ブレイブ・ストーリー 上
宮部みゆき
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小舟町《こふねちょう》のさ、三橋《みはし》神社の隣に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)かすがい[#「かすがい」に傍点]
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ブレイブ・ストーリー 上 目次
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第一部
1 幽霊ビル 8 現実問題
2 静かな姫君 9 戦車が来た
3 転校生 10 途方にくれて
4 見えない女の子 11 秘密
5 事件の影 12 魔女
6 扉 13 幻界《ヴィジョン》へ
7 扉の向こう
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第二部
1 番人たちの村 11 現世《うつしよ》
2 おためしのどうくつ 12 ミーナ
3 見習い勇者の旅立ち 13 マキーバの町で
4 草原 14 スペクタクルマシン団
5 交易の町・ガサラ 15 キャンプ
6 高地人たち 16 リリス
7 見捨てられた教会 17 町と聖堂
8 死霊 18 ミツルの消息
9 脱出 19 魔病院
10 第一の宝玉 20 ミツル
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|ブレイブ・ストーリー《BRAVE STORY》 上
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[#地付き]汝《なんじ》は選ばれた。道を踏《ふ》み誤《あやま》ることなかれ。
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1 幽霊ビル
最初はそんなこと、誰《だれ》も信じていなかった。少しも信じていなかった。噂《うわさ》はいつだってそういうものだ。
あれは新学期が始まったばかりのころだったろうか。いちばんはじめに言い出したのが誰だったのか、今となってはわからない。噂はいつだってそういうものだ。
それでもみんな、自分が聞いたことはちゃんと覚えている。どこの誰から聞かされたのかも覚えている。それなのに、たどっていっても出発点がわからない。噂はいつだってそういうものだ。
「小舟町《こふねちょう》のさ、三橋《みはし》神社の隣にビルが建ってるだろ? あすこに幽霊《ゆうれい》が出るんだってさ」
三谷《みたに》亘《わたる》の場合、そんなふうに教えてくれたのは、居酒屋「小村《こむら》」のカッちゃんだった。克美《かつみ》という名前は、彼が生まれるずっと前から決められていたもので、両親は女の子を期待していたし、超音波《ちょうおんぱ》検査でも、小村さんのおなかで育っていのは女の子だと、産婦人科の先生は言っていた。ところが十一年前の四月九日、予定日より一週間も早く生まれてきたのは元気な男の子で、その大きな泣き声には、産院の誰もが廊下《ろうか》の反対側からでもすぐに聞き分けられるようになってしまったくらいの特徴《とくちょう》があった。ちょっぴりしゃがれ声だったのだ。
「父ちゃんがさ、オレって母ちゃんの腹のなかでタバコ吸ってたんじゃねえかって言うんだ」
ついでに言えば、小村克美君は顔色も浅黒い。これも赤ん坊《ぼう》のころからだそうで、ひょっとすると小母《おば》さんのおなかのなかで、タバコ吸いながら潮干狩《しおひが》りなんかしてたのかもしれない。コイツならそれくらいのことはあっても不思議はないと亘は思う。なにしろ、お揃《そろ》いの黄色い帽子《ぼうし》をかぶって城東《じょうとう》第一小学校へあがったその年の十二月、教室があんまり寒いからといって、火力の落ちた古い石油ストーブにぴったりとへばりつき、先生が教室に入ってきてからもそのままへばりついていて、席に着きなさいと叱《しか》られると、
「オレにはかまわないでいいスからチャッチャッとやってください、チャッチャッと」
と、愛想《あいそ》良く言い放ってしまったというコドモである。亘はその現場を目《ま》のあたりに見て、あまりにおかしかったので家に帰って話したのだが、聞いた方はてっきり作り話だと思ってしまったのも無理はない。このエピソードは伝説化しつつあり、亘たちが五年生になった現在でも、冗談《じょうだん》混じりに、
「小村、宿題はチャッチャッとやってるか?」なんて言う先生がいるほどだ。
亘に噂話を教えてくれたときのカッちゃんの声も、いつもながらにしゃがれていた。ちょっぴり興奮しているのか、ユーレイ≠ニ発音するときにはそこが裏返った。
「カッちゃんはユーレイ話好きだからなぁ」
「オレだけじゃないって、みんな言ってるって。夜中にあそこを通りかかって、バッチリ目撃《もくげき》しちゃったヤツもいてさ、あわてて逃《に》げ出したら追いかけられたんだって」
「どんな幽霊なのさ」
「ナンカじいさんらしい」
老人の幽霊というのは珍《めずら》しくないか?
「どんな格好してンの」
カッちゃんはごしごしと鼻の下をこすると、しゃがれ声を低くした。
「マント着てるんだって。真っ黒なマント。すっぽりと、こう」
と、頭から何かかぶる仕草をした。
「それじゃ顔見えないじゃんか。なんでじいさんだってわかるんだよ」
カッちゃんは顔をくしゃくしゃにした。スーパーや駅で、たまにカッちゃんが小村の小父《おじ》さんと連れだっているのに行き合うと、小父さんもちょうどこれと同じような顔をして、「よ、元気か?」と声をかけてくれる。
「わかるもんはわかるんだよ。そういうもんだろ、ユーレイは」
カッちゃんは言って、ニッと笑った。
「おまえってヘンなとこマジメでカチカチね。やっぱ鉄骨屋の息子《むすこ》」
亘の父の三谷|明《あきら》は製鉄会社に勤めている。製造業のなかでも製鉄や造船は、基幹産業としての役割が縮小してくるにつれて、本業以外のいろいろな分野に手を広げて会社の活性化を図らずにはいられなくなって、だから今年三十八歳になる明も、製鉄の現場には、新入社員のころのごく短期間しかいたことがない。以来ずっと企画研究や広報の担当部署を回っていて、現在はリゾート開発専門の子会社に出向している。それなのにカッちゃんは、製鉄会社というだけで「鉄骨屋」と呼ぶのだ。幼稚園《ようちえん》のときからの付き合いなのだから、いい加減で覚えてもらいたいものである。
それでも確かに亘には、頭の固いところがある──らしい。理詰《りづ》めでないと納得《なっとく》しないところもある──らしい。本人はほとんど自覚していないが、そう指摘《してき》されることは少なくない。そしてこの性質は、明らかに父親|譲《ゆず》りのものであるらしい。最初にそのことをズバリと口に出したのは房総《ぼうそう》にいる父方の祖母で、今から三年ほど前のことだった。夏休みに帰省して、海でさんざん泳いだ後、身体《からだ》が冷えているからかき氷なんか食べてはいけないと小言を言われて、口答えしたのがきっかけで喧嘩《けんか》になった。そのとき、
「まあまあ、この子も明とそっくりだ。口が減らないね。これじゃ邦子《くにこ》さんもえらい苦労だよ」
千葉のお祖母《ばあ》ちゃんはそう言ったのである。
このとき、亘の母親でありお祖母ちゃんにとっては「嫁《よめ》のクニコ」である三谷邦子は、全然聞こえないフリをしていた。
「お母さんが千葉のお祖母ちゃんに、あんな同情的なことを言ってもらうのって、結婚《けっこん》十年にして二回目ぐらいかなあ」
母は後でそんなことを言っていた。なんでお祖母ちゃんと喧嘩したのと尋《たず》ねるので、
「海水浴の後でかき氷を食べちゃいけないっていうのなら、じゃあなんでお祖母ちゃんとこでかき氷売ってるんだって訊いたんだ」
答えると、母は声をたてて笑った。三谷明の実家は房総半島の大浜という海水浴場で飲食店を経営しており、海の家の経営権も持っているのだ。いちばん忙《いそが》しい時期には、お祖母ちゃん自身がかき氷をつくったりしているのである。
「あんたの言うことはもっともよ」
亘の頭をするするっと撫《な》でて、邦子は言った。「だけどあんたが理屈《りくつ》っぽいっていうのも確かね。お父さんの頭を継《つ》いだのね」
当の明は、後日この話を聞かされて、そういうのは子供の減らず口というのであって、理屈を重んじて筋の通らないことを嫌《きら》うのとはまったく違うと、いささか不機嫌《ふきげん》な顔をしたそうである。その機嫌の損《そこ》ね方もまた理詰めだと、まあ言えなくもない。
とにかく、そういう性分《しょうぶん》の亘に言わせると、そのユーレイとやらの噂話には、ヘンテコなところがたくさんあった。
そもそも、問題の三橋神社隣のビルというのは、正確には建築中のビルで、まだ落成してはいない。亘の通学路のちょうど中間あたりにあるので、毎日往復そこを通りかかる。だからよく知っている。噂では、その点がまず不正確だ。
実を言えはこのビル、ずっと建築中のままなのだ。工事が始まったのは、亘が二年生から三年生になる春休みのことだったから、もう二年以上も前のことである。地上八階建ての鉄骨か組み上がり、全体が青いビニールシートで覆われるところまでは順調に進んだようなのだが、そこから先はぴたりと作業が止まってしまった。亘が気がついた限りでは、作業員が姿を消し、作業用の重機も出入りしなくなってしばらくして、青いシートが掛《か》け替《か》えられた。その際に、そこに印刷されている工務店の名前も変わった。
ところが邦子の話では、そのあともう一度、シートが変わったという。そのときもやはり工務店の名前が変わった。だがそれ以来は何の変化もなく、中途《ちゅうと》のビルはビルになり損ねた青いほおかむりのまま、周囲の家々を見おろして寒そうに立っている。正面に掲《かか》げられていた「建築計画のお知らせ」看板も、あるときから見えなくなってそれきりだ。
「施工主《せこうぬし》と工務店とのあいだでイザコザでもあって、作業が止まっちゃってるんじゃないか? そんなに珍しいことじゃないよ、昨今は」
父がそんなことを言うのを耳にして、フーンと思ったきり、亘も忘れていた。ところがその後、邦子がいろいろ訊いてきたのだ。
三谷家は、世帯数三百戸近い大型|分譲《ぶんじょう》マンションに住んでいる。亘が生まれてすぐに購入《こうにゅう》し、引っ越してきた。近所付き合いの煩《わずら》いを嫌ってマンション住まいを選んだ三谷夫妻だが、小さな子供がいれば、その子供を通じた付き合いぐらいは生じてくるものだ。亘もマンションのなかで仲良しの友達が数人できた。一緒《いっしょ》に幼稚園のお迎《むか》えバスにも乗った。邦子も母親同士の友達の輪をつくった。そうしてできたご近所仲間のなかに、地元の不動産会社の社長夫人がいて、地域のことにはいろいろ詳《くわ》しく、ある日立ち話のついでに、三橋神社隣の気の毒なビル≠フ詳細《しょうさい》について教えてくれたのだった。
「あたしずっと気になってたんだけど、あのビルは三橋神社のものじゃないのよ」
三橋神社は地元では歴史が古く、江戸時代の古地図にも載《の》っているくらい由緒《ゆいしょ》正しいところなのだそうだ。
「敷地《しきち》だってすごく広かったでしょ? それでやっぱり、維持《いじ》していくのが大変なんだって。でね、古くなった社殿《しゃでん》を改装工事する時に、空いてた土地を売ったんだって。あのビルは、そこに建ってるのよ。だから持ち主は神社じゃないの」
土地を買い、そこにビルを建てたのは、神田《かんだ》の方に本社のある「大松《だいまつ》ビル」という賃しビル会社だという。ほかにも都内のあちこちに物件を持っていて、神社が取引するくらいなんだから堅《かた》い会社なのたろうが、大手ではない。大松三郎という古めかしい名前の社長さんが一人で切り盛りしている個人会社だそうである。
亘たちが住むこの地域は、東京でも東側のいわゆる下町地区だ。昔は町工場ばかりだったところだけれど、実は都心までの通勤時間が三十分内外という足の便の良さがあって、ここ十年ほどで急速にマンション開発が進んだ。それにつれて町の姿も変わった。やはり土地っ子である社長夫人は、「まるで町全体が玉の輿《こし》にでも乗ったみたいよ。あか抜《ぬ》けちゃって」と表現している。
亘の父は千葉の生まれだし、母の実家は小田原《おだわら》だ。だから、土地の人たちの感じるところを百パーセント理解することはできないけれど、それでも「にぎやかだけど住み易《やす》い町だ」というぐらいの実感はある。ニョキニョキと立ち並ぶ新しいマンションの売出価格が、都内で人気の地域のそれと比べても遜色《そんしょく》ないということも、広告を見るだけでよくわかる。だから、三橋神社の隣に土地を買って貸しビルを建てるというアイディアも、悪くないという感じがする。事実「大松ヒル」は、結構なお金を支払《しはら》ったらしいのだ。
「お隣が神社だから、テナントは何でもいいってわけにはいかないわよね。あそこは商業地区だけど、すぐ後ろは第一種住居専用地域だし」
邦子は社長夫人に教えてもらった覚えたての言葉を使って説明した。
「それでも、喫茶店《きっさてん》とか美容院とか学習|塾《じゅく》とか、テナントはいろいろ見込めたらしいの。上の方は賃貸《ちんたい》マンションにする予定だったそうだし。ところがね──」
鉄骨が組み上がってまもなく、最初に施工を請け負っていた工務店が倒産《とうさん》してしまったのである。「大松ビル」では急いで次の請負先《うけおいさき》を探したが、こういう仕事を中途から引き継ぐと、作業が普通《ふつう》より倍も面倒《めんどう》になるらしく、それだけお金もかかるわけで、なかなか折り合う条件のところが見つからなかった。そこで二ヵ月ほどのブランクがあったが、やっとなんとか新しい工務店を見つけて、仕事を続けてもらえることになった。このとき、青いビニールシートが替えられたのだった。
「で、新しいところが来たんだけど──」
なんと、ほんの数ヵ月で、今度はそこがまた倒産してしまったのだという。
「大松の社長さんも困り果ててね。あっちこっち奔走《ほんそう》して、工務店を探したわけよ。それで三つめの会社が見つかったんだけど、そこは今までのふたつよりも小さいところで、社長さんが何から何まで切り盛りしててね、そういう点では大松ビルとよく似てて、いやぁ気の毒に大変ですねって感じで、なんていうのかしら、意気に感じてっていうか、人助けっていうか、とにかくそれで契約《けいやく》してくれたんだそうよ」
ところが本契約の三日後、その工務店社長が急死した。脳卒中だったそうだ。
「小さい工務店だから、社長抜きじゃ動きがとれないわけよ。跡継《あとつ》ぎもいない。社長の息子さんはまだ大学生なんですって。結局、施工の契約も反古《ほご》になっちゃって、ビルはまた立ちんぼう」
そして現在に至るという事情なのである。
「大松の社長さんも必死で新しい工務店を探して──まあ、伝《つて》もあるでしょうからね。それにこの不景気でしょう、引き受けてくれそうなところが見つからないわけじゃないんですって。たけど、経営が苦しくて、そういう仕事に飛びついてくるようなところに頼《たの》んで、ちょっとのあいだにまた倒産されたんじゃ、また時間もお金も無駄《むだ》になるわけよね。それに、建築の世界って、ホラ家相とかそういうのだってあるくらいだから、やっぱりまだまだいろいろと縁起《えんぎ》を担《かつ》いだりするらしいの。それで、大松さんのあの貸しビルは験《げん》が悪いって評判が立っちゃって、嫌《いや》がられてね。なかなか話がまとまらないんだってよ」
日々、登下校の途中で観察するだけでも、中途のまま放置されたこの不運なビルの状態が目に見えて悪くなってゆくことは、よくわかった。コンクリートは乾《かわ》いてひび割れ、鉄骨は雨ざらしで汚《よご》れている。シートの足元には、心ない人が捨てていくゴミがいっぱい散らばり、犬や猫《ねこ》のフンもそこかしこに落ちている。
春先には、強風に煽《あお》られてシートが一枚外れてしまい、以来、支柱の鉄骨の一部と、二階にあがる鉄製の階段のちょうど踊《おど》り場あたりのところが、道ばたからもよく見えるようになった。それでも、通行人がシートの内側の様子を窺《うかが》い知ることができるのはその場所からだけだから、問題のユーレイは、たぶんそこに出没《しゅつぼつ》するのだろう。
いったいどこの誰の幽霊だというのだ。老人の幽霊だというのだから、これまでの不運な事情を聞いて、そのうえで思い当たるのは、工事を引き受けながら脳卒中で亡《な》くなった三番目の工務店の社長ぐらいのものだ。だけどフードをかぶっているって? 工務店の社長さんがそんな格好をするだろうか。百歩譲って、その社長さんが生前フード付きのコートを愛用していて、だからそれを着用した姿で幽霊となっているのだとしても、じゃあ何で出てくるのだ? 工事の行方《ゆくえ》が心配だから? 契約していながら仕事にとりかかることさえできなかったので、申し訳ないと思って? ずいぶん律儀《りちぎ》な話だ。それに、同じ業界人なのたから、自分が幽霊になって出たりしたら、縁起を担ぐ建築屋さんたちがますます工事の続きを引き受けてくれなくなって、かえって大松の社長さんを困らせることになるとわからないはずはないだろう。
そんなふうに思っていた今日の休み時間のことだ、またぞろ幽霊話が話題になったから、亘は自分の意見を述べた。するとクラスメイトの女の子たちは、あのビルに出るのはジバクレイ≠ネのだと言った。
「交通事故とかで死んだ人の霊が、あの場所から離《はな》れられなくて憑《とりつ》いてるのよ」
しかしそれもヘンな話じゃないか。ビルの在る場所は、ちょっと前までは神社の敷地のなかだったのだ。交通事故なんて起こるわけかない。
「じゃあ神社の境内《けいだい》で自殺した人がいたのよ、きっと」女の子は言い返した。「その人の霊か迷ってるのよ」
「あたし前から、あの神社へ行くと背中がすうっと寒くなって、足がガタガタしてしょうがなかったの。フキッな感じっていうの? そういうのを感じて」別の女の子が言う。また別の女の子が「そうそう、あたしも」としきりにうなずく。
「ホントに境内で自殺した人がいるのかとうか、確かめたのかよ」亘は彼女たちに尋ねた。「神主《かんぬし》さんに訊いてみたのかよ?」
女の子たちは色めきたった。
「バカみたい!」
「そんなことするわけないじゃない!」
「なんであたしたちがそんなこと訊きに行かなきゃならないのよう」
「あんな神社に近づくだけで気味悪いのに」
亘は負けずに言い張った。「だけど、それじゃ事実がわからないじゃないかよ」
最初の女の子が口を尖《とが》らせた。「あそこに幽霊が出るってことは、あそこにジバクレイがいるっていうことなのよ。何よ、事実なんて言ってイバッちゃって。だから、みんな三谷なんか大嫌いなんだよ! リクツばっかり言うんだもの」
「そんなこと言って霊とかバカにしてると、あんた、いつかきっと呪《のろ》われるわよ」
「イヤな奴《やつ》!」
女の子たちはプンプンして、それぞれの席に戻《もど》っていってしまった。亘はさすがにショックを受けて、黙《だま》って机に向かっていた。どんなに向こうの言っていることが筋が通らないと思っても、「みんなあんたなんか大嫌いなんだ」と言い放たれてはかなわない。心に斧《おの》を打ち込まれたようなものだ。
帰り道、カッちゃんと並んで歩きながら、何を話しかけられても、昨夜、サッカーの日本代表チームがアウェイでイランの代表チームと互角《ごかく》に戦ったという心はずむ話題を振《ふ》られても、ほとんどおしゃべりする気分になれなかったのも、休み時間の悶着《もんちゃく》が尾《お》を引いていたからだった。一方のカッちゃんは一人で盛りあがっており、やっぱりヒデは凄《すご》いぜとかオノはカッコいいぜとか、宙に向かって拳《こぶし》をぶんぶん振り回しながら力説している。昨夜の試合を見ていなかった人でも、カッちゃんの演説をひととおり聞けば、試合経過がばっちりよくわかることだろう。
二人は問題のビルの近くにさしかかった。普段なら、カッちゃんはこのひとつ手前の角で右に曲がってバイバイする。今日はサッカーの再現|実況中継《じっきょうちゅうけい》解説付きに夢中になるあまり、帰ることを忘れているらしい。
「ねえ、カッちゃん」
亘が声をかけると、ヒデが前半三十二分に通したスルーパスの角度について、ボディアクション添付《てんぷ》で説明していたカッちゃんは、片足をあげたま肩《かた》ごしに振り返った。
「あん? 何?」
「ここなんだよな……」
亘はシートに覆《おお》われたビルを見あげた。鉄骨でできた空っぽの細長い箱が、ボロボロの布をかぶってしょんぼりしている。今日はまた五月晴《さつきば》れ、空が真っ青だから、薄汚《うすよご》れた青いビニールシートがなおさらに惨《みじ》めで悲しそうだ。見捨てられて寂《さび》しそうだ。
「何だよ、真面目《まじめ》な顔しちゃって」カッちゃんは体勢を立て直し、亘の顔をのぞきこんだ。
「オレ、確かめてみたいんだ。本当に幽霊が現れるのかどうか。現れるならどんな幽霊なのか」亘の言葉に、カッちゃんはちょっと呆気《あっけ》にとられたように目をパチパチさせた。それから、亘に倣《なら》って骨晒《ほねさら》しのビルを仰《あお》いだ。しばらくのあいだそうしていたが、亘が何も続けて言わないので、頭をかいて振り返った。
「どうやンの?」
「夜、張り込む」亘は言って、早足で歩き出した。「カッちゃんとこ、でっかい懐中《かいちゅう》電灯があるよな? あれ、貸してくンない?」
カッちゃんは走って追いついてきた。「いいけど、あれって持ち出すのメンドウなんだ。非常用だって、オヤジが怒《おこ》るから」
カッちゃんの父親の小村の小父さんは神戸の生まれである。もう東京に出てきてからの年月の方が長いし、カッちゃんもこちらで生まれたのだが、それでも故郷を襲《おそ》った大震災《だいしんさい》は、小父さんの心に大変な衝撃《しょうげき》を与《あた》えた。小村家の防災対策は、ひょっとしたら都庁あたりを凌駕《りょうが》するくらいの万全《ばんぜん》さである。
「そんならいいや」亘はますます早足になって、背中で言った。「自分で都合する」
「待てよ。いいよ、持ち出してやるよ」
カッちゃんは少しあわて始めた。亘があまりに思い詰めているからだろう。
「おまえ、どうかしたの? なんでユーレイなんかにそんなにこだわるんだよ」
こだわっているのは幽霊じゃない。女の子たちに「大嫌いだ」と言われたことだ。「理屈ばっかり言う」のが、そんなに悪いことなのか知りたいだけだ。だって亘は、彼女たちの話のツジツマがあわなくておかしいから、自然に浮かんできた疑問を口に出しただけだったのだから。
たとえ正しいことでも、みんなが信じてないことは言っちゃいけないのか? みんなが気持ち良くウソウソとうなずいてくれないことは、ぐっと黙って呑《の》み込まなきゃいけないのか? そうでないと嫌われて、女の子たちにも相手にしてもらえなくなるのか?
だけどそんなこと、カッコ悪くて言えなかった。だから亘は黙ったまま、怒ったような顔をして歩き続けた。
「何時だよ」後ろからカッちゃんが言った。「おい、返事しろよ」
亘は立ち止まった。「何時って?」
カッちゃんは、空に浮かんだ見えないサッカーボールを蹴《け》るみたいに、ぽんと右足を突《つ》き出した。
「張り込みだよ。付き合ってやるよゥ」
自分でも恥《は》ずかしくなるくらいに、亘は嬉《うれ》しかった。「やっぱり、真夜中だろ」
「十二時かぁ」カッちゃんは笑った。「オレんとこは宵《よい》っ張《ぱ》りの商売だからいいけど、おまえ、家《うち》を抜け出せンの?」
言われてみればそのとおり、亘には、午前|零時《れいじ》近くになって家を抜け出すなんて、現実にはほとんど不可能なのだった。
亘の家は父と母と亘の家族三人だが、一年のうち二百日ぐらいは、母と二人暮らしのようなものだった。父の明は帰宅時間が遅《おそ》いし、休日もなんだかんだと外出ばかり。リゾート開発に関《かか》わるようになってからは長期の出張も増えて、一ヵ月のうち半分も家にいればいいくらいだというような忙しさだ。だから、明は今まで、亘の日曜参観や運動会に来てくれたことが一度もない。いつも直前までは何とかして行くと約束してくれるのたが、その約束が果たされることはなかった。
まあ、日曜参観なんてどうでもいい。そんなことをいつまでもグズグズ気にしているほど、亘は赤ちゃんではないのだ。父さんは忙しいのだし、仕事の約束は守らなくてはならない。それよりも、目前の問題は、今夜も百パーセント確実に、父親の帰りは真夜中過ぎになるだろうということた。そしてその父を、母は起きて待っているだろうということだ。編み物をしたり、雑誌を読んだり、深夜のテレビに面白《おもしろ》いものがないと、レンタルビデオを借りてきて観《み》ていることもある。帰宅した父を風呂《ふろ》に入れ、夜食を食べさせ、その片づけを済ませてからでなければ、母は絶対に寝《ね》ない。どうやってその目をごまかし、外出することができるだろう。
夕食を食べなから、亘は奇跡《きせき》を願った。今日に限って父親の帰りが早くて、くたびれたとか言って、両親共早々に床についてはくれないものか。二人が寝静まってからなら、足音を忍《しの》ばせて外へ出ることもできる。万にひとつ、部屋をのぞかれたときの用心に、クマのぬいぐるみを布団《ふとん》の下に隠して替え玉にしておけばいい。明が昨年の暮れ、会社の忘年会《ぼうねんかい》の抽選《ちゅうせん》で当ててきたのだが、一秒の百分の一のあいだも亘の関心を引くことのなかったぬいぐるみ君にも、それでやっと活躍《かつやく》の場ができるだろう。
しかし現実はあくまでも現実だった。いつものように母さんと二人で夕食を食べ、宿題をちゃんとやりなさいよ、今日返してもらってきた作文は、文章や内容よりもまず先に漢字の間違いが多すぎるわねと小言を言われ、一時間ほど机に縛《しば》りつけられて、そのあと風呂に入って、出てきたら「小村君から電話があったよ」と言われた。
「急ぎの用じゃないみたいだったし、明日学校で話してねって言っておいたから。前にも言ったけど、母さんは、小学生の子供が夜も九時を過ぎてから電話のやりとりをすることには反対です」
母さんは腰に両手をあてていた。
「小村君のお家は水商売だから、また考え方が違うんでしょうけどね」
母さんのこういう台詞《せりふ》を聞かされると、亘はいつも(ナンだよコンチクショウ)という気分になった。それは胸の隅《すみ》っこのいちばん皮の薄い部分を、爪《つめ》の先でチクンとつねられるような感じだった。そんなに目を吊《つ》りあげなくても、母さんがカッちゃんをよく思っていないことはわかっている。小村の小父さん小母さんを嫌っていることも知っている。どうしてかと言ったらそれは小村の家が居酒屋で、「教養がなくて下品で、良くない人たちが出入りする家」だからなんだろう。
だけどカッちゃんは、亘にとっては友達なのだ。
小村の小父さんは、確かに品が悪いかもしれない。校庭開放の当番に酔《よ》っぱらって赤い顔をして来て、先生に注意されたことがある。小母さんは化粧《けしょう》が濃《こ》いので、商店街の反対側にいたって、匂《にお》いですぐわかる。カッちゃん本人が、うちのオフクロは顔がでかいし厚塗《あつぬ》りするから、ファンデーションとかいう肌色《はだいろ》のクリームが普通の人の倍かかるんだ、だから化粧品屋のお得意なんだと笑っていたことだってある。だけど亘は小父さん小母さんが嫌いじゃない。運動会に来れば、二人とも亘のことまで応援《おうえん》してくれるし、三年生の春の参観日に、たまたま亘が算数でちょっと難しい問題を解いたら、小父さんは大声で「おお、偉《えら》いぞ!」と努めてくれて、みんなにクスクス笑われても、全然気にしなかった。亘はそんなふうに手放しで褒めてもらったのは初めてだったから、その日のことは、土くれに混じって光る色ガラスの欠片《かけら》のように、ずいぶん長いこと心のなかで輝《かがや》いていた。
母さんが小村の人たちを軽蔑《けいべつ》したような目つきをするとき、すぐに言い返そうと思うのだけれど、言葉はいつも、喉《のど》の真ん中あたりでしょぼしょぼと消えてしまう。そうすると、小村の小父さん小母さんを、ひいてはカッちゃんを裏切っているような気分になる。それなのに反論できないのは、心のどこかで、母さんの言うことには一理あると認めているからかもしれない。「小村」に出入りするお客さんたちを、亘は詳しくは知らないけれど、カッちゃんから話を聞くだけでも、父さんの会社の人たちとは、ずいぶん性質の違う人たちの集まりだと感じる。進んで居酒屋の主人になりたいかと問われたら、かぶりを振るだろう。まだ具体的には言えないけれど、将来は大学で何か研究する人か、弁護士になりたいと考えているから。いろいろな言葉を使うけれと、結局母さんは三谷家と小村家は仲間ではないと言っているのであり、亘にもそれは理解できるのだ。カッちゃんの電話は、今夜本当に抜け出せるか、確かめるためのものだろう。三谷家の電話はリピングにあるだけなので、こっそりかけることはできない。ひどく後ろめたい気がして、亘は惨めになった。
──いくじなしなんだ、オレは。
机に両肘《りょうひじ》をついて顎《あご》を載せ、机の正面に貼《は》られた時間割をぼんやりと眺《なが》める。明日の一時間目は国語だ。確かまた作文を書かされるんじゃなかったっけ。カッちゃんは作文が大の苦手で、いつも亘にいろいろ尋ねてくる。
だけどもしも今夜すっぽかしてしまったら、明日は怒ってそっぽを向いているだろう。当然だ。
「大丈夫《だいじょうぶ》よ、そんなことないわよ」
突然《とつぜん》、背後で誰かがそう言った。甘い女の子の声だった。
亘はぎょっとして飛びあがった。はずみで椅子《いす》がギシッと鳴った。振り返ったけれど、六|畳《じょう》の広さの子供部屋には、もちろん誰もいるはずがない。去年の夏、一学期の成績が思いがけないほど良かったので、ねだりにねだって買ってもらった十四インチのテレビも、今はスイッチを切ってある。
しばらくあたりを見回してから、亘は視線を前に戻し、椅子に座り直した。ぼんやりしているうちに、居眠《いねむ》りしたのだろうか。そういう時に見る夢はすごく鮮《あざ》やかで、現実と見分けがつきにくいものだって、このあいだテレビで学者の先生が説明していた。
ところが、同じ声がまた話しかけてきた。
「今夜出かけられるわよ。だから今のうちに、ちょっと眠っておいた方がいいわよ」
今度こそ亘は椅子から転がり落ちた。素早《すばや》く体勢を立て直して、目が回りそうな勢いで部屋中を見回した。青いチェックのカバーをかけたベッド。参考書や童話の本の後ろにマンガを隠してしまってある本棚《ほんだな》。テレビの脇《わき》のゲーム機には、花模様のハンカチがかぶせてある。亘はテレビゲームが大好きなのだけれど、母さんが許してくれるソフトでしか遊ぶことができないので──買うのはもちろん、借りることにも母さんの許可がいる──放《ほう》っておくとゲーム機はすぐに埃《ほこり》だらけになってしまうのだ。足元のカーペットは椅子のキャスターがあたるところだけ擦《す》り剥《む》けて、亘が脱《ぬ》ぎ捨てたスリッパが机の後ろの方に転がっている。
誰もいない。亘以外には誰も。
「あたしのこと探しても、見えないわよ」
女の子の声が、亘の頭のなかに響《ひび》いてきた。「今はまだ、ね」
心臓がバクバクする。パックマンみたいな形になっちゃってるんじゃないか?
「た、だ、誰?」
亘は声に出して、見慣れた部屋の嗅《か》ぎ慣れた匂いの少し埃っぽいような空気のなかに問いかけた。囁《ささや》くような声だった。誰もいないところに話しかけるなんてバカだ。頭のなかで声がするなんておかしい。だけど、うんと小さな声を出すならば、そんなふるまいをすることに対する恥ずかしさも、少しは目減りするというものだ。
「さあ、誰でしょう?」
見えない女の子の声は楽しそうに笑った。
「そんなことより、早くお布団に入りなさい。夜遊びするんだから、眠っておかないとダメ。明日学校に遅刻《ちこく》しちゃうよ」
瞬間《しゅんかん》的にさまざまな判断が入り乱れた。その数といったら博物館で見た進化の系統樹の枝分かれした数よりも多いくらいだったけれど、亘はいちばん子供らしいものを選んだ。部屋を飛び出したのだ。
「なあに、とうしたの?」
邦子は台所のテーブルについて、リンゴを剥《む》いていた。
「ひとつ食べる? 食べたら歯を磨《みが》いて、もう寝る時間よ」
へなへなと腰が抜けそうになって、亘は柱につかまった。
「あら嫌だ、顔色が悪いじゃないの」邦子は言って包丁をテーブルの上に置き、ちょっと首をかしげて亘を見た。「そういえば今朝ちょっと咳《せき》をしてたでしょ? 風邪《かぜ》をひいたのかしらね」
亘が返事をしないので、母は立ちあがって近づいてきた。亘の額に冷たく滑《なめ》らかな手が触《さわ》った。
「熱はないみたいだけど……冷汗《ひやあせ》をかいてるの? 気持ち悪いの? 吐き気がする?」
ううん大丈夫お休みなさいというようなことを、亘は口にしたらしい。フラフラしたまま部屋に帰ってドアを閉め、よりかかった。背中に響くノックの音がした。
「亘? ちょっとどうしたの? 本当に大丈夫なの? ねえ」
「平気だよ、具合なんか悪くない」
何とか気を取り直して、亘は答えた。母に何か説明することを考えると、もっともっと面倒で混乱しそうだった。
やっとノックの音が止《や》んだので、ドアを離れてベッドの上に転がった。あまりに動悸《どうき》が激しくて息が苦しく、本当に目が回ってきた。
「ごめんね、可哀想《かわいそう》に」女の子の声がまた聞こえてきた。「驚《おどろ》かすつもりはなかったの」
亘は両耳を両手で塞《ふさ》いで、ぎゅっと目を閉じた。そのまま気絶するみたいにして、周りが暗くなるのに任せた。
そんなつもりはなかったのに、眠ってしまったらしい。暗闇《くらやみ》のなかから飛び出すようにして目を覚ますと、ベッドの脇の目覚まし時計は十一時五十分を指している。亘はがばっと起きあがった。短いあいだでも服を着たまま眠ったせいで、ちょっと汗っぽい感じがして、だけどちょっと寒かった。
そっと部屋のドアを開けて、台所をのぞいた。テレビがついていて、ニュースショウをやっている。母さんがいつも観ている番組た。
しかし、当の本人は眠っていた。台所のテーブルに伏《ふ》して、スヤスヤと寝息をたてて。
お化けビルから一区画南側にある公園の入口のところ。待ち合わせ場所に、カッちゃんは先に来ていた。カッちゃんはたいてい早めに来る。これも親譲りのせっかちのせいかもしれない。
「遅《おく》れ、て、ご、めん」
亘は息が切れて、ちゃんとしゃべれない。このくらい走っただけでぜいぜいいうなんて恥ずかしいようなことだけれど、どうにも止まらなかった。おかしな出来事を家のなかに置いてきぼりにしてきたせいだろう。
「小母さん、あんな怖《こわ》い声出してたのに、よく出てこれたなぁ」
カッちゃんは公園の柵《さく》に飛びついて、猿みたいに忙しく動き回りながら言った。
「電話だろ? ゴメン」
「ベツにいいけど。おまえんとこの小母さん、ウチにはいつもああいう感じたからサ」
カッちゃんはさらりと言ったか、亘は後ろめたさに首が縮んだ。カッちゃんだって、母さんが小村家の人たちに対して、特につっけんどんな態度をとっているってことぐらい、ちゃんと気づいているのた。
「小母さん先に寝ちゃったの? そんなわけないよなぁ。小父さんが帰ってくるまで、着替えもしないで待ってんだろ? おまえどうやって抜け出してきたの?」
カッちゃんの真っ黒な木の実みたいな瞳が《ひとみ》、驚きと好奇心に、街灯の光を映してキラキラ光っている。その顔を見て、亘は今さらのように、確かにあの母さんの様子は異常だと実感した。思わず、家の方を振り返った。
「それが──寝てんだよ」
「風邪ひいたの?」
亘は黙って首を振った。いくつもの、脈絡《みゃくらく》のない質問が喉元まで込みあがってくるのを、飲みにくい大きな錠剤《じょうざい》を飲み下すみたいにして押し戻す。カッちゃん、眠るんじゃなくて、目の前が真っ暗になって、気絶したことってある? 誰もいないところで、自分以外の誰かが話しかけてくる声を聞いたことってある? それって異常? 女の子の声だったりしたら、もっと異常? それよりも何よりも、小村の小父さんや小母さんは、台所のテーブルに突っ伏して、ぐうぐう眠ったりする? 押しても引いてもビクともしないんだ。耳元で怒鳴《どな》っても目を覚まさないんだ。まるで魔導士《まどうし》にスリープの魔法をかけられたみたいなんだ。頭の上から「ZZZ」のマークが出てるんじゃないかって、オレ探しちゃったくらいなんだ。誰かがそんな寝方するの、見たことある? ヘンなんだよ。オレ、ちょっと怖いんだよ。
「ま、いいや。早く行こうよ」
カッちゃんは公園の柵の上からぴょんと飛び降りた。そのひと声で、亘は質問の渦《うず》を呑み込んだ。うんと言って、走り出した。
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2 静かな姫君
幽霊《ゆうれい》ビルはこの時刻でも、青いシートに街灯の灯《あか》りを映して、妙《みょう》に安っぽく光って見えた。周囲の家々は門灯も消し、窓灯りも減って寝静《ねしず》まり、隣《となり》の三橋神社もこんもりとした黒い木立に囲まれてしんとしているなかで、その明るさがかえってこのビルのデキソコナイぶりを強調しているようにも見える。
短い距離《きょり》でも、運動靴《うんどうぐつ》の底を鳴らして走ったことで気分が高揚《こうよう》し、ようやく亘は今夜の目的をはっきりと把握《はあく》し直した。幽霊は本当に出るのか? この目で確かめるんだ。
だが、神社の前を通り過ぎてビルへ向かおうとすると、すぐ前を走っていたカッちゃんがパッと立ち止まり、手を広げて邪魔《じゃま》をした。「誰《だれ》かいるよ」
声をひそめて囁《ささや》くと、神社の塀に背中をつけた。亘も反射的にそれに倣《なら》ったけれど、人影《ひとかげ》なんか見えない。
「どこに?」
カッちゃんは指さした。
「ビルの向こう側。道のとこにライトが見えるだろ」
「どこ? 街灯じゃないの?」
「違《ちが》うよ、車が停《と》まってんたよ」
目を凝《こ》らしてみたが、亘にはよくわからない。神社の塀から離《はな》れて、さっさと歩き出した。「行ってみようよ、ベツにいいじゃん、悪いことしてんじゃないんだ」
だいいち、ただ車が停まってるだけかもしれないじゃんか──と思いながら、幽霊ビルの前にさしかかったそのとき、青いシートがずるりと持ちあがって、そこから人影が出てきた。
亘はわっと叫《さけ》んで飛び退《の》いた。カランと音がして、シートが下がって地面にあたり、埃《ほこり》が舞《ま》いあがった。
「あいたたた」と、シートが言った。いや、シートの内側からそういう声が聞こえてきたのだ。
「な、なんだ?」駆《か》け寄ってきたカッちゃんが、亘の肩《かた》を捕《つか》まえた。そのときもう一度シートが持ちあげられて、人影が顔を出した。亘たちを見あげると、
「何だよ──あれ? 君ら何やってんだ?」
とぼけたような声を出した。
ごく若い男の人だった。二十歳《はたち》ぐらいだろうか。よっこらしょとシートをくぐって、道路まで出てきた。すると、かなり背が高いということがわかった。よれよれのTシャツにジーンズ。眼鏡《めがね》をかけていて、髪《かみ》は短く刈《か》っている。右手には懐中《かいちゅう》電灯。
さっきカッちゃんが「車が停まっている」と指さした方向で、大型のヴァンのスライド・ドアを開閉するような音がした。そして声が聞こえてきた。「則之《のりゆき》、どうした?」
今度は中年男性の声だ。ずんぐりと角張った人影が見えてきた。
亘はいっぺんに何とおりものことを考えてしまい、かえって身体《からだ》が動かなかった。この人たちは泥棒《どろぼう》か? 夜回りか? 何か探してるのか? 何か埋めてるのか? ここに火を付けようとしてるのか?
「なんだ、子供じゃないか。こんな時間に何してるんだね?」
新しい人物は、声から想像するとおりのいかつい小父《おじ》さんだった。「則之」という眼鏡の兄《にい》ちゃんの隣まで来て、亘とカッちゃんの顔を見回した。「こんな時刻」と言ったときには、時間を確かめるように腕時計《うでどけい》に目を落とした。地味な黒い革《かわ》のベルトの時計だ。
「迷子ってことはないよねえ」眼鏡の兄ちゃんが口元をほころばせる。「まさか、学習塾《がくしゅうじゅく》からの帰り道ってわけじゃないだろ?」
「あちゃー」と、カッちゃんが声をあげた。辞書的に説明するなら、これは恐《おそ》れ入ったことを表明する小村克美流の合いの手である。
亘は焦《あせ》るあまりに、考えをまとめないまま何かしゃべろうと口を開いた。すると混乱する心のなかで、そのときたまたまいちばん出口に近いところにいた言葉が、ポップコーンが跳《は》ねるように飛び出してきた。まあ、大人でも子供でも、失言というのは、おおよそこういうメカニズムで発生するのである。
「け、け、警察を呼ぶぞ!」
眼鏡の兄ちゃんもいかつい小父さんも、そろってきょとんとした。そして顔を見合わせ、次にまた申し合わせたように亘を見た。
気がつくと、カッちゃんもぽかんと口を開けて亘の顔を見つめていた。
それから、一拍《いっぱく》おいて尋《たず》ねた。
「何で?」
とたんに、いかつい小父さんと眼鏡の兄ちゃんが、腹を抱《かか》えて笑いだした。
「親父《おやじ》、声が大きいよ」
兄ちゃんはいかつい小父さんの肩をぽんぽんと叩《たた》きながら笑う。「近所|迷惑《めいわく》になるよ」
「坊《ばっ》ちゃん、坊ちゃん」いかつい小父さんは、亘の方にずんぐりした腕を振《ふ》りながら言う。「私らは怪《あや》しい者じゃないよ、だからそんなに怖《こわ》がらんでいいよ」
カッちゃんが亘の肘《ひじ》をぎゅっとつかんだ。「ホントだ、大丈夫《だいじょうぶ》だよ、この人たち」
亘はまじまじと目を見開いてカッちゃんを見た。見つめ返すカッちゃんは、だんだん笑いをこらえる顔になってゆく。こらえきれずに笑いだす。そこで初めて、亘は、この場が二対二ではなく、三対一になっていることに気がついた。笑う三人と、笑われる一人。顔が熱くなった。
「あ、いけない」兄ちゃんが笑いを止めて、いかつい小父さんがやって来た方向へと駆け出した。「香織《かおり》を一人にしちゃってるな」
すぐに、兄ちゃんが消えた方向から、ライトブラウンの大型ヴァンがするりと出てきた。角を曲がり、幽霊ビルの前に横付けする。
つやつやした車体を見て、カッちゃんが「へえ、新車だ。でかいの!」と、感心する。
「たっかそー」
だが亘は別の発見に驚《おどろ》いていた。ヴアンの横っぱらに会社名が入っているのだ。
「株式会社 大松」
亘は目をパチパチさせた。そして、あらためていかつい小父さんの顔を見あげた。
「小父さんは──大松三郎さんですか?」
思わず尋ねてしまった。いかつい小父さんは、笑いすぎて涙《なみだ》を拭《ぬぐ》っていたが、つと口元を引き締《し》めて亘を見おろした。
返事は聞かなくても、その表情で、亘には、この人こそが不運な幽霊ビルのオーナーである大松三郎社長であるとわかった。そして眼鏡の兄ちゃんは、大松社長の息子《むすこ》さんなのだ。
ヴァンのドアが開いた。何か機械音がして、奥からアームのようなものが延びてきた。その上に、するすると車椅子《くるまいす》が進んでくる。車椅子が停まると、アームが降りて地面に着地した。
車椅子の上には、髪をポニーテールにした、ほっそりとした女の子が座っていた。アームや椅子の動きにつれて、華奢《きゃしゃ》な首に支えられた形のいい頭がグラグラしている。
「ご近所の誰かに、私のことを聞いたのかね?」大松社長は亘に尋ねて、自分で返事をした。「そうなんだ、私はここのビルの建て主だよ。あれは息子の則之」
眼鏡の兄ちゃんが車椅子を押してこちらに近づいてくる。車椅子の上の女の子は、亘たちの方にも、小父さんの方にも、目を向けようともせずにただ首をグラグラさせている。その目は開いてはいるけれど、ほとんど何も見ていないようだ。
「で、これが娘《むすめ》の香織」
大松社長は近づいてきた車椅子の肘掛《ひじか》けを、優《やさ》しくぽんと叩いた。香織の両手は、膝から下を覆《おお》っている淡《あわ》いピンク色の膝掛けの下に隠《かく》れていて見えないし、父親のそうした仕草に応《こた》えようとする様子もまったくない。
「僕ら、怪しい者じゃないよ、本当に」
大松則之が笑顔《えがお》で言う。亘を宥《なだ》めようとする気遣《きづか》いが伝わってくる。それほどまでにさっきの僕は、怯《おび》えて動転しているように見えたのだ──亘は舌を噛《か》んで、ジガイしたくなった。
「妹を散歩に連れ出すついでに、ビルの様子を見ようと思って来たんだ。このとおりの状態だから、ゴミを捨てられたり、野良猫《のらねこ》が入り込んだり、それこそ色々あるからね」
「そうですか、スミマセンでした」
恥《は》ずかしさのあまり、社長とも則之とも、カッちゃんとさえ視線をあわせなくていいように、深く深く頭をさげた。そうやって身体をふたつにたたんだまま、回れ右をして家に逃《に》げ帰りたかった。
「こんな遅《おそ》い時間に散歩するんスか?」
亘の気も知らず、カッちゃんはそんな質問を発する。亘がバカやめとけよと小突《こづ》く前に、大松社長が答えた。
「うん……娘はちょっと具合が悪くてね。あんまり人が大勢いるときに外へ連れ出すと、嫌《いや》がるんだよ」
「そっか、夜なら静かですもんね」
カッちゃんは深く考えるふうもなく納得《なっとく》したけれど、亘は、大松父子がちらっと視線を交《か》わして、ちょっとつねられたような顔をするのを見てしまった。
大松香織はきれいな女の子だった。周りの人びとが彼女を指して「きれい」
と評するとき、「きれい」という言葉の精は、本当に誇《ほこ》らしくて嬉《うれ》しくてたまらないだろう。「アラあたしそれほどのもんじゃありませんわ」と照れるかもしれない。それくらいの「きれい」だった。
亘はこれまでの十一年の人生で、こんな美人の女の子には初めて会った。これほどお人形に近い女の子にも初めて会った。しゃべらない。笑わない。外界に対して一切《いっさい》反応しない。視線はうつろ。ただまばたきをするだけの両目。目は心の窓というけれど、この窓は人形の家の窓なのだ。
「香織は中学一年だから」則之が妹の方にちょっと身をかがめながら言った。「君らよりは姉さんだな。君らは何年生?」
とっさに、亘は「六年生」と答えようと思った。亘もカッちゃんも小柄《こがら》な方なので、中学生ですというウソは全然通らない。でも、一年でも大人に見せたかった。
ところがバカ正直なカッちゃんは、
「五年です。城東の」と、お答えになった。
「城東第一小学校? ああ、そうか。じゃあ君らもやっぱり幽霊探検隊なんだな」
則之が吹き出した。大松社長も笑っている。がちっとした体格の社長が腰を揺《ゆ》らすようにして笑うと、彼が手を載《の》せている香織の車椅子も一緒《いっしょ》に揺れる。彼女の首がグラグラする。
「探検隊って──」
「このビルに幽霊が出るって、噂《うわさ》になっとるんだろ? それを確かめるために、子供たちが夜遅くにビルに近づいたり、中に入り込んだりしようとする。君らが初めてじゃないよ。危険だから管理をしっかりしてくれって、城東第一小学校のPTAからもお叱《しか》りを受けたよ」
「いつごろですか?」
大松|父子《おやこ》は首をひねった。則之が答えた。「もう半月は前かな」
亘はがっかりした。とっくに先を越されていたのか。
「僕たちも、事実を調べに来たんです」
「幽霊探検隊は、写真を撮《と》りに来てたよ。心霊写真というヤツか?」
則之がうなずく。「ポラロイド持ってね」
「僕らはそんな遊び気分じゃありません。ホントに幽霊の正体を確かめたいんです」
「あ、そうか」カッちゃんが、突然《とつぜん》声をあげてボンと両手を叩いた。「幽霊探検隊のヤツらって、六年生じゃないスか? テレビ局に幽霊の写真持ち込んでとか、そういう話じゃなかったスか?」
「そうそう、その話」則之が苦笑《くしょう》混じりに大きくうなずいた。「リーダー格の──なんて名前だったかな、態度の悪いガキだったんだけど」
「石岡《いしおか》でしょ? 石岡|健児《けんじ》」
「そう! よく知ってるね。友達かい?」
「全然。だけどうちのオヤジと石岡君のオヤジが釣《つ》り仲間なんス。石岡君たちがテレビの心霊写真コーナーに出るとかなんとか、そんな話をオヤジさんがしてたって、オレはオヤジから聞いたんでス。あれ、こんがらがってるかな、わかりまス?」
石岡健児とその仲間たち数名は、六学年のトラブル・メイカーである。もともと要注意の生徒たちだったらしいけれど、四年生の後半ごろから問題行動が激しくなり、今では城東第一小学校全体の持て余し者となっている。
そもそも学校とは何をするところかということがわかっていない。だから授業など聴《き》かない。教室には好きなときに出入りする。遅刻《ちこく》、早退、無断欠席は当たり前。騒《さわ》いで先生の邪魔をする。備品を盗《ぬす》む。壊《こわ》す。同級生を虐《いじ》める。お金をゆすり取る。
小学生でも、やることはほとんど非行高校生並みだ。
ただ、嘆《なげ》かわしいことに昨今、この程度の問題児ならば、どの学年にも一人や二人はいるものだ。石岡たちが、学年の垣根《かきね》を越えて、一気に全国区≠ノなったのは、去年の夏休みの校庭開放のときに、正門の脇《わき》に駐車《ちゅうしゃ》してあった校長先生の自家用車を動かして校庭中を走り回り、遊びに来ていた下級生たちを車の鼻面《はなづら》で追い回して、三人に怪我《けが》をさせるという事件を引き起こしてからのことである。
このときは、翌日すぐに講堂で緊急《きんきゅう》の父母集会が開かれ、校長先生が事件の経過説明をすると同時に、演壇《えんだん》に頭をすりつけるようにして謝罪した。あんな場所に、いくら短時間とはいえ、キーをつけたまま車を停めていた私が軽率《けいそつ》でしたという謝罪である。
この日、校長先生は、自宅で使っている眼鏡が壊れてしまったので、校長室の机の引き出しにしまってある予備の眼鏡を取りに来たのだという。用事はたったそれだけで、しかも先を急いでいた。皮肉なことに、何か教育委員会が催《もよお》す集まりに出かける途中《とちゅう》だったのだそうだ。
一学年上の生徒たちが引き起こした事件だったとはいえ、怪我人のなかには亘の同級生もいたので、邦子はこの集会に出席した。そして、プリプリ怒《おこ》って帰ってきた。
「校長先生ったら、どうしてあんなに謝るのかしら。おかしいと思わない?」と、母は口を尖《とが》らせたものである。
「何もかも車を停めておいたワタクシが悪かったのですなんて、これはそういう問題じゃないわよ。勝手に乗り回した子供の方が悪いんじゃないの」
それでも集会では、校長先生の責任を問う意見の方が断然優勢だったのだそうだ。
「子供は何でもいたずらしたがるものなんだから、大人の方が気をつけなくちゃいけないんですって。どうかしてるわ。それどころじゃないのよ、小学生なのに車を操作することができるなんてたいしたもんだなんて意見まで出てたんだから。まったく、世も末ね」
怪我をした三人が、ほんの擦《かす》り傷程度で済んだこともあってか、騒ぎはそれ以上拡大することにはならなかった。もちろん警察|沙汰《ざた》にも新聞ネタにもならなかったし、校長先生の首もつながった。足し算引き算が終わってみれば、石岡たちが増長して、ますます学校を舐《な》めてかかるようになっただけだった。
そういう連中のことだ。亘は不思議だった。石岡と心霊写真? どうやっても結びつきそうにない。
「その六年生たち、最初からテレビの心霊写真コーナーに出るのが目的だったのかな」
「そんな感じだったよ」則之が答えて、ちょっと横目になってビルの方を見た。「いい写真が撮れなかったら細工すれはいいんだというようなことも言ってたしね」
「ひどいなぁ。そいつらもやっぱり、ここで大松さんたちと会ったんですよね?」
「うん。でも、そのときには子供たちたけじゃなくて、大人が二人一緒だった」
「あの大人たちは、テレビ局の人間だったんじゃないかねえ」と、大松社長が腕組みする。
「あり得《う》るね」則之がうなずく。「僕らと顔をあわせたときには、バツが悪いのか保護者みたいな態度をとってたけど、ありゃテレビ局のスタッフだな」
亘はカッちゃんの方を振り向いた。「そのへんのことは小父さんから聞いてないの?」
カッちゃんはかぶりを振った。「聞いてない。でも、出演することは決まってるんだって、威張《いば》ってたらしいぜ」
「その番組、観《み》た?」と、則之が聞いた。
「観てません。ここんとこ、石岡の小父さんもうちには来ないし──あ、うち居酒屋なもんスから」カッちゃんは商人笑いをした。「ってことはその番組、お流れになっちゃったのかなぁ。うちのオヤジも黙《だま》ってるし」
「それともこれから放映されるのか」
「あ、そうかもね。テレビって、案外時間かかるんでしょ? そうスね、きっと」
風が吹《ふ》きつけてきて、青いシートがバタついた。みんな、一瞬《いっしゅん》はっとした。
「なんで僕らまでぎょっとするんだろ」
笑いだしながら、則之が言った。気がつくと、みんなしてビルを仰《あお》いでいた。
「ここに幽霊なんか出るわけがないってことは、僕らがいちばんよく知ってるのに。親父までそんな顔しちゃってさ」
大松社長は照れたように額をこすった。そんな仕草をすると、はえ際《ぎわ》がだいぶ後退していることがよくわかった。
「そうだよな、幽霊なんぞより、生きてる人間の方が遥《はる》かに恐ろしいんだ」
何気なく口にされた言葉だった。少なくとも亘の耳にはそう聞こえた。お化けを怖がる小さな子供に、分別のある大人が言って聞かせるにふさわしい台詞《せりふ》。
それなのに、口にした大松社長もそれを聞いた則之も、まるで恥ずかしいことでもしたかのように、てんでにさっと目を伏《ふ》せた。
「さ、そろそろ帰ろうか」
則之が香織の車椅子の後ろに回り込むと、ストッパーを外した。車輪がキーと鳴った。
「そうだな。君らも乗って行きなさい。家まで送ってあげる」
「僕らは大丈夫です。すぐそこだから」
「そうはいかないよ。大人として責任があるからね。さ、乗った乗った」
結局、亘もカッちゃんもヴァンに詰《つ》め込まれることになった。車内で亘は、車椅子ごとシートに固定されている香織のすぐ隣に座った。彼女の髪からシャンプーの匂《にお》いがした。車のなかで女の子の髪の匂いを嗅《か》ぐなんて、少なく見積もっても五年は早いような気がしたけれど、それでどきりとするよりは、ツンと胸が痛んだ。香織は動かず、笑わず、しゃべらず、ただ人形のように座っている。そんな彼女の髪が、こんないい匂いをさせているなんて。彼女の顔がきれいなのも、肌《はだ》がせっけんみたいに白くてすべすべなのも、手足がすんなりと長いのも、かえって辛《つら》い。
「小村」の方が近いので、まずカッちゃんを送り、それから亘のマンションへ向かった。
「僕は近くで降ろしてくれればいいです」
運転席で大松社長が笑った。「車で乗り付けたりすると、大きな音がするから、夜中に家を抜け出したことがバレるからかね?」
亘は正直に恐縮《きょうしゅく》した。「うちの父、いつも帰りが遅いから、ひょっとしたらマンションの入口のところでばったり会っちゃうかもしれないんです──」
「だけど、こっそり忍び込もうとして、今度は君が泥棒に間違えられたりしたら困るだろ?」
結局、入口の手前の道路で降ろしてもらった。マンションに人影はまったく見あたらず、建物ごと寝静まっていた。亘が走ってエレベーターホールまでたどり着くのを見届けて、大松父子のヴァンはヘッドライトを一度|点滅《てんめつ》させると、すうっと立ち去った。
翌日のことである。
「バレなかった?」
一時間目の授業が終わると早々に、カッちゃんが寄ってきた。
「帰ったら小母さんが起きててサ、一晩中叱られてたなんてサ?」
亘は首を振った。抜《ぬ》き足差し足で家に帰ったら、母さんは依然《いぜん》としてテーブルに突っ伏して眠《ねむ》っていたし、父さんはまた帰っていなかったのだ。
「じゃあ、全然セーフだったんじゃんか。なのに、なんでそんな眠そうな顔してんだよ」
「カッちゃんはよく眠れたの?」
「帰ったらコロリ」
「どういう神経してんだよ」
カッちゃんはクリクリ目を丸くした。「眠れないとまずかったスか?」
亘は香織のことを考えていたのだ。大松社長と則之の、何か隠しているような、深い事情がありそうな態度も気になって仕方なかった。帰宅して落ち着いてから考えれば考えるほど、どんどんおかしな感じが強くなってきて、それで明け方まで眠れなかったのだ。
「そうかなぁ。いい人たちだったじゃん」
「そりゃ、親切だったよ。だけど親切過ぎないか?」
「何で?」
「あんなところでオレたちみたいな子供に出くわしたら、普通《ふつう》の大人は怒るよ。だけどあの人たちは笑うだけで、ちっとも叱ろうとしなかった」
「前に石岡たちのことがあって、慣れてたからじゃないの?」
「そんなんじゃないよ」亘は言って、じっと机を見つめた。新学期に与《あた》えられたこの机は、つやつやした表面に、前の年にこれを使っていた上級生からの置き土産《みやげ》が刻み込まれている。漢字が二文字、極悪《ごくあく》≠ネんでこんなものを彫《ほ》るのか。これのどこが面白《おもしろ》いのか。
「大松さんたちには、きっと、幽霊を探しにくるガキなんかより、もっとずっと深刻なことがあるんだよ。そっちの方に頭も心もとられてるから、夜中に出くわした他所《よそ》ン家《ち》の子供なんて、気にしてる余裕《よゆう》ないんだよ。どうでもいいから親切にできるんだよ」
カッちゃんは、ほとんど坊主《ぼうず》刈りに近いほど短く刈った頭をガリガリかいた。そしてひどく困った顔をした。こういうことは、今までにもよくあった。亘にとって真剣《しんけん》なことが、ちっともカッちゃんに伝わらないのだ。すると亘はひどくイライラしてカッちゃんに当たり散らしたくなるのだが、そういうときの自分の顔つきが、小村さんのところは水商売だから≠ニ言い捨てるときの母邦子の顔とそっくりだ──という事実には、自分ではまったく気がついていなかった。
「それってあの、香織って子のことかなぁ」
カッちゃんはぼそっと呟《つぶや》いた。きっと間違ってるに違いないから、亘に聞こえない方がいいな、でももしかして万にひとつあっていたら、そのときだけは聞こえてほしいな──というぐらいの音量た。
そしてそれはあたっていた。
「決まってるじゃんか。そうだよ。それ以外にあるかよ」
カッちゃんがあてたので、亘はますます腹が立った。こっちが言うセリフを、なんで先にあてちゃうんだよ。
「あの子、病気かな」カッちゃんはますます気弱に呟いた。「顔とか見ただけじゃ、元気そうなのにな。なんで全然口きかなかったんだろう」
亘は考えていた。あの散歩≠セって、すごくヘンだ。人混《ひとご》みが嫌《きら》いだったら、公園とか水辺とかへ行けはいい。どうして夜中に連れ出さなきゃならない? だいいち、香織は具体的にどこがどう悪いのだろう。
ひょっとしたら、あの子があんなふうになってしまったことと、中途|半端《はんぱ》に立ち往生している幽霊ビルとのあいだに、何か関《かか》わりがあるんじゃないだろうか。だからこそ、大松社長はひっそりと目立たないように深夜を選んで、わざわざ香織をあそこまで連れてきているのじゃないのか。
亘が黙り込んでいるので、カッちゃんはますます困り、もじもじした。
「あのさ、石岡たちのテレビのこと、今朝オヤジに聞いてみたんだ。あれから石岡の親父さんが何か言ってないかって」
商売柄、小村の小父さんも小母《おば》さんも夜が遅いが、朝食だけは家族|揃《そろ》って食べるのが習慣だ。一日に一度は、家族みんなで食卓《しょくたく》を囲みましょう。そういう標語みたいなことが、小村の人たちはみんな大好きだ。一日一善とか、仲良きことは美《うるわ》しき哉《かな》とか。
「わからないって。石岡の親父さん、ずっと来てないっていうんだ。だからテレビのことはよくわかんなかったよ」
「ふうん」と、亘は鼻先で返事した。
「あのビルの幽霊のことは、もういいよな?」カッちゃんはヘラヘラ言った。「石岡たちと同《おんな》じことするなんて、バカっぽいもんな」
亘は黙っていた。カッちゃんはまた頭をぼりぼりかいて、じゃそういうことでどうもネとかなんとか言って席へ戻《もど》っていった。ベルが鳴り始めた。
亘はカッちゃんの後ろ姿を見た。あの頭は、小村の小父さんがバリカンで仕上げるのだそうだが、たいていの場合、ちょこっとトラになっている。トラ刈りの部分は毎回少しずつ場所を変え、形も変わる。それでもカッちゃんは文句を言ったことがない。
香織の髪のシャンプーの匂いを思い出した。
小村の小父さんが二週間に一度、なんだかんだ話したり笑ったり、動くと耳まで刈っちまうぞと脅《おど》しながらカッちゃんの髪を刈るように、無表情な香織に話しかけながら、笑いかけながら、彼女の髪をシャンプーして、乾《かわ》かして、櫛《くし》でとかして、ポニーテールにしてあげる人がいるのだ。たぶんお母さんだろう。きっとすごく悲しいだろう。香織が返事をしてくれないことが。生きていながら死んだようになっていることが。
いったい、香織に何があったんだろう?
大松家の三人は、亘にとって、今までと同じような想像力の働かせ方をしていては、けっして理解することのできない暮らしをしている人びとだった。亘の家はサラリーマン家庭だけれど、店をやっているカッちゃんの家の暮らしぶりを想像することはできる。隣の席の女の子は両親が二人とも教師だ。教師の家というのも想像することができる。同じようにして、父親が消防士だという家庭のことも、離婚《りこん》して母親だけだという家庭も、父親が海外に単身|赴任《ふにん》しているという家庭も、想像することはできる。たとえその想像が実像から遠くかけ離れていようとも、亘の側から「あんなもんかな、こんな具合かな」と想像することさえできれば安心だ。
だが、大松家の人びとはそうではない。家のなかに、あんな状態に引き籠《こ》もってしまった可愛《かわい》い女の子がいて、彼女をあんなふうにしてしまった何かしらの原因があって、それを皆《みんな》で抱え込んでいる──そんな暮らし、そんな家庭は、亘の想像の埒外《らちがい》にあった。だいたいこんな具合だろうと、わかったような気分になることさえできない。子供は大人になるまでのあいだに、様々な形の挫折《ざせつ》を経験するけれど、その挫折の大半は、今まで自分が教えられて磨《みが》いてきた価値観や想像力では手に負えないものにぶつかったことによるものだ──という成長の公式に、ここで亘は初めて触《ふ》れているのだが、もちろん自分ではそれに気がついていなかった。だからイライラするのだし、だから興味を惹《ひ》かれるのだということもわかっていなかった。
その日は授業にも全然身が入らなかった。家に帰ると、邦子がリビングいっぱいに洗濯物《せんたくもの》を広げてアイロンをかけていた。機械的に手を動かしてYシャツやズボンにアイロンをあてながら、目はテレビに釘付《くぎづ》けだ。それでいて折り目が曲がったりしない。お母さんの曲芸≠ニ、父の明が称するところの技《わざ》だ。
いつもなら「ただいま」もそこそこに、真《ま》っ直《す》ぐ部屋に入って、塾へ行くまでの時間をテレビを観たりゲームをしたりして過ごすのだが、亘は足を止めて、母に話しかけた。「ねえ、三橋神社の隣の幽霊ビルのことで、最近何か聞いてない?」
邦子はうわの空で生返事をした。「え?」
「あの建てかけのビル、大松さんていう社長さんが建て主なんでしょ? その人の家に、中学生の女の子がいるんだって」
邦子はYシャツの襟《えり》をばんばんと叩きながら、「あらそう」と言った。一瞬だけテレビ画面から目を離し、手元を見て、くっついていた糸くずをつまんで捨てる。それからまたテレビの方に目を戻す。
「お母さんの友達の不動産屋の奥さんなら、何か知ってるかな?」
邦子は返事をせずにテレビを観ている。サスペンスドラマのようだ。鍵《かぎ》のかかっていないドアを開けてヒロインがある部屋に足を踏《ふ》み入れる。そこに死体が転がっている。キャーと叫んで、コマーシャルだ。そこでやっと邦子が亘の方を見た。
「何? 何が何だって?」
亘は質問を繰《く》り返そうとしたが、急に嫌になってしまった。「何でもない」と、足元に向かって言った。
「ヘンな子ね。冷蔵庫にチーズケーキが入ってるわよ。今日は塾でしょ? 自転車で行くのはやめなさいね。今日はあのクローバー橋のところで工事してるから。手を洗った? うがい薬が切れてたら、洗面台の下の引き出しに、新しいのが入ってるから」
母さんは、亘が朝学校へ行って、午後家に帰ってきたときには山のタヌキに変身していたとしても、ちゃんとただいまと言いさえすれば気にしないんじゃないかと思うのは、こんなときである。さっさとチーズケーキをもらって、部屋に入ろう──と立ちあがったとき、電話が鳴った。
「ちょっと、出て出て」
アイロン台の前に座り込んでいる邦子は、すぐには立ちあがれない。今年に入って二キロほど太ったら、正座するとすくに足が痺《しび》れるようになって困ったわと、つい最近も電話で誰かとそんなおしゃべりをしていた。
亘はリビングの隅《すみ》の壁掛《かべか》け電話機に近づき、受話器を取りあげた。「はい、三谷です」
しーんとしていた。
「もしもし? 三谷ですけど」
また、しーんとしている。もう一度もしもしと呼ひかけて、返事がないのを確かめると、亘は受話器を置いた。
「間違い電話?」と、邦子が訊いた。
「そうみたい」
「最近、多いのよ。こっちか出ると、黙ってるの。そのうち切れちゃうの」
電話のそばに来たついでに、カッちゃんにかけて、今日はキゲン悪くてごめん、帰りもさっさと一人で帰っちゃってさらにごめんと言おうかと思ったけれど、結局やめた。
そのとき、また電話が鳴った。最初のベルが鳴り終えないうちに、亘は受話器を取った。
「もしもし?」
また、しーんとしている。それでなくても今日はご機嫌値《きげんち》が底値《そこね》の亘は、瞬間的にブチッと切れた。受話器を顔の前に持ってくると、大きな声で怒鳴《どな》った。
「用がなきゃかけてくんな、バカヤロー!」
バンと受話器を戻すと、邦子が目を見開いてこちらを見ていた。心配そうというよりは、面白がっているような目の色だった。
その日は塾でも勉強に集中できなくて、亘にしてはめったにないことなのだが、二時間のあいだに三度も先生に注意された。三度目のときには、「具合でも悪いのか?」と尋ねられてしまった。
亘自身にも、よくわからないのだった。気がつくと昨夜の出来事を頭のなかに蘇《よみがえ》らせている。大松社長が愛《いと》おしげに車椅子の肘掛けをぽんと叩くと、香織の華奢《きゃしゃ》な首がグラグラする。幽霊ビルを不格好に包み込むシートの色を映して、彼女の頬《ほお》はまるでロウみたいに青白く見える。そして彼女の髪からは清潔なシャンプーの匂いがする。同じ光景ばかりが心のなかでグルグル再生されるのは、病気なのだろうか? ビデオデッキだったら間違いなく修理が必要なところだけれど、人間の場合はどうなのだろう。
ぼんやりとしたままの帰り道、また幽霊ビルに寄ってみようかと思った。塾は学校とは一八〇度逆の方向にあるので、遠回りどころか家の前を通り過ぎてしまうことになる。それでも寄ってみようかと思った。マンションの共同|玄関《げんかん》が見えるところまで帰ってきたところを、思いがけなく呼び止められたりしなければ、きっとそうしていただろう。
「お帰り、今日は塾か?」
日をあげると、ほんの二、三メートル先に明が立っていた。右手に鞄《かばん》を提《さ》げ、左手には折りたたみ傘《がさ》を持っている。そういえば今日、都心の方ではにわか雨が降ったらしい。
「お帰りなさい」と、亘も言って、父に近づいていった。明は亘が追いつくのを待たずに、ゆっくりと共同玄関の方へ続くスロープを歩き始めた。
「お父さん、今日は早かったんだね」
亘の左手首のデシタル腕時計は、午後八時四十三分を示している。忙《せわ》しなくまばたきしながら一秒の百分の一から時を表示してくれるこの時計は、昨年の秋に明が仕事でロサンゼルスへ行ったときに買ってきてくれたお土産《みやげ》だった。向こうではとても人気のあるバスケットボール・チームのロゴが入っている。実は亘は、バスケットボールにはまったく興味がないので、この時計はあまり嬉しくなかった。それよりもワーナーの出しているオリジナルグッズがほしかった。だから普段はほとんどこの腕時計を使わない。今夜はラッキーだった。父さんはきっと、亘がこの時計を気に入っていると思ってくれるだろう。
「学校はどうだ」
「うん」と、亘は答えた。それだけだった。この問いと答は、ここ一年ほどのあいだに、父子のあいたで完全に定番となってしまったやりとりだった。亘が「うん」の後に言葉を続けても、父は黙って聞いているだけだろうし、明が「どうだ」の後に何か具体的なことを聞いても、亘は「うん」としか答えないだろう。そう、だろうだ。実際には、まだそういうことは一度もないから。
三谷明は、もともとあまりおしゃべりな人ではない。一方、邦子はよくしゃべる。亘が聞いている限りでは、一対十くらいの割合で邦子の方が断然優勢だ。日常生活のなかでは、発言量の多寡《たか》は、そのままその発言者の意見の威力とイコールで結ばれる。要するに、うるさく言った方が勝ち≠チてことだ。つまり三谷家は、邦子の意向に添って舵取《かじと》りされることになるわけだ。
ただ、事が「日常」ではなく、「日常の土台」に関わる問題となると、様相は一変する。そして日ごろは寡黙《かもく》な三谷明が、千葉のお祖母《ばあ》ちゃんの言うところの「腹が立つはどの理屈《りくつ》っぽさ」を発揮するのも、そういう局面である。今のマンションを購入《こうにゅう》する時がそうだった。邦子が亘を私立の小学校へ入れたがったときもそうだった。亘の学習塾を決めるときもそうだったし、車を買い換《か》えるときはいつもそうだ。明は目の前の問題について、たくさんの下調べをして、よく考えて、いちばん筋道通っていると判断した結論を選ぶ。そこには曖昧《あいまい》な「感じ」とか「そうした方がよさそう」とか「みんなそうしてる」とか「これが世間並みだから」などといういい加減な物差しは通用しないのである。対象が車ならば燃費や安全性、マンションならば施工業者や居住環境《かんきょう》と、データできちんと提示できるものを示さないことには、そういう時の三谷明とは、何人《なんぴと》も議論することはかなわない。
ちょうど十年前、三谷のお祖父《じい》ちゃん──つまり明の父親であり、千葉のお祖母ちゃんの連れ合いであり、亘のお祖父ちゃんである人が亡《な》くなった時の、明のふるまいときたら、今でも親戚《しんせき》じゅうの語りぐさになっている。そのころはまだ赤ん坊だった亘でさえ、親族が集まるたびにその話を聞かされるので、自分で見聞きしたことのようにしっかりと記憶《きおく》してしまったほどだ。
葬式《そうしき》に限らず、儀式《ぎしき》のたぐいには、由来も理由もはっきりしていないけれど「とりあえずこういう場合にはこうする」というしきたりが付き物だ。明はこれに片っ端から抵抗《ていこう》した。なぜ戒名《かいみょう》にランクがあるのか。その上下が納める金額で左右されるのはなぜか。亡父と仲の悪かった親戚が、親戚だというだけで通夜《つや》の席で大きな顔をするのは納得がいかない等々──それはそれは見物《みもの》だったらしい。
お祖父ちゃんの葬式だから、喪主《もしゅ》は当然お祖母ちゃんなわけだが、そのお祖母ちゃんがとうとう音をあげて、
「明、いい加減で折れて、静かにお葬式をあげさせておくれよ」と泣きを入れなければ、お祖父ちゃんの棺《ひつぎ》は一週間|経《た》っても千葉の家から一歩も出られなかっただろう──という。
親戚の人たちも、「明さんて、頭はいいけど静かでおとなしい人だと思ってたのに、言い出したらきかないのねえ」と、いっぺんで認識《にんしき》をあらためたそうである。
「母さんは、そんなこととっくに承知の上だったから、面白かったわよ」と、邦子は笑って話してくれる。
三谷明は、怖《こわ》い父親ではない。何もわからない赤ん坊や、うっかりすると危険なことをしかねない幼児のころは別として、物心ついてからは、亘は一度だって怒鳴られたことはないし、ぶたれたこともない。今までのところは、父の最終兵器である「理詰めの論争」を持ち出されたこともない。忙《いそが》しくてそんなことをしていられない──という側面は、もちろんあるのだけれど。
亘には、父さんのことが、今ひとつよくわからない。ただその「わからない」は、不愉快《ふゆかい》で居心地《いごこち》の悪い「わからない」ではない。父さんというドアは開いていないし、これからもめったなことで開きはしないけれど、その向こう側にあるものは、亘にとって大切なもので、父さんもまたそれを大事に考えてくれているのだと漠然《ばくぜん》と感じる──とでも言えはいいだろうか。
亘は、けっこう父さんが好きだったりする。自分のことをしゃべりたがる人ばかりか大勢いる──身の周りにもテレビのなかにも学校にも──毎日のなかで、黙って忙しそうにしている父さんは、かなりカッコいいと思うこともある。この年頃《としごろ》の子供が実はみんなそうであるように、彼が父親に対して抱《いだ》いているイメージは、つまるところ、母親の三谷邦子が夫である三谷明に対して抱いているイメージを、ほとんどそのまま映しているものなのだった。
邦子は、夫が黙ってうなずきながら聞いているだけであっても、面白いこと腹の立ったことちょっと相談のあること事後|承諾《しょうだく》だけど決めちゃったのよというようなことを、次から次へと楽しげに話す。ちょっと前までの、芯《しん》から「お子さま」であったころの亘もそうだった。でも今の亘は、アルデンテに茹《ゆ》でたスパゲティの芯みたいなものではあるけれど、「お子さま」にはない一個の人間としての芯ができつつあって、その芯は亘に、「うん」だけであとは黙っていることを勧《すす》めるのだ。それが男と女の違いなのかもしれない。あるいは、邦子のなかにはないが、亘のなかにある明の遺伝子のなせる業《わざ》なのかもしれない。
それでも今夜は、「うん」の後、二人でエレベーターホールへ歩いてゆくあいだに、少しばかり心が揺れた。父さんに話してみたくなったのだ──いろんなことを。
幽霊ってホントにいるの? みんなが一生|懸命《けんめい》信じていたり、面白がったりしてることには、たとえそれがデタラメなことでも、調子を合わせた方がいいの? そうしないと嫌われるの? 父さんはそういうの嫌なんでしょ? でも、だからって、三谷なんか大嫌いだって罵《ののし》られたことはないでしょ? 僕も父さんみたいになれる? 間違ったことは間違いだって言っても、人とケンカしないでいるにはどうしたらいいの?
そしてあの──何ひとつしゃべらない、外界から切り離されたみたいな、大松香織のこと。ねえ父さん、まるで、テレビゲームのなかに出てくる塔《とう》のなかに閉じこめられたお姫様《ひめさま》みたいな女の子に会ったんだ。ホントにそういう女の子がいたんだ。僕、ちょっとその女の子のことが気になるんだ。どうしたんだろうって、気になるんだ。そういうことって、父さんにもあった?
たくさんの言葉が頭のなかで渦巻いて、でも結局出口が見つからずに、家まで着いてしまった。
久しぶりに三人揃っての夕食で、邦子は忙しくいろいろなことを明に報告したり、相談したり、様子を聞いたり、とにかくにぎやかだった。母さんはとても楽しそうで、その気分が亘にも移って、夕食は美味《おい》しかった。
食事が済んで、亘が自分の皿と箸《はし》と茶碗《ちゃわん》を台所へ運んで行こうと立ちあがったとき、電話が鳴った。急いで受話器を取る。
しーんとしている。
「また?」と、邦子が箸を止めて尋ねる。
「また」と答えて、亘は受話器を置いた。
「このごろ多いの、無言電話」邦子が眉《まゆ》をひそめた。「気味悪いわ」
明はちょっと首をよじって電話の方を見た。
「このぐらいの時間にかかってくるのか?」
「いつもは昼間だけど──昨日もそうだったよね、亘」
「うん。続けて二回」
「亘も何度か取ったことあるのか?」
「ううん、僕は昨日が初めてだった」
明は手にしていた茶碗をテーブルに戻して、また電話の方を振り返った。「留守電にしておいたらいいじゃないか」
邦子が笑った。「いいわよ、エッチ電話じゃないしね。それに、千葉のお祖母ちゃんから電話かかってきたとき、留守電にしておいたりしたら、あとが面倒《めんどう》だもの」
それもそうだなと、明も少し笑った。亘は冷蔵庫《れいぞうこ》からアイスクリームを出して、水切りからスプーンを取り、テーブルに戻ろうとして、そこでまた電話が鳴った。
「僕が出る!」
叫んで、亘は受話器に飛びついた。昨日と同じように、一発怒鳴ってやろうと思ったのだ。だから最初から威嚇《いかく》的に「もしもし!」と、できるだけ太い声を出した。
すると、底抜けに陽気で、本物の野太い声が返ってきた。
「お、亘かぁ? えらく気合い入ってるなあ」
ほかに間違えようがない。千葉の悟伯父《さとるおじ》さんだ。亘は拍子《ひょうし》抜けした。
「なぁんだ、ルウ伯父さんか」
「なんだとはご挨拶《あいさつ》だぜ。元気でやってるか?」
「うん、元気だよ」
「おまえはちゃんと学校行ってる子供なんだろうなぁ。登校|拒否《きょひ》とかしてねえか」
「してない、してない」
「イジメられて金ゆすられてねえか」
「ないない」亘は吹き出してしまった。「伯父さん、よくないニュースばっかり見過きてない?」
「そうかぁ。今時の学校は、江戸《えど》時代の牢屋敷《ろうやしき》みたいなんじゃねえのか」
「なんかよくわかんないけど、全然違うよ」
「そっか。やっぱテレビなんてあてにならないってことだな。それでおまえガールフレンドはできたか?」
「できるわけないよ」
「遅いなあ。五年生だろ? 初恋《はつこい》ぐらいしろよ。ドキッとなるような女の子がいないのか、周りに」
悟伯父さんは、近ごろは事あるごとにこの話題で亘をからかうので、慣れっこの台詞だった。それなのに、今夜はその言葉が鮮《あざ》やかに耳を打った。亘は自分の顔が赤くなってしまったのではないかとうろたえて赤くなりそうになった。
ドキッとなるような女の子≠ニいうところで、目の奥に、一瞬だけれど消しようがないほどはっきりと、大松香織の顔が浮かんでしまったのだ。白い頬、大きな瞳《ひとみ》。
「い、いないよ」両親のいるテーブルに背を向けて、あわてて言った。「うちのクラスの女子なんか、全然かわいくないんだからさ」
「フーン、そりゃ残念だな」悟伯父さんは、亘の動揺《どうよう》に、まったく気づかない。「ところで、お母さんいるか?」
「いるけど、今日はお父さんも帰ってるよ」
電話の向こうで奇声《きせい》があがった。「世にも珍《めずら》しいことがあるもんだなぁ。じゃあお父さんを出してくれや」
ルウ伯父さんだよと言い終えないうちに、すぐ後ろに来ていた明が、亘の手から受話器を受け取った。そして、「ちゃんと悟伯父さんと呼びなさい」と、珍しくびしりと注意をした。
三谷悟は、三谷明の五歳年上の兄である。十六歳の秋に地元の高校を中退して家業を継《つ》ぎ、今もそのまま継いでいる。大学から東京に出てしまった明とは対照的に、房総から一歩だって離れる気のない人だ。海と船と海釣りが死ぬほど好きなのである。
二人きりの兄弟だけれど、気性《きしょう》は一八〇度違っている。悟伯父さんはよくしゃべるし、しゃべることの筋道はほとんどの場合、まったく一貫《いっかん》していない。理屈などというものとは遠い場所で生活しているというか、そもそもそんなものの存在を知らないみたいだ。
父さんと悟伯父さんは、体格も顔つきもまったく似ていない。中背で細身の父さんに、長身でがっちりタイプの伯父さん。面長《おもなが》の父さんに、えらの張ったいかつい顔の伯父さん。今年四十三歳の伯父さんは、幼稚園《ようちえん》のときから今と同じような風貌《ふうぼう》だったそうで、最近になってやっとこさ、年齢《ねんれい》が外見に追いついたのだそうである。
そういうもろもろが災《わざわ》いしているのか、はたまた本人のワガママか、悟伯父さんはずっと独身である。千葉のお祖母ちゃんは密《ひそ》かにこのことで頭を痛めているらしいけれど、本人はいたって呑気《のんき》なものだ。結婚なんて面倒でよお、と言っている。でも子供は嫌いじゃないらしい。亘にもよくかまってくれるし、ナイショでお小遣いもくれたりする。
亘には母方にも伯父さんと叔父《おじ》さんが一人ずついるので、こんがらからないように呼び分けねばならない。母方の方はそれぞれ、住んでいる場所で「小田原の伯父さん」「板橋の叔父さん」と呼んでいるが、なぜか悟伯父さんだけは「千葉の伯父さん」にはならなかった。ルウ伯父さんという呼び方は、亘がまだうんと幼くて、言葉がおぼつかないころに使っていたものだが、今でもついつい口に出すことが多くて、そのたびにたしなめられてしまうのだ。
悟伯父さんの電話の用件は、「法事」とやらの込《こ》み入った事柄のようだった。切る前にまた受話器を回してもらおうと待っていた亘は、お風呂《ふろ》に入りなさいとリビングを追い出されてしまった。
母さんはよく、お風呂で一人になるといろいろ考え事をしてしまう、という。大人には、めったに一人きりになる時間などないからだそうだ。でも、それは子供だって同じだ。お風呂は物思いを誘《さそ》う場所なのだ。そして今夜、入浴|剤《ざい》の香《かお》りと共に亘の頭のなかに浮かんできたのは、やっぱり大松香織の顔だった。塔のなかの静かな姫君。閉じこめられているのか、閉じ篭もっているのか。
──初恋ぐらいしろよ、か。
ルウ伯父さんの言葉を、胸の内で繰り返して、亘はまたどきりとした。お湯がちゃぷんと波立った。
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3 転校生
彼がやって来たのは、春の連休に入る直前のことだった。中途半端《ちゅうとはんぱ》な時期の転校生だと、クラスの女の子たちが囁《ささや》いていたものだ。
「カッコいいんだって」
「成績いいんだって」
「英語ペラペラなんだってよ」
「お父さんの仕事の関係で、ずっと外国にいたんだって」
だって、だってで盛りあがるおしゃべりが、そこここで聞こえていたものだ。でも、亘にとっては、ピンと耳をそばだてたくなるニュースではなかった。
もちろん転校生は気になる存在だけれど、隣《となり》のクラスのことだ。知らなければ知らないで済んでしまう。それに転校生というものは、そのラベルが剥《は》がれてただの同級生になるまでのあいだは、どんなダイコンでもカボチャでも、三割増しくらいには良く見えるものだ。
亘の暮らすこの町は、不景気の最中だというのに遅《おく》れてきたマンション建設ブームに沸《わ》いており、人の出入りも盛《さか》んだ。だから、亘も五年生になるまでのあいだに、四人の転校生を迎《むか》えた。それだけ見れば充分《じゅうぶん》な経験になる。転校生が本当にラベルどおりのスゴイ奴《やつ》≠ナある確率は、道を歩いていて空から落ちてきた隕石《いんせき》に頭を打たれて死ぬ確率と、どっこいどっこいというところだ。騒《さわ》ぐ必要なんか、全然ない。そして、そうこうしているうちに、幽霊《ゆうれい》ビルの噂《うわさ》の方がずっとずっと気になりだした──という具合だったから、実を言えば隣のクラスの転校生の名前さえ、はっきりとは覚えていなかった。
だから、最初は話がすれ違《ちが》って困った。
「アシカワが心霊写真を撮《と》ったんだってさ!」
「見たの? 見せてもらったの?」
「あたしは見てないんだけど、でもすっごいはっきり写ってるんだってよ!」
大松家の人びとと出会ってから、ちょうど一週間後のことだった。朝、あくびをかみ殺しながら教室へ入ってゆくと、教室の後ろの出入口のところで固まっていた五、六人のクラスメイトたちが、てんでにそんなことを言って大騒ぎをしていたのだ。あれ以来、いつも香織のことが心のどこかにひっかかっている亘にとって、幽霊ビルの「ゆ」の字でも聞き捨てならなかった。
「ホント? ホントにそんな写真撮ったのかよ?」亘は話の輪に飛び込んだ。「いつ?」
「一昨日《おととい》の午後だってさ」
「午後って……じゃ、昼間なの?」
「図工でスケッチしに行ったんだもん」
図工の授業に、街中《まちなか》に咲《さ》いている花をスケッチしましょうという課題があるのだ。
「三橋神社のツツジ描《か》きに行ってさ」
「それ……うちのクラスじゃないじゃん」
「だからアシカワが撮ったんだって」
そこで亘はようやく、話題の主が隣のクラスの転校生だと知ったのだった。
「アシカワっていうんだっけ」
「そ。ミツル・アシカワ。なにしろ外国育ち」
男子生徒の一人が気取ってそう言うと、女子たちが笑い転げた。
「バッカみたい。名前と名字をひっくり返せば外国人になるなんてもんじゃないよ」
亘には、転校生のプロフィールなどどうでもいい。問題は、そいつが撮ったという心霊写真の方だ。
「その写真、見せてもらえるかな?」
みんな口々にかしましく、自分たちも見たいのだと訴《うった》えた。
「だけど芦川《あしかわ》君、こんなもんで大騒ぎするのは良くないって、うちに持って帰っちゃったんだって。それきり、誰《だれ》にも見せてないんだってさ」
瞬間《しゅんかん》、亘は心の隅《すみ》で喜んだ。アシカワという転校生は、ひょっとすると僕と似たような考え方の持ち主なのかもしれない。こんなもんで大騒ぎするのは良くない、か。うん、いいじゃないか、そのセリフ。僕も、この前クラスの女子と揉《も》めたとき、そういう言い方をすれは良かったのかもしれないな。
「隣のクラスには、誰か実物を見たヤツはいるの? 一緒《いっしょ》にスケッチに行ったヤツらは見たんだろ?」
クラスメイトたちは何人か隣のクラスの生徒の名前を挙げた。スケッチに行ったメンバーは、男子三人女子二人の五人組で、そのなかには、隣のクラス委員の宮原《みやはら》柘太郎《ゆうたろう》も入っていた。彼なら亘の友達だ。
「写真撮ったカメラは、宮原君が持って来たんだって」と、大事な情報を付け加えた。
「うちへ帰ってから、スケッチの細かいところを写真見ながら描けるようにさ」
ポラロイドカメラだったそうである。宮原の提案で、一人一枚ずつ、自分がスケッチしようと決めた構図をそのまま写真に撮った。芦川は神社の境内《けいだい》から、境内を囲む木立と、隣の幽霊ビルを仰ぐような感じのショットを撮ったのだそうだ。するとそこに、人間の顔のようなものが写っていた──というわけである。
「その場で写真にヘンなものが写ってることがわかって、もう大騒ぎになっちゃったんだって。最初は面白《おもしろ》がってたんだけど、そのうち女の子が泣きだしちゃって、みんな怖《こわ》くなって帰ってきちゃったんだってさ。スケッチはどうしたんだろうね?」
それだけ聞けば用は足りた。亘は早速《さっそく》、次の休み時間に隣のクラスへ出かけて行った。廊下《ろうか》に面した窓からなかをのぞきこむと、窓際《まどぎわ》のいちばん後ろの席について、前の席の女子生徒と、隣の席の男子生徒と、盛んに笑いなから何か話をしている宮原の横顔が見えた。
宮原祐太郎は学年一の優等生である。城東第一小学校ではまだ、毎学期に一度、成績|優秀者《ゆうしゅうしゃ》の名前を廊下に掲示《けいじ》するなどという儀式《ぎしき》を行っていないけれど、それでも頭のいい子のことは、みんな自然にそれと悟るものだ。その感度は、ひょっとしたら先生のそれよりも敏感《びんかん》で精度が高いかもしれない。
ちょっと以前のことだけれど、父の三谷明が何かの折に、母の邦子を相手に学校論みたいなことを話しているのを、亘は聞きかじったことがある。明はずいぶんと難しい言い回しをしていたので、演説の大半は亘にはよくわからないものだった。でも、ひとつだけ、理解可能な上に、ピカリと光って心に残った言葉があった。
「本当に優秀な人間は、目を吊《つ》りあげてほかのすべてを犠牲《ぎせい》にして勉強しなくても優秀なんだ。それが能力ってもんなんだから」
父のこの言葉が耳に入ったとき、亘はごく自然に宮原柘太郎の顔を思い浮かべた。そうだよなぁ──と思った。宮原はいつ見てもすごく明るくて、楽しそうで、呑気《のんき》にしている。それでいてすっごく勉強はできるし、リレーの選手には必ず選ばれるし、幼稚園《ようちえん》の時から通っているスイミングスクールでも代表メンバーだそうだし、テレビも観《み》ているしゲームにも詳《くわ》しい。無理をして優等生を張っている≠謔、には、まったく見えない。彼は生まれついての優等生なのだ。だが先生たちは彼を評して「努力家」「頑張《がんば》り屋」だと褒《ほ》める。ヘンなの──と、亘はいつも感じていた。宮原はいいヤツだけど、努力家じゃないよ。なんで先生たちにはわかんないんだろう?
亘がもう少し大人になれは、先生たちだってわかっているのだと、誰よりもよくわかっているのだと、でもそれを率直《そっちょく》に口に出すと、いろいろと面倒《めんどう》なことばかり招来してしまうので黙《だま》っているしかないのだということが理解できるだろう。だって、人間には生まれついての能力差があるということと、努力することの大切さ尊さ楽しさとは、まったく別の問題だが、しばしば混同される問題でもある、そこに人生の面白さと難しさがある──なんて、小学生相手にどう説明すればいい?
宮原は話に夢中のようだし、教室のなかは騒がしく、ちょっと声をかけたぐらいでは呼び出せそうになかった。見回しても、亘が気軽に名前を呼べそうな顔も見あたらない。
小学校のなかでは、クラスが違うということは水槽《すいそう》が違うということで、めったなことでは交流ができない。五年生になると、音楽や保健体育など、いくつかの科目で二クラス合同の授業や男女別のカリキュラムが組まれることがあって、ようやく行き来が始まるのだけれど、それも限られた時間内のことだ。亘が宮原をよく知っているのは、塾《じゅく》で同じコースに在籍《ざいせき》しているからである。
教室の後ろの出入口のところまで行き、ウロウロしてみたけれど、宮原は話に夢中になっていて、全然気がついてくれない。亘は、こういう局面では意気地《いくじ》なしっぽい部分が前面に出てしまうタイプなので、ずかずかと隣の教室に踏《ふ》み込んでゆくことができない。そのうちに休み時間の終わりを報《しら》せる鐘《かね》が鳴り始めた。
──しょうがないや、塾で話せるまで待とうかな。
亘は急いで踵《きびす》を返した。すると、いきなり何か真っ黒なものが立ち塞《ふさ》がり、どんとぶつかった。
「あイタ!」
思わず声が出た。亘がぶつかった真っ黒なものは音も声もたてず、ただふわりと、ほんのわずかだけれど薬|臭《くさ》いような匂《にお》いがした。
目の前に、黒いトレーナーを着た少年が立っていた。まばたきするほどわずかな時間、亘は、鏡を見ているのかと思った。それほどに、少年の背格好が、亘自身とよく似ていたのた。
「あ、ごめん」
反射的にそう言うと、それで錯覚《さっかく》も消えた。黒いトレーナーの上にのっかっている顔は、亘とは似ても似つかなかった。
悔《くや》しいけれど、それはそれは凄《すご》い美少年だったのだから。
亘はぽかんと口を開けて、少年の顔を見つめた。亘もまた、面白いヤツと呼ばれることを最大の勲章《くんしょう》と考え、だからどんなときでも頭の片隅ではギャグや気の利《き》いた台詞《せりふ》を考えずにはいられないティーンエイジャーの予備軍の一人であって、だからその本能に忠実に、ミリセカンドのそのまた千分の一単位のスピードで思考した。今月ってボク的には全国美少年美少女月間だな、だけどこの台詞ってイマイチ面白くないから口には出すのはやめた──というところまで考えたところで、相手の黒いトレーナーの胸元《むなもと》に留め付けられている名札に気がついた。
「芦川|美鶴《みつる》」
ミツル・アシカワ。なにしろ外国育ち。
こいつが問題の転校生なんだ!
声をかけようとしたそのとき、芦川美鶴はするりと動き出し、亘をかわして教室のなかに入ってしまった。そのあまりの素早《すばや》さに、亘は、彼が目の前からいなくなっても、たっぷり二秒のあいだは振《ふ》り返ることもできず、隣の教室の出入口に背中を向けて、バカみたいに突《つ》っ立っていた。やっと教室のなかをのぞきこんだときには、生徒たちの大半は席についていて、鐘の最後のひと打ち(録音なんだから、ホントに鐘を槌《つち》で打ってるわけじゃないんだけど)が、震えるような尾《お》を引きながら消えてゆくところだった。
亘はあわてて自分の教室に駆《か》け戻《もど》った。妙《みょう》にドキドキしていた。
その日はちょうど、塾の授業のある日にあたっていた。亘は一度家に帰ると、いつもより早めに塾へと向かった。宮原もたいてい早めに来ていて、静かなところで自習していることが多いからだ。
亘の通っている「かすが共進ゼミ」は、亘の家から自転車で五分ほどの場所にある。四階建ての小さなビルの三階のワンフロアを借り切っていて、教室の数は三《みっ》つ。亘たち小学校五年生の授業は週に三度、国語と算数が主体の二時間の授業で、いちばん北側の角部屋が使われている。
読みはあたって、宮原は一人きり、教室の隅の彼のお気に入りの場所で参考書とノートを広げていた。算数のようだ。
宮原家は五人家族で、お父さんはガソリンスタンドを経営している。祐太郎の下に、幼稚園児の弟と、まだお尻におむつをあてている妹がいる。
宮原のお母さんは、宮原の実のお父さんとは、かなり昔に離婚《りこん》している。弟と妹は、宮原のお母さんと今のお父さんとのあいだにできた子供たちで、だから宮原とは異父|弟妹《きょうだい》ということになる。誰かが宮原の身の上話を聞いたことがあるわけでもないのだけれど、こういう話は何となく広まって、いつの間にか何となく周囲に知られてしまう類《たぐい》のことだ。風邪《かぜ》が流行《はや》るのと、ちょっと似てる。
宮原はとてもいいヤツだけれど、家のなかでどんなふうなのかは、亘も知らない。弟妹を可愛《かわい》がっているという噂を、特に女の子たちの口から聞かされたことはあるけれど、同じ学区内にいて、同じ塾に通っていて、生活|圏《けん》内が半分ぐらいかぶっていながら、今まで弟や妹と一緒の宮原を見かけたことはない。だから確かめようもなかった。
ひとつだけ確かなことは、宮原がこうしてしばしば塾で自習をするのは、家のなかでは、うるさくて勉強ができないからだということだ。これは本人がそう言っている。それは亘にも想像がつく。赤ん坊《ぼう》と幼稚園児のいるところでは、なかなか集中して勉強しにくいだろう。塾の先生もそのへんを考慮《こうりょ》して、教室を使わせてくれている。もちろん、小さな弟妹がいるという生徒は宮原だけではない。ほかにも何人もいる。ただ、弟や妹がうるさくて勉強できないということがただの口実になっているのではなく、本当に静かな場所さえあれば勉強ができるのは、宮原だけなのである。だから、たいていの場合、彼はここでぽつりと一人で勉強している。
亘が教室に入ってゆくと、宮原は顔をあげて、ビックリしたように目を瞠《みは》った。壁《かべ》の時計を見る。もうそんな時間か──と思ったようだ。亘はあわてて、ちょっとハナシ、あってさ、いい? と申し出た。
「いいけど、何?」
宮原がたいそう真面目《まじめ》なので、亘はちょっと言いにくくなった。シンレイシャシンのことなんだけど……なんて、なんかあまりにも子供っぽいじゃないか。
それでもなんとか話し出すと、すぐに、
「ああ、その話かぁ」宮原はほっとしたみたいにうち解けた感じになった。「学校中の評判になっちゃってるみたいだね」
「ホントに幽霊が写ったの?」
「うーん」
宮原は椅子《いす》にそっくりかえり、クセのない髪《かみ》を手でもしゃもしゃにした。顔はまだ笑っている。
「ツツジの花の陰に、人間の顔みたいなものが写ってることは確かなんだ。だけど、幽霊かどうかはわからないよ。そのときはそう思ったけど、ホントかどうかはわからない」
「三橋神社の隣の建てかけのビルには幽霊が出るって噂、知ってるだろ?」
「うん、知ってるよ」
「それとその心霊写真、なんか関係あるかな?」
「そんなの、わっかんないよ」宮原は本格的に笑いだした。「三谷って、そういうの気にするの?」
亘は急に恥ずかしくなった。そのなかにはちょっぴり腹立たしさも混じっていた。だって僕は最初から、そんな噂はまともに受け取ってなかったんだ! と、責められているわけでもないのに弁解したくなった。ついつい口を尖《とが》らせて、女の子たちを怒《おこ》らせてしまった時のことをしゃべってしまった。
「ふうん」そこでやっと、宮原は本気になったみたいだった。笑いが消えた。「僕も幽霊とかは本気で信じてないけど。だから別に三谷は悪いこと言ったわけじゃないんじゃないの。気にすんなよ」
「それならいいんだけど──」
慰《なぐさ》められて、しかしそれでは話が続かなくなった。大松香織のこともしゃべっちゃおうか。すごい美少女に会ったもんだから、あれからソワソワ落ち着かないんだよって。宮原なら絶対に笑ったりからかったりしないはずだから。
でも、口から出たのは別の言葉だった。「芦川ってどんなヤツ?」
宮原はごく素朴《そばく》に不思議がった。「どんなヤツって、どんな意味?」
「今朝初めて見たらさ、あいつ人形みたいな顔してんじゃん?」
亘にしてみれば、あれは「会った」のではなく「見た」のである。
「いいヤツだよ。うん」宮原はすぐに答えた。無理をしているのでも、何か含《ふく》みのある答え方でもなかった。「人形みたいな顔ってね。うん、うちのクラスの女子、騒いでる」
宮原は面白くなくないのだろうか。彼だっていちばん人気≠ネのだ。
「だけど変わってない? 心霊写真撮るなんてさ。しかも持って帰ったんだろ? こういうことで騒ぐのはよくないとか言ってさ。なんかカッコつけてんじゃんか」
「カッコつけたわけじゃないと思うけど」宮原はまたクスクス笑った。「そんなに気になるんなら、会ってみりゃいいよ。来るからさ」
「来るって? ここに?」
「うん。今日から」
どこかいい塾はないかと訊《き》かれたので、ここを教えたら、すぐに通うことに決まったのだそうだ。
「ここでも女の子たち、騒ぐだろうね」
「どうかな。だけど別にいいじゃない、騒いだって」
「芦川って、勉強──」
「できるよ。きっとかなり成績いいよ」
ニコニコと言われて、亘は宮原の顔を見た。ぜーんぜん気にしていない。ホントに気にしていない。無理して突っ張ってるわけじゃない。自然体。いちばん人気≠フ座を追われても、やっぱり気にしないんだろう。
宮原は、失うものなんかないんだと、亘は気がついた。芦川美鶴がどんなに優秀でも、カッコよくても、それで宮原がバカになるわけじゃない。宮原は宮原のままで勉強ができて、足も速くて、泳ぎも上手《うま》くて、何でもできてカッコいいということに変化はないのだ。むしろ、独りぼっちの優等生でいるよりは、優等生同士の友達がいた方が楽しいくらいかもしれない。いちばん人気≠フ席を取り合うのではなく、仲良く並んで座るようになるだけなのだ、きっと。
そのへんの事情は、亘なんかとはまったく違う。カッコよくてできるヤツの人数が増えれば増えるほど、こっちは居場所が狭《せま》くなるのだから。
亘と同じことを口に出しても、宮原や芦川は女の子を怒らせたりせずに済むのだ。現にそうじゃないか。自分で心霊写真を撮っておきながら、「こういうことで騒ぐのはよくない」なんてセリフを吐《は》く。それは、意味としては亘がクラスの女の子たちを怒らせてしまったときの言葉と、ほとんど差はない。だけど芦川と一緒にいた女の子たちも、この噂話を聞いた女の子たちも、誰一人として「芦川は心霊写真を信じてない、嫌《いや》なヤツ」と責めたりしなかった。
宮原が、「三谷は間違ったこと言ってないよ、本当に三橋神社で人が死んだことがあるかどうか確かめてみる前に、これはその幽霊だなんて言っちゃいけないと、僕も思うよ」と言ったなら、女の子たちは素直《すなお》に聞くのだろう。それはもう間違いなくそうするんだろう。宮原君がそう言うなら、そうなのねなんて言うんだろう。
めちゃめちゃ不公平だ。
ほかのすべての感情を潰《つぶ》してしまうくらい、ぐいーんと腹が立ってきた。女の子たちが何人か、おしゃべりしながらやって来たのをきっかけに、亘は席についた。塾では早い者順で自由に座る場所を決めていいのだが、やっぱりそれなりに定位置というものはできるものだ。亘の席は、廊下側の真ん中だった。
定刻五分前に、亘たちの担当講師の石井先生が教室に入ってきた。そのすぐ後ろに、芦川美鶴がくっついていた。教室は八割がた席が埋まっていて、べちゃべちゃとおしゃべりが賑《にぎ》やかだったのだけれど、芦川を見たとたんに、みんなピタリと静かになった。
塾仲間は、だいたい三つの小学校の生徒たちで構成されている。城東第一と、城東第三と、後は私立に通う子供たちだ。第三と私立の子供たちは、芦川美鶴を見るのは初めてだから、そりゃ驚《おどろ》きも大きいだろう。
先生はみんなと挨拶《あいさつ》を交《か》わすと、芦川を紹介《しょうかい》した。
「今日から一緒に勉強することになった芦川美鶴君です。城東第一のみんなはもう知ってるよね」
石井先生は二十四歳。大学の研究生で、ここでの講師はアルバイトだ。小柄《こがら》なので、服装によっては高校生ぐらいに見えるときもある。それでもとにかく凄く頭のいい先生だし、詰も上手いし、授業は面白い。何より亘たちをごまかしたり頭を抑《おさ》えつけたりすることのない人なので、みんなに好かれているし尊敬されている。
それなのに、芦川と並ぶと、なぜかしら先生が──何というのだろう──小さく見えた。それはまだ亘の語彙《ごい》のなかにはない言葉と言い回しを必要とする表現だった。貧弱に見える。位負けしている。そんなところか。さっき先生が芦川を連れてきたときからしてそうだった。芦川が先生にくっついているというのではなく、立場上後ろに従っているだけだというように見えた。
「芦川です」と、言って、彼はちょっと頭をさげた。それで充分という感じだった。よく通る声だった。
芦川は空いている席に座るとき、宮原と目を合わせて、ちらっと笑った。宮原も笑い返した。亘の並びの席の女の子たちが、頭を寄せ合ってそんな二人を見やり、忍《しの》び笑いしたり囁いたりしている。嬉《うれ》しそうだ。
石井先生は、できるだけ個別指導に近い形で授業をしたいという方針で、だからその日の勉強時間のあいだには、芦川が宮原の言うとおりの秀才なのかどうか、亘にははっきりつかむことができなかった。それでも、できそうな雰囲気《ふんいき》というのは感じた。どうやらコイツは、本当にラベルどおりの凄いヤツ≠ナあるらしい。隕石だ。
授業が終わって帰る時間になると、当然のように宮原と芦川は二人組になった。塾の同級生たちが周りを取り囲む。女の子たちばかりではなく、男子も混じっている。亘は二人に近づく隙《すき》を見つけることができなかったし、大勢がわいわい楽しく騒いでいるところで、心霊写真は本物かだなんて、いきなり言い出したくはなかった。だから鞄《かばん》を抱《かか》えてさっさと家路についた。あんまり急いだので、まるで逃げてるみたいだと思った。だけど、何から? わかってるくせに。
けっして逃げているのではないと自分に対して申し開きするために、そんな必要はないのに、家までずっと走って帰った。ただいま、と玄関《げんかん》の鍵《かぎ》を開けて飛び込むと、リビングのガラスのドアごしに、邦子が立っているのが見えた。電話に出ているらしい。亘がドアを開けると、顔をしかめていた。そして、乱暴にがちゃんという感じで受話器を置いた。
「どうしたの?」
「また無言電話なのよ」邦子は言って、本当に腹立たしいという様子で鼻を鳴らした。台所では鍋《なべ》が沸き立って、白い湯気が盛んにあがっている。
「今日はこれで三度目。夕飯の支度《したく》にとりかかってから、こっちが忙《いそが》しいのをわかっててかけてるみたいな感じで……」
そこで初めて、亘は母がただ怒っているだけでなく、怖がっているのだと気づいた。
「今度かかったら、僕が出る。お鍋ふいてるみたいだよ」
「あらヤダ!」
邦子は台所に飛んでゆき、亘は自分の部屋に行って鞄を片づけた。邦子は、台所が落ち着くと、塾はどうだったとか、今夜はチャーハンにしたけど給食はなんだったのとか、矢継《やつ》ぎ早に話しかけ始める。いつものことなので、亘もあれこれ話したけれど、どうしても芦川のことがひっかかってしまって、ちっとも楽しくなかった。
手を洗って食器を並べていると、電話が鳴った。亘は飛びついて受話器を持ちあげた。
「小村ですケド、亘君いますか?」
カッちゃんだった。邦子がサラダを混ぜる手を止めてこっちを見ている。亘は違う違うというふうに手を振って合図した。
「今日って塾の日だったろ?」
「そうだよ、だからこれから夕飯」
「そんじゃ後にする? 小母《おば》さんにオレ怒られちゃうから」
カッちゃんはやけに騒がしい場所から電話をかけている。聞き取りにくい。
「またかけ直すよ」
「うん、じゃそうして」
カッちゃんは早々に電話を切った。母さんがカッちゃんをよく思っていないことは、ちゃんと伝わっているのだ。
しばしばうちに電話をかけてくるのが、優等生の宮原だったらどうだろう? 母さんも嫌な顔なんてしないだろう。宮原君のいちばんの仲良し。母さんにも満足の行くポジションだろう。
亘自身はどうなんだ? カッちゃんより、宮原祐太郎の方がいいか?
宮原はいいヤツだけど、亘にとって、付き合って面白い友達になるだろうか。いつもこっちが引け目ばっかり感じてなくちゃならなかったら、そういうのは友達≠カゃないんじゃないのかな。
宮原みたいに評判がよくて、カッちゃんみたいに面白い友達ならいいんだ。だけどそんなもん、あり得ない。お客さんで満員で凄く賑やかだけど、乗り物に乗るのに一時間も二時間も待たなくてもいい東京ディズニーランドと同じぐらい、あり得ない。
宮原と芦川。
カッちゃんと亘。
秤《はかり》の両端《りょうはし》に載《の》せたら、結果は目に見えてるような気がする。いや、亘とカッちゃんの全敗というのじゃなくて、秤の種類によっては、亘たちの方が重い場合だってあるだろうけれど、ただその秤は、亘が心から載せてほしいと願う秤じゃないような気がする。
そんなことを考えていたら、また電話が鳴った。今度こそは無言電話だろう。亘はさっと受話器を取った。
「三谷です!」
「亘か?」
明からだった。
「なんだお父さん」
「なんだはご挨拶だな」
「また無言電話がかかってきて、お母さんが怖がってるんだ」
ちょっと間が空いた。「今日か?」
「うん、夕方に三回ぐらい」
邦子が電話に近寄ってきたので、亘はお父さんだよと言って受話器を差し出した。そして自分はテーブルに戻った。夕食の皿が並んでいる。今夜も母さんと二人きりの夕ご飯《はん》だ。
邦子はしばらく電話でしゃべった後、「はいはいわかりました、準備しておくから」と、何だかセカセカと承知して、「それじゃ、ご苦労様です」と言ってから切った。亘は、母が父からの電話の際、必ずこうして労《ねぎら》いの言葉を添《そ》えるのを、当然のように思っていた。
でも、一年ほど前のことだったろうか、母さんの同級生とかいう人が化粧品《けしょうひん》のセールスレディをしていて、仕事がてら遊びがてらうちを訪ねてきたときに、その認識《にんしき》をあらためた。その小母さんはなかなかきれいな人だったけれど、化粧の匂いが強すぎて、亘はそばにいると鼻がムズムズした。だから挨拶だけ済ませると、自室に籠《こ》もってゲームをしていたのだ。
母さんとそのセールスレディの小母さんが賑やかにおしゃべりしているときに、今日のように父さんから電話がかかってきた。母さんはいつものように応対し、いつものように労いの言葉で電話を終えた。するとセールスレディの小母さんがとても驚いて、大きな声を出すのが聞こえた。
「信じられないわぁ、今の、ご主人なんでしょ? 今はもう明治時代じゃないのよ、旦那《だんな》の方が邦子より偉《えら》いわけじゃないのに、なんでそんなにへりくだるの? 」
へりくだるってどういう意味だ? 亘は辞書を引いた。相手を敬い、自分を卑下《ひげ》すること≠ニ書いてあった。もっとよくわからなくなってしまった。だから、セールスレディの小母さんが、急にがさつな感じになって、お説教がましく母さんにあれこれ言うのを注意深く聞いていた。その方が意味がわかるかもしれないと思ったのだ。
「古風なのもいいけど、あんまり亭主を甘やかしちゃ駄目《だめ》よ。結婚した以上、あっちには働いて女房《にょうぼう》子供を養う義務があるんだからさ。五分五分よ。有《あ》り難《がた》がることないわよ」
母さんは笑いながら、別に甘やかしちゃいないわよと、言葉少なに反論していた。
「亭主なんて、外じゃ何やってるかわからないんだからね」セールスレディの小母さんは言って、ケタケタと笑った。「うちなんかもう、お互いに放任主義よ。あっちもこっちに干渉《かんしょう》しない。こっちもあっちに干渉しない。子供さえいなかったら、とっくに別れてるわね。子はかすがい[#「かすがい」に傍点]とは、ほーんとによく言ったもんだわよ」
小母さんがしゃべればしゃべるほど、部屋の空気が汚《よご》れてゆくように、亘は感じた。きれい好きの母さんが掃除《そうじ》をした床や壁を、小母さんが、誰も頼《たの》んでもいないのに、こんなんじゃ掃除したことにならないわよとか勝手に決めつけて、汚れ雑巾《ぞうきん》をかけ直しているみたいな感じがした。
そのセールスレディの小母さんは、二度と三谷家を訪《おとず》れなかった。母さんもあの人のこと好きじゃないんだなと思って、亘はホッとした。
夕食の後、カッちゃんに電話をかけてみると、今度は凄くテレビの音が大きいところで、本人が出た。
「ちょっとボリュームさげてくれる?」
「あ、悪《わり》いわリィ」
何かと思えば、今日学校の帰りに大松社長に会ったよ、というのである。
「何で? どこで?」
「幽霊ビルの前でさ。なんか、灰色の作業着着た人と一緒だったよ」
次の施工《せこう》業者が見つかったのかもしれない。
「社長さんだけだった? 息子《むすこ》さんは?」
「いなかったけど──何で?」
「何でって」亘は詰《つ》まった。「別にワケなんかないけどさ」
カッちゃんにはこういうところがある。どんなことにも、「何で?」って訊けばすぐに答をもらえるって信じ切っている。これがたぶん、単純≠ニいうことなのだろう。
「社長さん、嬉しそうだったよ。工事が続けられるようになったんだって」
やっぱりそうか。
「ビルが完成すれば、変な噂なんか消えてなくなるだろうしね」と、亘は言った。「その方がいいよ。放《ほう》っておくと、隣のクラスの芦川とかいうヤツみたいに、あそこで心霊写真を撮って喜ぶようなのが出てくるからさ」
嫌な言い方だった。しかも嘘《うそ》だ。
はっきり嘘だと承知しているけれど、他人が耳にしたら確実に驚くであろう言葉を口にすると、舌が刺激《しげき》的にピリピリする。香辛料《こうしんりょう》みたいだ。だから、クセになるとやめられなくなるのだ。うかうかと嘘をついちゃいけないのは、そういうクセがつくと、あとあと怖いからなのだ。
だけど亘は言ってしまった。案の定、カッちゃんは飛びついてきた。
「それ何? 何だよ心霊写真なんてさ」
亘は説明してやった。それが嘘を積み重ねることになると、重々承知しつつ。カッちゃんはまったく初耳だったらしく、開けっぴろげに驚いている。
「スゲエなぁ、見たいなぁ」
「やめとけよ。そうやって騒ぐから、芦川がいい気になるんだ」
「オフクロが、二十歳《はたち》までに幽霊を見なかったら、一生見ないで済むっていうんだ」
「だったらなおさら見ない方がいいよ」
「そうかぁ? オレは絶対に二十歳までに見たいよ。幽霊も見ないで暮らすなんて、つまんないじゃんか」
カッちゃん一流の理屈《りくつ》である。つまらなくない人生を切り開くためにゲットしなければならないものは、幽霊を見る素質≠ネんかじゃないはずなんだけどと言いかけて、亘は言葉を呑《の》みこんだ。そんなことを言ったところで、カッちゃんからはさらにトンチンカンな返事が来るだけだろう。そういうことに、今夜は何だか妙にイライラした。
「それじゃ、オレお風呂《ふろ》に入らなきゃなんないから」
カッちゃんはまだ何か言っていたが、亘はさっさと電話を切った。邦子が、小村君は何の用だったのと尋ねたので、何とかカンとか適当に答えた。そして自分の部屋に入った。ドアを閉めて一人になるとホッとした。
そこに突然《とつぜん》、女の子の声が響《ひび》いた。
「嘘つき」
椅子に座ったまま、亘はかちん! と固まった。
[#改ページ]
4 見えない女の子
ソラミミ。
先週、大松さんたちに会った夜、家を抜《ぬ》け出す前に起こったのと同じアクシテントだ。口のなかがひゅうっと渇《かわ》いた。
「あなたって嘘つきだったのね」
再び、空耳《そらみみ》。甘い女の子の声のように聞こえるけれど、これはたぶん耳鳴りだ。いや、隣《となり》の家のテレビの音だ。このマンションは設計書に書いてあるよりも壁《かべ》が薄《うす》いって、前に父さんが文句を言ってたじゃないか。
「聞こえないふりをしてもムダよ」
拗《す》ねたような女の子の声だ。テレビドラマの台詞《せりふ》だ。決まってるじゃないか。
「どうして、お友達にあんな嘘をついたの? あなたはそういうことするヒトだったの? あたしガッカリしちゃったわ」
亘はそうっと周りを見回した。見慣れた自分の部屋だ。今日は母さんがベッドカバーと枕カバーを取り替《か》えてくれたらしい。ブルーのチェック柄《がら》から、黄色いチェック柄のに替わっている。きれいに背表紙の並んだ本棚《ほんだな》。その下には、千葉のお祖母《ばあ》ちゃんが入学祝いに買ってくれた『こども百科事典』が並んでいる。もらってしまってから、ワンセット二十万円もすると聞いて、亘は悔《くや》しかった。そんなお金使ってくれるんだったら、パソコンにしてほしかったのに。そう言って口を尖《とが》らせたら、小学校の入学祝いには『こども百科事典』がぴったりなのだと言い返された。パソコンなんて、大人になってから自分で買うもんだよ、お祖母ちゃんは嫌《いや》だね。おかげで場所ばっかりとって、邪魔《じゃま》くさくてしょうがない。
壁のカレンダー。床《ゆか》の絨毯《じゅうたん》。机の上の消しゴムのカス。天井の灯《あか》り。
亘はバッと身を翻《ひるがえ》して、机の下をのぞきこんだ。はずみでキャスター付きの椅子《いす》がごろりと動いた。
もちろん、誰《だれ》が隠《かく》れているわけもない。
それでも、今度は鋭《するど》く振《ふ》り返って、ベッドの下をのぞいた。まるで犯人のアジトに踏《ふ》み込むFBI特別|捜査官《そうさかん》みたいだ。背中にロゴの入ったジャンパーを着て、その下には防弾《ぼうだん》ベスト。ホルスターは肩《かた》から吊《つ》っている。
ベッドの下には、丸い綿埃《わたぼこり》がひとつ隠れていた。母さんによる掃除《そうじ》作戦から、かろうじて生き延びたゲリラ兵が、ひょっこり投降してきたというだけ。
女の子のくすぐったそうな笑い声が聞こえてきた。「あたしは隠れてなんかいないわ」
亘は身体《からだ》を起こして、ゆっくりと椅子に戻《もど》った。心臓がピンポン玉くらいの大きさになって、ドキドキしながら身体じゅうをコロコロ回っているのを感じる。いつも心臓が収まっている場所はぽかりとお留守になって、そこを冷たい風が吹《ふ》き抜ける。
「どこにいるんだよ?」と、小さく尋《たず》ねた。
不思議だった。女の子の声が聞こえてくる方向が、全然見当つかないのだ。天井からでもない、壁からでもない、前からでも後ろからでも、足元からでもない。
それなのに、亘の頭のなかに響《ひび》いてくる。でも、自分の声とははっきり区別がつくのだ。
「あたしは隠れてなんかいない。でも、探してもどこにもいない」
女の子の声は、謳《うた》うように言った。
「隠れていないものを探すなんて、ナンセンスだから。探さなければならないものは、必ず隠れているはずだなんて、どうしてそんなふうに思い込むの? 探すから隠れるの? 隠れるから探すの?」
亘は顔をしかめた。思わず、空に向かって問い返した。「オマエ何だ? 何言ってんの?」
女の子の声が言った。「あたしはあなたのそばにいるのよ」
亘ははっと日を見開いた。閃《ひらめ》いたのだ。素早《すばや》く椅子から立ちあかると、ドアを開いて部屋を出た。リビングでは、テレビが楽しそうにCMソングを歌っている。邦子の姿は見えない。お風呂《ふろ》だ、きっと。母さんはいつも、テレビを点《つ》けっぱなしにしておいてお風呂に入る。
カウチの脇《わき》の小引き出しに、使い捨てカメラがひとつ入っていたはずだった。先月家族で動物園に行った時に買ったもので、二十四枚|撮《ど》りなのに、結局三、四枚しか撮らずに帰ってきてしまった。それでそのままになっているのだ。
引き出しを探《さぐ》ると──あった! 亘はカメラをつかんで自分の部屋にとって返した。
いや、駄目《だめ》だ。やみくもに飛び込んではいけない。閉じたドアの脇の壁にべったりと背中をつけて、呼吸を整える。FBI再び。しかし今のミタニ捜査官にはバックアップをしてくれる同僚《どうりょう》がいない。タンドクでの突入《とつにゅう》である。ドアのノブをゆっくりとつかんで回す。そうっと動かす。ドアを十センチ開く。二十センチ開く。よし、音をたてずに忍《しの》び込め。
カメラを持った右手を背中に回して、閉めたドアにそのままよりかかる。犯人は気づいていない──か、どうかわからない。なにしろこの凶悪《きょうあく》犯は、不可視光線を放つ特殊《とくしゅ》スーツを装備している──という表現はおかしいかもしれないけど、とにかく目に見えないということをイカメシク言い表したい。ああ、赤外線バイザーを持ってくればよかった。
大きく深呼吸してタイミングを計ると、亘はカメラを取り出し、銃《じゅう》の引き金を引くように──心境としては──シャッターを押した。
フィルムを巻いてなかった。
これだからイヤなんだ。使い捨てカメラで写真を撮るときは、一枚撮ったらすぐに巻いておかないとダメなのに!
