クロスファイア 上
宮部みゆき
この『クロスファイア』は、わたくしミヤベにしてはとても珍しい続編物の作品です。ですから、カッパ・ノベルスの『鳩笛草《はとぶえそう》』に収録されている「燔祭《はんさい》」という中編を先に読んでいただいた方が――立ち読みでもけっこうですから――本書をより深く楽しんでいただけると思います。「著者のことば」
深夜の廃場。三人の若者によって、男が水槽《すいそう》に投げ込まれようとしていた。それを目撃したOL・青木《あおき》淳子《じゅんこ》は、念を込めて掌《てのひら》から火炎を放ち、瞬時に若者二人を焼殺した。彼女は念力放火能力《パイロキネシス》を隠し持つ超能力者だった! 若者たちに連れ去られた恋人の救出を瀕死《ひんし》の被害者に頼まれた淳子は、逃走した残る一人の行方《ゆくえ》を探すが……。
警視庁放火捜査班の刑事・石津《いしづ》ちか子《こ》は、不可解な焼殺の手口から、ある未解決事件[#「ある未解決事件」に傍点]との類似に気付く。東京・荒川《あらかわ》署の牧原《まきはら》刑事とともに捜査を開始したちか子の前に、新たな火炎焼殺事件が……!
宮部みゆき、渾身の力作一二〇〇枚、ここに登場!
スカッとしたカタルシスを……乞うご期待! 映画監督 金子修介《かねこしゅうすけ》
『クロスファイア』を読んだのは、ちょうど「ガメラ3」の編集作業中だった。読んでいて、どんどん映像が浮かび、絶対|面白《おもしろ》い作品になると思った。ただ、シナリオ化する際には、相手が悪人達とは言え、パイロキネシスで人間を焼き殺してしまう青木《あおき》淳子《じゅんこ》の存在をいかに説得力あるものにするか苦労した。映画では、美しくも哀しい凶暴な怪物になってしまった淳子の激しい怒りの炎≠最新のデジタル合成技術を駆使して表現した。最近、新聞をにぎわす凶悪事件など腹の立つ事が多すぎる世の中に、生きている観客にスカッとカタルシスを感じてもらえる作品に仕上げたつもりだ。乞うご期待! である。
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廃工場を夢に見た。
冷え冷えとした銅《あかがね》色の闇の天井を、打ち捨てられたまま手入れも掃除もされることなく錆《さ》びつき腐食してゆく金属のパイプが、右に左に迷走している。広い工場のあちこちに、複雑な形に組み合わされた機械が機能を停止したままうずくまり、それらのあいだを鉛色のベルトコンベアが結んでいる。すべてがしん――と動かない。
どこかでゆっくりと水が滴《したた》っている。夢の中でさえも眠りを誘うようなその単調な音は、あたかも絶命間際の者のかすかな脈拍のようだ。まだ生きているということより、もう死にかかっているということを示すための、暗い兆候。そして滴り落ちた水は工場のむき出しの地面に落ちて、小さな水たまりをつくっている。夢のなかでその傍らを歩くと、近づく人影に怯《おび》えたかのように、水たまりの水面がさわさわと騒いだ。
手を伸ばし、水に触れた。
冷たい。夜のように。
水は黒かった。オイルに似て、指にまとわりつき、粘ついた。すくいとると、手のひらのくぼみでとろりとまとまり、新しく小さな水たまりになった。黒い水面に、天井のパイプが映っている。
冷たい。その冷たさが快い。夢の中でさえも、味わうに足る心地のよさ。右手から左手に、そして左手から右手に、水を移し替えて、味わう。冷気。それはまるで慈悲のようだ。
だが、手のひらのなかの水は次第次第に体温を移し取り、生ぬるくなってゆく。それもはっきりと感じ取ることができる。指を開いて水をこぼそうとする。だがそのとき、突然手のひらがかあっと熱くなった。見ると、黒い水が燃えていた。ゆらぐ炎が、生き物のように頭をもたげてこちらを見つめている。そして次の瞬間、シュッと音をたて、袖《そで》を伝って腕を駆けあがってきた――
そこで目が覚めた。
眠りのスイッチを切ったかのように、唐突で完璧な目覚めだった。開いた目に白い天井が見えた。部屋の明かりは、枕元のスタンドひとつを除いて全部消してある。
青木《あおき》淳子《じゅんこ》は、小さなベッドの上に跳ね起きた。温かな布団をまくりあげると、両手のひらでぱたぱたと叩《たた》いた。布団の下の毛布も引っぱり出して、叩いた。次には布団と毛布の両方をベッドからはたき落とし、敷き布団を隅から隅まで叩いてみた。
ベッドは大丈夫のようだ。淳子は床に降りると、部屋の隅の壁のスイッチを入れて、天井の電灯をつけた。まぶしい光に顔をしかめながら、部屋中を見回した。カーテンは? カーペットは? 布張りのソファは? ソファの脇の籐《とう》のラックに入れてある編みかけのセーターは? マガジンラックのなかの新聞や雑誌は?
どれも無事だ。くすぶっていない。煙はあがっていない。匂いもしないようだ。ここは大丈夫だ。
身をひるがえして立ち上がると、淳子は部屋を出て台所に入った。
流しのなかには、食器洗い用の金属製のボウルを置いてある。寝る前に水をいっぱいに張っておいた。その水から、今、ゆらゆらと水蒸気が立ちのぼっている。手をかざすと、温気《うんき》を感じた。風呂の湯ぐらいの温度になっているようだ。
淳子はため息をついた。
安堵《あんど》と緊張が、ないまぜになって押し寄せてきた。これは相性の悪い感情の組み合わせだ。落ち着かず、冷えた身体を両手でさすり、淳子は時計を見た。午前二時を十分ほど過ぎていた。
――行かなきゃ駄目かな。
この前あの廃工場へ出かけてから、まだ十日と経っていない。それでもあの場所の夢を見た。身体が必要としているのだろう。
放射し、解放することを。
サイクルが早くなってきている。ここ半年ほどばかりのあいだに、急激に。夢を見ることも増えた。そしてその夢のなかで、勝手に熱を放射してしまうことも。今はまだ、無意識のうちに標的を定め、水のあるところ、冷却媒体のあるところを選んで放射しているからいいけれど――
力が強くなってきているのだろうか。だから、こんなにも頻繁《ひんぱん》に、無意識的な放射を行ってしまうようになったのだろうか。
それとも――
力を押さえる淳子のコントロールカが衰えてきているのだろうか?
それは考えるだに不吉なことだ。淳子は頭をひとふりすると、乱れた髪を手ですきながら、着替えにとりかかった。戸外の気温は摂氏三度。北風が窓を叩く、師走も押し詰まった夜のことだった。
東京都|荒川《あらかわ》区、田山町《たやまちょう》。
私鉄線荒川駅のひとつ先、高田《たかだ》駅からバスで二十分ほど北に走ったところに、「田山町一丁目」というバス停がある。ひとつ先のバス停は「田山グリーンタウン入口」。ここが二丁目になる。三丁目は一丁目と二丁目の東側に細長く広がっており、現在分譲中の田山ガーデンハウスというマンションばかりがいやに目立つ、古い住宅地だ。十年ほど前までは、まだささやかな農地を耕している世帯もあったが、近頃はそれもめっきり減ってしまった。あるのはマンション、ニュータウン、分譲住宅、アパート、公営団地と種類こそ豊富だが、住宅ばかりである。団地のはずれにある橋をひとつ越えれば埼玉県で、そこもやはり延々と宅地がつづく。
昭和三十年代後半から四十年代にかけての高度成長期に、首都圏の人口分布のドーナツ化が始まったとき、このあたり一帯からもぬぐい去るように農地が消え、代わりに住宅開発が進んだ。そして昭和の終わりのころのバブル経済が、高度成長期を生き延びたわずかな農地の息の根も止めてしまった。田山町内だけに限ってみても、農地と呼べる場所は一ヵ所だけ、青木淳子の暮らすアパートから徒歩で五分ほどのところにある「佐々木《ささき》農園《のうえん》」というところで、百坪ほどあるその農園は、一年契約で切り売りで一般の人びとに貸し出される家庭菜園用のものだった。ちなみに、契約料は一坪年額二万円、契約者が多くて、新規申し込み希望者は現在空き待ち状態である。
一方、田山町には、古くからこの地に住み着き、自営業を営んできた人びとがいる。多くは、高度成長期以前、まだ田山町の大部分が第二種住居専用地域だったころに創業した中小企業で、印刷業、製本業、プラスチック成形金型製造業、建築業、運送業――と、業種は様々だ。しかし、荒川区がひいては田山町が、自分の存在理由を首都圏の住宅地になることに求め、地場産業の育成の道を捨てたとき、彼らの運命も決まった。現在までのあいだに、そうした小さな町工場の半分ほどが、都の区画整理事業に引っかかって準工業地域へと移されたり、廃業したりして田山町から姿を消した。残った工場や作業場も、住宅地のなかにとびとびに存在する異物のように扱われている。騒音や廃棄物など、近隣の住人たちとトラブルになることも多く、先行きは暗い。もしも次の好景気・住宅ブームの波が来たら、今度は農地に代わって彼らが息の根を止められる番だろう。
青木淳子は、その田山町に、一九九四年の晩秋に引っ越してきた。勤め先は草加《そうか》駅前のフルーツパーラー「ジュネス」で、時給八百円のウエイトレスだ。二十五歳という彼女の年齢で、未婚でありながらこうしたパートタイムの仕事につくことを、当初はずいぶん不思議がられた。まして彼女の履歴書に、東邦製紙《とうほうせいし》という大手製紙会社での勤務経歴が記載されていたから、なおさらだ。
「なんであんないい会社を辞めちゃったの? これからだって、もっとちゃんとした会社に勤められるだろうに、なんでウエイトレスなんかしてるわけ?」と尋ねる「ジュネス」の同僚たちに、淳子は黙って微笑して応える。その微笑のなかにどんな回答を見いだそうと、それは彼らの自由だし、彼らの想像する回答の中に正解があり得ないことを、淳子はよく知っていた。
実を言えば、「ジュネス」で働くことを決めたのは、田山町で今のアパートを見つけてからのことで、順番は逆なのである。アパートが気に入り、そこからあまり離れた場所に通勤したくなかったので、「ジュネス」を選んだのだった。しかもウエイトレスという仕事なら、一般会社で事務職に就くよりも、こみいった人間関係に煩《わずら》わされることが少なくて済むだろうとも思った。
荒川区や草加市など、首都圏の北側に生活の拠点を求めたのは、それ以前の住まいが首都圏の東側や都内であったからだった。今まで住んだことのない土地に行きたかった。だから、東武《とうぶ》線に乗り、ひと駅ごとに降りては、駅前の不動産屋に当たる――ということを繰り返した。今のアパートは、そういう作業の末に見つけたものだ。
ここに決めるとき、何よりも決定的な要素となったのは、高田駅前の不動産屋に、車でアパートの内見に連れていってもらう途中、窓から見かけた景色だった。バス通りを右に折れ、一方通行の細い道を入って行くと、小さな池があったのである。
「池ですね……」
思わず窓から乗り出すようにして呟《つぶや》いた淳子に、不動産屋の社員は渋い顔で言った。
「不潔ったらしいでしょう? 夏はぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]がわいて困るんですよ」
思わず本音が出たというところだったのだろうが、言ってしまってすぐに、自分は今、この池の近くに住まいを決めようとしている客を案内しているのだ――という立場を思い出したらしい。急いで言い足した。
「ですけど、これからご紹介する物件からは離れてますしね、まあ消毒もちゃんとしてますから、大丈夫ですよ」
淳子は微笑《ほほえ》んだ。「気にしませんよ」
ぼうふらはともかく、そばに水があるというのは嬉しい。だから、川のそばに住むことも考えていた。だが、きちんと護岸を整備された河川というのは、人びとを惹《ひ》きつけるものだ。たとえわずかでも人に見られる危険がある場所は、淳子には望ましくない。真夜中、淳子が川に向かって「放射」しているところを、ホテルに泊まる金を節約しようとしている若いアベックに目撃されたりしたら、大いにまずい。
「この池は、私有地にあるんですか?」
「そうなんです。だから整備もできなくて」
「じゃ、すぐになくなるなんてことはありませんよね?」
「ないと思いますよ」そう答えて、不動産屋の社員はちらりと淳子の顔を見た。怪訝《けげん》そうな目をしていた。
こうして淳子が借りることに決めたアパートは、不動産屋の社員の言葉とは裏腹に、問題の池から歩いて十分ほどしか離れていなかった。だから、引っ越してきてから今年の六月ごろまでは、よくここを放射場所に使った。しかし、夏が来ると、不動産屋の言ったとおり、いや言っていた以上に藪蚊《やぶか》がわんわんして、とてもじゃないが五分とじっとしていられない。消毒なんてしているのかどうか怪しいものだ。ホント、夏場は駄目だ――と諦《あきら》めて、町内を歩き回り、別の放射場所を探さなければならなくなった。
そうして見つけたのが、田山町三丁目のはずれにある廃工場だったのだ。
厚いセーターにスラックス、コートを着込み手袋をはめて、ポケットに懐中電灯を入れると、淳子はアパートから外に出た。部屋は二階の二〇三号室。外階段を足音を忍ばせて降りると、自転車の鍵をはずし、乗った。
夜道にはとびとびに街灯がついているだけで、人気はない。住宅地の夜はおとなしく、夜遊びはみんな、他所《よそ》でするのだ。それに今日は火曜日だし――正確には水曜日になっているけれど――いくら師走とはいえ、午前様の人びとも少ないのだろう。三丁目に向かう道々、タクシー二台とすれ違ったが、片方は回送で、片方は空車だった。
廃工場まで、道はほとんど一本道だ。途中で一ヵ所、分譲中のマンションの近くで三叉路にぶつかるが、これも走ってきた道なりに真ん中の道を選んで進んで行けばいい。夏以降、何度となく通ってきた道で、眠っていても間違いなく走ることができるだろう。
やがて、夜の闇の向こうに、見慣れた廃工場の輪郭が見えてきた。鉄骨と鉄板で造りあげられた建屋の上にトタン葺《ぶ》きの屋根を乗せた工場の棟と、おそらく操業している当時は事務室として使われていたであろう三階建ての小さなビル。そのふたつに挟まれるように、運搬用のトラックが乗り入れることのできる広い駐車場がある。
これらの施設の前面を、金網のフェンスがぐるりと取り囲んでいる。フェンス中央の門扉は両開きの鉄格子で、下に車輪がついていた。淳子は門扉の前を横切り、工場の裏側に回り込んだ。門扉には鉄鎖が巻き付けてあり、そのうえに頑丈な南京錠《なんきんじょう》がつけてある。そこからの侵入は不可能だった。
最初にこの廃工場を見つけたときには、ぐるりを歩いてみただけで諦めたものだった。広いし、人気は絶対になさそうだし、工場の周囲には住宅が隣接していなくて、都合がいい。東側と西側は狭い公道に面し、北側にはどこかの物流会社の古びた倉庫が立ち、南側は空き地になっていた。この空き地は都有地のようで、立て札が立ててある。住民たちはみな、土地を遊ばせている役所への当てつけか、ここをゴミ捨て場として利用しているようだった。だから、ゴミを投げ捨てるとき以外は誰も近寄らない。子供もこのなかでは遊ばない。
うってつけだ。でも、施設の中に入れなくてはどうしようもないと思った。
だが、簡単に放棄してしまうのは惜しいような気がして、次に来たときに、今度はもっと念入りに侵入口を探してみた。すると、意外なほど簡単に見つかった。東側の一車線の公道に面している鉄製のドア――普通の家にたとえるなら勝手口のようなものか――が、やはり鎖と南京錠をかけられているのだけれど、ちょうつがいの方が二つともはずれてしまっていて、手で押すと五十センチほどの隙間が開くのだ。放っておいては危険だとさえ思えるほどに、ドア全体がブラブラしている。それでも、近隣の住人が誰もこのことについて文句を述べないのは、この公道を通る人がごく少ないからだろう。道を隔てて向こう側には公営住宅が建っているのだが、日当たりの関係かこちら側には建物の側面を向けている上に、いちばん公道に近い場所には給水塔が立ちはだかっている。公道そのものも、廃工場と公営住宅のあいだを抜けてゆくとすぐに行き止まりになり、どこへつながっているわけでもない。
淳子は他所者《よそもの》で、田山町の歴史には詳しくない。だが、この廃工場が相当長い年月のあいだ放置されているものであるらしいことは、がたついているフェンスや、すっかり錆び付いている南京錠を見るだけで、容易に推測することができた。かなり規模の大きな工場なのに、建て直すわけでもなく、更地《さらち》にして売りに出すわけでもないのは、権利関係が複雑に入り組んでいるとか、工場の操業許可が降りないとか、事情がいろいろとあるのだろう。それに、今は景気もどん底だ。
ここを訪れ、ちょうつがいのはずれたドアから工場のなかに入るのは、今夜で何度目だろう? 十回ではきかないはずだ。それでも淳子は、わくわくするような、それでいて薄気味悪いような気分を味わった。
人目につかないよう、工場の裏手で自転車を止め、ドアのところまで歩いて戻った。ドアのあいだをすり抜けると、淳子はすぐに懐中電灯をつけた。足元を照らす。そうしておいて、力を入れてドアを押しやって元通りに閉めた。
鉄錆と泥の匂いが、淳子を包んだ。
昼間は来てみたことがないので、未だにこの廃工場の全体像をつかんでいない。経験で知っているのは、この裏口から入ってすぐのところが、ベルトコンベアで結ばれた大きなふたつの機械の左側だということだ。左手には、工場の壁に作りつけられている大きな棚があり、埃《ほこり》が厚い層をなしている。棚のところどころに、直径三センチぐらいありそうな大きな十字のねじとか、スパナやハンマーが転がっている。ベルトコンベアで繋《つな》がれている機械には大きな回転盤のようなものが取り付けてあり、どうやらこれが回転して、鉄材を磨いたり切断したりしていたようだ。製造業に暗い淳子には、昔、この工場が何を造っていたのか、しかとはわかりかねた。かなり重くて場所をとり、細工するとき大きな音をたてるものだろうと、おぼろげに思うだけだ。レールとか、鉄線とか、そんな類のものだろうか。
淳子は機械の脇を通り抜け、工場の中央へ向かった。むき出しの地面には様々な廃品やゴミが転がっており、慣れないうちは転んで手をついたり、向こうずねをぶつけたりしたものだった。何度か訪れるあいだに、通路を片づけたり、動かせるものは脇へどけたりしたので、今ではすっかり歩きやすくなっている。懐中電灯も、機械的に前を照らしているだけで、ほとんど必要を感じない。
工場の全体は、小学校の体育館ほどの広さを持っていた。天井も高い。普通のビルの三階分くらいあるだろう。頭上には縦横にキャットウォークが走り、そのなかのいくつかには滑車がついていた。人がそこにあがって歩き回ったり作業をしたりしたこともあるのだろう、幅二メートルほどの板張りの通路もあり、工場を東西に横切っているその通路には、下から梯子《はしご》を使ってあがることもできた。が、淳子はあがったことがない。高所恐怖症の気味があるからである。
淳子の目的のものは、工場の中央からやや右手、正面の入口からすぐのところにあった。大きな給水タンクと、そこから水を流しこむことのできるコンクリート製の水槽である。タンクは、町で見かけるタンクローリーが乗せているものの倍くらいの大きさがあった。叩いてみても、中に水が残っているのかどうか、よくわからない。手のひらが重いものを叩くときの、びしゃ、びしゃという音が返ってくるだけだ。
しかし、水槽には水が残っていた。縦が六メートル、横が三メートルほどの長方形で、高さは淳子の胸のあたりまである。その縁まで、黒い水が溜まっている。ここを廃工場にするとき、誰かが栓を抜くとかスイッチを押すとかの作業を忘れ、そのままになってしまったのだろう。
あの池の貯水量と、同じくらいあるかもしれない。いや、そんなことはないか。もっと少ないか。淳子にはどうもわからない。ただ、オイルの匂いを漂わせ、見た目にも泥のように黒いこの水は、淳子にとって頼もしい存在だった。万が一、淳子が何らかの理由で取り乱し、前後を忘れて最大量を「放射」したとしても、ここの水を干上がらせることは、ちょっと難しいだろう。ましてや、定期的に、力をコントロールするためのいわば「ガス抜き」の放射に使うだけならば、十年くらいは保《も》ってくれそうだ。それはつまり、この廃工場が廃工場のままである限り、淳子は「放射」の場を探し回らずに済むということである。
「放射」のときいつもそうするように、淳子は懐中電灯を消した。万にひとつ、誰かに見とがめられることを恐れて。
懐中電灯をポケットに入れると、淳子は水槽の黒い水を見つめた。さっきの夢のなかの水の冷たさを思い出してみた。それが心に浮かんでくると、夢のなかで放射した力の残像が、現実の淳子の力の呼び水になってくれた。力はすぐに、淳子のなかから現れ、淳子の外へ出ていこうとし始めた。
あと少し遅かったなら、「放射」の与えてくれる快感に夢中になってしまって、淳子の耳には何も聞こえなかっただろう。だが、すんでのところで、それは間に合った。淳子が目を閉じ、今にもほとばしり出ようとする力の流れに身を任せようとしたとき、どこかで物音がした。何か重い物を動かすような音。
続いて、人の声。
淳子は目を見開いた。力はわき上がってきている。あとはそれを、黒い水めがけて投げつけるだけだ。だが、淳子はひゅっと息を吸い込むと、身体の内側からこみ上げてくる力の流れの前で、ぴしゃりと意思の扉を閉めた。そのとき、また人声が聞こえた。
「こっちだよ、早くしろよ」
男の声だった。そして、複数の人の気配がした。
誰かがやってくる。
[#改段]
淳子は素早く周囲を見回した。身を隠さなければ。幸い、濃くよどんだ闇が煙幕になってくれる。
「何やってんだよ!」
「し、大声出すなよバカ」
話し声が聞こえてくる。懐中電灯の明かりがふたつ、上を向いたり下を向いたりしながら飛び交っている。その光のなかに、人の頭が動いているのが見えた。三、四人いるようだ。彼らもまた、淳子が出入りに利用しているあのちょうつがいのはずれた鉄扉から侵入しようとしていた。
淳子は頭をかがめ、中腰になって、給水タンクの脇をすり抜け、身体をぴったりと壁にくっつけた。放射の寸前に蓋《ふた》をされた「力」は、淳子のなかにおとなしく収まっている。動悸《どうき》が激しく息も弾《はず》んだが、それは力を押さえ込んだせいではなく、緊張感のためだった。あの連中はいったい何者だ? こんな時刻にこんな場所に、何をしに入り込んできたのだろう?
