞かされたんです。その人の話では、御番所のなかにも、政吉さんは本当のことを言っている、おあきちゃんは本当に神隠しにあったんだと信じている町方役人がいると聞きました」
辰三はすぐにうなずいた。「ああ、柏木さまだろう? だが、あの方は高積改役だ。吟味方のことは、ほとんどご存じないんだ。若いころから政吉と知り合いだといって、えらく同情していたが、気持ちだけじゃ吟味はできねえよ」
柏木が神隠しの話を信じるのは、政吉の人柄を知っているからだけでなく、自身が子供の頃に神隠しにあったことがあるからなのだ――そう言いたくなるのを、お初はぐっとこらえた。
代わりに、こう訊いた。「政吉さんは亡くなったんですね。亡骸《なきがら》は、どうなったんでしょう」
「さあ、おおっぴらに葬式を出すことははばかられるだろうなあ。女房のおのぶは倒れてしまって、差配人の家に厄介になっている。職人たちも途方にくれていたよ」
これは、柏木の言っていたとおりだ。お初はため息をもらして肩を落とした。
「悲しい話だろう。俺も、この件は辛かった」辰三は言って、慰《なぐさ》めるような目をしてお初を見た。
「政吉が死んでしまった以上、おあきを――まあ、おあきの亡骸を見つけるのは難しいだろう。事件はこれで終わりだ。どこかに埋めたか、捨てたか、川に流したか。運があれば、誰かが見つけてくれるかもしれないが。どっちにしろ、お初ちゃんは、早く忘れた方がいい」
お初はこくんとうなずいた。心の内では、そういうわけにはいかないのだと、今さらのように堅い決意を固めていたのだけれど、辰三親分と文字春の優しい目を真っ直ぐに見て、そこまで挑《いど》みかかるようなことを言ってのける勝気さは、今のお初にはないのだった。
辰三の家を出てぶらぶらと歩きながら、今までの話を頭のなかでまとめてみた。どうやら、柏木と倉田主水・辰三親分組の言い分は、西と東に離れている。さてその真ん中にいるお初は、どちらに軍配をあげていいか判らなくなってきた。
(さて、どうしよう……)
やはり、おあきの家を訪ねてみるか。政吉や女房のおのぶはいなくても、職人たちが誰かひとりぐらい残っているかもしれない。
お初は山本町に足を向けた。道々小さな菓子屋を見つけ、菓子折りを一箱あつらえた。お見舞いの手土産《てみやげ》だ。
だいたいの場所はわかっていたが、途中で二度、近所の家の人に道を尋ねた。道を教えてくれる人はみな、「ああ、あの神隠しのあった下駄屋さんだね」と言った。
おあきの家、下駄屋は看板をおろし、表戸を閉じていた。
板ぶき屋根の二階家で、かなり古いけれど、大きな家だ。入り口のところの障子戸の桟《さん》が、春の砂埃で汚れている。障子紙が、昨年暮れに張り替えられたばかりの感じであるのと対照的だった。この半月ほどのあいだにこの家に降りかかった災厄《さいやく》を、障子の桟が表わしていた。
おとないを入れようとしたとき、急に、その障子の内側から人の声が聞こえてきた。こちらに近付いてくる。お初は急いでまわりを見回し、戸口の脇に堆く積み上げられている材木の束の陰に身をひそめた。
間一髪、お初が頭をひっこめたところで、障子戸ががらりと音高く開けられた。地面を踏む重い足音も聞こえてきた。
下駄屋のなかから出てきたのは、背の高いがっちりとした身体つきの同心がひとりと、文字春の同年輩ぐらいの女がひとり。ふたりは同心を先に立ててぐいぐいと歩きだし、大川のほうへと去っていった。ふたりがいなくなってから、下駄屋の障子が閉められる音が聞こえたから、おそらく店の誰かが戸口まで送りに出ていたのだろうに、その者に対するあいさつは一言もなかった。
(あれが……)
おそらく、倉田主水だろう。縞《しま》の着物にまき羽織、定町廻り同心にちがいない。
あの女は誰だろう。着物の衿《えり》の抜き方、紅の濃さなどは、堅気《かたぎ》のものではないように見えた。
(浅井屋のお内儀さんかも)
そのふたり連れなら納得もゆく。お初はそろりとあたりを見回し、人目のないのを確かめてから、道端へと出た。
何気なく足元を見て、立ちすくんだ。
埃っぽい道に点々と、黒いしみが落ちている。あの同心が現れて、歩み去っていった道筋に、彼の足跡をたどるように。
これは、血のしみだ。
前後を忘れて、お初は下駄屋の障子をがらりと開けた。
ほんの目と鼻の先に、まだようやく十を越したばかりぐらいの男の子がひとり、がっくりと頭を落として座り込んでいた。その子が仰天したように立ち上がり、及び腰になってお初を見た。
ほかには誰もいない。お初も一瞬言葉を失ってしまい、相手もただ口をぱくぱくさせているだけで、お互い何も言えない。
「あんた、怪我はない?」
「どなたさんでしょう?」
ようやく口を開いたとき、ふたり同時にそう言っていた。
さすがにちっとは年上だから、落ち着きを取り戻すのはお初のほうが先だった。後ろ手に障子を閉め、男の子に歩み寄りながら、できるだけ優しい声で問いかけた。
「ねえあんた、本当に怪我はない?」
男の子は目を真ん丸に見開いて、お初の顔を見つめている。ひどく痩《や》せて顔色の悪い子で、擦り切れた着物の袖からのぞく腕など、かわいそうなほどに細い。
「あたしは怪しい者じゃないわ。おあきちゃんの友達で、名前はお初。日本橋の万町にある一膳飯屋の娘よ」
男の子は、まだ喉ぼとけもはっきりしていないような喉をごくりとさせた。
「お嬢さんのお友達ですか」
「そうなの。おあきちゃんがいなくなったって話を耳にして、ずっと心配していたの。どうなったかなと思って、ちょっと様子を見におじゃましてみたんだけど」
男の子も少し安心したようだ。ゆるゆると首を動かしてあたりを指し示し、
「このとおりで、誰もいないんです」と言った。
おそらくここは仕事場であり、また店先でもあったのだろう。小売りはしない店であったらしく、品物を並べておくような場所は見当らない。道具と、材木と、職人の座る藁《わら》でできた丸い敷物が、ひとつ、ふたつ、みっつある。ひとつはきっと、政吉のものだったのだろう。
「あんたはここの職人さんね?」
男の子はうなずいた。「まだ使い走りだけど」
「名前はなんていうの?」
「捨吉《すてきち》」言ってから、また喉をごくっとさせた。「お嬢さんはおいらのこと、捨坊って呼んでくれてたけど」
泣きだしそうなのだ。捨吉はお初の肩ぐらいまでの背の高さだったから、お初はちょっと小腰をかがめ、彼の目をのぞきこむようにして言った。
「じゃ、あたしも捨坊って呼ばせてもらうわ。捨坊、あんた、どこも怪我はない?」
捨吉は怪訝《けげん》な顔をした。「さっきからそればっかりきくけど……」
「今の旦那に、ひどいことはされなかった? ぶったり蹴ったり、そういうことよ」
「そんなことは、何も」
じっくりと観察してみると、たしかに捨吉はみじめな様子ではあるけれど、血を流しているようには見えない。
「ちょっと待っててね」
お初はもう一度外へ出てみた。地面に目をやる。
血のしみはなくなっていた。きれいさっぱり消えている。
こんな短い時間に、血が乾いてしまうということはない。お初は目をこすった。
では、あれは幻だったのか。あたしの心の中が見せた、いつもの幻だったのか。
(倉田主水という男……)
歩く先々に、幻の血の雫《しずく》を残してゆく男。顎の張った頑丈《がんじょう》そうな横顔を思い浮かべ、思わずぶるると身震いした。辰三親分は、立派な旦那だと言っていたけれど、ではこの血のしみは何なのだ?
お初は下駄屋のなかに戻り、また腰をおろしていた捨吉の脇に、並んで座った。
「今このうちには、あんたのほかに誰がいるの?」
「おいらだけです」
「ほかの職人さんたちは?」
「みんな……連れていかれました」
「連れていかれたって?」
捨吉はがくんとうなずいた。「親父さんが亡くなってすぐに」
「連れていったのは、さっきの旦那?」
「そうです」
「あの人は、倉田主水さま?」
捨吉はびっくりしたようにお初を見上げた。
「知ってるんですか?」
「うん、ちょっとねえ。いっしょにいた女の人は?」
「浅井屋のお内儀さんの、お松《まつ》さんです。あ、浅井屋ってのは――」
「おあきちゃんがお嫁に行くはずだったところよね。ねえ、そのふたりが、なんでここへ来ていたの?」
「ようすを見にきたって……」捨吉は泣き出しそうになるのをこらえるように、ぎゅっとくちびるを噛んで続けた。「おいらひとりで、どうしてるかって」
そんな親切な様子ではなかったが。
「鉄《てつ》さんと伊左《いさ》さんはいつ帰ってこれますかってきいたんだけど、まだとうぶん駄目だって」
「鉄さんと伊左さんというのが、あんたと一緒にここで働いていた職人さんね?」
「はい、そうです」
「ふたりが連れて行かれたのは、いつ?」
「ゆうべです。親父さんのおとむらいは済んだからって、やっぱり倉田さまと浅井屋のお内儀さんが一緒に来て、それで倉田さまが、おまえたちからはまだ訊きたいことがあるから、ちょっと来いって言ったんです」
「じゃあ、ふたりは番屋にいるのかしら」
「そうだろうと思うけど……」
お初は心の内で唸《うな》った。これはどういうことだろう。倉田主水の立場からすれば、もうおあきの件は片づいたも同然だろうに、これ以上何を訊くためにふたりを連れ出したのだろう。
「倉田さまから、あんたも何か訊かれた?」
捨吉は心細そうに首を縮めた。「何かって、何ですか」
「おあきちゃんと政吉さんのことで。おあきちゃんがいなくなったときのことで」
「おいらは何も知りません。本当に何も知らないんです」
どうやらお初は、勢い込むあまりに捨吉を怯えさせてしまったようだった。このせっかちな性分を呪《のろ》いながら、お初は急いで笑顔を浮かべ、声をやわらげた。
「ごめんね、あれこれ問いつめて。これじゃ、あたしの方が、町方役人よりもよっぽど怖いわね」
捨吉はまだ首を縮めている。彼がひどく寒そうで、くたびれた様子であることに、お初はやっと気がついた。
「あんた、ご飯はちゃんと食べてる? なんだか寒そうだけど、お腹が空っぽなんじゃないの?」
「昨日の朝は――鉄さんがご飯炊いてくれたんだけども……」
「じゃあ昨夜《ゆうべ》は? 今日は?」
捨吉はかぶりを振った。「ずっと何も食ってないです。お米がなくなっちゃったし、おいら銭もってないし」
お初は、手土産にとさげてきた菓子折りを脇に置き、さっと立ち上がった。
「甘いものなら持ってきたけど、こんなのじゃ埒《らち》があかない。ちょっと待っててね。あ、そうだ、待ってるあいだに火をおこしてお湯だけわかしておいてちょうだい」
ここへ来る途中に、稲荷寿司《いなりずし》の屋台が出ていたのを思い出したのだ。お初は走って外へ出た。
買い物をして、帰り道にはいい具合にぼて振りの八百屋に出くわしたので、そこで卵を二個買い求め、下駄屋に戻ると、まず熱いお茶を入れて捨吉に稲荷寿司を食べさせ、そのあいだにやわらかい落とし卵をこさえてやった。捨吉は、食べ物を眼にしたとたんに胃袋が騒ぎだしたのか、時折むせてしまうほどに急《せ》いて、稲荷寿司を次から次へと頬張った。
腹がいっぱいになると、人心地がつくと同時に疲れも出てきたのだろう。捨吉は見るからに眠たげな様子になった。お初は家のなかにあがりこみ、押入を開けた。手近な蒲団《ふとん》を引っ張りだし、床をのべた。
「いいこと。あんたはこれから横になって眠るのよ。戸口にしんばり棒をかっておくから、誰が来ても放っておきなさい。あんなにお腹をすかせてちゃ、病人と同じくらい身体が弱ってるんだから」
指図《さしず》してくれる大人が現れたことに安堵《あんど》したのか、それとも遠慮する気力も萎《な》えたのか、捨吉は素直に従った。だが蒲団にもぐりこみながら、
「あ、これは親父さんの蒲団だ」と言った。
「政吉さんは怒りゃしないわよ」
捨吉を横にならせて、お初は彼の顔をのぞきこんだ。
「これからは、おかみさんが戻ってくるまで、食べ物はあたしが運んであげる。それから、あたしも今あんまり持ちあわせがないんで、少しだけどおあしを置いていくからね」
懐からいくばくかの小銭を取出し、鼻紙でざっと包んで捨吉の蒲団の下へつっこんだ。
「いろんなことを考えると、あんたには可哀相だけど、ここから離れないほうがいいと思う。そのかわり、暮らしのほうは何も心配しなくていいわ。安心なさいね」
捨吉は、きれいな衿当てのついた夜着から顔をのぞかせて、大人びたことを言った。
「おいらにはどうせ行くところなんかないからいいんだけど、でも、お嬢さんの友達に、そんな迷惑かけるわけには……」
「子供がそんなことを考えなくていいの。だいいち、友達としては当たり前よ。うちは一膳飯屋なんだから、食べ物を按配《あんばい》するくらい造作《ぞうさ》ないんだし」
お初はにっこりしてみせた。
「そのかわりと言っちゃおかしいけど、あんたにはいろいろ教えてほしいことがあるの。今晩、お弁当を持ってくるから、そのときにね。だけど、あたしがここに出入りすることを、あんまり人に知られないほうがいいとは思うの。どこか、人目につきにくい出入口はないものかしら。窓だっていいんだけど」
捨吉はすぐに答えた。「そんなら、裏に回ってください。隣の家との境目に細い隙間があって、そこを抜けてくるとおいらが使わせてもらってる部屋の窓の下に出ます。腰高窓で、だいぶ前から手すりが壊れちまってるから、お嬢さんでも楽に出入りできます」
「わかった。あたしのことは、お嬢さんじゃなくてお初でいいわよ。あとね、もうひとつだけ教えて。あんた、おあきちゃんが仲良くしていた友達を、あたしのほかに誰か知ってる?」
捨吉はちょっと考えた。ぼうっとしたような顔をしている。
「さあ……」
「ここに遊びに来たことがあるような女の子はいなかったかしら」
「下駄を買いに来た人はいるけど。檜《ひのき》のいいやつを、安くしてあげてねってお嬢さんが」
「おあきちゃんと同じくらいの歳の女の子? 名前とか、覚えてない?」
捨吉はしきりとまばたきしていたが、やがて申し訳なさそうに呟いた。「おいら、頭よくないから……」
「いいのよ、気にしないで。寝ろって言っておいて邪魔してごめんね。じゃ、あたしはとりあえず引き上げるから」
おやすみ、と言ってその場を離れ、戸口にしんばり棒をかい、小皿や湯呑みなどを洗ってから様子を見に戻ってみると、捨吉はもうすやすやと寝息をたてていた。ほっとした。
(さてと)
捨吉には嘘をついたようで悪いが、すぐに帰るわけにはいかない。
おあきの使っていた部屋はどこだろう。
お初は足音を忍ばせて階上へあがっていった。若い娘の寝起きしていた部屋ならば、目で見た感じでだいたい見当がつくだろうと思う。きしむ階段をのぼってゆくと、やわらかな日差しが、階段をあがった突き当たりに開けられている小さな窓からさしかけてきて、お初の顔を照らした。
二階には小さな座敷がみっつあったが、南向きの四畳半、張り替えたばかりの障子で仕切られた部屋が、どうやらおあきのものであったらしいと思えた。障子の脇に竹製の小さな籠《かご》がかけてあり、そこに紙でこさえた菜の花がさしてある。半間の押し入れを開けてみると、上の段に布団が重ねて入れてあるが、下の段には、かなり使いこんだ様子の行李がひとつ、ぽつりと入れられているだけだ。
行李のふたを開けてみる。きちんとたたんだ古着が重ねてあった。何度も丁寧に繕《つくろ》った跡のある足袋が、端の方につっこんである。
嫁入りに備えて、古い物を片づけていたのだろう。そういえば、部屋のなかもこざっぱりとしている。それとも、おあきはもともと几帳面な気質だったのだろうか。
嫁入り道具らしいものや、新調の着物の類は見あたらない。嫁入り支度は、浅井屋が音頭をとって進めていたことだろうし、おあきの方は、本当に身ひとつで嫁げばよかったということか。しかし、そういう嫁入りは、恋する娘にとっては幸せかもしれないが、娘の親にとっては、かなり切ないものかもしれない。嫁ぎ先との彼我《ひが》の差を見せつけられ、親としてふがいない気分にさせられる――
頭のなかに、辰三の言葉がちらりとよみがえった。
(政吉の心の底には、娘に裏切られたような気持ちが潜んでいたんじゃねえか)
お初は首を振った。今はまだ、ああでもないこうでもないと考えてばかりいても駄目だ。材料を集める方が先である。
部屋のなかはだいぶ埃っぽくなっていた。窓のすぐ下に、使い古した感じの文机《ふづくえ》がひとつ据えてあり、文箱が乗せてある。どちらの上にもうっすらと埃の膜がかかっている。そばに寄ってふっとひと吹きすると、舞い上がった埃でとたんにくしゃみが飛び出した。
文箱を開けてみる。すずりも墨もカラカラに乾き切っており、筆の先もかちかちだ。こよりで閉じた手習い帳のようなものが一冊入れられている。めくってみると、やわらかな女文字で、いろはや漢字が書いてあった。
町場では、女の子だって寺子屋にゆくのが当たり前のことだから、おあきも読み書きそろばんはひととおりできたはずだ。それでも、嫁入り先の浅井屋は大きな料理屋であることだし、おあきとしても、もう少し修練を積んでおきたかったのかもしれない。朱筆が入っていないところを見ると、習いにいっていたのではなく、あくまでひとりで暇をみて――というぐらいのものだったろうけれど、それにしても感心なことだ。
手習い帳に書かれている言葉は、ひらかなのほかに、「春夏秋冬」や「千客万来」とかいろいろだが、繰り返し「松次郎」という名前が出てくる。そのとなりに小さく「あき」と添え書きされているものもあるところを見ると、どうやらこの「松次郎」がおあきの許婚者《いいなずけ》、浅井屋の跡取りの名前であるらしい。
お初はぐるりと部屋を見渡した。壁際の柱の上のほうに、東に向けて、「火の用心」のお札が貼り付けてある。それ以外には、目に付くものはないようだった。
用心深く連子窓に寄って、一寸ばかり開け、そこから下を見おろした。表通りには人けがなく、ごく近くで、季節外れの風鈴の音がした。風が出てきたらしい。
風はお初の頬を撫《な》でながら通り過ぎ、部屋のなかにも吹きこんだ。蓋《ふた》をとったままにしてある文箱のなかで、手習い帳の紙がさらさらとめくれあがった。
お初は窓を閉めた。が、紙がさらさらいう音は消えなかった。
視線を落としてみる。風はもう感じられないのに、お初の目の前で、手習い帳はめくれ続ける。まるで、目に見えない手がめくっているかのようだ。
突然、ぴしりという音を立てて、一枚の紙が千切《ちぎ》りとられた。続いてもう一枚。次から次へと千切り取られ、天井まで舞いあがる。
四畳半の座敷のなかに、時ならぬ紙吹雪の嵐が吹き荒れた。大きな紙吹雪だ。目にぶつかりそうになった紙切れを除けるため、思わず手をあげて顔を覆った。やわらかな腕の内側に、一枚の紙が飛ぶようにしてぶつかってきて、通り過ぎざまにそこをすぱりと切った。血が流れ出した。
あっけにとられ、恐ろしさで凍りついて、お初はその場を動くことができなくなってしまった。さながら、お店の破産に気がふれてしまった忠義ものの番頭が、狂気と怒りにまかせて大事の大福帳を千切って撒き散らしてでもいるかのような有様だ。だがここにはそんな番頭などいない。お初ひとりしかいない。それなのに手習い帳は勝手にめくれては千切れて舞いあがり、畳の上を埋め尽くしてゆく。
最後の一枚が千切れて飛びあがり、ゆっくりと畳に落ちてしまうと、あたりは急に静かになった。お初に聞こえるのは、自分自身の早い息遣いの音ばかりである。感じられるのは、今さっき紙に切られた腕の傷の、ちくちくとした痛みだけである。
(いったい、これは何なの?)
目を見張りながらそう呟いたとき、部屋の天井のほうから、重々しく低い声が、ゆっくりと呼びかけてきた。
「ここから、出てゆけ」
弾《はじ》かれたように、お初は天井を見あげた。古い羽目板で覆われた天井には、雨漏りの染みがある以外、なんの変わったところもない。天井裏だろうか? そこに誰かいるのか? 正体不明の声は、威《おど》しつける口調を高めて、さらに言った。
「ここから、出てゆけ。出てゆかねばおまえもとり殺すぞ」
ぐいとくちびるを引き締めて、お初はそろそろと障子のほうへ移動した。しっぽを巻いて逃げるつもりはない。声を張りあげて言い返した。
「そういうあんたは何者なの? どうしてここから出ていかせようとするの?」
天井の声は答えない。が、しばらくすると、畳の上に落ちていた、手習い帳の紙が、いっせいにざわざわと動き出した。
と思うと、それらは見る間に再び舞いあがった。今度はひらひらと舞うのではなく、まるで鳥の群れが飛び立つときのように、音をたてて一斉に飛びあがり、お初目がけて襲いかかってきた。
お初は廊下に飛び出した。障子を閉めた瞬間に、たくさんの紙が障子の桟にぶつかった。ぱしゃぱしゃという気味悪い音がして、すぐに障子紙のあちこちが破れ始めた。ほんの少し前まで手習い帳でしかなかった無害な紙が、まるでそれ自体が意志を持ったかのように、紙の四隅を刀のきっ先のように尖らせて、次つぎと障子紙を破ってゆくのだ。
お初はまわれ右をして階段を駆け降りた。心の臓が胸から飛び出しそうだ。
あれが追いかけてくるようならば、捨吉を助けて逃げ出さなければ。必死で走って捨吉の枕元まで戻り、彼が眠っている顔をちらりと確かめると、お初はしゃかりきになってあたりを見回し、すぐ上の鴨居《かもい》の脇に、はたきが一本ぶらさげられているのを見つけた。それをひっつかみ、邪悪な紙の群れを叩き落としてやろうと身構えながら階段の下まで駆け戻った。
そこはしんと静まり返っていた。
油断なくはたきを構え、いささか及び腰になりながら、お初は階段をのぼっていった。二、三段あがるたびごとに、前後にしゅっとはたきを振ってあたりを警戒した。
階段の上の窓から差し込む夕日の茜色が、いっそう濃くなっている。一度そこで呼吸を整え、お初はおあきの部屋の前まで戻った。
障子はきちんと閉じている。どこも破れていない。
(南無八幡大菩薩さま)
目を閉じて一瞬強く祈ると、お初はがらりと障子を開けた。
部屋のなかはまだ明るく埃っぽく、お初が初めて来たときとそっくり同じ様子だった。物音ひとつせず、耳を澄ましてみても、さっきの風鈴の音も聞こえない。
文机もそのままだった。ただ、文箱の蓋は開いていた。
罠のようにも思えて、なかなか足を動かすことができなかった。障子をいっぱいに開け、いつでも飛び下がって逃げ出すことができるように身構えながら、はたきを握り締め、お初はそろそろと文箱に近づいた。何もかも、さっき見たままだ。筆も墨も硯《すずり》も乾いている。手習い帳には破れた様子もない。意を決してめくってみると、中身も同じだった。おあきの手で書かれた「松次郎」の名前が、お初が手習い帳をめくるにつれて、ちらちらと何度ものぞいた。
呼吸《いき》は静かに、でも心の臓がどくんどくんと高鳴る音を耳の底で聞きながら、お初はしばし、肩を怒らせ目をつり上げて、その場にたたずんでいた。そら、どうしたの、あれで脅《おど》しは終わりかい?
終わりのようだった。待っても待っても、何事も起こらない。
お初の肩から力が抜けた。
あれは幻だったのだろうか。あの声も、あの恐ろしい紙の群れも。
(おまえもとり殺すぞ)
天井裏から聞こえてきたあの声は、この世のものとも思えなかった。
踵《きびす》を返して部屋を出ようとする直前、お初はもう一度、あの手習い帳に目を向けた。とたんに、息が止まった。
いちばん上の紙に、あざやかな朱筆で、しかもおあきの筆跡で、こう書かれていた。
「助けて」
捨吉を残してゆくのは不安で、ずいぶんと迷った。
お初は眠る彼の枕元に、「歩きまわってはだめよ。おとなしく寝ていなさい」と置き手紙を残し、捨吉に教えられたように、北側の彼の部屋の窓から外に出た。
しばらくのあいだは、どこをどう歩いているのかわからないほど、頭が混乱していた。永代橋《えいたいばし》のたもとまできて、なんとか正気に戻ったような気がした。富岡八幡宮の赤い鳥居が目に入ったからかもしれない。
そういえば去年、おそろしい幼児殺しの謎にかかわったとき、右京之介とここを訪ねてきたものだった。ほんの物見遊山《ものみゆさん》程度の気持ちだったけれど、それでもやっぱり、ここの堂々としたお社《やしろ》を見あげたときは、気持ちが涼やかになった記憶がある。
あの事件も尋常ではなかったけれど、今度の件はもっと恐ろしいことになりそうだ。
お初の家は親代々の八幡信仰で、さっき思わず南無八幡と拝んだのも、子供のころからの習慣が出たというだけのことだった。でも、そのすぐあとに、何も考えないまま、まるで導かれたかのようにして、富岡八幡の鳥居の前に佇《たたず》んでいる。そのことに、お初はある意味を感じた。
富岡さまは、深川の氏神だ。ここの神様は水の守り神で、時には竜神の姿をもって現れることがあるという。
なんであれ、おあきをさらっていった正体不明の魔性《ましょう》のものと戦うには、この土地を治《おさ》め守るこの氏神さまに、力を貸していただかねばならないかもしれない。
お初は緑も鮮やかな境内《けいだい》に足を踏み入れ、いずまいを正して拝礼を済ませた。飛び交う雀《すずめ》の鳴き声も、耳に入らなかった。
薄暗い本堂の向こうに、かぐわしい香《こう》のかおりに包まれて、鈍い金色に輝く菩薩像が端座《たんざ》している。そのお顔を見つめていると、震えやおののきが静かに引いてゆき、かわりに力と決意がみなぎってくるように感じた。
そう――そうなのだ。忘れちゃいけない。「助けて」という、あの文字。
おあきは生きている。助けを求めてはいるが、確かに生きている。政吉がおあきを殺したなんて、やっぱり見当ちがいのお話だったのだ。この件は、やはり何か魔性のものの仕業だったのである。
身体の両脇で、お初は小さなこぶしを握り締めた。決然とした足取りで、橋の向こうの姉妹屋へと戻っていった。
背後から小さな影が尾いてきていることには、まったく気づかずに……
ささやく影
夕暮れの茜色に染まった空を背景に、太い柱に支えられた山門と、古びた瓦《かわら》に覆われたなだらかな屋根が、くっきりと黒く浮かびあがっている。
鐘が鳴り始めた。ひとつ、ふたつ……ゆっくりと間を置いて打ち鳴らされる晩鐘《ばんしょう》が、江戸の町に一日の終わりを報せながら響き渡ってゆく。
砂利を敷き詰めた境内に人影は見えない。そこここに立っている松の古木が、夕暮れの風に時折枝をそよがせ、かすかな物音をたてているだけだ。どこか遠くで、家路を急ぐ職人たちのものらしい、陽気な話し声が聞こえている。それは次第に近づき、また遠ざかる。
鐘が鳴りやんだ。境内に静寂が戻ってきた。するとそれを待っていたかのように、松木立のあたりで、小さな声がこう囁いた。
「今日も日が暮れたね」
やや甲高《かんだか》く、若々しい声だ。
その声に答える声がした。
「とにかく、今日もまた一日無事に済んだということだ」
こちらの声は少ししゃがれたようで、話し終えたあと、ぐじゅん、ぐじゅんとくしゃみをした。
「和尚《おしょう》は今日、どうしてた?」
と、若い声がきいた。
「どうしてたとは?」和尚と呼ばれたしゃがれた声が問う。
「何かいい知恵は出たかいって意味さ」
「何もねえ」と、和尚は答えた。「今のところは、こうして居眠りでもこいているしか手がねえだろう」
「そんなことをしてるから、風邪をひくんだ」
和尚はまたひとつくしゃみをした。
「なあ、和尚。昔も一度、こういうことがあったと言ってたよな?」
「ああ、言ったとも」
「そのときはどうなった? どういう終わりがきた?」
和尚はしばらく沈黙を守っていた。松木立のざわめく音が高くなる。夕風が境内のなかを通り過ぎてゆく。
やがて、和尚は言った。「仲間がずいぶん死んだ」
「ひどい死に方だったかい」
「そりゃあひどかった」和尚はちょっと言葉を切り、口調を強めてあとを続けた。「だが、それでもわしらは勝った」
「奴を追い払ったんだな?」
「すぐには戻ってこれねえほど遠くに」
若い声は、ふうっと唸るような声をたてた。「でもまた戻ってきた。戻ってきて悪さをしてやがる」
「三十年ぶりのことだよ」
「奴は何ものなんだ? 正体はいったい何だ?」
「しかとはわしも、見たことがねえ」
「いつもこんなふうに風に乗ってくるのかい? そうして、若い女をさらってゆくのかい?」
「奴は若い娘の生き血が好きなのだよ」
「さらわれた娘はどこへ行く?」
「それもわしにはわからねえ。ただ、戻ってきた娘の言うことには、妙に紅《あか》い桜の咲いている、野っ原のようなところに迷いこんでいたそうだ。そこでは一日に何度も何度も、奴の風が吹いてくる。そしてその風に巻かれるたびに、娘は血の気を失ってゆく」
若い声はしばらく黙っていた。やがて腹立たしそうに言った。「今もそうやって、さらわれた娘は血を吸われてるんだろうな」
「悔しいが、そうだろう」
「どうやったら助けられる? どうやったら、奴の居所を突き止めることができる?」
和尚は静かになだめるように言った。「今はどうしようもねえ。わしらだけでは何もできねえ。手を貸してくれる者――いや、わしらが手を貸すことができる者が出てくるまではな」
「それまでは、ただ待ってるのか?」
「そうだ」
「奴が――天狗がまたやって来ても? また若い娘をさらっていっても? じっと丸まって待ってるだけか?」
「鉄よ、今はそれがわしらの役目だ」
てつと呼ばれた若い声は、不満そうにふうと唸った。そのとき、松木立の枝が騒ぎ、何かが近づいてくる気配がした。ちりり、ちりりと、鈴の音を伴って。
「なんだおめえ、すずじゃねえか」
鉄は近づいてきたすずを迎えた。
そのときもし、境内にいて松木立を見あげている人がいたならば、くぐもった、赤ん坊が喉を鳴らしているような声が、延々とやりとりを交わしているのを耳にすることができたろう。そのやりとりが終わったところで、鈴の音がまたちりり、ちりりと遠ざかってゆくのも。
「和尚、どう思う?」と、鉄が言った。
「その娘が何者か、確かめてみたいな」
鉄がふふふふと鼻を鳴らした。笑ったようにも聞こえる。
「ひとっ走り、行ってみるとするか」
「充分に気をつけるんだぞ。わしがいいというまでは、こっちの正体を明かしちゃいかん」
「わかってるよ。あいかわらず、和尚は心配性だなあ」
「用心し過ぎるってことはねえんだ」と、和尚は低く、重々しく言った。「おめえはまだ、わしらが相手にしているものの、本当の恐ろしさを知っちゃいねえ。わしらの役目の本当の意味も、まだわかっていねえんだ」
「俺は、てめえの役目を果たすだけさ」若い声は言って、今度は勢いよく鼻を鳴らした。
「それにしても、天狗の奴、いったいどこにいやがるんだろう」
魔 風
姉妹屋に戻ったお初を、義姉のおよしが走るようにして出迎えた。その顔を見ただけで、留守のあいだに兄の六蔵のところに、尋常ではない事件が舞い込んでいたのだと、お初にはすぐにわかった。
「よかった、うちの人も、今さっき戻ってきたところだから」
「兄さん、あれからどこかへ行ってたの?」
「とにかく大変なことなの。行って話を聞いてちょうだい」
お初は小走りで六蔵の座敷へと向かった。声をかけると、すぐに返事があった。
障子を開けると、畳の上に、切り絵図を一枚広げて、六蔵がその前に座り込んでいる。お初は絵図をはさんで向かい側に正座した。
「どうしたの?」
六蔵は太い眉毛をあげ、難しい表情のままでお初を見つめ返した。
「かどわかしがあった」
お初は声を呑んで兄の顔を見た。
「今日、おまえが出かける間際に、客があったろう?」
玄関先で擦れ違った夫婦者のことだ。
「ええ、覚えてる」
「あの夫婦は、元大工町の長野屋という八百屋の夫婦なんだ。今年十三になる娘がいる。お律《りつ》っていう。その娘が、今朝早く姿を消してな」
お初の心のなかに、「今朝早く」という言葉が落雷のように落ちてきた。
そして思い出した。出がけに、長野屋夫婦と擦れ違ったとき、頭のなかにひろがった真っ赤な血の色を。あれはまるで、おあきの神隠しのときに政吉が見たという、朝焼けの色のようだった。
「そのお律って娘さん、朝焼けのなかで姿を消したんじゃない?」
お初の問いは、かの女の不思議な力のことは知り尽くしているはずの六蔵をも、あらためて驚かせたらしい。
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
「それだけじゃない。きっと、お律さんが消えたときには、ものすごい突風が吹いたにちがいないわ。そうでしょう?」
六蔵は腕組みしたままうなずいた。
では間違いない。お初は考えた。長野屋夫婦と出くわしたときにあたしが見たあの幻のようなものは、彼らの身体にまつわりついていた、今朝の異変のなごりだったのだ。
お律をさらっていったものは、正体がなんであれ、おあきをさらっていったのと同じものだろう。同じ魔物が、ふたりの娘をつむじ風と共に連れ去ったのだ。
「お律さんは、神隠しにあったみたいに消えてしまったんでしょう? そうでしょう?」
勢いこんで尋ねるお初に六蔵は言った。
「そうだよ。そしてどんなに探しても見つからねえ。ところが昼過ぎになって、娘の身柄は預かっている、返して欲しければ金を持ってこいという、投げ文があったというんだ」
思わず、お初は叫んでしまった。
「そんな……そんなの嘘よ! ありっこないわ」
お律とおあきはそっくり同じ状況で姿を消している。ふたりを連れ去ったものが同じであることは明らかだ。ならばそのものは、手習い帳を引き千切って飛ばし、お初に襲いかかり、天井裏から「おまえもとり殺すぞ」と脅《おど》しつけた奇怪な魔性のものであるはずだ。
そんなものが、どうして金欲しさに投げ文などしてこよう?
「それはでっちあげだわ。おかしいわよ」
六蔵は目をむいている。
「おめえ、いったいどうしたっていうんだ」
「兄さんだって、長野屋さんの一件――お律さんの姿の消しかたが、普通のかどわかしにしちゃ、あまりに変だと思ったからこそ、あたしの帰りを待ってたんでしょう? そんなら、とにかく、四の五の言わずにあたしの言ってることを信じてよ」
六蔵はぶすりと言った。「それはまあ、いい。わかったよ」
「で、長野屋さんの投げ文には、ほかになんて書いてあったんですか? お金はいくら払えって?」
千両箱をひとつ。今夜の丑三ツ刻に、中之橋の西側のたもとに持ってこいという。
このあたりで中之橋と言えば、日本橋川から引き入れた堀割にかかる、小船町一丁目と二丁目の境にある橋のことだ。堀割の両側は蔵地となっているので、夜間はひと目もなければ明かりも少ない。
六蔵が広げている日本橋一帯の切り絵図に目を落としながら、お初は言った。
「いいじゃない、兄さん。お金を取りにきた奴をひっくくってやりましょう。中之橋だって。いいところを選んだもんだわ。手間がはぶけるってもんだわよ」
中之橋のかかる堀割の北側には、伝馬町の牢屋敷があるのだ。
「えらく威勢がいいな」
「あたりまえよ。神隠しに便乗して、心配で気が狂いそうになっている親からお金を騙《だま》しとろうなんて、これくらい卑怯《ひきょう》なことはないわ。で、あたしはどうすればいい? あたし、本当ならすぐにも長野屋さんに行ってみたいのだけれど」
お律の消えたという場所を見てみたい。両親からじかに話も聞いてみたい。おあきの場合には、神隠しから日が経ってしまっているのでわからなくなっている手掛かりが、消えてまだ一日と経っていないお律の場合には、まだ残されているかもしれない。
「俺も、おめえにはそれを頼もうと思っていた」と、六蔵が言った。「娘の消え方が尋常じゃねえからな。ひょっとするとこれは、たしかにおめえのいうとおり、俺よりはおめえ向きの事件なのかもしれん。だが、今はまだ駄目だ。たとえ投げ文をしてきた連中と、娘を消した――おまえのいう魔性のものがまるっきり別々のものであってもだ。金を払えと言ってきた連中が、長野屋の動きを見張っているかもしれねえということにかわりはない。めったに動くわけにはいかねえ」
「そうね」
「今のところ長野屋には、俺の手下と元大工町あたりの町役人たちから募った助っ人を、手分けして張り込ませてある。長野屋のなかには文吉がいる」
文吉とは、六蔵がいちばん目をかけている下っ引きである。まだ二十歳《はたち》の若さだがなかなかはしっこく、お初とも仲がいい。
「おめえには今夜、もう一刻ばかり経ったなら、いかにも急を聞いてかけつけてきたお律の友達というような顔をして、長野屋に行ってもらいたいんだ。そこでおめえの目に見えるものを見てくれ。そして、俺はこれから石部さまと相談をして、中之橋での手はずを整えるから、その次第を、長野屋にいる文吉に伝えてほしいんだ。そしたらそのまま、俺がいいと報せるまで長野屋にいるんだぞ、いいな?」
「わかったわ」と、お初はうけあった。「任しといて」
それからのお初は忙しかった。急いで下駄屋の捨吉のための弁当をあつらえ、それを姉妹屋の手伝いの小女に持たせて山本町に走らせた。ひょっとすると今夜は行かれないかもしれないけれど、明日にはきっと訪ねるから、気を強くねと伝言をつけて。
その一方で、高田馬場にある算学道場の右京之介にも手紙を書いた。
「右京之介さまは、きっと今夜訪ねてきてくださると思うの」
書いた手紙をおよしに渡して、お初は頼んだ。
「遅くなっては申し訳ないのですけど、でもどうしても今夜のうちにお話したいこともあるし、待っててくださるようにお願いしてください」
およしはふたつ返事で承知した。「気をつけて行ってくるのよ、お初ちゃん」
六蔵から、長野屋へ出向けという合図があったのは、夜の五ツ半(午後九時)のことだった。姉妹屋のある万町から元大工町までわずかな道のりだが、町娘がひとり歩きするのはおかしいということで、加吉が一時板場を離れてお初の供を務めることになった。
投げ文をよこした連中の目がどこで光っているかわからない。身元を偽らねばならないこういうときのために、姉妹屋には「越後屋」とか「川内屋」とかのありふれた名を入れた提灯がいくつか置いてある。加吉が選んだのは「伊勢屋」で、彼がそれを手にお初のわずか先に立って夜道を出発した。
「加吉さんにまで出てきてもらうなんて、初めてね」
加吉の態度はいつもとかわりなく、彼が微笑すると、目元にやわらかな笑いじわが刻まれる。お初はこれを目にすると、いつも思う。仏さまのお姿を刻んだ像のお顔にはしわというものがないけれど、もしもあったなら、それはきっと加吉さんのしわと似ているに違いない、と。
「親分にとっても、こんな大きな金のからんだかどわかしは初めてのことでございましょう」
女子供を狙ったかどわかしは少なくないが、その大半は、さらった彼らを売り飛ばしてしまうことを目的としている。そのほうがてっとり早く安全で、手堅く金を得ることができるからだ。
にぎやかな通町に軒をつらねる大店も、さすがにみな表戸を閉じ明かりを消している。加吉とお初の足音だけがひたひたと響く。途中の木戸をくぐると、そのたびに、夜間にここを通る者があることを次の木戸へ報せるために木戸番が打ち鳴らす送り拍子木《ひょうしぎ》の音が、夜風のなかに響いた。
「ねえ、加吉さんは神隠しというものを信じる?」
お初の問いに、加吉はほんの少し間を置いてから答えた。「私はまだ、身近にそういう出来事が起こったことはございませんので、はっきり信じるとは申せませんね。でも、神隠しというものがあると堅く信じている人たちのいうことが、あながち嘘ばかりであるとも思えません」
加吉は六蔵のお役目のほうに口をはさまないが、お初の持っている不思議な力については知っている。これから向かう長野屋で待っている文吉も、それは同じだ。
ふたりには、特に膝を交えて詳しく話したわけではない。が、文吉はほとんど姉妹屋に住み込んでいるようなものだし、加吉は姉妹屋の商いの元締めのような存在だし、ふたりのどちらともお初は親しいから、自然に知られてしまったのである。文吉は時々、興味深そうな顔をして、お初の話を聞きたがる。だが加吉は、いつも知っていて知らぬ顔をしてきた。
その彼が、初めてきいた。
「お嬢さんは、今度のことで、もういくつか不思議なものを見たり聞いたりなすっているんですか」
お初は、ほとんど同じ高さにある加吉の顔をのぞきこんだ。
「見たし、聞いたわ」
「そうですか。それでお嬢さんは、今度のことは本当の神隠しだと思いますか」
「ええ、思うわ」
「それなら私も信じましょう」
ふたりは元大工町へと、大通りを右に折れた。明かりの消えた町中の、遠いところにぽつりとひとつだけ、掛け行灯《あんどん》がともっている。
「あれが長野屋のようですね」と、加吉が声をひそめた。
明かりをともしておけと、合図でもされたのだろうか。お初は胸のどきどきするところを手で押さえ、足早に加吉についていった。
長野屋は間口一間ほどの大きさの二階家で、表戸は閉ざされていた。裏に回ると、そこには掛け行灯はなかったが、勝手口の脇の格子窓から明かりがもれていた。
「ごめんください」と、加吉がよばわった。
立て付けの悪い勝手口の戸をがたがたと開けて顔を出したのは、文吉だった。どこか栗鼠《りす》を思わせる小柄な若者で、顔も小さい。くりっとした目が女の子のようだ。
文吉は目ざとく加吉の手の堤灯に書かれた文字を読み取った。
「これは伊勢屋のお嬢さん、わざわざありがとうございます。どうぞおあがりください。旦那さんがお待ちです」
加吉はそこで文吉と目と目をあわせてうなずきあい、お初に言った。
「それではお嬢さま、私はあとでまたお迎えにあがります」
軽く一礼して、来た道を戻っていく。その後ろ姿を見送って、勝手口を閉じながら文吉がつぶやいた。
「今夜は茶巾豆腐《ちゃきんどうふ》か。いいなあ」
お初はびっくりした。たしかに今夜、出がけまで、加吉は茶巾豆腐をこしらえて、夜は居酒屋になる姉妹屋に集まる客たちの舌を楽しませていた。
「加吉さんの手からお豆腐の匂いがしたの? 文さんて、ホント、食べ物に関しては鼻がきくのね」
文吉はえへへと笑ったが、すぐに真顔になった。目がきらりと光った。
「親分は何て言ってましたか?」
身をかがめ声をひそめて、文吉はきいた。
「中之橋の周りには、どれぐらいの人数が張り込んでいるんです?」
お初も低い声で、六蔵から言いつかってきたことを告げた。「石部さまと相談してみたけれど、今のこの様子では、御番所のほうから人手を出すことは難しいそうなの」
文吉は舌打ちした。「だろうと思った」
一介の八百屋の娘のかどわかしでは、お上のしてくれそうなことなどたかが知れている。
「それでね、町役人の人たちと、あとは神田明神下の半五郎親分のところから助っ人を借りて、できるだけ透き間なく中之橋への人の出入りを監視できるようにしてあると言ってたわ。で、文さん」
お初は身を乗り出して、
「お律さんをかどわかした連中は、お金を持ってゆく人を、格別誰と名指ししてはこなかったのよね?」
「へい、そうです。ただ時と場所と、金の額を言ってきただけで」
「だから兄さんは、文さん、あんたに中之橋へ行ってほしいって。文さんひとりでね。長野屋の人たちがいっしょに行くとか言い出しても、けっしてそうしてはいけないって」
文吉はうなずいた。「合点承知之助《がってんしょうちのすけ》ですよ、お嬢さん」
「長野屋の人たちは今どこ? どうしていなさるの?」
「奥の座敷にいます。お律の親父さんとおふくろさん、ふたつ年下の妹のお玉って娘の三人ですよ。ひょっとしてまた投げ文があると危ないんで、雨戸は全部閉めてあります」
「投げ文があると危ない?」お初は首をかしげた。「どういうこと?」
「あれ、親分は言ってませんでしたか? 投げ文って言ってはいるけど、本当は射込まれたものなんです。二階の物干しの柱に突き刺さりましてね」
「そう……。ね、とりあえず、あたしを長野屋の人たちに会わせてちょうだい」
ほんの一瞬、文吉はたじろぐような顔をした。
「こっちです」と先に立って台所を通り抜けながら、「お嬢さん、何か見えると思いますか」ときいてきた。
「わからないわ。あたしにもわからない。けど、正直に言うと、ちょっと怖いの」
「あっしも、怖いような気がしてます」
文吉の言葉に、お初は彼のくりくりした目を見あげた。
「これは、なんていうか……今まであっしが出くわしたことのあるかどわかしとは、ちょいと様子が違うような気がするんです」
「どこがどう?」
「うまく言えねえ」文吉はぶるりと身震いする仕種《しぐさ》をした。「とにかく、お律の親父さんたちから話を聞いてみてください」
長野屋の主人の名は勝太郎、妻の名はせん。ふたりとも歳は四十で、歳のわりにはやや老けた顔をしていた。もっとも、こんな時だからかもしれないが。
お律の妹のお玉をあいだにはさみ、勝太郎とおせんは、ぴったり寄り添うようにして、狭い座敷の隅のほうに座っていた。ここは彼らの家であるのに、まるで居候《いそうろう》になったかのような縮こまりかただ。
お初が座敷に入ってゆくと、勝太郎とおせんは、不審気な目をして顔を見合わせた。お初は手早く挨拶をし、自分の立場と六蔵から言いつかってきたことの内容を説明した。
「では、この文吉さんにすべてをお任せするということでございますか」
勝太郎がひび割れたような声を出した。おせんは、しばらく前まで泣いていたのだろう、赤くなった目尻を指でこすりながら、力なく首うなだれている。
「わたしどもが出かけて行ってはいけないんですか。というより、わたしや女房が行かないとまずいのではないですか」
「投げ文が、長野屋さんの誰かと指定してきているのなら、そうでないといけないでしょう。でも、この場合は違います。それに、金を払えと脅している連中が、中之橋でどんな企みをしているかもわかりません。向こうとしても、お金の受け渡しをするその場では、どうしても顔や姿をさらさなければならないわけでしょう。それを避けるために、お金をとったらその場で、お金を運んできた人を殺そうとするかもしれませ――」
お初の言葉を途中でさえぎり、勝太郎が言った。「わたしはどうなったっていい。お律が無事に帰ってくるならば」
「お律ちゃんを無事に取り返すためにも、長野屋さんの身にもしものことがあってはいけないんです」
お初は熱を入れ、ほとんど懇願《こんがん》するようにして話した。
「どうぞお願いです。お気持ちは充分によくわかりますが、ここはこらえて、わたしどもにお任せくださいまし」
勝太郎はぐいと歯を囁いしばって黙りこんでいたが、やがておせんがそっと彼の腕に触れ、
「おまえさん」と、諭《さと》すように言った。「お任せしましょう」
勝太郎は無言のまま、がくんと肩を落とした。くいしばった歯のあいだから、かすかに嗚咽《おえつ》のようなものが漏《も》れる。
「わたしらは、お律には何もしてやれない……」
高い熱を発し苦しんでいる病人のそばにいると、その身体の熱を感じとることができるのと同じように、お初の胸に、勝太郎の心の痛みが伝わってきた。
じっと押し黙り、両親とお初や文吉の顔を見比べていたお玉が、ぽろりと涙をこぼした。落ちた涙は、お玉の小さな手の甲をつたって、かの女の花柄の着物の膝の上に落ちてゆく。お初はその様を見つめながら、姉の身を案じるお玉の心の内を思って、胸がきゅんと苦しくなった。
丑三ツまではまだ時がある。文吉は家の内外に変わったことはないかと抜かりなく目を光らせている。お初は、顔も青ざめげっそりとやつれた長野屋親子のために、とりあえず火をおこし、熱い茶をいれた。
そうやって立ち働くことには、もうひとつ意味があった。家のなかの様子をうかがうのだ。むろん、お初の持っている三つめの耳、三つめの目で。
長野屋は、行灯建てのこの家の階下を店に、階上を住まいにして暮らしているようだ。長野屋とは、八百屋にしてはめずらしい屋号だと思っていたが、ここでは漬物や野菜の煮物なども売っているらしい。台所に置いてある鍋釜《なべかま》や樽《たる》などは、四人家族のためのものであるにしては、みな少し大きすぎた。
お初のいれた茶に、最初に手をつけたのはお玉だった。十三歳のお律だって、まだ子供だ。お玉はそのお律の妹だもの、まだまだ頑是無《がんぜな》い。喉がかわいていたのだろう。ふうふうと吹きながら、おいしそうに茶を飲んでいる。お初はほっとした。
「お律ちゃんは今朝、この家のすぐ近くで姿を消してしまったのですよね?」
できるだけ長野屋夫婦の心を乱さないよう、言葉も口調も選んで、お初は切り出した。応じたのはおせんのほうだった。
「はい、裏の井戸に水をくみに出て、そのまま戻らなかったんです」
「表は夜明けで、すごく赤い朝焼けが見えたそうですね?」
ここで勝太郎が顔をあげた。「そのあたりのことは、もう親分さんにお話し申しましたよ」
お初は丁寧に詫びた。「申し訳ございません。でももう一度お聞かせくださいまし」
お初を事件に係わらせるとき、六蔵は、彼の口からは、起こった出来事の大筋しか話してくれない。細かい事の次第は、事件に巻き込まれた人々から、お初自身がじかに聞き出したほうがいいと考えているのだ。
それにもともと、六蔵は、こうした事件を扱うとき、渦中《かちゅう》の人々に何度も何度も同じことを尋ね語らせる――というやり方をする。そうしているうちに、語る側の記憶違いがはっきりしたり、忘れていたことを思い出したり、明らかな嘘が自然にほころびて露見したりしてくるからである。
「気味が悪いほど、真っ赤な朝焼けでした」
おせんはぼそぼそと続けた。
「水くみに出るとき、お律が勝手口の戸を開けて、声をあげたくらいです。『おかあちゃん、まるで空が燃えてるみたいだね』って」
お初の目の奥に、長野屋夫婦と擦れ違ったときに見た、あの血の色がよみがえる。
「あんまりお律がびっくりした声を出すんで、あたしも勝手口から外をのぞいてみました」と、おせんは続けた。
「真っ赤な空をごらんになったんですね」
「どろんとした、嫌な色でしたよ」
おせんの喉にこもったような声が、ここで少し震えを帯びた。
「あたしには兄弟が五人おりましてね、いちばん上の兄は、十四のとき、馬子をしていて暴れ馬に蹴られて死んだんです。そのときのことを、それこそ何十年かぶりに思い出しちまいました。兄は蹴られた腹をおさえて苦しんでいて、いきなりどおっと血を吐きましてね。そのときの血の色と、今朝お律が消えたときの朝焼けの色とは、本当によく似てました……」
勝太郎がぶっきらぼうにさえぎった。「つまらねえ思い出話なんぞするんじゃねえ、今がどんなときだと思ってるんだ」
おせんはひるんだように口をつぐみ、母親に寄り添っているお玉が、父の顔を鋭く見返った。お玉が手をのばし、母親の手を握る。おせんが力なくお玉の手を握り返す様子を、お初は見つめていた。
「お律が井戸のほうへ歩いていくのを見て、あたしも台所へひっこみました」
またぼそぼそとした呟くような口調に戻って、おせんは言った。
「それから間もなくですよ。家ごと吹き飛ばされるんじゃないかと思うような突風が吹いてきたのは」
「どんな風でした?」お初は膝を乗り出した。「竜巻のような? それとも春一番みたいな? 野分けのときのような?」
おせんはしばし、目を閉じて黙っていた。それから首をかしげながら言った。「春風にしては妙に冷たかったような気がします。木枯らしみたいな――いえ、木枯らしよりもっと冷たくて、水みたいに重たいような」
「長いこと吹いたんですか?」
「いえ、ほんのひと吹きですよ。このとおりのあばら家ですから、吹きこんだ透き間風に台所の笊とか杓子《しゃくし》とかが飛ばされて、あわてて拾い集めました。それで、風がやんだあと、お律のことが心配になって、外へ出てみたんです」
だがお律は消えていた。井戸端に、水桶《みずおけ》と履き物の片方だけを残して……。
「そのとき、周りに人の気配などを感じませんでしたか? 足音がしたとか、声が聞こえたとか」
おせんは首を振った。「なにもなかったです。なにも。あたしが叫び声をあげたんで、近所の人たちがびっくりして飛び出してきただけで」
唐突に、お玉が口を開いた。「猫が鳴いてた」
お初はお玉の顔をのぞきこんだ。「本当? お玉ちゃんもそのときもう起きてたの?」
お玉はお初の目を見返し、うなずいた。
「どんな鳴き声だった? にゃあにゃあっていう、普通の声? それとも――」
「ギャッて」と、お玉は短く答えた。「しっぽを踏まれたときみたいな」
猫の悲鳴かと、お初は思った。突風に飛ばされて、屋根から転がり落ちでもしたのだろうか。
「そのときお玉ちゃんはどこにいたの?」
「厠に」
「そこにも風は吹きこんだ?」
お玉はうなずいた。「羽目板がびしびし鳴って、落としの下のほうから冷たい風がふうっと吹いてきて、すごく怖かった」
もしもそのとき、お玉もお律と同じように外にいたならば、やはり風にさらわれてしまったのだろうか。それとも、この魔風は、これと定めた獲物だけを狙いに吹き降りてくるものなのだろうか。
お律が姿を消したあと、近所の人々にも手を貸してもらい、周囲をくまなく探し回ったということ、そこへ昼過ぎになって投げ文があったということを、おせんは淡々と語った。
「投げ文というのは矢で射こまれたもので、その矢は階上の物干しの柱に突き刺さったのだそうですね?」
うなずくおせんに、お初は頼んだ。「見せていただけますか、その矢を」
おせんは握り締めていたお玉の手を離して立ち上がり、座敷の反対側の隅に置いてある、小さな箪笥《たんす》に近づいた。
いちばん上の引き出しを開け、おせんがつかんで取り出したのは、およそ九寸(約二十七センチ)くらいしかない、短い矢だった。
おせんからその矢を受け取って、お初はすぐに言った。「これは矢場の矢ですね」
矢場というのは、文字通り矢を射って的にあてて遊ぶ遊技場のことだ。流行《はや》り始めたのはつい最近のことだが、あれよあれよという間に数が増え、ちかごろでは盛り場や神社の境内など、どこにでも見かけることができるようになった。
矢場で使われる弓は楊弓《ようきゅう》といい、文字通り楊《やなぎ》の木でできている。大きさは二尺八寸(約八十五センチ)ほどしかなく、普通の大弓の七尺(約二百十二センチ)と比べると、三分の一余りだ。当然、矢のほうも短く、矢場の客はこれを座って射る。
遊びとは言え武具を使うものだから、まっとうに腕前のほどを競いあって楽しむ客もいるにはいるが、もともと盛り場で始まった遊技だ。矢場のなかには、きれいどころをたくさん集め、女たちが客の相手をするということを売り物にしている店も少なくない。三重丸に矢の絵を描いた矢場の看板の向こう側には、岡場所と似たりよったりのいかがわしさが立ちこめている。
投げ文をするために、よりによってこれを使うとは――お初は眉根を寄せた。
(やっぱりおかしい……)
お律が姿を消したときの様子は、聞けば聞くほど、下駄屋のおあきのそれと似ている。そっくりだ。ふたりをさらっていったのは、今日の夕方、お初を脅したあの怪しの声の主――魔性のものであるに違いない。
そんなものが、矢場の矢を使って脅迫の投げ文を寄越すものか。
やはり、今度のお律の件では、まず神隠しが先にあり、それを知った何者かが、便乗して金をとろうとしていると考えたほうがよさそうだ。たしかに、矢場に出入りする客の男たちのなかにはやさぐれ者も多いし、そんな男たちだったら、不可思議な神隠しの噂を耳にして、ほほうこれは金儲《かねもう》けのネタになると思ったとしても不思議はない。
「これに巻き付けられていた文のほうは?」
これには、勝太郎が答えた。「六蔵親分が持っていかれましたよ」
「どういう文字だったか覚えていますか」
「わたしに読めたんだ、かなばかりですよ」
素っ気なく言い捨て、勝太郎は肩をすくめた。
「えらく汚い字でした」
お初は心のなかでうなずいた。少しばかり、心の秤《はかり》がゆらゆらするような気がした。今、お律を――そしておそらくはおあきをもさらっていって捕らえている正体不明の怪しいもの。それは恐ろしいものであろう。が、しかし、お律の命と引き換えに金を寄越せといってきている者どもも、怪しくはなくとも、危険で恐ろしい者どもであることにかわりはない。お律が本当はそういう者どもの手に落ちているのではないとはっきり言って、勝太郎たちを、少なくとも半分は安心させてやることができたら……
背後で障子の開く音がして、文吉が顔をのぞかせた。
「あと半刻ほどです」と言った。さすがに頬が強ばっているようだ。
「金は本当に、用意しないでよろしいんですか」と、勝太郎が文吉を見あげた。「千両の金など、わたしらには逆立ちしたって都合できるものじゃない。だけども本当に、何もしなくていいんですか」
金の心配はしないでいい、空の千両箱に小石を詰めて持っていけ――という六蔵の指示については、お初も聞いていた。だいたいが、長野屋のような小売りの商人をつかまえて、その日のうちに千両などと要求してくるほうがどうかしている。
「心配いりません」と、文吉がきっぱり答えた。「あっしらが、金を受け取りに来た奴をふんづかまえて、お律ちゃんの居所をはかせて、今夜のうちにも連れ戻してみせますから」
おせんが両手で顔を覆った。かすかな嗚咽が、商いと炊事とで荒れた指のあいだから漏れ出て、静かな座敷のなかに響いた。
そのとき、お初はふと、妙な気配を感じた。さっと目をあげて、あたりを見回した。
目には見えない。だがしかし、何かひそやかなものが近づいていて、この座敷の様子をうかがっているような感じがするのである。そして今、お初が視線を飛ばしてその気配の元を探ろうとした途端、その姿なき「もの」も気配を殺して、じっと動きを止めたように思える。
なにものだ?
お初はそうっと立ち上がった。
「井戸へ出るには、勝手口を出てどちらへ行けばいいんですか?」
おせんが答えた。「左手の奥です」
「お嬢さん?」
心配顔の文吉を目で制して、お初はするりと座敷を出た。土間に降り、勝手口の戸を開けると、まず用心深く顔を出して周囲を見回す。穏やかな夜風が吹いているだけだ。まわりの家々も寝静まり、明かりなどどこを探しても見えない。
頭上を見あげる。加吉とここへ来たときには数えることができた星が、雲に隠されて見えなくなっていた。そういえば、微風のなかに湿り気が感じられる。こんな風を、「雨臭い」と、およしは言う。
だが、雨の匂いならよしとしよう。血の匂いではないのだから。お初は台所に灯してあった瓦灯を持ちあげて掲げ、一歩、外に踏み出した。
長野屋が、近所の間借り人たちと共同で使っている井戸は、勝手口から左手奥に、三間ほど進んだところにあった。長い縄の先に桶《おけ》を結びつけ、それを井戸の上に足場を組んで取り付けた滑車であげさげする車井戸である。井戸端に積んである石が、お初の手のなかの瓦灯の明かりを受けて、かすかに光った。誰もいない。耳を澄ませても、何も聞こえない。お初は溜めていた息を吹き出し、大きく深呼吸をした。
さっき感じた気配は消えていた。あれほどはっきりと感じられたものでなかったなら、気の迷いかと思っただろう。もしかしたら、下駄屋の二階で出会ったような奇怪な出来事に、お律の消えたこの場所でも出くわすかもしれないと身構えていた心が、少し緩んだ。
なんということもなく、お初は手をのばし、井戸の縁に載せてある桶に触れてみた。縄は最近かえたばかりのものらしく、まだしっかりとしていて、手にごつごつとした感触がある。
お律は消えたとき、この縄をつかんでいたろうか。それとも、まだ井戸端に近づいてくる途中だったろうか。
そのとき、縄をつかんでいる手が、急に大きく震えた。鞭打《むちう》たれたかのような痛みが、腕から背中にかけて、稲妻のような勢いで走り抜けた。
そこでお初が感じたのは、凄いような憎しみ、こりかたまった恨《うら》みの思いだった。
腕が震え続ける。血を、肉を、骨を伝わって、暗い感情が雪崩《なだれ》をうってお初のなかに流れこんでくる。
頭のなかで、まばゆいような真っ赤な光が弾けた。その光は内側からお初の目を射抜き、痛みによろめいて思わず縄から手を離した。その拍子に桶を押しやってしまい、滑車がくるくると回って、桶は井戸の底へと転がり落ちた。大きな水音があがった。
だがその水音にもかき消されぬほどの悲鳴のように大きな声が、お初の頭の内側に響いた。
(姉さんなんか、死んじまえばいい!)
叫びが尾を引いて消えてゆく。それと同時に、目の裏を染めていた真っ赤な光も消えた。お初はおののきながら我にかえった。
今のは、いったい何だ?
だがそれを考えている間はなかった。井戸端に立ちすくむお初の顔に、身体に、次第次第に勢いを増しながら、風が吹きつけてくる。湿った夜風ではなく、凍るように冷たい鎌の刃のような風。
あの魔風だ。
身構えて、お初は闇をにらんだ。ごうごうと耳元でうなりをあげながら、風は吹き降りてくる。それは井戸の上の闇のなかからやってくる。あたかもそこに穴が開いてでもいるかのように、ひとつのかたまりとなって、はっきりとした道筋を持ってお初目がけて降りてくる。
びゅうううううううっ!
刹那《せつな》、思わず勇気を飛ばされて分別を見失い、お初は目を閉じ両手で頭をかばった。風はお初の頬を平手で叩き、髪を乱し、着物の裾をさわがせて、通り魔のように吹きすぎた。
そして沈黙。
と、お初のすぐ背後で、何かがどさりと地面に落ちる音がした。
振り向いてみる。井戸端と、長野屋の勝手口のちょうど中間あたりの地べたに、黒いものが丸くなっているのが見えた。
恐ろしさのせいで、息がはずんでいた。膝頭《ひざがしら》も笑っている。瓦灯を取り落としそうになってあわてて持ち替え、お初はゆっくりとその黒いものに近づいた。
膝を折って身をかがめ、灯りを近づけてみる。黒いものには、長いしっぽがあった。
猫だ。黒猫だ。背中をこちらに向け、脚を縮めて丸くなっている。
そうっと触れてみる。冷たくなっている。これは骸《むくろ》だ。なぜ死んだのだろう? 今の風に巻かれたのか?
指先で猫の死骸を動かしてみた。とたんに、ひゃっと声をあげてしまった。
猫には首がなかった。すぱりと切り取られている。傷は新しいものではなく、周囲に血が固まってくっついていた。
勝手口のほうで、文吉の声がした。「お嬢さん? 大丈夫ですかい?」
返事をするために、呼吸を整えなければならなかった。お初があえぎながら息を吸い込んでいると、文吉は勝手口から飛び出してきた。顔がひきつっている。
「お嬢さん!」
駆け寄ってきて、途中で文吉も地面の上のものに気がついた。
「なんですこりゃ……あ、猫だ!」
震えを飲み込んで、お初はうなずいた。
「今の風が、通り過ぎるときに落としていったの」
「首がねえ……」
「長野屋の人たちは大丈夫だった?」
文吉は、猫の骸から視線を引き離すと、強ばった顔でうなずいた。
「風が吹き込んできたとき、なんだか金縛《かなしば》りにでもあったみたいに身動きできなくなっちまいました。でも、誰にも怪我はありませんよ」
「よかった。何かこの猫の上にかけるものを探してきて。あたし、ちょっと長野屋の人たちにきいてみたいことがあるの」
文吉にあとを頼み、お初は勝手口から家のなかに戻った。座敷に入ると、さっきよりもまだ小さくなって、たがいに手を握りあうようにして、長野屋の三人が寄り添っている。「今のは――今の風は」もつれる舌で、勝太郎が飛びつくようにしてきいた。「あの風はなんです?」
「あの風ですよ」青ざめた顔で、おせんが言った。「お律が消えたときも、ああいう風が吹いたんです」
お初はお玉の顔を見ていた。幼い娘は両親のあいだにはさまり、隠れるようにして顔をうつむけている。弱々しく、怯えきった様子だ。
だが、今しがた、お初が井戸端で感じたあの憎しみは、お玉の心にあったものだ。なぜならば、お初の心のなかに弾けた叫び声――
(姉さんなんか、死んじまえばいい!)
あれは、お玉の声だったのだから。
どれほど見据えても、お玉は顔をあげずお初を見ようとしない。勝太郎が不審気に目をあげた。
「お玉がどうかしましたか?」
お初は首を振った。今はまだ駄目だ。もう少し時をおいてから、お玉の心の内を探ってみよう。頭を切り替えて、お初はきいた。
「こちらでは、猫を飼っておられますか? 黒くてしっぽの長い、まだ大人になりきってない猫です。身体が小さめの」
勝太郎とおせんは顔を見合わせた。
「飼ってはおりませんが――」
「近所にいるとか?」
「はい。野良猫ですが、おっしゃるとおりの小さい黒猫が、ときどき裏口のほうでうろうろしていることがありまして、お律が可愛がっておりました。残り飯をやったりして」
では、あの猫はお律の猫か。
「勝手口のところに、そういう猫の骸があるんです。さっきの風が吹き落としていきました。確かめてみていただけますか」
お初の言葉に、勝太郎が立ちあがった。お玉もようやく顔をあげた。お初と目があうと、一瞬、どきりとするくらいまともにこちらを見つめて、それからまた俯《うつむ》いた。
勝太郎は走るようにして座敷を出てゆき、すぐに戻ってきた。お初につめよらんばかりの勢いだった。
「あれはなんです? なんであんなものが?」
「わかりません。でも、あの猫がお律ちゃんの可愛がってた猫であることは確かでございますか?」
勝太郎はがくがくとうなずいた。「そうです。いや、そうだと思います。首が――首がないけれど――」
おせんが声をあげた。「猫の首がない?」
「そうなんだよ。首を切り取られている」
勝太郎の返事をきくと、おせんはもの狂いのようになって頭を抱えた。
「あの風にさらわれて、そんなふうになったというんですか? じゃ、お律は? お律も首が?」
「おっかさん!」お玉が母の袖をとらえてゆさぶった。「しっかりしてよ」
だが、おせんにはお玉の声など聞こえていないようだった。わっと泣き伏すと、
「お律、お律、ああどうしよう!」
文吉が座敷に戻ってきた。遠く、鐘の音が聞こえてきた。
「お嬢さん、そろそろ約束の時刻です」
中之橋へ行かねばならない。
「千両箱の用意はできているのよね?」
「へい。両替屋から空箱を借りてきてあります」
お初は一同に言った。「中之橋には、わたしが参ります」
「だけどお嬢さん――」
「文さんは長野屋さんたちをお連れして、姉妹屋に行ってちょうだい」
文吉が目を見張った。「姉妹屋へ?」
「ええ。ここにいては危ないわ。さっきのようなことが、またあるかもしれない」
長野屋の勝太郎は、お初と文吉の顔を見比べながら、揺れる心をそのままに、口元を震わせていた。中之橋へ、お初ひとりで行かせるのは心もとない。だが、お初のような小娘ひとりと、ここに残るのも心細い。
おせんはぐったりと身を伏せたまま、細い声で泣き続けている。お玉は母の身体を抱くようにして、じっと黙りこんでいる。
「さあ、急いで。千両箱はどこ?」
日ごろから、お初の気性をよく知り抜いている文吉は、それ以上の反対をしなかった。黙って一度座敷を出ると、大きな風呂敷で包んだ千両箱を抱えて持ってきた。
「なかに石を入れてあります。重いですよ」
文吉たちを先に送り出し、お初は長野屋の灯りを消すと、持ってきた伊勢屋の名入り提灯に火を入れて、夜の町へと歩み出た。
両腕で千両箱を抱え、右手の指で提灯の柄をつかんでの、不自由な道行きだ。それでも、重さは感じなかった。気持ちははやっていた。恐ろしさのせいかもしれないが、昂《たか》ぶっていた。
長野屋の人びとは、とりあえずあの家から離れれば大丈夫だろう。それに、あの怪異に、もしもお玉がからんでいるのなら、余計にかの女をあの家から引き離すことが必要だ。
さっきのあの凍るような冷たい風――長野屋に踏み込み、お律を取り返そうという意志を持って立ち働くお初に向けて、刃のように襲いかかってきたあの魔風には、はっきりとした意志が感じられた。猫のむくろを落としていったのは、おあきの部屋で手習い紙を舞い上がらせたときと同じように、お初を脅しつけるためだろう。
してみれば、これからも、お初があきらめしっぽを巻いて逃げださない限り、お初の行くところ、きっとあの魔風もやってくる。お初がくっついていれば、長野屋の人びとをかえって危険にさらすことになるだろう。
中之橋への道のりの途中で、木戸をふたつ通り抜ける。そこの木戸番には、事前に話を通しておくと、六蔵が言っていた。約束に嘘はなく、お初が挨拶をして「通町の六蔵の手の者です」と小声で囁くと、木戸番はすっと道を開けて通してくれた。
ひたひたと、夜道に足音が響く。それが、万町から長野屋へ、加吉と肩を並べて歩いてきたときの足音よりも重く聞こえるのは、腕に抱えた千両箱のせいだと思おう。けっして、心の重さのせいだとは思うまい。
なぜなら、中之橋で金を奪おうと待ち受けている者を、恐れる理由などないからだ。あれはただの便乗組。お律の失踪を、ただ利用しようとしただけの連中だろう。猫の骸を目にした瞬間に、お初はそれと確信した。あんなこと、人の手でできることではない。
お初は堀割に行き着いた。左に曲がる。
堀割の水はべったりと凪《な》いで、夜よりも暗くよどんで見えた。水面を渡ってくる風には、かすかに水藻の匂いがした。
あたりには誰もいない。張り込んでいるはずの者たちの気配も感じられない。どこかの物陰に潜んでいるはずの六蔵は、文吉ではなくお初の姿を見つけて、心の臓がでんぐりかえるような思いをしていることだろう。
(ごめんね、兄さん)
心のなかで呟きながら、お初は堀端を歩いていった。
(だけど兄さん、信じてるからね。きっと、この不埒《ふらち》な野郎を捕らえてちょうだいよ)
生き身のものならば、あの魔風よりはたやすく捕らえることができるだろう。問題はむしろ、それからだ。
中之橋のたもとまで来て、お初は足を止めた。
堀割の両脇には、ずらりと蔵が並んでいる。夜目にも白い壁が、無表情にお初を見おろしている。堀割は、右へ行けば荒布橋《あらめばし》を通り過ぎて日本橋川に、左へゆけば鈎型《かぎがた》に曲がってさらに細い堀割へとつながっている。
さて、連中はどこから来るものだろう。
千両箱の重さで、腕がしびれてきた。よいしょと持ちあげて持ち直すと、指先でつかんでいる提灯の柄が揺れて、灯りも揺れた。地面に落ちているお初の影も、ゆうらりとたじろいだ。
そのとき――
「おい」と、背後の頭上から呼びかける声が降ってきた。蔵の屋根の上だ!
とっさに、お初はくるりとそちらを向こうとした。声はそれを押し止《とど》めた。
「動くな」
低い、男の声だった。
「そのままそっちを向いていな」
お初はうなずいて、堀割に顔を向けたまま、しゃんと首をあげた。
「あんた、長野屋の人かい?」
「ええ、そうです」
「あそこには、お律のほかに妹がいるだけで、あんたみたいな年ごろの娘がいたはずはねえがな」
ここはこらえどころだ。便乗組のこの連中が、長野屋のことをそう詳しく知っているわけはないということに賭けてみるしかない。
「あたしはお律ちゃんの従姉なんです。通町の伊勢屋って菓子屋の娘です。長野屋のおじさんとおばさんが、心配のあまり具合が悪くなってしまったんで、頼まれて代わりにやってきました」
頭上の声は沈黙している。
お初は声を張りあげた。「だけど、お金はちゃんと持ってきましたよ。これ、このとおり」
千両箱を、胸の高さに持ちあげて見せた。提灯の明かりが、また揺れた。
その揺れる光のなか、中之橋の向こう側に並ぶ蔵と蔵のあいだに、一瞬、黒い人影がさっとかすめるのを見た。どきりとした。あれは張り込みの人びとだろうか。兄さんはどこにいるんだろう?
「どうやら、おめえひとりのようだな」
ゆっくりと、男の声がそう言った。お初は背後からなめまわすように見つめられているのを感じた。首筋がざわざわと寒くなる。
「いい度胸だ。怖くねえのかい?」
心のなかで、お初は思った。ああこいつ、ケチな野郎だ。金目当てのさばけた者ならば、余計な口などきかずにさっさと指図を飛ばしてくるはずなのに、相手が小娘ひとりと知って、わざといたぶるような声をかけてくる。今の立場が楽しくてならないのだろう。
お初は強気にきっぱり言った。
「あたしより、お律ちゃんはもっと怖い思いをしてるでしょうよ。あんたみたいなろくでなしに捕らえられて」
男の声は、低く笑った。
「なあに、お律はちっとも怖がっちゃいねえよ。もうすぐうちに帰れるって、ちゃんと言い聞かせてあるからな」
「そんなら、すぐにお律ちゃんを返してちょうだい」
「お宝をちょうだいしてからの話だ。おい小娘、おめえ、名前はなんていう?」
「お初よ」
「そうか、お初ちゃんか」喉をごろごろ鳴らさんばかりに、男は猫撫で声を出した。「お初ちゃん、そこからもう二歩、前に出な」
お初は指図に従った。
「よし、そこでいい。足元に千両箱をおろしな。おっと、風呂敷はとってくれ。そんなものから足がついちゃかなわねえ」
お初は身をかがめ、風呂敷をほどいた。たたんでたもとに入れた。
「そしたらおめえは、提灯を持って、そのまままっすぐ歩いて中之橋を渡れ。でも渡りきっちゃいけねえよ。橋の真ん中で待ってるんだ。いいな?」
「わかったわ」
「けっして振りむいちゃいけねえよ、お初ちゃん。おめえだって命が惜しいだろう?」
クックッと笑いながら、男の声は付け加えた。
言われたとおりに、お初は中之橋の真ん中で足を止めた。橋の上にいると、水藻の匂いがいっそう強く鼻をつく。
背後で、すとんという音がした。あの男が、蔵の屋根の上から地面に飛び降りたのだ。
こらえてはいても、提灯を持つ手が震えた。明かりが上下する。すると背後から、あの声がからかうように言った。
「そんなに震えちゃ困るね、お初ちゃん。明かりがあっちこっちしちゃあ、金をあらためにくいじゃねえか」
こんちくしょう――と思った。ぐいと提灯の柄を握り締めた。
かすかな足音がする。男が千両箱に近づいてゆくのだ。ほんの数歩の距離だ。まもなく箱に手が届く。蓋を開ける。そのときが勝負だ。中身がただの石ころだと判れば――
がたんと、蓋が開けられた。
次の瞬間、お初の背後で、続けざまにざざっという音がした。人の気配がぱあっと近づいてきた。兄さんたちだ!
「うお!」
わめいたのは、あの屋根の上の男だ。
「はめやがったな!」
お初は振り向いた。たくさんの明かりが目に飛びこんできた。今の今まで、これほどの人数がどこにどうやって隠れていたのだろう?
屋根の上の男は、五、六人の男たちに取り囲まれ、蔵の壁を背にして張りついていた。一見職人風のいでたちだが、顔にはぶかっこうな黒い覆面をしている。覆面の透き間からのぞく目が、きょときょとと動いている。
「観念することだな」
男を取り囲む人の輪のなかへゆっくりと進み出ながら、六蔵が言った。片手に十手を構え、視線はぴったりと男の顔にあてられている。
兄さんの鬼みたいな怖い顔を、これほど頼もしく思ったのは初めてだと、お初は思った。胸の内に誇りがこみあげてきた。
六蔵の言葉が合図になったかのように、男を取り囲んでいた者たちが、一斉に飛びかかった。素早い動きに、男は壁際から一歩も逃げることができず、むんずと腕をとられ、ねじあげられて、地面へ押し倒された。
「長野屋のお律はどこにいる?」
膝をついて男の顔のそばにかがみこみ、六蔵は太い声を出した。
「おめえの仲間が捕らえてるのか?」
「……仲間なんかいねえ」
顔を半分地面にすりつけられながら、男はうめくように言った。
「全部が全部、おめえひとりで企んだことだっていうのかい?」
「そうだよ」男は、文字通り地べたの底から響いてくるような笑い声をあげた。
「何がおかしい?」
「おかしいさ。おめえら、俺をひっとらえて手柄を立てたつもりだろうが、そうはいかねえってことよ」
男の腕をねじあげている若者が、カッとなったのか、いきなり男の脇腹を蹴りつけた。「きいたふうな口をきくんじゃねえ、このごろつき野郎!」
だが、なじられたほうの男は笑い続けている。鼻の頭にもくちびるにも、目立つ前歯にも泥がくっついている。
「なんとでもいいな、お阿仁《あに》いさんたちよ。どれだけ俺を痛めつけたって、お律は帰っちゃこねえんだからな」
「なんだと?」
「お律の居場所を知ってるのは俺だけだってことさ。そいで俺は、どう痛めつけられようと殺されようと、お律の居場所を吐きはしねえってことさ」
捕方の男たちのあいだに、さすがに動揺が走った。落ち着いているのは六蔵だけのように見えた。
「そんなことを言ってられるのは今のうちだけのことだ」と、六蔵は言った。「俺たちはこれからおめえを番屋に引っ張ってゆく。そこで、どんな手を使ってでも、お律の居場所を吐かせてみせる。おめえの今の強気が、さて夜明けまで続いているかどうか見物ってもんだ」
「好きなだけ脅かすがいいさ」と、男もやり返す。「つかまったからには、どうせ打ち首、獄門の身だ。ひとりでそんな目に遭うのはひきあわねえ。お律も道連れに、地獄への道行きってやつを洒落こむよ。長野屋の連中には、娘はもう死んだようなもんだって言ってやんな。気の毒にな」
せせら笑うような男の口調に、お初は奥歯を噛み締めた。なんという言いっぷりだろう。
「そういうのを、引かれ者の小唄っていうんだ」
六蔵が、口の端をひん曲げて笑った。そして捕方の男たちに合図した。
「連れていけ」
捕方たちは、捕らえた男に手早くいましめをかけ、引きずるようにして歩きだした。男が引き据えられていた場所には、男が着けていた黒い覆面だけが残った。地べたに落ちたそれは、射落とされた小さな烏《からす》のように見えた。
六蔵はそれを拾いあげた。表裏をひっくり返してあらためている。お初が近づいてゆくと、そのまま、怒ったような声を出した。
「文吉はどうした。腹痛か? ぎっくり腰か?」
「そんなふうに、のっけから喧嘩ごしにならないでちょうだいよ」
六蔵はお初をにらみつけた。「文吉が臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれたとでもいうのか? そうでなきゃ、どうしておめえがここにいるんだ?」
「臆病風じゃないけど、風に吹かれたことはたしかなの」
「なんだと?」
「話すと長くなるんですよ。立ち話じゃ間に合わない。あたしたちも番屋に行きましょう」
お初は堀割の入口、江戸橋のほうへと顔を向けてみた。捕方たちの一団は、もうそちらのほうまで歩いていっている。わざと足をよろめかせたりして抵抗している賊の男を、誰かが声高《こわだか》にののしった。
「おめえのやることは、本当にわけがわからねえ」
六蔵がため息まじりに呟いた。手にしていた黒覆面をぽんとはたいて、土埃を落とした。
「しょうがねえ、帰るぞ」
微笑を浮かべて兄のほうを振り向いたお初の頬を、たった今六蔵が黒覆面からはたき出した土埃が、すうっと撫でるようにしてかすめていった。風もないのに。
――風もないのに? いや、違う。
蔵の白い壁を背にして、六蔵は仁王立ちしている。その背後の高いところから、冷たい風が吹きおろしてくる。次第しだいに強さを増しながら。
「来た」
思わず、お初はつぶやいた。
「何が来たって?」
問い返す六蔵の顔には、不可解な判じ絵でも見せられたときのような表情が浮かんでいる。だがやりとりのあいだにも、風はどんどん強さ冷たさを増してくる。
六蔵もそれに気づき、背後を振り仰いだ。
「なんだこりゃ? えらく冷たい風が吹いてくるじゃねえか」
お初は蔵の瓦屋根の上に広がる夜空を見あげていた。黒一色に塗りこめられた空であるけれど、そのなかの一ヵ所に、夜より暗い闇の穴があいているのが、はっきりと見えたのだ。それはさしわたしが大人の肩幅ほどの穴で、刻々と冷気を増しつつ吹きおろしてくる風は、そこからやってくるのだった。風はお初目がけて吹いてくる。お初の袖がうしろにひるがえる。風は強さを増しながら、お初の身体をかすめすぎてゆく。
お初は振り向いた。捕方の一団は今、江戸橋へと出る角を右に折れたところだ。捕方のひとりの尻はしょりした着物の裾が、ちらりと見え――
驚きと恐ろしさで、お初は声を失くし立ちすくんだ。
風の出てくる闇の穴を背にしてみると、今度は、風そのものをはっきりと見ることができたのだ。それには形があった。幅はちょうど反物《たんもの》くらい。透き通っていてひらひらと軽く、うねうねと上下しながら捕方たちを追いかけてゆく。
その有様が、何かを連想させた。長いもので、あのような動きかたをするもの。蛇ではない。生き物の動きではない。もっと軽くて、もっとしなやかなもの。魔風は今、身をくねらせながら江戸橋への角を折れた。
次の瞬間、大勢の人間の叫び声が弾けた。捕方たちだ!