こうなってはもう、バレバレだ。亘はフィルムを巻いてはシャッターを押し、部屋じゅうをぐるぐると撮って撮って撮りまくった。そのあいだは何も考えなかった。天井を撮り、ベッドの下を撮り、椅子の陰を撮り、振り返っては撮り、しゃがんでは撮った。
とうとうフィルムが一枚もなくなった。鼻の頭にうっすらと汗《あせ》をかいている。それを手の甲《こう》で拭《ぬぐ》って、床に座り込んだ。たいした運動量ではなかったのに、はあはあとあえいでいた。
女の子の声が、静かに言った。「あたしが写っていなくても、写っていたって嘘をつけばいいじゃない」
亘は再びかちんと固まってしまった。指がこわばり、カメラが膝《ひざ》の上に落ちた。
「あたしが写っていても、写っていなかったって嘘をつけばいいじゃない」
前の声は、右から聞こえたような気がした。後の声は、左から聞こえたような気がした。
「ないことも、あるって言えばあることになるの。あることも、ないって言えばないことになるの」
今度の声は、足元から囁《ささや》きあがってきたように聞こえた。
そして次には、天井から声が降ってきた。まるで小雨《こさめ》のように。
「あなたはあなたの中心で、あなたは世界の中心だから」
謳うような声の調子が、少しずつ変わってゆくことに気づいた。なんだか……悲しげだ。
説明のしにくい、でも切羽《せっぱ》詰《つ》まった心に急《せ》かされて、亘は部屋の天井を仰《あお》いだ。そして声に出して問いかけた。
「君はどこにいるの?」
心臓がやっと元の大きさを取り戻し、いつもの収納場所へと早足で戻ってゆく。ことり、ことり、ことり。亘がその足音を五つ数え終えたときに、女の子が答えた。
「あなたはもう、知っているのに」
そして──居なくなったような感じがした。姿が見えず、どこから亘に話しかけているかも定《さだ》かでない女の子なのに、それでも彼女がこの部屋から居なくなったことが感じ取れた。それはちょうど──接続が切れたような。
気がつくと、首も背中も汗びっしょりになっていた。指先が震《ふる》えている。膝の脇に落ちた使い捨てカメラを拾おうとして、二度もつかみ損ねてしまった。
あなたはもう、知っているのに。
そんなはずはない。あの甘い声。うちのクラスに、あんな声の女子はいない。友達の声なら、聞けばすぐにわかるはずなんだ。
──いったい、誰なんだよ。
急に、置いてきぼりにされたような気がした。それでいて、誰かを置き去りにしてしまったような気もするのだった。
今月のお小遣《こづか》いの残りでは、使い捨てカメラをスピード現像のお店に出すわけにはいかなかった。中一日かかるけれど、近所の大型薬局にフィルムを持ってゆくしかない。しかも、薬局は、亘が登校する時間にはまた開いていないので、帰り道に寄ることになる。ますます時間を食ってしまう。子供であるというのは、なんて不便なことなんだろう。
勉強机の脇の本棚にズラリと並べてあるお気に入りのマンガの単行本の奥には、バタークッキーの空き缶《かん》が隠してあり、そのなかには、この九月に発売される『ロマンシングストーン・サーガV』を買うための、秘密の貯金が入っていた。それに手をつければ、スピード現像に出すことなんて簡単だ。心がグラついた。マンガ本を退《ど》けて、缶のうわ蓋《ぶた》の絵柄を見るところまでは、やってしまった。溶《と》かしバター色の仔ウサギが嬉《うれ》しそうにクッキーを食べている。それをしばらくのあいだ見つめて、首を振り、マンガ本を元に戻した。今はもう六月も半ば。ここでこのお金を使ったら、『サーガV』の発売までには、絶対に問にあわなくなる。
結局、使い捨てカメラを学校の鞄《かばん》のなかに忍ばせておいて、翌日の午後、走って薬局へ行った。
細長い預かり票の「お引き渡《わた》し日時」欄《らん》には、明後日《あさって》の午後四時以降という、亘にとっては非情な文字が並んでいた。そのあいだ、いったいどうやってあの部屋で暮らせばいいんだ? 商店街をとぼとぼと歩いていると、カッちゃんと二人でよく冷やかしに来るゲームソフト・ショップの前に出た。コンビニよりもひとまわり小さいくらいのお店で、ぐるりは透明《とうめい》な窓ガラス。その窓をすべて埋《う》め尽《つ》くすように、内側からありとあらゆるテレビゲームのポスターが貼ってある。ところどころにわずかに空いた隙間《すきま》から、店内に設置してあるゲームソフトの陳列《ちんれつ》棚や、デモ用のモニターの端《はし》っこがちらちらと見える。
『ロマンシングストーン・サーガV』のポスターは、お店の正面に近い、自動ドアのすぐ脇の窓の内側に貼ってあった。ゲーム雑誌ではもう、設定画の一部と主要な登場キャラクターが紹介《しょうかい》されているのだけれど、ポスターの方はあっさりしたものだった。真っ青な空に、綿をちぎったような小さな白い雲がたくさん浮《う》いている。その中央を、帆《ほ》に風をいっぱいにはらんだ帆船《はんせん》が一|艘《そう》、飛ぶように進んでゆく──という絵だ。海ではなく青い空に、波を切って進む船。もちろん、主人公たちを乗せる船だ。
ポスターのすぐ上に、「九月二十日発売予定 八月二十日予約受付開始」と、手書きの短冊《たんざく》が添《そ》えてある。こちらは極太《ごくぶと》のマジックで、しかも赤い字で書いてあった。「予定価格六千八百円」。
しばらくのあいだそれを眺《なが》めていると、やっぱりクッキーの缶の貯金に手をつけなくてよかった──という気持ちが込みあげてきた。
平均的な小学校五年生が、どういう経済状態にあるのかは知らないが、少なくとも亘にとって、六千八百円は大金だった。だから、マンガ雑誌やゲーム雑誌に『サーガV』の発売日決定の情報が載《の》るとすぐに、貯金を始めたのだ。
三谷家では、原則としておねだりは通用しないことになっている。「算数のテストを頑張《がんば》るから」「夏休み中早起きするから」という未来担保型のおねだりでも、「今学期の通信簿《つうしんぼ》が良かったから」「このテストで頑張ったから」という成功|報酬《ほうしゅう》型のおねだりでも、ひとしなみにダメである。だから、亘の自室にある十四インチのテレビは、ねだって買ってもらった側の亘本人も、にわかには信じられないほどの希有《けう》の例外だったわけだけれど、それでさえ購入《こうにゅう》の際には、
「もう亘にも、自分で観《み》たい番組を選ぶ機会がなくちゃね」
「亘が亘自身の意志で選ぶ番組がどんなものなのか、お父さんもお母さんも興味があるからな」
という、別の理由≠ェついていた。亘としてはねだって買ってもらったつもりのテレビだが、両親には別の思惑《おもわく》があるというわけなのだ。
三谷明は特にこのへんのことに厳格で、「亘には、人生の大事な局面で、これこれのことをすれば、これだけの見返りがある、世の中はそういうものだなんていう考え方をしてもらいたくない」と、しょっちゅう言っている。「努力は報酬のためにするものじゃない。自分自身のためにするものだ」
カッちゃんはそんな三谷の両親を評して、「すっげえ厳しい」と、日を丸くする。亘には、返事のしようがない。それでも、こういうお小遣い方面で泣き落としのきかない両親を持っていれは、イヤでも現実的にならざるを得ないということはわかっている。欲しいものと、買えるものとは、常に絶望的なほどイコールではないので、ほしいものの方を工夫《くふう》して合わせてゆくしかないのた。
亘の置かれているそういう状況《じょうきょう》を指して、もう一人、
「すっげえ厳しい」
と、カッちゃんと同じような表現で驚《おどろ》く大人がいる。ルウ伯父《おじ》さんだ。
「明、亘はまだまだ子供なんだから、たまにはもうちょっと甘やかしてやれよ」
なんて言ってくれることもある。
「亘だって、頑張ったときには、やっぱりご褒美《ほうび》がほしいよな? 友達の手前もあるんだしさぁ」
でも、ルウ伯父さんのそんな意見に、父さんはまったくとりあわない。
「兄さんは子育てをしたことがないんだから、何もわからないでしょう。子供と同じレベルで発言するだけじゃ、無責任ですよ」
そんなふうに切り返すだけだ。
亘に関することだけでなく、三谷悟と三谷明は、ことごとに意見が食い違《ちが》う兄弟だ。たいていの場合ルウ伯父さんの方が大雑把《おおざっぱ》で、父さんの方が几帳面《きちょうめん》で、だから最後には父さんの意見の方が勝つ。論争したり意見を交《か》わすことそのものが、ルウ伯父さんは面倒《めんどう》でしょうがないのだ。
それでも、兄弟仲が悪いわけではない。喧嘩《けんか》なんかしないし、夏休みとかお正月とか、千葉のお祖母ちゃんの家ではけっこうお酒を飲んで話し込んだりしている。そう、むしろ仲良しの兄弟だと言っていい。
でも──このごろ時々、亘は感じる。ほかのどんなことで言い争うときよりも、亘に関することで論争するときがいちばん、ルウ伯父さんは粘《ねば》り強くなるみたいだ。なかなか投げ出さないもの。「ま、そんなたいした問題でもないからよ」という、伯父さんのきまり文句みたいな台詞を口に出すまで、ほかの問題の時より──たとえばそれが「法事」みたいな大事な行事のことであっても──時間をかける。
そしてそのことは、亘の心に、本人が気づいている以上に意味のある影《かげ》を投げかけているのだった。ただそれは、今のところはまだ、はっきりとした問題意識にはなっていない。亘は両親を好いていたし、ルウ伯父さんも好いていた。
亘が千葉の家に遊びに行くと、ルウ伯父さんは、よくお小遣いをくれる。「お父さんには内緒《ないしょ》でな」と、こっそりとくれる。でも、亘はそれを、後で必ず両親にうち明ける。特に去年あたりからは、ルウ伯父さんが一度にくれるお小遣いの額が大きくなってきたので、一人で隠しておくのは不安でたまらないのだ。すると父さん母さんは、亘からそのお小遣いを受け取って、亘名義の銀行口座に預けてくれる。ときどき、その通帳を亘に見せて、どれぐらい貯《た》まったか教えてくれることもある。この習慣は、亘が初めてそれと意識して「お年玉」というものをもらった、四歳のお正月から始まった。
「うちでは、子供に大金を持たせる習慣をつけたくないので」
父さんは、どちらの実家に行っても、そのように説明している。母さんの実家の小田原のお祖母ちゃんは、ルウ伯父さん以上にこっそりと──なんかちょっと父さんのことを怖《こわ》がってるみたいに見えるくらいにこっそりと──ルウ伯父さん以上の大金をくれることがあるけれど、そのお金も同じようになる。
そういう次第《しだい》で、亘には無駄使いできるお金はほとんどない。カッちゃんだけでなく、ほかにも、それを聞いて「三谷くんのウチは厳しい」と驚くクラスメイトがいる。「よくそれでグレないね?」などと真顔で訊《き》かれて、亘はいささか心許《こころもと》なくなったこともあった。「よくグレないね?」という質問の裏に、「アンタ根性《こんじょう》ないね」という評価が潜《ひそ》んでいるように感じてしまったからである。
それで、お小遣い関係について、たった一度だけだけれど、邦子に問いかけたことがあった。ボクは父さん母さんが厳しいとは思わないけど、友達はみんな「厳しい」と言います、ホントに「厳しい」んですか? そうでないとしても、どうしてウチのやり方は、ほかの友達のところと違ってるんですか?
それは折しも、例の六年生の問題児石岡健児が校長先生の車を転がした事件で、学区内が混乱していた時期のことだった。だから、タイミングとしてはあまりよくなかったかもしれない。一学年上の生徒のことだから、普段《ふだん》はほとんど耳に入ることのない石岡家の事情を、このときばかりは、三谷邦子もよく知っていた。そして腹を立てている最中だった。
石岡は、お小遣い方面では亘よりもすっと寛大《かんだい》な躾《しつ》けられ方をしている子供たちさえも仰天《ぎょうてん》させるほどに、金遣いが荒《あら》いのだ。噂《うわさ》に聞く限りでは(本人に直《じか》に尋ねて確かめてみる気になんか、とてもなれない)石岡の一ヵ月分のお小遣いだけで、『サーガV』が十本は買えるほどだという。しかも、それはあくまでも「石岡が親からもらうお小遣いの平均額」の話であって、実際にはもっともっと多いのではないかという。本人でさえ、一月《ひとつき》にどのくらいお小遣いを使っているか、はっきりわからないのだそうだ。つまり、ねだればねだっただけもらえるからである。
しかも石岡健児の母は、それを自慢《じまん》にしているらしい。PTAの集まりでも、「子供にお金の不自由はさせたことがない」と、たいそうな勢いで吹聴《ふいちよう》したそうである。念のためにしつこく言うが、そのPTAの集まりとは、ほかでもない彼女の息子《むすこ》の石岡健児が、校長先生の車を運転して下級生に怪我《けが》をさせるという事故を起こしたが故《ゆえ》に、招集された集まりのうちのひとつだったのである。彼女はそこでそう言ったのだ──文脈としては、「ウチでは子供にもお金に不自由はさせていない、つまり金持ちなのである、従って怪我をしたトロい子供の治療《ちりょう》費も、ちまちまケチったりせずにちゃんと払《はら》ってやる、だから文句はないだろう」ということが言いたかったのだろうが、いずれにしろ、そうでもしないと聞かされた側の心の平安が保てないという理由さえなければ、そんなところまで踏み込んで解釈《かいしゃく》してやる必要などまったくないようなたわ言≠ナあった。
三谷邦子はそれを怒《おこ》っていた。言語道断だというのである。あの親にしてあの子ありだ! 冗談《じょうだん》じゃないわよ、まったく。だけどPTAの集まりでは──というより民主主義国家では──思想信条の自由は保障されているわけで、どれほど不届きな暴言を吐《は》く人間であろうとも、だからと言って張り倒《たお》してしまうわけにはいかない。どれほど腹が立っても、それで相手を裁くわけにはいかないのだ。そういう次第で、三谷邦子は、地獄の竈《かま》が不完全|燃焼《ねんしょう》しているみたいな心境で帰宅したのであった。
よりによって亘は、そこに小遣い問題のギモンについて問いかけてしまったのだった。思えば間の悪い子供である。
案の定、邦子は、亘が小遣いが少ない、友達にもそう言われた≠ニいうふうに、文句を言っているのだと解釈してしまった。
「あんたも石岡君みたいにお小遣いがたくさんほしいっていうの?」というふうに切り返してきた。おっそろしく感情的になっていた。
「言っときますけど、お母さんはああいうのは大嫌《だいきら》い。あんたがそんなことを言い出すなんて、見損なったわ」
見損なわれた方は、何がなんだかわからない。当然である。プンプン怒っている母親に、何だかわからないままゴメンナサイと謝って、海の底に突《つ》き落とされたような悲しい気分になって部屋に籠《こ》もった。以来、お小遣い問題について持ち出すことは二度となかった。
理屈《りくつ》的には──父|譲《ゆず》りの論理的な頭で──亘も理解しているのだ。子供に大金を持たせるのは良くない。努力は自分のためにするもので、金が目的ではないと教えたい。オーケイ、わかってるよ父さん。だけど、わかってはいても、同じ年頃《としごろ》の朋輩《ほうばい》たちから、アンタんチは厳しいと指摘《してき》されれば、なぜそうなのか説明してもらって、安心したいと思うのもまた当然なのだ。安心することさえできれば、そもそも亘は両親のすることに疑いをさし挟《はさ》んではいないのだから、「ウチは厳しい」ということだって、一種の自慢になるのに。
そのときのことを思い出すと、亘は今でも心がうずくのを感じるのだった。タイミングが悪かっただけで、亘も邦子も悪かったわけではないのだが、心には傷がついてしまった。でも、現実なんてみんなそんなものだというミもフタもないこともまた真実だ。
とにかく、「ボクはお小遣いが少ない」という現実を、亘は生きている。だから今回のように不自由なことも多々あるけれど、反面、少しずつ貯金をしながら『サーガV』のポスターを眺め、発売日を指折り数え、胸をふくらませる、その喜びは、パッと一万円札をもらって『サーガV』を買うことのできる石岡健児のような子供たちよりも、ずっとずっと大きい──という信条を守ることもできるのだ。
写真ができてくるまでの中一日、亘はできるだけ強く自分を律して、あの女の子の甘い声のことを考えないようにしようと努力した。でも無駄だった。考えはどんどん具体的になり、恐《おそ》ろしい幻想《げんそう》と、ピンク色の夢のあいだを、しきりと行ったり来たりした。
あれは誰なのだろう?
どこから亘のそばに来ているのだろう?
どんな女の子なのだろう?
人間なのだろうか?
幽霊《ゆうれい》なのだろうか?
それとも──もしかして妖精《ようせい》なのではないだろうか?
そう、妖精。それがいちばん近いように、亘は感じた。『サーガV』でも、主人公のナビゲーション役として登場すると、雑誌の先行情報には書いてあった。『サーガU』では、あまり大きな役割ではなくて、マスコット的に出てきただけだったのだけれど、『T』では妖精のニーナは大切なパーティメンバーの一人で、ゲームのなかほどの難所ワイトの断崖《だんがい》≠登るときには、絶対に彼女の力が必要だった。亘は特にニーナがお気に入りだったので、大切に育ててラストダンジョンまで連れて行ったものだから、ラスボスとの戦闘《せんとう》の前にイベントが起きて、ニーナが、
「ここから先は、わたしたち妖精は踏み込むことができないの」
なんて言ってパーティメンバーから外れてしまったときには、思わずコントローラーを取り落とすほどにガッカリした。我慢《がまん》できなくてカッちゃんに電話すると、
「なんだ、知らなかったの?」と、あっさり言われてますます愕然《がくぜん》とした。
「ラスボスのエレメンタル・ガードは、昔は大トマ国を守護する善き妖精の長《おさ》だったんだよ。だから妖精をパーティに入れとくと、仲間同士で戦うことになっちゃうからダメなんだ」
「そんなの聞いてないよ!」
「あ、ってことは、ノルの泉のイベント起こしてないんだ。だったら知らないわなぁ、カワイソウ、チョー不幸」
結局、亘は、慎重《しんちょう》を期して保存しておいたニーナを育てる前のセーブデータまで戻り、ゲームをやり直したのだった。
子供の掌《てのひら》に載るくらいの大きさで、背中に羽根が生えていて、ヒラヒラしたきれいなバレリーナみたいな衣装《いしょう》を着ている──『ロマンシングストーン・サーガ』に登場する妖精は、だいたいそういう存在だ。ニーナはばっちり、そういうキャラクターだった。絶対に、悪者ではない。可愛《かわい》くて明るくて親切で、ちょっと口が悪い時もあるけど物知りで、人間とは比べものにならないほどの長い年月を、その愛らしい姿のままで生きている。
亘に話しかけてくるあの甘い声も──そんな存在なのじゃないか? 期待と不安があまりに大きく、それでいてあまりに現実|離《ばな》れしているので、さすがにこのことはカッちゃんにもうち明けられなかった。写真に何か写っていたら、真っ先に見せに行こうとは思っていたけれど、姿の見えない女の子の声が聞こえるんだというだけでは、いくらカッちゃんだって笑うかもしれないし、もっと悪い場合には、心配するかもしれない。
学校の帰りに、走って薬局へ向かった。信号や横断歩道のところで立ち止まっては、腕時計《うでどけい》を確認《かくにん》した。秒針が動いている──四時五分前、四分前、三分前。
お店に飛び込んでカウンターの前に並んだときには、ジャスト四時十秒前だった。亘の前に、小太りのおばさんが一人いて、白衣を着たお店の店員さんと、なにやら話し込んでいる。
亘は首をのばしてのぞいてみた。あるある、カウンターの後ろに、現像された写真の入った縦長の袋《ふくろ》が立ててある。たくさんある。ざっと二十はあるだろうか。口のところに宛名《あてな》が書いてある。目で追って、「ミタニ」の名前を探した──あった! 手前から五番目た。ちゃんと現像されていた。
「だけどちっとも効かないのよ」小太りのおばさんが、丸まっちいくちびるを尖らせて、文句を並べている。
「おたくに勧《すす》められたから、薬、替えてみたのよ。こっちの方が高いのに」
白衣の店員はにこにこしながら、困ったように眉毛《まゆげ》をさげている。「そうですか……でも、これは評判のいい新薬で」
「評判なんて聞いたこともなかったわよ。おたくに聞かされるまでは」
「はあ、そうですか」
「だから取り替えてほしいのよ。効かないんだもの。効かない薬なんて、イミないじゃないの」
「ただ、あの、封《ふう》を切ってしまった薬のお取り替えはいたしかねますので……」
「どうして? 封を切ったか切らないかじゃないでしょ? 効くか効かないかじゃないの、薬なんだから。新しいのを寄越《よこ》しなさいよ」
おばさんの手には、テレビでよくコマーシャルをやっている胃薬の箱が握《にぎ》られている。亘は、ジリジリして、誰かほかに店員さんはいないかと周りを見回した。ここは大きなお店で、いつも三、四人は白衣の人がいるのに、今日はなぜかしら見あたらない。レジ係の女性がいるけれど、あの人では写真の引き取りはやってくれないとわかっていた。
「あの、ボク」焦《じ》れてきて、おばさんの脇から首を出し、カウンターの店員に話しかけた。「写真を──」
「ごめんなさい、ちょっと待ってね」店員は笑顔《えがお》で謝った。おばさんの方は、亘をギロリと睨《にら》みつけた。「順番よ」
「それでは、こちらのお薬をお試《ため》しになりませんか?」
白衣の店員は、カウンターの下からひと包みの薬を取り出した。試供品みたいだった。
「そんなの要《い》らないわよ」と言いながらも、おばさんは差し出されたものを手に取った。「これって、効くの?」
「漢方系の新薬ですが、胃もたれや消化不良にはよく効いて、さわやかな飲み心地《ごこち》です」
「ホントかしら」おばさんは薬の包みに鼻をくっつけてくんくんかいだ。「ヘンな臭《にお》い」
店員はまた困ったような笑顔を浮かべているだけで、黙《だま》っている。亘はその目を捉《とら》えて、声を出さずに「しゃ、し、ん」と言ってみせた。
「それじゃコレ、もらっていくわ」おばさんは試供品を、やたら大きくてふくらんでいる手提《てさ》げ袋のなかにしまった。
店員と同じくらい、亘もホッとした。しかしおばさんはその場を退かなかった。でんと居座ったまま、店員の後ろの薬が並んでいる棚を眺めて、
「風邪薬《かぜぐすり》なんだけど──」と、言い出した。「あたしは胃が弱いから、強いのは困るのよ。眠《ねむ》くなるのも困るの。おたくで売る薬はみんな眠くなるから嫌なんだけど、何か新しいのない?」
亘は思い切って肘《ひじ》でおばさんを押しのけた。そして細長い受け取りの紙を差し出しながら、「ミタニです、写真お願いします」と言った。
店員はちらとおばさんの方を見たけれど、はい、と応じて写真の袋が立てられている方へ一歩踏み出した。亘の首筋に、フハッ!というような感じで生暖かいものが吹《ふ》きつけてきた。何かと思って振り返ると、おばさんの鼻息だった。
「失礼な子だね」おばさんは小さな目を光らせて、ひん曲げた口の端から言った。「順番だって言ってるじゃないの」
「ごめんなさい。もう胃薬のことは済んだと思ったんです」亘はなるべく邪気のない顔をして、明るくそう言った。
「小生意気なガキだよ。親の顔が見たいね」
おばさんは吐き捨てると、やっとこさのしのしと身体の向きを変え、カウンターから離れた。
「大人に口答えするなんて」
白衣の店員が、さっき亘の見つけたあの縦長の袋を持って、カウンターに戻ってきた。中身を取り出し、数枚のスナップ写真を手早く見せて、「これね?」
「はい、そうです」
お金を払っているあいだも、さっきのおばさんの視線と鼻息を感じたけれど、がんばって無視した。店員さんもそうしているようだった。お店屋さんもタイヘンなんだ。あんなお客でも、お客だったらお客なんだから。
写真の入った袋を手に、走りに走って、気がついたら幽霊ビルの近くまで来ていた。
息がはあはあしている。頬《ほお》が熱い。手が震えている。その場ではとてもじゃないけど開けてみる気になれず、とにかくヒミツでアンゼンで静かなところへ行こうと思うだけで走ってきたのだ。
家に持ち帰るわけにはいかなかった。まだたくさんフィルムの残っていた使い捨てカメラを、黙って使ってしまったのだから。いや、それよりも何よりも、妖精が写ってるんだぞ! そんなもの、母さんに見せられるはずがない。
亘は立ち止まったのに、心臓だけはまだ走っているという感じだった。息を整えながら、周りを見回した。三橋神社の境内《けいだい》へ行こうか。あそこならべンチもあるし、日当たりがよくて明るい。人もいない。亘は道を渡っていった。
幽霊ビルは相変わらずシートをかぶり、しんとしていた。前を通り過ぎても、物音ひとつ聞こえてこない。この前、カッちゃんはあんなことを言っていたけれど、仕事の続きを請《う》けてくれる工務店は、やっぱり見つからなかったのだろうか。あの話は、まとまらなかったのだろうか。
古びた紅色の鳥居をくぐって、境内に入っていった。赤い柱に緑色の屋根の拝殿《はいでん》の両脇に、わりと最近設置されたばかりのきれいなベンチがある──左右にひとつずつ──ひとつずつ──いつも空いていて──
いや、左のベンチに、子供が座っている。
芦川美鶴だ。一人で。
頭のなかが写真のことでいっぱいで、見れども見えずというか、誰か座っているということを、全然気にしていなかったのだ。あっと思ったときにはもう遅《おそ》かった。砂利《じゃり》を踏む足音が聞こえたのだろう、芦川が顔を上げて、こっちを見て、目が合った。
芦川は本を読んでいた。なんだか厚くて重そうな本だ。背表紙の幅《はば》が十センチぐらいある。それを膝の上に広げていた。
ぽかんと口を開けて、亘は彼の顔を見た。一秒の百分の一ぐらいのあいだ、ベンチの上に人形を座らせてあるみたいだな、と思っていた。何かの広告写真みたいだ。
芦川は視線をさげて、また本を読み始めた。亘のことなど、まったく気にかけていない。雀《すずめ》か犬でも見るみたいだ。いや、小鳥や子犬が近づいていったのなら、もっといろいろな反応をするだろう。それより悪い。ゴミか落ち葉でも見るみたいな目だった。紙屑《かみくず》だ、葉っぱだとわかってしまったら、もうそれで用済みだというような目だった。
亘のこと、まだ覚えてないのかもしれない。精一杯《せいいっぱい》、好意的に考えた。そうだ、きっとそうだ。顔がわからないんだ、そうだよ。
「あのさ」と、亘は声をかけた。
自分でも笑ってしまうほど、情けないヘロヘロの声が出た。
芦川は最初、顔を上げなかった。亘が、今のひと声は聞こえなかったのかな、そうだ聞こえなかったんだな、よしもう一度と決断し、口を開きかけた時になって、やっとこちらに視線を投げた。雀の子が騒《さわ》いでる、何だろうるさいな──というぐらいの重さしかない視線だった。
しゃべろうとして口を開けていた亘を、芦川はちらっと、本当にちらっと眺めた。半秒の後には、彼の目はまた本の活字の上に戻ってしまっていた。
亘は恥《は》ずかしさに、じとっと汗をかいた。ヘンだった。失礼な態度をとっているのは芦川の方で、亘はただ挨拶《あいさつ》という正しいことをしようとしているだけなのに、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
「塾《じゅく》で──一緒だよな」と、亘はさらに言った。だからボクにはキミに話しかける資格があるんだよと、言葉の合間に必死で弁解しているみたいな気がした。許可がないのに発言しているわけではないのであります、教官。
芦川はまた目を上げて、今度はさっきよりも長く、亘を見た。ついこのあいだ、隣の教室前の廊下《ろうか》で接近|遭遇《そうぐう》したとき、間近に見た長い睫毛《まつげ》が、不意に思い出されてきた。あの睫毛でさらさらっと触って、ボクを検品してるみたいだと思った。
気がつくと、芦川はまた本の方に戻っていた。やわらかな風がひと吹き、拝殿の屋根の上から左手の社務所の方へと吹き抜けて、その中間にいる芦川と亘の髪《かみ》を、それぞれ同じように優《やさ》しく撫《な》でていった。
「ボク、三谷っていうんだけど」
亘は勇気を奮い起こし、勇気ではない何かをぐいと抑《おさ》えつけて、一生|懸命《けんめい》に言った。「あの……宮原の友達で……えっと……」
唐突《とうとつ》に、芦川は本を閉じた。ぽんと音がした。深い藍色《あいいろ》の表紙の、古びた本だった。
「だから?」と、短く言った。よく通る声だったけれど、あまりに手短な発言で、切って投げるような言い方だったので、問いかけられているとはわからなかった。
それに亘は、一気にアガッてしまっていた。芦川美鶴と話ができたぞ!
「キミがすごく頭いいって、宮原に聞いて、ホントにできるんでビックリしたんだ──」
芦川は整った顔をこちらに向けて、笑いもせずにもう一度言った。「だから?」
それでやっと、亘にも、質問されているのだとわかった。だけど、何を尋ねられているのかわからない。
そうと悟《さと》ったのか、芦川はわざとゆっくりと、小さな子供に言い聞かせるみたいな口調で尋ねた。「だ、か、ら? だから何?」
亘は、汗がすうっと引いていくのを感じた。だから? だから何だってンのと訊いているのだ芦川は。
話なんかする気はないし、亘と親しくなる気もないという意思の、これ以上ないほど簡潔な表明である。
でもさ、それはないんじゃないの?
「本を読んでるんだ」芦川は言って、藍色の表紙を軽く撫でた。亘のいるところからは、タイトルまで読み取ることはできなかった。ただ、漢字が並んでいるのは見える。難しい本なのだろう。
「あ、うん、わかった」最初に声をかけたときよりも、さらに腰砕《こしくだ》けのヘロヘロした声で、亘は言った。芦川は亘の顔を見つめたまま本を広げると、ちょっと睨むような目をしてから、読書に戻った。
亘は回れ右をして帰るべきだった。怒ったってよかった。砂利をつかんで投げてやったって──どうせあたらない距離だから──バチがあたることはないだろう。親しくなろうと思って話しかけている者に対して、あんな口のききかたをする者は、相応の報《むく》いを受けるべきなのだ。
それなのに亘は、まだそこに突っ立っていた。芦川美鶴の持っている雰囲気《ふんいき》に、完全に呑《の》まれていた。彼は何かすごく良い♀エじがした。貴重≠ニいう感じがした。意味もない引け目と憧《あこが》れに幻惑されて、フン、感じ悪いヤツ≠ニ切り捨てることが、どうしてもできないのだった。
「心霊写真、撮ったんだってね、ここで」
大あわてで、すがりつくようにして口にした言葉は、これだった。
芦川は本を開いたまま、ゆっくりと顔を上げた。表情は、さっきまでとまったく変わっていなかったけれど、それでも亘は元気づいた。やった! 関心を引いたぞ。
「でもキミは、そういうので騒ぐのはよくないって言ったって。ボクもそう思うよ」
芦川の瞳《ひとみ》が、ちょっと動いた。明らかに、亘の言葉を面白《おもしろ》がっているのだ。亘も口元に笑みが浮かんでくるのを感じた。
「ただ、さ、ムズカシイと思うんだ。大騒ぎをするのはバカだけど、不思議なことって、ホントにあるもんね。そういうこととは、ちゃんと冷静に向き合わなくちゃ。でさ──」
「写真」と、芦川は言った。
「え?」
「写真、持ってるね」
そのとおり、亘は薬局から引き取ってきたばかりの写真を持っている。そもそもここには、それをチェックするために走ってきたのである。今も、そのことについて言い出そうと思っていたのだ。芦川はそれを先回りした。なんかスゴイぞ。こいつって、超《ちょう》能力者だったりするのか?
亘はまたぞろ高速エレベーターに乗ったようにアガッてしまった。
「ボ、ボ、ボクも、もしかしたら、心霊写真みたいなものを撮ったのかもしれないんだ」
亘は大急ぎで芦川のそばに駆《か》け寄った。砂利を踏むと、宙を踏んでいるみたいな感じがした。ひとつの身体のなかに、ヘンだよ、なんでこんなヤツにこんなにドキドキするんだよと怒る亘と、やった! これで芦川美鶴と友達になれるかもしれないと、手放しで喜んでいる亘がいた。
「この写真、ボクの部屋なんだ」亘は震える指で写真を取り出そうと、焦《あせ》った。
「妖精って、いるだろ? 『ロマンシングストーン・サーガ』にも出てくるじゃない? ああいうものが、ボクの部屋にもいるかもしれなくて──だって声が聞こえてさ、一度だけじゃない、二度もだゼ!」
論理と理性と合理性を重んじる三谷明の長男、いつもの三谷亘君だったら、うわずった声で、興奮に頬を紅潮させ、こんな言葉をしゃべり散らすくらいならば、舌を噛《か》んで死んでしまいたいと思うことだろう。人間はまれに、自分でも信じられないような、普段とは極端《きょくたん》に違うふるまいをしてしまうことがある。そういうときはたいてい、いろいろな意味で、いろいろなものに、いろいろな理由で酔っぱらっているのだが、今の亘には、もちろんそんなことはわからない。
「きっと写ってると思うんだ。見てみてよ。これ!」
やっとこさ、自分の部屋を写した写真を取り出し、芦川に差し出した。その拍子《ひょうし》に、薄いビニール袋に入ったネガと、同じカメラで撮影《さつえい》した動物園でのスナップとが、ばさりと音をたてて足元の砂利の上に落ちた。亘はそれをまとめてつかんで拾い上げると、ベンチの上の、芦川の隣に置いた。芦川は一人でベンチの真ん中に座っており、左右どちらにもずれてくれなかったので、亘は座れなかった。
亘の部屋のなかを写した写真は、二十枚近くあるはずだった。芦川はそれを、すいすいとカードを切るみたいな手つきで、順番に眺めていった。そうやってひととおり見終わると、固唾《かたす》を呑んで見守っている亘に、初めて笑いかけた。そして訊いた。
「どこに?」
そんなものが写っているんだという質問だとわかるまで、二、三秒かかった。
「写って──ない?」
「何も。何ひとつ」
芦川は言って、笑みを消し、亘の鼻先に写真を突きつけた。一瞬《いっしゅん》ぼうっとしたあと、亘はそれをひったくるように受け取った。手がわなわなと震えて、うまく写真をめくることができない。
「そんな、そんなことあるワケないよ!」
唾《つば》を飛ばして叫びながら、亘は写真を調べていった。あわてるあまりに指のあいだからスナップが一、二枚滑《すべ》り落ち、運動靴《うんどうぐつ》の甲のところに、はらりはらりと載った。
写ってる──亘の部屋は。壁もカーテンも、ベッドカバーの柄までもよく見える。机の上の散らかりようも、机の上の小さな本立てに並べられている参考書やドリルの背表紙も、タイトルまで読み取ることができる。
でも──妖精の姿はなかった。
女の子の髪の毛一本も、白い指先も、ひらひらする衣装の裾《すそ》も、何ひとつ写ってはいない。なし。ナッシング。
亘は目を上げて、芦川の方を見た。芦川は本を読んでいた。亘など、もうそこにはいないみたいに落ち着き払って。
「……確かに聞いたんだ」
女の子の声、と付け足す言葉は、亘の口のなかで呟《つぶや》きになって消えてしまった。
「そばにいたんだ。だから、絶対写真に写ると思ってたのに」
芦川が、細かな活字に目を落としたまま言った。「夢だよ」
「え?」亘は彼に一歩近づいた。低い声なので、うまく聞き取れなかったのだ。
「夢。夢を見たんだよ」ページをめくりながら、芦川は言った。「寝《ね》ぼけてたから、居もしない人間の声が聞こえたんだ」
「でも、いっぺんだけじゃないんだ。二度も同じことがあったんだ!」
「じゃあ、二度とも寝ぼけてたんだろ」
芦川は本のページをめくった。大きな章がひとつ終わったのか、白いページが現れた。
芦川は小さくため息をつくと、顔を上げた。「踏むよ」
「え?」今度は何だよ。
「写真。足元に落ちてるの、踏むよ」
彼の言うとおりだった。運動靴の甲の上から落ちた写真の端っこを踏んでいた。それは動物園で撮ったスナップのうちの一枚で、飼育係からリンゴをもらっている象の檻《おり》の前で、亘と邦子が笑っている。
「僕は心霊写真なんか撮ってないよ」
亘が写真を拾い上げようと身をかがめると、芦川は言った。亘が彼の顔から視線を外すのを、待っていたみたいなタイミングだった。
「ここで撮った写真に、幽霊なんか写ってるわけがないんだ。みんなが騒いでるのは、その方が面白いからだ。それだけだ」
「でも、キミは──」
「そういうふうに騒ぐのは良くないって、僕は言った。君も同じ意見なんだろ? さっきそう言ってた」
芦川は少し、怒っているみたいに見えた。目が輝いていた。
「そういう意見の持ち主である君が、妖精の写真を撮ろうとするなんて、ヘンだね」
叱《しか》られてるみたいだった。
「そりゃ確かに──ヘンかもしれないけど、でも僕はホントに、誰もいないところで女の子がしゃべる声を聞いたんだ」
言葉を強めて主張しようと、心では思うのに、実際にはどんどん声がしょぼついていってしまう。
「だから、それは夢だったんじゃないかって言ってるんだ。僕だったらそう思う。写真なんか撮ろうとはしない」
芦川は言って、ちょっと首をかしげて亘を見つめた。
「自分で言ってることを自分で裏切って、一人で騒ぐなんて、ヘンだ」
亘は何か言おうとして、口をパクパクさせた。そうしないと泣きだしてしまいそうだった。おしっこをしたくなってきた。
まるで大人と話しているみたいだった。いや、下手な大人以上だ。太刀打《たちう》ちできない。ルウ伯父さんなんか、この半分も手強《てごわ》くない。誰に似ているかと言ったら父さんだ。いちばん理屈っぽくなってるときの、父さんだ。
子供同士の言い争いだからこそ、子供のやることなんだから、子供の考えることなんだから──という究極の言い訳が、最初から封《ふう》じられている。側《はた》で見ている大人がいたら、そんなふうに感じることだろう。
「僕には、妖精なんかより、もっとずっと大きな問題があるように思えるけど」
芦川は、少しも乱れない落ち着いた口調で続けた。亘はそうっとまばたきをして、涙《なみだ》がこぼれないのを確かめてから、彼の顔を見た。「どんな問題?」
「人によるよ」
芦川は言って、膝の上で本を立てると、表紙と同じ色合いの青いしおり紐《ひも》を引っ張り出して、広げてあるページのところに挟んだ。そして、またポンと音をたてて本を閉じると、小脇に抱《かか》えて立ちあがった。
亘はすうっと寒くなった。この会見は、こんな形で終わるのか。
「僕がなんか問題あるっていうのかよ」
「別に、そんなことを言ってるんじゃない」
「言ってるじゃないか!」
またぞろ泣きそうになってきたので、声を張りあげた。こっちだって怒ってるんだ。
芦川は、さっきと反対側に首をかしげて、あらためて、珍しいものでも観察するみたいに、しげしげと亘を見た。それから、その視線をまったく動かさず、表情も変えず、ただ口だけを動かして、言った。
「君ン家《ち》、お父さんはいないの?」
亘は驚いた。「なんでそんなこと訊くんだよ?」
「いないの?」
「い、いるよ。ちゃんといるよ」
芦川はちょっとまばたきをした。
「じゃあ、お父さんは写真嫌いなの?」
ますますヘンな質問だ。「なんでさ?」
芦川は形のいい顎《あご》の先で、亘の手のなかの写真を指した。
「写ってないね、お父さん。一枚も」
亘は写真に目を落とした。そんなこと、全然気づかなかった。そうだったろうか?
「うちに帰ったら調べてみろよ。写ってないよ。君とお母さんばっかりだ」
亘は、とっさに頭に浮かんだことを言った。
「お父さんは写真を撮るのが好きなんだよ」
実際には、そんなことはない。というか、三谷明が写真を撮るのが好きか、撮られるのが嫌いか、そんなことが家のなかで話題になったことさえないというのが正直なところだ。でも、この動物園行きのときは確かに、明は自分は写真に写らず、邦子と亘を撮ってばかりいた。だから、芦川にそう答えてやったっていいはずだ。
だいいち、そんなこと三谷家の勝手じゃないか。
「ふうん」芦川は鼻先で返事をした。「じゃ、いいじゃないか」
そう言うなり、くるりと身体の向きを変えて、さっさと歩き出した。亘は、亘から見ればまだ話は途中《とちゅう》なので、芦川が神社の鳥居のそばへ行ってしまうまで、おとなしくその場に突っ立っていた。だが、芦川はどんどん行ってしまう。そこでやっと、目が覚めたみたいになって何歩か追いかけた。
「おい、待てよ!」
芦川は振り返りもしない。何も言わない。
「問題があるなんて、ヤなこと言いっぱなしにして、何だよ!」
芦川は紅色の鳥居をくぐって、神社の外へ出ていってしまった。あたりは急に静かになり、鳥のさえずりが聞こえてきた。
──何なんだよ、アイツ。
変わり者だという以上だ。
急に、なんだかひどく、くたびれた。写真を落とさないように持って、さっきまで芦川が座っていたベンチに近づき、腰をおろした。さっきまで芦川のものだった視界が、目の前に広がる。だからどうということはなかった。ツツジの花は満開を過ぎて、そこらじゅうに花びらが散っている。三橋神社は三橋神社で、境内には人気《ひとけ》がなかった。
一枚一枚、手に取って写真をチェックしていった。亘の部屋。やはり、あの甘い声の持ち主は、どこにも写ってはいなかった。
動物園でのスナップ。羽根を広げたフラミンゴの群をバックにして、おどける亘。鳩《はと》にポップコーンを投げてやる邦子。この日はお天気が良かった。邦子も亘も眩《まぶ》しそうな顔で笑っている。
確かに芦川の言うとおり、三谷明もまた、どこにも写ってはいなかった。
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5 事件の影
──今月は、ツイてない。
亘はそう思うことにした。この六月は、何をやっても良くない月なのだ。だからつまらないことばっかり起こるのだし、嫌《いや》な思いばっかりするのだ。
──夏休みまで、おとなしくしてよう。
それでなくても、亘は、一年のうちで六月がいちばん嫌《きら》いだった。びちょびちょと雨ばかり降る。急に気温が下がって鼻がぐしゅぐしゅするかと思えば、じっとりと汗《あせ》ばむような夜が続くこともある。長袖《ながそで》を着たらいいのか半袖を着たらいいのかはっきりしないし、お気に入りのシャツやズボンが、一度|洗濯《せんたく》をしてしまうと、なかなか乾《かわ》かない。どうして母さんは乾燥機《かんそうき》を買ってくれないのだろう? 今の洗濯機に買い換《か》えるとき、電器屋さんに、セットなら勉強しますよって、あんなに勧《すす》められたのに。うちは南向きだから必要ないわなんて言って。いくら南に向いてたって、太陽が出なきゃ洗濯物は乾かないんだ。それに僕は、うちのなかに洗濯物を干すの、貧乏《びんぼう》くさくてイヤなんだ。
その点については、さすがは父子というべきか、三谷明も同意見だった。邦子が家じゅうに洗濯物を干し並べると、彼はあからさまに不機嫌《ふきげん》になり、これをどうにかしてくれと、子供のように口を尖《とが》らせて文句を言うのだ。
「乾燥機ぐらい買ったらいいじゃないか」
と、亘と同じ進言もする。だが、邦子の方が聞き入れない。
「そんなのゼイタクよ。梅雨《つゆ》時だって、一週間も十日もお日様が出ないというわけじゃないんだから」
雨降りが続くと、そういう小競《こぜ》り合いというか言葉のやりとりは、朝晩の挨拶《あいさつ》と同じくらいの頻度《ひんど》で、三谷家のなかに発生した。しかし、それ以外はおおむね平和で何事もなく、六月は粛々《しゅくしゅく》と──またはじめじめと──過ぎてゆくようだった。やっぱりおとなしくしているのがいいのだと亘は思い、亀《かめ》の子のように首を引っ込めて、さらにおとなしくなった。
幽霊《ゆうれい》ビルの噂《うわさ》も、亘が気にしなくなったせいもあるのだろうけれど、さっぱり聞こえなくなった。みんな飽《あ》きっぽいのだ。あれから大松家の人たちを見かけることもない。カッちゃんも、まったく誰にも会っていないという。そして工事は、依然《いぜん》として再開されないままである。
芦川美鶴は、学校だけでなく、「かすが共進ゼミ」でも優等生であることを証明した。二ヵ月に一度、担当の石井先生と、ゼミの塾長《じゅくちょう》先生が「みんなの学力の伸び具合を把握するため」に執《と》り行う実力テストで、あっさりと宮原祐太郎を抜《ぬ》き去り、ぶっちぎりのトップに躍《おど》り出たのだ。今の五年生の塾生たちのなかでトップだというだけでなく、歴代でもダントツの成績だという。
亘は、塾でも学校でも、芦川とは顔を合わせないよう、少し古めかしい言い方をするならば袖振りあう≠アとさえないように、気をつけて毎日を過ごしていった。もうあんなふうに、一方的にやりこめられるのは御免《ごめん》だと思った。それも、全力でぶつかりあって完敗したというのじゃない。亘は必死だったけれど、芦川の方は、なんだか剣《けん》の先っちょで亘をあしらっているみたいだった。だからこそ、その場で傷つけられただけでなく、後で思い出すたびに、また傷が深くなるような気がするのだ。もう関《かか》わるのはよそう。
それに、六月の半ば頃《ごろ》になると、幸せなことに、亘には、芦川や幽霊ビルなんかより、もっと考え甲斐《がい》のある、楽しい目標がひとつできたのだった。ほかでもない、八月まるまるいっぱいを、千葉の三谷家で過ごそうという計画である。
今までの夏休みも、七月の終わりから八月の第一週にかけて、海水浴にはいちばん良いシーズンには、千葉のお祖母《ばあ》ちゃんのところに泊《と》まりにいって、楽しく過ごすのが恒例《こうれい》だった。明はそんなに休みをとれないし、夫が働いている時に邦子が家を空けるわけにもいかないので、そういうときは、亘だけがお祖母ちゃんの家に泊まるのだ。幼稚園《ようちえん》のころから、それでへっちゃらだった。ホームシックにかかったり、お母さんに会いたいなんて、一度だってメソメソしたことはなかった。「亘は海の子なんだ」と、ルウ伯父《おじ》さんも保証してくれている。
それだから今年は、いよいよ、一週間や十日だけなんていうケチくさいことを言わずに、八月いっぱい千葉で暮らそうというわけなのである。もちろん、それだけ長くいるということになれば、お客さんテキに遊んでばかりはいられない。お祖母ちゃんの店も、海の家の売店も、ルウ伯父さんの仕事も、亘ができる限りのお手伝いをするのだ。
「ちゃんと働けたら、それに見合う給料を出してやる」と、ルウ伯父さんは言った。亘は、その話に飛びあがって喜んだ。給料≠チて、なんて素敵《すてき》な言葉だろう!
『ロマンシングストーン・サーガV』の後に、おそらくは十一月の半ば頃だろうけれど、『バイオニック・ロード』という、とても面白《おもしろ》そうなゲームが発売される。RPGではなくて、アクション・ゲームだけれど、雑誌の情報を見る限りでは、SF的なストーリーがとても複雑で、謎《なぞ》めいていて、主人公がカッコよくて、それはもうドキドキするほどに亘好みのゲームなのだった。それが、発売予定価格七千二百円なのである。CD二枚組だ。
最初に雑誌で見たとき、あ、こりゃ駄目《だめ》だ、諦《あきら》めだと思った。『サーガV』から二月《ふたつき》とあいてない。七千二百円なんて、絶対に無理だ。手も足も出ない。
カッちゃんなら、何とかなるかもしれない。二ヵ月あいてれば、お小遣《こづか》いのやりくりもつくだろう。小村家は、小父《おじ》さんも小母《おば》さんも商売が忙《いそが》しくてカッちゃんにかまえない分、お小遣い方面では三谷家よりもずっと甘いからである。小父さん小母さんが、ゲーム内容を厳しくチェックするということもない。
ただ、基本的かつ大きな障害があるのだ。カッちゃんは、アクション・ゲームは嫌いなのである。RPG命なのである。『バイオニック・ロード』? それ何? え? 主人公がサイボーグなの? 侵略《しんりゃく》してきた異星人をやっつけて、宇宙コロニーに閉じこめられてる住民たちを救出するって? 亘が一生|懸命《けんめい》にその面白さを売り込んでも、カッちゃんは話半分に聞き流し、そして尋《たず》ねるのだ。
「で、魔法《まほう》は使えンの?」
使えないと答えたら、その場でアウトだ。カッちゃんにとって、魔法の使えないゲームなんて、梅干しの入ってないおにぎりと同じくらい意味のないものなのだから。
つまり、小村克美君に『バイオニック・ロード』を買ってもらって、貸してもらうもしくはプレイさせてもらう──という技《わざ》は、最初から使えないのである。
ああ、お金がほしい。切実に、亘はそう思っていた。そんなところへ、ルウ伯父さんの台詞《せりふ》が間こえてきたのである。八月いっぱい、こっちへ来たいんだって? ちゃんと働けたら、給料|払《はら》ってやるよ。
働けるよ! 働けますとも!
亘は一生懸命に両親を説き伏《ふ》せにかかった。三谷明も邦子も、まるまる一ヵ月のあいだ、我が子が家を離れるということに、最初のうちは、強い抵抗《ていこう》を感じているようだった。せいぜい半月ぐらいならばいいだろう。でも、三十日間? それはちょっと──
「ずっと千葉のお祖母ちゃんのところにいたら、遊んでばっかりいて、宿題ができないんじゃないの? 駄目よ」と、邦子は反対した。
「宿題は七月のうちにやっちゃう。ドリルだけだから。あとは日記と感想文だから、千葉でもちゃんと書けるもん」
「朝顔の観察は?」
「それだって千葉の方がいいじゃん。お母さん、ベランダに朝顔の鉢を置くと、イモムシがつくからイヤだって言ってたじゃない」
邦子はこれで、うーんと唸《うな》った。確かにイモムシは嫌いなのだ。朝顔の蔓《つる》から、干してある洗濯物や布団《ふとん》にも移ってしまう。毎夏、亘の宿題のために朝顔を育てるたびに、ベランダで悲鳴があがるという事態が発生し、ご近所の手前みっともなくて仕方なかった。
一方、三谷明はもっと手強《てごわ》かった。
「親戚《しんせき》のところでも、アルバイトするのはまだ早い。亘は小学生だ。少なくとも、中学生になるまでは駄目だよ」
「ルウ伯父さんは、いいって言ってくれてるのに」
「それは伯父さんの考えだ。父さんは意見が違《ちが》う。おまえはまだ子供だ。お金のために働いちゃいけない」
とりつくしまがないという感じだった。何を言っても、どう訴《うった》えても、答は同じ。おまえにはまだ早い。亘は目の前が真っ暗になった。毎日毎日、父さんに考えを変えてもらうにはどうすれはいいか、どういう意見を述べればいいかと、夜も眠《ねむ》りが浅くなるくらいに、必死で考えた。
ところが──である。
「亘、夏休み、お祖母ちゃんと悟伯父さんのところで過ごしてもいいぞ」
六月最後の日曜日、遅い朝ご飯《はん》の食卓で、明は突然《とつぜん》そう言い出したのだ。新聞を読みながら、なんだか、あんなふうに議論したり頼《たの》んだりした話題についての結論というよりは、塩を取って≠ニでもいうくらいの軽さで、ひょっこりと。亘はすぐには信じられず、自分はまだ寝《ね》ぼけているのかもしれないと、邦子の顔を見た。母も驚《おどろ》いていた。
「あなた──いいんですか?」と、少しばかり笑いながらも、邦子は念を押すように訊《き》いた。「亘は八月中、千葉へ行こうとしてるのよ?」
「いいんじゃないか」明は新聞をめくった。「何なら、君も行って来るといい」
「そんなわけにいかないわよ」邦子は笑いだした。「あなたを放っておいて、わたしだけ海水浴なんて、ねえ」と、亘にうなずきかける。
「別にかまわないよ」明は新聞から目を上げないまま、ひょうひょうとした口調で言った。
「普段《ふだん》だって、すれ違いばかりで母子家庭みたいじゃないか。同じだろ。俺だってやもめみたいだし」
その言い方には──何というか、ほんの少しだけれど含《ふく》み≠ェあった。亘は確かに、それを感じた。昨日土曜日は、父さんは休日出勤で一日じゅう出かけていて、帰りも遅かった。なんか嫌なことがあったのかもしれない。ひどく疲《つか》れているのかもしれない。それで機嫌が悪いんだろう。
「だからこそ、夏休みぐらいは一緒《いっしょ》に過ごす時間をたくさんとりたいのよ。ね?」邦子は亘に笑いかけた。今度ははっきりと、援護《えんご》せよ≠ニ顔に書いてある。明隊長は不機嫌モードに入っているぞ、亘二等兵=B
しかし、亘は困った。父さんの承諾《しょうだく》は、喉《のど》から手が出るほどほしい。それがせっかく差し出されているというのに、母さんの味方をして断るなんて。
「それに、亘が八月中千葉に行っちゃったら、小田原の両親に会えないわ」邦子は言って、立ちあがってコーヒーポットを持ってきた。「二人とも寂《さび》しがるわ。可哀想《かわいそう》よ」
明は黙《だま》っている。それどころか、新聞を持ちあげて顔を隠してしまった。邦子はさらにあれこれ言ったけれど、明は生返事をするはかり。食事の席の雰囲気《ふんいき》も沈滞《ちんたい》してしまった。
こうして結局、なんとなくなし崩《くず》しではあるけれど、亘は夏休み中の一ヵ月の千葉行きを獲得《かくとく》したのだった。
千葉で過ごす八月の一ヵ月間を、有効かつ楽しいものにするためには、東京にいる七月のうちに、宿題の大半を片づけてしまうことが必要だった。亘はこういう点では周到《しゅうとう》な性格である。七月中の約十日間は、どんなに強烈《きょうれつ》な誘惑《ゆうわく》があろうが、ラジオ体操に間にあう時間に起きて、週に二度のプール教室に出かけるほかには、ずっと家にいて宿題に集中する計画を立てている。そのことを考えると、無条件で心がはずむのだ。いつもなら、大嫌いな六月の、そのまた大嫌いの中心──しとしと雨と蒸《む》し暑いのと、思い出したように夜気が冷えて鼻づまりになるのとで、憂鬱《ゆううつ》一方の梅雨がやってきても、今年はちっとも苦にならなかった。じめじめした空気と晴れない空の先には、頭から丸かじりして味わうことのできる素晴《すば》らしい夏が、亘のために出番を待ってくれている。
「チカゴロ、やけに明るいじゃん?」
カッちゃんにそう尋ねられて、楽しい秘密をうち明けると、彼は手放しで羨《らや》ましがった。
「いいなぁ、俺もちょっとぐらい遊びに行かれるといいんだけどなあ」
「ルウ伯父さんにきいてみてあげようか?」
カッちゃんが一緒なら、亘だってもっと楽しい。
「伯父さんなら、きっとオーケイしてくれるよ」
「うん……」カッちゃんは、珍《めずら》しくちょっと煮《に》え切らない顔をした。「たださ、オレんとこは店の手伝いがあるからね」
「お盆《ぼん》休みは?」
「そんときは家族旅行。ウチはオヤジもオフクロもあんまし休みとれないから、家族旅行だけはちゃんと行くんだ」
「カッちゃんて親孝行?」
「──って感じぃ?」
そう言い合って、二人で笑った。
そんなふうに過ごして、六月の末、あと一枚日めくりをめくれば、待望の七月という日の午後のことだった。
この日は塾があるので、亘は急いで学校から帰ってきた。何かおなかに詰《つ》め込んでから出かけたかった。
すると、玄関《げんかん》に女もののきれいな靴《くつ》が揃《そろ》えてあり、リビングで話し声がする。女の人の声である。
そっと顔をのぞかせると、例の母さんの友達──不動産会社の社長夫人が来ているのだった。コロンの香《かお》りがする。
「あら、お帰りなさい」邦子が亘に気づいて声をかけた。社長夫人も振《ふ》り返る。亘は、ここまで来て目前の千葉行きがフイになるようなミスをしたくないので、母さんの機嫌をとるべく、とても良い子のご挨拶をした。
それに満足してくれたのか、母さんは手早くお八《や》つの支度《したく》をして、それを亘がお客様の前ではなく、自分の部屋で食べることを許してくれた。お八つは豪華《ごうか》なケーキだった。フルーツが山ほど飾《かざ》ってある。
「佐伯《さえき》さんにいただいたのよ。お礼を言いなさいね」
お盆を差し出しながら、母さんは社長夫人の方に微笑《ほほえ》んで、そう言った。そうそう、社長夫人の会社は、佐伯エステートとかいうのだった。
母なる女王邦子の友達が来たときには、そこに同席して、学校のこととか友達のこととか、面白くもないことをあれこれ訊かれながらお茶を飲まなくてはならない、それは、第一王子の亘に課せられた使命である──というのが三谷家の法律である。本日はあっさりとそれを免除されて、亘は心底ホッとしたが、すぐに、なんとなくヘンな感じがしてきた。なにゆえに、こんな超法規的|措置《そち》がとられたのか? 邦子と佐伯社長夫人の話は続いている。ひそひそ、ひそひそ。
答は明らかだ。その会話を、亘の耳には入れたくないのだ。ではどうするか? 決まってるじゃないか、盗《ぬす》み聞きするのだ。亘は手づかみでケーキを食べながら、ドアに張りついて聞き耳を立てた。
「──それで警察はどうするつもりなのかしら?」と、邦子が低い声で言った。
亘はクリームのついた指を舐《な》めながら、目を瞠《みは》った。
「もちろん犯人を捜《さが》してるわよ。だいたいの目星だってついてるんじゃないかしら」
「きっと変質者よねえ。前にも同じようなこと、やってるかもしれないし」
「それもそうだけど……不良グループじゃないかって」
「不良って、高校生とか? まさか中学生じゃないでしょう。やったことがやったことだもの。車だって使ってるんでしょ?」
「まあねえ。だけどホラ、最近は高校入ってもすぐやめて、家でプラプラしてる子供も多いから、そういう連中が集まって──」
「問題を起こすのね。アラ、問題どころじゃないわね。これは犯罪だもの」
「だから自警団をつくるって言ってるわけよ。うちはお宅と同じで男の子ばっかりだけど、女の子のいるお宅は深刻よ。震《ふる》えあがってるわよ」
「そりゃ当然だわ」
「だけど、気の毒よねえ」社長夫人がため息をついた。「大松さんのところも──」
亘はちょうど、ケーキのてっぺんに載《の》っていたサクランボを口に入れたところだった。驚きのあまり、種を飲み込んでしまった。
ダイマツ? あの大松ビルのオーナーの大松さんのことか? そうだろうそうだろう、だって、建てかけの大松ビルについて詳《くわ》しい情報を教《おし》えてくれたのは、ほかでもない佐伯社長夫人だったのだから。
「中学生ですって? お嬢《じょう》さん」
「ええ、そう。だけど大松さんのところは、事件があった後、すぐには警察へ行かなかったのよ。今度の事件があってね、それで──ひょっとしたらお嬢さんをさらった犯人と同じ奴《やつ》の仕業《しわざ》なんじゃないかって思って、それでやっと訴え出たってわけ。警察も、聞き込みに回ってたしね」
「その気持ちもわからないじゃないけど、もっと早くに訴えればよかったのに」
「それがね、大松さんのお嬢さん、事件のショックで口をきかなくなっちゃってるらしいの。ちょっと……まあなんていうか、心が壊《こわ》れちゃってるというか」
ショックを受けたのか、邦子は黙った。しかしドアの内側に張りつきながら、亘はもっともっと大きな衝撃《しょうげき》に揺《ゆ》すぶられて立ちすくんでいた。はっぺたについたクリームと、同じくらい真っ白な顔色になっていた。
大松家の中学生のお嬢さん。
口をきかない。
心が壊れてる。
香織のことだ。ほかの誰であるはずもない。
見とれるくらい綺麗《きれい》だけれどうつろな目をして、兄が押す車椅子に座っていた。まだ制作|途中《とちゅう》の人形のように、華奢《きゃしゃ》な首がぐらぐらしていた。
香織が──あんなふうになってしまったのは、事件≠フせいだという。ヘンシツシャとか不良とかがからんでいる事件のせいだという。警察が乗り出しているという。
佐伯社長夫人はさっき、「お嬢さんをさらった」と言わなかったか? 香織は誰かにさらわれたのか? 誘拐《ゆうかい》されて、あんなふうに壊されてしまったのか?
胃袋がゲンコツよりも小さく締まって、すうっと下がって、膝頭《ひざがしら》のあたりでやっと止まった。ケーキはもう一口も食べられない。
亘はまだ思春期の入口にも到達していない年頃だが、それでも、今いる場所から入口を見ることはできる。しかも、思春期の入口には扉《とびら》はなく、柵《さく》もない。昔はあったらしいけれど、時代が進むに連れてだんだんに壊されてきたのだ。だから、遠目でもそこをのぞくことは充分《じゅうぶん》にできるし、入口の先、その奥にあるものはみんな、ことのほか色|鮮《あざ》やかなので、両親が亘がのぞいて知っているのではないかと推察している事柄《ことがら》の倍ほどの事柄を、亘はすでに知っていた。
だから、推《お》し量ることができた。大松香織が、どうやって、どんな経過《プロセス》で以《もっ》て壊されたのか。それが女の子にとってどんなことなのか。あて推量だから細かいところは違っている──たぶんかなり違っているだろうけれども、それが全体として恐《おそ》ろしく、忌《い》まわしく、汚《けが》らわしいことだという直感的|認識《にんしき》だけは間違っていなかった。
塾へ行く時間が迫《せま》っていた。キッチンに皿を出して、邦子に挨拶してから出かけねばならない。でも、どんな顔をしていいかわからなかった。母さん、ボクはその女の子を知ってる。香織さんを知ってる。その子に会って、実を言うとずっとその子のことが気になってる。だってすごく可愛《かわい》かったから。妖精《ようせい》のニーナみたいに。
そんなことを考えるだけで、泣けてきそうだった。
亘は忍者《にんじゃ》のように部屋を忍び出て、母と社長夫人の囁《ささや》くような会話を振り切って、自分でも説明できないエネルギーに急《せ》かされて、一直線に塾へと走った。通りすがりの人びとは、あの男の子は何をあんなに怒っているのかと、訝《いぶか》ったことだろう。
その日は塾にいるあいだじゅうずっと、じっと椅子に座っていても──先生が亘の提出した算数のドリルの間違いを解析《かいせき》してくれていても、宮原祐太郎がいつもながら几帳面《きちょうめん》な勉強ぶりで皆《みんな》を感心させていても──亘は一人で走り続けているような気分だった。どこに向かっているのかわからず、なぜ走っているのかもわからない。ただ走っている。走れば、自分の助けるべき人が何処《どこ》にいるか、自《おの》ずとわかると信じている英雄《ヒーロー》のように。走れば、行き着く先に自分の倒《たお》すべき怪物《モンスター》が待ち受けていると知っている勇者のように。
でも、現実には何も見えず、どこにも着かない。だから、とても孤独《ひとり》だった。
塾の授業が終わると、夜も八時を過ぎてしまう。いつもはおなかペコペコだが、今日は空腹さえ感じなかった。ただ何となく、胃のあたりがスカスカになっているだけだった。亘は友達とおしゃべりすることもせずに、そそくさと参考書とノートをしまい込み、黙って家路についた。
歩きながら、無性《むしょう》に大松ビルに行きたくなった。行けばまた香織に会えるような気がしてたまらない。初めて出会ったのは、もっともっと遅《おそ》い時刻だった。真夜中だった。だからこんな時間に行ったところで、彼女が散歩に来ているはずはない。それどころか、建築途中の大松ビルが、いつもの香織の散歩コースに含まれているかどうかさえ確かじゃない。あの夜は、たまたま大松社長が、娘《むすめ》を散歩に連れ出した時、中途|半端《はんぱ》に放置されたままのビルの様子を見に寄っただけのことだったのかもしれないのだ。
理屈《りくつ》を並べてみても、爪先《つまさき》は大松ビルの方へ向いていた。今夜は、マンションの共同玄関のところで明に呼び止められるという偶然《ぐうぜん》もなかった。亘は真《ま》っ直《す》ぐに、ほとんど目的があるかのような一途《いちず》さで、大松ビルへと向かって歩いた。幸い、今夜は雨もやんでいる。
カッちゃんが、灰色の作業着を着た人と連れだった大松社長にばったり会ったというのは、もう半月ばかり前のことだ。だけど、その後もビルの建築が再開される様子はない。大松ビルは痩《や》せた骨組みの上にシートをかぶり、夏も近いというのに、薄《うす》ら寒い姿をさらして立っている。
誰もいない。やっぱり。毎日学校への行き帰りでここを通るときは、それなりに人通りがあるのだけれど、なにしろ隣《となり》は神社だし、このあたりは住宅ばかりで、お店もコンビニも見あたらないので、陽が落ちるとすうっと静かになってしまうのだ。
街灯の下に立って、亘は大松ビルを見あげた。シートとシートを結び合わせている太い紐《ひも》が、ここ数日の雨を吸い込んで、死んだミミズみたいに垂れ下がっている。そこにも、ここにも。その数を数えた。
本来作業が進められていたならば、出入口になるべき場所には、ことのほか厚いシートがかけられていて、そのシートだけは紐ではなく、大きな南京錠《なんきんじょう》で留め付けられていた。作業を続けてくれる工務店が見つかるまでは、この南京錠の鍵《かぎ》は、きっと大松社長が保管しているのだろう。以前にここで会ったときには、亘とカッちゃんが来る前に、南京錠を開けて、建物のなかの方まで点検していたのかもしれない。
シートとシートの隙間《すきま》に目をあてて、のぞきこんでみた。かろうじて鉄筋や階段らしきものが見える。ちょっとカビくさい。
亘は腕時計《うでどけい》のデジタル表示に目を落とした。午後八時十九分三十二秒──
大松社長は、なぜあんな遅い時刻に、香織を散歩に連れ出していたのだろう? ここだって、昼間点検に来れば済むことだったじゃないか。なんでわざわざ夜遅くに──
昼間出歩くと、明るい太陽の光の下で、香織の壊れてしまった様子が、残酷《ざんこく》なほどくっきりと見えてしまうことに耐《た》えられないのだろうか。香織本人が、昼間外に出ることを嫌がるのだろうか。いや、もしかすると彼女は、太陽の光ではなく、町を歩いている見知らぬ人たちを怖《こわ》がるのかもしれない。香織を壊した奴らを思い出させるから? それとも、香織を助けてくれなかった人たちを思い出させるから?
次から次へと湧《わ》いてくる辛《つら》い疑問を消し去るために、事件の詳しいことを知りたかった。でもその一方で、事件のことなど知りたくもなかった。
亘の目には、不運続きで中途半端に立ちつくしているこのビルが、大松香織と重なって見えて、仕方がなかった。理不尽《りふじん》な運命のために、ここに立ちつくし、風雨にさらされ、いたずらに放置され、少しずつ少しずつ痩《や》せ衰《おとろ》えているのは、ただの建物ではなく、香織の魂《たましい》そのものなのではないか──そんな気がして、たまらなかった。
心のなかの悲哀《ひあい》と憤《いきどお》りに、あまりにもどっぷりと浸《つ》かっていたので、亘の目は現実を見ていなかった。目と鼻の先にあるものを感知することができなかった。
そして、気づいたときには、今度はそれが、まるっきり幻影《げんえい》のように見えた。だって、あるはずのないものがそこにあったら、いくら小学五年生だって、ああこれは夢だゲンカクだ、ホントじゃないってわかるさ──
両京錠で留め付けられたシートを、内側から、そっと誰かが押し開こうとしている。
手が見える。
亘はぽかんと口を開いて、その手に見とれた。動いてる。
妙《みょう》に白い手だった。でも女の人の手じゃない。もっとしわくちゃで乾いている。小田原のお祖父《じい》ちゃんの手と似てる。
手がシートを持ちあげて、隙間を広げ、その際聞から誰かが亘を見つめている。
「うわ!」
遅れてきた驚愕《きょうがく》が、声になって口から飛び出した。亘が叫《さけ》ぶのと同時に、シートを持ちあげていた手が引っ込んで、隙間も閉じた。南京錠がぶらぶら揺れる。
誰か、ビルのなかにいる。
とっさに、亘はしゃがんでシートの裾《すそ》をつかんだ。シートは思いがけないほど重たかったけれど、両手で持ちあげると、三十センチぐらいの隙間が空いた。亘はそこから内部へと潜《もぐ》り込んだ。勢いよく身体を滑《すべ》り込ませたので、湿《しめ》った泥《どろ》が頬《ほお》にも顎《あご》にもくっついたけれど、全然気にならなかった。
シートの内側に入って膝立ちになったところで、今さらのように、あまりにも暗いことに気がついた。シートとシートのつなぎ目から、街灯の光が細く差し込んでくる。灯《あか》りと言えばそれだけだ。コンクリートの基礎《きそ》や、鉄筋の柱。すぐ右手に設置されている階段。みんな、わずかな光源があるがために、かえって暗い闇《やみ》の塊《かたまり》になっている。
何か音がした。右の方で。亘は、凄《すご》い勢いでそちらに顔を振り向けた。
階段の上──一階から二階、二階から三階、三階から四階──踊《おど》り場で折り返しながらあがってゆく。どうやら、三階から四隅へと続く踊り場まで設置されただけで、その先がないようだ。目を凝《こ》らしても、確かに何もない。宙ぶらりんになっている。
そこを、のぼってゆく人影《ひとかげ》が見える。
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6 扉
さっきと同じように、亘は唖然《あぜん》として口を開いた。自分の目に映っているものが信じられなくて、ただただまばたきをするしかない。
三階から四階に続く踊《おど》り場の端《はじ》、そこから踏《ふ》み出せば下に落ちるしかないぎりぎりのところに、その人影《ひとかげ》は立っていた。黒いシルエット。痩《や》せて背が高い。そして──
(あれは、フードだ)
長く裾《すそ》を引くローブを着て、フードをかぶっているのだ。左手は踊り場の手すりの上に置かれている。右手には杖《つえ》を──二メートル以上の長さがありそうな杖を持っている。
その杖のてっぺんに、何か丸いものがついていて、光っている。輝《かがや》いている。
魔導士《まどうし》だ。
『ロマンシングストーン・サーガ』には、シリーズを通して、敵と味方に一人ずつ、強力な魔導士が登場する。『サーガT』では、味方になる魔導士は、敵方の魔導士のお師匠《ししょう》さまにあたる偉《えら》い人で、その分気難しくて怒《おこ》りっぽいおじいちゃんだった。
『サーガU』の魔導士は、一転して若い美人で、敵方の魔導士の分身《ダブル》だった。敵方の魔導士も色っぽい美女で、何百年も生きているのに歳をとらない。なぜかといえば、自分に降りかかるべき「老い」を、強力な魔法で疫病《えきびょう》に変えて、何も知らない大トマ国の人びとの上に振《ふ》りまいているからだった。味方になる美人魔導士は、敵方の魔導士を倒《たお》せば自分もいっぺんに歳をとり、一瞬《いっしゅん》のうちに老婆《ろうば》になってしまうことを承知の上で、主人公に力を貸してくれるのだった。
『サーガV』では、今のところ雑誌の情報を読む限り、またおじいちゃん魔導士が登場するようだ。この人には何らかの古《いにしえ》の呪《のろ》いがかけられていて、それを解くために主人公に同行を申し出るということであるらしい。イラストを見ると、『T』の魔導士よりもずっと優《やさ》しそうで、なんだかサンタクロースみたいな感じだった。
それぞれに個性的な魔導士たちだが、服装には共通するものがある。フード付きの長いローブと、手にした杖だ。『U』の美人魔導士など、下着が見えそうな超《ちょう》ミニスカートを穿《は》いているにもかかわらず、ローブは裾を引きずるほどの長さだった。つまり、それはお約束の制服なのである。
そして今、幽霊《ゆうれい》ビルの内側の闇《やみ》の中で、宙ぶらりんに途切《とぎ》れた階段の踊り場の上に立っているのも、やっぱりそういう出《い》で立ちの人物だった。魔導士だ。間違《まちが》いない。だって、ほかにどんなキャラクターを思い浮かべることができる?
問題は、魔導士なんか実在するはずがないということである。
「あの、あの、あの」気がつくと、亘は仰向《あおむ》いてそんなことを口走っていた。
「あの、あの、アナタは──」
頭上の踊り場の人影が、こちらに頭を振り向けたように見えた。杖の角度が、ちょっと変わった。
「アナタは、そんなところで何してるんですか?」
沈黙《ちんもく》が落ちた。それでも、亘は暗がりのなかで、フードの人影がこちらを見つめているのを、その視線をはっきりと感じた。
「あの、その」半歩前に踏み出して、「危ないですよ、そんな高いところにいたら」
返事なし。
人影は動かない。
嫌《いや》な感じがじわっとした蒸気となって、亘の全身を押し包んだ。
もしかするとアレは、もちろん魔導士なんかじゃなくて、その──ちょっとばかりココロのバランスを失っているヒトというか、変わっているヒトというか、そういうヒトがここに入り込んでいるというだけのことじゃないのか? それでもってボクは、そういうヒトと闇のなかで二人きりで、しかもこっちから呼びかけて注意を惹《ひ》いちゃったりしてるワケだぞ。
もっとも、魔導士のコスプレするのが好きなお年寄りが、この近所に住んでるってこともあるって──考えられないでもないけど。
フードの人影が、一歩手前に踏み出した。
亘はすうっと冷汗《ひやあせ》をかいた。コスプレ好きなおじいちゃん──あるわけないって、そんなこと。
あわててしゃがみこむと、ひっかくようにしてシートの裾を持ちあげた。焦《あせ》っているので上手くいかない。すると、頭上から雷《かみなり》のような声が轟《とどろ》いた。
「恐《おそ》れるでない、少年よ!」
亘は固まってしまった。たっぷり数秒間、そのままの格好でいた。
それから、おそるおそる振り返り、頭上を仰《あお》いだ。
フードの人影は、さっきまでと同じ場所に存在していた。杖が、またちょっと傾《かたむ》いた。シートの隙間《すきま》から差し込む街灯の光を受けて、杖のてっぺんについた珠《たま》がピカリと光った。
頭上から、今度はずいぶんと穏《おだ》やかな声が聞こえてきた。
「おぬしは、どこから来たのかな?」
質問されているのだ。亘は両手でシートの裾をつかんだまま、口をあわあわさせることしかできなかった。
だって、日本語だ。
「名前は?」と、声がまた問いかけてきた。明らかに老人の声だった。ほんの少しだけれど、しゃがれているようだ。タバコ飲みの小田原のお祖父《じい》ちゃんと同じだ。
「これ、何とか言わんかい」
問いながら、頭上の人物は、さらに半歩手前に踏み出した。
亘の顎《あご》がガクガクしてきた。「あの、あのあの、あの」
「そうか、おぬしはアノという名なのか、少年よ」
違う違う。亘はぶるぶる首を振った。でも声が出てこない。
「アノよ、おぬしこそ、こんなところへ何をしに来た?」
そうっと見あげると、フードの人影は、三階から四階へ続く踊り場の手すりにもたれて、亘を見おろしていた。杖は肩《かた》に担《かつ》いでしまっている。
なんだか──妙《みょう》に気さくである。
「アノよ、おぬしも友達に聞いてきたのかの?」
フードの人影は、杖を持ちあげてとんとんと肩を叩《たた》いた。
「ここのことは、だいぶ評判になっとるらしいからの」
それらの言葉は、狼狽《ろうばい》して混乱してコントロールを失っている亘の心にも、かろうじて届いた。
トモダチ。トキダチに聞いてきた。
ヒョウバンになってる。
「あの──あの──」
つっかえつっかえ言い出すと、頭上の人影は笑いながら遮《さえぎ》った。
「アノよ、ここはミダス王の謁見《えっけん》の間ではないからの、発言する時にいちいち名を名乗らなくてもかまわんのよ」
「あの──いえそうじゃないんです」
やっとまともな言葉を口にできると、それで呪いが解けたみたいになって、亘は立ちあがった。
「ボクはアノって名前じゃありません。亘といいます」
「ワタル?」人影は首をかしげたようだった。フードが動いた。「ほう、そうか。似とるなあ」
え? と思った。「誰にですか?」
「誰でもない」フードの人影はすぐに答えた。「少なくとも、おぬしの友達ではないようじゃの」
杖を反対側の肩に担ぎ直すと、さらにゆったりと手すりにもたれた。なんだか、今にも懐《ふところ》からタバコか煙管《キセル》でも取り出して、一服つけそうなほどにくつろいだ感じである。
「それでワタルよ、おぬしはここへ何をしに来たのじゃ?」
「えっと──あなた──あなたはさっき、シートの隙間から外を見てたでしょ?」
「ほほう」
「そのとき、外側からも、あなたの手が見えたんです。それで、何かと思って潜《もぐ》り込んできたんです」
「なるほど」人影は呑気《のんき》そうに言った。「で、おぬしはここに何をしに来たのじゃ?」
「だから、あなたの手が見え──」
ロープの袖口《そでぐち》から、するりと手が出てきた。人影は指を立てて、ノンノンノンというように左右に振った。
「ワタルよ、おぬしはわしの質問を聞いておらんの。いいかね、よくお聞き。おぬしはここに何をしに来たのじゃ?」
亘は困ってしまった。「だって──」
「おぬしはこの建物の前を散歩しておったのかの? ここの時刻に? 梟《ふくろう》の朝は子供らの夜ではないか」
ああ、そういう意味か。亘はやっと得心した。「そもそもここへ来たのは、ちょっと人に会いたかったからです」
「人に会う」歌うように節を付けて、フードの人影は繰り返した。「その人はどこにおるのじゃな?」
それは、たとえこんな奇天烈《きてれつ》な状況《じょうきょう》ではなくても、答えにくい質問である。大松香織のことなんか、どう説明しょう?「ここには‥…いないんですけど」
「ほほう。いないとな」
「はい。でも、前にここで会ったことがあって、それでボク──」
「前にここで会ったことがあるとな」
「そうなんです。おかしな話に聞こえるのはわかってるけど、でもホントなん──」
フードのヒトは、亘の発言を最後まで聞いてくれずに、また遮った。「その人とはどんな人なのかな?」
「女の子、ですけど」
「少女とな、ほほう」
また歌うように言ってから、フードのヒトは急にしゃっきりと姿勢を直し、どんと杖をついた。亘はビクリとした。
「さて、わしはもう帰らねばならん」
「あの、ですけど──」
「それに、どうやらおぬしは間違いをしているようじゃ」
「ボクがですか? 何を?」
「おぬしはここへ来てはならぬ」
「だけど──」
「そういう次第《しだい》で、おぬしはわしには会っておらん」
「でもこうやって話して──」
「案ずるな。これからわしがおぬしの時を巻き戻《もど》してやろう。おぬしはここにはおらなんだ。何も覚えておらなんだ」
「ちょ、ちょっと待って──」
フードの人影は、ちっとも待ってくれなかった。亘の言葉など聞こえてない。杖を片手に、残る片手を宙に差しのべて、最初の時と同じような、朗々とした声を張りあげた。
「偉大《いだい》なる時の大神クロノスよ、その忠実なる僕《しもべ》、風と雲と虹《にじ》の使者よ、我ここに立ちて仰ぎ願わん!」
呪文《じゅもん》だ。亘はまたぞろ唖然とした。
「その恩寵《おんちょう》をもって、流れし時を留《とど》めたまえ、返したまえ、忘却《ぼうきゃく》の泉より湧《わ》き出《いづ》る水にて浄《きよ》めたまえ」
ぐいと、杖が空に突《つ》きあげられた。
「ダン・ダイラム・エコノ・クロス、えいや!」
瞬間、無数のフラッシュが焚《た》かれたように、亘の目の前が銀《しろがね》色の光に満たされた。あまりの眩《まぶ》しさに思わずまばたきをすると、
「あれ?」
暗い幽霊ビルのシートの内側に座り込んでいた。あわてて見あげても、三階から四階に通じる踊り場の上には、誰もいない。
魔導士も、コスプレするお年寄りも。亘のほかには誰もいない。でも──
(何だったんだ、今の?)
と思った。ということは、
(全部覚えてるぞ)
あのじいさん、時を巻き戻すなんて言ってたけど、ボクは何も覚えていないなんて言ってたけど、ちゃんと覚えてるぞ。
急に頭がフラフラしてきて、片手で自分の額を押さえた。熱でもあるんじゃないか。夢を見てたんじゃないか。ほっぺたをつねってみようか。つねってみるぞ。痛い。ちゃんと痛い。
亘はシートの裾を持ちあげ、ようやっと外へ出た。街灯の下で、腕時計《うでどけい》を見た。遅《おそ》くなっちゃった、母さんに叱《しか》られる、何て言い訳しょうか──
息が止まった。
デジタル表示は、八時十九分三十二秒。
そんなバカな。ただシートの内側に入り込んで、そこから出て来るだけだって、三十秒とか一分とかかかるはずだ。
時間が過ぎてない。
(わしがおぬしの時を巻き戻してやろう)
魔法みたいだ。
いや、みたいじゃない。これこそ魔法だ。
あの呪文──一生|懸命《けんめい》に思い出してみた。時の大神クロノスとか言ってたぞ。その使者が──何だっけ、風となんとか。虹だったかな。それで最後に、なんとかラムとかエコノなんとかとか──ああ、もっと注意深く聞いていればよかった。
あれは本物の魔導士だったんだ。夢や幻《まぼろし》なんかじゃない。コスプレ好きのおじいさんでもない。正真|正銘《しょうめい》、真の魔導士。
だけど、そんなものが、いったいどこからやって来たんだよ?
身体の内側からどやしつけられたみたいに飛びあがり、亘はもう一度シートの内側に潜り込んだ。一度街灯の光に慣れた目には、幽霊ビルのなかの闇は、さっきよりも遥《はる》かに濃《こ》く深く見えた。それでも、踊り場にも、鉄筋の陰《かげ》にも、階段の下にも、亘以外の誰一人いないことだけは、明らかだった。
「なかなか面白《おもしろ》そうだけど……なんか、今までと感じが違うねえ」
カッちゃんはそう言って、黄色い傘《かさ》を右肩から左肩の上に載《の》せ替《か》えた。雨滴《うてき》がパラパラと落ちる。
「感じが違うって?」と、亘は訊《き》いた。
「TとUと違うじゃん。今の日本が出てくるってさ、なんかシラける感じしない? それに、その調子だと、ディスクの三枚目くらいまで進めないと、ポスターに出てくる空飛ぶ船には乗れなそうじゃんか」
そこまで聞いて、カッちゃんの言葉の意味がやっとつかめた。亘はガックリした。
「カッちゃん、今までの話、『サーガV』の先行情報だと思ってたのかよ?」
カッちゃんは目をクリクリさせる。「違うの?」
放課後、二人は学校の裏庭にいた。図書室のすぐ脇《わき》の通用口から外に出て、コンクリートのステップのいちばん上に、並んで腰かけていた。今日は朝からずっと細かな雨が降り続いていて、一向にやむ気配を見せない。天気予報によると、大きな低気圧が近づいているということで、西日本では大雨の危険があるとかいう話だった。
亘はカッちゃんにうち明けたのだった。自分の部屋にいると、どこからともなく話しかけてくる甘い声の女の子のこと。幽霊ビルで亘に魔法をかけた、魔導士のこと。熱を込《こ》めて、精一杯《せいいっぱい》正確に言葉を選んで話したのに、カッちゃんときたら、それをゲームの話だと思っていたというわけである。
でも、仕方ないかもしれない。立場を逆にしたら、亘だって同じように受け取るだろう。姿の見えない女の子。おじいちゃん魔導士。どっちも、作り話のなかの存在だ。本当に会ったんだ、話をしたんだと言い張っても、証拠《しょうこ》は何もない。
亘はひどくくたびれた感じで、頭がぼうっとしていた。昨夜はほとんど眠《ねむ》れなかったし、幽霊ビルでドタバタしたせいで、風邪《かぜ》をひいてしまったのかもしれなかった。
塾《じゅく》からの帰りがいつもより遅《おく》れて、母さんにはひどく叱られた。国語のドリルにどうしてもわからないところがあって、先生に訊いているうちに遅くなってしまったんだと説明したのだけれど、なかなか機嫌《きげん》を直してくれなかった。亘は、そんな言い訳など真っ赤な嘘《うそ》だと見抜《みぬ》かれているのか──と、ヒヤヒヤしたのだけれど、どうやらそんなわけではないようだった。昨夜の母さんは、亘が帰る以前から、ずっと機嫌が悪かったみたいなのだ。昼間は佐伯社長夫人とたっぷりおしゃべりをして、きっと楽しかっただろうはずなのに。
カッちゃんと同じように肩に傘を担いで、亘はぼんやりと雨足を見つめた。もしかすると、ボクも壊《こわ》れかけてるのかもしれない。
「おい、ちょっと」
カッちゃんに声をかけられるまで、半分眠ったような感じになっていた。
「見てみろよ、ホラ」
カッちゃんは亘の肘《ひじ》をひっぱって、図書室の窓の方を指さした。大きなガラス窓ごしに、図書室の書架《しょか》の一部が見える。それだけでなく、その書架のそばに誰かいるようだ。人影が動いている。
図書室の窓よりも、こちらの方が低い位置にいるので、首をのばしてみても、肩から上がかろうじて見えるくらいだ。それでも、カッちゃんに指摘《してき》される以前に、書架のそばの人影が誰のものなのか、亘にもわかった。
「芦川だ」
間違いなくアイツだった。半袖の白いポロシャツを着ている。芦川にしては珍《めずら》しいことだった。塾で見かけるときは、いつも黒っぽいものばっかり身につけているのだ。
「芦川だけじゃないよ」カッちゃんが、図書室の方からはこちらを発見されないように、首を縮めて傘の陰に隠《かく》れながら言った。「石岡たちも一緒《いっしょ》だ」
そのとおりだった。芦川が窓際《まどぎわ》の書架のところで足を止め、棚《たな》から一冊の本を抜き出して、広げた。すると石岡が近づいてきて、芦川が本を読めないように邪魔《じゃま》を始めた。石岡の後ろには、いつもながら、彼の腰巾着《こしぎんちゃく》の六年生が二人、ぴったりとくっついている。見ているうちに、三人で芦川を取り囲むような格好になってしまった。
亘は驚《おどろ》いた。芦川と石岡健児。何とも奇妙《きみょう》な組み合わせだ。確かに石岡は学校の問題児だけれど、亘たちとは学年が違う。普通《ふつう》に学校生活を送っている分には、接触《せっしょく》する機会はごく少ない。それなのに芦川のヤツ、なんでまた石岡に目をつけられるような羽目《はめ》になってしまったんだろう? ガラスの向こうの光景は、明らかに、石岡と彼の取り巻きが芦川を虐《いじ》めているの図──だった。
「なんだかイヤな感じだな」亘も声を潜《ひそ》めた。そして、じりじりと窓ににじり寄った。
そのとき、視界を塞《ふさ》いでいた石岡が半歩脇に動き、亘のいるところからもまた、書架の前の芦川の横顔が見えるようになった。
怖《こわ》がっているような表情ではなかった。芦川は、石岡たちの方を向いてさえいない。視線は手にした本のべージの上に落ちていて、そのせいか、真《ま》っ直《す》ぐな鼻の線が、いっそう際だって見える。サラサラした前髪《まえがみ》が、目の上に垂れている。芦川の髪型は、女の子のショートカットみたいな形で、男にしては長めである。今はまだいいけれど、中学生になったら許されないだろう。芦川だからこそ似合うスタイルなのに、塾の男子たちのなかに、真似《まね》っこして髪をのばす連中が出てきた。隣《となり》のクラスでも同じような状況であるらしい。
(やっぱ、あのロンゲがまずかったのかな)
目立ちたがりの常で、石岡も、自分より目立つ存在については極《きわ》めて敏感《びんかん》なのだ。芦川も、そのアンテナにひっかかったか。
そのとき、窓の向こうで石岡が腕をのばし、芦川の肩を強く突いた。芦川がよろめいて、亘の視界から消えた。
「うわ、ヤバイぜ」カッちゃんが、いささか興奮気味に囁《ささや》く。「今日は図書係の先生、いないのかな?」
いないのだろう。石岡たちは、そういう点では抜け目ない。下級生を虐めている現場を押さえられるようなヘマはしない。
「誰か呼んできた方がいいかな?」
石岡の腰巾着だろう、ケケケと高い声で笑うのが、ガラスごしに聞こえた。どすんというような音も響《ひび》いてきた。
「職員室に──」
立ちあがりかけたカッちゃんの袖を、亘は強くつかんで引き留めた。
「シぃ! ちょっと待った」
視界のなかに、また芦川が戻ってきたのだ。今度はしっかりと石岡に向き合っている。石岡は亘たちの方に背中を向けているので、亘の目には、芦川の表情がはっきりと見えた。
芦川の方が石岡よりも小柄《こがら》なので、心持ち見あげるような姿勢だ。それでもまったく負けていなかった。
芦川は、さっきと同じ無表情の表情だった。ほんの少しでも、これっぽっちでも、石岡に対して感情を示すことを拒否《きょひ》しているかのようだ。それなのに威圧《いあつ》感があった。
強い視線に圧《お》されたらしく、石岡が半歩退いた。彼の着ている派手《はで》なチェックのシャツが、窓ガラスの半分を埋《う》めてしまった。亘は傘をたたんで身軽になると、ギリギリのところまで窓に近づいた。
芦川が何か言っている──くちびるが動いている。でも言葉は聞こえない。かろうじて聞き取れたのは、
「おまえ、オレを誰だと思ってんだ?」
ちょっとばかりひっくり返った石岡の声だけだった。
芦川がまた何か言う。よほど低い声を出しているのだろう。亘は焦《じ》れて、首をのばした。
その瞬間、ガラス窓の向こうの芦川と、視線があってしまった。
亘は首を引っ込め、窓の下の壁《かべ》に張りついた。芦川が窓の外の亘に気づいたことで、石岡たちも振り向き、こっちを見るに違いない。まずいとヤバイを足して十乗したぐらいのピンチだ。
雨がさわさわと顔にあたる。髪が濡《ぬ》れる。
しかし、息を詰《つ》めて壁に張りついていても、何も起こらない。通用口のステップのところでは、カッちゃんが目を丸くしている。何か言おうとしたので、亘は口元に指を立てた。
それから十数えた。そして、壁に張りついたままそろりそろりと横移動をして、カッちゃんのそばに戻った。
「ダイジョウブかよ?」と、カッちゃんが囁く。
「見つかった」と、亘も声を殺して答えた。
「なかへ入ろう。ここにいちゃまずいよ」
亘はびしょ濡れの傘を拾い上げた。カッちゃんは雨粒《あめつぶ》を巻き散らしながら傘をたたむ。
いきなり、ガラリと図書室の窓が開くと、芦川美鶴が顔を突き出した。亘もカッちゃんも、その場で石になった。
芦川は何も言わない。ただ真っ直ぐにこちらを見ている──亘の目を見ている。
「わ、わ、わ」と、カッちゃんが言った。「何だよ?」
芦川は、カッちゃんには目もくれなかった。ただじっと亘を見ている。何だかわからないけれど、何かを確実に読み取られているという気がして、亘はゾッとした。それなのに、目をそらすこともできない。
数秒が経《た》った。芦川は、これで納得がいったとばかりに薄《うす》く微笑《ほほえ》むと、また唐突《とうとつ》に首を引っ込めて、窓を閉めた。
「な、な、な」カッちゃんはあえいだ。「何なんだよ、あいつ?」
亘は傘の柄を握《にぎ》りしめた。指が震《ふる》えている。怖かった。アイツ、すごく怖い。
しばらくその場で呼吸を整え、自分で自分を落ち着かすことができると、止めるカッちゃんを振り切って、亘は図書室に向かった。だが、一歩遅かったようだ。石岡も腰巾着も、芦川美鶴も居なくなっていた。閲覧《えつらん》室で女子生徒が数人、静かに勉強しているだけだった。
「芦川のヤツ、石岡たちと何を話してたんだろうな……」
独り言のような亘の呟《つぶや》きに、カッちゃんが答えた。「たぶん、心霊写真の話じゃないかなぁ」
亘はビックリして振り返った。その勢いがあんまり凄《すご》かったので、カッちゃんが飛び退《の》いた。
「心霊写真? 三橋神社の?」
「うん、そうだよ。芦川が撮ったやつ」
「なんでそんなもんに、石岡たちがこだわるんだよ?」
「知らないの? あ、そうか。三谷はここんとこ、夏休みのことばっか考えてたもんね」
石岡健児が、芦川の撮った心霊写真をほしがっているのだという。それで、しつこく芦川につきまとっているのだという。
「石岡としては、それをテレビ局に持ってゆきたいわけよ」
石岡は、以前に一度、心霊写真をネタにテレビに売り込もうとして失敗している。なるほど、それで芦川の写真に目をつけたのか。
「セコイだろ? ま、石岡らしいけどさ」
もちろんセコイが、それ以前に、なんで他人の体験を横取りすることまでしてテレビに出たがるのか、その気持ちが理解不可能だ。
それに──
「芦川も、つきまとわれるのがイヤなら、さっさと写真をやっちゃえばいいのに」
亘は吐《は》き捨てた。三橋神社での芦川とのやりとりが、鮮《あざ》やかに思い出される。かさぶたを剥《は》がしたら、また血が出てきたときみたいだ。あのときの芦川の、これ以上ないくらいにケイベツ的な視線。身震いが出る。
「アイツは、心霊写真なんて頭から信じてないんだ。だったら、石岡にくれてやったっていいじゃないか」
亘が勝手に怒り始めてしまったので、カッちゃんはついてゆかれずに困っている。頭の横っちょをかきながら、ぼそぼそっと言った。
「そんなら、そういうふうにアドバイスしてやれば? 塾で一緒なんだろ?」
「一緒なんかじゃない!」
カッちゃんは日をシロクロさせた。「何だよぉ。どうしちゃったの?」
「カッちゃんはうるさいんだよ。何でもいちいち説明しなくちゃなんないのかよ? 説明したってわかりやしないくせに。バカじゃないの」
八つ当たりだとわかっているけれど、ゴメンと言う気持ちにはなれなくて、亘はさっさと図書室を出た。カッちゃんを置いてきぼりに、一人で廊下《ろうか》を歩き出す。カッちゃんはためらいがちに後を追いかけてきたけれど、亘が逃《に》げるように足を速めるので、そのうちに止まってしまった。
「うちに帰ンの?」と、大声で訊いた。「そんなら、バイバイ」
亘はどんどん走り出した。学校を出て家に通じる道までたどり着くころには、自分のふるまいがひどく勝手で意地悪だと気がつくくらいまで頭が冷えていたが、もう手遅れだ。一人でとぼとぼ帰るしかなかった。
その晩、夕食が済んだころに、千葉のルウ伯父《おじ》さんから電話がかかってきた。
最初にベルが鳴り出したときには、食卓《しょくたく》を片づけていた邦子が、ちょっとビクリとした。肩ごしに電話機の方を振り向く様子も、ワケありげな感じだったけれど、亘が「ボク出ようか」と椅子《いす》を降りると、「いいのよ、お母さんが出る」と、素早《すばや》く受話器を取った。そして相手がルウ伯父さんだとわかると、氷が溶けるみたいに表情を和《やわ》らげたのだった。
「亘、伯父さんがお話があるんだって」
亘は図書室での出来事で気が咎《とが》めていたし、明日カッちゃんに会ったら謝らなくちゃいけない、どんなふうに言おうか、カッちゃんは許してくれるよな、そんなに怒ってないよな──などと、ずっとグルグル考えていた。そのせいで、夕食も美味《おい》しくなかった。
芦川のこととかいろいろなことを、誰かに聞いてほしいという願いもあった。でも、こんなこと、誰に話したらいいのかわからない。
そこヘルウ伯父さんだ。そうだよ、伯父さんになら話せるかもしれない。
「もしもし、亘です」
「よう、夕飯は食ったか?」
伯父さんは相変わらず元気で大声だった。
「メニューは何だ? ハンバーグかスパゲティかロールキャベツか? いいなぁ、旨《うま》かっただろ」
いつもの挨拶《あいさつ》だった。以上の三品は、伯父さんの大好物である。ついでながらロールキャベツはホワイトソースで煮《に》たものではなく、トマトソースのがお好みだ。
「伯父さん」と言いかけて、亘は喉《のど》がヘンなふうに詰まるのを感じた。自分でも驚いた。泣きたいほど思い詰めているようなつもりはなかったから。「ボク──」
「実はさ、おまえの知恵《ちえ》を借りたいと思って電話したんだよ」と、伯父さんは続けた。亘の声の調子がいつもと違うことに、気がついてはいないようだ。
「伯父さんの幼|馴染《なじ》みの友達が、結婚《けっこん》してそっちに住んでるんだけどな、先週、子供が交通事故にあって入院してるっていうんだよ」
小学校四年生の男の子だという。幸い命に別状はなかったが、右の太股《ふともも》の骨が折れているので、長期の入院生活になりそうだという。
「でな、伯父さん、今度の土曜日にお見舞《みま》いに行くつもりなんだけど、何を買っていってやったらいいと思う? 本とかゲームとか、伯父さんじゃ見当つかなくてさ」
ルウ伯父さんは、ほかにもいくつか用事があるので、金曜日の午前中からこっちに来る予定なのだという。お見舞いの品も、上京してから買うつもりなのだそうだ。こっちじゃ、東京の子が喜ぶような酒落《しゃれ》たものを見つけられないからな。
「それなら伯父さん、うちに泊《と》まるの?」亘の声が跳《は》ねあがった。「お見舞いは土曜日なんだから、一泊《いっぱく》するんでしょ? うちに泊まってよ、いいでしょ?」
亘は台所に背中を向けていたのでわからなかったが、その問いかけを聞いて、邦子は渋《しぶ》い顔をしていた。亘が悟伯父を好いているので口には出せないが、彼女はがさつで無教養でズボラなこの義兄《ぎけい》が大嫌《だいきら》いだったのだ。
そして電話の向こうでは、亘の無邪気《むじゃき》な喜びを表した問いかけに、悟伯父が答えていた。「いや、伯父さんいろいろ用があってさ、夜も遅くなりそうだから、亘んところにはお世話になれないよ。また今度な」
三谷悟は、義理の妹が思い込んでいるよりも、ずっと繊細《せんさい》なところのある男だった。自分が邦子に嫌われていることぐらい、ちゃんと察していた。
「なんだ……今度今度って、もうずっとうちに泊まってないじゃない」亘はがっかりして、肩を落とした。「ボクがちっちゃいときには、仕事で東京に来るといっつもうちに泊まってくれたのに」
「おまえは今だってちっちゃいじゃないか。それとも、いつの間にかゴジラみたいにでっかくなったのか? そうか、だからここんとこ、千葉じゃ地震《じしん》が多いんだな。おまえがどすんどすん歩き回るから、こっちまで揺《ゆ》れるんだ、そら、また揺れた!」
亘はクスクス笑った。もう二年ほど前になるが、伯父さんに、夏休み映画の『ゴジラ』を観《み》に連れて行ってもらったことがある。それはハリウッド製のゴジラで、伯父さんは最初から最後まで、このゴジラは俺の好きなゴジラじゃない、あんなバタくさい巨大《きょだい》トカゲはゴジラじゃないと言い張って、うるさくてしょうがなかった。それでも、遠くからゴジラが近づいてくると、地面がどすんどすんと揺れて、たくさんのタクシーや乗用車や道を歩く人びとが、そのたびにぴょん、ぴょんと飛びあがるシーンだけは、いたく伯父さんのお気に召《め》した。映画が終わって両親と落ちあい、四人一緒に食事に行ったレストランでも、帰りの電車やタクシーのなかでも、ルウ伯父さんと亘は何かといってはそのシーンを真似して、椅子の上や道ばたで飛びあがって楽しんだものだった。
話しているうちにも、亘はルウ伯父さんに会いたくてたまらなくなってきた。伯父さんにだったら、叱られることばかりを心配せずに、女の子たちに「嫌いだ!」って言われてザックリ傷ついたことも、夜中にうちを抜け出したことも、勝手に使い捨てカメラを使ってしまったことも、芦川美鶴に鼻先でバカにされたことも、何かというとカッちゃんに当たり散らしてしまう自分が自分でも嫌いだっていうことも、みんな話してしまえる。伯父さんは叱らないだけでなく、亘のことを笑ったり、呆《あき》れたりもしないだろう。いい加減もう少ししゃんとしなさいと、お説教することもないたろう。
「ねえ伯父さん、そんならボク、伯父さんの買い物に一緒に行ってあげるよ」と、亘は言った。「お見舞いに何がいいかなんて、ここですぐ思いつかないし、金曜日なら授業も五時間だし塾もないから、早く帰ってこられるもん。それからデパートだってトイザらスだって、どこへでも行かれるよ」
電話の向こうで、三谷悟はちょっと迷った。「うーん、そいつは名案だけど……」
「いいでしょ、ね?」
「それじゃお母さんに訊いてごらん。金曜日の午後、伯父さんと二時間ばかり出かけてもいいですかって。もちろん、亘が夕飯に間にあうように、伯父さんが送り届けるよ」
やった! これなら、伯父さんと二人でゆっくり話ができる。亘は送話口を手で覆《おお》って、邦子の方に身を乗り出すと、大声で訊《たず》ねた。「ねえお母さん──」
しかし、食卓についてお茶を飲んでいた邦子は、質問が全部終わらないうちに、きっぱりと答えた。「ダメよ」
「どうして? いいじゃない、今度の金曜日だよ。塾のない金曜だよ」
「ダメよ。いけません」
「なんで?」
「伯父さんはお仕事でこっちへ出てくるのよ。邪魔になります」
「でもボクは伯父さんの手伝いをするんだ。お見舞いの品を買いに──」
邦子は湯飲みを食卓において、ため息をついた。それからことさらに怖い顔をした。意地悪ババアと、とっさに亘は思ってしまった。
「ダメと言ったらダメ。お母さんが電話を代わるわ」
「いや、いいよ亘。伯父さんと出かけておいで」
三谷明の声だった。亘も邦子も、驚いて声のした方を振り返った。明はきちんと背広を着て鞄《かばん》を提《さ》げて、リビングの戸口のところに立っていた。縁《ふち》なし眼鏡《めがね》が鼻の上でちょっとずり落ちている。目は真っ直ぐに亘を見ていた。
「悟伯父さんに会うのは久しぶりだろう? 伯父さんがいいというのなら、一緒に行っておいで」
びっくり顔で近づいていった邦子に鞄を渡《わた》しながら、明は続けた。
「夏休みのあいだお世話になることでもあるし、亘が千葉でどんなお手伝いをしたらいいか、ちゃんと打ち合わせしてくるといい。どれ、お父さんが電話に出よう」
明は亘の手から受話器を受け取ると、悟伯父と話し始めた。やあ、兄さん元気ですか、母さんにも変わりはない? うん、こっちもみんな元気だよ、それで今の話だけど──
突然の助け船による形勢の大逆転だ。亘は、ボクの目がピカピカ輝いて、半径一メートルぐらいの周囲を明るく照らしてるんじゃないかと感じた。ゴジラが来たわけでもないのに、嬉《うれ》しさでぴょんぴょん跳ねた。
「こら、やめなさい」邦子が鞄を抱《だ》いたまま、眉《まゆ》をひそめた。「うるさいでしょ」
母さん、テクニカルノックアウトで怒ってるんだ。亘はおかしくて仕方なかったけれど、顔には出さないように懸命にこらえた。
明が話を終えて、また亘に受話器を返した。「伯父さんと夕食も一緒にしておいで。その方が、のんびり買い物できるだろう」
亘は飛びあがった。「ありがとう!」
ルウ伯父さんと、手早く打ち合わせをした。伯父さんがうちに迎《むか》えに来てくれるという。
約束を確認《かくにん》して電話を切ると、明が着替えを済ませて、食卓につくところだった。邦子が皿を並べている。亘は嬉しくて嬉しくて踊りだしたいくらいだったけれど、邦子がしかめ面をしているので、ぐっとこらえた。
「お父さん、ありがとう」
明は夕刊を広げながら、「伯父さんの邪魔にならないようにするんだぞ」
「うん。約束します」
「今夜は早かったんですね」食卓と冷蔵庫のあいだを行き来しながら、邦子が訊いた。怒っているので、亘を無視している。
「この時間に帰ってこられるなら、わたしたちも食べないで待ってたのに」
「急に会議がひとつ中止になったんだ」
「ビールは?」
「いや、いらない」
邦子が亘を見ようともしないのと同じように、明も邦子を見ずに新聞ばかり眺《なが》めている。亘は口のなかで「ボクは宿題をしようっと」などとボソボソ呟いて、自室へ撤退《てったい》した。
厳しい競争相手である兄弟のいない一人っ子は、ワガママ放題で他人の気持ちに鈍感《どんかん》だなどと言われることがあるが、それはずいぶんと一面的なものの見方だ。両親の顔色を観察しなくてはならないのが子供の宿命であるならば、見張り台に立つのも防衛ラインを引くのもいつも独りぼっち、一緒に共同戦線を張ることのできる仲間のいない一人っ子は、かえって、場の空気や雰囲気《ふんいき》に敏感になることだってある。家庭内で、そういう修練を積むからだ。
おとなしく机について宿題帳を広げたが、当然ながら、すぐには勉強の方に頭を切り換えることができなかった。このところの様々な出来事をうち明けたら、ルウ伯父さんはどんな顔をするだろうと考えると、なんだか楽しくなってくる。伯父さん、ボク魔導士に会ったんだよ。魔導士に、時間を巻き戻す魔法をかけられたんだ、ホントだよ!
それでも、楽しい物思いを何とか宥《なだ》めて、算数と国語の書取をやっつけた。トイレに行こうと部屋を出ると、両親はソファの方でコーヒーを飲んでいて、邦子が亘にお風呂《ふろ》に入りなさいと声をかけてきた。
「はあい、あと二ページやったら入ります」
戻ってきた時には、邦子が何か話していた。まだ戒厳令《かいげんれい》が解けたわけではないので、亘は知らん顔で自分の部屋に入ったが、話の切れ端が耳に入った。どうやら、今日の昼間もまた、無言電話が何度かあったという話であるらしい。なるほど、それで母さんは、ルウ伯父さんからの電話だとわかるまで、緊張《きんちょう》した顔をしていたのだ。妙に意地悪っぽいのも、それが原因だったのかもしれない。なぁんだ。
その夜ベッドに潜り込むころには、亘の気分はすっかり持ち直していた。
「正月に会ってから、たった半年しか経ってないのに」
ルウ伯父さんは、亘の頭の上に大きな掌《てのひら》を載せた。
「また背が伸びたな。あと半年もすれは、俺の肩まで届くんじゃないか?」
「そんなに早く伸びないよ」と、亘は笑った。
今の亘はルウ伯父さんの左腕に残っているBCGの跡《あと》に、やっと届くくらいの背丈《せたけ》だ。そんなところに注射の跡があるのを知っているのは、伯父さんと何度も一緒に海水浴をしているからである。
ルウ伯父さんは大男である。縦にも横にも大きい。長髪《ちょうはつ》に髭面《ひげづら》で、腕も足ももじゃもじゃに毛深い。それにまた今日は派手な色柄の半袖シャツを着ているので、まるでディズニーランドのアトラクションに出てくるクマみたいだった。これでバンジョーでも抱《かか》えてカンカン帽《ぼう》をかぶったら、そっくりだ。
「東京は暑いな」ルウ伯父さんは手で顔を拭《ぬぐ》った。「海っぺりの暑いのと違って、都会の蒸《む》し暑いのは身体《からだ》にこたえるよ。一人で買い物するんじゃ、途中でイヤになっちまうところだった。付き合ってもらえて助かるよ」
金曜日の午後四時になるところだった。亘はもう二時間近く前から帰宅していて、伯父さんがやってくるのを今や遅しと待ち受けていた。もちろん、支度《したく》はばっちりしてある。外出用の白いシャツで、おろしたてだった。
「まだ梅雨明《つゆあ》けじゃないと思うけど、今日は雨にならなくてよかったわ」
邦子は窓際に行って、空を仰いだ。朝からずっと曇《くも》ったままだけれど、昼過ぎには薄日もさしていた。
「おかげで傘が荷物にならないで済むな」ルウ伯父さんはにっこり笑った。「じや、出かけるとするか、亘」
「うん。行ってきます、お母さん」
「いい子にするのよ。お願いしますね、お義兄《にい》さん」
「亘はいつもいい子だよな。伯父さんの方がいい子にしてないとまずいや」
カラカラと笑いながら、伯父さんは先に立って玄関《げんかん》を出た。ドアの前で見送りながら、邦子が、おかまいもしなくてと言い添えた。母さん、伯父さんには本当にコーヒー一杯出さなかった。そういうことではすごくちゃんとしたヒトなので、これは珍しい。そういえば、なんとなく表情が硬《かた》いというか、ぎくしゃくしていた。また昼間、無言電話でもかかってきたのだろうか。
今日のこの時間までに、亘はとりあえず、カッちゃんと仲直りをしていた。正確には、昨日はごめんと謝ると、カッちゃんがどんぐり目をなお丸くして、「え、何が?」と言ったので、うやむやになってしまったのだけど、でも少しは気が楽になった。
ルウ伯父さんは東京へ出てくるまでに、いくつか追加情報を仕入れていた。入院している男の子はロボットアニメが大好きだということ。亘と違って、ほとんどテレビゲームはやらないということ。これは、お母さんに禁止されているのであるらしい。さらに、彼が最近とてもほしがっていて、一学期の通信簿《つうしんぼ》の結果によっては買ってもらえることになっていたMDプレイヤーは、すでに手に入れているということ。
「どっちにしろ、小学生のガキの見舞いに、俺はMDプレイヤーなんて高価《たか》いものは買っていかないけどな」
新情報を聞いて、亘は提案した。「神保町《じんぼうちょう》だっけ、本屋がたくさんあるでしょ。あそこにね、今野書店ていうアニメ関係の本の専門店があるんだって。そこでロボットアニメの本を買っていってあげようよ」
「そいつはいいかもしれないな。だけど、なんでそんなこと知ってるんだ? 亘もロボットアニメが好きなのか?」
「ボクはそれほどじゃないけど、塾の友達に、すっごいマニアがいるんだ。アニメのことなら何でも知ってる」
神保町という本の町に行くには、JR線|御《お》茶《ちゃ》ノ《の》水《みず》駅で降りればいいのだそうで、二人は駅に向かった。道々ルウ伯父さんは、蒸し暑くなってくるとお祖母《ばあ》ちゃんのガミガミ度合いが上昇《じょうしょう》してうるさいけど、言うことがメチャクチャなのでけっこう面白いとか、海水浴場の近くに大きなゲームセンターができたとか、半月ほど前、突堤《とってい》で夜釣《よづ》りをしていた人が海坊主《うみぼうず》を目撃して大騒《おおさわ》ぎになったとか、千葉の家でよく出前を頼《たの》んでいた「蓬莱軒《ほうらいけん》」という美味《おい》しいラーメン屋の親父《おやじ》さんが、不良学生と喧嘩《けんか》して頭を十針も縫《ぬ》ったとか、お正月からこちらの千葉の様子を、あれこれと話してくれた。
御茶ノ水駅で降りて、神保町の書店街へ着いてみると、あまりにもたくさんの本屋があり、あまりにも広いので、亘は今野書店を見つけられるかどうか心許《こころもと》なくなってきた。住所までは知らないのだ。
「ま、大丈夫《だいじょうぶ》だよ。ちょっと来てみな」
伯父さんは交差点に面して立っている大きな書店ビルに入っていって、レシの店員さんに話しかけた。親切な若い女性の店員さんで、伯父さんの質問を聞くと、すぐに書店街の案内図をくれた。そのうえで、目的の今野書店の場所も、指で示して教えてくれた。
「近ごろニュースじゃ嫌な事件ばっかりだけど、世の中には親切な人だって、まだまだいっぱいいるってことさ」と、ルウ伯父さんは上機嫌だった。
書店街を訪《おとず》れるのは初めてだ。亘は目が回りそうだった。世の中にはこんなにもたくさんの本があるのか。誰が読むんだろう。
「ボクなんか、一生かかっても、ここで売られてる本の一万分の一も読めないよ」
「伯父さんなんざ、一億分の一でも無理だ」
ルウ伯父さんは身体を揺すりながら笑った。
「いったい誰がこんだけの本を書いてるんだろうな? 本を書くようなヤツの頭のなかって、どうなってるのかと思うよ。脳味噌《のうみそ》のかわりに、文字がいっぱい詰まってんのかな」
目指す今野書店は、三階建ての小さなビルで、店先にまで、本もお客も盗《あふ》れていた。ルウ伯父さんが人混《ひとご》みをかき分け、亘はその後にくっついて、書架を見て回った。ここでもまた、めまいがするほどの本の波と山だ。小一時間かけてお見舞いのためのムック本を三冊選び終えたころには、二人ともぐったりと疲《つか》れていた。
「うひょー、エネルギーがいるぜ」
ルウ伯父さんは汗びっしょりになっていた。
お客で満杯の今野書店を出て、亘が大きく深呼吸をしたとき、後ろから誰かにどん! とぶつかられた。まったくの不意打ちだったので、亘は完全にバランスを崩《くず》し、あっと思うまもなく、両手|両膝《りょうひざ》を激しく舗道《ほどう》に打ちつけて転んでしまった。
手足がジーンと痺《しび》れて、とっさに起きあがろうとしても、足がうまく動かない。と、次の瞬間、コンクリートの舗道の上についた亘の右の掌を、薄汚《うすよご》れたウォーキングシューズがぐいと踏みつけた。
「イタイ!」と、亘は叫《さけ》んだ。
ルウ伯父さんの太い腕が亘の胴《どう》に巻き付き、身体ごと抱え上げた。「大丈夫か? 亘、ケガしてないか?」
怒鳴《どな》るような声だ。亘は掌の痛さで口がきけなかったが、とにかくうなずいて、自分の足で舗道に立った。すると伯父さんは、顔を上げて大声を張りあげながら、ばっと駆《か》け出した。「おい、ちょっと待て、待てったらオマエだよ!」
伯父さんは、亘たちに背を向けて遠ざかろうとしていた通行人のひとりに、背後から飛びついた。灰色のTシャツにジーンズ姿の、伯父さんの半分ぐらいの体格の男性だ。伯父さんがそいつの両肩をつかんで振り向かせると、とても若い男だとわかった。
「オマエ、子供を転ばして踏んづけて、ゴメンでもないのかよ!」
伯父さんに胸《むな》ぐらをつかまれても、その若者はまったく表情を変えなかった。病人のように血色が悪く、顎は痩せこけて、目もどろんとしている。こういうのを死んだ魚のような目≠ニいうのだと、亘はズキズキ痛む掌を押さえながら考えた。
「返事ぐらいしろ! オマエ自分が何やったかわかってるのか! え!」
伯父さんはますます猛《たけ》り狂《くる》う。顔が真っ赤だ。若者のTシャツの襟《えり》を締《し》めあげる。
しかし、若者の方は怖がるでもあわてるでもない。ただ無言で伯父さんをじいっと見返すだけだ。
「伯父さん、ボク大丈夫だから」と、亘は声をかけた。するとルウ伯父さんは亘の方をちらりと見て、また若者を怒鳴りつけた。
「おまえ、さっきあの子にぶつかったんだ。それであの子が転んだのに、おまえの目の前で転んだのに、おまえは足を止めるどころか、あの子の手を踏んづけて、さっさと通り過ぎようとしたんだぞ! それがどんなことだかわかってるのか? そんなことが通用すると思ってるのか?」
若者は表情を変えない。口元がへの字になっているので、怒っているのかとも思ったが、違っていた。ただくちびるが弛緩《しかん》しているだけだった。
「おまえはいい大人だろ? 子供の手本にならなきゃいけない側なんだ。あの子に謝れ! ちゃんと、ゴメンナサイ怪我《けが》はなかったかいって言うんだ!」
すると若者の口が動いた。亘のところからでは、声が聞き取れなかった。
しかし、伯父さんは顔色を変えた。「何だって? もういっぺん言ってみろ!」
若者は言われたとおりにした。「うるせえな」と言ったのだ。
「う、うるさいだと」
「ごちゃごちゃうるさいんだよ」若者は、伯父さんが驚いて手を緩《ゆる》めた隙に、もがくようにして伯父さんの手から逃《のが》れた。そして、唾《つば》でも吐くような口つきで言い捨てた。「あんなガキ、転ぼうが死のうが知ったこっちゃないよ。通り道の邪魔をするから悪いんだ」
伯父さんはぽかんと口を開けた。顔色が、今度は白くなってゆく。ああ、まずい。亘は心臓がでんぐりがえるような気がした。伯父さん、伯父さん、落ち着いて──
そのとき、聞き覚えのあるあの甘い声が呼びかけてきた。
「危ない、止めて! ワタル、あなたの伯父さんを止めるのよ!」
亘はドキンとして、かえってどうしたらいいかわからなくなってしまった。またあの女の子だ! 今度はどこから話しかけてる?