複数の人影は、まだドアの周囲でごちゃごちゃと固まっている。中に入ってくるつもりなのだろうに、妙に手間取っているようだ。淳子はじっと目をこらして彼らの様子をうかがった。何をどたばたしているのだろう。ドアに何かがぶつかるような、どすん、どすんという音も聞こえてくる。
そうしているうちに、ようやく、先頭のひとりの全身が黒いシルエットになって見えてきた。ふらふら動く懐中電灯の光のなかで、こちら側に背中を向け、あとずさりするようにして進んでくる。どうやら、何か運んでいるらしい――。
淳子は息を呑んだ。
彼らは人間を運んでいるのだった。死んでいるのか気絶しているのか、ぐったりと身体を伸ばしている。先頭の者がその人物の両腕を持ち、後ろに続く者が足を抱えている。さっき、ドアに何かがぶつかるような音が聞こえたが、あれは、この運ばれている人物の靴がドアに当たる音だったのだ。
さらにその後ろに懐中電灯を持った者がふたり、背後の道路の方を気にするようにせわしなく頭を動かし、振り返り振り返り、皆をせき立てている。彼らの手にしている懐中電灯は、淳子の持っているものよりもずっと大型のタイプであるらしく、光が強い。淳子は壁に手をつきしゃがんだままじりじりと給水タンクの陰に後退した。
「おい、早く閉めろ」と、誰かが命令した。それに応じて、ちょうつがいのはずれた鉄扉が閉じられた。乱暴な閉め方で、扉全体が傾き、わずかに隙間が空いた。その隙間から、外の街灯の光が、ごく細い斜線になって白く見える。それ以外には、廃工場のなかを照らすのは、侵入者たちが手にしている懐中電灯の明かりふたつだけになった。
狭い鉄扉を通り抜けると、彼らの進行は早くなった。懐中電灯を持ったひとりが前に出て、淳子がつくった通路を、無論それとは知らないまま、ずんずん歩いてくる。足音が近づいてくる。
彼らが工場の中央までやってくると、淳子の目にも、彼らの姿がもう少しよく見えるようになってきた。気まぐれな懐中電灯の光だけが頼りなので、全身は見えないが、背格好はわかる。それに、声。
「この辺でいいか?」
若者だ。淳子よりも若い。二十歳か――いや、もっと年少だろう。四人とも? いや、彼らに運ばれている五人目も?
「降ろそうや。重いぜ」
どさりと重い音がした。五人目の人物が地面に落とされたのだ。運び方もぞんざいだったが、降ろし方もひどい。それでも、降ろされた方はウンともスンとも言わない。無防備なままだ。死んでいるのだろうか。
淳子は両手を握りしめた。手の中に汗が浮いてきた。この状況、どう見ても友好的なものではない。ちょっと羽目をはずした不良高校生たちが酒を飲み過ぎてダウンした仲間を運んできたとか、暴走族のグループが、警察に追われ、怪我をした仲間をかばいつつ逃げ込んできたなんていう事態ではなさそうだ。もっと険悪で、危険な匂いがしてきた。
身を硬くして、淳子は様子をうかがった。四人の若者たちは、淳子の存在にはまったく気づいていないようだ。懐中電灯を持ったひとりが、大きな声を出してあくびをした。
「あーあ、かったるいな」
「何だよ、ここ。臭えな」
「ずっと使われてねえんだよ」
ふたつの懐中電灯がぐるぐると動き、廃工場のなかをあちこち照らしだした。上へ下へ、右へ左へ。光の輪に引っかからないよう、淳子は可能な限り身をかがめ、頭を下げた。
「アサバ、なんでこんなとこ知ってんだよ」
「親父が昔、ここで働いていたからさ」
へえーと、感嘆するような冷やかすような声が、他の三人の口からあふれ出た。
「なんだよ、おまえの親父、失業したとか言ってたじゃんかよ」
「そうだよ。ここがつぶれたんでクビ」
「だけどさ、それってずいぶん前のことだろ? 親父、それっきり働いてねえの?」
「知らねえよ。関係ねえもん」
彼らはいっせいに笑った。その笑い声を聞いて、淳子は彼らがごく若いということを再確認した。どうやら、高校生ぐらいの年代であるようだ。開けっぴろげで若々しい笑い声。あまりにも今のこの状況にはふさわしくなさすぎて、鳥肌が立つほどだ。
「どうすんだよ、ここに埋めんの?」と、ひとりが言った。
「下、地面だしな」懐中電灯を片手に、別のひとりが答える。靴のつま先で地面を蹴《け》っている。
埋める[#「埋める」に傍点]? では、あれはやはり死体なのか。彼らは死体を始末するためにここに忍び込んだのか。
「でも、固いぜ。掘るの面倒くさいじゃん」
「捨ててきゃいいよ」
「見つかるとまずい」と言ったのは、さっき「アサバ」と呼びかけられた若者の声だ。
「ちゃんと始末するんだ」
「だから、さっき川へ放り込んでおきゃよかったんだよ」
「それだってあとで見つかるだろ?」と、「アサバ」が言った。言い聞かせるような口調だった。彼がリーダー格のようだ。
「死体さえ見つからなきゃ、誰もガタガタ騒ぎゃしねえんだ。今までだってそうだったろ? きれいに始末しとくに限るんだって」
「チッ、手間かかるよな」
文句たらたらの仲間に、「アサバ」がきびきびと言った。「シャベル、持ってきたんだろ?」
「ああ、あるよ」
「この辺を掘るんだ。機械の陰になってるし、ちょうどいい」
「アサバ」は淳子から見て工場の反対側、ベルトコンベアの機械の脇あたりにいるらしい。懐中電灯がひとつ、そこで光っている。が、もうひとつの懐中電灯は、また工場内をぐるぐると照らし始めた。しかも今度は天井の方には向けず、腰から下の高さを舐《な》めるように照らし出してゆく。淳子は息を止め、給水タンクと工場の壁との隙間へ身体を縮めた。
がつん、がつんとシャベルが地面にぶつかる音が聞こえ始めた。
「なんだよこれ、このシャベルじゃ駄目だよ」
「うるせえな、さっさとやれ」
もうひとつの懐中電灯は、まだあちこち照らしている。淳子の隠れている給水タンクを照らし、その脇の壁を照らし、水槽の縁をかすめ、ベルトコンベアへ――
そこで、急に給水タンクの方へ戻ってきた。「おい」と、仲間たちに声をかける。「なんかブールみたいなもんがあるぜ」
懐中電灯の円い光は、水槽を照らしている。淳子の隠れている場所から、わずか一メートルほどしか離れていない。給水タンクと工場の壁にはさまれて、あばら骨が圧迫され、痛いし息苦しかったが、淳子はじっとこらえた。うっかり動けば、気配を察知されてしまうかもしれない。
「どれだよ」
「こっち、こっち」
若者たちは水槽に近づいてきた。シャベルの音もやんだ。ひとりが水槽の縁に手をかけ、黒い水の上に身を乗り出した。そのシルエットが水面に映るのを、淳子は見た。
「汚ねえ水!!」
「油じゃねえの」
「だからさ、ちょうどいいじゃんか。ここへ放り込んでおけば、誰も気づかねえよ。けっこう深そうだし」
「そうかなあ」
誰かが水に手を突っ込んだのか、ばしゃばしゃという音がした。
「埋めるよか確実だぜ。なあ、アサバ」
「アサバ」はすぐには返事をしなかった。水槽に手を突っ込んでいたのは彼であるらしい。ややあって、水のはねる音と共に彼の声が聞こえた。
「これだけ濁ってりゃ、いいかもな」
残りの三人は、声をあげて沸き立った。淳子は目を閉じた。なんてことだろう。死体を隠す場所を探しに来て、濁った水槽の水を見て喜んでいる。騒いでいる。いったいこの連中は何者なのだ。これが人間なのだろうか。
人間。
目を開くと、淳子は身震いした。今までとは別の緊張感が生んだ身震いだった。
この四人。こいつらを――
彼らは水槽のそばから離れると、さっきシャベルを動かしていた方向へ戻っていった。ごそごそ動いている。本当に、ここに死体を放り込む気なのだ。死体? 死んでいる人?
死んでいるのじゃない、彼らが殺したのだ。たぶん、間違いなく。それをここに始末しようとしている。しかも、さっきの「アサバ」の話を聞いていると、彼らがこんなことをするのはこれが初めてではないようだった。
(今までだってそうだったろ?)
そう、彼はそう言ったのだ。ほかにも何人か殺しているのだ、きっと。
そういう連中を、人間と呼べるか? 呼んでいいか? いや、呼ぶのは自由だ。彼らを人間と、無軌道な若者と、彼らこそ社会の犠牲者だと、なんとでも呼べばいい。だが、少なくとも淳子はそう呼ばない。青木淳子は、この四人のような連中を人間とは思わない。そしてそれである以上――
彼らを倒すことを厭わない[#「彼らを倒すことを厭わない」に傍点]。
胸苦しいほどに鼓動が早まり、淳子は呼吸を細かく刻んで自分を落ち着かせなければならなかった。それでも興奮は高まってきた。できる、あたしならできる。造作もなく。さっき押さえ込んだ「力」をまた解放すればいいのだ。それだけでいい。何をためらうことがある?
あたしは普通の人間じゃないんだから。そう、彼らが人間でないのと同様に。
彼らは死体を引きずってこちらに戻ってくる。ずるずると、靴が地面をこする音がする。どうしよう、どこから行く? 誰から狙う?
あまり距離が近いと、淳子自身にも危険が及びかねない。それにここは、場所的にも不利だ。もう少し見通しのきくところに出て、その上で四人の位置関係を把握することができればいいのだが。
「ほら、足を持てよ」と、「アサバ」の声が言った。「できるだけ真ん中辺に沈めるんだぞ」
「頭から突っ込めよ」笑いながら誰かが言った。「頭から沈めちまえ」
淳子はわずかに頭を前に動かし、彼らを視界に入れた。彼らは水槽を隔てて向こう側にいた。手前のふたりが、死体の胴や足を抱えて水槽の上に持ち上げようとしていた。懐中電灯がその両脇から照らしている。おかげで、淳子は手前のふたりの顔を見ることができた。
ふたりとも、意外なほど整った顔をしていた。頬や額など、まだ子供の肌だ。ひとりは目立って背が高く、派手なチェックのシャツを着ていた。飛び出した喉仏《のどぼとけ》が、妙に野蛮な感じがする。もうひとりは流行の長髪、わずかに肩にかかるくらいの長さで、髪の先端が懐中電灯の明かりを受けて赤茶色に光っていた。
彼らに抱え上げられ、水槽の縁に引きずりあげられようとしている死体は、淳子からは、後頭部と背中の一部しか見えなかった。それでも、それが男性であり、きちんと背広を着ているのはわかった。ネクタイが垂れて水槽の水面に触れている。
うしろのふたりの顔はわからない。が、左側で懐中電灯を照らしている方の若者が、あたりを気にしたのか電灯を手にしたままちょっと背中を向けたとき、彼の着ているジャンパーの背中にロゴが入っているのが見えた。「Big one」と読めた。
即座に、淳子は決断した。あの長髪を狙おう、髪はよく燃える。燃え上がれば明かりの役目も果たしてくれる。あいつの髪に火をつけて、連中が驚いているあいだにここから飛び出すのだ。この廃工場のことなら、淳子の方がずっとよく知っている。飛び出したら、走ってベルトコンベアの反対側に回り込み、そこから追ってくる彼らを狙おう。彼らが逃げ出したとしても、退路はあの鉄扉ひとつ。待ちかまえていて燃やしてやる。
だが、そのとき。
「いいか、放り込むぞ」
手前のふたりが死体を水槽の上に押し上げようとしたときだった。不意に「死体」が声を出した。呻《うめ》いたのだ。
「ゲ! こいつ、まだ生きてる」
長髪の若者が叫んだ。懐中電灯がぱっと跳ね上がった。ぐるっと動いた。淳子も驚きで身動きしてしまった。その動きが、ひとつの懐中電灯のつくる光の輪の中に入った。
――いけない!
思った次の瞬間、若者たちがわめいた。
「誰かいる!」
「なんだと?」
「いるんだ、水槽の向こうだ!」
淳子は壁と水槽のあいだの隙間から外に出ようとした。飛び出せると思っていたのに、一、二秒の時間をくった。それだけ強く、しっかりとはまりこんでいたのだ。その一、二秒のあいだに、懐中電灯の光が戻ってきて淳子を照らした。まともに顔に当たった。淳子は反射的に手で目を覆った。
「女だ――」
若者の誰かが呆気《あっけ》にとられたように叫び、「アサバ」の声が命じた。「バカ、早く捕まえろ!」
若者たちの動きは素早かった。外へ出ようとする淳子の先回りをして、進路をふさぎにかかった。いちばん右側にいた懐中電灯の若者が、空いている方の手を伸ばして淳子に襲いかかってきた。その手が淳子の袖をつかんだ。
引っ張られて前のめりになりながら、淳子はあの「死体」を見た。まだ生きている――彼は今、自分の両腕で水槽の縁にぶらさがるようにして、かろうじて身体を支えている。目は半開きになっている。ひどい有様だ。あの顔! 青あざと切り傷。膨れあがって。
彼に怪我をさせてはいけない[#「彼に怪我をさせてはいけない」に傍点]。
それで標的が決まった。淳子は飛びかかってくる前方の若者に視線を振った。その顔が笑っているのを見た。女だ、こんなところに女が隠れていたと、むき出しで笑っていた。そうだ彼らは怖がってはいない。相手が女だから。相手が普通の人間だから。殺してしまえる。料理してしまえる。まるでディスポーザーにかけるみたいに、たやすく粉砕して流してしまえる、と。
淳子は力を解き放った。
前方の若者が、いきなりうしろに吹っ飛んだ。彼の手から懐中電灯が離れ、優雅な弧を描いて宙を飛び、天井のキャットウォークに通じる金属製の梯子の中段にぶつかってガラスが割れた。その様を淳子は見ていた。淳子だけが見ていた。若者たちは吹っ飛ばされた仲間を見ていた。彼もまた半円を描いて宙を飛び、円の頂点に達したとき、シャツとズボンと髪の毛が火を噴いた。彼は火だるまになって工場の地面に落下した。そのまま動かない。悲鳴もあげない。淳子は今の放射に強い手応えを感じた。矢のように飛び出した力は、炎となって燃え上がる前に、若者の頸《くび》を折ったようだった。
かわりに、仲間たちが悲鳴をあげた。三人とも立ちすくんだ。こっけいなほどの驚きの表情で、さっきまでの下卑《げび》た笑いが、そのまま口元にこびりついている。
淳子はゆっくりと背中を伸ばし、頭を動かして彼らを見つめた。いちばん近くに、手が届きそうなほどそばにいるのは、チェックのシャツの若者だった。その隣に長髪。その隣に二個目の懐中電灯を持った若者。彼は小柄で、真っ赤なスエットシャツを着て、刺繍《ししゅう》の入ったベストをひっかけていた。片耳にピアスがくっついている。
並んで立ちすくむ若者たちの方へ、淳子は一歩踏み出した。若者たちは一歩下がった。スエットシャツの若者は二歩下がった。彼の口元が泣き出しそうにわなないているのを、淳子は見た。最初の若者の死体が燃えてゆく、その炎の明かりで見た。焦《こ》げ臭い異臭があたりにたちこめてきた。
「おい、何だよ」と、長髪の若者が言った。その声が震えていた。目がきょときょとと動き、淳子の全身を見回した。「あんた何したんだよ。何持ってんだよ」
淳子は黙って彼らを見据えた。何を持っていると訊《き》いたね? 武器を持っているかという意味? そう、それなら持っている。ただし、探しても見つかりはしない。
なぜなら、あたしの武器は頭のなかにあるのだから。
ゆっくりと、淳子は微笑んだ。微笑みながらもう一歩前に出た。若者たちは、今度は一様に二歩後ずさりした。彼らは工場の中央まで来ていた。
「何だよ、こいつ」長髪の若者が震えながら言った。目は淳子に釘付けのまま、全身をガタガタと震わせている。
「こいつ何だよ、何とかしてくれよ、アサバぁ!」
アサバと呼びかけられたのは、チェックのシャツの長身の若者だった。そうか、おまえがアサバか。淳子は彼の目を見た。彼の目がいちばん澄んで見えた。彼もまた震えてはいたが、その目の澄んだ瞳の奥に、感情が動いているように見えた。恐怖、それとも――
淳子は顔にかかる髪を手ではらった。そして、三人並んだ若者を、端からなぎ払うようにぐいと頭を振った。
力はしなやかに飛び出した。熱気が淳子の頬を打った。熟練した猛獣使いがわずかの距離と強度を計って鞭《むち》を振るように、淳子も力をコントロールし切っていた。振り出した熱気の鞭が、淳子の目には見えた。
しかしその鞭を、「アサバ」は動いてよけようとした。彼の不器用な努力はほんの少ししか成功しなかった。彼は後ろにはじき飛ばされ、ベルトコンベアの上に投げ出された。だがそれでも避けようとした甲斐《かい》はあった。あとのふたりは、熱波の鞭で叩かれた瞬間に全身が燃えあがった。顔が燃え手が燃え、髪が燃えた。悲鳴さえ燃えた。ベルトコンベアの上に倒れ込んだ「アサバ」は、狂ったように手足をばたつかせながら燃えあがってゆく仲間ふたりを、目を見開いて見つめていた。彼のジーンズの裾がくすぶっていた。
――今度こそ。
淳子は「アサバ」に狙いを定めた。「アサバ」も淳子を見た。逃げ出そうとはしなかった。ただ小刻みに首を横に振っていた。淳子を押しとどめようとするかのように、片手を前に出して。片手を。両手ではなく。
両手を出せ[#「両手を出せ」に傍点]。あたしの前に[#「あたしの前に」に傍点]。やめてくれと泣き叫べ[#「やめてくれと泣き叫べ」に傍点]。さっきまで[#「さっきまで」に傍点]、おまえたちはたぶん[#「おまえたちはたぶん」に傍点]、あの不運な男にそうさせていたのだろう[#「あの不運な男にそうさせていたのだろう」に傍点]。それと同じように[#「それと同じように」に傍点]、這いつくばって命乞いをするがいい[#「這いつくばって命乞いをするがいい」に傍点]。
力はまだ漲《みなぎ》っていた。これほどの大放射は久しぶりだ。力は待っていた、この時を。
淳子は顎《あご》をあげ、「アサバ」を見つめた。顎をひと振りして、次の熱波をくりだそうと。そのとき「アサバ」の手が彼の腰に、ジーンズのポケットの方に伸びた。わめきながら、彼はそこから何かを取り出し淳子に向けた。
銃だ――と気づいた瞬間、淳子は肩に激痛を感じた。
一撃は強烈だった。淳子は自分の身体が宙に浮き、後方へはじき飛ばされるのを感じた。これが銃か。頭のなかを感嘆にも似た感情が走った。これが銃の威力か。
背中から地面に落下した。後頭部をぶつけて、目の裏に閃光がひらめいた。左肩が燃え上がるように痛んだ。温かいものが腕を伝わって流れるのがわかった。血だ。出血している。
混濁しかけた意識と、淳子は必死で闘った。気を失ってはいけない。立ち上がらなくては。「アサバ」を追わねば。水槽のなかに捨てられかかっていたあの不運な男の命も、淳子の行動|如何《いかん》にかかっているのだ。彼を助けなければ。もがき、起きあがろうとし、激しいめまいに頭がくらくらするのを必死で押さえながら、淳子は手で地面をひっかいた。
そのとき、また銃声が響いた。そして足音が聞こえた。逃げる――アサバだ! 淳子は自分が撃たれたのかと思ったが、新たな衝撃も激痛もなかった。
アサバは誰を撃ったのだ? 淳子は肘《ひじ》で身体を支え、ようやく上半身を起こした。そのとき、あのちょうつがいのはずれた鉄扉が開けられる音がした。目をやると、外の街灯の明かりが差込み、細長い光の長方形に切り取られた鉄扉の隙間を通り抜けて、アサバが逃げてゆくのが見えた。振り返ることも、鉄扉を閉めることも忘れて、ただ一目散に逃げ去ってゆくのが。
淳子の周囲では、あちこちで赤い炎が燃えていた。しかしそれらはもう燃えさかるというほどではなく、一秒ごとに小さく、弱くなっていった。淳子が閃光放射で火をつけたあの男たちの衣服が、髪が、身体が、燃え尽きかけている証拠だった。淳子はそれを数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。三人倒した。逃げたのはアサバだけだ。
よろめきながら膝立《ひざだ》ちになり、淳子は水槽に近寄った。さっきまで水槽にもたれかかっていたあの不運な男は、今では水槽の下に倒れていた。燃え尽きてゆく炎のちらちらする赤い光のなかで、彼は横向きになり、身を守ろうとするかのように身体を縮めていた。