「兄さん!」
六蔵にひと声呼びかけて、お初は駆け出した。下駄が邪魔で、途中で蹴って脱いだ。お初が角を曲がろうとしたとき、また悲鳴のような声がどうっとあがった。
「どうなってるんだ、これは」
追いついてきた六蔵が叫んだ。声が裏返ってしまっている。
目の前の光景に、お初も、身動きできないままぽかんと口をあけてしまった。
捕方たちは、てんでに地面にへばりつき、あるいは腰をぬかしてへたりこみ、あるいは蔵の壁にすがりつき、彼らの前に立ちふさがるようにして宙に浮いている、あるものを見あげている。捕らえられたあの男も、いましめで両手を後ろに縛られたまま、膝立ちになって呆《ほう》けたようにそれを見あげていた。
それはあの風だった。透き通った反物のような風。あれがとぐろを巻いて捕方たちとあの男を囲いこみ、一端を蛇の鎌首のようにもたげて見おろしている。
そこでは風が巻いていた。あの風、凍るような風が四方八方から吹きつけてきて、手をあげて顔をかばっても、目をつぶらずにはいられない。無理に目を見開いていようとすると、涙が出てきた。
形ある風の一端――まるでそこに頭《あたま》があるかのようだ――は、あの男をまっすぐににらみすえるようにして向き合っている。お初は声を張りあげた。
「逃げなさい!」
懸命に声をふりしぼったつもりだったが、風の音にまぎれて誰の耳にも届かなかった。誰ひとり振り向かず、お初のほうを見ようともしない。すぐ隣にいる六蔵でさえ、片手をあげて風から目を守りながらも、目の前の不可思議なものから視線をはずすことができずに、ただ唖然《あぜん》と突っ立っている。
お初自身も、たったひと声警告の言葉を投げかけるのが精一杯で、皆のほうに向かって駆け出してゆくことも、すぐそばで地面に坐りこんでいる捕方のひとりを助け起こすこともできなかった。たとえこの刹那《せつな》、臆病心に突き動かされ、自分ひとりだけ身をひるがえしてここから逃げ出そうと決めたとしても、足はやっぱり動いてくれまい。
心の臓がふたつになって、そのそれぞれが耳の内側までよじのぼってきているかのように、どきどきという音が頭のなかいっぱいに響き渡っている。それなのに、ひゅうひゅうという風の音は聞こえる。次第に甲高くなり、高まりきると次には音色を低くしてゆき、遠い海鳴りほどの音にまで低くなると、今度はまたうねるようにして高まってくる、この不思議な音。
と、そのとき、あの賊の男を見おろしていた風の「頭」が、ひらりと動いた。
野兎《のうさぎ》を目がけて梢《こずえ》の上から急降下する鷹《たか》さながらの素早さで、それは男に襲いかかった。正面からではなく、攻め降りながら途中でくるりと身をひねり、男の背後にまわったかと思うと、一度高々と頭をあげ直し、それから矢のように一直線に飛びかかった。
一瞬のことだった。
お初の目には、最初、透き通った反物のような風が、男の身体を背後から吹き抜けて向こう側に通り過ぎただけのように見えた。いやそれだけではないと気づいたのは、風の「頭」が半円を描きながらひゅううっと夜空に舞い上がったあと、ひと呼吸の半分ほどの間をおいて、あの男の首があったはずのところから、どっと血|飛沫《しぶき》が飛び散ったそのときだった。
首がない!
首を斬られた男の身体は、膝立ちの姿勢のままゆっくりと前に倒れ始めた。噴き出した血は周囲にへたりこんでいる捕方たちの顔や手に飛び散り、地面にも無数の黒い染みをつけた。男の身体がうつ伏せにどうと倒れると、首があったところから、たちまちのうちに黒い血の流れができて、地面を染めた。
温かい血飛沫が、我を忘れかけていた捕方たちを、いっせいに正気づかせた。しかしそれは同時に、彼らの勇気を根こそぎ奪ってしまった。
「助けてくれぇー!」
誰かがひと声叫ぶと、それが合図になったかのように、次から次へと皆がわけのわからない叫び声をあげては逃げだし始めた。
「待て! みんな落ち着くんだ!」
我に返った六蔵が、大声を張りあげながら両手を広げて捕方たちの前に立ちふさがった。が、それも空しい。目を血走らせて逃げ出そうとする、もはや烏合《うごう》の衆と化してしまった捕方たちは、六蔵を突き飛ばし、その手を振り払い、いまだに立ちすくんだままのお初を押し倒しそうになっても気づかず、中之橋の方向へと逃げ戻ってゆく。背後でざぶんという音がして、水飛沫があがった。誰かが堀割に転げ落ちたらしい。
あの男の首を斬った風の「頭」は、一度はそのまま舞いあがって消え去るように見えた。が、お初がなおも見つめていると、それは夜空の高みから竜巻のようにぐるぐると身をよじりながら降りてきて、またさっきのように蔵の屋根ほどの高さに落ち着くと「頭」をもたげた。
だが今度は、風の「頭」が見据えているのはお初だった。
お初はほとんど放心していた。ここへ来る前に長野屋で見た、首のない猫の骸《むくろ》の有様や、たった今どっとあがった血飛沫や、逃げ出そうとしてお初にぶつかった捕方のひとりの前歯に、飛び散った血がべったりとくっついていたこと――すべてのことが頭の中でぐるぐると回り、やがてそこに白い霞《かすみ》がかかり始めた。
(気を失ってしまう)
心のまだ霞んでいない部分が、必死でお初に警告した。
(しっかりして、しっかりしなきゃだめ!)
風の「頭」はぴたりとお初に狙いを定め、さあ今にも襲いかかるぞというように、わずかに前後に身を揺らしている。
「お初!」うしろから六蔵の声が呼びかけてきた。「逃げろ、逃げるんだ!」
だがお初は動けない、足が動かない。
風の「頭」が、するりと滑るように前に動いた。そのまま一気に近づいてくる。お初は目を閉じた。
まぶたの裏に、真っ赤な閃光《せんこう》が走った。長野屋夫婦と擦れ違ったときと同じ赤、だが今度はもっと濃く、目のなかからわきあがってきてお初の身体全体を包みこんでしまいそうな、終わりのない深い赤色の――闇。
氷の風が、顎を、頬を、鼻の頭を、そして額を撫であげた。着物の袖が舞いあがった。お初は全身に力を込め、身体の脇に垂らした両手で拳《こぶし》を握って、両足を地面に踏ん張っていた。
そのまま、静かになった。耳元で、これまでと同じように、高くなったり低くなったりする風の音が、ひゅうるるると鳴いているだけだ。
お初は目を開けてみた。
あの透き通った反物のような風は、そこにはなかった。かわりに、あれよりももっと幅の狭い、紐のようなものがあたり一面に漂い、ふわふわと流れている。
(これはいったい……)
透き通った、幅の狭い布切れのようなものには、それぞれ微妙に違う色がついていた。透き通っているのに、それがわかる。そしてそれは、思いもかけないことではあるが、とても美しかった。
色とりどりのそれらの布切れは、優雅に舞い踊るようにして宙を飛んでいる。見あげるお初の目の前で、美しい布のようなものは宙に浮きながらひとつに寄り集まった。やがてそれが、人の形を成した。
突然、あたりが明るくなった。まばゆいような光が、堀割に続く暗い蔵地に溢《あふ》れ出て、白い壁を輝かせる。
お初の考えに間違いはなかった。あれは衣だったのだ。今、溢れる白い光の中央に現れているのは、観音さまのお姿だったのだ。
そのお顔は、お初が子供のころから親しんできた、どこにでもある観音像のそれと同じものだ。慈愛に満ちた表情。瞳こそ描かれていないが、ふたつの目からは、万人に注がれる温かな視線を感じとることができる。両の腕はわずかに左右に広げられているが、そこから衣の袖がたなびき、長い裾は、手をのばせば届きそうなほどの近いところでひらひらと漂っている。
(観音さまが、お助けくだすった……)
言葉も出せずに、お初は思った。あの魔風を追い払うために、現世にそのお姿を現してくだすった。たった今、あの魔風に首をとられずに済んだのは、観音さまのおかげなのだ。
感動に分別を失くして、お初は一歩、前に踏み出した。そこで膝を折り、拝もうとしたとき、衣の裾がふうわりと目の前を横切った。お初はそれに触れたくて、思わず手をのばした。
すると衣の裾は、さっと避けた。身をくねらし、よじって。
はっとした。
平手でぶたれたような衝撃と共に、お初は気づいた。さっき初めて、あの反物くらいの幅の半透明の風を見たときに、何か似ていると思ってそれが何なのかわからなかった。でも、今わかった。
あれは衣だ。絵で見る天女《てんにょ》の衣そっくりなのだ。それぞれの幅が狭くなり、色がとりどりになった今では、まさに天女の衣そのものに見える。
天女の衣――観音さまの衣。
これは、本物の観音さまではない。これはあの魔風の姿。
悟った瞬間、お初はその場から飛んで離れた。すぐうしろにいた六蔵の身体にどんとぶつかり、いっしょに地面に転がった。六蔵はまるで魂を抜かれた人のようになって、目を開いたまま地面に横たわっている。
お初はきっと顔をあげ、漂う観音を振り仰いだ。声を張り上げて叫んだ。
「有り難い観音さまの姿を借りるなんて、なんて不届きな! あんたは何者なの!」
衣の裾を宙にたなびかせながら、その「もの」はゆっくりと身体を揺らし始めた。
「正体を現しなさい!」
怒りのあまり、お初はこのとき、恐ろしさを忘れていた。
罵声《ばせい》を浴びても、その「もの」の表情に変化はなかった。が、しばらくすると、ふたつのまぶたが、ゆっくりと開いた。そこには、まるで若い娘のそれのような澄んだ黒い瞳があった。
お初の心のなかに、女の声が聞こえてきた。
「おまえは、わたしが怖くないのかえ」
まぎれもなく、その「もの」が語りかけてきているのだ。お初は乾いたくちびるを湿し、ゆっくりと声を出した。
「あんたはいったい、何者なの?」
その「もの」は答えない。かすかに、目尻に笑みが浮かんだように見えた。もっとも、依然として吹き続けている風のせいで、大きく目を開けていられないから、見間違いだったかもしれない。
「おまえは勇敢なのだねえ」と、女の声が再び言った。「それに美しいこと。ほら、その髪、その肌」
観音さまの姿を借りたその「もの」が腕をのばすと、腕から流れている衣の袖がふわりと流れて、お初の頬をそうっと撫でた。お初はぞっとして身震いした。衣の袖は、氷のように冷たかった。
「だけど、おまえでは駄目だわ」女の声が、小さく言った。
「どういうことなの?」
お初は必死で身体を起こし、相手に近づこうともがいた。だが、強い風に押し戻され、頭をあげていることさえおぼつかない。
「ねえ、あんたがおあきさんやお律ちゃんをさらったの? 何をしようとしているの?」
観音さまの姿をした「もの」は、まっすぐにお初を見つめたまま、しばし宙に浮かんでいた。それから、ゆっくりと高いほうへ高いほうへと昇り始めた。
「わたしは、わたしの名をかたるようなものを許すわけにはゆかない」
ゆっくりと、観音像の右手があがった。宙から何かをつかみ出すような仕種《しぐさ》をした。
「だからあの男の素っ首もらいうけた」
右手が鋭く動き、お初に向かって何かを投げつけた。お初はとっさに身をよけた。投げつけられたものは地面で一度大きくはずみ、お初のすぐ横に落ちた。
まぎれもない、あの男の首だ。両目を大きく見開いている。
「邪魔だてをすると、おまえもこうなるよ」
その言葉が終わると、観音像は目を閉じた。とたんに、竜巻のような風が巻き起こった。お初はそれに巻き込まれ、もみくちゃにされて地面に叩きつけられた。
数瞬ののち、はっと気づいたときには、不思議な観音像は消えていた。風も止《や》んでいた。
再び、ささやく影
東の空が、朝焼けの茜色に染まっている。
小さな黒い影が、山門の屋根の上を、右から左へと素早くよぎった。続いて、山門のそばに張り出した松の古木の枝の上に、ひらりと飛び乗った。ざわりと、木立が騒ぐ。
「鉄か。行ってきたのかい」と、和尚の声が呼びかけた。
やや甲高い声がそれに答えた。「ひでえもんだ、和尚」
「どうした」
「頭《かしら》が殺られた。ひでえ様《ざま》だ。あれじゃ、俺たちに助けを求めようもなかったろう」
「じゃあ……」
「そうさ。天狗だよ。あいつが仲間を殺して、またひとり娘をさらっていったんだ。今度は八百屋の娘さ」
ひと息に言ってから、鉄は悔しそうに付け加えた。
「たった十三の女の子だぜ」
和尚はしばらく無言でいた。この早朝に、寺ではもう掃除が始まっている。境内を掃き清める箒《ほうき》の音が、規則正しく聞こえてくる。まるで、遠くで波が打ち寄せているかのようだ。
「それでおめえ、すずが見つけてきた娘のほうはどうなんだ」と、和尚が言った。「おめえはその娘の様子をうかがいにいったんじゃなかったのか」
「そうだよ。そこでいろいろあったんだ」
鉄はふううとうなった。
「思い出しても背中の毛がおっ立つぜ。和尚、俺は天狗の正体を見たぜ」
そのとき、鐘撞き堂から、一日の始まりを知らせる鐘の音が、重々しく響き始めた。鐘のひと打ちの余韻《よいん》が消えるのを待って、和尚は言った。
「どういう姿をしていた?」
「観音像にそっくりだったぜ」
和尚はちょっと何か言いかけ、大きなくしゃみをした。それから、もそもそっと何かをつぶやいた。
「なんだって?」と、鉄が気短に問い返す。
「天狗の正体は、そう簡単には見定めることはできん」と、和尚は言った。「おまえはその観音像を見たのかい?」
「見たさ。浅草の観音さまとそっくりだったぜ。有り難てえって拝みたいようなもんだったぜ。だけどあいつ、目を開いたんだ。そしたら途端に、女の顔になった。俺の言いたいこと、わかるかい? 仏じゃなくなったんだ。女の顔だったんだ」
「おめえの背中に、血がついてる」和尚は言って、心配そうに声をひそめた。「すずの言ってた娘は無事だったのか?」
「ああ、あの娘なら無事だ。えらい鼻っ柱の強い娘だぜ」
鉄はふふんと鼻を鳴らした。
「あの娘なら、俺に会っても腰をぬかしたりしねえだろうよ」
明けない夜
まだ番屋にいる六蔵たちからひとり離れて、ぐったりと疲れ果て、お初は姉妹屋に帰りついた。春の夜は白々と明けそめて、東の空がほんのりと茜色になり始めている。
戻ってみると、およしと加吉と、そして思ったとおり右京之介も来ていて、三人そろって出迎えてくれた。文吉はお初と入れ違いに番屋に走った。長野屋の人びとは奥の客間にいるという。中之橋での出来事については、六蔵がじかに話をすると言っていたので、お初はとりあえず今は、長野屋の人々の前に顔を出さないことにした。
お初の顔をひと目見ただけで、事情が入り組んでいることがわかったのだろう、右京之介は何も尋ねなかった。お初のほうから話そうとすると、手をあげてそれを止めた。
「明日にしましょう、明日に」
「もう明日だわ」
「ひと眠りして起きたときが、お初どのの明日です。六蔵どのはまだなのでしょう?」
お初はうなずいた。「いろいろ、あとの算段があるんだと思うの」
おなかは減っていないと言うのに、加吉が甘みの強いくず湯を一杯こさえてきて、これだけは飲んでから寝ろという。およしもいっしょになって、拝むような顔で勧めるので、お初はなんとか、それを飲み下した。
「おいしいわ」と言うと、およしがほっと目元を緩ませた。
「親分が帰ってくるまで、長野屋の皆さんの面倒はあたしがきっちりみておくから、お初ちゃんは休んでるのよ、いいわね?」
「はあい」
義姉さんは心配性だと思いつつも、やっぱりお初はほっとした。家《うち》はいいものだ……そう思うと、今さらのように心が痛んだ。家から引き離され、どことも知れない場所に連れさられているふたりの娘――あの娘たちは、今ごろどうしているだろう?
「義姉さん、もう仕込みにかかる時刻ね?」
「そうよ。心配しなくても大丈夫。もう、下ごしらえはあらかた済んでいるから。何もしないで待ってるのも辛いんで、加吉さんといっしょに、夜通しこまこま働いてたのよ」
およしは徹夜明けの疲れの色など毛ほども見せず、明るい顔でそう言った。
「そういえば、捨坊の朝ごはん……」
お初は思い出した。あの子もきっと、さぞかし心細がっていることだろう。
すると右京之介が胸を叩いた。「そちらのほうは、私が受け持ちましょう。人目にたたないよう、下駄屋には、ちゃんと裏口から入りますよ。ご心配なく」
先回りして心配の種を取り上げられてゆくのは、面白いような気分でもあった。そのうち、本当に眠くなってしまったので、お初は寝床へと引きあげた。
自分の部屋にあがってゆく途中、長野屋の人々がいる客間の前を通りかかる。明かりがついていた。お初はそっと耳を澄ませた。
ほそぼそと、話し声が聞こえてくる。
「こんなことになってしまって……」
おせんの声だ。疲労のためだろう、かすれてしゃがれたようになっている。
「まだお律が帰ってこねえと決まったわけじゃねえ」と、勝太郎が怒ったような口調で言った。彼の声も疲れていた。「きっと元気で戻ってくるさ」
「本当にそうならいいのだけど」おせんは泣きだしそうだ。「おまえさん、あたしは今度のことが、何かの罰のように思えてならないんですよ」
廊下で、お初は息を殺した。罰?
「何が言いたいんだ、おめえは」
おせんはしばし、言いよどんだ。この会話の様子では、お玉はどうやら眠っているらしい。
「……あたしたちが、あんなことを考えたものだから」
「あんなことって?」
勝太郎はぶっきらぼうに言い返す。おせんの声が涙を含んだ。
「わかってるでしょう。おまえさんだって、心のなかではそう思ってるんじゃありませんか。そうでしょう」
「俺にはさっぱり見当もつかねえ」
言い捨てる勝太郎の語調には、迫力が欠けていた。彼が狼狽していることは、声を聞いているだけのお初にも、よくわかった。
しばらくのあいだ、客間のなかは静まり返っていた。夫婦ふたりが俯いて視線をそらしあっている様を、お初は思い浮かべた。
「ふたりとも、あたしたちの大事な娘ですもの」と、おせんがぽつりと言った。「どっちかを手放そうだなんて、考えちゃいけなかったんですよ」
「それがなんだってんだ」
「あんなことを考えたから、神さまが怒って、ひとりを連れてっておしまいになったんですよ、きっと」
「いいかげんにしろ」と、勝太郎は言った。怒っているというより、頼んでいるような口調だった。「お律はかどわかしにあったんだ。とんだ災難だ。それだけのことだ」
おせんが静かにすすり泣く。やがて勝太郎が「俺は少し横になる」と言った。明かりが消えた。
廊下のお初は、つきあたりの格子窓から差し込んでくる、淡い朝日のなかに取り残された。たった今耳にしたことと、昨夜長野屋の井戸端で感じた、物凄いような憎しみの感情とを結びつけてみようとした。
(姉さんなんか、死んじまえばいい!)
一度、お玉とよく話しあってみなくてはなるまい。あの魔風と、ふたりの娘の失踪と、お玉のことが係わりあるのかどうかはわからない。でも、ひょっとしたら、小さなつながりを見つけることはできるかもしれない。
お初は自分の部屋にあがり、寝床にもぐりこんだ。すぐに猛烈な眠気がさしてきた。有り難いことに、夢はみなかった。
目を覚ましたときには、もう陽はのぼりきっていた。あわてて着替えをして階下へ降りてゆくと、毎日昼飯を食べにくるなじみの阿仁《あに》さんたちが数人、
「おや、お初ちゃんは寝坊かい?」と言いながら、暖簾《のれん》をくぐって外へ出てゆくところだった。
「まだ寝ていればよかったのに」
およしにはそう言われたが、お初はかなり元気を取り戻していたので、そのまま前掛けをかけ、たすきで袖をくくって仕事についた。
姉妹屋がいちばん忙しいのは、なんといっても、河岸の人々が朝飯を食べに来る早朝と、居酒屋の縄のれんを出す夕方以降だ。昼時は、それに比べたらかなり楽なもので、あいまを縫って、お初も加吉が腕をふるってくれたごはんにありつくことができた。それでいっそう、元気が出てきた。
浅蜊《あさり》の味噌汁に、山椒《さんしょう》の若芽の木の芽味噌をふんだんに使った田楽。今朝の日がわりの献立の余りだがと加吉が付けてくれた鰆《さわら》の焼き物――美味《おい》しいものを口に運びながら、姉妹屋のにぎわいをまのあたりにし、出入りする人たちの陽気な会話、威勢のいい挨拶、笑い声などを聞いていると、昨夜のこと、いや、おあきの神隠しから始まった一連の出来事が、まるで嘘のように思えてくる。悪い夢でも見ていたような気持ちになってくる。
そういえば、加吉が以前、ぽつりとこんな言葉を口にしたことがあった。
「旨い食い物には、人を正気に戻す力があるもんです」
なるほどと、お初は実感した。おなかがくちくなってくると、物事を筋道立てて考えることができるだけの落ち着きも戻ってくるが、同時に、畏《おそ》れたりおののいたりする心のばねみたいなものの力が、少し弱まってしまうのだろう。
食事を終え、ごちそうさまと手をあわせているところに、およしが茶を持ってきてくれた。「きれいに食べたわね。よかった。お昼ごろ、古沢さまが寄ってみるとおっしゃってたわよ」
「そう。長野屋さんたちは?」
「半刻ほど前に、家に帰ったわ」
「兄さんがいいって言ったの?」
「ええ。親分が戻ってきたのは朝の五ツ(午前八時)ぐらいだったけれど、そのあとかなり長いこと長野屋さんたちと話しこんでいてね。それが済んだらすぐに。ただ、当分のあいだ商いは休んで、あまり外に出歩かないようにって言っていたようよ」
「誰かついているのかしら」
「見張りはちゃんとつけてあるわよ。心配しなくても大丈夫」
「兄さんは?」
およしは微笑した。「さっきのぞいてみたときには、まだ大いびきだったわね。でも、昼前に起こしてくれって言われてるから、そろそろ行かないと」
「それ請け合った。あたしが行くわ」
お初は立ちあがり、六蔵の寝間へと足を運んだ。障子の前に立って耳を澄ましたが、六蔵のいびきは聞こえない。それどころか、なかから声をかけられた。
「お初か?」
お初は障子をがらりと開けた。「なんだ、起きてたの」
布団をたたみ、六蔵は長火鉢の前に大あぐらをかいて、さかんに煙草をふかしている。目はぱっちりと開き、疲れた様子もない。岡っ引きのお役目というのは、そもそも身体が頑丈でないと勤まらないものだが、八王子まで出掛けての大捕り物のすぐあとに、昨夜は徹夜であの騒動だ。少しはくたびれた顔をしていたほうが可愛げもあろうというものだが、六蔵はそれほどやわではないということか。それに六蔵は、まるで水芸の芸人が、掌《てのひら》を返せばさっと水を出し、また返せばさっと止めるというような具合に、短い時間にどっと眠って、ぱっと起きてばりばり動き回るということを得意にしている。こればかりは、お初には真似ができない。
「兄さん、昨夜《ゆうべ》の一件をどう思う?」
尋ねると、六蔵はぎろりとお初をにらんだ。「それより、なんでおめえが今度のことにからんでるのか、そいつを先に話してみろ」
「ええ、いいわ。だけど、長い話になるから、ちょっと待っててくれない? もうすぐ右京之介さまが来るから。そしたら話がいっぺんで済むもの」
お初は長火鉢にかけられている鉄瓶《てつびん》に触れてみた。湯がかんかんに沸いている。茶道具を持ってきて、お初は熱いほうじ茶をいれた。そのあいだにも、六蔵はぶんぶん煙管《きせる》をふかしている。頭を働かせている証拠であり、苛立《いらだ》っているしるしでもある。
お初はつと立ちあがり、窓を開けた。煙草の煙を追い出す。と、入れ代わりに入ってきた春の風に乗って、桜の花びらが一枚、座敷のなかに舞いこんできた。
それはお初のつま先に落ちた。かがんで指先でつまみあげる。桜――
ふと、柏木が話してくれたことを思い出した。神隠しにあった少年は、桜の森のなかに迷いこんでいた、それは深い桜の森で、どこまでも深く人影もなく、鳥の声も聞こえない。この世のものではないと思った、と。
今、おあきやお律のいるところも、そういうところだろうか。桜が満開に咲き誇っているのだろうか。神隠しに遭う者は、みんなそこへ連れてゆかれるのだろうか。
お初は、手のなかの桜の花びらをじっと見つめた。こうして見ると、美女の爪のように見える――
とたんにぞっとして、払い落とした。昨夜の観音の顔を思い出したのだ。ちょうどそのとき、階下からおよしの声が呼んだ。
「古沢さまがみえましたよ」
六蔵と右京之介が顔をそろえたところで、お初は事の次第を語り始めた。すっかり語り終えるまでのあいだに、鉄瓶の水を一度足さなければならなかった。
六蔵はしばらく黙って煙管を噛んでいたが、やがて目をあげ、右京之介にきいた。
「古沢さまのお父上は、倉田さまのことをどう言っておられます?」
昨日一日、右京之介は、倉田主水という同心の行状について調べまわっていたのだ。彼はひとつうなずいて、言った。
「私もまだ、あまり詳しいことはつかんでおりません。父の口からも――あのとおりの人ですから、多くを引き出すことはできませんでした。が、ひとつだけ確かなことがあります。倉田主水という同心は、かなり毀誉褒貶《きよほうへん》の激しい人のようですね」
今現在、彼が定町廻り同心として幅をきかせているのは、北町奉行所の吟味方与力の古株である柿田重兵衛《かきたじゅうべえ》にいたく気に入られ、目をかけられているからであるという。
「ああ、柿田さまのね……」と、六蔵がゆっくりうなずいた。
「偉い方なんですか?」と、お初はきいた。右京之介は苦笑した。
「吟味方与力のなかでは、いちばんの功績をあげている方だそうです。なにしろ、これまで手掛けた事件やもめ事で、下手人のあがらなかったものはない、解決のつかなかったものはないという方ですからね」
これには、お初は吹き出してしまった。
「まさか、そんなこと」
そうなのだ。だから右京之介も苦笑している。
「もちろん、これは相当の無理をしての結果でしょう。たとえばそれが上のほうから降りてきた事件ならば、差し障りのない範囲のところで下手人を出して事をおさめてしまう。また、下々の者のあいだで起こったもめ事であるならば、四角い升《ます》につきたての餅《もち》を押し込むようにして、おさまらないものをおさめてしまう。だが、記録として残るものの上では、すべて解決と、こうなるわけです」
「倉田さまは、その手先ってわけですね?」お初は、なるほど押しの強そうに見えた、あの横顔を思い出した。「それで、下駄屋の一件でも、闇雲《やみくも》に政吉さんを下手人にしようとしたんだわ」
右京之介はうなずいた。「私の父も頭の固い人ですが、わからないものはわからない、できないことはできないと言い切ることはいたします」
右京之介の父、古沢武左衛門《ふるさわぶざえもん》という方は、それこそ百年ほど昔に生まれていたなら、どれほどよかっただろうかと思うような古《いにしえ》の道を重んじる人なのだ。それだけに、少しばかり情において欠けるところがあるようであり、それが嫡子の右京之介との葛藤の理由《わけ》でもあったのだが、だからといって古沢武左衛門は、けっして利を理と言いくるめて他人に押しつけるような人ではないし、そういう働きかたをする与力でもない。
「それですから、父も、柿田どの一党のやり方については、苦々しいものを感じているようです。私が水を向けると、おまえはもうお役目を退いたのだからあれこれ口を出すなと一喝したあとで、倉田主水の行状が目につくようならば知らせてくれと言ったくらいですから」
六蔵が、煙管を火鉢の縁に打ち付けた。
「柿田どの一党というと、柿田さまの下、倉田さまのほかにも人が集まっているんですかい?」
「中心となっているのは倉田主水ですが、彼らのやり方は、たしかに大きな成果をあげることができるものですので、奉行所のなかはもちろん、町人たちのなかにも、彼らを支持する向きがあるらしいのです。つまり、何か事が起こり、必ず下手人をあげて欲しいならば、倉田主水に、ひいては柿田重兵衛に頼めば確実だ、というような」
「それで金も動くと?」
「そういうことでしょう。昔の朋輩がちらりともらしてくれたことですが、今では柿田の名声――というのも妙ですが、彼の評判は、北町奉行所のなかにも静かに広がっているようです。誰でも手柄はたてたいものですし、金もほしい。まして、お役目から離れた私が言うのも卑怯ですが、御家人とはいえ、出世もかなわず、侍のなかでは一段も二段も低い身分と見られている同心や与力にとっては、現世の利益ぐらいしか、追い求めるものがないのですからね。賄賂が横行するのは昔からの習いですし、柿田どのや倉田どのは、それに『必ず下手人をあげる』という名義をつけて看板をあげ、堂々とできるようにしたというだけ、賢いのかもしれません」
岡っ引きの兄のもとで生まれ育ち、八丁堀の旦那といったらもっとも身近で、もっとも偉いお侍さんだ――という感覚を持ってきたお初にとっては、与力や同心は侍のなかでは卑《いや》しい身分だというのは、理解しかねる考え方である。なんだか悲しくなってしまう。
「石部さまは何かおっしゃってる?」と、六蔵にきいてみた。石部というのは、六蔵が手札をもらっている、南町の同心である。ごく親しみやすい人柄で、お初は小さいとき、よく肩車をしてもらった。
「何も聞いてねえ」と、六蔵は首を振った。
「まあ、御府内は広いし、事件も多い。それにもともと石部さまは口が重いし」
長野屋のお律の件は、まだ表沙汰《おもてざた》にはなっていないから、倉田主水や柿田重兵衛が出張《でば》って来るということは、当面あるまい。心配なのは、やはり下駄屋の政吉やおあきの件だ。
「それにしても、辰三親分も面倒なことに巻き込まれたもんだな……」六蔵が顔をしかめてそう呟いた。
「おあきさんの山本町は、辰三親分の縄張ですね」と、右京之介もうなずく。
「それがね、案外そうでもなさそうなの」と、お初は言い、昨日辰三と文字春に会ったときのことを話して聞かせた。「辰三親分は、少なくともおあきちゃんの一件では、倉田さまのことを信頼してるという感じがしたわ」
「むう」と、六蔵が唸った。「これがその、古沢さまのおっしゃったキヨなんとかが激しいというやつですか」
「そうですね」右京之介は微笑した。「難しいところです」
「確かに、お初が見聞きした魔物の話をとっぱらっちまったなら、俺だって、辰三親分と同じように考えるかもしれねえ」
「兄さんたら!」
「まあ、ふくれるな。政吉がおあきの玉の輿を、本当に心から手放しで喜べたかどうか、怪しいものだと俺も思う」六蔵は太いため息をもらした。「人の心ってものには、いろんな色が混じってるからな。目出度《めでた》いことのなかにも黒いものはあるし、弔《とむら》いごとのなかに喜びが隠れてるってこともある」
「だけど、だからって父親が娘を殺すわけないわよ。そんなの、あっちゃいけないことよ」
しかし六蔵は、その「あっちゃいけないこと」があまた起こるのを、若いころからずっとその目で見てきているのである。お初もそれは承知の上だ。
「とにかく」嫌な雰囲気をふっ切るように、六蔵が声を大きくした。「事情は飲み込めた。御前さまからのご依頼だ。お初、おめえは古沢さまといっしょに、できるだけの手を尽くして下駄屋のおあきの一件に取り組んでくれ。ただ、静かにやるんだぞ」
「わかったわ」お初は大きくうなずいた。
「どこかへ行くときは、必ず行き先を言《こと》づけてから動け。何か見つけたら、すぐに知らせろ。勝手は駄目だ。それともうひとつ、いいかこれが肝心だ。けっして、表だって倉田主水に係わり合うな」
六蔵の顔に、深い懸念《けねん》が浮かんでいる。お初は大きくうなずいた。
「兄さんはこれからどうするの?」
六蔵の顔に、さっと影がさした。
「肝心のあの野郎に死なれちまったからな」
答える声に、無念さがにじんでいる。
「まずは、あいつの身元を洗い出すことだ。それと、あの矢場の矢。あれを追いかけてみようと思う」
「出所《でどころ》を探すのね?」
「そうだよ。そうしていくうちに、何か手掛かりがつかめるかもしれねえ。たとえばあいつに、本当に仲間がいなかったのかどうかもわかるだろう」
「それでお律ちゃんが見つかるかしら……」
言いさして、お初はじっと兄の顔を見た。中之橋の堀割での出来事――金をとろうとしたあの男のあの死に様を見れば、お律をさらっていった「もの」が、この世のものではないということは、あまりにも明らかだ。
「わからねえ」と、六蔵は正直に言った。
「とにかくお初、おめえはおめえの道を行け。俺も俺なりに手探りで進んでみる。道がどこかでぶつかれば、その先に、お律もおあきもいるはずだ」
右京之介が、小さく言った。「生きているでしょうか」
六蔵は答えない。黙って首を振っている。
「兄さん、ひとつ聞いてほしいの」
嫌なことだけどと前置きして、お初はお玉のことを打ち明けた。長野屋の井戸端で感じた憎しみの感情のこと、勝太郎とおせんの会話の切れ端を耳にしたこと。
「よくわかった。長野屋の内々のことも洗ってみよう」
「そうっとね」
「そっとな」六蔵はにやりと笑って請け合った。「ちっとは俺を信用してくんな」
お初はあわてて言った。「信用してるわよ。ただ、今度のことでは、びっくりするようなことが続いてるから心配なの。本当に兄さん、用心してね。あたしたちが相手にしてるものは、正体がなんであれ、きっとすごく恐ろしい力を持ってるはずよ」
お初の手をぽんぽんと叩いて、六蔵は「うん」と請け合った。そして煙管を帯にはさむと立ち上がり、大股で座敷を出ていった。
ふたりになると、右京之介が言った。「お初どのは、少し怖がっておられますね」
お初はこっくりした。
だが、たとえば下駄屋の天井裏から聞こえてきた脅しの声や、かどわかしの男の首をすっぱりと切り取った魔風を恐れているのではない。お初を怯えさせているのは、観音さまに姿を借りたあの「もの」が、お初をさして、(美しいこと。その髪、その肌)と言ったときの、あのもの欲しそうな口調なのだった。思い出すと、身震いが出る。
「いったい、あれは何者かしら」
「突き止めましょう」右京之介は言って、にこりとした。「では、捨坊を見舞ってやりましょうか。心細がっているはずだ」
捨吉は仕事場にいて道具を磨いていた。お初と右京之介の顔を見るとさっと立ちあがり、嬉しそうに駆け寄ってきた。手には、荒木を削るのに使うらしい、大きなのみを握ったままだ。
「ちゃんとご飯は食べた?」
「おかげさまで、助かりました」
大人びた口をきいて、ぺこりと頭をさげる。お初は笑って言った。「そのぶっそうなものは置いてちょうだいな」
捨吉はあわてて、だが丁重な手付きでのみを道具箱の中に戻した。道具箱の置き場所からして、そののみは政吉のものであるようだ。
「親方の道具を手入れしていたの?」
捨吉は寂しそうな顔をした。「手持ち無沙汰《ぶさた》だし、こうして手入れしておけば、いつ親方が戻ってきてもいいと思って」
言葉ではそう言っているが、もう親方は戻ってくるはずがないと諦《あきら》めているかのように、小さな肩を落としている。
「元気を出してよ」
「へい」捨吉は笑おうとしたらしく、口元をぴくぴくさせた。それから、はっとしたように、さっき道具箱に納めたのみのほうを見た。
「そういえば、あののみ、変なんですよ」
「変て?」
「お嬢さんがいなくなった朝に、あののみが、表戸の板のところに突き刺さってたんです。手入れをしているときに思い出したんですけど」
「刺さってた……」
なるほど、捨吉が指し示した表戸の下のほうに、深い傷がついている。近寄って、お初は指で触れてみた。たしかに、刃物を突きたててつくった傷のようだ。
「こののみだね?」
政吉の道具箱から、右京之介がのみを取り出した。しばらく、手の中でそれをためつすがめつしてから、お初に手渡した。
受け取ったとたん、お初の背中を、冷風がすうっと撫でた。長年使い込まれ、政吉の汗と手の脂《あぶら》がしみこんで飴色になった柄が、お初の掌の中で生き物のように身をよじったように感じられた。
瞬間、こめかみを鋭い痛みが走り抜けた。同時に、頭のなかに幻が浮かんだ。
五十すぎの職人風の男が、汗びっしょりになり足をもつれさせながら必死で走ってくる。どうやら追ってくる何かから逃げているようだ。走りながら肩ごしに後ろを見返り、また前を向き直ると形相《ぎょうそう》を変えて走り続ける。口をぱくぱくさせ、汗を飛ばして、やがて泣き叫ぶような声をはりあげる。
(わかった、そんならおあきをあやめる!)
「危ない!」
右京之介の叫び声で、お初は我に返った。幻は消えたが、男の叫び声の余韻《よいん》が耳の奥でわんわんと尾を引いている。
「大丈夫ですか、お初どの」
右京之介の手が肩にかかっている。気がつくと、お初はのみを取り落としていた。のみは刃先を下にして落ち、仕事場の土間に突き刺さっていた。お初の下駄をはいたつま先から、半寸と離れていない場所である。
「ただ、おっことしただけなのに……」捨吉が目を丸くしている。「まるで、投げつけたみたいにざくっと刺さっちまった!」
お初と捨吉を遠ざけておいて、右京之介が慎重に身をかがめ、のみを土間から抜き取った。
「本当に?」と、お初はきいた。「本当にそんなふうに突き刺さったの?」
「そうです。お初どのの足を狙っていたようでした」
「思いが残ってるんだわ」
お初の呟きに、捨吉が泣き出しそうな顔を向けた。「思いって?」
お初は急いで言った。「いいのよ、捨坊は気にしないで。道具はしまっておきましょう。でもね、これからは、親方の道具には手を触れないほうがいいわ」
捨吉はうなずいた。気味悪そうにのみから――そしてお初からも、ちょっと身を引いた。よほど驚いたのだろう。
三人は仕事場を出て、捨吉の寝起きしている座敷に移った。右京之介は、秘密の出入口にしている窓を細く開けて様子をうかがい、それからきっちりと閉めた。
お初は、たった今見た幻と、幻の叫び声に心をとられていた。あの職人風の男は政吉だろう。間違いない。だがしかし、どうして政吉が、「おあきをあやめる!」と叫んだりしていたのだ? しかも彼は何かに追いかけられていた。そして必死で逃げていた。あの叫び声の、「そんならおあきを」というところは、たぶんその彼を追いかけているものに向かって発せられたものだろう。
「大丈夫ですか、お初どの」
お初はまたたきして、右京之介を見た。あとで話すということを、目顔で伝えた。右京之介も目で(わかりました)と返事をした。捨吉は、すっかり怯えてしまった様子で、座敷の隅に座り込み、両手で膝を抱えている。お初と右京之介も、彼をはさみこむようにして腰をおろした。
「怖がらせてごめんね、捨坊」
捨吉は亀の子のように首をひっこめた。
「おいら、うちに帰りたい……」
「うち? 行くところはないって言ってなかった?」
「そうだけど……うちには帰れっこねえんだけど……でも、もうここにはいたくねえ」
捨吉の目に涙が浮いている。
「弱気なことを言っちゃいけない。男の子だろう」
右京之介が捨吉の背中を叩いた。お初は捨吉の顔をのぞきこんだ。
「ね、捨坊。昨日あたしが帰ったあと、留守番しているあいだに、何かおかしなことがあった?」
「おかしなことって?」
問い返しながら、捨吉は腕で涙をぬぐった。ついでに鼻水も。
「なんか変な音がしたとか、そういうようなこと」
捨吉は首を振った。「なんもないです。ただ、なんかここにいると寒くって。それは、お嬢さんがいなくなってからずっとそうだけど」
「階上にはあがった?」
「あがってねえです。お初さんがそう言ったから」
「それなら大丈夫よ。頑張ってここを守ってちょうだい」
また、捨吉の目に涙がいっぱいになってきた。「だけどおいら、淋しくって……」
右京之介が微笑している。心根の優しい人だから、捨吉の心中を察して同情しているのだろうに……と、お初が思っていると、彼は言った。
「今までひとりでいるうちは、寂しいとか怖いとか思わなかったんだろう。でも、お初どのが来てくれたことで、ほっとしたからそんな弱音も出るのだよ。さあ涙をふいて。今朝、私といっしょに話し合ったことをお初どのに話してみなくては」
捨吉は涙をふきふきうなずいた。「はい、先生」
今度はお初が目を丸くする番だった。「先生?」
右京之介は大照れの顔だ。「先生とは呼んでくれるなと言っているのに」
「けど、えらい学問をしてるんでしょう?」
無邪気な捨吉の問いに、お初はぷっと吹き出した。「ええ、そうよ。古沢さまは、算学という学問をしておられるの」
「そんなら先生だ。先生、鉄さんや伊左さんを探し出そうって言ってたよね?」
鉄と伊左というのは、政吉が亡くなったあと、倉田主水に連れ去られた職人たちである。お初が右京之介の顔を見ると、彼はうなずいた。「そうなんです、なんとか彼らを探し出せないかと思って」
「探し出すって、どういうこと? ふたりはたぶん、御番所のなかのどこかにいるのだと思うけど」
「それは、ふたりを連れ去ったのが倉田主水だからですか?」
「ええ。他にどこに連れていきます?」
「その前になぜ、倉田主水は鉄と伊左次を連れて行ったのでしょう。まだ訊きたいことがあるというのは、どういう意味でしょうね?」
お初は考えた。「たぶん――政吉さんがおあきちゃんを殺《あや》めたならば、その亡骸をどうにかしなくちゃならないわけだし、その場所に心当たりはないかとか――もちろん、政吉さんはおあきちゃんを殺めてもいないし亡骸を隠してもいないんだから、鉄さんや伊左次さんにそんな心当たりがあるわけはないんだけど、そのあるわけない心当たりを何とかしてでっちあげて『白状』させるため?」
右京之介はにこにこした。「よくできました。しかし、いくら倉田主水でも、そんなことを御番所のなかでやってのけるわけにはいきませんよ。鉄や伊左次が政吉のおあき殺しを手伝ったというのなら話は別ですが、いくらなんでもこの期《ご》に及んでそんな乱暴な話の付け足しができるわけもない。それに、鉄や伊左次があくまでも頑強に、親父さんがお嬢さんを殺めるなんて、そんな馬鹿なことがあるわけはない、何かの間違いだと言い張ったらどうします? 親父さんは、奇怪な朝焼けや、不思議な突風の話をでっちあげられるような人じゃない、お嬢さんは本当に神隠しにあったんだと、声を大にして訴えたら? そして、御番所の誰かが彼らの言い分に耳を傾けるようになったら? 倉田主水としては、今まで彼の手にかかってあがらなかった下手人はいない、解けなかった謎はないという大看板に、ひどく不格好な傷をつけられることになりますね」
「それはそうだけど……。じゃ、鉄さんと伊左次さんは別の場所に連れ出されて、そこで因果を含められているというの?」
「そのとおりです。だからこそ、倉田主水と浅井屋の女将のお松が連れだって行動しているのじゃありませんか?」
そうかと、お初も気がついた。「そうね、御番所ではできないことでも、浅井屋の力添えがあればできる。ふたりをどこかに閉じこめるなりして……。だけど右京之介さま、いくら鉄さんと伊左さんが『白状』したって、そこにおあきちゃんの亡骸なんかあるわけないのに、どうするんです?」
「それはかまわないんですよ。政吉がおあきの亡骸を川に流すのを見たとか、政吉からそういうことをしてしまったという話を聞いたが、口止めされたなどと言わせればいいのですから。亡骸そのものは要らないんです。大切なのは、文書として残すことができて、誰にも不審に思われることのない、筋の通った『お話』なのですからね。不幸なおあきの亡骸は、海へと流されていってしまいました――というお話のね。鉄と伊左次から、そのお話を裏付けるような言葉を引きだして、あとあとまでその言葉を翻《ひるがえ》すことがないように、しっかりと教え込まなくてはならない。そのために、ふたりを連れ出して、今もどこかに捕らえているのでしょう」
そうか。お初は大きくうなずいた。「わかったわ。そんなら、ふたりを取り返すのは、とても大事なことになるのね。でも、どうしましょう?」
「浅井屋の周辺を、張り込んでみようと思うのです。女将と倉田主水がまた連れだって行動するようなことがあったら、そのときこそ好機ですからね。あるいは、ひょっとしたら、またふたりしてここへやって来るかもしれません。方法は、いろいろ考えられますよ。私に任せてみてください」
「右京之介さまひとりで? 危ないわ」
あたしも手伝う――と言いかけたお初を手で制して、右京之介は捨吉の顔を見た。
「捨坊、そら、お話をして」
右京之介に促されて、捨吉はぐすんと鼻をすすると言った。「お初さんが帰ってから、おいらもいろいろ思い出してみたんです。お嬢さんの友達のこと」
「心当たりがあるの?」
捨吉がうんとうなずいたとき、窓の向こうから、ちりちりりという音が聞こえてきた。
「あら」と、お初は耳をそばだてた。
ちり、ちりりりん。風鈴のような音色だ。そういえば、昨日、おあきの部屋にいるときも、窓の外にこの音色を聞いた。
「何かしら」
お初が立って、慎重な手付きで窓を開けた。音が大きくなる。窓の上のほうで聞こえている。
「昨日も聞こえたの。風鈴かと思った。だけど考えてみれば、この季節に風鈴でもないわよね?」
と、音が止まった。そしてかわりに、
「にゃあ」という鳴き声が聞こえた。
同時に、ひさしの上からひょいと白い小さなものが飛び降りてきて、窓枠の上に乗った。小さな猫である。三毛猫だ。首に紐が巻いてあり、その紐に大きな鈴がくくりつけてある。その鈴がちりちり鳴っていたのだった。
「あ、この猫」捨吉が言った。「ときどき、うちに来てました。お嬢さんが餌をやってたこともあります」
三毛猫は、鈴を鳴らしながら座敷のなかに飛び降りた。怖がる様子もなく、捨吉のところに近づくと、褪《あ》せた縞の着物に包まれた彼の膝小僧のあたりをくんくんとかぐような仕種をする。
「慣れてるのね」お初は言って、三毛猫の頭に手をさしのべた。撫でてみるとほの温かい。猫はまた「にゃあ」と鳴いた。
そして、お初の膝の上に飛び乗ってきた。ちょっとびっくりしたが、お初は笑った。
「野良なの?」
「わかんねえ。けど、お嬢さんは『すず、すず』って呼んでました。鈴を付けてるからだと思うけど」
すずは、お初の膝の上にきっちりと腰をおろすと、しげしげとお初の顔を見あげた。お初は膝の上の猫の重みよりも、何か問いかけてくるような視線に、もっと重いものを感じた。
「あたしがおあきちゃんじゃないんで、変だなと思ってるのかしら」
「どうかなあ。座敷のなかにまで入ってきたのは初めてですよ。いっつも、台所のところで残り物をもらってたから」
捨吉も不思議そうだ。右京之介は、壁にへばりつき、気味悪そうに見守っている。
「何か言いたいことがあるのでしょうかね」
すずが「にゃあ」と鳴く。お初は猫に顔をくっつけるようにして、
「なあに?」ときいた。
と、そのとき、すずが素早くぱっと身をのばし、お初の髷に前足をかけた。お初がきゃっというより早く、そこにさしてあった櫛《くし》を爪でひっかいた。櫛はお初の髪から落ちた。すると、すずはさっとそれをくわえた。
「おい、こら!」
捨吉があわてて動いた。が、猫はしなやかな動きで窓枠に飛びあがり、捨吉が窓を閉める寸前にそこからひさしへと飛びあがると、あっという間に姿を消してしまった。ちりちりちりという鈴の音が聞こえたが、それもすぐに遠退いた。
座敷の三人は、呆気にとられてただ見守るばかりだ。やがて捨吉が、
「櫛どろぼうの猫だ」と、笑いだしそうな口調で言った。「先生、猫はあんなものを食べるんですか?」
右京之介も目をぱちくりさせている。「さあ、聞いたこともない。私は猫がにが手だから」
お初は、すずが掠《かす》め獲《と》っていった櫛のささっていたところに手をあてて、すずが去っていった窓の向こうを見あげていた。わけがわからない。わからないけれど、これには何か意味がありそうだという気はした。
「あの猫、また戻ってくるかもしれない」
「何しに?」と、捨吉。「櫛を返しに?」
「どうかしら。でも、そんな気がするの」
「不思議なことばっかりだ」捨吉は顔をごしごしこする。「おいらの頭じゃわからねえ」
右京之介も、すずの消えた方向を見あげていたが、ようやく窓を閉めた。彼もまた、道を歩いていていきなり大福餅をぶつけられたかのような顔をしている。
「それより、ねえ、捨坊。話の途中だったのよ。何を思い出したの?」
捨吉は頭をぽんと叩いた。「そうだったっけ。けど、役に立つかどうかわからねえから」
「いいのよ、どんな小さなことでも」
おあきの嫁入り道具のことだという。
「お嬢さんがお嫁に行く先の浅井屋ってとこは、大きな料理屋でね。それだから、嫁入り道具なんかも、恥ずかしい物は持たせられねえって、親父さんもおかみさんも心配してたんです。けど、蓋を開けてみたら、浅野屋のほうがね、家風にあわねえものを持ってこられても困るから、道具はこっちであつらえるって」
お初は、昨日ちらりと見かけた浅井屋のお内儀《かみ》お松という女の、えらの張った横顔を思い出した。好き嫌いの激しい、灰汁《あく》の強そうな顔つきだった。
「それだから、何も持たせてくれるなってね。けど、それじゃあんまりでしょう。で、うちのおかみさんが、せめて瀬戸物くらいって、夫婦茶《めおとぢゃ》わんのいいやつを、お嬢さんに持たせるって。それには、おかみさんが小さいときから仲よくしてきた人が瀬戸物屋さんをしていて、そこならいいのを選んでくれるから、そこから買おうって」
「なんていうお店?」
「たしか、車屋っていうんです。瀬戸物屋にしちゃあおかしな屋号だけど、車坂の下に店があるんですよ。そいでその店にもお嬢さんと同じくらいの歳の娘さんがいてね」
「その娘さんが、おあきちゃんとも仲がよかったとか?」
捨吉は自信なさそうに首を振った。「仲よしかどうかまではわからないけど、注文した夫婦茶わんを、車屋のお内儀さんといっしょに届けに来て、そのときしばらく、お嬢さんとしゃべってました。なんでも、その娘さんも、近々お嫁にいくんだっていって」
お初は右京之介の顔を見た。彼はうんとうなずいた。
「その娘御を訪ねて、話を聞いてみるといいでしょう。車坂下の車屋だね?」
「へい。娘さんの名前は、たしか――お美代とかいったと思います」
娘どうし、しかもこれから嫁ごうという身の上の者どうしであれば、胸の内のあれこれなど、話しあったかもしれない。それがおあきの神隠しの謎を解く足しになるかどうかはまったくわからないけれど、今は藁にもすがりたい思いのお初だった。笑顔をつくって捨坊の頭をなでた。
「よく思い出してくれたわね。もうちっと、ここで辛抱してね」
「今日からは、私もここにいっしょにいるから」と、右京之介が言った。そしてお初を見上げ、「お初どの、車屋には、くれぐれも気をつけてお出かけください。どこに倉田主水の手の者の目が光っているかわかりませんからね」
「わかってます。右京之介さまも気をつけてね。無理をしないでくださいよ」
「委細承知。首尾よく鉄と伊左次の居所を突き止めることができたら、すぐにお知らせしましょう」
頼もしい口調で言い切る右京之介と、味方がそばにいてくれることで心強くなったのか、少しばかり元気を取り戻したように見える捨吉を残し、お初は出かけることにした。来たときと同じように、捨吉の部屋の窓をよじのぼり、幅一尺ほどの家と家との透き間をすりぬけるようにして外へ出なければならない。年ごろの娘としては、かなり風情の欠ける格好をしなければ、そんなことはできない。ちょっと見ないうちにずいぶんとたくましさを感じさせるようになった右京之介に、ほのかに嬉しい楽しい思いを感じたのもつかの間、表通りに出たとき、お初の鼻の頭には、埃と蜘蛛《くも》の巣がくっついていた。
(やれやれ)
と思いつつ、着物の裾や袖から埃をはたき落としながら、お初はさりげなく辺りをうかがった。尾けられている様子はない。醤油《しょうゆ》売りがひとり、てんびん棒をぶらぶらさせながらお初を追い抜いていっただけだ。あの気楽そうな歩きっぷりからすると、今日の商いは上首尾、棒の前後にぶらさげたふたつの樽《たる》は空っぽになっているのだろう。
両国橋のほうへと足を向けたとき、すぐ後ろのほうで、ちりちりと鈴の音が聞こえた。急いで振り向いたが、何も見えなかった。
車屋はなるほど瀬戸物の小商いの店で、間口一間半ほどの店先には、通り抜けるすきまも見えないほど、たくさんの品物が並べられている。右手のほうにざっと十個ほど、いずれもひとかかえはありそうな大きな水瓶《みずがめ》がどすんどすんと置いてあり、太りじしの女がひとり、往来のほうに背を向けて、小ばたきを右手に、その水瓶から土埃をはらっているところだった。
「もし、ごめんください」
お初が声をかけると、女は空いている左手で腰を押さえるようにして振り向いた。歳は五十に少し足らないというところか。
「はい、いらっしゃい」
「あの、車屋さんのおかみさんでいらっしゃいますか」
「ええ、そうだけど」
お初のような小娘に丁重に呼びかけられて、女は面食らったような顔をした。
お初は腰を折ってていねいにおじぎをした。
「わたしは山本町の下駄屋のおあきちゃんの知り合いでございまして、お初と申します」
女はまだ腰に左手をあてたまま、ちょっと首をかしげた。「おのぶさんとこのおあきちゃんかい?」
「ええ、そうです。先《せん》から行方知れずになっている……」
すると、女は目をむいた。「え、なんだって? おあきちゃんが行方知れず?」
お初はびっくりした。では、車屋は政吉一家の不幸について何も知らなかったのか。
「そうなんです。姿を消してからもうずいぶんたつんですが、いっこうに行方がわからなくて。それでわたし、少しでも探すあてはないかと、おあきちゃんを知ってる方がたのところを訪ね歩いているんですが」
「ちょっと、ちょっと待っておくれよ」
女は小ばたきをほうり出した。柄が水瓶のひとつの縁にあたり、こんという音がした。
「藪《やぶ》から棒にそんなこと言われたって困るじゃないか。あんたが誰だって?」
お初はもう一度話そうとしたが、車屋のおかみのほうはすっかり取り乱してしまって、返事を聞こうともせず、ばたばたと店の奥のほうへと向かってゆく。
「ちょいとあんた、ちょっと来ておくれよ大変だよ!」
あんなに泡を食って店のなかを通り抜けたら、商い物を壊してしまいやしないかしらと心配するそばから、がちゃんと大きな音がした。が、おかみはそれに頓着《とんちゃく》する様子もない。
「何してるんだよ、あんた!」
大声に応えて、奥からのっそりと、身の丈の大きな男が姿を現した。図体のわりには優しそうな顔をしており、おまけに器用というか機敏というか、ぎっしり並べられている瀬戸物の列に触れないように、すいすいと表へ出てきた。
「なんの騒ぎだよ、おめえ」
現れた男に、お初はもう一度、ていねいにここを訪ねてきた理由を話した。相手はまたびっくり仰天した様子だったが、おかみのほうほどには取り乱さず、とにかくあがれと、お初を店の奥へと招《しょう》じ入れた。
通された座敷は四畳半ほどの広さがあると思われた。思われた――というのは、ぐるりの壁を、出入口の障子戸のところだけを残して、ぐるりとある物が埋めつくしているので、もとの広さが見当つかないからだ。
その「もの」とは、招き猫だった。瀬戸物あり、張り子あり、漆《うるし》を塗ったものあり。大きさも形もとりどりだ。いわゆる普通の招き猫の形をしているものが多いけれど、右手をあげているもの、左手をあげているもの、両手をおろしているもの、片目をつぶっているもの、寝ているもの、かっぽれを踊るような格好をしているもの――。よくぞまあ、これだけ集めたものである。
「あの、これも商い物ですか」
思わず、お初はそう問うた。すると、おかみが早口に言った。
「いえ、これは違うんですよ、あたしが集めてるの。だけどそんなことは――」
そうだった。「ごめんなさい。おあきちゃんのことなんですけど」
男が薄い座布団を持ってきて、お初に勧めた。座敷の真ん中には火を入れてない火鉢がひとつ据えてあった。お初はそのそばに腰をおろした。
男はこの車屋の主人で、名は市助《いちすけ》。女はおかみのおはな。たしかに娘がひとりいて、歳は十八、名はお美代。今はお針の稽古《けいこ》に出ているという。
ようやく落ち着いたところで、お初は、おあきの一家に降りかかった災難について、ひととおりの話をした。むろん、柏木や倉田主水のことなど、差し障りのあるところについては省いたが、それでも、この話は車屋夫婦の心を痛めさせるには充分だったようで、おはなは途中から目尻に涙をにじませ、しきりにたもとで目をぬぐう。
「なんてことだろう……可哀相に……おのぶさん」
「あたしたちも、とても心配してるんです」
「じゃ、おあきちゃんは行方知れず、政吉さんは死んじまったってことかい?」と、市助が念を押す。身体つきにつりあって目鼻立ちも大きな男だが、そのぐりぐりとした目が少しうるんでいた。涙もろい夫婦であるようだ。
「そうなんです。下駄屋さんには、今、いちばん年下の見習いの子がひとりいるだけで」
「あら、あたしはその子、知ってるよ」と、おはなが声をあげた。「茶わんを届けにいったときに会ったからね。おのぶさんが子供みたいに面倒みてたっけ」
「ええ。捨吉って子です。車屋さんのことも、捨吉から教えてもらいました」
車屋では、たしかにおあきの嫁入り祝いに、夫婦茶わんをひとそろえ用意したという。
「有田焼のね、そりゃあ鮮やかな色合いのやつで」と、市助が言った。「金に糸目はつけねえっていうから、問屋に頼んで、はるばる取り寄せてもらったんですよ。本当なら、お大名の屋敷で使われたって不足はねえっていうような品物だ」
「政吉さんもおのぶさんも、おあきちゃんに嫁入り道具を持たせてやれないことを、気に病んでましたからね」と、おのぶが言う。
「先方からあんまりいろいろうるさく言ってくるんで、そりゃあ願ってもない縁だってことはわかってるけど、なんだか先行きが案じられてくるって、気弱なことも言ってたね」
「先行きが?」
おはなは袂《たもと》から取り出したちり紙で威勢よく鼻をかんだ。
「そう。釣り合わぬは不縁の元っていうじゃないか。あんまり金持ちのいいところに縁付くのも、かえっておあきにとって不幸なんじゃないかってね」
どうやら、辰三の考えは、あたっていたようである。
「おあきちゃんは何か言ってましたか」
「さあねえ」おはなは首を振った。「あたしらは何も。おのぶさんだって、さっきみたいなことは、こっそり打ち明けてくれたんだもの。お美代なら何か知ってるかもしれないけど」
「お美代さんからもお話を聞いていいですか」
「いいともさ。おっつけ戻ってくるころだから」
「お美代さんもお嫁入りだそうで、おめでとうございます」
正直なもので、さっきまで涙でぐずぐずしていた車屋夫婦は、お初の言葉に、ほっと顔をゆるませた。
「ありがとうございます。うちの娘は、同じ瀬戸物屋に行くからさ、玉の輿のおあきちゃんとは違うけど」
「ゆくゆくはうちの商いを継いでもらうことになっててねえ」と、市助が嬉しそうに言った。「まあ、うちのお美代はおあきちゃんみたいな器量よしに生まれなかった分、気楽なのかもしれねえな」
「あんたに似ちまったからね」と、おはな。
「何言ってんだ、お美代はおめえにそっくりだぞ」
「とんでもない。あんたの馬面《うまづら》があの子にうつっちまったんじゃないか」
「俺が馬面だと? じゃあてめえはお多福《たふく》じゃねえか」
お初はぷっと吹き出した。人のよさそうな夫婦である。お初の笑いに、夫婦も急に照れたようになって、ぽんぽん言い合うのを止めた。
「だけどお嬢さん――お初さんって言ったっけ。あんたひとりで、おあきちゃんを探してるのかい? 町方のお役人は?」
「それがなかなか難しくて」
「おめえもよくよくの馬鹿だな」と、市助がおはなに言った。「お役人は、政吉さんがおあきちゃんを殺めちまったと思っていなさるんだよ。さっきの話を聞いてなかったのか?」
「そりゃそうだっても……あたしだって話はちゃんと聞いてるけどさ」おはなは不服そうに口を尖らした。「けど、あの政吉さんに限って、そんなことをするわけがあるはずないじゃないか。だいたい、親が子供を殺めるなんざ、ありっこないよ。食べていかれなくなって心中でもしようっていうなら話は別だけど、政吉さんところは繁盛してたんだし、あんなに仲がよかったんだからさ」
お初は火鉢に片手を載せ、身を乗り出した。
「それなんです。あたしもそう思うんです。でも、お役人は信じてくれなくて……。車屋さんも、政吉さんがおあきちゃんを殺めたなんて、思いもしないでしょう?」
夫婦はそろって大きな頭をうなずかせた。
「ありっこないよ」と、おはなはきっぱり言う。「そんな話、間違ってるよ」
「おかみさんは、おあきちゃんのお母さん――おのぶさんとは長い付き合いなんですか?」
「あたしら、幼なじみなの。生まれたのは金杉橋《かなすぎばし》の近くの源兵衛店《げんべえだな》って長屋でね。あたしもおのぶちゃんも、十の歳に女中奉公に出されて別れ別れになっちまったんだけどさ」
おはなは、今もこの車坂近くにある大きな瀬戸物問屋に、おのぶは、そのころ西両国にあった雑穀問屋に、それぞれ住み込みで働くことになったのだそうだ。
「それがばったり顔を合わせたのが、そうだね……もう十年前のことになるかしら。ちょうど今ごろの時季だったよ。その年、所帯を持って初めて、駒形堂へお花見に行ってね。団子でも食べようかってお茶屋に入ったら、とっつきのところの腰かけに、おあきちゃんの手を引いたおのぶさんが座ってたのさ」
面影は残っていたので、すぐにわかったという。
「懐かしくてねえ……」と、おはなは目を細めた。「けど、あのころって、うちもおのぶさんのところも、それぞれ自分の店を張ったばっかりでさ。毎日食うことに追われて走り回ってるような暮らしだったから、そうそう会うことはできなかったけど、でもずっと付き合いは続けてたんだよ」
それで、今回の夫婦茶わん云々のいきさつとなったわけだ。
「お茶わんを届けたとき、おあきちゃん、喜んでましたか?」
「そりゃあ、もう」と、おはなは手を打った。「おあきちゃんもおのぶさんも政吉さんも、手放しでね。立派なものだ、きれいだきれいだって」
「骨折ったかいがあったと思ったよ」と、市助もうなずく。「政吉さんとこは、もう目出度いの一色だと思ったもんだ」
「そんなふうにことが運んでいたなら、輿入れを前におあきちゃんが自分から姿を消すなんて、考えられないですねえ」
お初の呟きに、車屋夫婦はそろって唸った。
「ありっこねえ」と、市助は言う。おはなに首を向けて、「おめえ、どう思う?」
おはなは黙って太い腕を男のように腕組みしている。お初はきいた。「もしかして、万が一、おあきちゃんにほかに好きな人ができたとか、そういう匂いを感じたことはなかったですか?」
おはなは腕組みしたまま首を振る。
「もちろんあたしも、そんなことがあったはずはないと思うんです」お初は急いで続けた。「だけど、結局そんなふうなことで、家のなかがもめて、それで政吉さんがおあきちゃんを殺めたって、お役人さまたちは考えてるから」
「そりゃ、あてずっぽうにもほどがあらあな」と、市助が吐き捨てた。
お初は心のなかでうんうんとうなずいた。
「それじゃやっぱり、おあきちゃんは神隠しにあったんだわ」
言ってみると、車屋夫婦は顔を見合わせ、市助が太い眉根を寄せて、お初の顔をのぞきこんだ。
「神隠しってのはその、もののけみたいなものにさらわれちまったっていうことかい?」
お初はこっくりした。車屋夫婦の顔が不安気に曇る。
「そしたら、探しだすことなんてできないじゃないの」おはなは力なく言う。「拝み屋さんでも呼んできたほうが早いよ、あんた」
「おかみさんたちがおあきちゃんに会ったのは、お茶わんを届けたときが最後ですか?」
「そうだね」
「そのころ、おあきちゃんに、様子の変わったようなところはありませんでしたか?」
「変わったっていうと?」
「――何かを怖がってたとか、ヘンなことがあったって言ってたとか」
夫婦は、ますます困惑顔になった。
「そんなこと言われても……」
おはなが言いだしたとき、店先で「ただいま」という声がした。おはなが急いで応じた。「お帰り、早かったね」
ぱたぱたと足音がして、若い娘が顔をのぞかせた。「あら、お客さん?」
「うちのお美代です」と、おはながお初に言った。そして娘に向き直ると、「あんた、聞いて驚いたらいけないよ。下駄屋のおあきちゃんが神隠しにあっちまったんだってさ。ずっと行方知れずなんだって。それで政吉さんがおかしくなっちまって――」
お美代はたしかに父親に似たらしい。馬面と言っては可哀相だが、面長《おもなが》の顔に、下顎がちょっとしゃくれ気味、背は女にしては滅法《めっぽう》高く、そのせいか、黒繻子《くろじゅず》の帯を、妙に胸高に締めているように見える。
お美代は驚きで目を見張った。が、その口元から出てきた言葉は、もっと驚きだった。
「え、やっぱりそうなの?」と、お美代は言ったのだ。「あらやだ本当に、おあきちゃんは神隠しにあっちまったの?」
これには、お初も車屋夫婦も度肝《どぎも》を抜かれた。ちょっと言葉を見失った。
「やっぱりって、おめえそれはどういうことだ」急き込んで、市助が尋ねた。「おめえ、何か聞いてたのか?」
父親のあわてぶりに、今度はお美代のほうが驚かされたらしい。履き物を脱ぎ捨てて座敷にあがってくると、火鉢のそばにどすんと膝を折って座った。
「あらあたし、先《せん》に言ったことなかったかしら」
「何も聞いてないよ」と、おはなが声をあげる。「ぜんたいどうして、やっぱりそうなのなんてお言いだね、あんた」
「あら嫌だ」口元に手をあてて、お美代はもう一度呟いた。
たしかに器量よしとは言えないが、身体つきに似合わぬ可愛い声の持ち主で、しゃべりかたになんとも言えず愛敬《あいきょう》がある。くりくりとした目元など、はしこそうで賢そうで、なんだかお初と気があいそうな娘だ。
しばらくくちびるに手をあてたまま黙り込み、やがてお美代は言った。「おっかさん、お客さんにお茶も出さないで、なによ」
おはなは目をむいた。「あんた……」
「あたしも喉が渇いたわ。お茶を入れてよ。ねえ、ごめんなさいね、えーと」
お初は名乗った。「あたし、お初です」
「お初ちゃんね。愛想なしで勘弁してね。ほら、おっかさん」
おはなは娘に振り回されている。「だけどあんた、今の話は?」
「するわよ、けど、ちょいと込み入ってるの。あたし、どこから話したらいいか考えるからさ。そのあいだにお茶を入れてよ」
それを聞くと、おはなはばっと腰をあげた。市助も、笑い出しそうな顔をしてお美代の顔を見つめている。お美代はお初に向き直った。
「で、どういうふうにして消えちまったの。おあきちゃんは」
お初は手早く事の次第を語って聞かせた。そこでまた、お美代が頭のいい娘だと感じた。おおげさに驚いたり合いの手を入れたりしないで、「それはいつのこと?」とか、「誰がそう言ってるの?」というような、ツボを押さえた質問だけさしはさむ。
「そうなの……大変ね、よくわかったわ」
お初が話し終えると、お美代はそう言って幾度かうなずいた。ちょうどそこへ、おはなが茶を入れて運んできた。四人が火鉢を囲んで落ち着くと、お美代は熱い茶を一口飲んで、口を切った。
「すごく言いにくい話なのよ」と、真顔で言う。「だから今まで、あたしの胸ひとつにおさめてきたの。おあきちゃんにも、誰にもしゃべらないでねって頼まれてたしね」
「あたしがおあきちゃんと会ったのは、おっかさんといっしょに下駄屋さんへ茶わんを届けにいったときが初めてよ」と、お美代は始めた。「なんてきれいな娘《こ》だろうと思ったもんだわ。色が白くって目元が涼しくて、身体がすんなりしていてね。あたしみたいな独活《うど》娘とは全然違ってたもの。ああうらやましいなあって、そのときは思ったわ」
独活娘とは、またずいぶんと思い切った言い様である。お初はどんな顔をしていいかわからなくて困ったが、お美代の口ぶりがさばさばとしていたので、ことさら彼女の顔から目をそらしたり、見え透いた否定の言葉を口にしたりする必要はないと思った。
が、彼女のふた親は、また別である。お美代が独活娘と言ったとたんに、ふた親は目を見合わせ、そろって、主人にぶたれた飼い犬のような顔をした。
「おめえだってそんなにみっともねえ器量じゃねえんだよ、お美代」
「そうだよ、自分のことをそんなふうに言うのはおよしな」
口々に言うふた親に、お美代は笑い出した。「あら嫌だ、おとっつぁんもおっかさんもそんな顔をして。あたしは、けっしてひねくれて言ってるんじゃないのよ」
「だけど……」おはなは哀しそうである。女親として、それは当たり前だろう。
だが、お美代は胸を張っている。
「あたしは、お世辞にも器量よしとは言えないわよ。けど、よく働くし、お針の腕前だってちょっとしたもんだし、瀬戸物の目利きもできるし、頭だってそんなに悪いほうじゃないって、自分で思ってる。それにおっかさん、角太郎《かくたろう》さんは、独活《うど》が大好きなんですよ」と言ってから、注釈をつけるように、お美代はお初を見かえって付け足した。
「角太郎って、あたしの許嫁者《いいなずけ》」
「ええ、そうだろうと思ったわ。お嫁入りが近いんですってね。おめでとうございます」
ちょっと頭を下げたお初に、お美代ははにかんだような笑みを見せた。
「どうもありがとう。角太郎さんて、あたしの幼なじみなの。だからあたしの器量のことは、ずっと承知。けど、いっしょになって裏の銀杏の木にのぼりっこしていたころから、大人になったらあたしを嫁にするんだって、決めてたんだって。それくらい見込まれたら、あたしだって頑張らなくちゃねえ」
大惚気《おおのろけ》だが、聞いていて不快なものではなかった。なるほど、お美代は器量の点ではほかの娘に劣るかもしれないが、心ばえの点では、あまりお目にかかることのできない得な部分を持っている。思っていることを腹にためず陰にこもらないこの娘なら、さぞかしいい商人の妻になることだろう。角太郎は幸せ者だ。
「だけどね」とお美代は続けた。
「初めて会ったそのときから、あたし、おあきちゃんに、あんまりいい感じを持たなかったの。そりゃあ本所小町ってくらいにきれいな娘だけど……なんかこう、なじめないところがあるっていうのかしら。冷たいっていうか……話すときに、あたしの目を見て話さないのよね。あたしの肩のあたりを見てるの。ほら、ひどい喧嘩をした相手と、なんかの拍子にばったり会って挨拶なんかしなくちゃならないとき、そんなふうにするでしょう」
お初は、おあきには会ったことがない。が、捨吉の話によると、かの女は優しいお嬢さんだったようだ。かの女のことをよく知っていたはずの柏木も、かの女が我《わ》が儘《まま》だったとか、お高いところがあったというようなことを、匂わせたことはなかった。してみると、お美代の受けた「感じ」は、同じ年ごろの娘同士のあいだにだけ漂う、一種のカンのようなものだったのだろうか。
「ひょっとするとそれは、あたしの妬《ねた》み心が感じさせたものかもしれないんだけどね」と、お美代は率直な言い方をした。「だから、いい感じを持たなかったからこそ、あたし、もう少しよくおあきちゃんとお知り合いになりたいなって思ったわ。なんせ、おっかさんの仲良しの人の娘さんだし、これから嫁に行こうっていう立場も似てる。いろいろ話をしたら、あらまあってな具合で気があってくるかもしれないし。ちょうど、おっかさんたちは自分たちのおしゃべりで夢中だったから、あたし、借りてきた猫みたいにおとなしく座っているだけで、退屈しかけてたところでもあったから、おあきちゃんに声をかけてね」
今はいている下駄の鼻緒をすげかえたいのだけれど、ころ合いのものはないかと、おあきに声をかけてみたのだという。これは口実ではなく、お美代はおっかさんと、その日茶わんを届けにゆくついでに、鼻緒も見てこようと話し合っていたのだそうだ。
するとおあきは、母親にも促され、立ち上がってお美代を仕事場のほうに案内してくれた。仕事場には政吉がいて、お美代に鼻緒を選んでくれ、すげ替えて、さらに、お美代の歩き癖のせいで斜めに減っていた下駄の刃に平らに鉋《かんな》をかけてくれた。
「おかげですっかり歩きよくなって助かったわ」と、お美代は言った。「おあきちゃんのお父さん、いい人だったし。当たりが柔らかくってね。お弟子さんのことは叱り飛ばしてたけど、それも厳しいって感じで、因業《いんごう》だとか意地悪っていうのじゃなかったわ」
だがそのあいだも、おあきはほとんど口をきかず、最初のお美代が感じたとおりの、よそよそしい様子でいたのだという。お美代が何かと話しかけても、けっしてかの女のほうを見ようとしない。返事も、「そうですか」とか「あら、そう」という素っ気ないものばっかりだった。
「だんだん、あたしも腹が煮えてきちゃって」と、お美代は眉をしかめた。
「そういう態度は、あたしが知ってるおあきちゃんの人柄とは違うんだけど」と、お初は言ってみた。「その日は格別、虫の居所が悪かったんじゃないかしら」
お美代はしゃくれ気味の顎でうなずいた。
「あたしもそう思ったわ。けど、なにせ初めて会った人でしょう。何で機嫌が悪いんだか知らないけど、なんぼなんでももうちょっと愛想よくしなさいよ、あんただって商人の娘でしょって、のど元まで出てたわね」
お美代のそんな思いは、表情にも現れていたらしい。というのは、ふたりで母親たちがいる座敷に戻ってゆく途中、廊下のなかごろで、おあきが突然立ち止まり、こう言ったというのだ。
――ねえあんた、あたしのこと嫌いみたいね。
お美代は仰天した。好きも嫌いもない。愛想のよくない娘だと感じてはいたが、煎《せん》じ詰めればそんなこと、お美代にはどうでもいい。親しくなれない相手ならば、この先会わないだけのことなのだから。
が、おあきは怖いほどの真顔で、まるで問い詰めるかのようにお美代の顔をにらんでいたという。そのとき初めて、まともにお美代の目を見つめたのだ。
「あたし、びっくりしちゃってすぐには返事もできなくてね。『はあ?』みたいな声を出したきり、困ってしまったの。するとおあきちゃん、こう言うのよ」
――しょうがないわね、やっかまれても。あたしは、あんたみたいな醜女《しこめ》にはどうやったって手の届かない幸せをつかんでるんだもの。
おあきの言葉を再現しながら、お美代は笑っていた。が、おはなと市助は別である。夫婦ふたりして目をむいて、
「そんな失礼なことを言ったのか」
「おあきちゃんてそんな娘だったの?」
お美代は大らかにさえぎった。「怒らないでよ。この話にはまだ先があるんだから。とにかく、そのときはおあきちゃん、そう言ったの。あたしだってびっくりして、腹も立ってきて、あんた何言ってるのって言い返したわよ」
するとおあきは、わざとらしく悩ましげなため息をついて、
――あたしがきれいだからって、あんた、そんなに引け目に感じなくたっていいのよ。あんたはあんたに似合いの男と所帯を持つんでしょう。それでいいじゃないの。
お初は顔をしかめた。「そのときのおあきちゃん、どんな様子だった?」
お美代は声を低くした。「おっかなかったわ」
「おっかない?」
「ええ。なんていうのかしら……目が据わっててね。たしかあのとき、紅なんかつけてないはずだったのに、くちびるが人とって食ったみたいに真っ赤になっててね」
「ほかには?」
お美代は遠くを見るように目を細めた。
「なんだか知らないけど、しなをつくるみたいにくねくねしてたわ。そうそう、声の調子も変わっていたみたいだった」
「どんなふうに?」
「うーん……」お美代は男のように腕組みをした。「もっと年上の女のしゃべりかたをしてたって言ったらいいのかしら。娘らしい口調じゃなかったの。年上の女が――なんていうの、男に取り入るときに使うような声音ね。うまくいえないけど。身体にまといついてきて、はがそうとすると糸を引くような。まあ男の人は、その糸引くところがたまらないんだろうけど」
「水茶屋女とか、遊女みたいな?」
「さあて」お美代は腕組みの格好のまま考え込み、母親のおはなのほうを向いて言った。
「ねえおっかさん、昔、通りの先の貸家に新内節《しんないぶし》のお師匠さんが住んでたわよね?」
おはなは、急に話の風向きがかわったので戸惑ったが、すぐに言った。「ああ、いたよ」
「うちに水瓶を買いに来たことがあったわよね。あのとき――」
「そうだよ、あのときね」と、おはなはにわかに活気づいた。お初に向かって、「もう五、六年ばかり前のことだけどね。そのころ、うちの人がちょいと腰を痛めてて、商い物の配達に、若い衆を雇ってたんですよ。そしたらその師匠がさ」
お美代が母親の話を引き取った。「水瓶買いにきたついでに、その若い衆に色目をつかったの。というか、最初からそっちのほうがお目当てだったのかもね。吉さんっていったっけな、あの若い衆。男前だったのよ」
その新内節の師匠の家に、荒縄で縛った水瓶を担いで出かけ、たっぷり半刻は帰ってこなかったという。
「回りくどい話になったけど、あたし、あのときのおあきちゃんの様子とか口振りに、その新内のお師匠さんのことを思い出したのよ。うちに来て、若い衆の脇に擦り寄って水瓶の品定めしていたときのね。あのお師匠さん、旦那とりしてたんだよね?」
おはなは大きくうなずいた。「師匠なんて表むきでさ、弟子なんかいやしない、いたのは旦那だけさ」
「それでさ、話を戻すけど」とお美代は続けた。「おあきちゃんはそんなふうなことを言うなり、あたしを置いてけぼりにして、とっとと階上にあがっていっちまったの。しょうがないからあたし、おっかさんたちがいる座敷に戻ったわ。おっかさんも、やっと腰をあげるころ合いになってたしね」
その日はそのまま帰った。
「おあきちゃんて変な娘だ――嫌らしい娘だなんて、あたしとしちゃあ言えないわよね。おっかさんの仲良しの人の娘さんだもの。それこそ、やっかみ口に聞こえるし」
という次第で、お美代も煮えた腹をどうにかおさめ、日々の忙しいことにまぎれて、おあきのことなど忘れてしまった。ところが、そういうことがあってから十日ほどして、今度はおあきのほうが、ひょっこりとこの店を訪ねてきたというのだ。
お美代は細い目をくりくりさせた。「しかも、あたしに会いに来たんだっていうじゃないの。びっくりよ」
このときのおあきの様子は、先《せん》の時とはまったく違っていた。今にもべそをかきそうな顔をして、腰も低く、訪ねてきたにも拘《かか》わらず、お美代に姿を見られると、一度は逃げ出そうとさえしたという。
「ちょうどそのときは、おとっつぁんは配達に出てたし、おっかさんは買い物に行ってて、あたしがひとりで店番していたの。だからあたし、おあきちゃんを追いかけていって袖をつかまえて、どうしたの何しに来たのってきいたのよ」
するとおあきは、消え入りそうな声で、
――謝りに来たの。
と答えたという。
「このあいだあたし、お美代さんにひどいこと言ったでしょう。早く謝りに来たかったんだけど、なかなかうちを抜けて出られなくて、っていうのよ。本当に、目を赤くしてそういうの。あたしも呆気にとられてたけど、おあきちゃんをうちへ上げて、水を飲ませてさ。落ち着かせようとしたの。おあきちゃん、ぶるぶる震えてるんだもの」
お美代は心配になり、何か事情があるのかときいてみた。最初のうち、おあきはくちびるを結んで涙ぐんでいるだけで、話そうとはしなかった。が、お美代が根気よくかきくどき、しばらくふた親は帰ってこないし、聞いたことはけっして他言しないと誓ってみせると、ようやく重い口を開いた。
――このごろあたし、何かに憑《とりつ》かれてるようなの。
お美代は二度びっくりである。
――憑かれてるって、何に?
――わからない。でも、女の姿をしているの。
――見えるの?