「通行の邪魔だと」伯父さんは唸《うな》るような声を絞《しぼ》り出した。「だったら子供でも突き飛ばしていいってのか? ここはおめえだけの道なのかよ? え?」
「あんたの道じゃないだろ」若者は鼻先で言って、ニヤリと笑った。「程度の低いヤツが、ガタガタ騒ぐんじゃねえよ」
伯父さんの両肩がぐいと持ちあがった。殴《なぐ》りかかるつもりだ! ああどうしようどうしたらいいどうしよう──
とっさに亘は地面に転がり、けたたましく叫んだ。「イタタ! 痛いよ!」
効果はてきめんだった。暴れ牛のように突進しかけていたルウ伯父さんは、壁にぶつかったみたいにつんのめって止まると、亘の方へと向きを変えた。
「どうした!」
伯父さんが亘の方にすっ飛んで来ると、くだんの若者はとっとと逃げ出した。すぐに人混みに紛《まぎ》れてしまう。
「やった! うまいわよ、ワタル!」あの女の子の声が、嬉しそうに華《はな》やいだ。「あの若い人、刃物《はもの》を持ってたの。下手をしたら、たいへんな事になるところだった。あなたって機転がきくのね、ワタル」
女の子の声に聞き入っていたので、亘は伯父さんの呼びかける声に応《こた》えなかった。それがなおさら伯父さんを不安にさせたのたろう。はっと我に返ったときには、伯父さんに両肩をつかまれ、ぶんぶん揺すられていた。
「亘、大丈夫か? 伯父さんの声が聞こえるか? おい、何とか言え! 伯父さんの顔が見えるか? 返事をしろ亘ゥ?」
「お、お、お、お」亘は、今度は物理的に目が回りそうだった。「お、おじさ、ん、き、聞こえてる──」
「おお、大丈夫か!」伯父さんは泣きだしそうな顔をしている。
「だ、ダイジョウブ。だから、ゆ、ゆ、揺さぶらない、でよ」
「お、すまん」伯父さんはやっと亘から手を離《はな》し、その手で自分の頭を抱えた。「俺ときたら、おまえを預かったと思ったら、もうこれだ。ケガなんかさせちまって──」
「ケガはたいしたことないよ」亘はあわてて、踏みつけられた手を伯父さんの目の前で動かしてみせた。
「ね、ホラ動くよ。骨なんか折れてないし。痛かったけど、もう平気だよ」
せっせと無事をアピールしてみせると、伯父さんもようやく落ち着きを取り戻した。それでも、なめし革《がわ》みたいによく日焼けした頬《ほお》のあたりに、逆上の名残《なごり》りの紅潮した部分が、ちょっぴり残っている。
「まったく──ああいうヤツは何なんだろうな?」亘を立ちあがらせ、舗道の端に寄ると、伯父さんは太いため息をついた。「世の中が自分中心に回ってると思ってやがる。他人の迷惑《めいわく》なんかこれっぱかしも考えないし、他人を思いやる気持ちもない。チクショウ、何様のつもりなんだ」
亘は黙ったまま、通り過ぎる人びとの方を眺めた。さっきまでは、こっちをチラチラ見ている人たちもいたけれど、今はもう、誰も何事もなかったみたいな様子で、みんな急ぎ足に通り過ぎてゆく
女の子の声も、もう聞こえない。
「行こうよ」と、亘はルウ伯父さんの袖をひっぱった。「人混みにくたびれちゃった。ね、行こう?」
お医者に診《み》せるほどのことはなさそうだが、踏んづけられた亘の右手は、ちょっぴり腫《は》れていた。
「俺は救急キットを持ってる。湿布《しっぷ》も包帯も絆創膏《ばんそうこう》もある。それにホテルには氷があるから、傷を冷やせるぞ」
伯父さんはそう言って、亘を宿泊先のホテルに連れて行った。飯田橋駅の近くのビジネスホテルで、外観はいかにも安そうな感じだけれど、室内は思いの外きれいで、しかもツインルームだった。亘は、一昨年のお正月に、小田原のお祖父《じい》ちゃんお祖母ちゃんと一緒に東京ディズニーランドに行って、近くのホテルに一泊した時のことを思い出した。
「ヤッホー」亘はベッドのひとつに飛び乗って、ぴょんと跳ねた。「これなら、ボクが泊まることもできるね?」
「明日学校はどうするんだ?」伯父さんは笑いながら諌《いさ》めたけれど、ちょっと嬉しそうだった。
「一人でもツインに泊まるのは、俺の唯一《ゆいいつ》の贅沢《ぜいたく》なんだ。シングルルームじゃ、マッチ箱に入ったみたいな気がしてな」
伯父さんはズック製の小さなボストンバッグのほかに、書類鞄のようなものを持っていた。こっちで仕事があると言っていたのは、本当なのだ。
「伯父さん、どんな用事だったの? そっちは済んだの?」右手に湿布をしてもらいながら、亘は尋《たず》ねた。「まだ用事が残ってるなら、ボクはここで待ってるよ」
伯父さんの救急手当の手際といったら、それはそれは鮮やかなものだ。正式にライフセイバーの訓練を積んでいるし、海水浴場の監視《かんし》員としての経験も豊富だ。伯父さんは、そういうことを大声で言う人ではないので、あまり知られていないけれど、今までに、十本の指では足りないくらいの数の人命を救っているはずだった。
「用事はもう済んだよ。さあ、これでいい」
伯父さんは、亘の右手に包帯を巻き終えた。
「だけどこれじゃ、夕飯にカニとかステーキとかは食えないな。フォークしか持てないもんなぁ」
「ボク、マカロニグラタンが食べたい。デニーズとかでいいよ」
「おまえって安上がりのお子さんなんだなぁ」伯父さんは面白そうに笑った。「ま、ちょっと一服したら、そこらを歩き回って旨そうな店を探してみようよ。まずは、ちょいとビールでも飲んでからさ」
亘は冷蔵庫からオレンジジュースを出してもらった。ベッドの頭板《ヘッドボード》にもたれて足をのばす。伯父さんと二人で旅行にでも来たみたいだった。それも近場じゃない、とっても遠くに。内緒の相談事には、もってこいの感じ。
「ねえ、伯父さん」亘は口を開いた。「あのね、聞いてほしいことがあるんだけど」
自分の経験したことを、出来事の起こった順番どおりに、そのとき自分がどんな気持ちだったかという感想や感情の動きも織り交ぜながら説明するというのは、かなり難しいものだった。教室の黒板の脇に立って、三十数名のクラスメイトたちを相手に、夏休みの自由研究を発表するよりも、百倍くらい大変だ。
それでも亘は、ルウ伯父さんがちゃちゃを入れたり話の腰を折ったりせず、ときどきトンチンカンな合いの手を挟《はさ》んだりしながらも、終始興味深そうに聞いてくれたおかげで、何とかやりとげることができた。甘い声をした姿の見えない女の子。幽霊ビルの魔導士。三橋神社の心霊写真。全部しゃべった。思い出せることはすべて。
亘がしゃべり疲れて黙るころには、伯父さんはミニ冷蔵庫に入っていた缶《かん》ビールを全部空けてしまっていた。そして、飲み干した最後の一缶を手のなかであっさりと握り潰《つぶ》すと、ちょっとのあいだそれを見つめてから、言った。
「その幽霊ビルってのは、おまえの家のすぐ近所なんだよな?」
「うん。学校に行く途中にあるんだ」
「そしたら、これから飯を食って、おまえを家に送ってゆく途中に、そのビルに寄ってみるのも面《めん》倒《どう》じゃないよな?」
亘は驚いた。「ビルに入ってみるの?」
「うん。だって気になるじゃないか。その魔導士とやらがさ」
こういう反応がかえってくるとは予期していなかった。
「伯父さん、ボクが作り話してるとかって、思わないの?」
ルウ伯父さんは目をパチクリさせた。「なんだよ、作り話なのか?」
「ち、違うよ。ホントの話だよ」
「だろ? だったら放っておけないよ」
伯父さんはベッドから立ちあがった。ビールのせいで顔は赤いが、ちっとも酔っぱらっているようには見えない。ルウ伯父さんはめちゃくちゃお酒に強いのだった。
「魔導士がどんなものなのか、伯父さんは知らないぜ。おまえが遊びに来たときぐらいしか、テレビゲームなんかやらないからな。でも、いかれたジイさんがそのビルに出入りして、子供たち相手に何かおかしなことをやってるとしたら、見過ごしにはできないな」
亘は口のなかでモゴモゴ言った。何を言いたいのか、自分でもはっきりしなかった。伯父さんは亘の話を笑い飛ばしはしないものの、亘が望んでいたような形とは、かなり違う受け取り方をしているようだ。
「子供たち相手って──魔導士に会ったのは、今のところ僕だけだと思うけど」
「そんなことはないさ。ほかにもいるはずだ。シイさん自身がそう言ってるじゃないか」
魔導士は、亘に向かって、「おぬしも友達に聞いてきたのか」と問いかけた。ルウ伯父さんはその点を指摘するのだった。
「あ、そうか」言われてみればそのとおりだった。さらに魔導士は、「ここのことは、だいぶ評判になっとるらしい」という台詞《せりふ》も吐いたのだ。
「幽霊ビルに出るお化けも、ヘンジンで美少年の転校生が撮った心霊写真の正体も、たぶんそのジイさんだろう。その芦川って子がおまえをバカにして、写真を見せようとしなかったのも、石岡とかいうバカ上級生たちに追いかけ回されても写真を渡さないのも、そのへんに理由があるんだよ、きっと」
そして伯父さんは、大げさな表情をつくってぽんと手を打ち合わせた。「今ちょっと思いついたんだが、ひょっとして、亘の見た魔導士は、芦川って子のお祖父ちゃんだったりしてな」
芦川の家族構成のことを、亘は何も知らない。お祖父ちゃんが一緒に住んでいるのかどうか、わからない。でも、かけられた魔法は本物だった。だから亘にとっては、伯父さんの発言はちっとも愉快《ゆかい》じゃなかった。ルウ伯父さんは、一人で腹を揺《ゆ》すって大笑いをした。
「だったら面白いだろうなぁ。でもあり得《う》るぞ。世の中を騒がして楽しむためなら、どんなことでもやりますって連中がゴロゴロしてる昨今だからな」
亘の話に手間取ったので、もう午後六時半を過ぎていた。伯父さんは、亘が魔導士を目撃したのと同じ時間に幽霊ビルを訪れようと提案したので、二人はホテルの近くで手早く夕食を摂《と》った。予定では、亘は心の内を吐き出して、心ゆくまでグラタンやフライドポテトやチョコレートパフェを愉《たの》しめるはずだった。でも、現実はいつも予定とは違うのだった。ルウ伯父さんは、亘の様子をうかがうような──とてもきれいで繊細な細工物が目の前にあって、自分のこの不器用な指ではどうやって扱《あつか》ったらいいかわからないのだけれど、でもその細工には明らかに不具合があるので、何とかしなくてはならないと考えている──そんな顔色と目つきでチラチラと亘を観察していた。そして、夏休み中に頑張《がんば》ってクロールで二百メートル泳げるようになろうなとか、海の家の仕事を手伝うとなると重労働だぞ、朝は夜明け前から起きるから、夜は七時のニュースが終わったころには眠くなっちゃうぞ、だから千葉にいるあいだはテレビゲームはお預けだ、というようなことを言った。
ルウ伯父さんは、亘が作り話をしているとは思っていない。その意味では、亘を信じてくれているのかもしれない。でも伯父さんは、亘のうち明けた事柄の大半は──変なじいさんの存在を除けば──亘の頭のなかだけの幻想だと考えているのだ。
では、なぜ亘はそんな幻想を抱《いだ》くのか? それはつまり、テレビゲームばっかりしてて外で遊ばないからである。これが伯父さんの回答なのだ。おかしな作り話をするなと叱られるより、なお悪い。
こんなはずじゃなかった──亘は、機械的にスプーンやフォークを口に運びながら、苦い思いを噛みしめた。ルウ伯父さんなら、僕のことわかってくれると思ってた。
食事を終えると、伯父さんは張り切って、すぐにも幽霊ビルに出発しようと言った。時間的にも、今から向かえばちょうど頃合《ころあ》いだったので、亘は黙って後に従った。
「何だよ、しょげてるな。怖いのか? 大丈夫だよ、伯父さんがついてる」
ルウ伯父さんはそう言って、大きな分厚い掌で、亘の背中をばんと叩《たた》いた。いつもなら、そんなふうにしてもらうと、いっぺんで元気になる亘なのだけれど、今夜は全然勝手が違った。今夜のルウ伯父さんは、亘の好きなルウ伯父さんではないし、なお悪いことに、亘とルウ伯父さんの間柄が、これから起こる出来事によって、今までとは決定的に違う格好になってしまうような予感がするのだった。
何もしゃべらなきゃよかった。黙《だま》って一人で呑《の》みこんでいればよかった。大人にうち明け話なんか、するものじゃない。
伯父さんは、レストランの近くのコンビニで懐中《かいちゅう》電灯をふたつ買った。支払《しはら》いのあいだ、ずっと亘に背中を向けていた。亘はふと、このまま僕が一人で逃げ出しちゃったらどうなるかな、なんてことを考えた。もちろん、実行することはできなかったけれど。
二人はタクシーで幽霊ビルの近くまで行った。万事《ばんじ》に節約家で、人間は自分の足で歩くものだ、特に子供は車なんかに乗るもんじゃない、公共交通機関を利用する場合も、料金半額なんだから、椅子に座るなんざもってのほかだというのが持論の伯父さんにしては、ごく珍しいことだ。それほどに、早く幽霊ビルを見てみたかったのだろう。
実際、伯父さんは子供みたいに興奮している。ここかと呟いて、シートに包まれたでき損《そこ》ないのビルを見あげる目つきは、ちょっとばかし怪獣《かいじゅう》映画の主人公の気分が乗り移っているみたいにも見える。あるいは、刑事《けいじ》ドラマの主人公か。廃《はい》ビルに出没《しゅつぼつ》して子供たちに悪さをするヘンシツシャを捕《つか》まえるというエピソード。
伯父さんは周囲を見回して、人気《ひとけ》も人目《ひとめ》もないことを確認してから、シートの裾を持ちあげた。「ここから潜り込んだんだな?」
「うん、そう」
「よし」伯父さんは、亘の分の懐中電灯を差し出した。「気をつけるんだぞ」
亘は懐中電灯を握りしめて、シートをくぐった。
ルウ伯父さんは、亘を階段の下に立たせておいて、懐中電灯を動かしながら、あちこち探《さぐ》り回った。身体が大きいのに、動きがきびきびとしてスムーズで、つまずいたり物にぶつかったりすることもない。一階部分をひととおり見て回るまでは、真剣《しんけん》そのものの顔つきで、冗談《じょうだん》みたいな台詞も吐かなかった。
「よし、それじゃ階段だ」
伯父さんは言って、足元を確かめながら、ゆっくりと階段をのぼり始めた。一歩ごとにステップを懐中電灯で照らして、注意深く観察しながら進んでゆく。
「誰か出入りしてるなら、ゴミぐらい落ちてそうなもんだがな」
二階と三階のあいだの踊り場で足を止めて、伯父さんは頭をかいた。
「埃《ほこり》の上に足跡も残ってないし……」
そう言われて、亘は自分の足元を見おろし、懐中電灯で照らしてみた。打ちっ放しのコンクリートの部分も、地面が剥《む》き出しになっている部分も、ベニヤ板が敷《し》かれている部分も、みんな、ざらざらして目の粗《あら》い土埃やコンクリートの粉などに覆われている。でも、階段のステップは、どの段もみんなきれいだ。隅《すみ》っこの方に、わずかに埃や土が残っている程度である。伯父さんの言うとおり、足跡なんか残りようがない。
でも、逆に考えれば、階段がそれだけきれいになっているということは、誰かが頻繁《ひんぱん》にここを歩いているという証拠になるのではないか。上り下りするとき靴《くつ》が汚れないように、誰かが箒《ほうき》か何かできれいに掃除《そうじ》したのでは?
その「誰か」が、魔導士の言っていた「友達」なのだろう。
(芦川──かな?)
「おい亘、階段はここで終わりだ」
伯父さんが頭上から呼びかけてきた。三階から四階にあがる踊り場に立っている。
「おまえの見たジイさん、ホントにこんなところに立ってたのか?」
「うん……」
「ここ、けっこう怖いぞ」伯父さんは手すりにつかまって、ゆっくりと周囲を見回している。「年寄りや子供がこんな場所に出入りしてるとなると、問題だな。もっと厳重に立入禁止にするべきだ。なあ亘、その芦川って子にさ、あんな造りかけのビルなんかで遊んでると、危ないよって忠告してやるべきだな」
「芦川がここに来てるとは限らないよ」
「限るよ。心霊写真の件を考えてみろよ」
「当てずっぽうを言うの、嫌だよ」
またバカにされるだけだ。
「こりゃ、家に帰って、亘の父さん母さんにも相談するべきだな。それで、町内会から働きかけてもらうとかさ──」
そのとき、伯父さんのシャツの胸ポケットで、携帯《けいたい》電話が鳴り始めた。
「もしもし? うん? なんだ明か。いや、ちょっと聞こえにくいな、待ってくれよ」
伯父さんは片手に携帯電話、片手に懐中電灯を持って、器用に階段をおりてきた。亘のところまでおりると、電話をちょっと持ちあげて、「父さんだ、父さん」と言った。
「もしもし? あれ、ここも雑音が入る──え? 聞こえない? もしもし?」
伯父さんは電話がうまくつながる場所を探して、結局はシートの外に出ていってしまった。ここは鉄骨が剥き出しになってたりするので、電波障害を起こすのかしらなどと考えながら、亘もシートの方へ歩み寄った。懐中電灯を消し、ズボンの尻ポケットに突っ込んで、しゃがんで両手でシートを持ち上げようとしたそのとき、あたりが妙に明るくなっていることに気がついた。
目の前のシートの、縫い目が見える。
しゃがんだまま首をよじって、亘はビルの上の方を見あげた。そして──
ぽかんと口を開いてしまった。
ついさっきまで伯父さんが立っていた場所、この前、あの魔導士の立っていた場所、三階から四階にあがる階段の踊り場に、
(扉《とびら》だ)
両開きの扉が、
(いったいいつの間に?)
上の部分に凝《こ》った装飾《そうしょく》がついていて、全体に古風なカーヴを描《えが》いていて、
(閉まってる)
扉は固く閉じているのに、その輪郭《りんかく》と、中央の合わせ目を、白く輝く眩しい光の線が、くっきりと彩《いろど》っている。中空に現れたその扉の向こう側には、きっとこの白い光がいっぱいに満ちていて、それが、
(隙間から溢れ出して)
幽霊ビルの内側を、こんなふうに薄明るく照らしているのだ。
亘はフラフラと立ちあがると、階段に近づき、一歩一歩のぼり始めた。ステップを一段あがるごとに、扉の隙間から漏《も》れる光が強くなってゆく。亘は扉から視線を離すことができず、何度かステップを踏み外して転びそうになった。それでもひっぱられるようにして扉を目指して行く。自分でも止められない。三階に着く頃には、這《は》うような格好になっていた。
そこまで近づくと、扉の周囲と中央から漏れる光のぬくもりまで、はっきりと感じられた。無意識のうちに、亘は笑顔《えがお》を浮かべていた。手を上にのばすと、明るい光が掌にぶつかって、さながら春の雨のように、さらさらと音をたてるのが聞こえるようだ。
なんて清らかで、なんて明るくて、なんて優しい光なのだろう。
亘は踊り場まで達した。そこでようやく立ちあがり、扉に向かって両手をのばした。
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7 扉の向こう
亘を歓迎《かんげい》するように、扉《とびら》の中央の光が、一段と太く強く輝《かがや》きを増した。扉が──
(開くんだ)
向こう側から、向こう側のこの光|溢《あふ》れる世界から、こちらに向かって押し開けられようとしている。今にも、今にも──
(開いた!)
大波のように押し寄せてきたまばゆい光に、亘は思わず目の前に手をかざした。眩《まぶ》しさに、真《ま》っ直《す》ぐ顔を上げていることさえできない。温かな光に全身を洗われながら、早瀬のなかに立つように腰《こし》を落として、かろうじて自分を支えていた。
光のなかから、誰かが真っ直ぐにこっちへ近づいてくる。白い光のなかでも、一段と白く輝く小さな人影《ひとかげ》。開いた扉に向かって、走って、走って、走って──
そして光から飛び出し、いきなり亘の目の前に降り立つと、少年の姿になった。そして叫《さけ》んだ。
「何でおまえがこんなところにいるんだ?」
息がかかるくらい近くに、芦川美鶴が立っていた。両目を見開き、両足を踏《ふ》ん張《ば》り、咎《とが》めるように亘に向かって指を突《つ》きつける。
「ここで何してるんだ?」
難詰《なんきつ》するようにそう叫ぶと、しかし、亘が何か言う前に、芦川はくるりと背中を向けて、また扉のなかへ、真珠《しんじゅ》色に輝く光の向こうへと、まっしぐらに走り去った。芦川の姿は、光に呑《の》みこまれて、またたくまに見えなくなってしまった。
亘には、何か考える余裕《よゆう》などなかった。迷ったり、怖《こわ》がったりする時間もなかった。気がついたら、扉に向かって、光に向かって、芦川の後を追って走り出していた。
扉の縁《ふち》をまたぎ越えるときには、無意識のうちに大きくシャンプして──
そして、真っ白な虚空《こくう》のなかに飛び込んだ。
光の海。温かな気流。
空だ。
飛行機の窓から眺《なが》める雲海。そのイメージが広がった。亘は雲のなかを泳いでいた。下へ、下へ、下へ。落ちてゆく。耳元で風が鳴っている。空を切って落ちてゆく。それなのにゆったりとして、南の海を泳ぐ年寄りのウミガメのようだ。手足をのばすと、指の周りと、爪先《つまさき》を、輝く光が輪になって取り囲む。亘が姿勢を変えると、光の輪もそれについてくる。細かな光の粒子《りゅうし》たちと、輪になって踊《おど》りを踊っているみたいだ──ゆっくりと身体《からだ》をのばし、微笑《ほほえ》みながら、亘はぐるぐると旋回《せんかい》した。上を仰《あお》ぐ。光の空。下を見おろす。光輝く雲の海。
と、唐突《とうとつ》に雲が切れて、真っ青な空と、その下に広がる青々とした平原が見えた。
「うわ!」
叫び声と共に、亘は落下した。
(落ちるゥ!)
小石のようにまっしぐらに、地上に向かって落ちてゆく。飛びすぎてゆく周囲の風景は、あまりのスピードに、もうぼやけた影にしか見えない。明るさだけしか感じられない。そしてさらにスピードがあがる。容赦《ようしゃ》なく速くなる。落ちて、落ちて、落ちていって──
どすん! と、背中から着地した。
頭のなかがしーんとしている。背中を地面にぺったりとくっつけ、両足を持ちあげて、天を仰いでいる。なんて無様な格好だ。カッコ悪いったらありゃしない。
でも、そんなことを考えられるってことは、生きてるってことだ。
頭上には、底抜《そこぬ》けに明るい青空が広がっていた。生まれてこのかた、こんなに美しい青空は見たことが──あるけど、それは、旅行会社のカウンターにおいてある、ハワイやグアムへのツアー旅行のパンフレットの写真だった。ああいうパンフレットには、パソコンで画像処理して色鮮《あざ》やかにした写真が使われているので、信用できないと父さんが言ってた。本当はもう、ハワイにもグアムにもサイパンにも、あんな青空はありゃしないのだと。
だけど、ここにはある。本物の、しみひとつない青空だ。
ここはどこだ?
亘は手をついて上半身を起こした。ちょっと頭がフラついたけれど、どこも怪我《けが》はしていないようだ。血も出ていないし、手足も動かせる。あんな高いところから落ちたのに。
見渡《みわた》す限り、一面の砂漠《さばく》だった。
お尻《しり》の下の砂は、ザラザラと目が粗《あら》く、乾燥《かんそう》しきっていて、掌《てのひら》ですくっても、見る間に指の隙間《すきま》からこぼれ落ちてしまう。この砂がクッションになって、怪我をせずに済んだのだろうか。
太陽は、頭のほとんど真上から照りつけている。首筋や頬《ほお》にあたる陽射しは、ちくちくと刺《さ》すようだ。さっき、空の上から落下する時に垣間見《かいまみ》たのは平原だった。だけどここは砂漠だ。どうしちゃったんだろう? 気流に乗って、流されちゃったのかな?
とにかく、砂漠だ。だけどここはどこだ?
わかっているのは、あの扉のこっち側だということだけだ。
芦川はどこだろう? あいつもこの砂漠でウロウロしているのだろうか? ここを出て、とにかくもう少ししのぎやすい場所へ行くには、どっちを目指したらいいかな? あの平原はどこにあるんだろう。
よろよろと立ちあがると、砂漠の風が亘を取り巻き、小さな砂嵐《すなあらし》を起こした。顔の前で手を振《ふ》って、砂を払《はら》いのける。咳《せき》が出そうだ。
そのとき、亘のすぐ後ろの砂の上に、小さなアリジゴクみたいな砂の渦巻《うずま》きが発生した。音もなく、しかしどんどん大きくなる。
亘がシャツやズボンにくっついた砂をバタバタと払い落としているあいだにも、渦巻きはぐんぐん輪を広げてゆく。中心が深くなってゆく。やがてしゅるしゅると音がし始めた。
その音で、亘は振り向いた。そして飛び退《の》いた。砂の上にできた渦の緑は、もうすぐ亘の踵《かかと》に届くところだった。そのまま気づかずにいたら、渦の中心に向かって仰向《あおむ》けに倒《たお》れてしまっていただろう。
「な、なんだこれ?」
思わず大声を出した瞬間《しゅんかん》だった。渦の芯《しん》のいちばん深いところから、真っ黒な動物みたいなものが一匹《ぴき》、砂を巻き散らしながら飛び出してきた。それが宙に躍《おど》りあがったとき、四本の脚《あし》と長いしっぽが見えたので、亘はそれを犬だと思った。
それは軽々と亘の頭を飛び越え、反対側に着地した。砂埃《すなぼこり》が舞《ま》いあがり、その向こう側で犬みたいな動物がひと声|吠《ほ》えた。顔を打つ砂粒《すなつぶ》をよけながらそいつを見た亘は、危《あや》うく腰を抜かしそうになった。
それは身体は犬だけど、頭だけが犬じゃなかった。ドーベルマンに似たしなやかな黒犬の姿をしているのに、頭があるべきところには、なんというかヘンテコリンな──これ、なんて言うんだっけ、台所においてある、母さんがたまに、ホントにたまにワインの栓《せん》を抜くとき使ってる──そう、コークスクリューだ! ねじねじの栓抜きだ。こいつの頭は、そんな格好をしているのだった!
ねじねじ頭を亘の方に振り立てて、その怪物《モンスター》はまた吠えた。ギギギギギギギャン! 不協和音そのものの咆哮《ほうこう》に、ねじねじ頭全体が共振《きょうしん》する。こいつったら、喉《のど》も口もなさそうなのに、どうやって吠えてんだろ?
「それにさ」亘は怪物に向かって愛想笑《あいそわら》いをした。「おまえ、ボクのこと食べようとしてるように見えるけど、いったいどうやって食べンの? 口もないのにさ」
亘の疑問に応《こた》えるように、ねじねじ怪物は口を開けた──というより、ねじねじ頭全体をふくらませながら、亘の方に、そのてっぺんを向けたのだ。そうすると、ねじねじの内側が見えた。吐き気がするようなねっとりした赤色で、ぬめぬめと粘膜《ねんまく》が動いていて、縁にはびっしりと牙《きば》がはえている。
キャッと叫んで、亘は逃げ出した。右に走ると、三歩ほど先に新しい渦巻きができつつあることに気がついた。左に走ると、そこにあった渦巻きのなかから、新手《あらて》のねじねじ頭が飛び出してきた。
前方のねじねじ頭が、また吠えた。一気に飛んで距離《きょり》を詰《つ》めてくる。ああどうしよう神様仏様、ねじねじに囲まれちゃった──
両手で顔を覆《おお》ったとき、何かががっきと首筋に食い込むのを感じた。身体が浮《う》いた。
気がついたら、亘はまた飛んでいた。
そんなに高くあがってはいない。スキー場でリフトに乗っているみたいだ。ただリフトと違《ちが》うのは、亘の手も足も、宙に浮かんでぶらぶらしていることだ。
ねじねじ頭の怪物犬たちは、今や五匹に増えていた。盛《さか》んに吠えながらぴょんぴょん飛びあがり、亘の脚に噛《か》みつこうとしている。そのあいだにも、砂漠の上に、次から次へと新しい渦巻きができてくる。ねじねじ怪物犬は砂の下に棲《す》んでいて、獲物《えもの》が上を通りかかると、ああやって砂のアリジゴクをつくってひっぱり込むか、そこから飛び出して襲《おそ》いかかるのだろう。
「ねじオオカミの群のなかに飛び込むなんざ、正気とは思えん!」
亘の頭の上で、甲高《かんだか》い声がした。
「この俺さまが飛びかからなかったら、今ごろおぬしはねじオオカミの胃袋《いぶくろ》に収まって、ねちょねちょのごちゃごちゃのドロドロの肉汁《にくじる》にされちまってるところだ!」
どうやら、この甲高い声の持ち主が、今現在亘をぶらさげて飛んでいるようである。つまりは命の恩人だ。とりあえずは。
「どうもありがとう」
後ろ襟《えり》をつかまれているので、上を見ることができない。口を開くと砂漠の風が飛び込んでくるけれど、亘はそれにメゲずにできるだけ大声でお礼を言った。
「本当に助かりました!」
「そうだろう、そうだろう」甲高い声が、なお高くなった。気をよくしているようだ。
「本当にいいところに、俺さまが飛びかかったもんだ」
正体不明の、とにかく翼《つばさ》のある生きものにぶらさげられて砂漠を横切りながらも、父譲りの几帳《きちょう》面《めん》さが頭をもたげてきて、亘は訊《き》いた。「あの、さっきからあなたは飛びかかる≠ニ言ってますけど、それは通りかかる≠フ意味ですよね?」
頭の上の翼のある生きものは、ブンと鼻息を吐《は》いた。「とんでもない! 俺さまは薄汚く地べたをはいずり回ったりせんのだ! いついかなるときも、俺さまは飛ぶ! だからどんなところにも、通りかかる≠謔、なはしたない真似《まね》はせんのだ! 必ず飛びかかる=Aわかったか小僧《こぞう》め!」
怒《おこ》って振り落とされてはかなわないので、亘は素直《すなお》にはいと言った。
ちょうど二階家の屋根ぐらいの高さを、自転車を漕《こ》ぐくらいのスピードで、亘はのんびりと運ばれてゆく。周囲は依然《いぜん》として砂漠ばかりだけれど、左手の前方に、ごつごつとした小高い岩場が見えてきた。
「小僧め、おぬしはどこから来たのだ?」頭の上で、甲高い声が訊いた。「もしや、逃亡《とうぼう》者ではあるまいな?」
それでなくても答えにくい質問だが、逃亡者≠ニいうインパクトの強い言葉に、なおさら亘は返事に窮《きゅう》してしまった。
「それにしてもおぬしは重いな!」
実際、俺さま≠フ翼の羽ばたく音が、少しばかり乱れている。そんなに大きな鳥ではないのかもしれない。
「あの岩場に降りるぞ」
言うが早いか、俺さま≠ヘ左手の岩場を目指した。岩場が近づくと、ぐっと高度をさげ、ぶうんと勢いをつけて亘を放《ほう》り出すようにして降ろした。
「うわっと、危ない!」
降ろされた方は勢い余って、今度は岩場の端《はし》から転がり落ちそうになった。すかさず、また後ろ襟をつかまれる。
「小僧め、鈍《にぶ》いな」
尻餅《しりもち》をついている亘の前に、ばさばさと羽ばたきながら、大きな朱い鳥が降りてきた。染料《せんりょう》で染めたみたいな、混じりっけなしの朱色《しゅいろ》だ。翼の差し渡しが一メートルぐらい。身体は華奢《きゃしゃ》だが、三本の鉤爪《かぎづめ》は丈夫で鋭《するど》く、亘の頭をわしづかみにすることぐらい、簡単にやってのけそうだ。この鉤爪に襟首をつかまれてたんだなと思うと、急にぞっとした。
翼をたたんだ朱《あか》い鳥は、カクンと小首をかしげて亘を見おろした。鷲《わし》みたいな顔かたちだが、頭のてっぺんに、サンバのダンサーの羽根飾《はねかざ》りみたいな、金色の細い羽根がたくさんはえている。それが砂漠の風を受けて、優雅《ゆうが》にたなびいている。
「ど、どうもありがとう」
亘の喉はにわかに干上《ひあ》がって、カスカスの声しか出てこない。だってこいつ──鳥だよ。どう見たって鳥だよ。それなのに言葉をしゃべってるよ。
「礼には及《およ》ばん。だが質問には答えてもらうぞ。このあたり一帯は、俺さまたちカルラ族の縄張《なわばり》だ。他種族に勝手に足踏みされては困るからな」
ひと息にそう言ってから、朱い鳥はおおと声をあげて、今さらのように驚《おどろ》いた。
「なんと、おぬしはヒトの子供ではないか!」
「は、はい。そうです」
「ヒトの子がどうしてここにいる? ここで何をしている? どうやって来たのだ?」
続けざまに問いかけながら、やたらに羽根をバタバタさせるので、亘は目を開いていることもできない。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。今、説明します。だから羽ばたかないで」
朱い鳥はそうかと言って、羽根を収めた。亘は大きく深呼吸をして、何とか息を整えた。心臓が胸の内で大暴れをしている。
「ボ、ボク、どこか雲の上の方にある扉を通って落ちてきたんです」
亘が自分の身に起こったことを説明すると、朱い鳥は大きな目で青い空を仰いだ。
「なるほど……そうか。要御扉《かなめのみとびら》が開いているのだな」
「カナメノミトビラ?」
「そうだ。此《こ》の地と彼《か》の地を隔《へだ》てている、それはそれは大きな扉だ。下から見あげたのでは、そのてっぺんを見定めることはできない。雲のあいだに隠《かく》れてしまっておるからな。俺さまたちの仲間でも、それができたものは、未《いま》だにいない。カルラ族ほど強い翼の持ち主は、此の地にも彼の地にもおらないのだから、それは要するに、今まで扉のてっぺんを極《きわ》めたものはいないということだ」
流暢《りゅうちょう》にしゃべって、失い鳥は胸をそらした。長い羽根が風にたなびく。
「要御扉は、彼の地で数える時の単位で十年に一度、九十日間だけ開くことになっておる。今はその時期だったのだな。すっかり忘れていたぞ」
「はあ……」
「してみると、おぬしはうっかり要御扉を通り抜け、彼の地から此の地に迷い込んできたのだな。だからねじ砂漠なんぞに落ちよったわけだ。なるほど、なるほど」
此の地とは、今いるこの場所。彼の地とは、亘が日常生活を送っている現実世界のことだろう。でも、亘が通り抜けてきたあの扉は、両開きの立派なものだったけれど、あくまでも普通《ふつう》の大きさの扉であって、そんなに巨大《きょだい》ではなかった。それを言うと、
「それはそうだろう。こちら側から見なければ、要御扉の本当の広さも大きさも、まったくわかりはしないのだ」と、朱い鳥はまた威張《いば》った。
「そうですか……」
やっと胸の動悸《どうき》も収まってきて、亘はぺたりと岩場に座り込み、しみじみと周囲を見回した。視界は三六〇度。しかし、全部砂漠である。ところどころに鋭い線を描《えが》いて飛び出しているのは、今座っているここと同じような岩場だろう。地平線には薄黄色《うすきいろ》い陽炎《かげろう》のようなものが立ちこめていて、はっきりと見定めることができない。あれは砂嵐だろうか。
「びっくり仰天《ぎょうてん》という顔をしとるな」
失い鳥は、わさわさと翼を揺さぶりながらそう言った。どうやら笑っているらしい。
「まあ、無理もない。何も知らなかったのだからな。俺さまは迷子を拾ったのは初めてだが、今までにも何度か、要御扉が開いている時期に、ヒトの子が誤って落ちてきたことがあるということぐらいは聞いている。つまり、こういう間違いはおぬしだけではないのだ。おぬしは少々間抜けかもしれないが、飛び抜けて愚《おろ》かだというわけでもない」
慰《なぐさ》めてくれているのだ。さっきは命を助けてくれたのだし、なかなか親切なヒト──ではなくてトリ──のようである。
「それであの……ここは、どこなんでしょう?」今さらのようだが、亘は訊《たず》ねた。「此の地にも名前があるんでしょう? 何という世界なんですか?」
朱い鳥はすぐに答えた。「幻界《ヴィジョン》≠セ」
「ヴィジョン──」
亘の記憶《きおく》では、『サーガV』のなかに、「ヴィジョン・ストライク」という魔法《まほう》があったはずだった。それは上位の魔導士だけが使える技《わざ》で、魔法で作りあげた幻《まぼろし》を敵に見せ、幻惑《げんわく》して同士討《どうしう》ちをさせるというものだった。
ヴィジョン。つまり幻影《げんえい》た。
「じゃあここは、幻の国なんですか」
「おぬしのようなヒトの子にとっては、そうだろうな」
「ボクは今、幻のなかにいるんですか?」
亘は両手を広げてみた。砂埃を含《ふく》んだ風が吹《ふ》きつけてきて、目に痛い。
「こうやって感じる風も、首筋に陽《ひ》があたって暑いことも、砂埃が口のなかにまで飛び込むことも、全部幻なんですか?」
「おぬしにとってはな。ヒトの子よ。迷子《まいご》よ」
亘は岩場の上に立ちあがってみた。どこもここもゴツゴツしているので、ちょっと足元が危なっかしい。
「こうやって見渡す限りの砂漠も、一切合切《いっさいがっさい》、みんな幻なんですか? 現実じゃないの?」
「俺さまは現実という場所に行ったことがないのでよく知らないが──」朱い鳥はカクカクと首を動かした。「幻と現実は、相反するものか?」
「ええ、そうです」
「すると、此の地が幻界ならば、此の地に相対する彼の地が現実ということになる。すると、ここは現実ではないということになる。だがなぁ、ヒトの子よ。おぬしはすぐに彼の地へ帰るのだ。だから此の地のことを気にすることはない」
「ボク、帰るの?」
「迷子を置いておくわけにはいかぬからな。それが掟《おきて》だ」
「だけどボク、友達を追いかけて来たんです。一人で帰るわけにはいかない」
「おぬしの話から察するに、その友達とやらは、おぬしと違って迷子ではないのだ。要御扉を自由に出入りしているということは、御扉の番人に認められた旅人≠ネのだ。だから心配する必要はない」
「でも!」
朱い鳥は羽根をふくらませて飛びあがると、また亘の後ろ襟を捕《つか》まえにかかった。
「ちょっと待って! ボクはまだ帰りたくないんだ!」
亘は首を縮めて逃げ出し、覆いかぶさるように捕まえかかる鳥の鉤爪の下をかいくぐって、岩場の端へと飛び退《の》いた。そのとき、左足の下のゴツゴツした岩を踏み違え、足首に痛みが走ったかと思うと、
「うわ!」
バランスを崩《くず》して横ざまに岩場の緑から転がり落ちた。
一瞬、青空の切れっ端がくるりと目の端を横切り、次の瞬間には背中からまた別の岩場の上に落ちていた。どうやら、さっきまでいた岩場のてっぺんのすぐ下に、ちょっとしたでっぱりのようなものがあって、そこにひっかかったおかげで、真っ逆様に落下せずに済んだようだ。
助かった! でっばりの緑に手をかけて起きあがると、頭上を黒い影がさっと横切った。朱い鳥が旋回してゆく。ぐずぐずしていたら、またすぐにもつかまえられてしまうだろう。
どうしよう、とにかく、もっとでっぱりの奥の方へ張りついていないとまずい──油断なく上の方に目をやりながら、手探《てさぐ》りで後ろに下がると、右手の先に何かがぶつかった。岩とは感触《かんしょく》が違う。後ずさりしながら何気なくそちらを見ると、あのねじねじ頭が目に飛び込んできた。
きゃっと叫んで、亘は危うくでっぱりの緑から飛び出しそうになった。すかさず朱い鳥の黒い影が降りてくる。前門の虎《とら》後門の狼《おおかみ》とは、こういうときのことを言うんじゃなかったかな?
しかし、ねじねじ頭はそこに転がっているだけで、亘が叫んでも両足をばたばたさせて蹴《け》り飛ばそうとしても、ピタリとも動かない。よく見ると、そこにあるのはあの不格好なねじねじ頭の部分だけで、身体の方は見あたらないのだ。
──死んでるのかな?
目を凝《こ》らすと、そうだ、確かにそこにあるのは頭だけだ。しかも、頭はひとつ分だけじゃないようにも見える──破片《はへん》や断片みたいなものが、岩のあいだに挟《はさ》まって、そこにも、ここにも、そこらじゅうに。それどころじゃない、気がつくと、シャツやズボンに、細かな骨や肉の化石のクズみたいなものがいっぱいくっついているじゃないか。
「なんだよ、これ!」
それらのクズを落とそうと、大慌《おおあわ》てで身体じゅうをバタバタ叩《たた》いた。当然、上空への警戒《けいかい》が薄れて、あれっと思ったときにはあの鉤爪で後ろ首をつかまれ、またぞろ両足が宙に浮いていた。
「さあ、おぬしは家に帰るのだ」朱い鳥は先生みたいな厳しい口調で言った。「法《きまり》には従うべきだと、教えられておるだろう?」
こうなってしまっては抵抗《ていこう》は無駄《むだ》だ。というより、亘は身体にくっついたねじオオカミの残骸《ざんがい》を叩き落とすことの方に必死だった。
「これ、これ、これいったい何?」
頭上から答が返ってきた。「ねじオオカミのカスだな」
「なんでそんなもんがあんなところに溜《た》まってるの?」
「ねじオオカミの肉は旨いが、頭は食えん。それにあいつらはなかなか凶暴《きょうぼう》なのでな、俺さまたちはあいつらを捕まえると、岩場に頭を叩《たた》きつけて殺すのだ。そうすると楽に殺せるし、不味《まず》い頭もとれてしまうので一石二鳥だ」
「あなたたちは、ねじオオカミを餌《えさ》にしてるんですか?」
「そうだよ。だからこの砂漠が縄張なのだ」
縄張とはそういうものだと相場が決まっておると言って、朱い鳥は悠々《ゆうゆう》と翼をはためかせ、上へ上へと昇《のぼ》ってゆく。亘は何だか急にエネルギーが切れたような感じになってしまい、もう暴れたりする気力も失せて、ただただ運ばれていった。
しばらく飛ぶと厚い雲のなかに飛び込んだ。亘の顔を、柔《やわ》らかな雪がふわふわと撫《な》でてゆく。ほんのりとペパーミントの匂《にお》いがする。雲に香《かお》りがついてるなんて──現実世界でもそうなのだろうか。それとも、これもやっぱり幻界だからこそだろうか。
「さあ、ついたぞ」
朱い鳥が大きな声で言いながら、ひときわ強く翼をはためかせた。亘は勢いよく雲のあいだを通り抜け、ふわっと投げ出されて、お尻から雲の上に着地した。
目の前に、銀色に輝く巨大な壁《かべ》が立ちはだかっていた。さっきの話を聞いていなかったら、すぐにはこれが扉だとわかりはしなかったろう。大きい。本当に大きい。小さなアリンコになって、ホテルの正面|玄関《げんかん》を見あげているみたいだ。
「これが要御扉だ」亘の隣《となり》に、朱い鳥がふわりと降りてきた。「両開きの扉の真ん中に、ひときわ明るい白い光が一筋見えるだろう? あれが、御扉が開いている印だ。閉まっている時期には、あの光はまったく見えなくなっている」
扉の形は、ここへ来るとき通り抜けてきた両開きの扉と、よく似ているように見えた。ノブや取っ手らしいものは見あたらない。
「おぬしが近づけば、御扉は自然に開く」
亘はためらって、朱い鳥を見あげた。鳥の大きな瞳《ひとみ》が、御扉の眩しい輝きを映して、明るく光っている。
「どうしても帰らないとダメなんですか?」
「どうしてもだ」
「じゃ、また来ることはできる? 戻ってきたいんです、ボク」
「おぬしはここへは戻《もど》らぬ」
朱い鳥は、亘の言葉をあっさり撥《は》ね返した。「御扉に認められた旅人でない限り、もうここを訪《おとず》れることはないのだ。おぬしは彼の地の子供、ヒトの子であるからな」
「それじゃ、旅人として認められるにはどうしたらいいんですか?」
「さあ、それは俺さまの知るところではない」
「誰が知ってるの? さっき言ってた、御扉の番人?」
朱い鳥は両の翼を持ちあげて、ゆさゆさと揺さぶった。「おぬし、それほどまでして俺さまに放り出されたいのか?」
亘は両肩《りょうかた》を落とした。泣きたくなってきた。失い鳥は、まだ目を光らせていたけれど、そんな亘にちょっぴり同情してくれたのか、少し優《やさ》しい声を出してこう言った。
「悲しむな。彼の地に帰れば、陽が昇《のぼ》り陽が沈《しず》むのを眺めるうちに、此の地のことは忘れてしまうだろう。此の地から彼の地へは、何ひとつ持ち帰ることができないのだからな。思い出さえも、記憶さえも然《しか》りだ」
しょぼんと首を落としたまま、亘はゆっくりと御扉の方へ向かった。朱い鳥の言葉どおり、御扉はまるで亘に道を開けるように、音もなく開き始めた。扉そのものが光源となっているみたいで、あまりに眩しく、まばゆくて、顔をあげることもできない。それでも、次第《しだい》に広くなる二枚の扉のあいだに、吸い寄せられるように、亘は近づいていった。
「ヒトの子よ、達者に暮らすがいい」朱い鳥の声が、遥《はる》か背後から小さく聞こえてきた。
「俺の名はカルラ族のギガ。彼の地の夜の闇《やみ》、おぬしの夢のなかでなら、また会うこともあるかもしれぬ」
目を開けているのに、何も見えない。それとも光を見ているのだろうか。光そのもの、輝きそのもの。歩いているのか停まっているのか、前進しているのか後退しているのか、それさえもはっきりしない。ふわふわと漂《ただよ》うようだ。ゆらゆらと流されるようだ。
そして亘は、まばゆい光に呑みこまれるようにして、すうっと意識を失った。
幻界──
要御扉。
ここで何をしているんだ?
なぜおまえがここにいるんだ?
砂漠の熱い風とギガの朱い羽根。
あの真っ青な空と緑の草原。
誰か僕を呼んでる? 亘、ワタル──
誰か僕の頬を叩いてる。
僕は──どこにいる?
日を開くと、ルウ伯父《おじ》さんの顔が見えた。
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8 現実問題
「亘! 気がついたか、亘!」
ルウ伯父《おじ》さんが、亘の上に覆《おお》いかぶさるようにして、亘の額に手をあてていた。伯父さんの顔は引きつり、口元がベソをかいている。
「伯父さん……」
亘が呟《つぶや》くと、伯父さんは顔をくしゃくしゃにした。「ああ、よかった、俺がわかるんだな? どこか痛いとこはないか? 苦しくないか? 俺は──俺はもう──」
「伯父さんてば……僕は……大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
亘は起きあがろうとした。すると誰《だれ》かの手が横から伸《の》びてきて、そっと肩《かた》のあたりを押さえた。
「急いで起きない方がいいよ。本当にどこも痛くないかね?」
驚《おどろ》いたことに、それは大松社長だった。ニコニコ笑っている。
「大松さん……」
少し頭がぼうっとしているみたいで、自分の声が耳のなかに籠《こ》もって聞こえる。亘はパチパチとまばたきをしてみた。
見慣れない部屋のなかだった。三谷家の住むマンションの部屋より、もっとずっと天井が《てんじょう》高い。ルームライトは真四角で、洒落《しゃれ》た金色の縁取《ふちど》りがついている。
「ここは私の家だよ」亘の表情を読んだのか、大松社長が説明してくれた。「お客さん用の寝室《しんしつ》なのでね、ベッドが堅《かた》いかな」
伯父さんの泣き顔が、大松社長のそばに並んだ。「おまえ、あのビルで倒《たお》れたんだ。覚えてるか? 伯父さんが電話を終えて戻《もど》ってみると、おまえは階段の下にばったり──」
そこでまた泣きだす。大松社長が笑いながら伯父さんの肩を叩《たた》いた。
「伯父さんは君のことが心配で、本当に生きた心地《ここち》もしなかったみたいだよ」
「だってよぉ──」
伯父さんの泣き声を伴奏《ばんそう》に、大松社長が言った。「伯父さんが倒れている君を見つけて、病院へ運ぼうとシートの外へ出てきたとき、ちょうど私がそこへ行き合わせてね。それで、伯父さんと君をうちへお連れしたというわけだよ」
「俺はもう仰天《ぎょうてん》しちゃって」ルウ伯父さんは、鼻の下をこすりながら言った。「でも社長さんが、おまえは具合が悪いようには見えない、顔色もいいし呼吸も正常だ、子供は深く眠《ねむ》るものだし、とにかくちょっと連れ帰って様子をみようと言ってくれてさ」
「だって私には、君は気持ち良さそうに眠ってるようにしか見えなかったからね。良い夢を見てるのか、口元が笑っていたし」と、大松社長が補足した。亘は納得《なっとく》した。幻界《ヴィジョン》≠ノ行っているあいだ、こっちの世界に残っていた僕の身体《からだ》は眠ってたのか。
「僕、大丈夫です。大松さんごめんなさい。勝手にビルに入り込んで……」
亘の言葉に、ルウ伯父さんもやっと大人としての分別を取り戻したようで、あらためて神妙《しんみょう》に、大松社長に頭をさげた。
「まったく言い訳のしようもないです。他人様《よそさま》の建物のなかに勝手に入り込んだりして」
大松社長は大笑いをした。「いえいえ、ですからそれについては、もう気にしないで下さい。三谷君、伯父さんから事情は聞いたよ。誰にしろ、あのビルに入り込んで子供たちを脅《おど》かすような人物がいるとしたら、放ってはおけない。今後は、私の方でちゃんと手を打つから安心しておくれ」
社長は頑丈《がんじょう》そうな手を持ちあげて、頭をかいた。
「これまでにも、幽霊《ゆうれい》の話とかいろいろあったが、あまり本気で問題にしてはいなかったんだ。ときどき私らで見回るようにすれば大丈夫だろうと、タカをくくっていてね」
「今夜も、見回りのつもりでいらしたんだそうだ」ルウ伯父さんは、面目《めんぼく》なさそうに大きな身体を縮めている。「おかげで助かったよ。俺ひとりじゃ、うろたえるばっかりでどうしようもなかった」
大松社長とルウ伯父さんは、かなりうち解けた様子で話したり笑ったりしている。それでも、亘には少し不可解だった。ルウ伯父さんは経験豊富なライフセイバーだ。命の危険にさらされている人たちを、何度となく助けてきた。それなのに、僕のことでは、何もできないほどあわてふためいてしまったという。そんなことって、あるかな?
「それじゃ亘、気分が大丈夫なら、失礼しょうか」
伯父さんの言葉に、亘はうなずいた。大松社長は車で送ろうと言ってくれたけれど、伯父さんはそれを丁重《ていちょう》に辞退した。
「すぐ近くですから。これ以上、ご厚意《こうい》に甘えるわけにはいきません。本当に申し訳ありませんでした」
「そうですか。でもまあ、そんなに気にしないでくださいよ。それじゃ三谷君、元気でな。あのビルのことは、本当にもう心配しないでいいからね」
大松社長の言葉に、亘ははいと返事をしたけれど、心のなかは複雑によじれていた。社長さんが本気であのビルの監視《かんし》を厳しくしたら、要御扉《かなめのみとびら》に近づきにくくなって、ひどく不便なことになる。
──こうなったら、早く芦川に会わなきゃ。
会って、話をしなきゃいけない。こっちももう避《さ》けたり逃げたりしないし、あいつにもそんなことはさせるまい。要御扉の前で顔を合わせてしまったのだから、今までとは事情が違《ちが》う。バカにされても、二度とひるんだりするもんか。
芦川は本当に旅人≠ネのか。そうだとしたら、なぜそうなれたのか。御扉の番人には、どうやって認められたのか。そして何よりも、芦川は旅人≠ノなって、幻界と現実世界を行ったり来たりして、いったい何をしているのか。答のほしい疑問はたくさんある。
大松家を出て夜道を歩き始めると、ルウ伯父さんは亘と手をつないだ。それはひどく子供っぽいことで、亘は照れくさかった。
「伯父さんてば、僕はもう大丈夫だよ。だから手なんかつながなくっていいよ」
ルウ伯父さんは、何か思い詰《つ》めたような顔で亘を見おろした。まだ涙の気配が、両目のあたりに残っているようだ。
亘は、伯父さんにちゃんと謝っていないことを思い出した。本当に心配をかけたのに。
「伯父さんゴメンナサイ。僕、眠かったんだ。気分が悪かったわけじゃないんだよ。大松さんが言ってたとおり、ただ眠ってただけなんだ。いつの間にか寝《ね》ちゃったんだ。すごくぐっすり眠っちゃったんだ」
ルウ伯父さんはうなずいた。「うん、そうだな。伯父さんはあわて者だ」
そう言うと、先に立って歩き出した。亘はおかしなことに気がついた。伯父さんは、三谷家のマンションとは逆方向に向かっているのだ。
「伯父さん、反対だよ。そっちはうちじゃないよ」
呼びかけると、伯父さんは立ち止まった。亘に背中を向けたまま、首をうなだれている。
「それが……いや、いいんだよ、こっちでいいんだ」
「どうして?」
「亘は今夜は、伯父さんとホテルに泊《と》まるんだ。大通りに出てタクシーを拾おうよ」
亘は伯父さんに追いついて、見あげた。伯父さんの顔は、ヘンなふうに歪《ゆが》んでいる。街灯の灯《あか》りでも、それがよく見えた。それなのに伯父さんは、やけに元気な声を出した。
「あの電話な、亘の父さんからだったんだ」
幽霊ビルにいるとき、伯父さんの携帯《けいたい》電話にかかってきた電話だ。
「今夜は亘を預かってくれってさ」
素朴《そぼく》な疑問が浮かんできたので、亘はそれを口にした。「だけど、明日は休みじゃないよ。僕、学校があるよ」
「早起きして、伯父さんがこっちまで送ってきてやるよ」
「でも、着替《きが》えもないし……」
亘は自分のシャツとズボンを見おろした。そして、さっきまではすっかり忘れていたことを思い出した。
ねじオオカミ! あいつらの死骸《しがい》の切れっぱしが身体中にくっついていたのだ。まだ残ってるんじゃないか。
「伯父さん、僕、臭くない? 変な臭《にお》いしない?」
亘がシャツやズボンをバタバタ叩くのを、伯父さんは黙《だま》って見ていた。自分のことに夢中になっていた亘は、とりあえずひととおり点検して、身体に何もくっついていないことを確かめ終えるまで、そんな伯父さんの様子をおかしいとも思わなかったのだが──
「伯父さん?」
気がつくと、伯父さんは片手で顔を押さえていた。
「どうしたの、伯父さん。今度は伯父さんが具合が悪いの?」
ルウ伯父さんは、顔を押さえた手の指の隙間《すきま》から、声を押し出した。「ああ、嫌《いや》だなぁ。俺はこんなことは嫌だよ」
「……?」
「おまえに嘘《うそ》なんかつけないよ。伯父さんはこんな役回りはしたくないよ」
「伯父さん……」
伯父さんはぐいと顔をあげ、唐突《とうとつ》に亘の手をつかんだ。そして乱暴なくらいに強くひっぱって、今度は三谷家の方向に向かって歩き出した。
「行こう、亘。おまえにはおまえの家に帰る権利がある。ちゃんと話を聞く権利もある。伯父さんはそう思う」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ伯父さん」
「いいんだ。ついてきな。帰ろう」
亘は伯父さんに引きずられて歩き出した。マンションの正面|玄関《げんかん》に着くまで、伯父さんは恐《おそ》ろしい早足で、だから亘はほとんど走るようにしてついていかねばならなかった。
ところが伯父さんは、正面玄関のところで急に速度を落とし、目に見えてためらった。それを吹っ切るようにしてエレベーターまで進み、またぞろ早足で箱に乗り込み、三谷家のある階に着くと、今度はそこでまたためらった。何だか、伯父さん一人が亘の目には見えない怪物《モンスター》と闘《たたか》い、それを退けながら、前に進んでいるみたいだった。
亘は怖くなった。急に家に帰りたくなくなってきた。予感のようなものが胸のなかに込《こ》みあげてくる。さっき伯父さんがホテルに泊まると言ったとき、学校だの着替えだのとグズグズ言わずに、素直《すなお》にそうしていればよかったと思った。
伯父さんは三谷家のドアチャイムを押した。静かな共用|廊下《ろうか》に、チャイムの音色が高らかに響《ひび》く。亘は腕時計《うでどけい》をちらりと見た。とっくに午前|零時《れいじ》を過ぎている。
スリッパを履《は》いた足音が、ドアの方に近づいてくる。カチャリと音がして、ドアが開いた。チェーンがかかっている。
ドアの隙間から、三谷明の顔がのぞいた。亘はぎょっとした。父の顔はひどく青ざめ、疲《つか》れていた。急に老《ふ》けたようにさえ見えた。
「兄さん──」と呟いて、明は亘が一緒《いっしょ》にいることに気づき、くちびるをぐいと結んだ。
「よかった、間にあった。まだいたんだな」伯父さんは低く言った。「亘を連れて帰ってきた。入れてくれよ」
明は一度ドアを閉じ、がちゃがちゃと不器用な音をたててチェーンを外すと、黙ったままルウ伯父さんを招き入れた。そして、くるりと背中を向けてリビングへ戻ってゆく。亘は父の顔を見ることができなかった。
リビングには灯りがついていたが、台所も洗面所も真っ暗だった。邦子の姿が見あたらない。両親の寝室のドアは、ぴったりと閉じている。
「お母さんは先に寝ちゃったの?」
亘が尋《たず》ねても、明は答えない。そのときになって初めて亘は、父が、ネクタイこそ解いているものの、まだ背広姿のままであることに気がついた。
「お父さん、帰りが遅《おそ》かったの?」
テーブルの上には何も出ていない。皿もきれいに洗ってある。明は亘の問いかけに答えず、背広の内ポケットから煙草《たばこ》を出して、火を点《つ》けた。
黙って亘の後ろに立っていたルウ伯父さんが、険しい声を出した。「邦子さんは?」
明は短く答えた。「寝てる」
様子がおかしかった。何から何までおかしかった。まるでお母さんが病気にでもなったみたいだ。まるで誰かが死んだみたいだ。
「亘」明が亘に声をかけた。
「ちょっとこっちに来て、座りなさい」
そう言いながら、明はソファに腰をおろした。手をのばして、まだ長い煙草を灰皿に押しつけ、ぐしゃぐしゃにして消した。父らしくない動作だった。
「明!」ルウ伯父さんが、まるで脅しつけるような声を出した。「亘が帰ってきたんだぞ。それでもおまえ──」
明は冷静に、兄の言葉を遮《さえぎ》った。「兄さんは黙っててくれ」
「でも──」
「こんなふうにし向けたのは兄さんじゃないか。仕方がない」
亘はソファに近づき、座った。膝《ひざ》がガクガクした。ついさっき──幻界《ヴィジョン》でねじオオカミの群に襲《おそ》われて、あんなに怖《こわ》い思いをしたばかりだというのに、今はもっと怖かった。
ルウ伯父さんは、亘の後ろに立っている。無言のままだ。
「おまえには報《しら》せないでおきたかったんだ」と、明は言った。ほんの少し、声が震《ふる》えている。「あとでお母さんから話を聞いてほしかった。だから伯父さんに、おまえを一晩預けたんだが」
ルウ伯父さんが素早《すばや》く言った。「だがそんなのは不公平だ、この子だって説明を──」
明は、つと顎《あご》をあげて兄の方を見ると、かすかに笑った。
「子供に向かって説明なんかできることじゃないから、兄さんに頼《たの》んだんじゃないか」
ルウ伯父さんはぐっと詰まった。
「亘、聞いてくれ」と、明は亘の顔を見た。亘は父の顔を見つめ返した。心の片隅《かたすみ》で予感のようなものが、キキタクナイ、ナニモキカセナイデと、小さく叫《さけ》ぶのを感じながら。
三谷明は、ゆっくりと言った。
「お父さんは、この家を出てゆく」
コノウチヲデテユク。
「お母さんと離婚《りこん》するんだ。お父さんの言っていることの意味がわかるね?」
リコンスルンダ。
「お母さんにもおまえにも、本当に申し訳ないことだと思っている。でも、お父さんは決心した。さんざん迷った挙げ句に決めたことだから、もうこの決心を貫《つらぬ》き通すつもりだ」
モウシワケナイコトダ。
「このことについては、お母さんにも、今夜初めてうち明けた。それでずっと話し合っていたんだが、お母さんはとても驚いて──ショックを受けたようだ」
亘は口を開いた。普通《ふつう》にしゃべろうと思ったのに、驚くほど弱々しい声が出てきた。
「お母さんは寝込んでるの?」
「そうかもしれない。さっき様子を見たときには、眠っていた」と、明は答えた。「これから先も、お母さんとは何度か相談をしなくちゃならないだろう。この家のこととか──おまえとお母さんの今後の生活のこととか、細かいことで、決めなくちゃならないことがたくさんあるからな」
亘はゆっくりとまばたきした。何度まばたきしても、目に映る光景は変わらない。チャンネルが切り替わらない。これは間違いじゃない。夢でもない。現実だ。今、僕は、幻界にいるわけじゃない。
しかし、家を出てゆくと告げる父の姿は、幻界の砂漠《さばく》のねじオオカミよりも、もっともっと非現実的に見えた。
ここで訊ねなければならないこと、訊ねる権利があることは、山ほどあるはずだった。それなのに、亘にはそれがつかめなかった。砂漠の砂が指のあいだからこぼれるように、思いのすべてが漏《も》れ落ちてゆく。心の底が抜《ぬ》けてしまったみたいに。
やっと、亘は訊《き》いた。「お父さんは、これからどこへ行くの?」
「落ち着いたら報せるよ。携帯電話は活《い》かしてあるから、それで連絡《れんらく》はつくだろう」
それだけ言うと、明は立ちあがった。亘は呆然《ぼうぜん》として父を仰いだ。これで話はおしまいなんだろうか。これっきりなんだろうか。
明はかがんで、ソファの後ろから何か引っ張り出した。
旅行用のボストンバッグだった。いつも出張の時に使っている、見慣れたバッグだ。
でも、このバッグが、こんなにも中身をたくさん詰め込まれて、パンパンにふくらんでいるのを見るのは初めてだ。
「明──」ルウ伯父さんが、かすれた声で呼んだ。「おまえ、もう言うことはないのか? 亘に言ってやることはないのかよ? それだけでいいのか?」
明は彼の息子《むすこ》ではなく、兄の目を見て答えた。「亘に対しては、何を言っても言い訳になる」
「それだって──」
「兄さんにはわからないよ」
ルウ伯父さんはすうっと青ざめた。口元が震えている。
明はボストンバッグを持ちあげた。亘は見るともなくそれを見ていた。バッグの持ち手をつかむ父の手を。玄関に向かって歩き出す父の爪先《つまさき》を。
「兄さん、亘を頼む」と、明は言った。彼の声は、もう震えてはいなかった。
「俺は頼まれなんかしないぞ」頑固に目をそらしたまま、ルウ伯父さんは言い切った。「こんな手前勝手な話があるか。俺は何も頼まれてなんかやらないぞ」
三谷明は、静かに亘の方を顧《かえり》みた。そして、同じように静かな声で言った。「亘、お母さんを頼んだよ」
そして歩き出した。スリッパが音をたてる。ひたひた、ひたひた。
僕はどうしてお父さんを止めないんだろう。亘はぼんやり考えていた。どうして走っていってしがみつかないんだろう。行かないでって泣きわめかないんだろう。
それは、そんなことをしたって無駄《むだ》だとわかっているからだ。いつだってそうだった。父さんは決めたことは守る人だ。三谷家では、父さんの決めたことは絶対だった。父さんの結論は判決だった。どんなに泣きわめいても、その判決は翻《ひるがえ》らない。亘の身体には、そういう躾《しつけ》が染《し》みこんでいる。ワガママは駄目だ。
ワガママ? だけど、これはワガママなんだろうか。
亘はソファから立ちあがると、玄関へ駆け出した。明はこちらに背を向けて靴《くつ》を履《は》いていた。
「お父さん」
亘の声に、明の背中がぴくりとした。
「お父さんは、お母さんと僕を捨ててくの?」
一瞬《いっしゅん》、明の動きが止まった。靴べらをつかんだ手が白くなったように見える。
だが、すぐに彼は靴を履く動作に戻り、靴べらをすぐ脇《わき》の下足入れの上に載《の》せた。そして、背中を向けたまま言った。
「お母さんとは離婚しても、お父さんは亘のお父さんだ。どこにいたって、お父さんであることに変わりはないよ」
「だけど捨てていくんでしょう?」
亘は言った。どうしてこんな情けない声しか出ないんだろう。なんでもっと大声を出せないんだろう。どうしたらもっと説得力のある言葉が出てくるんだろう。
「捨てていくんだよね?」
三谷明は、ドアを開けた。
「ごめんよ、亘」
そして、出ていってしまった。
亘はその場に突《つ》っ立って、ドアが閉まるのを見ていた。口がぽかんと開いて、目が乾《かわ》いて、おしっこを我慢《がまん》しているときみたいに、下腹がきゅんきゅん痛んだ。
ルウ伯父さんが黙って近づいてきて、背後から亘の肩に両手を載せた。
「ごめん」
ルウ伯父さんの声が泣いていた。
「やっぱり──おまえを連れて帰ってくるんじゃなかった。伯父さんと一緒にホテルにいりゃよかったな。伯父さんが間違ってた。ごめん、ごめんな」
僕はまだ眠ってるんだ。亘はそう考えていた。これは夢のなかの出来事だ。僕はまだ幽霊ビルの、あのでき損《そこ》ないの階段の下で、コンクリートのクズと埃《ほこり》の上に座り込んで、手すりにもたれて眠ってるんだ。それに気づいた伯父さんがあわてて僕を連れ出して、そこへ大松社長さんが来て、これから僕を大松さんの家に連れて行ってくれるんだ。
僕は眠ってるんだ。目が覚めれば、すべては元どおりに戻ってるはずだ。胸の内で、亘はその言葉を、呪文《じゅもん》を唱えるように繰《く》り返した。怪物《モンスター》を倒す呪文。怪物を追い払《はら》う呪文。怪物を消し去る呪文。
いいや、違う。呪文なんかきかない。だって僕は眠ってないんだから。これは現実だ。今目の前で起こってることだ。
心の底から、痛みが込みあげてきた。あの魔導士《まどうし》の唱えていた時を巻き戻す呪文。あれはどんな言葉だったっけ。覚えておけばよかった。今こそ使うべきときなのに。
「伯父さん」
ルウ伯父さんの体温を背中に感じながら、亘は小さく訊いた。
「伯父さんは知ってたの? 今夜お父さんが出ていくってこと、前から知ってたの?」
伯父さんは、ちょっと呼吸を整えるみたいに、荒《あら》く息をついてから答えた。「あの電話をもらうまでは、知らなかったよ」
「それじゃ伯父さんもビックリしたんだね」
だから、僕が眠ってしまっただけで、あんなに取り乱しちゃったんだね。
「非道《ひど》いよな」伯父さんは呟いた。「こんなことってありかよ。おまえにどうしろっていうんだよ」
亘は黙って振り返ると、伯父さんに抱《だ》きついた。力《ちから》一杯《いっぱい》しがみついて、泣きだした。
こんなに混乱していても、疲れていても、悲しんでいても、やっぱり夜は明けるものであって、亘は、顔にあたる朝日が眩《まぶ》しくて目を覚ました。
伯父さんと二人、リビングで寝入ってしまっていた。ルウ伯父さんは、大きな身体がソファに収まりきらずに、床《ゆか》に転がっている。亘は長いソファの端《はし》っこに、何かから避難《ひなん》するみたいに小さく丸まっていた。そのせいで、起きて立ちあがると、身体じゅうの骨がギコギコした。
窓の外には、爽《さわ》やかな青空が広がっている。梅雨明《つゆあ》けなのだろうか。昨日も雨の気配はなかったけれど、今日のこの空はまた格別だ。雲ひとつない。
時計を見ると、もう八時に近かった。伯父さんは陽射《ひざ》しに背中を向けて、まだ熟睡《じゅくすい》している。亘のぼんやりとした記憶《きおく》でも、ここで横になったのはほんの数時間前のことのような気がするから、無理に起こさなければ、きっとこのまま眠っているだろう。
両親の寝室の方からも、こそりとも音がしない。母さんはどうしているのだろう。眠っているのか、眠ったふりをしているのか、ただ起きてきたくないだけなのか。いずれにしろ、邦子は亘が昨夜のうちに帰ってきていることを知らないのだ。
ちょっとのあいだ、声をかけにいこうかという誘惑《ゆうわく》にかられたけれど、結局やめた。今朝は誰とも話したくない。誰かに見られることさえ厭《いと》わしい。このままこっそり息をひそめて、学校へ行ってしまおう。急がないと遅刻《ちこく》してしまう。
顔を洗い、歯を磨《みが》き、髪の毛を撫《な》でつけ、くしゃくしゃになった服を着替える。教科書とノートを揃《そろ》えて鞄《かばん》に詰め込んだところで、別に学校なんかへ行かなくたっていい、どこか他所《よそ》に行ってしまって、このまま帰ってこなくたっていいんだよな、というようなことを、ふと考えた。
幻界──またあそこへ行って、何もかも忘れてしまえたら。
いやいや、駄目だ。またカルラ族に捕《つか》まって追い返されるのが関の山。それならまだ幸運な方で、下手するとねじオオカミの餌《えさ》になっちゃう。
結局、学校しか行く場所はないんだな、子供には。家《うち》がなくなっちゃったらさ。
集団登校のグループは、とっくに先に行ってしまっていた。集合時間に遅《おく》れた生徒は、置いていってもいいというのがきまりだ。亘は一人で学校まで歩いた。校舎が見えてきたところで、五分前の予鈴《よれい》が鳴った。だから駆け出して、正門を目指した。そんなことをしていると、昨日までと何も変わらないみたいだった。ただ寝坊《ねぼう》して朝ご飯《はん》抜きだというだけで、何も起こってないみたいだった。
信じられないことに、教室では普通に授業をやった。担任の先生はいつもより機嫌《きげん》がいいくらいだ。やっと梅雨が明けそうで気持ちがいいね、なんて言っている。
三谷家が崩壊《ほうかい》したところで、世の中は変わらないのだ。世界なんてそんなものなんだ。
ちょっと前に、ナントカカントカの予言書とかいう本が話題になったことがあった。テレビ番組でもやっていた。それは超《ちょう》古代文明の遺跡《いせき》から発見された石版を解読して得られた予言で、人類は二〇二四年に滅亡《めつぼう》すると書いてあるんだそうだ。その番組に出ていたゲストのなかに、亘の好きなピラミッド学者の先生がいて、こういう予言とか古代文明にまつわる話とかは、作り物として楽しむにはいいけど、あまりまともに受け止めてはいけないと発言して、司会者を困らせていた。この世界がいつか未来のどこかで滅亡するかどうかという問題と、この予言が信用できるものであるかどうかという問題は、まったく次元が別だって。それはとても筋道正しいお話で、だから亘は安心してテレビを消し、お風呂《ふろ》に入ってぐっすり眠ることができたのだった。
それでも、個人は滅亡するのだ。笑っちゃうくらいカンタンに。だけど世界は続いていくのだ。
とりあえず。
一時間目の授業が終わったところで、亘は担任の先生に呼ばれた。
「三谷君、今さっき、お母さんから電話があったの。あなたがちゃんと登校しているかどうかって。ええ、教室にいますよってお返事したんだけど……」
先生は訝《いぶか》しそうに目を細めた。亘は言った。
「うちのお母さん風邪《かぜ》をひいて、寝込んでるんです。それで僕、今朝はお母さんが寝てるうちに、黙って出てきたから」
「ああ、そう。だからお母さん、心配なさったのね。でも、偉《えら》いわね。三谷君はしっかりしてるわ。授業が終わったら真《ま》っ直《す》ぐに帰って、お母さんを安心させてあげなさい」
ハイわかりましたと答えて、亘は席に戻った。そして、その日の残りの授業が、滅亡した三谷亘の世界の上を、そよ風のように通り過ぎてゆくのに耳を傾《かたむ》けた。
正午過ぎに正門を出るころには、汗ばむくらいの陽気になっていた。鞄をぶらぶらさせながら歩いていると、後ろの方からやけに騒《さわ》がしい声が追いかけてくる。耳がわんわんするほどだ。
「おいってば、なんだよ、何シカトしてんの? まだ寝ぼけてンの?」
カッちゃんだった。亘はポカンとした。すごく久しぶりだ。十年も二十年も会ってなかったみたいな気がする。
「ヘンだなぁ。今日はずっとぼうっとしてるじゃんか。『サーガV』の体験版でも手に入れたのぉ?」
「ううん、そんなんじゃないよ」
「ふゥん。てっきりそうかと思ったよ。あのさ、昼飯食べたらウチへ来ない? 父ちゃんがパチンコの景品でさ、なんでかわかんないけどサッカーゲーム取ってきたんだ。これがすっげえハマるんだよ、やんない?」
亘は黙って、カッちゃんの明るい顔に見とれた。何か言おうと思っても、何も思いつかない。ただ、カッちゃんはいいなぁと思うだけだった。カッちゃんになりたいな。
「何だよぉ、なんでオレの顔じろじろ見ンの? 何かついてる?」
「ううん」亘は首を振《ふ》った。「今日は遊べないんだ。ごめん」
カッちゃんも、何かへンだと気づいたようだ。いつもクリクリと落ち着きなく動く目が、ちょっと止まった。
「ミタニ……どうかしたの?」
「どうもしないよ。どうも」
「風邪ひいたの? 腹こわしたとか」
「どうもしないよ」
カッちゃんはしげしげと亘の顔をのぞきこんだ。「だけどおかしいじゃんか」
「おかしくないよ」
亘は薄《うす》く笑った。カッちゃんはちょっと身を引いた。
「そんじゃオレ、帰る」
「うん」
「うーんと──その、なんか用あったら、電話して」
「うん」
「オレずっとウチにいるからさ」
「うん、わかってる」
「そんじゃね」
カッちゃんは振り返り振り返り去っていった。彼の姿が見えなくなってから、亘はまた歩き出した。同じ道を帰ってゆく、たくさんの下級生たちや同級生たちにどんどん追い抜かれ、それでもゆっくりゆっくり歩いた。気がついたら、また、今朝と同じようにまったく一人になっていた。
大松さんの幽霊ビルの前まで来て、亘は足を止めた。ビルの様子には変化がなかった。シートが太陽の光を反射して光っているだけだ。社長さんは何か手を打つと言っていたけれど、今日はまだ何の動きもないようだった。
また、幻界のことを考えた。奇妙《きみょう》なことに、朝うちで思い出したときよりも、思い出の印象が薄れていた。あの大きな朱《あか》い鳥──名前は何て言ったっけ? 頭に思い浮かべるイメージも、ちょうど写真の色が褪《あ》せるように、少しばかり鮮《あざ》やかさを欠いているみたいに感じられる。なんでだろう?
「──ミタニ」
呼ばれて、亘は我に返った。誰だ?
芦川美鶴だった。三橋神社の鳥居の柱にもたれて、亘の顔を、じっと見ていた。
芦川は、ついて来いという身振りをして、さっさと三橋神社の境内《けいだい》に入っていった。亘は、昨日からの出来事で身体ばかりか心もクタクタに疲れていたけれど、瞬間的に、
──ここで何してるんだ?
扉《とびら》の前での光景が映画のようにくっきりと再現されて、あのとき芦川の後を追っていったのと同じ勢いで駆け出した。
芦川は亘が追いついても、見向きもしなかった。思い詰めたように顎を引いて、真っ直ぐな鼻の線が、いっそうきわだって見えた。「座れよ」
芦川は、境内のベンチのひとつを指して、短く言った。亘は言われたとおりにした。以前、ここで出会ったときに芦川の座っていた場所だ。
腰かけると、境内のなかが、よく知っているはずの三橋神社のそれとはまったく遣って見えた。いつも鳥居の前を通り過ぎたり、境内を横切ったりするときには、こんなふうな風景には見えない。何か広々として静かで、緑に囲まれている。お社《やしろ》の古びた屋根《やね》瓦《がわら》の、欠け落ちた漆喰《しっくい》で修復をほどこされた場所でさえ、趣《おもむき》が違う。普段はこの屋根瓦を見ると、なんかビンボーな感じ、と思うだけだった。
遠い土地の、見知らぬ場所に来たみたいな錯覚《さっかく》をおぼえた。
「いい景色だろ?」
芦川は、亘の斜《なな》め前に突っ立って、胸のあたりで腕を組みながら言った。
「ここは神域《しんいき》なんだ」
「シンイキ?」
亘が問い返すと、芦川は面白《おもしろ》くなさそうに答えた。「神のおわします場所だよ」
その返事の厳《いか》めしさと表情の厳《きび》しさ。ごくたまに見かけるこの社の神主《かんぬし》さんだって、ここでこんな畏《こわ》い顔をすることはないんじゃないか。だってここの神主さんは小柄《こがら》でニコニコしたおじいさんで、低学年の子供たちの下校時間には、すぐ前の横断歩道のところで黄色い旗を持って立ってることもある。おわしますというのも、たぶん「いるよ」という言葉の難しいバージョンだろうけれども、神主さんはそんな言い回しだってきっとしないだろう。
芦川はお社の方に目を向けて、怒《おこ》っているみたいに黙っている。亘が居心地《いごこち》悪さに何か言おうともぞもぞしたところで、やっと口を開いた。
「行って来たのかよ」
素っ気ない質問だった。
「どこに?」と、亘は訊ねた。もちろん、わざと訊いたのだ。わかっていた。それはあの──あの場所のことだ──えっと、何て言ったっけ?
思い出せなくなっている。驚いた。ついさっきまでは覚えていたはずなのに。
芦川はこちらを振り向いた。やっと、まともに亘を見た。
「幻界《ヴィジョン》へ行って来たんだろ? 扉の向こう側さ。わかってるんだ」
亘は口を開けた。幻界? 幻界っていうのは、あの、あの──そう、砂漠のこと。何か恐ろしいケダモノみたいなものに襲われたんだ。だけどあれは夢じゃなかったのかな?
芦川はじっと亘を見つめ、一歩近づいた。芦川の瞳《ひとみ》が小さく縮んでいる。寒さに手がかじかむみたいに。
「僕──隣《となり》の幽霊ビルに」亘はしどろもどろに言った。「伯父さんと一緒に行ったんだ」
「そこで会ったろ」芦川は確認《かくにん》するように訊ねた。「昨日のことじゃないか」
「そうだけど……」
芦川は横を向くと、ウジウジしたヤツだな、と吐《は》き捨てた。亘は、オレって何でこいつには会うたびにバカにされなきゃなんないのかなと考えた。そのくせ心の片隅で、この話が噛《か》み合わないのはこっちのせいだよ、と囁《ささや》く声が聞こえる。それは亘のなかの小さなワタルで、大声を出してぴょんぴょん跳《と》んで手足をバタバタさせて亘の注意を惹《ひ》こうとしているのだけれど、そんなことをしているあいだにも、それはどんどん小さく縮んでゆくのだ。
そして、とうとう消えてしまった。小さな小さなワタル。消える間際《まぎわ》に、精一杯の大きな声でこう言った──
「陽が昇《のぼ》り陽が沈《しず》むのを眺《なが》めるうちに、此《こ》の地のことは忘れてしまうだろう」
同じ言葉が、亘の口からも飛ひ出した。だが声が亘の声ではなかった。低く重々しく偉《えら》そうで、宣告するような響きがあった。
そっぽを向いていた芦川が、いきなり振り返った。目を瞠《みは》っている。亘は亘で、自分の口から飛び出したヘンな声に狼狽《ろうばい》して、女の子みたいに両手を口にあてていた。
「──そうか」芦川の口元がほころんだ。「おまえ、カルラ族に捕まったんだな?」
亘は口を押さえたまま、上目遣《うわめづか》いに芦川を見た。美少年は上機嫌だ。その場で踊《おど》りだしそうなほどだ。
「導士の言うことに嘘はないんだ。そうか、おまえには資格がないから、こっちに戻ってきて一日|経《た》つと、幻界の記憶は全部消えてしまうんだな」
嬉《うれ》しそうに、芦川は話しかける。亘には何がなんだかさっぱりわからない。それなのに芦川は楽し気に独り言を続けた。
「記憶は、戻ってきてすぐには消えないんだ。それだと空白ができてしまうからな。でも一日くらい残っているだけなら、子供なら、夢でも見たんじゃないのって言われて終わる。大人なら、クスりでもやってんじゃないかって嗤《わら》われてそれまでだ」
そうかそうかと手を叩き、空を仰《あお》いで、芦川は笑いだした。亘は目をパチクリさせてながめていた。コイツおかしいんじゃないの? 腹立つなあ。
「何の用なんだよ」亘は訊いた。「またバカにしようってのかよ」
芦川はクックッ笑いながら、また腕を組んだ。頭を振り振り、「誰もおまえをバカにしてなんかいないよ」
「したじゃんか」
「いつ?」
「この前だよ。心霊写真のことしゃべったときだよ」
「ああ、あれか」芦川はうなずいた。「だっておまえの言うことがめちゃめちゃだったからさ。宮原から、三谷はバカじゃないって聞いてたのに、しゃべってみたらあんまり幼稚《ようち》なんでおかしかったんだ」
ま、そういう宮原だって幼稚だけどなと、たいしたことでもなさそうに付け足した。これに亘はカッときた。思わずベンチから立ちあがった。
「宮原はいいヤツだぞ!」
芦川はまだ笑顔《えがお》だ。「べつに、悪い奴《やつ》だとは言ってないよ」
「ヨウチだとか言ったじゃないか!」
「事実だからさ。だいいち、幼稚なのは悪いことじゃない。もしそうなら、幼稚園児はみんな邪悪《じゃあく》だってことになる」
「そういうのは──へ理屈《りくつ》っていうんだ」
「ふうん。三谷は、パパやママにそう言って叱られてるわけか」
パパとママという言葉に、なぜかしら嫌味な抑揚《よくよう》がついていた。それでなくても、今の亘にとって、それはいちばん聞きたくない単語だったのに、その抑揚はさらに忌まわしかった。
「僕の父さん母さんが何だってんだよ!」
亘は芦川に飛びかかった。満身の力を込《こ》めてぶん殴《なぐ》ってやろうと拳《こぶし》を振りあげたのに、それはいともカンタンに空を切った。亘は満身の力を込めて転んでしまった。
芦川の運動靴の爪先が、日と鼻の先に並んでいた。そうやってまじまじと近くで見ると、ひどく履き古されて、すり切れた靴だった。一瞬だけ、なんでコイツこんなボロ靴履いてるんだろうという疑問が頭をかすめたが、今はそんな場合ではないのだった。
おなかを強く打って、亘はすぐには立ちあがれなかった。何とか首をひねって芦川を見あげると、彼はもう笑っていなかった。
「うるさいから、まとわりつくなよ」
最初と同じ無愛想な口調に戻って、そう言った。
「僕はおまえみたいな幸せなお子さんに付き合っていられるほど暇《ひま》じゃないんだ」
幸せなお子さん? 誰が?
もしもその言葉がなければ、それが耳に突き刺さらなければ、亘は何も言わなかったろう。芦川は仲良しじゃない。カッちゃんみたいな親友じゃない。宮原みたいな気のいい奴じゃない。こんな奴にうち明け話みたいなものなど、死んでもするもんか。
でも、言わずにいられなかった。境内の土埃にまみれた顔をあげて、亘は吐き出した。
「それはこっちのセリフだ。おまえみたいな幸せなお子さんに付き合っていられるはど、僕はお気楽な子供じゃないんだ」
芦川はわざと両目を見開いてみせた。
「へえェ。何を言うかと思えばな」
「うるさい!」亘は地面に両手をついて、何とか起きあがった。ぺたりと座り込む。口の端が切れているんだろう、ヒリヒリする。
「偉そうな顔して偉そうなこと言って、ホントは何にもわかりゃしないくせに。おまえなんか──おまえなんかにわかるもんか。父さんが、昨夜《ゆうべ》うちを出ていっちゃったんだ。それで僕は──だから僕は──お気楽な──お子さんなんかじゃ──ゼッタイ!」
重なる疲労《ひろう》と敗北感で、亘は喉《のど》が詰まった。
芦川の口調は、まったく変わらなかった。
「出ていったって、それはおまえのおふくろさんと離婚するってことか?」
「そうだよ。ほかに意味があるかよ」
「それが何だっていうんだよ」
亘はまだ地べたに座り込んでいた。芦川は亘を見おろして立っていた。今の言葉は、その位置関係でうち下《お》ろしに頭を殴られたぐらいの衝撃《しょうげき》があった。
「な──」
「何だって言うんだって訊いたんだ。たかが離婚ぐらいで」
信じられない。
「母さんと僕は──捨てられるんだ」
「それで? 早くほかの誰かに拾ってもらうためには、そうやって泣いて悲しんでいた方が効率がいいってか? まあ、作戦としちゃそれがいいかもしれないな」
声も出ない。
「その程度の作戦がお似合いだよ。おまえとおまえのおふくろさんじゃね」芦川はさらりと言ってのけた。「世間の同情もかえるだろうしな。うん、山ほどかえるぜ。押入に入りきらないくらいの同情がかえる。だけど、僕からは何も出せないぜ」
亘はただ呆然とするばかりで、もう何も思いつかなかった。どんな反撃《はんげき》も。
芦川は一瞬だけ亘を見ると、つと視線をそらして、地面を睨《にら》みながら言った。「隣のビルには、もう近づくな。今の話じゃ、それどころじゃないんだろ。自分のことだけにかまけてろよ。僕はこの近くに住んでるから、おまえがウロウロしてたらすぐにわかる。いいな?」
芦川が立ち去った後も、しばらくのあいだ亘は境内でへたりこんでいた。肩の上に何かが乗っていて、それが亘を押さえ込んでいて、どうしても立ちあがれないのだった。乗っているものは、もしかしたら凄《すご》いゴミ。崩壊した全世界の残骸。世界だって、もしも壊れたら、誰かが後片づけしなくてはならない。産業|廃棄物《はいきぶつ》処理会社のトラックを呼ばなくては。だけどきっと、引き取ってはくれない。
「君、君」
おじいさんの声が呼んでいる。見るともなく目をやると、神主さんだった。近づいてくる。初詣《はつもうで》の時に見かけたのと同じ格好をしている。白い着物に薄緑色の袴《はかま》。髪も白い。
「どうしたんだね? 転んだのかい?」
亘は土埃にまみれているのだった。
「血が出てるじゃないか。学校の帰りだね? 誰かと喧嘩《けんか》でもしたのかな」
神主さんは、亘のそばに来てかがみ込み、親切に声をかけてくれた。
「君一人なのかね? えーと──三谷君、三谷亘君か」神主さんは亘の名札を読んだ。
「おじさん」と、亘は言った。
「何だね?」
「ここって、神社でしょう」
「ああ、そうだよ」
「神社は神様がいるところなんでしょう?」
「そうだよ」
「おじさんは神様を拝んでるんでしょう」
「拝んで、お祀《まつ》りしているのだよ」
「拝まれて、神様は何してるの?」
もちろん答を知っている質問であるが、なぜそんな質問をするのかがわからないと答えられないのだというように、神主さんは亘の顔をのぞきこんだ。
「三谷君は、どうしてそんなことを知りたくなったのかな?」
「ただ知りたくなったんですよ」亘はぞんざいに言い放った。「だって神様があんまりバカでナマケモノだから」
神主さんは、驚いて黙った。亘は立ちあがった。膝が痛かったけれど、そんなことなんかもうどうでもいい。
「なんにも悪いことしてない人が不幸になるのは、神様がバカでナマケモノだからでしょ? そんな神様拝んで、おじさんつまらなくないですか?」
鞄をひっつかみ、亘は駆け出した。三橋神社の神主さんは、心配そうな顔をしてその小さな後ろ姿を見送っていたのだが、亘は後ろを振り返らなかったから、気づかなかった。
家に帰ると、邦子がいて、亘の顔を見るなり泣きだした。これは現実で夢ではなく、さめても消えてもくれない。母の涙《なみだ》を見て、とどめのように、最後の念押しのように、それがはっきりした。亘はもう泣かなかった。石になった。子供の形をした石に。
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9 戦車が来た
日曜日になると、千葉のお祖母《ばあ》ちゃんが上京してきた。
お祖母ちゃんはドアチャイムを鳴らさずに、どかんどかんとドアを叩《たた》いた。亘たちも驚《おどろ》いたけれど、両隣《りょうどなり》の人もあわてて首を出したくらい大きな音がした。亘があわててドアを開けると、お祖母ちゃんは両手に大荷物を提《さ》げていて、なんとまあ足でドアをノックしていたのだった。
「あ、亘!」と、お祖母ちゃんは大声を出した。「ごめんよ亘! お父さんがバカなことをしでかして、あんたもビックリしたろ? お祖母ちゃんが来たからね、もう大丈夫《だいじょうぶ》だよ。何にも心配することないからね。邦子さんはいるかい?」
言いながら、ずんずんあがってきた。邦子が顔をのぞかせると、今度はまた「あ、邦子さん!」と叫《さけ》んで、
「いったいどうしたっていうんだい? あたしゃ心臓が停《と》まって死ぬかと思ったよ。明のバカはどこにいるの? 首根っこひっ捕《つか》まえて連れ戻《もど》してくるから、場所を教えてちょうだいよ」
「お義母《かあ》さん──」
邦子は呟《つぶや》いて、両肩《りょうかた》をすとんと落とした。嬉《うれ》しそうではないけれど、感動しているみたいには見える。
「ご心配かけてすみません」
邦子は進み出て、姑《しゅうとめ》の大荷物を受け取った。亘はお祖母ちゃんが顔を真っ赤にして、こめかみに青筋を立てていることに気づいた。フル出力で怒《おこ》っているのだ。
「まったくもう、明もいい加減で世迷《よま》い事を並べるのはよしたと思ったのに、まだやるかね。やっとわかったよ、あたしは倅《せがれ》たちを育て損《そこ》なったんだね。一人は四十過ぎて所帯も持たない道楽者だし、もう一人はどうしようもない女狂《おんなぐる》いだったなんてね!」
「あの、お義母さん」
邦子が亘を気にして、拝むような仕草をした。お祖母ちゃんはまん丸な目のまま亘の顔を見て、あら、そうだよねと大声で言った。
「子供の耳に入れたいようなことじゃないよね。だけど邦子さん、あたしゃね──」
「わかりましたお義母さん。亘、マックで朝ご飯《はん》を食べていらっしゃい。小村君を誘《さそ》ったら?」
千円札を渡《わた》されて、亘は外に出されてしまった。何だかよくわからないが、竜巻《たつまき》で家がコナゴナに壊《こわ》されてしまって、まだどこからどう片づけたらいいかわからないのに、そこへ戦車がやって来たという感じだ。
マンションの外階段を降りてゆくと、駐車場《ちゅうしゃじょう》の方から、ルウ伯父《おじ》さんが走って来るのが見えた。亘が踊《おど》り場のところから声をかけると、伯父さんは立ち止まり、はあはあ言いながら手を振《ふ》った。
「一緒《いっしょ》に車で来たんだよ。だけどお祖母ちゃん、俺が駐車スペースを探してるうちに、とっとと降りちゃってさ。走っていっちゃったんだ」
亘と伯父さんは、マンションのささやかな中庭に据《す》えられた、一|脚《きゃく》だけのベンチに並んで腰かけていた。伯父さんは汗《あせ》だくだった。顔色も、あんまり良くない。
「昨日、亘が学校へ行った後、伯父さんも一度うちに帰ったんだ。それでお祖母ちゃんに事情を話したら、何が何でもすぐに東京へ行くって言い出してな。それでも店があるからさ、大急ぎで留守番を手配して、今朝まだ暗いうちに出て来たんだよ」
「伯父さん、くたびれてるね」
「そうか? 亘もひどい顔してるぞ」
ルウ伯父さんは大判のハンカチで顔を拭《ぬぐ》うと、ふうっとひとつ息をついて、やっと落ち着いた。
「大丈夫か?」
「わかんない」
「そうだろうな……。めちゃくちゃ理不尽《りふじん》だもんな、大丈夫もへったくれもあったもんじゃないよな」
「ねえ伯父さん」亘はルウ伯父さんの顔を仰《あお》いだ。「さっきお祖母ちゃんが、父さんのことを女狂い≠チて言ったよ」
ルウ伯父さんは憎々《にくにく》しげに舌打ちした。
「あのクソババア、余計なことを」
「父さん、ほかの女の人のとこに行ってるの?」
伯父さんはハンカチをくしゃくしゃに丸めて、それでまた鼻の下を拭った。
「そういうこと、おまえ、わかるか?」
「わかるような気がする」
「ホントかよぉ」
「ドラマだと思って考えれば」
「うーん……その手があるか。ま、テレビじゃそんなことばっかやってるもんな」
伯父さんは太い腕《うで》を組んだ。亘も同じようにした。
「あれから、お母さんとはどんな話をした? お母さんはどんなふうに言ってる?」
「父さんと喧嘩《けんか》したって。それで父さんは、頭を冷やすために、しばらく家から離《はな》れて暮らすんだよって」
仲直りできれば帰ってくるから、心配しなくてもいいとも言ったのだ。
「お母さんの口からは、離婚《りこん》て言葉は出てこなかったんだな……」
「うん。全然言わなかった」
「おまえ、金曜日の夜に伯父さんと一緒に帰ってきて、お父さんと会って話をしたってこと、お母さんには言わなかったの?」
「言ったけど……父さんが離婚て言葉を使ったってことは、言わなかった」
言えなかったのだ。
「言ったら、お母さんガッカリするんじゃないかって気がして」
「なんで」
「だって──そうやって、父さんが僕に対してはっきり言ったってことは、父さんが考え直しをすることは、もうあり得ないってことじゃない。だけど、お母さんはまだ、そんなふうには考えてないんだ、きっと」
ルウ伯父さんはうなずいた。「おまえには、喧嘩だって言ったくらいだもんな」
なにしろ出し抜《ぬ》けだからなぁと、唸《うな》るような声を出して、ボサボサの髪《かみ》をかきむしった。
「明って奴《やつ》は、昔からそうなんだよ。何でも一人で考えて、結論しか言わないんだ。俺もそれで何度も喧嘩したけどさ。大事なことでも、全部自分で勝手に決めちゃうんだよな」
ルウ伯父さんが、亘としゃべっていて、自分のことを「俺」と言うのは珍《めずら》しい。これは別に伯父さんだけじゃなくて、母さんも亘としゃべるときに「あたしは」なんて言わない。いつだって主語は「母さんは」だった。父さんもそうだった。自称《じしょう》するだけじゃなく、お互《たが》いに呼び合うときだってそうだった。だから亘は、漠然《ばくぜん》とではあるけれど、大人になると、みんなそういうものなんだろうと思ってきた。先生だってそうだ。主語はいつも「先生は」だ。
大人になると、セキニンとかヤクワリとかの方が大きくなるから、「私は」なんて、うっかり言えなくなるのだ。だからこそ、大人になるのは面倒《めんどう》くさいのだ。子供の方が、自由でいいのだ。
「さっきの質問だけど」ルウ伯父さんが、亘の顔色を見ながら尋《たず》ねた。「おまえ、もしもお父さんに、ほかに好きな女の人がいたらどうする?」
「もしもじゃなくて、そうなんでしょ。だからお祖母ちゃん、あんなに怒ってるんだ」
「うん‥‥」
「お父さん、その人と結婚したいのかな」
ルウ伯父さんは、急にプリプリ怒りだした。
「冗談《じょうだん》じゃねえよな、一度結婚してるくせにさ」
「伯父さんはなんで結婚しないの?」
ルウ伯父さんは目を剥《む》いた。「今はそんなこと話してないだろ?」
でも亘には、それはとても大事な質問で、今こそ訊きたいことだった。結婚て何だ? 大人はなんで結婚するんだ? 一度結婚してるのに、どうして結婚し直したくなるのだ? どういう時にやり直したくなるのだ?
亘の真剣《しんけん》な気持ちが通じたのだろう。ルウ伯父さんは、きまり悪そうにモジモジしながら、しばらく考えて、答えてくれた。
「伯父さんは、まずモテないんだ」
「そうかな。伯父さんよりもっとモテそうにない人だって、結婚してるじゃない」
伯父さんは苦笑《くしょう》した。「おまえって、結構スルドく大人を問いつめるね」
明に似て、頭いいんだよなと、おまけのように呟いた。そしてまた、ひとしきり髪をかきむしった。
「伯父さんはたぶん──臆病《おくびょう》なんだよ」
「臆病って、怖《こわ》がりってこと?」
「うん、そうだ」
「そんなことないよ。伯父さん勇敢《ゆうかん》じゃない。ライフセイバーで、何度も表彰《ひょうしょう》されてるじゃないか」
「それとはまた違《ちが》うんだ。全然違う」
そして、亘の頭をぽんと叩いた。
「伯父さんは、そうだな、結婚すると、きっといつかこういうことを起こしちまう。それが怖いから、結婚できないんだ」
「こういうことって?」
「だから、今のこの状態」ちょっと両手を広げて、「わかるだろ」
「ほかに好きな人ができちゃうとか?」
「うん……だけど亘、結婚がうまくいかなくなるのは、それだけが原因じゃないよ。だからお父さんとお母さんのことも、それだけが悪いんじゃないよ」
「そうなのかな……」
亘は、父が出ていって以来、心の片隅《かたすみ》でずっと感じていた疑問を口にした。
「だったら、僕も悪かったんだと思う?」
ルウ伯父さんは、ギクリとして固まった。
「僕があんまし良い子じゃなかったから、父さん嫌《いや》になっちゃったのかな」
伯父さんは、今度は両手でがしがしと頭をかきむしり始めた。
「ああ、俺ってなんでこうなのかな。墓穴《ぼけつ》ばっかり掘《ほ》るな。言っちゃまずいことばっか言うんだよな、バカだから」
泣いたような声だった。
「伯父さん──」
「おまえは何も悪くないよ。何ひとつ悪いことなんかしてない。悪いのはお父さんだ。勝手なこと言って、家を出ていっちゃったんだから。だいいち、あの家出の仕方だって卑怯《ひきょう》じゃないか。おまえが出かけているあいだに、荷物まとめて逃《に》げようとするなんてさ」
僕が悪いのでなければ、父さんが悪くて卑怯だってことになる。僕も父さんも悪くなければ、母さんが悪いことになるのかな。僕も父さんも母さんも悪くなけれは、悪いのは、悪いのは──
「クソ! まったくどんな女なんだろうな」憤懣《ふんまん》やるかたないという口調で、伯父さんが吐き捨てた。「顔を見てやりたいよ。一発|殴《なぐ》ってやりたいよ」
悪いのはその女の人なんだな、きっと。
ぼんやりと並んで座っていると、エレベーターホールの方から、お祖母ちゃんが走ってきた。すぐ後を、母さんが追いかけている。
「お義母さん、お義母さん、待ってください!」
走りながら、必死で呼びかける。お祖母ちゃんは全然止まらない。それでなくても丸っこい身体《からだ》つきなのに、転がるような勢いで走る走る走る。
「悟! そんなとこで何してるんだい? 車を出しておくれ! 出かけるんだから」
ルウ伯父さんはベンチから立ちあがった。
「出かけるって母さん、どこへ行くんだよ」
「決まってるじゃないか、明のところだよ。頭から水ぶっかけて連れ戻すんだ!」
「そんな威勢《いせい》のいいことばっかり言ったって、何も解決しないよ。ちゃんと話し合いをしなくちゃ」
お祖母ちゃんは唾《つば》を飛ばして怒鳴《どな》った。
「バカ言ってんじゃないよ! 若い女のケツ追っかけて女房《にょうぼう》子供を捨てるようなバカ息子《むすこ》と話し合う口なんか、あたしゃ持ち合わせてないね!」
「お義母さん」亘の前で、母さんはしゃがんでしまった。「ご近所じゅうに聞こえます。やめてください」
お祖母ちゃんはますますカッカする。「聞こえたっていいじゃないか。そんなこと気にしてる場合かね。邦子さんあんたいつもそうなんだから。こうなっちゃ見栄《みえ》も体裁《ていさい》もないだろ? あんた、自分の置かれてる立場がわかってんのかね。どこの馬の骨とも知れない女に亭主《ていしゅ》寝取《ねと》られるなんて、そもそもはあんたが抜けてるからじゃないか!」
「おふくろ!」ルウ伯父さんが怒鳴った。亘は目の前に七色の星が飛び散るようだった。オンナノケツヲオイカケル。ネトラレル。
「親に向かって大声を出すもんじゃないよ!」お祖母ちゃんも負けてはいない。「悟も悟なんだ。図体《ずうたい》ばっかり大きいくせに、何の役にも立ちゃしない。明が出てゆくってときに、あんたなんで張り倒《たお》してでも止めなかったんだよ?」
ベランダから首を出して、こっちを見おろしている人がいる。母さんはしゃがんだまま両手で頭を抱《かか》えている。泣いてるみたいだ。
「おふくろ、とにかく今はそんな話はよせ」
ルウ伯父さんは、お祖母ちゃんの肩をぐいとつかんだ。乱暴な仕草だったけれど、お祖母ちゃんの両目が真っ赤になっていることに気づくと、急に空気を抜かれたみたいに、ぐったりと腕をおろしてしまった。
「ここでこんなことをやりあってたって仕方ないだろ」伯父さんは優《やさ》しい声で言った。「邦子さんも亘も可哀想《かわいそう》だ。とにかく俺たちは、いったんホテルへ引きあげようよ」
「あたしは明に会うんだよ」お祖母ちゃんは頑固《がんこ》に言い張った。
「会えるように、俺が手配するよ。ちゃんとやるから。な?」
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10 途方にくれて
結局、ルウ伯父《おじ》さんは何とかうまくお祖母《ばあ》ちゃんを宥《なだ》めることに成功して、二人でホテルへ向かった。それでもお祖母ちゃんは、明と話し合うまでは千葉へは帰らないと、頑強《がんきょう》に言い張っていた。あの大荷物は、その覚悟《かくご》のあらわれだろう。
亘と邦子は、黙《だま》りこくって家に戻《もど》った。亘がそのまま自分の部屋に行こうとすると、邦子がダイニングの椅子《いす》に腰《こし》かけながら声をかけた。
「亘、少しお母さんと話をしない?」
邦子はひどく疲《つか》れた顔で、頬《ほお》がげっそりとこけていた。さっき頭を抱《かか》えたりしたせいか、髪《かみ》も乱れている。亘は、母と向き合って座るのが辛《つら》かった。ああ病気なんだ、オカアサンハ、オモイビョウキニカカッテイルンダ。ハヤクオイシャサンヲヨバナクチャ。
「ごめんね」と、邦子は小さな声で言った。「あなたにこんな悲しい思いをさせるなんて、お母さん申し訳なくて」
亘は黙って俯《うつむ》いていた。そこはいつもの亘の席で、邦子もいつもの邦子の席に座っていて、明の席は空けてあった。それは長年の習慣で、今さら言葉で指示する必要などない。ずっとこうやって座ってきたのだから。
そのポジション取りだけを見るならば、今までと何の変わりもなかった。明がゴルフや出張で不在にしている日曜日。それとまったく同じだった。この父さんの椅子に、何のことわりもためらいもなく、当たり前のようにして僕や母さんが座ったり、誰《だれ》かほかの人を腰かけさせる時は来るのだろうかと、亘は考えた。
「お母さんや僕が悪いわけじゃないって、ルウ伯父さんが言ってた」と、亘は言った。「悪いのはお父さんと──今お父さんと一緒《いっしょ》にいる女の人だって」
邦子は亘と同じようにうなだれたまま、かすかに眉《まゆ》をひそめた。
「女の人、ね」と、呟《つぶや》いた。
「そうなんでしょ?」
邦子は目をあげて、ほんの少し微笑《びしょう》した。「さっきお祖母ちゃんが言ってたこと、あんた、しっかり聞いちゃったもんね。今さら隠《かく》したって無駄《むだ》よね」
「うん」
「それがどういうことだか、わかる?」
「わかると思うよ」
テレビドラマで、そういうこといっぱいやってるもんねと、先ほどのルウ伯父さんの注釈《ちゅうしゃく》をさっそく利用して、亘は答えた。
「テレビドラマかぁ」邦子はため息をついた。「そうね。お母さんも、こんなことはドラマのなかだけのお話だと思ってた。身の上相談とかだって、あんなのほとんどやらせだって。まさか自分の身の上に降りかかってくるなんて、夢にも思わなかったわよ」
独り言みたいに呟く。
「みんな他人《ひと》事《ごと》だと思ってた。こんなことになるのは、家庭がちゃんとしてなくて、だらしなくって、いろいろなことが上手《うま》くいってない人たちのことだ、自分には関係ないって。そんなふうにタカをくくってたから、バチがあたったみたいね」
そんなことないよと言ってあげるべきなんだけれど、亘は黙っていた。亘自身だって、お母さんと同じように感じていたからだ。
口をついて出てきたのは、質問ばかり。
「僕たち、どうしたらいいんだろ。どうしたらお父さん帰ってきてくれるんだろ」
「わからない」
邦子はすぐさま、短く答えた。正直な本音が、思わずこぼれたというふうに。この言葉の主語は「わたしは」だった。でも、すぐに気を取り直して、「お母さんは」が隠れた主語になっている言葉を続けた。
「だけど、亘はそんなこと考えなくていいのよ。何にも心配しなくていいの。あなたが悪かったわけじゃないって、伯父さんもそう言ったんでしょ? お母さんもそう思うわ。これはお父さんとお母さんの問題なんだから」
父親|譲《ゆず》りの亘の頭は、それは違《ちが》うと反論を組み立てる。確かに「明と邦子」の問題なら、亘は関係ない。でも、「お父さんとお母さんの問題」なら、それはそもそも亘|抜《ぬ》きでは成立しない問題なのだから、亘抜きで解決できるわけがないのだ。主語が違うよ、お母さん。
だけど、今こんなことをお母さんに言い返して、何になるってんだよ。
「お父さんは僕に、お母さんとは──離婚《りこん》しても、亘のお父さんであることに変わりはないって言ってた」
「それは──金曜日の夜に、あんたがルウ伯父さんと一緒に帰ってきたとき?」
「うん、そう」
「お父さん、あんたにそんなこと言ったの」
邦子の目に、涙《なみだ》が溢《あふ》れた。
「どうしてすぐにお母さんに言わなかったの? あんた、そんなことちっとも言わなかったじゃないの。お父さんはしばらく出かけて帰らないって言ったって、それしか言わなかったじゃない」
実際、亘はそんなふうに嘘をついたのだった。
「ごめんなさい」
「なんで謝るの。あんたが謝ることじゃないわよ」邦子はテーブルに肘《ひじ》をつき、両手で顔を覆《おお》ってしまった。「あんたに謝られたら、お母さんどうしていいかわからないじゃない。非道《ひど》いわ」
テーブルに突《つ》っ伏《ぷ》し、呻《うめ》くような声をたてて泣きだした。ごめんなさいと、亘はまた呟いた。涙が出てきて、目の前がぼやけた。こすってもこすっても、ぼやけて見えた。
「違うのよ、亘、ごめんね」
邦子は顔を伏せたまま、泣き泣き言った。
「非道いのはあんたじゃないの。お父さんよ。だってそうじゃない。あんたにそんな言い訳聞かせて、お父さんはお父さんで変わりないんだからいいだろなんて言って、あんたが何にも言い返せないようにして、あんたが一人で呑《の》みこまなくちゃならないようにして、それで出てゆくなんて」
ふと、ルウ伯父さんの声が蘇《よみがえ》ってきた。明は苦からそうなんだ。何でも一人で考えて、結論しか言わない。
そう、お父さんはそういう人なんだ。筋道立てて物事を考えて、正しい結論を見つけたら、どんなことがあってもそれを貫《つらぬ》き通す。そういう時のお父さんには、どんな反論だって通用しない。このマンションを買うときだってそうだったじゃないか。
正しい結論。三谷明にとっての正しい結論は、邦子と亘を捨てて出てゆくことだった。だからそうしたのだ。でも、お父さんがお父さんにとって正しい≠サの結論を導き出すまでの過程を、僕は何にも知らされてない。そこに計算間違いがないかどうか、確かめてみなくちゃいけないじゃないか。
今までは、全部お父さんに任せてきた。お父さんなら間違いをしないって。いつだってそうだったから。だけど今度は違う。今度のこれは間違いだ。誰かお父さんにそれを教えてあげなくちゃ。検算してあげなくちゃ。
「お父さん、お母さんには何て言ったの?」
亘の問いかけに、邦子は顔をあげて首を振《ふ》った。涙がぼろぼろ落ちる。
「そんなこと、あんたは知らなくていい!」
「僕、教えてほしいんだもん」
亘は一生|懸命《けんめい》に、今自分で考えたことをしゃべった。邦子は涙でうるんだ目で亘を見つめ、痛ましいくらいに辛そうに微笑した。
「あんたはこんなに良い子なのにね」
「お母さん──」
「いいのよ。あんたはもう心配しなくて。大丈夫《だいじようぶ》──」邦子は大げさにうなずいた。「お母さんがやるわ。あんたの言うとおり、お父さんの計算間違いを見つけて、教えてあげるから。そしたらお父さん帰ってくるわ。だから亘は、お父さんは出張に行ってるんだって思ってて。ホントにそうなんだから。お父さんはちょっと、面倒《めんどう》なお仕事があって、しばらくかかりっきりにならなきゃならないの。だから出張よ。いいわね?」
これでは、今度はお母さんの言うことを、丸呑みしなければならなくなる。それじゃ同じことなのだけれど、亘にはそれしかないのだろうか。
「そうよ。あんたはこんなに良い子なんだから、お父さんを失《な》くさせたりしない」と、邦子は宣言した。「お母さん、頑張る!」
たった一度のこの話し合いを境に、お母さんは亘に何も言わなくなった。千葉のお祖母ちゃんやルウ伯父さんと会ったり、電話で長いこと話し込んだり、小田原の実家に電話をしたりすることはあるけれど、それで何がどうなったのか、どんな話をしているのか、亘にはまったく教えてくれない。
お父さんは出張よ。つまり、そういうこと。頭から嘘だとわかっているのに、亘にそれを信じろというのである。
それではあまりに辛《つら》すぎて、こっそりルウ伯父さんに尋《たず》ねてみた。だがルウ伯父さんも、この間題が持ちあがったばかりのころとは全然様子が違ってしまっていた。
「お母さんには何て言われてる? お母さんの言うとおりにして、亘は普通《ふつう》に暮らしてればいいんだよ」
なんてことを言うのだ。
「あと半月もすれば、夏休みじゃないか。八月になったらこっちへ来るんだろ? 伯父さんはそのつもりで待ってるんだからな。宿題をちゃんと終わらせとけよ」
きっとお母さんから、亘には何も言わないでくれと頼《たの》まれているんだろう。それぐらいちゃんと察しはつく。だから食い下がった。
「お祖母ちゃんはどうしてるの? お祖母ちゃん、お父さんと会ったの?」
「お祖母ちゃんなら店で忙《いそが》しくしてるよ。だから亘は余計なこと考えなくていいんだよ」
「余計なことじゃないよ! 僕のことじゃないか!」
思わずカッとなって言い返すと、伯父さんはとたんに声をしょぼしょぼさせた。
「そんなことを言って、伯父さんを困らせないでくれよ」
「困らせるつもりなんかないよ、だけど」
「おまえはまだ子供なんだよ。大人の問題を背負い込むことなんかないんだ。亘は何も悪くない。だから、亘が何かしなくちゃならないという責任もない。伯父さん、おまえのお母さんからも頼まれてるんだ。亘には、悩《なや》むことはないって言い聞かせてやってくれって。だから頼むよ。な?」
おかしい。ルウ伯父さんはこんな人じゃなかったはずなのに。僕の言うことよりも、お母さんの言うことの方を絶対優先しちゃうなんて、全然伯父さんらしくないじゃないか。
こうなったら──もう、直《じか》にお父さんに会うしかない。
お母さんに内緒で、そんなことはできない。しちゃいけない。そう思ってきた。だけどお母さんの方は亘に無断で、亘には見えない場所、聞こえないところで何かをしようとしてる。片づけようとしてる。そんなのフェアじゃない。
だったら僕だって、自分の考えに従って行動したっていいはずだ!
