ブレイブ・ストーリー 下
宮部みゆき
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小母《お ば 》さんたちが、一|杯《ぱい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あなたもまた[#「あなたもまた」に傍点]
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ブレイブ・ストーリー下 半 目次
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21 嘆きの沼 33 逃亡者
22 ティアズヘヴン 34 呼びかける者
23 暗黒の水 35 リリスの惨状
24 死の幻影 36 システィーナ聖堂の檻
25 北の凶星《まがぼし》 37 ジョゾの翼
26 サーカワの郷《さと》へ 38 凍れる都《みやこ》
27 再会 39 教王《きょうおう》
28 サーカワの長老 40 離れる心
29 ルルドの国営天文台 41 ガサラの夜
30 バクサン博士は語る 42 深夜の会話
31 第二の宝玉 43 暗殺計画
32 ワタル 44 ガサラ脱出
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45 皇都ソレブリア 51 旅人≠フ道
46 常闇《とこやみ》の鏡 52 ワタルひとり
47 ドラゴンたちの島 53 取り戻せるもの
48 皇都壊滅 54 決闘
49 鏡の広間 55 運命の塔
50 別れ 56 ワタルの願い
終章
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|ブレイブ・ストーリー《BRAVE STORY》 下
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部
二
第
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21 嘆きの沼
風に巻かれ、目もくらむほど高い夜のてっぺんまで飛翔《ひしょう》し、空をよぎる──
星が見えた。眼下の雲の切れ目で町の灯《あか》りが見えた。竜巻《たつまき》の真ん中に取り込まれると、そこは不思議なほど静かで、間断ない上昇《じょうしょう》気流が、まるで赤子を抱きあげる母親の腕のように柔《やわ》らかく、ワタルが地上へと墜落《ついらく》しないように、優《やさ》しく持ちあげてくれていた。
やがて少しずつ高度が下がり、雲の下に出た。どれくらいの距離を運ばれてきたのか見当もつかない。見おろす足元はただ一面に暗く、家々の屋根も牧場も山の端《は》も見分けがつかない。それでも、高度はさらに下がってゆく。竜巻が下降しているのではなく、竜巻の内部で、ワタルの位置だけが少しずつ下がっているようだった。
やがて、地面に足がついた。竜巻の風の抱擁《ほうよう》が離れると、思い出したように右腿《みぎもも》の傷がずきりと痛んで、ワタルは地面に倒《たお》れ込んだ。そこはベトベトと湿《しめ》った土──いや、泥《どろ》の海のようなところだった。
はっとして振《ふ》り仰《あお》ぐと、銀色の竜巻のしっぽが、雲のあいだに消えてゆくところだった。空はまだ暗く、星が輝《かがや》いている。
ミツルは、どこに飛ばされるか責任を持てないなんて言ってたけど、あの竜巻は親切だった。本当に危ないところを助けてもらった。ガサラで留置場に放り込まれたときとはわけが違《ちが》っていた。今度こそ死が目前に迫《せま》っていたのだ。
──あいつには、二度も命を助けてもらっちゃった。
身体《からだ》の下の泥は冷たいが、柔らかかった。凍《こお》るような冷気が身体にしみてくる。ともかく、こんなところにいつまでも座り込んでいるわけにはいかないと、立ちあがろうとしたけれど、ぬるぬる滑《すべ》って上手くいかない。何かにつかまろうにも、目の届く範囲《はんい 》内には、ちょうどススキか蘆《あし》みたいなひょろひょろした草が茂っているだけで、手がかりにならなかった。
何とか二本の足で立ちあがったときには、ワタルはどろんこになっていた。腿の矢傷を縛《しば》ってある包帯も真っ黒だ。早くきれいにしないと──何だっけ、母さんが言ってた怖《こわ》い病気、ハショウフウとかハイケッショウとかいうものにかかってしまうかもしれない。
蘆のような草の茂みを手でかき分けながら抜けてゆくと、前方に真っ平らで真っ暗な場所が見えてきた。とても広い。近づくと、そこは広場ではなく沼《ぬま》なのだとわかった。水面が夜風にかすかに揺《ゆ》れ、星の光を撥《は》ね返している。ほとんど波もない眠《ねむ》ったような沼の畔《ほとり》に立つと、冷え冷えとした空気に包まれた。
ワタルはくしゃみをした。身体がぶるぶる震え始めた。
ここはどこだろう? どこもかしこも真っ暗で、凍《こご》えそうなほどに寒い。
星明かりを頼《たよ》りに、景色を見回す。沼はけっこう大きくて、視界には収まりきらない。蘆やススキに似た草が生い茂る湿原《しつげん》も、同じくらい広いようだった。
ただ一ヵ所だけ、ワタルの右手の前方に、こんもりと丸い森が見える。お椀《わん》を伏《ふ》せたようなその森の中央に、か弱い光が灯《とも》っているようだ。ひょっとして地平の低い場所の星の光が、森の木立のなかに紛《まぎ》れているだけかもしれないど、よくよく目を凝《こ》らしてみた。はっきりわからない。
ワタルは両腕で身体を抱き、少しでも暖をとるためにさすりながら、とりあえず歩き出した。ともかく行ってみょう。ここで肺炎《はいえん》になるのを待っているわけにはいかない。歩いていれば少しは温かいし、そのうちに夜明けが来るかもしれない。
のろのろと進んでゆくと、森が近づくにつれ、あの灯りは星ではないとわかってきた。またたくのではなく、揺れているのだ。ランプか松明《たいまつ》の灯《ひ》だろう。ヒトがいる──
湿原には生きものの気配さえ感じられず、底冷えがひどかったけれど、森が近づいてくると、ホウ、ホウという野鳥の鳴き声が聞こえてきた。さらには、森のなかに小さな三角屋根も見えた。ラウ導師の小屋をひとまわり小さくしたような小屋が、木立のあいだに隠《かく》れるように立っている。遠くから見えた灯りは、間違いなくこの小屋の窓灯りだった。
ドアを叩《たた》き、ワタルは呼んだ。「ごめんください、誰《だれ》かいますか? ごめんください」
返事はなかった。ワタルはさらにドアを叩いた。旅の者です、道に迷って困っています、誰かいませんか。
かすかな足音がして、ドアが内側に引き開けられた。黒いローブを着て、頭からすっぽりとフードをかぶった小柄《こ がら》なヒトが、こちらをのぞきこんでいる。
「ああ、すみません。こんな夜中に」ワタルは頭をさげた。「道に迷ってしまったんです。灯りを見つけて、ここまで来した。少し休ませていただけないでしょうか。道を教えてもらえないでしょうか」
フードの下から、思いのほか柔らかな声が聞こえてきた。「怪我《けが》をしているのね」
女のヒトだった。ワタルは、ドアを押さえている指を見た。すんなりと白い指だ。
「どうぞお入りなさい。手当をしましょう」
女のヒトは脇《わき》に退《ど》いて、ワタルを通してくれた。小さな部屋に、赤々と暖炉《だんろ 》が燃えていた。窓際《まどぎわ》でランプが光を放っている。さっきまで女のヒトが座っていたのだろう、暖炉のそばのゆり椅子《い す 》が、まだ少しだけ前後に揺れていた。
女のヒトはワタルを小さな木の腰《こし》かけに座らせて、てきぱきと傷の手当をしてくれた。温かくて甘い飲み物もくれた。
「ありがとう。本当に助かりました」
ワタルのお礼の言葉を、女のヒトはフードを軽くうなずかせて受け入れた。ずっとかぶったきりなのだ。だから、顔が全然見えない。
「着替《き が 》えた方がよさそうね。でも、あなたに合いそうなサイズのものがないの」
「大丈夫《だいじょうぶ》です」
「せめてシャツだけでも替えなさい。シャツなら、少し大きめでも大丈夫だから」
差し出された清潔で乾《かわ》いたシャツは有り難《がた》かった。女のヒトはワタルの脱《ぬ》いだシャツや、ほどいた包帯をまとめて、小屋の外に出ていった。
狭い小屋のなかには家具も少ない。ほかには誰もいないようだ。ゆり椅子の脚元《あしもと》に置かれたカゴのなかに、真っ黒な毛糸の玉と編みかけのものが入っている。人心地《ひとごこち 》がついて好奇心《こうき しん》が出てきて、ワタルはちらりとその中身をのぞいた。とても小さな衣類──赤ちゃんに着せるものみたいだ。靴下《くつした》もある。やっぱり小さい。するとこのヒトには子供がいるのだろうか。
だけど、それにしちゃヘンなこともある。カゴのなかの毛糸も編みかけの品も、みんな黒色なのだ。赤ちゃんに着せるものを、黒い毛糸で編むなんてことがあるだろうか。
──あのヒトの服も真っ黒だし。
「あの……」
女のヒトが戻ってきたので、ワタルは尋《たず》ねた。「すみません、あなたはもしかして、魔《ま》導士《どうし 》の方ですか?」
女のヒトは動きを止めて、ワタルをじっと見つめているようだ。
「いえ、ずっとフードをかぶっているから。それとも、ひょっとして星読みの方ですか? ここに一人で暮らして、研究をしているのですか?」
フードに包まれた頭が俯《うつむ》いた。女のヒトはゆり椅子に近づいて腰をおろすと、小声で言った。「わたしのことは、知らない方がよろしいでしょう」
ひどく哀《かな》しげな口調だった。
「もうすぐ夜が明けます。東の空が白んできました。この森を反対側に抜《ぬ》けると、小道があって、やがてティアズヘヴンという町に出ます。町長を訪ねれば、旅の方には親切にしてくれるはずです」
「わかりました」ワタルは丁寧《ていねい》に頭をさげた。「何から何までありがとうございます。失礼なことを訊いてごめんなさい。でも──あの、僕、本当に困っていたので、とっても嬉《うれ》しいんです。有り難いんです。こんなに親切にしてくださった方の、名前とかお顔とか知りたくて、それで──」
女のヒトは、ちょっと小首をかしげた。それから白い手をあげて、フードをとった。
ワタルは胸の奥であっと叫《さけ》んだ。
──田中理香子だ。
父の愛人。父が母とワタルを捨てて家を出ていった原因。それなのに、家に訪ねてきて、母の方こそ悪いのだとなじっていった女。
うりふたつだった。気味悪いほどそっくりだ。
「これは失礼をしました」
女はやわらかな口調で言った。顔には微笑《びしょう》の欠片《かけら》さえなく、両の眉《まゆ》も目尻《めじり》も力なく下にさがっている。田中理香子の、最初から喧嘩腰《けんか ごし》に尖《とが》った口元や、吊《つ》りあがった両目とは全然違《ちが》う。
でも、くちびるのあいだから出てきた声もよく似ていた。少なくとも、理香子が静かにしゃべればこんな感じだったろうと思わせるくらいに。
「わたしときたら、ずっとこの悲しみの服装をしているので、今の今までフードをかぶったままでいることさえ忘れていたのです」
ワタルは声が出せなかった。それがかえって幸いだった。何か言えたとしたら、とんでもないことを言うに決まっているからだ。
「どうかしたの? そんなに驚《おどろ》いて」
女は言って、ワタルに半歩近づいた。ワタルは一歩退いた。
「まあ……」女は当惑したようで、片手で頬《ほお》を押さえた。「わたしはあなたを怖がらせてしまったのかしら。そうだとしたら、ごめんなさい。でも、なぜかしら」
ごめんなさい。田中理香子ならば、終生口にしそうもない言葉だ。それでワタルも少し正気に戻った。ここは幻界《ヴィジョン》≠セ。現世《うつしよ》じゃない。あの女がここにいるわけはない。
「す、すみません」ワタルは首を振った。「僕の知ってるヒトに、とってもよく似ていたから、ビックリしちゃったんです」
「そうだったの」女はうなずいた。だが、やはり笑《え》みはない。愛想笑《あいそ わら》いさえも。よほど深い嘆《なげ》きに沈《しず》んでいるのだろうか。
「悲しみの服装って言いましたね。何か辛《つら》い出来事があったんですか?」
女はすっと足を動かして窓際に寄ると、ランプの灯を消した。そしてうなずいた。「この沼は嘆《なげ》きの招《ぬま》≠ニいうのです」
ランプが消えても、小屋のなかは薄明《うすあか》るかった。確かに、夜が明け始めていた。ワタルも女に並んで窓際に立つと、黒い沼の水面を遥《はる》かに見渡《みわた》すことができた。
「深い悲しみに嘆く者だけが、この畔で暮らすことを許されます。悲しみが消えたら、沼から立ち去らねばなりません。ここにいるあいだは黒い衣服しか身につけることができません。立ち去るときには、黒衣は沼に投じて捨てるのです」
「笑顔《えがお》を見せないこともきまりですか?」
「ええ。ここにいるあいだはね」
「誰が決めたことなんですか」
「ティアズヘヴンの掟《おきて》なのです」
女は俯いて、なぜかしら、自分のおなかのあたりを掌《てのひら》で撫《な》でた。「わたしも元は、あの町の住人でした。帰れればいいのだけれど……」
その仕草に、ワタルはようやく思い当たった。信じられない。でも──
「おなかに赤ちゃんがいるんですね?」
女はさらに深く俯いた。「ええ……」
それもまた、田中理香子と同じだ。あの女は、父さんとのあいだに赤ちゃんができたと言っていた。そっくりだ。偶然? それとも、幻界と現世は、何かしらシンクロするところがあるのだろうか。
「どうかしたの?」女はワタルの顔をのぞきこんでいる。「そんなに冷汗《ひやあせ》をかいて──。沼地を歩いたせいで、風邪《かぜ》をひいたのかもしれないわね」
その気遣《きづか》いに溢れた口調にすがって、ワタルは自分の心の混乱を収めようと、必死で努力をした。このヒトはあの女じゃない。だってこんなに優しいんだもの。このヒトはあの女とは全然違う生き方をしているヒトであるはずだ。
赤ちゃんができたなんて、すごくおめでたくて嬉しいことのはずだ。でもこのヒトは悲しんでいる。そうか、きっと赤ちゃんの父親、このヒトの愛するヒトが亡《な》くなったんだ。だからここでひっそりと、赤ちゃんと二人きりで嘆き悲しんでいるんだ。そうに違いない。
「元気を出してください」ワタルは言った。大丈夫だ。僕もこのヒトに優しくできる。このヒトはあの女じゃないから。
女は顔をあげ、ワタルを見た。そのとき、昇《のぼ》り始めた朝日が、彼女の顔を明るく照らした。理香子そっくりの顔に金色の光が照り映え、その瞳《ひとみ》が輝くのを見て、ワタルはまた憤怒《ふんぬ》が突《つ》きあげてくるのを感じ、急いで心に封《ふう》をした。違う、違う、別人なんだってば!
「いい子ね。ありがとう」
女はワタルの肩《かた》を軽く撫でると、小屋の戸口の方へ押しやった。
「でも、もう行った方がいいわ。わたしにそんな慰《なぐさ》めの言葉をかけたことは、ティアズヘヴンのヒトたちには内緒《ないしょ》にしておきなさい」
そして、サヨナラも言わずに小屋のドアを閉めてしまった。
小屋の後ろ側に回ると、森を抜ける小道が見えた。沼の畔ほど湿気《しけ》てはおらず、おはようとさえずりかわす小鳥たちの声を聞きながら、ワタルはゆっくりと歩いた。森を抜けるとすぐに小道は広くなり、ダルババ車の轍《わだち》の跡《あと》がある、広い街道《かいどう》に出た。矢印のついた標識が立っている。
「ティアズヘヴンはすぐそこ」
型押しされたようなきれいな活字の下に、落書きがあった。
「あんたが幸せなら用のない町」
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22 ティアズヘヴン
本当にすぐそこ≠セった。
広々と平らな野原の真ん中に、きれいな白い石垣《いしがき》をぐるりと円形に築いて、町の周りを囲ってある。街道《かいどう》に面した例に、ガサラのそれよりもずっと小ぶりな門があって、見張り台の上で大柄な番人がタバコを吸っていた。
なんとなく、今までの町と様子が違《ちが》うな。漠然《ばくぜん》とそう思った。何が違うのかと考えつつ、ゆっくりと歩いていると、門番が大声で呼びかけてきた。
「おーい、そこを行く坊《ぼう》ず、ティアズヘヴンに用があるかないか?」
痛む足をかばいながら、ワタルは返事を考えた。さっきの落書きが浮かぶ。今の僕は幸せだろうか?
結局、「よくわからないんです」と、素直《すなお》に答えた。「道に迷ってしまって──。ここが何処《どこ》なのかもわからない。僕はまだ、ボグ国のなかにいるんですか?」
門番はタバコを口の端《はし》にくわえると、ぴょんと地面に飛び降りた。そしてワタルに近づいてきた。「とんでもない、ここはもうアリキタ国だ。と言っても、アリキタは広い。ここからアリキタの首都へ行くよりは、ボグとの国境の関所へ行く方がうんと近いよ。坊ずはどこから来たんだね?」
「リリスの郊外から」
門番がえっと驚《おどろ》いた拍子《ひょうし》に、タバコが足元に落ちた。目が覚めるようなされいな青い目の獣人《じゅうじん》だ。
「あんな遠くから? その足で? 怪我《けが》をしているようじゃないか」
竜巻《たつまき》に巻かれて空を飛び、嘆《なげ》きの沼《ぬま》に着地したと説明すると、門番はまた驚いた。ただ、竜巻|云々《うんぬん》に驚いたのではないようだった。
「何てこった、嘆きの沼とは」感に堪《た》えない様子でヒゲを動かしながら、彼は唸《うな》った。
「なあ坊ず、沼の畔《ほとり》で誰かに会ったかい?」
ワタルは黒衣の女のヒトに助けてもらったことを話し出した。が、ものの半分も話さないうちに、今まででいちばん仰天《ぎょうてん》した様子で、門番は両腕を振《ふ》り回した。
「小屋だって? あの女が小屋に住んでたって? こりゃ参った! ヤコムの奴、本当に独りで小屋を建てやがったのか!」
吠《ほ》えるように言って空を仰《あお》ぐと、
「坊ず、とにかくティアズヘヴンに寄ってくれ! 町長は坊ずに会いたがりなさる」
足が痛そうだからと、門番はワタルを背負ってくれた。
町に入ると、さっきの違和《いわ》感の原因が、はっきりとわかった。この町は、建物がみんな平屋建てなのだ。屋根は真っ平らで、雨樋《あまどい》がすごく太い。そのうえ、建物はすべてみっしりと密集している。町じゅうの道路を全都あわせた面積よりも、屋根の面積をあわせた方が、うんと広くなるんじゃないか。
「珍《めずら》しい建物ですね」ワタルは番人の背中で言った。
「ああ、そうか。坊ずはここのこと、何も知らないんだな」番人は笑った。「これは、空から降る雨を一滴《いってき》でも多く受け止めるための造りだ。その雨を丁寧《ていねい》に濾《こ》して、何度も何度も濾して、俺たちは涙《なみだ》の水≠つくる」
「涙の水?」
「この世でいちばん清らかな水さ。病人に与《あた》える薬や、最高級の化粧《けしょう》水の原料になる」
町長の家は、キューブのような建物が密集する、ほぼ真ん中にあった。そこにたどり着くまで、家のドアを開けてはズカズカとなかを通り抜《ぬ》けてゆくので、ワタルは住人に叱《しか》られないかと冷や冷やした。
「この町はこういう造りだから、通行用の家がちゃんとあるんだよ」
なるほど。どうりで家具が見あたらないはずだと納得《なっとく》したけれど、やがて到着《とうちゃく》した「町長の執務《しつむ》室」も、物がなくて殺風景なほどさっぱりしていることでは、通行用の部屋と大差なかった。簡素な木の机と椅子《い す 》、小テーブルがあるだけだ。
「やあやあ、わしが町長のマグですわい」
マグ町長は水人族だった。キ・キーマよりもっとオサカナっぽくて、頭のてっぺんに、大きな赤いヒレが、とさかのようにくっついている。驚くと、丸い目がぐるぐる動く。
ここでは、アンカ族ではない他種族が町の要職に就《つ》いている。トリアンカ魔病院で老神教信者たちと遭遇《そうぐう》したことも話していいだろう──ワタルはそのあたりを簡単に説明し、沼で出会った黒衣の女のことまで話した。ただし彼女の忠告を容《い》れて、彼女に慰《なぐさ》めの言葉をかけたことは黙《だま》っていた。
「いやぁ、これはまた驚きましたわい」マグ町長は水掻《みずか》きのついた大きな手で、自分の頭をぺしぺしと叩《たた》いた。「ワタルはん、あんたはその歳でハイランダーですかい。偉《えら》い、偉い。しかしお仲間は心配ですわいなぁ」
ただ、水人族ならば、
「ここから西に戻り、ボグ国境を渡《わた》ってすぐのところが、お仲間の郷《ふり》のサーカワですわいな。彼らは物を運ぶだけでなく、情報にも消息にも通じているから、訪ねれば、お仲間の行方が知れるかもしれんですわいね」
ワタルはほっとした。嬉《うれ》しかった。
「ありがとうございます。早速《さっそく》サーカワへ行ってみます」
「いやいや、それは傷がよくなってからにした方がよろしですわい。ここには良い薬がありますわいな。涙の水≠ナ煎《せん》じた薬は、そこらの売り薬とは効きが違《ちが》いま」
なんか、商売上手っぽい町長だ。
「それより町長──」すっかり腰《こし》を据《す》えてしまった門番が、そわそわとせっついた。「そろそろ、ヤコムの女房《にょうぼう》を呼んでこようか?」
町長はちらりとワタルを見た。怪《あや》しげな感じではなかった。むしろ心配そうだ。
「ワタルはんは立派なハイランダーとは言え、まだお子や。こんなことに巻き込むのは、わしは気が進まんわい」
「だけどさ、追放してからずっと、誰《だれ》もあの女の様子を見に行ってなかっただろ? ワタルさんから話を聞ければ助かる──」
「追放?」ワタルは素早《すばや》く問い返した。「あの女のヒト、町を追放されたんですか?」
わたしも元はティアズヘヴンの住人だったと言っていた──
マグ町長は悲しげに首をうなだれると、
「よろし」と、短く言って立ちあがった。「ワタルはん、ちょいとご足労ねがいま。なに、すぐそこですわい」
だからもうおんぶは要《い》らんと、門番を仕事に戻すと、町長はワタルの手を引いて歩き出した。通行用の家をひとつ通り過ぎて、次のドアを開けると、町長は明るい声を出した。
「やあご婦人がた、今日はお加減いかがかな?」
そこは病室のようだった。明るく暖かい部屋に簡素なベッドが六つ据えられて、そのうちの五つが塞《ふさ》がっている。種族はとりどりだが、みんな女のヒトだ。
「や、サラ、お母さんのお見舞《みま》いか?」
いちばん手前のベッドに、痩《や》せて顔色の悪いアンカ族の女性が横たわっている。その傍《わたわ》らに、まだ幼稚園児《ようちえんじ》くらいの女の子がぴったりと付き添《そ》って、暗い日をしていた。町長はその子を抱《だ》きあげると、頬《ほお》ずりしながら、
「サラはまたべっぴんさんになったわい。それでも、もう少し元気な方がよろし。昼間は陽にあたって遊ぶこっちゃ」
女の子はとても可愛《かわい》かった。視線があったので、ワタルは微笑《ほほえ》みかけたが、彼女は暗い目のままだった。
「すみません、町長さま」ベッドの婦人が枕に頭をもたせたまま、消え入りそうな声で謝った。「わたしもだいぶ具合がよくなってきたのですけど──」
「気にせんこっちゃ。サタミ、あんたの場合は、くよくよ考えるのがいちばんいかん。よろしか? 涙の水≠ナ煎じた薬でも治せない病気を治す薬が、この世にたったひとつだけおます。それは時間グスリ≠ナすわい」
町長はサラをベッドの上に座らせると、頭を撫《な》でてやって、にこにこした。
「さあ、わしはこれからこちらの小さなお客人をご案内して出かけます。ご婦人方は、お医者の先生の言うことをよく聞いて、のんびりと療養《りょうよう》してください。よろしな?」
ワタルは皆に会釈《えしゃく》して、町長の後にくっついて執務室に戻った。再び向き合って座ると、町長はあのサラと同じくらい暗くうち沈《しず》んだ目になっていた。
「さてワタルはん」と、町長は切り出した。「あなたが嘆きの沼の畔《ほとり》で出会った女は、リリ・ヤンヌという名前のこの町の住民です。三月《みつき》ほど前に、ある理由があって、このわしが町を追放しました。わし──と、わしが代表する町の住人たちが許さない限り、リリはここへ帰ることはできまへん。他所《よそ》へ立ち退《の》くこともできまへん。ティアズヘヴンを追放された者を、市民として受け入れる町も村も、どこにもございまへんからな」
「そこまでひどく罰《ばっ》せられるような何を、あのヒトはしたんですか?」
マグ町長はため息をついた。頭の上のひれが、ふるふると揺《ゆ》れた。
「それをお話しする前に、まずティアズヘヴンの成り立ちと歴史を、ざっと説明しないとあきまへん」
ティアズヘヴンは、両大陸に連合国家が形成される遙《はる》か以前から、「悲しみの町」として広く知られていたのだ、という。
「この町の暮らし方に、とりわけ他所の町と違うところはありまへん。違うのは、ここの住人たちのほとんどが、それぞれの故郷や住み暮らした土地で、死んでしまいたいほどの強い悲しみを味わって、それを癒《いや》すためにここに移り住んで来たヒトたちだ──ということだけですわい。つまりここは心の病院≠ネのです。悲しみという病が癒えるまで、一時的に身を寄せる場にすぎまへん。だから、家の造りも家具も調度も簡素なのですわい」
悲しみが癒えたら、いつでもこの町を出てかまわない。去る住民に、代々の町長は、
「二度とお会いすることのありませんよう」
と、声をかけるのがしきたりだという。
「悲しみの原因はいろいろですわな。愛するものを失ったり、信じていたヒトに裏切られたり。わしらは、深く理由を問いただすことはしまへん。ただ一緒《いっしょ》に暮らし、助け合い、時が過ぎて傷が塞がるのを、淡々《たんたん》と待つだけですわい。半年で立ち退くヒトもいれば、十年いてもよくならないヒトもいる。悲しみの深さは、ヒトそれぞれだからですわい」
一方で、雨水から涙の水≠精製し、それを町の生業とするようになったのは、そう遠い昔のことではないという。
「本格的に精製を始めたのは、三十年ばかり前のことでおます。わしの前の町長が、それは頭の切れるヒトで、この地に降る雨の格別に清いことと、水を精製するというような、根気が要って、静かで、単純な作業だけれども片手間にはできないという仕事が、悲しみに沈んだ心にはよく効くということを、うまく結びつけたのですな」
町がそれを生業とするようになって、今の建物が建った。涙の水≠ヘ、アリキタ国内で、目の玉が飛び出るほどの高値で売れるので、町の財政は豊かだという。
「この地に降る雨がなぜそんなに清いのか、はっきりとはわかっておりまへん。ササヤの星読みの大学者の先生が言うことには、ここから遥か南にあるアンドア台地を常に包んでいる純白の霧《きり》が、吹《ふ》きおろす風に乗って、ちょうどこのあたりで雨に変じるからだということでおます」
アンドア台地──謎《なぞ》のデラ・ルベシ特別自治州があるところだ。そう、老神|信仰《しんこう》の。
「しかしいくら清い雨水でも、濾《こ》しとらねば涙の水≠ノはなりまへん。濾せば、水は清くなり、清くないモノが残ります。わしらはその清くないモノを、町からそう遠くない場所にはあるが、鳥さえ寄りつかず魚も棲《す》まぬ、暗い沼地に捨ててきました。それが嘆きの沼≠ナすわい」
あの沼は、いわば穢《けが》れ≠フ受け皿だったのだ。ワタルはあの冷え冷えとした泥《どろ》の感触《かんしょく》と、波さえ立たない水面《みなも》を思い出した。
「さて、ここはそういう町でおますから」マグ町長は続けた。「住民たちも他所者の集まりです。人口も知れたものです。ですから、大切なきまりがあります。皆《みな》ここに悲しみを癒しに来ているヒトばかりなのだから、互《たが》いに思いやり、労《いたわ》りあい、譲《ゆず》り合うこと。ティアズヘヴンのなかで争いごとやもめ事を起こし、ここで新たな悲しみの元をつくってはならぬということでおます。ところがリリ・ヤンヌは、長い長い町の歴史で初めて、公然とその決まりを破ったのですわい」
他人の夫を盗《ぬす》んだのだ、という。
「あの病室の、病《や》んで痩せ衰《おとろ》えたサタミという女。あれの夫で、ヤコムという行商人の男と、いつの間にか密《ひそ》かに情を通じ、ついには赤子までもうけました。そして二人で駆《か》け落ちしようとしたのでおます」
ワタルは目の前が真っ赤になり、耳の奥から津波《つなみ》のような音が押し寄せてきて、一瞬《いっしゅん》何も聞こえなくなった。ただマグ町長の悲しげな顔と、もぐもぐ動く口元が見えるだけ──
あの女はやっぱり田中理香子だ。
田中理香子と同じことをしてる。
田中理香子と同じ侵略《しんりゃく》者だ。
他人の幸せを食い尽《つ》くすケダモノだ。
「わしらは事情を知ると、すぐにリリ・ヤンヌを追放しました。サタミは夫を許し、取り戻《もど》したがっておりましたので、町に留《とど》めました。どれほど時間がかかっても、二人を和解させたかったのでおます。しかしリリ・ヤンヌの虜《とりこ》になったヤコムは勝手に町を飛び出し、行商の仕事をしながら、女のもとに通っているようでおますな」
リリ・ヤンヌは身ひとつで追放された、だからあの小屋は、ヤコムが愛人のために建ててやったものだろうと、町長は言う。
「サラが哀れじゃ」
目を拭《ぬぐ》って、そう続けた。
「サタミさんたちは──そもそもどんな悲しいことがあって、この町に?」
やっと声を絞り出して、ワタルは尋《たず》ねた。
「彼らはボグの出身でおます。流行病《はやりやまい》で、サタミの両親と、サラのすぐ下の赤子を失ったのです。こちらに来たのは一年ほど前のことですわい」
「あの女──リリ・ヤンヌは?」
「許嫁《いいなずけ》を病で亡くしたということでしたわい。父親はササヤの星読みで、なかなか立派な人物なのです。亡くなった許嫁も、星読みのたまごだったという話でおます」
ワタルはまた冷汗《ひやあせ》をかいていた。シャツの背中が虚《しめ》っぽい。走っているみたいに心臓がどきどきする。
サラの暗い瞳《ひとみ》が思い出された。母さんが田中理香子になじられているとき、彼女に、妊娠《にんしん》していると告げられて逆上したとき、ワタルを引き取ると言われて彼女に飛びかかっていったとき、自室のベッドの下に隠《かく》れて縮こまっていたワタルも、きっとあんな目をしていたことだろう。リリ・ヤンヌが田中理香子ならば、サラは僕だ。痩せさらばえてベッドに横たわるサタミは母さんだ。
思わず、口走っていた。「許せない」
マグ町長が大きな頭をかしげてワタルを見た。「今、なんと?」
ワタルは手で顔を拭った。「何とかして、ヤコムの目を覚まさせないと」
町長は大きな目をぐりりと瞠《みは》った。「それはそうですが」
「ヤコムがリリ・ヤンヌの小屋に通っているならば、直《じか》に彼に会って説得するチャンスもあるってことですよね?」
「それはそうですが、わしらティアズヘヴンの住民は、嘆きの沼≠ノ近寄ることはできんのですわい。穢れが移りますからな」
「僕が行きます」ワタルはきっぱり宣言した。「僕なら住民じゃないから大丈夫です」
マグ町長はうろたえている。「しかしあんた、ワタルはん、あんたはお子や──」
「でも、ハイランダーです」
「そりゃそうかもしらんが」
「町長、僕もサラと同じなんです。僕の父も、母と僕を捨てて別の女のところに行ってしまいました。すごく自分勝手な理由を並べて、正しいことをしてるみたいに顔をあげて。だから僕は、捨てられる側の気持ちがわかるんです。嫌《いや》というほどよくわかります。お願いです、僕にヤコムを連れ戻させてください。サラのためにやらせてください!」
マグ町長は、口を開いたり閉じたり、赤いひれをぶるぶるさせたり、両手を組んだりほどいたり、しばらくのあいだ、ただただ困っていた。が、やがて小さく息を吐くと、
「よろし、お願いしま。どのみち、わしらだけでは手に負えん。サラの気持ちを代弁できるというあんたに、頼《たよ》ることにしましょ」
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23 暗黒の水
それでもマグ町長は、ワタルの傷がよくなるまでは、嘆《なげ》きの沼《ぬま》≠ノ近づかないこと──という条件を出した。それを呑《の》むのは易しいことだった。涙《なみだ》の水≠ナ煎《せん》じた傷薬は奇跡《き せき》のようによく効いて、どれほど長くても十日も待てばよさそうだったからだ。
そのあいだ、ワタルは涙の水≠精製している作業所を見学したり、自分もちょっぴりその作業を習ったり、町のあちこちを散歩したりして過ごすことにした。ティアズヘヴンでは、毎日朝と晩、さわさわと音をたてて、小一時間雨が降る。だから、町中で受けた雨水を溜《た》めておく貯水槽《ちょすいそう》はいつも満杯《まんぱい》で、濾《こ》しても濾しても材料には事欠かなかった。
雨水の精製に使われるのは、光沢《こうたく》のある滑《なめ》らかな白い布で、それもまたこの町の住民たちの手作りだ。フフルネという特殊《とくしゅ》な草の繊維《せんい 》を紡《つむ》いで作った糸で、それだけでも高級品なのだという。実際、涙の水≠フ作業所で働くヒトびとは、必ずこのフフルネの糸で織った作業服を身につけなければならないのだが、それを買うだけのお金があれば、物価の安いナハトだったら一年は楽に遊んで暮らせるという。
町長の話では、サタミは水の作業所ではなく、フフルネ布の織り工場で働いていたという。これもまた集中力の要る作業で、女性向きなのだろうか、工場の織り手たちの大半が女性だった。サラは母親の病室にいるとき以外は、たいてい、この工場にいた。彼女の身の上を案じて世話をやいてくれる、サタミの友達がいるからだろう。ワタルは彼女を見かけると、こんにちはとか、何して遊んでるのとか、明るく声をかけるようにしたが、サラはヒト見知りなのか、さっと逃《に》げ出してしまうか、そばにいる大人の背中に隠《かく》れてしまって、なかなかうち解けることは難しかった。
ティアズヘヴンの町には、子供が少ない。夫婦《ふうふ 》や家族でここに滞在《たいざい》しているヒトが、案外いないのだ。圧倒《あっとう》的に一人で来ているヒトが多く、長いこと外部とは手紙のやりとりさえしていないヒトも珍《めずら》しくはないという。
「でもまあ、考えてみりゃそうだよな。そばにいる家族や友達じゃ癒《いや》しきれないほどの悲しみを抱《かか》えている──家族や友達を失《な》くしたことが悲しみの原因になっている──どちらにしろ、当人はひとりぼっちだ。そもそもこの町に身を寄せようという時点で、悲しみだけじゃなく孤独《こ どく》も背負ってるんだよ」
これはあの門番の言葉だ。獣人《じゅうじん》の彼の名はブート。ナハトの生まれで、本当の職業は風来坊《ふうらいぼう》≠セという。彼自身はここの住人ではなく、マグ町長に雇《やと》われた使用人だった。
「もう五年くらい前になるかなぁ。風来旅の途中《とちゅう》の関所で、ティアズヘヴンへ行きたいんだけど、一人では道中が不安だというヒトを、ここまで送ってきてやったんだ」
で、そのまま居着いてしまったのだという。
「ここは女が多いし、数少ない男たちは水汲《みずく 》みや水運びの力仕事に忙《いそが》しい。門番とか見回りみたいなことをやる男手が足りなかったんだな。それで町長に頼《たの》まれちゃってさ」
気のいい感じのいいヒトだけど、もしかしたらけっこう腕《うで》っ節《ぷし》が強いのかもしれないと、ワタルは思った。
「俺は物心ついたころにはもう風来坊だったし、ずっと一人だから、一人を孤独だとは思わない。不思議だよな。孤独はそれだけじゃけっして害のあるものじゃないのに、怒《いか》りや悲しみとくっつくと、すごく性質《た ち 》の悪いものに変わっちまうんだ」
昼過ぎのこと、ワタルはブートと並んで門の上に腰《こし》かけていた。彼はプカプカとタバコをふかし、ワタルは足をぶらぶらさせる。
「門番っていったって、たいした仕事があるわけじゃない。街道《かいどう》をヒトが通りかかったら、ティアズヘヴンへの来客かどうかを確かめて、お客だったら門を開ける。お客じゃなかったら手を振《ふ》って見送る。ダルババ屋が来たら荷運びや荷おろしを手伝う。そンだけさ。あとは日向《ひなた》ぼっこしてりゃいいんだ」
ブートはなぜここを離《はな》れないのだろう? 風来坊ゴコロが騒《さわ》がないのかな。この町のヒトたちへの同情が、彼をここに留《とど》めているのかな。ワタルがそんなことを考えていると、ボグ側の街道にぽつりと人影《ひとかげ》が見えた。ぽくぽくと、早いペースで近づいてくる。ウダイに乗っているのだ。
「おーい」ブートが両手を口にあてて呼びかけた。「そこを行く旅のヒト、ティアズヘヴンに用があるかないか?」
ウダイの乗り手は手綱《た づな》から片手を離して大きく振りながら、
「俺は行商人だぁ、あんたらこそ俺に用はないかぁ」と、呼びかけ返した。
「タバコはあるかぁ」
「あるある、いろいろあるよぉ」
行商人はアンカ族の小父《お じ 》さんで、荷箱のなかにはタバコのほかにお菓子《か し 》や玩具《おもちゃ》も入っていた。小さな木彫《き ぼ 》りの人形がワタルの目を惹《ひ》いた。簡単な彫りだけど、笑顔《え がお》が可愛《かわい》い。
「これ、ひとつください」
そしてブートに説明した。「サラにあげるんだ」
ブートは笑った。「いい兄ちゃんになれるなぁ」
行商人はウダイを降りて、自分もタバコをふかしながら、ひとしきり世間話をした。そのなかに、このあいだリリスの北の森の方で、不思議な銀色の竜巻《たつまき》が発生したという話があって、ワタルは耳をそばだてた。
「町は何ともなかったけど、スラの森はきれいさっぱり、刈《か》り取られたみたいになっちまったんだよ」
ブートも興味深そうに話を聞いていたけれど、横にいるワタルがその竜巻に運ばれてきただなんて、顔にも出さなかった。余計なことはしゃべらない。悲しみの町≠フ門番だ。
「ところでさ」タバコを吸い終えてウダイにまたがりながら、思い出したように行商人が言った。「最近、涙の水≠フまがい物が出回ってるという噂《うわさ》を聞かないかね?」
ブートは身を乗り出した。「何だぁ?」
「いや、俺もアリキタの港町で小耳に挟《はさ》んだだけだけど、ただ、どうもティアズヘヴン以外の場所で作られた涙の水≠ェ、密《ひそ》かに高値で売り買いされてるらしいんだ。で、そのまがい物で煎《せん》じた薬を飲んだ病人が死んだとか」
「そりゃ、放っておけない話だ」真顔になるブートだ。
「つまり、誰かがまがい物を売りつけて詐欺《さ ぎ 》をしてるってことですね?」と、ワタルは言った。「本物の涙の水≠見分ける方法って、ないんですか?」
見た目はただの水だから、瓶《びん》に詰《つ》めてそれらしいラベルを貼《は》れば、誰でも偽物《にせもの》をつくることができそうだ。
「もちろんあるよ」ブートは答えた。「簡単さ。涙の水≠ノは魚が棲《す》めないんだ。小魚なんぞ、十数えるうちに浮《う》いてきちまう。もちろん、毒だからじゃないよ。あまりにきれいすぎるからなんだ。ここから売りに出すときだって、取引先じゃ小魚を用意していて、抜き取り検査をするんだよ」
「それじゃ、なおさら大変だ!」ワタルは立ちあがった。「そのまがい物は、お客を騙《だま》すために、ただの水に魚が浮いてくるような悪いモノを混ぜてるんですよ!」
「いやいや、そりゃないよ、坊や」行商人は首を振った。「アリキタのハイランダーは、強者《つわもの》ぞろいで有能だからね。病人がおかしな死に方をしたという訴《うった》えがあったとき、残りの水を押収《おうしゅう》して、調べたんだ。毒みたいなものは出てこなかった。出てきたのは、煎じた薬の成分だけだったそうだ」
ブートは鼻先に拳《こぶし》をあてて、ううんと唸《うな》った。「ブランチが動いているんじゃ、笑い事じゃないなぁ。こりゃ困った」
さっそくマグ町長に報告すると、大きな目をぐりぐりさせながら、すぐに詳しい情報を集めねばと、いきり立った。
「もし本当にそんなものが出回っているならば、ティアズヘヴンの存亡に関《かか》わる一大事だわい!」
ワタルも厳しい気持ちになって、町長の執務《しつむ 》室を出た。通行部屋を抜けて青空の下に立つと、織り工場の方から、サラが小さな足を一生《いっしょう》懸命《けんめい》にバタバタさせて、門の方へ駆《か》けてゆくのが見えた。
「サラ、どうしたの?」
追いかけながら、ワタルは呼んだ。サラは振り返りもせず、一心に門のそばまで駆けていって、両手で門を押し開けようとし始めた。
「おいおい、サラ。どうしたね?」
ブートが上から尋《たず》ねると、
「ウダイは?」と、彼女は訊《き》いた。「門のところにウダイがいるって」
「ああ、そりゃさっきの行商人のウダイのことだな。もう行ってしまったよ」
サラの小さな頭が、がっくりとうなだれた。追いついたワタルは、その背中があまりにも寂《さび》しげで悲しげで、ちょっと声がかけられなかった。
ブートは門の上から身を乗り出して、優《やさ》しくサラに声をかけた。「サラ、お父ちゃんのウダイが帰ってきたなら、このブートがでっかい声を張りあげて、サラがどこにいたって聞こえるように、ちゃあんと報《しら》せてやる。だから、心配しないで遊んでな」
そうか。サラは門のところにウダイがいると聞いて、父親が帰ってきたのじゃないかと、駆けつけてきたのだ。ワタルは胸をつかれた。
「こっちの兄ちゃんが」と、ブートはワタルの方に手を振った。「サラにいいものをプレゼントしてくれるってさ。何かな?」
促《うなが》されて、ワタルはあわててポケットから木彫りの人形を取り出した。しゃがんでサラと同じ目の高さになると、
「はい、これ」と、差し出した。
サラはちょっとのあいだ、両手を背中に回したまま、小さな人形を見つめていた。それからやっとワタルの顔を見た。
「サラにくれるの?」
「うん」
「どうして?」
「このお人形の顔が、サラに似てるなって思ったから」
おそるおそるという感じで指をのばして、サラは人形に触《さわ》った。ワタルはそれを、彼女の掌《てのひら》のなかにそっと預けてやった。
「アリガトウ」サラは小さく言った。「なんて名前?」
「僕?」ワタルは自分の鼻の頭を指さした。
「そうじゃないよ、人形の名前だ」ブートが笑った。「この兄ちゃんは、サラの好きな名前をつけてほしいってさ」
「トチー」と、サラは指で人形の頭を撫《な》でながら言った。
「トチーか。いい名前だね」
「妹の名前」
流行病《はやりやまい》で死んだサラの妹か。
「お母ちゃんが、トチーはお星さまになっちゃったから、もう帰ってこないって。でもお父ちゃんは帰ってくるって。くるよね?」
「サラが元気でいい子にしてたらな」と、ブートは言った。ワタルは、よちよち駆け去る彼女を見送りながら、拳を握《にぎ》りしめていた。
嘆きの沼の近くで、ヤコムがウダイに乗っているのを見かけたという報せを受けたのは、それから二日後のことだった。涙の水≠運び出すためにやって来たダルババ屋が、御者《ぎょしゃ》台の上から見たのだそうだ。
ワタルはさっそく嘆きの沼に出かけることにした。足はほとんどよくなったし、マグ町長がウダイを一頭貸してくれた。湿地《しっち》を通ることになったら、これをウダイの蹄《ひづめ》につけるといいと、ちょっとごついカンジキみたいなものも渡《わた》された。
「これさえはいていれば、ウダイが泥《どろ》や水に足をとられて転ぶこともないですわい」
ヤコムに会ったら何をどう話そうかなんて、筋道立てて考えてはいなかった。でも、父親を恋《こい》しがっているサラの切ない心の内は、泣きたいくらいによくわかっていたから、それさえちゃんと伝えることができれば、きっと上手《う ま 》くいくはずだ。ワタルは気負う気持ちでいっぱいになっていた。
森を抜け、リリ・ヤンヌの小屋に近づくと、小屋の窓には覆《おお》いがかかり、煙突《えんとつ》からも煙《けむり》が出ていないのがわかった。森のなかにウダイがつながれている様子もない。ドアや窓を軽く叩《たた》いてみても、しんとして返事がない。
二人で出かけているのだろうか。しばらく時間を潰《つぶ》してみても、何の変化もない。ワタルはもう一度ウダイにまたがり、沼の方へと向かった。あんなジメジメした場所に散歩に行くとも思えないけれど、ここに住み着くことを余儀《よ ぎ 》なくされている身の上となれば、何かしら用事だってできるかもしれない。
嘆きの沼の水は、陽光の下で見ても真っ黒で、さざ波さえもたっていない。雨水から濾しとられたありとあらゆる不純物がここに集まっているのだと知った今では、こののっぺりとした静けさのなかに、ひどく不吉《ふ きつ》で不気味なものが潜《ひそ》んでいるような気がして仕方がなかった。沼の水それ自体が、アメーバみたいなひとつの大きな生きもので、じっと息をひそめ、卑屈《ひ くつ》に身を丸めてうずくまっている。でも、もしも誰かが不用意に近づけば、その生きものは敏感《びんかん》にそれと悟《さと》って、身体《からだ》の一部を触手《しょくしゅ》のようにのばし、襲《おそ》いかかってくるのではないか。そして獲物《え もの》を呑《の》みこんだ後は、たちまち静けさと平坦《へいたん》さを取り戻し、巨大《きょだい》で真っ黒な泥水の塊《かたまり》のふりをする作業に戻《もど》るのだ。
──悪いモノや穢《けが》れたモノだって、そこにそう在るためには、エネルギーを摂《と》り続けなきゃならないんだから。
どうしてこんなことを考えるんだろう。自分で自分を怖《こわ》がらせているだけじゃないか。ワタルは軽く頭を叩くと、ウダイの脇腹《わきばら》を踵《かかと》で軽く小突《こ づ 》き、人っ子ひとりいない水際《みずぎわ》に沿って足を速めた。
そのとき、ごくかすかに、「キー」というような声を聞いた。
ウダイを停《と》めて、耳を澄ます。空耳だろうか? いや、確かに聞こえる。でも、鳥の声もないこの沼に?
「キ、キー、ククク」
動物の声のようだ。弱々しい。周りを見回す。するとまた聞こえる。すぐ近くだ。
前方の、蘆《あし》に似たひょろ長い草の茂《しげ》みが、ざわざわと動いている。一瞬《いっしゅん》だけ、草の葉のあいだから、何か赤い鳥の翼《つばさ》みたいなものがちらっとのぞいた。
ワタルはウダイから降りて、勇者の剣《けん》を抜くと、ゆっくりと近づいて行った。空いた手で茂みを押しのけると、すぐに赤い翼が見えた。鳥ではない。羽毛《う もう》や羽根のかわりにウロコがはえている。真紅《しんく 》のウロコだ。そして、ワタルの手と同じくらいの大きさだけど、はっきりそれとわかる鉤爪《かぎづめ》の指。
──ドラゴンだ。
あまりの驚《おどろ》きに、息をするのも忘れて立ちすくんだ。嘆きの沼の黒い水と泥にまみれて、一頭のドラゴンが横ざまに倒《たお》れている。身体の半分ぐらいは沼に浸《つ》かり、翼と両手を弱々しく動かして、ひどく苦しそうだ。
その目が動いて、ワタルを見た。濃《こ》い色の瞳《ひとみ》が驚きで大きくなり、長い顎《あご》が持ちあがって口がパクパクする。鋭《するど》い牙《きば》はまるで真珠《しんじゅ》のネックレスみたいに粒《つぶ》ぞろいで、白く輝《かがや》いている。
「おや、ヒトの子だ!」と、ドラゴンは声をあげた。「もしも君が良いヒトの子なら、僕を助けてくれるかい?」
ワタルは唖然《あ ぜん》とした。威厳《い げん》さえ感じられる姿──とりあえず今は倒れて弱っているけれど、それでもなお──だけど、聞こえてきた声は拍子《ひょうし》抜けするくらいに素朴《そ ぼく》というか、子供っぽいというか。
「どうしたの?」ぬかるみに足をとられないように気をつけながら、ワタルはドラゴンに近づいた。するとドラゴンが、長い舌をのぞかせてシャッというような声を発した。ワタルはぎくりとして固まった。
「この沼の水に、素手《す で 》や素足を浸けてはいけない!」と、ドラゴンは言った。
どうやら、さっきの変な声は注意を促すためのものだったらしい。
「大丈夫だよ、僕はブーツを履《は》いてるから。転ばなければ平気だよ」
ドラゴンはしばしばとまばたきをした。「そうか。君が良いヒトの子なら、その剣はもう鞘《さや》に収めていいと思うよ。僕は君を噛《か》んだりしないから」
ワタルは勇者の剣をしまうと、さらにドラゴンに近づいた。おっかなびっくり手をのばし、彼の首のあたりに触《ふ》れると、さらりと乾《かわ》いた感触と、体温が伝わってきた。キ・キーマの肩《かた》のあたりと、ちょっと似ている。
「怪我《け が 》をしてるの?」
ドラゴンは悲しげに目を伏せた。「調子に乗って曲芸飛行をやりすぎたんだ。バランスを崩《くず》して、このとおりさ」
ちょっと可笑《お か 》しい。ドラゴンでもそんな失敗をするのか。
「それで落ちちゃったんだね。でも、ここの柔《やわ》らかい湿地で運が良かった──」
ワタルの言葉を遮《さえぎ》って、ドラゴンは両手で泥をかきむしりながら、「とんでもない! この沼の水は痺《しび》れグスリみたいなものなんだ。ちょっとでも身体が浸かったら、そこからどんどん痺れが広がっていって、しまいには動けなくなっちまう! 僕はもう、身体半分が全然動かないんだよ。動くのは首と、この両手、僕の身体のなかでいちばん小さいこの二本の手だけなんだ。おまけにここのどろんこには爪も立たない! だから、どうやっても抜け出せないんだよ」
どうやらこのドラゴンは、ドラゴン族の子供であるらしい。それでも体長は二メートル以上あるだろう。とてもじゃないが、ワタル一人で水から引っ張り出してやることはできそうにない。どうしよう──と考えて、はっと思いついた。
「泥を上手くつかむことができたら、自分の力で水からあがれそうかい?」
「うん、たぶん」ドラゴンはうなずいた。「翼が乾けば、また飛べるだろうし」
「じゃ、ちょっと待ってて!」
ワタルは急いでウダイのところにとって返すと、蹄にはかせていたカンジキをふたつ外して、ドラゴンのそばに駆け戻った。
「ほら、これを手にはめてごらんよ。これなら、しっかりと泥の地面をつかむことができるんじゃない?」
試《ため》してみると、少しずつではあるけれど、ドラゴンは自力で自分の身体を引っ張りあげられるようになってきた。
「う──んしょ」頭を振り立てながら、真っ赤になって頑張《がんば 》っている──たぶん。もともと真っ赤だから、よくわからないけど。
「よいっしょと!」
ようやく翼が水から出た。さっきまで沼の水に浸かっていたその部分は、確かに、麻酔《ま すい》でもかけられたみたいにだらりと力を失っている。ワタルはちょっとだけぞっとした。
「うーん、うーん」
「もうちょっとだ、ガンバレ!」
ワタルも彼の背中に手をあてて押したり、首のあたりをひっぱったりして手伝った。ようやく、ドラゴンの身体の大部分が水から抜け出し、あとはしっぽが浸かっているだけになった。
「あとちょっとだ」
そのとき、「ぎょ?」というような声を出して、ドラゴンが両目を剥《む》いた。
「しまった! カロンだ!」
「え? 何?」
ドラゴンはあわてて身体をくねらせ、自分のしっぽの方を振り返った。
「カロンだよ! カロンが僕のしっぽの先に喰いついてる!」
沼の水面に目をやると、さっきまで真っ平らだったところに、小さな波が立っていた。
「カロンて何?」
「この沼の魚さ! おっそろしい食いしん坊なんだ!」ドラゴンは両手をじたばたと泥に突き立てた。「ああ、どうしよう! ひっぱられる! 水に引きずり込まれたら、僕なんか頭からガリガリ喰われちまう!」
騒いでいるあいだにも、確かにドラゴンの大きな身体が、じりじりと沼の水のなかへと引き戻されてゆく。カンジキの跡《あと》が、泥の上に線になって残る。水面のさざ波は、さらに大きくなっていく。
「その魚、やっつけよう!」ワタルが勇者の剣を抜いて身構えると、ドラゴンは大きく首を振り、ワタルを沼から遠ざけた。
「ダメだ、ダメだ! そんなちっぽけな剣じゃ、カロンには歯がたたないよ。それより、僕のしっぽを切り落としておくれ!」
ワタルは、ドラゴンの大慌《おおあわ》ての顔と、釣《つ》り糸みたいにピンと張ったしっぽを見比べた。
「しっぽを切る?」
「そうだよ。これから僕がうんと力を出して、できるだけ強くしっぽをひっぱり返す。そしたら君は、僕のしっぽを、できるだけ水面ギリギリのところで切っておくれよ。いいね? できるだけギリギリだよ。たくさん切ったら痛いからイヤだよ。合図をするから、そしたらいっぺんですっぱりと切るんだよ。もたもた切ったら痛いからイヤだよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「待ってたら僕はカロンに喰われちゃうよ。剣の準備はいい? 足元を固めて。いいね? じゃ、行くよ。いち、にい、さん!」
ドラゴンはうんとばかりに渾身《こんしん》の力を込めてしっぽをひっぱった。ワタルは無我夢中《む が むちゅう》で勇者の剣を構えると、しっぽが水面から引っ張り出され、ぴりぴりと震えている場所めがけて振りおろした。
スパッ!
手応《て ごた》えがあった。ドラゴンがぎゃっと叫んだ。嘆きの沼の水面がざざざと波立ち、その波の中心に、丸ノコギリの一部分みたいなものが一瞬だけのぞいて、水面下に消えた。
「痛《い》ったいよぉ!」ドラゴンは両手をバタバタさせている。目から涙がボロボロ落ちる。「ひどいじゃないかぁ、ギリギリのところで切らなかったろ!」
ワタルははあはあ息を切らしていて、すぐには何も言えなかった。ようやく出てきた言葉は、「今のあれ、何?」
「何って、だからあれがカロンだよ!」
「あの丸ノコギリみたいなのが? あれが口?」
「あれはカロンの背びれだよ。歯はもっともっとスゴイんだ」
ドラゴンは涙を流しながら、自分のしっぽを点検した。切り口は、ちょうど大根ぐらいの太さだ。赤い血が流れ出ている。ワタルは心配で背中が冷えたけれど、傷はみるみるうちに塞《ふさ》がって、涙よりもよっぽど早く、血は止まった。
「ああ、寒いなぁ」
ドラゴンはぶるぶる震えた。彼が震えると、周りの草むらも一緒《いっしょ》に揺れた。
「君、ちょっと退《ど》いてくれる?」
ワタルは一歩離れた。
「そうじゃないの。もっともっともっと遠くまで退いて。あのウダイのところまで」
ワタルが言われたとおりにすると、ドラゴンは大きく息を吸い込んで、沼の方に首を向け、「せえの」という声と共に吐き出した。
ごうううううう!
呆気《あっけ》にとられて、ワタルはぽかんと口を開いた。ドラゴンの口から、炎《ほのお》が迸《ほとばし》り出たのだ。特大の火炎《か えん》放射器だ。
炎が生み出す熱波はドラゴンを包み込み、ワタルの方にまで押し寄せてきた。まるで一陣《いちじん》の風のように、それが来たりて通過するのを、ワタルは肌《はだ》で感じた。一瞬の熱気と、あとに残った焦《こ》げ臭《くさ》い匂《にお》い。
──髪《かみ》がコゲたんだ。
「やあ、乾いた、乾いた」
ドラゴンは上機嫌《じょうきげん》で、大きく翼をはためかせた。もう泣いてない。
「君、大丈夫だった? どうもありがとう。ちょっと剣の腕が悪いけど、でも君は僕の命の恩人だよ」
「や、や、や、そんなこと」
膝《ひざ》がガクガクして、ワタルは動けなかった。ドラゴンは身軽に足を動かし、どしんどしんとワタルのそばに寄ってきた。
「君はどこから来たの? どこへ行くの? ウダイに乗ってるとこ見ると、行商人かい?」と、ドラゴンは尋ねた。
「う、うん。まあそんなとこ」
「そう。じゃあさ、助けてもらったお礼に、いいものをあげるよ」
ドラゴンは巨体の割には小さな手を持ちあげて、自分の首の後ろから、真っ赤なウロコを一枚引き抜いた。
「ホラ、これ」
ワタルはウロコを受け取った。紅宝石《ル ビ ー》でできた靴《くつ》べらみたいだ。
「それ、リリスに持っていって、腕のいい工芸師に見せてさ、笛を作っておもらいよ。龍の笛だ。君がどこにいても、それを吹いたら、僕には聞こえる。すぐに飛んできて、君を背中に乗っけて、どこへでも、行きたいところへ運んであげるよ」
ただ、気をつけてねと続けて、
「龍の笛は長持ちしない、すぐ壊《こわ》れちゃうから、二度しか使えないよ」と言った。
「あ、ありがとう」
「こちらこそ。じゃ、そういうことで」
サヨナラの挨拶《あいさつ》か、ドラゴンは小さな手をしゃかしゃかと振ると、ゆっくりと羽ばたき始めた。次第《し だい》にスピードが早くなる。アイドリングから、本格的なエンジンの始動。
ドラゴンの太い両足が、沼地からふわりと持ちあがったとき、ワタルはやっと声を張りあげて尋ねた。「な、名前は何ていうの? 僕、ワタル!」
ドラゴンはますます早く翼をはためかせながら答えた。「僕はジョゾ。ファイアドラゴンの末裔《まつえい》のジョゾだよ」
ジョゾは飛び立った。巻き起こる旋風《つむじかぜ》に、ワタルは思わず手で目をかばって頭を伏《ふ》せた。風が収まったときには、ジョゾの姿は、天空の一角をピカリと彩《いろど》る、真昼の赤い星つぶになっていた。そしてそれもすぐに、雲と光の狭間《はざ ま》に消えてしまった。
なんてこった。本物のドラゴンを見ちゃった。今まで、幻界《ヴィジョン》≠フヒトびとからドラゴンの話を聞かされたことは、たった一度しかない。カッツの語ってくれた、ファイアドラゴンの伝説。それだけだ。しゃべったり翼をバタバタさせたり、空から落ちて困っている生身のドラゴン族の話なんて、これっぱかしも耳にしたことはなかったのに。
いまだ夢を見ている気分で、ワタルはぼんやりとウダイにまたがり、ぽくぽくと歩き出した。ジヨゾの吐いた炎の息が、あの鮮《あざ》やかな真紅の色が、まだ頭のなかをいっぱいに満たしていて、陰気な沼地の光景も湿《しめ》っぽい風も、現実味がなくなっていた。
そのせいだろう、行く手の湿地のなかに、小さな荷車をつけたウダイが一頭、ぽつんと停《と》められているのを見かけても、すぐには何も感じなかった。荷車の荷台には、小さな瓶《びん》がたくさん積み込んである。ウダイの乗り手は荷車のそばを離れて、嘆きの沼の水際にかがみ込み、しきりと何かやっていた。
──手を水に浸けてる。
その瞬間、やっと夢の包囲が破けて、ワタルは大声で叫んだ。
「そこのヒト、駄目《だ め 》だよダメだ、沼の水に触っちゃ危ないよ!」
鳥の声も木立のざわめきも存在しない嘆きの沼に、その声は驚くほど鋭く響《ひび》きわたった。水際にかがんでいたヒトは、はじかれたように立ちあがり、ワタルの方に向き直った。
ワタルは急いでウダイを駆った。近づくにつれて、水際にいるそのヒトが、鞭《むち》のように鋭く身構えていることがわかった。頭からすっぽりと頭巾《ず きん》をかぶっているので、顔が全然見えない。
ワタルが近づいて行っても、そのヒトは動かなかった。それでも、頭巾の目のところに空いた穴から、じっとこちらを見ている視線は感じられた。
ウダイから降りながら、ワタルは言った。「もしかして、道に迷ったんですか? 喉《のど》が渇《かわ》いているなら、僕が飲み水を持ってます。沼の水には手をつけちゃいけない」
そのヒトは頑丈《がんじょう》そうな革《かわ》のブーツで足元を固め、ござっぱりした筒袖《つつそで》のシャツとズボンに、ポケットがたくさんついた革のチョッキを着込んでいた。行商人によくある出《い》で立ちだ。よく見ると両手にも革の手袋《てぶくろ》をはめている。その手で、荷車の荷台に積み込んでいるのと同じ形の瓶を握っていた。瓶の口が濡《ぬ》れている。
「この沼の水は痺れ薬みたいなもので──」
言いかけて、ワタルはいきなり悟《さと》った。身体のなかの小さな小さな賢者《けんじゃ》が、いつまでたっても何も理解しようとしないワタルに焦《じ》れて、内側から杖《つえ》で頭を叩いたのかもしれない。それほどに出し抜けに、ごつんという感じで認識《にんしき》がやってきた。
荷台に積まれたたくさんの瓶。頭巾で顔を隠したヒト。水際で何かしていた。
──まがい物の涙の水が出回っていて。
──それで病人が死んだ。
知識と目の前の光景が結びつき、ワタルは目を見開いた。その瞬間、頭巾のヒトがワタルめがけて手のなかの瓶を投げつけた。
ワタルは危《あや》ういところで瓶を避《よ》けた。頭巾のヒトは逃げ出して、荷車のウダイのところへ駆けてゆく。
「待て!」
ワタルは叫び、ほとんど反射的に勇者の剣を抜いた。何も考えずにしたことだったけれど、剣を見た頭巾のヒトは、ブーツの爪先《つまさき》が沼地の泥に食い込むほどの勢いで足を止めると、こちらを振り返った。
「生意気なガキめ」頭巾の下から、低い声が聞こえた。「そんな剣なんか取り出して、俺を捕《つか》まえようっていうのか」
明らかに男の声だった。相手の態度が変わったことが、それも危険な方向に転じたことが、ワタルにもはっきりと感じ取れた。
「そうだよ、捕まえるんだ。あんたを放っておくことなんかできない!」ワタルはシャツの袖をまくって、ファイアドラゴンの腕輪を見せつけた。「僕はハイランダーだ!」
頭巾の男は笑いだした。「驚いたね! ブランチも安っぽくなったもんだぜ。夜|寝《ね》る前に、お母ちゃんに子守歌《こ もりうた》を歌ってもらっているような小僧《こ ぞう》に、大切なファイアドラゴンの腕輪をやるとはな。坊ず、白状するなら今のうちだ。今の名乗りは嘘《うそ》だろう? 腕輪は本物じゃないんだろ? ハイランダーごっこをしてるだけなんだろ?」
ワタルはとりあわなかった。毅然《き ぜん》として続けた。「あんたはこの沼の水を汲みあげて、それをティアズヘヴンの涙の水≠セと偽《いつわ》って売っているんだろう? 立派な詐欺だ。死人まで出ている。自分のしていることがどれほどの悪事か、わかってるのか?」
頭巾の男はひるむどころか、両手を打ち合わせて大笑いをした。「おまえこそ、自分がどんな立場にいるのか、まるでわかってないようだな、坊ず」
すばやくチョッキの下に手を突っ込むと、何かを取り出してワタルに突きつけた。
これは──銃《じゅう》だ。ワタルが現世《うつしよ》で知っている銃よりは曲線の部分が多いけれど、それだって想像はつく。
ワタルが思わず一歩後退すると、頭巾の男は一歩前進した。そして言った。
「へえ、坊ず、これが何だかわかるのか? 感心、感心。こいつはな、魔導銃《まどうじゅう》というものだ。アリキタで最近発明された、剣なんかよりもずっと頼《たよ》りになる武器だ。おまえが剣を振りかざして俺に襲いかかってきたところで、俺はここから逃げもせずに、ただ指先を動かすだけで、おまえの頭に大きな穴を空けることができるんだ」
「銃ならば、知ってるよ」ワタルは静かに応じた。心臓がドキドキしているので、声を抑《おさ》えるのは難しかったけれど、何とかできた。
「おかげで話が早い。坊ず、命が惜《お》しければ、黙《だま》っておとなしくしていることだ。俺はとっととここを立ち去る。おまえは俺がいなくなったら、俺と会ったことも忘れて、誰にも何も言わないことだ。おまえだって、あたら若い命を散らして、おっかさんを泣かせたくはないだろう?」
ワタルは半歩右に動いた。魔導銃の銃口は、ぴたりとワタルに狙《ねら》いをつけたまま、半歩分だけ一緒に動いた。
「逃げようとしたって無駄だ。避けられるものじゃない。ガキだから見逃《み のが》してやろうと言ってるのに、ものわかりの悪い小僧だ」
「僕はガキじゃない、ハイランダーだ。ティアズヘヴンのヒトたちを守る責任がある。あんたの売りさばくまがい物の涙の水≠ゥら、大勢のヒトたちの命を守る責任だってあるんだ!」
「バカらしい」頭巾の男は吐き捨てた。「あんな町の住民どもなど、守ってやる価値があるものか! メソメソうじうじしながら、ただ寄り集まってるだけじゃないか」
ワタルはカッとなった。「あんたになんでそんなことがわかるんだ? 何も知らないくせに!」
「あいにくだな。俺はティアズヘヴンのことならよく知ってるんだ。つい最近まで、あの忌々《いまいま》しい町に閉じこめられていたんだから」
頭巾の男はウダイの鞍に片手をかけた。
「おまえとおしゃべりしているヒマはない」
ひらりとウダイに飛び乗ろうとする。ワタルは勇者の剣の柄《つか》を握りしめると、前後を忘れて突進した。
頭巾の男は大きく腕を振りあげると、ワタルに魔導銃を見せつけて、それから発砲《はっぽう》した。バンという音がして、身を伏せるまもなく、ワタルの目の前に白い光が炸裂《さくれつ》した。
「え?」
いつか教会の廃墟の地下で怪物《モンスター》と闘《たたか》ったときと同じだった。勇者の剣を握った腕が勝手に動いていた。剣はワタルの前の空間を左から右へ移動し、あやまたず魔導銃の放った弾《たま》を捉えて、鋭く撥《は》ね返したのだ。
頭巾の男も驚いていた。一瞬手のなかの魔導銃を見おろして、それからあわててもう一度銃口を持ちあげた。
「小賢《こ ざか》しい小僧め!」
再びの発砲音。ワタルも今度はあわてなかった。心を鎮《しず》めて勇者の剣に任せた。剣はまた跳ねるように動いて弾をはじいた。跳弾《ちょうだん》が沼に飛び込んだのか、小さな水|飛沫《しぶき》があがった。飛沫《ひまつ》がほんの一滴《いってき》か二滴、ワタルの顔に降りかかった。冷たい。
「あんたの銃には、弾が何発入ってる?」ワタルは少しずつ頭巾の男との間を詰めていった。「残らず全部|撃《う》ち尽《つ》くすまで、やってみるかい?」
「クソ、何てことだ」
頭巾の男は悪態をつくと、身軽にウダイに飛び乗った。そして鞍の上で身をよじり、銃口をウダイと荷車をつないでいる縄《なわ》の結び目に向けて、一発で撃ち抜いた。
その短いあいだに、ワタルの頭のなかに、凛《りん》として優しい声が囁《ささや》きかけてきた。
(ワタル、勇者の剣を使いなさい)
それは剣から──剣の鍔《つば》にはめこまれた、あの宝玉から聞こえてくるのだった。ワタルの指を伝わり、腕を伝いのぼり、頭のなかに直《じか》に訴えかけてくる。
(剣を使いなさい。この剣も魔弾を放つことができるのです)
ためらわず、ワタルは勇者の剣を上げると、さっき頭巾の男が魔導銃でそうしたように、剣の先で男に狙いをつけた。今にもウダイに鞭をくれようとする、その腕の付け根に。
剣はまたも、自然に動いた。空に素早《す ばや》く十字を切り、その十字の中心に剣先が戻る。その動作をしながら、心のなかに伝わってきた言葉を、ワタルはそのまま唱《とな》えた。
「大いなる女神《め がみ》さま、聖なる精霊《せいれい》の英知の力よ、虚空《こ くう》を飛べ!」
鍔の宝玉が光った。剣先から白い輝きが迸しり出て、まっしぐらに頭巾の男の方へ飛んでいった。
光の弾丸は、男の右肩を撃ち抜いた。男は悲鳴をあげてウダイから転がり落ちた。
怯《おび》えたウダイが走り出す。倒れ伏した頭巾の男の脇を、危《あや》ういところで蹄が駆け抜ける。ワタルは男に駆け寄った。興奮と感動で頬《ほお》が熱かった。勇者の剣でこんなことができるなんて! こんな力が秘《ひ》められていただなんて!
男は肩の傷を押さえて呻《うめ》いていた。落ちた拍子に頭巾がずれて、鼻先と顎が見えている。無精《ぶしょう》ひげの浮いた頬に泥がついている。
「ハイランダーが、魔法剣を使うなんて」驚きでうわずった声で、男は言った。「それもこんなガキが──おまえはいったい、何者なんだ?」
男のそばに膝をついたワタルは、しかし、彼の問いかけなど耳に入らないほどに、別のことで驚いていた。この顎の形。鼻の感じ。どこかで見た覚えがある。とても懐《なつ》かしい感じがする。誰《だれ》かに似ている──
まさか。そんなバカな。
閃《ひらめ》いた直感を、理性が押し返す。でも胸騒《むなさわ》ぎを鎮めることはできない。左手が男の頭巾の方へ伸びてゆく。やめろ、その男の頭巾を剥《は》ぐのはやめろ、そんなことをしてはいけない、きっと後悔《こうかい》する。身の内の小さな賢者が叫んでいる。でも止められない。
ワタルは男の頭巾をむしりとった。
現れた顔は、父の顔だった。三谷明に生き写しの顔が、そこにあった。いつも落ち着いて冷静で、時には非情にさえ思える瞳の色までそのままだ。
嘘だ。こんなことがあるもんか。
父にそっくりな男は、憎《にく》しみに目をギラギラさせてワタルを睨《にら》んでいた。傷が痛むのか、歯を食いしばっている。
「あんたは──誰だ」
かろうじて、ワタルは訊いた。舌が痺れたみたいになって、うまく声が出ない。
「名前など意味はない」男は食いしばった歯のあいだから言った。「俺はひとりの男だ。おまえのような小僧にはわからないだろうが、けっして悪人ではない。ただ自分の幸せを求めて、自分にできることをやろうとしているだけの男だ」
この男は、さっき口走った──つい最近までティアズヘヴンに閉じこめられていたと。
ワタルは悟った。「そうか、あんたはヤコムだ」
初めて、男がひるんだ。ワタルの顔から目をそらした。
「あんたはヤコムだ! 奥さんとサラを捨てて、リリ・ヤンヌと駆け落ちしようとして失敗した。リリ・ヤンヌは町を追放されて、今はこの嘆きの沼≠フ畔《ほとり》にいる──」
それでわかった。
「あんたがまがい物の涙の水≠ネんか売っているのは、リリ・ヤンヌを養うためだな? 彼女に小屋を建ててやったろ? そのための金も、そうやって稼《かせ》いだんだな?」
ヤコムの目が、険悪に細くなった。
「坊ず、なぜおまえが俺とリリのことを知っているんだ? いやに詳しいじゃないか。誰にそんな話を吹き込まれたんだ?」
「誰に吹き込まれたわけじゃない。僕はリリ・ヤンヌに会ったこともあるし、あんたの奥さんのサタミに会ったこともある。サラのことも知ってる。サラがどんなに父親を恋しがってるのか、よく知ってる。それだけだ」
ヤコムは泥まみれになって起きあがると、魔法弾のあたった肩の傷を手で押さえて、ワタルから顔を背《そむ》けた。サラの名前に反応したのか、父親という言葉が刺《さ》さったのか、瞳が沼の水の色を映して暗くなった。
「おまえのような子供が、生意気なことを」
呟く声も、張りを失っていた。
「俺だって、自分が何をしているか、わかっていないわけじゃない。勝手なふるまいをしているということぐらい、ちゃんと承知している」
「だったら──」
ヤコムはワタルの方を振り仰《あお》いだ。正面から見ると、その顔は本当に三谷明に生き写しで、ワタルは胸の底で何かがズキンと痛むのを感じた。
「だがな、坊ず。ヒトには、理屈ではどうしようもない想《おも》い≠ニいうものがあるのだ。サタミはけっして悪い女じゃない。真面目《ま じ め 》で働き者で、優しい女だ。だが、リリと巡《めぐ》り合い、愛し合ってしまった以上、俺はもう引き返すことができないのだ。本当の愛というものを知ってしまったからには、もうまがい物の元へ戻ることはできないのだ」
ワタルは声を振り絞《しぼ》った。「サタミさんとの愛がまがい物で、リリ・ヤンヌとの愛が本物だなんて、どうしてあんたに見分けられるのさ?」
ヤコムは口の端《はし》をひん曲げてニヤリと笑った。「坊ずも大人の男になればわかるさ」
「そんなもの、わかりたくもない!」
自分でもビックリするほどの大声が飛び出した。動揺《どうよう》した心が、身体の内側であっちに転がってぶつかり、こっちに転がってぶつかっている。ワタルは必死で自分自身に言い聞かせた。これは父さんじゃない。ヤコムだ。行商人のヤコムだ。僕の父さんの三谷明じゃない。別人なんだ。たとえ姿形がそっくりであろうと、似たようなことをして母さんと僕を苦しめていようと、こいつは父さんじゃない。違《ちが》う、違うんだ。
「愛を知ることは、ヒトにとって何よりも大切なことだ」説教臭い口調で、ヤコムは言った。「一度愛を得たならば、それを手放すことは死よりも辛《つら》い。坊ず、おまえも一人前の男になれば、必ずそれがわかる。もっとも、おまえが本物の愛に出合えるかどうかは、俺にも保証できないが」
フフンと笑うヤコムの顔も、やっぱり父さんの顔とそっくりだった。ワタルが何か小生意気な意見を述べたとき、好きなだけ言わせておいて、ではこれから君の意見がどれくらい間違っているか、僕がじっくりと検証してあげようと、ゆったりと椅子《い す 》に座り直すときの三谷明に。
──ワタル、君は少し考え違いをしているようだね。
そう切り出すときの、父の微笑《びしょう》に。
とうとう耐《た》えきれなくなって、ワタルは足元の泥に視線を落とした。そのまま言った。「サタミさんの気持ちはどうなんだい? サタミさんがあんたに感じてる愛≠ヘどうなんだい? それだって本物だ。今あんたが言ったことが正しいなら、サタミさんがあんたへの愛を手放すのは死ぬより辛いと思うことだって正しいはずじゃないか」
ヤコムは首を振った。「サタミは俺を愛してなどいない。ただ生活のために、俺にしがみついているだけだ」
「勝手に決めつけるなよ!」
「坊ずこそ、他人の家のなかのことに黄色いクチバシを突っ込むんじゃない!」
ワタルはひるまなかった。「サラはどうなんだ? サラが父親であるあんたに抱いてる愛≠ヘどうなんだよ!」
「親子の愛は、また別物だ」
「あんたは卑怯《ひきょう》だ。自分に都合のいい屁理屈《へ り くつ》ばっかりこねてるじゃないか。サラは、あんたが帰ってきたんじゃないかって、ウダイがティアズヘヴンのそばを通りかかるたびに、小さい足で一生懸命に門のところまで駆け出してくる。その姿を、あんた見たことないだろ? 一度だってそんなサラを目にしたら、今みたいな屁理屈、絶対に並べられないはずだよ」
一瞬、ヤコムは押し黙った。それから急に、怪我をしていない方の手を素早く動かして、傍《かたわ》らの泥をひとつかみすくいとると、ワタルに向かって投げつけた。とっさに避けたけれど、泥の飛沫がワタルの顎に飛び散った。「何するんだよ!」
再び、ヤコムの目が燃えていた。さっきワタルに銃を向けたときと同じ、憎しみの光が、彼の瞳を内側からギラギラと輝かせている。
「子供、子供、子供!」と、ヤコムは絶叫《ぜっきょう》した。「子供だから何だというのだ! もともと俺が与えてやった命じゃないか! 子供だというだけで一生親を縛《しば》りつける権利があると言い張るのなら、こっちにだって言い分がある。どうしても俺という親がいなくては生きていけないというのなら、そんな命など、最初《は な 》から無用だ! 俺がこの手でサラの命を絶ってやろう。サタミだって同じだ。どうしても俺がいなくては生きられないというのなら、俺がこの手で殺してやる!」
ワタルは息が詰まるのを感じた。頬が熱くなるのを感じた。突き出されたヤコムの顎。唾《つば》を飛ばさんばかりの勢いで言い募《つの》る口。吊《つ》りあがった眉《まゆ》。強い自己主張に光る瞳。父さんだ。父さんにそっくりだ。いや、父さんそのものだ。耳に突き刺さるのもヤコムの声じゃない。これは父さんの声だ。三谷明が、ワタルに向かって宣言しているのだ。
──子供だから何だというのだ。もともと僕が与えてやった命じゃないか。ワタル、おまえが僕の子供だというだけで、一生僕を縛りつける権利があると言い張るのなら、僕にも考えがある。おまえを捨てるのは残酷《ざんこく》だと言うのならば、おまえが望むとおりにしてやろう。
──父さんはおまえを捨てはしない。
──もともとおまえは、父さんがいなくてはこの世に誕生しなかった命だ。
──だから父さんは、おまえが生まれてこなかったことにしようと思う。
──おまえを捨てるかわりに、おまえを消してしまうことにしよう。
それこそがワタル、おまえの望みなのだろう?
ふらりとめまいを感じた。足元がふわふわする。心のなかでは怒《いか》りがマグマのように煮《に》えたぎっているのに、なぜかそれが急に遠いものになったような感じがする。
──倒れそうだ。
宙に手を泳がせて、ワタルはつかまるものを探した。そんなものはあるはずもなく、足が一歩、大きく脇に動いてよろけた。
「どうしたんだ、坊ず?」
ヤコムが問いかける。その声も、さっきまでより小さく聞こえる。ガラスごしに話しかけられているみたいだ。いや、ヤコムだけじゃない、周囲の何もかも、嘆きの沼の冷たい空気や陰気《いんき 》な風までも、透明《とうめい》な壁《かべ》一枚|隔《へだ》てた向こう側のもののように感じられる。まるで、ワタル一人がコップのなかにでも落としこまれたみたいだ。
「坊ず、おまえは家に帰った方がいい」ヤコムが薄笑《うすわら》いを浮かべてそう言った。「帰って、おまえの親に訊いてみろ。俺とおまえのどちらが正しいか尋ねてみろ。もちろん、おまえの親は、俺が聞違っていると答えるだろう。だがな、坊ず。それはまやかし[#「まやかし」に傍点]だ。真実の答ではない。親の本当の本音ではないのだ。おまえの親たちだって、俺と同じように、一度しかない人生に、大事な決断を迫《せま》られたならば、必ず、俺と同じ結論を出す。そうしておまえら子供は捨てられるのだ。いいじゃないか、もともと親にもらった命だ。何の代償《だいしょう》もなしに、無料《た だ 》でもらった命だ。ありがたいと思って、おとなしく捨てられるのが身のほどというものだ!」
ワタルの視界が暗転した。
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24 死の幻影
倒《たお》れてゆく。身体《からだ》が後ろにひっぱられる。棒立ちになったまま、仰向《あおむ 》けにひっくり返る。波打ち際《ぎわ》に立って、足の下の砂が波にさらわれてゆくのを感じる──あれとそっくりだ。倒れる、倒れる、倒れる──
だがワタルは倒れなかった。
自分がふたつに分かれるのを見た。
身体の前面から、まるで魂《たましい》が抜《ぬ》け出るみたいに、半透明《はんとうめい》のワタルがするりと分離《ぶんり 》した。それは沼《ぬま》の泥《どろ》の上に立つと、ちらりとワタルを振《ふ》り返り、親しみを込《こ》めてニコリと笑った。
ワタルは動けなかった。声を出すこともできない。痺《しび》れたみたいに、指一本動かすこともできない。
──さっきの、あの泥。
顔に跳《は》ねた湿《しめ》った泥には、沼の水が含《ふく》まれている。その毒が効いてきたのだ。だから痺れて動けないのだ。そして今ワタルが目の前にしているもう一人のワタルは、沼の水の毒が見せる幻覚《げんかく》だ。幻影《げんえい》だ。
その幻影は、ヤコムの方に足を踏《ふ》み出した。そしてするりと、勇者の剣《けん》を抜いた。
ヤコムが泥のなかに座ったまま、わずかにひるんだように身構えて、ワタルの幻影に向かって何かを叫《さけ》んだ。
ワタルの幻影が、勇者の剣を振りあげた。ヤコムが傷ついていない方の手で顔をかばう。そのあいだにも、必死で叫んでいる。
──いけない。僕はそんなことをするつもりじゃない。
幻影の手のなかで、勇者の剣の切っ先がぴかりと光る。
僕はヤコムを殺そうなんて思っていない父さんを殺そうと思ってなんかいない父さんを憎《にく》いなんて思っていないこれは父さんじゃないこれは僕じゃない──
勇者の剣が振りおろされる。
一撃《いちげき》、二撃。ヤコムが悲鳴をあげ、四つん這《ば》いになって逃《に》げ出す。その背中に刃《やいば》が刺《さ》さる。幻影のワタルから剣を取りあげようと、ヤコムは抵抗《ていこう》する。その掌《てのひら》を刃が斬《き》る。
今やヤコムは全身泥まみれで、顔には彼自身の血が飛び散っている。腰《こし》が抜けたみたいにわなわな震《ふる》えながら、それでも逃げ出そうとする。幻影のワタルが彼の襟首《えりくび》を後ろからつかまえる。そしてその首に──
──やめろ!
グサリと勇者の剣を突《つ》き立てた。血が噴《ふ》き出して、幻影のワタルのシャツに跳ね返る。
泥の上につっぷしたヤコムの手が、助けを請《こ》うように宙に差しのばされ、やがて、ばたりと落ちた。
ワタルの幻影は、ヤコムの亡骸《なきがら》から剣を引き抜いた。サッとはらうと、刃に残った血が跳ねた。ワタルの幻影は、無造作に剣をしまうと、一歩下がってヤコムを見おろし、おもむろにその身体を足で蹴《け》り飛ばした。
ヤコムの亡骸は、沼の浅瀬《あさせ 》に転がった。ワタルの幻影がもうひと蹴りすると、それはさらに深いところまで行った。ヤコムの衣服に沼の水が染《し》みこみ、その重さで、さらに深い方へと沈《しず》んでゆく。
黒い沼の水を分けて、カロンの背びれがぎらりと姿を現した。ワタルは依然《い ぜん》として身動きもできないまま、ただじっと、恐《おそ》ろしさに身体の芯《しん》まで凍《こお》りつきながら見つめるだけだ。
カロンはヤコムの亡骸の周りを円を描《えが》いて泳いでいる。ヤコムはどんどん沈んでゆく。そして、彼の背中とシャツの一部がぽこんと水の下に消えたとき、大鎌《おおがま》のようなカロンの尾びれがざばりと持ちあがり、水面を叩《たた》き、凶悪《きょうあく》な銀色の光をワタルの目の底に焼きつけて、水の下へと潜《もぐ》っていった。
気がつくと、幻影のワタルがこちらを見ていた。さっきと同じように、親しみのこもった微笑《ほほえ 》みを浮《う》かべている。
ワタルはかぶりを振りたかった。でも首が動かない。なんてことをするんだと叫びたかった。でも声が出ない。
笑顔《え がお》のままワタルに背を向けて、幻影のワタルは歩き出した。ワタルもそれについてゆく。足は動かないのに、歩けないのに、それなのについてゆく。まるでワタルの方が実体のない幽霊《ゆうれい》で、宙を漂《ただよ》っているみたいだ。
どこへ行く? 幻影のワタルは、しっかりとした足どりで進んでゆく。沼の泥を踏みしめ、頭をしゃんと上げて。
やがて、リリ・ヤンヌの粗末《そ まつ》な小屋が見えてきた。幻影のワタルはそちらに歩み寄る。ノックもせず、ためらいもなく、そのドアを開け放つ。そして小屋のなかに足を踏み入れた。
黒衣の女は、あの夜ワタルに勧《すす》めてくれた硬《かた》い椅子《い す 》に腰かけて、フードをかぶった頭を深く垂れ、両手で顔を覆《おお》っていた。
幻影のワタルが彼女のそばに立つと、リリ・ヤンヌは顔をあげた。泣き濡《ぬ》れていた。
「ああ」と、彼女は呻《うめ》いた。「あなたはあのヒトを殺してしまった」
ワタルの幻影は、微笑みながら勇者の剣を抜いた。
「わたしはあなたを助けてあげたのに、あなたはわたしの愛する男を殺してしまった」
リリ・ヤンヌは幻影のワタルに両手を差しのべ、すがりついた。
「どうして? どうしてわたしのヤコムを殺したの? あのヒトが、わたしたちが、どんな悪いことをしたというの? わたしたちはただ愛し合っていただけ。その愛をまっとうしようとしただけ。それなのに、どうしてあなたはあのヒトを、まるで罪人を裁くように斬り殺してしまったの? あのヒトを沼の水に沈めて、カロンの餌《えさ》にしたりしたの?」
幻影のワタルは剣を構えた。
「なぜなら、おまえたちが邪悪《じゃあく》だからだ」
笑顔のまま、ワタルの声でそう言って、それはリリ・ヤンヌの胸に剣を突き立てた。彼女は声もなく椅子から崩《くず》れ落ち、床《ゆか》に倒れて黒い布のかたまりのようになってしまった。
剣を鞘《さや》に収めると、幻影のワタルはワタルに近づいてきた。ワタルは逃げようとした。それとひとつになることはできない。こんなことをしたのは僕じゃない。これは僕じゃない。僕にはこんなことはできない。
しかし、幻影のワタルはあっさりとワタルのなかに戻《もど》ってきた。
とたんに、地面に両足がついた。居眠《い ねむ》りから覚めたみたいに首がガクンとなり、ワタルははっと身をこわばらせた。
リリ・ヤンヌの小屋の外に立っていた。
小屋のドアはきちんと閉じられている。ワタルは、全速力で走った後みたいに息を切らし、汗《あせ》びっしょりになっていた。これもまた、悪い夢から覚めたときと同じだった。
──そうだ、これは幻覚だ。
僕は幻《まぼろし》を見ていたんだ。あれはホントに起こった出来事じゃない。今、手をのばしてドアを開けたら、リリ・ヤンヌはあの椅子に座っていて、黒い毛糸で赤ちゃんのおくるみを編んでいるだろう。彼女は死んでない。僕は彼女を殺してなどいないのだから。
確かめるのは簡単だ。ドアをノックしてみればいい。ごめんくださいと声をかければ、きっと彼女が開けてくれる。さあ、やってみろ。やってみるんだ。
できない。そうしようと思っているわけじゃないのに、足が後ずさりしてゆく。できない、僕にはできない。
沼の畔《ほとり》に戻ってみよう。ジョゾを助けたあの場所に、ウダイをずっと待たせたままだ。あれにまたがって、ティアズヘヴンに帰ろう。診療《しんりょう》所の先生に診《み》てもらうんだ。沼の水の毒にあたってしまいました。解毒剤《げ どくざい》をください。そして冷汗に濡れたシャツを着替《き が 》えて、サラの顔を見に行くんだ──
リリ・ヤンヌの小屋のドアが、つと開いた。
ほんの十センチくらいだろう。その隙間《すきま 》から、小さな手が出た。腕《うで》が出た。そして頭がするりとのぞいた。
赤ん坊《ぼう》だった。
素《す》っ裸《ぱだか》で、手も足もまるまると太っている。絵本に見る天使のように整った顔をしていて、目は閉じられている。
それでも、どこかがおかしかった。何かがへんてこだった。普通《ふ つう》の赤ちゃんじゃない。肌《はだ》が──肌が灰色だ。石の色だ。そうだ、この赤ちゃんは石でできていた。
それはドアからすっかり姿を現すと、閉じた目をワタルの方に向けた。そうか、この子は盲目《もうもく》なのだとワタルは悟《さと》った。
赤ちゃんの口が開いて、ワタルに話しかけてきた。それは赤ん坊の声ではなかった。重々しく、かすれて割れた老人の声だった。
「おお、この血も涙もないヒト殺しめ」
ワタルは総毛立った。足ががくがくした。
「おまえが私の父と母を手にかけたが故《ゆえ》に、私はこの世に生を享《う》けることができなかった。この目は光を見ることあたわず、この口は母の乳房《ち ぶさ》を含むこともなく、この耳は子守歌《こ もりうた》を聴《き》くこともなく、この足で大地を踏みしめることもない」
ゆっくりと、ゆっくりとかぶりを振りながら、ワタルは後ずさりをした。
「僕じゃない」
わなわな震えるくちびるから、やっと声が出た。
「僕が殺したんじゃない」
「言い訳など空《むな》しい。おまえはヒト殺しだ」赤ちゃんがぷっくりした指でワタルをさした。「おまえの汚《よご》れた魂をどうしてくれよう。この悲しみをどうすればよい? 行き場を失った私の身体は石と化し、もはや涙《なみだ》さえも流れぬというのに」
ワタルは絶叫《ぜっきょう》した。「僕が殺したんじゃない!」
赤ちゃんの口が醜《みにく》く歪《ゆが》んだ。「このうえは、おまえの剣を取っておまえの身体を貫《つらぬ》き、その魂をえぐり出してくれよう。おまえの肉が腐《くさ》れ、おまえの骨が凍《い》てつく地で風にさらされ、うつろな音をたてるよう、百の夜と昼が過ぎるまで呪《のろ》ってやろう。死さえもおまえには安住の場を与《あた》えず、彷徨《さまよ 》うおまえの魂は、混沌《こんとん》の淵《ふち》で、久遠《く おん》の罪の業火《ごうか 》に焼かれるのだ!」
信じられないようなスピードで、赤ちゃんがはいはいのままワタルに飛びかかってきた。ワタルは声もなく、まろぶようにして逃げ出した。
走っても走っても、肩《かた》ごしに振り返ると、石の赤ん坊は風のような早さで追いかけてくる。その顔は今や安らかな赤子の表情とはほど遠い。こけつまろびつ、転んでは地面をひっかくようにして立ちあがり、追いつかれないかと振り返って一瞬《いっしゅん》盗《ぬす》み見るだけなのに、ワタルは赤ん坊の顔の上に無数のヒトを見た。ヤコムを、リリ・ヤンヌを、サタミを見た。父を見た。母を見た。理香子を見た。ヒトを憎み呪うすべてのヒトの顔を見た。ヒトを傷つけ足蹴《あしげ 》にするすべてのヒトの顔を見た。
そこにはもちろん、自分自身の幻影の顔も混じっていた。
走って走って、キョトンとしている自分のウダイのそばを通り過ぎた。沼の水を詰《つ》め込んだ瓶《びん》を載《の》せた、ヤコムの荷車のそばも通り過ぎた。走って走ってゆくうちに、沼の水の上にカロンが背びれを見せて、ワタルに並んで進んでいることに気がついた。
カロンは、ここに獲物《え もの》がいることを知っているのだ。ワタルが石の赤ん坊に倒されて、沼に投げ込まれるのを待っているのだ。恐怖《きょうふ》のあまり泣きながら、呼吸を求めてあえぎながら、ワタルは走って走って走り続けた。
やがて目の前に白い霧《きり》が漂い始めた。足元の地面も、沼の黒い水面も、霧に閉《と》ざされて見えなくなってしまった。もくもくと濃《こ》い霧のなかを、ワタルは泳ぐようにもがいて走り、何度目かに振り返ったとき、背後の赤ん坊も見えなくなっていることに気がついた。
──安心しちゃダメだ。逃げなくちゃ。
心は叱咤《しった 》しても、もう足が動かなかった。膝《ひざ》が折れ、がくりと前のめりになると、もうどうやっても立ちあがることができなかった。
──ダメだ、ダメだ、走るんだ。
怯《おび》えて縮みあがった魂が、助けを求めて泣き叫んでいる。身体の内のその声を聞きながら、ワタルは気を失った。
白い霧の底に、闇《やみ》が滑《すべ》り込んで来た。やがて闇はすべてを満たし、ワタルはそのなかに俯《うつぶ》せにつっぷして、精根尽き果てて眠るだけだった。
ケロロロ……ケロロロ……
どこからか、カエルの鳴き声が聞こえてくる。
ケロロロ……ワタル……ケロロロ……
どうしてこんな場所にカエルがいるんだ? 途切《と ぎ 》れた意識の底で、ワタルのなかの小さな賢者《けんじゃ》だけが目覚めていて、周囲に聞き耳を立てている。
ケロロロ……ワタル……聞こえる?
甘い声が語りかけてくる。何度も聞いたことのある声だ。知っているはずの声だ。
ケロロロ……気にすることないわ。あなたは間違《ま ちが》ってない。正しいことをしたのよ。あなたが本当にやるべきことをしたのよ。現世《うつしよ》にも幻界《ヴィジョン》≠ノも、まやかしの善意ばかりが満ちている。そんなものには何の価値もないわ。あなたは正しいことをしたのよ。
何かの命を絶つことが、正しい場合だってあるのよ。あなたは邪悪なヒトを殺しただけ。あれは正しいことだったのよ──
「違う!」ワタルは叫んだ。「僕は殺してない!」
ぜいぜいとあえぎながら、手で口元を押さえた。震えが止まらない。どこだ? ここはどこだ? あの石の赤ん坊は?
「君、大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
すぐ傍らから声がした。ワタルはまたぎゃっと叫んだ。やみくもに逃げ出そうとして、どこかから転がり落ちた。床の上に落ちた。
「おいおい、しっかりしてくれ。君は夢を見てたんだよ。もう目を覚ましたんだ。ここは安全だよ」
生真面目《き ま じ め 》そうな黒い瞳《ひとみ》が、ワタルの顔をのぞきこんでいた。
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25 北の凶星《まがぼし》
とても若い男のヒトだった。ちょっと見には、リリスの教会の司教がまとっていたのとよく似た灰色のローブを着ているけれど、これは袖《そで》が筒《つつ》になっていて、丈《たけ》も少し短く、動きやすそうな感じだ。
「どれどれ、熱はどうかな? ちょっと失敬」と言って、彼はワタルの額に手をあてた。そして、すぐに顔をほころばせた。
「ああ、良かった。さがったようだ。薬箱のなかに毒消しと熱冷ましが入っていて、本当に助かった。一時はどうなるかと思ったよ」
ちょうど六|畳《じょう》一間くらいの、小さな部屋のなかだった。ワタルは質素な木の寝台《しんだい》に横になっていた。上掛《うわが 》けも枕《まくら》も素朴《そ ぼく》な生成《き なり》の色だけれど、布団《ふ とん》はふかふかして温かい。
「ここは……? あなたは?」
若い男のヒトはにこにこ笑いながら、ちょっと頭をさげた。「僕の名前はシン・スンシ。ササヤの国営天文台付属研究所の研修生だ。どうぞよろしく」
「はあ……よろしく」ワタルはあわてた。「というか、僕はあなたに助けてもらったんですね? ありがとうございました」
「どういたしまして。おなかがすいたろう? たいしたものはないけれど、今、温かいスープをあげるからね」
パタパタと足音をたてて、彼は部屋の隅《すみ》の小さな台所のようなところへ行った。室内にはほかに、たくさんの書物が山積みになった机がひとつ。対《つい》になった椅子《い す 》がひとつ。書棚《しょだな》にもきっちりと書物。さらにそこから溢《あふ》れた書物が床《ゆか》にも積みあげられていて、実際のところ、シン・スンシが今行ったり来たりしている細いスペースが、唯一《ゆいいつ》、自由に移動できる道≠ノなっているようだった。
どうやらここも小屋のようだ。天井《てんじょう》は見あげるほどに高く、ロフトのような屋根裏がついている。そこに上るには、机のすぐ脇《わき》にある梯子《はしご 》を使うようである。
──ササヤの国営天文台?
ワタルは、いちばん最初にキ・キーマに教わったことを思い出した。
「スンシさん、もしかするとあなたは星読みの仕事をしているんですか?」
シン・スンシは「うん、そうだよ」と、気さくに答えた。「研修生だから、まだ見習いだけれどね。それから、僕のことはシンでいいよ。さあ、どうぞ」
彼が運んできてくれた盆《ぼん》には、美味《お い 》しそうな匂《にお》いのするスープがいっぱいに満たされた鉢《はち》が載《の》っていた。
「僕の指導教授のバクサン博士は、星読みは天文台に籠《こ》もっていてはいかん、あちこち旅をして、その土地に馴染《な じ 》み、その土地の季節を知り、その土地の作物を食べ、そして星を仰《あお》いでそのメッセージを読み取る──それこそが真のあるべき道だという主義なんだ」
だから研修生たちも、一年の大半を、南大陸のあちこちに散らばって過ごすのだそうだ。
「自分でこれと思う観測地を決めることもあるし、バクサン教授から指定された場所に行くこともある。それがとんでもないへんぴな場所だったりすることもあるから、その場合はまず観測小屋を建てるところから始めなきゃならなかったりして、苦労するんだ。それでなくても、バクサン教授は、それはそれは厳しい先生だから、ちょっとでも観測にあやふやなところがあると、すぐに落第させられてしまうし」
と言いつつも、シン・スンシは本当に楽しそうに語っている。ワタルはふと、彼の若々しい顔の上に、現世《うつしよ》の同級生の宮原祐太郎の顔を重ね合わせた。あいつはガリ勉の優等生じゃなくて、勉強することが好きなんだ──
出し抜《ぬ》けに、懐《なつ》かしさと、家に帰りたい、友達に会いたいという激しい感情が込《こ》みあげてきた。場違《ば ちが》いだとわかってはいるけれど、止められなかった。僕はこんなところで何をしてるんだろう? こんなことをしていて、何になるというんだろう──
「おや、ごめんよ」シン・スンシが心配そうに目をしばたたかせた。「なにしろまるまる三日も寝込《ね こ 》んでいたんだから、君はすっかり身体《からだ》が弱っているのに、僕ときたら勝手なおしゃべりをしてしまった」
「いえ、いえ、いいんです」ワタルはブンブンと首を振《ふ》った。こんな親切なヒトに、うっかり涙《なみだ》を見せてはいけない。甘えることになってしまうのだから。
「もう一年以上ここに独りで寵もっていて、たまにダルババ屋さんと二言三言話すことがあるぐらいなものだから、おしゃべりに飢《う》えているんだなぁ」シン・スンシは頭をかいた。「さ、冷めないうちにスープをお飲みよ」
ワタルはうなずいて、スープの鉢を両手で包み込んだ。
「僕、三日も寝てたんですか……」
「そうだよ。嘆《なげ》きの沼《ぬま》≠フ毒が全身に回っていて、ぐったりしていた」
「あの、僕はどこに?」
シン・スンシは人差し指を軽く振って、逆に問いかけた。「全然覚えてない?」
覚えていないわけじゃない──嘆きの沼≠ナ起こった出来事──今では夢のようにおぼろでつかみどころがなく、細かいところははっきりしないけれど、でも、あそこで何があったのか、自分が何をしたのかは、忘れていない。心にこびりついている。
「ティアズヘヴンという町は知ってる?」
「はい」
「君は嘆きの沼≠隔《へだ》てて、あの町のちょうど反対側の湿地《しっち》のなかに倒《たお》れていたんだ。僕たちが今こうしている観測小屋は、その湿地のはずれにあるんだけどね」
そのときようやく気づいたのだけれど、質素な格子柄《こうし がら》のカーテンがさがった窓から差し込む陽射《ひ ざ 》しは、すでに茜色《あかねいろ》もかなり薄《うす》れている。夕暮れなのだ。
「三日前の、今ぐらいの時刻だったかな。ウダイが一頭、小屋の裏の方でウロウロ迷っているのを見つけたんだ。背中に鞍《くら》を載せているし、湿地の泥除《どうよ 》け用の蹄覆《ひづめおお》いをつけていたから、あ、これは嘆きの沼≠ナ誰《だれ》か遭難《そうなん》したのかもしれないと思って行ってみた。そしたら、沼の出口に近いところで、君が倒れていたってわけさ」
ワタルはあらためてお礼を言った。そして、胃がせり上がってくるような恐怖《きょうふ》感を覚えながらも質問した。
「ほかにも誰か見かけませんでしたか? ヒトでなくても、荷車を引いたウダイとか」
シン・スンシはかぶりを振った。「いいや、見かけなかったよ。君はお連れのヒトと一緒《いっしょ》だったの?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
「そう。迷子《まいご 》のウダイは、僕には世話ができないし、餌《えさ》もないから、昨日ここに寄ったダルババ屋さんに頼《たの》んで、とりあえずいちばん近くのソン村に連れて行ってもらったんだ。あそこなら、家畜《か ちく》を扱《あつか》うことに慣れたヒトたちがいるからね。君が元気になったら、いつでも引き取りに行かれるよ」
ワタルはゆっくりとスープを口に運んだ。きっと美味しいはずだろうに、砂を噛《か》んでいるみたいに味がしなかった。
ヤコムのウダイはどこに行ったのだろう? 沼にいないということは、彼がまたあのウダイに乗り、沼の水を詰《つ》めた瓶《びん》を運んで、どこかに立ち去ったということではないのか。だったらヤコムは生きているのだ。ワタルの心に残る恐《おそ》ろしい光景は、ただの幻覚《げんかく》、沼の水の毒が見せた悪夢に過ぎないということになる。リリ・ヤンヌだって、ぴんぴんしていることだろう。石の赤ん坊《ぼう》だって、最初から存在しないことになる。
きっとそうだ。そうに違いない。そうであってほしい。僕には、ヤコムを殺す気なんかなかったんだもの。確かに彼には腹を立てたけれど、彼の顔、彼の言動が父さんのそれとあまりにそっくりだから、彼が父さんになり代わり、父さんの本音をぶつけてきたから、僕はとても恐ろしかったけれど、でも、それでも殺そうなんて思わなかった。そんなこと、僕にはできない。僕はそんな人間じゃない。
でも──幻界《ヴィジョン》≠訪《おとず》れてからこちら、ワタルは、自分でも信じられないようなことを、けっこうやりこなしてきたのではないか? 知恵《ち え 》と体力を尽《つ》くして怪物《モンスター》と闘《たたか》った。二度も処刑《しょけい》されそうになったけれど、二度とも泣いたり喚《わめ》いたりしなかった。必要とあらば、いつだって勇者の剣《けん》≠引き抜いて──
ふと、気がついた。いちばん最初におためしのどうくつ≠ナ試練を受け、四神将から四《よっ》つの力を授《さず》かったとき以来、ワタルは現世のワタルとは違う人間になったのではないか。それでこその旅人≠ネのだ。現世の三谷亘とは比べものにならないくらい強く、勇敢《ゆうかん》で、知恵の働く幻界のワタルは、もし本当にそうしようと決心したのならば、その手でヒトを殺《あや》めることもできるのかもしれない。
そしてそういうワタルこそ、三谷亘がずっと憧《あこが》れてきた勇者≠ナはないのか。だからこその勇者の剣≠ナはないのか。
ヤコムは悪《あ》しきヒトだった。リリ・ヤンヌは彼ほど悪くはないかもしれないが、それでも身勝手で我欲《が よく》の強いことでは同類だ。もしもあれが幻覚ではなく、本当に起こった出来事であったとしても、ワタルが悩《なや》み苦しんで自分を責める必要などないのじゃないか。
「君は、ハイランダーなんだね」
シン・スンシに問われて、ワタルは自分のファイアドラゴンの腕輪《うでわ 》を見た。シン・スンシもそれを見ていた。そして微笑《びしょう》した。
「どこのブランチから来たの?」
「ガサラです」
「そうか。ずいぶん遠くから来たんだね」
「僕みたいな子供がハイランダーなんて、おかしいですよね」
「そんなことはないさ。僕の生まれ故郷の村では、作物がつくれない冬のあいだには、大人たちはみんな出稼《で かせ》ぎに出てしまうのでね。老人と子供たちだけで、村を盗賊《とうぞく》や怪物たちから守らなくてはならなかった。だから、村のブランチ長は腰《こし》の曲がったお年寄りだったし、ハイランダーたちもみんな幼かった。それでも、立派に働いたものだよ」
シン・スンシは照れくさそうに、ぼさぼさ頭をかいてみせた。
「もっとも、僕ときたらてんで弱虫で、全然役に立たなかったんだけどね」
陽が落ちて、小屋のなかが薄暗くなってきた。シン・スンシは立ちあがり、机の上のランプを灯《とも》した。やわらかな金色の灯りが部屋を照らし、ちょっと薬くさいような油の匂いが漂った。
「でもシンさんは、こんなところで独りで観測をして、研究をしてる。充分《じゅうぶん》、勇敢じゃないですか」
「ああ、それは」と、シン・スンシは気弱そうに微笑した。「勇敢なんてこととは違うよ。それが星読みの仕事だから、というだけさ」
まだ何か言いたそうな表情で、でも急に元気がなくなって、彼は黙《だま》った。とても個人的な心配事を思い出した──という感じだ。
内気なヒトなんだな。あんまりいろいろ訊いたらいけないかもしれない、と思った。
──僕の、ファイアドラゴンの腕輪。
指先で、赤い革《かわ》に触《ふ》れてみる。
カッツは言っていた。もしもハイランダーが不正義に手を染めれば、たちまちのうちに、この腕輪に封《ふう》じられたファイアドラゴンの炎《ほのお》に焼き尽くされてしまうと。そう、嘆きの沼≠ナジョゾに出合って、まざまざと見せてもらったじゃないか、あの炎の息吹《い ぶき》のすさまじいまでの威力《いりょく》を。
でも、ワタルの腕輪はここにある。ということは、ワタルは何も間違ったことはしていないということだ。
やっぱり、あれは幻覚だったのではないか。
いや、本当に起こった出来事でも、不正義ではなかった──正義の裁きだったのではないか。
──ダメだ、考えてると、頭がヘンになっちゃう。
夢だ、夢だ、すべては夢だ。やっぱりそう思うことにしよう。だって、ヒト殺しに正義≠ヘないはずだもの。真の勇者がヒト殺しをするなんて、あってはならないことだもの。
「詮索《せんさく》するつもりはないんだけど、君はどこへ行く途中《とちゅう》だったの?」
シン・スンシに問われて、ワタルは目をあげた。
「嘆きの沼≠調べていたのかい?」
「い、いえ、そうじゃないです」とっさに嘘《うそ》をついてしまった。「実は僕、仲間とはぐれてしまって」
ワタルはリリスの郊外《こうがい》で起こった事件について、手早く説明した。話を聞くうちに、シン・スンシの聡明《そうめい》そうな目が大きく見開かれ、やがて暗く翳《かげ》っていった。
「そうか──リリスでねえ」彼は腕組みをして、がっくりと肩を落とした。「君が遭遇《そうぐう》したヒトたちが、必ずしも正しい老神教の信者であるとは言えないけれど、でも、やはりその種の活動が活発化しているんだな」
バクサン博士のおっしゃったとおりだと、小さく呟《つぶや》く。
「北の統一|帝国《ていこく》の影響《えいきょう》ですか?」
「もちろんそれもあるけれど、それ以上に、時期の問題なんだよ」
「時期?」
シン・スンシは暗い目をしたままうなずいた。「これはまだ公《おおやけ》にはできないことだけれど、それでも、そうだなぁ──みんながそれを知って、騒《さわ》ぎが始まるまで、せいぜいあと半月ぐらいあるかどうかだし、君はハイランダーなんだから、話してもいいよね。きっと君たちは、すごく忙《いそが》しくなって大変な思いをすることだろうから」
幻界≠ノは、千年ごとに、大きな危機が訪れる──という。
「僕らの住むこの世界は、無限に深い混沌《こんとん》のなかに在る。本来、混沌のなかではすべてが無に帰して、命あるものはなにものも存在することはできないのだけれど──」
大いなる光の境界≠ェ、混沌から守ってくれているのだというのだ。
「女神《め がみ》さまがこの世界を創世されたとき、混沌を統《す》べる闇の冥王《めいおう》と盟約を交《か》わした。千年に一度、幻界から冥王にヒト柱の犠牲《ぎ せい》を捧《ささ》げることにしたんだ。冥王はそのヒト柱の命のエネルギーを以《もっ》て大いなる白き光の境界≠つくる。それによって幻界は守られるというきまりをつくったんだよ」
ワタルは目を瞠《みは》った。「じゃ、さっきの時期の問題≠ニいうのは──」
「そうだよ。その時が近づいているんだ。ヒト柱の犠牲によって、大いなる光の境界≠ェ作り直される時がね」
「なぜわかるんです?」
「北の空に」と、シン・スンシは小屋の屋根の一角を指さした。「その時の到来《とうらい》を告げる凶星《まがぼし》が現れるからさ。そもそも、星読み≠ニいう職業ができたのは、その凶星をいち早く発見するためだったんだ」
「じゃ、今、シンさんには見えるんですか? その、北の凶星が」
シン・スンシは首をすくめた。「今はね。でも、自力では見つけられなかったよ。僕よりも優秀《ゆうしゅう》な先輩《せんぱい》は、ふた月も前に、アリキタの首都の大天文台から最初の発見報告を出していたけれど」
シン・スンシがここに小屋をつくって観測を始めたのは、バクサン博士の命令で、
「博士は古文書《こ もんじょ》をひもといて、前回の光の境界の作り直し≠フ時期に、ちょうどこのあたりで初期の観測報告が出されているという記録を見つけられた。そのときの座標もわかった。それで僕をここに派遣《は けん》されたんだ」
それで、一年以上も前からここに籠もっているのだというのだ。
「そんなに前から──」
「でも、僕ときたらやっと十日ほど前に、ひょっとしたらあれがそうじゃないかという兆《きざ》しを見つけることができたところなんだ。博士には叱《しか》られてしまったよ」
と、シン・スンシはまた小さくなった。
「だけど、そんな、ヒト柱だなんて」
あまりにも残酷《ざんこく》じゃないか。
「そのヒトは死ぬんでしょう?」
「いいや、死にはしない。だが、死よりももっと辛《つら》い、孤独《こ どく》な不死を得る」
次の作り直し≠フ時期がくるまで、冥王の臣下となり、世の全《すべ》ての生きるものの営みを目の下に見て、それらが混沌に侵《おか》されることがないように守り続ける──
「愛や友情や助け合いや、笑顔《え がお》や歌声を守るだけならば、その甲斐《か い 》もあるかもしれない。でもこの世には、憎《にく》しみも裏切りも妬《ねた》みも、奪《うば》い合いも殺し合いも存在する。生きるものは皆《みな》、そのどちらをも等しく生み出すものなのだからね」
一瞬《いっしゅん》、ヤコムとリリ・ヤンヌの顔が浮《う》かんで、ワタルはぞっと寒くなった。ああ、そのとおりだ。本当にそのとおりだ。
「自分の欲望のままにかけずり回り、他者を傷つけて憚《はばか》らない──そんなヒトたちの姿をつぶさに見たら、そんな連中のために、一人でこの世から切り離《はな》され、混沌と幻界の境界となり、ヒトとしての幸せや喜びから切り離されて、千年もの時を耐《た》え忍《しの》ばなければならないなんて、バカらしいと思うかもしれないじゃないか。でも、我慢《が まん》しなくてはならないんだ。すべてを受け入れ、すべてを許す。そうでなければ大いなる光の境界≠ヘ消失し、幻界は滅《ほろ》びてしまうのだから。ヒト柱となるものは、そんなにも重いものを背負わなくてはならないんだよ」
ワタルは考えた。確かに、シン・スンシが言うように、争いばかりを繰り返すヒトびとを守るのも辛かろう。バカバカしく感じることだってあるだろう。
でも、もっともっと辛いのは、ヒトびとの幸せを守ることの方じゃないのか。自分ひとりが犠牲になり、この笑顔を守っているのだ。自分がここで孤独《こ どく》に耐えているから、このヒトたちは笑っていられるのだ。だけど、そう思う一方で、どうしたって考えるじゃないか。どうしてこの自分なのだ? と。どうして他のヒトではなかったのだ? と。こんなの不公平じゃないか、と。その嘆きを胸の内に封じながら千年もの時を耐えるなんて、ワタルには、その方がずっとずっと我慢できないことだ。
「ヒト柱は──どうやって選ばれるんですか?」
シン・スンシは首を振った。「こればかりはわからない。古文書にも手がかりは記されていない。女神さまのご意志ひとつにかかっているからね。とても若いヒトが選ばれることもあれば、老人が召《め》されることもある」
「それじゃ、本当に確率の問題なんだ!」
「そうなんだよ」
北の凶星は、北の空に現れたばかりのときには、まばゆいばかりの白い光を放つ。だが、女神がいよいよヒト柱を選ぶ作業にとりかかった時から、その作業が終わって冥王がヒト柱を混沌の淵《ふち》に召《め》す時までのあいだは、まるで血のように赤く輝《かがや》くのだという。そして、境界の作り直しが終わると、凶星はまた白い光を取り戻し、夜明けと共に消えてゆくという。
「だから僕らは、北の凶星が赤く輝く時期のことを、柱の時≠ニ呼んでいるんだ。アンカ族の古語で綴《つづ》られた歴史書では、同じ意味でハルネラ≠ニいう言葉を使っているよ」
「ハルネラ──」女神が犠牲者を選ぶとき。
「女神さまは、なぜそんな仕組みをつくったんだろう? 残酷じゃないですか」
幻界を創世するほどの力のある神ならば、ヒト柱など使わずに、自力で混沌から守ってくれればいいじゃないか。それで済む話じゃないか。あまりに無責任じゃないか。
「やっぱり、そう思うかい?」シン・スンシは哀《かな》しげに目をしばしばさせた。
「当然ですよ!」
「そうだよね。そこが星読みたちのあいだでも、長年の問題とされているんだ。女神さまは我らに何を求めておられるのか? なぜかような試練を与《あた》えられるのか? 女神さまは我らを徒《いたずら》に苦しめ、弄《もてあそ》んでおられるだけなのではないか?」
神が、その創造物を弄ぶ。気まぐれに、面白《おもしろ》がって?
「そして、そこがまた老神教信者たちの論点でもあるのさ。彼らは主張する──女神さまは幻界のヒトびとを愛してなどいない、愛しているならば、たとえ千年に一度であっても、このような酷《ひど》い仕打ちをするはずがないと」
女神が幻界の生きものたちを愛していないのは、そもそも幻界が女神の創造物ではなく、老神が創《つく》ったものをかすめ盗《と》っただけであるからだ、と。
「だから、ハルネラ≠ェ訪れるたびに、老神教信者たちは勢いづくんだ。そして彼らは祈《いの》る。今度こそ老神が我らの願いを聞き届け、再び幻界に降臨し、悪しき女神さまを追い払《はら》ってくれることをね。それこそが、彼らの信じる世直し≠ネのだから」
そんなふうに教えてもらうと、ワタルでさえ混乱しそうになる。過激なアンカ族至上主義と、理不尽《り ふ じん》なヒト柱の要求に対する抵抗《ていこう》は、女神を否定する≠ニいうことでは、根をひとつにしているわけだ。老神教に惹《ひ》かれるヒトたちが増えるのも、無理はないような気がしてくるのが恐ろしい。
「シンさん。今、僕に話してくれたような事柄は、幻界では広く知られているんですか? それとも、星読みのヒトたちのあいだだけの、限られた知識なんですか?」
シン・スンシは疲《つか》れたように目のあいだをこすった。「今までは、限られた知識だった」
「ってことは──」
「北の凶星の出現が予想される時期が来て、星読みたちの総本山であるササヤの国営天文台では、何度となく頂上会議を開いた。それから連合政府の議会とも話し合った。そしてついに結論が出たそうだ。昨日のダルババ屋さんは、その決定書を持ってきてくれたんだ」
シン・スンシは椅子から立ちあがると、机のいちばん上の引き出しを開けて、巻物をひとつ取り出した。
「これがその決定書だ。連合政府は、このようなハルネラ≠フ知識を、南大陸のすべてのヒトたちに向けておふれを出して、広く知らしめることに決めたそうだ」
ああ、だからこそ、シン・スンシはさっき言ったのだ──ハイランダーたちは忙しくなって、大変なことになると。
「幻界には、何千万人ものヒトびとがいる」
シン・スンシは、窓際《まどぎわ》に立って夜空を仰いだ。
「ヒト柱として選ばれるのは、そのなかのたった一人だ。だから、ハルネラ≠ノついて知らしめたにしても、それほど大きな騒ぎにはならないかもしれないという意見もある。自分一人が選び出される確率は、すごく低いのだからね」
「でも、もしも選ばれてしまったら、そのヒトにとっては、自分は自分一人だけだ!」ワタルは思わず大声をだした。「そこには確率なんか関係ないよ! シンさん、もしかしたらあなたが選ばれるかもしれない。そのときのことを考えてごらんよ!」
「そうだよね……」
窓の外から、夜鳴き鳥のホウ、ホウという声が小さく聞こえてくる。静かな宵《よい》だ。でも、今この静けさのなかでも、この空のどこかに、北の凶星は現れつつあるのだ。
「それなら君は、ハルネラ≠ノついて、ヒトびとには知らせない方がいいと思うかい? 何も知らなければ、怯《おび》えることも苦しむこともないからね。ある日ある時、どこかの町や村から、あるヒトがふっと姿を消して、どこにもいなくなってしまう──そのヒトの家族や身近なヒトびとは、心配して探し回り、ずっと案じ続けるだろうけれど、それも、この広大な幻界のなかでは本当にささいな出来事だ。それでいいと、君は思うかい?」
ワタルは返事ができなかった。
「バクサン博士は」と、シン・スンシは夜空を仰いだまま続けた。「どんなに辛いことであっても、悪いことであっても、それが幻界のヒトびとすべてに関《かか》わる知識であるならば、伏《ふ》せておいてはいけないとおっしゃっている。ササヤの国営天文台の頂上会議では、バクサン先生に賛成する博士たちと、無用の知は無用の苦しみを生むだけだ≠ニ主張する反対派の博士たちとが、まっぷたつに分かれて、何日も何日も、大論争をしたそうなんだよ。反対派の博士のなかには、ハルネラ≠ノついて研究すること自体を禁止するべきだと言い張るヒトもいたそうだ。知らなければ、それは存在しないことになるのだから≠ニ。君はそれでいいと思うかい?」
問いかけておいて、ワタルの返事を待たず、シン・スンシは窓際で頭を抱《かか》えた。
「僕は怖《こわ》いよ」と、小声で言った。「こんなこと、知りたくなかった。ハルネラ≠ノついて詳しいことがわかればわかるほど、怖くて怖くてたまらない。バクサン博士に教わらなきゃよかった、星読みなんかにならなきゃよかったって、後悔《こうかい》してさえいるんだよ」
シン・スンシがこうして話さずにいられないのも、その恐怖の故《ゆえ》だろう。ただヒト恋《こい》しくて、おしゃべりに飢えていただけじゃないのだ。それでもワタルがハイランダーでなかったならば、彼もぐっと我慢したに違いない。子供でも、行き倒れでも、ファイアドラゴンの腕輪を見たから、シン・スンシは自分の知っていることをしゃべらずにはいられなかったのだ。
「心配なのは自分のことだけじゃない。両親のことも兄弟のことも、許嫁《いいなずけ》のことも、親しい学友たちのことも、みんなみんな同じように気にかかる。僕の知っている誰かがヒト柱に選ばれたらどうしよう──そう思うと、夜も眠《ねむ》れなくなってしまうんだ」
当然だ。誰だって同じようになる──
いや、そうでもないかもしれないと、ワタルは頭の隅で思った。たとえばヤコムは? サタミがヒト柱に選ばれたら、彼女を厄介払《やっかいばら》いできたと、むしろ喜ぶのじゃないのか。ヒトはそういうものじゃないのか。身近なヒトたちの身を案じるのは、そのヒトたちを好いている場合だけじゃないのか。
ワタルだってそうだ。自分はヒト柱になるなんてごめんだ。だけどたとえば石岡だったら? あいつならオーケイじゃないのか? あいつがミツルの招喚《しょうかん》した魔物に襲われて姿を消したときにも、そんなに心配しなかったじゃないか。
「ごめんよ、僕ときたら取り乱して」
目のあたりをこすりながら、シン・スンシは振り向いた。
「これだから弱虫だって言うんだ」
「シンさんは弱虫なんかじゃないです」
みんな同じだと、ワタルは思った。
「君はもう休んだ方がいいよ。疲れたんじゃないかい? ホントにすまなかったね」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。ねえシンさん、この梯子の上にあるのが、観測装置ですよね?」
シン・スンシはうなずいた。
「シンさんは、あれで北の凶星を観察しているんですよね?」
もしできたら、僕にも見せてもらえませんかと、ワタルは頼んだ。
「知識のない僕には見えないかしら」
「どうかな。やってみようか。北の凶星が昇ってくるのは、真夜中過ぎのことだ。その時刻になったら、起こしてあげるよ」
そして約束どおり、夜も更《ふ》けてから、シン・スンシはワタルに観測装置をのぞかせてくれた。それはまさしく精度のいい天体望遠鏡で、無数の星で彩《いろど》られた夜空は、無垢《む く 》な魂《たましい》そのもののように美しかったが、熱心に教えてもらっても、ワタルには、そのなかから北の凶星を見分けることができなかった。
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26 サーカワの郷《さと》へ
翌朝、質素だけれど美味《お い 》しい朝食をご馳走《ち そう》になったところで、ワタルは発《た》つことにした。
「まだ休んでいてもいいんだよ。身体《からだ》は大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
「すっかり気分が良くなりました。ありがとう」
それでなくても、キ・キーマとミーナのことが気にかかる。彼らはどうしているだろう? トリアンカ魔《ま》病院《びょういん》に囚《とら》われてはいなかったのだから、どこかへ無事に逃《に》げ出したに違《ちが》いないけれど、今どこにいるだろう。ハルネラ≠ェ近いと知った以上は、なおのこと、一刻も早く再会したい。彼らの笑顔《え がお》が恋《こい》しかった。
「お仲間のなかにダルババ屋の水人族がいるならば」と、シン・スンシは言った。「ひょっとしたら、サーカワの郷《さと》に戻《もど》っているかもしれないよ。とにかく彼らは郷を拠点《きょてん》にして南大陸じゅうを駆《か》け回っているのだし、たとえお仲間がサーカワに居なくても、一族ですぐに居所を調べてくれるだろう」
サーカワの郷もガサラも、どちらもここからは同じくらい遠いというが、
「ソン村には、しょっちゅうカルラ族が取引に来ている。彼らは誇《ほこ》り高いだけに、ハイランダーが困っているから手を貸してほしいと頼《たの》めば、まず断ったりしないはずだ。カルラ族なら、サーカワまでは二日ほどで連れて行ってくれるだろう。君なら、身体も軽いしね」
そうだな、それだったら急いだ方がいいなと、シン・スンシは急にソワソワした。
「まもなく連邦《れんぽう》議会が、ハルネラ≠ノついてのおふれを運んでもらうために、南大陸じゅうのカルラ族を呼び集めるだろう。その前に出発した方がいいよ」
ソン村までは、湿地《しっち》と藪《やぶ》のなかの道もないようなところを抜《ぬ》けていかねばならなかったが、生活用品を買うために、シン・スンシが行き来しているからだろう、足で踏《ふ》みしめた道ができていて、迷うことはなかった。
ソン村は、これまで幻界《ヴィジョン》≠ナワタルが通り抜けてきた町や村のなかでは、いちばん小さい集落だった。草葺《くさぶ 》き屋根の粗末《そ まつ》な家が十戸ぐらい、藪を切り開いた狭《せま》い土地に肩《かた》を寄せ合っている。だが、なだらかに傾斜《けいしゃ》した山の斜面につくられた家畜《か ちく》牧場はその何倍も広く、細かく仕切られた囲いのなかには、ダルババやウダイばかりか、これまでワタルが見たこともないような珍《めずら》しい動物たちがたくさんいた。元気に鳴き声をあげたり、角を突《つ》き合わせたり、草をはんだり居眠《い ねむ》りしたりしている。
ソン村の長《おさ》は、耳の長い優《やさ》しい犬の顔をしていて、ふさふさの眉毛《まゆげ 》の下に隠《かく》れた小さな目も、温かな光を宿していた。ワタルのウダイは念入りにブラシをかけてもらったのか、毛並みがつやつやになっていた。
「カルラ族なら、ちょうど来てますぞ」
彼らはソン村に、季節変わりで抜けた飾《かざ》り羽根と物々|交換《こうかん》で、モルという小動物を仕入れに来るのだそうだ。モルはネズミよりももっと小さな生きもので、カルラ族の羽根の下に巣くう寄生虫をきれいに食べてくれる「掃除《そうじ 》屋さん」なのだという。
「このように幼いハイランダーでも、ハイランダーならばハイランダーだ」
ソン村長に引きあわされたカルラ族は、真っ赤な羽根も派手《は で 》な頭飾りも、尊大な口調までも、いつかねじオオカミの不帰の砂漠《さ ばく》で助けてくれたカルラ族とそっくりだった。余計な心配だけど、彼らはどうやってお互《たが》いを見分けているんだろうと、ワタルはちょっと思った。
「そしてハイランダーに頼まれたとなれば、カルラ族たるもの断ってはカルラ族がすたるというものだ。そうだな、村長|殿《どの》?」
「はい、まさに」長耳の長はニコニコと応じた。「こちらはカルラ族カックウ派のトウゴウトウさんとおっしゃる方じゃ。カックウ派ではいちばん速い翼《つばさ》をお持ちじゃから、サーカワまではアッという間だ」
「それは正確な表現ではないな、村長殿」トウゴウトウはそっくりかえって胸の羽毛《う もう》を震《ふる》わせた。「私はカックウ派だけでなく、ラッカ派でもいちばん速い翼を持っておる。しかしそれでも、アッ! という間にサーカワの郷へ飛ぶことはできんぞ。まあ、我らカルラ族の歴史を、始祖の誕生から語り始めて二代目|酋長《しゅうちょう》のガラ峠戦役大撃破《とうげせんえきだいげきは》あたりまで語るくらいの時は要《い》るだろう!」
トウゴウトウが出発の支度《し たく》をしているあいだに、村長がそっと、ワタルに耳栓《みみせん》をくれた。
「モルの毛を玉に丸めたもので、これさえ耳に詰《つ》めておけば、咆哮《ほうこう》するドラゴンの足元でさえも安眠《あんみん》できるほどじゃ。トウゴウトウさんは確かに速いが、講釈《こうしゃく》も長い。付き合っていては大変ですからな」
「わかりました」ワタルは笑った。
「あとは何を言われても生返事をしていればよろしい。ときどき、おお、それは素晴《す ば 》らしい!≠ニ、感嘆《かんたん》するのを忘れずに」
ねじオオカミの砂漠のときと同じように、トウゴウトウの鉤爪《かぎづめ》につかまえられて空を飛ぶのかと思っていたら、縄《なわ》を編んでつくった座席みたいなものが、ちゃんとあるのだった。トウゴウトウは、身体からそれをぶらさげるのである。
「何か、僕だけ楽するみたいでスミマセン」
「ハイランダーたるもの、簡単に謝ってはいかん。そも謝罪というものは、真に謝罪するべき罪状明らかなる時に、正しい手続きを以《もっ》てなすべきもので、然《しか》るに我がカルラ族の始祖はタロ戦役の講和の折にも──」
離陸《り りく》前から語りが始まった。集まってきたソン村のヒトたちが見物するなか、ワタルは空へ飛び立った。
ソン村の家々の屋根が、踵《かかと》のすぐ下をかすめ過ぎる。子供たちが手を振《ふ》っている。ワタルは手を振り返し、周囲を見回した。幸い抜けるような好天で、一面の青空には切れっぱしほどの雲もない。
トウゴウトウは一気に上昇《じょうしょう》し、ワタルはジェットコースターに乗ったみたいな気分で、思わず歓声《かんせい》をあげた。
山が、丘が、野原が、小川が森が、美しい幻界の自然が、ワタルの目の下、視界の届く限り、いっぱいに広がっている。方向の見当をつけて身をよじると、左手後ろに嘆《なげ》きの沼《ぬま》≠フ黒光りする水面が見えた。湿地に漂《ただよ》う霧《きり》も見えた。すると沼のさらに後方に、ほんの一瞬《いっしゅん》ちらりとよぎったあの町は、きっとティアズヘヴンだ。
空を飛ぶと寒いからと、村長が貸してくれた綿入れみたいな上着が有り難《がた》かった。ホントに上空の空気は冷たく、しかも風を切って進むからなおさら凍《こご》える。
見知らぬ山の中腹を飛びすぎ、村をひとつ飛び越《こ》し、川を越える。村長の話では、トウゴウトウさんは張り切っているから、きっと宿には泊《と》まらず、たまに小休止をとるだけで、真《ま》っ直《す》ぐサーカワへ飛ぶだろう、それでも今夜|遅《おそ》くまでかかるから、居眠りするなら座席から落ちないようにということだった。
──これじゃ眠ってなんかいられないよ。
怖いからではない。景色に目を奪われて、心が躍《おど》ってしまうからだ。
最初の小休止で降りたのは、アリキタとボグの国境の関所だった。街道《かいどう》沿いに、行商人たちが集まっている茶屋があり、あたりにはバクワの木がたくさんはえていた。通関手続きの順番を待っているあいだに、食べすぎるとおなかをこわすこの赤い実の、小さめのを選んでひとつだけ食べた。
「地図は頭に入っているか? 我々が今どこを飛んでいるかわかっているか?」翼を休めながらトウゴウトウが尋《たず》ねた。
「それが、全然」ワタルは正直に言った。「でも、すごく気持ちがいいです!」
「ハイランダーたるもの、観光気分で喜んでいてはいかん」と、トウゴウトウはそっくりかえった。「我らは風に乗り、ソン村からまっすぐ西に飛んできた。サーカワを目指すのだから、ここからは北へ針路を取ることになる。サーカワはボグの海沿いにある郷だからな。それでいいのだな?」
ワタルは了承《りょうしょう》し、お願いした。
「ところでここから飛び立つと、北に頭を向ける前に、上昇気流に乗るカンケイで、ほんの一時だが、今まででいちばん高いところまで到達《とうたつ》する。一瞬だが、アンドア台地の一部が見えるかもしれぬ。一年じゅう、霧と雲で覆《おお》われ、道など一筋もなく、足で登っては、けっして見ることかなわぬ未踏《み とう》の台地だ」
誇らしげに、トウゴウトウは仰向《あおむ 》いて謳《うた》いあげた。
「その片鱗《へんりん》でも見物することができるのは、ハイランダーとしては見聞を広める良い機会ではないか? おお、全能の女神《め がみ》さまの恩寵《おんちょう》、我らカルラ族の剛《たけ》き翼よ!」
アンドア台地。デラ・ルベシ特別自治州のあるところ。そこもまた、老神教の信者たちが集まっているであろう秘密の土地。
「おお、素晴らしい!」
ワタルは本気で言ったのである。トウゴウトウも上機嫌《じょうきげん》だ。通関手続きが終わると、早々に出発した。
トウゴウトウはとても雄弁《ゆうべん》であるだけでなく、口にすることにはまったく嘘《うそ》がなかった。今度の離陸は凄《すご》かった。気合いの入った急上昇で、ワタルは危《あや》うく振り落とされてしまうところだった。
螺旋《ら せん》を描《えが》いて空に駆《か》け昇《のぼ》ってゆく。耳栓をしていても、トウゴウトウの真紅《しんく 》の翼が空《くう》を切る音が、身体全体に響《ひび》いてくる。昇って、昇って、白い霧を突き抜け雲を破り、突然《とつぜん》身体が座席ごとフワリと持ちあがったところで、ワタルは自分たちがこれまででいちばん高い空の上にいることを知った。
それはもう、飛行機の窓から下をのぞくのと変わりがなかった。関所の建物がマッチ箱のように見える。こんもりとした森はブロッコリーみたいだ。足の下に広がるパノラマは、ワタルを魅了《みりょう》した。一面の緑と大地の色。そして、遠く遥《はる》かに散らばる町。点在する湖沼《こしょう》はまるで手鏡。絹糸のような川の流れ。
トウゴウトウが何か言ったので、ワタルは耳栓を外した。
「ハイランダーよ、あれがアンドア台地だ!」
くちばしの先を南の方向へよじって、トウゴウトウは叫《さけ》んでいた。
「おお、今は雲が切れている! 彼《か》の地の頂《いただ》きに雪が積もっているのが見えよう!」
ワタルは見た。まるで純白の塔《とう》のように立ちあがる雲の中央に、ひときわ高く突き出た灰色の台地を。その側面を彩《いろど》る無数の白く繊細《せんさい》な輝きは、きっと氷河であるに違いない。
台地の頂きは、確かにうっすらと白い衣《ころも》をかぶっていた。雲の切れ目はごく狭く、しかも絶え間なく揺《ゆ》れ動いている。だからアンドア台地の頂を目にすることができたのは、ほんの一瞬のことだった。それでもその刹那《せつな 》に、ワタルはそこに、光る建物の尖塔《せんとう》を見た。ひとつではない。いくつもいくつも立ち並び、雲の切れ間を通って差し込む陽《ひ》を受けて、キラキラとワタルの目を射抜いた。ガラスか、水晶《すいしょう》か。それとも氷でできているのか。雲の結晶をはじいて虹色《にじいろ》に輝く。
デラ・ルベシ特別自治州は、本当にあんなところにあるというのか。
「北への気流に乗るぞ! しっかりとつかまっておれ!」
トウゴウトウがひと声合図して、大きく翼をはためかせた。とたんに、ワタルの足元の景色が流れた。強い気流を受けたトウゴウトウは、まるで弾丸《だんがん》のように空を切って進み始めた。
アンドア台地と雲の塔が、ぐんぐん遠くなってゆく。ワタルはそれでも、できるだけ長いこと、飛び去る台地に向かって身をよじっていた。冷たいのを通り越し、痛いほどの風が頬《ほお》を叩《たた》いても、雲の塔が見えなくなるまで、どうしても目を離《はな》すことができなかった。
あれは──あれはまるで──
神々の住まいだ。
心に、自分でも意外な考えが湧《わ》いてきた。
あれが、運命の塔ではないのか。女神はあそこにいるのではないのか。幻界のヒトびとは誰も訪れたことがないという運命の塔は、実はアンドア台地にこそ存在するのではないのか。デラ・ルベシ特別自治州のヒトびとが、幻界の下界のヒトびとと交流しないのは、実は彼らが古くからの老神教の信者集団などではなく、女神を擁《よう》し守るヒトびとだからなのではないか。
自分は今、それを垣間《かいま 》見《み》たのではないか。あれこそが、目的の地ではないのか。
感動に打たれて、ワタルはかなり長いあいだぼうっとしていた。耳栓などなくても、身体の内の血と心が騒《さわ》ぐ音以外、何も聞こえはしなかった。
時おり小休止をとりながらも、トウゴウトウは疲れた様子さえ見せず、北へ、北へと飛んでいった。陽が傾《かたむ》き、宵闇《よいやみ》が迫《せま》るころになって、遥か前方に海が見えてきた。
そのころにはずいぶんと下降していたので、ワタルは仰向いて、さほど大きな声も出さずに、トウゴウトウに話しかけることができた。
「あの海が、南大陸の周りを囲んでいる海ですか?」
「そのとおりだ!」トウゴウトウは答えた。
「じゃ、あの海の向こうが北大陸なんですね。トウゴウトウさんは、北大陸まで飛んだことはありますか?」
「おお、とんでもない!」トウゴウトウが身を震わせたので、ワタルはちょっと揺れた。あわてて座席につかまった。
「ハイランダーよ、おまえは知らないのか? 南北の大陸を隔《へだ》てる海の中心には、針の霧≠ェ立ちこめているのだ!」
「針の霧?」
「そうだ。おまえが今日目にした南大陸の中心、アンドア台地を包んでいる雲や霧とはまったく違う、我々が馴染《な じ 》んだものとはまったく違う、恐ろしく禍々《まがまが》しい死の霧だ!」
その霧の粒《つぶ》のひとつひとつが、さながら鋭利《えいり 》な短剣のように尖《とが》っていて、そこを飛ぶものは皆、血を流して命を落とすという。
「いくら我らカルラ族の翼が強くとも、無数の針で刺《さ》されていては、いくらも飛び続けることはできぬ。あんなところを飛んでゆけるのは、屈強《くっきょう》なウロコの鎧《よろい》で身を固めたドラゴン族の戦士ぐらいなものだろう! 実際、この世界でも数少ないドラゴン族は、俗世《ぞくせ 》を避《さ》けて、針の霧のなかを漂《ただよ》う海の小島に暮らしていると言われている。だから、我らもめったに彼らと出会うことはないのだ」
ワタルはズボンのポケットに手を入れて、そこに大事にしまいこんであるジョゾの赤いウロコの一枚に触《ふ》れた。
では、ワタルがジョゾに出会ったのは、本当に運の良い、貴重な体験だったのだ。
「商人たちの風船《かざぶね》は、女神さまの恩寵の風を受けて北と南を行き来するが、それでも時に、思いもかけぬほど低いところまで針の霧≠ェ降りてきて、立ち往生することがある。針の霧≠ェ立ち去るまでは、船員たちも皆、帆《ほ》をたたみ舵《かじ》を離れて船室に隠れていなければ、たちまちのうちに血を流してもだえ死ぬことになるからな!」
やがてすっぽりと夜が訪《おとず》れ、星々がまたたき始めた。地上は闇に沈《しず》んでしまった。ワタルは夜風に震え、綿入れみたいな上着の襟《えり》をかきあわせた。
それからどれくらい飛んだろう。さすがに疲《つか》れて座席にもたれていた。が、そのうちに、左前方の地上に、その星々にもまがうほどたくさんの光の粒が、小さな円を描いて敷《し》き詰められているのを見つけて、目をパチパチさせた。幻界の夜景だ。きれいだなぁ!