――夢に出てくるの。たいてい、とてもきれいな衣を着た観音さまのお姿をしているのだけど、顔は生身の女なのよ。肌が抜けるように白くて、くちびるは熟れた柘榴《ざくろ》の実のような色をしている。
お初はぴりりと緊張した。観音さま。中之橋の蔵地で見たあの観音さまか? あれも生身の女の顔と声とを持っていた――
(美しいこと。ほらその髪、その肌)
「あたしはね、観音さまなら怖いことないじゃないのって、最初は言ったのよ」と、お美代は続けた。「そりゃあ吉夢だよって。だけどおあきちゃん、ぶるぶる首を振って、あれは本物の観音さまじゃない、もののけの類だって言い張るの」
話し続けるお美代の顔から愛嬌《あいきょう》が消え、目元がかすかに強ばっている。おあきの話を思い出すと、かの女も恐ろしくなるのだろう。「ねえお美代さん」と、お初はお美代の腕に手を載せて声をかけた。「気をしっかり持って、順序立てて話してちょうだい。そもそもおあきちゃんがそういう夢を見るようになったのは、いつごろからだと言っていた?」
お美代は少し考えてから、「たしか、去年の春ぐらいからだと言ってたわ」
「春というと、ちょうど今ごろかしら」
「うん。桜のころよね」
一瞬、お初はぞくりとした。桜か。柏木の話を思い出した。
「どういうきっかけで始まったのかしら」
「それは言ってなかったわ。ある晩突然、夢を見るようになったって。けど、最初のうちはその夢も、霞《かすみ》がかかったようにおぼろげで、何が何だかわからなかったんですって。ただ、薄気味悪いもやみたいなものが立ちこめている場所で、おあきちゃん、ぼうっと立ってる。そこから出ていこうと思っても道がわからない。足が動かない。そんなふうだったんですって」
繰り返し、そんな夢を見てゆくうちに、少しずつ絵がはっきりしてきた、という。
「去年の秋ごろになると、夢のなかのおあきちゃんにも、自分が迷いこんでいるのが桜の森だってことがわかるようになったって」
「桜? そこでもまた桜なのね」
「ええ、そう。だけど、とっても背丈の低い桜の木がたくさんはえていて、満開も満開で、花びらが雨みたいに降ってくるんだって」
お初は両膝のうえで拳《こぶし》を握った。
「それだもの、とてもきれいな夢なのよ。だけどおあきちゃんは、どうしてか、怖くてならないんだって。早く逃げ出さないといけないって思うんだって。だけど足が動かない」
桜の森の夢はしばらく続き、去年の暮れごろになると、さらにはっきりしてきた。
「そのころになって、ようやく観音さまの姿が見えてきたんだって」
最初のうち、おあきはこれを吉夢と考えたと、お美代に話したそうだ。ずいぶん怖い夢のように思えたけれど、なんということはない、最後は有り難い観音様のお姿を拝むことができた、と。
「ちょうどそのころ、おあきちゃんの縁組が本決まりになって、お正月が明けたらお結納《ゆいのう》という段取りができたんだって。だから、なおさらよね」と、お美代が言った。
夢のなかの観音さまは、桜の満開の森のなかに、たたずんでいるのか浮かんでいるのか、美しい衣をひらめかせながら、じっとおあきを見つめていたという。そこで何が起こるわけでもなく、夢のなかのおあきは観音さまを拝み、桜の花びらが頬や髪に降り掛かるのを感じる――そして目が覚める。その繰り返しだった。
ところが、そういう平和な夢が、今年の春の桜の時季になると、俄然《がぜん》、様相を変え始めた。
「最初は、観音さまが、おあきちゃんに話しかけてきたっていうのよね」
お初の背中に、すうっと冷たいものが走った。氷のような指先で、背骨を撫でられたような気がした。
「なんて話しかけてきたの?」
お美代はくちびるを湿し、かの女の持ち前のはきはきした口調を退けて、ねっとりとした言い方をした。
「おまえは美しいね。ほらその髪、その肌」
ああ、やっぱり。お初は目を閉じてうなずいた。
「夢のなかで、おあきちゃん、観音さまに応えたんだって。いえ観音さまの神々《こうごう》しいお姿に比べたら――とかなんとか。そしたら観音さまがにっこりと笑って、そこで目が覚めたって」
その夢は、二、三度続いた。だが四度目に同じやりとりを繰り返したときには、おあきが「観音さまに比べたらわたしなんか」と言ったとたんに、観音さまはすうと動いておあきに近づいてきたのだという。
「おあきちゃん、その話をあたしにするとき、おこりにかかったみたいに震えてた」と、お美代は言った。さっきまでの腕組みから、自分の腕で自分の身体を抱くような姿勢にかわっている。
おあきに近づいてきた観音さまは、白く輝く手をさしのべて、おあきの顎に触れた。そしておあきを仰向かせると、ぐうっと顔を近付けてきて――
「これでもわたしは美しいかい? ってきいたんだって」
そのとたん、観音さまの顔が崩れたと、おあきはお美代に話したという。白い肌が正月すぎの鏡餅のようにひび割れ始め、そこからどす黒い血がにじみ、だらだらと流れ落ちる。ほどけるはずのない観音さまの結った髪がほどけ始め、ずるずると抜け落ちてゆく。尊《たっと》いお顔のなかでももっとも優美で高貴なふたつのまなこがかっと見開かれると、そこには血走った生身の人間の白目があり、そこからも血がにじみ始め、やがて目玉は溶けて消え失せ、あとには真っ黒なふたつの穴だけが残る。どんどんと、観音さまの身体が朽《く》ちてゆく。皮がむけ肉が腐れ落ち、骨が覗いて、やがてはその骨さえもあちこちがはずれてがたがたと崩れ始める。そうでありながら、おあきの顎をつまんで仰向かせている指先だけは、骨となっても鋼《はがね》のように強い――
「おあきちゃん、きゃあって悲鳴をあげて、寝床から飛び起きたんだって。汗をびっしょりかいて、あんまり怖くて怖くて涙が流れてたって」
お美代の説明に、市助もおはなも目を見張り、寄り添いあって身を乗り出すようにしていた。お初も胃の腑のあたりが冷えるようで、思わず両手を帯の上に重ねていた。
おあきによれば、その夢は三晩続いたという。あとひと晩同じ夢を見たら、親たちにも打ち明けようと思ったと話したそうだ。
――あたしは、気が狂いかけてるんじゃないかと思ったの。
哀し気に打ちしおれ、涙を浮かべておあきはお美代に言ったという。
「でも、その夢は三晩でやんだんだろう?」と、市助が言った。「それならよかったじゃないか」
「あたしもそう言ったのよ、おとっつぁん」と、お美代はうなずいた。「その怖い夢を最後に、桜の森の夢も、観音さまの夢もまるっきり見なくなったっていうから、それは良かったじゃないか、もう全部終わったんだよって。けど、おあきちゃんは首を振るばっかりで」
おあきが話すことには、
――夢を見なくなった代わりに、昼からぼうっとするようになったの。自分で自分の言ったことやしたことを、覚えていないときがあるようになったの。
「覚えていない……」
お初の呟きに、痛まし気に口元を歪めて、お美代は言った。
「本当にそうなんですって。まるで、居眠りから覚めたときみたいに、はっと我に返ると、炊事をしてたり、水汲みをしてたり、おっかさんと縫い物をしていたりするんですって。でね、そのあいだに言ったこととかを、まるっきり覚えていないんですって。しかも、そういうことが、だんだん多くなってきたんですって」
そのうち、おあきのそういう「放心」は、周囲の人々にも気づかれるようになったらしい。ただしそれは、そのころおあきが案じていたような形でではなかった。
「おあきちゃんは、家の人たちに、ぼうっとしているところを見られてると思っていたんだって。でも、そうじゃなかったの。ぼうっとして覚えのないあいだ、普段のおあきちゃんだったら言ったりしたりしないことを、言ったりしたりしてるっていうのよね」
おあきがそれを知ったのは、父の政吉の古い馴染《なじ》みの下駄職人が、おあきの嫁入りの祝いを持って訪ねてきてくれたときのことだったという。客が帰ったあとになって、母親からやんわりと、
――おまえもいろいろと気がたっているんだろうけれど、あんな不作法な口をきいちゃあいけないって、たしなめられたのよ。
だが、おあきは覚えがなかった。
「あたしは何を言ったかしらって、おあきちゃん、おっかさんにきいてみたんですって。そしたらね、お客さんが持ってきてくれたお祝いの品――反物だったそうだけど――それが安物だの品が悪いのと、文句をつけてたって言われたって」
たしかに、母のおのぶも、それが上等の品でないことはわかったと言った。政吉の馴染みのその客は、昔からしわいやで通っていた人であるそうな。だからといって、面と向かって皮肉をいうものじゃないと、叱られておあきは青くなった。
「誓って本当にまるっきり覚えがなかったっていうんだもの」
そういうことは、それからも時々あった。そしてほかでもないお美代との一件も、そのひとつだったというのだ。
「あたしとおっかさんが下駄屋さんから失礼するとき、あたしの様子がなんとなくプリプリしていたから、あ、またあたし何かやったんじゃないかって、おあきちゃん、思ったんですって。だからあたしのところに謝りに来たっていっても、本人は何を謝ればいいか知らなかったのよ」
――ねえ、あたし、どんな失礼なことを言ったりしたりしたのかしら?
そう、お美代に尋ねたというのだから。
「それでおあきちゃんは、憑き物につかれたと思っていたんだね……」
お美代はうなずいた。「こんなことがわかったら、きっと縁組も壊れてしまうだろうし、どこかに閉じ込められて、一生外には出してもらえなくなるかもしれない。そう言って、ぽろぽろ泣くのよ。あたしも可哀相で、なんとかしてあげたいと思ったけど、どうしようもないでしょう。とにかく、あんたのおとっつぁんやおっかさんに打ち明けてごらんよって、勧めてあげるしかなかったわ」
お美代の立場としては、無理もない。下手をすれば妙な言い付け口に聞こえてしまいかねないことだ。
「おあきちゃん、おとっつぁんなんかには言えやしない、縁談が壊れちまうって、泣いてばっかり。そのうち、こんなことならいっそ死んでしまいたいとか、どこかへ消えてしまいたいとか言い出したの。あたし、必死で止めたわよ。そんなこと考えるもんじゃないって。それでようやく、おあきちゃんも少し落ちついたんだけどね……」
お美代の大きな顔が、陽に影がさしたかのように曇った。
「最後に、ヘンなことを言ったの」
――それでなくても、あたしこのごろ、理由《わけ》もなくふうと身体が浮いて、風にさらわれてどこかへ飛んでいってしまうような気分になることがあるの。鏡を見ると、あたしの顔や髪を通して、うしろの襖《ふすま》や柱が見えるような気がすることもあるの。
お初は、そろばんで撫でられたかのように背中がゾクゾクッとした。
「で、おあきちゃんとはそれっきり?」
お美代は後ろめたそうにうなだれた。「心配してはいたんだけど、あたしも忙しいし、それにやっぱり……なんだか薄気味悪くて」
「無理もないわ。気にしないで」お初は急いで慰めた。「そうだったの。だから、さっき、『やっぱり神隠しにあっちまったの』って言ってたのね」
お美代はこっくりとうなずいた。「おあきちゃん、ずっと行方知れずのままなの? 見つかりそうもないの?」
「必ず探し出してみせるわ。きっと見つけるわ」
お初の言葉に、市助が不安そうに口をはさんだ。「しかしお嬢さん、どうやって? こいつの話を聞いてる限りじゃあ、こりゃあわたしらの手に負えることじゃあないよ」
おはなもうなずく。「お坊様に頼まなくちゃ。さもなきゃ巫女《みこ》さんでも、陰陽師《おんみょうじ》でも」お初はあえて黙っていた。そのかわり、ふと頭に浮かんだことを言った。「ねえ、お美代さん。おあきちゃんとはこの座敷で話したの?」
「ええ、そうよ」
お初はぐるりと囲んでいるたくさんの招き猫たちを示した。「これを見て、おあきちゃん何か言ってなかった? 可愛いとか、珍しいとか。うちでは猫を飼ってるとか」
さてと、お美代は思案顔になった。父親がそうしているのと同じ格好に、腕組みをしてみせる。思いの外《ほか》白くきれいで、頑丈そうな太い肘《ひじ》が丸見えになった。
「そんな話、したかしら……」
「猫が何か、係わりがあるのかい?」
市助の問いを、お初はちょっと微笑を浮かべただけではぐらかした。おあきが可愛がっていたという猫、お初が最初に下駄屋を訪ねて異変があったとき、すぐ近くにいたはずの猫、そして今日、髪から櫛をとって逃げていった猫。あれはこのことと、係わりがあるのだろうか?
それぞれに困ったような表情を浮かべている車屋の人々に、何かわかったらすぐに報せると約束して、お初はいとまをつげた。お美代には、あまりくよくよ考えるなとも言った。
「これから花嫁になろうという人が、眉間にしわを寄せてちゃいけないわ」
お美代は笑顔をつくった。「あたしなら大丈夫よ」それから、声を励ますようにして言った。「手伝いが要るようだったら、なんでも言ってちょうだい。気をつけてね」
お初は一瞬、ひたとお美代を見つめた。かの女の心配、懸念は、泣いて怯えるおあきの姿を知っているからこそのものだ。
「お願いします」と、お初は頭をさげた。車屋を出てしばらく行ったところで振り返ると、お美代はまだ店先に立っていて、お初のほうを見ていた。手を振ると、かの女も手を振り返した。
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第三章 お初と鉄
姉妹屋にて
お初が、車坂の車屋から姉妹屋に戻ったころには、陽は暮れきって、ぽつりぽつりと星が出ていた。帰り道、夜桜見物に出ようという人びとと擦れ違いながら、お初はひとりでもの思いに沈んでいたものだから、
「ただいま」
のれんをくぐって義姉のおよしや加吉たちに声をかけたときも、半分はうわのそらだった。
夕暮れ時から店をしまう夜半まで、姉妹屋は居酒屋となって、朝方に負けないほど多忙になる。普通なら、外から戻ったらすぐに前掛けをかけたすきで袖をくくって店に出てゆくお初なのだが、今日はぐったりと疲れてしまって、奥の座敷の長火鉢のそばから立ちあがる気力がわいてこなかった。
六蔵は留守のようだ。あの矢の出所を追いかけているのだろう。成果があがってくれればいいけれど。
軽い足音がして障子が開き、およしが顔をのぞかせた。
「お帰り」と、心配そうな口調だ。「どうしたの、魂を抜かれちまったみたいな顔をして」
「少しくたびれたみたい」
お初は長火鉢の縁に両肘をついて、義姉を見あげた。「ちょっと休んだら、お店に出るわ」
「今日はいいから、ゆっくりしてなさい。それより、ご飯は?」
「あとでいいわ。義姉《ねえ》さんたちといっしょで。ね、それより、右京之介さまから何か報せはなかった?」
およしは首を振った。「なにも」
そう……と、お初はうなずいた。倉田主水のあとを尾けてみると、言葉で言うほどやさしい仕事ではない。何日か、右京之介はかかりきりになってしまうだろう。
「兄さんは?」
「朝から出たきり、鉄砲玉よ」
店のほうから、およしを呼ぶ声がかかった。「はあい」と返事を投げておいて、およしは言った。「水屋のなかに、いただきものの羊羹《ようかん》が入ってるから。甘いものでも食べて、少し元気をおつけなさい」
義姉が行ってしまうと、お初は手足を伸ばして畳にごろりと横になった。天井を見上げながら、今日車屋で聞いた話を、頭のなかで繰り返してみる。
(何かに憑かれてるの、あたし)
おあきはそういって、怯えていたという。彼女に憑いていたその「もの」は、彼女の身体を乗っ取り、日ごろの彼女らしくないことを言わせたり、彼女らしくないことをさせたりしていたという。
でも、その「もの」は女であるようだと、お初は思った。たしかに美女とは言えないものの、気立てのいいお美代に向かって、あからさまに醜女《しこめ》呼ばわりする意地の悪さ。あれは女のものだと考えられる。
その思いは、自然に、中之橋で見たあの観音さまの姿へとつながっていった。お初をさして、(美しいこと)と言ったあの観音像。話しかけてきた声音も、女のものだった。
(観音さまの姿を借りて現れるもののけ……)
そういうものが、若い娘たちに憑き、魔風をあやつって彼女たちをさらってゆく。今度の神隠し、おあきとお律の一件は、そういう事件だと考えてよいのだろう。
では、そのもののけの正体は何か? なんのために若い娘をさらうのか? そして、どうやって彼女たちに憑いたのか?
ふと、遠くで稲妻が閃《ひらめ》くようにして、お初の頭にぴかりと走ったものがあった。中之橋での事件のとき、あの観音像が言った言葉だ。
(だけど、おまえでは駄目だわ)
あれは、お初には憑くことができない、お初をさらうことはできないという意味だろうか。それとも、お初では用が足りないということだろうか?
ううんんと手足を伸ばして、お初は大きく欠伸《あくび》をした。ついでに、むしゃくしゃする行き詰まった気分を追い払うために、
「ええい」と声を出してみた。「ああ、面白くない。いったいどうなってるの」
静かな座敷のなかに、お初の大声が愉快《ゆかい》なくらいはっきりと響いた。それでいくぶん、すっとした。お初は勢いをつけてよいしょと起き上がった。裾が乱れて足が剥《む》きだしになった。
と、そのとき、どこからか声が聞こえてきた。
「行儀の悪い娘だなあ」
どきんとして、心の臓が口から飛び出しそうになった。お初はあわてて裾をたたんで座り直し、あたりを見回した。
すると、今聞こえてきたのと同じ声が、ひやかすように笑って言った。「なあんだ、せっかく目の保養だったのに、もうおしまいかい?」
お初はきっとなって言った。「あんた、誰よ? どこにいるの?」
「探してごらん」
声が降ってくる。天井裏だろうか?
「卑怯者。姿を見せなさい」
お初はぱっと立ち上がり、唐紙《からかみ》を開けた。隣の座敷には灯も入ってないが、がらんとして誰もいないことは間違いない。六蔵とおよしが寝起きしている部屋だから、ほかに誰が入るわけもない。
両手を腰に、肩を突っ張って、お初は声をあげた。「誰よ? 文さん? 悪いいたずらをするとただじゃおかないから」
「おお、怖い」と、また高いところから声がした。「どうしようっていうのかい?」
お初は座敷を飛び出すと、廊下のとっつきの物入れを開け、扉の裏側にぶらさがっている箒《ほうき》をひっつかんで駆け戻った。
「ありゃあ、なんだい、そりゃ」
からかう声が降ってくる。
すかさず、お初は箒の柄を天井に向けると、えいとばかりに突き出した。柄が羽目板《はめいた》に当たり、ばかんというような音がした。
すると、笑い声が聞こえた。「そんなところじゃねえよ、何やってんだい」
見当をかえて、別の羽目板をえいと突く。また笑い声がして、
「違うって言ってるだろうが」
お初は頬が熱くなってきた。これもあのもののけの仕業だろうか?
「姿を見せたらどうなの、この卑怯者!」
声を張りあげて怒鳴りつけると、「声」はしばらく沈黙した。お初は耳をすまし気配をうかがい、そろそろと箒を持ちかえて、今度聞こえてきたらばしりと突いてやろうと身構えた。
「おっかねえなあ、そんなものしまっておくれよ」と、今度は別のところから声が聞こえてきた。天井裏ではない。どうやら、軒先のようだ。
お初は窓際に駆け寄った。連子窓をがらっと開けて、首を突き出し仰ぎ見る。星のちらばった夜空と、突き出た屋根が見えるだけだ。
「わかったよ、そう怖い顔をしないでおくれよ」
くすくす笑いを含んだ声が、お初に呼び掛けてきた。
「そっちへ降りていくからさ、ちょいとどいておくれ。そうでないと、あんたの頭の上に降りちまうからさ」
お初は開けたままの窓から跳ね飛んで離れた。箒の柄を握り締める。膝を折って、何がどっちから飛んでこようとよけることができるように姿勢を整え、大きく息を吸い込んだ。
「まったく、元気のいいお嬢さんだぜ」
ひと声、からかうように言い捨てる声。と、黒い影がさっと窓の上のほうを横切り、ついで、何か小さな丸いものが軒の上から窓枠に飛び乗り、跳ねるようにして座敷のなかに転がり込んできた。
お初は箒の柄を突き出した。その黒っぽくて丸いものはくるくるくるっと横に転がり、糸の玉がほどけるようにしてすとんとその場に着地した。
お初は唖然とした。信じられなかった。その場にいるのは、小さなとら猫だったのだ。「ニャア」と、とら猫はお初を見あげて鳴いた。
「あんた……猫じゃないの」
震える声で、おかしな格好に箒を突き出したままお初が言うと、猫はもう一度「ニャ」と応じた。
「あんたがしゃべってたの? まさかね?」
あのもののけは、観音さまの姿を借りるほかに、猫にも化けることができるのだろうか? すると、とら猫が言った。「ニャ、ニャ、ニャ。あんたも俺たちの言葉がわかれば、面倒がねえんだけどな」
しばらくのあいだお初は、箒を握り締めて突っ立ったまま、とら猫を見つめてまばたきばかりを繰り返していた。
「俺の顔になんか珍しいものでもくっついているかい?」と、とら猫がきいた。
ようやく、お初は声を出した。「あんたそのものが珍しいのよ!」
猫はその場にぺたりとすわると、うしろ足をあげて耳のうしろをかきむしった。
「おお、かゆい」と、声をあげる。「和尚のねぐらは蚤《のみ》が多くってかなわねえや」
「あんた、蚤がいるの?」
「ちっとね」
お初は箒をかまえた。「じゃ、出ていきなさい。うちは食べ物屋なんですからね」
まだ耳のうしろをかきながら、とら猫はお初の顔を見あげた。「そんな呑気《のんき》なことを言ってる場合かい? あんた、俺が何しにここに来たと思ってんのさ」
ものを言う猫がいきなり目の前に降ってきて、何をしにきたと思うと問われたところで、答えられる者などいるまい。悲鳴をあげて逃げ出されない分、相手がお初でよかったというぐらいのものなのだが、このとら猫もわかっているようでわかっていない。
憮然《ぶぜん》呆然として立ちすくんだまま、お初は呟いた。「これがもし、あたしの夢でないとしたなら」
「夢じゃねえって」と、今度は反対側の耳のうしろをかきながら猫が言う。
お初は猫を無視した。「前に、御前さまがおっしゃってたことがあるわ。猫は人のあいだに混じって十年暮らすと、人の言葉がわかるようになるって」
とら猫は大口開けて欠伸をすると、「十年かかるヤツはただの阿呆《あほ》だね」
お初は目をつぶり声に出して呟き続けた。
「ええと、あれはどういう話だったかしら」
こうしているうちに心の迷いが晴れて、今見ているこの猫が幻なら、次に目を開けたときには消えてなくなっているに違いない。
「たしか、お寺で飼われている猫のことだったっけ。そうそう、その猫が鳩《はと》を狙っていたので、和尚さまが声をかけて鳩を逃がしてやると、猫が悔しがって『やや、残念』と言ったんだわ」
とら猫が合いの手を入れた。「のろまなヤツだね。それに、鳩は旨くねえよ」
お初はさらに強く目を閉じた。「驚いた和尚さまは、猫を問い詰めて、『おまえはしゃべることができるのか』って、おききになった。すると猫が答えて、『十年余りも生きているとみんな話せるようになります』『でも、おまえは十年生きていないではないか』『狐《きつね》の血が混じっている猫は、十年経たずとも話せます』と言ったって」
小さいとら猫はぺろりと舌を出して鼻の頭を舐《な》めた。「じゃあ、俺もその口かな?」
お初は目を開け、声を張り上げた。「ええい、ごちゃごちゃうるさいわね!」
とら猫は、びっくりしたのかぴょいと飛びのいた。「いきなり大声を出しなさんなよ」
お初はじいっと猫を見つめた。かの女が一歩詰め寄ると、猫は後退りする。一歩、また一歩と繰り返してゆくうちに、とうとうとら猫を座敷の隅に追い詰めてしまった。
「じっと見てても、あんた、猫のままね」
とら猫はくしゅんとくしゃみをした。「俺は猫だもの。いけねえ、和尚の風邪をもらったらしいぜ」
お初が箒を持ちかえると、猫はそれを目で追いかけた。それがとても興味深そうな目つきに見えたので、今度は反対の手に持ちかえてみると、また追いかけてくる。
「箒が好きなの?」
「がきのころ、それでじゃらして遊んでもらったもんだ。懐かしいな」
「あんた、今だってがきじゃないの」
とても小さな猫なのだ。お初にでも、楽々と片手で持ち上げることができそうだ。
すると、とら猫は気を悪くしたのか、目を細くして「ニャア」と声を出した。
「俺はもう大人だよ」
「歳はいくつぐらいなの?」
「さあて」と、首をかしげる。「生まれてからこっち、雪が降る季節を三回越したよ」
では、人間でいうなら三つだ。それでも、この小生意気な口のききようだけを聞いていると、とても三歳には思えない。お初と同じくらいか、二つ三つ年下というところか。真面目に猫の年齢を考えていることが、おかしくなってきた。思わず吹き出してしまうと、とら猫は喉をごろごろ言わせながら近寄ってきて、驚くほどの身軽さと勢いのよさで、ぴょんとお初の右肩に飛び乗った。
「きゃ! 何すんのよ」
お初は猫をふるい落とそうと、腕を振り回した。猫はニャ、ニャと鳴いてわめいた。
「そう暴れないで、とにかく座ってくれよ、お初ちゃん」
「あんた、どうしてあたしの名前を知ってるの?」
「すずに聞いたんだ」
「すず?」お初は腕を振り回すのを止めた。
「それ、ひょっとして、首に鈴をつけてる三毛猫のこと?」
「御名答」
「昼間、あたしの櫛をとっていった猫だわ」
「和尚の言い付けでとりにいったんだよ」とら猫は器用にお初の肩に座ったまま言った。
「和尚が、あんたが身に付けている物を見てみれば、あんたがどんな娘なのか、だいたいわかるって言うもんだからさ」
お初は箒を部屋の壁に立てかけると、その場に腰をおろした。図々しいことに、お初が座ると、とら猫は肩から下に飛び降りて、そこでお初とまともに顔と顔をあわせた。「ねえ、どういうことなの? 最初っから話してちょうだいな。さっぱりわけがわかりゃしない」
とら猫は、きまり悪くなるほどしげしげとお初の顔を見つめて、またぺろりと舌を出すと鼻の頭を舐めた。
「なかなか器量よしだね」
「そんなことはどうでもいいの。あんた、どうしてここに来たの? 和尚って、どこのお寺の和尚さまのこと? あのすずって三毛猫は、あんたの知り合いなの?」
「矢継ぎ早だね」と、とら猫はからかうように言った。鼻の頭をちょっと持ち上げるようにして、ひくひく動かす。ひょっとすると、笑っているのだろうか?
「あんた今、笑ったの?」
「わかるかい?」
「変な顔になるわね」
「大きなお世話だよ」
お初は猫の首ったまをひょいとつかんで、目の高さに持ち上げた。「ほうら、あんた、こんなに小さいじゃないの。窓からほうり出すことだってできるのよ。後生だから四の五の言ってないで、ちゃんときいたことに答えて頂戴《ちょうだい》な」
とら猫はお初にぶら下げられて、足をばたばたさせた。「おろしておくれよ」
「あんた、なんていうの? 名前、あるんでしょう?」
「鉄だよ」
「てつ?」お初は顔をしかめた。「同じ名前の人を知ってるような気がするわ」
下駄屋の政吉の下で働いていた職人の呼び名である。捨吉が「鉄さん」と呼んでいた。
すると、とら猫の鉄が言った。「俺も知ってるよ。山本町の下駄屋の若い職人だ」
お初は大いに驚いた。「知ってるの?」
「知ってるも知ってないも」鉄は器用に身をよじってお初の手の中から抜け出した。座敷に降りると、ふうと言って背中の毛を逆立て、「苦しいじゃねえか」と文句をたれた。
「どうしてあんたが山本町の鉄さんのことを知ってるのよ?」
「すずがあの家で世話になってるからさ。あの家のお嬢さんに」
「おあきちゃんね?」
「そう。神隠しにあっちまったろ?」
鉄は、またお初の膝によじのぼってきた。
「お初ちゃん、あのおあきって娘を探してるんだろ? それと、八百屋のお律もさ」
お初は目を見張った。「お律ちゃんのことも知ってるの?」
「あそこで、仲間が一匹殺られてる」
鉄の言葉に、お初は、魔風が落としていった首なしの猫の骸を思い出した。
「あんたの言うとおりだわ……八百屋の長野屋さんで、猫が一匹殺されてる」お初はつぶやいた。「じゃ、あんたは、仲間の仇《かたき》を討とうとしてるの?」
鉄は首を振った――人がするようにかぶりを振ったのだ。「そうだよ。だから俺たち、天狗を探してるんだ」
「天狗ですって?」
お初が声をあげると、鉄はぴくりと耳を動かし、膝の上で尻込みをした。
「大声を出さねえでくれって言ってるのに」
「だって……天狗なんていうんだもの。あんた、天狗ってどういうものだかわかってるの? 羽根がはえてて、鼻が高くて、山伏《やまぶし》みたいな格好をしていて、神通力《じんつうりき》があって、いろいろな術を使ったり空を飛んだりするのよ。山の奥深くに住んでいて……」
ちっちっちっと、鉄は舌を鳴らすような声を出した。
「俺は、そんな天狗さまの話をしてるわけじゃねえよ。だってそいつは、人間のこしらえたつくり話なんだから」
「つくり話?」
「そうさ。だって、俺たちは誰も、そういう生き物を見たことがねえもの。俺たちの一族は、人間よりもずっと広く散らばって住んでいるし、人間が踏み込むことができない山のなかにも入ってゆく。それでも、今まで一度だって、お初ちゃんの言ってる『天狗さま』みたいな生き物に出くわしたことはないぜ。俺たちのあいだには、そんな言い伝えなんかないんだぜ。つくり話としか思えねえよ」
妙に説得力のある話である。お初は思わず、「ふうん、そうなの」と相槌《あいづち》をうってしまった。
「でも、それなら、どうしてあんたたちはあの疾風《しっぷう》を『天狗』って呼んでるの?」
「あの疾風が若い娘たちをさらってゆく様子が、今お初ちゃんが言ったような、人間たちのあいだで語り伝えられてる『天狗』のやり方とそっくりだからさ。俺たちは、長いこと人間たちのあいだに混じって暮らしてるからね、人間たちの言い伝えをよく知ってる。だから、あの疾風をたとえるには、『ああ、また天狗がやってきた、天狗風で娘をさらっていった』っていうのが、いちばんわかりやすいんだよ」
なるほどと、お初はうなずいた。たしかに、天狗さまの言い伝えのなかには、彼らが風を起こして里の民をかどわかしてゆく――という話がたくさんある。
「だけどね、それだったら、あんたたちもあの疾風の本当の正体は知らないわけね?」
鉄は髭《ひげ》をぴりぴりと動かした。人の動作にたとえるならば、ちょっと考え込んだ様子で顎を撫でている、というところか。
「和尚は、あの疾風の正体を知ってる」と、鉄はゆっくり言った。「和尚も、和尚の一族も、たいがいの人間よりずっとずっと長生きだからな。間違ったことは言わねえよ」
今の言い方では、どうやら鉄の言う「和尚」も人間ではないらしい。
「和尚って、あんたの仲間?」
「そうだよ。俺らの元締めみたいなもんさ」
元締め、ね。お初は両手で頬を押さえた。頭のなかがぐるぐるしてくる。
「で、その和尚は、あの疾風の正体は何だと言ってるの?」
鉄は喉の奥のほうで低く唸った。その小さな頭のなかに、魔風にさらわれて命を落とした仲間の顔が浮かんでいるのかもしれない。
「和尚は、あいつの正体は、女の妄念《もうねん》だと言ってる」
「女の妄念?」
子猫の口から出てくるに、ふさわしい言葉ではない。
「あんた、その意味わかる?」
「この世に思いを残して死んだ女の思いってことだろうさ」
「どういう思いなのかしら」
鉄は首をかしげた。「そうさな、もっとたくさん生きて、旨いものをたらふく食べて、きれいなべべを着て、ちやほやされて暮らしたかったっていうようなもんかな」
お初は苦笑した。「なんだか情けない思いだわね」
鉄は目をきらきらさせてお初を見あげた。
「そんなふうに笑っていられるってことは、お初ちゃんはまだ若いってことさ」
「あたしが?」
「そうさ。娘のうちは、放っておいたってまわりがちやほやしてくれるからな。そうでなくなったとき、人間の女ってのは本当に惨《みじ》めな思いをするもんなんだって」
お初は笑いをひっこめた。「そういう女ばっかりではないわよ」
「だろうけど」鉄は考え深そうにゆっくりと言った。「けど、人間の女のなかには、そういうことにしか楽しみがないっていうのもいるんだろう。だから、死んだあとも、ああもっといい思いがしたかったって執念《しゅうねん》が残っちまうんだろう。和尚はそう言ってるよ」
お初はまた、あの観音さまの姿を借りた魔物の、ものほしそうな口調を思い出した。
(美しいこと。ほら、その髪、その肌)
「あんたの言うこと、わかるような気もするわ」と、お初は呟いた。
鉄はじいっとお初の顔を見あげている。
「あの魔風――魔物。あんたの言う、天狗風を操《あやつ》る天狗は、ときどき観音さまのお姿に化けるのよ。知っていて?」
鉄はこっくりした。「すずが見たと言っていた」
「おあきちゃんの可愛がっていた猫が? いつ見たって?」
「おあきって娘が姿を消す前に、悪い夢にうなされるようになったころさ。夜中になると、あの娘《こ》の眠っている布団の足元に、観音さまの形をした幻みたいなものがゆらゆら浮かんでいるのを見たんだってさ。すずが唸って追い払おうとしても、駄目だったって」
足元にゆらゆらと――その光景を想像して、お初はぞっとした。
「すずちゃんは、おあきちゃんを守ろうとしていたのね?」
「なんとかね。けど、一匹じゃ無理だ。俺らで力を合わせないと」
お初は膝の上の猫をひょいと抱き上げて、目の高さにまで持ち上げた。
「ねえ、鉄ちゃん」
「鉄でいいよ」鉄はごろごろいった。「照れちまうね。お初ちゃんの手はあったかいね」
「でれでれするんじゃないの。あたしは真面目なんだから」
「はいはい」
「あんたたち、どうして天狗を追ってるの?」
「仲間の仇《かたき》を討つためさ」
「それだけかしら。もちろんそれもあるだろうけれど、あんたの話――あんたの話してくれる和尚さんの話を聞いてると、あんたたち猫とあの天狗とは、最初っから仇同士みたい。そうなの?」
鉄はニャンと鳴いた。「俺にもよくわからねえ。でも俺たちにとっては、天狗は敵なんだ。生まれたときからそうだって知ってるんだ。鼠《ねずみ》は喰える、雀《すずめ》も喰える、鳩も喰えるってことを知ってるのと同じように。犬が敵だってことを知ってるのと同じように。誰に教えられなくても、俺たちには天狗が危険なものだってことがわかるし、あいつが現れたら退治しなくちゃいけねえんだ」
お初はふうんと考え込んだ。この小さな猫というものたちが、人間の女の妄念が変じて生まれた魔物を見分け、魔物を退治する力を持って、人の世に棲《す》んでいる……。これは、いったい誰の計らいだろう?
「おろしてくれえ! くすぐったいよ」
鉄がフニャフニャ言ったので、お初は彼を膝の上に載せた。
「で、これからどうするの?」と、お初はきいた。「あんたはあたしに会いにここに来てくれたのよね? それには、何か目的があったんでしょう?」
「もちろんさ――」と、鉄が答えようとしたとき、障子の外に軽い足音が聞こえてきた。およしがやってきたらしい。
お初は声を殺し、早口で鉄に言い聞かせた。「いい? あれはあたしの義姉さんなの。さっきみたいにいきなり口をきいて、驚かさないでちょうだい。あんたのことは、折りを見てあたしから話すから、それまでは当たり前の猫の顔をしていい子にしてるのよ。わかった?」
鉄が返事をする前に、
「お初ちゃん、入るわよ」
声がかかって、障子がすすっと開いた。お初は座敷に正座して、鉄を膝に載せたまま義姉のほうを振り向いた。
およしはすぐに、声をあげた。「あら、どうしたの、その猫は」
「庇《ひさし》から落っこちてきたの」と、お初は言った。「迷い猫みたいね」
およしの顔に、ぱあっと喜びの色が浮かんだ。義姉さんて、猫好きだったんだわ。
「まあ、可愛いこと」
障子を閉めると、さっと近寄ってきた。
「まだ子猫じゃないの」
言いながら、お初の膝から鉄を抱き上げた。顔いっぱいに微笑んでいる。
鉄はといえば、心得たもので、およしに抱かれて盛大にごろごろと喉を鳴らし始めた。(けっこう、調子いいヤツ)と、お初は思った。
「おっかさんとはぐれたの? それとも家がわからなくなっちまったのかしら」
およしは鉄の顔をのぞきこみ、赤ん坊をあやすような口調で話しかけている。鉄はごろごろいう。
「それほどの子供じゃないようよ」と、お初は言った。すると鉄は、お初のほうを見返って「ニャア」と鳴いた。
「お初ちゃんがここにいるあいだに迷いこんできたの? それとも前からいたのかしら」
「あたしが火鉢にもたれてたら、軒先から落ちてきたのよ」
「今日は加吉さん鰆《さわら》を焼いてるから」と、およしは鉄の頭を撫で撫で言った「匂いに誘われてきたのかしら。おまえ、おなかはすいてる?」
鉄は「ニャゴニャゴ」と応じた。
「猫まんまでもこさえてあげよう」およしは上機嫌である。
「義姉さん、うちで猫飼ってもいいの?」
「いいでしょうよ。お店のほうには出ないようにしてればいいんだから」
「だけど、今までは飼ったことないでしょう?」
「それはやっぱり食べ物屋だからね。わざわざ飼うことはなかったから。けど、この猫を追い出す手はないわよ。ほら、ごらん」
およしは鉄を片腕に抱きなおして、空いた手で鉄のシッポを持ち上げてみせた。
「先っぽが、鉤型に曲がってるでしょう?」
なるほど、鉄のしっぽの先は、かくんと角に折れている。
「こういうしっぽの猫はね、泥捧除けになるのよ。迷いこんできたら、追い出しちゃいけないの」
「へえ……知らなかったわ。金目の黒猫は、商売繁盛を呼ぶって話は聞いたことがあるけど」
「それに、ほら」と、およしは、今度は鉄を身体ごと持ち上げて、四本の足の先をお初のほうに掲げてみせた。
「足の先が白いでしょう。こういうとら猫を、『白足袋をはいてる』っていうの。これも福を運んでくるしるしなんだから」
あらまあと、お初は思った。義姉さんは、猫が大好きなのだ。
「おまえは縁起物だよ」と、およしは鉄に話しかけた。鉄はごろごろ言いっぱなしである。
「大事に飼わなくちゃ」
「そんならよかったわ。けど、うちの人たちは、猫が嫌いじゃないかしら」
「加吉さんは、猫好きよ」
「文さんも大丈夫よね」と、お初は言った。文吉には車屋のお美代と同じ名前の悋気《りんき》の強い恋人がいるのだが、このお美代が猫を飼っているのだ。文吉は、その猫が、
「しょっちゅう俺のあとをくっついてくるんですよ」という。「お美代に代わって、俺が外で悪いことをしないように見張ってるんじゃねえかね?」
「兄さんも猫嫌いではないわ。好きでもないけどね。邪魔だと足で蹴飛ばしたりするかもしれないな」
「そんなこと、あたしがさせませんよ」
およしはすっかり鉄にほれ込んでしまっている。たしかに、鉄は可愛い顔をしている。
「ところで義姉さん、何の用があったの?」
用があったからこそ、店が忙しい時刻に、わざわざ座敷にあがってきたのだろう。お初に問われると、およしはあっと我に返ったような顔をした。
「あら嫌だ、あたしったら。右京之介さまがいらしたのよ」
「ホント?」
お初はさっと立ち上がった。では、倉田主水の動静を探って、なにか成果があがったのだろうか?
「お呼びしていい? 今、とりあえず階下でご飯を食べてもらっているけど。今朝から何も食べずにいたんですって。ふらふらしておられたもの」
「右京之介さまらしいわ」
およしは鉄の頭をくしゃくしゃっと撫でて、名残り惜しそうにお初の膝の上に返すと、足早に座敷を出ていった。
「ふう」と、鉄は言って頭をぶるぶる震わせた。「あんたの義姉さん、情の濃い女だぜ」
お初は鉄の頭をぽかりとやった。「生意気言うんじゃないの」
「けど、いい女だな」
「あんたって……」お初は呆れた。
「猫のくせに助平ね」
「いいじゃねえの。それにおよしさんは、俺のこと気に入ったみたいだぜ」
お初は鉄をほうり出した。「ここでいい子にしてなさい。右京之介さまをお呼びしてくるから」
鉄は畳の上にくるりと降りると、お初を見上げた。「右京之介って誰だい?」
「あたしといっしょに天狗探しをしておられる人よ。つまり、あんたにとっても味方だわね」
「お初ちゃんのいい人かい?」
「そういうことばっかり言うんじゃないの」
お初は座敷を出て廊下を走り、加吉の立ち働く板場のほうから店に出て、右京之介を探した。込み合う店のなか、湯気《ゆげ》と煙草の煙のたちこめる向こうに、少しばかりくたびれたような彼の顔が見えた。
右京之介も目をあげてお初を認めた。ちらりと笑って、首を振ってみせた。あまりうまくいかなかったということらしい。
「ご飯まで抜いて歩き回っておられたんですって?」
いっしょに座敷へと向かいながら、お初はきいた。右京之介は苦笑した。
「お初どのが帰られたあと、すぐに倉田主水がやってきたんです。まるで自分の家に入るような態度で踏み込んできましてね。何かお上《かみ》の役に立つことを思い出しはしないかと、捨坊を、ちくちくと突いていましたよ。あの子も偉《えら》いもんだ。ひとりでずっと頑張っている」
「倉田主水ひとりでした?」
「お初どのが見たという、浅井屋のお内儀は、今日はいませんでした。ただ、おそらくは倉田どのの子飼いの岡っ引きでしょう、小柄な目つきの悪い町人が、彼の肘のすぐそばにくっついていました。やはり、我々の勘はあたっていたようです。倉田どのは、おあきが殺されて、亡骸は捨てられたというお話をしっかりと固めるために下駄屋の者たちを追及したり、言い含めたりしているのです」
お初は障子をがらりと開けた。待っていたかのように、鉄がニャアと鳴いた。すると、隣にいたはずの右京之介がいなくなった。
お初はぽかんとした。振り向いてみると、右京之介は廊下の端のところまで飛び退いて、壁にへばりついている。
「右京之介さま?」
「今の、鳴き声はなんですか?」
「は?」
「ニャアといったでしょう」
お初は、廊下の端の右京之介の顔と、座敷のなかにちょこんと座っている鉄の顔とを見比べた。
「猫ですけど……」
右京之介の端整《たんせい》な顔が大仰《おおぎょう》に歪《ゆが》んだ。「猫ですと? お初どの、いつから猫を飼っておられました?」
「今さっき、うちに転がり込んできたんです」お初はおかしくなってきた。「あの……お嫌いですか?」
右京之介は頭を抱えた。「私にとって、この世でいちばん怖いものは、父上と猫なのです」
たしかに、右京之介の父親古沢武左衛門も手強いお人だが、右京之介とのあいだには一応の和解も成立している。とすると、猫は、今の右京之介にとってこの世でもっとも手強いもの――ということになる。
お初は座敷に入り、鉄を抱き上げた。
「なんなの、あいつ?」と、鉄がきく。
「しい、黙ってらっしゃい」
叱っておいて、お初は右京之介に声をかけた。
「右京之介さま、猫は取り押さえましたから、とにかくお入りくださいな」
右京之介のか細い声が応じた。「猫を外に出してはいただけないのですか?」
お初は困った。「あのね、この猫、今度のことに係わりがあるんです」
おそるおそるという風情で、右京之介は一歩一歩足を伸ばし、障子の陰から姿を見せた。へっぴり腰もいいところだ。
「鳴きませんか?」
とたんに、鉄がニャアと言った。
右京之介は、再び飛んで逃げる。お初は声をひそめて鉄を叱りつけた。
「人をからかって楽しむもんじゃありません!」
鉄はカカカと笑った。「臆病《おくびょう》だねえ、あいつ。侍じゃねえの?」
「お初どの!」右京之介が呼びかける。「お願いですから、その猫は片付けてしまってもらえませんか?」
「片付けるだって」鉄が憮然とした。「俺は布団や火鉢じゃねえよ」
「ですから右京之介さま、この猫は、おあきちゃんたちの事件を調べる上で、役立ってくれる猫なんです。怖くありませんから、逃げないでくださいまし」
渋々、右京之介は姿を見せた。彼がお初の言葉にこんなにも疑わしそうな顔をするのは初めてのことである。
「野良猫ですか?」
おっかなびっくり近づいてくる。
「そうらしいんですよ。でもね、この猫――」
ものを言うことができるんです、と言いかけたとき、鉄がニャ、ニャ、と鳴いた。右京之介は火箸で突かれたみたいに飛び上がった。
「鉄ったら、猫みたいな真似をするのはやめて、ちゃんとしゃべりなさい」と、お初は言った。
だが、鉄は「ニャアアア」と長く鳴いただけである。
「そらっとぼけて。悪戯《いたずら》はやめて、右京之介さまにご挨拶なさい」
「お初どの?」右京之介が、首をかしげてお初を見つめた。「猫に話しかけておられるのですか?」
お初は腹がたってきた。「この猫、鉄っていうんですけどね、しゃべれるんですよ。それなのに、さっきから猫かぶっちゃって」
右京之介は、お初を案じるような目つきになった。「猫は猫ですから、猫かぶりぐらいするでしょう」
「なんだよ、この肝《きも》っ玉のねえ男に、お初ちゃん惚《ほ》れてんの?」
鉄がいきなり失礼なことを言ったが、お初はほっと喜んだ。
「ね、右京之介さま、聞いたでしょ? この猫、しゃべれるの」
右京之介は、まじまじとお初の顔をのぞきこんでいる。
「お初どの」
「はい」
「今、この猫はニャアニャア鳴いただけですよ」
今度は、お初が右京之介を見つめた。
「なんですって?」
「この猫は、鳴いているだけです」と、右京之介が噛んで含めるように言う。「しゃべってなどいないです。お初どの、大丈夫ですか?」
お初は右京之介の顔を見つめた。それから、腕のなかの鉄を見おろした。
「なんか言ってごらん」と、鉄に言った。
「腹減ったな」と鉄。
「ほら」と、右京之介。「ニャ、というふうに鳴きました」
再び、お初は頭のなかがねじれ飴のようにねじねじしてくるのを感じてしまった。
「ちょっと待ってくださいね」
右京之介に声をかけて、鉄をぎゅっと抱き締めたまま、彼に背中を向けた。
「ああ、いいなあ。お初ちゃんの抱き心地」
目を細める鉄に、お初はひそめた声で早口に言った。「ねえ、あんたのおしゃべりを聞くことができるのは、あたしだけなの?」
「そうでもねえよ」
「だけど……」
「聞こえる人間と、聞こえねえ人間といるね。ほらさっき、お初ちゃんがひとりでぶつぶつ言ってた寺の坊主の話があったろ?」
「あたしが御前さまから伺った話ね?」
「うん。その坊主は、聞こえる人だったんだろう。坊主ってのは、たいてい聞こえるけどな。よほどインチキな生臭野郎でねえかぎりは、さ」
「じゃ、右京之介さまには聞こえないのかしら」
「そうみたいだね」
「およし義姉さんは?」
「聞こえなかったみたいだね」鉄はさらりと言った。「俺さっき、およしさんに抱かれてるとき、『姐《ねえ》さん、亭主持ちかい?』ってきいたけど、返事してくれなかったからよ」
お初は片手で顔を覆った。「頭痛いわ……」
「なんでさ」
「だって、いったいどうやってあんたのことを右京之介さまに説明したらいいのよ?」
「お初ちゃんが通詞《つうじ》になってくれりゃいいじゃねえの」
「信じてもらえるかどうか……」
右京之介は、お初のなかに、他人にはない不思議な力がぴかりと閃くことがあるのをよく知っている。が、それとこれとは話が別ではないか? いくら霊験娘だと言っても、猫と仲良くお話しますというのは……
それでも、ほかにどうしようもない。心を決めて、お初はくるりと振り向いた。
「右京之介さま」
鉄の姿を目にして、また及び腰になっていた右京之介は、「な、なんでしょう、お初どの」
「この猫、本当にしゃべれるんですの。でも、これの言うことを聞くことができるのは、うちではどうやら、あたしだけみたい」
「これだって」と、鉄がぼやく。「俺は火鉢じゃねえって言ってるのに」
鉄のつぶやきが、右京之介には鳴き声に聞こえるのである。彼はじりじり後退りしてゆく。いささか情けない姿である。
「それほど猫がお嫌いとは存じませんでした」
右京之介のあまりの様子に、お初はいささか呆れ気味で言った。
「私自身も、不思議でたまらないのです。別段、子供のころにひどく猫に噛まれたなどということもないのですからね」
右京之介は、まるで剣山《けんざん》の上を歩いてでもいるかのように、畳にちょっと足をおろしては飛び上がり、またちょっと足を置いては脇へ退く。むろん、鉄が意地悪く彼の行く先へ行く先へと目で追いかけているからだ。
「止めなさいったら」
お初は鉄の頭をぽかりと張って叱りつけた。鉄は「ンニャ」というような声を出した。
「お初どの、そんなふうに小さな生きものをポカポカやってはいけません」
逃げ腰の右京之介は言う。優しい事は優しいのだ。
「とにかく、お座りくださいな。そんなふうに、空煎《からい》りされてる豆みたいぴょこたんしておられたら、話もできない――そうだ、ちょっと待ってくださいまし」
お初は片手で鉄をしっかり抱き締めたまま、押し入れを開けて頭をなかにつっこんだ。積み上げられている客用の座布団の脇に、およしが細々《こまごま》したものをしまっておく手箱が入っている。そこからくるくる巻いて縛ってある縒《よ》り紐《ひも》を一本取り出すと、手際よく鉄に首輪をかけ、紐の端を窓枠にくくりつけてしまった。
「そら、これなら安心でしょう」
縒り紐の長さは三寸足らずなので、鉄は窓際から離れることができない。右京之介に近寄ることもできないはずである。
右京之介は少しばかりだがほっとした顔をした。うろうろ動くのを止めて、ちゃんと両足で畳を踏み締める。
「では、私はここに」と、それでも、窓からいちばん遠い、障子のすぐ前に座りこんだ。鉄は大不満である。「なんだよ、これ」
「いいじゃないの、しゃべることはできるでしょう?」
「人がせっかくお初ちゃんを助《す》けてやろうと思って来たのに、これじゃあまるで見世物《みせもの》小屋の熊みてえじゃねえの」
「そうでもないわ、ちょっと可愛いわよ。ニャアと鳴いてごらん」
「うるせいやい」
右京之介は、まるで、たった今満月が井戸端に降りてきて顔を洗っているのを見た、とでもいうような顔をしている。
「お初どのは、本当にこの猫と会話をしているのですか?」
「そうらしいんですの」お初は首のあたりをほりほりかいた。
「この猫は賢《かしこ》いのですか?」
すかさず鉄が口をはさむ。「少なくとも、おめえより肝っ玉はあるよ」
「お黙り」と、お初は決めつけた。
「この猫はなんと言ったのです?」
「生意気なんですよ。見世物小屋の熊みたいで嫌だって」
「ははあ」
「口が悪くて助平ですけど、頭は悪くないみたい」
「助平? 猫が?」右京之介は、満月が手ぬぐいをさげて湯屋ののれんをくぐってゆくのを見たというような顔をした。
「まあ、いいじゃありませんか」彼を宥《なだ》めておいて、お初は、今しがた鉄から聞いた話を右京之介に語って聞かせた。まだびくびくしているのか、時折鉄の様子を片目でうかがいながらも、右京之介はお初の話に聞き入った。
「天狗、ね」と、深くうなずく。「たしかに、若い娘さんたちをさらってゆく魔風の有様は、あの羽根が生えていて高下駄を履いた伝説の妖怪のやり方に似ているところがありますね」
そして、なんだか見直したような目つきで鉄を眺めた。
「お初どの、今の話で、道場に出入りしている国学者の先生が言っておられたことを思い出しました。海の向こう、我が国よりも遥かに広い国土を持ち、早くから文明の開けていた清《しん》の国にも、天狗という妖怪の正体を、魔性の女の霊であるとする考え方があるのだそうです」
「魔性の女の霊――じゃあ、姿形も、わたしたちが思っているような天狗ではないのですね?」
「そうです。扇《おうぎ》で風をおこして空を飛ぶ天狗の形は、あくまでも、我が国のなかで独自につくりあげられてきたお話である、と。しかし、疾風と共に降りてきて何かの災いを為したり人をさらっていったりする、何か別のもののけの類は、古くから人々のあいだに知られていた。そして我が国では、本来係わりがないはずのそのふたつのものが、いつの間にか結び付いてしまったのでしょう」
鉄が「ニャア」と鳴き、ついでお初に言った。「なあ、こいつ何者? お初ちゃんと何やってんだよ」
お初は右京之介に微笑みかけ、「鉄に、これまでのことを話してやっていいでしょうか」
「無論です」右京之介は勢いよくうなずいた。「この猫が我々と同じ目的を持っているのならばね」
お初は、事の発端――御前さまとの係わりあいから柏木のこと、おあきという娘の神隠しの件を調べ始めたいきさつからこれまでのことを、順序だてて鉄に説明した。
「ふうん」というような声を、鉄は出した。
「そうだったのか。俺たちの側では、最初にお初ちゃんのことを知ったのは、すずなんだ。お初ちゃんが初めて下駄屋を訪ねて行ったとき、すずはあそこにいたからね。軒先で、いつも見張っていたんだ」
「あのとき、外でちりちりと鈴の音がしていたの。あたし、風鈴かと思ったのよ」
「すずはびっくりしてたよ。天狗に脅しつけられて、あんな恐ろしいことになっても負けない、凄い娘っ子だって」
「じゃあ、あたしがおあきちゃんの手習い帳と切った張ったをやっているのを、すずちゃんはずっと見てたのね?」
「うん。それだけじゃねえよ。下駄屋を出たお初ちゃんのあとを尾けて、お初ちゃんの住まいがここだってことも突き止めた。そのうえ、ここへ帰ったお初ちゃんが、兄さんと長野屋のお律のかどわかしのことを話しているのも聞きつけて、まっしぐらに俺と和尚のところへ報せにきたのさ」
「じゃ、あんたは……」
「うん。お初ちゃんのあとをついていって、昨夜《ゆうべ》の長野屋の一件も、隠れて一部始終見てた」
「それでお律ちゃんのことも、長野屋で殺された猫のことも知ってるというわけね」
「そういうこと」
お初は鉄と会話をしつつ、鉄の言っている言葉を右京之介に話して聞かせている。なかなか忙しい。右京之介は半信半疑のような興味津々のような、どっちつかずの顔つきで、懐で腕を組んでいた。
「鉄ちゃんは、それであたしに会ってみようと思った」
「そうなんだ、鉄ちゃんはね」鉄はごろごろいった。「鉄ちゃんて呼んでくれるのは、いいね」
お初は右京之介に言った。「昼間、あたしの頭から猫が櫛を盗んでいったでしょう?」
「ええ、あの猫がすずだったんですね」
「そうなの。で、あれは、和尚が、あたしの身につけているものを見れば、あたしがどんな娘かだいたいわかるって言ったからなんですって」
右京之介は微笑した。「人の身に付けているものから何かを見抜くというのは、お初どのもときどきすることではないですか」
お初もにっこりした。「で、ねえ、鉄ちゃん、和尚さんはあたしに近寄っても大丈夫だって言ったわけよね?」
鉄はまた、鼻の頭をちょっと持ち上げるようにしてひくひくさせた。「和尚は言ってたよ。天狗とまともに渡り合おうっていうような人間は、たいてい、下手をするとそいつ自身も天狗になりかねないような奴なんだって。けど、お初ちゃんの櫛からは、恐ろしい妖気は漂ってこなかったから、係わってみても、まず平気だろうってさ。でも頼むからよ、お初ちゃん、たとえばこの先、男に捨てられて悔しい! ってなことがあっても、天狗にはならねえでおくれよ」
この言葉を右京之介に通詞して伝える前に、お初は鉄をポカリとやった。
「何を言ったのです?」と右京之介。
「なんでもありません」
「おお痛え」鉄は顔をくしゃくしゃにした。
「勘弁しておくれよ」
「それで、まだあたしたちのことを知る前には、鉄ちゃんたちは何をしていたの? どうやって天狗を探そうとしていたの?」
「和尚はもういい歳だからね。住み家にしてるお寺さんからほとんど動けやしねえ。俺は、とにかく町中を歩きまわって、下駄屋のおあきちゃんのようなことが余所でも起こってないか、何か手掛かりになることがねえか、聞いて歩いていたよ」
「それは、猫のあいだをってこと」
「そうさ。俺たちは、いろんなことを見たり聞いたりしてるからね。噂の伝わるのも早いし」
「ほかには、あの魔風の仕業のように見える神隠しはあって?」
「今のところはまだねえな。おあきちゃんと、お律ちゃんの件のふたつだけだ」
お初が鉄の言葉を伝え終えると、右京之介が鉄に言った。「どういうふうに、手を組んでいったらいいのだろうね、私達は」
鉄は右京之介の顔を見上げ、それからお初に言った。「すずがお初ちゃんから櫛をとってきたとき、お初ちゃんたち、倉田主水の様子を探るとか言ってたんだって? あいつが下駄屋の職人たちをどこかに隠しているようだから?」
お初が鉄の言葉を伝えると、右京之介はひと膝乗り出して鉄に近づいた。
「うむ、そのとおり」
「それ、うまくいったのかい?」と、鉄。
右京之介は残念そうに首を振り、お初に言った。「さっきもお話をしかけていましたが、今日は首尾がよくありませんでした。倉田主水は、御番所に行ったり、髪結い床へ行ったり、いっしょについて来ていた岡っ引きの住まいであるらしいしもたやに入っていったり、そうそう、一度など船宿に――」
言いかけて、右京之介は困ったように眉を下げた。
「あの柳橋の『新月』にも行ったのですよ」
お初が「まあ」と目を見開くと、すかさず鉄がニャゴニャゴ鳴いた。
「なんだよ、あの『新月』って。新月なら俺も知ってるぜ。人目を忍ぶふたりがさしつさされつ川面《かわも》の上にぎっちらこ――」
お初が鉄の頭を張ろうとしたところ、鉄もさすがに心得てきてひょいと逃げた。
「言ったでしょ、そもそもこの話は、御前さまから屋形船の上でうかがったんだって。その屋形船に、『新月』から乗ったのよ。それだけのことよ」
右京之介が、えへんと咳ばらいをした。
「倉田主水が『新月』のなかに入っていったあと、私はしばらく待ってみたのですが、半刻ほどして彼がひとりで出てきただけで、少なくとも私の見張っていたあいだには、ほかに人の出入りはありませんでした。彼がそこで会うことになっていた相手は来なかったのか、さもなければ彼よりも先に来ていたのでしょう」
いったいに、人を非難することの得意でない右京之介は、言いにくそうだった。
「御番所内の噂では、倉田主水には女色《にょしょく》の面でも芳《かんば》しくない行状が多いようなので……」
「『新月』も、そういうことのために訪れたのかもしれませんね」と、お初は言った。
「主水は、『新月』を出たあとは、まっすぐ八丁堀の住まいに帰りました。妻女だと思いますが、たいへん明るい女性の声が聞こえました。今の私にとっては、八丁堀の同心たちの住まいが集まっているあたりは、そこにいることを咎《とが》められはしないものの、どうにも居心地の悪いところですので――」
右京之介は苦笑した。見習与力のお役を退いて以来、家を出て算学の道場に住み込んでいる身の上である。
「四半刻ほど待ってみても、もう倉田主水が家から出てくる様子はありませんでしたから、ちょっと捨吉の様子を見に行ったあと、こちらへ来てみたという次第です」
倉田主水は誰と会っていたのだろうと、お初は考えた。それにしても不思議なお人だ。強引なやり方で下手人をあげてゆく御番所のやり手であり、女好きでもあり――
「お初どのももちろんご存じと思いますが、定町廻りの同心には、御番所から、お供|中間《ちゅうげん》がひとりつけられます。見かけたことがあるでしょう?」
「はい」
六蔵が手札を受けている定町廻り同心の石部には、蓑助《みのすけ》というお供中間がついている。そろそろ五十に手が届こうかという年齢で、小柄で痩せ細っており、千草の股引《ももひき》がだぶついていたりして、なんだか頼りないような御仁であるが、石部は蓑助を手放さない。
定町廻り同心のお供中間が空脛《からずね》ではなく、黒い脚絆《きゃはん》をはいているのは、いつでもすわ捕り物というときに動きまわることができるようにするためである。だがそういう蓑助では、その「すわ!」という時、あまりあてにできそうもない。
不思議に思って、お初も一度、六蔵に尋ねてみたことがある。どうして石部さまは、もう年寄りの蓑助さんを、あんなに大事にするんでしょうねと。
すると六蔵は答えたものだ。「捕り物なら、俺でも俺の手下でも、石部さまを助けることができる。だが、蓑助さんは生き字引でな。この江戸の町のことなら何でも知っているし、これまで起こったことならどんなことでも覚えている。だから、石部さまは蓑助さんを重宝《ちょうほう》がって放さないのさ」と。
「いろいろな形で、お供中間は町方役人の旦那の役にたつんですよね」と、お初は右京之介に言った。
「そうです。でも、それだからこそ、後ろ暗いことをするときは、そばにいられては都合が悪い」
鉄がふああと欠伸《あくび》をした。こういう話、わかるかしらとお初は思った。
「お供中間は、御番所から手当てをもらっている身分ですから、言ってみれば定町廻り同心の正式な家来です」と、右京之介は続けた。「が、倉田主水は彼に付けられた中間を使ったことがないという話を聞きました。お初どのが彼を見かけたときも、いっしょにいたのは浅井屋のお内儀でしたし、今日私があとを尾けているあいだも、途中までいっしょにいたのは岡っ引き風の町人でした」
お初は、ゆっくりとうなずいた。
「今朝がた、六蔵どのとお話をしたときも申し上げましたが、どれほど手柄をたてようと出世ということのない町方役人にとっては、現世の利益ぐらいしか追い求めるものはありません。ある事件が起こり、その解決が難しそうなとき、どうしてもそれを解決してくれなければ腹の虫がおさまらぬ、あるいは大変な損害を受けるという人物はどうするでしょうね。まずはお内儀に頼るでしょうが、お内儀はいつも忙しい、ひとつの事にばかりかかずらってはおられないとなると――」
「岡っ引きに頼りますね」と、お初は答えた。
「そうですね。町中では、そういうことには、たいていの場合岡っ引きが動くものです。それだからこそ、倉田主水は岡っ引きと懇意《こんい》にしているのでしょう。六蔵どのと石部どのとの繋《つな》がりなどとは、これはまったく別のものと思われます」
「分け前をとりあっている?」
「そういうことでしょう」右京之介はうなずいた。しかし、それにしては、どうにも割り切れないことがある。辰三親分のことだ。
「辰三親分は、倉田さまはなかなか立派な旦那だと言っていたの。ごまかしじゃなく、本気で誉《ほ》めているようだったわ……」
「辰三親分は、普段はあまり倉田どのと付き合いがないのでしょう?」
「ええ。以前にも手伝ったことがあるとは言ってたけれど」
「まだ、正体が判らないのかもしれませんよ。倉田どのの日頃の行状などについては知らないのかもしれない」
そうだろうか。経験を積んだ岡っ引きである辰三の目にも、すぐには見えてこないものがあるということなのか。
「だけどね、それでも、なかなか立派な旦那だなんて言葉は、おいそれと口に出さない人なのよ。あたし、それが気になって。もういっぺん、辰三親分と話をしてみようかしら」
思わず呟くと、右京之介がほほ笑んだ。
「一度にすべてのことをやるわけにはいきませんよ。今はとにかく、倉田主水の行状を見張って、下駄屋の職人たちを探し出すことです。彼らから話を聞くことができれば、おあきさんの神隠しの不思議のことも、何か取っかかりを見つけることができるかもしれないのですから」
そうですねと、お初が気を取り直したとき、鉄がまたあてつけがましい大欠伸をひとつして、眠そうにフニャフニャ言い出した。
「俺、さっきから退屈で」
お初は笑った。「そうだわね。鉄ちゃんには、御番所のお役人の話なんかつまらないわね」
鉄は首を振った。「そうじゃねえよ。わかってねえなあ。最初に言ったろ? 俺が何しにここへ来たかって」
「あたしたちと手を組むためでしょう」
「そうさ。それでまず、教えてやろうと思ったのさ。下駄屋の職人たちの居場所を」
これにはびっくりした。
「なんで早くそれを言わないの?」
右京之介があわてた。「鉄はなんと言ったのです?」
「下駄屋の鉄さんと伊左さんの居場所を知ってるって」
「なんと」右京之介も目を見開いた。「本当かい?」
鉄は得意そうに鼻をならした。「本当さ。だからここへ来たんだし、さっきも、倉田主水の跡を尾けることはうまくいったのかってきいたんだ」
「ふたりはどこにいるの?」
「浅井屋に」と、鉄は簡単に答えた。「料理屋だろう? 大きな店なんだよ。敷地の北側に石を積んで土で固めた氷室《ひむろ》があってさ。この季節には使われていないんだ。鉄と伊左っていう職人は、そこに押し込められてるよ」
「じゃあ、やっぱり浅井屋のお内儀が倉田主水とはかって――」
「お内儀だけじゃないよ。旦那の伊兵衛も、おあきって娘が縁付くことになってた息子もさ。三人で、頭ひそひそ寄せて話し合ってるぜ。職人たちの飯の面倒とかは、息子の松次郎《まつじろう》がみてる。女中をひとり、使ってね。どういう言い訳をつけてるのかしらねえけど、まあ奉公人なんてのはお店の言いなりだからな」
松次郎か……、おあきの手習い帳に書かれていた名前だ。おあきと夫婦になることになっていた許婚者である。しかし、今までは、柏木や捨吉の口から、おあきの許婚者がおあきの身の上を案じてああしたこうしたという話が一度も出てこなかった。
右京之介も同じことを感じているようだった。
「松次郎か……。そういえば、ここへきて初めて彼の名前が出てきたような気がしますね。本来ならば、おあきの行方知れずにも、それに続く政吉の告白と自殺にも、いちばん深く心を傷つけられているはずの人物だが」
「もともと、松次郎さんの一目惚れから始まった縁談ですしね」
「すると松次郎は、娘の浅井屋への嫁入りに難色を示し始めていた最近の政吉を、よく思ってはいなかったでしょうね。そこへもってきて政吉の娘殺しの告白――さぞかし政吉が憎いだろうな。だからこそ、彼の罪を固めるために、ふたりの職人に因果を含めることにも熱心に協力しているのでしょう」
「ふたりの職人さんたちは大丈夫かしら?」
と、子猫の鉄がフニャフニャ言い出した。
「ぐちゃぐちゃ頭を使ってねえで、ふたりを助けだしに行こうよ。じかに聞いてみりゃ、用の済む話じゃねえの」
それはまあそうなのだ。お初が鉄の言葉を右京之介に伝えると、彼は苦笑して、
「鉄の言うとおりだ。だがね、我々としては、よほど用心してかからないといけない。浅井屋の側に、今度のことについて、通りいっぺん以上の思うところがあるのだとしたら、鉄と伊左が逃げ出さないように、厳しく見張りをつけていることだろうから」
「そっちは俺が引き受けるよ」と、鉄。
「算段があるの?」
「ちょいとばかしね」
「見張りがついてるの? ふたりは縛られてるの? それとも――」
「行けばわかるよ。うん、見張りはいるけどさ、どうってことねえよ。ちょいと脅かしてやれば腰を抜かしちまうだろう」
鉄はいたって気楽そうだ。
「お初ちゃん、出かける前に、俺に飯を食わせてくれねえかい? すずや和尚と違って、俺は本当の野良だから、飯に不自由することもあるのさ。ここんとこ、あんまりまともに食ってねえの。腹ごしらえが済むころには、夜もとっぷり暮れて、おあつらえむきの時刻になるだろうしさ」
というわけで、鉄はおよしがつくってくれた猫まんまをたらふく食べ、お客の残した鰆の骨をもらい、まだ時があるからと、とろとろと居眠りまでする始末。そのあいだに、お初もてっとり早く夕食を済ませ、右京之介は動きやすく人目にたちにくいように町人風の身形《みなり》に着替えた。
眠る鉄を横目で見ていると、どうにも不思議で仕方がない。逆立ちしてみても、ただの小さな赤とら猫だ。
「御前さまに鉄をお引き合わせしたら、びっくりなさることでしょうね」
「また、『耳袋』に書き留められることでしょう」と、右京之介も同意した。「ことによると、鉄を間者《かんじゃ》として使おうとおっしゃるかもしれない」
夜中の九ツ(午前零時)の鐘が聞こえ始めると、鉄がううんと伸びをして、そろそろころ合いだと言い出した。
いざという時のため、右京之介は懐に匕首《あいくち》を忍ばせた。どこからそんなものを手に入れてきたのかと思ったら、例の屋形船での話のあと、入り用なときがくるかもしれないと、密《ひそ》かに買い求めておいたのだという。
「こんなものを使わずに済むといいのですが」
元来、切った張ったの苦手な右京之介は、心細そうな顔をしている。お初は、小袋に七味|唐芥子《とうがらし》をいくらか詰めて、たもとに隠し持った。追っ手がかかったら、目つぶしに使うつもりである。
そんなふたりの様子を眺めて、鉄が鼻をくしゅくしゅ言わせる。笑っているのである。
「心配いらねえよ。お初ちゃんたちは、職人たちを逃がしてさえくれればいいんだ」
この時刻、木戸を抜けるとき、あるいは行く先を尋ねられたりするかもしれない。そのときは、親戚が急病の知らせを聞いて駆け付けるところだと申し述べる。お初は「伊勢屋」の名入り提灯を持ち、お供する右京之介は奉公人だということにした。
「俺は屋根伝いにゆくからさ」と、鉄は窓枠から軒先に飛び上がりながら言った。「浅井屋の、勝手口のところで落ち合おうよ。上から声をかけるからさ」
浅井屋脱出
日本橋万町から駒形堂近くの浅井屋まで、お初の足では半刻かかる。寝静まった町は春霞にぼうっと包まれ、まるで薄衣《うすごろも》をまとっているかのように見えた。足音も吸い込まれてゆく。
途中の木戸では、もっともらしい言い訳がきいて、これという困難も感じなかったが、諏訪町《すわちょう》の手前で木戸を通るとき、お初は、これから行く親戚の家の急病人はどうやら流行病《はやりやまい》であるらしい、下駄屋なので住み込みの職人がいるのだが、彼らを二、三人、うちのほうで引き取らねばならなくなるかもしれないと、先手をうって言い置いておいた。
駒形堂は浅草寺《せんそうじ》の総門の門口にあたり、大川を右手に建てられている。浅草寺に参詣に来る人々は、ここで手を洗い口をすすいで先へ進む。同時にこの場所は浅草川の船着場でもあり、吉原《なか》へ行く人びともここへ舟をつけることになっている。さすがにこの時刻ではどこもひっそりと人影はなく、竹町の渡し場にもやってある舟が、ぺたりと凪いだ大川の川面に、霞にすっぽりと包まれて、もの憂げに上下しているだけだ。
浅井屋があるのは、駒形堂の前を左に折れて、通り一本入ったところの三間町というところだと、鉄がくわしく教えてくれた。浅草寺前の茶屋町などからは一歩も二歩も離れているが、それでも集まる客は多いという。夏には花火舟に仕出し料理を出し、それがまた評判が良くて、この桜の季節から、川開きの日の料理のあつらえを頼みに来ている客までいるそうだ。
(桜……)
そう、駒形堂は桜の名所でもある。浅草寺の総門から境内に向かっての並木道、あいだあいだに植えられた桜が実に豪勢で美しく、参拝客たちの目を楽しませる。
だが今、その桜並木に背を向けて急ぐお初の目には、いつにもまして、桜は不吉なものに見えた。そういえば、夜桜の薄桃色は、あのもののけが身にまとっていた衣の色によく似ている。
「ここですね」
右京之介が足を止め、提灯を掲げて黒塗りの木塀を見あげた。桟のところに竹を使った瀟洒《しょうしゃ》な木戸の脇に、ほっそりとした掛け行灯が掲げてある。むろん、今は火が消されている。
「勝手口は向こう側でしょう」
ふたりは先へ進み、木塀の角を右に折れた。三間ほど進むと、塀の一部がくぐり板戸になっている部分を見つけた。こちらにも、正面のと同じ形、ただひとまわり小さな掛け行灯があって、短い蝋燭《ろうそく》が点《とも》してある。
頭上の暗闇のなかで、「ニャア」と鳴く声がした。
「遅いなあ」と、鉄が言い、お初たちの見あげる目の上、木塀の上をするすると走ってきた。丸い目が、提灯の明かりにぴかと閃く。
声をひそめて、お初はきいた。「ここから入るの?」
「そうだよ。お初ちゃん、帯紐《おびひも》を貸しておくれよ」
「帯紐?」
「うん。この板戸、内側から掛け金がかかってるんだ。帯紐の先を輪っかにして、俺におくれよ。そしたらその輪に掛け金をひっかけて、開けることができるからさ」
お初は手早く帯紐をとくと――右京之介は周囲に目を配るふりをして、慎《つつし》み深く余所《よそ》を向いていた――先を輪にして鉄にくわえさせた。鉄はひらりと塀の上から飛び降りると、しばらくのあいだ姿を消していたが、やがてまた、帯紐の輪にしていない方の端をくわえて、塀の上に飛び乗った。そのまま、紐を引きずって塀の上を駆けてゆく。と、板戸の内側で、小さく「かたん」という音がした。
お初はそうっと板戸を押してみた。蝶番《ちょうつがい》はなめらかで、音ひとつせずにすうっと内側に開いた。最初にお初が、続いて右京之介が、姿勢を低くして扉のなかにすべりこんだ。
なるほど、扉の内側の掛け金に、帯紐の輪がひっかかっている。お初は輪を取り除き、塀の上を駆け戻ってきた鉄の口から帯紐を受け取ると、丸めてたもとにつっこんだ。
「氷室はどっち?」
「こっちだよ」鉄は先に立ち、塀の上を、左手のほうへ歩いてゆく。
踏み込んだ塀の内側は、浅井屋の建物の右脇のあたりにある庭であった。庭といっても、勝手口の板戸のところから母屋《おもや》まで、雑にならした程度の細い道がつけてあるだけで、あとはこんもりとした木立に覆われている。先ほど正面玄関で掲げた提灯の明かりには、木戸の内側に見事な松の木が腕を差し伸べているのが映ったが、このあたりの木立はそういうものではなく、椿《つばき》やら南天やらに、すぐには名前の見当がつかない草木も、ごたまぜになって植えられている。左手で塀に触りながら前かがみになって進んでゆくと、かすかに厠の匂いも漂ってきた。
「ぐるりと回って、建物の反対側にゆくんだ」と、鉄が塀の上から言った。
「わかったわ。声を小さくして」