七月に入ると、憂鬱《ゆううつ》な梅雨《つゆ》空《ぞら》の日々は少なくなり、陽射《ひざ》しも一気に強くなった。テレビの天気予報では、眼鏡《めがね》をかけた予報官が天気図を指し示しながら、気温の変動が激しいので風邪《かぜ》をひきやすいですよとにっこりし、梅雨の終わりの集中|豪雨《ごうう》にご注意を──と呼びかけている。
夏休みはもう目前だ。みんな浮かれている。塾《じゅく》の教室のなかにさえ、カウントダウンの気分が満ちている。五、四、三、二、一、さあお休みだ! 実際には、塾のカリキュラムは夏休み中も──いや夏休み中だからこそ──豊富に用意されており、すべてを受講するつもりなら、休みらしい休みはほとんどないほどなのだけれど、それでもやっぱり、みんなワクワクする。勉強しなくてはならないということと、学校が休みだということは、実はまったく別モノなのだ。そして、子供たちにとってより重要なのは、前者よりも後者の方なのである。
亘は一人だけ、どんな種類のトキメキからも離《はな》れた場所に心を置いて、級友たちのあいだに混じっていた。外から見ても、これという変化は感じられなかったろう。実際、友達の誰かから、最近元気ないねなんて声をかけられることはなかった。まとまった学力テストの実施《じっし》される時期ではないので、成績の急降下が担任の先生の注意を引くということもない。
唯一《ゆいいつ》の例外は、もちろん、カッちゃんである。彼の目だけはごまかせなかった。
「ミタニ、なんか最近|怒《おこ》ってない?」
お祖母ちゃん戦車が来たりて撃《う》ちて壊《こわ》して去った日曜日から、ちょうど一週間後のことである。亘は小村家に遊びに来て、二人でカッちゃんの部屋にいた。大きな押入のある四畳半《よじょうはん》で、窓の向こうには物干場が見える。洗濯物《せんたくもの》が盛大にひるがえっている。
亘はテレビゲームの画面から目をそらして、カッちゃんの顔を見た。カッちゃんはカルピスソーダの入ったジョッキを片手に、少しばかり困ったように両の眉毛をさげている。
亘の分のジョッキは手つかずのまま、お盆《ぼん》の上で汗《あせ》をかいていた。階下《した》のお店でチューハイや生ビールを出すのに使っているジョッキだから、なにしろ大きい。全部飲むとゲップが止まらなくなりそうだ。
案の定、ジョッキを半分以上カラにしているカッちゃんは、続けて何か言おうとして口を開いたとたんに、「ゲプ」とやった。
亘は笑った。カッちゃんも笑った。テレビ画面いっぱいに映し出されているのは格闘《かくとう》ゲームで、コントローラーを落として笑っているあいだに、亘の操《あやつ》っていたキャラはコンピュータにボコボコにされてしまった。
「なんか、ずっと怒ってるみたいな顔してるよな、ここんとこ」と、カッちゃんは言った。
そんなふうに見えていたのかと、亘は静かに驚《おどろ》いた。もちろん怒《いか》りはあるけれど、それだけが顔に出ているなんて、自分ではまったく気づいていなかった。
この一週間、亘はなんとか明と連絡《れんらく》をとろうと、あの手この手で努力してみた。とにかく一度でも電話がつながればいい。ところがこれが、月へ行くのと同じくらい大変だった。信じられないことだけれど、世の中の仕組みはそういうふうになっているのだ。
明は携帯《けいたい》電話を持っているが、亘はその番号を知らない。今までの生活のなかでは、知る必要なんかまったくなかったからだ。あの金曜日の夜中、ボストンバッグを提《さ》げて出てゆくときに、明は「携帯電話は活《い》かしてあるから、それで連絡がとれる」と言っていた。だから番号さえわかればいいのに、これがわからない。
もちろん、邦子が教えてくれるはずはない。あれ以来、「お父さんは出張中」という筋書きのなかに亘を閉じこめておこうと──もちろんそれが亘のためだと信じるからこそなのだけれど──必死になっているのだから。
家のなかに書きとめてあるはずだと、アドレス帳や電話帳をめくってみた。どこにも書いてない。ホームテレフォンの短縮ダイアルに登録してあるのではないかと、邦子の目を盗《ぬす》んで電話機のマニュアルを探し出し、調べてみたけれど登録もない。ひょっとすると邦子が、こういう事態を想定して、消してしまったのかもしれない。うん、充分《じゅうぶん》あり得《う》る。
となると、次は会社た。ところが亘は、ことこういう局面に立たされて初めて、父が勤めている会社名こそ知っているものの、その先は何も知らないということに気がついた。本社にいるのか、どこぞの支社にいるのか、営業所にいるのかもわからない。
それでも、電話帳に載《の》っている本社支社営業所サービスセンター、片《かた》っ端《ぱし》から電話してみた。すると今度は別の関門が立ち塞《ふさ》がる。三谷明が所属しているような大きな会社では、電話帳や一〇四で調べることのできる代表番号に電話をかけて、ただ「三谷明をお願いします」と言っても、あっさりとつないではくれないのだ。必ず所属部課名を訊《き》かれるし、「おうちの方ですか?」「坊《ぼう》や、どういうご用件なのかしら」と追い打ちが来ることもある。亘が訊かれたことに答えられないと、そのアヤフヤさをすぐに怪《あや》しまれ、「イタズラは良くないね」と叱《しか》られたり、「お母さんがお急ぎのご用でお父さんとお話をしたいということなのかしら? それならお母さんと電話を代わってね」なんて言われたりする。あれこれ言い抜《ぬ》けようとすると、かえって逆効果になるだけだ。
僕は本当に三谷明の子供で、ただお父さんと話をしたいだけなんですが。
それらの事どもを、最初から今までの一連の出来事を、亘はゆっくりと、カッちゃんにうち明けた。もうしゃべりながら涙ぐむようなこともなかったし、興奮もしなかった。すっかり手詰《てづ》まりになってしまって、疲れてしゃがんで休んでいるような心持ちだったから。
カッちゃんは、それでなくてもクリクリした目をまん丸に見開いて、ひと言も発さずに話を聞いていた。亘がひととおりの話を終えて、ジョッキに手をのばして持ちあげると、それをぽかんと見守りながら、呟いた。
「スゲエ」
なんだかよくわからない衝動《しょうどう》が込《こ》みあげてきて、亘は発作《ほっさ》的に、ちょっとタガが外れたみたいに笑った。
「うん、スゲエでしょ」
「お父さんとお母さんがムカシ離婚しましたっていうヤツなら、ほかにも知ってるけど」
「うん、それなら僕も、宮原がそうだし。ほかにも塾にいるから」
「同じヤツかな? 二組の田中じゃない?」
「違うちがう。佐藤って女の子。学校が違うんだ」
「交通事故でお父さんが死んだってヤツもいるけどなぁ」カッちゃんが真顔で言う。「そういうの、自分のことみたく考えたことってないよ」
亘だってそうだった。
「だけどミタニ、やっぱその──どうしても小父《おじ》さんと話、したい?」
「しないと、何が何だかわかんないままだろ? ムカつくよ」
「うん……」
カッちゃんは空っぽになったジョッキをのぞきこんで、またゲプと言った。それでも今度は笑わず、真面目《まじめ》な表情のままだ。
「でもさ、小母《おば》さんに任せとけば、うまくいくかもしんないじゃない?」
「それで父さん帰ってくる?」
「うん。なんかそんなもんらしいよ。ケッコンしてるとさ」
「誰に聞いたんだよ、そんな説」
「店で話してるもン。うちの父ちゃんと母ちゃん、夫婦喧嘩《ふうふげんか》やめさせるの上手いらしいんだよね。けっこう頼《たよ》りにされてンだ」
「お客さんがそういう話を持ち込んでくるってわけ?」
「そ、そういうこと」
「他所に女の人がいても、じっと我慢《がまん》してれば帰ってくるって、そういう例がいっぱいあるって意味? そんなの保証できんの、カッちゃん」
そんなもん、誰にもできるわけがない。カッちゃんは困って黙ってしまった。
「このままじゃ、僕は嫌《いや》なんだ」と、亘は言った。頑《かたく》なな口調だが、むろん本人にはわからない。
「ミタニ、頭いいからさ。だから曲がったこと嫌いだもんな」と、カッちゃんは言った。
「ミタニの小父さんに電話できればいいってんなら、何とかなるかもよ」
あまりにあっさり言われたので、亘がどきんとするまで二、三相《ぱく》かかった。
「ホントか?」
「うん、ホント。名簿《めいぼ》に載ってるから」
「名簿?」
去年の防災の日に、このあたりの八つの町内会が合同で防災訓練を行った。小村の小父さんが実行委員の一人として大活躍《だいかつやく》したのを、亘も覚えている。
「あのとき、町内会の緊急《きんきゅう》連絡簿みたいなのを作ったんだよ。ミタニの小父さんは実行委員じゃなかったけど、地震《じしん》とか火事とかあったときの緊急連絡ナントカ委員ていうのにはなっててさ、それでね、名簿に会社の住所とか電話番号とか載ってるんだよ。オレ、見たことあるもん」
亘はカッちゃんに飛びついた。「それ、見せて!」
三分とかけずに、カッちゃんはその名簿を探してきた。コピー用紙をホチキスでとじて、表紙をつけただけの簡単なものだ。でも、内容はしっかりしていた。
「三谷明──あった!」
勤務先の部課名と直通電話の番号まで、ちゃんと書いてある。
「電話借りていい?」
「いいけど、今日はダメだよ。だって日曜日じゃんか。会社休みだよ」
あ、そうか。
「明日、帰りにウチに寄りなよ。オレ電話かけたげる」
「カッちゃんが?」
「うん。バイトのあんちゃんのフリして、お客さんの三谷さんがお店に忘れ物しましたっていって、小父さんを電話口に呼んでやるよ。オレそういうの、しょっちゅうやってっから。そうでないと、またお母さんに代わってとか言われたらメンドウじゃんか」
「そうか。カッちゃんさえてるね」
カッちゃんはエヘヘと笑った。「いつも宿題教えてもらってるばっかだけどさぁ、こういうことなら任せてよ」
とても得意そうな顔をして、「それにさ、最初からミタニが電話してきたってわかったら、小父さん電話に出てくれないかもしンないじゃん?」
と言い切り、亘の顔を見て、口をつぐんだ。「ゴメン。オレってば調子こいてヘンなこと言った」
亘は首を振った。心はザックリ切れていたが、無理してかぶりを振った。
「いいよ、カッちゃんの言うとおりだもん」
「そんなことないよ。オレ──」
「いいや、あってるよ。だって父さん、僕がいないあいだに家を出ようとしたくらいだ」
亘と直に話し合うことを避《さ》けようとする可能性は、大いにある。カッちゃんはスルドイ。
しかし本人は、「ごめん」と呟いてしおしおにしおれている。
「いいんだよ、気にするなって。それより、ゲームやろうよ」
カッちゃんはノロノロとコントローラーを手に取った。それでも気まずい雰囲気《ふんいき》は消えない。亘も頬のあたりがピクピクするようで、とりつくろうような言葉も出てこない。
「そういえばさぁ」カッちゃんが、出し抜けに調子っぱずれな声を出した。「ミタニ、塾で芦川と一緒だろ? あいつの話、聞いた?」
カッちゃんの健気《けなげ》な話題|転換《てんかん》に、亘は喜んで飛び乗った。「何の話だよ? あいつまたお化けの写真でも撮ったの?」
「あれ、、ミタニ知らないの? あいつさぁ」
アメリカ育ちなんかじゃ、全然なかったというのだ。
「なんかさ、親戚《しんせき》の伯父さんがコンピュータの会社に勤めてて、転勤でアメリカにいるんだって。なんかあんまし聞いたことないようなところ。ニューヨークとかじゃなくてさ」
芦川は、転校してくる前、一年ほどその伯父さんのところに行っていただけなのだという。生まれは川崎市内だそうだ。
「なぁんだ」
アレまあ、である。
「だけどアイツ、英語上手いんだろ?」
「うん。でも、ちょっとはアメリカにいたんだったら、僕らよりは上手くても当然じゃないの」
芦川はああいうヤツだから、自分で自分のことを宣伝したりはしないと思う。アメリカに住んでいたことがあるという話が、級友たちのあいだを伝わるうちに、自然とふくらんで「外国育ち」になってしまったのだろう。そして、今ごろになってそれが訂正されるというのは、芦川が、それだけみんなになじんで、定着したという証拠《しょうこ》だ。訂正作業の方こそ、本人がやっているんじゃないのか。
「でも、伯父さんと住んでたことがあるなんてさ、あいつも──家の中、なんかあったのかな」
ふと思った。今の亘は、どうしてもそういう方に気が行ってしまう。芦川が変わったヤツで、ときどき怖《こわ》いようなところがあるのも、家庭に原因があるからじゃないのか。
「ミタニは、芦川とはあんまし付き合わないの?」
「付き合わないよ」亘はすぐに言った。「何度かしゃべったけど、あいつ変なヤツだもん。スカしててさ」
この前の神社での会話の詳細《しょうさい》──声川にいろいろ言われたということ自体は覚えているものの、その内容はほとんど記憶《きおく》にない。
どうやら、亘のなかから幻界《ヴィジョン》≠フ記憶が消えると同時に、それに関わる周辺の記憶も、一緒に薄れているようなのだ。魔導士《まどうし》のことも、扉《とびら》のことも、そこへ駆《か》け込んでいった芦川のことも。それだけでなく、芦川への興味や関心もぐっとダウンして、幽霊《ゆうれい》ビルに近づくなと、ほとんど脅迫《きょうはく》的な言葉で釘《くぎ》をさされたことも、スルリと忘れている。もしも誰かが、ここしばらくの亘の行動や体験を、逐一《ちくいち》見守っていたとしたら──そう、ちょうど今これを読んでいる皆《みな》さんのように──すぐにもそのことに気がついて、亘に「おかしいよ」と教えることができるだろう。でも現実には、そんな便利な存在はどこにもいないので、亘はケロリとしているのだった。
「実はムズカシイ奴《やつ》なのかもね」カッちゃんはコントローラーを握《にぎ》った。「誰もあいつの家に遊びに行ったことないンだってさ」
亘も2P側のコントローラーを手にした。「実は人気《にんき》ないんじゃないの?」
「宮原とは仲いいんだってね。だけどあいつも家には行ったことないんだって」
「カッちゃん、それ誰から聞いたの?」
「サクマに聞いたんだ。あいつホラ、うちのクラスの女子と仲いいじゃん」
「おしゃべりサクマか」
「芦川のこと追いかけ回してたんだけどさ、相手にしてもらえないんで、周りをウロウロ採《さぐ》り回ってんだよ」
「そういうの、ストーカーとか言わない?」
「石岡たちはどうなのかな? 心霊写真のこととか、まだしつこくしてンのかな。ほら、前にあったじゃんか、図書室で。芦川、石岡たちに取り囲まれてたよな?」
亘の記憶がちょっと乱れ、そう、あの雨の日の図書室の光景が蘇った。石岡たちを退《しりぞ》け、落ち着き払《はら》って窓を開けて、亘を真《ま》っ直《す》ぐに見つめたあの瞳《ひとみ》。
──あのとき、アイツどうやって石岡たちを追い払ったんだろう? 水底の泥《どろ》が、ボートのオールにかきまぜられて浮かび上がるように、ふわりと疑問が浮かんできた。今の今まで、気にしたことさえなかった疑問。これもまた幻界≠ニ関わりがあるが故《ゆえ》に、亘のなかから消えていたことのひとつなのだが、本人は知る由もない。
現実生活がそれどころではなかったのを隠れ蓑《みの》に、それらは皆、ひっそりと亘の心から退場していこうとしている。気づかれぬように、悟《さと》られぬように。
幻界≠ヘ遠くなる。
「オレ、紅蓮三戟蹴《ぐれんさんげきしゅう》からの空中コンボ、バッチリ出せるようになったんだ。見たい?」
カッちゃんがニヤリとした。
「見たい見たい。ホントかよ」
「ホントなんだなぁ、これが。おりゃ!」
ゲームしているうちに、陽《ひ》が暮れた。
翌日の放課後、亘は家に寄らず、カッちゃんと一緒に直に小村家に行った。小父さん小母さんはお店の準備に忙しく、二階の電話機の周りには誰もいなかった。
カッちゃんの言葉に嘘はなく、「任せてよ」というのは安請《やすう》け合いではなかった。電話をかけたとき、三谷明は会社にいた。席にいた。だからすぐにつながった。
差し出された受話器を受け取って耳をつけると、心臓が耳の穴のすぐ内側に移動してきているみたいに、どきんどきんと音がした。
「もしもし、お父さん?」
店名がよく聞き取れないが居酒屋みたいなところから、お客さん忘れ物してませんかという問い合わせがきた──というつもりで電話に出たはずの三谷明は、瞬間《しゅんかん》、黙った。亘はその沈黙を、必死で聞き取ろうとした。
「僕です、亘です」
父はまだ黙っている。
「会社に電話かけたりしてゴメンナサイ。お父さんの携帯電話の番号、ボク知らなくて。お母さんも教えてくれないし。だけど、どうしてもお父さんと話したかったから」
何の根拠《こんきょ》もない直感が、亘の心の隅《すみ》で囁《ささや》いた。デンワ、キラレチャウヨ。
だが、三谷明は言った。「元気か?」
亘は急に身体《からだ》が震《ふる》え出して、受話器を耳に押し当てることさえ難しくなってしまった。
「もしもし? 亘、元気なのかい?」
カッちゃんがじっとこちらを見ている。見つめちゃ悪いんだろうけど心配だからサ、というような顔で、耳たぶをひっぱりながら。
「うん──あの、元気です。ちゃんと学校行ってるし」
「そうか。それならよかった」
「お父さん──」
「このままこの電話で話すのは、ちょっと難しいんだけどね」
「それじゃどうしたらいい?」
少し、間が空いた。明のいるオフィスはとても静かなところであるようで、何の音も聞こえない。
「今週の土曜日は、学校はお休みか?」
「うん」
「それじゃ、どこかで会おうか。亘と父さんと、二人で」
心の痺《しび》れがとれて、急に血が巡《めぐ》り始めたみたいに、じいんとした。
「うん」
「あんまり遠くない方がいいな。去年だったかなぁ、一緒に本を借りに行った都立図書館、覚えてるか?」
亘の家から、バス停にして八つ分くらい離れたところにある図書館である。
「うん、わかる」
「そこの貸出しカウンターの前でどうだ? お昼に」
「ちょうどお昼? 十二時だよね? うん、いいよ、大丈夫だよ」
明は携帯電話の番号も教えてくれた。亘はそれを、急いでメモして復唱した。閉じこめられている檻《おり》の鍵《かぎ》を開ける番号をゲットしたみたいに、一心不乱に。
「亘──」
「うん、なぁに」
「おまえにこんなことを言うと、怒るかもしれないけれど、その日は父さん、おまえと二人きりで話をしたい。だから──」
「うん、お母さんには内緒で行くよ。僕もお父さんと二人で会いたいから」
それじゃ切るよと、明は言った。亘はありがとうと言って、カチリと切れる音を確かめるまで、じっと耳をあてていた。
「小父さんと会えるか?」カッちゃんが身を乗り出した。
「うん、土曜日に」
口から飛び出したその声が、妙《みょう》にしわしわしているので、そこでやっと、オレちょっぴり泣きそうなんだと気がついた。
「ミタニ一人で行くの? 小母さんは?」
「今度はオレだけ。そういう約束だし」
「そっかぁ」意味ありげにうなずく。「そうだよな、この場合《バヤイ》。そいで、気が済むまでしゃべってさミタニの知りたいことを教えてもらってくればいいよな? オレ、よくわかんないケド、そんな気ィする」
「カッちゃん、ありがとう」
「なんのなんの」カッちゃんは照れた。「オレは、チャッチャッとやっただけじゃんか」
土曜日まで、気持ちが落ち着かなくて困った。変にソワソワして、お母さんに、どうかしたのかと尋ねられても困る。夜|眠《ねむ》っていて寝言《ねごと》を言っちゃったらどうしようかなんて、そんなことまで考えた。
当日の朝は、五時|頃《ごろ》に目が覚めてしまった。ひとりでぼんやりリビングに座っていると、あの金曜日から土曜日の朝にかけて、ルウ伯父さんとここで、二人で過ごした時のことが思い出された。
その連想が不吉《ふきつ》なのか、心理的にはもっともなものなのか、わからない。ただ気がついたら、亘はあのときルウ伯父さんが頭を抱えて座っていたのと同じ場所に座り込んで、膝《ひざ》を抱《だ》いていたのだった。
宮原君と一緒に都立図書館に行くと言って、家を出た。邦子は何も感じていないようで、往復のバス代と、お昼代に五百円くれた。出がけに仰《あお》いだ母の顔は、眩《まぶ》しい夏の午前中の光に照らされ、残酷《ざんこく》なほど老《ふ》けて見えた。まるで洗い晒《ざら》しのカーテンのようだった。
二時間も早く着いてしまって、開架《かいか》式の書架のあいだを歩き回り、手当たり次第《しだい》に本を読み散らして過ごした。何を読んでも頭に残らず、ただ文字の列がアリンコの列みたいにぞろぞろ通過してゆくだけだった。
几帳面《きちょうめん》な三谷明は、約束の時間もきちんと守る。十二時五分前に、亘が貸出しカウンターの前に行ってみると、父は来ていた。
アースグリーンのポロシャツに、白っぽいズボン。真新しいスニーカー。どれも見覚えのないものだ。それに明はレンズの小さな縁《ふち》なし眼鏡をかけていた。お父さんが軽い近視だということは知っていたけれどそのデザインの、眼鏡をかけているのを見るのは初めてだった。
縁なし眼鏡は、よく似合っていた。
「なんだ、もう来てたのか。待っただろう」
口調は落ち着いていて、静かで、亘の知っている父さんに変わりはなかった。あの夜、家を出てゆくときに見せた、翳《かげ》った顔、雲《くも》った声、落ちた両肩《りょうかた》──あれはあの夜限りのことで、今はもう消えている。
考えてみたら、あれからもう二週間以上|経《た》っているのだ。久しぶりに仰ぐその顔から受ける印象を言葉にしようとして、亘はちょっとのあいだ、目を瞠《みは》って考えた。
上手く──表現できない。お母さんほどじゃないけれど、お父さんも痩《や》せたみたいだ。だけど──褪《あ》せてはいない。それよりむしろ──なんだかそう、お祖母ちゃんがよく使う言い回し──
(小ざっぱりとして)
若返ったみたいな感じがする。
(バカだな、そんなワケあるかよ)
父さんが家出して若返るなんて、考えるだけで失礼だ。誰に? それはえっと、僕にも母さんにも。
「そんなにしげしげ見られると、父さん、きまりが悪いなぁ」
三谷明は微笑してそう言った。亘はあわててまばたきをして、でも何を言ったらいいかわからず、
「お母さんに、お昼代五百円もらった」
なんてことを口に出した。
「そうか。それじゃそのお金は、こっそりお小遣《こづ》いにしなさい。お昼は父さんがご馳走《ちそう》するよ。何が食べたい?」
食べたいもののことなんか、全然頭に浮かばない。何でもいいよ、どっかそのへんを歩き回るだけでもいいよ。父さんといられるなら、何だっていいよ。
「風があって気持ち良いから、公園を歩くか。さっきここへ来るときも、通り抜けてきたんだ。ホットドッグの屋台が出てたぞ」
亘は父の後について、図書館から公園の方へ向かった。図書館の南側一帯に広がる、震災などの非常時には避難《ひなん》場所になる大きな公園で、広い芝生《しばふ》は、目にしみるほど青々としている。緩《ゆる》やかな曲線を描《えが》く遊歩道をたどって歩いて行くと、中央に小さな噴水《ふんすい》のある円形広場に出る。そこここに人が散っているけれど、運良く空いているベンチが見つかった。
「ここにするか」と、明が言った。
大型のヴァンを改造した屋台は、広場の端っこに停《と》まっていて、雪だるまみたいに太ったおじさんとおばさんが、愛想《あいそ》良くニコニコ笑いながら商売をしていた。亘がホットドッグとコーラを二人分注文すると、ポテトも揚《あ》げたてで美味《おい》しいよと勧《すす》められた。近寄ってみて初めて気づいたのだけれど、ヴァンの運転席には幼稚園《ようちえん》ぐらいの小さな女の子がいて、コーンカップに載せたバニラアイスクリームを舐《な》めていた。おじさんとおばさんの子供なのだろう、きっと。
明と亘はベンチに並んで座り、昼食を食べた。それどころじゃなかったから、味なんてどうでもいいやという気持ちだったのに、パクリとやってみると、それはそれは美味しいホットドッグだった。明も感心したようで、昼時、会社の近くに、こういう屋台が回ってきてくれるといいんだがと言った。いい店が少ないんだよ。
それを言われて亘は、もう何年も前のことだけれど、父さんがお弁当を持って会社に通った時期のあったことを思い出した。一年間ぐらいだったろうか。そのうちに所属部署が変わって、お昼も得意先の人と食べる機会が増えたので、弁当は必要ないと言って、やめになった。
学校はどうかとか、小村君も元気かとか、一学期の通信簿には自信があるかとか、父さんは穏《おだ》やかな声で、いろいろ質問した。その平和な雰囲気に浸《ひた》っていると、家のなかには何事も起こっておらず、ただ二人で散歩に来ているみたいだった。家では母さんが洗濯をして布団《ふとん》を干して、父さんの靴を磨《みが》いて、父さんのYシャツにアイロンをかけている──
話が少し切れて、沈黙が落ちた。噴水の音がきれいに聞こえる。
「お父さん、いつからその眼鏡をかけてるの?」
入口を手探りするようなつもりで、亘は問いかけた。
明は緑なし眼鏡をちょっと持ちあげて、
「ヘンかな?」
「ううん、似合うよ」
亘の頭の隅を、さわさわっと質問がよぎった。その眼鏡を選んだのは、今いっしょにいる女の人なのかなぁ。幸い、亘が強《し》いて捕《つか》まえようとしなかったので、その質問は言葉にならず、どこかに消えてしまった。
「似合うけど、なんだかお父さん、知らない人みたいに見えた。最初に見たとき」
「ふうん、そうか」
明は言って、また眼鏡をずり上げた。
「そんなはずはないんだけどな」
「お父さん」
「うん?」
言いにくい質問のはずなのに、つるりと口をついて出てきた。
「もう、ゼッタイ家には帰ってこないの?」
明は小さなレンズごしに亘の目を見て、それからゆっくりと視線をさげた。足元に、ホットドッグからこぼれたケチャップが数滴《すうてき》落ちている。
「お母さんは、待ってればお父さんは帰ってくるって言ってた。だから何も心配しなくていいって」
ホットドッグの屋台の周りには、にぎやかにお客さんたちが集まり、大繁盛《だいはんじょう》だ。ベンチもみんな塞がってしまった。亘よりずっと小さな子供たちが、噴水の水をパシャパシャ跳《は》ね散らかして遊んでいる。飛沫《しぶき》が光にキラキラ光る。
「それ、ホントなの? 僕ホントにそう思ってていい?」
三谷明は眼鏡を外すと、膝の上に置き、両手でゆっくりと顔を撫《な》でた。それから、亘の方を見た。
「父さんはずっと亘の父さんだよ」
その言葉は、水面に投げた石が、ひとつふたつ跳ねて、水を切って飛んでゆくように、亘の心の表面を弾《はじ》いただけだった。
「僕はそんなこと訊いてるんじゃないんだ。わかってるでしょう」
それに母さんは、そういう言い方は卑怯だって言ってた──その言葉が、くちびるの内側まで来て、止まった。
明は噴水に目をやった。ベンチを埋めている、楽しそうな家族連れやカップルに目をやった。しばらくのあいだ、そうやって放心したように黙っていた。
それから眼鏡をかけ直して、亘に向き直った。眼鏡を外しているあいだは休憩《きゅうけい》で、眼鏡をかけたら仕事が始まる──そんな感じがした。
「家に帰るというのが、またお母さんと一緒に暮らすという意味であるならば、それはないよ。おまえの言葉を借りるなら、それは絶対にない」
こちらから問いかけて、そこに返ってきた答だというのに、亘はその重さを受け止めきれず、底が抜けたような気がした。お尻《しり》の底が抜けて、父さんの答もろとも、亘の魂《たましい》も暗く深い地の底へ落ちてゆく。
「あの夜も、父さん話したろ? うんと迷って、やっと決心したから、その決心を貫き通すって。だからもう、家には帰らないよ。帰るくらいなら、最初からこんなことは言い出さない。これがとても大変なことで、お母さんとおまえをどれほど深く傷つけることなのか、父さんだってわかっているから」 それなら、なぜ?
「おまえは頭のいい子だから、ヘンにごまかしたりしないで、最初から筋道立てて話した方がよかったんだな。それは父さんが間違っていた」
三谷明は、淡々《たんたん》と続けた。
「何を言ってもおまえを悲しませるだけだろうし、理解してもらうのも、今はまだ無理だと思ったんだ。だから、黙って出ていこうとした。それでおまえが父さんを嫌《きら》いになったり、父さんを憎《にく》むようになったとしても、それは父さんが受けるべき当然の罰《ばつ》だと覚悟していたからね。その気持ちは、今も持っているよ。おまえにどんなに恨《うら》まれても、父さんは弁解できない」
亘は何も言えなかった。父の言うことは、確かにとても筋が通っていたから。
「おまえの方から、父さんなんかもう僕の父さんじゃないと言われても、父さんはそれを受け入れるしかない。罰だから。ただ、父さんは、たとえおまえが許してくれなくても、ずっと亘の父さんであり続ける。おまえに対しては、そういう形で責任をとることしか、父さんにはできないからな」
亘はまだ落下の途中《とちゅう》だった。父さんからもらった答は、いつの間にか腕《うで》をすり抜けて、どこに行ったかわからなくなってしまった。亘より先に落ちていったのか。
ひとりぼっちで、ずうっと落ちてゆく。光の届かない縦穴を、どこまでもどこまでも。耳元でひゅうひゅう風が鳴る。縦穴の入口はぐんぐん遠ざかり、その緑に立っている父さんも、どんどん小さくなる。
「もちろん、これからおまえが上の学校へ行くために必要な資金は、父さんが負担するよ。お母さんと二人の生活費も、できるだけ何とかして送金する。お母さんと正式に話し合いができるようになったら、それについては、お母さんが望むとおりにするつもりだ。あの家も、そのまま住んでいてくれていい。あれはお母さんと亘のものだから。そういう点では、何も心配することはない」
父さんはお金のことを話してるんだ。そうか、お金か。お金は大切だもんね。
「お父さんは──お母さんと僕のこと、嫌いになったんだね?」
三谷明はかぶりを振った。「そういうわけじゃない。それにこのことで、おまえとお母さんを一緒にして考えることは、父さんにはできない。一緒にするのは間違いだ」
「どうして? だって僕のお父さんとお母さんのことだよ。三人で家族じゃない」
「家族だって、一人一人の人間の集まりだよ、亘。全然別の生き方をすることだってあるし、一緒には歩けなくなることだってある」
「父さんは、今ほかの女の人と暮らしてるんでし? その人の方が好きだから、僕らを捨てるんでしょ? そうなんでしょ?」
緑なし眼鏡の小さなレンズごしに、明の目が大きくなった。心底驚いているようで、口がちょっと開いた。
「おまえ、誰にそんなことを聞いたんだ?」
「誰だっていいじゃない」
「良くないね。父さんにとっては問題だ。おまえの耳に入れるようなことじゃないから、伏せておいたんだから」
「だけどホントのことだったら、僕は聞きたいよ。嘘は嫌だ。嘘つきはいけないって、父さんいつも言ってたじゃないか!」
思わず声が大きくなり、近くのベンチの人たちが、亘の方を見た。赤ちゃんを乗せたベビーカーを押して通りかかった若いカップルが、足を止めた。
明は手をのばして、亘の背中をちょっと撫でた。触《ふ》れられるのが、亘はすごく嫌だった。振り払いたいという衝動を抑《おさ》えるために、両手をきつく握って目をつぶった。
「確かに、嘘は良くない」
低くかすれた声で、明は言った。
「だけど、話をねじ曲げて嘘をつくのと、外には出したくないことを隠しておくのとは、まったく違うよ。それだけはわかってほしい。わかるよな? 亘は賢《かしこ》いから」
そんなことはどうだっていいんだ。なんでそんなふうにして、話を別の方向に持ってゆこうとするんだよ。
「ルウ伯父さんから聞いたのか?」
亘は黙っていた。
「じゃ、千葉のお祖母ちゃんからか? それとも母さんからか?」
ぐいと顔を上げて、亘は言った。「ホントなのかどうか教えてくれなきゃ答えない」
明はため息をついた。
「しょうがないな……」
噴水の周りには、また賑《にぎ》やかさが戻っていた。誰も、こんな場所でこんなシンコクな話し合いの場が持たれているなんて、想像もしないだろう。世の中の人たちは、一人残らずシアワセなのだ。僕たちを除いては。
「本当だよ」と、明は答えた。
その答は、まだまだ落下中の亘のすぐ脇《わき》を、風を切って通り過ぎていった。落ちたのではない。
羽根がはえていて、楽しそうにどこかに飛んでいってしまったのだ。
「父さんはその女の人と、新しい生活をつくりたいと思ってるんだ。お母さんが納得《なっとく》してくれて、離婚ができたら、その人と結婚するつもりだよ」
何より先に、あの戦車の地響《じひび》きが心に蘇ってきて、亘は言った。「お祖母ちゃんはカンカンに怒ってるよ。絶対に許さないって」
驚いたことに、明は笑った。「うん、よく知ってるよ。電話でさんざん怒られたからね。もう親でもない子でもないと言われた。父さん、お祖母ちゃんに勘当《かんどう》されたんだ」
「カンドーって何?」
「だから、親子の緑《えん》を切るってことだ」
「じゃ、お父さんはもうお祖母ちゃんの子供じゃないし、ルウ伯父さんの弟でもないってこと?」
三谷明は苦笑した。「本当にそうなるわけじゃないよ。ただ、それぐらい怒ってるんだっていう意味で、お祖母ちゃんはそう言ったんだ」
「お祖母ちゃんをそんなに怒らせても、お父さんは自分の考えてることが正しいと思うの? こういうことが正しいと思うの?」
明は亘の顔をのぞきこんだ。「おまえは、誰か親しい人が怒るからって、自分の信念を曲げることが正しいと思うか?」
「シンネンって……自分にとって大切なことって意味?」
「ああ、そうだ。自分にとって譲ることのできない、大事なものだ」
それなら、今の父さんにとっては、お母さんと僕を捨てるってことが、そんなに大事なことなんだろうか。
「お父さんの信念って、何さ。お母さんすごく悲しんでるし、お祖母ちゃんは怒ってる。ルウ伯父さんは頭抱えてばっかりいるよ。それでも守らなくちゃならない信念って、何なんだよ」
隣《となり》のベンチに座っている年輩《ねんぱい》のおじさんとおばさんが、亘の言葉の端っこを耳に留めたのか、さっきからこちらを見ている。明もそれに気づいたのか、ちらっと彼らの方を見て、険しい顔をした。
隣のベンチのおじさんとおばさんは顔を見合わせ、揃《そろ》って手にしていたソフトクリームを舐め始めた。
「父さんの信念か」明は繰り返した。「それを知らないと、納得できないんだな?」
「うん」亘はきっぱりうなずいた。でも内心では怖《お》じ気づいていた。父さんを追いつめてしまったというか、踏《ふ》み込み過ぎてしまったというか、開けずに通り過ぎるべきだったドアを開けようとしているというか、そんな気がしてたまらなかった。テレビゲームみたいな攻略本《こうりゃくぼん》があればいいのに。この部屋は、わざわざ入っても手強《てごわ》い隠しボスがいるだけだ、レベルが五十を超えないうちは無視して通り過ぎた方がいいって、教えてくれるような。
「父さんの信念は」三谷明はゆっくりと言った。「人生は一度しかないってことだ」
ジンセイハイチドシカナイ。
「だから、間違ったと思ったら、たとえどれほど苦労があっても、困難があっても、やり直せることはやり直す。一度しかない人生に、後悔《こうかい》を残したくないからな」
重々しい口調で放たれた言葉だけれど、亘の頭に残ったのは、「マチガイ」という単語だけだった。
父さんの人生はマチガイだった。
それじゃ、僕は?
「お父さんは、お母さんと結婚したのがマチガイだって言ってるの? そしたら、お父さんとお母さんの子供の僕も、やっぱりマチガイなの? そういうこと?」
明はかぶりを振る。「そうは言ってない。そういう意味じゃない」
「じゃ、何がマチガイなのさ? 僕にはわからないよ」
「だから、これは今のおまえにはまだ理解できないことなんだ。大人になって──いくつか辛い経験をすることがあって、それで、やっとわかることかもしれない。わかるようになるのが幸せかどうかは、また話が別だけどな」
迷子になってゆく。聞けは聞くほどに迷路《めいろ》が複雑になってゆく。いつも父さんの説明を聞くと、どんな面倒くさいことでも、スッキリとわかる気がした。こんがらがった事柄《ことがら》でも、父さんがほどいてくれると、きれいに整理されて見えるような気がした。
だけど今は、まるっきり逆だ。父さんがしていることは、それ自体はとってもシンプルだ。父さんは母さんと別れ、僕を置いて家を出て、別の女の人と結婚したい。たったそれだけのことだ。それなのに、説明を求めると、どんどんこんがらがってゆく。
明は片手をのばして、亘の肩をつかんだ。ゆっくりと揺《ゆ》さぶりながら、こう言った。
「ひとつだけ、しっかりと覚えておいてもらいたいことがあるんだ。父さんと母さんがどんな間違ったことをしようと、失敗をしようと、それはおまえにはまったく関係ない。おまえは独立した一人の人間なんだから。いつも父さん、言ってきたろ? 子供だってひとつの人格で、親の付属品じゃないって。だから、父さん母さんの結婚が失敗しても、おまえはその結婚の失敗作なんかじゃないんだ。これだけは、絶対に忘れないで覚えていてほしい。だって真実なんだから」
亘は肩を揺さぶられながら、ゆらゆらと首を振った。「お母さんは、ケッコンが失敗したなんて思ってないよ。だから悲しんでるんじゃないの?」
「それはお母さんが、まだ現実を真っ直ぐ見る勇気を持てないでいるからだ」
明の眉間《みけん》にしわが寄った。
「ちゃんと顔を上げて現実に向き合えば、どうしようもなくはっきりわかることなのに。失敗は失敗だ。最初から失敗だった。ごまかしばかりだったんだから」
お母さんはいつも家のなかをきれいにしてたよ。ちゃんとご飯だってつくってくれたよ。朝寝坊だって、そんなに何度もしなかったよ。千葉のお祖母ちゃんと喧嘩することもあったけど、でも仲直りもちゃんとしてたよ。
「お母さんは何も悪いことしてないよ。失敗なんてしてないよ」
亘は呟いた。そして、珍《めずら》しく──本当に珍しく、父が冷静さを失い、苛立《いらだ》ちを顔に出していることに気がついた。そして早口に、急いで何かを押し流すみたいにして、一気に言うのだった。
「悪いことがイコール失敗だってわけじゃない。悪いことは何もしなくても、失敗することはある。むしろ、その時には良かれと思ってやったことが、長い年月が経ってみると、失敗だってわかるってことの方が多いんだ」
隣のベンチのおばさんが、ソフトクリームを舐めるのをやめて、こっちを見ている。コーンの縁から、溶けたソフトクリームがスカートの上にボタボタ垂れていることにも、まったく気づいていないみたいだ。
「おい」と、おじさんが低く言って、おばさんを肘でつついた。「垂れてるぞ」
あらヤダとあわてて、おばさんはスカートを拭った。亘はそれを、ぼんやり眺《なが》めていた。おじさん、おばさん、僕らの話、聞こえてるんでしょ。わかりますか?」通訳して教えてくれませんか。僕の父さん、何が言いたいんだろう?
「僕にはわからない」
亘が小さく言うと、明はうなずいた。
「わからないだろう。わからなくていい。これは父さんの間違いだ。今日おまえと会ったのも間違いだ。ちゃんと説明なんかできないし、ただおまえを傷つけただけじゃないか。な? そういうことだ」
父が「そういうことだ」という言い回しを使うときには、「これで話は終わりだ」という合図《サイン》だ。今まで、世の中のいろいろな事柄について、数多くの「どうして?」という質問を父にぶつけて、たくさんのやりとりを積み重ねて、答をもらったりヒントをつかんだりしてきた亘は、そのことをよく知っていた。
思わず、大きな吐息が漏《も》れた。今まで息を止めていたみたいな気がした。二十五メートルプールを、一度も息継《いきつ》ぎせずに泳げるだけ泳いで、とうとう苦しくなって足をついたみたいな感じがした。
呼吸が戻ると、現実感も戻ってきた。そして、とても簡単で、最初からそこにあった考えが、泡《あわ》のようにぽかんと浮かび上がってきた。それはそのまま、口をついて出た。
「だけど結局は、お父さん、お母さんじゃない女の人を好きになって、その人の方が良くなっちゃった、そういうことなんでしょ?」
三谷明は返事をしなかった。両眉をひそめて、眼鏡の緑に指で触れて、地面を見つめている。
噴水の飛沫が、亘の方まで飛んできた。
「そう思いたいなら、そう思っていていい。それでいいよ」と、明は言った。
帰ろう──と、明は立ちあがった。
「バス停まで父さんが送ってゆくよ」
「いいよ、僕、もうちょっとここにいる」
「だだをこねるもんじゃないよ、亘」
「だだじゃないよ、図書館に寄っていきたいだけだよ」
「こんな話の後で、おまえ一人だけ置いて父さんが帰るわけいかないじゃないか」
「僕なら平気だよ。ちゃんと帰れる」
だから父さんは、安心して帰ればいいよ。シッパイじゃない女の人のところに帰りゃいいじゃないか。
亘はもう、父の目を見なかった。
頑なにべンチに座り続ける亘の前に立ちはだかり、三谷明は黙っている。亘は地面を見つめて黙っている。
噴水の飛沫が、風に混じって飛んでくる。冷たい。若い女の人の笑い声が聞こえる。赤ちゃんが泣いてる。
「なあ、亘」明は口を開いた。
亘はじっとしていた。
「父さんに会うって──おまえ一人で考えたことか?」
「カッちゃんに手伝ってもらったよ」
「そうじゃない。考えたのは、おまえ一人かって訊いてるんだ」
亘は目を上げた? 父さんはなんだか──怯《おび》えているみたいに見えた。
「どういうこと?」
三谷明はくちびるの端をちょっと曲げて、言葉を探すみたいに間をおいた。両手をポケットに突っ込むと、視線をさげた。
「お母さんに頼まれたんじゃないのか?」
よく聞き取れなかった。「え?」
「お母さんに、お父さんに会って、家に帰ってくれるようお願いしてきなさいって、そう言われたんじゃないのか?」
亘はぽかんと口を開いた。
「──そんなことじゃないよ」
「そうか」明は難しい顔のままうなずいた。「それならいいんだ。もしもお母さんがそんなことをしたんなら──そんなふうにおまえを利用しようとしたんなら、良くないからな。確かめておきたかったんだ」
「お母さんはそんなことしないよ」
僕には、お父さんは出張に行ってると思いなさいって、そう言ったんだ。
「僕、内緒で出てきたんだ」
明はほっとしたというように、両肩を大きく揺らした。
「ホントだよ」
「うん、わかった。それじゃ父さんは帰るよ。おまえも気をつけて帰るんだよ」
歩き出しかけて、ちょっとためらい、
「携帯電話になら、いつかけてきてもいいからな。父さんと話したくなったら、かけておいで。宿題のことでも、何でもいいから」
一人になってぽつんと腰かけていると、どこかから小さな声がした。あまりに疲れ果てて、空っぽになってしまっていたので、注意を集中するのが難しく、聞き取れない。
「──坊や」
肩を軽く叩《たた》かれて目をやると、さっきまで隣のベンチに座っていたおばさんが、すぐそばに立っていた。スカートの上に、ソフトクリームのしみが残っている。小太りで、亘と同じくらいの背丈《せたけ》で、とっても丸まっちい。かがんで、ちょっと笑顔をつくっている。
「坊や、どこまで帰るの?」
空っぽの袋《ふくろ》みたいになってしまっている亘には、声がなかった。
「もしよかったら、おばさんたちと一緒に帰らない?」
おばさんの後ろでは、おじさんが困ったような不機嫌《ふきげん》そうな顔をしている。
亘の口から、自分のものとは思えないような、合成音声みたいな、平べったい声が飛び出した。
「僕、図書館へ行くから」
「そう。坊やのおうちは遠くないの?」
亘はもう一度、「図書館へ行くから」と言って、立ちあがった。
「おい、よせよ」おじさんが後ろからおばさんを小突いた。「余計なお世話だ」
おばさんはおじさんのシャツの袖《そで》をつかんだ。「だって心配じゃないの、こんな小さな子が──」
亘は二人を置いて、図書館の建物の方へと歩き出した。
「あ、坊や!」おばさんが大声で呼んだ。「ソフトクリーム、食べない?」
バカやめとけよと、おじさんが諌《いさ》めている。
「しかしなぁ……」
少しずつ、ゆっくりと二人から遠ざかってゆく亘の耳に、おじさんの言葉の切れっ端《ぱし》が、ひらりと届いた。
「世間にゃホントにいるんだなぁ。ああいう手前勝手な親が」
おばさんが、「男なんてナントカカントカ」と言ったのも、ちらりと聞こえた。
もう落下しているような感じはしなかった。落ちるだけ落ちて、底に着いたのだ。どのぐらいの深さで、どのぐらいの広さの、どこに通じている何の底だかわからないけれど。図書館の入口が見えるところまで行って、振り返ってみた。おじさんもおばさんも、もういなくなっていた。亘と明が座っていたベンチには、派手《はで》なウィンドブレイカーを着た若いカップルが座っていた。隣のベンチは空いている。噴水の水|飛沫《しぶき》が眩《まぶ》しい。
ここにこうして立っているのに、ここにいないような感じがする。亘は底に落ちてコナゴナになって、水飛沫よりもまだ小さくなって、そこら一面に飛び散っているのかもしれなかった。
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11 秘密
それから夏休みまでのわずかな日数を、いったいどんなふうに、どんな顔をして過ごしたのか。後になって思い出そうとしても、どうしても思い出せなかった。それくらい、何にも失《な》くなって、何でもなくなって、何もしなくなって生きていた。
生活には変化はなかった。またルウ伯父《おじ》さんが訪ねてきて、亘とは夏休みの打ち合わせをして、夜|遅《おそ》くなってから、リビングで母さんとヒソヒソ話し込んでいたということはあったけれど、何の話だったのかどんな結論が出たのか、亘には知らされなかった。
三谷邦子は本当に、明が長い出張に行っている時と同じ暮らし方をしていた。そういう意味では、彼女の言葉には嘘がなかった。亘と二人の夕食で、テレビを観《み》て笑うこともあるし、亘が歯磨《はみが》きしないで寝《ね》てしまったと怒《おこ》ることもある。夜九時過ぎにカッちゃんから電話がかかってきたときには、今までとまったく同じような口調で、
「お店をやっているようなおうちと、我が家は方針が違《ちが》うんですからね」と叱《しか》られた。亘にはけっして甘くない、今までどおりの母さんだった。
終業式の前日、朝起きてみたら、亘の右のほっべたがパンパンに腫《は》れていた。痛くて口を開けることもできない。母さんにのぞきこんで見てもらうと、
「歯茎《はぐき》が腫れてるわよ。歯医者さんに行ってらっしゃい。今日は学校、休んでいいから」
どちらにしろ、もう一学期の授業は終わったようなものだし、この有様ではプールにも入れない。亘は素直《すなお》に言うことを聞いて、午前中から歯医者の待合室に座った。
虫歯ではないと、先生は言った。歯肉炎《しにくえん》だよ。子供には珍《めずら》しいんだけどね。最近、硬《かた》いものを食べて□のなかを切ったりしなかった? 歯ぎしりをするクセがあるって、お母さんに言われたことない?
治療《ちりょう》が済むと、腫れはまだそのままだったけれど、痛みはずいぶんと軽くなった。少し熱が出るかもしれないよと言われたとおり、寒気がする。梅雨《つゆ》が明けて太陽全開の道を歩いても、あまり汗《あせ》をかかなかった。
家に帰ると、母さんは買い物に出かけていた。テーブルの上にメモか置いてある。
「新しいパジャマを着て寝なさいね」
そんな大げさに着替えて寝込むほどの状態じゃない。ソファでゴロ寝でいいや。ゴロンと寝っ転がったところに、電話が鳴った。
千葉のお祖母《ばあ》ちゃんかな。ルウ伯父さんかな。小田原のお祖母ちゃんかな。ついこのあいだ、小田原のお祖母ちゃんからの電話に出たら、すぐ泣くんだもの、嫌《いや》だった。
のろのろと受話器を持ちあげると、女の人の声がした。聞き慣れない声だ。セールス?
「三谷邦子さんでいらっしゃいますね?」
お母さんはいませんと答えようとしたのだけれど、口が腫れているのと、治療の際にかけられた麻酔《ますい》がまだ切れていないのとで、うまく言えなかった。亘が痺《しび》れたくちびるに手こずっているあいだに、女の人の声はどんどん先をしゃべってしまう。
「昨日、また会社の方にお電話をいただいたそうで、同僚《どうりょう》から聞きました。前回お話をした時に、会社には連絡《れんらく》しないとお約束をいただいたはずですが、お忘れでしょうか」
きれいな声だし、丁寧《ていねい》な言葉遣《ことばづか》いだけれど、なんか怒ってるみたいな感じがする。声がうわずってるような──それに早口だし。こんなセールス、あるかなぁ?
「こういう──嫌がらせのようなことをされては、わたしも人間ですから、感情を害します。それにそもそも、わたしはわたしたちが顔を合わせても、あまり有意義な話し合いにはならないと思っております」
あの、間違い電話じゃないですかと、亘は言おうとした。すると、聞き慣れないきれいな声の女の人は、丸めたものをぶつけるみたいな勢いで、こう言った。
「明さんは、あなたがこういうことをお続けになるようでしたら、離婚《りこん》裁判になってもいいと言っています。彼も怒っているんですよ。あんまり賢《かしこ》いやり方とは言えないんじゃないかしら。わたしが申しあげたいのはそれだけです。もう二度と職場に電話をかけないでください。わたしの上司も、部下の私生活のことを会社に持ち込まれるのは迷惑《めいわく》だと、はっきり申しておりますので」
それでは──と、相手が電話を切る気配がしたので、亘は大声を出した。「お母さんじゃなヒれす──」
キーンというような沈黙《ちんもく》がきた。亘の声が、受話器のなかいっぱいに反響《はんきょう》している。
「もし、もヒ」麻酔でふくれあがったような感じのするくちびるを動かして、亘は必死で言った。「僕は、三谷、ワタルれす」
電話の向こうで、誰《だれ》かが息を呑《の》むような、かすかにあえぐような音がした。それから、ガチャンと切れた。
短いあいだに、亘は冷汗びっしょりになっていた。じわりと流れる汗と入れ替わりに、認識《にんしき》が身体《からだ》に染《し》みこんできた。
あれは、父さんの、女の人だ。
今、三谷明が一緒《いっしょ》に暮らしている女性だ。邦子との結婚を解消して、新しく結婚したいと望んでいる女性だ。
アナウンサーみたいな声してら。亘はそう考え、そんなことしかすぐには連想できない自分に嫌気がさした。
膝《ひざ》から力が抜《ぬ》けて、その場にしゃかんでしまった。するとそのとき、ここしばらくのあいだ忘れていたけれど、確かに聞き覚えのある甘い声が、小さく呼びかけてきた。
「ワタル、だいじょうぶ?」
亘はびくりとして、へたりこんだまま周囲を見回した。もちろん、誰がいるはずもない。あの甘い声。正体不明の女の子の声。
「ワタル、泣かないで。わたし、あなたのそばにいるから」
どこからともなく投げかけられる言葉に、心が優《やさ》しく撫《な》でられるようだ。
「君、どこにいるの?」
宙に問いかけると、女の子の声はすぐに返ってきた。「だから、あなたの近くよ」
「だったら、どうして姿が見えないのさ?」
「わたしにはあなたがちゃんと見えてる。でも、あなたからわたしを見ることはできないのね」
女の子は小さくため息をついた。実際にはそんなことできないけれど、もしもその吐息《といき》を感じられたなら、きっとキャンディのような匂《にお》いがするに違いない。
「ワタル──このところずっと、わたしのこと忘れてたね? わたしがあなたに話しかけたこと、忘れてたね?」
言われてみればそうだった。あまりにも様々な辛《つら》い事柄《ことがら》に場所を取られて、見えない女の子のことを考えるだけの余裕《よゆう》など、亘のまだ小さな心のどこを探しても見あたらなかったのだ。
それどころじゃない、以前にこの不思議な女の子の声に話しかけられたこと、彼女の正体を探《さぐ》ろうと試みたこと、写真を撮ったこと──それらのことさえも、ひどく遠く霞《かす》んだ思い出に見える。確かに記憶《きおく》には残っているけれど、気持ちがくっついてこない。
「そうだね……僕、君のこと忘れてた」
「それはきっと、あなたが番人に認められた旅人じゃないからなんだわ」
女の子は、怒ったように声を尖《とが》らせた。
「あなた一度、こっちに来たでしょ? でも追い返された。だから記憶が消えてるの。わたしのことも、その記憶と一緒に薄《うす》れてる」
そんなことを言われても、亘にはピンとこない。そう、事実は彼女の言うとおりなのだが、だからこそ亘は忘れているのだ。
「こっちって、どっち?」
亘のぽかんとした問いかけに、女の子はまたため息を漏《も》らした。
「幻界《ヴィジョン》≠諢氛氓チて言ったって、今のあなたには何が何だかわからないんだろうね」
うん、わかんないよ。
「とにかくワタル、わたしはあなたの味方よ。あなたが何とかこっちに来てくれたら、いろいろなことをして助けてあげられるの。お願い、もう一度幻界≠ノ来る方法を探してちょうだい。あなたなら、きっとできるわ」
亘は、これは夢かな──なんて考えていた。さっき受けたショックのあまり、夢を見てるんだ。きっとそうだな。
父さんの女の人から電話がかかってきたことを、亘は邦子にはしゃべらなかった。
それでなくても母さんは、今日は特に疲《つか》れてぐったりしているように見えた。どこまで買い物に行ってきたのか、帰ってきたのは初夏の長い一日が暮れかかったころで、夏用の外出|靴《ぐつ》は、すっかり埃《ほこり》だらけになっていた。
その夜、邦子が眠《ねむ》ってしまってから、亘はそっと家を抜《ぬ》け出した。
最初は、どこへ行こうとはっきり意識していたわけではなかった。ぐるっと散歩して、何となく夜空を見て、涼《すず》んで帰ってきてもいい。公園のブランコを独り占《じ》めしてもいい。とにかく、気分を変えたくて外に出た。
歩きながら思いついた。そうだ、これからいきなり訪ねて行って、カッちゃんをビックリさせようか。小村の小父さん小母《おば》さんは、もう明後日《あさって》からは夏休みなんだし、泊まっていけって言ってくれるかもしれない。そしたら二人で、夜通し『ストリートファイターZERO3』で対戦できるじゃんか。母さんだって、今は亘がカッちゃん家《ち》に泊まったぐらいで怒ったりしないだろう。
そうやって歩いてきたはずなのに、ふと気がついたら、大松さんの幽霊《ゆうれい》ビルが見えるところに来ていた。三橋神社の木立が、夏のどんよりした夜気のなかで、重たげに葉を揺《ゆ》らしている。
なんでここに来たんだろう? まるで──知らないうちに誰かに呼ばれたみたいだ。
亘はふらふらと幽霊ビルに近づいていった。それもまた、誰かに招き寄せられているみたいだった。
シートの内側に人の気配がする。一人二人じゃない。押し殺したような声だが、やりとりをしている──いや、なんか凄《すご》んでる。
亘はシートを持ちあげて、内側に素早《すばや》く潜《もぐ》り込んだ。すると目の前に、ゴムサンダルをひっかけた小汚《こぎたな》い二本の足がにゅっと立っていた。
「わ、なんだコイツ!」
足の持ち主が、亘に気づいてあわてた声を出した。亘はゴムサンダルに踏《ふ》みつけられないように、あわてて横に転がったが、一瞬《いっしゅん》遅かった。容赦《ようしゃ》もなければ手加減もない勢いで脇腹《わきばら》を蹴《け》り上げられて、息が停まり目の前が真っ白になった。
「誰だよコイツ、おまえの友達か?」
途絶《とだ》えそうになる、ギリギリ一歩手前のところでこらえている亘の意識が、誰かの話し声をキャッチする。
「おまえが呼んだのか? まさかそんなことないよな」
「加勢にしちゃ頼《たよ》りないしなあ」
ブレていた世界の焦点《しょうてん》が、やっとこさ中央に戻《もど》った。蹴られたところがうずいて吐《は》き気がしたが、亘は必死に起きあがった。
シートの内側は、大型の懐中《かいちゅう》電灯の灯《あか》りで照らされていた。強力な灯りに、なかにいる人間たちの影《かけ》が長く延びて、そちらの方こそ本体であるかのように、ぴょいぴょい動き回っていた。
亘のほかに、三人いる。懐中電灯を持っているのは──ほかでもない、石岡健児だ。六学年の問題児。こいつがいるっていうことは、あとの二人は腰巾着《こしぎんちゃく》たちに決まってる。ああ、ホントだメンツが揃《そろ》ってら。
石岡たちが、ここで何やってんだ? 頭を振《ふ》って、目の前の現実を捉《とら》え直すために目を凝《こ》らして、そこでやっと、四人目の人物がいることに気づいた。地面に俯《うつぶ》せにされている。その背中の上に、石岡の腰巾着の一人が乗っかって、膝で背骨をグリグリやっている。
四人目の人物の顔の半分ぐらいを、ベタベタと貼《は》りつけられたガムテープが隠《かく》している。それでもよく見れば、すぐに誰だかわかった。亘は驚《おどろ》きで「あっ」と声を出し、自分の声の振動《しんどう》で脇腹がぐっと痛んで、思わず両腕《りょううで》で身体を抱《だ》いた。
ガムテープで口を塞《ふさ》がれて、石岡の腰巾着に押し潰《つぶ》されそうになっているのは、芦川美鶴だった。両目を大きく見開いて、こぼれそうなほどの瞳《ひとみ》で亘を見つめている。何か必死で訴《うった》えかけているみたいだ。
「な、なんてことしてんだ。ヒドイよ」
亘は言葉を吐き出したが、おなかに力が入らないのと、怖《こわ》くてビビッているのとで、声しか出なかった。
石岡たちは笑い転げた。この下卑《げび》たゲラゲラ笑い、シートの外まで聞こえないのだろうか? 三橋神社の親切な神主《かんぬし》さんは、いったい何をしてるのだろう?
「へえ、コイツ面白《おもしろ》いこと言うぜ」
「ヒドイよぉ、だってさ」
石岡たちが嘲笑《あざわら》う。どうしても立ちあがれないので、亘は地面に膝《ひざ》立ちになった。そうやって膝|頭《がしら》で歩いて、芦川のそばに近寄ろうと動き出したら、もう一人の腰巾着に、いきなり頭の横側を蹴られ、もんどりうって地面に転がった。
どすん! 大きな音だ。どうして大人が助けに来てくれないのだろう? 何でこの騒動《そうどう》が外に漏《も》れないのだろう?
「命中ゥ!」
「側面蹴りっていゥんだろ、これ」
「俺にも一発やらしてよ。練習、練習」
次の一撃《いちげき》が飛んでくるのを、亘はなんとか避《よ》けようと思ったのだけれど、頭がクラクラして目が回り、どうにもならなかった。膝蹴りの一発を、背中のど真ん中にきれいに決められてしまった。
どっと倒《たお》れると、芦川の顔が目と鼻の先にあった。視線がぶつかった。
亘は今にも気絶しそうで、もう痛みも何も感じず、身体は熱があるみたいに火照《ほて》り、視界が狭《せば》まって上下もはっきりしなかった。それなのに芦川の大きな黒い瞳は、亘の両目をしっかりと捉《とら》えた。ただその視線の力だけで、亘は揺れる小舟《こぶね》が碇《いかり》につなぎ止められるように、かろうじて意識を保っていた。
芦川が何か伝えようとしている──ガムテープの下で、口を動かして。
(剥《は》がせ)
口を覆《おお》っているテープを剥がせって?
(剥がせ、早く!)
石岡がうひょーとかいうような奇声《きせい》をあげながら、亘の尻《しり》を踏んづけた。どっと笑い声があがる。反動で亘の身体が跳ね上がり、右手が動いた。
(そうだよ、手を動かして、剥がしてくれ)
だけど気絶しちゃいそうだ。息をしても息をしても息ができないんだよ。
信じられないことだけれど、亘の右手が勝手に動いてゆく。芦川の顔の方へ。べったりと貼りつけられたテープの方へ。
黒い影が頭上で躍《おど》ったかと思うと、石岡のボディプレスが決まった。芦川と亘は、あばら骨がぽきんと鳴るほど強くおっぺされ、ほっぺたが地面に押しつけられた。
「やりィ!」と、歓声《かんせい》があがる。
いったい何のために芦川をここに連れ込んで、彼に何を要求してたんだかわからないけど、石岡たちってバカだからミジンコほどの知能もないから、いったんこういうバカ騒《さわ》ぎを始めると、元の目的なんかどこかへ行っちゃって、ブレーキがきかなくなっちゃうんだ。このままだと殺されちゃうかもしれない。
亘の右手がまた動く。芦川の口元のテープの端《はし》をつかむ。
──ベリッてやったら痛そう。
一瞬、そんなことを思ったけど、手はためらいなく左から右へ動いて、テープを取り去った。一枚。続いてもう一枚。
「あ、何やってんだよコイツ!」
石岡の腰巾着が、亘の動作に気づいて近寄ってきた。だがそれよりも一瞬早く、亘は芦川の顔のテープを剥がしきり、まだ粘着《ねんちゃく》力の残るテープを指先にくっつけたまま、右手ががくんと地面に落ちた。
芦川の両目が漆黒《しっこく》に輝《かがや》いた。彼はぐいと首を持ちあげて、石岡たちを──いや違う、幽霊ビルの内側の空を睨《にら》んだ。
腫れあがり、血のにじんだ芦川のくちびるが開いて、言葉が流れ出す。
「大いなる冥界《めいかい》の宗主よ、我、盟約に則《のっと》りここに請《こ》い願わん。闇《やみ》と死者の翼《つばさ》の眷属《けんぞく》よ、我ここに古《いにしえ》の黒き血の契約《けいやく》の印を以《もっ》て呼びかけん──」
石岡の手の中の懐中電灯が、ぱっと消えた。「わ、ど、どうしたんだ?」
石岡がうろたえて、よろよろと後ずさりした。シートに映った彼の影もよろけた。
亘はガンガンと痛む頭を横に向けて、何とかして石岡たちの方に視線を向けた。変だった。恐《おそ》ろしく変なことが起こっていた。懐中電灯は消えたのに、唯一《ゆいいつ》の光源がなくなったのに、シートの内側は奇妙《きみょう》に明るくて、さっきまでよりも、みんなの顔がはっきり見える。
芦川の声が続いている。謳《うた》うような調子を付けて、言葉ははっきりとしていて、ああそれになんてきれいな声なんだろう。
「我に仇《あだ》なす敵に久遠《くおん》の死の眠りを、解けぬ氷の呪縛《じゅばく》を与《あた》え給《たま》え。サキュロズ、ヘルギス、メトス、ヘルギトス、出《いで》よ暗黒の娘《むすめ》、バルバローネ!」
呪文のような言葉が終わると、なぜあたりが明るかったのか、亘にもわかった。芦川と亘と、石岡たち三人のちょうど中間あたりの地面が、白っぽく輝いているのだ。そこから放たれる青白い光で、周りが明るくなっているのだ。
──いったい何が?
輝いている場所は、マンホールよりも小さいくらいで、形も丸い。そこがみるみる盛りあがってくる。何かが地面から生まれ出ようとしているかのように。
──そんなバカな。
固いはずの地面が、輝いている丸い場所だけ、粘土のように柔《やわ》らかく見える。そこから今──人の頭が──頭の形ができてきた。首が出て、肩《かた》が出て、両手を胸の前で組み合わせていて、ほっそりとした胴《どう》が出てきて、なまめかしい腰の線が出てきて、
──女の人だ。
真っ黒な粘土でできた、女の人の形のマネキン。
石岡たち三人が、腰を抜かして口を開けている。その前で、地面から生まれ出た真っ黒なマネキンが両手を広げた。豊かな胸が丸見えになったけれど、やっぱりそこも真っ黒だった。
のっべらぼうの顔に、目が開いた。
金色の目だった。白目が全然なかった。真ん中に一筋、漆黒の線が入っているだけだ。猫《ねこ》みたいだ。豹《ひょう》みたいだ。
「ようこそバルバローネ。美しいあなたへの生け贅《にえ》です」
芦川が顔を輝かせ、俯せの姿勢のままで、できるだけ高く頭を持ちあげて、謳いあげるようにそう言った。
真っ黒なマネキンは、手を広げたまま、石岡たちの方へ向きを変えた。三人はバカみたいにすくんでいるだけで、声も出さなければ逃《に》げようともしない。
マネキンの両手の先から、尖《とが》った爪《つめ》がうねうねとはえ始めた。それと同時に、腕の後ろ側から、身体よりもなお黒い翼が伸《の》びてきた。
亘は地面に倒れたまま、首をよじって頭を横に向けて、目の前で起こっている信じられないような光景を見つめていた。自分でも怖いのか嬉《うれ》しいのかわからないけれど、気がついたら笑っていた。声は出せず、ただ口元が『不思議の国のアリス』に出てきたチェシャ猫みたいににんまりしていたのだった。
芦川にバルバローネ≠ニ呼ばれた異形の真っ黒な女は、長い脚《あし》をするりと動かして、石岡たち三人の方へ、一歩また一歩と近づいてゆく。背中の翼はすっかり伸びきり、その差し渡《わた》しは二メートル以上もありそうだ。両手の爪は見事な鈎《かぎ》形で、バルバローネが優雅《ゆうが》に手を空に泳がせ、ポーズをつけるように指先を宙に差しあげると、カチリと音がした。
石岡たちはビルの隅《すみ》まで後ずさりして、もう逃げ場がなくなって、てんでにすがりあうような格好で、やっぱり亘と同じように、バルバローネに見とれていた。三人とも血の気が失せて、真っ白な顔になっている。大きく瞠《みは》った両目。半開きの口元。恐ろしさにすくんでいるようにも見えるし、ちょっとばかり喜んでいるみたいにも見える。
でも亘はバルバローネの背中を見ており、彼らはバルバローネの顔を見ている。石岡なんか、食いつくようにして彼女の顔を仰《あお》いでいる。何か言いたそうにくちびるが動く。実際、言葉が漏れてるみたいだ。でも聞き取れない。あまりに小さな声だし、バルバローネの爪がまた、
カチリ
と打ち鳴らされる音に気をとられて。
バルバローネは今、どんな表情を浮かべているのだろう? ふたつの金色の眼《め》は、どんなふうに石岡たちを見つめているのだろう?
「お、俺」と、石岡がうわごとのように呟《つぶや》いた。「行くよ、そっちに行く」
問いかけに対する返事みたいな言い方だった。まるで、バルバローネに「私と共に来るか」と問われて答えたみたいだ。だけど、誰も何も言っていないのに。石岡はおかしくなっているんだ。
とろけるような笑《え》みが、石岡の顔いっぱいに広がった。ふらふらと立ちあがって、バルバローネに歩み寄る。腰巾着の二人は、石岡から視線を離《はな》すことができないまま、しつかりと抱き合ってしゃがみこんでいる。二人とも口があわあわ動いている。
「ケンちゃん──」と、どっちかが泣くような声を絞《しぼ》り出した。「ダメだよ、やめなよ、ダメだってばよう」
石岡は何も聞いていない。何も見ていない。バカみたいにバルバローネを見あげて、今や彼女のすぐ目の前にまで近づいて、そこで両膝を地面に着くと、両手を大きく広げた。
「俺、行くよ──」
バルバローネの両肩が、するりと動いた。
肩の動きが腕に伝わり、翼の先端《せんたん》にまで伝わり、彼女の漆黒の身体全体が、さざ波のようにさあっと震《ふる》えた。何の根拠《こんきょ》もなく、でも絶対の本能的な確信で、亘は思った。身震いしたんだ、嬉しくて身震いしたんだ。まるで──獲物《えもの》に食いつく瞬間のケモノみたいに。
翼の両端がピン! と伸びきった。
スイッチを切ったように、石岡の顔から笑みが消えた。
そして出し抜けに、彼は悲鳴をあげた。理性のブレーキも意志のコントロールもない、剥《む》き出しで手放しの悲鳴だった。
バルバローネが石岡に襲《おそ》いかかった。しなやかな黒い両腕が、二|匹《ひき》の蛇《へび》のようにぐるぐると彼の身体に巻きついた。バルバローネが前にかがんだかと思うと、その真っ黒な頭が、いきなり、アメーバみたいにどろんと形を崩《くず》して、十倍ほどの大きさにふくらんだ。そして腕のなかにからめとった石岡を、頭のてっぺんから丸呑みにしてしまった。石岡の悲鳴は、鉄で断《た》ち切られたみたいにピクリと止《や》んだ。
真っ逆様に呑みこまれるとき、彼のスニーカーの片方が、勢い余ってスポンと脱《ぬ》げて、亘の足元まで転がってきた。
亘は目を瞠っていた。呑みこまれる寸前の、一瞬のそのまた十分の一ぐらいの短い時間、石岡が見せた恐怖《きょうふ》の表情が、ストップモーションみたいに瞳に焼きついて、見えるものと言ったらただそれだけだった。
石岡を呑み込んだバルバローネは、瞬時のうちにまた元の形の長い頭に戻って、漆黒の美しい女《め》神《がみ》像に戻って、そして残りの二人の方へ指先を、鈎爪を差しのばした。
「イヤだよぉ!」
二人が泣きわめく。
バルバローネは音もなく飛びあがると、翼をひと振りして、あっという間に二人を捉えた。抱きかかえられた二人の脚が、バルバローネの翼の下から、じたばたともがきながら飛び出して、必死で空を蹴っている。
竜巻《たつまき》のような迅《はや》い風が、亘の頭の上を通過した。地面に伏していても、身体を持ってゆかれそうなほどの強風で、亘は思わず目を閉じた。そしてそれは唐突《とうとつ》に止んだ。
おそるおそる目を開け、頭を持ちあげてみると、あたりは暗闇に戻っていた。
どこか遠く──シートの外、幽霊ビルの外、ひとつ向こうの交差点で、エンジンが強く空ぶかしされる音が聞こえた。
亘のすぐそばで、懐中電灯がカチリと点《つ》いた。痛いほど眩《まぶ》しくて、亘は目を背《そむ》けた。腕が伸びてきて亘の肩に触《さわ》った。
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
芦川だった。ひどい顔だ。くちびるが切れている。右の鼻の穴から鼻血が一筋流れている。でも、しっかりした動作で、亘を助け起こしてくれた。
地面に座ると、とたんにぐるっと目が回って、今度は仰向《あおむ》けに倒れそうになり、亘はあわてて両手をついた。あっちもこっちもズキズキ痛むのに、何だか感覚が遠くて、自分の身体じゃないみたいだった。
芦川は亘のそばに片膝をついていて、今は拳《こぶし》で鼻の下を拭《ぬぐ》っている。
「あ……あいつらは?」
亘は何とか声を出した。□の中に嫌な味がした。血の味かもしれない。
「あいつらって?」芦川は、わざとのようにとぼけて訊《き》き返した。
「石岡と……仲間の二人」亘は彼を見あげた。まためまいがして、視界がぼけた。芦川の表情を見ようとするのだけれど、うまく焦点を合わせることができなかった。
「こっぴどくやられたな」と、芦川は言った。「一人で立てるか?」
両足がゴムでできてるみたいな感じがして、力が入らない。それでも亘は言われたとおりにしようとして、自分の運動靴の底が空《むな》しく地面をこするのをぼんやり眺《なが》め、
「あいつらはどうしたの?」と繰《く》り返した。「どこへ行ったの? さっきのは何だったのさ? あのバケモノ。あの真っ黒な」
現実感が、ますます遠くなる。自分でも何を言っているのか、ちゃんと把握《はあく》できてないような感じだ。言葉の最後の方は、寝言みたいな呟きになってしまった。
「バケモノなんていないよ」芦川は、塾《じゅく》の教室で先生の質問に答えるときと同じ、揺るぎない口調で否定した。「さっきのは夢だ。何でもない。夢を見たんだよ」
「夢なんかじゃないよ──」
言い返しながら、結局亘は立ちあがれずに、ゆらゆらと身体を揺らして、突《つ》っ伏してしまった。地面に倒れる直前に、芦川が受け止めて支えてくれた。
「何でここに来たんだ?」
芦川が尋《たず》ねる。亘は彼にもたれていると楽ちんで、とても眠くなり、口が回らなくなった。キゼツするのかなぁ──と思った。
「何でって──」
「呼んでもいないのに」芦川は吐き出すように言った。怒っているみたいに聞こえる。
「何となく来たンだ──」亘は小声で答えた。
「呼んでもないのにやって来て──おまえって──何にも関係ないのに──」芦川はそう言って、唐突に、ちょっと笑った。「でも、おかげで助かった」
何の話? もうどうでもいいよ。眠くって。
「おせっかいなヤツ」芦川は言って、それから口のなかで小さく何か呟いた。また、呪文みたいだった。すると亘の上に、温かな白い光が降ってきた。光は亘を包み込んだ。身体じゅうの痛みが、みるみるうちに、嘘のように消えてゆく。気持ち良い。
それじゃあな──と、芦川が言ったように聞こえた。これでお別れだよ、サヨナラ。
そうして亘は眠り込んだ。
はっと目を覚ますと、自分のベッドに横になっていた。頭をきちんと枕の上に載《の》せ、仰向けになって、両手を胸の上で組み合わせている。眠っていたのではなく、ドラマのなかで眠ったふりをしている子役のように。
三秒か、五秒くらいのあいだ、亘は両目を見開いて天井《てんじょう》を見あげていた。それから、ガバッと起きあがった。
いきなり、目覚まし時計が鳴り出した。亘は文字どおり飛びあがった。
午前七時だった。時計は嘘をついていない。チェックのカーテンを、夏の朝日が照らしている。
気温はもうあがり始めていて、パジャマが汗で身体にくっついている。
「亘、起きなさい!」
ドアの向こうで邦子の声が聞こえた。ドンドンとドアがノックされる。
「今日は終業式でしょ! 最後になって遅刻なんかしたら、恥ずかしいわよ」
今日は終業式──
亘は両手で頭を押さえた。ちゃんとココにある。頭はちゃんとついてる。目も見えている。匂《にお》いもわかる。台所から漂《ただよ》ってくる。お母さんがタマゴを焼いている。
じゃ、あれは? 昨夜目にした光景は?
夢だったのか?
昨夜《ゆうべ》はボク、どこにも出かけなかったのか? 出かけたつもりになっていただけで、実は寝床《ねどこ》に潜り込んでいたのか? こっそりカッちゃんの家に遊びに行こうと考えたのも、夢のなかのことだったのか?
そしてあの──あの──怪物《モンスター》。
おぼろげだけど、覚えている。芦川と、翼のはえた女のヒトの形をした真っ黒なバケモノ。金色の目。鈎爪がかちんと鳴る音。
石岡健児が悲鳴をあげてた。
亘は転がるようにしてベッドから飛び出した。台所に駆《か》け込むと、焼けたトーストの端っこをつかんでお皿に載《の》せようとしていた邦子が、ビックリしてキャッと言った。
「な、何よどうしたの?」
「お母さん、ボク──」
「何なの、亘?」
亘はがくんと両肩を落とした。説明する自信がない。あれを言葉に換えることなんてできない。全然。まったく。不可能だ。
「イヤねえ、寝ぼけてるの?」邦子は笑いながら、テーブルの上に落としてしまったトーストを拾った。「早く顔を洗ってきなさい。汗びっしょりじゃないの」
うん──とうなずいて、亘は洗面所に行った。鏡をのぞくと、確かに寝ぼけた小学生の顔が映っていた。怪我《けが》なんかしてなかった。髪《かみ》に寝癖《ねぐせ》がついているだけだった。
さあ終業式だよ、これでしばらくは学校とお別れ、四十日間の夏休みが待ってるよ。太陽が歌いながら照りつけている。私は子供たちの期待を裏切ったりしないよ、今日はたんと暑くしてあげようね、だってこれから夏休みなんだからさ!
校庭で朝礼が始まったばかりのころは、亘はまだ現実感が取り戻せなくて、昨夜の夢のような夢でないようなものの映像の方に心を奪《うば》われていて、級友たちが落ち着きなくさざめいていることにも、先生たちがいつになく険しい顔をしていることにも、興味を惹《ひ》かれなかった。出席番号順に並んでいるので、亘よりずっと前の方にいるカッちゃんが、先生の隙《すき》を見てはちょいちょいこちらを振り返り、何か合図を寄越《よこ》していることにも、気づいてはいたが気が向かなかった。
校長先生のお話が終わり、みんなでゾロゾロと教室へ引きあげるときになって、カッちゃんが亘に駆け寄ってきた。
「なあ、タイヘンだなタイヘンだな?」
亘はとろんとカッちゃんを見た。
「なんだよ、眠たいの? 夜中にゲームやってたんだろ」
カッちゃんはいやに興奮している。
「まさか何も知らないハズないよな? あ、だけどミタニの小母さんはPTAの役員やってないから、まだ聞いてないのかな? そんならうちの親父《おやじ》もオフクロも役員じゃないけど、でも親父は消防団入ってるかンな」 早口で自問自答している。
「どうしたんだよ」さして興味もなしに、亘は訊いた。亘にしてみれば、カッちゃんがどんなビックリニュースを持っていようと、昨夜の夢のような体験に比べてみれば、何ほどのオドロキでもなかった。そんなの、『ジュラシック・パーク』を観た後でフカガワ爬虫類《はちゅうるい》館に行くみたいなもんだ。
「ミタニ、ホントに知らないんだな!」
カッちゃんは驚き、実に嬉しそうな顔をした。わぉ、まだこのニュースを知らないトモダチがいる! だからオレ、教えてやれるってわけ?
「石岡健児が行方《ゆくえ》不明なんだ」
二人は二階の教室に向かう途中、階段の踊《おど》り場に立っていた。亘はつんのめるようにして足を止めたので、後ろに続いていた女子生徒とぶつかってしまった。
「あ、ごめんミタニ」女子生徒は言って、亘の背中を軽く叩《たた》いた。「いきなり止まんないでよぉ」叩かれた振動で、亘はぐらりと揺れた。それでも目はカッちゃんの顔の上に据《す》えたままだった。誰が見ても、明らかに様子がおかしい。カッちゃんがちょっと身を引いた。
「ミタニ大丈夫? サナエ、おまえが叩くからだよ」
亘は答えず、カッちゃんに一歩|詰《つ》め寄った。カッちゃんはビビッて一歩下がった。サナエも心配そうに近寄ってきた。
「石岡健児って、あの石岡?」
「そ、そうだよ」カッちゃんはうなずいた。「六年の、あの嫌なヤツ」
「あいつが行方不明?」
「そうよ、朝から姿が見えないんだって」サナエが話に割り込んだ。「パトカー呼んで、大騒ぎしてるよ。お母さんが学校にも電話して、だから六年の先生たちタイヘン」
「あ、そっか、おまえンとこ近所だもんな」カッちゃんがサナエに言った。「うちのオヤジ消防団だからさ、ソーサクしてんだ」
「でもさあ、大げさだよね」サナエは髪を肩先から跳ね上げながら言った「石岡って、しょっちゅう夜遊びしてたんでしょ? マキコのうちってさ、駅前に貸しビル持っててさ、ゲーセンに貸してんの。石岡とあいつの仲間が、夜中過ぎても遊んでるんで、何度も注意したけど全然ダメで、すごい困ってたことあるよ」
「夜遊びしても、帰ってこなかったことは初めてだから心配してンだってさ」カッちゃんが事情通風に説明した。「それに今日はさ、なんかあいつ、オーディションとか受けることになってたんだって。テレビの」
「だから帰ってこないハズないって?」
「うん、そうじゃないの」
サナエは、こぼれるような愛くるしい笑顔を見せた。「オーディション受けて、また落とされるのがイヤで家出したんじゃないのぉ? あいつなんて、テレビ出るの無理よ。不細工だもん」
カッちゃんは喜んだ。「あ、おまえもそう思う? やっぱアイツ不細工だよな?」
「出来損《できそこ》ないのゴリラみたい」
「な? なんで誰も本人に言ってやらないんだろうなぁ」
「アンタ言ってやれば?」
「オレ? ヤダよ」
「いくじなしィ」
笑いあう二人の声に、かすれて裏返ったおかしな声が割り込んだ。本人にもとても自分の声とは思えなかったけれど、亘の声だった。
「いなくなったの、石岡だけ?」
カッちゃんたちは、同時に亘の顔を見た。
「え?」
亘は壁《かべ》を見ていた。機械的に質問を繰り返す。「いなくなったのは石岡だけ? それともアイツの仲間も一緒?」
カッちゃんとサナエは顔を見合わせた。「それはわかんないけど……」
「でも、ひょっとしたら一緒なのかもな」カッちゃんが、またも事情通風に首をひねる。「三人いっぺんにいなくなったから、騒いでるのかも」
「ねえミタニ、どうしたの?」サナエが亘の肘《ひじ》をつかんだ。「顔、真っ青だよ?」
チャイムが鳴っている。生徒たちはどんどん教室に吸い込まれてゆく。
亘は何とか声を出した。「──は?」
「え? 何?」カッちゃんたちが耳を寄せる。「何って言ったの?」
「芦川は? 芦川は来てる?」
「芦川って──隣《となり》のクラスの?」サナエが不審《ふしん》そうにカッちゃんの顔を見た。カッちゃんは首を振る。
「芦川なんて関係ないじゃん」
「でも──あ、ちょっと待って、ねえミサちゃん」
教室に駆けあがろうと急いで来たひとかたまりの生徒たちのなかに、友達の顔を見つけたらしい。サナエは大声で呼び止めた。呼ばれたミサちゃんは階段の途中で振り返った。
「なあに?」
「あんたのクラスの芦川君、来てる?」
「休んでる。朝礼のときいなかったもん。あの子遅刻なんかしないし」
「ホント? ありがとう」
ミサちゃんたちは駆け去る。亘は目の前が真っ暗になり、身体が冷たくなり、立っているのも難しくなってきた。芦川も休んでる。芦川もいなくなってる。
これでお別れだよ、サヨナラ。
あいつ、そんなこと言ってなかったか?
亘の肘をつかんでいるサナエの腕に、さらに力が入る。
「コムラってば、ぼうっとしてないでよ。、ミタニ貧血だよ。ひっくり返っちゃうよ。先生呼んできて!」
「──大丈夫だよ」亘は言った。「平気だから。貧血なんかじゃない」
「だって──」
「ホントだから。サナエ──」
「え? 何? どうした?」
「腕、痛い」
サナエは一瞬ぽかんとしてから、ぱっと手を離した。「あ、ごめんごめん」
「バカぢからぁ」カッちゃんが余計なことを言って、叩かれた。
それでも心配顔の二人は、亘を保護するように両脇にくっついて、教室まで連れていってくれた。カッちゃんは何か聞き出したそうにソワソワし、サナエはそれを厳しい目つきで牽制《けんせい》していた。
亘はここにいたが、心はここになかった。昨夜の光景が、あたかもDVDで映画を観るように、スキップしては好きなキャプチャーから好きなシーンだけを取り出して再生するように、何度も何度も鮮《あざ》やかに蘇《よみがえ》った。
教室の雰囲気《ふんいき》も、全体に落ち着かなかった。明らかに石岡の行方不明が原因だった。ホームルームのあいだに、先生は二度も中座した。
そして戻ってくるたびに、先生の表情が曇《くも》った。
生徒たち一人一人に通信簿《つうしんぼ》が手渡され、もう帰宅するだけというころになって、先生がまた呼び出されて教室を出ていった。残された生徒たちは、不安と好奇心に盛りあがった。これで静かにしていろという方が無理であって、どの教室でも事情は似たり寄ったりのようだ。廊下《ろうか》全体が騒がしい。
やがて戻ってきた先生は、今日はみんな、集団下校することになりましたと告げた。しかも、当番の父兄《ふけい》が迎《むか》えに来るという。順番に校庭に出ますから、それまで教室でおとなしく待っているように。それだけ言って、またあわただしく廊下へ出て行く。
生徒たちはもう熱狂《ねっきょう》状態だった。猛者《もさ》が数人、情報収集に他の教室へと走る。鞄《かばん》のなかにこっそりPHSを忍《しの》ばせてきた生徒がいて、家に電話をかける。その周りに仲間が集まり、聞き耳を立てる。
亘は、精神のエネルギーの大半を、恐ろしい光景の再生のために消耗《しょうもう》しつつ、ぐったりと自分の椅子《いす》に座っていた。カッちゃんとサナエが席を離れ、そばに寄ってきた。
「ねえ、ミタニ本当に変だよ」サナエは真面目《まじめ》に不安がっていた。「どうかしたの?」
説明できるような事柄ならば、すぐに信じてもらえる事柄ならば、どんなに楽だろう。
教室の隅で小さな輪をつくっていた級友たちのなかから、悲鳴のような声があがった。
「なんだよ!」カッちゃんが立ちあがって大声を出した。「ヘンな声出すなよ!」
輪が崩れて、その中心に、PHSを耳にあてた女子生徒が見えた。今にも泣きそうで、空いている方の手で、友達の手をしっかりと握《にぎ》りしめている。
一人が輪を外れて教室の中心まで出てくると、引きつったような顔をして、みんなに聞こえるように言った。「六年生の二人が見つかったんだって」
亘は目をあげた。カッちゃんがすかさず訊いた。「二人って? 石岡の仲間?」
「そう。千川《せんがわ》公園に倒れてたんだって」
「二人とも?」
「そうだよ」
誰かが「死んでたの?」と訊いた。
「死んでない。だけど、ヘンなんだって」
「ヘンって?」
「ケガとかしてるわけじゃないけど、記憶が消えてるんだって。今までどこに行ってたのか、何も覚えていないんだって」
とうとう誰かが泣き声を出した。つられて数人が泣く。窓際《まどぎわ》の男子生徒が、外を見ながら、裏返ったような声で言った。「あれ、テレビ局の車じゃない?」
何人かが駆け寄って、バタバタと窓を開けた。ヘリコプターの音が聞こえてきた。近づいてくる。一機じゃない。複数だ。
亘は立ちあがった。もうここにはいられない。一分だって嫌だ。
みんなの注意は逸《そ》れていたけれど、カッちゃんとサナエが追ってこようとする。
「どこ行くんだよ?」
「帰る」
「帰るって──」
「気分悪いんだ。先生に言って帰る」
振り切って教室を出る。耳のなかがわんわんしているので、周りが騒がしいのも聞こえない。階段を駆け降り、通用門の方へと廊下を走る。職員室のそばを通らなかったので、幸い誰にも見答《みとが》められなかった。それどころじゃないのだろう。上履《うわば》きのままで、亘は外へ出た。
学校のなかはあんなに温度があがっているのに、町は一見したところ何も変わったことはなく、ただ日盛《ひざか》りで暑くて眩しいだけで、亘を遮《さえぎ》るものはなかった。走って走って息を切らして、大松さんのビルの前まで来ると、亘は手で顔の汗を拭った。
車が通り過ぎて行く。日傘をさしたおばさんが、道の向こうを歩いて行く。ちょっと先の駐車《ちゅうしゃ》場《じょう》で、誰かが車を停《と》めている。今、ドアをばたんと閉めた。
亘は幽霊ビルを覆う青色のシートを見た。秘密を隠すヴェールのように、ひっそりと垂れ下がっている。蓋《ふた》をしている。
シートのいつもの場所をめくって、素早く潜り込んだ。
考えてみれば、昼間ここに来たのは初めてだった。だから、隙間から差し込む強い陽《ひ》の光が、内部を薄明るく照らしていた。日陰《ひかげ》という感じではなく、空気は外よりも蒸《む》し暑いくらいだった。
たっぷり三十秒ぐらいのあいだ、亘は息を止めて、その場に立ちすくんでいた。背中の真ん中を汗が一筋流れるのを感じる。心臓が喉元《のどもと》にせり上がってきて暴れている。ごくん、ごくんと呑みこんでも、胸のなかの元の場所に収まってくれない。
昨夜、亘が倒れていた場所。
芦川が石岡たちに押し倒され、殴《なぐ》られていた場所。
そして、あのバケモノ──ああ、そうだバルバローネ、死の翼、暗黒の娘──あの異形のものが現れた場所。
一歩、また一歩、亘はバルバローネが翼を広げていた場所、バルバローネが石岡に襲いかかった場所、バルバローネが石岡を呑みこみ、彼の悲鳴がぷつりと途切れた場所へと近づいていった。足に錘《おもり》がくっついたみたいだった。引きずって歩かねはならない。顎《あご》の先から汗が滴《したた》る。
そして、見た。
地面の上に、スニーカーが片方落ちていた。たった今、そこに脱ぎ捨てられたみたいに。
亘はそっとしゃがんで、スニーカーを手に取った。白地にブルーとイエローのライン。有名スポーツブランドのロゴが入っている。まだ真新しい。
石岡健児の靴だ。
これがなぜ、こんな場所にある?
どうして、僕はその答を知っているんだ?
亘は声もなく叫んで、スニーカーを放《ほう》り出した。それは地面に落ちて二、三転し、こちらに底を向けて止まった。
亘は逃げ出した。
しゃにむにひっかくようにしてシートを持ちあげると、道路にまろび出た。勢い余ってコンクリートの舗道《ほどう》に両手をつき、そのあまりの熱さに驚いた。
立ちあがり、よろよろと歩き出すと、涙《なみだ》が出てきた。泣いてもどうにもならないのに、なぜ泣くのかもわからないのに、勝手に涙がボロボロこぼれる。
芦川──声川を捜《さが》さなきゃ。あいつに会わなきゃ。会って頼むんだ。石岡を助けてくれって。あんなことしちゃいけない。あんなバケモノなんか呼んじゃいけない。今ならまだ間にあうかもしれない。
涙で視界が曇って、前がまるっきり見えない。闇雲に歩いていると、何かやわらかいものにどすんとぶつかった。その何かには手がはえていて、それが亘を抱《かか》えようとした。
「おいおい、どうしたんだね?」
三橋神社の神主さんだった。今日も白い着物に袴《はかま》をつけている。優しそうな丸顔と、白髪《しらが》混じりのばさばさの眉毛《まゆげ》が、亘のすぐ間近にあった。
「おや、君は──この前も会わなかったかね?」
亘はちょうど、神社の入口にいたのだった。神主さんのすぐ後ろに鳥居がすらりと立っている。緑の木立が揺れている。社殿《しゃでん》の屋根の上に鳩《はと》がとまっている。
「神主さん──」
混乱した頭のなかに、一筋の光が射《さ》した。亘は両手で神主さんの袖《そで》をつかんだ。
「あの、僕みたいな子を知りませんか? よくここの境内《けいだい》に来てたんです。人形みたいなきれいな顔をした子です。芦川っていうんです。家はこの近所だって──知りませんか? どこに住んでるか知りませんか? あいつと話したことないですか?」
亘がどんなに揺さぶっても、小柄な神主さんはどっしりとして、ちっともぐらぐらしなかったけれど、たいそう驚いているようだった。まじまじと亘を見つめると、
「君ぐらいの歳《とし》の男の子だね?」
「はい、そうです!」
「芦川君ね。ああ、よく見かけるんで、話をしたことがあるよ。この裏のマンションに住んでいる子だね。友達なのかな?」
「裏のマンション? どっち?」
三橋神社の裏側には、屋上に目立つ赤い給水|塔《とう》のあるマンションと、チョコレート色の外壁《がいへき》の背の高いマンションが、ふたつ並んで建っている。
「さあ、どっちかな。住所を聞いたわけじゃないから」
ものも言わずに走り出そうとした亘を、神主さんはぐいと引き留めた。
「君、君、ちょっと待ちなさい。いったいどうしたんだね? 顔が真っ青だよ」
申し訳ないけど、これ以上、一秒だって待つことはできない。
「ごめんなさい」
亘はそう言って、神主さんの手を振り払った。真《ま》っ直《す》ぐに境内に駆け込み、砂利《じゃり》を踏んで走り抜けて、裏の出口から外へ出る。神主さんは追いかけてはこなかった。追いつけなかったのかもしれない。
亘はまず、赤い給水塔の方のマンションへ向かった。そちらの方が近かったからだ。エントランスのホールへ入ると、正面に郵便受けが並んでいた。息を切らしながら名札をチェックしてゆく。芦川という名前は見あたらない。シャツの下を汗が流れ落ちる。
二度チェックしても、見つからない。踵《きびす》を返して、外へ出た。チョコレート色のマンションの方は、神社に背中を向けて建っているので、エントランスに行くには建物の脇をぐるりと回らなければならなかった。汗が目に入って、チリチリしみる。手で顔を拭いながら駆けてゆくと、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。どんどん近づいてきて、亘の学校の方へと遠ざかって行く。
やっとエントランスに着くと、正面の自動ドアのところで、モスグリーンのつなぎを着た管理人さんが掃除《そうじ》をしていた。亘が走ってその脇をすり抜けると、管理人さんは箒《ほうき》を使いながら肩ごしにちょっと振り向いた。
こちらの方は、郵便受けの数も倍ぐらいあった。チェックにかかる前に、身体を折り曲げ、両手を膝にあてて呼吸を整えなければならなかった。下を向くと、顔がうっすら映るほど磨きあげられたリノリウムの床の上に、汗の滴《しずく》が滴った。
芦川の名札が、一〇〇五号室に出ていた。亘は猛然《もうぜん》と奥へ進もうとして、両開きの自動ドアにまともに正面|衝突《しょうとつ》した。びたん! と、たまげるような音がした。
このマンションはオートロック式で、エントランスホールからさらに奥へ行くには、集合インターフォンでロックを開けてもらわなければならないのだ。ああ、焦《じ》れったい!
ドアのすぐ左手に、ボタンとマイクのついたパネルがあった。亘が震える指で「1005」と打ち込んでいると、後ろから肩をつかまれた。さっきの管理人さんだった。
「おい、大丈夫かい?」
振り向かされて、亘の指がパネルから離れた。ちょっと触られるだけで、足がよろける。
「ドアにぶつかったんだな? たいへんだ、鼻血が出てるぞ」
言われてみれば、鼻の下とくちびるのあたりが生暖かい。
「君はここの子じゃないね。何の用? 学校はどうしたんだい?」
管理人さんの問いかけにかぶるように、集合インターフォンから女の人の声が聞こえた。「はい、どなた?」
「芦川さんですか?」亘は集音マイクに向かって声を張りあげた。「僕、美鶴君の友達です! 美鶴君を探してるんです、家にいますか? 会えますか?」
一瞬の沈黙のあと、女の人の声が、急《せ》き込んだ様子で応じた。「美鶴の同級? じゃ、あの子やっぱり学校に行ってないの?」
亘はすうっと血の気が引くのを感じた。こんなふうに訊かれるってことは、芦川は家にもいないのだ。
管理人さんがインターフォンにかがみ込んだ。「芦川さん? ここにいるのは確かに小学生の男の子ですけどね、えらくあわててるみたいですよ」
女の人の声か答えた。「あがってもらってください」
自動ドアがすうっと開いた。亘は走ってドアを抜け、エレベーターを目指した。管理人さんがついてくる。むっつりと不機嫌《ふきげん》そうだけれど、案内してくれるつもりらしい。
十階に着くと、目指す部屋はエレベーターを出てすぐ右手にあった。開けたドアを押さえて、すらっとした女の人が立っている。
「芦川さん、この子です」
管理人さんが、亘の背中を押した。
「何だか知らないが、気をつけてくださいよ。前みたいな騒ぎを起こされちゃ、私の責任問題だからね」
ドア口の女の人は、「すみません」と丁寧《ていねい》に頭をさげた。管理人さんはまたエレベーターの箱に乗り込み、とっとと降りていった。
亘は黙って女の人の顔を仰いだ。鼻の下がどんどん生暖かくなってゆく。まだ血が流れ出しているのだ。
女の人は、とても若かった。とっさにはいくつなのか見当がつかなかったけれど、少なくとも、芦川のお母さんという感じでは、絶対になかった。目を瞠るような美人で、スタイルも抜群《ばつぐん》だった。白いノースリーブのブラウスに淡《あわ》いグレイのミニスカート。ドアを押さえていない方の腕を曲げて、軽く腰にあてていて、その手首に銀のバングルが光っている。インターフォンの声の主はお母さんに決まってると思い込んでいたから、亘は少なからず混乱した。
「君が美鶴のお友達?」
女の人は、亘を見おろしたまま尋ねた。インターフォンごしに聞いたのと同じ声だ。
亘は黙ってうなずいた。ひとつうなずけば用が足りるのに、なんだか壊《こわ》れたようになってしまって、何度も何度もうなずき続けた。
「鼻血が出てるじゃない」
責めるみたいな口調で、女の人は続けた。それから、腰にあてていた手を顔に持っていって、ちょっとのあいだ額を押さえていた。それから、いかにもうんざりしたという感じで手を振ると、「どうぞ、お入りなさい」と、ドアを押し開いた。
さはど広くはないけれど、いっぱいに陽のあたる明るい部屋だった。きれいに片づけられていて、リビングの家具も洒落《しゃれ》ている。ぐるぐる混乱している頭で考えることだから、あんまりあてにはできないけれど、子供がいる人の家の感じではなかった。芦川はホントにここに住んでいるんだろうかと思った。
女の人はドアを閉めて、亘の後についてリビングに入ってくると、ティッシュの箱を差し出した。
「鼻血を拭《ふ》きなさいね。どうしたの?」
亘は言われたとおりにした。
「ドアにぶつかっちゃったんです」
ティッシュで鼻を押さえると、すごく痛かった。さっきは全然感じなかったけれど、相当ひどくぶつけたのだ。
女の人は、亘のそばに、キャスター付きの丸い椅子を押して寄越した。そして自分は、手近の一人掛けのソファに腰をおろした。亘も椅子に腰かけると、座高と椅子のバランスで、ちょうど目と目が同じ高さに合った。
女の人は、亘より痛そうな顔をしていた。「美鶴、本当に学校へ行ってないのね?」と、静かに尋ねた。
「そうです」亘はティッシュの下から答えた。前歯も痛かった。グラグラしているかもしれないと思うと、怖くて触れない。
「あなた、お名前は?」
亘は名乗り、美鶴からそんな名前の同級生の話は聞いたことがないわと言われる前に、
「芦川君とは、学習塾で一緒なんです」と言い足した。
女の人は黙ってうなずいただけだった。怪《あや》しんでいる様子はない。もしかしたら芦川は、この家で学校の話などしたことがないのかもしれない──そんな気がした。
「美鶴を心配してくれてありがとう」
女の人は、痛そうな顔のままそう言った。
「それであの子──どこにいるのか、心あたりはないかしら?」
「あの、朝から、いないんですか」
女の人はうなずいた。「書き置きがあったの。どうやら家出したみたい」
そう、家出と言えは家出だ。サヨナラ。どこへ? ここではない他所《よそ》の世界へ。
「美鶴から聞いているかしら。わたしはあの子の叔母《おば》なんです」
どうりで若いはずだった。
「芦川君、自分の家のこととかしゃべらないから、僕らよく知らなくて。外国に住んでたことがあるとか、みんな噂《うわさ》してるけど、それも正確な情報じゃなくて」
なぜかわからないけれど、叔母さんは急に悲しそうな顔になった。片手で額を押さえると、またバングルが光った。
亘は急いで言った。「だけど、芦川君すごい人気者ですよ。勉強もできるし、女子にはモテるし男子には一目置かれてる」
叔母さんはさらに悲しげに目を伏せる。そうなの、と呟く声には力がなかった。
「だけど出ていっちゃったわ。何だかわけのわからない書き置きだけ残して」
「わけがわからない? どんなことが書いてあったんです?」亘は乗り出した。「別の世界に行くとか書いてあったんですか?」
叔母さんはさっと顔を上げて、驚きの目で亘を見た。「どうしてわかるの? あの子から何か聞いてるの?」
亘は言葉に詰まった。できるならば、いろいろ説明するより先に、芦川が残したその書き置きを見せてもらいたいところだけど──
「三谷君、本当に美鶴の仲良しだったみたいね?」叔母さんは亘の膝の上に手を載《の》せた。温かかった。
「あの子の行きそうなところに心あたりはないかしら。あの子を死なせたくないの」
「死なせたくないって──」
叔母さんは、「別の世界へ行く」ということを、「死ぬ」ことだと解釈《かいしゃく》してるのか。そうか、普通《ふつう》はそうなんだろうな。
「書き置きに、死ぬって書いてあったんですか? そうじゃないでしょ?」
「ええ、そうだけど」叔母さんは顔を歪《ゆが》めた。それでも綺麗《きれい》だった。よく見ると、目鼻立ちに芦川と共通するものがあった。
「三ヵ月ぐらい前かしら、自殺しようとしたことがあったのよ。その話は知ってる?」
亘は唖然《あぜん》として首を振った。
「そう。あの子も言いにくかったのかしら。まだこっちに来てまもないころ──毎日家で独りぼっちでいてね。余計に気が塞いだんでしょう。ここの屋上から飛び降りようとして、運良く管理人さんが見つけてくれて、止められたの。でも大騒ぎになってしまって」
さっきの管理人さんの、やけに警戒《けいかい》しているような様子と「前みたいに──」という言葉の裏には、そんな出来事があったのか。
「やっぱり、わたしじゃどうにもならないのかしら」と、叔母さんは呟いた。
芦川の家庭に、大なり小なり複雑な事情がありそうだということは、亘も察していた。それだけに、亘の頭と心では、この場でどんなふうに問答をして話を進めていったらいいのか、見当さえつかなかった。
落ち着け。『私立|探偵《たんてい》メドウズの事件簿シリーズ』を思い出せはいいんだ。テキストアドベンチャーは好きじゃないけど、あのゲームだけは全部クリアしてるじゃないか。叔母さんを依頼《いらい》人に見立てて、メドウズ探偵になったつもりで質問を投げればいいんだ。そんなに難しいことじゃない。芦川の叔母さんは、事件の始まりにメドウズの事務所を訪《おとず》れる謎《なぞ》の美女の役割にぴったりじゃないか。
「書き置きには、誰にも見つからない場所に行くって書いてあるの」と、叔母さんは言った。「だから捜しても無駄《むだ》だから、そっとしておいてくれって」
「ぼ、ぼ、僕には──声川君がどこに行ったのか──心あたりがないわけではないです」
叔母さんが、強い力で亘の膝をつかんだ。「じゃ、わたしを案内して!」
「そうしたいけど、でも、僕には──どうやったらそこに行かれるのか、わからなくて」
叔母さんは両目を瞠った。「どういうこと? 遠い場所だからって意味?」
「遠いっていうか──」
「もしかして三谷君、美鶴にその場所のことは秘密にしてくれって言われてるの?」
それは事実ではないが、うんと曲げて考えるならば事実から遠くはない嘘だ。幻界≠フことを知っているのは、今のところ芦川と亘だけなのだから。
「はい、そうなんです」
「だけどあの子、ほっといたら死んでしまうわ。美鶴って、口先だけじゃないのよ、前のときも、本当に屋上のフェンスによじ登っていたの。管理人さんが見つけるのがあとちょっとでも遅かったら、飛び降りてたわ」
「あの、芦川君、今日は学校はお休みってことになってるんですか?」
話が急に向きを変えたので、叔母さんはまばたきをした。「え?」
「学校には連絡してあるんですか?」
「ええ。今朝、書き置きを見て、すぐに担任の先生に、休ませますって電話したから。あの子のことで、学校に騒がれたくないから」
ヘンな話だ。学校に騒がれたくない。こんな場合に、保護者が真っ先に思うことだろうか。普通なら、学校に報《しら》せて一緒に捜してもらうだろう。
「そのあと、学校に電話しましたか」
「してないわよ。どうして?」
それでは叔母さんは、石岡たちの事件については、まだ全然知らないのだ。それが良いのか拙《まず》いのかはともかく──
と思っていたら、電話が鳴った。
電話はリビングの隅にあった。パーソナルファクシミリ機能付きの、大型の機械だった。叔母さんは椅子から立ちあがって、電話のそばへ飛んでいった。
亘は目の前がぐらりと揺れるような気がした。すごく嫌な予感が込みあげてきた。去年の夏、父さんと一緒に大きな美術館に行って、ファン・ゴッホという画家の描いた『糸杉《いとすぎ》』という絵を見た。色彩は鮮やかでとっても綺麗だったけれど、空にたくさんぐるぐる渦巻《うずま》きがあって、そのひとつひとつが美術館を出てからも亘の目の底でぐるぐる回って、本物の青空を仰いでもぐるぐる回って、電車に乗っても吊革《つりかわ》がぐるぐる回って、お父さんがレストランに連れて行ってくれたのに、ほとんど料理が食べられなかったという経験がある。あのときとよく似ていた。今窓から外をのぞいたら、あのぐるぐるの空が見えるかもしれない。亘にはコントロールのできないぐるぐるのエネルギーのパワーが、そこらじゅうに満ち溢《あふ》れているのが見えるかもしれない。
芦川の叔母さんは、電話の相手と話をしながら、だんだんと、受話器にしがみつくような格好になってゆく。
もしかしたら僕は、学校の話題を出したことで、何か致命《ちめい》的で取り返しのつかないフラグを立ててしまったのかもしれない。
ロールプレイングゲームや、アドベンチャーゲームでは、ある順番で物事をして、ある人にある決められた質問を投げたりすることがきっかけになり、ストーリーが進んでゆく。そのきっかけを「フラグ」と呼ぶのだけれど、これが見つからないときには全然見つからなくて、そこでゲームが止まって何日間もウンウン唸《うな》って考えたりすることがあるのだ。
さっきまでの叔母さんとのやりとりがそうだった。僕も説明の難しい事柄をいろいろ知っているけれど、叔母さんの方にも謎めいた隠し事があるみたいで、僕らの話は先に進んでいるようでいながら同じところで止まっていた。
だけど亘は、知らずにキーワードを言ってしまったのだ。自分でも、それが何かわからない。でもフラグは立った。話は進み始める。
叔母さんが電話を切った。蒼白《そうはく》だった。
「六年生の石岡君たちが行方不明なんですって?」と、震える声で亘に尋ねた。そして亘がうなずくよりも早く、さっと駆け寄ってきて、亘の両肩をつかんで揺さぶり始めた。
「どうして最初にそのことを教えてくれなかったの? 三谷君、石岡君たちが美鶴を脅《おど》かしていたこと知ってたんでしょ? 知ってたから、あいつらが行方不明になったって聞いて、美鶴を捜しにきたんでしょ? 美鶴があいつらをどうかしたかもしれない。そうなんでしょ? 何で黙《だま》ってるのよ、返事をしなさいよ!」
叫ぶようにしてそう言うと、叔母さんは亘の肩を突き放して、両手で顔を覆い、しゃがみこんでしまった。亘はめまいが止まらなかった。揺さぶられたせいではなく、心のなかのぐるぐるのエネルギーのせいだ。
芦川が石岡たちをどうかした。
そんな問いが、叔母さんの口から飛び出してきた。何のためらいもなく、せっぱ詰まった恐怖の感情を湛《たた》えて。
普通、そんなこと想定するか?
叔母さんは、芦川が魔術《まじゅつ》を使えることを知っているんだろうか。呪文を唱えて魔物を呼び出したり、怪我や傷を癒《いや》したり、不思議な技《わざ》を見せることを?
だってそうでなきゃ、三対一だもの、芦川が石岡たちを「どうかできる」はずないよ。
知ってるんですか、叔母さん。
「学校に、テレビ局の車がいっぱい来てました」と、亘は小さく言った。「ここにいると聞こえないけど、ヘリもいっぱい飛んでて。僕が学校から出てくるときには、石岡の仲間の二人は発見されたって、ニュースを聞いた友達が言ってた。生きてるけど、普通の状態じゃないって」
叔母さんは両手の隙間から尋ねた。「普通の状態じゃない?」
「なんだか、昨夜《ゆうべ》の記憶を失くしてるらしいって」
両手をぼとりとさげて、叔母さんは立ちあがった。「美鶴にはそんなことできない」
それから、平たい口調で言った。「だけど、そんなにテレビ局が来てるなら──あの子はおしまいだわ。こうなったらもう、あの子の家出を隠してはいられないでしょうし、いずれは家族のことも探り出されるに決まってるもの」
「家族のこと?」
問い返す亘に、叔母さんはただ突っ立ったまま首を振った。
「もう、どうしたらいいかわからない」
「叔母さん──」
叔母さんは泣きだした。
「三谷君、美鶴と同じだもの、十一歳だよね?」
「うん」
亘も泣きそうになってしまった。気の毒で、痛ましくて。立派な大人のはずの叔母さんが、突然、大松香織とまったく同じ、繊細《せんさい》な壊《こわ》れものになってしまったみたいだ。
「あたしはいくつに見える? 二十三歳なの。去年大学を出て、働き始めたばっかりよ。あなたたちの倍しか生きてないの。あたしだってまだ大人じゃないのよ。こんなこと、手に負えないわ。無理よ」
叔母さんは電話に歩み寄った。「学校に報せなきゃ。三谷君、心配してくれてありがとう。もうお家《うち》に帰りなさい」
お午《ひる》を過ぎるころには、石岡たちの一件は、全国レベルのニュースにまでふくらんでいた。
テレビに映る城東第一小学校は、モザイク処理されてはいても、間違いなく亘たちの学校だった。集団下校する生徒たちの映像にも、同じくモザイクがかけられていたけれど、服装や歩き方で、それと見分けることのできる同級生が数人混じっていた。
亘の母さんは、芦川の叔母さんと同じく、最初は学校の緊急連絡網を使った電話によって、事件のことを知ったのだった。その後も電話は何度となく鳴った。みんな、ニュースを見た人たちからの電話だった。そのたびに母さんは、小田原のお祖母ちゃんや、千葉のお祖母ちゃんたちと話をしては、亘はちゃんと家にいるから心配しないでと報告した。ちょっと怪我をしてるんだけど、クラスで事件のことを聞いて怖くなっちゃって、走って帰ってくるあいだに、転んだらしいの。
担任の先生からも電話があり、亘が持って帰らなかった通信簿を、後で届けてくれるという。先生はまったく怒っていなかった。亘が帰ったあと、教室のなかではなかなか大きなパニックが起こったそうで、芦川のマンションへ駆けてゆく途中で亘が耳にした救急車のサイレンは、ほかでもない亘のクラスの女子生徒を乗せるためのものだったという。六学年でも何人か倒れた生徒がいて、救急車が足りなくなり、他所の地区の消防署まで応援《おうえん》を頼《たの》んだというから大変だった。
亘は母さんに傷の手当をしてもらい(幸い、前歯は折れていなかった)、お昼にチキンライスをつくってもらったのだけれど、ほとんど喉を通らなかった。追い出されるようにして帰ってきてしまったけれど、芦川の若くてきれいで悲しそうな叔母さんは、あれから一人でどうしたろうかと、しきりと考えた。あの叔母さんには、チキンライスをつくってくれる人はいないだろう。芦川が一時一緒に暮らしていたという伯父さんは、あの叔母さんの兄さんなのだろうか。だとしたら、今も外国にいるのかもしれないし、すぐには駆けつけてこられないだろう。
午後からのニュースには、六年生のT君が依然として行方不明であるという事実のほかに、五年生の生徒A君も、早朝から居所がわからなくなっているということも付け加えられるようになっていた。ただA君は書き置きを残しており、自発的な家出である可能性が高く、従ってT君たちの事件と関連があるかどうかはわからないという、慎重《しんちょう》なコメント付きで。
母さんはずっとテレビにかじりついて、その合間に自分もお昼を食べ、そこへまた電話が鳴って、出てみたら小村の小母さんからだった。消防団が捜索《そうさく》隊をつくるので、三谷さんのご主人にも参加してもらえないかという。
母さんは丁寧に謝って、主人は会社を早退《はやび》けしてくるわけにはいかないと答えた。小村の小母さんは、今夜、家に帰ってきてからでもいいのだと言っている。声が大きいので、受話器から漏れて聞こえてくるのだ。
「もっとも、夜までに見つかれば何てことないんだけどね」小村の小母さんは、こんなときでも元気だった。「石岡君て、札付きだったからね。チンピラにでも関《かか》わって、痛い目にあってるんじゃないのかねえ」
母さんはしきりと謝って電話を切り、またテレビのそばに座った。何だかひどく考え込んでいるようだった。
そして、ぽつりと呟いた。「お父さん、電話かけてこないね」
亘は言った。「ニュースを見てないんだよ、きっと」
「社員食堂にはテレビがあるって言ってたわよ」
「じゃあ、ニュースでは学校の名前が出てないから、僕の通ってるところだって気づかないんだ」
母さんは黙った。亘も黙った。ニュースは間断なく流れているし、ワイドショウなど予定を変更して生中継《なまちゅうけい》をしているのだけれど、新しい情報は入ってこなかった。
四時|頃《ごろ》だったろうか、亘が疲れてベッドに横になっていると、ドアチャイムが鳴った。そろそろ担任の先生が来る頃だと、エプロンをはずしてきちんと髪をとかしていた母さんは、小走りに玄関《げんかん》に出た。
ところが、その来客は、サナエのお母さんだった。何度か駅やスーパーでサナエと一緒にいるところを見かけたことがあるので、亘にはすぐわかった。母さんも、同級生とはいえ女子のお母さんと知って、最初は当惑していたけれど、サナエのお母さんはとても明るい人なので、すぐに愛想《あいそ》がよくなった。
「三谷君、気分は良くなった? うちのサナエが心配してて、一緒に来たがったんだけど、今は町じゅう大騒ぎだから、外へ出ちゃ駄目だって、家に置いてきたの」
「大丈夫です。スミマセン」
「だけどひどい痣《あざ》ね。おでこにコブもできてるじゃない。眠ってたの? それなら、また横になった方がいいわね」
母さんも、お見舞《みま》いにメロンをいただいたわよなんて言いながら、亘を自室に追いやった。どうやら母親同士のあいだで、子供抜きで話がしたいの≠ニいう念波が通じ合っているみたいだった。
当然のことながら、亘はドアに張りついて盗《ぬす》み聴《ぎ》きを開始した。
「三谷さん、実はちょっとご相談があって」と、サナエのお母さんは切り出した。「サナエに聞いたんだけど、亘君は、例の芦川君て子と、同じ塾に通ってるんでしょ?」
芦川の話題だ。亘はビクリとした。
「ええ、そうです」と母さんが答える。
「芦川君、優等生らしいわよね。すごく可愛《かわい》い顔をしていて」
「わたしは会ったことないんですよ。家に遊びにきたこともないし」
「あら、そうなんですか。じゃ、仲良しだっていうのはサナエの勘違《かんちが》いなのね。いえ、二人が仲良しだったら、奥さんも芦川君のこと何かご存じかと思いましてね、それでうかがったの」
「どういうことでしょうか」
サナエのお母さんのはきはきした声が、ボリュームを落とした。「こんなこと、あんまり言いたくないんですけど……いえ、最初に気づいたのはうちの主人なんですが、ずっと黙っていたんですよ、子供には関係ないことだからね」
芦川の何に気づいたというのだろう。亘の頭のなかに、芦川の叔母さんの泣き顔と、いずれは家族のことも探り出される≠ニいう謎めいた言葉が蘇《よみがえ》る。
「四年前に、川崎市内のマンションで、嫌な事件があったんですよ。三十歳の会社員の男の人が、自分の奥さんと、奥さんの不倫《ふりん》相手を刺し殺してね、自分も自殺しちゃったの。その会社員の名前が芦川って言って、ご夫婦《ふうふ》のあいだには、当時小学校一年生の男の子がいたのよね」
亘の母さんは何も言わない。亘も何も言えない。息も停まったみたいな感じがする。
「子供さんはもう一人いて、その子は二歳の女の子だったんだけど、やっぱり母親と一緒に殺されちゃったんです。殺した父親としては、一種の無理心中というか、子供だけ残してゆくのは忍びないという気持ちだったんでしょうけどね」
サナエのお母さんは、はきはきと続ける。「芦川って人は、昼間自分が会社に行ってるときに、奥さんが不倫相手を家に連れ込んでいるって気づいて、平日の昼間に、抜き打ちで帰ってきて、現場を押さえたらしいのね。で、その場で三人を殺してしまって。それでどうやら、上の男の子が学校から帰ってくるのを待っていたらしいのよ。つまり──ねえ、その子も──」
「嫌だわ、やめてください」と、母さんが大きな声を出した。「そんな話、聞きたくないですよ」
「アラごめんなさい。わたしとしても、ただ野次馬根性《やじうまこんじょう》でこんなことを言ってるんじゃないんですよ」サナエのお母さんが言い返した。「それでね、近所の人がドタバタするのに気づいて騒ぎ出したんで、芦川って人は上の男の子が帰る前に逃げ出して、何日か逃げて、結局静岡だったかしら、どっかそのへんで、海に入って死んだんです」
亘はマイナス一〇度に凍《こお》りついた心で考えた。その男の子が芦川美鶴なのか。生き残った男の子があの芦川なのか。
サナエのお母さんは続けた。「芦川君て子が、一時外国に住んでいて、その前は川崎にいて、どうもご両親がいないらしい──サナエにそう聞いて、あたしも主人も、間違いない、あの事件の生き残りの男の子だ、元気に育ってくれるといいねって言ってたんですよ。ホントにね、本当にそういう気持ちだったのよ。でも、今度みたいなことになってくると──芦川君、石岡君たちの件に関わってるかもしれないんでしょう?」
母さんが言った。「それはまだわかりませんよ。ただの家出かもしれないし」
「そうかしら、そんな単純な話じゃないと思うわよ、奥さん」
「だけど──」
「それでわたし、主人とも話しましてね。学校は当然、芦川君の家庭|環境《かんきょう》について、最初から知ってたわけでしょう? 知ってて隠してきたんでしょうけど、こうなってくると、それもまずいんじゃないかと。PTAに報告した方がいいんじゃないかと思って。ほかにも、気づいている父兄の方がおられるかもしれないし」
母さんはしばらく無言でいたけれど、やがて弱々しい口調で訊いた。「それで──わたしにご相談というのは?」
「いえ、ですからね、サナエから三谷君が芦川君と仲良しだって聞いたから、ひょっとしたら奥さんもこのことに気づいておられるんじゃないかと思ったので、どうしましょうかってご相談したかったの。でも、仲良しじゃないのなら、こんなこと言われても困りますよねえ」
「──亘から芦川君の話は聞いたことがありません」
「そうでしたか」椅子を引く音がした。「それじゃ、かえってご迷惑だったわね。電話で話せるようなことじゃないし、ご近所だからうかがったんですけど、すみませんでした。わたしはこれから学校へ回ります。お邪魔《じゃま》しました」
サナエのお母さんが玄関から出てゆくかゆかないかのうちに、またまた電話が鳴った。母さんが出た。そして、緊張した早口でしばらくやりとりした後、電話を切って、そっと亘の部屋のドアを叩いた。
「亘?」
亘は言葉もなくただ母の顔を見上げた。言いたいことはあるけど、言葉にならない。
「行方不明だった六年生の石岡君て子が、見つかったんですって」
自宅の裏庭に倒れているのを発見されたのだという。亘の心臓が、胸の奥でたじろぐようにどきん[#「どきん」に傍点]とひとつ打った。
「怪我はないそうよ。無事だったの。ただ、何だかこう……やっぱり様子がおかしいらしいのよね。何もしゃべらないし、話しかけても反応がないんだって。こんな言い方が適切かどうかわからないけど、魂《たましい》を抜かれたみたいになっちゃってるんだって」
魂を抜かれたみたいに?
「先に見つかった二人の子供たちは、元気を取り戻してきてるそうよ。この子たちから事情が聞ければ、もっと詳しいことがわかるかもしれないね。それでね亘、今夜、学校で緊急父母集会があるんだって。母さん、行ってくるからね」
あんたは大丈夫? 少し横になるといいわ、顔色が悪いもの。母さんはそう言い置いてドアを閉めた。まもなく、どこかへ電話をかけているらしい声が聞こえてきた。クラスの緊急伝達表に従って、別の家に連絡しているのだ。
石岡たちは帰ってきた。三人とも。腰巾着の二人は、昨夜の記憶を失っただけで済んた。
だけど石岡は、魂を盗《と》られた。
バルバローネに呑みこまれてしまったから。そうなんだ、そういう事だったんだよ、母さん。僕は知ってるんだ。
それをやったのが芦川美鶴だったことも、知ってるんだ。
自分のお父さんに、お母さんと幼い妹を殺されてしまった美鶴。自分も殺されるところだった芦川美鶴。
本気で自殺しようと思ったことのある芦川美鶴。
亘は膝を抱えて床に座っていた。最初はカタカタと、次第《しだい》にプルプルと、身体が震え出した。震えはどんどんひどくなって、しまいには、すぐ後ろの本棚《ほんだな》が、亘の震えに共振するほどになった。
──お別れだよ、サヨナラ。
芦川がこの世からいなくなったのは、この世には、彼のいる場所がなかったからなのだ。だから幻界≠ヨ行ってしまったのだ。
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12 魔女
一日過ぎ、二日過ぎ、三日経《た》っても、芦川美鶴は帰ってこなかった。
石岡の仲間二人は、ほとんど元通りになったという。ただ、あの夜の記憶だけは消えたままだ。当の石岡も、依然《いぜん》、魂《たましい》を抜《ぬ》かれたような状態が続いている。目は開いていても何も見ていない。揺さぶっても反応がなく、問いかけても答えない。
母の口からそれらのことを教えられたとき、亘はふと、大松香織の様子を連想した。が、強《し》いてその連想をうち消した。香織と石岡を同じように考えるのは嫌《いや》だったのだ。
石岡健児たち三人の身の上に何が起こったのか。
行方《ゆくえ》不明の芦川美鶴は無事なのか。
誰もが知りたがり、心配している。そしてその謎《なぞ》の答を、亘だけが知っている。すべてを知っている、地上でただ一人の人間が三谷亘なのだ。
それなのに──ひと晩|眠《ねむ》り、ふた晩を越すと、またしても亘のなかから、その記憶《きおく》が薄《うす》れ始めた。幻界《ヴィジョン》≠ノまつわる本当の出来事に関しての、亘しか知らない事柄《ことがら》の記憶は薄らいでゆく。
前回のときのように、完全に消えてしまいはしない。ただ、長い間放置されていた水彩《すいさい》画から色が抜け、描線《びょうせん》がかすれてゆくのと同じように、すべてが色褪《いろあ》せて見えにくく、判別しにくくなってゆくのである。捕《つか》まえにくくなってゆくと言ってもいい。
でも、感情だけは残っていた。恐怖《きょうふ》と、早く捜《さが》し出さないと恐ろしいことになるという焦《あせ》りの気持ち。それだけは、むしろ日が経つにつれて濃《こ》くなってゆく。
だから、亘はたいそう混乱した。怒《おこ》りっぽくなり、夢を見ては泣き、目覚めていても自分の心のなかをのぞきこんでばかりいるので、とんちんかんなことを言い、ご飯も食べない。
そして、夏休みに入ってちょうど一週間目の朝、ふと気がついたら、亘は大変なことをしでかしていた。
前の晩、暗闇《くらやみ》が怖《こわ》くて電灯を全部|点《つ》けてベッドに潜《もぐ》り込んだことは覚えていた。眠れそうにないと思っていたのに、目をつぶったらすぐに暗闇が押し寄せてきて、まるで溺《おぼ》れるみたいにしてそのなかに巻き込まれた。すると、すぐに夢がやってきた。またまた怖い夢だった。翼《つばさ》のある怪物《モンスター》に追いかけられて、悲鳴をあげながら走るのに、誰も助けてくれないし、どこにも逃《に》げ場がないのだ。
走れるだけ走って、胸が苦しくて破れそうになったとき、誰かが呼ぶ声が聞こえた。お母さんだ! 気づいたとたんに、砲身《ほうしん》から撃《う》ち出される大砲の弾《たま》みたいに、亘は夢のなかから飛び出した。
目の前に、母さんの顔があった。血の気が引いていて、怪我《けが》をしていた。くちびるは切れているし、目の下に痣《あざ》がある。髪《かみ》は乱れてバラバラだ。半袖《はんそで》のパジャマ姿で、剥《む》き出しの腕《うで》のあっちこっちに、めちゃめちゃなひっかき傷があった。
「お母さん──どうしたの?」
亘の問いに、母さんはわっと泣きだした。
「ああ、よかった亘。正気に戻《もど》ったのね。よかった、よかった」
泣きながら亘の身体《からだ》を揺さぶる。亘は赤ちゃんのように母さんに抱《だ》かれているのだった。そして、頭をさげて泣き続ける母さんの肩《かた》ごしに、亘は恐《おそ》ろしい光景を見た。
これ──僕の部屋?
本棚《ほんだな》が倒《たお》れ、窓ガラスにひびが入っている。ベッドカバーはズタズタに引き裂《さ》かれ、そこらじゅうに白っぽいものが舞い落ちている。羽根枕の中身だ。机の上のノートや本もベリベリに引きちぎられて、ほとんど元の姿を留《とど》めていない。壁《かべ》は、ぱっと見渡《みわた》した限りで目につくところだけでも、三ヵ所がへこんでいる。まるで、誰かが蹴《け》っ飛ばしたみたいに。
誰かが?
誰が?
僕だ。僕がやったんだ。
「お母さん、僕がこれをやったんだね?」
おそるおそる尋《たず》ねると、母さんは手の甲《こう》で涙《なみだ》を拭《ぬぐ》いながら、
「いいのよ、夢を見たんだから。夢のなかで暴れたのよ。だからわざとやったんじゃないの。あなたのせいじゃないのよ」
母さんは亘の頭を撫《な》でて、強く抱きしめてくれた。でも亘は、もうひとつの恐ろしい現実に思い至って、身体が硬《かた》くなってしまった。
母さんの怪我。これも、僕がやったんだ。
──よかった、正気に戻ったのね。
ボクハアタマガオカシクナッタンダ。
アタマガオカシクナッテ、オカアサンヲブッタンダ。
「ごめんなさい」
亘が呟《つぶや》くと、母さんはまた声をあげて泣き、悪いのはあなたじゃないお母さんだと言うのだった。
「あなたをこんなに苦しめて──お父さんとお母さんの責任だわ。みんなあたしたちが悪いのよ。ごめんね、亘。お父さんとお母さんをかんべんしてね」
そうじゃないよ母さん。僕は──僕は母さんたちの知らないことを知っていて──それがとても恐ろしいことで──だから僕は頭がおかしくなりそうなんだ。
「父さん母さんのせいじゃないんだよ。友達の──こととか──いろいろ怖いことがあって。だから僕は」
切れ切れに呟いてみた。そのとき初めて、自分も身体のあっちこっちが傷《いた》んでいることに気がついた。打ち身。擦《す》り傷。これも自分でやったんだろう。
「そうね。あんな怖い事件が起こって、怖くて当たり前よ」母さんはしゃくりあげながら言うのだ。「だからこそ、家《うち》でしっかり守ってあげなくちゃならないのに、あたしたちときたら何もしてあげられない。こんなの、親として失格だわ」
少し落ち着くと、母さんは救急箱を出してきて、自分と亘の傷の手当をした。亘はともかく、母さんは病院に行った方がよさそうなのに、どんなに勧《すす》めても、薬があるから平気だからいいよと、笑うばかりだった。
「たいしたことないわよ。本当よ」
お医者に診《み》せたら、なぜこんな怪我をしたのかと尋ねられるだろう。そしたら、いくら口先でごまかしても、僕が暴れて母さんを傷つけたことを見抜かれてしまうかもしれない。それを恐れているのだと、亘は悟《さと》った。
亘は自分の部屋を離《はな》れて、父さんが使っていたベッドに寝《ね》かされた。
「このごろ、毎晩のようにうなされていたのよ。自分で気がついてた?」
「ううん、全然」
「あれじゃ、眠ったことにならないわ。ひどい顔色をしてるもの。少し眠りなさい。母さんがそばにいるから大丈夫《だいじょうぶ》よ」
眠れるはずはないけれど、母さんを安心させるために、亘は眠ったふりをした。
母さんはあちこちに電話をかけていた。そのうちの一本は、学校あての電話だった。先生と話している。石岡たちの事件があったので、夏休み中でも、先生たちは毎日学校に詰《つ》めているのだった。
話の内容はよくわからなかったけれど、カウンセラーという言葉の切れ端《はし》が、ちょっぴり耳に入った。
小田原のお祖母《ばあ》ちゃんとも話していた。そしてまた泣いていた。次はルウ伯父《おじ》さんのようだった。今度は泣かずに、怒っていた。
亘はしばらく放心して、記憶の底を、黒い翼の生きものがゆっくりと横切ってゆくのを眺《なが》めた。
すごく臭《くさ》い、ヘンな匂《にお》いのことも思い出した。
「どうしても来ないというなら、こっちから会社に行きますから! それでもいいの?」
突然《とつぜん》、母さんの大きな声がした。もちろんこれも電話だろう。誰と話しているんだろう。亘はべッドのなかで耳を澄《す》ませたけれど、自分の部屋にいるときとは違《ちが》って、ここはリビングから離れているので、よく聞こえない。
「来て──その目で──ごらんなさい。わたし──けど──どんなに辛《つら》い──亘は──」
切れ切れだけど、母さんが激しているのはよくわかる。
それから三十分ほど経ったろうか、ドアが開いて、母さんが入ってきた。
「どう、少し眠れた?」と、優《やさ》しく尋ねた。
「うん」
「よかったわ。何か食べたいものはない? オムライスつくってあげようか」
「うん」
母さんはにっこりした。「今晩、お父さんが帰ってくるからね。三人で、ゆっくり話し合いましょう」
亘は母さんを見あげた。「本当?」とか、「お父さんが自分から来るって言ったの?」とか、「お母さんがさっき電話で大声を出していた相手はお父さんだったの?」とか、細かなことを問い返すのを許さない表情が、そこには浮かんでいた。
どっしりと落ち着いているのではない。安堵《あんど》に緩《ゆる》んでいるのでもない。むしろ歪《ゆが》んでいた。その笑《え》みの明るさは、この世には存在しない単位で作られた計測器でしか計ることができない。
そして母さんは、長い午後をずっと、台所に籠《こ》もって過ごした。料理をしていたのだ。そっと近づいてのぞいてみると、父さんと亘の好きなメニューばかりだった。
亘は胸が苦しくなった。息が詰まって、ときどきわざと深呼吸をしなくてはならないほどだった。母さんが野菜を刻み、炒《いた》め物をし、チキンを香《こう》ばしく焼いているのを見つめながら、足元が冷えてゆくのを感じた。これからとても悪いことが起こるとわかっているのに、心の半分ではそれを待っている。もちろん心待ちにしているのではないけれど、でも待っていることに間違いはない。ドキドキする。
どうしてかって言ったら、もしかしたら万が一、百万にひとつ、こんなにも濃く感じる悪い予感が、外れてくれるかもしれないと思うからだ。
だって父さんが帰ってくるんだから。
でも──一方で、亘のなかの小さなワタルが、心のいちばん底の方で、両手をメガホンの形にして口元にあてて叫《さけ》ぶのも聞こえる。こんなふうに、今、父さんを呼びつけたのは間違いだよ。きっと、いいことなんかないよ。わからないの? ねえ、わからない?