「あれが、ボグの首都ランカである!」
ミーナが住んでいた町だ。
「サーカワもこの近くだ。少し北東の方向になるが、もうそろそろ見えて来るだろう。商都ランカは夜中でも明かりを絶やさぬから、暗闇のなかでもああしてよく見えるが、サーカワの水人たちは夜目がきくのでな、無駄な灯《あか》りは灯《とも》さん。だから空からは見つけにくいだろう」
ランカの夜景を左手に、トウゴウトウは翼を東へと切り返した。さらに下降する。頬を撫《な》でる風に潮の匂《にお》いが混じってきた。
うとうとしかけたワタルに、トウゴウトウの依然《い ぜん》衰《おとろ》えぬ元気な声が呼びかけてきた。
「ハイランダーよ、サーカワの郷だ!」
座席から身を乗り出しても、最初は暗闇しか見えなかった。やがて、足元を浜辺《はまべ 》が通過した。夜目にも白く、波が砕《くだ》けている。トウゴウトウは一度海の上に出て、そこでぐるりと旋回すると、スピードを落としてなだらかに下降してゆく。
そう、町だ。草で葺いた屋根が見える。建物の梁《はり》が見える。ところどころに吊《つる》された看板みたいなものも見える。ダルババたちが囲いのなかにいる。
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27 再会
水人たちが路上にいる。ダルババの世話をしている。建物には壁《かべ》らしい壁がなく、簾《すだれ》のようなものがさがっているだけだ。それを持ちあげて、そこからも水人たちが顔を出す。海辺にも同じような建物が立ち並び、ベランダは海の上に突《つ》き出していて、そこでは水人たちがテーブルを囲んでいる。
「おーい、カルラ族が来たぞ!」
下で水人の一人が叫《さけ》んでいる。
「お客を乗せてるぞう!」
わらわらと集まって出てきた水人たちが、トウゴウトウに向かって手を振《ふ》り、
「西の浜辺《はまべ 》に降りろやーい!」と、声を張りあげて指示を飛ばした。
「承知した!」
トウゴウトウは返事をして、白い波頭《なみがしら》が砕《くだ》ける磯《いそ》を飛び越《こ》し、ごつごつした岩を越えて、白い砂がなだらかに広がり、波が静かにうち寄せる浜辺へと下降していった。
「ではハイランダーよ、足がついたら座席から離《はな》れるのだ! ぐずぐずしていると、私がおまえの上に降りてしまうぞ!」
ワタルの顔に、波飛沫《なみしぶき》がちょっとかかった。砂浜に足が一瞬《いっしゅん》こすれた。それからふわりと両足が着き、ワタルはタイミングよくジャンプして、ころりと横に転がった。そのすぐ脇《わき》に、トウゴウトウが鮮《あざ》やかに着地した。
ザザザ、ザザザ──夜の海の波が、子守歌《こ もりうた》のように優《やさ》しい音をたてている。
「おお、速かったな!」と、トウゴウトウは翼《つばさ》をたたみながら感嘆《かんたん》の声をあげた。「良い旅であった!」
「うん、本当にありがとう」
磯《いそ》の方からこちらに向かって、水人族たちが大勢|駆《か》け寄ってくる。その群のなかから、ひときわ大きな身体《からだ》の水人がひとり飛び出し、飛んだり跳《は》ねたりしながら、ちぎれるほどに手を振り始めた。
「おーい、おーい!」
声が耳に届く前に、ワタルにもわかった。砂を踏《ふ》んで駆け出す。ずっと座ったきりだったから、足が痺《しび》れたみたいになって、うまく駆けられない。前のめりになったり手をついたりしながら、それでも力いっぱいに声を張りあげて呼びかけた。
「キ・キーマ!」
「ワタル! ワタルだな?」
駆け寄ってくるキ・キーマに、ワタルはジャンプして飛びついた。大男の水人は苦もなくワタルを受け止めると、両腕《りょううで》を差しあげて、頭の上まで持ちあげて、ぐるぐる回った。
「本当にワタルだ! 夢じゃないぞ! 俺の幸運の旅人だ! やっぱり無事だった! ゼッタイに大丈夫《だいじょうぶ》だって信じてたんだ!」
キ・キーマの肩《かた》の上から、ワタルは駆け寄ってくるもうひとつの懐《なつ》かしい顔を見た。
「ミーナ!」
話したいこと、聞きたいことは、お互《たが》いに山ほどあった。
キ・キーマの住まいは、水辺に土台柱を張り出した小ぎれいな小屋で、屋根は大きな草の葉で葺《ふ》いてあった。シュロに似たその葉は、敷物《しきもの》にも上掛《うわが 》けにも、食べ物の器《うつわ》としても使われていた。さらには、蒸《む》し暑い日中には団扇《うちわ》のかわりにもなった。
三人は波の音の聞こえるその小屋で、あのトリアンカ魔《ま》病院《びょういん》ではぐれて以来の出来事を語り合った。一方では、キ・キーマの近所のヒトたちや、親しい仲間たちが盛《さか》んに出入りしては、よく熟《う》れてとろけるように甘い果物《くだもの》や、一人では持ちあげられないほど大きな肉の丸焼きや、香《こう》ばしく焼いた魚や、木をくりぬいて作った器に満たした、ほんのりと甘く美味《お い 》しい水などを運んできてくれた。
お互いの話を突き合わせてみると、キ・キーマとミーナは、ワタルが連れ去られたあと、そう時間をおかずに意識を取り戻《もど》したようだった。
「俺は身体がでかいから、あの矢の矢尻《や じり》にちょっぴりつけてあった程度の痺れ薬じゃ、長くは効かなかったんだな」
「わたしは、矢がかすっただけだったし」
それでもミーナは、歩き回れるようになったあとも、しばらくのあいだは舌やくちびるが麻痺《ま ひ 》したようになっていたそうである。
「目が覚めたら、ワタルが消えていたんで、ミーナが泣きだしてさ」
キ・キーマが冷やかすように言うと、ミーナは真っ赤になった。
「大げさなこと言わないでよ」
「え? ホントのことじゃねえか」
「泣いたりなんかしなかったわよ。ただ、心配だったから」
「僕も二人のことが心配だったよ。早く会いたかった」
えへへと、三人で照れ笑いをした。
「それで俺たち、スラの森で迷っちまってね。あの木の魔力のせいだろうけど、一生《いっしょう》懸命《けんめい》歩いているのに、気がつくと同じ場所をグルグル回っているだけなんだ。病院の建物が見えているのに、どうやっても近づくことができなかったんだ」
「そのうちに頭がフラフラしてきて、キ・キーマが二人いるみたいに見えたり、歌声みたいなものが聞こえてきたり」
「ミーナの顔が、こーんなにひん曲がって見えてきたりするしさ」
キ・キーマは、大きな両手で自分の顔をひっぱり、滑稽《こっけい》なふうに歪《ゆが》めてみせた。ワタルは大笑いをしたけれど、心の底ではゾッと寒くなっていた。矢を射かけてきた連中が、ワタルを連れ去るときに吐《は》いた台詞《せりふ》を覚えていたからだ。
──放っておいても、森が始末してくれる。
「本当に危ないところだったよ。あのままだったら、俺もミーナもスラの森の魔力にあてられて、疲《つか》れ果てて動けなくなって、あのまま死んじまうところだった」
だが、足を引きずりながら森のなかを彷徨《さまよ 》っているうちに、突然《とつぜん》大きな竜巻《たつまき》が来て、状況《じょうきょう》はいっぺんに変わったのだ。
「あの竜巻が、森を端《はし》から蹴散《け ち 》らしてくれた。こいつは天の助けだって思ったね。だから、吹《ふ》き飛ばされないように、大慌《おおあわ》てで地面に穴を掘《ほ》ってさ、隠《かく》れたんだ」キ・キーマは鉤爪《かぎづめ》のついた手を誇《ほこ》らしげに振ってみせた。
「それで、はっと気がついたら、森じゅうの木がみんなへし折られて、葉っぱも散って、夜空に星がいっぱい見えたの。見晴らしが開けたので、病院の建物も全部見えるようになっていたけれど、さっきまで見ていたのとは違って、まるっきりの廃墟《はいきょ》になっていたんでビックリしちゃった」
もちろんそれは、ミツルの呼んだあの竜巻である。
「ミーナと一緒《いっしょ》に大急ぎで病院の廃墟へ行ってみたんだけど、やっぱり竜巻でめちゃくちゃになっててさ、怪我《け が 》して動けなくなってるヒトも大勢いたよ。で、連中はみんな、俺たちを見ると逃《に》げようとするんだ。なんだかやたら怖《こわ》がっててさ。だからしょうがない、なんか偉《えら》そうなローブを着た奴《やつ》を一人|捕《つか》まえてよ」
「凄《すご》かったのよぉ、キ・キーマったら、そのヒトの襟首《えりくび》をつかんで持ちあげちゃったんだから」
おまえらは何者だ、オレたちに毒矢を射かけたのもおまえたちか、おまえたち、男の子を一人ここにさらってこなかったか。
そのローブのヒトが、しどろもどろに説明をしたので、やっとこさ、二人はワタルがあの病院にいたことを知った。病院にたむろしていた連中が、過激な老神教徒たちであることも知った。
「男の子はどこへ行ったって訊《き》いたら、竜巻に巻かれて、高く高く飛ばされていったっていうじゃないか。俺はもう目の前が真っ暗になったよ」
とりあえずサーカワの郷《さと》に戻り、水人族たちの手を借りてワタルを探そう。今はそれしか手がないと決断するまで、二人とも本当にがっくりと悲しくて、辛《つら》かった。でも、一瞬たりとも、ワタルの無事を疑ったことはなかったと言った。
「女神《め がみ》さまの加護を受けた旅人≠ネんだからな。そう簡単に死んだりするもんか!」
ワタルはしみじみと嬉《うれ》しくて、心が温かくなって、目に涙《なみだ》がにじんだ。照れくさくて、手でごしごしこすってごまかしたけど、本当は手放しで「ありがとう」と泣きたいくらいに心が震《ふる》えていた。
「それにしても、ワタルのお友達は、すごい魔法使いになったのね」
ミーナが、きかん気の強い男の子みたいに凛々《り り 》しい顔をすると、しっぽの先をひょこひょこ動かしながら言った。
「竜巻を呼ぶなんて──風の大魔法だわ。最高位の魔導士でなければ唱えることのできない呪文《じゅもん》よ」
「やっぱり旅人≠セってことさ。知恵《ち え 》と勇気があるってことさ。ワタルだって同じだよ」
キ・キーマが自分のことのように誇らしげに言った。ワタルは微笑《ほほえ 》んだけれど、頭の隅《すみ》にある出来事がよぎって、その微笑みがこわばってしまった。
嘆《なげ》きの沼《ぬま》で起こった出来事については、二人には話していない。そこだけは話せなくて、省《はぶ》いてしまったのだ。だって、どうして言えよう? 僕はヒトを殺したんだよ。二人も殺したんだよ。石の赤ん坊《ぼう》に指さされ、血も涙もないヒト殺しだと罵《ののし》られ、追いかけられて、あわてて逃げ出したんだ──
いや、あれは幻覚《げんかく》だ。嘆きの沼の瘴気《しょうき》にあてられて、悪い夢を見ただけだ。真実じゃない。本当に起こった出来事じゃない。ティアズヘヴンに戻って確かめれば、すぐにわかることだ。リリ・ヤンヌは、今も嘆きの沼の畔《ほとり》で黒い産着《うぶぎ 》を編んでいることだろう。サタミは悲しみにうち沈《しず》み、サラは父親の帰りを待ち続け、しかしヤコムは妻と子を捨てて、暗黒の水を売って稼《かせ》いだ金で、リリ・ヤンヌと新しい人生を築くのだと、頑《かたく》なに思いながら荷車を走らせていることだろう。
「ワタル、どうしたんだい?」
呼びかけられて、ワタルははっと我に返った。「ううん、何でもない」
「とんだ道草をくっちまったけど、やっと三人|揃《そろ》ったんだし、二番目の宝玉を探さなくちゃな。でも、あわてることもないぜ。海を眺《なが》めて、しばらくゆっくりしてもいい。ここにいても、手がかりは集められるかもしれないし」
「大陸をまたにかける水人族の目と耳を頼《たよ》って、ね」と、ミーナが笑った。
「えへん、そうさ! ワタル、サーカワの郷はどうだい? 割といいところだろ?」
「うん。海もきれいだし、食べ物も水も美味しいし、みんな親切で、明るくて活気があって」
「だろう? サーカワの郷の美しさと、海の恵《めぐ》みは、女神さまからの賜《たまわ》り物だ。だからオレたちは、一生懸命に働いて、お返しするんだよ。働きものってことについちゃ、水人族は、南大陸で一番だ」と、キ・キーマは胸を張った。
「キ・キーマのお国《くに》自慢《じ まん》は聞き飽《あ》きてたけど、でも、自慢するだけのことはあるわね」
明るく笑う二人の顔を見ていると、本当に楽しくて幸せだったけれど、ワタルは、この平和で活気に満ちたサーカワの郷にも、もうまもなく、笑い事ではない知らせが飛び込んでくることを思い出して、切なくなった。
連邦政府議会は、もうカルラ族に召集《しょうしゅう》をかけたろうか。それとも、すでにもう国じゅうのあらゆる町、集落に向かって、あの赤い翼たちが飛び立った後だろうか。ここにはいつごろ舞《ま》い降りてくるだろう。
幻界《ヴィジョン》≠守る大いなる光の境界≠作り直すために、犠牲《ぎ せい》となるヒト柱。星読みのシン・スンシから話を聞いた時も、充分《じゅうぶん》に恐《おそ》ろしく、理不尽《り ふ じん》な話だと思った。でも、大切な仲間たちの顔を間近に見ている今は、恐怖《きょうふ》を通り越して怒《いか》りさえも感じる。もしもキ・キーマが、ミーナがヒト柱に選ばれたら? そんなこと、ワタルにはけっして許せない。黙《だま》って見ているわけにはいかない。たとえ、本人たちが進んでその立場を受け入れると言ったとしても、ワタルには認められない。
いずれわかることとしても、今はまだ、二人にはこのことを言いたくなかった。口を閉じて、寄せては返す波の音に耳を傾《かたむ》けた。何か尋《たず》ねられたら、輝《かがや》く海が眩《まぶ》しくて、しかめっ面《つら》みたいになっちゃうんだよと言っておこう──
道はただひとつだ。ワタルはあらためて心に誓《ちか》った。のんびりしてはいられない。できる限り早く運命の塔《とう》にたどり着くのだ。そして女神に会って、ヒト柱などという残酷《ざんこく》なしきたりを止めてもらうように頼《たの》むのだ。混沌《こんとん》を統《す》べる闇《やみ》の冥王《めいおう》との契約《けいやく》だと? 契約なら、結び直せばいい。更改《こうかい》すればいいのだ。間違《ま ちが》っていることは、あらためなければならない。一生懸命に頼めば、心の底から訴《うった》えれば、きっと女神だって聞き届けてくださるだろう。そうでなかったら、神様なんかじゃない。
その晩は、サーカワの郷じゅうの水人たちが長老の住まいに集まり、ワタルのための宴会《えんかい》を開いてくれた。またまたたくさんのご馳走《ち そう》が並べられ、お酒の壺《つぼ》もいくつも運び込まれ、いくら広い長老の住まいでも、町のヒトたち全部は入りきらず、外の階段や地面にまで大勢座り込んで、それはもうクラクラするほど賑《にぎ》やかだった。もっとも、そのクラクラは、水人族たちの好む強いお酒のせいもあったかもしれない。ワタルには飲ませちゃいけないと、キ・キーマが止めてくれたのだけれど、水人族の小父《お じ 》さんたち小母《お ば 》さんたちが、一|杯《ぱい》ぐらいならいいじゃないかと、みんなして勧《すす》めるのだ。
サーカワの長老は、キ・キーマの話だと「四百二十歳」ということだけれど、現世《うつしよ》のトカゲに似た硬《かた》いウロコと、つるつるした水人族の肌《はだ》からは、年齢《ねんれい》を推《お》し量るのが難しい。ただ、とても威厳《い げん》のある顔つきだ。
集まったヒトびとが、ワタルの旅の様子とか、現世から初めて幻界に来たときに受けた試練のこととか、旅人≠ナあるのはどんな気持ちかとか、様々な問いを投げて話を聞きたがるなかで、長老は座の中央に静かに座って、口元にかすかな笑みを浮《う》かべているだけで、何も言わなかった。その穏《おだ》やかな視線に、ワタルは何か、試《ため》されているように、測られているように感じないでもなかった。そして、長老の心にあるその問いかけが、どういう内容のものであるにしろ、この温かい歓待《かんたい》の場では、けっして投げかけられることはないだろうということもわかった。
キ・キーマも質問|攻《ぜ》めにあって、ガサラ郊外《こうがい》の地下|洞窟《どうくつ》での冒険《ぼうけん》や、リリスの町の賑わいや、あの町の秘密や、スラの森で襲《おそ》われたことなどを、身振り手振りで説明し、ミーナにも言葉を足してもらって、大忙《おおいそが》しだ。ミーナは請《こ》われて一曲歌い、そのはずむような明るい歌声に、宴席はまた大いに盛りあがった。歌が終わると拍手《はくしゅ》が湧《わ》き、もう一曲、もう一曲! と望まれてまた一曲。ミーナは、エアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシン団の花形の面目躍如《めんもくやくじょ》というところで、水人たちもよく知っているという歌を披露《ひ ろう》して、これにはみんな輪をかけて大喜び! 手を打ち足を踏み鳴らして踊《おど》りながら、一緒になって歌い始めた。ワタルもその輪に混じってしまい、飛んだり跳ねたりする水人たちと手をつなぎあっていると、さらにお酒が回ってきて、本当に頭がクラクラ、歌が終わるころには床《ゆか》にのびてしまいそうになった。
「大丈夫かい? ワタル」
「あんまり大丈夫じゃないみたい」
ガサラの町で、お酒の樽《たる》のそばに潜《ひそ》んでいて酔《よ》っぱらっちゃったときと同じだ。
「ちょっと浜辺を散歩してくる。風にあたれば醒《さ》めるかも」
手すりにつかまってよろよろと小屋の前の階段を降りて、賑やかに酒を酌《く》み交《か》わしている外の水人たちのあいだを抜け、ワタルは白い砂浜に出た。一人になると、とたんにほっと気が抜《ぬ》けて、すとんとお尻をついてしまった。
さやさやと海風が頬《ほお》を撫《な》でる。夜空は少しも暗くなく、天のテーブルいっぱいに広げた深い藍色《あいいろ》の布のように見える。きらめく星ぼしは、そこに鏤《ちりば》められた金銀の砂だ。身体の両脇に手をつくと、砂の感触《かんしょく》が心地《ここち 》よい。うち寄せては引いてゆく波が奏《かな》でる調べは、子守歌のように優しい。
この美しい幻界。ワタルは両手両足を広げて、大の字に寝転《ね ころ》がった。座って眺《なが》めていたときよりも、こうして仰《あお》ぎ見る方が、夜空がぐっと近く見える。天界が、手をのばせば届くところにあるようだ。
また、ミーナの歌声が聞こえてきた。
今度は緩《ゆる》い曲調のバラードだ。甘やかなミーナの声が、哀切《あいせつ》な震《ふる》えを帯びて、波の囁《ささや》きに同調する。
愛《いと》しいヒトよ 遠く離れて
あなたは今 どの空の下
歌詞が聞き取れる。水人たちも、今度は静かに聴《き》き入っているのだろう。
わたしの歌を あなたへの想《おも》いを
どの風に乗せれば 届くのでしょう
風よ 教えておくれ
あのヒトは今どこにいるの
風よ 教えておくれ
あのヒトが見あげる星を
この耳を白い貝にして
夜明けまで 待っているから
二人を隔《へだ》てる距離《きょり 》を嘆く恋《こい》の歌だ。それともこの歌の主は、片思いなのだろうか。半ば目をつぶってうとうとしながら、ミーナの声に心を撫でてもらえる幸せ──
「ワタル」
すぐ傍《かたわ》らで、甘い声がした。
「ワタルってば、寝ているの?」
ワタルは目を開いた。これはミーナではない。ミーナの歌声はまだ続いている。別の甘い声だ。
ワタルはがばりと起きあがった。背中についた砂がさらさらと落ちる。周囲を見回しても、誰《だれ》も見あたらない。白い砂は、それ自体が光をもっているようにほの白く光っていて、遠くまでよく見通せるのに。
「あたしのこと、探してるの? だったらやめて。どうせ見つけられやしないわ」甘い声は続けて言った。「あたし、今はまだあなたに、この姿を見られたくないの。だから隠れているのよ」
この声は、そう、現世にいるときからお馴染《な じ 》みの、あの女の子の声じゃないか。ワタルの妖精《ようせい》≠セ。
「君は──スラの森の、あの魔病院のとき以来だね」
閉じこめられている部屋で、呼びかけてきてくれた。だが、甘い声はちょっと笑った。
「アラ、その後にも話したわよ。忘れちゃったの? 嘆きの沼で倒れているところを、あの気弱そうな星読みに助けてもらったでしょ? あのとき、眠《ねむ》っているあなたの夢のなかで、あたしが話しかけたの覚えてない?」
ぼんやりと曇《くも》った頭にむち打って、ワタルは思い出そうとしてみた。何だかはっきりしなかった。夢──気がついたらシン・スンシが心配そうにのぞきこんでいた──
「冷たいのね。まあ、いいわ。こうしてまた会えたから」甘い声は機嫌《き げん》が良かった。
「ごめんね。僕、あのときは嘆きの沼の毒にやられちゃってたから、幻覚を見たりして」
「まあ、あれは幻覚なんかじゃないわよ。ホントにあったことよ」
ワタルはぎくりとした。背中の骨がポキリと鳴るほどに、身体がこわばった。え? 今なんて言った? 幻覚じゃないって?
「あ、あ、あの、君──」
「いいのよ、あんなことはもうどうでもいいの。それよりワタル、あなたこれからどうするつもり?」
「どうするって?」
「女神さまに会って、ヒト柱をやめてもらうように頼むつもりなんでしょ? そんなこと、本当にできると思ってるの?」
ワタルは目を瞠《みは》り、砂の上で座り直した。「君、どうしてそんなことがわかるの?」
「あなたの考えぐらい、お見通しよ」うふんと鼻を鳴らすように笑って、甘い声は続けた。「だから心配してるの。あなたねえ、それがどういうことかわかってるの? 自分が何をしようとしてるのか、自覚してる?」
「自覚って?」
「女神さまに会って、ヒト柱をやめてくれって頼むのは、そりゃあなたの自由よ。女神さまは、自力で道を探し出し、運命の塔にたどり着いた旅人≠フ願いをかなえる。それもまた古くからの約束なんだから。だけどねワタル、忘れてない? 女神さまがかなえてくれる旅人≠フ願いは、たったひとつだけなのよ。ふたつも三《みっ》つも聞いてくれるわけじゃないのよ。ヒト柱をやめてくださいって願っちゃったら、あなたはもう、自分の運命を変えることはできないのよ? そしたら、幻界に来た意味がなくなっちゃうじゃない」
頬を撫で髪《かみ》を揺《ゆ》らす穏やかな海風が、急に冷たくなった。音をたてて、ひゅうっと体温が下がるのを感じた。
そうだ──女神への願いは、一度にひとつだけ。
「どうやら、目が覚めたみたいね」満足そうに喉《のど》を鳴らして、甘い声は言った。「あなたって、ホントにお人好《ひとよ 》しなんだから。幻界の連中たちのことなんか、どうでもいいじゃないの。あなたはいずれ、現世に帰る。そしたら、こっちのヒトたちとは、二度と会うこともないのよ。誰がヒト柱に選ばれようが、あなたには関係のないことじゃないの」
ワタルは両腕で身体を抱《だ》いた。何てことだ──そうだ、そうなのだ。幻界の旅に心を捉《とら》われて、ここに来た目的を忘れかけていた。
母さんのことを忘れかけていた。
「だ、だけ、ど、僕は」気がついたら、急《せ》き込むあまりにつっかえながら、ワタルは言っていた。「ヒト柱を認めたり、できないよ」
「自分には関係ないことなのに?」
「関係なくない!」と、ワタルは叫んだ。
「僕はこっちに来て、いろんなことを経験した。怖い目にも遭《あ》ったし、嫌《いや》なヒトもいたけど、親切なヒトも優しいヒトも大勢いたよ。幻界で起こることは、けっして僕にも無関係じゃないんだ!」
「だけど、お母さんのことはもっと無関係じゃないはずでしょ?」意地悪く尖《とが》った口調で、甘い声は迫《せま》った。「ふたつにひとつを選ばなくちゃならないのよ。どうするの? お母さんにはガマンしてもらうの? 今の運命を受け入れて、辛抱《しんぼう》してくださいって言うの?」
「それは──」
「二度と会いもしないヒトたちと、二度と訪《おとず》れることもない幻界のために、あなたのお母さんを犠牲にするっていうの? お母さんはそれを喜ぶかしら? それでいいって言うかしら? そういうワタルこそわたしの子だって、満足するかしら?」
ワタルは両手で耳を押さえた。「そんなこと──そんなことは聞きたくない」
「いいえ、あなたは聞かなくちゃいけない」甘い声は、まるでワタルの苦しみを楽しんでいるかのように、一段とはずんで明るくなった。「幻界を選ぶか、お母さんを選ぶか、どちらかなのよ。もしもあなたが幻界を選んで、お母さんにごめんなさいって、しおしおと頭《こうべ》を垂れて現世へ帰ってごらんなさい。お母さんは言うでしょうよ。そういう優しい子に育ててよかった、自分のことよりも、他人のことを思いやる子になってくれて嬉しいって。でもね、そんなの口先だけよ。そんなの嘘《うそ》なのよ。お母さんは心のなかでは──」
「やめろ!」
ワタルの叫びを遮《さえぎ》って、甘い声は言い募《つの》る。「心のなかではがっかりするわ。ああなんて冷たい子だろう、苦労して育ててきたのに、わたしの幸せなど考えてもくれない、格好をつけてヒトに褒《ほ》められたいばっかりに、周りにはいい顔をしてみせるけれど、母の苦しみを和《やわ》らげようとはしてくれない、そうしようと思えば簡単にできたのに、そのチャンスをなげうってしまったって」
「やめろよ! 母さんはそんな人じゃない! 絶対に違う!」
「どうして違うと言えるの? なぜそんなふうに信じられるの? あなたはお父さんに裏切られたばかりじゃないの。あなたのお父さんだって、お母さんとあなたを捨てるような人じゃないって、ずっと信じてきたのでしょう? それなのに、あっさりと、ばっさりと裏切られた。見捨てられたじゃないの。あなたはもう要《い》らないと、置き去りにされたのじゃないの。人はそういうものなのよ。お母さんだって、本音はお父さんと同じだわ」
もう波の囁きは聞こえない。耳のなかいっぱいに、甘い声の詰問《きつもん》が響《ひび》きわたり、脳に突き刺《さ》さる。
「元をただせば、あなただって同じよ」
甘い声は、ニヤニヤ笑いの色を帯びた。
「僕も同じ……?」
「そうよ。あなたは運命を変えたくて、この幻界にやってきた。お父さんが愛人を捨て、愛人のおなかにいる赤ん坊も捨てて、あなたとお母さんの元へ戻ってくるように」
そうだ、そのとおりだ。不当な仕打ちを受けたから、それを正すために来たんだ。
「でもそうしたら、愛人はどうなるの? おなかの赤ん坊はどうなるの? 今度は彼女たちが捨てられる。それとも、もっと前から運命を修正して、彼女がお父さんと会わないようにし向けるの? でも、それでも、お父さんの気持ちは変えられないわよ。本当に好きな人と一緒になれなかったという、お父さんの心の空洞は埋《う》められないわよ。お父さんにその空洞を抱《かか》えることを強《し》いて、あなたとお母さんだけは幸せになるの? 幸せに、なれるというの?」
身体じゅうの力が、気力が、すべて浜辺の砂に吸い込まれてしまって、ワタルは立ちあがることはおろか、頭を持ちあげることさえできなかった。うなだれて、甘い声の発する言葉に、なぶられているしかない。
「身勝手なのは、どちらも同じよ」
きっぱりと、甘い声は言い捨てた。
「それじゃ君は──僕に、どうしろって言うんだ?」
弱々しく、ワタルは問いかけた。
「そう。わたしはその問いを待っていたの。あなたがそれを尋ねてくれるのを、待っていたの」
女神を倒《たお》しなさい──と、甘い声は言った。「女神さまを滅《ほろ》ぼすのよ。そしてあなたが幻界の王になればいい。ラウ導師があなたにどんなデタラメを聞かせたか知らない。でも、あたしは知っている。現世と幻界は、ひとつの盾《たて》の裏表。鏡の内と外。幻界を統べるものは、現世をも動かせる。そもそも、そうでなかったら、どうして女神さまが現世のヒトの運命を左右することができるでしょう」
ひとつの盾の裏表。鏡の内と外。
「あなたは女神さまに請い願い、その膝《ひざ》にすがって、自分のちっぽけな運命を変えてくれと願うより、幻界と現世を手中に収めることを望みなさい。みんながあなたにひれ伏《ふ》して、なんでも言うことをきく。お父さんに、心に空洞など持つなと命じれば、彼はそれに従う。お母さんに、あなたを愛せと命じれば、彼女はそれに従う。お父さんの愛人に、おまえなどこの世には必要ないと言えば、彼女は消える。おなかの赤ん坊には、おまえは最初から存在しなかったと言えば、存在しなくなる。世界がそのとおりになるのだから、あなたは何をしようと、罪の意識を欠片《かけら》も感じなくて済む。そのとき、あなたは悟《さと》るのよ」
世界は、あなたの意のままに存在するということを。
「なんという至福でしょう。なんと美しい世界の形かしら。ねえ、ワタル?」
しばし、空白のような沈黙《ちんもく》。
ワタルはゆっくりとかぶりを振った。
「僕は嫌だ」と、囁いた。「そんなの嫌だ」今度は囁きではなく、しっかりした声を出すことができた。
キ・キーマを、ミーナを好きなのは、彼らが彼らだからだ。ワタルの言うとおりになってくれるからじゃない。彼らの親切や、優しさが心に染みたから、大事な仲間になったんだ。
トウゴウトウが僕を運び、空を飛んでくれたとき、「ハイランダーの頼みをむげに断るわけにはいかぬ」と言った。カッツが一人でミーナの病室を張り込んだ僕を助けに来てくれたのは、彼女にはハイランダーとしての使命があるからだ。みんなが僕の言うとおりになるから、だから好きなわけじゃない。それを美しいだなんて、僕には思えない。
「君は間違ってる。そんなことを唆《そそのか》す、君の正体は何だ?」
波の囁き。また沈黙。
「あなたにはガッカリしたわ」
甘い声は、低く応じた。
「まあ、いいわ。お人好しの勇者さん。まだ考え直す時間はある。いずれ、あなたは必ず、あたしの忠告に従うことでしょう」
「絶対に嫌だ!」
「怒鳴《ど な 》ったって無駄《む だ 》よ。いいわ、とっておきのことを教えてあげる」
あなたは騙《だま》されているのよ、最初から。甘い声は、そう言った。
「あの若い星読みは、大いなる白き光の境界≠フ作り直しのことも、そのために捧《ささ》げられるヒト柱のことも、すべてを知っているわけじゃないのよ。大事なことを知らなかった。まあ、彼だけじゃない、幻界のヒトたちは、ほとんどこのことを知らないのだけれどね」
「それをあんたは知ってるっていうのか? 何を知ってるというんだ?」
「ヒト柱は、一人ではないの」甘い声は、ゆっくりと言った。「幻界から一人。そして、現世から来た旅人≠ェ一人。大いなる光の境界≠作り直すためには、二人のヒトが必要なのよ。だからそれぞれのヒトは、半身《はんしん》≠ニ呼ばれるの」
自分の耳で聞いたことが、よく理解できなかった。
「さっきも言ったでしょう? 幻界と現世はひとつの盾の裏表。だからこそ大いなる光の境界≠ヘ、幻界の側からのみ、作り直すことはできないのよ。現世からも犠牲を捧げなければならないの」
十年に一度、要御扉《かなめのみとびら》が開くとき、現世から旅人≠ェ一人、幻界を訪れる。自らの運命を変えたいと望み、強い意志を持った者。
「いつもはそれだけのことなの。一人の旅人≠受け入れ、その者の声を女神さまに届けることで、幻界と現世は、いわば血を通わせているのだから。でも、千年に一度、大いなる光の境界≠作り直す時には、事情が違ってくる。旅人≠ェ二人、幻界にやって来る。そして、二人のうち一人は、半身≠ニしてその身を捧げることになるの。そうしなければ、現世も幻界も、混沌のなかに泡《あわ》と消えてしまうのだから」
あなたは騙されているのよ。甘い声はもう一度、念を押すように繰り返した。
「ラウ導師は、こんなこと、欠片《かけら》も教えてはくれなかったでしょう? あなたとあなたのお友達、ミツルとかいう名前だったかしら。二人のうち一人は、半身≠ノ選ばれることになっているなんて、ちらりとも話してくれなかったでしょう? 知っているくせに、あのおじいさんは黙っていたのよ。あなたが怖がって、それなら現世に還《かえ》ると言い出すと困るから。もちろん、ミツルだって、こんなことは知らないはずよ。もっとも、あの子はあなたよりずいぶんと賢《かしこ》いようだから、ひょっとしたら今ごろは、何か気づいているかもしれないけれど」
こぼれるような愛らしい笑い声が聞こえた。こんなときに、誰が笑っているんだ?
「ごめんなさいね、笑ったりして」甘い声は謝った。「だけど、あなたのぽかんとした顔が、あんまり可笑《お か 》しくて。ねえ、そんなに怖がることはないじゃないの。まだ、あなたが半身≠セと決まったわけじゃないわ。でも、そうねえ、ミツルはあなたより強い旅人≠セし、かなり以前に出発しているから、あなたより先に運命の塔にたどり着いて、さっさと願いをかなえてもらって、現世に帰ってしまうかもしれないわね。そうしたら、二引く一は一。残ったあなたが、半身≠ノなるしかないわよねえ、気の毒に」
そんなの嘘だという言葉が、口元まで込みあげてきた。きっと嘘だ。嘘に決まってる。こいつは僕をからかっているんだ。
「信じていないようね」
ああ、また見抜かれている!
「いいわ、信じないのも自由よ。そのうち抜き差しならなくなって、あたしの言っていることが真実だとわかるでしょう。でも、そのときにはもう手遅《て おく》れだったりして」
うふふと笑った。
「さあ、わたしは去るわ。また会いましょう」
でも、忠告を忘れないで。
「女神を倒しなさい。どう転んでも、あなたには、ほかに道がないのよ」
[#改ページ]
28 サーカワの長老
ワタルは、キ・キーマの小屋に帰っても、ほとんど眠《ねむ》ることができなかった。明け方近くになって、キ・キーマがお酒のせいでふらふらしながら戻《もど》ってきて、床《ゆか》の上に大の字に倒《たお》れるなりいびきをかいて寝始《ね はじ》めたときだけは、彼に悟《さと》られないよう眠ったふりをしていたけれど、あとはずっと両目を開けて、じっと天井《てんじょう》を仰《あお》いでいた。頭のなかでは、あの甘い声が語りかけてきた言葉が、何度も何度も逆回しされては再生されていた。
明け方になり、空が白んでくると、波の音も少しずつはっきりと聞こえるようになってきた。海も夜は眠り、朝になると起きるんだ──できればこの心地《ここち 》よい波の音と朝の微風《そよかぜ》で、昨夜の浜辺《はまべ 》の出来事など、記憶《き おく》のなかから洗い出してしまいたい。
小屋の外の砂地を、水人たちの誰《だれ》かがパタパタと走ってゆく。
「おい、おい、お使いだよ!」
潜《ひそ》めた声だが、誰かが誰かを起こしているのか、呼びかけている。会話が聞こえる。
「ホラ、東の空だ。ありゃ、カルラ族じゃないか?」
「本当だ。あの金色の吹《ふ》き流しは──連合政府からの使者の印じゃねえか!」
ついに来たんだ。ワタルはサラサラとした木の葉のしとねの上で身を起こした。小屋の出入口の簾《すだれ》を持ちあげて外をのぞくと、数人の水人たちが、東の空を指して寄り集まっていた。屋根に登っているヒトもいる。
ようやく青みを帯びてきた夜明けの空に、ぽつりと赤く、朝と夜の境界ぎりぎりまで輝《かがや》く強い星のように浮《う》かんでいるものがあった。目を凝《こ》らすと、それは羽ばたいていた。おそらく尾《お》に結びつけてあるのだろう、夜明けの光を受けて金色に輝く長い吹き流しが、優雅《ゆうが 》に空にたなびいていた。
ワタルは、小山のように横になっているキ・キーマを、そっと揺《ゆ》り起こした。
「ううーん、ほじゃ? なんだワタル、もう起きたのか」
キ・キーマは寝ぼけていた。ワタルは小さくて真剣《しんけん》な顔で彼を見た。早く起きて顔を洗った方がいいよ、と言おうとしたのに、すぐには言葉が出てこなかった。そんなワタルの様子に、キ・キーマはようやくむっくりと起きあがった。
「おやおや、どうしたんだい? わかった、頭が痛いんだろう? みんなして酒を飲ませちまったからなぁ。ごめんよ」
ワタルは首を振《ふ》った。そうして、自分でも思いがけないことを訊《き》いてしまった。
「キ・キーマのお父さんとお母さんは、どこにいるの?」
キ・キーマはまた「ほじゃ?」という声を出した。そして、ごつい手で目をごしごしこすった。
「昨日は、キ・キーマのお父さんとお母さんには会わなかったよね?」
「おお、そういえばそうだったな」まだぼんやりした目つきながら、キ・キーマは笑った。「なにしろおしゃべりと宴会《えんかい》に夢中だったからな。俺のおとうとおかあは、この三月《み つき》ばかり、仕事でアリキタに行ってるんだ。パースという町で、大きな病院を建てているんだが、そこに資材を運び込む仕事を任されてな」
そうだったのか。
「ワタルを紹介《しょうかい》できなくて、残念だなぁ」
「いつもは一緒《いっしょ》に住んでいるの?」
「いんや、ここは俺の小屋だよ。おとうとおかあは、長老様の住まいのそばに、もっと大きな二階建ての小屋を持っているんだ」
そう言ってからやっと、キ・キーマは不思議そうにワタルを見た。「なんでそんなことを訊くんだい?」
「なんでもないんだ」
ふうん──と、キ・キーマは顎《あご》を撫《な》でて、それから言った。「もしかして、お父さんとお母さんの夢を見たのかい? それで、ちょっと寂《さび》しくなったんじゃないかい?」
そうじゃないんだよ。ただ──
ちょうどそのとき、小屋の外から、金だらいを打ち鳴らすような音が聞こえてきた。
「おーい、おーい、おふれだ、おふれだ、皆《みな》の衆! 連合政府からおふれが来たぞ、長老さまのところへ集まれい! おふれだ、おふれだぞーい」
キ・キーマはあんぐりと口を開いた。「こいつは大変だ! いったい何事だろう?」
あつつ、頭が痛い。キ・キーマは両手で頭を抱《かか》えると、ちょっと海に飛び込んでしゃっきりしてくるからなと言い置いて、急いで出ていった。ワタルも小屋の外に出た。東の空に、カルラ族の姿は見えない。すでにどこかに着地したのだろう。
小屋の出入口のところにある梯子段《はしご だん》のてっぺんに腰《こし》かけて、金だらいというよりはお鍋《なべ》のフタみたいなものを打ち鳴らしながら、おふれ役の水人が、この一角を行き来するのを眺《なが》めた。おふれ役は何人もいるのだろう、町のあっちこっちで、同じような音と声が駆《か》け回っているのが聞こえる。
「おはよう、ワタル」
気がつくと、すぐ隣《となり》の小屋の簾をあげて、ミーナが顔をのぞかせていた。耳の後ろの白い毛が、寝乱れてちょっぴりハネている。
「何かしらね、あれ?」不安そうに瞳《ひとみ》を翳《かげ》らせて、ミーナは言った。
「こういうおふれは、よくある事なの?」と、ワタルは尋ねた。
「ううん。わたしは今までに、一度しか見たことがないわ。誰か連合政府の偉《えら》いヒトが亡《な》くなったときだったかしら。どっちにしろ、めったにあることじゃないわ」
長老の小屋を中心に、昨夜の大宴会を再現するような規模で、集会は始まった。
当然のことながら、雰囲気《ふんい き 》は昨夜とがらりと変わってしまっていた。みんな静まり返っていて、長老のそばにぴたりとついた補佐役《ほ さ やく》みたいな水人が、熱心に話した。彼はまず、カルラ族の翼《つばさ》で運ばれてきたおふれの内容について一同に説明した。それから、長老が何か小声で彼の耳元に向かって言う言葉を、ちょうど通訳するみたいにして、皆に伝えるのだった。
「長老はお歳《とし》だから、もう大きな声が出せないのですって。だから、ああして取り次ぎをするヒトが必要なんですって」と、ミーナが教えてくれた。
町の住人ではないワタルとミーナは、水人たちの輪の外の方にいて、集まったヒトたちのたくさんの背中ごしに、集会の様子を見ることになった。
「長老はおっしゃっている──もとより、我らのこの世、我らのこの命は女神《め がみ》さまよりの賜《たまわ》りもの」と、取り次ぎ役の水人が言った。「それは、今さら申し述べることもないほどの自明の理。我らの日々の糧《かて》も、我らのこの強き身体《からだ》も、我らを生み我らを育《はぐく》みやがて我らがそこへ帰るところの海の滴《しずく》の一|滴《てき》一滴も、すべて女神さまのお造りになられしもの」
「そのとおり!」と、一同が唱和する。
「されば、今ここにて女神さまが一人のヒト柱を求められるならば、それも我らの受ける恩寵《おんちょう》の内にあること。皆の衆、ゆめゆめ恐《おそ》れるべからず。女神さまの指の差しのべられる、そのところにこそ真実はあり」
「そのとおり!」
「選ばれし者あらば、そは真実の体現者なり。女神さまの差しのべられし指の先にひざまずき、戦士として立つべし」
「そのとおり!」
「我々は恐れたりなどしません!」
集まった水人たちは、口々にそう言った。一同が鎮《しず》まるのを待って、長老がまた取り次ぎ役に何か囁《ささや》き、それは今度は少しばかり長い言葉で、取り次ぎ役はしきりとうなずきながら、それを聞き取った。そして、長老のそばから離れると、集まっている水人たちの最前列ぎりぎりのところまで進み出て、厳《おごそ》かに言った。
「我ら水人族は、女神さまの古《いにしえ》の教えを尊ぶことでは、この幻界《ヴィジョン》≠ノ住むどんな種族にも負けるものではない。それ故《ゆえ》に、知識も多い。今回の大いなる光の境界≠フ作り直しのことも、ヒト柱のことも、親から子へと、伝説や昔話としてならば、伝え聞いて、すでに知っているという者たちも多かろう」
一同のなかで、たくさんの頭がうなずいている。ミーナが小さく「まあ」と言った。
「わたし、全然知らなかった」
「それだから、長老は、我らの郷《さと》の者たちについては、何も心を痛めてはおられぬ。皆を信じているとおっしゃっておる」
わあっと声が沸《わ》いた。取り次ぎ役は、丸太のような両腕《りょううで》をあげて、皆を鎮めた。
「しかし幻界は広い。他種族の者たちのなかには、我らのような幸せな信仰《しんこう》を持ち得ず、心のよりどころを失い、ヒト柱の選出に、徒《いたずら》に怯《おび》え騒《さわ》ぐ輩《やから》も大勢いることだろう。皆の衆、それらの狂騒《きょうそう》に、心を乱されてはならぬ。我ら水人族は太古から女神さまと共にあるのだ!」
おう、おう! と、一同は腕を突《つ》きあげた。取り次ぎ役は、北の空を指さした。
「連合政府のおふれによれば、ササヤの大学者たちの読み取るところ、まさに今宵《こ よい》より、ハルネラ≠ヘ始まるという。北の凶星《まがぼし》が地平に現れ、赤く輝くのだ。皆の衆よ、心安んじてハルネラ≠過ごそう。我ら水人族の誇《ほこ》り高き魂《たましい》にかけて、女神さまへの忠誠を、ここに誓《ちか》おう。そして、女神さまが混沌《こんとん》を統《す》べる冥王《めいおう》と結びし聖なる契約をあらため終えるときを、謹《つつし》んで待とうではないか!」
水人たちは立ちあがって歓呼《かんこ 》の声をあげた。そのなかに、キ・キーマもちゃんと混じっていた。
一同はそれから、声をあわせて女神を讃《たた》える歌を歌った。興奮が鎮まると、結びの言葉として、取り次ぎ役は言った。
「おふれを運んできたカルラ族の話では、アリキタやボグの一部の町では、すでにかなりの混乱が起こっているらしい。信仰を失うと、ヒトはかくも弱きものなのだ。我らはダルババ業を生業《なりわい》とする故に、各地に出向くのが日常。先々で騒乱に巻き込まれることもあろうが、己《おのれ》を強く持ち、互《たが》いに助け合ってほしい。ダルババ屋の頭《かしら》たちは、年若いものたちを、よろしく導いてくれるよう」
こうして集会はひけた。ダルババ屋で働く水人たち──町の成年の大半だ──は、今度は個別に頭の元に集まるようだ。みんなぞろぞろと移動してゆく。
「ミーナ、大丈夫《だいじょうぶ》?」と、ワタルは訊いた。「ショックを受けてない?」
ミーナは微笑《ほほえ 》んだ。「平気よ。ちょっと驚《おどろ》いたけど、でも──わたしが選ばれると決まったわけじゃないしね。だって、大勢のなかから、たった一人だけでしょう?」
解散する水人たちの邪魔《じゃま 》にならないよう、ミーナは軽くワタルの手を取ると、近くに積みあげてあった木箱の上へと、ひょいと移動した。
「スペクタクルマシン団のみんなは、どこでこの報《しら》せを受け取っているかしら。子供たちが怖《こわ》がってないといいけど。ブブホ団長がいるから、何も心配はないと思うけれどね」
ワタルは俯《うつむ》いてしまった。
「ワタルこそ、大丈夫? 顔が青いわ」
ミーナはワタルの手を取ったまま、顔をのぞきこんだ。
「わたしたちのこと、心配してくれてるのね。ありがとう」と、にっこり笑う。「わたしたちネ族は、ここの水人さんたちほどには強い女神信仰を持ち合わせていないけど、それでも、祈《いの》る気持ちはちゃんと持っているわ。わたし、今夜から毎晩、北の凶星を見あげてお祈りするわ。女神さまにお願いするの。ヒト柱をお召《め》しになるならば、どうぞお慈悲《じ ひ 》と共にお召しください。嘆《なげ》きが深くならないようにって」
「それでいいの?」と、ワタルは鋭《するど》く問い返した。「ヒト柱を差し出せなんて、女神さまは残酷《ざんこく》だとは思わない? そういうやり方を変えてほしいと思わないのかい?」
ミーナはつぶらな青灰色の瞳をまん丸に見開いた。「まあ、ワタルったら」
「だってそうじゃないか。たとえ千年に一度だって、世界を保つために犠牲《ぎ せい》を捧げるなんて、おかしいよ」
「だって……だって、そもそもこの世界は女神さまがおつくりになったものなのよ。わたしたちがつくったものじゃない。わたしたちではどうすることもできないことなのよ」
「ミーナ、もしも自分がヒト柱に選ばれても、そんなふうに言える?」
ミーナは握《にぎ》っていたワタルの手を離《はな》すと、自分の頬《ほお》にあてた。「それは──わからないわ」
「わからなくないよ。嫌《いや》に決まってるよ!」
「そうかしら。選ばれた瞬間《しゅんかん》に、そんな気持ちからは解放されるのかもしれないわ。残されたヒトたちも、そうかもしれない。悲しみが残らないように、女神さまが計らってくださるのよ」
だって──と、少し狼狽《ろうばい》したように首を振りながら、ミーナは言った。
「さっきの連合政府のおふれのなかにも、書いてあったというじゃない。ヒト柱も、大いなる光の境界≠フ作り直しも、ハルネラ≠焉A古くからあったことだって。ただ、今までは歴史の表に出てこなかっただけだって。現に水人さんたちは、伝説として知っているというのだし──」
「そうだよ。過去はそうだった。それでよかったんだ。でも、今は違《ちが》う。幻界の南大陸に連合政府ができて、その政府が、これについては国民に公表しなくちゃならない、もう伏《ふ》せてはおけないと判断したこと自体、事情が違ってきてるという証拠《しょうこ》じゃないか。僕は、アリキタやナハトのなかで騒乱が起き始めていると聞いて、ちょっとほっとしたくらいだよ。みんながみんな、ここの水人たちみたいに平気な顔をしていたら、その方が変だよ」
ミーナは泣きだしそうになってしまった。
「ワタル──そんなことを言って──それがどういうことだかわかってる? ねえあなた、あの魔《ま》病院《びょういん》で老神教徒たちに危《あや》うく殺されるところだったんでしょう? それを忘れたの? 今のあなたの言っていることは、女神さまを否定する老神教徒たちと同じよ」
違う。それは違う。言いかけて、しかしワタルは口をつぐんでしまった。僕が言いたいのは──女神を信じるか否定するかということじゃなくて──そうじゃなくて──
結局、僕は怖いんだよ。心のなかで言った。ヒト柱が幻界のヒトたちからのみ選ばれると思っているときだって怖かった。君やキ・キーマが選ばれるんじゃないかと思うと、怖くてたまらなかった。
でも、今はそれ以上だ。だって僕は旅人≠セもの。ヒト柱に選ばれる確率はぴったり五十パーセント。ミツルか僕か。どちらか一人。だもの、怖くて当然じゃないか。
だけどわからない。どうすればいいんだ? ミツルより先に運命の塔《とう》に着いて、自分の願いだけさっさとかなえて、とっとと現世《うつしよ》に帰ってしまえばいいのか? それで忘れられる? それで幸せになれる?
それとも、女神に会って頼《たの》むのかい? 僕の運命は変えなくていいです。でも、ヒト柱のしきたりだけは変えてください。そしたら僕は、安心して現世に帰れます。
でも、帰ってどうなる? 傷ついて生きる希望を失った母さんと、二人ぽっちだ。父さんは僕らを捨てて、二度と振り向いてもくれないだろう。追いかけて行けば、またあの女、田中理香子に手ひどい仕打ちを受けるだけだ。
不当、不等、あまりにも酷《ひど》い。どの道を選んでも行き止まりじゃないか。だけど、悩《なや》んでぐずぐずしていれば、ミツルが先に運命の塔に着き、僕は一人取り残されて、自動的にヒト柱にされてしまう。
「そこの旅人≠諱v
強い声で呼びかけられて、ワタルは顔をあげた。木箱のすぐ足元に、あの取り次ぎ役の水人が立って、こちらを見あげていた。
間近に見ると、彼の目の周りと剥《む》き出しの両肩《りょうかた》には、繊細《せんさい》な細い線で、凝《こ》った文様の入れ墨《ずみ》がほどこされていた。彼がにこりと微笑むと、目のそばの線も一緒に緩《ゆる》んだ。
「長老が、あなたとお話をしたいとおっしゃっている。少しよろしいかな?」
あとの問いかけは、ミーナに向けられたものだった。はいと、小さく彼女は答えた。
「それでは、こちらへ」取り次ぎ役はワタルを手招きした。「それからネ族のお嬢《じょう》さん、連合政府のおふれを運んできたカルラ族が、郷の門のそばの小屋で休んでいる。まもなく飛び立つことだろう。あなたの郷や家族に手紙など託《たく》したいならば、今のうちに頼んでみてはいかがだろうか」
長老は、集会のときと同じ場所に座っていた。それでも、さっきよりは少しくつろいだ姿勢で、壁にもたれ、片膝《かたひざ》を立てている。
「ここにお座りになるがよい」
取り次ぎ役が、丸く編んだござを勧《すす》めてくれた。ワタルはそこにかしこまった。長老の真ん前だ。一メートルも離れていない。
「実は、我が長《おさ》は高齢《こうれい》ゆえ、ほとんど耳が聞こえぬ」
長老の脇《わき》に控《ひか》えて、取り次ぎ役は言った。
「それでも心の耳で、何でも聞くことができる。最前から、しきりとあなたの声を聞き取り、ご心痛の様子だ。だからおいでいただいたのです」
「僕の心の声?」
問い返すワタルの言葉が終わらないうちに、長老はびっくりするくらい素早《す ばや》く進み出て、両の掌《てのひら》ですっぽりとワタルの頭を包み込んだ。ぎょっとして下がろうとすると、
「動いてはならぬ!」と、取り次ぎ役が厳しい声を発した。「暫時《ざんじ 》、そのまま」
身をすくめて、ワタルはかちんかちんになった。そうしていたのは、ほんの十秒ほどだったろうか。長老は手を離すと、元の場所に戻ってまたゆったりと座った。そして、取り次ぎ役の耳元に何か囁いた。
ゆっくりとうなずくと、取り次ぎ役はワタルを見た。
「あなたは魔に魅入《み い 》られている」
「魔──? 魔物ということですか?」
「左様。必ずしも姿の恐ろしいものではない。時には甘い声を以《もっ》てあなたに囁きかけているやも知れぬ。しかし、あなたの間近に魔の気配がする。長老はそう申されている」
昨夜の浜辺での出来事──現世にいるときから語りかけてきた、あの甘い声。とっさに、それを考えた。
長老はうなずき、また取り次ぎ役に何か言った。
「どうやら、覚えがあるようですな」
ワタルは両手で額を押さえた。「だけどそれは──」
「恐れてはいけない」と、取り次ぎ役は言った。「魔はあなたの恐怖《きょうふ》を喰《く》らう。顔をあげて、長老の目をごらんなさい」
何度か促《うなが》されて、ワタルはやっと、そのとおりにした。
長老は、肌《はだ》も張りを失い、肉が落ちて骨張った身体は、何か支えになるものがなければ、一人で立つことも難しそうだ。しかし、その目は頑健《がんけん》な若者よりも強い光を宿し、海のような青い色をしていた。
長老は、その瞳をひたとワタルの上に据《す》えたまま、話し出した。取り次ぎ役がそれを伝える。
「旅人≠諱A我ら古老は知っている。ハルネラ≠ヘ、あなたがた二人の旅人≠ノとってこそ、真の試練であることを」
ワタルは驚いた。「知ってるって? じゃ、僕がヒト柱になるかもしれないことを?」
「すべてを知っておる。古《いにしえ》より、大いなる光の境界≠作り直すときがくるたびに、女神さまがなさってきたことであるから」
思わず前に出た。「それなら、どうして放っておくんです? ヒト柱なんて、残酷じゃないですか!」
長老はピクリともしなかった。「幻界には幻界の成り立ちがある。あなたはそこに、女神さまに招かれてやって来た。この世界の成り立ちに、あなたが介入《かいにゅう》することはできぬ」
「だって、あなたたちだって!」
「あなたが今、心に抱《いだ》いている疑問を、あなたの力で解くことはできぬ」
ワタルの疑問。この袋《ふくろ》小路《こうじ》。
「あなたが今、そこで煩悶《はんもん》しているすべてのこと。己がヒト柱に選ばれるかもしれぬという恐怖。もう一人の旅人=Aあなたの友を、ヒト柱として置き去りにせねばならぬかもしれぬという恐怖。女神さまに会うて、ヒト柱のしきたりをやめるよう願えば、その願いと引き替《か》えに、自らの運命を変える望みを捨てねばならぬという恐怖。すべてあなたが生み出し、あなたが形を与えた恐怖であるが、あなたには消すことのできぬ恐怖だ」
ホントにお見通しなんだ。ワタルはまたヘタヘタと座ってしまった。何も言ってないのに、心を読まれたみたいだ。
「旅人≠諱Bあなたは女神さまに招かれながら、女神さまを信じられなくなっている。それすなわち、旅の目的を見失うこと。あなたをして道を踏《ふ》み迷わせ、暗黒へと誘《さそ》い込もうと謀《はか》る魔を近づけてはならぬ」
長老はまるで呪文《じゅもん》のように呟《つぶや》き続け、取り次ぎ役は滑《なめ》らかにそれを取り次ぐ。
「あなたの煩悶は、さながら砂漠《さ ばく》の蜃気楼《しんき ろう》だ。あなたはありもしないものを恐れ、ありもしないものから逃《に》げようとしている。それはただの、時の浪費《ろうひ 》。女神さまに会いなさい。世界は女神さまの御心《みこころ》の内にある」
「だけど僕──僕より先にミツルが──」
「速く走る旅人≠セけが、運命の塔を見出《み いだ》すのではない」
その言葉は、ぴしりとワタルを打った。
「運命の塔は、正しき道をたどった旅人≠フ前にしか、その姿を現さぬ。幼き旅人≠諱B迷いを捨て、運命の塔を目指しなさい。そこにこそ真実が在る。女神さまに問いかけて初めて、あなたは答を得る」
長老は、かすかに微笑んだ。
「女神さまの御前《おんまえ》に至り、何を問いかければ良いのかということも、運命の塔にたどり着けば、自《おの》ずとわかる」
ササヤを目指しなさいと、長老は言った。「今こそ、かの大学者たちの知恵《ち え 》を借りるときですぞ。
彼らは幻界の歴史を研究し、幻界の成り立ちを知ろうとしている。女神さまのおわします運命の塔は、果てしなく遠い。しかし、正しき道は、真《ま》っ直《す》ぐにそこに続いている。正しき道をこそ探すべきだ。古の知を司《つかさど》る星読みの大学者たちならば、その道を照らす宝玉の眠る場所を知っているかもしれぬ」
それだけ話して、長老は壁にもたれて目を閉じた。取り次ぎ役がすっと立ちあがり、部屋の隅の棚《たな》から膝掛けのようなものを持ってきて、それをそっと、長老の身体にかけた。
「長老はお疲《つか》れのようだ」と、彼は言った。「今のお言葉を、どうか忘れぬように。旅人≠諱A私からもお願いする」
ワタルはためらいながらもうなずいた。
「おっしゃるとおり、ササヤへ行くことにします。国営の天文台があるそうですね?」
「うむ。星読みたちの集《つど》うところだ。天文台があるのは、ルルドの町じゃ。ダルババを使いなされ。五日ほどで着くはずだ」
ワタルは、思わず取り次ぎ役の手をつかんだ。「僕は、僕はだけど、本当に自分の運命を変えたいのかどうかさえ、わからなくなってきちゃったんです。運命を変えるってどういうことなのか、それもあやふやになってきちゃって──」
「あなただけではない。幻界を訪れる旅人≠ヘ、皆、一度は同じような悩みを抱える。そこから抜け出せる者もあれば、抜け出せずに道を踏み外す者もいる」
「道を踏み外したら、どうなるんです?」
取り次ぎ役は首を振った。「それは我ら幻界の住人の与《あずか》り知らぬこと。女神さまがお決めになることだ」
ワタルは思わず言った。「それがわからないんです。どうして皆さんは、そんなふうに純粋《じゅんすい》に、なんの疑いもなしに女神さまを信じていられるんですか? 幻界のなかだって、皆さんほど強い信心を持っていないヒトたちが増えているからこそ、アリキタやボグでは騒動が起こっているんでしょう?」
ヒト柱とハルネラ≠ノついて知識を得て、騒いでいるというヒトたちならば、きっとワタルのこの気持ちを理解してくれることだろう。もしかしたら──そんな女神は倒してしまえと──あの唆《そそのか》しにだって賛成するかもしれない──そっちの方が正しいのかも──
長老のしわがれた声が聞こえた。取り次ぎ役が長老のそばに行って、何か聞き取り、すぐにワタルのそばに戻ってきた。
「さあ、行きなさい旅人≠諱v
取り次ぎ役は、そのがっちりとした腕で、優《やさ》しくワタルを押しやった。
「あなたの道が正しければ、我らは二度とまみえることもない。長老の最後のお言葉を伝えます。今、こうおっしゃいました──」
神を信じぬ者に、神は倒せぬ。
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29 ルルドの国営天文台
ササヤに渡《わた》り、ルルドの町を目指す旅は、思いもかけないほど陰鬱《いんうつ》なものになった。
ひとつには、ワタルとミーナのあいだに、サーカワの長老小屋の前で言い争ったことの、後遺症《こういしょう》のようなものが残ってしまったからだ。ミーナに不安げな眼差《まなざ 》しを投げかけられると、ワタルはつい目をそらしてしまう。するとミーナも、まるで悪いことでもしたみたいに大慌《おおあわ》てで俯《うつむ》き、それを横目で盗《ぬす》み見て、ワタルもまたうなだれる。あいだに入ったキ・キーマは、どうやら二人が喧嘩《けんか 》でもしたらしいと推察しているようだけど、手の出しようがなくて、やっぱり黙《だま》っている。ときどぎ、妙《みょう》に陽気な声を出して何か話しかけてくるけれど、会話は続かない。
それにワタルは、自身の心のなかに引きこもって考え込むことも多かった。迷いを捨て、女神《め がみ》さまに会え≠ニいう忠告を、もちろん忘れてはいないけれど、ハイそうですねと捨てられるような迷いなら、最初から苦しむことなんかないのだから。
ミツルはどうしているだろう。しきりと、それを考えた。今、どこにいるのだろう。彼は迷いを感じていないのかしら。幻界《ヴィジョン》≠ナ身につけた大魔法《だいま ほう》を駆使《く し 》して、ひたすら運命の塔《とう》を目指し、ほかのことは何も考えていないのかしら。
──ミツルはきっと、僕みたいに弱くないんだ。
考えてみれば、いつでもそうだった。
リリス郊外《こうがい》のトリアンカ魔病院で再会したときのミツルは、本当にカッコよかった。彼のおかげでワタルは命びろいをしたのだ。彼の唱えた風の大魔法が生んだ大|竜巻《たつまき》が、あのトリアンカ魔病院を包んでいた結界を打ち壊《こわ》し、スラの森を根こそぎにしてくれたから。
あのときは、ああするしか方法がなかった。あれがいちばん適切なやり方だった。だけどキ・キーマは言っていたじゃないか。竜巻が去ったあと、トリアンカ魔病院へ行ってみたら、怪我《け が 》をしたヒトたちが大勢いたと。当然だろう。あそこにはたくさんの老神教徒たちが集まっていたんだ。百人、いやそれ以上いたかもしれない。そのヒトたちにも、竜巻は襲《おそ》いかかったのだ。怪我をしたヒトたちは運が良かったくらいで、竜巻に飛ばされて命を落としたヒトたちだって、いっぱいいたのじゃなかろうか。
いいじゃないか。自業《じ ごう》自得とは、こういうときに使う言葉だ。あいつらの方が先に手を出してきたのだ。一方的にワタルを捕《つか》まえて、閉じこめて、処刑《しょけい》しようとしたのだから。
でも──ミツルと同じ立場だったなら、ワタルにも同じことができただろうか。何のためらいもなく? 自分の力をふるうことができただろうか?
──どこへ飛ばされるかわからないぜ。
あっさりとそう断っただけで、呪文《じゅもん》を唱えることができただろうか。
──そういえば。
ワタルが幻界に来るきっかけになった、あの事件。大松さんの幽霊ビルで、ミツルは石岡健児たちに囲まれて、危《あや》うくボコボコにされそうになっていた。でも、ミツルが呪文を唱えて魔性《ましょう》のものを招喚《しょうかん》すると、形勢はたちまち逆転した。石岡たち三人は、あの恐《おそ》ろしいバルバローネに襲われて、石岡は頭から丸呑《まるの 》みにされてしまい、魂《たましい》を抜《ぬ》きとられてしまった。
あのとき、ミツルは彼らをどうするつもりだったのだろう。バルバローネを招喚したとき、石岡たちに対して、あの魔物が何をするか、彼はちゃんと承知していたのだろうか。わかっていてバルバローネを呼んだのか。
あのときの彼の表情にも、迷いなんてものは欠片《かけら》もなかった。打たれたから打ち返す。その決意があっただけだった。いつだって、ミツルには揺《ゆ》るぎない意志があった。どんな困難が運命の塔への道を阻《はば》もうとも、彼は決してひるんだりしないだろう。
それに引き替《か》え、ワタルは弱い。そして、勝負事や競《きそ》い合いには、やっぱり強いものが勝つのだ。速く走るものだけが運命の塔を見出《み いだ》すのではないと、サーカワの長老は言った。だけど、ミツルはただ足が速いだけではなく、意志の力も強いのだ。ワタルには最初から勝ち目などないのかもしれない。
そんなことを考えていたら、ダルババ車の御者《ぎょしゃ》台の上から落ちないように身体《からだ》を支えているだけでも精一杯《せいいっぱい》で、とうてい笑顔《え がお》など浮《う》かべられない。
おまけに、旅路の景色が、ワタルたちの歩みをさらに憂鬱《ゆううつ》なものにした。サーカワを出て、海べりの草原で最初の野宿をしたときまでは、まだ良かった。街道《かいどう》に出ると、様子が変わった。道連れが、ぽつりぽつりと増え始めたのだ。あるヒトたちは粗末《そ まつ》な荷車に家財道具を載《の》せ、あるヒトたちは大きな包みを背負っている。子供連れもいれば、老人たちもいる。ダルババ車の荷台に病人を乗せているヒトたちもいる。
最初のうちは、彼らがどんなヒトたちで、どこへ行こうとしているのか、さっぱり見当もつかなかった。二|泊《はく》目の野宿のとき、もうボグとササヤの国境関所は間近で、街道を行くヒトたちのグループも、両手に余るほどに増えており、食べ物を譲《ゆず》り合ったり、話をする機会もあって、それでやっとわかったのだった。
彼らは避難民《ひ なんみん》だった。ハルネラ≠ェ終わるまで、逃げ隠《かく》れるために旅しているのだ。
「女神さまのなさることに、逆らうわけにはいかないけれども、やっぱり今あたしや亭主《ていしゅ》がヒト柱に選ばれるようなことになったら、子供らは生きていかれないから」
六人の幼い子供たちを連れた、獣人《じゅうじん》族のお母さんが、言い訳するみたいな顔で、そんなことをワタルに言った。彼らは野宿用にテントを持っていたけれど、どうやって張ればいいかわからずに困っているようだったので、キ・キーマとワタルで手伝ってあげたのだ。
「それで、どこに行くんですか?」
「あたしは国境沿いの山のなかの木こりの集落で生まれたんですよ。家はもうないし親もいないけれど、小屋は残っているからね。北の凶星《まがぼし》が赤いうちは、そこで暮らそうと思って」
見あげるような大男のご亭主は、奥さんが見ず知らずのヒトと話をするのが嫌《いや》な様子で、ひどく怖《こわ》い顔をしていた。あとで奥さんを脇《わき》に呼んで、ガミガミ叱《しか》っているのが聞こえてきた。
「あんなことを言って、もしあいつらがくっついてきたらどうするつもりだ? 俺らは隠れ住む場所があるから、まだましな方なんだ。言いふらすんじゃねえよ」
避難民たちのなかには、確かに、これという目的地を持たないヒトたちが多かった。とにかく目立たない場所へ行きたい、そういうあんた、ハイランダーだろ? 何処《ど こ 》に行くのだと問われて、ワタルがルルドと答えると、
「そうか、あすこには天文台があるもんね。星読みもたくさんいるし、もしかしたら、どうやったらヒト柱に選ばれずに済むか、知恵《ち え 》を授《さず》けてもらえるかもしれないね」
じゃあわしらもルルドへ行こう──などと言い出す始末だったりする。
彼らと話をするたびに、ワタルはあえて明るい顔をしてみせて、
「でも、ヒト柱はたったの一人だけですよ。地上にはこんなに大勢のヒトたちがいるんだもの、あなたやあなたの家族が選ばれると決まったわけじゃない。そんなに心配しなくてもいいじゃないですか?」
と、問いかけてみた。するとみんな、一応は、「そうだよね」「そうだわねえ」「うん、俺もそう思うんだけどな」と、返事を寄越《よ こ 》す。ちょっと笑い返したりもする。でも、そのあと一様に顔を曇《くも》らせて、少しばかり決まり悪そうに目を伏《ふ》せ、こう続けるのだ。
「でも、万にひとつということがあるだろう? 避《さ》けられるものならば、避けたいじゃないか」
「お金持ちの商人や、お役人はいいんだよ」
と、暗い目をして口を尖《とが》らせるヒトもいた。
「日頃《ひ ごろ》から、女神さまを讃《たた》える歌や祈《いの》りの会を開いているし、信徒の集会所を切り盛りしたり、花を供えたりしているものね。そういう連中は、ヒト柱にならずに済むんだ」
だけどあたしらは貧しくて、自分たちの口を養うことだけで精一杯。女神さまにお供物《く もつ》を捧《ささ》げることなんざできやしない。
「だから、ヒト柱に選ばれる可能性も高いと思うんですか?」
「そうさ。だって、あたしらには、捧げるものといったらこの身しかないものね」
道を急ぎながらも、街道を進むにつれて増えてゆくこうした避難民たちを観察して、ワタルも確信するようになった。ハルネラ≠恐れ、逃げ隠れせずにはいられずに家を故郷を離《はな》れてきたこのヒトたちは、本当に、圧倒《あっとう》的に貧しいヒトたちばかりじゃないか。
道中ではさらに、憂鬱を通り越して不愉快《ふ ゆ かい》な光景にも遭遇《そうぐう》した。女神を讃える歌が聞こえてくるべき礼拝堂から、怒号《ど ごう》と悲鳴と泣き声が漏《も》れてくる。かと思えば、今まで聞いたこともないような、呪文みたいなものを唱える老若男女の声が響《ひび》く。関所を越えた先の小さな村では、打ち壊され火をかけられ、ごうごうと燃えあがる礼拝堂を背に、真っ黒なローブを着た若い男が、木箱の上に乗って、拳《こぶし》を空に突きあげながら何か演説をしていた。集まった村人たちは、半円を描《えが》いて彼を取り囲み、憑《つ》かれたような目で見あげている。彼らの注目を一身に集めて、黒いローブの若い男のふたつの眼《まなこ》は、浅い水たまりに映った太陽のように、ギラギラと底光りしていた。ひょっとしたらこの若い男は、第二のカクタス・ヴィラになるのではないか、ガサラ郊外の荒地《あれち 》のあの教会で、カクタス・ヴィラが信者たちを集めてやってのけたようなことを、もう一度繰り返してしまうのではないか。ワタルは恐怖《きょうふ》を感じた。
ササヤに入って二日目の午後、街道がY字に分かれているところにぶつかった。右は海寄り、ササヤの首都へ、左は山地へ、ルルドへ続くという標識が立てられている。左の道へと進路を取ると、避難民たちの道連れは少なくなったけれど、それと入れ替わるように、ダルババ車に乗ったり、一人でウダイを駆《か》ったりして道を急ぐ、星読みたちと行き交《か》うようになった。ある者はルルドから首都の方へ向かい、ある者は首都からルルドへと走ってゆく。
星読みたちは、年齢《ねんれい》も種族も様々だけれど、みんなシン・スンシと同じような筒袖《つつそで》の服を着ているので、すぐに見分けることができた。ただ、服の色によって、たとえば学生の学年分けみたいな区別があるようだった。階級があるのかもしれない。道中で見かけたなかで、いちばん立派な服装をしていた星読みは、ちょうどワタルの母親くらいの年齢のアンカ族の女性で、美しい紫色《むらさきいろ》の筒袖の袖口と裾《すそ》に、金色の線が入っていた。円筒形《えんとうけい》の風変わりな帽子《ぼうし 》には、勇者の剣《けん》の鍔《つば》に刻まれているのと同じ、星の形がついていた。
山道を、雑木林のあいだを縫《ぬ》うようにして半日進むと、それは前方に見えてきた。
「ほら、あれだ」
御者台から、キ・キーマが指をさして教えてくれた。
「あの透《す》き通った丸い屋根。あれがルルドの国営天文台だよ」
もう夕暮れだった。茜色《あかねいろ》の空を背景に、それはうっとりするほど美しく輝《かがや》いていた。ちょうどプラネタリウムみたいな形の建物だ。ドーム型の半|透明《とうめい》の屋根には、窓のような切り込みが入っている。きっとあれは、天体望遠鏡のための窓だろう。そのサイズからして、シン・スンシの小屋にあった望遠鏡の、十倍も二十倍も大きなものであるに違《ちが》いない。
やがて雑木林を抜《ぬ》けると、国営天文台と、それを取り囲む町の全景が、目の前に広がった。山の一角を切り拓《ひら》いてつくられたであろうその町は、ぐるりを土色の煉瓦塀《れんが べい》に囲まれ、建物も大半が同じ色の煉瓦でできていた。どこもかしこも古びていて、建物のなかには窓ガラスが割れたり、煉瓦の一部が崩《くず》れているところもある。あの美しい天文台を造るには、さぞかし高価な素材が使用され、高い技術を持つ職人たちが、何人も関《かか》わらねばならなかったろうから、お金はそっちに回してしまったに違いない。現世《うつしよ》の大学と、ちょっと似ている。
「星読みたちは、研究したり勉強したりするために、ここに住み着いてるんだ。だから、町の外周近くにある建物は、みんな彼らのためのアパートだよ」
筒袖を着たヒトたちが、そこらじゅうを歩き回っている。ダルババ屋の荷車が町の門のところに停《と》まっており、門番とダルババ屋で、一生《いっしょう》懸命《けんめい》荷下ろしをしている。とても重そうな木箱だ。あれは全部書物だろうと、キ・キーマは言った。
「星読みは、夜中に観測をするだろ? で、彼らは交代で昼間のうちに眠《ねむ》るんだ。だからアパートは、地上部分よりも、地下の部分の方が広くなるように造られているんだ」
実際、町を囲む外壁《がいへき》と、そのすぐ内側にある星読みたちの居住区の建物の背の高さは、ほとんど同じだ。それも、一軒家《いっけんや 》の一階分くらいしかない。そして驚《おどろ》いたことに、その低い塀や建物の屋根の上を、剣や槍《やり》や弓矢で武装した数人のハイランダーたちが、ゆっくりと巡回《じゅんかい》していた。ファイアドラゴンの腕輪《うでわ 》をはめているから、間違いない。
「何をしてるのかしら?」と、ミーナが不思議がった。「ここで何かあったのかしら」
ダルババ屋の荷車が去って、ワタルたちは門番小屋に近づいた。門扉《もんぴ 》は太い鉄格子《てつごうし 》で造られた重々しいもので、頑丈《がんじょう》そうな錠前《じょうまえ》が取りつけられている。門番はキリリと耳の立った獣人だった。
「おや、あんたらはハイランダーじゃないか。交代要員かい?」
門番は革《かわ》の胸当てを着け、腰《こし》に短剣を帯びている。ひどくものものしい様子だ。
「そうではありません。天文台のバクサン博士にお目にかかりたいんです。星読みのシン・スンシさんに紹介《しょうかい》していただきました」
勝手なことをして、シン・スンシには申し訳ないけど、きっと今は恐ろしく多忙《た ぼう》なはずの博士に取り次いでもらうには、こう言っておいた方がいいだろうと思った。
「ああ、そうかい。だったら通行証を書いてあげるから、ちょっと待っててよ」
外塀の上に立ったハイランダーがこちらを見ている。初めて見る種族のヒトだった。姿形はアンカ族そっくりだけど、肌《はだ》の色が新緑のように鮮《あざ》やかなグリーンなのだ。右手に弓、背中に矢筒を背負い、胸当てと肩当てだけの簡素な革鎧《かわよろい》を着けているが、手も足も剥《む》き出しだ。髪《かみ》の毛は一本もなく、つるりとした頭はつくりもののように美しい。すらりとしてスタイル抜群《ばつぐん》、目鼻立ちも整っていて、マネキン人形みたいだ。
ワタルと目が合うと、そのヒトは門の方にぶらぶらと近づいてきた。にっこり笑うと、真っ白な歯がのぞいた。
「あんたたち、どこから来たの?」
声を聞いて、女性だとわかった。
「ガサラです」
「あらまあ、あんな遠くから?」
「このヒトたちは、バクサン博士に会いに来たんだよ」と、門番が説明してくれた。「ほい、これが通行証だ」
ハガキくらいの大きさの紙の札をもらった。裏側には建物の案内図が描かれている。
「バクサン博士の研究室は、屋上天文台のすぐ下の階だよ」
「ありがとう」
「坊《ぼう》や、あんたなら、バクサン博士とすっごく話しやすいかもよ」と、緑の肌のハイランダーが言って、コロコロと笑った。
「は? どうしてですか?」
「会ってみりゃわかるわよ」
「あの、どうしてこんなに厳しい警備をしているんですか?」と、ミーナが尋《たず》ねた。
「だって、見てのとおりだからよ」緑の肌のハイランダーは、空いている方の手でワタルたちの後ろの方を指し示した。大勢のヒトたちがたむろしている。その後ろには、雑木林を抜けて、こちらにやってくるヒトの列も見える。
「おふれが出て以来、ずっとこうなのよ」と、緑の肌のハイランダーは言った。「みんな、どこの誰がヒト柱に選ばれるのか、どうやったら選ばれずに済むか、知りたくてしょうがない。ここに来れば、星読みたちが何か教えてくれるんじゃないかと期待するのね」
「外塀の周りをうろうろされちゃ困るんで、注意してるんだがね。裏手へ回ってごらん。キャンプ村ができとるよ」門番が言った。「それでも、おとなしくしていてくれるならいいんだがね、なかには、天文台に入れろ、星読みの偉《えら》い博士に会わせろと暴れたり、ものを壊したりするヤツらもいるからね。警備が必要なんだ」
「そういう荒っぽい連中が、これからますます増えるわよ」
塀の上から周囲を見渡して、緑の肌のハイランダーは険しい顔をした。
「ハルネラ≠ェ終わるまで、ここは、連合政府の建物と同じ、第一種警備強化地区の扱《あつか》いを受けることになったの。だからあたしたちも駆《か》り出されて──」
言葉の途中《とちゅう》で、彼女はカモシカのようにしなやかに駆け出した。塀の上を飛ぶように走ってゆく。
「あ、あそこ!」ミーナが指さした。「誰《だれ》かが塀を乗り越えようとしているわ!」
みすぼらしい身なりの痩《や》せた男が、煉瓦塀をひっかくようにしてよじ登ろうとしている。緑の肌のハイランダーは、その男が射程|距離《きょり 》に入る場所までゆくと、ぴたりと止まって弓を構えた。
「そこの者! 止まれ! 塀から離れろ! 警告に従わねば撃《う》つぞ!」
塀の上を巡回していた他のハイランダーも、反対側から駆けつけてきた。こちらは槍を構えている。二人の手厳しい警告に、痩せた男はすごすごと後ずさりして塀から離れた。
「なるほどなぁ」と、キ・キーマが唸《うな》った。「これじゃ警備も要《い》るわなぁ」
「俺はただ、建物のなかに入れてもらいたいだけなんだ」と、みすぼらしい身なりの男は、ハイランダーたちを見あげて訴えた。「悪いことをするつもりはないよ」
「天文台には、許可なき者は入れない」
「だって、どこへ行けば許可を出してくれるっていうんだい?」
「ここは政府の施設《し せつ》だ。一般人《いっぱんじん》は立ち入ることができない」
「そんなの不公平じゃねえか」と、男は口を尖らせた。「政府の偉い奴らはいいよ、絶対にヒト柱に選ばれっこないからな。高処《たかみ 》の見物だ。だけど俺たちにとっちゃ、切実な問題なんだぜ。星読みの学者さんたちに会って、ヒト柱にされないためにはどうしたらいいのか、教えてほしいと思うのが当然だろ?」
いつの間にか男の周りにはヒトびとが集まっていて、そうだそうだという声をあげた。
「たとえ星読みの大学者でも、女神さまのお決めになることを、事前に知ることはできない。諦《あきら》めて家に帰り、おとなしくしていることだな」と、ハイランダーは言った。
「そんなのひどいじゃないかよぉ」
「さあ、あんたらも今のうちに、グズグズしないで早くなかに入ってくれ」門番が、錠前に鍵《かぎ》を差し込みながら促《うなが》した。「すぐに閉めないと、集まっている連中がうるさいから」
ワタルたちが門の内側に入り、鉄の門扉は音をたてて閉じられた。それを聞きつけて、またヒトびとが門の方へ集まってきた。制止する門番を押しのけるようにして、てんでに鉄格子にすがりつき、隙間《すきま 》に顔を押しつけている。
「あたしたちも入れておくれよう」
「あんたらだけ特別扱いなんて、ずるいじゃないか!」
鉄格子をあいだに隔てると、ヒトびとの顔はなおさらに悲しく、無力に、そして惨《みじ》めに見えた。あちら側からは、僕らがどう見えているのだろう。ワタルはやりきれなくなった。
「早く、そのバクサンとかいう博士のところに行こうぜ」キ・キーマが促した。彼にしては本当に珍しく、嫌悪《けんお 》感でげんなりしたような表情を浮かべている。「俺は、信仰《しんこう》を失った、ああいう連中を見るのも嫌だ」
ミーナは黙っていた。ワタルも口を閉じたまま、案内図に従って歩き始めた。
建物のなかは、迷路《めいろ 》のように入り組んでいた。小さな部屋があちこちにあり、場所によっては、部屋のなかを通り抜けなければ、先へ進む廊下《ろうか 》に出られないところもあった。とにかく階上を目指すつもりでいても、階段がどこにあるかわからない。
驚くほど大勢のヒトびとがいた。大部分は星読みたちだったけれど、まだあの筒袖を着る資格のない学生なのか、作業着のようなものを身につけた若いヒトびとも、せっせと立ち働いている。小部屋のなかに溢《あふ》れんばかりに集まって議論しているかと思えば、ずらりと並んだ机に向かって何かしら計算していたり、辞書のような分厚い本のページに天眼鏡をあてていたり、巻物から巻物へ文章を書き写していたり、とにかく忙《いそが》しそうだ。狭《せま》い通路で、両手に本を抱《かか》えた星読みとぶつかって、謝ったり本を拾ったり、今度はまた別の星読みとぶつかったり。おまけに、星読みたちはみんな、頭のなかが学問や研究ではちきれそうなのだろう、階段はどこですかとか、ここは何階ですかとか問いかけても、とんちんかんな返事がかえってくるばかりである。
「ここは、最初からこんな背の高い建物じゃなかったんだろうな」汗《あせ》を拭《ふ》きながら、キ・キーマがこぼした。「建て増し建て増しで、どんどん上に積みあげていったんだろう。だから、階段がひとつの場所にないんだ」
それでも、階段を見つけてのぼるたびに、灯《あか》り取りの窓から見おろすと、地上が遠くなってゆくのがわかった。やがて、門番の言っていた、裏手の森のなかのキャンプ村も見渡せるくらい、高いところまでのぼった。
「案内図だと──この階のはずだ」
十階か十一階分のぼったところで、ワタルは息をついた。その階にはヒトが少なかった。廊下など、がらんとしている。静かだ。
「この突《つ》き当たりだと思うよ」
と、指さしたドアがさっと開いて、赤い筒袖を来た女性の星読みが、せかせかと出てきた。またぞろ両手いっぱいに本を抱えている。
「バクサン博士はおいでですか?」
ワタルは大声で訊いた。星読みの女性は、口のなかで何か公式みたいなものをブツブツ呟いているだけで、返事もせずに階段を駆け降りていった。
「ま、行ってみようよ」
そのドアに近づき、ノックをした。
「無用である!」と、大きな声が返ってきた。なかなかの張りのある、男のヒトの声だ。
三人は顔を見合わせた。「入っていいってことじゃないの?」と、ミーナが言った。
そろそろとドアの隙間から室内に首をのばしてみると、目の前に、うずたかく積みあげられた本と巻物の山が鎮座《ちんざ 》していた。山はひとつではなく、ざっと見た限りでも五つはあった。部屋の二面は大きな窓で、その外側には青い空が広がっている。室内は陽《ひ》の光でいっぱいで、眩《まぶ》しいほどに明るかった。
「バクサン博士はいらっしゃいますか?」
部屋の奥にあるふたつの本の山のあいだで、埃《ほこり》がぼわんと立ちのぼった。
「無用である!」と、またあの声が言った。
「あの、僕らバクサン博士にお会いしたくて来たんです」
また埃がぼわんと舞《ま》いあがる。
「ならばこちらにおいで! 私はそんなところにはおりませんぞ!」
あら、あの声がバクサン博士なんだ。失礼しますと前置きして、ワタルたちは部屋のなかに踏《ふ》み込んだ。
「博士、どこですか?」
「ここぢゃ!」と、また埃。さっきとはちょっと場所が違う。なにしろ本だらけで狭いので、ワタルたちはバラバラに分かれ、とにかく通れる場所を通って部屋のなかほどまで進んだ。
しかし、博士の姿はない。キ・キーマは首をひねっている。「いないぜ?」
「博士、どこにいらっしゃるんです?」
「ここにおると言うておろうが!」
ワタルのすぐ足元で声がする。ちょっぴり怒《おこ》っているみたいだ。
「ここって──」
誰かがブーツの紐《ひも》をひっぱっている。ちらりと視線を落として、ワタルはきゃっと叫《さけ》んだ。思わず後ろに飛び退《の》くと、背後の本の山にぶつかってしまって、
「おお、危ない!」
ガラガラと崩れ始めた。キ・キーマがわっと喚《わめ》いた。その山の向こう側にいたらしい。
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30 バクサン博士は語る
「何という粗忽《そ こつ》!」バクサン博士は小さな拳《こぶし》を振《ふ》り回し、ワタルの腿《もも》をポカポカ殴《なぐ》り始めた。「ここにある書物は、女神さまのつくり賜《たも》うたすべての金、すべての水晶《すいしょう》、すべての玉《ぎょく》を集めてもまだ購《あがな》えぬほど貴重なものばかりなのぢゃ! こら、その足を退けんか、そこにも本が落ちておる、踏《ふ》んでしまう!」
ワタルはできる限り急いで、できる限り静かに身体《からだ》を移動させ、その場に低くしゃがみこんだ。そうするとやっとこさ、バクサン博士と同じくらいの身の丈《たけ》になった。
バクサン博士は、とてもとても小さなヒトだった。身長は、ワタルの腰《こし》のあたりぐらいまでしかない。濃《こ》い紫色《むらさきいろ》の地に、金色の線が何本も入ったきれいな筒袖《つつそで》を着て、同色の円筒形《えんとうけい》の帽子《ぼうし 》をかぶっている。帽子のてっぺんにはあの星の形の文様が刺繍《ししゅう》されている。
バクサン博士は、とてもとても歳《とし》をとっているようでもあった。ふさふさした白髪《はくはつ》が、肩《かた》の上まで豊かに垂れている。眉毛《まゆげ 》も真っ白で、こちらは博士の胸元《むなもと》まで届く長さだ。さらには口髭《くちひげ》も真っ白で、博士の爪先《つまさき》まで届いている。実のところ、ピンク色の鼻のてっぺんを除いては、顔の大部分が眉毛と口髭に隠《かく》れてしまっている。
「バクサン博士ですよね?」
ワタルの問いかけに、小さな博士は鼻の頭を真っ赤にして拳を振り回した。
「この部屋におる博士は私だけぢゃ! 無駄《む だ 》な問いに時を費やす者はお仕置きぢゃ!」
ポカスカぽかすか! 本の山をかき分けて顔をのぞかせたキ・キーマとミーナが、
「ワタル、そんなところにしゃがんで何やってるんだ?」
「あー、そこの図体《ずうたい》の大きな水人よ!」バクサン博士はぴょんぴょん跳《は》ねた。「その本の山に触《さわ》るでない!」
二人も、ワタルが相対している小さな博士に気がつくと、あんぐりと口を開けた。
「博士は、パン族のヒトなんですね」
「俺、パン族に会ったのは初めてだ」
「パン族って?」
「とても身体が小さくて、とても頭が良い種族なの。もともとはアンカ族の仲間だったと言われているんだけど」
「遠い昔に、アンカ族とパン族のあいだで戦争が起こって、パン族は身体の大きいアンカ族に滅《ほろ》ぼされそうになって逃《に》げ出したんだ。それからは流浪《る ろう》の民《たみ》になって──」
キ・キーマは珍《めずら》しそうにしげしげとバクサン博士を観察している。
「とっくに滅びたと思ってたぜ」
「滅びておらずに悪かったな!」バクサン博士は、今度は蹴《け》りを出した。とても可愛《かわい》らしい革《かわ》の編み上げ靴《ぐつ》をはいていた。「ササヤには、野蛮《や ばん》なナハトや強欲《ごうよく》なアリキタでは生きられない少数種族がまだまだおるのぢゃ!」
「ス、スミマセン! 失礼しました」
ワタルはあわてて謝りながら、両手でバクサン博士の攻撃《こうげき》を遮《さえぎ》った。
「僕たち、博士に教えていただきたいことがあって伺《うかが》ったんです。先生のお名前は、星読みのシン・スンシさんから聞きました」
ちっちゃな拳を振りあげたまま、バクサン博士はぴたりと止まった。
「なに、シン・スンシとな?」
「はい。先生のお弟子《で し 》さんですよね?」
「弟子ではない。生徒ぢゃ」博士は長い長い口髭をひっぱりながら、首をかしげた。「あのいくじなしがハイランダーと知り合いになるとは意外ぢゃな」
ポカスカやりながらも、博士はちゃんと、ワタルのファイアドラゴンの腕輪《うでわ 》には気づいていたようである。
「シンさんはいくじなしなんかじゃありませんよ。嘆《なげ》きの沼《ぬま》≠フそばで、立派に観測を続けています。僕、道に迷って、シンさんに助けてもらったんです」
「なるほど。なれば感心なことぢゃったな。それ以前に、道に迷うハイランダーというのは少々情けないと言わねばならんが」
ミーナがぷっと吹《ふ》き出した。
「おぬしら、何の用があるか知らぬが、わしは忙《いそが》しいのぢゃ」
「それはわかってます。でも──」
「でも、は通らぬ。わしは忙しい。帰るがよろしい。でわ!」
子猫《こ ねこ》のようにすばしっこく、積みあげられた本の隙間《すきま 》に紛《まぎ》れこんでしまおうとする博士を、まことに失礼なことながら、ワタルはつかまえた。とっさに、服の後ろ襟《えり》をつかんで持ちあげたので、ホントに猫みたいにぶらさげることになってしまった。
「わわわ! 何をする! この無礼者!」
「すみません、でも、どうしても教えていただきたいんです、博士ならご存じだと思うんです、運命の塔《とう》に続く道を──」
「運命の塔ぢゃと?」ぶらさげられてジタバタしていた博士は、その苦しい体勢のまま、首をよじってワタルを見あげた。
ワタルはうなずいて、言った。「僕は旅人≠ネんです」
長い両眉を持ちあげて、博士は目を瞠《みは》った。それで初めて、つぶらな黒い木の実みたいな瞳《ひとみ》が見えた。それはけっして老人の瞳ではなかった。その輝《かがや》き。ふと、ミツルの瞳を思い出した。
キ・キーマがちょっと首をすくめて、ミーナに、「博士はものすごい物知りのはずだろ? 旅人≠チていうだけで、なんであんなに驚《おどろ》くんだ?」と、囁《ささや》いた。
「そうか」と、バクサン博士は、うってかわって静かな口調で言った。「それではまず、わしのブーツを探してくれんかの?」
「ブーツ、はいてますよ?」
「この靴ではないのぢゃ。そのへんにある。おお水人よ、おぬしの後ろぢゃ」
それは木でできたブーツだった。正確に言うならば、ロングブーツの形に似せて作った、丈の高い踏み台だ。ワタルはその上にバクサン博士を乗せてあげた。すると、ワタルがしゃがまなくても、顔を合わせて話ができるくらいの高さになった。
「この水人とネ族の娘御《むすめご》は、あなたの仲間かな?」と、博士はワタルに尋《たず》ねた。
「そうです」
「ならば、二人は外してくれい。下の様子を知っておろう? おふれ以来、無知で無垢《む く 》で無力なものたちが詰《つ》めかけてきて、日頃《ひ ごろ》は静かなこの学府が、まるで市場《バザール》のような有様ぢゃ。行って、警備を手伝ってやってくれ」
二人とも少し不満げな目をしたけれど、ワタルがうなずきかけると、黙《だま》って部屋を出ていった。
「扉《とびら》を閉めておくれ」バクサン博士はワタルに言った。「閉めたら、こちらへおいで」
ワタルが博士のそばに戻《もど》ると、博士は眉毛を持ちあげていっそう大きく目を見開き、ひとしきりワタルを観察した。それから、おもむろに小さな両手を差し出して、ワタルの手を握《にぎ》った。
「ようこそ、旅人≠諱v
厳粛《げんしゅく》な、重々しい口調だった。
「その顔色、その目の翳《かげ》りから察するところ、あなたがここに来られたのは、ハルネラ≠フ何たるかをすべて知ったからぢゃと思うが、いかがかな?」
「おっしゃるとおりです。僕は、自分がヒト柱に選ばれるかもしれないと知っています」
「ふむ」バクサン博士はワタルの手を放すと、祈《いの》るように胸の前で指を組んだ。「あの二人のお仲間は、あなたが知っていることをまだ知らぬ。そうですな?」
「そうです。僕は話していませんから」
「して、あなたはここに何を求めておいでになったのぢゃろうか?」
この問いに、答える言葉を知らないからこそ来たのです。ワタルは少し間をおいてから、「長い話になります」と言った。
「かまいません。どうぞお話しなされ」
いちばんはじめから、ワタルは語った。そもそもミツルに助けられて、旅人≠フ資格を得ることになったところから、サーカワの長老と話したところまで。
バクサン博士は、ワタルの言葉が途切《と ぎ 》れるまで謹聴《きんちょう》していた。高いブーツ型の踏み台の上で、その小さな身体はピクリとも動かない。
やがて、言った。「我ら星読みは、星の動きと、この幻界《ヴィジョン》≠ナ起こる事どもとを照らし合わせて、世の理《ことわり》を見出すべく学問をしております」
小さな身体から迸《ほとばし》る、威厳《い げん》に満ちた声の響《ひび》き。
「しかしまことに残念なことながら、サーカワの長老は少しばかり我らを買いかぶりすぎておられるようぢゃ。旅人≠運命の塔へ導く宝玉の在処《ありか 》については、わしをはじめとしてこの学府の誰《だれ》も、何の知識も持ち合わせてはおりませぬ。古文書《こ もんじょ》にもそれらの記述はない。そも、わしは旅人≠ノあいまみえるのは、今が初めてのことでございます」
丁寧《ていねい》な口調のままに、博士はワタルに一礼をしてみせた。
「そうですか……」
落胆《らくたん》は隠せなかった。反面、ほっとしたような気もした。こんな気持ちのままでは、たとえ今この瞬間《しゅんかん》に奇跡《き せき》が起こり、宝玉が全部|揃《そろ》ったとしても、それを使って運命の塔へ行くことができるかどうか、自信がない。
「サーカワの長老は、女神《め がみ》さまの御前《おんまえ》にたどり着けば、何を問いかけるべきか、自《おの》ずとわかると言っていました」
「しかし今のあなたは、その言葉が信じられぬ。そうですな?」
「はい」
「それはすなわち、あなたがあなた自身を信じられぬということぢゃ」
静かな断言だった。
「僕は──どうすればいいんでしょうか」
バクサン博士の口髭が動いた。どうやら微笑《ほほえ 》んだようだった。
「わしが何か答えましたら、あなたはその答に従いますかな?」
もちろん、返事などできなかった。
バクサン博士は、両手を腰のあたりで組むと、講義をするような口調になって言った。「先ほども申したとおり、星読みは世の理を解き明かそうとして学問を重ねております。むろん、まだまだ道は遠く、我らにわかっていることよりも、わかっておらぬことの方が多い。我らが得た知識を、ひと匙《さじ》分の砂糖に喩《たと》えるならば、まだ得られずにおる知識は、視界いっぱいに広がるサトウキビ畑に喩えることができる」
「砂糖の山じゃなくて、サトウキビ畑?」
「そのとおり。そのままではただ広大であるばかり。砂糖を得るには、刈《か》り取り、精製をせねばなりませぬ。効率の良い刈り取りの仕方も、不純物の混じらない精製の方法も、同時に学び研究していかねばなりませぬ。学問し知識を得るというのは、そういうこと」
ワタルの通っている現世の学校では、そんなことは言ってなかった。
「今、わしが手にしておるひと匙の砂糖のなかから、ほんの少し、あなたに差し上げられるものがあるとすれば、それは──」
木のブーツの上で、バクサン博士はよちよちと向きを変え、わざとワタルに背を向けた。
「幻界は、旅人≠フ心を映して姿を変える──という知識でございますかな」
ワタルは、ずいぶん以前に同じような言葉を聞いたことを思い出した。そう、ラウ導師だ。おためしのどうくつ≠フ試練を終えて旅立つワタルに、こう忠告してくれた。
──幻界は、そこを行く者によって姿を変えるのじゃ。
だから、ワタルの見る幻界とミツルの見る幻界は別物だと。
それだけじゃない、当のミツルも言っていたじゃないか。幻界は、現実世界に住む人間の想像力のエネルギーが創《つく》り出した場所だと。
「今、幻界を訪《おとず》れている二人の旅人≠ヘ、珍しいことに現世でも友達ぢゃ」と、バクサン博士は言った。「それ故《ゆえ》に、あなたたち二人、それぞれの心に応じて姿を変える幻界に、似通ったところがたくさん出てきた。重なり合うところもたくさん出てきた。互《たが》いに気にかけあっているからこそ、そういうことが起こる。だから、あなた方は時折だが遭遇《そうぐう》する。袖すりあう。そういうことです。けっして、ラウ導師のお言葉は嘘《うそ》ではありませんぞ」
ワタルはうなずいた。でも、それだけじゃ納得《なっとく》がいかない。
「でも博士、僕はこんな、ヒト柱なんて残酷《ざんこく》なことを望んではいません。幻界が本当に僕の心を映しているなら、どうしてこんな辛《つら》いしきたりが──」
「本当にそうぢゃろうか?」
思いがけないほど大きな声で、博士はワタルを遮った。そして、腰のところで手を組んだまま、きゅっと振り向いた。ところが、そんな急な動作をするには、木でできたブーツの上は、あまりに狭《せま》すぎた。
「おりょ!」と声をあげ、両手をバタバタさせて、博士はブーツの上から転がり落ちた。
「博士! 大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
ワタルが叫《さけ》んでブーツの後ろをのぞきこんだとき、研究室のドアがバタンと開いた。扉が壁《かべ》で跳ね返るほどの凄《すご》い勢いだった。
怒声《ど せい》が轟《とどろ》いた。「バクサン博士はいるか? 出てこい! 出て来るんだ!」
ただならぬ声の響きに、ワタルは本の山のあいだをすり抜《ぬ》けて、ドアの方へ向かった。山積みされた本のあいだから顔を出したとたんに、
「近寄るな! 誰も近寄るんじゃねえ! 言うとおりにしないと、こいつを殺すぞ!」
思わず息を呑《の》んで、ワタルは本の陰に隠れた。そうっとのぞいてみると、ドアのところに、見あげるような大男の獣人《じゅうじん》が立ちはだかっていた。一人ではない。さっきここへあがってきたとき、すれ違《ちが》ったあの女性の星読みが一緒《いっしょ》だ。彼女は獣人に捕《と》らえられている。背後から羽交《は が 》い締《じ》めにされて、首のところに獣人の鋭《するど》い爪《つめ》を突きつけられているのだ。
「バクサン博士、いるんだろ? 出てこい! 弟子が死んでもいいのか?」
「わしはここにおる!」バクサン博士が大声を出している。「ここにおるが、一人では起きられんのぢゃ!」
ワタルは背後を見た。なるほど、床《ゆか》に落下したバクサン博士の上に、あの木のブーツが倒《たお》れかかっていた。どうやら、ワタルがドアの方へと急いだときに、肘《ひじ》でブーツを押してしまったらしかった。あわてて近寄ってブーツを起こし、博士を救出した。
「わしはここぢゃぞ!」
博士はあたふたとドアの方へ走り出した。ワタルはまた博士の襟をつかんで止めた。
「飛び出しちゃダメです。相手は人質《ひとじち》をとってます」
「なに?」
「博士ぇ」星読みの女性が泣き声を出した。「すみません、この忙しいのにぃ。でもわたし、殺されそうですぅ」
「なんと、あれはロミぢゃ!」
今度はつかまえるまもなく、博士はドアの方へ飛び出した。ワタルはそろりそろりと床を這《は》い、本の山をさっきとは反対側に迂回《う かい》して、獣人の姿が見えるところまで移動した。
「おお、ロミ!」
とととと走って近寄ろうとするバクサン博士に、獣人は足を蹴り出した。「近寄るな! 下がれ!」
危《あや》ういところでキックをかわした博士は、床に転がった。がばと起き直ると、両手を振りあげ、鼻の頭を真っ赤にして怒《おこ》った。
「わしがバクサンぢゃ! おぬしが出てこいと言ったから出てきたのに、その態度は何ぢゃ! 早く弟子を放《はな》せ!」
「博士ぇ、危ないです」ロミが苦しそうな声を出した。「このヒト、本気です。近寄っちゃいけません」
「わしとて本気ぢゃ!」バクサン博士は勢いよく跳ね起きると、「痴《し》れ者め、わしに何の用があっての狼藉《ろうぜき》ぢゃ? 話があるなら、乱暴をせずにきちんと話したらどうぢゃ?」
もっともな問いかけだけど、ワタルの見るところ、ロミを捕らえている獣人は、理屈《り くつ》の通じる状態ではないようだった。ガサラのハイランダー、トローンを思い出させるトラに似た姿だが、トローンよりもさらにふた回りぐらい身体が大きい。簡素な布の服を着ているが、汚《よご》れている上にボロボロだ。興奮で両目は血走り、口の端《はし》にはあぶくのような泡《あわ》がたまっている。息づかいは荒《あら》く、呼気は熱い。自分でも抑《おさ》えがきかなくなっているのだろう、足の爪まで剥《む》き出しにしている。
床の上に点々と血が垂れていた。ロミが傷つけられたのかとドキリとしたが、よく見ると、獣人の左腿に矢が一本|突《つ》き刺《さ》さっていた。警備のハイランダーに射かけられたのだろう。
「おい、チビのジジイ! 本当におまえがバクサン博士なのか?」
「さっきからそうぢゃと言うておろうが!」
バクサン博士は小さな足で地団駄《じ だんだ 》を踏んだ。こんな緊急《きんきゅう》の場ではあるけれど、まるでタップダンスを踊っているみたいな見事な足さばきに、ワタルは感心した。博士、弟子の星読みたちを相手に、しょっちゅうこうやって地団駄を踏んでいるのかもしれない。
獣人は口から泡を吹きながら、いっそう強くロミを羽交い締めにした。ロミがきゅうというような声をあげた。
「おまえはたいそうな学者だそうじゃないか。知ってるんだろう? 教えろ。どうやったらヒト柱に選ばれずに済む?」
バクサン博士は地団駄をやめると、口髭を床に垂らし、ちょっとのあいだ獣人を見つめた。それから言った。
「なんぢゃ、結局はそのことか」
「当然じゃないか! ちゃんとわかってるんだからな! おまえらは研究してるはずだ。政治家たちや金持ち連中にその知識を流して、たいそうな金をもらってるんだろ?」
「わしらはそんなことはしておらん」博士の口調が、急に沈《しず》んだ。「おぬしらがそんな益体《やくたい》もない妄説《もうせつ》に振り回される気持ちはわかる。わかるが、それはデタラメぢゃ。ヒト柱に選ばれずに済む方法など、この世の誰にもわかりはせん」
「嘘をつくな! ごまかそうったってそうはいかねえぞ!」獣人は血走った目を剥き、唾《つば》を飛ばして怒鳴った。「こいつが死んでもいいのか? 俺は本気なんだからな!」
ロミはさらに首を締めあげられる。小柄《こ がら》な彼女は、すでに、獣人の腕で半分|吊《つ》りあげられたような格好になっていて、それだけでも充分《じゅうぶん》に苦しそうだった。必死で爪先《つまさき》立ちしているけれど、今度ぎゅっと持ちあげられたら、足が完全に床から浮《う》きあがってしまうだろう。
ワタルは本のあいだに隠れながら、そろそろと移動した。何とかうまく、獣人の脇《わき》に回り込みたい。
「おぬしが本気なのはわかっておる。ハルネラ≠ェ終わるまで、心安んじて眠《ねむ》れる者は、この幻界にはおるまいて」バクサン博士は、言い聞かせるような静かな口調で続けた。「わしとて、ヒト柱に選ばれるかもしれぬ。誰にとっても他人事《ひ と ごと》ではない。わずかに、選ばれるのは地上でたった一人だということにしがみついて、己《おのれ》は大丈夫であろうという希望的観測の糸にすがって、皆《みな》、恐怖《きょうふ》に耐《た》えているのぢゃ」
ワタルは獣人の左側に回り込んだ。ワタルの潜《ひそ》んでいる本の山を挟《はさ》んで、右手に獣人、左手には窓。こちら側から、肩のあたりに魔法弾《ま ほうだん》を一発あてることができれば、獣人はロミをつかまえている腕を放すだろう。そしたら前に飛び出して、ロミと獣人のあいだに割り込むのだ。
研究室の入口の方からは、さっきから人声がしている。ハイランダーたちが戸口を固めているに違いない。ロミが自由になったとわかれば、彼らも室内に突入《とつにゅう》してくる。
タイミング勝負だ。ワタルはゆっくりと勇者の剣《けん》を引き抜くと、しっかりと柄《つか》を握りしめた。もうちょっと──もうちょっと向こうを向いてくれよ──そうでないとロミにあたってしまう──もうあとほんの少し十センチくらいでいいから。
そのとき、甲冑《かっちゅう》を鳴らす音も重々しく、研究室の入口に、一人の騎士《き し 》が姿を現した。
「そのくらいにしておいたらどうだ」
穏《おだ》やかだが張りのある声で、騎士は獣人に呼びかけた。
「博士のお言葉に嘘はない。ここでいくら騒《さわ》ぎを起こしても益はないぞ。ただおまえが監獄《かんごく》に逆戻りするだけの話だ」
思わず、ワタルは構えを解いて剣をさげた。あのヒトは──シュテンゲル騎士団のロンメル隊長じゃないか。
白銀の鎧《よろい》に包まれたその姿は、さながら鋼《はがね》でできた騎士の像のように堂々としていた。でも、よくよく見れば、胸のプレートや肘あてや臑《すね》あてに、無数の傷がついている。隊長は兜《かぶと》をかぶらず、無造作に顔をさらしていたが、その金色の髪《かみ》は乱れ、初めて会ったときと比べると、心なしか頬《ほお》がこけたようにも見えた。
剣は腰につけたまま、手甲《てっこう》に包まれた拳を軽く握って身体の脇に、一切《いっさい》の武張《ぶ ば 》った構えを見せずに、隊長は一歩獣人に近づいた。
「ハルネラ≠ヘ女神さまの御心《みこころ》のなせる業《わざ》だ。地上の我々にできるのは、女神さまの御意思が示される時を粛々として待ち、時至ればさらに粛々とそれを受け入れることだけだ。さあ、人質を解放して、こちらに来なさい」
獣人は荒い息を吐《は》きながら、ロミを捕らえたままじっと固まっていた。瞬間、彼は隊長の説得に従いそうに見えた。ロミの首を絞《し》めあげる腕が緩《ゆる》みかけたようにも見えた。
が、次の瞬間、何か凶暴《きょうぼう》な風のようなものが獣人の身内から湧《わ》きあがり、それが彼をぶるぶると身震《み ぶる》いさせた。
「貴様はシュテンゲル騎士団だな」獣人は食いしばった歯のあいだから呻《うめ》いた。「おまえらのようなヒト殺しの言うことに、誰が耳を貸すものか!」
この言葉には、ワタルだけでなくバクサン博士も驚いたようだった。南大陸の治安を守るシュテンゲル騎士団を、ヒト殺し呼ばわりするとは何事だ?
ロンメル隊長は動じなかった。軽く右手を差し出して、「おまえが私の知っている、ナハトの農民ギュ・タイタスであるならば、今の悪罵《あくば 》は、おまえ自身にこそあてはまる言葉ではないかね?」
「うるさい!」獣人は喚《わめ》いた。「俺はヒト殺しなんかじゃない!」
「ナハトのジュザで強盗《ごうとう》を働き、駆《か》けつけたハイランダー二人を手にかけて逃亡《とうぼう》したのはおまえだ。応援《おうえん》の要請《ようせい》を受け、捕縛《ほ ばく》に向かった私の部下を傷つけたのもおまえだ」
ロンメル隊長の落ち着き払った口調は変わらなかった。
「その罪で捕らえられ、ガサラで裁判を受けて終身刑《しゅうしんけい》となり、ゴルゴグ監獄へ送られた。三日前、そこを脱走《だっそう》する際にも、看守二人を襲《おそ》ってそのうち一人を殺害している。行く先々で血を流し、ヒトの命をふみにじっているのは私ではない。シュテンゲル騎士団でもない。おまえだ」
「うるさい、うるさい、黙れぇ!」獣人が闇雲《やみくも》に片手を振り回すと、鋭い爪が空《くう》を切った。「俺たちを故郷の村から追い出したのは誰だ? 強盗や追い剥《は》ぎをしなくては暮らしがたたないように追い込んだのは誰だ? みんなおまえたち連合政府の奴《やつ》らじゃないか! 俺たちを根絶やしにしようとしやがった! そうして今度は、一族でたった一人生き残った俺をヒト柱にしたてあげようとしてやがる! 知ってるんだ、俺は知ってるんだ! 連合政府は、女神さまが勝手にヒト柱を選ぶ前に、こっちから先にヒト柱を捧《ささ》げてしまおうとしてるんだ! 囚人《しゅうじん》さ! 俺たちのような囚人をヒト柱にして、それで女神さまと手を打とうという魂胆《こんたん》だ!」
ロンメル隊長は、睫毛《まつげ 》の先さえ動かさなかった。ほとんど黒に近いほど濃い蒼色の瞳は、冴《さ》え冴《ざ》えと冷たかった。
「それも、おまえの妄想に過ぎん」
「うるさいぃぃ!」
ひび割れた声で叫ぶと、
「俺は捕まらんぞ! 二度と捕まったりするもんか!」
喚きながら、ロミを抱《かか》えたまま、獣人はワタルの左手の窓に向かって突進した。ここが最上階であることを忘れているのか、その突進にはまったく迷いがなかった。呆気《あっけ 》にとられるような一瞬、ワタルは、両目を恐怖に見開いたロミが、首を絞めつけている獣人の腕から逃《のが》れようと空《むな》しく抵抗《ていこう》しながらも、軽々と運ばれてゆくのを見た。獣人の突進による振動《しんどう》で、そこらじゅうの本の山がガラガラと崩れだした。獣人の後を追おうとして前に飛び出したロンメル隊長の上にも、たくさんの本が倒れかかって道を塞《ふさ》いだ。
「うおおおおおおぉ!」
獣人は肩から窓にぶつかり、ガラスが木《こ》っ端《ぱ》微塵《み じん》に砕《くだ》け散り、次の瞬間には、その身体は宙に飛び出していた。道連れにされたロミの筒袖の裾《すそ》が、優雅《ゆうが 》に空に泳いだ。
獣人とロミは、またたきするほどのあいだだけ、中空に止まっているみたいに見えた。
絶叫《ぜっきょう》があがった。
獣人の声だった。にわかに正気に返り、地上までの高さを思い出したようだった。耳が逆立った。
そして彼は落ち始めた。ロミを連れて。
ワタルは飛び出した。足の下でガラスがメリメリと鳴った。剣を放《ほう》り出し、両手を前に、窓の手すりにしたたかおなかをぶつけて、それでも前に。
ふんわり。ロミの筒袖が空にたなびく。ワタルの指がそれに触《ふ》れ、それをつかまえてがっちりとつかんだ。ぐいと重みがかかった。
獣人の腕はロミから離《はな》れていた。それでも、いくら彼女が小柄でも、重力は容赦《ようしゃ》なかった。ワタルは彼女の服をつかんだまま、自分の両足が床から浮くのを感じた。ひっぱられる。窓の外に引きずり落とされる──
獣人と一緒に、横様に飛び出した彼女の筒袖の、ワタルは腕と脇の部分をつかんでいた。彼女は仰向《あおむ 》けになっていた。落ち始めたとき、眼鏡《めがね》が緩んで顔から外れた。それが今、持ち主よりも一足先に、石ころのように落下してゆく獣人の後を追って地上へ落ちてゆく。ロミもそれに続く。ワタルもそれに続く。
本能でもなく機転でもなく、純粋《じゅんすい》な偶然《ぐうぜん》が、ワタルの両足の爪先を、ぐいとばかりに立てさせた。それは窓枠《まどわく》にひっかかった。ワタルは窓から逆さまにぶらさがった。物理的な法則に従って、彼女の身体はワタルの下で建物の壁にどすんとぶつかり、片方の靴が脱《ぬ》げて眼鏡の後を追った。
まだ落ちてない。認識《にんしき》が、ワタルの頬を殴りつけた。落ちてない、まだ。でも時間の問題だ。爪先が──長くは保《も》たない。ちょっとしか保たない。足首が伸《の》びてしまう。そしたら一緒に真っ逆様だ──
窓の内側で怒声と騒音《そうおん》が入り乱れている。この本はどうなってるんだ! クソ! ガラガラ、どさどさ!
「ダ、駄目」恐怖に色を失い、口を開けて、ロミがかすれた声を絞り出す。「お、落ちちゃう。あなたまで落ちちゃうわよ」
返事ができなかった。口をきいたりしたら、そんなところにエネルギーを回したら、足首が伸びてしまう。手が緩んでしまう。
そう思っただけで、指が滑《すべ》った。ロミの服の脇をつかんでいた左手が、離れた。彼女はがくんと下がった。はずみで、彼女の腕をつかんでいる右腕も緩んだ。
「つ、つかまって」ワタルは必死で言った。「つかまって、る、んだ、よ」
早く助けに来てくれ! 隊長! 早く本の下から抜け出して!