「お初どの、大丈夫ですよ。お初どの以外の者には、鉄の声はただの猫の声です」
建物の後ろ側に出た。足元が湿っぽくなり、どこかで牛蛙《うしがえる》が鳴いている。
浅井屋は、ぐるりと木塀で囲まれた地所の、ほぼ真ん中に建てられているらしい。勝手口のある側は、今見てきたとおりの素っ気ない様子だが、建物の裏側にまわると、お初の右手に、ひょうたん型の池を取り囲む、手入れの行き届いた庭が現れた。庭に臨んで長い廊下が左右に走っている。ここが料亭の部分で、廊下に面して座敷が並んでいるようだ。今は雨戸がぴったりと閉ざされているが、昼間は障子戸になっているのだろう。
池の縁に、石作りの常夜灯がひとつ、ふたつ、みっつある。なかに点されている蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》に惹き寄せられて、羽虫がまわりを飛び交っている。ぽちゃんと音がして、池のなかで小さな水しぶきがあがった。鯉《こい》だろうか。
お初と右京之介は、塀のすぐ内側のごたごたした植え込みのなか、池を隔てて浅井屋の建物を臨むところにいた。常夜灯の灯も届かないし、浅井屋のほうから誰かに見咎《みとが》められる心配は少ないが、それでも用心するにこしたことはない。ここでは右京之介が先に立ち、暗い足元を確かめるようにして進んでゆく。お初は、歩むにつれて、周囲の草木の枝葉にたもとが引っかかってがさごそと音をたてるのが気になってきて、先ほどたもとのなかに突っ込んだ帯紐を取り出すと、歩きながらそれでたすきがけにした。
鉄は塀の上をするりするりと進んでゆく。やがて、塀の次の角のところへ来た。鉄はぴょいと角を飛び越えて右手に曲がる。お初たちもあとに続いた。
右へ曲がると、すぐ先でまた木塀の壁が左へ折れていた。ずっと左手で木塀に触れながら歩き続けてきたが、その感触では、塀そのものもまっすぐではなく、ゆるやかだが少しずつ外側に広がっているように感じられる。どうやら、浅井屋の地所は相当広く、表から見るよりは複雑な形をしているものらしい。
鉄が振り向いて言った。「こっちは、浅井屋の住まいのほうなんだ。氷室はもうすぐそこだよ」
庭もこちらのほうになると、植え込みの陰にひとつだけぽつんと常夜灯の灯が点っているのが見えるだけだ。塀の外の、町中のどこかで、出し抜けに犬が遠ぼえを始め、どきりとしてお初はちょっと足を止めた。
「そら、そこだ」
鉄の声に、かがめていた腰を少し伸ばしてみると、ごく小さな蔵のようなものが、塀を背にして、暗がりのなかに薄ぼんやりと白い壁を光らせているのが見えた。鉄の言っていたとおり、ここには見張りがいるらしく、明かりが見える。ゆらゆらゆらめいているところをみると、裸蝋燭だろう。
石積みの土台の上に、漆喰塗《しっくいぬ》りの壁を建て、瓦《かわら》を積んである。大きさとしては、せいぜい畳三枚分くらいのものだろうか。元々氷室だったというよりは、蔵として使われていたものを、氷室に作り替えたのだろう。よく見ると、上のほうに、湿気抜きと明かりとりの小窓を塗り潰《つぶ》した跡が残っている。
お初と右京之介はその場にしゃがみこんだ。塀の上から、鉄がぴょこんと飛び降りてきた。
「見張りは何人?」
「ひとりきりさ。目つきのよくねえ奴だよ。倉田主水の手下なんだ」
「彼とつるんでいる岡っ引きの子分かもしれないな」と、右京之介が呟いた。
「で、どうするの?」
「お初ちゃんたち、俺のあとについてきな」
鉄は植え込みのなかを頭を低くして進んでゆく。お初も右京之介も、鉄にならって手をつき膝をつき、這《は》い進んだ。
まもなく、植え込みの枝葉の透き間から、明かりの元が見えてきた。蝋燭だ。氷室の前に木の長い腰掛けが据えてあり、そこに燭台《しょくだい》が載せてある。そのすぐ脇に、縞の着物を着流し、大ぶりの髷を結った若い男が一人、頸《くび》を丸出しに足を組んで座り、傍らに置いた将棋盤に駒を並べて、しきりと考え込み、大真面目な顔で盤面を読んでいる。
「呑気な見張りだ」と、右京之介が小声で言った。
「おおかた、暇なときに賭け将棋でもしてるんでしょう」
見張りは、こちらの気配を察していない。頭のなかは、将棋でいっぱいのようだ。毛脛《けずね》を手でかきながら、やっと決心がついたのか駒をひとつ動かし、また考え直してそれを置き直す。
「飛び出していって、うしろから羽交《はが》い締めにしてやれば、簡単にやっつけられそうだ」
右京之介が言うと、鉄が鼻でふふんと笑った。「そうはいかねえよ。あれでなかなか乱暴な奴なんだ。お初ちゃんたちはここにいなよ。まあ、俺の手並みを見ておくれって」
そう言うと、鉄はその場に腰をおろし、ちょっと首をかしげて考える様子だったが、何を思ったのかつと振り向くとお初を見あげ、「やっぱり、お初ちゃんで行こう」と言うなり、お初の着物の裾のなかに飛び込んできた。
突然のことだったので、お初は思わず立ち上がりかけた。あわてて手で口を押さえたが、きゃっと声をあげてしまった。見張りはたちまちそれに気づき、駒を手にしたままぱっとこちらを向いた。
「誰だ?」
右京之介が目を見開き、身構えるようにしてお初をかばう。鉄はまだお初の着物の裾にもぐったままもぞもぞしている。見張りの男はけわしい表情になり、将棋盤から離れ腰掛けから立ち上がると、着物の裾をまくりながらこっちへ近づいてきた。
「何してるのよ、鉄!」
お初が押し殺した声で叱咤《しった》したそのとき、鉄が裾のなかから飛び出してきた――というより、鉄よりずうっと大きな何かが、白い煙みたいにふうわりと、裾のなかから漂い出てきたのだ。湯気の塊《かたまり》にも似たそのものは、呆れて見守るお初と右京之介の目の前で、どんどんと濃くなり、また形を成してきた。
そしてとうとう――お初そっくりになった。ただ、この「お初」は両袖で顔を隠してうつむいている。
「これ、いったい……」
声もなく見つめているお初の腕を、右京之介がつかんでひっぱった。
「伏せて」と囁き、右京之介は自分も地面にへばりついた。
がさごそと足音が聞こえ、すぐに、植え込みをかきわけながら、見張りの男が近づいてきた。足を止め、こちらのほうをすかすように見ている。鉄が化けた「お初」はその場に突っ立ったままだ。
背後の蝋燭の明かりを背に、お初の目には真っ黒な影としか見えない見張りの男は、鉄の「お初」の姿を認めたらしい。
「おい、てめえは誰だ?」と、もう一度呼びかけてきた。「返事をしろ」
鉄の「お初」は、ゆっくりと足を前に踏み出した。依然、袖で顔を覆ったままだ。「お初」が進むにつれ、見張りの男は慎重に一歩、二歩と下がって行き、腰掛けのそばまで急いで戻ると、燭台を手にして向き直った。
鉄の「お初」は、植え込みから出て氷室のそばに立った。こちらには半身を向けて、見張りの男とは、ほんの数歩の距離。すっぽりと袖で顔を隠したままだ。
「女じゃねえか……」
見張りの男が呟くのが聞こえた。
「おい、姐さん、そんなところで何をしてる?」
相手が娘だとわかって、警戒半分興味半分という声音だった。すぐに着物の裾をおろしてむさくるしい足を隠したところをみると、やっぱりまだ若いというか助平というか。
「姐さん、返事をしろよ」
一歩近寄る。鉄の「お初」は突っ立ったまま、顔を覆ったまま。が、耳を澄ましてよく聞くと、しくしくすすり泣いているらしい。
「何をするつもりなのかしら……」
胸がどきどきしてきて、お初は思わずぎゅっと右京之介の手をつかんだ。彼も緊張しているのか、視線は見張りの男のほうに据えたまま、お初の手を握り返してきた。
「なあ、姐さん」
見張りの男は、ちょいとニタニタし始めた。鉄の「お初」の泣き声を聞いてのことだ。「なにを泣いてるんだよ。おめえ、ここの奉公人かい? おいおい、黙ってちゃわからねえよ」
口元に笑みを浮かべながら、ぐいと近寄ってきて鉄の「お初」に触れようとした。袖をとらえて顔を見ようとしているのだ。
「恥ずかしい……」鉄の「お初」が蚊《か》のなくような声で答えた。
「恥ずかしいって?」見張りの男はますますにやつく。「なんだよおめえ……ひょっとすると、親分の差し金かい? 俺が退屈してるからって、差し入れってな趣向かい?」
呑気な奴――とお初が思ったとき、鉄の「お初」が不意に大きな声を出した。
「恥ずかしいのよ、阿仁《あに》さん。だってあたしはこんな顔なんだもの」
言うなり、鉄の「お初」は両腕をおろし、顔をあらわにした。目も鼻も口もない、真っ白なのっぺらぼうの顔を。
お初も仰天したが、見張りの男の驚きようといったら滑稽《こっけい》なほどだった。両目が丸く見開かれて銭の形に、口がぽかんと開いて小判の形になり、ふくらんだ鼻の穴が夜目にもはっきりと見える。
大声を出されては大変だ。お初がそう思った次の瞬間、鉄の「お初」はすばやく右手を振り上げると、拳を固めて見張りの男の顎をがつんと一発殴りつけた。見張りの男は物干し竿から滑り落ちる濡れた洗濯物のように、へなへなと地面に崩れ落ちた。
右京之介が素早く立ち上がり、お初も続いて鉄のそばへ走った。鉄の「お初」は見張りの男のそばにかがみこみ、男の懐をさぐっている。
「錠前の鍵があるはずなんだ」
氷室の入り口は頑丈《がんじょう》そうな木戸で、かすかに錆《さび》の浮いた南京錠《なんきんじょう》が、閂《かんぬき》のところにぶらさがっている。
「あった!」
鉄の「お初」が真っ白な顔を振り向けて、お初に鍵を渡して寄越した。
「お手柄だったわ、鉄」お初は言って、鍵を受け取り、「お願いだから、早く元の姿に戻ってよ。気味悪いったらありゃしない」
鉄のお初はぴょいと肩をすくめ、そのままその場に丸くなってしゃがみこんだ。と、またあの白いもやもやした陽炎《かげろう》のようなものに変じたかと思うと、赤とら猫の姿に戻っていた。
「いやはや、驚いた」
右京之介が冷汗をぬぐいながら言ったとき、お初の手のなかの鍵がかちんと回って、南京錠がはずれた。重たい木戸を、お初と右京之介はふたりで押した。
「俺が見張ってるから、早く!」
鉄の声を後ろに、ふたりは外の夜の色よりも暗い氷室のなかに、そっと足を踏み入れた。どうやら、なかには明かりもないのだ。
「伊左さん、鉄さん、いる?」
声を殺して呼びかける。と、氷室の奥のほうで、何かがざわっと動く気配がした。人の汗の匂いも漂っているようだ。
「あなたたちを助けにきたんだ」と、右京之介も言う。
まもなく目が慣れてきて、地面の上に湿った藁《わら》が敷き詰めてあることや、木戸の左手のほうに、これは夏場氷の上にかけて使うものだろう、むしろや古布の類が山となって積み上げられているのが見えてきた。
その向こう側に、うっすらと、髷を結った頭の輪郭《りんかく》が見える。
ちゃりんと、鎖の鳴る音がした。
右京之介が一度木戸を出ると、見張りの男が使っていた蝋燭を持って引き返してきた。にわかに明るく照らし出された狭い氷室のそのなかに、左手の壁に寄りかかるようにしてひとり、奥の壁の前に横ざまに倒れてひとり、職人ふうの髷に、垢《あか》じみた着物を着た男たち。頭をあげてこちらに顔を向けている。
お初は声を呑み、痛ましさに思わず手で口元を覆った。ふたりは両手を後ろ手にくくられ、口には汚い手ぬぐいで猿ぐつわをかまされている。さらに、地面に打ち込まれた杭に、まるで犬ころのように鎖でつながれているのだ。その鎖は、それぞれの左足首にはめられている鉄の輪につながっていた。
お初は急いでふたりに近付き、まず猿ぐつわを、ついで両手のいましめをとってやった。お初の手元を蝋燭で照らしながら、右京之介がふたりに話しかけた。
「鎖はどうやってかけられたのです? 鍵はあの見張りの男が持っているのですか?」
ふたりの男は、手ひどい責め苦を受けたようで、身体じゅう傷だらけだった。かろうじて髷は形を残しているものの、髭は伸び、奥の壁の前で倒れていたほうの男の片目は、目やにと血の塊にふさがれ、閉じたままになっている。
ふたりのうち、やや歳が若く見えるほうの、手前の壁の前にいた男が、なんとか口を開いて返事をした。
「見張り……が、鍵を、持ってます」
右京之介は外へ飛び出た。入れ違いに、鉄が戸口に顔を出し、
「お初ちゃん、早く! 向こうの部屋に明かりがついた」と急《せ》き立てた。
「あっしらを、助けにきたって……」
「ええ。高積改役同心の柏木さまのご命令で。さ、しっかり。歩けますか? ここから逃げ出すのよ!」
お初と右京之介は、それぞれふたりの男に肩を貸し、立ち上がらせた。歳かさのほうの男は、半分気を失っているようだ。
「あなたが伊左さん? それとも鉄さん?」
お初は、自分が支えている男に尋ねた。まだ不安そうではあるが、目に希望の光を宿した彼は、つっかえつっかえお初に答えた。
「あっしが、鉄二郎です。そっちが伊左次兄さん。昨夜から、ひでえ熱で、ほとんど、水も、喉を、と、とおらない様子なんです」
「もう大丈夫だ、行きましょう」
右京之介がお初にうなずきかけ、片腕で伊左次を支えつつ、片手で蝋燭をささげて、慎重に戸口から滑り出た。
鉄が言ったとおり、正面に見える浅井屋の、二階の窓に明かりがついていた。一同が氷室をあとに歩き出すと、続いて一階の、おそらく出入口であろう引き戸のところにも明かりがついた。がらりと、戸の開く音がする。
「早耳だな。階上のどこかからも見張っていたんだろうか」
悔しそうに、右京之介が吐き捨てる。よろけがちの職人たちを支えて、ましてお初は女の身、もどかしいほど、ゆっくりとしか進むことができない。
お初は苦労して足を運びながら、肩ごしに振り向いてみた。植え込みのなかで明かりがちらちらしている。ひとつではない。ふたつ、みっつ。今よっつめがまたたいた。人声も聞こえ始めた。近づいてくる。庭の下草を踏む音も聞こえる。
鉄はどうしているのかと思えば、後駆《しんがり》となって氷室の前に残り、とと、ととと左右に走りながら、はかばかしくゆかないお初と右京之介の退却行と、近づいてくる追っ手たちとを見比べている。お初は声を殺して呼びかけた。
「鉄、何か妙案はないの?」
するとその声を聞きつけて、追っ手たちのなかから「あっちだぞ!」という声があがった。舌打ちしたい気分だ。
「どうしよう」と、鉄もおろおろしている。
「また何かに化けたらどう?」
「俺、目の前に手本がないと化けられないんだよ」
まだ修業が足らないのだ。だからって、さっきみたいにまた着物の裾に飛び込まれては困る。それにあののっぺらぼうとなって脅かすだけでは、多数の追っ手を食い止めることはできまい。お初はよろけがちな鉄二郎を必死で抱きかかえ、足を踏ん張って前に進みながら、首をねじって鉄を叱咤した。
「何かあるでしょう、何か!」
「お初どの、伊左次を頼みます」
見兼ねたのか、右京之介がそう言い置いて、伊左次を傍らの庭木に寄りかからせると、懐に手を入れながら氷室のほうへと引き返してゆく。匕首を使うつもりなのだ。
お初はよく知っている。追っ手がひとりふたりであっても、やっとう[#「やっとう」に傍点]で彼らを追い払うことなどできる右京之介ではない。冷汗が脇の下を流れるのを感じながら、お初はもう一度鉄に向かって叫んだ。
「鉄、なんとかしてちょうだい!」
追いかけてくる四つの灯は、もう氷室の前にまで達している。と、ちらちらするその明かりのなかで、またあの陽炎のようなものがぼうと立ち上るのが見えた。ひと呼吸遅れて、右京之介が、
「わあ!」と叫ぶ。
立ち止まり、鉄二郎を支えたまま振り返ったお初は、唖然として口を開いた。
夜目に暗く沈んでいる庭木の向こうに、突然、信じられないほど大きな将棋の駒が、どおんと現れたのだ。庭木のてっぺんをざわざわと騒がせながら現れ出たその駒には、もちろん目鼻などついておらず、ぺったりと白木の色をした正面に、「卜」という字が黒ぐろと浮き出ている。歩の駒だ。
「うわあ〜」
「なんだ、こりゃ」
度肝を抜かれた追っ手たちが、口々に声をあげる。灯が激しく揺れ、誰かが取り落としたのか、ひとつがぱっと見えなくなった。
(見張りの男の、あの将棋の駒だわ)
手本にするのに事欠いて、よりによって将棋の駒とは! 呆れるお初の目の前で馬鹿でっかい歩の駒は、むくむくと毛むくじゃらの手足を生やし、ぐういと立ち上がった。近くの庭木の一本が、めりめりと音をたてて折れてゆく。
「ば、ば、化け物だぁ〜」
追っ手の男たちが叫び、わめき声をあげながら、氷室の前から逃げてゆく。そのうちの一人が、取り乱したあまりこっちのほうへ逃げてきて、やはり唖然としていた右京之介にどんとぶつかると、前のめりになりながらお初の前に転がり出てきた。
鉄二郎とお初、庭木にもたれてぐったりしている伊左次を目にとめると、男はあっと驚いた。口の端に醜い傷跡がある、猪首《いくび》の小男だ。
「お、おめえらは――待ちやがれ!」
男が言い終えないうちに、お初はたもとから七味唐芥子の包みを取り出して、相手の顔めがけてええいと投げつけていた。唐芥子は男の顔にざああと降りかかり、
「うぎゃ!」
男は手で顔を覆ってたたらを踏む。お初はすかさず飛び出して、えいとばかりに男を庭の向こうへ突き飛ばした。あっけないほど簡単に男は頭から倒れてゆき、ひょうたん型の池に向かって斜めになっている地面を転げてゆく。やがてばしゃんと水音がした。
振り仰ぐと、見上げるような将棋の駒は、手足を無茶苦茶に振り回しながら、のしのしとこちらに向かって進んでくる。庭木をべしべしへし折り、通ったあとには築山《つきやま》もぺったんこになっている。追っ手は今やちりぢりとなり、てんでに悲鳴をあげて逃げ惑うばかり。浅井屋の建屋の窓という窓に明かりが点《とも》り、庭で起こっていることを目にして、そちらのほうでも悲鳴やわめき声があがり始める。
「ありゃ、いったい何です?」と、鉄二郎までもが声を裏返す。
「味方よ、安心して」
お初が言っても、鉄二郎はあんぐりと口を開けたままだ。
「お初どの、今です」
さっきの男に突き飛ばされ、着物の前を泥だらけにした右京之介が走ってきて、伊左次を抱きかかえるようにしてお初を促した。と、正面から見ると笑い出してしまいたくなるような巨大な「卜」の字がぐいぐいと近づいてきて、お初たちの前で向きを左にかえると、浅井屋の木塀に向かって、どおんと体当たりを始めた。一度、二度、三度ぶつかると、さすがの塀もばきばきと壊れ始め、木《こ》っ端《ぱ》がお初のそばまで飛んできた。
「そら、行きましょう!」
右京之介の声が飛び、お初は大きな駒のうしろにまわりこむと、壊れた塀の透き間から、鉄二郎を先に押し出して、自分も外へと逃れ出た。半分気を失っている伊左次を担ぎ出し、右京之介があとに続く。
「鉄、もういいぞ!」
表に出ると、右京之介は声を張りあげて将棋の駒に呼びかけた。と、心得たというように大きな毛むくじゃらの手を一振りして、鉄はその場にどどどおんと腰を据えてしまった。塀を壊してつくった透き間をふさぎ、玄関へ回ろうとする追っ手たちの前にも立ちふさがる格好になる。
「今のうちだ、さあ逃げましょう!」
右京之介の声を待つまでもなく、お初は鉄二郎と二人三脚のような格好で走り出した。がっくりと首を垂れている伊左次を背負って、右京之介もあとに続く。
走って、走って、あとも見ずに走る。浅井屋から聞こえてくる悲鳴や怒声や騒々しい物音も、どんどん遠のいてゆく。
騒ぎは浅井屋の周囲の家々にも飛び火して、あちこちの窓が開き、くぐり戸から人が顔を出してくる。これ幸いと、お初はいっぱいに声をあげて叫びながら進んだ。
「もののけが! ほらあそこに! 踏み潰されてしまうわ、みんな逃げて!」
人出はどんどん多くなり、あちこちの窓に明かりがともる。
「怪我人です、通してください!」
右京之介も叫びながら、どんどん走って進んでゆく。駒形堂の前まで戻ってきたときには、騒動はあたり一帯に広がっていた。諏訪町の木戸番からも、番人が駆けつけてくる。その隙に、お初たちは難なく木戸を通り抜けた。御蔵前の堀割を左手に駆け抜け、鳥越橋を渡る。神田川沿いに走って新《あらた》シ橋《ばし》にさしかかるころには、さすがに騒動も遠のき、やっとひと息入れることができた。
息をあえがせながら、右京之介がにっこりする。「鉄はやってくれましたね」
お初はうなずき、鉄二郎にほほえみかけた。「さぞびっくりしてるでしょうけれど、あたしたちは味方ですからね。行き先は日本橋万町よ。着いたら、ゆっくり話しましょう」
鉄二郎は、三十そこそこの、なかなか顔だちの整った男である。ぼうっとお初を見返し、かろうじて「へい」と返事した。
幸い、帰り道にはこれという邪魔もなく、無事姉妹屋にたどりついた。が、勝手口を叩くと、そこに待ち受けていたのは六蔵だった。仏頂面《ぶっちょうづら》で、鼻の穴をふくらませている。
「ぜんたい、これはどういう騒ぎだ?」
「兄さん、いつ帰ったの?」鉄二郎と一緒に家のなかに飛び込みながらお初は言った。
「おめえはいったい、何をしてるんだ?」
がらがら声を出す六蔵の前を、今度は、伊左次をおぶった右京之介が走り抜ける。
「六蔵どの、こんばんは。およしどのは起きておられますか?」
待ち受けていたおよしや加吉の手も借りて、姉妹屋一同はにわかに大騒ぎ、そしてその最中に、鉄も無事な姿で帰ってきた。
「鉄!」お初が飛んでいって抱き締めると、
「腹が減ったよ」と、ニャゴニャゴ鳴いた。
夢の娘
さて――
お初たちが浅井屋を脱出した、その同じ夜のこと。別の場所で、ひとりの若い娘が、真新しい絹の布団に横たわり、浅い眠りのなかで夢を見ていた。
彼女の夢は、かつて下駄屋のおあきを苦しめたような恐ろしいものではなかった。また、この夢は、彼女にとっては、ここ数ヵ月ほどのあいだに、すっかり馴染みとなったものだった。
夢のなかで、彼女は桜の森のなかにいた。いずことも知れない森である。
この夢の光景を、彼女は誰にも語ることはなかった。このような夢を見るのは、この世で彼女ひとりであるとも思っていた。それだから、もしも彼女が、下駄屋のおあきが何ものかに憑かれたと怯えるようになったころ、やはり夢のなかで見た場所が、同じ奇妙な桜の森であったということを知ったならば、さぞかし驚いたことだろう。実際には、残念ながら、彼女がそれを知ることはないのであるが。
目の高さで、見回す限り切れ目なく、はるか遠くまで広がっている桜の森のなかを、その娘はゆっくりと歩いていた。これも、この夢のなかではいつものことであった。
心地好いと、娘は感じていた。桜の森は美しく、薄紅色の花びらは、どこからか吹いてくる微風にさらされて、娘が手を触れなくても、息を吹きかけることさえしなくても、ほろほろ、ほろほろとこぼれ落ちる。落ちて娘の着物の襟元に、あるいは帯のあたりに、まるで娘を慕い寄ってくるかのようにまとわりついてくる。
夢のなかで、娘は白い指を動かし、花びらの一枚をつまんで、そっとほほ笑んだ。
見渡す限りの桜の花の海に、人影はない。娘はゆっくりと足を運びながら、小さく鼻歌を口ずさんだ。娘の歌にのって、花びらは嬉し気に風に舞う。
静かだ。森も花も静かならば、娘の心も静まっている。
娘はかかとでくるりと回ると、周囲を見渡した。延び延びと腕をさしあげて背伸びをした。ここは娘の庭であるような気がした。ここにいると、心の底からくつろぐことができた。
と、そこに、一陣の強い風が吹きつけてきた。桜の森はいっせいにざわめき、大量の花びらが、まるで雪崩《なだれ》のように娘に降りかかってきた。娘は声をあげて笑いながらその花びらを受け止め、手を振りあげて花びらを撒き散らした。
――しの。
誰かが呼ぶ声がした。桜色にかすんだ声である。娘の耳にはいつもそう聞こえる。
――しの。
娘の名前である。彼女はにっこりと笑い、吹雪のように花びらを舞いあげる風の吹いてくる方向へと顔を向けた。
――おばさま。
おばさまは、いつも、風の吹いてくるところにいらっしゃる。娘はそちらに足を向けた。娘がそうすると、強い風は止まり、またあの心をとろかすような静けさが戻ってきた。桜の花びらも舞うのをやめ、娘が歩いてゆくのに従って、ほろり、ほろりとこぼれ落ちるだけになった。
やがて、桜の森の彼方に、うっすらと人の形のようなものが見えてきた。靄《もや》にかすんで、しかとは見えない。
――おばさま。
娘は心のなかで呼びかけた。おばさまはいつも、あの靄のなかにいらっしゃる。昔、御所の貴婦人が、いつも卸簾《みす》の向こう側におられたのと同じように。本当に美しく高貴な女性は、めったなことでは人に素顔をさらさないのだ。
――それを見る人に、この世のものとは思われないほどの美を見せつけて、絶望や妬《ねた》み心を与えないために。
――しの。
「はい、おばさま」
娘は、夢のなかで、声に出して応えた。
「しのはここにおります」
娘は靄の立ちこめているところに来ていた。その向こう側で、人影がゆっくりと立ちあがるのがわかった。
「おばさま、お久しゅうございます」
娘は靄に向かって頭を下げた。
「このごろ、わたくしを呼んでくださらないので、さびしゅうございました」
靄の向こうの人影は無言である。娘は続けた。
「しのは、早くおばさまにお会いしとうございます。おばさまにお戻りいただける日を待ち兼ねております」
すると人影はぼうと動いて、靄のなかで、一歩、娘に近づいたように見えた。
――それには、しの、まだ足りぬ。
その声には叱責《しっせき》の響きがあった。娘は哀しくなった。
「申し訳ございません。でも、あと少し、時をくださいませ。もう少しのご辛抱《しんぼう》でございます」
靄の向こうの人影は、人の形が見えるだけで、目鼻だちもわからない。だが、娘は、その人影にじいっと見据えられているのを感じていた。
――おばさまは、怒っていらっしゃる。
桜の森が、またざわわと揺れた。花びらが宙に舞いあがる。
「おばさま、しのも、本当に早くおばさまにお会いしとうございます」
娘は、靄の向こうに揺れる人影に向かって、心をこめて呼びかけた。受けとめてもらえるものならば、すぐにでも靄のなかに入っていって、おばさまの両腕のなかに飛び込みたい――それが娘の偽りのない気持ちだった。
だがしかし、こうして夢幻のなかでおばさまと巡《めぐ》りあったその最初のときから、娘がおばさまの言い付けに従い、おばさまに命じられたことをすべて成し遂げるまで、おばさまはそのお姿を現さないということが、ふたりのあいだの厳しい取り決めとなっている。娘は、おばさまの優しい手に触れたいという気持ちを懸命に抑《おさ》え、その場を動くことなく、ただ言葉に気持ちを託して訴えた。
「おばさま、しのは、おばさまとのお約束を、必ず必ず果たします。おばさまがこの世に戻ってこられるその日まで、しのは一生懸命に精進《しょうじん》いたします。どうぞしのを信じてくださいませ」
靄の向こうの人影は、再び、しのから一歩遠ざかったように見えた。桜色の靄が、とろりと濃くなった。
――わたしも、その日を楽しみにしているのだよ、しの。
娘は、両手を胸の前で組み合わせ、大きくうなずいた。目尻に涙がにじんできた。
――わたしには、おまえだけが頼りなのだ。
「わたしも、おばさまだけが心の支えでございます」
娘がそう言い切ったとたん、桜色の靄がさあっと晴れた。娘は、頬を撫でてゆく風を感じた。そして次の瞬間には、目が覚めていた。
寝床のなかで、娘は目を開き、暗い天井の羽目板を見つめた。羽目板のそこここに散っている丸い木の節《ふし》が、いくつか組みあわさって、人の顔のように見える。あそこにも、ほらここにも。この部屋のなかで娘を見つめているのは、天井に浮かんでいるそれらの顔だけだ。ほかには誰もいない。
娘は布団の上に身を起こし、たった今抜け出てきた夢を噛み締めて、目を閉じた。夢のなかだけでなく、娘は泣いていた。涙が頬をこぼれ落ちた。
(おばさま……)
しのは、寂しゅうございます。早くおいでになってくださいまし。心のなかで呟くと、ほろほろと涙がこぼれた。
娘は右手をあげ、自らの顔にそっと触れてみた。この顔を覆い隠す頭巾《ずきん》をはずすのは、こうしてひとりで寝間に閉じ籠《こ》もっているときだけだ。
右手の指に、爛《ただ》れた皮膚の感触が走った。
上から順に、額、目のまわり、鼻、口元――娘は指を走らせてゆく。どこの皮膚も、本来、娘の年ごろの女の肌がそうであるべき滑《なめ》らかな感触を失っている。
娘の涙は、その爛れた頬の上をつたって、なおも流れ続けた。
こんなことになったあと、娘の母は、娘を哀れんでただ泣き暮らすだけだった。娘の父は、しきりと娘に出家を勧めた。落飾《らくしょく》して俗世から離れれば、おまえの苦しみも少しは軽くなるだろう、と。
だがしかし、娘にはそうは思えなかった。娘はひたすら、元どおりの顔を取り戻すことだけを念願してきた。このままの、無情にも損《そこ》なわれた自らの顔と心をそのままに、運命を許して諾々《だくだく》と生きてゆくつもりにはなれなかったのだ。
娘は日々、神仏に祈りを捧げた。どうすれば、元のとおりになれるのか。御仏《みほとけ》が、お父さまのおっしゃるように慈悲深く、無限の力を備えておられるのならば、俗世から離れよなどという、若い娘にとって残酷きわまりないことを命じられるよりも先に、その大いなる力を以て、この顔を元どおりに戻し、心の傷を癒《いや》してくださるはずだ。きっと、きっと。
だがしかし、御仏には、その祈りは通じなかった。そのかわり、おばさまが訪れてくだすったのだ。
おばさまは強く、優しい。お父さまのように逃げ隠れることを勧めたりしなかった。お母さまのように、嘆きのなかに沈んでしまわれもしなかった。娘に、どうすれば元の自分を取り戻すことができるかと、そのことだけを教えてくれた。
(わたくしは、元のわたくしに戻るのよ)
醜く傷つけられた頬を手で押さえながら、娘はあらためて自分に言い聞かせた。
(そのために、まず、おばさまに、わたくしのそばに来ていただかなくてはならないのよ)
この世に蘇ることさえできれば、娘の希望をかなえ、娘を元の美しい姿に戻してみせようと、おばさまは約束してくだすった。
どうすればよいのか、その手立てについては、すべておばさまが教えてくだすった。娘はただ、言い付けられたことを果たしてゆくだけだ。それがすべて終われば――
おばさまは蘇り、わたくしもまた、美しい女になって、この世を生きてゆくことができる。
ふたりで暮らしたなら、どれほど楽しいことだろう。おばさまは、繰り返し繰り返し、美しい女の幸せを、わたくしに説いて聞かせてくだすった。それは、ほかでもない、おばさま御自身が生きてきた人生を語ってくださることでもあった。
娘は、寝床からすうっと立ち上がり、部屋の隅に置いてある、小さいが頑丈な造りの箪笥に近寄った。いちばん下の引き出しを開ける。
そこには、一枚の小袖が納められていた。
娘の寝間に明かりはない。窓を通してかすかな月明かりがさしこんでくるだけである。だが、引き出しのなかの小袖に縫い込まれている豪奢な金糸銀糸は、そんなかすかな光にも、その存在を誇示するかのように怪しく底光りする。娘は、その輝きに誘われたかのように、白い手を伸ばし、小袖を手に取った。
娘が初めてこの小袖を目にしたのは、ほぼ一ヵ月ほど前のことになる。暦の上では春になっていたものの、まだ桜の花のつぼみも固く、どんよりと曇りがちの天気の折りには、足袋のつま先が冷たく感じられるようなころだった。
娘はこの小袖を、両親には黙って蔵から持ち出してきたのだった。このような勝手なことをすれば、きっと咎められたであろうけれど、使用人たちも、娘の身に降りかかった災難を気の毒がって、腫《は》れ物にさわるような扱い方をしてくれているので、わがままが通らないことはない。
娘が小袖を持ち出してきたのは、夢に現れるようになったおばさまに、そうしてくれとたのまれたからだった。そう、それが最初の、おばさまの言い付けだった。
――わたしの若いころの思い出の品なのだよ。
おばさまはそうおっしゃった。
――わたしの若さや命、幸せだった時代のすべてを知っている。わたしの心がそこに残されている小袖なのだよ。
子供のころから母親に聞かされていたので、おばさまの若いころの愛用の品々や着物が蔵のなかに納められているということは、娘も知っていた。ただし、それを持ち出したり、眺めたりすることは、きつく禁止されていた。どうして? と娘が問うと、母は、昔これにまつわってよくない事が起こった品々だからと答えた。どういうよくないこと? と重ねて問うと、そんなことを知ろうとしてはいけないと言われた。
思い出してみれば、このことについて、母は実に徹底していた。年に一度の蔵の虫干しのときも、おばさま愛用の品々を納めた箪笥を開くときだけは、使用人も寄せ付けず、すべてひとりで取り仕切った。そんなときは、娘が蔵に近寄るだけで、驚くほど恐い顔をして、強い口調で叱りつけた。それは、まるで、触れれば皮膚を通して毒がしみこんでくる、葛《かずら》や漆《うるし》を扱っている人の態度のようにも見えた。
もっとも、娘が幼かったころ、また、あんな災難に見舞われて家のなかに閉じ籠もるようになる以前は、ほかにもっと気をとられることがたくさんあったから、それらのことについても、さして気にしてはいなかった。
「それぞれの家には、それぞれの決め事やしきたりがあるものです。その内容を云々するよりも、それをしっかり守ってゆくことのほうが大切。それこそが、家を守る女の務めなのですからね」
という母の言葉にも、素直にうなずくことができた。娘にとって、蔵のなかのおばさまの遺品は、興味をかきたてられる宝物というよりも、むしろ、畏怖《いふ》を覚えさせられる家の掟《おきて》の象徴のように感じられたのだ。そんな面倒くさいことは、お母さまに任せておけばいいわ、というのが、そのころの娘の本音であった。
娘の身辺は平和であり、日々は静かに、楽しくすぎていた。そこに小さな変化が起きたのは、ちょうど二年前の冬のことである。
娘は恋をしたのだ。それはしてはならぬ恋であり、けして成就《じょうじゅ》するはずのない恋愛であった。けれども……
(日道《にちどう》さま)
小袖を手に、娘は目をつぶり、まぶたの裏に焼きついている愛しい男の面影を追いかけた。一日とて忘れたことのない、あのお顔。あのお声。
閉じたまぶたから、新しい涙が溢れ出た。
あのころ――この世にかなわぬ夢などないと思えたあの幸せなとき。
ちょうどそれと同じころ、蔵のなかのおばさまの遺品をめぐって、小さな騒動があった。新参者の使用人が不心得を起こし、私欲に走って蔵のなかのものを持ち出して勝手に売り払ったのである。母は東奔西走《とうほんせいそう》してことを片付け、当の使用人を追い出し、蔵の錠前を頑丈なものに付け替えた。頭のなかが、季節よりも一足先に春爛漫《はるらんまん》になっていた娘は、そうした母の狼狽ぶりにも、あまり大きく気持ちを動かされることはなかった。お母さまも大変ね――というくらいのものだった。
が、一度だけ、父と母とが、深夜、ほかの者たちが寝静まったあとで、行灯の明かりをしぼった部屋のなか、頭を寄せあうようにしてひそひそ話をしているのを耳にしたときには、ふと不吉な予感にとらわれたものだ。
「やはり、あれらの物は、もう一度ご住職さまによくお願いをして、お寺に奉納して供養《くよう》していただいたほうがいいのではないかと思います」
低い声で、母は言っていた。
「あれを家においておけば、今後もまた、あのような事が起こらないとも限りません。あれは外に出たがっているのでございますから」
答える父の声も、周囲をはばかる調子のものだった。
「おまえの気持ちはよくわかるが、あまり考えすぎるのはよくない。それに、たとえ寺に納めるためであっても、あれを外に出せば、かえって危ないことになるのではないかね」
母は、苦し気にため息をもらした。
「わたくしは恐ろしゅうございます。妹はまだ、死んではいないのですわ」
お母さまが「妹」と呼ぶのはおばさまのことだ。では、「あれ」と呼ばれているのはなんだろう? 蔵のなかの遺品のことかしら。
「あれは、外に出たがっているのですわ。死にきっていないのです」
父は母を宥め、ふたりはそれ以上詳しいことを語ろうとはしなかった。娘は立ち聞きしていたことを悟られぬように静かに立ち去りながら、心のなかで、次にお会いするとき、このことを、日道さまにお話してみようと思っていた。あの方には、わからないことなどないのだもの。
さて、そんなふうにして心待ちにしていた日道との次の逢瀬《おうせ》の機会は、それから一ヵ月ほどのちの、世の中も春爛漫、桜の花が満開のころにやってきた。忍ぶ恋の相手では、そうそう頻繁《ひんぱん》に会うことはできない。娘にとってその逢瀬は、生きたまま極楽へ昇ってゆくような喜びのときであった。
しかし、その至福のときに、あの災いが襲いかかってきたのだ。
娘は、暗い寝間のなかで、手にした小袖をきつく握り締めた。一年経った今でさえ、思い出すと辛く、心が切り刻まれる思いがする。膝が震え、手が震え、身体のおののきを止めることができなくなる。
(日道さま……)
もう、丸一年お会いしていない。この顔が元どおりになれば、また会える。それだけを念じて暮らして、月日が経ってしまった。娘は今年、二十歳になった。
(でも、今のわたしにはおばさまがついていてくださる)
娘は思った――お母さまは、とんでもない間違いをしていた。おばさまを恐れるなんて、途方もない過ちだった。
握り締めてしまったために、手のなかの小袖に、しわが寄っている。娘はそれをきれいに手でならし、箪笥のなかにきちんと納めた。千鳥の柄の、見る者の心を奪うような、華やかで美しい小袖であった。
矢場の男
下駄職の鉄二郎と伊左次のふたりは、姉妹屋のなかに一間をあてがわれ、とりあえず身を落ち着けた。
ふたりとも、当初お初や右京之介が思っていたよりも、さらにひどく衰弱していた。身体のあちこちに殴られた痕《あと》の青痣《あおあざ》が散らばり、食べるものも満足に与えてもらえなかったということで、すっかりやつれ切っていた。
お初が事情を説明すると、六蔵は文吉に言い付けて、西川岸町まで医師の源庵《げんあん》を呼びにやった。源庵は、お役目のことなどで、六蔵がちょくちょく手を借りる心安い仲の医師だ。夜道をすぐに駆けつけてきて、手早く傷の手当てをしてくれた。姉妹屋に担ぎこまれた人びとを診《み》るときには、その素性については一切|詮索《せんさく》をせず、そういう人びとを診たということを他言しないという約束が、暗黙のうちにできている。
「ところで、今日の日替わりは何だい?」
治療のあと、お初の持っていった手桶で手を洗いながら、源庵は嬉しそうにきいた。とうに朝が来て、姉妹屋の商いが始まっている時刻であった。
「味噌汁はしじみ、焼き物はいかなごの干物、卵焼きに、独活《うど》の酢味噌あえ」
心得たもので、お初はすらすらと答えたが、釘は一本、さしておいた。
「先生、朝っぱらからお酒は駄目よ」
源庵はにやにや笑うと、わかったわかったと言いながら坊主頭を撫でた。無類の酒好きのこの医師は、もう五十すぎの年配で、顔はずいぶんとしわが多いくせに、頭だけはいつも剃《そ》り跡が青々としている。酒の効用だと、本人は言っている。
「加吉の炊く飯はうまいから、馳走になって帰るとするか――ああそうだ、お初坊」
お初を子供のころから知っている源庵は、今もこういう呼びかたをする。
「あのふたりの職人の飯だがな。若いほうは、今日一日は粥《かゆ》と味噌汁、明日からは普通の飯にして、どんどん滋養をつけさせたほうがいい。だが、歳がいっているほうは、ちょいと用心が必要だ。俺が様子を見にきて、いいというまでは、重湯だけで通しておきな。本人が食いたがっても、しばらく我慢させたほうがいい」
「おなかが弱ってるのかしら」
源庵は、気味が悪いくらい真っ黒で白髪一本混じっていない眉毛を寄せ、少し考えこむような顔をした。
「どうも、俺にも今ひとつ判然としねえところなんだがなぁ」
「先生にもわからないこと、あるの?」
「そりゃあいっぱいある。お初坊の乳の大きさもわからねえ。ここんところちっとも俺に診せてくれねえからな」
お初は袖で源庵をぶった。「先生がそういう助平を言うから見せないの」
源庵は笑ったが、すぐに真顔に戻った。
「これはちょいと真剣な話なんだよ。兄さんにも話したほうがいいかい?」
昨夜の騒動のとき、六蔵とは、とにかく夜が明けて落ち着いたらゆっくりと算段を――と話をつけてある。というわけで、今六蔵は大いびきである。
「そうね……先生も、まずご飯を済ましてくださいな。あたしも商売のほうを片付けちゃうから」
「お初坊、眠くねえのかい? あの様子じゃ、昨夜は徹夜だったようじゃねえか」
お初はぽんと胸を叩いた。「若いもの、平気よ」
といっても、お初と同じくらい若いはずの右京之介は、六蔵と並んで熟睡している。脱出騒ぎの緊張が解けたら、一度に疲れが出たのだろう。
「そいつは頼もしいね」源庵は言って、店のほうへと足を向けた。が、途中で立ち止まると、お初を振り返り、いつにない慎重な口調で言った。
「俺の勘に間違いがなければ、こいつはちょっと厄介な話になるだろう。あの年配のほうの職人は――」
「伊左さんていうのよ」
「伊左さんか。あいつは、どうやら、人にいい夢を見させる薬を飲んでいたような気配があるんだ」
お初はきょとんとした。「いい夢見させる薬?」
「そうだ。詳しいことはあとでな。卵焼きで一杯は、本当に駄目かい?」
源庵を店のほうに案内したあと、お初が板場に戻ろうとすると、とっつきの廊下のところで、鉄と文吉が並んで朝飯を食べていた。お初が近づくと、文吉がどんぐり眼を輝かせて顔をあげた。
「こいつ、卵焼きを食いますぜ」
なるほど、鉄は、猫まんまの入った小皿には目もくれず、文吉が彼の皿から分けてやった卵焼きにかぶりついている。
「嫌ぁね、文さん。あんまり贅沢《ぜいたく》させないで。猫にやらないで、文さんが召しあがれ」
「へえ、いただいてます」
文吉は律儀者《りちぎもの》で、姉妹屋で飯を食うようになって何年もたつのに、けして店のほうへは行こうとしないし、座敷へも来ない。必ずここ、廊下の端に箱膳を据え、食事のときはちゃんと正座する。
と、鉄が顔をあげ、「加吉さんてのは、いい腕してるね」と言った。
文吉が笑った。「あれ、こいつ、お嬢さんに話しかけてやがる」
鉄は今度は文吉に言った。「てめえの面《つら》をまともに見るとせっかくの飯がまずくなるから、あっち向いてな」
文吉は笑った。「あれ、俺にも何か言ってやがらぁ」
文吉にも、鉄の言葉はわからないらしい。お初は、鉄の首っ玉をつかんで抱きあげた。
結局、源庵先生は卵焼きを肴《さかな》に一杯引っかけてしまうし、よほどくたびれているのか六蔵はなかなか起きてこないし、朝の忙しい一時がすぎたらお初も眠くなってしまった。ところが、あわてて起きてきた右京之介が「赤顔《せきがん》の至りです」と叫ぶことには、
「私はなんて間抜けなんだ! これから捨吉の様子を見てきます!」
そのまま山本町へすっ飛んでいった。これにはお初も眠気の飛ぶ思いで、右京之介が帰ってくるまで、落ち着いて座っていることさえできなかった。
さて右京之介は、昼近くになって、六蔵、文吉、源庵、まだ血色はよくないが、かなり元気を取り戻したように見える鉄二郎――伊左次はまだ起きられる状態ではなかった――そしてお初が鉄を膝に抱き、六蔵の座敷に集まっているところへ、無事に戻ってきた。
「捨吉は大丈夫です。とりあえず、身ひとつで連れ出しました」と、右京之介は報告した。お初は大いに胸を撫でおろした。
「あんな手荒な形で鉄二郎さんたちを救い出したあとですから、ひょっとすると浅井屋や倉田主水の手の者たちが捨吉のところへ押しかけてきて、今度はあの子を連れてゆくかもしれないと思ったのですが」
「あたしったら、そこまで頭が回らなくて――」お初は自分で自分に腹が立った。
鉄二郎が急《せ》き込んだ様子で口をはさんだ。
「あの、捨吉もこちらにお世話になっているんでしょうか?」
お初はうなずいた。「ええ、そのあたりのことも、これからお話ししますからね。捨坊は元気ですよ」
鉄二郎の顔が、今まででいちばん大きく緩んだ。「ああ、よかった」
「まっすぐここへ連れてくるのもちょっと心配だったので――尾けられるということがありますからね――かなりくねくねと回り道をして、道場の私の朋輩のところに預けてきました。ちょっと理由があって預かっている子供だが、一刻ほどしたら迎えに来るからと言ってあります。朋輩は妻君を迎えたばかりの男ですし、この妻君も優しい人ですから、捨吉も安心したようでした」
鉄二郎にほほ笑みかけると、
「捨告にも、あなたたちが無事であるということは伝えてあります。泣いて喜んでいました。今夕には会うことができますからね」
鉄二郎は、荒れた手で目尻を押さえた。
「お嬢さんが行方知れずになってからこっち、うちにはいいことがなくって。捨吉はまだあんな子供ですから、さぞかし辛かったろうと思います」
このやりとりを、六蔵は煙管をくわえて眺めていたが、おほんと咳ばらいをすると、
「で、ぜんたい、昨夜《さくや》の騒ぎはどういうことだったんだい?」と口を切った。
「お初ちゃんの兄さんかい?」と、膝の上の鉄がきいた。「鬼瓦みたいな顔してるなあ」
「お初、その猫をどっかに片付けてこい」と、鬼瓦の六蔵親分が言った。「ニャアニャア鳴くとうるさくてかなわねえ。だいたい、なんでこんなときに猫なんて抱いてなくちゃならねえんだ?」
こう言われては仕方がない。お初は鉄を抱えて立ち上がり、次の間に入ると、窓からそっと鉄を外へ出した。
「軒《のき》の上で聞いててちょうだい」
「そりゃかまわねえけど」鉄はぺろりと舌を出した。「六蔵親分のあの顔は、悋気《りんき》持ちの顔だね」
「またそんなことばっかり言って」
六蔵の座敷に戻ると、ちょうど茶菓を持ってきたおよしが、しきりと恐縮する鉄二郎の肩に綿入れを着せかけているところだった。こういうところ、およしはよく気がつく。
一同が顔を揃えたところで、お初は昨日一日の出来事を六蔵と源庵とに話して聞かせた。話しながら、ときどき鉄二郎の顔を横目でうかがってみた。彼は、浅井屋から逃げ出すとき、鉄の化けたあのとんでもない将棋の駒を見ているに違いない。そのことを口に出されたら、さてどう答えよう。
右京之介と違って六蔵は、あの猫は物を言うし化けることもできるしあたしたちを手伝ってくれてるのよと話したところで、ああそうかいよかったなと素直に納得する気質ではない。お初の持っている不思議な力についてだって、認めてくれるまでずいぶんとかかった。相手が化け猫とあっては、気の短い六蔵のことだ、話がわかるわからないの以前に、そんなもんは薄気味悪いだけだと、鉄の後ろ首をつかまえて堀割に投げ捨てに行くのが関の山だろう。
「――ということだったの」
浅井屋脱出のくだりまで話し終えたところで、お初はぬるくなった茶を飲んだ。六蔵は、煙管の先に刻みを詰めたまま、火をつけずに手のなかでもてあそびながら話を聞いていたが、いかつい顔を少し和《やわ》らげると、鉄二郎のほうに向き直った。
「大変な目に遭いなすったね」
鉄二郎は綿入れに包まれた肩を縮めるようにして頭を下げた。
「で、浅井屋は、あんたたちふたりを連れ出して氷室へ閉じ込めたあと、どんなふうな扱いをしたんだ? なんのためにふたりを閉じ込めておくんだと言っていた?」
鉄二郎は喉がいがらっぽいのか、何度か空咳をしてからやっと声を出した。力無い声だった。
「それがあっしたちにも――よく判らないんです」
「判らない?」六蔵が眉根をつりあげた。「そんなひどい目に遭わされたのに、連中がなんであんたらをそんなに痛めつけるのか判らねえっていうのかい?」
鉄二郎は恐れ入った様子でまた首を縮めた。お初は宥めに入った。
「心配しないでね。親分は声が大きいけど、これは地声だから。何も鉄二郎さんを責め立てようというんじゃないのよ」
当たり前だというように、六蔵はふんと鼻を鳴らした。鉄二郎はお初の目を見て、そこに六蔵よりは優しいものを見つけたのか、もっぱらお初に向かって話を始めた。
「あっしらを連れに来たのは、倉田主水という八丁堀の旦那でした。浅井屋のある上野一帯を縄張にしているとかいう岡っ引きが一緒でした」
右京之介がうなずいた。「小柄で、目つきの悪い男ですね」
「はい……。そのときは、おあきお嬢さんが行方知れずになったことで、まだあっしたちから訊きたいことがあるんだというお話でした。あっしも伊左さんも、おとなしくついていきました。何しろ八丁堀の旦那の言うことですから、逆らえやしません」
ことさらに言い訳がましく、後ろめたそうな顔である。
「あっしらは、てっきり番屋に行くんだと思っていました。でも、そうじゃなかった。旦那に連れていかれたのは浅井屋さんだったんです。お内儀さんが待っていて、あっしたちびっくりしたんですが、座敷に通してくれました。もちろんお客用の座敷じゃなかったけど……。そこで、ちょうど時分時だったから、飯までふるまってくれて。あっしは、こんなことなら捨吉も連れてきてやればよかったって思ったくらいです。最初、倉田の旦那は捨吉も一緒にって言ったのを、あっしがお願いして見逃していただいたんですよ。あんな子供が番屋に引っ張られるのは可哀相だと思って」
「そしたら、倉田さまもすぐに承知なすったの?」
「はい。まあ、おまえの言うとおりだ、子供はいいだろうってことでした」
それで捨吉ひとり、残されていたわけだった。もっとも、倉田主水はぬかりなく、あとで下駄屋を訪れて、捨吉をちくちく突っついたのだが。
「飯が済むと、そろそろ話が始まりました。倉田の旦那はなんだか機嫌がよくて、ちっとも恐ろしい感じじゃなかった。浅井屋にはちょいちょい来ているような様子で、お内儀さんと親しそうに話をしていました」
「倉田どのと浅井屋のお内儀のお松は従姉弟同士なのだよ」と、右京之介が言った。
「はい、そのことも、そのとき初めて聞きました」
おあきのことは気の毒だった、おまえらも頼りになる主人を亡くして辛いし心細いだろう。だが、もうすぐ嫁に来るはずだった恋しい娘を亡くした松次郎と、一人息子の嘆きを目《ま》の当たりにしなくてはならないお松の悲しみも判ってやってほしい。私は奉行所の同心としてだけではなく、お松の従弟としてもこの不幸を見過ごしにはできないと思っている――倉田主水は、そんなふうに語ったという。
「あっしも伊左さんも、黙ってかしこまっていました。あっしは内心、見過ごしにできないってのはどういうことなんだろうって考えていました。だって、倉田の旦那は、うちの親父さんがお嬢さんを殺したって決めつけてるんですよ。そんなら、もう何を見過ごすもへったくれもないでしょう? だって親父さんは死んじまったんだから」
鉄二郎の口調が激してきた。六蔵がむっつりと訊いた。「おまえはどうなんだい? 政吉がおあきを殺したと思うか?」
「とんでもない!」鉄二郎は口から唾を飛ばして叫んだ。「親父さんがお嬢さんを殺すなんてことがあるわけねえ!」
「だが、政吉は白状したんだぞ」
「あれは、親父さんがどうかしちまって、責め立てられるままに言っちまったことです! お嬢さんが行方知れずになってこのかた、親父さんは魂を抜かれたみたいになって、夜も眠らないし、飯も食わないし、夜中にふらふら出歩いて、おあきが俺を呼んで泣いているとか、おあきが枕元に立ったとか、そりゃもうひどい有様だったんです。それだから、ぎりぎり責められて、すっかり頭がおかしくなっちまって、正気を失くしてあんなことを言っちまったんです。親父さんがお嬢さんを手にかけるなんて、そんなことがあるわけねえ」
お初は重い心で考えた。政吉の様子がおかしくなったのは、目の当たりに見たおあきの失踪《しっそう》の異様な光景への恐怖のためだろうか。それとも、娘の晴れの縁組みを心の底から喜ぶことはできなかった自分自身の本音への後ろめたさのせいだろうか。
「倉田の旦那に、あっしは何度も何度も言いました。旦那は間違っていらっしゃる。親父さんはお嬢さんを殺したりしてませんて。でもあの旦那は、俺の話を聞きながらうっすら笑って、ただ同じことを繰り返すだけなんです――」
――おまえの言い分は判る。しかし、世の中で誰かが行方知れずになったり、殺められたりしたときに、誰がやったのでもない、あれは鬼神《きしん》の仕業だ、あれは神隠しだと、そう言い捨てて済ますことはできないのだぞ。誰かがおかしな死に方をしたならば、それは必ず手にかけた誰かがいたのだ。誰かが行方知れずになったなら、それは必ず連れ出して隠したり閉じこめたりしている誰かがいるのだ。鬼神が何を思い、何をするか、私は知らない。もののけや亡霊が本当に人をたぶらかし呪《のろ》い祟《たた》るものなのかどうかも知らない。なぜなら、そういう例など見たことがないからだ。しかし、自分で罪を犯しておきながら、それを鬼神やもののけや亡霊のせいだと言い張る人間の顔は、あまた見てきた。
お初は思わず、ほううと長いため息をついてしまった。六蔵がじろりとお初の顔を見た。鉄二郎は、倉田主水との噛み合うことのないやりとりを思い出しているのか、がっくりと両肩を落としてうつむいている。
鉄二郎の考えと倉田主水の考えは――いや、ここでははっきり、お初と柏木の考え方と倉田主水の考え方と言っていいだろう――このふたつは、永遠に混じることのないものだ。水と油のようだ。天地のように離れている。
お初にも、倉田主水の言うことはよく判る。確かに彼の言うとおり、人殺しや行方知れずが起きるたびに、鬼神や亡霊の仕業だと言い捨てることはできない。それでは何のために御番所があり、与力や同心がおり、岡っ引きがいるのだということになってしまう。すべては人知ではかることのできないものの仕業だとして捨て置くのは、遠い昔のやり方だ。
だがしかし、この世で起きることのすべてには、倉田主水の言うような判りやすい解決があるのだろうか。人の世に起こることはすべて人の為すことだけなのか。あまりにも律儀にそう考えてしまうと、政吉のような不幸な者を生むのではないか。
結局のところ、お初と柏木は自ら不思議を経験しており、倉田主水にはそれがないという違いが、大きな大きな分かれ道なのだ。お初はそれを痛感した。それにしても、倉田主水のあまりにもはっきりした態度には、いくぶん腑に落ちないものが感じられるけれど……
「じゃあ結局、その話はすれ違いに終わったんだな?」と、六蔵が鉄二郎を促した。鉄二郎はうつむいたまま首をうなずかせた。
「それでそのまま、おまえと伊左次は浅井屋に閉じこめられたわけか。倉田の旦那の言うことに素直にうなずいて、政吉がおあきを殺してしまったことを裏付けるような何かを思い出したり思いついたりするまで、ゆっくり頭を冷やせというわけだな」
ところが、驚いたことに、鉄二郎は六蔵のこの問いに首を振った。「それが、そうじゃねえんで」
「違うの?」
「へい。倉田の旦那は、埒があかねえなあと渋い顔をしておられましたが、そういうことなら今日は帰っていいとおっしゃったんです」
「帰っていい? あなたも伊左次さんも?」
「はい。ただ、次に呼び出すときには、今日のように楽な話じゃねえかもしれないぞと、怖い顔で言われましたが」
それはまあ、半分ははったりだろう。前に右京之介が指摘したとおり、その強引なやり方のせいで、賞賛もされるが敵も多い倉田主水が、鉄二郎たちを痛めつけたりしたら、途端に問題になるに違いないからだ。
「あっしと伊左さんは、とにかくその場はへいこらして帰ろうと思いました。そしたら浅井屋のお内儀さんが、あんたたちこのまま帰ったって仕事もないし、困るだろうと言い出したんです。なんならうちで面倒みてあげる、ちょっと今後のことを相談しようじゃないかって」
「それで?」
「倉田の旦那は先に座敷を出ていきました。お内儀さんはその後を追いかけていって、しばらく戻ってきませんでした。何を相談しているんだろうって、あっしは肝《きも》が冷えたけど、しょうがねえからじっと待っていたんです」
やがて戻ってきたお内儀は、ひとりではなかった。息子の松次郎と、一見商人風ではあるが、とうてい浅井屋の奉公人とは思えない屈強で乱暴そうな男をふたり伴っていた。
「そうして、あの氷室に連れていかれたんです」
殴る蹴るは、すぐに始まった。松次郎も加わっていたという。
「なるほどな……浅井屋のお内儀は、倉田主水に、あたしに任せておきなさいよ、あのふたりを少しばかり締め上げて、あなたの望むとおりの事をぺらぺらしゃべるようにしてあげるから――とでも請けあったんだろうな。そして今後も、鉄二郎と伊左次が、誰になんと訊かれようと、親父さんがお嬢さんを殺しました、間違いございません、あの件はそれでしまいですと言って、それ以外の余計なことは口に出さないようにしてやる、とな」
六蔵はいかつい顎を噛みしめながら、歯の隙間から言葉を押し出すようにして言った。お初も腹が煮えてきて、くちびるを噛みしめた。ひとり右京之介だけが、鉄二郎の顔を見ている。口の両端を下げ、身を縮めた鉄二郎は、お初と六蔵の顔をおどおどと見比べていたが、やがて自分を見つめる右京之介の視線に気づいた。
初めて、右京之介はじかに鉄二郎に話しかけた。「どうです? 浅井屋があなたたちに要求したことは、今、六蔵親分がおっしゃったようなことですか?」
鉄二郎はおろおろしている。
「遠慮することはない。お話しなさい。最初にあなたは、『なぜあんな目に遭わされたのかよく判らない』と言いましたね? なぜ判らないのか、それを言ってくれればいいのですよ」
励ますような右京之介の口振りに、鉄二郎も元気づけられたらしい。恐縮したような様子はそのままだが、こう言った。「それが……違うんです。親分がおっしゃるようなことじゃなかったんで」
六蔵は両目を見張った。「というと?」
「どういうことなの?」お初も膝を乗り出した。
「倉田の旦那がいない場所では、浅井屋の連中は、旦那の考えとぜんぜんちがうことを言うんです。あっしにも伊左次さんにも、旦那とは反対のことをきくんですよ」
「だから、何を」
鉄二郎はまた空咳をして、口調を改めた。「政吉はおあきをどこへ隠したんだって。おまえたちも手伝ったんだろう。政吉は、何をどこまで知ってるんだ、おまえたちは政吉から何を聞いたんだ、どこまで知ってるんだって」
お初はぽかんとした。重いだろうと思って持ち上げた荷物が軽かったときみたいな、空足を踏んだような感じがした。
「おあきをどこへ隠したかって?」六蔵も座り直した。「本当にそう訊いたのか? それを聞き出すために、おまえたちをそんなふうに痛めつけたのか?」
「そうなんです」
「そうなんですじゃねえよ! おまえ、てめえが言ってることが判ってるのか? おまえの話を真に受けたら、浅井屋は政吉がおあきを殺したなんてこと、てんから信じてねえということになるんだぞ?」
「はい、ごもっともで」鉄二郎はまた小さくなったが、話すべきことを話して、荷が軽くなったような顔をしている。
「信じてねえものを、なんで倉田の旦那まで担ぎ出して、信じてるようなふりをしてるんだ?」
六蔵が怒鳴るように言う。お初もすっかり面食らってしまって、次の言葉が出ない。
「面白くなってきたなあ」さっきから、ひとりだけずっと眠そうだった源庵が、あくびをしながら呑気に言った。「こうでなきゃなあ、俺が出張った甲斐がねえ」
「うるせえぞ、藪医者《やぶいしゃ》」と、六蔵がまた怒鳴る。
落ち着き払った右京之介は、ゆっくりと腕組みをして呟いた。「なるほど」
「なにがなるほどですよ」と、六蔵は八つ当たりである。
「まあ、まあ、落ち着いてください」右京之介は笑顔になった。「少し、話をほぐして順序を正してみましょう。そうすれば、よく見えてくるはずですよ」
頭に浮かんだことを、お初は思わず口に出した。「算学のお題を解くみたいにですか?」
「そう、そのとおりです。お初どの、お茶をいれかえましょうか?」
文吉に手伝わせてお初が手早く茶をいれ直し、六蔵は煙草をふかし、右京之介は鉄二郎が疲れないかとねぎらい、源庵は酒が欲しいとだだをこね、ようやく落ち着いたところで、
「よろしいですか」と、右京之介は始めた。
「鉄二郎さんの話を聞く以前に、我々が知っていた事柄は、まず、おあきさんが不可思議な神隠しにあって姿を消したということです。次に、彼女が行方知れずになったことで、彼女を殺したのではないかという疑いが父親の政吉さんにかかり、彼はそのために首をつって死んでしまった。そうですね?」
「そうですよ」六蔵がまだ不機嫌そうにうなずく。
「政吉さんが死ぬほどに追いつめられたのは――彼の心の内にいろいろな想いがあったことも確かでしょうが――おあきさんの神隠しという話を信じず、彼女の身に何かあったに違いないと主張する浅井屋が、その手にかかっては解けない謎はないとまで言われる切れ者の倉田主水どのを担ぎ出してきたためでした。これもよろしいですね?」
「よろしいです」と、今度はお初が合いの手をいれる。
「倉田どのは、神隠しの話など頭から信じていない。娘が消えた、ならば娘を消した者がどこかに必ずいるはずだと考えた。そして、辰三親分の話によると、浅井屋への玉の輿をけっして喜んではいなかった政吉と、幸せいっぱいのおあきのあいだに、いくばくかのとげとげしたものが流れていたことを手がかりに、政吉がおあきを殺したのではないかと考えた。父親が娘を殺すなど、実に考えにくいことですが、辰三親分の話を元にして考えていけば、政吉が手塩にかけた娘に裏切られたと感じたのかもしれないという説も認められますし、可愛さ余って憎さが――ということもありますからね。政吉によるおあき殺しも、なるほどあったかもしれないと思えてくる」
なんとも言えず、お初と六蔵は黙っていた。とりわけお初に向かって、右京之介は急いで続けた。
「あわてないでください。私は、神隠しなどなくて、政吉がおあきを殺して不思議話をでっちあげたのだと主張しているわけではありません。ただ、倉田どののこういう考え方も、神隠しという不思議な出来事を頭から外して考えるならば、それはそれで筋道がとおると申し上げているのです」
「ええ……わかります」と、お初はうなずいた。
「しかし、倉田どのはいささか強引です。政吉への追及も急ぎ過ぎていたようですし、政吉が死んだ後は、職人たちを脅したり因果を含めたりするという乱暴な手口で、自分の考えを正しいものとして固めてしまおうとしておられる。倉田どのがそこまで不思議話の排除にこだわるのは、それはそれでなぜなのだろうという興味を呼びますが、まあそれはまた後で検討することにしましょう。問題は、我々は今まで、そういう倉田どのと浅井屋とが、まったく同じ考えでもって行動していると思いこんでいたということです」
確かにそうだった。
「ところが、鉄二郎さんの話によると、浅井屋は実は、倉田どのとは全く違う考えをもっているらしい。だいいちに、浅井屋はおあきが生きていると思っている。政吉が、おあきをどこかに隠し、それを世間的には神隠しにあったのだと言い繕《つくろ》っていたのだと主張している。そうですね?」
今度は鉄二郎がうなずいた。
「さあ、これはいったいどういうことなのでしょうね」右京之介は楽しそうだ。「さらに、何よりも気になるのは、鉄二郎さんたちをいたぶりながら、浅井屋の松次郎たちが口にした言葉です。『政吉は、何をどこまで知ってるのか』『政吉から何を聞いたのか』……妙ですね。妙な言葉です」
六蔵もお初も鉄二郎も神妙にうなずいた。源庵だけがへらへらしている。
「若先生、名調子だね」
「それはどうも。後で先生にもおうかがいしたいことがありますので、よろしく」
愛想良く受け流しておいて、右京之介は続けた。
「松次郎たちのこの言葉は、聞き捨てならないものです。この言葉を中心に、今度の出来事を考え直し、並べ直してみる必要さえ出てくるくらいですよ。お初どの――」
「はい」
「政吉の下駄屋にとって、浅井屋は以前から良い得意先だったそうですね?」
辰三がそう言っていた。
「そうです。だからおあきさんが松次郎さんに見初《みそ》められるようなことになったんだものね」
「なるほど。しかし縁談がなければ、商家としては格が違いますから、親しい付き合いをすることはなかったでしょうね?」
「それはそうだと思います」
「わかりました。では、もう一度松次郎たちの言葉を考えてみましょう――政吉はどこまで知っているのか――」
一同の心にその言葉の意味するところが染み込むまで待ってから、右京之介は言った。
「これは明らかに、後ろ暗い事を隠している者の言葉です。まさか浅井屋のお内儀がイナゴの佃煮《つくだに》が好物だとか、松次郎がひどいいびきをかく癖があるとか、その程度のことを指して『どこまで知っている』というはずもありません。なんだかわからないが、浅井屋には、世間に対して後ろ暗いことがあるのでしょう。そして、松次郎とおあきの縁談を機に、浅井屋と親しく行き来をするようになった政吉にそれを知られたと思った――あるいは、このままでいくと早晩《そうばん》知られてしまうかもしれないという危惧《きぐ》を抱いた」
六蔵はうーんと唸った。
「浅井屋としても悩むところです。いきなり政吉をつかまえて、その後ろ暗いことをうち明けては、やぶ蛇になりかねない。しかし、放っておけば危険は増す。ただ、幸いなことに、もうすぐ政吉の一人娘が嫁に来る。おあきを手元に押さえてしまえば、これはもう人質をとったも同じです。安心して政吉に後ろ暗い事情をうち明け、あまつさえ彼を抱き込むことだってできるでしょう」
そうか……お初の頭のなかも晴れてきた。
「ところが、そんな算段をしている矢先に、政吉がいきなり、おあきが神隠しにあったと言い出した。現におあきはいなくなっている。後ろ暗いことを背中にしょっている浅井屋は、政吉の言葉を額面どおりに受け取るわけがありません。これはもう、隠していることを政吉に気づかれ、おあきが浅井屋に嫁ぐのは人質になりにいくのと一緒だと悟られて、先手を打って娘をどこかへ逃がされてしまったのだと思ったわけですよ」
それが「政吉はおあきをどこに隠したんだ」という詰問《きつもん》になって現れたわけだ。
「浅井屋としては、すぐにも政吉をひっとらえ、叩いて殴って始末してしまいたいところですが、そうはいきません。そこで、格好の『建前』を担ぎ出すことを思いついた――」
「それが倉田さまだということですか!」
思わず大きな声で言ったお初に、右京之介は丸眼鏡の奥の目を輝かせながらうなずいた。
「浅井屋には、倉田どのを担ぎ出す利点がいくつもあるのです。まず浅井屋のお内儀は、親しい身内として、不思議事をいっさい認めようとしない倉田どののご気性《きしょう》をよく知っていた。その倉田どのが、浅井屋から見ればでたらめとしか思えない神隠しの話をする政吉を放っておくはずがない。必ず厳しく問いつめて、政吉に本当のことを白状させるはずだと思った――この場合の『本当の事』とは、実際にあったことではなく、浅井屋が本当だと思いこんでいたことの方です。つまり、神隠しは嘘で、おあきは政吉によってどこかに隠されているという事ですよ。倉田どのに問いつめられれば、政吉はきっと堪《こら》えきれずに白状するだろう。おあきさえ戻ってくれば、何しろ倉田どのはお身内だ、後はどうにでも言い繕うことができる。政吉はとんだ嘘つきだと決めつけて、真実は何も悟られずにね」
「ちょっと待った」六蔵が怖い顔で止めた。「そこまでの話はよく判りましたがね、古沢さま。そんならもう一歩進めて、倉田主水も浅井屋と最初からぐるだと考えたらどうです?」
「つまり、浅井屋の後ろ暗いことに、倉田どのも一枚噛んでいると?」
「そうです。だって以前から懇意なんだからね。その方が話が自然でしょう」
右京之介は六蔵を真っ直ぐに見つめ、しかしかぶりを振った。「確かに、話はその方が通りがいいですね。でも、私は、倉田どのは浅井屋の後ろ暗い事に加担してはいないと思うのですよ」
「どうしてです?」
右京之介の代わりに、お初が答えた。「だって兄さん、それはね、辰三親分が倉田さまのことを誉めて、認めているからよ」
「辰三が――」
「辰三親分は、商人とつるんで悪事をするような町方役人に、簡単に騙されるような人じゃありませんよ。そうでしょ?」
六蔵はくちびるを引き結んで考え込んだ。源庵が、からかうようにその横顔をながめている。
「確かに、倉田どののやり方はよろず強引に過ぎますし、庶民にとっては苛烈《かれつ》でもあります。さっきも言ったように、あの方がなぜそんな方法をとってまですべての謎を解こうとするのか、なぜ事件にはいつも筋道立った解決がなくてはおさまらないのか、それはそれで不思議です。しかし、倉田どのはけっして無能な町方役人ではない。毀誉褒貶《きよほうへん》が激しいというのも、その証拠です」
「どっちにしろ、浅井屋に頭があがらないんじゃねえのか?」と、源庵が口を出した。「貧乏な同心に金持ちの親戚だ。倉田主水って、女遊びも盛んだそうじゃないか。浅井屋から、ずいぶんと金を引き出してるんじゃねえのかね。それでもって、何かあったらよろしく頼むよって、従姉の女将から言い含められてるんじゃねえのかねえ」
「それもあるでしょう。あくまで、身内の事としてね。倉田どの個人の生活のなかでは、そういうこともあるでしょう。しかし、浅井屋が隠している悪事を知ってまで、それに加担するような人物だとは思えません。そういう人物ならば、今までにも細かいところでいろいろとぼろを出していたでしょう。そうなれば、辰三親分に誉められるわけがない」
力強く言って、さらに右京之介は続けた。
「他の何よりも、倉田どのが浅井屋に担がれているだけで、加担はしていないという証拠があります。ほかでもない、政吉が、ありもしないおあき殺しを白状し、しかも死んでしまったということですよ。もしも倉田どのが浅井屋からすべてを聞かされたうえで政吉に相対したのなら、何もそこまで追いつめる必要はないのです。政吉に向かって、小声で、おまえが浅井屋の何をつかみ、何から娘を逃がそうとしたのか知らないが、それは全て無駄だぞ、浅井屋には俺がついているのだからな――と囁きかければ、それで用は足りたはずです。だいいち、おあきに惚れて嫁に欲しい浅井屋の松次郎としては、政吉が死んだことによっておあきの行方を突き止めることができなくなるなど、望むはずもないことでした」
一同の上に、やんわりと沈黙が落ちてきた。皆、右京之介の説を噛みしめているのである。
鉄二郎がゆっくりと呟いた。「なんだか……あっしもやっと……合点がいきました」
「しかし、古沢さまの説に従ったら、倉田の旦那はまるで浅井屋の指人形じゃねえか。情けねえ」
吐き出すように、六蔵は言う。気骨と頑張りで己を支えているこの兄は、だらしのない男というのが大嫌いなのである。
「しかしなあ……」源庵が、両手を頭のうしろで組み合わせ、そっくり返って天井を仰ぐ。「そういう小賢しい人間のああだこうだはそっちのけで、神隠しは神隠しなんだな」
「そうです!」右京之介はぴしゃりと言った。「この神隠しは、政吉さんの作り話ではない。ですから浅井屋側だって、鉄二郎さんと伊左次さんを責め立てながら、なにがしか不可解なものを感じていたのではないのでしょうか。こいつらまで口を揃えて、おあきは神隠しにあったと言い張る――政吉の様子がおかしかったのも、神隠しのせいだと言い張る――政吉からは何も聞いていないと言い張る――」
「ああ、なんだか頭がこんがらがってきた」文吉が両手で頭を抱えた。「するてえと、観音さまの姿をしたもののけのせいで起こった神隠しと、今度の浅井屋の一件とは、べつべつに考えた方がいいんですね?」
「そうなるな」と、六蔵はあっさり決めた。「もののけはお初の領分だ。俺たちは浅井屋だ」
「浅井屋の隠している後ろ暗い事とは何か――ということですね」と、右京之介が言った。
「そうなると、どうやら俺の出番らしいな」源庵が起きあがる。「さっきから、いつ言おうかと迷ってたんだ」
「藪医者に、何ができるんだ?」
「患者を診ることはできるよ。なあ、鉄二郎さんといったっけ」源庵は鉄二郎に話しかけた。声をかけられた方は、脂《あぶら》っこい医者のがらがら声にびくりとした。
「あんた、伊左次さんとの付き合いは長いのかい?」
「はい……兄弟子ですから、もう十五年ぐらいになります」
「あの人は昔から、あんなに痩せていたのかい? 目の色もとろんとしてるし、顔も死人みたいだよな」
「それは怪我のせいじゃないの?」とお初は言ったが、右京之介が源庵の顔を真面目に見つめているのに気づいて口をつぐんだ。
「さあ……そんなことはありません。言われてみれば、伊左さんが痩せ始めたのは、この一年ぐらいのことのような気がする……」
源庵はまた、得意そうにそっくり返った。「一年か。俺の診立てはやっぱり当たったな」
「どういうことだよ?」
「なに、簡単な話よ。阿片《アヘン》さ」
びっくりして、みんな源庵に注目した。医師の頭は汗でてらてら光っている。
「そんなに驚くほどのことはあるめえよ」と、源庵は涼しい顔で言う。「長い煙管で吸う夢を見せる薬だ。一応、御禁制の品ということになってるが、大金を出して、ふさわしい伝手《つて》をたどれば手に入れることは難しくねえ」
「先生も、使ったことがあるの?」