そう、わからないのだ。
てきぱきと立ち働く母さんの背中が、げっそりと痩《や》せて細くなっている。亘は自分のことで精一杯《せいいっぱい》で、母さんをこんなふうに見つめてみたことがなかった。僕が混乱しているあいだに、母さんは母さんで、ずっと泣いたり、怒ったり、怯《おび》えたり、荒《あれ》れたり、沈《しず》んだりしていたのに、僕は全然そのことを見ようともしていなかった。
ドアチャイムが鳴った。
亘はごくりと喉《のど》を鳴らして、反射的に時計を見た。午後七時ちょうどだった。
母さんはガスの火を止めて、亘の方を振《ふ》り返った。
「お父さんよ。ドアを開けてあげて」
緊張《きんちょう》しているんだ。声がうわずっている。
機械的に足を前後させて、亘は玄関《げんかん》に向かった。ドアノブを握《にぎ》ると、どきんどきんという心臓の動きが、指の先にまで伝わっているのがわかった。
ドアを開けた。
そこに、知らない女の人が立っていた。
父さんじゃなかった。何かセールスの人だ。安堵の気持ちで息をつきかけたとき、その人は言った。
「あなたが亘くんね? お母さんはいらっしゃるかしら。あたし、田中|理香子《りかこ》です」
聞き覚えのある声──のような気がした。
いつかの電話だ。亘を母さんと間違えて、一方的に怒ってしゃべった女の声。
この人は、父さんの女の人だ。
女の人は、まばたきもせずに亘を見つめていた。背が高い。母さんより十センチくらい高いだろう。淡《あわ》いブルーのスーツを着て、ブラウスの襟《えり》は真っ白だ。首には銀色のネックレス。ふわりと香水が薫《かお》る。エレベーターのなかでときどき乗り合わせることのある、会社帰りの女の人たちと同じ香りだ。
その人は、予想していたほど若くはなかった。とてもきれいに化粧《けしょう》をしているし、お洒落《しゃれ》しているからステキだけれど、歳はきっと、母さんと、そんなに違わないだろう。
呆然《ぼうぜん》としているあいだに、すぐ後ろに母さんが来ていた。
「どうしてあなたがここにいるんですか?」
さっきよりももっと、うわずって調子の狂《くる》った声だった。亘は怖くて振り返れなかった。母さんが怖いなんて。怖いなんて。
「明さんのかわりに参りました」と、田中理香子は答えた。真《ま》っ直《す》ぐ母さんの顔を見ている。しゃべり止めても、口元がひくひくして、微笑《びしょう》しているわけでもないのに、くちびるの隙間《すきま》から白い歯がのぞく。ドラキュラみたいだと、亘は思った。さもなければ剣歯虎《けんしこ》。博物館で、化石から起こした想像図を見た。遠い昔に滅《ほろ》びた、長い牙《きば》のある獰猛《どうもう》な虎《とら》。
「わたしは三谷に電話をしたんです」と、母さんが言った。「あの人は来ると約束しました。子供のことが心配だから、必ず来ると。それなのにどうして?」
田中理香子は、また視線をさげて、亘を見た。「ごめんなさいね」と、いきなり言った。謝っているのに、やっぱりまばたきをしない。歯がのぞく。やっぱり。剣歯虎。
「具合が悪いんですってね。お医者さまには行った?」
母さんがぐいと前に出て、亘を背中にかばった。亘はよろけて壁に手をついた。
「うちの子に話しかけないで。おためごかしな台詞《せりふ》を吐《は》かないでください。誰のせいでこの子がこんなに苦しんでると思うの?」
田中理香子は、まだまばたきをしない。そうしないと決心してきた、その決心を貫《つらぬ》き通すだけの根性を見せてやるんだとばかりに。
「もちろん、わたしにも責任はあります。でも邦子さん、わたし一人が亘君を苦しめているわけじゃありません。三人がかりですよ。そして今この場では、亘君を巻き込んでいるのはあなたです。わたしじゃありません」
母さんの背中がわなわなと震《ふる》えている。エプロンの裾《すそ》が、微風に吹《ふ》かれるように細かく動いている。
「わたしが──この子を巻き込んでるですって?」
田中理香子は、喧嘩《けんか》でも売るみたいにぐいと顎《あご》を引いて、正面から母さんを見据《みす》えた。
「そうでしょう? 明さんを呼び出すのに、亘君をだしに使ってるのはあなたじゃないですか。卑《ひ》怯《きょう》だとは思わないんですか?」
「わたしが、亘を、だしにしてる?」母さんの声が裏返った。今まで一度も聞いたことのない、へンテコに壊《こわ》れた声だ。
「亘君を盾《たて》にされたら、いくら明さんが意志を強く持っていても、やっぱりかないませんよ。だからあの人、ここへ来ると言いました。こんなことされたら抵抗《ていこう》できないって。でも、わたしはそれを止めて──」
母さんが後ろに手をのばし、亘の肩をつかんで前に突《つ》き出した。
「この子をごらんなさい。この顔をごらんなさいな。傷だらけでしょう? 腕も足も、そこらじゅう痣がいっぱい。夜中にうなされて、暴れたんです。この子自身も気づいていないうちに、暴れていたんです。あんまり可哀想《かわいそう》で──哀《あわ》れで──」
母さんは勇敢《ゆうかん》な子供のようにぐっと息を呑《の》みこみ、震え出した声を立て直した。
「だからわたしは三谷に連絡《れんらく》したんです。亘と会って、慰《なぐさ》めてやってくれって。この子はわたしたち夫婦の子供です。夫婦《ふうふ》は別れてしまえば他人だけど、親子の絆《きずな》は別物です。わたし一人じゃ亘の苦しみを取り除いてやれないから、だから三谷に報《しら》せたんです。あの人はこの子の父親なんだから」
田中理香子はじろじろと亘を観察した。そしてまた白く輝《かがや》く歯をちらりとのぞかせて、尋ねた。「亘君、その怪我、本当に君が自分でやったの?」
亘は返事ができなかった。恐ろしさに、舌が縮んでしまっている。
「この子に何を言わせたいんです?」
「あなたは黙《だま》っていてください。わたしは亘君に訊《き》いているんです」田中理香子は亘から目を離さなかった。「本当に自分で自分を傷つけたの? 誰かに叩《たた》かれたわけじゃない? かばうことはないのよ、本当のことを言いなさい」
「誰かって、誰に?」母さんが前に出た。「あなた、あたしが亘を叩いたとでも言うつもりなんですか?」
理香子は何も言わない。
「わたしは亘の母親です。どうしてこの子に手をあげたりするもんですか!」
顎の先をあげて、理香子は母さんを見た。
「母親、母親って、自分ばっかり偉《えら》そうに言わないでほしいわ。わたしだって母親だわ」
この人にも子供がいるのか。亘は身を縮めたまま、理香子のすらりとした腰《すね》から上を見あげた。どんなお母さんなんだろう?
「知ってますよ。別れたご主人とのあいだに女の子がいるそうね」
母さんは息を切らしてそう言った。顔が壁紙みたいに真っ白になっている。
「その子をまんまと三谷に押しつけてるんでしょう? 違います?」
田中理香子は口元を歪めて笑った。「押しつけてなんかいません。明さんは大喜びで、進んで真由子《まゆこ》の父親になってくれたんです。ずっと女の子がほしかったんだって」
「亘の前でそんなこと言わないで!」
母さんは叫んで、亘の耳を両手で押さえた。
「邦子さん、あなた、もう駄目《だめ》だって、自分でもわかっているんでしょう? メソメソ泣いて明さんにすがったって、彼だってもうそんな手の内はお見通しよ。口先で嘘をついたって、そんなものは通用しないわ」
母さんの方に半歩詰め寄って、理香子は容赦《ようしゃ》なく続けた。「あなたの汚《きた》いやり口と、そのために壊されてしまったわたしと明さんの夢のこと、今まで一日だって忘れたことはなかったわ。わたしたちは婚約《こんやく》しているも同然だったのに、あなたが妊娠《にんしん》しただなんて嘘をついて割り込んできたから、わたしたち、別れざるをえなかった。愛し合ってたのに、あなたのペテンに騙《だま》されて、生木を裂くようにして別れさせられたのよ」
「やめてちょうだい!」母さんは、今度は自分の耳を押さえた。
「いいえ、やめないわ」
土足のままで、理香子は廊下《ろうか》にあがってきた。亘を押しのけて、顔と顔がくっつきそうなほど近く、母さんに身を寄せる。
「明さんもわたしも、仕方なく別の人生を歩んだ。でも、やっぱりお互《たが》いのことを忘れられなかった。二年前に再会して、まだ愛し合ってる、気持ちは昔のままだってわかったときに、わたしたち決めたんです。あなたに奪《うば》われた時間は取り返せないけど、まだ残りの人生をやり直すことはできる、これからは二人で手を取り合って、けっして離れずに生きていこうって」
母さんはよろよろと半身を揺らし、しゃがみこんでしまった。その頭のてっぺんを見おろしながら、とどめの杭を打ち込むように、田中理香子は言い放った。
「明さんもわたしも、もうあなたには騙されません。あなたが明さんを動揺《どうよう》させるために亘君を虐《ぎゃく》待《たい》するなら、法的手段をとってでも、亘君をこちらに引き取ります」
母さんは両手で頭を抱えて呻《うめ》いている。亘は壁に背中をくっつけて、このまま壁紙の一部になって、永遠に姿を消してしまいたいと願った。
怖かった。誰かが誰かを、こんなふうに剥き出しで憎《にく》んでいる様子を、亘は生まれて初めて目《ま》の当たりにしたのだった。憎悪《ぞうお》の波動のようなものが、理香子の身体からうねりながら飛び出して、母さんにぶつかり、母さんを圧倒《あっとう》しようとしているのを肌《はだ》で感じた。
理香子は玄関に降り、ドアを開けた。そのまま出てゆくかと思ったら、足を止め、肩ごしに振り返って割れたような声を出した。
「それから、言っておきますけど」
彼女も息を切らしていた。母さんと二人で短距離走《たんきょりそう》をして、ぶっちぎりで勝ったところだというような感じだった。
「わたしと明さんの子供は、真由子だけじゃありませんからね」
髪をかきむしっていた母さんの手が、ぴたりと止まった。亘には何がなんだかわからないけれど、母さんには、今の田中理香子の言葉の意味がわかっているようだ。
「来年の年明けには産まれます」
理香子はそう言って、右手でそっとおなかのあたりをさすると、そっと息を吐いた。
「明さん、とても楽しみにしているんです」
そして彼女は出ていこうとした。ドアが大きく開いた。
その瞬間《しゅんかん》、亘の目の前を、何か黒いかたまりが横切った。ケモノのような素早《すば》さで、津波《つなみ》のようなエネルギーを秘《ひ》めたもの。それが母さんだとわかったのは、理香子がぎゃっと悲鳴をあげ、コンクリートの共用廊下を巡《めぐ》る手すりのところに、背中から叩きつけられたときだった。
母さんは無言のまま、目を吊《つ》りあげ歯を食いしばり、固く握りしめた両の拳《こぶし》をめちゃくちゃに振り回して、理香子を殴《なぐ》りつけていた。理香子の方も、必死に手をバタバタさせて応戦していた。叫び声がキンキン響《ひび》く。
亘が出てゆくよりも先に、隣家《りんか》の方で驚《おどろ》きの声があがって、パタパタと足音が近寄ってきた。奥さん、奥さん、いったいどうしたっていうんです落ち着いて! ああ大変だ誰か一一〇番して! そんな声が入り乱れる。
亘はその場で回れ右をすると、自分の部屋に駆け戻った。逃げちゃいけない、隠《かく》れてる場合じゃない、立ち向かわなきゃ、母さんの味方をしてあげなきゃ、母さんをかばってあげなきゃ──頭のなかではそう思うのに、身体は全然言うことをきかない。
自室に飛び込むと、亘はベットの下に潜り込んだ。そこにいてもなお、玄関先の騒《さわ》ぎが聞こえてくる。女の泣き声がする。隣《となり》の小母《おば》さんが大声を出している。
亘は両手で耳を塞いだ。そして思いつく限りの呪文《じゅもん》を──『サーガU』に登場する、すべての攻撃《こうげき》呪文を順番に暗唱していった。何かが起こることを期待するわけではなく、何も考えず、感じずにいるために。
「亘、出てこいよ」
ルウ伯父さんが、大きな身体を床《ゆか》にくっつけるようにして、こちらをのぞきこんでいた。
「騒動は終わったから、もう出てきても大丈夫だよ」
亘はまだベッドの下で身体を丸めていた。あれからどのくらい時間が経ったのか、見当もつかない。一時間ぐらいか、それとも半日だろうか。
ルウ伯父さんは、泣いたみたいに目をしょぼしょぼさせていた。伯父さん自身が悲しいのか、それとも亘のことを可哀想がってくれているのか、わからない。
「……母さんは?」と、亘は小声で訊いた。
「今、寝てる。鎮静剤《ちんせいざい》を飲んだから、ぐっすりだ」
では家《うち》にいるんだ。よかった。
「パトカー、来たの?」
「そんなもん来ないよ」
「隣の小母さんが、一一〇番してって叫んでたよ。そのあと、サイレンの音も聞いたような気がするし」
ルウ伯父さんは、床にほっぺたを押しつけた不自由な姿勢のまま、ため息をついた。
「そりゃ、救急車だ。あの田中理香子って女を病院に運ばなきゃならなかったから」
「あの人、怪我したの?」
「伯父さんが見た限りじゃ、顔をひっかかれたぐらいの傷だと思うぜ。だけど本人が大騒ぎして、救急車を呼んでくれって泣くから」
「伯父さん、知らないの?」
「何を?」
「あの人、おなかに赤ちゃんがいるんだってさ」
伯父さんは目をしばたたいた。片目が床にひっついているので、おかしな顔だった。
「伯父さん、いつ来たの? 母さんが呼んだの?」
「いいや。今日はこっちへ来る予定になってたんだ。邦子さんにも、それ、伝えてあったんだけどな。おまえ聞いてなかったか?」
「全然知らない」
「そうか。伯父さん、おまえを迎《むか》えに来たんだよ。八月まで待つことなんかないからさ、早く千葉へ来ればいいと思って。海を見たら、気分|転換《てんかん》になるもんな。それでエレベーターを降りたら邦子さんの大声が聞こえてさ」
「今、何時?」
「もう夜だよ。九時半を過ぎた」
亘はちょっとのあいだ、ベッドの下の綿埃《わたぼこり》を見つめて黙っていた。どうしてこんなところに埃が溜《た》まるんだろう。母さんが毎日掃除機《そうじき》をかけているのに。知らないうちに溜まってゆく。亘は全然気づいていなかったけれど、埃は確かにここにあって、ずっと部屋を汚《よご》していたんだ。
「母さん、警察とかに捕《つか》まる?」
「何で?」
「だってあの人を殴ったから」
「それぐらいで罪になんかならないよ」
「でもあの人の赤ちゃんが死んじゃったりしたら、それは母さんのせいだってことになるんでしょう? そしたらあの人が、黙ってるわけないよ。警察に訴《うった》えて、母さんを捕まえさせようとするんじゃない?」
今度はルウ伯父さんがさっきの亘のように、べったりと床にひっついてその一部になろうとしているみたいに見えた。
「赤ん坊は大丈夫だよ、きっと」
呟く声も、自信を欠いていた。
「伯父さん、母さんは、僕を殴ったりしてないよ。ギャクタイなんかしてないよ」
伯父さんは不審《ふしん》そうに眉《まゆ》を動かした。
「あの人が言ったんだ。僕が怪我してるのは、母さんに叩かれたせいじゃないのかって。母さんが僕をギャクタイするなら、僕を母さんから引き離して引き取るって。お願いだから、そんなことさせないで」
伯父さんは手で顔を覆《おお》った。「あの女、そんなことを言いやがったのか。俺がブン殴ってやればよかった」
「あの人は母さんが嘘をついたって言った。もう母さんには騙されないって言った。でも母さんはそんなことしないよ。人を騙したりしない。嘘つきなのは、あの女の方だ」
「亘──」
伯父さんは亘の方に、太い腕を差しのべた。「いい子だから、そこから出てこい。伯父さんは、おまえがそんなところで縮こまってるのを見るのはたまらないよ。な? 頼《たの》むから出てきてくれよ。それで、伯父さんと一緒《いっしょ》に千葉へ行こう。毎日海へ出て、うんと泳いで魚をとって、キャンプファイアで焼いて食うんだ。伯父さんはサーフィン下手くそだけど、近所に上手な友達がいるからさ、一緒に習おう。釣《つ》りは伯父さんが教えてやる。そうして腕をあげたら、二人で日本じゅうを釣りして回ろう。伯父さんガンバって金|貯《た》めて、トローリングのできるクルーザーを買うからよ。それでおまえを艇長《ていちょう》にしてやる。おまえの行きたいところ、どこでも連れて行ってやる──」
機関銃《きかんじゅう》みたいに言葉を打ち出しながら、伯父さんはボロボロ泣きだした。そのこと自体が、とてもショックだった。いつも明るくて元気で頑丈《がんじょう》な伯父さんが、子供みたいにうずくまって泣いている。僕らは今、それほどひどいことになってるんだ。
「うん」と、亘は小さく言った。「千葉の家に行こう。でも伯父さん、母さんも一緒に連れて行こうよ。伯父さんは、母さんのこと、仲間はずれになんかしないよね?」
「もちろんだ」伯父さんはハナをすすり、手の甲で顔を拭った。「母さんも連れていこう。母さんにも釣りを教えてあげような」
すっかり夜が更《ふ》け、今日一日のまとめのニュース番組が始まるころになって、千葉のお祖母ちゃんが到着《とうちゃく》した。スーパーの大きな袋《ふくろ》を提《さ》げて、ふうふういっていた。
亘はベッドの下から出て、風呂《ふろ》に入り、スポーツバッグに衣類を詰めて、荷造りをしているところだった。お祖母ちゃんは夕飯をつくると言って、すぐに台所に入った。どこに何があるかわからないと言っては、亘を呼ぶ。そして用が足りるとすぐに部屋に追い返し、しきりとルウ伯父さんと話をしていた。母さんはずっと眠っていて、寝室《しんしつ》から出てこない。
三人でテーブルを囲み、食事をした。お祖母ちゃんの味付けは濃いし、亘が好きなおかずを知らないし、ご飯は炊《た》き方がやわらかくて、全然|美味《おい》しくない。それでも、箸《はし》が進まないと怖い顔で睨《にら》まれるので、亘は黙々と食べた。
「悟、さっきの話だけど、あたしは邦子さんを千葉に連れていくのは反対だよ」
食事が終わるのを待っていたみたいに、お祖母ちゃんが切り出した。
「亘もね、あんたはしばらくお祖母ちゃんのところにいた方がいいけど、お母さんはまだこっちでやらなきゃならないことがあるんだよ。わかるだろ? だから駄目だよ」
お祖母ちゃんと面と向かうと、亘は何も言い返すことができない。だって凄《すご》い勢いなんだもの。
「でも母さん、邦子さんを一人にしておくのは心配だよ」と、ルウ伯父さんが抗議した。
「だったら小田原へ帰しゃいいじゃないか」
お祖母ちゃんは、怒っているみたいだった。
「今の状態で、亘と引き離すのは気の毒だ」
「このままじゃ、亘の方がよっぽど可哀想だよ。邦子さんに振り回されてるじゃないか」
お祖母ちゃんとルウ伯父さんは口論を始めた。それを聞いていると、これまでに、父さんと母さん、父さんとお祖母ちゃんと伯父さん、母さんとお祖母ちゃんというような組み合わせで、何度となく話し合いが行われてきたのだ──ということが察せられた。亘が知らなかっただけ、知らされなかっただけで、事態はそれなりに進行していたのだ。
「こうなっちゃもう、夫婦別れするしかないだろうよ」お祖母ちゃんは口を尖《とが》らせて言った。「元には戻らないよ」
「母さん、亘の前だよ」伯父さんが険しい顔をする。でもお祖母ちゃんも負けていない。
「いいじゃないか。いつまでも亘に隠しておくわけにはいかないんだよ」
「でも──」
「何度話し合ったって、明は絶対に別れるって言い張るだけじゃないか。もうやり直しはきかないよ。こんなこと、早く終わらせた方がいいんだ。邦子さんだってまだやり直しのきく歳なんだから」
「簡単に言ってくれるなよ」
「誰が簡単だなんて言うもんか。あたしだって、この歳になって悴《せがれ》こんな問題を起こすなんて、夢にも思っちゃいなかったよ。のんびり老後を過ごさせてもらいたかったよ」
亘は両日を瞠《みは》ってお祖母ちゃんの顔を見ていた。
「母さんは自分が面倒《めんどう》に巻き込まれるのが嫌《いや》だからって、明のあんな身勝手な言い分を聞いてやるのかい? 俺は嫌だよ。あいつは男の風上にもおけねえ。あんなのが弟だと思うと、俺は情けなくて泣けてくるよ」
「身勝手は身勝手だよ」お祖母ちゃんはちょっとひるむと、手近の布巾《ふきん》を取って握りしめた。「だけどね悟、明ばっかりが悪いわけじゃないだろう? あんただってあの子の話を聞いたろうさ。あの女、あたしゃ覚えてるよ。けっして気に入っちゃいなかったけど、昔、明と付き合ってた女じゃないか。二人してベタ惚《ぼ》れでさ。あの女が嫁《よめ》に来るもんだと思って、あたしゃ覚悟《かくご》してたんだよ。それなのに、半年もしないうちに邦子さんと結婚することになっちまってさ、キツネにつままれたみたいだったよ」
「母さん、やめろ」ルウ伯父さんが亘を気にした。「そんなのは過去のことだろ」
「過去のことが終わってないから、今こんなことになってるんじゃないか。明は邦子さんに丸め込まれたんだろ? 子供ができたなんて言ってさ、仕方なしに明が結婚を決めたら、ケロッとして流産しましたって言ったって。嘘ついたんだよ」
「母さん!」ルウ伯父さんが怒鳴《どな》った。「そんな話を亘に聞かせるな!」
自分でも気づかないうちに、亘は呟いていた。「いいよ、伯父さん、僕その話ならもう聞いて知ってるから」
お祖母ちゃんは布巾で涙を拭《ふ》いた。「確かに明はバカだよ。大バカだ。だけど、どんなバカでもあたしの息子《むすこ》だよ。本人があんなに一生|懸命《けんめい》になってるんだもの、幸せにしてやりたいじゃないか。邦子さんがどうしても別れないって言うなら、あたしが土下座したっていいからさ、それであの人の気が済むなら、あたしはそうするからさ」
今度はお祖母ちゃんが本式に泣きだした。
ルウ伯父さんが、消え入りそうな声で呟く。
「だけど亘が可哀想じゃないか。どうしろっていうんだよ」
「うちで引き取るよ」お祖母ちゃんは決然として言い切った。「何といっても、この子は三谷の家の跡取《あとと》りなんだからね。その方が、邦子さんだって再婚しやすいだろ?」
亘は目が回ってきて、椅子《いす》に座っていられなくなった。今にも床に落ちてしまいそうだ。
そのとき、寝室のドアが開いて、幽霊《ゆうれい》のようにふらりと、母さんが出てきた。
「帰ってください、お義母《かあ》さん」
母さん、たった半日で、体重が半分に減ってしまったみたいに見える。それでも声はきっぱりしていた。
「ここはわたしと亘の家です。帰ってください」
「邦子さん?」お祖母ちゃんが立ちあがった。「あんたね、そうやって我《が》を張って──」
「亘はどこにもやりません。わたしが育てます」母さんは一本調子に宣言した。「明さんとも別れません。わたしたちは家族です。勝手なことばっかり言わないでください」
お祖母ちゃんは手にした布巾をテーブルに叩きつけた。「誰が勝手なことを言ってるっていうんだい? もとはと言えば、あんたが蒔《ま》いた種じゃないか。身から出た錆《さび》だろ? 明はあんたに騙されたって言ってるんだよ。あんた、それがわかってるの?」
母さんはお祖母ちゃんに向き直った。無敵のはずのお祖母ちゃんが、ちょっと後ずさりした。母さんの身体の周りの空気だけ、マイナス一〇度くらいになっている。
「お義母さん、わたしたちは十二年も夫婦をやってきたんです。本当にわたしが明さんを騙して結婚したなら、そんなに保つわけがないでしょう? とっくに壊れていたはずです。あの人が今ごろになってそんな古い話を持ち出すのは、自分のやってることが後ろめたくてたまらないからですよ。自分の不始末を正当化するために、理屈《りくつ》をこねているんです。あの人にはそういうところがあるって、お義母さんだってよくご存じじゃないですか」
お祖母ちゃんの、それでなくても頑丈そうな顎が、いっそう頑《かたく》なな線を描《えが》いた。
「あたしの息子を、よくまあそうボロクソに言ってくれるもんだね。あんたがそんなんだから、明がほかの女に走るんじゃないか」
母さんは蒼白《そうはく》な顔のまま、ひたとお祖母ちゃんを見つめて言った。「帰ってください。この家から出ていって」
お祖母ちゃんが母さんに詰め寄ろうとしたのを、ルウ伯父さんが止めた。
「母さんも邦子さんも、やめなよ。今日はもう乱闘《らんとう》はたくさんだ。うんざりだよ」
お祖母ちゃんは、ぶんと拳《こぶし》を振った。「悟、帰るよ。亘もおいで」
亘はぴしゃりと答えた。「僕はここにいる。母さんといる」
お祖母ちゃんが、こっぴどく傷つけられたみたいに痛そうな顔をしたので、亘は目をそらした。
「わかったよ、邦子さん。俺たち、今夜は引きあげるよ」ルウ伯父さんがお祖母ちゃんの腕をつかみ、玄関の方へ歩き出した。
「だけど邦子さん、冷静になってくれよ。ヤケを起こしちゃ駄目だよ。いいね? 亘、伯父さん、明日また来るからな」
母さんと二人きりになると、家のなかに、必要以上の静けさが戻ってきた。
「亘、もう寝なさい」
さっきお祖母ちゃんに向けて言ったのと同じ、まったく抑揚《よくよう》のない口調で、母さんは亘に命令した。
「母さんも寝るから。今夜はゆっくり休んで、明日話し合いましょう。ね?」
亘は黙って、自分の部屋に引きあげるしかなかった。どうしていいかわからなかった。昼間は、あの田中理香子という女が不気味な魔女《まじょ》に見えた。でも今は、母さんが魔女に見える。呪《のろ》いの言葉を吐きながら、毒薬がぐつぐつと煮《に》えたぎる大釜《おおがま》をかきまぜている黒衣の魔女に。
ベッドの脇《わき》に背中をもたせかけて、亘は両腕で膝《ひざ》を抱《かか》えた。すぐに眠くなってきた。眠っていられるような場合じゃないのに、視界に暗い霧《きり》がかかる。身体と心が現実|逃避《とうひ》を望んでいるのだ。眠ってしまおう。眠って、ここからいなくなるんだ。
うつらうつらとしていると、どこかで電話のベルが鳴った。何時だろう? 誰からの電話だろう?
ベルが止《や》んだ。母さんが出たのか? 話し声が聞こえる。何だか泣いてるみたいな声がする。それとも怒っているのかな。
だったらなおさら、眠ったままでいたい。もう嫌だよ。泣くのも怒るのも。
亘は暗い淵《ふち》の底に沈むように、ゆっくりゆっくりと眠りのなかに落ち込んでいった。
そして──どれぐらいの時が経ったろう。
誰かがすぐそばにいて、亘の肩を揺すっている。強い力ではないけれど、辛抱強《しんぼうづよ》く揺さぶっている。
「ミタニ、起きろよ」
呼びかける声が聞こえる。誰の声? 聞き覚えがあるような、ないような。
亘は眠りの底から浮上《ふじょう》する。声に導かれて。「ミタニ、しっかりしろよ。起きないと大変なことになるぞ」
亘は目を開いた。すぐには焦点が《しょうてん》あわなくて、ただ真っ暗なだけだった。
顔を上げると、周囲の暗闇のなかでひときわ黒い、華奢《きゃしゃ》な人影《ひとかげ》が見えた。
芦川美鶴だった。
魔導士のような黒いマントを着ている。マントの下も黒い衣服だ。すぽんとしたシャツに、動きやすそうなズボン。革紐《かわひも》を編んでつくった膝下までのブーツ。腰のところも革バンドで留めていて、鞘《さや》に収めた小さなナイフをぶらさげている。
そして、右手に杖《つえ》を持っていた。てっぺんのところにきらきら輝く石のついた、不思議な光を放つ黒い杖だ。
「芦川──」亘はぽかんと口を開き、急いで周りを見回した。
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13 幻界《ヴィジョン》へ
「ここは?」
亘の部屋だ。灯《あか》りは消えて暗いけれど、間違《まちが》えようがない。寝入《ねい》ったときと同じ姿勢で、ベッドにもたれている。
亘は芦川に飛びつき、両手でマントの裾《すそ》をつかんだ。
「芦川、どこから来たんだ? 今までどこに行ってたんだ? 何をしてたんだ?」
芦川は悲しそうに微笑《びしょう》すると、杖《つえ》を亘の脇《わき》に立てかけ、膝《ひざ》を折ってしゃがんだ。
「長々と説明してる時間はないんだ」亘の手をマントから引き離《はな》しながら、彼は言った。「だから手短に言うよ。僕はおまえを助けに来たんだ。借りがあるからな」
「借り? 助けに来た? どういうこと?」
「深呼吸してごらん」
芦川はちょっと顔を仰向《あおむ》けにした。きれいな鼻の線が、暗がりのなかでも光って見える。
「ガスの臭《にお》いがするだろ?」
亘は鼻をふんふんさせた。とたんに咳《せ》き込んだ。ホントだ、臭《くさ》い。
「おまえの母さんが、ガス栓《せん》をひねったんだ」
亘はもう驚《おどろ》くどころではなかった。爪先《つまさき》から頭のてっぺんに向けて、恐怖《きょうふ》がざあっと駆《か》け抜《ぬ》けた。
「おまえと一緒《いっしょ》に死のうとしてるんだ。都市ガスじゃ死ねないんだけどね。そのこと、知らないんだな」
「と、と、止めなきゃ」
立ちあがろうとした亘の肩《かた》を押さえて、芦川は止めた。
「それは後でも間にあう。今は僕の話を聞くんだ」
芦川は手をあげて自分の首のあたりに触《さわ》った。何かペンダントみたいなものを、ふたつ重ねてかけている。そのうちのひとつを外して、亘に差し出した。
黒い革紐《かわひも》に、小さな銀色のプレートがついている。とても軽くて、とてもきれいだ。
「これは旅人の証《あかし》≠セ」芦川は言って、それを亘の手に握《にぎ》らせた。「これがあれば、幻界《ヴィジョン》≠自由に旅することができる。最初に番人のところへ行ってこれを見せれは、旅支度《たびじたく》を調《ととの》えてくれるよ。こんなふうに」
ちょっと両手を広げて、芦川は彼の出《い》で立ちを示した。
「ヴィジョン──幻界=H」
芦川はうなずいた。「もう記憶《きおく》は戻《もど》ってるはずだ。だからわかるだろ? 一度は行ったことがあるはずだ。あの幽霊《ゆうれい》ビルの階段の、宙ぶらりんになっている先に扉が《とびら》ある。今はおまえのために、番人が待っていてくれる。でも、あんまり長く待たせては駄目《だめ》た。明《あ》けの明星《みょうじょう》が輝《かがや》く前に行くんだよ」
幻界=B『サーガU』の世界をそのまま映したような、不思議な場所。
「あれは幻《まぼろし》じゃなかったんだ……」
亘の呟《つぶや》きに、芦川はにこりと笑った。
「そうさ、幻じゃない。幻界≠ヘ実在する。現に僕は、そこから来たんだ。もう旅を始めていたんだけど、真実の鏡≠のぞいたら、おまえの様子が見えた。放《ほう》っておいたって良かったんだけど、でも──」
芦川はちょっとくちびるを噛《か》んだ。
「さっきも言ったように、おまえには借りがあるからな。それに、おまえは僕とよく似てる。同じようなものを背負ってる。だから、おまえにもチャンスをあげたかったんだ」
「チャンス?」
芦川は立ちあがり、マントを肩の上に撥《は》ね上げた。
「幻界≠ヘ、現実世界に住む人間の想像力のエネルギーが創《つく》り出した場所だ。だからいつでもそこにある。でも、現実世界とのあいだを隔《へだ》てている要御扉《かなめのみとびら》≠ェ開くのは、十年に一度だけだ。それも、まず幻界≠ヨの通路に適した場所があって、しかもそのすぐ近くに、命をかけて、あらゆる困難を乗り越《こ》えてでも、運命を変えたい、失ったものを取り戻したいと、強く願う人間がいなくては、扉は姿を現さないんだ」
芦川は再び杖を手に取った。
「通路に適した場所──?」亘は繰《く》り返した。
「そうだ。大松ビルの階段がそれだ」芦川はよく通る声で説明した。「階段というのはね、それでなくても、異界《いかい》への通路になりやすいものなんだよ。有名な幽霊|屋敷《やしき》でも、幽霊の出没《しゅつぼつ》場所って、階段が多いだろ? 階段というものは、もともとそういう機能を持っているんだ。空間を縦に貫《つらぬ》いて、本来は存在しないはずの路《みち》を通す建造物だから」
亘はただ唖然《あぜん》として、芦川の端整《たんせい》な顔を仰《あお》ぐばかりだった。
「大松ビルのあの階段は、作りかけで放り出されて、どこにも通じていなかった。だからその宙ぶらりんの先に、幻界≠ヨ通じる力が集まっていたんだ。そこに僕がやってきた。だから、要御扉が現れた──」
「君は──運命を──変えたいと願って」
「そうだよ」芦川は迷いの欠片《かけら》も見せず、深くうなずいた。「知ってるだろ? 僕の家で何が起こったのか」
亘はうなずいた。芦川の両親。父親が母親を殺し、母親の不倫《ふりん》相手を殺し、芦川の妹を殺し、芦川が学校から帰ってくるのを待っていた──
「僕は自分の運命を変えたい」芦川は、無駄な気負いのない、静かな口調でそう言った。「だから、幻界≠ヨ行こうと決めたんだ」
杖をつかんで、マントの下に入れる。
「幻界≠ヘ広いし、危険な場所もたくさんあるし、恐ろしい怪物《モンスター》がたくさんいる。でも、どこかにあるという運命の塔≠ノたどりつくことさえできれば、きっと道は開ける」
「運命の塔>氛氈v
「そこには人間の運命を司《つかさど》る女神《めがみ》が住んでいて、たどり着いた者の願いをかなえてくれるんだ。僕は必ず行ってみせる。そして運命を正すんだ。絶対に諦《あきら》めない」
芦川の声が、初めて感情を映して震《ふる》えた。
「もし──もしも僕の力が足りなくて、両親を助けることはできなくても、せめて妹だけでも助けたい。あいつを現世《うつしよ》に連れ戻してやりたい。だってあいつは──ホントに小さかったんだから」
マントの下で、芦川は手を握りしめていた。
「僕も行きたいよ、運命の塔へ」亘も立ちあがり、両手で芦川の手をつかもうとした。「頼《たの》むよ、一緒に連れて行ってよ」
「それはできない」芦川はすっと後ろに下がった。「運命の塔へ至る道は、旅人が自力で見つけ出さなくちゃならないんだ。自分ひとりの力でたどり着かなくちゃ、女神は会ってくれない。他人をあてにすることはできないんた」
「そんな……だってそれじゃ……大変すぎるよ。僕ら、まだ子供なんだぜ?」
「運命を変えようっていうんだ。易しいことであるはずがないだろ?」
一瞬《いっしゅん》、亘がよく知っている芦川の、あの人を見下したような目つきが戻ってきた。妙《みょう》に懐《なつ》かしい。ああ、こいつホントに本物の芦川美鶴だ。
「僕はもう戻らなきゃ」芦川は、また一歩後ろに下がった。「ミタニ、決心がついたら、要御扉に行くといい。怖《お》じ気づいて諦めるなら、それでもいいよ。夜明けまで待てば、要御扉は消えてしまう。二度と、おまえの前には現れない」
芦川の身体の輪郭《りんかく》が、ふうっとぼやけ始めた。どこからか銀色の光が溢《あふ》れ出して、彼を包み込んでゆく。
「だけど、それでは、おまえの運命もそのままだ。何も変わらないどころか、どんどん悪くなるばかりかもしれない」
よく考えろ──その声を残して、芦川は消えた。
しばらくのあいだ、亘は膝立ちになって、芦川が消えた空間を見つめていた。すると何かが、ぽとりと足元に落ちた。
ペンダント。旅人の証≠セ。銀色の、亘の小指の爪《つめ》ぐらいの大きさのプレートが光っている。亘の指が緩《ゆる》んで、手のなかから滑《すべ》り落ちたのだ。
見つめるうちに、プレートが一瞬、虹色《にじいろ》の眩《まぶ》しい光を放った。思わず手をあげて目を守るほどの、強い輝き。
そして、重々しい声が、どこからともなく呼びかけてきた。
「汝《なんじ》は選ばれた。道を踏《ふ》み誤ることなかれ」
亘はペンダントを拾い、立ちあがった。
台所のガス栓が、全開になっていた。亘はそれをきっちり閉めると、ベランダに通じる窓を開け放った。
蒸《む》し暑い夜だった。町の上に、どんよりと夜気がたれこめている。しかし亘の額に浮《う》かぶ汗《あせ》は、気温のせいではなかった。
ペンダントを首にかけ、玄関《げんかん》に向かう。母さんの寝室《しんしつ》の前で足を止め、密《ひそ》やかに閉めきりになっているドアに向かって、心のなかで呼びかけた。
──母さん、行ってくるよ。必ず帰ってくるから、待っててね。
僕は運命を変えてみせる。父さんがあんなふうになってしまわないように、母さんがあんな非難の言葉をぶつけられずに済むように、田中理香子という女が、父さんの前に現れないように。
僕ら家族三人が、また仲良く、楽しく平和に暮らせるように。
運命を変える。いや、というよりも、不当にねじ曲げられ変化させられている運命を、元どおりの正しい形に戻すんだ。
外へ出て、夏の夜の底を、亘は一路、大松さんのビルを目指して走り出した。運動靴《うんどうぐつ》を履《は》いた足が、軽やかにアスファルトを蹴《け》る。走るたびに、胸元《むなもと》でペンダントのプレートが揺《ゆ》れた。
大松ビルが見えてきた。青いシートにすっぽりと覆われたシルエットが、気のせいか、今までになく謎《なぞ》めいて見える。巨大《きょたい》な道標──意味を知る者にだけそれとわかる、別世界への道しるべ。
シートのいつもの場所をめくりあげて、滑り込むようにして内側に入った。
なかは明るかった。無数の蛍《ほたる》が飛び交っているみたいに、細かな光の粒子《りゅうし》が舞《ま》っている。それらの粒子は亘の身体にもくっついて、亘が腕《うで》を振《ふ》り、足を踏み出すと、ふわりふわりと周りを躍《おど》った。
あの作りかけの階段のいちばん先に、扉が見えていた。古風な形の緑《ふち》をぐるりと、白い光が取り巻いている。光は放射状に漏《も》れて、眩しくて見ていられないほどだ。
亘は階段をのぼった。一歩一歩、踏みしめるようにしてのぼった。視線は扉から離さなかった。歩くうちに、自然に手が動いて、ペンダントのプレートを握りしめていた。
亘が扉の前に立つと、扉の周囲から漏れていた白い光が、いっそう強くなった。反時計回りにぐるりと、虹色の光の帯が、そのなかを駆け抜ける。それに呼応するように、ペンダントのプレートが、亘の手のなかで、再び虹色に輝いた。
ゆっくりと、扉が開いてゆく。光が押し寄せてくる。亘は目を細め、顎《あご》をそらし、両手を大きく広げて、全身で光を受け止めた。
そして、扉の内側に足を踏み入れた。
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部
二
第
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1 番人たちの村
まばゆい光のなかを、どのくらい歩いただろうか。ふと気がつくと、ワタルは深い森のなかにいた。涼《すず》しい微風《そよかぜ》が頬《ほお》を撫《な》でる。
空まで届くような背の高い木々が鬱蒼《うっそう》と繁《しげ》っている。首が痛くなるくらいに見あげても、やっとこさ、ハンカチの切れ端《はし》のような青い空が見えるだけだ。
そしてその空の真ん中に、黄金色《こがねいろ》の太陽が輝《かがや》いていた。
ピー、プー。
不意に、オカリナみたいな音色の音が聞こえてきた。ワタルは周りを見回した。踵《かかと》を軸に、ぐるりと身体《からだ》を回してみた。
ピー、プー。ポロロロロ。
また音がして、すぐ先の木立のなかほどから、鮮《あざ》やかなオレンジ色の羽根の鳥が飛び立った。へえ、あの鳥の鳴き声なのかな。
それにしても、この森の深さと広さ。みっしりと葉を繁らせた枝と枝が、互《たが》いに腕《うで》を組み合わせるようにして、ワタルの頭上を覆《おお》っている。それなのに、あまり暗い感じがしない。きっと、太陽が中天にあるからだろう。
足元の地面は、ふわふわと足触《あしざわ》りが気持ち良い。腐葉土《ふようど》とかいうんだったかな。ワタルが一年生のとき、家族で北海道旅行をして、森のなかのキャンプ場にテントを張った。そのとき、父さんが教えてくれたっけ。
地面は艶《つや》やかな緑色の苔《こけ》や、白い可憐《かれん》な花をつけている背の低い草や、ビロードのような手触りで、大きさがワタルの掌《てのひら》ほどありそうな、オオバコみたいな草で覆われている。だが、よく見ると、そのなかに、人の通ったような跡《あと》がついていた。人が歩くうちに、自然に踏《ふ》みしめられてできた道。うねうねと森のなかを通り抜《ぬ》けて、ずっと先の方まで続いている。
ワタルは大きく深呼吸をして、その道を歩き続けた。森のどこかから、またオカリナの音色の鳥の声が聞こえてきたので、口笛で真似《まね》てみた。ワタルがピープーと吹くと、ひと呼吸おいて、鳥の声が問いかけるように尻上《しりあ》がりで、プーポー、ロロロと返してきた。今度はそれを真似してやると、ちょっと沈黙《ちんもく》してから、
「ピッピ、ポロロロピ、ピポロロピロロ、ピピルルルー」
凄《すご》い複雑な音階だ。ワタルはやたら嬉《うれ》しくなってしまって、笑いながら、大きな声で頭上に呼びかけた。
「わかったよ、僕の負けだよ。そんなフクザツなの、真似できないよ。上手だね」
ピーポーと、鳥は返した。なんとなく得意そうな感じに聞こえる。
さらに進んでゆくと、道がくいっと右に曲がっていた。その先で、突然《とつぜん》視界が開けた。
赤い屋根に、小さな煙突《えんとつ》をちょこんと突《つ》き出した小屋が見える。一|軒《けん》、二軒──どうやら、集落のようだ。
ワタルはいちばん手前の小屋に近づいていった。ここは森のなかに開けた広場のようなところだ。そのなかに、数えてみると、五軒の小屋が建っていた。五軒ともみんなそっくりの造りだ。ただ、煙突から煙《けむり》が出ているのは、いちばん手前の小屋だけだった。
丸太造りのドアの前に、これまた丸太を切って並べただけのステップが、三段分ある。そのいちばん上に立って、ワタルは呼びかけた。
「ごめんください」
返事なし。煙突からは白い煙がのんびりと漂《ただよ》う。焦《こ》が焦がしたいい匂《にお》いがする。ワタルは鼻をくんくんさせた。
「ごめんください、お留守ですか?」
そのとき、ドアが内側からばぁん! と開いた。あまりに突然だったので、ワタルはバランスを崩《くず》してステップから落ち、地面に尻餅《しりもち》をついてしまった。
ドアを押さえて、長いローブを着た老人が立っていた。そしていきなり、噛みつくようにして、ワタルに言った。「小僧《こぞう》、無意味な質問じゃ!」
ワタルは思わず老人の顔を指さした。「あなたは!」
要御扉《かなめのみとびら》≠フところで会った、あの魔導士《まどうし》じゃないか! あのときと、ローブの色は違《ちが》うけれど、顔も声も同じだ、間違いない。
だけど、あのときよりもずっと不機嫌《ふきげん》で、意地悪そうな目つきをしている。白目の多い目でぎろりとワタルを睨《にら》むと、口の端をひん曲げてまくしたて始めた。
「もしもわしが留守ならば、お留守ですかと問いかけられて、返事をするわけがない。留守でないならば、留守ではないと返事をするより先に、戸を開けて出てゆけば済むことじゃ。つまり、おぬしは言葉の無駄《むだ》使いをしておる。わかっておるのかの?」
ワタルはへたりこんだまま、「はあ」と言った。
「それも余計な言葉じゃ!」老人は天を向いて怒《おこ》った。ここまで唾《つば》が飛んできそうだ。
「ハイならハイ! イイエならイイエと言えはいいのじゃ! なしてハアなどといい加減な音を発する? ハアだけでは返事にならんから、結局そのあとに何か言うのであろう? それも言葉の無駄使いじゃと言うのに、わからんのか?」
「あの、でも僕──」
ワタルが何か言おうとすると、老人は顔を真っ赤にして両手で胸をかきむしった。
「おお、おお、まだ言葉の浪費《ろうひ》をしよる! そこになおれ! わしが成敗してくれる!」
ローブの裾《すそ》を翻《ひるがえ》して、小屋のなかに駆《か》け込んでゆく。ワタルがぽかんと見守るうちに、両手で重そうな杖《つえ》をつかんで、ぶんぶん振《ふ》り回しながら戻《もど》ってきた。
「それ、覚悟せい!」
きゃっと叫《さけ》んで、ワタルは逃げ出した。
「こりゃ! 逃げるでない!」
老魔導士が追いかけてくる。ワタルは立ち並ぶ小屋の周りをぐるぐる回り、かくれんぼのような追いかけっこのようなことをしばらくやった。老人はとても元気で、ずっと同じテンションで怒っており、息を切らすような様子も見せない。ワタルの方があわててしまい、追いつかれそうになって広場の端に逃げ、そこでまた追いつめられそうになって進退きわまった。
ふと見ると、いちばん奥の小屋の裏口が、すぐ右手に見える。怒鳴《どな》り散らしながら駆け寄ってくる魔導士の脇《わき》をすり抜けて、裏口に飛びついた。丸太造りのドアはあっさりと内側に開いて、ワタルは小屋のなかに飛び込んだ。
小さな暖炉《だんろ》にテーブル、硬《かた》そうな寝台《しんだい》に薄《うす》い毛布。それらのものを目に留める暇《いとま》もあらばこそ、すぐに背後で、今通り抜けてきたドアが開いて、
「こりゃ、逃げるでないと言うておるだろうが!」
魔導土が追いついてきた。ワタルは小屋のなかを横切って表のドアから外にまろび出た。
──どうしよう、困っちゃった。なんでこんなことになるんだ?
芦川は(最初に番人のところへ行け)と言っていたし、あのおじいさん魔導士が、たぶんその番人なんだろうし──だって、以前にも要御扉のところに立ってたんだからさ──それなのにどうして、こんなふうに追いかけ回されなきゃならないんだ? 話が違うよ。
すごいスピードでそんなことを考えながら逃げ場を探していて、ふと、拍子抜《ひょうしぬ》けしたみたいに、魔導士の姿が見えないことに気がついた。あれ? もう追いかけてこないのかな。
振り返って集落をよく見ると、最初に目にしたときと、微妙《びみょう》に感じが違っている。なんだか間違い探しみたいだ。何が違っているんだろう? 煙突だ。煙突から立ち上る、白い煙。
最初に来たときは、手前の小屋の煙突から煙が出ていた。ところが今は、いちばん奥の小屋──さっきワタルが通り抜けてきた小屋の煙突から煙が立ちのぼっているのだ。
しかも、おじいさん魔導士は、ワタルを追いかけてあの小屋に入り、そのまま出てきていないようである。
ふかふかした地面の上を用心深く歩いて、ワタルは奥の小屋のドアに近づいた。耳をあててみる。何も聞こえない──
いや、聞こえる。鼻歌を歌ってるぞ。
「あのォ──スミマセン、ごめんください」
声をかけると、鼻歌がやんだ。ゆっくりとした足音が近づいてくる。
ドアが開くと、さっきの魔導士が顔をのぞかせた。全然怒っていない。
「おや、これはこれは」と、両手を広げた。
「わしを訪ねてきたところを見ると、もしかするとおぬしは、ミツルの言っていたもう一人の旅人かね?」
すごく親切そうで、穏《おだ》やかな話し方だ。これ、いったいどうなってるんだ?
「あの、おじいさん」
やっとこさ、ワタルは問いかけた。
「僕のこと、怒ってないんですか?」
老人は小さな目をいっぱいに見開いた。
「わしが? おぬしを?」
そして広げた両手を見おろすと、その左右の手のあいだの空間のなかを、何か捜《さが》し物でもするみたいに、しげしげと眺《なが》めた。
「なぜ、わしがおぬしを怒らねばならないのかの?」
「なぜって──だってさっき──怒ってたじゃないですか」
ワタルは最初に訪ねた小屋の方を指さした。
「僕が訪ねて行ったら、初めっから不機嫌で、僕が言葉の無駄遣いをするって、杖を振り回して追いかけてきたじゃないですか」
魔導士は、細くて長い指で、自分の鼻の頭を指さした。
「わしが?」
ボケている。
ワタルは力を込《こ》めて答えた。「そうですよ」
からかわれてるのかな。いや、ひょっとすると、これが、幻界《ヴィジョン》≠ナ旅人が受ける、最初のテストみたいなものなのかもしれない。気まぐれな番人と、うまく調子をあわせられるかどうか。だとしたら、不真面目《ふまじめ》な態度をとってはいけないだろう。
「それであの、確かに僕は、旅人なんですけども」ワタルはあのペンダントを引っ張り出した。
「芦川美鶴から、これをもらいました。幻界の番人にこれを見せれば、旅支度《たびじたく》を調《ととの》えてもらえるって。ここでいいんでしょうか」
老魔導士は、長いローブの内側に手を突っ込んだかと思うと、どこからか、笑っちゃうほど大きな天眼鏡を取り出した。そして、ペンダントをつかんでいるワタルの腕ごとぐいと引き寄せて、じっくりとプレートを観察した。
「なるほど」と、ひと言。「確かにおぬしはミツルの言っていた二人目の旅人じゃ。名前はなんという?」
「三谷ワタルです」
「長いのう。こちらではただのワタル≠ナよろしい。いずれにしろ変わった名前じゃから、他の者と間違われることはあるまいて」
ハイわかりましたと、ワタルは素直《すなお》にうなずいた。
「では、どうぞお入り」老魔導士はドアを押し開けて、ワタルを小屋のなかに招き入れた。「そこのテーブルの前の椅子《いす》にお座り。今、地図を出してやるからの」
言われたとおりに、ワタルは質素なテーブルに向き合って座った。ドキドキする。
老人は戸口のドアを閉めると、小屋の奥のこぢんまりした書棚《しょだな》みたいなところに近づいて、そこに立てかけられている数冊の書物を取り出した。本のページを開くのかと思ったら、そうではなく、本を抜き出すことでできた空間の奥へ手を突っ込んでいる。
「これこれ、これじゃ」
そう言いながら、巻物のようなものをつかんで取り出した。ちょっと見たところ、『サーガU』に出てくる商人の地図≠ノそっくりだ。端の方がちょっぴり黄ばんでめくれているところなんかも。
商人の地図は、大ジュマ国全体の地図ではないのだけれど、人が住んでいる町と、街道筋《かいどうすじ》の様子だけは知ることができた。名称《めいしょう》どおり、商人たちが交易のために足で調べて作った地図なのだ。ゲームをクリアするためには、中盤《ちゅうばん》で妖精《ようせい》たちの国へ行き、商人の地図には描《えが》かれていない土地と海域の地図を描き足してもらう必要がある。さらに、首都のジュマラングで闘技場《とうぎじょう》の百人|斬《ぎ》りイベントに勝ち、冒険家《ぼうけんか》の地図≠獲得《かくとく》して、二枚の地図を重ね合わせると、初めて、最後の迷宮《めいきゅう》の存在する幻獣《げんじゅう》島バルバラン≠フ場所が明らかになる──という手順だった。
老魔導士がテーブルの向かいに座り、地図を広げた。地図はすっかり丸まっているので、両端を手で押さえなければならない。魔導士の骨張った手は、ほとんど骸骨《がいこつ》みたいに痩《や》せてカサカサだった。
「これがおためしのどうくつ≠ヨの地図じゃ。この道順どおりに歩いてゆけば、おぬしがどれほどの間抜けでも、必ずたどり着くことができる」
ワタルは地図を見て、盛大な空振りをした気分になった。なんというか、子供の落書きみたいなのだ。最寄《もよ》りの駅からワタルの家までの道順を描いたって、もうちょっとフクザツになるだろう。
「これ、今僕たちがいるところですよね?」
ワタルは、五軒の小屋の絵を描いてマルで囲んであるところを指で押さえた。
「そのとおり」
「ここから北の森へ、真《ま》っ直《す》ぐ入ってゆけばいいんですか?」
地図にはそう描いてある。一本道。
「そのとおり」
「そうですか、アハハ」ワタルは笑った。「これなら僕、地図なくても行かれます」
「それは重畳《ちょうじょう》」老魔導士は重々しく言った。
「は? 頂上? どこかに登るんですか?」
魔導士は、いきなり、ワタルのおでこをペたりとぶった。「おためしのどうくつ≠ヘ洞穴《ほらあな》じゃ。登ってどうする」
「はあ。でもあの、このおためしのどうくつ≠ヨ行って、僕、何をするんですか? ここに何があるんです?」
「おぬし、ミツルから聞いて知っておったのではないのかの? 旅支度をするのじゃ」
「ここで?」ワタルは、地図の上におためしのどうくつ≠ニ書かれているところに指を置いた。「ここ、地名が書いてあるだけで、図がないですね。洞窟《どうくつ》のなかのマップはないんですか7」
「あるわけなかろう。それではおためし≠ノならぬではないか」
魔導士は、呆《あき》れたみたいな口調で言った。
「よろしいか。おぬしはここに入る。入ると地図ができる。そして出てくる。出てくると、旅支度ができている。そういう仕組みじゃ」
ああ、わかった! ワタルはぽんと手を打った。「そうか、|自動地図製造機能《オートマッピング》がついてるダンジョンなんですね!」
また、おでこをペタリとぶたれた。
「そのような呪文《じゅもん》は聞いたこともないの。このわしが知らぬ呪文が、幻界に存在するわけがない。おぬしの言うことは、どうもデタラメでいかんわ」
「でも、僕『サーガ』のシリーズはすごくやりこんでるし、RPGには詳しいんです、だから──」
老魔導士が何も言わず、しわくちゃな顔をしたので、ワタルは黙《だま》った。
「では、行きなされ」と、魔導士は窓の外を指さした。「北の森はあちらじゃ」
「はい、行ってきます」ワタルは立ちあがった。「でもあの、なんか武器とかそういうのはもらえないんですか?」
「武器?」老人の白くてボサボサの眉毛《まゆげ》が持ちあがる。
「はい、剣とかこん棒とか」
「そのようなものはない」
「ない──ですか」
老魔導士はきっぱり言い切った。「ない。早く行きなされ」
「だけど、怪物《モンスター》とかに襲われたらどうしましょう?」
「逃げることじゃ」
「逃げ──られればいいけど」
「できるだけ速く走ることだの」
「はあ──シンプルなアドバイスですね」
ギロリと睨まれたので、ワタルは回れ右をして小屋の出口に向かった。ワタルがドアを開けると、ついでみたいに、魔導士は言った。「よほど心配ならば、北の森で木の枝でも拾ってゆくことだの。なるべく頑丈《がんじょう》な、硬い枝を選んでの」
わかりました、そうします。ワタルは外に出た。ふかふかの土を踏んで、集落を横切り、魔導士が指さした方向にある、緑|濃《こ》い森に向かって歩き出した。
ワタルの背中の方から、一陣《いちじん》の風が吹《ふ》いて、髪《かみ》を吹きあげた。オカリナのような鳥の声が、風に混じってコロコロと聞こえた。
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2 おためしのどうくつ
北の森は、集落にたどり着くまでに通り抜けた森よりも、心なしか空気がひんやりとしているようだった。美しい鳥の声が聞こえるだけで、動物の姿はまったく見えない。白い花にまとわりつくチョウチョの一|匹《ぴき》さえも。
それに、魔導士《まどうし》が言っていたみたいな、手頃《てごろ》な木の枝なんか見あたらない。落ちているのは花びらか葉っぱばかりだ。
さっきまでより、うんと寂《さび》しい。心細く感じるのは、気が弱っているせいだろうか。
道は本当に地図どおりの一本道だ。ただ、ところどころ下ばえの草に覆《おお》われて、道が見えなくなっているところがある。場所によっては、十メートルぐらい道筋が消えていて、木々のあいだをぐるぐる探さなくてはならないところもあった。つまりこの道は、あの集落に通じている道よりも、人が歩く機会が少ないということなのだろう。
十分ほど歩いたところで、涼《すず》やかな森のなかに、灰色の岩の塊《かたまり》が、たんこぶ[#「たんこぶ」に傍点]みたいにぽこんと盛りあがっている場所にたどり着いた。道は、その岩の塊の前で途絶《とだ》えている。してみるとこれが、目的の場所なのだろう。
だけど、洞穴《ほらあな》なんか、どこにもないぞ。
ワタルはあたりを見回した。もう集落も見えなくなって、視界は三六〇度、森の木立ばかりだ。そよ風に、無数の葉がさわさわと揺《ゆ》れている。
手をあげて、頭の後ろをボリボリかいた。それから、一歩近づいて岩の塊に手を乗せた。
頭上から、歌うような鳥の声が響《ひび》いてきた。「おためしかい? おためしかい? おためしかい?」
はっと顔を上げて、ワタルは答えた。「そうだよ、僕、おためしのどうくつ≠ノ入りたいんだ!」
周囲の木立から、いっせいにオカリナの音色がこぼれ落ちてきた。四重奏か、五重奏。見事なハーモニーだ。
おためしならば いのちをだいじに
といにはこたえを
こたえにはといを
どうしさまはおおあくび
かえるみちはかえる
せんねんかけても とけはしまい
鳥たちの歌が終わると、またひと吹《ふ》きの風が吹き抜けて、足下の地面がゴゴゴと唸《うな》り始めた。ワタルの目の前で、岩の塊がふたつに割れてゆく。
そして、入口が現れた。ワタルひとりがかろうじて通り抜けられるくらいの、狭《せま》くて暗い穴だ。ここに入れはいいんだろうか?
ぞわっと怖《こわ》くなった。嫌《いや》だな、どうしても入らなきゃいけないのかな。なんか騙《だま》されてるような気がしないでもないんだけど。『サーガ』の主人公たちは、こんなとこに入ったかしら。
ためらっていると、洞窟《どうくつ》の入口の奥から、しゃがれ声が呼びかけてきた。
「ぐずぐずしとると閉めてまうど」
ワタルはぎょっとして飛びさがった。
「閉めてまうどと言うとんのや、聞こえんのか、小僧《こぞう》」
洞窟のなかの声が凄《すご》む。近所の魚屋の小父さんの声を、ワタルは思い出した。
「こぉら、わしは日暮れまで小僧の相手をしとるほどヒマやないのんや。いじいじしとると、導士さまに言うたるで。早《は》よせんかい」
「関西弁──ですか?」
ここって、幻界《ヴィジョン》≠フはずなんだけど。
「入るのんか、入らんのか、どっちや」
「ここはホントにおためしのどうくつ≠ネんですか?」
「わしがそうやない言うたら、おんどれ帰るんか?」
「それはだって──ねえ」
「そんなら帰れ。導士さまのおっしゃることが信用でけへんなら、ここへ入ったかて無駄《むだ》や。このババタレ小僧が」
ババタレって──どんな意味だ?
「わかりました。入ります」
「最初っからそう素直《すなお》にしとったらええのんや、アホが。こっちゃ来い」
ワタルは半歩前に出た。すると突然《とつぜん》、真っ暗な洞窟の割れ目の奥から、薄汚《うすよご》れた大きな手がにゅうっとのびてきて、いきなりワタルの頭をわしづかみにつかんだ。
「うわぁ!」
叫ぶ声だけを森に残して、ワタルは洞窟の奥へと吸い込まれていった。
静かになった森のなかに、またオカリナのような鳥たちの声が響いてゆく。
きたのはだれ?
きたのはゆうしゃ?
きたのはだれ?
きたのはまじゅつし?
かえるのはだれ?
森を抜け、鳥たちの歌声の下を、さっきの老魔導士が、片手に杖《つえ》をつき、片手に古びた魔導書を抱《かか》えて、ゆっくりと歩いてくる。ワタルを呑《の》みこんだ洞窟の割れ目の前まで来ると、立ち止まってうーんと背伸びをした。
「やれやれ、今度の旅人は、ミツルよりもだいぶ手がかかりそうじゃの」
岩に杖を立てかけて、とんとんと腰《こし》を叩《たた》きながら、ため息混じりにそう言った。
さて、とりかかるか──と呟《つぶや》いて、魔導士は杖を取り、もごもごと呪文《じゅもん》を唱えた。とたんに、その身体はひとかたまりの薄い煙《けむり》になり、ふわりと風に乗って一瞬《いっしゅん》だけ鳥の形をつくると、洞窟のなかに吸い込まれていった。
ワタルは落ちていた。どこまでもどこまでも、底なしの真っ直ぐな暗闇《くらやみ》のなかを落下していた。ずっと叫《さけ》んでいたのだが、すぐに息が切れてしまい、声が出なくなってもまだ落ちている。もういっぺん息を吸い込んで叫び直してもいいのだが、お尻を下に、頭を上に、椅子《いす》に座っているみたいな姿勢で落ちてゆくので、そのうちになんとなく落ち着いてしまった。それに、確かに落ちてはいるのだけれど、さほどのスピードではなくて、半分浮いているような感じでもある。叫ぶ必要を感じなくなってきた。
かわりに、首を巡《めぐ》らせて周りを観察してみた。といっても本当に真っ暗で、何も見えない。でも、何となく体感で、広い場所を落ちているのではなく、スベスベしたチューブみたいなものの内側を落ちているんだと悟った。少し身体《からだ》を動かすと、落ちながらも場所を変えることができて、両手を翼《つばさ》のように広げると、右手の指先に何かつるっとしたものが触《ふ》れた。壁《かべ》かもしれない。
──どこまで行くんだろう?
落ちてゆくうちに、下から風が吹きあげてくることに気がついた。生暖かい風の流れが、シャツの袖口《そでぐち》に吹き込んでくる。それにつれて、落下スピードもどんどん遅《おそ》くなる。エレベーターぐらいに、エスカレーターぐらいに、歩いて階段を降りているぐらいに
真下に、白く光り輝《かがや》く丸い台のようなものが見えてきた。充分《じゅうぶん》にワタルが着地できるだけの広さだ。あそこに降りろっていうことなんだな、きっと。
手足を広げて上手にバランスを取り、ワタルは台の上に着地した。ほっと息をついてよく見ると、台は石でできている。膝《ひざ》をついてしゃがみ、手で触れてみた。すべすべしている。ワタルの家のキッチンの、模造大理石のカウンターにそっくりだ。
顔を上げると、今まで真っ暗だったところに、入口が現れていた。ドアではなく、さっき引き込まれた岩の割れ目みたいな感じだし、サイズはずっと大きい。ワタルが歩いて踏《ふ》み込むことができる。ただし、奥は真っ暗だ。
勇気を出そう。さあ、前に進むんだ。
一歩踏み出し、二歩歩く。すると、周りの景色が劇的に変わった。
これは──寺院だ。いや、お城の回廊《かいろう》かな。
高い天井《てんじょう》。ビルの三階分ぐらいありそうだ。床《ゆか》も壁も石でできていて、十メートルおきぐらいに、ひと抱えもある丸い柱が立っている。壁際《かべぎわ》に無数の燭台《しょくだい》が並んでいて、蝋燭《ろうそく》が星のように輝く光を灯《とも》している。それでも通路の先は暗く、何も見通すことはできない。
きっとそうだろうと予想していたとおりに、振《ふ》り返ると、さっき抜けてきた入口は消えて失くなっていた。前方と同じ景色の通路が、ただ果てしなく続いているだけだ。
臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれてはいけない、自分で自分を励《はげ》ましながら、ワタルは前に進んでいった。すると、しばらくして、大きな彫像《ちょうぞう》が見えてきた。建物と同じ石でつくられた、ひとつ目の巨人《きょじん》の像だ。裸《はだか》の上に甲冑《かっちゅう》をつけ、剥《む》き出しの二の腕《うで》には魔除《まよ》けの入れ墨《ずみ》。肩《かた》には大きな斧《おの》を担《かつ》いでいる。
立ち止まってその顔を仰《あお》いでいると、足元から地響きのようなものが伝わってきて、それが声になった。
「我は運命の女神《めがみ》さまを奉じ、東方を守る暁《あかつき》の神将なり。汝《なんじ》我が問いに答えよ」
ワタルは身構えた。
声は続けた。「汝、我と我が暁の眷属《けんぞく》に何を望むか」
とっさには思いつかない。何と答えればいいのだろう?
おたおたしているときに、ふと思い出した。そういえば『サーガT』のなかに、こんな仕掛《しか》けがあったじゃないか。初めてゲームを立ちあげたとき、ゲームのなかに登場する三《みっ》つの国を治めている三人の神に、お願いをするのだ。「富」とか「名誉《めいよ》」とか「勇気」とか「美貌《びぼう》」とか「知恵《ちえ》」とか、選択肢《せんたくし》はいろいろあった。そして、願うものの種類によって、主人公が身につけることができる特技が微妙《びみょう》に変わってくるのだった。
ワタルは深呼吸をしてから、精一杯《せいいっぱい》大きな声を出した。「僕は──僕は勇気をもって進んでゆきたい。だから勇気を望みます!」
ひと呼吸おいて、重々しい声が返ってきた。
「それでは勇気を授《さず》けよう。通るがよい」
巨人のひとつ目が赤く光り、進路に立ち塞《ふさ》がっていた像が、すうっと消えた。その先には、また通路が続いている。千の、万の、蝋燭の光が揺らめいている。
またしばらく歩いてゆくと、同じ巨人の像が見えてきた。また立ち止まる。
「我は運命の女神さまを奉じ、西方を守る夕闇の神将なり。汝我が問いに答えよ」
「はい、答えます」と、ワタルは言った。
「汝、我と我が夕闇の眷属に何を望むか」
「僕は知恵を望みます」
「それでは知恵を授けよう。通るがよい」
巨人のひとつ目が青く光り、像が消えた。
さらに歩いてゆくと、三体目のひとつ目巨人の像にぶつかった。
「我は運命の女神さまを奉じ、北方を守る風雪の神将なり。汝我が間いに答えよ」
ワタルは今度は、健康な身体を望んだ。幻界の長い旅を、元気に乗り切っていきたい。
答を聞くと、ひとつ目が白く光り、像は消えた。ワタルは先に進んだ。
四体目の像は、予想どおり「南方を守る陽光の神将」だった。ワタルは「喜び」を望んだ。旅のあいだに、楽しいことがたくさんあるといいから。
「それでは喜びを授けよう。通るがよい」
ひとつ目が金色に光り、像が消えた後には、もう通路はなかった。正面は壁。行き止まりだ。燭台だけが輝いている。
その灯《あか》りに照らされて、さっきまで像があった場所に、階下へ続く階段が見えていた。ワタルはためらうことなく、その階段を降りた。気分が高揚《こうよう》して、恐怖《きょうふ》心は消えていた。なんだか、本当に『ロマンシングストーン・サーガ』の主人公になったみたいだ。
降りた先は、大広間だった。真紅《しんく》のビロードのカーテンが、窓を覆《おお》っている。壁にそって背もたれの高い椅子が並んでいる。床はつるつるで、ワタルの顔が映りそうだ。ところどころに、蝋燭が三本立った背の高い燭台が据《す》えられていて、ロウの匂《にお》いがする。
天井には様々な絵が描《えが》かれている。でも、灯りが届かないので、よく見えない。動物とか、花とか木とか──あれ、よく見るとあのヘンテコなねじねじ頭は、ねじオオカミじゃないか!
ぽかんと口を開いて見とれていると、声をかけられた。
「ワタル、こっちへおいで」
はっとして周りを見回すと、広間のいちばん奥の壁際に、蝋燭を一本立てた小さな机に向かって、あの老魔導士が腰かけていた。
「魔導士さま!」
ワタルは駆け寄った。嬉《うれ》しくて懐《なつ》かしくて、飛びつきたいような気持ちだった。ところが、ワタルが近寄ると、魔導士はまたぞろあの骨っぽい手を挙げて、
「これ」
ぺたりとワタルのおでこをぶった。
「魔導士さま?」
老魔導士は右手で頬《ほお》を支えると、左手の人差し指を立ててチッチッチと振り、言った。
「あかんのう」
「はあ?」
「あれではいかんわ。おぬし、ミツルよりもだいぶ劣るな」
どうしてだ? ワタルは混乱し、むっとした。だって四体の神将の問いかけに、僕はすごく上手に答えたじゃないか!
ワタルの内心を見抜いたように、老魔導士は苦々しい顔で言った。「あれでは平凡《へいぼん》じゃ。独創性に欠ける」
「ド──ドクソウセイ」
「そうじゃ。それに、最初に洞窟の入口でとまどったのもいかん。ああいうときはサクッといかねばな。つまりは、ちくと思い切りが足らんということじゃ」
そんなぁ。ワタルはへたへたと座り込んだ。
老魔導士は、どこからか長い羽根ペンと、クリップボードみたいなものを取り出した。ワタルは見間違《みまちが》いかと思って目をこすったが、確かにクリップボードだった。
「おぬしの総合評価」
三十センチばかりありそうな長い羽根ペンを器用に動かしながら、老魔導士は宣言した。
「幻界適性能力の偏差値《へんさち》三十五。特殊《とくしゅ》技能ゼロ。体力値はかろうじて平均。勇敢値《ゆうかんち》最低」
「あの、あの、あの」
ワタルは魔導士の痩《や》せた膝にすがりついた。すると、またおでこをぶたれた。
「結果、おぬしは見習い勇者のプロトタイプ1に決定。装備を与える」
魔導土はペンを耳にかけ、空いた手でワタルの頭をつるっと撫《な》でた。火花のようなものがパッと散った。
「立ってごらん」
促《うなが》されて立ちあがると、服装が変わっていた。生成《きなり》の綿の長袖のシャツ──襟《えり》もないし袖口のカフスもない。紺色《こんいろ》のだぶだぶズボン。丈夫《じょうぶ》そうな革《かわ》の編み上げブーツ。これだけは、芦川が履《は》いていたのと同じだ。でも、腰には革ベルトのかわりに、麻《あさ》でできたマフラーみたいなものがぐるぐる巻きになっている。
「これが、僕の装備?」
「そういうことだの。おめでとうさん」
「でも、武器は? 見習い勇者でも、武器ぐらい持ってるはずです」
「それは地上に戻《もど》ってからじゃ」
魔導士はマントの内側にペンとクリップボードをしまいこむと、よっこらしょと声をかけて椅子から立った。
「では、わしは先に地上へ帰る」
「帰るって、僕は? まだ試験が?」
魔導士は痩せた顎《あご》をひねった。
「おぬしな、願い事には代償《だいしょう》が要《い》るということを知っておろう?」
「ダイショウ?」
「ものの大きい小さいではないぞ。引き替《か》えに差し出すもののことだ」
そのとき、ワタルは地響きを感じた。まだ遠い。でも近づいてくる。何か重いものが、どすんどすんとこっちにやって来る──
「四神将は、おぬしの望みを聞き、代償におぬしと命のやりとりを望む」
あっけらかんとした口調で、老魔導士は言った。
「逃げのびればおぬしの勝ち。命ある身で、望みもかなう。囚《とら》われればおぬしの負け。望みもかなわん」
もの凄い破壊《はかい》音がして、広間の壁が崩《くず》れ落ちた。四神将だ。あの斧で壁を壊《こわ》し、広間のなかになだれ込んできた!
「出口はたくさんあるからの」
魔導士は部屋のそこここを指し示した。確かに、いつの間にか壁際に、ドアがたくさん出現している。
「真の出口を見つけて、逃げ出すことじゃ」
「だってそんな、あんまりだ!」
斧を振りあげて、四神将が突進してくる。
「健闘《けんとう》を祈《いの》るぞ」と、魔導士はにっこりした。「北の森の鳥たちの歌を思い出すことじゃ」
魔導士の姿は宙にかき消え、あとには霧のようなものが残った。その霧はたちまち小さな白い鳥の姿に変じ、ワタルの鼻先から暗い天井へと、ひゅうと飛び去る。
「ちょ、ちょっと待って!」
四神将はもう目と鼻の先にまで迫《せま》っている。ワタルは悲鳴をあげながら壁際を駆《か》け出し、足がもつれて床に転んだ。さっきまでワタルがいた場所に、先頭にいた風雪の神将の振りおろした斧がざくっと突《つ》き刺《さ》さって、床に稲妻《いなづま》形のヒビが走った。
「タスケテェ!」
映画やマンガで、追いつめられた登場人物が、叫んでも誰も助けに来てくれるわけがない場所でこう叫ぶのを、いつも、ヘンなのと思ってバカにしてきた。でも、それは間違いでした。誰も来ないと思っても、叫ばずにはいられないのだ、こんな時は。
もがくようにして立ちあがると、今までいた壁際の地面に、今度は暁の神将の斧が激突する。この危急の際に四体の神将を見分けることができるのはなぜかと言えば、四体が四体とも、顔の正面にひとつしかついていない大きな色|違《ちが》いの目玉をらんらんと光らせているからだ。
──逃げるって、どこへ?
板チョコのような長方形をしているこの部屋の、左右の壁に並ぶ無数のドア。あのドアのうちのどれかひとつが脱出口《だしゅつぐち》なのだろう。たぶん。でも、どうやって見分けたらいいんだ? 片《かた》っ端《ぱし》から開けてみるしかないのか。
パニック状態で逃げ回るワタルの後を、四神将は、地面を踏み鳴らして追いかけてくる。
彼らが通った後は、床に敷き詰められた石がザクザクと割れて、ささくれみたいに立ちあがる。目の隅《すみ》でそれを見て、髪《かみ》が逆立った。
それでも、しばらく逃げ回っているうちに、気がついた。巨体の四神将は、一度突進して斧をふるうと、次に方向|転換《てんかん》をするまでに時間がかかるのだ。しかも、彼らは一体が突進すると、あとの三体もそれに倣《なら》うという習性があるようで、だから、最初の一体の攻撃《こうげき》を上手《うま》くかわすことができれは、残り三体が同じ場所めがけて攻撃しているあいだは、楽に逃げられるのだ。
よし! ワタルは部屋の反対側の壁に向かって走った。四神将がどすんどすんとついてくる。彼らが身につけている重い甲冑が、ガスンガスンと鳴っている。一瞬だけ振り返ると、すぐ後ろにいる夕闇の神将の光る目玉と、その青い光を受けて、振りあげた斧の刃《は》がぎらりと光るのが目に入った。
壁まであと一メートル。ワタルはさっと身をひねり、ずらりと並んでいるドアの方へと横っ飛びした。夕闇の神将が斧を振りかぶり、ワタルがいた場所めがけて突進する。その際《すき》に、床をひっかくようにして立ちあがると、目の前のドアのノブをつかんだ。
ドアは造作なく開いた。内側に飛び込むと、そこは四畳半《よじょうはん》ぐらいの小さな部屋で、ぼんやりとした月明かりのような光に照らされて、中央に銅像みたいなものが一体、ぽつりと立っているだけだけだった。
息を切らしながら像に近づいてみる。やっぱり銅像だ。触《さわ》ると金属の感触《かんしょく》がして、とても冷たい。これは──子鹿《こじか》の像だろうか。ディズニー映画のバンビそっくりだ。
──何でこんなもんがここにあるんだ?
出口はないじゃないか。周りの壁を手探《てさぐ》りしても、ひんやりした石の手触りがあるだけで、外に通じる梯子《はしご》も、ロープの一本もありゃしない。つまり、ここははずれ。ほかのドアを探せってことなんだ。
入ってきたドアを、内側から少しだけ開けて、用心深く外をのぞいてみた。ワタルを見失った四神将は、大部屋の中央に集まり、ひとつ目の光も消して、ぐるぐると輪を描いて歩き回っている。ワタルは呼吸を撃え、勇気を振り絞《しぼ》って、大部屋の方に滑り出た。とたんに、神将の一体の目がピカッと輝き、また追跡《ついせき》が始まった。
逃げては攻撃の空振りを誘《さそ》い、四神将の体勢を崩しておいては脇《わき》に逃げて、近場のドアを開ける。その繰《く》り返しだった。でも、開けても開けても出口に通じるドアは見つからない。どの小部屋も同じ造りで、中央に動物を象《かたど》った像が置いてあるだけだ。動物の種類は部屋ごとに違う。象、虎《とら》、大魚、鳥、牛、蛇《へび》や蛙《かえる》まであった。
一度入ったドアは、そこからまた大部屋に戻るときに、わざと開けっ放しにして、同じドアを二度調べないようにした。そうやって走り回っているうちに、ワタルはへばってきた。パニックのせいではなく、疲労《ひろう》のために足がもつれて、神将の攻撃を避《よ》けるのが、だんだんきわどくなってくる。こんなことを続けていたら、今に倒れてしまうだろう。
でも、あるだけのドアを、もう開けてみた。あれほどたくさんあるように見えたドアだけれど、今ではもうすべて開けっ放しになっている。なのに、出口はどこにもない。
こんなのヒドイよ──ゼイゼイあえぎながら、よろめいて思わず足を止めると、神将たちが方向転換して襲《おそ》ってくる。アイツら、全然|疲《つか》れてない。このままじゃどんどん不利になる一方だ。どうすればいいんだ?
──北の森の鳥たちの歌を思い出すことじゃ。
魔導士はそう言っていた。オカリナみたいなきれいな鳥の鳴き声。四重奏か、五重奏のハーモニー。
必死で思い出してみた。何て歌っていたろうか? といにはこたえを≠ニか、どうしさまはおおあくび≠ニか──
(かえるみちはかえる)
カエル。
ワタルの頭のなかに、ぱっと灯《ひ》がともった。カエル。蛙だ! 帰る道は蛙なんだ!
疲労で萎《な》えそうになる足にむち打って、四神将たちの攻撃をかわすと、ワタルは壁際を一直線に駆け出した。蛙の像のあった小部屋。どこだ? どこだっけ? 開けっ放しのドアの向こうを確かめながら、喉《のど》をひゅうひゅう鳴らして突っ走る。
あった!
右側のいちばん奥の小部屋だ。ぷっくりとふくれたガマガエルの像がある。ワタルはそのドアの内側に飛び込むと、勢い余って像の足元に転がった。ガツン! と頭がぶつかる。「痛ェ!」目から火花だ。
両手で頭を抱えて座り込んでいると、ゴトンと重い音がして、像の台座がずれるように動き始めた。さっきまで台座のあった位置にぽっかりと穴が空き、そこから下の暗闇のなかに、梯子が伸びている。
やった! これで脱出だ。ズキズキ痛む頭をさすって宥《なだ》め、ワタルは梯子を降りた。さほど長い梯子ではなくて、二十段足らずを数えただけで、しっとりとやわらかな土の地面に爪先《つまさき》が触れた。
あたりは真っ暗で、洞穴みたいなところで──星空だ。目を凝《こ》らしてよく見ると、頭上いっぱいに、星のように輝いている小さなものが、ときどき動いて場所を変える。それでわかった。そうか、これはきっとホタルだ。この世界の、ホタルみたいな生きものだ。
彼らの発する弱い光で、洞穴が奥に続いているのが見える。壁はごつごつした岩で、ところどころ、湧水《わきみず》で濡《ぬ》れている。
道はくねくねと曲がりながら、ゆるい上り坂になっていた。地上へ向かっているのだという認識《にんしき》に勇気づけられて、ワタルは足を速めてどんどん歩いた。やがて道は行き止まりになり、灰色の石を敷き詰《つ》めた小さな広場に出た。中央に、頭上から一筋の光が真っ直ぐに降りてきている。その光の筋は、石の上に描かれた青色の星印の中心を、ピタリと射抜いていた。
ワタルは光の真下に──星印の真ん中に立った。すっと身体が軽くなり、足が宙に浮いたような感じがした。
そして、はっとまばたきをすると、森のなかに立っていた。おためしのどうくつ≠フ前に戻っていた。鳥たちのオカリナ声が聞こえる。陽《ひ》は少し傾いて、森は蒼色《そうしょく》の霧のようなものに包まれ始めている。
洞窟の入口はすでに閉じて、岩の塊に戻っていた。触れても、関西弁で話しかけてくることはない。
ワタルは森の小道をたどって、五つの小屋が建つ場所へと戻った。魔導士の姿は見えず、最初の小屋でも、二番目の小屋でもない、三番目の小屋の煙突《えんとつ》から煙が立ちのぼっていた。
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3 見習い勇者の旅立ち
真《ま》っ直《す》ぐにその小屋のドアに近づき、ノックすると、近づいてくる足音がして、魔導士《まどうし》が顔をのぞかせた。ワタルは驚《おどろ》いた。おじいさん、泣いている。
「おや、やっと帰ったかね、シクシク」
涙《なみだ》を拭《ふ》きながら、魔導士はワタルを部屋のなかに招き入れた。
「謎《なぞ》を解くのに、だいぶ時間がかかったの、メソメソ」
ワタルは、木の切り株をそのまま持ってきたようなごつい椅子《いす》に腰《こし》かけて、魔導士が目をしばしばさせて涙を拭《ぬぐ》うのを眺《なが》めた。
おじいさん、最初の小屋では、いきなり怒《おこ》っていた。次の小屋ではとても優《やさ》しかった。そして今は泣いている。
「あのぉ、魔導士さま」
「何だね? 武器のことなら、これから説明してあげるから少し待ちなさい」
「その前に──」
「そうそう、わしの名前はラウじゃ。だから、ラウ導師さまとお呼び。魔導士の導士ではないぞ。確かにわしは魔導士だが、ここでは旅人を導く導師としての役割を担《にな》っておる。おぬしもおためしのどうくつ≠抜《ぬ》けて、正式に旅人となったからには、わしはおぬしにとっては導師さまなのだ。さま[#「さま」に傍点]が肝心《かんじん》じゃ。わかるかの?」
「はい、ラウ導師さま」また遮《さえざ》られないよう、ワタルは早口に続けた。「導師さまは、五つの小屋のうちの、どの小屋にいるかによって、気分も変わるんですね?」
ラウ導師は、骨張った手で痩《や》せた顎《あご》をするりと撫《な》でた。「なんだの、今ごろ気づいたか。おぬし、やはり、ミツルより鈍《にぶ》いの」
「あ、はあ」ちょっと傷ついた。「じゃ、そうなんですか?」
「そうじゃよ。それがこの村のきまりじゃ。番人は、旅人を正しく導く責務を負っておる。己《おのれ》の気分に左右されて、指導に怠《おこた》りがあってはならぬのでな。小屋に合わせて、気分の方をあらかじめセッ卜しておくのじゃ。さすれば迷いがない。怒《いか》りの小屋にいるときには怒りを、親切の小屋にいるときには親切を、そして──」
「今この小屋は、涙の小屋なんですね」
「いんや、悲しみの小屋じゃ」導師は涙目をしばたたいた。「涙は嬉《うれ》しいときにも流れるものじゃろ? 笑い過ぎて涙がにじむこともあろう。まことにもって、おぬしのデキの悪いのには涙が出るわい」
「スミマセン」
ラウ導師はローブの裾《すそ》を引きずって部屋を横切ると、片隅《かたすみ》に置いてある小さな葛籠《つづら》を、恭《うやうや》しい手つきで取りあげた。それを丸太のテーブルの上まで運んでくると、ワタルの目の前にそうっと置いた。
「これがおぬしの剣《けん》じゃ。開けてごらん」
ワタルは胸がどきどきして、ちょっぴり手が震《ふる》えるのを感じた。
葛籠の蓋《ふた》は軽かった。ただ上からかぶせてあるだけで、鍵《かぎ》もなけれは金具もない。すぽんと開いた。
葛籠の底には、薄汚《うすよご》れた革《かわ》の鞘《さや》に収まったひとふりの剣が、ころんと横たわっていた。全体の長さは、三十センチいや、二十五センチぐらいだろう。柄《つか》の部分も、古ぼけて手ズレのした革でできている。
「これこそが勇者の剣≠カゃ」ラウ導師はそっくりかえってそう言った。
「これ──ですか?」
勇者の剣。てんで名前負け。
「これじゃ。ほう、不満か?」
「あんまり強そうじゃないから……」
「そりゃそうよ。おぬしが強くないのだから、この剣も強いはずがない」
ワタルの向かいに座って、ラウ導師は両手をテーブルの上に載《の》せた。
「勇者の剣は、その使い手と共に成長する剣なのじゃ。だから最初の時点では、この剣は、それを与《あた》えられた旅人の心持ちを、そのまま顕《あら》わした姿をとっている。この剣がてんで弱そうで、くたびれていて、パッとしなくてカツコ悪いのは、ワタル、おぬしが弱くてくたびれていてパッとしなくてカッコ悪いからじゃ。剣のせいではないわい」
導師は手でワタルのおでこをぶった。
「手に取って、よく見てごらん。鍔《つば》のところに、文様がついておろう?」
勇者の剣は、葛籠よりもまだ軽かった。この軽さも、ワタルの心の軽さを映したものなのだろうか。手触《てざわ》りの頼《たよ》りなさも、ワタルの頼りなさそのままなのだろうか。
鍔の部分に、さっき洞窟の出口で見た星形の印が刻み込まれている。星形の五つの頂点に、それぞれ、風邪薬《かぜぐすり》の錠剤《じょうざい》ぐらいの大きさの丸い穴が空いている。
「この印、おためしのどうくつの出口のところで見かけました」
「ほう、気づいたか。おぬしのことだから、説明せねばわからないかと思った」
これは、幻界《ヴィジョン》≠統《す》べる女神《めがみ》の力を象徴《しょうちょう》する特別な印だと、ラウ導師は説明した。
「ふさわしい力あるものがこの印を結べば、魔法を生じることも、結界を張ることも、宙を飛ぶことも、風を呼び水を分かつことも、何でもできる。これから幻界を旅して行くと、様々な場所でこの文様に出合うじゃろう。とりわけ、真実の鏡≠使う時には、必ずこの文様の場所でなくてはならぬ」
「真実の鏡?」
聞き覚えのある言葉だ。芦川が──
(真実の鏡をのぞいたら)
そうだ、ワタルを迎《むか》えに、幻界から戻《もど》って来てくれたとき、確かにそう言っていた。
「知っているようじゃな」
ワタルが、ミツルのことを話すと、ラウ導師は深くうなずいた。
「おぬしのような現世《うつしよ》からの旅人が、真実の鏡を、この星の文様のある場所で使えば、幻界と現世を結ぶ光の通路≠作り出すことができる。旅人はそこを通って、現世に行くことができるが、それはほんのわずかな、限られた時間内のことだ。通路が閉じてしまう前に幻界へ戻ってこなければ、現世にも還《かえ》れず、幻界にも入《はい》ることができず、ふたつの世界の狭間《はざま》である久遠《くおん》の谷に落ち込んで、時の放浪者《ほうろうしゃ》になってしまう」
だから芦川も、急いで帰っていったのか。でも、久遠の谷? 時の放浪者? また新しい事柄《ことがら》が出てきた。
「……わかりました。そしたら、その真実の鏡≠ヘ、どうやって手に入れたらいいんですか?」
「そこまでは、、ミツルも教えてはくれなんだかな?」
「はい」そんな時間はなかった。
ラウ導師は頬笑《ほほえ》んだ。「おぬしは真実の鏡≠探さずともよい。真実の鏡≠フ方から、おぬしを探してくれる。見つけ出すまで、そう手間はかからぬはずじゃ」
「はあ?」
「真実の鏡≠ヘ、この幻界に旅人≠ェやって来ると、それと察知して姿を現す。なに、造作もないことよ」
ホントかな。なんか頼りない。それに、覚えなくちゃならないことが山ほどあって、目が回りそうだ。
「とまどっているのじゃな。無理もない」
ラウ導師は、まぶたににじんできた涙をぐいと拭うと、宥《なだ》めるような優しい顔をした。
「この世界──現世と幻界と久遠の谷の関《かか》わり合いや成り立ちの由来を、あれこれいっぺんに話して聞かせたところで、すぐには呑みこめまい。おおかたは、旅を続けるうちに、自然にわかってゆくことだろうし、その方が確実じゃ。今は、最初からしっかり覚えておかねばならぬ、肝心なことだけを話そう」
ワタルの手から勇者の剣を取りあげると、ラウ導師は、鍔の部分に刻まれた、星の文様を指し示した。
「これを御覧《ごらん》。星の文様の先の部分に穴が空いておる。これはただの穴ではないぞ。台座じゃ。おぬしはこれから、幻界のなかをくまなく旅して、この台座にピタリとはまる、五つの玉《ぎょく》を探し出さなくてはならぬ」
「ギョク? 宝石ですか?」
「そうじゃ。五つの玉がすべて台座に収まったとき、この古ぼけた小さな勇者の剣は、晴れて真の姿を現す。それこそが、おぬしの目指す運命の塔《とう》≠ヨの道を切り開く退魔《たいま》の剣≠カゃ」
退魔の剣──
「運命を統べる女神さまのおわします塔の周りには、魔物をはらんだ深く濃《こ》い霧《きり》が立ちこめている。退魔の剣はその霧をはらい、塔へと続く道を指し示す。そこからこの名前がついたのじゃ。だから、今はどんなに頼りなく見えようと、ゆめゆめ、この剣を粗末《そまつ》に扱《あつか》ってはならんぞ。よいな?」
「わかりました」ワタルは身内に力が込みあげてくるのを感じて、両手を強く、ゲンコツに握《にざ》りしめた。
「それで、その五つの玉はどこにあるんですか? どんな玉なんですか?」
ラウ導師は、ワタルのおでこをぶった。
「そんなもの、わかっておらんわ。だから探せと言うておるのじゃ」
「え? だって何のヒントもないんですか? 本当に幻界じゅうを探すの?」
「そうじゃ。だが、おぬしが玉に近づけば、玉の方から何かしらのお告げをくださる。それを手がかりにすればよい」
それにしたって、途方《とほう》もない話だ。情けないけれど、さっき漲《みなぎ》ってきたと思った力が、またしゅるしゅると抜けてしまった。
「おぬし、まるで覚悟《かくご》ができておらんな」
ラウ導師はまたワタルのおでこをぶとうとしたらしく、手を持ちあげたけれど、途中で考えを変えて、その手で顔を覆《おお》ってしまった。「わしも長いこと番人職を務めておるが、こんなに頼りない旅人は初めてじゃ。しかもこれが半身《はんしん》かもしれぬというのだから、参ったのぉ」
「ハンシン? 何ですか、それは」
ワタルとしては、またぞろ耳新しい言葉が出てきたから、何気なく質問しただけだった。なのに、ラウ導師はハッとして、ひどくあわてた様子になった。
「な、なんでもない。おぬし、耳ざといことだけは人一倍じゃの」
せかせかと顔をこすり、ローブの袖《そで》を持ち上げてちんとハナをかんだ。うわ、汚い。
「玉に関しては、もうひとつ大切なことがある」取り澄《す》ました顔に戻って言った。「先ほどの真実の鏡にも関わりのあることじゃ」
玉の数と、真実の鏡を使うことのできる回数は、対応しているというのである。
「おぬしがひとつ玉を見つけれは、そのとき一度だけ、真実の鏡を使うことができる。次にもうひとつ見つければ、また一度だけ使うことができる。もちろん、玉は見つけたが真実の鏡を使う必要はない時には、使う権利を溜《た》めておくこともできる。利息はつかぬがの」
それぐらいは、ワタルだってわかる。お金じゃないんだから。
「先ほどわしは、真実の鏡を使うことができるのは、星の文様のある場所じゃと言った。覚えておるな?」
「はい」
「その星の文様がある場所も、実はわからん。何処《どこ》にあるのか、おぬしが探さねば見つからないのじゃ。ただ、星の文様の存在する場所の近くには、必ず玉も存在している。間違《まちが》いない。そういう意味では、これが最良の手がかりじゃな」
ワタルは手のなかで勇者の剣をひねくり回しながら、考えた。
「でもラウ導師さま、僕にはミツルみたいに、真実の鏡を使いたくなる機会があるとは思えません。それなら、文様の方は、無理に探さなくてもかまわないんですよね?」
返事がない。ずっと返事がない。ワタルは勇者の剣から目をあげて、ラウ導師の顔を見た。老人は両手を腰にあて、怒ったように口をひん曲げている。目だけは涙ぐんでいるのが、あいかわらずアンバランスだ。
「導師さま?」
「おぬし、現世に残してきた母親のことは気にならぬのか?」
ワタルは驚いた。「母さん──ですか?」
「おぬしが幻界にいるあいだ、現世でも時が停《と》まっているわけではないのだぞ。母親がどうしているか、心配ではないのか? おぬしが姿を消したことでどれほど心を傷《いた》めていることか。顔を見せて、安心させてやりたいとは思わぬのか?」
言われてみれば、本当にそのとおりなのだ。今の今まで──目の前に展開する事柄があまりにも新鮮《しんせん》で驚きに満ちていたので、母さんのことが心から抜け落ちていた。
「も、もちろんです。だって僕、母さんのために幻界に来たんだもの」
導師は深く息を吐くと、ゆるゆると首を振《ふ》った。「ならば、おぬしにも光の通路が必要じゃ。それには、文様を探さねばならぬ」
「はい、探します。ホントに一生|懸命《けんめい》に探します」
ラウ導師はテーブルから離《はな》れると、窓ごしに外をちょっとのぞいた。
「もう陽《ひ》が暮れた。今夜はこの村に泊まって、明朝旅立ちするがいい。空いている小屋を、どこでも使ってよろしい。寝台《しんだい》はひとつしかないからの。わしはここに泊まる。飯は、後で持っていってやろう」
「ありがとうございます」ワタルは深く頭をさげた。そして小屋を出ていこうとすると、後ろからラウ導師が呼びかけた。
「ああ、そうそう。もうひとつ、大事なことが残っておった」
旅先で、ミツルを捜《さが》してはならない──と、導師は厳しい口調で言った。
「わかっています。ミツルも言ってました。運命の塔には自力でたどり着かないとならないから、二人旅はできないんだって」
ラウ導師はこちらに近づいてくると、枯《か》れ木のような両手を、ワタルの両肩《りょうかた》に乗せた。「それだけではない。そもそも、おぬしには、ミツルを捜すことはできないのじゃ。なぜなら、おぬしの旅する幻界と、ミツルの旅する幻界は、最初から別のものなのだから」
ワタルは驚いて、思わず導師さまのローブをつかんだ。
「それはいったいどういうことなんです? 幻界はひとつじゃないんですか? いくつもあって、僕らはそれぞれ別々の幻界に来てるんですか?」
「そうではない。ただ、幻界は、そこを行く者によって姿を変えるのじゃ」
幻界は、現実世界──現世に住む人間の想像力のエネルギーが創《つく》り出した場所だと、芦川は言っていた。
「そうか、ミツルはおぬしにそう説明したのか。なかなか良い」ラウ導師は満足そうににっこりした。「だったらわかるじゃろう? 幻界を創りあげているエネルギーのなかには、旅人である、ミツルやワタル、おぬしたち自身のエネルギーも混ざっておる。おぬしたちが幻界に来れば、おぬしたちそれぞれのエネルギーがより強く幻界全体に働きかけることになり、従って、ミツルが見る幻界はミツルだけのもの、おぬしが見る幻界はおぬしだけのものになるというわけじゃ」
ワタルはうーんというような生返事をした。わかったようなわからないような──旅人は二人来ているのだから、二人分のエネルギーが加算されるわけだけど、同時に来ているのだから、二人が別々にならなければならない理屈《りくつ》はないんじゃない?
ラウ導師は、話を打ち切るしるしに、ワタルのおでこをポンとぶつと、
「いずれにしろ、さっきおぬしが言ったように、二人旅はできないのが定めじゃ。だから、ミツルを捜したところで無駄《むだ》じゃからの。それに彼は、おぬしより、もうずっと先に行っておる」
「だってそれは、あいつ、僕より出発が早かったから」
「頭の差も、だいぶある」ラウ導師は遠慮《えんりょ》なく言い放った。「ミツルはおぬしのために、一度、真実の鏡を使っておる。ということは、すでに、少なくともひとつは玉を発見しているということじゃ。おぬしも負けないように頑張《がんば》るがよい」
ラウ導師は、ワタルが、腰の帯のところに、上手に勇者の剣≠挟《はさ》むことができるよう、手伝ってくれた。剣はなんとか収まった。
「それなりに、様になっておるぞ」
さあお行きと小屋を追い出されて、ワタルは外に出た。森はすっかり翳《かげ》っている。足元の地面も、そこここの草むらも、心なしか湿《しめ》っぽい感じだ。鳥たちも巣に帰ってしまったのだろう、歌は聞こえない。
頭上の空には、星がいっぱいに鏤《ちりば》められている。首の後ろ側が痛くなるくらい、ずっと熱心に見あげてみたけれど、オリオン座とか北斗《ほくと》七星とかは見あたらない。幻界の星空は、現世のそれを映してはいないのだろう。そういえば、月も見あたらない。
ワタルは「親切の小屋」を使うことにした。驚いたことに、小屋に足を踏《ふ》み入れると、小さな暖《だん》炉《ろ》にぽっと火が入った。テーブルの上のランプも灯《とも》った。これも導師さまの力によるのだろう。一人になると急に疲《つか》れて、ちょっと休むつもりで寝台の上に身を投げると、いつの間にか、そのまま眠《ねむ》り込んでしまった。
翌朝早く、おなかがペコペコになって、目が覚めた。
外に出てみると、昨日と同じ「悲しみの小屋」の煙突《えんとつ》から煙《けむり》が出ている。ラウ導師はもう起きていて、テーブルについて食事をしながら、やっぱり泣いていた。
「おお、おはよう。メソメソ」
「おはようございます」
「こっちに来てお座り。昨夜はよく寝《ね》ていたので、食事を置いてこなかった。さぞかし腹が減ったろう。お食べ」
飢《う》え死に寸前だった。皮のパリパリした丸いパンと、ペパーミントの香《かお》りのするお茶。リンゴに似ているけれど、リンゴよりずっと甘くて濃厚《のうこう》な味のする黄色い果物。どれもみんな美味《おい》しくて、ワタルは口もきかずにどんどん食べた。気がついたら、テーブルの上のものはあらかたワタルの胃袋《いぶくろ》に収まってしまっていた。
「これは道中の弁当じゃ」
生成の布に包んだものを、導師が渡《わた》してくれた。
「今日の昼飯の分じゃがな、わしが面倒《めんどう》を見られるのはここまでじゃ。あとは、おぬしが自力でなんとかせねばならぬ」
自力で? 一瞬《いっしゅん》、意味がつかめなくて、ワタルはポカンとした。そうか、ご飯とか泊まる場所とか、そういうことも自分で都合しなくてはならないのか。『サーガ』の主人公はどうしてたっけ? ゲームのなかでは、特にイベントに関係がない限り、ご飯を食べるシーンなんて出てこない。宿に泊まるためのお金は、モンスターを倒《たお》せば稼《かせ》げるし。
急に心細くなってきた。ワタルは今まで、一人旅なんてしたことがない。いっぺんだけ、千葉のお祖母《ばあ》ちゃんのところへ、一人で特急に乗って行ったことがあるけれど、それだって、東京駅まで母さんに送ってもらって、向こうの駅ではルウ伯父《おじ》さんが改札口で待っている、という具合だった。
「そのとおりじゃ。なぁに、心配するな。道に迷いさえしなければ、午《ひる》過ぎにはガサラの町に着く。ガサラはこの辺境ではいちばん賑《にぎ》やかな交易の町じゃから、探せばいくらでも仕事はあるだろう」
仕事、ね。
「モンスターを倒すと、自動的にお金を落としてくれるってことはないんですか?」
ラウ導師は目を剥《む》いた。「何じゃそれは」
『サーガ』の冒険《ぼうけん》と、ずいぶん勝手が違う。気がくじけてしまって、ラウ導師にせき立てられるまで、テーブルから離《はな》れることができなかった。
「森の出口はあちらじゃ。では、達者でな」
不承不承の足どりで、振り返り振り返り去ってゆくワタルの小さな背中を見送って、ラウ導師はゆっくりと顎を撫でた。
「それじゃ導師さま、わたしも行きます」
ラウ導師の足元から、女の子の甘い声が聞こえてきた。導師はローブの裾をめくって、足の周りを見回した。
「イヤだわ、そんなところにはいませんよ」
甘い声は、鈴《すず》を振るような音色で笑った。
導師はふむと唸《うな》った。そして、とりあえず下の方を向いて話しかけた。「オンバさま、ずいぶんとあの旅人に肩入れしておられますな。なんぞ理由がおありですか」
「あら、だって可愛《かわい》いんですもの。旅人はやっばり、キュートでなくちゃね」
そのフルフルとこぼれるように魅力《みりょく》的な声を、もしもワタルが聞いたならば、すぐに気がついただろう。どこからか話しかけてくる姿の見えない女の子の声──ワタルが「妖精《ようせい》かもしれない」と思っている、あの声だと。
「もう一人の旅人、ミツルという少年も、それはそれはきれいな顔をしておりますが」
言いかけて、ラウ導師はあわてて口をつぐんだ。
「フン」と、甘い声は口を尖《とが》らせた(ような音を発してみせた)。「いいのよ、導師さま。今さら気にしなくても」
「はは、それは恐縮《きょうしゅく》」
「とにかくわたしは、ワタルを助けてあげたいの。だってとても可愛いのだもの」
ラウ導師は顎の先をひねると、「オンバさま」と、声をひそめた。「お気持ちはともかく、旅人のすることに、あまり深く干渉《かんしょう》なさるのはいけませんぞ。また女神さまのお怒りをかうことにもつながります」
「あんなオンナ、好きなだけ怒っていればいいのよ! わたしはわたしのやりたいようにやります。導師さまも、あんまりあのオンナの肩ばかり持つと、いいことありませんわよ。よろしいこと?」
導師は黙《だま》って頭をさげた。しばらくそのままの姿勢でいると、彼が「オンバさま」と呼ぶ甘い声の持ち主の気配は、やがて消えた。本当にワタルの後を追っていったのだろう。
「やれやれ……」導師は暗い顔で呟《つぶや》いた。「困ったものだ。オンバさまにおかれては、このごろまた、頻繁《ひんぱん》に現世をのぞいておられるというので、いずれこんなことになりはしないかと案じていたのだが」
ラウ導師が窓際《まどぎわ》に近寄ると、それを待ち受けていたように、森の鳥たちがいっせいにさえずり始めた。
おはよう、おはよう、おはよう、導師さま
「やあ、おまえたち」導師は鳥たちの声に向かって、優《やさ》しい笑顔《えがお》を向けた。そうして彼らの歌に耳を傾《かたむ》けながら、窓の手すりにもたれて、かなり長いこと考え込んでいた。
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4 草原
教えられた小道をたどってゆくと、深い森は呆気《あっけ》なく、そして劇的に終わった。
「うわぁ!」
目の前には、緑の草原が広々と開けている。見渡《みわた》す限りの草の海。地平線まで続いているようだ。
爽《さわ》やかな風が、ワタルの頬《ほお》を撫《な》でる。右を向いても左を見ても、目に入るのは草原の光景ばかりた。ところどころに、白っちゃけた岩の塊《かたまり》が塔《とう》のように顔を出していたり、草原がなだらかな丘《おか》のように盛りあがっているところも見えるが、大部分は真っ平らで、ひたすらに見通しがいい。
──とりあえずは、太陽の昇っている方向へ向かって進め。
ラウ導師はそう教えてくれた。幻界《ヴィジョン》≠フ空に昇る太陽はひとつだけで、現世《うつしよ》の太陽とよく似ているが、まともに見あげても、あれほど眩《まぶ》しくない。『サーガT』では、太陽がふたつ存在する世界が舞台で、片方の太陽の温度があがりすぎて、それが世界|滅亡《めつぼう》の引き金となるという設定だったのだけれど、ここではそんな心配はないようである。
ワタルは草の丈の低いところを選んで歩き始めた。道らしい道はない。鳥の声も聞こえない。時折、とても小さいモンシロチョウみたいな虫が飛んできて、物珍《ものめずら》しそうにワタルの周りをグルグル回ってまた飛び去ってゆくが、旅の連れはそれだけだった。
草原の明るい景色に、一時は気分が高揚《こうよう》しかけたのだけれど、だだっ広いところをただ歩いてゆくうちに、否応《いやおう》なしの現実|認識《にんしき》──いや、ここでは幻界認識というべきか──がのしかかってきた。
僕は、これから先ずっと歩くのだ。とりあえず、歩く∴ネ外に移動手段はない。車もないし電車もない。この二本の足以外に、頼《たよ》りになるものはないのだ。
テレビゲームのRPGの主人公たちだって、序盤《じょばん》から中盤にかけてはみんなトコトコ歩いているもんな。そう考えて自分を慰《なぐさ》めようとしたのだけれど、あんまり上手くいかない。だって、ゲームはゲームだ。カッちゃんと二人して、『サーガU』のあの険しいラストダンジョンを歩いたときだって、ゲームのキャラたちは「歩き疲《つか》れる」なんてことは全然ないわけだし、ワタルとカッちゃんは床《ゆか》にべったり座って、ときどきは寝《ね》っ転がったりして、コーラやジュースも飲み放題だった。
冷たい飲み物のことを考えたら、急に喉《のど》が渇《かわ》いてきた。そういえば、導師さまはお弁当はくれたけれど、飲み物のことは何も言っていなかった。川とか湖とか、とにかく水のある場所を探さなくてはならない。
もうだいぶ行ったろうと振《ふ》り返ると、さっき抜《ぬ》けてきた森が、まだ後ろにこんもりと繁《しげ》っている。ガッカリだ。僕、足が遅《おそ》いのか。
話し相手もなしにただ黙々《もくもく》と歩き続ける。陽射《ひざ》しは強く、暑い。汗《あせ》をかく。景色には変化がない。歩く歩数を数えてみようと思いついて、声に出してイチ、ニイ、サンとやり始めたら、ちょっと景気がついた。そうして初めて、この漠然《ばくぜん》とした頼りない感じにさいなまれるのは、時間がわからないせいもあるよな、と思いついた。昨日からこれまで、「今何時だろう?」と考えることがなかった。今朝だってそうだし、今だってそうだ。
千歩近く数えたとき、左手の前方にまん丸な森が見えてきた。まるで、空にいる誰《だれ》かが、木々を何本か丸めて、ぽいっと地上に落としたみたいな木立の塊だ。それでも、ずいぶんと背の高い木だ。
あんな木が育つということは、水があるのかもしれない。オアシスって感じかな。ワタルは立ち止まって手の甲で顔の汗を拭《ぬぐ》い、そちらに足を向けた。また、一から歩数を数えよう。
水、水、冷たい水。心に念じながら歩いて近寄っていくと、やがて、オアシスの木立に囲まれた中心に、何か小さな建物みたいなものの屋根が見えてきた。草原の風に吹かれて木の枝が揺《ゆ》らぐと、てっぺんのところもちらちらと見える。瓦屋根《かわらやね》みたいだ。あんなところに、人が住んでいるんだろうか?
オアシスまであと五十歩ぐらい──というところまで来たとき、地平線の方に、白い砂煙《すなけむり》が立ちのぼっているのが見えた。じっと見つめていると、どうやら動いているようだ。右から左へ。少しずつだけど、確実に。あれ、もしかすると、こっちに近づいてくるのかもしれない。やっぱり、このオアシスを目指しているのかも。
ワタルは走ってオアシスに向かった。近づくと、背の高い木立の葉っぱが、草原の風に吹かれてさわさわと鳴っているのが聞こえる。
それは本当にオアシスだった。木立の中心に井戸《いど》がある。そう、これは井戸だよね? 本物を見るのは初めてだ。石造りの円い緑《ふち》。のぞくと、底の方で水が光っている。ロープのついた木のバケツがぶらさがっている。
井戸の四方に柱が立ち、瓦屋根はその上に載《の》っているのだった。雨水が井戸水に混じり込むのを、これで防いでいるのだろう。いや、幻界でも雨が降るのならばの話だけど。
まずは水を汲《く》んで、バケツの縁に口をつけ、ごくごくと飲み干した。冷たくて甘くて、美味《おい》しい。思わず喉が鳴った。シャツの胸の前がビショビショになるのもかまわず、ワタルは水を飲んだ。
一息ついて見回すと、オアシスの地面に、トマトみたいな赤い実がたくさん落ちていることに気がついた。どうやら、周りを囲んでいる木の果実のようだ。落ちているものはみんな熟しすぎて、潰《つぶ》れている。
ちょっと匂《にお》いをかいでみると、甘《あま》ずっぱい。食べられそうだ。
木の枝はみんな高い場所についているし、幹はすべすべしていて手がかりがない。それにワタルは、木登りなんかしたことがない。
ちょっと考えてから、あわてて地面を探し、手頃《てごろ》な石をいくつか拾い集めた。こいつを枝に向かって投げて、実を叩《たた》き落とそう。シューティングなら、ちょっと自信がある。
もくろみはあたった。ぽろんと落ちてきた実を、ひとつ拾って土をはらい、慎重《しんちょう》に囓《かじ》ってみると、なるほど見かけどおりのトマト味だ。でも、スーパーで売っているのよりも、ずっとずっと味が濃いし、みずみずしい。幻界の果物《くだもの》は、導師さまのところでご馳走になったものもそうだったけれど、どうしてこんなに美味しいんだろう。
これなら、集めて持ってゆけは、道中の喉の渇きをいやせるし、おなかの足しにもなる。
ワタルはどんどん果物を集めた。夢中になって石を投げた。
そうしていると、砂埃《すなぼこり》の混じった風に乗って、ゴロゴロという響《ひび》きと、
「おーい、おーい、そこのヒト!」
呼びかける声が聞こえてきた。手を休めて周りを見ると、馬車みたいなものが、砂埃を蹴立《けた》ててオアシスに近づいてくる。
「おーい、おーい、そこのヒト!」
馬車みたいなものを走らせているヒトが、ワタルに向かって手を挙げて、大きな声で呼んでいるのだった。ワタルはオアシスのはずれまで出ていって、目の上に手をかざし、輝《かがや》くような緑色の草原を見渡した。さっき見た砂煙も、あの馬車のものだったのだろうか。こんな草っぱらで、どうやったらあんな砂煙をたてることができるんだろう?
おや──どうやらあっちには、道があるらしい。ガサラの町に通じる道だろうか?
馬車みたいなものは、ワタルの方に近づいてきた。間近まで来ると、砂煙はあがらなくなった。そして、馬車みたいなものは馬車ではないこともわかった。
いや、車の方は四輪の、ワタルだって西部劇で見たことがあるお馴染《なじ》みの形なのだ。ただ、引いているのが馬ではなくて──あれって、なんて動物だ?
牛なんだけど、首が長い。額には角が二本はえている。身体は大きくて毛はつやつやとして、皮膚《ひふ》は灰色。でっかい蹄《ひづめ》。座布団《ざぶとん》ぐらいある。
「おーい、そこのヒト! バクワの実をあんまり食っちゃいかんぞ」
車に乗っていた人物が、どうどうと手綱《たずな》を締《し》めて間近に停《と》まり、ワタルに向かって明るく呼びかけた。
「そいつはこいつら、ダルババの好物だ。甘くて旨《うま》いが、ヒトの食い物じゃない。あんまり食うと、腹をこわすぞ」
ワタルは、食べかけの赤い実を、ぽとりと取り落とした。それを見て、声の主は大らかに笑いながら、乗り物から降りてきた。
「なにも、今食っているのを捨てることはないじゃないか。毒があるわけじゃない。旨いことはわかってるしな。どれ、ダルババたちにやる前に、俺もひとつ食うとするか」
ワタルはぽかんと口を開いたまま、ふるふると震《ふる》え出した。
──ト、トカゲだ。
首長牛に引かせた車を操《あやつ》っていたのは、身の丈二メートルぐらいありそうで、全身をウロコに覆《おお》われたトカゲ男なのだった。地面に落ちている赤い実を見繕《みつくろ》い、土を落として旨そうに食べている。尖《とが》った歯がぎらぎらとのぞく。『サーガ』のシリーズに出てくる、ザコ敵としてはもっとも手強《ごわ》い部類に入る「リザードマン」そっくりだ。これで剣を持ってたら、まさにそのまんまだ。
「なんだ坊《ぼう》ず、俺の顔に何かついているかい?」
トカゲ男はあくまでも明るく爽やかに、ワタルに近づいてきた。ワタルは思わず後ずさりをした。トカゲ男は不思議そうに首をひねり、鋭《するど》い鉤爪《かぎづめ》のついた手を持ちあげて、ほりほりとほっぺたを掻《か》いた。
「なんだ、何を怖《こわ》がっているんだ? こうしてみりゃあ、ずいぶんとチビだが、一人でここにいるのか? おとっつぁんやおっかさんは一緒《いっしょ》じゃないのかい?」
何か返事をしようと思うのだけれど、舌が引っ込んでしまっている。
「おチビさん、何処《どこ》から来たんだい?」赤い実を噛《か》み砕《くだ》きながら、トカゲ男は気さくに尋《たず》ねる。「こんな辺境に、帝国《ていこく》からの難民が来るわけもないが……おまえさんアンカ族だろ。俺のような水人《すいじん》族に会うのは初めてかい?」
ワタルは喉をごくりと鳴らして、なんとかかすれた声を絞《しぼ》り出した。「あ、あ、あなたは、す、す、スイジン?」
「おう、そうさ」トカゲ男はあたりに落ちている赤い実を、大きな手でわしづかみにして拾っては、あの首長牛に食べさせ始めた。首長牛はむうむうという声をたてながら、大きな口を動かしている。喜んでいるのだろう。
「で、僕は──アンカ族?」ワタルは自分の鼻の頭を指して尋ねた。
「そうだよ。女神《めがみ》さまがいちばん最初にお創《つく》りになった種族だ。だから女神さまのお姿によく似ている。学校で習ったろう?」トカゲ男は歯を剥《む》き出した。微笑《ほほえ》んだのだろう、たぶん。
ワタルは考えた。どうやらアンカ族というのは、いわゆる人間の姿をしている種族のことであるようだ。ラウ導師さまもそうなのだろう。だが幻界には、他の種族もいるのだ。
「あの、あの、この動物は──」
「こいつはダルババだ。なんだよ、初めて見るのかい? 怖がらなくても大丈夫《だいじょうぶ》だぜ、おとなしいからな。耳の後ろを撫《な》でてもらうのが大好きなんだ」
「はあ……」
首長の牛は、大きな口の端《はし》からバクワの実の汁《しる》を滴《したた》らせながら、満足そうに食べ続けている。トカゲ男は、ひとしきりダルババの耳の後ろを撫でてやってから、腰《こし》の周りを覆っている革《かわ》のミニスカートみたいなものをちょっとひっぱって直すと、首をかしげてワタルの顔を見た。
「ダルババを知らないなんて、坊ず、やっぱり帝国から来たのかい? あっちじゃ、家畜《かちく》に車を引かせるなんてことは、まったくしないって言うからな。もうずいぶん前のことだが、ダルババが珍しいから、見物料をとってお客に見せるんだって、渡り商人が、五頭ばかり買って運んで行ったことがあったけど、てんで商売にならなくて、結局破産したって話だったしなぁ」
このおしゃべりなトカゲ男の話のなかに登場する「帝国」という言葉に、ワタルは強く引っかかるものを感じた。幻界のなかにもいくつか国があるのだろうか。
「帝国っていうのは、今僕がいるこの場所とは違《ちが》うんですよね? ここは何ていう国なんです? さっき、辺境だって言ってましたよね?」
そこまで言って、ワタルはぽっかりと口を開けたまま黙《だま》った。自分で自分が信じられなかったのだ。
この口から飛び出す、この言葉は何だ? 日本語じゃない。英語でもない。僕がしゃべり慣れた言語じゃないのだ。
それなのに、何の抵抗《ていこう》もなく、努力もせずに、流暢《りゅうちょう》に操《あやつ》っている。トカゲ男の話していることも聞き取れる。意味もわかる。
「僕……頭の中身が変わっちゃったんだ」思わず、口に出して独り言を呟《つぶや》いてしまった。
「幻界≠フヒトになっちゃったんだ。魔法《まほう》にでもかかったみたいだ」
トカゲ男は、まだ食べ足りないのかむうむうと喉を鳴らしてバクワの実をねだるダルババをいなしながら、きょとんとした。いや、彼の目はワタルと違って、突《つ》き出た顔の左右に離《はな》れてくっついているので、真《ま》っ直《す》ぐに向き合っていると、正確にはどんな表情をしたのか、見てとることができない。ただ、トカゲ男の口が半開きになって、ギザギザの歯並びがちらりとのぞいたその様子で、そう判断したのだった。
ワタルがちょっと固まったようになって返事を待っていると、出し抜けにトカゲ男の口のなかからひゅうっと長い舌が飛び出して、優雅《ゆうが》に空に半円を描《えが》き、自身の頭のてっぺんをべろりと舐《な》めた。ワタルはぎょっとしたが、失礼になってはいけないので、ぐっと我慢《がまん》して飛び退《の》かずにいた。
「こいつは驚《おどろ》いたぜ」と、トカゲ男は大きくて鋭い歯の隙間《すきま》から言った。「そんなトンチンカンなことを言うなんて、坊ず、ひょっとしたらおまえさん、旅人≠ネんじゃないのかい?」
ワタルはゆっくりとうなずいた。
「そうか! へえ、そうなのか!」
トカゲ男は、分厚いウロコに覆われた左右の手を持ちあげて、バンと打ち合わせた。そして驚くはど素早《すばや》く近づいてくると、さっと両腕《りょううで》をのばしてワタルを抱きあげた。
「うわ! ど、どうしたんですか?」
ワタルの足は、一メートル以上地上から離れて、完全に宙に浮《う》いていた。トカゲ男はガタイを裏切らない力持ちで、軽々とワタルを持ち上げている。プロレスラーにだっこされてるみたいだった。
トカゲ男はそれはそれは嬉《うれ》しそうで、目を細めてワタルを高い高いしながら、自分も飛んだり跳《は》ねたりして、リズムをつけて歌うように言った。「いやぁ、嬉しいなぁ、今朝起きたときに、今日はなんか良いことがありそうな気がしたんだが、まさかここまでのこととはなぁ! 旅人に巡《めぐ》り合えるなんて、嬉しくてどうかなっちまいそうだよ! 俺はなんてツイてるんだろう!」
ぶんぶん振り回されて、ワタルは目が回りそうになってきた。「あの、あの、ちょっと、あのボク、胃袋《いぶくろ》が──口から──飛び出しちゃう」
「え? ああそうか、すまん、すまん」
ようやく、トカゲ男はワタルを地面に降ろしてくれた。それでもまだ興奮が収まらないのか、両手を持て余し、足をどたどた踏《ふ》み鳴らしている。ワタルはその場に座り込んで、足を投げ出し、シャッフルされた脳ミソと胃袋が定位置に戻《もど》るのを待った。
「まったく申し訳ない」そう言いながら、トカゲ男もしゃがみこんだ。爬虫類《はちゅうるい》独特の細い瞳《ひとみ》が、忙《せわ》しなくまたたいている。
「それで旅人さん、いつ幻界に来たんだい? やっぱり女神さまの塔を目指してるんだろ? それともほかの目的があるのかい?」
ワタルは両手でこめかみを押さえた。うん大丈夫、曲がってない。
「つい昨日、来たばっかりなんです。朝のうちに番人の導師さまの村を出発して、草原をずっと歩いてきたんです。喉が渇いたので、水を探して、それでここへ来て」
「ああ、そうか。じゃあまだ新米の旅人なんだな。どうりで何も知らないわけだ」トカゲ男はうなずいた。「だけど、この草原は広いぜ。どこを目指してるんだ?」
「とりあえずガサラの町へ行くようにって、導師さまに言われました。迷わなけれは、午《ひる》過ぎには着くだろうって」
「ガサラか。確かに遠くはないが、でも、それだとだいぶ道を逸《そ》れてるぜ。坊ずの足じゃ、日暮れまでにはたどり着けないよ」
ショックだった。導師さまに言われたとおりに、太陽を日印に進んできたつもりだったのに、どこで間違ったのだろう?
トカゲ男が、にいっと牙《きば》を剥き出しにした。「大丈夫、安心しろよ。ガサラまで俺が送っていってやる。俺の車に乗れば、まだ陽《ひ》が高いうちにガサラに入れるさ。今日、車につけてきたあのダルババは、うちでもいちばん脚《あし》の強い奴《やつ》なんだ。ターボって名前だ」
当のターボは、むうむう唸《うな》るのもやめて、その場で立ったまま居眠《いねむ》りをしているようだ。確かにあれに乗せてもらえれば、すごく楽だろう。さっき見た砂煙の立ちのぼり具合から察しても、トップスピードの時には、乗用車ぐらいの走りをしそうだ。
でも──このトカゲ男さん、なんでこんなに親切にしてくれるんだろう。
「ボク、ワタルっていいます」ワタルは名乗って、ぺこりと頭をさげた。
「ワタルか。俺はキーマっていうんだが、俺たち水人族にはこの名前が多くてな、だから、真ん中の名前も一緒《いっしょ》に呼んでもらわないと、ほかの奴とまぎらわしい」
「なんて言えばいいんですか?」
「キ・キーマ」トカゲ男はゆっくりと発音した。「最初のキは、次のキーマのキよりも半音高く発音してくれ。でないと、女の名前になっちまうんだ」 キ・キーマさん。口に出してみて、何度も発音を直された。ワタルにしてみれば簡単な音なので、かえって変化のつけようがない。二十ぺんくらい、あれこれ試みたところで、キ・キーマは頭をかいた。
「まあ、俺の名前なんかいいか。ここで時間を潰してもしょうがないし」
「ごめんなさい」
「気にするなよ。さっきの、十七回目のなんか、ずいぶんいい線いってたぜ」
さて出発しようかと、キ・キーマは身軽に立ちあがる。ワタルはためらった。
「でもキ・キーマさん、僕なんか便乗していいんですか? お仕事とかあるでしょう?」
親切なふりをして子供を車に乗せ、さらって売り飛ばす──幻界にだって、そんな悪人がいないとも限らない。いや、どこに売り飛ばすのか、幻界では子供にどんな使い道があるのかわからないけど、とりあえず一般論としてはそういうことがありそうじゃない?