その身体の、脇腹のあたりが濡れていた。シャツが裂けている。さっきの銃声――アサバが狙ったのは彼だったのだ。彼がまだ生きていたことを知って、とどめを刺していったのだ。
上を向いている右の頬が、赤い光のなかでさえ、蝋《ろう》のような色に見えた。目は閉じていた。淳子は這《は》って彼に近寄り、手を伸ばしてその髪に触れた。頭を撫《な》でてみた。頬にさわった。まだ、ぬくもりはあった。
「しっかりして」と、声をかけた。「お願い、目を開けて」
お願い――と繰り返す、自分の声が割れているのがわかった。お願い、お願いとささやきながら、淳子は彼の頬を平手で叩いた。
ぴくりと、彼のまぶたが動いた。まつげがさざめいた。こうして近くで見ると、淳子と同じぐらいの年齢の青年だった。あのアサバや、ここで黒焦げになっている連中よりは年長だが、それでも若者だ。死ぬにはまだ早すぎる。しかもこんな死に方で。
「しっかりして」
若者の肩をつかみ、ゆさぶった。彼の頭ががくりと動き、目が開いた。半開きに。のぞいた瞳は、まるで焦点があっていなかった。淳子は彼に顔を近づけた。
「頑張って、死んじゃ駄目よ。救急車を呼んであげる。頑張るのよ」
淳子の声に応えて、彼のくちびるが動いた。片方だけだが、目がちゃんと開いた。そうして視線が淳子を探した。淳子が顔をくっつけるようにすると、彼の瞳が淳子をとらえた。
その目は充血し、潤んでいた。信じられないもの、信じたくないものを見せられたというように、彼の目は眼窩《がんか》のなかで泳いでいた。淳子は右手で彼の手をぐっと強く握りしめ、大きく声をかけた。
「あたしは味方よ。もう大丈夫、あいつらはいないわ。ここでじっとしてて。すぐに人を呼んであげる」
そしてその場を離れようとしたとき、思いがけないほど強い力で、彼の手が淳子の手を握り返し、引き留めた。淳子の左腕はもう使いものにならず、身体の脇にぐったりと垂れていた。だから右腕を引っ張られると簡単にバランスが崩れ、淳子は彼の脇に崩れるように横座りになってしまった。
顔のすぐそばに、彼の顔があった。恋人同士のような至近距離で、淳子は若者の顔を見た。乾いて割れ、泥のくっついたくちびるの端から、血が流れだしていた。下になっている左の鼻孔からも、点々と血が滴っている。
彼のくちびるが動き、声が出た。「た、助け――」
淳子は大きくうなずいた。「ええ、助けてあげる。もう大丈夫、安心して」
若者の目が閉じ、開き、嫌々《いやいや》をするように首がわずかに横に動いた。
「助けて――くれ」
淳子の手を握っていた手を離し、彼女の服をつかみ、懸命に引っ張りながら彼は繰り返した。
「助け――て――やって」くちびるがわなないた。「か――彼女」
淳子は息を止めた。
「彼女? ほかに誰かいるの?」
若者のまぶたが動いた。痙攣《けいれん》するようにひくひくと。潤んだ目から涙が一筋流れた。
「あなたの知り合い? 恋人? その人、どこにいるの?」
彼に顔をくっつけて大声で尋ねながら、淳子は凍るような恐ろしい予感にさいなまれていた。瀕死《ひんし》のこの青年から聞き出さなくても、答えはわかっているような気がした。
女。この連中、アサバのようなやつらが、女を放っておくわけがない。襲われたのはこの若者だけではなかったのか。彼らはカップルだったのか。
「どこにいるの?」
若者の顔が痛ましいほどに歪《ゆが》み、ひきつった。無惨に口の端をひん曲げて、彼は懸命に声を出そうとしていた。
「つ、連れて、い、かれた」
「あいつらに?」
若者の頭がうなずいた。
「どこに行ったかわかる? あなたも一緒にいたの?」
若者の目からまた涙がこぼれた。唇の端から血を吐き出しながら、彼は淳子の服にしがみついた。
「く、くるま」
「車? 誰の? あいつらの?」
「ぼ――くの」
「あいつらに盗《と》られたの?」
「彼女――」
「彼女も乗ったまま? あなただけ他所へ連れて行かれて私刑《リンチ》にあったの? そうなのね?」
「た、助けて」
「わかったわ、必ず助けてあげる。彼女がどこへ連れていかれたか、あなた何か覚えていない? 心当たりはないの?」
淳子にしがみつく彼の手から、少しずつ力が抜けてゆくのが感じられた。絶命しかけているのだ。息が絶えてゆく。
「お願いよ、頑張って! 彼女がどこへ連れて行かれたかわからない? 教えて!」
若者の頭ががくりと垂れた。目がまたたき、口がぱくぱくと呼吸を求めてあえいだ。
「な、なつ、こ」
かすれた声でそれだけ言うと、彼の手がぽとりと落ちた。半開きのままの目が焦点を失った。身を震わせ、ごぼりと血を吐くと、彼はこと切れた。周囲の炎は次第次第に小さくなりつつあり、あたりは再びもとの暗闇へと返り始めていた。その闇の中で、若者の身体から命が抜け出してゆくのを、淳子ははっきりと感じた。
「ひどい」と、淳子は呟いた。
地面にぺたりと座り込み、右手だけで、なんとか若者の頭を膝の上に抱えあげた。廃工場のなかに、今、命あるものは淳子ひとり。三人のならず者たちは闇と見分けがつかないくらいに黒く焼け焦げてしまった。彼らの身体の周りには、ちろちろと揺れる低く赤い炎が、死体にたかる飢えた昆虫のように、まだ燃えるものはないかと執念深くまとわりついている。それらの炎は淳子の忠実な使徒、決して対象を誤ることのない刺客《しかく》。だがしかし、この不運な若者を助けることはできなかったのだ。
しかも、もうひとり捕らわれ人がいる。この若者の恋人。
――な、なつこ。
それがたぶん、その女性の名前だろう。ナツコ。彼女が今夜、「アサバ」たち四人に捕らえられてから今まで、いや今この瞬間にも、どんな目に遭わされているか――それを考えて、淳子は一瞬ぎゅっと目をつぶった。悪寒《おかん》が背中を走り抜けた。
立ち上がらなくては。気落ちしてはいられない。ナツコを助け出すのだ。手遅れにならないうちに。
消えかかる炎の明かりのなかで、膝に抱き上げた若者の身体から流れ出ていた血と、自分の左肩から流れ出ている血とが、同じように黒く、深く、痛ましい色に見えた。脇腹を撃たれた若者の出血は淳子のそれよりずっとひどく、彼の半身はべっとりと血に染まっていた。
淳子は手早く彼の身体を探った。何か、身元のわかるようなものはないか。スーツの上着の内ポケットやズボンのポケットのなかには何も入っていない。財布や運転免許証の類は、アサバたちに抜き取られてしまったのだろう。しかし、スーツの襟のすぐ内側に、ネームが縫い取りしてあるのを見つけた。
「Fujikawa」
「フジカワさんね」と、淳子は声に出して言った。
若者の頭を地面の上にそっとおろすと、立ち上がった。いちばん右手に倒れている真っ黒な煤《すす》の塊《かたまり》みたいな死体の脇に、無傷の懐中電灯がひとつ、明かりを灯したまま転がっていた。ガラスは割れている。淳子はそれを拾い上げると、あたりを照らした。三人の身体とその周辺を、できる限り念入りに、目をこらして調べ始めた。何か手がかりになりそうなもの、彼らの立ち回り先を調べるきっかけになりそうなものは見つからないか。
三人の死体はあまりにもひどく焼け焦げていて、ほとんど用をなさなかった。このうちのひとりは大きなロゴ入りジャンパーを着ていたはずだが、今ではそのロゴさえ見分けがつかないほどだった。三人とも燃え尽きて、身体のサイズさえみんな同じくらいに縮んでしまっているように見えた。
自分が最大級の力を発揮したのだということを、淳子は改めて悟った。数年前のあの大放射のことを、ちらりと思い出した。あのときは、標的は四人だった――。
爪先で蹴って身体の向きを変えたり、わずかに燃え残った衣服の襟をつかんで持ち上げたりしながら、淳子は三つの死体を検証した。左肩の痛みは、焼けつくようなものではなくなっていたが、その代わり、出血したせいだろう、ひどく寒くてめまいがした。ゆっくりと胃袋を持ち上げられまた下げられるような、不愉快な吐き気も感じた。
罪悪感はなかった。かけらも。ひとつも。淳子にとって、この廃工場にある人間の亡骸《なきがら》は、フジカワという青年のそれだけ、ただひとつだけだ。あとの三つは、得体の知れない野獣のそれでしかなかった。
ひととおり調べても、手がかりらしいものは見つからない。あまりに完璧に焼きすぎてしまったのだ。こんなことならもう少しよく考えて力を使えば良かった――でも、あの状況ではほかにどうしようもなかったのだ。
懐中電灯を動かして、アサバが逃げていった方向を照らしてみた。黒い地面と、見慣れた廃工場の備品が見えるだけ。手がかりはないのか。
淳子は頭をあげ、耳を澄ませた。二度の銃声を、もしかしたら近所の誰かが聞きつけて、警察に通報しているかもしれない。
しかし、今のところはまだ、廃工場を包む夜の静寂に変化はないようだった。あの銃声が、廃工場の外に漏れなかったはずはない。きっと聞こえたろう。だが、平和な夜に慣れきっているこの町の人びとには、映画やドラマのなかの作り物の銃声と、現実の生活圏内に聞こえてきたそれとよく似た音とを結びつけることは難しいのだろう。轟音に驚いて目を覚ましても、車のバックファイアかなと首をかしげたり、また近所の若者が夜中に騒音を立てているのだろうと顔をしかめたりして、また寝床に潜ってしまうのだ。
それが淳子と、他の人びととの違いだった。淳子はここが、今の都会が戦場であることを知っていた。
警察に通報するのはあたしの仕事になりそうだ――そう考えながら懐中電灯をおろしたとき、淳子の靴が何かを踏みつけた。かがんで拾い上げてみると、ブックマッチだった。どうやら酒場のものであるらしい。店名は「プラザ」。その下に電話番号が刷ってある。裏を返すと住所と簡単な地図もあった。東京都|江戸川《えどがわ》区|小松川《こまつがわ》。最寄りの駅は、都営|新宿《しんじゅく》線|東大島《ひがしおおじま》。
そのマッチは、一本だけ使われていた。全体に真新しいものだった。アサバが落としたのだろうか。熱波に叩かれたとき、彼のポケットからこぼれ落ちた?
淳子はそれをポケットにしまった。そうして、ふらつく身体をできるだけしゃんと伸ばして、フジカワの亡骸のところに引き返した。かがんで、彼の乱れた髪をなでつけた。それからふと思いつき、手袋をはずすと、彼の血に染まったスーツに手のひらを押しつけた。淳子の手のひらに、フジカワの血が付いた。それを今度は自分の左肩の傷口に押しつけた。血が混じり合い、フジカワの無念が傷口から身体のなかに入り込んでくることを、淳子は祈った。
「必ず、仇《かたき》はとってあげるからね」
低くそう呟いて、淳子は立ち上がった。
廃工場を出ると、水のように澄んで冷たい夜気が淳子を包んだ。悪夢から覚めたような気がした。左腕がどうしても持ち上がらず、身体もふらついてしまい、自転車には乗れなかった。右手でなんとか押して進みながら、帰路でいちばん最初に目についた公衆電話の受話器を持ちあげた。きびきびとした声で応答した警察官に、できるだけ声を低くして、淳子はしゃべった。
「田山町三丁目の公団住宅のそばにある廃工場で、人が死んでます」
「はい? 人が死んでいる?」
「銃声が聞こえました。不良少年のグループが事件を起こしたみたいです」
「もしもし? あなたは今どこから通報しているんですか?」
せき込んだ相手の問いかけを無視して、淳子は一本調子な声で続けた。
「男の人がひとり殺されて、女の人がひとり誘拐されました。犯人のなかに、『アサバ』という名前の若者がいます。殺された男の人は『フジカワ』、彼の車も盗られています」
それだけ言って、一方的に電話を切った。寒気に身震いが出た。
警察には警察のノウハウがあり、機動力があり、人員がいる。彼らが「アサバ」を見つけ出し「ナツコ」を助けるのが先か、淳子の方が早いか。どちらであろうと構わない。淳子とて、まったく独力ですべてをなすことができると思ってはいない。「ナツコ」のためには、救出の可能性はできるだけ大きくしておくべきだ。
組織力では警察が、俊敏性では淳子が勝《まさ》っている。そしてたとえ警察の方が先に「アサバ」をキャッチしようとも、最終的には、淳子のやるべきことに変化はなかった。
「アサバ」を殺すのだ。
自転車を押してアパートへと急ぎながら、目に涙がにじんでくるのを感じた。ぬぐう気力もないまま歩き続けていると、涙はぽろぽろとこぼれ落ち、やがては、声を殺しながらも手放しで泣いていた。
その涙には、今夜起こった予期せぬ戦闘と殺戮《さつりく》への、まぎれもない恐怖が混じっていた。今になって膝が震えた。傷が痛んだ。けれども、淳子はそれを認めなかった。あたしは「フジカワ」を悼《いた》んで泣いているのだと思った。彼と、未だ見ぬ「ナツコ」のためにだけ、この涙はあるのだと。
淳子の通報から、十分足らずで警察は駆けつけてきた。最初に到着したパトカーの警官は、廃工場に足を踏み入れたとたん、立ちこめる異臭に吐きそうになった。
通報のとおり、そこには死体があった。射殺されたらしい若い男性の遺体が一体。あとの三体は――ばらばらに点在しているので数こそすぐにわかったが――光源の乏しい廃工場のなかでは、それがすぐに人間の遺体だとは判定しかねるほどの有様だった。
一様に、彼らの死体は焼き尽くされていた。
廃工場の備品のなかには、手で触れると、火傷するほどではないにしろ熱を帯びているものがあり、ほんの少し以前に、ここで大量の熱が放射されたことを推測させた。警官のひとりが、炭化寸前になった遺体のすぐそばで、溶けかけてねじ曲がった古いバールを一本発見した。
「こりゃなんだ」と、警官のひとりが呻いた。
「火炎放射器でも持ちこんだんだろうか――」
一台、また一台と駆けつけるパトカーのサイレンの音は、アパートにいても聞こえた。帰宅すると淳子は衣服を脱ぎ、左肩の傷の様子を見た。血の塊とはがれた皮膚をまともに見たら、目が回りそうになった。
しかし、幸運だった。消毒液を含ませたガーゼで傷口をぬぐってゆくと、どうやら、弾は命中したわけではなく、かすめただけだったらしいとわかってきたのだ。
だけど――淳子は顔をしかめた。
傷はこれくらいなのに、撃たれた時の、あの衝撃。ハンマーで叩かれ、後ろへ吹っ飛ばされたような感じがした。ちょっとやそっとの銃ではあんなふうにはなるまい。きっと口径の大きい危険な銃なのだ。「アサバ」みたいなまだ少年と呼んでよさそうな若者が、どうしてそんな銃を手にすることができたのだろう。
何とか手当を済ませると、出血のせいか、ひどく喉が乾いた。冷蔵庫までよろよろ行って、手近にあったオレンジジュースを、紙パックから直《じか》に飲んだ。がぶがぶと飲み、でも胃が受け付けてくれなくて、今度は洗面所に走り、すっかり吐いてしまった。そのまま、洗面台にすがりつくようにして、気を失った。
はっと気がつくと、蛇口が開きっぱなしになっていた。急いでその水で顔を洗った。それほど長い時間気絶していたわけではないらしい。
立ち上がると、倒れる以前よりは、いくぶんしゃっきりしたような気がした。左腕を動かすと、骨まで響くような痛みが走った。タンスから古いスカーフを取り出して、左腕を吊ってみた。それでだいぶ具合がよくなった。
テレビを付けてみた。案の定、まだ番組を放映している局でも、ニュースなどやっていない。朝にならないと、事件の報道は始まらないだろう。
淳子は、脱ぎ捨てた衣服のポケットをさぐり、「プラザ」のマッチを取り出した。営業時間は、午前四時まで。時計を見た。午前三時四十分。
間に合わない――
でも、それでも行ってみる価値はある。「ナツコ」の命がかかっているのだから。淳子は動き出した。
[#改段]
朝食の後かたづけを終え、出勤する支度をしている時にポケットベルが鳴った。
急いで椅子の背に引っかけておいたジャケットのポケットを探ると、ポケベルを取り出してスイッチを切った。それから電話をかけた。すぐにつながり、伊藤《いとう》警部が電話口に出てきた。
「今どこだ? まだ家かい」
「はい、ちょうど出るところでした」と、石津《いしづ》ちか子は答えた。電話機のそばの壁にかけてある丸鏡に、自分の顔が映っている。化粧の途中だったので、上唇にだけ口紅が塗ってあり、へんてこな顔だ。
「実は、ちょっと、おっかさんに行ってもらいたいところがあるんだが、すぐ動けるか?」
「動けます」ちか子はちょっと胸がどきりとするのを感じた。「どういう事案でしょうか」
「以前のあれとそっくりなのが、また出たんだよ」
警部とちか子のあいだで「あれ」と呼ぶ事件と言ったら決まっている。ちか子は受話器をぎゅっと握りしめた。
「出ましたか」
「出た。今度は三人だ。私はまだ電話で話を聞いただけだが、遺体が炭化している様子があれとよく似ている」
「そして、あれ[#「あれ」に傍点]と同じように、周囲はさほど燃えていないんですね?」
「ご明察。だから様子を見てきてほしい。清水《しみず》にも連絡したんで、ふたりで動いてくれ。彼も現場に直行しているはずだ。向こうで落ち合えるだろう」
「わかりました」
ちか子は現場の場所や交通のアクセスの仕方、おおざっぱな事件の概要などを聞きながらメモをとると電話を切った。ジャケットに腕を通し、もう一度壁の鏡を見た。唇をもぐもぐとこすりあわせると下唇にも色が移り、おかしな顔ではなくなった。バッグを肩に引っかけると、走って家を出た。頬が上気するほどの興奮を感じながら。
石津ちか子は今年四十七歳になる。階級は巡査長だが、彼女が、警視庁刑事部の放火捜査班の刑事たちから、多少の尊敬と揶揄《やゆ》とをこめて「おっかさん」と呼ばれる所以《ゆえん》は、この年齢にあった。スタッフたちのなかに、ちか子より年長者はふたりしかおらず、ふたりとも後方で書類仕事を主にしている。現場ではちか子が最年長だ。放火斑を率いる伊東警部でさえ、ちか子より五つも年下なのである。コンビを組んで仕事をすることの多い清水|邦彦《くにひこ》など、まだ二十六歳だ。ちか子の息子とおっつかっつの年齢である。
しかし、この問題を、本人はほとんど気に病んでいない。むしろ得していることが多いと思っている。交通課の婦警を振り出しに、私服刑事になってからも警務課や警備課ばかりを渡り歩いてきたちか子が、本庁の刑事部に引っ張られたとき、この人事は、当時ちか子が所属していた丸《まる》の内《うち》署内だけでなく、大げさに言えば東京中の警察署に話題を巻き起こした。三年前の春の異動の際のことだから、ちか子四十四歳での大抜擢《だいばってき》であった。周囲も驚いたろうが、誰よりも本人がいちばん驚いていたのである。
実際、この異動にはいろいろと裏があったのだが、ただその「裏」は、ちか子に直接関係のあるものではなかった。本庁にももっと多数の女性刑事を登用するべきだという意見と、いや、やはりいざというとき女は戦力としてあてにならんという意見の拮抗《きっこう》と、本庁を望むちか子より若い女性刑事や婦警たちと、彼女たちを引っ張ろうとする本庁内のトップたちの微妙な行き違いと――種々の要素がからまりあい、複雑な意地の張り合いになり、結論として、誰の顔ばかりを立てることもできず、誰のメンツをつぶすわけにもいかなくなって、最終的には、無難な位置にいたちか子が、まあ言ってみれば漁夫の利を得たというのが正直なところだ。
そのあたりの背景を、ちか子自身よく承知していた。べつにひがんだりもしない。伊達《だて》に歳をくってはいないのである。どういう力の綱引きの結果に出された結論であろうとも、昇進したのはちか子なのであり、そこでふさわしい働きをすればいいだけのことだと割り切っていた。