「あ、たし、駄目──落ちるぅ」
ワタルは右手でつかんだ彼女の腕をひっぱろうとした。それがかえってまずかった。すべすべした布が、手のなかで逃げた。つかみなおす──つかみなおして──滑って──
何か硬《かた》い小さなものが、ワタルの手のなかに奇跡のようにひっかかった。ロミの足が揺《ゆ》れた。その振動が、ワタルにまで伝わって足首が伸びそうになって、ブーツが壁にこすれて、わずかに下へずるりと動いた。
「離して──離さないと──あなたまで」
この硬い小さな丸いもの。ロミの筒袖の袖口のボタンだ! 指と指のあいだにしっかりと挟まっている。これに力を込《こ》めるのだ。これでロミを引っ張りあげるのだ。
そのとき、無情にも、手のなかでボタンがブツリと音をたてた。糸が切れたのだ。
スローモーション。ロミの髪がふわりと揺れる。そして彼女は落ちる。ワタルの手のなかにボタンの感触《かんしょく》だけを残して。上と下。驚きで顔を見合わせる二人。ワタルの足首も緩む。緩んでゆく。逆さまになったまま、身体が建物の側面に沿ってずり落ちる。
突然、腰のあたりを誰かの強い腕につかまれた。ぐいっと引き戻される。そして視界の隅を、何か真っ赤なものが矢のように横切った。赤い流星。
「ロミ!」
ワタルは窓の内側にひっぱり込まれながら、翼《つばさ》をたたんでまっしぐらに下降してきたカルラ族が、地上すれすれのところで鮮《あざ》やかにロミをキャッチするのを見た。それから、後ろざまにひっくり返った。
床の上は本だらけだ。そこらじゅうに落ちた分厚い本の角が、背中にあたって痛いったらない!「間にあったようだな」
窓枠から外に乗り出して、ロンメル隊長が声をあげた。地上から大勢のヒトたちの声が聞こえてくる。歓声《かんせい》をあげている。ひゅうひゅうと指笛も聞こえる。
ワタルは床の上で起きあがった。隊長が振り向いてこちらを見ると、にやりと笑った。
「また会ったな」
「はい」と応じる声が、今さらのように腑抜《ふ ぬ 》けみたいにフワフワしていた。「僕を助けてくれたのは、隊長さんですか?」
室内には大勢のヒトたちがいた。本だらけの床の上を這い回っている。シュテンゲル騎士団の甲冑をつけた騎士達も混じっている。
「君が自分で自分を助けたんだよ。よく頑張《がんば 》ってぶらさがっていたものだ」
「もう駄目かと思いました」
「窓まで駆けつけるのに、手間取ってしまった。まるで本の雪崩《なだれ》だよ。もがいてももがいても抜け出せないんだ」
「皆さんは何をしてるんです?」
「バクサン博士を探している」
床を埋《う》め尽《つ》くす本の下のどこかから、博士の声が聞こえてくる。「ここぢゃ! ここぢゃというのに!」
ワタルは吹き出した。
どうやら無事らしい。ロンメル隊長も笑顔になった。
「ワタル!」
出入口のところで声がしたかと思うと、ミーナが飛び込んで──来ようとして、騎士の一人に止められた。
「このあたりに博士がおられます。踏んづけないでください!」
「大丈夫よ、あたしなら!」
ミーナはぴょんとジャンプすると、壁を蹴って鮮やかに反転し、ワタルの傍《かたわ》らにぴたりと着地した。
「下で見てたの。死ぬかと思ったわ!」
「僕もそう思ったよ」
「怪我《け が 》はない?」
ようやくバクサン博士が発掘《はっくつ》され、子供のように騎士に抱き取られて、姿を見せた。
「おお、無事ぢゃったか?」
「はい。ロミさんも大丈夫です」
「ありがとう、ありがとう!」
本の上を滑ったり転んだりしながら近づいてくると、博士はワタルの手を取って振り回した。
「あなたはロミの命の恩人ぢゃ」
「でも、あの獣人は──」
博士はつと顔をあげて、ロンメル隊長を仰《あお》いだ。「あなた方は、あのギュ・タイタスとかいう獣人を追いかけて来たのですかな?」
ロンメル隊長は、姿勢を正して一礼した。「そのとおりです。博士、このような事態を引き起こし、深くお詫《わ》びを申しあげる」
「わしの記憶《き おく》が確かならば、ギュ・タイタスと言えば囚人だったはずぢゃが?」
「はい」
「各地の監獄で、囚人がヒト柱に選ばれるというデマが飛び交《か》っておることは聞き知っておりました。しかし、脱獄まで引き起こすほどの騒ぎになっておるとは」
「我々の力が足りないのでしょう」
そのときやっと、隊長が窶《やつ》れたような顔をしているのは、南大陸各地で発生している混乱のせいなのだと、ワタルは悟《さと》った。
「僕らはここに来るまでのあいだに、目立った騒動には遭《あ》いませんでした。でも、ひどいことになっている場所もあるんですね?」
ロンメル隊長はうなずいた。「君たちハイランダーにも、まもなく緊急|召集《しょうしゅう》がかかるだろう。カルラ族がここに来合わせていたのも、ひょっとしたらその召集書を運んできたからかもしれないよ」
ミーナが不安そうにワタルを見た。でも、ワタルは別のものを見ていた。自分の右手を。
まだ、握りしめていた。その指のあいだから、明るい金色の光が漏《も》れている。
「これ、何?」ミーナが目を瞠《みは》った。
ワタルはゆっくりと掌《てのひら》を開いた。ロミの筒袖の袖口についていた、丸いボタン──
それが光り輝いている。
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31 第二の宝玉
掌《てのひら》の上からふわりと浮《う》きあがると、ボタンはちょうどワタルの目の高さにぴたりと止まった。輝《かがや》きが増し、そこから発する光は、さながら聖剣のように真《ま》っ直《す》ぐで、ワタルの瞳《ひとみ》の奥底まで照らし出すようだった。
「二番目の宝玉だ──」
ワタルの呟《つぶや》きに呼応して、部屋中に散らばり、崩《くず》れてまた山を成している沢山《たくさん》の本の下から、もうひとつのまばゆい光が立ちあがった。第二の宝玉が発するのと同じ、金色の光。
「あっ、勇者の剣!」
ロミを助けに飛び出すとき、投げ捨てたままだった。ワタルは急いで光の射《さ》している場所に近づき、手をのばした。剣はそこにあった。それ自らの意思で、ワタルの右手にすぽりと収まった。
剣を手に振《ふ》り返ると、宙に浮いた第二の宝玉を中心に、金色の光が広がり始めた。それはやがて、すっぽりとワタルを包み込んだ。
研究室内のあちこちで、驚《おどろ》きの声があがる。しかしワタルは、目をそらさずに宝玉を見つめていた。
キラリ。宝玉がまたたいた。するとワタルの目の前に、輝かしい金色の光を身にまとった少年の姿が現れた。髪《かみ》も、瞳も、肌《はだ》も金色。背中には一対《いっつい》の黄金の翼《つばさ》があり、ゆっくりと羽ばたいている。右手に剣。左手に盾《たて》。
──ようやく巡《めぐ》り合えたな、旅人≠諱B
金色の少年は、凛々《り り 》しい顔をかすかにほころばせて、ワタルに呼びかけてきた。
──私は勇気を司《つかさど》り、鋼《はがね》の意志を尊ぶ精霊《せいれい》。
奏《かな》でるような美しい声だ。しかし、口調は重々しい。
──そして、女神《め がみ》に招かれし勇者に道を開くもの。
ワタルはうなずいた。
聞くがよい、勇者よ。私は私を望む者すべてのもとを訪《おとず》れる。しかし、飛び去るときはこの翼で、音もなく、時よりも速く去るだろう。勇気は、招くよりも生み出すよりも、留《とど》めることこそが難しい。心せよ。私を得る扉《とびら》は少なく、私を失う窓は多い。
「わかりました」ワタルはわずかに震《ふる》える声で答えた。
勇気の精霊はくちびるを一文字に結ぶと、目元だけで微笑《びしょう》した。
──女神のご加護のあらんことを。
精霊の姿は消え、金色の光に戻《もど》った。光輪が縮まり、第二の宝玉のなかに吸い込まれてゆく。ワタルは請《こ》うように右手を差しのばし、宝玉は掌のなかに収まった。
ワタルが第二の宝玉を勇者の剣の鍔《つば》にぴたりとはめこみ、剣を腰《こし》につけた鞘《さや》に収めるまで、室内は静まりかえっていた。
やがて、ロンメル隊長が口を切った。「これが旅人≠フ力か」
誰《だれ》かが女神の祈《いの》りを唱え始めた。ロミだ。
両手の指を胸の前で組み合わせ、目を閉じて、彼女はきれいな声で祈った。居合わせた騎士《き し 》たちも、ハイランダーたちも、星読みたちも、バクサン博士もミーナも、みんな彼女に唱和した。
女神を讃《たた》える言葉で祈りを終えると、ロミは目を開いた。瞳が輝いていた。
「そのボタン──いえ、本当はボタンじゃなくて、私の家では、星読みを導く石≠ニ呼んでいるんですけど、ずっと昔から、我が家に伝わっているものだったんです」
ロミの家は代々星読みをしていて、彼女の父親も、その父親も、みんなみんな星読みなのだという。
「私がこの天文台で学問をすることになったとき、父が自分の服につけていたのを取り外して、くれたんです。いつでも身につけて、大切にしろと。これは星からの贈《おく》り物、ご先祖さまから伝わったお守りなんだからって」
遠い昔、ロミのご先祖さまの星読みが、ある夜観測をしていて、金色の流れ星を見つけた。追いかけて行ってみると、美しく輝くこの石が落ちていたのだという話だ。
「我が家ではみんな、この石を身につけて、学問を続け、務めを果たしてきた。だからおまえも頑張《がんば 》るのだよって、父は励《はげ》ましてくれました。でも、まさかこれがそんな深い意味を持つ精霊の宝玉だったなんて──」
バクサン博士が、いつの間にかあの木のブーッの上にちょこんと乗っていて、重々しく咳払《せきばら》いをした。
「知識を求め、学問を続けることには、大きな勇気が必要ぢゃ。新しい知識が、素晴《すば》らしいものばかりだとは限らぬ。しかし、時にそれがどれほど自分にとって受け入れ難《がた》くても、信じたくなくても、明らかになった事実から目を背《そむ》けては、学問は成り立たぬ。世の中のすべてのヒトびとに後ろ指さされ、非難されようとも、真実を見極《み きわ》めたなら、それが真実だと叫《さけ》び続けねばならぬ時もある。学問には、ひるまずに前を向き続ける、鋼の意志が必要なのぢゃ。だから、星読みの家のもとに勇気の精霊の宝玉が留まっていたというのは、まことにふさわしいことに思えるがな」
「はい」ロミはうなずいて、にっこりした。「ワタルさん、助けてくれてありがとう」
バクサン博士は、一同に向かって呼びかけた。「さあ、シュテンゲル騎士団の皆《みな》さんよ。混乱や騒動《そうどう》で、あなた方が来るのを待っている場所は、ほかにもある。まだまだ増えてゆくぢゃろう。どうそ行ってくだされ。ハイランダーの皆さんよ、今の騒《さわ》ぎで、事情を知らぬヒトびとが怯《おび》えていることぢゃろう。慰《なぐさ》め、宥《なだ》めてやってくだされ。そして我が弟子《で し 》たちよ──」
両手を腰にあてて、エヘン。
「この部屋を片づけるのぢゃ!」
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32 ワタル
先にたってよちよちと階段をのぼりながら、旅人≠ノ会うのは初めてぢゃが、知識は持っておる」と、バクサン博士は言った。「その宝玉を使って、現世《うつしよ》の様子を見に戻《もど》ることができるはずぢゃが?」
「はい、そうです」
「それには、剣《けん》の鍔《つば》に刻まれておるのと同じ、文様が必要なのぢゃよな? ならば、ここにも文様がある。観測器のある部屋ぢゃ。わしについておいで」
緩《ゆる》やかなカーヴを描《えが》く階段を、半階分だけのぼったところに、観測室はあった。これまで見てきた部屋とは違《ちが》って、壁《かべ》も床《ゆか》も半透明《はんとうめい》に白っぽく輝《かがや》く石でできていて、よく磨《みが》きあげられており、顔が映るほどだ。部屋は円形で、観測器は真ん中に据《す》えられている。シン・スンシの小屋で見たものを、十倍ぐらいのサイズにして、台座を取りつけてある。巨大《きょだい》な望遠鏡だ。筒形《つつがた》の部分をドーム型の半透明の天井《てんじょう》に向けているところは、ちょっと大砲《たいほう》にも似て見えた。
「陽《ひ》が落ちると、この天井は透明になる」ぐるりと手で示して、博士は説明した。「光を受けると白く濁《にご》り、光が消えると透《す》き通る石で作られておるからな。この不思議な石は、アリキタの限られた鉱山の鉱床《こうしょう》からしか、採取することができぬ」
博士は、ちょうど望遠鏡の筒先の真下で立ち止まった。「ここへおいで」
白い石の床の上に立って、博士は足元を指さして見せた。
「ここに文様がある。しかし、今は見えん。文様の部分だけは、天井と同じ石でできておるから、陽があるうちは床の石の色に紛《まぎ》れてしまうのぢゃ。陽が暮れたら、浮《う》きあがって見えるようになる」
その前に、もう少し話しておきたいと、博士はワタルに向き直った。
「先ほどは、わしの弟子《で し 》を助けてくれて、本当にありがとう。あらためて御礼《お れい》を申しあげる」
腰《こし》を折って、深く頭をさげた。
「あなたの勇気と、あなたの優《やさ》しさ、あなたの心の真《ま》っ直《す》ぐなことを、わしはこの目で確かめることができた」
褒《ほ》められているのだ。でも、博士の瞳《ひとみ》は厳しくワタルを見据えている。
「しかし、そのうえで、あえて申し上げよう。あなたならば、きっとわかってくれると確信したが故《ゆえ》に」
思わず、ワタルは姿勢を正した。
「わしは言った──幻界《ヴィジョン》≠ヘあなたの心を映して姿を変えると。同じことを、ラウ導師もあなたに教えた」と、博士は言った。「それはどういうことか。考えてごらん。幻界で起こる事柄《ことがら》が、あなたの心を映しているのならば、なぜ種族差別があるのか。なぜヒト柱が必要なのか」
それこそが、ワタルの疑問だ。その答を知りたくてここに来たのだ──
「なぜ、そのように理不尽《り ふ じん》で過酷《か こく》な事柄が、この幻界に存在するのか」念を押すように繰《く》り返してから、博士はゆっくりと続けた。「答はひとつぢゃ。よろしいかな。それは、あなたの心のなかにも、それらの理不尽が存在するからぢゃ。己《おのれ》と姿形の違うものを嫌《きら》ったり、考えの違うものを退けたり、何かを厭《いと》うたり、誰《だれ》かを嫌ったり、他人よりは常に良い思いをしたいと願ったり、他人の持っておるものをうらやんだり、それを奪《うば》おうと企《たくら》んだり、己が幸せになるために、他者の不幸を望んだりする心が、あなたのなかにも存在するからぢゃ。幻界の有りようは、ただそれを映して形にしているに過ぎません」
「ちょ、ちょっと待ってください」思いがけないこの非難に、ワタルは思わず声を張りあげた。「僕はそんなこと──」
「わかっておる、わかっておる」バクサン博士は手をあげてワタルを押しとどめた。「あなたは勇敢《ゆうかん》ぢゃ。あなたは優しい。あなたは他者を思いやる。友を思いやる。あなたは善良ぢゃ。しかし、そのあなたのなかにも、憎《にく》しみがあり、妬《ねた》みがあり、破壊《は かい》がある。それはどうすることもできぬ真実。目をそらし背を向けて逃《に》げ出すことはできぬ真実」
あまりのことにぽかんとしながらも、ワタルは思い出していた。それは出し抜《ぬ》けに頬《ほお》を張られて、目が覚めるような気分だった。
嘆《なげ》きの沼《ぬま》で見たあの幻影《げんえい》。薄《うす》ら笑いを浮かべながら、父に生き写しのヤコムを殺したワタルの分身。父の愛人に生き写しのリリ・ヤンヌを殺し、彼女の腹から生まれた石の赤子に、この血も涙《なみだ》もないヒト殺しと責められて、あわてて逃げ出したワタル。
あれもまた、自分の真実だったのではないか。その意味で、あれは幻覚などではない。あれもワタルの一部。ワタルの心が望んでいることが、幻界のなかに現れたもの。
「あなただけではない。ヒトは皆《みな》、同じぢゃ。例外はない。まったき善の心を持つヒトなど、おるわけがない。いたとしたら、それはまったき悪よりもなお邪悪《じゃあく》であろうよ。そういう心を映して形を成す幻界があったとしたら、わしはそこだけには行きたくないと願う」
「博士──」膝《ひざ》から力が抜ける。「僕の心にある憎しみや怒《いか》りが、差別やヒト柱の形をとって、幻界のヒトたちを苦しめてるというんですか? だったら僕さえいなければ、僕が立ち去れば、こんな苦しみや理不尽は終わりになるっていうんですか?」
「とんでもない。それは違いますぞ」
「だったら──どうすればいいっていうんです?」
バクサン博士は一歩ワタルに近づくと、研究室でそうしたように、両手でワタルの手を取った。
「すべてはあなたの内にある。あなた自身を映して、幻界は形を成している。それを知った上で、進みなさい。どうすれば女神《め がみ》さまのおわす運命の塔《とう》にたどり着けるのか、あなた自身が迷いながら探しなさい。それこそが、正しき道を歩む≠アとぢゃ」
「そんなこと言ったって、わからないよ!」
ワタルは手をふりほどこうとしたけれど、博士はがっちりと握《にぎ》っていて放してくれない。
「差別も破壊も憎しみもあなたならば、友情も優しさも勇気もあなたぢゃ。己だけはヒト柱になりたくないと焦《あせ》るのもあなたならば、ヒト柱を要求する女神さまに怒りをおぼえるのもあなたぢゃ。他種族を差別し、この世の不都合をすべて彼らのせいにして済まそうとする輩《やから》もあなたなら、我が身をかえりみず他者を助けようとするのもあなたなのぢゃ。あなたは何度も命の危険にさらされた。あなたを殺そうとするものが、幻界にはおる。それもあなたぢゃ。しかし一方で、何の損得|勘定《かんじょう》もなしにあなたを助け、あなたの力になろうとする仲間たちもおる。それもあなたぢゃ」
老神教徒たち。あのギロチン。今に自分たちが南大陸を支配するのだとうそぶいたアンカ族の少年。
ミーナの歌声。キ・キーマの笑顔《え がお》。
どちらもワタルの心から生まれたもの。
「あなた自身を見つめなさい。憎しみと怒り、優しさと勇気。どちらも等しくあなたのものぢゃ。それを直視した上で、運命を変えるとはどういうことなのか、結論を出すのぢゃ。あなたがその答を得たときに、運命の塔への道は開ける。そして道が開けたときには、女神さまに何を願えばいいか、あなたは知っているはずぢゃ。女神さまに会えば答が得られるのではない。女神さまに届く正しき道≠アそが、そのままあなたの解答なのぢゃ」
ワタルは首を振った。「だけどヒト柱は? 僕はこんなもの認めない。賛成なんかしてない。自分がヒト柱にされるのだって嫌《いや》だ! だから、それができるならば、今すぐにだって運命の塔に行って、女神さまにお願いしたいくらいだ。ヒト柱なんてやめてくれって」
「そしてあなたは現世に帰る」バクサン博士は静かに言った。「あなたの運命を何も変えぬまま、あなた自身も何ひとつ変わらぬまま、現世に帰る。あなたをして幻界を訪《おとず》れさせるほどに、強かった願いは、何もかなえられぬままに」
「それでもいいって言ったら?」
「今は良いだろう。一年は良いかもしれぬ。五年も良いかもしれぬ」
しかし未来はどうだろうか?
「人生のどこかで、いつかあなたは後悔《こうかい》することぢゃろう。ヒト柱に選ばれるかもしれぬという恐怖《きょうふ》に負け、ヒト柱という残酷なしきたりに対する怒りに負け、自分の運命を変えることができた、たった一度きりのチャンスを棒に振《ふ》ったことで、自分を恨《うら》むぢゃろう。仲間たちを恨むぢゃろう。あの水人やネ族の娘《むすめ》がヒト柱にされるのが嫌だから、自分は自分のチャンスを捧《ささ》げてしまった。あの連中さえいなければ、幻界で親切にしてくれた仲間たちなどいなければ、誰がヒト柱にされようが知ったことではなかったのに、と思うぢゃろう。自分がヒト柱にされないよう、もう一人の旅人≠出し抜いて、さっさと運命を変えて現世に帰ってしまえば良かったと、歯噛《は が 》みをして悔《くや》しがることになるぢゃろう。現世でその身に降りかかる不幸や不運のすべてを、幻界でのたった一度の決断の上に帰することになるぢゃろう。そしてあなたの恨み、あなたの憎しみ、現世で傷つくあなたの心をそっくり映して形を成す幻界では、他種族差別よりも、ヒト柱よりも、もっともっと酷《ひど》い出来事が起こるようになるぢゃろう」
僕は──そんなふうにはならない──と、言うことができない。
「わかるぢゃろう? あなたはまだ正しき道を見出《み いだ》してはいないのぢゃ」バクサン博士の声が優しくなった。「だから、今あなたが下す決断はすべて、未来のあなたを裏切る。必ず裏切る。サーカワの長老の言葉は正しい。そのとおりに解釈《かいしゃく》すればよろしいのぢゃ。謎掛《なぞか 》けでも何でもない。正しき道を見出して女神さまに会え。わしも同じ忠告をするだけぢゃ。それしか忠告することはできぬ」
バクサン博士はワタルの手を離すと、ドームの天井を仰いだ。
「陽が暮れたら、星の下、文様を踏《ふ》んで、あなたはいったん現世へ戻る。誰に会うのか、誰と何を話すのか、わしは尋《たず》ねませぬ。戻ってきたときにも何も尋ねませぬ。あなたの心が求めるままにすることぢゃ。しかし、その結果、あなたがこの旅を諦《あきら》めるという結論を出したときだけは、わしの研究室においで。ラウ導師のもとに手紙を届けて、要御扉《かなめのみとびら》を通れるようにしてあげるから」
「今まで──そういうことをした旅人≠ヘいるんですか?」
「いるよ。旅を打ち切る旅人≠ヘ珍《めずら》しくない。古文書《こ もんじょ》にも、ちゃんと書き留めてある。現世に戻る者もおるし、少数だが、そのまま幻界に留《とど》まる者もおる。己の心をそのまま映す世界で暮らすのは、それなりに平和なのかもしれぬ」
ワタルは頭《こうべ》を垂れた。僕にはできない。今、現世に逃げ帰ってしまうなんてできない。
「僕、母さんに会ってきます」顔をあげて、ワタルは言った。
光の通路を通って戻った先は、また病室だった。だが今度は、時刻は夜ではなく、夕暮れだった。淡《あわ》い茜色《あかねいろ》の陽射《ひ ざ 》しに包まれて、三谷邦子はベッドの上に半身を起こして座っていた。ぼんやりと、窓の外に目をやっている。
光の通路から、ワタルはベッドの脇《わき》に降りた。しかし邦子は気づかない。薄《うす》い陽射しのなかで、その頬を伝う涙《なみだ》の筋が見える。
ずいぶんと痩《や》せた。急に歳《とし》をとったようにも見えた。でもワタルの母さんだ。懐《なつ》かしさと申し訳なさとがごちゃ混ぜになって心に溢《あふ》れ、喉元《のどもと》まで込《こ》みあげた。
「母さん」と、ワタルは呼んだ。自分でも驚《おどろ》くほどに、弱々しい声しか出なかった。今、母さんと話さなければならないという気持ちと、こんなに悲しい母さんを見たくはない、母さんだって見られたくはないだろうという気持ちが大波のように襲《おそ》いかかってきて、ワタルを惑《まど》わせ、くじけさせた。このまま立ち去ろうか。すべて済んで、何もかも終わって、帰ってきたときにうち明ければいいじゃないか。まだまだ先が見えない今のうちに事情を話して、心配させることなんかないじゃないか。
そんなふうに自分を宥《なだ》めて、危《あや》うく踵《きびす》を返そうとしたそのとき、邦子がつと手をあげて、目を拭《ぬぐ》った。
やっぱり泣いているのだ。
その認識《にんしき》が、ワタルを揺《ゆ》り動かした。僕がいないところで、母さんを泣かせておいたらいけない。心配をかけるよりも、そんなことは、もっと良くない。そんなことは、絶対にしちゃいけないんだ。ここで母さんをほったらかしにしたら、僕が帰ってくるまでのあいだに、母さんはきっと身体《からだ》を損《そこ》ねてしまう。心をすり減らしてしまう。
この冒険《ぼうけん》、この旅は、もはやワタル一人のものではない。そして、幻界を行くワタルに必要なものが、現世で待つ母にも必要なのだ。
それは、希望。
「母さん」
今度は大きくはっきりとした声で、ワタルは呼びかけた。俯《うつむ》いたまま、邦子は大きく両目を見開いた。そして、弾《はじ》かれたようにこちらに顔を向けた。
「亘?」と、小さな呟《つぶや》き。ワタルが一歩ベッドに近づくと、驚きに見開かれていた邦子の目のなかに、光が灯《とも》った。
「亘!」
叫《さけ》んで、両手で布団《ふ とん》をかき分け毛布をはね除《の》け、邦子はベッドから降りようとした。ワタルは両腕《りょううで》を差しのべて母に飛びつき、ぎゅっと抱《だ》きついた。もうずいぶん以前から、こんなふうに母さんに抱きついたことなどない。それでもわかった。記憶《き おく》のなかにある母さんの身体はもっとふっくらとしていた。こんなにか細くはなかった。
「亘、亘、亘なのね?」
ぽろぽろと涙をこぼしながら笑い、ワタルを抱きしめながら揺さぶり、腕を緩めて両手でワタルの顔を包み、瞳をのぞきこんで、
「ああ、ホントに亘だ! 帰ってきたのね! いったいどこに行っていたの? どうしていなくなったりしたの?」
邦子は大声で泣きだした。
「ごめんね、母さん」
ワタルも泣いてしまった。心が身体の内側いっぱいにふくらんで、指先の一本一本にまで、髪《かみ》の先まで、足の爪先《つまさき》まで、涙と喜びが溢れていた。
「心配かけてごめんね。一人にしておいてごめんね。だけど僕は、いつだって母さんのことを考えてたよ」
「今まで、どこにいたの? 誰があなたを連れ出したの? 逃げてきたの? 怖《こわ》い目に遭《あ》わされなかった?」
涙に濡《ぬ》れた母の問いかけに、ワタルは腕でぐいと顔を拭うと、母の手を取ったまま、しゃんと姿勢を正した。
「母さん、僕は旅をしてるんだ。自分の運命を変える旅を」
もちろん、母がすぐに納得《なっとく》するわけはない。「何ですって? 何を言ってるの? お母さんにはわからないわ。あなたが一人でどこへ旅をするというの?」
そして握《にぎ》りしめたワタルの両手を広げてみせると、頭のてっぺんから爪先まで、ぐるぐると眺《なが》め回した。
「この格好は何? どうしてこんな──ヘンなものを着てるの? 腰に付けてるのは剣じゃない! 何でこんな危ないものを持ってるの? どこで手に入れたの?」
光の通路が開いている時間は短い。急がなければならない。はやる心をぐっと抑《おさ》えて、ワタルは言った。「それより、まず教えてよ。母さんの具合はどうなの? ずっと病院にいるよね? お医者さんはどこが悪いって言ってるの?」
「わたしのことなんかどうでもいいのよ!」
「よくないんだよ。だって僕はホラ、元気だから。ね? 僕はどこも何ともないよ。無事なんだ。母さんは僕よりもたくさんガスを吸い込んじゃったんだね?」
それでなくても青ざめた邦子の肌が、さらに色を失った。「おまえ──お母さんは、あんなバカな真似《ま ね 》をして──おまえを死なせてしまうところだった──」
「いいんだよ。僕は怒ってなんかいない。母さんは疲《つか》れてたんだ。何もかも嫌になっちゃってたんだ。仕方がないよ。僕は大丈夫《だいじょうぶ》だった。母さんよりもずっと大丈夫だった。友達が助けに来てくれたからね。芦川美鶴が。そして僕を幻界《ヴィジョン》≠ヨ案内してくれたんだ」
「ヴィジョン?」
手早く説明するのは難しかった。ワタルの話の道筋は行ったり来たりして、言葉も前後が入れ違ったりして、話せば話すほど邦子の顔には当惑《とうわく》が広がり、ワタルの肩を抱きしめる腕には力がこもっていった。そうすることで、何かわけのわからないものからワタルを引き戻そうとするかのように。
「僕は自分の運命を変えたかった。父さんが田中理香子に会わなくて、僕らを捨てて出ていったりしない、そんなふうに運命を変えたかった。以前の生活を取り戻したかった。そのために運命の塔を目指して出発したんだ」
だけど、旅を続けてゆくうちに、わからなくなってきた。
「たとえ運命を変えても、僕は変わらないってことに気がついた。僕が変わらなかったら、どれほど運命だけをいじっても、悲しみも憎しみも失くならない。幻界は、それを僕に見せてくれてる。僕の心のなかにあるものをそっくり映し出して、見せてくれてる」
そう、そういうことだった。そうなのだ。母に説明しながら、ようやくワタルは理解し始めたのだった。こうして話していると、バクサン博士の言葉、サーカワの長老の忠告、ラウ導師の教えが、自分の血となり肉となるのが感じられる。
「僕は最初、何もかもなかったことにできれば、それで済むと思っていた。また幸せになれるって。でも違うんだ。それだけじゃ、また別の悲しみや苦しみが訪れたときに、前と同じことになっちゃうだけなんだ。運命を変えるってことは、嫌なことを消してしまうことではないんだ。出来事は消せても、僕の心は消せないんだから」
女神に願い、ヒト柱のしきたりを失くしたところで、自分だけは犠牲《ぎ せい》になりたくないと思うヒトの心の弱さは消せない。女神の力で他種族差別を失くしてもらったところで、自分の身に降りかかる気に入らない出来事を、外見や習慣や、何か自分と違ったところのあるヒトたちのせいだと思いたがる心も消えない。それと同じだ。幻界は僕の心を映す。それは、そういうことだ。
「亘──」
まだ頬は濡れていたが、邦子の涙は止まっていた。迷い、怯《おび》えたような表情は変わらないが、我が子を見つめる彼女の目のなかに、それまでにはなかった新しい火が灯った。それはごくごく小さな火ではあったが、確かにそこで燃えていた。
この子は何を言ってるのだろう? まるで熱に浮かされているか、夢でも見ているようだ。好きなゲームにどっぷりと浸《ひた》りすぎて、その世界から出られなくなってしまったみたいだ。
だけど──だけどそれでも、この子は、
(強くなった)
邦子は悟《さと》ったのだ。言葉は夢物語のようだけど、でもこの子は確かに成長してる。
「怖くなることもあるよ。悲しいこともある。どうしていいかわからないことだっていっぱいあったし、これからもまだまだあると思う。でも母さん、僕は旅を続ける。きっと正しき道を見つけ出して、運命の塔へ行ってみせる。そこにはきっと、僕の求めてるものがある。僕が最初にほしがっていたようなものじゃないけど、僕が本当に必要としてるものが。だから母さん、僕を待ってて。必ず帰ってくるから、僕が旅を終えて戻ってくるのを待っててください!」
力強い言葉に、邦子はいったん我が子から手を離すと、まるで祈《いの》るように指を組んだ。バクサン博士の研究室で、女神の祈りを唱えていたロミと同じ姿で。
「きっと帰ってこられるの?」
「絶対に!」
「おまえ、おまえは一人なの?」
ワタルは強くかぶりを振った。「一人じゃないよ。仲間がいる!」
「旅をしたら──おまえは──本当に」
邦子は言葉を切って、おろおろと瞳を動かした。「行方《ゆくえ》不明になってる──おまえだけじゃないのよ、その芦川って子も」
「知ってる。あいつも幻界にいるんだ。でも、探し出して一緒《いっしょ》に帰ってくるよ。必ず一緒に帰ってくるよ」
ワタルの言葉が語る筋書きではなく、言葉に込められた明るい力が、邦子に伝わり始めていた。邦子の心に染《し》みこみ始めていた。
「母さんはどうしたらいいの?」
「信じて待ってて」ワタルはきっぱりと言って、笑顔になった。
邦子の顔に、母が子供を送り出すときにだけ浮かべることのできる、魂《たましい》のいちばん純粋《じゅんすい》な部分に咲《さ》く花のような、美しい微笑《ほほえ 》みが浮かんだ。
「それだけでいいの?」
「うん!」
光の通路から、帰還《き かん》を促す鐘《かね》の音が聞こえてきた。ああ、時間切れだ。
もう一度、しっかりと母を抱きしめると、ワタルは言った。「早く元気になってね。お祖母《ば あ 》ちゃんとルウ伯父《お じ 》さんにも、僕は大丈夫だって話しておいて」
邦子も強く抱きしめ返した。母子のあいだの不思議な絆《きずな》を通して、彼女のなかにも新しいエネルギーが注ぎ込まれた。
「それじゃ、僕は行くよ」
ベッドから離れようとしたとき、病室のドアにノックの音がした。声が呼びかける。
「邦子さん、起きてるかい?」
ドアが開いて、顔を出したのはルウ伯父さんだった。ワタルは光の通路へと歩みだしていた足を止めた。「伯父さん!」
ルウ伯父さんは、ドアから一歩入ったところに棒立ちになっていた。目も口もまん丸にぽかんと開いて、片手に提《さ》げていた大きな紙袋《かみぶくろ》を、どさりと取り落とし、
「わ、わ、わ」
その音で我に返った。
「亘じゃないか!」
駆《か》け寄ってくるルウ伯父さん。しかし、ワタルの耳にはあの鐘の音が聞こえていた。さっきよりもずっと急《せ》いている。光の通路の入口も、非常灯のように明滅《めいめつ》している。
「伯父さん!」片足を通路の入口にかけて、ワタルは大声で言った。「僕は大丈夫だよ! 伯父さん! 母さんをお願いします! きっと帰るから、僕、きっと帰ってくるから、それまで待っててね!」
ワタルは通路に飛び込んだ。ルウ伯父さんがのばした腕が空をかく。
「ごめんね、伯父さん!」足元から、早、消え始めた通路を駆け出しながら、ワタルは肩《かた》ごしに呼びかけた。「行ってきまぁす!」
通路を駆けているあいだ、新しい涙が込みあげてきた。ワタルは拭いもせずに走った。走るそばから、踵《かかと》のギリギリのところで通路が消失してゆく。
幻界側の出口が見えてきた。身体を前に倒《たお》し、走って走って、追いかけてくる混沌《こんとん》を振り切り、ワタルは頭から出口へと飛び込んだ。
何かどっしりとしたものにぶつかった。それは「ウオッ」と叫んでワタルを受け止めた。
「うへ! ワタル、ワタルだな?」
キ・キーマだった。文様を取り囲むように、みんなが立っている。ミーナもいる。バクサン博士も、ロンメル隊長もロミもいる。
「良かった!」ミーナが駆け寄ってきた。「通路が消えそうで、ハラハラしてたのよ」
ワタルはキ・キーマに抱きついていた。その大きな胸、頑丈《がんじょう》な肩と太い腕は、たった今別れてきたルウ伯父さんを思い出させた。ミーナの優しい声の温《ぬく》もりは、母さんを思い出させた。ああ、そうだ。そうなんだよ。
現世も幻界も、心はひとつ。
「大丈夫ぢゃな?」
すべてを見抜き、すべてを承知している落ち着いた口調で、バクサン博士が問いかけた。
「はい、僕は大丈夫です」
バクサン博士は満足そうにうなずいた。
「心配したよ、ワタル」キ・キーマはワタルを床の上に降ろすと、大きく胸を撫《な》でおろす仕草をした。
「緊急《きんきゅう》|召集《しょうしゅう》がかかったの」つぶらな目に真剣な光を湛《たた》えて、ミーナが言った。「わたしたちハイランダーも、南大陸の混乱を治めるために、新しい指令をもらったのよ」
ワタルはうなずいた。ロンメル隊長の蒼い目と目を合わせて、しっかりとうなずいた。
「わかった。出発しよう!」
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33 逃亡者
ハイランダーたちは、国営天文台の門の外に集合していた。あわてて合流したワタルたちは、ここに着いたときよりもさらにハイランダーたちの数が増えていること、そして、集会に加わらず、持ち場を守って警備を続けているハイランダーたちの表情が、目に見えて厳しくなっていることに気がついた。
「お集まりの諸君、聞いてくれ」
どやどやと集まったハイランダーたちの輪の中央で、野太い声が響《ひび》いた。演壇《えんだん》がわりの木箱の上に乗り、一同をぐるりと見回したのは、キ・キーマよりもさらに大柄《おおがら》な水人族のハイランダーだ。丸い盾《たて》を背負い、腰《こし》から青龍刀《せいりゅうとう》を提《さ》げている。身体《からだ》はびっしりと鎧《よろい》のようなウロコに覆《おお》われているのに、さらにその上に革《かわ》の胸当てをつけていた。
「俺の名はボレ・キム・ナン。ここルルドのブランチ長を務めている」
彼は朗々と声を張りあげた。
「連合政府より、ルルドが第一種警備強化地区の指定を受けるに伴《ともな》い、各ブランチより諸君に応援《おうえん》に駆《か》けつけてもらったことに、まず御礼《お れい》を申しあげる。幸いルルドの町と天文台内では、今までのところ、大きな混乱は発生していない。つい先ほど、多少の出入りがあったようだが、事件の芽は未然に摘《つ》むことができた。諸君の精勤のおかげである」
ハイランダーたちはおしなべて大柄なので、彼らが立ち並んでいるなかに入ると、ワタルはすっぽりと人垣《ひとがき》に埋《う》もれてしまう。キ・キーマがひょいと腕《うで》を差しのべて、ワタルを右肩《みぎかた》に乗せた。ついで左腕を差し出すと、何も言わずとも通じて、ミーナがその腕につかまり、するすると左肩の上によじ登る。
見晴らしがよくなると、国営天文台の正面|玄関《げんかん》から、ロンメル隊長が降りてくるのが見えた。鎧を身につけ、兜《かぶと》を小脇《こ わき》に抱《かか》えている。階段を降りきって前庭を横切ると、ハイランダーたちの輪から少し離《はな》れたところで立ち止まった。
隊長が出てくるのを待っていたのか、国営天文台の建物の脇から、甲冑《かっちゅう》姿の騎士《き し 》が五、六人、ウダイの手綱《た づな》を引いて現れた。隊長が彼らに軽くうなずきかけると、騎士たちは一度直立不動の姿勢になり、右手をのばして頭上に掲《かか》げてから胸にあてる──という隊長への礼を示して、それからようやく休め≠フ姿勢をとった。
騎士の引いているウダイのなかに、鞍《くら》の上に重そうな麻袋《あさぶくろ》を載《の》せているものがあった。ただの荷物ではない。袋ごしにも、頭や背中の形がうっすらと見てとれる。塔《とう》から落ちて死んだギュ・タイタスの亡骸《なきがら》だ。ルルドの町のブランチにでも運んでいくのだろう。
「この非常時に、さらなる緊急《きんきゅう》の指令が、全ブランチへと下された」
ボレ・キム・ナンは革の胸当ての隙間《すきま 》からひと折の書状を取り出し、その手を頭の上に振《ふ》りあげて、さっと広げてみせた。
「これは連邦《れんぽう》議会からのものではなく、我らを束ねるブランチの各首長からの緊急命令である。その内容は、逃亡《とうぼう》中の犯罪者の追跡《ついせき》と捕縛《ほ ばく》。南大陸連合国家の浮沈《ふ ちん》に関《かか》わる重要な機密|事項《じ こう》を盗《ぬす》み出した者が、現在、ナハトの国境を越えてアリキタへと逃走している。またその逃亡者は、このルルドにも出没する可能性が充分《じゅうぶん》に考えられる」
ハイランダーたちはざわついた。誰《だれ》かの声があがる。
「逃亡者は複数か?」
ボレ・キム・ナンは答えた。「いや、一名だ。氏名も年齢《ねんれい》も不詳《ふしょう》だが、アンカ族の男であることは間違《ま ちが》いない」
「どこの国の者なんだ?」
「それもはっきりしておらん。しかし人相書きはある。あとで諸君に配布する」
「そいつがアリキタに向かっているとしても、アリキタは広いぜ。もう少し、他に手がかりはないのか?」
同意のざわめきが起こる。ボレ・キム・ナンは重々しくうなずいた。
「この逃亡者は、北の統一|帝国《ていこく》へ渡航《と こう》しようと狙《ねら》っている」
えっと驚《おどろ》きの声。皆《みな》は急《せ》き込んでがやがやと話し合う。
「それじゃ、アリキタの港町か」
「ハタヤかダクラ──いや、ソノの港ということもありそうだな」
「いずれにしろ、街道《かいどう》は封鎖《ふうさ 》しないと」
よく通る女の声が、矢を射るように鋭《するど》く質問を投げた。「それじゃそいつは、帝国のスパイなんだね?」
「素性《すじょう》はわからん。しかし、そう考えるのが妥当《だ とう》だろう」
ざわめきが高まった。皆、気が立ってきたのだろう。あちこちで拳《こぶし》が握《にぎ》りしめられ、それが振り回されるので、それぞれの手首にはめられたファイアドラゴンの腕輪が揺《ゆ》れて、まるで野原の赤い花畑が風に吹《ふ》き乱されているかのように見える。
「諸君、聞いてくれ」
ボレ・キム・ナンは、ひと声で一同を鎮《しず》めた。彼の声がよく響くことはもちろんだけれど、そのいかつい顔に浮《う》かんだ表情が、皆を打ったのだ。
「先ほども言ったように、この命令は連邦議会から出たものではなく、我らのブランチ首長が連なり、独自の権限で発したものだ。これは希有《け う 》なことだと、諸君も知っているだろう。ブランチはその成り立ちはともかく、現在では、連邦政府に忠誠を誓《ちか》い、その膝下《しっか 》にある組織なのだから」
ワタルはミーナの顔を見た。なぜかしら、ふと妙《みょう》な胸騒《むなさわ》ぎを感じたのだ。ミーナもワタルの視線に気づき、こちらを向いた。
「当然のことながら、連邦政府はこの緊急命令に許諾《きょだく》を与《あた》えていない。議会の承認《しょうにん》なくしてブランチが所属のハイランダーたちに指令を下すことは、きわめて遺憾《い かん》だという公式見解を発表すると、議員たちは議事堂に籠《こ》もってしまった。依然《い ぜん》、そのままだ」
議員なんて役立たずばっかりだからサと、すぐ近くで女の声が言った。不味《ま ず 》いものをぺっぺと吐《は》き出したみたいな言い方だった。
「連邦議会は、アリキタの首都ザクルハイムにあるんだよ」と、キ・キーマが小声で教えてくれた。「ザクルハイムは内陸にあるから、港はない。工場も鉱山もない。ほとんど政治だけのためにつくられたような都市なんだ。各国代表議員が集まって住んでいて、一年のうち、半分以上は国会が開かれてる」
後の半年は何やってんだろう──と、ワタルが思ったそのとき、ボレ・キム・ナンがひときわ声を励《はげ》まして続けた。
「しかし、我らが首長たちの決断には、相応の理由がある。諸君」
彼はハイランダーたちを見回した。
「昨夜、我らがブランチ長四人の夢枕《ゆめまくら》に、女神《め がみ》さまが光臨なされた。そして、南大陸の平和を脅《おびや》かすこの逃亡者について、女神さま御《おん》自らがお告げをくだされた。故《ゆえ》に、ブランチ長らは寸時の迷いもなく、連邦議会に盾突《たてつ 》く結果になることをも恐《おそ》れず、我らに命令をくだされたのである」
キ・キーマが深く息を吸い込み、その胸がふくらむのを、肩の上に乗っかったワタルは、身体で感じた。見ると、キ・キーマの目がうっすらと潤《うる》んでいる。
「なんていう有り難《がた》いことだ……」と、彼は咳《つぶや》いた。「女神さまが光臨されるなんて……自らお告げをくだされるなんて……」
感激のあまり、彼がその場に額《ぬか》ずこうとするのを、ミーナがはたはたと彼の背中を打って、あわてて止めた。
「やめて、やめて、キ・キーマ。あたしたち、落っこっちゃう」
ハイランダーたちもどよめいていた。人垣がばらばらと崩《くず》れてゆく。ひざまずいたり、額ずいたり、頭《こうべ》を垂れて祈《いの》ったり、動作はさまざまだが、感激のほどはキ・キーマと同じだ。
「我らは創世の女神さまに仕える戦士。幻界《ヴィジョン》≠フ平和の守護者。この腕につけたファイアドラゴンの末裔《まつえい》の印に恥《は》じぬ働きを、今こそ女神さまの御前《おんまえ》に示すときである」
おう! と勝ち鬨《どき》があがった。士気が高まり、みんなを包む空気の温度があがるのを、ワタルは頬《ほお》に感じた。
ボレ・キム・ナンの指示で、ハイランダーたちはそれぞれの役割分担を決めるべく、チームごとに分かれて打ち合わせを始めた。興奮のせいで、みんな早口になっている。早くもウダイを急かして街道方面へ駆け出すチームもあった。
「俺たちはどうしよう? どうしたらいい? 街道を警備するグループに入れてもらおうか。それともルルドで網《あみ》を張るか?」
キ・キーマも逸《はや》っている。ワタルとミーナを両肩に乗せたまま、どっすんどっすんと足踏みだ。
「その逃亡者がルルドに寄る可能性があるっていうのは、どういうことなのかしら」
ミーナはキ・キーマの首につかまったまま、器用に小首をかしげた。
「北に渡るだけなら、ルルドに寄り道なんかしなくても、真《ま》っ直《す》ぐアリキタを目指せばいいのにね。ていうか、そもそも逃亡者はどこから来たのかしら」
「お告げじゃ、そこまではわからなかったのかな」と、ワタルは言った。「気になるね。そのことと、そいつが盗んだ重要な機密事項の内容と、関わりがあるのかもしれない」
「そっか。たとえば、機密を読み解くために、ルルドの星読みの知恵《ち え 》が必要だとか?」
ワタルはうなずいた。だとしたら、またぞろバクサン博士やロミたちの身が危険にさらされることにもなりかねない。
「ね、キ・キーマ。僕らはルルドに残って警備を手伝おうよ」
言いかけたとき、まだ兜を小脇に抱えたまま、部下たちを従えて、ロンメル隊長がこちらに近づいてきた。ワタルもミーナも、キ・キーマの肩から滑《すべ》り降りた。
「隊長……」
ロンメル隊長はワタルにうなずくと、キ・キーマの顔を仰《あお》いだ。隊長も長身だけれど、キ・キーマにはかなわない。
「大事のようだ。幼いハイランダーたちを、よく守ってやってくれ給《たま》え」
キ・キーマは歯を剥《む》き出した。急に怒《おこ》ってる。「ワタルは強い。隊長|殿《どの》にご心配いただくことなんざない」
言葉がぞんざいすぎるように思って、ワタルは思わずキ・キーマの革の腰巻きをひっぱった。ミーナは青灰色《ブルー・グレイ》の目を瞠《みは》っている。「我々はこれから、アリキタの鉱山町へ向かう」と、隊長はワタルに言った。「鉱山労働者が蜂起《ほうき 》して、騒ぎが拡大しているのだ。放置しておけば、大勢の死者が出るだろう」
「それも……ハルネラ≠フせいですよね」
「うむ。君たちも、もし逃亡者を追ってアリキタに入るようならば、重々注意をしてくれ。アリキタは、四《よっ》つの国のなかではもっとも大きく、人口も多い。飛び抜《ぬ》けて豊かでもあるが、その分、貧富の差も激しいのだ。そういう国情では、ハルネラ≠ェ与える恐慌《きょうこう》は、ササヤやナハトあたりとは比べようもないほどに、剥き出しで荒々《あらあら》しいものになるからな」
わかりましたと、ワタルは深くうなずいた。
隊長は立ち去りかけた。足が半歩出て、しかしそのとき、急に思い出したように──いや、胸に秘《ひ》めていたものをやっぱり吐き出そうと決断したかのように、さっと振り向いて、片手をワタルの肩に置いた。銀色の手甲《てっこう》がぎらりと光り、甲冑が鳴った。
「君は旅人≠セ」
隊長は、ワタルの目の底をのぞきこみながら言った。
「君の目的は、女神さまに会うことだ。余計なことに心を煩《わずら》わされ、危ない目に遭《あ》うことがないように、よくよく気をつけてくれ。幻界の治安は、幻界に棲《す》む者の手で守るべきだ。私はそう信じている」
隊長の蒼《あお》い目が、あまりにも鋭く光っているので、ワタルは魅入《み い 》られたようになってしまった。ワタルが求めている宝玉、勇者の剣の力の源泉である宝玉を思い出させる光だ。「今の話を、私も聞いていた」隊長は抑《おさ》えた口調で続けた。ワタルの顔から目をそらさない。「ブランチ長たちが連邦議会の許可なくハイランダーを動かし、議会の怒《いか》りをかえば、連邦議会に忠誠を誓っている我らシュテンゲル騎士団とも、この先、何処《ど こ 》かで敵対しなければならぬ局面が発生するかもしれない」
ワタルはあっと思った。そうだ。そういうことだ。だからこそ、キ・キーマが隊長に対して不作法な態度をとっているのだ。
「もしもそんなことが起こっても、君は巻き込まれてはならない。君は旅人≠セ。君がまっとうするべきは、君の使命だ。それを忘れるな」
そしてようやく、日焼けした頬をほころばせると、
「棘蘭《し らん》のカッツ≠焉Aきっと私と同じ意見を持っているはずだ。彼女は君の長《おさ》だ。今の言葉は、彼女の命令だと思って聞いてほしい」
そして今度こそ隊長は踵《きびす》を返し、身軽にウダイにまたがると、部下たちにひと鞭《むち》くれるような厳しい声をかけて、走り出した。
遠ざかる土埃《つちぼこり》を、しばらくのあいだ、ワタルは見守っていた。隊長たちが見えなくなると、ようやく、背中に視線を感じた。大部分のハイランダーたちは散会していたが、警備の者たちも含《ふく》め、まだ門の周辺に何人かが残っている。
彼らは一様に、ワタルに冷たい目を向けていた。その視線は、今の今までは、出立するシュテンゲル騎士団に向けられていたものであるに違いなかった。
「俺らは、シュテンゲル騎士団の仲間ってわけじゃないよ」
誰に抗弁《こうべん》するでもなく、大声の独り言として、キ・キーマが言った。
ワタルの胸に、もやもやとした霧《きり》のように、つかみどころのない不安が忍《しの》び込んできた。こんなことで、本当にハルネラ≠ェ乗り切れるのだろうか。幻界の平和が守れるのだろうか。
ロンメル隊長の気持ちは嬉《うれ》しい。でも、今や幻界の平和は、ワタルにとっても他人事《ひ と ごと》ではないのだ。ハルネラ≠ェ、半身《はんしん》≠ノ選ばれるかもしれないワタルにとって、身に迫《せま》る重大事であるのと同じように。
「あら?」
突然《とつぜん》、ミーナが声をあげた。
「どうしたのかしら? ね、ワタル、見て見て!」
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34 呼びかける者
ミーナは軽く両手を広げ、ワタルに向かって胸を突《つ》き出した。しっぽの先がひょこひょこと躍《おど》っている。
「真実の鏡≠セわ。輝《かがや》いてるの!」
確かに、ミーナの着ている短いベストの襟元《えりもと》から、白い光が溢《あふ》れているのだ。ミーナは首にかけた革紐《かわひも》をたぐり寄せ、真実の鏡を引っ張り出した。
「どうしたのかしら。何か映ってる!」
ミーナの手のなかの鏡を、ワタルとキ・キーマものぞきこんだ。そうだ、人影《ひとかげ》が映っている。白いローブのようなものを身に纏《まと》い、手に杖《つえ》を持った──魔《ま》導士《どうし 》だろうか? しきりと身振《み ぶ 》り手振りをしながら、こちらに語りかけているようだが、霞《かす》んでしまってはっきり見えない。
「周りが明るいからだ。日陰《ひ かげ》へ行けば、もっとよく見える──」
「それより、ほら、天文台のなかの地下室はどうかしら。星読みのヒトたちの寝起《ね お 》きする部屋があるって言ってたじゃない?」
ミーナがワタルの手をひっぱり、三人は駆《か》け出して天文台に戻《もど》った。建物のなかに入ると、階段を探して地下に降り、ちょうど階下からあがってくるところだった星読みに訊《たず》ねると、廊下《ろうか 》の先に小さな休憩《きゅうけい》室があるという。
休憩室は、椅子《い す 》が四、五|脚《きゃく》とランプを載《の》せた丸テーブルがあるだけの簡素なところだったが、それで充分《じゅうぶん》だった。キ・キーマがランプを吹《ふ》き消すと、その場は真っ暗になり、真実の鏡が放つ光は、清流のように豊かに溢れ出した。
白く輝く光は、真実の鏡の上に、あたかも蓮《はす》の花の大輪を載せたような形を描《えが》いた。その大輪の中央に、さっきまで霞んでよく見えなかった人影が焦点《しょうてん》を結んだ。
「おお、旅人≠諱v
そのヒトはワタルに顔を向け、語りかけてきた。踵《かかと》のあたりまで隠《かく》れる純白の長いローブ。額には銀の冠《かんむり》。手にしているのは杖ではなく、やはり銀製の細長い柄《え》のついた槌《つち》だった。ワタルは一瞬《いっしゅん》、リリスの大聖堂で見たシスティーナ像を思い出した。
「ようやく私の声が届きました。旅人≠諱Bあなたもまた、幼い子供だったのですね」
男のヒトだ。歳《とし》は──三十歳くらいだろうか。もっと年上か。ローブの白が照り映《は》えているのか、それとも光で造りあげられた幻像《げんぞう》であるせいなのか顔色が蒼白《あおじろ》に見えて、表情も判別がつかない。それに、声は若々しいのに、銀の冠の下の髪《かみ》は真っ白だ。眉《まゆ》まで白い。
「あなたは……どなたですか」
おっかなびっくり声をひそめて、ワタルは問い返した。もしかして、真実の鏡に宿る精霊《せいれい》なのだろうか?
白いローブのヒトはワタルの問いに答えず、右手に持った槌をゆっくりと左手に持ち替《か》えると、空いた右手を心臓の上にあてた。
「ここにあるのは我らの衷心《ちゅうしん》からの声。旅人≠諱Bどうか我らを助けてほしい。我らの残り少ない希望は、かかってあなたの肩《かた》の上にある」
おいおい……と、キ・キーマが狼狽《うろた》えた。
「何じゃ、こりゃ?」
「我らの力はすでに弱り、残されたわずかな時も、刻々と過ぎ去ってゆく。どうか旅人≠諱A我らに救いの手を差しのべてほしい」
ワタルは半歩前に出て、白いローブのヒトに近づいた。天井《てんじょう》や床《ゆか》にまで届くまばゆい光なのに、近寄っても少しも眩《まぶ》しくない。
「僕に何ができるんですか? あなた方を助けるって、どうすればいいんですか?」
白いローブのヒトはワタルに向かってうなずきかけた。
「旅人≠止める力を持つのは、ただ旅人≠フみ」
どういう意味だ?
「我らのもとに来てほしい。あなたには、できるはずだ。来たりて、我らの願いを聞いてほしい。それはまた幻界《ヴィジョン》≠フ平和を守ることにもつながる」
当惑《とうわく》しながらも、ワタルは胸がどきどきしてきた。幻界の平和を守る? ハイランダーとしては、聞き捨てにできない言葉だ。
「多くは語れぬ。言葉は空《むな》しく宙に舞《ま》う。だが我らはここで待っている。旅人≠諱Bあなたの翼《つばさ》で我らのもとに来てほしい」
蓮の大輪のような光の上から、白いローブのヒトの姿が消えた。と、それと入れ替わるように、別の幻像が現れた。
ワタルは目を見開いた。これは──
そびえたつ純白の雲。その切れ間に、光を受けて輝くいくつもの尖塔《せんとう》。渡《わた》る虹《にじ》の橋。遥《はる》かなる高処《たかみ 》で、氷河に抱《だ》かれた灰色の大地。
アンドア台地だ! トウゴウトウの翼で運ばれ、空の頂点で垣間見《かいま み 》た幻《まぼろし》の地。
幻像は消えた。真実の鏡は沈黙《ちんもく》し、休憩室に静かな闇《やみ》が戻った。
三人とも唖然《あ ぜん》として、互《たが》いの顔を見つめるばかり。と、地下の部屋のどこかから、激務のあいだのわずかな眠《ねむ》りを貧《むさぼ》っているのであろう、星読みの低いいびきが聞こえてきた。
それがワタルたちを現実に引き戻した。
「今の……何?」
まだ手の上に真実の鏡を捧《ささ》げ持ちながら、ミーナが訊ねた。ワタルにではなく、鏡に対して直《じか》に問いかけているみたいに、目を釘付《くぎづ 》けにしたまま。
「あれは、デラ・ルベシ特別自治州だよ」
ワタルの言葉に、ミーナばかりかキ・キーマまでが飛びあがって驚《おどろ》いた。
「ホント? 本当なの?」
「どうしてわかるんだよ、ワタル?」
ワタルは二人に、ソン村からサーカワの郷《さと》まで、カルラ族の翼で運ばれてきたことを思い出させた。
「その道中で、いちばん高いところまで飛び上がったとき、ちらっと見たんだ。トウゴウトウさんが教えてくれた」
「デラ・ルベシ──」
「じゃ、今の白いローブの男は、あそこに住んでる奴《やつ》なんだな?」
「たぶんね」
そして、ワタルの──旅人≠フ助けを請《こ》うている。彼らを助けることが、幻界の平和を守ることにもなると訴《うった》えている。だとすれば、何の迷うことがある?
「行かなくちゃ」
ワタルの言葉に、ミーナはやっと目をあげて、真実の鏡を元どおりに、慎重《しんちょう》な手つきで胸元《むなもと》に収めた。
「そうね、行かなくちゃ。だけど、どうやって?」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」キ・キーマが大きな手を、ワタルとミーナの肩においた。
「落ち着いて考えようぜ。ワタル、今の幻を頭から信じ込むのはどうかと思うぜ」
「どうして?」
「どうしてって……」キ・キーマは言いよどみ、長い舌をぴゅっとのばして、頭のてっぺんを舐《な》めた。「だって、あれが本当にデラ・ルベシ特別自治州ならば、あそこは老神教信者たちの場所だぜ。北の帝国《ていこく》とも関《かか》わりがあるんじゃないかと言われてる。忘れたわけじゃないよな?」
「うん。あくまでも噂《うわさ》だけどね」
「ああ、噂だ。でも──」
危険だよと、キ・キーマは呟《つぶや》いた。
「こいつは何かの罠《わな》かもしれねえ」
「罠って?」ワタルは驚いた。キ・キーマは何を警戒《けいかい》してるんだ?
「だってワタル、まさか、もう忘れたってわけじゃないよな。あの薄《うす》気味《き み 》悪《わる》いトリアンカ魔病院で、ワタルを捕《つか》まえて殺そうとしたのも、老神教の信者たちだったんだぜ?」
それは確かに。ワタルだって忘れていない。あんなに恐《おそ》ろしいことはなかった。
「だけどさ、今の幻は、真実の鏡が僕たちに見せてくれたものなんだよ。真実の鏡が、僕らを騙《だま》すようなことをするかしら」
「それは……」
キ・キーマは分厚いまぶたをぱちぱちさせた。「俺にもわからないよ。けど、真実の鏡も、所詮《しょせん》は道具だろ。魔法の道具かもしれないけれど、それに意思があるわけじゃない。悪用されることだって、あるかもしれないじゃないか」
なるほど。ワタルの心はちょっと揺《ゆ》れた。が、そのとき、ミーナの厳しい声が耳に飛び込んできた。
「そんなこと言って、キ・キーマは老神教信者を助けたくないだけでしょ!」
キ・キーマは狼狽えた。今度は、長い舌が頭のてっぺんをちょっちょっと二度舐めた。
「な、何だよミーナ」
ミーナは怒《おこ》っていた。青灰色の美しい瞳《ひとみ》のなかに火花が散る。「そうじゃないの。なんだかんだ言ったって、本音はそれなのよ。女神《め がみ》さまに逆らう老神教の信者たちなんて、どれほど困っていようと、助けを求めていようと、どうだっていいのよ。キ・キーマにとっては、彼らは滅《ほろ》びるのが当たり前なんだから。だから行きたくないのよね!」
だけどあたしは行くもん! と、ミーナはどしんと足を踏《ふ》み鳴らした。キ・キーマのお株を奪《うば》う迫力《はくりょく》だ。
「ワタルが行くっていうなら、あたしも一緒《いっしょ》に行くんだもん。キ・キーマは勝手にすればいいじゃない!」
キ・キーマはたじたじと後ずさった。ワタルは二人のあいだに割って入った。
「ミーナ、そんなに怒らないでよ。キ・キーマは、僕らの安全を考えてくれてるんだ。だから、ね?」
「そ、そうだよ」キ・キーマの大きな肩がしょぼんと下がる。「そりゃ確かに……俺はデラ・ルベシに行くなんて気が進まないよ。だけどワタルが行くっていうなら、俺だって……どこまでもワタルと一緒に行って、ワタルを守るって決めたんだからさ」
「なら、カンベンしてあげる」ミーナはにっと笑った。「それなら、善は急げよ。早く行きましょう」
「だけどさ、どうやって行くんだ?」
「決まってるじゃないの。またカルラ族に頼《たの》んで連れて行ってもらうのよ。ハイランダーの頼みなら、むげには断らないんでしょう」
騒然《そうぜん》とする幻界で、カルラ族たちは持ち前の翼の機動力を活《い》かして大忙《おおいそが》しだ。特にこの国営天文台には、連邦《れんぽう》議会や各都市の星読み台との間を往復しているのだろう、しきりとカルラ族たちが舞い降りている。そのうちの誰《だれ》かに頼めば、何とかなりそうだ。
「それじゃ俺、ちょっと行って、遣《つか》い便のカルラ族たちの詰《つ》め所がどこか、訊《き》いてくる」
キ・キーマはあたふたと階上にあがっていった。バツが悪いのか、必要以上にせかせかした足どりだ。それを見送って、ミーナがまたニコリと笑った。
「あたしったら、ちょっと言い過ぎたね。あとでキ・キーマの肩を揉《も》んであげようかな」
しかしワタルは、ふと頭のなかをよぎった考えに心を盗《と》られて、ミーナの声を聞いていなかった。トリアンカ魔病院での危機|一髪《いっぱつ》。あの光景を思い出すと同時に、颯爽《さっそう》と登場してワタルのピンチを救ってくれた、ミツルのことも思い出したのだ。
それが、先ほどの白いローブの男の謎《なぞ》めいた言葉と結びついた。
──あなたもまた[#「あなたもまた」に傍点]、幼い子供だったのですね[#「幼い子供だったのですね」に傍点]。
妙《みょう》な言い回しだ。あれは、ワタルの以前に、今現在この幻界を訪《おとず》れているもう一人の旅人≠ナあるミツルを知っているからこそ、口をついて出た言葉ではないのか。だとすれば、ミツルもまた、ワタルよりも前にあの白いローブの男から呼びかけを受け、デラ・ルベシ特別自治州を訪ねているのではないのか。
だけどミツルでは、白いローブの男たちを助けることができなかった? だから、今度はワタルが呼ばれたということなのか?
ミツルにできなかったことが、僕にできるのだろうか。
「どうしたの、ワタル」
顔をのぞきこまれて、ワタルはまばたきした。何でもないよと応じて、足を速めて階上にのぼった。考えていたって、仕方がない。デラ・ルベシを訪ねてみればわかることだ。
遣い便のカルラ族たちの詰め所は、三階のテラスにあった。日除《ひ よ 》けの白い幌《ほろ》を張った下で、三羽のカルラ族たちが翼を休めている。「不作法で済まないが、ちょうど弁当をつかっていたところなのでな」
一羽のカルラ族が、食後の人間の中年のおじさんそっくりに、ちっちと歯を鳴らしながら言った。これで楊子《ようじ 》をくわえれば、ほとんどそのまんまである。
カルラ族のお弁当は、言うまでもなくねじオオカミの肉だ。だからテラスはぷんぷん臭《にお》った。キ・キーマは辟易《へきえき》している。
ワタルは細かいことは伏《ふ》せつつも、丁寧《ていねい》に依頼《い らい》のことを話した。カルラ族たちは、カクカクと首を動かしながら聞いていたが、やがて言った。「事情はわかった。しかし、現状我らがおぬしらの頼みを引き受けることはできかねるな」
「忙しくて大変なのはわかってるんです」
「いや、そういうことではない。ハイランダーの依頼とあれば、我らとしても進んで引き受けるにやぶさかではないのだから」
カルラ族たちは口ぐちに言うのだった。
「ましてや、おぬしらがデラ・ルベシに行きたいというのは、このたびハイランダーたちに下った緊急《きんきゅう》指令に関わることなのであろう? 隠すことはない。その指令を南大陸各地に運んだのも我ら一族だからな。承知しておるよ」
ワタルはあいまいに返事をした。このことが、逃亡《とうぼう》者を捕まえるという緊急命令と関わっているかどうかはわからない。むしろ、かなり怪《あや》しい。
「それでも引き受けられぬというのは、是非《ぜ ひ 》もない。我らの翼では、今、デラ・ルベシまで飛ぶことができぬのだ」
カルラ族たちはうなずきあうように首をカクカクさせた。
「トウゴウトウがおぬしを運んだときには、あのあたりから南大陸を吹き渡る上昇《じょうしょう》気流に乗るために、デラ・ルベシの高さにまで舞いあがったのであろう?」
「はい、そう言ってました」
「ところが、ここ数日、デラ・ルベシあたりに気候変化があってな。我らがいつも翼を乗せてきた、その強い気流がぴたりと止《や》んでしまっておる」
別のカルラ族が、翼をバタバタさせながら続けた。「そればかりではない。デラ・ルベシのあるアンドア台地を取り囲む雲が厚みを増し、上空の気温がぐっと下がっておる。あれでは、いくら強靭《きょうじん》な我らの翼とて、日頃《ひ ごろ》の力の半分も出せぬ。下手をすれば凍《こお》りついてしまうだろう」
「この気流の乱れ、気象の変化。尋常《じんじょう》ではない。彼《か》のアンドア台地では、地上からは窺《うかが》い知ることのできぬ、何か変事が起こっておるのかもしれぬ」
考え込むように、カルラ族は言った。
「いずれにせよ残念ながら、我らではおぬしらを運んでやることができぬ。すまぬが、別の手を考えてはくれまいか」
ワタルはがっかりしたけれど、こればかりはどうしようもない。自分たちの猛《たけ》き翼と、それを操《あやつ》って空を飛ぶ能力を、あれほどまでに誇りにしているカルラ族がこう言うのだ。
不安がじりじりと、ワタルの胸の底に浸水《しんすい》してきた。デラ・ルベシで何か恐ろしい変事が起こっている。だからこそ、白いローブの男が助けを求めているのだ。
「わかりました。どうもありがとう」
「力になれず、申し訳ない」
ミーナとキ・キーマを促《うなが》して踵《きびす》を返しながら、ワタルは何気なくズボンのポケットに手を入れた。すると指先に、何か硬《かた》くてすべすべしたものが触《ふ》れた。
何だろう。何を入れたっけ。探《さぐ》って取り出してみると、それは真紅《しんく 》に輝く靴《くつ》べらだった。紅宝石《ル ビ ー 》でできているみたいな靴べら──
そうじゃない。これはファイアドラゴンのウロコだ! 嘆《なげ》きの沼《ぬま》で助けてあげた、ジョゾという名前のファイアドラゴンが、御礼《お れい》にとワタルにくれたものだった。
すっかり忘れていた。ワタルは、まるで中年のオジサンになったみたいに、自分で自分の額をぴしゃりとぶった。この場合には、それがふさわしい仕草のように思えたのだ。
「まあ、どしたの、ワタル?」ミーナが顔をのぞきこむ。
これをくれるとき、ジョゾは言っていたじゃないか。このウロコで笛を作って、吹いてごらん。いつでもどこにでも駆けつけて、君を背中に乗せて飛んであげるよ、と。
「カルラ族さん!」ワタルは駆け戻った。「ドラゴンなら、今のデラ・ルベシにも飛んでゆくことができますか?」
カルラ族たちは顔を見合わせたが、すぐに、
「確かにドラゴンの翼ならば、気流がなくとも、凍りつくほどの寒さのなかでも、苦もなくアンドア台地の頂上を目指すことができようよ」
「なにしろドラゴンたちは、恐ろしい針の霧《きり》&Y《ただよ》う海の彼方《かなた》に棲《す》んでおるのだから」
と、一羽のカルラ族がワタルの手のなかの真紅のウロコに目を留めた。「それは?」
ワタルは手短に説明した。カルラ族たちの黒目がちの瞳《ひとみ》がますます大きくなった。
「なるほど。それならば是非もない。一刻も早くそのウロコで、龍《りゅう》の笛≠作るがよい。ドラゴンも我らと同じく、猛き翼に魂《たましい》を乗せ、空駆ける生きものよ。信義に篤《あつ》く勇敢《ゆうかん》だ。おぬしとの約束を、けっして違《たが》えはせぬだろう」
キ・キーマが大きく両手を打ち鳴らした。
「それなら、とっとと龍の笛を作ろうぜ、ワタル!」
でも──ワタルは困った。「どうやって作る? ジョゾは言ってた。腕《うで》のいい職人に頼めって」
龍の笛はとても脆《もろ》いから、二度しか使うことができないとも言っていた。それはそもそも、このウロコ自体が壊《こわ》れやすいからだろう。だから細工も難しいのだろう。
「リリスへ行けばいいわ」と、ミーナが顔を明るくした。「トニ・ファンロンに頼んだら? 彼の腕なら申し分ないじゃない」
一羽のカルラ族が、大きな鉤爪《かぎづめ》のある足で一歩前に出た。「リリスなら、私がこれから行く先の通り道にあたる。幼きハイランダーよ、おぬし一人ぐらいならば、乗せていってやることは造作もない」
素晴《す ば 》らしい! キ・キーマは大喜びだ。
「よし、それならワタルは一足先に、空を飛んでリリスへ行けよ。俺はミーナと一緒に、ダルババ車で後を追う。なに、三、四日で追いつくさ。いくらファンロンの腕が良くても、笛をこしらえるまでそれぐらいはかかるだろう。場所を決めて落ち合って、それからドラゴンを呼んで、三人でデラ・ルベシまでまっしぐらだ!」
そうと決まったら出発の支度《し たく》だと、勢いづくキ・キーマを、しかし、別のカルラ族が呼び止めた。それでなくても尖《とが》って気むずかしそうな顔に、いっそう険しい表情を浮《う》かべている。
「そこの水人族よ。そしてネ族の娘《むすめ》よ。おぬしらは、あまりリリスに近づかぬ方がいいかもしれぬ。幼きハイランダーと待ち合わせるのは、町から離《はな》れた場所の方がいい」
「どうしてですか?」ワタルは訊いた。ふと嫌《いや》な予感がした。
「これはあくまでも風聞だが」と念を押した上で、そのカルラ族は言った。「リリスの町には、ブランチ長の命令により、戒厳令がしかれているらしい。外部からの出入りは禁止されておるし、町の住人たちも外へ出ることはできん。おぬしらは知っているかどうかわからないが、あの町は、アンカ族の富裕《ふ ゆう》層と、非アンカ族の貧困層とにはっきりと分かれておってな」
「ええ、よく知っています」と、ワタルは苦い思いを噛《か》みしめながらうなずいた。
「そうか。ならば話が早い。ハルネラ≠めぐって人心が動揺《どうよう》し、両者の対立が激化して、焼き討《う》ちや暴動が頻発《ひんぱつ》したようだ。戒厳令は、それゆえにとられた非常|措置《そ ち 》だろうが、非アンカ族の住人たちのなかからは、大勢の逮捕《たいほ 》者が出ているという話を漏《も》れ聞いておる」
ミーナがこわばった顔でワタルを振り返った。
「パム所長の仕業《し わざ》だわ」
ワタルはうなずいた。あるいは、あの町で、密《ひそ》やかに、しかし苛烈《か れつ》になされていた他種族差別主義が、ハルネラ≠巡《めぐ》る騒動をきっかけに、表面化したのかもしれない。
「幼きハイランダーよ、おぬしはアンカ族であるし、ハイランダーであれば町に入ることもできよう。しかしそちらの水人族とネ族の娘は、リリスの町からは離れておった方がいい。どういうとばっちりを受けぬとも限らぬゆえにな」
カルラ族の助言もあって、キ・キーマとミーナは、リリスの町から南に丘をひとつ越《こ》えたところにある、大樹の道標《しるべ》≠ニいう場所でワタルと落ち合うことにした。大樹の道標は、キ・キーマでも両手で抱《かか》えることができないほどの巨木《きょぼく》で、カルラ族たちもしばしば目印に使うのだそうだ。
「地上の道をダルババ車で走っても、すぐにわかるだろう。それに森のなかであるから、何かあったら身を潜《ひそ》めることもできようよ」
ワタルたちは大急ぎで出発の支度にとりかかった。手荷物を作りながら、ワタルは、胸の奥の不安の浸水がますます深くなり、冷たさを増してくるのを感じていた。戒厳令下のリリスの町で、トニ・ファンロンは無事だろうか。エルザはどうしているだろう?
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35 リリスの惨状
ワタルを乗せてくれたカルラ族は慎重《しんちょう》だった。リリスの町の上空に着くと、ワタルをおろすより前に、ぐるりと旋回《せんかい》して町の様子を窺《うかが》った。
「おぬし、あの露営《ろ えい》用テントを見たか?」
カルラ族の身体《からだ》に取りつけられた座席から、カルラ族の胸の真っ赤な羽毛《う もう》を仰《あお》いで、ワタルは大声で答えた。「あの白いテントですよね? はい、見えました」
五角形のテントがいくつか──中央にあるのがいちばん大きく、尖《とが》った屋根のてっぺんに旗が掲《かか》げてある。ワタルの記憶《き おく》に間違《ま ちが》いがなければ、テントの隣《となり》にある建物は、リリスのブランチだ。
「シュテンゲル騎士《き し 》団の露営用テントだ」と、カルラ族は言った。「リリスの町の公会堂にも、シュテンゲル騎士団の旗が掲げられておった。あの規模の施設《し せつ》を接収しているとなると、ただのパトロール小隊ではなく、一個中隊が丸ごと進駐《しんちゅう》しているのだろう。思っていたよりも大事になっておる」
カルラ族は大きく翼《つばさ》をはためかせ、滑空《かっくう》しながら、今度は露営用テントの真上を飛んだ。銀の鎧《よろい》に身を固めた騎士たちがそこここにたむろしている。
「ブランチ長のパム氏が、戒厳令《かいげんれい》をしくと同時に、シュテンゲル騎士団の出動を求めたのだろうな。あの旗は──」と、カルラ族は大テントの上を滑空し、風に翻《ひるがえ》っている隊旗を確認《かくにん》した。
「サイゼク隊の印だ。サイゼク隊長は、もともとリリスの生まれであったはずだ。ブランチ長とも親交がある」
嫌《いや》な予感どころの話ではない。ワタルは、真っ黒な直感に心を塗《ぬ》り潰《つぶ》されるような気がしてきた。
「それじゃ、ここにいるシュテンゲル騎士団は、パム所長の味方なんでしょうね」
「だろうな。そら、ごらん」
カルラ族はレンガ職人通りの上空を飛んでいた。用心深く高空を飛んでいるので細かいところは見えない。でも、充分《じゅうぶん》だった。レンガ職人通りは、大嵐《おおあらし》が通過した後のような惨状《さんじょう》を呈《てい》していた。建物は壊《こわ》され、ところどころに火事の痕《あと》が黒く焦《こ》げて残っている。人影《ひとかげ》はまったく見あたらない。壊れた家具や汚《よご》れた衣類が、灰と泥《どろ》をかぶって点々と散乱している。ここからでは、ファンロンの工房《こうぼう》の位置さえもはっきりとはわからない。やっぱり壊され、火事で焼けてしまったのか。
この惨状──何か巨大《きょだい》な、でも姿形のはっきりしないものが、暴れ狂《くる》いのたくりながら通り過ぎた跡《あと》のようだ。そう、確かにそうだ。悪意と憎悪《ぞうお 》という名の、力に満ちた形の定まらないものが襲《おそ》い来て、ここにあったものすべてを噛《か》み砕《くだ》き、吐《は》き散らして通過していったのだ。
悪意と憎悪は、いつだって飢《う》えている。だから、鳥瞰《ちょうかん》するこの光景が、食いしん坊《ぼう》で行儀《ぎょうぎ》の悪いものが、テーブルいっぱいの食べ物を、がつがつと手当たりしだいに食い散らし、大慌《おおあわ》てで立ち去った後のように見えるのも当然のことだった。
「これだけの騒動《そうどう》だ。リリスのブランチだけで鎮圧《ちんあつ》できたとは、とうてい思えん。シュテンゲル騎士団が乗り込んできて、この有様となったのだろうて」
ワタルは声を失った。
レンガ職人通りに住んでいたヒトたちは、みんなどこに行ってしまったのだろう。逃《に》げ出したのならばいいけれど……。もしかして逮捕《たいほ 》されて、どこかに閉じこめられているのだとしたら。
この前会ったときに、ファンロンは、ボグのブランチの頭であるスルカ首長も、隠《かく》れ他種族差別主義者なのだと言っていた。シュテンゲル騎士団が、現状、アンカ族だけで構成されていることの遠因をつくったのもスルカ首長だと。
そして、システィーナ聖堂の威容《い よう》。塔《とう》のてっぺんの鐘《かね》が光っている。ここを中心に、他種族差別主義を懐《ふところ》深く隠した老神教が、リリスの町全体をじわじわと侵《おか》していったのだ。いや、今もそうなのだ。初めてこの聖堂を仰いだとき、そのころはまだ何も知らなかったのに、聖堂の落とす巨大な影が、町を覆《おお》っていることに嫌悪《けんお 》感をおぼえたことを、ワタルは思い出した。今、こうして上空から眺《なが》めると、その感じはいっそう強くなった。聖堂は一身に陽《ひ》を受けている。空から降り注ぐ明るい陽光を独り占《じ》めしている。そしてその影はレンガ職人通りをすっぽりと覆い、さらに貪欲《どんよく》に、もっともっと広い場所を、いずれは町全体をその影のなかに収めてしまいたいと求めているように見えた。聖堂の影自体が生きもので、それ自身の意志で、町を呑《の》みこんでしまおうとしているかのように見えた。
このリリスは、他種族差別主義に与《くみ》しない者にとっては、南大陸でいちばん危険な場所であるかもしれない。たとえそれがハイランダーであっても。
リリスの町には、ガサラのような門はない。でも今は、そこここの辻《つじ》にシュテンゲル騎士やハイランダーらしきヒトびとが立って警戒をしている。特に、以前ワタルが初めてここを訪《おとず》れたときに通った町の大通りの入口には、急ごしらえの砦《とりで》があって、ぶっちがいにされた太い材木がバリケードとなって行く手を阻《はば》んでいた。
「どうする、幼きハイランダーよ」
「町はずれの森のなかに降ろしてください。何とかして忍《しの》び込む方法を考えてみます」
「うむ。気をつけるのだぞ」
カルラ族が飛び去ってしまい、あたりにヒトの気配がないことをよく確かめるまで、ワタルはじっと森の下草のなかに身を潜《ひそ》めていた。そのあいだにも、頭はエンジン全開で働いていたけれど、いったいどうすればリリスの町に忍び込めるのか、見当もつかなかった。
勇者の剣《けん》を隠し、服装も変えて、リリスの町に住むアンカ族の子供みたいなふりをして、あのバリケードを通ることはできないかしら。お遣《つか》いに行って、帰ってきたところなんですと、無邪気《む じゃき 》に言ってみたら? いやいや駄目《だ め 》だ、すぐに疑われてしまう。この町に住む裕福《ゆうふく》なアンカ族が、戒厳令下の町のどこに、大事な子供をお遣いなんかに出すものか。それじゃ迷子《まいご 》ってのはどうだろう。おうちがどこだかわからなくなっちゃったのって言ってみたら? 騎士のおじさん、おうちまで送ってくださいませんか?
グダグダと悩《なや》んでいると、ふと、腰《こし》のあたりがほの温かいのを感じた。見ると、勇者の剣が光っている。ワタルは急いで剣の柄《つか》に手をかけ、鞘《さや》から引き抜《ぬ》いてみた。
──ワタル、ワタル。
ふたつの宝玉に棲《す》む精霊《せいれい》が語りかけてきた。
──嘆《なげ》きの沼《ぬま》で、魔法《ま ほう》剣を使ったことを覚えているでしょう?
──我らの力がふたつ合わさったことで、あなたはさらに新しい魔法剣を覚えた。
──さあ、剣を掲げなさい。
ワタルは驚《おどろ》きながらも、目の高さに剣を掲げてみた。と、腕《うで》が自然に動いて、剣の切っ先が宙に印を結んだ。右、左、そして上下。十字を切って、輝《かがや》く刀身に顔を映す。
すると、ふわりと身体が軽くなった。これは何だ? これが新しい魔法剣? 嘆きの沼で魔法剣を使ったときは、魔法の光弾《こうだん》を撃《う》つことができたのだ。今度のは何だ?
そして、自分の身体が見えなくなっていることに気がついた。勇者の剣も見えない。
透明《とうめい》になってしまったのだ!
精霊が語りかけてきた。
──ワタル、これが新しい魔法剣の力。印を結んでいる限りは、あなたの姿は誰《だれ》にも見えません。聖なる結界が、あなたの姿を隠してくれるからです。
──ただ、この結界は、あなたの身体から力を奪《うば》う。長く結んでいてはいけない。身を隠す場所があったら、すぐに結界を解くのだ。無理をすれば、あなたは倒《たお》れてしまうだろう。
「わかりました。ありがとう!」
勇気が湧《わ》いてきた。よし、まずエルザを探そう!
リリスのブランチは、ヒトでごった返していた。ハイランダーもいれば、シュテンゲル騎士もいる。奥の部屋で、パム所長が、兜《かぶと》を脱《ぬ》いだシュテンゲル騎士の一人と机を囲み、何やら意気|軒昂《けんこう》に話し合っているのが見える。甲冑《かっちゅう》の紋章《もんしょう》と、周囲の騎士たちの態度から見て、どうやらあれがサイゼク隊長のようだ。
エルザの姿は見えなかった。自宅の方にいるのかもしれない。途中《とちゅう》で一度、ブランチの物置のなかに隠れて結界を解き、ひと息入れてから、ワタルはうろ覚えの記憶をたどりながらパム所長の自宅を捜しにかかった。精霊の忠告に間違いはなく、結界に身を潜めて姿を消していると、まるで高い山に登ったみたいに、すぐに息が切れて苦しくなってくる。動悸《どうき 》もいつもより速いようだ。結界がそれ自体を維持《い じ 》するために、ワタルの身体からエネルギーを吸い取っているのだろう。
リリスの町を歩いているのは、ハイランダーや騎士も含《ふく》めて、アンカ族ばかりだった。商店は開いているところもあるけれど、大部分は表戸を閉じて、なかには板きれを打ち付けて塞《ふさ》いでしまっているところもある。それでもレンガ職人通りの惨状に比べれば、町の中心部は平穏《へいおん》そうだった。開いている店には、長い行列ができている。そのそばを通り過ぎるとき、ハイキュウがどうのこうのという言葉を耳にした。外部からの出入りを遮断《しゃだん》してしまっているので、食料品や日用品が足らなくなってきて、配給制を始めたらしい。
「まあ、他種族|狩《が》りがすっかり終わるまでの辛抱《しんぼう》だけど、それにしても困ったわ」
アンカ族の女の人が、愚痴《ぐ ち 》りあっている。ワタルは背筋が寒くなった。他種族狩り。町を封《ふう》じて、なかにいる非アンカ族のヒトたちを、一人残らず狩り出すつもりなんだ。狩り出して、そしてどうするんだ?
ようやくパム所長の家にたどり着き、二階の窓際《まどぎわ》に、しょんぼりとうなだれているエルザの横顔を見つけたときには、ワタルはもう酸素不足の金魚みたいに口をパクパクさせていた。幸い、玄関《げんかん》からするりと忍び込んでみると、家の一階には人気《ひとけ 》がなかった。急いで結界を解くと、手近の椅子《い す 》にもたれて休んだ。息苦しくて、肩《かた》であえいでいた。めまいがして、急いで椅子の背もたれにしがみついた。その拍子《ひょうし》に、椅子がごとんと音をたてた。
階上で軽い足音が聞こえた。
「誰?」
エルザの声だ。階段を降りてくる。ワタルは椅子の背につかまったまま振《ふ》り返った。
「まあ……あなたは」
記憶にある黒い瞳《ひとみ》の美しさはそのまま。でも、もともと華奢《きゃしゃ》だったエルザは、さらにげっそりと窶《やつ》れていた。
「ファンロンさんは──どこですか?」
やっとそれだけ言って、ワタルは椅子から転がり落ちた。床《ゆか》に尻餅《しりもち》をついて、ぜいぜいと息をするのが精一杯《せいいっぱい》だった。
エルザはワタルを彼女の部屋に匿《かくま》うと、冷たい水を持ってきてくれた。それでようやく、ワタルも落ち着いた。
龍《りゅう》の笛のことを説明すると、エルザは何度も何度もうなずいた。
「ええ、ええ、トニなら龍の笛を作れるわ。彼でなくては作れないでしょう」
でも……と、みるみる瞳を潤《うる》ませて俯《うつむ》いてしまう。
「あのヒトは逮捕されてしまったの。父の采配《さいはい》で、ハイランダーたちが、レンガ職人通りのヒトたちを暴動罪で逮捕しようとしたとき、抵抗《ていこう》したから」
「それで、どこに連れて行かれたんです?」
「システィーナ聖堂よ」
「あんな場所に? 刑務所《けいむ しょ》とかじゃなくて?」
逮捕したヒトたちを聖堂に押し込めて、無理矢理《む り や り 》にでも老神教を信じさせようというのだろうか。
「システィーナ聖堂の地下には、大きな牢獄《ろうごく》があるのよ。父が司教様と相談して作った檻《おり》なの。異教徒を閉じ込めるには、システィーナの力で封じていただくのがいちばんだからといって」
システィーナ聖堂のダイモン司教なら、以前ここに来たときに会った。見事なまでの禿頭《はげあたま》と、刺すような冷たい眼《め》。
「聖堂の地下ですね。確かですね?」
「ええ……。でも、どうやって地下に降りるのか、わたしは知らないの。聖堂のなかを見回した限りでは、地下室に降りる階段なんか見あたらないし」
行けば何とかなるだろう。ワタルは大きく深呼吸をした。まだ心臓の動きがちょっとヘンだ。酔《よ》っぱらったみたいになってる。それに膝《ひざ》がガクガクする。
「顔が真っ青だわ。もういっぱい水をあげましょう。それに、何か食べた方がいいわ」
ワタルは首を振った。「ありがとう。でも水だけでいいです。時間がないんだ」
エルザが水と、冷たいおしぼりを持ってきてくれた。それで顔の汗《あせ》を拭《ぬぐ》って、ワタルは心から感謝した。
「エルザさん、大丈夫《だいじょうぶ》ですか。この町──ひどい有様だ」
ワタルの言葉に、エルザは涙《なみだ》のにじんだ瞳を窓の外へと向けた。ついで、そっと窓際に歩み寄り、カーテンを引いた。
「ハルネラ>氛汞大いなる光の境界≠フ作り直しに、一人の犠牲《ぎ せい》者が必要だということ……。そのことが広く知らしめられたのが原因です」
ワタルはうなずいた。「他所《よ そ 》の町でも、それで騒動が起こっています。特に貧しいヒトたちや囚人《しゅうじん》たちのあいだで動揺《どうよう》が大きいって。貧しいヒトたちには、命より他に女神《め がみ》さまに捧《ささ》げるものがないから、ヒト柱に選ばれる可能性が高いって怯《おび》えてる。囚人たちは、連邦《れんぽう》政府が自分たちを女神さまに捧げて、他のヒトたちが選ばれずに済むように謀《はか》ろうとしているんじゃないかと疑ってる」
「そう……」
「そういう動揺に乗じて、ヒトびとが今までの不満を爆発《ばくはつ》させて、暴動とか一揆《いっき 》を起こしてるところもあるんです」
エルザはカーテンをつかんだまま振り返り、眉《まゆ》をひそめた。「昨日、父がアリキタの鉱山で暴動が起きていると言っていたけど」
「ええ、そうです。あそこにもシュテンゲル騎士団が派遣《は けん》されました」
「そうなの」エルザはうなだれた。
「ここではその暴動が、非アンカ族のヒトたちに対する迫害《はくがい》という形をとったんですね? もともとそういう土壌《どじょう》のあった町だ」
エルザはカーテンに顔を埋《う》めた。
「だけど、僕はやっぱり不思議なんです。いったいどういう経緯《けいい 》で、こんなことになってしまったんだろう」
エルザはカーテンのなかから、か細い声で言った。「ヒト柱に選ばれるのは、この広い世の中でたった一人。それほど騒《さわ》ぐことはないのじゃないか。ましてや、それがアンカ族と非アンカ族の対立に結びつくとは思えないということかしら」
ワタルは黙《だま》っていた。たった一人なのだから、騒ぐことがないとは思えない。とりわけ、ワタル自身にとっては、選ばれる可能性は二分の一だ。
「トニとわたしが心配していた以上に──いいえ」エルザは振り返った。「父やダイモン司教も驚くほどに、老神教はこの町のアンカ族のヒトびとの心に染《し》みこんでいたようなの。老神教の教えは、あなたも知っているのでしょう?」
幻界を創《つく》ったのは老神であり、老神はまた、創世のときに、自らの姿に似せてアンカ族をつくり、地上に置かれた。しかし、女神は老神から幻界を騙《だま》し取り、さらに、アンカ族の繁栄《はんえい》を妨《さまた》げるために、女神自身に似せて他種族をつくった。だから、いつか老神が女神を滅《ほろ》ぼし、この幻界の創世の神として復活するときには、女神のつくった他種族もまた滅び、幻界はアンカ族の楽園となるのだ──
ゆるゆるとうなずき、涙を一滴《ひとしずく》落としながら、エルザは続けた。「その教えからゆくと、千年に一度、大いなる光の境界を張り直さなければならない、それにはヒト柱が必要だなどというのも、アンカ族を迫害するための、女神さまのまやかしだというの。だからもちろん、ヒト柱にはアンカ族が選ばれる。たった一人のヒト柱であっても、アンカ族にとって大切な人材、老神の復活を手伝うことができる、勇気と知恵《ち え 》のあるアンカ族を、わざわざ選んでヒト柱にする──それが女神さまの企《たくら》みだというの」
ワタルは鼻先で笑った。「こじつけもいいところじゃないか」
「そうかしら」エルザは悲しげにワタルを見つめた。「あなたは立派なハイランダーだけれど、やっぱりまだ子供なのだわ。どんなこじつけだって、信じているヒトにとっては真実なのよ。老神教を信じるヒトたちにとっては、女神さまがヒト柱に選ぶのはアンカ族の救世主であり、だからどんなことをしてもそれを阻まねばならないの」
ダイモン司教は、システィーナ聖堂にアンカ族の信者たちを大勢集め、礼拝と大説教会を執《と》り行ったのだという。そこで司教は語った──ハルネラ≠ニは大いなる光の境界≠フ張り直しの時などではない、それは女神の偽《いつわ》りである、真実を知る老神教の信者にとっては、ハルネラ≠ニは、女神の嘘《うそ》を暴《あば》き、女神を奉《ほう》じようとする穢《けが》れた他種族を討《う》ち滅ぼすべく、老神が天の彼方《かなた》から、北の凶星《まがぼし》を通して、幻界に知らしめている時なのだと。
「老神教信者に、女神さまを滅ぼし幻界を取り返す、聖戦の到来《とうらい》を報《しら》せる印なのだと……ね」
エルザの言葉は、冷たい息となってワタルの頬《ほお》を撫《な》でた。すうっと寒くなった。
「ルルドの国営天文台は、そんな見解を出してはいないのに」
「ええ、そうでしょう。でも、そんなこと、ダイモン司教に心酔《しんすい》しているヒトたちにとっては、どうでもいいのよ」
激しくかぶりを振って、黒髪《くろかみ》を乱す。
「だから、トニは逮捕されてしまったの。あなたと同じようなことを言って、迫害される他種族のヒトたちを守ろうとしたからよ。トニ一人では太刀打《た ち う 》ちできなかった。どうすることもできなかったわ。あのヒトの工房も焼き討ちにあって……」
落胆《らくたん》に、ワタルは身体が重くなって、椅子に沈《しず》み込んでいくのを感じた。では、ファンロンを助け出すことができたとしても、龍の笛を作ってもらうことはできないのか。
でも、いずれにしろ放《ほう》っておくことはできない。ワタルは空っぽになったグラスを足元に置くと、立ちあがった。
「どうするの?」と、エルザが訊《き》いた。
「システィーナ聖堂に行ってみます」
「あなた一人で何ができるかしら」
「わからない。でも、とにかく事実を確かめたい。大勢のヒトたちが、取り調べも裁判もなしに、地下牢みたいな場所に押し込められているのだとしたら、放ってはおけません。事実を明らかにして、他の町のブランチに働きかければ、何とかなるかもしれない」
エルザは、今やカーテンにつかまって、やっと立っていた。震《ふる》えるくちびるから、言葉がこぼれ出た。「トニは、もう死んでいるかもしれないわ。父がわたしにそう言ったの。おまえは、もう二度とあの男の顔を見ることはないって」
ワタルは顔をあげ、しっかりとエルザを見つめた。「諦《あきら》めるのはまだ早いです」
エルザの瞳から、涙が溢《あふ》れた。彼女は片手で目を覆った。
「あなたが諦めてしまったら、誰もファンロンさんを待っているヒトがいなくなってしまう。しっかりしてください、エルザさん」
「でも……」
「それに、僕にはどうしても龍の笛が必要なんです。ファンロンさんに作ってもらわなくちゃ。だからあのヒトを助け出します。必ず」
「あなたみたいな子供に、何ができるの」
ワタルは勇者の剣を取ると、印を結んだ。エルザの目の前で、ぱっと姿を消してみせた。
すぐに結界を解いて姿を見せると、エルザは漆黒《しっこく》の瞳を見開き、今にも倒れそうなほど蒼白《そうはく》な顔をしていた。
「い、今のは何?」
「ちょっとした魔法です。だけど、僕の力になってくれる」
エルザがよろめいたので、ワタルはあわてて駆《か》け寄り、彼女を支えた。エルザは、さっきまでのワタルみたいに、激しく震えて肩で息をしていた。
「あ、あなたは……何者なの?」
ワタルは答えなかった。エルザの瞳のなかには、彼女の心が自問自答する様が、光と闇《やみ》の渦《うず》になって映っていた。
エルザはワタルから離《はな》れると、その両腕を押さえた。
「ちょ、ちょっと待っていて。お願い、ね、待っていてね」
あわてるあまりに家具やドアにぶつかったりしながら、エルザはベッドの脇《わき》の小引き出しのなかを探《さぐ》り、何か取り出すと、それを胸に抱《だ》いてワタルのそばに戻《もど》ってきた。片手で持てるくらいの小さな木箱だ。
「これを持っていって」
ワタルは受け取り、木箱に目を落とした。腰につけられるように布のベルトがついており、蓋《ふた》に掛《か》け金がかかっている。
「開けてみて」
開けると、工具がびっしりと詰《つ》まっていた。
「トニの道具箱なの。あのヒトが、細かな細工物を作るときに使っていたものよ。いつも持ち歩いていたんだけど、焼き討ちがある前に、わたしに預けてくれたの。もし、レンガ職人通りの工房が使えなくなっても、これさえあればどこでだって仕事ができる。僕の魂《たましい》と同じくらい大切なものだから、君に持っていてほしいって」
「いいんですか」
エルザはうなずいた。まだ目が潤んでいたけれど、視線はしっかりと定まっている。
「あなたを信じるわ。トニが龍の笛を作れるように、あのヒトを助け出してちょうだい。そして伝えて。あなたと会えるときまで、わたしは待っているからって。どうぞお願い」
「わかりました」ワタルは、しっかりと木箱を腰にくくりつけた。「お預かりします。きっと、きっとファンロンさんに渡《わた》して、龍の笛を作ってもらいます」
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36 システィーナ聖堂の檻
折しも、システィーナ・トレバドス聖堂では、午後の礼拝の時間だった。中央の通路を挟《はさ》んで左右に何列も延びた長腰《ながこし》かけに、信者たちが並んで腰かけている。祭壇《さいだん》に立つダイモン司教は、白い法衣《ほうい 》の上から、錦糸の刺繍《ししゅう》をほどこされた重たげな袈裟《け さ 》をかけ、革装《かわそう》の古びた書物──たぶん祈祷書《き とうしょ》だろう──を目の高さに掲《かか》げて、朗々と読み上げていた。
ワタルは印を結んで聖堂のなかに忍《しの》び込むと、礼拝堂のいちばん後ろにある、大燭台《だいしょくだい》の列の後ろに身を潜《ひそ》めた。燭台に立てられた無数の蝋燭《ろうそく》の炎《ほのお》が、青い煙《けむり》を立ちのぼらせながら、ゆらゆらと揺《ゆ》れている。印を解いて深呼吸をすると、蝋の匂《にお》いがした。
信者たちは百名ほどもいるだろうか。全員アンカ族だとばかり思っていたのに、数人の獣人《じゅうじん》族が混じっていることに、ワタルは驚《おどろ》いた。敬虔《けいけん》に頭《こうべ》を垂れ、司教の説教を聞いている。ワタルの耳に入った部分では、ダイモン司教の口から出てくるのは、創世の神への感謝と、こたびのリリスの争乱で傷ついたヒトたちの回復を願う意味の穏当《おんとう》な言葉ばかりだったから、そういう意味では不思議はないけれど、この聖堂が隠《かく》している裏の顔のことを思えば、不可解きわまりない。それとも、ここの信者である他種族は、まだ[#「まだ」に傍点]何も知らないというのだろうか?
祈祷書の朗読を終わった。ダイモン司教は、響《ひび》きのいい声で説教に移った。やはり、リリスの争乱は不幸なことであり、我々は今こそ手を取り合い、励《はげ》まし合ってこの難局を乗り切らねばならないというような、ワタルにはきれい事としか思えない言葉が続く。それでも信者たちは神妙《しんみょう》に聞き入り、ダイモン司教が再び創世の神に感謝を捧《ささ》げて説教をしめくくると、一同は立ちあがって歌を歌い始めた。
礼拝が終わると、信者たち一同はぞろぞろと礼拝堂を出てゆき、一人一人を見送ったダイモン司教が大扉《おおとびら》を閉め、そこに閂《かんぬき》をかけた。司教の法衣の裾《すそ》が、磨《みが》き込まれた床《ゆか》を滑《すべ》って、さっさというかすかな音をたてる。司教は、祭壇周りの蝋燭の燃え具合を確かめると、奥の扉を開けて姿を消した。後ろの大燭台の方までは来なかったので、ワタルはほっとした。
そっと燭台の隙間《すきま 》から這《は》い出ると、立ちあがって裾をはたき、あたりを見回す。
さて、どうしたものだろう?
大扉は外との出入口の役割しか果たしていない。祭壇の後ろの、ダイモン司教が出ていった扉が、聖堂内の他の部分に通じていることは明らかだ。やっぱり、あそこから侵入《しんにゅう》するしかないか。でも、あの扉を通るとすると、司教をはじめとする誰《だれ》かと鉢合《はちあ 》わせする危険が極《きわ》めて高いし、奥の様子がまったく見当つかない以上、かなり長いあいだ、結界を張り続けていなければならない。身体《からだ》が保《も》つだろうか。
これだけの建物だ。きっと、他にも通用口みたいなものがあるはずだ。いったん外に出て、周囲をぐるりと探《さぐ》ってみようか。
ふと、誰かの視線を感じて、ワタルはまばたきをした。
誰もいない。礼拝堂は空っぽだ。誰が見ているはずもない。気のせいだろう。緊張《きんちょう》しているからだ。
足音を忍ばせて腰かけの後ろを横切り、大扉を目指す。閂に手をかけて──
やっぱり、誰かに見られているような気がする。視線がワタルを追いかけてくる。
腰の勇者の剣《けん》に片手を置き、ワタルはゆっくりとあたりを見回した。この視線はどこから来るものだ?
壁《かべ》を彩《いろど》るステンドグラス? そこには様々なシスティーナの姿が描《えが》かれている。飾《かざ》り職人たちの前に光臨する姿。宝玉のついた杓《しゃく》で魔物《ま もの》を打ち据《す》える姿。
美しく緻密《ち みつ》に描かれているけれど、しょせんは作り物だ。その目に生命が宿っているはずはなく、ワタルを見ているわけはない。
もう一度閂をつかむと、どこかでかさこそ[#「かさこそ」に傍点]──と音がした。はっとして、ワタルは振《ふ》り返った。
何の音だ?
自分の神経が張りつめて、ピリピリと放電する音さえも聞こえそうだ。でもそれは、今さっき聞こえたかすかな音とは違《ちが》う。今のは──何かが動いたような──
新鮮《しんせん》な切り花の香《かお》りが鼻をくすぐる。祭壇|脇《わき》のシスティーナの石像の台座には、今日も花が溢《あふ》れているのだ。システィーナ像がその足元に、他種族たちを踏《ふ》み潰《つぶ》しているその姿を、信者たちの──いや、まだこの聖堂の真実を知らないヒトびとの目から覆《おお》い隠すための、まやかしの献花《けんか 》。
ワタルはほっと息をついた。大扉のところからでも、石像の台座から、二、三輪の真っ白な花が床に落ちているのが見えたのだ。さっきのは、花が落ちたときの音だったのだ。あまりにもたくさん盛ってあるので、崩《くず》れてしまったのだろう。
ぐずぐずしてはいられない。慎重《しんちょう》に、音をたてないようにして閂を抜《ぬ》き、大扉を押そうとしたとき、石像の台座から、さらに五、六本の花が続けざまに落ちた。花の隙間から、石像の足の踵《かかと》のあたりがちらりと見える。
一瞬《いっしゅん》、ワタルはひやりとした。システィーナ像が足を動かしたので、花が乱れて下に落ちたみたいな気がしたからだ。
ンな、馬鹿《ば か 》な。
それでも、息を停《と》めてじっと見守る。
と、ダイモン司教が出ていったあの扉から、がちゃがちゃと音が聞こえてきた。扉が開きかける。ワタルは横っ飛びに飛んで手近の長腰かけの背に隠れた。
扉が開き、誰か出てきた。法衣が床を滑る音。ダイモン司教か? まずい。通路をこっちに向かってくるようだと、すぐに見つかってしまう!
ワタルは大急ぎで印を結び、結界をつくって姿を消した。
法衣の裾が床を滑る音が、どんどん近づいてきた。そっと長腰かけの背もたれから顔をのぞかせてみると、やはりダイモン司教だった。豪華《ごうか 》な袈裟を脱《ぬ》ぎ、白い法衣だけの姿に戻《もど》っている。手にはあの杓──システィーナ像が持っているのとそっくりな、頭のところに宝玉のついた杓をつかんでいる。
先にここで初めて会ったときよりも、艶《つや》やかな顔色だった。ワタルの目には、何だか司教が活《い》き活きとして、若返ったようにさえ見えた。つるつる頭にも脂《あぶら》がのって光っている。ふと、カルラ族の翼《つばさ》に乗って、空からこの聖堂を見おろしたときの光景を思い出した。聖堂はリリスに君臨し、その影《かげ》が町を覆っていた──聖堂が力を持ち、勢いを増すにつれて、ダイモン司教にも不思議なパワーが満ちている?
司教は、ワタルが潜んでいる長腰かけの脇を通り過ぎた。さらに二列先まで行ったところで、出し抜けに足を止めた。
祈祷や説教のときと同じ、穏《おだ》やかだが威厳《い げん》という芯《しん》のある声が、こう言った。
「魔法の気配がする」
一瞬、結界のなかに隠れていることを忘れて、ワタルは身を縮めた。心臓がどきんどきんと暴れ出す。
ダイモン司教はゆっくりと首を巡《めぐ》らせた。その口元に、あからさまなニヤニヤ笑いを浮かべている。
大丈夫《だいじょうぶ》だ。結界がある。見つからない。ワタルは自分で自分に言い聞かせた。息苦しくなってきたので、逆に意識して呼吸を緩《ゆる》めた。身体の消耗《しょうもう》を、少しでも抑《おさ》えなくては。
「いたずら者め」と、ダイモン司教は言った。首だけでなく、身体ごとぐるりと廻《まわ》りながら。
「どこに潜んでおるのかな?」
ワタルに背を向けて、楽しそうにそう呟《つぶや》く。ワタルはそろそろと床を這い、ダイモン司教から離《はな》れようとした。
そのとき、ダイモン司教が振り向きざま、轟《とどろ》くような声で呼ばわった。「そこだ!」
司教の手の中の杓は、あやまたず真《ま》っ直《す》ぐにワタルを指していた。杓のてっぺんについた宝玉が輝《かがや》き、そこから稲妻《いなずま》が迸《ほとばし》った。避《よ》ける余裕《よ ゆう》もなく、ワタルは中腰になったまま稲妻を受け止めた。とっさに両手を前に出して身をかばう。
掌《てのひら》に、ついで腕《うで》に、電撃《でんげき》を受けたような痺《しび》れが奔《はし》った。ワタルは呆気《あっけ 》なく吹《ふ》っ飛ばされ、長腰かけの背もたれよりも高く飛びあがって、背中から床に落ちた。
あまりの驚きに、痛みさえ感じない。床をひっかくようにもがいて起きあがると、結界は消えていた。あの稲妻のような光に、かき消されてしまったのだ。
ダイモン司教はワタルを睨《にら》みつけながら、顔いっぱいに笑っていた。ふたつの目が、命やエネルギーのない、暗闇《くらやみ》の蛍光《けいこう》塗料《とりょう》のような輝きを放っている。
「ど、どうして……」
ダイモン司教はするりと一歩前に出て、ワタルに近づいた。
「そのような未熟な魔法で、この私の目を騙《だま》すことができるなど、本気で思っていたのかね? おまえがここに潜んでいることなど、とっくに気がついておったわ」
知っていて知らぬふりを決め込み、ワタルを泳がせていたというのか。
ワタルは膝《ひざ》をついて起きあがり、勇者の剣に手をかけた。ダイモン司教の笑《え》みが大きくなった。
「おまえは何者だ?」と、いたぶるような猫《ねこ》なで声で問いかける。さらに一歩|詰《つ》め寄る。ワタルは半歩下がる。
「たとえ術は未熟でも、おまえのような子供が結界魔法を唱えるなど希有《け う 》なこと、先《せん》にここを訪《おとず》れたときは、ハイランダーだと言っていたが」
「僕はハイランダーだ」ワタルはきっと顎をあげた。「不正を暴《あば》き、悪と闘《たたか》って幻界を守るのが、僕の使命だ!」
吠《ほ》えるような声をたてて短く笑うと、ダイモン司教は言った。「聞いたふうな口をきく。威勢のいいことだ」
値踏みするような視線で撫《な》で回されるのを、ワタルははっきりと感じた。おぞましくて身震《み ぶる》いが出た。
「その剣は──」ダイモン司教は杓でワタルの勇者の剣を指し、目を細めた。「そしてその目の輝き。あの魔法」
再び、険悪な笑顔が広がった。司教の目が晴れた。「そうか。おまえは旅人≠セな?」
ワタルは答えなかった。いつでも斬《き》りかかることができるよう、全身で身構え、集中していた。
「そうだ、おまえは旅人≠ネのだな」
司教は、さっき祈祷書を朗読していたときに似た、謳《うた》うような口調で言った。楽しげで、ほとんど浮かれてでもいるみたいな表情だ。
「忌《い》まわしきザザ・アク≠諱B神を騙《かた》る者よ。偽《いつわ》りの女神《め がみ》さまの掻《か》きたてし汚濁《お だく》の泡《あわ》より生じた卑屈《ひ くつ》なる僕《しもべ》よ。何故《な ぜ 》この聖域に足を踏み入れた? おまえのような卑《いや》しき存在にも、この聖堂の放つ光輝《こうき 》が感じられるというのか?」
ワタルは息をはずませて言い返した。「レンガ職人通りのヒトたちはどこだ?」
ダイモン司教は、白髪《しらが 》交じりの優美に長い眉《まゆ》を持ちあげた。「何だと?」
「トニ・ファンロンはどこにいる? みんな、この聖堂の地下牢《ち か ろう》に押し込められているはずだ!」
「そういうことか」ダイモン司教はにやにや笑った。「これは恐《おそ》れ入る。おまえはあの連中を助けるためにやってきたというのか?」
ワタルは声を張りあげた。「みんなはどこだ!」
「ザザ・アク≠諱B探せるものなら探してみるがよい。見出《み いだ》せるものならば、その目で見出してみるがよい」ダイモン司教はゆっくりと杓を両手に持ち替《か》え、てっぺんについた宝玉を目の高さに掲げた。「しかし、おまえには探せぬ。不浄《ふじょう》の者たちを助け出すこともできぬ。できるものか。なぜならば──おまえはここで死ぬのだ[#「おまえはここで死ぬのだ」に傍点]!」
ダイモン司教は宝玉を額に押しあて、朗々と呪文《じゅもん》を唱え始めた。
「太古に封《ふう》じられし我らが神の咆哮《ほうこう》よ、永劫《えいごう》の時の鎖《くさり》につなぎ止められし御霊《み たま》の力よ。今こそ出で給《たま》え、我ら神を讃《たた》える者どもの衷心《ちゅうしん》にて希《こいねが》いたり。天雷《てんらい》招来!」
聖堂のすべてのステンドグラスが、あたかもそのなかに雷《かみなり》が落ちたかのように、一斉《いっせい》にまばゆい光を発した。目もくらむほどの眩《まぶ》しさに、ワタルは思わず片手をあげて目を覆った。足元からどすんという衝撃《しょうげき》が来てよろめき、必死で長腰かけの背につかまった。
「我らが神よ、その名を騙る偽りの者に天誅《てんちゅう》をくだし給え!」
ダイモン司教は両手を広げ、天井《てんじょう》にまで轟くほどの野太い声を張りあげた。それに応《こた》えて、再びステンドグラスが輝いた。
その光のなかで、ワタルは見た。ステンドグラスのなかに描き出されたシスティーナたちが、みんなワタルの方を向いている。右手に杓を構え、左手の手鏡をワタルの方に差し出して、ワタルの顔をそこに映し、
──おお、我らが敵がここに。
──我らが敵はこの手中に。
すべてのシスティーナたちの目が欄々《らんらん》と輝いているのを。
ばさり! また花が落ちた。反射的に、ワタルは鞭《むち》のような敏捷《びんしょう》さで石像の方へ視線を飛ばし、振り返った。そして、そのまま凍《こお》りついてしまった。
信じられない。
こんなことがあるわけない。
システィーナの石像が、足元を埋《う》める花々を爪先《つまさき》ではらい落としながら、今、ゆっくりと台座を降りてくる。
右足が台座を離れ、床に着く。左足が持ちあがる。手鏡を掲げた左手が身体の脇に下がり、みしりと音がする。杓を握《にぎ》った右手が、翼のように大きく横へと差しのべられる。
そんな馬鹿な。石像が動くはずはない。これは幻覚《げんかく》だ。僕は幻覚を見ているんだ。
ダイモン司教が聖堂の天井を仰《あお》いで哄笑《こうしょう》した。「見るがいい! 神を騙る汚濁の者に聖域を侵《おか》されて、システィーナ様がお怒《いか》りじゃ!」
石像のシスティーナには、目はあっても瞳《ひとみ》はない。しかしワタルは、のっぺりとした灰色の石であるはずのその瞳から、怒りと憎悪《ぞうお 》の視線が迸り、ワタルを釘付《くぎづ 》けにするのを感じていた。
システィーナ像は床に降りると、手鏡を頭上に掲げ、テニスのバックハンドのショットさながらに、杓を下から上へと振りあげた。杓の先端《せんたん》から衝撃波が飛び出した。毒気と棘《とげ》を孕《はら》んだ鋭《するど》い風が、聖堂を突《つ》っ切って飛んでくる。ワタルの前の長腰かけの背もたれが、手品のようにスッパリと切断され、次の瞬間には砕《くだ》けて飛び散った。破片がワタルの上にばらばらと降りかかった。
声も出せず、ワタルは逃《に》げ出した。
「おお、逃げるわ逃げるわ、不浄の者よ! 神罰《しんばつ》が怖《こわ》いか。恐ろしいか。この聖堂に、おまえの逃げ隠れる場所などあるものか!」
ダイモン司教の声と同時に、第二の衝撃波が飛んできた。ワタルは頭から床に飛び込んでそれをかわした。シャツの裾が切り裂《さ》かれ、二、三列分の長腰かけが煽《あお》りをくらってひっくり返る。
ずしん、ずしん。システィーナが一歩進むごとに、聖堂の床が揺れる。ワタルとの距離《きょり 》は、もう長腰かけの三列分もない。ダイモン司教はワタルから遠ざかりつつ、杓を掲げて祈《いの》りを再開した。
衝撃波が来る。きわどく飛んで避ける。左の耳たぶが切れ、血が飛び散った。滑って転んだらおしまいだ。システィーナ像の石の目は、ぴったりとワタルを捉《とら》えている。
杓が振りあげられる。ワタルは勇者の剣を抜き、嘆《なげ》きの沼《ぬま》で覚えたあの魔法剣を使って、飛んでくる衝撃波に向かって光弾《こうだん》を放った。
長腰かけの破片を吹き飛ばしながら直進してきた衝撃波と、勇者の剣の先端から飛び出した光弾は、ワタルからほんの一メートル足らず離れたところでまともにぶつかった。光弾は衝撃波を受け止め、白く輝く半円のバリアに広がってそれを弾《はじ》き返した。
衝撃波はシスティーナ像へと撥《は》ね返り、手鏡を高く掲げた左腕がよろりとした。石像はたたらを踏み、持ちこたえて体勢を戻すと、またワタルの方へと進んでくる。
システィーナの石像は、自力で動いてるわけじゃない。ダイモン司教の呪文が動かしているのだ。ワタルは自分の両目がゆらゆらと泳ぎ、信じがたいこの決闘《けっとう》の光景に酔《よ》っぱらってしまいそうになるのを必死でこらえながら考えた。ダイモン司教を倒《たお》さなきゃ。呪文をやめさせるんだ!
衝撃波。また弾き返す。光弾のバリアで受け止めきれなかった力が背後の大燭台を直撃し、蝋燭が一斉に吹き消された。いや違う。蝋燭の頭が切り飛ばされてしまったのだ。切断された無数の火のついた芯の部分が、なおも燃えながらぱっと弾け飛んで床に落ちた。
──この衝撃波を!
システィーナの杓の先端が、ワタルに狙《ねら》いを定める。
──ダイモン司教に向かって打ち返すんだ!
思い出せ。草野球だ。カッちゃんとさんざん遊んだじゃないか。非力なワタルは、でもミートのセンスは最高だと、見物していた小村の小父《お じ 》さんが褒《ほ》めてくれたじゃないか。ワタルちゃんは、どんな球でもバットにあてる。いい勘《かん》してるぜ。イチロー顔負けだ!
タイミング勝負だ。呼吸を合わせろ。システィーナ像が振りかぶる。さあ、来るぞ。
それ自体に凶悪《きょうあく》な意志を孕《はら》んで、衝撃波がワタルめがけて押し寄せる。それが空を切ってくるのが見える。ワタルの首を切り落とそうと、唸《うな》りながら飛んでくるのが見える。
ワタルは勇者の剣をふるって魔法弾を打った。腰が引けて、それは一瞬|遅《おそ》かった。光のバリアはワタルの鼻先で広がり、衝撃波の勢いに負けて、ワタルを後ろへよろめかせた。いくつもの大燭台が、支えの柱をすっぱりと切断され、呆気にとられたように静まりかえったあと、ひと呼吸遅れて、重々しい音と共に落下した。
「どうした? 避けるだけで精一杯《せいいっぱい》か。もう後がないぞ、小僧《こ ぞう》!」
ダイモン司教の高笑いが、聖堂の壁に反響《はんきょう》する。
間近に迫《せま》ったシスティーナ像の石の顔が、にやりと笑った。止《とど》めを刺《さ》そうと狙っている。
杓が宙に弧《こ》を描く。至近距離で放たれた衝撃波が、キーンという不協和音をたててワタルに迫ってきた。
──イチロー顔負けだ!
ワタルは本当に草野球のバッティング・フォームそのままに、勇者の剣を振り抜いた。放たれた光弾は、ワタルの正面からわずかにずれて、きわどいところで衝撃波を弾き返した。バリアで防げなかった衝撃波が、ワタルの左肘《ひだりひじ》をかすめた。剃刀《かみそり》で指を切ったときのような、ひやりとした感触《かんしょく》が奔った。シャツの袖《そで》が裂け、左の頬《ほお》にパッと血が飛んだ。
「うわ!」
システィーナ像のずっと後ろで、ダイモン司教が背後の長腰かけを道連れに、仰向《あおむ 》けにひっくり返った。白い法衣が帆《ほ》のように広がり、裾の一部がすぱりと切れて、ひらひらと宙に舞《ま》いあがる。
「お、おのれ!」
ダイモン司教がひるむと、一瞬システィーナ像の動きが止まった。ワタルはその瞬間を逃《のが》さなかった。杓を持ったシスティーナの右腕の下をかいくぐると、まっしぐらにダイモン司教へと突進《とっしん》した。
「小僧め!」
もがきながら立ちあがろうとしたダイモン司教の動きを、だぶだぶの法衣が遮《さえぎ》った。ワタルはほとんど三段跳《さんだんと 》びでダイモン司教に飛びかかり、法衣のたっぷりとした袖を、むんずと踏みつけた。床に腕をついていた司教は、悲鳴をあげて床に叩《たた》きつけられた。
ワタルはダイモン司教の法衣の襟《えり》をつかむと、ぐいっと引き起こした。司教の身体を盾《たて》にして、システィーナ像に向き直る。
「そら、やってみろ。呪文を唱えてみろよ。システィーナ像が攻撃《こうげき》してきたら、僕と一緒《いっしょ》にあんたの首も落っこちるぞ!」
「小癪《こしゃく》な……この卑怯《ひきょう》者めが!」
「そんなのおあいこだ!」
システィーナ像は、手鏡と杓を持った両腕を掲げたまま、ゆらゆらと揺れている。
「離せ、その汚《きたな》い手を離せ!」
「離すもんか!」
叫《さけ》びつつ、つるつる頭を振りたてて逃げようと暴れるダイモン司教を、ワタルはぐいぐいひっぱった。法衣の襟がびりっと裂けた。司教はしゃにむに足を蹴《け》り、杓でめちゃくちゃにワタルを殴《なぐ》りつけた。
「穢《けが》れた手でわしに触《さわ》るな!」
あ、そう。ワタルはぱっと手を離した。ワタルから逃れようと力一杯暴れていた司教は、引き留める手を失って、自分から床に頭をぶつけた。ごつんという音がした。
うおうと呻《うめ》いて、司教は床にうずくまった。ワタルはさっと手をのばし、司教の緩んだ指から杓をもぎ取った。
「こんなもの、こうしてやる!」
杓の柄を握りしめると、精限り魂《こん》限りの力を込めて、宝玉を床に叩きつけた。
宝玉は呆気なく砕けた。破片が飛び散るとき、血のような匂いがプンと鼻をついた。
ふらついていたシスティーナ像の動きが止まった。万歳《ばんざい》をするように両手をあげている。と、右手の指が緩んで、杓がするりと床に落ちた。からんと音をたてて落下すると、それはワタルの目の前で、みるみる砂に変わっていった。
「おお、システィーナ様!」
ダイモン司教は額を切って、顔一面にだらだらと血を流していた。血が染《し》みるのか、片目を閉じている。司教なんかじゃない、痩《や》せさらばえてなお凶悪な、海賊《かいぞく》船の老船長だ。
「おのれ、小僧め、システィーナ様はお許しにならぬぞ!」
ダイモン司教の憎悪の声に応《こた》えて、ステンドグラスがまた稲妻のように輝いた。それに同調するように、システィーナ像の左手に残った手鏡も光り始めた。はっとするまもなく、その丸い鏡面から光が放たれた。ワタルはとっさに右に逃げた。床に転がって起きあがると、さっきまでワタルがいたところの床に、大きな焼け焦《こ》げができていた。
今度は手鏡光線攻撃ときたか。腹立たしいのと可笑《お か 》しいので、ワタルはパニックに陥《おちい》っていた。恐怖と興奮で、心のタガが外れそうだ。今にもヒステリックに笑いだしそうだ。
そのとき、左手首にはめたファイアドラゴンの腕輪が赤く光った。燃えるような感触が、ワタルを正気に戻らせた。ハイランダーの忠誠の誓《ちか》い。我らはファイアドラゴンの遺志《い し 》を継《つ》ぐ者、護法の防人《さきもり》、真実の狩人《かりゅうど》なり。
ワタルは立ちあがった。赤々と輝くファイアドラゴンの腕輪を、一瞬胸に押しあてると、勇者の剣を構えて飛び出した。
システィーナ像の手鏡から矢継《や つ 》ぎ早に光線が飛び出しては、ワタルを追って、床に、壁に、真っ黒な熱い焼け焦げをつくる。砕け散った長腰かけの残骸《ざんがい》が燻《くすぶ》り、燃えあがる。
狙いはシスティーナ像じゃない。あの手鏡に力を与《あた》えている、ステンドグラスを壊《こわ》すんだ。ワタルは走り、右に避け、左に飛び、前に転び後ろに避けながら、聖堂中を駆け回って、ステンドグラスに向けて魔法弾を放った。
ステンドグラスが一枚砕けた。
──女神の膝下《しっか 》にひざまずき、
次の一枚がキラキラとガラスの雨になった。
──悪しき者を憎《にく》み、弱き者を救《たす》け、
さらに一枚、もう一枚。魔法弾が命中し、ステンドグラスが木《こ》っ端《ぱ》微塵《み じん》になるたびに、破壊《は かい》音に紛《まぎ》れて、甲高《かんだか》い雄叫《お たけ》びのような女の悲鳴が響きわたる。
──この身が朽《く》ち果て塵《ちり》に還《かえ》るそのときまで、
最後の一枚、祭壇脇のステンドグラス。そのなかで正面を向いたシスティーナが、憎々しげに目を光らせ、ワタルに飛びかかろうとしながら、無数のガラスの破片と化した。
──正しき理《ことわり》の星を仰ぎ進まんことを!
息を切らし、目を血走らせて、ワタルはシスティーナの石像を振り返った。それは瓦礫《が れき》の山と化した長腰かけの列の向こう、ワタルの正面に仁王立《に おうだ 》ちしていた。
「これでも食らえ!」
ワタルは魔法弾を撃った。ワタルの意志を秘《ひ》めて空を飛んだ光弾は、あやまたずシスティーナ像に、その胸のど真ん中に命中した。
光弾が光の欠片《かけら》となって宙に消えても、システィーナ像はすっくと立っていた。ワタルはがくりと片膝をつき、それでもシスティーナ像から目を離さなかった。
システィーナ像の左手が緩み、指が開いて、手鏡が床に落ちた。杓と同じように、手鏡もまた床の上で砂に変わっていった。
「おお、システィーナ様……」
血だらけの顔をこわばらせ、ダイモン司教が四つん這いでシスティーナ像の足元ににじり寄った。両手で像にすがりつき、かき抱《いだ》く。
「何ということだ! 小僧め、おまえは自分が何をしたかわかっているのか?」
ワタルが何か言う前に、システィーナ像がぐらりと傾《かたむ》いた。それはただの石像に戻っていた。壊れかけ、台座を失い、不安定なただの重たい石の塊《かたまり》に。
ダイモン司教が、今何が起こっているのか悟《さと》り、逃げ出す前に、システィーナ像はゆっくりと傾き、悲鳴をあげる司教を下敷《したじ 》きにして、ずずん[#「ずずん」に傍点]と俯《うつぶ》せに倒れた。
ダイモン司教の悲鳴がぷつりと途切れた。聖堂のなかで動いているものといったら、舞いあがる塵と埃《ほこり》、長腰かけの残骸を、臆病《おくびょう》な残飯あさりのハイエナのようにちろちろと舐《な》めている小さな炎の群。ただそれだけ。それらの光景を、ステンドグラスという隔《へだ》てを失って、生に差し込む陽光が、場違いな明るさでうらうらと照らしている。
──か、勝った。やっつけた。
ワタルはその場に腰からくずおれた。長いこと潜水《せんすい》をし過ぎたときみたいに、吸っても吸っても肺が空気を求めていた。
祭壇脇の扉が出し抜けに開くと、法衣を来た男性が数人顔をのぞかせた。彼らは一様に呆然《ぼうぜん》として立ちすくみ、ワタルがそちらに顔を向けると、わっと叫んで扉の向こう側へ駆け戻っていった。扉がばたんと煽られた。
ぐずぐずしてはいられない。これだけの騒《さわ》ぎを引き起こしてしまったのだ。あの男たちは司教の部下だろう。彼らがシュテンゲル騎士《き し 》団やパム所長に報《しら》せれば、みんなが駆けつけてくる。そうなったら多勢に無勢、とてもワタルでは太刀打《た ち う 》ちできない。
逃げなきゃ──。やっとこさ立ちあがり、大扉の方へ向かいかけると、その大扉の向こうを駆け抜けながら、誰かが大声で叫んでいるのが聞こえてきた。
「おーい、おーい、大変だ! 聖堂が大変なことになっている! ブランチに報せてくれ! 救けを呼んでくれ!」
まずい。まともに大扉を出ていっては、とうてい逃げ切れないだろう。結界を張らなくちゃ。ワタルは剣を持ちあげた。でも、疲《つか》れすぎていた。印を結ぶために剣を動かそうとしただけで、めまいがして倒れそうになった。
このままじゃ、捕《つか》まってしまう──
「いったい、こりゃ何事だ?」
仰天《ぎょうてん》して裏返った声に、ワタルは目をあげた。システィーナ像のあった場所、花に覆われた台座のところに、男が一人顔を出していて、目をまん丸に見開いている。ワタルは一瞬で理解した。
そう、台座だ。システィーナ像が密《ひそ》かにヒト目を憚《はばか》りながら、他種族たちを足元に踏みしめていた、あの台座こそが地下牢への出入口なのだ。なるほど、パム所長とダイモン司教の思いつきそうな趣向《しゅこう》じゃないか。
男が顔を引っ込める前に、ワタルは残った力をかき集めて魔法弾を撃った。男はきゃっと叫び、ついでどたどたと音をたてて姿を消した。どうやら下に転がり落ちたらしい。
ワタルは足を引きずり、弱った身体にむち打って、台座のところまで走った。思ったとおり、台座がそっくり横にずれ、下に通じる頑丈《がんじょう》な梯子《はしご 》が見えている。顔を突っ込んでのぞくと、さっきの男が梯子の下で失神していた。
震える手で梯子をつかみ、ワタルは下に降りた。降りたところは石壁に囲まれた狭い通路で、ところどころに火屋《ほ や 》で覆ったランプが灯《とも》されている。すぐ右手に小さな部屋があり、机と椅子《い す 》、書類の束。詰め所なのか。
間違いない。地下牢だ。正面には檻《おり》があり、さらに通路は遠く延びて、その両脇に、びっしりと牢屋が並んでいる。なかに閉じ込められたヒトびとが、格子《こうし 》をつかみ、隙間に顔をおしあてて騒いでいる。
失神している男は、ここの牢番のようだった。腰に鍵束《かぎたば》をつけている。ワタルはそれを失敬すると、進路を遮っている檻にぴったりとくっついて呼びかけた。
「皆《みな》さん、無事ですか? レンガ職人通りの皆さん、みんなここにいるんですか?」
おおっというどよめきが起こり、いっぺんには聞き取れないほどの数の質問が飛んできた。「おまえは誰だ?」「助けに来てくれたのか?」「上で何があったんだ? 床がどすんどすんと揺れたぞ!」
「僕はハイランダーです! 皆さんを助けに来ました!」
大声でそれだけ答えておいて、ワタルは梯子の下までとって返し、台座の裏側にくっついた取っ手を操作して、元どおりに蓋《ふた》をした。詰め所の壁に、輪にしたロープがかけてあったので、それで失神している男を縛《しば》りあげると、机の下に押し込んだ。
鍵束にはたくさんの鍵がぶらさがっていて、正面の檻を開ける鍵を見つけるまで手間取ってしまった。地下牢のなかのヒトびとは、喜び、焦《じ》れ、大騒ぎが止まらない。
やっと檻を開けると、ワタルは地下牢の通路にまろび出た。ヒトびとの声があまりにも騒々《そうぞう》しく、両手を輪にして口元にあてて叫んでも、誰も聞いてくれやしない。ワタルは勇者の剣を鞘《さや》ごと手に取ると、それで檻の格子をがつんがつんと叩いた。
「静かに! 静かにして!」
ヒトびとがやっと鎮《しず》まると、ワタルは声を励《はげ》まして呼ばわった。「ファンロンさんはいますか?」
奥の方で、うわずったような声で、ファンロンはここだと返事があった。ワタルはそこまで駆けていった。
トニ・ファンロンもまた窶《やつ》れていた。ずっとここに閉じこめられていたせいだろう、幽鬼《ゆうき 》のように青ざめて、頬骨が飛び出している。うなじのところで束ねた長い黒髪《くろかみ》も、先に会った時より薄くなり、痩せているようだ。でも目はしっかりと開いていて、ワタルの顔を見ると、そこにばっと光が灯った。
「君は、ガサラのハイランダーじゃないか」
ファンロンは両手で牢の格子をつかんだ。
「君一人でここまで来たのか? 仲間は?」
「残念ながら、僕一人なんです」ワタルも牢の格子につかまり、やっと立っていた。「そっと忍び込むつもりだったんだけど、大立ち回りになっちゃって。だから、上には戻れません。今ごろはきっと、パム所長の部下たちと、シュテンゲル騎士団がこの聖堂を囲んでいるはずです」
檻のなかの獣人たちや水人たちが、口々に騒ぎ出した。怒ったり呪《のろ》ったり叫んだり。そのなかで、ファンロンだけが笑った。「それじゃ、助けに来たとは言えないな。君も雪隠詰《せっちんづ 》めじゃないか」
「そうなんです。申し訳ないけど」
「どうするつもりだ?」
「あの梯子の他に、出口はありませんか」
「そんなもの、ありっこないさ」
ファンロンは大声で笑いながら言って、同じ牢に押し込められている仲間たちを振り返った。いかつい獣人や水人たちが、一斉に吠《ほ》えるように笑った。
「ありっこないから、僕らはここにトンネルを掘《ほ》っていたんだ。無論、見つからないようにこっそりとだけどな」
トンネルはこの牢にあるのだろう。ファンロンたちは喝采《かっさい》しながら、粗末《そ まつ》な床板を剥《は》がしにかかった。そこにぽっかりと穴が空いている。
「町の外まで掘り抜いたんだぞ!」ファンロンに並んで、尖《とが》った牙《きば》を誇《ほこ》るように剥《む》き出しながら、獣人が叫んだ。「俺たちだけなら、いつだって脱走《だっそう》できた。でも他の牢の連中が心配でな。いいときに来てくれた、お手柄だぜ、ちびっこいハイランダーさんよ! さあ、その鍵で、みんなの牢を開けてやってくれ」
ワタルは気が抜けて、その場にへたりこみそうになった。ファンロンが格子の隙間から手をのばし、危《あや》ういところでワタルの腕をつかまえた。
「しっかりしろ。怪我《け が 》してるみたいだけど、気絶するなら後にしてくれ。もっと安全な場所まで逃げ出した後に」
「うん、わかった」
鍵束を握った手を、またファンロンが引き戻した。彼の黒い瞳が大きくなっている。
「それは──僕の道具箱じゃないか!」
ワタルが腰につけてきた道具箱だ。
「エルザに会ったのか?」
「はい。彼女は無事です。あなたの身を心配して悲しんでるけど、無事です」
「良かった……」
「これ、彼女から預かってきたんです。ファンロンさん、僕はあなたに龍《りゅう》の笛を作ってもらいたいんです。そのために、あなたを探してリリスに来たんです」
ファンロンの痩せた顔に、精悍《せいかん》な気が漲《みなぎ》った。「よし、わかった。何だかわからないが、何だって作ってやるよ。とにかく、早くここから出ようじゃないか」
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37 ジョゾの翼
長いトンネルは、リリス郊外《こうがい》の山中に通じていた。脱出《だっしゅつ》したヒトびとは、そこで散り散りに分かれることになった。
「他の町のブランチを訪ねてください。リリスの実状がわかれば、みんな放《ほう》ってはおかないはずです」
女性や子供たちも混じっているし、ワタルはとても心配だったのだけれど、レンガ職人通りのヒトたちは意気|軒昂《けんこう》だった。
「俺たちは、このあたりの地理には詳《くわ》しい。捕《つか》まえられることなんかないよ。きっと逃げ切ってみせる」
ワタルはトニ・ファンロンと共に、森を抜《ぬ》け丘を越《こ》えて大樹の道標《しるべ》≠ヨ向かった。キ・キーマのダルババ車は、強行軍の道中の泥《どろ》と埃《ほこり》を車輪にくっつけて、確かにそこで待っていてくれた。ミーナは大樹の枝に登っていて、ワタルとファンロンの姿をいち早く発見してくれたが、傷だらけのワタルを見て動転して、危《あや》うく枝から落っこちるところだった。
「サルも木から落ちるってところだね」と、ワタルは笑ってみせた。「僕、凄《すご》い格好になってるけど、でもたいした怪我《け が 》じゃないよ」
「嘘《うそ》ばっかり。ひどい傷よ。いったい何があったの?」
話は後だ。一同はダルババ車に乗り込んだ。
「とにかく、リリスのブランチの管轄外《かんかつがい》に抜け出さないと、腰《こし》を落ち着けて龍《りゅう》の笛を作ることもできないよな。ちょっと揺《ゆ》れるけど、我慢《が まん》してくれよ。山をふたつ越せば、タクロという小さい村がある。えらく寂《さび》れたところなんで、リリスの連中には知られてない。ブランチの手も届かないだろう。あそこまで行けば、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
キ・キーマは気合いを入れてダルババに鞭《むち》をくれ、土埃を蹴立《け た 》てて走り出した。
タクロという山中の村は、もうずうっとずうっと昔、誰《だれ》もはっきりとは覚えていないほど遠い時代に、金鉱があって栄えたところだった。金鉱が掘《ほ》り尽《つ》くされると、村の繁栄《はんえい》も終わった。今では、老人ばかりが少数残って、細々と畑を耕して暮らしている。
「タクロの金でできた装飾《そうしょく》品といったら、骨董《こっとう》品の代表だ」
ファンロンは、素朴《そ ぼく》な茅葺《かやぶ 》き屋根の小屋を見回しながらそう言った。
「修理を頼《たの》まれて、二、三度|扱《あつか》ったことがあるけど、こんなところだったのか」
ダルババ車が村の入口に着くと、老人たちが小屋から顔をのぞかせ、キ・キーマに親しげに挨拶《あいさつ》を投げた。ワタルは驚《おどろ》いた。
「キ・キーマ、知り合いがいるの?」
ここまで、ダルババ車で登ってくるには、かなりしんどい道ばかりだった。
「こんなところに、配達に来るの?」
「仕事じゃないんだけども、ま、頼まれ事をすることがあってさ。年寄りが多いから、衣類とか日用品とか、町場でないと手に入らないものを買って持ってきてやるんだよ」
そもそもは、キ・キーマがダルババ車を転がし始めたばかりのころ、山中で迷ってしまって、ここにたどり着いたことがあったのが始まりだそうだ。
「俺たちはホラ、仕事じゃリリスには行かないからな。このあたりの道には疎《うと》くて、しかも新米のころだから、危うく行き倒《たお》れになるところを、ここで助けてもらったんだ。それ以来、近くに来ると顔を出すようにしてるんだよ」
もともと金鉱があった町だから、老人たちは、かつて金鉱労働者だった獣人《じゅうじん》族ばかりだった。キ・キーマとは本当に仲がよさそうで、みんな親切だった。事情を話すと、空いている小屋を提供してくれて、食糧《しょくりょう》や飲み物も、持ち寄って勧《すす》めてくれた。
村長は、耳の内側の毛まで真っ白になった獣人で、ワタルの目には、年寄りのシベリアン・ハスキーみたいに見えた。老いて弱ってはいるけれど、瞳《ひとみ》のなかにかすかに残る精悍《せいかん》さがよく似ているのだ。
一晩の休息をとると、ファンロンはすぐ龍の笛の製作にとりかかった。初めてジョゾのウロコを見たときの彼の興奮ぶりといったら、ワタルもミーナもキ・キーマも、ちょっと言葉を失うほどのものだった。
「こいつは一生一度の大仕事だ」彼は頬《ほお》を上気させて言った。「ドラゴンのウロコなんて、僕の師匠《ししょう》でさえ扱ったことはなかった。もちろん僕も初めてだよ。しかも失敗は許されないんだよな。こいつは一枚しかないんだ」
二日、いや三日の時間をくれと、彼は言った。「任せてくれ、絶対に作ってみせる」
そう宣言し、小屋に籠《こ》もってしまった。
「職人|気質《かたぎ》というか芸術家|肌《はだ》というか……」
キ・キーマは大きな黒目を瞠《みは》って感心した。「ちょっと前までは牢《ろう》につながれ、命の危険にさらされていたなんて思えないくらいのエネルギーだぜ。たいしたもんだよ」
「ファンロンさんはきっと、今は目の前の細工仕事に打ち込みたいのよ」ミーナがしんみりと言った。「そうすれば、リリスに残してきてしまったエルザさんのことを考えずに済むんでしょう」
エルザのことは、無論ワタルも案じていた。でも、対立しているとはいえ、彼女はパム所長の娘《むすめ》だ。ファンロンたちの大脱走があってリリスにはいっそうの厳戒《げんかい》態勢がしかれることだろうけれど、それがすぐさまエルザの身の危険につながる可能性は少ない。そう考えて、自分を宥《なだ》めた。
それに、気が抜けたのか、ワタルは倒れて寝込んでしまった。高熱にうなされて、ミーナを心配させた。村の老人の一人が、怪我からくる熱によく効くという薬草を煎《せん》じてくれたのだけれど、それはとっても苦くて不味《ま ず 》くて、ゲエゲエいいながら飲み下さなければならなかった。
ファンロンが仕事に打ち込み、ワタルが休息をとっているあいだ、リリスのブランチのハイランダーたちと、シュテンゲル騎士《き し 》団の一団が、村の入口に訪《おとず》れた。キ・キーマの読みは外れ、彼らは一応、タクロ村も脱走|囚人《しゅうじん》たちの捜索《そうさく》範囲《はんい 》に組み入れていたのだ。
でも、応対に出た耳の遠い老人たちとのやりとりに焦《じ》れ、廃村《はいそん》寸前という村の佗《わ》びしい佇《たたず》まいにも呆《あき》れたのか、村中まで踏《ふ》み込むことはなく、すぐに引きあげていった。
「この村のおじいちゃんおばあちゃんたちは、けっこうしたたか[#「したたか」に傍点]よ」
ワタルを看病し、付き添《そ》っていたミーナが、ちらりと舌の先をのぞかせて笑った。
「本当はあそこまで耳が遠いわけじゃないのに、わざと聞こえないふりをして、追っ手を煙《けむ》に巻いちゃったの」
ワタルは安心して傷を癒《いや》した。ミーナが心底心配してくれていることがよくわかるので、システィーナ聖堂で何があったのか、自分が何をしたのか、少しずつ語って説明した。
「よく、無事に帰ってこられたね」
ミーナの深い青灰色の瞳が、うっすらと潤《うる》んだ。
「勇者の剣《けん》のおかげだよ」と、ワタルは言った。「でも……僕はダイモン司教を殺しちゃった」
「ワタルが殺したんじゃないわ。自業《じ ごう》自得じゃない。それに、ダイモン司教を倒さなかったら、ワタルが殺されてた。ファンロンさんたちを助けることもできなかった」
そのとおりだ。でも、心に残ったうずくような罪悪感は消えてくれなかった。素朴な木を組んだだけの梁《はり》を見あげ、茅葺き屋根をさわさわと震《ふる》わせる風の音を聞き、竈《かまど》で煮《に》えているシチューの湯気や焼きたてのパンの匂《にお》いに包まれて横になっていると、すべてが悪い夢だったようにも思えてくる。でも、寝返《ね がえ》りをうつたびに、うとうとしてふと目覚めるたびに、日めくりが風に吹《ふ》かれてぺらりと一日前に戻るみたいに、聖堂での光景が蘇《よみがえ》り、それが現実の出来事であったことを、ワタルに再認識《さんにんしき》させるのだった。ゆっくりと倒れるシスティーナ像と、その下敷《したじ 》きになってゆくダイモン司教。額の傷からだらだらと血を流し、悲鳴をあげながら。
ミーナは、ワタルが悪夢まじりのうたた寝からさめると、昼でも夜でも、いつも枕元《まくらもと》にいてくれた。ミーナが気づいていないとき、その横顔を見つめると、ワタルはそこに母さんの面影《おもかげ》を見つけた。母さんに似ているけれど、母さんではない、優《やさ》しい女性の面影も見えた。それはまだワタルが会っていないヒト、これから未来のどこかで巡《めぐ》り合うであろう現世《うつしよ》の誰か──ワタルのことを想《おも》ってくれる誰かの面影のようにも思われた。
身体《からだ》のあちこちにまだ傷薬を塗《ぬ》り、包帯を巻いた格好ながら、ワタルが起きあがれるようになったころ、トニ・ファンロンがよろよろと小屋から出てきた。その手には、赤く輝《かがや》く小さな笛が握《にぎ》りしめられていた。
「できた……」
そう言って、今度は彼がぶっ倒れてしまった。三日のあいだ不眠《ふ みん》不休、飲まず食わずだったというのだから無理もない。
ワタルは龍の笛を手にした。紅宝石《ル ビ ー 》の輝きをそのなかに封《ふう》じ込め、ほっそりと華奢《きゃしゃ》なその細工品は、笛というよりも、ヒトの手に荒《あ》らされていない深い森の奥に飛び交《か》う、不可思議で美しい鳥のくちばしのように見えた。いったい、どんな音がするのだろう?