キ・キーマは鉤爪のついた手をひらひらと振った。「仕事なんていいんだよ。親方だって、俺が旅人に会ったんだって言ったら、寄り道したことを怒《おこ》りゃしないよ」
「旅人に会うことが、それほど良いことなんですか?」
「そりゃあもう、もう、もう、途方《とほう》もなく大変な幸運さ!」キ・キーマは両手を振り回しながら、またどすんどすんと足踏みをした。「俺、自分でもまだ信じられないくらいさ! 子供のころに、爺《じ》さまが昔、タキオの町はずれで旅人とすれ違って、そのあと鉱山株で一山あてたって話をさんざん聞かされてよ、だもんで、親父《おやじ》なんか一時は目を吊《つ》りあげて旅人探しをしたんだが、まるっきり駄目《だめ》だった。それを俺ときたら、ターボに水を飲まそうと思ってオアシスに寄っただけで、ひょっこり出会っちまったんだからよ!」
つまり、キ・キーマたち水人族にとっては、広い幻界のなかで、十年に一度ここを訪《おとず》れる旅人に遭遇《そうぐう》することが、まれにみる幸運の印であるようなのだ。
キ・キーマに手を貸してもらって、ワタルはダルババ車によじ登り、彼の隣《となり》になんとか落ち着いた。硬《かた》い一枚板でできた座席は、お世辞にも座り心地《ごこち》がいいとは言えないが、草原をてくてく歩いてゆくことと比べたら、天国だ。
「そこにある革の紐《ひも》で、腰のあたりをしっかり荷台の柱にくくりつけておきなよ」
手綱を取りながら、キ・キーマが忠告した。
「俺は慣れてるから平気だが、ターボが本気を出して走ると、ちっとばかし揺《ゆ》れるから」
そうりゃ! と景気のいい声をあげて、キ・キーマはターボにひと鞭《むち》くれた。ターボはむおうと稔ると、その場でうんと背中をのばしてから、ふたつの鼻の穴からびゅうと蒸気を吐《は》いた。一瞬《いっしゅん》、母さんが愛用している圧力|鍋《なべ》のことを、ワタルは思い出した。
「おお、ターボも張り切ってるぜ!」
キ・キーマの言葉の半分ぐらいは、ワタルの耳に入らずにこぼれ落ちてしまった。ターボが走り出すと、お尻の下の硬い座席が、にわかにトランポリンに変わったのだ。自分ではしっかりつかまっているつもりだったのだけれど、気がついたらワタルは宙に浮いて、シートベルトがわりの革紐がなかったら、すぐにも地面に落っこちていただろう。
「おいおい、しっかりしろよ」キ・キーマが片手でむんずとワタルの後ろ襟《えり》をつかみ、座席に引き戻した。「そんなに跳ねるなって。足を踏ん張って、こう、下っ腹に力を入れてさ」
「そ、そ、そんな、こと、言った、って」
ピンポン玉みたいにあっちへ跳ねたりこっちへ飛んだり、うっかりしゃべろうとすると舌を噛みそうだし、どこかにしがみつこうかと必死で手をのばしても、つかめるものは空ばかり。あがったり下がったりするだけでなく、右を向いたり左を向いたり後ろを向いたり斜《なな》めになったり、
「ちょ、ちょ、ちょっと、ス、スピード、ゆ、緩《ゆる》めて」
あらら! と思う間に、ワタルは跳ね返ってキ・キーマの肩《かた》の上に着地し、彼の頭にしがみついていた。これじゃ肩車だ。
「あれまあ」キ・キーマは大口を開けて笑った。「そこが居心地がいいなら、座ってていいよ、旅人ワタルさんよ!」
「いえ、こ、これ、じゃ、悪い、から、降り、ます」
「いいってことよ」
「で、でも、って」降りられない。水人族の肌《はだ》はトカゲにそっくりだけれど、ちっともぬるぬるしてなくて、むしろ乾《かわ》いていて頑丈で、とてもつかまり具合が良かった。
最後に父さんに肩車をしてもらったのは、何年前のことだったろうか。不意に、そんな考えが頭に浮かんだ。父さんは、キ・キーマのような頑丈《がんじょう》な大男じゃないけど、肩車をしてもらうと、とっても頼《たの》もしい感じがした。肩の上でぴょんぴょん暴れると、重いからやめなさいって怒られたけど、幼かったワタルには、父さんが本気で重いって言ってるとは思えなかった。ワタルのことなんか、軽々と担《かつ》いでるに決まってると思い込んでいた。
でも、あれは本当に重かったのかもしれない。今ここでそんなことに思い至っても、何の足しにもならないけれど、でも、もしもホントに重かったのだとしたら。
とりあえず振り落とされる心配がなくなると、景色を眺《なが》める余裕《よゆう》が出てきた。三六〇度、見渡す限りの草原は、陽光を受けて、緑色の円盤のように光り輝いていた。ワタルが遠目に見た道のようなものは、ダルババ車が往来するうちに、自然にできた道なのだろう。細くなったり太くなったり、うねうねと曲がったりしながら、草原の上の白い線となって、幾筋《いくすじ》も、地平線まで続いている。
少し埃っぽいけれど、顔に風を受けてぴゅうぴゅうと走ってゆくのはあまりにも爽快《そうかい》で、肺のすみずみまで息を吸い込んで、意味もなく大きな声で吠え立てたくなってくる。
「どうだい、ターボは速いだろう?」風に負けないように、顎《あご》をそらし、キ・キーマが大声で問いかけた。
「うん! 凄《すご》いですね!」
「こいつは俺が赤ん坊《ぼう》のころから大事に育てたんだよ。このナハトの国でもいちばんの走り屋になるようにな!」
ここは、ナハトの国というのか。
「キ・キーマさん、僕にこの幻界のことをいくつか教えてくれませんか?」
「いいよ。でも俺は学校を途中《とちゅう》でよしてしまったから、ちゃんと教えられるかなあ」
まず、幻界にはいくつ国があるのだろう。「さっき、帝国って言ってましたよね? それはこの国とは別の場所なんでしょ?」
「ああ、そうだよ。幸せなことにな」
この幻界という世界は、悠久《ゆうきゅう》の昔、まだ時の流れの速ささえ決まっていなかったころに、混沌《こんとん》の虹色《にじいろ》の海のなかから、女神が創りあげたものなのだと、キ・キーマは説明を始めた。
「女神さまというのは、僕たち旅人が目指している、運命の塔の女神さまと同じ?」
「だろうなぁ。でも、俺たちには本当のところはわからないんだ。誰も女神さまに会ったことがないし、だいいち、俺たち幻界の生者は、女神さまがどこにおわすのかも知らない。ただ、運命の塔という場所があって、女神さまはそこにお住まいになっているという伝説を聞かされているだけさ」
「伝説……か」
ワタルの目には、伝説と神話と空想をごちゃまぜにして創りあげられているように見える幻界に、さらに伝説が存在する。小説やマンガの登場人物が、「これは小説やマンガじゃないんだから」と言っているみたいな、おかしな感じだ。
「女神さまは、なんていう名前なのかな」
「それが、わからないんだ。アンカ族をはじめとするいくつかの種族では、女神さまの名を呼ぶことをタブーとしていて、学校でも教えないし、学者も研究していない。ただ、俺たち水人族の古い言葉では、女神さまのことをウパ・ダ・シャルバって呼ぶんだ。光のように美しいヒト≠ニいう意味だ」 光のように美しいヒト。美の女神ヴィーナスみたいなイメージが浮かんでくる。ともあれ、運命の塔にたどり着いた者の願いなら何でもかなえてくれるというのだから、優《やさ》しいことには間違いないだろう。
「幻界には、ふたつの大陸があるんだ」と、キ・キーマは説明を始めた。ターボのスピードもぐんと落ちて、並足ぐらいの走りになった。
「北の大陸と、南の大陸。広さはだいたい同じくらいだが、南の方が険しい山が多くて、季節の変化が激しいんだ。気温も高くて、だから動物も植物もたくさん栄えることができる。北の大陸の半分ほどは、一年の大半を、雪と氷に閉ざされているらしい」
そして、このふたつの大陸は、広い海原《うなばら》と、その上に覆《おお》いかぶさる、深く冷たい霧によって隔《へだ》てられているのだという。
「霧に阻《はば》まれて調べることができなくて、外海のことは、まだほとんどわかっていない。船乗りたちのあいだには、北と南の大陸の真ん中あたりに、小さな島が寄り集まった場所があるって言い伝えがあるんだけど、調べるために船を出しても、今まで一|隻《せき》だって無事に戻ってきたことがないんた。その島が集まっているあたりにこそ、運命の塔があるんだという言い伝えもあるし、とんでもない、その島は、女神さまに逆らおうとした怪物《モンスター》どもが捉《とら》えられて鎖につながれている牢獄《ろうごく》なんだという説もある」
僕も、運命の塔はそんなところにあるんじゃないという説にサンセイしたい──と、ワタルは首をすくめた。
「それじゃ、北の大陸と南の大陸を、行き来することはできないんですか?」
「そんなことはない。船の航路がいくつも発見されてるし、さっきも言ったけど、渡り商人たちの風船《かざぶね》は、しょっちゅう行ったり来たりしてるんだ。あ、風船っていうのは、海を渡る風の力を利用して走らせる船のことだ。こいつは、風のないときは全然動かない。だから、ひとつの航路を、決められた日数で進むのに必要なだけの風がいつ吹くか、ちゃんと予想することが、すごく大事なんだ」
その風を予想すること≠仕事としているヒトびとを、「星読み」と呼ぶのだそうだ。
「空の星を読んで、風向きや風の強さを予想するんだ。だから星読み。そうそう、連中は、風や星のことばかりじゃなくて、この世界に関《かか》わる、いろいろなことを知ってる。知恵《ちえ》者ぞろいだから、ワタルも旅をしていて何か困ったら、星読みに相談してみるといいよ。大きな町には、最低でも一人の星読みがいて、立派な星読み台≠ェあるから、すぐにわかるだろう」
しっかり覚えておこう。
「それで僕は今、南の大陸にいるんですね? こんなに広い草原があるんだもの」
「そのとおり!」キ・キーマは元気よく答えた。「ナハトの国は、南の大陸の連合国家の一員だ」
南の大陸は、ナハト、ボグ、ササヤ、アリキタという四《よっ》つの小国と、デラ・ルベシという特別自治州が寄り集まって、ひとつの連合国家を形成しているのだという。手元にメモがないので、ワタルは頭のなかでナハト、ボグ、ササヤ、アリキタと暗唱した。社会科の授業中でも、国名を覚えるのに、こんなに真剣《しんけん》だったことは一度もない。
「おおまかに言うと、まず、ナハトは農業と畜産の国だ。南の大陸の南側の、広い平野部にある。ボグは商人たちの国で、だからナハトとはちょうど反対側、海のそばにある。ササヤは学問が盛んな国でね。星読みはみんな、一度はササヤに学問をしに行くくらいだ。アリキタは、南の大陸じゃいちばん工業が発達してる。鉱山もたくさんあるんだ」
「デラ・ルベシ特別自治州っていうのは?」
キ・キーマはちょっと首をかしげた。それから、答えるかわりに質問した。「ワタルは、どんな神様を拝んでいる?」
「カミサマ? えーと」ワタルは口ごもった。神様のことなんて、今まで考えたこともない。
「よくわからないや。お母さんに訊《き》けば教えてくれるかもしれないけど」
「へえ、お母さんしか知らないのか。神様のこと」
「千葉のお祖父《じい》ちゃんのお墓があるお寺がナントカっていうシュウハとかっていうような、そんなこと──」
「ふうーん。何だろな、そのシュウハって」
キ・キーマは、ちょっと右手の手綱を放して、鉤形に曲がった指で、口の上をごしごしこすった。カッちゃんが、教室で先生にあてられて、答がわからなくて困ったとき、いつもこんな仕草をする。それとよく似ていた。
キ・キーマは何歳ぐらいなんだろう。身体は大きいけれど、ひょっとして、かなり若かったりしてね。水人族の歳《とし》の数え方は、僕ら──というか、アンカ族とは違うのかもしれないし。
「南の大陸の俺たちは、いろんな人種が入り交じって暮らしているけれど、みんな、運命の塔にお住まいの女神さまを信仰《しんこう》してる」
キ・キーマは、「女神さま」と言うときには、ぐっと真面目《まじめ》な口調になる。
「だって、この世界は女神さまがお創りになったんだから。この世は女神さまがお始めになったんだから。女神さまは、俺たち生きものみんなの母ちゃんみたいなもんだ」
だが幻界のなかには、もうひとつ別の考え方もあるのだそうだ。
「世界を創ったのは女神さまじゃない別の神で、女神さまは、その神からこの世界を預かっただけだっていう説もあるんだよ」
「世界を預かる──ね」
コインロッカーには入らないよな、世界は。
「そうすると、女神さまより偉《えら》い神様がいるってことなのかな」
「偉いというより、古いんだ。だからその神のことは、老神≠ト呼ぶんだよ」
デラ・ルベシ特別自治州は、この老神を創世の神として信仰するヒトびとがつくった共同体で、国というよりは教会に近いものなのだという。
「南の大陸の真ん中に、アンドア台地っていう、下手な山よりも標高の高い土地があるんだけど、デラ・ルベシ州はそこにあるんだ。州の住人は、下界の俺たちとは全然付き合わないし、食い物とかも自給自足で、だからどんな生活をしてるのかわからない。他所者《よそもの》はけっして立ち入らせないきまりになってるんだって」
「デラ・ルベシの老神を拝んでいるヒトたちは、運命の塔の女神さまのことは、どんなふうに考えているんですか?」
「どうって……連中にとっては、あくまでも老神の方が格が上なんだ。いつかこの世界に途方もない災厄が降りかかって、世の終わりが訪れたときには、老神が再びやってきて、女神さまに代わってこの世界を治めて、世直しをしてくださるんだって、デラ・ルベシ教の信者たちは信じてる」
「信者じゃないヒトたちには、それ、あんまり面白くないんじゃないですか。キ・キーマさんたちは、どう思ってるの?」
「うーん。難しい歴史のことは、俺にはよくわかんないけどね」キ・キーマは逃げ腰になった。
「でも、老神のことは、子供のころから教えられて知ってるよ。古い古い神様だってね。だから水人族では、老神のことをイル・ダ・ヤムヤムロ≠チて呼ぶんだ。混沌を統《す》べるもの≠ニいう意味なんだけどよ」
「混沌を統べるもの──」ちょっとカッコいい感じがする。
「ただなぁ、三百年前に帝国が統一されてからこっちは、老神を信じるってことには、面倒《めんどう》くさい意味がくっついちまってね」
北の大陸も、昔は南の大陸と同じように、複数の小国家があって、さまざまな部族が混ざりあって暮らしていたのだそうだ。
「でな、南の大陸に比べて寒いし、土地が痩《や》せているとか、鉱山が少ないとか、いろいろ良くない条件が重なったせいだろうって、うちの爺さまなんかは言っていたけど──北の大陸は、内輪もめばっかりしてたんだよ。ひとつの大陸のなかで、ずっとずっと長いこと、戦争と殺し合いばっかりやらかしてた」
北の大陸にも星読み≠フような仕事をするヒトびとがいるが、闘《たたか》いにエネルギーをとられて、学問はあまり発達せず、従って海を渡る技術にも乏《とぼ》しかったので、北の大陸にどれほど殺伐《さつばつ》とした好戦的な雰囲気《ふんいき》が漲《みなぎ》っていようと、南《みなみ》の大陸が侵略《しんりゃく》を受けるということはなかったという。
「だから、統一以来百年ほどして、ようやくこっちの風船が向こうに通うようになるまでは、北の様子はほとんどわからなかった。俺なんかも、そのころの話は、爺さまが子供のころに大人たちから聞いた話を、また聞きして知ってるだけだからね」
南の連合国家では、北の帝国との通商条約を結ぶ際に、「北大陸の歴史については、帝国による全土統一以降についてのみ教える」という約束をしてしまったのだという。だから、南の大陸の学校で、世界史≠ニして子供たちが教わるのは、三百年前からの歴史だけなのだ。
「それ、ひどいなぁ!」
ワタルは思わず大声をあげて、自分がキ・キーマの肩の上に座っていることも忘れ、不用意に身動きをした。で、当然の結果としてどっと転がり落ち、危《あや》ういところを、キ・キーマの強い鉤爪にひっかけてもらって、宙ぶらりんになって助かった。
「おいおい、気をつけてくれよ」キ・キーマはワタルを引っ張りあげながら言った。「せっかく幸運の印の旅人に巡り合ったのに、ダルババ車で轢《ひ》いてぺったんこにしちまったんじゃ、俺は一生浮かばれないぜ」
草原の彼方《かなた》に、またひとかたまりの木立が見えてきた。どれ、もう半分ほどは来たから、あのオアシスでちょっと休もうと、キ・キーマはターボの足を緩ませた。
今度のオアシスは、井戸ではなく、岩に囲まれた小さな泉があり、澄《す》んだ水が尽《つ》きることなくこんこんと湧《わ》き出ている。手ですくって口に含《ふく》んでみると、ほんのりと甘い。
「腹が減ったろう? ここで昼飯にしよう」
ワタルが泉のそばに腰をおろし、膝《ひざ》の上に、導師さまからいただいた包みを広げると、キ・キーマはひととおりターボの世話を焼いてやってから、やおら、荷重のホロの下に手を突っ込んで、大きな干物《ひもの》みたいなものを引っ張り出した。
「それ、なあに?」
首をのばしてのぞくと、なにやら凶悪《きょうあく》に赤く輝く一対《いっつい》の目と目が合ってしまった。この干物、顔がついている。
「これか? ンバラの丸干しだ。めちゃくちゃ旨いんだぜ」キ・キーマは舌なめずりするように言って、がぶりと噛みついた。
ワタルは胃の底からすっぱい水が込みあがってくるのを飲み下して、懸命《けんめい》にこらえた。干物になっている状態から逆算して想像するのは難しいが、どうやらンバラというケモノは、人相の悪いタヌキみたいなもののようだ。
──水人族は肉食なんだな、やっぱり。
心のなかのメモ帳にそれを書き込んで、ワタルは黙ってパンを食べた。キ・キーマは、三口ほどでペロリとンバラの丸干しを食べてしまうと、泉の周りにはえている木の実をむしり、食べながらワタルにも勧《すす》めてくれた。
「これはマコの実といって、ちょっとすっぱいが、バクワの実と違って腹を壊すようなことはない。でも、汁がシャツにつくと落ちないから、気をつけて食いな」
山や草原に生《な》っている、食べられるものと食べられないもの。気をつけて食べなければならないもの。少しずつ覚えて、知識を増やしていかなければ、旅は続けられない。出発してまもなく、キ・キーマのようないいヒトに巡り合ったのは、本当に幸運だった。別れる前に、彼にもっとそのへんのことも教えてもらっておこうと、ワタルは思った。
でも、とりあえず今は歴史の方だ。ワタルがさっきの話の続きを催促《さいそく》すると、キ・キーマは満足そうにゲップを漏《も》らしてから、
「どんな話だっけな?」と、頭のてっぺんを舌でべろりと舐めた。
「そうそう、北の大陸の統一か。統一国の帝国は、やっぱり北の小国で、これはアンカ族の国だったんだ──」
三百年の昔、内戦をしぶとく勝ち抜いて、統一国家をうち立てることに成功した。
「そのときに、初代皇帝のガマ・アグリアスT世という人物は、自分は老神と同じ創世の神の一族だと主張したんだ。でな、老神からこの世界を預かったという女神さま──俺たちの信仰する女神さまは、自分たちアグリアス家の先祖よりも格の低い神で、本来はこの世を統べる資格なんかないんだけど、老神を騙《だま》して、この世界をアグリアス一族から横取りしたんだって、ぶちあげたんだ」
そのうえで、
「最初に会ったとき、俺はワタルに、アンカ族は女神さまが最初にお創りになった種族で、だから女神さまのお姿によく似ているって言っただろ? ガマ・アグリアスT世は、これも嘘っぱちの作り話だって言った。アンカ族は老神に似ているんだって──だって、彼に言わせれば、この世を創ったのは老神なんだから」
そして女神の本当の姿は、アンカ族には似ても似つかず、まともに見ることもかなわないほど醜《みにく》く穢《けが》れているのだと主張した。
「女神さまが名前を名乗らないのも、この世の生きものたちの前に姿を見せずに、運命の塔に籠《こ》もっているのも、もしも姿を見せたら、すぐに、自分の嘘を見抜かれてしまうからだっていうんだ」
ワタルはお弁当を包んでいた布をたたみながら、キ・キーマの真剣な顔を見あげた。
「最初に言ったように、北の大陸はずっと戦争続きで、あの地の民《たみ》は飢《う》えに苦しんで、そりゃあひどい暮らしをしていた」と、キ・キーマは続けた。「ガマ・アグリアスT世は、そういう不幸、戦乱が続いて食べ物が足りないのも、全部女神さまのせいだって言ったんだ。どうしてかっていうと、老神から世界を騙し取った女神さまが、自分の地位を安泰《あんたい》にするために、自分の真の姿に似せた生きものをたくさん創って地にばらまいて、その生きものたちが、本来なら正当なこの世の住人たちであるアンカ族を苦しめるように計らったからだって。最終的には、女神さまはこの世のアンカ族をすべて滅ぼすつもりだって、な」
キ・キーマは大きな頭をかしげて、考え深そうに目をしばたたいた。
「そして、俺にはどうしても信じられないんだが、北の大陸のアンカ族のヒトたちは──帝国の国民はもちろん、ほかの小国の国民だったアンカ族のヒトたちまでが──ガマ・アグリアスT世のこの話を、信じちまったんだよ。喜んで、手を叩《たた》いて、そのとおりだって賛成したんだ」
北の大陸には複数の種族や人種が混在していたけれど、アンカ族は、もともと、そのなかでも数が多い方だった。
「だから、彼らが一致《いっち》団結して、ほかの人種や種族を滅《ほろ》ぼそうとし始めたら、そりゃあ強いわけさ。北の大陸のアンカ族以外のヒトたちは、家も畑も取りあげられて、殺されたり、収容所っていうところに閉じこめられたり、奴隷《どれい》にされたりして、どんどん数が減っちまった。そうして、統一帝国が出来たんだ」
ここまで教えてもらって、やっとワタルにも、キ・キーマが「幸せなことに、自分は南の大陸の住人だ」と言ったことが、実感としてわかってきた。
「統一から三百年|経《た》った今、北の大陸には、アンカ族以外の種族や人種は、ほとんど残っていないと言われてる。残っているとしても、きっとまともな暮らしをしてはいないだろう。本当に、酷《ひど》い話だぜ」
ワタルは頭のなかで、キ・キーマの話をおさらいしてみた。そしたら、デラ・ルベシ特別自治州にからんで、彼が老神を信じることには面倒くさい意味がついてしまった≠ニ言ったことの意味が、うっすらと見えた。
「デラ・ルベシ教信者のヒトたちも、統一帝国のヒトたちと同じように、老神を信じてる」と、ワタルは言ってみた。「彼らも当然、アンカ族なんですね?」
キ・キーマは目をつぶってうなずいた。
「そうだよ。それどころか、デラ・ルベシの初代教王は、アグリアス家の直系だという話まであるんだ」
北の統一帝国は、本音としては、デラ・ルベシ教信者たちを取り込んで、彼らが両大陸にいることを口実に、南大陸に攻《せ》め込んできたいのだろう。そして、北と同じような手順で、両大陸も統一したいのだろうと、キ・キーマは言った。
「だけどな、今まで──この三百年間、デラ・ルベシ教の代々の教王は、アグリアス帝家にすり寄るような動きは、いっさい見せてこなかった。特別自治州の山のなかに籠もって、下界とは緑《えん》を切って暮らしている。俺たち信者でない者は、教主の顔さえ知らないよ」
だから北の統一帝国も、手出しのしようがなかった。
「南の連合政府は、デラ・ルベシ教と特別自治州に、それはそれは気をつかっているんだよ。だって、もしも彼らを怒らせて、北と手を組まれたりしたら、大変なことになるからな。通商条約を結ぶときに、北の言い分を一方的に聞き入れたのも、下手に連中を刺激《しげき》して、こっちに攻め込む口実を与《あた》えるわけにはいかなかったからなんだ。その意味では、デラ・ルベシは、両大陸の腹のなかの爆弾《ばくだん》みたいなものなんだよ」
ワタルはゆっくりとうなずいた。どことなく、現世でもありそうな話だと思った。映画とかで、似たような話を観《み》たことがある。難しくてよく理解できなかったけど。
ワタルが中学校へいって、世界史や現代史をちゃんと教えてもらう機会があれば、ありそうなどころか、キ・キーマの語る幻界の南北間題は、少しばかり名称《めいしょう》や経過を変えれば、現世で実際に起こったことだと、すぐにわかることだろう。
「僕がこっちへ来るとき──」と、ワタルは言った。「幻界は、現世に住む人間たちの、想像力のエネルギーが創った場所だって、教えられた。だから、現世と似たようなことが起こるのかな?」
キ・キーマはまた口の上を指でこすった。「ニンゲンて、何だ?」
ああ、そうか。ワタルはにっこりした。幻界に住んでいるキ・キーマにこんなことを言っても、困らせるだけだろう。
「ううん、何でもない。いろいろ教えてくれて、どうもありがとう」
「そうか、じゃ、行くか」キ・キーマはにいっと笑った。「ま、南にいる限りは何の心配もないよ。平和だからな」
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5 交易の町・ガサラ
再びターボの引く車に揺《ゆ》られ──少し慣れたのか、ワタルはキ・キーマの隣《となり》にちゃんと座ることができた──草原を進み始めた。食べ物や危険な生きもののことなど、ワタルはいろいろ質問し、キ・キーマは親切に教えてくれた。
しばらく行くと、前方に、今まで立ち寄ったオアシスを百倍したみたいな、広く豊かな森が見えてきた。森のなかに、三角屋根のついた塔みたいなものが建っている。
「あれがガサラの町だ」キ・キーマが指さして教えてくれた。
「森に囲まれた、草原のなかの交易の町だ。俺たちダルババ屋や、風船《かざぶね》商人や、町から町へと学問をしながら旅をする星読みたちや、いろいろな者が集まってくる。すごく賑《にぎ》やかで、楽しい町だよ」
空気はカラリと乾いているけれど、草原は真夏のような暑さだ。額の汗《あせ》を払《はら》い、陽射《ひざ》しに目を細め、ワタルはガサラの町を見渡《みわた》した。と、町を囲む森の左の端《はし》の方から、なにやらキラキラ光る小さなものがダルババに乗ってぞろぞろと出てきて、そのまま草原を左手の方へと進み始める。
「あれは何?」
キ・キーマは風のなかで遠くをすかし見た。「ああ、あれはたぶん、シュテンゲル騎士《きし》団だろう。連合国家の安全を守る騎士団だよ。けっこう大勢いるなあ──光っているのは、彼らの鎧《よろい》さ。あっちへ行くところを見ると、不帰《ふき》の砂漠《さばく》の、ねじオオカミ討伐《とうばつ》かな」
げっ! ねじオオカミ!
「その、フキの砂漠って、この近くなの?」
「うん、ターボなら、まる一日走れば、砂漠の入口の岩山の峡谷《きょうこく》まで行けるな」
「なんでフキの砂漠≠ネんて呼ぶの?」
「なにしろ広いし、周りを岩山ですっぱり覆《おお》われているんで、外からは様子を見ることさえできない。だから地図もないし、ねじオオカミがうようよ巣くっているから、迷い込んだ者は帰ってこない。だから不帰さ」
ねじオオカミの群に襲《おそ》われたときのことを思い出すと、背中がじっとり冷たくなる。
「討伐しなくちゃならないなんて、ねじオオカミって、砂漠の外に出てくるの? 出てきて、ヒトを襲うの?」
「たまにな。連中は何でもがつがつ食うし、満腹ってものを知らないんだ。だから、どうかすると岩山を越《こ》えて、不帰の砂漠のそばの街道《かいどう》を通る隊商を襲ったりするんだよ」
説明してから、キ・キーマは「あれ?」と言った。「ワタル、ねじオオカミを知ってるのかい?」
「うん、ちょっと」ワタルは短く答えた。思い出したくない。「聞いたことある」
「そうかぁ。俺も話だけは聞いたことがあるんだが、めちゃめちゃ臭《くさ》いケモノらしいな」
ターボが左へ向きを変え、町の入口の門が見えてきた。
レンガを積んでできた太い柱のあいだに、重そうな木の扉《とびら》が閉《と》ざされている。柱のてっぺんには、麦わら帽子《ぼうし》に似たものをかぶったヒトが座っており、キ・キーマが手をあげて合図をすると、同じように手をあげて、扉の内側に向かって何か大声で呼びかけた。
ターボがのしのしと扉に近づいて、かなり手前で立ち止まった。すると、扉がぎいっと外側に開き始めた。ターボは賢《かしこ》い。開く扉にぶつからないように、ちゃんと手前で停《と》まるのだと、ワタルは気づいた。
「サーカワの郷《さと》のキ・キーマだ!」キ・キーマは大声で名乗りながら、腰のスカートの襞《ひだ》のあいだから、長い紐《ひも》のついたカードのようなものを引っ張り出して、柱の上の門番に掲《かか》げてみせた。
「ポスラにマイとママスを届ける途中《とちゅう》だ。荷物は、ボグのマーカイド商会から頼《たの》まれた。鑑札《かんさつ》を見てくれぃ」
門の内側からテキパキとヒトが出てきて、荷物の検査をし始めた。麻《あさ》の布の真ん中に穴を空けて、頭からすっぽりとかぶり、腰のところを紐でしめたような衣服を着ている。ズボンは丈《たけ》が短くて、ワタルの綿パンツを膝《ひざ》のすぐ下で切ったみたいな感じだ。足は素足《すあし》で、編みサンダルを履いている。
「通っていいぞぉ」
のんびりした声がすぐにかかり、ターボは門の内側へと歩き始めた。ログハウスみたいな家が、たくさん建っている。きょろきょろと見回していると、キ・キーマが身をかがめ、ワタルの耳のそばで囁《ささや》いた。
「ワタル、俺は肝心《かんじん》なことを言い忘れていたよ。よく聞いてくれ」
ワタルは耳を澄《す》ませた。
「俺は最初、ワタルに、北からの難民かって尋《たず》ねたろ? 覚えてるか?」
「うん」確かにそう訊《き》いた。
「北の統一|帝国《ていこく》は、アンカ族だけの国になって、それはそれで平和に治まったはずだった。だが、この十年ばかりのあいだに、アンカ族の難民が、南に逃《に》げ込んでくるようになったんだ。ほとんどが、運を天にまかせて、手作りの風船で海を渡ってくるから、たいていは難破して死んでしまって、大勢は来られない。でも、なかには大枚の金を積んで、風船商人の船で密航してくる者もいる」
これも、どこかで聞いたような話だ。
「どうも北の統一帝国では、今度はアンカ族のあいだで争いが起こり始めているようなんだ。だから難民が逃げてくる。でな、そういう難民の口を通して、北の事情がわかってきたのはいいんだが、一方では、難民が持ち込んできた老神|信仰《しんこう》が、じわじわ広がったりしていてな」
老神信仰の教義は、女神《めがみ》の否定のほかに、もうひとつ、特徴《とくちょう》を持っている。
「老神信仰では、旅人は邪悪《じゃあく》なものとして忌《い》み嫌《きら》われているんだ」
老神を敬う信者たちは、現世《うつしよ》から要御扉《かなめのみとびら》≠通って幻界《ヴィジョン》≠訪《おとず》れる旅人を、ザザ・アク≠ニ呼ぶという。
「アンカ族の古い言葉で、偽《にせ》の神∞神を騙《かた》るもの≠ニいう意味なんだそうだ」
女神が老神を騙《だま》すため、自らを老神の姿に似せて、その正体を偽《いつわ》るときに、練習のために、アンカ族のまがいものをいくつかつくった。つまり試作品である。用が済んだら、そのまがいものは、女神の手で、この世の果てにある混沌《こんとん》の深き淵《ふち》≠ノ捨てられたのだが、そのうちの一体が生き残り、幻界から現世へと逃げ延びた。
「幻界へ来る旅人は、その子孫たちだって、彼らは言うんだ」
キ・キーマはぐいと歯を食いしばって、さらに声を殺した。
「まったく、こんな話、俺が子供のころには聞いたこともなかった。最近なんだよ、噂《うわさ》されるようになったのは」
老神信仰をしているものは、旅人と見ると、危害を加えようとするという。ザザ・アク≠倒《たお》すのは、老神の御心《みこころ》にかなうことで、神の戦士の手柄《てがら》であると、信じ込んでいるからだ。だから用心した方がいいというのだ。
「普通《ふつう》は、こんな心配なんて、まるでしなくていいんだよ。ほかの町ならな。でも、ガサラは交易の町だからな。いろんな連中が集まってくる。老神信者にぶつかってしまう危険だって、ほかの町よりはずっと多いんだ。だから、旅人だってことを簡単に悟られないように、気をつけた方がいいんだ」
ワタルも囁き声で返事をした。「うん、わかった。気をつけます。ありがとう」
キ・キーマは身体《からだ》を起こし、よし、と大きな声を出した。
「それじゃあ、ワタル、どこへ着けよう。まずは宿でいいかい?」
とたんに、ワタルは困った。ダルババ車のおかげですっかり安心して、自分の置かれている状況《じょうきょう》を忘れていたのだ。
お金もないし、これからどうしたらいいのかもわからない。玉《ぎょく》を探すっていったって、手がかりなんて、ひとつもないのだから。
すうっと、こめかみを冷汗がつたう。キ・キーマは目をパチパチさせた。
「どうしたんだい、ワタル? 俺、おかしなことを訊いたかい?」
この親切な水人は、旅人ワタルがてんで頼《たよ》りなくて、何がなんだかわからないお子さんなんだというふうには考えていないのだ。幸運の印の旅人には、頼まれればどんなことでもしてやりたいが、当の旅人が、何をしてもらいたいのかさえわからないのだとは、思ってもみないのだ。当然だけど。
「ボク──あの」
「くたびれたのか? そりゃそうだよなあ、俺たちは慣れているけど、ワタルにはきつい道のりだったろう。やっぱり、すぐに宿屋で休んだ方がよさそうだな」キ・キーマは、親切な独り合点を続けた。「それじゃ、悪いけど、まずターボをダルババ場に預けに行かせてくれ。ダルババ場ってのは、ダルババの宿屋さ。ヒトの宿屋も近くだから、俺がちゃんと案内するよ」
ターボは町中ではしずしずと歩いた。ダルババ場は、なるほど現世で言うところの駐車場《ちゅうしゃじょう》みたいな場所だった。キ・キーマと同じ水人たちが、駐車中≠フダルババの身体を洗ってやったり、水や餌《えさ》を与《あた》えたりしている。隅《すみ》の方で輪になって談笑《だんしょう》しながら、長い煙管《キセル》でタバコを吸っていた水人たちが、陽気にキ・キーマと挨拶《あいさつ》を交《か》わした。
ターボを預けてしまうと、さて──と、キ・キーマはワタルに向き直った。
「おやおや、ひどくしおれた顔をしているもんだ。あんまりくたびれたなら、また肩車《かたぐるま》してやろうか?」
ワタルは恥《は》ずかしさをこらえて、正直にうち明けることにした。
「あのね、僕、宿屋に払うだけのお金を持ってないんだ」
キ・キーマは呟《つぶや》いた。「へ?」
「お金がないんだ。一文なしなの」ワタルは一気に言った。「ラウ導師さまはお弁当はくださったけど、後のことは自分でやらなくちゃならないんだ。だけど僕、どうしたらいいか、まだ全然わからないんだよ」
キ・キーマは連続して六回まばたきをした。とても素早《すばや》いまばたきだったが、切実に彼の反応を知りたくて、じっと見つめていたワタルは、ちゃんと数えることができた。
「ワタル」と、彼は言った。「それなら俺が、宿代を払うよ」
「そんなことダメだよ! ここまで乗せてきてもらっただけだって充分《じゅうぶん》なのに、そんな甘えることなんてできないよ!」
しゃにむに言うワタルを、キ・キーマは大きな手を持ちあげて宥《なだ》めた。
「まあまあ、そんなにムキになるなよ」彼は長い舌をべろりと出して笑った。「それじゃあ、とりあえずは貸しておくよ。ここは暑いし、宿に入ろう。話はそれからだ」
ガサラの宿屋は太い材木を組み合わせて建てられたロッジで、長い廊下《ろうか》に面してたくさんの部屋があった。いちばん安いのは、「入れ込み」という、ほかの大勢の客と同室になる部屋だったけれど、キ・キーマは小さい一人部屋を頼んでくれた。彼が宿屋の主人とやりとりをしているのを聞いて、ワタルは初めて、幻界の通貨の単位を知った。テム≠ニいうのだった。
宿の主人は、もじゃもじゃと髭《ひげ》をはやしたアンカ族の小父《おじ》さんで、キ・キーマとワタルをじろじろと観察した。キ・キーマは気にする様子もなく、ワタルを部屋に連れていくと、自分はちょっと戻って、すぐに、コップみたいな器《うつわ》をふたつ持ってやってきた。
「そら、これを飲みな」と、コップをワタルに差し出した。「草原を走るのは気持ちがいいが、照り返しがきついから、実は身体が疲《つか》れるんだ。そういうときは、こいつがよく効くんだよ」
コップのなかの飲み物は薄甘《うすあま》く、ちょっぴり薬臭かった。
「本当にどうもありがとう」と、ワタルは言った。素朴な木の椅子《いす》に座ると、ほっとした。
キ・キーマはべろりと舌を出した。照れているみたいだった。「だから、いいんだよ。言ったろう? ワタルは俺の幸運の星なんだからな」
ワタルは微笑《ほほえ》んだ。幸運の星。たったそれだけのことで、見ず知らずの者に、こんなに親切にするヒトが、果たして現世にはいるだろうか。現世で威張《いば》っているのは、それとはまったく反対の人間ばかりではないのか。
ふと、ルウ伯父《おじ》さんと神保町《じんぼうちょう》の書店街へ出かけたときのことを思い出した。ワタルにぶつかって、謝るどころか、転んだワタルの手を無造作に踏《ふ》みつけて立ち去ろうとした若い男がいたっけ。ルウ伯父さんが真っ赤になって怒《おこ》っても、知らん顔をしていた。
ミツルは、幻界は現世の人間の想像力のエネルギーによってつくられた世界だと言っていた。だったら、現世にあの若い男のような人間ばかりが溢《あふ》れたら、この美しく優《やさ》しい幻界のヒトたちも、変わっていってしまうのだろうか。
「ワタルは女神さまに会うために、運命の塔を目指すんだよな?」キ・キーマは、硬《かた》そうだけれど清潔なべッドに腰かけて、ちょっと首をかしげた。
「うん、そうだよ。僕は自分の──ううん、僕と僕の家族の運命を──」
キ・キーマは遮《さえぎ》った。「いや、それは言わないでくれ。俺たちは、現世から幻界を訪れる旅人は、女神さまに呼ばれて来るんだと教えられている。どうして女神さまがその旅人を呼んだのか、それはわからないし、詮索《せんさく》しちゃならないんだ。だって、神意だからさ。だからワタルが何のためにこっちへ来たのか、その理由を、俺には言わないでおくれよ」
ワタルはうなずいた。「うん」
「そうしてワタルは、一人で頑張《がんば》って行かなくちゃならない」
「うん、そうだよ」
「でも、運命の塔に行く道中だけならば、誰《だれ》か一緒《いっしょ》に行ったっていいよな? だからその、俺がついていってもさ」
「キ・キーマ!」
「女神さまだって、お怒《いか》りにならないと思うよ、途中までならさ」 キ・キーマは急いで続けた。
「だってワタルはまだこんなに小さいじゃないか。俺の爺《じ》さまが、昔出会った旅人は、立派な若者だったっていうぞ。そんなら一人旅だって心配はいらない。でもワタルはまだ子供だ。旅費だって、どうやって稼《かせ》ぐんだ? 小さな子供を一人で放《ほう》り出すのは良くない。うん、絶対に良くない」
キ・キーマは、何度も何度も勢いよくうなずいた。ワタルは胸が熱くなった。
「それはとっても嬉《うれ》しいよ。でも、キ・キーマは仕事があるじゃない。僕のために休むなんて、そっちも良くないよ」
目を輝《かがや》かせて、キ・キーマは乗り出した。「そうだな。だからワタル、俺はこれからひとっ走り積み荷を届けて、サーカワの郷《さと》に帰って、長老様におうかがいをたててくるよ。特急のダルババ車を使って走り通せば、三日か四日あれば行って帰ってこられる。だから、それまでここで待っててくれ。な?」
「それは──だけどそんな大変な!」
「いいんだよ。長老様だって、もしも俺がここでワタルにサヨナラって言って帰っちまったら、きっとお怒りになると思うんだ。キ・キーマよ、おまえはいつからそんな不親切な水人になったって」キ・キーマは頭をかいた。「長老様は四百二十歳になるんだが、まだまだ力も強くってな。俺なんか、子供のころから、いたずらをしては叱《しか》られて、ケッパンくらってばっかりいたから、今でもおっかなくてしょうがないんだよ」
四百二十歳! ワタルは目を瞠《みは》った。水人族は長生きなんだ。
「そうなの……そんなら僕……」
「そうか、じゃあこれできまりだ!」キ・キーマはパンと手を打ち、元気よく立ちあがった。「それじゃあ、善は急げだ。俺は出かけるよ。宿代は五日分まで払ってあるから、ワタルは何にも心配いらない。飯もちゃんと出してくれるからな。疲れがとれたら、少し町を見物してみるといいぜ。ここは大勢のヒトが集まる町だから、次にどこを目指せばいいか、何かヒントが見つかるかもしれない。あ、でも、老神教の信者には気をつけることを忘れるなよ」
「うん」ワタルはまた、ありがとうと言うしかなかった。何度言っても言い足りない。ありがとう、ありがとうって。
どすんどすんと急いで出てゆくキ・キーマの大きな背中は、とても頼《たの》もしく、温かく見えた。彼自身は何歳なんだろう?
ワタルはベッドに寝《ね》ころんで、手足をのばした。白い漆喰《しっくい》の壁。藺草《いぐさ》を編んだような板の張られた風変わりな天井《てんじょう》。涼《すず》しくて気持ちがいい。心がほどけてゆく。
夕食には、丸顔のアンカ族の小母《おば》さんが、パンとシチューと果物《くだもの》を運んできてくれた。小母さんは無口で、ワタルの顔を見ようともしなかったけれど、その無愛想さを百分の一秒で帳消しにするほどに、美味《おい》しい食事だった。喉《のど》が鳴った。
すっかり陽《ひ》が暮れると、ワタルの部屋の小さな窓から、キラキラと輝きのこぼれるような星空が見えた。身を乗り出して手を差し出すと、星ぼしを受け止めることができそうだ。嬉しくなって、ワタルは宿の外に出た。宵《よい》のうちのガサラの町は、まだそこここの建物に灯《あか》りがついていて、通りを歩くヒトの数はぐっと減り、そのかわり、たぶんレストランや居酒屋みたいなお店なのだろう、ひときわ明るく色とりどりの灯りが溢れている窓の内側から、陽気な音楽や、賑やかなヒトの声が聞こえてくる。ワタルは宿の場所を忘れないようにしながら、少しばかり散歩をして、小高い場所を探してはそこで星空を仰《あお》いだ。
頭のなかを星でいっぱいにして宿に戻《もど》ると、出入口のところで、後ろからいきなり強く突《つ》き飛ばされた。振《ふ》り返ると、とたんに異臭《いしゅう》で鼻が曲がりそうになった。
「おめえ、昼間あの水人と一緒にいた坊《ぼう》ずだな、え? そうだろうが」
痩《や》せこけたアンカ族の男が、唾《つば》を飛ばしてそう言った。こちらにかがみ込んで腕をのばし、胸《むね》ぐらをつかもうとするので、ワタルはその手をはらいのけた。
「なんだ、逆らうのかこのガキ」男は臭い息を吐きながら毒づいた。よろよろしている。酔《よ》っぱらっているのだと、ワタルはやっと気づいた。このもの凄《すご》い臭《にお》いは、いわゆる酒臭《さけくさ》いというやつなのだ。幻界のお酒って、現世のよりも強烈《きょうれつ》なのかもしれない。
「水人なんかにぶらさがりやがってよ、ヒック」男はワタルをねめつけながらブツブツ言った。
「あんな連中とつるんでると、今におめえも身体にウロコがはえて、ベロが長くなっちまうんだぞ、わかってんのか」
ワタルは無言で立ちあがると、キ・キーマに対するこの侮辱《ぶじょく》的な言葉に、ぷいと背中を向けることで応じた。すると男は喚《わめ》きだした。「この坊ずめ、せっかくヒトが忠告してやってんのに、無視する気か?」
肩をわしづかみにされて、ワタルはカッとなった。「大きなお世話だ。あんたなんかより、水人の方がずっと立派だ!」
「何だとこのガキぃ!」
男が拳《こぶし》を振りあげた。そのとき、宿屋の奥から何かが飛んできて、男の顔にぴしゃりと命中した。雑巾《ぞうきん》だった。
「やめんかいー」と、大声がした。あの無愛想な小母さんが、両手を腰にあてて男を睨《にら》みつけている。「この酔っぱらい! さっさと部屋に戻らないと叩《たた》き出すよ!」
酔っぱらいは急にしゅんとして、ワタルの脇《わき》をすり抜《ぬ》けて宿のなかに入っていった。なんと、ワタルのすぐ隣の部屋だ。
「ありがとうございました」
ワタルは小母さんに頭をさげた。小母さんは何も言わず、雑巾を拾いあげて、汚《よご》れた水がいっぱい入った木のバケツのなかに投げ入れた。掃除《そうじ》をしているんだ。
ワタルは、パッと閃《ひらめ》いた。「小母さん」
小母さんは太い腕で雑巾を洗っている。
「実は僕、旅費を稼ぐために仕事を探しているんです。この宿屋で、掃除とかの雑用をさせてもらえないですか?」
小母さんは、ジロリと横目でワタルを見ると、早口に吐き捨てた。「あんたのような小さな子を一人で旅させて、父ちゃん母ちゃんはいったい何をしてるんだい?」
そして、バケツを持ちあげるとさっさと行ってしまった。ワタルはすごすごと部屋に戻った。小母さんの言葉のせいか、眠りに落ちる間際《まぎわ》に、まぶたの裏で母さんの顔がちらちらした。そうだ、真実の鏡──早く探し出して、母さんに僕が無事だって報《しら》せなきゃ。
夢は見なかった。眠りはとても心地よく、深く優しかった。だが、その終わりは唐突《とうとつ》で乱暴だった。
「起きろ! 起きろこのガキめ、起きろって言ってるんだ!」
ワタルは目をぱちくりさせた。髭もじゃの宿屋の主人が、ワタルの首っ玉をつかんでゆさゆさ揺さぶっている。すっかり夜が明けて、部屋のなかに眩しい朝日が溢れている。
「え? な、? 何ですか僕──」
「何がボクだ!」髭もじゃ主人はワタルを怒鳴《どな》りつけると、ベッドから引きずり降ろした。「しゃんとせんかい! 寝ぼけたふりなんぞしおっても、わしは編《だま》されんからな、このヒト殺しめが!」
ヒト殺し? 水をぶっかけられたみたいに、ワタルは目が覚めた。
「ヒトゴロシ? どういうことですか? 誰か死んだんですか?」
髭もじゃ主人はワタルの頭を張り飛ばした。「このガキめ、まだとぼけるつもりでいやがるか! その手を見てみろ!」
ワタルは自分の両手を見おろした。とたんに、驚《おどろ》きで息が停まりそうになった。血だらけだ。手だけじゃない、下着にも、なすったようにべっとりと血がついている。いったいどうしたんだ? 何が起こったんだ?「どうだ、シラを切ろうったって無駄《むだ》だってわかったか」髭もじゃ主人は大声でがなりたてた。「おまえが、隣の部屋の客の喉をかき切って殺したんだな。この血が動かぬ証拠《しょうこ》だ。殺して、金を盗《と》ったんだろう? さあ言え、金はどこに隠《かく》した、使ったナイフはどこにあるんだ?」
何が何だかわからないうちに、ワタルは縄《なわ》でぐるぐると縛《しば》りあげられ、宿の前に引きずり出された。すでに野次馬《やじうま》が大勢集まっていて、ワタルの顔を見て口々に驚きの声をあげる。ワタルの方も、本来なら、野次馬たちが犬とか猫《ねこ》とかクマとかライオンとか、とにかくいろいろな動物の顔をしていることに驚くところだったが、そんな余裕《よゆう》などなかった。「こんな小さな子供だったのか」
「アンカ族はマセてるから」
「これで三人目だって? おお、怖《こわ》い」
「泥棒《どろぼう》だけならともかく、ヒト殺しまでするなんてねえ」
みんな口々に言って、ワタルを遠巻きにしている。忌《い》まわしいものでも見るように、顔をしかめて。ワタルは背筋が寒くなった。
ヒト殺しなんかしていないのに。盗《ぬす》みだってもちろんしていない。三人目だって? いったいどういうことなんだよ?
「さあ、来い!」髭もじゃ主人が、ワタルのお尻《しり》を蹴《け》って、縄をひっぱった。「ブランチに突き出してやる!」
宿の前の道を右に曲がって、ワタルはよろよろと引きずられていった。髭もじゃ主人は怒ったような得意そうな顔をして、時折、ガサラを悩《なや》ませてきた子供のヒト殺しを捕《つか》まえたと、声を張りあげて言いふらす。建物の戸口や窓からも、大勢のヒトたちがワタルの方を見ている。野次馬たちのなかには、後をくっついて来る者もいる。小さな子供が、甲高《かんだか》い声で、「ヒト殺しの泥棒が捕まった! ヒト殺しの泥棒が捕まった!」と、手を打って踊《おど》りながら叫んでいる。
恐《おそ》ろしさと怒りと困惑《こんわく》で、舌が喉の奥に引っ込んでしまっていたワタルだったが、この子供の嚇《はや》したてる声に、思わず言った。
「僕は何もしてない! これは何かの間違《まちが》いだよ!」
すがりつくように、周りを囲んでいる野次馬たちに呼びかけた。でも彼らは笑うだけ。後ずさりするだけ。指さすだけ。
「このガキ、まだシラを切るか!」
髭もじゃ主人のキックが飛んできて、ワタルは地面に蹴倒された。頬《ほお》が擦《す》り剥《む》け、土が口のなかに入ってザラザラする。
そのとき、柔らかい手が伸びてきて、ワタルを助け起こしてくれた。その腕には、真っ白な毛がみっしりとはえていて、ミルクティー色の縞《しま》模様が走っていた。
目をあげると、すぐ前に、白地に茶色の虎猫《とらねこ》の顔があって、大きな青灰色《ブルー・グレイ》の目がワタルを見つめていた。
「大丈夫《だいじょうぶ》?」と、その猫は言った。小さなピンク色の鼻の頭から、銀糸のような髭がはえている。でも、声は紛《まぎ》れもなく女の子のそれだった。動作もそうだ。現世の、同級生の女の子たちとそっくりだ。
「こら、かまうんじゃねえ! こいつはヒト殺しなんだ!」髭もじゃ主人がまた怒鳴って、ワタルを乱暴に引き起こした。猫の女の子は怯《おび》えて退いた。それでも、ワタルはその子の顔から目が離《はな》せなかった。
猫の顔だけど、とっても美人だ。立って歩いてるし、裾《すそ》の短いジャンプスーツみたいなものを着ている。猫族ってことか。ワタルと同じくらい怯えていて、今にも泣きだしそうな目をしている。
猫の女の子は、後ずさりして野次馬のなかに紛れ込みながら、ひたとワタルを見つめていた。ほっそりと優美なしっぽが、身体の後ろから現れて、彼女が腕で自分の身体を抱いている、そのまた上から、さらに自分を抱きしめる。そのとき、口元が小さく動き、何か言った。ワタルの目には、(ごめんなさい)と言ったように見えた──
「前を見てさっさと歩かんか!」
殴《なぐ》りつけられて、ワタルは気を失った。
意識を取り戻したときには、宿屋よりもこぢんまりしているけれど、もっと頑丈《がんじょう》そうな木造の建物のなかの一室にいた。太い木の柱に縄でくくりつけられて、手には手錠《てじょう》、足には鎖《くさり》の足枷《あしかせ》がかけられている。
ほっぺたがヒリヒリする。顎《あご》が痛い。お尻も痛い。片方の目が腫《は》れてるみたいだ。
「おや、お目覚めだね」
すぐ後ろから、女の声がした。真っ赤な革《かわ》のブーツに包まれた爪先《つまさき》が、ワタルの顎の下にぐいっと食い込んで、顔を押しあげる。
「どうだい、年貢の納めどきだってことがわかってきたかい?」
つやつやした黒髪《くろかみ》を短く刈りあげ、口の端に紙巻きタバコをくわえ、きつい目つきでワタルを見おろす、アンカ族の女性がそこにいた。背が高い。スタイルも抜群だ。素肌《すはだ》の上に、黒光りする革のベストと革のショートパンツを着て、トゲトゲの飛び出した肘《ひじ》あてと、赤いなめし革の腕輪をつけている。
「何ポカンとしてるのさ」女は言って、ケラケラと笑うと、爪先を引っ込めた。彼女がゆっくりとワタルの正面に回ってくると、ブーツの踵《かかと》を舐《な》めるようにして、黒くしなやかで細いものが、その後をくっついてくる。何だろうとよく見ると、それは黒革でできた長い鞭《むち》の先端だった。彼女はそれを右手に持って、床《ゆか》を引きずりながら歩いているのだ。
「初めまして、坊や」と、女のヒトはタバコの端を噛《か》みながら言った。「あたしはカッツ。このブランチの長だよ。もっとも、名乗らなくても知ってるかもしれないね。このあたしが棘蘭《しらん》のカッツ≠セってことを承知の上で、ガサラを荒《あ》らしてくれたんだろう? その肝《きも》っ玉《たま》は、なかなかたいしたもんだよね」
部屋の奥で男が笑った。こちらはトラの顔をして、鼻先に眼鏡《めがね》を乗っけてる。
「僕は何にもしてません」しゃべると口が痛かったけれど、ワタルは頑張ってそう言った。「ヒト殺しも盗みも、何にも」
カッツは喉をそらして笑い、トラ顔の男に言った。「おやトローン、聞いたかい?」
トラ男は立ちあがると、ワタルにもっとよく見える場所へ出てきた。彼はキ・キーマが着ていたのと同じような短い革のスカートを穿《は》いて、肩から斜《なな》めに大きな革のホルダーを提《さ》げている。背中に剣を担《かつ》いでいるのだ。
「坊ず、おとなしく罪を認めた方が身のためだ」と、トラ男は言った。「宿屋でおまえの隣に泊まっていた男が、喉を切られて殺されたうえ、持っていた金を盗られた。おまえが昨夜《ゆうべ》、この男にからまれて怒っていたことも、旅費に困っていたことも、もう調べがついているんだ。宿屋の夫婦《ふうふ》が証言したんだよ」
殺されたのは、あの酔っぱらいだったのか。ワタルはあらためて恐ろしくなった。ひしひしと現実感が押し寄せてくる。
「あんたの言うとおり、僕は仕事を探してたし、あの酔っぱらいにからまれて怒ったよ。でも、殺してなんかいない。どうして僕が疑われるんです?」
「身体じゅう、血だらけじゃないか」
カッツが言って、短くなったタバコを、ダーツみたいに狙《ねら》いをつけて、しゅっと投げた。タバコは部屋の隅のバケツのなかに落ちて、ジュッと音がした。
「だけど僕は身に覚えがないんです!」ワタルは身体を揺すりながら、精一杯《せいいっぱい》の力を込めて言った。手錠と足枷がカチャカチャ鳴った。「ガサラには昨日着いたばっかりで──」
「一ヵ月前──」と、カッツはワタルを無視して言い始めた。「ある宿屋で、旅の商人が喉を切られて殺されて、お金を盗られた。次は十日前で、別の宿屋で──」
「僕はやってない! 一ヵ月前も十日前も、僕はこの幻界に来てもいなかった! だって現世からの旅人≠ネんだから!」
ワタルの叫びに、カッツとトラ男は顔を見合わせて、同時に笑い転げた。
「何を言うかと思ったら! 旅人≠ヒ!」
「嘘《うそ》じゃないです! 僕の剣、宿屋に勇者の剣があるはずなんだ。調べて、ラウ導師さまに聞いてみてください!」
「ラウ導師? そりゃ誰? 星読みかい? あいにく、俺たち高地人《ハイランダー》≠ヘ、星読みなんかとは付き合いがないんだよ」
ワタルは愕然《がくぜん》とした。このヒトたち、導師さまを知らないのか。要御扉の番人である導師さまは、幻界では隠者《いんじゃ》みたいなもので、普通《ふつう》のヒトびととは関《かか》わりのない存在なんだろうか?
「じゃ、キ・キーマに聞いてください。水人族のダルババ屋で、今サーカワの郷に向かってるけど、三日ぐらいで戻ってくるから」
「三日? アラ残念だね、それじゃ間にあわないよ」カッツは鞭の柄《え》を肩に担ぐと、左足に体重をかけて、粋《いき》な立ち方をした。「だって坊や、あんたは、絞首台《こうしゅだい》が出来あがり次第《しだい》、縛り首になるんだもの。ねえトローン?」
「ああ、そうだ」トラ男は、机について書類みたいなものを取りあげながら、無関心そうに言った。「絞首台は一日あれは完成する。あいにくだな、坊ず」
「ガサラじゅうの大工が集まって、盛大《せいだい》にトンカンやるからね。ここの横の広場に造るから、留置場の窓からもよく見えるよ」
「一日なんて、そんなバカな!」ワタルは声を振り絞《しぼ》った。「取り調べだって証拠集めだって、何にもしてないじゃないか!」
「する必要ないんだよ。宿屋の夫婦の証言と、その血だらけの手を見れば」
「ホントの犯人が、寝ている僕の身体に血をなすりつけていったのかもしれない。僕に罪を着せるために」
とっさの思いつきだったけれど、口に出してみると、確かにそうだと思えてきた。だが、カッツとトローンは笑うだけだ。
「そんな回りくどいことをする奴《やつ》がいるもんかね。いいかい、坊や」カッツはその場でしゃがむと、ワタルと目を合わせた。「最初の殺人のときから、あたしたちは、こりゃ子供の仕業《しわざ》だって目星をつけてたんだ。だって、殺された三人は三人とも、内側から鍵《かぎ》のかかった部屋にいたんだよ」
「僕の隣の酔っぱらいも?」
「そうさ。鍵を開けずに部屋に出入りするには、近くの部屋から天井裏を通るしかほかに手がない。だけど天井裏は狭《せま》いからね、大人じゃ無理だ。踏み抜いちまうしね」
「たったそれだけのことで犯人と決めつけるなんて、メチャクチャじゃないか」
「だから、それだけじゃないだろ。あんたは血だらけ。おまけに昨夜は文なしだった」
カッツは立ちあがると、優雅《ゆうが》に伸びをした。「まあ、安心おしよ。縛り首ってのは、存外苦しくないものだそうだから」
「気持ちがいいという説もあるな」と、トラ男が言った。
「冗談じゃない!」ワタルは叫んだ。「僕には身の証《あかし》を立てる権利があるぞ」
「ミのアカシ? へえ、難しい言葉を知ってるんだね」カッツはワタルに背中を向けた。
「だいいち、この国の治安を司っているのは、シュテンゲル騎士団だろ? あんたらには、勝手に僕を裁くことなんて、絶対できないはずじゃないか!」
カッツは素早く、しなやかに振り返った。次の瞬間《しゅんかん》、ワタルの頭すれすれにかすめて、彼女の鞭が唸《うな》りながら空を切り、柱を打った。「生意気もほどほどにおしよ!」
凍《こお》りついたワタルに、カッツは言った。
「旅人≠フふりをして、知ってることも知らないように言うつもりなんだろうけど、あたしたちハイランダーを軽んじるなんて、絶対に許さないからね!」
口があわあわしたけれど、ワタルはなんとか言葉を発した。「だ、だって、シュ、シュ、シュテンゲル騎士団、が」
「あいつらは新参者さ!」カッツは細い眉毛《まゆげ》を鉤《かぎ》のように歪《ゆが》めて言い捨てた。「連合政府なんてご大層なもんができる前から、この南大陸の治安は、あたしたちハイランダーが守ってきたんだ」
トラ男が続けた。「それにな、坊ず、シュテンゲル騎士団は、ここんとこずっとモンスターどもの討伐で手一杯だ。今だってどこに駐屯《ちゅうとん》していることやら。いつ帰るかもわからんよ」
「フン、奴らなんか、ねじオオカミの番でもしているのがお似合いさ!」カッツは鼻先で言うと、「トローン、この坊ずは目障《めざわ》りだ。さっさと留置場にぶちこんで!」
トラ男は腰をあげ、柱の縄をほどいて、ワタルを建物の奥へ連れて行った。背中の剣はおろしていたけれど、彼のぶっとい腕と鋭《するど》い爪《つめ》だけで、ワタルには充分だった。隙《すき》を見て逃げ出すなんて、とんでもない。
トローンはワタルを狭苦しい留置場の房《ぼう》に押し込むと、扉に鍵をかけた。ブレスレットみたいなキーホルダーを腕にとおす。彼もカッツと同じ、赤いなめし革の腕輪をはめていることに、そのとき気づいた。
「逃げようなんて思うなよ」トローンは牙《きば》を見せて、にやにや笑った。「それよりも、この世で食うあと何度かの飯を、心ゆくまで楽しむことだ」
留置場の板張りの寝台《しんだい》にへたりこんで、ワタルは途方にくれた。あまりの衝撃《しょうげき》と恐怖《きょうふ》に、涙《なみだ》さえ出てきてくれない。そうやって放心していると、太い格子《こうし》のはまった窓の向こうで、トンカントンカンと大工仕事の音が始まった。背伸びして外をのぞくと、カッツが言っていたとおり、この建物の横の小さな広場の真ん中に、白木の土台が据《す》えられようとしている。
絞首台だ。
西部劇みたい──なんて思ったのはほんの一瞬で、すぐに膝がガクガクして立っていられなくなった。ああ、どうしよう。このままじゃ、本当に縛り首になってしまう。
勇者の剣はどこにあるのだろう。現世だったら、こんな場合はまず家宅|捜索《そうさく》があって、容疑者の持ち物を調べるのだろうけれど、ここじゃ、そんな正しい手順は望めない。宿屋の主人がガメてしまっているかも。今ごろ、勇者の剣で、あの小母さんがパンや野菜を切ってるかもしれない。
幻界で死ぬと、この身体はどうなるのだろう? 現世に帰るのだろうか。
トンカントンカンと、リズミカルな音が続く。賑やかな話し声も混じって、やけに楽しそうだ。それに比べて留置場のなかはひっそりとしている。このまま絞首台が出来あがるまで、ほったらかしにされるのだろうか。それでは弁解の機会さえない。
窓と扉の鉄格子は、ワタルの手首ぐらいの太さがあって、揺すっても叩いても手が痛いだけ。ビクともしない。
さすがに泣けてきた。でも、泣いても泣いても、誰も様子を見にさえ来てくれない。
陽が落ちたころ、トラ男のトローンと同じ出で立ちをしたアンカ族の大男が、夕食と毛布を運んできてくれた。ワタルは飛びつくようにして話しかけたけれど、大男はむっつりと黙《だま》ったまま、鉄格子の下の方にある差し入れ口から、持ってきたものを突っ込むと、さっさと行ってしまった。
「僕は無実なんですってば!」
叫び声だけが空《むな》しくこだまする。
水みたいなスープと固いパン。食欲なんて、全然|湧《わ》いてこない。膝を抱《かか》えて泣き寝入りするしかなかった。
とぎれとぎれの睡眠《すいみん》で、おかしな夢を見た。母さんが出てきたし、なぜか大松香織も出てきた。彼女もワタルと同じように、鉄格子の内側にいた。大きな目を潤《うる》ませて、ワタルを見つめている。夢のなかでワタルは、そうか香織も囚《とら》われているんだと悟った。ほかでもない、恐ろしい犯罪によって壊されてしまった彼女自身のなかに。ワタルと違って、彼女の牢獄《ろうごく》には錠前がない。でも、扉もないのだ。
──どうすれば、君をここから出してあげられるの?
尋ねると、夢のなかの香織は黙って目を伏《ふ》せ、かぶりを振った。
──お父さんやお兄さんが心配してるよ。
香織が顔を上げて、何か囁いた。聞き取れない。え? 何て言った? もっと大きな声で言ってよ。大きな──大きな──
「大きな声を出させるんじゃないよ!」
ワタルは仰天《ぎょうてん》して、夢のなかから飛び出した。身体を丸めて、毛布のなかに隠れるようにして眠っていた。カッツがすぐそばに立ち、両手を腰にあて、ワタルを見おろして怖い顔をしていた。
「ああ、やっと起きたか」彼女は乱暴な口調で言った。「あんた、朝寝坊だね。さっきから何回起こしたことか。声が嗄《か》れるかと思ったよ。家じゃ、母ちゃんにも叱られてばっかりだろ」
ワタルは身を縮めたまま起きあがった。絞首台が出来あがったので、迎えに来たのだろうか。トンカン音も聞こえない。
カッツは口の端をひん曲げて、フン! という鼻息と共に言った。
「坊や、釈放《しゃくほう》だよ。ここから出るんた」
耳を疑うような言葉だ。ピンとこない。
「釈放だって言ってるんだ! グズグズするんじゃないよ。あたしは、ノロくさい子供と女々《めめ》しい男は大嫌いなんだ」
ぽかんとカッツの顔を見あげて、ワタルは最初に頭に浮かんだ言葉を口にした。
「どうして?」
カッツの口が、さらに曲がった。「どうしてもこうしても、疑いが晴れたからさ!」
「だから、どうして?」
「しつこいガキだね。なんでそんなこと知りたがるのさ。ここから出たくないのかい? だったらいいよ、また閉めちまうから」
ワタルは彼女の脇をすり抜けて、開けっ放しの扉から廊下へ飛び出した。カッツは男みたいに頭をごしごしかくと、ワタルに続いて廊下に出て、足で扉を蹴って閉めた。
「昨夜《ゆうべ》、あんたがここにいるあいだに、また別の宿屋で、同じ手口の事件が起こったんだよ」不機嫌そうに、彼女は言った。「今度の被害者は、ひどい怪我《けが》をしたけど死ななかった。だから目撃《もくげき》証言もとれたんだ。二人組の小男で、二人して、あんたが間違って捕まったことを、ゲラゲラ笑って面白《おもしろ》がっていたってさ。あんたの手や身体に血がついていたのは、あんたに罪を着せようと、そいつらがわざとやったことだったんだと。あたしら、まんまと騙されたわけだ。クソッたれが!」
最後の悪態は、唾と一緒に吐き捨てられた。
「だから僕は無実だって言ったのに。ちゃんと聞いてくれないからですよ」
カッツは凶悪《きょうあく》な目でワタルを睨《にら》み、最初につながれていた事務所みたいな部屋までワタルを連れて行った。そう──落ち着いてよく見ると、ここは西部劇に出てくる保安官事務所によく似ている。
「あんたの泊まってた宿屋へ行くといい」カッツはぶっきらぼうに言った。「オヤジがあんたの荷物を預かってるって。あと、殴ったり蹴ったりしたお詫《わ》びに、飯をご馳走《ちそう》するってさ。それでも気が済まなきゃ、別にオヤジを殴ったっていいけど、あんまりやりすぎると、今度は別件でここに来ることになるから、ほどほどにしときな」
ワタルが外へ出ていこうとすると、カッツが呼び止めた。「ねえ、あんた。本当に″旅人″なんだね」
ワタルは振り向いた。
「あんたの持ってたちっぽけな剣。宿のオヤジが触《さわ》ったら、熱くて持てなかったんだって。きっと女神さまからの賜《たまわ》りものだって、青くなって駆《か》け込んできたんだ」
ああ、剣は無事なんだ。良かった。
「現世からの旅人は、女神さまに呼ばれて来るんだからね。邪魔《じゃま》をしちゃいけないんだ」
カッツは机に歩み寄ると、椅子の背にかけてある彼女の鞍をいじりながら言った。
「悪かったね。女神さまに会えたら、あたしらが反省してるって伝えておいてよ。特に宿のオヤジはね」
「わかりました」
「でも、悪いことは言わない。飯を食ったら、早くこのガサラを出ていくことだ。あんたの疑いは晴れたけど、まだ犯人は捕まっていないし、グズグズしてるとまた面倒《めんどう》に巻き込まれるよ」
ワタルは黙って外へ出た。陽射しが眩《まぶ》しく、空はあっけらかんと青く晴れている。宿屋まで行くと、髭もじゃ主人がすっ飛んで出てきて、さかんにペコペコ謝り、奥の台所へとおしてくれた。小母さんもそこにいて、朝から食べきれないほどのご馳走を、テーブルいっぱいに並べてくれた。ワタルがそれを食べていると、髭もじゃ主人が、分厚い布で厳重に包んだ剣を持ってきた。
「すまなかったなぁ、坊ず」大きな身体を締めて、主人は恐縮した。「そら、これがおまえさんの剣だ。あらためてくれ。傷なんかつけちゃいないぞ。ちょっとその、マントルの肉を切ろうとしたんだが、すぐにやめた」
ワタルは剣を腰に収めた。髭もじゃ主人はワタルの向かいに座ると、骨付きのあぶり肉に手を出して、小母さんにぴしゃりと叩かれた。
「それにしても、偉《えら》いもんだな」髭もじゃ主人は手を引っ込めて、言った。「坊ずみたいに小さいガキが、よく一人で現世から来たもんだ。要御扉を通るのに、年齢《ねんれい》制限はないんだなぁ」
「小父さんは、現世に行ったことはないんですか」
髭もじゃ主人は大いに畏《おそ》れた。「とんでもない! くわばら、くわばら」
「行ったことがある人も知らないですか」
「知らん、知らん。現世は、俺たち幻界に住むものが足を踏み入れられるような場所じゃねえんだ。女神さまがお許しにならねえし、だいいち、俺たちなんざ、あっちへ行ったら亡者《もうじゃ》になっちまう」
モウジャ。幽霊のことか。
「確かに、あっちには怖いことがいっぱいあるかもしれないです」
「そうだろう、そうだろう」
「強盗《ごうとう》殺人事件とかも、もっと非道《ひど》いのが起こるから」
「ほう、そうなのか。やっぱり怖いねえ。今ガサラで起こってることだって、かなり非道いと思うがね。このまま犯人が捕まらなかったら、俺らは商売あがったりだ」
「でも、昨夜のは怪我人だけで済んだって」
「おうよ、ネ族の女の子が背中をざっくり斬《き》られてな、身ぐるみ剥《は》がれてよ」髭もしゃ主人が身振り手振りで言った。「あんな安宿に、女の子一人で泊まるのも悪いんだがな」
「女の子? ネ族?」
「ああ、そうだ。白毛のべっぴんさんだが、可哀想《かわいそう》に」
ワタルの心に閃くものがあった。食事をやめて、立ちあがった。「ご馳走様でした。もう充分です」
「そうかい? いや、ホントに悪かったな。出発するなら、弁当をつくるよ」
「いえ、まだここにいます」髭もじゃ主人はあわてた。「え? だってカッツには、出てゆけって言われたろ?」
「言われたけど、でも僕、ヒトを待ってるから。それより小父さん、昨夜怪我をした女の子は、今どこにいるんですか?」
「町の診療《しんりょう》所にいるがね」
そこまで道順を教えてもらって、ワタルは宿を出た。ガサラの町はもうフル回転という感じで、ダルババ車か行き交っている。
診療所は小さな山小屋みたいな建物で、患者《かんじゃ》たちで溢れていた。むくむくのセントバーナード犬みたいな医師と、垂れ耳のテリアみたいな看護婦が、白衣を着て忙《いそが》しそうに動き回っていた。ワタルが事情を話すと、看護婦が奥の小さな病室を指さした。
「さっき食事をしたから、今は起きていると思うけど」
礼を言って、ワタルはそちらに向かった。ドアをノックしても、返事がない。そっと開けると、素朴な木の寝台に、背中をすっかり包帯で包まれたヒトが、俯《うつぶ》せになって寝ていた。長いしっぽが、元気なく垂れ下がっている。
顔を見なくても、ワタルにはわかった。昨日、髭もじゃ主人に引っ立てられて行く途中、倒れたワタルを起こして、ごめんなさいと呟いたネコ耳の女の子だ。幻界では、ネコ型のヒトのことをネ族というのだろう。
「こんにちは」ワタルが声をかけると、女の子は目に見えてびくっとして顔をあげた。そして、傷の痛みにまたビクリとした。
「動いちゃダメだよ」
ワタルは近づいて、ベッドの脇にしゃがんだ。ネコ耳の女の子の大きな灰色の目が、震《ふる》えるようにワタルを見た。
「な、何?」と、囁くように訊いた。
「お見舞いに来たんだ」そしてワタルも声を落とした。「昨日、道で僕を助け起こしてくれたよね? ありがとう」女の子は目をそらした。
「あのとき、ごめんなさいって言ったよね?」
女の子は怯えきって、目をきょろきょろ動かした。狼狽《うろた》えるように、しっぽも動く。小さな部屋のなかに、ほかには誰もいないというのに。
ワタルの心に、また閃くものがあった。
「邪魔してごめん。お大事にね」
そう言って、足音を忍《しの》ばせて部屋を出た。
ワタルは真《ま》っ直《す》ぐにカッツの事務所へ向かった。彼女は背もたれに鞭をひっかけた椅子に座って、難しい顔で何か書いていた。
「何だい? 剣は返してもらったろ?」
「はい。僕、犯人捜しを手伝いたいです」
カッツは目を見開いた。「何だって?」
「宿屋の強盗殺人事件の犯人を捜すお手伝いをさせてください。できると思うから」
「あんたが?」
「はい」ワタルは、奥の机についているトラ男のトローンとアンカ族の大男の方を見た。「いいですよね? 僕、身のアカシを立てたいんです」
「それは昨日の話だろ。今は──」
「だけど、真犯人が捕まらなくちゃ、本当に疑いが晴れたことにはならないもの」ワタルはせいぜい不敵に見えるように、ニッと歯を剥《む》き出して笑った。「トローンさん、よろしくお願いします。手始めに僕を、前の二件の犯行があった宿屋に連れて行ってくださいませんか?」
トローンは、動物園のトラの顔になって唸った。「小僧《こぞう》、いい気になるなよ」
アンカ族の大男も言った。「遊びはこれまでだぞ、坊ず」
「僕は小僧でも坊ずでもないです」
「あんたねえ!」カッツが椅子を蹴って立ちあがり、流れるような動作で背もたれの鞭をつかんた。
「あんたでもないです。ワタルです」ワタルはまた歯を剥き出した。「女神さまにとりなしてほしいんでしょ?」
事務所の三人は、ワタルと級友たちが掃除当番を押しつけあうのと似たようなやりとりをして、最後はジャンケンみたいなことまでやった。どうやらカッツが負けたらしい。鞭を腰のベルトにたばさんで、歯をギリギリ鳴らしながら言った。
「それじゃ行きましょうかね、ワタルさん」
ワタルは二|軒《けん》の宿屋を訪ねた。どちらでも、主人たちや従業員たちは、カッツに恭《うやうや》しく応対した。ワタルがあれこれ質問すると、最初は目をパチクリさせたが、カッツが、
「このワタルはね、臨時の助手」と、腹立たしそうに説明すると、すぐに丁重《ていちょう》になった。
どちらの宿屋も、ワタルの泊まった宿屋と同じ、藺草を編んだような天井板を使っていた。風通しがよくて涼しいのだそうだ。屋根裏にあがると、そこはとても狭くて、確かにカッツたちが推理したとおり、子供でないと通り抜けることは無理そうだった。
二軒の宿屋を回ると、ワタルはカッツと一緒に、髭もじゃ主人の宿屋に向かった。そこで大いに、ブイブイと吹《ふ》いた。犯人がわかったから、宿屋の経営者たちに報せてください。
カッツが頭から湯気を立てて怒鳴った。
「いったい何を言い出すんだよ、クソガキ!」
ワタルが何か言い返す前に、髭もじゃ主人が割って入った。「おいおいカッツ、旅人に向かってそんな口をきいちゃいけないぜ。旅人は特別なんだ。女神さまに呼ばれて来たんだからさ。子供だって、俺たちにはわからないことがわかって、俺たちにはできないことができるんだよ、きっと」
カッツは怒りで真っ赤になった。「だけどこのガキ、昨日は留置場でメソメソ泣きくさってたんだよ!」
ワタルは涼しい顔をしていた。「では小父さん、よろしくお願いします。明日にはきっと、犯人を捉《とら》えますから」
「おお、わかった。みんなに伝えるとも。安心するよ」
「それと僕、今夜またこちらに泊まりたいんですけど、旅費を稼ぎたいので、小母さんのお手伝いをして働かせてもらえませんか? 事件のことで、僕に何か訊きたいという人が訪ねてきたら、誰にだってすぐに会いますから、そちらもヨロシク」
噂はあっという間にガサラの町じゅうに広がった。ワタルが宿屋で皿洗いをしたり、床を拭《ふ》いたり、小母さんに教わって薪割《まきわり》をしているあいだに、入れ替《か》わり立ち替わりお客が訪ねてきた。犯人がわかったんだって? おまえさん、凄いもんだね。旅人≠ネんだって? そうか今は要御扉が開く時期なんだね。
ついでのように、女神さまにお会いしたらコレコレのことを頼んでほしいという依頼《いらい》まで来て、ワタルは大忙しだった。
子供たちも大勢やってきた。ワタルが引き立てられているとき、手を打って「ヒト殺しが捕まった」と言いふらしていた子もやって来て、凄い凄いと褒《ほ》めそやしていった。よろず周りに影響《えいきょう》されやすい性格らしい。ワタルは、子供たちでさえ、旅人に対して畏敬《いけい》の念を抱《いだ》いていることを知り、現世を恐れている(みんな、髭もじゃ主人と同じことを言った、あっちへ行ったらモウジャになっちゃう!)ことも知った。頭の隅に、ちらっと、ガサラのような大きな町では、旅人であることを知られないように用心しろというキ・キーマの忠告がよぎったけれど、ちやほやされるのは悪くないので、ま、しようがないよバレちゃったんだからと思った。ちょっと芸能人みたいじゃん?
皆に囲まれているときに、子供たちの輪の外の方に、二人組のアンカ族の少年が佇《たたず》んで、じつとワタルを眺《なが》めていることに気づいた。二人ともひどく飢《う》えたような顔つきをしていて、埃《ほこり》だらけの服を着ていて、姿勢がよくない。ワタルと視線が合うと、わざと睨みつけるか、ぷんと顔をそらすか、どちらかだ。
ワタルはその二人の顔形を、しつかりと頭に刻み込んだ。二人が革のベストの下に、武器を持っているようであることも観察した。
そして、夜が来るのを待った。
一日を宿屋で過こすと、幻界にも現世に似た時間の概念があり、時計もちゃんとあることがわかった。ただワタルの体感では、一時間が現世のそれよりも少し長いようだ。ワタルは小母さんに時計の見方を教わり、その時計が真夜中の零時《れいじ》を示すのを待って、診療所へ向かった。
昼間来た時に、周囲を観察しておいたので、外から見ても、ネ族の女の子の病室の窓がどこかわかる。狭い路地を挟《はさ》んだ隣に、酒屋があり、店の外にカラの大樽《おおだる》がたくさん積んである。ワタルはそこに隠れた。
潜《ひそ》んでしばらくのあいだは、診療所にはまだ灯りがついていた。それが消えると、ホウ、ホウとフクロウのような鳥の鳴き声が聞こえて、星明かりだけになった。
酒屋の空き樽からは、ウイスキーみたいな臭いがぷんぷんと漂《ただよ》う。あんまり長く待たされると、酔っぱらってしまいそうだ。
と、診療所の建物の外の暗がりで、何かが動いた。ワタルは息を詰《つ》めた。
それは黒くて小さな人影《ひとかげ》で、二人いた。二人はサルのようにすばしっこく闇《やみ》を横切り、ネ族の女の子の病室の窓を音もなく開けて、その内側に滑《すべ》り込んだ。
ワタルは早口で十数えた。それから、足音を殺してその窓の下に走った。
「──たんじゃないだろうな?」
声が聞こえる。若い男の声だ。
「おまえだって同罪なんだぞ。それに俺たちのことをチクッたら、おまえ、どうなるかわかってるんだろ?」
「あのチビに、何をしゃべったんだよ? あいつが昼間ここに来たことは、わかってるんだからな」
ネ族の女の子の涙声が聞こえた。何もしゃべってないわ、と言っている。
「嘘をつけ!」
「しっぽが嘘だって言ってるぞ。切り落としてやろうか?」
深呼吸をひとつして、ワタルは勇者の剣を抜き、がらりと窓を開けて、その内側に飛び込んだ!
「やめろ──あっと、あれれれ?」
きっちり着地するつもりが、足が窓枠《まどわく》にひっかかって、転がり落ちてしまった。落ちたところはベッドの脇で、あの女の子が一人の少年に押さえつけられており、もう一人の少年が、彼女のしっぽの真ん中にナイフをあてていた。白い刃《は》が凶悪にギラリと光った。
「おま、おま、おまえらちが犯人らってことは、お見通しらろ!」
ワタルは剣を構え、もがきながら立ちあがった。落下したとき顎を打ったので、うまくしゃべれない。
「なんだこいつ? あ、あのチビだ!」
少年がワタルを指さして、ナイフを向けた。
「ブッ殺してやる!」
叫んで飛びかかってくる少年を、ワタルはかろうじて避《よ》けた。足がもつれて上手《うま》く動けない。シャツの裾をつかまれて、またナイフが襲ってくる! 危ない!
「え?」
勇者の剣が少年のナイフをはじき飛ばした。剣を持った腕が、いや剣そのものが勝手に動いたみたいだった。ワタルは体勢を崩《くず》した少年に飛びかかり、馬乗りになった。
「やめろ! こいつが死んでもいいのか?」
叫び声に顔をあげると、ネ族の女の子の首に、別の大振りなナイフが突きつけられている。もう一人の少年が、彼女を引き起こして羽交《はがい》い締《じ》めにしていた。
「おまえがちょっとでも動いたら、こいつの喉をかき斬るぞ!」
ひるんだ瞬間に、下の少年がワタルを振り落とした。倒れかかるワタルに、今度はその少年の拳か襲いかかる。
そのとき、窓の外から、黒くて細いものが空を切って飛んできて、ネ族の女の子を羽交い締めにしている少年の、ナイフを握《にぎ》った手に素早く巻きついた。と思うと、その黒くて細いものは強靭《きょうじん》に動き、少年を女の子から引き離すと、窓の方へと勢いよく引き寄せた。
「うわ!」ひっぱられた少年か、宙を飛んで窓の外に消えた。跳《と》び箱でもやってるみたい。
みんな呆気《あっけ》にとられていた。するとまた黒く細いものが窓からしゅっと飛び込んできて、今度はワタルのそばの少年の胴《どう》に巻きついた。
そうか、これは鞭だ!
窓枠にさっと片手をかけて、片手に鞭の柄を握り、カッツがひらりとベッドに舞い降りた。
「あたしはハイランダーだよ、おまえたちを逮捕《たいほ》する!」
凍《りん》とした声で宣言すると、カッツはベッドから少年の目の前に飛び降り、革のブーツの先で、軽やかにキックの三連撃を見舞った。ぎゅうと呻《うめ》いて、少年はのびてしまった。
「窓の外のも、目を回してるよ」カッツは白い歯を見せて笑った。「二人とも大丈夫かい? おや、背中の傷が開いちまった!」
ワタルははっとして女の子を見た。本当だ、背中の包帯が赤く染まっている。
「診療所の先生を呼んでこなきゃ!」
と言ったとき、世界が回った。
「どうしたんだい、ワタル?」カッツがからかうように問いかける。「あんた、この子を助けたんだよ。もっとも、一人じゃ無理だったみたいだけどね。あたしがあんたの行動を、ずっと見張ってたのが幸いしたね」
「そう、でしたか。ありがと」と言って、ワタルはベッドにつかまって身体を支えた。
「どうしたの?」と、ネ族の女の子が尋ねる。
「お酒の、空き樽」ワタルは答えた。「やっぱり、酔っぱらっちゃった──みたい」
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6 高地人《ハイランダー》≠スち
ワタルの二日酔《ふつかよ》いが醒《さ》めるまで、まる一日かかった。ひどい頭痛と吐《は》き気とめまいが収まって、やっと食事ができるようになったころに、キ・キーマがサーカワの郷《さと》から駆《か》け戻《もど》ってきた。
「こんなに驚《おどろ》いたことって、生まれて初めてだぜ!」両手を打ち合わせたり立ったり座ったりしながら、彼はウキウキと言った。宿屋じゅうに響《ひび》きわたるような大声だ。「俺はガサラ──サーカワ間を区間新記録のスピードで往復してきたんだ。ところが、その短いあいだに、ワタルは、あの棘蘭《しらん》のカッツ≠向こうにまわして、ガサラの町の英雄《えいゆう》になってござった!」
「そんな凄《すご》いことをやったわけじゃないんだ」と、ワタルは言った。「ただ、母さんがよく観《み》てたテレビのサスペンスドラマを思い出しただけなんだ」
「サスペンスドラマ?」キ・キーマは首をひねった。「それは現世のものかい? まあいいや、とにかく、ワタルの気分が治ったら、カッツがブランチへ来てくれって言っていたよ。早く行こうじゃないか」
ブランチにはカッツだけでなく、トラ男のトローンと、これまで会ったことのない、長い顎鬚《あごひげ》を蓄《たくわ》えた老人が待っていた。山羊《やぎ》に似ている。どうやら、また新しい種族にお目もじしたようだ。とても優《やさ》しげで、知的なまなざしの老人だった。
「この方は、ナハト国内にある十三のブランチすべてを束ねる、ギル首長《しゅちょう》だよ」
ギル首長は、カッツの堅苦《かたくる》しい紹介《しょうかい》を笑顔《えがお》で退けて、ワタルの両手を取った。
「こんなに幼いのに、よくもまあ、たった一人で、あの凶暴《きょうぼう》な泥棒《どろぼう》たちに立ち向かっていったものだ。勇敢《ゆうかん》な旅人≠セな」
「でも、カッツさんがいなかったら、負けていました」ワタルは素直《すなお》にそう言った。「それより、あの、怪我《けが》をしてたネ族の女の子はどうしてますか?」
カッツが答えた。「あの騒《さわ》ぎのあと、もういっぺん傷口を縫《ぬ》わなきゃならなくなって、今はまた安静にしてるよ。でも大丈夫《だいじょうぶ》、半月もすれば良くなるってさ」
それから、ニッと笑って付け加えた。
「あの子の名前は、ミーナだよ。あとでお見舞《みま》いに行ってやったら?」
ワタルは赤くなった。「あの二人組は? あいつら、ミーナを脅《おど》していたんでしょ? 彼女は進んで連中の手伝いをしていたわけじゃありませんよね?」
カッツは首長の顔を見た。ギル首長は、座ったままワタルの方に身を乗り出した。
「それなんじゃ。ミーナという少女が二人組に脅され、盗《ぬす》みの手伝いをさせられていたこと、君を助けるために被害《ひがい》者を装《よそお》ったことが、どうしてわかったんだね?」
ワタルは、ミーナがごめんなさい≠ニ呟《つぶや》いたこと、彼女ならば、しっぽを使えば、自分で自分の背中をナイフで傷つけることもできると考えたこと、釈放《しゃくほう》されたワタルが、真犯人を知っていると言いふらして回れば、ミーナが真相を漏《も》らしたのではないかと疑った真犯人が、きっと彼女のそばに現れるに違《ちが》いないと思ったことを、説明した。
「ワタルは頭がいいなぁ!」キ・キーマがまた両手を打ち鳴らした。「俺なんか、長老の歳《とし》になるまで考え込んでも、そんなことなど思い浮かびもしないぞ」
だからさ、犯人や共犯者が被害者を装うっていうのは、サスペンスドラマじゃよくある手なんだよね。
「あの二人組に会ってみるかい?」牢屋《ろうや》の鍵《かぎ》をじゃらりと振《ふ》ってみせながら、カッツが立ちあがった。ワタルは急いで彼女に従った。
「あのガキどもは兄弟で、北の帝国《ていこく》からの難民だった」廊下《ろうか》を歩きなから、カッツは言った。「五年前、あの子らが九歳と八歳のときに、闇《やみ》のブローカーに大枚|支払《しはら》って、親子四人で商業船で密航してきたんだそうだ。ところが、船は途中《とちゅう》で難破してしまって、両親は死んだ。あの子らはボグの辺境の浜辺《はまべ》に流れ着いて、難民収容|施設《しせつ》に保護されたんだけど、どうやらそこでの不自由な暮らしがお気に召さなかったようでさ、脱走《だっそう》して、泥棒をしながら各地を転々として暮らして、もう一年近くになるんだって」
「だけど、せっかく死ぬほど危険な思いをして南に渡ってきたのに、どうして?」
「ま、それは直《じか》に訊《き》いてごらんよ」
二人の少年が留置されているのは、ワタルが押し込められていたのと同じ部屋だった。一人は寝《しん》台《だい》に寝転《ねころ》がっていたが、一人──たぶん兄の方だ──は床《ゆか》に座り込んでいて、ワタルの顔を見ると、ギラリと目を光らせた。
「機嫌《きげん》よくしてるかい?」カッツが陽気に呼びかけた。「あんたらがヒドイ目にあわせたお友達を連れてきたよ。いっぺんぐらい、ちゃんと謝りたいだろうと思ってさ」
少年はぷいと目をそらすと、床に唾《つば》を吐いた。寝台の上の少年も起きあがり、ワタルを睨《にら》みつけている。こうして見ると、二人の顔には見覚えがあった。ワタルが「真犯人がわかった」と宿屋で騒いでいるとき、野次馬《やじうま》に集まってきた子供たちの輪の外側に、確かにこの二人が混じっていた。
あのときよりは、身ぎれいな様子になっている。でも、飢《う》えたような目つきは変わっていない。
通路の向こうから、トローンがぶらぶらとこちらに近づいてきた。すると、兄の方がいきなり飛びあがり、鉄格子《てつごうし》を両手でつかんで叫《さけ》び始めた。「このケダモノ! 汚《きた》ねえな! 臭《くせ》えからこっち来るんじゃねえ!」
ワタルはぎょっとして、思わず後ろへ下がった。トローンは顔いっぱいにニヤニヤ笑いを浮かべて、足を止める様子もない。鉄格子の内側では、兄だけではなく弟も一緒《いっしょ》になって、唾を飛ばし目尻《めじり》を吊《つ》りあげ、口を極《きわ》めて彼を罵《ののし》り倒《たお》しているというのに。
「な? こういうことだよ」トローンはワタルに並んで立つと、両手を腰にあてた。「この坊《ぼっ》ちゃんたちは、命からがら北の帝国を逃げ出してきたっていうのに、心のなかには、まだその帝国を、そっくりそのまま住まわせているんだ」
北の帝国では、アンカ族の支配階級のヒトびとが、他の種族を劣等《れっとう》で存在価値のないものと決めつけ、収容所に押し込めたり虐殺《ぎゃくさつ》したりしている──
「あんたらうるさいね。そんなにこっちにいるのが嫌なら、北へ送り返してやろうか」
カッツの言葉に、少年たちはますます逆上した。「おまえ、アンカ族のくせにケダモノの味方をするんだな!」
「そんな奴《やつ》は今にみんな滅《ほろ》びるんだ!」
「滅びそうなのは、あんたらの帝国の方じゃないか」カッツは物憂《ものう》げな口調で言った。「いろんな種族がいて、それぞれに得意なことがあって、みんなで工夫《くふう》を凝《こ》らして暮らしていくからこそ、国は富むんだよ」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
「黙《だま》れ、ケダモノの仲間め! おまえたちみんな劣等種族だ!」兄弟は口々に叫んだ。
ワタルは鉄格子に一歩近づいた。「おまえたち、ミーナをどこから連れてきたんだ? なんて言って脅かしていたんだよ?」
兄弟は一瞬《いっしゅん》顔を見合わせると、ワタルを指さしてゲラゲラ笑いだした。
「笑うな!」と、ワタルは怒鳴《どな》った。
兄の方は突然《とつぜん》真顔になり、鉄格子にぴったりとへばりつくと、小声で何か毒づいた。
「何だよ」ワタルは耳を寄せた。すると兄はぐるると喉《のど》を鳴らし、至近|距離《きょり》からワタルの顔に唾のかたまりを吐きつけた。
「うわ!」
あわてるワタルに、また指を突《つ》きつけて嘲笑《あざわら》う。そして言った。「今に見てろよ。俺たち正しいアンカ族がこの南大陸を統一したら、おまえたちなんかみんな収容所送りだ。毎日毎日飯のかわりに、俺たちの靴《くつ》を舐《な》めさせてやるよ」
「クツじゃないよ、お兄ちゃん!」弟が転げ回って笑いながら叫んだ。「ケツだ! ケツを舐めさせてやる! こいつらはみんな便所でクソを喰《く》って暮らすんだ!」
トローンがワタルの肩《かた》に手を置いた。「事務所に戻ろう」
ワタルはうなずいた。カッツはちょっとのあいだ、疲《つか》れたような目で少年たちを見つめてから、追いついてきた。
「あたしらも、北からの難民たちに、あっちがどんな非道《ひど》い状況《じょうきょう》になってるか聞いたことはあるけど……」カッツは憂鬱《ゆううつ》そうに呟き、自分の椅子《いす》にどしんと腰をおろした。「それが全部本当だとしても、どうしてあんなガキどもがいるんだろう」
ギル首長は落ち着き払っていた。「それこそがヒトの浅はかさだよ、カッツ。悲しいことだが、それもまたヒトの持ち合わせている性分《しょうぶん》のひとつなのだ」
北の帝国は、極端《きょくたん》な非アンカ族差別政策のため、労働力が減り、国力が衰《おとろ》えている。自分たちの食糧さえ、国内では充分《じゅうぶん》に自給することができない状態だ──と、首長はワタルに説明した。
「北と南とのあいだには、正式な通商条約が結ばれておる。食糧や日用品も、そこで決められた分量しか、南から輸出することはできない。だが、それではとてもとても足りなくて、北の人民たち全部には行き渡らん」
そこで北の商人たちが、南の条約破りの闇商人たちと手を結ひ、密《ひそ》かに物資を取引しては、またそれで懐《ふところ》を肥やしているという。
「だが、そうやって北に流れ込んだ闇物資は、当然のことながら値段が高いので、やはり北の一般《いっぱん》庶民《しょみん》の手には入らないのだ。だからこそ難民が出てくるのだよ」
「じゃあ、北の帝国で満足な暮らしをしているのは、いったいどんなヒトたちなんですか?」と、ワタルは尋《たず》ねた。
「一部の特権階級──」首長はゆっくりと答えた。「現皇帝アグリアスZ世の一族、貴族、政治家、役人、商人などの富裕《ふゆう》階級じゃ」
ゆらりと留置場の方に頭を振って、
「あの兄弟の両親も、察するところ、昔はそうした特権階級につらなる立場にあったのだろう。そうでなければ、密航船に乗れるような金を蓄《たくわ》えることはできなかったろうから。だが、さして高い地位ではない、小役人程度だったろうよ。それが失策か何かで転落し、国におられなくなったのだろうな」
「だったらなおさら、こっちに来て、北の帝国との違いが身にしみるはずなのに。なぜ差別主義を捨てないんだ?」
ギル首長は微笑《びしょう》した。「北からの難民が、すべてあの兄弟のような者たちばかりだ──ということではないよ」
「はい、でも!」
「失敗と幻滅《げんめつ》は現実だが、主義主張は夢と理想だ。そして夢は、なかなか消えるものではない」と、首長は言った。「北の差別主義のなかで成功することはできなかった。だが、幼いころから心に刷り込まれた、その思想は捨てられぬ。だから南へと場所を変え、そこでまた同じ思想を振り回し、特権階級にのしあがりたい──そういうことなのだろう」
「バカみたいだ」ワタルは吐き捨てた。
「そのとおり。そも非アンカ族差別主義そのものが、愚《おろか》かなること甚《はなは》だしい。しかしな、ワタル」
首長は穏《おだ》やかな口調を保って言った。
「愚かなるものの方が、時には、正しいものよりも遥《はる》かに強く、ヒトの心を惹《ひ》きつけることがある。小さな心、穴のあいた心、空っぽの枯《か》れ木のうろのような心には、愚かなるものの方が入り込みやすいのだ」
トローンが、トラ顔の顎をうなずかせている。
「我ら連合国家も高地人《ハイランダー》≠焉A北の帝国を恐《おそ》れはしない。だが、彼の地から流れ入る思想は恐ろしい。それはほとんど病と同じで、目に見えぬ。だが病と違い、身体の弱いものではなく、心の弱いものへと好んで憑《とりつ》く」
ワタルは、あの宿屋の酔っぱらいが、小母さんに怒鳴りつけられただけで逃げ出すほどの弱虫のくせに、キ・キーマのことをどんなに口汚く罵っていたか、思い出した。
「ところで首長さま」と、カッツが促《うなが》すような言い方をした。「ワタルに例の件を」
首長の目が大きくなった。「おお、そうだった! わしとしたことが、肝心《かんじん》の用件を忘れるところだったよ」
首長はなぜか、ワタルとキ・キーマの顔を見比べた。「ワタル、おぬしは旅人≠セ。これから女神《めがみ》さまにお会いするために、旅を続けねばならぬ。そうだな?」
「はい」
「それには旅費が要《い》る。おぬしはそれを稼《かせ》がねばならぬ。そこで、だ」首長はニコリとした。「おぬしも、我らの一員にならんか? 業務をこなし報酬《ほうしゅう》を得ながら旅をしてゆくのだ。各地の支部であるブランチを通して、女神さまのおわす塔へと続く道の情報を集めることもできて、一石二鳥だと思うが」
ワタルは思わずキ・キーマの大きな顔を見あげた。彼もよっぽど驚いたのだろう、舌がぴゅっと伸びて頭のてっぺんを舐《な》めた。
「でも首長さま、ワタルはまだこんなに小さいんですよ?」と、彼は裏返ったような声で言った。
「ハイランダーになるには幼すぎませんか? だって危険が多くて──」
「しかし、すでに立派にひとつの仕事をやり遂《と》げた。資格はある」首長は言って、キ・キーマを見た。「それに、これから先のワタルの旅には、おまえさんが同行するのだろう?」
キ・キーマのいかつい顔に、喜びの色がぱあっと広がった。「はい! 長老にお許しをいただいてきました!」
「キ・キーマ、ホントなの?」ワタルは尋ねた。「僕についてきてくれるの?」
「もちろんさ!」キ・キーマは、最初に草原で出会ったときと同じように、ワタルを軽々と抱《だ》きあげて肩に乗っけた。「どこまでもどこまでも、ワタルと一緒に行くぞ!」
「それではきまりだな」と、首長は言った。
連合政府の会議があるからと、首長が大急ぎで引きあげていった後、ワタルは初めて、この、ブランチのメンバーに、正式に引きあわされた。カッツがここの長で、トローンが副長、ほかに三人のハイランダーがいた。一人はあの大男のアンカ族、もう一人はキ・キーマより小柄《こがら》な水人族で、もう一人は耳の長いウサギさんみたいな飛足《とびあし》族だった。
「えらい目に遭《あ》わせちゃったね、チビさん」と、飛足族のハイランダーは言った。「カッツはやることが大げさでいけないよ。最初からあんたを囮《おとり》にして真犯人を捕《つか》まえる計画だったんだけど、何もホントに絞首台まで建てることないよねえ」
「うるさいね、余計なおしゃべりをするんじゃないよ」カッツはガミガミと言った。ワタルはまじまじと彼女の顔を見た。
「僕は囮だったんですか? 本当に絞首刑にするつもりじゃなかったの?」
カッツは口元をへの字に曲げてから、フンと息を吐いて怒《おこ》ったように言った。「あたしらだって、この世には裁判てものがあることぐらい、ちゃんと知ってるんだよ」
ワタルは吹き出した。するとカッツ以外のみんなが笑いだし、やがてカッツもその輪に加わって、大いに笑った。
「さて、今さらのようだけと、あらためて説明すると、高地人《ハイランダー》≠ニいうのは、そもそもはこの南大陸の南東部にあるゴザ高地に暮らしていた一族でね」と、カッツは言った。「そこには、こんな伝説があるんだ」
古《いにしえ》の昔、女神が混沌《こんとん》のなかからこの世界をお創《つく》りになったとき、隙《すき》を見ては女神の邪魔をしようとする混沌の怪物《モンスター》を遠ざけるため、一頭のファイアドラゴンが、いつも女神のおそばについて守っていた。無事に創世が終わると、ファイアドラゴンの働きに感謝した女神は、それをヒトの男の姿に変え、彼が脱《ぬ》ぎ捨てたドラゴンの皮から造った鎧《よろい》と兜《かぶと》を授《さず》けて騎士《きし》の称号《しょうごう》を与《あた》え、地上に送り出した。
「騎士はゴザ高地に降り立ち、その地のヒトのなかで暮らし始めた。彼の子孫は、一様に勇敢で正義を愛する者たちで、だから長い年月を経て、やがて彼らが南大陸全域に散って暮らすようになってからも、高地人≠ヘ正義と勇気を愛する者∞高い徳を持つ者≠フ代名詞とされるようになったんだ」
現在のハイランダー≠フ名称は、もちろんそれに由来している。そもそも、その元になった小さな自警団を興《おこ》したのも、ファイアドラゴンの騎士の末裔《まつえい》だという。
「だからあたしたちは、みんなこのファイアドラゴンの腕輪《うでわ》をはめている」
カッツは左手を持ちあげて、手首にはめた赤い革の腕輪《うでわ》を見せた。
「これはメンバーの証《あかし》であり、戒《いまし》めでもあるんだ」
ハイランダーがその責務を忘れ、怠慢《たいまん》に陥《おちい》ったり、悪事に手を染めたりすると、たちまちのうちにファイアドラゴンの腕輪が燃えあがり、その持ち主を焼き尽《つ》くすのだ。
「これがあんたたちの分だ」カッツは赤い腕輪を差し出した。「左手首にはめて、しゃんと立ちなさい。そして左手を胸にあて、右手を挙げて、あたしの後について、誓《ちか》うんだよ」
一同は輪になった。カッツは朗々と声をあげた。
「創世の女神さまよ、我らはファイアドラゴンの遺志を継《つ》ぐ者、護法の防人《さきもり》、真実の狩人《かりうど》なり。ここに来たる新たなる同志、女神さまの膝下《しっか》にひざまずき、魂《たましい》を捧《ささ》げ、誓約《せいやく》の印を引き結ばん。悪《あ》しきを憎《にく》み、弱きものを救《たす》け、混沌を退け、鋼《はがね》の守護者として立ち、この身が朽《く》ち果て塵《ちり》に還《かえ》るそのときまで、共に手を携《たずさ》え、正しき理《ことわり》の星を仰《あお》ぎ進まんことを」
ワタルたちが誓い終えると、カッツは晴れ晴れとした顔で言った。
「さあ、これであんたたちも仲間だ!」
それから数日のあいだ、ワタルはトローンと一緒に、パトロールの見習いを兼《か》ねてガサラの町を歩き回りながら、勇者の剣《けん》を育てるために必要な玉《ぎょく》や、真実の鏡の情報を探した。キ・キーマは、シュテンゲル騎士団が討《う》ち漏らした手負いのねじオオカミが、町はずれに出没《しゅつぼつ》するという急報を受けて、他のメンバーと一緒に出かけて行ったが、
「他所《よそ》の町のハイランダーからも、いろいろ聞いてくるよ」と張り切っていた。
ガサラの町には、本当に大勢のヒトたちが出入りするが、それでもめぼしい手がかりは見つからない。トローンは笑って、
「まあ、そう焦《あせ》りなさんな」と慰《なぐさ》めてくれたが、ワタルはやっぱり心の底が焦《こ》げる感じがした。幻界《ヴィジョン》≠ナの旅の見通しが立ったからこそ、なおさら現世にいる母の様子が気になってきたのだ。母さん、どうしてるだろう? 現世では、僕が居ないことが、どんなふうに解釈されているのだろう。現象としては、石岡やあいつの仲間たちと同じように、突然|行方《ゆくえ》不明になったように見えているだろう。母さん、心配するだけならまだしも、絶望してはいないかしら。
手負いのねじオオカミは一|匹《ぴき》や二匹ではなく、かなりの数がいるそうで、キ・キーマたちはなかなか戻らなかった。例の兄弟の取り調べもあるし、長としてブランチに残らねばならないカッツは、自分も出かけて行って鞭《むち》をふるいたくて仕方ないらしく、シュテンゲル騎士団は能なしだとか、ねじオオカミもちゃんと退治できないヌケ作|揃《ぞろ》いだとか、毎日毎日おかんむりだ。
「カッツはハイランダーであることに誇りを持ってるから、連合政府が即席《そくせき》でつくった騎士団なんて、意地でも認められないんだよ」
夕方、その日のパトロール報告書を書きながら、トローンが小声で教えてくれた。
「シュテンゲル騎士団てのは連邦議会直属の組織で、俺たちハイランダーに比べると、ずっと歴史が浅いんだ。騎士団といっても武官ばかりの集まりじゃなく、なかには文官もいる。騎士団長は連邦議会の議長が兼任することになってるしな」
トローンは眼鏡をちょっとずり上げ、太い腕を組んだ。
「これは、騎士団が議会に忠誠を誓っていることの印なんだけど、連邦議会の議長なんて、たいがいは年寄りの政治家だ。つまり、何か事が起こっても、自分で剣をとって立ち上がることなんかできない。いわば名誉職だよ。カッツはバリバリの現実派だから、そういうお飾りみたいな役職を頭にいただくというやり方が、まず気にくわないんだ」
シュテンゲル騎士団は、ワタルの感覚だと、警察と軍隊の併《あわ》さったような組織だと思える。でも、今の話を聞いていると、そのうえに政治的な役割も担《にな》っているみたいだ。
そう訊《たず》ねてみると、トローンはうなずいた。
「そうだな、ただの軍隊とは、ちょっと違う。で、シュテンゲル騎士団のなかの、俺たちハイランダーと同じような治安維持専門の部署は、遊撃隊と呼ばれてる。一応、各国に二師団ずつ組織されているけれど、管轄は南大陸全土だから、俺たち以上に頻繁に南大陸中を駆けずり回ることが多い。けっこう大変な仕事だよ」
「やっぱり、ハイランダーたちのように、いろんな種族が集まった混成部隊なんでしょう?」
なぜかしら、トローンはちょっと返事を躊躇《ためら》った。「それが、そうでもないんだ。シュテンゲル騎士団全体には──特に文官にはいろいろな種族がいるけど、遊撃隊に限ると、全員がアンカ族だよ」
「どうして?」
たとえば翼のあるカルラ族なんて、機動力があるから遊撃隊には最適だろうに。
「ま、それが政治的な部分さ」トローンは指で鼻筋をこすった。「もともと幻界では、アンカ族の数の方が多いからな。他種族全部を併せても、アンカ族との人口比率は四対六くらいだろう。アンカ族は多数派で、俺たち他種族は少数派。そのへんが、議会での発言力の差にもなってる」
でも、こんな話は、ワタルには無縁のことだとトローンは言った。
「カッツがシュテンゲル騎士団を目の敵《かたき》にするのは、なにしろああいう性格で、取り澄ました奴が嫌いだってだけのことだよ」
それとな、と声を潜めて含み笑いして、
「あいつは、ずっと昔だが、シュテンゲル騎士団の第一遊撃隊のロンメル隊長にフラれたことがあってな、それ以来──」
「ちょっとトローン、何だって!?」
カッツの鞭よりも鋭《するど》い視線が飛んできて、トローンは、眼鏡《めかね》が飛ぶほどの勢いで、きゅんと首をすくめた。
「いけねえ! ワタル、行こうぜ。診療《しんりょう》所の先生に会ってこよう」
今朝、町の門を開けると、すぐ外側にボグから来た行商人が倒れていて、ちょっとした騒ぎになった。本人は食あたりだと言っていたが、診療所の先生の診立《みた》てでは、伝染《でんせん》病の疑いもあるというので、門の外の小屋に隔離《かくり》した。門の周りは強いお酒をまいて消毒しなければならなくて、ワタルはまたぞろ酔っぱらいそうになった。もしも本当に伝染病だったら、おふれを出さねばならない。
診療所では、今日も先生が忙しそうに立ち働いていたが、トローンとワタルが挨拶《あいさつ》すると、すぐに笑って、
「伝染病の疑いは晴れたよ」と言った。
「ああ、そりゃ良かった」
「ただ、ちょっとあの行商人の話を聞いてやってくれんかね?」患者《かんじゃ》たちの耳に入らないように声をひそめて、医師は続けた。「彼が言うには、町の外にある井戸の水を飲んだ後、急に腹具合がおかしくなったというんだよ」 彼の訴《うった》えた症状《しょうじょう》も、先生の疑った伝染病にも似ているが、果樹園で虫取りに使う薬を間違って飲んでしまったときのそれとも共通点があるのだという。
トローンはひげをぴくぴくさせた。「それじゃ先生、誰《だれ》かが井戸《いど》に毒を入れたかもしれないっていうんだね?」
医師はしいっと指を立てた。「まさかそんなことはあるまいと思うがね。あの行商人はそう思っているようだった。今思えば、井戸の水の味がおかしかったとかね」
「その井戸の場所はどこでしょう?」ワタルは尋ねた。ひょっとして、僕も立ち寄ったことのあるあの井戸かも。「はっきりするまでは、フタをして水を飲めないようにしておいた方がいいんじゃないでしょうか」
「そうだな、急いで確かめよう」
隔離小屋の行商人はまた顔色がすぐれず、辛そうだったけれど、話はできた。彼が水を飲んだ井戸は、ワタルが知っているあの井戸ではなく、町の東側の岩山の麓《ふもと》にある、埋《う》もれかけたような古いもので、今までそんなところで水を飲んだことはなかったのだが、昨日はあんまり暑かったので、つい──という。
「東側の岩山……」トローンが顎をひねった。「あんた、ボグから来たにしちゃ、ずいぶんおかしな遠回りをしたじゃないか」
行商人は頭をかいた。「実は、あのへんにはお宝が埋もれているという噂《うわさ》を聞きましてね。私は普段《ふだん》、ボグとササヤのあいだを行き来しているんで、こっちは初めてなんです」
ササヤとの国境線の宿で相部屋になった商人に、ガサラの東の小さな岩山の麓に教会の廃墟《はいきょ》があり、そこには、かつて信者が寄進したお宝が、今でも残っていると教えられたというのだ。
トローンは苦い顔で行商人を睨んだ。「あんた、騙《だま》されたんだよ。その教会の廃墟なら俺も知ってるが、あんなところにお宝なんかあるもんか。そもそも、信者に寄進を迫《せま》るような教義じゃなかったんだから」
「じゃ、信心だけでいいんですか?」
「いや、信者の命を捧げるように求めた」
行商人がうひゃ!と叫んだ。ワタルは尋ねた。「それ、老神教の教会?」
「いや違う。老神とも、我々の女神さまの教えとも違ってた。ま、作り話ってことよ」
十年ほど昔、カクタス・ヴィラと名乗る旅の男が、ガサラの町をふらりと訪《おとず》れ、医者を自称して開業したが、やることなすことデタラメなので、当時の、ブランチ長が彼を捕《と》らえ、町の外に追放した。すると男は、町はずれの岩山の麓に掘《ほ》っ建て小屋を建てて、旧神《ふるきかみ》の与《あた》え賜《たも》う聖なる水の力で万病を治すというふれこみで、怪《あや》しげな活動を始めたのだという。
「ブランチでも何度も手入れをしたんだが、奴め、すぐに逃げ出すんだ。そしてちょっと目を離《はな》すとまた戻ってきて同じことをやる。そのうちに、だんだん患者というか、信者が増えちまって、あるとき、そいつらが教会を建て始めたんだって」
「旧神って、老神よりもっと古いのかな?」
「よくわからん。別の世界から光臨した神だとかいう話だったそうだ」
教会ができると、カクタス・ヴィラは、いつの間にかそこの神父に納まり、患者ならぬ信者たちは彼を崇《あが》め奉《たてまつ》って、共同生活を始めた。信者たちは荒《あ》れ地を耕して畑をつくり、作物をガサラに持ち込んで、物々交換《こうかん》で日用品を手に入れていたが、極めて貧しく、女も子供も老人も、みんな一様に痩《や》せこけていたという。
「そもそも、医者には治せない万病を治すという言葉に惹《ひ》かれて集まった連中だから、年寄りや病人が大勢混じってたんだ。信者たちだけで教会を維持《いじ》していくなんて、最初から無理だったんだよ」
現世にも似たような事件はある。ワタルはいくつかのニュースを思い出した。
「それでも連中の結束は固くて、ガサラのブランチも介入《かいにゅう》のタイミングを計りかねていたんだ。そしたらあるとき、真夜中に突然教会が炎上《えんじょう》し、ハイランダーたちが駆けつけてみると、信者たちは燃えあがる教会で──」
互いに手をつなぎ、旧神とその御子《みこ》であるカクタス・ヴィラを讃《たた》える歌を歌いながら、静かに焼け死んでいくところだった。
「手を尽くして消火《しょうか》したが、なにしろ素人《しろうと》の建てた教会だろ、骨組みだけを残してあらかた焼け落ちた。信者たちの死体が、そこらじゅうにゴロゴロ転がっていたってさ」
亡骸《なきがら》はみんな焼け焦げていたので、カクタス・ヴィラを特定することはできなかった。ブランチでは、正確に何人がここで共同生活していたのか把握《はあく》していなかったので、
「カクタス・ヴィラも、死んだのかもしれないし、逃げちまったのかもしれないが、はっきりとはわからなかった。未《いま》だにわからないままさ」
なるほど、そんな場所にお宝なんかありそうもない。でも行商人は、恨《うら》めしそうに宙を睨んで言った。「だけど、あの商人は、夜中に岩山のそばを通りかかったら、きらめくような光が教会の廃墟から溢《あふ》れ出て、そこらを真昼のように照らしていたって──」
トローンはシシシと笑った。「嘘《うそ》っぽいなぁ。そんなでっかい宝石があるかよ?」
「大きさはわかりませんよ。でも、それはそれは美しい輝《かがや》きを放つ宝玉《ほうぎょく》だそうで」
「玉!」ワタルは飛ひあがりそうになった。
トローンが素早《すばや》く釘《くぎ》を刺《さ》す。「早まるなよ。ただの噂だ。それも、出所はたった一人の商人じゃないか」
「でも、調べてみたいな。どっちにしろ、その井戸を封《ふう》じなくちゃならないでしょ? 行きましょうよ、すぐに」
[#改ページ]
7 見捨てられた教会
二人はさっそく、ウダイに乗って町を出た。ウダイというのは、ダルババよりもずっと身体《からだ》の小さな、現世の子馬ぐらいのサイズの動物で、ハイランダーたちが草原や岩場をパトロールするとき、好んで使う足≠セ。ダルババよりも小回りがきき、狭《せま》い場所でもスイスイすり抜《ぬ》けられるし、賢《かしこ》いのでヒトにもよく馴《な》れる。ワタルも、トローンにつきっきりで半日ほど教えてもらったら、楽に乗りこなせるようになった。ウダイは全身をふさふさした毛に覆《おお》われていて、鞍《くら》がなくてもお尻《しり》が痛くない。南大陸全域で、遠出にはダルババ車、近場にはウダイと使い分けられている。
トローンは少しも迷わず、問題の岩場の麓《ふもと》にたどり着いた。草原の東のはずれ、ねじオオカミの巣くう峡谷《きょうこく》のあたりほど険しい眺《なが》めではないが、ごつごつした岩が、青空の下に折り重なっている。巨人の子供が岩を積んで遊んでいたけれど、「ごはんよ」と呼ばれて、そのまま帰ってしまった後みたいな景色だ。「こんなところに井戸《いど》がねえ……」
トローンは顔をしかめる。
「草原の井戸はみんな、近隣《きんりん》の町が回り持ちで管理しているんだ。だから場所もはっきりしてる。ここには井戸なんかないはずだ」
「その教会の信者たちが掘《ほ》った井戸だったのかも。だから、今は埋《う》もれかけてるんじゃないかな」と、ワタルは言った。「教会の廃墟へ行ってみましょうよ。どこですか?」
「はいはい、わかったよ」トローンは歯を剥《む》いて笑った。「だが、ワタルにとっちゃ初の探索《たんさく》仕事だ。俺の指示に従ってくれよ」
「はい!」
トローンはウダイを駆《か》って、小さな岩場をひとつ行き過ぎ、中くらいの岩場をひとつ回り込み、その先の見あげるような赤茶色の岩場の手前で停まった。
「そら、あれだ」
指さされるまでもなく、ワタルにも見えた。真っ黒に焼け焦《こ》げた建物の柱が何本も、草木の一本もはえていない囲い地面に突《つ》っ立っている。まるで、天から降ってきた不吉《ふきつ》な黒い槍《やり》が、その場にザクザクと突き刺さっているみたいな眺めだ。目を細め、遠目から見ないと、それらの黒い槍が、全体でかろうじて建物の外形を作っていることさえ、すぐにはわからない。
「屋根は焼け落ちちゃったんですね」
「火災の後には、残ってたんた。そのあと雨風にやられて、なし崩《くず》しに崩れちまったんだな。なにしろ十年前の出来事だから」
二人はゆっくりと教会の周囲を回った。何も知らずに通りかかれば、ああ焼け跡《あと》だと思うだけで、不吉な印象など受けないかもしれない。だがワタルは話を聞いてしまったので、柱の内側の真っ黒になった地面の上に積もっている灰や塵《ちり》の塊《かたまり》のなかに、人体の焼けカスも混じっているのではないかと考えて、気持ちが悪くなった。
トローンのウダイが、悲しけに鼻を鳴らして後ずさりした。トローンは手でウダイの首を叩《たた》いて宥《なだ》めてやった。
「こいつ、怖《こわ》がってる」
ワタルのウダイも、焼け跡から一定の距離《きょり》を保とうとするかのように、同じ場所で足踏みを繰《く》り返している。
「今までガサラの町では、この場所にまつわる事件とか、ヘンな光を見たとかの届け出とかは、なかったんですか」
「ないね。ガサラに出入りするヒトたちは、こんな場所には用がないからな」
「だとすると、宝玉《ほうぎょく》の光ってのは、すぐそばまで近づかないと見えないんだな……」
ワタルの呟《つぶや》きに、トローンはむむと唸《うな》った。「だからさ、玉《ぎょく》と決まったわけじゃねえだろ? どれ、ちょっと降りてみるか」
ウダイの綱《つな》を岩場にかけて、二人は徒歩で焼け跡に近づいた。トローンは両手を空けてのしのしと歩いているが、ワタルは右手で勇者の剣《けん》の柄《つか》に触《さわ》っていないと、なんだか気がくじけそうだった。
「薄気味《うすきみ》悪い……」
「まったくだ」
二人は焼け跡の柱の内側にまで踏み込み、そこらを歩き回った。足の下で何かがぴしりと鳴ったり、何かを踏んだような感触《かんしょく》がするたびに、ワタルはそれがヒトの骨なのではないかと思って、ビクビクした。
「信者の遺体は全部外に運び出して、町の共同墓地に葬《ほうむ》ったそうだ」トローンが、あたりを調べながら言った。「だからここには亡骸《なきがら》は残ってないよ。俺たちが何か踏んづけても、誰《だれ》も気を悪くしたりしねえ」
「あ、そんなら安心です」と言いながらも、ワタルはついつい爪先《つまさき》立ちになった。
「見てみろよ」トローンが、黒焦げの柱の一本に触《ふ》れながら言った。「細い柱だぜ。ワタルの脚《あし》の方が、もっと太いんじゃねえか? 女子供や老人や病人ばかりじゃ、この程度の柱を運んできて立てるだけで精一杯《せいいっぱい》だったんだろうな」
陽《ひ》は傾《かたむ》きかけているが、まだ明るさは充分《じゅうぶん》残っている。それなのに、壁《かべ》が焼け落ちて、元は建物たった場所の内側とは言え、骨組みだけのスカスカになったところに立っているのに、ここは妙《みょう》に薄暗いとワタルは感じた。
「ワタル、井戸があったぞ」
トローンに呼ばれて、急いで行ってみると、建物の裏手に、倒れた柱の下敷《したじ》きになった、小さな井戸が見えていた。周囲を瓦礫《がれき》に覆われているが、石を積んで固めた井戸の口はまだしっかりとしており、のぞいてみると、思いのほか近いところで、水面に自分の顔が映った。
「水が満ちてる」
「うん。ここらは地下水が豊富なんだ」
トローンは手を突っ込んで水をすくいあげた。澄《す》んだ水滴《すいてき》がきらきらと落ちる。彼は手を鼻先に持っていって、水の匂《にお》いをかいだ。
「わからんが……ちょっと薬|臭《くさ》いような感じもするな」
トローンは、腰《こし》に提《さ》げていた革袋《かわぶくろ》に水を入れると、しっかりと口を縛《しば》った。そして、ワタルと二人で、持参してきたロープを井戸の周りに張り巡《めぐ》らせると、「使用禁止」の札を取り付けた。
「しかし、あの行商人め、教会の廃墟のなかまで入り込んでいたんだな。そうでなきゃ、こんな場所にある井戸に気づくはずがない」
「教会の歴史を知らなかったから、怖いとも思わなかったんですね」
「欲と二人連れなら、たとえ知ってたって怖くなかったかもしれないぞ」
トローンの言葉に、ワタルはふと母さんを思い出して、微笑《びしょう》した。バーゲンセールに出かけて大荷物を抱《かか》えて帰ると、いつも言ってたっけ。こんなにたくさん、よく重くなかったね。欲と二人連れだから大丈夫なのよ。
「よし、引きあげよう」と、トローンが言った。「長居は無用た。ゾクゾクしてきた」
診療《しんりょう》所に引き返し、先生に井戸水を渡《わた》し、検査を頼《たの》むと、ワタルとトローンは、ブランチに戻《もど》った。幸い、行商人は気分も良くなってきたというので、ひと安心だった。
それから陽が暮れきるまで、トローンの手伝いをして、ワタルは古い記録を調べた。カクタス・ヴィラとあの教会には、当時のガサラのブランチは本当に手を焼いていたらしく、薄い和紙のような紙を片綴《かたと》じした事件記録のなかには、欄外《らんがい》にこっそりと、公文書らしくない罵倒《ばとう》の言葉が書き添えられているものもあった。
「結局、カクタス・ヴィラという男の正体はわからなかったんだな」鼻眼鏡《はなめがね》を外しながら、トローンは言った。「何が旧神《ふるきかみ》だかねえ」
「万病を治す水というのが、あの井戸水だったのかな。だとしたら、本当は、薬どころか毒だったのかもしれない」
「何か混ぜてあるならな」トローンはうーんと背伸《せの》びをした。「ワタル、もう帰っていいぞ。腹減ったろう」
ワタルは髭《ひげ》もじゃ主人の宿屋に帰り、夕食を摂《と》った。給仕してくれた小母《おば》さんに、カクタス・ヴィラのことを尋《たず》ねてみたが、よく知らないという返事だった。
「今までここに泊まったお客さんで、岩場の教会にはお宝が眠ってるんだなんて言ってた人はいませんか?」
「さあねえ。聞いたことないよ」
遅《おく》れて食卓《しょくたく》についた髭もじゃ主人も、小母さんと同じことを言うばかりだった。でも、ワタルは気になった。朽《く》ちた教会の建物の内部から溢《あふ》れ出ていたという、まばゆい光。その正体は何なんだ?