ただ、一度だけ、異動してきたばかりのころ、伊東警部を頭に数人の班のメンバーと酒を飲んだとき、あたしが中年女で皆さんよかったですよと、笑いながら言ったことはある。
「妙な噂《うわさ》が立たないで済みますからね。皆さんの奥さんだって安心なさるでしょう。それに、うちの子供はもう育ち上がっちゃってますから、あたしは、子供のために急に休みを取るなんてこともありません。結構使い勝手がいいもんですよ、中年のおばさんは」
冗談まじりのこの発言に、その場では、苦笑いを浮かべたメンバーが多かった。放火捜査班最古参のある巡査部長などは、もろに敵意と意地悪さを前面に押し出して、こう言ったものだ。
「おばはんは邪魔にならないように適当にやっとってくれればいいんだよ。どうせあんたは、人事のバランスをとるためのコマなんだから。二年もすりゃ、PRセンターへ異動がかかってそれでおしまいだからよ」
ちか子はこれにも、「はいはい」と笑っていた。この程度の男のヒステリーに、いちいちひっかかっていては何もできない。
ちか子は、高校二年生の頃に、勤務中の事故で父親を失った。父は建設現場で働く技術者で、地上十数メートルの足場から転落したのである。即死だった。恐怖や痛みも感じる暇がなかったであろうことが、遺族にとっては唯一の救いだった。
その時点で、将来は婦人警官になろうと決めた。公務員は安定しているから――というのがいちばんの理由だ。父亡きあとのちか子は、病弱で入退院を繰り返している母親と、まだ中学一年生になったばかりの妹を抱えて、事実上一家の大黒柱だったのだ。早く一人前の社会人になって、母と妹の面倒をみなければならない。それには公務員がいい。それに、婦人警官と言ったら、役所の住民係などよりもカッコいいではないか。女ばかり三人の家庭に、安心感を与えることもできる。
そんな次第で警察学校へ進み、婦警になり、交通課に勤め、妹を高校へ進ませ、母の面倒を見てきた。父の遺族年金や保険金があったから、暮らしはそれほど苦しくなかったけれど、それでも母はふさぎがちで、ちか子をよく悩ませた。典型的な「すがる女」である母は、亡き父のことを忘れられずに、年毎に現実離れした夢想と悲嘆の世界にはまりこんでゆくようだった。
それでもちか子は、妹を相手に、よくこう言った。「こんな世の中だって、渡りようによっては甘いもんだよ、きっと。だからあんまり難しく考えるのはよそうよね」
どちらかと言えば母親似の気質の妹は、毎日毎日、無法駐車や酔っぱらい運転を相手にして、世の中の乱雑無法下劣な側面ばかりを目にしているはずの姉が、どうしてこんなお気楽なことを言うのかと不思議がった。そのたびにちか子は笑って答えた。
「確かに、どうしようもない奴らは世の中にたくさんいるよ。けど、そういう連中だってちゃんと世渡りしてるのよ。だもの、真面目に生きてるあたしたちが、損ばっかりするわけないって。ちゃんとどっかで帳尻があうものよ」
この楽観論が、万人に通じる普遍的なものであるかどうかはわからない。が、ちか子一家にとっては、これは確かに真実だった。ちか子の妹は、高校三年生のとき、担任の教師と恋愛し、卒業後にすぐ結婚することになった。相手の人物がしっかりしていたから、ちか子としては、結婚だけでも喜ばしいことだったけれど、さらにおまけがついてきた。この教師は地方の素封家《そほうか》の一人息子で、桁違《けたちが》いの財産家だったのである。いわば妹は玉《たま》の輿《こし》に乗ったわけだ。一人息子だから面倒くさい身内の軋轢《あつれき》も少なく、快くちか子たちの母親も近くに呼び寄せて、面倒をみてくれるということになった。
ちか子としては、大きな心配事が一度にふたつなくなって、ほっとする反面気抜けした。早く一人前になるため――という理由で選んだ警察の仕事に、いくぶん行き詰まりを感じる時期でもあった。ちか子は鬱々《うつうつ》と日々を送り、警察を辞めることを考えたりもした。
ところがそんな折、ひょいと大手柄を立てることになった。偶然の作用するところの大きい出来事だったのだが、それにしても手柄は手柄である。パトロール中、ブレーキランプの破損している車両を発見、停車させて注意を与えているとき、運転者の拳動が不審だったので調べてみると、なんと車のトランクに手足を縛り上げられた子供が押し込められていたのである。つまり、進行中の営利誘拐事件の犯人と人質をその場でおさえたことになったのだった。
この出来事で、ちか子は「警官」という仕事を見直すことになった。人質の子供の両親の喜びぶりや、警察に捧げられた感謝の言葉は、ちか子の心を温かく満たした。すっかり元気づけられて、再び人生の目標を取り戻したような気持ちになった。
さらに加えて、この大金星を祝ってくれた幼なじみの男友達に、いきなり、プロポーズされるという出来事が起こった。驚くちか子に、相手は言った。
「妹さんが嫁に行くまでは、何を言っても無駄だろうと思って諦めてたんだけど、今ならいいかと思って」
この幼なじみが、現在のちか子の夫、石津|紀之《のりゆき》である。大学で土木工学を専攻した彼は、大手の建築会社に入社、長期の出張の多い仕事だが、赴任先から必ず絵入りの葉書を送ってくれたり、その地の方言を覚えて電話でそれを使い、ちか子を笑わしたりしてくれる、気のいい男であった。ふたりはすぐに結婚、一年しないうちに長男・孝《たかし》をもうけた。
現在、石津紀之は神戸《こうべ》支社の支社長で、阪神大震災あとの復興に身を粉《こ》にして働く毎日である。むろん単身赴任で、十日に一度くらいしか東京には帰ってこない。孝は広島の大学に通っており、寮生活で、父親とは時々落ち合って飲んだり食べたりするらしいが、ちか子のところには、これも十日に一度ほど電話がかかってくる程度のものだ。
という次第で、ちか子は身軽である。使い勝手のいいおばさん――という売り込みは、あながち嘘《うそ》ではない。不在がちの紀之に代わり、たったひとりで、短気で直情的でひと昔前の職人気質を色濃く残した石津の父、ちか子にとっては舅《しゅうと》であるひとの世話を焼いてきたという経験もある。この舅は、つい先年亡くなるまで、ちか子には甘え放題に甘え、文句の言い通しだった。そのくせちか子がいないとすぐに寂しがった。そういう男のお守《も》りがつとまったのだ。職場の青二才の皮肉や意地悪ぐらい、鼻息ひとつで片づけてしまうことができる。
とはいえ、放火捜査班でのちか子の立場は、やっぱり強くはない。幸い、伊東警部とうまがあい、警部がちか子の能力と人柄を評価し、時々援護射撃をしてくれるからいいようなものの、そうでなければ、今頃とっくに窓際に追いやられていたことだろう。警部への恩と彼のちか子への期特に報いるためにも、ちか子はいい仕事をしてみせる必要があった。
そこへ、この事件である。「あれ」とそっくりな焼殺体が、また出た――
伊東警部がすぐに連絡をくれたことに、ちか子は深く感謝した。もう一昨年のことになるが、「あれ」が起こったとき、放火班ももっと捜査に協力すべきだと強硬に主張して、ちか子は、班内でやや孤立気味となった。それでも諦めきれなかった。だから、警部と話をする機会があると、捜査課が「あれ」の犯人を捕まえることができなかった以上、「あれ」はきっとまた現れる、そのときこそ放火班が頑張らなくてはと、くどいくらいに繰り返し述べてきた。警部はそれをちゃんと覚えていて、ちか子にチャンスをくれたのだ。それだけ言うなら、自分でなんとか道をひらいてみろ、おっかさん――と。
今度の現場は、荒川区田山町。荒川駅のひとつ先の高田という駅から、バスで二十分ほどの場所だという。タクシーのなかで、近所の書店に駆け込んで買った地図を広げて確認しながら、ちか子は首をひねった。前回の、「あれ」の現場から、またずいぶん北側へ飛んだものだ――
ちか子が「あれ」と表する事件は、一昨年の秋、九月十六日の早朝に端を発する。荒川の河川敷に、全体に真っ黒に焼け焦げた軽乗用車が一台放置されており、その車内に三体、車から十メートルほど離れたところに一体、やはり見る影もない状態にまで焼けた他殺体があるのが発見されたのである。発見当初は、四つの遺体は性別さえ判然としないほどの有様であったが、遺留品捜査や遺体の骨格の鑑定などから、四人のうち三人が男性、ひとりが女性であるという結論が出た。年齢は、四人とも十代から二十代前半まで。実に残虐な大量殺人事件である。
しかし、捜査が進むに連れ、この事件は別の側面を見せ始めた。ひとつには、問題の車両が発見の前日に都内の駐車場から盗み出された盗難車であったこと。もうひとつには、車内の焼け残った部分――この焼け残った部分が存在していたことがのちに問題となるのだが――に残されていた指紋のひとつが、数年前に都内や都下で発生した女子高生連続殺人事件の有力な容疑者のものであることが判明したことである。
当時、この第一容疑者は未成年であり、捜査も報道もかなり控えめに慎重に進められていたという。ちか子はそのころのことを直には知らないのだが、伊東警部の話によると、捜査本部内では、この第一容疑者が主犯であり、彼をリーダーとする十代の不良少年グループがこの事件の主体であることにまず間違いはないとにらんでいた。最後まで自供は一件もとれなかったものの、このグループの周辺のグルーブ――いずれも未成年者たちの集まりだが――から漏れ出てくる情報は生々しく確度の高いものだった。
しかし、いかんせん物証が乏しかった。目撃証言も頼りない。この種の連続する凶悪な事件では、犯人が犯行を重ねるあいだに、運良くからくもその毒牙を逃れることのできた未遂の被害者が発生し、その証言が決め手になって事件が固まる――ということが多い。ところがこの女子高生殺しには未遂がなく、被害者は全員殺されてしまっていた。
この女子高生連続殺人事件には、それまで国内で発生したどんな凶悪事件とも異質な、きわだった特徴があった。純然たる、殺しを愉《たの》しみとした犯行だったことである。金品を狙ったわけでも、最初から性的暴行を企んでいたわけでもない。第一容疑者を始め、警察からマークされた容疑者グループの未成年者には、婦女暴行や恐喝などで保護観察処分を受けた前歴のある者が多かったのだけれど、ことこの女子高生殺しだけに関しては、彼らは「殺人」そのものを目的としていた。
彼らの手口そのものは単純である。人通りの少ない路上で、これと目をつけた女子高生を車で追い回し、最終的には轢《ひ》き殺す――というものだ。ただ、そうそう都合良く、そんな寂しい道を女子高生が独りで歩いていることは少ない。だから彼らは、標的の女子高生を見つけると、まず彼女らを車に誘い込むか強引に押し込むなどして、死の自動車レースにふさわしい場所まで拉致《らち》してゆくという手段をとった。その段階で、被害者から金品を奪ったり、乱暴したりした形跡もあるが、それはまあ彼らにとっては余禄のようなものであって、最終的な目標はただ「殺す」こと、それだけである。しかも、悲鳴をあげ命乞いをしながら必死で逃げる女子高生を殺すことを愉しんだのである。事件の全容が――その大部分は推測によるものであれ――明らかになってくるにつれて、アメリカで「スポーツ・キリング」と称され恐れられているタイプの快楽殺人が我が国でも発生したかと、マスコミは色めき立った。
このマスコミの興奮ぶりと、それに反して容疑に対する物証がないこととを、第一容疑者の少年たちは巧く利用した。彼らは自ら冤罪《えんざい》の犠牲者と名乗り、身の潔白を主張、警察権力に徹底して対抗することを宣言した。一部のマスコミや人権擁護団体はこれに賛同、彼らに手を貸して運動を始めた。第一容疑者の青年など、ちょっとしたタレント並の扱いを受けるようにもなった。ちか子は当時、放火班に異動したてのひとりの刑事としてこの事件を傍観していて、この第一容疑者の青年の容姿や立ち居振る舞いが、もう少し野暮ったくかつ粗暴なものだったら、事件の展開は違っていたろうと思ったものだ。それほどに、この第一容疑者の青年には、ある種のスター性がそなわっていた。
もともと立脚点の頼りなかった彼らに対する疑惑は、これでにわかに色をなくし、捜査は迷走し始めることになる。報道も尻すぼみになり、発生後半年で捜査本部は解散、事件そのものは継続捜査案件とされて、いわばお宮入り扱いを受けるようになった。現場の捜査員たちの歯ぎしりの音は高く、腹立ちは収まってはいなかったものの、志気は低下し、殺された女子高生たちは、少しずつ、少しずつ、記憶の向こうへ、後ろめたさのまじる忘却の霧の彼方へと押しやられていってしまった。
そうして、ついに世間が女子高生殺しについて忘れ去った頃、荒川河川敷焼殺事件が発生したのである。一時、どんなタレントよりも耳目を集めたあの第一容疑者の少年が、見るも無惨な焼殺体となって、報道の表舞台に戻ってきたのだ。
焼殺という手口のせいもあって、このときも、放火班のメンバーが捜査班に混じって臨場《りんじょう》し、現場検証に立ち会い、捜査会議にも参加した。ちか子はこのときはそのメンバーに含まれておらず、現場写真も報道されたものしか目にしてはいない。が、事件のあらましを耳にした瞬間に、頭に閃《ひらめ》いたことがあった。
これは報復殺人である、と。子を持つ母の直感が、これが殺人者に対する制裁と復讐のなせるわざだと、ちか子に教えたのだった。
さらに、この焼殺の態様が、あまりにも異様で常識では考えられない形を持っていたことが、なおさらにちか子を強く惹きつけた。だから、アドバイザーのような形ではなく、もっと深く放火班が捜査に関わるべきだと主張して、鼻つまみ者扱いを受けるような羽目にもなったのだった。刑事たちは、互いに互いの縄張りを荒らすことを、極度に嫌がる。男というのは万事につけて張り合いたがるものだが、ちか子にはそれが歯がゆくて仕方がなかった。
結局、荒川河川敷焼殺事件も、はっきりとした解決を見ることなく現在に至っている。なにしろ、焼殺に使われた凶器さえ特定できていないのだ。事件発生直後、現場付近の鉄工場から、溶接用のトーチが盗まれていることが判明し、あたかもそれが凶器であったかのような発表と報道がなされたこともあったが、溶接用のトーチなんかで、人を四人も丸焦げに焼くことのできる熱など出せはしない。関係者もそれはよく判っているはずなのに、捜査が進まないまま、そんな誤情報も放置された状態になっている。
ちか子には、この事件に対する強い確信と興味があった。女子高生殺しの被害者の遺族を徹底して洗ってみるべきだという確信と、いったい犯人はどんな手段であの焼殺をやってのけたのかという興味。だから、この焼殺事件を「あれ」と呼び、同じ興味と憤懣《ふんまん》を持っていると判った伊東警部と、折に触れて話し合ってきた。
――あの犯人は、いずれまた帰ってくる。
リーダーの第一容疑者が死んだとはいえ、女子高生殺しの他の関係者たちは、まだ生きている。荒川河川敷で焼殺された残りの三人は、いずれ劣らぬ凶暴な前歴を持つ若者たちばかりだったが、女子高生殺しそのものには無関係だった。つまり、犯人が女子高生殺しの第一容疑者を狙ったときに、たまたま彼とつるんでいたために側杖《そばづえ》をくったということだろう。だとすると、生き残りを狙って、この不可解な焼殺手段を持つ犯人は再びどこかに現れるのではないか?
それが現れたようだ。今度のこの田山町の件も、きっとそうだ。ちか子はタクシーのなかで唇を引き締めた。
[#改段]
青木淳子は両腕で身体を抱き、時折さすって温めながら、狭い路地の行き止まりに佇《たたず》んでいた。
時刻は午前五時半になるところである。夜明けまではまだだいぶ時間がある。あたりは暗く、立ち並ぶしもたややアパートの窓もドアも開《あ》け閉《た》てされる気配がなく、まだ寝静まっている。
彼女の目の前には、きちんと整地され、金網でできた塀に囲まれた土地があった。季節柄、雑草も枯れて茶色くなっている。ほぼ中央に、ペンキの色合いがまだ鮮やかな立看板が立てられていた。
[#ここから3字下げ]
「売地 (株)大幸不動産《だいこうふどうさん》」
[#ここで字下げ終わり]
社名の下に電話番号が書いてある。淳子はそれを何度も何度も読んで、記憶に刻みつけてしまった。
この売り地が、田山町の廃工場で拾った「プラザ」のマッチに書かれた所番地の指し示す地点だった。路地を挟んで向かい側は白壁の小さなマンション、隣はモルタル造りの二階屋だ。そのどちらにも住居表示が掲げてあり、それと照らし合わせてみても、この売り地が「プラザ」の場所であることに間違いはなさそうだった。つまり、今現在「プラザ」は存在していないのである。
「プラザ」がどういう店だったのか、想像するのはさほど難しくない。まわりを見渡せば住宅とマンション、公共アパート、そして構えの小さな商店ばかりだ。「プラザ」ばかりがぴかぴかのビルに入居していた豪華なスナックだったというわけではあるまい。おそらく、一般の住居の一部を改装して店舗にしたというような、粗末な店だったろう。更地になっている今の状態でも、さして敷地は広くない。客が十人も入れば満杯というような店だったに違いない。
だが、どれだけ想像をたくましくしてみても、詮のないことだ。「プラザ」はない。淳子の手のなかにあるのは、今は存在していない店のマッチだけだ。それでも、店がどこかに移転している場合を考えて、一度駅前まで引き返し、公衆電話を使って、マッチに記された電話番号をダイアルしてみた。案の定、「現在使われておりません」という案内が聞こえてきただけだった。
この「大幸不動産」に連絡して、適当な口実をつくり、「プラザ」の関係者の今の居所を探り出すという手がないわけではない。しかしそれも、今のこの時間帯では無理だろう。不動産屋の営業時間が来るまでは、淳子には次に打つ手がなくなってしまった。
ひどく寒く、傷がずきずきと痛み、気分は最悪だった。どうやら熱が出てきたらしく、頬ばかりが火照《ほて》っている。だるくて、生あくびが出た。それでも何とか気持ちを励まし、もう一度じっと立看板を見つめ、大幸不動産の電話番号を頭のなかで復唱し、それからそっと路地を抜け出した。
とりあえず、大通りに出て、再度駅前の方向へ歩き始めた。歩きながら、コートのポケットから「プラザ」のマッチを取り出し、街灯の明かりの下でながめてみた。
このマッチはまだ新しい。
廃業した店の、真新しいマッチ。これはどういうことだろう。誰か店の関係者が、必要なくなったマッチを手元にストックしていて、個人的に使用しているということだろうか。もしそうならば、「アサバ」はそういうマッチを手に入れることのできる位置にいる人物だということになる。「プラザ」の単なる客というのではなく、たとえば経営者の家族だとか――。
淳子はゆっくりと目をしばたたいた。
この仮説が正しければ、淳子は多少、喜んでいいことになる。「アサバ」が単なる客であった場合は、たとえ「プラザ」が現在営業中の店であったとしても、彼の動向をすぐに探り出すことは難しいだろう。だが、彼が経営者に近いところにいる人物となれば、探しようが出てくる。とにかく、「プラザ」のその後がどうなって、経営者が今どこにいるかということさえ突き止められれば、それが突破口になってくれる。
淳子は暗い空を仰いだ。早く夜が明けて、一日が始まってくれないものか。どうして不動産屋は二十四時間営業じゃないのだろう?