「ここがいいじゃろう」
タクロの村長は、ワタルたちを村はずれの広場へと案内してくれた。雑木林に囲まれて、柔《やわ》らかな下草に白い小花が咲《さ》き乱れている。
「ドラゴンはたいそう身体が大きいんじゃろうけれども、ここなら大丈夫じゃ。足場もしっかりしておるしな」
かつてこの村が栄えていたころには、祭りや集会に使われていた場所だという。
ワタルは深呼吸をひとつして、青空を仰《あお》いだ。今日は雲ひとつない晴天だ。風も優しい。
「ワタル、早く笛を吹《ふ》いてみて」
ミーナとキ・キーマ、その後ろには村長が村人たちを従えて、固唾《かたず 》を呑《の》んでいる。みんな、ドラゴンを見るなんて、生まれて初めてなのだそうだ。お年寄りたちが子供のように瞳を輝かせている様子は、ちょっと可愛《かわい》い。
「それじゃ、ね」
ワタルは緊張《きんちょう》してきた。龍の笛を取り落とさないようにしっかりと指で挟《はさ》んで、口元に持ってゆく。
真紅《しんく 》の笛は、ほんのりと温かかった。ワタルはそっと息を吹き込んだ。
その音《ね》は、豊かな流れとなって迸《ほとばし》しり出た。突然《とつぜん》、頭からすっぽりと、透《す》き通って美しく滑《なめ》らかな布に包み込まれたようで、風景さえも変わった。雑木林の緑が鮮《あざ》やかな新緑に変わり、下草のなかに咲く小花の白色が、白銀のように輝き出した。
龍の笛は、ワタルの呼気を音に変えているのではなかった。その資格を持つヒトの命に触《ふ》れて、自身で歌い出すのだ。空の彼方《かなた》へと呼びかけるのだ。その呼び声は風に乗り、風と渾然《こんぜん》一体となり、雲を渡り、光を吸い込み、地上にあるものすべての耳に心地《ここち 》よい囁《ささや》きを降り注ぎながら、空の高処《たかみ 》を目指して舞《ま》い昇《のぼ》ってゆく。
「きれい……」
陶然《とうぜん》と空を仰いで、ミーナが呟《つぶや》いた。まるで音色の流れが見えているかのようだ。いや、ワタルの目にも、確かに見えた。澄《す》んだ幻界《ヴィジョン》≠フ空気のなかでもひときわ澄み切って、濁《にご》りを寄せつけず、強靭《きょうじん》なエネルギーを内に秘《ひ》めた清らかな風が、この広場からぐんぐんと立ち昇ってゆく様が。
ワタルが口元から龍の笛を離《はな》しても、しばらくのあいだはその気配《オーラ》が残っていた。歌をやめた龍の笛は、ワタルの指のあいだでぴかりと赤く輝くと、満足気に沈黙《ちんもく》した。
どれぐらい待っただろうか。みんな時を忘れていた。ひたむきに青空を仰いで、心をひとつに、胸をわくわくさせながら。
やがて蒼穹《そうきゅう》の彼方に、ぽつりとひとつ、真紅の点が現れた。まるで青空のただ中に、もうひとつの龍の笛が生まれたかのように。だがその真昼の中天に輝く真紅の星は、明らかに動いていた。近寄ってくる。こちらに向かってくる。雲の欠片《かけら》もない一面の紺碧《こんぺき》のなかを、導かれ、見出し、呼びかけに応《こた》えて、ただまっしぐらに。
真紅の点はみるみるうちにふくらみ、大きな翼《つばさ》の形を成した。力強く羽ばたくたびに気流を起こし、背後に虹《にじ》を生み出しながら、飛んでくる。やってくる。
ワタルは思わず片手をあげた。みんなも手を振《ふ》り始めた。真紅の翼がはっきりと見えてきた。間違《ま ちが》いない。あれはドラゴンだ。
真紅のドラゴンは翼を張り、ワタルたちの頭上で大きく旋回《せんかい》すると、真上で滞空《たいくう》した。ワタルたちはさっと散って、広場の中央を空けた。鉤爪《かぎづめ》のはえた足と翼の動きで器用にバランスを取りながら、ジョゾはゆっくりと降りてきた。翼が動くたびに、雑木林と下草が揺れ騒《さわ》いだ。ジョゾの翼の巻き起こす風に、ワタルの髪《かみ》が、ミーナの耳が、村人たちのゆったりとした服の袖《そで》や裾《すそ》がはためく。みんな笑ったり声をあげたりしながら、ちぎれるほどに手を振り続けた。
ジョゾの足が地面についた。巨大《きょだい》なファイアドラゴンは、自分の翼で待ち受けるヒトびとを薙《な》ぎはらわないように、注意深く着地した。大きな丸っこい目が、くるんと動いてワタルを見つけた。
「ジョゾ!」
ワタルは両手を広げて飛んでいった。ファイアドラゴンは翼をたたみながら、喉《のど》を鳴らしてワタルを迎えた。
「やあ、やあ、久しぶりだね、ワタル」
ジョゾは大きな牙《きば》のあいだから声を出した。彼の身体は、嘆《なげ》きの沼《ぬま》≠ナ会ったときよりも、ひとまわりもふたまわりも成長していた。翼はたくましく、牙は鋭《するど》く光り、真紅のウロコの一枚一枚が、強靭な衣となって全身を覆《おお》っている。でも、明るい口調に変化はなかった。「なかなか呼んでくれないから、どうしたのかと思っていたよ」
「ごめんね。あれからいろいろあったんだ。でも、僕のこと、ちゃんと覚えていてくれたんだね」
「もちろんさ」ジョゾは目をくりくりさせた。
「君は僕の命の恩人だもんね」
嘆きの沼で怪魚《かいぎょ》カロンに食いつかれたとき、ワタルが勇者の剣で切り落としたジョゾのしっぽは、まだそのまんまだった。
「しっぽ、はえ変わらなかったの?」
ジョゾはしっぽの先をばたばたさせて、下草を打ちながら、笑った。おっかなびっくりジョゾに近づき、指先でしっぽに触れたり翼を撫《な》でたりしていた村人たちが、わらわらと逃げた。
「いくら僕らドラゴンでも、それはちょっとね。竜王様に叱《しか》られちゃったよ。曲芸飛行ばっかりやってるからだって。でもさ、傷痕《きずあと》があるなんて、歴戦の勇士みたいで、ちょっとカッコいいだろ?」
ジョゾは長い首をかしげると、集まっているヒトびとを見回した。「ワタルのお仲間たちかい?」
「うん、そうだよ」
「みんな、目も口も大きいね」
ワタルは声をたてて笑った。「君を見てびっくりしてるからだよ。みんな、ドラゴンを見るのは初めてなんだ」
「そうなの。皆さん、こんにちは」
ジョゾの気さくな挨拶に、村人たちは「おお」とどよめいた。腰を抜かしているお年寄りもいる。村長は、しきりと額の汗《あせ》を拭《ぬぐ》っている。
「これはこれは……本物じゃ。本物のファイアドラゴンじゃ」
「うん、そうだよ」ジョゾは屈託《くったく》がない。
ミーナがおそるおそる進み出た。「ワ、ワタル──」
「うん。ジョゾ、僕の旅仲間のミーナとキ・キーマだよ」
「初めまして、ネ族のお嬢《じょう》さん。それと、水人族のおじさん」
「お、おじさん」キ・キーマはひるんだ。
「俺はそんなに年寄りじゃないんだ」
「あれ、そうなんだ。ごめんよ。水人族の歳《とし》って、わかりにくいんだよね」
ドラゴンの歳だってわかりにくい。ジョゾは、ちょっとのあいだに身体は大きくなったけれど、中身はまだまだ子供のようだ。
「ところでワタル、何処《ど こ 》に行きたいの? 僕は先《せん》より、もっともっと高く速く飛べるようになった。何処でもお望みの場所へ連れて行ってあげるよ」
ワタルは事情を説明した。ジョゾは驚く様子もなかった。「そう、デラ・ルベシね。うん、確かに、近頃《ちかごろ》はアンドア台地周辺の気流がおかしくなってるから、カルラ族が近づいたら危険だろうね」
「知ってるの?」
「知ってるさ。幻界の大空は僕らのものだもの。すぐ出発する?」
「うん!」
ワタルたちは旅支度《たびじ たく》を済ませていた、ジョゾが首を差しのべてくれたので、まずキ・キーマがよじ登り、ミーナを引っ張りあげ、最後にワタルが登って、ジョゾの首の付け根にまたがった。村人たちが近づいてきた。
「村長さん、お世話になりました。本当にありがとう」
「何の何の、お安い御用《ご よう》じゃったよ」
「ファンロンさんのこと、お願いします」
「ああ、任せておけ。彼が元気になったら、峠越《とうげご》えの安全な道を通って、無事ガサラまでたどり着けるように手配してやる」
ワタルはガサラのカッツあてに手紙を書いていた。ファンロンはそれを持ってガサラに行き、リリスの実状を、ブランチ全体に広く訴《うった》えかける手はずになっている。
「三人様だね? ちゃんと座ったかい? しっかりつかまっていてよね」ジョゾは首をよじって確認すると、翼を動かし始めた。
「それじゃ、出発するよ。最初はちょっと揺れるからね。それ!」
ジョゾが翼をひと振りすると、たちまち上昇《じょうしょう》気流が巻き起こった。それはワタルの頬を心地よく撫で、気持ちをも高揚《こうよう》させてくれた。
「気をつけていくんじゃぞ!」
村長が大声で呼びかける。ワタルは手を振った。村人たちも手を振り返す。ジョゾの身体がふわりと持ちあがり、雑木林が足元へと退いてゆく。ワタルは村人たちの歓声《かんせい》と励ましの声を聞き、大声でさよなら、ありがとうと言った。
またたく間に、ジョゾは空へと舞いあがった。別れの挨拶に、広場の上を半円を描《えが》いて滑空《かっくう》すると、デラ・ルベシを目指してさらに上昇してゆく。
見送るタクロ村の老人たちは、ジョゾが再び赤い星のようになり、やがて消えてしまうまで、揃《そろ》って空を仰いでいた。誰ともなく、誰もが口を揃えて呟いた。
「長生きはするもんじゃの……」
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38 凍れる都《みやこ》
カルラ族の翼《つばさ》に乗ったことのあるワタルにとってさえ、ジョゾの飛行の速さ、高さはまた格別のものだった。ましてや、これが初飛行のミーナとキ・キーマにとっては大変なショックであるようだ。それでもミーナは下界を見渡《み わた》しては歓声《かんせい》をあげ、きゃっきゃと喜んでいたからいい。キ・キーマときたら、飛びあがってまもなく、それでなくても青白い肌《はだ》から、完全に血の気がなくなってしまった。
「オ、俺はちょっと──空の旅は苦手かもしれない」
あわあわしながらそう言ったきり、後はもう口もきけずに、かちこちに固まってジョゾの翼にしがみついている。
「キ・キーマ、案外いくじなしね」
ミーナがからかっても反応しない。
「少し空気が薄《うす》くなるけど、下が見えない方が安心だろうから、この雲を抜《ぬ》けて上に出るよ。そうすれば、足元にはふわふわの真っ白な雲が一面に広がって、ちょっとは気が楽になるんじゃない?」
ジョゾはそう言って、頭上の雲のなかに飛び込み、するするとそれを通り抜けた。彼の言うとおり、目の下の雲海は(それがとんでもなく高い場所だということさえ忘れれば)、いかにもやわらかくて安全そうで、ちょっぴり不安を取り除いてくれたようだ。
ジョゾの首につかまりながら、ワタルとミーナは、彼といろいろな話をした。ドラゴンは、いつもこんなに高いところを飛ぶの? 北大陸と南大陸を隔《へだ》てる海の何処《ど こ 》か、針の霧《きり》≠ノ覆《おお》われた小島に棲《す》んでいるという噂《うわさ》は本当なの?
「うん、そうだよ。僕は針の霧≠フなかで生まれた。僕らドラゴン族の暮らしてる小島は、僕が君にあげたウロコみたいな形をしてるんだ」
大昔には、ドラゴン族ももっと大勢いて、南大陸にも北大陸にも、たくさん棲んでいたのだという。
「だけどね、僕らはやっぱり、君たちと共存することが難しかったんだって」
「どうして?」
「だって身体《からだ》が大きすぎるもの。力も強すぎる。それに火を吐《は》くしね」
ミーナは目を瞠《みは》った。「それじゃ、あたしたちの種族が──アンカ族も獣人《じゅうじん》族もみんなみんな──ドラゴン族を追い出しちゃったのかしら」
「うーん。そうなのかな」ジョゾは言いにくそうだった。「僕も、竜王様や父さん母さんから昔の言い伝えを聞いてるだけだから、よくわかんないことも多いんだけど」
ジョゾにも父さん母さんがいるのだ。そりゃ当然だけど、ちょっと不思議だった。
「だけど、そうだとしたら、あたし嫌《いや》だな」ミーナは思い詰《つ》めたみたいな顔をして、耳をひっぱっている。「ファイアドラゴンは、創世の女神《め がみ》さまを手伝って、幻界《ヴィジョン》≠守り育ててくれた大切な恩人よ。その子孫を、後から出てきたあたしたちがハクガイしちゃっただなんて……」
「迫害《はくがい》したとかそういうことじゃなくてさ」ジョゾはあわてて言い足した。「あのね、竜王様は言ってた。幻界は、それ自体がひとつの生きものみたいなもんなんだって。だから、長い歴史のうちにはヘンカするんだって。僕らみたいに強大すぎるものは、だんだん数が少なくなって、いつか滅《ほろ》びていくのも仕方がないんだって」
ずいぶん淡々《たんたん》としている。
「ジョゾは寂《さび》しくないの?」と、ワタルは訊《き》いた。
「寂しいって?」
「滅びるってこと……」
「なんか、実感わかないよ。僕は元気だもの。それに、龍《りゅう》の島≠ノはまだまだ仲間がいるしね」
それでも大人のドラゴンたちは、めったに島を離《はな》れることはないという。龍の島≠ノ籠《こ》もって、ひっそり平和に暮らしているのだ。外へ出て幻界中を飛び歩くのは、好奇心《こうき しん》旺盛《おうせい》な若いドラゴンたちばっかりだそうだ。ワタルがジョゾに巡《めぐ》り合ったのは、本当に希有《け う 》な幸運だったのである。
「これも女神さまのお導きかもしれないね」と、ジョゾは雲のなかで目を細めながら言った。
空の旅は寒いだろうからと、それぞれに着込んできたのだけれど、アンドア台地が近づいてくると、雲は次第《し だい》に厚みを増し、気温もぐっと下がってきた。キ・キーマは盛んにくしゃみをしている。
「ちょっと火を吐いて暖めてあげようか」
「いや、いい! 遠慮《えんりょ》しとく!」
あわてて断った拍子《ひょうし》に、キ・キーマはジョゾの背からずり落ちそうになった。ワタルとミーナは笑い転げた。
「遠慮することないのにな。でも」ジョゾは雲の向こうを透《す》かし見た。「この雲、やっぱり様子がヘンだよね。いつもなら、ここまで飛んでくれば、雲の隙間《すきま 》からアンドア台地が見えてくるんだ。だけどこれじゃ、何にも見えない」
いつの間にか、足元にあったはずの雲に、すっぽりと包み込まれてしまった。ジョゾは高度を変えていないのに。
「それに、君たち感じない? この雲、悲しい味がするよ」
「悲しい味?」
ワタルもミーナもベロを出して、雲を味わってみようとした。それはなかなか難しかった。綿飴《わたあめ》を舐《な》めるみたいにはいかない。
「涙《なみだ》の味だ。もしかしたら、女神さまが悲しんでおられるのかもしれない」
ジョゾは神妙《しんみょう》な口調になった。
翼で雲をかき分けるようにして、ファイアドラゴンの飛行は続いた。やがて、右手の前方で、雲のかすかな切れ間に何かがピカリと光るのが見えた。ほんの一瞬《いっしゅん》のことだったけど、確かにワタルの目に入った。
「そうだね。もうアンドア台地のすぐそばまで来ているはずだから。ちょっと降りてみよう。つかまっててよ」
ジョゾはすうっと高度をさげた。見えないジェットコースターに乗っているみたいに、ワタルの胃袋《いぶくろ》がふわりと浮《う》いた。キ・キーマが呻《うめ》いた。
「あれだ!」ジョゾが言った。「おや、もう真上まで来ていたよ」
ジョゾの翼が生む強い気流に、雲が背後へと吹《ふ》き流されてゆく。開けた視界のなかにぽっかりと、忽然《こつぜん》と、空中|楼閣《ろうかく》のような都市の姿を見出《み いだ》して、ワタルは息を呑《の》んだ。
氷河に守られ、雪に閉《と》ざされたアンドア台地の頂上に、その都《みやこ》は存在した。楕円《だ えん》を描《えが》く二重の城壁《じょうへき》。林立する柱。巡る回廊《かいろう》。そこここに上り下りの階段とテラスを配した石造りの建物が、あたかも迷宮《めいきゅう》のように連なり、冷たく輝《かがや》いている。
最初は、水晶《すいしょう》でできた建物なのかと思った。でも、目を凝らしてよく見つめると、そうではないとわかった。凍《こお》っているのだ。すべてが氷に覆われている。ワタルは以前、家族旅行に出かけた先で訪《おとず》れた、ガラスの博物館で見たものを思い出した。クリスタルガラスで作られた大きなお城。尖塔《せんとう》の上に翻《ひるがえ》る旗までも、細やかなガラス細工で作られていた。
「ごらんよ、あの森。木立まで凍ってる」
白い霜《しも》をまとった枝から下がる無数のつららが、風変わりな果実のようにキラキラと輝いている。
「何から何まで氷づけだわ」ミーナが感嘆《かんたん》の吐息《と いき》と共に言った。「こんな寒いところに、本当にヒトが住んでいるのかしら」
見渡す限りの広大な都に、人影《ひとかげ》はまったくない。
キ・キーマが特大のくしゃみをして、ジョゾの翼を震《ふる》わせた。「そうか、だから助けを求めてるんだよ、ワタル。みんな凍《こご》え死んじまう前に、何とか下へ降ろしてくれって」
ワタルは寒気に耳たぶが痺《しび》れるのを感じた。
「ジョゾ、アンドア台地には、歩いて登る道はないの?」
「さあ、見たことないなぁ」
「氷河に囲まれているのは、昔からだよね」
「うん。でも、前にここまで飛んできたときには、建物や森は凍ってなかったよ。花も咲《さ》いていたし、散歩してるヒトの姿を見かけたこともあったもの」
氷の都の北東の城壁のそばに、平らな天井《てんじょう》を持つホールのような建物があった。ジョゾはそこに着地した。
「うひゃあ、寒い!」翼をたたみながら、ジョゾは大きな鼻の穴をうそうそと動かした。
「僕もくしゃみが出そうだよ。ワタル、どうする? 中に入ってみるんだろ?」
「うん」ワタルはジョゾの背中から飛び降りた。「ジョゾ、ここにいたら凍えちゃう?」
「ときどき火を吐いて温まるから、大丈夫《だいじょうぶ》。だけども、長居はゴメンこうむりたいな。ワタルたちだって、身体に良くないよ」
「わかった。できるだけ早く戻《もど》ってくるよ」
ホールの天井から地面に降りるだけでもひと苦労だったし、町中を探索《たんさく》するのには、尋常《じんじょう》ではない努力が必要だった。つるつる滑《すべ》って、まともに歩けないのだ。それでも、ワタルもミーナもキ・キーマも、すってんころりんとやっては立ちあがり、転んだ仲間を助けようとして自分も転んだり、さんざんな目に遭《あ》いながらも、笑うことができなかった。
これほどの冷気と静寂《せいじゃく》。心まで凍りついてしまいそうなこの都に、果たして生きているヒトなどいるのだろうか。ここにたどり着くのに手間取っているうちに、真実の鏡を通して助けを求めていたあの男性は、命が尽《つ》きてしまったのではないのか。
「誰《だれ》かいませんか?」
「おーい、助けに来たぞう」
三人で大声を張りあげてみる。返事はない。凍れる都は木霊《こ だま》さえも返さず、呼びかけを吸い込んでしまう。いや、空に放たれるそばから、呼びかける声も凍りついてしまうのかもしれなかった。
もうずいぶんと前のことになるけれど、母さんに連れられて、子供向けのお芝居《しばい 》を観《み》にいったことがある。ペガサスの子供が主役で、ギリシャの神々が大勢登場するという音楽劇だった。正直いって、ワタルにはあんまり面白《おもしろ》いものではなかった。ただ、セットが美しいことには心を惹《ひ》かれた。大理石造りの神殿《しんでん》と、それを取り囲む深い森。
デラ・ルベシのこの都は、ワタルにそのお芝居のセットを思い出させた。ある建物では、緩《ゆる》やかな外階段をのぼってゆくと、花や鳥や天使たちの彫刻《ちょうこく》をほどこされた大きな扉にたどり着く。窓枠《まどわく》に薔薇《ば ら 》の飾《かざ》りがついたお屋敷《や しき》の、戸口の柱の上ではケルベロスが番犬よろしく睨《にら》んでいる。
碁盤《ご ばん》の目に仕切られた、整然たる町並み。建物の屋根は平らな陸屋根《ろくや ね 》が多く、角張って飛び出した庇《ひさし》の下には、それぞれに意匠《いしょう》の違う装飾《そうしょく》品がついている。賢者《けんじゃ》や偉人《い じん》の姿を模したものなのだろうか、魔《ま》導士《どうし 》や騎士《き し 》、貴婦人の姿をした像が柱となってぐるりと立ち並び、天蓋《てんがい》を支えている屋外ドームもあった。
ギリシャ神話の神々の郷《さと》。模造品というにはあまりに重々しい。
それだから、眺めとしては、ワタルにはまったく違和感がなかった。でも不思議だった。老神教の信者にとっては、こういう都の有り様《よう》が理想なのだろうか。女神の治める幻界の町は、皆、その町の産業や、幻界のなかで果たしている役割に添《そ》った形で存在している。そこにはヒトの生業《なりわい》と生活があるからだ。ここにはそれが欠けている。そう、だからこそお芝居のセットが連想されるのだ。
何のための屋外ドームなのか。誰を讃《たた》える彫像なのか。誰がこの都を望んだのだろう?
ここに住むヒトたちは、どんなことに汗《あせ》を流し、どんなことに笑い、どんなことに不安をおぼえるのだろう。作り物めいた雰囲気《ふんい き 》が、匂《にお》いのようにはっきりと感じられるのは、一面に氷と霜に覆い尽《つ》くされているせいだけではないような気がしてたまらない。
「ねえ、キ・キーマ」と訊いてみた。「幻界には、他《ほか》にもこういう町がある?」
キ・キーマは寒さにげっそりとしている。
「俺は見たことねえ。こんな寒い町なんか」
「寒さじゃなくて、町の造りさ。こんな立派な神殿《しんでん》みたいな建物ばっかりがある町って、他に知ってる?」
「そんなのないと思うわ」遅《おく》れがちなキ・キーマを心配そうに振《ふ》り返りながら、ミーナが言った。「この町、変よね。凍ってるから変だっていうだけじゃない。お店とか宿屋とか、そんなものが全然見あたらないもの」
三人は町の一角にある小さな公園みたいな場所まで来ていた。中央には、花木の植え込みに囲まれて台座があり、そこにオブジェが飾られている。丸い球の形をしたオブジェだ。最初は地球儀《ちきゅうぎ 》みたいなものかと思った。でも、近寄ってよく見ても、球の表面には何の模様もなく、ただつるりとしている。すっかり凍りついているから、うっかり触《さわ》ると指がくっついてしまいそうだ。
球には真ん中からひびが入り、壊《こわ》れかけている。割れ目に霜がついている。しげしげと観察し、ワタルはやっと、これは宝玉を象《かたど》ったものではないかと気がついた。他でもない、勇者の剣についている宝玉だ。
でも、それだとおかしな話にならないか? 宝玉は旅人≠導くものだ。だが老神教では、旅人≠忌《い》まわしい存在だと決めつけているのだ。旅人≠ニ密接に関《かか》わっているものをオブジェにして飾るなんて、矛盾《むじゅん》している。
「ワタル、どうしよう。ただやたらに歩き回っているんじゃ駄目だわ」ミーナが両腕《りょううで》で身体を抱《だ》き、さすりながら言った。「それに、キ・キーマが倒《たお》れちゃいそうよ。水人族は寒さに弱いの」
考えてみれば、トカゲは変温動物だ。周りが寒いと、体温も下がって動きが鈍《にぶ》くなる。キ・キーマは広場の入口にしゃがみこんで、目を閉じ、じっとうずくまってしまっている。
二人は精一杯《せいいっぱい》急いでキ・キーマのもとに駆け寄った。足元が滑って、キ・キーマにぶつかってしまったのだけれど、それでキ・キーマは目を開いた。とろんとしている。
「大丈夫?」
「ああ、ごめんよ」まばたきもゆっくりとしている。見れば、頑丈《がんじょう》な鉤爪《かぎづめ》のついた指の谷間に霜がびっしりと降りている。「何だか眠《ねむ》くてしょうがないんだ」
「たいへんだわ。凍え死んじゃう」
「ジョゾのところへ戻ろう。キ・キーマ、立てる?」
「俺なら、大丈夫だよ」言葉も鈍《にぶ》くなっている。身体はずしんと重くなっている。ワタルとミーナは左右から彼の腕をつかんで、よいしょよいしょと足を運んでいった。
「大丈夫だよ……心配ないよ……」
寝言《ね ごと》みたいに呟《つぶや》くキ・キーマは、半分意識がなくなっているみたいだ。
見渡す限り薄蒼《うすあお》く凍りつき、純白の霜に覆われた町。地面はスケートでもできそうなほどに分厚い氷と化しているので、足跡《あしあと》も残らない。ワタルは、碁盤の目の道をたどって、ここまで来たルートを逆戻りしているつもりだったのだが、色彩《しきさい》に変化のない町並みに惑わされてしまったらしい。そろそろジョゾが見えてきそうだというところまで来ても、ファイアドラゴンの真紅《しんく 》の身体が見つからない。
と、ミーナがキ・キーマの腕を放し、足を止めた。ワタルは二、三歩先に行くまでそれに気づかなかった。
「ミーナ、どうしたの?」
振り返ると、彼女はまん丸に目を見開いて、ぽかんとしている。
「どうしたんだよ?」
「ワタル」ミーナは指さしている。「これ、見て」
二人の左手には、凍りついた灌木《かんぼく》の木立に囲まれた広場があった。一面の純白。大雪の朝の校庭みたいだ。
「コレが何?」
「見えない? よく見て」
ワタルは目を凝《こ》らした。冷気のせいで涙《なみだ》がにじむ。
「何が見えるって──」
問い返そうとしたとき、ワタルにも見えた。広場の中央に、雪の広場に氷の筋が、幾重《いくえ 》にも走っている。模様を作っている。 現世《うつしよ》へ通じる、あの文様だ!
「ここで真実の鏡を使えるってことなのかしら?」
だとしたら、ますますわけがわからない。真実の鏡も光の通路への出入口になる文様も、やっぱり旅人≠フものだ。老神教には関わりがないどころか、敵対するはずのものだ。
「行って、確かめてみようぜ」キ・キーマがとろんとした口調で言った。「見間違《み ま ちが》いかもしれないし、本当にあの文様なら、何か手がかりになるかもしれねえ」
「でも……」
「いいから、いいから」
三人は凍りついた広場を横切り、かちんかちんに凍った雪の上の模様に近づいた。近くで見ると、ますますあの文様にそっくりだ。ワタルはその真ん中に立ち、しゃがんで指先で文様の筋をなぞってみた。
「ここだけ盛りあがってる」
「ホントだ」
ミーナもワタルの脇《わき》に来てしゃがんだ。指先に氷が触《ふ》れ、爪でひっかくとカリカリと音がする。
「いったい──」
どういうことかなと言いかけたとき、冷気を避《さ》けるためにきっちりとボタンをかけたミーナのシャツの内側で、また真実の鏡が光を放ち始めた。ミーナはあわてて鏡を取り出そうとした。が、突然《とつぜん》足元がぐらりと揺《ゆ》らいで、三人は尻餅《しりもち》をついてしまった。
「わ、何?」
硬《かた》く凍りついた雪の地面が振動《しんどう》している。文様の外側の縁《ふち》に沿って、ぴりぴりと亀裂《き れつ》が走った。亀裂が広がるにつれて、微細《び さい》な氷の破片が舞《ま》いあがる。
氷が割れて、文様の外周がよりいっそうくっきりと浮き立った。と、がくんという震動があって、地面が下がり始めた。文様の部分が、大きなエレベーターさながらに、ワタルたちを乗せたまま下降してゆく。
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39 教王《きょうおう》
文様のエレベーターが降りきったところには、文様の形をそのまま写した広間があった。頭上は文様形に開いたままで、そこから冷気が流れ込んでくる。
広間のなかも、外と同じくらい寒かった。細かな粉雪か、凍《こお》った雪が吹《ふ》き寄せられている。でも、凍りついてはいない。大理石に似た石の壁《かべ》。石の廊下《ろうか 》がワタルの前方に伸びている。
「行ってみよう」
キ・キーマを真ん中に挟《はさ》んで、三人は歩き始めた。廊下には、松明《たいまつ》とか燭台《しょくだい》とか、灯《あか》りらしいものは何もない。でも全体にほんのりと明るかった。廊下や壁や天井《てんじょう》を構成しているつるつるした石が、月光のようなかそけき光を放っているのだ。
廊下は右に折れ、左に折れ、長々と続いていた。ところどころに、右に左に、重たげな扉《とびら》が現れた。扉の周囲には凍った雪がこびりつき、試みに押したり引いたりしてみても、しっかりと閉《と》ざされていて、びくともしない。
ここにも、人の気配はなかった。
緊張《きんちょう》と寒さとで、ワタルたちは口をきかなかった。長い廊下をどんどん進んだ。廊下の先に、ロウソクの炎《ほのお》の形を模したような形のアーチがあり、その先はひときわ明るくなっている。そこを目指した。
アーチを抜《ぬ》けると、張り出したテラスに出た。天井まで吹き抜けになっている。三十メートルくらいはありそうだ。円形の部屋で、壁の周囲を階段が巡《めぐ》っている。ワタルは踏《ふ》み出し、テラスの縁《へり》を飾《かざ》る、優美な蔦《つた》に似た曲線を描《えが》いた手すりごしに下を見た。そして、あっと声をあげた。
階下の円形広間の中央に、差し渡《わた》しがワタルの身長くらいありそうな、大きな円い鏡が据《す》えられている。真実の鏡だ。その脇《わき》に、まるでその鏡の番人を務めているかのように、一|脚《きゃく》の肘掛《ひじか 》け椅子《い す 》にもたれて、白いローブの男、ワタルに呼びかけたあの男が、ぐったりとくずおれていた。彼の手にしていたあの槌《つち》、それも今では、力なく垂れ下がった手を離《はな》れて、彼の足元に落ちている。
ワタルは階段を駆《か》け降りた。何と呼びかけたらいいか思いつかず、しゃにむに駆け寄って、ローブの男の腕《うで》をつかんだ。
「しっかり! しっかりしてください!」
ワタルが男を揺《ゆ》さぶると、彼の額の銀の冠《かんむり》がずれた。真実の鏡のなかで見た光景に間違《ま ちが》いはなく、男は白髪《はくはつ》だった。眉《まゆ》も白い。でも年齢《ねんれい》は、あのとき思ったよりも若い。三十歳にもなっていないのじゃなかろうか。
男の首が力なく折れるように傾《かたむ》き、目が開いた。ワタルはその顔をのぞきこんだ。安堵《あんど 》が込《こ》みあげてきた。
「ああ、良かった。助けに来たんです。僕に呼びかけたのは、あなたですよね?」
男は眠《ねむ》たげにまばたきをすると、椅子のなかで身体《からだ》を起こそうとして、痛そうに呻《うめ》いた。ワタルは手を貸して、彼が椅子の背もたれによりかかれるようにしてあげた。
「君が……旅人≠セね」
直《じか》に聞くと、やはり若々しい声だった。瞳《ひとみ》も澄《す》んでいるし、肌《はだ》には張りがある。それなのにこの白髪。
「そうです。ワタルと言います」
キ・キーマとミーナが、ようやく階段を降りて追いついた。男は三人の顔を見回した。
「僕の旅の仲間たちです。一緒《いっしょ》にここに来てくれました。手間取ってすみません」
「どうやって……ここに?」
「ドラゴンに乗ってきたんです」
ちょっと目を見開き、男は頬笑《ほほえ 》んだ。「それは素晴《す ば 》らしい。君はドラゴンに出会ったのか。僕は……会えなかった。幻界《ヴィジョン》≠ナも、もうとても珍《めずら》しい生きものだからね」
ミーナの真実の鏡を通して呼びかけてきたときには、「私」と角張って名乗っていた。今、「僕」という気取りのない呼称《こしょう》を聞くと、ワタルには、このヒトがますます若く、気さくな存在に思えてきた。それがなおさら謎《なぞ》めいて感じられた。
「とにかく、ここを出ましょう。ひどい顔色ですよ。きっとこの寒さで肺炎《はいえん》にかかってるんだ」
ワタルは男の額に手をあててみた。熱があるだろうと思ったのに、冷え切っていた。顔色は鉛色《なまりいろ》だ。
「他にもヒトがいるんですか? 一緒に逃《に》げましょう。もっと温かいところに」
すると、男はゆっくりと首を振《ふ》った。「もう誰《だれ》もいないよ。みんな死んでしまった。僕が最後の生き残りだ。僕だけだ」
その口調には、悲しみよりも、自嘲《じちょう》するような響《ひび》きがこもっていた。
「僕のことは、教王《きょうおう》≠ニ呼んでくれ。皆《みな》にもそう呼ばれていた。僕は皆のリーダーだった。一応ね……」
教王。デラ・ルベシ特別自治州が、老神教につながる信者たちの隠《かく》れ郷《ざと》であったならば、それは確かにふさわしい呼称だ。
でも……それにしてはおかしなことが散見する。
「この様子、どういうことです?」
ミーナが男の膝《ひざ》の近くにしゃがんだ。「疫病《えきびょう》ですか? それでみんな死んじゃったの? ここは前からこんなに寒いの?」
「話は後まわしだ。早くここからおさらばしようぜ」キ・キーマが唸《うな》るように言った。
「ミーナ、ちょっと俺の背中をさすってくれ。そしたら元気が出るからさ。このヒトを背負っていくよ」
白いローブの男は、ワタルの手に片手を重ねた。「僕はここから離れることができない。ここはまもなく滅《ほろ》びる。僕も死ぬ。逃げ出すことはできないんだ。そんなことは、女神《め がみ》さまがお許しにならない」
女神さまが? ワタルは目を瞠《みは》り、軽く両手を広げて周りを指し示した。
「どういうことです? だってここは──あなたたちは老神教の信者なんでしょう? ここに隠れ住んでいるんでしょう? だからあなたも、教王≠ニ呼ばれていたんじゃないんですか?」
「いや、違うよ。ただ、地上ではそういうことになっている」
男はうっすらと頬笑んだ。氷の薄片《はくへん》が欠け落ちるように、彼の顔から無表情という覆《おお》いが剥《は》がれてゆく。
「それも女神さまとの盟約の内に含《ふく》まれていた。徒《いたずら》に地上を騒《さわ》がせず、地上とのつながりを絶つには、そういうことにしておくのが、この南大陸の政情では、いちばん都合が良かったからだ。だから僕らは約束を守った。ずっと守ってきた。でも、とうとう破約のときが来た。いつかはそうなるということを、女神さまはご存じだったのだろう。ヒトは狡《ずる》く、その心は脆《もろ》い。いつかは必ず心弱き者を生み出して、永遠にと誓《ちか》った約束を反故《ほ ご 》にする。そして皆でその罰《ばつ》を受けるんだ」
歌うような独り言の呟《つぶや》き。ワタルの頭はついていかれない。
「何を言ってるんです?」
白髪の若き教王はワタルの目を見た。「かつては僕も、君と同じ旅人≠セったんだよ」
現世《うつしよ》から訪《おとず》れた人間だったというのか。
「ここには僕も含め、十一人の現世の人間が住んでいた。全員、かつての旅人≠セ。自らの運命を変えることを望み、要御扉《かなめのみとびら》を通って、この幻界を訪れた」
懐《なつ》かしむような瞳の色。
「だけど僕ら十一人は、己《おのれ》の望みをかなえることができなかった。幻界の旅の険しい道のりに負け、旅を放棄《ほうき 》することを選んだ。でも、自分の運命の有り様《よう》を何ひとつ変えることができないままに、おめおめと現世へ帰ることも望まなかった──」
ワタルは黙《だま》って、教王の痩《や》せて尖《とが》った顎《あご》の形を見ていた。澄んだ瞳に、疲《つか》れたというよりは、退屈《たいくつ》をもてあましているような翳《かげ》りが見えることも気になった。
それにこのヒト、誰かに似ている。僕は以前にこのヒトに会っているような気がする。
「だからあなたたちは、幻界に残ったの?」
ミーナが小声で問いかけた。呼気が白く漂《ただよ》う。
「ああ、そうだ」教王はうなずいた。「そういう挫折《ざ せつ》した旅人≠フために、女神さまはこの都を造った。そして僕らは、ここで密《ひそ》やかな隠遁《いんとん》生活を送ることを命じられた。それが幻界に残るための条件だった」
ミーナは、あらためて感じいったように、しげしげと高い天井を仰《あお》いだ。「みんなで、ここに閉じこもって? 外の世界には一歩も出ずに?」
心に浮《う》かんだ想《おも》いを隠《かく》すことには向いてない、くるくると表情を変えることにこそ長《た》けた小さな顔には、(わたしにはとてもガマンできない)という感想が、はっきりと浮き出ている。
ミーナに代わって、ワタルは訊《たず》ねた。「ずっとここにいて、飽《あ》きるとか……退屈することはなかったんですか。あなた方には、何かここで果たすべき役割が与《あた》えられていたんですか?」
教王は顔をあげると、彼のすぐ傍《かたわ》らにある、あの大きな真実の鏡に目をやった。
「僕らの役割は、これを守ることだった」
「これ──真実の鏡ですよね」
キ・キーマが一歩鏡に歩み寄り、ごつい手で鏡面に触《ふ》れてみようとして、やめた。
教王はうなずいた。「旅人≠ヘ皆、幻界の旅の途中《とちゅう》で真実の鏡を見出《み いだ》す。一人にひとつ、必ず巡《めぐ》り合う。旅が終わるときには、それを女神さまに返さなくてはならない。幻界に戻《もど》すことは許されないんだ。だって、危険だからね」
「危険?」
「そうさ。真実の鏡を使えば、現世と行き来することができるのだから」
ワタルはミーナの顔を見た。ミーナは賢《かしこ》く悟《さと》って、
「わたし、この鏡は家のお守りだから肌身離さず持っていなくちゃならないって教わって育ったけど、鏡の働きのことは、何も知らなかったわ。お父さんお母さんも知らなかったんじゃないかしら」
「それは封じられた知識だからね」教王は言って、ミーナに頬笑みかけた。「でも今は、君も知ってしまっただろ?」
ミーナはためらいがちにうなずいた。「でもわたし、それで何かしようなんて思わないけど」
「この幻界には、そういうヒトばかりがいるわけではないということさ」
教王は、足元に落ちていた槌を見ると、白髪となった眉をつと持ちあげてから、ゆっくりと拾いあげ、膝の上に載《の》せた。今の今まで、力の抜けた手からそれが滑《すべ》り落ちていたことにさえ、気づいていなかったようだった。
「この真実の鏡は、ここで暮らしていたかつての旅人≠スち十二人の鏡を集めたものだ。真実の鏡は、それ自体に魂《たましい》を持っている。それらが融合《ゆうごう》して、ここにこの形を成した。そして僕らはそれを守っていた。誰かを現世と幻界を行き来して、何かをしようと企《たくら》む者を寄せつけぬように」
十二人。さっきは十一人と言っていた。ワタルの胸に、不吉《ふ きつ》な動悸《どうき 》が打った。
「人数が一人増えてますね」
教王はワタルを見ると、微笑《びしょう》した。「そうだ。つい最近、一人逃げ出してしまった。今も逃げている。彼は脱走《だっそう》者であり、女神さまとの盟約を破り、女神さまに背《そむ》く者だ。僕らのなかから、そういう離反《り はん》者が現れた。だから僕らは、女神さまの罰を受けねばならない」
「それがこの──」言葉が、ワタルの喉《のど》につっかえた。「凍りついた都? 女神さまはあなた方を懲《こ》らしめるために、この都を凍らせて、滅ぼそうとしているというのですか?」
教王はうなずく。顎が胸のあたりにまでさがり、彼は目をつぶってしまった。
「そりゃ、少し厳しすぎるじゃないか」キ・キーマが口を開いた。寒さでマヒしかけているのか、ちょっと呂律《ろ れつ》が怪《あや》しい。「俺たちの女神さまは慈悲深《じ ひ ぶか》いお方だ。たった一人が約束を破っただけで、あんたたち全員を滅ぼそうとなさるなんて、行きすぎだよ。何かの間違いじゃないか?」
「神は本来、厳しいものだ」教王は目を閉じたまま言った。「そしてヒトは弱い。いつかは必ず、己の目先の欲に目がくらんで、神との盟約を違《たが》えようとする。女神さまはそれをよくご存じなんだ。こんなことは、今までにも何度となく繰《く》り返されてきたんだから」
十二人のうちの一人。逃げ出した。今も逃げている。女神はそれをお怒《いか》りになっている。ワタルの動悸は激しくなった。
「地上では今、ハイランダーたちに緊急の指令が下されているんです。ある逃亡《とうぼう》者を追って捕《と》らえるようにと」
ワタルの言葉に、ミーナがぱっと目を丸くした。「そうだわ! 重大な国家機密を盗《ぬす》み出して、北へ渡ろうとしている脱走者。もしかしたら、それ──」
ワタルは説明した。教王の頬《ほお》がこわばる。
「そんなことが起こっているのか。それはたぶん……うん、間違いないだろうね。そうか……女神さまが直々に命じられたか」
例の逃亡者が、いったいどこから来た者なのかという謎も、これで解ける。
彼はデラ・ルベシの脱走者なのだ。
「俺たちもハイランダーなんだ」キ・キーマが胸をそらして言った。彼の目に、ここに来て初めて興味の色が浮かんだ。「その脱走者があんたたちの仲間だったなら、あんた、何か手がかりを知らないか? そいつを捕《つか》まえるのは、俺たちの役目でもあるんだ」
教王は椅子の背につかまって立ちあがろうとした。膝に力が入らないのか、うまくいかない。諦《あきら》めてまた腰《こし》を落とすと、ワタルに言った。「それならば、話は早い。君に助けを請《こ》うたのも、わざわざここまで来てもらったのも、その脱走者を捕らえてほしいからだったんだよ。僕は確かに手がかりを持っている。君たちに、今その脱走者がどこにいるのか、正確な場所を教えてあげることができる」
「どうやって?」
「この真実の鏡に映すのさ。ちょっと手を貸してくれないか?」
キ・キーマは動きが鈍《にぶ》っているので、ワタルとミーナが両脇から教王の腕を抱《かか》えるようにして、何とか立ちあがらせた。教王は真実の鏡に近づくと、その前に立ち、両手で円い鏡の縁を、するりと撫《な》でた。
すると、真実の鏡に映っていた教王の像が、溶《と》けるようにしてぼけた。驚《おどろ》きにぱちぱちとまばたきしたワタルは、次の瞬間《しゅんかん》、そこに町の風景が映し出されているのを見つけて、また息を呑《の》んだ。
港町のようだ。立て込んだ倉庫のような建物の隙間《すきま 》から、切れっ端《ぱし》のような海が見えている。トタンと材木を組み合わせただけの貧相な造りの倉庫の壁に、黄色いペンキか絵の具で、ヒトの握《にぎ》り拳《こぶし》の絵柄が描《か》いてあった。何かの印のようだ。
「こいつは……ソノの町だ」キ・キーマが目を細め、用心深い口調で言った。「間違いない。建物が古いし、くすんでるだろ。アリキタじゃ、昔は漁師町として栄えたところなんだが、アリキタで工業が盛《さか》んになると、海が汚《よご》れて漁ができなくなってさ、すっかり寂《さび》れちまった。それで商業港に鞍替《くらが 》えしたんだけど、もともと小さな漁港だから、ハタヤやダクラの港のようにはいかない」
「北への風船《かざぶね》は出てるの?」
「大きな船は無理だ。でも、中型船ならいくつもある」
「脱走者はここに潜《ひそ》んでるんですね?」
ワタルの問いに、白髪の教王は真実の鏡につかまり、肩《かた》で息をしながらうなずいた。
「きっと、風向きがよくなる折を待っているんだろう。知っているだろうけど、北大陸に渡る風船は、星読みたちが天空を観察して風を読み、天候を予知してくれないと、出帆《しゅっぱん》することができない」
「船出にふさわしい風は、いつ吹くの? キ・キーマ、知ってる?」
太い首をひねって、キ・キーマは考え込んだ。「正確なところは知らねえよ。でも、確かに今は、風船の渡る時機だ。年に三度か四度、そういう時機が来る」
「じゃ、急がなくちゃ!」ミーナはしっぽをぴょんと跳《は》ねらかした。「ぐずぐずしちゃいられないわ。みんなにも報《しら》せなくちゃ。この拳みたいな形の印のある船会社か、商店の船を探せばいいのよね?」
「真実の鏡はそう教えてくれている。脱走者は密航を企《くわだ》てて、時機が来るまで船主に匿《かくま》ってもらっているのかもしれないな」
キ・キーマとミーナは、今にも駆け出しそうな様子になった。でもワタルは動かなかった。教王の、白い眉毛に隠れそうな瞳を見つめて問いかけた。「その脱走者が持ち出した国家機密って、いったい何なんですか? あなたは、それが何だか知ってるはずだ」
「そんなこと、本人をとっ捕まえてから訊《き》きゃいいよ」と、キ・キーマは逸《はや》る。
教王がよろめいて、椅子の肘にもたれた。彼が動くと、白いローブに包まれた身体が、ひどく痩せていることがよくわかった。
「脱走者は──あの男は、真実の鏡を通って現世に戻り、動力船とモーターの設計図を持ち帰った。それを持って、北大陸に渡ろうと企んでいる」
それなあに? という無邪気《む じゃき 》な疑問が、ミーナの顔に浮かんだ。屈託《くったく》の欠片《かけら》もない。キ・キーマもぼんやりしているだけだ。
ワタルは一人、この恐ろしい事実に押し潰《つぶ》されそうになるのを、必死にこらえていた。
「北の帝国《ていこく》に、それを売りつけようというんですね?」
モーターのついた動力船がたくさんあれば、針の霧《きり》≠ノ遮《さえぎ》られることもなく、風向きに頼《たよ》ることもなく、北大陸はいつでも望むときに南大陸に攻《せ》め込んでくることができるだろう。
「ねえワタル、それどういう意味? 売りつけるって、何を? どうしてそんな怖《こわ》い顔をしてるの?」
ワタルはミーナに向き直ると、動力というものがどういうものなのか、それで動く船がどんなものなのか、話して聞かせた。
その効果は絶大だった。ミーナの瞳の底に、めらめらと怒りが燃えあがった。
「何でそんなバカなことを!」ミーナは叫んだ。「旅人≠セったヒトが、どうして北大陸の侵略《しんりゃく》に協力するようなことをするの? どうして? この国に、南大陸のわたしたちに恨《うら》みでもあるの? 幻界の平和を乱して、何が面白《おもしろ》いっていうの?」
教王は、ミーナではなくワタルの顔を見て答えた。「彼はそれを、幻界の産業革命だと言っていた」
「サンギョウカクメイ?」
「現世の歴史で、実際に起こったことだよ」ワタルはミーナに説明しながら、その言葉を噛《か》みしめた。
動力。人力に頼らない機械の力。ワタルもここを訪れたばかりのころ、何度となく考えた。幻界ではヒトの力で為《な》していることの大半を、現世では動力と機械がこなしている。その違いに、何度も目を瞠ったものだった。「僕は思うんだ──」教王は独り言のように呟いた。「彼ともよくこのことで話をした。意見も言って聞かせた。産業革命も動力の開発も、時が来れば、自然に幻界のなかに生じるはずのものだ。それが未《いま》だ到来《とうらい》しないのは、時が満ちていないからだと」
「現世だってそうだった」と、ワタルは言った。「世界じゅうのあちこちに知恵《ち え 》が生まれ、努力と工夫《く ふう》と研究が続けられて、それが歴史を変えるほどの大きな発明につながってきたんだって、僕は学校で教わったよ。みんなみんな、小さなことの積み重ねの結果だって」
「彼はそれをまどろっこしい[#「まどろっこしい」に傍点]と言った」と、教王は続けた。「現世にあるものを、幻界に持ち込んで何が悪い? そう言ったよ。幻界を富ませ、繁栄《はんえい》させるものなのだから、いいじゃないかと」
「その……動力ってものがあったら、ホントにわたしたち繁栄するの?」
ミーナの素直《す なお》な問いに、ワタルは返事をすることができなかった。それは繁栄≠フ意味による。その繁栄≠ェ、幻界の幸せにつながるものであるかどうかによるのだ。
「彼の言い分は、もちろん建前さ」
「じゃ、本音は何なのよ?」
教王はミーナに向き直った。
「北の帝国は、喜んで彼を受け入れるだろう。彼を帝国の要人として遇《ぐう》するだろう。ネ族のお嬢《じょう》さん。君の心配しているとおり、動力船があれば、北の帝国はまたたく間に南大陸を征服《せいふく》してしまうだろうさ。今度こそ本当に、幻界の統一帝国をうち立てることになる。そうなったら、我らが脱走者は偉大な興国の功労者だ。北の帝国の皇帝一族に混じって、幻界の頂上に君臨することができる」
ミーナの目の色が薄《うす》くなった。「それだけのために──」
「そうだ。たったそれだけのために、彼は現世の知識を幻界に持ち込んだのだ。己の欲のため。だからこそ女神さまはお怒りなんだ」
ワタルは真実の鏡に目をやった。平らな鏡面は、今はまた、ローブの男と彼を囲むワタルたちの姿を映しているだけだ。
「脱走者は、そんなに簡単に、北の帝国と渡りをつけることができるかな? 動力船の設計図だって言ったって、すぐに信じてもらえるかしら」
「信じるだろう」いささか気の毒そうに目を伏《ふ》せながら、教王は言った。「僕の知っている限りでも、北の統一帝国は、ずいぶん以前から、真実の鏡を集めようとしてきた。皇帝一族は、真実の鏡の働きを知っているようだね。現世との通路が開けば、どれだけ大きな力になるか、承知しているのだ。だから、何とかして今ここにあるような真実の鏡を作ろうと、一時はかなり手荒《て あら》なこともやっていたようだ」
ワタルはミーナを見た。ミーナの小さな顔からは、表情らしい表情が消えてしまっていた。心が過去に飛び戻っている。
北の帝国の特殊部隊シグドラ≠ェ、ミーナの家族を襲《おそ》ったのも、ミーナの家に伝わる真実の鏡を狙《ねら》っていたからなのだ。彼らが南大陸への亡命者を拉致《ら ち 》して本国へ連れ帰っているというのも、真実の鏡を求める活動と関《かか》わりがあるのではないのか。
つと眉をひそめて真実の鏡を見つめながら、教王はワタルたちに問いかけた。
「君たちは、そもそもこの真実の鏡というものが何であるか[#「何であるか」に傍点]、知っているかい?」
ワタルは当惑《とうわく》した。質問の意味がわからなかったのだ。
「何って──だから現世との通路を開く──仕掛けというか」
「もちろんそれも重要な働きのひとつだ。だが、真実の鏡は、そのためだけに存在してるわけじゃない」
文字どおり、これは「幻界の真実」を司《つかさど》る存在なのだと、教王は言った。痩せた指で、真実の鏡の縁をそっと撫でている。
「幻界を幻界ならしめている要素──世界の素《もと》。世界を構成する正しきものの集積。そんなふうに言えばいいのかな」
世界の素? やっぱりよくわからない。ワタルは首を振った。
「まあ、すぐ理解できなくても仕方ないかな。何といっても、君はまだ子供なんだし」
少しばかり皮肉な笑みが、教王のこけた頬に浮かんだ。
「幻界は、虚《きょ》にして実。有にして無。存在するが、実在するわけではない空《くう》の世界だ」
ますますわからない。教王の一方的な演説を拝聴《はいちょう》している感じになる。
「君は幻界の成り立ちも知らないだろう?」
ワタルはちょっとムッとした。
「いいえ。知っています。幻界は、現世の人間の想像力のエネルギーが創りあげている世界だって」
「うん……まあ、その表現も間違っているとは言えないけれど」
「正しくもないって言うんですか?」
「幻界はね、ふたつの鏡の狭間《はざま 》に存在しているんだ。ふたつの鏡が幻界の素なのさ」
ようやく衝撃《しょうげき》から醒《さ》めたミーナが、ゆっくりとまばたきしながら顔を上げる。
「ふたつの鏡。そのうちのひとつが、言うまでもなくこの真実の鏡だ。そしてもうひとつは、常闇《とこやみ》の鏡≠ニ呼ばれている」
「常闇の鏡──」
「真実の鏡が正しきものの集積ならば、対する常闇の鏡は、たぶん悪《あ》しきものの集積なんだろう。たぶん[#「たぶん」に傍点]と言うのは、僕も現物を見たことはないからだ。でも、常闇の鏡は必ず存在するはずなんだ。確信がある。なぜなら幻界は、そのふたつの合わせ鏡が造りあげている有にして無≠ネのだから」
キ・キーマがそっとワタルの表情をうかがった。ワタルは教王の顔を見ていた。まばたきすることも忘れて。
「真実の鏡──幻界を司る真実の集積は、無数の欠片《かけら》に打ち砕《くだ》かれて、幻界じゅうに散らばっている。そして旅人≠ェ訪れるたびに、彼らを導く道標《しるべ》の役割を果たす。だが、常闇の鏡はどこにあるのか?」
自問自答するように、教王は言った。
「おそらく、まず間違いなく、北大陸にあるのだろう。北と南で一対《いっつい》となり、幻界を造りあげているんだ」
「でも、そんなのおかしいわ」ミーナが声をあげた。「わたしの真実の鏡は、両親から受け継《つ》いだものだって言ったでしょ? わたしの一族は、北大陸の出身なんです。ということは、真実の鏡の欠片は、南大陸だけじゃなく、北大陸にも存在してるということでしょう。つまり真実の鏡は、幻界じゅうに散らばっているんです。だったら、それと対になる常闇の鏡だって、たくさんの欠片になって、同じように散らばっていると考える方が、自然だわ」
ワタルはちょっと目を瞠った。ミーナがこんなふうに、理屈っぽいほど筋道立った意見を述べるのを、初めて見たからだ。急にミーナが大人びて見えた。
教王はミーナに微笑みかけた。その名にふさわしく、無知な信者に教えを垂れるかのような表情だ。
「真実は無数にうち砕かれ、数え切れないほどのヒトびとのあいだに散らばっている。だが、一方の常闇は──悪しきものは、まだひとまとまりの実体となってどこかに存在している。それが幻界の、今の有り様なのではないかと考えることはできないかな?」
俺には難しすぎるというように、キ・キーマがかぶりを振っている。顔色はますます白い。
「だから幻界は幸せなんだ。今はまだ」
謎めいた言葉を吐《は》いて、教王は独りでうなずいている。
「しかし、悪しきものがどこか一ヵ所に集められて、誰かがそれを守っているというのは、本当に正しいことなのだろうか?」
教王の問いに、キ・キーマが反応した。寒さのせいで言葉は鈍いが、声は大きい。
「それはもしかして、北の統一帝国が差別や虐殺《ぎゃくさつ》をしているのは、その常闇の鏡とやらが北大陸にあるせいだって言ってるのか?」
教王は答えず、ゆっくりとワタルたちに背を向けて、真実の鏡に向き合った。
「わからない。だが、常闇の鏡はまず間違いなく北大陸にあるのだと思う。そして、北の統一帝国にとっては、それがたいへんな重荷になっているのじゃないだろうか。だからこそ、皇帝は、手荒な方法を使ってでも、真実の鏡を求めているんだ。常闇の鏡の脅威《きょうい》を封じるために、それに対抗《たいこう》できるだけの力を備えた、完全なる形の真実の鏡を必要としてきたんだ。あるいは、ひょっとしたら、そちらの方こそが切実な望みであって、真実の鏡を通して現世の知識を取り入れるというのは、むしろ、その経過で発生した付属的な要素でしかないのかもしれない……」
しばらく黙っていたので、くちびるがくっついてしまい、ワタルはうまくしゃべれなかった。恐ろしいほどのここの冷気が、あらためて身に染《し》みる。
「め、女神さまは、それについては、あな、あなたに知識を授《さず》けてはくれなかったんですか?」
教王は首を振った。「もとより、授ける必要のない無用の知だからね。旅を打ち切った、ひ弱な旅人≠ノは」
そして、話の筋をぐいと引き戻すように、くるりと振り返ってワタルを見た。
「ともあれ、そんな下敷《したじ 》きがあるのだからね。脱走者が北へ渡れば、話はトントン拍子《びょうし》で進む可能性があるよ。脱走者は、今からちょうど十年前に要御扉が開いたときに、幻界にやって来た旅人≠セ。彼の現世の政情に対する知識は、僕らよりもずっと新しかった。ひょっとすると、旅を打ち切ったときから、今回の企みを胸に抱《いだ》いていて、機会を待っていたのかもしれない」
ミーナは両手を口元にあて、しゃがみこんでしまった。キ・キーマが心配そうに、その華奢《きゃしゃ》な背中を撫でてやる。彼の方もひどく具合が悪そうなのに、その手つきには労《いたわ》りが満ちていた。
「お願いだ」教王はそっとワタルの腕に触れた。本当はぐいとつかみたかったのだろう。でも、彼にはもうその力が残っていないのだ。凍りつく寒さと、飢《う》えと、おそらくは絶望と諦めが、彼から気力と体力を奪《うば》い去ってしまった。
「脱走者が北へ渡る前に、何としても捕まえてほしい。そして僕らの魂を救ってほしい」
自分よりも年上のヒトに懇願《こんがん》されるなんて、ワタルには耐《た》えられないことだった。だけど耐えねばならないこともわかっている。
「脱走者が出て以来、僕はずっと、この鏡を通して旅人≠ノ呼びかけていた。今は要御扉が開いているときで、新たな旅人≠ェ幻界を訪れていることは知っていたからね。何とか聞き届けてほしいと願っていた」
「あなたは僕を呼んだとき、あなたもまた、幼い子供だったのですね……≠ニ言いました」と、ワタルは言った。
「それはつまり、僕の前にもあなたの呼びかけに応《こた》えて、ここを訪れた子供の旅人≠ェいたということですよね?」
教王は静かにうなずく。
「それはミツルという少年だったんじゃありませんか? 僕みたいな剣士のタマゴじゃなくて、子供ながらに立派な魔導士です」
「ああ、そうだ」教王の目が広がった。「知っているのか?」
「ええ。僕の友達なんです」
「驚いたな」
ミツルは呼びかけに応え、ほんの数時間の後には風の大魔法を操《あやつ》ってここを訪れたのだという。
「彼の方が……僕より優秀《ゆうしゅう》なんです」
「しかし彼は、僕の頼《たの》みを聞いてはくれなかった」と、教王はかぶりを振った。「自分が幻界に来たのは、女神さまに会うためだ。幻界の政情にも南大陸と北大陸の対立にも興味はない、関係ないと言い捨ててね」
いかにもミツルらしいと言えば言える。自らの運命を変えるという旅人≠フ目的を思えば、当然の反応であるとも言える。それなのに、ワタルはそれを自分のことのように恥《は》じた。ミツルのために弁解してやりたいという気持ちと、ミツルへの腹立たしさに、おなかの底が焦《こ》げつきそうになった。
「そのとき、言われたんだ。今の幻界には、もう一人旅人≠ェ来ている。そいつはお人好《ひとよ 》しでお節介《せっかい》だから、あんたの頼みを聞いてくれるかもしれないよ、と。だけどあのときの口調では、彼が君と友達だとは、とうてい思えなかった」
ワタルは、今度は自分のために赤面した。ミツルにそんなふうに軽《かろ》んじられている自分を恥じた。それを恥《はじ》と感じる自分を恥じた。
「ミツルは、ワタルをこの件に巻き込むことで足止めして、先に運命の塔へ行こうとしてるんじゃないのか?」キ・キーマが鼻の穴をふくらませながら言った。怒っているのだが、やっぱり呂律が怪しいし動作も鈍くなっているので、何だか可笑《お か 》しい。
その可笑しさに救われた思いで、ワタルは笑った。「そんなことないよ、キ・キーマ」
「でもよう!」
「それより、事情はわかったんだ。早くここを出て、ソノの港町へ行こう」
「そうね。あんまり長いこと待たせてると、ジョゾが凍りついちゃうし」
ミーナが、健気《けなげ 》にすっくと立ちあがりながら言った。彼女のこういう芯《しん》の強さには、感嘆《かんたん》せずにいられない。
「すぐ出発だ。僕らにつかまってください。歩けますよね?」
ワタルが差しのべた手を、教王はゆっくりと押し戻した。
「どういうことです?」
「僕は逃げられない。言ったろう?」
「だって……あなたは僕に、助けてくれと言ったじゃないですか」
「我々の魂を救ってくれと頼んだんだ。死を逃《のが》れたいと思ったわけじゃない」
教王は、椅子につかまりながら移動すると、椅子の上に置いていた槌を手に取った。持ちあげられず、膝のあたりにだらりと垂れてしまう。
「僕らは脱走者を出し、盟約を違えて女神さまの怒りをかった。だから罰を受ける。仲間はもうみんな死んだんだ。リーダーである僕が、おめおめ生き延びるわけにはいかない。女神さまもそれをお許しにはなるまい」
「だけど!」
「君たちが脱走者を捕らえ、彼の企みを砕いてくれれば、僕らの罪も許されるだろう。そして魂が浄化《じょうか》され、いつかは次の世界に生まれ変わることもできるはずだ。だけどこのままでは、僕も、先に逝《い》った僕の仲間たちも、みんなみんな魂が淀《よど》んだまま、永遠に久遠《く おん》の谷を漂うことになってしまう。だから頼んでいるんだ。助けてくれと」
そんな意味だなんて、思ってもいなかった。聞かされても納得《なっとく》はできない。
「あなたは生きていたくないんですか? まだまだ若いのに。どうしてそんなに簡単に、今の自分を諦めてしまうことができるんです?」
思わずという感じで、詰問《きつもん》がワタルの口から飛び出した。教王は、ワタルが予想もしなかったほどの勢いで振り向くと、口元を歪《ゆが》めた。「自分を諦める? 僕が?」
「ええ、そうです」
教王は吹き出した。
「諦めてなんかいないさ。むしろ、僕は自分を守りたいんだ。死んでいった仲間たちだってそうだったろう。僕は今さら、穢《けが》れた下界になんか降りたくない、現世でも幻界でも、どっちでも御免《ご めん》だ。僕らの至福の世界はここにあった。ここに、ここにこそ」
手を広げ、周りを指し示しながら、天井を仰いでぐるりと回る。踊るように。
「ここを失うなら、もうこの命なんか要《い》らない。浄《きよ》められた魂で再び生まれ変わり、次の生でまた楽園を見出す方が、ずっとずっと望ましいことだ」
怯《おび》えて、ミーナがワタルに寄り添った。
「現世では──」と、教王は槌を持っていない方の手で拳を握り、胸を叩《たた》いた。「何ひとつ僕の思い通りにはならなかった。努力はすべて空《むな》しく、夢はすべて叩き潰《つぶ》された。誰も僕を理解してくれず、何処《ど こ 》も僕を受け入れてくれなかった。僕の人生は、僕を愛してはくれなかった。僕の人生は、僕に何ひとつ与えてはくれなかった。だから僕は、幻界に来たんだ」
ローブの下で、足が地団駄を踏んでいる。
「だけどこの幻界でも、僕の望みはかなわなかった。運命の塔にたどり着くどころか、町から町へと旅をすることさえおぼつかない。何ひとつ思いどおりにはならないことは、現世にいるのと同じだった。だから僕は旅をやめた。女神さまと取引する道を選んだ。そして、ここに籠《こ》もったんだ」
この造られた神の郷に? ヒトの温《ぬく》もりを欠き、暮らしの活気を欠き、壮麗《そうれい》でありながら空虚な神殿《しんでん》のような町に?
「女神さまは、そんな僕らをよく知っていた。ここはね、女神さまの衣《ころも》の下に隠された都なんだ。僕らは選民だった。神との盟約に支えられた、雲上人だった。女神さまとの約束、真実の鏡を守るという崇高《すうこう》な役割を与えられて、僕らはようやく、僕らの住むべき世界を見出した。穢れた下界とは一切《いっさい》関わりを持たない。このデラ・ルベシこそが、僕らの楽園だった」
しかし、それを理解せず、卑《いや》しい世俗《せ ぞく》の欲を捨てきれなかった一人の不心得者により、盟約は破られてしまった──
教王は骨張った拳を額にあてた。
「僕らはここで、神々のように暮らしていた。幻界を下に見て、孤高《こ こう》で清浄な日々がここにはあった。これこそが僕の望んでいたものだった。だからこそ僕は教王≠ニ呼ばれていたのだ。地上に容《い》れられず、無知な世間の連中の理解の届かない教義を胸に抱く王だ。わかるだろう?」
何を教える? 何を奉《ほう》じる? 何を司る教王だ?
「もしもあんたが」キ・キーマがのろのろと口を開いた。「本当にそんな立派な教えをもたらすことのできる教王≠セったなら、どうしてあんたらを裏切り、ここから逃げ出して、北へ渡って自分だけ好《い》い思いをしようなんていう輩《やから》が現れたんだ?」
教王は答えなかった。キ・キーマの問いかけが聞こえなかった──いや、そんな問いかけなどなかったかのような横顔を見せている。
ややあって、教王は静かに呟いた。「僕らを理解しない者は、僕らの仲間ではなかった。あいつはそもそも、ここにいる資格のある人間ではなかったんだ」
「脱走者がここにいたころから、あなたはそう思っていたんですか?」と、今度はミーナが問いかけた。「そう見抜いていたの? だったら、こんなことになる前に、どうして手を打たなかったんです?」
教王は振り向くと、口元を尖らせた。「君らに僕を責める権利なんかない。あんなヤツのせいでこんな事態になってしまった。裏切られて傷ついて、僕がどれほど辛《つら》い気持ちでいるか、ちっともわかってないくせに」
「だって……」
「第一、そんな言い方は、女神さまの選民に対して非礼だぞ」
ミーナがワタルの顔を見た。困ってもいるし、呆《あき》れてもいる。
ワタルはふと思った。僕には、どうしてこのヒトが幻界の旅を打ち切ったのか、その理由がわかるような気がする。
きっとこのヒトは、いつもこんなふうだったんだ。胸にあるのは自分の言い分だけ。見るものも、自分の見たいものだけ。求めるものも、自分のほしいものだけ。傷つくのも、いつも自分だけ。
思いどおりにならないものを捨て、気に染まないものを切り離し、そこにあっても見ないふりをして、ひたすらに求めるものはただひとつ。自分が求めるにふさわしいものだけ。
それでは何処にも居場所なんかつくれるわけがない。誰の親切も届かなければ、誰に裏切られようと、その兆候を感じることだってできるはずがない。
そして、ようやくたどり着いた安息の地は、女神との盟約という、燦然《さんぜん》と輝く空虚だ。
選民だ。教王はそう言った。それは何だ。何から、どんな理由で選ばれたのだ。抜け殻《がら》になることで、見返りに得たものがそれだというのか。
教王じゃない。虚王だ。虚《うつ》ろの王様だ。なるほど女神はそれをご存じだった。だからこそ、こんな紛《まが》い物の神の郷を創《つく》ってお与えになったのだ。
もう充分《じゅうぶん》に凍《こご》えている身体に、それでもなお寒気が走った。
思い当たったのだ。さっき、教王の顔が誰かに似ていると思った。それが誰なのか、閃《ひらめ》いたのだ。ルウ伯父《お じ 》さんと買い物に出かけたとき、道ばたでワタルにぶつかり、転んだワタルに謝ることも、助け起こすことさえせずに、手を踏んづけて通り過ぎようとしたあの若者の顔だ。
あの時ルウ伯父さんは、猛烈《もうれつ》に怒っていた。あの若者も、そんなルウ伯父さんに腹を立てているように見えた。だけどその実、なぜルウ伯父さんがそんなに怒るのか、理解している様子はなかった。なんで見ず知らずの他人に文句を言われなくちゃならないのかと、ふてくされていた。
あの若者には、本当にワタルの存在が見えなかった[#「見えなかった」に傍点]のだ。ワタルは存在していなかった。少なくとも人間の子供としては、そこにはいなかった。あの若者にとっては、ワタルはただ通り道を塞《ふさ》ぐ障害物でしかなかった。だから、手を踏んづけて通り過ぎようとしただけだったのだ。道ばたの空き缶《かん》や、空っぽになったコンビニのビニール袋《ぶくろ》を踏むように。
もし、あの若者が幻界を訪れたなら、彼もまた教王になるのではないか。それこそがいちばん自分にふさわしいと、心の底から満ち足りて。
よそう。考えすぎだ。
「あなたのその髪《かみ》は……」
最後にひとつ、ワタルは小さな声で訊ねた。
「その白髪。この都が女神さまの懲罰《ちょうばつ》を受けて凍りついて、恐ろしさのあまりにそうなってしまったんですか?」
教王の表情に、ここで邂逅《かいこう》したとき最初にワタルが見た、倦《う》み疲れて退屈しきったような色が戻りつつあった。だるそうに口の端をさげて、彼は答えた。「僕は望んでこうなったんだ。若さなんて要らなかった。若さにつきまとう未熟さは、神の選民にふさわしいものじゃないからね」
そうか。それならもう、これ以上訊ねることは残っていない。
キ・キーマとミーナは、根がはえた上に凍ってしまったみたいに動かない。ワタルは教王の顔に目を据えたまま、言った。
「二人とも、行こう」
「でも、ワタル……」
「いいんだよ。このヒトは、ここに残ることを望んでるんだ。僕らには──僕にはそれを邪魔する権利はない」
「ああ、行くがいい」
教王はゆっくりと顔をほころばせた。そして大儀《たいぎ 》そうに槌を持ちあげると、一度その柄《え》を肩に乗せてひと息つき、真実の鏡へと向き直った。
「僕の最後の仕事がこれだ。この真実の鏡を打ち砕く。僕らが集めてここに奉じていた真実の鏡は、再び元の欠片に戻り、幻界のヒトびとのなかに散らばるだろう。そして、それぞれの役目を果たすために、新たな旅人≠ノ見出されるときを待つのだ。それこそが幻界の真実≠フ、もっとも正しい有り様だと女神さまはお考えになっている」
教王は祈《いの》るように目を閉じた。
「これが終われば、女神さまの最後の懲罰が下される。君たちも、巻き添えになりたくなかったら急いだ方がいい」
最後にもう一度だけ、教王の目がワタルの目をとらえた。
「行きなさい。そして旅をまっとうするんだ。僕らには果たせなかったことを、君にはやり遂《と》げてほしい」
その瞬間、その刹那《せつな 》だけ、教王の仮面が剥がれ、その下の素顔《す がお》がのぞいた。それを見たと、ワタルは思った。現世でもたらされた自らの運命を変えようと、固い決意と悲壮な願いを胸に、何のあてもないまま幻界を訪れた、孤独な旅人=B
あまりに悲しくて、ワタルは泣き叫びそうになった。やっぱり、あなたをここに置き去りにするなんて、僕にはできない。僕にそんなことをさせないで。
だが、教王はワタルの想《おも》いを読み取り、それが言葉として発されることを許さなかった。ひたとワタルの目を見据えて、彼は命じた。「行くんだ。悪しきもの[#「悪しきもの」に傍点]に気をつけろよ」
ワタルはそろそろと後ずさった。ミーナがワタルの腕を引っ張る。教王は痩せた腕に力を込め、槌を持ちあげようとする。ワタルは急に糸が切れたようになって、走り出した。広間の階段を駆けあがり、アーチの前で振り返ってみると、教王がよろめきながら、真実の鏡に向かって槌を振りあげているところだった。その光景が、ワタルの目に焼きついた。教王の顔が、記憶《き おく》のなかの若者の顔とダブった。でもそれは、さっき思ったほどには似ていないように見えた。ワタルの錯覚《さっかく》であるのかもしれなかった。
立ち去るワタルの足どりが、次第《し だい》に速くなった。ミーナもキ・キーマも走り出す。たとえこの都に崩壊《ほうかい》の時が迫《せま》っておらず、安全な場所であったとしても、やっぱり同じように逃げ出すことだろう。振り返ることもなく、一目散に逃げ出すことだろう。逃げなければ、離れなければ、置き去りにするものの重さに引かれて、沈没《ちんぼつ》する船に巻き込まれるかの如《ごと》く、自分もここで、一緒に滅びてゆくことになるという、恐ろしい確信があったから。
「あ、君たち!」
ジョゾの大きな身体が飛び跳ねている。
「やっと戻ってきたね。心配してたんだよ。用は済んだの?」
「う、うん」
ワタルには言葉がなかった。しばらく地下にいたあいだに、神殿のような町の寒さはいや増していた。そのせいだ。またくちびるが痺《しび》れてくっついちゃったんだ。気持ちのせいじゃない。
「間にあわないんじゃないかと、ハラハラしてたんだ。すぐ飛びあがるからね。しっかりつかまってるんだよ」
「間にあわないって──ジョゾ、どうかしたの?」
ジョゾは真紅《しんく 》の翼《つばさ》の先で、空の一点を指し示した。「あれを御覧。真《ま》っ直《す》ぐこちらに飛んでくる」
デラ・ルベシを覆う雲のなかに、ダイアモンドのような硬質《こうしつ》の光を放つ、真昼の星が見える。よく見ると動いている。翼があるようにも見えるのは、目の迷いか。
「あれは女神さまの僕《しもべ》だよ。きっとここに懲罰の風を運んできたんだ」ジョゾは言って、ぶるりと震《ふる》えた。「僕はそんな場所にいたくないよ。さ、行くからね!」
たちまち、ジョゾは高く舞《ま》いあがった。一気に雲のなかに突っ込むと、デラ・ルベシから遠ざかろうとする。
分厚い雲の流れのなかで、ワタルは近づいてくる星を見た。それには本当に翼があった。それは、まさに氷そのものだった。
無数の氷片《ひょうへん》が寄り合い、重なり合って形を作っている。氷の神鳥だ。ジョゾよりももっと大きい。翼をひとうちするたびに、耐え難《がた》い冷気を吹きおろす。
氷の神鳥は、まっしぐらにデラ・ルベシへと向かってゆく。
「ジョゾ」
「なあに?」
「できたら、この辺をぐるぐる廻《まわ》っていてくれる? デラ・ルベシがどうなるか、気になるんだ」
「見ても怖いだけだよ。およしよ」
「お願いだよ。見届けなくちゃいけないんだ、僕は」
しょうがないなあと鼻を鳴らして、それでもジョゾは鼻先をデラ・ルベシへと戻した。ゆるりと大きく旋回《せんかい》する。
氷の神鳥は、デラ・ルベシを囲む二重の城壁の、内側の方に止まると、そこでいったん翼を休めた。それから大きく両の翼を張り直し、羽ばたきを始めた。
ひとつ羽ばたく。吹雪《ふぶき》が巻き起こる。ふたつ羽ばたく。空気が凍る。氷結した建物が、道が、絶対|零度《れいど 》を超《こ》えて崩壊してゆく。
雪の塊《かたまり》が、空から降ってきたときの、微細《び さい》な結晶《けっしょう》に戻ってゆく。ドームの天蓋《てんがい》を支える彫像《ちょうぞう》たちが倒れる。回廊が砕《くだ》けて、氷の粒《つぶ》が空に舞う。波にさらわれる砂の城のように、数々の円柱に囲まれた神殿たちが、端から形を失くして還《かえ》ってゆく。城壁が倒れる。まず外側が。ついで内側が。氷の神鳥は舞いあがり、デラ・ルベシの上を旋回しながら冷気を送り続ける。
「あれを見て」
ミーナがワタルの隣で指さした。
「文様が壊《こわ》れてゆくわ」
ワタルたちを運んでくれたエレベーター。文様を描く氷の筋が、いっせいに濃《こ》く浮きあがったかと思うと、それと地面との隙間に、氷のため息を吐き出した。そしてゆっくりと下降してゆく。最初は水平に降りていたが、すぐに片方へ傾き、角が欠け、一筋、二筋とひびが入り、下降を続けながら崩壊し、やがて数え切れないほどの氷の破片と化して、地響きと共に地下へと雪崩《な だ 》れ落ちていった。
「女神さまがお怒りだ」と、ジョゾは言った。彼は事情を知らないはずなのに、すべてを承知しているみたいな、悟りきった瞳をしていた。「ああ、悲しいね。悲しい味が濃くなったよ。女神さまはお嘆《なげ》きだ。いったいここにいたヒトたちは、どんな罪深いことをしたんだい?」
ジョゾの首にしがみつき、くちびるが凍るのを感じながら、ワタルはデラ・ルベシの最後を見届けた。
空しいものは空しく、無は無へと還る。
ほどなくアンドア台地には、雪と氷と、ありのままの自然だけが残された。
来たりた時と同じように、氷の神鳥は音もなく飛び去り、雲の彼方《かなた》へと消えた。ワタルはそれを見送らなかった。ジョゾは遠巻きに、もう神鳥に近づこうとはしなかった。
静まりかえった空。雲の流れ。
少しずつ、視界が晴れてゆく。懲罰の時は終わったのだ。
「もう行こうぜ」
キ・キーマがカスカスとかすれる声で呟いた。「俺、もう限界だ……うん?」
そうだね、帰ろうと言いかけたワタルの袖《そで》を、キ・キーマの指が不器用につかみ、ワタルの身体を一方にねじ曲げた。
「どうしたの?」
「あれ、あれは何だ? 何か光ってるぞ」
キ・キーマの指さす方、今や見渡す限りの雪原となったデラ・ルベシで、確かに何かが赤く輝いている。小さいけれど強い輝きだ。
「ジョゾ、あんなところにウロコを落とした?」
「落とさないよ。そんなもったいないことしないってば」
「じゃ、あれは何?」
ワタルの胸がときめいた。ここ数時間のうちで初めて、吉兆に動悸が速くなった。
「キ・キーマ、あと五分|辛抱《しんぼう》できる?」
「お、おう」
「ジョゾ、降りられるかな」
ジョゾの大きなぐりぐり眼《まなこ》が、上目遣《うわめ づか》いにワタルを見た。「本気なの?」
「うん。ごめんよ」
やれやれ……鼻息をぶふふ[#「ぶふふ」に傍点]と吐き、ジョゾはUターンしつつ下降を始めた。アンドア台地に積もる雪の粒は、そのひとつひとつが限界まで硬く凍っているので、小麦粉みたいに軽く舞いあがり、風に吹き飛ばされてゆく。ジョゾの背に乗っているうちはよかったが、地上に降りると、たちまちのうちにワタルは雪の粒のヴェールに覆われてしまった。
「キ・キーマはここにいて。すぐ戻るよ」
期待があった。それと同じぐらい強い確信もあった。顔や肩先から痺れるほど冷たい粉雪をはらい落としながら、ワタルは赤い輝き目指して雪原をかき分けた。すぐ後ろに、ミーナもついてくる。
「ワタル、もしかして……」
「うん。僕もそう思う」
今はもう、あの台座は跡形《あとかた》もなく消えてしまった。花木の植え込みも凍って砕け、無に帰した。でも、あのオブジェは残っていた。元の大きさの、四分の一ぐらいあるかないかだ。でも、丸い珠《たま》の輪郭《りんかく》の一部が残っていた。それは受け皿のようにちんまりと雪原に据えられて、赤い輝きは、その中央でまたたいていた。
ワタルが近づき、手を差しのべると、赤い輝きはすうっと宙に浮きあがった。もう、間違えようがない。
第三の宝玉だった。ワタルは勇者の剣を抜き、右手で掲《かか》げた。
宝玉がまたたく。その光は、雪原に突如《とつじょ》出現した、小さな小さなオーロラのようだ。そのオーロラのただ中に、真紅の衣を身に纏《まと》い、白銀の胸当てをつけた少女の姿が現れた。結《ゆ》い上げた黒髪が一筋だけ乱れて、秀《ひい》でた額に垂れている。
──待っていました、旅人≠諱B
精霊《せいれい》の呼びかけに、ワタルはその場でひざまずいた。
──私はこの世の希望を護《まも》り育て、ヒトの未来を司る精霊です。私を疎《うと》んじ、私を恐れ、私を必要としないヒトびとの手で、長らくこの台地に封じられておりました。解き放ってくれて、ありがとう。
ワタルの心の目に、すべてを捨て、ようやくこの地で安息を得ていたのにと、噛みしめるように語ったときの教王の姿が蘇《よみがえ》った。彼らが希望を捨て、未来を封印することによって得ていたかりそめの平穏《へいおん》は、跡形もなく滅び去ってしまった。
──振り返ってごらん、勇者よ。
ワタルが後ろを見ると、ミーナと二人分の足跡が、雪原の上に残っていた。
──私が存在することができるのは、倦まずたゆまず歩み続けるヒトの道の上だけです。歩みを止めたヒトのもと、絶えてしまった道の先には、永らえることができません。どんなときでも希望を胸に、未来を仰ぎ、顔を上げて進みなさい。さすれば、私はいつでもあなたと共にありましょう。あなたの後ろに残る道こそ、あなたの行く手を拓《ひら》く道標《しるべ》となることを忘れずに。
希望と未来の精霊は頬笑み、姿を消した。第三の宝玉はひときわ明るく輝くと、勇者の剣の鍔《つば》へ、吸い寄せられるようにしてそっと収まった。勇者の剣に、また新たなエネルギーが注ぎ込まれ、精霊の守護の力がいや増すのを、ワタルは全身で感じ取った。
目を閉じ、両足を踏みしめてしっかりと雪原に立つと、頭上高く、勇者の剣を差し上げた。それを待ち受けていたかのように、分厚い雲間から一条の陽光がさしかけて、ワタルを包み、祝福を与える。
残る宝玉は、あとふたつ。
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40 離れる心
港町──ソノ。
船着き場の一角、古びた板張りにトタン葺《ぶ》きの屋根の倉庫が、佗《わ》びしく立ち並ぶ。海風に雨樋《あまどい》はすっかり錆《さび》つき、死んだ虫の脚《あし》のように折れ曲がって、軒先《のきさき》からぶらさがっている。それをまた海風が揺《ゆ》すり、雨樋が壁《かべ》にぶつかって、かたん、かたんと寂《さび》しい音をたてる。町から見おろす海は青黒く、潮の匂《にお》いは淀《よど》んで濃《こ》いけれど、港町の活気はここには足らず、うねうねと続く街路を歩くヒトびとの足どりも、心なしか重たげである。
ソノは乗り遅《おく》れた町だった。風船《かざぶね》航路の開発と共に隆盛《りゅうせい》となり、富に富を蓄積《ちくせき》してさらに勢いを増す、風船持ちの大商人たちの誘致《ゆうち 》が後手に回った。零細《れいさい》風船商人たちによる、中型の風船の交易で運び込まれ、また運び出されてゆく商品の、陸路での運搬《うんぱん》ルートと手段の確保にも後《おく》れを取った。規模こそ小さいがかつては活発な漁師町だったソノには、魚や魚を原料とする加工食品の運搬の経験の蓄積こそあったものの、北大陸がほしがり、またその見返りにと南大陸に売り込もうとする種々雑多な品々を取り扱《あつか》うには、いささかノウハウが足りなかったのだ。食品と雑貨を同じ倉庫で管理することはできない。北の統一|帝国《ていこく》の特権階級が風船商人たちに売って寄越《よ こ 》した骨董《こっとう》家具は、デリケートな修復や研磨《けんま 》が必要なものばかりで、手をかければ高価なものになると見当はついても、ソノの港の男たちの無骨な手には余った。他所《よ そ 》の町へ持ち込むにも、運び出す手順に戸惑《と まど》っているうちに、年に数度の商業機会を待ち受けて、感覚を研《と》ぎ澄《す》ましている風船商人たちに見限られ、やがて相手にしてもらえなくなってしまった。
もともと、正しい意味での海の男≠ニいうよりは、漁《すなど》る男たちであったソノの働き手たちは、海から糧《かて》を得ることができなくなったと見切りをつけると、散り散りになってソノを離《はな》れていった。残った者たちは、少しずつ痩《や》せてゆくソノの町の経済に、すがるようにして細々と暮らしを続けてきた。
だが、時を経て、ハタヤやダクラのような堂々たる工業港、商業港が繁栄《はんえい》を極《きわ》め、当然のことながら連邦政府の厳しい監視下《かんし か 》に置かれ、統制を強められていったが故《ゆえ》に、巡《めぐ》り巡ってこのソノの小さな港には、皮肉な役回りが廻《まわ》ってきた。交易の鑑札《かんさつ》を得ることができず、元手も乏《とぼ》しく、連邦政府に顔も利《き》かないが、海を渡《わた》る腕《うで》と度胸と山っ気だけは誰《だれ》にも負けないというもぐりの風船商人たち──闇《やみ》のブローカーという言葉こそふさわしいヒトびとの必要を満たす役回りが。
密航の仲介《ちゅうかい》である。
今では、それはソノの町の隠《かく》れた資金源となっていた。誰も知らないことになっており、また知らない者にはまったく届かぬ知識。しかし、必要に迫《せま》られて知ろうとする者には、こっそりと裏口の戸を開けて招じ入れる、密航の仲介者と船乗りたち。内職というには大規模すぎ、産業と呼ぶには後ろ暗いながら、町を生きながらえさせるために、ソノの港に生きてきたヒトびとは、この役回りを演じるしかなかった。またそれには、他の町でも他の方法でも満たすことのできない楽しみと一抹《いちまつ》のスリルがあるという、特殊《とくしゅ》な付加価値もあるのだった。
肩《かた》を並べて海風のなかに佇《たたず》む倉庫街は、道ばたで時間を潰《つぶ》しながら仕事が来るのを待っている労働者たちのような風情《ふ ぜい》を湛《たた》えている。そのなかに、ヒトの握《にぎ》り拳《こぶし》の形を商標とする小さな船会社があった。この会社の所有するたったひとつの倉庫の壁には、やはり同じ商標が、色褪《いろあ 》せてなお目立つ黄色いペンキで描《えが》かれている。二階部分にある事務室は、壁の羽目板《は め いた》に染《し》みついた潮と黴《かび》の臭《にお》いと、がたついた窓枠《まどわく》のせいでひどく貧乏《びんぼう》たらしい雰囲気《ふんい き 》ではあったが、それを気に病《や》む事務員は一人もいなかった。この会社の社長であり、やはり一|艘《そう》しかないオンボロ中型風船の船長《キャプテン》でもあるアンカ族の老人は、港にもや[#「もや」に傍点]ってある船のなかで生活している。他に家を買ったり借りたりする金の節約になるし、自身で船の手入れと警備をすれば、その経費も浮《う》くからである。
そして、事務員もおらず客の一人も寄りつかない事務室は、北大陸への密航を希望する南のヒトびとを、出航のときまで匿《かくま》っておくための、たいへん便利な隠れ家として機能していた。もっとも最初から、船長が望んでそうしたわけではない。誰かを匿うなどという作業は、実際にやってみるとかなり難儀《なんぎ 》なものである。できるならば、密航を望むヒトとの話がまとまり、前払金《まえばらいきん》を受け取ったなら、後はいざ出航というときに港で落ち合うまでは、互《たが》いに顔を合わせずにいた方が快適だ。だが、そんなふうにして船出まで泳がせて[#「泳がせて」に傍点]おいた客が、寂《さび》れた町で騒《さわ》ぎを起こしたり、挙動|不審《ふ しん》を咎《とが》められてブランチにひっぱられたりして、話がおじゃんになるだけでなく、こちらの稼業《かぎょう》まで露見《ろ けん》しそうになるというアクシデントを何度か経験して、船長は学んだ。いざ船に乗り込み、板子一枚下|地獄《じ ごく》の海原《うなばら》に出てしまうまでは、客を自分の目の届くところに留《とど》めておく方が安全だと。
なに、いずれにしろ北へと出航できる時期は、年に三度か四度あるだけだ。年がら年じゅう誰かを匿ってやらねばならぬというわけではない。しかもそのたびに、事務室が密《ひそ》かな客を泊《と》めるのは、せいぜいひと晩かふた晩、長くても四、五日のことである。各地の星読みたちが、出航好適の合図を出してくれたなら、とっとと客を船底に押し込めて、大型風船で混《こ》み合う沖合をするりと抜《ぬ》けてしまえばいい。それでオサラバだ。
しかし、今回の客は少々勝手が違《ちが》った。
若い男だが、とにかくやたらに急いでいた。何が何でもできるだけ早く北へ渡りたいと、脅《おど》すような口調で言い募《つの》るのだ。彼が船長のもとを訪ねてきたのは、まだ出航好適時機の来る数日前のことだったのに、今夜にでも船を出せと迫るので、しまいには船長も腹を立ててしまったほどである。
風が吹《ふ》かねば風船は出せぬ。時期が来ても、港まわりを警備しているブランチの目を盗《ぬす》まないとならないので、出航するタイミングも難しい。怒《おこ》りながらも船長はそう説明し、誰か他の仲介者をあたってくれと、男を追い出そうとした。すると男も怒《いか》り狂《くる》って、そこらの椅子《い す 》だの壁だのをドカバカ蹴《け》っ飛ばした挙げ句、倉庫から出ていこうとして、階段を転げ落ちた。足を踏《ふ》み外したのではなく、倒《たお》れてしまったのだった。興奮しすぎて目を回してしまったらしい。
船長は往生した。このまま道に放《ほう》り出してしまってもいいのだが、近所で怪《あや》しい行き倒れが出れば、ブランチのハイランダーたちがあたりを嗅《か》ぎ回ることになるだろう。ソノの町では、密航に関《かか》わっている船主や船乗りたちは、それなりにブランチを懐柔《かいじゅう》し、見て見ぬふりをしてもらう術《すべ》を心得ていたが、ハイランダーたちのなかには買収のきかない堅物《かたぶつ》がいるし、ソノのブランチも、他のブランチとのバランスをとり、首長の顔色を窺《うかが》う必要に迫られて、ときには抜き打ちで強面《こわもて》に出ることもあるから、油断ならないのだ。
仕方ない。船長は失神している若い男を事務室に運び込み、介抱《かいほう》してやった。男は手荷物らしいものをほとんど持たず、ただ、紙筒《かみづつ》みたいなものを後生大事に抱《かか》え込んでいるだけだった。ガリガリに痩せていて、着た切り雀《すずめ》の服はボロボロ。靴《くつ》の底も抜けかけているし、足には豆がいっぱいできている。手にもロープでできたような切り傷の痕《あと》がたくさん残っていた。山登りでもしていたのだろうかと、船長は訝《いぶか》った。
さらに不思議だったのは、この客がまだ意識を取り戻《もど》さないうちに、彼を訪ねて別の来訪者があったことだった。しかもそれはガキだった。星読みか、鉱山と工業の国アリキタでは非常に珍《めずら》しい存在である魔《ま》導士《どうし 》みたいな出《い》で立ちで、足首まで届く丈《たけ》の長い黒マントを羽織り、ごたいそうな宝玉のついた杖《つえ》を手にしているが、逆さまにしてみたって、せいぜい十一、二歳の子供である。そして、やっぱり北へ渡りたいという。
「おまえさん、この男の連れかね?」
船長の質問に、血の気の失《う》せた顔で横たわっている若い男を横目に見ながら、そのガキは答えた。「連れじゃない。ただ、この男と一緒《いっしょ》にいれば、確実に北へ渡れると考えて追いかけてきたんだ」
およそ親しみの感じられない口調だったから、本当に知り合いでも何でもないのだろう。倒れた若い男を見ても、眉毛《まゆげ 》の一本も動かさなかった。いやいやこの子供の場合は、産毛《うぶげ 》一本そよがせなかったと言った方が正しいか。
金は持っていると、魔導士みたいなガキは言った。船長はそれを確認《かくにん》し、前払金を受け取った。どうやって稼《かせ》いだのか訊《たず》ねかけて、やめた。何だか薄《うす》気味《き み 》悪《わる》かったのだ。
連れではない知り合いではないと言いつつ、魔導士みたいなガキは、寝《ね》込んでいる若い男の持っていた紙筒を勝手にいじり回し、中身を検分した。フンフンとうなずいている。それは何だと船長が訊《き》くと、あんたには関係ないと言う。生意気なガキだと言うと、それでも客だと言い返された。
紙筒の中身は、何かの図面のようだった。少なくとも船長にはそう見えた。
やがて若い男が意識を取り戻すと、魔導士みたいなガキは彼と何かひそひそ話を始めた。事務室に食事や水を持っていくときに、船長はその断片《だんぺん》を漏《も》れ聞いたが、たいていはガキの方がしゃべっていて、
「あんたのことはキョーオウから聞いた」
「鏡は壊《こわ》されるだろう」
「あんたの目的なんかに興味はない」
そっけない口調で、そんなわけのわからないことばかり言っている。若い男の方は、身体《からだ》が弱っているせいもあってか、すっかり恐《おそ》れ入り、ガキに太刀打《た ち う 》ちできないようで、あるときなど、どうか自分も一緒に連れて行ってくれと、ぺこぺこ頭をさげていた。どうやら若い男は、船長に前払金を払ったことで、一文無しになってしまったらしかった。俺は危《あや》うく無料《た だ 》働きをするところだったと、船長は苦り切った。
こんな具合だったから、船長はいつにも増して注意深く、この客を事務室に留めておくことに心を砕き、目を離さなかった。ただ、ガキと若い男は、まったく外に出ようとしなかったから、さほどの手間はかからなかった。それに、好んで接近したい相手ではなかった。船長が何か話しかけるたびに、魔導士みたいなガキから、凍りついてしまいそうな冷たい視線を向けられるのも不愉快《ふ ゆ かい》だ。
薄気味悪さは、日が経《た》つほどに増した。実は、魔導士みたいなガキの懐《ふところ》が温かそうなのと、彼の持ち歩いている杖があまりに立派であることに興味を惹《ひ》かれ、船長の腹に、少しばかり悪い考えがかすめたことがある。ガキを叩《たた》きのめして、あの杖を奪《うば》っちまおう──と。
もちろん、そんな考えは腹の底に収めて、顔には出さなかった。悟《さと》られるはずはない。だが、何度目かの食事を運んでいったとき、船長の目がつと壁に立てかけられた杖の方に向くと、事務室の粗末《そ まつ》な備品のひとつである木の机が、いきなり壁際《かべぎわ》からずるずると動いて、船長と杖のあいだに割り込んだ。誰が動かしたわけでもなく、ひとりでに動いたのだ。船長は腰《こし》を抜かしそうになった。
うふふと含み笑いが聞こえて振り向くと、ボロボロになってスプリングの飛び出したソファに腰かけ、足をぶらつかせながら、魔導士みたいなガキが笑っていた。
「余計なことを考えない方がいいよ」
そう言った。と、またぞろ唐突《とうとつ》に机がずるずると後退して、元あった場所に戻った。机の上に載《の》せてあった古いペン立てとインク壺《つぼ》が、はずみでころりと転げて床に落ちた。
壁際で、杖の頭についている宝玉が、最初は赤く、次に薄緑に、そして蒼《あお》く、最後に琥珀《こ はく》色にとまたたきながら色を変え、意味ありげに光った。
口のなかで、舌を噛《か》みそうなほどの勢いで女神を讃《たた》える言葉を唱えながら、船長は逃《に》げ出した。ありゃ本物の魔導士だ。とんでもない術士だ。くわばら、くわばら。
こうして──今日で五日が過ぎた。
船長は倉庫の扉《とびら》を開けて中に入ると、しっかり鍵《かぎ》をかけ閂《かんぬき》をかった。客を泊めているあいだは、いつもこうするのだ。そして二階の事務室にあがっていった。
今夕、日没《にちぼつ》後に出航する。それを伝えに来たのだった。正直、ほっとしていた。あんな客、とっとと厄介《やっかい》ばらいしてしまいたい。反面、あの不気味な魔導士のガキを乗せて海に乗り出し、北大陸へ渡るまで、半月近くを一緒に過ごすことになるのだと思うと、気が重かった。わしももう、こんな暮らしから足を洗う潮時がきとるのかもな……。
階段の踊《おど》り場まで来たとき、頭上で「うぎゃっ」というような悲鳴が聞こえた。船長はその場で凍りついた。ありゃ何だ? 誰の声だ? あのチビの魔導士が、またぞろ何かやらかしとるのか? 回れ右して階段を降り、逃げてしまおうという思いと、事務室まで駆《か》けあがって怒鳴《ど な 》りつけてやろうという思いの板挟《いたばさ》みになって、船長は逡巡《しゅんじゅん》した。と、もう一度「わああ」という──今度は悲鳴というより、泣くような声だった──叫びが聞こえてきて、事務室のドアの、上半分にはめられていた曇《くも》りガラスが木《こ》っ端《ぱ》微塵《み じん》に爆発《ばくはつ》した。次にはドアそのものがばたんと外側に開き、壁にぶつかって跳《は》ね返る。ガラスの破片が船長のところにまでパラパラと落ちてきた。
船長は呆然《ぼうぜん》とした。もしも、ガラスの割れたところから、震《ふる》えあがるような冷気が吹き下ろしてこなかったなら、そのまま立ちすくんでいたことだろう。冷気に顔を洗われて、船長はようやく我に返った。這《は》うようにして階段をのぼり、そのあいだに、顔や髪《かみ》や口髭《くちひげ》にくっついたガラスの破片を振り落とした。
「い、い、今のは何だね?」
事務室のドアから、おそるおそる顔を突《つ》っ込んで、船長は訊ねた。が、その言葉は、途中《とちゅう》でくしゃみに変わった。痛いほどの冷気が鼻に飛び込んできたからだ。おお、寒い! 耳たぶが凍りそうだ!
魔導士のガキは、壁際に立って、片手を腰に、片手で杖を持って、何かを見ていた。ガキの足元にうずくまっている──
氷の塊《かたまり》を。
それはヒトの形をしていた。何かに驚《おどろ》き、きゃっと叫んで逃げ出しかけて、それが果たせず、救いを求めるように片手を壁に張りつけて、そのまま凍りついてしまったというような形だ。
「こりゃ……何だ」
船長の問いに、魔導士のガキは肩をすくめた。「あんたの客だよ」
「あ、あ、あの、わ、若い男か?」
「そうだよ」
船長ははいはい[#「はいはい」に傍点]する幼児のようになって、魔導士のガキの足元に這い寄った。
「い、いったいどうしたというんだね。何で凍っちまったんだ? この寒さは何だ?」
魔導士のガキを見あげて、船長は目を見開いた。「おまえがやったのか? ま、魔法をかけて」
「僕じゃない」魔導士のガキはかぶりを振る。
「そうだな……これは、言ってみりゃ天罰《てんばつ》ってところだよ」
「天罰?」
「うん。きっと、デラ・ルベシに女神さまの審判が下ったんだろう。だからこの男も、逃げても逃げ切れなかったってことさ」
魔導士のガキはさっと黒マントの裾《すそ》をはためかせ、あの若い男が寝ていたベッドの枕元《まくらもと》から、例の紙筒を取りあげた。
「おまえさん、それ──」
「こうなっちまったら、この男には宝の持ち腐《ぐさ》れだ。僕が利用させてもらう」
「だけど、そりゃ他人のものだぞ、坊《ぼう》ず」
船長は、思わず子供を叱《しか》る口調になった。が、ガキの魔導士はおよそ子供らしくない目つきで船長を見やり、
「こいつだって」と、紙筒の先で氷と化してしまった若い男を指すと、「どこかからこれを盗んできたのさ。褒《ほ》められた話じゃない」と言い捨てた。
「ところで、出航はいつなの」
「え? ああ、今夕だ。本当は夜中の方がいいんだが、今夜は月がないから、あまり暗くなると危険なんでな。ブランチの警備|艇《てい》が周回パトロールを終わったころを見計らって船出するよ」
「あ、そう。ずいぶん待たされたよ」
船長はガタガタと震えていた。寒いのと怖《こわ》いのと、両方だ。
「この……氷をどうしたらいい?」
「放《ほ》っときゃ、溶《と》けて水になるよ」
しかし、元はヒトなのだ。「溶けたら、血が流れやしないかね」
「そんな心配はないと思うけど、嫌《いや》なら僕が片づけてやってもいいよ」
船長はごくりと喉《のど》を鳴らした。喉が干《ひ》あがっていた。頼《たの》むと言いたいが、言ったら何をされるかわからないという気もした。
「ブランチに……露見《ば れ 》ねえか?」
「ブランチ? ああ、ハイランダーとかいう手合いか」魔導士のガキはつまらなさそうに吐《は》き捨てる。
「そうだ。ここで手入れを食ったら、出航できねえ。あいつらを見くびると、えらい目に遭《あ》うぞ」
「心配ないよ。跡形《あとかた》もなくきれいに消してあげるから」
にやりと笑う。船長はまた寒くなった。やっぱりこんな客、引き受けなきゃよかったという後悔《こうかい》の念を噛みしめて──
そのとき、階下の出入口の扉を、閂が反《そ》るほどに強く叩きながら、大声で呼ばわる声が聞こえてきた。
「おーい、船長! そこにいるか? いるなら開けてくれ。こちらはブランチの者だ。あんたに訊きたいことがある」
船長は魔導士のガキの顔を見た。自分でも、情けないほどにすくみあがっているのがわかった。だが、魔導士のガキは落ち着き払っている。
「どうやら邪魔《じゃま 》が入ったようだ」
そう言って立ちあがった。
「あんたの船は、すぐにでも出航できる状態になってるんだな?」
「あ、ああ。準備はできてる」
「じゃ、出かけよう」
「しかし、ブランチに追跡《ついせき》されながら港を出ることはできねえよ」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ。沖まで、僕が運んでやる」
魔導士のガキが杖を手にすると、また宝玉が輝《かがや》いた。
ワタルたちは、アリキタとボグの国境、関所に近い街道《かいどう》沿いの森のなかでジョゾと別れた。ジョゾはこのままソノの町まで皆《みな》を乗せて行くと申し出てくれて、一度は空を飛んで国境を越《こ》えたのだけれど、小さな町の上をいくつか通過しただけで、下界でかなりの騒ぎが起こっていることに気づいたのだ。ドラゴンはただでさえ珍しい生きものだが、工業国のアリキタでは、既《すで》にしてほとんど神話のなかだけの存在になっているらしい。ジョゾが言うには、アリキタは南大陸の他の場所よりも空気が汚《よご》れているので、ドラゴンたちにも嫌《きら》われていて、彼も彼の仲間も、ほとんど飛んできたことがないのだそうだ。ヒトびとの驚き様が尋常《じんじょう》ではなくとも、無理はない。
それでなくても人心が動揺《どうよう》している昨今、余計なトラブルは起こしたくない。ジョゾを危険に巻き込むのも望ましくない。だからワタルたちは引き返し、ジョゾを龍《りゅう》の島へ帰して、それから関所に駆け込んだ。デラ・ルベシの実状から説明を始めていたらかえって手間がかかってしまうので、出所は明かせないが確かな情報だと、例の倉庫の件を伝えて、居合わせたカルラ族に、まずソノの町のブランチへ急行してもらった。そして自分たちもその後を追った。
ワタルたちがソノのブランチに着いてみると、指揮官の所長と連絡員《れんらくいん》一人を残して、既に全員が問題の倉庫へと出向いた後だった。黄色い拳を商標とする風船会社は、アンカ族の老船長が一人いるだけの零細会社で、これまでにも何度となく密航を仲介していた疑いがあるという説明を聞き、ワタルは事実を確認してむしろほっとしたが、キ・キーマはちょっと苦い顔をした。どうしたのと小声で訊いてみると、
「ここのブランチじゃ、今まで、よほどのトラブルが起こらない限り、たぶん、密航の仲介を見逃してきてるんだよ。本音と建前の使い分けさ」と、声を潜《ひそ》めて教えてくれた。
そういうことはあるんだろう。ワタルだって現実の世界で、そういう事柄《ことがら》がニュースとして取りあげられるのを見聞きしている。
「でも、今度ばかりは全力でかかってくれるさ。首長命令なんだもの。ね?」
「そうだな。うん、そうだ」
さほど待たされることもなく、倉庫に向かったハイランダーの一人が駆け戻ってきた。老船長の倉庫には誰もいない。ただ、二階の事務室にはヒトがいた形跡があり、しかも、
「信じられないような話だが、ヒトが凍ってるんだ。というか、ヒトの形をした氷の塊があるんだよ」
ワタルたちは顔を見合わぜた。ミーナがはっとたじろいで手をあげて、心臓のあたりを押さえた。
「脱走者だわ……」
女神がデラ・ルベシに懲罰《ちょうばつ》を下したとき、彼もまたそれを受けたのだ。どれほど遠く離れようと、女神の怒りからは逃《のが》れることができなかったのだ。
でも、そんなことができるならば何故《な ぜ 》、女神はわざわざ首長たちのもとに光臨し、逃亡者を追って捕らえろと命じたのだ? 彼を罰することができるならば、そんな必要はなかったはずじゃないか。
ワタルの胸が騒いだ。
「その事務室のなかに、見慣れないものは残されてませんでしたか? 図面なんです。紙の束かもしれないし、筒に入ってるかもしれません」
「さて……なにしろ事務室のなかは散らかってるからな。とにかくうちのメンバーは、港へ向かった。船長の居所がわからないし、風船を調べてみないと」
「じゃ、僕らは倉庫へ行って、探してみてもいいでしょうか」ワタルは所長に願い出た。
「ああ、いいだろ──」
所長の言葉が終わらないうちに、突然、ブランチの建物全体が揺れ動いた。ここのブランチもまた材木とトタンを組み合わせただけの小屋で、かなり老朽化《ろうきゅうか》している。最初のひと揺れで、羽目板がびりびりと鳴った。揺れが続くと窓枠が外れ、床が波立ち、立っているのも難しくなってきた。
「な、何だこりゃ」
地震《じ しん》かと思った。が、窓枠にしがみついて外を見たミーナが、悲鳴のような声をあげて皆に教えた。「竜巻《たつまき》よ!」
ワタルたちは外に飛び出した。確かに竜巻だ。それもひとつやふたつではない。差し渡しが五メートルから十メートルくらいの竜巻が、あちらにもこちらにも、まるでソノの町の空を支える風の柱のように、にょきにょきと立ち現れている。
それらはひとつの方向を目指して、緩《ゆる》やかに移動していた。集合しようとしている。通り道にあるソノの町の粗末で古びた建物を次々と打ち壊し、巻きあげてはまき散らしながら。向かってゆく。ひとつの目的地に。
海だ。
「あっちが港なんですね?」
ワタルは竜巻たちの行く手を指さし、風に負けない声を張りあげて問いかけた。ブランチの所長が裏返った声で叫んだ。
「ああ、そうだ。このままじゃ風船が危ないぞ!」
ワタルの心に、トリアンカ魔病院での光景が蘇《よみがえ》った。信者たちを巻き込み、密集したスラの木々をなぎ倒し、ワタルを嘆《なげ》きの沼《ぬま》まで運んでいったあの竜巻。ミツルが行使した風の大魔法。
港に、ミツルがいるのだ。
「行かなくちゃ!」
ワタルが叫んだとき、ブランチの建物がべりべりと倒壊《とうかい》した。
ソノの町のうねうねとした坂道を、港に向かって駆け降りながら、ワタルは見た。いくつもの倉庫や住宅が屋根を飛ばされ、柱を倒され、窓が砕け、雨樋が折れて吹き飛ぶ。あるものは倒れ、あるものは歪み、建物から飛び出してきたヒトびとが、頭を抱えて逃げまどうのを。洗濯物《せんたくもの》がロープごと空に飛ばされ、あんぐりと口を開けてそれを見送る小母《お ば 》さんがいた。あたしのエプロン──と、譫言《うわごと》みたいに繰《く》り返している。犬や猫《ねこ》も飛ばされてゆく。植木が舞《ま》いあがる。お鍋《なべ》を載《の》せた竃《かまど》が、そっくりそのまま宙をよぎってゆく。
通過した後に町の残骸《ざんがい》を山積みにしながら、竜巻たちは進んでゆく。キ・キーマの大きな身体を盾《たて》に、ワタルたちはそれを追いかけた。竜巻が通り過ぎた場所には、瓦礫《が れき》と、呆気《あっけ 》にとられたヒトびとと、ぽかんとした静けさが残るだけだが、少しでも竜巻との距離《きょり 》を詰《つ》めようとすると、渦巻《うずま 》く風に阻《はば》まれて、前を向いていることさえ難しくなった。それでもキ・キーマは動じず、途中で何処《ど こ 》かから外れて飛んできた木の扉を担《かつ》ぎ上げ、それを器用に動かしては飛んでくる障害物を避《よ》けて、進路を切り開いてくれた。
「俺につかまってろよ!」
キ・キーマの大声は、風のなかでもよく通った。ワタルは身をかがめ、キ・キーマの腰に両手でしがみつき、背中に頭を押しつけていた。ミーナがそれに続く。ミーナのしっぽはワタルの胴《どう》に巻きついていた。
港まであと一区画。坂の上から埠頭《ふ とう》が見える──
そこまで来たとき、唐突に風が止《や》んだ。舞いあげられていたものすべてが、重力に引かれてゆっくりと落下し始める。
ワタルは空を仰《あお》いだ。港の上空を。ミーナもそうした。キ・キーマも、まだ身体の前に木の扉を担ぎ掲《かか》げたまま、呆然として上を見ている。
十数個の竜巻は、今、すべて海上にあった。港の桟橋《さんばし》のひとつにつながれた、一|隻《せき》の風船の周囲に寄り集まっている。そして、すでに竜巻らしい形を失っていた。それぞれが、ぐるぐると渦巻く丸い風の塊となって、わずかに上下しながら漂《ただよ》っているだけだ。
だから港のなかは凪《な》いでいた。風の塊に包囲された風船は、マストの傾《かたむ》いた老朽船で、横腹に描かれた黄色い拳のマークも、半分以上は消えてしまっている。あっちこっち錆だらけだ。帆《ほ》はたたまれ、帆柱だけが、すっかり落葉した貧相な立木のように突っ立っている。しかし、その脆《もろ》そうな船体をゆっくりと揺すっているのは静かな波の動きだけ。他の桟橋や繋留杭《けいりゅうくい》に留め置かれた風船たちも、何事もなかったかのように、マストの旗をだらりと垂らしている。
ワタルは、風の塊を従者たちのように従えた風船に向かって駆け出した。ミーナが続く。ひと呼吸遅れて、キ・キーマも盾にしていた木の扉を放り出して、二人の後を追った。
桟橋も古びて、板と板のあいだが隙間《すきま 》だらけになっていた。そこから海が見えた。腐食《ふしょく》してささくれ立った板のひとつに足をとられて、ワタルは桟橋の真ん中あたりでつんのめった。息を切らして立ち止まる。
「ミツル!」
身体じゅうの力を集めて呼びかけた。
と、風船の操縦席の後ろの扉が開き、小さな人影《ひとかげ》が現れた。艫《とも》の方へとやってくる。
黒衣の魔導士。ミツルだった。片手に杖、片手を船端において、その顔には半ば驚き、半ば笑っているような表情が浮かんでいる。
「何だ、おまえか」
波が桟橋を洗う音が聞こえる。竜巻のあいだ、恐れをなして沖合《おきあい》に逃げていた海鳥たちが舞い戻ってくるのが見える。
「こんなところで何してるんだ?」
「それはこっちの台詞《せりふ》だ!」
叫び返したとき、操縦席の奥で、誰かの頭が動くのが見えた。きっと船長だ。
「俺は見てのとおりだよ。風船に乗っているんだ。これから出航さ」
ワタルのように叫んでも怒鳴ってもいないのに、ミツルの声はよく聞こえた。
「北の帝国へ渡るつもりだっていうのか?」
ミツルは答えなかった。まるで機械の調子を見るかのように、宙に浮いている風の塊の群をぐるりと見回す。ついさっきまで暴れ回っていた竜巻たちは、透明《とうめい》な珠《たま》のなかに封《ふう》じ込まれてしまったかのようにおとなしく収まって、ただぐるぐると音もなく渦巻いているだけだ。
「他に行き先があるのかよ?」と、ミツルは問い返した。
ワタルは風船に歩み寄り始めた。一歩、二歩。ミーナとキ・キーマがついてこようとしたので、手で遮《さえぎ》った。「どうして北へ行かなきゃならない?」
「決まってるだろ。宝玉を集めるためさ」
ミツルの手のなかの杖のてっぺんで、そうですよねと相槌《あいづち》を打つみたいに、宝玉が光った。最初は赤く、ついで緑に、そして蒼く、次に琥珀色に。
四色だ。すでに四色。
ワタルの勇者の剣《けん》と、ミツルの杖とでは、宝玉を集める仕組みが違っているのだろう。勇者の剣は、集めた宝玉を鍔《つば》に収めてゆくことで成長してゆく。でもミツルの杖は、その頭の部分に取りつけられた珠が、ミツルが新しい宝玉を見つけるたびに、そのエネルギーを吸い込んで力を増してゆくらしい。
「あとひとつなんだ」杖に目をやりながら、ミツルは言った。「残りのひとつは北大陸にある。だから、どうしても行かなくちゃならない」
「先を急いでるから、デラ・ルベシの教王の頼みを聞いてるヒマなんかなかったってことかい?」
ミツルの黒い瞳《ひとみ》が大きくなった。「へえ、それじゃおまえ、やっぱりデラ・ルベシに行ったのか」
「うん、行ったよ」
「お人好《ひとよ 》しだなぁ。まさかと思ってたのに、ホントにあんな場所まで行ってやったのか」
からかうような口調に惑《まど》わされずに、ワタルは真《ま》っ直《す》ぐミツルを見あげていた。
「デラ・ルベシは滅《ほろ》びたよ。教王も死んだ」
ミツルは何も言わなかった。
「脱走者も死んだ。生きながら凍りついて。知ってるんだろ?」
やはり黙《だま》っている。トリアンカ魔病院で再会したときよりもさらに長くなった髪が、潮風になびく。
「おまえは脱走者と一緒にいたんだろ? 彼が北へ渡ろうとしていると知って、利用しようとしたんだな?」
「情報として捉《とら》えただけだ」と、ミツルは言った。「それに泣きつかれたしな。あいつ、船長に前払金を払ったら、一文無しになっちまったんだって」
ワタルはミツルの顔に視線を据《す》えたまま、訊ねた。「脱走者の持っていた図面はどこにある?」
なぜかしら、ミツルは目を細めて頬笑んだ。それでわかった。返事になっている。
ワタルは、風船の艫に向かって右手を差し出した。「返してくれ。今すぐ」
間髪《かんはつ》入れず、ミツルは反問した。「なぜ」
「そんなものが北の統一帝国の手に渡ったら、南大陸を危険にさらすことになるからだよ」
ミツルの頬笑みが広がった。「可笑《お か 》しなことを言うヤツだな」
「可笑しくなんかあるもんか」
「動力船の設計図なんかが、なぜそんなに危険なんだ?」
ワタルは焦《じ》れた。「知らないのか? わからないのか? そんなはずないだろ?」
「北の統一帝国のことは、よく知らない」
ミツルは、わざとはぐらかしている。
「この南大陸のことだって、知らないことの方が多い」
つとソノの町に視線を飛ばす。自身の魔法の力でめちゃめちゃにしてしまった、佗びしい港町の光景を。
「だって俺は観光旅行に来たわけじゃないからな。幻界《ヴィジョン》≠フ国の事情に、いちいちこだわってはいられないんだ。そんな時間はなかった。自分の旅の目的を追うことで、俺は精《せい》一杯《いっぱい》だったから」
そして、ちょっと笑った。
「おまえはずいぶん寄り道してるみたいだけどな。何だよその腕輪は。この前会ったときに気づいてたよ。それ、ハイランダーとやらの印なんだろ? 幻界≠フ治安|維持《い じ 》のために頑張《がんば 》ります、か。余裕《よ ゆう》があるんだな」
その言葉は、ミツルが意図した以上に、それどころかワタル本人が覚悟《かくご 》していた以上に、ワタルの痛いところを突いた。もう迷ったりしないつもりだったのに、痛かった。
「北だの南だの、そんなことは知らない。興味もない。でもワタル、考えてみろよ。おまえの大好きなこの南大陸に限ったって、たとえばこのアリキタは──」
ミツルは軽く両手を広げた。船の艫に立って演説しているみたいだ。
「鉱山と工業の国だ。どちらも今はまだヒトの力だけで、すごく原始的な形で行われてる。でも、やがては誰かが動力を発明するだろう。時間の問題さ。幻界だって進歩するんだ。いや、進歩しなくちゃならない。そのために必要な要素を、どうしてそんなに忌み嫌う?」
ワタルはためらわずに答えた。
「それが幻界で生み出されたものであるならば、ミツルの言うとおりだよ。だけど、その設計図は違う。現世《うつしよ》から持ち込まれたものだ。そんなのは間違ってるよ!」
「なぜ間違ってるんだ?」
素早《す ばや》く問い返されて、返事ができなかった。それを見越していたように、間をおかずにミツルは続けた。
「ま、いいや。そんな問答をする気もないんだから。とにかく、俺はこの設計図が要るんだ。だからおまえに渡すことはできない」
「何のために必要だっていうんだよ?」
ワタルは思わず、すがるような声を出してしまった。
応じるミツルは冷静だった。「皇帝ガマ・アグリアスZ世と取引するためさ。俺の求める五《いつ》つ目の宝玉は、北の統一帝国の皇家に伝わる王冠《おうかん》に埋《う》め込まれているんだ」
ワタルは全身の血の気が引き、爪先《つまさき》から流れ出てゆくのを感じた。下を向けば、桟橋の板の隙間から、自分の血がたらたらと海に流れ落ちてゆくのが見えそうだ。
「皇帝の冠《かんむり》だぜ。ただ頼んだだけじゃ、くれやしないだろうな。だから、向こうが飛びついてきそうな取引の材料が必要なんだ。実を言うと、デラ・ルベシの教王に呼びかけられるまでは、何のあてもなくて困ってた。だから渡りに船だったよ」
ミツルに対して抱《いだ》いていた──抱いていたはずの信頼《しんらい》や親しみが、アルコールのように蒸発して消えてゆくのを、ワタルは感じた。そして、心のなかで今までそれが占《し》めていた位置に、新たに生まれた猛烈《もうれつ》な怒りがとって代わった。
「──向こうが飛びついてきそうな材料だって?」
「ああ、そうさ。北は南に攻《せ》め込みたがってるんだろ? 俺も、その程度のことは知ってるからさ」
ワタルの怒りが爆発した。
「それじゃおまえは、第五の宝玉を手に入れるために、南大陸のヒトたちを北の統一帝国に売り渡そうっていうのか? おまえのやろうとしていることは、そういうことなんだぞ!」
ミツルの顔から、からかうような、面白《おもしろ》がっているような表情が消えた。不審と懸念《け ねん》、それにほんのひと匙《さじ》、ワタルを気遣《き づか》うような色が、瞳に浮かんだ。
「三谷」と、ミツルはワタルを現世の名前で呼んだ。「おまえ、大丈夫か」
本当に心配しているのだ。それが何故なのか、ワタルには見当がつかなかった。こいつは何が言いたいんだ?