──昼間は光らないのかも。
夜出かけて行けば、話が違《ちが》うかもしれない。そう思い立つと、我慢《がまん》ができなかった。そそくさと支度《したく》を整え、腰にちゃんと勇者の剣が収まっているのを確認《かくにん》すると、宿を出た。
ガサラの町の門は、そろそろ閉まる刻限で、駆け込みでやって来る隊商やダルババ屋たちで混雑している。ワタルはウダイを一頭借り出し、その混雑に紛《まぎ》れて、夜の草原に走り出た。ウダイは夜目のきく動物なので、闇《やみ》を怖がる様子もなく、機嫌《きげん》よく走ってくれた。
あとひと走りで教会にたどり着くというころに、夜の草原の遥《はる》か彼方《かなた》、ちょうど地平のあたりに、無数の蛍《ほたる》のような光がまたたいているのを見つけた。少しずつ移動しているようだ。シュテンゲル騎士《きし》団が戻ってきたのかもしれない。キ・キーマも一緒《いっしょ》だろうか。彼が帰ってきたら、ワタルが宿にいないことがすぐにバレてしまう。余計な心配をかけたくない。早く調べて戻らなくちゃ。
腰につけてきたカンテラが、黒い油煙《ゆえん》をあげている。昼間と同じ場所でウダイを降りて歩き出すと、聞こえるのは油の染《し》みた芯《しん》がジリジリ燃える音だけだった。
焼け残った教会の残骸《ざんがい》は、夜の闇よりもまだ真っ黒に見えた。ワタルは昼間トローンが歩いていた道筋を思い出しながら、足元に注意してゆっくりと瓦礫のなかを進んだ。
夜風が焦げ臭い──ような気がする。昼間は何も感じなかったのに。右手を勇者の剣にあてて、ワタルはできるだけ何も考えないようにした。光を見つける。ただそれだけが目的なんだから。
岩場のどこかで、ギャアというような声がした。思わずビクンとして飛びあがった。夜の岩場で羽根を休めている猛禽《もうきん》が、悪い夢にうなされているのかもしれない。つないできたウダイが怖がってないといいけど。というか、あいつの方が僕より勇敢《ゆうかん》かもしれない。
真っ暗だ。まばゆい光なんか、どこにも見えない。井戸のそばでしばらく周りを見回してみたけれど、光っているのは頭上の星ばかりだ。安心半分、落胆《らくたん》半分で、ワタルはふっと笑った。目の高さに掲《かか》げていたカンテラをさげて、足元を照らし、回れ右をした。
そのとき、カンテラの灯《あか》りと夜の闇の端境《はざかい》で、何か白いものがひらりと動いた。
ワタルはぴゅんと振り向いた。すると今度は、左手の方で、カンテラの灯りをかすめるように、白いものがすうっと上下した。ワタルは叩かれたみたいにそちらへ顔を向けた。
宙に、一本の白い腕《うで》が浮《う》いていた。
怖いというよりは、あまりにシュールな風景で、ワタルはちょっと見とれてしまった。闇から直《じか》に腕が生えている。ちょうど二の腕から先、真っ白でしなやかで、長い腕だ。女の腕だ。右腕だ。
それがすうっと左右に振《ふ》れて、人差し指がワタルを指さした。それから、おいでおいでをした。付いてこいというのだ。
夜の水のなかを泳ぐ、白くて細身の魚みたいだった。腕は心地《ここち》よさそうに闇の中を滑《すべ》って行くと、ある場所まで来て急に下を向き、ひゅんと地面に吸い込まれた。すると、腕が消えた場所が、白く光り始めた。光はワタルの顔まで届き、眩《まぶ》しいほどだ。
ワタルは走ってそこへ行った。とたんに、足元で何かがバリンと壊《こわ》れ、転びそうになった。どうやら、床《ゆか》を踏み抜きそうになったらしい。
──地下室があるんた。
昼間は瓦礫に紛れてしまって気づかなかったのだ。ワタルはしゃがんで床を調べた。すぐに、たった今踏み抜いてしまった上げ蓋《ぶた》の取っ手を探《さぐ》り当てた。光はこの上げ蓋の下から溢れ出てくるのだ。蓋を持ちあげると、光は一瞬《いっしゅん》、目の前が真っ白に見えるほどに強くなり、それからすうっと引いてしまった。まるで、光源が遠ざかったかのように。
地面の下に梯子《はしご》が続いている。ワタルはカンテラを腰につけると、地下へ降り始めた。
段数を数えながら降りて、四十段を超《こ》えたところで、やめた。長い。ということは、どこだか知らないがこの梯子の終わる場所まで、相当な高さがあるということだ。下手に意識すると、怖《お》じ気づいてしまう。今はひたすら降りることに集中するんだ。
身体が汗《あせ》ばみ、息があがるころになってやっと、革のブーツの硬《かた》い爪先が、段々とは違う感触のものに触れた。両手でしっかりと梯子をつかみながら、首をよじって見おろすと、カンテラの灯りに、水に濡《ぬ》れた岩場が見えた。どうやら、到着《とうちゃく》したみたいだ。
洞窟《どうくつ》──そう、梯子を降りきったこの場所から、うねうねと奥へ続く暗がりが見える。あの白い光は、そのいちばん遠く深い先にあるようだ。階上で見たときより、ずっと弱々しい光が、わずかに見てとれる。
カンテラを手に移し勇者の剣を持ち直して、ワタルは慎重《しんちょう》に歩き始めた。周囲の壁の色や感じは、現世のお墓で見かけることのある石に──御影石《みかげいし》っていったかな──よく似ていた。どこからともなく水がしみ出してきて、しとしと滴《したた》り、洞窟の壁や床を濡らしている。ちょっとだけ触ってみると、すごく冷たい。指を鼻先にあてて匂いをかいだが、薬臭い感じはしなかった。急いで出てきて手袋を忘れてしまったので、それ以上は不用意に壁に触らないようにした。水のあるところには生きものがいるかもしれないし、それが毒や刺す針を持っていても不思議はないから。
少し先で、岩でできた通路は、ほとんど直角に右に曲がっていた。曲がり角でいったん壁に寄り添《そ》い、少し耳を澄ませてから、ワタルは素早《すばや》く曲がって身構えた。
なんてことはない。また、岩をくりぬいたような通路が続いているだけた。誰もいないけれど、ワタルはちらりとベロを出した。ちょっとやってみたかったんだ、ああいうの。
この通路は、最初に通ってきた道よりも幅《はば》が狭く、天井《てんじょう》も低かった。右に左に、少しずつ歪《ゆが》んでふくらんだりへこんだりしている。とうとう突き当たりまで行くと、その正面は岩の壁で、床との境目に、かろうじてヒトがひとり通り抜けられるくらいの穴が空いていた。そこからわずかに、あの白い光が漏《も》れている。
──イヤな感じ。
こういう狭いところに入り込むのは気が進まない。でも、入らねば先へ行けない。どれほど熱心に見回しても、ほかに迂回《うかい》路は見あたらないのだ。
仕方がない。ワタルは足元にカンテラをおろすと、床にべたりと伏《ふ》して、穴の向こう側をのぞいてみた。やはり通路が続いているようだ。薄明るいし、弱い風が吹きつけてくる。
よし。心を決めて、頭から穴に潜《もぐ》り込んだ。そう長いこと腹這《はらば》いでいる必要はなかった。壁は薄かった。するりと抜けられた。
そこは、ただの通路ではなかった。頭上は、ガサラの宿屋の三階ぐらいの高さまで、すっぽりと丸い岩のドームになっている。それに広い。ワタルの学校の校庭と同じぐらいありそうだ。ちょっとした一戸建ての家ならば、このなかに、十|軒《けん》ぐらい入ってしまうだろう。
──地の底に、こんな広場みたいな洞窟があるなんて。
汗を拭いながら、ワタルは驚《おどろ》きの目でぐるぐると見回した。広場を隔《へだ》ててちょうど反対側に、さらに奥へと続く通路の入口がふたつ並んでいる。右のトンネルの方が大きく、すぐ前に、何か金気のものの残骸が折り重なっている。左の小さなトンネルには何もなく、白い光がその奥から漏れていた。
どこかで、ごく細く、水の流れる音がしている。ワタルは喉《のど》の渇《かわ》きを感じた。だけど、ここの水には口をつけられない。
そうだ、カンテラ。急いでしゃがみこみ、通り抜けてきた穴の向こうに腕を突っ込もうとしたとき、目の前で、そのカンテラが持ち去られた。真っ黒な、干《ひ》からびたミイラの腕みたいなものが伸びてきて、カンテラの取っ手をつかんで視界から消えたのだ。あっという間もないことだった。
今のは、いったい何だ? あれは何の腕? いや、ホントに腕だったか?
ハイランダーとしては、もう一度壁の穴をくぐって、向こう側に戻るべきなのだろう。あの怪《あや》しい腕。モンスターかもしれない。盗賊《とうぞく》かもしれない。ミイラの盗賊。ともかく、カンテラを取り返さなくちゃ。
でも、ここは明るい。この先の通路も、白い光に照らされている。カンテラがなくても充分に歩くことができる。とりあえずは先に進もう。そうしよう。積極的にそう決断したんだぞ。けっして、あの干からびた腕の持ち主に出くわすのが怖いわけじゃないんだぞ。
勇者の剣を構えながら、一歩一歩進んで、広場の中央あたりに来た。そこまで行くと、右のトンネルの前に積み重なっている金気のものの正体は、どうやら槍──金属を串《くし》のように尖《とが》らせただけの、ごく原始的な槍であるらしいとわかってきた。さらに、広場の右手奥の岩の壁に、昔は何か大がかりな仕掛《しか》けが設けられていたらしい痕跡《こんせき》も見えてきた。岩壁《がんぺき》に何か打ち付けた痕《あと》が見える。松明《たいまつ》を燃やしたのか、たくさんの煤《すす》が繰り返し繰り返し同じ場所にこびりついて、岩の色が変わってしまっている。じっと観察して、痕跡の輪郭《りんかく》をたどり、何もない場所に補助線を引いてみると、どぅやらそこにあったのは、ワタルの知っている現世の教会の祭壇《さいだん》に似たものであるように思えた。
ひょっとするとここが、カクタス・ヴィラと信者たちの礼拝堂だったのかもしれない。
──でも、だったらなんで槍があるんた?
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8 死霊
ワタルのなかで、右のトンネルを調べてみたいという気持ちと、触《さわ》らぬナンとかに崇《たた》りなし、ともかく左のトンネルを進もうという気持ちが、ぶつかりあって喧嘩《けんか》を始めた。
と、そのとき、右のトンネルから何かが出てきた。人影《ひとかげ》だ。ボロを纏《まと》ったヒトだ。誰《だれ》かここに住んでるんだ。あの串《くし》みたいな粗末《そまつ》な槍《やり》を杖《つえ》のようについて、それにつかまりながら、一歩、また一歩、おかしな具合に頭をグラグラさせながら歩いてくる。右のトンネルから出て、右の壁際《かべぎわ》──祭壇《さいだん》の跡《あと》のところへと向かってゆく。
それの姿がはっきりと見えるところまで来ると、ワタルは足に根がはえたみたいに、動けなくなってしまった。
それはヒトではなかった。かつてヒトであったはずのもの──骸骨《がいこつ》だった。骸骨がボロ布を身体《からだ》に巻きつけ、槍にすがって歩いているのだ。それが足を踏《ふ》み出すたびに、顎《あご》のちょうつがいが緩《ゆる》んで歯がかたかた鳴る。
ワタルの奥歯も鳴り始めた。膝《ひざ》のお皿が、てんで勝手な方向へ逃《に》げ出そうとしているみたいに、左右に分かれてガクガクし始めた。
落ち着け、落ち着くんだ。怖《こわ》くなんかない。一瞬《いっしゅん》だけ固く目を閉じて、ワタルは自分に言い聞かせた。僕は、おためしのどうくつ≠ナ四神将の試練に勝って、知恵《ちえ》と勇気を授《さず》かったんだ。そのうえに、ファイアドラゴンの加護もあるんだ。骸骨なんかに負けやしない。
壁際までたどり着いた骸骨は、ちょっとのあいだ槍につかまってフラフラしていたが、やがてカラカラと音をたてて崩《くず》れ、その場で一人分の骨の山になってしまった。
ワタルは嫌《いや》がる自分自身を駆《か》り立てて、右のトンネルへと向かった。入口のところに山と積まれた数々の槍は、どれもこれも薄汚《うすぎたな》く汚《よご》れ、錆《さ》びていた。
右のトンネルの奥は薄暗く、肉眼では出入口の周辺しか見ることができない。だが、何か出てきたらすぐにも応戦できるように勇者の剣《けん》を抜いて構えると、刀身が、洞窟《どうくつ》の広場を照らしているあの白い光を集めたかのように、静かに光り始めた。カンテラほどではないが、充分《じゅうぶん》な光源になる。ワタルは剣を掲《かか》げて奥へと踏み込んだ。
四、五メートル進んだろうか。トンネルの両脇《りょうわき》に、寝台車《しんだいしゃ》の三段べッドみたいな木の枠組《わくぐ》みが見えてきた。どれもこれも、満員だ。全部、ヒトが寝《ね》ている。
骸骨か寝ている。骸骨の寝台車だ。
突然《とつぜん》背後で、カタリと音がした。鞭《むち》のようにぴんと振《ふ》り向くと、すぐ後ろの寝台から、腰《こし》のまわりにボロを巻きつけた一体の骸骨が、ずり落ちるようにして降りてくるところだった。それはさっきの骸骨のように槍をついてはおらず、よろよろしながら両手を広げ、ワタルに向かって倒《たお》れかかってきた。
ワタルは必死で後ろに飛び下がった。声も出なかった。間一髪《かんいっぱつ》で骸骨の抱擁《ほうよう》は逃《のが》れたけれど、それが差しのばした骨の指先が、ワタルの鼻の頭をかすめた。骸骨は泳ぐように両手をゆらゆらさせ、ガチャガチャと軽い騒音《そうおん》をたててその場に倒れた。
なんだか蒸気機関車みたいな音がする──と思ったら、自分の呼吸音だった。ワタルは手の甲で額を拭《ぬぐ》い、顔をあげた。
信じられない光景が、目に飛び込んできた。満員の乗客たちが、続々と寝台から降りようとしていた。ある骸骨は寝台の手すりにすがり、ある骸骨は隣《となり》の骸骨の背骨につかまって。骨のこすれあう音、彼らを包んでいるボロ布や衣服の残骸が触れあう音が、たくさんの蛾《が》が羽根をこすりあわせているみたいに、サヤサヤと聞こえてくる。
ぽっかりと暗く空いた彼らの眼窩《がんか》に、あるはずのない目玉が、みんなしてワタルの上に焦点《しょうてん》を結んでいる。みんな、ワタルに近づいてこようとしている。ワタルは髪《かみ》が逆立つのを感じた。
出し抜《ぬ》けに足に力が戻《もど》ってきて、ワタルは逃げ出した。トンネルの入口からそれほど深く入り込んではいないはずなのに、出口までの距離《きょり》は理不尽《りふじん》なほどに長い。礼拝堂跡の広場は薄明るく、そこへ脱出《だっしゅつ》するトンネルは、希望への脱出口のように、さらに明るく見える。必死で足を動かすのに、ちっとも前に進まない。夢のなかで走ってるみたいだ。次から次へと救いを求めるように差し出される骸骨たちの腕《うで》は、ワタルの服をつかみ、腰の帯をつかみ、髪の毛をつかもうとする。
自分でも意識しないうちに、悲鳴をあげていた。今や、骸骨たちが何を望んでいるのかわかった。ワタルに殺到《さっとう》し、ワタルの上に雪崩《なだ》れかかり、骨の山でワタルを押し潰《つぶ》そうとしているのだ。転んではいけない。転んだらおしまいだ!
パニックのあまり、顎があがって、余計にスピードが落ちていた。後ろから骨の腕がのびて、ワタルの肩《かた》をつかんだ。振り払った拍子《ひょうし》にバランスを崩《くず》して片膝をつきそうになり、空をひっかくようにして起き直った。
そのとき、トンネルの出入口の真上の壁に、何か格子《こうし》みたいなものがくっついているのが見えた。頭のなかで光が閃《ひらめ》いた。落とし戸だ。外に逃げ出して、あれを落とせば、骸骨たちをここに閉じこめることができる。どこかにきっと、あれを操作するための装置があるはずだ!
死にものぐるいで見回すと、トンネルの出入□のすぐ内側の壁に、古びたロープを巻きつけたハンドルが見えた。ロープは上の落とし戸につながっている。ワタルは走りながら勇者の剣を構え直し、精一杯《せいいっぱい》鋭《するど》く腕をふるって、ロープに向かって振りおろした。
軽い手応《てごた》えがあって、ロープは呆気《あっけ》なく切れた。ゴトンと音がして埃《ほこり》が舞《ま》ったかと思うと、落とし戸がまっしぐらに落ちてきた。ワタルは一瞬目の前が真っ暗になった。早すぎる! あれじゃ、僕も一緒《いっしょ》に閉じこめられちゃう!
また骨の腕がワタルの服の裾《すそ》をつかんた。強い力だった。ワタルは目をつぶり、落ちてくる落とし戸とトンネルの床《ゆか》のあいだの隙間《すきま》へ、頭から身を躍《おど》らせた。
落とし戸は、空を飛んで通過したワタルの爪先《つまさき》をかすめて落下した。高下の勢いで、床でバウンドして五十センチほど持ちあがり、そこへ殺到した骸骨数体の腕や頭を挟《はさ》んで、どすんと閉まった。
俯《うつぶ》せに地面に倒れたワタルは、落とし戸がどうなったか確かめるよりも先に、這《は》うようにしてさらに遠くへ逃れた。それから、腰を抜かしたままやっと振り向いて、後ろを見た。
頑丈《がんじょう》な格子の落とし戸の向こうで、骸骨たちが骨の山になっていた。戸にぶつかった衝撃《しょうげき》で、壊《こわ》れてしまったのだ。まだ形をとどめている骸骨たちの腕や頭が、その骨の山をかき崩し、前へ出ようとしてうごめいている。
落とし戸に挟《はさ》まれて、頭や腕だけがこっち側に残った骸骨もあった。ワタルはおそるおそる立ちあがり、それに近づいた。
それらはうごめいていた。ワタルがそばに寄ると、ブーツをつかもうと指を動かし、爪先に噛みつこうと、顎をガタガタいわせている。ワタルはおぞましさと恐ろしさで胸が悪くなり、後ずさりせずにはいられなかった。
「あんたたち、誰なんだ」
尋《たず》ねても、骸骨が答えてくれるわけはない。
「ここで何してたんだ? あんたらも信者だったの? カクタス・ヴィラに、ここに閉じこめられたの? それとも、自分たちで閉じこもったのかい?」
見つめるうちに、腕や顎の動きがゆっくりになり、やがて止まった。洞窟の床に転がる、ただの骨になってしまった。
自分でも知らないうちに、ワタルはちょっぴり泣いていた。顔に触って涙《なみだ》に気づくと、怖かったせいだろうと思った。でも本当は、怖かっただけではなかった。悲しかった。この骸骨たちが哀《あわ》れだったのた。
肩を落として、もうひとつのトンネルの方へ向かった。心の中心が、大雨のときの雨水|溝《こう》のようになって、ありとあらゆる感情が、ごうごうと音をたててそこに流れ込んでいた。そのなかには、顔も知らず声も聞いたことのない、カクタス・ヴィラというインチキ宗教家への怒《いか》りも混じっていた。いつの間にか、指の関節が白くなるくらいの力で、勇者の剣の柄《つか》を握《にぎ》りしめていた。
今度のトンネルは、緩《ゆる》やかに下降していた。
──どこまで続いてるんだろう?
時折、右に曲がったり左に振れたりしながらも、おおむね真《ま》っ直《す》ぐに、どんどんくだってゆく。降りてゆくにつれて、白っぽい光が明るさを増してゆくようだ。水に濡《ぬ》れた岩壁《がんぺき》のあちこちに、文字や絵みたいなものが描いてあるのが見える。
礫《はりつけ》にされているようにしか見えないヒト。床に頭をすりつけて、祭壇に向かって拝んでいる大勢のヒトびと。ダルババによく似た動物の首を、斧《おの》で切り落とそうとしているヒト。血のように赤い色で書かれた、ワタルには読むことのできない落書きの文字。
そして、大きく両手を広げ、伏《ふ》し拝むヒトびとの前に立ちはだかる、真っ黒な人影。それはヒト離《ばな》れした体格で、頭には明らかに角のようなものがはえている。その異形のものの背後には、明るい太陽のように光るものが見えている。まるで、異形のものが、目の前に伏しているヒトびとの目から、その光るものを隠《かく》そうとしているかのようだ。
この角のはえたモノが、カクタス・ヴィラなのだろうか? 壁を見あげて、ワタルはぞうっと寒くなった。
トンネルをくだってゆくうちに、もうひとつ気づいたことがある。カンテラとか燭台《しょくだい》とか松明《たいまつ》の燃え残りらしいものとかが、地面にたくさん落ちているのだ。すべて古いものばかりだけれど、ただ捨てられたのではなく、みんな壊されたり折られたりしている。カンテラの残骸のなかには、明らかにトンネルの岩壁に叩《たた》きつけられたと思われるものもあった。
昔、ここにはかなり大勢のヒトびとがいた。彼らは、ここから先へは、灯《あか》りを持って入ることを許されなかったようだ。みんなここで、光源を捨てねば、先へは行かれなかったのだ。
ワタルは気持ちを奮い立たせ、さらにトンネルをくだった。道幅《みちはば》は次第《しだい》に狭《せま》くなり、微妙《びみょう》に上下するようになり、やがてある場所まで来ると、完全に急な上り坂になった。ワタルの頭上五十センチぐらいのところに、まるで窓みたいに、岩壁にぽっかりと穴が空いている。白い光ほ、そこから漏《も》れ出ていた。
ジャンプして、両手で穴の縁《ふち》につかまった。腕力《わんりょく》で身体を引きあげ、よじ登ると、穴をくぐり抜けて先へ進んだ。すると、呆《あき》れるほど広く、天井《てんじょう》の高い場所に出た。
思わず、ワタルはぽかんと口を開けた。広さも高さも、さっきの礼拝堂跡と思われる広場の倍はあるだろう。ワタルは、その空間の真ん中あたりに突《つ》き出た、ひさしのような岩のでっばり部分にいるのだった。
目の下には、澄《す》んだ水を湛《たた》えた地底湖が広がっている。なんて美しい水だろう。そして、あの真っ白な光は、この地底湖の底から溢《あふ》れ出ているのだった。
──凄《すご》い。
地底湖の形は丸みを帯びた五角形で、上から見おろすと、それ自体が巨大《きょだい》な宝玉のようにも見えた。うっとりするほど美しい眺《なが》めだ。見つめていると、水の底へと吸い込まれてしまいそうな感じがする。
強《し》いて頭を動かして、周りの岩壁を見回し、もう少し下へ降りる道はないかと探してみた。岩壁のあちこちに、今ワタルが立っているのと同じようなでっぱりが見える。上手に伝ったり飛び渡《わた》ったりしていけば、地底湖の湖畔《こはん》まで降りられそうだ。
足元に気をつけて、慎重《しんちょう》に行動したので、地底湖の湖畔の岩場に降り立つまで、だいぶ時間がかかった。それでも、緊張《きんちょう》で息がきれていた。水際に立つと、白い光はなおさら眩しく、波が静かにうち寄せるたびに、サラサラと音がする。地底のことで、風はそよとも吹《ふ》いていないのに、この波はどこから来るのだろう。ひょっとすると地底湖の真ん中あたりから、水が湧《わ》き出ているのかもしれない。
勇者の剣を腰の鞘《さや》に収め、片膝をついて、ワタルは水面に右手を差しのべた。ヒヤリと冷たく、絹のようにスベスべした水に、手の甲《こう》から手首まで浸《ひた》すと、なにかとても神聖なものに触《ふ》れているみたいな気がした。
白い光の源は、きっとこの湖の底にある何かだ。ここに飛び込んで潜《もぐ》ってみたら、見つけられはしないかしら。でもこれだけ冷たい水だと、ちゃんと準備運動しないと足がつるかもしれないな──
ぼんやりとそんなことを考えながら、清らかに光る水面を見つめていて、ふと気がついた。ワタルは見つめているだけでなく、見つめ返されている。
──何に?
大きな目玉に。いつの間にか、水面のすぐ下に、バスケットボールぐらいの大きさの目玉がひとつ現れて、まばたきもせずにワタルを見つめているのだ。真っ黒な瞳《ひとみ》と、白目に浮《う》いた細くて赤い血管までよく見える。
おかしな睨《にら》めっこは、数秒続いた。ワタルは魅入《みい》られたようになって、しばらくは動けなかったのだ。それから突然、正気に戻ったみたいにハッとして、水から手を引っこ抜こうとした。
水底から、目にもとまらぬ速さで何かが飛び出してきて、ワタルの手首をひっつかんだ。教会の廃墟に現れてワタルを手招きした、あの白い右腕だった。皮膚《ひふ》が水に濡れ、水滴《すいてき》を撥《は》ねちらかして光っている。間近に見ると、それは紛《まぎ》れもなく女性の手のように優美でありながら、力はもの凄く強かった。ワタルは声も出さずにじたばたして、何とかその手を振り払《はら》おうとした。そのあいだにも、水面下の目玉はワタルをじっと見つめている。
「離せよ!」
叫《さけ》びながら、力いっぱい腕をひっぱると、より強い力でひっぱり返されて、肩の関節が抜けそうになった。必死に力比べをしているうちに、今度は足が動かなくなった。のぼせそうなほど動転して見おろした目に、今度はあのミイラみたいな黒い腕が見えた。足元の水際から伸びたその腕が、ワタルの左足首をがっきとつかんでいる。
カンテラを持ち去った腕だ。よく見ると、これは左手だ。白と黒、左右|一対《いっつい》の手なのである。それがコンビネーションよろしく、ワタルを捕《と》らえて動きを封《ふう》じようとしている。
「何だよ、これ!」
喚《わめ》きながら足を蹴《け》ろうとすると、かえってバランスを崩し、その場に尻餅《しりもち》をついてしまった。これがチャンスというように、左右の手はいっそう強くワタルをひっぱる。水のなかに引きずり込もうとしているのだ! そしてその様子を、大目玉がじいっと観察している。
「助けて!」
思わず、本能がそう叫ばせた。ワタルの悲鳴が、広い洞窟の天井に反響《はんきょう》して木霊《こだま》する。ワタルをからかうみたいに、助けて、助けて、助けてという声が、微妙にトーンを変えながら、あちこちの岩壁に跳《は》ね返る。
もがきながら、左手を懸命《けんめい》に勇者の剣にのばした。もうちょっとで手が届くのに──
黒い手が左足をぐいとひっぱった。そのとき、絶妙のタイミングで、右腕をつかんでいた白い手がぱっと離れた。ワタルは仰向《あおむ》けに倒れて、腰のあたりまでざぶんと水のなかに引き込まれた。
──しまった!
白い手が再び空《くう》に現れた。ワタルの顔のすぐ上を、邪悪《じゃあく》な鳥のようにひらりと滑空《かっくう》すると、一気につかみかかってきた。シャツの胸元《むなもと》をつかみ、さらに深いところまで引きずり込むつもりなのた。
瞬間、ワタルは右手を動かして、勇者の剣を引き抜いた。ほとんど何も考えず、狙《ねら》いもつけずに剣をふるった。今度もまた、剣は自らの意思を持つように、あやまたず鋭い弧《こ》を描《えが》き、おぞましい蜘蛛《くも》のように五本の指を広げてつかみかかってくる白い腕の、掌《てのひら》の中央を、左から右へすっぱりと切り裂《さ》いた。
鼓膜《こまく》が硬直《こうちょく》し、もう二度と、すべての音という音を受け付けなくなるような、恐ろしい叫び声か轟《とどろ》いた。
切られた掌は、血も流さず、たた傷口からピンク色の肉をのぞかせて、まるで何かしゃべろうとするかのように、ぺらぺらと動いていた。ワタルはためらわず、今度は足首をつかんでいる黒い腕に向かって剣を構えた。
湖の水面が騒《さわ》ぎ始めた。底の方から幾重《いくえ》にも波が湧きあがってきたかと思うと、天井まで届きそうな水柱があがった。
滝のようになだれ落ちてくる水を頭から浴び、ずぶ濡れになりながらも、ワタルは左足が自由になったことに気づいた。素早《すばや》く起きあがって水辺へ飛び退《の》き、勇者の剣をしっかりと握り直した。
水柱のなかから、巨大な黒い影が姿を現した。白い光が溢れ出てくる湖の中央に背中を向けているせいで、それの身体の正面は完全に陰《かげ》になり、シルエットしか見えない。まるでローブを着た僧の影法師みたいだ。途方《とほう》もなく大きいということだけを除けば。
それの頭がゆっくりと左右に動いて、ワタルを正面に捉《とら》えた。そして、目が開いた。さっき水の下に現れた、あの目玉だった。ヒトの顔にあたる部分いっぱいに、たったひとつしかない目玉がギラギラと輝《かがや》く。
ワタルは声を張りあげた。「おまえはナニモノだ? ここの洞窟の骸骨は、みんなおまえに殺された信者たちなのか?」
黒い怪物《モンスター》は何も答えず、ただ目玉だけをぎろぎろと動かしている。と、宙を飛んで、あの右腕と左腕が、怪物のすぐそばへと戻ってきた。ワタルは、それらの腕が怪物の身体にくっつくのかと思った。
だが、そうではなかった。左右の手はその場でふらふらと空をかくような動作をしていたかと思うと、揃ってぐいと拳《こぶし》を握った。手の甲の関節が浮き出るのがはっきりと見えるくらい、力を込めてゲンコツをつくった。
──何だ?
左右の手は、ぱっと拳を開いた。手品師が何もないところからコインや花を取り出すみたいに、さっきは空をかいていた左右の手のなかから、いっせいに何か細い針みたいなものが飛び出した。
白い手からは白いものが、黒い手からは黒いものが。
そして、ワタルめがけて殺到してきた。逃げ出す前のほんの一瞬のうちに、ワタルはその無数の針みたいなものが、ひとつひとつ手の形をしていることを見てとった。あの白い手と黒い手のミニチュア。それらが、悪意を持った小魚のように、群をなして襲《おそ》いかかってくる。
手をあげて顔と頭をかばいながら、ワタルは水際を走って逃げた。小さな手の怪物たちが方向|転換《てんかん》をして追いかけてくる。それらが空を飛ぶときに、羽虫のようにぶんぶんと唸《うな》っているのが聞こえた。
ワタルは顔を伏せ、勇者の剣を振り回し、何とか手の群をかいくぐった。ここから脱出しないことには、手の群によってたかってズタズタに引きちぎられてしまう。ひとつひとつは十五センチぐらいの長さしかない手だが、その指は邪悪で鋭く、ワタルの皮膚をひっかいたり、目をつぶそうとしたり、衣服の下に潜《もぐ》り込んでこようとするのだ。
足を止めては駄目《だめ》だ。ワタルは走った。
咆哮《ほうこう》があがった。水辺に仁王立《におうだ》ちになったあのひとつ目の怪物の声だ。どこに口があるかもわからないのに、どうやって声を出しているのか。明らかに笑い声だった。それは楽しんでいるのだ。手の群に追われてワタルが逃げまどうのを、面白《おもしろ》がっているのだ。
大声で吠《ほ》えながら、それはずうと動いて、真っ黒なローブの袖をたくしあげ、自身の腕をあらわにした。それが高く持ちあげてみせた左右の腕は、建物の根太《ねだ》が腐《くさ》ったもののようでもあり、死んだ大蛇《だいじゃ》の胴《どう》のようにも見えた。指はない。腕の先端《せんたん》は魚のヒレみたいな形をしている。そしてそれは、その腕をぶるんと持ちあげて振りおろし、力いっぱい水面を叩いた。
ばしゃんと音がして、また水|飛沫《しぶき》があがり、ワタルの上に降り注いだ。バケツで水をぶっかけられたみたいだ。目が見えない。足元が滑る。転んだら最後だ──
「どりゃぁ!」
野太い声が響《ひび》いた。次の瞬間、何か鋭いものが真っ直ぐに洞窟の空洞を横切ると、ざくりと音をたてて、ローブを着た怪物の左腕に突き刺《さ》さった。怪物は再び咆哮をあげた。今度は苦痛の叫び声だった。
「ワタル、大丈夫か?」
襲いかかってくる手の群を切り払いなから、ワタルは目をあげた。岩壁の段々のところに、大きな斧を構えたキ・キーマかいた。すぐ上には投げ槍を担《かつ》いだトローンが、いちばん上の段にはカッッが膝立ちになっていた。
「今そっちへ行く! 頑張《がんば》れ!」叫ぶなり、キ・キーマは巨体に似合わない敏捷《びんしょう》さでするすると岩壁のでっぱりを飛び伝い、降りてきた。黒い怪物が、左腕に刺さった投げ槍を引き抜くと、キ・キーマに向かって投げ返した。カッツの鞭か唸って、槍がキ・キーマに届く前に、それを水の中に叩き落とす。すかさずトローンが二本目の槍を投げ、それはきわどいところで怪物の大目玉をかすめて落ちた。
「おりゃおりゃ! この化け物どもめ、ミンチにしてくれるぞ!」
キ・キーマはワタルのそはに駆け寄ると、ワタルをかばい、ハンマー投けの選手みたいに、自分を中心にぐるぐると円を描いて斧を振り回して、群がってくる白い手と黒い手を、片《かた》っ端《ぱし》から叩き落としていった。
「ど、ど、どうしてここがわかったの?」
安堵《あんど》と喜びで、ワタルはクラクラした。
「あんたのやりそうなことぐらいお見通しだよ!」
カッツは厳しく言い返すと、岩場を蹴ってジャンプし、襲いかかってきた怪物の黒いヒレのような腕を軽くかわしながら、宙返りをして湖畔に着地した。あの白い腕が、横合いから彼女の首に飛びかかるのを、目もやらずに察知して、鞭でぴしゃりと撃退《げきたい》する。
「こいつは何だ? カクタス・ヴィラが拝んでいた怪物か?」
三本日の投げ槍を肩に担ぎ、大目玉にぴたりと狙いをつけながら、じりじりと移動しつつ、トローンが言った。
「それとも、カクタス・ヴィラ本人のなれの果てか?」
「どっちだっていいよ! 退治するだけさ」
カッツが吐《は》き捨てて、今度は黒い左手を鞭で巻き取り、身体全体で反動をつけて勢いよく壁に叩きつけた。腕は呆気《あっけ》なくべしゃりという音をたてて潰れると、ボロ雑巾《ぞうきん》のように落下した。
湖畔の岩場は、ワタルの剣とキ・キーマの斧で切られた無数の小さな腕たちの死骸で、足の踏み場もないほどだ。カッツとトローンは油断なく身構えて、水辺に立ちはだかる黒い怪物と正対している。
黒い怪物の目玉が、ガサラのハイランダーたちを見比べるように、ギロギロと左右に動いた。白目がいっそう血走っている。
ぐるると喉《のど》を鳴らすような声をたてて、怪物のひとつ目が、一瞬だけ閉じた。それから、カッと見開かれた。
湖の水が騒ぎ始めた。黒い怪物の全身を覆《おお》っているローブが、ずるずると転げ落ちて水のなかへ落下してゆく。四人は目の前の光景に呆気にとられて、それぞれに驚《おどろ》きの表情を浮かべた。
ローブの下から現れたのは、ヒトと魚の混じりあったような、おぞましい形の生きものだった。鎧《よろい》のような硬いウロコが、びっしりと胴を覆っている。左右の脇腹にはヒレのようなものが生えていて、それがゆっくりと動くと、尖《とが》った先端をワタルたちの方へ向けた。
怪物は、トローンの槍で傷つけられなかった方の腕をあげて、頭を覆っていたローブの残骸を、自ら取り去った。ひとつ目はそのままだが、頭にはえた二本の角が剥《む》き出しになった。ワタルは、洞窟通路で見た壁画《へきが》を思い出した。
ひとつ目の下の顔の皮膚が左右に割れて、醜《みにく》い口が現れた。それは口笛を吹《ふ》くように口をすぼめると、頬《ほお》をふくらませ、炎《ほのお》の弾《たま》を吐き出した。
「危ない!」
トローンとカッツが飛んで避《よ》けた。炎の弾は壁面にぶつかり、がらがらと壁を壊した。ミサイルみたいだ! ワタルは動転して、カッツを助け起こそうとしながら、自分が転んでしまった。
また次の火の玉が、今度はキ・キーマの方に飛んできた。危《あや》ういところでかわしながらも、キ・キーマは「熱い!」と叫んだ。
「こりゃたまらん!」
体勢を立て直したトローンが、槍で目玉を狙おうとする。そこへまた炎の弾が飛ぶ。
「信じられない、何なんだよコイツ!」
次から次へと吐き出される炎の弾と、破壊されて落ちてくる岩の塊を避けるだけでも精一杯なのに、怪物は時折、脇腹のヒレを、まるでロケットパンチみたいに飛ばすのだ。キ・キーマが斧をふるって避けようとすると、先端がすっぱりと断ち切られてしまった。まるでギロチンが宙を飛んでくるみたいだ。
一転して守勢になってしまった一同は、それでも何とか体勢を立て直し、怪物の身体に槍や鞭を届かせようと、悪戦|苦闘《くとう》を続けた。斧を失ったキ・キーマは、両手で岩の欠片《かけら》をつかんで投げつけている。そのとき、ワタルはふと妙なことに気がついた。
明らかに、この怪物の弱点はあの大目玉だと思われる。トローンもカッツもキ・キーマも、ずっと目玉に狙いを定めている。だが、正面から狙ったのでは容易に避けられてしまう。だからワタルは、怪物にフェイントをかけようと、何度か湖のなかに走り込み、横手から岩を投げたり、剣を構えて斬りかかったりしてみた。一瞬でも怪物の注意がこちらに逸《そ》れれば、チャンスができる。
だが、怪物はけっしてワタルの方を見ない。脇腹のヒレを飛ばしてきたり、腕を振り回したりはするが、けっして頭は動かさない。目玉は、いつも湖畔の岩場の方を向いたきりだ。つまり、湖の中心の、あの溢れる白い光の方には背中を向けている。
再び、ワタルは洞窟通路で見たものを思い出した。たくさんのカンテラや燭台が壊され、うち捨てられていた。ここに駆けつけてくれた三人も、灯りは持っていなかった。たぶんワタルと同じように、途中で黒い腕か白い腕に持ち去られてしまったのだろう。
この怪物──光が嫌いなんじゃないか?
ちょっと見には、こいつ、湖の底の白い光の光源を守っているみたいに見える。外部のものを近寄らせないように、水際に立ち塞《ふさ》がって。でも、本当は違うのではないか。まったく逆なのではないか。この怪物は、あの白い光を直視できないのではないか。
──よし!
ワタルは水際を助走すると、勢いよく湖に飛び込んだ。少し水をかいただけで、水底の岩が深くえぐれ、湖が深くなっている場所が見えてきた。一度頭をあげて深く息を吸い込むと、思い切ってそこへ潜った。
白い光に照らされた湖のなかは、どこまでも明るく見通しがいい。だが、底は深く落ち込んでいて、どのあたりが水底なのか見当がつかないほどだった。ワタルは力強く水を蹴って泳ぎ、ちょうど怪物の真後ろまで来たところで、いったん水面に浮かび上がった。
怪物はハイランダーたちに向かって火の玉を吐いていた。ワタルはもう一度、意を決して潜った。
きっとここだ。怪物の真後ろ。少しずつ泡《あわ》を吐きながら、ワタルはぐいぐい水をかいて、深みを目指した。学校では、一生懸命泳いでも、あんまり速いタイムを出せたことはないけど、潜水《せんすい》は得意だ。
光。光。水面下の岩場を照らしている。ワタルは何かに急《せ》かされるように、勇者の剣を抜いた。すると剣は強く輝き、ワタルは何もしていないのに、自然に動いて、ワタルの右斜《みぎなな》め前あたりを指し示した。そちらへ潜れというのだ。ワタルはぐんと水を蹴った。
苦しくなってきた。息を吐ききってしまいそうだ。もう少し、もうちょっと──
そのとき、水底の岩場が見えた。そこだけ均《なら》したようになっている。そして、野球ボールぐらいの白い珠《たま》が、その真ん中あたりにころりと転がって、明るい光を放っていた。
ワタルは空いた左手をのばし、その珠をつかんだ。右手の勇者の剣が、喜びを表すように、ひときわ強く光り輝いた。
ワタルは一気に水面へ浮上した。肺が爆発《ばくはつ》しそうだ。全身が酸素を求めている。水の上に飛び出すと、ぜいぜいあえぎながら空気を吸った。それでも、剣の柄も珠もしっかりと固く握りしめて離さなかった。
白い珠が水面に出ると、洞窟内を照らす光がいっそう明るくなった。ひとつ目の怪物が、胴震《どうぶる》いして声をあげた。ワタルは怪物の真後ろにいた。素早く呼吸を整えて、再び水に潜ると、怪物の前に回った。
タイミングが肝心《かんじん》だった。また息を止めてぐっと我慢《がまん》すると、怪物の身体の真正面に回り込めるまで、ワタルはじっと待った。そして、ドンピシャリの瞬間に、両手で白い光の珠を掲げて、水面に躍り出た。
珠の光はあやまたず、怪物の目玉を正面から射た。怪物のひとつ目がいっぱいに見開かれ、苦痛の叫びが洞窟の天井を揺《ゆ》るがせた。それからあの不格好な両手が持ちあがって、光から目を守ろうとした。
「今だ!」
ワタルの叫びに応えて、トローンが投げ槍を放った。それはまっしぐらに空を横切って、怪物のひとつ目のど真ん中に突き刺さった。
ぎゃああああああ──!
怪物は叫びながら、両手で槍を引き抜こうとした。だが、その努力は空《むな》しかった。それの身体から力が抜けてゆく。穴の空いた風船みたいに、それはどんどん縮んでゆく。
「おおおおお、おおおおお、おおおおお」
身体が縮んでゆくにつれて、叫び声のボリュームも落ちてきた。それだけでなく、いったいどんなケダモノの喉から出ているのかと思うはどの奇怪《きかい》な声が、次第次第にヒトの声の音色に近づいてきた。
やがて怪物は、ヒトの大きさにまで縮んでしまった。そして、ゆっくりと湖に沈《しず》んだ。
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9 脱出
──やった!
緊張《きんちょう》の糸が切れて、腰《こし》が抜《ぬ》けたみたいになってしまった。ワタルはすうっと水に沈んだ。
「おいおいワタル、しっかりしろぉ!」
キ・キーマが水に飛び込んで、ばしゃばしゃと近づいてくると、ワタルの首根っこをつかみ、岸まで引きあげてくれた。
気がつくと、それでもワタルは、あの輝《かがや》く珠《たま》を胸に抱《だ》きしめていた。珠は静かな光を湛《たた》え、ほのかに温かかった。
「あれはいったい何だったんだろ?」
まだ険しい目をして水面を眺《なが》めながら、カッツが呟《つぶや》いた。
「それに、あのたくさんの手──手だけのお化けなんて、いるもんかね?」
「俺の読んだ昔の記録のなかには」と、トローンが言った。「カクタス・ヴィラが、自分の元に集まった信者たちを、善良なる働き手≠ニ呼んでいたという文章があったぞ」
「働き手、ね」カッツは吐《は》き捨てた。「頭は要《い》らないってことか。死霊《しりょう》になっても、親玉の怪物《モンスター》の命令に従って動く手の形をとることしかできなかったなんて、情けない話だね」
そのとき、湖の反対側の方で、また水柱があがった。一同はぎゅっと身構えた。
「まだ何か出やがるか?」
いや、もう怪物はいなかった。岩場の壁《かべ》が崩《くず》れ始めているのだ。大きな破片が剥《は》がれ落ちて、湖のなかに落下している。
ズズズズ──地鳴りが感じられる。
「まずいぞ! ここは崩れる!」
トローンが大声を出した。まるでそれを待っていたみたいに、天井《てんじょう》の一部が音をたてて壊《こわ》れて、ダルババの頭ほどの大きさの岩が、バラバラと落ちてきた。ここへ降りてくるときに使った岩場のでっぱりも、見えない手で掻《か》き落とされるみたいに、次から次へと剥落《はくらく》してゆく。カッツが素早《すばや》く動いて、残っている岩場のひとつに鞭《むち》の先端《せんたん》を届かせたが、尖ったでっぱりにしっかりと鞭を巻きつける間もなく、それは根本からガラガラと崩れた。カッツは鞭を引きあげるのが精一杯《せいいっぱい》だった。
「ちくしょう!」彼女の悪態にかぶせて、キ・キーマの大声が聞こえた。
「みんな、こっちに!」
キ・キーマは、倒れかかってきたダイニングテーブルの天板みたいな平らな岩を、万歳《ばんざい》するように両腕《りょううで》で支えて、両足を踏《ふ》ん張っていた。
「ここに隠《かく》れろ!」
一同がキ・キーマの方に走ると、ひときわ大きな地響《じひび》きが轟《とどろ》き、湖のなかに大きな岩の塊《かたまり》が次から次へと落下し始めた。
「天井が!」
カッツの叫び声に、ワタルは頭上を仰《あお》いで唖然《あぜん》とした。地底湖の真上に、かぎざきの形の大穴が空き、そこから星空がのぞいている。
「出口だ!」
キ・キーマのそばに走り込み、一緒《いっしょ》に万歳をして岩を支えながらワタルは叫《さけ》んだ。
「そうだね、ありがたいことだよ」危《あや》ういところで岩つぶてをかわし、ワタルの隣《となり》に滑《すべ》り込みながら、カッツが怒鳴《どな》り返す。「だけどさ、どうやってあそこまで行くんだよ?」
「この壁はまだ登れそうだぞ」トローンが、一同のそばの岩壁《がんぺき》を見あげた。地底湖のいちばん西の端《はし》、入ってきた側の岩壁とは反対側。目立つでっぱりはないが、起伏《きふく》はある。
「俺が上まで登って、ロープを垂らす。みんなはそれを登って来い」腰につけたロープをほどき、輪を作りながらトローンは言った。「武器は捨てて、できるだけ身軽になって来るんだぞ」
「僕が行く!」ワタルはトローンの手からロープをもぎ取った。「僕の方が、トローンさんよか軽いもの!」
「バカな──」
「大丈夫《だいじょうぶ》、僕が落ちたら受け止めてよ!」
ワタルはみんなが支えている平らな岩の板の上に飛び乗ると、そこから壁に飛び移った。アクション映画で、トム・クルーズがこうやって岩登りをするシーンを観《み》たことがあった。スタントマンを使わずに、ホントに演じたんだって。同じ人間なんだから、トム・クルーズにできたことが僕にできないわけはない!
って、そんな屁理屈《へりくつ》言ってる場合じゃなかった。洞窟《どうくつ》全体が身震《みぶる》いするように振動《しんどう》し始めたのが、はっきりわかる。グズグズしていたら、ここだっていつまで保《も》つか──目の前の岩壁にも、まるで生きものが増殖《ぞうしょく》するみたいに、みるみるうちにひび割れが広がってゆく。
ワタルは壁を登っていった。ほとんど何も考えられなかった。こんなときは、かえって恐怖《きょうふ》も感じないものだ。頭のなかは真っ白だ。
あと少し──あと二メートルほどで、星空ののぞく天井の穴の緑《ふち》に手が届く。
そのとき、ひときわ大きな揺《ゆ》れが来て、ワタルの重心がずれた。両手が、ついで両足が壁から離《はな》れた。呆気《あっけ》ないほど簡単に、ワタルは宙に放《ほう》り出された。目の下は地底湖だ。岩と一緒に、水のなかに落ちてゆく──
と思ったとき、何か柔《やわ》らかくしなやかなものに抱き留められた。ワタルは宙に浮《う》いた。
「つかまって!」
女の子の声がした。滑《なめ》らかな白い毛に包まれた腕が、ワタルの胴《どう》に巻きついている。
ミーナだった。天井の穴の緑から、ロープを腰に巻いて逆さにぶらさがり、両腕でワタルを抱き留めていた。背中にもロープの束を担《かつ》いでいる。
「わたしのロープを登って! 上へ!」
ワタルは彼女の腰のロープをつかみ、腕の力で身体を持ちあげると、彼女がぶらさがっているロープを登った。また、揺れが来た。
ワタルは無事に天井の穴から地上へ登ると、緑から下を見おろした。ミーナは天井のすぐ下にぶらさがって、右へ左へ揺れながらバランスをとり、背中のロープを下に残った三人のところへ投げ落とそうと、狙《ねら》いをつけていた。ワタルは急いであたりを見回した。ここは教会の焼け跡《あと》のすぐ西側──岩場全体が、崩れて斜《なな》めになっている。ミーナがぶらさがっているロープは、かなり先の安全地帯の岩場の尖《とが》った岩に、手際《てぎわ》よく二重三重に結びつけられている。これなら大丈夫だと確認《かくにん》してから、急いで穴の緑に戻《もど》り、できるだけミーナが揺れずにすむようロープをしっかりとつかんだ。
ミーナはしなやかに腕を動かして、トローンたちの真上にロープを落とした。彼らがロープをつかんだのを見届けると、彼女は鮮《あざ》やかにくるりと反転し、後足を天井の穴の緑にかけて、バック転の要領でひらりとワタルの脇《わき》に飛びあがってきた。
「ひっぱって!」
「よーし!」
最初にカッツが、次にトローンが、ロープで身体《からだ》を数珠《じゅず》つなぎにして登ってきた。そのころにはもう、地上にいても岩場全体が沈《しず》みつつあるのがわかった。早くキ・キーマを助けないと、今度はこの地上の足場も危ない。
「早く早く! 急いで!」
キ・キーマは岩場を鉤爪《かぎづめ》でひっかくようにして、呆《あき》れるほど素早く駆け登ってきた。彼ひとりなら、きっと、もっともっと早く逃げられたのだろう。キ・キーマが地上によじ登ってくるまで、ワタルは今まででいちばん怖《こわ》い思いをした。ああどうか神様キ・キーマを助けてください、彼を死なせないで!
「どりゃっと!」
キ・キーマが地上に躍《おど》り出た。みんな大丈夫かと、トローンが怒鳴る。とたんに、足元の地面が沸騰《ふっとう》するお湯みたいにグラグラした。
「逃げろ!」
一同は一斉《いっせい》に走り出した。振《ふ》り向かなくても、崩落《ほうらく》する地面の緑《ふち》が、踵《かかと》のすぐ後ろ一メートルほどのところに迫《せま》っているとわかった。ワタルはミーナと手をつなぎ、キ・キーマに肘《ひじ》をつかまれて走りに走った。
教会の焼け跡の先、小さな岩山が見えてきた。「飛べ!」と、トローンが叫んだ。「あの岩の向こうに飛ぶんだ!」
ワタルは、ミーナにひっぱられて、自分でも驚《おどろ》くくらい鮮やかに空に身を投げ出した。宙を飛んでいるとき、ミーナがまたワタルを抱きかかえ、リードしてくれるのを感じた。一瞬《いっしゅん》の後には、頭から落下するのでも、胸から滑り込みをするのでもなく、くるりと一回転して足を下に、膝《ひざ》を曲げて軟着陸《なんちゃくりく》していた。
もうもうと砂埃《すなぼこり》がたつ。しかし、崩落音は止まっていた。今飛び越《こ》えた岩場が盾の役目を果たしてくれたのだ。
「やれやれ……命びろいしたみたいだね」
カッツの声が、土埃のなかから聞こえる。そのすぐ隣で、ぶひゅうというような音がしたかと思うと、宙にふたつ並んだ小さな穴が空いた。キ・キーマの鼻の穴だった。息を吐き出したので、そこだけ土埃が飛んだのだ。彼もカッツも、岩や土の塊と見分けがつかないほど土埃にまみれていた。
「ワタル、大丈夫か?」キ・キーマの気遣《きづか》いに、ワタルはうなずいた。いつの間にか尻餅《しりもち》をついていたけれど、それでもミーナと手をつないだままだった。
「ミーナも大丈夫だよね?」
「うん」ミーナはいちばんけろりとしていた。「でも、もう一人のヒトが見えない──」
「そうだ、トローンは?」土と砂と細かな岩の欠片《かけら》の上にへたりこんだまま、カッツがあたりを見回した。「トローン、どこよ?」
押し殺したような声が、地面すれすれのところから聞こえてきた。「心配してくれるなら、まずそこからどいてくれ」
カッツは下を見た。みんなも下を見た。
「あら、まあ」カッツは吹《ふ》き出した。「ごめんよ、トローン」
カッツはトローンの上に座っていた。彼女がどくと、トローンは髭《ひげ》をピクピクさせながら起きあがった。
「生まれてこの方、こんな恐《おそ》ろしい思いをしたのは初めてだ」彼は憮然《ぶぜん》として言った。
「あらそう? 一生に一度でいいから、あたしに踏んでもらいたいって男もいっぱいいるんだけどさ」
カッツはケラケラ笑いながらそう言って、顔から土埃を拭《ぬぐ》い取ると、両手を腰にあてて立ちあがった。「こりゃ凄《すご》いねえ」
差し渡《わた》し一キロほどの場所が、どすんと陥没《かんぼつ》していた。教会の焼け跡は、かろうじてその緑で踏みとどまっていたが、柱はすべて倒れてしまい、ただの瓦礫《がれき》の山になっている。
「あんた、よく来てくれたね」カッツはミーナを振り返ると、ずいぶんと優《やさ》しい口調で言った。
「あたしたちの命の恩人だ」
ミーナは大きな瞳《ひとみ》をおろおろさせ、見るからに内気そうにはにかんだ。しっぽの先がゆらゆら動いている。
「身が軽いんだなぁ」トローンが感心する。「それに、ロープの扱《あつか》いも慣《な》れたもんだ」
「だけど、俺たちがここへ来るって、どうしてわかったんだい?」
キ・キーマの質問に、ミーナは叱《しか》られたみたいに身を縮めた。「ごめんなさい」
「謝ることなんかないさ。それに、あたしら出てくるときに大騒《おおさわ》ぎしたからね。診療《しんりょう》所にいたって聞こえたろ」カッツはにやりとした。「ワタルが一人で危険な場所に出かけたって聞いたら、じっとしていられなかったんだね、あんた」
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10 第一の宝玉
ミーナの顔の、白く柔《やわ》らかな毛に覆《おお》われていない部分が真っ赤になった。ワタルも顔が熱くなるのを感じた。気がついたら、まだミーナと手をつないでいたので、大あわてで離《はな》した。
「アッハハハ、一人前に照れてるよ」ヵッツが顎《あご》をそらして大笑いをした。「ホラ、真っ赤になっちゃってさ」
「からかわないでよ!」ムキになって抗議《こうぎ》しようとしたとき、唐突《とうとつ》に眩《まぶ》しい光に目を射られて、ワタルはたじろいだ。
「こりゃ何だ?」キ・キーマが叫《さけ》んだ。「ワタル、ワタルのシャツのなかだ!」
彼の言うとおりだった。シャツの内側、胸のあたりが白く光り輝《かがや》いている。
ワタルははっとした。あの珠《たま》だ! ロープで上に登るとき、落とさないように、とっさにシャツの内側に入れたのだった。
手を突《つ》っ込んで取り出すと、珠はワタルの指のあいだから温かく輝かしい光を放った。そしてワタルの手から離れて、重力に逆らってすうと宙に浮《う》き、見あげるほどの高さまで、ふわふわと昇っていった。
そしてそこで、ひときわ大きく輝くと、白い光は、白いローブを纏《まと》った女性の姿を形作った。ワタルをはじめ、誰もが仰向《あおむ》いて目を見開き、声も出せなかった。
白いローブを纏った幻《まぼろし》の女性像は、とても若い尼僧《にそう》のように見えた。口元には微笑《びしょう》を湛《たた》えている。その瞳が《ひとみ》動いて、ワタルを見つめた。
ワタルの心のなかに、たおやかな若い女性の声が聞こえてきた。
──あなたがわたしを解放してくれたのですね。ありがとう、心から御礼《おれい》申します。
ワタルはまばたきすることしかできない。
──長い間、カクタス・ヴィラの邪悪《じゃあく》な力に捉《とら》えられ、わたしはあの湖に閉じこめられていました。カクタス・ヴィラはわたしの力を利用しようと、わたしを地の底に連れて行ったのですが、わたしはけっしてあの男を許さず、あの男の所業も許しませんでした。あの男は、ヒトびとを支配し、ヒトびとの上に君臨し、崇《あが》め祀《たてまつ》られたいという自らの強い欲望、邪《よこしま》な虚栄《きょえい》心を満足させるために、多くのヒトびとを偽《いつわ》り騙《だま》し、殺しただけでなく、肉体を失った彼らの魂《たましい》を洞窟《どうくつ》に閉じこめ、亡者《もうじゃ》として仕えさせていました。あなたがわたしを解放してくれたことで、あの場所から逃げることのできなかった多くの魂もまた救われ、この地はようやく浄化《じょうか》されたのです。
ワタルは輝く女性の幻に、ふらりと一歩近づいた。「あなたは……どなたですか?」
幻の女性は、慈愛《じあい》に満ちた笑《え》みを浮かべた。
──わたしは女神《めがみ》の力の一端《いったん》を担《にな》うもの、癒《いや》しの精霊《せいれい》、白き力。
「癒しの精霊──」
幻の女性は、祈《いの》るように両手を胸の前で組み合わせると、目を閉じた。
──そして、女神に招かれし勇者に道を開くもの。
白い光がひときわ強く輝くと、今度は一点に収縮し始めた。小さく、星のようになって、ワタルの目の高さにまで降りてきた。
ワタルは両の掌《てのひら》を差し出して、白い光を受け止めた。指の爪ほどの大きさの珠が、手のなかで一瞬《いっしゅん》強く光り輝いて、鎮《しず》まった。
「最初の宝玉だ」と、ワタルは呟《つぶや》いた。
左の手の上にそれを載《の》せたまま、勇者の剣《けん》を抜《ぬ》いてみる。剣の鍔《つば》に刻み込まれた星の形の、いちばんてっぺんの穴の部分がキラリと光り、宝玉がそれに呼応するように小さく光り返して、ぴったりとその穴に収まった。
勇者の剣が、内側から静かな白い光を放った。気のせいか、その刀身がわずかに伸《の》びたように見える。それでいて、いっそう軽くなったようにも感じられる。
──これは、おぬしと共に成長する剣じゃ。
ラウ導師の言葉が、耳の底に蘇《よみがえ》った。
誰も、何も言わなかった。いつの間にか、東の空が白々と明け始めている。今はもう土埃《つちぼこり》も静まり、夜明けの光が地平線を一本の白い輝きに変えて、新しい一日が始まろうとしていた。
ミーナが、小さく叫んだ。「あ!」
今度は、彼女の胸元《むなもと》が光っていた。宝玉の輝きよりはずっとささやかだが、温かな色合いはよく似た光だ。ミーナの身につけているピンク色のシャツの下。
彼女が胸元を探《さぐ》って取り出したのは、小さなコンパクトくらいの円い鏡だった。革紐《かわひも》がついていて、首から下げられる。
「これ──」ミーナは目を見開いていた。「わたしの、お守りの鏡なんだけど」
「鏡?」ワタルは急いで彼女に近づいた。勇者の剣がまた光り、鏡の内側から光が漏《も》れる。ということは──もしかしたらこれ──
「これ、真実の鏡≠カゃないか?」
ワタルの言葉に、ミーナは鏡から目を離さずにうなずいた。「うん。父さん母さんが、わたしにくれたの。これはわたしたち一族が、代々伝えている家のお守りだって」
ワタルの肩《かた》を、キ・キーマがぽんと叩《たた》いた。「あとは、文様を探すだけだな、ワタル」
こちらが探さなくても、真実の鏡の方がワタルを見つけてくれる。ラウ導師の言葉に間違《まちが》いはなかった。ワタルはうなずいた。
そして、ガサラヘ帰るために一同が岩場を登り始めると、先頭を歩いていたトローンが、片手を腰にあて眼下を見おろしながら言った。
「どうやら、探す必要もないみたいだぜ」
地面の崩壊《ほうかい》で、様相が一変してしまった教会の焼け跡《あと》。瓦礫《がれき》と土と砂が、そこに、勇者の剣にあるのと同じ、文様の絵柄《えがら》を描《えが》き出していた。
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11 現《うつし》世《よ》
ワタルが文様の中心に立つと、首から下げた、ミーナの真実の鏡が、キラキラと光った。
誰《だれ》にそうしろと言われたわけでもないのに、ごく自然に、ワタルは勇者の剣《けん》を抜《ぬ》いて、それを頭の上に掲《かか》げた。そして目をつぶった。
剣の切っ先が光った。続いて文様が光った。白く、赤く、青く、そしてまた白く。最後に金色《こんじき》の輝きを放って、そして文様は消えた。
ワタルは目を開いた。
暗い。どこもかしこも真っ暗だ。自分の立っている足元の地面さえ見えない。後ろも前も、握《にざ》りしめているはずの勇者の剣も、鼻の頭さえ見えない。
ただ、胸元《むなもと》の鏡だけが光っている。そしてその光が、真《ま》っ直《す》ぐに前に伸《の》びて、トンネルのような光の通路をつくり出した。
ワタルはそのなかを歩み始めた。独りぼっちだ。足音もしない。光のトンネルの外は闇《やみ》ばかり。これこそが、ラウ導師の言っていた次元の狭間《はざま》の久遠《くおん》の谷なのかもしれない。
やがて前方に、ほかでもない、そのラウ導師が立っているのが見えてきた。ワタルは駆《か》け出した。
「導師さま!」
ラウ導師は、あまり機嫌《きげん》が良さそうには見えなかった。少々|退屈《たいくつ》しているみたいだ。
「ずいぶん待たせるの、おぬしは」と、あくび混じりに言った。「最初の宝玉を探すのに、これほど手間取るとは」
「スミマセン。でも、いろんなことがあって目が回りそうでした」
「まあ、良いわ」導師はやっと、にっこりした。「この光の通路をもう少し進むと、出口がある。そこから先は、もう現世《うつしよ》じゃ」
ワタルは緊張《きんちょう》で、喉《のど》が干《ひ》あがるのを感じた。
「おぬしが会いたいと思っている者のいる場所につながっておる。だから、迷うことはないじゃろう。さ、お行き」導師はワタルの肩《かた》を押した。「だが、忘れてはいかんぞ。光の通路から、キン、コン、カンという鐘《かね》の音が聞こえてきたら、それは戻《もど》れという合図じゃ。その鐘も、最初はのんびりしておるが、時間が追《せま》ってくると、速く鳴るようになる。そうなったら、走ってトンネルのなかにお戻り。トンネルが消えたら、久遠《くおん》の谷に落ちてしまうからの」
導師は顎《あご》をひねった。
「わしはもう引きあげる。おぬしの帰りを待ってはおらん。鐘の音だけが頼《たよ》りじゃ。よく気をつけて、耳を澄《す》ませておるのじゃよ」
「はい、わかりました」
ワタルは小走りに先へ進んだ。やがて、何か白っぽいものが見えてきた。トンネルの出口──そこに白いものがある。白い──
病院のベッドだった。
ワタルは病室にいた。目の前に、母の邦子が眠《ねむ》っている。
ワタルは母の枕元《まくらもと》に立った。病室は二人部屋だけれと、隣《となり》のベッドは空いている。母は一人きりだった。
灯《あか》りは消えている。カーテンの向こうの空も夜空だ。窓からちょっと外をのぞくと、ここは三階ぐらいの高さで、街灯の列が見えた。幻界《ヴィジョン》≠ニ現世では、やっぱり時間がずれているようだ。
「母さん」と、ワタルは小さく呼んだ。母は静かに寝息《ねいき》をたてている。
幻界に出発する前と、ほとんど変わっていないようでもあり、あれからさらに痩《や》せたようにも見える。頭板《ヘッドボード》に主治医の名前と入院日を書いた札がくっつけられている。内科の先生だ。入院日は、母さんが絶望のあまりガス栓をひねったあの日。
誰かが救急車を呼んでくれたんだな。
よかった。膝《ひざ》から力が抜《ぬ》ける。ああ、よかった。親切な人に感謝します──
母を起こして、事情を説明した方がいい。そのためにこそ帰ってきたのだ。でも、ワタルはなぜか声も出せず、母さんに触《さわ》ることもできなかった。ひどく悲しい気持ちと、とりあえず母さんは静かに眠っている、病院に保護されているんだから、もう大丈夫《だいじょうぶ》だという安心感とがないまぜになって、胸が詰《つ》まる。
枕元には、牛乳|瓶《びん》に挿《さ》した赤い花。ティッシュの箱。ベッドの足元に紙袋《かみぶくろ》がひとつ。のぞいてみると、タオルと下着を包んだものと、母さんのバッグが入っていた。
バッグのなかに、アドレス帳|兼用《けんよう》のメモ帳と、小さなボールペンを見つけた。ワタルはメモを一枚破りとると、そこに書いた。
──僕は元気です。大丈夫だよ。必ず帰りますから、待っていてください。亘
メモを小さくたたんで、母さんの手のなかに滑《すべ》り込ませた。そして一瞬《いっしゅん》だけ、強く手を握《にぎ》った。母さんはうーんというような声を出して、軽く寝返りをうった。
ワタルはしばらく待った。だが、母は目を覚まさない。耳の後ろの方で、キン、コン、カンと鐘の音がした。
誰《だれ》か、お見舞《みま》いに来たろうか。千葉のお祖母《ばあ》ちゃんとルウ伯父さんは? 小田原のお祖父《じい》ちゃんお祖母ちゃんは? きっとみんな心配してるだろう。
父さんは──?
父を想《おも》うと、幻界の冒険《ぼうけん》行に夢中なあいだは忘れていた感情が、いっぺんに蘇ってきて、ワタルを圧倒《あっとう》した。両手を身体《からだ》の脇《わき》でゲンコツに握り、心の嵐《あらし》が過ぎ去るまで、ただじっと耐《た》えて待った。
さっきより、速い鐘の音がする。
待っててね。きっと、すべてが良くなるから。良くしてみせるから。必ず、必ず、運命の塔《とう》にたどり着くからね。心のなかで呟《つぶや》いて、ワタルは踵《きびす》を返した。
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12 ミーナ
光のトンネルを駆《か》け戻《もど》ると、いつの間にか文様のあった場所、教会|跡《あと》の地面に出ていた。走ってきたはずなのに、息も切れていないし、汗《あせ》ばんでもいない。
岩場の上で、キ・キーマがのっそりと立ちあがった。すぐ隣《となり》に、ミーナの華奢《きゃしゃ》なシルエットも見える。荒《あ》れ地の夜明け、見事なまでの朝焼けのなかで、二人の顔は陰《かげ》になってしまい、表情までは見えなかった。
ワタルは黙《だま》って岩場に登った。キ・キーマとミーナが顔を見合わせて、それからキ・キーマも黙ったまま首を横に振《ふ》った。(何も訊《き》かない方がいいよ)という意味だろう。
「カッツとトローンは先に戻ったよ」と、彼はいつもの明るい口調で言った。努力して、そうしてくれているのだろう。「俺たちも帰って、朝飯にしよう」
ワタルたちは岩場を歩き始めた。足元に気をつけて、下ばかり見て歩いていくうちに、頭の上まで夜が明けた。
ワタルは振り返って、荒れ地を、草原を、岩場を眺《なが》めた。幻界《ヴィジョン》≠フ大地を眺めた。草原を渡《わた》る風が目に染《し》みる。
涙《なみだ》が出てきたのは、この風のせいだ。ワタルはそう思おうとした。この景色があんまり美しくて──病室で独りぼっちの母さんにも見せてあげたいなんて、ちょっぴりでも考えてしまって、だから涙が出るわけじゃない。僕はもう、そんな泣き虫じゃないのだから。
それでも頬《ほお》が濡《ぬ》れ、次から次へと涙が滴《したた》るのを、どうしようもなかった。キ・キーマはしばらく足を止め、そんなワタルを見守っていたけれど、やがてゆっくりと歩き始めた。目顔でミーナに、(泣かせておいてやろうよ)と話しかけてから。
ミーナも彼の後に続きかけたが、少しためらってから、そっとワタルのそばに戻った。
「ワタル、お母さんに会えた?」
うんと、ワタルは大きくうなずいた。それから、腕《うで》でごしごしと顔をこすった。
「そう、良かったね」ミーナはワタルの背中を優《やさ》しくさすった。
「ね、眠《ねむ》ってたから、話は、しなかった」ワタルは切れ切れに言った。「短いあいだに、いろいろ説明するの、ムズカシイし」
「そうだね。でも、ワタルのお母さんは、きっとわかってるよ。眠っていても、ワタルがそばに来たって、きっと感じ取ってるよ」
ワタルは目をこすって、ミーナを振り返った。彼女は励《はげ》ますように頬笑《ほほえ》んでいた。
「お母さんて、そういうものなんだって。離《はな》れていても、子供のことはわかるんだって。だからワタル、元気を出して。ワタルがしょげてると、お母さんにもそれが伝わっちゃうよ。ね?」
ワタルはまばたきして、最後の涙の一粒《ひとつぶ》を落とした。「うん!」
診療《しんりょう》所の先生の分析で、教会跡の井戸水《いどみず》には、作物につく害虫を退治するための強力な薬が混ぜられていることがわかった。また、先生は、ワタルが地下の祭壇《さいだん》で大勢の元信者たちの骸骨《がいこつ》に遭遇《そうぐう》したことを話すと、ぜひその骸骨を調べてみたいと言った。
「骨を調べれば、きっと殺虫|剤《ざい》の痕跡《こんせき》が残っているはずだ。みんな、この水を飲んで死んでいったのだろうからな。そうすれば、カクタス・ヴィラが治療≠ニ称《しょう》してあそこでやっていたことの一|端《たん》を、少しでも明らかにすることができる」
「今さら──という感じもしますけど」
ワタルは思い出し身震《みぶる》い≠しながらそう呟《つぶや》いた。でも先生は、両耳をピンと立てて、重々しく言うのだった。
「確かに、後からいくら調べても、死んでいった者たちが帰ってくるわけではない。だが、カクタス・ヴィラが本当はどんな奴《やつ》だったのか、できるだけ多くの事実を暴《あば》いておけば、次にまた奴のような輩《やから》が現れたときに、大勢のヒトたちが騙《だま》されずに済むかもしれないじゃないか」
塞《ふさ》がりかけていたミーナの傷は、洞窟《どうくつ》での大活躍《だいかつやく》で、またちょっと後戻りしてしまった。彼女は先生に叱《しか》られて、背中にしみる薬を塗《ぬ》られ、きゃっと叫《さけ》んだ。でも、初めて会ったころとは別人のように明るくなっている。
ミーナはどこから来たのか。北からの難民のアンカ族の少年たちと一緒《いっしょ》にいたのはなぜなのか。どうしてあんなに身が軽いのか。そして、なぜ真実の鏡をお守りとして身につけているのか。知りたいことが山ほどあって、ワタルはその日の午後、キ・キーマと一緒に、ミーナの病室を訪ねた。
彼女の方も、ワタルがあれこれ不思議に感じていることを察していたのだろう、
「こういうの、身の上バナシっていうんでしょう?」と、少しばかり照れながらも、進んで答えてくれた。
「もともとネ族というのは、南大陸にはほとんどいなかったんです」
三百年前、ガマ・アグリアスT世が北大陸の泥沼《どろぬま》の内戦の勝利者となり、現在の統一|帝国《ていこく》をうち立てたころ、その過激なアンカ族中心主義による他種族|弾圧《だんあつ》を恐《おそ》れ嫌《きら》って、今の難民たちよりももっと多くの種族のヒトびとが、命からがら南へと逃《に》げてきた。
「わたしのご先祖さまも、そうやって逃げてきたんです。今、南大陸にいるネ族の大半は、その移民たちの子孫なの」
ミーナのご先祖さまたちは、商業の国ボグに落ち着いた。ミーナにとっては曾祖父《ひいおじい》さんにあたるヒトが、たいへん商才があったらしく、農産物を扱《あつか》う問屋《とんや》を興《おこ》して大成功、一族は平和で裕福《ゆうふく》な暮らしをしていたという。
「へえ、じゃあミーナは、お嬢《じょう》様なんだな」
キ・キーマの感心したような合いの手に、ミーナは恥《は》ずかしげに笑った。でもその笑《え》みはすぐに消えて、寂《さび》しげなまなざしが、遠い過去を探《さぐ》るように、宙を見つめた。
「わたしが七歳の、とっても暑いころでした。わたしたち、お祖父ちゃんとお祖母《ばあ》ちゃんと父さん母さん、五人で、町から離れた小さい湖のそばにあった家に住んでいたんですけど、そこが──ある夜──襲《おそ》われて──」
なにしろ幼かったので、ミーナは事件のことをよく覚えていないのだという。ただ、真夜中に突《とつ》然《ぜん》母親に起こされ、ベッドの下に隠《かく》れていなさい、父さん母さんが呼びに来るまでは、何があってもけっして出てきてはいけない、名前を呼ばれても返事をしてはいけないと、厳しく言い聞かされたこと、そのときの母親の顔が、見たこともないほど険しく、怯《おび》えているようであったこと、そして、
「そのとき、母さんがわたしにこれを──」
ミーナは首から下げた真実の鏡に触《ふ》れた。
「これを持っていてねって。大切にするのよ、これはおまえのお守りだからって言ったの。母さん、少し涙ぐんでいて、わたしは怖《こわ》くて怖くて、母さんと一緒にいたいってダダをこねたんだけれど、母さんは部屋を出ていってしまったの」
言いつけに従って、幼いミーナはじっとベッドの下に隠れていた。広い家のなかで、どすんどすんと足を踏《ふ》みならすような音がしたり、誰《だれ》かが怒鳴《どな》っているのが聞こえたり、悲鳴のようなものが響《ひび》いたりして、死ぬほど恐ろしかったけれど、涙をこらえて小さくなっていた。
ワタルは、母の邦子が父の愛人に殴《なぐ》りかかるという騒動《そうどう》を起こしたとき、自分もまた小さくなって、ベッドの下に隠れたことを思い出した。もちろん、状況《じょうきょう》は全然|違《ちが》う。ワタルは目の前のゴタゴタから逃げただけで、命の危険は全然なかった。それでも、ミーナの気持ちが少しは想像できるような気がする。
「そのうちに、三、四人の足音が、家のなかを駆け回り始めたの」ミーナは小さな声で続けた。「何か探しているみたいだった。みんな男のヒトたちで、大声で何か訊いたり答えたり、誰かが誰かに命令したりしてる声も聞こえたわ。わたしはますます怖くなって、息を殺してベッドの下で小さくなってた」
探しものが見つからないのか、侵入《しんにゅう》者たちはそのうち家のなかのものを壊《こわ》したり、家具をひっくり返したりし始めた。それでもミーナはぐっと我慢《がまん》して隠れていたが、やがて煙《けむり》の匂《にお》いが漂《ただよ》い始めて、
「こっそりベッドの下から這《は》い出して、廊下《ろうか》をのぞいてみると、火が見えたの。そこらじゅうが燃えていた──」
そこへ、家の外の遠くから、激しく鐘《かね》が打ち鳴らされる音が聞こえてきた。消防隊だ!
「ベランダへ出ると、消防隊の車がこっちへ走ってくるのが見えたの。それまでは全然気づかなかったんだけど、もう夜が明けかけていた。車輪が土埃《つちぼこり》をたてるのが見えるくらい、明るくなってた」
ミーナは消防隊に救出されたけれど、火は家全体を包み込み、消し止めることはできなかったという。焼け跡からは、ミーナのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの亡骸《なきがら》が発見された。両親の姿はどこにも見えなかった。
「強盗《ごうとう》が家族を殺して、お金を盗って、家に火を付けて逃げたって、そう教えられました。わたしだけでも助かって幸運だったって」
家が立て込んでいる街中とは違い、隣近所も遠く離れている。目撃《もくげき》者もおらず、その土地のブランチも、ミーナの証言をもとに、そういう結論を出すしかなかったようだ。
「たけどそれなら、父さん母さんはどこにいるのかしら? わたしはほんの子供だったけれど、どうしても納得《なっとく》がいかなかった。それに、家に押し入ってきた男たちが、何か探し回ってるようだったことと、母さんがわたしにお守りを託《たく》したことには、何かつながりがあるのじゃないかって、気になって」
ミーナはボグの首都ランカに住む父方の親戚《しんせき》の商人の家に引き取られたが、月日が過ぎても、事件を忘れることなどできはしない。あの夜、何が起こったのか? 両親はどうなったのか? 今も生きているのではないか? 探したい、突きとめたいという衝動《しょうどう》に突《つ》き動かされて、とうとう親戚の家を飛び出したのは、十一歳のときだった。
「わたしったら本当に無鉄砲《むてっぽう》だった」と、ミーナは照れ笑いをした。
「ホントだ」と、ワタルも笑った。「あてはあったの?」
「何もなかった。でもね、そのころちょうど、ランカに大きなサーカス団が興行に来ていたの。親戚の家は、食料品の卸《おろし》問屋のほかにレストランもやっていて、そこのお得意様を大勢ご招待してサーカスを見に行っていたから、わたしも何度かサーカスには出入りしていたし、団長さんにもご挨《あい》拶《さつ》したことがあって」
ミーナは考えたのだという。サーカス団なら、国じゅうを旅して歩く。いろいろな情報も集まるだろうし、大勢のヒトにも会えるだろう。ひとつところでじいっとしていては、過去の謎《なぞ》は永遠に解けない。でも、旅してゆくうちには、手がかりに巡《めぐ》り合うかもしれない。
「それで、団長さんのところに押しかけて、事情を話して、わたしをサーカスで働かせてくださいってお願いしたの」
幸い、ブブホという団長は人情家で、彼女がサーカス団で元気に働くこと、団のなかで読み書きの勉強を続けることという条件をつけた上で、ミーナの頼《たの》みを聞き入れてくれた。
「サーカスか。どうりで身が軽いわけだよ」
キ・キーマは手を打ち鳴らすと、大いに納得した顔だ。でも、ワタルはまだ釈然《しゃくぜん》としないところがあった。
「じゃあミーナは、ずっとそのサーカス団にいたんだろ?」
「うん。エアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシンというサーカス団よ。目がくらみそうなほど高いところで、ブランコに乗ったり、アクロバットをしたりする空中ショウが売り物なの。団名も、それに由来してるの」
ミーナはちょっぴり得意そうだ。
「わたしも、ロープを使った空中アクロバットを見せてたのよ。団長さん直伝の芸でね、けっこう人気があったんだ」
「あのアンカ族の少年たちとは、どこで知り合ったの? どうして彼らと一緒にいたの? ずっと脅《おど》かされてたみたいじゃないか」
ミーナの表情が、スッとしぼんだ。「それは……わたしがバカだったの」
一年ほど前、あの少年たちがまだボグ国内の難民収容所にいるころ、エアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシン団が、慰問《いもん》興行をしたことがあるそうだ。ミーナはそこで彼らと話をする機会があった。
「それで……あの子たちが言ったの……北から逃げてくる前には、あの子たちの親は、異種族管理庁の役人で、だから、世の中には知られていないようなことも、いろいろ知ってるって」
異種族管理庁というのは、北の帝国《ていこく》政府の一機関だという。北では、アンカ族以外の種族を「異種族」と総称し、彼らの生活のすべてを、この管理庁で文字どおり管理しているのだという。
「何が管理なもんか」キ・キーマが鼻の穴をふくらませて怒《おこ》った。「財産を取りあげて収容所へ押し込めて、強制労働させることのどこが管理なんだよ! 水人族の難民に聞いた話じゃ、風船《かざぶね》の造船や修理のために、ろくな工具もないところで、飲まず食わずで二十四時間ぶっ続けで働かされたって。一日に五人も十人も倒《たお》れて動けなくなるんだけど、もちろん医者なんかいやしないし、薬もねえ。身体《からだ》が弱ったものは、ほったらかしの野ざらしで、死んだら海に放《ほう》り込まれるって言ってたぞ! そうやって死んだ水人の死体が、山になってるのを見たってさ!」
ミーナは目を伏《ふ》せてうなずいた。「わたしも、似たような話をいっぱい聞いてる」
「それで、あの二人は何を知ってるって言ったのさ?」ワタルは促《うなが》した。
「北の帝国は、南へ逃げた異種族の子孫を、こっそり誘拐《ゆうかい》して、北へ連れ戻しているというの」ミーナの声が、ちょっと震えた。「もう二十年以上も前から。あの子たちの親は、そうやって連れ戻されたヒトたちを収容する特殊施設《とくしゅしせつ》で働いていたことがあるから、知ってるっていうの」
ワタルはキ・キーマと顔を見合わせた。
「わたしの話を聞いたあの子たちは、わたしの両親も、きっと、同じように北へ連れ戻されたに違いないと言ったわ。だから焼け跡から亡骸が見つからなかったんだって。わたしも、探していた答がやっと見つかったと思った。父さんも母さんも、北の帝国にいるかもしれない、まだ生きているんだって」 ミーナの目が輝《かがや》いている。
「だけど、北の帝国政府は、どうしてそんなことをしてるんだろう?」
「わからない。あの子たちも、自分たちも詳《くわ》しいことは知らない、でも、先に南に渡っている難民で、あの子たちの親の上司だったヒトに心あたりがあるから、そのヒトに会えはもっといろいろ教えてくれるはずだって言ったの。それでわたし──」
「むむむ」と、キ.キーマが唸《うな》る。「そうするとミーナは、その言葉を信じて、あいつらの脱走《だっそう》を手伝ってやったのかい? そして、あいつらの言葉に引きずられて、ずっと一緒に行動していたんだな?」 ミーナは答えず、顔が見えないくらい深く俯《うつむ》いてしまった。それが返事になっている。
「じゃあ、そのエアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシン団のヒトたちも、きっとミーナのこと心配してるはずだね」と、ワタルは言った。「内緒で出てきたんだろ?」
「うん。うち明けたら、絶対に止められると思ったから……」
「そりゃあ止めるよ。俺だって止める。あんなガキどもの言うことを真に受けるなんて、やっぱりミーナはお嬢さんなんだな」
キ・キーマはからかっているつもりなのだろうけれど、ミーナは本当に面目《めんぼく》なさそうな顔をしている。
「でもね、少しばかりわかったこともあるのよ。あの子たちも、デタラメばっかり言ってたわけじゃない」
南に逃げた難民を強引《ごういん》に連れ戻すという、不可解な荒事《あらごと》に携《たずさ》わっているのは、シグドラ≠ニ呼ばれる特殊部隊であるという。
「そいつら、軍人なの?」
「帝国軍とは関係ないの。現皇帝アグリアスZ世と、帝国軍総帥のアジャ将軍は、幼馴染《おさななじ》みでもあるのだけれど、実はあんまり仲がよくないんですって。それは北の国民たちのあいだでも──もちろん大きな声では言えないけれど──よく知られたことなんですって」
北の帝国では、こちらのシュテンゲル騎士《きし》団やハイランダーにあたる治安|維持《いじ》組織も、帝国軍の下部機関であって、独立した権限がないのだそうだ。そこでアグリアスZ世は、いちいちアジャ将軍に相談せず、自分の好きなように動かせる特殊部隊を作りあげた。それがシグドラ≠ナある。
キ・キーマが、長いベロで頭のてっぺんを舐めている。
「どうしたの? ヘンな顔して」
「うん? 嫌《いや》な名前だと思ってさ。シグドラ≠ネんてよ」
北の帝国は、幻界を創《つく》りあげたのは老神であり、女神はその老神を騙した偽《いつわ》りの神であると説く「老神|信仰《しんこう》」を国教に掲《かか》げている。
「シグドラは、女神さまに騙されたと知った竜神が、怒って引き返してきたとき、従えていたという怪物《モンスター》の名前だ。毛むくじゃらの三《みっ》つの頭と六本の脚《あし》を持ち、二股《ふたまた》に分かれたしっぽの先にそれぞれ蛇《へび》の頭がついてるっていう。もっとも、俺たち水人族の言い伝えのなかでは、混沌《こんとん》の深き淵《ふち》に棲《す》んで、迷い込んできた者の魂《たましい》を喰《く》らう、ただの醜《みにくい》い獣《けもの》でしかないんだけどな」
「三つの頭……脚が六本……」
「いつも恐ろしく飢《う》えていて、何でも喰らうし、一度獲物《ひとたびえもの》を見つけると、どこまでもどこまでも追いかけて、けっして見逃《みのが》すことがない。シグドラというのは、古いアンカ族の言葉で忌《い》まわしき猟犬《りょうけん》≠ニいう意味なんだ」
ミーナの両親は、そんなおぞましいものに喩《たと》えられる組織にさらわれた──
「ワタル、お願いがあるんだけど」、ミーナが大きな瞳《ひとみ》をワタルに向けた。「あなたの旅に、わたしも一緒に連れていってくれない?」
真剣《しんけん》に見つめられて、ワタルは顔が赤くなり、心臓が身体の内側でもじもじし始めた。
「え? た、旅に? 一緒に?」
「どうぞお願い! わたし、きっと役に立つから! あなたについてゆけば、団のみんなと一緒に旅をするよりも、もっと速く、遠くまで行かれるでしょう? だから──」
ミーナはどんどん迫《せま》ってくる。ワタルはたじろいでじりじりと後ろに下がり、とうとう椅子《いす》から転げ落ちそうになった。
キ・キーマが特大のニヤニヤ笑いを浮《う》かべながら、ワタルの後ろ首を捕《つか》まえた。
「可愛《かわい》い子ちゃんに、こんなに一生|懸命《けんめい》頼《たの》まれちゃ、捨ててはおかれないよな、ワタル?」
「う、うん」ワタルは顔の汗を拭《ふ》いた。「それに、ミーナは命の恩人だもんね」
「よかった! ありがとう!」
飛びあがって喜ぶミーナに、しかしワタルは言った。「でもミーナ、僕らと行く前に、まずスペクトルマシン団の皆さんに、元気でいるって知らせなくちゃいけないよ」
「スペクタクルマシン団よ」ミーナはクスクス笑った。「でも、ワタルの言うとおりね」
「じゃあ、こうしたらどうだ? 俺たちみんなで、そのスペクタクルマシン団のところに行くのさ。ミーナは団のみんなに会えるし、ワタルはまた新しい情報を集めることができるって寸法だ。名案じゃないかい?」
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13 マキーバの町で
ミーナの傷が完全によくなるのを待って、三人は交易の町ガサラを出発した。長旅と山道に強い脚力《きゃくりょく》を持つダルババを、キ・キーマが特に選び、カッツが揃《そろ》えてくれた少々の日用品を荷台に積み込んだ。もちろんキ・キーマが手綱《たづな》を取ったが、道が平坦《へいたん》な場所では、ワタルもダルババの操縦法を習った。
荷台のミーナは、のんびりと景色を楽しみながら、時々、驚《おどろ》くほどきれいな声で歌った。現世《うつしよ》の家でワタルの父が聴《き》いていたことのある中南米のフォルクローレ≠ニいう音楽に似たその節回しは、時には哀切《あいせつ》に、時には明るく、三人の道中を彩《いろど》った。
ミーナもスペクタクルマシン団を離《はな》れて一年近くになるが、彼女の記憶《きおく》では、団のみんなは、今ごろボグのどこかで興行をしているはずだという。そこでひとまず、ガサラからの直線|距離《きょり》で、ナハトとボグの国境線にいちばん近いところにあるマキーバという町を目指すことにした。マキーバは小さいが牧畜《ぼくちく》の盛《さか》んな町で、ガサラでワタルがたくさん食べた肉料理の材料の主な供給源だという。
「ボグは四《よっ》つの国のなかではいちばん小さいし、スペクタクルマシン団の公演は、どこへ行っても大評判になるから、もしもみんなが今ボグのどこかにいるのなら、きっとマキーバあたりまで噂が《うわさ》届いていると思うの」
ミーナの予想どおり、レンガと丸太を組み合わせて造りあげられた素朴《そぼく》な家々が寄り集まってできたマキーバの町に着き、最初に立ち寄ったダルババ屋で、絢爛豪華《けんらんごうか》で手に汗《あせ》にぎるショウを見せるスペクタクルマシン団が、ほんの四日ほど前に、マキーバから北に山をひとつ越えたところにある湖の畔《ほとり》にテントを張り、このあたりに点在する小さな村々や、行商人たち、僻地《へきち》で孤独《こどく》に観測を続けている星読み台の学生たち、関所で働く役人たちのために、格安の特別興行をうつと宣伝しながら、マキーバを通り抜《ぬ》けていったという話を聞くことができた。
「わあ、良かった!」ミーナは手を打って喜んだ。「こんな近くにいるなんて!」
「あんたはそのショウを観《み》たのかい?」
キ・キーマの質問に、ダルババ屋のヒトたちは首を振った。
「誰も観ていないんだ。俺たちだけじゃない、マキーバの町の連中はひとり残らず、ショウ見物どころじゃなかったんだよ」
山火事があったのだという。ここのダルババ屋の主人は、町の西側から南西方面にかけて連なる、なだらかな山々を手で示した。
「あっちの方面だけ、山が禿《は》げちょろけになってるだろう? ほかの山はそんなことはないのに。今は緑のきれいな時期だからな」
なるほど、そのとおりだ。小さな山の三つ分くらいが、ひどく場違《ばちが》いに寒々しい感じになっている。山肌《やまは》が剥《む》き出しだ。
「そうか、あれはみんな火事で焼けてしまった跡《あと》なんですね」
ワタルの言葉に、主人は「いやいや」と手を振《ふ》ると、興奮した口調で続けた。
「ただの山火事ならば、どんなにひどく焼けようと、山を覆《おお》う木々や下草がそっくり消えて失くなるわけはないだろ? もっともっと凄《すご》いことが起こったのさ」
火が出たという町の南西方面の山々の麓《ふもと》一帯を除けは、マキーバを囲む景色は緑一色だ。広々とした草原が広がり、牧場がたくさんある。遠目に見ると、家畜囲いの木の柵《さく》が、まるでクロスワードパズルの枠《わく》のようだ。羊みたいな動物が、その内側にたくさんいる。牧畜業者の納屋《なや》やサイロが点々と散らばり、とんがり屋根のてっぺんが光る。
「ここで飼われてる動物は、ムンマっていうんだ」家畜囲いの内側に群れている白い毛皮の動物たちを指して、キ・キーマが教えてくれた。「肉は旨《うま》いし皮は丈夫《じょうぶ》で何にでも加工できる。そのうえ病気に強くて子沢山《こだくさん》と、良いことずくめなんだぜ」
ダルババ屋の主人はうなずいた。「ムンマの群は、マキーバの町の飯の種だ。そのムンマの飯である牧草も、山の裾野《すその》にはたくさんはえている。この緑は、マキーバの牧畜業者たちにとって、金では買えない宝なんだ」
三日前の真夜中、その山の頂上付近で火が出た。折|悪《あ》しく強い南風が斜面《しゃめん》を吹《ふ》きおろしており、火はどんどん燃え広がって、消防隊が火事場に近づくことさえ難しい。中腹から麓のあたりで、類焼《るいしょう》を防ぐために木々を倒すぐらいが精一杯《せいいっぱい》だ。町のヒトびとは、煙《けむり》と火の匂《にお》いに怯《おび》えて騒《さわ》ぐムンマたちを、できるだけ火事場から遠い場所へ移すために、総出で大骨を折った。
しかし、火の足は速く、火勢はますます強くなるばかりだった。
「明け方ごろには、このままじゃ、南西方面の山が丸焼けになるだけじゃ終わらずに、東側の山へも火が燃え広がるだろうって、俺たちみんな真っ青になった。そうなったら、マキーバの町も危ない。下手すりゃ全滅《ぜんめつ》だよ。年寄りと子供たちを町の北へ逃《に》がして、残ったヒト手をかき集めて消火にあたったんだが、怪我《けが》人が増えるばっかりで、どうにもならないんだ。火の勢いを弱めることさえままならない。麓まで、まるでファイアドラゴンの息みたいな風が吹きおろしてきて、そのうちに、立ってることさえ難しくなってきちまった」
そのとき──マキーバの町にひとつしかない宿屋に泊《と》まっていた一人の魔導士《まどうし》が名乗り出て、自分に任せてくれれば、この山火事を消し止めてみせようと言ったのだという。
「ただ自分のやり方だと、燃えている山々の麓では、火を消した後も何年かは牧草がはえなくなるだろう、それでもいいかって、さ」
ダルババ屋の主人は指で鼻の下をごしごしこすった。そういえば彼のシャツの下に、包帯の端《はし》っこがちらりと見えている。腕《うで》にも火傷《やけど》みたいな傷がある。
「そのまま放《ほう》っておけば、南西部の牧草地はみんな熱風にあぶられて、どっちみち使い物にならなくなっちまうんだ。そうなったら、何年|経《た》っても元どおりにはならないかもしれない。だったら、その魔導士の提案に乗ってみたって悪くない。そうだろ?」
主人はワタルたちの顔を見回して、ニヤリと笑った。
「ところがさ、俺たち──というか、町長を始めとする町の顔役たちは、すぐには決断できなかったんだ。どうしてかって言ったら、その魔導土が子供だったからなんだ」
ダルババ屋の主人は、太い指をワタルの方に振ってみせた。
「ちょうどあんちゃんぐらいのアンカ族の子供だったんだよ。よくまあ今まで避難《ひなん》させられずに、宿に残っていたもんだって、みんな最初はそっちの方に驚いたくらいさ」
ワタルは目を見開いた。思わず一歩進み出た。「その魔導士、黒いローブを着ていませんでしたか? 腰《こし》に革バンドを巻いて、てっぺんのところにキラキラ光る石のついた黒い杖《つえ》を持っていたでしょう?」
今度は主人の方が驚く番だった。「あんちゃん、よく知ってるな。あのチビッこい魔導士の知り合いなのか?」
キ・キーマが無言のまま背後からワタルの肩《かた》を強くつかんで、話に割り込んだ。「それでオヤジさん、結局どうしたんだい? その魔導士に任せたのかい?」
「あ? ああ、そうだ」ダルババ屋の主人はうなずいた。「そのころには、町なかにいても、髪《かみ》や服が今にも燃えあがるんじゃないかと思うくらい、熱くなっていたからな。でも、誰《だれ》かが声に出して頼《たの》む≠ニ言ったわけじゃないんだ。みんながおろおろして返事に因っていると、そのチビッこい魔導士が──」
──やれやれ、世話の焼けるヒトたちだ。
そう言いながら、燃えさかる山の方へと、勝手に歩いて行ってしまったのだそうだ。
ワタルは嬉《うれ》しくなった。やっぱりミツルだ。いかにもあいつが言いそうな台詞《せりふ》じゃないか。
「それでどうなったの?」ミーナが身を乗り出した。
「そりゃもう、凄い魔法だったぜ」主人は鼻の頭に汗を浮《う》かべた。「思い出しても目が回るような気がするよ。杖を右手に、左手でこう、空に文字を書いてよ。意味のわからない言葉を大声で、歌うみたいに節をつけて唱えてな」
まず現れ出でたのは、竜巻《たつまき》だった。それは山火事の燃えさかる南西の山の上空に突如《とつじょ》として出現すると、山全体を包み込んだ。
「燃えている山々が、麓まですっぽりと竜巻の内側に封《ふう》じられちまったんだ。そのとたんに、俺たちの周りの空気が、さっと冷えた。全然熱くなくなったんだ。熱風も止まった」
魔導士が杖をひと振りすると、その尖端《せんたん》の石が蒼《あお》く輝《かがや》いた。まともに見ていられないほどの眩《まぶ》しい光に、思わずヒトびとが目を覆ったとき、虚空《こくう》を切り裂《さ》いて、一頭の蒼い竜《りゅう》が現れた。
「俺は見た。確かに見たんだ。あれは、伝説に出てくる海竜さまだった。間違いない」ダルババ屋の主人は拳《こぶし》を固めて熱っばく訴《うった》えた。「あの魔導士の杖にくっついた石には、海竜さまの力が宿っていたんだろう」
蒼い竜は長い身体《からだ》をくねらせて、燃えさかる炎《ほのお》を封じた竜巻の周りを、ぐるぐると回った。すると竜巻のなかに、清らかな水が満ち始めた。竜巻の旋風《つむじかぜ》が、水が細かな飛沫《しぶき》になって飛び散り、それが雨と変じてマキーバの町に降り注いだ。
「そのうちに、竜巻が動き出したんだ」
山を離れ、宙を漂《ただよ》い、海の方へと。どれほどの業火《ごうか》も鎮《しず》めて消し止めてしまう、大海原《おおうなばら》のある方へと。
「俺たちみんな、バカみたいにぼうっと突《つ》っ立っていてさ。命びろいしたんだって気がついたときには、もう夜が明けていた。チビッこい魔導士も姿を消していた。そして、あの丸ハゲになった山が残っていたんだ」
町のヒトたちはみんな、まだ興奮が冷めやらず、寄ると触《さわ》るとこの話で持ちきりだという。だから、もっといろいろ知りたかったら、あっちこっちで訊《き》いてみるといいよと、主人は言った。
実際には、こちらから水を向けるまでもなかった。マキーバの町のヒトたちは、みんな夢中になってこの事件について語っていたし、町の外から来た者と見れば、誰彼かまわずとっ捕《つか》まえてこの話を聞かせていた。宿屋に落ち着くころには、ワタルたち三人とも、事件の一部始終に詳《くわ》しくなっていた。
ワタルはすっかり興奮してしまい、嬉しくてたまらなくなって、話を聞いているあいだに、何度か口を滑《すべ》らせそうになった。そのチビッこい魔導士は現世からの旅人で、僕の友達です、と。でも、そのたびにキ・キーマが無言でたしなめる。そして宿の部屋でこう言った。
「ガサラの町じゃ、行きがかり上しょうがなかったけれど、これから先は、ワタルが旅人≠セってことは、できるだけヒトに知られない方がいいと、俺は思うんだ。派手《はで》に知られれば、危険なことだってあるかもしれないからな」
ワタルはそれで、ちょっと気を引き締《し》め直した。そしてラウ導師の言葉を思い出した。ミツルを探すことはできない──
「おかしいな。導師さまは、僕と、ミツルが旅する幻界は、まったく違うものだって言ってたんだ。幻界は、そこを旅する者によって姿を変えるんだって」
ミーナがほっそりとした首をかしげた。「もしかしたら、ワタルとそのお友達──ミツル? 二人はまだチビッこいから、協力しあって旅ができるのかもしれないわね?」
「そうかなぁ。だったら、ラウ導師さまが最初にそう教えてくれるんじゃないかな」
「教えられたのでは、嬉しさも半分くらいしかないじゃない。自分たちで気がつく方が、ずっとステキよ。だから導師さまは、わざと逆のことをおっしゃったのかも」
ミーナの言葉に、心が動いた。「でも、ミツルが一緒《いっしょ》だったら、僕なんかすごい楽して運命の塔《とう》にたどり着けちゃうな。あいつの魔法、ホントに凄いもの」
ミーナは笑った。「ワタルには、ワタルのできることがあるのよ。だって、わたしを脅《おど》してた二人組を捕まえるときだって、魔法を使ったわけじゃないじゃない」
宿でも、山火事と小さな大魔導士のことは、火事以上にホット≠ネ話題で、用もないのに宿泊《しゅくはく》客にこの話をするためだけに来ている町のヒトもいた。飛び交《か》う会話のなかから、ワタルは、チビッこい魔導士が、まだ火事が起こる以前に、ボグの北西部にあるリリスという町への道順を尋《たず》ねていたという話をキャッチした。
「リリスって、遠いんですか?」
「真《ま》っ直《す》ぐ行こうと思うとタイヘンだね。あいだにグランデラ川という大河があって、そこはあまりの激流で橋がかけられないし、流れの状態が良いときでないと船も出せないから、運が悪いと長いこと待つ羽目《はめ》になるのさ。確実を期すなら、いったん南側に山を超えて、南西部からぐるっと回り込んでいった方がいい。街道《かいどう》も通じてるからね」
いっぺん南に山越えするならば、エアロガ・スペクタクルマシン団が興行しているあたりは通り道になる。ちょうどいい。ワタルは、導師さまにはああ言われたけれど、やっぱりミツルの後を追ってみたいと、キ・キーマに相談した。
キ・キーマはにこりとした。「それなら、そうしてみようよ。せっかく消息がわかったんだし、俺もその、ワタルの友達がどんな旅人≠ネのか、ちょっぴり興味があるなぁ」
相客《あいきゃく》たちと、そも山火事の原因は何だったのだろうと話しているうちに、先に山越えして行ったスペクタクルマシン団のキャンプの火の不始末ではないかと憶測するヒトがいて、ミーナは怒《おこ》ってしまった。
「ブブホ団長は、そういうことにはものすごく気をつけてるのよ。絶対にありっこないんだから!」
カンカンになったミーナを宥《なだ》めるのに、ワタルもキ・キーマもタイヘンな思いをしたのだった。
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14 スペクタクルマシン団
緑の森の向こうから、賑《にぎ》やかな音楽が聞こえてくる。風に揺《ゆ》れる木立も、リズミカルな太鼓《たいこ》の響《ひび》きにあわせて楽しげに身体《からだ》を揺すっているように見える。
俺たちゃ つむじ風と友達さ
俺たちゃ つむじ風と踊《おど》るのさ
天《あま》が下《した》に これっきり
ひとつしかない
エアロガ・スペクタクルマシン団
さあ御覧《ごらん》 お目々がさめるよ
さあ御覧 じいちゃんばあちゃん若返る
さあ御覧 子供たちも大好きさ
エアロガ・スペクタクルマシン団
大興行の 始まりだ
「まあ」ミーナの顔がほころんだ。「パックたちが歌ってる」
森は深く、木々の背は見あげるほどに高い。ミーナのはずむような足どりを追いかけてしばらく進むと、あるところでパッと視界が開け、ワタルは歓声《かんせい》をあげた。
青い空を映す湖の上に、大がかりな浮《う》きステージが組みあげられている。骨組みのところどころに色|鮮《あざ》やかなものがひっかかっていて、よく見ると、それらはみんな身軽そうな大人や子供たちだ。彼らはみんな色とりどりの衣装《いしょう》を身につけて、高い足場や柱のてっぺんで、ぶらさがったり片足立ちをしたりしながら、とても器用に素早《すばや》く、せっせと組立作業に励《はげ》んでいるのだった。そのあいだじゅう、見事なハーモニーで歌っている。すでにそれだけで、面白《おもしろ》いショウを観《み》ているようだった。
「ワタル、見て。あれがわたしの乗っていたブランコなの!」
ミーナの指さす先に、細い針金を組み合わせて造られた、尖《とが》った三日月みたいな形のブランコがあった。ステージのなかでも、ひときわ高いところにぶらさがっている。
「いやぁ、こりゃあスゴイ眺めだ!」
キ・キーマの唸《うな》るような大声が、湖面を吹《ふ》き抜《ぬ》ける風に乗って届いたのだろうか。ミーナのブランコのそばで作業をしていた真っ赤な衣装の小さなヒトが、ワタルたちの方に頭を振《ふ》り向けた。そして叫《さけ》んだ。
「あ、ミーナだ!」
ミーナも手を振り返す。「パック!」
「おーい、ミーナが帰ってきたぜ!」
赤い衣装の小さなヒトは、よく通る少年の声でそう叫びながら、するすると足場を伝って降りてきた。作業をしていたほかのヒトたちも手を止めて、みんながミーナとワタルたちの方を見ている。歌がやんで、かわりに、ミーナ! ミーナお帰り、どこへ行ってたんだよ、心配したよ! と、口々に呼んだり叫んだり尋《たず》ねたりする声が、入り乱れて飛んでくる。ミーナが湖畔《こはん》に向けて駆《か》け出した。ワタルたちもそれに続き、三人は温かな歓迎《かんげい》の嵐《あらし》に包み込まれた。
「勝手に飛び出したりして、本当に本当にごめんなさい」
ミーナはうっすらと目に涙《なみだ》を浮かべながら頭をさげた。団扇《うちわ》みたいな大きな手が、その頭をくりくりと撫《な》でる。
「書き置きは読んだが、事情はわからないし、みんな心配していたんだ。無事でよかった」
エアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシン団の団長ブブホは、キ・キーマよりもさらにひとまわりサイズが上の大男だった。彼の顔は、ワタルの目には現世《うつしよ》のブタさんによく似て見えたけれど、威厳《いげん》に満ちたその顔が笑うと、笑いかけられた側は、何とも言えない安心感に包まれる。歳《とし》は、現世の人間で言うならば、だいたい五十歳くらいの感じだ。でも、鍛《きた》えあげられた身体には、たるんでいるところなど一センチだって見あたらない。
団長のそばには、ミーナにパックと呼びかけられた少年が、ちょこんと座っていた。ワタルたちよりもまだ幼くて、せいぜい小学校の一年生ぐらいの歳じゃないか。燃えるように真っ赤な髪《かみ》に、顔じゅうはソバカスだらけ。アンカ族の子かと思ったら、よく見ると長い灰色のしっぽがついている。機敏《きびん》そうな瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせ、ミーナと団長の顔を見比べているあいだじゅう、そのしっぽの先もひよいひょいと動いていた。
「ミーナがいないあいだに、オレ、一人でいろんな技《わざ》のケイコをしてたんだよ。寂《さび》しかったけど、我慢《がまん》してケイコしてたんだよ」
団長とミーナの再会の喜びが一段落したと見るや、パックが割り込んできた。
「三回転ひねりだってできたんだ! 一度だけだけど、確かにできたんだ。でも、団長がオレにはまだ早いって」
口を尖らせるパックの頭を、今度はミーナがくりくりしてやった。「でもパック、すごく歌が上手《うま》くなったのね。遠くからでも、すぐにあんたの声だってわかったわ。パックは軽業師《かるわざし》だけじゃなくて、歌手にもなれるかもしれないね」
「そうかい?」パックは飛びあがった。「そんならオレ、ステージでも歌う!」
スペクタクルマシン団の団員たちは、湖畔に大小のテントを張っていた。一同はブブホ団長のテントにいて、丸くなって座っていたのだが、パックはみんなのあいだをぴょんぴょんと跳《は》ね回り、ブブホ団長に用を言いつけられて、しぶしぶ外に出ていった。
「やれやれ、やっとこれで静かに話せる」団長は言って、ワタルとキ・キーマの顔を見た。
「ミーナがお世話になったそうで、かたじけない。ありがとうございました」
ワタルは首を振り、助けられたのは僕の方ですと前置きして、これまでのいきさつを話した。話が終わると、ブブホ団長は、もう一度|優《やさ》しく、ミーナの頭を撫でた。
「そうだったのか……おまえが両親のことで、そこまで思い詰《つ》めていたとは」
「そうじゃないんです、団長。わたしには、あの男の子たちの話を疑ってみるだけの知恵《ちえ》がなかったの」
「それでおまえは、これから先も、この旅人≠フ方に同行したいというんだね?」
ミーナは座り直した。「はい」
ブブホ団長は小さな目を凝《こ》らすようにして、じっとワタルの瞳をのぞきこんだ。「旅の人よ、あなたは、ミーナがあなたについてゆくことを許してくださるかね?」
「もちろんです」ワタルは強くうなずいた。
「それならば、何の問題もない」ブブホ団長は大きな笑《え》みを浮かべた。「しかし、せっかくだから今夜はここに泊《と》まって、我らのショウのリハーサルを観ておいでなさい。本興行は明日からだが、今夜のリハーサルは、本番そのままに通して演じます。あなたたちがお客さまだ」
「わあ、ステキ。ワタルもキ・キーマも、ぜひそうしてよ」ミーナは、さっきのパックも顔負けというくらいに跳ね回って喜んだ。「団長、わたしもちょっぴりステージのお手伝いをしてもいいですか?」
「ミーナの軽業なら、あの洞窟《どうくつ》でも見せてもらったけど」と、ワタルは笑った。「もしもまだお稽古《けいこ》に間にあうなら、ステージも観てみたいなぁ」
「うん、オレも」キ・キーマもうなずく。
「それじゃ、ブランコ乗りの連中と打ち合わせをしておいで」
ブブホ団長は、ミーナを送り出しておいて、ワタルとキ・キーマを空いたテントに案内してくれた。ワタルたちがそこに落ち着くと、やがて一人の老婆《ろうば》が、香《かお》り高いお茶を持って、テントのなかに入ってきた。
「おお、ババか。これは気が利《き》くな」
ブブホ団長は喜んで老婆を招き入れ、ワタルたちにお茶を勧《すす》めた。
「身体の疲《つか》れをとるお茶です。さあどうぞ」
ババと呼ばれる老婆はとても小さくて、柔《やわ》らかな紙をくちゃくちゃに丸めたみたいに、顔じゅうがしわだらけだった。アンカ族の顔だったが、少しばかりカエルにも似ていた。
「このババは、旅の人のお顔を見に参りましたのじゃ」
老婆は言って、ワタルが照れくさくなるくらい、しげしげと見つめた。それから、出し抜けに訊《き》いた。「ラウ導師さまはお元気かね?」
「え? はい。おばあさんは、導師さまをご存じなのですか?」
「この八百年ほど存じていますじゃ。あの方は、昔は雷《かみなり》の魔法《まはう》が下手くそじゃったけれど、今もそうですかな?」
ワタルは笑った。「それはわかりません」
ババはひょうひょうと続けた。「あなたさまは、女神《めがみ》さまに会いにおいでになった。それでも、もしも会えなんだときには、どうなさるおつもりじゃ?」
「それは──」ワタルはキ・キーマの顔を見た。彼も困っている。
「きっとお会いするつもりなので、会えなかったときのことは考えていません」
それが正直な答だった。ババはあっさり「ふうん」と言った。
「そんならば、ババにはもう、あなたにお尋ねすることはないですじゃ」
さっさとテントをめくって出ていってしまった。ワタルが目をぱちくりさせていると、ブブホ団長が苦笑《くしょう》した。
「すみませんな。なにしろ年寄りなので」
ブブホ団長は丁重《ていちょう》に言って、あらためてワタルに向き直った。「旅人≠フ道は、それでなくても厳しいものと聞いております。ミーナはあのとおり、数奇《すうき》な運命を背負う子供です。あれを連れていけば、さらにその厳しさを増すような出来事がついてくるかもしれません。あの子から、シグドラ≠フことはお聞き及《およ》びでしょう?」
「はい、聞きました」
「それでもよろしいのか?」
「僕は大丈夫《だいじょうぶ》です」ワタルはきっぱりとうなずいた。「僕と一緒《いっしょ》に旅することで、ミーナが両親に巡《めぐ》り合えるかどうかはわからないけれど、少なくとも助け合って進むことができますから」
「それならば、私にも、もう申しあげることはない」ブブホ団長は優しく笑った。「リハーサルが始まるまで、どうぞくつろいでお過ごしください。団のメンバーたちも、お二人に会いたがっておりますし、自由に見学をなすってください」
お言葉に甘えて、ワタルとキ・キーマはあちらこちらを見学し、団員たちとおしゃべりをした。団員は総勢五十人であること、団のミドルネームの「エレオノラ」は、ブブホ団長の亡くなった奥さんの名前であること、この湖畔での興行が予定より遅《おく》れているのは、やはりあの山火事のせいであること。
「すごい熱風がこっち側にも吹きおろしてきて、湖が波立って、セットを組むどころか、舟《ふね》を漕《こ》ぎ出すこともできなかったんだ」
キ・キーマが、水人族の団員と意気投合してしまい、彼の持ち芸である、槍《やり》を使ったダイナミックな演舞《えんぶ》を習うことになった。彼らが大騒ぎをしながら槍にみたてた木刀を振り回して踊《おど》っているあいだに、ワタルはさらに団員たちのあいだを回り、湖畔や山の森のなかのどこかで、黒衣のチビッこい魔導士を見かけなかったかと尋ねた。誰も見かけてないという。そんなすごい魔導士なら、会いたかったと、みんなしきりと残念がった。
陽《ひ》が暮れて星が輝き始めると、いよいよリハーサルが始まった。前口上があって、ステージがライトアップされ、音楽が始まり、森で耳にしたあの歌を歌いながら踊り子たちが登場すると、ワタルはもう魅《み》せられたようになってしまい、たった二人のために催《もよお》される贅沢《みもよおぜいたく》なショウを、心の底から楽しんだ。
稽古不足のはずのミーナは、しかし、立派にショウの看板娘《かんばんむすめ》の役割を果たしていた。華《はな》やかな衣装を纏《まと》って、目が回りそうなほどの高処《たかみ》にあるブランコからブランコへ、軽やかに飛び移り、空《くう》で身をひねり、一瞬《いっしゅん》観るものをヒヤリとさせてから、鮮やかに見得《みえ》を切る。パックと組んで、宙返りしながら、ブランコからブランコへと飛び移ってゆく芸のときには、ワタルは本当に手に汗《あせ》を握《にぎ》り、二人がスポットライトのなかに並んで着地をしたときには、手が痛くなるくらいに拍手《はくしゅ》した。
ショウのフィナーレに、花を撒《ま》きながら歌うミーナの上気した顔を見て、ふと思った。ミーナは旅なんかせずに、ずっとここにいた方が幸せなはずなのに。
それでも探さずにはいられない、突《つ》きとめずにはいられない過去の謎《なぞ》が、彼女を動かすのだ。僕が、ミーナの立場だったらどうだろうと、ワタルは考えた。
ショウがはねて、興奮もおさまらないままテントで横になるときまで、その自問自答は続いていた。それでもやがて安らかな眠《ねむ》りが訪《おとず》れて、星に見守られ、ワタルは眠った。
そのころ、ブブホ団長のテントのそばに、ババがひとりでぽつりと立っていた。見回りを終えて自分のテントに戻ってきた団長は、ババの姿を認めて声をかけた。
「ババ、どうしたね?」
ババは、それでなくても丸まった小さな背中を、さらに縮めるようにして、上目づかいに、じっと夜空を仰《あお》いでいた。そしてすっと腕《うで》をあげると、空の一点を指さして尋ねた。
「団長、あれが見えなさるか」
ブブホ団長も夜空を仰いだ。漆黒《しっこく》の滑《なめ》らかな織物の上に、宝玉の欠片《かけら》を撒きちらしたような美しい眺《なが》めだ。
「どの星だね、ババ」
するとババは、まだ仰向《あおむ》いたまま言った。「そうか、団長にはまだ見えぬかね」
団長はババに並んで立った。
「じゃが、あれは確かに北の凶星《まがぼし》じゃ」ババはきっぱり言った。「ババには見ゆる。目の迷いではないですじゃ」
ババはほんの少し、悲しそうだった。
「あの旅人≠ヘ、半身じゃ。凶星が現れて、それを報《しら》せておりますじゃ」
「そうか」と、ブブホ団長は応じた。「ミーナが幸《つら》いことにならないといいが」
ババは黙《だま》って、答えなかった。ただ、しんとしたまなざしで、北の夜空を仰ぐはかりで。
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15 キャンプ
リリスへ向かう道では、山道を通ったり森を抜《ぬ》けるだけではなく、峠《とうげ》を越《こ》えたり、渓流《けいりゅう》沿いに岩場を歩いたりするところもあった。変化に富んだ幻界《ヴィジョン》≠フ自然は、美しく、厳しく、少しばかり意地悪だと、ワタルは思った。現世《うつしよ》の自然と同じように。
長い道中で、小さな村など宿屋がないときもあり、そんなときワタルたちはキャンプを張った。テントの設営、火の熾《おこ》しかた、川や沼《ぬま》で小魚を釣《つ》ること、山や森から食べられる木の実やキノコを採ってくること。それらすべてを、ワタルはキ・キーマから教わった。ミーナも一緒《いっしょ》に習うことが多かったけれど、キャンプの焚《た》き火でつくる料理などは、最初からキ・キーマよりもミーナの方が上手だった。
キ・キーマは、南大陸中をあちらへこちらへと移動し、物資を運ぶダルババ屋が本業だから、さまざまな土地を歩き、多くの町や村を知っている。だが、その彼も、まだリリスは訪《おとず》れたことがないそうだ。
「リリスには独自に発達した運送ギルドがあるから、ダルババ屋とはつながりが薄《うす》いんだ。工芸の材料になる宝石の原石を運び入れるにも、できあがった細工物を運び出すにも、専用の荷車や梱包《こんぽう》用の箱や布が要《い》るし、手順も違《ちが》うからな。近くを通り過ぎることがあっても、なかなか忙《せわ》しなくて、ゆっくり訪ねる暇《ひま》がなかったんだ」
楽しみだなぁと、嬉《うれ》しそうに言う。
そう、リリスは工芸品の町なのである。金属や石、木や革《かわ》などを材料として、そこで生産されているものは、身を飾《かざ》るアクセサリーから食器、建物の装飾《そうしょく》に使われる部品の類《たぐい》まで、多種多様だ。上品な美しさと、凝《こ》りに凝ったデザインを形にする確かな技術。魔法《まほう》ではなく、すべてヒトの手になるものだ。
リリスの工芸品の良質であることは、風船《かざぶね》商人たちを通して北大陸にも知れ渡《わた》っており、彼《か》の地では、特に首飾りや指輪のような女性の装身具の場合は、こちらの十倍ぐらいの値段で取引されているという。ここ数年、北大陸のお金持ちがこぞってほしがっているのは、トニ・ファンロンという若い職人がデザインしたヘブン≠ニいうシリーズのアクセサリーだという。
「あっちじゃ、ちょっとしたブームになっているらしいんだ。俺も知り合いの風船商人に、リリスの近くへ行く機会があったら、ファンロンの工房《こうぼう》をのぞいてきてくれって頼《たの》まれてる。なにしろ独りでやってる手仕事だから、一年に、せいぜい十個ぐらいしか作れないらしいんだな。よっぽど運が良くなけりゃ、手に入らないんだ」
「予約しておくとか、できないの?」
荷台で揺《ゆ》られながら、ミーナが尋《たず》ねた。やっぱり女の子だ、アクセサリーの話となると、興味|津々《しんしん》の様子である。
「予約はできない。このファンロンって職人は、けっこう気難しいヤツらしくてさ」
直接会って話をして、気に入ったお客にしか、作品を売らないのだという。
「どれだけ多くの金を積んでも、この客は嫌《いや》だと思ったら、まるっきり無視しちまうんだって。そのかわり、お客と気があった場合には、かかった材料費と同じくらいの値段で売っちまうんだそうだよ。無料《ただ》でやっちまうことだって、あるらしい」
「変わったヒトね」
二人のやりとりを聞きながら、ワタルは考えていた。リリスがそうした美しい工芸品を作る町ならば、素材としていろいろな金属や宝石を使っていることだろう。ワタルが見つけださねばならない二番目の宝玉か、あるいはそれに関する情報を、ひょっとしたらつかめるかもしれない。ミツルが一足先にリリスへ向かっているらしいという事実も、この推測にとってプラスの材料になる。
ミツルもやはり、ラウ導師から宝玉を探せと言われたのだろうか。でもあいつが持っている黒い杖《つえ》には、すでに、マキーバの山火事を消し止めるほどの力を秘《ひ》めた大きな宝玉がくっついている──
リリスの町まであと一日ぐらいの距離《きょり》まで近づいたところで、ワタルたちはちょっとしたアクシデントに見舞《みま》われた。街道《かいどう》で、ダルババ二頭だての大きな荷重が横転事故を起こし、積み荷の岩塩を、大量にばらまいてしまったのだ。まず岩塩の塊《かたまり》を手作業で取り除き、それから横転した荷重を起こして動かせるようになるまで、どのくらいかかるか見当もつかない、という。そのあいだ、道はずっと通行止めである。
この街道の先にはササヤ国とボグ国の国境があり、関所が設けられている。南大陸の連合政府は、各国の独立性を重んじてはいるものの、政情が安定していることもあり、四つの国を行き来する際に、さほど複雑な手続きを踏《ふ》まないで済むように、制度をつくった。だからこそ、キ・キーマたちが南大陸じゅうを股《また》にかけることができるわけである。関所では一応、通過するヒトの人数と、積み荷の種類が鑑札《かんさつ》と一致《いっち》するかどうかを確認《かくにん》するだけだという。
どのみち通れないのだから、ブラブラ時間をつぶしているよりも、街道の復旧作業を手伝った方がいいと、みんなで大汗《あおあせ》をかいて岩塩を運んでいるところへ、関所の役人が二人飛んできて、街道|脇《わき》の茶屋へ机を据《す》え、作業の合間にここで関所の通過手続きを受け付けると発表した。そうしておけば、街道が通れるようになったとたんに、ここで渋滞《じゅうたい》させられていたヒトびとが関所に殺到して、また別の混乱を引き起こすという事態も避《さ》けることができるし、お互《たが》いに時間の節約になるだろうというわけだ。たいそうものわかりの良い提案で、ワタルはビックリした。
「現世のお役人は、絶対にこんな親切なことをしてくれないもの」
二人の関所役人は、文字どおり本当に飛んで℃Rを越えてきた。二人ともカルラ族なのである。小さな机を隔《へだ》てて彼らと向き合ったとき、ワタルは、まだ幻界のことをよく知らなかったころ、偶然《ぐうぜん》迷い込んでしまって、危《あや》うくねじオオカミ、の餌食《えじき》になりかけた時のことを、鮮《あざ》やかに思い出した。
「キミ、キミ、私の顔に何かついておるのかね?」
鼻眼鏡《はなめがね》をかけたカルラ族の関所役人が、ワタルに尋ねた。どうやらワタルは、不躾《ぶしつけ》なくらいじいっと相手の顔を見つめていたらしい。
「あ、スミマセン。以前に、あなたと同じ種族のヒトに、困っているところを助けてもらったのを思い出していたんです」
「ほう! それはそれは」
「ほう! なんとなんと」
二人の関所役人は、翼《つばさ》をバタバタさせて喜んだ。
「公共への奉仕《ほうし》は、我らが常に心して目指すところだ。して、それはどんな困ったことだったのかね?」
「ああ、いえ、あの、ねじオオカミに襲《おそ》われて……」
「おお!」役人たちは感動の声をあげた。
「ねじオオカミ!」
「久しく食していないな!」
「あの味が懐かしい!」
「我らもたまには郷《さと》へ帰るか!」
「いやいやしかし、民《たみ》のために働くが我らの務め!」
「なれば、せめて干しねじオオカミ肉を取り寄せようではないか!」
手続きを終えて机の前を離《はな》れると、キ・キーマが胸のあたりを押さえて「げっ」と呻《うめ》いた。
「カルラ族は、ねじオオカミの肉の臭《くさ》いところが大好きなんだという噂《うわさ》は聞いたことがあるが、本当だったんだな」
「カルラ族の鳥人たちの郷は、ねじオオカミの砂漠《さばく》のそばにあるんだね?」
「渓谷《けいこく》の上の崖《がけ》沿いの、いちばん切り立った土地にあるそうだよ。ただ、あいつらみたいに郷を出て、役人になるカルラ族も多いんだ。鳥人は頭がいいからな」
「ねえ、キ・キーマ」と、ワタルは尋ねた。「今ちょっと思いついちゃったから訊《き》くんだけど、怒《おこ》らないでね」
「何だい?」
「カルラ族とかの鳥人たちが、もしもキ・キーマたちと同じ運送業を始めたら、手強《てごわ》い商売|敵《がたき》になると思ったことない?」
キ・キーマは顎《あご》をのけぞらせて大笑いをした。「その心配はない。まるっきりない。だってあいつらは力がないからさ。俺らみたいに重い荷物を運ぶことなんて、絶対無理だ」
翼があるだけでは駄目《だめ》だということか。
「ヒトにはそれぞれ取り柄《え》があって、持ち場があるってことだな」得意そうに、キ・キーマは言った。「そうだな、もしも俺たちが商売あがったりになって困るとしたら──」
顎に手をあて、ちょっともったいぶった様子で考え込んだ。
「ダルババよりも足が速くて、ダルババみたいに世話をしてやる必要がなくて、一度行き先を教えてやったら、乗り手がいなくても勝手にそこへ行くことができるほど頭のいい生きものが現れたときだろうな」
そう言って、ニッと笑った。
「でも大丈夫《だいじょうぶ》だ。お優《やさ》しい女神《めがみ》さまは、俺たち水人族が日干しにならずに済むように計らってくださってる。だから、そんな便利な生きものはお創りにならなかったし、これからもそうだろうよ」 そうだねと、うなずいてから、ふとあることが頭をかすめたのだけれど、ワタルは、それは口に出さずにしまっておいた。
──でもね、キ・キーマ。現世には、今あなたが言ったのとよく似た働きをするものがいるよ。それは生きものじゃなくて、機械≠ニいうものだけれど。
いや、より正確には機械だけではなくて、動力≠ニいうものとペアで考えなければいけない。いずれにしろ、それらは確かに現世には存在している。
──もし、機械というものが、この幻界で発明されたら? あるいは現世から持ち込まれたら? 想像してみると、なぜかあんまり良い気分にならなかったので、ワタルは黙《だま》って岩塩運びの作業に戻《もど》った。
夕暮れどきになると、街道の茶屋の周りには、ちょっとしたキャンプ村が出現した。ワタルたちもテントを張って、お隣《となり》さんと日用品を貸し借りしたり、一緒に火を熾して食事をつくったりしてにぎやかに過ごした。
陽《ひ》が暮れて夜の帳《とばり》が降り、そろそろテントのなかで横になろうかというころになって、このにわかづくりのキャンプ村に、街道のマキーバ側の方から山道を抜けて、松明《たいまつ》の灯《あか》りがいくつか、チラチラと近づいてきた。
「あれは──」あくびをしていたミーナが、向こうをすかすように見て、目を見開いた。「シュテンゲル騎士《きし》団だわ」
キャンプ村のヒトびとは、一様に彼女に倣《なら》って、夜のなかで首をのばし、背のびをして、近づいてくる灯りを見つめた。やがて、松明の灯りだけでなく、それを受けて銀色の甲冑《かっちゅう》の肩《かた》や頬《ほお》あての部分が光っているのも見えてきた。
「へえ、こんなところに何の用があるんかね」ワタルの隣で行商人が呟《つぶや》いた。「しかも、隊長さまじきじきのおでましと来たもんだ」
「なんと! ロンメル隊長がおいでだと?」関所役人が茶屋から出てきて、また翼を、バサバサさせた。「それではご挨拶《あいさつ》せねば!」
「挨拶なら、茶屋の主人を呼んできた方がいいんじゃないの」一人の行商人が、悠長《ゆうちょう》に懐手《ふところで》をして言った。「あんたら、夜はトリ目で目が見えにくいんだからさ」
「なるほど! そのとおりだった!」
騎士たちは五人いた。一人を先頭に、そのあとに四人が続いている。兜《かぶと》のせいで顔は判別できないけれど、彼らの乗っているダルババの額に、五弁の花びらを模した紋章《もんしょう》が描《えが》かれた布が垂らしてある。ガサラにいるときに、トローンが教えてくれた。あれは確かにシュテンゲル騎士団の印だ。
茶屋の主人が転がるように走って出てきて、キャンプ村からはまだだいぶ距離のあるところで、騎士たちを出迎えた。ちょっと言葉を交《か》わしただけで、先頭の騎士と、そのすぐ後ろの左側についていた騎士がダルババから降りて、主人と一緒にこちらに近づいてきた。
「あの先頭のヒトが、ロンメル隊長?」
ワタルは行商人に尋ねた。
「ああ、そうだよ」
「顔が見えないのに、なんでわかるの?」
「兜の形が違うからさ。よく見てごらんよ、ドラゴンの頭の形に似た兜だろ? あれがロンメル家代々の武人の兜なんだよ」
「小父《おじ》さん、詳《くわ》しいんですね」
行商人は鼻の穴をふくらませた。「俺は、今でこそしがない行商人だけども、昔は星読みを目指して勉強していたんだ。ササヤに留学したことだってあるんだぜ。星読みにとっちゃ、歴史も大切な学問の科目だからな」
キャンプ村の焚き火の明かりが届く距離まで近づいてくる以前に、二人の騎士たちは兜を脱《ぬ》いだ。二人ともたいそう背が高く、小柄《こがら》な茶屋の主人よりも頭ふたつ分くらい抜きんでていた。
「我々は、シュテンゲル騎士団第一遊撃隊の者だ」
先頭の騎士が、朗々とよく通る声で名乗りをあげた。
「私は隊長のロンメル、こちらは副長のヴァイス。今夕《こんせき》、グランデラ川渡航事務所に滞在中、ここでダルババ車の横転事故が起こり、街道が通行止めになっているという報告を受け、被害《ひがい》の状況《じょうきょう》を調査するべくここまで参った。皆《みな》さん、復旧作業などのために疲《つか》れているところだと思うが、少々の時間を割《さ》いて、我らの聞き取り調査にご協力を願いたい。すぐに調査のためのテントを設営するが、怪我《けが》人がいるならば、今この場で申し出ていただきたい」 高圧的なもの言いではなく、丁寧《ていねい》な言い回しなのが、ワタルには意外だった。
驚《おどろ》いているのはワタルだけではなく、例の行商人ひとりを除けば、みんながドギマギしていた。シュテンゲル騎士団と接触《せっしょく》するなんて、一般《いっぱん》のヒトたちにとってはめったにないことなのだ。
それでも一同は、騎士たちの指示に従い、快く彼らに協力した。調査にとりかかると、騎士たちは兜だけではなく鎧《よろい》も脱いで、ぐっと動きやすく楽そうな感じになったけれど、物腰《ものごし》と口調は折り目正しいままだ。
ワタルたちのテントは、騎士団が設営した調査用のテントのすぐそばにあったのだが、どういうわけか、なかなか呼ばれなかった。先に調査を済ませたヒトたちは、たいしたことを訊かれたわけじゃないと言いながら、それでも少しばかり安堵《あんど》した顔で、自分たちのテントに戻ってゆく。
「たかがダルババ車の横転事故ぐらいで、わざわざロンメル隊長が来るなんて、な」
キ・キーマはさかんに不思議がりながらも、心の半分ぐらいは、騎士たちが乗ってきたダルババの方に飛んでいるようだった。さすがにいい毛並みだ、どのくらい走るのだろう、岩場にも強いのか、蹄《ひづめ》を調べてみたいもんだなどと、ヨダレを垂らしそうな顔をする。
待たされているあいだに夜も更《ふ》けて、ミーナがワタルにもたれたまま、こっくりこっくりと船を漕《こ》ぎだした。それが本当に気持ち良さそうな居眠《いねむ》りで、ついワタルもつられそうになった。そこにいきなり、
「次は君たちだ」
ヴァイス副長が呼びにきた。ワタルは飛びあがりそうになっただけだが、ミーナは違った。座ったままの格好で、本当に飛んだ。すごいジャンプ力で、副長が驚き、はっと身構えた。
「わ! いけないアタシったら! スミマセンごめんなさい!」
ミーナは真っ赤になって、手で顔を覆《おお》ってしまった。おかげでワタルたち三人は、下を向いて懸命に笑いをかみ殺しながら、肩を震《ふる》わせている副長に先導される羽目になってしまった。
騎士団のテントはこぢんまりしたもので、折りたたみの木の机があり、その後ろにロンメル隊長が、やはり折りたたみの小さな木の椅子《いす》に腰かけていた。隣には書記役なのだろう、五人のなかではいちばん小柄で若い騎士が座って、大きな横綴《よこと》じの帳簿《ちようぼ》みたいなものを広げ、ペンを持っていた。綴《つづ》りの上にはすでに、たくさんの文字が書き込まれていた。
「ヴァイスが笑っているようだが」
三人が指定された小さな椅子に座ると、ロンメル隊長は切り出した。
「君たちはどんな魔法を使ったのだね? あれは石の心《ストーン・ハート》≠フ異名を持つほど愛想《あいそ》のない男なのだが」
ミーナがさらに赤くなった。でもその赤面は、単に恥《は》ずかしいからだけではなさそうだった。
それほどに、ロンメル隊長はハンサムだったのだ。くっきりとした目鼻立ち。目尻《めじり》のしわさえ魅《み》力的だ。年齢《ねんれい》はたぶん、ルウ伯父《おじ》さんと同じくらいだろう。
「ところで、君たちはハイランダーだね」
隊長の蒼《あお》い目は、ワタルの腕《うで》のファイアドラゴンの腕輪を見逃《みのが》してはいなかった。
「ごく最近、ガサラの町で、幼い少年が不可解な連続殺人事件を解決し、ハイランダーの仲間入りをしたという話を聞いた。君のことだね?」
ワタルは隊長に真《ま》っ直《す》ぐ向き合って、うなずいた。「はい、そうです」
「そしてその少年は、現世からの旅人≠セという詰も聞いた。それも本当かい?」
ロンメル隊長に対してなら、隠《かく》す必要もないだろう。ワタルはまた「はい」と答えた。隊長の表情は変わらず、目尻のしわも動かなかったけれど、脇に控えている書記役の騎士は、ちょっと息を呑《の》んだみたいにして顎を引いた。その拍子《ひょうし》に、ペンの先からインクがぽつりと滴《したた》った。キ・キーマがあわててしまい──彼があわてなければならない筋合いのことではないのだけど──長い舌がぴゅっと飛び出して頭のてっぺんを舐《な》めた。
「失礼しました」
「こりゃ失礼」
若い騎士とキ・キーマが同時に言い、騎士がぱあっと赤面した。ミーナがクスクスと忍び笑いを漏《も》らし、笑ってしまったことでさらに赤くなり、若い騎士もモジモジし始め、やがてロンメル隊長も吹《ふ》き出した。
「やれやれ。強行軍の山越え、堅苦《かたくる》しい聞き取り調査と、気を抜く暇もなかった。おまけにこの時刻だ。皆、疲れているのだな」
現世の家にいたころも、あんまり夜遅《おそ》くまで起きていると、かえって目が冴《さ》えて、変にハイになることがあった。幻界でも、そのへんは同じなのだろう。
これで、ぐっと座がくつろいだ感じになり、聞き取り調査はとんとんと進んだ。ワタルたちは、ダルババ車が横転した瞬間《しゅんかん》を目撃《もくげき》したわけではなかったけれど、その後の騒《さわ》ぎはつぶさに知っている。
怪我人がほとんど出なかったのは不幸中の幸いだと、ロンメル隊長は言った。
「各地の街道筋で、このところ、ダルババ車の横転事故が頻発《ひんぱつ》している。そのなかには、明らかに妨害行為《ぼうがいこうい》によって発生したと見られる事故もあるので、我々も慎重《しんちょう》に調べているのだ」
なるほど、だからこそ夜をついで駆《か》けつけてきたのか。
「でも、隊長ご自身がおいでになるとは、みんな驚いてます」
キ・キーマの言葉に、ロンメル隊長はワタルの顔を見た。
「ちょうどいい機会だから、カッツの言っていた旅人≠ノ会ってみたかったのだ。ガサラを発った日から数えると、ちょうどこのあたりにさしかかっているだろうと思ったのでね」
「カッツさんが、僕のことを話していたんですか?」
「ああ。いろいろ言っていたよ。メソメソ泣きくさるくせに、口は達者で小生意気なガキなんだよ≠ニか」
カッツの口調を真似《まね》して、隊長は言った。その目が笑っている。ワタルも笑った。
「今の言い方、カッツさんにそっくりです」
「彼女とは長い付き合いだからな。まあ、長い敵対関係ということもできるが」
そういえば、トローンが言っていた。棘蘭《しらん》のカッツ≠ヘ、昔ロンメル隊長にフラれたことがあるって。だからシュテンゲル騎士団のことを悪く言うのだと。
「ところで、もうひとつ尋ねたいことがある。君たちは、マキーバの町へ寄ったかね?」
「はい、寄りました」
「では、山火事に遭遇《そうぐう》した?」
「いいえ。僕たちがマキーバに着いたときには、もう火は消えていました」
ロンメル隊長の目が、わずかに光った。「旅の魔導士が山火事を消し止めたという話を聞いたかね?」
ワタルはうなずいて、マキーバで聞いた話を再現し、説明した。隊長は興味深そうに聞き入り、若い騎士は必死でペンを走らす。
「海竜《かいりゅう》の力──水の大魔法か」隊長は呟いた。「その魔導士も少年だった──」
「はい、そうです」
「彼も旅人≠セということはあるだろうか?」
「そうです。僕の友達です。僕よりも先にこっちに来ていました」
なぜかしら、ロンメル隊長の瞳《ひとみ》に、さっと影《かげ》がさした。ワタルが旅人≠セと認めたときには、そんなことはなかったのに。
「君はその友人に会ったのかい?」
「いいえ。でも会いたいから、後を追いかけているんです。それでリリスに」
隊長はゆっくりとうなずくと、手で顎をさすった。わずかだけれど、眉《まゆ》をひそめている。
「君は──いや、ラウ導師は──」言いかけて、隊長は隣の若い部下の方をちょっと見た。「いや、それはいいだろう。事件には関《かか》わりのないことだ。長々と、すまなかったね」
夜が明けたら横転した荷車を検分し、隊長たちはマキーバに向かうという。山火事の原因を調査するのだ。忙《いそが》しいですねとワタルが言うと、隊長は首を振った。
「このところ我々は、増殖《ぞうしょく》し凶暴化《きょうぼうか》しているモンスターの討伐《とうばつ》に大わらわで、治安|維持《いじ》や捜査《そうさ》活動などは、ハイランダーに任せきりだった。これではいけないからね」
「そういえば、パックたちも話してたわ」と、ミーナが言った。「興行先の町で、ひとつやふたつは必ず、モンスターに襲われて怪我人が出たという話が耳に飛び込んできたって。そんなこと、今までにはなかったって」
「俺たちもそうだよ」キ・キーマがうなずく。「ダルババ屋で休憩《きゅうけい》すると、たいていそういう噂話を耳にしたな。あのおとなしい山ネズミが群をなしてウダイを襲ったとかさ。ガサラの町にいたときだって、はぐれねじオオカミ退治で大変な思いをしたし」
「そう、あのときは、我々だけでは手が回りきらずに、ハイランダーに協力を求めたのだ」ロンメル隊長は苦笑《くしょう》した。「カッツにはずいぶんと嫌味を言われたが、そうか、君もあの討伐部隊にいたのだね。すっかり世話になってしまった。おかげで助かったよ」
ワタルたちは自分のテントに戻り、キ・キーマとミーナは早々に眠ってしまったが、ワタルは寝|付《つ》かれなかった。さっきのロンメル隊長の表情──ミツルもまた旅人≠セと聞いたときの目の翳《かげ》りが、気になって仕方なかったのだ。彼がわざわざ山を越えてここまで来た本当の理由が、その翳りのなかに隠されているような感じがした。考えすぎかもしれないけれど、どうにもそんな気がした。
狭《せま》いテントのなかでは寝返りもままならず、ワタルはため息をついて起きだし、そっとテントの外に滑《すべ》り出た。グズグズしていると夜が明けてしまうけれど、じっとしていても眠れない。星でも見れば、心が安まるかも。
しかし、外には先客がいた。ほかでもないロンメル隊長が、にわかキャンプ村のはずれに、ぽつりと一人で佇《たたず》んでいたのだ。こちらに横顔を見せ、両腕を胸のあたりで組んで、じっと北の夜空を見あげていた。
さすがに武人で、彼はすぐにワタルの気配に気がついた。
「眠れないのかね?」
「はい。どうしてかわからないけど」
「大きな事故を見たせいだよ。星々の光で目を洗うといい」
隊長は一人で何をしていたのだ? あの物思わし気な横顔。何を考えていたのだろう。
上手く尋ねる言葉が出てこなかった。うっかり訊いてはいけないような気もした。なにしろ隊長は、南大陸の治安を守る重責を担《にな》う人なのだ。一人でいるとき、難しい顔になってしまうのも無理はない。でも──
しばらく並んで夜空を仰《あお》いで、二人はそれぞれのテントに戻った。ワタルの胸には、ごく小さくて、何でできているかはっきりしないしこりが残った。
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16 リリス
丘《おか》の上からリリスの町を一望したとき、ワタルは、この町を訪《おとず》れるのは初めてじゃない、以前にも来たことがある──と感じた。景色に見覚えがあるのだ。家々の色彩《しきさい》豊かな三角屋根も、鐘楼《しょうろう》のある聖堂のような建物も、レンガ敷《じ》きの道も、木々の緑も、ゆったりとした衣《ころも》に似た服を着て、そぞろ歩くヒトびとの明るい表情も。
──そうだ、『サーガU』に出てきた魔法《まほう》学校の町ワイズダムにそっくりなんだ。
「素敵《すてき》なところね」ミーナもうっとりしている。「こんな町だからこそ、美しい工芸品を作り出せるのね、きっと」
三人はまず、リリスの町のブランチに足を運んだ。ひょっとして長く滞在《たいざい》することになれば、ここで仕事を請《う》け負うことになる。
「へえ、あんたたちがハイランダーなのかい? こりゃ驚《おどろ》きだ。長生きはするもんだ」
ワタルたちを出迎《でむか》えたブランチ長は、頭のてっぺんがつるりと禿《は》げたアンカ族の小父さんで、パムと名乗った。
「本当は、名前はタツで、名字はパムスカロフマイエルエトストラフスキーというんだが、面倒《めんどう》くさいんでね、みんなにパムと呼んでもらってるんだ」
ここには四人のハイランダーが登録しているが、所長も含《ふく》めて全員がアンカ族だった。そもそも、リリスの町の住民の八割ほどがアンカ族で、他種族はごく少ないのだという。
「工芸は、アンカ族の仕事なんだよ。ホラ、手や指の形が、そういう細かい作業に向いた格好をしてるからな。それに、お嬢《じょう》さんみたいなネ族や、そっちのでっかいあんちゃんみたいな水人族は、ガラスや宝玉の細工のために一日じゅう炉《ろ》のそばにいたりすると、暑さで参っちまうし」
パム所長は気さくで話好きで、盛《さか》んに道中の土産話《みやげばなし》をねだった。所長は、マキーバの山火事のことも、街道《かいどう》のダルババ車横転事故のことも、まったくの初耳だと、目をまん丸にして驚いている。呑気《のんき》なんだなぁとワタルは思った。カッツさんとは大違《おおちが》いだ。
「リリスはまあ平和なもんで、ここんところ事件らしい事件といえは、森へ木の実を採りにいった子供が迷子になったことと、役場のすぐ近くの工房《こうぼう》で爆発《ばくはつ》事故があったことぐらいかな」
バクハツは大事件じゃないか?