それでなくても、淳子と、淳子が救い出そうとしている「ナツコ」の最大の敵は、時間なのだ。「ナツコ」は今どこでどうしているだろう。もう殺されてしまっているかもしれない。今この瞬間にも、「アサバ」と彼の仲間の誰かが、彼女のまだなま温かい亡骸に土をかけているかもしれない。それを思うと、頭のなかがはち切れそうなほどの怒りと焦《あせ》りが湧いてきて、淳子は両手を堅く握りしめた。
左肩の傷が、抗議するようにずきりと痛んだ。淳子は顔を歪めた。
駅前に戻って、何か新しい発見があるというわけではない。静かに動き始めた地下鉄の駅だけが、明るく、温かく、家族の皆が起き出してテーブルにつく前から台所に立っている母親のように、かいがいしく朝の支度にとりかかっているだけだ。
駅の売店の前には、まだ梱包されたままの新聞が積み上げられている。それを見て、ふっと気づいた。もうテレビ放送は始まっている。ニュースでは、田山町の事件について報道しているだろうか? 警察はどの程度動き出しているだろう?
淳子は駅前から踵《きびす》を返すと、はっきりとした目標を持って町を歩き回り始めた。喫茶店か食堂を探すのだ。テレビの置いてある店を。
東大島という町を訪れるのは初めてのことだ。整然と碁盤の目に道路の走る、分かり易い街並みだった。うろうろと歩いているうちに、大きな橋にぶつかった。橋脚が高く、橋を渡るには階段をのぼっていかねばならない。うずくように間断なく痛む肩を押さえながら階段をのぼってゆくと、眼下に広い川が見えてきた。護岸壁の上に「中川《なかがわ》」という表示があった。
しばらくのあいだ、黒い川面《かわも》に視線を落として佇んでいた。アパートを出る前に確認してきたこのあたりの地図を頭に思い浮かべた。中川――もう少し下流で荒川と合流する支流ではなかったか。
荒川。あの川の名前はよく覚えている。忘れようがない。あの河川敷での殺人が、現在の淳子という存在の核となり骨となっているのだから。
――あのときは、四人殺した。
記憶は鮮明だった。思い出したいときに、いつでも思い出すことができた。しかし淳子は、殺人の光景が悪夢となってよみがえり、身をさいなむ――という経験をしたことがなかった。眠りはいつも深く、安らかだった。
そんな自分に、かすかだが危険なものを感じ、殺人者の手記だとか、死刑囚の実態について書かれた書籍などを読んでみたことがある。それによると、ごく普通の殺人者たち――淳子のような意図と手段を持って居らずに、激情や利害関係や自己防衛のために殺人を犯した人びとは、自らの犯行について反省しているいないにかかわらず、ひどい悪夢に苦しめられたり、幻覚や幻聴に襲われることがあるらしい。しかし、淳子にはそれらのものは縁がなかった。
それは淳子の殺人が、常に「戦闘」であるからだ。そして淳子にとって、この「戦闘」は義務としてやらねばならぬものであるからだった。
淳子は常人にはない力を備え持ってこの世に生まれ落ちた。ならば、それを利用せねばならない。それも正しく、有益な方向に。
他の存在を滅ぼし、食い尽くすためにのみ存在している野獣を狩る――という目的のために。
――わたしは、装填《そうてん》された銃だ。
川面を渡る冷たい風に頬をなぶられながら、淳子は静かにそう思った。今まで何度となく考え、検討し、心に刻みつけてきた概念だ。それは今では、淳子にとって聖域にも等しい心の特別な部分に、ひっそりとしかしどっしりと根を生やしている。
だが、悲しいかな、この装填された銃には、レーダーがついていなかった。ナビゲーターもいなかった。今、この銃口を向けるべき敵はどこにいるのだろう?
ため息をもらし、のぼってきた階段をまた降りようと歩き始めたとき、ふと、視界のなかに白いもやっとしたものが入ってきた。淳子は顔をあげた。
見おろす街並みの、右手の方向だった。ごちゃごちゃと建物の建て込んだ区画の隅から、白い湯気があがっている。煙突が見えるわけではないが――あれは何だろう?
とにかく、あの湯気の下には起きて活動している人がいるという証拠だ。淳子は走って階段を降り、さらに走って湯気の見えた方向へ急いだ。肩が痛んで悲鳴をあげたが、手で押さえて先を急いだ。
角をふたつ曲がると、湯気はますます濃くなった。道路の上にまで漂っている。こまこまと間口の狭い店の並ぶ商店街だ。閉じたシャッターや畳まれた日除《ひよ》けカバーばかりのなかで、一軒だけ戸を開け、換気扇を動かし、人の出入りしている店があった。白い湯気は、その店先から流れ出しているのだった。
淳子は立ち止まり、看板を見上げた。
「伊藤《いとう》豆腐店」
なんだお豆腐屋さんかと、ちょっと笑った。そうか、だから朝が早いのだ。
白いうわっぱりを着た女がひとり、金属製の枠《わく》みたいなものを両手で抱えて出てきた。マスクをして、髪も白いバンダナみたいなもので覆ってある。淳子はちょっと後ろに下がり、相手に気づかれないように、電柱の陰から観察した。
居並ぶ他の店よりも、構えの大きな店だった。豆腐屋だが、小売りのための商品ケースのようなものが見えない。ひょっとすると、製造して他の店へ卸すのが仕事なのかもしれない。
店のすぐ前に、小型トラックが停めてある。荷台には、白く湿った粉みたいなものを縁までぎっちりと容れたドラム缶が積み込んである。おからだ。どこかへ運び出すのだろう。淳子はそっと電柱の陰から出て、トラックの方へ近づいた。湯気の温気を感じることができた。薬臭いような匂いもした。
さっきの女は、長いホースから水をほとばしらせ、大きなバケツに先ほどの枠みたいなものを浸して、たわしでごしごし洗っている。首をのばしてのぞいてみると、店内にあとふたり、やはり女と同じような白装束の人物がふたりいて、忙しそうに機械のあいだを行ったり来たりしていた。
心に浮かんだ最初の言葉で、淳子は、こちらに背を向けている女に話しかけた。
「あの、おはようございます」
女はぎくりと振り向いた。本当に驚いたという様子で、ぱっと作業を止め、淳子を振り返った。手にしたホースも一緒に向きをかえ、水が淳子の方へ飛んできた。
「あ、ごめん!」
女は急いでホースを下に向けた。水しぶきが淳子のコートに跳ねかかった。
「大丈夫? 濡れなかった?」
女は水色のゴム手袋をはめ、同じ色の長靴を履《は》いていた。女が淳子の方に一歩近づくと、長靴がきゅっと鳴った。
「大丈夫です、すみません」
「ごめんなさいね」
女の顔の半分はマスクで覆われている。それでも、声を聞いて、そう若い女ではないと見当がついた。化粧っ気のない目の回りに、いくぶん小皺《こじわ》もあるようだ。
「お仕事の邪魔をしてすみません」淳子は丁寧に謝った。「ちょっと道を教えていただきたくて」
「はい、なんでしょう?」
女はきびきびと応じた。ホースをバケツに突っ込み、右手を軽く腰に当てた。さっさとしてよ忙しいんだからという感じだった。
「この近くに、『プラザ』っていうお店がありませんか?」
さっき確認してきた「プラザ」の跡地は、この豆腐店よりもずっと駅寄りにある。それでも大した距離ではないし、こういう町の商店というのは商栄会や組合みたいなものをつくって連帯していることが多いから、何か知っているかもしれないと思った。
「『プラザ』?」女は首をかしげた。
「ええ。飲み屋さんだと思うんです。スナックみたいな」
「あの、駅のそばの路地のとこにあった店のことかしら」
やっぱり知っていた!
「ええ、そうです」
「あの店なら潰《つぶ》れちゃったわよ。建物も壊しちゃって、更地になってるよ」
「お店の方が今どこにいるか、ご存じないでしょうか」
初めて、女がちょっと警戒したような様子を見せた。顎を引いて淳子を観察する。淳子は微笑してみせた。
「わたし、以前にあそこの店長さんにお世話になったことがあって……。近くまで来たものだから、訪ねてみようと思って寄ったんですけど、なんだか町の様子が変わっちゃってて、道に迷ってしまったんです」
冷静に考えてみれば、自分でも、下手な嘘だと思っただろう。朝の六時にならない時間帯だ。知り合いを訪ねてくるには早すぎる。しかし今の淳子には、言い訳やでっちあげの詳細を煮詰めている余裕がなかった。眠っている町のなかで、たった一軒起き出している店を見つけた嬉しさと、前夜からの疲労と傷の痛み、そして探索の糸が切れたことへの焦りとで、集中力を欠き始めていた。
それに、この湯気のせいもあった。豆腐は好きだけれど、製造途中はあまりいい匂いがするものではないな、と思った。撃たれた直後に味わった目眩《めまい》を伴う悪寒のようなものが、薬臭い湯気に包まれていると、またぶりかえしてきたようだった。
「とにかく、『プラザ』はもうありませんよ」と、女はぶっきらぼうに言った。「店の人がどうしてるかなんて、わからないね。付き合いもなかったし」
「いつごろ潰れちゃったんでしょうか」
「一ヶ月ぐらい前かしらね。よく覚えてないけど」
「お店の人は、この町に住んでる人じゃないんでしょうか」
「知らないね、そんなの」
女は淳子に背中を向けると、バケツの方にかがみこんだ。音をたてて蛇口をひねった。水が止まった。金属製の枠を引き上げると、それを抱えて店の奥の方へ歩き出した。
「あの、すみません――」
「まだ何か?」女は振り返った。
淳子は言葉に詰まった。どうやら相手を怒らせてしまったようだ。焦るあまりに、無計画に話しかけたのがまずかった。
「いいえ、何でもありません。どうもありがとうございました」
できるだけ丁寧に、深くお辞儀をした。そうして頭を上げたとき、急な動作のせいで、ぐらりと目が回った。さっきから感じていた気分の悪さが頂点に達し、方向感覚がなくなって、とっさに何かにつかまろうと手を伸ばした。
その手は空を切った。ややあって、冷たいものがざぶりと身体にかかるのを感じた。さっきまで女が作業をしていたバケツのなかに倒れ込んだのだ。
「ちょっとあんた!」
女が叫び声をあげ、長靴を鳴らして駆け寄ってくる。淳子は懸命に起きあがろうとしてもがいた。コートに水がしみこみ、震えるような冷たさが身体全体を駆けのぼってきた。目眩はますます激しくなり、湯気の匂いに胸が悪くなりそうだった。
「あんた、どうしたの、しっかりしてよ!」
大丈夫ですごめんなさい――自分ではそう言ったつもりだったのだけれど、それは声にならなかった。淳子は気を失った。
昏睡から醒《さ》めたとき、最初に目に入ったのは、白い顔だった。淳子をのぞきこんでいる。
少女の顔だった。顎が細く、目が切れ長で、鼻の頭がちょっぴり上を向いていて、くちびるが文句を言うように軽く突き出している。でも可愛い顔立ちだった。
その尖《とが》り気味のくちびるが開いて、首をよじって肩越しに、彼女の後ろの方に向かって声を発した。
「お母さん、この人、気が付いたみたいよ」
淳子は目を動かし、周囲を見た。木目の浮いた羽目板を貼った天井。シンプルな形のつり下げ型の電灯。温かく、背中が軟らかい。
どこかに寝かされている――
淳子を見つめていた少女は、淳子の方にかがみこむと、目をしばたたいた。
「あんた、大丈夫?」
すぐには声が出せなかったので、淳子はうなずいた。動くと、肩が痛んだ。
「よかった」と、少女は呟いた。笑みのない、強《こわ》ばったような顔だった。「ずっと様子みてたんだけど、目が覚めないようだったら救急車呼ばなくちゃならないし、青くなってたのよ」
淳子は起きあがろうとしたが、身体が重くて思うようにならなかった。乾ききっているくちびるを湿らせて、やっと言った。「ご迷惑をかけてごめんなさい。貧血を起こしたみたい」
少女は、淳子の言葉を秤《はかり》にかけ、その目盛りの値を読もうとしているみたいに、ちょっと目を細めた。それから言った。「あんた、怪我してるよね」
淳子はひやりとした。「ええ、ちょっと」
気づかれたか。しかし、医者は呼んでいないようだ。良かった。医者に診察を受けたりしたら、すぐにこの肩の傷が銃創であることがばれてしまう。警察に連絡されたりしたら面倒だ。
「だけど、大した傷じゃないのよ。少し風邪気味で、そのせいでふらふらしてるだけ。もう大丈夫」
言葉に信憑性《しんぴょうせい》を持たせようと、淳子は思いきって身体を動かした。右手を突いて半身を起こした。そうしてあたりを見回した。
座敷だった。居間と表現するより「茶の間」と呼びたいような造りだ。中央に折り畳み式の低いテーブルが据えてあり、座椅子がそれを囲んでいる。淳子はそのテーブルの脇に横になっていた。コートと靴は脱がされ、身体には毛布がかけられていた。古いタオルを襟布にかけた、軟らかくいい匂いのする毛布だった。
匂いと言えば、この茶の間にもあの湯気の匂いがした。うっすらと漂っていた。どうやらここは、伊藤豆腐店の、店舗の奥の住まいであるらしい。少女は茶の間と隣の部屋を仕切るガラスのはまった障子戸を背中にして座っており、彼女のすぐ脇にテレビがあった。テレビの上で、置時計が時を刻んでいる。そろそろ七時になるところだった。
小一時間、気を失っていたことになる。撃たれた直後は気力で動いていたものの、やはり傷が堪《こた》えているのだろう。失態だった。淳子はくちびるを噛んだ。
少女は怪訝そうに淳子を見つめている。そのとき初めて、淳子は、彼女が白いうわっぱりを着ていることに気がついた。マスクをして髪を覆えば、外で会ったあの女と同じいでたちになるだろう。この少女は、さっき店の奥で働いていたふたりのうちのひとりであるに違いない。
「おかあさん、ちょっと来て」と、少女はふたたび背後に向かって声を張り上げた。そして淳子に向き直ると、強ばった顔で言った。
「ねえあんた、『プラザ』を訪ねてきたんだって? お母さんがそう言ってた」
さっき店の外で会った女が、この少女の母親なのか。
「ええ……そうです」
「何しに?」と、少女は直截《ちょくせつ》に訊いた。「もしかしてあんた……あんたも……ううん、だけどちょっと歳が上だからね」
少女は意味不明のことを呟き、窺《うかが》うように淳子を見た。淳子が見つめ返すと、彼女はちょっと目を伏せ、思い切ったように言った。
「ひょっとしたらあんたも、浅羽《あさば》君にひっかけられてひどい目に遭った女なの? だから訪ねてきたってわけ?」
淳子は目を見開いた。その顔を見て、少女は悟ったようにうなずいた。
「ああ、そうなんだ……やっぱりね。浅羽君を訪ねてくるなんて、ほかに理由がないからさ」
「お嬢さんは、アサバ――アサバ君て人を知ってるの?」
少女はちょっと肩をすくめた。「幼なじみだから。小学校も中学も一緒だった」
「彼、この近所の生まれなの?」
「そうだよ。『プラザ』のあったところに住んでた。店の二階が住まいになってて」
「じゃあ、『プラザ』が潰れたあとは、彼はどこに住んでるのかしら」
「知らないよ、そんなこと。見当もつかない」
さっき店先で会った少女の母親は、「プラザ」とは付き合いがなかったと言っていた。実に冷淡な、切って捨てるような言い方だった。しかし、子供たちが幼なじみであるならば、親同士だって多少の行き来はあったはずだ。少女の母親のあの言葉は嘘だったことになるわけだが、問題はなぜ嘘をついたかということだ。アサバ一家をかばうためか。それとも、関わり合いを避けるためか。
少女の陰鬱な顔と、今まで彼女が発した言葉を吟味すると、理由は後者の方にあると考えて間違いないだろう。察するところ、過去にも何度か、「アサバ」とのトラブルを抱えた女性たちがこの伊藤豆腐店を訪れたことがあるのに違いない。
「以前にも、あたしみたいな女がアサバ君に会いにきたことがあるのね?」
少女はうなずいた。「女だけじゃないよ。借金取りも来たし、警察も来た」
「警察?」
「刑事がね。あいつ、なんかやらかしてバレちゃったらしくて」
「いつごろのこと?」
「さあ……半年ぐらい前かな」少女は壁のカレンダーの方にぼんやりと視線を飛ばした。
「そのころはまだ『プラザ』も店やってたし、あそこには浅羽君のお母さんがいた」
「どんな事件だったのかしら」
「よく知らない。刑事って、必要がなければそういうことはしゃべんないものなんだよ」
妙に事情通の口調になって、少女は言った。
「一度疑ったら、絶対に疑うことやめないし」
淳子はしげしげと少女の小づくりな顔を見つめた。化粧っ気はなく、肩にかかる長さの髪はきちんととかされ、両耳にかけてある。だから、少女の両耳に複数のピアスの穴が開けられているのがよくわかった。
「あたしがこちらにうかがったのは、本当に偶然なんだけど」と、淳子は言った。「ほかの人たちは――警察もそうだけど――どうしてアサバ君のことであなたを訪ねてくるんだろう?」
「わかってるくせに」と、少女は笑った。笑うと切れ長の目が線のように細くなり、子供っぽく愛らしい顔になる。
「わからないわ」
「ウソばっかり。ま、いいか。みんなウソつくからさ。あんただけじゃない」
「………」
「あたし、一年くらい前までは、浅羽君たちとつるんで遊んでたからね」
「仲間だったの」
「そ。けど、今は違うよ」少女は言って、きっと視線を強くして淳子を見つめた。「もう切れたんだ。今は全然関係ない」
力強い断言だった。そこに、かなり色濃い恐怖の念があることを、淳子は感じ取った。ただ迷惑がっているだけではなく、あんな不良と自分は違うと主張しているだけでもなく、ごく切迫した恐怖から急いで逃げてきて、今はもう安全だと自分で自分に言い聞かせているかのような。
この少女は、アサバと彼のグループから逃げてきたのだ。おそらく、今思い出しても震えてしまうような恐ろしい思いを味わって。
田山町の廃工場で見た光景が、あらためて淳子の脳裏をかけめぐった。あれを知っているあたしには、あなたの気持ちがよくわかる、あなたの言葉を信じられると、心のなかで呟いた。
「あたし、青木淳子といいます」淳子は軽く頭を下げた。「助けてくださって、本当にありがとう」
「何もしてないよ。おおげさにしないでよ」少女はあわてて手を振り、照れ隠しなのか急いで背後に身体をひねると、大声を張りあげた。
「お母さんてば! 聞こえないの?」
「聞こえてるわよ」
すぐそばで声がしたかと思うと、少女の後ろのガラスのはまった障子戸の陰から、彼女の母親が顔を出した。
「やだ、いたんじゃない」少女は口を尖らせた。「立ち聞きしてたんだな」
母親はそれには応じなかった。少女の背後を守るように立ちはだかって、淳子をにらみつけていた。髪を覆っていた白い布をとっている。それだけで、さっきとは別人のように見えた。
この少女の母親なのだから、年齢はせいぜい四十代の半ばだろう。さきほど店先で会ったときには、顔の色艶《いろつや》や表情の感じ、声の張りなどで、もっと若々しく見えた。しかし今、覆いを取った髪をあわせて彼女の全体を見ると、五十をすぎた女性のように思われる。驚くほど白髪《しらが》が多いのだ。それは単なる体質のせいかもしれず、意味のあることではないはずなのに、少女の話を聞いてしまった淳子には、母親の白髪頭さえ、アサバと娘をめぐる彼女の心労がいかに深かったかという証拠のひとつのように思えてくるのだった。
「気がついたんなら、とっとと帰ってちょうだい」鋭い声で、母親は言った。「この子にかまわないでよ」
「お母さんたら、そんな言い方しちゃ駄目だよ」少女が抗議した。
「あんたは黙ってな」
「黙ってらんないよ、あたしにも関わりあることかもしれないじゃんか」
「あんたはもう関係ない!」
母親もまた、少女に負けず劣らず怯えている。淳子にはそれが痛いほどよくわかった。どんな事情があったか知らないが、おそらくは、アサバと関わったが故に恐ろしい目に遭った娘を、やっとの思いで取り戻したのであろう。もう関わるのは御免だと思うのは当たり前だ。ましてや、娘を関わらせたくないと願うのも。
「お嬢さんを巻き込むつもりはありません」と、ゆっくり、静かに言った。「助けていただいて感謝しています。ありがとうございました」
淳子は立ち上がろうとした。少女が急いで手をさしのべてきた。
「大丈夫? まだ寝てた方がいいよ。やっぱ、お医者に行った方がいいよ」
「信恵《のぶえ》、余計なことを言うんじゃない!」母親が叱《しか》った。「さっさと帰ってもらうんだよ。お母さんはもう嫌なんだから」
「そんなら引っ込んでなさいよ、あたしはこの人、心配なんだから」
この少女の名前はノブエというのか。淳子は彼女にほほえみかけた。
「信恵さん、お母さんのおっしゃるとおりよ。さっきも言ったけど、あたしはあてがあってこちらをお訪ねしたわけじゃないの。本当に偶然だったんです。だから、これ以上お世話になるわけにはいかないわ」
茶の間を出ると狭い沓脱《くつぬ》ぎがあり、そこに淳子のスニーカーがそろえて置いてあった。母親がコートを取ってきて、淳子の鼻先に無言で突きつけた。礼を言って、淳子はそれを受け取ると、店の出入口の方へ歩き出した。
信恵がアサバの現在の居所を知らないという以上、これ以上粘ってみても仕方がない。淳子は戦闘は得意だが、捜索には素人《しろうと》だ。自分で自覚していた以上に身体が衰弱しているらしいことも、淳子を弱気にしていた。
店の出入口のすぐ右手で、三人目の白衣の人物が――百パーセントの確率で信恵の父親であろう――立ち働いていた。豆腐のパックに自動的に蓋をする機械の前で、がちゃん、がちゃんという音と共に右から左へと流れてゆくパックの列を観察している。蓋をされたパックを取り上げると、脇に据えたボックスのなかにきれいに並べてゆく。慣れた手つきだった。