お初の問いに、源庵は芝居がかった様子で周囲をきょときょと見回した。「ええ? 今なんて言ったね、お初ちゃん? 岡っ引きのいるところでは、今の話は聞こえねえ」
「冗談事じゃねえですよ」と、これは文吉がむくれて言った。
「あの伊左次って男は、立派な阿片中毒だ」
「だってそんなもの――」
「どこから手に入れたんだろうな? 下駄屋の職人だ。そう顔が広いわけもねえ」
文吉が、信じられないという口調で呟いた。「浅井屋……ってことですか?」
「さあ、俺にはそこまでは判らねえよ。ただ、自分の元で長年働いている職人の様子がおかしくなれば、親方は気づくだろう。つまり、政吉は気づくだろうってことさ。いったいどうしたんだと、頭と心を使ってあれこれ考えることになる。そのことと、今までの話を結びつければ、政吉が察したかもしれない『浅井屋の後ろ暗いこと』ってのも、阿片と関わりがあるんじゃないかと――」
ちょうどそのときだった。また、軒の上で、鉄がうるさく鳴き騒ぐ声が聞こえてきた。座敷の一同には、盛りのついた猫の狂騒としか聞こえないものだろうけれど、今度は、お初にははっきりと言葉を聞き取ることができた。
「お初ちゃん、障子を開けろ! 立ち聞きされてるぜ!」と言っている。
お初は隣に座っていた右京之介を突き飛ばすような勢いで立ち上がり、ものも言わずにいきなり障子を開けた。そこに、痩せさらばえた身体を卑屈なほどに小さくかがめて、寝間着一枚の伊左次が座りこんでいた。
「伊左さん!」
最初に鉄二郎が飛び出し、両腕で兄弟子を抱えた。
「どうしたんだい?」
伊左次は、もの乞いが通りがかりの人に銭を乞うときのような目つきで、お初たちを見つめている。
「目が覚めたら……知らないところにいたんで……誰かいないかと、声のするほうに来てみたんですが」
喉にからんだだみ声で、しゃべるだけで息を切らしている。
「心配することはねえよ。ここは俺の家だ」と、六蔵が声をかけた。「子細は、あとで話してやろう。鉄二郎さんから聞いてもいい。とにかく今のあんたには養生が必要だ。要らん気をつかわねえで、横になってることだ」
鉄二郎が、さあ行こうというように伊左次を促した。伊左次は陰気に背を丸めた。
「どれ、助けよう」と、源庵が立ち上がる。座敷を出ながら六蔵とお初を振り返り、「日に一度、様子を見にこよう。とにかく、向こう十日くらいは病人扱いをしないとならねえよ、このふたりは」
三人が出ていったあとで、障子を閉めながら、お初は胸のなかがもやもやするのを感じた。今の話のせいもあるけれど、伊左次という人は、どうも虫が好かない。そういえば、浅井屋を抜け出してからこっち、あの人の目を見て、口をきいたのは今が初めてのことだけど……
六蔵も厳しい目つきで伊左次を見送っている。それからその怖い目のまま右京之介を振り向いた。
「古沢さま、さっきあなたが源庵に向かって、あとで先生に訊くことがあるからよろしくとおっしゃったのも、伊左次の阿片中毒のことですかい?」
右京之介はうなずいた。「そうです。やはり、源庵先生はすぐに見抜かれていたのですね」
「見かけほど藪じゃないんですよ、あの医者は。だからあっしも疑うわけじゃねえんだが、しかし、阿片中毒ってのは、そんなにすぐに見て判るもんですかね?」
「目のうつろさ、肌の色の悪さ、奇妙に無口で無気力なところ――阿片中毒の症状を知っていれば、そうではないかと目星をつけることは易《やさ》しいでしょう。いちばん確かなのは、重い中毒患者であるならば、これから日を経て薬が切れてくると、発作を起こすようになるということです。そうなれば間違いありません」
「右京之介さまは、どこで阿片中毒のことなど聞き込んだんです?」
彼は医者ではない。算学を学んでいるのだ。
「私の朋輩に、長崎帰りの者がいるのです。彼の話では、あちらでは阿片だけでなく、南蛮《なんばん》渡りの怪しげな薬などが密かに流通して、長崎奉行所を悩ませているそうですよ」
右京之介はちょっとためらうように間を置き、六蔵の顔を見た。
「まあ、いいでしょう、名前を明かすわけではないし」と呟くと、微笑して続けた。「実は、私にこの話をしてくれた朋輩は、長崎にいたころに、阿片に手を出していた時期があったそうです。無論、今はすっぱりとやめていますし、阿片の恐ろしさについては、他の誰よりもよく判っているので、迂闊《うかつ》にその道に踏み込もうとする者を厳しく諫《いさ》めています」
六蔵は何も言わなかった。代わりに、文吉が恐れ入ったような合いの手を入れた。
「うへえ。若先生は、顔が広くていらっしゃるんですね」
「こういうことを、顔が広いとは言えないと思いますが」右京之介は首のうしろをかいた。「私の朋輩は、長崎に遊学中、女に誘われて阿片に染まってしまったのですが、何しろその甘美なことと言ったら、この世の極楽という言葉は、まさにあの薬のためにあるものだと思ったほどだそうです。ちょうど、勉学の困難なことに挫折を感じはじめていた時期だったそうで、まあ、今考えてみれば、ただ単に目の前の難問から逃げるために阿片を使っていただけなのでしょうが」
「阿片を使うと、難しい学問がすいすい判るようになるのかしら?」
お初の問いに、右京之介は笑った。「そんなことがあるはずはないのですよ。ただ、人によっては、心の底から自信がむくむくとわいてきて、自分にできないことはないような気持ちになることがあるそうなんです。あるいは、美しい天女が自分の周りを舞ったり、座敷のなかに花が咲き乱れたり、妙《たえ》なる音楽が聞こえてきたりするという人もいるそうです」
六蔵が、「むむむ」というような声を出した。「ぜんたい、その阿片というのは、どんな形のものなんです? 定斎《じょうさい》(風邪薬)みたいなもんですか?」
「いえ、飲む薬ではありません。長い煙管を使って、煙草のように吸うのです。阿片そのものは、そう、炭のように真っ黒で、少しべたべたした堅めの泥のようですね。手でこねたり曲げたりすれば、容易に大きさも形も変えることができます。ですから、抜け荷もしやすいのですよ。米俵の米のなかに潜《ひそ》ませたり、粒にして砂糖衣をかけ、菓子に見せかけて持ち運んだりと」
「何にせよ、高いものでしょう?」
「それはもちろん。親指の爪ほどの大きさの塊を買おうと思ったら――そうですね、私の父のひと月分の俸給の半分が消えてなくなってしまいます」
お初と六蔵は顔を見合わせた。
「そんな高いもの、よく伊左次が買えたなあ」と、文吉がまたとんきょうな声をあげた。「住み込みだから食い扶持《ぶち》はいらないとしても、給金なんてたかが知れてますよねえ」
「職人暮らしが長いし、蓄《たくわ》えがあったのかも」と、お初は言ってみた。「だけど文さん、いいことに気づいたね」
ひょっとすると伊左次には、阿片を買うための秘密の金の出所があったのかもしれないということ――覚えておこう。
「ホントですか。ありがとうございます、お嬢さん」
「まあ、この話はそのへんにしておこう」六蔵は座り直すと、たばこ盆を引き寄せた。「目を離さずに伊左次の様子を見ていれば、自然とはっきりしてくることもあるだろうからな。ところでお初、伊左次と鉄二郎が浅井屋にいるってことを、どうやって調べたんだ?」
「あたしにも、あたしだけの伝手ってもんがあるのよ」と、お初は言った。正直な右京之介は、なんともあやふやな顔をして、六蔵からもお初からも視線をそらしている。
「まあ、いいじゃないの、兄さん。鉄二郎さんと伊左次さんを助け出したお手柄に免じて、きつくは訊かないでくださいな」
六蔵はがぶりと煙管を噛みながら、面白くなさそうに鼻にしわを寄せた。
「一人前のことを言うもんだ……まあ、いい。その代わり、おまえは今後、浅井屋の件に関わるんじゃねえぞ」
「まあ、なんで?」
「さっき文吉も言ってたが、浅井屋の件とおあきの神隠しの件はまったく別物だ。浅井屋がやっている後ろ暗いことは、俺たちが探る。おまえは、その、なんだ、へんてこな観音さまと神隠しを追いかけろ。いいな?」
「任しといて」お初はぽんと胸を叩いた。軒の上で鉄が、「よ、お初ちゃん」と鳴いた。と、六蔵がうるさそうに顔をしかめた。
「あの猫はどこの猫だ?」
「うちのよ」
「俺がいつ、飼っていいって言った」
「義姉さんとあたしとで飼うことにしたの。兄さん、あの子猫が嫌いなら嫌いでもいいけど、あの子をどっかに捨ててきたりしたら、義姉さんは荷物まとめて出ていっちまいますよ」
六蔵はむくれ顔をした。「俺に見えねえところで飼え。笑うな、文吉」
どやしつけられて文吉は逆に吹き出してしまった。右京之介も笑顔になったが、笑いながらも話の舵を取り直して、
「ところで、事件はもうひとつあるのじゃなかったですか? 例の長野屋のお律の一件はどうなっているのですか」と切り出した。「投げ文に使われた矢場の矢は、どこのだれのものだかわかりそうですか?」
六蔵も真顔に戻った。
「矢場だからといって洒落るわけじゃないが、早くに当たりがついたんですよ」
文吉が、得意そうな口調で言った。「あの矢は、羽根飾りに紅と紫が使ってあったでしょう。ちょいときれいな矢でしたよね」
お初はうなずいた。覚えている。女の小袖の柄のようだと思ったものだ。
「それを手掛かりにたぐっていったら、東両国の『的屋』って店のものだってことがわかったんですよ」
「東両国? じゃ、雁太郎《がんたろう》親分の」
両国橋をはさんだ東両国・西両国と呼ばれる一帯は、見世物小屋や芝居の掛け小屋が多いところだ。菓子屋や小間物屋など、一般のお店《たな》ももちろんあるけれど、やはり流れものの遊芸人が多く集まるところだし、その分地回りのやくざ連中の利害も複雑に入り組んでいて、切り回すには難しい土地である。地理的には、本所の目と鼻の先というより本所の内にあるような場所ではあるけれど、そういうわけで、そこはあの辰三親分の縄張ではなく、古くからそこだけをしっかりと仕切っている岡っ引きがいる。名を雁太郎と言って、元は相撲取りだったのではないかと思うほどの巨漢の親分である。歳はそろそろ還暦に近いが、まだまだやくざのひとりやふたり、素手でつかんで大川に投げ込むくらいの元気はある。
お初はこの親分に、一度だけしか会ったことがない。それもつい最近、今年の年明けごろのことだ。
なんでも雁太郎親分には、定まった居場所というものがなくて、たくさんある芝居小屋のどこかに、気の向いたときに気の向いたように寝起きしているのだという噂がある。お初が会ったというか見かけたときは、たまたま両国橋のたもとにいて、そこで店を張っていた袋物売りの行商人から、きれいな袱紗《ふくさ》をひとつ買い求めていた。親分の隣には、はっとするような大胆な歌舞伎模様の着物を着た、小柄な女が寄り添っていた。袱紗は、その女のためのものだったらしい。
お初はそのとき、ほかでもない辰三親分と文字春師匠のところに、到来物の菓子のおすそわけを届けてくれと、およしに頼まれて出かけてゆく途中だった。両国橋を渡ってすぐに、ああ、あのおっきい人が雁太郎親分じゃないかと気づいたけれど、知り合いというわけでもないし黙って通り過ぎようとすると、雁太郎親分のほうから声をかけてきたのだった。「兄さんは元気かい?」と。
驚いてお初が挨拶を返すと、雁太郎親分はにこりともせずに、「今の時期、こっちのほうは巾着《きんちゃく》切りが多いから気をつけな」と、投げ出すように言った。そしてぷいと身体の向きをかえると、ぶらぶらと両国橋を渡っていってしまった。いっしょにいた女のほうが、お初ににっこり笑いかけ、それから急いで親分のあとを追っていった。歳はおよしと同じくらいだが、見とれてしまうほどに美しく、身のこなしが機敏だった。普通なら、男物の着物の柄であるはずの歌舞伎模様が、その人の顔には鮮やかに映《は》えていた。
家に帰っておよしにそれを言うと、ああそれはきっと、雁太郎親分の情女《いろ》だろうと言った。「情女」という口調に、侮蔑《ぶべつ》の響きはなかった。
「天女みたいにきれいな人だったでしょう。手妻使いなんだって。なんでも、南蛮人の血が混じっているんだそうよ。たいへんな売れっ子なんですって」
以来、お初の胸のなかには、雁太郎親分の「情女」である女芸人に対するそこはかとない憧れのようなものが漂うようになった。今度のことで六蔵が雁太郎親分と手をたずさえる成り行きになれば、あの人にもまた会うことができるかもしれないと思った。
「そう、おめえの言うとおり、雁太郎親分にも話を通したよ。的屋のことも、いろいろきいてみた」と、六蔵は続けた。「中之橋で死んだ男は、なにしろ首をとられちまってるからな。顔形を手がかりに探すことはできねえ。けど、身形《みなり》や身体つきはわかるし、それに手がつるつるして柔かかったことなんかから考えると、どうせまっとうな堅気《かたぎ》の野郎じゃなかったということは見当がつく。そのへんを打ち明けて、知恵を借りてみたら、どうもそれらしいのが見つかったんだ」
「雁太郎親分は、心当たりがあるって言ったの?」
「うむ。といっても、死んだ男の身元に心当たりがあるというわけじゃねえんだ。ただ、どうもあの件と関わりのありそうな匂いのする、お店者くずれの遊び人がひとりいるというんだよ」
その男の名は惣助《そうすけ》という。歳は二十五、六というところ。六尺近い大男なのだが、まるで物干し竿のように痩せていてひょろ長く、風の強い日など、身体がゆうらゆうらと左右に揺れているようにさえ見えるという。ということは、中之橋で死んだあの男とは別人だ。
「この惣助って男は、元は牛込《うしごめ》あたりの古着屋の小僧だったそうだ。真面目に奉公していたんだが、博打《ばくち》の味を覚えてな。十年ほど前に古着屋をやめたとかいう話だ。一度博打の淵にはまると、なかなか抜け出せないもんだからな。以来、まともな働き口も見つけないままぶらぶら暮らしをしていて、的屋にも頻繁に出入りしていたというんだな」
そして惣助は、二日ほど前に的屋に姿を見せたときに、近々、大金をつかむことができるんだと、自慢たらしく話していたというのである。金が手に入ったら、店の女たちを全部引き連れて、八王子へ滝を観にゆこうなどとも言っていたという。
「匂いますね」と、右京之介が言った。「日にちのうえでも、長野屋のお律の件とぴったり合う」
「そうなんですよ」と、六蔵。「だが惣助は、その自慢話を振りまいたとき以来、的屋には現れていないそうでね。もし、こっちがにらんでいるとおり、惣助があの中之橋の男の仲間ならば、あの男が金を取りに行ったきり帰ってこないことで、きっとあわてているだろうと思う。なんとか様子を探ろうとウロウロしているかもしれないし、あるいはとっくにとんずらを決めこんでいるかもしれねえ。難しいところだが、こっちの動きを気《け》どられてもまずいんで、ここは雁太郎親分に下駄を預けて、惣助を探してもらっているところなんだ」
「待てば海路のなんとやらってね」と、文吉が陽気な口調で言った。「けど、俺も親分もなんにもしてなかったわけじゃあねえんですよ。昨夜は夜っぴて東両国を歩きまわって、中之橋の野郎に心当たりがあるっていう奴がいないかどうか、聞き回っていたんだから」
六蔵は横目でぎろりと文吉をにらんだ。
「おめえは軽業師《かるわざし》の女にくっついて、鼻の下を伸ばしてただけじゃねえか」
文吉は大いに狼狽した。「そんなぁ」
文吉には、悋気《りんき》の火の玉のようなお美代という恋人がいるのである。そんなことがばれたらまた大騒ぎだ――と思って、お初は別のお美代のことを思い出した。車屋一家はどうしているだろう。
「雁太郎親分は、今日、惣助が昔奉公していたっていう牛込の古着屋に手下を遣《や》って、惣助が立ち回りそうなところを聞き出してくると言っていた。何かわかったらすぐに知らせてくれるという話だったから、俺は昼間はうちに腰を落ち着けていようと思う。芝居小屋がひける時刻になったら、今夜は西両国のほうまで足を伸ばして、中之橋の男を知ってる人間がいるかどうか、聞き回ってみるつもりだ」
文吉は、六蔵を手伝う合間に、長野屋にも顔を出して、様子をみているという。今のところ、お律が依然行方知れずだという以外に、長野屋には変わったことはないという。
そう、長野屋のお玉のことも、お初の心にはひっかかっている。お初はちょっと考え、お玉の癇《かん》の強そうな顔と、車屋のお美代の大らかな長い顔とを秤《はかり》にかけ、お玉をとることにした。
「ね、文さん。今日はあたしが長野屋に顔を出してみるわ。そのかわり、車坂までお遣いに行ってくれないかしら」
「ようがすよ。けど、車坂のどこに?」
お初は車屋一家のことを話した。
「昨日の今日だけれど、なにしろ事が事だから、きっと心配しているだろうと思うし。変わりはないですかって、挨拶だけしてきてくれないかしら」
そういうことならと、文吉はうなずいて、六蔵の顔を見た。六蔵は、止めだてはしなかったが、
「おめえ、長野屋に行ってどうしようっていうんだい?」
「お玉ちゃんに会ってみたいの。ほら、あの夜の一件があるから」
井戸のつるべから伝わってきた、お玉の憎しみの叫び、あれが今度のこととどう係わっているのか、気になっている。
「あの観音さまの姿を借りたもののけも、目に留まった若い娘ならば誰でもたぶらかし、さらうことができる――というわけじゃないと思うのよ。それだったら、江戸中に獲物がわんさかいることになるものね」
「何か他に、条件があるっていうのか?」
「条件というほど、厳しいものじゃないかもしれない。だけど、おあきちゃんの場合は、父親の政吉さんとのあいだに、嫁入りをめぐってもやもやがあったようでしょう? お律ちゃんの場合も、実の妹のお玉ちゃんの気持ちが、何かよくない働きをして、もののけに付け入られる隙をつくっちゃったんじゃないかという気がするの」
六蔵はむっつりと聞いていたが、「判った。だが、お玉に会っても、余計なことをぺらぺらしゃべるんじゃねえぞ」と、しっかり釘を刺した。
文吉が車坂へ出かけて行ったあと、お初は一度、自分の寝起きしている座敷へとあがっていった。窓を開けて呼びかけると、すぐに気配があって、鉄がぴょっこりと顔を出し、お初の胸元へ飛びこんできた。
「話は聞いていて?」
「聞いてたよ。なんでお初ちゃん、兄さんに、鉄二郎と伊左次の居場所は賢くて勇敢で頼りになる子猫の鉄に教えてもらったんだって言わなかったんだよ?」
お初は鉄の頭をこんと叩いた。「賢くて勇敢で頼りになる子猫は、自分でそんなことを言いふらさないものよ」
「そう? つまらねえなあ」鉄は器用にお初の肩によじのぼる。「長野屋に行くんだろ? 俺、ついていこうか?」
「大丈夫よ。お玉ちゃんに会うだけだから。鉄はちょっと休んでなさいな」
「そうはいかねえよ。お初ちゃんがお供なしでいいっていうなら、おいらちょっと和尚の様子を見てくる。今までの話もまとめてしてくるよ」
「そう。よろしくね」
「合点よ」
ひらりと飛び出そうとする鉄をひょいと抱き留めて、お初はきいた。「ね、さっき、伊左次さんはいつごろからあたしたちの話を立ち聞きしていたの?」
「俺は、あいつがそろりそろりと忍び寄ってくるのを見つけて、すぐに声をかけたんだよ」
「伊左次さんの様子、変だったわよね」
鉄は、慎重な口振りになった。「助けてもらった側の野郎にしちゃあ、妙な目つきだったね」
「気をつけたほうがいいかしら」
鉄はひげをぴくぴくさせた。「今となっちゃあ、お初ちゃん、気をつけなくてもいいもんなんか、どこにもないようだぜ」
鉄のほうが、よほどしっかりしている。それでもお初は、気をつけるのよと言い聞かせて、鉄を送り出した。
「この窓に戻ってくるよ。お初ちゃんの兄さんに見つかると、俺は日乾《ひぼ》しにされそうだもんな」
お初は笑った。「大丈夫よ。それに、兄さんのことは親分とお呼びなさいな」
「偉いからかい?」
「そのほうが簡単だからよ」
鉄は、やや傾きかかった春の陽射しの下に、柔らかく小さな鉄砲玉のようになって出ていった。まったく、素早いものだ。
長野屋に出かけるために着物を着替えながら、お初はちらりと考えた。鉄と和尚と、すずという三匹の猫。天狗の気配を知ることができて、天狗を退治しなければならないと感じている、不思議な生き物たち――
長野屋は店を開けていた。
泥のついた玉葱《たまねぎ》や牛蒡《ごぼう》が、店先の大きな笊のなかに山盛りになっている。具合のいいことに、ちょうどお玉がいて、衣《きぬ》かつぎにするのにちょうどよさそうな里芋を買い求めてゆくお客の相手をしているところだった。
客がつり銭を受け取って店先を離れてゆくまで、お初は黙って見守っていた。お玉は、軒からつるした小笊のなかに小銭を入れると、やや俯き気味のまま、お初のほうに身体を向けた。
「こんにちは」努めて明るく、お初は声をかけた。「お玉ちゃん、あたしを覚えていて?」
「いらっしゃい」と、お玉は言った。小さな声だった。この娘の歳ではまだ地味すぎる色合いの小袖を着ている。母親のお古かもしれない。が、流行の黒繻子の襟だけは、新品だと思われた。
「おとっつぁんもおっかさんも留守です」
近寄らないと聞き取れないような声で、お玉は言う。お初は一歩前に出た。するとお玉は二歩あとずさる。
「お出かけなの」
「ふたりで、心当たりのあるところへ行っては、姉さんを探しまわってます」
「そのことなら、うちの親分たちがなんとかしようと力をつくしてるところだから……」
「任せきりにはしておけないって」
親心としてはそうだろう。が、そのために、まだ歳若いお玉をひとりで店に残しておくのは、かえって不用心のように、お初には思える。
「お玉ちゃん、ずっとひとりで留守番をしているの?」
お玉は、そんな必要もないのに、並んだ笊の上の野菜を動かしたり、並べ変えたりしながら、お初の目を見ないでうなずいた。
「少し、あたしとお話ししてくれるかしら」
お玉は黙っている。お初は、手近にあった青菜の笊をちょっと脇にどけて道を開け、お玉のすぐ近くにまで寄っていった。
お玉は身を堅くした。そうして俯いている様子を後ろから見ると、細いうなじなど、まだまだ幼い子供である。とても心細そうだ。自分で感じたことながら、お初は、あの夜井戸のつるべを手にしたとき、心のなかに雪崩こんできた憎しみの叫びが、本当にこの娘の発したものだったのかどうか、ちらりと疑うような気分になりかけた。
「お姉さんのこと、心配でしょう」
お玉は目を伏せている。通りを歩く人々はいるのに、店に立ち寄る客はいない。午後も遅いというのに、店先に野菜があふれているというのも、考えてみればおかしなことだ。
「あたしやうちの親分のこと、信じてほしいのよ。できるだけのことをして、お律ちゃんを探し出したいと思っているの」
と、お玉がくるりと振り返り、言った。
「あたしには、かかわりないことです」
驚くというより、とっさにお初は胸が痛むのを感じた。吐き捨てるように「かかわりない」と言うお玉の顔が、どこか身体の柔らかい皮膚をしたたかつねられているかのように、激しく歪んでいたからだ。
「お姉さんのことなのに?」
できるだけ静かにそう問い返してみた。お玉は、まるで、口からほとばしり出てしまった自分の激情の言葉に返り討ちにあったかのように、真っ青になっている。
「いえ、お姉さんのことだから、かしら」
お初は微笑んで、もう一歩お玉に歩み寄った。
「あたしね、お玉ちゃんが心のなかで何を思っていたとしても、驚かないわ。今、何を聞かせてくれたとしても、それでお玉ちゃんをどうこう思うことはないわ」
「どうして?」と、お玉はきつい声で言った。「そんなきれい事を言えるのは、どうしてよ」
お初は、最前お玉の苦しい顔を見た瞬間に、このあいだ井戸端で感じたことについて打ち明けようと決めていた。だから落ち着いて、周囲にほかに人の目や耳がないかということだけは確かめてから、言った。
「ねえお玉ちゃん、これからあたしが話すことは、あたしとお玉ちゃんだけのことにしておきましょう。いえ、そうしてくださいねとお願いします。いいかしら」
お玉は迷いを顔に出し、指先をそわそわと動かして、意味もなく前掛けの縁をなぞっている。
「いいわね? 約束よ」と言って、お初は続けた。「あたしにはね、ときどき、人の心のなかにある思いが見えることがあるの。そういう不思議な力が、ときどきだけど現れるから、兄さんの――うちの親分のお役目を手伝ったりすることがあるというわけなの」
お玉は目をしばたたかせ、初めて、まともにお初の目を見つめた。
微笑みながら、お初は続けた。「それで、このあいだ、お律ちゃんを捕らえているという賊へお金を届けにゆく夜に、ここへ来たときも、あることを感じたの」
井戸端で、つるべをつかんだとき、腕を伝わってきた呪いの叫び――それについてお初が語るにつれて、お玉の華奢《きゃしゃ》な身体がぶるぶると震え出すのがわかった。
お初の話を聞き終えると、「あたしじゃないわ……」と、独り言のように呟いた。
「お玉ちゃんの声だと思ったの」
「あたしはそんなこと、思ってない」
「そう? じゃあ、お姉さんのことは自分にはかかわりないっていうのは、どうして?」
お玉は、小銭の入った小笊の縁をぎゅっとつかんだ。まるで命綱につかまっているかのようだ。お初が黙って見守るうちに、その手にどんどん力がこもり、小さな手と細い指の関節が浮き出てきた。
「ね、お玉ちゃん、どうして?」
重ねてお初が問いかけたそのとき、お玉のつかんでいた小笊をぶら下げていた縄が、ひっぱる力に耐えかねて、ぶつりと切れた。お玉は小笊の縁を握ったまま、勢い余って前にのめった。小銭がばらばらとこぼれ落ち、野菜の笊の上にも、土間のあちこちにも散らばった。
それで糸が切れた。お玉は突っ立ったままわっと泣き出した。
お初は素早くお玉の肩を抱き、彼女が御守りのように握り締めている小笊を手から取りあげると、お玉を店の奥に連れていって、座敷へあがる敷居のところに座らせた。そうして、散らばった小銭を拾い集めにかかった。
お初がかがんで銭を集めては小笊のなかに戻しているあいだ、お玉はずっと、しゃくりあげて泣き続けていた。お初は、ことさら声をかけることもなく、泣かせておいた。
こぼれた小銭を拾い終えると、ちょうど良い具合に長野屋の前を甘酒売りが通りかかった。呼び止めておいて、お初は勝手に長野屋の奥へ入ってゆき、水屋のなかからころ合いの湯飲みをふたつ持ち出してきて、甘酒売りに差し出した。
甘酒売りは、加吉と同じぐらいの年齢の男だった。湯飲みを甘酒で満たしながら、ちらりと目を動かして、長野屋の奥で泣いているお玉を見たが、何も言わなかった。
「生姜《しょうが》をどうします?」
「いらないわ。ありがとう」
お初が両手に湯飲みを持って長野屋のなかに戻ってゆくと、察しのいい甘酒売りは、すぐに天秤棒《てんびんぼう》を担いでその場から腰をあげた。
お初は、お玉の隣に並んで腰をおろした。
「はい、甘酒」と、湯飲みを差し出す。お玉は、目は真っ赤だし頬には涙が残っているが、もうしゃくりあげてはいなかった。鼻をくすくす言わせながらも、湯飲みを受け取った。
「生姜は入ってないわ」と、お初は言った。
「嫌いなの」
「そうだろうと思った。ほら、あたしって察しがいいでしょう?」
熱い湯飲みを手にしたまま、お玉は泣き笑いの顔をした。少なくとも、笑おうとしたようだった。その拍子に、目尻にあった涙の最後の一粒が、ころりと転げて落ちた。
「おとっつぁんもおっかさんも、姉さんも、甘酒におろし生姜を入れるの。あたしだけよ、嫌いなのは」と、ぽつりと言った。
「あの甘酒売りは、よく来るの? めずらしいわね、こんな春先から売りに来るって」
甘酒は、本来は夏のものなのである。
「あの担ぎ売りの小父さんは、一年中ああして歩いているのよ。うちでも、よく買うわ」
「そうして、みんなで飲むのね? お玉ちゃんだけは生姜抜きで」
お初はお玉の顔をのぞきこんだ。
「いろんなことが、みんなそうなの」と、お玉は言った。「あたしだけ、ほかのみんなが好きなものを嫌いだったり、嫌いなものを好きだったりするの」
「そんなの、よくあることよ」
お初は甘酒を口に含んだ。さらりとして、あまり甘みが濃くなくて、おいしい。
「実は、あたしの家は一膳飯屋なんだけどね。うちの兄さんは――あの恐い顔の親分よ、思い出してみて――ご飯に味をつけると、嫌って食べないの。うちの板さんは、御府内でも五本の指に入る腕前だと思うんだけど、そんな板さんがつくったものでも、味付けご飯は嫌だっていって、箸をつけないの。これからの季節なんか、筍《たけのこ》がおいしいでしょう。柔らかい初物を使って、筍ご飯をつくると、もうお代わりを何杯しても足らないくらい、おいしいわよね。それなのに、うちの親分は食べないのよ。白い飯がいいって」
お初は笑った。
「そういうとき、うちじゃ放っておいて、じゃあ兄さんは勝手におしって言うの。すると外でお蕎麦《そば》なんか食べてきて、あたしたちがああ筍ご飯はおいしいねって言ってるのに、知らん顔してるわ。でもそれでいいの。べつに板さんだって気を悪くするわけじゃなし、あたしたちは、それだけたくさんおいしい筍ご飯が食べられるし。別に、ひとりだけ好みが違ったって、そんなの大したことじゃないわよ」
お玉は、甘酒をひと口すすって、小さなため息をついた。
「どこの家にもあることよ」と、お初は続けた。「お蕎麦で言うと、あたしは種物のあられが嫌いなのよね。みんなは旨い旨いっていうけど、生臭くて嫌なの。おめえは変わり者だって言われるけど、いいじゃないの、そんなの」
お玉は、両手で甘酒の湯飲みを包みこむようにして、俯いている。やがて、小声で言った。「そういうの、いいわね……」
「あら、お玉ちゃんのうちと同じよ。ていうか、あたしの方こそ、お玉ちゃんがちょっぴりうらやましいわ。同じ年ごろの娘さんに会うといつも思うことだけどね」
「あたしがうらやましい?」
「ええ。だって、おとっつぁんとおっかさんがいるんだもの。あたし、子供のころにふた親を亡くしてるの。ずっと兄さんと、兄嫁さんに育てられたの。兄嫁さんは良い人だし、あたしは大好きだけど、やっぱりおっかさんがいるといいなって、思うもの」
お玉は、目をあげて、ぼうっと長野屋の店先を見回した。
「あたしは、ときどき、ひとりぼっちだったらどんなに気楽だろうって思うわ」
「そんなの贅沢《ぜいたく》ってものよ」
するとお玉は少し笑った。晩秋に、軒先に置き去りにされた風鈴の音を聞くような、寂しい笑い声だと、お初は思った。
「おとっつぁんとおっかさんは、あたしより姉さんのほうが可愛いのよ」と、お玉は言った。「小さいときからずっとそうだったの」
「それはお玉ちゃんの思い過ごしじゃない? 親には、子供はみんな同じように可愛いものよ」
世間じゃみんな、そう言うわよねと、お初は付け足した。親を知らないと言ったその口で、わかったようなことを言うのは少々きまり悪かった。考えてみれば、六蔵とおよしのあいだにも子供はいないし、加吉は経歴が謎の独り者だし、文吉は悋気の強い恋人に振り回されている身の上だし、右京之介は父親との深刻な葛藤を乗り越えたばかりの身の上だし、お初のまわりには、子の可愛さを親身になって説く人は見当たらないのだ。こればかりは、お初が親になってみないと実感できないことのようである。
「そうね……あたしがこういう話をすると、聞いた人はみんなそう言うわ。めっそうもないことを言うもんじゃない、親にふた心があるものかって」
疲れたような口調で、お玉は呟いた。
「通りいっぺんのことを言ってごめんなさい」と、お初は言った。「お玉ちゃんがそういうふうに感じるのなら、その感じたところを考えてみなくちゃいけないのにね」
お玉は微笑した。「あたしね、姉さんは器量よしだし、気立てもいいし、みんなに可愛がられるのが当たり前だと思うわ」
お初は余計な口をはさまずに黙っていた。甘酒を飲んだ。
「それに姉さんは、お針でも台所仕事でもなんでも上手にするの。一度教えられたら、二度とは聞き返さないで覚えるの。お客さんたちのあいだでも、姉さんはとっても評判がいいの。それは当たり前だって、あたし思う」
頭ではそう思う。でも、心はついていかないのだろう。
「物心がついてからこっち、ずっと、姉さんにはかなわないって思ってた。ほかの誰に言われるより先に、毎日毎日感じてた。だけど、あたしにはあたしの取り柄ってもんがあるんだろうし、少なくともおとっつぁんやおっかさんだけは、あたしを可愛いと思ってくれるだろうって、信じてもいた」
お玉は今十一歳だ。物心ついてから、そう何年も経ってはいなかろう。が、それは短くても辛い年月だったのではあるまいかと、お初は思った。誰かをはばかりながら生きると、ご飯はまずくなるし夜もよく眠れないものだ。
「だけど、おとっつぁんやおっかさんも、姉さんばかり贔屓《ひいき》にするのよ。姉さんには買ってあげるものを、あたしには買ってくれない。姉さんは連れてゆくのに、あたしは家に置いてく」
お玉の声に刺《とげ》が混じってきた。それは聞く人を刺す刺ではなく、言葉を口にするお玉の舌を心を刺す刺だ。
お玉の小さな顔を見おろしていると、お初は哀しくなってきてしまった。どんなふうに話して、こういう心の痛みを和らげてあげたらいいのだろう。まだたった十一歳のお玉に、親の心だの、人と自分とを比べて暮らすことのつまらなさだのについて語ったところで何になろう。
いや、こんなふうに思うお初だって、彼我を比べて心がすねたり、どこからか授かった不思議な力を重荷に思って、世の中は不公平だなどと文句のひとつも垂れたくなることがあるのだ。お玉の口にしていることのすべてを、理不尽だのわがままだのと、退けることはできそうにない。
「姉さんは、あたしには優しいのよ」と、お玉は続けた。「あたしが意地悪なことをしたり言ったりしても、それでも優しいの。そうすると、おとっつぁんやおっかさんは、またそのことで気をよくするの。ほらお玉、おねえちゃんを見習いな、おねえちゃんは、おめえがわがままを言って困らせても、ちっとも怒らねえ。おめえも、おねえちゃんのように優しい心を持ちな――そして姉さんは、気持ちよさそうにニコニコしてるのよ」
「お玉ちゃん……」
「だからあたし、ずっと思ってた」
お玉は、何やら呪文《じゅもん》でも読みあげているかのような口調で言いつのる。
「いつか姉さんがこの家を出ていったなら、そのときにはあたし、おとっつぁんとおっかさんに、あたしの本当のところを見せることができるようになる。それまで我慢だって。姉さんていう、邪魔っけな傘が取れたなら、あたしにもまっとうに陽が当たるようになる。それまで我慢だって。それまでは、せいぜい姉さんをいい気持ちにさせてあげましょうって。だって、じたばたしてあたしが姉さんに逆らえば逆らうほど、姉さんは良い子になっていっちまうんだもの」
「姉さんが――お律ちゃんが家を出ていくっていうのは?」と、お初は小さく聞いた。お玉の声を聞いているのが辛くて、気持ちがふさぎかけていた。
「お嫁に行くでしょ、いつかは」と、お玉はあっさり言った。「姉さんのことだもの、いいところに縁付くでしょう。おとっつぁんもおっかさんも、きっと良い相手を探してくるでしょう。けど、一度お嫁に行っちまったら、もうこの家には戻って来られない。そうしたら、おとっつぁんとおっかさんの娘はあたし独りきりになるんだわ」
なるほど、そういう意味か。
「その日を待ち兼ねてたの、あたし。早く姉さんがお嫁に行かないかってね」
お玉はついと立ち上がり、これという用もないのに、店先を歩きまわって、大根の笊をきちんと立て掛け直したり、牛蒡を手にとって並べかえたりし始めた。そうやって身体を動かすことで、少しは頭を冷やそうとしているのかもしれない。
「でも、お律ちゃんはお嫁に行ったのではないわよね? かどわかされて――いえ、神隠しにあってこの家からいなくなっちまってる。そのことは、心配じゃあないの?」
お玉は、店の外のほうに顔を向けて、お初に背中を見せたまま、両手で身体を抱くようにして突っ立っている。やがて、そのままの姿勢で言った。
「あれはかどわかしじゃなくて、神隠しかもしれないって話は、あんたの兄さんの親分さんから聞いたけど」
「ええ。身代金を取りにきた男が、本当にお律ちゃんの行方知れずと係わりがあるかどうか、今ひとつはっきりしないのよ。ただ、あの男には仲間がいたらしいので、今、親分たちは、その仲間を探してるわ」
お玉は小さなため息をついた。
「あたし、どっちでもかまわない。姉さんが家に戻ってこないといいなと思うだけ」
「そんなことを口に出して言うもんじゃないわ」と、お初は声をあげた。「いいこと、お玉ちゃん。あんたはね、心の上っ面では、確かにそういうことを考えているんでしょう。けど、それは心の芯にあることじゃないのよ。心の芯では、やっぱりお律ちゃんのこと、好きなのよ」
お玉は、包丁を降りおろして大根の頭を落とすときのように、すっぱりと言った。「いえ、あたし、本気でそう思ってる。心の芯から、姉さんが戻ってこないといいと思ってる。姉さんのこと、好きなんかじゃないわ」
お初は負けずに言い張った。「いいえ、好きなのよ。だって、たったひとりの姉さんじゃないの。だけど、あんたがね、姉さんなんかいないほうがいいみたいな、そういう哀しいことを口に出して言ってしまうと、言ったことだけが本当になってしまうの。それを聞いた人にとっても、口に出したあんた本人にとってもね」
お初は、あの井戸端に残されていたお玉の心の叫びを聞いている。背中が寒くなり、心が砕けてしまうような、あの憎しみと呪いの叫び。だから、(本当はあんたも姉さんが好きで――)などと口にするのは、かなり辛かった。お玉の場合、姉に対する憎しみは、ひょっとするともうどうしようもないほどの真実になってしまっているかもしれないのだ。
お玉は振り向いた。まだ子供こどもした顔に、はっきりとお初を侮《あなど》るような色が浮かんでいる。
「あんたって、お人好しね」
「あたしがお人好し?」
「ええ、そうよ。姉妹だからって、仲良しとは限らないってことが、どうしてもわからないのね。姉と妹が仇同士だってこともあるんだけど」
お初はぐったり疲れてきた。「何をめぐって仇同士なの?」
お玉はちょっと黙った。暗い目を伏せて、土間の地べたを見つめている。
やがて、やっと聞き取れるくらいの低い声で言った。「姉さんがいなくなるちょっと前、あたし、危うくこの家を追い出されるところだったの」
「追い出される?」
「おとっつぁんとおっかさんが、あたしがあんまり意固地で性根《しょうね》が曲がってるから、もう同じ家には住めないって。それで、どこぞのお屋敷へ女中奉公に出されることになりそうだったの。おとっつぁんとおっかさんは、そりゃあそりゃあ乗り気だったわよ。あたしに聞こえないと思って、ひそひそ話してたことがあるもの。自分たちの娘のことでこんなことを思ったらいけないが、娘はお律ひとりで充分だと思うことがあるって」
お初は思い出した。長野屋夫婦が、姉妹屋の一室で声をひそめて話していた言葉の断片――
(わたしらが、あんなことを考えたから)
あれはこのことだったのか。お玉はいらない、娘はお律ひとりでいいなどと考えたから、その罰《ばち》が当たって、大事なお律が神隠しにあってしまったと。
「とにかくあたし、姉さんがかどわかされたって聞いたとき、ああこれで姉さんが帰ってこなければ、思ったより早くお嫁に行っちまったのと同じだから、よかったと思った」
頑《かたくな》に顎を引いたまま、そう言った。
「それは今も同じよ。かどわかしだろうと神隠しだろうとかまわない。それに姉さんは、そういう目に遭っても仕方ないと思うもの」
「仕方ないって?」
なんということを言うのだ。
「だってそうじゃない? かどわかしなら、誰か姉さんの器量に目をつけた人にさらわれたってことでしょう? 神隠しなら、魔物に魅入られたってことでしょう? それはどっちも、姉さんのきれいな顔や優しい心根が、そういう人や魔物に気に入られちまったってことじゃないの。人に好かれようとふるまう人には、そういう危ないこともついてまわるのよ。覚悟しておかなくちゃ、いけないのよ」
お初は、身体が固まってしまったような気持ちで、両の拳《こぶし》をぐっと握り締め、膝の上に載せて、あがりかまちに腰をおろしていた。あまりにも堅く、鎧《よろい》で覆われてしまっているお玉の心に、この拳を降りおろしてみたところで、届きはしないだろう。ただ空しく、鋼《はがね》の音が返ってくるだけだろう。
「ひとつ、教えてちょうだい」
「なあに?」お玉は、挑《いど》むように小さな顔をぐいとあげた。「まだ聞きたいことがあるの?」
「お玉ちゃん、あんた、姉さんがいなくなったことに、何か係わりは持ってない?」
お玉の目が、ちょっと迷った。焦点を失ったようになった。お初の言った言葉の意味をつかみかねているのだ。
「あんたが手をくだして、姉さんが行方知れずになるようにはからったりはしなかったでしょうねって、きいているの」
お初にとっては口に出すのが辛い問いであったが、お玉はなんと、吹き出した。
「ああ、嫌だ。あたしにそんなことができるわけないじゃないの」
「本当ね?」
「ほんとよ。だって、誰に頼めっていうの? 魔物を呼び出す術なんて、あたしは知らないし、凶状持ちをお金でつって、姉さんをかどわかしておくれだなんて頼む――そんなこと、どうしてあたしにできると思う?」
冷静に考えてみれば、そうなのだ。だがお初は、たとえ直接的な形はなくても、お玉のこの憎しみが、お律の行方知れずに、何らかの形で係わっているような気がして仕方がないのである。
「うちのおとっつぁんやおっかさんも、馬鹿よね」と、お玉は歌うように言った。「ごらんなさいよ、こうして店を空けて姉さん探しまわって、商売はあがったり。ヘンな噂がたっちまったおかげで、お客もがたんと減っちまってる」
たしかに、店先に閑古鳥《かんこどり》の巣ができているような寂《さび》れかたではある。
「ヘンな噂って?」
「姉さんが行方知れずになってることは、先《せん》から近所じゅうに知れ渡ってたし、そのうえ、身代金を取りに来た男が、首をはねられて死んだって話も広がってね。うちは、もののけに憑かれてるんだって言い触らす人がいるの。うちで野菜を買うと、祟られるとか」
お玉は、口の端をひん曲げるような、妙な笑いかたをした。
「全然売れないもんだから、おとっつぁんときたら、今じゃ野菜を仕入れ値で売ったりするの。そうすると、さっきあんたが来たときにいたみたいなお客が、たまにちらほら買いにくることもあるから。けど、ほとんどの人たちが、気味悪がって近づかなくなっちまったわ。あたしには、そんなことどうでもいいけど」
「どうでもよくないわ。暮らしに障《さわ》るじゃないの」
「いいのよ。よほど困ったら、あたし、どこかに奉公にでも出るから。そうやってうちを離れたほうが、なんぼか気楽だもの」
まだ世間に出たことのない子供の、いたって邪気のない強がりだ。もしも奉公に出たならば、三日としないうちに、気ままな家での暮らしを懐かしみ、寝床のなかで涙を流すようになるだろうと、お初は思った。
(手がつけられないなあ……)
お初があの夜、井戸のつるべに触れたときに感じたお玉の心の声は、彼女がこの家ですごした年月のあいだに、少しずつ積み重なってきた嫉妬や憎悪や差別感から発したものだった――ということはわかった。お玉は、お律が行方知れずになったとき、そういう積年の思いの迸《ほとばし》るままに、いっそこのまま姉さんが帰ってこなければいい、死んでしまえばいいとまで願ったのだろう。
「ねえ、お玉ちゃん。あんた、姉さんが行方知れずになる前に、姉さんの様子に何かおかしなところがなかったかどうか、覚えていないかしら」
車屋のお美代は、おあきが(何かに憑かれてる)と怯えていた、悪い夢に悩まされていると苦しんでいたと言っていた。お律には、そういうことはなかったのだろうか。
お玉は、細かい物をじっと見つめるときのように、目をほそくしてお初の顔を見た。
「姉さんの様子?」
「ええ。あんたたちは、ひとつの部屋に寝起きしていたのかしら?」
「うん、そうよ」
「そしたら、お律ちゃんが夜中にうなされるとか、悪い夢を見たと話していたとか、そういうことはなかった?」
お玉はお初の顔から目をそらすと、笊のなかに山盛りになっている里芋のほうを見た。その数を数えているかのように、じいっと目を据えている。
「あたしには、言ったことなかった」と、ゆっくり答えた。「けど、おっかさんには話してたみたい」
「どんなことを?」
お玉は首をすくめた。「全部はわかんないわ。ただ、夜寝ると、胸のあたりがすごく重くなって、息苦しくて目が覚めるっていうことは言ってた。それでおっかさん、姉さんの夜着だけ新しいのをあつらえたんだもの」
またぞろ、すねた口調になった。
「あたしの夜着なんて、もう何度も打ち直しに出したやつなのに。いっしょにあたしのも新しいのにしてやろうなんて、思いつきもしなかったんでしょうよ」
お初はお玉の愚痴《ぐち》を無視した。
「ただ息苦しくなるだけだって? 何かの姿が見えたりしたって言ってなかった?」
「幽霊みたいなもの?」と言って、お玉は笑った。「姉さんみたいに勘の鈍い人に、幽霊が見えるはずもないと思うけど」
「たとえば、桜の森の夢とか、観音さまの夢とか」
「観音さま?」お玉はちょっと驚いたようだった。「なんで観音さまなんて言うの?」
その言葉に、お初は手ごたえを感じた。
「長野屋さんには、観音さまが何かかかわりがあるの? 特別に信心してるとか」
「してやしないわ。けど、姉さんには観音さまがついてるって、おっかさんは信じてた」
「ついてるっていうのは、御守護があるっていう意味ね?」
お玉はうなずく。「うん。なんでも、姉さんがお腹に入ったころ、おっかさん、しょっちゅう観音さまの夢を見たんですって。そのころうちは、佐賀町の長屋に住んでたんだけど、近所に小さな観音堂があったんだって。きれいな顔の観音さまでね。おっかさん、そこへお参りに行っては、可愛い娘を授かりますようにって、願《がん》をかけてたらしいのよ」
お玉は、面白くなさそうに鼻でフンと言った。
「そしたら、姉さんはあんなきれいな顔に生まれついてきた。心根も上等だ。こりゃあ、観音さまがついておられるんだって、ね」
お初は眉根を寄せた。これはただの偶然だろうか。
「ねえ、観音さまが、姉さんの行方知れずとかかわりがあるの?」と、お玉は逆にきいてきた。
ではお玉に、中之橋であの男が首をとられたとき、観音さまに似た化け物が現れたということは知らされていないのだろうか。お初は、あらためてそのくだりを説明した。
さすがに、お玉は薄気味悪くなったらしい。ずっとお初から離れて立っていたのに、近くに戻ってくると、並んであがりかまちに腰をおろした。
「それであんたは、そのもののけが姉さんを連れていったんだと思うの?」
「そうね、あたしはそう思う」
お玉を怖がらせることが目的ではないので、お初はできるだけ軽い口調で話すようにした。
「お律ちゃんが行方知れずになるちょっと前に、山本町のほうで、やっぱり若い娘さんがひとり、神隠しとしか思えない姿の消しかたをしていてね。その娘さんは、行方知れずになる半月ぐらい前から、観音さまの出てくる恐い夢を見るようになっていたらしいのよ。だから、お律ちゃんはどうだったろうと思うの」
お玉はつぶらな目をいっぱいに見張っている。
「じゃ、その観音さまは本物じゃなくて、もののけが化けたものなのね?」
「そうね。本物の観音さまが、そんな恐ろしいことをするはずはないもの」お初はため息をついた。「けれど、その観音さまに化けたもののけが、どうして山本町の娘さんを狙ったのか――お律ちゃんも、その化け物にさらわれたのだとしたら、やっぱりどうして目をつけられたのか、その理由がわからないの。ふたりとも器量よしだってことは同じなんだけど、あとは全部違ってるわ。歳も、山本町の娘さんのほうが上だしね」
話しながら、お初は考え込んだ。わからないことといったら、これがいちばんわからない。もののけにつけ入られる心の隙――。引っ掛かるのは、中之橋で遭遇したとき、あの化け物がお初に向かって呟いた、(でも、おまえでは駄目だわ)という言葉だ。なぜ、お初では駄目だったのだ? おあきとお律のあいだには、何か特別のつながりがあるのだろうか。
お律が、山本町のおあきと知り合いだったということはあるだろうか。周囲の者たちがそれと知るほどの深い知り合いではなく――もしそれだったら、とっくにわかっているはずだ――何かのときにちょっと顔をあわせていたとか、誰か共通の知り合いがいたとか。
お初が考えに沈んでいるとき、店先で声がした。「なんだい、何やってんの」
見ると、牛蒡の笊の陰から、鉄がちょこんと顔を出している。
鉄を懐に抱き、お初は長野屋をあとにした。待っても待っても誰も帰ってこないので、お玉に、戸締まりにだけは用心するように言って立ち去った。
「むずかしい顔だね、お初ちゃん」と、鉄が声をかけてきた。「少し笑いなよ」
お初は鉄を見おろして、微笑んだ。「これでいい?」
「うん、いいね。お初ちゃんは笑った顔がいちばん可愛いぜ」
「何言ってるんだか」
ほの温かく柔らかい鉄を懐に抱いていると、慰《なぐさ》められるような気がした。お玉とのやりとりで削ぎ取られてしまった心の柔らかい部分が埋められていくようだ。
おかげで、帰り道は楽しかった。鉄は町中のあれこれに目をとめては、お初を笑わせるようなことばかり言った。男女のふたり連れに行き合うと、鋭い口笛を吹いてふたりを驚かせたりする。
「今のふたりは、道ならぬ仲だな」
「なんでそんなことが判るのよ。あたりまえのご夫婦かもしれないじゃない」
「ねんねだなあ、お初ちゃんは。見りゃあわかるんだよ」
「猫のくせに、人間のことが判るもんですか」
「うへえ、こいつは恐れ入ったね」と、鉄はバカにしたような声をあげた。「お初ちゃんだって、男と女のことなんか、まるで判っちゃいないくせしてさあ」
お初は、ぷうとむくれた。
姉妹屋に帰り着いてみると、ちょうど六蔵があわただしく出かける支度《したく》をしているところだった。例の矢場の男、お店者くずれの惣助が見つかったというのである。
「良かった!」
飛び立つように手を打って喜んだお初に、六蔵は首を振った。
「それがちっとも良くねえんだ。惣助は惣助でも、亡骸の惣助だからな」
「え?」
「野郎は死んでるそうだ。今朝方、大川の百本杭にひっかかっていたそうだ。やっと身元が固まったんで、雁太郎親分が報せてくれたんだよ」
六蔵は顔を歪め、暗い瞳でお初の目を見つめた。
「惣助の死体は東両国の番屋にある。おめえもいっしょに行くか?」
「ついて行ってもいい?」
「おとなしくしていりゃあな」と言って、六蔵はお初のふところのなかの鉄に指を突きつけた。「それから、そいつは置いていけ。子供みたいに、猫なんか抱いて歩くもんじゃねえよ」
六蔵は、自分の都合で、お初を子供扱いしたりしなかったりする。彼が背中を向けたところで、お初は舌を突き出してみせた。
「ちょうどいいや」お初のふところから下へ飛び降りながら、鉄は言った。「おいら、お初ちゃんたちが東両国に行ってるあいだに、和尚とすずの顔を見てくるよ。浅井屋のことで、和尚の考えも聞いてみたいし」
「浅井屋にも何かが起こってるんじゃないかっていうの?」
「そんな感じがしねえかい? 天狗のことと関わりがなけりゃそれでいいし、あったらあったで、こいつは知っておかねえと」
鉄の言うとおりだ。なかなか、頼りになるではないか。
「気をつけてね」声をかけて、窓から送り出した。鉄は鉤型に曲がったしっぽの先をひと振りして、屋根の上へ消えていった。
出がけに店の方に顔を出してみると、およしが声をかけてきた。
「文さんが車坂から帰ってきて、車屋の人たちに変わったところはなかったって言ってたわよ」
ああよかったと、お初は胸に手をあてた。お美代のおおらかな長い顔と、あの笑顔が目に浮かんだ。
「文さん、びっくりしてたわよ。車屋のお嬢さんもお美代さんていうんだってね」
文吉の、悋気の強い恋人も、同じお美代というのである。
「お美代違いで大違いだってさ」
お初はちょっと顔をしかめた。「器量のことを言ってるのかしら」
およしは笑った。「さあねえ。けど、車屋のお美代さんて人は、明るくていい人だって言ってたよ」
「いつまで待たせるんだ、行くぞ」
六蔵が店の縄のれんを頭で押しのけるようにして立っていた。くるりと背を向けて、外へ出ていった。
お初はおよしに目顔で合図をして、急いで六蔵の後を追った。途中で振り向いて、
「文さんは、今どこ?」
「さっき右京之介さまのお供をして、捨坊を迎えに行くって出かけたわ」
では、そっちは任せておいて大丈夫だろう。伊左次が気になるけれど、彼もまだ、あの身体の様子では、ひとりでは何もできまい。
六蔵は早足で先を歩いてゆく。大川目指して、行き交う人びとのあいだを縫いながら、ぐいぐいと歩いてゆく。お初は息を切らして追いついた。
六蔵はむっつりと歩いてゆく。途中で、店先で水をまいている油屋の小僧が、頭が膝にまでくっつくような深いおじぎをして挨拶をよこしたのに、手をあげて応えた。
「雁太郎親分のやることは、さすがにぬかりがねえ。惣助の出入りしていた『的屋』の女将を番屋に呼んであるそうだ。昔、惣助の働いていた古着屋の主人も来ているらしい。誰が惣助とつるんでいたのか、中之橋の男は何者なのか、早く判るといいんだが」
「ねえ兄さん、惣助という人が殺されたのは、仲間割れかしら」
「うむ……。金を取り損なったことで、内輪もめが起きたのかもしれないな」
「あたしがいちばん知りたいのは、惣助や中之橋の男が、なぜお律ちゃんが神隠しにあったことを知っていたのかってことよ。しかも、便乗して、かどわかしなんて話をでっちあげて、お金をとろうとしたんでしょうけど、そんな思い切ったことをするためには、神隠しは本物で、お律ちゃんはそう簡単には帰ってこれないってことが判ってなきゃならないでしょ?」
両国橋が見えてきた。番屋は、橋を渡ればすぐそこだ。
川面を渡る風は春の匂いをはらんでふっくらと頬に優しい。見おろせば、行き交う猪牙《ちょき》や材木船も、心なしか冬場よりも船足が軽快なように見える。こんな心の浮き立つような季節に、あまりにも恐ろしいことばかり起こった。それも、短いあいだに。
番屋はどこも同じ造りだが、東両国のそれは、外側から見るかぎり、お初の知っている通町や深川のそれよりも、心持ち大きな建屋《たてや》に見えた。張り替えたばかりの真新しい障子を開け、六蔵のあとについて中に入ると、あがり口の土間に、三人の男がいた。
「雁太郎親分」
筵《むしろ》をかけられた死体のそばに立ちはだかっている男に向かって、六蔵は声をかけ、丁寧に頭をさげた。それが雁太郎親分であることは、ひと目見ただけで、お初にもわかった。目鼻立ちのくっきりとした顔は、一度見たら忘れようもないが、それだけでなく、番屋の天井に届いてしまいそうな体躯は、まぎれもなく、以前両国橋のたもとで見かけた人のそれである。
「お知らせをいただいて、駆けつけました」
雁太郎親分は、大きな顎をしゃくってうなずくと、傍らの男に言った。
「通町の六蔵親分だ。こちらは東両国の月番の喜兵衛《きへえ》さん」
喜兵衛と呼ばれたのは、まるで小豆粒《あずきつぶ》のような老人である。小さな髷がちょこんと頭の上にのっかっているところも、豆を思わせる。細い縞の着物と羽織をきちんと着込んで、足袋は真っ白だ。
「妹さんかい」
雁太郎親分が、お初を見て言った。
「お初と申します」六蔵が答えると、雁太郎親分は大きな歯を見せて笑った。
「知ってるよ。しかし、どうして妹さんが来なすった」
「身代金を持って中之橋に行ったのは、こいつだったんでして」
「そうか、そいつは怖い思いをしちまったなあ」雁太郎親分は、慰めるように言った。
番屋の隅の腰かけに、どう見ても不似合いの男女がふたり、お互いにできるだけ相手から離れようとするかのように端と端に離れて座っている。女の方が「的屋」の女将で、男の方が惣助の働いていた古着屋の主人であろうと思われた。
雁太郎親分が、腰かけの男の方に大きな手を振った。「牛込の古着屋、長田屋の主人の卯兵衛《うへえ》さんだ」
男は腰かけから素早く立ち上がり、ちまちまと頭を下げた。四十を過ぎたくらいだろうか。つるりとした顔をしている。
「こっちはお貞《さだ》、『的屋』の名物女だ」
素っ気ない雁太郎親分の紹介に、しかし女は嫣然《えんぜん》と立ち上がった。ちょっと文字春に似た顔かたちだ。しかし、どことなく品のない感じがするのは、肌がひどく荒れている上に、白粉《おしろい》が濃いからだろうか。
「ふたりで惣助の顔を確かめてくれた。話はいろいろあるんだがね、まあその前に、亡骸を見てもらおうか。お初ちゃんと言ったっけな、おまえさんも、亡骸が怖くなかったら顔をあらためてごらん。中之橋のごたごたの時に、この顔か、こののっぽの影を見かけていたことを思い出したりしたら、めっけものだ」
お初は、六蔵と並んで亡骸に近づいた。雁太郎親分の手下だろう、はしこそうな若い男がするりと筵をはぐった。
亡骸は仰向けになっていた。天井を睨《にら》んで、かっと目を見開いている。ひどく驚いたような、苦しんでいるような、今にも何か喚《わめ》きだしそうな顔だ。お初は思わず目をそむけた。
「なるほど、のっぽだな。ひょろりとして、本当に物干し竿だ」
六蔵がそう言って、片手で軽く拝むと、かがみこんで亡骸をあらため始めた。雁太郎親分も、よっこらしょというようなかけ声をかけて隣にしゃがむ。
「妙な亡骸だろう?」と、雁太郎親分は言った。「傷らしい傷が見あたらねえ。痣もねえ。だが、溺《おぼ》れ死んだにしちゃあ、腹に水が溜まってねえ。土左衛門《どざえもん》は、めったに目を開いてはいないものだしな」
「うむ……溺れたんじゃないでしょうね、これは」六蔵は顔をしかめたままうなずいた。「よっぽど驚かされたような顔をして死んでいやがる」
「毒でももられたかね」
「…………」六蔵は、惣助の亡骸の首筋のあたりを調べている。指先で何かを探っているような感じだ。
「どのみち仲間割れだろうから、うんと争って殺されたか、いきなり不意打ちをかけられたかどっちかだろう。そうそう器用な殺し方ができたはずはねえと思うがな」と、雁太郎親分は腕組みをする。
六蔵は、死んだ男の耳の上あたりをさぐっていた。大川の水に浸《つ》かって、髪型が崩れてしまっている。そのなかに指を差し入れて――
「あった」と、呟いた。
「なんだ?」
「これですよ、触れてごらんなさい。何かで突っついたような穴がある。小さいが――周りが少し腫れたみたいに盛りあがってますよ」
雁太郎親分は言われたとおりに死人の髪のなかを指で探った。その目が晴れた。
「本当だ」六蔵に向き直る。「なんで判ったんだい?」
「いえ、あてずっぽうですよ。ただ、投げ文に使われたあの矢場の矢が、また使われたんじゃないかと思いましてね」
「そうか……しかし、あの矢の威力じゃ、人ひとり射殺すことはできねえだろうからな。大方、矢の先に毒を塗っておいたんじゃねえのかね? この腫れようは、ちょいとそんな匂いがする」
「そんなところでしょう。あたしらも、手を洗った方がよさそうだ」
雁太郎親分の手下が、ぬかりなく動いて手桶に水を満たしてきた。親分はその若い手下に、亡骸の髪をすっかり剃ってしまうようにと言いつけた。
「三途《さんず》の川を渡るのにも、こざっぱりしていいだろう。仏も恨みやしねえから、さっさとやんな」
亡骸の世話は手下に任せて、お初たちは、お貞と卯兵衛のいる腰かけの方へ戻った。
「ところでお初ちゃんは、あののっぽに見覚えがあったかい?」
お初は首を振った。「ありませんでした。あんな目立つ人ならば、影を見ただけでも覚えているでしょうけれど」
あの中之橋では、お初は、観音さまの化け物に首をとられて死んだ男としか渡り合っていない。あの暗闇のなかでは、他に誰が潜んでいても、さっぱり判らなかったろう。六蔵の手下たちが張り込んでいたことにも、彼らが出てくるまで気づかなかったくらいだ。
「おい、お貞、おめえの出番だ、ちょっと来な」
月番の喜兵衛が脇で帳面を構えている。お貞はなぜかしら嬉しそうに雁太郎親分のそばへ寄ってきた。すぐにしゃべりだそうとするのを、雁太郎親分は大きな手を振って、うるさそうに押しとどめる。
「このお貞って女はろくでもねえ女で、嘘もつくし人も騙す。だからこいつの言うことに信用はおけねえんだが、惣助のことでは面白いことを言い出してね」
「嫌だわ、親分さん、あたしは嘘つきじゃありませんよ」お貞は豊満な胸元をぐいと反《そ》り返らせ、怒ったような顔をしてみせた。「少しでも親分のお役に立つように、一生懸命なんですよ、これでも」
雁太郎親分はてんで相手にしない。六蔵に向かって言った。「お貞が言うには、こいつの店で惣助とつるんで遊んでいたやさぐれ者たちのなかに、元は火消しだったという男がいたというんだな」
「火消しですか。それなら、身が軽い」
「そうだ。判りが早いな。お貞と店の女たちの話、ほかのお客連中から聞き込んだ話をあわせてみて、どうも、中之橋でお初ちゃんが渡り合った男は、この火消しあがりの野郎じゃないかと思うのさ。年格好も身体付きも、あの首なしの亡骸と、そこそこあっているし、もう何年ものあいだ三日とあげずに『的屋』に通っていた男なのに、このところずっとお見限りで姿を見せていないというし」
お貞が出しゃばった。「でもね、あたしの店で、惣助さんと朝太郎《あさたろう》さんがかどわかしの相談なんかしてたというわけじゃないんですよ。そんなの、聞きかじったらあたしがほうっておきませんからね。すぐに親分にご注進――」
「朝太郎というんですか、その火消し男は」
「ああ、そうだ」
「惣助と朝太郎――しかし、この殺しが仲間割れによるものだとすると、三人目の仲間がいるということになりますね」
「四人目や五人目もいるかもしれねえ。なにしろ、千両たかりとろうという企みだ」
「雁太郎親分」お初が呼びかけると、大きな親分は背をかがめるようにしてこちらを見た。
「なんだね?」
「お律ちゃんのかどわかしは、かたりだと思うんです」
六蔵が諫める顔をしたが、お初はどんどん続けた。「お律ちゃんは、あの惣助とか朝太郎とかいう人たちにかどわかされたんじゃありません。本当に神隠しにあったんです。惣助たちは、それに便乗しただけなんです。でも、便乗するにはそれだけの覚悟がなくちゃあいけないでしょう? お律ちゃんが神隠しにあって、帰ってくるあてがないってことが判ってなかったら、俺たちがかどわかしたんだ身代金を寄越せなんて、思い切ったことをやれやしませんもの」
六蔵は口をへの字に結んでいる。雁太郎親分は、面白そうに大きな目で兄妹の顔を見比べていたが、そのまま口の横っちょで、
「お貞、おめえはまたちっと向こうへいって大人しくしていな」と言った。言われたお貞は、渋々腰かけに戻って座った。卯兵衛は相変わらず恐縮したような面もちでじっとかたまっている。雁太郎親分は一段と低く身をかがめると、真っ直ぐにお初の目を見て訊いた。「あの夜、もののけが出たそうだな?」
お初は目を見開いた。「ご存じなんですか?」
「まあ、人の口に戸は立てられねえからな。あの夜、捕り物の手伝いをした連中は、みんなしっかり者だと思うが、それにしたってまともにもののけを見て、とてもじゃないが黙っていられなかったんだろう」
六蔵は雁太郎親分に頭を下げた。「最初からお耳にいれなかったのは、あんまり突拍子もねえ話だからです。気を悪くなすったなら、勘弁してください」
「いやあ、そんなことはねえ。俺が同じ立場なら、やっぱり皆に言いふらすなと釘を刺したろうよ。だから気にしないでくれ」
お初もほっとして、親分を見あげた。「はい、もののけが現れました」
「お初ちゃんも、そのもののけを見たんだな?」
「見ました。話もしました」
お初は、あの夜の出来事をすっかりうち明けて話した。
「観音さまか……」と、雁太郎親分は唸った。「それにしても、凄い話じゃねえか。もののけが、『この男の首もらいうける』と言ったんだな?」
「はい。あれはやっぱり、神隠しに便乗しようとした男を罰しに現れたんだと思うんです。ですから、神隠しそのものは、あのもののけの仕業じゃないかと。実は、他にももう一件あって」
お初はおあきの件もかいつまんで説明した。雁太郎親分の大きな目がさらに大きくなった。
「なんとまあ」つるりと額《ひたい》をなでる。「こりゃあ、卯兵衛を呼んだのは大当たりだった」
その言葉につられて、お初は卯兵衛の座っている方を見た。そのとき、惣助の亡骸のそばで、雁太郎親分の手下が「うへえ」と声をあげた。
「はい」卯兵衛がさっと立ち上がる。
雁太郎親分は破顔した。「おい卯兵衛さん、今のはおまえさんを呼んだんじゃねえよ、恐れ入ったという合いの手だ。おい、どうした」
手下は顔を赤くしていた。「すみません。びっくりしたもんで、つい」
惣助は、頭の半分をきれいに剃り上げられていた。耳の後ろがむき出しになっている。
「ひどい傷です。できたてのあばたみたいだ」
三人はまた亡骸のそばに近づき、手下の指す傷をあらためた。子供の手のひらほどの大きさに青黒く腫れあがっており、その真ん中に小さな穴が空いている。穴は丸くなく、周囲の皮膚が傷のなかにめり込んだような形になっていた。
雁太郎親分はまたお貞を呼び寄せた。「今さら品をつくってるんじゃねえよ。おまえはこの程度の傷や亡骸を怖がるような玉じゃねえだろう、さっさと見ろ」
お貞は、それでも半分顔をそむけるようにして、やっとこさ傷を見た。「あらまあ、ひどいこと」
「おめえなら、矢の傷には詳しいだろう。どうしたって時々は、射ったのかすめたのということが起こるのが矢場だからな。どうだ、矢場の矢でできた傷は、こんな形かい?」
「そうですね……ええ、こんなもんですよ。だけど、うちの矢を使えばもっと傷が大きくなるんじゃないかしらねえ。それに、何がどうしたってこんなに青黒く腫れたりするんです?」
「そりゃあ、知らねえ方がおめえの幸せよ。ご苦労だったな。帰っていいぞ」
お貞を追い払うようにして帰してしまうと、雁太郎親分はようやく卯兵衛を呼び寄せた。一同はそれぞれに腰をおろし、雁太郎親分は手近の湯飲みからがぶりと湯を飲んだ。
「卯兵衛さんよ、おまえさんから聞いた話が、どうやら役に立ちそうだぜ」
「わ、わたしがでございますか?」
律儀《りちぎ》そうな古着屋の主人は、すっかり固くなっている。目ばかりちまちまとまたたいて、まるで小鳥のようだ。惣助の亡骸のある方に目がいってしまうのを、懸命に抑《おさ》えているという様子だった。
「惣助は、十年ほど前まであんたの下で働いていたそうですね?」と、六蔵が口を切った。卯兵衛は雁太郎親分の顔を見たが、親分がうなずくと、やっと安心したみたいに話し出した。
「左様《さよう》でございます。あれはもともと古着店のあたりで商売をしていた棒手《ぼて》振りの八百屋の伜《せがれ》なのですが、早くに親を亡くしまして、行き場のないのが気の毒だったので、うちで引き取ったような次第でして、わたしはあれの子供のころからよく知っているのです」
「真面目に働いていたのが、博打を覚えてからおかしくなったそうだね?」
卯兵衛は悲しそうに目をしばたたいた。「誰に教えられたのか判りませんが……」
「しょうがねえよ。博打に溺れる奴は、誰がどう見張っていても溺れるもんだ」
「ずいぶん説教をしたり、泣いて頼んでみたりもしたのですが。なにしろ惣助は、奉公人というよりは、わたしら夫婦の伜のようなものでございますからね。わたしらは子宝に恵まれませんでしたので、本当にそういうつもりだったのです。ですが、あれにはかえってそういうわたしらの気持ちがうっとうしかったのでしょう。とうとう出ていってしまったという次第で」
「その後は、今日の今日まで一度も会っていなかった?」
卯兵衛はまた雁太郎親分の顔を見てから、六蔵の問いに答えた。「いいえ。一年に一度か――いえ、二年に一度でしょうか。たまに、ふらりと訪ねて来たものです」
亡骸のある方をちらりと横目で見て、雁太郎親分が言った。「無心に来たそうだよ」
卯兵衛も惣助の亡骸の方を見た。「あれはあれなりに、わたしらには甘えてくれていたのです」
「ふん」と、六蔵が鼻を鳴らした。
卯兵衛は急いで言った。「無心に来るばかりじゃなかったんですよ。仕事の話を持ってきてくれることも、お客を連れて来ることもありました。古着を買いに来た客が、この店のことは惣助に教えてもらったと言うこともありました」
お初はちょっとばかり切なくなった。卯兵衛さんは、本当に惣助が可愛かったのだろう。
「それで、卯兵衛さんが最後に惣助と会ったのは何時《いつ》のことだ?」と、六蔵が訊いた。
「つい最近なのですよ。ほんのひと月ほど前です」
「そのときに、何か変わった様子はなかったかい?」
「惣助にはありませんでした。ただ、わたしたちの方が大騒ぎに巻き込まれておりまして」
雁太郎親分が意味ありげな顔をしたので、お初も六蔵も彼を見た。
「もののけさ」と、雁太郎親分は言った。
卯兵衛はまた恐縮するように首をすくめた。「わたしらのおります古着店に、観音さまが現れたのでございますよ」
ひと月前だから、まだ夜寒のころだった。最初にもののけを見たのは、古着店一帯に火の用心を呼びかけて歩く夜回りの男たちだった。
「古着店では商い物が商い物ですから、火事にはことのほか気をつけます。冬場の夜回りも、木戸番に任せきりの余所の町とは違って、自分たちで交代に勤めますし、ひとりでは回りません。必ずふたりを一組にして、隅々まで目を配るのですよ。
あれは新月で、おまけにずっと曇りがちで、星も見えない暗い夜でございました。わたしら夫婦が寝《やす》んでおりますと、誰かが戸口で声をかけるんですよ。何事かと出ていってみますと、夜回り当番のふたりでした。ふたりとも、わたしのよく知っている者で、わたしと同年の、地味な古着屋です。間違っても嘘や作り話をするような者たちじゃありません。ところがそのふたりが、卯兵衛さん、あんたの家の屋根の上に、観音さまが浮いているから来てみろというじゃありませんか。
わたしも家内も、あわてて外へ出てみました。暗い夜だったはずなのに、夜回りのふたりが指さしているところ――確かにうちの屋根の上なのです――そこだけは、まるで満月が出ているかのように青白く明るいのです。そしてその明かりの真ん中に、何とも神々《こうごう》しく美しい観音さまのお姿があるのでした。
わたしはもう、腰を抜かしそうになりました。家内は夢中で拝んでいます。夜回りのふたりも、すっかり見惚れています。観音さまはこちらに背を向けておられて、お顔を見ることはできませんでしたが、色とりどりの衣をたなびかせて、それはそれは豪奢な観音さまでした。わたしも一生懸命に拝みました。そしてふと気がつくと、観音さまは消えていたのです」
しかし、翌日の夜、卯兵衛はまた昨夜のふたりに起こされた。昨夜と同じところに観音さまが浮いていて、拝んでいるうちに消えてしまった。夜回りたちと卯兵衛夫婦は、有り難いとひたすら拝んだ。
「それからしばらくのあいだ、観音さまはお姿を現してくれなくなりました。しかしまあ、めったに見られないものだからこそ有り難みも増すわけですし、わたしも家内も、観音さまが現れるなんて、さてどういうご加護があるのだろうかと、本当に嬉しい気持ちでした」
ところが、十日ほど後の夜のことである。古着店の人びとは、けたたましい悲鳴に飛び起きた。
「夜回りが叫んでいるのでした。必死で助けを求めているのです」
卯兵衛たちは外へ飛び出した。すると、目の前に観音さまのお姿があった。
「以前のように屋根の上にはおられずに、地面のすぐ上に浮いておられました。そのすぐ傍らで、夜回りの男がふたり、地面にへたりこんでいるのですよ。その夜は若い男のふたり組で、血気盛んな元気者のはずなのに、ひとりはすでに気を失っているようで、もうひとりも真っ白な顔で目をむいていました」
観音さまはふたりの夜回りの上にのしかかるようにして、その夜も盛大に衣をたなびかせていた。そして、ふたりに話しかけているのだった。
「そうなのです。声が聞こえたのですよ。わたしは耳を疑いましたが、確かに聞こえたのです。観音さまは、夜回りの男たちにこう言っていたのです――」
――わたしは、美しいかえ?
「わたしは夜回りの男たちを助けようと前に飛び出ましたが、観音さまの衣にはじき飛ばされて、地面に転んでしまいました。そのときに、初めてまともに観音さまの顔を見たのです」
それは、あの慈悲深い観音像のそれではなかった。
「女の顔でした。そりゃ美しい、けれどどこか下卑《げび》た顔でした。口が大きくて、その口いっぱいに真っ赤な紅がひいてあったからかもしれません。目がぎらぎらとしていたせいかもしれません。でも、ひと目見てわたしには判ったのですよ。これは本物の観音さまじゃない、観音さまがこんな卑《いや》しい女の顔をしておられるわけがない。これはもののけだと」
古着店の人びとが集まり、観音の姿をしたもののけから夜回りの男たちを助けだそうとする。もののけは夜回りを衣の下へ引き込もうとする。そのあいだじゅう、けらけらと笑いながら、
――わたしは美しいかえ? 美しいとお言い。
――なぜ怖がるのだえ? なぜ嫌がるのだえ?