「花火をつくっていて失敗したんだとさ。怪我《けが》人も出なかったし、夜のことだったんで、きれいだったよ」
ブランチには空いている部屋がいくつもあるので、宿がわりに使っていい。滞在しているあいだは、町中の見廻《みまわ》りなどの業務を一緒《いっしょ》にやってもらうし、当直もある。パム所長の説明を聞いているところに、長い黒髪《くろかみ》の美少女がお茶を運んできた。
「あ、これはわしの娘《むすめ》でね、エルザというんだ。ここの雑用を手伝わせてる」
「こんにちは。遠くからようこそいらっしゃいました」
頬笑《ほほえ》むと、右のほっぺたにエクボができた。十五、六歳というところだろう。現世《うつしよ》の女の子なら、女子高生だ。高級な中華《ちゅうか》料理のお店で、花びらのように薄手《うすで》で真っ白な器《うつわ》が出てくることがあるけれど、エルザのほっぺたや額の肌《はだ》は、それを連想させた。あまりにも完璧《かんぺき》にキレイすぎて、ウソみたいだ。
そして、ワタルはふと大松香織を思い出した。顔立ちは全然違う。でも、妖精《ようせい》みたいな華奢《きゃしゃ》で可憐《かれん》な雰囲気《ふんいき》がよく似ているのだ。いっそこの世のものではないような、あえかな美しさ。
──香織さんはどうしてるたろう?
ぼうっとしていると、ミーナがコホンと言って、肘《ひじ》でワタルをつついた。
「ミツルのこと、訊《き》いてみなくていいの?」
そうだった。ワタルは、べりっと音がするんじゃないかと思うはど力を入れて、エルザの顔の上から視線をひっぱがした。
「ワタル君ぐらいの歳の魔導士? さあ」
パム所長は丸い頭をかしげた。
「ここでは、ガサラなんかとは違って、出入りするヒトたちを大門でチェックしてはいないからな。どんな客人が来ているか、すぐにはわからないよ。いくつか宿に問い合わせてみよう」
「そうですか……」簡単に会えるとは思っていなかったけれど、やっぱりガックリだ。
「それでも、子供の魔導士となれば目立つだろうし、その子がまだリリスに滞在しているならば、見つけるにはそう手間がかかるとも思えんね。まあ、そこはわしらもハイランダーだからさ」
定時見廻りの時刻まではまだ間があるから、町に慣《な》れるためにも、少し散歩してきたらどうかと、所長は勧《すす》めた。すると、キ・キーマが大きな身体《からだ》を乗り出した。
「それなら所長、トニ・ファンロンの工房へ行ってみたいんですが、場所を教えてもらえますか?」
とたんに、パム所長の木の実みたいな丸い瞳《ひとみ》が、陰険《いんけん》な鉤爪《かぎづめ》の形になった。「なに、ファンロン?」
他のハイランダーたちのところにお茶を運んでいたエルザが、手を滑《すべ》らせてカップを床《ゆか》に落とした。
「ごめんなさい」
あわてて拾いあげるのを、所長は素早《すばや》く盗《ぬす》むように横目で見た。キ・キーマの方に向き直ったときには、また元のような愛想の良いくりくり眼《まなこ》に戻《もど》っていた。
「あの男の工房なら、市場の北のはずれにある。すぐわかるよ」
リリスの町は、おおまかに言ってリンゴのような形をしていて、その芯《しん》にあたる部分にブランチや役場、病院や学校、町長の公邸《こうてい》などが集まっている。さらに、芯から皮の方に向かって、東西南北に四本の大きな通りが走っている。それぞれの通りには名前がついており、市場は北のレンガ職人通り≠フ大部分を占めて、細長く広がっていた。つまりは、スケールの大きい商店街である。また、この北の大通りのどんづまり、リンゴのへたにあたる部分に、大鐘楼のある聖堂が立っている。
見あげるような聖堂の尖塔《せんとう》が、午後の陽《ひ》を受けて町の上に影《かげ》を落とす。ファンロンの小さな工房は、その影のなかにすっぽりと包み込まれてしまうような裏町の一角にあった。傾《かたむ》きかけたような家々がみっしりと立ち並ぶところ。特に看板が出ているわけでもなく、作品が飾《かざ》られているわけでもない。干割《ひわれ》れしたレンガ造りの二階家の一階。風雨にさらされて色褪《いろあ》せ、木目も薄れた一枚板のドア。
行き交《か》う町のヒトたちはみんな親切で、ファンロンの工房と問えはすぐに道順を教えてくれた。それどころか、あのへんは少しゴミゴミしているから迷うかもしれない、連れていってあげようと、わざわざ案内してくれるヒトまでいた。でも、さあここだよとこのドアを示されたときには、にわかには信じられない気がした。北の統一|帝国《ていこく》でも人気を呼んでいる宝飾《ほうしょく》品の作者の工房が、なんでこんなに殺風景で愛想がないの?
「とりあえず、ノックしてみようぜ」
キ・キーマがごつい拳《こぶし》を固めて近づいた。そのとき、出し抜《ぬ》けにドアが外に向かってパッと開いて、まともに彼の鼻にぶつかった。
「あ痛!」
「わ!」と、ドアの内側で誰《だれ》かが叫《さけ》んだ。
キ・キーマの顔や身体は、たいそう硬《かた》い皮で包まれている。だから彼の鼻を打ったドアは勢い良く跳《は》ね返り、今度はドアを開けようとしていたヒトにもぶつかったらしい。
「こりゃどうも、スミマセン」
キ・キーマが大きな身体を折ってのぞきこむと、ドアの陰《かげ》から、いかにも痛そうに手で鼻を押さえた青年が、おそるおそるという感じで顔をのぞかせた。
「おや、あなたたちは?」
青年は訝《いぶか》しげなまなざしで、ワタルたちを観察した。やはりアンカ族だ。すらりと背が高い。黒いシャツに黒いズボン、膝《ひざ》の下まで届く白い作業用エプロン。つやつやした漆黒《しっこく》の髪を、頭の後ろでひとつに束ねている。現世のミュージシャンにも、カンフー映画のスターにも、こんな感じのヒトがいる。
「トニ・ファンロンさんですか?」ミーナが元気よく問いかけた。「わたしたち、あなたの作品をひと目見せていただきたくて、ガサラからやって来ました」
「ああ、お客さんですか」
青年は鼻をさすりながら、ほっとしたような声を出した。
「でしたらどうぞ。今はたいしたものを作っていないけれど、せっかくおいでになったんですから」
ワタルたちのためにドアを開け、一歩脇《わき》に退いて、
「ただ、僕はこれからちょっと用足しに出かけなければなりません。ですから今は、あまり長い時間はお相手できないのです──」
言いかけて、いきなり言葉を切ると、青年はきっと目つきをきつくした。ワタルを睨《にら》んでいる。いや正確には、ワタルの左手首にはめられたファイアドラゴンの腕輪《うでわ》を睨みつけているのだった。
「君たちはハイランダーなのかい?」
さっきまでとは一変した詰問《きつもん》口調だった。
「どうなんだ? その腕輪はハイランダーの印だろう?」
ワタルはドギマギした。「え、ええそうですけれど」
ファンロンは、束ねた髪を揺《ゆ》すってしゃにむに首を振《ふ》ると、もう半分がた室内に入りかけていたキ・キーマの前に立ち塞《ふさ》がった。
「それじゃあお断りだ。あんたたちを店に入れるわけにはいかない」
早口で言うそばから、顔色が蒼白《そうはく》になっていく。この怒《いか》りは本物だ。
「でも、どうしてですか?」
「せっかく来たのに──」ミーナが食い下がる。「なぜハイランダーは駄目《だめ》なの? ファンロンさんはハイランダーが嫌いなんですか?」
トニ・ファンロンの黒い宝石のような瞳に、稲妻《いなずま》のような強い光が宿った。「どうしてかって? フン、君らはパム所長には会ってないのか?」
「もちろん会ってきたよ」キ・キーマが答えた。「所長に、あんたの工房の場所を訊いたくらいだ」
「それじゃあいつがここの場所を教えたっていうのか?」噛《か》みつくような勢いで、ファンロンは言った。「ウソをつくな!」
「ウソじゃないよ。もっとも、市場のはずれだっていうたけで、詳《くわ》しくは教えちゃくれなかった。だから道々いろんなヒトたちに訊きながらやって来たんだ」
「本当よ。どうしても、あなたの作品を見たかったから。買うことができるかどうかはわからないけど……だってきっと高価なのでしょうから」
ファンロンはくちびるを噛むと、かぶりを振った。「どれほどの値段をつけられたって、僕のつくったものをハイランダーに売るわけにはいかない。見せるのさえごめんこうむる。さあ、とっとと帰れ!」
ぴしゃりと、ドアが閉められた。
あまりの展開に、三人は、口をぽかんと開けて突《つ》っ立っていた。そこここの傾きかけた家々のドアや窓から、住人たちの顔がちょこっとのぞき、すぐに引っ込む。みんな事情がわかっているのだろう。どこか頭の上の方で、くすくすと忍《しの》び笑いが聞こえる。レンガ職人通りの市場から流れてくる喧噪《けんそう》も、ワタルたちを囃《はや》しているみたいだ。
開いていた口を音をたてて閉じて、目はまだ正面のドアに向けたまま、キ・キーマが言った。「二人とも、ちょっとそこを退《ど》いてくれるかい?」
ワタルとミーナは顔を見合わせて、一歩脇に退いた。
「ありがとうよ」キ・キーマは歯をのぞかせてにやりと笑った。そして両手の拳をぐうと固めながら、狭《せま》い通りの反対側まで、
「一歩、二歩、三歩と」
声を出して数えながら移動した。
「キ・キーマったら、どうするの?」
ミーナの問いに、彼は背中を丸め、よーいドン、突撃《とつげき》! の姿勢をとりながら答えた。「俺はこのくらいのドアなら、五枚重ねだって一撃で突破できるんだ!」
って、助走してるよ!
「駄目だよ!」
「キャー、やめて!」
ワタルと、ミーナはいっせいに彼の首っ玉にかじりついた。キ・キーマは猟犬《りょうけん》みたいに喉《のど》をぐるぐる鳴らし、ずどんずどんと足踏《あしぶ》みをして、二人を上下に振り回した。
「何で駄目なんだよ?」
「暴力はいけないの!」
「あんな失礼なヤツでもか? なんだよあの態度は? 商売人の風上《かざかみ》にもおけねえぞ。あんなのはな、アゴに一発かまして性根《しょうね》を叩《たた》き直してやらなくちゃ、女神《めがみ》さまだってお許しにならないぜ」
「皆《みな》さん! ちょっと待って!」
路地の向こうから、女のヒトの声が呼びかけてきた。振り返ると、長い髪を振り乱し、スカートの裾《すそ》をたくしあげて、エルザが転がるように走ってくる。
「エルザさん?」ワタルたちはまた驚いて、棒立ちになった。何だこの展開は?
エルザは三人のそばまで駆《か》けてくると、両手を胸にあてて、苦しそうにあえいだ。
「はあ、はあ、皆さん、ファンロン、には」
「門前払《もんぜんばら》いされちまったよ」キ・キーマが食いしばった歯のあいだから言った。彼がどれほど優《やさ》しいヒトなのか、ワタルはよく知っているつもりだが、歯並びだけは凶悪《きょうあく》なので、これをやられると相当に怖《こわ》い。エルザは苦しそうに息をつきながら、涙目《なみだめ》で謝った。
「ご、ごめんなさい。わたしが、一緒にこられれば──」
そして、ヘタヘタとその場に倒《たお》れてしまった。
「ごめんなさいね、皆さん。ビックリしたでしょう」
エルザはファンロンの工房の偶《すみ》にある硬いベッドに横になっていた。意識は取り戻したけれど、まだシーツよりも白い顔をしている。
エルザが倒れたとき、ワタルたちが驚き騒《さわ》ぐ声を聞きつけて飛び出してきたファンロンは、「エルザ!」と、ひと声叫んで彼女の名前を呼ぶなり、何のためらいも迷いもなく駆け寄って抱《だ》きあげ、工房のなかに運び込んだ。彼を追って、どさくさ紛《まぎ》れという感じで、ワタルたちも工房に入った。でも、まもなくエルザが気づいて目を開くまで、ファンロンがそばに付き切りで、ワタルたちはベッドに近寄ることさえできなかった。
「恋人《こいびと》同士なのね、きっと」と、ミーナがワタルの耳元で囁《ささや》いた。「だけどエルザはブランチ長の一人娘──うーん、これにはフクザツな事情がありそうね」
エルザは目を覚ますと、すぐに、自分のそばにはファンロンだけでなくワタルたちもいることに気づいて、彼に紹介《しょうかい》しようとした。
「そんなことより、気分は大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」ファンロンは心配そうに、起きあがろうとするエルザを押しとどめた。「君は心臓が弱いんだ。走ったりしたらいけないって、何度言ったらわかるんだい?」
エルザは微笑んだ。「そうね、ごめんなさい。わたしって、気持ちだけは子供のころのお転婆《てんば》のままなの」
「僕らを追いかけてきてくれたんですね。ありがとう。でも、本当に大丈夫ですか?」
ワタルはファンロンの後ろから呼びかけた。彼は鋭《するど》く振り返って、
「君らのせいだ」と冷たく言い捨てた。
「まあ、トニ。お願いだからそんな態度をとらないでちょうだい」甘えるように彼の手を取りながら、エルザは言った。「ワタルさんたちはガサラからお友達の消息を尋《たず》ねていらして、リリスには着いたばかりなの。確かにハイランダーの一員ではあるけれど、父たちとは今さっき会ったばかりなのよ」
優しく諭《さと》されて、ファンロンはちょっと目を伏《ふ》せた。口元は、不満そうに尖《とが》ったままだ。
「でも、ハイランダーなんてみんな同じさ」
「そんなことはないわ。ガサラの町には行ったことがないけれど、とても賑《にぎ》やかなのでしょう? 大勢のヒトたちが、生まれや種族や外見に関係なく、仲良く混じって暮らしているんでしょう?」
エルザはワタルたち三人の顔を見回して、熱心に尋ねた。三人が揃《そろ》ってうなずくと、彼女は今度は両手でファンロンの手を握《にぎ》りしめ、彼の顔を見あげた。
「ねえ、トニ。そういう町もあるのよ。だからお願い、ただハイランダーだというたけで、ワタルさんたちを嫌ったりしないで」
「あのぉ」キ・キーマが鉤爪の先っちょで頬《ほお》をかきながら、遠慮《えんりょ》がちに言い出した。「邪魔《じゃま》して悪いんだけど、オレたちには事情がよくわからないンだ」
「そうですよね、ごめんなさい」エルザははっとしたように赤くなった。そしてファンロンの手を借りて起きあがり、ベッドに座った。
「エルザさんのお父さん──ブランチ長とファンロンさんのあいだには、何か意見の違いがあるみたいですね」ミーナが言った。
「意見だと!」ファンロンがまたカッとなった。「種族差別主義者の言うことが、まっとうな意見なんかであるもんか!」
「だから、そんなふうにいきなり怒《おこ》らないで」エルザが笑った。ワタルとミーナも吹《ふ》き出してしまったので、さすがにファンロンもきまり悪そうな顔になった。
「自分の親のことですもの、わたしも申しあげにくいのだけど……」エルザは俯《うつむ》いて話し始めた。「父は、アンカ族以外の種族のヒトたちを、ひどく劣《おと》ったものだと決めつけているんです」
「だけどパムさんはブランチ長でしょ? そんな偏《かたよ》った考え方をしていたら、町を守ることなんかできないんじゃないんですか?」
「だから、リリスでは、アンカ族以外の住民たちは、ハイランダーを頼《たよ》ることができないんだ」ファンロンが苦い顔で言った。「泥棒《どろぼう》に遭《あ》っても、強盗《ごうとう》に襲《おそ》われても、住まいや店に火を付けられても、被害《ひがい》者がアンカ族でなけれは、リリスのブランチは腰をあげない。それどころか、そういう非道なことをした犯人がアンカ族である場合には、事件そのものをもみ消したり、犯人を逃《に》がしてしまうことさえある」
「そりゃ非道《ひど》い!」と、キ・キーマが大きな声をあげた。
「逆に、アンカ族以外の種族の住民が、アンカ族の住民に対して犯罪を働いたり、過《あやま》って彼らに怪我《けが》をさせたり、財産を損《そこ》なうようなことをしてしまうと、問答無用で捕《つか》まえられてしまう。裁判など待たずに、その場で殺されてしまうこともあるし、ブランチの留置所で拷問《ごうもん》を受けて死んでしまうこともあるんだ」ファンロンは拳を握りしめた。「近頃《ちかごろ》ではこの傾向《けいこう》がさらに強くなって、アンカ族の住民が被害を受ける事件が起こると、捜査も何もしないままに、すぐに他種族の住民の仕業《しわざ》だと決めつけてしまうようにさえなった。そして、ただ被害者の近所に住んでいるからとか、貧乏《びんぼう》で金に困っているからとかいう理由で適当に犯人をでっちあげて、留置所に連れて行くんだ。後はおきまりのコースさ」
まるで、アパルトヘイト時代の南アフリカみたいな話だ。ワタルは尋ねた。「それじゃ、ふだんの生活のなかにも差別があるんじゃないですか?」
ファンロンはちょっと目を瞠《みは》った。「そのとおりだ。どうして知ってる?」
「前に、別の場所で似たようなことが行われてたのを知ってるだけです」
現世《うつしよ》で、映画の中で観《み》たただけだったけど。
ファンロンは腕組みをすると、工房の窓際《まどぎわ》まで歩いていって、外を眺《なが》めた。
「ここの表通りは、レンガ職人通りと呼ばれてる。リリスの町ができたばかりのころ、町の建物を造ったレンガ職人たちが、みんなここに集まって住んでいたからだ。家々でレンガを焼いたりこしらえたりするから、土埃《つちぼこり》はすごいし音もうるさいし、竈《かまど》の熱で一年じゅう暑い。だから、町の建設が一段落して、レンガ職人たちがだんだんと去っていった後も、ここは貧しいヒトたちが暮らす場所になってしまった」ファンロンは振り返ってワタルたちを見た。「さっき外にいるとき、気づかなかったかい? 窓や戸口から君らを見ているヒトたちは、みんな他種族だったろう?」
そういわれてみればそうである。
「僕はこの通り沿いに暮らしている、たった一人のアンカ族なんだ」と、ファンロンは呟《つぶや》いた。「他種族のヒトたちは、リリスの町の総人口の二割足らず。昔はもう少し多かったそうだけれど、町のこの不公平な仕打ちに怒って、出ていってしまったんだそうだ。出てゆくあてがあったり、他所《よそ》でも仕事を見つけることができる能力があったり、若ければそれもいいだろう。でも、いろいろな事情でそうはできないヒトたちだっている。そして残ったヒトたちは、このレンガ職人通りに沿った細長いスラム地区に、ぎゅうぎゅうに押し込められている。他所の通りを歩いてみれば、すぐにわかるよ。立派な屋敷や間口の広い店は、すべてアンカ族の所有物だ。他種族の住民たちは、狭くて不便で不衛生なスラム地区から、その日の稼《かせ》ぎを求めて毎日仕事に出てゆく。もちろん、半端《はんぱ》仕事ばかりさ。リリスでは、アンカ族でなければまともな職にはありつけない。だから当然、他種族のヒトたちはみんな貧乏だ」
「悪循環《あくじゅんかん》なんです」エルザが辛《つら》そうに呟いた。
「そういう種族差別は、老神|信仰《しんこう》と何か関係があるのですか?」
ワタルの問いに、エルザとファンロンは顔を見合わせた。
「ワタルさんは、老神信仰に詳しいの?」
「キ・キーマに教えてもらったんです」
にわかにみんなの視線を浴びることになったキ・キーマは、照れながら、ワタルに説明したことを繰《く》り返した。
「そうですか……。ガサラの町にも広がっているの」
「でも、ガサラじゃ、こんなにあからさまじゃないよ。みんな、老神信仰を警戒《けいかい》してるしな。なにしろ、北の帝国がからんでるから」
エルザはうなずいた。「そうですね。わたしは時々、アンカ族以外のヒトびとが収容所送りになったり、虐殺《ぎゃくさつ》されたりしたという北の帝国と、今のリリスはそっくりなんじゃないかと思うことがあります。規模は小さくても、やっていることはよく似てる──」
「北の老神信仰の影響《えいきょう》も、もちろん否定できないが、リリスはもともと他種族差別思想の強い土地《とち》柄《がら》だったんだ。いったい何が原因なのかわからない。もう百五十年も昔に、最初にこの土地に入植した開拓《かいたく》団は、他の土地の開拓団と同じように、いろいろな種族が入り交じって構成されていた」ファンロンは言った。「事情が少し変わってきたのは、リリスを囲む岩山のそこかしこに、宝玉の鉱山が発見されてからだ。鉱脈にたどり着くためには、地底深くまで掘《ほ》り潜《もぐ》っていかなくちゃならない。それには力持ちで体力のある獣人《じゅうじん》族がぴったりだった。その一方で、掘り出された原石を磨《みが》いて加工する作業には、手先の器用なアンカ族が向いていた。そうやって、仕事が分かれていったんだ」
「そうか、それで今のような工芸の町リリスができたのね」と、ミーナが言った。「鉱山の方はどうなってるんですか? 今でもそこでは獣人族のヒトたちが働いているの?」
ファンロンはかぶりを振った。「発見から八十年ぐらいのあいだで掘り尽《つ》くされて、鉱山は閉山になった。それほど大規模な鉱脈じゃなかったんだよ。今でも欠片《かけら》程度のものが発見されることはあるが、商売になるような量じゃない。今リリスで加工されている宝玉は、大半がアリキタからの輸入品だ」
そしてアンカ族の支配だけが残った──というわけなのか。
「あ、そうか」と、キ・キーマがすっとんきょうな声をあげた。「オレは南大陸じゅうを股《また》にかけるサーカワのダルババ屋だけど、リリスに来るのは初めてだ。アリキタから輸入される宝玉の原石は、あんたたちのギルドが直《じか》に運んでいるんだよな?」
「そうだよ。それはやっばり、この町の権力者である工芸品ギルドの親玉たちも、激しい他種族差別主義者だからさ。水人族が町に足を踏み入れるのを許したくないんだ」
「ダルババ屋はオレたちの専業みたいなもんだけど、アンカ族の業者だっていないわけじゃないもんな」キ・キーマは言った。「ふうん、そういうことだったのか。今まで全然気づかなかったよ」
「外からは、リリスの実状はなかなかわからないと思います」エルザが悲しげに首を振ると、美しい黒髪がさらさらと流れる。「工芸師を目指して修業しに来るのはアンカ族ばかりだし、ほかにはこれという産業のある町ではありませんから、実は、ヒトの出入りはすごく少ないんですもの」
「だけどさぁ、パム所長がそんなスゴイ差別主義者なら、どうしてオレやミーナを見て嫌《いや》な顔をしなかったんだ?」
ミーナもくるりとしっぽの先を動かして、その疑問に同意を示した。
「それはやはり、あなたたちが外から来たハイランダーだからです。露骨《ろこつ》な差別をしては、ガサラのブランチを怒らしてしまうから」
確かに、カッツが鞭《むち》を持って飛んできそうな話だ。
「だけど、いきなり差別思想を退治できるかどうかはともかくとしても、事件の捜査や治安を守る大切な業務に関《かか》わることで、そんなデタラメがまかり通っているなんて、ハイランダーにとっても聞き捨てならない話だと思います。ボグのブランチを束ねる首長に、訴《うった》えかけてみたらどうですか?」
ファンロンは、最初の冷たいまなざしに戻ってワタルを観察した。「僕らがそれを試みなかったとでも思うのかい?」
「やってみたの。何度もやってみたわ」エルザがあとを続けた。「でも、スルカ首長は、この間題には深入りしたくないみたいなの。事なかれ主義というのかしら」
「そうじゃない。あいつも差別主義者なのさ」ファンロンが唾《つば》でも吐《は》くような勢いで言った。「連合政府がシュテンゲル騎士団を創設するとき、ハイランダーと同じような種族混成型の騎士団にするか、種族別に団を分けて名称《めいしょう》も変える形式にするかで、大変な議論になった。最終的には投票で決めたんだが、参考意見を求められて答えたハイランダーの首長のうち、スルカ首長だけは種族別賛成派だったんだ」
「そうか、シュテンゲル騎士団もアンカ族ばっかりだったよね」ワタルは自分で自分に呟いた。「だけど、種族別に分ける必要なんて、あんまりなさそうな気がするけど」
「理由はどうにでもつけられるさ。装備がバラバラになるとか、団体生活をするのに生活習慣が違うとか」ファンロンはまた怒っている。「でも、どういう名目であれ、一度種族別に分けてしまうと、それは必ず、種族別に業務を分けるということにつながってしまうんだ。現にシュテンゲル騎士団だって、出来立てのころにはアンカ族以外の団員だっていたのに、今では彼らは鎧《よろい》も兜《かぶと》もなしで、災害の救助や復旧、山林の開拓みたいなことばかりをやらされている。シュテンゲル騎士団と言えば、あの銀の鎧兜でカッコをつけたアンカ族の奴らの団体の代名詞になってしまった。最初はそうじゃなかったのに」
「なんかなぁ」キ・キーマがぽつりと言った。「オレたち、あんまり長居しない方がよさそうな感じがしてきたよ。な、ミーナ?」
ミーナは考え込んだ様子で、しっぽを動かしている。
「ファンロンさんは、この町を出ようと思ったことはないんですか?」
ワタルの質問に、ファンロンとエルザがまた目と目を見合わせる。その代理を務めるように、じいっと自分のしっぽを見つめていたミーナが、そのままの姿勢で短く言った。
「エルザさんを置いて出ていかれるわけがないじゃないの。ね?」
「でもさ、駆け落ちってこともあるじゃない? ねえ?」
あわてて言い足すワタルに、エルザは少し涙ぐんだような瞳を向けた。「わたしは、もちろんトニについてゆきたい。でも、父を見捨てて出ていくわけにもいきません。父に目を覚ましてほしいんです」
「他種族差別主義は間違っているって、わかってほしいんですね?」
「ええ! 父だって、若いころからああいう思想を持っていたわけではないんです」
「いつごろから変わってしまったんです?」
「七、八年ほど前からのことになるかしら。母が病気で亡くなって──」エルザは記憶《きおく》をたどるように瞳を泳がせた。「そのあと、寂《さび》しさをまぎらわすためでしょうけれど、聖堂の活動を熱心にするようになったんです。ほら、あの大鐘楼のある聖堂」
「だけどあれは、女神《めがみ》さまの聖堂でしょ?」
「そうですけれど──でも、これも話すと長くなるけれど、リリスではそうとばかりも言い切れないの。宝玉の生み出す美を司《つかさど》る精霊《せいれい》を祀《まつ》るための聖堂だという意味もあって」
そういえば、ガサラには聖堂などなかった。
「女神さまの教えは本当に素朴《そぼく》なもので」エルザはちょっと姿勢を正し、歌うように続けた。「地に満ちる命よ、労《いたわ》りあい、助けあい、栄え、光の下《もと》へ集《つど》え」
「たったそれだけ?」
「そうなの。基本はこれだけ。ただ、その他に少し細かい戒《いまし》めがあって、もっとも強い禁忌《きんき》とされているのは、女神の姿を映した像を造ることと、女神のために大きな聖堂を造ること。このふたつは厳禁なのよ。だから、どんな町へ行っても、女神さまの教えについて説いた書物はたくさんあるし、それらはどこでも手に入るし、町の広場に集って女神さまを讃《たた》える歌を歌う集まりとか、小さな信仰行事はいろいろとたくさん行われているし、そのための集会所のようなものもあるけれど、聖堂はないわ。リリスだけなの」
しかも、今の話だと、あの塔と大鐘楼は、むしろ女神さまの教えに反してるみたいな存在ということになる。すっごいヘンだ。
「父はあの聖堂に通うようになって、どうやらそこで誰かに会って、今の考え方を吹き込まれたようなの。確かな証拠があるわけではないけれど、わたしにはそう思えるの」
聖堂に行ってみようと、ワタルは決めた。
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17 町と聖堂
ブランチに戻《もど》ると、ちょうどパトロールに出発する時間だといって、パム所長が待ち受けていた。
「ところであんたら、ファンロンには会えたかね? 彼はちょっとへんくつだろ?」
当のファンロンからあれだけの話を聞かされた後なので、これまでの経緯《けいい》からしたらごく自然なはずのこの問いかけに、素直《すなお》に答えるのが難しかった。そしてそれが顔に出た。
「なんだ、彼には会えなかったのか」パム所長は探《さぐ》るような目をした。「ひょっとして、エルザが一緒《いっしょ》に行くとか言わなかったかね」
「エルザさんは、道案内をしてくださいました。美人なだけじゃなく、とっても優《やさ》しくて親切なお嬢《じょう》さんですね」モジモジしているワタルに代わって、ミーナがてきぱきと答えた。「でも、ファンロンさんの工房《こうぼう》にはご一緒しませんでした。それに彼はお留守で、わたしたち無駄足《むだあし》だったんです」
「ふうん、そうか」所長の視線が少し和らいだように、ワタルには見えた。「もし時間があったら、パトロールの合間にもう一度訪ねてみたらどうかね。そのくらいの時間はあるだろうから」
所長は机の上に地図を広げ、ブランチが取り決めているパトロール区間の区分けと、これからワタルたちを同行させるパトロール・ルートについて説明した。レンガ職人通りは、そのなかに含《ふく》まれていなかった。聖堂もだ。
「わかりました、よろしくお願いします。でも所長」ワタルは言った。「僕、ぜひとも聖堂を訪ねてみたいんですが。あの塔《とう》と大鐘楼《だいしょうろう》、立派ですね。他の町では見たことがありません。なかを見学できたらいいんですが」
所長は笑った。「パトロールだからなぁ。見学は明日にしたらどうだい?」
そこを何とかと食い下がっても、所長はぐねぐねとはぐらかして、うんと言わない。
「聖堂は、信者以外は入れないからね」
「だけどあれは女神《めがみ》さまの聖堂でしょう? それなら僕ら、みんな信者です」
「リリスの聖堂は違《ちが》うんだ。女神さまはご自分のために聖堂を建てることを禁止してるんだぞ、学校で習ったはずだ」
「だったら──」
「あの聖堂は、システィーナという美の精霊《せいれい》のために建てられたものだ。システィーナは、わしらの前に現れる時には、アンカ族の若い娘《むすめ》か美少年の姿をしておられる。もっとも、充分《じゅうぶん》に腕《うで》を磨《みが》いた工芸師のもとにしか現れないのだがね」
「システィーナは、リリスでは女神さまよりも偉《えら》いんですか?」
「そんなことはないよ。だが、工芸師にとっては美を生み出す技術と才能をもたらしてくれる、誰よりもありがたい精霊だ。だからああして聖堂を建てて祀《まつ》っている」
おしゃべりしている時間はないぞ、出発だとせき立てられて、三人は所長の後についてパトロールに出た。まずは町の中心部、ブランチや役場の周りを歩き、それからレンガ職人通りとは反対方向の道を進んだ。白っぽい石を積みあげてつくられた建物が並んでいる。窓々には洗濯物《せんたくもの》がはためいて、元気な子供たちの声が聞こえる。建物の隙間《すきま》やところどころにある小さな広場には、立木や花木が植えられており、石畳《いしだたみ》の道とあいまって、こざっぱりとしたきれいな町だ。
「このへんは全部、集合住宅だ」パム所長は楽しそうにあたりを眺《なが》めながら言った。「リリスの町で働く若い家族や、子供たちを育てあげた老夫婦《ろうふうふ》などが、安い家賃で暮らしている。清潔で快適そうだろう? リリスは工芸品の産業のおかげで財政が豊かだから、こうした町の整備にも金をかけることができるんだ」
もちろん、所長の言葉に嘘《うそ》はない。ワタルだって、こんな町ならちょっと住んでみたい。でも、ここの住民たちはアンカ族ばかりだ。それを意識しつつ、レンガ職人通りのゴミゴミして不衛生な環境《かんきょう》と引き比べると、とてもとてもひっかかる。四人が歩いて行くと、道ばたで立ち話をしている若い主婦たちや、輪になって遊んでいる子供たちが、キ・キーマとミーナの姿を見かけて、一瞬《いっしゅん》ぎょっとしたり、怯《おび》えて誰かの背中に隠《かく》れたり、眉《まゆ》をひそめたりすることに気づいてからは、さらにひっかかる。大きなトゲが、心に刺《さ》さって抜《ぬ》けない。
「この通りを一本南側に入ると、一戸建ての家が並ぶ区画に出る」
パム所長は説明した。歩いていると、住人たちからときどき投げかけられる挨拶《あいさつ》に、気持ち良さそうに手を振《ふ》って応じている。
「そこはまあ、屋敷町《やしきまち》だな。リリスで成功した工芸師や、リリスの工芸品を扱《あつか》うことで財を成した商人たちの家があるんだ。商人たちは首都のランカにも家を持っている場合が多いから、ここのはまあ、別荘だな。その分、豪奢《ごうしゃ》な造りの屋敷が多い。びっくりするぞ」
と、予告されていても、それでも驚《おどろ》くほどの立派なお屋敷町だった。ワタルは現世で(テレビのニュースで)見たことのある首相|官邸《かんてい》を思い出した。社会見学で行った浜離宮《はまりきゅう》も連想した。
「どうだね? 素晴《すば》らしいだろ」パム所長は、自分のことのように自慢気《じまんげ》だ。「ここらは当然、治安も良い。だから、リリスの町には不慣れなあんたらには、この一帯をパトロールしてもらうことにするよ」
「オレやミーナがこのへんを歩いていて、大丈夫《だいじょうぶ》なのかな」キ・キーマが、彼らしい素朴《そぼく》な疑問を出した。「住んでいるのはアンカ族ばっかりだもんな」
ワタルとミーナはちらっと視線を交《か》わした。所長は何も気づかない様子で、腰に手をあててわっははと笑う。妙に大きな声だ。
「そんな心配は要《い》らないよ。あんたらはハイランダーなんだ。それにこの屋敷町には、他種族の連中だっていっぱいいるよ。みんな使用人だがな」
最後の言葉は、歯のあいだから押し出したみたいに潰《つぶ》れてかすれていた。
「それじゃ、ルートを逆戻りしてみるか。往復すりゃ、もっとよく道がわかるだろう」
共同住宅街のなかを抜けてゆくとき、ワタルたちのいちばん後ろを歩いていたキ・キーマが、突《とつ》然《ぜん》、
「痛テ!」と叫《さけ》んで足を止めた。それと同時に、彼の顔の横にぶつかった何かがはずんで道に落ちた。所長がそれを拾おうとかがみ込んだが、それよりも早く、ミーナがさっとしっぽをのばし、落ちたものを巻き取って拾いあげた。
「わ、これ何? 尖《とが》ってる!」ミーナはしっぽから取り出したものを指先でつまんだ。「石の欠片《かけら》かしら」
現世の五百円玉ぐらいの大きさの、ゴツゴツと尖った半透明《はんとうめい》の石だ。相手がキ・キーマだったから、「痛テ!」ぐらいで済んだけれど、ミーナやワタルだったら、下手すれば大《おお》怪我《けが》になっていただろう。
「くっそぉ、誰が投げやがったんだ?」キ・キーマは肩《かた》をいからせて、周りの集合住宅の窓を見回した。「上から石を投げつけるなんて、イタズラとしちゃ悪質だし、喧嘩《けんか》を売るにしちゃめちゃめちゃヒキョーだぞ!」
ワタルは急に心配になってきた。家々の窓に人影《ひとかげ》は見あたらないけれど、これを投げた奴《やつ》がどこかに潜《ひそ》んで、まだこっちに狙《ねら》いをつけているかもしれない。次の石は、ミーナの頭にあたるかもしれないのだ。
「行こう、キ・キーマ」
「そうだな。だいぶ時間をくった。急いだ方がいい」パム所長は、言葉とは裏腹の呑気《のんき》な口調で言った。それどころか、ちょっと面白がっているみたいだ。「なぁに、そんなのは子供のイタズラだよ。怒《おこ》りなさんな」
キ・キーマは腰に手をあてて所長を見おろした。彼の方がずっと背が高い。
「投げた方はイタズラのつもりでも、あたった方は大怪我をするぜ? 放っておいちゃまずいよ、所長」
「だったらあんたはこのへんをパトロールしないことだ」所長は眉毛ひとつ動かさずに応じた。
「あんたやそっちの娘みたいな種族は、ここでは珍《めずら》しいんでな。子供らが興味を持つんだろう。悪気はなくても、誰がイタズラを仕掛《しか》けてくるかわからんし、捕《つか》まえきれん。そうだ、お二人には、レンガ職人通りを担当してもらおう。他種族が多い場所だから」
翌朝ブランチで食事を済ませると、ワタルはパム所長と連れだって、午前中のパトロールに出た。
昨夜のうちに、キ・キーマとミーナと相談し、ともかくしばらくは所長の提案に従っておこうと決めていたので、二人は何事もなかったみたいな愛想《あいそ》の良い顔で所長に挨拶したけれど、本当はすごく怒っていた。ミーナは、レンガ職人通りをパトロールしながら、これまで住民たちがパム所長にぬれぎぬを着せられたり、事件が起こって訴《うった》え出ても取りあげてもらえなかったりした具体的なケースを聞き集めてみると、張り切っている。
「だけど、慎重《しんちょう》にしないとね。危ないことになったらいけないから」
「わかってるって。大丈夫、任せてよ」
ワタルはワタルで、せいぜいパム所長に調子をあわせて、リリスの町の隠された部分に接近してみるつもりだった。
パトロールをしながら、所長はあれこれとワタルの身の上について尋《たず》ねた。旅人≠ナあることは秘密だから、答えるのにワタルはけっこう苦労した。僕はナハトの生まれです。両親はガサラで宿屋をやってましたが、僕が生まれてまもなく病気で死にました。それで僕はブランチに引き取られて、ブランチ長に育てられたんです──カッツが、ブランチ長が迷子《まいご》や孤児《こじ》を引き取り、そのまま育てあげることもあると話してくれたことを、自分風にアレンジしてしゃべった。
「それで君は、まだ小さいのに立派にハイランダーをやっとるわけだ」パム所長は嬉《うれ》しそうに言った。「アンカ族の子供は優秀《ゆうしゅう》だからな。頭がいいし、勇気もある」
「いえ、僕なんかいくじなしです」所長はあっはははと笑った。「本当のいくじなしなら、ガサラからここまで旅をしてこられるわけがない。しかもあんなお荷物と一緒にさ」
すぐには、「お荷物」というのがキ・キーマとミーナを指しているのだとわからなくて、ワタルは笑って時間を稼《かせ》いだ。そして言葉の意味に気がつくと、さすがにその瞬間には笑《え》みが凍《こお》りついてしまった。
パム所長は、そんなワタルを横目でじっと観察していた。口元は笑っているけれど、目はニコリともしていない。
「君は賢《かしこ》い子だから、大人の忠告をちゃんと聞き入れることができると思うがね」
所長は、道の脇《わき》の店屋の主人に、お役目ご苦労さまですと挨拶を受けて、手を振り返しながら言い出した。ほとんど口元を動かさず、ワタルにだけ聞こえるような小声だ。
「立派なアンカ族のハイランダーが、水人族やネ族なんぞとあんまり親しくするのは、感心した話じゃないね。ガサラは人の出入りが激しいから、目立たないのだろうが」
「ここでは目立っちゃいますか?」
「うむ。昨日、あの水人族が石を投げられたのは覚えているだろ?」
「イタズラじゃなかったんですか?」
所長は大げさに目を見開いた。「もちろんイタズラさ。子供のイタズラだ。だが、子供は正直で純粋《じゅんすい》なものだ。理屈《りくつ》抜きに良いものと悪いものを選《よ》り分ける目を持っている」
あとは言わなくてもわかるだろうという顔で、パム所長はにんまりと笑った。ワタルは胸がムカムカして吐《は》きそうだった。
「これから聖堂を見学できますか?」気持ちを抑《おさ》えて、そう言ってみた。「美の精霊であるシスティーナの像を、ひと目見てみたいんです」
「おお、いいとも」
聖堂に向かうのに、所長はレンガ職人通りを通らなかった。いったん町の中心に戻り、そこから大きく迂回《うかい》した。でも、そのルートを通ったおかげで、レンガ職人通りの環境が、他の道筋と比べて格段に劣《おと》ることも、町の北にそびえ立つ聖堂が、どれほどまでに邪魔《じゃま》くさく空を覆《おお》って見えるか、どれほど傲慢《ごうまん》にレンガ職人通りを中心に広がるスラム≠見おろしているか、聖堂の影のなかで暮らさなければならない住民たちにとって鬱陶《うっとう》しい存在であるかということが、かえってよくわかってしまった。
正面から見あげる聖堂は、ワタルに、『サーガ』シリーズに登場する神聖教会を連想させた。石《いし》壁《かべ》。太い柱。そこここにはめこまれた美しいステンドグラスには、たぶんこれがシスティーナなのだろう、長い髪《かみ》に衣《ころも》を纏《まと》った裸足《はだし》の乙女《おとめ》が、草原を駆《か》けていたり、竪琴《たてごと》を弾《ひ》いていたり、泉に足をつけていたり、火の点《つ》いた松明《たいまつ》をひれ伏《ふ》すヒトびとの頭上に掲《かか》げていたり──と、さまざまなことをしている様子が描《えが》かれている。
ゲームのなかの神聖教会では、特に宗教は設定されていないのだけれど、親切な神父さんがいて、主人公があるイベントをこなしてから訪れると、一度にひとつずつ貴重な神聖魔法の呪文を教えてくれる。さらには、体力も全回復してくれるという親切さ! でも、ここリリスの聖堂はどうだろう?
荘厳《そうごん》で美しい。それはもちろんだ。ワタルと同じ歳の子供たち百人に、「聖堂ってどんな建物?」と尋ねて、返ってくる答をそのまま集めたみたいな、イメージの完璧《かんぺき》さ。
「素晴らしいだろう?」パム所長は鼻の穴をふくらませている。「正式な名称《めいしょう》は、システィーナ・トレバドス聖堂というんだ。トレバドスというのはリリスの古い地名でね。システィーナは、かつてそこにあった泉から誕生した精霊なんだが、その泉の水を汲《く》んで女神さまに献上《けんじょう》することで、おそばに仕えることを許されたという伝説があるんだ」
「本当に美しいです」ワタルは言った。「でも、システィーナのためだけにこんな立派な聖堂を建てちゃって、女神さまはお怒りにならないでしょうか?」
「女神さまのいる運命の塔は、この聖堂よりも百倍も千倍も立派なんだろうから、大丈夫だ」所長はあっさりと答えた。「女神さまが自分のために聖堂を建てることを戒《いまし》めたのも、自分が創《つく》って野に放った種族の力では、どうせ立派な建物なんか建てられやしないと思っていたからだそうだよ」
なんだか、女神と女神の創造物をバカにしているような言い方だ。
「なかを見学しようか。もっと驚くぞ」
大扉《おおとびら》を押して聖堂内部に足を踏《ふ》み入れると、色とりどりの光がワタルの頭上に降ってきた。ステンドグラスを通過した光が、聖堂のなかに満ちているのだ。
中央の通路を挟《はさ》んで、信者たちが腰かけるための長い椅子《いす》が何列も並んでいる。通路の突き当たりには祭壇《さいだん》があり、正面にはひときわ色|鮮《あざ》やかなステンドグラスがあって、その前に、石造りのシスティーナの像が据《す》えてあった。像の足元は、新鮮《しんせん》な切り花で埋《う》め尽《つ》くされている。
そこここに、頭《こうべ》を垂れて祈《いの》っている若者や、信者の椅子に腰掛けて静かに本を読んでいる老人の姿などが見受けられる。ワタルは足音を忍《しの》ばせて祭壇の正面まで進み、そこであらためてシスティーナ像を見あげた。
長い髪の乙女。整った顔立ち。袖《そで》と裾《すそ》の長いローブを着て、右手に宝玉のついた杓《しゃく》を、左手に手鏡の柄《え》を握《にぎ》って、それを空に向かって捧《ささ》げるように高く掲げているので、袖がめくれて二の腕が見える。
「あの手鏡は、ヒトの心の美醜《びしゅう》を映し出すものだ」所長が説明した。「右手の杓は、美しいものを害しようとする邪悪なものを打ち据えるために使われる」
もう一歩前に出て、石像を上から下まで観察して、そこで初めてワタルは気づいた。切り花に埋もれて見えにくいけれど、このシスティーナは、地面の上に立っているのではない。何かの上に乗って──いや、何かを踏んづけている。おまけに、えらく頑丈《がんじょう》そうなサンダルを履《は》いている。
ワタルはしゃがみこみ、手で切り花をそっと避《よ》けてみた。すると、キ・キーマそっくりの水人族の顔がのぞいた。苦しげに歪《ゆが》んでいる。すぐ後ろでは、トローンを思わせる獣人《じゅうじん》族が、顎《あご》をのけぞらせて苦しんでいる。
この石像のシスティーナは、彼らの頭や胸を踏みつけているのだ。
ワタルは思わず、さっと立ちあがった。背後からパム所長がワタルの肩に手を乗せた。
「どうだね、素晴らしいだろう?」
その間いにかぶるように、祭壇の右手から別の声が呼びかけてきた。
「これはこれはパム所長。ようこそお越《こ》しくださいました」
白い法衣に身を包み、システィーナ像が手にしているのとよく似た形の、銀製の杓を持った老人が、こちらに近づいてきた。
「おじゃましております」所長は丁寧《ていねい》に頭をさげると、ワタルに言った。「こちらはダイモン司教さまだ。この聖堂でいちばん位の高いお方だよ」
ダイモン司教は、にこやかな笑顔で礼を返した。すらりとして姿勢がよく、見事なまでのつるりとした禿頭《はげあたま》で、その頭の形といったら完璧だった。ふさふさとした白髪《しらが》まじりの豊かな眉の下で目が輝いている。ワタルはぐっと気圧《けお》されてしまった。このヒトは、年齢はともかく、中身は老人≠ナはないという気がした。一種、精悍《せいかん》な感じがする。猛々《たけだけ》しいという言葉を使ったら、言いすぎかもしれないけれど……。
「とんでもない。わたしは精霊システィーナの仕えビトに過ぎません」
「おお、そうでしたな。失礼いたしました」
「新しいお客様ですな?」ダイモン司教がワタルを見た。その目は、さっきのパム所長と同じように、値踏みするように冷静だ。
所長がワタルを紹介《しょうかい》すると、司教は驚いたように顎を引いた。
「ほう、そのお歳でハイランダーとは立派なものだ。わたしはまた、工芸の修業にいらした方かと思った」
「ワタル君は、ご友人の消息を探して旅をしているのですよ。ただ、トニ・ファンロンの工房を訪ねてみたいと言っているんですが、あの男は変わり者ですからなぁ」
「おお、ファンロンね」ダイモン司教は杓の先を額にあてて、首を振った。「彼ほど精霊システィーナに深く愛《め》でられた工芸師も珍しい。同時に、彼ほどシスティーナのお恵《めぐ》みを理解しようとしない工芸師も珍しい」
ワタルのおなかの底から、言葉が群をなして込《こ》みあがってきた。言ってやれ!
ぐっとこらえて、ワタルはもう一度システィーナ像を見あげた。「この像のお顔は、ちょっとエルザさんに似ていますね」
パム所長は笑み崩《くず》れた。「それはもったいない話だが、嬉しいな」
「エルザは美しいですからな」ダイモン司教も言った。「まこと、システィーナの生まれ変わりのような美の化身《けしん》です」
「でも、エルザさんは僕だけじゃなく、キ・キーマにもミーナにも親切ですよ。そこはシスティーナとは全然違うな」
言葉が迸《ほとばし》るままに言ってしまって、ワタルは口をつぐんだ。所長と司教の視線の温度が、いっぺんに一〇度ぐらいさがったのを感じたのだ。でも、二人とも微笑《びしょう》している。
「僕は、ここで失礼します」ワタルはぺこりと頭をさげた。
聖堂から外に出たところで、大鐘楼の鐘《かね》が鳴り始めた。おなかの底に響《ひび》くような低音が、遥《はる》か頭上から、まるで誰かがワタルを狙って投げ落としているみたいに、次から次へと降ってくる。ワタルは両手で耳を塞《ふさ》ぎ、振り返りもせずに立ち去った。
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18 ミツルの消息
長居は無用だと、ワタルは言った。これ以上キ・キーマにもミーナにも嫌《いや》な思いをさせたくないので詳《くわ》しいことは話さなかったけれど、聖堂で見たシスティーナ像のことだけはうち明けた。あれだけで充分《じゅうぶん》だとも思えた。
「でも、それじゃミツルを探せないじゃない?」ミーナは心配そうだ。「もう少し辛抱《しんぼう》してみましょうよ。わたしたちなら平気だから。ね、キ・キーマ?」
「そうだよ。レンガ職人通りの聞き込みも、手をつけたばっかりだしさ」キ・キーマは大きな手を広げた。「ビックリするくらい、いろんな話を聞き出せたよ。あそこの住民たちは、ホントに不公平な目に遭《あ》わされてるんだ。放《ほう》っておけないよな」
「もちろん放っておけないよ。でも、僕ら三人だけの手には余《あま》る仕事じゃない? カッツさんに相談しよう。ボグのスルカ首長があてにならないなら、ガサラのブランチを通して、ナハトのギル首長に訴え出るんだ。絶対にその方がいいよ」
キ・キーマはしげしげとワタルを見た。「珍《めずら》しく弱気だなぁ、ワタル」
「嫌な予感がするんだ」ワタルはきっぱり言い切った。「早くここを離《はな》れた方がいい。ファンロンさんとエルザさんには、必ず戻《もど》ってくるって約束して、出発しよう」
夕食後のことで、三人はブランチのなかの与《あた》えられた部屋にいた。充分に気をつけて、声をひそめて話していたつもりだったけれど、ドアの外で突然《とつぜん》所長の声がしたときには、シュテンゲル騎士《きし》団の事情|聴取《ちょうしゅ》の時と同じように、天井《てんじょう》まで飛びあがりそうになった。
「くつろいでいるところに悪いが、ちょっといいかね?」
所長は室内に入ってくると、鋭《するど》い目でキ・キーマとミーナを見た。彼らは床《ゆか》に柔《やわ》らかな座布団《ざぶとん》みたいなものを敷《し》いて座っていた。
「ワタル君、どうやら君の友人と思われる少年が、リリスの町の郊外に滞在《たいざい》していることがわかったんだ」
ワタルは立ちあがった。「ホントですか? 郊外のどこに?」
所長は地図を持参していた。それを床の上に広げて、指をさす。
「町の北に、我々が精霊《せいれい》の森≠ニ呼んでいる、スラの木だけが集まってできている森がある」
「スラの木?」
「システィーナがことのほか愛《め》でられた香木《こうぼく》だ。彼女の杓《しゃく》はスラの木でできている。だから聖堂の聖具の素材も、スラの木と銀しか使わないのがきまりだ」
その森のなかに、リリス周辺ではいちばん古い、トリアンカという病院があるという。
「いい病院なんだ。スラの木の香《かお》りには、病を癒《いや》す力があるのだよ」
「ミツルはそこにいるんですか?」
ワタルは急《せ》き込んで訊《き》いた。病院にいるなんて、怪我《けが》でもしたのだろうか?
「名前は確認《かくにん》できていないが、黒いローブを着た、ワタル君と同じくらいの歳《とし》の魔導士《まどうし》だというのだから、たぶんそうだろう。怪我や病気というわけではなくて、道に迷って偶然《ぐうぜん》に病院へたどり着いたようだよ。それで数日滞在して、旅の疲《つか》れをとっているのだろう。私は、トリアンカに家族を預けている住人から話を聞いたのだがね、彼らは旅の魔導士が珍しくて、みんなで引き留めて、旅先で見聞きした話をねだっているらしい」
パム所長はにっこりした。
「良かったな。こんなに早く消息がわかって。明日の朝いちばんで出かけるといい。万が一、その魔導士がミツル君でなくても、リリスからそう遠く離れているわけじゃないのだから、また戻ってくれば済むことさ」
ここを離れる口実が、向こうから転がってきた。ワタルは心底|嬉《うれ》しかった。生まれてから今まで、こんなに不愉快《ふゆかい》で怖《こわ》い経験をしたのは初めてだ──と思って、ふと田中理香子が押しかけてきて母さんともみ合いになったときのことを思い出した。あのときも怖かった。すごい無力な感じがして、とても悲しかった。ベッドの下に隠《かく》れているあいだは、死ぬはど惨《みじ》めだった。
「ワタル、良かったね」、ミーナがワタルにきゅっと抱《だ》きついた。驚《おどろ》いて我に返ると、パム所長の冷たいまなざしが、ワタルの上に注がれていた。
翌日は、所長に会わずに済むように、夜が明けるとすぐにブランチを出ることにした。早朝番の槍《やり》使いのハイランダーが一人、まだ眠《ねむ》そうな顔をして出てきたので、彼に挨拶《あいさつ》をしてそそくさと出発した。
「ま、道中気をつけるこったな」
槍使いはニヤニヤ笑いと共に言って、すぐにワタルたちが使っていた部屋に入っていった。ダルババ車に乗り込み、ブランチから離れてゆくとき、ワタルは他の二人に気づかれないようにそっと振《ふ》り返った。槍使いが、さっきまでキ・キーマとミーナが使っていた毛布や座布団を、ブランチの窓から外に放り出していた。余計なものを見てしまったと、ワタルはくちびるを噛《か》んで後悔《こうかい》した。
精霊の森は、リリスの町を離れて平地のなかをしばらく進むと、緩《ゆる》やかな丘陵地《きょうりょうち》のなかほどに、忽然《こつぜん》と姿を現した。遠くからでは、まったく見えない。これには三人とも鴬いて、何度も地図と引き比べて確かめた。
「スラの木か」キ・キーマが首をひねる。「精霊の杓の材料に使われるような木なら、魔力を秘《ひ》めているのかもしれない」
ミツルに会えるかもしれない嬉しさの底に、ワタルはふっと嫌なものを感じた。
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19 魔病院
スラの木は、確かに良い香《かお》りを放っていた。香水《こうすい》の匂《にお》いだ。濃《こ》い匂いだ。木の幹も枝もほっそりとしていて、まるで踊《おど》っているみたいに、優美に身をくねらせている。尖《とが》った葉がみっしりとついているだけで花が咲いているわけではないから、木の本体が香っているのだろう。
ダルババ車で森に分け入ってまもなく、ミーナが「鼻が痛い」と言い出した。
「この匂い、わたし嫌い。強すぎるわ」
「そうかぁ?」キ・キーマは鼻の穴をヒクヒクと動かした。「オレにはそんなに匂わないぞ」
「慣れちゃったからよ。でも、わたしたちネ族はキ・キーマやワタルたちより百倍くらい鼻がいいから、これじゃたまらないわ。気持ちが悪くなって、目が回りそう」
「ちょうどいいや、行き先は病院だぜ」
そのとき、群舞《ぐんぶ》するバレリーナたちの指先みたいに差しのばされた枝々の隙間《すきま》から、ちらりと灰色の四角い建物がのぞいた。
「あ、あれかな?」ワタルは身を乗り出した。「どれ」キ・キーマは鞭《むち》をあげて、ダルババ車の上にまで覆いかぶさってくるスラの木々の枝を押しのける。「おう、あれだな」
白っぽい灰色の岩。サイコロの形に切り出したその岩を、無造作に三階分の高さに積み重ねたという感じの建物だ。窓はたくさん開いており、その窓の内側には灯《あか》りがともっている。まだ朝だというのに──そういえば、スラの森に入ってから、妙《みょう》に薄暗《うすぐら》くなったような気がする。
ダルババ車の上で頭上を仰《あお》ぐと、驚《おどろ》いたことに太陽が見えなかった。あんなに晴れていたはずなのに、どうしたことだろう? 青空も霞《かす》んでしまって、まるで白いヴェールを一枚かぶせられたかのようだった。
「おかしいな、霧《きり》でもないのに」
キ・キーマが手綱《たずな》を握《にぎ》り直しながら呟《つぶや》いた。ダルババがぶるると唸《うな》って、足踏《あしぶ》みをする。どうどうと宥《なだ》めてやっても、数歩進んだだけでまた足踏みを始めてしまう。
「おいおい、何を怖《こわ》がってンだ?」
キ・キーマはダルババの耳の後ろを撫《な》で始めた。ダルババは足踏みを続けるだけでなく、少しずつ後ずさりしている。
両手で鼻を押さえ、荷台で縮こまっていたミーナが、ぱっと身を起こして耳を立てた。「何かいるよ!」
ワタルもその気配を感じた。どこに? ここに──そこにも、ここにも。周りを取り巻かれているみたいな感じがする。空気が動く。前で。後ろで。ざわりとスラの木立が騒《さわ》ぎ、強い香りが弾《はじ》ける。
ひゅん!
何かが空《くう》を切った。次の瞬間、ミーナがキャッと叫んで荷台から転がり落ちた。
「ミーナ!」
ダルババ車は急停車し、ワタルは地面に飛び降りた。ミーナは前輪のすぐそばに俯《うつぶ》せに倒《たお》れて、ぐったりと気絶している。なぜかしら頬《ほお》に血がにじんでいる。
すると今度は御者《ぎょしゃ》台の上でキ・キーマが「うぉう!」と唸り、怒鳴《どな》った。
「ワタル伏《ふ》せろ!」
振《ふ》り仰ぐと、彼の右肩《みぎかた》に、深々と矢が突《つ》き刺《さ》さっているのが見えた。毒々しい真っ赤な矢羽が、ワタルの目に飛び込んできた。
「木の上から射かけてるんだ! 車の陰《かげ》に隠《かく》れろ!」
キ・キーマはもがくようにして御者台から降りようとしたが、ワタルの目には、まるで彼が急に酔《よ》っぱらってしまったみたいに見えた。水のなかをゆるゆると泳いでいるようにも見えた。
「やばいぞ──こりゃ──」
鋭《するど》い音がいくつも重なり、ワタルが身を伏せている荷台の枠《わく》に、続けざまに矢が数本突き刺さった。ワタルの鼻先をかすめて、森の下ばえのなかに飛び込んだ矢もあった。
「──痺《しび》れ──グスリだ──」
キ・キーマはずってんどうと御者台から転がり落ちた。ワタルは前後を忘れて彼のもとに駆《か》け寄った。彼はまぶたを閉じて、歯のあいだから長い舌がちょっぴりはみ出している。
「キ・キーマ、しっかりして!」
叫《さけ》んだ瞬間《しゅんかん》、右足に焼けつくような痛みを感じた。見おろすと、腿《もも》に矢が刺さっていた。信じられないような光景だった。真っ赤な矢羽と、銀色の矢尻。その先端《せんたん》がワタルの腿の肉に食い込んでいる。
ワタルがそれを目で確認《かくにん》できるまで待っていたみたいに、血が一筋流れ出した。矢を抜《ぬ》こうと身体を動かすと、血の流れが太くなった。ズボンが真っ赤に染まってゆく。
視界がぐるりと回って、上が下に、下が上になった。濃厚《のうこう》なスラの木の香りが押し寄せてくる。舌が痺れる。指先も言うことをきかない。膝《ひざ》がガクガクし始めた──
ぽきんと両膝を折って地面にひざまずき、それからゆっくりと、居眠《いねむ》りして机の上に半身を倒すみたいに、ワタルは前のめりになった。ちょうどキ・キーマの背中の上に身体《からだ》を乗せる格好になって、彼が息をするたびに胴《どう》が上下するのが感じられた。
──大丈夫《だいじょうぶ》、死んでないよね。
まぶたが閉じる寸前の、ごく限られた地面に近い視界のなかに、革《かわ》の編み上げ靴《ぐつ》を履《は》いた二本の足が、唐突《とうとつ》に現れた。ごつい靴で、太い足だった。
「用があるのは小僧《こぞう》だけだ。残りの二人はうっちゃっておけ。森が始末してくれる」
冷たい声が、そう命じた。ワタルは気を失い、真っ暗な闇《やみ》のなかに落ちていった。
囁《さきや》くような、小さな物音が聞こえる。カサコソ、かさこそ。
ワタルは眠っていた。リビングの床《ゆか》でごろ寝《ね》しているのだ。いつも母さんに叱《しか》られる。昼寝するなら、ソファの上でしなさい! 床の上でゴロゴロしないで。あんたは埃《ほこり》にアレルギーがあるのよ、また鼻炎にかかるじゃないの!
だけどワタルは、硬いフローリングの感触《かんしょく》が好きなのだ。夏は涼《すず》しいし、冬は暖房《だんぼう》の吹《ふ》き出し口のそばが温かい。広々として、手足がのばせて、身体が沈《しず》まないし、天井《てんじょう》が高く見えてせいせいするし──
だけど今日はちょっぴり身体が痛い。それにうるさいなぁ、このカサコソいってる音。何だろう? 開けっ放しの窓から、羽虫《はむし》でも飛び込んだのだろうか。顔の周りを飛び回っているんだろうか。追っ払《ぱら》わなきゃ──手を持ちあげて──迫っ払わなきゃ──
「ワタル、ワタル、起きなさい」
上の方から、はっきりとした声が呼びかけてきた。どこかで聞いた覚えのある、甘い声だ。女の子の声だ。可愛《かわ》い娘《こ》ちゃんの声。
「起きてしゃんとするのよ、ワタル。逃《に》げ出さなくちゃいけないわ。ねえ、しっかりしてよ! 大変なことになってるのよ!」
声に叱咤《しった》されてというより、耳にわんわん響《ひび》いてうるさくて、ワタルは渋々《しぶしぶ》目を開けた。逃げ出す? なんで? うちのリビングで昼寝してるだけなのに──
身体が痛い。この床、フローリングじゃないぞ。白っぽいもの。それに足が痛い。右足の腿がすごく痛い。鉄の爪《つめ》でつねられてるみたいだ。何だよ、これ?
カサコソ、かさこそ。ワタルの耳元やうなじのあたりで、何かがうごめいている。ぎょっとして、いっぺんで眠気が飛んだ。ワタルは跳ね起きようとして、今度は腿の傷の痛みに飛びあがった。見ると、ズボンの上から汚《きたな》らしい布きれがぐるぐると巻きつけられて、そこにべっとりと血がにじんでいる。
記憶《きおく》が戻《もど》ってきて、ワタルを平手打ちした。ダルババ車が襲《おそ》われたことを、ミーナとキ・キーマのことを、気絶する寸前に見た二本の足と、冷たい声の命令を思い出した。
真四角の部屋だった。床も壁《かべ》も天井も、遠目に見たあの病院と同じ、白っぽい石でできている。堅くて冷たいのはそのせいだ。金属でできた重そうな扉《とびら》がひとつ。もちろん、鍵《かぎ》がかかっている。反対側の壁には、ワタルの背丈《せたけ》ではやっと手が届くくらいの高さに、小さな窓がひとつ。太い格子《こうし》がはまっている。
そしてカサコソと囁き、うごめくものの正体は、この部屋の床いっぱいに散らばり、四隅《よすみ》に積もっている大量の枯れ葉だった。どうやらスラの木の枯れ葉らしい。独特の匂いが、カラカラになってもまだ残っている。
「ああ、良かった。気分はどう? 死にそうな感じじゃない?」
甘い声は、窓の方から聞こえてくる。誰かが格子の外にいるのだ。あの甘い声──
「ワタル、わたしよ。覚えてる?」
妖精《ようせい》だ! いや、たぶん妖精だと推理しただけだっけ。でもワタルにとっては妖精だ!
「君、そこにいるんだろ? ここは何処《どこ》? キ・キーマとミーナは無事かい? いったいぜんたい何がどうなってるの??」
甘い声は拗《す》ねたように低くなった。「ワタルったら、わたしのこと覚えてるかって訊《き》いたのに」
ワタルは必死で窓の下まで這《は》っていき、壁にすがって身体を持ちあげながら、声を張りあげた。「ごめんよ、でもそれどころじゃないんだ。それに、君って助けに来てくれたんじゃないの?」
「助けられないわよ」と、あっさり。「だってわたしじゃどうしようもないもの」
ワタルは何度か口をパクパクさせて、それからやっと言った。「じゃ、せめて何がどうなってるか教えてよ。僕は痺れ矢で打たれて、ここへ運び込まれたんだね?」
「そうね」
「あとの二人は?」
「知いらない」甘い声はフンと言った。「あんなしっぽのある女の子が好みだったのね。期待はずれだったわ」
「そういうことじゃないんだってば!」ワタルは本格的に歯噛《はが》みをした。「ここは何処? あの病院のなかかい?」
「そう。で、スラの森の中心でもあるわね」
「君も捕《と》らえられてるの?」
「そうじゃないわよ」
ワタルは壁にすがりついた。「だったら何とかならない? 扉の鍵が手に入れば──」
「だから、わたしじゃ無理だって」甘い声は突き放すように言った。「わたしはただ、ワタルを励ましに来ただけよ。それだって、早く目を覚まさせてあげないとまずいと思って、一生|懸命《けんめい》ここまで這いあがったんだから。感謝してほしいものね」
「感謝ったって──」ワタルは窓を睨《にら》んだ。でも、這いあがるってどういうことだ?
「ワタルね、そこであんまり深呼吸しちゃダメよ。できるだけ窓のそばで息をするの」
「どうして?」
「スラの木の香りは、頭に良くないから」
ワタルは壁にぴったり背中をくっつけて、部屋じゅうに散乱し、窓からの微風《そよかぜ》でカサコソと生きもののように動き回る枯れ葉の群を見つめた。
「頭に良くない?」
「セイシンがサクランする」甘い声は言った。「そういう拷問《ごうもん》に使われる香木なんだもの」
やめてくれと叫びそうになったとき、重たそうなドアの外で、ガチャガチャと音がした。
ワタルはすでに、頭の後ろが痛くなるほど強く壁に張っついていたのだけれど、さらにひっつこうとして後ずさりした。ドアはちょうつがいをきしませて外側に開き、隙間から一瞬人間の腕が見えたかと思うと、大柄《おおがら》な男が一人、ボウガンを構えて入ってきた。
作業着のような服を着てごついブーツを履いた、ヒデ面の男だった。ブーツは、森で目撃《もくげき》したあの二本の足が履いていたのと同じた。
ボウガンにセットされた矢の先は、ぴたりとワタルの顔の真ん中を狙っていた。胸を狙《ねら》われた方がまだましだ。ヒゲ面の男は無言のままドアの脇《わき》に寄って、二人目の人物が入ってきた。最初の男よりもずっと小柄で痩《や》せている。身につけているのは、リリスのシスティーナ・トレバドス聖堂で会ったダイモン司教が着ていたのとよく似た、裾の長いローブだ。それだけではない。右手には杓《しゃく》、左手には手鏡という出《い》で立ちは、システィーナ像そのものとまったく同じだ。
「気がついたようですね」ローブの男が、妙に甲高《かんだか》い声で言った。「ここがどこだかわかりますか?」
ワタルは引きつった舌を必死で動かして、何とか答えた。「トリアンカ──病院」
「なるほど。記憶は消えていないようです」
ローブの男は微笑《びしょう》した。よく見ると、ナイーブそうな美男子──いや、もしかしたら女の子なのかも?
「と、友達を捜しに来たんです」ワタルは震えながら言った。「リリスのブランチのパム所長に、トリアンカ魔病院にそれらしい少年がいると聞いて、それで訪ねて来たんです」
ローブの男は微笑を浮かべたまま、ワタルの方に近づいてきた。彼が歩くと、室内に散乱しているスラの枯れ葉が、道を開けるみたいに左右に分かれた。
「我々もパム所長から連絡を受けました。邪《よこしま》な企《たくら》みを胸に抱《いだ》き、瞳《ひとみ》には禍々《まがまが》しい狂気《きょうき》を湛《たた》えた女神《めがみ》の使い魔《ま》が、我らの聖なる土地に足を踏み入れたと」
「パム所長がそんなことを?」ワタルは目を見開いた。「だって、僕らにトリアンカ魔病院のことを教えてくれたのも所長なんだよ!」
そこで、やっと気がついた。僕らはここに誘《さそ》い込まれたんだ。所長は嘘をついてたんだ。ミツルの消息なんて知らなかったんだ。僕らをスラの森に入り込ませ、こいつらに捕《つか》まえさせるために、嘘をついてたんだ!
「罠《わな》だったんだな……」
抑《おさ》えようもなく震《ふる》える声で呟《つぶや》くワタルに、ローブの男は依然《いぜん》として微笑を絶やさないまま、さらに近づいてきた。しゃがみこんで、息がかかるほどそばに顔を寄せた。
「あなたは旅人≠セ。そうですね?」
ワタルは返事をしなかった。パム所長もそのことは知らないはずだ。
「黙っていても、隠しおおせることではない」ローブの男は続けた。「我らは、あなたがガサラの町で何をしたか知っている。情報をつかんでいるのですよ。パム所長も、知らん顔をしていただけで、最初からすべてを承知しておられた」
そうだったのか。キ・キーマの忠告を守れなかったことが、こんなところで悪い目に出てしまったのか。
「もし、僕が旅人≠セったら?」ワタルはひるむ心を叱咤して問い返した。「あなたたちに何か不都合なことがあるんですか? 何かまずいとでもいうんですか?」
微笑《ほほえ》みを顔に貼《は》りつかせたまま、ローブの男は静かに答えた。「旅人≠ヘ我らが永遠の仇敵《きゅうてき》。誅《ちゅう》さずば老神の教えに背《そむ》くことになります」
難しい言葉なので、意味がわからなかった。チュウさずばって、何?
でも、ひとつだけはっきりわかることがある。こいつらはやっばり──
「あんたら、老神教の信者なんだね?」
ローブの男はにっこりとうなずいた。「そのとおりです」
「リリスの町の他種族差別が激しくなってるのも、あんたらの影響《えいきょう》なんだな? システィーナ・トレバドス聖堂も、あんたらのための聖堂なんじゃないのか? 表向きはシスティーナを祀《まつ》ってあるけれど、あれは本当は老神のための聖堂なんだろ? そうだろ?」
ローブの男は答えなかった。でも、その瞳の輝《かがや》きを見るだけで充分《じゅうぶん》だった。
「そうか! あんたらは、システィーナ・トレバドス聖堂で密《ひそ》かに老神教の布教活動をしてるんだな? パム所長も、そこで信者に引き入れられたんだ」
「なかなか頭が良いようだ」
ローブの男はワタルにではなく、背後にいるボウガンを構えた男に向かって言った。ヒゲ面は返事もせず、ボウガンを抱《かか》え直してワタルの顔に狙いを定めている。
そのとき、ローブの男が不意に手を動かした。杓で殴《なぐ》られるのかと、ワタルはとっさに頭をかばおうと手をあげた。でも、そうではなかった。ローブの男はワタルの目の前に手鏡を突き出しただけだった。
「見よ、これこそが動かぬ証《あかし》」ローブの男は、呪文《じゅもん》でも唱えるみたいに節をつけて言った。「邪なる女神の使い魔は、清らかなる魂《たましい》の器《うつわ》を見分け得る真実の鏡には、その姿を映すことかなわず!」
確かに、手鏡には何も映っていなかった。鼻の頭がくっつきそうなほどに近づいても、背後の白い石の壁が映るだけだ。
「命運は尽《つ》きたぞ、女神の使い魔よ。汝《なんじ》は我らの手によって、汝の素なる汚泥《おでい》と罪障《ざいしょう》の塵《ちり》に還《かえ》るのだ!」
ローブの男は、白い頬を紅潮させてそう叫ぶと、跳《は》ねるように立ちあがりながら、杓と手鏡を頭上にかざした。その際《すき》をついて、ワタルは、渾身《こんしん》の力を込《こ》めて、両手で彼を突き飛ばした。この奇襲《きしゅう》は成功だった。男はわっと大声をあげて倒れると、後ろにいたヒゲ面《づら》を巻き込んで、床の上に転んだ。ヒゲ面はまともにひっくり返り、ゴツンといい音がした。ワタルは飛びあがり、つんのめるようにして扉を目指した。
「逃がすか!」床に這いつくばったまま、ローブの男が叫んだ。
彼が床を杓で一打ちすると、風が巻き起こり、部屋じゅうの枯れ葉がいっせいに動き出した。みるみるうちに部屋の左右に分かれて、ふたつの山を作りあげていく。ワタルは一瞬だけそれに気をとられたけれど、すぐにドアの取っ手をつかんで廊下《ろうか》に転がり出た。
のっぺりとした石の壁の廊下の片側に、たった今出てきたばかりの扉と同じ扉が、いくつもいくつもくっついている。反対側の壁には、ひとつの窓もない。右も左も、白い廊下の先は薄暗がりだ。どこまで続いているかもわからない。
とりあえず、ワタルは右に走った。右足が痛い。廊下はまったく曲がっておらず、ただどこまでも真《ま》っ直《す》ぐに続いているだけだ。扉と白い壁。同じ眺《なが》めが続いているだけだ。
突然、ワタルの三メートルほど先の扉が大きく開いた。勢い余って壁にぶつかった扉が、ゆっくりと元に戻ろうとする。その隙間から、枯れ葉の塊《かたまり》が現れた。無数の枯れ葉が集まって、ヒトの形を成したものが現れた。それはワタルの倍ぐらい背が高く、頭が大きく、古い映画のなかに出てくる、ミイラ男みたいに、両手を前にのばしている。そしてワタルの前に立ち塞《ふさ》がった。
ワタルは急停止して、首筋が攣《つ》るくらいの勢いで振り返った。背後の扉も、次から次へと開いていた。そしてそこから、前方を塞いでいるのと同じ枯れ葉の塊の怪人《かいじん》が、のっそりと現れた。
長い廊下に、スラの葉の濃厚《のうこう》な匂いが立ちこめた。ワタルは足元がグラグラするのを感じた。目が回る。視界が霞む。
「エドロ・ワラ・サブタルオンギ・シグル」
いつの間にかローブの男が廊下の端《はし》に立ち、胸の前で杓と手鏡の柄《え》をぶっちがいに組み合わせて、声高《こわだか》に祈《いの》っていた。
「出《い》で給《たま》え森の精霊よ、邪悪《じゃあく》なる女神の企みを打ち砕く戦士よ、我らに和して叫び給え、正義の勝ち鬨《どき》を!」
枯れ葉の怪人たちが、いっせいに、ぽっかりと口を開いて叫んだ。特大の布を引き裂くような声のコーラスが廊下いっぱいに響きわたる。そしてそれらは、ワタルに向かって殺到《さっとう》してきた。
気がついたら、今度は真っ暗だった。
右腿の傷がずきんずきんと脈うっている。寝ころんでいるみたいな感じがする。固い地面の感触だ。手が動かない。縛《しば》られてる? 足も動かない。持ちあがらない。
寝返りをうとうとすると、ジャラリと音がした。鎖《くさり》がぶつかりあうような音だ。それにしても、どうしてこんなに暗いんだ? そうか、何かかぶせられているんだ!
低く呟くような歌声が聞こえてくる。一人じゃない。大勢の声だ。それほど遠い場所じゃない。どっちから? 右? 左? 前? 後ろ?
足音がして、ヒトの気配を感じた。手が伸びてきて、後ろ襟《えり》をつかまれて、乱暴に引き起こされる。その手はさらに、ワタルのうなじのあたりで何かをほどくような動作をした。すると、急に暗闇が消えた。やっぱり何かかぶせられていたのだ。それが取り外されたのだ。
屋外にいた。夜になっていた。トリアンカ魔病院の建物が見える。スラの森も見える。
ワタルは大勢のヒトたちに取り囲まれていた。特大の穀物袋《こくもつぶくろ》みたいなものを着込んで、手に手にろうそくを持ち、目のところだけ穴をあけた白い頭巾《ずきん》をかぶったヒトたち。顔は見えないけれど、全員がアンカ族であることは間違いない。
トリアンカ魔病院を根城にしている、老神教の信者たちの群だ。
呪文のような歌声は、彼らの声だった。ぐるりと円を描《えが》いて並んでいる。ワタルは彼らの中心にいた。両手と両足に、鎖のついた枷《かせ》がはめられている。
スラの葉の匂いが、奥の底の方にこびりついている。頭がフラフラした。
「立て」
すぐそばから声が降ってきた。そこにも一人、同じ出で立ちの信者がいた。穀物袋みたいな衣の下から、大きな両手がのぞいている。
「立て」
巨人の手が伸びて、ワタルの襟をつかんで立ちあがらせた。甲にも指にも真っ黒な毛がもじゃもじゃとはえた手だ。もしもそれが見えなかったら、泥人形の手ではないかと思うほどに、冷たく硬い手だった。
「歩け」
手が動き、円の一方の端へと、ワタルを突き飛ばした。ワタルがよろけて倒れると、ぐいぐい引き起こす。
「手間取らせるな。立って歩け」
ワタルはよろよろと足を前に出した。勇者の剣《けん》は腰《こし》に収まっている。でも、手枷の鎖が短くて手が届かない。どうすることもできない。頭が働かない。
ワタルがのろのろと進み始めると、信者たちの歌声が大きくなり、大合唱に変わった。円の一端が切れ、その先にあるものが見えた。
目を疑う──これがそういうことだとワタルは思った。何度まばたきしても、咳払《せきばら》いしても、頭を強く振っても、見えているものが消えない。変化しない。
断頭台。ギロチンだ。マンガとゲームのなかでしか見たことがない。罪人の首を切って落とす処刑《しょけい》装置。
あのローブを着た美男子が、今は片手に杓だけを携《たずさ》え、微笑はそのままに、禍々しい装置のすぐ脇に立っていた。先ほどのローブの上からもう一枚、濃いワイン色のような袈裟《けさ》をかけている。すぐ後ろで大きな篝火《かがりび》が焚《たか》かれており、炎《ほのお》の発する光を背負って、彼は金色のオーラに包まれているみたいに見えた。
ワタルは一歩も先に進めなくなって、膝をがくがくと笑わせながらその場に立ちすくんでいた。命運は尽きたぞ、女神の使い魔よ。ローブの男の声が蘇《よみがえ》って、夜の闇のなかに、マンガの吹き出しみたいにくっきりと見える。
見あげると、ギロチンの刃《は》が篝火の炎を受けてギラリと光った。まるでワタルに向かって、愛想《あいそ》笑《わら》いをして歯を剥《む》き出したみたいだ。
こんなバカな。考えられるのはそれだけだ。なんでこんなことに。僕が何をしたっていうんだ?
「邪なものも、恐れることは知っているのですね」
優《やさ》しく丁寧《ていねい》な口調で、ローブの男は言った。「でも、案ずることはありませんよ。女神に操《あやつ》られたその身を滅《めっ》することにより、あなたは浄《きよ》められる。大いなる老神の加護により、あなたの清浄《せいじょう》な魂は再びこの幻界《ヴィジョン》に生まれ変わることができる。あなたの望む形で」
「そんなの、まっぴらだ」言葉が口からこばれ出た。「あんたたちに、僕を殺す権利があるわけがない! 僕は老神教の信者なんかじゃない。現世から、自分の運命を変えるために訪れた旅人≠セ!」
ローブの男はなおも微笑する。
「我らは、邪教の虜《とりこ》となっているものと語る言葉を持たない」
「勝手なことを言うな!」ワタルは叫んだ。最初はローブの男に向かって。次には、周りを取り囲んでいる信者たちに向かって。「あんたたちは何をやろうとしているのかわかってるのか? これがどういうことなのかわかってるのか? どうして──」
そのとき、断頭台の向こうにもう一人、同じ出で立ちで袖《そで》まくりをし、斧《おの》を握っている信者がいるのが目に入って、ワタルの言葉が途中《とちゅう》で消えた。あの斧で、ギロチンの刃を吊《つ》りあげているロープを切るんだ──
「おしゃべりはそのくらいにしておけ、汚れた魔物め」
背後から手ひどく突き飛ばされて、ワタルは膝から転んだ。信者たちがどよめいた。喜びのどよめきだった。
また引きずり起こされて、断頭台の方へとひっばられて行く。ワタルは足を突っ張り、肘《ひじ》を突き出して抵抗《ていこう》したけれど、相手はすごく力が強くて、まるで太刀打《たちう》ちできない。土埃がたち、信者たちが喜ぶだけだ。ワタルはめまいを感じ、吐《は》き気がしてきた。力の無駄《むだ》使いだ。これじゃダメだ。だけどほかにどうすればいいっていうんだ?
じりじりと断頭台が近づいてゆく。嫌《いや》だ、絶対嫌だ、こんなのデタラメだ! 声を張りあげて叫べば叫ぶほど、信者たちの歌声が大きくなる。
「ひとつ、チャンスを与えましょう」ワタルに近づいて、ローブの男は言った。「あなたの魂をより完璧《かんぺき》に浄め、より早く幻界に生まれ変わるためには、処刑の前に告白することが必要です。さあ、言いなさい。もう一人の旅人≠ヘどこにいるのです?」
ワタルは総毛立った。こいつ、ミツルのことを訊いてるんだ! ミツルのことも捕まえて処刑しようとしてるんだ!
「知るもんか!」
「ほほう、強情《ごうじょう》ですね」
「知ってたって言うもんか!」
嗄《か》れかけた声で叫ぶと、ワタルはローブの男の顔に唾《つば》を吐きかけた。自分でも驚いた。こんなことができるなんて。こんなこと、誰に教わってもいないのに。
ローブの男はゆっくりと手をあげて頬を拭《ぬぐ》うと、いっそう大きな笑《え》みを浮かべた。
「哀《あわ》れな犠牲《ぎせい》者よ。女神に取り込まれて、魂を壊《こわ》されている。今のままでは、どうやっても我らの正義の声が届くことはないようだ」
「誰が正義だって決めたんだよ!」
ローブの男は重々しく答えた。「我らは老神の使徒なのだ」
「そんなの認めない!」ワタルは全身の力を振り絞《しぼ》って声を張りあげた。「あんたは北の帝国《ていこく》から来たんだな? 広めたいのは老神への信仰《しんこう》なんかじゃない、非アンカ族差別主義の方だろう?」
ローブの男の顔から、拭ったように笑みが消えた。口元が真っ直ぐになった。
「言え」と、彼は低い声を出した。「もう一人の旅人≠フ居場所を言うのだ」
「嫌だ!」
「言わねば、我らは自力で探すのみ。必ず探し出すぞ。しかしそれまでに、多くの血を流すことになろう。炎を見、阿鼻叫喚《あびきょうかん》の声を聞くことにもなろう」そして笑った。「それはみな、おまえのせいだ」
ワタルは愕然《がくぜん》とした。炎を見るだって?
「マキーバの山火事は──あんたたちの仕業《しわざ》だったのか?」
返事のかわりに、ローブの男は尋ねた。「言いなさい。もう一人はどこにいる?」
「ここだ」闇の空から、凛《りん》とした声が響いた。
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20 ミツル
ワタルはぽかんと口を開けたまま、夜空を仰《あお》いだ。声はどこから──あそこだ、トリアンカ魔病院の屋上、断頭台が据《す》えられている中庭を見おろす、いちばん高い場所。
小さな人影《ひとかげ》。闇《やみ》に紛《まぎ》れる漆黒《しっこく》のローブ。手にした杖《つえ》の宝玉が、清らかな蒼《あお》い光を放つ。その光輪のなかに──
ミツルがすっくと立っていた。
「おまえは!」
頭上を振《ふ》り仰《あお》いで、ローブの男が驚《おどろ》きの声をあげた。断頭台のそばの斧《おの》の男も、ワタルの首筋をつかんでいた巨人《きょじん》も、はっと身じろいでいるのがわかった。
「邪教《じゃきょう》の使徒よ、我らの聖域で何をしている!」ローブの男が甲高《かんだか》い声で叫《さけ》んだ。「降りてこい! 降りてくるのだ! その汚《よご》れた身で聖域に踏《ふ》み込むなど、おまえは自分が何をしているかわかっているのか!」
信者たちの描《えが》く円が乱れ、ろうそくの火が揺《ゆ》れ始めた。消えてしまうものもあった。
ミツルはまったく動じていなかった。いつものあの、相手を小バカにした笑《え》みを浮《う》かべている。ずいぶんと距離があるのに、表情がはっきり見える。杖の宝玉が放つ光の力だ。くちびるの端《はし》を何かにひっかけているみたいなその笑い方が懐《なつ》かしく、頼《たの》もしく、ワタルは胸が熱くなった。
でも、感激している場合じゃない。ミツルまで捕《つか》まってしまう。
「ミツル、逃げろ!」ワタルは精一杯《せいいっぱい》の大声で呼びかけた。「そんなところにいちゃダメだ! 早く逃げるんだ! 逃げて、助けを呼んで来てくれ!」
ミツルは頭を動かして、ワタルの方を見た。そして、もうひとつの懐かしい表情を浮かべ、ため息をついた。呆《あき》れているのだ。
「どこの誰《だれ》に助けを求めろって言うんだ?」と、彼は落ち着き払《はら》って問い返した。「オレがどっかへ行ってるあいだに、おまえは首を斬《き》られちまうよ」
「そんなこと言ってンじゃないよ!」
「言ってるじゃないか。バカだな。おまえ、そんな自己|犠牲《ぎせい》的なタイプじゃなかったはずだけど」ミツルははあっと息を吐《は》いた。「相変わらず、お人好しなんだな」
「おしゃべりしてる場合じゃ──」
「ないよ、わかってるさ」そう言い捨てて、ミツルは杖を持っていない方の手で、真《ま》っ直《す》ぐにローブの男を指さした。
「この屋上の魔法陣《まほうじん》を描《か》いたのは、おまえか?」
ローブの男は、ただ指さされただけなのに、矢を射られたみたいにたじろぎ、顔を歪《ゆが》めた。「お、おまえだと?」うろたえて、彼はローブの裾《すそ》を踏んだ。「誰に向かって口をきいていると思っているのだ?」
「だから、おまえだよ」
ミツルの声は、一グラムのためらいもない信念を持って生徒を叱《しか》る先生のような威厳《いげん》に満ちていた。
「何を招喚《しょうかん》するつもりで描いたか知らないが、間違《まちが》ってるぜ」ミツルはへへっと笑った。「方位がずれてるし、線の長さも違う。どこの魔導院で習ったんだ? ちゃんと卒業したのか?」
「お、おまえ」ローブの男は顔を真っ赤にして、病院の建物のそばまで駆《か》け寄った。今にも爪《つめ》で外壁《がいへき》をひっかいて登り始めそうな勢いだったけれど、その場で地団駄《じだんだ》を踏み始めたところを見ると、そういう体力と技術は持ち合わせてないらしい。
「私を侮辱《ぶじょく》するのか?」
「質問してるだけだよ。声が遠くて聞き取りにくいな。あんた、ちょっとここまであがってきてくれないか? エア・ラダーの魔法を使えば簡単だろ?」
ローブの男の顔から、今度は血の気が引いた。信者たちの輪は完全に崩《くず》れ、ギザギザ模様の半円を描いて、今やその中心には、ローブの男ではなく、ミツルが位置している。
「なんだ、エア・ラダーを唱えられないのかい?」ミツルは驚いたように言った。「手間のかかるヒトだなぁ。老神は神であると同時にもっとも偉大《いだい》な魔導士だったはずじゃないか。ヘンだね」
わざとらしく顎《あご》に手をあてて、ミツルは考え込むふりをした。
「あんたこそ、老神を名乗るインチキな魔物にたぶらかされてるんじゃないのかな?」
「な、何を言う!」ローブの男が杓《しゃく》を振りあげた。そのとき、ミツルが顎から手を離《はな》し、その手の人差し指でぴたりと頭上を指して、何か短く唱えた。次の瞬間《しゅんかん》、一筋の稲妻《いなずま》が空に光り、まっしぐらにローブの男に向かって落ちてきた。
「うひゃあ!」悲鳴をあげて、ローブの男はひっくり返った。目もくらむような閃光《せんこう》を放って、稲妻は地面に激突《げきとつ》して消えた。だがその後に、はっきりとした印を残していた。穴だ。鋭《するど》い槍《やり》が刺《さ》さったような穴だ。
「次は外さないぞ」と、ミツルは言った。「黒焦《くろこ》げになりたくなかったら、ワタルの手枷《てかせ》足枷を外せ」
ローブの男はへたりこんで両手を地面につき、口をあわあわさせている。ミツルの視線は、ワタルの方──ワタルのそばの巨人に移った。「そこのでかいの!」
巨人が頭巾《ずきん》の下で「ヒッ」と息を吸い込むのを、ワタルは聞いた。
「ワタルの手枷足枷を外せ」
ミツルの命令に、ほとんどためらうこともなく、巨人は従った。彼の大きな指は不器用で、おまけにガタガタ震《ふる》えているので、枷の鍵穴《かぎあな》に鍵をさすことができない。
「じれったいな。僕がやる」
ワタルは彼の手から鍵を取りあげて、自分で枷を外した。ミツルはそれを見届けると、再び指で頭上を指し、今度は断頭台を指さした。落下してきた光の槍は、あやまたず断頭台のロープを断ち切り、台の上に突《つ》き刺さって消えた。閃光のなかで、ワタルはギロチンの刃《は》が落ちて、台座に噛《か》み合うのを見た。斧を持っていた男が、台座の後ろ側に倒《たお》れるのも見た。
「物騒《ぶっそう》だからな」ミツルは独り言のように呟《つぶや》いて、少し立ち位置を変えた。そしてワタルに向かって言った。「おまえには全然わからないだろうけれど、ここはこいつらの張った結界の内側だ」
「ケッカイ?」ワタルは大声で問い返した。
「そうだ。結界形成の魔法としちゃ、えらく初歩的なものだけど、スラの木の作用に助けられているんだろうな」
「よくわからないよ」
二人のやりとりを、信者たちはウィンブルドンの決勝戦を見るように見守っている。ろうそくを捧《ささ》げ持っていた手が、みんな下がってしまった。
「トリアンカ魔病院なんて、存在していないんだ」と、ミツルは続けた。「昔はあったけど、今ここに残っているのは病院の廃墟《はいきょ》だけだ。それを結界の内側に囲い込んで、こいつらがアジトに使ってたのさ」
腰《こし》に片手をあてて、フンと鼻を鳴らすと、
「ただ厄介《やっかい》なのは、スラの森は実在してるからな。魔の成分がそこらじゅうに満ちてる。この結界を壊《こわ》すには、そこで腰を抜《ぬ》かしてる魔導士の先生が呪文《じゅもん》を唱えるぐらいじゃダメだ。僕の言ってること、わかるかい、あんた?」
ミツルはローブの男に呼びかけた。
「もともとはあんたの作った結界なんだろうけど、スラの木の魔力を集めすぎちゃったんだな」
「な、生意気な」ローブの男は、極《きわ》めて威厳を欠いた姿勢ながら、声の張りだけはちょっと盛り返してきた。「言わせておけば許し難《がた》い侮辱! 誅殺《ちゅうさつ》してくれる!」
もがくようにして立ちあがると、彼は何か呪文を唱えた。屋上のミツルは、杖によりかかるようにして興味深そうに見おろしている。
ローブの男の呪文に吸い寄せられるように、どこからともなくスラの木の枯《か》れ葉が飛び集まってきて、みるみるうちに、二体のヒトの形を成した。ワタルに襲《おそ》いかかってきた枯れ葉の怪人《かいじん》だ。何度見ても気味が悪くて、ワタルは後ずさりした。そばにいたはずの巨人は、とっくに信者たちの輪の方へ逃げていってしまっていた。
「忠実なる我が僕《しもべ》よ、悪《あ》しきものを倒せ!」ローブの男はミツルを指さした。
枯れ葉の怪人たちは、病院の外壁に取りつくと、まるで猿のようにするすると登り始めた。ミツルは面白《おもしろ》そうに目を瞠《みは》って眺《なが》めていたが、それらが屋上まであと一歩というところまで達すると、胸の前で素早《すばや》く手を動かして印を刻み、杖をさっと振った。
「汝《なんじ》我が内なる志の矢を受けよ!」
早口で唱えられた呪文が終わるや否《いな》や、枯れ葉の怪人《かいじん》たちはぴたりと動きを停《と》めた。そして、今度は登って来たときと同じくらいのスピードで下に降り始めた。
「な、何だ?」
ローブの男は大あわてだ。また裾を踏んづけて、今度は完全に転んでしまった。そこへ、二体の枯れ葉怪人が襲いかかった。ローブの男の悲鳴が闇をつんざいた。
「|消え失せろ《バニッシュ》!」
ミツルの鋭い声が飛ぶと、ローブの男を捉《とら》えて首っ玉をねじりあげようとしていた枯れ葉怪人たちは、一瞬のうちに形を失い、その場で枯れ葉の山となった。
「まあ、こういうことだ」ミツルは言って、杖を肩《かた》に担《かつ》いだ。「言っとくけと、何体招喚しても同じことだよ。あんたが魔力切れになるだけだ」
信者たちが再びどよめいたかと思うと、ろうそくを取り落とした。なにしろ大人数だ、彼らが動き出すのかと、ワタルは身構えた。しかし、すぐに唖然《あぜん》として、今度は笑いだしてしまった。
信者たちが、次々と地面にひれ伏《ふ》してゆく。両手で頭を抱《かか》え、命乞《いのちご》いをしている者もいれば、お辞儀《じぎ》を繰《く》り返しているものもいる。もちろん、ローブの男が相手ではない。彼らは屋上のミツルを仰いでいるのだ。
ワタルは笑顔《えがお》のままミツルを見あげた。「もう大丈夫《だいじょうぶ》だ。ありがとう!」
しかし、ミツルは全然笑っていなかった。むしろ、さっきまでより怖《こわ》い顔をしていた。荷物みたいに肩に担いでいた杖をおろすと、仁王立《におうだ》ちの姿勢になった。
「調子のいい奴《やつ》らだ」と、唾《つば》を吐くように言い捨てた。「強い者には、すぐに従う。みんなと同じことをしている分には、何をやっても安心ということか」
「ミツル? 降りてこいよ!」
ミツルの冷たい視線を、ワタルの上にぴたりと据えた。
「見世物は終わりだけど、結界を壊す作業は残ってる」
「え?」
「オレがこんなところで足止めを食《く》っていたのも、スラの森の魔力が濃《こ》くて、脱出《だっしゅつ》するのに手間取っていたからなんだ。だけどこれだけの人数の気があれば──」
ワタルは一歩、建物に近づいた。「何言ってる? どうする気だよ?」
ミツルはまた数歩動いて、立ち位置を変えた。打席に入ったバッターみたいに、足元を踏み固めている。
「気をエネルギーにして、魔法で結界を壊すんだ。森をなぎ倒し、葉という葉をすべて散らす魔法をさ」
「ミツル──」
「悪いけど」ミツルはちらっとワタルを見て、にやりと笑った。「どこに飛ばされるか、そこまではオレにもわからない。風|次第《しだい》だからな。せいぜい身体《からだ》を丸くして頭をかばって、怪我《けが》をしないようにしてくれよ」
「どういうことだよ!」
「だから、こういうことだってば」
ミツルは両手を広げると、空を仰いだ。そして朗々とした声で唱え始めた。
「大いなる風の精よ、天に満ちるその力、請《こ》い招きて従う魔導の徒、ここに在り。願わくはその恩寵《おんちょう》をもって、我を封《ふう》ずる魔を取り去り給《たま》え、打ち砕《くだ》き給え、混沌《こんとん》の深き淵《ふち》へと捨て去り給え、エアロ・ラル・ステニグル──」
宙に差し出された、ミツルの杖の宝玉が光り、それに呼応するように、夜空の一角が明るくなった。雲の切れ目が見える。
風が──吹《ふ》きつけてくる。ミツルは雲の上から風を呼んでいるのだ。
まともなことを考えられたのは、そこまでだった。次の瞬間には、吹き倒されて地面に転がっていた。つかまるものが見あたらなくて、身体を丸めたまま、ただごろごろと病院の建物の壁《かべ》にぶつかるまで転がっていった。そこで外壁の装飾《そうしょく》柱につかまって、かろうじて姿勢を立て直した。
そして、信じられないものを見た。
漆黒の空から、淡《あわ》い銀色に輝《かがや》く竜巻《たつまき》が降りてくる。ほとんど優雅《ゆうが》と言っていいほどたおやかに、生きもののようにやわらかく、ゆっくりと左右に身をくねらせながら。
それは地上に近づいてくる。信者たちが、端から次々と吸い込まれてゆく。みんな泣いたり叫んだり祈《いの》ったりしているはずなのに、突風に遮られて何も聞こえない。断頭台の柱がぽっきりと折れて、竜巻の中心に呑《の》みこまれてゆく。斧が宙を舞い、その後を追いかけるように、斧の男の身体が吸い込まれてゆく。
何か布の塊が《かたまり》宙を泳いでゆくと思ったら、端っこからもがくように手が出て、足が出た。最後に顔が出た。ローブの男だった。あさましいほど大きく口を開けていたけれど、悲鳴は聞こえない。
ワタルが両腕《りょううで》を巻きつけてつかまっていた装飾柱が、不意に手応《てごた》えを失った。目をやって、驚きのあまり息が停まった。
石でできていたはずの柱が、いつの間にか木の葉の塊になっていた。風に煽《あお》られてふるふると震えながら崩れてゆく。
ワタルの身体も宙に浮いた。
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*本作は、学芸通信社の配信により、大分合同新聞(一九九九
年十一月十一日〜二〇〇一年二月十三日)、名古屋タイムズ、
京都新聞、中国新聞、信濃毎日新聞、徳島新聞、高知新聞、
北日本新聞などに順次、連載されたものに大幅加筆したも
のです
*この作品はフィクションです。
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ブレイブ・ストーリー 上
平成十五年三月 十 日 初版発行
平成十五年三月二十五日 三版発行
著 者 宮部みゆき
発行人 福田峰夫
発行所 株式会社角川書店
装 画 いとう瞳
ブックデザイン鈴木成一デザイン室
印刷所 暁印刷
製本所 株式会社 鈴木製本所
平成一五年八月二十六日 入力・校正 ぴよこ