「ありがとうございました。おじゃましてすみません」
淳子が声をかけると、彼はちらりとこちらを見た。いかつい顔で、目が怒っていた。何も言わず、すぐに視線をそらしてしまった。髪を覆っている布を取ったら、彼も白髪頭なのだろうかと淳子は思った。
外に出て、駅の方向に向かって歩き始めた。そこここで町も目を覚まし始めていた。人の流れも若干増えた。出勤する人びとだ。せかせかした足取りで淳子を追い越して行く。彼らにぶつかったりすると、またよろけてしまいそうなので、淳子は慎重に歩道の端を歩いた。電車ではなく、タクシーを使った方がよさそうだ。お金が足りるだろうか――
「ねえ、待ってよ!」
後ろから声が聞こえたかと思うと、何かが風のように淳子を追い抜き、ブレーキをきしませてそこで止まった。自転車にまたがった信恵だった。白いうわっぱりを脱ぎ、ジーンズにブルーのプルオーバーを着ている。
「ちょっと待って。あんた、どこへ行くの?」
淳子は思わず微笑してしまった。いい子だな、と思った。
「うちへ帰るわ」
「ホント?」
「ええ、ウソじゃない」
「どうやって帰るの? 歩けるの?」
「ゆっくり行けば平気よ」
「浅羽君のことはどうするの?」
「また、出直すわ。彼の居所がわからないんじゃしょうがないし」
ハンドルをつかみ、片足を地面におろして身を支えながら、信恵はちょっと考えた。それから訊いた。「あんた、なんの用で浅羽君を訪ねてきたの?」
「信恵さんとは全然関係ないことよ」
「そうかな。聞いてみないとわかんないよ」
「心配ないって。あなたは無関係。それより――」淳子は伊藤豆腐店の方向を振り返った。
「お店に帰らないと、ホントにお父さんお母さんと喧嘩《けんか》になっちゃうよ、あたしはそっちの方が気になるわ。あたしのせいであなたが叱られたら」
「いいのよ」と、信恵はきっぱりはねつけた。
「お父さんもお母さんも恩知らずなんだから」
「恩知らず? ご両親が?」
信恵の口から飛び出すにしては、なんとも場違いな言葉だ。むしろ、両親の方こそ彼女にそう言いたいところなのではないか。
しかし、信恵は「そうよ、恩知らずよ」と繰り返した。「あたしだって、浅羽たちに殺されかけたとき、知らない人に助けてもらって命拾いしたんだよ。だのに、困ってる人を放っておいてさ。それも浅羽のことで困ってる人をさ。そういうのを恩知らずっていうんじゃないの?」
信恵の真剣な口調と、ほかでもない「殺されかけた」という言葉が、平手のように淳子の頬を打った。よろけるように半歩下がって、信恵の顔を見つめ直した。
自分の言葉の効き目を承知していたのだろう、信恵は大きくうなずくと、
「そうだよ、あたしあいつらに殺されそうになったの」と繰り返した。「あいつらそういう連中なんだ。だから、あんたがどういうトラブルを抱えてるのか知らないけど、それはきっと大変なことだと思うし、あんたがひとりで浅羽に会ったりすること、あたしは絶対に放っておけないんだよ」
駅の近くに小さな広場があり、小ぎれいな植え込みを囲んでベンチが据えられている。ふたりはそこに並んで腰をおろした。
「あんた、顔色真っ白なんだけど」と、信恵は淳子をのぞきこんだ。「寒くない? どっか喫茶店とか入ろうか」
「あたしは平気よ。それに、他人にあんまり聞かれたくない話じゃない? ここならそういう心配はないでしょうから」
実際、次第にエンジンの回転数をあげつつある駅前の朝の喧噪《けんそう》から、ぽつんと取り残されたようなふたりだ。だがそのことが、淳子に、信恵に対する強い共感のようなものを感じさせた。この少女がいとおしく思えてきた。
「最初にあたし、言ったでしょ、あんたは浅羽たちに関わるにしちゃ少し年上だって」
「ええ、そうだったわね」
「浅羽とトラブってるの、誰なの? もしかしてあんたの妹とかじゃないの? あいつらってさ、あんまり年上の女は狙わないんだよね。少なくとも、あたしの知ってる限りではそうだった。大人を巻き込むと、言い訳が通らなくなるからって」
「言い訳?」
「うん。相手が高校生とか、学生でなくても同じ歳くらいの連中だったら、なんかあっても仲間同士の喧嘩みたく見えるじゃない? カツあげとかしても、相手もビビってるだけで、あんまり警察とかに言わないんだよね。町のど真ん中でやっても目立たないしさ。女の子にしても、あいつらに引っかけられてノコノコくっついていくような女の子が相手なら、お巡りとか来ても、どっちもどっちだってことになっちゃうの。けど、大人を相手にしちゃうと話が違うじゃん。たとえば浅羽たちが、サラリーマンのおっさんを取り囲んでたり、OLなんかを車に引っ張り込んだりしたら、すぐ大騒ぎだよ」
うなずきながら、淳子は目を閉じた。なるほど信恵の言うとおりだ。けれど、信恵がアサバたちグループから逃げだして以降、彼らの方針は変わったらしい。それも、大きく。
――あいつらは人を殺したのよ。昨夜アベックを襲って、男を殺し、女をさらってどこかに監禁している。それだけでなく、ほかにも殺人をしているらしいの。
喉元まで言葉がせりあがってきた。淳子はそれを飲み下した。信恵に話すわけにはいかない。なんであんたがそんなことを知っているのと問われたら、答えようがないのだ。事件現場の田山町の廃工場には、淳子が焼き殺したアサバの仲間たち三人の死体が転がっているのだから。
――今頃はもう、死体置き場に片づけられているだろうけど。
それを思うと、弱っている淳子の心に、かすかな勝利感が戻ってきた。目を開くと、信恵の顔を見た。
「あたしの妹が今、アサバ君たちのグループと付き合ってるらしくてね」
「やっぱり」と、信恵は舌打ちをした。「妹って、美人でしょ。あんたもきれいだもん」
「どうかな」
「浅羽は面食いなのよ」
「信恵さんも可愛いもんね」
「あたしは駄目」信恵は鼻先で言った。「だから殺されそうになったんだ。それで、付き合いをやめてほしいわけね?」
「そうね。妹が……どんどん悪くなるようで、心配でね。彼女の口からしょっちゅうアサバ君と『プラザ』の名前が出るし、妹のコートのポケットに『プラザ』のマッチが入ってるのを見つけて、それでいっぺんどんなところだか見てみようと思ったの」
「こんな朝早く?」
「スナックみたいな店らしいから、夜行くのは嫌だなと思ってね。それに、実はあたしも出勤の途中だったの」
信恵はあらためて淳子の服装を点検するように上下に見回した。「あんた、勤めてるの」
「ええ、小さい会社だけどね。でも今日は休むことにするわ。傷が痛いし」
「肩の傷でしょ。どうして怪我したの?」
「ちょっとね。たいしたことないのよ」
あたしは嘘がうまくないと、自分でも思った。信恵がぼそっと、
「悪いけどあたし、あんたがホントのことを言ってるようには思えないわ」と言ったとき、なんだかほっとした。
「何か悪いことに巻き込まれてて、それに浅羽が一枚も二枚も噛んでて、それを何とかしなくちゃならなくて、だからあんたは浅羽を訪ねてきた――それだけは本当なんだろうね。けど、あとは嘘みたいに聞こえる」
「ごめんね」と、淳子は微笑した。それで信恵には通じるだろう。
通じたようだった。少女も微笑した。
「あたし、ちょっとタバコ吸ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
信恵はベンチから立ち上がり、すぐそばの自動販売機に駆け出した。ジーンズのポケットに手をつっこみ、小銭を出してタバコを買うと、またポケットのなかを探りながら戻ってくる。
「ライターが……あった」
ベンチに戻り、ライターで火を点《つ》けようとする。風があるのでなかなかうまくいかない。ライターが火花を散らすタイミングを見計らって、淳子は軽くまばたきし、信恵の口元のタバコの先端に視線を送った。
赤ん坊にスプーンでものを食べさせるときのような、微妙な力加減が必要だった。熱波を小さく小さく絞り、そっと差し出すように送り込む。
ライターの火は点かないのに、タバコの先に火が点いた。信恵はちょっとびっくりして、あわててタバコを口元から離した。
「あれ?」と、タバコとライターを見比べる。
「信恵さん、いくつ?」と、淳子は訊いた。
「え?あたし? 十八よ」信恵はタバコを持った手をひらひらさせた。「けど、もう働いてるからいいんだ」
「そうね」
「どっちにしろ中学の時から隠れて吸ってたし。けど、今は親も公認なんだよ。このライターも、お父さんが誕生日に買ってくれたんだから」
七宝焼きをアレンジした、女持ちの洒落《しゃれ》たライターだった。
「きれいね。あたしにも一本くれる?」
淳子も今度は手品を使わなかった。信恵が彼女のタバコから火を移してくれたからだ。ふたりは並んでタバコをふかした。淳子は最初ちょっと咳《せ》き込んだが、タバコが神経を癒《いや》してくれるように感じた。
「信恵さんが十八歳ってことは、浅羽君も十八なんだね」と、淳子は言った。
「うん。あいつも高校には行ってない」
「学生じゃないのね」
しかし、いずれにしろ未成年者だ。廃工場で姿を見かけたときには、二十歳ぐらいかなと思った。体格が良かったからだ。
「浅羽君、名前はなんていうの?」
「ケイイチ。浅い羽に、尊敬のケイに数字の一。なんだあんた、あいつのフルネームも知らないんだね」
浅羽敬一か。
「あいつのお父さんが、この世で一番尊敬される人間になるようにって、つけたんだって。皮肉だね」
信恵は言って、タバコを足元に捨て、踵《かかと》で踏みにじった。
「あいつがあたしにどんなことをしたか、見せようか」
淳子がうんと言わないうちに、信恵は背中を向けると、プルオーバーの襟首を、ぐいと背中側に引っ張った。
「背中、のぞいてみて」
信恵の華奢《きゃしゃ》なうなじに、後《おく》れ毛《げ》と産毛《うぶげ》が震えている。淳子はプルオーバーの隙間から彼女の背中をのぞきこんだ。とたんに総毛だった。
刃物で切られた傷跡だろう。大きなバツ印がついている。両肩からそれぞれに、信恵の背中を斜めに横切り、先端は左右の脇腹まで達しているようだ。
充分と思われる間をおいてから、信恵は淳子に向き直った。
「深さがね、二センチもあったんだよ」
プルオーバーの襟元を引っ張って直す信恵の手つきはしっかりしていた。
「ナイフでやられたんだ。刃渡りが二十センチくらいあるやつ。先の方がギザギザになっててさ」
淳子は無言のまま、わずかに信恵の方に身体をかがめて彼女の話を聞いていた。とても近いところに信恵の顔があった。その気になれば瞳の奥まで見通すことができそうだった。
全体に明るい茶褐色の瞳だ。だが右の瞳のなかに、一点針でつついたように真っ黒な部分があった。淳子はそこに、信恵が背中の傷と一緒に受けた心の傷、味わった恐怖の光景が凝縮されて残っているのではないかと思った。その黒い点を解析してみれば、そこにはまだ生々しい血の匂いの漂う凄惨《せいさん》な現場があるのではないかと。
「そんな目にあわされたことがきっかけになって、あなたは彼らのグループから逃げ出したのね?」
信恵はこっくりとうなずいた。
「もしよかったら、どうしてそんな羽目になったか教えてくれない?」
「なんてことないのよ」信恵は肩をすくめた。
「退屈してたんだと思う、あたしたち」
信恵は頭の後ろに両手をあててそっくり返り、空を仰いだ。
「週末でさ……土曜日だったよ。そのころ浅羽はもう高校退学になってたけど、あたしは一応まだ通ってて、土曜日の夜ってすごく嬉しくてさ。学校なんてつまんないからさ」
「浅羽君とあなたは同じ高校だったの?」
「ううん。あたし女子校だったもん。浅羽は品川《しながわ》の方にある男子校」
信恵はちょっと笑った。
「あたしたちみんな、頭めちゃくちゃ悪いから、クズみたいな高校しか入れなくて」
淳子は信恵の笑いに同調せず、つと目をそらして足元に落ちている吸い殻を見つめた。信恵は混同しているようだけれど、学校の成績が良くないということと、頭の良し悪しはまったく別の問題だ。さらに、成績の良し悪しが人間の善し悪しには関係ないということもある。淳子が田山町で遭遇した浅羽敬一は、凶悪ではあったが魯鈍《ろどん》ではなかった。そしてそれこそがいちばん恐ろしい組み合わせなのだ。
「何人ぐらいのグループだったの?」
「うーん、人数をはっきり決められるようなちゃんとしたグループじゃなかった。町で拾った子が入ってきたりすることもあったし」
「そうか……でも、浅羽君はリーダー格だったわけね?」
「そう。あいつと、高田《たかだ》の兄貴と」
「アニキ?」
「うん。高田って兄弟がいたのよ。弟はあたしたちと同じ歳だけど、兄貴はそのころでもう二十歳になってた」
「じゃ、高田のお兄さんは車持ってた?」
「持ってた。あたしたち、いつもその車であっち行ったりこっち行ったりしてた。それでも人数が多くて車が足りないときは、親の車黙って乗ってきちゃったりして」
「無免許で」
「そうよ。すごいムチャクチャでしょ?」
少しばかり挑《いど》むような口調で、信恵は淳子の顔をのぞきこんだ。
淳子は思い出してみようとしていた。田山町の廃工場――焼き殺した三人のなかに、高田という兄弟はいただろうか。閃光放射に浮かび上がった断末魔の彼らの顔のなかに、兄弟を思わせる、よく似た面立《おもだ》ちのそれはあっただろうか。
「高田っていう兄弟は、近所の人?」
「違うよ。どこから来たのかあたしは知らない。浅羽の仲間だったから。弟の方が、浅羽の高校の同級生だったみたいだけど。弟は純一《じゅんいち》って名前で、みんなにジュンて呼ばれてたけど、兄貴の方はアニキ、アニキっていうだけで、そういえばあたし、名前もちゃんときいたことなかった」
「あなたが背中を切られたときは、彼らもいたの?」
「いたよ」信恵は口の端をひきつらせてふふんと笑った。「浅羽があたしに馬乗りになってナイフ使ってるあいだ、ジュンが足を押さえてたんだもん。アニキはタバコ吸いながら見物してたけどね」
淳子は思わず目をあげて信恵を見た。信恵は新しいタバコを取り出していた。
ゆっくりと、淳子は言った。「今の話の様子だと、高田のお兄さんて人がリーダーみたいにも思えるね」
何度かライターを鳴らしてタバコに火を点けると、信恵は深々と吸い込んだ。
「わかんない……。あたしはリーダーはいつだって浅羽だと思ってた。あたしの時だって、高田のアニキはビビってたから手伝わなかっただけじゃないかな。アニキだけじゃない、浅羽以外の全員がビビってたよ」
「だけど……」
「あたしが背中からだらだら血を流して泣き叫んでさ、それでジュンがビビっちゃった。もういい加減にしろって浅羽に言って、そしたら浅羽が怒ってジュンに斬りつけて、その隙にあたし、飛び起きて逃げ出したの」
信恵の口調がうつろになってきた。
「走って走って、とにかくどこでもいいから逃げだしたかった。浅羽が後ろから追いかけてきて、途中で引っ返して車の方に戻って行った。ああ車で追っかけてくるつもりだって思った。今度捕まったら殺されちゃう。だから、傷が凄《すご》く痛かったしめまいがしてふらふらだったけど、絶対に止まっちゃ駄目だって思って走り続けたの。そしたら、ちょうどトラックが通りかかって、あたし必死で手を振って――」
「それ、場所はどこだったの?」
「若洲《わかす》の埋め立て地、知ってる?」
「都内?」
「モチ、この江東《こうとう》区だよ。夢《ゆめ》の島《しま》の方」
「あなたたち、そんなところにいたの? 何をしてたの?」
「でっかいネズミがいるのよ」信恵は両手を三十センチくらいの幅に広げてみせた。「しっぽの先まで入れると、こーんなに大きいの。そいつを追い回して殺したり、撃ったり」
信恵ははっと口をつぐんだ。淳子はじっと彼女を見つめ、視線をそらさずにいた。
「誰か銃を持ってたの?」
信恵は返事をしない。
「持ってたのね。いいのよ、今さら驚かない。そんなことじゃないかと思ってた」
今度は信恵の方が驚いたようだった。「なんで?」
彼女の目がくるりと円くなり、ついで口がぽかんと開いた。
「もしかして……あんた、あんたの肩の傷、浅羽に撃たれたの? そうなの?」
淳子は黙って肩の傷を片手で包んだ。
「浅羽君は銃を持ってるのね?」
信恵はうなずいた。
「あなたに怪我をさせたときも、持っていた」
「うん」
「そうなると不思議ね。あなたはトラックの運転手さんに助けられた――当然、事件は表沙汰になったわけでしょ? それなのに、どうして警察が黙ってたのかしら。あなたの勘は正しいわ。あたしは浅羽君に撃たれた。大した傷じゃないけどね。彼は今でも銃を持ってるのよ。どうして一年前のあなたの事件の時に取り上げられなかったのかしら」
信恵は目に見えてへどもどし始めた。その狼狽《ろうばい》の具合で、淳子には真相がわかった。
驚いた。「あなた、警察に届けなかったの?」
「うん……」
「だけど……どうやったらそんなことができたの? 助けてくれた運転手さんだってびっくりしたでしょうし、警察か病院へ行こうって言ったでしょうに」
ほかにどうしようもないというように、信恵はえへへと笑った。
「そのトラックもヤバいトラックだったってわけ。なんか、捨てちゃいけないゴミをこっそり捨てにきてたらしいんだよね」
廃棄物の不法投棄か。
「だもん、警察になんか行けるはずないじゃない? 病院も場所によっちゃまずいし……。それでも、そんな立場なのに、あのときあたしが叫んで手を振ったら止まってくれた。見捨てて通り過ぎなかった。いいおっちゃんだったよ。でね、あたし、家まで送ってもらったの。運転手のおっちゃんは青くなって逃げてった。あとのことは親が始末してくれた」
「お父さんお母さんは、警察へ届けるって言わなかった?」
信恵は電流が通されたかのようにぴしりと真顔になり、座り直した。
「あたしがやめてくれって頼んだ」
「なぜ?」
「そんなことしたら、あたしたち一家三人、マジで殺されると思ったから」
淳子は再び、信恵の瞳のなかの黒い点を見た。そこに焼き付いているものを見た。
「それで正しかったと思う?」と、静かに訊いた。
「よかったと思う」信恵は低く言った。「正しいかどうかなんてわかんない。けど、よかったと思う。あたしこうして生きてるし」
ちょっと首をすくめて、
「あたしが逃げ帰って家で寝てるあいだに、浅羽から電話がかかってきたんだ。翌日か、二日くらいあとだったかな。そのときお父さんが、あいつに、もう信恵には関わるなって言ったんだよ。これきり付き合いをやめてくれたら、今度のことは表沙汰にしないって」
淳子の目には、その取引はずいぶんと危ういもののように見えた。主導権は完全に浅羽の側にある。彼はその取引に従うこともできるし、破ることもできる。破るときには、信恵の恐れる一家皆殺しという結果になるだろう。沈黙を守ったからといって、信恵一家の安全が保証されたわけではないのだ。
「浅羽はヘラヘラ笑ってたってさ」と、信恵が言った。「あいつ、わかってるんだよ。どっちが強いのかってことをね。それに、あたしだって警察にバレたらまずいようなこと、結構やってきた。浅羽たちと一緒にさ」
「そのことを、信恵さんのお父さんも知ってる――」
「そ。だから警察には言えない。あたしの将来にさわるから」信恵はアハハと声をたてて笑った。「将来なんて無いのにさ」
「あるじゃない。今はご両親と一緒に働いてるんだし」
信恵はぞんざいな感じで首を振った。「あれがあたしの一生の仕事になるわけないじゃん」
「それは確かにまだわからないけど……」
「どっちにしろ、つまんない地味な一生だよね」信恵は髪をかきあげた。「働いて食べて寝てまた働いて。なーんにもパッとしたことなくってさ。金持ちにもなれないし。世の中もっと面白いことあるし、うまくやってるヤツだっていっぱいいるのにさ」
「そうは思わないけどね」
「なんか、あたしばっか貧乏くじ引いてるような感じがしちゃうの。頭に来るんだよね、そういうの」
淳子はふと、ごく漠然とした感触ではあるけれど、この少女が浅羽たちと、たとえ一時ではあっても、時間や趣味や感情や娯楽や行動を共にした理由がわかったような気がした。彼女を浅羽たちの方向へ引き寄せたものの正体の一端が見えたような気がした。
倦怠《けんたい》と憤懣《ふんまん》、か。
そう、いつか淳子が片づけたあの四人組、あいつらもそう言っていた。世の中面白くないと。なんか刺激的なことをしたい、と。何をやったっていいじゃないか、自由が第一の社会なんだ、と。オレがつまらない思いをしてるのに、いい思いをしてるヤツらがいるなんて面白くない、と。
信恵のなかにも、たとえ小さくても微細でも、それがあるのだ。そしてそれは、今に至ってもさして大きく変わってはいないのだ。ただ「浅羽」は怖いということがわかっただけ。彼に関わってはいけないということがわかっただけ。
今後、遭遇するものが浅羽と違う顔をしていれば、信恵はやはり、自分と両親の身を危なくし、ひいては社会に害悪を流す結果になるかもしれない方向へと、ごく素直に流されていってしまうかもしれない。そしてそのことに、自分ではまったく気がついていない。
この娘はまったき被害者なのだろうか。それとも過去の被害者で、未来に向けての潜在的な加害者なのだろうか。
淳子は考えた。この娘のために仇を討つことが、あたしにはできるだろうか?