「美しいはずの衣が、まるで蛇のようにうねうねとして身体にまといついてくるのが、本当に恐ろしくてたまりませんでした」
大騒ぎのなか、住人たちのなかに機転がきくものがいて、薪《まき》を束ねたにわかづくりのたいまつを掲げ、もののけに向かって突き出した。もののけはしゅうというような声をもらすと、悪鬼《あっき》のように顔を歪め、目を光らせながら上空へとのぼりはじめた。たなびく衣が後を追う。
「消えてゆくとき、生臭いような突風がひと吹き、わたしらをなぎ倒すようにして吹きすぎていきました」
夜回りの男ふたりは、その夜から寝ついてしまった。ひとりはなんとか助かったが、卯兵衛たちが駆けつけたときに既に気を失っていた方の男は、高い熱にうなされて、三日ともたずに死んだ。
「とり殺されたのですよ」
しかし、最初に観音さまが空に浮いているのを見つけた夜回りの男たちは、何事もなく、襲われもせず、むしろ有り難いものとしてその姿を拝んだのに、これはいったいどうしたことだろうと、皆は首をひねった。本当の観音さまと、もののけの観音が、両方現れたのだろうかと。
「ところが、わたしの家内を始め、古着店の女たちは、何も不思議なことはないというのです。あれは最初からひとつの、もののけだと。前の夜回りが襲われず、今度のふたりが襲われたのは、このふたりが若い男たちだったからだというのです」
古着店では、いわく因縁のある品物を扱うこともあり、多少なりとも不気味な話、気味の悪い出来事には、皆それなりに慣れているところがある。だから落ち着いて考えることもできるのだ。
「家内は申しました。あのもののけは、最初にうちの屋根の上に現れた。これはきっと、うちで扱っている何かに宿っているんだと。若い男をとり殺す、あんな嫌らしい女の顔をしたもののけなのだから、きっと女の着物に宿っているんでしょうよと。そう言われて、わたしも思い当たる節がありました。あのもののけのたなびく衣を見るたびに、やはり商売の性《さが》ですか、衣の色柄をよく観察していたのです。そのなかに、商いで扱った覚えのある色柄があったのでした」
卯兵衛と女房は、家中をひっくり返して探した。そしてなんとか、もののけの衣のひとつによく似た色柄の商い物を見つけだしたのだった。
「豪勢な牡丹《ぼたん》の刺繍《ししゅう》のある、小袖でございました」
しかも、女房と記憶を付き合わせてみると、この小袖を買い受けたのは、ちょうど最初に観音のもののけが現れたころだった――
「これはお寺に頼んで供養《くよう》をしてもらうなり、火にくべてもらうなりしていただかないといけない。そんなふうに相談をしているところに、ひょいと惣助が訪ねてきたのです」
深刻な顔の夫婦に、惣助は何かあったのかと尋ねた。夫婦は事情をうち明けた。
「惣助はひどく面白がりました。そいつはいい、その始末は俺に任してくんなと、こう言うんです。もちろん、わたしも家内も反対しました。始末などつけようがないのですし、あれもまだ若い男ですから、魔物に魅入られてしまうかもしれない。だが惣助はまったくわたしらの心配など受け付けずに、もののけ話が本当なら、見世物小屋にでも売りつければいい金になるなどと言って、とうとう強引に小袖を持ち出してしまったのでした」
それが、卯兵衛夫婦が生きている惣助を見た最後となったわけである。
お初は両手で頬をおさえ、長いため息をついた。「なんてこと……」
その小袖だ。間違いない。それがすべての元凶、天狗の魔性《ましょう》を宿したよりしろだ。
「なあ、驚くだろう? 俺も、卯兵衛さんからこの話を聞いたときには仰天《ぎょうてん》したよ。中之橋での出来事が耳に入っていたしなあ」と、雁太郎親分は腕を組む。
「なあ、卯兵衛さん」六蔵がぐいっと身を乗り出した。「あんた、その小袖を売りにきた者がどこの誰か、覚えているかい?」
「それが残念ながら……」卯兵衛は六蔵の勢いに押され、ちょっと後ろに下がった。「ところや名前は判らないのですよ。買い取りの品でしたし、特に怪しいものを感じなかったものですから、強《し》いてお尋ねしなかったのです。それというのも、お武家のお嬢さまでしたので」
「武家?」
「はい、間違いございません。お女中ではないと思いますよ」卯兵衛は気の毒そうに眉を下げた。
「内証の苦しいお武家の奥方さまやお嬢さまが、着物を売りにくるというのはよくあることなのです。そういうとき、こちらも礼儀として、あまり詳しく詮索したりはいたしません。お顔もしげしげとは見ないようにいたします。これは質屋も同じだろうと思いますが」
「そうか……。じゃあ、その武家娘の顔を覚えていないのか?」
「紫色の頭巾をかぶっておられましたから、お顔はわかりません。ただ、お若い方でした。手首など、たいそう色が白くて、たぶんお美しいお嬢さまだと思います」
顔は判らない……身元もしれない。ああ、じれったいとお初は歯がみした。
「何か覚えていないかい? その娘がどこの誰か突き止めるための手がかりになるようなことは」
六蔵たちの悔しい気持ちが伝わっているのだろう、卯兵衛も懸命に考えている。小鳥のようなこの男の頭のなかで、記憶という小鳥がまた忙しそうに飛び回り、それを捕まえようとするこの小鳥のような卯兵衛さん――
「わたしと家内で相手をしたのですがね」と、卯兵衛はそろりそろりと言った。「そうそう、この着物はぜひとも、若くて美しい娘さんに売ってくれとおっしゃいました。でもまあ、それはべつだん不思議なことではありませんねえ。なにしろこれだけの派手な着物ですから、買うのは若い娘に決まっています」
しかしお初には、武家娘が言ったというその言葉は、意味があると感じられた。あのもののけは――天狗は、凝り固まった女の妄念は、若い男の賞賛と、若い女の生き血を求めている。売るなら若く美しい娘にと、理《ことわり》をいれるのはいかにもありそうなことだ。
それにしても、小袖を持ち出した惣助は、それをどうしたのだろう? そのことが、おあきとお律の元に天狗が現れたことと、どうつながるのだろうか? 惣助がその小袖をどこかに売りつけて、それが回り回っておあきとお律の手に入ったのか? でも、ほんのひと月のあいだに? ふたりの娘の手に? それにおあきの嫁入り支度は浅井屋が万端《ばんたん》整えており、おあきがわざわざ古着を買う必要などなかったはずだ――
そのとき、卯兵衛がぽんと手を打った。それまでの彼にない仕草で、皆驚いた。
「どうしたんだね?」
「あのお嬢さまは、ひょっとしたらまたわたしらの古着店に着物を売りに来るかもしれませんですよ」
「何だって?」
「あのとき、良いお品だったので、また何かありましたらどうぞおこしくださいと申し上げたのです。そうしましたら、また来ますとおっしゃいました。わたしの店に来るかどうかはともかく、牛込の古着店には古着屋が何十軒もありますからね、そのどこかに来るということはあるでしょうし、わたしらの前に、どこかに来ているということもございますかもしれません」
「それだ」今度は六蔵が手を打った。「張り込んでいれば、捕まえられるかもしれない」
雁太郎親分はのそりと立ち上がった。「何人、手配できるね? 俺の方からも人を出そう」
お初もようやく胸が晴れた思いだった。やっと手がかりがつかめたのだ。その武家娘さえ探し出すことができれば、天狗の正体を突き止められる。
「ただ、用心して動くに越したことはないぜ」雁太郎親分はお初に言い聞かせるような口調になった。
「惣助がひと儲《もう》けを企んで、本当に問題の小袖を見世物小屋に売りつけようとしたのなら、俺の方で調べまわればすぐに判る。そんな企てのどこかで朝太郎も仲間に引き込まれたんだろうし、三人目四人目の仲間もくっついたんだろう。だが、今はまだ、そいつらがどこの誰だか判らねえ。おまけに、そいつは飛び道具使いときてるからな」
「はい、気をつけます」しっかりうなずいて、お初は約束した。
卯兵衛を帰したあと話がまとまったところで、一同は番屋をあとにすることになった。最初に外に出たお初は、向かいの木戸番小屋の前に、派手な着物の女がひとり、こちらに背中を向けて立っていることに気がついた。濃い紫の半四郎|鹿子《かのこ》の着物に、金糸を織り込んだ帯。茜色がかってきた夕方の日差しを照り返し、まぶしいほどに映えている。
すぐに、誰だかわかった。雁太郎親分のいい人だ。手妻使いの、南蛮人の血の混じった人。
女は、木戸番小屋の店先で、糠袋《ぬかぶくろ》のようなものを手に取り、品定めをするような様子をしていた。小さく鼻歌をくちずさんでいる。どうやら新内節のようだった。どこかで聞いた覚えがある節回しだ――と思っていると、お初の視線に気が付いたのか、女がこっちを振り向いた。「おや、おまえさん」
お初の方に向かって、女が声をかけてきた。誰のことかと驚いたが、ちょうどそのとき雁太郎が番屋の戸を開けて外へ出てきたところだった。
「おお、来てたのかい」
雁太郎親分が声をあげた。お初が思わず振り返り、顔を見てしまったほどに、開けっ広げな喜びを表わして。
「市さんにきいたら、こっちだっていうもんだから」と、女は言った。道を渡り、雁太郎親分のそばに近寄ってくる。するりとした足つきで、音もたてない。女がそばにくると、かすかに香の匂いがした。
「うちのやつだ。京《きょう》っていう」
雁太郎親分は、お初に女を紹介した。
「こっちは通町の六蔵親分と」と、続いて出てきた六蔵を振り返り、それからお初の方に手を振って、「親分の妹のお初ちゃんだ」
「よろしくお引き回しくださいまし」
お京は六蔵に挨拶すると、お初にも笑顔を向けた。
「先《せん》に、両国橋のところでお会いしましたねえ。覚えておいでかしら」
「あ、はい」
なんだかあがってしまって、お初はとんちきな声を出した。
近くで見るお京は、以前に見かけたときよりもずっと若々しく、また美しく見えた。鳥の尾の形を真似たような、風変わりな髷を結っている。肌には白粉の気もないのに、まるで張り替えたばかりの障子紙が朝日を受けているように白く透き通って輝いていた。紅だけは明るく引いてあり、くちびるの形よりも、ひとまわり小さく筆で輪郭《りんかく》を描いてある。それが、お京のはっきりとした目鼻立ちに、なんとも言えず愛らしい風情を添えていた。
「おや、喜兵衛《きへえ》さんもいらしたんですか」
番屋を出てきた喜兵衛にも、お京は声をかけた。喜兵衛は破顔した。
「お京さん、今日はまた一段とお綺麗《きれい》だ」
お京はほほえんだだけで、品をつくることも、喜兵衛の誉め言葉に返事をかえすでもなかった。自分が綺麗であることは知っているし、それをわざわざ謙遜《けんそん》する必要もないと、わかりきっている顔だった。
「そろそろ出番じゃねえのかい」
気遣うように尋ねた雁太郎親分に、お京は首を振ってみせた。
「今日は風向きがよくないから、手妻は止めにしましたのさ」と、さらりと言う。「おまえさんの御用の向きが済んだのなら、これから高橋《たかばし》へどじょう鍋でも食べに連れていってくださいな」
「おう、いいとも」気楽に請け合って、雁太郎親分は六蔵にもう一度挨拶のそぶりを見せると、お京と並んで歩き出した。あっけにとられて、お初はふたりの背中を見送った。お京はまた、さっきと同じ新内節を口ずさみながら遠ざかってゆく。
「それじゃ、私もこれで」
挨拶を残し、雁太郎親分たちとは逆の方向に、喜兵衛も立ち去る。雁太郎親分の手下がこちらに頭をさげて番屋の障子を閉めた。六蔵とふたりになると、お初はようやく正気に戻った。
「なんか、変わってるわ」
「何が変わってるんだ」
六蔵は懐手をして、面白そうにお初を見おろしている。
「雁太郎親分よ。さっきまであんなに強面《こわもて》だったのに、お京さんに会ったらとたんにとろけちまって、どじょう鍋だって」
六蔵は夕空を仰いで笑った。「岡っ引きには、いろんなやり方があるんだ。大丈夫、雁太郎親分は、引き受けたことをおろそかにはしねえよ」
ふたりは両国橋の方向へ歩き出した。見世物小屋やおででこ芝居の呼び声と、拍子木《ひょうしぎ》の鳴るのが方々《ほうぼう》から聞こえてくる。
「きれいな人ね、お京さんて」
「ああ」六蔵はうなずいた。「だが、ただきれいなだけじゃねえ。あれで、雁太郎親分の右腕だ」
「本当?」お初は思わず立ち止まった。「お京さんは、捕り物の手伝いもするの?」
「聞いた話だがな。それにあの人は、芸人のなかに顔がきく。芸人ていうのは、みんなそれぞれに顔が広いし耳も早いから、いろんな話を聞き集めたり、人捜しをしたりするときには、雁太郎親分はずいぶんと助かっているらしい」
お初はほうっと胸の内が温かくなるのを感じた。これが憧れというものだろうか。
いつのまにか、さっきお京が口ずさんでいた新内節を、お初も鼻歌で歌い始めていた。芸事にはとんと暗いお初だが、確かにどこかで聞いた覚えがある節回しだ――
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第四章 武家娘
吹き矢
翌日の朝早く、「姉妹屋」がまだ店先の掛け行灯に明かりも入れていない前に、ひと騒動が持ちあがった。
伊左次である。あてがわれていた奥の座敷で、突然暴れだしたのだった。右京之介が言っていたとおり、薬の切れた阿片中毒者の狂乱が始まったのだ。
助けを求める鉄二郎と捨吉の声に、六蔵と文吉が跳ね起きて飛んでいき、味噌汁をこしらえていた加吉も、たすき掛けのまま加勢をした。大の男が三、四人がかりで、それでも取り押さえるのに四苦八苦だ。お初は直《じか》に手を貸すことができず、座敷を逃げ出してきた捨吉を腕に抱えて守りながら唐紙の外でやきもきしていたが、ケモノのおたけびのような声とともに、唐紙を突き破って飛んできた枕が目の前をかすめすぎて廊下の端へ落っこちたのには度肝《どぎも》を抜かれた。
姉妹屋の常連には気の早い客が多い。店が開くのを待って戸口に立っていた彼らは、六蔵親分の家で乱暴者が暴れている気配を聞きつけ、助っ人に駆けつけようとして、ようやく店に出てきた加吉に丁寧に辞退された。大丈夫でございます、お上《かみ》のお役目に関わることですので、どうぞよしなに、知らん顔をなすってください。そのかわり、その説明に納得して深く追及することのなかった常連客たちは、その朝、加吉が腕によりをかけて焼き上げた分厚い卵焼きを賞味できることになった。無論、お代はなしである。
文吉と六蔵のふたりで、ぐったりと青ざめ、瘧《おこり》にかかったように震え続ける伊左次を布団で巻き、そのうえから荒縄で縛《しば》り、荷車に乗せて、源庵医師のところまで運んでいって、帰ってくるころにはもうすっかり朝日がのぼりきっていた。お初は商いの手伝いを終えると、鉄二郎と捨吉と一緒に朝飯を食べた。鉄二郎はともかく、捨吉が伊左次の狂乱ぶりにすっかり怯えてしまったようなのが気がかりだったからである。
それでなくても、捨吉は昨夜、右京之介が朋輩の家からここへ連れてきたばかりである。いくら周囲が優しくしようと、短いあいだに知らない他人の家を巡って、気疲れもしていようし、気落ちもしていよう。実際、捨吉はいくらお初が励ましても、ほとんど朝飯に手をつけなかった。
「お内儀さんは、どうしていなさるかなあ」
今さらのように、政吉の女房のおのぶのことを心配し始めた。捨吉にとっては母代わりの人だ。恋しくなってきたのだろう。
「差配さんのところへ行ったきりだからな。俺たちも、ずっと会ってねえ……」と、鉄二郎も呟く。
また浅井屋が倉田さまを担ぎ出し、差配人を振り切って、病人をどこかへ連れ出すということはないだろう。が、尋問ぐらいはしているかもしれない。それに、お初としてもいくつかおのぶに訊いて確かめたい話がある。
「いいわ、あたし、おのぶさんに会いに行ってくる」と請け合った。「あなたたちがここに隠れていることは言えないけれど、おのぶさんがどういう様子か見てきて、何か手伝いが要るようだったら、それなりにしてくるわ。だから安心して」
出かけようとするところに、「おーいお初ちゃん」と呼びかけられた。鉄がひょいひょいと追いかけてくる。「どこ行くんだい? おいらもついていってやるよ」
「あんた、いつ来たの? 和尚やすずちゃんはどんな様子だった?」
鉄は身軽に飛び上がり、お初の肩の上に上手に飛び降りた。お初の頬にも髷にもかすることなく、肩に爪をたてることもない。それこそ、魔物のような敏捷《びんしょう》さである。
「和尚もすずも変わりなかったよ。和尚は、お初ちゃんに会いたがってたけどね」
「あたしに?」
そうね、あたしも和尚に会ってみたい……猫の和尚さま。長く生きて、神通力《じんつうりき》を身につけるようになった年寄り猫だろうか。
「鉄、あんた――」歩き出しながら、お初は笑ってしまった。「ひげにご飯つぶがくっついてるわよ」
「いけねえ」鉄はあわてて顔の掃除にかかった。「それにしても、およしさんの炊く飯は旨いよね。朝飯をねだりに行ったら、『あらまあ鉄、昨夜《ゆうべ》は帰ってこなかったけど、いったいどこに行ってたの? ちゃんとうちにいなくちゃ駄目じゃない』なんて、甘ぁい声で叱られちまったよ。情の濃い女はこれだからおいら困っちゃう」
お初は肩の上から鉄を払い落とした。
山本町の差配人は見るからに頑固そうな老人で、その妻もまた彼に輪をかけた気丈そうな人で、ふたりでしっかりおのぶの面倒を見ていた。お初は、行方しれずのおあきちゃんの友達だと断った上で、おあきちゃんのおっかさんの具合が心配で寄せていただいたと説明した。
差配人夫婦は、快《こころよ》くお初を座敷に通してくれた。妻の方がちょっと座を外し、二階へあがっていったが、間もなく足音を忍ばせて戻ってきた。
「おのぶさんは、まだ眠っているねえ」
「お加減、よくないのでしょうか」
差配人夫婦は、夫婦というより兄妹のようによく似た顔立ちをしていた。そろって、不当な横車やわがままには絶対に屈しませんぞと言わんばかりの頑丈な顎と、その顎に釣り合った大きな口を持っている。しかし今は、その口の端を悲しそうに下げて、夫婦で暗い顔をした。
「ひょっとするともう正気ではないのかもしれないね」と、差配人が言った。「身体も弱まっていて、骨の上に皮一枚というぐらいの様子だが、それ以上に心の方がいけないね」
「そんなに……」
「仕方がないさ。あんな仲のいい家族だったんだから。それがあんなことで政吉さんは死んでしまうし」差配人は目をしばたたかせた。「わたしは、政吉がまだ店を持つ前、通いの職人だったころから知っていたんだよ。あれはずっとこの長屋に住んでいたからね。政吉がおのぶさんと所帯を持った時には、祝いに奮発して七輪をおくってやった。おあきちゃんのお七夜には、うちのやつが赤まんまを炊いた――」
「お嫁入りが目の前だったのにねえ」と、差配人の妻も嘆息《たんそく》する。「さぞかしきれいだったろうに、おあきちゃん」
「馬鹿野郎め、おあきちゃんのことは、まだ諦《あきら》めるにゃ早いぞ。神隠しに遭ったって、元気で帰ってくるものはいるんだからな」
そのとおりだ。おのぶのためにも、おあきはきっと、天狗のもとから助け出されなくてはならない。お初はあらためて心に誓った。
差配人夫婦の話では、浅井屋のお内儀も倉田主水も、一、二度おのぶを訪ねてきたが、なにしろ彼女が生きている幽霊のようになってしまっているので、何も聞き出せずに帰っていったということだった。浅井屋のお内儀はえらくツンケンしていたというが、倉田主水は、懐からいくばくかの銭を出して、これでおのぶに滋養のあるものを買って食べさせてやってくれと、置いていったそうである。
「政吉さんは、あの旦那に責め殺されたようなものだからね。あっしらも受け取るのは業腹《ごうはら》だった。だけどまあ、旦那もまさか政吉が死ぬとは思っていなかったみたいで、しかもおのぶはあんなになっちまうし、それなりにこたえているようだったから、受け取ったんだ。そのまま、裏のお稲荷《いなり》さんの願かけに納めちまったけどもね。早くおあきちゃんが帰ってきますようにってねえ」
差配人の家を辞したお初は、下駄屋に寄っていくことにした。様子を見ておきたい。今日は鉄が一緒だし、たとえ天狗が現れたって怖くはない、それどころかちょうどいいくらいだ、迎え撃ってやる――という勢いだった。差配人夫婦の話を聞いて、今度の悲劇の深さをあらためて感じ、天狗の所行《しょぎょう》に対して腹が立って、じっとしていられないくらいになってきたのである。
北側の抜け道を使って忍び込んだ政吉の家は、しんと静まりかえっていた。外は春、行き交う人びとも忙しそうで、その顔を明るい日差しが照らしているというのに、この家のなかだけは、季節が一月も二月も後戻りしているかのように、冷気が厳しく張りつめている。
政吉の仕事場はきれいに片づいている。人が動き回らないので、埃さえ舞っていない。だが、鉄は鼻をひくひくさせて言った。「なんだか荒れ果てた感じがするね」
お初も同じように感じていた。仕事場から台所の方へ移動すると、何か小さな白いものがひらりと視界を横切った。ぎょっとして身構える。
鉄が笑った。「お初ちゃん、花びらだよ。ほら」
お初の足元にいる鉄の鼻先に、白い花びらがひらひらと舞い落ちてゆく。
「お初ちゃんの髪にくっついて、運ばれてきたんだね」
桜の花びらだった。お初は一瞬、ぞっとした。この春、桜の花は天狗の象徴となっている。
階上にあがる階段の前で、お初はさすがにちょっとためらった。手習いの紙に襲われたときのことが、頭をよぎる。だが、一瞬ののちには心を振り切って、段々をあがり始めた。怖がってはいけない。あたしはあんなものに負けはしない。それに今日はひとりじゃない。鉄がいる。
鉄はお初のすぐ後ろについて、しっぽを振りながら階段をあがってきた。一番上の段につくと、お初の先にまわり、様子をうかがうようにぴんと耳を立てた。
「何も感じられないよ」と、小さな声で鳴いた。「ここはもう、ただの空き家だ」
鉄の言うとおりかもしれない。おあきの部屋は、先に見たときのままだ。文机の上の手習いの紙さえ、お初があのとききちんと揃えたままになっている。天狗はもう、ここには居ないのか。
「ちょうどいいや、鉄二郎さんや捨吉の着替えを見つくろって、抱えて帰ろう。鉄、手伝って」
「それ、洒落《しゃれ》かい?」
「うるさいなあ。行こうよ」
声をかけ、座敷の出口の方に向かった。やっぱり、あの日、先に来たときに、天狗の声が響いてきた天井の方を、ちょっと見あげずにはいられなかった。やっぱり、気味が悪い――
そのとき。
ぶしっという音と共に、何かがひゅうううんと空《くう》を切った。振り向く間もなく、お初はぐいと袖を引っ張られた。見ると、羽根つきの羽のような形をしたものが、ぴしりとお初の袖を突き抜けて、傍らの柱に突き刺さっている。
「鉄!」
叫ぶと同時に、鉄は畳に這うように身を沈めた。お初もしゃがんだ。ふたつめの羽が飛んできた。窓の障子紙を破り、ぴゅうという音と共にまっすぐ座敷を横切って、今度はお初の目の前の壁に突き刺さる。
「吹き矢だ! お初ちゃん、逃げろ!」
鉄が叫んで廊下に躍《おど》りでた。お初は手早く袖に刺さった矢を抜くと、それを握りしめてあとに続いた。間一髪締め切った唐紙に、三つ目の矢が刺さる。鋭くとがった矢尻が、唐紙を突き抜けてお初の胸の高さのところに飛び出した。
「誰か見張りがいたんだわ!」
「だけど、どこに?」
お初は鉄を抱き上げると、捨吉の部屋に走った。胸の動悸を押さえながら、息を殺して窓枠によじのぼり、細い路地へと降りた。
「気をつけろよ」と、鉄がささやく。
できるだけ姿勢を低くして、お初は路地を這うようにして進んだ。ここまでは吹き矢も追いかけてはこないが、とりあえず危険を逃れたことで、かえって心が動揺していた。
路地のとっつきの、家と家のあいだまでたどりつくと、そうっと首を出してまわりの様子をうかがってみた。どこからか煮炊きの湯気が流れてくる。
「大丈夫かい?」と、鉄が訊いた。返事のかわりにぎゅっと抱きしめてやってから、お初は身体を起こした。
右手の方から、半纏《はんてん》を着込んだ職人風の男がふたり、盛んに話をしながらこちらに歩いてくる。彼らが路地の入り口に近づくのを待って、お初はするりと外に出た。
職人風の男の片割れが、おやというふうな顔でちらりとお初を見たが、そのまま相棒と話を続けながら、こっちへやってくる。お初はそそくさと路地を離れ、なんでもないような顔をして彼らとすれ違うと、最初の曲がり角のところで、ぴょいと角を折れた。板張りの壁に背中をつけ、大きく息をつく。
怖かったけれど、思い切って後ろを振り返ってみた。下駄屋の表戸が見えるくらいまで身体を乗り出す。さっきのふたり連れの背中が小さくなってゆく。今、彼らも道の向こう端の角を折れて消えた。人気《ひとけ》がなくなった。
「あの窓だね」
お初の懐から首を伸ばして、鉄が言う。くりくりした目が見ているのは、下駄屋の向かいにある小さなしもたやの二階、ちょうど、下駄屋のおあきの部屋の窓に面した、竹細工の格子《こうし》のある一|対《つい》の窓だ。お初はうなずいた。
「あの吹き矢が、狙った獲物を角を曲がって追っかけることができるわけじゃなければね」
えへへ、と鉄が笑った。「お初ちゃん、ちょいと脅かされたね。声が震えてら。そう怖がらなくたっていいよ、おいらがついてる」
これには、思わずお初も笑った。
「ちょっと行って、おいら、様子を探ってくるよ」
「あの窓の内側の?」
「うん。大した手間じゃねえ。お初ちゃんはここに隠れてるんだよ」
言うが早いか、鉄はお初の肩の上にするすると登り、そこから角の家の屋根へと駆け登った。目で追いかけてゆくと、屋根づたいに下駄屋の方まで行き、そこでいったんお初の視界から消えた。ややあって、今度は目的のしもたやの窓から一間ほど離れたところにある天水桶の屋根の上に現れた。そこからよいっとひと飛びして、板葺《いたぶ》き屋根の上を音もなく移動すると、しもたやの屋根に飛び移る。
合図のしるしか、鉄はぴらりとしっぽを振った。それから、屋根の向こうに姿を消した。
板張りの壁によりかかったまま、お初は、宵闇《よいやみ》の立ちこめてきた空を見あげた。皆、家路を急ぐ時刻で、ぽつりぽつりと人が通りかかる。人待ち顔をつくるお初に、目を向ける人はいなかった。
(どういうことなんだろう……)
手のなかに握りしめていた吹き矢を見た。矢尻がお初の身体の温もりを吸い取り、いくぶん温かくなっている。中之橋では楊弓、今度は吹き矢ときた……
お初は矢をたもとにしまい込んだ。これは大事な獲物だ。かわりに財布を取り出すと、お金をどれぐらい持っているか確かめる。
ちょうどそこへ、鉄が戻ってきた。頭の上で「ニャア」と鳴いたと思うと、お初の肩に飛び降りる。
「ありゃ、空き家だね。畳なんか、日に焼けて赤茶けちまってる。埃もひでえや」
鉄はくちゃん! とくしゃみをした。
「でも、おかげで廊下に足跡が残ってた。何組か大きさの違う足跡があったけど、今さっきつきましたというような新しいやつはひとつだけ。でっけえ奴だったよ」
「だろうね。あの矢を通りの向こうから吹き飛ばすことができるんだもの。女子供じゃないね」
「あのしもたやの表戸は、内側から閂がかけてある。野郎は裏口から出入りしてるらしいや。台所の水瓶に、新しい水がくんであったし、乾いた飯粒も落ちてたから、先から人が出入りしてることに間違いはねえよ」
「あたしたちを狙ったあと、すぐに逃げだしたのかしら」
「だろうね。屋根から軒を伝って部屋をのぞいたときには、もう誰もいなかった。けど、煙草の匂いが残ってたぜ」
お初は鉄を抱きかかえた。「兄さんに話して、あの家の家主を当たってもらいましょう。誰が借りているかわかれば、手がかりになるわ」
「だけど、用心しねえとね」
鉄もよくわかっているのだ。お初は彼の頭を撫でてやって、懐に押し込んだ。
「ここでいい子にしてるのよ。これからちょっと、大仕事だからね」
「どうするんだい?」
「お金を持って出てきてよかった。万が一、あとを尾けられちゃまずいから、駕籠《かご》を乗り換えたり歩いたり、うんと遠回りをして帰るのよ」
「ああ、そうか。合点承知さ」鉄は笑ってひげを動かした。「ついでに、どっかで何かうまいもんでも食って帰ろうか?」
そこから、駕籠を三つ乗り換えた。いったん小石川の方まで回って、そこからくねくねと蛇行《だこう》しながら東に戻る。途中でおなかもすいてしまったので、鉄の言葉に乗ったわけではないけれど、団子屋にも一軒立ち寄った。おかげで、姉妹屋に帰り着くまで一刻以上かかってしまったけれど、どうやら後を尾けられず、無事に戻れたようだった。とっくに陽は暮れきって、ちょっぴりおよしに叱られた。
六蔵は出かけていた。およしの話では、右京之介があとで寄ると言っていたという。階上にあがってゆくと、鉄二郎たちのいる座敷から捨吉の声が聞こえてきた。声をかけてから、お初は障子を開けてみた。
「あ、お初お嬢さん!」
捨吉が飛んで出てきた。お初は彼を抱き留めて、「お嬢さんはいらないわよ」と笑った。
「お内儀さんには会えましたか?」鉄二郎が気がかりそうな顔をする。お初は、差配人夫婦がしっかり守って世話をしてくれているから、おのぶについては心配ないということだけを、手早く話した。捨吉はそれで安心したようだが、さすがに大人の鉄二郎はごまかせない。彼はお初の言葉よりも、お初の語らなかった部分について思いを巡らせているようである。
「俺たちみんなで、ご厄介《やっかい》をおかけします」
「そんな気をつかわないでね。これはうちの兄さんのお役目なんだから」
鉄二郎は律儀に頭を下げた。今朝の伊左次の騒動以来、彼はめっきり、老けたみたいに見える。
お初の手を握りしめていた捨吉は、お初のうしろにくっついていた鉄を見つけると、
「あれ、猫だ」と声をあげた。鉄が逃げ出す暇もなくひょいと抱き上げる。鉄が閉口している様はわかったけれど、お初は笑っていた。「ちぇ、おいら、ガキは嫌いなんだよ」とわめきながら、鉄はもがいている。
そうだ、鉄二郎にもあの矢を見せてみよう。お初は膝を折って火鉢のそばに座ると、たもとから矢を取り出した。
「ねえ、鉄二郎さん、こんなものに見覚えはある?」
鉄二郎は目を見開いた。「こりゃ、矢場の矢――いえ、もっと短いですね」
「ええ。下駄屋さんにいるときとか、浅井屋に捕らえられているとき、誰かがこういう物騒な得物を使っているのを見たことはない?」
「とんでもない」鉄二郎はふるふると首を振った。「ありませんよ。こいつは穏やかじゃない。もしかしてお嬢さん、こんなもので狙われなすったんですか?」
「あら、そんなことないわよ」
お初は笑ってみせたが、鉄二郎は思いのほか鋭い男であるらしく、謝るように、危ぶむように、感心するように、しげしげとお初を見つめた。
お初は矢をしまい込んだ。やはりこの矢の使い手は、惣助や朝太郎側の人間――浅井屋の件とも、天狗の件ともまた別だということになるのか。いや、そう決めつけるのは早計か。
「伊左次さんは、その後どうです? 何か訊きましたか?」顔をあげて、鉄二郎に訊いてみた。
「いえ、まだ何も。昼過ぎに文吉さんが、着替えやらなにやら届けに行かれたようです」
鉄二郎は両膝に手を載せて、がっくりとうなだれた。
「あんなことになって、伊左次さんは助かるんでしょうか」
「源庵先生が何とかしてくださいますよ」
お初には、今はそれしか言えなかった。鉄二郎は寂しそうに微笑した。
彼らも、捨吉も、この春ほんの一ヵ月ほどのあいだに、根こそぎ暮らしを変えられてしまった。失くしたものは、山ほどある。
「辛いだろうけど、辛抱《しんぼう》してね。きっと、おあきさんを取り戻すから」
お初が言うと、鉄二郎はうなずいた。同意したというより、自分で自分に言い聞かせているかのように、何度も何度も。
「座敷でじっとしているのも、芸がねえ」と、強いて明るい口調をつくり、彼は言った。
「何かお役に立てることはありませんか。あっしなら、身体の方はもう大丈夫ですから」
「そんな気を遣わないで。今はうちでじっとしていることだけが、鉄二郎さんたちにできることよ」
「じゃあ、お宅にある下駄を、いくつか直させてもらえますか」
鉄二郎は、勝手口の土間に脱いであるお初の下駄に目をやって言った。
「お嬢さんはおてんばなだけじゃなくて、どうやら下駄の履き癖があるみたいだ」
そのとおり、お初の下駄は片減りするのである。右側ばかりが、すぐにすり減ってしまう。いい当てられて、お初はちょっと恥ずかしかった。
「それは有り難いけど、道具はどうします?」
「小刀を一本貸していただけりゃ、充分です。もし、鉋《かんな》があればもっと有り難いですが」
六蔵がときどき、気の向いたときだけ手間大工まがいのことをするので、小刀もあれば、鉋ものみもそろっていた。砥石もあった。鉄二郎は礼を言ってそれを受け取り、お初の下駄を大事そうに抱えると、階上にあがっていった。階段のとっつきのところに、伊左次を案じるあまり半べそ顔で座っていた捨吉に、
「そら、仕事をしよう」と声をかけると、座敷のなかに入っていった。
ほどなく、鉄が台所へ降りてきた。
「ガキに振り回されたおかげで、耳の毛まで逆立っちまった」と、文句たらたらである。「お初ちゃん、腹減った」
考えてみれば、お初もとっくに食事をとらなくてはならない時刻だった。水屋のなかに、およしが取り分けて置いてくれたおかずが入っている。鉄にはかつおぶしで猫まんまをこさえてやり、自分のおかずからも焼き物を分けてやって、台所でひっそり食事をとった。
後かたづけをして、どうしよう、お店を手伝おうかとも考えたが、どうにも元気が出てこない。台所の次の間の四畳半の座敷に入り、火鉢の灰をつつきながら、しばらくぼんやりとしてしまった。鉄も顔や身体のあちこちを舐めてきれいにすると、ふああとあくびをして、火鉢のそばで丸くなった。
こうしているあいだにも、おあきやお律は――と考えながら、いつのまにかうとうとしていたらしい。人の気配ではっと目を覚ますと、文吉が傍らを忍び足で通り過ぎようとしているところだった。
「あ、起こしちまいましたか、すいません」
後ずさりした拍子に、鉄のしっぽを踏んだ。
「痛《いて》ぇじゃねえか、このとんちき!」わめいて鉄が飛び起きる。お初は目をぱちぱちさせながらも、声をたてて笑ってしまった。
「お帰りなさい、ご苦労さま。起こしてくれてちょうどよかった。源庵先生のところに行ってたのね?」
「へい。先生の昼酒につきあわされそうになりやした」
「文さんたら」
「けど、あの伊左次って男の様子を見たら、先生、酔いが覚めたみたいでしたよ。こいつはまずいって。先生も、あの男があれほどの中毒だとは思ってなかったみたいです。しっかり請け合ったから安心しろって伝えてくれと言ってたけどね」
文吉を座らせて、お初は茶を入れた。文吉は冷えた手を火鉢に当てて温めていたが、その手の甲にいくつも引っかき傷があることに、お初は気づいた。
「それ、どうしたの?」
文吉はあわてて手を引っ込めた。そばにいた鉄が、ひょいと文吉の膝に上がり込み、
「これはおいらがやったんじゃねえよ。人間の爪だね」と、お初にご注進した。
むろん、その台詞《せりふ》は文吉には聞こえない。お初は笑って文吉に言った。「嫌だ、また喧嘩したの?」
文吉は面目なさそうに頭を叩いた。「まずいよなあ、お嬢さんにはばれてるか。ほら、昨日、車坂の車屋さんへ行ったでしょう」
お初が頼んだことである。車屋の面々に変わったことはなかったと伝え聞いて、それきりになっていた。
「ええ、そうだったわね、ありがとう。皆さん、元気だったのよね?」
「へい。あそこのお美代さんは、気だてのいい娘さんですね。ちっと身体はでけえし、顎も長いけどさ」
文吉の話では、彼の恋人であるもうひとりのお美代が、姉妹屋を訪ねてきた折に、その話を聞きつけたのだという。文吉のお美代の家は乾物屋で、商いの方でも姉妹屋とつながりがあるのだ。
「お美代のやつ、俺がおかみさん相手に話してることを聞きかじりやがって……」
「聞かれてまずいことを言ってたんでしょう?」
「車坂のお美代さんはいい娘さんだ、お美代違いで大違いだって」
悪いと思いつつも、お初は大笑いをした。「ごめんね。だけど、そりゃあ乾物屋のお美代ちゃん、怒るわよ」
それでなくても、文吉のお美代は悋気持ちなのだ。
「まったくね」文吉は手の甲の傷をさすった。
「器量はおめえの方がずうっといいって、何度も何度もなだめてね。やっとおさまったんでさ。けどお美代のやつ、車坂まで確かめるとか言って、出かけていきました」
これにはお初もびっくりした。乾物屋のお美代は悋気持ちというだけでなく、負けん気も相当強いらしい。
「それで、車屋のお美代さんに会ってきたっていうの?」
文吉は面目なさそうにうなじをさすった。「あいつも馬鹿ですよねえ」
「なんて言って訪ねていったのかしら」
車屋のお美代が気を悪くしなかったかと、お初はその方が気になった。
「いえ、客のふりをして店に入って、車屋のお嬢さんを見てきただけだって、お美代は言ってました。冬瓜《とうがん》みたいに長い顔だっていうから、俺もちっと腹が立って、おめえそういう言い方はねえだろうって」
「言ったの? そしたら、あんたのお美代ちゃん、また怒ったでしょうに」
「怒りました。それで、これですよ」と、文吉は手の甲の引っかき傷をさすってみせた。「けどねお嬢さん、お美代の奴、こう言うんですよ。車屋のお美代って人は、肌だけはきれいだって。つるつるしてて、すべすべしてて、つきたての餅みたいだって。あんたもそういうところに見とれてたんだろうってつっこんでくるもんだから、また喧嘩ですよ。俺はそんなこと、気づかなかったからね。お嬢さんのお遣いで出かけていったのに、いちいちそんな助平な目で見ちゃいませんよ」
へえ……と、お初は思った。車屋のお美代の顔を思い浮かべてみる。彼女のはしこそうな目や、愛嬌《あいきょう》のある口元や、こちらの言葉をぱっと受けとめ、くるくるとよく変わる表情などのことは思い出すことができたが、肌がきれいだったということは――
「そうかしらねえ」と、お初は呟いた。「格別、そんなことは思わなかったけれど」
「でも、お美代が言うんだから間違いねえと思いますよ」と、文吉は言った。「あいつは、そういうことにはうるさいんです。女の人の髪とか、肌とか、着ているものの趣味とかね。人の歳をあてるのもうまいな。どんなにさばよんだって若作りしたって、このお美代さんの目はごまかせないんだからね、なんて、つまんねえ自慢をしてますからね」
悋気持ちのお美代は、そうやって人様のことを観察し、そのたびに悋気の種を見つけたり、自分の方が勝ったと鼻を高くしたりしているのだろうか。
「あんたのお美代ちゃん、よくそんな暇があるわよねえ」
お美代の生家である乾物屋は、構えは小さいが繁盛している店で、一家そろって一年中忙しがっている。今のような桜の時期でも、秋の枯葉の時期でも、店の前に花びら一枚、枯葉の一葉も落ちていたことがないというほどのきれい好きの家でもある。娘のお美代も働き者で気働きもよく、だからこそ、いろいろ文句を言いつつも文吉はかの女に惚れているのだ。
「こういうことは、別の目ん玉で見てるんだなんて言ってますよ」と、文吉は苦笑した。
「そんなもんかしら」お初は笑った。「あたしには、そういう目ん玉はついてないみたいだよ」
「お美代のやつは、お嬢さんはなんにもしなくても別嬪《べっぴん》だから、まわりのことなんか気にならないんだって言ってたことがあります」
「あたしが? 嫌だわ、からかわないでよ」
文吉は大真面目だった。「からかっちゃいませんよ。俺、お美代のやつに釘を刺されてるんだから。あんた、いくらお初さんが別嬪だからって、懸想《けそう》したりしたら承知しないよって。そんなことがあったら簀巻《すま》きにして大川へ放り込んでやるって。冗談じゃねえ、お初お嬢さんはあの親分の妹――」
言い過ぎたと思ったのか、文吉ははっと両手で口を押さえた。お初は笑い転げた。
「ほんとだわ。あの鬼瓦の妹じゃね」
「いえ、そんなつもりじゃ……」
「いいのよ」お初はなかなか笑いがとまらなかった。なんだかんだ言っても、乾物屋のお美代は文吉に首ったけなわけで、だからそんな台詞も口をついて出るのだろう。彼女にしてみれば、他の女に盗まれぬよう、できるものなら文吉を俵物みたいにしっかり巻いて、店の奥に積んで隠しておきたいところなのかもしれない。
決まり悪くなったのか、文吉はそそくさと立ち上がった。「あっしはこれから、東両国の番屋に行くことになってるんです」
「ご苦労さま。じゃ、今夜は泊まりね。ねえ、六蔵兄さんはどこにいるかわかる?」
文吉は首をかしげた。「あっしにもちょっと。夕方、雁太郎親分がぶらりと訪ねてきて、ふたりでちっと話し込んでましたけどね」
文吉を送り出すと、お初はまたひとりになった。と思ったら鉄が話しかけてきた。
「人間の女ってのは、よくよくの阿呆だね」
「あら、あんたも聞いてたの」
鉄は後足で耳のうしろをかいた。「肌がきれいの髪がきれいのって、ばばあになっちまえばみんな同じだろうがよ」
「そこがあんたたちと違うところよ。あんたたちは、先月子猫だったかと思うとすぐに大人になるし、大人になると、今度は本当に年寄りになるまで、見た目はたいして変わらないでしょう。でも、あたしたちには、ばばあになるまでの道中があるからね」
鉄は、「ケッ」というような声で鳴いた。「だから、死んでから天狗になっちまうんだ」
お初はどきりとした。そのとおりだ。
「天狗の――少なくともあたしたちが追いかけてる天狗の正体は、女の妄念の塊だもんね」
ちょうどいい――ついでに、先から気になっていたことを口に出してみた。「だけどね、鉄。そういう天狗を、どうしてあんたたちは敵だと――倒さなければならない相手だと感じるんだろうね?」
「そりゃあ、仲間の仇を討つためさ」と、鉄はすぐに答えた。「決まってるじゃねえの」
「そうかしら。それだけじゃないでしょう」
「天狗は、ともかくおいらたちの敵なんだよ」
「だから、それはどうしてなの」
鉄はまた後足をあげて、耳の裏をぼりぼりとかき始めた。人が答えに窮したとき、頭をかくのと同じように。お初は微笑し、じっと鉄を見つめた。
「そんなの、知らねえよ」と、鉄は困ったように言った。「じろじろ見ねえでくれよ」
「自分でもわからないの?」
「知るもんか」と言ってから、鉄は後足をおろして、ちょっと首をかしげた。「おいらはそんなこと、考えもしねえからね。けど、和尚なら知ってるかもしれない」
和尚――鉄の仲間の猫の通り名だ。鉄の話から想像するに、老猫で知恵者であるらしい。「一度、あたしを和尚に引き合わせてもらえない?」
鉄は疑わしそうに目を細くした。「何のために?」
「会ってみたいのよ。和尚は、あんたたちにとって、長老みたいなもんなんでしょうから。和尚というのは名前なの?」
「さあね。寺に住んでるから和尚って呼んでるんだ」
「どこのお寺?」
「あっちこっち渡り歩いてるらしいよ。俺も全部は知らねえ。けど、ここんとこ一年ばかしは、深川の霊巌寺《れいがんじ》に住み着いてる」
これにはびっくりした。
「あんた、そんなこと、今までひと言も言わなかったじゃないの」
鉄は目をぱちくりした。「霊巌寺に意味があるのかい?」
「おあきちゃんの下駄屋は、浄心寺《じょうしんじ》の山本町にあるの。浄心寺っていうのは、霊巌寺の隣のお寺よ」
和尚は、最初に神隠しに遭ったおあきの住まいのすぐそばに、居を構えていたことになる。
「そうだよ。そんなことぐらい、俺だって知ってら。天狗は最初、おいらたちの鼻先からおあきって娘をさらっていったんだ。そいで、おあきに可愛がられてたすずが、それを和尚に知らせて、俺も――」
お初は手を振って鉄の言葉を止めた。「ちょっと、ちょっと待って。最初からいきましょう。あんたとすずちゃんは、もともと深川のあの辺りに住んでたのね?」
「そうだよ」
「で、和尚が霊巌寺に住み着いたのは、一年ばかり前のことだと」
鉄はうなずく。「そうさ。ある日突然、ぶらっとやってきて境内に住み着いたんだ。それ以前はどこにいたのか、おいらも知らねえって、さっき言ったろ?」
「で、あんたたちは、すぐに和尚と仲良くなったの?」
「まあな。お初ちゃんが言ったみたいに、和尚は知恵者でさ、いろんなことを教えてくれたからね」
「神隠しがあったとき、それが天狗の仕業であること、しかも天狗はあんたたち猫の敵だってことを教えてくれたのも、和尚だったわけね」
「それはなんていうか……」鉄は言葉に困っているようだった。「おあきって娘が妙な観音さまに魅入られてるってことを、すずが知らせに来たのが最初さ。そしたら和尚が、そいつは天狗だって言った。天狗って何だって訊いたら、それはもののけだって。で、しばらくしてあの真っ赤な朝焼けの朝におあきって娘が神隠しにあっちまった」
話の順番がわかるかい? というように、鉄はお初の顔を見あげた。お初はうんうんとうなずいてみせた。
「おあきって娘が消えた後、おいらはすずと連れだって、あの下駄屋に行ってみた。そしたら、店のまわりになんとも言えない嫌な風がよどんでるのを感じた。背中の毛が逆立つような感じがしたよ。もののけの匂いがした。で、おいらは、すぐに、このもののけは――天狗は、おいらの敵だって感じた。鼠を見ると追っかけたくなるのと同じで――だけどもっと――もっとなんていうか、手強い敵だっていうことがわかった」
鉄は一生懸命に小さな頭を働かせている。
「それで?」
「それでおいらは、感じたことを和尚に話してみた。そしたら和尚が、そいつはもっともだ、天狗とおいらたちは生まれながらに敵同士だからって、そう言った。そうこうしているうちに、今度は長野屋のお律って娘がさらわれて、仲間が一匹殺されて、それでおいらは、仲間の仇を討ちたいって思って……」
鉄は言葉を切り、耳をひくひくと動かした。「考えてみりゃ、おかしいよな。おいらたちと天狗は、どうして生まれながらの敵同士なんだろう? 和尚も、そのことについては教えてくれてないよ。おいらが訊かなかったせいもあるだろうけどさ。だって、おいらにとっては、天狗が敵だってことは、当たり前なんだからさ」
お初は火鉢の縁に両肘をついて考えた。鉄たちが天狗を敵と思い、恐れたり、それを撃退しなければならないと感じるのは、たとえばお初たち人間が、疫病《えきびょう》を恐れ退けようとするようなものだろうか?
それに、どうしても気になるのは、和尚という猫が、おあきの神隠しが起こる一年ばかり前に、おあきの家のすぐそばに住み着き始めたということだ。もっと先からそこにいて、偶然近くで神隠しが起こったということではないのだ。和尚は、一年ほど前から、いずれ深川に天狗が現れることを知っていて、それを迎え討つために霊巌寺にやって来たのではないかとさえ思えてくる。
(考え過ぎかしら?)
鉄は盛んに身体を舐めて、身繕いをしている。
「まあ、和尚に会いたいのなら、いつだっていいよ、おいら案内する」
「そうね。近いうちに、連れていって」
六蔵が帰ってきたら、下駄屋での出来事を話さなくてはならない。だが、それまでは、ちょっぴり怖かったことは忘れていよう。六蔵と雁太郎親分が卯兵衛の長田屋へ小袖を売りに来た武家娘を捕らえてさえくれれば、天狗への道は開けるのだから。
その日の残りを、お初はきりきりと立ち働いて過ごした。鉄はちょっと出かけていったが、今朝およしに甘く叱られたのがよほど嬉しかったのか、店じまいのころには帰ってきて彼女を喜ばせ、おまけにその夜はおよしの布団の足元で眠った。図々しい奴だ。
夜着をかぶると、睡魔は疾風のようにお初に襲いかかった。有り難いことに、夢は見なかった。
右京之介が姿を見せたのは、翌朝五ツ(午前八時)をすぎたころのことだった。
よく眠ったので、お初は元気を取り戻していた。それだけに、昨夜来ると言っておいて来なかった右京之介の身の上を、かなり心配し始めていたところだった。顔を見てほっとした。
「昨日は申し訳ありませんでした」
奥の座敷の方で火鉢をはさんで向き合うと、開口いちばん、彼は謝った。
「何かあったのかと思ってしまいました」
「あったと言えば、あったのですよ」
浅井屋の周辺を調べていたのだ、という。「あの家が、もしも阿片の裏商いで儲けているのだとしたら、どこかしらで、それとうかがわせるような出来事が起こっているのではないかと思ったのです」
「だけど、そう簡単に尻尾を出すかしら。裏商いだからこそ、用心の上にも用心するでしょうし……」
右京之介は楽しそうに言った。「ですが、隠し事というものは難しい。隠せば隠すほど、切れ端がのぞいてしまうということはあるでしょう。まあ、聞いてください」
右京之介の父上は現役の吟味方与力である。彼本人も、気質が穏やかすぎて町方役人に向いてなかったことと、自ら希望した算学という道があったために、父の後を継ぐことをやめてお役目を退いてしまったが、一時は与力見習として御番所で精勤に励んでいた身だ。今でも、御番所にはそれなりのつてを持っている。
右京之介はまず、浅井屋という料理屋で、過去に何らかの事件や変事が起こっていないか――というところから調べ始めた。
「むろん、あそこでどんなことが起ころうと、乗り出してくるのは倉田主水ですから、浅井屋がお咎めをこうむるような処置の仕方をするわけはありません。が、表向きになったことなら、記録として御番所に残されているはずだと思いました」
料理屋のことだから、人は大勢出入りする。小さな事でも、何かあるはずだ――と、記録をあたり始めるとすぐに、右京之介は面白い記述を見つけた。
「五年ほど前のことですが、浅井屋の玄関口のところで、客として来ていた侍同士の斬りあいがあったのです。藩の名前は伏せますが、その侍は江戸詰めの勤番で、どうやら酔った上での喧嘩沙汰であったらしい。軽い怪我人が出ています」
御番所では、人を遣って事件の詳細を調べさせ、喧嘩の当人たちからも話を聞いていた。
「御番所としても、この程度の事件なら、かかわることは、正直言って避けておきたい。というわけで、喧嘩の当人たちの処分は藩の判断に任せ、早々に手を引いているのですが、でもね――」
このとき、御番所から遣わされた同心が、倉田主水だったのだという。
「身内を担ぎ出したということなのね」
お初は言って、右京之介に、昨日山本町の差配人夫婦から聞いた話を伝えた。倉田主水が、おのぶに見舞いをやったという話だ。
「ほう……」右京之介は眼鏡をずり上げた。「それは意外な顔を見せたものですね」
「あたし、先に右京之介さまの解釈を聞いたときには、まだ倉田さまがただ浅井屋に担がれているだけだなんて、本当かなという疑いの気持ちが残っていたの。だけど、差配人さんの話で、ちょっと気持ちが変わってきたわ」
右京之介はちょっとうつむき、面白そうに口元をゆるめている。
「あら、なんですか? あたし、何かおかしなことを申しました?」
「いえいえ、そんなことはありません。お初どのを笑ったわけではありませんよ」
「だけど……」お初はむくれ始めた。「笑ってるじゃありません?」
「男と女はとことん違うものだなあと、そう思ったから笑ったのです。苦労して筋道立てた解釈よりも、心を打つひとつの出来事の方が強い説得力を持つ。いやはや、わたしは女性にはかないません」
「へんなの」
お初がまだむくれているので、右京之介はこほんと咳払いをした。「お話を戻しましょう。続けてよろしいですか?」
そうだった。浅井屋と阿片の話だ。
「ところで、興味深いのは、この喧嘩の当事者の侍のひとりが、喧嘩から一ヵ月ほどして、また浅井屋を訪れ、今度はそこで、浅井屋の仲居を斬るという騒動を起こしていることなのです」
「仲居さんが……」
「はい。一刀のもと、袈裟《けさが》掛けに斬り殺されたのですよ。斬った側の侍は、無礼討ちであると主張しています。このとき、浅井屋の通報を受けて駆けつけたのは、もちろん倉田主水です。浅井屋は、店の者を直接八丁堀の彼の住まいに走らせて、知らせているんです」
「また、尻ぬぐい」
「そうです。しかしね、お初どの」右京之介は身を乗り出した。「同じ侍が、同じ場所で、続けて二度の刃傷《にんじょう》沙汰を起こしている。となると、御番所としても、今度はすぐに彼の身柄を藩に預けてしまうわけにもいかない。いくら本人が無礼討ちと主張していようと、料理屋の仲居相手に、しかも、今度もまた酩酊《めいてい》の上の所行ですから。藩からは強硬な抗議がきたようですが、御番所は――というか、倉田主水の上の与力は、主水に命じてその侍の身柄を預かり置くようにと命じています。ところが――」
右京之介の目がきらりとした。
「取り調べを始めた翌日に、この侍は、乱心の体《てい》に見受けられると断が下されているのです」
「乱心?」頭がおかしいということか。
「そうです。無礼討ちではなく、実は乱心により刃傷沙汰を起こしたものだ、とね。調べにあたった吟味方与力が、はっきりとそう書き残しています。答弁もままならず、甚《はなは》だしく身体を震わせ、汗を流して狂乱の動作を見せ――と」
とっさに、お初の心のなかに、伊左次の顔が浮かんできた。
「昨日、伊左次さんが」と、お初は言った。「ちょうどそれと同じようになってしまって……。わたしたちの手には負えそうもなかったので、源庵先生のところに担ぎ込んだの」
「先生は何とおっしゃいましたか」
「阿片のせいだ、阿片が切れたからだろうと。ここまでひどい中毒だとは思っていなかったって」
右京之介が、ぽんと手を打った。
「やはりそうか、それですよ。この侍も、それと同じです。阿片が切れて、それで狂乱を起こしたんです」
なるほど――と、お初は考えた。
大名家の江戸詰めの侍で、そこそこの地位にあれば、浅井屋のような料理屋に出入りする機会は、比較的多い。お大名の勝手向きというのは、どこも同じように苦しくて、留守居役を頭に頂く江戸藩邸に詰める勤番侍たちは、借金の約束の取り付けと、その返済と、江戸屋敷での経費の切り詰め、藩邸で必要とする生活資材の買い付けや、それをめぐる商人たちとの取引に明け暮れるものだ。そういう会合の場には、浅井屋のような大きな料理屋が選ばれることが多い。武士が商人に飲み食いさせたり、商人が武士を招いたり、形はいろいろだが。
そういう江戸詰め侍のひとりが、仕事で出入りするようになった浅井屋で、阿片を覚える――きっかけはどういうものであるにしろ、密かな禁断の楽しみとして体験してしまう。彼の耽溺《たんでき》は、少しずつではあるが確実に進み、浅井屋に行くたびに、その度合いは深まってゆく。
そしてある日、その浅井屋で、彼は同輩と喧嘩沙汰を起こしてしまう。その原因にも、ひょっとすると阿片による酩酊がからんでいるのかもしれないが、たとえそうでなくても、とにかく騒動を起こしてしまえば、後始末をしなくてはならなくなる。幸い、身柄は藩に預けられるが、江戸屋敷としても、町場の料理屋などで刀を振り回した者のことだ、しばらくのあいだは、表向きの仕事からは遠ざけることだろう。少なくとも、大名家の面目と信用がかかっている大事な役目からは退かせるのではないか。
さてそうなると、彼は浅井屋と縁が浅くなる。勤番侍の懐に、個人で浅井屋のような料理屋に通うことのできる金があるわけがない。阿片に染まりきっている彼は、次第に窮してくる。そしてある日、やもたてもたまらなくなって出向いていった浅井屋で、今度は本物の狂乱により刀を振り回してしまう――
「怖いわ」と、お初は思わず呟いた。「それで結局、そのお侍はどうなったんです? 乱心だと決められて――」
右京之介はうなずいた。「御番所としても、乱心となれば扱いかねます。もともと、その侍の属する江戸藩邸からは、無礼討ちなのだから町奉行所などが口を出すなとやいやい言われているところですしね。いい厄介払いとばかりに、身柄を返してしまいました」
「御番所では、そのお侍が阿片に毒されているらしいことがわからなかったのかしら」と、お初は言った。「本当に、ただの乱心と思ってしまったのかしら」
「このときは、それで通ってしまったのでしょう。倉田どのは、身内の浅井屋に怪しいところがあるなどと、まったく思っていないのでしょうし。それに御番所の同心や与力は、源庵先生のように阿片に詳しいわけではありませんからね」
そうだわねえ……。
「その後しばらくのあいだ、浅井屋の周辺は平穏で、とりたてておかしな事は起こっていません」と、右京之介は続けた。「これまでのことも、事実の上に推論を乗せてお話してきたのですが、ここでさらに憶測を重ねてみますとね、お初どの。私は、仲居の斬殺《ざんさつ》の一件で、浅井屋も懲《こ》りて、用心深くなったのだと思うのですよ」
考えられることだ。御番所の目を引くことがないように、用心の上にも用心を重ねるようになった――
「あるいは、裏商いのやり方自体を、多少、変えたのかもしれない。場所を移すとかね」
「でも、そんなに都合のいい場所が、ほかにあるものかしら」
料理屋の一室ならば――しかも、忍び込んだときに見たとおり、浅井屋の建屋はとても大きく、部屋数も多そうだった――客にひそかに阿片を吸わせることも、そう難しくはないだろう。だが、他の場所に、たとえば客の指定してくる船宿だの茶屋だのに阿片を持っていって商うとなると、露見する危険は非常に大きくなる。
「おっしゃるとおりです。私も、そのあたりに頭をひねりながら、浅井屋のあの字も出てこない記録をめくっていったのですが――」
右京之介の顔が、ぱっと明るくなった。
「そこで見つけたのですよ。昨年の夏、浅井屋がらみの、奇妙な出来事が起こっていることをね」
記録としては、それは「事故」の部類に入るものだった。大川に浮かべた花火見物の屋形船から、女の客がひとり、転落して溺死したというのである。
「亡くなったのは、神田明神下の小松屋という小間物屋《こまものや》のおかみ、お定《さだ》という人です。おかみと言っても、亭主に死に別れ、店の方は息子夫婦に跡を譲っていたそうですから、言ってみれば隠居のようなぶらぶら暮らしを楽しんでいたのでしょうね。この日は、無尽《むじん》仲間といっしょに花火船に乗り込んで、この災難に遭ったのでした」
「花火船……」
お初は思い出した。浅井屋はそもそも、花火船に仕出し料理を出すことから商いを始めたのではなかったか。
お初の考えていることを、右京之介も悟ったのだろう。にっこりと笑うと、
「そうなのです。浅井屋と花火船には、切っても切れないつながりがある。この件でも、記録の上では、お定が乗っていた船を仕立てた船宿の――『吉野屋』というのですが――名前ばかりが出てくるので、私も危うく見逃すところだったのですが、料理を入れていたのは、浅井屋だったのです」
小松屋のお定は当時四十五歳。
「乗り合わせていた無尽仲間たちは、お定はひどく酒に酔って船端へ出ていったから、足を滑らせて川へ落ちたのではないか、そのとき自分たちは屋形船のなかにおり、その場にいなかったので、子細はわからない――と言っているのですが、これには小松屋の若夫婦から異論が出ました。彼らの母親は、若いころから酒が強く、うわばみと呼ばれるほどだったと。酔って船から落ちるなど、あり得ないというのです」
さらに、お定は、隠居をする以前は、さすがに外聞が悪いから控えていたのだが、この頃ではかなりおおっぴらに飲むようになっていて、彼女が酒豪であることは、無尽仲間など親しい人たちは、みな承知していたはずだという。それなのにどうして、酔って溺れたなどという話になるのかと、小松屋の夫婦は訝《いぶか》ったというわけである。
「それで御番所では?」
「若夫婦の訴えを受け入れて、念を入れて調べています。料理が浅井屋の入れたものであることも、その調べの過程で確認されているのですがね。しかし、これといって怪しい節はない。肝心《かんじん》のお定の亡骸も、大川から海へ流されてしまったのか、見つからない。というわけで、最終的には、やはり酔って川に落ちたものだろうということに落ち着きました。どんな大酒飲みであろうと、万にひとつということはある、とね」
お初は、聞いた話をゆっくりと頭のなかでとりまとめながら、うなずいた。ちょうど、右京之介が来たときに火鉢にかけた鉄瓶の湯がわいたので、彼の好きな熱いほうじ茶を入れた。
「やあ、有り難い」右京之介は嬉しそうに湯飲みを取り上げた。「わが家では、父がほうじ茶を好まないのですよ。あんなカラカラに煎ってしまったものは、茶ではないと言って」
彼がほうじ茶を味わうのを眺めながら、お初は訊いた。「阿片というのは、匂うものですか?」
右京之介はちょっと首をかしげた。
「ごく普通の人間が、かいだだけでそれとわかるほど特色のある匂いがするものではないと、源庵先生が言ってました」
微笑して、続けた。「しかし、いずれにしろ煙は出ますね」
お初も微笑を返した。「そうですよねえ。でも、川の上みたいな広い場所でなら、その煙もすぐに消えてしまいますよね」
「そのとおり」
「ね、もし、あたしたちが考えているとおり、浅井屋が阿片の裏商いをしているのだとしたら――」
「そんなに遠慮しなくても、それはもう間違いないでしょう」
「だとしたら、屋形船でそれを売るというのは、とてもいい思いつきですよね?」
右京之介は大きくうなずいた。「浅井屋は、吉野屋だけでなく、他にもいくつかの船宿と、屋形船の仕出し料理の取引をしています。料理を運ぶのは、むろん、浅井屋の者たちです。お客と事前に話ができていれば、料理の皿や椀にまぎらせて、阿片とそれを吸引する道具を持ち込むことなど、たやすいでしょう」
「船宿の船頭はひとりきり、しかもずっと艫《とも》にいて櫓《ろ》をこいでいるでしょう? めったなことじゃ気づかれないわ。阿片を吸引した客が騒いだって、屋形船ではそんなことなど当たり前だし」
お客たちは、阿片の夢に酔っているあいだは川の上におり、それが醒《さ》めてきたところで、船から陸へあがる。川の上であったことなど、誰にも察知されないというわけだ。
「そのうえ、このことでもっとも都合いいのは、万が一、たとえば船頭なりに疑われたときには、証拠はすべて川に捨ててしまえばいいということですよ」
いいことずくめのこの方式にも、しかし、小松屋のお定の場合には裏目に出た。阿片や煙管ではなく、それを吸った本人が、ふらついた挙《あ》げ句《く》に川にはまってしまったのだから。
いやいや、待てよ――と、お初は考えた。あるいは、それ以上のことだってあるかもしれない。阿片を吸った小松屋のお定が、同じ内緒の楽しみを持つ無尽仲間たちがあわてるほどに、ひどい状態になってしまったとか。たとえば、深く眠りこんだきり目を覚まさないとか、頭がおかしくなったとか、もっと言うなら、屋形船の座敷のなかで、すでに死んでしまっていたとか。
そのまま陸に連れ帰っては、まずいことになる。仲間たちは、思いあまって、彼女を川に投げ入れた――
「この場合は花火船でしたが、それに限らず、屋形船は、一年中川の上に出ています」と、右京之介は言った。
お初ははっと我に返った。「ええ、そうですね」
「数としては花火船がいちばん多いでしょうが、それでも、江戸には風流人が多いですからね。花見船、紅葉船、雪見船――」
お初はくすっと笑った。「花見船なら、わたしたちも乗りました」
そのときの、バツの悪かったことを思い出したのか、右京之介はちょっと赤くなった。「なるほど、そうでしたね」と言って、こほんと喉を鳴らすと、「浅井屋としても、彼らの内密の客たちとしても、いくらでも口実はつけられるし、機会はあるというものです。いや、実に賢いやり方であると言っていいでしょう」
「なんとか、調べてみたいものだけれど」
お初は考えた。浅井屋がらみの些細《ささい》な事件の記録から、ここまで推測をしてきた右京之介の頭と努力には感じ入るが、しかし、推測だけでは事は始まらない。どうしたものだろう?
「いちばんのとっかかりは、お定さんが死んだとき、いっしょの屋形船に乗っていた無尽仲間の人たちでしょうね」と言ってみた。
右京之介はうなずいた。「そのとおりです。お定が死んだときの事を聞き出そうとしても、まあ難しいでしょうけれど、彼らのうちの何人かは、まだ阿片を続けているかもしれない。だとすれば、今でも浅井屋とつながっていることになる。彼らの名前もところも記録に残っていますし、みな、内証の豊かな商人や地主ばかりですから、どこかへ逃げてしまって今は居所がつかめないという心配もない」
問題は、どうやって彼らに近づくか、だ。一介の町人であるお初や、侍とはいえ公の仕事からは離れている右京之介には、難しい仕事といえよう。
六蔵に頼めればいいのだけれど、彼は今手一杯の状態だ。とても、掛け持ちはできないだろう。柏木はどうかと思ってもみたが、高積改役の同心では、お初たちと同じようにとっかかりどころがない。
(御前さま……)
お話してみようか、と考えていると、右京之介がちょっと声をひそめて言い出した。
「私は、これらの推論を持って、父に相談を持ちかけてみようかと思っているのです」
お初はびっくりした。右京之介の口から、父親である古沢武左衛門をあてにする言葉が出てくるなど、考えてもみなかったからだ。
古沢武左衛門は、吟味方与力のなかでも格別に厳しいことで知られている人物である。自分の母親さえ手にかけてはばからない鬼畜《きちく》のような悪党でも、彼の取り調べにあっては泣いて許しを請《こ》うほどだという。「赤鬼」というあだ名をたてまつられているのは、伊達ではない。
目をぱちぱちさせているお初に、右京之介は笑いかけた。「そうですよ、赤鬼に出てきてもらおうというのです」
「でも、右京之介さまは、それでいいのですか?」
形としてはおさまっているとはいえ、右京之介と父・武左衛門とのあいだに、わだかまりや喉につっかえるものが何もなくなっているとは思えない。右京之介が与力見習を退くとき、身体虚弱のためその任に堪えずという名目を掲げた。それが口実であることを、御番所の人びとが承知していたとは言え、与力のなかでも武張《ぶば》ったことで知られている古沢家にとっては、けっして名誉なことではなかったはずだ。
古沢武左衛門が、今どんな心境でいるのか、お初にはわからない。が、右京之介の心中なら察することができるつもりでいる。自由な道を歩きだした今になって、父親の力を頼りにするのは、彼にとって辛いことであるに違いない。
ところが、右京之介は明るい顔で笑った。
「どうして気にすることがありますか? 私は父に、町中で起こっているように推測される、ゆゆしい事態について知らせるのです。これだけのことがわかってきているのに、黙って傍観していることのほうが、父に対してずっと申し訳のたたぬことだと思います」
それに――と、声をひそめて、
「実は、父の跡を誰に継いでもらうかということの、話がまとまりそうなのです。私も気が楽になりましたが、父も同じ思いのようです。あの夏の出来事以来、父は少しく人となりが変わったようで、だからこそ私も今のような気楽な身の上になれたのですが、それでも、跡目のことは悩みの種でした」
与力や同心は、御家人のなかでもきわめて特殊な身分であり、決まりの上では一代限りの勤めだ。が、実際にはどこの家でも息子が父の跡を継いでゆく世襲の形をとっている。右京之介は古沢家の嫡子だから、彼が跡をとらねば、事実上、古沢の家は絶えてしまうことになる。
右京之介が算学の道ひと筋に歩み始めたとき、お初や六蔵など、彼のまわりを囲んでいた人びとが、いちばん心配したのもそれだった。武左衛門が隠居をしたら、あとはどうするのか。しかしそれは、町人のお初たちがやいのやいのと問いただして訊くことのできることでもない。右京之介も、何も言わなかった。彼の口から古沢家の跡目の話が出てきたのは、今が初めてのことだった。
「養子を迎えることになったのです」と、右京之介は言った。「今の私は、古沢家を勘当された身。あの家に行くときは、客分として行くのです。内々のことに口をさしはさむことはできませんし、父も詳しいことはいっさい教えてくれません。だが、父が跡を継がせたいと思う方なら間違いはないでしょうし、私も安堵《あんど》しているところです」
客分、勘当という言葉は胸に刺さったが、右京之介の顔があくまで屈託がないので、お初はほほえむことにした。
「では、鬼の古沢さまに、浅井屋にまつわる阿片の疑惑についてぶちまけて――」
「鬼がどう動いてくれるか、見てみましょう」
右京之介の話が済むと、今度はお初の番である。昨日までの出来事を順を追って報告した。
「私は、今日はまず、これから御番所に父を訪ねてみるつもりです」
話の終わりに、お初は、昨夜|寝《やす》む前に長火鉢の引き出しに入れておいたあの吹き矢の矢を取り出してみせた。
「これは、これは……」
右京之介は顔を険しくした。
「お怪我はありませんでしたか?」
「ええ。運よく、かすりもしませんでした」
問題の家を、鉄が調べに行ってくれたことを話すと、右京之介はにこりとした。
「役に立つ猫ですね」
今朝から鉄はどこにいったのか、店にも家のなかにもいないようだ。姿さえ見なければ、右京之介も、やみくもに鉄を恐れるということはないようだった。
「なんにしろ、気をつけてくださいまし。こんなものを吹きつけられて、当たり所が悪かったら、命を落としてしまうわ」
「それはお初どのも同じです」右京之介は真顔で言った。「御前には、私の方から順次いきさつをお知らせ申し上げてありますが、くれぐれも、慎重に動くようにとの仰《おお》せでした。相手は手強いぞと、繰り返し言っておいででしたよ」
ここでちょっと周囲をはばかるように見回すと、声を落として、
「娘ふたりをさらっていった、我々の追っている『天狗』の正体が、浮かばれぬ女の妄念であるということには、御前もうなずかれておられました。で、私も少し調べものをしてみようと」
「御前さまが」
「はい。昔も一度、あの種のもののけが跳梁《ちょうりょう》し、それを退治したという記録が、どこかに残っているはずだとおっしゃるのです。御前の『耳袋』にも、書いた覚えがあるとおっしゃっていました。御前なら、我々がどうやってあの魔物に対峙《たいじ》するべきか、良い手を考え出してくださることでしょう」
「わたし、鉄を御前さまに引き合わせたいと思っているんです」と、お初は言った。「それと、鉄が『和尚』と呼んでいる猫も」
右京之介は考えこむような顔つきになった。「和尚、ですね……」
「右京之介さまは、どう思われます? 和尚が、あの天狗の現れることを察知しているように感じるのは、わたしの思い過ごしでしょうか」
右京之介は、手のなかで矢をもてあそびながら、しばらくのあいだ黙り込んでいた。やがて、呟くように言った。
「猫も、魔性のものだと言われることがありますね?」
葬式のときなど、猫が死人のそばにいると「魔が憑く」などと言って、ひどく嫌う。それでなくとも、化け猫の言い伝えなどは有名だ――と思って、お初は思わず吹き出した。浅井屋に忍び込んだとき、鉄がとてつもなく大きな将棋の駒に化けたことを思い出したのだ。それを口にしてみると、右京之介も声をあげて笑った。
「そうそう、あれは傑作でした。あれ以降は、鉄はまだ、化けることはしていませんか?」
「ええ。それで幸いです。あんなところを見せられたら、うちの兄なんか、いっぺんでおかしくなっちゃうんじゃないかしら」
右京之介はそれには同意しなかったものの、笑い続けた。想像しているのだろう。
「でも、考えてみれば、あれもとんでもないことですよね」と、お初は言った。「鉄は可愛いけれど、やっぱり魔性のものの仲間なのかもしれないわ。だから、魔は魔を知るということでしょうか……」
「かもしれない。どちらにしろ、お初どのは、一度和尚に会ってみるつもりなんでしょう?」
「ええ。鉄に頼んでおきました」
「それなら」と、右京之介は微笑んだ。「お初どのの目に何が見えるか――それによって、私は考えたいと思います。お初どのの眼《まなこ》には、きっと和尚という猫の正体が映ることでしょう。ただし、気をつけてくださいよ」
お初はしっかりとうなずいた。
鉄と御前さま
階上にあがってみると、鉄二郎と捨吉が、仲良く頭をくっつけるようにして、鑿《のみ》を手にしているところだった。
「あ、お初さん」と、捨吉が嬉しそうに顔をあげた。「お初さんの下駄、できてますよ。おいらが歯を削ったんだよ」
鉄二郎が笑顔で下駄を取り出してきた。削りなおされて桐《きり》の色も鮮やかになり、鼻緒もすげ替えてあった。
「まあ、ありがとう。だけど、この新しい鼻緒はどこで手に入れたの?」
「今朝、こちらのおかみさんが朝飯を持ってきてくださったとき、お頼みしました。ほかの下駄もお直しする約束をしたら、いろいろ買ってきてくださいました」
畳の上に古くなったござを敷き、ふたりはその上で仕事をしていた。木っ端がちらちらと散っている。
お初はほっとした。鉄二郎も捨吉も元気そうだ。やはり、ぼうっとここに閉じこもっているより、何かやることがあったほうがいいのだろう。
「伊左さんは、どうしているでしょうか」
遠慮がちに、鉄二郎が言い出した。
「源庵先生が請け合ってくださっているから、心配しないで。わたしもこれから、様子を見に行ってきます。鉄二郎さんも、まだ包帯を替えたり、薬をいただいたりしなくちゃね。仕事もいいけど、無理はいけませんよ」
鉄二郎は律儀に「へい」と頭を下げた。
鉄の名前を呼びながら、お初は自分の寝起きしている座敷に入っていった。すると、窓の外でちりんちりんという音が聞こえた。格子を開けてみると、軒の上からひょいと鉄の顔がのぞいた。
「お初ちゃん、ここだよ。なんだよ、下駄なんて持って」
「鉄二郎さんに直してもらったのよ。鈴の音がするところをみると、すずちゃんもそこにいるのね?」
「うん」鉄がうなずき、続いて、いつか下駄屋でお初の頭から櫛《くし》をとっていったあの三毛猫が、小さな頭をのぞかせた。
「あらまあ、お久しぶり」お初は手を伸ばし、すずを招き寄せた。「こっちへおいで」
すずは鉄よりも小さな猫で、懐に抱き取ると、とても温かかった。
「ちょっと、和尚に会いに行ってきたんだ」座敷のなかに飛び降りながら、鉄が言った。「和尚は、いつでも訪ねてきてくれって言ってたよ。そのときに、櫛も返すってさ。すずがお初ちゃんに会いたいっていうから、連れてきたんだ」
すずがお初を見あげ、ニャアと鳴いた。
「すずちゃんは、しゃべれないの?」
「まだ子供だからね」
すずはごろごろと喉を鳴らしている。可愛らしくて、お初は目を細めた。
「いい子ね。これから鉄ちゃんには忙しく働いてもらわなくちゃならないの。だからすずちゃんは、うちにいなさい。義姉さんに言って、おまんまをもらってあげるから」
「おいら、また働くの?」
「そうよ。忙しいよ」
すずを抱いて店に降りてゆくと、思ったとおり、およしは大喜びをした。さっそくに小皿を出してきて、今朝の残りだけれどと、いわしの丸干しを載せてやる。鉄も小皿に近寄っていって、食べ始めた。
「お初ちゃんも手妻使いみたいだわねえ。懐からぽんぽん猫が出てくる」およしが言うと、加吉が皿を洗いながら笑った。
「もう一匹いるのよ」と言って、お初は鉄とすずのそばにしゃがみこみ、ひそひそ訊いた。「ねえ、和尚はあんたたちみたいに出歩かないの?」
鉄は鼻の頭にいわしのかけらをくっつけて、「寺から動かねえんだ」
「じゃあ、会いに行くとき、食べ物を持っていってあげよう」
「そりゃ嬉しいね。けど――」鉄は首をかしげた。「そういやぁ、和尚が腹をすかしてるところは見たことねえなあ。いつも満腹そうだから、おいらも和尚の食い物の心配なんかしたことなかったよ」
「お寺でご飯をもらってるのかしら」
「どうかなあ」
和尚の謎がまたひとつ増えたような気がした。ほんとに、和尚って猫なのかしら。
しゃがんでいるお初の頭の上から、
「何をおしゃべりしてるの」と、およしが笑いながら声をかけてきた。
「お嬢さんは猫とも話ができるんですね」と、加吉も言う。
「おなまな猫とだけね。さあ、鉄、腹ごしらえが済んだら出かけるよ」
鉄の首っ玉をつかんで抱き上げると、およしが心配そうな目をした。
「今日はどこへ行くの?」
「ちょっと、いろいろと。大丈夫よ、危ないことはしないから」
仕度を整えて外へ出る。上天気だった。温かい。歩き出すと、埃っぽい風に乗って、桜の花びらが一枚、どこからともなく飛んできた。
「桜の盛りも、そろそろ終わりだね」と、懐から鉄が言う。「いっしょに、厄介事も終わってくれるといいよな」
「ほんとね。終わらせなきゃ」
今日はこれからまず源庵先生に会い、深川へ回って辰三親分と話をするのだというと、鉄はフニャフニャと鳴いてみせた。
「人使いが荒いぜ、お初ちゃん」
空手で出てくるのではなかった、せめて伊左次の着替えくらい、義姉さんに頼んで持たせてもらえばよかったと、途中で思いついた。あたりを探し、古着屋に飛び込んで、病人の寝間着だからと、何度も水をくぐって柔らかくなった浴衣を二着買い込むと、急いで西川岸町へと向かった。
源庵の住まいは、堀割に面した行灯建てのしもたやで、内々のことは、通いの女中が仕切っている。五十近い、愛想のないその女中は、女中とは言っても、源庵とはただの間柄ではないらしく、したがって彼女の幅をきかせていることといったら、面憎いほどだ。そんな次第で、お初だけでなく姉妹屋の面々は、日ごろ源庵のところに足を向けることは、ほとんどない。用があるときは、源庵の方が出てくるのだ。
それだから、お初は、西川岸町の角を折れ、そろそろ源庵の家が見えてくるだろうあたりにさしかかったとき、人が列をなして並んでいるのを見て、これは何かしらと思った。どこぞの店で、安売りでもするのだろうか――と思いながら歩いてゆくと、なんとその列は、源庵の住まいの前まで続いていた。つまりは、彼に診てもらうため、順番待ちをしている患者の列だったのである。
「ごめんなさい、ごめんなさいまし」
人混みをすり抜けるようにして、源庵の家の戸口を開けてみた。入ったところは四畳半ほどの広さの土間で、中央にいろりが切ってある。その周囲には古い醤油樽《しょうゆだる》だの、脚のがたついている長腰掛だのがところ狭しと並べられ、患者たちがすし詰めになって腰掛けていた。それでも足らずに、土間にむしろを敷き、じかに座り込んでいる連中もいる。いろりの火はあかあかとおこり、人いきれもあってむっとするような暑さだ。子供は泣く、母親がなだめる、くしゃみや咳、話し声で、耳がわんわんしてきそうだ。
「なんだこりゃ」と、鉄が懐から首を出して目をぱちぱちさせた。「源庵先生ってのは、とんだ名医なのかい?」
「これほどはやってるとは、あたしも思わなかったわ」
ちょうどそこへ、奥の座敷から例の女中が出てきた。たすきをかけて太い二の腕までむき出しにして、杖をついた老人を助けてこちらに歩いてくる。相変わらずむすっとした顔で、頬は熱気で真っ赤に上気している。
それでも、お初に気づくと、がっしりとした手で老人を支えながら、
「先生は今、忙しいよ」と、丸太ん棒を投げ出すようにして言って寄こした。
「ちょっと、お会いしたいの」
声をかけておいて、お初はずんずん座敷にあがっていった。女中は不満そうに「ちょいと、あんた」と呼びかけてきたが、患者の面倒をみるのが先で、追いかけてはこない。だけど、あれでなかなか優しい人なんだと、老人をいたわるように肩をかしていた女中の姿を思い出し、お初はちょっぴり見直した。
源庵は、茹《ゆ》で蛸《だこ》のような顔で、母親の腕に抱かれた乳飲み子を診ているところだった。医師の顔色は、忙しさや熱気のせいではなく、酒のせいだと、すぐにわかった――匂いで。しかしそれでも、患者は押しかけてくるのである。
「見てのとおりだ。暇はねえよ」
源庵は、ぐずる乳飲み子の口のなかをのぞきこみながら、いっこうに忙しそうではない口調で言った。
「ほんのちょっとだけ。先生、昨日の患者さんのことで」
「俺は手が離せないよ」
酔っているくせに、源庵の手つきはたしかで、しかもとても優しいものだった。乳飲み子のほっぺたをくすぐったりしながら、なだめたりすかしたりして、口のなかをのぞき、腹をさぐり、背中をぽんぽんと叩いたりしている。
「大したことはねえ、風邪だね」と、母親に言う。「腹を下しているようなら、しばらく重湯を呑ませて、あとはあったかくしてやることだな」
乳飲み子を抱えた母親が出てゆくと、お初は急いで源庵のそばに寄った。酒の匂いが濃くなった。
「こんなにはやってる先生が、朝からお酒はよくないわよ」
「呑まねえと、身体がもたねえってことよ」と、源庵は無責任なことを言う。「おい、猫を連れて来てもらっちゃ困るよ」
「外には出さないから」お初は鉄を懐に押し込んだ。鉄がむぎゅうと言った。
「ね、昨日の伊左次さん、どうです?」
「土蔵」と、源庵はそっけなく言った。
「え?」
「土蔵に押し込めてある」
「先生んとこ、土蔵なんてあるの?」
「去年、隣の質屋が身上《しんじょう》つぶしたときに、無料《ただ》同然で買い取ったんだ。俺の寝間に使おうと思ったんだが、掃除したり片づけたりする暇がねえまま放ってあった。あんな格好で役に立つとは思わなかったな」
「伊左次さん、そこに雪隠詰《せっちんづ》め?」
「そうよ」源庵は酔っぱらいのげっぷをすると、額の汗を拭いた。「あの手の中毒は、薬が抜けるまでああして閉じこめておくより手がねえんだ。手足を縛《しば》って、自分で自分を傷つけられねえようにして、飯と水だけはやってある。三日頑張れば、出てこれるだろう」
それだけ言うと、胴間声《どうまごえ》を張り上げて、「次の人!」と呼ばわった。背中をかがめて咳こみながら、職人風の男が入ってきた。
「あたしが様子を見にいったら、いけない?」
「いけなかねえが、何にもならねえよ。野郎は今、お天道さまを見てもそれが何だかわからねえだろうから――おい、どうしたい? まだ咳がとまらねえか」
源庵はもう、次の患者に向かっている。お初はそっと後ろにさがると、さっきの女中を探した。
彼女は入り口の土間にいて、いろりに薪を足していた。そのあいだにも、待っている患者たちが、あとどれぐらいで診てもらえるかとか、苦しいから順番を繰り上げてもらえないかとか、彼女の袖を引くようにして訴えかけている。彼女の方は、それらの嘆願《たんがん》を背中ではねとばし、「順番だよ」と言いながら、診療室の方へと戻ってきた。
お初はまともに彼女と顔を合わせた。ぎろりと睨《にら》まれて、さすがにひるんだ。
「あの……」
「先生は忙しいよ」
だから、あなたに頼みがあるのよ――と言いかけて、お初は、この女中の名前を知らないことを思い出した。これまで、彼女が源庵先生の女だということだけわかっていれば用が足りたから、誰も彼女の名前など気にしてこなかったのだ。
「お頼みしたいんです。昨日、担ぎ込んで診てもらった患者さんのこと」
太い二の腕でお初を押しのけ、「邪魔だよ」と、彼女は言った。
「裏の土蔵にいるんですってね」周囲の耳があるので、お初は声を低くした。「お願い、ちょっとだけ顔を見ることはできないかしら。それと、着替えを持ってきたんです」
彼女は、ぐいとお初を振り返った。
「あんなごくつぶしは、ああして薬が抜けるまで繋《つな》いでおくしか手がないって、先生が言いなさった。死なないようにちゃんと世話は焼いてるから」
「そうだろうけど……あの患者に、見せたいものがあるの」
念のため、伊左次にもあの矢を見てもらおうと思ったのだ。
彼女は大きな頭を振ると、「見せたって、何もわからない」と言う。
「じゃ、土蔵の外から声をかけてみるだけでも駄目? 場所を教えてくれたら、あたし、ひとりで行くから」
女中はお初をねめつける。土間では人声が入り乱れている。ひときわ高く、赤子の泣く声が響く。
「あんた、通町の親分の妹だろ?」
「ええ」
「肝っ玉、据わってるかい?」
お初は思わずぐっと顎を引いた。「結構据わってるつもりよ」
彼女は突っ立ったまま大きな腕で自分の胸を抱えていたが、水をかけられたみたいにまばたきをすると、
「じゃ、ついてきな」と言った。
土蔵は家の裏手にあった。彼女は先に立ってぐいぐい進んで行く。
勝手口を出てすぐ左に折れる。と、細竹を縄でくくってつくったらしい、崩れかけの垣根の向こうに、土蔵の屋根がそびえていた。潰《つぶ》れてしまったという隣家の質屋は、かなり大きな身代《しんだい》を持っていたのだろう。土蔵と言っても、源庵のささやかな行灯建ての住まいとおっつかっつの大きさの、立派なものだった。
源庵の家の女中は、がっきりと錠前をかけ閂をおろしてある土蔵の扉の前を通り過ぎると、お初を手招きした。土蔵の脇腹の高いところに、壁を壊して開けたのだろう、窓がつくってある。木の格子《こうし》がはめてあり、内側には障子が貼ってあった。
その障子が、ぼろぼろに破れている。古びて破れたのではなく、誰かが手で破ったように見えた。
「この窓は、これを買ったときに先生が開けなすったんだ」と、彼女は言った。「寝間にしようとしていたからね。障子はあたしが貼った。まだ、貼ってから半年と経ってないよ」
「でも、ひどい破れ方……」
「そうさ。だから、よく聞いてごらんよ」
彼女よりもずっと小柄なお初は、窓の下の桟《さん》にやっと頭が届くくらいだった。背伸びするようにして耳を澄ました。と、なかから、犬が唸るような声が聞こえてきた。
お初は彼女の顔を見あげた。
「あれが伊左次さん?」
彼女は、たっぷりした顎に二重のしわを刻んで、重々しくうなずいた。
「それでもまだ、今朝はましな方さ。夜中はひどかった。暴れ回ってね」
「じゃ、この障子も」
言いかけたとき、目の上のその障子紙を突き抜けて、いきなり右手が飛び出してきた。格子がはまっているので、手首のところまでしか出ない。が、お初は思わずうしろに飛び下がった。
「誰か、誰かそこにいるのかい?」
乾ききって割れた、男の声がした。お初は、伊左次の声はほとんど耳にしていない。だから、それが彼の声であるかどうか、すぐには聞き分けることができない。いやそれ以前に、こんなすさまじい声が人の声であるということさえ信じられない。
「おい、頼むよ、そこの人、そこにいる人、いるんだろう?」
酔っぱらいのそれのように調子外れで、濁《にご》りきった声。格子の隙間から外に差し伸ばされた手。見守るうちに、破けた障子紙を押し分けるようにして、左手も飛び出してきた。両手の指が空をかきむしり、奇怪なまじないでもかけるかのようにうごめいている。
「頼むよ、俺を外に出してくれ。後生だ、ここから出してくれ。出して先生と話をさせておくんな。先生に薬をもらわねえとならねえんだ、お願いだ――」
伊左次は嘆願を繰り返す。手が格子をつかみ、揺り動かそうとする。
「先生と会わせてくれなんて、まともなことを言ってるように聞こえるだろう?」
女中は、平たい顔でお初を見おろした。
「けどね、これであんた、あの人の顔を見てごらんよ。まるで獣だから。目が黄色く濁っちまってて、口の端からよだれをだらだら垂らしてさ。言うことといったら、先生薬をくれ、煙草をくれ、そればっかりだ」
お初は両手で身体を抱くようにして、二の腕をこすった。懐のなかの鉄は、両耳をぴんと立てて、土蔵の窓から飛び出した人の手首を見つめている。ぴくん、ぴくんと、鉄が震えるように鼻面を動かしているのを、お初は感じた。
「昨日、ここへ連れてきたときには、伊左次さんはこんなふうじゃなかったわ」と、お初は言った。「むしろ、口をきくことも動くこともできない病人みたいだった」
「それが、阿片の中毒ってもんさ」
大きな手で着物の裾のあたりをはらいながら、女中は言った。伊左次は格子をつかんでわめき続けている。そこから目をそらすために、汚れてもいない着物をはたく仕草をしたように、お初には見えた。
「薬が抜け始めのときは、ぐったりして、瘧《おこり》にかかったみたいに震えている。話しかけてもぼんやりして、半分眠ってるみたいに見える」
「ええ、そうだった……」
「けど、そういうのはまだまだ最初のうちでね。もっと薬が抜けて、せっぱ詰まってくると、次には暴れ出す。今までぐったりしてた病人の、いったいどこにこんな力があったんだろうって思えるくらいさ。あたしは以前、そういう患者が、ひと抱えもある焼き物の火鉢を、六畳間の端から端まで投げ飛ばしたのを見たことがあるよ」
伊左次の手が格子をつかみ、揺さぶりだした。お初たちの声が聞こえるのだろう、おおい、そこの人、助けてくれと呼びかけてくる。「おとなしくおしよ」女中が、不意に顔をあげて怒鳴った。「助けてやろうとしてるじゃないか」
こんなところに閉じこめられてちゃ、死んじまうよ――伊左次は泣きわめき始めた。
「本当に、今外に出したらいけないの?」
濁声《だみごえ》の懇願に、心の底の方をゆすられる気がして、お初はそっとうかがうように彼女の目を見た。彼女はキッとこちらを見返すと、土蔵の扉の方に顎をしゃくり、
「なんなら、開けてみるかい? 開けたらあいつは外へ飛び出して、邪魔だてするもんは人だろうと物だろうと壊したり投げ飛ばしたりして、まっしぐらに先生のところへ行くだろうよ。そうして、先生の首っ玉をつかまえてねじ上げて、薬を出せって騒ぐだろう。先生が断われば、殺してでも薬を盗るだろう。あれはもう、人間じゃないんだ。憑き物につかれたのと同じだよ」
突き放すような彼女の言葉が聞こえたのか、土蔵のなかの伊左次は、突然懇願を止め、怒り狂い始めた。
「このあま、やい、聞こえているんだろう、ここから出しやがれ」
格子を両手でつかみ、身体を持ち上げようとしているらしい。伊左次の頭のてっぺんが、破れた障子紙のあいだにちらちら見える。両手で格子を揺さぶったり叩いたり、挙げ句には土蔵の壁を殴り始めた。
「あんなことをしたって、無駄さ」と、女中は鼻で笑った。「造りの頑丈な土蔵だからね」
「格子は持つかしら?」
薬欲しさの馬鹿力で、土蔵の壁からむしりとってしまうのではないか。お初は心配になった。
「そりゃ、大丈夫だよ。あたしが付けたんだもの」と、女はごつい顔に笑みを浮かべた。「並みの男にゃ壊せやしないよ」
気が済んだかい、と言って、先に立って勝手口の方へ戻り始める。もう充分であったので、お初もそれに続いた。
土蔵のなかの伊左次は、ふたりが立ち去る足音を聞きつけたらしい。また懇願調に戻った。泣き始めている。
「お願《ね》げえだ、こんなところに置いていかないでくれよお……」
振り向かずに、お初は勝手口まで戻った。何も言わずに、彼女が柄杓《ひしゃく》に水をくんで差し出してくれた。受け取って、冷たい水を飲み干す。ほっとした。そこでやっと、伊左次を哀れと思う気持ちがわいてきた。
「治《なお》るでしょうか……」
女中は、自分も柄杓で水を飲みながら、素気《そっけ》なく首を振った。
「わかんないよ。先生は、なんとかなるだろうって言ってるけどね。あそこまで行っちまうと、運次第だ」
「あなたは、ああいう患者をたくさん知っているの?」
先ほどからの彼女の態度や口振りからは、阿片中毒に陥《おちい》った患者を扱い慣れた様子がうかがえる。源庵の情婦というだけで、素性の知れない、また素性を知る必要もなかったこの女に、お初はちらりと興味を持った。
彼女は柄杓を片づけ、水瓶に蓋をして、濡れた手を、男みたいな雑な仕草で、袂にこすりつけた。それから言った。
「たくさんは見てない。でも、じっくり見たよ。あたしのおとっつぁんが、あれで死んだからね」
お初は言葉を飲んだ。鉄がまた、ぴぴぴと耳を動かした。おかげで、顎がくすぐったい。
彼女は、それを見て笑った。「あんた、いつもそんなふうに懐に猫を突っ込んで歩いてるのかい?」
「今だけよ」お初も、ちょっと笑った。なるほど、おかしな格好に見えるだろう。「先生の迷惑になるといけないから」
「あたしゃまた、新しい流行《はやり》ものかと思ったよ。生きてる猫の襟巻《えりまき》だ」
気を呑まれているのか、さすがの鉄も、女の言葉に地口《じくち》を返そうとはしなかった。首をひねってお初を見あげている。お初は、その頭をぽんと叩いて懐に押し込んだ。
土蔵の方では、ようやく諦めたのか、伊左次が騒ぎ立てるのをやめたようだ。お初はほっと息を吐いた。
「さっきも言ったけど、伊左次さんに見せたいものがあったんです。あの人が、普通に話をすることができるようになったら、知らせていただけますか」
彼女は、太い両腕を腰にあて、うなずいた。「そこまで漕《こ》ぎ着けたら、ね」
どうぞお願いしますと頭を下げて、お初は土蔵を後にした。
何日間か、新しい動きも発見もない日が続いた。
お初としては気がもめるが、持ち前のせっかちで短気を起こしてはいけないということも、そこそこ判ってきている。ぐっとこらえて、こういうときは商いで頑張るに限る。実際、お初よりも、牛込《うしごめ》の古着店で、あてもないままに武家娘が現れるのを待って張り込んだり、彼女を見知っている古着屋がいないかどうか聞き歩いたりしている六蔵たちの方が、よっぽど気がもめているに違いない。しかし、謎の小袖と武家娘については、古着店しか手がかりがないのだから、やはり辛抱《しんぼう》するしかないのである。
御前さまからは、右京之介を通して、巻紙の長い手紙を頂戴《ちょうだい》した。お初に読みやすいよう、優しいひらかなをたくさん使って書かれたものだ。浅井屋と阿片の件は、安心して右京之介に任せておくように、また、天狗を退治する術については、古い文献や聞き書きを調べているのでもう少し待つように、そして、「和尚」には、ぜひとも御前さまもお初と一緒に会いに行きたいというようなことが書いてあった。和尚の存在は確かに謎めいている、あれもまたただの猫ではないかもしれぬ、危険とは思えぬが、うかうかとは近づかないように――と。お初はそれらのことを深く心に留めて、読み終えた手紙は神棚の上にあげておいた。
さて、気を張りつめている兄の様子を見ながら、お初が下駄屋で矢を射かけられたことをうち明けると、六蔵は真っ赤になって怒り、すぐに山本町の空き家を調べにいったが、収穫はなかった。空き家はただの空き家だ。
「何だっていうんだ、いったい」と、六蔵はまた怒る。「誰がお前を狙うんだ? 浅井屋か?」
「落ち着いてよ、兄さん。浅井屋とは思えないわ。あの人たちが、あたしのことを知るはずはないもの。それにね、念のために、鉄二郎さんにあの矢を見てもらったけれど、浅井屋の氷室に閉じこめられているときに、誰かがあんなものを使っているところを見たこともないって」
「伊左次はどうなんだ? あいつは何か知ってるかもしれねえ。どうも腹のわからねえ奴だから」
そういう次第で、お初は頻繁に、伊左次の様子を聞きに源庵の家を訪ねた。いつも源庵は忙しく、彼の助手で賄《まかな》い役のあのぶっきらぼうな女中は、あいかわらずちっとも親しんでくれなかったけれど、伊左次のひどい狂乱はおさまりつつあるらしいことが、お初を喜ばせ、安心させた。一日に二度、三度と足を運んで、着替えや食べ物を差し入れるように心がけた。
ある午後、そうやって訪ねていくと、ちょうど伊左次が源庵の診察を受けているところに出くわした。
お初は驚いて、着替えの包みを抱えたまま、ちょっと棒立ちになった。伊左次がもう、あの蔵から出られるほどにまで回復しているとは思わなかった。
「よう、お初ちゃんか。ちょうどいいところに来た」源庵は、伊左次の額に手を当てて彼の目の奥をのぞきこんでいたが、お初の方に顔を向けてにやりと笑った。「そら、地獄巡りから帰ってきた男だよ」
伊左次はゆっくりとお初の方に首を巡らせた。いっそうひどく痩せこけて、二の腕などほとんど骨ばかりだ。背中を丸め両肩を下げて、惨《むご》いほどに老け込んでいる。
しかし、お初の方に向けられた両目――そしてその顔の表情は、確かに今までと違っていた。四、五年前、日本橋の東端の方の長屋でころり[#「ころり」に傍点]が出て、姉妹屋の長い馴染《なじ》みのお得意客がこれにかかった。およしが自分の身の危ないのにもかまわず看病に通い、幸い命を拾うことができたが、もう大丈夫だというときの病人の顔が、やっぱり今の伊左次と同じような顔だった。死神の手のなかの鎌が首筋をかすめて通り過ぎるのを感じながら、やっとこさ明るいところまで逃げ戻ってきた者の顔だ。
「伊左次さん、よかったですね」
やっと、お初は声をかけた。伊左次は黙って頭を下げた。
「まだ寝ていないとまずいがな。もう、暴れ馬みてえな騒ぎを起こす気遣いはねえ」源庵はしかし、ここで厳しい顔をした。「だがな、こいつにとっちゃ、本当はこれからが大変なんだ。二度と阿片に近づかないように、自分を律していかなきゃならねえからな」
お初は伊左次の顔を見守った。彼は寝間着代わりの浴衣《ゆかた》をのろのろと身につけると、源庵に助けてもらって立ち上がった。そのとき、彼のぼうっとした視線が、お初の足元に来た。
「お……」と彼は口を開いた。
「なんだ?」と、源庵がのぞきこむ。
「お……お嬢、さん」
お初はびくりとした。伊左次さんがあたしに話しかけてる。「はい?」
「下駄」伊左次は骨と皮ばかりの右手をあげて、まだ戸口に突っ立ったままのお初がはいている下駄を指さした。「その下駄」
お初はあわてて、ちょっと足を持ち上げてみる。「ええ、この下駄がどうかしたの?」
「鉄二郎が、直したね」と、伊左次は言った。
お初はびっくりした。そういえば、今はいているこの下駄は、お初には履き癖があると言って、鉄二郎が削り直してくれたものだ。そのとき鼻緒もすげ替えてもらった。
「ええ、そうよ。判るんですか?」
伊左次はゆるゆると首を振り、お初の問いに答えるというよりは、独り言のように呟いた。「あいつは、いつも、左の鼻緒を締めすぎるんだ。かんなも、もうひとかけすれば、歩きやすいのに」
それだけ言うと、なぜだか急に悲しそうに首をうなだれて、土蔵の方へ帰ろうとした。源庵があわてて肩を貸し、彼を支えて連れ去った。
姉妹屋に戻ると、鉄二郎がまた捨吉に教えながら下駄を直していた。お初はさっそく、伊左次が土蔵から出られるようになったことを報せた。そのうえで、彼がお初の下駄を指して言った言葉を伝えてみた。
鉄二郎は顔をくしゃくしゃにした。「伊左さん……」
「伊左さんは、親方の次に腕がいいんだよ」と、捨吉が言った。お初は彼の頭を撫でてやった。
その日の夕暮れどきのことである。お初が店で立ち働いていると、のれんをくぐって源庵が入ってきた。あら先生、今日は煮物が美味《おい》しいよ――と声をかけようとしたお初だが、医師の怖い顔を見て口をつぐんでしまった。
「実は、伊左次を連れてきた」と、源庵は他の客をはばかって声をひそめた。「親分やお初ちゃんや、鉄二郎たちに話したいことがあるそうだ。家の方に連れていったから、会ってやってくれねえかな」
お初は急いで家に戻った。牛込から戻ってきて夕飯をかきこんだばかりの六蔵と、伊左次が向き合うようにして座っている。伊左次の隣には、源庵の家の女中が、しんばり棒のように彼を支えてどかりと座りこんでいた。
鉄二郎と捨吉は、転がるように階段を降りてきた。伊左次を見つけると、鉄二郎の顔が壊れた。
「ああ、良かった」と、泣くような声で言った。「良かった、良かった。このうえ伊左さんにも死なれちまったら、俺はどうしようかと……」
あとは嗚咽《おえつ》になってしまって、言葉が続かない。捨吉もべそをかいている。
「お話が……あって参りました、親分さん」伊左次はひとつ深く頭を下げてから、六蔵に向かって切り出した。
「うん」と、六蔵は短く合いの手をいれた。その目はしっかりと伊左次を見据えている。
「もうご存じと思いますが、あっしは阿片中毒です。いえ、中毒でした。これを限りに、もうすっぱりとやめる覚悟ですから」
ニャアという声がして、鉄がお初にすり寄ってきた。お初は彼を抱き取って膝に載せた。
「なんだい、なんだい?」
「しい、黙って」
まだすらすらとは話せないのか、伊左次は軽く咳き込んだ。それがおさまってから、ようやく言った。「あっしが……阿片を始めたのは、去年のそう……梅の花が散るころでした。本所|南割下水《みなみわりげすい》に行きつけの居酒屋がありまして……そこで知り合った男に、気がふさぐときにいい薬だって勧められたのが始まりです」
「気がふさぐとき?」六蔵が、確かめるように繰り返す。
「へい。あっしはこのとおり、もういい歳です。生来の不器用もんで、下駄づくりの修業に手間がかかって、結局所帯も持たず、子供もいねえ。ときどき、どうにも寂しくて仕方なくなることがあるんです。それで……」
鉄二郎が小さく言った。「伊左さんは、不器用ものなんかじゃねえよ」
「いや、不器用なんだ。それは親方も言っていた」伊左次は首を振り振り、静かな低い声で続けた。「阿片は高い薬ですが、あっしにはそこそこ蓄えがあったので……なにしろ、今までは使い道がありませんでしたからね。あっしは酒もほとんど飲まねえし、博打には手を出したことがなかった」
「うん。だが、蓄えなんてあっという間になくなっちまったろう?」
「ええ。居酒屋の男からずっと買っていたんですがね、そりゃもう、どんどん金が出ていく。蓄えは、春の雪がお天道さまに照らされて消えるのと同じくらい、やすやすとなくなっちまいました。けども、あっしはもう阿片をやめることができなかった。何とかして手に入れなくちゃならねえ。そしたら、そんなあっしの様子を見ていて、居酒屋の男が言うんですよ」
――おめえ、俺を手伝ってみねえか? 阿片を運ぶのを助けてくれれば、格安で売ってやってもいいよ。
伊左次はさらに深くうなだれて、顔が畳の方を向いてしまった。そのまま続けた。「あっしは承知しました。阿片を手に入れるためなら、どんなことだってやるつもりだった」
伊左次が誘いに飛びつくと、居酒屋の男は、伊左次を彼の元締めだという男に引き合わせた。
「小名木《おなぎ》川沿いの船宿で、こっそり会いました。あっしと同じくらいの年格好の男で、町人髷でしたが、身なりもよくって、阿片売りの元締めとは思えないような、ちょっと見たところはちゃんとした商人風の男でした」
「名前は?」
「留造《とめぞう》と呼ばれていました」
留造という元締めは、伊左次が下駄職人であることを知っていた。
「それで、下駄職人のあっしだからこそできることがあるというんです。下駄の――鼻緒のなかに阿片を仕込んで持ち運べるようにするってことで」
一同は唖然とした。
「鼻緒……」と、お初は呟いた。右京之介が、阿片はべたべたした泥のようなもので、どんな形にでも整えることができると言っていたことを思い出した。
「あっしは引き受けました。おやすい仕事です。もちろん、親方や鉄二郎が一緒のときにはできないけども、ひとりで夜なべをするのはよくあることだったし、親方からもあっしの分の仕事はもう完全に任されていたので、疑われたことはありません。受け渡しには符丁を決めておいて、居酒屋の男や、留造の手配で差し向けられた女たちが、下駄をなおして欲しいと預けに来たり、鼻緒をすげ替えてほしいと持ってきたりしたときに、うまくやるんです」
「なるほどな」六蔵は煙管を手に、くるくると器用に指のなかで回した。「そのまま運んでいれば、おめえも幸せ、阿片売りも幸せと、万事よろしかったな」
「へい、そうです。とんでもねえ間違いだったけれど、そのころのあっしにはそれが判らなかった。毎日、なんだかえらくいい気分でした」
鉄二郎が首を振っている。日々一緒にいながら、伊左次のそんな一面にまったく気づくことのなかった自分を責めているようだった。
「そんなふうなことで過ごしていて――秋口だったでしょうか、ふってわいたように、お嬢さんの縁談が起こったんです」
浅井屋への嫁入り話だ。
「もっとも、親方やお内儀さん、あっしたちにとっては突然の縁談だったけれど、お嬢さんと浅井屋の松次郎さんは、しばらく前から恋仲になっていたんです。松次郎さんがお嬢さんにひと目惚れして、熱心に口説《くど》いて口説いて口説き落として……。話はすぐにまとまって、お嬢さんは浅井屋に縁付くことになりました。お内儀さんはもう大喜びで、支度に駆け回って、そりゃ大変だった。あっしも、いろいろと遣いを頼まれたりして、お嬢さんのためだと思うと楽しかったんですが……」
伊左次は、痩せた喉を震わせてごくりと唾を飲んだ。
「お内儀さんに頼まれた手紙と菓子折を持って、浅井屋に挨拶にいったとき、他でもねえ元締めの留造が、愛想のいい顔をてらてらさせて、浅井屋の帳場できりきり働いているのを見たときには、心の臓が停まるかと思いました」
一同も、再び沈黙した。お初の膝の上で鉄が「ふう」といって背中の毛を逆立てた。
「あっしは仰天して、口をぱくぱくさせちまいましたよ。だけど、あとで留造と会うと、野郎は笑っていやがるんです。何もびっくりしなくてもいいじゃないかなんて言ってね。あっしは野郎を問いつめました。阿片を売っている元締めの総元締めは、浅井屋なのかって。留造は悪びれもせずに教えてくれましたよ。そうだよ、大きな商いだってね。あっしは……お嬢さんがそんな家に嫁にいくなんて堪《た》えられなかった。だけど、どうしようもねえじゃないですか。留造はにやついて、大丈夫だよ、松次郎さんは阿片などやっていなさらないからと言うんです。おめえ、このことを政吉に話すつもりかい? でも、話せばまずはお前がお上《かみ》にとっつかまって、ご禁制の薬を売った咎《とが》で獄門だよ、そんな阿呆な真似はしないで、これからもうまくやろうじゃないか――そう言われて、あっしは動きがとれなくなっちまった」
浅井屋は、阿片のことが政吉に知れないよう、くれぐれも気をつけろと伊左次に念を押した。
「親方には、脅しつけて黙らせるなんて手が通用しませんからね。でも、それもお嬢さんが浅井屋にお嫁に入るまでのことだ。お嬢さんが嫁にいってしまったら――」
「人質だな」と、六蔵は言った。伊左次はぐったりとうなずいた。
それから先の運びは、先にお初たちが考えたとおりだった。政吉の動きにだけ気をつけていた浅井屋は、おあきが神隠しにあって行方知れずになると、にわかにあわてだし、先回りして突っ走り、倉田主水を担ぎ出したのだ。
「倉田主水は、阿片にはかんでいないのかい?」
六蔵の問いに、伊左次はちょっと首をかしげた。「あっしは、元締め役の留造しか知らないから、そのへんのことはよく判りません。でも、かんでいないんじゃねえかと思います。もしかんでいたのなら、浅井屋だってもうちょっと大胆に動き回れるでしょう。御番所内に味方がいればね。ただ、浅井屋が何かもめ事に巻き込まれると、すぐに倉田の旦那をあてにしていたことは確かです」
「困ったことに、身内だからな」
六蔵は言って、煙管をまたくるくる回す。
「おめえの話はよく判った。おかげで、はっきりしたことが――」
そのとき、風が空を切るひゅうという音がして、六蔵の手のなかの煙管がはじき飛ばされた。煙管はくるくる回りながら壁にぶつかり、その壁へ何かがぶすりと突き刺さった。
あの矢だ!