「おまえの言ってることは、寝言だぞ。譫言だ」
「違う」
「違わない。おまえは、自分が何のために要御扉《かなめのみとびら》を通って来たのか、忘れてるんじゃないか? ハイランダーになるためだったのか? 幻界のヒトたちと仲良く暮らすためだったのか? 違うだろ?」
今度は、ワタルが黙る番だった。出口のない抗弁《こうべん》が、ワタルの身体を内側から揺さぶって震わせた。
「おまえは自分の不条理な運命を変えるためにここに来たんだ。幻界は、俺たちの居場所じゃない。運命を変えて、現世に戻れなければ、ここにいたって意味はないんだ。それこそがいちばん肝心《かんじん》なことなのに、おまえはすっかり忘れてるじゃないか」
何も言い返せない。
久しぶりに、ワタルは思い出した。父さんに叱られて、それが納得《なっとく》できなくて、自分の言い分を並べて言い返すときって、いつもこんなふうだった。父さんは時間をかけてワタルの足場を崩《くず》した。そして言い聞かせた。間違っているのはワタルの方なのだ。ただ、あまりに深くその間違いのなかにはまりこんでいるので、自分が間違っていることさえわからなくなっているのだと、ワタルが認めざるを得なくなるまで。
「目的を忘れてなんかいない」
やっと、小さな声でそう言った。でもミツルには聞こえたようだ。というより、ワタルがそう言い返すと見抜いていたのだろう。
「いいや、忘れてる。頭を冷やして、よく考えてみろよ」
ミツルはため息をつくと、杖を左手に持ち替《か》えた。
「悪いけど、俺は先を急いでる。おまえのために待ってはいられない。設計図が北に渡れば、侵攻《しんこう》が始まるのは時間の問題だ。南大陸は今でも混乱してるけど、それに輪をかけた騒ぎが始まるだろう。宝玉をいくつ集めた? 争乱が──いや戦争が起これば、今よりもっと探しにくくなるぞ。早くした方がいい」
むらむらと込みあげてくる思いを押し戻せずに、ワタルは言った。「ミツルが先に運命の塔にたどり着いてしまったら、僕が宝玉を探す必要なんか失くなるんだ。残った一人は半身《はんしん》≠ノなるしかないんだから」
ミツルは艫から離れかけていたが、驚いたように向き直った。「半身=H 何のことだ?」
ミツルにも知らないことがあるのか。驚くと同時に、ワタルは皮肉な痛快さを味わった。
「大いなる光の境界≠張り直すためには、現世からのヒト柱も必要なんだよ」
興奮と混乱で、ワタルの説明はおよそ上手なものとは言えなかったけれど、ミツルの理解は速かった。
「そうか」と、短く言ってうなずいた。目を大きく見開いている。
ひと呼吸するあいだだけ、沈黙《ちんもく》が落ちた。海鳥が鳴く。
ミツルは、いささかも口調を変えることなく、続けた。「だったら、なおさら急がなきゃな。俺とおまえは、ここまで来てはっきりと利害が対立したわけだ。この競争には勝ち負けができたんだから、二人仲良くゴールインというわけにはいかない。お互い、運が悪かったな」
ミツルにどんな反応を期待していたのか、自分でもわからない。彼が動揺する様も、ましてや怯えた顔など、どう頭をひねってもワタルには想像することができないから。
だから今の返事は、他のどんなリアクションよりも、ミツルらしかった。ミツルは幻界を旅して、より強く、よりミツルらしくなっていた。
涙《なみだ》が出てきそうになって、ワタルはまばたきをした。悲しいからじゃない。潮風のせいだ。竜巻の名残《な ご 》りの埃《ほこり》のせいだ。
「ワタル」
気がつくと、ミーナがすぐそばまで来ていた。キ・キーマもいた。ワタルは振り返ったけれど、二人の顔をまともに見ることはできなかった。
「今の話は……本当のこと?」
ミーナの声は震えていた。ワタルは黙ってうなずいた。
「そんなバカな」キ・キーマが呟《つぶや》く。あの大きな身体のどこから、こんなか細い声が出てくるのだろう。
「俺は信じない。信じないぞ、ワタル」
キ・キーマは大きく一歩踏み出すと、ワタルの肩をつかんで振り向かせた。
「ワタルがヒト柱に選ばれるだなんて、そんなの信じないぞ」
ワタルはキ・キーマの大きな顔を仰いだ。いつだって親切そうな、丸い目を仰いだ。
「でも、幻界のヒト柱のきまりは信じるだろ? だったら、それと同じだよ」
「同じじゃねえ!」
「同じさ。大勢のなかの一人か、二人のうちのどちらか一人だという違いがあるだけだ」
ワタルはキ・キーマの手を握った。「サーカワの郷《さと》の長老も、このことはご存じだったよ。だけど僕に、迷っちゃいけないって言ってくださった」
とたんに、キ・キーマの身体が、ひとまわりもふたまわりも小さくなったみたいに見えた。魂《たましい》が半分ぐらい抜け出してしまったかのようだ。
「長老が……」
言葉が続かない。ワタルは心からすまなく思った。ごめんね、キ・キーマ。
「ワタルはそのことを、いつ知ったんだ? どうして……どうしてもっと早く教えてくれなかったんだよ。俺たち、仲間じゃないか」
「うん」
「このことを知ってたら、俺だってミーナだって、何がなんでも旅を急いで、ワタルが早く女神さまに会えるように……俺だってもっともっとワタルの役に立てたのに」
キ・キーマの目が潤《うる》んでいる。今度こそ本当に涙が溢《あふ》れそうになって、ワタルはぐいとかぶりを振り、風船に向き直った。
「ミツル!」
「まだ何かあるのか」
「もしも僕が──」
どうしてこんな駄目押《だ め お 》しの質問をするのだろう。答はわかりきっているというのに。
「今、南大陸の平和なんてことのためじゃなくて、ミツルが最後の宝玉を手にするのを邪魔するために、ミツルとの競争に勝つために、設計図を取り返しに来たんだと言ったら──それなら」
「それなら?」
「──どうするつもりだった?」
ミツルはためらいを見せなかった。声も凛《りん》としたままだった。
「おまえと対決した」
ミツルの視線は揺るがず、ワタルの瞳を貫《つらぬ》いた。
「そして勝った。俺の方が強い。それはおまえもよく知ってるはずだ」
ワタルはうなだれた。たまりかねたようにミーナが飛んできて、ワタルの肩を抱きながら、唾《つば》を飛ばしてミツルに叫んだ。
「何よ、あんた! それでも友達なの? あんたにはヒトの心ってものがあるの?」
ミツルはにこりともせず、無言のまま両手で杖を持った。ミーナには目もくれない。
「何とか言いなさいよ!」
ミーナは泣き声になっている。ワタルはそっと彼女を押しやった。「いいんだよ、ミーナ」
「だって……」
ミツルは仰向《あおむ 》くと、杖の宝玉を頭上に掲げた。呪文《じゅもん》を唱え始める。ここからでは聞き取ることのできないほど低い声だけれど、その様子はいかにも板について、堂にいっている。
海の上に浮いていた風の珠が、騒ぎ始めた。ほどけて広がり、ひとつに集まってゆく。すぐにそれは大きな風の衣《ころも》と変じ、風船をすっぽりと包み込んでしまった。
ミツルの乗る風船が、ゆっくりと海面から浮きあがってゆく。風の台《うてな》に乗り、しずしずと昇《のぼ》ってゆく。
ワタルは顔をあげた。艫から見おろすミツルと目が合った。
「さよなら」と、ミツルは言った。
風の衣は大きくはためき、果てしない海の彼方へと延びる風の導管《パイプ》に変わった。ミツルを乗せた風船は、するするとそのなかを滑《すべ》ってゆく。
遠ざかる。小さくなる。そして、空と水平線がひとつになり、朧《おぼろ》にかすんでいるあたりで、ふっと消えた。
行ってしまった。
「沖へ出たんだ……」
キ・キーマは呆然としている。
「あんなふうにして外海に出られちまったら、もうこっちの風船じゃ追いつけねえ。沖に出てしまえば、たとえ魔法が切れたって、帆を上げて船を操《あやつ》って、北大陸まで一直線だよ」
ミーナの震える腕が、ワタルをぎゅっと抱きしめた。
(さよなら)
そう言ったとき、ミツルの瞳の奥底で、かすかな光が閃《ひらめ》いた。それをワタルは見たと思った。あれは火花だった。たった今得た半身≠フ真実がどれほど衝撃《しょうげき》的であろうとも、その帰結する先がどれほど酷《こく》であろうとも、いやそれだからこそ、今ここで深く考え、判断を保留すれば、動きがとれなくなってしまう。そう主張する心の半分と、いや立ち止まれ、友達の言葉に耳を貸せ、友達を置き去りにすることはできないと、必死で説得する残りの半分が、ミツルのなかで衝突して飛び散った火花。
いや、違うか。あれはミツルの瞳の奥にあった光なんかじゃなかったかもしれない。ミツルは正しい、僕は間違っていた、負けを認めようと折れるワタルの心の半分と、負けてない、僕は正しいと頑張る心の半分が衝突し、火花が出た。それがミツルの瞳に映っただけのものだったのかもしれなかった。
[#改ページ]
41 ガサラの夜
ガサラの町は夕闇《ゆうやみ》に包まれていた。
町の出入口の大門は閉じ、ぐるりを囲む巨大《きょだい》な塀《へい》のそこここに、ぱちぱちと火の粉を飛ばしながら、松明《たいまつ》が燃えている。ワタルがここを離《はな》れたころよりも、松明の数がぐっと増えていた。警備を固める必要が生まれたからだろう。
それでも、ハルネラ≠ェ引き起こした混乱の最中に、交易の町ガサラのなかでは、目立った騒《さわ》ぎは起こっていなかった。活気も衰《おとろ》えてはいない。ひとつには、ここの町はやはり全体に裕福《ゆうふく》で、命ひとつしか女神《め がみ》に差し出すものがないというような貧しいヒトたちが少ないからだろう。
もともとガサラでは、多くの種族が入り交じって商売に精を出し、町を守《も》り立てていた。種族の枠《わく》を超《こ》えて、この町のヒトびとは、まずガサラのヒトであった。危機のときには、まずガサラの市民として行動することが、当たり前になっていたのである。
交易の町であるからこそ、北から老神教の教えが忍《しの》び入る機会が多いのではないかという懸念《け ねん》があった。だが、裏返してみればそれは、北の統一|帝国《ていこく》の実状についての情報も入り易《やす》いということでもあったのだ。だからリリスの町のように、ハルネラ≠ェ「アンカ族の救世主を亡《な》き者にするための女神の陰謀《いんぼう》である。老神教こそが幻界《ヴィジョン》≠救う」などという世迷い事が幅《はば》をきかせ、それに煽《あお》られたアンカ族のヒトびとが、頭に血を逆上《さかのぼ》らせてしまうなどという事態も起こらなかった。北の統一帝国が、現状どんな様子であるのか。亡命者や商人たちを通して、断片的であれ生々しい情報を知る機会のあったガサラのアンカ族たちは、老神教が国教として奉《ほう》じられている彼の地でも、すべてのアンカ族が幸福に安楽に暮らしているわけではないということを、実感としてよく知っていたのだから。
そして何よりも、ここのブランチには、棘蘭《し らん》のカッツ≠ニいう気丈《きじょう》な所長がいた。それがリリスとのいちばん大きな差だ。ハルネラ≠フ真実に、彼女はけっして動じなかった。町のヒトびとが動ずることも許さなかった。幻界を守るため、女神が誰《だれ》かをお召《め》しになるのならば、なぜそれに抗《あらが》うことがあろう? 女神がお召しになるその者は、選ばれて使命を与《あた》えられるのだ。誇《ぽこ》りを持ちこそすれ、怯《おび》える必要がどこにあろう。
それでも不安を訴《うった》える者がいると、彼女は鼻先で笑い飛ばしてこう言った。
「フン、うぬぼれるんじゃないよ。女神さまはすべてお見通しだ。ヒト柱になりたくない、死にたくないと泣き騒ぐような臆病《おくびょう》者を、どうしてあてにするものか。あんたなんか、最初から勘定《かんじょう》に入っちゃいない。安心しな」
ワタルは物見台の上に立っていた。現世のビルに喩《たと》えれば、地上六階ぐらいの高さに相当するだろう。梯子《はしご 》をのぼるとき、ここの張り番は忠告してくれた。
「坊《ぼう》ずがどうしても物見台のてっぺんにあがりたいというのなら、しょうがねえ。でも、いったん梯子につかまったら、絶対に途中《とちゅう》で下を見ちゃいけねえよ」
「うん、わかった」
「しかし、もの好きだねえ」
「高いところが好きなんだ」
忠告に従って、ワタルは途中で下を見なかった。無事に物見台にたどり着き、夕風を頬《ほお》に感じて手足をのばしたとき、初めてあまりの高さに目眩《め まい》を感じたけれど、しっかりと手すりにつかまって事なきを得た。
すぐ後ろにいる張り番は、腰《こし》にロープをたばさみ、銅板を叩《たた》いて丸めて作ったメガホンを肩《かた》から提《さ》げて、腕組《うでぐ 》みをしている。きっかり五分ごとに、東西南北へと視線を移す。一日三交代で、こうして町を見守る。それが仕事なのだ。
ガサラの町の無数の窓に灯《ひ》がともる。宿屋や酒場からは、そろそろ賑《にぎ》やかな客たちの声が漏《も》れ始めている。家々の窓から湯気が立ちのぼり、夕餉《ゆうげ 》の匂《にお》いが漂《ただよ》う。ダルババ屋では、身体《からだ》を洗ってもらって長旅の汚《よご》れを落としたダルババたちが、ゆっくりと飼い葉を食《は》んでいる。その脇《わき》では、水人族たちが長い煙管《キセル》でタバコをふかしながら談笑《だんしょう》する。何処《ど こ 》かで誰かが、調子を確かめるように楽器を鳴らしている。十五|弦《げん》の、胴体《どうたい》のまん丸なギターに似た楽器だ。流しの芸人が門付《かどづ 》けの準備をしているらしい。
町の外に目を転じれば、ガサラを囲む雄大《ゆうだい》な草原が、視界いっぱいに広がっている。点在する岩場。こんもりとした木立の集まり。すべてが夕陽《ゆうひ 》に染まり、一日の終わりに安らいでいる。鳥の群が黒い点の集まりになって空を横切り、遠い森へと消えてゆく。
ワタルは深く息を吸い込むと、両肘《りょうひじ》を手すりに載《の》せて、夕空を仰《あお》いだ。
北の凶星《まがぼし》。
紅《あか》く、強く輝《かがや》いている。それでも、この夕闇のヴェールのおかげだろうか、禍々《まがまが》しい光には見えない。手をのばして空から取り外し、ミーナにプレゼントしたら、きっときれいなペンダントになるだろう。
ワタルは星とにらめっこをした。まばたきをしない、我慢《が まん》比べだ。ぐっと目を瞠《みは》っていると、凶星の方が先にまたたいた。何だか微笑《びしょう》を投げられたような気がした。何をムキになっているんだね、君は?
ソノの町でミツルと別れると、ワタルはキ・キーマとミーナと共に、このガサラへと戻《もど》ってきた。迷うことはなかった。ヒト柱の一人となることが定まってしまった以上、後はそのときを待つだけだ。それならば、幻界で最初に訪《おとず》れたこの町、仲間たちに出会ったこの町、ハイランダーの誓《ちか》いを立てたこの町で待っていたかった。
ソノからの道中、ミーナはよく泣いた。キ・キーマは黙《だま》りがちで、そのせいかダルババも元気がなかった。
ワタルはミーナに、歌ってほしいと頼《たの》んだ。旅のはじめのころ、よくダルババ車に揺《ゆ》られながら歌ってくれたじゃないか。ミーナは承知して、きれいな声で歌い出す。でも、歌の一番も終わらないうちに、その声は涙《なみだ》でかすれ、震《ふる》えて調子が外れてしまうのだった。
そんなときは、ワタルが歌った。ミーナの歌を聴《き》き、うろ覚えで覚えた歌を。あるいは、現世《うつしよ》で慣れ親しんだ歌を。
ガサラに戻ると、キ・キーマはダルババ屋を手伝いながら、ハイランダーとしても警備の仕事をした。ミーナは診療《しんりょう》所の先生の助手をしている。ワタルもまたカッツの部下の立場に戻り、キ・キーマと同じようにパトロールをしたり、トローン一人の手に余る書類仕事を片づけたりした。
「ここんところ忙《いそが》しくてな。書類なんぞをかまってるヒマがなかったんだ」
トローンは陽気に言い訳をして、けっこう人使いが荒《あら》いところを見せた。何か察しているのか、眼鏡《めがね》の奥で怪訝《け げん》そうな目をしていることはあったが、口に出して問いかけてくることはなかった。
戻るとすぐに、ワタルは、カッツにだけは、何から何までうち明けた。同情してもらおうと思ったわけではない。だいたい、棘蘭のカッツはそんなにヤワじゃない。ただワタルは、自分がヒト柱として召されるときが来ても、周囲に混乱が起こらないように、誰よりも信頼《しんらい》できて、ワタルが知っている限りでは誰よりも肝《きも》っ玉《たま》の太いカッツに、すべて承知しておいてほしかったのだ。
思ったとおり、カッツはまったく動じなかった。「わかった」とひと言。そして、
「宿屋暮らしじゃ何かと不便だろうし、あんたが召されるときに、周りに他人がうじゃうじゃいるんじゃ面倒《めんどう》になる。ブランチの二階に、物置にしてる部屋があるから、そこを片づけて寝起《ね お 》きするといい。足りないものがあったら、トローンに言えば都合してくれる」
そう言っただけだった。
あんたが召されるとき。カッツはそれを、「あんたが出かけるとき」と言うのと、まったく同じ口調でさらりと口にした。またそれ以来、ハルネラ≠ノついてもヒト柱についても、まったく何ひとつ語らなくなったことも、彼女らしい思いやりだろうと、ワタルは有り難《がた》く思っていた。
物見台に登りたかったのは、できるだけ空に近い場所で、北の凶星を見ておきたかったからだ。僕は怖《こわ》がってない……全然怖がってないわけじゃないけど、覚悟《かくご 》はできている。それを伝えたかった。嘘《うそ》かもしれない。本当は怖いのかもしれない。自分でもよくわからなかった。だからこそ、北の凶星に伝えたかったのだ。伝えてしまえば、心の底が固まる。そんな気がした。
ソノで遭遇《そうぐう》してから、今日でもう八日目になる。ミツルは北大陸に着いたころだろう。どうあがいても、ワタルには追いつくすべはない。二引く一は一なのだ。そのことだけを考えていた。いや、考えるように努力していた。だって、もうどうしようもないのだから。
北の凶星が、ちらちらとまたたいた。その光に変化の様子はなく、輝きに衰えも見えない。ハルネラ≠ヘ、まだ終わらないの? いつ終わるの? あとは幻界からもう一人選ぶだけだというのに、手間取っているんだね。
「おや」
物見台の張り番が声をあげ、梯子のそばに歩み寄ると片手を差し出した。
「珍《めずら》しいですね。何か御用《ご よう》ですか」
カッツが登ってきたのだ。物見台まであと三段を残して、張り番の手にはつかまらず、ひらりと飛びあがると身軽に手すりを乗り越《こ》えた。腰から提げた黒革《くろかわ》の鞭《むち》が、夕陽を浴びてつやつやと光っている。その威力《いりょく》のほどを知らない者には、カッツの服装とあいまって、この鞭も、ちょっと奇抜《き ばつ》で刺激《し げき》的なアクセサリーにしか見えないことだろう。
「夕陽見物さ。あたしもたまにはロマンティックな気分になってみようと思ってね」
ワタルがガサラを離れているあいだに、カッツの髪形《かみがた》が変わっていた。刈《か》りあげに近いショートカットだったのが、短めのボブカットのようなスタイルになり、それがよく似合っている。黒ずくめの革のファッションに、右肘の肘あてと左手首のファイアドラゴンの腕輪が、真紅《しんく 》のアクセントを添《そ》えていた。
「何さ、そんなポカンとした顔をして」
片手を腰に、ちょっと首をかしげて、カッツはからかうように笑った。
「あたしに見とれてるってわけかい? なにを今さら」
ワタルは赤くなった。実際、見とれていたのだ。ホントに今さらながらの話ではあるけれど、カッツは美人だ。幻界に来ることがなければ、ちゃんとした大人の女性で、しかもこんな美しいヒトに出会う機会など、まだまだ訪れなかっただろうと、ワタルは思っていた。
一緒《いっしょ》になって笑っている張り番の男に、カッツは言った「あたしはこの坊やと、ちょっと話があるんだ。しばらくここを借りていいかい?」
「喜んで」張り番の男はうなずき、銅のメガホンを外すと、ワタルに差し出した。
「それじゃ、こいつは坊ずに預けておくとしよう」
「はい。何か見つけたら、大声で報《しら》せます」
「おう、頼んだぜ」
張り番の男が梯子をおりていってしまうと、カッツはさっきまでのワタルと同じように、手すりに肘を載せた。愛《いと》おしむように目を細め、夕映《ゆうば 》えの草原を見渡している。
「あんた、ここに登るのは初めて?」
「はい」
「いい景色だろ。あたしはここからの眺《なが》めがいちばん好きなんだ」
「僕も好きです」
「朝焼けもきれいだし、雨や霧《きり》のときも、それはそれで格別な風情《ふ ぜい》があるんだよ」
カッツは首を振《ふ》って前髪をさらりと撥《は》ねあげ、手すりに腕を突《つ》っ張って夕空を仰いだ。
「あたしの生まれ故郷は、山のなかの小さな開拓《かいたく》村でね。段々畑と痩せた林に囲まれて、粗末《そ まつ》な小屋がひしめきあっていた。ガサラまで出てきて、初めてこのだだっ広い草原を見たときには、肝を潰《つぶ》したもんだよ。世の中はこんなにも広かったのかって」
カッツの故郷の話を聞いたのは初めてだ。一人で村を出てきたのだろうか。何歳のとき? 何かはっきりした目的があったのだろうか。
その話は続かなかった。カッツは黙り、ワタルも黙って彼女と並んでいた。それはそれで居心地《い ごこち 》のいい沈黙《ちんもく》だった。
かなり経《た》ってから、カッツが唐突《とうとつ》に口を開いた。「まったく、癪《しゃく》にさわるったらありゃしない」
誰のことを言っているのか、ワタルにはわからなかった。自分が怒《おこ》られたのかと思った。
「え?」
「あいつさ」カッツは北の凶星を指さした。
「宝石みたいにきれいに輝いて。あんなふうに空の高いところにいられたんじゃ、捕《つか》まえてとっちめるわけにもいかないじゃないか」
いかにもカッツらしい言いぐさだったので、ワタルは吹き出した。「カッツさんの鞭なら、届きそうな気がするけど」
「やってみようか」と言って、カッツは腰の鞭に手をかけた。そしてにやりと笑い、ワタルの顔を見た。
その目は笑っていなかった。怖いほどに真剣《しんけん》だった。ワタルも笑《え》みを消した。
「あんた、本当に覚悟はできてるの」
問いかけというより、確認《かくにん》するような口調だった。ワタルの返事はわかっている、と。
「うん……たぶん」
「諦《あきら》めがいいんだね」
「そうかな。自分でもよくわからない。仕方がないって感じなのかも」
肩をすくめてポケットに手を入れると、指先に龍《りゅう》の笛が触《ふ》れた。
「ガサラに戻って来る道中で、一度や二度は──ジョゾを呼んで、いちかばちかで、ミツルの後を追いかけようと思ったこともありました。ドラゴンに乗れば、北大陸に渡《わた》ることもできる。でも、もしミツルに追いつくことができたって、勝つことができるとは思えない。あいつはものすごく強い魔《ま》導士《どうし 》だ」
それにワタルは、宝玉の数でも後《おく》れをとっている。
「どっちにしろ手後れだ。これでいいんだって、そう決めたら心が落ち着きました」
カッツは腕組みをした。胸が豊かなので、革のベストの前がぐんと張り出し、彼女の腕の上に乗っかるような感じになる。ワタルは目を奪《うば》われ、また赤くなりそうになった。それをごまかすためにも、急いで続けた。
「幻界からヒト柱に選ばれる誰かと違《ちが》って、ものすごい人数のなかの一人じゃない。二人のうちの一人です。だからかえってふんぎりがついちゃうのかな」
カッツは何も言わない。ベストのポケットから紙巻きタバコとマッチを取り出すと、夕風のなかで上手に火をつけた。
「それに……詳《くわ》しく話したことはなかったけど、そもそも僕が幻界に来られたのは、友達の──もう一人の旅人≠ナあるミツルのおかげなんです。それだけじゃない。彼が助けに来てくれなかったら、僕はとっくに死んでた。現世でも一度。幻界に来てからも一度。僕は彼に助けてもらった」
母さんがマンションでガス栓《せん》をひねったときと、トリアンカ魔病院でギロチンにかけられそうになったとき。
「彼がいなかったら、とっくに落としていたはずの命なんです。だから、彼に道を譲《ゆず》るならそれでもいいかって気がする」
カッツはゆっくりとタバコをふかし、長々と煙《けむり》を吐《は》き出した。そして手すりに押しつけてもみ消すと、その吸い殻《がら》を指のあいだでもて遊んだ。
「あたしはね」
声の調子が、ちょっと変わった。目は真《ま》っ直《す》ぐに草原を見ている。
「あんたのそんな言い訳を聞こうとは思わないんだ」
言い訳なんかじゃない、本当の気持ちですと抗弁《こうべん》しようとしたけれど、カッツの声の勢いに押されて、割り込めなかった。
「ヒト柱になるのは怖くないのかとか、キ・キーマやミーナを悲しませることになっても平気なのかとか、女神さまに会えないままでいいのかとか、そんなことを訊《き》くつもりもない。あんたはこの幻界に、自分の運命を変えるためにやってきた。ヒト柱になってしまえば、その目的は果たせない。それでいいのかと訊くつもりもない」
その腰に提げた鞭と同じ、ためらいのない強い言葉。狙《ねら》いを定めてカッツは続けた。
「あんたは現世にお母さんを残してきた。そのお母さんにも、二度と会うことはできなくなる。今この瞬間《しゅんかん》にも、あんたの身の上を、死ぬほど心配してるに違いないお母さんだろうに、彼女はもう永遠に、あんたの消息を知ることができなくなる。帰らぬあんたを待ち続け、残りの人生を寂《さび》しく棒に振ることになる。お母さんをそんな目に遭《あ》わせて、どうしてあんたは平気でいられるんだなんて、訊《たず》ねるつもりも全然ないよ」
訊ねてるじゃないか。ワタルの心に痛いことばっかり。
「あんたは頭のいい子だ。勇気もある」
怒った口調で、カッツは褒《ほ》めた。
「だからあたしが何を訊ねようと、あんたはそれにふさわしい答を作りあげるだろう。今みたいにね。こっちがふむふむと納得《なっとく》するだけの、ちゃんとした答を用意することができるだろう。もともとあんたにはその必要があるんだし。他人よりも、まずあんた自身を納得させるためにね。そっちの方が、あんたにとっちゃ、遥《はる》かに切実なことなんだし」
カッツはようやくそこで間をおいたけれど、ワタルには何も言うべきことが見つからなかったので、黙っていた。
夕暮れが夕闇を差し招き、空の明るみが、藍色《あいいろ》の夜の深みに席を譲り始めた。つい今し方までは、輝くものといえば北の凶星だけだったのに、他の星々もぽつりぽつりと姿を現している。
その空を背景に、カッツはワタルに向き直ると、ワタルの目を真《ま》っ直《す》ぐに見つめた。
「それでもあたしには、まだたったひとつだけ、あんたに訊きたいことが残っている」
ワタルはたじろぎ、ちょっとだけカッツから離れた。
「あんた、ミツルを放っておくつもりかい?」
「放っておく?」
「彼のやりたいようにさせておいていいのか、ってことだよ」
ワタルはまばたきをした。意味がつかめない。カッツは何が言いたいんだ?
「どういうことです?」
「どうもこうもないさ!」カッツは片手でばんと手すりを叩いた。「そのミツルって子は、やりたい放題やってるじゃないか。考えてもごらん。彼は何をした? 何をしてる? トリアンカ魔病院でも、ソノの町でも、魔法を使って大勢のヒトを殺したり傷つけたりしてる。ソノの町も港も、その子の招いた竜巻のせいで壊滅《かいめつ》状態だそうじゃないか。あんたそれをどう思う?」
ワタルはすっかり狼狽《うろた》えてしまった。心が裏返しになり、ほつれた縫《ぬ》い目が露《あら》わになる。
「だ、だけど」
「だけど何さ?」
「トリアンカのときは仕方なかった。相手は老神教の狂信《きょうしん》者たちで、ああしなかったら僕は殺されていたし、ミツルもあの結界のなかから抜《ぬ》け出すことができなかったし」
それに、それに、ワタルは裏返しになった心のなかを駆《か》けずり回り、言い分を探す。
「みんなの迷惑《めいわく》になることばっかりやってるわけじゃない。マキーバの町で聞いたんです。彼は魔法を使って、大きな山火事を消し止めた。放っておいたら大変なことになるところだったんだ」
でも駆け回っているうちに、ミツルがデラ・ルベシの教王の頼みをあっさりと退けたということも思い出してしまった。時間がない、と言い捨てて。しかも彼は、デラ・ルベシの脱走者の後を追いかけたのに、捕まえるどころか、彼に便乗して北へ渡ろうとした──
「それほどの優《すぐ》れた魔法の使い手なら、トリアンカ魔病院でもソノでも、もっと穏和《おんわ 》なやり方があったはずだ。幻界のヒトたちを傷つけたり殺したりせず、町を壊《こわ》すこともなく、先に進む方法を選ぶことだって、きっとできたはずじゃないか。どうしてそうしなかった?」
カッツの詰問《きつもん》に、ワタルはよろりと一歩|退《ひ》いた。カッツは間を詰《つ》めてきた。
「あんたに代わって、あたしが答えてあげるよ。それはね、ミツルって子が、幻界なんてどうなってもいいと思ってるからだよ。運命の塔《とう》にたどり着き、女神さまに会って目的を遂《と》げたら、それでオサラバだからね。二度と足を踏み入れることなんかない。だから、誰を傷つけようが困らせようが、知ったこっちゃないと思っているからさ。自分が通り過ぎた後に死体の山ができようが、廃墟《はいきょ》がいくつも残ろうが、おかまいなし。手っ取り早い方法を選んで、とっとと先に進めればいいと思っているからさ」
カッツの手が伸び、ワタルの肩をつかんだ。
「あんたはそれでいいの? あんたは、そのやり方が正しいとお思いかい?」
正しいとか……正しくないとか……そんなこと……
「ミツルは友達なんだ」と、ワタルは小さな声で言った。心を底までさらっても、その答しか見つからなかった。
「あたしはそんなことを訊いてるんじゃない。ミツルのやり方を、あんたは許せるのかと訊いてるんだ」
ワタルをぐいと押しやるようにして、カッツは手を放し、背中を向けた。ワタルはまたよろめいて、手すりに背中を押しつけた。
「北へ渡っても、ミツルって子は同じやり方を続けるだろうよ。通り道に障害物があれば、根こそぎ壊して道を開ける。瓦礫《が れき》の山をこしらえて、ごろごろ転がるヒトの亡骸《なきがら》をまたいで先に進むんだ。運命の塔を目指してね」
「だ、だけどミツルは」ワタルは途切れ途切れに言った。「そうしなきゃいられないくらい、自分の、う、運命を変えたがってるんです。あまりにも辛《つら》い運命だったから、どんなことをしても変えたくて。それは僕より──僕よりずっとずっと」
カッツは髪が舞《ま》うほどの勢いで振り返った。「だったら、どんな手段をとってもいいっていうのかい? 許されるっていうの? 自分がひどい目に遭《あ》って失ったものを取り返すためなら、他人はどうなってもいいと? もう一度訊くよ。あんたはそれが正しいと思うのかい? それを許すの?」
ワタルの心の底には、もう埃《ほこり》さえ残っていない。何も答えられない。
「北の統一帝国は、確かに今のあたしたちにとっては脅威《きょうい》だよ。だけど、あの国にだって、たくさんのヒトたちが暮らしてるんだ。皇帝のやり方に賛成してるヒトたちばかりじゃない。虐《しいた》げられて、苦しんでるヒトたちだって、きっといるはずだ。あんたはさっき、トリアンカじゃ仕方なかったって言ったね? 相手が狂信者たちだったんだからって。その理屈《り くつ》をあてはめるなら、北のヒトたちがどんな目に遭ったって、やっぱり仕方ないってことかい? 相手が相手なんだからって」
夕闇が濃《こ》くなっていた。いつの間にか、空には満天の星だ。その下で、カッツの怒《いか》れる瞳《ひとみ》もまた、一対《いっつい》の双子《ふたご 》星のように輝いていた。
「ミツルの求める最後の宝玉は、北の皇帝が持ってるんだろう? ミツルはえらく頭の切れる子らしいから、動力船の設計図を餌《えさ》に、上手に皇帝と取引して、自分の目的を果たすんだろうさ。ミツルも幸せ、北の皇帝も幸せ。めでたし、めでたし。でも、その後はどうなる? 動力船を造って、北は南に攻《せ》め込んでくる。戦争が起こる。大勢のヒトたちが死ぬ。それは正しいことかい? あんたはそれを許せるの? ここで黙ってじっとして、頭を抱《かか》えて見ないふりをする?」
ワタルはようやく、カッツの顔を仰いだ。
「カッツさんは、僕にどうしろって言うんです」
そしてまた、耐《た》えられなくなって目をそらしてしまった。カッツはわずかに両肩を落とした。
「あんたはそれを、あたしに訊くの? あんたの心に訊くべきことなのに」
僕の心に。答は僕の心にある──
また手すりに両手を載せ、遠くに目をやりながら、カッツは言った。「あんたはミツルは友達だと言った。だけどねワタル。友達だって、肉親だって、恋人《こいびと》だって、正しくないことは正しくないんだ。あんたの心が、それは間違っていると感じたなら、あんたにはその心に従う義務がある」
カッツのほっそりとした指が、きつく手すりを握《にぎ》りしめている。
「あたしは昔、自分の愛したヒトと対立したことがある」
唐突な告白だった。うなだれていたワタルはカッツを見た。
「もう十年以上も昔のことだけどね。ある男がいた。ヒト殺しだった。自分の欲のために、大勢のヒトを殺した。だけど恐《おそ》ろしくずるがしこい男でもあったから、はっきりした証拠《しょうこ》を残さなかった。周りのヒトたちのことも、舌先三寸の嘘で言いくるめていて、だからあたしたちは、そいつのしっぽをつかむことができなかったんだ」
だがあるとき、貴重な機会を得て、カッツたちはそのヒト殺しを罠《わな》にかけた。
「後にも先にも、二度とないようなチャンスだった。あたしがどれほど嬉《うれ》しかったか、言葉で説明したって伝わらないだろう」
ところが、ようやく裁判に持ち込めるというところまできて、カッツたちは告発された。罠を仕掛《し か 》けて犯罪を誘発《ゆうはつ》するやり方は、連邦《れんぽう》政府の法に反していると。
「揉《も》めに揉めたよ。それで結局、そのヒト殺しは釈放《しゃくほう》された。ああ、そうさ。確かにあたしたちは、違法《い ほう》な囮《おとり》捜査《そうさ 》ってやつをやったんだ。ヒト殺しにふさわしい罰《ばつ》を与えるのに、それしか方法がなかったからだ。だけども、それは間違いだと言われた。あたしたちを嘲笑《あざわら》いながら、ヒト殺しは大手を振って牢屋《ろうや 》から出ていった」
そして、十日も経たないうちにまたヒトを殺した。商家に強盗《ごうとう》に入って、一家を皆殺《みなごろ》しにしたのだ。今度は悪運も尽《つ》きたのか、その場で捕《と》らえられた。
「そいつがどうなったかって? 縛《しば》り首になったよ。だけどね、もしもそいつを釈放しなかったなら、最後の強盗殺人は起こらずに済んだろう。たとえ違法でも、あのときはああすることが正しかった。あたしは今でもそう信じている」
ワタルははっとして悟《さと》った。「もしかして……カッツさんたちを告発したのは」
カッツはうなずいた。「ボリス・ロンメル。あのころは、あたしと同じハイランダーの一員だった。今じゃシュテンゲル騎士《き し 》団|遊撃《ゆうげき》隊の隊長になっちまったけどね。あんたも会ったことがあるだろ」
トローンが言っていた。カッツは昔、ロンメル隊長にフラれたことがあると。
「ボリスは法を尊んだ。議会もあのヒトを支持した。ブランチの首長たちも、彼の意見を受け容《い》れた。だけどあたしは──あたしはヒトの命の方が大切だと思った。確かにあたしは法に背《そむ》いた。だけどもそれを恥《は》じてはいない。だから、あたしを告発したあのヒトを、どうしても許すことができなかった。そして、あのヒトもあたしを許さなかった」
だから二人は別れたのだ。
「カッツさんは、ロンメル隊長が好きだったんでしょう? 二人は好きあってたんでしょう?」
カッツはワタルに目を向け、くちびるの端《はし》っこで、そっと微笑した。「そうだよ、だけど、それでも許せない、許さない[#「許さない」に傍点]ということはある。あたしは今でも、あのヒトが、あの不運な商人一家を殺したも同然だと思っているよ。ボリスはボリスで、今でもあたしのしたことが間違っていると信じているだろう。あいつはそう簡単に、自分の信念を曲げる男じゃないからね」
だけど今でも──きっと好きなんだ。
「ボリスの側から見れば、あたしの方が間違っていた。だから彼は、自分が正しいと信じることをした。どっちの側にも真実がある。結局は、その真実を、どっちの側から見るかというだけのことに過ぎないのかもしれない。あたしは譲れなかったし、ボリスも譲らなかった。あたしは彼が譲らないだろうことを知っていた。この世の誰よりも、ボリスのことをわかっていたから。ボリスも、あたしのことをわかっていた。あたしが譲らないだろうことを知っていた。だからこそ彼は、あたしを告発することに、ためらいはしなかった。あたしを止めるには、それしか方法がないことを知っていたから」
ロンメル隊長の蒼《あお》い目を、ワタルは思い出した。ワタルの瞳の底まで見通してしまいそうな、深い落ち着きと叡智《えいち 》を湛《たた》えていた。カッツの燃える黒い瞳と、隊長のあの瞳がぶつかって、互《たが》いに譲らなかったというその場面を想《おも》うだけで、ワタルの心は波立った。
「ワタル」
カッツは音もなくワタルに近寄ると、身をかがめ、今度は両手をワタルの肩に置いた。
「ミツルはあんたの友達だ。きっと大切な友達なんだろう。だけど、それでも、もしもあんたがミツルのやり方を許せないと思うのならば、あんたは行動しなくちゃいけない。黙っていてはいけないんだ。わかり合えることなんか期待しちゃいけないけど、諦めてはいけないんだ。あんたが許せないと思うのなら、許せないということを伝えなくちゃいけない」
だから訊ねているんだよ、あんたはミツルを許せるのかと──カッツはそう言葉を結んで、身体を起こした。
いつしか、草原は夜の帳《とばり》に包まれていた。燃える松明は地上の星に、天上の星は空に散らばる無数の光の欠片《かけら》に変じ、物見台に佇《たたず》むカッツとワタルは、その狭間《まざま 》で二人ぼっちだ。
「僕は」
長い、長いためらいの後、ワタルは言った。
「ミツルにあんな真似《ま ね 》をしてほしくはない。運命の塔にたどり着くために、幻界のヒトびとを苦しめるようなやり方をしてほしくはない。だってそれは……それは間違ったことだもの」
見る影《かげ》もなく破壊されたソノの町。
「だけど……だけどそれを言うのは……卑怯《ひきょう》なような気がしてた。自分が負けたくないから、ミツルを邪魔《じゃま 》しようとして、その口実になるものを探しているみたいな感じで」
「それは間違いだ」と、カッツは静かに言った。「そんなのは、あんたが自分で自分を諦めてしまうための、言い訳に過ぎない。ミツルにあんな真似をさせたくないのなら、ミツルが間違っていると思うのならば、ミツルにどう思われようと、たとえ卑怯だと罵《ののし》られようとも、あんたはミツルを止めなくちゃいけない」
「友達だから?」
「いや、違う」カッツはきっぱりと首を振る。
「あんたは大切なことを忘れているね」
「大切なこと?」
カッツはワタルの左手をつかむと、高く持ちあげた。
「あんたがハイランダーだということさ」
一度、二度、強く揺さぶりながら言った。
「あんたは誓いを立てた。幻界の平和を守り、護法の防人《さきもり》として立つことを。それならば、幻界の平和を乱すものを放置しておいてはいけないんだ。見て見ぬふりをするならば、あんたにはファイアドラゴンの腕輪をはめる資格はないのだから」
星の光に、ファイアドラゴンの腕輪がかすかに光った。気のせいだろうか。また温《ぬく》もりを感じる。リリスのシスティーナ聖堂で、ダイモン司教と、命がけで闘《たたか》ったあのときと同じように。
「あんたが旅人≠ナあることも、ヒト柱の一人に召されることになるかもしれないことも、ミツルがあんたの競争相手となってしまったことも、今はもう何の関係もない。あんたはハイランダーだ。だったら、女神さまに召されるそのときまで、あんたの命が尽きる瞬間まで、ミツルを追いかけ続けなくてはならない。そして、声を嗄《か》らして叫《さけ》び続け、ミツルに呼びかけなくてはならない。ミツルが彼の目的のために、平然と破壊し、踏み潰して通り過ぎようとしているものの価値を訴え続けなくてはならない。彼が間違っているということを、あんたが彼のやり方を許しはしないということを、伝えなくてはいけない。彼を止めなくてはいけないんだ」
ふと、懐《なつ》かしいような甘い気持ちで、ワタルは思い出した。ルルドの天文台で別れるとき、ロンメル隊長はこう言った──カッツと同じようにワタルの肩に手を置き、ワタルの目を真っ直ぐに見て。
──君は旅人≠セ。君がまっとうするべきは、君の使命だ。それを忘れるな。
──棘蘭のカッツも、きっと私と同じ意見を持っているはずだ。彼女は君の長《おさ》だ。今の言葉は、彼女の命令だと思って聞いてほしい。
違っていた。カッツの想いは別のところにあった。彼女は最後の最後まで、ワタルにハイランダーとして行動してほしいと願っているのだから。
あなたたちはまたすれ違っている。どちらも正しいのに、正しいままで。何だか微笑《ほほえ 》ましいような、それでいて悲しいような。ワタルはまぶたが熱くなるのを感じた。こんなにもすれ違い、でもあなたたちは、そっくり同じ目をして僕に問いかけてくる。
問題は、ひとつの真実をどちらの側から見るかということ。そして僕は、どちらの側に立つ? ワタルはカッツを見あげ、大きくうなずいた。カッツは微笑み、うなずき返した。
「あたしと──あたしたちと一緒に、北へ渡ろう」
計画があるんだ、と言った。
「あんたの力が必要だ。手を貸しておくれ」
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42 深夜の会話
夜の雨に、番人たちの小屋を囲む森の木立がしとしとと濡《ぬ》れている。大きな雨粒《あまつぶ》に頭を叩《たた》かれて、時折こくりと揺《ゆ》れる木の葉は、居眠《い ねむ》りでもしているかのようだ。まだ起きていなくてはいけない。まだ眠り込むわけにはいかない。なぜなら、小屋のなかでは導師さまが起きておられるから。森の木の葉たちは、ラウ導師が眠りにつくまで、こっくり、こっくりしながら付き合っている。雨音を子守歌《こ もりうた》にして。
ラウ導師は机に分厚い書物を何冊も広げ、軸《じく》の長いペンを片手に、熱心に書き物をしていた。頭のすぐそばまでランプを引き寄せ、鼻先には小さな丸|眼鏡《めがね》を載《の》せている。
静かな小屋のなかに、ペン先が紙の上を滑《すべ》ってゆく音が聞こえる。ランプの灯心がじりりと燃えて、油煙《ゆ えん》が立ちのぼる。
不意に、誰《だれ》かに呼びかけられたかのようにつと手を止めて、ラウ導師は顔を上げた。狭《せま》い小屋のなかではあるが、ランプはさらに小さい。それが作り出している光の輪の外、ぎりぎりの境界のところに、誰かが佇《たたず》んでいた。
ラウ導師は鼻眼鏡を外し、目を凝《こ》らした。
「オンバさま……」
導師に名を呼ばれると、その「誰か」は小さく身震《み ぶる》いするように笑った。光の輪の境界線から、さらに半歩ほど後ずさる。
「そんなに驚《おどろ》かなくてもいいでしょう?」
甘い少女の声だった。ワタルが妖精《ようせい》≠連想し、そのくすぐったいしゃべり声に、淡《あわ》い憧《あこが》れを寄せたこともあった相手──
「しかし、そのお姿は」
ラウ導師はペンを置き、椅子《い す 》を引いて立ちあがった。
「似合わない? ヒトの形を借りるのも、たまにはいいかと思ったの」
薄暗《うすくら》がりに隠《かく》された小屋の隅《すみ》で、オンバさまはぐるりと回ってみせた。スカートの裾《すそ》がふわりとふくらんだ。
ほっそりと華奢《きゃしゃ》で、壊《こわ》れ物のような美を湛《たた》えた少女の姿である。服装からして幻界《ヴィジョン》≠フヒトではない。
「あたしだって、普段《ふ だん》、好き好んであんな醜《みにく》い姿になってるわけじゃないもの。たまには気分|転換《てんかん》したいのよ」
「その少女のお姿は、どこから借りてきたものでございますか」
「運命の塔《とう》にいたの」
「それでは、現世《うつしよ》の者でございますな」
「そうね。きっとあの子の友達よ」
オンバさまは言って、かりそめの姿のかりそめの右手を上げると、かりそめの自分の頬《ほお》に触《ふ》れた。
「ガールフレンドなのかしら。ともかく、あの子──ワタルがずっと気にかけてる女の子だわ」
オンバさまの気持ちをはかりかねて、ラウ導師は黙《だま》っていた。
「この姿でワタルの前に現れたら、あの子もわたしのこと、もっと好きになると思いません?」
ラウ導師は穏《おだ》やかに言った。「あまり妙案《みょうあん》とは思われません」
「そう? わたしはただ、あの子を喜ばせたいと思っただけなんだけど」
喜ばせてやれば、自分の味方になると思っているのだろうか。ラウ導師は思った。ヒトの気持ちはそれほど簡単なものではない。このお方は、まだそれがおわかりになっておられない。
「けっこう気に入ったわ、この姿」オンバさまはもう一度くるりと回ってみせた。今度はさっきと逆回転だ。スカートの裾がひるがえる。しかしラウ導師には、オンバさまの心も同じように軽《かろ》やかにはずんでいるとは思えなかった。
沈黙《ちんもく》が落ちると、雨音が聞こえる。
「あの子、北へ行くわよ」と、オンバさまは言った。
教えられるまでもなく、ラウ導師は知っていた。幻界じゅうの鳥たちが、手分けして旅人≠フ様子を調べ、間断なく報《しら》せにきてくれるからである。
「とうとう、そこまでたどり着いたってわけよ。運命の塔まで、あと一歩ね。いよいよ大詰《おおづ 》めだわ」
ラウ導師はゆっくりと応じた。「そこから先の道のりこそが、本当の試練です」
オンバさまもそれはよくご存じでしょうと続けたが、相手は聞いていないようだった。光の輪に踏《ふ》み込まないよう、注意深く輪郭《りんかく》の外を歩いて、窓際《まどぎわ》へと寄ってゆく。
「よく降る雨だこと。わたし、雨は嫌《きら》い」
ほの温かいランプの光の輪のなかからオンバさまの横顔を見ていると、ラウ導師の心には、悲しみと憐《あわ》れみばかりがひたひたと込《こ》みあげてきた。
「あなたはどちらの味方なの? ミツル? それともワタル? どちらに勝たせたいと思っているの、導師さま」
「旅人≠フ道行きに、勝ち負けの差はございませぬ」
「だけど、どっちか一人はヒト柱に選ばれて、冥王《めいおう》にならなきゃならないのよ」
「それも女神《め がみ》さまの御裁断《ご さいだん》によるものです」
「いつもそうやって、何でもあのヒトが決めてしまうのよね」
オンバさまは言い、かりそめのヒトの美少女の手で窓枠《まどわく》をぐっとつかんだ。
「まあ、わたしはどっちだっていいんだけど。ワタルが勝っても負けても、わたしの気持ちは変わらないもの。あの子が冥王になるなら、わたしは女神さまになるわ。そして一緒《いっしょ》に幻界を治めるの。あの子が現世へ帰るというのなら、わたしはこの姿のまま、あの子について現世へ行ってもいいわ」
もうこの幻界には飽《あ》き飽きしたのと、オンバさまはくたびれたみたいにため息まじりに言うのだった。
「いっそのこと、今度こそ魔界《ま かい》≠ノ攻《せ》め滅《ほろ》ぼされてしまったって、いいじゃないの。現世のヒトたちの溢《あふ》れる想像のエネルギーは、また新しい幻界をこしらえることでしょうよ。混沌《こんとん》の深き淵《ふち》には、未分化の幻界の核《かく》が、たくさん沈《しず》んでいるんでしょう? そのひとつが成長して花開いて、まったく新しい幻界となる。素敵《す てき》だわ」
「本心からそう申されますか?」
「ええ、本心だわ」
ゆるゆると首を振《ふ》りながら、ラウ導師は椅子に戻《もど》った。ランプに手をのばし、灯心を引き出そうとしかけると、
「やめて!」と、鋭《するど》い制止の声が飛んできた。
「灯《あか》りを大きくしないでちょうだい」
「今のそのお姿を気に入っておられるのではないのですか」
「気に入ってるわ。でも、見たくはないの」
元に戻ったとき、なおさら辛《つら》くなるからだ。言外の意味を、ラウ導師は悟《さと》った。ランプから手を離《はな》すと、膝《ひざ》の上に載せた。
「わたし、戦うわよ。そして今度は勝つわ」
ランプの灯りの届かない場所で、オンバさまの瞳《ひとみ》が光る。
「今宵《こ よい》は、それを告げるためにおいでになったのでございますかな?」
「ええ、そうよ」
「わざわざ?」
「そうよ。今度こそ、あなたたちの力では、わたしを止めることはできないって、教えてあげようと思って」
「止めだては不可能だと」
「ええ。わたし、ワタルと手を組むんだもの。きっとそうしてみせる」
「ミツルではいけませんかな?」
ラウ導師は、返事がわかっていて問いかけた。そして予想どおり、オンバさまはミツルの名を聞くとたじろいだ。
「ミツルには、付け入る隙《すき》がなかった。そうでございますな?」
ややあって、やっとオンバさまは答えた。
「あの子は駄目《だ め 》よ」苦々しい口調だった。
ラウ導師は目を伏《ふ》せた。いきさつを、想像することができたのだ。ミツルは飛び抜《ぬ》けて優秀《ゆうしゅう》だ。あの子の目は鋭い。
「オンバさまがミツルに呼びかけただけで、ミツルはオンバさまの真のお姿を見抜いた。そしてぴしゃりと撥《は》ねつけた。そういうことだったのでございましょう?」
オンバさまは応《こた》えない。しかし、少女の姿を借りている今、その華奢な肩《かた》がこわばっているのが、ラウ導師にはわかった。
「……ワタルの方が優《やさ》しいわ」
オンバさまは小さな声で言った。
「だからわたし、あの子と手を組むの。それに、あの子の決意は、これまで幻界を訪《おとず》れたどの旅人≠スちとも比べものにならないくらい強固のようだから、きっとすごく頼《たよ》りになるわ」
ローブの襟《えり》をかきあわせ、にわかに強まったように感じられる夜の冷気に震えて、ラウ導師は言った。「岩の如《ごと》く固い意志は、ワタルだけではない。ミツルも同じです。なぜ、あの二人の決意がそれほどまでに固いのか、オンバさまにはおわかりになりませぬか」
薄闇《うすやみ》の向こうで、オンバさまはラウ導師の方に目を向けた。
「それは、あの二人が幼いからでございますよ、オンバさま。小さき者たちが、おのれを巻き込む過酷《か こく》な運命に対峙《たいじ 》するためには、全身|全霊《ぜんれい》の力を振り絞《しぼ》らねばなりませぬ。だからこそ、あの子供らは果敢《か かん》なのです」
その果敢さには、あなたでも歯が立ちますまい。いくらワタルが優しくとも──。導師は、後に続けるべきその言葉を言わず、胸の底に秘《ひ》めておいた。
「素敵ね。素敵だわ」
言葉とは裏腹に、旨《うま》くないものを噛《か》んで吐《は》き出すように、オンバさまは言い捨てた。
間断ない雨音が、夜の更けてゆくのを計っている。
「ワタルならきっと、わたしの正体を知っても、わたしを撥ねつけたりなんかしないわ。だから今度は、上手《う ま 》くいくわ。絶対にね」
ラウ導師は机に向き直り、ペンを取りあげた。書き物を始める。数語も書き留めないうちに、窓際のオンバさまの姿が消えた。
ラウ導師は顔を上げなかった。書き物を続けた。それでも気配は感じられた。床《ゆか》の上を、何か鈍重《どんじゅう》で醜い生きものが、ランプの放つ光の輪を嫌い、のろのろと離れてゆくのを。
その気配が完全に消えてから、ようやくラウ導師はもう一度椅子から立ちあがり、窓際に寄ると、鎧戸《よろいど》を押し開けた。細かな雨が、導師の顔に、長く白い眉毛《まゆげ 》と顎鬚《あごひげ》に、まつわりつくように降りかかる。
森の木立が揺れていた。ざわざわと枝をすり合わせ、頭を振っている。皆《みな》、すっかり目を覚ましてしまったのだ。
「おお、すまなかったな」と、導師は小声で木立に呼びかけた。
「もうお寝《やす》み。何も心配することはない。この幻界には何事も起こるまいよ。だから安心して、朝までぐっすり寝むがよい」
雨は静かに降り続いていた。何かに怯《おび》えつつ、何かを悼《いた》むように、森の木立はひっそりと肩を寄せ合い、銀の粉のような雨粒を浴びながら、番人たちの村を包み込んでいた。
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43 暗殺計画
一夜明けると、昨日、深夜にまで及《およ》んだカッツとの話が、すべて夢だったような気がした。素朴《そ ぼく》な木の寝台《しんだい》の上で、ワタルは何度も目をこすった。窓から射《さ》し込む陽射《ひ ざ 》しが眩《まぶ》しい。
僕は起きてる。目が覚めてる。新しい一日の始まりだ。あれは夢なんかじゃない。
昨夜カッツは、ワタルに途方《と ほう》もない計画をうち明けてくれたのだった。ハイランダーの選抜《せんばつ》隊が北の統一|帝国《ていこく》に忍《しの》び込み、皇帝ガマ・アグリアスZ世を暗殺するというのだ。そしてその計画に、ワタルも参加してほしいというのである。
「暗殺計画自体は、ずいぶん前から練られていたんだ。ただ、方法が限られていた。交易の季節に、商人たちの風船《かざぶね》に紛《まぎ》れてこっそり忍び込むってね。でも、それだと危険が多すぎるから、なかなか踏《ふ》み切れなかったんだよ。だけどあんたが龍《りゅう》の笛を手にしたことで、まるっきり事情が変わった。ドラゴンに乗れば、空から北へ渡《わた》ることができる。それも、一直線に皇帝の居城へと」
つまりホントのところ、必要なのは僕じゃなくて、ドラゴンなんだな。それはちょっと、苦笑いだけど。
でも、昨日物見台の上で、カッツが僕に言ってくれたことは正しい。僕はミツルを追いかけなくちゃいけない。
ワタルは手早く着替《き が 》えを済ませ、枕《まくら》の下に隠《かく》しておいた龍の笛を取り出すと、そっとポケットへ忍び込ませた。これを使ってジョゾを呼べる機会は、あと一度だけ。
「いつでも出発できるように、支度《し たく》しておくんだよ」と、カッツは言っていた。「例の脱走者を取り逃《にが》してしまって以来、南大陸の四人のブランチ首長が集まって、極秘《ごくひ 》会議を重ねてきたんだ。いよいよ暗殺計画実行の決定がくだされれば、その命令書を持って、ギル首長がここへ来られるという段取りになっている」
今目か明日か、とにかく数日中にはそういう運びになる。そしたら出発だ。
「他のメンバーは?」
「当初の計画では、あたしと、他には志願者が三人。つまり、ナハト、ボグ、アリキタ、ササヤの四国を代表して一人ずつってわけさ」
「それじゃ僕はオマケですね」
「強力なオマケもあったもんだね。あとの三人は、ギル首長と一緒《いっしょ》に来ることになってる。強者揃《つわものぞろ》いさ。楽しみにしておいで」
それで五人だ。少数|精鋭《せいえい》主義と言えば聞こえはいいけれど──
「それから、ついでに言っとくけど、この隊の隊長はあたしだ」カッツは不敵に笑ったものである。「どうしてかって言ったら、そもそも暗殺計画の言い出しっぺがあたしだからなんだよ。指揮も責任も、あたしがとるんだ。いいね?」
「わかりました。あの……この任務のことは、しゃべっちゃいけないってことはわかるけど……でも……」
「トローンは知ってるよ。あいつはここの副長だからね。隠しておくわけにはいかなかった。あたしがあんたを連れて行くということも承知してる。あんたも、キ・キーマやミーナには黙《だま》っていられないだろう。ただ、それ以外のヒトたちの耳には入れないようにしておくれよ」
ワタルはしっかりとうなずき、心の奥に秘密が重く沈《しず》むのを感じながら、昨夜ベッドに潜《もぐ》り込んだのだった。
出発の支度といっても、ワタルの荷物などたかが知れている。いざとなったら身ひとつで、勇者の剣《けん》さえ携《たずさ》えて行けばいい。ワタルは、剣を吊《つる》している腰帯《こしおび》をしっかりと締め直し、部屋を出た。
階下《し た 》のブランチ執務《しつむ 》室に下りてゆくと、トローンが澄《す》ました顔で書類を読んでいた。ワタルに気がつくと、
「おいおい、やっと起きたか。寝《ね》ぼすけだな。早く朝飯を食ってこい」と、これまた普通《ふ つう》の声で言った。極秘任務のことなんか、おくびにも出さない。今さらながら、猛者《も さ 》だなぁと思った。
近くの宿屋の食堂で、朝ご飯《はん》と昼ご飯の中間の食事をしながら、ワタルは考え込んだ。ご飯は美味《お い 》しいはずなのに、味がしない。
この件を、ミーナとキ・キーマに、どう説明したらいいだろう。頭はそのことでいっぱいで、舌や胃袋《いぶくろ》なんかの働きにかまっていられないらしい。
二人を連れていくわけにはいかない。危険すぎる。キ・キーマは強いしミーナは身軽だけれど、今度の作戦はねじオオカミ退治なんかとはわけが違《ちが》うのだ。ワタルの気持ちとしても、もうこれ以上、あの二人を巻き込みたくはない。
本当のことを話せば、二人はワタルと一緒に行くと言い出すだろう。絶対に引き下がるまい。嘘《うそ》をつかなくちゃ。でも、どんな嘘を? もう二人の手助けは要《い》らないというか? 気が合わなくなったから、もう仲間になるのはやめだよって? そんなの嫌《いや》だ。キ・キーマとミーナの心を傷つけるなんて、できない。
「あんたから言えないなら、あたしが話してもいい」と、カッツは言っていた。「ブランチ長として、二人にはここに残れと命令するよ。まだまだハルネラ≠フ混乱が続いているからね。幸いガサラは落ち着いてるけど、ブランチはどこもてんやわんやで、手が足りない。あの二人には、いくらでも別の任務が出てくるよ」
そうやってカッツに責任を肩代《かたが 》わりしてもらったとしても、問題は残る。この作戦で北へ渡れば、結果がどうあれ、ワタルはもう、南大陸に戻《もど》ってくることはないだろう。
自分の身にどんな結末が待っているのか、今はまだ、ワタルにもわからない。ミツルが運命の塔《とう》にたどり着き、時間切れでヒト柱になるのか。何とかミツルに勝って、運命の塔に行き、女神《め がみ》に会って運命を変えて、現世に帰るのか。
あるいは、作戦が失敗し、北の皇帝の居城の何処《ど こ 》かで命を落とすのか。
どの結末が待っているにしても、いずれにしろ、あの二人とは、これでお別れなのだ。だったら、どんな形でもいいから、ワタルは二人にサヨナラを言いたい。二人がいてくれたことで、どんなに心強かったか、二人のことがどれほど好きか、ちゃんと伝えてから別れたい。なしくずしに離《はな》ればなれになってゆくのは嫌だった。
でも、どう言い出せばいいのか見当もつかない。
ぼんやりとパンを噛《か》んでいると、宿屋のおばさんに声をかけられた。
「おや、今日は食が進まないね。スープのお代わりは要らないの?」
食堂には他のお客の姿はなく、おばさんは皿洗いを片づけたところだった。今朝はワタルが来るのが遅《おそ》いので、どうしたのかと思っていたと言った。
「ごめんなさい」
「謝ることなんかないよ。誰《だれ》にだって、寝起きのよくない日はあるもんだ」
ガサラの町のなかにいると、ハルネラ≠フ巻き起こしている混乱も騒動《そうどう》も遠いものに感じられる。南の連合国家の平和を守るために、北の皇帝を暗殺しなければならないなんて話も、清潔で居心地《い ごこち 》のいいこの食堂で考えてみると、てんで絵空事だ。
食堂の窓の外を、賑《にぎ》やかに声を掛《か》け合い、ダルババ車がすれ違う。首から鈴《すず》を提《さ》げた新聞売りの男の子が、りんりんと音をたてながら駆《か》けてゆく。この新聞というもの、現世では珍《めずら》しくも何ともないが、幻界ではごく最近発明≠ウれて、たいへんな人気を呼んでいる。ルルドの天文台からハルネラ≠フ真実が公開された時に、政府から出されるおふれだけでなく、もっと詳しく、もっと細かいことを知りたいと思った誰かが、色々と聞き歩き、それを記事にして、版画みたいに彫《ほ》り、刷ったものを売るということを思いついたのだ。これはたちまちブームになり、短期間でほうぼうにいくつもの新聞社ができた。記事の内容もハルネラ∴齦モ倒《いっぺんとう》ではなく、街道《かいどう》の交通情報や、あちこちの町の事件や出来事まで報じている。宿屋や居酒屋の宣伝も載《の》るようになった。
現世の新聞も、起源は同じようなものだったのかもしれない。そのうち、連載《れんさい》小説や四コマ漫画《まんが 》なんかも載るのかな。暗殺計画が成功したら、もちろんそのことだって記事になる。トップ記事間違いなしだ。
現世は、今ごろどんな様子だろう。新聞にはどんなニュースが載せられているだろう。
母さん。ワタルの心は、食堂の温かな雰囲気《ふんい き 》のなかで、身体《からだ》を離れて漂《ただよ》い出た。母さん、ルウ伯父《お じ 》さん。元気かな。僕はこんな遠くにいて、さらに遠くへ行こうとしています。きっと帰ると約束したけど、もしかしたら帰れなくなってしまうかもしれません──
「ワタル? いたいた、おはよう!」
ミーナの元気な声に、ワタルは我に返った。
「あら、今ご飯なの? 寝坊《ね ぼう》したんでしょ」
戸口からひとっ飛びでひらりとワタルの腰掛けの隣《となり》に着地すると、ミーナは明るい目を向けた。陽のあるうちは灰色に、夕まぐれから夜にかけては深い青灰色《ブリー・グレイ》に輝《かがや》くこの瞳《ひとみ》に、どれほど励《はげ》まされてきただろう。鼻先がツンとしそうになって、ワタルは顔を伏《ふ》せ、食べかけのパンを頬張《ほおば 》った。
「そんなにあわてて食べると、喉《のど》につっかえちゃうわよ」
ミーナは声をたてて笑い、ワタルの背中をさすってくれた。
「う、うん。ミーナ、どしたの? 何だか楽しそうだね」
「わかる?」ミーナは腰かけの上で小躍《こ おど》りした。「いい報《しら》せがあるの。ブブホ団長たちが、ガサラに来るのよ!」
ミーナが所属しているエアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシン団が、ガサラの町で興行するため、こちらに向かっているというのである。
「今朝着いたダルババ屋さんが、団長からわたし宛《あて》の手紙を預かってきてくれたの。もうすぐそこまで来ているから、今日じゅうに到着《とうちゃく》するって!」
ワタルの胸を、温かな安堵《あんど 》の波が洗った。ブブホ団長たちがガサラに来るのならば、ミーナを残して出発することが、ずいぶんと楽になる。もしもミーナがどうしてもワタルと一緒に行くと言い張っても、きっとブブホ団長が説得してくれるだろう。ワタルとしても、その方がずっとずっと心軽くミーナと別れることができるというものだ。
「よかったね、ミーナ」
「うん! でもね、いい報せはそれじゃないのよ」ミーナはワタルのそばにぴったりとくっついて、声をひそめた。「ね、前に団長たちに会ったとき、ババさまと話をしたでしょ? 覚えてる?」
ババさまと呼ばれるアンカ族の老婆《ろうば 》は、ワタルに、もしも女神さまに会えなかったらどうするつもりかと問いかけたのだった。ワタルは、会えなかったときのことは考えていないと答えた。するとババさまは、それならもうお尋《たず》ねすることはないと言って、それっきりだった。
「覚えてるけど……」
「あのときは詳しく話さなかったけど、ワタル、ババさまはね、すごい占《うらな》い師なの。ババさまには未来が見えるの。そんなに遠く先のことじゃないけど、でも見えるの。神通力を持ってるから。実は、ワタルに初めて会ったあのころ、ババさまにはもう北の凶星《まがぼし》が見えていて、すぐにハルネラ≠ェ来ることもわかっていたんですって!」
わかっていたから、ワタルにあんな質問を投げて寄越《よ こ 》したんだろうか。やがてハルネラ≠ェ来て、ワタルがヒト柱になるかもしれないということまで見えていたから?
「そう……それで?」
ミーナの喜びように、ワタルはまだついてゆかれない。しかしミーナは両手でワタルの手を取ると、ぎゅっと握《にぎ》りしめ、さらに強く寄り添《そ》ってきた。
「それでね、ワタル。わたし、ソノの町での出来事のあと、ババさまに手紙を書いたの。ワタルの未来のことを教えてください、そして、その未来を変える術《すべ》があったら教えてくださいって。その手紙が届いて、ババさまは未来を見てくれた。占いに使う、大きな水晶《すいしょう》玉に映してね。そしたらね、見えたんですって! ワタルが運命の塔に続く階段をのぼってゆく様子が!」
ワタルは身を引き、まじまじとミーナの顔を見つめ直した。「それ、どういう……」
「どうもこうもないわ! ワタルの未来よ! ワタルは運命の塔に行けるのよ! ヒト柱なんかにはならないのよ! ちゃんと女神さまにお会いして、旅の目的を果たすことができるんだわ!」
だからこそブブホ団長は大急ぎで手紙を書き、ミーナに報せて寄越したのだ。そしてワタルを励まし、元気づけるために、ババさまの口から直《じか》にお告げを聞かせたいと、わざわざガサラに向かっているのだという。
「ね? いい報せでしょ? わたし嬉《うれ》しい! ワタルは、あのミツルって子に負けたわけじゃない。ワタルは勝つの。ババさまのお告げに間違いはないんだから!」
ソノの町でミツルと遭遇《そうぐう》し、ミーナとキ・キーマも、とうとう旅人≠ニヒト柱の真実を知ってしまった。以来、キ・キーマとのあいだには、何度かやりとりがあった。そのたびに、まだ終わったわけじゃない、あとふたつの宝玉を探し続けようと、キ・キーマは提案した。ワタルがそれに首を振《ふ》ると、大きな身体を小さく縮めて、力になれなくてすまないと悲しんだ。それを繰《く》り返し、とうとうどちらも辛《つら》さに耐《た》えられなくなって、二人でその話をすることはなくなった。ガサラの町に落ち着いてからも、キ・キーマは毎日の仕事に忙《いそが》しく過ごしていて、ワタルとはゆっくり向き合うことがないままだ。
しかし、ミーナは違っていた。以前と変わらぬ明るい顔でワタルと話し、ワタルのそばを離れず、しかしワタルがヒト柱のことで水を向けると、凛《りん》としてそれを撥ねつけ、笑顔《え がお》のなかに頑《かたく》なな目を据《す》えて、何も話し合おうとはしなかった。
その態度の裏には、こういう理由が隠されていたのか。あらためて、ワタルはミーナの芯《しん》の強さに感嘆《かんたん》した。
「イヤだ、ワタルったらぼんやりしちゃって」ミーナはワタルの顔の前でひらひらと手を振った。「わたしの言うこと、わかった? ね、こんないい報せはないでしょ? 水晶玉には、他にもいくつかの光景が映ったんですって。それはきっと、あとふたつの宝玉を探すための手がかりなんだわ! ババさまに会って詳しい話を聞いたら、すぐ出発しましょう。きっと見つけられるわ。だってワタルは運命の塔に行くんだもの!」
喜びに勢い余って、ミーナは腰掛けの上に立ちあがり、万歳《ばんざい》をした。宿屋のおばさんがびっくりして台所から飛び出してきた。
「何事かい?」
「あ、いえ何でもないんです、スミマセン」
ワタルはあわててミーナを引っ張りおろし、もう彼女が躍りあがったりできないように、両手で両肩をしっかりと押さえた。
「ミーナ、ミーナ、ありがとう」
ワタルも混乱していて、何から話したらいいかわからない。とにかく、口から言葉がこぼれ出るに任せてしまった。
「僕のためにそんなに心配してくれて、ホントに本当に感謝してるよ」
「何言ってるのよ、水くさいなぁ。仲間じゃない。それにわたし、決めたの。ルルドでも言ったでしょ? わたし、ワタルの行くところにはどこにだってついてゆくの」
ミーナはワタルごと舞《ま》いあがりそうな勢いだ。押さえきれない。
「ミーナ、落ち着いて。聞いてほしいんだ。いいね?」
躍っていたミーナの瞳が、喜びと期待に輝きながらも、つと動きを止めた。小首をかしげ、肩に置かれたワタルの手の上に手を重ねながら、彼女は訊ねた。「どうしたの、ワタル。嬉しくない?」
「嬉しいよ」ワタルは、何よりも自分を落ち着かせるために、ゆっくりと言葉を選んだ。
「僕にもまだチャンスがあるんだね。ババさまのお告げは、それを教えてくれている」
「ええ、そうよ!」
「だけどね、ミーナ」ワタルは大きくひとつ呼吸して、続けた。「僕は、もう残りの宝玉を探す旅に出ることはできないんだ。他にやらなくちゃならないことがあるから」
ミーナの目が、太陽を瞬間《しゅんかん》冷凍《れいとう》したみたいに凍《こお》りついた。
「他に──何ですって?」
「僕は、北へ行く。北の統一帝国に」
言い切ってから、ワタルは食堂を見回した。誰もいない。おばさんも台所の奥に引っ込んでしまっている。
「ハイランダーとして、果たさなくちゃならない任務を与《あた》えられたんだ。カッツさんをリーダーにして、ジョゾに乗って北へ行く。任務を果たして戻ってこられればいいけど、とても難しい仕事だから、どうなるかはわからない。でも、それでも僕はやる。やるって決心したから」
たっぷり深呼吸みっつ分くらいのあいだ、ワタルもミーナも黙って向き合っていた。見つめ合うというよりは、睨《にら》み合うような張りつめた沈黙《ちんもく》に、食堂に漂う食べ物の匂《にお》いが、場違いに平和だった。
「北へ行く?」と、ミーナが小声で訊《き》いた。
「そう」
「旅人≠ニしてじゃなく、ハイランダーとして?」
「そうだ。ガマ・アグリアスZ世を暗殺するために──」
思いがけず、ミーナはワタルの顔に向かってまともに吹《ふ》き出した。
「ヘンなの。どうしてそんなことをするの? 南の連合国家は、北に戦争を仕掛けようというの? そんなの無駄《む だ 》だわ。動力船の設計図は、もう帝国の手に渡ってしまったのよ。負けるに決まってる」
「時間を稼《かせ》ぐんだよ」と、ワタルは説明した。
「皇帝が暗殺されれば、北の統一帝国だって、少なからず混乱するはずだ。皇帝一族の独裁国家なだけに、突然《とつぜん》リーダーがいなくなったら、舵《かじ》のない船みたいになってしまうからね。ガマ・アグリアスZ世は四十歳ぐらいだっていうから、彼の後継者《こうけいしゃ》は、きっとまだ若い。皇帝の座を継《つ》いでも、すぐには力量を発揮することはできないはずだ。そうして国が乱れれば、しばらくのあいだは、動力船を開発したって、海を渡ってこっちへ攻《せ》めてくることはできなくなる。そのあいだに、南の連合国家は守りを固めて、帝国を迎《むか》え撃《う》つ準備をすることができる。外交的な取引の材料を考えることだってできる。あるいは、和平を結ぶ機会だって生まれるかもしれないじゃないか。とにかく、今は時間が必要なんだ」
それはカッツの話してくれた内容そのままであったけれど、ワタルもその策に異論はなかった。
「僕もこの計画については、昨夜聞かされたばかりなんだ。だけど、僕の力が必要だって、カッツさんは言った。僕もそう思う。ジョゾを呼べるのは僕だけだし、たとえそうでなくても、ジョゾをこんな任務に巻き込む以上、僕が参加しないわけにはいかない」
ミーナの顔から、すべての表情が消えた。作られたばかりでまだ魂《たましい》の入っていない人形のようだと、ワタルは思った。何を心にし、そこからどんな感情を選び出せばいいのか、あまりにも唐突《とうとつ》すぎて、ミーナにもわからないのだろう。
ややあって、その平たい顔のまま、ミーナは言った。「それなら、わたしも一緒に行くわ」
そう口に出した瞬間、ミーナの顔に生気が戻った。瞳が燃えあがった。
「わたしもワタルと一緒に北へ渡る。ワタルを手伝うわ。そうよ、そうする」
笑みが蘇《よみがえ》った。ワタルの手に重ねている手に力が入る。
「言ったでしょ? わたし決めたの。ワタルが行くところ、どこにでもついてゆくって。ええ、そうよ。北の帝国へ行きましょう。それでいいんだわ。ババさまのお告げにだって、きっとそのことが含《ふく》まれているのよ。ワタルは北へ行って、ミツルに追いついて、ミツルよりも先に宝玉を揃えて、そして運命の塔へ行くんだわ。そうよ、そうよ──」
ミーナの口から奔流《ほんりゅう》のように言葉が溢《あふ》れ出てくるあいだじゅう、ワタルは首を横に振っていた。ミーナは、なかなかそれに気づかなかった。言葉が尽《つ》きて、それでもまだワタルがかぶりを振っているのを、不思議そうに目を瞠《みは》って見つめた。
「──ワタル?」
「駄目だ」と、ワタルは言った。声は震《ふる》えていなかった。そのことを、自分でも意外に思った。大人の男の声みたいに落ち着いて、揺るぎない口調になっていた。
「ミーナは一緒に来ちゃいけない。南大陸に残るんだ」
空白。そしてミーナはワタルに飛びかかってきた。「どうして? 何でよ? なぜわたしが一緒に行っちゃいけないの? どうしてワタルはそんな意地悪なことを言うのよ」
「意地悪してるわけじゃない」
「してるわよ!」
ミーナはワタルを突き飛ばした。ワタルは腰かけから転げ落ちそうになり、そこを今度はミーナにつかまれて引き留められた。
「わかった! カッツさんの命令なのね? そうなんでしょ。あのヒトがわたしを置いていくようにって言ったのね? だったらいいわ、わたし頼《たの》むから。カッツさんにかじりついて、一緒に連れて行くって言うまで、てこでも動かないんだから!」
「違うよ、ミーナ。僕が決めたことだ」
ワタルの襟首《えりくび》をつかんでいるミーナの手が、わなわなと震え始めた。
「わたし……」
「ごめんよ。だけどミーナ、もうこれ以上、君とキ・キーマを危険な目に遭《あ》わせたくないんだ。だから一緒には行かれない」
震えが手から腕《うで》へと這《は》い上り、くちびるまで震え始めた。
「危険なんか……そんなの……怖《こわ》いことなんかないのに」
「僕が怖いんだよ」と、ワタルは言った。それが正直な気持ちであり、どんな言い訳や説明よりも正解なのだと悟《さと》りながら。
「君とキ・キーマを連れて行って、危険に巻き込んで、命を落とさせてしまうかもしれない。僕はそれが怖い。自分が死ぬかもしれないことよりも、ずっとずっと怖い。自分のことなら諦《あきら》めもつくし、納得《なっとく》できる。でも君たちのことは違う。君たちは大切な仲間だ。友達だ。僕のせいで、死なせるわけにはいかないんだよ」
死ぬって決まったわけじゃないのにと、ミーナは呟《つぶや》いた。
「そうだね。でも、予想はしておかなくちゃいけない。その可能性は大きいもの」
ワタルは呼吸を整えた。そうすると、自分の内側に、ミーナと同じくらいぶるぶる震えている小さな自分が隠れていることに気がついた。もうちょっと、もうしばらくのあいだ、姿を見せずにしっかり隠れていてくれよ。
「もしかしたらすべてが上手《う ま 》くいって、皇帝を倒《たお》した上で、僕はミツルに先んじて、運命の塔に行くことができるかもしれない」
「ええ、そうよ」
「でもそのときに──その目的を果たすために、君やキ・キーマが命を落とすことになったら、僕は一生|後悔《こうかい》するよ。運命の塔で女神さまに会って、思いどおりに運命を変えて、現世へ帰れるとしても、残りの人生を幸せに過ごすことなんか、絶対にできない」
だから──ずるいと承知しながらも、ワタルは言った。「友達だから、仲間だから、僕のために、安全なところにいてほしいんだ。お願いだよ、ミーナ」
ミーナは両手で顔を覆《おお》うと、静かに泣きだした。ワタルはもう一度、彼女の両肩に手を置いた。
「出発が正確にいつになるか、まだわからない。でも、すぐであることは間違いない。ギル首長がガサラに着いたら、すぐに。だから今のうちにお別れを言っておきたかったんだ。今までありがとう。言葉になんかできないくらい、感謝してるよ。本当だよ」
指の隙間《すきま 》から、呻《うめ》くように、ミーナは言った。「キ・キーマには……」
「これから話す」
ミーナが動かないので、ワタルはそっと腰かけから立ちあがった。
「ありがとう、ミーナ。ずっとずっと、元気なミーナでいておくれよ。スペクタクルマシン団のスターになって、南大陸じゅう、いや幻界中のヒトたちを楽しませておくれよ。ね? 約束だよ」
ミーナは返事をしてくれなかった。
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44 ガサラ脱出
ミーナとのやりとりの後、すぐにキ・キーマに会う元気を出すことはできなかった。もう少し時を置こう。幸い、仕事もあった。
ガサラの周辺には、ガサラよりも小さいけれど、商《あきな》いの中継《ちゅうけい》地点となる町が散在している。それらの町でもハルネラ≠ノからんで治安が乱れており、ときどき、家財道具を背負ってガサラまで逃《に》げてくる住人たちが現れる。今日も何組かそうした避難民《ひ なんみん》がガサラの門を訪《おとず》れたので、ワタルは彼らの世話を焼くことに追われた。
「こんな騒《さわ》ぎが続くくらいなら、いっそ、あたしがヒト柱になるから、早く元の平和な国に戻《もど》ってほしいと思っちゃうよね」
幼い子供の手を引き、疲《つか》れ切った妻の顔を斜《なな》めに見ながら、避難民の男がそんなことを呟《つぶや》いた。彼らのために設けられている簡易|宿泊《しゅくはく》所には最低限の設備しかないけれど、それでも嬉《うれ》しい、風呂《ふ ろ 》に入ってちゃんと飯を食ったのは四日ぶりだ、とも言った。
「ハルネラ≠ヘ、もうすぐ終わりますよ。あとちょっとの辛抱《しんぼう》です」
ワタルの慰《なぐさ》めに、男はゆるゆるとうなずく。
「そうだね……」ため息と共に、独り言のように言う。「しかし、ヒト柱は本当に必要なんかね。女神《め がみ》さまのお力があれば、そんなものなくたって、大いなる光の境界≠張り直すことはできるんじゃないのかね。あたしは最近、ハルネラ≠招く女神さまの真のご意思は、別のところにあるんじゃないかと思うようになったよ」
「真のご意思?」
「うん。この広い世の中の、大勢のヒトたちのなかで、たった一人だけを選んでイケニエにするぞ──そう言われただけで、あたしらはこんなにも見苦しく狼狽《うろた》えて騒いでしまう。ヒトってのは、弱いものだ。結局は、みんな自分の身が可愛《かわい》い。そのくせ世の中が乱れれば、それに乗じて儲《もう》けようとしたり、気に入らない連中をやっつけようとしたりする。それも欲だよ。欲深《よくぶか》なんだ。醜《みにく》いね。ざま[#「ざま」に傍点]はないよ、でも普段《ふ だん》は、自分たちのそんな醜い部分のことなんか、きれいさっぱり忘れちまってる。幻界《ヴィジョン》≠ェ平和で繁栄《はんえい》を続けていたら、なおさらだ。ヒトってのは偉大《い だい》な生きものだ──ぐらいに思い上がってさ。だから女神さまは、ときどきあたしらヒトを揺《ゆ》さぶって、己《おのれ》の弱さや醜さを思い出させ、それ以上うぬぼれが積もることがないように戒《いまし》めるために、わざとハルネラ≠ネんていう仕掛《し か 》けをこしらえていなさるのじゃないかねえ」
ワタルには思ってもみないことだった。
「でも……もしもそうならば、女神さまはヒトに対して、意地悪っていうか、厳しいっていうか」
「そうだね、うん。だけど神さまは、もともと、そういうものじゃないのかね。優《やさ》しくしてたら、何も治まらないからさ。言葉は空《むな》しいものだ。どれほど尊い教えでも、日々の繁栄のなかでは重みが失《う》せてゆく。ヒトは忘れっぽい生きものなんだ。だから女神さまだって、千年にいっぺんぐらいの割合でさ、こんなふうに世の中を揺さぶることで、あたしらに教えを思い出させるしか手がないんだろうよ」
思いがけず話し込んでしまったので、ワタルが簡易宿泊所を離《はな》れたときには、午後もずいぶんと過ぎていた。朝から重かった心に、さらに重たい問いかけを乗せられて、ブランチに戻る足どりもはずまない。
ところが、俯《うつむ》きがちに町を歩いていると、妙《みょう》なことに気がついた。道ばたや軒先《のきさき》にヒトびとが集まり、ひそひそと話をしている。どの顔も険しく、ちょっぴり不安そうだ。何事だろう?
ちょうどそのとき、角を曲がったところに、診療《しんりょう》所の医師が、往診用の鞄《かばん》を提《さ》げて、町のヒトと立ち話をしているところにぶつかった。すぐに声をかけたけれど、先生はそれにさえ気づかないほど、熱心に話し込んでいる。
「あの、何かあったんですか?」
「おお、君か!」先生は、ムクムクの毛に埋《う》もれそうになっている小さな目をぱちぱちさせた。「何かって、何も知らないのかね?」
「町の様子がおかしいですけど……」
先生をはじめ、立ち話の輪をつくっている全員が驚《おどろ》いた顔をした。
「その腕輪《うでわ 》、あんたハイランダーなんだろ? そんな呑気《のんき 》なことを言ってていいのかね。小一時間ばかり前から、ガサラはシュテンゲル騎士《き し 》団の遊撃《ゆうげき》隊に包囲されちまってるんだよ!」
ワタルは仰天《ぎょうてん》した。「包囲って──なんでまたそんなことに? 門番や物見台の番人は何をしてたんだろう?」
「何をしてたもかにをしてたもないよ。草原を遠くから、シュテンゲル騎士団の小隊が進軍してくるなぁ──補給なんぞで立ち寄るのかなぁ──と思って、気づいたら囲まれちまってたらしいんだ」
「今は正門も閉じているよ」と、先生が言った。「出入りは一切《いっさい》禁止だ」
まったく気づかなかった。「僕、ずっと簡易宿泊所にいたんです」
「その気になれば、シュテンゲル騎士団は風よりも速く、蛇《へび》のように静かに動けるということだな」
感心してる場合ではない。包囲の目的は何なのか確かめなくては。
「ブランチに戻らなきゃ!」
駆《か》け出そうとしたワタルの後ろ襟《えり》を、診療所の先生がぐいとつかんだ。
「待ちなさい。今は様子をうかがった方がいい」
「どうしてです?」
「さっきロンメル隊長が部下を引き連れて、ブランチへ乗り込んで行ったよ。どうやら彼らの目的は、ブランチにあるようだ」
ワタルは目を瞠《みは》った。「犯罪者を追いかけてきたとか、そういうこと?」
先生は首を振《ふ》る。「君もハイランダーなら、知っているだろう? 先にブランチの四首長が、連邦《れんぽう》議会の承認《しょうにん》なしに、ハイランダーたちを動かしたことが問題になっているのを。ロンメル隊長がやって来たのも、それと関連がありそうだ」
ワタルはあっと思った。ルルドの天文台前で別れるとき、ロンメル隊長の小隊と、居合わせたハイランダーたちのあいだに立ちこめた険悪な雰囲気《ふんい き 》。そしてロンメル隊長の言葉。ブランチ長と彼らに従うハイランダーたちが連邦議会の怒《いか》りをかえば、議会に忠誠を誓《ちか》っているシュテンゲル騎士団とも、この先、何処《ど こ 》かで敵対しなければならない局面が発生するかもしれない──
あの警告が、実現してしまったのだ。今がその時なのだ。
「どうやら隊長は、カッツを捕《と》らえに来たようだ」先生の小さな優しい目は、ワタルの驚愕《きょうがく》を読み取っている。「連邦議会から、彼女の身柄《み がら》を拘束《こうそく》し、首都まで護送するように命令がくだされたらしい。何があったか知らないが──」
ワタルは知っている。あの暗殺計画だ。きっと、あれがどこかから漏《も》れて、連邦議会の耳に入ったのだ。そして議会には、北の皇帝《こうてい》を暗殺するという策を、良しとしないヒトびともいるのだ。
カッツはこの計画の言い出しっぺだと言っていた。首謀《しゅぼう》者だ。逮捕《たいほ 》されたら、きっと重罪に問われる。ああでも、ギル首長はどこにいるのだろう? 一緒《いっしょ》に北へ渡《わた》るはずの、あと三人の猛者《も さ 》たちは?
足元から冷気が駆けのぼってきて、ワタルを骨まで震《ふる》えあがらせた。
「どんな罪状だろうと、わしらはやすやすとカッツ所長を渡したりしねえよ」
町のヒトの一人が、鼻の穴をふくらませて言い切った。
「シュテンゲル騎士団なんざ、政府の飼い犬だ。信用できるもんじゃねえ。だいたい、アンカ族ばっかりの集団だろ。あいつらは、わたしら他種族のことなんか、最初《は な 》から勘定《かんじょう》に入れてなかった。ブランチとは違《ちが》う!」
そうだそうだと、立ち話の輪が盛りあがる。拳《こぶし》が振り回される。
「カッツ所長を守るためなら、わしら、騎士団と一戦交えたっていいんだ!」
診療所の先生は、困ったように耳を寝《ね》かせてしまった。「町の住人たちの気持ちは、連邦政府だって騎士団だって承知しとるだろうよ。だからこそ包囲しておるんだ。下手に逆らったら、ガサラの町はとんでもないことになるよ」
「じゃあ先生は、カッツ所長がひっぱられるのを黙《だま》って見てろっていうのかよ!」
「そんなことは言うておらん」
「だったらさあ!」
喧嘩《けんか 》に発展しそうになってきたところで、ワタルはそっと逃げ出した。
正門まで駆けてゆく。ホントだ、門は閉《と》じられ封鎖《ふうさ 》されている。騎士たちが厳《いか》めしい顔つきで立ち並び、門には何か書状が貼《は》り出されている。カッツの逮捕状だろうか。噛《か》みつかんばかりの勢いで抗議《こうぎ 》している獣人《じゅうじん》族の住人と、これまた怒鳴《ど な 》りつけるような口調で応対しているシュテンゲル騎士。道の反対側では、お母さんのスカートにすがった子供が怯《おび》えて泣きべそをかいている。
ちょうど町を出ようとしていたところなのか、ダルババ車が一台、門のそばで立ち往生していた。御者《ぎょしゃ》の水人族が、やはりシュテンゲル騎士の一人と問答をしている。こちらは口論にこそなっていないけれど、御者はたいそう困っているようだ。ワタルは大きな車輪の陰《かげ》に潜《ひそ》んで、二人のやりとりに耳をそばだてた。
「だからさ、あっしは何も騎士団の皆《みな》さんに逆らおうなんて気持ちはないんですよ。ただ、この積み荷は極上《ごくじょう》のシュルシュワでね。騎士さん、食ったことない? シュルシュワの活《い》き作りはこの世でいちばん旨《うま》い食い物だけど、鮮度《せんど 》が命なのさ。ここで立ちん坊《ぼう》してるあいだに、どんどん値が落ちちまうよ」
「我々も、任務さえ果たせばすぐに包囲を解くことができるのだ。徒《いたずら》にガサラの通商を妨害《ぼうがい》する意図はない。いましばらく待っておれ」
「そんな難しいこと言われたってさあ、シュルシュワが腐《くさ》っちまったらどうすんの」
「抗議するなら、ブランチにしたまえ。我々は連邦政府の意に従って行動しているのだ。ここのブランチ長が我々の要請《ようせい》に従ってさえくれれば、すぐにも町は元どおりの状態になるだろう」
やっぱりだ。カッツはどこにいるのだろう。ともかくブランチに忍《しの》び込んで、様子を探《さぐ》ってみなくてはならない。ワタルは勇者の剣《けん》をつかんだ。
ブランチの前には二重のヒトの輪ができていた。外側の輪は、集まった町の住人たち。内側の輪は外よりずっと人数が少なく、正味五人のシュテンゲル騎士が、輪というよりは弧《こ》を描《えが》いて足を踏《ふ》ん張っている。
トローンがなかにいるはずだ。ワタルはちょっと考えてから、建物の裏に回った。窓はすべてきっちりと閉ざされている。二階のワタルの部屋の窓も、今朝出るときは開けてきたはずなのに、今は鎧戸《よろいど》まで閉められている。
ワタルはブランチの正面に戻ると、ヒト混《ご》みに紛《まぎ》れて機会をうかがった。集まった住人たちは、てんでにしゃべりあったり、騎士たちに抗議したり質問を投げたり、全然応じてくれない騎士に罵声《ば せい》を浴びせたりからかったりと、とにかく騒音《そうおん》がやかましい。
と、ブランチの出入口の扉《とびら》が開いて、その真ん前に頑張《がんば 》っている体格のいい騎士が、ちょっと脇《わき》へ退《ど》いた。誰《だれ》かがブランチのなかから、彼に話しかけている。騎士は身体《からだ》をよじり、扉の隙間《すきま 》に頭を突っ込んで、ふんふんとうなずいている。
ワタルは勇者の剣を構えると、思念を集中して、例の姿を消す結界を張った。そのままヒトびとのあいだをすり抜《ぬ》けて、素早《す ばや》く身をかがめ、出入口に立つ騎士の股《また》の間をくぐり抜けた。
「おろ?」と、騎士が声をあげた。「今、何か通ったぞ」
自分の股ぐらを見おろしている。そのときにはもう、ワタルはブランチの執務《しつむ 》室の隅《すみ》に到達《とうたつ》していた。
正面に据《す》えられているカッツの事務机には、トローンがでんと構えて座《すわ》っていた。その正面に、ロンメル隊長が立ちはだかっている。トローンを囲むようにして、隊長の部下の騎士が二人、それぞれ両手を腰《こし》の後ろにあてて直立している。
他のハイランダーたちは、うまく身を隠すことに成功したようだ。姿が見えない。それとも、もう連行されてしまったのか。
「もう一度だけ訊《たず》ねる」
ロンメル隊長が、張りのあるいい声でトローンに呼びかけた。今までにも何度か隊長の声を耳にしたことはあるけれど、これほど威嚇《い かく》的な口調になっているのは初めてだ。
でもトローンは動じていない。鼻面《はなづら》に眼鏡《めがね》を乗っけて背もたれに反っくり返り、だらしなくずっこけている。今にも鼻をほじったりしそうだ。
「所長のカッツはどこにいる? 町を出ていないことはわかっているのだ」
「そこらにいるんじゃないかな。俺は知らん。所長のお守り役じゃないからね」
「君が答えなくても、彼女をかばうことにはならないぞ。我々は必ずカッツを探し出し、連行する」
「だったら、とっとと探しに行けばいいだろ! 知らんものは知らんのだよ」
「我々が町を捜索《そうさく》すれば、住民たちに余計な不安を与《あた》えることになる。そういう事態を避《さ》けたいからこそ、協力してくれと言っているのだ」
ロンメル隊長の蒼《あお》い目は冷静そのもので、焦《あせ》っている様子はなかった。ただ、ちょっぴり疲《つか》れているようには見えた。目尻《め じり》のしわが深い。
「君はこのブランチの副長であり、カッツが不在のときには治安を守る責任者となる存在だ。その立場を自覚しているのか? 徒にガサラの町に混乱を招くことを、カッツが望んでいるとは思えないが」
「所長の考えなら、あんたに説教されるまでもなく、俺はよく承知している」
トローンの言葉に棘《とげ》が混じった。だらしない姿勢のままに、一瞬《いっしゅん》だけ目が鋭《するど》くなった。「だいたい、なんで所長が連邦議会まで連行されなくちゃならないのか、俺には納得《なっとく》がいかないんだ。これは不当逮捕だよ」
トローンの右側を固めていた若い騎士が、思わずカッとなったという感じで、平手でばしんと机を叩《たた》いた。トローンの前に並べられていた書類がぱっと舞《ま》いあがり、ペン立てが派手な音をたてて転がり落ちた。
「この逮捕状が見えないのか!」
兜《かぶと》と顎《あご》あての隙間からのぞく目の周りが紅潮している。ロンメル隊長は、トローンの顔に視線を据えたまま、つと手をあげて若い部下を制した。若い騎士は、さらに赤くなって姿勢を戻した。
「それでなくたって、連邦政府の発令する逮捕状なんて、生まれて初めて見たし──」
トローンは、本当に鼻をほじり始めた。毛むくじゃらの丸い指から爪《つめ》をちょろりとのぞかせて、器用に鼻の穴に突っ込むのだ。
「反逆罪なんて、そもそもそんな法律があることさえ、俺は初耳だった。だからさ、この書類が本物かどうかも判別がつかん。ひょっとしたら偽物《にせもの》かもしれないだろ?」
さすがに、ロンメル隊長の目つきが険悪になった。「ほう、面白《おもしろ》い。我々が逮捕状を偽造《ぎ ぞう》したとでも言うつもりかね?」
「やりかねねえな、あんたらなら」トローンは片っ方の牙《きば》をちらりと見せて、せせら笑った。「議会のなかにいるあんたらの飼い主は、あんたらに、いい餌《えさ》を食わしてるらしいからな。飼い慣らされて肝《きも》っ玉《たま》の抜けた犬は、ご主人さまの言いつけには何だって従う。拾ってこいと命じられれば、クソ溜《だ》めのなかにまで追いかけて行くんだろ」
ご苦労なこった──と言い終えないうちに、さっきの若い騎士がトローンに殴《なぐ》りかかった。みだりに剣を抜かないことは騎士のたしなみか。あるいは素手《す で 》で飛びかかるのは見苦しいのか。ロンメル隊長ともう一人の部下が止めに入り、出入口の戸が開いてさらにもう一人が飛び込んできた。ブランチを土台ごと揺さぶるようなどしんばたん[#「どしんばたん」に傍点]に紛れて、ワタルはトローンの足元に滑《すべ》り込み、机の下に身を潜めた。脚《あし》の周りに板を張り巡《めぐ》らせてある机なので、ひとまず隠れることができる。
結界を張るためにエネルギーを消費しているので、息があがっていた。ワタルは両手で口元を押さえ、声を漏らさないように気をつけながら、両肩《りょうかた》でぜいぜいと呼吸した。
怒鳴ったり喚《わめ》いたりボコスカやったりが収まって、机の上にどすんと重いものが落ちかかってきた。トローンの両足が、床《ゆか》から持ちあがっているのが見える。どうやら、机に押し伏《ふ》せられてしまったようだ。
「下品な妄想《もうそう》をたくましくするのは君の勝手だが──」
ロンメル隊長の声が聞こえた。何事もなかったみたいに平静だ。
「我々は連邦議会に忠誠を誓い、その総意を受けて行動を起こしている」
トローンは、机に顔をおっぺされていても意気|軒昂《けんこう》だった。「そりゃどうかねえ」
「ブランチの四首長が連邦議会の制止を聞かず、勝手にハイランダーを動かしただけでなく、北の統一帝国に対してテロ行為《こうい 》を企《くわだ》てていたことを、我々は知っているのだ。すでにギル首長の身柄は拘束した。首長に同行していたハイランダーたちから、ガマ・アグリアスZ世暗殺計画についての詳細《しょうさい》も聞き出してある。つまり、もう尻は割れているということだ、トローン」
ロンメル隊長は、初めて砕けた口調になった。ワタルは机の下で身を縮めた。ギル首長は逮捕されてしまったのか。一緒に北へ渡るはずだったメンバーも……。
手詰《て づ 》まりだ。何としてもカッツだけは無傷で助け出さなくては。
「君はカッツとの付き合いが長い」と、ロンメル隊長は言った。「だから彼女の過去も知っているだろう。私もかつてはハイランダーの一員であり、カッツとは信頼《しんらい》しあう同胞《どうほう》だった。ある事件がきっかけで、カッツとは袂《たもと》を分かつことになったが、彼女の仕事ぶりには常に敬意を抱《いだ》いてきたし、彼女が不当に扱《あつか》われることは望んでいない。またそれ以上に、何よりも、彼女が国家に背《そむ》くような行為をしようと企んでいるのならば、それを止《や》めさせたいのだ」
トローンは黙っている。荒《あら》い息が聞こえる。
「教えてほしい。カッツはどこにいる? 私は彼女を助けたいのだ。今ここで投降しなければ、本当に反逆者の烙印《らくいん》を押され、自身の意見を述べる機会もないままに、幻界じゅうを追われる身になるんだぞ。君はカッツをそんな立場に追い込みたいのか?」
カッツとロンメル隊長。どこまでもすれ違う恋人《こいびと》たちだ。ワタルはようやく鼓動《こ どう》のおさまってきた胸が、ちくりと痛むのを感じた。
ややあって、トローンが低く言った。「カッツは、今さらあんたなんかに助けてもらいたいなんて思っちゃいねえよ」
ロンメル隊長の武具が、かちりと鳴った。
「昔はどうあれ、今のあんたとカッツは、立場も意見もまったく違う。希望も、主義も、何を大切にするかということも、全然違っちまってるんだ。カッツはそれをわかってる。あんたは──まるでわかっちゃいねえようだな」
男はそんなもんかと、独り言のおまけがくっついた。そして続けた。「連邦議会の腰抜けどもは、動力船とやらの設計図が北に渡ってしまったことで、すっかりビビっちまってるそうじゃねえか。何とか事を丸く収めて、北の統一帝国に攻《せ》められる前に、ほどほどのところで友好和平条約とやらを結ぼうとしてる。議会にはもともと、北の統一帝国のシンパが巣くっていやがるんだから、連中の考えそうなことぐらい、こっちはお見通しだよ。で、そのほどほど[#「ほどほど」に傍点]のために、見返りとして、北の奴《やつ》らに何を差し出そうっていうんだ? 北の皇帝がやってることを、知らないとは言わせねえぞ。非アンカ族に対する差別と虐殺《ぎゃくさつ》だ。奴隷《ど れい》のような労働を強《し》いて、搾取《さくしゅ》を重ねる非道なやり方を、あんたらだって承知してるはずだろう?」
「我々は──」
ロンメル隊長を遮《さえぎ》って、トローンは声を張りあげた。「北の帝国と手を結び、とりあえずの平穏《へいおん》を取り戻す代償《だいしょう》に、南大陸の非アンカ族がどんな目に遭《あ》わされようと、シュテンゲル騎士団にゃ、痛くも痒《かゆ》くもねえだろうよ。あんたらはもともと、南大陸のための騎士団じゃねえ。多数民族のアンカ族のために剣をとってきただけの存在だ」
「それは誤解だ!」
「誤解なもんか! 現にリリスを見てみろ! あんたのお仲間のサイゼク隊長が、まさしく連邦議会の治安|維持《い じ 》命令とやらを旗印に、リリスでやらかしたことを思い出してみろよ!」
ぐっと息を呑《の》むような短い沈黙《ちんもく》のあと、思いのほか落ち着きを取り戻した口調で、ロンメル隊長はこう言った。「私はサイゼクとは違う」
「違うもんか。犬はみんな犬だ」
「いや違う。私は北の統一帝国のシンパではないからな。彼らの意向を実現するために剣をふるう気は毛頭ない。もしも議会が、和平友好の美名のもとに、北の統一帝国の思想がこの南大陸に入り込むことを黙認するつもりなのだとしたら、私はそれを許さない。そんな動きには、断固身体を張って対抗する」
机の上で、またどたんと音がした。今度は騎士がトローンをどうにかしたのではなく、トローン自身が机に身体をぶつけたらしい。
「犬にそれができるかよ?」
隊長は冷静に切り返した。
「時には、主人に逆らう犬もいるだろう。犬にも犬の意思があるのだから」
トローンは黙った。ロンメル隊長は、トローンの反応を見守っている様子だった。張りつめた空気が、ワタルの隠れている机の下にまで流れ込んできた。
少しかすれたような声で、トローンは言い出した。「たとえそうでも、見返りに何も差し出さずに済んだとしても、俺は北の統一帝国と握手《あくしゅ》するなんて、御免《ご めん》だね。俺たちの同胞を奴隷扱いし、ゴミのように使い捨ててきた国を許すことはできねえ。それくらいなら、戦争になった方がましだ。戦って戦って、どこまでも戦い抜いてやる。命より大事な、譲《ゆず》れないものが俺にはあるんだ。俺たちハイランダーには、確かにあるんだ。あんたら騎士団に、果たしてそれがあるのかね?」
「では君たちは、その命よりも大事な大義とやらのために、皇帝暗殺というテロ行為をしようというのか? 目的は、本当にそこにあるのか? 私には、君たちがやろうとしていることは、単なる報復行為にしか見えない」
トローンは唸《うな》る。返事はなかった。
「……この男を拘留しろ」と、ロンメル隊長が命令した。「ここの拘置室に放り込んでおけ。頭を冷やしてもらおう」
「カッツはどうしますか」と、部下の騎士が訊《き》いた。
「二手に分かれて町の捜索を始める。捜索を邪魔《じゃま 》する住民がいたら、公務執行妨害で拘束していい。そろそろ増援《ぞうえん》部隊が到着するころだ。このブランチを臨時の司令本部とする。日暮れまでにはカッツを発見、首都へ連行する手はずを整える」
部下たちがきびきびと応じ、執務室からトローンが連れ去られてゆく。
忍び込んだはいいが、結局カッツの居所をつかむことはできないままだった。机の下に雪隠詰《せっちんづ 》めのワタルは、しかし、今までおぼろげにしか知らされていなかった真実の一端《いったん》に触《ふ》れて、結界を張っているわけでもないのに、息が詰まるような思いをしていた。
連邦議会のなかにいる、北の統一帝国のシンパ。圧倒《あっとう》的多数民族のアンカ族と、少数民族である他種族のヒトびと。アンカ族中心で構成された連邦国家の盾《たて》<Vュテンゲル騎士団と、南大陸の長い歴史のなかで自然発生してきた自警団組織であるハイランダーとの相克《そうこく》の根っこにあるもの──
ワタルのなかに迷いが生まれ、それ故《ゆえ》にまた、駆り立てられるような思いに、ワタルは震えた。
カッツを逮捕させるわけにはいかない。一緒に北へ行くのだ。カッツが正しいのか、ロンメル隊長の言葉に理があるのか、今のワタルにはどちらとも決められない。その判断の結果から生じるものが、あまりにも重すぎて。でも、だからこそ、事実を確かめ、この目で見なければならないのだ。
執務室に騎士たちがせわしく出入りを始めた。ワタルは結界を張り、机の下から忍び出ると、壁《かべ》を伝ってじわじわとカニ歩きをしながら、出入口の扉へと近づいていった。
ロンメル隊長は、机のすぐ脇に立っている。町の地図を広げ、部下たちに指図を飛ばしている。視線は地図の上に落ちている。彫《ほ》りの深い横顔が見える。
扉まで、あと一メートル足らず。誰にも気づかれていない。駆け込んできた一人の騎士と危《あや》うく袖《そで》が触れそうになったけれど、大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫。
「隊長、増援部隊からの伝令が着きました!」
騎士が隊長に通信|筒《とう》を差し出す。ロンメル隊長は受け取ろうと顔をあげ──
そして一対《いっつい》の蒼い目が、出し抜けにワタルをとらえた。目と目が合った。
どうして? 見えないはずなのに? そう思った次の瞬間には、隊長はほんの数歩で部屋を横切り、抜き放った剣の先端をワタルの喉元《のどもと》に突《つ》きつけていた。疾風《しっぷう》がワタルの頬《ほお》をかすめただけで、今度は武具が鳴る音さえしなかった。まるで手品だ。
「さっきからおかしな気配がすると思っていたら、なるほどな」
ニコリともしていない。
ワタルは自分の身体を見おろした。驚いた拍子《ひょうし》に集中が切れ、結界は解けていた。
「た、隊長さん」
「消影《しょうえい》の魔法《ま ほう》など、いつ身につけたんだね? それも旅人≠フ力か」
「これ、消影の魔法っていうんですか。知らなかった」
すごくバツが悪い感じがして、ワタルはしおしおと笑った。「隊長さんには僕が見えたんですか? それとも、姿は見えなくても、感じられたんですか? 凄《すご》いな」
隊長は笑わない。剣の切っ先も、ぴたりとワタルを狙《ねら》ったまま動かない。
「君もカッツの部下だったな。彼女は今どこにいる?」
「知りません。僕はこの騒動が起こっていることさえ気づかなかったんです」
「間抜けな話だ」
「……はい」
ロンメル隊長は、首をよじって肩《かた》ごしに部下に命じた。「この少年もハイランダーだ。事情|聴取《ちょうしゅ》をするから、トローンの隣《となり》にでも放り込んでおけ」
「わかりました」
部下の騎士が、鋼のブーツをがちゃがちゃいわせながら近づいてくる。ああ、捕《つか》まっちゃう。万事休す[#「万事休す」に傍点]だ。
そのとき、心のなかに呼びかけてくる声が聞こえた。
──ワタル。
──宝玉は三《みっ》つ揃《そろ》いました。あなたはさらに新たな力を手に入れた。
──さあ、唱えなさい。アズロ・ロム・ロム、大気を統《す》べる風の精霊《せいれい》よ、時を追い抜き、光より速く我を運べと。
「時を追い抜き──」ワタルは唱和した。
「何だ?」と、騎士が足を止めた。
「光より速く我を運べ」
ワタルから離れかけていたロンメル隊長が、こちらを見る。
──さあ、構えて!
「バニッシュ!」
朗々と唱えると同時に、ワタルは自分の体重が消えるのを感じた。視界いっぱいに、まばゆい光が溢《あふ》れる。
飛んでゆく。舞いあがる。騎士たちの驚きの声を足元に残し、ワタルは光のなかを上昇《じょうしょう》する。勇者の剣の柄《つか》をしっかりと握《にぎ》りしめて。昇《のぼ》る、昇る、空までも!
と、次の瞬間、まるで砲弾《ほうだん》になって空に発射されたかのように、青空のなかへと飛び出していた。
「うわぁ!」
身体がふわりと浮《う》き、瞬間静止した。それで周りの景色が見えた。ガサラの上空だ。飛んでる。いや浮いてる。いや落下が始まって──
「落ちるぅ!」
そんなに高いところにいたわけじゃなかった。どすんとお尻から落っこちて、目から火が出た。
「こ、ここは?」
ガサラの町の東端、何度か訪れたことのある小間物屋さんの屋根の上だ。赤い屋根《や ね 》瓦《がわら》の上にへたりこんでいる。ワタルのせいなのか、瓦が一枚、ひび割れてしまっている。
道を歩いているヒトたちが、ぽかんと口を開け、目を瞠ってワタルを仰《あお》いでいる。指さしているヒトもいる。小間物屋のご主人が、お店のなかから飛び出してきた。
「今のは何だぁ?」
三つめの力は、ワープの力なのだ。瞬間移動。だけどたいした距離《きょり 》じゃないし、これじゃ危なくってしょうがないんじゃない?
──ごめんなさいね、ワタル。
宝玉たちの声が聞こえる。
──今のあなたの力では、まだコントロールがきかないようです。
「うん、でもいいよ、助かった!」
ワタルは屋根の上で立ちあがった。町中の捜索を始めていたのだろう、数人のシュテンゲル騎士たちが、ワタルの出現に気づき、こちらに向かって走ってくる。どうしよう?
「おい、ワタル! おーい、おーい!」
キ・キーマだ。騎士たちの後ろから、やっぱりこっちに駆け出してくる。
「そんなところで何やってんだぁ? タイヘンなんだぞ!」
「知ってるよ!」ワタルは両手を筒《つつ》にして口元にあて、声を限りに叫《さけ》んだ。
「キ・キーマ、気をつけて! 騎士に捕まっちゃいけないよ!」
「え? 何だこいつらか」
キ・キーマは走りながら騎士たちにタックルした。弾《はじ》き飛ばされた騎士たちが道に転がり、壁にぶつかる。「き、貴様! 公務執行妨害だぞ!」
「何だよ、俺はハイランダーだぞ!」
「だったらなおさらだ! 貴様も逮捕する」
「キ・キーマ、逃げるんだ!」
ワタルはポケットから龍《りゅう》の笛を取り出した。青空に向かって吹《ふ》き鳴らす。ジョゾ、ジョゾ、早く飛んできて!
空の彼方《かなた》に、輝く赤い光点が現れた。ワタルはそれに向かって両手を振り、それから屋根の上でぴょんぴょん跳《は》ねながら、やたらめったらに吠《ほ》えて叫んだ。「カッツさん! カッツさん! 出てきて! 逃げるんだ! ドラゴンに乗って逃げるんだよ! どこにいるの?」
キ・キーマが屋根に登ってきた。町の辻《つじ》を、何組もの騎士たちが駆けてくる。あっちの角を曲がってくる集団の、先頭にはロンメル隊長がいる。
「その少年を捕らえろ!」
突然、ワタルの頭上が暗くなった。ジョゾが近づき、舞い降りてきたのだ。
「ワタル、呼んだ?」
「呼んだよ! 早く乗せて!」
ジョゾの翼《つばさ》が巻き起こす風に、屋根の上から飛ばされそうだ。キ・キーマに抱《だ》き留められて姿勢を立て直し、ワタルはジョゾの背中によじ登った。キ・キーマも続く。
町の辻を吹き抜ける、時ならぬ竜巻《たつまき》のような旋風《せんぷう》に、騎士たちもひるんでいる。住人たちは身をかがめ、頭を抱《かか》えてきゃあきゃあわあわあ、大狂乱《だいきょうらん》だ。
「カッツさーん!」
ワタルは町の四方に呼びかけた。
「ジョゾ、町の上を低空で飛んで! カッツさんを探すんだ!」
「わかったよ。だけど凄いね、このヒト出。お祭りかい?」
「そうだよ、お祭りだよ!」
ジョゾは翼をすぼめると、ガサラの町の家々の屋根をかすめて滑空《かっくう》した。また住人たちの悲鳴があがるけれど、何だかみんな喜んでるみたいにも聞こえる。
「わーい、ドラゴンだ!」
小さな子供が窓から身を乗り出し、手を振っている。
「お母さん、見て見て! ドラゴンだよ、ホントにドラゴンだよ、絵本で見たのとおんなじだよ!」
やあやあコンニチハとジョゾが翼を振り、必死で追いかけてきていた騎士たちが、その突風でなぎ倒《たお》された。道ばたに積みあげられていた樽《たる》が崩《くず》れ、騎士たちといっしょくたになって転がってゆく。
「カッツさぁぁぁーん!」
驚きで大きな優しい目をしばしばさせているダルババの前を飛び過ぎる。御者が座席から転がり落ちる。
「ワタル!」
町の反対側の民家の二階の窓から、カッツが身を乗り出して両手を振っていた。ワタルがそちらを見ると、彼女はうなずき、窓から壁づたいに屋根の上へとよじ登り始めた。
「カッツだ! あそこにいるぞ!」
騎士たちが押し寄せる。いちばん近くにいた一団は、民家のなかへと躍《おど》り込み、ああ、今もう窓から首を出している。カッツの後を追いかける。
「ああ、もう、邪魔くさいね!」
カッツは片手を屋根にかけ、優雅《ゆうが 》に宙にぶらさがったまま、もう片手で鞭《むち》を抜いた。黒い閃光《せんこう》がひゅっと唸《うな》って、騎士が悲鳴をあげ、窓から落ちる。
「ジョゾ、カッツさんを乗せるぞ!」
翼のひと振りで、ジョゾは民家の上へと飛んでいった。カッツが屋根を走って駆け寄ってくる。何人かの騎士が身軽に屋根に登り、風に逆らいながら、わらわらと追いついてきた。カッツは鞭を振ろうとするが、翼の風に流されて、鞭が思うように動かない。
「ジョゾ、火を噴《ふ》いて!」
「いいのぉ?」
「いいよ、特別に許可する!」
ジョゾは胸をふくらませると、喉《のど》を鳴らしてごおっと炎を吐《は》き出した。熱風に煽《あお》られて、騎士たちがあちあちあちと逃げ出してゆく。その隙に、カッツはひらりとジョゾに飛び乗った。
「あたしの髪《かみ》まで焦《こ》げちまったよ!」
それでもカッツは大笑いしている。
「さあ、行こう!」
ジョゾは滞空《たいくう》しながら翼を返し、上空へと顔を向けた。ワタルはジョゾの首にしっかりとしがみつく。
「ワタル、待って! わたしも連れてって」
ミーナの声だ。あわてて見回すと、信じられない、ミーナは家から家へ、屋根を飛び移ってこっちへ近づいてくる。
「ミーナ!」
「おいてけぼりなんて、ひどいわよ!」
ミーナは二軒先の家の屋根から、えいっとばかりに大ジャンプをした。しなやかに反った足が、弧を描いてこちらの屋根の縁《ふち》にひっかかる。と、その足を、下からのびてきた騎士の腕がむんずとつかんだ。
「きゃ! 何よこのスケベ騎士!」
レディの足をつかむなんて失礼よと言うなり、ミーナは腰のポシェットから何かを取り出し、ぱっとばらまいた。
パンパンパンと派手な音がして、火薬の臭《にお》いが広がった。色とりどりの火花が散って、宙にきれいな花の形を描く。まったく、いつの間にこんなものをこしらえていたんだろう? 騎士は花火の直撃をくらい、思わずミーナの足を離し、手で顔を覆《おお》った。
「お待たせ!」
ミーナはワタルの隣に飛び移った。
「ジョゾ、飛んで飛んで! うんと高く飛んでよ!」
ジョゾは舞いあがった。ガサラの町が、欣喜雀躍《きんきじゃくやく》している町のヒトたちが、呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる騎士たちが、どんどん小さくなってゆく。それでもワタルが、追いかけてくるロンメル隊長の視線を感じるのは、気のせいだろうか。
「言ったでしょ? わたし、どこまでだって、ワタルと一緒に行くんだから」
頬を火照《ほ て 》らせ、火薬の刺激《し げき》的な臭いに鼻をぴくぴくさせながら、ミーナは大きな笑顔《え がお》を浮かべた。
「ワタルは自分勝手よ。わかってる?」
「ぼ、僕は」
「ワタルがわたしたちのことを心配するのと同じように、わたしたちもワタルのこと心配なの。わたしたちが一緒にいなかったせいで、わたしたちが全然知らない場所で、ワタルが命を落としてしまうかもしれないと思うと、たまらないの。怖《こわ》いの。いてもたってもいられないの。だから、どんなに危険でも、一緒にいたいのよ。ついてゆきたいのよ」
ワタルは言葉もなくミーナを見つめ、それからキ・キーマの大きな顔を仰いだ。水人族はうなずいていた。
「何だか知らんけど、俺もミーナの意見に賛成だな」
「喧嘩は終わりかい?」と、カッツが言った。「それじゃ行こうかね。まったく、あの家の地下室に匿《かくま》ってもらってたんだけど、逃げ隠れするなんて性にあわないからね。いい加減腹が立ってたところだったんだ。ボリスの奴の間抜け面、見たかい? いい気味だったね!」
たくましく、手強《て ごわ》い女たち。上空の風に、くらくらしそうな頭を冷やしながら、ワタルはジョゾの翼に乗っていった。
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45 皇都ソレブリア
ミツルは空を見ていた。
北の統一|帝国《ていこく》皇帝の居城「水晶大宮殿《クリスタル・パレス》」は、皇都ソレブリアの中央に位置している。城を芯《しん》にして放射状に延びる十数本の街路に沿って、百万人の人口を擁《よう》する大都市が今日の姿を成すまで、二百年以上の歳月《さいげつ》がかかっていた。
大理石に似た乳白色の石で造られたこの威容《い よう》、クリスタル・パレスの本丸、皇帝の居室にもほど近い最上階の客室のテラスに立てば、ミツルは、眼下に広がる都の景観と同時に、北の統一帝国の歴史そのものを俯瞰《ふ かん》することができた。ソレブリアの町の構成は、今現在の北の統一帝国を形成している国民の階層と生活ぶりをも、そのまま映しているからである。城を中心とする官庁街の荘厳《そうごん》な町並み。その外側の商業地区の華《はな》やぎ。さらにそれを取り巻く市民たちの住宅街は、規制の範囲《はんい 》内におとなしく収まりつつも、それぞれの富と個性を主張する豊かな活気に満ちている。
しかし、それらの中心地区から離《はな》れるにつれて、町は徐々《じょじょ》に色彩《しきさい》を失ってゆく。中心街とその外側を隔《へだ》てている、深く掘《ほ》りさげられた堀《ほり》が境界線となり、高処《たかみ 》から見おろす者は、内と外との歴然たる差を目《ま》の当たりにすることができるのだった。
皇都ソレブリアはそれ自体が城塞《じょうさい》都市である。初代皇帝がここに皇都を定めたときから、営々と築き上げられ、増築と補強を繰《く》り返してきた都の外縁《がいえん》を巡《めぐ》る長|城壁《じょうへき》は、いつも、南大陸から北を訪《おとず》れる風船《かざぶね》商人たちの目を驚《おどろ》かせてきた。しかし、この長城壁にたった一ヵ所だけ設けられている関所を通過し、通称《つうしょう》商人隧道《ずいどう》≠ニも呼ばれる賑《にぎ》やかな一本道を通って商業地区へと向かい、そこに滞在《たいざい》するだけで、皇都の他《ほか》の場所へは足を踏《ふ》み入れることを許されない彼らの目には、長城壁の内側でさらに二重構造となっている皇都の真の姿を知る術《すべ》はない。富める者と貧しい者。君臨する者と服従する者。奉仕《ほうし 》される者と隷属《れいぞく》する者。その位置関係を、これほど正直に露呈《ろ てい》している都の形など、南大陸では想像もつかないものだ。
クリスタル・パレスからもっとも遠く、また北大陸の過酷《か こく》な気候が生み出した独特の暦法《れきほう》により、もっとも忌むべき方向とされている町の北北東には、皇都の治安を乱そうと試みた者たちが収容される刑務所《けいむ しょ》が威容を誇《ほこ》っている。この煉瓦《れんが 》造りの建物の裏手には、長城壁から外部に通じるもうひとつの関所があった。そこを通る者が何者であれ、これは常に、帰還《き かん》なき道へと通じる関所であった。関所からさらに北北東の彼方《かなた》へと延びる道は囚人《しゅうじん》街道《かいどう》≠ニ呼ばれ、その終着点である強制収容所の位置は、皇立国家地理院発行の地図には記載《き さい》されていない。その規模も知られてはいなかった。
かつてそこにもっとも大勢収容され、そこで命を落としていった囚人≠スちが、単に非アンカ族であるという以外には何の罪科《つみとが》もないヒトびとだったという歴史を、残されたヒトびとは知っていた。知ってはいたが、それを口にすることは許されず、またそれに刃向かうこともできなかった。すでに通り過ぎてしまった恐怖《きょうふ》には、忘却《ぼうきゃく》という手段で対抗《たいこう》するしかない。地図上の空白も、その手段のうちのひとつだった。あったことを忘れれば、なかったことと同じになる。
それでも、真実はいずこからか漏《も》れ出る。ヒトは語れずとも、建物は語る。自然が語る。そうして語られたものを、ヒトが密《ひそ》かに書き残す。皇都に滞在《たいざい》して今日で十日。ミツルは北の統一帝国の歴史と実状を、かなり正確に把握《は あく》していた。その大部分は、クリスタル・パレス内に設けられた歴史研究所のなかの書物から得た知識だった。
皇帝からじきじぎに賓客《ひんきゃく》として迎《むか》えられたミツルは、宮殿《きゅうでん》内を、かなり自由に歩き回ることを許されていた。彼はもっぱら歴史研究所に入り浸《びた》り、研究員たちも、探求心豊かで知力の高いこの旅人≠歓迎《かんげい》して、さまざまな知識を授《さず》けてくれた。ミツルは、彼らの差し出す歴史的知識が、彼らに都合よく粉飾《ふんしょく》されたものであることを承知の上で、快く受け取った。なぜなら、愛想《あいそ 》の良い対応を心がけておれば、それが盾《たて》となり、ミツルが本当に知りたいことを書き記した書物に近づくことが容易になるからだ。実際、それは呆《あき》れるほど簡単だった。歴史書のいくつかは、魔法《ま ほう》による封印錠《ふういんじょう》がかけられていたが、その程度のものならば、造作なく解いて、解いたことを悟《さと》られないようにまたかけ直しておくことなど、今のミツルには易しいことだった。
こうしてミツルは、南から潜《もぐ》り込んでいる工作員たちが、五年がかりでもまだつかむことができていないであろう情報まで、しっかりと手の内に収めてしまった。しかし、本当に求める情報は、まだ得られていない。そこに近づく方法が、ぼんやりと推察できるようになっただけ──
だから、ともすると空ばかりを仰《あお》ぐことになる。心の内の物思いを、空に映して。
北大陸で仰ぎ見る空は、南大陸の空よりも色が薄《うす》かった。凍《こお》りつき、褪《あ》せている。この季節、北ではそれでも寒気の緩《ゆる》む時期だというけれど、テラスに立つと、袖口《そでぐち》や襟首《えりくび》から冷気が忍《しの》び込んでくる。空を横切る鳥の群も、南大陸よりは数が少ない。
生きにくい気候が、生きにくい社会をこしらえた。意地悪な循環《じゅんかん》だ──ミツルの頬《ほお》に、子供らしくない苦笑《くしょう》が浮《う》かんだ。しかし、それ以上の表情も感慨《かんがい》もない。
非アンカ族を根絶やしにし、この北大陸で覇権《は けん》を勝ち得たアンカ族。同じ者ばかりが寄り集まって、ではようやく平和に暮らせるようになったのか。とんでもない。今度はアンカ族同士で同じことをやり始めた。その証拠《しょうこ》がこの皇都の二重構造だ。非アンカ族を迫害《はくがい》した歴史を血に染みこませた北大陸のアンカ族たちは、いつも誰《だれ》かを迫害し、その生を搾《しぼ》り取っていなければ、生きている実感が湧かないようになってしまったらしい。結局、同じことを繰り返しているというのに、誰も気づいていない。
ばかばかしい。救いがたい狂妄《きょうもう》と痴愚《ち ぐ 》。
何ひとつ共感するところもなければ、憐《あわ》れみ愛《いと》おしむ気持ちを呼びもしない。怒《いか》りもなければ、諫《いさ》める気にもなれない。だが、それで当然なのだ。たとえ北大陸の人民がこれほどまでに愚《おろ》かではなかったとしても、ミツルにとっては同じだったろう。
幻界《ヴィジョン》≠ナの出来事など、すべては幻《まぼろし》だ。現世《うつしよ》に戻《もど》れば消えて失くなってしまう、一時の夢に過ぎない。
旅人≠フ資格を得た瞬間《しゅんかん》に、ミツルは少年という現身《うつそみ》を捨てた。いや、捨てることを許されたのだ。現世でミツルを閉じこめていた器《うつわ》も、幻界ではミツルを捕《と》らえることはできない。
今ではもう、ミツルはたぶん、人間でさえないのかもしれない。たったひとつの属性は、旅人≠ナあるということ。そして旅人≠ノあるのは、ただ目的のみ。同情も愛慕《あいぼ 》も、友情も義憤《ぎ ふん》も、余計なものは、何もない。
さて、この空の下に広がる皇都ソレブリアを、どう料理したものだろう?