こういう存在には、初めてぶつかった。過去、勇気が足りないばかりに復讐者になりきることのできない男にはひとりだけ会ったことがあったけれど――
その男の顔が脳裏を横切った。淳子はあわててまばたきをした。そうしておけば、見なかったふりを、思い出さなかったふりを続けることができる。自分自身に。
「このあたりって、近所づきあいが濃いからさ」と、信恵が言った。「あたしが浅羽たちとつるんでたことなんか、もう有名中の有名よ。だからあんた、うちの店先で倒れなくたって、プラザを訪ねてあっちこっち聞き回ったら、結局はあたしのとこにたどりついてたはずだよ。ああ、豆腐屋の伊藤さんとこの信恵ちゃんが仲間だよって。だけどうちは商売屋だから、簡単に引っ越すわけいかないしね。そのうちあたしは出ていくつもりだけど」
もしもこの娘が――たとえ背中に傷があろうと、心の底で浅羽を恐れていようと――今も浅羽のそばにいたとしたならば、あたしはためらいなく彼と一緒に焼き殺すだろうと、淳子は考えていた。望んで凶器と共にいるものは凶器だ。それが淳子の考え方であり、方針だった。だとすれば、やはりこの娘も加害者側の存在なのか。
しかし一方で、かすかではあるけれど、それを残念に思う気持ちもあった。信恵は親切にしてくれた。心配してくれた。だからぽろりと言葉が出た。
「信恵さんは、もう浅羽に近づく気持ちはないのよね?」
信恵は飛び上がりそうになった。「とんでもない! 死んだってイヤだよ」
「悔しくはない? 背中にそんな傷跡をつけられて、彼に仕返ししてやろうとは思わない?」
信恵は首を傾け、しげしげと淳子の顔を見た。
「普通の人間が、悪魔に仕返ししようなんてこと考える? 悪魔にやられたら、逃げるしか手がないんだよ」
淳子は微笑んだ。「そうね。いろいろどうもありがとう」
「――帰るの?」
「ええ。ほかにどうしようがある? あたしも普通の人間だもの」
真っ赤な嘘だった。淳子は人間ではない。あたしは人間じゃない。あたしは装填された一丁の銃だ。常に標的を探している。
正しい標的を。
「でも、ついでに教えてくれないかな。浅羽君が出入りしそうな場所の心当たりはある? あなたは彼らと別れて一年も経つわけだけど、馴染《なじ》みのお店とかたまり場とかが、そうコロコロ変わるわけはないと思うのよね」
「あんたそこに行くの?」
淳子は笑ってみせた。「行かないわ。さっきから言ってるでしょ? あたしには無理よ」
信恵は疑わしそうな目をしていた。いくぶん、淳子を怖がり始めたようにも見えた。
「あいつら、ずっと『プラザ』がたまり場だったのよ。だから、『プラザ』がなくなってからのことはわかんないな。それに、だいたいは車で、コンビニとかファミレスとかウロウロしてばっかりいたからね」
「浅羽君が今、どんな仲間と一緒にいそうか見当つかない? さっきの高田兄弟みたいに」
信恵は首を振った。「だから言ったでしょ、仲間の顔はわかるけど、どこの誰だか詳しいことは知らない。あたしたち、そういう付き合いだったんだもの。グループのなかじゃ、あたしと浅羽の関係がちょっと変わってたんだよ。幼なじみなんてね」
「連絡はどうやってとってたの?」
「夜とか週末にプラザに行けば、誰かがいるって感じ」
顔はわかる、行動も共にする、連絡も取り合える。けれど、名前も素性《すじょう》も正確なところは知らない。匿名の、日常から離れた付き合いだ。友情なんて種類のものじゃない。
「だけど、信恵さんの方から誰かに電話をかけるなんてこともあったでしょ?」
「あったけど――グループを抜けたときに、お父さんがあたしのアドレス帳もポケベルも捨てちゃった」
淳子は小さく舌打ちした。信恵が目を見開いた。淳子の信恵に対する感情の変化が、信恵にも伝わっているらしかった。
「あたし、嘘言ってないよ。怒らないで」と、信恵は小さく言った。
「浅羽君のお母さんの今のお住まいもどこなのか知らないんだったわね?」
「わかんないわ。お父さんのお墓がどこにあるかなら知ってるけど」
「お墓?」浅羽の父親は死んでいるのか。
「あいつが中学一年のときに、親父さん死んじゃったの。首吊って」
「自殺したの?」
「うん。勤め先の工場がつぶれてクビになってさ」
はっとして、淳子は思いだした。そういえばあの廃工場で彼らがしゃべっていなかったか。
――なんでこんなとこ知ってんだよ
――親父が昔、ここで働いていたからさ
――それってずいぶん前のことだろ?
――親父、それきり働いてねえの?
――知らねえよ、関係ねえもん
あれは浅羽の父親のことだったのか。
警察に報《しら》せなくては。あの廃工場の元従業員の線をたどり、浅羽にたどりつくことは、素人の淳子の仕事ではない。警察の役目だ。人質の「ナツコ」の居場所の見当もつかないまま、ただ刻々と時が過ぎて行くだけの今の段階では、淳子が真っ先にしなくてはならないことは、つかんだ情報を彼らに伝えることだ。
「浅羽君のお父さんの名前、なんていうか知ってる?」
「知らない。浅羽じゃないの」
「お墓はどこに?」
「綾瀬《あやせ》のサイホウジってお寺。西の芳《かんば》しいって字を書くの」
「なんでそんなこと知ってるの?」
信恵は、淳子の剣幕にちょっと身を引いた。
「何度か行ったことがあるから……」
「何をしに?」
「知らない。浅羽だけ行って、あたしは待ってた。古いお寺だし、昼間なら誰でも出入りできるから」
「ありがとう」踵を返して、淳子は立ち去ろうとした。電話だ。電話を探さなきゃ。
信恵がベンチから立ち上がった。声が追いかけてきた。
「ねえあんた、淳子さん」
淳子はサヨナラを投げ捨てるように肩越しに手を振った。
「あんた何者なの? ホントに、何をしようとしてんのよ?」
信恵の知らない方がいいことだ。だから淳子は答えないまま離れていった。
二度と信恵に会うことがないといいのだが。両親と共にいる静かな暮らしのなかに、彼女が彼女なりの幸せや目標を見つけてくれるといいのだが。背中の傷は、信恵がもしかしたら他者に負わせていたかもしれないもので、それを自分の身に引き受けたことで、人生は変わったのだ、変わらなければいけないのだと、そしてほかの何よりも、「浅羽」はまだ信恵の心のなかにもいるのだと、気づいてくれればいいのだが。
気づいて欲しいと、淳子は心から願った。なぜなら知っているからだ。自分の倦怠、自分の不満、自分の欲求を、罪もない他人の命と引き替えにするような人間の末路がどうなるかということを。少なくともあたし、青木淳子は、そういう連中をどう扱うかということを。
田山町の事件現場の廃工場は、周囲をぐるりと「立入禁止」のロープで囲まれ、さらにその周りを野次馬の群に取り囲まれて、にわかな喧噪《けんそう》に包まれていた。
石津ちか子はロープのすぐ内側に佇《たたず》み、両腕を胸のあたりで組んで、工場の古びた壁を見あげていた。トタンはあちこちでひび割れ、塗装は剥《は》げ、雨樋《あまどい》の一部が壊れて屋根の端からぶら下がっている。落魄《らくはく》の趣は工場の敷地内の隅々にまで及び、その姿は、冬枯れの乾いた空気のなかで、身を覆うコートの一枚も無いまま、寒そうに背中を丸めている老人を思わせた。
(誰も火を見ていない)と、ちか子は考えていた。
現場検証は続けられており、青い制服の鑑識課員が、てきぱきと動き回っている。今ちか子が佇んでいるフェンスの内側の一角は地べたを舐めるような遺留品捜査の済んだばかりの場所で、他の場所はまだ、無闇に歩き回ることはできない。鑑識課員たちも、幅五十センチほどの黄色い通路帯の上を踏んで行き来している。
四体の遺体も、まだ工場のなかに在る。写真撮影に時間がかかっているのだ。工場内部は非常に暗く、電気も来ていないので、高感度フィルムを使用した後、外部から光源を運び込んで再度撮影を行った。
昼なお暗い廃工場に警察は往生したが、遺体のそばには、懐中電灯がひとつ落ちているのが発見されている。被害者のものか加害者のものかわからないが、関係者のうちに、ここが暗くて電気の点かない場所だと知っている人物がいたという証拠だろう。ここで何をするつもりだったにしろ、準備はしてあったのだ。
工場内部への侵入口はひとつしかない。建物の東側の壁にある鉄扉のちょうつがいがはずれ、扉が動かされた様子が見えるのである。そのほかに、ここへ入り込む道はない。正面の門扉も、工場正面の観音開きの鉄扉も、南京錠をかけられたうえに鉄鎖を巻き付けてあり、そこには手を触れられた形跡もなかった。
現在は、正面の門扉も鉄扉も開け放たれ、警備の警察官が立っている。観音開きの鉄扉の内側には青いビニールシートがさげられ、ちょうどカーテンのように視界を遮っているが、北風にあおられてそのシートがそよぐたびに、野次馬たちが内部をのぞきこもうと背伸びしたり押し合ったりしている。
ちか子は再び工場の壁を見あげた。工場自体は三階建てのビルと同じくらいの高さがあり、その二階部分くらいの位置に窓が空いている。窓のガラスは割れ、一部が欠け落ち、残ったひび割れの部分に誰かが不器用にガムテープを貼って修理をほどこしているが、テープの汚れ具合から見て、それもかなり以前のことだろう。窓枠の上の部分に、古びて灰色になった鳥の巣のようなものが見えることに、ちか子は気づいた。工場が操業している間は、騒音が激しくて、鳥が巣をかけに近寄ってくることなどまず考えられない。廃工場になったあと、ツバメかスズメかヒヨドリか、小さなものたちがやってきて、子育てのためにこの場所を借りたのだ。しかし彼らもしばらくしてここを見捨て、また孤独になった廃工場に、最後にやってきたのが殺人事件だったというわけか。
(――あの窓)と、ちか子は考えた。
人間が丸焦げになるような火災の炎が、あの窓に映らなかったわけはない。しかし、今のところ、近隣の住人たちからその種の通報があったという報告はなく、所轄の消防署も、近くの交番も、まったく何も感知していなかった。誰も火を見ていないのである。
しかし、内部には焼け焦げた死体が在る。焼殺体なのか焼死体なのかはまだ判らないが、焼けていることは確かだ。だとすると、彼らを焼いた火は、ほとんど瞬時に燃え上がり、非常に高い温度を保ちつつ一気に対象を焼き尽くして短時間で消えた――ということになる。
詳しいことは検視解剖を経ないとなんとも言えない。遺体の皮膚、内臓、骨がどの程度焼けているかということを調べないと、燃焼に要した時間やそのときの最高温度などを推測する作業に取りかかることはできない。しかし、ざっと概観するだけで、ちか子には今度の事件が「あれ」と――荒川河川敷男女四人焼殺事件と同じ手口で、同じ方法でもって行われたものであると判った。ぞくぞくするくらいに、よく似た匂いがした。
そう、事件そのものはまったくよく匂っている。それに反して、遺体が臭わないという点でも、荒川の件とこの件はそっくりだ。もちろん、肉の焼けた臭いは漂っている。しかし、生身の人間をこれだけ焼き尽くすためには絶対不可欠なもの、燃焼促進剤の臭いがしないのである。
なんでもいい。ガソリン、シンナー、灯油。何か促進剤を使わなければ、短時間で人ひとりを焼き尽くすことは不可能だ。そして一般に燃焼促進剤は、一様に独特の異臭を放つものばかりだ。例外的なものとしてロケット燃料があるが、これはそうそうたやすく手に入れることができるものではない。
この事件に関しては、ちか子は正式な捜査メンバーではなく、放火班から派遣されたオブザーバーのようなものである。だからこそ今も、現場検証が終わるまでこうして待機している。だが、ここへ到着したとき、これだけは欠かすことができないと要請して、オブザーバーの権限を越えて、敢《あ》えて真っ先にやらせてもらったことがある。工場内部に入り、遺体に近づき、その場の臭いをかぐことである。
本当に燃焼促進剤が使われていないかどうかということは、遺体そのものの皮膚や衣類の焦げたもの、現場の土などを採取し分析してみないと確認することはできない。しかし、捜査員がその鼻で空気の臭いをかいでみることも大切だ。経験豊かな放火捜査のベテランならば、それだけで使用された燃焼促進剤の見当をつけることができる場合もある。
しかし、ここでは何も臭わなかった。ちか子はまだ放火捜査のベテランではないが、この件に関しては、鑑識課のガスクロマトグラフィーもちか子と同じ分析結果を出してくれるだろうと思う。
荒川の件もそうだった。現場に到着した捜査員たちは、誰も燃焼促進剤独特の臭いを感じなかった。ガスクロマトグラフィーも、現場の空気のなかからなにも濾《こ》しとってくれなかった。あの事件でも、誰が何を使って火をつけ、何を使ってそれを高温に燃えあがらせたのか、未だに判明していないのだ。
「石津さん」
呼ばれて振り返ると、清水邦彦がロープをくぐって近寄ってくるところだった。伊東警部に報告を入れるため、ここを離れていたのである。
「まだ声はかかりませんか」清水は不満そうな口調で言った。「いつまで待たせるのかな」
「相変わらずせっかちね」
「だけど、僕らだって捜査に加わる権利はあるんですよ」
この事件は、捜査一課四係が担当することになり、品川《しながわ》という三十代半ばの警部が現場指揮をとっている。ちか子は品川と直には面識がない。伊東警部の話だと相当の切れ者で、反面、自己を頼む意識が強く他人の意見をきかない男だそうだ。ちか子が放火捜査班に来る以前、港《みなと》区で起こった金融業者一家強盗殺人放火事件の際、伊東警部は彼と一緒に仕事をし、相手の強情さにしばしば辟易《へきえき》させられたということだった。
「まあ、そうふくれないで」と、ちか子はなだめるように言った。「この件は、放火というより、殺人の手段として『火』を使用した事件なんですから」
「そんなの、言われなくたってわかってますよ」
「警部はなんとおっしゃってました?」
「情報収集を第一に心がけるようにって」
ちか子はうなずいた。清水はむくれ顔のまま黙ってしまったが、彼だって本当はわかってないわけじゃなく、ただ文句を垂れたかっただけなのだ。実際、ちか子よりもわずかだが先にここに到着した彼は、これから現場検証にかかろうという鑑識課員たちに、放火捜査班として特に調べてほしい条項をいくつか挙げて示し、依頼しておいてくれたのである。
「品川警部からは、僕らにはなんの説明もないまんまだから、さっきちょっとほじくって来たんですけど」と、清水が言い出した。
「第一通報者は女性だったそうですよ。若い女の声だそうです。その通報がなかったら、しばらくのあいだは誰も、ここに四つも死体が転がってるなんてことに気がつかなかったんじゃないですかね」
「外から見ただけじゃわかりませんね」と、ちか子もうなずいた。「わたしも、近所の人たちが誰も火を見ていないということを聞きましたよ」
「いつごろから廃工場なのかな、ここは」
ちか子は警察手帳を取り出し、メモしたページをめくりながら言った。「元は、伊佐山鉄鋼《いさやまてっこう》という会社だったそうですよ。倒産して社長が夜逃げをしてしまって、それが平成三年の春ごろじゃなかったかって。バブル経済がはじけたころですね」
「七年前か……」清水は言って、ちょっと眉《まゆ》をつり上げてちか子を見た。「石津さん、聞き込みをやったんですか?」
ちか子は首を振った。「野次馬のなかに近所の人たちがいて、しゃべってるのを聞いただけですよ。だから裏をとらないと確実な情報じゃないけど、近所の人たちっていうのは、案外ちゃんとしたことを知ってるもんですからね」
清水は痩《や》せた肩をすくめた。「恐るべきはおばさんの噂話ですか」
「この話をしていたのは、おじさんたちでした」と、ちか子は言った。「そうそう、伊佐山鉄鋼の債権者でしょうけど、一時、やくざ風の男たちがここに出入りしていた時期もあったそうです。その男たちが、裏のドアのちょうつがいを壊したのかもしれませんね」
「はあ、そうですか」清水はむくれ顔に戻った。
そのとき、青いビニールシートがめくられて、四係の刑事がひとり顔を出した。
「どうぞ」と呼んで、ちか子たちを手招きした。ちか子と清水は、通路帯を踏んでそちらへ走った。
シートの内側は、捜査陣が持ち込んだ光源に照らされて、全体にまぶしいほど明るくなっていた。刑事たちが数人いたが、ちか子の目は、地面に倒れている四つの遺体の方へ吸いつけられた。呼び寄せられたかのように、ちか子はそちらに近づいていった。
ひとつは、向かって右側にあるよどんだ水のたまった水槽の脇に、へたりこむようにして倒れている。あとの三つは、その反対側、ベルトコンベアや部品の収納棚のようなものがある場所に、一様に、頭を左側の壁に向けて倒れていた。
三つの遺体の姿勢はバラバラだった。仰向けになって両手を広げている者、這うような格好をしている者、眠っていて寝返りを打ったときのように、右脇を下にして頭の側面を地面につけている者。
さらに、左の三遺体と右の一遺体とのあいだには、極端な相違があった。左の三遺体は真っ黒焦げになっているが、右の一遺体はまったく燃えていないということだ。衣服や皮膚が黒ずんで見える部分もあるが、近づいてよく調べると、煤をかぶっているだけだと判った。
さらに、この一遺体にだけは、生々しい出血と傷害の痕《あと》があった。二係の刑事たちをそっちのけで遺体観察に夢中になっているちか子を、清水が肘でつついて引っ張った。その彼も、ちか子が焼けていない遺体の傷を示すと、いくぶんうわずったような声を出した。