「危ない! みんな伏せて!」
皆、前後を忘れて畳の上に突っ伏した。六蔵は行灯の火を吹き消した。そこへ二の矢が飛んできて、お初の頬を危ういところでかすめて過ぎた。
「窓の外だぜ!」鉄が叫ぶと、ひらりと身を躍らせて外へ飛び出した。
「鉄、今度こそとっつかまえて!」
「わかってら!」
返事は、矢が飛んできた窓の外の、どこか高いところから聞こえた。続いて、鉢植えが地面に落ちて割れたときのような音が響く。
さらに三の矢だ。暗がりのなかで、鉄二郎があっと叫んだ。ついで、「伊左さん!」と捨吉が泣き声をあげる。「伊左さんに当たっちまった!」
ほかのどんな感情をも圧倒して、怒りがこみ上げてきてお初を飲み込んだ。両手で力いっぱいばしんと畳を叩くと、
「こんちくしょう!」と叫び、跳ねるようにして起きあがった。素早く壁際に身を寄せ、窓から下を見おろす。加吉が外へ飛び出した。店の中にも矢が射かけられたのか、悲鳴や怒声があがっている。それを制するような朗々とした声で、加吉は呼ばわった。「ご近所の皆さん、その場を動いちゃいけねえ、そこで頭を低くしてください!」
とたんに、加吉目がけて矢が飛んできた。彼は猫のようにひらりと飛んで身をかわした。お初は仰天した。加吉にあんなことができるとは知らなかった。
「お初ちゃん、大丈夫?」およしが駆け上がってきた。
「義姉さん、危ない伏せて!」
怒鳴ったところにまた矢が飛んできた。およしの袖を貫き、音をたてて戸口の柱に突き刺さった。袖をとられて一瞬宙ぶらりんになったおよしは、きゃっと叫ぶと腕を引き、袖を破ってその場にしゃがみこんだ。
「義姉さん、伊左さんと捨坊をお願い。兄さん、ここは任せるわ!」
「おめえはどうするつもりだ?」
お初は毒づいた。「くそったれ、絶対に捕まえてやる!」
飛ぶようにして廊下に戻ると、階下に駆け下り、台所で最初に目についた太い麺棒をつかむと、お初は外へ走り出た。加吉が勝手口の脇で膝を付き、様子をうかがっている。
「お嬢さん、そんなもんを持って」
お初の手の麺棒を見て、加吉が呆れ顔をした。そういう彼の手にも、勝手口用のしんばり棒がしっかりと握られている。
「そいつを折っちまわないでくださいよ。得意の茶蕎麦《ちゃそば》がつくれなくなる」
「新しいのを買いましょう」手のなかで麺棒を握り直しながら、周囲を見回した。「矢はどこから――」
言い終えないうちに、まるで返事のように新たな吹き矢が飛んできて、加吉のかがんでいるすぐそばの羽目板に突き刺さった。彼はぴくりと眉を動かしただけだった。
「どうやら、あの窓です」加吉の口の端に薄い笑みが浮かんでいる。「鉄がすっ飛んでいきましたからね。野郎、足止めをくって逃げられなくなっちまってるんでしょう。それであんなふうに矢を吹きまくってるんです」
加吉の指したのは、姉妹屋のすぐ裏手にある鰻屋《うなぎや》の二階の座敷の窓である。ご近所のことなので、お初たちも何度かあがったことのある座敷だ。姉妹屋とその店を隔てる細い路地に面している側の窓からは、こちらの二階がよく見えた。入れ込みではなく、それぞれが独立した座敷になっているから、入ってしまえば何をしようとわからない。客のふりをしてあがりこみ、窓からこちらを狙い、用が済んだらさっと逃げだそうという算段だったのだろうが――
「鉄はどうやって足止めしてるのかしら」
「わかりません。しかし、こうやってこっちに矢が飛んでくるところをみると――」
そこへまたひとつ、新しいのが飛んできた。お初と加吉は首をすくめた。矢は勝手口のなかに飛んでゆき、瓶《かめ》にでもぶつかったのか、ごつんというような音がした。
「もうそろそろ、矢の数も尽きるでしょう」
「あたしがあいつの気を散らすから、加吉さん、鰻屋さんの方へ近づいていってみて」
「そいつは逆だ。あっしが囮《おとり》になりますから、お嬢さんが前に。あの生け垣のところまで走るんですよ」
言うが早いか加吉はさっと立ち上がり、勝手口から出て横へ走った。彼を追って吹き矢が飛ぶ。きわどいところでそれを避けながら、加吉は走る。お初はそれを横目に、路地の仕切の生け垣まで突っ走った。
生け垣にとりついて顔を出してみると、鰻屋の人びとが、てんでにその場にしゃがみこんだまま、目を丸く見開いているのが見えた。炭火の上から煙がぼんぼん立ちのぼっている。
お初は手を振って鰻屋の主人の視線をとらえると、その場にじっとしているようにと合図した。主人も客たちも、お運びの娘も、ものに魅入られたみたいにうなずいて、しゃがんだまま肩を寄せあった。炭火から立ちのぼる煙はどんどん濃くなり、それが路地の方にまで流れ出てくる。
「あんた、逃げ場はないわよ!」お初は鰻屋の二階の窓に向かって声を張り上げた。「おとなしく出てらっしゃい!」
刃向かうように、吹き矢がお初に向かって飛んできた。生け垣に突っ伏して避けた。間近でひゅっという音がした。顔をあげてみると、鰻の煙幕《えんまく》のなかを、加吉が路地を走って横切って行くのが見えた。
と、そのとき、例の窓の障子が開き、そこからひとりの男が飛び出してきた。勢いをつけて敷居をまたぐと、ひさしに飛び降り、屋根の羽目板をがたがたと踏み鳴らしながら横へ走る。驚くような大男で、尻はしょりした着物の裾からのぞく足は、ちょっとした切り株ほどの太さがあった。右手に、太い竹筒のようなものを握っている。あれが吹き矢だ。
「加吉さん!」と叫び、お初も生け垣から飛び出した。「あいつが逃げる!」
加吉は路地の真ん中で足を踏ん張ると、頭上を見あげた。ひさしの上の大男が、竹筒を加吉の方に向けて身構えた。加吉はひるまず、大男が吹き矢に口をつけるより一瞬早く、男目がけてえいとばかりにしんばり棒を投げつけた。大きな槍《やり》のように半弧《はんこ》を描いて飛んだしんばり棒は、それを避けようとしてあげた男の右手に当たった。棒はそこで勢いを失い、縦になって男の身体にぶつかった。足場の悪いひさしの上で棒と抱き合うようになって、男はよろりと足を滑らせた。
「うわあ!」
野太い叫び声と共に、男が地面に落ちてきた。土埃をあげて、鰻の煙幕の真ん中に落下する。お初は阿修羅《あしゅら》のようにすっ飛んでゆくと、もがいて立ち上がろうとする男の背中に、これでもかとばかりに麺棒を打ちつけた。男はぎゃあっとわめいて突っ伏した。
駆けつけてきた加吉が、男の傍らから竹筒の吹き矢を蹴り飛ばした。
「おおい、危ないぞ!」
頭上で声がした。はっと見あげたお初の目に、空をふさぐような真っ黒で大きなものが飛びこんできた。ごろごろと音がする。それは男が飛び出してきたあの窓から転がり出てきたのだった。
「お嬢さん!」
加吉に腕をとられ、一緒に横っ飛びに飛んだとき、真っ黒な大きなものが、あの男の真上に落ちてきた。さすがの大男も、べたりと下敷きにされ、差し伸ばした腕で二、三度宙をかきむしると、やっと静かになった。
転がり落ちてきた大きなものとは、陶製の狸《たぬき》の置物だった。大どっくりを下げて笠《かさ》をかぶっている。
「なんだ、こりゃ」
さすがの加吉も、唖然と口を開けている。お初も声が出せなかった。彼らの目の前で、大狸の置物はくるりと路地に転がった――と思った次の瞬間には、ますます濃くなる煙のなかで、そこに鉄が丸まっていた。
「痛《い》てぇ〜」
目をつぶって身体を堅くしている。
「こいつ、岩みてえにごつい身体をしてるよ」
「鉄!」
駆け寄って抱き上げると、鉄は目をしばしばさせた。
「なんだよ、この煙は」
恐る恐る、鰻屋の主人が路地に出てきた。片手に団扇《うちわ》を握ったまま、ぽかんと口を開いている。
「今のたぬ、たぬ、狸――」
事情は悟ったものの、まさかこの猫があの大きな狸の置物に化けて賊の逃げ道をふさいでいたんですと話すわけにもいかず、お初は顔いっぱいに笑ってごまかした。
「お怪我ありませんでした、おじさん」
「お初ちゃん……」
鰻屋の主人は姉妹屋の面々とは懇意《こんい》である。六蔵のお役目柄、ぶっそうなことがあるかもしれないということも承知している。が、今はあまりのことに、空いた手で目をこするばかりだ。
「あの狸の置物は、うちの階上の座敷の飾りものだけど――」
それで、とっさに鉄がお手本にすることができたのだ。
「でも、あんなでっかいものじゃない」
「なんですかしらね、煙でよく見えなかったわ」と、お初は陽気に言った。「ご迷惑をかけてすみません。捕り物は済みました。おじさん、早く鰻をどうかしないと、丸焦げよ」
え? ありゃ、こりゃ大変だなどと呟きつつ、頭をひねりながら鰻屋の主人は店のなかに戻ってゆく。お初は鰻屋の客たちや、路地のとっつきで怖々《こわごわ》こちらをのぞきこんでいる通行人たちに丁寧に頭を下げた。一方加吉は、布団でも扱うような無造作な感じで、倒れて気を失っている男の首っ玉をむんずとつかみ、姉妹屋のなかに引きずっていこうとしていた。
様子を見ていたのか、六蔵とおよしが勝手口から走り出てきた。お初は義姉の手に鉄を抱き渡すと、急いで加吉を手伝った。
「お嬢さん、吹き矢をお願いします」
言われて、お初は竹筒を拾いに走った。筒の先に、さっき加吉に向けて吹きかけようとしていた矢が残されていた。間違いなく、下駄屋で吹きかけられたのと同じ、あの矢だ。
――どうして、ここがわかったのだろう? やはり、どこかから尾けられていたのだろうか。このところ、あたしは家にいることが多かったのに――
家に戻り、二階に駆け上がると、源庵とあの無愛想な女中が伊左次の手当をしているところだった。「何しろまだ半病人だからな、よけきれなかったんだろう。右肩に当たっちまった」
源庵は、血に染まった手ぬぐいで伊左次の肩を押さえていた。
「違うよ、違うよ」捨吉が、源庵のそばで泣きじゃくっている。「おいらがひょっこり頭をあげたら、そこに矢が飛んできたんだ。伊左さんは、おいらをかばって矢に当たっちまったんだ」
「もういいよ、泣くんじゃねえ」鉄二郎が捨吉を慰めている。
「先生、この矢には、毒が塗られているかもしれないの」惣助の亡骸の様子を思い出し、お初は急いで言った。
源庵は舌打ちした。「それだと、急がなきゃならねえな。野郎を締め上げて、何の毒だか聞き出してくれ。おい、おめえはうちへ走って、薬箱を持ってきな。動かすとそれだけ早く毒が回るから、伊左次はこうして寝かせておくしかねえ」
無愛想な女中は、源庵の指示に駆け出していった。源庵は手ぬぐいで伊左次の肩をしめつけている。
「血の流れを止めるんだ。おい、鉄二郎、手伝ってくれ。捨吉、おめえは泣いてるだけならあっちへ行きな」
お初は捨吉を廊下に連れ出した。ちょうど加吉が隣の座敷から出てくるところだった。
「賊は縛《しば》り上げておきました」と、けろりとした顔で言った。「茶巾絞《ちゃきんしぼ》りを絞る要領で縛ったから、ちょっとやそっとじゃ抜けられません」
「加吉さんてば、兄さんより捕り物に向いてるかもしれないわ」
加吉はまんざらでもなさそうな顔だ。「さて、わたしはお客さんたちの面倒をみなくては。捨坊、わたしとおいで。なに、源庵先生がいなされば、伊左次さんは大丈夫だよ」
お初は隣の座敷へとそっと足を踏み入れた。とっつきのところに青い顔のおよしがいて、鉄を抱きしめていた。
「義姉さん」
「鉄が耳を切ったようよ。膏薬《こうやく》をつけておいたから」
「おいら、痛かったんだからよ」と、鉄が甘えた。
六蔵がおよしの脇に立ち、懐手をして考え込んでいる。さて、捕らえた男をどこから責めようかと算段しているのだろう。
「文吉を走らせて、古沢さまにお知らせした。そろそろ、やってきなさるだろう」
「古沢さまって……」
「お父上の方だ」と、六蔵ははっきり言った。「右京之介さんからとりなしてもらってある以上、このへんで包み隠さずお話した方がいいだろうと思ったんだ」
加吉のとりなしで、店の方はおさまったようだ。
およしが店は任せておいてといいながら急いで降りて行った。
吹き矢の男は目を覚まし、縛られた両腕や足をばたばたさせてみたり、ごろりと転がるようにして身体を動かそうとしてみたり、空しい試みをしていた。お初は座敷の障子の脇に立って、六蔵がのしのしと男に近づいてゆくのを見守った。障子を閉めようとすると、鉄がするりと寄ってきて足元に来た。お初は鉄を抱き上げた。
吹き矢の男は身体が大きいだけでなく、顔の造作も、頭もでかかった。岩のようだと鉄は評していたが、なるほど、肩や胸は分厚く、腕など、お初の足と同じくらいの太さである。
「おめえの名前は?」
煙を吐き出しながら、六蔵が訊いた。
「これで三度も同じことを訊いてるぜ。おめえ、耳が遠いのかい?」
男の歳は三十そこそこというところだろう。不機嫌そうに――当たり前だろうが――顔をそむけ、むくれたようにちょっと口をとがらせている。大きななりと老けた顔に似合わぬ子供のような様子だった。
お初は男を見つめ、目を細めた。
(何か見える――)
背中が急に、水に濡れたみたいに冷たくなってきた。頭の芯に、縫い針が突き刺さったような感じがする。ちくり、ちくり。そしてずきずきと痛みだす。不思議な力がお初に訪れるときの前触れだ。しかし、この男のいったい何が見えるというのだろう?
お初はゆっくりと腰をおろした。畳に片手をついた。そのとき、周囲が真っ暗になった。
――おまえさん。
いきなり、若い女の声が聞こえた。優しく、撫でるように呼びかける声だ。
――おまえさん、気をつけてね。あたしのことなら心配要らないから。ご飯を抜いたりしちゃいけないわ。そんなことをしたら、あたしはかえって辛くて。
お初はまばたきをした。片手をあげて頬に触れてみる。と、周囲の闇が、煙が引いてゆくようにゆっくりと薄れ、座敷のなかの光景が戻ってきた。
そっぽを向いている大男。煙草を吸い終え、煙管を叩いている六蔵。
大男の左肩のところに、女の白い顔がぼうと浮かんで見える。眉も目尻もさがった、いつでも笑っているような顔の女だ。ひどく痩せている。病気――だろうか。
お初は目を見張って女の顔を見つめた。女はゆるゆると首を振り、
――おまえさん、無理をしないで。
細い声が、お初の頭のなかに響く。
――あたしの病は治らないもんだって、道佑《どうゆう》先生がおっしゃったじゃないの。高い薬を買ったところで、無駄になるだけよ。騙されちゃいけない。
その声は唐突に途切れた。そして代わりに、吠えるような男の声が、
――お静、お静、しっかりしろ!
その声のうしろに、何か軽いものがからからと風を切って回る音がしている。ひとつじゃない、たくさんの音。そして小さな子供の笑い声。多吉《たきち》おじちゃん、風車ひとつおくれよ――
幻は、そこで切れた。
「黙《だ》んまりを決め込むのは、あんまり利口じゃねえぞ」六蔵が低い声で言っている。「おめえは、これを使って人を殺めようとしたところを、大勢の人間に見られてるんだ。惣助殺しもおめえのやったことだろう? どうにも言い逃れはできねえ。おとなしく、こっちの訊いていることに答えた方が身のためだ」
男は縛られた両手をもぞもぞさせながら、六蔵が掲げてみせたあの吹き矢に目を据え、視線でそれを招き寄せられるものならばそうしたいというように、ぐっと気合いをこめてねめつけている。
お初の身体を覆っていた寒気が抜けた。頭の痛みも、すっと消えた。座りなおしてしゃんと背中を伸ばすと、心の底から勇気がふつふつとわいてくるのを感じた。
わずかに身体を男の方に傾けて、お初は言った。「お静さん」
その名前が男にもたらした効果と言ったら、こんな場合でなかったら笑い出してしまいそうなほどのものだった。男は大きな尻を浮かしてのけぞるほどに驚き、目の玉をぐりぐりとさせた。
「お初?」
六蔵が肩越しに振り向き、鋭く呼びかけてきた。「おめえ……」
お初は手で兄を制すると、ひと膝前に乗り出して、さらに言った。
「あんたの名前は多吉さんというのね?」
男は壁にぴったりと背中を押しつけ、それでも足らずにお初から遠のこうとしている。お初は笑った。
「そんなに壁を押さないでちょうだいよ。安普請《やすぶしん》の家だから、倒れちまうわ。あんたはそんなに身体が大きいんだもの」
男は、これはどういうことかという顔つきで、六蔵を見つめた。六蔵はわざとのように知らん顔をして、お初を見ている。
「あんたは多吉さん。風車を作って売り歩くのが商売ね?」と、お初は続けた。男の額からすっと汗が流れ落ちる。手応えを感じた。
「子供たちに好かれてたんでしょう? みんな、あんたの顔を見ると走ってやってきたのね? 多吉おじちゃん、風車ひとつちょうだいって」
男は首を横に振り始めた。わずかに口が開いている。
「仕事は、お静さんも手伝っていたの?」
お初は優しく語りかけた。男は後込《しりご》みするのをやめた。お静という名前に引き留められたかのように。
「きっとそうだったんでしょうね。仲のいい夫婦だったのね。お静さんは優しい人ね。どんなときでも笑顔で、あんたといっしょに働いていたのね」
男の口がわなないた。「お静」
呟いた声を聞いたとき、お初のなかに確信が広がった。その声は、さっき幻のなかで耳にした「お静、しっかりしろ」という絶叫に、よく似ていた。
「ええ、お静さん。あんたの大事なお内儀さんね」
男はくくられたままの両手をあげると、汗の流れる額を拭った。
「あんた、どうしてお静を知ってるんだ?」
その問いには答えず、お初は続けた。「お静さんはいつ病にかかったの?」
お初の目は糸のように細くなっていた。男の心にわずかに空いた穴に、言葉を通すために。
「重い病だったのね。どんな病だったの? お静さんは辛い思いをしたの? それを見ている多吉さん、あんたもさぞ切なかったでしょうね?」
男は両手で顔を押さえ、六蔵にわめいた。「こいつはなんだ、なんでこんなことを言いやがるんだ!」
六蔵は黙って、煙管に煙草を詰め始めた。
「お静――どうしてお静を知ってるんだよ?」
取り乱してわめく男に、もうひと膝詰め寄り、お初は噛んで含めるような口調で言った。
「知っているわ。お静さん、きれいな人ね。目尻と眉が下がり気味で、いつも笑っているみたいな顔なの。見ていて、ほっとするような顔ね。病で痩せ始めるまでは、丸顔だったのかしら。お静さんが痩せてゆくのを、多吉さん、あんたどんな思いで見つめていたの?」
男は震え始めた。大きな身体全体を震わせている。
「お医者さまは――道佑先生は、お静さんの病は治らないと診立てたのね?」
大きな目をかっと見開くと、男はお初の方に飛びかかるような勢いで乗り出してきた。
「あの医者はいんちきだったんだ! ろくすっぽ診てもくれねえで、駄目だと言いやがった。俺たちに金がねえもんだから――」
はっと口をつぐみ、顔をうつむける。また、汗が一粒落ちた。
「そう……さぞ悔しかったでしょう」できるだけ穏やかに、お初は言った。「だからあんたは、お医者に診てもらうお金をつくるために、ご飯を抜いたりしたのね?」
うなだれたまま、男が顎をうなずかせた。六蔵は煙草を吸っている。煙管の先が、わずかに震えていた。
「お静さんは亡くなったのね」と、お初は続けた。「あんたは、それきり、独りぽっちなのね」
「独り……」と、男がうめく。「お静」
「ええ、お静さん。あんたの大切なお内儀さん」
男の――多吉の大きな身体が、急にしぼんだようになった。お初はもうひと膝乗り出すと、できるだけ穏やかな声で呼びかけた。
「あんた、あたしたちのこと、恨んでるのね?」
多吉は目をあげた。笹藪《ささやぶ》ごしに大熊と目があったらこんな具合かしらと、お初はちらりと思った。「あたしの考えを聞いてちょうだい。あんたは『的屋』の客で、あの店で古着屋あがりの惣助さんや、火消しくずれの朝太郎さんたちと知り合った。そしてその三人で、神隠しにあった長野屋のお律ちゃんを、自分たちでかどわかしたと嘘をついて、身代金をとることを思いついた――うまくいけば、大金が手に入るものね。あんたは長野屋に投げ文を入れ、身代金の受け取りには身の軽い朝太郎さんが出かけた――」
だが、それはうまくいかなかった。
「中之橋には、あんたもいたの? いたから、あたしの顔が判って、身元もこの家も調べられたのでしょうね。なら、あのもののけを見たでしょう? 朝太郎さんを殺したのは、あのもののけよ。だからそういう意味では、あたしたちを恨むのはお門違いね」
多吉は顔をそむけた。なにがしか、この男には言葉が通じないように感じられる。多吉の心のなかで、生き生きと血が通っているのは、お静の思い出だけなのではないか。
「お金を取り損ない、朝太郎さんが死んで、惣助さんとあんたは仲違《なかたが》いをした。それであんたは、惣助さんを片づけた。そして、身代金をとる邪魔をしたあたしたちをつけ狙い始めた。そうでしょ? だけどねえ、そもそもどうして、あんたたちはお律ちゃんの神隠しのことを知ってたの? ただ近所で聞き込んだわけじゃないでしょう? それにあんたは、あたしが山本町の下駄屋にいるところを、吹き矢で狙ったこともあるわよね? なぜ、あの下駄屋に張り込んでいたの? あの店でも、おあきちゃんという娘が、お律ちゃんとそっくりの不思議な神隠しにあっているのよ。それを知っていたからこそ、あんた、あたしや兄さんが、下駄屋に現れるんじゃないかと思って張っていたのでしょう? だけど、どうしておあきちゃんのこと知ってたの? そのことと、惣助さんが牛込の卯兵衛さんのお店から持ち出した古着の小袖と、どういう関わりがあるの?」
お初が口をつぐむと、座敷のなかは静かになった。多吉の荒い息だけが聞こえる。が、やがてその荒い息が、引きつけのようなひゅうひゅういう声に変わった。多吉が笑っているのだった。
「どうして、どうしての多い娘っ子だなあ。いっぱしの岡っ引き気取りかい?」
あざけるようなその口振りに、六蔵の眉がぴくりと動いた。が、お初は目顔で兄を制した。鉄がお初の膝から滑り降りると、お初ちゃんが合図をくれればいつだって飛びついて目玉をかきむしってやるぜと言わんばかりに身構えて、多吉のそばに寄っていった。
「惣助の持ってきた小袖のことも、あんた知ってるんだな?」
お初は落ち着いて返答した。「ええ、知っているわ。惣助さんの亡骸をあらためたとき、卯兵衛さんに聞いたの」
「あのおしゃべり親父め」多吉は舌打ちした。「惣助みたいなバカ野郎を育てただけのことはあるぜ」
「惣助さんは、卯兵衛さんから小袖を取り上げるとき、見世物小屋へ持っていくと言ったそうよ。本当にそうしたのかしら」
「ふん」と、多吉は鼻で笑った。「最初はそういうつもりだったんだよ。だが、俺がやめさせたんだ。見世物小屋で見せるのは、作り物のもののけだ。本物を持っていきゃあ、そりゃあ凄い見世物になるかもしれねえが、お客がとり殺されちまう」
六蔵が笑った。「違いねえ。それでどうした」
「俺は惣助に、そんなもん売っぱらった方がいいと言ってやった。惣助は、頭の中身も空なら気も小せえが、欲の皮だけは一人前につっぱってるからな。四の五の言っていやがった。そしたら――」
多吉の顔が、急に引き締まった。
「俺たちの目の前で、小袖が動いたんだ」
六蔵が座り直した。お初もくちびるを引き締めた。
「俺たちは、俺の長屋にいた。惣助はよく俺のところに来ちゃ、泊まったり飯を食ったりするんだ。要するにたかりだよ。だけど俺もあいつがいると何かと便利なこともあるんで、まあ好きなようにさせていたんだ。そのときも、俺たちはそろってへべれけに酔っていた。惣助が、小袖を見世物小屋に売ったら大儲けだと勝手に気持ちよくなって、捕らぬ狸の皮算用でさ、いい酒を買って持ってきてくれたもんだから、気分良く飲んでいたんだ。
酔っていたから、最初は俺も、目の迷いだと思った。小袖が動くなんてな。だけど、そうじゃなかった。俺たちの目と鼻の先で、小袖がすうっと立ち上がったんだ。まるで、目に見えない誰かが小袖に袖を通して、そこに立っているみたいにさ。
惣助は震え上がって、小便もらして泣き顔さ。腰を抜かして逃げ出そうとした。すると小袖がするりと動いて、まるで惣助を包み込むみたいに抱きついたんだ。惣助はひっくり返っちまった。すると小袖は、とたんにつっかえがなくなったみたいに床に落ちた。俺はそれを拾い上げた。真冬の大川の水より冷たかったぜ」
ひと息にここまで言うと、多吉はお初を睨みつけた。
「おい、娘さん、あんたは俺を風車売りと言ったが、それは昔の話なんだ。お静が死んだあと、あいつと一緒の思い出が山ほどある風車売りを続けていくことは、俺にはできなかった。だから商売替えをしたんだよ。今の俺は、袋物売りだ。自分で布を仕入れてきて、袋物を仕立てて売り歩く。手先はもともと器用だし、俺がきれいなものを作って売れば、お静も嬉しいだろうと思ってさ」
お初は目の前の霧が晴れる思いだった。袋物売り。そうだったのか。
「惣助はすっかりびびっちまって、小袖を火にくべるなんて言い出した。だから俺が引き取ってやったんだ。そして小袖をばらして袋物をつくって売って歩いた――」
多吉より先に、お初は言った。「その袋物を買ったのが、下駄屋のおあきちゃんと長野屋のお律ちゃんだったというわけね」
天狗が若く美しい娘をさらうために、必要なのはふたつのこと。天狗の妄念のこもった小袖でつくられた物を、その娘が持っていること。そしてその娘自身に、あるいはその娘の周りに、彼女の若く美しいことへの反感や嫌悪、憎しみや悲しみを持っている者がいること。天狗はその悲しみや憎しみを糧《かて》にして、娘を現世から別のところへさらってゆく力を得るのだ。
多吉はせいせいしたような顔になっている。「なにしろ物が物だ。袋物を売ってはみたものの、その後何があるかわからねえ。俺は長野屋や山本町の下駄屋の様子を気にしていた。そしたら案の定、娘が神隠しにあったときたぜ」
くっくと笑って、楽しそうだ。お初は背中が冷たくなった。
「こりゃいい機会だ。金になる。そう持ちかけたが、惣助は最初乗り気じゃなかった。あの野郎は臆病だから、小袖のもののけが怖くてしょうがなかったんだ。それで俺は朝太郎を抱き込んだ。あいつは身が軽いしな。惣助よりも役に立つと思ったんだ。千両は固いという話をしていると、惣助も欲を出してきて、結局加わることになった」
多吉は大きな肩をすくめ、笑い続けた。
「それなのに、いざ身代金を取りに行ってみるとあのざまだ。千両ありゃ、もうあくせく働くこともせずに暮らしていける――お静の墓も建ててやれる。それなのに、あんなに見事にしくじるとはな」
饒舌《じょうぜつ》な多吉を、六蔵は呆れたように眺めていたが、
「それにしてもお前、芸のある野郎だ」と、顎を撫でた。「俺なんぞにはかなわねえよ。長野屋に射込んだ矢場の楊弓といい、下駄屋でお初を襲って、今日はここで俺たちを悩ませてくれた吹き矢といい、手数が多いもんだ」
「だから言ってるでしょう、親分さんよ。俺は器用なんだよ」
「あの吹き矢には、どんな毒が仕込んであるの?」と、お初は訊いた。「あんたの矢が、今度のこととは何の関わりもない人に当たっちまったのよ。その人を助けるためには、毒の種類を知らなくちゃいけないの」
お初の言葉が聞こえないかのように、多吉はひとりで含み笑いを続けている。六蔵が凄んだ。
「このうえまだ人殺しを重ねる気か?」
「ひとり殺すもふたり殺すも同じだよ。惣助だって、あんまりぐじぐじ言ってうるさいから黙らせただけで、蠅《はえ》をたたき落とすようなもんだった。俺はもう、この世に未練なんかねえんだ。道連れは多い方がにぎやかでいいやね。だからあんたたちのことだって、狙ってつけまわしていたんだ。俺の千両つかむ夢を壊してくれたあんたたちだ。その償《つぐな》いに、三途の川渡りを一緒にやってもらおうと思ってさ」
「多吉!」六蔵が怒鳴った。「千両、千両というがな。おめえ、身代金をうまくかたり盗ることができたなら、最初から朝太郎と惣助を殺すつもりだったな? そうだろう?」
多吉の顔から笑いが消えた。畳をにらみつけている。ふてぶてしく、怒りに満ちた顔だった。
「あんた、世の中のすべてが憎いみたいね」と、お初は呟いた。お静という女を失ったことが、こんなにも手ひどくこの男を歪めてしまったのか。
「ああ、そうだよ」多吉は吐き捨てた。「世の中全部、気にくわねえ」
「どうして……」
「お静は何も悪いことなんかしちゃいなかった。なのに、病にかかって苦しみながら死んだ。あっしはお静を治そうと、ただそれだけ考えていたのに、なんにもできなかった。こんなの、不公平だ。世間にゃ、お静の半分の優しさも持ち合わせちゃいないくせに、のうのうといい暮らしをしてる女がごろごろいる。あっしは、身を粉《こ》にして働いてたのにいいことなんかひとつもなかった。なのに、片っ方じゃ、遊んで暮らして呑気にしてる奴等《やつら》がいっぱいいる。腹が立つんだ。たまらねえんだ。そういう奴等を殺してやると、ええ、あっしは胸がスッとするんだよ」
六蔵は多吉を見つめている。怒りに燃える多吉は、悪びれもせずににらみ返す。戸口の方で「御免」という声がした。それをきっかけに、お初は急いで座敷を出た。
訪れたのは、ほかでもない古沢武左衛門である。
「まあ……」と、お初は立ちすくんでしまった。
「大立ち回りがあったそうだな。下手人はどこだ?」
「こちらでございます」
お初は急いで先に立ち、武左衛門を案内した。お供の中間《ちゅうげん》も連れず、身軽にやってきた武左衛門は、姉妹屋の急な階段を軽々と駆け上がり、多吉の捕らえてある座敷へと踏み込んだ。
こらえきれなくなったのか、六蔵が多吉の襟首をつかんでしめあげていた。しかし多吉はせせら笑っている。何事だと武左衛門が質《ただ》すと、六蔵ははっと平伏した。
お初はとりあえず吹き矢の毒のくだりを説明した。武左衛門は大きな鼻をひくひくさせながら話を聞いていたが、すっぱりと切り捨てるようにこう言った。「じょご草《ぐさ》だ」
「は?」
「じょご草だ。この男の身体からも臭っておる。風車など、玩具《がんぐ》をつくるときに使われる糊だよ。じょご草という草の根を煮て作る。付きが良いし乾きも早いが、毒がある。早くそれを、医者に教えてやりなさい」
お初は源庵のところに飛んでいった。薬箱も到着していたが、伊左次は冷や汗をかいて苦しんでいる。しかし、じょご草と聞いて源庵は元気づいた。
「そうか、判った。それなら簡単だ、茸《きのこ》に当たったときと同じ薬が使えるからな」
「本当? 伊左次さんは大事な証人なのよ、絶対に助けてね」
「俺を見くびるんじゃねえよ」
古沢武左衛門は、六蔵を連れ、多吉を番屋に引っ立てていった。しばらくするとひとりで戻ってきて、
「ではお初、話を聞かせてくれ」
お初がひととおりのことを説明すると、武左衛門は実に機嫌良くその話を聞き、源庵のいる座敷に入っていって、伊左次の様子を見た。
「伊左次は死にやしませんよ、旦那」
相手が赤鬼の古沢さまだと知らない源庵は、お気楽な口調で言った。
「それにしても旦那、じょご草なんざ、よくご存じでしたね」
「こう見えても、私は手先が器用なのだ」と、武左衛門は思いがけないことを言った。「伜が赤子のころには、よく風車ややじろべえをつくってやった。お役目も、今ほどに忙しくなかったからな」
また、「あらまあ」だ。思わず声に出してそう呟くと、武左衛門は赤鬼の目でお初をぎろりと見た。
「何かな?」
「いえ、別に」
武左衛門はまたにこやかになった。お初をぐるりと見回して、「夏以来だが、達者だったか」
「はい。ありがとうございます」
「お初には、私の馬鹿息子!」と吐き捨てて「――が世話になっておるようだな」
「めっそうもない。右京之介さまにお世話になっているのはわたくしどもの方でございます」
なんだか薄気味悪いような武左衛門の上機嫌である。古沢家の跡目のことは心配がなくなったようだという右京之介の話を思い出す。だから武左衛門も機嫌がいいのだろうか。
「呼ばれるまでもなく、実は、ここを訪ねようと思っていたところだったのだ」
「古沢さまが?」
「そうだ。右京之介から、浅井屋の怪しい事どもをいろいろ聞かされたからな。そのうえに、ちょうど良かった、あの伊左次という職人も話をしてくれた」
「はい……」
「とりあえず、多吉の始末をせねばならぬから、私はまた番屋に戻る。そうだな……明日の昼過ぎにでも、また訪ねて来よう。伊左次はここに泊まらせておいてくれぬか。直に、あれの話を聞かせたい男を連れて来るのでな」
誰だろう? お初が考えていると、古沢武左衛門はその大きな手をあげて、ぽんとお初の肩を叩いた。
「いろいろとお手柄だった。しかしお初も、あまり危ないことには首を突っ込まぬことだ――と言っても詮無《せんな》いかな。私の馬鹿息子!」と、また吐き捨てて「――も、そろって危ないことに踏み込むのが好きなようだから」
「でも、あの」
「まあ、あれはもう家を離れた者であるから、商人のように算盤《そろばん》を学んでも構わん」
算盤じゃなくて、算学なんですけど。しかし武左衛門は気持ちよさ気に続ける。
「岡っ引きの手助けをしても構わん。日がな一日|古文書《こもんじょ》のなかに鼻面を埋めておっても構わん。剣術などまるで駄目でも構わん。おまけに、一膳飯屋の看板娘を嫁にもらっても、私は一向に構わん」
「とんでもない!」お初は仰天して声をあげた。「右京之介さまとわたくしは、そんな間柄ではありません!」
武左衛門は名調子を遮られ、拍子抜けしたような顔をした。「なんだ、違うのか?」
「違います!」
「ほお」武左衛門は、あらためてお初をしげしげと見回した。「なるほど、右京之介にはちともったいないかもしれん。あれも運のない男だな」
解毒《げどく》がきき、源庵の手当の甲斐があって、伊左次の命は助かった。お初はその夜、鉄を布団の足元において眠った。多吉の身柄を処置して、六蔵が帰ってきたのは明け方近くのことだった。それでも、ほんの一時横になっただけで、すぐに牛込へと出かけていった。
浅井屋の件も目処《めど》がつき、お律の身代金かたり盗りの件も片づいた。残るはもののけとの対決――天狗だけである。早く、小袖を持ち込んだ武家娘を探し出さねばならない。
「いよいよだね、お初ちゃん」鉄も意気込んでいる。「和尚に会いに行くかい? 御前さまとか言ったっけ、お初ちゃんの知ってる偉いお侍も、和尚に会いたがってるんだろ? だったら俺が案内するぜ」
「そうね……御前さまにお手紙を書いてみましょう」
古沢武左衛門は、昨日の言葉どおり、昼過ぎに姉妹屋を訪れた。そして確かに、連れがいた。ひと目見て、お初にはそれが誰だか判った。押しの強そうな、忘れようのない顔である。
倉田主水であった。
「どういうことなの、お初ちゃん?」
台所で、およしがお初の袖を引く。
「倉田さまって……そりゃまあ、浅井屋とぐるにはなっていないらしいけど、だけどこんなふうにうち解けてお目にかかっていいのかしら。浅井屋のお内儀に、話が通じたりしないかしら」
「判らないけど、古沢さまを信じるしかないでしょう」
古沢武左衛門は倉田主水を連れ、しばらくのあいだ伊左次と話をしていた。そこへ六蔵が、お初が急いで呼びにやったのを受けて、牛込から駕籠で帰ってくると、階上に飛んでいった。
そのまま三人で、半刻以上話し込んでいたろうか。やがてお初は六蔵に呼ばれた。
座敷に入っていくと、武左衛門と倉田主水が、妙に和やかな顔で座っている。お初は平伏して六蔵の妹である旨《むね》挨拶をし、そのまま頭を下げていた。
「この娘が、私に厳しい疑いをかけていた娘というわけですね、古沢さま」
倉田主水の声がした。いつぞや聞きかじった、野太い声だ。
武左衛門が笑って応じる。「そうだ。お初、もう頭をあげていいぞ」
お初は顔をあげ、倉田主水の方を見た。口元に笑みを浮かべた倉田主水は、こうしてみると――いや、やっぱり頑固者で横車でも平気で押しそうな顔に見える。だけど……
そのとき、お初は気づいた。彼の座っている座布団のすぐ脇に、また血のしみが見える。初めて下駄屋で見かけたときも、やっぱり彼は血を滴《したた》らせていた。それで捨吉に、怪我はないかと聞いたのだ。
やっぱりこの方には、なにがしか不気味なところがある。
「右京之介の調べたもろもろの事と、伊左次の話と、我々もすっかり得心がいった」と、武左衛門が切り出した。「浅井屋が阿片の密売に手を染め、莫大《ばくだい》な金を稼いでいることは確かなようだ。漏れのないようにしっかりと周囲を固め、この古沢の名にかけて一味を残らず捕らえてみせるから、安心して任せてくれ」
お初はまた平伏した。
「それと、倉田のことは、もう誤解せんでやってくれ」と、武左衛門は続けた。お初が見ると、倉田主水は目を伏せていた。
「前々から、どんな事件でも必ず下手人をあげてみせるというこの男のやり方に、私も危ぶむものがあった。ただ、調べの甘い同心の手では、とうてい暴くことができないような難しい事件の真相を、この男がいくたびも突き止めてきたことも、また事実なのだよ。そこを斟酌《しんしゃく》してやってもらえんか」
お初は兄の顔を見た。六蔵はうなずいて寄越した。
「あい判りました。疑ったりして、まことに申し訳ございませんでした」
「いや、いいのだ。私にも落ち度があった」と、倉田主水は言った。「それにだいたい、私は悪人面なのでしょう、古沢さま」
「さあ、それはどうかな」
「いえ、そうなのです。そのうえに、浅井屋のことでは、とんだ間抜け役を演じたものです」
実際、本人が言うとおりの顔つきをしているので判りにくいが、ずいぶんと気落ちしているようだった。
「浅井屋のお内儀、お松は私の親しい身内です。しっかり者で、頭もよく、むしろ主人の伊兵衛よりも商売熱心で、浅井屋を守り立ててきた。女ながらに立派だと思うだけに、目が曇っておりました。今思えば――」ちょっと目を閉じて、考え込むような顔をした。「浅井屋には、これまで何度か身代の傾きかかったことがあるのです。しかし、何とか持ちこたえ、あそこまで盛り返した。そこに阿片の商売があったのですね」
「あの、倉田さま」お初はそっと、問いかけた。「お伺いしたいことがあるのですが、よろしゅうございましょうか」
倉田はちらりと武左衛門の顔を見てから、うなずいた。「何だろう」
「倉田さまは、下駄屋のおあきちゃんの神隠しを、まったく信じようとなさいませんでしたね。不思議話は、どれもけっして受け付けようとなさらないのだということも伺いました。なぜでございます?」
「こら、お初。失礼だぞ、調子に乗るんじゃねえ」
六蔵に叱られたが、お初は引き下がるつもりはなかった。まっすぐに倉田主水の顔を見ていた。
「これは、厳しいお尋ねだ」と、倉田主水はかすかに笑った。笑っているのに、なぜかしらちょっと悲しげに見えた。ふと見ると、畳の上の血のしみがまたはっきりと濃くなったようだった。
「私自身、うまく説明をつけることができるかどうか、心許《こころもと》ないのだが――」
そう言って、倉田主水はお初の顔を見つめた。
「私には、八歳年上の姉がいた。我が家は代々町方役人を務めているので、むろん、姉も同心の娘ということになる。年頃になると、その姉に縁談が来た。私が七歳、姉が十五のときだった」
古沢武左衛門も、初めての話なのだろう、興味深そうに腕組みをして聞いている。
「縁談は、同じ八丁堀に住まう同心の跡取りとのものだった。父も母も賛成で、話はすぐにまとまった。ところが、もうすぐ嫁入りというときに、姉がふっつりと姿を消してしまったのだ」
まるでおあきちゃんじゃないの……と、お初は思った。
「姉とわたしはふたりきりの姉弟で、わたしは姉にはずいぶんと世話になった。母が病弱だったので、姉が母代わりのようだったのだ。当然、姉の失踪は、幼いわたしにとっては大変な悲劇だった。姉上はどこへ行ってしまった、姉上を探してくださいと、泣いて父にすがって頼んだものだ。しかし、父はこう言うだけだった――」
――おまえの姉は、神隠しにあったのだ。もう戻ってはこない。諦めなさい。
「なるほど……」と、六蔵が嘆息した。「そういうことでしたか」
「何分にも頑是無《がんぜな》い年頃で、私は父の言うことを信じるしかなかった。姉は何か不可思議なものに魅入られて、この世の外に連れ去られてしまったのだと、信じ込まされてしまったのだ。父だけでなく、母も家の者たちも、父に付き従っていた中間も、皆口を合わせて神隠しだと言う以上、子供心に疑いの浮かぶ余地はない」
「本当のところはどうだったのですか? お姉さまは神隠しにあわれたのですか?」
倉田主水はまたしばし目を閉じた。そして続けた。「私が父の跡を継ぎ、三年ほど経ったころだ。もう母は亡くなっていた。家の仏壇には、母の位牌と並べて、姉の位牌もしつらえてあった。死んだものとされていたのだ。ところが、ある日、小石川の養生所から遣いが来て、養生所に引き取られている行き倒れの女が、自分は八丁堀の倉田家の者だと言っている、もう余命わずかだが、本人は死ぬまでに家族に会いたいと願っている、ご当家に心当たりはありますかというじゃないか」
驚いた倉田主水は、小石川まで飛んでいった。
「姉だった」思い出しても辛いのか、目を伏せながら低い声で言った。「重い労嘆《ろうがい》を病んでいた。医者ではない私が見ても、あと一月は生きられないだろうことがわかるほどだった。だが、私を可愛がってくれた顔だ。世話を焼いてくれた手だ。間違えようがなかった」
「お姉さまは、昔の失踪のことを、なんと説明なすったのですか」
「駆け落ちだったのだよ」倉田主水の、声がかすれた。
驚いて、お初は息を呑んだ。古沢武左衛門が、暗い雰囲気をなんとかしようと柄にもなく洒落っ気を出したのか、大きな声で割って入った。
「そうびっくりするものじゃない、お初。八丁堀にも駆け落ち娘ぐらいいるものだ。なにしろ私の馬鹿息子!」と吐き捨てて、「――のように、嫡子でありながら好んで家を捨てる者もいるくらいだ」
「まあ、古沢さま、そうそう御嫡男を責めるものではありませんよ」と、倉田主水は微笑した。
「責めてはおらん。怒っているだけだ」
もう、あまり怒っているようにも見えないけどと、お初は思った。しかし、武左衛門のこの割り込みで、倉田主水は少し気を取り直したようだった。
「姉には好きな男がいたのだ。勝手に定められた縁組みを嫌って、両親宛の書き置きだけを残し、その男と共に駆け落ちしたのだよ。相手はどうも、素性のはっきりしない浪人者であったようだ。姉も、どこでその男と出会ったのか、面目ないと思うのか、とうとう詳しく話してはくれなかった」
駆け落ちしたふたりの幸せは、しかし長くは続かなかったらしい。
「姉の暮らしは悲惨なものだったようだ。当のその男とも、ほんの数年で別れたらしい。子供はひとり授かったが、貧しさにあえいでいるうちに、病で死なせてしまっていた。姉はその子の骨を、袱紗《ふくさ》に包んで持ち歩いていた。小さく、細い骨だった。女の子だったそうだ。姉に似ていたという。生きていれば、私には愛らしい姪《めい》がいたはずだったのに。
私は姉を責めた。なぜ、意地をはらずに早く帰ってこなかったのかと。しかし姉は悲しそうに顔をそむけて、子供を亡くしたばかりのころ、一度は帰ろうとしたのだと言った。八丁堀の近くまで戻ってみたと。ちょうどそこで、家に出入りしていた商人に出会ったので、倉田の家の者は皆どうしているだろうかと尋ねると、お内儀さまが亡くなりましたと教えられたそうだ。あまりに面変わりし、やつれて貧相な身なりをしていたので、その商人には、姉が姉だと判らなかったらしい。倉田さまの家は、お嬢さまが神隠しにあって以来、すっかり様子が暗くなっておられましたからねと言ったそうだ」
大きく息を吐いて、倉田主水は続けた。
「姉はそれで、家出した自分が、倉田家から縁を切られたのだと悟った。父も母も世間をはばかり、縁組み先に気を兼ねて、家出を家出と言っていなかった。神隠しだとごまかしていた。それは、姉に対して、もう帰って来るなというのに等しい。あの優しく従順だった娘は、鬼神《きしん》かもののけにさらわれて、もうこの世にはいなくなってしまった。戻ってくるはずもない、と」
うち明け話の後、間もなく倉田主水の姉は亡くなった。まだ三十歳前であった。
「私は姉の遺骨を抱いて家に帰ると、父に詰め寄った。なぜ、姉は神隠しにあったなどと嘘をついたのだ、なぜ早く本当のことを話してくれなかったのだ。本当は、若さの故《ゆえ》に、素性も知れない男と駆け落ちをしてしまったのだと教えてくれてさえいれば、私も姉の行方を探そうと心がけたろう。姉も、あのとき思い切って八丁堀を訪ねてきて、そのまま家に帰ることができたかもしれない。
だがしかし、私の詰問《きつもん》に、父は冷たく言い放ったものだ――お前は悪い夢を見ている、それこそ魔性《ましょう》のものにたぶらかされたのだろう、養生所で死んだ女は当家とは関わりない赤の他人だ、倉田の娘は、十五の時に神隠しにあったきりだ、と。亡くなるまで、父はその主張を変えなかった」
一旦言葉を切ると、再びお初の顔を見て、口元にかすかに苦い笑いを刻みながら、続けた。
「そのときに、私は悟ったのだ。鬼神よりももののけよりも恐ろしいのは、人間の方だと。都合の悪いこと、見たくないもの、聞きたくないことを不思議話のなかに押し込めて、自分にも世間にも嘘をつき通す。人間ほど恐ろしいものはない。私は北町奉行所の同心として、この十手にかけて、そのような人間の嘘がつくりだす、まやかしの鬼神やもののけと闘おうと思った。それを心に誓ったのだ」
潮が寄せるように、沈黙が寄せてきた。六蔵は、倉田主水の方を見ないようにしている。
お初は、畳の上の血のしみに目をやった。先ほどよりは薄れている。
――倉田さまのお姉さまは、重い労咳で、きっと血を吐きながら亡くなったんだ。
この血のしみ、倉田主水が行く先々に振りまいている、お初の目にだけ見える血の幻は、彼の辛い思い出のなかのものだったのだ。未だに忘れることのできない、癒えない傷から滴る血だったのだ。
そしてふと思い当たった。けっして愚かではない倉田主水が、浅井屋のお内儀、年上の従姉には、いともあっさりと利用されていたこと。右京之介の話では、どうも女色の面で芳《かんば》しくない噂があるということ。それもすべては遠い過去、自分の手で不幸から救い出してやることのできなかった懐かしい姉の面影を、それらの女たちの上に重ねているからではあるまいか。
ゆるゆると頭を振ると、倉田主水はまた口を開いた。
「おまえたちもよく知ってのとおり、私は山本町の政吉を責めた。おあきの行方知れずの真相を、きっと政吉が知っていると思ったからだ。あれは何かを隠していると、私は思った。神隠しなどあるはずがない。だから容赦《ようしゃ》はしなかった」
するとそのうちに、政吉は、おあきは自分のせいで死んだと言い始めたのだという。
「夢のなかでおあきを殺したとか、わけのわからないことを言い出した。これは私にも意外な話だった。私はてっきり、おあきは家出をして、政吉はそれを繕うために神隠しだなどと嘘をついているのだと考えた。ちょうど――姉のときと同じように。しかし政吉はどんどん様子がおかしくなってゆき、しまいに首をくくってしまった。あれは……私に非がある」
「さあ、どうでしょう。そればかりは判らねえ」と、六蔵が静かに言った。「倉田さまが、政吉を梁《はり》からつるしたわけじゃねえんだから。おい、お初、もういいか。気は済んだのか?」
「はい。よく判りました」と、お初は三度平伏した。
他人には見えないものを見ることのできるお初にも、倉田主水の言うことはよく判る。ただしかし、まやかしではない鬼神やもののけもまたこの世には居るのだと思うけれど、それも今は、言わずにおこう。
浅井屋のことは我々に任せておけと固く請け合って、武左衛門たちは御番所へ戻っていった。六蔵は牛込へまた出かけた。お初はひとり、その宵は、鉄を抱いて考え込んでいた。
御前さまと和尚
さて、翌日。
思いついて、お初は、書き上げた御前さまへのお手紙を鉄に持たせることにした。
「御番所ってのは、どこだい? 場所さえ判れば、どこにだって忍び込んでみせらあ」
鉄のこと、鉄の言葉がお初には判るということも、手紙には書き添えた。
「お返事をいただくまでおとなしく待っていて、お返事を持って帰ってくるのよ。いいわね?」
鉄を送り出し、それなりにはらはらしながら待っていると、一刻ほどしてやっと戻ってきた。いただいた御前さまのお手紙には、委細承知したということと、和尚を連れて、今宵六ツに、役宅を訪れるがよいとしたためてあった。
「鉄、御前さまはどうだった?」
「えらいじいさんじゃねえか」と、鉄はむくれた。「お初ちゃん、じいさんが好きなのかい?」
「ええ、畏《おそ》れ多いけれど、あたしは御前さまが大好きよ。さあ、和尚を迎えに行きましょう」
深川・霊巌寺――
小名木川と仙台堀にはさまれた深川の一角に、霊巌寺・浄心寺・雲光院《うんこういん》・法禅寺《ほうぜんじ》と、四つの寺が地所を並べている区域がある。霊巌寺はそのなかでももっとも大きい寺で、ここを訪れる人びとは、小名木川側から武家屋敷のあいだを抜けて小道をたどり、ささやかな門前町のあいだを通り抜けて、山門にたどりつく。境内には美しい桜の並木があり、堂々たる寺社の構えを彩って見る者の目を楽しませるが、お初が訪れたこの日には、桜はもう盛りを過ぎかかり、ところどころに新芽の色が混じる、花より新緑の風情となっていた。
「和尚はどこにいるの?」
門のすぐ内側で、懐に抱いていた鉄に問いかけると、鉄はお初の肩の上にのぼり、
「ここんとこはいつも、あそこだよ」と、右手に大枝を広げている桜の大木の方に鼻をひくひくさせた。
境内には人気《ひとけ》はない。遠く見える本堂の脇で、小僧さんがひとり、ゆっくりとほうきを使い、砂利の上に散った薄桃色の桜の花びらを掃《は》き集めているのが見えるだけだ。おつとめの時刻ではないのか、読経《どきょう》の声も聞こえない。遠くの小僧さんは、お初が境内に入ってゆくと、一度こちらに頭を向けたが、お初が丁寧にお辞儀《じぎ》をすると、それに返礼をしただけで、また作業を続けている。
お初は鉄を肩に載せたまま、桜の大木に近づいていった。満開期を過ぎた大桜は、大振り袖を着て夕暮れのなかに立っている、いくぶんとうのたった美女のように見える。お初が木の根本に立つと、鉄は頭上を振り仰いで鳴いた。
「おおい、和尚。いるかい? 俺だよ」
すぐには、返事はなかった。桜の枝が、美女がゆるゆると微笑するように、優しく揺れているだけだ。枝の隙間からのぞく空は夕靄にくもりかかり、頬紅を薄く溶かしたような色合いに染まってみえる。
「和尚、いねえのかい?」
再び、鉄が呼びかける。お初の顔の上に、端の方が色あせて黄色くなった桜の花びらが数枚落ちかかってきた。それをはらいのけたとき、つと、頭の芯《しん》に痛みが走った。
(あ――?)
強い痛みではない。右から左へ、極細の針が、目にも見えないような早さで飛びすぎたような、そんな感じだ。そして、それに続いて、
――ジャキーン。
何か金気のものが打ち鳴らされるような音が聞こえてきた。
とっさにお初は周囲を見回した。あれは鐘の音とは思えなかったが、お寺の境内のことだ。誰かが――
――ジャキーン。
そう、錫杖《しゃくじょう》でもついているかのような音だ。「ああ、和尚、いたのかい」
鉄の声に、お初もはっとして上を見た。
「お客さんを連れてきたよ。ほら、例の生きのいい娘っ子」
鉄は陽気に話しかける。が、お初はぼうっと目を見開いたまま立っていた。
桜の枝の隙間から、小さな顔がのぞいている。しかしその顔は猫のそれではない。どう見ても違う。小さな丸い顔、灰色の――
(お地蔵さま!)
「なんだよ、お初ちゃん、ぼうっとしちまって」
鉄が前足でお初の頬をぽんぽんと叩いた。お初は激しくまばたきをした。頭の奥を、また痛みが通過した。一瞬、固く目を閉じた。そしてその目を開けてみると、鉄が仰ぎ見ている桜の枝のあいだから、灰色の年老いた猫が一匹、こちらを見おろしているのが見えた。「和尚、お初ちゃんだよ」鉄が言う。「和尚に会いたいって、やってきたんだ」
お初は心の臓がどきどきしてしまって、荒い息をついていた。鉄が髭をびくつかせながら首をひねると、
「妙だね、お初ちゃん。怖がってるのかい?」と言いながら、冷たい鼻面でお初の頬をちょっとつついた。
「あら……いえ、そんなことはないわ」息を整えながら、お初は言った。「初めてお目にかかります。通町のお初です」声がかすれてしまっている。
枝の上の老猫は、うるんだような目をしばしばとまたたいた。耳が垂れ、鼻の頭の毛が薄くなっている。相当の歳である。やがて大儀《たいぎ》そうに大きくあくびをすると、
「お揃いで、わしに何の用だね」と、ゆっくりと言った。
「お初ちゃんが、和尚にいっしょに来てもらいたいんだってさ」
「わしに? どこへ?」
「偉いじいさんに会いにさ。おいら、昼間会ってきたんだよ。なかなか面白いじいさんだったぜ。和尚と気があうよ、きっと」
お初はカラカラになった喉をなだめ、どうにか普通に声を出そうと努力をした。「天狗のことで――いよいよ、あれを退治することができそうなんです。それで……あなたの力も貸してほしいの」
老猫は前足をあげて耳のあたりをほりほりとかくと、先と同じようにのんびりと言った。「わしのことは、和尚と呼んでいいよ」
「じゃ、和尚、お願いだからいっしょに来てもらえませんか」
和尚は頭をかしげると、見るともなく本堂の方を振り返った。と、夕のお勤めが始まったらしく、カーン、カーンと鐘を叩く音を先触れに、読経が流れてきた。
「行ってもいいが」和尚はお初を見おろした。「しかし、わしはここからどうやって降りようね?」
「和尚、ひとりじゃ動けねえの?」鉄が呆れたように声をあげた。「まさかとは思ったけど、本当にそうなのかよ?」
和尚を抱き、鉄を先導に立てて姉妹屋に戻ってみると、およしの詰めた折詰を包んだ風呂敷《ふろしき》をかかえ、提灯に火を灯して、右京之介が店から出てくるところだった。道場に出した遣いが、うまい具合に間にあったようだ。お初をひと目見るなり、右京之介は笑顔になって言った。
「このごろのお初どのは、まるで猫の守り役のようですね。また新顔が現れた」
顔は笑っているが、目はびくびくしている。猫嫌いは相変わらずだ。お初は彼に申し訳ないような気もしたが、ここまで来てしまっては仕方ない。右京之介も、そのあたりは承知の上だろう。
ふたりと二匹で数寄屋橋《すきやばし》御門の南町奉行所に向かって歩きながら、道々、お初は右京之介に和尚のことを語り、右京之介は右京之介で、親父殿の古沢武左衛門がどのような動きをとるかということについて、彼の意見を述べてみせた。鉄は振り返り振り返りしながら先に立って歩いていったが、口をはさんではこなかった。鉄は鉄なりに、少し考え込んでいるようで、ときどき意味ありげに髭を動かしている。
和尚は軽かった。腕の中に布団綿をひとかたまり抱いているくらいの感じだ。どんな子猫だって、これよりは重い。そのくせ、和尚は本当に独りでは動くことができなくて、桜の木から降ろすときには、鉄が枝の上まで登っていって和尚の尻を押し、下でお初が袖を広げて待ちかまえていて受けとめたのだった。
お初の心のなかにぼんやりと漂っていた、和尚の正体に対する疑惑は、今では手で触れることができるくらいにはっきりとしたものになりつつあった。桜の枝のあいだからのぞいているように見えたお地蔵さまの顔――そして、あの錫杖の音。早くこの猫を御前さまに会わせたい。御前さまは何とおっしゃるだろう?