具体的な手段を講じなければならない。冷たい風に目を細め、ミツルは思案した。もうこれ以上、無駄《む だ 》に待たされるわけにはいかないのだ──
ここに至るミツルの道中に、困難と言えるほどのものはなかった。南北の大陸を隔てている大海の上には、たった三日間いただけだった。風船の船長は、海図を奪《うば》い取り、航路を聞き出してしまうと、ほとんど用なしになってしまった。大海原《おおうなばら》に出て、距離《きょり 》感をつかみ、方向さえわかってしまえば、風船などという頼《たよ》りない物理的移動手段よりも、魔法の方がずっと早くて確実だということが、わかってしまったからである。それ以来、風船の船体は、単なる足場として機能しただけに終わった。
そして北大陸に到着《とうちゃく》すると、風船は北の近海に沈《しず》めて、船長だけを連れて[#「連れて」に傍点]きた、あれはあれで役に立ちそうだと思ったからである。歳《とし》の割には丈夫《じょうぶ》な「素材」だ。
北大陸に降り立つと、手近な港町に潜《ひそ》んで疲労《ひ ろう》を癒《いや》し、ミツルはすぐに皇都を目指した。折良く、街道で、今年|徴収《ちょうしゅう》した年貢《ねんぐ 》を皇都へと運んでゆく微税吏《ちょうぜいり》の一行に遭遇《そうぐう》したので、道を尋《たず》ねる手間も省けた。ついでに「素材」もいくつか確保できた。殲滅《せんめつ》した徴税吏の残骸《ざんがい》は、風の魔法で塵《ちり》と散らしてしまったので、誰にも気づかれることはなかった。帝都の税務庁で、到着の遅《おく》れている徴税吏に首をひねっている役人がいるかもしれないが、そんなのはたいした問題じゃない。
皇都に着くと、消影《しょうえい》の魔法を駆使《く し 》してクリスタル・パレスに入り込み、内部の様子を探《さぐ》って、皇帝の居室を突《つ》きとめた。後は簡単。深夜を待って、いぎたなく眠《ねむ》りこけているガマ・アグリアスZ世の枕元《まくらもと》へと現れ、用向きを告げるだけで事足りた。
皇帝は驚き、畏怖《い ふ 》を露《あら》わに、寝間着《ね ま き 》姿のままミツルの足元にひれ伏《ふ》した。それは、ミツルが予想もしなかった以上の反応だった。
南大陸では、自身が旅人≠ナあることを知られる機会はなく、またそんな状況《じょうきょう》を招かなくても、ミツルは容易に旅を続けることができた。だから、旅人≠フ存在が幻界のヒトびとに与《あた》える衝撃《しょうげき》を、北の皇帝と対峙《たいじ 》して、ミツルは初めて実感したのだった。
我らは現世への憧《あこが》れを抱《いだ》いているのですと、皇帝は言った。
──我らにとって、そこは神聖なる地。神のおわしますところ。私はこの北大陸を、少しでも現世に近い国へと進歩させたいと願っておるのです。
その言葉を聞いたとき、ミツルは思わず笑ってしまった。現世の歴史が繰り返してきた紛争《ふんそう》と殺戮《さつりく》とを顧《かえり》みれば、皇帝の言っていることも、あながち間違《ま ちが》いとは言えまい──と思ったからだ。
しかし、一方では強い違和感《い わ かん》もおぼえた。聞きかじりではあるけれど、統一帝国では、創世の女神《め がみ》を否定し、女神を倒《たお》して老神の統《す》べる世をうち立てることを希《こいねが》う、老神教が国教になっているはずである。また老神教では、現世からの旅人≠ヘ女神の眷属《けんぞく》であり、ザザ・アク≠キなわち神を騙《かた》る者として、忌《い》み嫌《きら》われているらしいのに、皇帝にはまったくその様子がない。
訊《たず》ねると、皇帝は少しばかりたじろいだ。
──さすがに旅人≠フ耳は早い。我が国教についての知識も得ておられましたか。
皇帝は語った。「確かに我が帝国では、表向き、老神教を国教と定めております。しかし、それはただの方便。民草《たみくさ》をとりまとめ、創世の女神を崇《あが》める南の連合国家に対峙するための、政策のひとつでしかありません」
「では皇帝陛下も、実は創世の女神さまを崇めているというのですか?」
ミツルの問いに、皇帝は笑った。「そうではありません。確かに運命の塔《とう》はこの幻界の何処《ど こ 》かに存在し、そこには、現世のヒトびとの運命を司《つかさど》る女神さまが住まっているのでしょう。しかし、それは幻界の神≠ナはない。運命の塔と女神さまは、現世のヒトにとってのみ[#「現世のヒトにとってのみ」に傍点]、神としての機能を持っている。我ら幻界の住人には、いっさい関《かか》わりはありません」
なぜならば、幻界の神は、「現世」そのものであるはずなのだから。
「幻界の成り立ちを、ミツル殿《どの》はご存じでしょう? 幻界は、現世のヒトびとの想像力のエネルギーが創《つく》りあげている世界。ならば、幻界の創世の神≠ヘ現世のヒトびとだ。違いますかな?」
理屈《り くつ》としては、そのとおりだ。
「しかし、それならばなぜ、その現世からやってくる旅人≠迫害するような教義を含《ふく》んでいる老神教を、看板に掲《かか》げるのです? 政策だとしても、矛盾《むじゅん》している」
ミツルの反論は、軽くいなされた。「ミツル殿。十年に一度の割合で、要御扉《かなめのみとびら》は開きます。そのたびごとに、現世からどんな旅人≠ェ来《きた》るのか、我々にはわかりません。優《すぐ》れた人ならばよろしいが、時には邪悪《じゃあく》な者も、虚弱《きょじゃく》な者も来るかもしれぬ。我らが真に仰ぐべき現世からの旅人=A現世という聖地よりの使者を見分けるためには、厳しい環境《かんきょう》をこしらえておかねばなりません」
愕然《がくぜん》としながらも、ミツルは思い出していた。番人のラウ導師は言っていた──旅の厳しさに、挫折《ざ せつ》する旅人≠ヘ数多いと。旅を打ち切る。幻界の何処かで命を落とし、現世に帰還できぬまま消息を絶つ。
「しかし、ミツル殿はここにたどり着いた。たった一人で、この私の居室へと」
皇帝はもう一度、恭《うやうや》しく礼をした。
「お力のほどは、それだけでも充分《じゅうぶん》に推察されます。ようこそおいでくださった。私はあなたを神の使者として遇《ぐう》し、我が盟友としてこの城に迎《むか》えましょう。まずは旅の疲《つか》れをとるのが肝心《かんじん》」
こうして、ミツルはクリスタル・パレスの賓客となった。
ミツルは訊ねた。これまで、僕と同じようにこの地を訪ねてきた旅人≠ヘ、何人ぐらいいたのですかと。
我が国の歴史上では、統一戦争の激しかった最中に、たった一人訪れたきりですと、皇帝は答えた。
「その旅人≠烽ワた、力の強い真の使者であったそうです。彼は我が国に、種族統一という思想をもたらされた。平和と繁栄《はんえい》、富と力は、ひとつの血のもとにこそ訪れるもの。その思想が我が国の土台となり、統一戦争の勝利を呼び、やがては統一帝国そのものの基盤《き ばん》ともなりました──」
何ということだろう。北大陸における非アンカ族迫害と虐殺《ぎゃくさつ》の原因は、現世からの旅人≠ノあったのだ。しかも目の前の皇帝は、その旅人≠ヘ、強かったが故《ゆえ》に真の使者であり、邪悪ではなかったと言っているのだ。
ミツルは、自分が衝撃を受けていることに驚いた。現世での過酷な運命に揉《も》まれて、もう何があろうと、何を見聞きしようと、けっして驚きはしないと心に決めていたのに。
しかし次の瞬間には、その心に鞭《むち》をくれていた。こんなことで動揺《どうよう》しているわけにはいかない。幻界での出来事など、自分には何の関わりもないのだ。運命の塔にたどり着き、目的を達して現世に還《かえ》る。目指すべきはそれだけなのだから。
そのためになら、どんな手段をとることも厭《いと》わない、と。
翌日、豪奢《ごうしゃ》な貴賓室の寝台《しんだい》で目を覚ますと、ミツルの賓客としての生活は、すでに始まっていた。上機嫌《じょうきげん》の皇帝に、皇帝一族の者たちや、クリスタル・パレスの臣下たちに引きあわされ、大々的な歓迎《かんげい》の儀式《ぎ しき》の準備が始められていることを告げられた。宮殿内を案内され、城の謂《い》われを聞かされ、統一帝国の歴史を説かれ──
だがミツルが求めているのは、もちろん、そんなものではない。珍《めずら》しく焦《あせ》りをおぼえて、ミツルはもう一度、皇帝との内密な話し合いを求めた。
そしてうち明けた。自分が北へ渡《わた》ってきた理由を。皇帝一族の保持する宝冠《ほうかん》に飾《かざ》られた宝玉が、自分の求める最後の宝玉であることを。それさえ手に入れることができれば、運命の塔への道が開ける。一刻も早く、ミツルは宝玉を手にしたいのだ。
さらに、南大陸を出る直前になって、旅を急がねばならない理由が、他にも存在すると知ったことをも説明した。言うまでもなく、ハルネラ≠ナある。
運命の塔への競争で、ワタルに負ける気はしなかった。そんな心配は、一切《いっさい》していない。しかし、二人に一人がヒト柱に選ばれるという確率の高い危険が迫《せま》っているのならば、少しでも早く幻界を立ち去るにこしたことはないはずだ。
しかし、ミツルのその訴《うった》えを、あろうことか、皇帝は大らかに笑い飛ばしたのだった。
「ハルネラ≠ネどという事象は、我が統一帝国ではまったく知られておりません。歴史学者の誰も、そのようなものの存在を認めていないのですよ。あるいはそれは、南大陸の連邦政府による、悪質なデマであるかもしれぬ。ミツル殿は騙《だま》されているのです」
そうかもしれない。だが、そうでないかもしれない。あんたらがただ無知なだけなのかもしれないじゃないか。ミツルは内心で歯噛《は が 》みしつつ、それを表情に出さないようにするために、大変な労力を費やした。
「では皇帝陛下は、ハルネラ≠ネど心配するに足らずとおっしゃるのですか?」
「そのとおりですよ、ミツル殿」
「しかし、たとえそうであっても、僕は運命の塔への旅を急ぎたいのです」
すると皇帝は、ひどく困ったような顔をした。装飾の多い衣装に埋《う》もれそうな身体《からだ》を起こし、軽く額に手をあてると、
「お気持ちはわかりますが、しかし、しばらくはお待ちいただくほかに術がないのです」
と、厳《おごそ》かに宣言した。
「何故《なにゆえ》にです?」
「ミツル殿のお求めになっている宝玉を飾りつけた宝冠──それはまず間違いなく、我が一族代々の宝である封印の冠《かんむり》≠フことでしょう」
「封印の冠>氛氈v
「左様です。それをお渡しすることが、今は難しい。なぜならば、封印の冠≠その保管場所から動かせば、必ず、我が統一帝国に──いえ幻界全体に、恐《おそ》ろしい災厄《さいやく》が降りかかると、我々は知っているのです。ミツル殿のお探しの宝玉が、幻界をその災厄から守っている。だからこそ、その宝玉を飾った冠が、封印の冠≠ニ呼ばれているのですよ」
さすがのミツルも言葉に詰《つ》まった。
「では、どうしろとおっしゃるのです? 幻界を災厄から守っている宝玉ならば、永遠に僕の手には入らない」
「いや、それは違います。だからこそ、今は難しい[#「今は難しい」に傍点]と申しあげました。実は、その災厄を封印する手だては、他にもあります。もうひとつの方法が。しかしその方法を実行するためには、残念ながら、我が統一帝国の力だけでは足りません。南大陸からも、そのための材料を集める必要があるのです」
いったい、どういうことなのだ。
「少し以前であるならば──」皇帝は玉座にもたれ、物憂《ものう 》い声で続けた。「我が統一帝国と南大陸の関係が拮抗《きっこう》し、膠着《こうちゃく》状態にあったころならば、その材料集めはほとんど不可能に近いことでした。それなりに手を尽《つ》くしてはみたのですが、はかばかしい進展が望めなかったのです。しかし現在は、事情が違う。詳《くわ》しいことはまだわかりませぬが、南大陸に潜入《せんにゅう》させている我が国の工作員たちの報告によれば、かの国から我が国へと、両国の力関係を激変させるほどの力を持った何かが、ひそかに持ち込まれた形跡《けいせき》があるとか。その何か≠見つけ出すことさえできれば、我らはすかさず南大陸へと攻《せ》め込み、即座《そくざ 》に平らげることまでは難しくとも、こちらの意向を通しやすい状況を作りあげることもできるでしょう」
その何か≠ノついて、ミツル殿はご存じか──
問われて、ミツルは顔をあげた。このタヌキ親父《おやじ 》め、本当は知ってるんじゃないのか?
わざと知らん顔をして、探りを入れてるんじゃないのか?
ミツルは、現世から持ち込まれた動力船の設計図を取り出した。
「たぶん、これのことでしょう」
こんなふうに取引するつもりではなかったのに。
設計図は皇帝の手に渡った。その喜びようときたら、浅ましいほどだった。
「聖地よりの使者よ、神の遣《つか》いよ。この設計図さえあれば、すでにして勝利は我が統一帝国のものだ。来るべき勝利を、我々と一緒に分かち合っていただきたい。どうぞそれまで、我が帝国、我が居城での滞在を、心ゆくまで楽しまれますように!」
そしてミツルは待たされることになったのだ。皇帝が南の連合国家を圧倒《あっとう》し、封印の冠を動かしても安全な方策を講じることができるその時まで。
失策だ。ミツルはほぞを噛んだ。今の事態は自分の失策が招いたことだ。だが、これからは違う。皇帝よ、あんたが南の連合国家を攻め落とすまで、僕をのんびり待たせておけると思ったら大間違いだ。ミツルはテラスの手すりの上で、ぎゅっと拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
すぐにも宝冠を寄越《よ こ 》さなければ、その災厄とやらが降りかかってくる以前に、皇都が丸ごと滅《ほろ》びるぞ。そう言って、それができることを見せつけて、皇帝を震《ふる》えあがらせてやるのだ。封印の冠が何を封じているにしろ、そんなのは、ミツルには関係のないことなのだ。その対策なら、勝手に考えろ。
ただ、それにはまだ──
「ミツル殿」
呼ぶ声に、ミツルは、テラスの手すりにもたれたまま、首をよじって振《ふ》り返った。
賓客室の両開きの扉を開けて、アジュ・ルパが姿勢を正し、礼をしている。クリスタル・パレスの執務《しつむ 》官の一人で、皇帝の勅命《ちょくめい》を受け、ミツルの世話係を務めている男だ。歳は四十代も後半と見える。その年齢《ねんれい》と、学者的で穏和《おんわ 》な風貌《ふうぼう》に騙されてはいけない。ミツルは彼を、ただの政務官ではないと睨《にら》んでいた。
シグドラ≠ニ呼ばれる皇帝直属の特殊部隊のことは、南大陸にいるときから聞き知っていた。旅の途中《とちゅう》で立ち寄った小さな村の宿屋で、昔この村にシグドラ≠ェ襲撃《しゅうげき》をかけ、ある村人の家を焼き払《はら》い、家人を惨殺《ざんさつ》したことがあるという昔話を聞かされたのだ。
その当時は、まだ封印の冠≠ノまつわる話など知らなかったから、ミツルは、戦争でもないのに、北の統一帝国の特殊部隊が、なぜ南でそんな事件を起こすのかと、不審《ふ しん》に思った。だが、今ならわかる。それが皇帝の言っていた材料集め≠ニやらで、はかばかしく進まなかったやり方なのだろう。
その昔話をしてくれた宿屋の主人は、声を潜めて言っていた。「北の帝国では、北から南へ逃《に》げてきた難民を、シグドラ≠使って連れ戻したり、殺させたりしているんだよ。目的はわからねえ。何かを取り返そうとしてるんだとか、その難民の口をふさぐためとか、いろいろあるようだけども」
それを聞いて、ミツルは、北へ渡るときには、シグドラの動きによく注意しようと思ったのだった。
アジュ・ルパは、おそらくシグドラの一員である。しかも下《した》っ端《ぱ》ではなく、リーダー格の存在なのだろう。皇帝はミツルを歓迎しているし、それは偽《いつわ》りではないのだろうが、だからといってまったく警戒《けいかい》していないわけはない。皇帝の都合でミツルに待ちぼうけをくわせていることがわかっている以上、なおさらだ。腕《うで》の立つシグドラのメンバーを、ミツルの身辺に張りつけておこうとするのは当然の処置と言える。
「ゾフィ様が、よろしければまた、戦勝の庭園≠フ四阿《あずまや》にて、午後のお茶をご一緒にどうかと申されております」
アジュ・ルパは丁重《ていちょう》にそう申し述べた。
皇女ゾフィは、皇帝の一人娘《ひとりむすめ》である。順当に行くならば、現皇帝|亡《な》き後は、彼女がガマ・アグリアス[世として戴冠《たいかん》し、統一帝国初の女帝となることだろう。
もっとも、そこまでの道のりが、あまり平らかではなさそうな様子であることを、ミツルはすでに知っていた。クリスタル・パレスの住人たちは、皆《みな》おしゃべりだ。噂《うわさ》、陰口《かげぐち》、ひそひそ話。自身の口が軽いことを意識しておらず、その軽い口が、大切な事柄《ことがら》を漏らしてしまうことがあるという危険にも気づいていない、実に操縦しやすいおしゃべりの集団である。
「少しばかり退屈していたところに、有り難《がた》いお誘《さそ》いです。すぐ参りましょう」
ミツルはそう応じると、クリスタル・パレスの敷地《しきち 》内を縦断し、戦勝の庭園≠ヨ着くまでのあいだに凍《こご》えてしまうことがないように、踵《かかと》まで届く長い毛織物のローブを身に纏《まと》った。
クリスタル・パレスは、緑|溢《あふ》れる幾多の庭園に取り囲まれている。それぞれの庭園は個々に趣向を異にし、個別の名称を与えられている。いちばん多いのは、歴代の皇帝と皇帝一族の重要人物の誕生日を記念して造園されたものだが、起源の庭園≠竍服《まつ》ろう者の泉の庭園≠ネど、外部の者にはすぐに名前の由来がわからないものもあった。
戦勝の庭園≠ヘ、三百年前、北大陸じゅうに分裂《ぶんれつ》散在していた小国家群との長く苛烈《か れつ》な内戦を勝ち抜《ぬ》き、ガマ・アグリアスT世が統一帝国を立国したとき、この地にあった砦《とりで》の砲台の土台石を、そのまま活かして造られたものである。四阿の柱と屋根にも、砦の素材であった材木や煉瓦を再利用しており、初めて訪れたとき、ミツルは、野趣という以上に、いささか殺伐《さつばつ》としたものを感じた。
しかし、皇女ゾフィはこの庭園を気に入っているようである。お茶の招待を受けるのはこれで四度目だが、場所はいつもここだ。北大陸の烈風と寒気に強い灌木《かんぼく》が主体の造園で、もともと、クリスタル・パレスの庭園は華やぎに乏しい。それでも、歴代|皇妃《こうひ 》の庭園や、光臨の庭園≠ニ呼ばれるバラ園など、花と色彩に溢れた造りの庭も、ないわけではないのだ。なのに、とりわけ殺風景なこの庭園を、皇女ゾフィがなぜ愛《め》でるのか。ミツルにはわからなかった。
また戦勝の庭園≠ヘ、クリスタル・パレスの敷地内では、城からもっとも離れた場所に位置している。、ミツルはパホ≠ニ呼ばれている現世の子馬に似た家畜《か ちく》の背に乗って行くが、皇女は従者が操《あやつ》る人力車に似た乗り物を利用しているようだ。ひょっとしたら、ゾフィはこの乗り物の方をこそ好んでいて、これに乗る機会をつくるために、戦勝の庭園≠使っているのかもしれなかった。
(あるいは、乗り物を操る従者を好んでいるのかもしれない)
この従者は紅顔の若者で、近衛《このえ 》騎士《き し 》どころか兵士でさえない卑賤《ひ せん》の者である。武具の類《たぐい》は一切身につけることを許されず、統一帝国の象徴である太陽を模した文様の入った簡素な胴着《チュニック》を着ているだけだ。彼は戦勝の庭園≠ワで皇女を乗せてくると、彼女のお茶と散策が終わってまた城へ戻るまで、盾の形に刈《か》り込まれた植え込みの陰に下がって、静かに控《ひか》えている。ミツルの知っている限り、皇女が彼の名を呼んだことはないし、彼も言葉を発したことはない。
しかし皇女が彼に向ける視線に、何がしかの意味を感じたことは、一度ならずあった。
初めてお茶に招かれ、植え込みの陰で片膝《かたひざ》と片手を地面について礼をしている従者の存在に気づいたとき、ミツルは彼もシグドラの一員だろうと考えた。クリスタル・パレスの敷地内であっても、万が一のことを思えば、皇女には身辺警護が必要であろうし、それには、これみよがしに敷地内を巡回《じゅんかい》している警備兵たちや近衛兵たちだけでは心もとない。皇女の身近に、従者に身をやつしたシグドラが付き添っていたとしても不思議はない。
だが、今ではそれに確信が持てない。ミツルの持っている魔《ま》導士《どうし 》の杖《つえ》は、その頭部を飾っている魔石がすでに四《よっ》つの宝玉の力を吸収しているので、様々な威力を秘《ひ》めている。そのなかには、軽くかざしてみるだけで、対象物を透視《とうし 》することのできる便利な機能もあった。たとえばアジュ・ルパに杖を近づけてみると、彼がひそかに身に帯びている武器がすべて見えるし、それを使う腕前のほどをも推察することができた。剣士《けんし 》の能力が、闘気《とうき 》のオーラとなってその身体を包み込んでいるのを、杖が見せてくれるのだ。そしてそのオーラの色合いや輝《かがや》きの強さで、どの程度の使い手であるのかを知る。
しかし皇女の従者に限っては、何度杖を向けてみても、隠し武器も見つからなければ、闘気を感じ取ることもできないのだ。よほど自身の正体を隠すことに長《た》けているのか。それとも、やはりただの無害な車引きに過ぎないのか。
問題の従者は、今日も植え込みの陰に慎《つつ》ましく控えていた。ミツルの姿を見つけると、素早《す ばや》く立ってパホの手綱《た づな》を取り、ミツルが鞍《くら》から降りるのに手を貸してくれた。
皇女ゾフィは、四阿に設置された背もたれのある椅子《い す 》に腰《こし》かけ、頬笑んでいた。この椅子も、元は砦の壁の素材だったという日干し煉瓦を積みあげて造られたもので、そのままではいたく座り心地が悪いので、ふっくらとしたクッションが敷かれている。同じ煉瓦製の丸テーブルの上には、四隅《よ すみ》に凝《こ》った刺繍《ししゅう》のほどこされたクロスがかけられ、銀器が陽光に輝いていた。
皇女がここにお茶に来るたびに、茶器や菓子《か し 》はもちろん、湯を沸《わ》かす道具など、必要なものをすべて運び込むために、ざっと十人ばかりの女官たちがぞろぞろとくっついてくる。彼女たちは、お茶の時間のあいだじゅう、こまめに給仕《きゅうじ》として働き、手の空いている者も、皇女とその客のどんな些細《さ さい》な要求にでも即座に応《こた》えられるようにと、ぐるりを取り巻き固唾《かたず 》を呑《の》んで待機している。最初のうちは、この大げさな歓待のなかでお茶を楽しむのは、なかなか難しいことだった。皇女の自然なふるまいが、奇異《き い 》に見えた。もっとも、それが王族というものなのだろう。生まれつき、大勢の他人にかしずかれることを当然として育っていれば、誰でもそのようになるのだ。
くだらない──と、腹の底では思っている。一人に対して十数人が奉仕する、特権的な仕組み。それによって、もっと有意義に使うことができるはずの人材のエネルギーを無駄に費やしていることに、まったく無自覚なのだ。しかしそれは、かつての現世の歴史でもある。幻界を訪れることは、その意味では、タイムマシンに乗って過去を訪れることに等しいと、ミツルは考えていた。
「今日はことのほか冷えるようです。庭園でのお茶には、あまりふさわしくない陽気でしたね」
皇女が椅子から立ちあがり、ミツルを出迎えた。従者と同じ格好で、すっと地に膝頭《ひざがしら》と拳をつけて挨拶《あいさつ》すると、ミツルは勧《すす》められた椅子に近寄った。
「しかしこの空の蒼《あお》さは格別です。魂《たましい》まで洗い浄《きよ》められるような美しさですね」
「それは嬉《うれ》しいお言葉ですわ。ご存じでしょうか。わたくしのゾフィという名前は、古語では青色を示す意味を持っているのです」
皇女は楽しげに女官たちに指図を与え、薫《かお》り高いお茶や色とりどりの茶菓を、テーブルいっぱいに広げさせた。そのあいだにも、さえずるような声で話し続ける。朝起きたときの気分が好《よ》かったことに始まり、いつもの歴史学者による御前《ご ぜん》講義が難しかったこと、新しい舞踏《ぶ とう》着の仮縫《かりぬ 》いに時間をとられてしまったこと、皇都で評判になっている新作歌劇について、女官たちから聞いたこと──
ゾフィは十五歳である。皇女であっても年頃《としごろ》の小娘だ。浮《うわ》ついて軽薄《けいはく》で、おしゃべりであることは、そこらの町娘と変わりない。ミツルは寡黙《か もく》に、時折ふさわしい相槌《あいづち》のみを入れながら、皇女のおしゃべりの受け皿となりきった。
頬笑んだりうなずいたり、驚いたり感心してみせたり。ミツルの反応を、皇女は心から楽しみ、年少ながら利発な話し相手を得たことを喜んでいるようだ。ミツルもまた、彼女にはけっして悟られることのない秘密の理由で、このひとときを楽しんでいた。
初めて皇女に引き合わされたとき、息が停《と》まりそうになるほど驚いた。彼女の面差《おもざ 》しが、ミツルのよく知っている人物に、あまりにもよく似ていたからだ。
現世に残してきた叔母《お ば 》──ミツルの父の末妹にあたる女性である。
ミツルの父は、ミツルの母の浮気《うわき 》を怒り、子供たちを道連れに無理心中を企《くわだ》てた。結果として母と小さな妹は父の手にかかり、父は自宅から逃げ出して、二人を追いかけて自殺した。そしてミツルだけが生き残った。殺され損《そこ》ね、死に損なったのである。
ミツルは親戚《しんせき》の家を転々とした後、叔母のもとへと引き取られた。いや、ミツルに言わせれば、叔母はババ抜きのババを押しつけられたのだ。大学を出て社会人となったばかりの歳若い彼女は、ミツルの身の上に同情しつつも、きっと途方に暮れていたに違いない。ミツルに優《やさ》しくしようとしては失敗し、ミツルをコントロールしようとしては、自身のコントロールを失って、泣いたり怒ったりを繰り返していた。
不幸な人だった。いつも悲しげな、戸惑《と まど》ったような目をしていた。
他でもないこの自分という存在が、叔母を不幸にしているのだと、ミツルは知っていた。そしてミツルをその立場に追い込んだ亡き父を、もう一度この手で殺してやりたいと思うほどに恨《うら》み、憎《にく》んだ。その思いが幻界への道を開き、あの建築途中で放置されたビルの階段の上に、要御扉《かなめのみとびら》を出現させたのだ。
ちょっとした仕草。表情の変化。声の調子。皇女ゾフィのすべてが叔母を思い出させる。叔母が、前途に何の不安もない女子高生だったころには、きっとこんな美少女だったのだろうと、ミツルは思うのだった。
扉の番人のラウ導師は言っていた。ミツルが幻界を旅するうちに、あるいは現世で親しい誰かを彷彿《ほうふつ》とさせるようなヒトに出会うこともあるかもしれないが、そんなときも徒《いたずら》に騒《さわ》いではいけないと。
──どれほどよく似ていようとも、そのヒトは現世の人間とは異なっている。何ひとつ、共有している要素はない。なぜなら、おまえの心のエネルギーが、そのヒトの姿をそのように作りあげているだけなのだから。
ミツルはその戒《いまし》めを、導師の他の戒め同様、しっかりと心に刻み込んでいたが、幸か不幸か北大陸に来るまでは、現世の誰かと似ているヒトに出会うことはなかった。皇女ゾフィが初めてである。
そして今──こうしてゾフィの顔を間近に眺《なが》めながら、心の底で思うのだった。実は幻界は、現世の人間の想像力のエネルギーの余剰《よじょう》によってできた世界であるという以上のものなのではあるまいか。現世と幻界は盾の裏表、相互《そうご 》に補完しあう関係にあるのではないか。
現世で切り捨てられたもの。現世で実体化しなかった事象や、かなえられなかった夢や幻が、幻界を形づくっている。きっとそうに違いない。それだからこそハルネラ≠ノも、現世と幻界から一人ずつ、ヒト柱が必要なのだ。
そうであるならば、ゾフィの屈託《くったく》のない笑顔や、何不自由のない幸せは、実は本来、現世のミツルの叔母にこそ与えられるべきものなのではないだろうか。ミツルが運命の塔へ達し、不当にねじ曲げられた運命を修正し、現世に帰還した暁《あかつき》には、今ここでゾフィが享受《きょうじゅ》している幸福のすべてが、叔母のものとなるのだ。
それは、ミツルにとって、きわめてわかりやすい道標だ。叔母とゾフィの関係は、いわば見本である。その法則は、母にも、妹にも、ミツル自身にも適用されるのだから。
残るひとつの宝玉を前に、知力を振り絞《しぼ》らねばならない局面で、ミツルが、現世の人間に似たヒトに出くわした意味も、そこにあるのではないか。運命の塔はミツルを差し招き、大詰めのひと頑張《がんば 》りにミツルを奮い立たせるためにこそ、皇女ゾフィと巡り合わせたのだろう。
だから、ミツルは、ゾフィの他愛ないおしゃべりに付き合うたびに自身の果たさねばならない目的の重さを再認識《さいにんしき》し、それをし遂《と》げたときに得られるものの大きさに、思いを馳《は》せることになる──
「ミツル様?」
呼びかけられて、ミツルはつと瞳《ひとみ》の焦点《しょうてん》を絞った。ゾフィがこちらをのぞきこんでいる。心のなかの思いに気をとられて、会話への集中が切れていたのかもしれない。
「これは失礼いたしました。あまりに心地よいので、心が空に漂《ただよ》い出そうになってしまったようです」
ゾフィはにっこりと笑った。多彩な色石を銀の鎖《くさり》でつないで作られた髪飾りが、優雅《ゆうが 》に揺れた。
「お気になさらないでください。ミツル様が心配事を抱《かか》えておられることを、わたくしはよく存じております。いえ、その心配事の原因が、わたくしの父にあることも……」
ミツルは表情を引き締《し》めた。
ゾフィはずらりと居並ぶ女官たちの方に顔を向けると、命じた。「わたくしはこれから、ミツル様と大事なお話があります。こちらから呼ぶまで、下がっておいで」
女官たちはしずしずと立ち去った。戦勝の庭園≠ゥら出てゆく。
「おヒトばらいを?」と、ミツルは訊ねた。「よろしいのですか」
「はい。女官たちを去らせたところで、いずれどこかで、アジュ・ルパの手の者が聞き耳を立てていることでしょうけれども、かまいません。それというのも、ミツル様とこのお話をするように、わたくしに勧めたのが、他ならぬアジュ・ルパだからです」
前者については驚くようなことではなかった。シグドラ≠フ目は、どこにでも光っている。しかし後者は意外な展開だ。
「ルパ殿は、何とおっしゃったのですか」
ゾフィは軽くくちびるを噛むと、ミツルの頭ごしに、例の従者が控えている植え込みの方へと視線を向けた。
「それをお話しする前に──ミツル様は、わたくしの車を引く従者の正体に、お気づきになりましたか」
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46 常闇《とこやみ》の鏡
話が唐突《とうとつ》にそれたので、ミツルは口をつぐんだまま皇女の顔を見つめていた。
「アジュ・ルパが申していました」
ミツルの凝視《ぎょうし》を受け止めて、少しはにかんだように微笑《びしょう》を浮《う》かべると、ゾフィは続けた。
「ミツル様は旅人≠フ持つ不思議な力で、ヒトの正体をよく見抜《み ぬ 》くお方だと。きっとその杖《つえ》をお使いになるのでしょうね」
そう言って、ミツルの椅子《い す 》の肘《ひじ》に立てかけてある杖の方に目をやった。
「わたくしの従者にも、一度ならず、その杖の力を働かせておられたのではありませんか。そしてミツル様が怪訝《け げん》そうなお顔をされるのを、わたくしは見たことがあります」
意外に鋭《するど》い。ミツルは皇女に倣《なら》って微笑をつくった。
「おっしゃるとおりです。やはり、皇女様はたいへん聡明《そうめい》でいらっしゃる。感服するばかりです」
ゾフィは喜ばなかった。「それで、何が見えましたの? いえ、はっきり申しましょう。何も見えなかったのですわね。だからミツル様は訝《いぶか》られたのです。そうでしょう?」
ミツルは素直《す なお》にうなずいた。皇女はいったい何を話そうとしているのか。
「見えなくて当然です。あれはヒトの姿をしてはおりますが、ヒトではないのですから」
あの従者は虚《ウロ》≠ニいうものなのですと、ゾフィは言った。
「魂《たましい》なき存在です。主人の命令には忠実に従いますが、己《おのれ》の意思を持つことはありません。感情もなく、痛みをおぼえることもない。病を得ることはあり、殺せば死にますから、命はあるのでしょう。でも命があるだけで、果たして生きていると言えるものでしょうか」
哀《あわ》れです──と呟《つぶや》く。ゾフィがあの従者に向ける視線の意味は、そういうことだったのだ。ほのかな恋愛《れんあい》感情などではなかった。
「ウロというもの、初耳です」と、ミツルは言った。「南大陸では聞いたことがありませんでした」
「ええ、当然です。あれはこの北大陸だけのものなのです」
「病が原因ですか?」
ゾフィは、髪飾《かみかざ》りが落ちそうになるほど強くかぶりを振《ふ》った。「いいえ!」
ミツルは目を細くした。「では、薬や魔術《まじゅつ》? それとも何らかの外科《げ か 》的な措置《そ ち 》をほどこすのでしょうか」
ゾフィのミツルに向ける視線に、初めて怯《おび》えの色が混じった。「恐《おそ》ろしいことをおっしゃいますのね」
「思いつきです」
椅子に座り直し、髪飾りを直すと、皇女は持ち前の甘《あま》やかな響《ひび》きの声を少し抑《おさ》えた。
「ヒトは、常闇《とこやみ》の鏡≠のぞきこんでしまうと、ウロになるのです。理由は、常闇の鏡に魂を吸い取られてしまうからだとも、そこに映る光景があまりに恐ろしい故《ゆえ》に、魂がそのヒトの身体《からだ》から逃《に》げ出してしまうからだとも言われていますが、はっきりわかってはおりません。ただ、どんな強いヒトでも、賢《かしこ》いヒトでも、常闇の鏡をひと目見れば、みんなウロになってしまいます」
ミツルの頭は忙《いそが》しく活動を始めた。どうやらゾフィは今、皇帝《こうてい》である父親がミツルから隠《かく》しているものについて、密《ひそ》かにうち明けようとしているらしい。ミツルが図書室の資料を読み尽《つ》くしても知ることができなかった、皇帝一族だけの秘密。
しかも、それはアジュ・ルパの差し金だという。ミツルは心の隅《すみ》で、思案の秤《はかり》を動かした。ゾフイはそのことの意味を理解しているのだろうか? アジュ・ルパは何を企《たくら》んでいる?
「その常闇の鏡≠ニいうもののことは、今初めて教えていただきました。へえ……」
と、ミツルは首を振ってみせた。
「恐ろしい鏡ですね。それは、この北大陸のどこかに存在するのですか?」
好奇心《こうき しん》を表しながらも、あくまでもこれまでの会話の続きで、のんびりと質問した。ゾフィは、捕食《ほしょく》動物の足音を聞きつけた野ウサギのように緊張《きんちょう》している。少しでも驚《おどろ》かされれば、巣穴のなかに逃げ帰ってしまい、二度と首を出してはくれないだろう。慎重《しんちょう》にしなくては。
案の定、ゾフィはそろそろと目をあげて、ミツルの顔色を窺《うかが》っている。
「父は──ミツル様に、常闇の鏡のことをお話ししてはおりませんか。差し渡《わた》しがわたくしの身の丈《たけ》ほどある、銀色の鏡。形は、たいそう美しい鏡です」
「ほう。伺《うかが》ったことはありません」
「本当に?」
ミツルは笑ってみせた。「本当です。そんなに張りつめたお顔をされるほどに、それは大切な秘密の事柄《ことがら》なのですか?」
小さなため息を漏らすと、ゾフィは片手を喉元《のどもと》にあてた。芝居《しばい 》がかった仕草ではあるけれども、その懊悩《おうのう》は嘘《うそ》ではなさそうだ。
「ミツル様は、創世の女神《め がみ》さまがそこにいるという、運命の塔《とう》を目指しておられるのですね」
「それが旅人≠フ使命であり、目標ですから」
「それにはあとひとつ、宝玉が要《い》る。その宝玉は、我が皇帝一族が持っている宝冠《ほうかん》に飾《かざ》られている」
「ええ、封印《ふういん》の冠《かんむり》ですね」
「それはご存じでしたか。そうですか」
ゾフィは長い睫毛《まつげ 》を伏《ふ》せる。
「大切な冠で、みだりに動かすことはできないというお話でした」
「おっしゃるとおりです。だから父は──こうしてミツル様をお待たせしております」
お待たせする理由について、父からは何と説明を受けたでしょうかと、ゾフィは訊《たず》ねた。
ミツルは姿勢を正して、皇帝とのやりとりの詳細《しょうさい》を、丁寧《ていねい》に説明した。
そんなことをすると、またぞろ腹が立ってくる。怒《いか》りは、ミツルの顔の皮一枚下にまで充満《じゅうまん》していた。今ここで、ゾフィの可愛らしい顔に面と向かって、僕はあなたの父上の勝手な言い分に振り回され、待ちぼうけをくっていることに、もう我慢《が まん》がならないのです。だからここに来る前も、居室のテラスから城下を見おろして、この皇都を滅《ほろ》ぼしてやろうと考えていましたと言ってやることができたなら、どんなに爽快《そうかい》なことだろう。
しかしミツルの賢さと、その怒りの強さ故に、かえって仮面は剥《は》がれない。語るミツルの柔和《にゅうわ》な表情を、ゾフィは一心に見つめている。そしてミツルが言葉を切り、冷めかけたお茶を一口飲もうとすると、小声で訊ねた。
「何だか歯がゆいようだと、お思いにはなりませんでしたか」
「どういうことです?」
「封印の冠がどれほど大切なのか、それを動かすとどんな災厄《さいやく》が降りかかるというのか、父は具体的にお話ししておりませんもの」
「そうですね」ミツルはゆっくりと言葉を選んだ。「僕もお訊ねしてみたのですが、それ以上立ち入ったことは教えていただけませんでした」
皇女は急に身を乗り出すと、つと手をのばしてミツルの手の上に重ねた。
「お許しください。言い訳をするのではありませんが、父は父なりにミツル様のためを思い、細かなお話は避《さ》けたのです。なぜならば、封印の冠にまつわる事柄は、忌事《いみごと》であるからです。穢《けが》れであるからです。現世《うつしよ》という聖地からの神の使者であるミツル様のお耳に入れてはいけないと、父は考えたのでしょう」
ミツルは、重ねられた手をそのままに、さらに優《やさ》しい口調で問いかけた。
「わかりました。しかし今、皇女様は、僕にその忌事について教えてくださろうとしている。そうですね?」
ゾフィは思い詰《つ》めたまなざしのままうなずいた。そして、急にはっとしたようにミツルの手から手を離《はな》し、テーブルから身を起こす。
「お気持ちは有り難《がた》く思います」ミツルは頭をさげた。「でも、心配ですね。そんなことをなさっては、皇帝陛下に叱《しか》られませんか」
「それは……」
先回りをして、ミツルはさらに微笑を広げる。「教えていただいたことを、僕がこの胸ひとつに収めておけば大丈夫《だいじょうぶ》だと。そういうことですね?」
ゾフィは、他愛ない秘密を共有する親しい友達同士のように、笑《え》みを浮かべた。そわそわと、慣れない手つきでお茶のポットを取りあげ、カップに注ぎ足そうとして、こぼしてしまった。ミツルがナプキンでそれを拭《ぬぐ》っていると、ゾフィは小声で言った。「アジュ・ルパが申していたのです。ミツル様はお一人でいるとき、とても悲しげなお顔をなさっていることがあると」
スパイめ。ミツルは内心で毒づいた。
「それはきっと、現世のことを思い出しておられるときなのですね。現世に残してこられたお身内の方たちや、お友達──懐《なつ》かしい方々のお顔を思い浮かべて、心が沈《しず》んでしまうのでしょう」
ミツルは口をつぐんでいることで、ゾフィの言うとおりだと認めてみせた。
「一日でも早く運命の塔へ至り、目的を果たして現世にお帰りになりたい。ミツル様はそう思っていらっしゃるのだと、ルパは申しました。わたくしもそう思います。それが当然だと思いますもの」
でも、それでも[#「それでも」に傍点]と声を励《はげ》まし、
「父がミツル様をお待たせしていることにも、本当にそれだけの理由があるのです。ルパは、皇帝陛下のご説明では、ミツル様にご納得《なっとく》いただくには足りないと考えています。それでわたくしからお話ししてはどうかと勧《すす》めてくれたのでした」
すべては、常闇の鏡のせいなのですと、ゾフィは言った。
「封印の冠が封じているのは、常闇の鏡です。あの恐ろしい鏡の力を抑え込むことができるのは、封印の冠に取りつけられた、あの尊い宝玉だけなのです。ミツル様がお求めのその宝玉を、わたくしたちは闇の宝玉≠ニ呼んでいるのですが」
闇の宝玉。ミツルの胸がざわついた。
「そも闇の宝玉は、魔界≠ゥら幻界《ヴィジョン》≠ヨと持ち込まれたものです。だからこそ、常闇の鏡を封じることができるのです」
ミツルは端的《たんてき》な質問を放った。「常闇の鏡とは、いったい何なのです? それに魔界とは? 現世と幻界の他《ほか》に、まだそういう世界があるのですか?」
ゾフィの活《い》き活きとした顔色が翳《かげ》り、口調も遠慮《えんりょ》がちになった。
「今さらミツル様に、わたくしがこんなことをご説明するのもおかしいのですけれども、少しご辛抱《しんぼう》くださいませ。現世と幻界という、対《つい》になる世界。しかし幻界は、現世あってこそ存在できる世界です。現世の想像力のエネルギーが、幻界を創《つく》るのですから。そして、両者のあいだを隔《へだ》てているのは、大いなる光の境界=Bさらに現世と幻界は、等しく混沌《こんとん》の深き淵《ふち》≠ノ取り巻かれてもいる──」
ミツルはうなずいた。ゾフィは続ける。
「より正確には、現世も幻界も、混沌の深き淵≠フなかに浮かんでいると言った方がいいのです。無限の淵の表面に浮かぶ、儚《はかな》き泡《あわ》のようなもの。でも、これほど美しい泡はありません。
さて、わたくしは先ほど、現世と幻界を、対になる世界だと申しました。それは間違《ま ちが》いではありませんけれども、対になるといっても、一対一ではありません。なぜなら、現世はたったひとつだけですが、幻界は複数が同時に存在しているからです。わたくしたちがこうして暮らしている幻界の他にも、わたくしたちの与《あずか》り知らぬところで、時を刻んでいる幻界がいくつもあるのです」
ラウ導師でさえそんなことは言っていなかったけれども、ミツルはさして驚かなかった。想像力が形成する世界なら、それもおかしくはない。現世には無数の人が存在する。それはつまり、それだけの数の人に見合うだけの想像力──思想や夢や心情があるということでもある。幻界が複数存在するというのは、むしろ自然なことなのかもしれない。
「並行世界≠ナすね」と、ミツルは言った。SF小説で読んだことがある。
「へいこう──?」
「いえ、何でもありません。それで?」
ゾフィは集中が乱れたのか、ちょっと瞳を泳がせた。話の腰《こし》を折られることに、まったく慣れていないのだ。
「多くの場合、幻界は平和な世界です」と、考え考え言葉を継《つ》いだ。「わたくしたちが今こうして暮らしているような。そうですわね?」
「はい、まったく」
「でもなかには、暗黒に満たされ、恐怖《きょうふ》に満ちた幻界もあります。敵意と害意に溢《あふ》れた闇の世界──」
「それが魔界≠ネのですね?」
うなずいて、ゾフィは言った。「そうです。わたくしは、歴史学者たちからこう教わりました。魔界とは、いわば幻界になり損なった世界[#「幻界になり損なった世界」に傍点]なのだと。だからこそ、幻界を憎《にく》み、それを滅ぼすことを望んでいる。そこに立ちこめている闇は、常に幻界を侵略《しんりゃく》することを切望し、機会を狙《ねら》っているのです」
混沌の深き淵の底には、いずれ幻界へと形をなす未分化の種が、たくさん沈んでいる。それらが健《すこ》やかに幻界へと育ち上がれば幸いだが、どこかで何かが間違い、歪《ゆが》み、曲がると、魔界へと堕《だ》してしまう──
ゾフィは語りながらも震《ふる》えるほどに怯えているが、ミツルは少しも怖くなかった。現世の人間の想像力が創り出す世界なら、すべて魔界になったっておかしくないと思うからだ。むしろこののんびりした幻界の方が、現世の人間が生み出す仮想の世界としては異種≠ネのではないか。そう冷静に判断できるほどに、ミツルは、人間の悪意や我欲《が よく》について、よく知っているのである。
「でも、幻界も魔界も、元を質《ただ》せば同じものです。だからどんな幻界のなかにも、少しばかりは魔界に似た要素が含まれています。魔界との接点と申しましょうか。それがあるのです。敵意や害意や愚《おろ》かさが存在しない世界はあり得ないのですもの」
「なるほど。正しい洞察《どうさつ》です」ミツルは言って、会話の舵《かじ》をゾフィから取りあげることにした。「そして、我々が暮らすこの幻界の場合は、その接点となるものが常闇の鏡≠ネのですね?」
「はい」
「だから、魔界よりの侵攻《しんこう》を防ぐために、封印の冠≠ナ封じておかねばならない。そうであれば、封印の冠≠みだりに動かすことができないのは、当然|至極《し ごく》のことです」
ほっと安堵《あんど 》して、ゾフィはしばらくぶりに頬笑んだ。
「これは僕の勝手な推察ですが、もしかすると皇帝陛下の御一族は、この幻界の始源の時より、常闇の鏡≠奉《ほう》じ、それによって魔界との通路を塞《ふさ》ぐ、尊いお役目を果たしてこられたのではありませんか?」
驚きと喜びで、ゾフィの顔が輝《かがや》いた。
「ええ、そうです! おっしゃるとおりなのです! ですからこの北大陸ばかりか、幻界全体を統一し、平和に治めることが、我が一族の悲願なのです。いえ、使命なのです。わたくしたち一族の遠い祖先は、幻界の始まりの時に、創世の女神さまから常闇の鏡≠フ管理をゆだねられた選ばれた一族なのですもの」
「たいへんな使命です」ミツルは厳《おごそ》かに言ってのけた。「このお話を伺《うかが》えば、僕のもうひとつの、ごくささやかな疑問も解決します」
「どんな疑問です?」
「南大陸では、北の統一帝国の国教である老神教は、創世の女神さまを否定していると聞かされてきました。ですから僕は、皇帝陛下にお目にかかるとすぐに、その真偽《しんぎ 》をお訊ねしたのです。なぜなら老神教では、僕のような旅人≠ヘ神を騙《かた》る卑《いや》しい存在とされているのですからね」
「ごめんなさい」と、ゾフィは小さくなった。
「いえ、いいのですよ。皇帝陛下はすぐにお答えくださいました。老神教を国教としているのは、あくまでも創世の女神を絶対[#「絶対」に傍点]と仰《あお》ぐ南大陸に対抗《たいこう》するための政策だと。真に仰ぐは、幻界の源である現世だと」
「ええ、そうですわ!」
「それはでも、創世の女神さまを否定するということではない。女神さまは確かにおわしまし、運命の塔に住んでいる。但《ただ》し、女神さまは現世の人びとにとっての運命の神であり、幻界のヒトびとの神ではないのだともおっしゃっていました。僕にはそれが、少しわかりにくかった。でも、今のお話を聞けばスッキリします。皇帝陛下の御一族は、創世の女神さまから幻界の管理を任された、聖なる管理者なのですね。女神さまは幻界を統《す》べているわけではなく、その役割を皇帝陛下の御一族に託されて、安堵して運命の塔に籠《こ》もっておられる。そういうことなのですね」
両手を胸の前であわせると、ゾフィは満面に笑みを浮かべた。「ミツル様は、今のわたくしの拙《つたな》い話だけで、それらのことを理解してしまわれるのですね! 素晴《す ば 》らしいわ」
「いえ、皇女様のお話のおかげですよ」
ゾフィは、この年頃《としごろ》の小娘《こむすめ》にしかできない角度で首をすくめて、少しばかりスネたような顔をした。「もしも、南の愚かなヒトたちが信じているように、本当に創世の女神さまが幻界のすべてを統治しておられるのならば、常闇の鏡なんて、そのお力ですぐに封じてしまえるはずでしょう? でも、女神さまはそれをなさらない。それは真の神のあるべき姿ではないと思いますの」
「まったくです」
「でも、そういう真実を、南大陸のヒトたちは何ひとつ知らないのです」
皇女ゾフィの表情のパターンのなかに、軽蔑《けいべつ》と嫌悪《けんお 》と呼べる種類のものも存在していることを、ミツルは知った。
「しかし、困りました」と、ミツルは片手を額にあててみせた。「封印の冠がそれほど大切なものであるのなら、どうして一介《いっかい》の旅人&酪《ふ ぜい》である僕などが、それを手にすることができましょう」
「ですから、それが──」ゾフィはまた身を乗り出した。「肝心《かんじん》なことなのです。常闇の鏡を封じる方法は、もうひとつあるのです。ミツル様は、真実の鏡≠フことはご存じですか?」
もちろん知っている。出発の時にラウ導師に教えられた。旅のはじめに、ミツルは真実の鏡を持つヒトと巡《めぐ》り合うだろう。真実の鏡は旅人≠フ道標となる大切なものだ。また、それを持って現れるヒトは旅の仲間であり、ミツルの助力者となる。真実の鏡と、ミツルが順番に見出《み いだ》しては手に入れてゆく宝玉の力を組み合わせれば、一時的に現世に戻《もど》ることもできる、と。
確かにラウ導師の言うとおりだった。番人たちの村を出るとすぐに、ミツルはある場所で、真実の鏡を持つ南大陸のヒトに出会った。
そのヒトは、ミツルが旅人≠ナあることを知り、真実の鏡を必要としていることを知ると、自分を雇《やと》わないかと持ちかけてきた。どうやらその種の用心棒のようなことを生業《なりわい》にしているらしい、獣人《じゅうじん》族の男だった。
ミツルは、そんな男を旅の仲間にするなど、まっぴら御免《ご めん》だった。そもそも仲間など必要ない。しかも自分を雇えと──つまりは対価を要求してくるような相手に、どうして信を置くことができようか。
だからミツルは、その獣人族の男を殺してしまった。そして真実の鏡を奪ったのだ。今も、身につけて持っている。
「ええ、存じています。しかし真実の鏡は、常闇の鏡とは違い、完全な形をしてはいないようですよ。細かな断片《だんぺん》となっている──」
「そうなのです。真実の鏡は、幻界のはじめのころに創世の女神さまの手で打ち砕《くだ》かれて、幻界じゆうに鏤《ちりば》められてしまいました。その結果、その価値を知らぬヒトたちの手に、広く渡ることになってしまっているのです」
「しかし、それらを集め、また完全な形の真実の鏡を再生させることができるならば?」と、ミツルは問いかけた。
「はい。その力で、常闇の鏡を封じることができます!」ゾフィは声を強めた。「常闇の鏡は魔界に通じ、真実の鏡は現世へと通じる道を開くもの。ですから、そのふたつを合わせ鏡にすれば、相殺《そうさい》することができるのです」
だからこそ、代々の皇帝は、手を尽くして真実の鏡を集めようとしてきたのだという。
「時にはかなり乱暴な手段も講じてきました。でも幻界は広く、北から南へ海を渡り、捜索《そうさく》の手を伸ばすのは難しいことでした」
しかし、今は状況《じょうきょう》が違う。動力船という新たな力を得て、今度こそ、この統一帝国は真の統一国家をうち立てることができるだろう。そうなれば、真実の鏡の捜索と再生も容易《たやす》いことになる。
「真実の鏡の力で常闇の鏡を封じてしまえば、封印の宝冠は必要ではなくなります。ミツル様のお望みのままに、いつでも宝玉を取り外していただくことができるのです。だからこそ父は、こうしてミツル様をお待たせしている──お待ちいただかなければならぬ深い理由を、ご理解いただけましたでしょうか」
ミツルは席から立ちあがり、恭《うやうや》しく腰《こし》を折った。「よくわかりました。これほど大切なことを僕にお話しくださった皇女様の寛大《かんだい》なお心と深い思いやりに、心から感謝申しあげます」
ひとしきり、ゾフィは喜んだり照れたり、ミツルの手を取ったり我が胸を抱《いだ》いて安堵したり、忙しく感情を迸《ほとばし》らせていた。そのあいだ、ミツルは腹の底で冷たく思考していた。
この小娘は──いや、皇帝自身も、真実の鏡を再生させ、常闇の鏡を封じてしまえば、それを守り管理しろと女神から命ぜられたという皇帝一族の特権の根拠《こんきょ》も失《う》せてしまうということに、気づいているのだろうか。幻界を平定してしまえば、誰《だれ》もそんなことなど気にしないからかまわないということか。
あるいは、常闇の鏡を封じるという役割に、疲れたか、倦《う》んだか、それが面倒《めんどう》になってきているのかもしれない。世界の管理者といえば聞こえはいいが、案外|辛《つら》い役割なのかもしれない。
だが、そんなこともミツルにはどうでもいい。
「もう少々──そう、これは現世からの旅人≠ナある僕の純粋《じゅんすい》な好奇心を満たすために、お訊ねしてもいいでしょうか?」
ゾフィは危なっかしく茶をいれ替《か》えながら、明るい目でうなずいた。ミツルは彼女をやんわりと遮《さえぎ》った。
「お茶は僕がいれましょう。さあ、もう難しいお話は済んだのですから、皇女さまはおくつろぎになってください」
「はい、ではお任せします」
「実際、魔界の力というのは、どれほど恐ろしいものなのですか? それについて、この栄えある統一帝国の学者たちも、知識を持っているのでしょうか」
ゾフィの口元が引き締《し》まった。「かつて一度だけ……統一戦争の終盤《しゅうばん》に、ごく短いあいだのことですが、封印を解いて魔界の力を招き寄せたことがあるそうです」
「それはまた、何故《なにゆえ》に?」
「我が帝国に反抗する、手強《て ごわ》い敵を平らげるためだったそうですわ。原野をさまよい暮らす部族集団で、野蛮《や ばん》で、国の体を成していないが故に、しつこく帝国の軍勢の足元に食《く》らいついてきて……。そんな蛮族のために、徒《いたずら》に帝国軍の軍勢を疲労させるわけにはいかないと、魔界の力を借りることにしたのです」
常闇の鏡を通って飛来した魔界よりの魔族の軍勢は、またたくまに蛮族を皆殺《みなごろ》しにしてしまった。
「恐ろしい……。しかしそれでは、帝国軍にも被害が出たのではありませんか?」
「蛮族たちを原野に招き寄せ、その近くに常闇の鏡を移動させ、慎重に作戦を立てていたので、幸いなことに、被害は最小限で済んだそうです。それに、蛮族を平らげると、すぐに封印は戻されました。その間──せいぜい一時間ほどだったと聞いています」
封印を戻すと、幻界に舞《ま》い降りた魔族たちは、瞬時《しゅんじ》にして黒い塵《ちり》となって消《き》え失せたという。
「魔族はどんな姿形をしていたのでしょう」
「わかりません。図書室の古い戦史をひもとけば、図版のひとつぐらいはあるかもしれませんが……」
ミツルが知っている限りでは、そんな図版などない。記録に残すことさえ憚《はばか》られるほどの恐怖だったということか。
「魔族が蛮族に襲いかかった原野は、今でも草木一本はえない枯《か》れ野のままです。ここから遠く離れたところですから、わたくしは存じませんけれど」
そこでゾフィは、また話が逸《そ》れるような質問を投げてきた。「ミツル様は、石造りのこの城が、なぜ水晶大宮殿《クリスタル・パレス》≠ニ呼ばれているのか、その謂《い》われをご存じですか?」
ミツルは、彼方《かなた》のクリスタル・パレスの威容《い よう》を仰ぎながらかぶりを振った。
「いえ、何も。確かに、ご指摘《し てき》を受ければ不思議なことですね」
「統一戦争が終了《しゅうりょう》したのは三百年前のことですが、ここが帝都と定められたのは、それからさらに百年ほど後のことです。城を築き、常闇の鏡を安置すると、その一瞬、この城が、あたかも全体が水晶《すいしょう》でできているかのように、透明《とうめい》でまばゆい光を放ったのだそうです。その美しさを記念するために、クリスタル・パレスと名づけられたのですよ。蛮族を平らげた戦いの折も、封印を解いたときとかけ直した時に、同じような光が溢れたという話を聞いたこともあります。それはきっと、常闇の鏡の意思の発露なのでしょうね」
解放の喜び? 畏《おそ》れられ敬われることへの満足? 鏡の意志か。
しかし、期せずして話は、ミツルの都合のいい方向へ流れてきた。
「そうすると、常闇の鏡はクリスタル・パレスのなかにあるのですね?」
「はい」ゾフィは気軽にうなずいたが、こればかりは隠しきれないミツルの真剣《しんけん》な眼差《まなざ 》しにひるんだのか、あわてて、華奢《きゃしゃ》な手をひらひらと振りながら続けた。
「でも、何処《ど こ 》にあるのか、わたくしは存じませんの。知っているのは父と、神官長だけです」
「しかし、鏡を安置する部屋や、聖堂のような場所があるはずでしょう? 城の設計図を見れば──」
「結界で隠されているのです。ですからそのお部屋が何処にあろうと、結界に阻《はば》まれて、誰もたどり着くことはできません。そもそも、見えないのですもの」
ゾフィはあっさりと答えたが、ミツルには重い返答だった。思わず、どさりと椅子の背にもたれてしまうほどの。
結界か──なるほど。だから今まで、宝冠つまり最後の宝玉のある場所を、探り出すことができなかったのだ。
これまでの旅では、宝玉を探すことにも、ほとんど苦労をしなかった。最初はこの魔導《ま どう》の杖が、第一の宝玉の眠《ねむ》る場所を示唆《し さ 》してくれた。そうして最初の宝玉を見つけると、その宝玉が二番目の宝玉の在処《ありか 》を、二番目を見つければ、それが三番目の宝玉の在処を、次から次へと指し示してくれたのだ。ミツルはただ、宝玉の声に耳を澄《す》ましてさえいればよかった。最後の宝玉が北大陸にあることだって、宝玉たちが教えてくれたのだ。北へ渡り、皇帝に会え。皇帝がすべてを知っている、と。
それなのに、いざ北へ来てみると、魔導の杖は沈黙《ちんもく》してしまった。最後の宝玉がどこにあるのか、皇都なのか他の場所なのか、それさえも教えてくれない。場所がわかりさえすれば、ミツルだってどうにでも行動を起こすことができたのに。
その理由が、やっとわかった。胸のつかえが消えてゆく。
皇帝一族が代々守ってきた常闇の鏡だ。その安置場所を隠す結界ならば、さぞかし強力な魔法の力を集めてつくられていることだろう。四《よっ》つの宝玉の力を吸収している魔導の杖でも、太刀打《た ち う 》ちできなかったとしても不思議はない。
「その結界は、帝都のあちこちに、魔法石を据《す》えることによって形成されているということです」
優雅《ゆうが 》にお茶のカップを傾《かたむ》けながら、ゾフィは言った。
「というより、そもそもこの帝都そのものが、常闇の鏡を守り隠す結界を構成するために、設計されているそうですわ。ですから、帝都の主要な建物の礎《いしずえ》に、その魔法石が使われているのでしょうね、きっと」
ミツルは、笑いだしそうになるのを必死でこらえた。こちらが何も訊《き》かないうちに、こんな大切なことを教えてくれるとは。おしゃべりで頭の軽い皇女様。何という有り難い存在だろう。
皇女ゾフィこそ、ミツルの旅の真の助力者であるのかもしれない。
──皇都そのものが結界であるのなら。
ミツルは逸《はや》る気持ちを抑え、深く静かに息をついた。
──皇都を壊《こわ》してしまえば結界も消える。
皇帝を脅《おど》すための材料としてではなく、皇都を破壊《は かい》するという行為《こうい 》そのものに、意味が生まれた!
邪気《じゃき 》のない瞳でミツルを見つめている皇女に、胸の内で語りかける。あなたは何と気持ちが優しく、お人好《ひとよ 》しであることだろう。あなたは、あなたが対面しているこの僕が、本当は何を考えているのか、一瞬でさえ疑ってみることをしない。あなたに、この話をうち明けろと唆《そそのか》したアジュ・ルパの真意がどこにあるのか、探ってみようとなどとは思いもしない。
三百年このかた北大陸の富を独り占《じ》めにし、繁栄《はんえい》してきた皇帝一族には、当然のことながら縁戚《えんせき》も数多い。そのなかには、傍系《ぼうけい》の家系で、皇帝の座など望むべくもない身分ながら、現皇帝に叛意《はんい 》を抱き、その座を狙おうとしている者たちもいる。ゾフィの女帝への道のりが平らかではなさそうなのも、もちろんそのような伏兵《ふくへい》が潜《ひそ》んでいるからである。
シグドラ≠ヘ皇帝の飼い犬だが、しかし飼い犬にもその意思はある。より強く、より好い餌《えさ》をくれる側に寝返《ね がえ》る準備は、いつでもできているものだ。アジュ・ルパもその一人だ。彼が皇女を唆し、うち明け話をさせたのは、そうすることによってミツルを動かし、何らかの事を起こさせて、それを皇帝の失策とすることができるかもしれないと、企んだからだろう。もちろん彼の背後には、さらに彼を唆し、旨《うま》い餌で釣っている誰かの存在があるはずだが──
そんなのは、どうでもいい。
──あんたの腹は読めているよ、ルパ。でも、それでもあんたに礼を言おう。
何も知らないのは皇女だけではない。アジュ・ルパも同じだ。ミツルが本当に立ちあがれば、それは、ガマ・アグリアスZ世の失策などというレベルには留まらない大事へとつながるなどと、想像もしていない。結局、ミツルを舐《な》めているのだ。
しかし、それは計算違いというものだ。
「そろそろ女官たちを呼び戻しましょう。風が出てきました」と、ミツルはにこやかに言った。「皇女様がお風邪《か ぜ 》を召《め》されては、僕は安らかに眠れません」
ゾフィは嬉《うれ》しそうに頬《ほお》を染めた。女官を呼ぶ銀の鈴に手をのばした彼女を、ミツルはちょっと止めた。
「最後に、もうひとつ教えてください。常闇の鏡が、それほどまでに厳重に封じられ隠されているのならば、なぜヒトがそれをのぞきこんで、ウロになってしまうなどという事故が起こるのですか?」
とたんに、ゾフィは、今まででいちばん後ろめたそうな顔になった。頬の紅潮が、一気に冷める。
「それは……あの……」
「一種の刑罰《けいばつ》であるとか?」
ミツルの問いかけに、差し出された手にすがるように飛びついてきた。
「ええ、そうですわ。そういう場合が多いのです。凶悪《きょうあく》な犯罪者や政治犯を、どうしても矯正《きょうせい》することができない時に」
「一時的に結界を解いて、その者に、わざと常闇の鏡を見せるのですね?」
「そうです」皇女は目に見えて萎《しお》れた。「残酷《ざんこく》なことですわ。でも、仕方がないのです」
「わかりますよ、ええ」
「それに、わたくしたち一族の身の回りの世話をする者などの場合、いっそウロである方が、安全で便利なのです。城の下働きの者たちなど、どのみち……その……武人や学者とは違いますものね。卑賤《ひ せん》の者たちです」
一方でそんなことを言いつつ、「哀れだ」と睫毛を伏せてみせる。勝手だ。
「でも、そんなことが、しばしば行われているわけではありません。それに結界を解いて常闇の鏡に近づくには、父と神官長の二人が揃《そろ》い、儀式《ぎ しき》を行わねばなりませんの。たいそうな手間がかかります。神官長は、布教と教会|監督《かんとく》のために、皇都を留守にしていることも多いですし。ミツル様も、まだ神官長には会っておられませんでしょう? あのヒトは、父よりも忙しい立場にあるのです」
うなずきつつ、ミツルは想像した。手枷《て かせ》足枷をされた囚人《しゅうじん》の列が、近衛兵たちに連行されて、数珠《じゅず 》つなぎになり、常闇の鏡の前へと、順番に押しやられてゆく光景を。
これもまた、救いがたい狂妄《きょうもう》と痴愚《ち ぐ 》。
「そうするとクリスタル・パレスの軽輩《けいはい》の者たちのなかには、これまで僕が気づいていなかっただけで、相当な数のウロがいるのですか」
「はい……。でも、わざわざお探しになるには及《およ》びませんわ」
「もちろん、そんなつもりはありません」ミツルはにっこりした。「申しあげたでしょう。旅人≠フ好奇心からお訊ねしたまでです」
皇女は女官たちを呼び寄せ、お茶の席を片づけさせ始めた。ミツルは、新たに得た知識を元に、注意深く女官たちを観察した。クリスタル・パレスで、ヒトびとに混じって働いているウロを見分けることができれば──
皇都を出て、わざわざ「素材」探しをする手間が省ける。
城に戻る皇女を見送った後も、強まってきた風に髪とローブの裾《すそ》をなびかせながら、しばらくのあいだ、ミツルは戦勝の庭園≠ノ佇《たたず》んでいた。両手は身体の脇《わき》で、固く握《にぎ》りしめられていた。
その手のなかにあるのは決意。
皇都ソレブリアの命運は決まった。
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47 ドラゴンたちの島
前方に南大陸の海岸線が見え始めると、上空の風が一段と冷たくなった。潮の匂《にお》いも強くなる。
「あれは──ボグの漁港、バチスタだわ」
ミーナがワタルの肩《かた》ごしに手を差しのばし、右手の彼方《かなた》に見えるひとかたまりの人家を指さしてみせた。
港といっても、ソノとはずいぶん感じが違《ちが》っていた。平らに長い海岸線に沿って、白い砂浜《すなはま》がうねうねと延びている。小さな漁船があちこちに浮《う》かんでいるが、どれも海岸線からさほど遠く離《はな》れてはいない。砂浜には女性や子供たちが散らばり、何か作業をしている。魚を干したり、貝を採ったりしているようだ。
ジョゾは、デラ・ルベシに向かったときのように、高いところを飛んではいなかった。地上までは、ちょうど現世《うつしよ》のニュース番組で、ヘリコプターからの中継《ちゅうけい》画面を映しているときみたいな距離《きょり 》感だ。頭上を飛ぶドラゴンの姿に、砂浜のヒトたちが驚《おどろ》いて見あげる。手を振《ふ》る子供たちもいる。突如《とつじょ》現れたこのドラゴンが、けっして危険なものではないことを示すためにも、ワタルたちは手を振り返した。
「ファイアドラゴンは凄《すご》い人気だな」
キ・キーマが感心している。
「伝説の存在だもの!」と、ミーナが顔を輝《かがや》かせる。
「でも俺は、やっぱ凍《こご》えそうだ」
「もう少し高度をさげようか」
ジョゾが申し出た。ワタルの拳骨《げんこつ》ほどもある大きくて真っ黒な瞳《ひとみ》が、ぱちりとまばたく。
「ねえ、ワタル」
「何だい、ジョゾ」ワタルはジョゾの首にまたがり、彼の顔をのぞきこんだ。
「いよいよ海に出るけど……でも、さっきの話は本当かい? 本気で北大陸へ渡《わた》るつもりなの?」
言いにくそうな口振りである。
「本気だよ。ジョゾ、何かまずいことがあるの?」
いちばん後ろに座っているカッツが、耳ざとくワタルの質問を聞きつけて、身を起こした。ワタルはちらりとカッツを振り返り、声を潜《ひそ》めた。
「まずいことがあるのなら、遠慮《えんりょ》しないで話してほしいな」
「うん……」ジョゾはまたしばしばとまばたきをした。「何処《ど こ 》へでも乗せて行ってあげるよって約束したのに、悪いんだけど」
「北へは行かれないとか? ジョゾの翼《つばさ》でも遠すぎるとか」
「そんなことはないよ。まっしぐらに飛べば、ふた晩《ばん》くらいで連れて行ってあげられる」
ただね──と、はえそろった鋭《するど》い牙《きば》のあいだから、ちらりと舌をのぞかせた。
「この前、一緒《いっしょ》にデラ・ルベシまで行ったろ? あの後、僕はいっぺん僕らの島に帰ったの。そしてね、竜王様に、デラ・ルベシで女神《め がみ》さまの懲罰《ちょうばつ》の風を見ましたって、報告したんだ」
すると竜王はたいへん険しい顔になり、島のドラゴンたちを集めて、当分のあいだ、勝手に遠出をしてはいけないと、厳しく言い渡したのだという。いつでも集合できるように、島の近くにいなさいと。
「普段《ふ だん》はそんなこと、ないんだよ。僕ら子供ドラゴンにとっては、いろんなところに飛んで行って、いろんなものを見て来るのはいいことだっておっしゃってる。もちろん、うっかり地上のヒトと仲良くなっちゃいけないっていう掟《おきて》はあるけどね。僕らはホラ、ミーナが言ったみたいに、長いこと忘れられてる伝説の存在だし、その気になれば強いから、地上のヒトたちの争いに巻き込まれると面倒《めんどう》だものね」
ワタルは反省した。龍《りゅう》の笛を使えるからと言って、何も考えずに、頭からジョゾの翼をあてにしていた──
「ごめんよ。そんな事情があったなら、もしかしたら、僕の笛に応《こた》えてガサラに来るのもまずかったんじゃない?」
「い、いいんだよ」
ジョゾは急いで首を振った。そのせいで、ちょっと揺《ゆ》れた。キ・キーマが転びそうになって、翼の付け根にしがみつく。ミーナは吹き出したが、カッツは依然《い ぜん》、こちらに注目したままだ。
「だってワタルは僕の命の恩人だもの。竜王様も、地上のヒトに恩を受けたら、必ずそれに御礼《お れい》をしなさいっておっしゃってる。だから、ワタルは特別さ」
「ありがとう。でも、竜王様がそんなことをおっしゃったというのは、気になるね」
「うん。だから僕ね、北へ渡る前に、僕たちの島へ寄りたいんだ。たいして時間はかかりゃしないよ。通り道だしね。それで竜王様に、きちんとお願いをしてから出かけたいんだ。駄目《だ め 》かしら」
ワタルには、即答《そくとう》できない。思わずもう一度カッツを振り返ると、彼女はそろりと立ちあがり、中腰になったままワタルに近づいてきた。
「どうかしたかい?」
ワタルは説明した。カッツはちょっと眉《まゆ》をひそめていたが、やがてジョゾの顔の方に身を乗り出し、彼の首をぽんぽんと叩《たた》きながら言った。「こんなことに巻き込んじまって、すまないね。だけどあたしたち、どうしても早く北へ渡りたいのさ」
「あなたがリーダーさんなんですよね?」と、ジョゾは訊いた。「北へ行く目的は、何ですか? どうも、危険なことがありそうな気がするんですけど」
カッツはどこまで話すつもりだろう。ワタルは彼女の顔を見た。しかしカッツが何か答える前に、ジョゾは言った。
「ワタル、龍の笛を出してみて」
ワタルはポケットを探《さぐ》った。取り出した龍の笛は、ぽっきりと二つに折れていた。
「ほら、もう使えないでしょ。音が出ないよ」
「そうだね……」
「ワタルたちが危険な仕事をしに北へ渡るのだとしたら、僕、心配だな。ワタルたちを降ろして、僕が飛び去ってしまったら、何か困ったことがあって僕を呼びたくても、もうどうしようもないよ。だからといって、僕が近くを飛び回って待機していたら、すっごく目立っちゃってワタルたちの邪魔《じゃま 》になりそうだ。そうじゃないですか、リーダーさん」
カッツは苦笑《くしょう》している。翼の巻き起こす強い風に、漆黒《しっこく》の髪《かみ》がなびいて頬《ほお》に張りつく。
「ドラゴンさんは、頭がいいね」
「ジョゾです。よろしく」
「あたしはカッツ。そういえば、まだ名乗ってなかったね。ナハトのガサラの町のブランチ長だ。あんたたちのご先祖様を、とっても深く尊敬している」
「うん。その腕輪《うでわ 》でわかります」
「ありがとうよ。あんたの話はよくわかった。ドラゴンの島へ寄っていこう。でも、あたしたち地上のヒトをあんたたちの住処《すみか 》へ連れて行ったりしていいのかい? 後で怒《おこ》られたりしないかね」
「それは大丈夫《だいじょうぶ》」ジョゾは請《う》け合った。「あなたたちはハイランダーだから。それに、竜王様があんなことをおっしゃるには、きっと深い理由があるはずなんだ。ハイランダーさんには、その理由を聞いてもらった方がいいのかもしれないし」
「そう……なの?」
「うん。僕のお父さんとお母さんも、そう言ってたもの。もしかしたら、島を出てヒトと力を合わせなくちゃならないようなことが、また起ころうとしてるのかもしれないって」
ワタルはカッツと顔を見合わせた。
「昔、そんなことがあったの?」
「僕が生まれる前の話だけどね。三百年ぐらい前に、北大陸である事件があって、そのときはドラゴンたちも島を出て、地上のヒトたちと一緒に戦ったんだってさ」
それはいったい、何事だったのだろう。
カッツが小声で呟《つぶや》いた。「三百年ぐらい前と言えば、北大陸では統一戦争が終わるころだね」
「その戦争に、ドラゴンも参加したってことでしょうか」
「そんなはずはないよ。ファイアドラゴンが、地上のヒト同士の戦争で、どっちかに味方するなんてことがあるわけない。ましてや北の統一戦争なんかにさ」
確かにそうだ。「ジョゾ、お父さんとお母さんは、そのとき何と戦ったって言ってたの?」
ジョゾはすぐに答えた。「魔族《ま ぞく》だよ」
魔族? そんなの初耳だ。カッツもきょとんとしている。
「それ何?」
「僕もよく知らない。魔族のことは、あんまし口に出しちゃいけないんだ。忌事《いみごと》だから。けど、すっごく強くて恐ろしい敵らしいよ。放っておいたら幻界《ヴィジョン》≠ェ滅《ほろ》ぼされちゃうかもしれなかったんだ」
もっともそのときの事件は、規模としては大きなものじゃなかったらしいけど──と、ジョゾはあやふやに付け加えた。
「北大陸の歴史なら、あたしたちには知らないことの方が多い。竜王様とやらに訊《き》いてみるしかなさそうだね」
「僕らに教えてくれるでしょうか」
「ま、それはこちらの話の持ってゆきようじゃないか」
カッツには、相手がドラゴンでもヒトでも、あまり関係ないようである。
「それじゃきまりだね。ワタル、僕のお父さんとお母さんに紹介《しょうかい》するよ! お父さんは凄いよ。僕の三倍くらい強いんだから」
ジョゾは自慢《じ まん》げに目を細める。そうだな、ジョゾはまだ子供で、お父さんお母さんが心配してるんだよなと、ワタルは胸の内で思った。それなのに僕らは、こっちの勝手な都合ばかり考えていた。
「さて、いよいよ外海に出たからね。そろそろ針の霧《きり》≠フなかに突入するよ。みんな、頭を低くして、僕の翼のあいだに隠《かく》れていてね。絶対に立ちあがったりしちゃいけないよ。霧がちくちく突き刺《さ》さっちゃうからね」
言葉と同時に、翼にいっそうの力がこもり、ジョゾはぐんとスピードを上げた。
その島はまるで、霧の漂《ただよ》う大海の片隅《かたすみ》で静かに眠《ねむ》っているドラゴンのように見えた。
島そのものが、本当にドラゴンの首の形をしているのだ。二本の角がある。大きな瞳はまぶたを閉じている。丸い鼻の穴が、空を仰《あお》いで並んでふたつ。長く突き出した大きな顎《あご》と、鋭い牙。空気がこんなにも冷たくはなく、海がこんなにも凍《こご》えたように青白く見えないならば、「のんびりとお風呂《ふ ろ 》につかるドラゴンの図」に喩《たと》えることもできるだろう。
「説明されなくても、ひと目でわかるな」
ジョゾの翼の陰《かげ》から顔をのぞかせて、キ・キーマが呟いた。
「あれがドラゴンの島なんだろ?」
「うん、僕の故郷《ふるさと》だよ!」
濃い霧に阻《はば》まれて視界はよくない。それでも、ドラゴンの島の周囲には一面にだだっ広い海が広がっているばかりで、他の島影も、岩影さえも見あたらない。その様子は、幻界におけるドラゴン族の孤独《こ どく》な立場《ポジション》を、そっくりそのまま映していた。
「みんな、そんなにのび上がっちゃダメだってば」ジョゾがあわてた声を出す。「まだ針の霧のなかにいるんだから」
「ホントだ」と言いながら、ミーナが顔に手をあてた。「チクンとしたわ」
見ると、右目の下に、小さな血の雫《しずく》がぽつりと浮いている。カッツは「あたしもだ」と言いながら髪を押さえている。額に二筋、血が垂れている。ワタルはぞっとした。
ミツルもこの針の霧のなかを渡って行ったのだ。彼の魔法の力を以《もっ》てすれば、バリアを張るとか風の流れを作り出すとかして、身を守る術《すべ》はいくらでもあっただろうけれど……。
これだもの、南大陸から風船《かざぶね》で海に乗り出すには、時期が限られていて当然だ。針の霧を回避《かいひ 》しつつ、北へ向かう風向きを読む星読みたちの力がどれほど大切かということも、しみじみと実感することができる。
風に左右されず、帆《ほ》を張る必要もなく、船室に閉じ籠もっていても操縦することのできる動力船が、この幻界にとって、いかに画期的な存在であるかということも。
それにしても、ジョゾのウロコは頑丈《がんじょう》だ。
「ジョゾは目も痛くないの? 鼻がムズムズしたりしないの?」
「なんてことないよ。ちょっと寒いだけ。でも、島に着けば暖かいよ」
ドラゴンの島は火山島なのだという。いったいどこに火山があるのかと、ワタルは慎重《しんちょう》に首を伸ばして視界を広げ、探してみた。と、ちょうどいいタイミングで、ドラゴンの島の鼻の穴の部分から、白い蒸気が噴《ふ》き出すのが見えた。
距離が詰《つ》まってくると、今度は一同、ドラゴンの島の大きさに目を瞠《みは》ることになった。まあ、子供のジョゾでもこのサイズの身体《からだ》を持っているのだから、成体のドラゴンはもっと大きいのだろう。小さな島ですし詰め状態になっていては、息が詰まってしまう。
ごつごつした灰色の巨大《きょだい》な岩を、一刀彫《いっとうぼ 》りで龍の頭の形に彫《ほ》り抜《ぬ》いた──そんな島だ。草木は一本も見えない。
ジョゾはこの巨大なドラゴンの首の、二本の角のあいだを目指している。霧の流れに阻まれてよく見えないけれど、そこには円形の平らな広場のようなものがあるようだ。ドラゴンたちの発着所かもしれない。
ゆっくりと螺旋《ら せん》を描《えが》きながら、ジョゾは広場に向かって降下してゆく。ようやく針の霧も薄《うす》れてきて、ワタルは、広場の端《はし》に二頭のドラゴンが待っていて、こちらを仰いでいることに気がついた。紅宝石《ル ビ ー 》のように鮮《あざ》やかな赤色のジョゾと比べると、その二頭のファイアドラゴンの色は、もっと沈《しず》んだ色調で、えんじ色や小豆《あずき》色に近いようだ。
「ただいま!」
ジョゾが地上の二頭に向けて元気な声を出した。
「お父さん、お母さん、ワタルを乗せてきたよ!」
では、あれがジョゾの両親なのだ。もしかしたら、ジョゾをアゴで使っていると叱られるかもしれないと、ワタルはちょっぴり心配になってきた。ジョゾに比べて、彼の両親の身体はさらにふた回りほども大きく、牙でさえワタルの手首ぐらいの太さがありそうなのだ。
しかし、それは取り越し苦労に終わった。
「お帰り、ジョゾ。ようこそいらっしゃいました、旅人≠ウん。ジョゾはお役に立ちましたか?」
着地したジョゾの背中から、おっかなびっくり地上に降りたワタルたちを、ジョゾの両親は、熱風みたいな鼻息と、音量こそ大きいけれど、春の陽《ひ》のように温かな言葉で迎《むか》えてくれたのだった。
まずは温泉に入り、凍えた身体をほぐしなさいと勧《すす》められて、驚いた。
「温泉が出るの?」
「そうだよ。火山があるんだから、不思議じゃないでしょ。ちょっとしょっぱい温泉だけどね」
冷気で動きが鈍《にぶ》っていたキ・キーマはもちろん、ミーナは「温泉なんて初めて!」と大喜びだ。が、カッツは焦《じ》れている。大事なミッションに向かう途中《とちゅう》なのだから当然だ。
が、ジョゾのお母さんが言うのには、
「竜王様は今お休み中の時間だし、牙と翼の会合≠開くには、準備も要《い》るんです。皆さんが温泉から出てくるまでには用意ができると思いますから」
「牙と翼の会合≠チて何ですか?」
今度はジョゾのお父さんが答えた。「我々ドラゴン族の全体会議のことをそう呼ぶのです。この島の自治──というほど大げさなものではありませんが──は、日ごろは竜王様と、七本柱≠ニ呼ばれる各族の長《おさ》たちの集まりで司《つかさど》っているのですが、大きな決め事がある時には、島に棲《す》むドラゴンを一頭残らず集めて、皆《みな》で話し合いをします」
この島のドラゴンたちは、もちろん皆ファイアドラゴンの末裔《まつえい》なのだけれど、それでも少しずつ翼の形とか牙の本数とかが違っている。それらの特色で分けると、七種類になるのだそうだ。その七種類を族≠ニ呼び、それぞれの族の長を柱≠ニ呼ぶ。だから七本柱なのである。
また、幻界そのものよりもちょっと若いだけ──というほどの高齢《こうれい》である竜王様は、一日の半分以上をうとうとと眠って過ごしており、起こすのにも、ちょっと手間が要るのだとか。それらの説明を聞き、カッツも納得《なっとく》して、温泉のご招待にあずかることになった。
ドラゴンの島は、その内側に、複雑に入り組んだ迷路《めいろ 》のような洞窟《どうくつ》を隠していた。うねうねと続き、無数に枝分かれした通路に沿ってたくさんの横穴が空き、そこがドラゴンたちの巣になっている。大まかに、族ごとに分かれて住んではいるけれど、ドラゴンたちは仲良しなので、ひとつの大きな巣穴に三家族が共住まいしていたり、年老いたドラゴンを他のドラゴンたちが面倒をみたりと、行ったり来たりも賑《にぎ》やかなのだそうだ。
島の外側は岩ばかりだけれど、洞窟の内部には豊富に草木が茂《しげ》っていた。そこここに、ちょっとした森までできている。花木もあれば、美味《お い 》しそうな実をつけた木もある。ドラゴンたちの主食は海の魚だというけれど、洞窟の奥でも、魚の匂いなどほとんど感じない。新鮮《しんせん》な緑の気が立ちこめて、そこにほんのちょっぴり潮の香《か》が混じっているだけだ。
温泉は露天《ろ てん》風呂だった。洞窟の上部にあるので、天井《てんじょう》がぽっかり空いているのだ。熱いお湯に、冷たい外気。露天風呂を囲むごつごつした岩の隙間《すきま 》に草木が根を張って、湯気の向こうで揺れていた。
「ああ、極楽《ごくらく》、極楽」
ワタルが思わず、温泉につかったときのニッポンのおやじのきまり文句を呟くと、キ・キーマが笑った。
「何だそりゃ、ゴクラクってのは?」
「うーんとね、神様のいるところ。現世ではそういうんだ」
「じゃ、運命の塔《とう》みたいなところか?」
聞き返して、とたんにバツの悪そうな顔になった。ワタルに、いろいろと思い出させてしまったと思ったのだろう。
ワタルは知らん顔をしていた。「ちょっと違うかな。死んだヒトの行く場所でもあるんだよ」
「死んだら、誰でもそこに行かれるのか?」
「ううん。悪いことをしたヒトは行かれない。地獄《じ ごく》ってところに堕《お》ちるから」
そういえば、幻界では死んだヒトはどこに行くことになってるんだろう。今まで、訊ねてみたことがない。
キ・キーマは顎までお湯につかり、気持ち良さそうに半目になりながら、
「俺たちはみんな、死んだら光になるんだよ」と教えてくれた。
「光?」
「そう。陽の光になって、地上を照らす。そして順番にまた生まれ変わる。ただ、生きているうちに悪いことをすると、光にはなれずに、混沌《こんとん》の深き淵《ふら》≠フ底に沈むんだ。そうなると、ちょっとやそっとじゃ生まれ変われない」
そういえば、デラ・ルベシの教王が、同じことを言っていたと、ワタルは思い出した。女神さまとの盟約を破ったまま、魂《たましい》が浄化《じょうか》されずに死んでしまうと、我々は次の世界に生まれ変わることができない──と。
「幻界のヒトが、次に生まれ変わった時には、現世のヒトになるってことは、ないのかな」
独り言のつもりで呟いたのだけれど、しばらく経《た》ってから、キ・キーマは答えた。
「そんなことがあればいいな。そンで、今度は現世で、またワタルと仲間になれたら面白《おもしろ》いだろうな」
そうだねと答えて、ワタルはうふふと笑った。現世でもキ・キーマは、宅配便の配達員さんだったりしてね。身体が大きくて元気がよくて、力持ちで親切で、きっと人気者の配達員さんになることだろう。
同じころ、カッツとミーナは別の岩風呂でくつろいでいた。二人ともご満悦《まんえつ》だけれど、温泉で身体の芯《しん》まで温まったせいか、針の霧でできた傷が開いて、また血が流れ出した。
「けっこう痛いね」カッツは顔をしかめた。
「さっき、ジョゾのお母さんがよく効く軟膏《なんこう》があるって言ってたから、後で分けてもらおうか。あんたの目の下の傷、腫《は》れてるし」
塩水の温泉が染《し》みるのだ。
「ねえ、カッツさん」
「何だい」
「さっき聞いた話──ドラゴンたちの長の、七本柱のこと」
「うん」
「柱って呼び方、珍《めずら》しいですよね。大いなる光の境界を張り直すためのヒト柱と、何か関係があるんでしょうか」
カッツはちょっと黙り、やがて言った。
「ドラゴンは幻界の創世に関《かか》わる存在だから、あってもおかしくはないよね。だけど、あんまり深く考えない方がいいよ」
そうですねと、ミーナは答えた。温泉で気が緩《ゆる》んだせいだろう、何だか急にやるせなくなり、涙《なみだ》が出てきそうになったので、ミーナはあわてて顔を洗った。
一同が温泉からあがると、ジョゾが待っていた。
「準備ができたから、会合の洞窟へどうぞ」
案内された場所は、これまで見てきたなかで、いちばん大きな洞窟だった。飛行場にある、ジェット機の格納庫ぐらいはあるだろう。あちこちで松明《たいまつ》が燃えているけれど、全体に薄暗《うすぐら》い上に、あまりに天井が高いので、てっぺんまで目が届かない。ときどき冷たい空気の流れを感じるのは、壁に空気抜きの穴があるからだろう。
壁という壁、岩場という岩場を、何十頭ものドラゴンたちが埋《う》め尽くしていた。色もサイズもとりどりで、よく見ると翼の形や尾《お》の長さが微妙《びみょう》に違っている。
彼らの大きな黒い目が、一斉《いっせい》にワタルたちを注目した。鼻息がどっと漏《も》れる。
「ちょ、ちょっと怖《こわ》い」と、ミーナが囁《ささや》き、ワタルの手を探《さぐ》って握《にぎ》りしめた。
竜王様は、洞窟の一方の端の、高い岩場の上に座っていた。いや、もしかしたら寝《ね》そべっているのかもしれない。翼をたたみ、脚《あし》を身体の下に敷《し》いて、しっぽはだらりと垂れている。ワタルたちが中央の開けた場所に通されると、大儀《たいぎ 》そうに首を持ちあげた。が、まぶたは半分ほど閉じたままである。
竜王様の身体のサイズは、ジョゾの両親と大差がない。身体は、赤色がほとんど退色してしまい、褪《さ》めた紫色《むらさきいろ》に近くなっている。ウロコも痩《や》せて艶《つや》を失い、首や手足の付け根などに、何重にもしわが寄っている。二本の角のあいだに、キラキラ光る飾《かざ》りのついた冠《かんむり》のようなものを載《の》せている。
竜王様の座の左右には、七頭のドラゴンが座していた。七本柱と呼ばれる長たちだろう。黒みがかった濃《こ》い赤色の身体に、それぞれ色の違う首飾りをかけている。
「ようこそ、客人よ」
一頭のドラゴンが立って、ワタルたちを見据《み す 》え、それから集まったドラゴンたちを見渡した。
「しきたりに則《のっと》り、これより竜王様の御前《ご ぜん》にて、牙と翼の会合≠執《と》り行う」
ドラゴンたちが揃《そろ》って首を垂れ、平伏《へいふく》した。ジョゾより小さな子供ドラゴンたちも、行儀よく親たちに倣《なら》っている。
まず、両親に付き添《そ》われたジョゾが一歩前に進み出て、客人を案内してきたことを、集まったドラゴンたちに報告した。それを受けて、ワタルも前に出た。
「突然訪れたのにもかかわらず、僕たちを歓迎《かんげい》してくださって、とても感謝しています。竜王様、島のドラゴンの皆さん、ありがとうございます」
座は静まりかえっている。ワタルは心臓がドキドキしてきた。
「ジョゾから龍の笛をもらったことで、僕はこれまでに二度、危険な場所から救ってもらうことができました。そして今回、もう一度ジョゾの力を借りる必要ができて、彼の翼に乗せてもらうことになりました──」
竜王様が首を上げ、ワタルに呼びかけた。
「旅人≠諱v
「は、はい!」
「あなたが旅人≠ナあることの証《あかし》を、ここで示してはくださらぬか」
ワタルは勇者の剣《けん》を腰帯《こしおび》から外し、差し出した。七本柱のうち、ワタルにいちばん近いところにいたドラゴンがそれを受け取り、恭《うやうや》しく竜王様の前に運んでゆく。
竜王様のまぶたは、依然として半分閉じている。それでも、剣の検《あらた》めはとどこおりなく済んで、勇者の剣はワタルの手に戻《もど》された。
「番人のラウ導師はお達者か?」
急にくだけた感じになって、竜王様はワタルに訊いた。ドラゴンの表情を読むのは難しいけれど、口元がにっこり笑っているみたいだ。
「はい、お元気です!」
「幻界を訪れたとき、導師からペンダントを授《さず》けられなかったかの?」
ずっとつけっぱなしなので、かえって忘れていた。そっちの方こそが旅人≠フ証であるはずなのだ。ワタルはあわててペンダントを引っ張り出した。が、首から外そうとすると、竜王様はのんびりと止めた。
「よい、よい、そのままで。あいわかった。確かにあなたは旅人≠ナある」
「はい」ワタルは姿勢を正した。緊張《きんちょう》のあまり、ちょっとバランスを崩《くず》してしまい、それに気づいたドラゴンたちが、さわさわと笑ったようである。
「旅人≠諱Aそしてハイランダーたちよ」
竜王様の声が、重々しく響《ひび》く。カッツがきりりと顔を上げた。
「我らファイアドラゴンは、幻界の創世のときより息づくもの。今はこの大海の片隅に、静寂《せいじゃく》と平和のなかに時を過ごしておる」
ワタルたちに語りかけると同時に、集まったドラゴンたちにも話している。
「しかし、幻界の守護神としての我らの役割がなくなったわけではない。然《しか》るべき時、然るべき手段を以て、女神さまの剣と盾《たて》となり、幻界を護《まも》るが我らの使命であることに、いささかの変化もない」
ドラゴンたちが一斉にうなずく。七本柱たちの視線が、心なしか鋭くなった。
旅人≠諱B何も言わずとも、わしは知っておるよ。北大陸へ渡ろうとする、あなた方の目的を。それがヒトの争いに根を持つものであることも」
なぜわかるのだ? ワタルがひるんでいるうちに、
「お言葉ではございますが」と、カッツがピンと張りつめた声を出した。「わたしが北へ渡るのは、ヒトの争いの根を絶つためでございます」
竜王様の口元が、また緩《ゆる》んだ。「果敢《か かん》なるハイランダーよ。その心意気や良し。しかしヒトの争いの根を絶つことなど、ヒトの身でなし得ることではない」
「いいえ、わたしは──」
遮って、竜王様は静かに続けた。
「憎しみは憎しみを呼び、悲しみは悲しみに木霊《こ だま》し、死は次の死を差し招く。憎しみは大地深く根を張り、悲しみは大海よりも汲《く》めども尽《つ》きず、死が孤独を嫌うことは、空《むな》しく厳しい真実であるのだから」
カッツはくちびるを噛《か》みしめている。
「本来ならば、ヒトとヒトとの争いに、我らドラゴンが荷担《か たん》することは許されぬ。しかし旅人≠諱Aハイランダーよ。あなた方がこの島を訪れることを、我々は知っていた。またあなた方が北へ渡ることに、我々が助力せねばならぬことをも」
ワタルは顔を上げた。「ジョゾに聞きました。竜王様は、しばらく前から幻界の異変を察知しておられたと。ドラゴンたちが島を出て、ヒトと力を合わせなくてはならないような事態が発生するかもしれないと、案じておられたと」
竜王様は、ゆっくりと二度うなずいた。
「それはどういう事態なのですか? 僕らに、それを止めることができるのですか? だからこそ、竜王様は、僕らを助けてくださるとおっしゃるのですか?」
竜王様は、さらにもう一度、しわしわの首をうなずかせた。
「旅人≠諱Bこの幻界には、真実の鏡と対をなす、常闇《とこやみ》の鏡≠ェ存在する。それは今、北大陸の皇帝《こうてい》の手の内にある。そしてその封印《ふういん》が解かれようとしているのを、わしは感じておるのだ。この予兆に間違いはない。なぜならば、これを感じ取り、防ぐことこそが我らの役目なのだから」
そしてワタルはようやく、常闇の鏡と魔界、そして、常闇の鏡を封じてきた封印の冠──最後の宝玉について知ることになったのだった。
話を聞き終えた時には、温泉で温まっていたはずのワタルの手足は、すっかり冷えてしまっていた。洞窟が寒かったのではない。恐ろしかったのだ。
ミツルだ。ミツルは常闇の鏡の封印を解こうとしているのだ。宝玉を手に入れるために。ただそのためにだけ。
拳を握りしめるワタルを、カッツが見つめている。カッツの懸念はあたっていたのだ。ミツルは本当に、幻界のことなんかどうなってもいいと思っているのだ。
「北大陸の皇帝は、三百年前にも一度、己《おのれ》に加勢させるため、敢《あ》えて封印を解き、魔界の軍勢を呼び寄せたことがあった」
嘆《なげ》かわしいと、竜王様は続けた。「その折にも、我らドラゴンは北へ飛び、魔界の軍勢を退けるために、ヒトに混じって戦った。あの当時、北の皇帝は魔族の力をあてにしつつも、その本当の恐ろしさについては無知であった。封印を解き、魔族に敵軍を殲滅《せんめつ》させた後、また封印を戻せばそれで済むと考えていたのだ。その愚《おろ》かさよ。大海を傾けても洗い流すことのできぬ愚行《ぐ こう》じゃ」
もしもあの時、封印が解かれたことをいち早く察知したドラゴンたちが動き出さなければ、今ごろ幻界は跡形《あとかた》もなくなっていただろうと、竜王様は言った。七本柱たちもうなずいている。
「それでも、三百年前のその折には、常闇の鏡の封印が解かれていたのは、ほんのわずかの間のことであった。しかし今回は、それでは済まぬであろう。封印は完全に解かれ、もはや戻す術を失うことだろう。幻界じゅうの軍勢を集めても、魔族を遮ることはできはしない」
止めなきゃ──と、ミーナが震える声で言った。ワタルは立ち上がった。
「そんなことはさせません。必ず止めてみせます。封印を解こうとしているのは、僕の友達なんです。もう一人の旅人≠ネんです。あいつにそんなことをさせちゃいけないんだ!」
竜王様は首を巡《めぐ》らせると、脇に控《ひか》える七本柱のドラゴンたちを見回した。彼らもまた起きあがった。
「旅人≠諱B七本柱と共に行きなさい。彼らはきっと、あなたの力となるだろう。ヒトの世に限りはあっても、幻界に限りはない。限りあるヒトの力で、幻界の命を絶ってはならぬ」
「お約束します!」
ワタルがきっぱりと言い切ったとき、ジョゾが幼い声をあげた。
「僕は? 竜王様、僕も一緒に行っていいでしょう?」
ワタルはあわててジョゾの首を押さえた。
「ダメだよ、ジョゾ! 君はダメだ」
「どうして? ワタルが行くなら、僕も行くよ」
「お父さんとお母さんが心配するよ」
ジョゾの両親は、悲しそうに目をしばたたかせている。ジョゾはそれを見て、みるみるつぶらな目を潤ませた。それでもしっぽを振って、頑《かたく》なに言い張る。
「だけど行くよ。ワタルを乗せて行くよ。いいでしょ、お父さん、お母さん」
ジョゾのお母さんはうなだれてしまった。お父さんが言った。「竜王様のお許しがあるのなら」
「そんな!」
ワタルは竜王様を振り仰いだ。ずっと垂れ下がっていた竜王様のまぶたが、ちょっとだけ持ちあがって、ジョゾを見た。
「ジョゾよ。易しい戦いではないぞ」
「はい、わかっています」
「こうしている間にも、封印が解かれる時が近づいているのを、わしは感じる。危機は迫《せま》っている。魔族は恐ろしく、手強《て ごわ》いぞ。それでも旅人≠ニ共に行くか?」
ジョゾはぶるりと身震いして、答えた。
「ワタルに助けてもらった命だもの。僕はワタルと行きます!」
再びまぶたをおろしながら、
「いいだろう」と、竜王様は言った。
「ひとたび旅人≠ニ縁《えにし》を結んだ以上、それもまた守護神たるファイアドラゴンの末裔の宿命じゃ」
眠ったような半眼がワタルを見る。そこから強い視線が放たれるのを、ワタルは感じた。
「旅人≠諱Bこのジョゾをあなたの助力とし、そして、かなうならばこのドラゴンの島へと戻してやってくだされ」
必ず、必ずと、拳を固めてワタルは誓《ちか》った。
「ご武運をお祈りする。あなたに運命の女神さまの加護のあらんことを」
すべてのドラゴンたちが竜王様の言葉に唱和し、その声はやがて、洞窟をどよもすような、力強い祈《いの》りの詠唱《えいしょう》となっていった。
[#改ページ]
48 皇都壊滅
ドラゴンの七本柱たちは渡《わた》り鳥のように編隊を組み、海上の気流にその力強い翼《つばさ》を乗せて飛行していた。先頭のドラゴンの首にはカッツがまたがり、ワタルたちを乗せたジョゾは最後尾《さいこうび 》につきながらも、彼らに後《おく》れをとらぬよう、懸命《けんめい》に羽ばたいていた。
目指すは、北の統一|帝国《ていこく》の皇都ソレブリア。常闇《とこやみ》の鏡はその中心、皇帝の居城にあると、竜王様は教えてくれた。
「統一帝国の皇帝は、常闇の鏡を護《まも》るため、ただ封印《ふういん》の冠《かんむり》を用いるだけでなく、おそらくは魔術《まじゅつ》的な措置《そ ち 》をほどこし、その安置されている場所がわからぬように、厳重に隠《かく》しているはずじゃ。そのままでは、外部の者は手出しができぬ。しかし旅人≠諱Aあなたの友であるというもう一人の旅人≠ェ優《すぐ》れた魔《ま》導士《どうし 》であるというのならば、必ずや、その魔法を解こうとするはず。彼が常闇の鏡の置かれた場所を突きとめ、それに近づこうとするその時こそが、彼を止める唯一《ゆいいつ》の好機となりますぞ」
ドラゴンたちは、うっかりしていると振《ふ》り落とされそうなほどのスピードで飛んでいる。しっかりとジョゾの背にしがみつき、ワタルは念じていた。速く、もっと速く! ミツルのいる場所へ!
北大陸の地平が見え始めた。凪《な》いだ海も大地の色も、南大陸と同じようにのどかに広大に、しかし空の色合いだけが凍《こお》りついたように薄《うす》く見えるのは、身体《からだ》に感じる強烈《きょうれつ》な寒さのせいだろうか。
「あれ……あれは何だろう?」
先頭を行くカッツが、遠く前方を指さして叫《さけ》んだ。
幾筋《いくすじ》もの黒い煙《けむり》が、空に立ちのぼっている。
「皇都ソレブリアの方向だ」と、七本柱ドラゴンたちが口々に言った。
「火災だ! 火事が起きているぞ!」
ひときわスピードを増し、空を行くワタルたちの目に、やがて、信じがたい光景が見えてきた。巨大《きょだい》な城塞《じょうさい》都市──城壁《じょうへき》に護られた百万都市ソレブリアに異変が起きている。城壁に設けられた城門が焼け落ち、そこから逃《に》げ出してゆくヒトびとが、遠く小さく蟻《あり》の列のように見える。城壁の向こう、色とりどりの無数の屋根がひしめきあう町筋に、土埃《つちぼこり》と煙が舞《ま》いあがる。
「何てことだ! 何なんだよ、これは!」
カッツが毒づき、髪《かみ》を乱して身を乗り出す。ドラゴンたちは翼を張りスピードをあげぐんぐんと下降を始めた。近づくにつれて、皇都ソレブリアがワタルの眼下いっぱいに広がってゆく。
そこらじゅうで建物が倒《たお》れ、その上を炎《ほのお》が走ってゆく。煙が流れ、ヒトびとの退路を断《た》って襲《おそ》いかかる。あちらでは城壁の一部が崩《くず》れた。こちらでは家々がなぎ倒されてゆく。耳を聾《ろう》するような響《ひび》きと熱風には、ヒトびとの悲鳴が混じっている。
「いったい何が──」
ワタルはジョゾの翼の端《はし》から首をのばし、視界に収まりきらないほど広いソレブリアのなかで、何か大きなものが何体も──そう、ヒトの形をしている──でも、ヒトなんかよりも遥《はる》かに大きい、ドラゴンよりももっと大きな灰色のものが暴れ回っていることに気づいて声を失った。
あれは──何だろう? まるで岩で造られたロボットみたいだ。
丸い頭、広い肩《かた》、太い胴《どう》。無骨な手足を振り回し、見ると、それがどすんと足を踏《ふ》み出すたびに、人家が潰《つぶ》れたり、路上のヒトびとがどっと倒れ伏《ふ》したりしている。倒壊《とうかい》した建物から、ひと呼吸遅れてまた新たな火の手があがる。火に追われ、方向もわからず必死で逃げるヒトびとの群を、またあの重い足が踏み潰す。叫び声や泣き声が幾重《いくえ 》にも錯綜《さくそう》し、それらを呑《の》みこんで爆発《ばくはつ》音が轟《とどろ》く。
「こいつらはゴーレムだ!」
ワタルと同じように目を瞠《みは》って下を見おろしていたキ・キーマが、大きな身体を震《ふる》わせながら怒鳴《ど な 》った。
「ゴーレム?」
「魔導士のこしらえる石の巨人だよ! 造った魔導士はその主人となって、自由自在に動かすことができるんだ」
「そんなの……お話だと思ってた」
色を失って震えながら、ミーナが呟《つぶや》いた。
「ホントにあるなんて、信じられない」
「俺だってそうさ。だけど、現にこいつら動き回ってるじゃねえか!」
のっぺりとした巨大な石人形たちの顔には、目鼻立ちらしいものは見あたらない。やみくもに破壊と前進を続けながら、ときどき機械的に首を左右に振る。不格好な両手は、ほとんど手の形を成していない。ただの岩石の塊《かたまり》だ。それがぶうんとうちおろされ、地響きと共に町並みを崩してゆく。
「ミツルだ」
煙で目がちかちかする。涙《なみだ》が出てくる。
「ミツルがゴーレムを造って、操っているんだ!」
ソレブリアを破壊しようとしている。どこだミツル、どこにいる?
ジョゾのすぐそばで、どかんと火柱があがった。熱風の直撃《ちょくげき》をくらったジョゾはバランスを崩し、翼の右端が建物の残骸《ざんがい》をかすめそうになる。振り落とされかけたミーナが悲鳴をあげた。
「何体いるのだ? 数え切れんぞ!」
「あれを見ろ! 彼奴《きやつ》らはまだまだ数を増しているぞ」
ゴーレムたちは町じゅうにいた。東西南北、どの方向にも。暴れ回り、踏み潰し、狼藉《ろうぜき》の挙げ句に、互《たが》いの拳《こぶし》が触《ふ》れ合って、殴《なぐ》り合ってしまうゴーレムたちもいる。それで腕《うで》が落ち、頭の一部が欠けても、彼らは何の痛痒《つうよう》も感じず、平然として動き続けている。そしてドラゴンたちが叫んでいるとおり、破壊と混乱の巷《ちまた》のなかから、そこでも、ここでも、また新たなゴーレムが轟音《ごうおん》と共にむっくりと起きあがり、両手を振りあげるのだ。次から次へと。
「やっつけなきゃ! やっつけてよ!」ミーナは叫び、ジョゾの背中をぱんぱんと叩《たた》いた。
「だけど、どうすればいいの?」
ジョゾは半泣きの声を出し、それでも口を開けて炎を吐《は》こうとした。ワタルはあわててジョゾの首ッたまにかじりついた。
「ダメだよ! 火を吐いたら町のヒトまで巻き添《ぞ》えにしちゃう!」
高度をさげて、右往左往と旋回《せんかい》するドラゴンたちの翼が地上に影《かげ》を落とすと、炎の色がくっきりと赤く浮かび上がる。頭のすぐ上を飛び交《か》うドラゴンたちの姿に、ソレブリアのヒトびとは怯《おび》えながら逃げ出してゆく。しかしその先にはゴーレムたちが待ち受けている。
「助けて、助けて!」
「お母さん、どこにいるの?」
ぎりぎりの低空飛行で、ワタルの耳にも、個々の悲鳴が聞き分けられる。たった今ジョゾが飛び過ぎた三角屋根の家の煙突《えんとつ》に、若い男が両腕で抱《だ》きついて助けを求めていた。反射的に、ジョゾ、戻《もど》ってとワタルは叫び、煙突に向かって手を差し出した。若い男は恐怖《きょうふ》に目を泳がせながら、それでも片手を煙突から離《はな》し、ワタルの方に腕をのばした。手と手の先が近づき、あとちょっとでワタルの手が若い男の手首をつかめる──と思ったとき、近づいてきたゴーレムの一撃で、三角屋根がぐしゃりと潰れ、煙突がゆらりと傾《かたむ》いた。呆気《あっけ 》にとられたようにぽかんとして、空に半円を描《えが》きながら倒れてゆく煙突にしがみついたまま、次の瞬間《しゅんかん》には、若い男は地上の瓦礫《が れき》のなかに姿を消していた。
もうもうと舞いあがる土埃のなかで、ワタルは自分でもわけのわからないままに叫んだ。どうして、どうして、どうして?
「旅人≠諱A落ち着け。どうやら、彼奴らは宮殿《きゅうでん》を目指しているぞ」
傍《かたわ》らに飛んできた七本柱のドラゴンの一頭が、ワタルに呼びかけてきた。カッツを乗せている。彼女は得物の黒い鞭《むち》を構え、ドラゴンの首の付け根に足をかけて仁王立《に おうだ 》ちしていた。
「よくごらん、ワタル!」
ゴーレムたちは輪になって、ソレブリアを取り囲みながら破壊の進軍を続けていた。進むにつれて、彼らの輪も小さくなってゆく。その輪の中心には、皇都ソレブリアの核《かく》、乳白色の大宮殿があった。
「あれが皇帝の居城だ。クリスタル・パレスだよ!」
カッツは片手を口の横にかざし、火災の巻き起こす強い上昇《じょうしょう》気流に負けじと声を張りあげた。
「あんたのお友達のミツルは、皇都をめちゃめちゃにしながら、クリスタル・パレスに向かってるんだ!」
「さしものゴーレム使いでも、ゴーレムから遠く離れては、彼奴らを操縦することはできぬはずだ。必ず、彼奴らのそばにいる」と、七本柱のドラゴンが言った。「我々は何とかして、少しでも彼奴らを足止めしてみよう。そのあいだに、あなたはミツルという旅人≠探すのだ。ゴーレム使いを倒せば、ゴーレムどもは土に還《かえ》る!」
「わ、わかった!」
ワタルはカッツに倣《なら》い、ジョゾの背中で立ちあがった。たちまち、強い風に押されて身体がよろめき、煙で咳《せ》き込んでしまう。キ・キーマがワタルの盾《たて》となり、ミーナがワタルの腰《こし》を抱《かか》えてしっかりとつかまえた。
「ミツル! ミツル、どこにいるんだ!」
瓦礫の山をかすめんばかりに、ゴーレムたちの鼻先を、ジョゾは飛び回る。振りおろされたゴーレムの拳をすれすれに回避しながら、ジョゾは歯を食いしばって翼を操《あやつ》る。ワタルはミツルを呼び続けた。
「ミツル!」
そのとき、煙と埃の幕の向こう、じりじりとクリスタル・パレスに迫るゴーレムたちの円陣《えんじん》の一角に、ワタルは見つけた。一体のゴーレムの肩の上に佇《たたず》むミツルを。片手でゴーレムの頭に触れ、片手にあの魔導の杖を携《たずさ》え、漆黒《しっこく》のローブは風を受けてひるがえる。
「あそこだ!」
指さすワタルに応《こた》えて、ジョゾは飛んだ。ミツルの姿がぐんぐん近づいてくる。目と鼻の距離まで迫ると、ワタルはためらいもなくジョゾの背中からジャンプして、ミツルの立つゴーレムの肩の上へと飛び移った。
「ワタル、気をつけて!」
勢い余ってゴーレムの肩の上から転がり落ちそうになったワタルを、ミーナの声が追いかけてくる。
ようやく立ちあがったワタルを、ミツルは、学校の廊下《ろうか 》でばったり会ったというくらいの、ほとんど無関心に近い冷静な目で見つめていた。こうして見れば、岩石の塊以外の何物でもないゴーレムの、頭を挟《はさ》んで、左右の肩の上に立つ二人の旅人≠ヘ、視線を合わせた。
「こんなところで何してるんだ?」
ゆっくりと、ミツルは問いかけてきた。ほんの少しだけれど、面白《おもしろ》がっている。でも同時に、ほんの少しだけれど驚いている。ワタルが追いついてきたことに。
「おまえこそ何やってんだ」
「見てのとおりさ」ミツルはつと手を広げてみせた。「なかなか面白いだろ?」
今さらのように、ワタルは膝《ひざ》ががくがくするのを感じた。怖《こわ》いんじゃない。腹が立つんだ。
「面白い? これが? この有様が?」
「皇帝のお膝元、聖なる皇都ソレブリア」ミツルは謳《うた》うように言った。「盤石《ばんじゃく》のはずの都も、呆気ないもんだな」
すぐそばで別のゴーレムが大きな屋敷をぶち壊《こわ》した。倒壊してゆく建物のなかから、その衝撃に、手品のように何かがぽんと飛び出して、空をよぎって落ちてゆく。ワタルの目に映ったものが間違いでないならば、それは大きな竃《かまど》だった。ひと抱えもあるお鍋《なべ》を載《の》せたまんま飛んでいった。
ゴーレムたちの引き起こす破壊と、彼らの巨体が移動するときの振動《しんどう》で、まともに立っていられないほどだ。それなのに、ミツルはケロリとして、魔導の杖を抱くようにして腕組みをした。
「こんな破壊と虐殺《ぎゃくさつ》に、何の意味がある? 今すぐやめるんだ。やめてくれよ、お願いだ!」
「意味? 意味ならあるさ。うんと大きな意味が」
ミツルは言った。彼の髪にも、瓦礫から舞いあがった埃や石の欠片《かけら》がくっついている。
「どうしてもこうしなきゃ用が足りないから、やってるんだ」
「宝玉を手にするために? 常闇の鏡の封印を解こうとしてるんだろ?」
初めて、ミツルの表情が動いた。「そこまで知ってるのか」
「常闇の鏡の封印を解き、魔族が侵攻《しんこう》してきたら、どれほど大変なことになるのかわかってるのか? 現に三百年前にこの北大陸で──」
「知ってるよ」と、ミツルは遮った。ワタルは口を開いたまま固まってしまった。
「知ってる[#「知ってる」に傍点]?」
「ああ。初代皇帝が、目障《め ざわ》りな蛮族《ばんぞく》を片づけるために、魔族の力を借りようとしたんだ。実際、効果てきめんだったらしい」
ワタルの頭に血がのぼった。「効果てきめんだって! ドラゴンたちが駆けつけてきてくれなかったら、幻界《ヴィジョン》≠ェ滅《ほろ》びるかもしれなかったんだぞ!」
ミツルは煙《けむ》たそうに目を細めながら、ゴーレムたちのあいだを飛び交う七本柱のドラゴンたちを見やった。
「あいつらか。おまえ、いつドラゴンなんかにわたりをつけたんだ?」
「そんなことはどうでもいいだろ。僕は彼らに教えてもらったんだ。三百年前は、封印が解かれていたのはほんの短いあいだだった。それでも、ホントに危なかったんだ。今おまえがやろうとしていることは、それ以上のことなんだぞ!」
「そうなんだろうな」
「だったらなぜ?」
ミツルの乗るこのゴーレムは、いわば司令塔《し れいとう》なのだろう。それ自体はまったく動かず、周囲の阿鼻《あ び 》叫喚《きょうかん》をよそに、じっと佇んでいる。それでも地面がぐらぐらと揺《ゆ》れ、熱風にさらされているので、その大きな頭を越えてミツルに近づくことができなかった。
操り手の魔導士を倒せば、ゴーレムは土に還る。ミツルを倒せば、この惨事《さんじ 》を終わらせることができる。だけれど、勇者の剣《けん》を抜くことができない。柄《つか》にかけた右手がどうしようもなく震えてしまう。
ミツルは、そんなワタルをじっと見つめている。彼の後方、さほど離れていないところで、大きな建物がまたひとつ倒壊した。
「おまえ、まだ目が覚めてないようだな」
ミツルは言った。こんな簡単な計算問題を解くこともできないのかと、呆《あき》れているみたいな口調で。
「ソノの港で訊《き》いたよな? おまえは幻界に、ここのヒトたちと仲良くなるために来たのか? 幻界の平和を守るために来たのか?」
心のなかに、ガサラでのカッツとのやりとりを思い浮かべようとしてみた。たとえ友達でも、間違っていることは間違っていると言わなくてはいけない。
「違うよ。僕は自分の運命を変えるために幻界にやって来たんだ。でも、そのためならどんな手を使ってもいいとは思わない。そうは思えないんだよ[#「そうは思えないんだよ」に傍点]」
ミツルは、現世《うつしよ》の学校で、神社の境内《けいだい》で、ワタルが彼に会うとき、いつも見せていたあの仕草をした。ちょっと肩をすくめ、顎《あご》の先をつと持ちあげて、目をそらす。
「俺はそう思える。だからやる」
それ以上、話すことなんかない──
「聞違ってるよ」自分でも情けないくらい小さな声しか出てこなかった。騒音《そうおん》に負けて、ミツルの耳には届かないかもしれない。
「ミツルは間違ってる。こんなことをしちゃいけない。皇都ソレブリアのヒトたちだって、生きてるんだ。僕らの勝手で命を奪ったりしちゃいけないんだよ」
ミツルは素早《す ばや》く振り返った。「それは、ハイランダーとしての意見か?」
ワタルが答える前に、ミツルはゴーレムの肩の上で、ぽんと軽く足踏みをした。
「こいつが何でできてるか、知ってるか?」
唐突《とうとつ》に、何を訊くのだ。
「い、岩だろ。魔法で造られたゴーレムなんだろ」
「そうだ。俺が土と岩をこねあげてこしらえた、疑似《ぎ じ 》生命さ。だけど材料は、土と岩だけじゃない」
「素材」としてのヒトが必要なんだと、ミツルは言った。
「ゴーレム一体につき、ヒトが一人|要《い》る。いくら魔法に長《た》けていても、こればっかりはどうしようもない。俺がそれを、どうやって調達したと思う? この数だからな」
ワタルはミツルの顔から目を離すことができなかった。何てことを言うんだ。まるっきり普通《ふ つう》の口調で。退屈《たいくつ》な授業を聞いているときみたいな顔をして。
強《し》いて視線を動かし、今や煙と炎の海になっている皇都を見渡せば、ゴーレムたちの数は数え切れないほどだ。これがみんな、元はヒトだったと? それをゴーレムに変えてしまったというのか?
「常闇の鏡をのぞきこむと、ヒトは虚《ウロ》≠ノなってしまう。魂《たましい》のない抜け殻《がら》だ。皇帝一族は、自分たちの勝手な都合で、しばしばヒトをウロにしてきた。強制的に常闇の鏡を見せてウロに仕立て上げ、下僕《げ ぼく》として使ったり、辺地で働かせたりしてきたんだ。政治犯や犯罪者にも、同じようなことをしてきた。刑務《けいむ 》所に収容して更生《こうせい》させるより、その方が手っ取り早いからさ」
「……本当に?」
「皇女から直《じか》に聞いたんだから、嘘《うそ》じゃないだろうさ。現に、こいつらは優秀《ゆうしゅう》なゴーレムになってくれたしな」
クリスタル・パレスのなかにも、大勢のウロがいたんだと、ミツルは続けた。
「ゴーレムを造る素材として、ヒトは不可欠なものだ。だけど、ヒトには魂がある。どんなくだらない奴《やつ》でも、魂を持っている。だから、そのままではなかなか素直《す なお》に言うなりになるゴーレムを造ることができないんだ。うんと面倒くさくなるんだよ。だけど、ここじゃ簡単だった。そこらをうろうろしているウロは、最初から魂を持っていない。素材として最適だったんだ」
言葉もなく青ざめるワタルを見据《み す 》えて、ミツルは言った。「おまえは、俺が残酷《ざんこく》なことをしているという。でも、ウロをつくったのは俺じゃないぜ。皇帝だ。ハイランダーとしてのおまえは、それをどう思う? 許し難《がた》いと思うか? だったら、そんな皇帝の統《す》べる皇都なんか、滅びたっていいじゃないか。一族もろとも、滅ぼしたっていいじゃないか。ソレブリアの市民たちも──いいや、北の統一帝国の国民全員が同罪だ。代々の皇帝の所行を黙認《もくにん》してきた。時には進んで支持さえしてきた。自分たちの利益になるから。あるいは、自分たちの身が可愛《かわい》いから。こんな連中は、罰せられて然《しか》るべきだ。ハイランダーとしてのおまえは、それをどう思う?」
目が霞《かす》むのは、煙のせいだ。頭がふらふらするのは、絶え間ない振動のせいだ。耳が聞こえなくなりそうなのは、壊されゆくソレブリアの、このもの凄い悲鳴のような音のせいだ。
どちらが正しい。何が正義だ。
「おまえは幻界が大切だという。だけどこの帝国は、南大陸の連邦国家ほど甘くないぜ。俺はむしろ、南大陸には感謝されてもいいんじゃないかな。北の侵攻の危険を削《そ》いでやったんだから」
ミツルはちょっと首をすくめて笑った。
「皇都がこの有様になっちゃ、いくら動力船を造ったところで、南へ戦争を仕掛《し か 》けるどころじゃないだろうからな」
どんな感情よりも先に身体が動いて、ワタルはミツルに飛びかかろうとした。
そのとき──
唐突に、まばゆいばかりの白光が迸《ほとばし》り、地上を、空を、包み込んだ。飛び交うドラゴンたちと、ゴーレムたちの巨体がくっきりと黒い影に変じる。
反射的に手で目を守り、ワタルは身をかがめた。迸る光は、生まれたときと同じように、一瞬のうちに消えた。
「よし」と、ミツルがうなずいた。
ワタルは顔を上げてみた。あの白光は消えたものの、周囲の光景の、何かが違っていた。明るい。太陽とは別の光源が──
皇帝の居城、クリスタル・パレスだ。あの雄大《ゆうだい》な城全体が、中央の尖塔《せんとう》のてっぺんから、足元を固める土台石まで、張り出した装飾《そうしょく》翼廊《よくろう》の端々までもが、本当に水晶《すいしょう》でできているみたいに、内側からさしかける光に輝いているのだった。
「皇都の崩壊」
燦然《さんぜん》と輝くクリスタル・パレスを仰いで、ミツルは言った。
「それすなわち結界の消滅だ」
それじゃな──と短く言うと、魔導の杖をさっと振った。ワタルの目の前から、ミツルの姿がかき消えた。
瞬間移動《ワ ー プ》の魔法だ。ミツルはクリスタル・パレスに向かった!
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49 鏡の広間
「ワタル、こっちよ!」
立ちすくむワタルのすぐそばへ、風を切ってジョゾが飛んできた。ミーナが両腕《りょううで》を差しのべている。
ミツルの去った一瞬《いっしゅん》の空白の後、これまで司令塔《し れいとう》の役割を果たしていたゴーレムが、戦列に加わって両腕を振《ふ》りあげた。ワタルは横っ飛びに飛んでミーナの手につかまった。ゴーレムの拳《こぶし》が、ジヨゾの翼《つばさ》すれすれのところで空を切った。ジョゾはバランスを崩《くず》しながらも、きわどく避《よ》けて舞《ま》いあがる。
「ミツルは?」
カッツを乗せたドラゴンがジョゾに追いついてきた。ドラゴンたちの身体《からだ》は、ソレブリアを舐《な》め尽《つ》くしつつある炎《ほのお》に赤く照り映《は》えている。カッツの顔は煤《すす》で真っ黒だ。
「ク、クリスタル・パレスへ──」
「追いかけるんだ! ぐずぐずしてるんじゃないよ!」
カッツはドラゴンの角につかまり、身を低くした。人龍一体となって、ドラゴンが翼をたたみ、まっしぐらにクリスタル・パレス目指して滑空《かっくう》を始める。
「ジョゾ、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「任しといて!」と、ジョゾは歯を食いしばって後に続く。でも傷だらけだ。火傷《やけど》のせいだろう、ウロコがあちこち剥《は》げている。
ソレブリアを包囲しつつ、ゴーレムたちもまたクリスタル・パレスに向かって輪を縮めていた。振り返ってみると、もはや壮大《そうだい》な瓦礫《が れき》を焼く焚《た》き火と化しているソレブリアの、迷路のようになった狭《せま》い隙間《すきま 》に、何とか生き残ったヒトびとが火に追われつつも逃《に》げ場を探し、あるいはうずくまり、あるいは方向を見失って呆然《ぼうぜん》としているのが一望できた。ワタルは周囲を飛ぶドラゴンたちに向かって声を張りあげた。
「皇都のヒトたちを、クリスタル・パレスから遠ざけてください! 城壁《じょうへき》の外へ逃がすんだ!」
「わかった!」
先を行くカッツとドラゴンが、ワタルの拳ぐらいの大きさに見える。赤い隕石《いんせき》のように、クリスタル・パレスめがけて一直線に飛び落ちてゆく。
そのとき、ワタルは気≠感じた。魔法《ま ほう》の気配としか言いようがない。トリアンカ魔病院で、ソノの港町で、ミツルが風の大魔法を行使してみせたときと同じ空気の流れ。
「カッツさん、気をつけて!」
叫《さけ》んだ瞬間、クリスタル・パレスの輪郭《りんかく》が、かげろうに包まれたかのように歪《ゆが》んでにじんだ。次の瞬間、城の内部、深奥の一点を中心に、巨大《きょだい》な竜巻《たつまき》が立ちのぼった。急流のような風の流れは渦となり、螺旋《ら せん》を描《えが》きながらまたたくまに膨張《ぼうちょう》し、ワタルの目にカッツを乗せたドラゴンがその直撃《ちょくげき》を受けて、あたかも悶絶《もんぜつ》するようにきりもみ状態になる様子が飛び込んできた。
「危な──」
ジョゾも竜巻の外縁《がいえん》の風に弾《はじ》き飛ばされた。ワタルの声も宙に消えた。上下左右もわからぬまま、洗濯槽《せんたくそう》のなかのハンカチみたいにぐるぐる回りながら、空の彼方《かなた》までも飛ばされてゆく。
キ・キーマとミーナの叫び声に、ジョゾの悲鳴も混じる。空と地上、モザイクのように入れ替わる視界。巨体のゴーレムたちでさえ、竜巻の強風に一歩二歩とよろめく。倒壊《とうかい》した建物の瓦礫が舞いあがり、倒壊しかかっていた建物が吹き飛ばされる。石造りの家がまるまる一棟、手品のように宙に浮《う》き、少しずつ分解されながら飛んでゆく。燃える物見台だろうか、内部に柱の輪郭がうっすらと見える巨大な火の玉が、無力に飛ばされてゆくジョゾのすぐ上を通り過ぎ、城門脇の城壁にぶつかって火花と共に消えた。
「つかまっててぇ!」
ほとんど泣きながら、ジョゾが叫んだ。キ・キーマが片手でミーナをつかまえ、片手でジョゾの翼にぶらさがり、
「ワタル、頑張《がんば 》れ!」
ぐいと突《つ》き出された足に、ワタルは両手でしがみついた。腰から下は宙に泳いでいる。落下する。落ちてゆく。ぐんぐん地面が迫《せま》ってくる。落ちる、落ちる──
大きな手ですくいあげられたみたいに、ワタルの視界は地面すれすれをかすめて上昇《じょうしょう》した。ジョゾがコントロールを取り戻したのだ。空が広がる。あまりのきわどさに、恐怖《きょうふ》のあまりか、ジョゾが吠《ほ》えるような泣き声と共にひとかたまりの火を吐《は》き出した。
「大丈夫? 大丈夫? みんないるね?」
「いるよ、ジョゾ!」
気がついたら、城壁の際《きわ》のところまで吹き飛ばされてしまっていた。ドラゴンたちも、竜巻の外周で懸命《けんめい》に羽ばたいている。ワタルは七本柱の数を数えた。一頭、二頭──みんな揃《そろ》っている。カッツは無事だった? どこだ?
「カッツさーん!」
呼ぶ声も風にさらわれてゆく。
「こっちだ、こっちだよ!」
カッツのドラゴンは、片翼《かたよく》を傷《いた》めたのか不自由な飛び方で、ワタルたちよりもずっと低いところでふらついていた。ジョゾが降りてゆく。彼の首のところまで這《は》っていって、大きな頭の上に乗り出し、ジョゾの目にいっぱいの涙《なみだ》が溜《た》まっていることに気がついた。
「こ、怖《こわ》いね」と、ジョゾは言った。「今のは何だろ?」
「風の大魔法だよ。ミツルが、僕たちを寄せつけないために、クリスタル・パレスを竜巻で包んじゃったんだ」
ワタルは一生懸命ジョゾの頭を撫《な》でた。気がつくと、自分も泣きそうになっていた。
何とかバランスを保ちながら並んでみると、カッツも怪我《け が 》をしているのがわかった。焼け焦《こ》げだらけだし、右目のすぐ上が切れて血が流れているので、そこだけ煤が洗い流されている。
「ちくしょう、あれじゃ近づけやしない!」
鞭《むち》を握《にぎ》りしめる手にも血がついている。
「あの魔法を何とかできないのかい?」
「僕の力じゃ無理です」ワタルは必死に呼吸を整えた。「もう瞬間移動《ワ ー プ》魔法を使うしかない。やってみます」
カッツは、傷を負った片目をも痛々しいほどに大きく見開いた。「そんなことができるなら、何でもっと早くやらないんだよ!」
「自信がないんだ。ミツルみたいに正確にコントロールできない! 何処《ど こ 》へ飛ばされるか、僕にもわからないんだもの」
「それだって、やるっきゃないだろ!」
言うなり、カッツは軽々とジャンプし、ジョゾの上に飛び移ってきた。
「さ、行こう」と、ワタルの腕をむんずとつかむ。
「行こうって?」
「一緒《いっしょ》に行くんだよ! あんたにつかまってりゃ、あたしも移動できるだろ?」
ワタルはキ・キーマとミーナを振り返った。ミーナがもがくように立ちあがる。
「ワタル──」
「二人は、皇都のヒトたちを助けて」と、ワタルは言った。素早く、しかしミーナに反論の隙《すき》を与《あた》えず、決然と。
「ミツルのことは、僕とカッツさんで何とかする。だから頼《たの》むよ、ね?」
ミーナの青灰色の瞳《ひとみ》に、今や皇都の空までを染めている炎の色が照り映えている。
「わ、わかったわ」
「気をつけろよ」キ・キーマが膝立《ひざだ 》ちになった。「よし、ジョゾ! ワタルたちが魔法で消えたら、俺たちは皇都を巡るんだ。逃げ場を失ってるヒトたちを、上から誘導《ゆうどう》するんだぞ!」
ジョゾが翼を大きく振った。「うん!」
ワタルは勇者の剣《けん》を抜いた。心を鎮《しず》め、集中するんだ。ガサラで瞬間移動《ワ ー プ》したときのことを思い出せ。できるはずだ。きっとできる。クリスタル・パレス。クリスタル・パレスへ。
三《みっ》つの宝玉の力を集めて。
目を閉じて呪文《じゅもん》を唱えると、突然身体が軽くなった。視界が光に満たされ、炎の熱さも風の強さも感じなくなった。魔法の砲弾《ほうだん》だ。空へ打ち出される。上昇し、上昇し、弧《こ》を描《えが》いて空を飛び、ゴーレムたちの頭上、皇都ソレブリアの上空をよぎって、クリスタル・パレスへ──
ぱっと現実が戻ってきた。ワタルは宙に浮いていた。カッツが一緒だ。二人で空を飛んでいる。足元にはクリスタル・パレスの威容《い よう》が迫っている。広いテラス。装飾《そうしょく》のほどこされた見張り台。ぐるりを巡る石の手すり。中央|尖塔《せんとう》に陽光がぴかりと反射する。
刹那《せつな 》のそのとき、テラスのあちこちに、城の内部に続くアーチ型のゲートの陰《かげ》に、騎士《き し 》たちが倒れているのが見えた。血、血、血。そこらじゅうに血が飛び散っている。どうしてあんなところに銀の兜《かぶと》だけが転がっている? なぜあんな場所に鋼《はがね》のブーツだけが落ちている? バラバラだ。騎士たちが身体をバラバラにされて死んでいる。風の魔法の刃《やいば》にかかって──
「降りるよ!」
カッツが叫んだ。二人で石のように落ちてゆく。血糊《ち のり》の飛び散る石敷きのテラスに。
しかし、そのとき。
「邪魔《じゃま 》するな!」
ミツルの声が轟《とどろ》いた。ワタルの目の奥で光が閃《ひらめ》いた。着地しようとしていた身体が、見えない壁にぶつかったみたいに弾き飛ばされる。魔法と魔法の激突《げきとつ》に、ワタルを包む世界が歪《ゆが》んで爆発《ばくはつ》する。
カッツが怒《いか》りの悲鳴をあげて、ワタルの腕をつかんでいる──
どさっと音をたてて、二人は落下した。地面の上だ。腰から落ちた。頭がくらくらする。
「こ、ここは?」
へたりこんだまま、カッツが周囲を見回している。ワタルは両手で頭を抱《かか》え、回る視界を押さえようと、ぐっと目をつぶった。
そして顔を上げ、目を開いてみると、ようやくそこが緑地であるとわかった。どこだ?
さっきよりは、確かにクリスタル・パレスに近づいている。それでもまだ距離《きょり 》はあるが、輝《かがや》く尖塔と城壁が、皇都にいたときよりはくっきりと見てとれる。城の窓のいくつかから、細い煙《けむり》の筋が流れ出ているのもわかる。
「こりゃ……庭園だよ」カッツが気抜けしたような声を出した。
クリスタル・パレスを取り囲む幾多《いくた 》の美しい庭園。そのうちのひとつに、二人は移動してきたのだった。無骨な土台石に支えられた四阿《あずまや》と、砲台の跡。そこは戦勝の庭園だった。ミツルが皇女ゾフィと会見した、あの庭だ。もちろんワタルには知る由《よし》もない。
「やけに静かだね」カッツは立ちあがり、右目に流れ込む血をうっとうしそうに手で拭った。「騎士の一人もいやしない」
「風の大魔法の内側に入ったんですよ」
立とうとすると、膝が崩れそうになった。カッツが支えてくれた。
「じゃ、ここは何事も──」
なかったのかねと言おうとしたのだろうが、カッツは途中《とちゅう》で口をつぐんだ。庭は荒《あ》れていた。強い風が通過した痕跡《こんせき》が、傾《かし》いだ樹木に、散り落ちた花弁《か べん》に、傾《かたむ》いた柵《さく》に、乱れた地面に残っている。
植え込みの陰に、警備兵らしいヒトが二人、手足を投げ出すようにして倒れている。身体から流れ出る血が、砂地を黒々と染めている。
竜巻の外周の風が通り過ぎたとき、城の周りにいたヒトびとは、鎌《かま》のようなその刃に、命を断《た》ち切られてしまったのだ。
「さっき、見ませんでしたか」と、ワタルはカッツに訊《たず》ねた。「一度は城のテラスまで移動したんです。一瞬だけど、城内の様子が見えました。騎士の首が落ちていた。そこらじゅうに血が飛び散っていた。城の内側でも、風が通過した瞬間には、ここと同じことが起こったんです」
封印《ふういん》の冠《かんむり》を目指して突き進むミツルは、進路を阻《はば》む者すべてを、騎士であれ城の文官たちであれ、情け容赦《ようしゃ》なしに風の大魔法の刃で斬《き》り捨てていったのだ。
ワタルは城に背を向け、皇都の方向をぐるりと見渡してみた。大魔法でつくりあげられた巨大な風の輪が、広大なクリスタル・パレスの敷地《しきち 》をすっぽりと包み込んでいる。ソレブリアを焼き尽くす炎が、風のバリアを隔《へだ》てた向こう側で、真紅《しんく 》のオーロラのように揺らめいている。
「どうしてあのままテラスに降りられなかったんだろう?」
「ミツルに追い返されちゃったんです。あいつ、僕が瞬間移動《ワ ー プ》してくることを知って、魔法で弾き飛ばしたんだ」
しゃべると、口元がわなないた。カッツの足元に、血が一|滴《てき》、二滴と落ちている。
「カッツさん、手当しないと。ひどい血だ」
「これぐらい、何てことないよ」
気丈に言うけれど、右目はほとんど塞《ふさ》がってしまっている状態だ。
「もう一度やってみます。大丈夫ですか」
「誰に訊いてるんだい?」
カッツは鞭を束ね直し、腰にしっかりとくくりつけると、ワタルの腕をつかんだ。
ワタルは目を閉じた。やみくもに念じても駄目だ。僕の持っている三つの宝玉の力で、封印の冠──闇の宝玉のある場所まで飛ばしてもらうんだ。僕の意志じゃなく、宝玉の意志に従って誘導してもらうんだ。
「お願いだよ、連れて行って」
ワタルは小さく呟《つぶや》いた。
「今度こそ!」
ワタルとカッツの姿が、戦勝の庭園からかき消えた。
無になり、光と化し、時を停《と》め、空をよぎる──
今度の落下は長かった。頭から落ちているのか、足から落ちているのか。無意識のうちに両手が空をかく。
ワタルとカッツは、こんがらがって着地した。落下の衝撃《しょうげき》に一|拍《ぱく》遅れて、カッツの足がワタルの背中にどすんとぶつかった。
二、三秒のあいだ、気絶していたらしい。気がつくと、ワタルはつるつると平らな床《ゆか》の上に俯《うつぶ》せに倒れていた。何だろう、この蒼《あお》く透明《とうめい》な床は。デラ・ルベシ? あの凍《こお》れる都にそっくりじゃないか──
はっとして、しゃにむに両腕を突っ張って身体を起こすと、一挙に視界が開けた。
ぐるりを円柱に囲まれた、そこは広間だった。ひとつひとつの円柱に、宝冠を戴《いただ》き重たげなローブを身に纏《まと》ったヒトの像が浮き彫《ぼ》りにされている。これは歴代の皇帝《こうてい》の像じゃないか──と思ったとき、ミツルが見えた。
広間の中央に、ぽつりと佇《たたず》んでいる。
すべてが蒼く透き通っている広間。ミツルの魔導士の黒いローブが、足元の床に、高い天井に、円柱のあいだをつないでいる滑《なめ》らかな壁面にも映っている。鏡──清浄《せいじょう》な蒼い光を放つ、これは鏡だ。
鏡の広間だ。
「ワ、ワタル」
カッツがワタルの肩《かた》に手をかけ、一瞬だけがくりとよりかかってから、懸命《けんめい》に姿勢を立て直した。
二人の視線は、ミツルに吸い寄せられている。ミツルと、彼が整った横顔を見せて仰《あお》いでいるあるものに。
常闇《とこやみ》の鏡。
それは広間の北の端《はし》に、左右に円柱を従えて安置されていた。差し渡《わた》しはワタルの身の丈《たけ》を超《こ》えている。間然するところのない、完璧《かんぺき》な円形。斜《なな》め上方を向けて立てかけられた姿勢になっているその鏡には、
──闇だ。
闇が満ちている。銀色の円周の縁《ふち》ぎりぎりのところまで、闇が漲《みなぎ》っている。ふつふつと音もなくたぎっている。
ゆらりと、ミツルが一歩踏み出して、常闇の鏡に近づいた。そのとき、ワタルは気づいた。常闇の鏡の脚元に、小さな星形の文様が描かれている。その中央に、シンプルな輪に波形の模様を象《かたど》り、額の部分に宝玉をはめこまれた宝冠《ほうかん》が据えられていることに。
封印の冠と、闇の宝玉だ。
闇の宝玉もまた、常闇の鏡の内に満ちている闇と同じ、漆黒の色にまたたいていた。
ミツルは目をさげて、封印の冠を見た。また一歩、大きく踏み出す。と、それまで彼の身体の陰に隠されていたヒトの姿が、ワタルの目に飛び込んできた。
女の子だ。優雅《ゆうが 》な白いドレスに、飾《かざ》りをつけて編み上げた髪《かみ》。横座りになって、床に倒れた誰かの頭を膝の上に抱き上げている。
あれは──皇帝ガマ・アグリアスZ世そのヒトではないのか。刺繍《ししゅう》をほどこした豪奢《ごうしゃ》なローブが、破れてぼろぼろになっている。手足からは完全に力が抜けて、だらりと床に垂れている。
少女の顔は泣き濡《ぬ》れている。よく見ると、彼女のドレスには血がいっぱいにじんでいる。彼女の血か、それとも皇帝の血か。
「ミ、ミツル様」
女の子が震《ふる》える声でミツルに呼びかけた。しかしミツルはまばたきさえしない。封印の冠と、闇の宝玉に魅入《み い 》られたかのように。
あの少女の顔──どこかで見た覚えがある。ワタルは、瞬間移動《ワ ー プ》の負荷《ふ か 》に、酔《よ》っぱらったように雲《くも》った頭で考えた。誰《だれ》かに似ている。誰だろう──
「しつこいな」と、ミツルが言った。正面を向いたままだけれど、声の切っ先はワタルに向いていた。
「これが常闇の鏡だよ」
ミツルの言葉に応じるように、鏡の縁まで押し寄せている闇がさざめいた。
「そしてこれこそが最後の宝玉、僕の求める闇の宝玉だ」
ミツルはゆっくりとかがみ込むと、片膝をついて宝冠に手をのばした。
「お願い、やめてください。やめて」
泣き崩れながら、白いドレスの少女が懇願《こんがん》した。
「常闇の鏡の封印を解かないで。どうぞお願いです」
少女の身体が揺れ、膝の上から皇帝の頭が滑り落ちた。無様な、ごつんという音がする。ただの物体になってしまっている。完全に死んでいるのだ。
ワタルが何をするよりも早く、カッツが鞭を抜いてミツルに躍《おど》りかかった。彼女のブーツの踵《かかと》が床を蹴《け》り、力強い跳躍《ちょうやく》に両肩が反り、黒い髪がなびく。
ミツルはやはりこちらを見もせずに、魔導の杖を握った腕を、無造作にカッツに向けて突き出した。ただそれだけで、カッツは鞠《まり》のように宙で跳《は》ね返され、ワタルの頭を越えて吹っ飛ばされてしまった。
「悪あがきはよせというんだ」
カッツが呻《うめ》いている。ワタルは勇者の剣を構え、素早く魔法弾を打った。ミツルは魔導の杖を振った。魔法弾は火花になって、その残光が周囲の壁面に散った。
「やめろ!」
ワタルは剣を構えて突進した。滑る床に、足が走る。と、次の瞬間にはまたぞろ呆気《あっけ 》なく飛ばされていた。前のめりに弧を描いて広間を横切り、白いドレスの少女のすぐ傍らへと、頭から転がり落ちた。
「常闇の鏡の封印を解けば何が起こるかなんて、今さら教えられなくても知ってるよ」
ようやく、ミツルの視線がワタルを捉《とら》えた。その目が笑っていた。口元が、今まで見たこともないような格好に歪んでいた。
「どうしてです?」少女はすすり泣いている。「なぜこんなことを?」
「僕は旅人≠ネのですよ、皇女」
ミツルは少女を見おろして答えた。
「最後のひとつ、この闇の宝玉を手に入れさえすれば、運命の塔への道が開けるのです。僕はそのために幻界《ヴィジョン》≠旅してきた。何度同じことを言わせれば気が済むのです?」
カッツが半身を起こし、懸命に鞭を構えようとしている。その様子がおぼろに見える。焦点《しょうてん》があったり、ぼけたりを繰り返す。床に激突したときの衝撃で、手も足もバラバラになったみたいだ。勇者の剣をしっかりと支えているだけで精一杯だ。カッツも同じなのだろう、焦《あせ》るあまりに鞭を取り落としかける。出血がひどくなって、顔が真っ赤に見える。
「運命を変えるために?」
顎の縁から涙の雫《しずく》を落としながら、少女がミツルに問いかけた。
「そのとおりです」
ミツルの声音《こわね 》は穏《おだ》やかだった。その刹那《せつな 》、彼の瞳《ひとみ》のなかに、少女に対する親しみのようなものがよぎった。
「皇女ゾフィ、貴女の側に、不当なほど大きく傾いていた幸福の秤《はかり》を、正しい位置まで戻させていただく」
謎《なぞ》のような言葉だった。泣き乱れた少女の表情に、さらに当惑《とうわく》が加わった。
やっぱりこの顔──誰かに似ている。僕はこの少女を知っている。
記憶《き おく》の断片《だんぺん》が、動揺するワタルの手の届くところに舞い降りてきた。
「叔母《お ば 》さんだ」と、思わず言った。「ミツルの叔母さんだ。叔母さんによく似てるんだ」
わたしもまだ二十三歳なの。背負いきれないわ、こんなこと。涙を浮かべて呟いた──
ミツルが鋭くワタルを振り返った。
あまりにも不当な運命。強いられた不幸。それを変えるためにこそ、続けられてきた幻界の旅。
どうしてそれを止められよう? 誰に止める権利がある? ワタルのなかに、一瞬だけ、しかし取り返しのつかない一瞬の、大きすぎるためらいが生まれた。
封印の冠に手を触《ふ》れると、ミツルは、そっとそれを持ちあげた。誰に対するときの、どんな手つきよりも優《やさ》しく。おそらくは、自分自身の魂《たましい》に触れるときよりも厳《おごそ》かに。
「やめろ!」
ワタルの叫びが空《むな》しく広間に木霊《こ だま》する。片手に宝冠を、片手に魔導の杖を。遂《つい》に完成された旅人<~ツルは、猛々《たけだけ》しく魔導の杖を宙に突きあげ、呪文を唱えた。
「最後にもう一度だけ、友達のよしみだ。さあ、逃げろ!」
轟然《ごうぜん》と巻き起こった風が、ワタルたちを包み込んだ。足が床を離れ、身体が浮きあがる。ワタルは夢中で両手を振り回し、すぐ傍らにいたあの少女の白いドレスをしっかりとつかんだ。
「つかまって!」
広間の光景が、瞬時に消えた。
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50 別れ
崩壊《ほうかい》し、焼け落ち、死者の群を呑《の》みこみ、命びろいした数少ないヒトびとの列を、破れた城壁《じょうへき》のそこここから、傷口からの出血のように垂れ流している皇都ソレブリア。
その中央で、静まりかえるクリスタル・パレス。
今、その尖塔《せんとう》の頂上から、一本の光の筒《つつ》が立ちあがり、蒼穹《そうきゅう》の高処《たかみ 》に向かって延びてゆく。汚濁《お だく》の地を離《はな》れ、天上へ、天空へ。
それこそは、五つの宝玉を揃《そろ》えた旅人≠フみがたどることのできる、運命の塔へと至る道。
黒いローブに身を包んだミツルが、光の筒のなかを駆《か》け登ってゆく。もう誰《だれ》も彼を遮《さえぎ》ることはできない。何者も、彼の行く手を阻《はば》むことはできない。
生き残ったヒトびとは、天を仰《あお》ぎ、光の筒を見あげ、やがてそのなかを駆け登る小さな黒い影《かげ》が、蒼《あお》い空に吸い込まれるようにして消えてゆくのを見届けた。
それと同時に、風もやんだ。竜巻《たつまき》は去った。ソレブリアの内にひしめいていたゴーレムたちが、ぴたりとその動きを止めた。
ごく小さな振動《しんどう》が、ゴーレムたちを内側から揺《ゆ》るがせた。彼らを動かしていた。ミツルの魔力《まりょく》のスイッチが切られた。自らの掻《か》きたてていた土埃《つちぼこり》が立ちこめるなかで、ゴーレムたちは沈黙《ちんもく》した。
あるものは頭の端《はし》から、あるものは肩《かた》の先から、またあるものは胴《どう》のなかほどから、見えない波に洗われ、崩《くず》れてゆく砂の城のように、ゴーレムたちは土に還《かえ》り始めた。さらさらとした土の流れは、みるみるうちに勢いを増し、彼らを食い破ってゆく。
地に片膝《かたひざ》をつく。頭が砕《くだ》けて肩の上に崩れ落ちる。拳《こぶし》が消える。声もなく壊《こわ》れてゆく。瓦礫《が れき》にまじり、跡形《あとかた》もなく。
ゴーレムたちが消失し、彼らのいた場所に土と岩の欠片《かけら》の山だけが残ると、執念《しゅうねん》深く皇都の瓦礫を舐《な》めている炎《ほのお》の他に、動くものはなくなった。紅蓮《ぐ れん》の如《ごと》く燃えあがっていた炎も、次第《し だい》次第に力を失い、切れっ端《ぱし》のような赤い舌が、飢《う》えを残してちらちらと這《は》い回りながら、まだ喰《く》らうものはないかと探している。
破壊という宴《うたげ》の後の空虚《くうきょ》──
しかしヒトびとは、やがて足元が震《ふる》え始めるのを感じた。地の底から、猛々《たけだけ》しく押し寄せてくるものの足音の轟《とどろ》きにも似て、それは波のように近づいてきた。
クリスタル・パレスがその名の如く、今一度、水晶《すいしょう》のように硬質《こうしつ》な輝《かがや》きを放った。
その光が消えると、城は形を変え始めた。四角く張り出した棟《とう》が崩れる。正門のアーチが歪《ゆが》む。尖塔が傾《かたむ》く。テラスが歪む。
ヒトびとは我と我が目を疑った。これ以上どんな不吉《ふ きつ》な光景を見せられても驚《おどろ》かないつもりだった。衝撃《しょうげき》は許容限度を超《こ》えていた。身近で失われた命の痛みさえまだ現実味を伴《ともな》わぬほどに、誰もが唖然《あ ぜん》としていたのに、その麻痺《ま ひ 》した心さえもさらに揺さぶるような光景が、今、眼前に広がってゆく。
クリスタル・パレスは崩壊してゆく。ただ崩れ行くだけではない。内側に、城の深部、知っている者ならば、そこが皇帝《こうてい》の玉座の間のある場所だとわかる──その一点を中心に、収縮してゆくのだった。乳白色に輝く巨大《きょだい》な石の城が、折りたたまれてゆく。吸い込まれてゆく。ぽかりと空いた無数の窓は、声のない悲鳴をあげる口だ。呑みこまれてゆく。
ものの数十秒で、クリスタル・パレスは地上から姿を消してしまった。
と、それと入れ替《か》わりに、たった今城を吸い込んでいった一点から、真っ黒な霧《きり》が立ちのぼり始めた。微小《びしょう》な黒い鳥の群のようにうごめき広がりながら、たちまちのうちに、今しがたまでクリスタル・パレスが占《し》めていた空間を覆《おお》い尽《つ》くす。
黒い霧は天空に、一|対《つい》の漆黒《しっこく》の翼《つばさ》を描《えが》き出した。翼はゆっくりと羽ばたき、浮上《ふじょう》する。地に眠《ねむ》っていた何かを、上空へと持ちあげてゆく──
常闇《とこやみ》の鏡を。
空に現れ出た常闇の鏡は、さながらそこにあるもうひとつの太陽のように見えた。地上の廃墟《はいきょ》に、傾きかけたとは言えまだ明るい光を注いでいる太陽とは裏腹の、闇に満ちた異種の太陽。そこに孕《はら》まれるは無限の暗黒。
常闇の鏡の面《おもて》が、永き封印《ふういん》から解放された喜びに身震いをするかのようにさざめいた。そして、その内から、黒い奔流《ほんりゅう》を吐《は》き出し始めた。
そのとき、ルルド国営天文台の研究室で、バクサン博士は鼻|眼鏡《めがね》をかけ、分厚い書物の上に目を落としていた。お馴染《な じ 》みの木でできたブーツの上にちょこんと乗っかり、周りで作業に励《はげ》む弟子《で し 》たちの話し声に包まれて、小さな手に握《にぎ》りしめた小さな羽根ペンを忙《せわ》しく動かしながら、興味深い一節を解読しようと──
唐突に、誰かにどやしつけられたみたいに、博士は目をあげた。顔からすうっと血の気が引いてゆく。
「どうしたんですか、博士?」
気づいたロミが声をかけた。
バクサン博士は小さな口をぽかんと開けていた。その目が泳いで、窓の外へ向いた。
「い、いかん」と、博士は呟《つぶや》いた。そしてロミが抱《だ》き留める間もなく、ブーツの上から転がり落ちた。
シュテンゲル騎士《き し 》団による戒厳令《かいげんれい》下のガサラに到着《とうちゃく》し、滞在《たいざい》中のスペクタクルマシン団は、夕べの公演前の準備に追われていた。ギル首長が逮捕《たいほ 》され、ブランチが力を失ったガサラでは、町に出入りするときばかりか、町内の移動にも制限がかけられていた。皆《みな》、気落ちして不安に怯《おび》えている。ブブホ団長は、限られた時間と機材で、できるだけ陽気な出し物を演じ、ガサラのヒトびとを元気づけようと考えていた。
パックたちの軽業《かるわざ》に稽古《けいこ 》をつけていた団長を、団員の一人があわてた様子で呼びにきた。
「ババさまが、すぐ団長に来ていただきたいと言ってるんです」
団長は訝《いぶか》りながらも、ババのテントに急いだ。入口の垂れ幕をあげて顔をのぞかせると、ババは占《うらな》いに使う水晶玉を前に、両目をわずかに細めて座り込んでいた。
「ババ、どうしたね」
団長の問いかけに、ババは目をあげた。
「封印が解かれてしもうた」
ババの瞳《ひとみ》に、水晶玉の放つかすかな光が映っていた。その声は震えていた。
「常闇の鏡じゃ。おお、魔族が来よる!」
同じ時、ドラゴンの島では、竜王が洞窟《どうくつ》の割れ目から、針の霧に閉《と》ざされた空を仰《あお》いでいた。他の誰にも見えない印を、竜王ははっきりと見てとった。
恐怖《きょうふ》と共に、決意の胴震《どうぶる》いが、竜王の老いた身体を駆《か》け抜《ぬ》ける。
「皆の衆よ」
竜王はゆっくりと身を起こした。
「封印は解かれた。常闇の鏡が地上に現れた。戦いの時じゃ。今一度、幻界《ヴィジョン》≠フ守護として、我らが鋼の翼に女神《め がみ》さまの加護を祈《いの》ろう」
ドラゴンたちの怒りと嘆《なげ》き、誓《ちか》いと決意の咆哮《ほうこう》が、島の内からどうどうと迸《ほとばし》り、海を渡《わた》り針の霧さえも震わせる。
ここは──どこだ?
ほっぺたが地面にくっついている。埃の匂《にお》いがする。
ワタルはまぶたを開けた、平べったい地面。目の前に投げ出された、土埃にまみれた両手。でも右手には、しっかりと勇者の剣《けん》を握ったままだ。
肘《ひじ》をついて顔を起こす。すぐ傍《かたわ》らに、あの白いドレスの少女が倒《たお》れていた。壊れた人形のように俯《うつぶ》して、片方の靴《くつ》が脱《ぬ》げてしまっている。ドレスは見るかげもなく汚《よご》れて、ワタルと同じように土埃にまみれている。
クリスタル・パレスの鏡の広間から、ミツルに飛ばされたんだ。ワタルは膝立ちになってみた。視界がぐるりと回り、腰が抜けたように座り込んでしまう。頭を振って、もう一度立ちあがる。
ソレブリアの城壁が遠くかすんで見える。こんなところまですっ飛ばされたなんて、信じられない。見回せば、周囲には点在する森。枯れて地面が剥《む》き出しになった草原《くさはら》に、ところどころ岩が飛び出している。
寒い。北の大陸の風がまともに吹きつけてくる。しかしこれは自然の風だ。
クリスタル・パレスはどうなった? ミツルはどうなった? 僕が気絶しているあいだに、何が起こった?
カッツの姿が見えない。どこへ飛ばされてしまったんだ?
白いドレスの少女が痛そうに呻《うめ》いて、手足を動かした。ワタルはぎくしゃくと駆け寄り、彼女を助け起こした。
「しっかりして。大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
少女の目がぼんやりと開き、かなり手間取ってから、ようやくワタルの顔に焦点《しょうてん》を結んだ。
「こ、ここは?」
「ソレブリアの近くです。でも、道もない森と草っぱらの真ん中だ」
最後の一瞬、ミツルは言った。「逃《に》げろ!」と。あれはどういうことだったんだ。
「常闇の鏡は──」
皇都ソレブリアの方向に目をやって、ワタルは息を呑《の》んだ。何だ、あの黒い霧《きり》は? わさわさとうごめきながら、ソレブリアの上空に群れている。
ドラゴンたちはまだソレブリアの上を飛び交《か》っている。あの霧と戦っている──霧に纏《まと》いつかれ、今、一頭がたえかねたように地上に落ちていった。
ワタルは前後を忘れ、ソレブリアに向かって駆け出しながら、勇者の剣から空に向け、魔法弾《ま ほうだん》を打った。
「ジョゾ、ジョゾ、どこにいる!」
何発も立て続けて魔法弾を打つうちに、空の低いところに真っ赤な点が見えてきた。ジョゾだ。こっちにやってくる。すごいスピードだ。そのすぐ後ろから、黒い霧の塊《かたまり》が追いかけてくる。
「ジョゾ! 僕はここだよ!」
走りながら両腕を振って大声で呼びかけ、しかし次の瞬間、ワタルは愕然《がくぜん》として立ち止まった。ジョゾが近づいてくるにつれ、彼を追っている霧の塊の様子が見えてきたのだ。
翼だ。真っ黒な翼がはえている。何という数だろう! 一体一体はヒトと同じくらいの大きさだが、鋭《するど》い鉤爪《かぎづめ》のはえた手足に、痩《や》せさらばえた胴。どこもかしこも真っ黒だ。
こいつらが魔族なのか!
「ワタル!」
ジョゾはまっしぐらに滑空《かっくう》してきた。地面すれすれにまで高度を落とす。
「乗って、乗って、早く乗って!」
ワタルはジョゾの翼に激突《げきとつ》する寸前、頭から飛び込むようにしてその上にジャンプした。着地と同時に、翼の付け根にしがみつく。反動でジョゾの身体が揺れて、足が地面に着きそうになった。
「あの子も、あの子も乗せるんだ!」
白いドレスの少女は、さっきと同じ場所にまだへたりこんでいる。ワタルは身を乗り出し、ジョゾが彼女のそばをかすめて通過するときに、両腕で抱き上げた。
少女の上半身がジョゾの上に乗った。そのとき、追いついてきた魔族の一|匹《ぴき》が、嫌《いや》らしい腕をのばして少女の片足をつかんだ。前のめりになっていたワタルは、まともに魔族と顔を合わせた。
骸骨《がいこつ》だ。芯《しん》まで黒い骸骨だ。ケタケタと笑う髑髏《どくろ》の、目があるべきところには空っぽの穴がふたつ並び、くちびるのあるべきところには、剥き出しの、そこばかりは異様に白い牙《きば》がずらりと並んでいる。指の一本一本も、骨張っているというより骨そのもの。翼をはためかせながら、金属をこすりあわせるような甲高《かんだか》い声をあげている。足をつかまれた少女が、ぐいとひっぱられて振り返り、初めて魔族に気づいて、けたたましい悲鳴をあげた。ワタルは彼女を片手でぶらさげたまま、身体をひねって勇者の剣を振りあげた。魔族の胴体には、汚《よご》れた皮膚《ひ ふ 》一枚の下にごつごつとあばら骨が並んでいる。その隙間《すきま 》めがけて剣を突っ込んだ。
叫ぶというより、ダミ声を吐瀉物《と しゃぶつ》のように吐《は》き散らしながら、魔族が少女の足を放した。ワタルは少女をジョゾの背中の上に引っ張りあげると、それでも追いすがってこようとする奴にもう一度|斬《き》りつけた。
「ジョゾ、上昇だ! 振り切れ!」
ジョゾはぐんと高度をあげた。嘆《なげ》きの沼《ぬま》でワタルに先っぽを切られたきり、中途《ちゅうと》半端《はんぱ 》な長さになったジョゾのしっぽの先に、二匹の魔族が食らいついている。ワタルは勇者の剣をふるってそいつらを斬り落とすと、後方の群に向かって魔法弾を打った。光の弾《たま》があたると、魔族たちはぎゃあぎゃあと騒いで群が崩れた。距離があいた。
「ジョゾ、火を吐いて!」
ジョゾは翼を張って、魔族の群の方に頭をねじ向けた。「ワタル、伏せてね!」
ワタルの顔のすぐ脇を、炎の奔流《ほんりゅう》が飛びすぎた。直撃をくらった魔族たちが火に包まれ、煙の筋を引きながら落ちてゆく。群の大半がひるんで遠ざかり始める。
「ジョゾ、みんなはどこ?」
「ミーナとキ・キーマは、長《おさ》たちと一緒にいる」ジョゾはぜいぜいと息をしていた。「僕が疲《つか》れて落っこちそうになったから。ああ、どうしようワタル」
七本柱のドラゴンたちは、まだソレブリア上空にいるのだ。さっき一頭が落下したように見えたけれど、どうしたろう?
ジョゾは疲れ切って、身体のあちこちから血を流していた。目から涙が溢《あふ》れている。飛び方も不安定になり、あがったりさがったりしながら蛇行《だ こう》している。
白いドレスの少女は、恐怖のあまり全身をこわばらせ、ただ口元ががくがくするばかりで、声も出せないようだ。
「ジョゾ、この女の子を乗せて、あの森へ行くんだ」ワタルは前方右手のこんもりとした木立の塊を指さした。
「森のなかに降りれば、魔族たちから隠《かく》れていられる。僕がみんなと一緒に合流するまで、そこでじっとしてるんだよ、いいね?」
ジョゾはぼろぼろと涙を流した。「う、うん。ごめんよワタル。ワタルはどうするの?」
「僕なら大丈夫。さあ、逃げて」
ワタルは再《ふたた》び勇者の剣に祈《いの》った。ミーナのいるところ。ミーナを乗せているドラゴンの背中まで、僕を飛ばしておくれ!
瞬間移動《ワ ー プ》は成功した。気がつくと、ワタルは七本柱のドラゴンの一頭、頭のてっぺんにトサカに似た冠を戴いた長の背中に飛び降りていた。ミーナはドラゴンの首ッ玉にかじりついていたが、ワタルに気づくと跳ね起きて、飛びついてきた。
「ミーナ、怪我は?」
「あ、あたしは大丈夫!」
真っ青になって泣いている。
「あ、あれを見てワタル。あれを!」
そしてワタルは見た。一対の巨大な翼で空に浮く常闇の鏡を。そこから湧《わ》き出る黒い魔族の軍団を。涸《か》れることのない悪意の泉だ。ソレブリアの上空を覆《おお》い尽くし、北へ南へ、東へ西へと飛び去ってゆく。
幻界じゅうへと飛んでゆくのだ。
ワタルたちを乗せたドラゴンの長は、果敢《か かん》にも常闇の鏡めがけて飛ぼうと試みていた。火を吐き、強大な翼を振り、近づく魔族たちを叩き落としてゆく。しかしこれでは多勢に無勢だ。
「これじゃ無理だよ、常闇の鏡には近づけない!」
「しかし──一撃でも──くらわせてやらねば!」長い首を強靭《きょうじん》にしならせて、食らいついてきた魔族を振り落とす。
「いったん逃げよう。数には勝てない。下にいるヒトたちを魔族から守って、森に逃げ込むように呼びかけるんだ。そして僕らも森に隠れよう!」
「口惜《くちお 》しいぞ!」
牙を剥き出して唸《うな》りながら、大きな火球を続けざまに吐き出して魔族たちを退けると、ドラゴンの長は向きを変えた。ワタルは彼の背に立ちあがり、あらん限りの力で声を張りあげた。
「みんな、森へ向かえ! 退却《たいきゃく》だ! このままじゃ全滅《ぜんめつ》しちゃう!」
「ワタル!」
近づいてきたドラゴンの背で、キ・キーマが大きな斧《おの》をふるいながら、割れるような大声で応じた。ここに来て初めて耳にする、元気を失っていない声だ。キ・キーマは後ろに、怪我したソレブリアのヒトたちを何人か乗せている。怯えて縮こまっている彼らを大きな身体を張って守り、しつこい羽虫のようにたかってくる魔族を斬り払いながら、吠《ほ》えるような悪態を浴びせかける。
「何だこのデキソコナイは! おまえらなんざ、こうしてくれる! こうだ、こうだ、こうだ!」
ギャッというダミ声の悲鳴もろとも、一匹の魔族が頭からまっぷたつに斬り裂《さ》かれた。しかしよく見れば、キ・キーマの肩口や二の腕も傷だらけだ。
「森だ! 森へ行くんだよ!」
「わかった!」
視界を埋《う》め尽くすほどの数の魔族が、空いっぱいに飛び交っている。ワタルはカッツの名を呼びながら飛び続けた。一体、また一体と退却してゆくドラゴンの背に、彼女の姿が見えないのだ。
恐怖と焦《あせ》りに目が泳ぎ、見ているのに見えないのかもしれない。落ち着け、落ち着くんだ。ワタルは襲《おそ》いかかる魔族を魔法弾で退け、ミーナがドラゴンに方向を指図する。
と、前方の瓦礫の谷間で、カッツが鞭をふるっている姿が見えた。ソレブリアのヒトをかばっている。一人は倒れ、一人はうずくまっている。しかも、子供だ!
「カッツさん、こっちだ!」
滑空してカッツに近づきながら、ワタルは援護《えんご 》の魔法弾を打った。カッツは瓦礫を駆けあがり、飛び降りながら、縦横|無尽《む じん》に鞭を動かしていた。四方八方から襲いかかってくる魔族たちが、カッツの鞭にかかって面白いように翼を切り裂かれ、首を落とされてゆく。
ドラゴンを低く滞空《たいくう》させておいて、ワタルはカッツのそばに飛び降りた。ミーナが素早くしっぽをドラゴンの翼に巻きつけ、身体を宙に投げ出して両腕で子供の一人をかき抱くと、くるりと反転してドラゴンの上に抱き上げた。続いてもう一人。
「子供たちは大丈夫よ、乗せたわ!」
ミーナの声に、ワタルはカッツを振り返った。「カッツさんも早く!」
「こいつを片づけてからね!」
びゅんと音をさせて水平に鞭を振り、前方の魔族を叩き落とす。カッツの右目はもう完全に潰《つぶ》れている。それに左腕の様子がおかしい。ほとんど動かせないようだ。ミツルの魔法で鏡の広間から飛ばされたとき、傷《いた》めたのかもしれない。
「僕に任せて! 早くドラゴンに乗るんだ」
カッツのベストの背中をつかみ、ワタルはぐいと引っ張った。
「何すんのよ!」
「早く乗って!」
牙を剥き出して飛びかかってくる魔族を、勇者の剣で切り伏せる。ドラゴンの長が火を吐いて、前方の群を追い払う。
ドラゴンの背に乗るために、カッツは鞭の柄《え》を口にくわえた。左手は役に立たない。右手一本で身体を持ちあげる。ワタルは魔族たちを追い散らしながら、全身に冷汗《ひやあせ》をかいていた。
「しっかりして、カッツさん。つかまって」
ミーナがカッツの腕をひっぱる。そのとき、ミーナの背後で子供たちが悲鳴をあげた。死角から魔族が二匹、突然ドラゴンの身体をよじ登って顔を突き出したのだ。
「ミーナ、後ろ!」
とっさにカッツは叫び、口元から鞭が落ちた。拾う余裕《よ ゆう》もなしに、カッツはドラゴンの背中の上に躍《おど》りあがると、素手《す で 》で魔族たちに飛びかかった。一体を足蹴《あしげ 》にして突き落とし、もう一体に組みついてゆく。魔族はカッツに押し戻されながらも、牙をぎらぎらさせて、一瞬の隙に、彼女の首ねっこにかじりついた。驚くほど色|鮮《あざ》やかな血が、パッと噴《ふ》いた。
「何すんだよ、このバカ!」
カッツは怒りに任せて魔族の首に右手をかけた。ミーナも魔族の胴を蹴り、爪で顔をかきむしる。バランスを崩してカッツがどっと倒れ、その上に魔族がさらにのしかかる。
「スケベ!」
大きく叫んで、カッツは右手だけで魔族の首をねじ切り、もぎ取ってしまった。首を失った身体だけが、ドラゴンの身体から滑《すべ》り落ちる。ワタルはドラゴンの周りに迫《せま》る魔族の群に魔法弾を浴びせかけて、素早くその背中に飛び乗った。
「いいよ、飛んで!」
ドラゴンが舞いあがる。泣き叫ぶ子供たちを、ミーナがしっかりと抱きしめる。ワタルは仰向《あおむ 》けに倒れたままのカッツのそばに這い寄った。
カッツはまだ、ねじ切った魔族の首をつかんでいた。それを顔の前に持ってくると、
「男前にはほど遠いね」と、舌打ちしてポイと投げ捨てた。
「あたしの首にキスするなんて、身の程《ほど》知らずにもほどがあるよ」
首筋の傷は深く、血がどくどくと流れていた。ワタルは上着を脱《ぬ》ぐと、それを丸めて傷にあてた。土埃と煤と汗で汚れた上着を、真っ赤な血が染め変えてゆく。それと入れ替《か》わりに、カッツの頬からは色が失せていく、
「大丈夫だよ。そんな顔しなさんな」
そう言ってにやりと笑い、その不敵《ふ てき》な笑顔のまま、カッツはぷつりと気を失った。
七本柱のはずのドラゴンたちは、五柱になっていた。ジョゾは横倒しになり、苦しそうな寝息をたてて眠っている。
ワタルたちの逃げ込んだあの森のなかには、ソレブリアのヒトたちも隠れていた。何人ぐらい助かったのだろう──せいぜい二、三十人ぐらいまでしか数えることができない。他の場所にも、逃げ延びているヒトたちがいるだろうか。
百万の人口を擁《よう》する城塞《じょうさい》都市が、半日でこの有様だ。
無傷のヒトは誰もいない。座っていることさえ辛《つら》そうなヒトもいれば、虚《うつ》ろな目を空に向けたまま、誰が何を話しかけても反応しないヒトもいる。泣いている子供を、別の子供が慰《なぐさ》めている。
手当をしようにも、薬さえない。ドラゴンたちも満身|創痍《そうい 》だが、傷を舐めて出血を止めるだけだ。ぐったりと首を落として翼を休め、目を閉じている。
夕暮れが過ぎ、すでに夜が近づいていた。糸のように細い三日月だけが光源だ。森のなかは、深海の底のような静けさと、身体の動きを鈍《にぶ》らせる、水圧にも似た重い悲しみに包まれていた。
北大陸の針葉樹の木々、深緑色の尖《とが》った葉をびっしりと身に纏い、寒気のなかで肩を寄せ合うように立ち並んでいる。上空からただ眺《なが》めるだけならば、南大陸の豊かな森林の景色に比べれば、彩《いろど》りにも趣《おもむ》きにも欠けて、よそよそしく見えたことだろう。しかし今は、とげとげした枝を張りのばす木々たちが、精一杯に手を広げて、ワタルたちをかばおうとしてくれているように思われた。寒い国の無口な歩哨《ほしょう》たち。逃げ延びてきたヒトたちを懐《ふところ》に隠し、何事もなかったかのような静謐《せいひつ》な顔を空に向けて。
時折、森の上空を飛びすぎてゆく魔族の翼の音が聞こえる。しかしそれも散発的なものであり、彼らの侵攻はいったん終息しているようだ。あの異形の怪物たちも、夜の闇のなかでは動きにくいのだろうか。休む時間が必要なのだろうか。それとも、闇に溶けこんで身を潜め、機会を窺《うかが》っているだけなのだろうか。
「休息をとって力を回復したら、とにかく我らの島へと戻ろう」
ドラゴンの長たちは、ワタルに提案した。
「封印が解かれたとき、きっと竜王様がその気配を察知され、戦いの支度《し たく》を整えているはずだ。すでにこちらへ向かっている仲間たちもいるやもしれぬ」
「いずれにしろ、この手勢では、どうすることもできぬよ」
ミーナとキ・キーマは、怪我人たちのあいだを回って声をかけている。なかには地理に詳しいヒトもいるらしく、戻ってきたミーナは言った。
「近くに湧《わ》き水があるんですって。森を抜けて西に向かえば岩山があって、そこの洞窟《どうくつ》に隠れれば、ここよりもっと安全じゃないかって話しているの。何とか夜明け前までに、みんなをそこへ逃がすことはできないかしら」
移動するならば、理由はともあれ魔族の動きが沈静化している今のうちがいい。ひょっとしたら、森のなかのヒトたちが生き延びる、唯一のチャンスかもしれない。
「そうだな。ここのヒトたちを洞窟まで無事に送り届けたら、俺たちもドラゴンの島へ戻ろう。そんで、南大陸へ帰らなきゃ。ちょっとでも早くこのことを報《しら》せて、魔族を迎《むか》え撃《う》つ準備を整えなきゃいけないからな」
キ・キーマの言葉に、ワタルはうなずいた。でも心のなかには、それで間にあうだろうかという疑問があった。いいや、それどころじゃない。間にあったとしても、それでどうなるんだ? 南大陸じゅうのハイランダーたちを集めても、シュテンゲル騎士団が集まっても、魔族に太刀打ちすることなんかできるんだろうか。
もう、おしまいだ──その言葉が、くちびるのすぐ内側で震えている。常闇の鏡の封印を守ることはできなかった。失敗だった。
何もかも、終わりじゃないか。木立に背中をもたせかけると、絶望が身体の内側を満たしてゆくのを感じた。
何もかも放り出して、逃げ出して、地面に穴を掘って隠れてしまいたい。どのみち、もうワタルには時間がないのだ。
ミツルに負けた。今度こそ、決定的な敗北だ。
「もし──」
遠慮《えんりょ》がちに呼びかけられた。顔をあげると、小柄《こ がら》な老人がこちらを見ている。着ているものはボロボロだし、髪《かみ》が焦げている。
「何でしょう」
「あちらの、あなたのお連れだが」
と、向こうの草むらの方をそっと振り返る。下草のなかにカッツが寝ているのだ。
「あなたを呼んでほしいと言っている」
ワタルは木の幹に手をかけて、何とか立ちあがった。よろめいてしまうと、老人が支えてくれた。
「あ、ありがとう」
「何の何の。歩けるかね」
ワタル自身も、小さな傷なら数え切れないほどだ。捻挫《ねんざ 》をしたのか、左足首がズキズキ痛む。
老人が声をひそめた。「私は医師ではないけれど、若いころに帝国軍で衛生兵をしていたことがある。怪我人の様子を見ることぐらいはできる」
ワタルは老人の顔を見た。
「あなたのお連れは、容態がよくないようだ。このままでは、たぶん──」
思わず老人の腕を引き、立ち止まってしまった。老人は無言のまま、慰めるように軽くワタルの腕を叩いた。
「何とかできないですか。助けてあげてほしいんです」
「ひどい傷で、出血が多すぎた。手のほどこしようがないよ。どうやら、本人もそれと察しているようだ」
だからワタルを呼んでいるのか。
できればその現実に直面したくない。知りたくない。それでなくても足を引きずっている。ワタルの歩みは鈍い。
それでも、進むうちに、草の陰に横たわっているカッツの姿が見えてきた。
身体の上に誰かのシャツがかけられている。傷には衣類を裂いてつくった包帯が巻かれている。傍らに老婦人が一人付き添ってくれていた。
「私の家内だよ」と、老人が言った。「二人でここまで逃げ延びることができた。あなたたちのおかげだ」
カッツの顔色は月よりも青白かった。ワタルはそっと近づき、彼女の手を取った。その手は、森の露《つゆ》よりも冷たくなっていた。
カッツはちゃんと目を開いていた。瞳が動いて、ワタルを見た。それだけで、ワタルは泣きだしたくなってきた。
「あんた、大丈夫かい?」
いつものカッツの言葉つきだった。でも力が抜けていた。
「うん。僕は何とか」
ワタルは言って、不器用な笑みを浮かべてみせた。
「カッツさんもね。ちょっとやられちゃったけど、でも大丈夫だよね」
うふふと、カッツはくすぐられたみたいに笑った。
「それがね……どうも今度ばかりは駄目《だ め 》みたいだよ。自分でわかる」
淡々《たんたん》とした口調だった。身体が弱っているせいじゃない。カッツはとても静かだった。いつもいつも、じっとしている時だって、ただブランチの椅子《い す 》に腰かけているだけだって、身体の内では血が騒いでいる。そんなヒトだったはずなのに。今は鎮《しず》まってしまっている。
「弱気なことを言わないでくださいよ」
わざと突っ放すように、ワタルは言った。
「一晩休めば元気になりますって。ドラゴンの島へ戻って、手当してもらいましょう。ね? ちょっとの辛抱《しんぼう》ですよ」
カッツは、彼女の指を握っているワタルの指をほどくと、その手を持ちあげて、ワタルの頬にあてた。
「ごめんよ」と、優《やさ》しく囁《ささや》いた。
「あんたに無理を言って、こんなところまで連れてきて。なのに、何ひとつちゃんとできなかった」
「カッツさんのせいじゃない」
どうしようもなく声が震え、目の奥が熱くなった。
「こんなことになって、先に逝《い》ってしまうあたしを……許しておくれと言う資格なんか、ないよね……」
「そんなことを言わないで!」
カッツは頬笑み、ワタルに目を向けて、その頬をゆっくりと撫でた。
下草を踏む足音が聞こえた。ミーナかと思って、つと肩ごしに目をやると、それはあの白いドレスの少女だった。両手で身体を抱くようにして佇《たたず》んでいる。
「皇帝は、死んでたね」カッツの声がかすれる。
「うん」
ミツルのそばで倒れていた。常闇の鏡の広間で。確かに死んでいた。
背後で白いドレスの少女が俯《うつむ》いた。
「だけどあたしの計画は……成功したとは言えやしない。鞭も失くしちまったし」
ワタルの頬に触《ふ》れるカッツの指。その滑《なめ》らかな感触《かんしょく》。こんなに優しい、きれいな手をしているヒトだったなんて、ちっとも知らなかったよ。
「もしかしたら、あたしは、とんでもない間違《ま ちが》いをしていたのかも……しれない。今度ばかりじゃない。ずっと、ずっと、何度も」
違うよと言おうとして、ワタルは口を閉じた。カッツはワタルに言っているのではない。心に映る、別のヒトの面影《おもかげ》に向かって話しかけているのだ。遠い目をしていた。心はすでに、南大陸に帰っているのだ。その耳には、懐《なつ》かしいガサラの町の喧噪《けんそう》が聞こえているのかもしれない。
「カッツさんは、僕のブランチ長だ」
ワタルは言って、カッツの手の上に自分の手をかぶせた。
「立派なハイランダーだ。いつだって任務に忠実で、幻界の護法の防人《さきもり》にふさわしい行動をしてきたじゃないか」
カッツは頬笑んだ。
「ありがとう」
瞳のなかに、ワタルの顔が映っている。
「ワタル。何とかして……生き延びるんだよ。死んじゃいけない」
ワタルはうなずいた。涙が溢れてぽとりと落ちた。
「あんたの旅は、終わったわけじゃ、ないんだもの」
諦《あきら》めちゃいけないよと、カッツは言った。言葉の最後の方は、もう浅い呼吸に紛《まぎ》れて、ほとんど聞き取ることができなかった。
さっきの老人が、カッツに付き添う老婦人に並んで、静かに膝を折ってかがみ込んだ。
「私ら夫婦は、あなたたちに助けていただいたソレブリアの者だ。聞こえますか」
カッツはほんの少しだけ首を動かして、彼らの顔に視線を向けた。
「あなたはこれから女神《め がみ》さまのもとに召《め》される。再び生まれ変わるそのときまで、幻界を照らす光となるのですよ」
カッツは目を閉じ、深くひとつ呼吸をすると、かすれた声で囁いた。「ええ、覚悟《かくご 》はできています」
「地上を旅立つその前に、贖罪《しょくざい》の祈りを捧《ささ》げたいかね? それならば、私らがお手伝いをしようと思うが」
カッツはうなずいた。くちびるが動き、お願いしますと言ったようだけれど、声になっていなかった。
老人がカッツの片手を取った。そして自分の片手を胸にあてた。老婦人も同じように片手を胸に、空いた片手をカッツの額に、労《いたわ》るようにそっと載《の》せた。
「我ら、女神の申し子。地上の塵芥《じんかい》を離れ、今まさに御許《み もと》に昇らんとす」
穏《おだ》やかな祈りの声が、老人の口元から流れ出る。
「我らの祖《おや》にして源《みなもと》なる浄《きよ》き光よ、導き給《たま》え。旅立つこの者の、不明の足元を照らし給え。穢《けが》れを祓《はら》い、浄き魂を天空の一座に迎え取り給え」
老婦人が、カッツの乱れた髪を撫でている。
「小さき子よ、地上の子よ。神のご意思に背《そむ》いたことを悔《く》いているか」
カッツは瞼《まぶた》を閉じたまま、かすかに顎を動かしてうなずいた。
「時に争い、時に諍《いさか》い、虚偽《きょぎ 》に踊り、愚蒙《ぐ もう》に走り、ヒトの子の罪を重ねたことを悔いているか」
もう一度、カッツはうなずく。
「時に偽《いつわ》り、己《おのれ》の欲に従い、神の与《あた》え賜《たま》いしヒトの子の栄光に、顔を背けたことを悔いているか」
三度目に、カッツはうなずいた。老人もそれに応え、励ますように大きくうなずく。
「ここに深く悔い改め、地上のあなたの罪は許された。安らぎなさい、ヒトの子よ。召されゆくあなたを、永遠《とこしえ》の光と平穏《へいおん》が包むだろう。ヴェスナ・エスタ・ホリシア。ヒトの子の生に限りはあれど、命は永遠なり」
カッツの目から、一筋の涙がこぼれた。目尻《め じり》を伝い、黒髪のなかへと流れ落ちる。
ワタルの手のなかで、ワタルの頬に触れていたカッツの手が、かくりと力を失った。
うっすらと頬笑み、傷だらけになりながらも、眠っているような安らかな顔で、カッツは事切れた。
老人の目も潤《うる》んでいた。老婦人は泣きながら、いつまでもいつまでも、優しくカッツの額を撫でていた。彼らの唱和する声と一緒に、ワタルもまた呟いた。
おやすみ、ヒトの子よ。おやすみ。
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51 旅人≠フ道
誰《だれ》の涙《なみだ》を見るのも嫌《いや》だったし、自分の涙を見られることも嫌だった。ワタルは森の出口まで独りで歩き、木立の陰《かげ》に入って、三日月の細いまなざしから隠《かく》れながら、少しのあいだ声をあげて泣いた。
心はずぶぬれの洗濯物《せんたくもの》だ。両手で抱《かか》え、一所|懸命《けんめい》に絞《しぼ》っているのに、あとからあとから涙が溢《あふ》れる。重くて辛《つら》くて、支えていられないほどなのに、投げ出してしまうことはできない。
これほどの悲しみは、いったいどこから来るのだろう。
家を出ていった父さんと、公園で再会したとき、やっぱり悲しかった。母さんがあの理香子という女と言い合いになって、その光景から逃《のが》れたくてベッドの下に隠れたとき、すごく悲しかった。そのあと、ルウ伯父《お じ 》さんが探しに来てくれて、ワタルを慰《なぐさ》めようとしながら泣きだしてしまったのを見たときにも、こんな悲しいことは二度とないだろうと思うほどに悲しかった。
そうだ。もう悲しむのが嫌だったから、運命を変えるために、ワタルは幻界《ヴィジョン》≠ノ来た。なのにその幻界で、今、心が破けそうになるほどの悲しみに、こうして手放しで泣いている。
こんなことなら、いっそ最初から、何もしなければよかったのか。現世《うつしよ》でじっと我慢《が まん》していたって、結果は同じことだったのか。どこへ行っても悲しみはついてくる。いつまで経《た》っても悲しみは失くならない。心はひとつ、生まれたときに渡《わた》されたきりで、取り替《か》えることもできなければ修理もきかない。どこからともなく補充《ほじゅう》されるのは悲しみばかりじゃないか。これ以上、心のどこに、それを蓄《たくわ》えろというのだ。
ひとしきり泣いて、息が苦しくなった。両腕《りょううで》を木の幹《みき》に回して抱《だ》きつくと、がさついた木肌《き はだ》に頬《ほお》を押しつけて、呼吸が鎮《しず》まるまでじっとそうしていた。
──僕の運命。
変えようと試みて、また新しい悲しみにぶつかる。それをまた変えようとしたら、その先には何が待っているのだろう。
──変わるべきなのは、変えるべきなのは、僕の、僕の、
──いったい何だ?
このまま魔族《ま ぞく》に滅《ほろ》ぼされてしまうかもしれない幻界の片隅《かたすみ》で、僕は何をすればいい?
下草を踏《ふ》むかすかな足音が近づいてくる。ワタルは顔を起こし、あわてて手の甲《こう》で目の周りを拭《ぬぐ》った。
ミーナだった。やっぱり泣き濡《ぬ》れている。
「こんなとこにいたの」
声を出すと、それがきっかけになってまたしゃくりあげてしまいそうになるのだろう。ため息にほんの少し音を添《そ》えただけの、小さな小さな呼びかけだった。
「うん」
「わたしも……カッツさんにお別れしてきた」
ミーナの瞳《ひとみ》は、森の夜の色だ。今は僕の目も、きっと同じ色に見えるのだろうとワタルは思った。僕たちが、カッツを失った傷《いた》み、すべてが失敗に終わったことへの敗北感を、互《たが》いの目のなかに見つけなくても済むように、森が覆《おお》いをかけてくれているのだ。
「みんなは?」
「休んでるわ」
「それなら良かった」
ワタルはふと思いついた。ここから動き出す口実を。
「ソレブリアのヒトたちを洞窟《どうくつ》まで送ってゆく前に、僕はちょっと偵察《ていさつ》に行ってくるよ。まだ生き残ってるヒトがいるかもしれない、取り残されていたら気の毒だ」
ミーナは首を振《ふ》った。「誰もいやしないわ」
「でも、確かめてみなきゃ」
「偵察って、どこまで? 皇都に戻《もど》るのは危険すぎるわ」
「気をつけるから──」
言い終えないうちに、キ・キーマの大きな影《かげ》が、のっそりとミーナの後ろに姿を現した。まだ凍《こご》えている顔だ。何もかもが寒くて冷たく、疲《つか》れ切っている。トカゲに似た水人族の肌に、あるはずのないしわが寄っているみたいに見える。
ワタルは思った。いつだって、カッツの熱気が僕たちに覇気《は き 》を与《あた》えてくれていたのだ。そんなことのできるヒトは、めったにいない。もうカッツに代わるヒトはいない。
しかし、キ・キーマはそれでも言った。
「偵察だって? なら、俺も行く」
耳がいい。ワタルはため息をついた。
「皇都の城門のあたりまで戻ってみようかと思うんだ。動けなくなってるヒトとかいるかもしれないだろ」
「そうだな」キ・キーマは背中にしょっていた斧《おの》の柄《え》に手をかけ、するりとおろした。ミーナに目をやって、
「俺たちはハイランダーだ。北大陸にいたって、俺たちの役目に変わりはない」
ミーナは俯《うつむ》いている。
キ・キーマは言った。「カッツなら、きっとそうする。逃《に》げ遅《おく》れているヒトがいないか調べに行こうって。だから俺は──」
みるみるうちに、ミーナの目尻《め じり》に涙が溜《た》まってゆく。キ・キーマは大きな手を彼女の肩《かた》に置いた。
「おまえさんはどうする? ここに残って張り番をしてくれるなら、それでもいいぞ」
「一緒《いっしょ》に行く」ぐいと顎《あご》を持ちあげて、ミーナは答えた。その拍子《ひょうし》に、涙が数滴《すうてき》頬を転がり落ちて、キラキラ光った。
「よし、用心深く行こうぜ。今のところは静かにしてるみたいだが、なにしろ魔族の奴《やつ》らは翼《つばさ》を持ってるからな。どこから見てるかわかりゃしねえ。できるだけ暗がりを選んで歩くんだ。頭を低くしてな」
「キ・キーマがいちばん目立つんだからね。でっかいんだから」
「わかった、わかった」
かそけき三日月の光。ワタルたちが周囲を見回すときにはあたりを照らし、草むらや灌木《かんぼく》の茂《しげ》みに身を潜《ひそ》めるときには、雲を纏《まと》って光度を落としてくれるように思われた。こんな高いところにいて、何も手伝うことはできないけれど、少なくともあなたたちの味方だよ──というように。
皇都の崩《くず》れた城壁《じょうへき》は、それ自体が大きな石の津波《つ なみ》になったかのように、うねうねと曲線を描《えが》いている。崩壊《ほうかい》が作り出した奇怪《き かい》な再生。這《は》うような速度で少しずつ近づきながら眺《なが》めていると、皇帝《こうてい》の趣味《しゅみ 》で、最初からこんな形に造りあげられていたんじゃないかとさえ思えてくる。
「常闇《とこやみ》の鏡が見えないわ」
ミーナが目を細めて呟《つぶや》いた。
「空のあのへん──クリスタル・パレスがあったところに浮かんでいるはずなのに」
確かにミーナの言うとおりだった。三日月も、あんな忌まわしいものを照らしたくないのかもしれない。
「闇に紛《まぎ》れてるんだろう」
焼け跡《あと》の臭《にお》いが漂《ただよ》ってくる。さすがに火は収まって、夜風のなかに熱気は感じられない。ただ冷え冷えとして、そのくせ吐《は》き気をもよおすような悪臭《あくしゅう》を含《ふく》んでいる。
悪臭の因《もと》のひとつは、死臭だろう。瓦礫《が れき》の山の下に、焼け跡に、どれほどの数の亡骸《なきがら》が存在しているのか。
ミツルは一人で、数え切れないほどのヒトの命を奪《うば》ってしまった。こうなることはわかりきっていたのに、針路を変えようとはしなかった。手段を選ぼうともしなかった。
さわさわと、靴《くつ》の下で枯《か》れ草が騒《さわ》ぐ。
「ミツルに飛ばされて気絶してたから、僕は見ていなかったんだ」
唐突《とうとつ》にワタルは言い出した。キ・キーマとミーナが足を止めた。
「何をだ?」
「さっきソレブリアのヒトが話してるのを聞いたんだ。常闇の鏡が姿を現すその前に、クリスタル・パレスの中央|尖塔《せんとう》から、天に向かって真《ま》っ直《す》ぐ光の筒《つつ》が立ちあがるのを見たって。柱みたいにも見えたって。そしてそのなかを、小さな人影が駆《か》け登っていった」
ミーナは逃げるように背中を向け、森の方へと目をやった。もう、だいぶ離れた。草むらと灌木が、夜風に揺《ゆ》れる。
「それ──二人は見た?」
歩き出し、ワタルの前に出て周囲を警戒《けいかい》してから、キ・キーマは答えた。
「見たよ」
「そう」
「確かに天に昇《のぼ》っていくみたいに見えた」
言ってから、何かを振《ふ》り切るみたいに、キ・キーマはさっと斧を振った。
「だけども、だからってミツルが無事に運命の塔まで行けたかどうかはわからねえよな。俺が女神さまだったら、あんな奴、追い返すぜ。幻界をこんな有様にしながら、自分の願い事だけかなえに来たのかって」
その言葉が、ワタルの記憶《き おく》の欠片《かけら》を刺激《し げき》した。サーカワの郷《さと》の長老が言っていた──速く走る者が、先に運命の塔にたどり着くとは限らない、と。
今さらここで思い出しても、何の足しにもならない慰《なぐさ》めかもしれない。
ワタルは仰向《あおむ 》いて、夜空を見た。網《あみ》のように透《す》けた薄《うす》い雲が、三日月の前をゆっくりと横切ってゆく。
そして、赤く輝《かがや》く北の凶星《まがぼし》。まだそこにある。消えてはいない。ハルネラ≠ヘ終わらず、ヒト柱が定まったわけではないのだ。
未《いま》だに。それはいっそ残酷《ざんこく》な保留だ。
突然、ミーナが押し殺した声で叫《さけ》んだ。
「誰? そこにいるのは誰?」
ワタルもキ・キーマも、身構えながら振り返った。ワタルは勇者の剣《けん》を抜《ぬ》いた。
三人の後方、キ・キーマの足なら十歩ほど離れたところに、ねじ曲がった貧相な木がはえている。その陰から、白いドレスの裾《すそ》が寒そうにのぞいていた。
「あの子だ」ワタルはキ・キーマを手で制して、白いドレスに呼びかけた。
「何してるんです?」
少女はこわごわ顔をのぞかせると、両手で口元を押さえてしゃがみこんでしまった。ワタルは彼女のところに駆け戻った。
「なぜ森を出てきたんですか?」
「こ、皇都へ行くのでしょう?」
少女はぶるぶる震《ふる》えていた。このドレスでは寒気に耐《た》えられまい。歯の根があわずにガチガチ鳴っている。
「わたしも連れて行ってください。誰か──城の誰かが残っているかもしれません」
ワタルは一瞬《いっしゅん》ためらってから、自分の上着を脱《ぬ》いで少女に渡《わた》した。着せかけてあげるには、彼女はワタルより背が高すぎる。
「とりあえず城壁の近くまで行ってみるだけです。中に入れそうになかったら、諦《あきら》めるしかない」
「それでもいいのです」
震えながら、少女はワタルの上着で自分の肩を覆った。紳士《しんし 》のたしなみとはいえど、シャツ一枚になったワタルの方が、今度は寒さに凍えそうになってきた。
「森で、皆《みな》さんの話を聞かなかったんですか? クリスタル・パレスは失くなってしまったんです。常闇の鏡に吸い込まれてしまったらしい。城のヒトたちが生き残っているとは思えないけれど」
少女の青ざめた頬が、寒さと恐怖《きょうふ》、そして孤独《こ どく》で鳥肌立っている。それでもワタルがキ・キーマたちの方へ引き返し始めると、一緒に歩き出した。
合流して四人になった。ミーナがいちばん後尾《こうび 》についた。じっと白いドレスの少女を見つめている。そして歩きながら後ろから呼びかけた。
「あなた、お城のヒト?」
少女はちょっとひるんだ。答えない。
「それ、高価なドレスだもの。貴族?」
やはり無言だ。ミーナの問いかけに混じっている棘《とげ》を感じているのだろう。
「身分の高いヒトなんでしょうね。教えてくれない? 皇都がめちゃくちゃにされてるときに、皇帝の軍隊はどうしてたの? 今もどこにいるの? 国民を助けようとしないの?」
ワタルがとりなす前に、キ・キーマが口を挟《はさ》んだ。「ゴーレムたちが暴れてるとき、城から騎士《き し 》団が何組か出てくるのが見えたぞ。もっとも、全然太刀打ちできなくて、すぐ踏《ふ》み潰《つぶ》されちゃってたけどさ。残って城を守っていた部隊がいたとしても、常闇の鏡が出てきたとき、一緒に──」
ミーナはたたみかける。
「じゃあ、他の軍隊は? 北の皇帝直属の特殊《とくしゅ》部隊だとかいう、シグドラは? どこで何してるの? あなた知ってる?」
常闇の鏡の間で見た光景から、ワタルは少女の身元を察していた。たぶんこのヒトは、皇帝ガマ・アグリアスZ世の娘《むすめ》だ。皇女と呼ぶのが正確なのだろう。
そして、現世にいるミツルの不幸な年若い叔母《お ば 》さんとそっくりな顔をしている。
ワタルが父さんや理香子にそっくりなヒトたちに遭遇《そうぐう》してきたように、ミツルもまた現世の親しいヒトの分身に出会っていたのだ。去り際《ぎわ》に、ミツルが皇女に投げかけた言葉の意味は、ワタルにもよくわからない。不当なほど大きく傾《かたむ》いていた幸福の秤《はかり》? どういうことだろう。嘆《なげ》きの沼《ぬま》でワタルが出会ったあの不倫《ふ りん》の男女は、現世にいる父さんや理香子と、同じ理屈《り くつ》で同じことをやらかしていた。でも、どちらが幸福とか不幸とかいうことはなかった。ミツルはミツルの幻界で、どんなヒトたちに会い、何を見聞きして、どう考えてきたのだろうか。
「シグドラは、軍隊ではありません」
消え入りそうな声で、ようやく皇女はそう答えた。
「ですからこんなときには」
「役に立たないってわけ? フン」
ミーナは早口に割り込んで、鼻先でバカにしたような声を出した。
皇女はキ・キーマの陰に隠れるようにして歩きながら、くちびるを震わせ、身を縮めた。
「城を守っていた近衛《このえ 》騎士団は、この方のおっしゃるとおりならば、早々に全滅《ぜんめつ》してしまったのでしょう。アジャ将軍率いる帝国軍の精鋭《せいえい》部隊は、折悪しくソレブリアを離れていました。今こちらに急行しているところかもしれませんが、途中《とちゅう》で魔族に遭遇すれば、きっとそこで戦いになって──」
「国民を助けるために戦ってるはずだって言いたいの?」ミーナの口つきが、意地悪そうに尖《とが》った。「ソレブリアは滅《ほろ》びてしまったのに? 皇帝もいなくなったのに? これから先、誰が統一帝国を束ねて、帝国軍に命令するの?」
血筋からいけば、この皇女こそがその立場のヒトだ。彼女もそれをわきまえているからこそ、城の生き残りを探そうとしているのかもしれない。
「やめなよ、ミーナ」
やんわりと、キ・キーマが諫《いさ》めた。
「おまえさんの気持ちはわかる。でも、今はやめときな」
「何をやめるの? あたしはただ質問してるだけなのに」
「だから、それをやめろって言ってるんだ。大きな声を出すと、魔族に見つかるぞ」
城壁の残骸が間近に見えてきた。前方に立ちはだかり、視界を遮《さえぎ》っている。城門がある場所は、ここからもっと東寄りのはず──大きな街道《かいどう》が通っているから、すぐにわかるだろう。しかし、街道みたいな開けた場所に、不用意に出てゆくのは気が進まない。
「よじ登るわけにもいかないしな。ちょっとばかり壁沿いに進んで、なかに入れそうな場所を探してみようか」
今度はキ・キーマが最後尾に、ワタルが先頭になった。皇女はワタルの肘《ひじ》のすぐ後ろにくっついている。そのせいか、彼女に向けて、ミーナの身体から放散される敵意が、夜の冷気をものともせずはね除《の》けて、ワタルのところにまで伝わってきた。
「さっき……カッツさんのために祈《いの》ってくれたご夫婦《ふうふ 》ね」
ミーナが言い出した。キ・キーマとワタルは、瓦礫の隙間をのぞきこんだり、耳を澄《す》ましたりして、ヒトの気配を探しているのに、彼女はそんな自分の役割を忘れてしまっているようだ。思い詰《つ》めた小さな顔は、皇女の華奢《きゃしゃ》な背中を睨《にら》みつけている。
「十年くらい前に、子供さんたちがお孫さんを連れて、南へ亡命したんですって。あのご夫婦も、ずっと南へ逃げる機会を探していたんですって。それでわたし、わかったの。あのお祈りは、女神さまの祈りの一節よ。北の老神教の信者が唱えるようなものじゃないから、おかしいなって思っていたんだけど」
わたしの家族と同じだわと、うんと小さな声になった。
「統一帝国に暮らすヒトたちは、たとえ皇都ソレブリアに住むことを許されるような恵《めぐ》まれた立場にいても、やっぱり辛《つら》かったのよ。悦《えつ》にいってたのは、皇帝の一族と、その取り巻きだけだったのよ。国民はみんな苦しめられていた。そのうえ何よ、今度は、常闇の鏡の封印《ふういん》まで解いてしまって、北大陸どころか幻界そのものを危険にさらしてる。皇帝なんて、クソの役にも立たないじゃない! 今だって、自分はさっさと逃げ出しちゃって、どこかに隠れているんじゃないの?」
耐えかねたように、皇女はミーナを振り返った。「父は死にました!」
「父?」キ・キーマがぐりぐり目を瞠《みは》った。「じゃあ、あんたは──」
「ガマ・アグリアスZ世の娘、ゾフィです」
わななきながら、少女は毅然《き ぜん》と姿勢を正し、キ・キーマとミーナの顔を見回した。
「わたくしが皇帝の位の継承《けいしょう》者です。父の亡き今、国民を守り、軍を動かす責任が、わたくしにはあるのです」
さすがに虚《きょ》をつかれたのか、ミーナはぽかんと口を開いた。が、すぐ体勢を立て直し、前にも増して戦闘《せんとう》的に目を光らせた。
「だったら、あんたこんなところで何やってんのよ! さっさとやるべきことをやったらいいじゃない!」
ワタルは二人のあいだに割り込んだ。
「やめなよ」
「だって!」
「ミーナらしくないよ。そんな言い方」
水をかけられたみたいに、ミーナは表情をすぼめた。瞳のなかの怒《いか》りが消えた。
「いくら皇女さまでも、この状態で一人ぼっちじゃ、何もすることができなくても仕方ない。そう思わない?」
キ・キーマが、うんと小声で応じた。ミーナはぷいと乱暴に背中を向け、その拍子にしっぽの先がワタルの脇腹《わきばら》をぶった。
キ・キーマは波打つ城壁の残骸を見あげる。
「それより、何処《ど こ 》まで行く? 中に入るのはやっぱり危険だと思うがなぁ」
「ちょっとだけでも、城壁を登って中をのぞくことはできないかな?」
「この高さがあるところじゃ無埋だ。もっと派手に崩れ落ちてる場所はないかな」
再び城壁沿いに歩き出すと、しばらくして、ひゅうひゅうと震えるような音が聞こえてきた。一瞬、ヒトの泣き声かと思ったが、注意深く耳を澄ませてみると、風の鳴る音のようである。
「だけど変な音だな。どこかに風洞《ふうどう》でもできているのかもしれない」
あれか──と、キ・キーマが前方を指さした。城壁が崩れ落ちてできた瓦礫が、大きく手前に盛りあがっている。焼け焦《こ》げた柱の残骸が、残飯のなかの魚の骨みたいに、あちらへこちらへと突《つ》き出している。そのせいで隙間ができて、風が通り抜けているのかもしれない。
「あれを足場に、登れないかな?」
近づいて足をかけてみると、ガサリと崩れてしまった。砂山を登ろうとするみたいなものだ。
「おかしいね……」
家や建物の残骸ならば、もうちょっとしっかりしていそうなものだ。何だこの砂と土と岩の欠片の集まりは──
ハッと気づいた。ゴーレムだ。この一山は、一体のゴーレムが、魔法を解かれて動きを止めた後の亡骸なのではないか。
ミツルの言葉が生々しく蘇《よみがえ》る。一体のゴーレムにつき、「素材」のヒトが一人要《い》る。皇都を破壊した石の巨人《きょじん》も、元をたどればミツルに利用された犠牲《ぎ せい》者でしかない。
「ワタル」ミーナがワタルの袖《そで》をつかんだ。「あの奥で……何か光ってない?」
ミーナの示す方向をのぞきこむと、ゴーレムのなれの果てである砂と土の塊《かたまり》の隙間で、確かに小さな光がまたたいている。
もしかして? いや、そんなことがあるわけない。迷いながらも、ワタルが勇者の剣の柄《つか》に手をかけたとき、その光が大きく、強くまたたいて顔を照らした。
光はふわりと浮《う》かび上がり、ワタルに近づいてくる。
間違いない。ワタルは今度こそ落ち着いて勇者の剣を抜き、目の高さに掲《かか》げた。
宝玉に宿る精霊《せいれい》の声が、心に語りかけてくる。
──永き時の牢獄《ろうごく》で、私は孤独《こ どく》に待ち続けていました。旅人≠諱B
ワタルの前に、浄《きよ》い光の帳《とばり》が広がってゆく。その帳を開いて、白銀《しろがね》色の袖の長いローブを纏《まと》い、同じ色合いのヴェールで髪を覆った、すらりと長身の男の姿が浮かび上がってくる。
第四の宝玉だ。こんなどんづまりの状況《じょうきょう》、底なしの絶望のなかで、しかし宝玉はまだワタルを見捨ててはいなかった。
──私はヒトの真《まこと》を尊び、互恵《ご けい》と友愛とを司《つかさど》る信義の精霊です。この北の大地に、熱き血の通うヒトの命はありながら、それを尊び許し合う、正しき道は永らく忘れ去られておりました。凍《こお》れる土に埋《う》もれ岩に抱かれて、私は眠《ねむ》りを強《し》いられてきたのです。
ワタルは精霊に敬意を示し、片膝《かたひざ》をついて、しっかりと面《おもて》を上げた。
──徒《いたずら》に命をかけることなかれ。徒に命を奪うことなかれ。信義あるところには、親愛と共に赦《ゆる》しがあり、赦しあるところにこそ得難《え がた》き真の平等がある。我欲《が よく》に迷い、安楽を求め、ヒトの道を踏み外すのは安きこと。ヒトは弱く、多くが知らずに道を違《たが》えます。なれど、万人《ばんにん》の堕《お》ちるところが天上であると説くは大いなる偽《いつわ》りの慰《なぐさ》め。旅人≠諱Aあなたの進む道を阻《はば》む者を、信を以《もっ》て赦しなさい。しかし、その者の歩みが真を裏切るものならば、義を以て遮りなさい。
四《よっ》つ目の宝玉が、光臨する如《ごと》く舞《ま》い降りて、勇者の剣の鍔《つば》へと収まってゆく。勇者の剣が一瞬輝き、力強い波動をワタルの身体に送り込んだ。
「こ、これは──」
キ・キーマがあえぐように息を吸い込み、やおら地面に伏《ふ》して、深々と頭をさげた。
「宝玉のお導きだ!」
そして跳《は》ね起きると、両腕でワタルを抱き上げて、高々と持ちあげた。
「見たか? 見たよな? 女神さまはまだワタルを待っておられるぞ! 旅は終わったわけじゃないんだ!」
あれだけの戦いの後で、どうしてこんな力が残っているんだろう。振り回されて、ワタルは目が回りそうだ。
「わ、わかったよ、キ・キーマ! 降ろしてってば!」
カッツの死にもこらえていた涙が、キ・キーマの頬を濡らしている。大男の水人族の涙は、北大陸の夜風の冷たさを、魔族の気配の不吉《ふ きつ》さを、瞬時に退けるほどに温かかった。
「あなたも旅人≠セったのですね」
皇女ゾフィが、驚《おどろ》きのあまり焦点《しょうてん》を失ったような瞳で、ワタルを見つめている。
「そうです。ミツルと僕は──現世の同じところから来ました。友達なんです」
「それじゃあなたも運命の塔を目指しているというのですか? ミツル様の後を追ってゆくのですか?」
高揚《こうよう》していた気分が、いっぺんで冷めた。
それにはまだ、宝玉がひとつ足りない。勇者の剣は完成していないのだ。
ミツルの最後の宝玉は、闇の宝玉だった。クリスタル・パレスの鏡の間に隠されていた。ではワタルの最後の宝玉はどこにあるのか。それを探すだけの時間が残されているのか。
また、ひゅるるると風が鳴った──
ミーナがぴくりと耳を立てた。
「これ、何の音?」
ぴゅるるるるー
「今度は風じゃないわ! 何かの鳴き声よ」
それぞれに身構えて、不思議な鳴き声の聞こえてくる方向を定めようと、ワタルたちはあたりを見回した。城壁の上? 瓦礫の向こう? 夜に沈《しず》む草原の彼方《かなた》?
そのとき、三日月を遮っていたひときれの雲が流れ、光が増した。さえざえとした月光を横切って、何か小さな素早いものが、まっしぐらに飛んでくる。
風が空《くう》を切る。
バサバサと、羽ばたく音が間近で聞こえた。あっと思う間もなく、一羽の真っ白な鳥が、ワタルの左肩にふわりと着地した。
「こらこら、そうあわてるでない」
赤い嘴《くちばし》を動かして、鳥がしゃべった。
「な、何これ? 何よこの鳥?」
状況を忘れて、ミーナがすっとんきょうな声を出す。唖然《あ ぜん》として口を開いているキ・キーマの背中に、ゾフィが隠れる。
「わしじゃよ、わしじゃ」
鳥は応《こた》え、同時にぼわりと白い煙《けむり》に包まれた。ワタルは思わず飛び退《の》いた。
目の前に、ラウ導師が立っている。
たっぷり数秒のあいだ、誰も何も言えなかった。ラウ導師も、誰かが先に何か言うことを期待しているのか、厳《おごそ》かな顔つきで黙《だま》っている。
しーんとした。
「何じゃ、この沈黙《ちんもく》は」
ワタルは口をパクパクさせた。ラウ導師は、長い眉毛《まゆげ 》を上げ下げすると、
「せっかくのわしの登場に、場を盛り上げようという配慮《はいりょ》もないのかの?」
「も、も、も、盛り上げる?」
声が完全に裏返ってしまった。心がひっくり返っているからだ。
ワタルたちは一斉《いっせい》にしゃべった。
「ラウ導師さま! どうしてここに?」
「ワタル、このおじいさんが導師さまなの?」
「旅人≠フ導き手の導師さまって、このじいさんなのか?」
ゾフィには言葉もないようだ。
ラウ導師は杖《つえ》を持ちあげて、ワタルの頭をぽんと叩《たた》いた。
「どうしてここに来たかと、わしに訊《たず》ねるのか? おまえが呼んだから、わしは来たのじゃ。用がないなら帰るがの」
「ぼ、僕が呼びましたか?」
「呼んだではないか。おぬしの最後の宝玉はどこにあるのか知りたいのだろう?」
そのひと言に、弛緩《し かん》していた場が、ラウ導師の期待していた盛りあがりとは別の、痛いような緊張《きんちょう》に包まれた。
「教えてくださるんですか」
ワタルの声はうわずっている。心はもう一度ひっくり返って元に戻ったが、まだ胸のなかに落ち着いてくれない。
「おぬしに、まだ旅を続ける意志があるのならば、教えよう」
ゆったりとした口調でそう言ってから、導師はちらと夜の闇の向こうに目をやった。
「急がんと、魔族がおまえたちの匂《にお》いを嗅《か》ぎつけたようじゃ。のんびりしてはおられんぞ」
急に現実感が戻ってきた。背中を冷気が駆け上る。「教えてください! お願いします!」
たった今急げと言ったくせに、ラウ導師はワタルの顔をじっと見つめた。ワタルは番人たちの村で、初めて導師に会ったときのことを思い出した。あのときも、こんなふうに導師は、ワタルを見えない秤に載せて、目盛りを読むみたいなまなざしをしたじゃないか──
いや、あのときとは違う。今の導師の視線の方が、もっと厳しい。秤の種類が違っているのだ。ワタルが重くなったから? 以前の秤が使えなくなったから?
「おぬしは、まだミツルの後を追えるか?」
「え?」
「ミツルの後を追いかけて、彼と対峙《たいじ 》する用意はあるかと訊ねたのじゃ」
ワタルは、ミーナの顔を振り返り、キ・キーマの目を仰いだ。それからやっと答えた。
「あります。今までだってそうしてきました」
「この先は、これまでとはわけが違う」
ラウ導師は言って、杖の先で地面をとんと突いた。
「なぜならば、おぬしにとっての第五の宝玉、勇者の剣を退魔の剣へと完成させるために必要な、最後の宝玉──それも、やはり闇の宝玉≠ネのだから。旅人≠ヘ二人おっても、最後の宝玉はひとつしかないのじゃ」
それじゃ、もう手に入らないじゃないか。ミツルは先に行ってしまったのだから。こんな大事なこと、何でもっと早く教えてくれないんだよ。
とっさの反発を、ラウ導師はちゃんと読み取っていた。もう一度、杖がこつんとワタルを小突いた。おためしのどうくつ≠フときと同じだ。
「番人であるわしに対して、そんな不作法な顔をするものではない。さよう、最後のひとつは、今は、ミツルの手のなかにある。つまり、おまえがそれを求めるならば、今度こそ、ミツルから奪い取らねばならぬということだ。よいか? 奪い取る[#「奪い取る」に傍点]のじゃぞ」
今までは、ミツルと、時を競うことはあっても、宝玉を巡《めぐ》って争うことはなかった。奪い合いなんて、したことがなかった。
最後の最後に来て、最大の困難。
「僕はミツルと戦わなくちゃならない。戦って勝たなくちゃならないんだ」
半ばは問いかけ、半ばは自分に言い聞かせる言葉だった。しかし、ラウ導師は答えない。
勝てるよ──と、誰かが言った。最初は誰の声だかわからなかった。初めて耳にする、高ぶった声音《こわね 》だったから。
ミーナだった。か細い三日月の光を受けて、瞳が輝いている。
「勝てるよ。ワタルなら勝てる。必ず勝てる。だから行かなくちゃ」
その確信はどこから来るの? ワタルのなかで、気弱に心が縮んでいく。あのゴーレムの上で対決したとき、僕はミツルの前で、どうしても剣を抜くことができなかった。言い負かすことさえできなかったのに。
ミーナはそれを見ていないじゃないか。弱い僕を見ていないじゃないか。
「勝てずとも行く。行かねばならぬ。その決意がなければ、わしは道を開かぬ」
ラウ導師の声に、ワタルは目を上げた。導師の目。おじいさんの目だ。しょぼしょぼと潤《うる》んでいる。それなのに、心に突き刺《さ》さるこの視線は何だ?
導師は口を結んでいるのに、問いかけてくる声が聞こえる。
──おまえは運命の塔で何を願う? 今このとき、おまえがもっともかなえたい願いは何じゃ?
僕がもっともかなえたい願い[#「僕がもっともかなえたい願い」に傍点]。
カッツの言葉が、今でも彼女がすぐそばにいるみたいに、鮮やかに聞こえてきた。あんたはハイランダーなんだ。幻界の平和を守る誓《ちか》いを立てた。その誓いを破るならば、あんたには、ファイアドラゴンの腕輪をつける資格はない。
ワタルは左手首の腕輪に目を落とした。そっと、指先でそれに触《ふ》れてみた。
今、僕がもっともかなえたい願いは?
導師の問いかけの意味が見えた。自分が何を求めているのかわかった。
わからない方がどうかしてる。だって、間違えようのない一本道じゃないか。
でも、その道を選べば、もう変更《へんこう》はきかない。それでいいのか? 後悔《こうかい》はしないのか?
この旅の目的は果たされるのか[#「この旅の目的は果たされるのか」に傍点]?
慈悲《じ ひ 》と叡智《えいち 》、勇気と信義をこの剣に集めて。
変えるべきなのは僕の運命じゃなくて、
──僕自身なんだ。
ワタルは正面から導師の瞳を捉《とら》えた。
「行きます。ミツルを追いかけて、必ず、闇の宝玉を手に入れます。僕は運命の塔に行かなくちゃいけない。導師さま、僕に道を開いてください」
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52 ワタルひとり
夜空に立ちのぼる、一筋の光の柱。
三日月さえも驚《おどろ》いて、さらに目を細めたようだ。雲の流れもその足を緩《ゆる》めた。ただ北の凶星《まがぼし》だけが、冷淡《れいたん》なほどの落ち着きで、紅《あか》い輝《かがや》きを湛《たた》えている。
ワタルのすぐ目の前に、浄《きよ》い光の輪があった。一歩|踏《ふ》み出せば、その内に入ることができる。ラウ導師の開いてくれた道へと。
導師は脇《わき》に退《ど》いて、地面に突《つ》き立てた杖《つえ》に身体《からだ》を預け、静かにワタルを見守っている。
「では、行くかね?」
ワタルはうなずいた。そして、ミーナとキ・キーマを振り返る。
二人は種族を超《こ》え、年齢《ねんれい》を超え、性別を超え、ただ「ワタルの仲間」という絆《きずな》だけに結ばれて、そっくり同じ表情を浮《う》かべていた。
限りなくサヨナラに近いけれど、微小《びしょう》な一点で決定的にサヨナラとは違《ちが》うもの。
「ひとりで行くんだよね」
ミーナが問いかけた。思わず、ワタルはにっこりした。
「うん。今度ばかりは、ミーナがどんなに怒《おこ》ってもすねても、一緒《いっしょ》に連れて行ってあげることはできない」
「わたし、そんなに怒ったりすねたりしてた?」
「違うよ。ミーナは僕を叱《しか》ってくれたんだよね」
「俺もよく叱られた」と、キ・キーマが真顔で言った。「けど、ミーナはいつも正しかったような気がする」
「僕もそう思うよ」
二人の顔を見比べて、ワタルは今さらのように気がついた。これは出発じゃない。別れなんだ。ここから先は僕ひとり。どんな結果が待っていようとも、仲間たちとはここで離《はな》れなければならないのだ。
手を差しのべて、二人の手を握《にぎ》り、ありがとうと言おうと思った。でも、寸前で思いとどまった。まだ早い。二人に感謝し、別れを告げるのは、僕が自分の役目を果たしてからでなければならない。
たとえ、その感謝と惜別《せきべつ》を、もう言葉にして直《じか》に伝えることはできなくとも。
ここで言うべきこと、言っていいことはただひとつ。
「行ってきます」
突然《とつぜん》ミーナが飛び出して、しっかりとワタルを抱《だ》きしめた。全身が震《ふる》えている。
「気をつけて、ね。気をつけるんだよ」
「うん」
ミーナの温かくしなやかな身体を、ワタルも固く抱きしめ返した。キ・キーマが近づいてくると、大きな胸に、二人をそっくり抱き取った。
何も言わない。泣いてる。大きな身体に小さな一滴《ひとしずく》の涙。
「手伝えなくて、ごめん」
「違うよ、それは違う」ワタルはキ・キーマの胸をぽんと叩《たた》いた。「僕が運命の塔《とう》にたどり着いて願いをかなえるまで、みんなには幻界《ヴィジョン》≠守って戦うっていう使命があるじゃないか。僕たちは、これからそれぞれ違う役割を果たすんだ。だけどそれは、やっぱりお互《たが》いを助け合うことなんだよ」
ミーナが涙に濡《ぬ》れ目を瞠《みは》った。「ワタル──あなた、女神《め がみ》さまに何を──」
ミーナにすべてを言わせないように、ワタルは頬笑《ほほえ 》んで遮《さえぎ》った。「それは内緒。あとでね、ミーナ」
二人の腕《うで》から離れると、ワタルは姿勢を正した。
「キ・キーマ!」
「お、おう!」
「僕はまだ、水人族にとっての幸運の印≠セよね?」
「ああ、もちろんさ!」
ワタルは笑顔を大きくした。「よし、それじゃ、僕はキ・キーマに幸運を授《さず》けます。どんな戦いにも、けっして負けないように」
キ・キーマは両の拳《こぶし》を握りしめた。「任せとけ! 俺の目に入るものすべて、この腕の届く限りのものすべてを、魔族《ま ぞく》から守り抜《ぬ》いてみせるからな!」
皇女ゾフィは、ワタルたちから独り離れて、寂《さび》しさと寒さに包まれている。しかし、ワタルが彼女に目を向けると、唐突《とうとつ》に言った。
「許してください」
両指を組み合わせ、頭《こうべ》を垂れて。
「ミツル様に、闇《やみ》の宝玉の在処《ありか 》を教えたのはわたくしです。常闇《とこやみ》の鏡を隠《かく》している封印《ふういん》を解けば、宝玉に近づけることを話してしまいました。その結果が──これです」
身内から湧《わ》きあがる苦悩《く のう》と痛みに、声がかすれる。吐《は》き出せば吐き出すほどに、言葉となった想《おも》いがゾフィを責めさいなむ。
「こんなことになるとは思ってもみませんでした。わたくしはただ──ミツル様の気持ちを慰《なぐさ》めたいと思っただけでした。クリスタル・パレスに留め置かれていたあの方が、あまりにも悲しそうで、寂しそうで、見ていることが辛《つら》かったから」
ゆっくりと、ラウ導師が口を開いた。「ミツルはあなたを騙《だま》しましたかな。あなたを操《あやつ》って、利用したのですかな」
ゾフィは激しくかぶりを振った。「わたくしにはそうは思えません。でも、でも、結果は同じです。わたくしには、ミツル様が考えておられることがわからなかった。賢《さか》しらに、あの方の心を理解したつもりになっていただけで、その実、何もわかってはいなかったのです!」
慰めようとか、宥《なだ》めようとか、思ったわけではなかった。気がついたら、ワタルはこう言っていた。「あなたは、現世《うつしよ》にいるミツルの叔母《お ば 》さんに、よく似ているんです」
ラウ導師には、謎《なぞ》のようなこの言葉の意味がわかるはずだ。ワタルは導師の痩《や》せた顔を仰《あお》いだ。導師は静かにうなずいた。幻界は、そこを行く旅人≠フ心を映して姿を変える。
「ミツルに会ったら、あなたが傷ついていることを、ちゃんと伝えます。どんな経緯《いきさつ》があったのか、僕らにはわからない。でも、あなたが悲しんでいることは本当だ。お父上を失ったあなたの悲しみを、彼は知らなくちゃいけない。僕はそう思う」
ゾフィは両手で顔を覆《おお》った。
もう一度だけ、ミーナとキ・キーマの手に優《やさ》しく触《ふ》れて、ワタルは頬笑んだ。そしてもう何も言わず、光の輪のなかへと足を踏み入れた。
眩《まぶ》しい。
どこまでも高く、どこまでも遠く、光の柱が立ちのぼっている。最初は何も見えなかった。が、高鳴る動悸《どうき 》を数えているうちに、天上へと続く階段が見えてきた。光から生まれ、光でつくられた階段だ。
のぼってゆく。一歩、また一歩。やがて駆《か》け足になり、息をはずませ、ワタルはもう振り返らなかった。
ミツルの時と同じだ。光の柱のなかを、立ち止まることもためらうこともなく、ひたすらに駆けのぼってゆく。雲を足の下に、三日月を追い越《こ》し、冷淡な無関心を装《よそお》う北の凶星を後ろに、ワタルの後ろ姿がどんどん小さくなってゆく。
そして夜空の彼方《かなた》に消えた。
「行ってしまったわ」
ミーナの呟《つぶや》きが、風に乗る。
「もうお別れなのね」
「いや、違う」キ・キーマは首を振る。「ワタルが言ってたこと、忘れたのか? 俺たちは別々の使命を果たしに出発するんだ。別れ別れになったけど、サヨナラをしたわけじゃないんだぞ」
しかし、支えを失ったように、ミーナは取り乱し始めた。「そんなの嘘《うそ》よ! 口では何とでも言える。だけどわたしたち、もうワタルには会えないんだよ。ワタルの身に何が起こっても、それを知ることさえできないんだよ!」
ラウ導師がミーナに歩み寄った。「ネ族の娘《むすめ》よ。本当にそう思うかね?」
光の輪の輪郭《りんかく》がぼけ始めた。裾《すそ》の部分から、ゆっくりと夜に溶《と》けるように消えてゆく。
「ワタルが運命の塔にたどり着き、女神さまに願いをかけ、それがかなえられたなら、きっとおまえにもそれがわかるはずだ。ワタルはそう約束していったではないか」
「約束?」
あとでね、ミーナ。
それじゃワタルはやっぱり──ミーナとキ・キーマは、上空に消え残る、光の柱の最後の光輪《オーラ》を仰ぎ見た。
「さあ、幻界の子らよ。行きなさい。おまえたちには、おまえたちの試練が待っている」
ラウ導師の声に、二人が我に返ったときには、もう導師の姿は消えていた。現れたときと同じように唐突に、鳥の羽ばたきだけをかすかに残して。
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53 取り戻せるもの
こんなに走ってのぼっているのに、ちっとも疲れない。息は切れるけれど、それは心が昂《たか》ぶり、魂《たましい》が武者震《む しゃぶる》いしているせいだ。
光の柱のなかを、ただ上へ進むことだけを思って駆《か》けのぼる。勢いよく踏《ふ》み出す足の下を、輝《かがや》くステップが、流れるように通過してゆく。
そしてとうとう、広々とした空間にたどり着いた。ワタルは両足を揃《そろ》えて立ち止まり、はずむ呼吸を整えた。
天上に出たのだろうか。
明るさに変わりはなかった。ただ白光の輝きを放つ霧《きり》が、ワタルの周囲を流れている。手をあげてはらってみると、霧はふわりと乱れながらも纏《まと》いつき、指先や掌《てのひら》にやわらかな感触《かんしょく》を残す。
頭上はすっぽりと、霧のドームに覆《おお》われている。足元も霧に満たされて、自分の爪先《つまさき》を見ることもできなかった。歩き出すと、霧の浅瀬《あさせ 》を、しとやかなさざ波をたてながら渡《わた》ってゆくかのようだ。何も見えない。誰《だれ》もいない。限りない広漠《こうばく》に、けれどこの身はほの温かな安心感に包まれて、動悸《どうき 》が治まってゆく。
不意に、どこか高いところから、鳥のさえずりが聞こえてきた。
──来たのは誰《だれ》?
驚《おどろ》きに、ワタルは目を瞠《みは》った。
──来たのは勇者?
ラウ導師の番人たちの村を訪ねたとき、森のなかで聞いた鳥たちのさえずりと同じだ。
──来たのは誰?
今度は後ろの方から聞こえた。ワタルはさっと振り返ると、流れる霧の向こうに答えた。
「僕の名前はワタル。幻界《ヴィジョン》≠旅し、四《よっ》つの宝玉を集め、ラウ導師のお導きでここまでたどり着きました」
姿の見えない鳥たちが、霧のなかで一斉《いっせい》にさえずりを交《か》わす。
──ワタル、ワタル。
──ここまで来たワタル。
──勇者の剣《けん》を携《たずさ》えて。
──ようこそ、ワタル。
──よく来たね、ワタル。
鳥たちの声が合図になったように、霧が晴れ始めた。舞《ま》いあがるように立ちのぼり、空に吸い込まれて消えてゆく。それにつれて視界が大きく開けた。
ワタルは息を呑《の》んだ。
天上に在る、まったく新しい世界の入口に、ワタルは立っていた。
水晶《クリスタル》の都だ。すべてが透《す》き通り、蒼《あお》く輝いている。何という広さ。何という大きさ。そして都を埋《う》め尽《つ》くす建物の数、数、数。びっしりと軒《のき》を連ね、屋根を傾《かたむ》け、窓を開いて立ち並んでいる。それはまるで、最上にして最大の水晶の鉱脈を彫《ほ》り抜《ぬ》いてつくられた、巨大《きょだい》な都のオブジェだ。
そしてワタルの正面、前方の遥《はる》かな彼方《かなた》に、蒼々とした静謐《せいひつ》を映す空を背景に、姿勢正しく佇《たたず》む貴婦人を思わせる美しい塔《とう》が立っていた。水晶の都を長い裾野《すその 》に、水晶のなかから生まれ出た、優美な高層の塔。その頂上はヒトの祈《いの》りの形、左右の掌をぴたりと合わせた形をして、天上のこの地の、さらなる天の高みを向いている。
あれこそが運命の塔だ。
あの頂き、合掌《がっしょう》する指の先端《せんたん》に、運命の女神《め がみ》が待っている。
しばらくのあいだ、ワタルは、まばたきをすることさえ忘れて塔を仰《あお》いでいた。近づき難《がた》いほどに美しく、しかし優《やさ》しい造形がワタルを招いている。さあ、ここまで来なさい。ここがあなたの目指す場所である。
足を踏み出し、ゆっくりと歩き始める。ワタルの姿が、水晶でできたあちらの家に、こちらの壁《かべ》に、足元の道に、ちらちらと映っては無数の分身《ダブル》をつくる。分身もワタルと一緒《いっしょ》に歩んでゆく。
都のなかをいくらも歩かないうちに、ワタルは気がついた。思い出したのだ。この家の屋根の形には見覚えがある。この街角を、僕は知っている。
ああ、ここは懐《なつ》かしいガサラの町だ。そしてあっちのあの平らな屋根の連なりは、ティアズヘヴンの町並みじゃないか? いったん気がつくと、もう夢中になってしまって、ワタルは駆け出した。あれは? すぐ右手の先には、番人たちの村のラウ導師の住まいにそっくりな、こぢんまりとした小屋が立ち並んでいる。折れた雨樋《あまどい》をぶら下げたあの倉庫はソノの港町だ。マキーバの厩舎《きゅうしゃ》がある。あの遠いところ、ルルドの国営天文台そっくりな建物を、星読みたちの学舎が囲んでいる。あの不気味なトリアンカ魔《ま》病院《びょういん》も、透き通った水晶に姿を変えると、見惚《み と 》れるほどに美しい。
天上のこの都は、ワタルが今まで旅してきた町や村の姿を寄せ集め、再構成し、再現しているのだ。違《ちが》っているのはすべてが水晶でできていて、ワタル以外に誰もいないということだけ。
この水晶の都を通り抜けてゆくことは、ワタル自身の旅の道筋を再現することなのだ。
ティアズヘヴンの家の壁にワタルが映る。サラと言葉を交わした記憶《き おく》が蘇《よみがえ》る。ソノの港町を思わせる坂道を上る。潮風の匂《にお》いを思い出す。おや、ここはリリスのレンガ職人通りだ! ファンロンの工房《こうぼう》の扉《とびら》は、ここでもやっぱり固く閉《と》ざされている。
道は完全な一本道で、迷うことはなかった。水晶でつくられた想《おも》い出のオブジェのなかを、ワタルは粛々《しゅくしゅく》と進んでゆく。歩けば歩くほどに深く都のなかに分け入って行くけれど、運命の塔は少しも近づかない。いつ仰いでも、視界いっぱいに広がるその孤高《こ こう》の姿は、ワタルとのあいだに変わらぬ距離《きょり 》を保っていた。
小さな陸橋の下を通過する。するとその先は、ティアズヘヴン独特の通路の家≠ノなっていた。親切な町長に案内されて、初めてここを通ったとき、家具がないので面食らったものだった。通り抜けるためだけに造られた部屋の連なり。
ひとつ抜けて、次の部屋へ。また次の部屋へ。こうやって、サラの母親サタミが病床《びょうしょう》についているのを見舞ったっけ──
そこは病室ではなかった。空っぽで四角いだけの部屋だ。が、何かがあった。部屋の隅《すみ》に、燭台《しょくだい》みたいなものが立っている。
鳥籠《とりかご》だ。やはり水晶でできた鳥籠がひとつ、ぽつりとぶらさがっている。
真っ白な小鳥が一羽、止まり木の上で小首をかしげている。ワタルは近づいて、そっと籠の縁《ふち》に触れてみた。
カナリヤぐらいの大きさで、翼《つばさ》はしみひとつない純白。つぶらな瞳《ひとみ》はうっとりするような青い海の色だ。
チチチ……と、小鳥はさえずり、ワタルの指が触れているすぐそばまで飛んできた。じっとワタルを見ている。しきりに首をかしげ、また羽ばたいて、今度はワタルの指に止まろうと試みる。
「籠から出たいの?」
チチチと小鳥は応じた。返事をしてくれたのだ。
「じゃ、出してあげる。ちょっと待ってね」
鳥籠の扉には、ワタルの爪《つめ》ぐらいの大きさの華奢《きゃしゃ》な掛《か》け金がかかっていた。それを指先で押し上げると、扉は音もなくすうっと開いた。白い小鳥はちょこんと飛んで、扉の上に翼を休めた。それから今度は大きく飛びあがり、ワタルの頭上でくるりと輪を描《えが》いてから、何の迷いもなく右肩《みぎかた》の上へ降りてきた。
ちょっと驚いて、ワタルは後ろに下がった。重さなど、ほとんど感じられない。でも小鳥の温《ぬく》もりが肩の上にある。
そしてそのとき──瞳の奥に幻《まぼろし》が展開した。
現世《うつしよ》の光景だ。ワタルは夜ふけの幽霊《ゆうれい》ビル≠フ前に立っている。大松父子の顔が見える。そしてすぐそばに車椅子《くるまい す 》があって、そこに座っている──座って──
大松香織だ[#「大松香織だ」に傍点]。
黒い瞳。彼女以外の誰にも見ることのできない何かの上に焦点《しょうてん》を結んで。言葉を失い、外界とのつながりを断たれた、滑《なめ》らかな頬《ほお》と輝く髪《かみ》の、本当にきれいな女の子。
まばたきをすると、幻は消えた。小鳥の瞳がワタルを見ている。
この白い小鳥は──大松香織の心なのか。
「ずっとここにいたの?」
おそるおそる手をあげて、ワタルは小鳥の小さな頭に触れてみた。
「ここに閉じ込められていたの?」
ワタルに頭を撫《な》でられて、小鳥は目を閉じた。
「そうなんだね。香織さんの心は、身体《からだ》から離《はな》れてここに囚《とら》われていたんだね」
なぜ? という疑問さえも押しのけて、解放された小鳥の喜びが、ワタルの心に伝わってくる。それで充分《じゅうぶん》だった。
「それじゃ僕と一緒に行こう。一緒に現世へ帰ろうね」
白い小鳥を右肩に乗せて、ワタルはまた歩き始めた。ところが次の部屋に進むと、そこにもまた鳥籠があった。もう一羽、小鳥が閉じ込められている!
今度の小鳥は真っ黒だ。嘴《くちばし》の先まで黒く、瞳だけが赤い。
ちょっとのあいだ突っ立ったまま、ワタルは思案した。こっちは誰の心だ?
黒い小鳥が嘴を開き、およそらしくないダミ声でがあと鳴いた。やっぱりカナリヤぐらいの大きさなのに、鳴き声は烏《からす》そっくりだ。
パチリとスイッチが入るように、認識《にんしき》の灯《ひ》がともった。ああ、そうか!
「石岡だね! 石岡健児だ」
幽霊ビルのなかで、彼と彼の仲間たちにやっつけられていたミツルが、バルバローネを招喚《しょうかん》したあの後、石岡は魂《たましい》を抜《ぬ》かれたようになってしまったという。そう、大松香織と同じように。
「ここにいたんだ」
ワタルは急いで鳥籠の扉を開けた。黒い小鳥は弾丸《だんがん》のように飛び出すと、四角い部屋のなかをバサバサと飛び回り、やたらめったら壁や天井《てんじょう》に衝突《しょうとつ》した。黒い羽根が舞い落ちる。
「こら、そんなことをしちゃ駄目《だ め 》だよ。こっちへおいで」
ワタルは左肩を差し出した。黒い小鳥はワタルの頭に飛び移り、髪の毛をひっかけ、ギャアギャアと大騒《おおさわ》ぎをしてから、やっと左肩の上にとまった。
「手がかかるなぁ」
思わずそう言うと、黒い小鳥はいきなり嘴の先でワタルの、耳を突っついた。
「痛《イテ》ッ! やめてくれよ」
ワタルは吹き出した。ホントに石岡だ。
「おとなしくしてないと、連れて帰ってやらないぞ」
黒い小鳥はしおしおとまばたきをしている。用心深く掌で撫でてやると、震えているのが感じられた。
「怖《こわ》かったんだね」
瞳の裏に、また一瞬《いっしゅん》、現世の出来事が幻になって再現された。歯を食いしばり頬を紅潮させて、自ら招喚した漆黒《しっこく》のバルバローネを見つめるミツルの姿。怯《おび》えてすくむ石岡健児の、くしゃくしゃになった顔。
「もう大丈夫《だいじょうぶ》だ。おまえも一緒に帰ろう」
運命の塔の足元に広がる水晶の都のなかに、現世にあるべきふたつの魂が閉じ込められていた。それが今、ワタルの両肩の上に乗っている。
歩みを進めると、ティアズヘヴンの建物を通り抜けて、リリスの住宅街へと出た。パム所長に案内されてここを訪れたとき、リリスに巣くう非アンカ族への強い偏見《へんけん》に、気分が悪くなったことを思い出す。
小公園みたいな広場に出た。ベンチがあり、植え込みがある。これもリリスだろう。すべて水晶になっている。植え込みに咲《さ》いている花の一輪までも。
何気なく足元に目をやって、ワタルは立ち止まった。
文様があるのだ。うっすらと輝いている。水晶の地面に、硬《かた》く尖《とが》った何かで刻みつけられたみたいだ。見つめるほどに輪郭《りんかく》がはっきりしてくる。
ここからいったん、現世に戻《もど》れる? そうか、四つ目の宝玉を手にいれたから。
でも、今はもうワタルひとり、真実の鏡の欠片《かけら》を持ったミーナはそばにいない。それでも文様を踏めば、光の通路が生じるというのだろうか。
チチチと、右耳のそばで白い小鳥がさえずった。話しかけられている。
「ああ、そうか。そうなんだ」
ワタルはうなずいた。「君たちを先に帰すことができるんだね?」
この都の果てるところでは、ミツルとの対決が待っている。必ず勝つ──勝たなければならないけれど、でも負けたら? 考えたくもないけれど、でも負けたら? ワタルの連れとなった二羽の小鳥も、またこの都に取り残されてしまうことになる。
では、誰に会いに行こうか。ワタルには、多くの時は残されていない。こうしているあいだにも、魔族の侵攻《しんこう》は幻界じゅうに広がっているのだ。細かいことを話さず、大急ぎで二羽の小鳥を託《たく》してもいい相手──
ワタルの顔がほころんだ。ああ、今まで忘れていたなんて。思い出さなかったなんて。怒《おこ》られちゃうよ。
カッちゃんだ。僕の友達。僕の大切な現世の仲間だ。彼のところへ行こう!
現世では、どうやら夕刻らしい。
カッちゃんは二階の部屋にいて、自分の机に向かっていた。両足がぶらぶらと動いている。机の上に教科書とノートが開いてあるが、勉強しているわけではないらしい。頬杖《ほおづえ》をついている。
窓の外には夕闇《ゆうやみ》と、茜色《あかねいろ》の夕焼けの最後の一筋の光が見える。小村の小母《お ば 》さんはもう洗濯物《せんたくもの》をしまったらしく、物干しは空っぽだ。蒸《む》し暑い空気がどんよりと漂《ただよ》っている。
階下《し た 》から、居酒屋「小村」の、忙《いそが》しく働いている気配がする。
「はい、はい、生ビールふたつね!」
小母さんの声だ。わあ、相変わらず元気だよ。ワタルは頬笑《ほほえ 》んだ。
光の通路を抜け、ワタルはカッちゃんのすぐ後ろに出ていた。ちょっとのあいだ、懐かしい友達の、真っ黒に日焼けしたうなじを見ていた。夏休み、毎日のようにプールに通っているのだろう。
「カッちゃん」
呼びかけても、カッちゃんはすぐ振り返らなかった。忙しなく足をぶらつかせながら、何か考え込んでいる。
「カッちゃん」
もう一度呼んで、ワタルは彼の肩に手を置いた。
カッちゃんは椅子から飛びあがった。それがあまりにも凄《すご》い勢いだったので、ワタルは後ろによろけてしまった。
カッちゃんの目は、季節はずれのふたつのドングリだった。ぐりぐりと見開いて、ついで口がぽっかりと開く。
「おどかしてごめん」
ワタルの声を聞くと、カッちゃんの顔から血の気が引いた。これほど日焼けしていても、やっぱり顔色って変わるんだ。
「み、三谷?」
ミタニか、ミタニなのかと繰り返す。うん僕だよと、ワタルは答えた。
カッちゃんが飛びついてきた。自分でも思いがけず、ワタルはちょっと泣きだした。
「何だよ、おまえ何してんだよ? 何があったんだ? どこ行ってたんだ?」
矢継《や つ 》ぎ早に問いかけながら、カッちゃんはワタルの腕《うで》をつかんで揺さぶった。
「そ、それ、それは」
「オレ心配してたんだぞ! ホント死ぬほど心配してたんだぞ! うちの父ちゃんも母ちゃんも、そうだよ三谷のおばさんとこ行って、そンで、そンで」
あわあわと言葉を並べ立てるカッちゃんの目から涙《なみだ》が溢《あふ》れている。
「ごめんよ、カッちゃん。今はそのことを、詳《くわ》しく話してる時間がないんだ」
「え? え? 何だって」
あのねカッちゃんと、今度はワタルがカッちゃんの両腕をつかまえた。
「頼《たの》みがあるんだ。この小鳥」
二羽の小鳥は、翼をバタつかせながら、必死でワタルの肩にしがみついている。爪が食い込んで、ちょっとチクチクする。
「窓から逃《に》がしてやってくれるかな。それだけでいいんだ。カッちゃんにしか頼めないんだ。やってくれる?」
カッちゃんの目が泳いでいる。爆発《ばくはつ》的に溢れ出した涙のせいではない。目を回しかけているのだ。
「カッちゃん、しっかりしてよ」
カッちゃんの首がぐらぐらする。そして裏返ったような声で問いかけた。「おまえ、何かヘンなカッコしてない?」
ワタルは笑った。「うん」
「それコスプレか? 『ロマンシングストーン・サーガ』じゃん」
「だよね。後で話すよ。ちゃんと帰ってきたら、全部話すよ。だけど今は急いでるんだ。ごめんよ」
まず白い小鳥を優しくつかんで、カッちゃんに差し出した。動物好きのカッちゃんは、さぞ頭がぐるぐるに混乱しているだろうに、それでもワタルよりずっと上手に小鳥を扱《あつか》うことができた。
「どこで捕《つか》まえたんだ、この鳥」
「捕まえられていたのを、助けてきたんだ」
手も日焼けしている。爪ばかりがピンク色だ。その手で小鳥を撫でながら、カッちゃんは呟《つぶや》いた。「オレ、夢見てるのかな」
「そんなもんだと思ってくれていいよ。窓開けて。ほら、早く」
カッちゃんは夢遊病者のようにふらふらと歩き、右手の甲《こう》に白い小鳥を載《の》せたまま、左手で慎重《しんちょう》に、物干し台に続く窓を開けた。
そっと手を差し出すと、白い小鳥は二、三度羽ばたきをして、パッと舞いあがった。物干し台の手すりをかすめて、夕空に消えてゆく。
「こっちも」
ワタルは黒い小鳥を差し出した。小鳥は暴れ、カッちゃんの手の甲にとまらずに、カッちゃんの頭を突《つ》っついた。
「何だよ、こいつ!」
カッちゃんはあわてて手を振り回し、むんずと小鳥をつかんでしまった。
「わ! 潰《つぶ》れちゃうよ、気をつけて」
ワタルは可笑《お か 》しくて仕方がなかった。
「でも、ちょっとぐらいならいいかな。こいつには、今までさんざん悩《なや》まされたもんね」
「この鳥が? オレらを?」
カッちゃんの目がまたぐりぐりする。
「そうなんだ。でも、逃がしてやらなくちゃね」
黒い小鳥の羽ばたきは不器用で、物干し台の手すりにぶつかったり物干し竿《ざお》にとまったり、まるっきり狼狽《うろた》えてジタバタした。カッちゃんは窓ごしに身を乗り出し、両手で扇《あお》いで小鳥を空へと追いやった。
やっと、黒い小鳥も飛び去った。
「これでいいのか?」
「うん」
ほっとして、胸が晴れた。ワタルはひとつ深く息をついて、小村家のカッちゃんの部屋の、馴染《な じ 》み深い匂いを吸い込んだ。
「三谷──」
カッちゃんが洟《はな》をぐすんとすすった。
「ありがとう。さ、僕はもう戻らなきゃ」
光の通路の奥で、鐘《かね》の音がした。
「戻るってどこへ? おまえ、どうしちゃったんだよ」
ごめんよ。今はそれしか言えない。ワタルは決意を新たにした。カッちゃんに説明するためにも、幻界の冒険《ぼうけん》のすべてを話して聞かせるためにも、僕は必ず帰ってこなくちゃいけないんだ。
「もうそんなに長いことかからずに、戻ってこられるよ。絶対に戻ってくるよ。そのときね。それまで待っててよ」
光の通路へと後ずさる。カッちゃんは一瞬手をのばしてワタルをつかまえようとしたが、その手が力を失ってぽとりと落ちた。
「三谷!」
光の通路を駆け戻るあいだじゅう、カッちゃんの呼ぶ声が聞こえていた。
文様の上に戻ると、再び水晶の都。ワタルはまた完全な孤独へと戻った。
よし、行こう。ミツルに会うんだ。
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54 決闘
幻界《ヴィジョン》≠フ町や村のコラージュのような水晶《クリスタル》の都を歩き、やがてワタルは見渡《み わた》す限りの廃墟《はいきょ》へと出た。
皇都ソレブリアだ。
崩《くず》れた城壁《じょうへき》、圧壊《あっかい》した家々。折れた柱や割れた壁《かべ》の瓦礫《が れき》のなかに、ゴーレムの残骸《ざんがい》も混じっている。もちろんこれらもすべて水晶でできているから、まっぷたつに折れた柱の断面や、瓦がまだらに剥《は》がれ落ちた屋根などに宿る屈折《くっせつ》した輝《かがや》きが、これまで通過してきたどの町よりも不可思議で美麗《び れい》な景観をつくりあげていた。
水晶の造形によって抽象化《ちゅうしょうか》されてしまえば、廃墟こそがいちばん美しいものになる。ワタルには、まだその皮肉さを揶揄《や ゆ 》するだけの語彙《ご い 》はなかったけれど、傷《いた》みを感じることはできた。地上のソレブリアの壊滅《かいめつ》と、あの戦いの厳しい結末は、ワタルのなかで、まだ記憶《き おく》などという生やさしいものに落ち着いてはいない。透明《とうめい》な水晶が瓦礫の山の悲惨《ひ さん》さを中和していても、あの場で味わった恐怖《きょうふ》や怒《いか》り、悲しみまで薄《うす》めることはできない。
地上では今ごろ、ミーナやキ・キーマはどうしているだろう。無事ドラゴンたちの島へ帰り着くことができたろうか。南大陸では、もう魔族《ま ぞく》の侵攻《しんこう》に気づいているだろうか。
ワタルは目を伏《ふ》せて、駆《か》け足になった、走って走って走り抜《ぬ》け、するといきなり目の前に、何か巨大《きょだい》なものがぬっと立ち塞《ふさ》がった。
危《あや》うく正面|衝突《しょうとつ》するところだった。ワタルは息をあえがせながらその障害物を見あげた。
大きな門だ。クリスタル・パレスの正門なのだろう。何もかもが原形を留《とど》めていないソレブリアの模造品のただ中に、皇帝《こうてい》の居城に通じる両開きの扉《とびら》だけが鎮座《ちんざ 》している。
一瞬《いっしゅん》、要御扉《かなめのみとびら》を思い出した。でも、スケールは遥《はる》かに小さい。てっぺんを仰《あお》ぎ見ることができないほど巨大な要御扉に比べれば、これなどミニチュアみたいなものだ。
左右の扉の中央に浮《う》き彫《ぼ》りされているのは、皇帝一族の紋章《もんしょう》だろう。ぐるりには、星々の運行を図案化したらしい繊細《せんさい》な模様に、剣《けん》と盾《たて》、騎士《き し 》とドラゴン、そして宝冠《ほうかん》の図柄《ず がら》があしらわれている。
押しても引いても、扉はぴくりとも動かなかった。行き止まりだ。
周囲を見回してみた。きらきら光る瓦礫の海のなかに、抜け道らしいものはまったく見あたらない。ここを通過しなければ、先には進めないのだ。
よじ登れというのではあるまい。つるつる滑《すべ》って手がかりがないもの。何とかして扉を開けなければならないのだ。
どうしろっていうんだよ?
頭をかきむしりながら、ワタルはそこらを歩き回った。腹立ち紛《まぎ》れに門扉《とびら》を蹴《け》っ飛ばしてみた。
おお、痛と、爪先《つまさき》を押さえてうずくまっていると、門扉の前の地面に、うっすらと何か図柄のようなものが見えることに気がついた。
形は、光の通路を作り出すことのできる文様に似ている。でもこちらの方がずっと小さい。現世《うつしよ》のマンホールをさらにふた回りほど縮めたくらいのサイズだ。
ひとつ、ふたつ数えると、五《いつ》つあった。半円形を描《えが》いて並んでいる。
試みに、そのひとつの上に足を乗せてみた。
とたんに、ワタルの心のなかに喜びの感情が生まれ、耳の底で笑い声が弾《はじ》けた。誰《だれ》が笑ってる? これは何だ? びっくりして飛び下がると、笑い声は消えた。喜びの感情も失《う》せた。
もう一度やってみると、やはり同じ現象が起こる。そこで、今度は隣《となり》の文様の上に乗ってみた。と、今度は急に怒りをおぼえた。やはり、文様から降りると怒りは消える。
その隣。三《みっ》つ目の文様の上に乗ると、心が悲しみに満たされるのを感じた。四《よっ》つ目に乗ると、その場でスキップしたくなるほど楽しくなった。
五つ目では何も起こらない。
慎重《しんちょう》に五つの文様から距離《きょり 》をとり、ワタルは腕組《うでぐ 》みをした。
喜怒哀楽《き ど あいらく》。ひとつの文様に、ひとつずつ。
目が晴れた。
そうか、番人たちの村で、ラウ導師が住まっていた小屋だ! 怒りの小屋では怒り、悲しみの小屋では悲しみ、笑いの小屋では笑いを浮かべているのだと、ラウ導師は言っていた。自分の勝手な気分で、訪《おとず》れる旅人≠迷わせないように、と。
あれと同じことなのではないか。喜怒哀楽それぞれの座している文様の上で、それにふさわしい感情を心に抱《いだ》きなさいという、これは謎《なぞ》かけなのだ。
喜び。ひとつ目の文様の上に両足で立つと、ワタルは目を閉じて、心の内を探《さぐ》った。幻界で巡《めぐ》り合った喜びの出来事。
キ・キーマの顔が浮かんできた。番人たちの村を離れ、だだっ広い草原で、初めて彼に出会ったときのこと。
「おーい、おーい、そこのヒト!」
呼びかけてきた元気な声。土埃《つちぼこり》を蹴立てて走る彼のダルババ車。バクワの実を食べ過ぎるとおなかを壊《こわ》すと教えてくれた。
そしてワタルが旅人≠セと知ったときの、彼の手放しの大喜び。旅人≠ヘ、俺たち水人《すいじん》族にとって幸運の印なんだぜ! ワタルを抱《だ》き上げて、大きな身体《からだ》でぴょんぴょんはね回った、キ・キーマの喜び。それは間違《ま ちが》いなく、幻界に訪れたワタルが初めて味わった喜びでもあった。心細い旅のはじめに、いっぺんで心を明るくしてくれた。
シュンというような音がして、足の下の文様が消えた。ワタルはまばたきをした。同時に、クリスタル・パレスの門から、何かがカチリと外れるような音が聞こえてきた。
ひとつ目はクリアしたということか。
次は怒りだ。文様に乗るとすぐに、造作もなく浮かんできた。ミーナを騙《だま》し、泥棒《どろぼう》の手伝いをさせていたアンカ族の少年二人が、傷ついたミーナの休んでいる診療《しんりょう》所へ忍《しの》び込み、彼女を脅《おど》しつけている。その光景を思い出すだけで、頭がかっと熱くなる。ミーナを守ろうと、前後を忘れて診療所の窓から飛び込んだときのこと。
シュン。文様が消えた。また、カチリという音がした。
三つ目。悲しみは? 喜怒哀楽の哀。思い出そうとするまでもない。あまりにも生々しく、未《いま》だ傷口から血を流している記憶。カッツの死だ。最後の最後まで、ワタルを慰《なぐさ》め励《はげ》まそうと、頬《ほお》を撫《な》でてくれたあの優《やさ》しい手の感触《かんしょく》。
三つ目の文様も消えた。ワタルは四つ目の上に足を移した。
楽しみ。ああ、数え切れないほどたくさんある。ダルババ車の上で聞いたミーナの歌。サーカワの郷《さと》の水人たちとの宴《うたげ》。宿屋で囲んだ美味《お い 》しい食事。休息のひとときのとりとめのない無駄《む だ 》話でさえ、みんなみんな輝いている。
それらのなかから、ワタルは、マキーバの町の郊外《こうがい》で、スペクタクルマシン団の公演を観《み》たときのことを思い出した。いつだって活《い》き活きとしているミーナだけれど、舞台《ぶ たい》の上でこそが本領発揮だった。パックとコンビになって繰《く》り広げる軽業《かるわざ》の数々や、息を呑《の》むような高所での鮮《あざ》やかな宙返り。花を撒《ま》きながら歌っていたエンディングでは、そのころにはもう見慣れていたはずのミーナの顔に、照れくさいほどに見惚《み と 》れてしまった。手が痛くなるくらい拍手《はくしゅ》したっけ。
思い出してみれば、喜びも悲しみも、みんな仲間たちと過ごした時のなかにある。
シュン。四つ目の文様も消えた。四回目のカチリという音が聞こえ、閉《と》ざされていた門は、ワタルの腹の底に響《ひび》くような重厚《じゅうこう》な音をたてて、ゆっくりと内側に開き始めた。
やった!
拳《こぶし》を握《にぎ》り、思わずその場でぴょんと飛びあがってしまった。解いてみれば易しい仕掛《し か 》けじゃないか。
でも、五つ目の文様はまだ残っている。
念のために、もう一度その文様を踏《ふ》んでみた。やっぱり何も感じない。これはワタルを迷わせるための、空《から》のトラップにすぎないのだろうか。
喜怒哀楽。ヒトの感情に、他には何がある? 要求されていない以上、もう気にすることはないのか。
門は開いたことだし……。
ためらいは残ったけれども、自分には時間がないことも思い出した。ワタルは門の内側へと足を向けた。心臓がどきどきしてくる。
通り抜けるあいだだけ、周囲がすうっと暗転した。ほんの数歩のあいだだろう。でも、再び視界が明るくなったときには、周囲の光景は一変していた。
ここは嘆《なげ》きの沼《ぬま》だ。
水晶で再現された、嘆きの沼の全景だ。のっぺりと平らな水面は、その下に、静けさではなく陰湿《いんしつ》な不安を隠《かく》している。それもそのはず、水のなかには怪魚《かいぎょ》カロンが潜《ひそ》み、ノコギリのような歯を剥《む》き出して、獲物《え もの》を待っているのだ。周囲を取り囲む湿地にしょぼしょぼと茂《しげ》る尖《とが》った草は、不用意に近づくヒトの手に傷をつける。足をとられて転べば、沼地の泥に身体が凍《こご》える。しかも嘆きの沼が満々と湛《たた》えている暗黒の水は、ヒトの身体を痺《しび》れさせ、自由を奪《うば》う恐《おそ》ろしい毒の水だ。
この沼を渡っていけというのか……。
おそるおそる一歩踏み出してみると、沼の水面はしっかりとワタルの足を受け止めた。凍りついているみたいに固まっている。そう、どんなに形はそっくりでも、これもやはり水晶でできた模造品だからだ。それでもワタルは、蒼《あお》く静かな光を孕《はら》んだこの沼の水面下にも、やっぱりカロンが泳ぎ回っているのではないかと、一歩ごとにビクビクせずにはいられなかった。いつこの水晶の水面が割れて、カロンが躍《おど》り出てくるかもしれない。
大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫、そんなことはない。しばらくのあいだぎくしゃくと進んで、やっとワタルにも確信が湧いてきた。このままどんどん歩いて、向こう岸まで渡りきってしまえばそれでいいのだ。
地上の嘆きの沼では、恐ろしい幻覚《げんかく》に襲《おそ》われた。忘れようにも忘れられない。ワタルのなかからもう一人のワタルが分かれて、父と父の愛人にそっくりな、ヤコムとリリ・ヤンヌという男女を殺してしまった。そしてそのもう一人のワタルは、ワタルの手にかかって死んだ黒衣の女の腹から生まれ出た赤ん坊《ぼう》に、どこまでもどこまでも追いかけられたのだ。
あれも沼の水の毒のせいだったのだろう。父さんや理香子にそっくりなヒトに出会い、彼らが幻界でも父さんや理香子と同じふるまいをし、同じ身勝手な理屈を振《ふ》り回していることを知り、その衝撃《しょうげき》でできた心の隙《すき》に、暗黒の水が染《し》みこんで、あんな幻覚を生んだのだ。もう二度と嘆きの沼を訪れる機会などないと思っていたのに、こんな形で再び通り過ぎることになるとは。
早く渡ってしまおう。サタミやサラの顔も、思い出さないように心の目を閉じていよう。はいはいをしながらワタルへの恨《うら》み言を並べ、逃《に》げても逃げても追いかけてくる赤ん坊の記憶なんて、新たにすることはない。
それでも蘇《よみがえ》ってしまうものを振り払《はら》うために、ワタルは足を止め、強くかぶりを振った。ちょうど沼の真ん中あたりまで来ていた。
これは、地上の本物の嘆きの沼では、見ることのできない景色だ。湿地と茂みに縁《ふち》どられて、嘆きの沼の形は、こうしてみると、ほとんど完璧《かんぺき》な円に見える。
ふと、おかしなことを思いついた。これってまるで円形の舞台みたいだ。ワタルはその舞台に出ている、たった一人の役者みたいだ。
観客は? 陰気な湿地の空気と、薄暗い草むらか。パッとしないなぁ。
そのとき、どこからか呼びかける声が聞こえてきた。
旅人≠諱B
ワタルはとっさに身構えた。
幼き旅人<純^ルよ。
無機質な、色のついていない声だった。もしも水晶そのものがしゃべりだしたなら、きっとこんな声なのだろう。
あなたが真に私の膝下《しっか 》を目指すものであるならば、その身を以《もっ》て、あなたが勇者であることの、証《あかし》をたてねばなりません。
私の膝下[#「私の膝下」に傍点]? では、これは運命の女神《め がみ》の声なのか?
夕星《ゆうずつ》が、野に遊ぶ子を母の手に連れ帰すが如《ごと》く、分かたれし魂《たましい》を、彷徨《さまよ》えるものを、故郷《ふるさと》へと呼び返しなさい。あなたのもとへと連れ返しなさい。
何を連れ返せというのだ? 証を立てろとはどういうことなのだ?
ワタルに迷う時を与《あた》えずに、女神の声は宣言した。
さあ、乗り越《こ》えなさい!
呆然《ぼうぜん》と突《つ》っ立っていたワタルは、見た。
嘆きの沼の向こう岸から、何かがこちらに近づいてくる。
小さな人影《ひとかげ》だ。歩み寄ってくる。一歩、また一歩と確実に。その足どりには妙《みょう》に見覚えがある。頭の形、肩《かた》の角度。薄気味が悪いほどに見慣れた姿形。
なぜならそれは鏡像だから。
もう一人のワタルだった。
上着を脱《ぬ》ぎ、腰《こし》の麻帯《あさおび》に剣を挟《はさ》み、履《は》き古したブーツの踵《かかと》の減り具合までそっくりそのまま。
違っているのは表情だけだ。不敵に歪《ゆが》んだ口元に、燗々《らんらん》と輝くふたつの瞳《ひとみ》。頬骨の飛び出した痩《や》せた顔や、ああ、よく見ればシャツの胸の前に、点々と血を飛び散らせて。
嘆きの沼の幻覚のなかに現れたワタルの姿だ。ヒト殺し、赤ん坊殺しのワタルの姿だ。
あれは幻《まぼろし》だったはずだ。本物なんかじゃなかった。悪い夢だった。あんな事は起こらなかった。嘘《うそ》だ、嘘だ、嘘だ!
おののきながら、ワタルはずるずると後ずさりした。もう一人のワタルは、着々と間を詰《つ》めてくる。互《たが》いの顔がはっきりと、つと伏せた睫毛《まつげ 》が頬に落とす影までもが見分けられるほどの距離まで近づくと、今、迷いのない滑《なめ》らかな動作で、勇者の剣を抜き放った。
もう一人のワタルが口を開いた。飛び出してきたのは、嘆きの沼でワタルを追いかけた、あの赤ん坊の声だった。
「待っていたぞ、このヒト殺し」
慄然《りつぜん》として、ワタルは悟《さと》った。この再現された嘆きの沼の光景は、舞台なんかじゃなかった。そんなもんじゃない。
闘技場[#「闘技場」に傍点]だ。決闘《けっとう》の場だ。ここでワタルは、立ち塞がるもう一人のワタル、幻の分身《ダブル》と戦わねばならないのだ。
乗り越えなさい[#「乗り越えなさい」に傍点]!
もう一人のワタルの足が、沼の面《おもて》を蹴った。
何も考えられなかった。勇者の剣の柄《つか》に手を触《ふ》れることさえできない。次の瞬間には分身が間近に迫《せま》り、その手のなかの勇者の剣が、ワタルの顎《あご》の下を鋭《するど》くかすめていた。ワタルは腰が抜け、仰向《あおむ 》けにどっと倒《たお》れた。勢いのついた身体が水面を滑る。
方向|転換《てんかん》することもできず、徒《いたずら》に滑って手足をジタバタさせていると、先回りしていた分身の足にぶつかって止まった。まともに剣が振りおろされる。ワタルは声にならない悲鳴をあげて横に転がった。分身の剣の切っ先が水面に突き刺《さ》さり、水晶の欠片《かけら》がばっと飛び散る。
這《は》うようにして何とか立ちあがると、今度は分身が後ろにいた。振りおろされる剣の動きが巻き起こす風は、それだけでワタルの耳を削《そ》ぐほどに鋭い。血が飛び散った。
痛みを感じる余裕《よ ゆう》などなかった。血の雫《しずく》の温かみを頬に感じ、シャツに赤い染みが点々と飛んで、ワタルと分身、分身とワタル、どちらが主でどちらが従なのか、どちらが本体でどちらが鏡像なのか、混乱と恐怖でぐるぐる回る頭のなかでは、もう自分でも見分けがつかない。
逃げるワタルのシャツの背中を、分身の腕がぐいとつかんだ。引き寄せられながら、ワタルは瞬間、自分から分身の方に体重を預け、体当たりで倒れかかった。
分身とワタルは一緒《いっしょ》くたになって倒れた。折り重なると、分身の身体の冷たさに、ワタルは驚愕《きょうがく》した。こいつは何だ? 氷でできてるみたいじゃないか。
実体はあるのに、動き回っているのに、生きものではなく幽霊《ゆうれい》でもない。
分身が腕を振りあげ、勇者の剣の柄でワタルの頭をぶん殴《なぐ》った。目から火花が出て、起きあがろうとしていたワタルはくらくらとよろけた。
「殺してやる!」
分身がワタルの声で、ワタルの言葉で罵《ののし》った。そこに込《こ》められた憎《にく》しみの波動が、ワタルの全身を震《ふる》わせる。
ワタルは勇者の剣をつかんだ。言葉など浮かばない。ただ願った。飛んで!
瞬間移動《ワ ー プ》魔法が発動し、またたきする間に、ワタルは沼の縁へと飛ばされていた。背中から落っこちて、もがくように立ちあがる。
ようやく、剣を抜くことができた。膝《ひざ》からがくがくと崩れそうだ。バカみたいに手が震えて、ぜいぜいと両肩であえいでいる。
分身は沼の中央にいて、しゃくにさわるくらいすっきりと立っていた。歪んだ笑《え》みも消えてはいない。ニヤニヤ笑いで口が裂《さ》けそうだ。どうして僕があんな顔で笑っているんだ?