約束の六ツをしらせる鐘を聞きながら、奉行所の役宅の裏玄関に着いた。そこでは、奥向きを取り仕切っているお通《つう》が待ちかまえていて、いつものように穏やかな歓迎の笑顔を向けてくれた。
「御前さまがお待ちかねでございます」そうして、お初に抱かれた和尚に目をやると、「あら、新しいお連れでございますね」と言った。
ひょっとすると、先ほど訪ねたとき、よほど優しくしてもらったのか、鉄はすっかりお通になついてしまって、彼女が廊下を案内してくれているあいだも、足元にじゃれついてばかりいる。お初と右京之介は二、三歩遅れてお通に従い、何度来ても覚えることのできない迷路のように入り組んだ廊下を歩き、大小の座敷の前を行き過ぎていった。
奉行の居間に通されるとき、お初はいつも、ちょっと緊張する。いったん、和尚を床に降ろし、正座して、失礼いたしますと声をかけておいてからそっと進み出る。奉行はくつろいだ姿勢で脇息《きょうそく》に寄りかかり、古い書物のようなものをめくっていた。
「おお、お初」
顔をあげ、にこりとした老奉行は、手招きをしてすぐに中に入るようにと促した。一同が座敷に落ち着くと、奉行は真っ先に和尚に目をとめた。
「和尚だの? ほほう、かなり年輩の猫のようじゃな。私といい勝負だ」
「よう、じいさん」と、鉄が鳴いた。「約束通り、お初ちゃんたちを連れてきたぜ」
奉行は鉄を指しながらお初の顔を見て、「何と言っておる?」
「あの……お約束通り、参りましたと」
奉行は顎をぽりぽりとかいた。「なるほど。私にも鉄の言葉がわかればのう」
残念そうだった。
「つくづくお初、おまえがうらやましい。『耳袋』のなかに書き溜めているもののなかにも、ものを言う動物の話はいくつかあるが、彼らの言葉を聞き取ることができるのは、僧や学者ばかりのようだ。私はまだまだ修行が足りぬのだろう。それを考えると、そちらの猫の名が和尚というのも、なかなか面白い符合かもしれぬ」
当の和尚は骨のない海月《くらげ》か何かのような風情で、お初の膝の上ででれりとしている。目も半目で、口の端からよだれまで流している始末だ。どうやら、道中ずっと居眠りをしていたらしい。
「右京之介」と、奉行は呼びかけた。「そんなに隅へ引っ込んで座ることもなかろう。おまえは、未だに猫が苦手なのだな」
右京之介は大いに照れた。「御前さまはご存じでしたか」
「知っているとも。おまえの親父どのが昔、話してくれたことがある。わたくしの嫡子は赤子のころ猫に耳を噛まれまして、以来、猫の毛が飛んでくるだけで顔色を変えて逃げる始末でございますとな」
座敷のなかをウロウロしていた鉄は、それを聞いてわざとのように右京之介の方へ近づいていった。右京之介の笑顔が強ばり、尻が段々浮いてゆく。奉行は笑って鉄を呼んだ。
「鉄、そう右京之介を苛《いじ》めるな。こっちへおいで」
鉄はしっぽをぶらぶらさせながら奉行の膝のところへ行き、図々しくもあがりこんだ。
お通が茶菓を運んできた。彼女は鉄にほほえみかけ、鉄もニャンと鳴き返した。しかし和尚は寝たきりだ。
お通が出て行くと、おもむろに奉行が切り出した。「お初、手紙は読んだ。どうやら大変なことになっておるようだの」
見ると、お初のさしあげた書状は、奉行の脇息の脇に置いてある。
「しかし、おぬしたちの働きで、大方のことははっきりしてきたと思うぞ。恐ろしい思いをしたろうに、よくやってくれた」
奉行はひと膝乗り出した。
「実は、数日以内に、捕り方が浅井屋に乗り込むことになっている」
お初も右京之介も、これにはびっくりした。
「もうそんなに話が進んでいるのでございますか?」
「そうだ。手配さえ整えば、荒療治《あらりょうじ》は早い方がいいと判断した」
お初は右京之介の顔を見た。彼は、すべすべした額にしわを刻んでうなずいている。
「そなたたちが訪ねてくるほんの少し前まで、古沢がここにおったのだ」
「父は、どのような手配をするつもりなのでしょうか」右京之介は、さすがに心配そうだ。
奉行はうなずくと、鉄の頭をぽんと撫でた。「小さくとも小回りの利く、手下ばかりを連れてゆく。この鉄のような、の」
「兄はお手伝いを?」
「もちろんだ」
「それなら、わたしたちも」お初は勢い込んだ。「ぜひ、一緒に浅井屋に行かせてください!」
「そうです。手は多い方がいい」
奉行は両手を前に出すと、ふたりをなだめるような仕草をした。
「まあ、まあ、その話はあとまわしじゃ。夜明けまでは、まだまだ間があるからの。それより先に、まずは我々の用件にとりかかろうではないか。天狗とどう戦うか、の」
そう言って、奉行は旨そうに茶を飲んだ。膝の上で、鉄も一緒になって首を持ち上げている。
「戦うと言っても、相手は魔性の女の怨霊《おんりょう》」右京之介が、ひと言ひと言噛みしめるようにして呟く。「刀や弓ではどうにもならないでしょう。御前、私は、この怨霊がこの世に現れ出るときの、足場として使われている人物がいると思うのです。それが、あの古着屋に現れて小袖を売ってゆく武家娘ではないのかと考えるのですが」
「足場、のう」
「はい。怨霊はその武家娘を操って、この世に舞い戻る通り道を開けさせているのではないでしょうか」
奉行は考え込んだような顔で湯飲みを置くと、片手を鉄の頭に載せた。
「ところで、お初、右京之介。先ほど、奇妙なことがあった。そなたたちが近づいてくる足音に混じって、ひどく珍しい物音が聞こえてきたのだよ。まるで、錫杖を突くような音がの」
「御前さまも、お聞きになりましたか」
お初の問いに、奉行は穏やかな目を見開いた。
「うむ。それではやはり、お初も聞いたか」
「右京之介さまは?」
右京之介は首を振った。「錫杖のような音と申しますと?」
お初は御前さまと顔を見合わせた。お初はその視線を、そのまま、膝の上でのんびりと眠りこけているように見える和尚の上へと移していった。奉行もそうした。
「ね、和尚」と、お初は猫をそうっと撫でた。「起きてちょうだいな」
老いた猫は面倒くさそうに片目だけ開いた。と思うと閉じてしまった。
「和尚、あなたは――本当は何者なの?」
「猫に何かあるのですか?」
とんちんかんなことを言う右京之介のそばに鉄が寄っていって、うんにゃというような声で鳴いた。「ちっと黙ってな」と言ったのだ。
「それはさておき」奉行はお初に目配せをして――今はまだそのままにしておけ――という意味だろう――話の向きを変えた。
「右京之介の言う、小袖を売りに来る謎の武家娘が、天狗の足場とされている人物であるという説には、私も賛成する。その娘については、六蔵が探しているのであろう?」
「はい。古着店の人たちに手を貸してもらって……」
「とすれば、見つかるまで待つしか手がないの。しかし、その娘について、私はひとつ気になることがある」
「と申しますと?」
「どうやらこの天狗は、いつまでも若く美しくありたい、そうして現世でそれを享受《きょうじゅ》したいという思いが凝り固まって生まれた妄念の化け物であるようではないか。では、そういう妄念を抱く亡者《もうじゃ》に魅入られ、憑かれ、足場として操《あやつ》られてしまう娘と言えば、さてどんな娘であろうな?」
右京之介が、慎重な口振りで言った。「むしろとても地味で、姿形に自信のない娘――しかもそれでいて、女子は姿形の美しさにこそ価値があり、そうでなければならぬと思いこんでいる娘……」
「そのとおりだ」と、奉行はうなずいた。「そういう娘は、心の底に、天狗の妄念と同じ琴線《きんせん》を持っておる。だから共鳴し、憑かれてしまうのだ」
「そうして、美しい娘を狩る手伝いを……」
「むろん、知らず知らずのうちにやらされているのであろう」
先ほどからの、痛ましいものを見るような表情を緩めないまま、奉行は続けた。
「その武家娘は、古着屋の長田屋を訪ねる際、すっぽりと頭巾をかぶって顔を隠していたという。ひょっとするとそれは、娘の顔に、何か目立つ傷やら痣やらがあるからではないか」
お初と右京之介は顔を見合わせた。
「どうにもそう思えてならぬのだよ。お初、お前の言うとおり、天狗に魅入られる者は、皆心になにがしかの隙を持っておる。顔を覆ったその武家娘の心の隙は、なんであろうかと考えるとの、病か、怪我か、何かで負ったその傷が、娘が天狗に操られるきっかけになったのではあるまいか」
「心の隙か……」右京之介が呟いた。「しかし、おあきも、お律もそうだったのでしょうか」
「おあきちゃんとお律ちゃんの場合は、父親の政吉さんや、妹のお玉ちゃんの暗い気持ちが、天狗を吸い寄せたのだと思うわ」
お初は自分の考えを話した。
「それと、やっぱりあの小袖から作った袋物よ。それがよりしろとして、天狗に足場を与えたのね」
「美しい小袖。それもまた、いかにも女の妄念の宿るにふさわしいものですね」
「じゃ、早く見つけてあげなければ、その娘さんも天狗の犠牲者になってしまうということですね?」
「そうだ、私はそう思う。さらわれたふたりの娘の身と同じくらい、その武家娘の身も、私には案じられてならぬ」
それに、と、奉行は膝を乗り出した。
「天狗と化している女の妄念だが、その元となった女性《にょしょう》は、その武家娘のごく身近にいたことのある者――あるいは身内かも知れぬと、私は思う」
「なぜでございます?」
「娘が売りに来ている古着の類が、高価なものであるからだ。嫁入り前の武家の娘が、自分でそのようなものを持っているというのは考えにくい。むしろ、蔵のなかにでもしまい込まれていたものではないか」
なるほど、言われてみればそのとおりだ。
「たとえば形見などでございますね?」
「うむ。祖母、母、叔母、姉――例の娘にとって身近で、生前にも交流のあった女性のものではなかろうかの」
いちいちうなずける言葉だ。お初はしっかりと頭のなかに入れた。
「それにしても、天狗を退治するには、どうしたらいいのでしょう」
老奉行は、傍らに置いた書物を取り上げた。それはそれは古いもののようで、持ち上げただけで埃がふうと舞う。鉄がくちゃん! とくしゃみをした。
「よりしろとなっている古着を見つけて燃やしてしまうこと――それがまず第一だ。しかし、それでは、天狗の今後の出現は防ぐことができても、さらわれた娘たちを取り戻すことはできぬ。娘たちを助け出すには、こちらも天狗の差し招くところへ行ってみねばなるまい。おあきとお律が夢に見たという、不可思議な桜の森だ。しかし、そこに行くことができるのは――」
お初は後を引き取った。「わたくしだけでございますね」
奉行もうなずく。「そのとおりだ。つまり、お初はおとりにならねばならぬ」
「しかし、それは危険に過ぎます!」右京之介が奉行に詰め寄り、鉄が奉行の膝から逃げ出した。「いくらなんでも、お初どのにそんな危険な真似をさせるわけには参りません!」
老奉行は黙って、お初の顔を見つめている。淡々とした静かな表情で、そこからは何も読みとれない。
「わたくし、やります」
「お初どの!」
「いいんですよ、右京之介さま」お初はやんわりと彼の手の甲を叩いて宥《なだ》めた。「今までだって、天狗には出会っているんです。よりしろの古着を燃やしただけでは、やっぱり事は済まないと思うし、この先、おあきちゃんお律ちゃんの身の上を案じながら暮らす方が、よっぽど辛いです」
鉄がお初の膝頭《ひざがしら》に頭をすりつけた。「大丈夫だよ、お初ちゃん。俺が一緒に行ってやるからさ」
お初は微笑んだ。「鉄がついてきてくれるって」
江戸町奉行根岸肥前守鎮衛は、鉄のいなくなった膝の上で、手にしていた古ぼけた書物を開いた。
「これは『古事奇談』という書物でな。早い話が、今から数百年昔にも、私のような者がいて、『耳袋』のような聞き書きをつくっていた。それを集めたものだ。このなかに、若い後妻への嫉妬に狂って迷い出た女の亡霊を、彼女の使っていた鏡に吸い取って退治したという話が出てくる」
「鏡でございますか」
「そうだ。それで今度は、鏡について書かれた文献を調べてゆくと、確かに鏡には魔を吸い取り、それを封じておく力があると、古来信じられているようだ。薬師如来《やくしにょらい》に鏡を奉じるのも、そこに病魔を吸い取って封印していただき、快癒《かいゆ》を願うという意味が込められているのだそうだ。それどころか、鏡の裏に特定の文字を刻み祈祷《きとう》を捧げることで、そこに吸い取る魔を特定することもできるという」
奉行はそこで、つと手をあげてぽんぽんと鳴らした。それに応じて、襖《ふすま》の向こうからお通の声がする。「お呼びでございますか」
「先ほど言いつけたものを持ってきてくれ」
ほどなく、お通は紫色の袱紗に包んだものを捧げ持ってきた。奉行はそれを受け取ると、お通の下がるのを待って、それをお初の前に差し出した。
古びた銅鏡だった。お初の手のひらくらいの大きさの、持ち手のついていない丸いものだ。端の方には緑青《ろくしょう》が浮き、かつては美しい彫り物があしらわれていたであろう裏面も、長年の手ずれと研ぎのために、すっかり無地になってしまっている。
「これを使ってみないかの」と、奉行は言った。
お初は鏡の重さを手のひらに感じた。冷たい。
「出所は……多少、言いにくい。ある神社の秘宝のひとつでの。ただし、当の神社でも、この鏡の価値はあまり判っておらんようだった。そこに伝わる文献に、東照神君家康公《とうしょうしんくんいえやすこう》の治世のころ、若い娘に好んで憑いてはとり殺し、市中を騒がせた亡霊を、この鏡で退治したという記録があるので、借り受けて参ったのじゃ」
お初は鏡をじっと見つめた。が、誰かにじっと見つめられているのを感じて目をあげた。
眠ってばかりいたはずの和尚が、お初を見つめている。その目から視線を離すことができなくなって、お初はぼうっとした。
思わず手から力が抜けて、鏡を取り落とした。と、あの動きの遅い和尚が、やにわに起きあがって鏡に飛びかかった。
「何をする!」
右京之介が和尚を押さえようと手を伸ばした。しかし、それよりも早く、和尚はお初の手を離れて畳に落ちた鏡の上に載っかっていた。
氷のように澄んで鋭い錫杖の音が、室内に響きわたった。
とたんに、和尚はまた元の眠たい猫に戻ってしまった。お初はそろそろと手をのばし、鏡を拾い上げた。
何の柄もなかった裏面に、ひと文字――「真」の文字が刻まれていた。
「どうやら……」考え深そうに、和尚と鏡の文字を見比べながら、老奉行は言った。「この鏡で、間違いはなさそうだの」
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第五章 対 決
しのの涙
翌朝目を覚ましてみると、布団の足元に丸まっていたはずの鉄の姿が見えない。お初は家中を探し回り、窓を開け、よく晴れた空を仰いでひさしや屋根の上にも声をかけてみたのだけれど、返事がない。
心配で、朝ご飯も喉を通らないような気分でいたところに、息せききって文吉がやってきた。
「親分、例の武家娘が見つかったそうです!」
ちょうど仕度を終え、まさにその牛込に出かけようとしていた六蔵は、文吉につかみかからんばかりの勢いで土間に飛び降りた。
「本当か?」
文吉は興奮で顔を真っ赤にしている。
「間違いねえです。頭巾をかぶった身なりのいい娘が、風呂敷包みを抱えて、長田屋の前をうろうろしてた。で、主人の卯兵衛が声をかけてみたんだそうです」
卯兵衛は上手に話を持ちかけ、娘が古着を売りにきたのだということを聞き出すと、それならうちで買い取りましょうと申し出た。娘は喜んで風呂敷包みを開いた。
「金糸を豪勢につかって刺繍をした、千鳥の柄の小袖が出てきたそうです。娘はそれを、できるだけ若くて美しい女の客に売ってくれと言ったって」
娘が帰るところを、文吉と一緒に張っていた雁太郎親分の手下がふたりがかりで尾行して、家を突き止めた。麹町一丁目の御家人屋敷で、当主の名は柳原信兵衛《やなぎはらしんべえ》。お役や禄高《ろくだか》などの詳しいことはまだわからないが、近所にある米屋から聞き出した限りでは、柳原家には今年二十歳になるしのという娘がおり、そのしのが、しばらく前から外に出るときは頭巾をかぶり、人目を忍ぶようになっているという。
「それだ、間違いねえ。で、その小袖はどうした?」
「もちろん、預ってきました。今は番屋に置いてあります」
お初は、六蔵と文吉に、先夜《せんや》の御前さまの話を繰り返して伝えた。六蔵は大きく顔を歪めた。
「娘が天狗の『足場』にされてる……」
「ええ。しかも、天狗と変じている女の正体は、そのしのという娘さんの身内じゃないかって」
すると文吉が胸を叩いた。「任しておいてくださいよ。俺たちで、今日の日暮れまでには、しのという娘の身辺、洗いざらい調べあげてみせますから!」
「お願いね。あたしは、その娘さんの目を覚まして、天狗から助けなくちゃならないの。彼女も操られてるだけなのよ。だから、どんな人でどんな苦しみや悲しみを抱えているのか、できる限りよく知っておきたいの」
しのには、今夜会いにいくつもりだった。そういえば今夜は新月だと、そのときふと気がついた。月の見えない、闇の夜だ。天狗と渡り合うには、おあつらえむきかもしれない。
六蔵はこれから、多吉の住んでいた長屋に向かうという。楊弓や吹き矢の類を探し、何よりも、例の小袖の、袋物を作って残った部分を引きあげてこなくてはならないからだ。まだだいぶ残っているはずだから、火にくべてしまわねばならないと、怖い顔で言う。
しかしその前に、お初は兄の袖を引っ張った。「兄さん、あたしを番屋に連れてって」
「何をしに行くんだ?」
「千鳥の小袖を持ってくるの」
六蔵はお初の顔を見据えた。お初もしゃんとして兄を見つめ返した。
「今日手に入った千鳥の小袖も、先の小袖の残りと一緒に燃やしちまうんだ」
「その前に、あたしに貸して」
「どうするつもりだ?」と、兄は低く訊いた。お初は、借りてきた銅鏡を見せた。
「昨夜から、ずっと肌身離さず持ってるの」と、お初は言った。「眠るときにも握りしめていたの。これさえあれば、おあきちゃんとお律ちゃんを助け出して、天狗を退治することができる。だけどそのためには、あたしが天狗にさらわれなくちゃいけない」
「それで上手く運ぶとは限らねえ。おめえもさらわれたきり、帰ってこれないかもしれないんだぞ」
お初は強く首を振った。「ううん、そんなことはない。大丈夫よ。あたしは御前さまのおっしゃることを信じてる。自分の力も信じてる」
六蔵はぎゅっとお初をにらみつけていたが、やがて目を落とし、力なく手をあげて額をさすった。
「止めても無駄なようだな」
「うん」
「御前さまも、殺生《せっしょう》ことをなさる」六蔵らしくない、恨み言だった。「なんでおまえが巻き込まれるんだろう……」
「それは考え違いよ、兄さん。あたしは御前さまにお役目を授かって、働いているんだもの。それは兄さんたちが、お上の御用で、どんな危ないところにでも迷いなく飛んでいくのと同じなの。心配だって言うなら、あたしだって義姉さんだって、いつもいつも兄さんのことが心配よ。兄さんの後ろに、怪我をした人や亡くなった人の幻が見えるときなんか、あたしだって泣きたいような気持ちになるわ。兄さんは、今度は無事だった、だけど、次はどうだろうって。義姉さんだって、生きた心地がしないことだってあるはずよ。だけど、じっと我慢してるの。兄さんの腕を信じてるし、あたしたちが兄さんの無事を祈っていれば、きっとご加護があるはずだって信じてるから」
一気にそこまで言うと、息が切れた。
六蔵の口元が、しわしわと笑った。「……頑固娘め」
「だって兄さんの妹だもの」と、お初は笑った。
「番屋に行こう」と、六蔵は立ち上がった。「だが、およしにはこのことを話すなよ」
通町の番屋には、月番の老人がひとりでぽつねんとしていた。六蔵の顔を見ると立ち上がり、ほっとした顔で近寄ってきた。
「ああ、六蔵親分、いいところに来てくだすった。いや、さっき親分のところの若い衆が来て――」
と、奥の座敷を振り返り、
「あそこに風呂敷包みを置いて行ったんですよ。それで、親分がいいとおっしゃるまでは、この包みを開けちゃいけないし、この包みに近づいてもいけない。とりわけ、若い男や娘っ子は絶対に番屋のなかに入れてもいけないというじゃありませんか。おまけにあの若い衆ときたら、妙にあの風呂敷包みを怖がっているみたいで……わたしも気味が悪いですよ」
「すまんな、脅かして」と、六蔵は老人に謝った。「だが、もう安心だ。風呂敷包みは俺が持っていく。どこにあるんだい?」
「書役の机の下に」
六蔵は履き物を蹴って脱ぐと、座敷にあがった。月番の老人は、眉をひそめたままお初の顔を見た。「お初ちゃんじゃないか。どうしたね? いや、あんたはここに入っちゃいけないよ。若い衆に言われてるんだ、娘さんを近づけちゃいけないってね」
「あたしは大丈夫よ、おじさん――」
言いかけたとき、六蔵が「うわ!」というような声をあげた。「なんだこいつは!」
六蔵が机の陰から持ち上げた風呂敷包みの端っこに、なんと鉄が食らいついているのである。
「なんだこの猫は――おい、離せ、離せよ、こいつはおめえの食い物じゃねえんだ」
鉄はううううと唸りながら歯を食いしばって離さない。
「兄さん、手を離して」お初は急いで兄に近寄った。「鉄は、俺がこいつの番をするって言ってるのよ。ね?」
鉄は風呂敷包みに噛みついたまま目をぎらぎらさせている。お初も、彼がこんなふうにいきりたつのを初めて見た。「落ち着きなさい、鉄」
六蔵が手を離すと、風呂敷包みは畳の上に落ちた。鉄は、素早く包みに食いつき直すと、それを引きずって、書役の机の下に隠れてしまった。
「鉄……」
鉄が今朝早くから家を空けていたのは、この小袖が番屋に届けられたことを感じ取ったからだろう。ずっとここにいて、小袖に目を光らせていたのだ。
「鉄、判ったわよ、もう手を出さない。だから、それを持って、うちまでついてきてくれない?」
返事がない。「鉄? 聞こえてる?」しゃがみこんで、お初は呼びかけた。
月番の老人が六蔵に訊いている。「お初ちゃんは猫と話ができるのかね、親分」
やがて、低いうなり声が聞こえてきた。「……おいら、知ってる」
「何を知ってるの?」
鉄はまた黙った。それから急に、いつもの陽気な声に戻って言った。「心配ないよ、お初ちゃん。こいつは俺が、お初ちゃんのところに届けるから」
「うん。お願いね」
お初は兄を促して番屋を出た。鉄のふるまいに、かすかな不安を感じつつ。
言葉どおり、しばらくして番屋から風呂敷包みを引きずって持ち帰った鉄は、そのまま包みと一緒にどこかへ雲隠れしてしまい、姿が見えなくなった。だが、天井裏でやけに鼠がどたばたしているところを見ると、鉄はそこへあがっていったらしい。お初は天井に向かって呼びかけた。
「あたしが呼んだら、包みを持って降りてきてよ。いいわね?」
そうしておいて、お初は手早く着替え、まずは山本町へ向かった。差配人の家へ行って、おのぶの様子を見るつもりだった。
訪ねると、差配人は快《こころよ》く迎えてくれた。折良く、今日はおのぶが床の上に起きあがっているという。お初は彼女の床が延べてある階上の座敷まで案内してもらった。
おのぶは床の上に座って、差配人の妻に世話してもらいながら、お粥《かゆ》を食べているところだった。差配人が、「おのぶさん、おあきちゃんの友達が見舞いに来てくれたよ」と声をかけると、そのぼんやりとしたまなざしにかすかな明かりが灯った。
「それは……わざわざあいすみません」
頭を下げようとするおのぶを、お初は押しとどめた。
「おじゃまをしてすみません。ゆっくりなすってください」ちょっと迷ったが、自分で自分に活《かつ》を入れるためにも、口に出して言っておこうと決めて続けた。「あたしは、おあきちゃんはきっと無事で帰ってくるって、そう信じています。だからおばさんも、気をしっかりもって待っていてください」
階下に降りると、差配人がため息をつきながら、「おあきちゃんは、おのぶさんによく似てるんだよ」と呟いた。「女にしちゃいくらか背が高い方で、すらりとして様子がよくてね」
「差配さん、おあきちゃんが神隠しに遭うちょっと前、このあたりに、身体の大きな袋物売りがやって来ませんでしたか?」
「袋物売り?」
袋物の振り売りは、大きな笹竹に商いものをぶら下げて、それを担いで売り歩く。多吉はあの体格だし、きっと目立ったことだろう。
ちょっと考えてから、差配人はうなずいた。「そういえば、えらく図体の大きい袋物売りが、この辺をときどき流しているよ」
「おあきちゃんが、その袋物売りから買い物をしているのを見たことがありますか?」
「さあ……ただ、若い娘さんてのは、ああいう小物が好きだからね。あんただってそうだろう? 気が向いたら、袱紗だの巾着だの、ひとつやふたつは買っただろうね」
「差配さんは、何か買いました?」
「いやいや、うちでは、細かいものは家内が縫うからね」
お邪魔さまでしたとお辞儀をして、痩せて小さくなったおのぶの灰色の顔に心を痛めながら、お初は長野屋へと足を向けた。
あいかわらず、お玉は陰気な顔で店番をしていた。今日は彼女の母親のおせんも一緒に店に出ている。お初は愛想良く挨拶を交わし、何か変わったことはないかと問いかけてから、おもむろに訊いた。
「ところで、ちょっと思い出していただきたいんです。お律ちゃんが神隠しに遭うちょっと前に、すごく大柄の袋物売りから、何か小物を買いませんでしたか?」
おせんは、ちょっと首をかしげた。しかし、お玉はびくんとした。
「覚えてるの?」と、お初は訊いた。
お玉は、売り物の葱《ねぎ》の束を意味もなく右へ動かしたり左へ戻したりしている。
「身体の大きな袋物売りよ。覚えてない?」
「さあ、ちょっと覚えが……」と、おせんが言い出した。
すると、それをさえぎって、お玉が大声を張り上げた。「何よ、おっかさんたら!」
おせんは目をむいた。「何なの、おまえこそ大きな声で――」
お玉は真っ赤な顔をしていた。「あたしのことなんか、すぐに忘れちまうのね! いつだってそうなんだから!」
「ちょっと、ちょっと待って、お玉ちゃん、きちんと話してくれない?」
お玉はひどく激して、小さな手を握ったりほどいたりしながら説明した。それによると、お律が神隠しに遭う三日ほど前に、確かに大柄な袋物売りがやって来たという。
「あたし、あたらしい巾着が欲しかったから、呼び止めたの。品物はみんなよくできていて、きれいだったわ。そのなかで、あたしがいちばん気に入ったのが、牡丹《ぼたん》の花の刺繍があるものだったの。そりゃあ豪華で、ちょっとそこらじゃ見あたらないものだったんだもの」
お初はうなずいた。間違いない、その巾着が、卯兵衛の元から持ち去られた最初の小袖でつくられたものだ。
「だけど、さあ買おうとしているところへ、姉さんがやってきて、やっぱりその巾着が気に入ったっていうの。あたしは、あたしが先に決めてるんだから駄目だって言ったわ。だけど姉さんたらわがままで、振り売り相手に、この子よりあたしの方がいい値で買ってあげるからと言い出して、振り売りも面白がっちゃって、結局姉さんに売っちゃったのよ」
お玉は本当に悔しいのか、顔が引きつっている。
「腹が立つから、うちへ入ってまだ喧嘩をしていたら、そしたらおっかさん、なんと言って? こんなきれいな巾着は、お玉にはもったいない、お律が買ってよかったんだって、そう言ったのよ! あたし覚えてるわ。死んでも忘れられやしないわ!」
おせんはおろおろしていた。お玉の言葉の激しさと、悔しい悔しいと拳を握る様のものすごさに、すっかり度を失っているようだ。
「死んでも忘れないなんて、おまえ、大げさだよ、たかが巾着ひとつ――」
「そんなことじゃないもん!」お玉は声を震わせて怒鳴った。赤かった顔から、今や血の気が引き始めている。「巾着なんかどうだっていいんだ! あたしが怒ってるのは、おっかさんもおとっつぁんも、いっつも姉さんばっかりえこひいきするってことよ。ひどいわがままをやったって、姉さんには怒ったことがない。いつだってあたしばっかり損をするんだ!」
「だけどおまえ、それはおまえが姉さんの持ってるものばかり欲しがったり、姉さんをうらやましがったりしてるからじゃないか。わがままはおまえの方だろうよ!」
お初は止めに入ろうとしたが、お玉の様子を見ているうちに、この母娘喧嘩はとことんやらせてやった方がいいようだと感じ始めた。お玉は今まで、溜まりに溜まったこういう不満を、親に向かってぶつけたことがなかったのだろう。一度、全部吐き出してみるといい。そのうえで、やはり家を出て女中奉公をするならそれもいい。
(お律ちゃんはきっとあたしが取り返すんだから、それまでに、おっかさんたちに言いたいことはみんな言っておきなさい)
お初のことなど忘れて喧嘩に夢中になっている母娘をおいて、そっと店先を離れた。近所の人びとが、何事かと首を伸ばし、長野屋の方を見やっている。
陽が落ちるころになって、ようやく文吉が帰ってきた。驚いたことに、右京之介が一緒だった。
「あっしだけじゃ調べきれないことを、いろいろ助けていただいたんです」と、文吉は頭をかいた。
六蔵は、文吉よりも先に家に戻っていた。手ぶらだったので、小袖の残りはどうしたのと訊《たず》ねると、「見つけた。見つけてそのまま焼いてきた」と、ぶっきらぼうに答えた。「残った灰も、穴を掘って埋めてきた。なんだか、まだ手がべたべたするようだぜ」
それきり、不機嫌そうにうちのなかにこもっていたのだ。これには、元気よく戻ってきた文吉も、いっぺんで親分の顔色をうかがうような感じになってしまった。
「兄さん、そんな鬼みたいな顔しないでよ。文さんは、ちゃんと仕事して戻ってきたんだから」
明るくそう文句を言っておいて、お初は文吉を促した。「それで、どんなことが判ったの?」
「柳原家ってのは、まあどこにもあるそこにもある御家人の家ですよ。屋敷も古くて、だいぶあっちこっちいたんでいるようでしたね」と、文吉は始めた。「今日、あっしたちが見ている限りでは、ご当主がお城へ行って戻ってきただけで、誰も出入りしませんでした。商人もこなかったなあ」
右京之介は続けた。「父の信兵衛は広敷添番ですが、これという噂もないところを見ると、父親の方は無事にお勤めをこなしているのでしょう」
ただ、柳原家の家計はけして楽ではなさそうだという。このくらいの軽輩の御家人の家は皆そうで、別段不思議なことでもないが、
「しかし、しののふたりの姉は、いずれも、生家よりずっと格上の大身の旗本に嫁いでいるのです。これが、どちらもいわゆる器量のぞみであったようで」
「玉の輿というわけね」
「ええ。柳原家には嫡子がおりますので、跡取りには困りません。そのうえ、娘たちがいいところに縁づけば、家にとっては喜ばしいことだ。しかし、三女のしのに限っては、今年二十歳だというのに、いまもって嫁ぎ先が決まらない――今まで、縁談はいくつかあったのですが、皆、来るそばから壊れてしまうのだそうです」
武家娘の嫁入りは、家同士の格式を大事に、それぞれの家のつながりに重きを置いて決められるものだ。当人同士の感情など、ほとんど顧《かえり》みられることがない。だから、よほどのことがない限り、一度持ち上がった縁談がまとまらぬということはない。
「なぜなんでしょう?」
右京之介は言いにくそうだった。「信じがたいことなのですが、噂では、しのの縁談の相手は、必ず病みつくというのですね」
しのとの縁組みがまとまると、その許婚者《いいなずけ》は、ひとつの例外もなく熱病にかかったり、足腰が立たなくなったり、目が見えなくなったりするというのである。
「理由はわかりません。おまけに、奇妙なことに、これらの許婚者たちがしのとの縁談を破談にすると、とたんに病が癒えるというのですね。そういう次第で、柳原の三女は何かに憑かれているのではないかという風評が立ち、すっかり縁遠くなってしまったのです」
「しのさんは美しい人なんですか?」
ふたりの姉は器量をのぞまれて嫁いでいるのだ。が、右京之介は首を振った。
「ごく普通の器量で、姉たちには比べるべくもない――いや、なかったという話です。本人もそれを気にしてか、気質も明るいほうではないと。家のなかでも居心地が良くないのでしょうね」
お初はどきどきしてきた。御前さまのおっしゃったことが思い出される。女は器量がすべてと思いこまされて育つ娘――
「おまけにそのしのに、さらに不幸が降りかかりました」と、右京之介は続けた。「この春のことですが、火傷《やけど》を負ったのです」
「火傷?」お初は声をあげた。「ああ、それで頭巾をかぶるようになったのね!」
行灯に油を足そうとしたとき、うっかりして着物の袖に火が燃え移ったという、無惨な事故であった。火はしのの半身を焼き、顔の半分も焼けただれてしまった。
「御前さまの考えておられたとおりだわ……」
「以来、しのはますます家に閉じこもるようになったわけで。この話をしてくれたのは柳原家出入りの炭屋なのですが、口の悪い者はしのを、柳原さまのお化け娘と呼んでいるとか」
心ない言いようであるが、人の口とはそういうものだ。
「天狗に憑かれて利用されているということでは、しのさんもおあきさんやお律ちゃんたちと同じなのよ。早く助けてあげなくちゃ」
文吉は顔を曇らせた。「お嬢さんのそういう優しいところはいいところだけど、妙な情けは禁物ですよ」
「あら、文さんらしくもないもの言いね。汚《けが》れを知らない若い娘さんが、危ない目に遭っているのよ。助けなくてどうするの」
文吉は右京之介と顔を見合わせている。
「汚れを知らねえ……のかなあ」と、もごもご言う。
「どうしたの?」
「それがその……」文吉は鬢《びん》のあたりを指でかいた。「実は、しのという娘については、もうひとつひっかかりがありましてね。これがお寺社がらみなんです」
文吉の言う「お寺社」なら、寺社奉行所のことである。
「しのの周りを探り始めたらすぐに、なんだか岡っ引きの手下みたいな若い男が周りをうろつき始めましてね。こっちも気になるから、逆にとっつかまえて剣突《けんつく》をくらわしてやったんです。そしたら、そいつはお寺社の密偵《みってい》でしてね」
寺社奉行所は町奉行所とはあまりそりの合わないところだが、岡っ引きに頼らない独自の探索《たんさく》の網《あみ》を持っているものであるらしい。
「腹のさぐり合いでしたよ」と、右京之介が苦笑した。「密偵は我々がなぜ柳原家のしのを探り回るのか、ぜひとも知りたいという様子でした。そのくせ、そちらの事情については口が堅くてね。ぎりぎり問いつめたり駆け引きをしたりして、やっとさわりだけ聞き出したのですが――」
柳原家の菩提寺《ぼだいじ》の僧に、女犯《にょぼん》の噂があるのだという。
「谷中《やなか》の延命院《えんめいいん》という寺なのです。法華宗の寺格としては立派なのですが、これが腐敗と堕落《だらく》の激しい寺のようでして、久しく以前から、地元では女犯や飲酒にまつわる噂が絶えないそうなのです。それで、お寺社も重い腰をあげたというわけでしょう」
寺に出入りする女たちはひとりやふたりではなく、身分も武家の妻から町娘までさまざまだという。これが本当ならば、大規模な女犯事件となる。
「住職は日道という僧ですが、今年三十で、そりゃもうすごい美男の坊さんらしいんですね。参詣に来た女を引っ張り込んだり、通夜だと言って泊まらせたり、とにかくやり放題らしいんですよ」
「だけど、それがしのさんとどう関わりがあるの?」
文吉が声をひそめた。「しのも、日道とわりない仲になっていたようなんです」
密偵の話では、関係ができたのは二、三年ほど前の春のことだという。
「もちろん、最初は参詣のために通ってたんでしょう。それがまあ……日道に騙されたんだろうけどそういうことになって。けど、火傷を負ってからというものは、しのはさっぱり延命院に足を向けてねえそうでね」
お初は嫌な気分になった。それは、しのの足が遠のいたのではなく、日道とやらいう僧が彼女を疎《うと》み始めたのだろう。むろん、火傷がその理由だ。
「それなら、しのさんに何を訊いても無駄じゃないのかしら」
「逆なのですよ、お初どの」と、右京之介が言った。「いったい、女犯事件ほど扱いの難しいものはないそうです。寺という聖域のなかでの出来事ですから、憶測だけでは踏み込むことができない。しかし、たとえば関わった女たちから何かを聞き出そうとしても、もともとけっして誉められた話ではないことですから、皆口をつぐんでしまう。だからお寺社でも、ずいぶん前から延命院の噂は耳にしていたけれど、思い切った探索《たんさく》に乗り出すことができないでいたのですね。しかし、有《あ》り体《てい》に言えば、しのは日道に捨てられた女です。恨《うら》みも怒りもあるだろう。だから、彼女ならしゃべるかもしれない。彼女から、手がかりとなるものがつかめるのではないかと、お寺社の探索方も考えたわけですよ」
「そういう女が出てくるのを待ってたってところですかね」と、文吉がうなずく。
お初はますます、しのが哀れに思えてきた。そして、そもそも彼女が天狗に魅入られることになったきっかけも、日道というその怪しい僧との恋にあるのではないかと考えた。
縁談が次々と壊れてしまう、運の悪い娘。しかしそれだけなら、不幸の積み重ねではあるけれど、耳をそばだてるほどのことではない。そのうち、きっとそんな不幸の時期を抜けて、しのにも幸せが訪れるはずだったろう。
だが若い彼女の心は、やはり深く傷ついたろう。だから、信心を思いつき、家の菩提寺《ぼだいじ》に通ったのではないか。そこで日道と知り合い、しのは恋におちる。少なくとも、彼女にとっては真剣な恋だ。
女が自らの顔かたちに関心を持ち、自信を持ったりひけめを感じたりするのは、年頃になれば当たり前だが、しかし、とりわけそんな思いが強くなるのは、やはり想い人ができたときであろう。相手も真剣な恋で相思相愛《そうしそうあい》の仲ならばそんなことも少なかろうが、日道としのの場合はそうではない。しのは、日道の周囲に、他の女たちがいることをよく知っていたことだろう。
それでなくても、我が身と美しい姉たちとを引き比べ、暗い気持ちになることの多かったしののことだ。美しくなりたいという気持ちは、日道と関わったことで、さなきだに強くなる一方だったに違いない。そしてそれが彼女のなかの執念《しゅうねん》となり、その執念が天狗に憑かれる理由ともなった――
それにもうひとつ、延命院が柳原家の菩提寺だということも、ひどく気になる。御前さまのおっしゃっていたように、天狗の正体が柳原家の女だとしたら、その女は延命院の墓場に眠っているのではあるまいか。しのはそこで、日道だけでなく、天狗の妄念とも出会ってしまったのではないか。
「柳原家のほかの女性たちのことで、何かわかったことはないかしら」
「女たち?」
「ええ。ふたりの姉さんはともかくとして、母親とか、祖母とか」
文吉は首をひねった。「なんせ、探索を始めてまだ半日のことですからね。これから調べれば出てくるかもしれませんけど」
文吉の言うとおりだ。お寺社の探索方と巡り合ったという幸運はあったにせよ、半日でこれだけ探り出せたのは上出来である。
「あたしね、今夜これからしのさんに会いにいくの」
いや、本当は天狗と対決するために出かけるのだ。
「何しに行くんです?」
訊《たず》ねる文吉に、ずっと押し黙っていた六蔵が、邪険《じゃけん》な感じで言った。「おめえはご苦労だった。飯もまだだろう? 店の方へ行って食ってこい」
「え? だけどあっし――」
「いいから、行け」
文吉は、お初と六蔵の顔を半分ずつ見ながら中腰になった。「ほんとに――」
「いいのよ、文さん。お疲れさま。また明日ね」
文吉は頭をかきながら店の方へと降りていった。彼がいなくなると、六蔵が何か言い出すより先に、右京之介が座り直して静かに言った。「鏡を持っていくのですね?」
お初はうなずいた。「でも、それだけじゃないんです。あたし、今日手に入った千鳥の小袖を着ていくつもり」
さすがの右京之介も、にわかに不安げな目になった。六蔵は口元を歪めて黙り込んでいる。
「お初どの、怖くはないのですか?」
「少し、怖いです。正直言うとね」
「それでも行かれるのですか」
「はい。お律ちゃんとおあきちゃんを放ってはおけません」
六蔵が目をあげて、かすかに笑みを浮かべながら、右京之介に言った。「古沢さま、こいつはあっしに啖呵《たんか》を切ったんですよ。これはあたしのお役目だってね」
そして身軽に立ち上がると、「柳原家までは、俺が送っていってやる。支度ができたら声をかけろ」と言い置いて、座敷を出ていった。
お初は右京之介とふたりになった。ちょっと笑ってみせた。「兄さん、あたしのこと生意気だと思ってるのよ」
「そうではありませんよ。心配しているだけです」
右京之介は、妙にあらたまった姿勢になった。
「私も心配ですよ」
「あら嫌だ。大丈夫ですよ。夏のあの芝居小屋の出来事だって、最後はちゃんと片づけることができたじゃありませんか。御前さまのお言葉に従って、この鏡――」
お初は懐から銅鏡を取り出し、「真」の一字を右京之介に見せた。
「これに天狗を吸い取って封じてしまえばいいんです。あたし、うまくやってみせますよ」
右京之介は、ちょっと目をしばたたいて、鏡の裏に浮き出た「真」の文字を見つめていた。そして言った。「真――まこと。これを通して、和尚は何を伝えたかったのでしょうね。なぜこの文字が、迷える女の妄念を封じる力を持っているのでしょう」
お初は鏡を裏返し、彫り込まれたのではなく、刻まれたのでもなく、ただくっきりと浮かび上がっている文字を指先でなぞってみた。
「天狗は、見かけの美しさや若さに執着《しゅうちゃく》する女の心。だとすれば、それに対抗する『まこと』とは何でしょうか」と、右京之介は続けた。「私は男だし、なにしろ無粋《ぶすい》な人間だから、よく判らないのですよ。それだけに、本当にこの鏡にお初どのの命を預けて大丈夫なのだろうかと不安なのです」
お初は何も言えず、困ってしまった。右京之介さまの気の弱いところが出たわ――もう、あたしを不安にさせないでちょうだいよと、お初のなかの勝ち気な部分が、ちょっぴり腹を立てている。
「そういえば、そう」話を変えようと、強《し》いて笑みをつくってお初は言った。「本当にお久しぶりに、赤鬼の古沢さまにお会いしましたよ。多吉を引き取りにみえたときに」
「父が?」
お初はそのくだりを説明した。「古沢さまったら、とてもご機嫌がよかったんです。やっぱり、右京之介さまのおっしゃっていたとおり、跡目の心配がなくなったからでしょうね。これで右京之介さまも、心おきなく学問に打ち込めますね」
「まあ、それならいいのだけれど」
思い出して、今度は本当におかしくて、お初はくすくす笑った。「私の馬鹿息子はもう家を離れたのだから、なんでも自由にすればいいなんておっしゃってましたよ。それでね――嫌だわ」
「なんです?」
お初はちょっと澄ましてみせた。「右京之介さまが、一膳飯屋の看板娘を嫁にもらっても構わないとおっしゃいましたよ。さて、どこの看板娘のことでしょうね?」
右京之介は、照れたり逃げたりしなかった。思いの外静かに微笑んで、言った。「それは、お初どののことでしょう。私がよくお初どののことを話すから、父もいろいろ考えているのでしょう」
「…………」
お初はまた言葉が続かなくなってしまった。あたしがせっかく話を面白くしようとしてるのに……
「まあしかし、お初どののような器量よしが私の嫁に来てくれるなど、ありもしないことです」右京之介は微笑したまま言った。「父は夢を見ているのですよ。赤鬼はあれで、美しいおなごが好きなのです。男は皆、そういうものかもしれませんが」
「男の人がそうだから、女が迷って天狗なんかになるんですよ」と、お初は口を尖《とが》らせてみせた。
「そうですね。そのとおりだ。本当に罪深いのは、そういう男の方かもしれない」右京之介は、どこまでも真面目に言った。「それでも、私は今度のことでふと考えたのですよ。美とは何でしょうね。万人の目に至上の美と映るものなど、この世にあるのでしょうか。少なくとも、人間の顔立ちや姿形には至上の美などないと、私には思えてなりません」
「だけど、あばたもえくぼとか言うでしょう。恋をした者の目には、相手の顔の上に素晴らしい美しさが――右京之介さまのおっしゃる『至上の美』があるように見えるものですよ」
お初は軽く言ったのだが、右京之介は深くうなずいた。「そうですね。ですから、美というものは、あくまでもそれを見る者の心のなかにあるものなのでしょう。それが正しい答えなのだ」
そうか、と呟いて、「だから、『真』なのかもしれませんね」と付け足した。
「私はこのように野暮《やぼ》な男だし」と、悪びれる様子もなくて言った。「近眼でこんなおかしな眼鏡を手放すことができません。でも、私の目には美が見えることがある。見えるだけで嬉しいということがあります」
「右京之介さま……」お初の声が小さくなった。「あたし、右京之介さまのこと、野暮だなんて思ったことありませんよ。あたしなりに、立派な方だと思うことだってあります」
彼はにっこりした。「ありがとう。それなら、よく覚えておいてください。私には、他のどんな美しい姫君やお嬢さまよりも、お初どのが美しく見えることがあります。今のように、恐ろしいと思う気持ちと闘いながら、お役目を果たそうとしているときのお初どのは、誰よりも美しいですよ。そういうお初どのは、たとえば私と同じように近眼で、こんな丸い眼鏡をかけていたとしても、やっぱり誰よりも美しいですよ」
心を打たれて、お初は思わず目を伏せた。そしてふと、閃《ひらめ》いた。「右京之介さま」
「何です?」
「あたしに、その眼鏡を貸してくださいません?」
右京之介は眼鏡を外した。「これをですか?」
「はい」お初は彼の手からそれを受け取った。「これをかけて、天狗の顔をよく見てやるんです」
そして、先ほどの右京之介に負けない笑顔をつくって立ち上がった。
「さて、着替えてきますね」
麹町一丁目の柳原家の屋敷まで、六蔵とお初は押し黙って歩いた。月のない夜は早くも暮れて、おまけに今夜は星もない。昼はいい天気だったのに、どうしたことだろう。
千鳥の小袖は、まるでお初のためにあつらえたものであるかのように、ぴったりと身体にあった。着心地も素晴らしい。ただ、肌にまとって時間が経っても、初めて取り出して身につけたときと同じようにひんやりと冷たいままで、一向に温かくならないのだった。
町を歩いているあいだは、鉄は見え隠れに家々の屋根を伝ってついてきた。柳原家の近くまで来ると、どこからか音もなく現れて、お初の足元に降り立った。
「ここだね」と、目を光らせる。「感じる……天狗の匂いがするんだ」
おとないを入れると、およしぐらいの年齢の女中が出てきて、町娘の髷に豪華な小袖をまとったお初と、その脇で、提灯の明かりのなかに厳しい顔を浮かび上がらせている六蔵を、驚いたように見比べた。
六蔵が、お上の御用をあずかる日本橋通町の六蔵と、妹のお初という者でございますと口上《こうじょう》を述べた。御当家の三女、しのさまにお目にかかるために伺いました。
女中はあわてて奥へ入り、しばらくのあいだ、お初たちは取り残された。勝手口はきれいに掃き清められており、片づけられていたが、油を節約しているのか灯火は暗く、人の声さえしない柳原家の静けさと暗さには、何か重苦しいものがあった。
やがて、足袋裸足で走る足音が近づいてきて、先ほどの女中が戻ってきた。女中よりはずっと年輩の、小太りでお初よりも小柄な、きちんとした身なりの女がすぐ後ろについてきた。六蔵がすぐに丁重に頭をさげた。
「柳原の奥さまでいらっしゃいますか」
お初も頭を下げた。小太りの婦人は、近くで見ると、優しげな細い目をしていた。しかし、薄明かりのなかでその婦人はお初の身にまとっている着物の柄に気づくと、途端にその目が大きく見開かれた。
「まあ、それは――その小袖は! どうしてその小袖を着ているのです?」
お初は六蔵の顔を見て、それから婦人の方へ向き直った。「奥さまに、聞いていただきたいお話があるのでございます。そのうえで、どうぞお力をお貸しくださいませ」
次の間で、お初と六蔵は柳原夫妻と対面した。
六蔵は、しのと延命院の僧との関わりの部分だけは避けて、これまでの出来事を説明した。夫妻は聡明な人柄のようで、闇雲《やみくも》に怒ったり、お初たちを退けようとすることはなかった。しかしそれは、六蔵とお初の真剣な態度が通じたからではなく、一にも二にも、お初の着ている千鳥の小袖の力によるもののようだった。
柳原の奥方は、千鳥の小袖をひと目見たときから、怯えきった様子だった。彼女があまりに恐ろしげに身を震わせたり顔を覆ったりするので、時おり柳原が妻を宥めねばならなかった。
「奥方さま――」お初は、これ以上相手を怯えさせぬよう、用心深く切り出した。「先ほどから、奥方さまはわたくしがこの小袖を着ていることに、とても恐ろしいものを感じておられるようでございます。どうぞ、その理由を教えてはくださいませんか」
柳原の奥方は、震える手で頬を押さえている。
ここへ来たときの六蔵以上に厳しい顔になっている柳原信兵衛が、妻を促した。「この者どもの話に、嘘や作り事はなさそうだ。何より、厳重にしまいこんであったはずの小袖がこうして目の前にあることが証《あかし》だろう。お話しなさい」
それで奥方も、ようやく心が決まったようだった。かすれる声で、「はい」と応じた。
「その小袖は、十年も昔に亡くなりました、わたくしの妹の持ち物でございます。真咲《まさき》という名でございました」
それならば、しのの叔母ということになる。真咲――
「この柳原の家はどういうわけか女腹でございまして、娘ばかりが生まれます。わたくしも妹とふたり姉妹でございました」
柳原信兵衛が口を開いた。「私は他家から婿《むこ》に入り、この家を継いだのだ」
「妹は、姉のわたくしが申しますのもお恥ずかしいのですが、人目を惹く、それは美しい顔形をしておりました。縁談も降るように舞い込みましたが、当人も選り好みをいたしまして、結局は二十歳《はたち》の歳に、ある商家に嫁ぐことになりました。嫁ぎ先の名前は――いえ、よしましょう。先方にはもう関わりのないことです。とにかく、真咲は大きな身代を持つ豪商《ごうしょう》の妻となったのです。真咲本人が心から望んだ縁組みでございました」
暮らしの苦しい御家人の娘が、見初められて裕福な商家に嫁ぐ――珍しい話ではない。侍の家では、男の子でさえ、跡取り以外は米食い虫、身すぎ世すぎの算段を自分でしなくてはならないくらいだ。むしろ、美貌の娘が豪商に嫁ぎ、婚家を通して実家に援助を与えることができるようになれば、大手柄というくらいのものだ。そういえば、浅井屋のお内儀の母親も、そうやって同心の家から町場に嫁いだ人だった――
「ところが、真咲が嫁いで一年と経たないうちに、この縁組みは失敗だったのではないかと思うようなことが、多々起こり始めました。ひとつには、真咲と嫁ぎ先の| 姑 《しゅうとめ》との折り合いがあまりに悪く、姑が病みついて、間もなく亡くなってしまったことがいけませんでした。それでなくても商家は家族のつながりが強いもの……母親孝行の真咲の夫は、真咲の仕打ちが母親を死に追いやったと思うようになってしまったようです。
当時わたくしは、真咲からよく手紙をもらいました。その手紙には、婚家の家風が柳原家のそれと合わないこと、町場の者は意地が汚く、無教養で、風流を解さないことなどなど、不平不満ばかりが書いてあったものです。わたくしは姉でございますから、真咲を可哀相に思いましたが、一方で、あまりの美貌ゆえに、幼いころから蝶《ちょう》よ花よと育てられた真咲の、人に譲ることを知らない気性《きしょう》にも、不安なものを感じておりました。真咲は自分の美しいことをよく知っていて、そのことばかりに頼むこと強く、商家に嫁いだからには人に先んじて立ち働いたり、人を使うためにも身を慎《つつし》んだりすることもしなくてはならないのに、それに気づいていなかったのです……」
それでも、真咲が嫁いで三年、五年と年月が過ぎた。一向に子宝に恵まれない。美貌を鼻にかけ、高いところから低いところに嫁に来てやったのだという態度を改めようとしない真咲は、嫁ぎ先で完全に孤立してしまっていた。
「そんな折に……真咲の夫が妾《めかけ》を持っていることが判りました。しかもその妾には、もう赤子が生まれていたのです。真咲は怒り狂い、店の者に無理を命じて、その妾を囲われ先から追い出し、赤子を取り上げて家に連れ帰りました。そして――」
さすがに、柳原の奥方は言いよどんだ。
「嫉妬のあまりでしょう。赤子を殺してしまったのです。抱いていたのを床に叩きつけて……。しかも、それは夫の目の前での出来事でした」
正妻が妾の子に対してしでかしたこととは言え、赤子殺しは罪である。真咲の夫は何とか内々に済ませようと奔走《ほんそう》したが、もともと店のなかに味方のいない真咲のこと、噂は外へと漏《も》れだし、とうとう土地の岡っ引きの耳にも入った。
「幸い、土地の者のことですから、事を荒立てようとはしませんでした。しかし、真咲を放っておくわけにも参りません。岡っ引きとの取引で、真咲の夫は、家の奥につくらせた座敷牢《ざしきろう》に、真咲を閉じこめました。真咲の夫の心は、とうに真咲から離れていたのですよ。そのうえに、そのころの真咲は、もうわたくしが会いにいっても判らないほどに、すっかり狂っておりました」
嫉妬と、報われぬ愛情と、裏切りに傷ついた心と、そしてへし折られた高慢の鼻――
「長いあいだ、真咲はそこで暮らしました。年々歳々、狂気は深くなるようでした。それでも、座敷牢のなかで美しく着飾り、髪を結い上げ、化粧をすることは怠らず、それだけにあまりに哀れで浅ましい有様でございました。真咲には、自分が美しいということにしがみつく道しかなかった――美しければ他のどんなおなごにも負けず、幸せをつかむことができるはずという幻想のなかでしか、生きることができなかったのでしょう」
「真咲の夫が囲った妾は、どうということもない地味な女であったそうだ」と、柳原信兵衛が言葉を添えた。苦渋《くじゅう》の顔だった。「私は嫁入り前から真咲を知っている。あれは、そういうことに堪えられる女ではなかった」
柳原の奥方は、震えるような長いため息をもらした。「さっきも申しましたように、真咲は十年前に亡くなりました。火事に遭いまして……嫁ぎ先の商家はすっかり焼け落ちてしまったのです。それでも、火事の最中に、誰ひとり真咲を座敷牢から助け出そうとはしませんでした」
初めて、奥方の声が怒りの響きを帯びた。
「焼け死んでくれれば、ていのいい厄介ばらいができるとでも思ったのでしょう」
真咲の遺骨は、婚家では葬《ほうむ》られず、柳原の家に戻された。この縁はなかったものにしてくれという意味だ。それと一緒に大枚の金を包んで差し出されたが、柳原ではそれを受け取らなかった。
「その代わり、わずかに焼け残った物のなかに、真咲の着物がありましたので、形見のつもりでそれをもらい受けました。嫁入りのときに、わたしたちの母が仕立てて真咲に持たせたものでございましたのでね」
「それが、この千鳥の小袖と――」
「はい、もう一枚、牡丹の柄の小袖がありました」
小袖を持ち帰った奥方は、それを箪笥の奥深くに納め、娘たちにも見せることがなかった。そのころ、長女の嫁入りの決まったところで、家のなかには華やかな雰囲気が満ちていた。
「ところが、頻々《ひんぴん》とおかしなことが起こるようになったのですよ。箪笥を置いてある座敷から、誰もいないはずなのに、女の――いえ、はっきり申しましょう、真咲の笑い声が聞こえてくる。閉めておいたはずの引き出しが開けっ放しになって、娘たちの着物が座敷じゅうに散らばっている」
長女のためにあつらえた白無垢《しろむく》の打ち掛けが、誰が着ているわけでもないのに勝手に家のなかをずるずると歩き回るということもあった。奥方はそれを、その目で見たという。
「真咲、と声をかけますと、うちかけはすとんと床に落ちました。触れてみると、それはもう本当に冷たくて」
娘たちが怯えるので、夫妻は相談し、二枚の小袖を菩提寺に持ち込んで、供養をしてもらった。そのときに、住職と相談のうえ、小袖を燃やそうと試みたのだが、
「どうしても、火がつかないのです。燃えないのですよ。考えてみれば、嫁ぎ先の火事でも燃えなかったのは、ここに真咲の想いが残っているからだったのですね。真咲の想いを解き放ってやらなければ、燃やすことはできないのです」
お初は思わず、六蔵の顔を見た。「兄さん、多吉のところから引き取ってきた小袖の残りを燃やしたって言ったけど――」
六蔵は、ぐったりしたような顔で首を振った。「いや、あれは嘘だ。おまえにごちゃごちゃ言われないよう、燃やしたと言っただけだ」
「火をつけても、燃えなかったでしょう?」と、奥方が訊いた。
「はい。まるで氷水のように冷え切っておりましてね」
天狗を退治し、真咲の妄念を溶かさない限り、小袖はこの世から消えないのだ。
「ご住職さまのお計らいで、小さな桐の箪笥をこしらえまして、そこに小袖を納め、読経をして封印をかけていただいたのです。それきり、努めて忘れるようにしておりました。もちろん、日々仏壇には灯明《とうみょう》をともし、真咲の心が安らぐようにと供養を続けて参りましたけれど……」
奥方は、むしろ重荷をおろしたような顔つきで、お初を見た。
「それでも、長女、次女と無事に嫁がせましたのに、三女のしのの縁談ばかりが続けて壊れるようになって以来、わたくしは密かに、これもまた真咲の妄念のなせる業《わざ》ではないかと怯えていたのです。真咲はまだ死んでいない……あれの狂った心はまだこの家のなかをさまよっている……。そう思うと、恐ろしさと不憫《ふびん》さで、わたくしは……」
奥方は喉を詰まらせた。
「それでも、しのがこれほどまでのことに巻き込まれているとは思いませんでした。しのは三人のなかでもいちばん素直で気性《きしょう》が優しく、それに少しばかり身体が弱いということもございまして、敢《あ》えて上のふたりは他家に出しても、手元に置いて婿をとらそうと考えていたのですが」
「早く、家から出してやった方がよかったのかもしれぬ」と、柳原信兵衛もうなずいた。半白の髪に、額に刻まれたしわが痛々しいほどに深い。「他家に嫁がせておけば、あのような火傷を負うこともなかっただろうに」
「このところ、しのの様子がおかしいことには気づいておりました。封印をほどこした箪笥のある部屋に、ときどきこっそり出入りしていることも。でも、まさか小袖を取り出して売り払っているとは」
「お嬢さまのなすっていることじゃない、お嬢さまに憑いた魔物がしていることでございますよ」
奥方は涙ぐんだ。「それでも、その魔物も、元をただせばわたくしの妹なのですよ」
話に聞き入っていたお初は、そのときはっと目をあげた。冷気が座敷に吹き込んできたように感じたからである。
「お嬢さまは、しのさまはどこにいらっしゃいますか?」
「あれは、階上のあれの部屋に――」
柳原の奥方が言いかけて、あっと叫んだ。「しの!」
お初は振り向いた。座敷の出入口の唐紙を開けて、幽鬼のように青ざめた若い娘が立っている。その顔はうつむき、目元はまったく見えないが、しかし右の頬から喉にかけて広がる惨い火傷の痕ははっきりと見てとれた。
お初は立ち上がった。しのの方に一歩踏み出した。しのは両手を身体の脇に垂らし、ゆらゆらと揺れている。そのくちびるが動いている――
しのが顔をあげた。そこに、あの天狗の顔があった。憎悪をむき出しにした女の顔が、真っ赤なくちびるを動かして呼びかけた。
「わたしは、美しいかえ?」
桜の森
お初は飛び下がった。六蔵が柳原夫妻をかばいながら座敷の反対側の隅へと下がり、すかさず腰の十手を抜いて構えた。
どこからか、鉄の鳴き声が聞こえてくる――唸るような、威嚇《いかく》するような、怒りを込めた鳴き声が。
「お初ちゃん! 気をつけろ!」
叫び声と共に、鉄が鉄砲玉のようにお初の前に飛び出してきて、しのとの間に割って入った。全身の毛を逆立て、目をらんらんと光らせた鉄は、虎《とら》のような雄叫《おたけ》びをあげて天狗に牙《きば》をむく。
お初の目の前で、しのが両手をあげた。見守るうちに、その手の先から白い煙のようなものが流れ出し始めた。冷たい――冷気の帯だ。
冷気の帯は、うねうねとうねりながら細長い形を成してゆく。やがて白い衣に変じ、色も七色に変化し始めた。座敷中に溢れ、天井にまで届く。そのうちにそれらはひとつに集まり始め、やがて色とりどりの蛇の大群がもつれあっているかのような塊となった。
「しの……」
衣の塊に引きずりあげられるように、しのの身体が宙に浮き始めた。だらりと下がった両足が少しずつ畳の上から浮き上がっていく――しのの頭が天井にくっついた。
「しの、しの、正気に戻っておくれ!」
母親の必死の叫びが座敷に響きわたった瞬間、しのを包んでいた七色の衣の塊が、一度にはじけた。あまりの強風に、顔を上げていることも、立っていることもできない。思わず目をとじたお初のまぶたの裏に、異様なまでに赤い朝焼けの色が広がった。
「お初! お初――」
叫ぶ六蔵の声が遠くなっていく。
何かやわらかいものに頬を撫でられて、そのくすぐったさに、お初は目覚めた。
「気がついたかい、お初ちゃん」
鉄だった。鉄が頬を舐めていたのだ。お初ははっと、起きあがった。
「ここは……」
満開の桜の森だった。どこまでもどこまでも、薄紅色の雲のような花の群が、見渡す限り遠くまで続いている。前も後ろも、右も左も。方向さえもわからない。
「とうとう来たみたいだぜ」
鉄は言って、お初の肩に飛び乗った。
「聞こえないかい、お初ちゃん。そら、風にのって」
お初は耳を澄ませた――最初それは、風の音のように思われた。だが、違う。あの声は、泣き声。細くかすかに、女が泣いている。それもひとりではないようだ。
「お律ちゃんとおあきちゃん?」
「ああ、そうだ。声の聞こえる方へ行ってみようよ」
鉄を肩に載せたまま、お初は歩き出した。むせるような桜の花の連《つら》なる下を通り過ぎると、ほろほろと花びらが舞い落ちてくる。ここは、この世とあの世の境目だろうか。柏木さまも昔、この光景を見られたのだろうか。
「あれ――あれをごらん、お初ちゃん」
鉄が驚きの声をあげた。お初も、足を止めて息を呑んだ。
見上げる桜の枝のなかに、おあきの顔がのぞいている。その顔は桜のはなびらよりも白く、血の気が失せて、髷は乱れ頬はげっそりとこけている。そしておあきは泣いている。力無く、悲しげに、ただすすり泣いている。
「おとっつぁん、ごめんなさい」
よく聞けば、彼女は泣きながらそう繰り返しているのだった。
「おとっつぁんのこと、忘れたわけじゃないの。おとっつぁんの恩を忘れたわけじゃないの。ごめんなさい、ごめんなさい……」
お初は必死でおあきに呼びかけた。だがおあきには聞こえないのか、お初の姿さえ見えないのか、彼女は泣き続ける。桜の枝は入り組んで、すっぽりとおあきの身体を覆い隠し、どうやって降ろしてやればいいのか見当もつかない。
手をつかねて周りを見回すと、おあきのいるところから数本奥の桜の枝のあいだから、お律の顔がのぞいているのが見えた。駆け寄って見上げると、お律もやはり白い顔をして、まぶたを閉じ、死んだように首をうなだれている。それでも彼女の頬には涙が伝い、くちびるのあいだから泣き声が漏れている。
「ああ、なんてこと……」
お初は後ずさり、思わず手で顔を覆った。すると、頭の上から声が聞こえた。
「おまえも、わたしのものになりに来たのかえ?」
お初は飛び下がって身構えた。鉄が肩から転がり落ちる。
天狗だった。お初の頭上に、あの衣を盛大になびかせて、覆い被さるようにして浮かんでいる。七色の衣の真ん中には、あの観音さまの顔があった。天狗……。これこそあの顔だ。金色に輝く顔。口元には淡い笑みが浮かんでいる。
そこだけ取り出せば、あまたの観音堂に安置されている慈悲深い観音像の姿と寸分変わることがない。だがしかし、髪だけは別だった。観音さまの像ならば、顔と同じ金箔《きんぱく》に彩られ、まぶたは閉じられ、きちんと結い上げられているはずの髪だが、天狗のそれはまったく違う。乱れて長く、空にたなびき、しかもみだらなほどに漆黒《しっこく》に輝いているのだった。
観音像の顔が、目を開いた。それは生身の女の目であった。白目に赤い筋が浮き、瞳は黒々と輝いている。
お初はその目をはたと睨んだ。懐に手を差し入れ、鏡を包んで握りしめる。
「あいにく、あたしはあんたの邪心《じゃしん》を形にするためにここへ来たのじゃないの」
自分でも、自分の声が震えているのが判った。それでも、できるだけ大きな声を張り上げて、お初は言った。
「あたしはあんたから、おあきちゃんとお律ちゃんを取り戻しに来た。しのさんを解き放つために来た。ついでに、あんたに言ってやりたいことがあるのよ、真咲さん」
生者であったときの名を呼ばれても、観音の顔は動じなかった。ただ黒い瞳だけがゆっくりと動いて、お初の動作を追いかけている。
「あんたは間違っていた。あんたの不幸な人生は、あんたが自分で招いたことよ。どれほど顔かたちが美しかろうと、それだけじゃ人間は生きていけない。見た目の美しさだけで支えられるほど、人生は軽いもんじゃないのよ!」
観音の顔のくちびるが歪み、そこから笑い声がほとばしった。思わず耳を覆いたくなるような、甲高く耳障りな声だった。しかし、お初はひるまずに、顔を背《そむ》けず立ち向かった。
「こっちをごらん」
懐から鏡を取り出し、両手で捧げ持ちながら、お初は言った。
「この鏡のなかに、あんたの苦しみや悲しみ、恨みや嫉妬を全部吸い取ってあげる。そうしたらあんたは西方浄土《さいほうじょうど》へ旅立てる。あんたもここから解放されるのよ」
お初は両腕をめいっぱいのばし、鏡の表を天狗の方に向けて差し出した。
「さあ、もうこれで終わりよ」
お初の手の中で、鏡が輝き始めた。天狗の方に向かって、そのふたつの目に向かって、朝日のような白い光を放つ。裏面に浮かび上がっていた「真」の文字も、白い光を集めて輝きだした。
観音像は笑うのをやめ、まぶしさに大きく顔を背けた。衣がざわめき始める。
「おまえになど、わたしを捕らえることができるものか」
「いいえ、できるわ!」
「おまえとて、ひとりのおなご。美しいものをうらやみ、成り代われるものならああなりたいと、嫉妬の眼でおまえよりも美しい女たちを見ているであろうに」
「そんなことない!」
天狗の衣がざわめき動き、お初の顔のすぐ前まで迫ってきた。
「おまえとわたしの何が違う? どこが異なっているというのかえ? わたしは美しい……もっともっと美しくなれる。もっともっと美しくなりたい。誰よりも誰よりも、他の女に負けぬように。おまえとてそう思うであろう? おまえの正直な心がわたしには見えている」
鏡の光がいっそう強くなり、鏡そのものが重くなってきた。お初の腕は鉛《なまり》のように重く、頭がくらくらする。
「お初ちゃん、鏡を離しちゃ駄目だ!」
「わかってるわ!」
「この嘘つき娘め」天狗の声が、凄みを帯びてお初の耳を聾《ろう》した。「それならば、これでどうだ!」
衣が騒ぎ、もつれ、我先と競い合うように天狗の顔の前に集まって、その姿を覆い隠した。鏡の重さに負けないよう、全身で支えていたお初は、天狗が逃げようとしているのかと思った。
しかし、そうではなかった。
「これを見るがいい!」
天狗の言葉と共に、衣が一時にほどけて散った。さっきまで天狗の顔が、みだらな観音の顔があったところに――
「お京さん……!」
雁太郎親分の妻、手妻使いのお京の顔が浮かんでいた。微笑むくちびるも、すらりとしたしなやかな姿も、一風変わった鳥の尾のような髷もそのままだ。
「おまえが憧れ、手に入れたいと願う美しさがこれではないか」あざ笑うような天狗の声がする。お京のくちびるのあいだから聞こえてくるのだ。「おまえが欲してやまない美しさがこれではないか。おまえひとりだけ、清い心であるものか! 無い物を欲し、人から奪い取りたいと願う心はおまえも同じ、おまえとわたしの、何に変わりがあるものか!」
お初は叫んだ。「違う!」
確かにお京さんに憧れてはいるけれど、あんなに美しかったらどんなに楽しかろうと思うけれど、だけどそれは違う。奪うような、妬むような、壊すような気持ちじゃない――
「思い知るがいい、小娘!」
天狗の衣がたなびき、お初に襲いかかってきた。わずかな心の動揺が、お初の動きをにぶらせた。衣はすかさず、過《あやま》たず、そんなお初の手をしたたかに打ち据えた。
鏡が飛んだ。光が途絶えた。飛んだ鏡を天狗の衣の一端が受け止める。そして頭上に高く翳《かざ》し、お初をあざけるように振り回した後、遠くへ、目も眩《くら》むように遥かな高いところへと投げあげた。
「さあ、どうする小娘よ! これでもわたしを退治できると思うのかえ?」
お初の全身から血の気が引き、足元がふらついた。後ろに下がろうとして、尻餅をついてしまった。
「いい眺めだ、なんといい眺めだろう! 自分の心の汚さを思い知ったか、今のおまえのその顔を、おまえ自身の目の前にもっていって見せてやりたい。なんと浅ましい、卑屈な顔だろう!」
そう言ってお初を罵《ののし》るのは、天狗の顔ではない、お京の顔だ。あの美しく優雅なお京が、お初のほのかな憧れの人が、まるでお初がしでかした罪を咎めるように、口をきわめてお初を罵る――
(このままじゃ、駄目だ……)
負けてしまう。お初は必死で頭を振った。鉄は? 鉄はどこに行った? さっきの風に吹き飛ばされてしまったのか?
天狗の甲高い笑い声で、気が変になりそうだ。お初は何とか立ち上がろうと、地べたに手をついた。そのとき、袂のなかに何かが入っているのを感じた。何だろう、これ?
触れてみて、思い出した。右京之介の眼鏡だ。
(たとえばお初どのがこんな眼鏡をかけていたって、私にはお初どのがいちばん美しく見えますよ)
とっさに、お初は眼鏡を取りだした。両手で顔に押し当てる。そして頭上を見あげた。
そこに、お京の顔はなかった。最初からある天狗の顔が、下卑た笑いにひきつれ歪んで浮かんでいる。近眼の右京之介を助けて正しい物を見せてくれる丸眼鏡は、ここでも正しいものしか写さないのだ。
お初は勢いよく立ち上がった。鏡だ、鏡を探そう! するとそのとき、どこからともなく鉄の声が聞こえてきた。
「お初ちゃん、俺が鏡になる!」
声と共に、お初の目の前に、黒い稲妻が走った。弾かれたように後ろに飛んだお初の前に、あの銅鏡が浮かんでいた。
「そら、おいらを使うんだ! かざすんだ!」
鉄――鉄の化けた鏡だ。
お初は銅鏡をつかんだ。はずみで右京之介の眼鏡が落ちたが、一度正しいものを見極めた目に、もう曇りはない。両手に高く鏡を差し上げて、お初は高らかに叫びをあげた。
「あたしは騙されやしない。負けやしない。さあ、鏡よ、真咲の怨念と迷いを吸い込んでおくれ!」
鏡が光り始めた。白く、輝く強い光だ。桜の森全体が、嵐にあったようにどよめいた。花びらが吹雪のように飛び散り、お初の髪に肌にくちびるにくっついた。天狗が怯えている――衣が乱れている、あの目が、生々しい目が逃げ場を探して泳いでいる。悲鳴が聞こえる――おあきの? お律の? いや、違う。真咲の声だ。
「死にたくなかった!」
そう、可哀相に、だけどあんたはもう死んだのだ。もうこの世にとどまっていてはいけない。まして他の者を犠牲にして、この世によみがえろうなどとしてはいけない!
「わたしはこんなに美しいのに!」
真咲の叫びに、お初は右京之介の言葉でもって応えた。
「美しさは、それを見る者の心のなかだけにあるのよ!」
ひときわ高く、女の悲鳴が響きわたった。鏡があまりにまぶしいので、お初は思わず目を閉じた。
その瞬間、錫杖の音が轟いた。お初の手のなかで鏡が砕け散った。
お初は気を失った。
お初と御前さま
およしの話では、お初は丸三日のあいだ、ただ昏々《こんこん》と眠りこけていたという。
天狗に連れ去られた幻の桜の森で、掲げた鏡が砕け散ったあのとき、姉妹屋でも、柳原信兵衛の家でも、長野屋でも、そしておのぶが身を寄せている山本町の差配人の家でも、不思議なことが起こっていた。天から娘が降ってきたのである。それぞれの家に、それぞれの娘が。
お初が目を覚ましたとき、まず目に入ったのは、心配そうにのぞきこむおよしの顔だった。お初が目を開くと、義姉はまあとつぼみがほころぶように笑って、
「どう、あたしが判る? お初ちゃん、うちに帰ってきたのよ、判る?」と言った。
「うちに……帰ってきた?」
「ええ、そうよ。話は全部、うちの人から聞いたわ。お帰りお初ちゃん。よく頑張ったね」
「兄さんは無事?」
「ええ、みんな無事よ。みんな帰ってきたって。おあきちゃんも、お律ちゃんも。しのという娘さんも大丈夫よ。やっぱりお初ちゃんみたいにずっと眠り続けていて、目が覚めたら、このひと月ふた月ぐらいのあいだにあったことを、全部忘れているようなんですって」
お初は安心して、またとろとろと眠った。再び目を覚ましたとき、どれくらい時間が経っていたか知らないが、とにかく騒々しかった。外の廊下で、文吉がおいおい泣いているのだ。
「お嬢さんがそんな危ない目に遭ってたんだなんて、あっしは全然知らなくて――あっしは役立たずだ――だけどお嬢さんが無事であっしはよかったからもうあっしは泣けて泣けて――」
もう、うるさいよ文さん……だけど心配かけてごめんね……そんなふうに夢うつつに思っていると、右京之介が文吉を宥める声が聞こえてきた。
「そんなに泣くものではないよ、文吉。お初どのは無事だったのだから」
「へい、だけど」
「あんまりお前がお初どのを想って泣くと、またお美代に引っかかれるぞ」
「そんなぁ、勘弁してくださいよ、若先生」
寝床のなかで、お初は薄く笑った。そうだ、右京之介さまに眼鏡を返さなくちゃ……
ぬくぬくした寝床のなかで、しゃんと目を覚ますことができたときには、すっかり暗くなっていた。階下でおよしの声がする。妙に丁寧な言い回しをしている。階段をあがってくるようだ。
「こちらでございます。どうぞ」
襖が開いて、誰かが入ってきた。およしの手元の明かりで、その顔が見えた。途端に、お初は飛び上がった。
「御前さま!」
老奉行は笑み崩れた。「それだけ飛び上がることができるところを見ると、身体は大丈夫なのだな?」
柳原家での出来事、桜の森での顛末《てんまつ》――お初は御前さまに話をした。話しているうちにどんどん心が澄んできて、何かが洗い流されるような思いがした。
御前さまは、お初の言葉にうなずきながら耳を傾けておられる。その穏やかなお顔を見ていると、初めてお初は、自分で自分が誇らしいような気持ちになった。
「本当によくやってくれた。お手柄だったの」
「御前さまのお言葉があったからです」
「いや、おまえの強い心が天狗の妄念にうち勝ったのだよ」
そのとき、お初はやっと、大事なことを思い出した。
「そういえば、わたし、鏡を失くしてしまいました!」
天狗を退治するのに使った鏡は、鉄が化けてくれたものだった。ぼうっとしていた頭がはっきりすると、そのときのことが鮮やかに思い出されてきた。
「鉄は? 鉄は帰って参りましたか?」
お初はくるくるとあたりを見回した。しかし、老奉行がゆっくりと首を横に振っていることに気づいて、凍りついてしまった。
「鉄はもう、帰らないだろう」
お初の肩が、がっくり落ちた。急に涙が溢れてきた。
「鉄は……あたしのせいで……」言葉を言いきることができずに、お初は泣き出してしまった。
「いやいや、お初、泣くのではない。鉄は死んではいないよ」
「でも!」
「考えてもご覧。鉄は最初から、果たして本当に猫だったのだろうか」
お初は涙に濡れた頬をそのままに、御前さまを見た。老奉行は、目尻に一段と深いしわを寄せて微笑んでいた。
「お初が戻ってきた後、私はすぐに霊巌寺に人を遣《や》り、和尚を探させてみた。しかしあの寺の庭にも屋根にも、猫の子一匹見つからなかった」
「すずちゃんも?」
「そうだ。お初、和尚の真の姿は、やはり仏の化身だったのだろう。あの錫杖の音が、何よりの証拠だ。だとすれば、和尚に付き従ってお前を守ってくれた鉄もすずも、ただの猫ではあるまいよ」
いくら、お初には、他人に見えないものが見える不思議な力があるからといって、鉄と話をすることができたのも、やはりおかしなことではあった――
「おそらくは、鉄もすずも、仏を守る神将が、猫に変じて現れたものだったろう。『耳袋』には、猫は決して魔を呼ぶばかりではないと、書き留めておこう」
涙をぬぐって、お初はうなずいた。そして、千鳥の小袖が番屋に運ばれてきたとき鉄の様子がおかしくなったことを思い出していた。
(おいらは……知ってる)
あれは、対決のときが近いことを知っているという意味だったのか。それとも、そのときが来ればお初との別れの近いことを知っているという意味だったのか。
それとも、あのときに、自分の真の姿が猫ではないことを知ったという意味か。
「小袖は皆、火にくべた。きれいに燃え上がり、灰に帰《き》した。もう何も案ずることはない」
「終わったのですね」
「うむ。おあきが戻ってきたので、おのぶは一度に元気になったそうだ。今はふたり、枕を並べて差配人の家にいるが、おのぶはもう床上げをして、おあきの世話を焼きたいと言っているそうだよ」
よかった……政吉さんを助けることはできなかったけれど、でもよかった。
「長野屋のお玉は、天から降って帰ってきたお律が目を覚まし、大声で泣き出すと、一緒になって泣いていたそうだ。しまいにはお律と抱き合って泣いて、そこにふたりの父も母も加わって泣き出して、四人の泣き声が一丁先まで聞こえたということだ。いや、さぞかし凄かったことだろう」
お初が笑うと、御前さまも笑った。
「ところでお初、六蔵や右京之介には会ったか?」
「いえ、まだ会っていないのです。右京之介さまには、眼鏡もお返ししなくてはならないのですが」
「おまえがこの家に帰ってきたとき、右手にしっかりと、右京之介の眼鏡を握りしめていたそうだ。とっさに、拾い上げたのかもしれぬな」
眼鏡は粉々に砕けていたという。
「あら、どうしましょう」
「なに、今夜の働きの報酬に、親父どのに新しい眼鏡をつくらせればいい」
「今夜の働き?」
老奉行は顎を撫でた。「これから、浅井屋の手入れだ。それで六蔵も駆り出されておる」
「まあ! とうとう」
「見ものだぞ。私も見に行きたいところなのだがな。何しろ、柏木と倉田主水が一緒に出張《でば》っておるからな。もちろん古沢武左衛門が指揮をとる。阿片の裏商いの帳簿が出てきたときのために、右京之介の後ろ首をつかんで引きずって出かけて行った」
赤鬼の古沢さまは、どうやっても、右京之介の学んでいる算学と算盤とは違うものだということが、お判りにならないようなのである。
「武左衛門め、右京之介に向かって言っておったわ。軟弱なおまえでも、ここでひと働きしておけば、一膳飯屋の看板娘が見直してくれるかもしれぬ、張り切ってかかれとな」
お初が赤くなると、老奉行はまたからからと笑った。
浅井屋の手入れは無事に済み、隠されていた阿片の商いのすべてが明らかになった。
おあきが回復し、おのぶも元気になり、鉄二郎と捨吉も店に戻り、政吉の店は久方ぶりに表戸を開いて商いを始めた。伊左次も、源庵の許しが出れば、おっつけ戻ってくるだろう。
長野屋のお律とお玉は、お律の神隠し以前ほどには、派手な喧嘩をしなくなった。それでもお玉はむくれたり文句をいったりしていることが多いが、長野屋夫婦も、そんな彼女を大目に見ている。
柳原家のしのは、両親の保護の元にいる。彼女の記憶から、叔母の妄念に操られていた時期のことは消えている。浅井屋の手入れから間もなく、今度は谷中延命院に寺社奉行の手が入り、大がかりな女犯事件として騒ぎになった。しのは美僧日道との関わりを問いつめられているようであるが、すべてが終わったら、仏門に入るのではないかという噂もある……
さて、桜がすっかり葉桜になり、新緑が目にまぶしいころ、日本橋通町の一膳飯屋姉妹屋に、一匹の子猫が迷い込んだ。しっぽの先が鉤型に曲がっており、足の先の毛が真っ白なとら猫である。
「あらまあ、鉄が帰ってきた!」
およしが大喜びで抱き上げた。
「あんた、ずっとどこに行っていたの? 遠出して迷子になっていたんでしょう。心配するじゃないの」
およしの腕に抱かれて、とら猫は「ニャア」と鳴いた。その声は、お初にも「ニャア」と聞こえた。
「おいで、鉄」と、お初は微笑んだ。「猫まんまをこしらえてあげる」
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解 説
[#地から1字上げ]清原康正
本書は、宮部みゆきが創造した異色捕物帳「霊験お初捕物控」シリーズの第二弾にあたる。一九九四年四月二十五日から翌九五年四月十五日にかけて「東奥日報」ほか十五紙に連載され、一九九七年十一月に新人物往来社より刊行された長編である。
宮部ファンなら先刻ご承知のように、シリーズ第一弾『震《ふる》える岩』は、一九九三年九月に新人物往来社より刊行された。そして、このシリーズの原型は、一九九二年一月刊行の作品集『かまいたち』(新人物往来社)に収録されている「迷い鳩」「騒ぐ刀」の二つの短編である。「迷い鳩」は一九九一年九月に「別冊歴史読本 '91秋特別増刊 時代小説」に掲載され、「騒ぐ刀」は一九八六年の第十一回歴史文学賞の候補作となった。ちなみに「かまいたち」は、一九八七年に第十二回歴史文学賞の佳作受賞作であった。
作品集『かまいたち』の「あとがき」によると、「この作品集に収めてある中短篇四作は、私の、非常に初期の作品たち」であり、「迷い鳩」の「原型となった初稿を仕上げた」のは一九八六年のことであった、という。二編とも、「単行本収録のため改稿いたしましたが、基本的な人物設定、ストーリー展開などは、初稿のものをほぼそのまま踏襲しております」と明かされてもいた。
この「あとがき」は、宮部作品を俯瞰する上で重要な資料となる。「迷い鳩」「騒ぐ刀」は「同一キャラクターによる連作の形式をとっている」ものであり、「この二作の初稿を書き上げた当時、私はまだまったくのド素人《しろうと》でして、将来プロ作家になれる見通しなど一ミリもない時でありましたから、今思えば、ずいぶんと図々しいことをやったものです。書き直しを進めながら、あらためて赤面いたしました」と、作者自らが明かしているからである。
そして、この二編を収録するかどうかで「いちばん悩みました」と率直に記した上で、
「本来、同一キャラクターによる連作であれば、ある数だけ作品を書き積んで、それだけで一冊にまとめることが当然であるからです。最終的に、あえてそれを避け、今回のように単発作品を集めたなかに収録することにしましたのは、私のわがままによるものです」
として、この二編収録の理由を二つ挙げている。一つは「これらが非常に初期の作品たちである」ということにこだわったからであり、もう一つは「区切り」という考えがあったからだとして、次のように記していた。
「私は、『迷い鳩』と『騒ぐ刀』で扱っている根岸肥前守鎮衛《ねぎしひぜんのかみやすもり》という歴史上の人物と、この人の残した『耳袋』という書物とに、現在でもたいへん興味を抱いておりまして、長篇もしくは連作短篇という形で作品を取り上げてゆきたいと願ってはいるのですが、それでも、今後は、この二作を書いた当時とは違った形で取り組んでみたい。そこで、いたずらに、このまま連作という形で続けるのではなく、一度区切りをつけたいというふうに考えたという次第です」
一度区切りをつけて、改めて長編として取り組んだのが、「霊験お初捕物控」シリーズ第一弾『震える岩』であったわけだ。その初出は、「別冊歴史読本 特別増刊 時代小説」の一九九二年冬号と翌年春号に分載された「百年目の仇討始末」であったが、一九九三年九月に単行本が刊行された折、筆者は「週刊現代」の「時代・歴史小説三昧」の書評コラム欄で取り上げたものだ。五百字余りの短いものだから、『震える岩』の紹介を兼ねて、その全文を掲げておこう。
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宮部みゆきの『震える岩』は、「霊験お初捕物控」のサブタイトルが示すように、超能力や怨霊といったオカルト的な要素を捕物帳とミックスさせた異色長編作。
兄嫁と一膳飯屋を切り盛りする16歳のお初は、人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる霊感の持ち主。その不思議な力を発揮しては岡っ引きの兄六蔵を助け、南町奉行のもとに出入りして内々の働きをするようになっていた。この主人公像の創造が、作品の面白さの大半を支える魅力ともなっていて、捕物帳における主人公像の重要性を再認識させる。
奉行から押し付けられた形の与力見習古沢右京之介や兄と共に、お初は2件の幼児殺しの探索にあたる。奇怪な事件の背後には100年前に怨みを残して死んだ浪人の死霊と赤穂浪士の討ち入り事件がからんでいた。奉行は奇談集『耳袋』を著した根岸肥前守|鎮衛《やすもり》で、作品のヒントは、浅野内匠頭が切腹した田村家の庭石が鳴動するという記事「奇石鳴動の事」にある。
この『耳袋』にひっかけて元禄義挙の謎に迫ったり、当時の算学熱をからませたりと、仕掛けには奥深いものがある。捕物帳の特色である町と人情の描写も抜かりなく、なかなかの才筆ぶりを見せている。(「週刊現代」一九九三年十月三十日号)
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こうした内容と特色を持った『震える岩』には、捕物帳の伝統と新味の両方が盛り込まれている。
岡本綺堂が大正期の一九一七年に『半七捕物帳』で打ち立てた捕物帳というジャンルは、江戸の風物と人情とを描き込む要素を伝統的に受け継いでいるところから、季《き》の文学≠ニも称されている。宮部みゆきはシリーズ第一弾『震える岩』で、捕物帳に独特のこうした伝統をきちんと継承しつつ、新たな魅力を盛り込むことにチャレンジして、宮部流捕物ワールドを展開することに成功したのだった。
シリーズ第二弾の本書『天狗風』は、享和三年(一八〇三)の春、桜の盛りの日から始まる。ヒロインの「霊験お初」は「この春、十七歳になった」と、シリーズ第一弾より一つ歳をとらせている。だが、「ひとつ歳をとるたびに、これで少しは娘らしくしおらしくなるかと兄夫婦を期待させるが、そうはいかない。あいかわらず勝ち気のほうが先走り、ぴんしゃんとしたもの言いにもかわりがない」と、作者は抜かりなく、お初ファンを安心させてくれる。
シリーズ第一弾と設定が大きく変わっているのは、南町奉行所の吟味方与力・古沢武左衛門の嫡男で与力見習であった右京之介が、「父上の許しも得た上で奉行所のお役目をしりぞき、念願だった算学の道へ進むことになった」ことぐらいなのだが、その右京之介が久方ぶりに一膳飯屋・姉妹屋を訪れる。正月に顔を見せて以来であったが、右京之介はお初を夜桜見物に誘いに来たのだった。御前、つまり、南町奉行・根岸肥前守鎮衛のお誘いだという。
船宿から用意されていた屋形舟に乗り込むまでの道筋で交わされる二人のやりとりを楽しんでいるだけでも、シリーズ第一弾が持っていた魅力が思い起こされ、お初健在≠フ感が強く湧き起こってもくる。算学の道に進んだ右京之介も、今年六十七歳の老奉行も、それぞれの魅力に変わりはない。作者の人物造型の秀逸さを、このシリーズ第二弾で改めて痛感した次第である。
この第二弾では、下駄屋の娘おあき(十七歳)と八百屋の娘お律(十三歳)が相次いで神隠しに遭う。どちらも朝焼けの中、つむじ風と共に姿を消したという。そのつむじ風から魔風の意志を感じ取ったお初は、犯人はこの世のものではないと推測し、魔風の背後に観音さまに化けた魔物、天狗の姿を独特の霊感で透視するのだった。この天狗の描写とその正体をここで明かすわけにいかないところが、解説者としては苦しいところなのだが、天狗のお面でなじみのある天狗とは違った妄念を持つ魔物であるところに、作者の着想のよさと用意周到な計算、構成力の確かさを確認することができる。
そして、もう一つ、この第二弾では、鉄、和尚、すずの三匹の猫が登場してくる。彼らは天狗の気配を感じ取ることができる不思議な生き物たちである。とくに鉄と和尚はお初と話すことができ、猫の仇討ちの上からも天狗との全面対決は避けられないとしている。この鉄とお初とのやりとりも、お初―右京之介の関係とはまた別の面白さがある。右京之介が大の猫嫌いという設定もほのぼのとした笑いを誘うものがあり、第二弾での一つの特色ともなっている。
内側に暗い部分を抱かえている人間の罪と罰の仕組みなど登場人物たちの深層心理に踏み入っていく筆致、「知らなくてもいいこと」まで見えてしまう自分にときどき悲しくなるお初の心情描写、ともに第一弾以上に好調である。そして、捕物帳の特色である江戸風物詩の描写も、江戸の町や行事、食べ物のガイドも含めて抜かりはない。
桜の花に導かれるように、お初は怪奇な事件の内奥に入り込んでいき、兄の六蔵、右京之介、御前、そして鉄と和尚などの協力を得て、天狗と相対する。桜の花の妖美さと事件の怪奇さとがよくマッチしていて、背景設定の見事さには唸るものがある。
人間の善意と悪意、仏と魔物、こうした相対関係にあるものを、一人一人の人間の心の奥底に見つめる作者の鋭い視線が感じ取れる。こうした視線は、「人の心ってものには、いろんな色が混じってるからな」と言う六蔵のセリフ、「鬼神よりももののけよりも恐ろしいのは、人間の方だ」「都合の悪いこと、見たくないもの、聞きたくないことを不思議話のなかに押し込めて、自分にも世間にも嘘をつき通す。人間ほど恐ろしいものはない」と言う同心・倉田主水のセリフなどにも表れているものだ。
お初はこめかみに鋭い痛みが走ると、頭の中に幻が浮かび上がってくる。お初が霊感を得る時の描写がかなり出てくるのだが、その都度、次に何が起こるかと読む者をドキドキさせ、物語の中により強く引きずり込んでいく力がある。この第二弾で初めて「霊験お初捕物控」シリーズに接した読者でも、お初が霊感を持つようになったいきさつやお初を取り巻く人間関係などが分かるようになっており、物語展開の伏線だけでなく、作者の細やかな配慮も感じ取れる。
捕物帳では、与力・同心・岡っ引きといった江戸期の町奉行所の役職にのっとって、どうしても男が主人公になることが多かったのだが、最近は女が捕物にあたるケースも増えてきた。宮部みゆきの「霊験お初捕物控」シリーズはその代表作に位置づけることができる。ヒロインの存在感と共に、もう一つの要素、霊感という超能力を付加した点でも、このシリーズは特異な存在なのであるが、題材に超能力を扱うことに関して、宮部みゆきは高橋克彦との対談「浮世絵、ホラー、日本史……。そして謎は続く」の中で、次のように語っていたことがある。
「人間の未知の可能性みたいなものとして超能力があってもぜんぜん不思議はないんですが、私はむしろ、未知の可能性を開発してしまったことによって、特異な人間になって苦しむということにリアリティを感じるんです」
「人間の能力のもっている無慈悲さみたいなものを書くとき、超能力というのはすごくいい題材になるというか、一種のメタファーになる。ある人間が、あるとき、あることができるとわかる瞬間、それは高揚感と同時にものすごい孤独感との背中合わせで、まさにマラソンランナーの孤独だと思うんです。小説のテーマとしてはとても魅力的なことなので、ずうっと書いてきたということはあるんですけどね」(「本の旅人」二〇〇一年六月号)
また、時代小説で女性を描くことに関しては、坂東眞砂子との対談「江戸の女は私たちよりも幸せ!?」の中で語った言葉がある。
「江戸時代から明治、大正と時代状況が変わって心のありようも変わらなくてはならなかったのは、男よりも女だったと思っているんです。昔は女性が押さえつけられたり自由を奪われた反面、限られた中で味わえた古いタイプの幸せがあったんじゃないか。
今、女の人もいろいろなことに挑戦したり、自分の人生を切り拓《ひら》ける反面、そのことで追いたてられることによる疲労感もありますよね。権利を獲得したり解放された分、かつて持っていたある種の特権的な幸せを手放さざるを得なくなってきている。時代が下るにしたがって起こってくる幸せのありようの変化を、女性の歴史が語っているような気がするんです。
そこに江戸や明治の女性を書くことの新しい意味が出てくるんじゃないかと思ってるんですけど」(「IN★POCKET」二〇〇一年六月号)
また、時代小説で怪談や奇談を取り上げる理由について、こうも述べている。
「私は江戸ものではけっこう怪談、奇談を書くんですけど、それは、さきほど申しあげたように簡単に人が命をとられてしまう時代だったので、生と死の境目が、たぶん今とは全然違うだろうと思うんです。おそろしく簡単に死のほうに行ってしまう。死が身近であっただけに、生きているということの面白さに敏感だったんじゃないか、そのへんのことを怪異譚を通して何とか書けないかと思って、いろいろ手さぐりをしてるんですけど」(同掲書)
これらの発言からも、「霊験お初捕物控」シリーズの執筆意図を理解することができる。ヒロインお初の存在感、そして、第二弾の本書に登場してくるおあき、お律をはじめとするさまざまな女性の位置といったものを実感することができる。
女性の生とその心理に焦点を当てたユニークな捕物帳である「霊験お初捕物控」シリーズの第三弾が待たれてならない。
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初出誌 「東奥日報」(一九九四年四月二五日〜九五年四月一五日)ほか十五紙に連載。
●この作品は一九九七年十一月に新人物往来社より刊行された作品です。
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著者―宮部みゆき 1960年東京都生まれ。'87年『我らが隣人の犯罪』でオール讀物推理小説新人賞を受賞。'89年『魔術はささやく』で日本推理サスペンス大賞、'92年『龍は眠る』で日本推理作家協会賞、『本所深川ふしぎ草紙』で吉川英治文学新人賞、'93年『火車』で山本周五郎賞、'99年『理由』で直木賞を受賞する。また'01年は『模倣犯(上下)』がベストセラーとなり話題となる。著書は他に『ぼんくら』『初ものがたり』など。
公式ホームページ「大極宮」http://www.osawa-office.co.jp/
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底本
講談社文庫
天狗風《てんぐかぜ》 霊験《れいげん》お初捕物控《はつとりものひかえ》〈二〉
著 者――宮部《みやべ》みゆき
2001年9月15日 第1刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年8月1日作成 hj
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底本のまま
・ひらかな
・お内儀に頼るでしょうが、お内儀はいつも忙しい
・ひとりぼっち
・独りぽっち
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
溌《※》 ※[#「さんずい+發」、第3水準1-87-9]「さんずい+發」、第3水準1-87-9
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3