「お、おまえは」
わななく口を動かして、ワタルは言った。両手で勇者の剣を構えた。戦う姿勢なんかじゃない。
腰が引けて、命綱《いのちづな》につかまるみたいに勇者の剣にしがみついている。
「おまえは、僕じゃない。僕じゃないんだ。おまえは存在しない。おまえは幻だ!」
ワタルは魔法弾《ま ほうだん》を放った。輝く軌跡《き せき》を残して宙を飛ぶ魔法弾を、分身は軽々と身をかわして避《よ》けた。最後のひとつの光弾は、分身の勇者の剣で撥《は》ね返され、場違いな流星のように沼の上空へと飛んでいった。
「おまえは幻なんだ!」
声を限りに叫《さけ》んで、ワタルは分身に向かって突進した。分身もワタルめがけて走り出した。突き出す勇者の剣が分身に届くかと思ったそのとき、分身は大股《おおまた》に飛びあがり、勇者の剣を握りしめるワタルの手の上へと足をかけて、ワタルを飛び越えた。
背後を取られた。しまった! と思ったときには、したたかに背中の真ん中を蹴飛ばされ、無様《ぶ ざま》に前のめりになって吹っ飛んだ。
なんというスピードだ。これじゃどうすることもできない。絶望と無力感が恐怖にとってかわり、ワタルはもう震えることさえできなかった。次はどうする? どうしたらいい? 何をすれば太刀打《た ち う 》ちできるんだ。
結界!
とにかく身を隠すんだ。息苦しさをこらえて、ワタルは呪文《じゅもん》を唱えた。それでなくても激しい動悸《どうき》に、結界を維持《い じ 》することでさらに負荷《ふ か 》がかかり、心臓と肺が悲鳴をあげる。
ワタルの姿が消えてしまうと、分身は目を細め、片手を腰に、片手に勇者の剣をぶらつかせながら、にんまりと笑った。
ワタルは結界に隠れたまま、じりじりと移動していた。何とかこのまま分身に近づいて、剣を突き立てることができれば。
消耗《しょうもう》してゆく。息苦しさに目が飛び出しそうだ。頭のなかが真っ白になる。意識が飛んでしまいそうだ。
ヒトをバカにしたような弛緩《し かん》した姿勢で立っていた分身が、ワタルに背を向けた。こちらの姿が見えていないのだ。チャンスは今しかない。頑張《がんば 》れ、頑張るんだ!
あと三歩。あと二歩。あと一歩で分身の背中に剣が届く。
ワタルが剣を振り上げたとき、邪悪《じゃあく》なニヤニヤ笑いをいっぱいに浮かべて、分身が振り返った。
「無駄だよ!」
嘲《あざけ》りの言葉と共に、素早《す ばや》く剣が突き出される。両手で勇者の剣を握り、腕を振りあげて、がら空きになっていたワタルの胸に、分身の剣が深々と突き刺さった。
ワタルはがくりと口を開いた。止めていた呼気が漏《も》れて流れた。両手を上げたまま、突き刺さった分身の剣へと、ゆっくり、ゆっくり目を落とす。
じわじわと鮮血《せんけつ》がにじみ出し、シャツを染めてゆく。分身の勇者の剣は、柄のところまでワタルの胸のなかに埋《う》まっていた。
痛みは感じなかった。ただ、とても冷たい。分身の剣先がワタルの心臓にまで達し、分身の身体の冷たさを、直《じか》にワタルのなかに注ぎ込んでいるかのように。
僕は死ぬんだ。
呆気《あっけ 》ない結論だった。ここで自分の分身に倒され、血を流して死んでゆくのだ。
力が抜けて、両膝が折れた。膝頭《ひざがしら》が沼の水面にあたり、ワタルはぺたりと座り込んだ。両腕が落ちた。それでもまだ勇者の剣をつかんでいたが、その切っ先は、両膝のあいだで力なくうなだれている。
胸の傷口から、乱暴に剣が引き抜かれた。その反動で、ワタルはどさりと横ざまに倒れた。
ケラケラと笑い声が聞こえる。分身だ。最初は肩を揺《ゆ》すって笑っていたが、やがてこらえきれないようにおなかを押さえ、身体を折って笑い転げ始めた。
「哀《あわ》れな奴《やつ》。惨《みじ》めな奴。おまえはもうおしまいだ」
くるりとワタルに背を向けて、向こう岸へと戻《もど》り始める。軽《かろ》やかなその足どり。踊《おど》るようにステツプを踏みながら。
片手にぶらさげた分身の勇者の剣の切っ先から、ワタルの血が滴《したた》っている。
ワタル。
ワタルの勇者の剣に宿る、宝玉たちが呼びかけてきた。
しっかりしなさい、ワタル。
女神の声を思い出して。
戦ってはいけない。
あの分身は、あなた自身。
女神の言葉を思い出して。
傷口から流れ出す血が、水晶の水面の上にも広がってゆく。ワタルは自ら流した血溜《ち だ 》まりのなかに倒れている。
女神の言葉?
薄れてゆく意識のなかで、暗黒のなかに滑り落ちてゆく前に、正気の縁にしがみつこうと、ワタルは必死に手をのばす。
呼び返しなさい。
分かたれし魂を、彷徨えるものを。
憎しみを漲《みなぎ》らせているワタルの分身。
嘆きの沼で見た幻は、幻ではなかったのだ。あれはワタルの一部だったのだ。あのとき、父に似た男と、父の愛人に似た女と、その二人のあいだに生まれようとする赤子を、ワタルは確かに僧んでいた。そしてこの手にかけたのだった。
ただ、その事実から目を背《そむ》けていただけで。
呼び返しなさい。
分かたれし魂を。
憎しみのあまりにヒトの命を奪ったあの分身を?
そうそうなんだ。あれはワタルなのだから。
頭を起こすと、口の端《はし》から血が滴った。力が入らない。ああ、もう周りは血の海だ。
それでも肘《ひじ》をつき、身体を起こした。宝玉たちが呼びかけてくる。ワタル、ワタル、死んではいけない。諦《あきら》めてはいけない。
あなたの分身を、あのまま孤独《こ どく》にしておいてはいけない。認めなさい。受け入れなさい。
ようやく沼の縁に座ることができた。分身はすでに対岸、湿地の茂みのなかへと姿を消そうとしている。
「おい!」
ワタルは呼びかけた。残された力をすべて集めて声にした。
分身が立ち止まった。蛇《へび》が身体の向きを変えるように、音もなくするりと振り返る。
「まだ……負けたわけじゃないぞ」
ワタルの言葉に、分身の顔から薄ら笑いが消えた。再び剣を構えると、
受け入れなさい。
勝ち誇《ほこ》ったような叫びをあげて、分身は突進してきた。近づいてくる。疾風《はやて》のようなそのスピード。剣先が光る。
ワタルは目を閉じ、分身に向かって静かに両腕を広げた。呼吸をひとつ。また新たな血が噴く《ふ》き出す。
しかしワタルはひるまなかった。分身に向かって呼びかけた。心は平静だった。怖《おそ》れることなどない。ただ呼び返すだけなのだから。
自分自身から分かたれた魂を。
さあ、還《かえ》ってこい!
分身はワタルの身体に衝突し、その瞬間にかき消えた。ワタルのなかに吸い込まれ、ワタルと一体になった。
分身の残した衝撃波が、ぱっとワタルの髪《かみ》を散らした。強い反動に、ワタルは仰向けに倒れていった。
嘆きの沼に、静けさが戻ってきた。
まぶたを開けると、両手両足を大の字に広げて、ワタルは天上の空を仰いだ。身体の下に、嘆きの沼の水面の、硬《かた》い感触がしっかりと存在している。
そっと手を動かし、胸に触れてみた。シャツは乾《かわ》いていた。首を持ちあげてみる。傷口など、どこにもなかった。
血溜まりも消えていた。
立ちあがってみた。両足はちゃんとワタルを支えてくれた。
生きているんだ。
頬笑《ほほえ 》みが浮かんだ。温かな感謝が、身体の内側を洗ってゆく。片手を胸にあてると、鼓動《こ どう》を感じた。
嘆きの沼で別れて以来、ずっと一人歩きを続けていたワタルの憎しみ≠ェ帰ってきた。やっと故郷に、ワタル自身のもとに戻ってきた。
ワタルはやっと、理解した。この決闘場に来るために、通らなければならなかった扉。それを開ける鍵《かぎ》となっていた五つの文様。喜怒哀楽の四つの他に、何も反応しなかった五つ日の文様が、「憎しみ」だったのだ。
ずっとずっと、ワタルはそれを遠ざけていた。自分のものではないと、自分に嘘をついてきた。
父さんを憎んでいるなんて、思いたくなかったから。そんな気持ちがあることを、どうしても認められなかったから。自分で自分を騙していた。
でも、その偽《いつわ》りが「憎しみ」に満ちた分身を生み出し、一人歩きをさせていたのだ。
「お帰り」
自分自身の心に向かって、ワタルは優しく呟《つぶや》いた。
震えを帯びたため息を吐《は》き出し、立ちあがった。勇者の剣を腰に収める。
そして、周囲を流れる霧《きり》に気づいた。さっきまでは霧なんてなかったのに、どこから立ちのぼっているのだろう。嘆きの沼の水面を、すっぽりと覆っている。淡《あわ》く輝き、ひそやかな涙《なみだ》のように、しっとりと濡《ぬ》れている。
ワタルは両目を瞠《みは》った。
嘆きの沼の中央に、霧の流れのその中に、黒いローブが落ちている。くしゃくしゃになったローブ。その端から、ブーツの先がのぞいている。乱れた髪がのぞいている。
ミツルだ。
ワタルは駆け出した。夢のなかで走っているみたいに、なかなか先に進まなかった。滑らかな水晶に足を取られる。もどかしさに焦《あせ》り、泳ぐように両手で霧をかき分ける。
「ミツル!」
叫びながら身を投げ出して、倒れているミツルに飛びついた。最初は、まるで感触がなかった。
霧をかき混ぜるだけで、何も手に触れてこない。確かに黒いローブが見えるのに、影をつかもうとしているみたいだ。
「ミツル、ミツル!」
呼びながら、懸命《けんめい》に手探りをした。そのうちに、ミツルの実体がはっきりとしてきた。映像でしかなかった姿に、血肉がついてきた。焦点《しょうてん》が合ってきた。
やがてワタルは、両腕でミツルを抱き上げていた。
ミツルの顔は蒼白《そうはく》で、目は閉じていた。顔じゅう傷だらけだ。腕はだらりと垂れている。どさりと投げ出された両足。左足首が、変な方向に曲がっている。折れているのかもしれない。
「ミツル、しっかりしろ、ミツル」
ミツルの身体を揺さぶると、黒いローブの陰《かげ》から、まっぷたつに折れた魔導の杖《つえ》が転がり落ちた。
この血の気の失せた顔、このぐったりとした身体。腕のなかのミツル自身の惨《むご》い有様よりも、無惨に折れた魔導の杖が、ワタルに事実を突きつけ、確信させた。
ミツルは負けたのだ。
ミツルもやはり、彼にとっての嘆きの沼で、彼の分身と戦ったのだ。そして敗れたのだ。
「ミツル……」
今なら、ワタルにもわかる。知りたくないことだけれど、逃げることができないほどに、はっきりとわかってしまった。
一人歩きを続けていたミツルの憎しみは、ミツル自身よりも遥《はる》かに巨大に成長してしまったのだ。だからもう、ミツルにはそれを呼び返すことができなかったのだ。憎しみが、ミツルの本体をうち負かしてしまったのだ。
幻界なんか、どうなろうと知るものか。
運命の塔《とう》へ行くことができればいいんだ。
そのためにはどんな手段をとることも厭《いと》わない。
固い決心。強い意志。そして旅人≠ノ与えられた宝玉の力が生む、強大な魔力。ミツルはそれを自在に操《あやつ》って旅を続けてきた。多くのヒトを傷つけ、町を破壊し、嘆きを生み、とうとう最後には常闇《とこやみ》の鏡の封印《ふういん》を解いて。
それはみんな、ミツルのしていることだと思っていた。ワタルだけでなく、ミツル自身もそう思っていたはずだ。だけど真実は違っていた。破壊も、殺意も、他者を踏みつけにして憚《はばか》らない傲慢《ごうまん》も、ミツルのものではなかった。ミツルの憎しみを背負った、分身のものだった。ただその憎しみが、あまりにもミツルの心に等しいものだったので、いや、憎しみ以外のものは自分にはない、それ以外のものなど必要ないと、ミツルが自分で自分を騙していたから、いつの間にかミツルには、憎しみの分身と、自分自身の区別がつかなくなってしまっていたのだ。
ワタルが最初、そうしたように、ミツルもまた自らの分身を倒そうとしたのだろう。しかしそれは、自分で自分を倒すことに他《ほか》ならなかった。
出し抜けに、ワタルの目から涙が落ちた。ミツルの痩せた顎の上に落ちた。
まぶたが震え、ミツルは目を開いた。
ワタルは声を出すことができなかった。しゃくりあげそうになるのを、必死でこらえるだけで精一杯《せいいっぱい》だ。
ミツルの黒い瞳が、かなり手間取り、苦痛をこらえて意識を集中し、やっとワタルの顔の上に焦点を結んだ。
「……おまえか」
ワタルはうなずいた。何度も何度もうなずいた。うなずくたびに涙が落ちた。
「どうしてだよ」
先生に居残りを命じられて、文句を言うみたいな口調だった。それはやっぱり、ミツルらしかった。
「ここまで来て……なんでこんなことになるんだ? 無様《ぶ ざま》じゃないか」
あとひと息だったのにと、かすれる声でミツルは言った。目が天上の空を向く。
「運命の塔が見えていたんだ。すぐそこまで来ているんだ。それなのに……」
しゃべっちゃいけないと、ワタルは言った。抱きかかえていると、ミツルの身体が、もう快復のすべがないほどに、こっぴどく痛めつけられているのがよくわかった。
「三谷」と、ミツルは呼びかけた。ワタルは彼を見た。もうひとりの旅人≠フ、澄《す》んだ瞳のなかをのぞきこんだ。
「何がいけなかったんだ? 俺はどこで間違ったんだろう?」
速く走る者が先に運命の塔にたどり着くわけではない。サーカワの郷の長老は言っていた。女神さまはまだおまえを待っていると、あのソレブリアの廃墟を前にしても、キ・キーマは僕を励ましてくれた。
ワタルの行くところには、どこにだってついてゆく。けっしてワタルを一人にはしない。わたし、そう決めたんだから。そうやって、強情《ごうじょう》なほどにワタルのそばにいてくれたミーナ。そしてとうとう別れる時には、固くワタルを抱きしめて、気をつけてね、気をつけるんだよと、祈るように囁《ささや》いたミーナ。
僕には仲間たちがいてくれた。僕の道を照らす光に守られていた。
だけどミツルは一人だったね。独りぼっちの旅だった。ミツルが道を踏み外していても、それを教えてくれるヒトはいなかった。
それがミツルの望んだやり方だったとしても、あまりにも不幸だ。あまりにも残酷《ざんこく》な結果じゃないか。
「ごめんよ」
僕には今、それしか言えない。赦《ゆる》しを請《こ》うためではなく、ミツルと共に歩まなかったことを、たとえラウ導師の教えに背いたとしても、ミツルと一緒に旅をしなかったことを、それは大いなる過《あやま》ちだったと、自分自身に認めさせるために。
「なんでおまえが謝るんだよ」
ミツルは笑おうとしていた。鼻先でワタルをあしらうような、あの強気の笑みを浮かべようとしていた。
「おまえは勝ったんだ。もっと喜べよ。なんで泣くんだよ。最後の、最後まで、おまえって……ホントにお人好《ひとよ 》しだな」
「最後だ、なんて、い、言わないで」
「嘘はつけない」
ミツルの口調が、急に優しくなった。
「俺は負けた。ここで死ぬんだ。運命を変えることは、できなかった」
自業《じ ごう》自得なんだろうなと、小さく呟く。ワタルと同じ洞察《どうさつ》を、もちろん、ミツルももう手にしているのだ。
「だけど俺は、運命の塔へ行きたかった」
どうしても、どうしても、どんなことをしても、行きたかったんだ。
「わかってるよ」と、ワタルは言った。「他の誰にもわからなくても、僕にはわかる。わかってるよ、ミツル」
目を閉じて、ミツルは頬笑んだ。
「さあ、行けよ。宝玉を持って、俺のことなんか放《ほう》って、行っちまえよ」
「い、嫌《いや》だよ。ミツルを一人で残していくなんて、嫌だ」
「バカ。いい加減にしろ」
ミツルの身体が痙攣《けいれん》した。呼吸がぐっと詰まり、荒《あら》くなる。
「……俺は、一人でいい」
意地を張っているのではない。ミツルだから、最期《さいご 》までミツルらしくふるまうだけ。
死にゆくときも。
ミツルの身体を揺さぶらないように、できるだけ優しく、慎重に手を動かして、ワタルは、ミツルを抱きおろし、嘆きの沼に横たえた。支えを失い、目を閉じて長々と横たわったミツルは、いっそう死に近づいたように見えた。
もう、ワタルにできることはない。ミツルは一人にしてほしがっている。
そのときふと、心のなかに、ある光景が浮かんだ。カッツと別れたときの、あのしんとした森のなかで──
「ミツル」
「何だよ」
「最後に、お祈りをさせてもらえないか」
「祈りなんか……要《い》らない」
「僕が、そうさせてほしいんだ」
ミツルは目を開いた。瞳がワタルをとらえた。お願いだと、ワタルは言った。
「ふん、好きにしろ」
ワタルは右手をのばし、ミツルの手を取った。左手をミツルの額にあてた。
祈りの言葉、覚えているだろうか。
たどたどしく、ワタルは諳《そら》んじた。
「我ら、女神さまの申し子。地上の塵芥《ちりあくた》を離《はな》れ、今まさに御許《み もと》に昇らんとす」
ミツルはまた目を閉じてしまった。ワタルはその額を撫でた。
「我らの祖《おや》にして源《みなもと》なる、浄《きよ》き光よ。旅立つこの者を導き給《たま》え」
指と指を組み合わせて、しっかりとミツルの手を握る。
「小さき子よ、地上の子よ。神のご意思に背いたことを悔いているか」
くちびるが震え、言葉はぎくしゃくとおぼつかない。声を出すと、喉《のど》の奥が熱くなる。また泣きだしちゃいけないと、ワタルは懸命に自分を抑《おさ》えた。間があいた。
ワタルの乱れた呼気だけが聞こえる、長い沈黙《ちんもく》。すると、ミツルの口元が動いた。
「はい」と、言った。祈りに応《こた》えて、はいと言った。悔いている[#「悔いている」に傍点]と言った。
涙が込みあげてくる。嗚咽《お えつ》を押し返して、ワタルは続けた。「時に争い、時に諍《いさか》い、虚偽《きょぎ 》に躍り、愚蒙《ぐ もう》に走り、ヒトの子の罪《つみ》を重ねたことを悔いているか」
わずかな間のあと、ミツルは「はい」と答えた。
「偽り、己《おのれ》の欲に従い、女神さまの与え賜《たま》いし人の子の栄光に、顔を背けたことを悔いているか」
「……はい」
どうしても止められない。涙が溢《あふ》れる。
「ここに深く悔い改め、地上のあなたの罪は赦《ゆる》された。安らぎなさい、ヒトの子よ。召《め》されゆくあなたを、永遠《と わ 》の光が包むだろう」
ぼろぼろと涙をこぼし、泣きながら、ワタルは祈りをしめくくった。
「ヴェスナ・エスタ・ホリシア。ヒトの子の生に限りはあれど、命は永遠なり」
ミツルはゆっくりと、痩せた頬をほころばせた。
「最後の……」
「え?」
「ヴェスナ・エスタ・ホリシア。どんな意味か……わかる、か?」
ワタルはかぶりを振った。
「再びあいまみえる時まで≠ニいう、意味だよ……」
目を閉じたまま、ミツルは囁いた。
「さよなら」
何度目のサヨナラだろう。
今度こそが本当の別れだ。
ミツルの姿が薄れてゆく。再び、霧が集まってきた。抱くように、やわらかく彼を包んでゆく。
ミツルは霧に溶《と》けてゆく。それに従い、霧は明るさを増してゆく。ミツルの命を吸い込み、浄化《じょうか》してゆく。
薄れてゆくミツルの輪郭《りんかく》を、その場にひざまずき、言葉もなくただ涙をこぼしながら見つめていたワタルは、そのとき、頭上からゆっくりと射しかけてくる、ひと筋の光に気がついた。掌ほどの大きさの、スポットライトのような光だ。淡い金色に輝き、温かみに溢れて、霧に溶けてゆくミツルの方へと、まるで手を差しのべるかのように降りてくる。
ミツルもまた、その光の感触に気づいた。霧に包まれた彼の頭が動き、顔がわずかに持ち上がる。眠たげに閉じられていたまぶたがかすかに開く。小さな光の輪は、その瞳をのぞきこむように優しく照らす。
この光──。これは──これは、もしかしたら──
瞬間的な洞察に、ワタルは思わず息を呑《の》み、そして自分の口元がほころぶのを感じた。傷ついた心に喜びと安堵が満ち、溢れ出てくる。
ヒトは死んだら光になる。光になって、地上を照らす。やがて生まれ変わるその時まで。
この光はきっと、ミツルの妹だ。幼いミツルの妹が、彼がどうしても現世へと連れ戻してやりたかった妹が、運命を曲げてもその命を取り戻してやりたいと願った妹が、今、ミツルのもとにやって来た。
彼を迎えにやって来た。
ミツルにも、それがわかったのだ。うっすらと微笑《ほほえ 》む。力の抜けた指先が、光の描く小さな輪に向かって動く。幼い妹と手をつなごうとしているかのように。
「兄さんと一緒に行くんだね?」
光に向かって、ワタルは小さく呼びかけた。金色の光が、一瞬、うなずくように瞬《またた》いた。
やがてミツルの姿は完全に消え、ひとかたまりの、まばゆく輝く霧となった。金色の小さな光の輪はそれを包み込み、それを導きながら、静かに上昇《じょうしょう》を始める。
ワタルは膝立ちになったまま、頼りなく羽ばたく小鳥を守るように両の掌を広げ、天上へ、天上へと昇《のぼ》る兄妹の魂の光を見送った。
すべてが終わると、嘆きの沼を覆っていた霧も消えた。ワタルの顎の先から、最後の涙の一滴《ひとしずく》が落ちた。
ワタルは、足元に落ちている魔導の杖を拾い、ゆっくりと立ちあがった。
魔導の杖の頭についた宝玉が、薄紫色《うすむらさきいろ》に光っている。やがて、その宝玉からひとつ、ふたつ、みっつ、よっつの光点が現れて、ミツルの後を追うように、天の高処《たかみ 》へと昇っていった。
最後にひとつだけ残った光点が、ワタルの目の高さに漂《ただよ》っている。ワタルは勇者の剣を抜いた。
闇も光も、勇者よ、あなたと共に。
闇の宝玉に宿る力が、ワタルに囁きかけてきた。
勇者の剣の鍔《つば》に刻まれた星の文様に、最後のひとつの宝玉が収まってゆく。
剣の付け根から切っ先に向けて、力強いエネルギーが駆け抜けた。それはワタルの腕を伝い、ワタルの心まで届いて力を与えた。
勇者の剣に五つの宝玉を集めて、ここに退魔の剣≠ヘ完成した。
ワタルは顔をあげた。嘆きの沼を渡ったところ、そこに何が立ち現れているか、わかっていた。
運命の塔が、その懐《ふところ》を開き、頂上へと続く長い長い螺旋《ら せん》階段の登り口をワタルに向けて、静かに差し招いている。
[#改ページ]
55 運命の塔
中空の巨大《きょだい》な塔《とう》の壁面《へきめん》に沿って、かろうじてワタル一人が歩けるくらいの幅《はば》しかない螺旋《ら せん》階段が、果てしなく上へ上へとのぼっている。
科学|図鑑《ず かん》で見たことのある、DNAの二重螺旋の模型を思い出した。こちらの階段は一重しかないけれど、あまりの高さにふらりと目眩《め まい》をおぼえると、それがにじんで二重にも三重にも見えて、ますますよく似てくる。
運命の塔もまた、これまでに通り抜《ぬ》けてきた町や都のコラージュと同じく、内側から蒼《あお》い輝《かがや》きを放つ透《す》き通った水晶《クリスタル》でできていた。手すりのない階段は、どこもかしこも透明《とうめい》で、うっかりすると距離感《きょり かん》を失ってしまいそうだ。間違《ま ちが》っても足を踏《ふ》み外したりしないように、ワタルは右手で壁《かべ》に触《ふ》れながらのぼっていった。
輝きは怜悧《れいり 》なのに、触れるとほの温かい。目をやると、ワタルの顔が映る。
いや……ワタルの顔だけじゃない。その隣《となり》、水晶の壁面の奥で、笑っているあの顔は?
母さんだ[#「母さんだ」に傍点]。ワタルは足を止めた。母さんの姿が映っている。
今よりも若い母さんだ。髪型《かみがた》が違う。パステルカラーのセーターを着て、赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いて笑っている。赤ん坊? あれは誰《だれ》?
僕だ。僕自身だ。やっと首がすわったばかりの乳飲《ち の 》み子。小さな手で母さんの顎《あご》に触《さわ》ろうとしている。いないいない、バア! あやしてもらって大喜びしている。
何段か上の壁面に、別の映像がおぼろに浮《う》かび上がり、動き始めた。ワタルは駆《か》けのぼった。今度は誰だ? 父さんだ。夏の日の市営プール。ワタルに泳ぎ方を教えようとしている。両手を差し出してワタルの手を握《にぎ》り、バシャバシャと水を撥《は》ね上げながら懸命《けんめい》にバタ足をするワタルを励《はげ》ましている。ゆっくりと後ろに下がりながら──そう、もうちょっとでプールを横断することができる。ワタル、そら頑張《がんば 》れ。
次々と、壁面を彩《いろど》って過去の映像が浮かび上がる。ワタル一人のために用意された、想《おも》い出を上映する映画館さながらに。ワタルは壁面から目を離《はな》すことができないまま、ひとつひとつの映像を目に焼きつけつつ、螺旋階段をのぼっていった。
やがてカッちゃんが現れた。ワタルと同じ幼稚園《ようち えん》の園服を着て、肩《かた》から黄色い鞄《かばん》をかけている。そわそわと落ち着かないカッちゃんは、ワタルにふざけかかったりしては小村の小母《お ば 》さんに叱《しか》られている。覚えている。この光景。入園式の後で、幼稚園の門のところで記念|撮影《さつえい》をしたのだった。
再現されてゆく過去の出来事。
雨の日の遠足。運動会のお弁当。冬の日に、カッちゃんの家のコタツにもぐって一緒《いっしょ》に宿題をした。拾った子猫《こ ねこ》を家に持ち帰り、うちでは飼えないと叱られて、泣き泣き公園まで捨てに行った。抱《かか》えている段ボール箱。その夜、遅《おそ》く帰ってきた父さんが、ワタルがきちんと面倒《めんどう》を見ることができるなら飼ってもいいと許してくれて、一緒に公園まで捜《さが》しにいった。だけどもう子猫の入った段ボール箱はなくなってしまっていた。誰かが拾ってくれたんだよ、安心しろ。あのとき、父さんはワタルをおんぶしてくれた。
イタズラばっかりしていて、母さんにベランダに閉め出され、わんわん泣いたこと。風邪《か ぜ 》をこじらせて肺炎《はいえん》になりかけ、夜中に救急車で病院へ運ばれたこと。鮮《あざ》やかな映像となって映し出されてゆく。付き添《そ》ってくれた母さんの蒼白《そうはく》な顔。カッちゃんが小村の小母さんと一緒にお見舞《み ま 》いに来てくれた。小母さんはしきりと謝っていた。うちの子はバカみたいに丈夫《じょうぶ》なもんだから、ワタルちゃんに無理させちゃって。そう、雨の日にサッカーをやったのがいけなかったんだね。
マンションの中庭で、父さんとキャッチボールをしている。そこへ母さんが、買い物|袋《ぶくろ》をぶらさげて通りかかる。父さんからボールを取りあげ、ちょっと投げさせてと大暴投。一階の奥のお宅の窓《まど》硝子《ガラス》を割っちゃって、三人でペコペコ謝りに行って、父さんにからかわれた母さんは逆ギレしちゃって、その日はずっとプリプリしていた。父さんとワタル、母さんの目を盗《ぬす》んでそっと視線をかわし、笑いをこらえるのに苦労した──
ワタルはまだ十一年とちょっとしか生きていないのに、その年月のなかに、こんなにもたくさんの想い出が詰まっている。人の心は底なしの不思議な入れ物だ。何でも入る。いつでも取り出すことができる。
さらに階段をのぼってゆくと、ミツルが現れた。神社で出会ったときの、あのぶっちょう面《づら》。ここは神域なんだ≠ニ、大人びた口調でワタルに言った。
おや、神主《かんぬし》さんの姿も見える。ワタルは神主さんに乱暴に何かを言い募《つの》り、それから鞄をつかんで走り出す。あれはそう、神様はホントにいるの、いるなら、何ぼさっとしてるんだよなんてことを言ったときだったろうか。
そして見えてきた。ミツルの叔母《お ば 》さんの顔だ。腕《うで》にはめていた銀の細いバングルを覚えている。ミツルの身を案じながらも、迷子《まいご 》になった小さな女の子のように途方《と ほう》にくれていた。こうしてみると、本当に皇女ゾフィによく似ている。
運命の塔の透き通った壁面は、ルウ伯父《お じ 》さんの姿も映している。千葉《ち ば 》のお祖母《ば あ 》ちゃんの家の庭で、一緒に花火をしたときの光景だ。ルウ伯父さんは、夜の闇《やみ》に紛《まぎ》れると、どこにいるのかわからないくらいに日焼けしている。にっと笑うと、真っ白で頑丈そうな歯並びだけがぽっかりと浮かび上がり、それが可笑《お か 》しくてワタルは笑い転げた。今でも吹《ふ》き出しそうだ。
それなのに次の映像では、ルウ伯父さんの顔が歪《ゆが》んでいる。ベッドの下に逃《に》げ込んでしまったワタルに呼びかけている。出ておいでと呼んでいる。胸の痛みが蘇《よみがえ》る。僕はあのとき、これほどの悲しみを、ルウ伯父さんに味わわせてしまっていたんだ──
あの上の方で揺《ゆ》れているのは? ワタルだ。カルラ族に襟《えり》の後ろをつかまれて、危なっかしくぶらさがっている。まだ幻界《ヴィジョン》≠フことを詳《くわ》しく知らないうちに迷い込み、ねじオオカミたちの巣くう不帰の砂漠《さ ばく》に迷い込んでしまったときの出来事だ。
キ・キーマが御者《ぎょしゃ》台にいる。ダルババ車に乗り込んで、草原を駆けてゆく。ワタルはその隣で、馬車の揺れに今にも振り落とされそうだ。壁面のなかを駆けあがってゆく想い出のダルババ車を追いかけて、ワタルもまた階段を駆けのぼる。
そこで、壁面が急に暗くなった。闇ではない。ただ真っ黒なものが、数え切れないほどたくさんうごめいている。飛び交《か》っている。
空を覆《おお》い尽《つ》くす魔族《ま ぞく》の群だ。しゃれこうべを思わせる不気味な顔に牙《きば》を剥《む》き出し、鉤爪《かぎづめ》をカチカチとかち合わせる音まで聞こえてきそうだ。
これは──今の幻界の光景だ。
恐《おそ》ろしさと忌《い》まわしさに、ワタルは両腕をだらりと垂らしたまま、ふらふらと壁面から後ずさりをしかけた。ブーツの踵《かかと》が階段の縁《へり》にかかり、バランスを失いかけて、瞬時《しゅんじ》に我に返った。
いつの間にか、こんな高いところにまで登っていた。塔の出入口が見えなくなっている。遥《はる》か眼下の下界はぼんやりと霞《かす》み、かすかに吹《ふ》きあげる風だけが、そこに距離と空間のあることを教えてくれる。
再び塔を登り始める。記憶《き おく》を再現する映像も、ワタルを伴走《ばんそう》して登ってゆく。
ガサラの町だ。あちこちに、家具だの木箱だの樽《たる》だので構成された、不格好なバリケードが造られている。物見台の上には見張り番が立ち、険しい顔で空を仰《あお》ぐ。街路を駆け抜けてゆくシュテンゲル騎士《き し 》団の先頭に立つのはロンメル隊長だ。
ガサラを取り巻く草原の彼方《かなた》に、ひとかたまりの黒雲が現れる。みるみるうちにふくらんで、近づいてくる。隊長たちが剣《けん》を抜く。一斉《いっせい》に松明《たいまつ》が灯《とも》る。キ・キーマが屋根の上に仁王立《に おうだ 》ちになり、斧《おの》を構える。ミーナ、あれはミーナだ。お年寄りや子供たちを、安全な地下室へと逃がしている。
壁面が揺れて映像がにじむ。と、今度はドラゴンたちの島が現れた。龍《りゅう》の首の形をした火山島から、ドラゴンたちが飛び立ってゆく。燃えるような身体《からだ》に闘志《とうし 》を湛《たた》え、空をも焦《こ》がす炎《ほのお》の息を吐《は》き、わらわらと飛び嗄《しわが》れ声で鳴き交わす魔族の軍団へと突っ込んでゆく。
ソノの町ではヒトびとが、船を操《あやつ》って沖《おき》へと逃げ出してゆく。ミツルの魔法で打ち壊《こわ》された町並みに、醜《みにく》い蟻《あり》のように魔族がたかっている。どの船も舳先《へ さき》までヒト、ヒト、ヒトで満杯《まんぱい》だ!
ワタルの知っている懐《なつ》かしい幻界の町が、村が、魔族に侵攻《しんこう》されている。今、この瞬間にもあの町で、この村で、勝ち目のない必死の戦いが行われている。運命の塔の壁面は、その事実をワタルの目の前に突きつける。
急がなくちゃ! 延々と続く戦いの映像に心をひっぱられながらも、ワタルはしゃにむに螺旋階段を駆けのぼった。
すると突然《とつぜん》、階段が途切れた。ここが終着点か? 塔の頂上だろうか。
幻界と現世《うつしよ》をつなぐ、あの文様の形をした広間に出た。星形の頂点が、それぞれに異なる色合いに光っている。ワタルはその中央へと進み出た。
星形の文様のてっぺんが指し示す先には、優美な縦長の半円を描《えが》くアーチがある。よく見ると、塔の頂上と同じ、合掌《がっしょう》するヒトの手の形を模したアーチだ。ここは中継《ちゅうけい》地点、通り抜ければ、女神《め がみ》のいる場所へと行くことができるのか。
アーチの方へと足を踏み出しかけると、背後で声が聞こえた。
「ワタル」
甘い声だ。女の子の呼び声だ。一瞬身を硬《かた》くしてから、ワタルは振り返った。
いったいどこから現れたのだろう。星形の文様の端《はし》に、少女が一人、佇《たたず》んでいた。
「ワタル、やっと会えたわね」
聞き覚えのある声だ。何度となくワタルに話しかけてきた。現世でも、幻界に来てからも。ワタルはこの甘い声の主を、妖精《ようせい》だと思っていた。でも、この優《やさ》しげな愛らしい声が、サーカワの郷《さと》の波打ち際《ぎわ》で、「女神を倒《たお》せ」と唆《そそのか》してきたことを、ワタルは忘れていなかった。
敵なのか味方なのか。目的も正体も明らかにしないまま、ずっとワタルにつきまとってきたこの声──
驚《おどろ》きのあまりまばたきをすることさえ忘れ、息を詰《つ》めて、ワタルは少女の顔を見た。
なぜなら少女が、大松香織その人に生き写しだったから。
ほっそりとした手足。華奢《きゃしゃ》な首。大きな黒い瞳《ひとみ》。その美しい顔に頬笑《ほほえ 》みを咲《さ》かせて。
「待っていた甲斐《か い 》があったわ。よかった! あなたなら、きっとここまでたどり着けると信じていたの」
親しげにそう言って、少女は近寄って来る。ワタルは、彼女が詰めてきた距離の分だけ、慎重《しんちょう》に後退した。
少女は足を止めた。新品の筆みたいな、きれいな曲線を描いている眉《まゆ》が、ちょっと持ちあがる。
「どうしたの? そんな怖《こわ》い顔をして」
様々な問いかけのなかから、ワタルはひとつを選んで投げかけた。「君は誰?」
「わたし?」と、少女はおどけたように両手を広げ、
「この姿、気に入らない? 喜んでくれると思っていたのに」
スカートの裾《すそ》をつまむと、軽く片膝《かたひざ》を折って腰《こし》をかがめた。正装して舞踏《ぶ とう》会に出席した少女が、初めてのダンスのお相手に挨拶《あいさつ》するみたいに。でもここは舞踏会の会場じゃない。少女もドレスを着てはいない。うろ覚えの記憶だけれど、ワタルが初めて大松ビルの前で会ったときの香織と同じ服装だ。こざっぱりとして清潔な、中学生の女の子の普段着《ふ だんぎ 》姿。その格好で、現世の香織は車《くるま》椅子《い す 》に座っていた。瞳は焦点《しょうてん》を失い、周囲に誰かいることさえ気づいてはいなかった。
それも当然だった。香織の魂《たましい》は、この天上の水晶の都に閉じこめられていたのだから。ついさっき、ワタルがそこから解き放つまで。
軽《かろ》やかに歩み、くるりと回ってみせる、目の前の大松香織。スカートがふわりとふくらみ、丸い膝頭《ひざがしら》が艶《つや》やかに光る。そんな姿を、ワタルは今初めて目にする。
いかにも香織らしく、しかし絶対に香織ではない存在。これは誰だ?
正体は何だ?
「君は何度も、僕に話しかけてきたよね」
少女は嬉《うれ》しげにくすくす笑った。照れている。「覚えていてくれたのね? 嬉しい」
「忘れるわけないよ」
最初のうちは好ましく思えた。頼《たの》もしくも思えた。妖精だとばかり思いこんでいたときには。しかし、今はまったく違う。
「君の目的は何だ? 何のために近づいてきたんだ? 君は僕に何をさせようというんだ?」
「ずいぶん気色《け しき》ばんだ声を出すのね」
「当然じゃないか」ワタルは拳《こぶし》を握った。
「香織さんの姿を真似《ま ね 》て出てくるなんて、趣味《しゅみ 》の悪いことをして!」
「あら、嫌《きら》いだった? だけどあなたの心には、いつもこの女の子がいたじゃないの。いつもこの女の子のことを、あなたは気にしていたじゃないの」
そうだったろうか? 香織のことを? 僕が? そんなはずはない。忘れていた──それとも、それは単に意識していなかっただけなのだろうか。
「奪《うば》われし無垢《む く 》の魂」
少女はすらりと姿勢を正し、託宣《たくせん》するように謳《うた》いあげた。
「不当にも傷つけられ、歪められし運命の犠牲《ぎ せい》者。そう、あなたと同じ身の上の、現世のこの少女──」
だからいつも、香織のことが心にあった。
ワタルは身構え、呼吸を整えた。借り物とはいえ、ようやく姿を現した謎《なぞ》の声の持ち主は、どれほど鋭《するど》くワタルの心を読んでいようと、どれほど甘い笑《え》みを浮かべていようと、けっしてワタルの味方ではない。
「もう一度|訊《き》く」と、ワタルは声を強めた。
「君の目的は何だ? また僕に、女神を倒せと唆すのか?」
少女はまるで寒気をこらえるかのように、我と我が腕で華奢な身体を抱きしめた。薄《うす》い笑みはまだその顔から剥《は》がれ落ちない。
「知りたい?」
「ああ、知りたい」
「教えてほしいの? どうしても?」
「どうしても」
「それなら約束してちょうだい」
黒い瞳が燃えあがる。
「このわたしの正体を見ても、わたしを嫌いにならないと。わたしの姿を見ただけで、わたしを遠ざけたりはしないと」
その言葉は懇願《こんがん》ではなく、脅《おど》しのような響《ひび》きを持っていた。少女はワタルの返事を待たず、ゆっくりと顔を伏《ふ》せた。
その身体が急に縮み始めた。香織の姿が消え失《う》せてゆく。目を瞠《みは》ったワタルは、さっきまで少女の立っていたところに、歪んだ円形の小さな影《かげ》だけが落ちていることに気がついた。
その影から、ぬるりと黒い手がのびた。丸太ん棒ほどの太さだ。まず右に。次に左に。団扇《うちわ》のような掌《てのひら》がべろべろと空をかく。ヒトの手ではない。形は似ているけれど、あの不格好な指先の吸盤《きゅうばん》は、けっしてヒトのそれではない。
伸ばした両腕を、腕立て伏せでもするかのように床《ゆか》に突っ張って、
「これがわたしの顔」
影《かげ》のなかから、ふくれあがった頭が持ちあがる。
思わず息を吸い込んで、ワタルは後ずさりした。
「わたしの本当の顔よ。お気に召《め》さない?」
甘い声だけはそのままだ。しかし、その声を発しているのは──
大きなガマ蛙《がえる》だ。でろりと広がった口。飛び出した眼《め》。青緑色の肌《はだ》に、醜いいぼ[#「いぼ」に傍点]が点々と浮いている。
「どうなの? 答えてちょうだいよ」
言葉を続けながら、さらに腕に力を込《こ》めて、ガマ蛙は影のなかから全身を引っ張り出した。太い後ろ脚《あし》がどさりと床に落下する。全身を覆うまだらな模様は、その色も形も、ワタルにあるものを連想させた。
魔族の姿だ。翼《つばさ》のある骸骨《がいこつ》。魔族の姿を色柄《いろがら》に、身に纏《まと》った巨大なガマ蛙。
これが妖精の正体だったのか!
「驚いているようね、可愛《かわい》いワタル」
たるんだ喉《のど》の皮膚《ひ ふ 》をぶるぶると震《ふる》わせて、ガマ蛙はそう言った。
「それでもこれはおまえの求めた解答。おまえがつかんでたぐり寄せた真実。さあ、とっくりと見るがいい。これがわらわの本当の姿なのだから」
「あなたは……」
「ラウ導師はおまえに教えなかったのか? わらわの存在を? おまえが現世で被《こうむ》ったのと同じ悲運を、同じ悲哀《ひ あい》を、この幻界で味わっているわらわのことを?」
わらわの名はオンバと、巨大なガマ蛙は続けた。少女の甘い声のなかに、野太く乱れたどら声が、不協和音のように混じっている。
「かつてこの幻界が生まれし時に、創世の女神より、不要のものと切り離され、うち捨てられたすべての負《ふ》なるものの化身《け しん》」
負なるものの集合体──
「幼き旅人≠諱Bここまでたどり着いたおまえならば、負なるもの≠フ意味はわかろう。負なるもの≠ヘ、この世に望んで足らぬ、あらゆるものじゃ。美を望んでそこに至らぬ醜《しゅう》。幸を望んでそこに至らぬ不幸。等しきを望んでそこに至らぬ不等。足らぬものを求め、至らぬことを悔やむすべての憤怒《ふんぬ 》と欲望こそ、わらわの真の姿」
オンバさまに目を据《す》えて、じりじりと後ずさりしながら、ワタルはかぶりを振った。
「僕にはわからない」
「いや、わかるはずじゃ!」
不協和音のなかで、野卑《や び 》などら声が勝利を収めた。これこそがオンバさまの肉声だ。
「哀《あわ》れなヒトの子よ。わらわは現世でおまえが味わう悲運を知っていた。だからこそ、おまえに親しく近づいたのだ。やがて理不尽《り ふ じん》な運命に翻弄《ほんろう》され、現世の有り様《よう》を呪《のろ》って幻界≠ノやって来るはずのおまえと知っていたからこそ」
確かに、あの甘い声が初めてワタルに呼びかけてきたのは、ワタルがまだ父さんと田中理香子のことなどつゆ知らず、平和に暮らしていたころだった。この日常のどこかに綻《ほころ》びが生じるなど、夢にも思っていなかったころだった。
「ワタル、あなたは本当に可哀《かわい》想《そう》。だからわたしはあなたの力になりたかったの」
突然《とつぜん》、オンバさまの声が甘い少女の声を取り戻した。何度となく耳にした快い声。
「やめろ!」と、ワタルは叫んだ。「もうそんな声で話しかけたりしないで!」
オンバさまは笑い始めた。ころころと玉を転《ころ》がすような少女の笑い声から、もとの肉声へと戻ってゆく。やがてでろりと大きな口を開けて、そこから哄笑《こうしょう》を溢れ出させる。
「おまえならわかるはずだ。ヒトはなぜ一方が幸に恵まれ、他方が不幸に陥《おとしい》れられる? おまえばかりがなぜ、両親《ふたおや》の不和に苦しまねばならぬ? なぜおまえなのだ? なぜ他の子供ではない? おまえはそこに怒りをおぼえるはずだ。その不公平を、憤怒をもってくつがえしたいと願うはずだ!」
ワタルはただ首を振り続けた。オンバさまがどさりと一歩前に踏み出し、距離を詰める。
「他にありて我にないものを求め、それを与えられぬことを怒る。我から奪《うば》われ他に与えられるものを恨《うら》み、渇望《かつぼう》と嫉妬《しっと 》とに腸《はらわた》を燃やす。それこそがヒトの本性《ほんしょう》よ。なれば本来は負なるもの≠焉A真実の鏡と同じく、幻界じゅうに細かく砕《くだ》け散り、ひとつひとつは軽く無害な欠片《かけら》となって、無数のヒトびとのあいだに安住の地を見つけるはずであった。しかし愚かなるヒトは、負なるもの≠その身の一部と認めることを嫌い、遠ざけた。負なるもの≠フ存在を、あらざるものとして見ぬふりをした。創世の女神の所行を真似《ま ね 》て、ヒトめらもまた、負なるもの≠追放しようと企《くわだ》てたのだ!」
吠《ほ》えるような声だった。
「行き場を失って彷徨《さまよ》う負なるもの≠ヘ、魔界へと堕《お》ちる他にすべがなかった。しかし魔界は負なるもの≠ノ力を与《あた》え、わらわという化身を生み出した。そしてわらわは幻界へと戻ってきたのだ」
オンバさまもまた、魔界から来たというのか。幻界を恨み、羨《うらや》み、隙《すき》あらば喰《く》らおうと狙《ねら》う闇の世界から。
「さればこそわらわは、ヒトを求める。本来はヒトの心にこそ棲《す》むわらわには、ヒトの心は故郷じゃ」
巨大で不格好な頭をかしげて、オンバさまはワタルの瞳をのぞきこむ。
「おまえとて、わらわに親しんでくれたではないか。わらわがおまえを助けたことがあるのを、よもや忘れたわけではあるまい?」
ワタルは抑《おさ》えようもなく震《ふる》えていた。怖いのか悲しいのか、悲しいとしたらなぜなのか、心ではわかっていたけれど、それを伝えることができなかった。歯がゆかった。やみくもに首を振り続け、ぎゅっと目を閉じて、拳《こぶし》を握《にぎ》った。
「僕はあなたの正体を知らなかった。あなたの目的も知らなかった」
「わらわの正体」と、オンバさまは低く呟《つぶや》いた。「それはおまえだ。おまえの内にうずくまる負なるもの≠烽らわの一部なのだから。おまえがわらわと言葉を交《か》わし、わらわの真の姿を見ることができるのは、ひとえに、おまえのなかにわらわが存在するからこそ」
ワタルのなかにある負なるもの=B
意識したことはなかった。そんな余裕はなかった。だけれどそれは、確かにあった。運命を変えようと願う心のなかには、どうして僕だけがこんな目に遭《あ》うのだという、悲憤の叫びがあって当然のことなのだから。
憎しみが独り歩きして分身《ダブル》になったのと同じように、ワタルの知らないうちに、ワタルのなかの負なるもの≠ェ、オンバさまを呼び寄せていた。すべての負なるもの≠フ化身が、ワタルの心に近寄っていた。
「さあ、眼《まなこ》を開くのだ。おまえにこのような悲運を与えた現世をくつがえしてしまえ。おまえ一人の運命を変えるなど、なんと小さな望みであろう。運命の塔に来たりた今、おまえはおまえの望む世を、その手につかむことができるのだ」
そして悲運を脇《わき》に押しやる? 自分の思いどおりになる世界をつくって?
「それがあなたの望みでもある?」
ワタルの問いかけに、オンバさまは大きな頭をうなずかせる。
「それこそが、わらわの勝利だ! すべての負なるもの≠フ勝利だ!」
粘液《ねんえき》を滴《したた》らせる口の端から、怒《いか》りに満ちた言葉と共に、どす黒い舌がちらちらと出入りする。
「わらわは求める。わらわの世界を。わらわこそが神となり、わらわを憎み遠ざけた、すべてのものを膝下《しっか 》に敷《し》く世界を」
目的はそれなのか。だからワタルに呼びかけ、ワタルの心を動かし、女神を倒せと唆すことまでやってのけた──
「旅人≠諱A今一度わらわはおまえに問う。創世の女神を倒し、共にこの運命の塔に君臨することを望まぬか? 幻界も現世も、おまえの手の内に収めることこそを望まぬか?」
おののきながらも、ワタルの心に迷いはなかった。
「望みません」
答える声は、少しも震えていない。身体を走る悪寒《お かん》よりも、意志の力が勝《まさ》っていた。
「あなたの望みは間違いだ」
オンバさまの大きな口が、さらに大きく、顔の半分ほどにまで広がって、にんまりと笑った。ごろごろと喉が鳴る。
「愛《いと》しき幼子の旅人≠諱Bわらわがおまえに、最後の機会をくれてやろうというのがわからぬのか。ここでわらわにうなずくだけで、おまえは、女神にひざまずくのではなく、運命の塔の頂点に座ることができるのだ」
「僕は嫌《いや》だ」ワタルは声を張りあげた。「あなたと手を組むことなんかできない」
オンバさまの目がまたたき、舌がべろりと自身の顔を舐《な》め回した。
「さても愚《おろ》かな選択《せんたく》よ」
青ぶくれた手が動き、ぬるりとワタルに近づいた。ワタルは身体をかわして避《よ》けた。
「何故《な ぜ 》だ? なぜわらわを退ける? この身が醜いからか? 姿形という空《むな》しいものが、おまえには、神の座よりも大切なものだというのか」
「そうじゃない」ワタルはかぶりを振った。「あなたが醜いからじゃない。あなたが僕を騙《だま》そうとしたからです」
最初から話してくれればよかった。姿を見せてくれればよかった。醜≠フ化身の苦しみを、うち明けてくれればよかったのだ。
そうしてわかり合えたならば、一緒に手をたずさえて、ここまでのぼってくることだってできたかもしれないのに。
ワタルの言葉に、オンバさまの口がくわっと開いた。「口先だけの戯《ざ》れ言を! もしもわらわが最初からこの姿で近づけば、わらわの言葉になど耳を貸さずに逃げ出したろうに!」
「確かに驚いたでしょう。でも、あなたの本当の言葉を、もっともっと早く受け取ることができたなら、その想いの重さを感じることができたなら、僕は逃げたりしなかった」
「嘘《うそ》つきめ!」
言い放つと、オンバさまは両手で床を打った。「わらわを裏切る旅人≠諱Aおまえの命運はここに尽きた! 今はただ、わらわの手にかかって魔界の塵《ちり》と化すことのみを、最後の幸運と思い知るがいい!」
雄叫《お たけ》びと共に、グロテスクな巨体を持ちあげて、オンバさまはワタルに襲《おそ》いかかってきた。濡《ぬ》れた皮膚を覆う魔族の形をした模様が、生を得たようにうごめきだす。
ワタルは勇者の剣を抜き、横っ飛びに避けてオンバさまの脇に回った。
剣先から光が迸《ほとばし》る。一瞬、ワタルは目がくらんだ。この輝き! そして軽いことは羽根のようだ。
オンバさまは身をよじり、大口を開けて生臭《なまぐさ》い息を吐き出した。突風のようなその呼気によろめき、息が詰まる。顔や手足が、火傷《やけど》したみたいにぴりぴりする。毒の息だ!
「今までも、あなたはこうやって、旅人≠スちを誘惑《ゆうわく》してきたのか?」
床に転がって起き直りながら、ワタルは叫んだ。「いつもいつも、何度も何度も同じことを言って、運命の塔のこの場所で、旅人≠スちの前に立ち塞がってきたのか?」
何という不毛の繰り返しだろう。痛ましい間違いの歴史だろう。
「あなたは、なんて哀れなんだろう」
「ヒトの身の分際で、わらわを哀れむか!」
オンバさまのずしりと重いパンチの一撃《いちげき》を受けて、ワタルは反対側へと吹っ飛ばされた。息が苦しい。目を開けているのも辛い。このままでは毒にやられてしまう。
「おまえの命など埃《ほこり》よりも軽い。ひと呑《の》みにしてくれるわ!」
長い舌が生きもののようにうごめきながら、しゅっと音をたてて空を飛び、ワタルの身体に巻きつこうとする。勇者の剣で薙《な》ぎはらうと、オンバさまはぐえっと悲鳴をあげた。
鮮やかな剣の軌跡《き せき》に、光が走る。ワタルを、退魔の剣の力が導く。
今こそワタルは真実を知った。運命の塔を登り、女神に会うために、なぜ退魔の剣が必要なのか。旅の終わりに立ちはだかる、この魔の誘惑を退けるためなのだ。運命を変える資格を持ったなら、いっそ神の座におさまり、望みのままに、世界ごと造り替《か》えてしまえばいいと囁《ささや》く負なるもの≠乗り越える。これが最後の試練なのだ。
ならば、何も怖《おそ》れることはない。ワタルはオンバさまの前に躍《おど》り出ると、両足を踏ん張って剣を構えた。
「あなたは、僕には勝てない。この剣に勝つことはできない」
オンバさまがけだもののような唸《うな》り声をあげる。皮膚の上では魔族の模様が狂乱《きょうらん》する。
「生意気な!」
罵《ののし》りと共に毒の息が吐き出される。
「心が通じないままに、繰り返されてきた間違いを正す、今がその時だ。オンバさま」
勇者の剣──退魔の剣≠ェ力強く輝く。
「もうあなたは何処《ど こ 》へもいかない! 魔界にも帰らず、彷復うこともない。この幻界こそがあなたの居場所だ。創世の時と同じく、あなたこそが塵となってヒトびとのなかに還《かえ》る!」
怒りの叫びをあげて躍りかかってきたオンバさまに、ワタルは真《ま》っ直《す》ぐ突進した。退魔の剣の切っ先は、ぴたりとオンバさまの眉間《み けん》を狙っていた。恨みに燃える両の目の真ん中を。
手応《て ごた》えがあった。深々と剣が突き刺さる。オンバさまの悲鳴が響きわたる。
一瞬、オンバさまは太陽のように眩《まぶ》しく光り輝いた。その光のなかで、皮膚を覆っていた魔族の模様が、断末魔の苦しみに身をよじる。
そして爆発《ばくはつ》した。無数の塵となる。飛び散り、小雪のように空に舞う。もうどこにも原形を留《とど》めていない。空に溶《と》けこみ、儚《はかな》く消えてゆく。
長い長い悲鳴のしっぽだけが、最後まで漂《ただよ》っていた。
ワタルは退魔の剣を鞘《さや》に収めた。額の汗《あせ》を、片手で拭《ぬぐ》う。
「ありがとう」
誰に向けてでもなく、自然にその言葉が口をついてこぼれ出た。
ワタルは広間を横切り、星の文様の頂点の輝きを踏みしめて、合掌する手のあいだを、最後のアーチをくぐり抜けた。
[#改ページ]
56 ワタルの願い
再び、長い長い階段だ。だが今度は螺旋《ら せん》をのぼるのではなく、踊《おど》り場ごとに右へ左へとジグザグに折り返している。
そして、終点が見えている。
周囲に広がっているのは、塔《とう》の内側の光景ではなかった。過去を映して見せてくれた、あの壁面《へきめん》も消えている。夜明け前の空のような薄蒼《うすあお》い空間に、透明《とうめい》な階段と、その終着地である真円形の女神《め がみ》の座が、ただぽっかりと浮《う》いているのだった。まるで宇宙にいるみたいだ。空に浮かぶ階段が、そこに未知の星座の形を描《えが》き出している。
駆《か》けのぼり、駆け寄る。視界のなかで女神の座が近づき、その中心にひっそりと座っている姿が見えてきた。ワタルの心は準備を整えた。はずむ胸の底には、揺《ゆ》れ動くことのない決意が固まっていた。
とうとう──最後の一段をのぼる時がきた。
女神の座。
クリスタルでつくられた円盤《えんばん》のようなその中央に、純白のドレスに身を包み、長い裾《すそ》を優雅《ゆうが 》に垂らして、少女が一人、静かに腰《こし》かけていた。顔を伏《ふ》せ、両手は膝《ひざ》の上に慎《つつ》ましく揃《そろ》えている。長い髪《かみ》は頭の上できっちりと結《ゆ》い上げられ、耳元から顎《あご》、首筋にかけての美しい線が、くっきりと見える。ほっそりとした身体《からだ》全体が、浄《きよ》い光輪《オーラ》に包まれている。
少女が顔を上げると、黒髪が一筋、やわらかな曲線を描く白い額の上に垂れかかった。
それは再び、大松香織だった。
「ワタル」と、呼びかけてきた。桜のはなびらのようなくちびるを、大きくほころばせて。
「とうとう来たのですね。ここがあなたの旅の終着点です。あなたはたどり着いたのですよ、運命の塔の頂点へ」
少なからず混乱して、ワタルは足を踏《ふ》み替《か》えた。後ずさりはしたくないけれど、近づくのも恐《おそ》ろしかった。
ワタルの心の動揺《どうよう》を理解しているのだろう。大松香織の整った顔が、明るく輝《かがや》いた。
「オンバさまと同じく、わたくしのこの姿も借り物です。あなたの心に在る現世《うつしよ》の人びとから、この少女の姿を借り受けました。でも、わたくしはオンバさまとは違《ちが》います。あなたを謀《たばか》るつもりもなければ、害するつもりもありません。安心してください」
わたくしが運命の女神です。
少女の声でありながら、凛《りん》とした威厳《い げん》に満ちている。
「なぜ……」と、ワタルは声を発した。何だか、自分の魂《たましい》が溶《と》けてしまって、水銀のように濃《こ》く重くなり、踵《かかと》のあたりに溜《た》まっているみたいな感じだ。そうやって、かろうじて、ふわふわと漂《ただよ》い出しそうな身体をつなぎ止めてくれている。
「どうして、香織さんなんですか」
女神はまた頬笑《ほほえ 》んだ。「その答は、あなたもすでに知っているのではありませんか。オンバさまに教えられたでしょう」
「僕が」と、ワタルは片手を胸にあてた。「香織さんのことを、ずっと心に留めているからですか?」
女神はうなずく。「彼女もまたあなたと同じく、幼き無垢《む く 》な魂を、残酷《ざんこく》な運命によって傷つけられてしまった犠牲《ぎ せい》者だから。あなたはこの旅をまっとうすることによって、あなた自身を救うと同時に、あなたと同じように苦しむすべてのヒトびとをも、救いたいと願ってきたのですよ。それこそが、あなたの目的となっていたのですよ」
気づいていませんでしたかと、優《やさ》しく問いかける。
「その犠牲者のなかには、ミツルも入っているんでしょうか」
「ええ、もちろん。彼も、あなたの内に存在しているのだから」
最初から──と、囁《ささや》くような声でそっと付け加える。ワタルには、それがよく聞き取れなかった。
「今、あなたがあなたの心にある願いを口にするならば、わたくしにはそれをかなえることができます。わたくしはそのために、ここにいるのです。わかりますね?」
わかっています──答える声がうわずっている。頬は熱いのに、身体は震《ふる》えている。
いよいよ、この時が来た。僕の願いをかなえてもらう時が。
「さあ、こちらにいらっしゃい」
運命の女神は呼びかける。
「わたくしの手を取り、あなたの願いを言葉になさい。わたくしの手に、あなたの願いを渡《わた》してください」
すんなりとしなやかな少女の腕《うで》、大松香織の腕が、ワタルに向けて差しのべられる。
完璧《かんぺき》な静けさが訪《おとず》れた。不純物のない沈黙《ちんもく》の、何と安らかなことだろう。やっと鎮《しず》まったワタルの呼気だけが、ゆっくりと時を刻んでいる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。呼吸するたびに心臓が動く。生きているワタル。ここにいるワタル。
ここにいないすべてのヒトたち。
ワタルは一歩、前に出た。動き出すと、そこに流れができた。作法など教わってもいない。ラウ導師でさえ、女神に会ったときにはこうしなさいと、指示してくれたことはなかった。それでもワタルは自然に動き、女神の膝下《しっか 》にひざまずくと、右手で恭《うやうや》しくその手を取り、左手を胸にあてて、頭《こうべ》を垂れた。
「僕の……願いは」
「あなたの願いは?」
優しく促《うなが》す声が、髪を撫《な》でてくれる。
願いを、言葉に。
ワタル自身が、これこそが自分の真なる願いだと気づく遥《はる》か以前から、ワタルの心は先取りをして、辛抱《しんぼう》強く待っていてくれた。だから、最初からそう定まっていたものであるかのように、わずかなためらいもひっかかりもなしに、言葉は揺るぎなく完成して、ワタルの内から溢《あふ》れ出た。
「女神さま。あなたのお力で、常闇《とこやみ》の鏡を打ち砕《くだ》いてください。常闇の鏡も、真実の鏡と同じく、ヒトの数と同じだけの細かな欠片《かけら》となって、ヒトびとの巷《ちまた》へと散らばるべきものです。どうぞ常闇の鏡を壊《こわ》してください。そして魔界《ま かい》からの侵攻《しんこう》の道を断《た》ち、幻界《ヴィジョン》≠救ってほしいのです」
ワタルの手のなかで、女神の白い指は動かない。
「それがあなたの願いなのですか?」
「はい」
「あなたは、それがどういう願いであるのか、理解をしているのですか?」
「はい、理解しています」
「わたくしが、あなたの願いをかなえてあげることのできる機会は、この一度きり。二度はないのですよ」
「わかっています」
「あなたは後悔《こうかい》しないのでしょうか。この願いをかなえたら、現世のあなたの運命は、何ひとつ変わらないのですよ。あなたが幻界を訪れ、この運命の塔を目指して、数々の苦難を乗り越《こ》えてきたのは、本当に、今あなたが口にした願いをかなえるためだったのですか?」
次々と、しなやかな布を繰り出してワタルを巻き取るように、女神は質問を投げかける。ワタルはそのすべてを、しっかりと心に受け止めた。
「いいのですか? 幻界を救ったところで、あなた自身は救われないというのに」
ワタルは顔をあげた。女神の美しい面《おもて》が、頬笑みを消し、厳《おごそ》かなほど真摯《しんし 》に張りつめた表情を浮かべて、黒い瞳《ひとみ》はひたとワタルを見つめている。
「いいえ、それは違います。女神さま、幻界が救われれば、僕も救われるのです」
ゆっくりと、女神は首をかしげる。
「あなたはここへ来る前に、幻界の悲惨《ひ さん》な有様を見てきました。あなたの旅の仲間たちに襲《おそ》いかかる、魔族の群を見てきました。だから今は、そのことばかりが心に強く焼き付き、仲間たちを助け、幻界を守ることが、何よりも大切なことだと思ってしまっているのでしょう。しかしワタル、考えなさい。あなたはもう幻界へ戻《もど》ることはありません。幻界はあなたの生きる世界ではないのです。仲間たちにも、二度とあいまみえることはありません。あなたはここから現世へ戻る。戻れば、あなたは我に返るでしょう。幻界へ来たときと寸分たがわぬ、あなたを包む過酷な運命に直面し、歯噛《は が 》みし、地団駄《じ だんだ 》を踏んで悔《くや》しがることになるのではありませんか。それから後悔したところで、もう遅《おそ》いのですよ」
自分でも驚いたことに、ワタルは女神に頬笑みかけることができた。
「おっしゃるとおり、僕は最初、僕自身の現世の運命を変えるために、この幻界にやって来ました。旅を始めたときも、固く、固く決心していました。現世の理不尽《り ふ じん》な運命を正しい形へと戻すためにこそ、僕は運命の塔を目指すのだと」
でも、今は違うのだ。すべてが違っている。ワタルには、はっきりと見える。
「それは僕の勘違《かんちが》いでした。僕は間違っていたのです。なぜなら女神さま、この幻界は、僕の幻界だからです。僕は幻界を旅してきました。と同時に、旅を続けながら幻界を創《つく》りあげてきたのです。僕の幻界を」
この幻界を魔族から守ることは、ワタルがワタルの心を守ることに他《ほか》ならない。
「現世に戻れば、僕には辛《つら》い運命が、そこを離《はな》れたときそのままに、僕を待ち受けていることでしよう。それはわかっています。でも、もう以前とは違う。幻界に来る前の僕と、今の僕とは違っています」
「あなたは、強くなったと言うのですか」
かぶりを振《ふ》って、ワタルは続けた。「強くなったとは思いません。現世の僕は、一人では生きていくことのできない子供です。だからこそ、辛い運命に泣いてばかりいました。自分が無力だから」
今だってそうだ。一人では何もできない。寂《さび》しさに泣き、恐怖《きょうふ》に震える。大切なものが奪《うば》われることを怖《おそ》れ、傷つくことを恐れる。
「幻界を訪れる前に、僕は現世で、一生のうちにこんな悲しいことは、もう二度とないだろうというくらいに悲しんでいました。こんなに人を憎《にく》んだり、怒《おこ》ったりすることは、もう二度とないだろうと思うくらいに憎み、悲しんでいました。これほどの不幸は、もう二度とないだろうと思うくらいに不幸でした。だから、その運命を変えたかったのです。
幻界の旅では、数々の楽しいことに出合いました。素晴《す ば 》らしいヒトたちに会いました。時には旅の目的を忘れてしまうほどに、嬉《うれ》しいことがたくさんあった。でも一方で、胸が破れそうになるほど悲しいことも、死ぬほど恐ろしいことも、やっぱりあったんです。悲しみに、僕は泣きました。声をあげて泣きました。恐怖に、僕は震えました。怯《おび》えてすくんで立ちあがれないような経験もしました。だけど逃《に》げ出すわけにはいかなかった。なぜなら旅を続けたかったから。運命の塔にたどり着きたかったから。
そして、ようやくたどり着くことができた今、わかったんです。幻界の旅は、運命の塔というゴールにたどり着くことに、意味があったのではなかったと。この旅そのものが、僕にとってかけがえのないものだったと。この旅が、僕に教えてくれたのです。女神さまのお力にすがり、運命を変えることができようと、所詮《しょせん》それはひととき限りのものだ。僕はこれからも、喜びや幸せと同じように、悲しみにも不幸にも、何度となく巡《めぐ》り合うことでしょう。それを避《さ》けることはできない。ましてや、悲しみや不幸にぶつかるたびに、運命を変えてもらうわけにはいかないのです」
自分の部屋のベッドの下に潜《もぐ》り込んで泣いたとき、二度とこんなふうに泣くことはないだろうと思った。だけど、カッツの死にワタルは泣いた。ミツルを見送り、ワタルは泣いた。
別れ、失い、傷つくことは、これからも繰り返されてゆくだろう。何度運命を変えてそこから逃げ出そうと、変えた運命のその先には、またその運命のなかの喪失《そうしつ》や別離《べつり 》が待っている。
喜びがある限り、悲しみがある。幸福がある限り、不幸もある。
「幻界の旅は、僕に数々の喜びと悲しみを味わわせてくれることによって、それを教えてくれたのです。徒《いたずら》に運命を変えることによりかかり、大切なものを見失ってはいけないと。真なるものは、たとえ女神さまのお力を以《もっ》てしても変えることのできないもののなかにこそある。変えることができるのは、僕だけだ。僕が、僕の運命を変え、切り拓《ひら》いていかなくては、いつまで経《た》っても同じ場所にいて、同じことを繰り返すだけで、命を終えてしまうことになる」
だからこそ、ワタルはワタルの幻界を守る。ワタルの幻界を、恨《うら》みと憎しみから生まれ出る、魔族に覆《おお》い尽《つ》くさせるわけにはいかないのだ。
「非力な僕には──僕たちでは、自分の力で魔族を倒《たお》すことができません。このまま放《ほう》っておけば、幻界は魔界に呑《の》みこまれてしまうでしょう。ですからお願いするのです。僕の幻界をお救いください。恨みや憎しみの闇を遠ざけ、僕に、僕の幻界に、未来をください。僕の仲間たちに未来をください」
言葉を切って口を結び、ワタルは女神の顔を見つめた。まぶたがかすかに震えている。今にもそれがぱっちりと開き、ワタルを見つめ返してくれるのではないかと思った。
が、女神は目を閉じたままだ。ワタルの手に預けた女神の白い手も、何の感情を表すことも伝えることもなく、人形の手のように動きのないままだ。
「ここで魔界からの侵攻をうち払《はら》ったとしても、幻界に未来があるとは限りません」
そう言って、女神はゆっくりかぶりを振る。
「あなたもよくわかっているでしょう。北の統一|帝国《ていこく》と南の連合国家は、おいそれと和解することなどできはしません。争いは続くでしょう。他種族差別を根絶することも難しいことでしょう。それでもあなたは幻界のヒトびとのために、現世での自分の運命を変えることのできる唯一《ゆいいつ》の好機を譲《ゆず》ってやろうというのですか?」
ワタルには、迷いはなかった。
「はい。そうしたいのです」
争いを重ねる愚《おろ》かさも、自分の信じるものしか目に入らない心の狭《せま》さも、目先の楽にばかり手をのばす性急さも、みんなみんな含めて、それがワタルの幻界なのだから。
ワタル自身なのだから。
「間違いを繰り返しても、そこから引き返し、考え直し、生きて、懸命《けんめい》に生きて、また自分たちの道を切り拓いてゆくことにこそ意味があります。僕の幻界に、そのチャンスを、どうぞ与えてください。お願いします」
ワタルの心は凪《な》いでいた。女神に差し出すべき言葉は、すべて差し出した。もう胸は騒《さわ》いではいない。重荷をおろしたような優しい静寂《せいじゃく》に、うっとりと身をひたすことを許されたのだ。
ワタルはもう一度、深々と頭をさげた。
やがて、女神のたおやかな指が、強くワタルの手を握《にぎ》りしめてくれるのを感じた。
「わかりました」
女神は身を乗り出し、ワタルの頬に手をあてて、顔をあげさせた。頬笑みが戻っている。女神を包む光輪《オーラ》が眩《まぶ》しい。
「あなたの願いを聞き届けましょう。お立ちなさい」
ワタルは立ちあがり、正しく気をつけの姿勢をとった。
「あなたの剣《けん》、あなたが完成させた退魔の剣≠、わたくしにください」
ワタルは腰の帯から剣を外し、両手で捧《ささ》げ持って女神に手渡した。
女神も、音もなくふわりと立ちあがる。
「足元をごらんなさい」
目を落とし、ワタルは驚いた。女神の座の真円に、映像が映っている。
かつてクリスタル・パレスのあった場所に、漆黒《しっこく》の霧《きり》の翼《つばさ》に支えられて浮かぶ常闇の鏡。闇が漲《みなぎ》るその縁《ふち》から、魔族の軍団が、あとからあとから溢れ出てくる。ただの映像であっても、それは忌《い》まわしく恐ろしかった。そこから目を離すことができないままに、ワタルはゆっくりと後ろに退いた。
女神は退魔の剣を抜き放つと、純白のドレスの裾を引いて、前に出た。ぴんと腕をのばし、退魔の剣を、足元に映る常闇の鏡の真上へと捧げ持つ。
「旅人<純^ルよ。運命の塔より、あなたのつかんだ解答を、今、地上へと還《かえ》します」
退魔の剣の切っ先を下に向けて、女神は静かに手を離した。落ちてゆく。女神の座を通り抜け、退魔の剣が落ちてゆく。幻界へ。常闇の鏡に向かって。
その瞬間《しゅんかん》──
かつての皇都ソレブリアの中心に、禍々《まがまが》しく君臨する常闇の鏡。そこから侵攻する魔族の群におののいていたヒトびとは、見た。
一条の光が天からくだる。まっしぐらに落下してくる光の剣。輝きながら尾《お》を引き、一瞬の軌跡《き せき》が空をふたつに分かつ。
そして光の剣は、常闇の鏡のなかへと吸い込まれていった。
常闇の鏡を支えていた漆黒の霧の翼が、大きくはためいた。よろめくように一度、二度と空をかき、そして端《はし》から消え始めた。支えを失った常闇の鏡が傾《かたむ》き、漲る闇が地上へとこぼれ出るかと思われたとき、その闇を押しのけるように、鏡の中央を稲妻《いなずま》のような光の亀裂《き れつ》が駆け抜けた。
常闇の鏡が割れてゆく。ふたつに、四《よっ》つに、八《やっ》つに、始まった崩壊《ほうかい》が崩壊を呼び、分裂が分裂を引き起こし、砕けてゆく。粉々に砕けてゆく。微細《び さい》な塵《ちり》へと化してゆく。
今しも常闇の鏡から飛び出そうとしていた魔族の群が、鏡の崩壊と同時に魔界へと引き戻され、あがくように突《つ》き出した腕や翼は、一瞬にして黒い塵芥《じんかい》になる。
北大陸でも、南大陸でも、常闇の鏡が砕け散った瞬間に、町を、村を、街道《かいどう》を襲い、空を覆い尽くしていた魔族たちが、見えない巨人《きょじん》の手で握り潰されたかの如《ごと》く、爆発《ばくはつ》するような音をたてて、瞬時に黒い塵へと変わった。魔族に向かって武器を振りあげていたヒトびと、魔族から逃げていたヒトびと、魔族への恐怖に泣き叫んでいたヒトびとは、次の瞬間に、武器を振りおろすべき相手が消えていることを知る。自分を追っていた魔の化身《け しん》が消えていることを知る。悲鳴はぷつりと断たれ、呆気《あっけ 》にとられて瞠《みは》った目に、魔族の残滓《ざんし 》の黒い塵が、頭からばさりと降りかかる。
ヒトびとは、煤《すす》まみれになった顔と顔とを見合わせる。
消えた。消えてしまった。魔族はいない。
やがて歓喜《かんき 》の声が沸《わ》き立つ。
ガサラの町ではその時、キ・キーマがブランチの屋根の上、襲いかかる三体の魔族を斬《き》り伏せようとしていた。頭に爪《つめ》を立てる一体に、喉元《のどもと》に喰《く》らいつこうとする一体に、背中にしがみついている一体。彼らをふりほどこうと暴れるキ・キーマに、宿屋の台所から持ち出してきたフライパンを構えて、ミーナが加勢していた。
「離れなさいよ! このバカ! キ・キーマ、しっかりして!」
「しつこい奴《やつ》らだぜ!」
傷だらけのキ・キーマは、それでもまだ闘志《とうし 》まんまん、ぐっと剥《む》き出した歯で不用意な魔族の指を噛みちぎる。
「あんたたち、なんかに、負けるもんか!」
キ・キーマが振り落とした魔族の一体を、ミーナはフライパンでブッ叩《たた》いた。
瞬間──そいつが消えた。
みんな消えていた。ガサラの町を襲っていた、数え切れない魔族たちが消え失せた。キ・キーマとミーナは、黒い塵をかぶって呆然《ぼうぜん》と突っ立っている。
「これ、何?」
ミーナの問いかけに、答えようとしたキ・キーマは、言葉を発する前に、口に飛び込んできた魔族の黒い残骸《ざんがい》を、ぺっと吐《は》き出さなければならなかった。
二人は目と目を見合わせ、それから同時に空を見あげた。空のさらに上を見あげた。天上の、運命の塔を。
「ワタルだ──」
ガサラの町の門を守って、シュテンゲル騎士《き し 》団の騎士たちが奮闘している。足弱な年寄りや子供たちは、町の地下室へと避難《ひ なん》している。何とかこの攻勢を退けて、次の攻撃《こうげき》の波が来る前に、彼らを安全な岩場や森へと逃がさねばならない。そのためには、町の門を死守せねばならないのだ。
折れた剣を捨て、松明《たいまつ》を振り回して応戦する騎士がいる。バリケードの陰《かげ》には、力尽きて息絶えた同胞《どうほう》たちが、甲冑《かっちゅう》をつけたまま倒れている。具足や兜《かぶと》が転がっている。
「ひるむな! 押し返すんだ!」
隊長の声が部下を励《はげ》ます。無傷な者など誰もいない。数に勝《まさ》り、力に勝る魔族たちの死の翼に、一人、また一人と倒れてゆく。
「隊長、危ない!」
続けざまに数体の魔族を叩き落として斬り捨て、目に流れ込む汗《あせ》を拭《ぬぐ》おうと、つと腕をあげたとき、そのわずかな隙《すき》をついて、魔族がロンメル隊長に躍《おど》りかかった。背後をとられてよろめく隊長に、加勢しようと飛びかかった騎士が、急降下してきた魔族の体当たりを喰らってバリケードに叩きつけられる。魔族の群は鳴き騒ぎ、勝ち誇《ほこ》ったように爪を鳴らし、忌まわしい翼で空を掻《か》き乱し、その音で耳がおかしくなりそうだ。
「隊長!」
バリケードのなかからもがくように起きあがった騎士は、そのはずみで兜が脱《ぬ》げてしまった。頭も顔も剥き出しに、一挙に広がった視界に、立ちこめる一面の黒い黒い粒子《りゅうし》。
これは何だ?
魔族の群は消えている。ガサラの町じゅう、いや幻界じゅうの町や村で、一斉《いっせい》に煙突掃除《えんとつそうじ 》をしたみたいに、いっぱいの煤が漂っている。
煤じゃない──これが魔族の残骸だ。
唐突《とうとつ》な勝利を、騎士たちはまだ信じることができない。それでもロンメル隊長の身を案じる騎士は、狂気《きょうき》にかられたかのように両手でバリケードをかき分けた。
「隊長、隊長!」
どこにもいない。姿が見えない。生き残った仲間の騎士たちは、みんな黒い塵にまみれている。銀の甲冑も台なしだ。唖然《あ ぜん》として空を仰《あお》ぎ、さっきまで組み討《う》ちしていた魔族がいたところに漂う塵を、手ではらって目を泳がせている。
額や鼻の頭を真っ黒にして、誰も彼も道化師《どうけ し 》のようだ。しかし戦いにこわばっていた顔が、ゆっくりと緩《ゆる》んでゆく。
終わったのか? 終わったのだ。始まったときと同じように唐突に。
誰かが女神の祈《いの》りを唱え始める。すぐに皆《みな》がそれに唱和する。
でも、ロンメル隊長の姿が見えない。
騎士の頭には、バリケードに突っ込む寸前に、この目で見た光景が焼きついていた。無防備になった隊長のうなじに、魔族が牙《きば》を突き立てた──噴《ふ》き出した血が魔族の牙を真っ赤に染めて──魔族は消えた。そこここで、騎士たちが安堵《あんど 》と喜びの声をあげ始める。勝ち鬨《どき》が聞こえてくる。しかし彼はまだロンメル隊長を捜《さが》している。
魔族は消えた。しかし、ロンメル隊長も消えてしまった。
常闇の鏡が塵となり、魔族の群も煤と化し、幻界の風にさらわれて、散り散りに、北大陸じゅうに、南大陸じゅうに、本来あるべきヒトびとの内へと、拡散してゆくその光景を、ワタルは静かに見守っていた。
皇都ソレブリアに、青空が蘇《よみがえ》る。それを見届けて、ワタルは女神に目を向けた。
女神は頬笑んだ。
ワタルも頬笑んだ。
再び女神の手を取ると、ワタルはひざまずいた。「僕の願いは聞き届けられました。心から感謝いたします」
突然、その姿を借りているだけのはずの少女になりきってしまったみたいに、女神は身軽に身をかがめ、膝を折ると、その両腕でワタルを抱《だ》いてくれた。
「ありがとう」
香織の声で──ああ、きっとこれが大松香織の声なのだ──そう囁かれて、ワタルの心がいっぺんにほどけた。慎《つつし》みを忘れ、照れもどこかに置き去りに、それが運命の女神であることも忘れて、ワタルも香織を抱きしめ返した。
ずいぶん長いこと、そうやって抱き合っていた。女神の腕の温《ぬく》もりに、ワタルは様々なヒトの温もりを重ね合わせた。母さん。ミーナ。キ・キーマの肩車《かたぐるま》。頬に触《ふ》れたカッツの指先。
最後の祈りに、握りしめたミツルの手。
「さあ、旅人≠諱B現世に還る時がきました」
優しくワタルの肩を押しやって、言い聞かせるように、女神は言った。
「はい」
「来た道をお戻りなさい。女神の座から降りて階段をくだれば、ラウ導師が待っているはずです」
身を起こし、乱れた衣服を整える。女神が指先で、ワタルの髪をすいてくれた。
「さようなら、ワタル」
優しい笑顔に、大きくうなずきを返し、高ぶる想《おも》いを別れの言葉にすることはできないまま、ワタルは踵《きびす》を返した。
空っぽになった気がした。
嬉しいのに、安堵に目が回りそうなのに、だけど悲しくて、別れが辛くて、そしてそれらすべての感情が、まだ自分のものではないような気がした。
一歩一歩が、一段一段の下降が、空を踏むようだ。漂うようだ。目は開いているのに、何も見えない。蒼い蒼い空虚《くうきょ》のなかを、ただ泳いでゆく。
だからすぐには気づかなかった。伏せた目のなかに、泥《どろ》だらけの銀のブーツの先が見えてくるまで。かちり、かちりと足音が聞こえてくるまで。
ひとつ下の踊り場に、ロンメル隊長が立っている。
気づいたワタルの顔を見て、ひとつうなずくと、またゆっくりと階段をのぼり始める。近づいてくる。
銀の兜を小脇《こ わき》に抱え、乱れてごわごわになった金髪《きんぱつ》に、血や泥がこびりついている。甲冑の胸板《プレート》には、無数の長いひっかき傷。疲《つか》れた重そうな足どりで、ちょっと右肩をさげている。首筋にも大きな傷があり、乾《かわ》きかけの血が固まっている。
「……隊長さんが……どうしてここヘ?」
ワタルと同じ踊り場までのぼってくると、ロンメル隊長はそこで足を揃えた。
「なぜ運命の塔に来たんです?」
ちょっとまばたきをして、静かに息を吐くと、ロンメル隊長は答えた。「私が選ばれたからだよ」
意味がわからなかった。ワタルの心は、大きな荷物をおろしたばかり。
「選ばれたのだ。半身《はんしん》に。ヒト柱に」
豊かに響く声が、そう続けた。
「もう一人のヒト柱、残りの半身と共に、冥王《めいおう》となって大いなる光の境界を張り直す。これから続く千年、幻界に生きる命を見守るという大役を果たすのだ」
ヒト柱──ハルネラ。
「も、もう一人は? 半身は?」
ロンメル隊長は、すっかり汚《よご》れて壊れかけた手甲《てっこう》に包まれた大きな手を、ワタルの肩の上に置いた。
「君は旅をまっとうした。それならば、答は自《おの》ずと明らかだろう」
ミツルか。
「私は女神さまの御許《み もと》へと昇る。君とここで会えてよかった。幻界を去る旅人≠見送ることができるという特権を与《あた》えてもらえるならば、ヒト柱になるのも悪くない」
口の端を小粋《こ いき》に吊《つ》りあげて、ロンメル隊長は笑ってみせた。
失われていた感覚が、肩の上のロンメル隊長の手の感触《かんしょく》で、呼び覚まされてゆくようだった。足にも力が戻ってきた。心の焦点《しょうてん》があってきた。
「泣いてはいけない」
先手を打たれた。ロンメル隊長の蒼い目が、厳しくワタルを見据《み す 》えていた。
「これは悲しむべきことではないのだ。だから君は、泣いてはいけない」
声が出せなかったから、ワタルは口をへの字に結び、ただうなずいただけだった。
「君が常闇の鏡を砕いてくれたのだな?」
もう一度うなずく。
「ありがとう。幻界のすべてのヒトびとを代表して、君に感謝の言葉を捧げる」
ワタルの心が、ワタルの言葉を思い出した。言いたいことはたくさんあったけれど、ここで言うべきことが、真っ先に出てきた。
「た、隊長さん」
泣いてはいけない。
「僕──僕は、カッツさんを、守れませんでした。カッツさんを死なせてしまいました」
隊長はつと眉《まゆ》を上げ、そして目を伏せた。
「そうか」
「ソレブリアの子供をかばったんです。とっさのことで……カッツさんは鞭《むち》を落として、それでも素手《す で 》で魔族に向かっていきました」
「彼女らしい」
ワタルは、込みあげてきた嗚咽《お えつ》を押し戻すためにうなずいた。
「幻界では、ヒトは死ぬと、光になる」
「はい、知ってます。キ・キーマが教えてくれました」
「そうか。では、やがて生まれ変わることも?」
「はい」
隊長の目元がやわらぎ、笑みが戻る。
「カッツが生まれ変わり、次の生《せい》を生きる幻界を、私は見守ることになるわけだ。悪くない。ますます悪くない」
強がりなんかではなかった。
「願わくば、千年が過ぎて私が役割を終え、光となり、そして生まれ変わるとき、何度目かの生を得た彼女と同じ場所に置かれることを。私はまだ、カッツとの論争にけりをつけていないからね」
これは強がりだ。
「ホントは論争なんか、したくないくせに」
顎をそらして、隊長は短く笑った。
「行きなさい。私にここで、君を見送らせてほしい」
ワタルは逆らわなかった。はいと応じて、一瞬、ひたと隊長を見つめた。
「勇敢《ゆうかん》なる旅人≠諱v
ロンメル隊長は拳《こぶし》を胸にあて、騎士の礼をした。
「現世の君の上にも、運命の女神さまの加護のあらんことを」
「ありがとう」
騎士の礼を返して、ワタルは歩き出した。隊長の視線が背中を押してくれるのを感じた。
だから振り返らなかった。
階段を下りきったところに、ラウ導師が佇《たたず》んでいた。杖《つえ》を突っ張り、そこに両手を預けて、まるでワタルがちょっとお使いに行って帰ってくるのを待っている──とでもいうような、呑気《のんき 》そうな顔をしている。
「では、参ろうか」
それだけ言って、ワタルの先に立った。
嘆《なげ》きの沼《ぬま》も、町や村の透《す》き通ったコラージュも消えていた。女神の座に続く階段と同じ、宇宙に浮いているようなぽっかりと広漠《こうばく》な空のなかを、ただ導師の背中を追いかけて、静かに歩んでゆく。足元に道があるのかないのか、それさえもわからない。
また、心が空白に戻る。
要御扉《かなめのみとびら》が見えてきた。その頂きを雲と霧のなかに隠《かく》した、現世と幻界の巨大な境界。
ここを通ってきたことが、もう千年も昔の出来事のように思える。
扉よりずいぶんと手前で、ラウ導師は足を止めた。首をかしげて、しげしげとワタルの顔を見た。
「退魔の剣は、女神さまにお返し申しあげたのだな?」
「はい」
「では、旅人≠フ証《あかし》のペンダントを返してもらおう」
ペンダントを外して、導師の乾いた掌《てのひら》の上に、そっと載《の》せる。導師はそれを、懐《ふところ》に入れた。
「おぬしは良き旅をした」
「はい」
「おぬしの旅路はおぬしのもの。何人もそれを取りあげることはできぬ」
「はい」
長い顎鬚《あごひげ》が揺れる。導師が微笑んだのかもしれない。でもそれはごくわずかなあいだのことだった、あの親しみやすい、口うるさいおじいさんみたいだったラウ導師が、まったく違うヒトのように思える。
僕が、還ろうとしているからだ。僕はもう、幻界のものではなくなるからだ。ラウ導師とのあいだには、越えることのできない隔《へだ》たりがあることを、思い出さなくてはならない。
導師は痩《や》せた枯《か》れ木のような手を、ワタルの頭の上に置いた。
「現世を生きる、小さき人の子よ。もうおぬしに会うことはあるまい。幻界のこの良き旅の如く、現世でも良き旅を歩まれることを」
はいと答えて、ワタルはラウ導師を仰いだ。
「導師さま、お願いがあるのですが」
導師は眉毛をぴくりとさせた。
「この期《ご》に及《およ》んで、何があるのかな」
ワタルはファイアドラゴンの赤い腕輪を外し、差し出した。
「これを……返していただきたいのです。これを見れば、僕が無事に旅を終えて現世に還ったと知って、安心してくれるヒトたちのところに」
ラウ導師がむぎゅうと顔をしわくちゃにしたので、ワタルはちょっとあわてた。
「ダメですか? 図々《ずうずう》しいお願いですか?」
「難しい願いではないよ。しかし、そんなことをせずとも、おぬしの旅の仲間たちは、おぬしが目的を遂《と》げて現世へと還ったことを、もう充分に察していることだろうよ」
「それでも、渡してほしいんです。お願いします」
ワタルは最敬礼をした。ラウ導師は動かない。
頭の上から、ため息まじりの声が聞こえてきた。「ま、よかろう。引き受けよう。それが気持ちというものだろうからの」
心の底から、ワタルは感謝した。
「おや」ラウ導師が、不意に頭上を仰いで声をあげた。「おお、ここからならばよく見える」
ワタルは導師の視線を追い、目を上げた。
広漠とした中空。はるか高処《たかみ 》を、白く輝く光の幕が、優美に裾をたなびかせながら横切ってゆく。燦然《さんぜん》と輝き、見つめるほどに浄い光の幕は、視界いっぱいに広がる極光《オーロラ》のようだ。滑《なめ》らかな曲線が、幼子の頭に触れる母の指のように、優しく空を撫でてゆく。
「新しき大いなる光の境界≠カゃ」ラウ導師が静かに言った。
幻界を護《まも》る光の幕は、これから始まる千年の新鮮な輝きで空を掃《は》き清め、みるみるうちに遠ざかっていった。
「ハルネラ≠ヘ終わった。おぬしはそれをしかと見届けた」
ワタルはうなずき、手を差し出して、ラウ導師の手を握りしめた。何も言わず、しっかりと握りしめた。
そして踵を返し、要御扉を見上げる。
音もなく、要御扉が開いてゆく。ワタルを送り出し、そして閉じれば、次に開くのは十年の後。ワタルはもう、それを知ることはない。次の旅人≠ェ、切なる願いを抱《いだ》いてここを訪れる。
「ワタル」と、導師が呼んだ。「おぬしはやがて、幻界を忘れる。この旅を忘れる。しかし、真実はその心に残る」
「真実──」
ワタルがつかんだ旅の結論。
「汝《なんじ》、立ち去る時にのみ真実を得ん」
厳かにそう言って、ラウ導師は道を開けるように脇に退《の》いた。
「帰りなさい、旅人≠諱Bあなたには現世の子として生きる義務がある」
一歩一歩、もう戻ることのない歩みを踏みしめて、ワタルは進んだ。要御扉がワタルを迎《むか》え入れる。
現世には何が待っているのか。現世で何を感じるのか。これから現世をどう生きるのか。
すべてはワタルの心のままに。
ここへ来たとき、ワタルは一人だった。今は一人ではない。みんなが一緒《いっしょ》だ。ミツルもカッツも、ミーナもキ・キーマも。
運命の女神の美しき姿も、この心に。
ルルドの国営天文台で、バクサン博士はちょこなんと木のブーツに乗っていた。ブーツは最上階の研究室の窓際《まどぎわ》に寄せてあり、ロミが傍《かたわ》らに寄り添《そ》っている。
「博士」と、ロミが呼びかけた。
「おまえの言いたいことはわかっておる。しかし、今しばらく黙《だま》っておるのぢゃ」
わしの不肖《ふしょう》の弟子どもは、しっかりとこれを観測しておるだろうかと、博士は考えているのだった。
「消えていきますね」
ロミの言葉に、博士は返事をしなかった。二人は黙って空を見つめた。
やがて、博士が言った。「要御扉も、閉じるころぢゃ」
言葉と同時にハックションと、博士は特大のくしゃみをした。ロミはあわてて、博士がブーツから、さらには窓から転がり落ちないように、その後ろ襟《えり》をつかんでぶらさげた。
ガサラの町のすぐ外に、スペクタクルマシン団は大きなテントを張り直した。臨時の病院|兼《けん》避難所にしようというのだ。
診療《しんりょう》所の先生は、身体がふたつあっても足らないほどの忙《いそが》しさだ。さっきまでフライパンで戦っていたミーナは、今は看護婦役を担《にな》って、先生と一緒に怪我人《け が にん》たちのあいだを走り回っていた。
心を止めて、何か考えることが怖《こわ》かった。ただ目の前のことを追いかけ、次々と発生する急な用事に、追い回されていたかった。あちらで子供が泣いている。こちらで怪我人が呻《うめ》いている。包帯は? 薬は?
「ミーナ!」
大テントの入口で、ブブホ団長が呼んでいる。
「こちらにおいで。ババさまがおまえにご用があるそうだ」
ミーナは怪我人たちの列を縫《ぬ》い、時にはその足元をまたいで、やっとこさ団長のそばまでたどり着いた。
「手が五本も六本もほしいくらいなの。ババさまは急ぎの用事なのかな?」
「自分で行って、訊《き》いてごらん」
ブブホ団長の目は優しかった。
「そしておまえも少し休みなさい。深呼吸をひとつするあいだだけでも。そんな思い詰《つ》めた瞳をしていないで」
ミーナは外に出た。
ババさまは、大テントのすぐそばに、小さな机と椅子《い す 》を出し、その上に水晶球を載《の》せて、ちんまりと座っていた。周囲の喧噪《けんそう》から切り離されて、ババさまの後ろ姿だけを見ているならば、幻界にもガサラにも、何も起こらなかったみたいだ。
忙殺《ぼうさつ》されているうちに、夕暮れになっていた。茜色《あかねいろ》の空が頭上に広がっている。魔族の忌まわしい翼の影《かげ》など、もうどこにも欠片も見えない。
ワタルが、わたしたちを助けてくれたんだ。女神さまにお願いして、魔族を退けてくれたんだ。
(あとでね、ミーナ)
崩《くず》れたソレブリアの城壁のそばで、最後に交《か》わしたあの言葉。
あれは約束だったのだ。その約束は果たされた。
だけどワタルの願いは? ワタルの旅は、この終わり方でよかったの? 必死で考えないようにしていた疑問が、あとからあとから心に浮かび上がってくる。
そしてミーナは自分を責める。そうした想いの様々を押しのけて、いちばん強く心を震わせるのが、
──もう、ワタルには会えないの?
その悲しみだということに。
そんなの、あたしの勝手だ。ワタルは現世のヒトなんだから。ワタルは旅人≠セったんだから。
ババさまはミーナの足音に、丸い背中をさらに丸めながら、振り返った。
「おお、来たね」
水晶球をつるりと撫でて、その手をミーナに差し出した。
「これをのぞかなくても、もう見える。ババに手を貸しておくれ」
ミーナはババさまの手を取った。ババさまはミーナをひっぱり、大テントから遠ざける。そして顔を上げる。
「さあ、ごらん」
言われたとおりにしてみた。しかし、夕空の美しさにも、ミーナの瞳は輝かない。
「ババさま、何もないよ。お空が広がってるだけじゃない」
「消えかけておる」
ババさまの指先が、空の一点を指し示す。
尖《とが》ったような赤い光点だ。いつも見えていた。見たくなくても目に入った。ミーナにとっては、時に魔族よりも忌まわしいものであったその光。
北の凶星《まがぼし》の輝きが、薄れてゆく。見つめるうちに、夕空のなかに吸い込まれてゆく。
ハルネラが終わってゆく。
幻界の、次なる千年が今始まる。
皆がそれを見ていた。皆がそれを見送っていた。見届けていた。
嘆きの沼の畔《ほとり》では、シン・スンシが眼鏡《めがね》を外し、凝《こ》った肩をぽんぽんと叩く。ティアズヘヴンでは門番が、魔族の残骸を掃き清める手を休めて空を仰ぐ。サタミの病床《びょうしょう》に付き添うサラが、窓に小さな手をかけている。
ドラゴンたちも龍《りゅう》の島へと戻ろうとしている。傷ついたジョゾは両親のあいだにすっぽりと挟《はさ》まって、岩の亀裂からのぞく空を見ている。
皇女ゾフィは、ようやく合流したアジャ将軍の部隊の駐屯地《ちゅうとんち》で、どっしりとした天幕を持ちあげて、空を見る。その脳裏《のうり 》に、クリスタル・パレスのミツルの寂しい横顔が蘇る。
かつてトリアンカ魔病院のあったスラの森では、なぎ倒された木々の上を静かな風が渡り、小動物たちが駆け抜けてゆく。通りかかったダルババ車の御者《ぎょしゃ》台で、水人が夕暮れの空を見ている。
ハルネラは終わった。
大いなる白き光の境界は張り直された。女神の御代よ、永遠なれ。
ミーナ、ミーナ! 今度はパックが呼んでいる。振り返ると、大テントの脇で、忙《せわ》しなくぴょんぴょん飛び跳ねている。キ・キーマが一緒にいるけれど、その顔は疲れて悲しげで、いかつい身体がひとまわり縮んでしまっているみたいだ。
ミーナの胸が騒いだ。
「パック、どうしたの?」
キ・キーマが大きな手で頭をかく。そんな顔をしていることを恥《は》じているみたいに、バツが悪そうに。パックはくるりと宙返りしてから、ミーナに駆け寄ってきた。
「さっき、白い鳥が飛んできたんだよ」
「白い鳥?」
「うん。おいらの肩にとまったんだ。とまったと思ったらもういなくなってた。そンで、こいつが手のなかに落ちてきた」
パックはぱっと掌を開いた。
その真ん中に、ファイアドラゴンの腕輪が載っていた。
ワタルの腕輪だ。ミーナは手で口元を押さえた。
「これ、いつか会った。ミーナの友達のつけてた腕輪だろ? ハイランダーの腕輪だろ?」
「ワタルのだ」と、キ・キーマが言った。「俺たちへの挨拶《あいさつ》だよ。ワタルは無事に運命の塔に行った。女神さまにお会いして、俺たちの幻界を救ってくれたんだ。そして還っていった──ワタルの世界に。それを伝えるために、ファイアドラゴンの腕輪を残していってくれたんだ」
わかっているのに、これは目出度《め で た 》いことなのに、何で俺はこんなに悲しいんだろうと、キ・キーマは言うのだった。そしてぐいぐいと顔を拭った。
ミーナは腕輪を手に取ると、それを頬にあてた。涙《なみだ》が溢れた。
「ミーナ、どうして泣く? なんで泣くんだ?」
パックがあわてている。ミーナはゆっくりと膝を折り、しゃがみこんで顔を隠した。
ワタルは行ってしまった。幻界を去った。
旅は終わったのだ。
「何て言えばいいんだろうな」
キ・キーマの目が潤《うる》んでいる。大きな水人族が、全身で泣いていた。
「こんなとき、何て言うんだ? やっぱりサヨナラかな? 俺たち、ワタルにサヨナラを言ってなかったよな」
ミーナはキ・キーマに抱きついた。
「サヨナラなんて、言わないよ!」パックが今度はバック宙をして、きかん気そうに口を尖らせる。「ミーナ、教えてくれたじゃないか。おいらに教えてくれたじゃないか。サヨナラの時、サヨナラって言っちゃいけないよって」
涙を拭《ふ》いて、ミーナは顔を上げた。「そうだっけ。そんなときは何て言えばいいって、あたし、パックに教えたの?」
得意そうに胸をふくらませて、パックは答えた。「元気でねって!」
キ・キーマと顔を見合わせて、ミーナは頬笑んだ。涙に彩《いろど》られた笑顔に、夕陽《ゆうひ 》が映えた。
「そうだね。それがぴったりだ」
暮れゆくガサラの町の夕空に、北の凶星はもう完全に姿を消した。夜の帳《とばり》と共に、星々がもうすぐ輝き始める。降るように空を彩り、幻界を優しく寝かしつけるために。
ミーナとキ・キーマは、しっかりと抱き合いながら天を仰いだ。それぞれに心のなかで呟《つぶや》いた。きっと聞こえる。ワタルに届く。
わたしたちの旅人=Bわたしたちの旅の仲間。ワタル、あなたがそうしてくれたように、わたしたちもあなたに幸《さち》多かれと祈ろう。
元気でね。
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章
終
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ガス臭《くさ》い。
どこか遠い遠い場所から駆《か》け戻《もど》ってきた。途方《と ほう》もない距離《きょり 》を飛び帰ってきた。その勢いのままに、亘《わたる》は跳《は》ね起きた。
自分の部屋だ。ノートや参考書が積みあげてある学習机。ちょっとスプリングの緩《ゆる》んだ椅子《い す 》の座部には、母さんが縫《ぬ》ってくれたキルトの座布団《ざ ぶ とん》が載《の》せてある。スチールの書棚《しょだな》には、事典や科学雑誌が並んでいる。その後ろにはゲームの攻略《こうりゃく》本やコミックと一緒《いっしょ》に、『ロマンシングストーン・サーガV』を買うためのお小遣《こ づか》いを貯《た》めている、秘密の貯金箱も隠《かく》してある。
僕の部屋。僕の家《うち》。
だけどガス臭い。クーラーは停《と》まっている。どんよりとした夏の夜気に混じる、不愉快《ふ ゆ かい》で危険なこの匂《にお》い。
上掛《うわが 》けをはね除《の》けて、亘はベッドから飛び出した。
「母さん!」
大声で呼びながら、リビングに駆け込んだ。母の寝室《しんしつ》のドアは開いている。台所から流れてくる強いガスの匂い。自分の部屋にガスが充満《じゅうまん》しやすいように、母さんはドアを開け放っておいたんだ。
息を止めて台所に入り、とっさに灯《あか》りをつけようとして、スイッチに触《ふ》れたところで気がついた。ダメダメ、危ない! 火花が出たら爆発《ばくはつ》しちゃう。ぱっと手を離《はな》し、手探《て さぐ》りでガス栓《せん》を見つけてぎゅっとひねった。
それからまたリビングにとって返すと、窓という窓を開け放った。どたどたと足音をたてて母の寝室に入ると、青白くやつれた月のような寝顔《ね がお》が見えた。枕《まくら》の上に頭を載せ、仰向《あおむ 》いている。夏用の薄《うす》い上掛けなのに、その下の身体《からだ》の線がほとんど見えない。短いあいだに痩《や》せてしまった。辛《つら》かったから。悲しかったから。
だけど、死ぬことはない。死のうとするなんて間違《ま ちが》いだ。
寝室のカーテンは重く手強《て ごわ》く、気ばかり焦《あせ》る亘の手から逃《に》げてゆく。亘はカーテンに飛びついてぶらさがった。ぶちりと音がしてカーテンごと床《ゆか》に転がり、からまってしまった。それでも心は歓声《かんせい》をあげていた。もがきながら立ちあがって窓を開ける。
間にあった! 母さんは大丈夫《だいじょうぶ》だ。僕が助ける! 助けることができる!
幻界《ヴィジョン》≠ゥら現世《うつしよ》へ、戻ってきたのはこのポイントだった。ミツルがワタルを助けてくれた、出発点のこのポイントだった。
ガス臭さはだいぶ薄れた。それでも亘は用心に用心を重ね、真っ暗な部屋のなかを、廊下《ろうか 》を、壁《かべ》や家具にぶつかったり跳ね返されたりしながら駆け抜けて、玄関《げんかん》から外へ出た。お隣《となり》さんは、すぐ起きてくれるだろうか?
「すみません、電話を貸してください! すみません、隣の三谷です! 救急車を呼びたいんです、電話を貸してください!」
現世のこの夜に、月は出ていなかった。マンションの共用廊下に灯《とも》る蛍光灯《けいこうとう》が、亘の奮闘《ふんとう》を静かに見守っていた。
ルウ伯父《お じ 》さんは、千葉の家から車を飛ばして駆けつけてくれた。午前三時。救急処置室の外の廊下で、二人は肩《かた》を並べて腰《こし》をおろしていた。
発見が早かったから良かったと、お医者さんは言った。
「お母さんの意識が戻るまでは、慎重《しんちょう》に様子をみる必要がある。でも、命には別状ないと思うよ。坊《ぼう》や、お手柄《て がら》だったね」
若いお医者さんだった。急患《きゅうかん》の搬入口《はんにゅうぐち》に救急車が乗りつけたときには、眠《ねむ》たそうな顔をしていた。でもストレッチャーを見るなりしゃっきりとした。そんなもんなんだ。お医者さんもハイランダーたちと同じだと、亘は思った。
亘も診察《しんさつ》を受けた。目がチカチカしない? しません。胸苦《むなぐる》しくない? 全然。頭が痛くはない? 痛くないです。
僕は大丈夫です。母さんが目を覚ますまで、待っていてもいいですか?
そうして伯父さんと二人、ずっとこうしている。廊下のベンチは大人サイズだから、深く腰かけると足が床に届かない。ぶらぶらしてしまう。僕は一人前のハイランダーなのに、なんでこんなふうにお子さまみたいに座っているんだろう?
そして思い出す。僕はもうハイランダーじゃないんだ。勇者の剣《けん》もない。宝玉の力も消えた。
僕は三谷亘に戻った。
「都市ガスじゃ死ねないんだがな」
唐突《とうとつ》にぼそりと、ルウ伯父さんが呟《つぶや》いた。両肩を落として、大きな手はぐったりと両足のあいだに垂れている。
以前にも聞いたことのある台詞《せりふ》だ。そう、美鶴《み つる》がそう言っていたのだ。都市ガスじゃ死ねないんだよ。でも爆発したらえらいことになる。
美鶴──彼はもういない。いや、本当にいなくなったのだろうか? 現世に戻ってきていないのか?
「亘、眠くないか?」
ルウ伯父さんが訊《たず》ねた。髭《ひげ》が伸《の》びかけているので、顎《あご》や口の周りが青黒い。悲しげにしばたたく、二重《ふたえ 》まぶたの大きな目。
気落ちしているときのキ・キーマそっくりだ。大きな身体も優《やさ》しい心も。
「眠くないよ、大丈夫」
「くたびれたら、伯父さんによっかかって眠ってもいいんだぞ」
「うん」
疲《つか》れてはいなかったけれど、不意に、コントロールがきかないほど強い感情に呑《の》みこまれて、亘は伯父さんによりかかった。伯父さんは亘の身体に腕《うで》を回してくれた。
ちょっとのあいだ、そうやって黙《だま》っていた。
「ごめんな」と、伯父さんが言った。「大人の勝手で、おまえに辛《つら》い思いばっかりさせてる。ひでぇ話だ。ホントにひでぇ」
割れて震《ふる》える声だった。伯父さんの内側で伯父さんの心が泣いていて、その声が、涙《なみだ》なんか流していないし泣きそうになってもいない伯父さんの、しっかりした大人の声のなかに混じっている。
「伯父さん」
「む?」
「僕、伯父さんに会ったよね?」
伯父さんは頭を動かし、上から亘の顔をのぞきこんだ。
「何の話だ?」
疲れて青ぶくれた顔が、きょとんとしている。本当に当惑《とうわく》している。
あ、そうか。二つ目の宝玉を手にしたとき、光の通路を抜けて現世に戻り、僕は母さんの入院している病室を訪《おとず》れた。そして帰ろうとしたときに、伯父さんがやって来たんだった。だからそれは、これから起こることなんだ。
でも僕は、もう現世に戻ってきてしまっている。だからあの出来事はもう起こらない[#「もう起こらない」に傍点]。
時が戻っている。幻界で過ごした時は、現世の時として勘定《かんじょう》されていないのだ。やっとそれが実感としてわかってきた。「ガスの夜」というポイントに帰還《き かん》したということは、そういうことなのだ。
それならば、なおのこと気になる。芦川美鶴はどこにいる? 大松香織はどうしている? そういえば、石岡健児だって──
伯父さんがごつい手で顔をごしごしこすっている。亘は伯父さんを慰《なぐさ》めたいと思った。僕はもう大丈夫──伯父さんが思っている大丈夫の意味を超《こ》えて大丈夫なのだということを知らせたいと思った。
だけども、何と話しかけていいのかわからなかった。うっかりすると、泣いてしまいそうな気もした。悲しいわけじゃなくても、手に余るほど大きな感情を抱《かか》えると、泣いてしまう。それは亘がまだ子供だからだ。
もう勇者のワタルではないからだ。
亘は伯父さんにゆったりと身体を預け、深くもたれかかった。伯父さんの身体は温かく、ローションの匂いがした。
「伯父さん」
「うん?」
「安心したら、ちょっと眠くなってきちゃった。寝てもいい?」
「いいぞ」
亘は目を閉じた。浅い眠りに落ち込むと、すぐ夢を見た。ダルババ車に乗っている夢だった。御者《ぎょしゃ》台にはキ・キーマがいて、陽気な声でダルババをせき立てている。
そこで初めて涙が出た。現世に戻ってようやく流す涙には、懐《なつ》かしい味がした。
結局、夜明けまで病院にいても母さんに面会することはできなくて、伯父さんと亘は、一度マンションへと引きあげた。
朝ご飯はマクドナルドで済ませた。早朝の店は空《す》いていて、パンケーキを頬張《ほおば 》る亘のすぐ隣にまで、喫煙《きつえん》席で新聞を読んでいる背広姿の男の人が吐《は》き出す煙《けむり》が漂《ただよ》ってきた。
「亘」
「なぁに」
伯父さんはコーヒーの入ったプラスチックカップを手に、ちょっと首をかしげている。
「何?」
伯父さんはカップをトレイに置いた。困ったみたいに眉《まゆ》を寄せている。
「おまえ、さ」
「うん」
「何だか、急にしっかりしたな」
静かな口調だけれど、驚《おどろ》きがこもっている。亘を見る伯父さんの視線のなかに、「観察」という要素が入っていた。
亘は頬笑《ほほえ 》んだ。心のなかに、温かなお湯が満ち溢《あふ》れるように、優しさと感謝と、それと名づけようのない輝《かがや》かしいものが広がってゆくのを感じた。
急に[#「急に」に傍点]しっかりしたわけじゃないんだよ、伯父さん。僕はずうっと旅をして、帰ってきたんだ。
「お母さんが死ななくて、よかったって思ってるんだ」と、亘は言った。「死んじゃいけないよね。そうだよね?」
そうだと答えるかわりに、伯父さんはうなずいた。目が潤《うる》んでいた。
学校はもう夏休みだ。行っても誰もいやしない。亘はまっすぐ芦川美鶴が叔母《お ば 》さんと住んでいたマンションを目指した。
朝のことで、管理人さんが集積所にゴミを積みあげていた。亘が自動ドアを抜けてロビーに駆け込むときは知らん顔をしていたけれど、はあはあいいながら出てきたときには、作業の手を止め、訝《いぶか》しげな顔でこちらを見た。
「何だね、坊やは」
「あの、あの」
芦川の表札は消えていた。郵便受けの、彼が叔母さんと暮らしていたはずの番号のところには、真新しい白いネームプレートがかかっているだけだった。
「芦川さんて、引っ越《こ》しちゃったんでしょうか?」
「アシカワ?」
「若い女の人と、僕ぐらいの男の子の二人暮らしのおうちです。僕、その子と友達だったんだ」
管理人さんは額に手をあてて考えた。ああ、と声をあげて自分のおでこをぽんと打つ。
「引っ越してったよ」
「いつですか?」
「つい最近だ。学校の夏休みが始まった日だったかなぁ」
「引っ越してゆく二人を見たんですか? ちゃんと二人いましたか? 男の子はいましたか?」
詰《つ》め寄る亘の勢いに、管理人さんはたじたじとなった。でもさすがは世慣れた大人で、すぐに形勢を盛り返し、逆に亘をぎろりと睨《にら》んだ。
「何でそんなことを訊《き》くんだね? 坊やがその子と友達だったなら、とっくに知ってるはずじゃないのかね?」
本当は、ここに何しに来たんだね、おや、何だか坊やの顔には見覚えがあるようだ──管理人さんが腰に両手をあて、本格的に睨みをきかそうとし始めたとき、亘はもうそこにはいなかった。
誰に訊けばいいだろう? カッちゃんにも早く会いたいけど、彼は芦川のことはよく知らない。
宮原だ。宮原祐太郎がいる。優等生同士で芦川と仲が良かった。クラスも一緒だ。えーと、宮原の家ってどこだっけ?
宮原祐太郎は、古い木造の家の小さな庭で、弟妹たちと朝顔やヒマワリの面倒《めんどう》をみているところだった。よちよち歩きの妹の持っている赤い如雨露《じょう ろ 》が可愛《かわい》い。宮原は、彼の身長よりも高く伸びたヒマワリに、支柱を立てている。
庭を囲むスチールの柵《さく》に手をかけて、亘がおはようと声をかけると、かなり驚かしてしまったのだろう、ぱっと振り返った。
「あれ、三谷じゃないか。おはよう。早くからどうしたんだよ」
宮原もスチールの柵に近づいてきた。亘はもごもごと言い訳を並べた。弟妹たちは亘に関心がないのか、咲《さ》いている朝顔の数を数えることに熱中している。
「あのさ、宮原。芦川のこと、知ってる?」
「芦川? うちのクラスの?」
何のためらいもなしに、宮原はそう訊き返してきた。そう! 芦川はいるんだ、美鶴はいるんだ。
「あいつがどうかしたの?」
「今……どこにいるか知ってる?」
「どこって」宮原は目をパチパチさせている。「引っ越したよ」
ああ、やっぱりその返事か。
「転校生だったよね? もう引っ越しちゃったの?」
「うん。忙《せわ》しなかったな。だけど家の都合じゃ、しょうがないだろ」
のんびりとした口調だ。
「そうだね……。芦川って、どんなヤツだったかな」
宮原は、今度こそ完全に面喰《めんく 》らったのだろう、まじまじと亘の顔を見た。亘の全体を見回した。僕は三谷亘に化けた宇宙人と話をしているのじゃないかと疑っているみたいに。
「どんなヤツって言われても……」
そして笑いだした。
「ヘンだなぁ。だって三谷は、芦川のこと知らないだろ? クラスが違うし」
「塾《じゅく》で一緒だったからさ」
「そうかぁ? だけど話なんかしたことなかったろ? あいつ無口だったし」
そうだねと、亘はうなずくしかなかった。
芦川の家に起こった事件のこと、話題になったよね? お母さんたちが噂《うわさ》していたよね? それが石岡健児たちの事件と重なって、芦川はモンダイジ扱《あつか》いされてなかった?
訊ねたい。だけど、どう訊いても見当違いになりそうだ。
亘の帰還した現世に、亘の知っていた芦川美鶴はもういない。いないのだ。
最初からいなかったみたいに、いなくなってしまったのだ。
「三谷」と、宮原が呼びかけた。今度は彼の方が、スチールの柵に片手を乗せている。亘の手のすぐそばに。
「あのさ」
彼が言い出しかけたとき、弟が大きな声を出した。「お兄ちゃあん!」
「マユミがじゃまするからアサガオ数えられないよう!」
小さい妹がわっと泣きだした。宮原は亘と弟妹たちのあいだで、お兄ちゃんになりきろうか亘の友達に徹《てっ》しようか、身体ごと迷っている。
「チビちゃんが泣いてるよ」と、亘は促《うなが》した。「う、うん」
宮原は柵から手を離し、妹たちの方に身体を向けた。そこでちょっと迷い、気が変わらないうちに大急ぎで言ってしまおうというように、早口になった。
「学校のお母さんたち、おしゃべりだから」
「え?」
「夏休み前に父母会とかあったし、噂好きの小母《お ば 》さんもいるからさ、うちの母さんが、ちょっと聞いてきて──」
宮原が何を言おうとしているのか、亘にもわかった。一瞬《いっしゅん》、ガス自殺|未遂《み すい》の話がもう伝わっているのかと思ったけれど、いくら何でもそれは早すぎる。宮原のお母さんの耳に入ったのは、それ以前の噂話だろう。
亘たちの暮らすマンションに、亘の同級生はいないけれど、同学年の子供たちはいる。彼らや彼らの家族が何か聞きつけたり、察したりして、それが噂になったのだろう。
だって千葉のお祖母《ば あ 》ちゃん、声がでかいからなぁ。
「三谷ン家《ち》、いろいろ大変だって?」
「うん」亘は素直《す なお》にうなずいた。安心してそうすることができる相手だ。そして亘も、ヘンに頑《かたく》なにならずに事実を認めることができるほどに強くなった。
「うちも、ホラ」
宮原は照れくさそうに鼻の下をこすった。
「親は再婚《さいこん》だから。いろいろゴタゴタしたんだよ」
妹の派手《は で 》な泣き声はおさまっている。二人でアサガオの根本にしゃがみこみ、何か掘《ほ》っているみたいだ。
「オレも……すごく嫌《いや》だと思ってた。そのころって」
「うん、わかる」
宮原は笑顔《え がお》になった。「だけど、今じゃそう悪くないよ。妹も弟も、可愛いし。うるさいけどさ」
今度は弟が泣きだした。チビちゃんに赤い如雨露で叩《たた》かれた。
「うん」と、亘は言った。胸が熱くなって、それ以上の言葉が出てこなかったのだ。
「だからさ」宮原は自分で自分にうろたえている。「何かその……なんていうか」
がんばれよ[#「がんばれよ」に傍点]。正しい言葉が見つかってほっとしたみたいな顔でそう言った。
「うん」
おにいちゃぁあああんと、弟たちが二人で泣きわめく。宮原はアアはいはいと、それでもやっぱり楽しげに、二人のそばに引き返していった。
それにしても、アサガオ、いったいいくつ咲いてるんだろ?
家へと引き返す道、亘は頭も心も真っ白で、何も考えていなかった。不在の芦川美鶴がつくった空白と、宮原がくれた温《ぬく》もりが、確かにそこにあるだけだった。
だから、どこを歩いているのかさえ意識していなかった。道の反対側から、首からラジオ体操の出席カードをぶらさげて、大あくびしながらカッちゃんがやって来る。それを見ていても、認識《にんしき》するまで時差があった。
「ふわわぁぁぁぁ──よう」
カッちゃんは亘に手を振る。オハヨウと言ったつもりであるらしい。
亘は足を止めた。その場で固まってしまってカッちゃんを見つめる。
小村君、転校生の芦川美鶴を覚えているかね?
「何だぁ? 朝からこんなとこで何してンの? ラジオ体操、こっちの方じゃないだろ?」
「カッちゃん」
「何だよ」
カッちゃんはひゅっと顎を引く。真面目《 マ ジ 》じゃん、三谷。朝っぱらから。
「鳥を逃がしてくれて、ありがとう」
「あん?」
カッちゃんの反応を見届けるまでもなかった。やっぱり、あの出来事も起こらなかったことになっているんだ。だって、時制からすれば、あれも未来の事だもんな。
「何でもないよ」と、亘は笑った。
「顔洗ってねえだろ? ていうか、寝てないような顔してんじゃん」
そうなんだと亘が答える前に、カッちゃんの賢《かしこ》い頭脳がくるくると働き、
「もしかして」と、心配そうな表情になった。「家で何かあったか? おじさんのことで」
カッちゃんには隠せない。でも、今この場で言って心配させることもない。もっと落ち着いてから話そう。
「カッちゃん」
「あ?」
「六年生の石岡って、どうしてるかな」
「石岡健児? あいつのこと?」
「うん」亘は言葉を選んだ。「記憶ソウシツとか……そういうことになってない? 行方《ゆくえ》不明になって、やっと戻ってきたと思ったら、魂《たましい》が抜《ぬ》けたみたいになっちゃってたとか」
カッちゃんは目を寄せて亘の顔を見た。それからずずいと近づいてきて、亘の鼻先で手をひらひらと振ってみせた。
「見えるか? これ、わかる?」
「わかるよ」亘は吹《ふ》き出してしまった。しかしカッちゃんは手を緩《ゆる》めない。
「おまえがゆうべ寝てないのは、『探偵《たんてい》メドウズ 消えた依頼人《い らいにん》』をやってたからだな? 推理アドベンチャーゲームとしては、シリーズ最高の傑作《けっさく》って言われてンだよ。ハマると徹夜は確実だってな。三谷クン、目を覚ましてくれ。オレたちの現実生活のなかには、失踪《しっそう》者なんか一人もいないぞ」
亘は笑い転げた。カッちゃんは亘をつかまえて、ミタニミタニしっかりしろと揺《ゆ》さぶった。笑いながら揺さぶり続けた。
「石岡は行方不明になんかなったことねえよ。記憶ソウシツにもなってねェ。けど、最近おとなしくなったって話、聞いたな。誰かがあいつをつかまえて、あの曲がった根性《こんじょう》を、ちょっと直してくれたのかもな」
それだけ聞けば、充分だった。
病院から連絡《れんらく》があったのは、その日の昼過ぎのことだった。そのころには千葉のお祖母ちゃんも来ていたけれど、亘はルウ伯父さんと二人で病院へ出かけた。
母さんの病室に入るときは、伯父さんも廊下で待っていてもらった。
母さんは泣いたし、亘も泣いた。母さんは謝り、亘も謝った。
だけど大切な言葉は、やっと二人の涙の波がおさまったころに、母さんの口からぽろりとこぼれ出た。
「意識を失っているあいだ、ずっとね……母さん、夢を見てた」
「どんな夢?」
それがねえ──母さんの瞳《ひとみ》を見るだけで、亘にはわかった。母さんが見ていた夢の欠片《かけら》が、そこに残っていたから。
「不思議な夢だったの。あんたの好きなテレビゲームそっくりの……別世界の夢だった。そのなかを、亘が旅をしているの。見習い勇者になって旅をしているの。大きなトカゲ男みたいな人と、ネコ耳の女の子と一緒に、楽しそうに旅をしているの」
「母さん、その旅がどんなものだったか、覚えてる?」
もしも覚えていなかったなら、僕が話して聞かせてあげる。残らず、すっかり話してあげる。そしてその旅から、僕が何を持ち帰ったのかも。
「覚えてる。何もかも覚えているわ」と、母さんは言った。「亘、あなたは立派な勇者だったよ」
「母さん」と、亘は言った。「それなら、僕らはもう大丈夫だね」
失ったものを嘆《なげ》いて自分を苦しめるよりも、今の自分たちを大事にすることができるよ。
「お父さんが……帰ってこなくても?」
母さんが小さく訊いた。
「うん」と、亘はうなずいた。「だって、世界はまだ残っているんだからさ」
僕の幻界。僕の現世。
母さんの瞳に、ミーナの青灰色の瞳が重なって見える。最後まで亘を励《はげ》ましてくれた、棘蘭《し らん》のカッツ≠フ黒い瞳がかぶる。
騎士《き し 》の礼で亘を見送ってくれた、ロンメル隊長の蒼《あお》い瞳が映る。
母さんは亘を抱《だ》きしめた。
それから数日後のことである。
母さんが退院してきたので、亘と二人、しばらく千葉のお祖母ちゃんの家に行くことになった。お祖母ちゃんは、邦子さんはホントは小田原の実家へ行きたいんじゃないのなんてスネていたけれど、
「今後のことを、お義母《か あ 》さんともゆっくり相談したいですし。お願いします」
母さんにそう言われて、ほっとして、険しい顔を緩めて、いそいそと先に帰っていった。
父さんからは、何度か電話があった。母さんは、かなり長いこと話し込んでいた。でも、もう泣いたり叫《さけ》んだりはしなかった。
亘は、僕は大丈夫だよと、父さんに言った。
「邦子さん、すまないね」
お祖母ちゃんがそんなことを言っているのも、ちらりと耳にした。
まず、カッちゃんに知らせなければならない。そして小村の小父《お じ 》さん小母《お ば 》さんが許してくれたなら、カッちゃんも後から千葉の家に遊びに来るのだ。ルウ伯父さんは、夏休みじゅういたっていいぞと言ってくれていた。
「そのかわり、二人にはうんと働いてもらうからな」
もちろん、カッちゃんは大喜びだった。
「だけどルウ伯父さんは手強《て ごわ》いよ。スイカ割りバトルをやらされるからね」
「そりゃ何だ?」
「スイカ割りなんだけど、棒を持って目隠ししてるのが一人じゃないんだ。全員なんだ」
「ゲゲゲ!」
小村家を出る間際《ま ぎわ》まで、亘はある場所へ、カッちゃんを誘《さそ》おうと思っていた。一人で行く勇気が出なかったのだ。
でも、それじゃねと別れる時になって、一人で行くべきだと心を決めた。
そして、大松さんの幽霊《ゆうれい》ビルに足を向けた。
あの場所がどうなっているのか、今までこの目で見る勇気がなかった。何も変わっていないのだろう。変わっているわけがない。でも、それを確かめるのが怖《こわ》かった。建築途中で放置された中途《ちゅうと》半端《はんぱ 》な鉄骨が、色褪《いろあ 》せた青いビニールシートに包まれて立っている。
「建築計画のお報《しら》せ」の看板が、雨ににじんだ文字をさらして傾《かたむ》いている。そんな光景を目にしたら、本当に本当にすべてが終わり、
──魔法《ま ほう》が解けてしまった。
それを実感することになるのが怖かった。
だから亘はゆっくりと歩いた。どうしても伏《ふ》し目がちにもなった。
それでも、音は聞こえた。
重機の唸《うな》りだ。目をあげると、ブルドーザーとクレーン車が、幽霊ビルの前の路上に頑張《がんば 》っているのが見えた。
ビニールシートが剥《は》がされ、幽霊ビルが裸《はだか》になっている。クレーン車のアームの先には、錆《さ》びかけた鉄骨がぶらさがっている。
お化けビルが解体されている。亘は駆け出した。
後ろからぽんと肩を叩《たた》かれたのは、あの鉄の階段、ラウ導師に出会った場所、亘を要御扉《かなめのみとびら》へと導いてくれたあの通路が、ビルの本体から取り外され、ゆっくりと運び去られてゆくのを見つめている時だった。
「やあ、三谷君」
振り返ると、大松社長がニコニコ笑って亘を見おろしている。
「こ、こんにちは」
「びっくりしたろう?」社長さんは、解体されてゆく鉄骨に向けて手を振った。
「取り壊《こわ》しちゃうんですね」
「うん。雨ざらしで、すっかり傷《いた》んでいたからね。いったん壊して、一から建て直すことになったんだよ。やっと資金の都合もついたし、今度こそいいビルを建てるぞ」
お化けビルは地上から消えるのだ。
視界が、ほんの少しだけにじんだ。たくましい重機の稼動《か どう》音が、亘のため息をかき消してくれた。
さようなら。
そのとき、大松社長がつと脇《わき》に寄り、親しげに身をかがめて、誰かに耳を寄せた。亘は、社長さんの隣に、社長さんの陰《かげ》に隠れるようにして、「誰か」がいることに気がついた。
「そんなに恥《は》ずかしがることはないだろう」
社長さんは嬉《うれ》しそうに笑い、その「誰か」の肩に手を回した。
「三谷君には、以前にも会ったことがあるんだよ。おまえは覚えていないだろうけれど」
大松香織だった。
車椅子に乗ってはいない。ほっそりとしたきれいな足。膝丈《ひざたけ》までの、袖《そで》なしの白いワンピース。肌《はだ》は眩《まぶ》しいほどに白く、ポニーテールにした艶《つや》やかな黒髪《くろかみ》が、夏の強い陽射《ひ ざ 》しを照り返している。
「最近、具合がよくなってきてね」
大松社長は、宝物に触れるように、そっと香織の肩を撫《な》でている。
「今日もちょっと散歩しようと思って出てきたんだ。ほら香織、コンニチハは?」
少女は魅入《み い 》られたように亘を見つめている。どこかで会ったことがあるけれど、どこだったのかは思い出せない。言葉を交《か》わした記憶《き おく》はあるけれど、その内容は忘れてしまった。
思い出そうとしてつかめないけれど、確かにわたしはあなたを知っている。黒い瞳がそう告げている。
もう薄れゆくだけの記憶だけれど。
「僕……」
魂《たましい》は、あなたのもとに還《かえ》っていた。ちゃんと、ちゃんと還っていた。
この肩に乗った、白い小鳥。
「僕、このビルのなかに忍《しの》び込んで、ひっくり返っちゃったことがあるんです。それで社長さんのうちで介抱《かいほう》してもらったんです」
気がついたら、ぺらぺらしゃべっていた。自分の声じゃないみたいだった。
大松社長は笑った。「そうそう、そんなことがあったんだ」
亘はただ、大松香織を見つめていた。香織も亘を見つめていた。
「こんにちは」と、彼女は言った。
わたくしにあなたの退魔の剣をください。あのときの声だった。華奢《きゃしゃ》な手を亘に差しのべた、あのときの姿だった。
この腕が、幻界を去る亘を慰め励まし、温かく抱きしめてくれたことを、けっして、けっして忘れはしない。
あなたは僕の運命の女神でした。
「初対面の挨拶《あいさつ》ってわけだ。あらためてよろしくな、三谷君」
大松香織は父親を振り仰ぎ、まぶしそうに笑った。その笑顔は、真夏の太陽よりも明るく、大松社長の顔を照らしている。
「こんにちは」と、亘も言った。
ヴェスナ・エスタ・ホリシア。
再びあいまみえる時まで。
幻界に、現世に。
人の子の生に限りはあれど、命は永遠なり。
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[#地付き]*本作は、学芸通信社の配信により、大分合同新聞(一九九九
[#地付き] 年十一月十一日〜二〇〇一年二月十三日)、名古屋タイムズ、
[#地付き] 京都新聞、中国新聞、信濃毎日新聞、徳島新聞、高知新聞、
[#地付き] 北日本新聞などに順次、連載されたものに大幅加筆したも
[#地付き] のです。
[#地付き]*この作品はフィクションです。
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ブレイヴ・ストーリー 下
平成十五年三月十日 初版発行
著 者 宮部みゆき
発行人 福田峰夫
発行所 株式会社 角川書店
平成十八年九月八日 入力・校正 ぴよこ