「銃創じゃないですか」
ちか子には、目で見ただけでは判断がつきかねた。代わりに、遺体の顔を見ていた。若い男性だ。端正な顔をしてるが、その顔全体が歪んでいた。
ちか子は短く黙祷《もくとう》を捧げると、四つの遺体のちょうど中間地点に固まって立ち、ひそひそ話をしている刑事たちの方へ歩み寄った。彼らの中心にいる、小柄だが引き締まった身体つきの男が品川警部である。
「放火班の石津と清水でございます」
ちか子が頭を下げると、彼は顎をうなずかせた。
「伊東警部から話は聞きました。我々としては、遺体を焼くために何が使われたのか、そちらの特定に協力を願いたいのですが」
思いがけないほどソフトな口調だった。頑固な石でも角は丸いということか。
「現在の段階では、あなた方に我々のチームに加わってもらってもしょうがないでしょう。鑑識の分析結果はこれから出てくるんだし、検死もまだだ。それより、以前に似たような手口の事件があったそうですね? そっちを洗ってもらえませんか」
「荒川河川敷の事件です」
ちか子が言うと、品川警部の隣に立っていたずんぐりした男が、もそもそとした口調で言った。「あれは二係の事件だ。キヌさんがもってる」
二係の衣笠《きぬがさ》巡査部長のことであろう。
「荒川署では、継続捜査扱いになっている事件です。実はわたしどもは、まっ先にあの事件との関連性を考えました」
「あんまり決めつけねえ方がいいんじゃないの」と、先ほどのずんぐりした刑事が言った。
「あれはあたしも覚えているが、今度のとは様子が違ってるところも多い。銃がからんでなかったしな」
清水が負けん気を出した。「焼けていない遺体には、確かに銃創が見えますね」
ずんぐり刑事は眉を上下させた。「へえ、見てわかったの」
清水が何か言い返しそうになったので、ちか子はわずかに前に出て彼を牽制した。
「今夜の捜査会議までに、荒川河川敷事件について、集められる資料を集めておきます。それと、遺体を運び出すまで、あと三十分ほど時間をいただけますか。所見を記録しておきたいのです」
「どうぞ」と、品川警部は素っ気なく言った。
「樋口《ひぐち》、ここにいてくれ。私は車に戻る」
品川警部について、あとふたりが出ていった。残されたのは、樋口と呼びかけられたあのずんぐりした刑事と、ちか子たちだけである。
「まあ、ご自由に。でもさっさと片づけてくれ。早いとこ解剖に回したいんだからな」
どうせ、何もわかりゃしないんだろと言わんばかりの口調である。ちか子は清水を引っ張って遺体の検分にかかった。樋口が皮肉な目つきで観察しているのを、背中で感じた。
所見をまとめ終えて樋口にそれを告げると、彼は横柄な感じでシートの外に首を出し、鑑識課員たちを呼び入れた。遺体が搬出されていく。それを見届けて、樋口も外に出ていった。
ちか子は彼に軽く頭を下げ、待ってましたとばかりに憤懣をぶちまけようとする清水を制して、彼の背後を指さした。
「これ、気がつきましたか」
清水は頬をふくらませたまま後ろを振り向いた。彼は作業用工具などの収納に使われていたらしい棚の前に立っていたのだ。黒焦げになっていた三遺体のうちの真ん中のひとつが、このすぐそばに倒れており、伸ばした右手の先がこの棚の基部に触れていた。白いテープが、遺体の形をそのまま縁取りして、地面に貼り付けられている。
「これって、なんです?」
ちか子はしゃがみこんだ。棚の基部の、地面に接している部分を指さす。
「これですよ。かがんで見てごらんなさい」
清水は言われたとおりにした。すぐに、彼は目を見開いた。
「溶けてる……」
棚の基部が溶けて、形が歪んでいるのだ。よく観察しないとわからないが、かつて直線だったはずのものが、内側にへこんでゆるやかな曲線を描いている。
清水は目を見張ったまま棚を見上げ、黒ずんだそれを片手で叩いた。金属質の音がした。
「スチール棚でしょう?」
ちか子はうなずいた。誰だか知らないがこの惨事を起こした人物は、鉄を溶かすことができるだけの熱を放出する道具を持っているのだ。
「さて、どうしましょうか。いきなり荒川署へ行くか、それとも本庁へ戻って衣笠巡査部長に会いましょうか」
「衣笠さんなら、僕も知ってます」と、清水は言った。「樋口さんより、ずっと紳士ですよ。所轄で僕の先輩だったことがある人なんです」
「じゃ、決まりですね」
ちか子と清水は外に出た。たったひとつ焼けただれていなかった遺体の、あの無念の表情は心に深くくいこんでいたけれど、ちか子は何か武者震いのようなものを感じていた。
「僕ら、仲間外れの感じですね」
外の喧噪を脇に通り過ぎながら、清水が悔しそうに言った。
「役割分担が違うんですよ」
「これが頭っからの放火事件だったら、立場が逆なのにな」
「とんでもない。縁起でもないことを言っちゃいけませんよ。こんな強力な道具を使って放火して歩く人間がいたら、大変な騒ぎになるじゃないですか」
「石津さん、この犯人が何を使ったか判りますか」
ちか子は首を振った。「見当もつきません」
「火炎放射器……」
「簡単には手に入るものじゃないし、入ったとしても、あんな真似はできないでしょう。判ってるくせに」
荒川河川敷事件の際も、一部の週刊誌などで火炎放射器説がにぎにぎしく取り上げられたものだったが、実にお笑いぐさで、この説は警察サイドではこくごく初期の段階で一蹴《いっしゅう》されていた。
「ちょっと言ってみただけですよ。だって、ほかに何が考えられます? 超小型のレーザーガンとか?」
「清水さんは放火捜査班に来て何年ですか?」
「嫌味だな。まだ一年ですよ。どうせおっかさんにはかないませんよ」
ちか子はにこにこした。「わたしもまだまだ素人です。早く帰って、衣笠巡査部長と、放火班の先輩さんたちに知恵を貸してもらうことにしましょうよ。少なくとも、品川警部はわたしたちに協力を求めてきたでしょ。堂々と、任された仕事をしましょうよ」
ため息をついて、清水は通りかかったタクシーに手をあげた。
ちか子も清水も、この段階ではまだ、知らないこと、知らされていないことが多すぎた。第一通報者の女性が、その通話で、逃走した事件関係者のひとりに「アサバ」という人物がいること、銃創を負って死んでいる男性のほかに、彼の女友達が人質にとられていると告げたということも、ちょうど先ほど、品川警部が工場を出ていったとき、本部から無線が入って、同じ不審な女性から再度通報があり、「アサバ」はかつてその廃工場で勤めていた人物の子供であり、彼の実家が東大島にあったこと、相当危険な前歴を持つ十八歳の少年であると、報せてきたということも。
[#改段]
伊藤信恵の教えてくれた「西芳寺」は、確かに綾瀬市内に実在していた。臨済宗《りんざいしゅう》の寺で、電話帳で調べると、代表電話番号が二つ並記されている。寺格はともかくとして、大きな寺であるようだった。
淳子がアパートの部屋から電話をかけてみると、おそらく事務局の職員だろう、てきぱきした中年の女性の声が応答した。そちらにうかがいたいのだが、道順を教えて欲しいと頼むと、慣れた口調で説明してくれた。一応、怪しまれた場合の言い訳を考えておいたのだが、それを持ち出す必要には迫られなかった。
綾瀬の駅に降り立ち、教えられたルートをたどって西芳寺の門を見つけると、女性職員の開放的な態度の理由が、すぐに呑み込めた。この寺は同じ敷地内で幼稚園を経営しているのである。時刻は正午を回ったあたりで、園児たちは建物のなかに入って昼御飯を食べているのか、それとももう帰宅しているのか、園の庭はひっそりとしていた。
幼稚園の園舎を見おろすような形で建てられている西芳寺は、寺というよりも体育館を思わせるような真四角の、灰色のビルだった。正門も同じ灰色のコンクリートでできており、そこに掲げられている「西芳寺」の木製の看板だけが、古びた趣を残している。建物自体はそれほど新しいものではなく、築二十年ぐらいは経ているように思われたが、それでも「寺」のイメージを裏切るには充分なこの灰色の大きな箱を、正門の前に佇んで、しばらくのあいだ仰いでいた。どうやら、このまま門の内側に足を踏み入れても、誰にも声をかけられたり行き先を問われたりしないで済みそうだと判断すると、やっと足を持ち上げて門の敷居をまたいだ。
正面には灰色の西芳寺、右手が付属幼稚園の園舎、墓所は左手にあるようだ。足元の地面はきれいにそして無味乾燥に舗装されており、境内《けいだい》のところどころにフラワーボックスが据えてあって、淳子には名前のよく判らない赤い花が、木枯らしに頭を下げ、互いにくっつきあうようにして咲いている。
専用のゲートをくぐって墓所に入ると、そこは思ったよりも狭く、白色と黒色と、そのふたつの色のあいだを埋める濃淡様々な灰色の墓石が、きっちりと区画整理されて整列していた。地面はやはりコンクリート舗装だが、境内よりは十センチほど高くなっており、墓の並んでいる列にそって細い排水溝が設けられている。通路の中央にも、格子のはまった四角い排水口が開いており、その上が水で濡れていた。
ためらいがちに淳子が歩き出したとき、すぐ右手の墓の列のなかから、老婦人がひとり、ひょいと顔を出した。
何か訊かれたときの言い訳のために、淳子は墓参り用の一対の花を持ってきていた。老婦人はお参りを終えて墓所を出ていくところであるらしく、ゆっくりとした足取りで淳子のいる墓所の出入口の方へ近づいてきたが、彼女の手のなかの花に目をとめると、小腰をかがめて声をかけてきた。
「寒いのに、お参りでございますか」
ちょっとあわてて、淳子は会釈《えしゃく》を返した。
「ご苦労様でございます」
老婦人は深々と頭を下げて、淳子の脇を通り過ぎて行く。老婦人の下げている水桶はいかにも重たげで、透明な水が、彼女が歩くたびに桶の縁をびちゃびちゃと叩いた。
ひどく後ろめたい気分になって、淳子はすぐには動き出すことができなかった。じっと立ち止まったまま、老婦人が墓所を出ていくのを待った。そしてこの寺に、自分の父親が葬られているこの場所に、浅羽敬一はいったい何をしに来ていたのだろうかと、あらためて考えた。
信恵を外で待たせておいて、彼だけが寺のなかに入っていったという。そういうことが、過去に何度かあったという。淳子には、浅羽敬一が自殺した父親の墓を拝むために、水桶の水を鳴らしてコンクリートの通路を歩んでゆく姿は想像することはできなかった。だが、彼がこの寺の僧や職員に会いに来て、彼らと話をしているという光景も、それ以上に想像しにくかった。
やはり、探すべきは彼の父親の墓だろう。たぶん、そこに何かがあるのだ。
ひとりになると、頭をしゃんと上げ、周囲に目を配り始めた。幸い、それほど平凡な名字ではない。墓石に刻まれた名前を、そう苦労せずに見つけることができるだろう。
右端の通路から始めて、順番に調べてゆく。平日のことで、ほかには誰もいない。居並ぶ墓石にも、新しい花が供えられているものは見あたらない。花や榊《さかき》の大半は枯れ落ち、水盤の水は濁り、供物《くもつ》は汚れて乾燥しきっている。
先ほど老婦人が出てきたあたりに、ひとつだけ、新鮮な花が活けられ線香のともされている墓があった。老婦人の参っていた墓だろう。見上げると、「高木《たかぎ》家先祖代々之墓」とあり、墓石のうしろの卒塔婆《そとば》に、白木に墨書も目に鮮やかな新しいものが混じっていた。あの老婦人は、つい最近ここに納骨されたばかりの誰かのために、お参りに来たのだろう。
右側の通路をすべてチェックし終えても、まだ「浅羽家」の墓は見つからなかった。一度中央の通路へ出て、左側にとりかかろうとしたとき、左端の通路の突き当たりに、大きな阿弥陀仏像《あみだぶつぞう》があることに気がついた。新しい花や供物に囲まれて悠然と指を組み鎮座し、その口元には静かな微笑みが浮かんでいる。
先ほど老婦人と出くわしたときと同じ後ろめたさに襲われて、淳子は阿弥陀仏像から目をそらした。そこで何をしているのだと、咎《とが》められているように感じた。他人の墓をこそこそと探り回ることの嫌悪感は、どう拭《ねぐ》っても拭いきれずに心を浸していた。こんなことしかする事がないという苛立《いらだ》たしさ、歯がゆさ、無力感が、その感情に輪をかけた。
浅羽敬一を見つけだすことさえできれば、彼と面と向かうことさえできれば、淳子に怖いものはない。瞬時に彼を焼殺し、骨まで黒焦げにしてやる。仮に魂の復活が可能だとしても、浅羽敬一の魂だけは、全能の神にも慈悲深い仏にもどうしようもないまでに、粉々に砕いてやることができる。
見つけることさえできれば。標的を見つけることのできない銃口ほど惨《みじ》めなものはない。
気を取り直して、淳子は動き出した。墓石の名字をチェックしながら、足早に通路を移動した。阿弥陀仏の見える場所にいると、阿弥陀仏からも見られているという感じがつきまとって離れず、しかし頑固に無視することにした。
そしてようやく、「浅羽」の墓石を見つけた。左側の通路の北から六番目、もしも淳子が墓所の入口を入ってすぐ左に折れていたなら、半分以下の所要時間で発見できていたはずの場所に、それはあった。
まあ、捜し物とは往々にしてこんなものだ。黒い御影石《みかげいし》の墓石の前に立ち、淳子はひとり、静かに失笑した。
寂しく、みすぼらしい墓だった。水盤はすっかり乾ききっており、空っぽの花入れは、今空っぽであるだけでなく、過去もずっと空っぽであり、未来も空っぽであろう。供物はかけらもなく、すぐ左隣の墓に供えられていた花の枯れた葉っぱが、浅羽家の墓の前に散り落ちていた。
頭をかしげて墓石の横をのぞくと、ここに葬られている人の名前が刻んであった。名前は四つあった。そのなかでいちばん新しいものが、浅羽|修司《しゅうじ》、享年四十二歳の名前だった。
これが浅羽の父親だろう。淳子は目を細め、狭い隙間から何かの内側をうかがおうとするときのように、刻まれた文字と文字のあいだから、感じられるものはないかと見つめてみた。浅羽の父。自分の子供に、いちばん尊敬される人間になるようにという願いをこめて、「敬一」と命名した父親。職を失い、失意のなかで首をくくって自殺した男。そのとき、あとに残される妻や息子のことを、彼がどう考えていたのかは判らない。敬一がやがて人殺しの怪物になることが事前に判っていたならば、彼はどうしたろう? 自分の首に縄をかける前に、息子の細い首に縄を巻いたろうか?
溜めていた息をゆっくりと吐き出して、淳子は呟いた。
「もうすぐ、あなたの居るところに息子さんを送ってあげる」
低く、唸《うな》るような声だった。
「息子さんを送り届けてあげる。あなたが勝手に遺していったものの後始末を、あたしがつけてあげる。そのために、あたしは来たのよ」
しかし、高ぶった感情以外のもので、ここで得られるものはなさそうだ。こんな殺風景な墓石――浅羽敬一がここを訪れていたのは、亡き父を偲《しの》ぶためでは無いという、あらかた予測のついていた事実を確認することができただけだ。落胆すると同時に寒気が身にしみて、淳子は腕組みをした。墓石の脇腹に刻まれた浅羽修司の名前をもう一度睨みつけ、気が済んだところで墓石に背を向けようとした。
そのとき、墓石の後ろの、卒塔婆の立てられている枠のすぐ外側に、小さな缶が置かれていることに気がついた。
煙草の缶――両切りのピースの缶だった。濃紺に銀色の縁取りの、ひと目でそれと判るデザインだ。きちんと蓋を閉められて、墓石の後ろ側に、人目をはばかるようにぽつんと置かれている。
故人が愛煙家だった場合など、墓に煙草を供えることはよくある。だが、それなら正面の水盤の脇にでも乗せるだろう。こんなところには置くまい。ちょっと閃くものがあった。
手を延ばし、缶を持ち上げた。手応えはごく軽かったが、中で何かが動いた。からりというような音がした。
蓋を開けてみた。
――鍵だ。
鍵がひとつ、入っていた。番号札のついたキーホルダーにくっついた、ありふれた鍵だ。どうやらコインロッカーのものであるようだ。番号は「1120」。どこのロッカーだろう。
さらに、缶の底には、紙切れのようなものが入っていた。メモのようだ。取り出して広げると、白紙の上に、書きなぐったような文字が踊っていた。
「受け取ったらすぐ電話してくれ ツツイ」
文字の下に、電話番号のような数字の列が書かれている。桁数と数字の並びから推して、これは携帯電話の番号だろう。
手のひらのなかに鍵を握りしめて、淳子はもう一度墓石を仰いだ。
浅羽敬一は、父親の遺骨の眠るこの墓を、何かのやりとりに――恐らくは違法なものをやりとりするための連絡先として使っているのだ。ずいぶんと子供じみた、ひと昔前の映画みたいなやり方だが、しかしそれなりに機能しているのだろう。信恵が言っていたではないか。過去数回、浅羽敬一はここを訪れていると。それはいずれも、こういう伝言や鍵や、彼がそのとき受け取ることになっているものがここにあったからなのだ。
受け取ったら連絡してくれ――
「何」を受け取ったら?
銃だろうか――と考えた。淳子を撃った銃。「フジカワ」を殺した銃。銃創がずきんと痛んだ。まるで、淳子の思いに共鳴し、淳子の意見を代弁するかのように。
「ありがとう」と墓石に呟いて、淳子は鍵とメモをコートのポケットに入れた。風のように身をひるがえして墓所の出口へ向かった。一度だけ振り向いて、あの阿弥陀仏像を見た。正面から見た。もう、情けなくもなければ歯がゆくもなかった。咎められているようにも感じなかった。
電話はなかなかつながらなかった。
いつ何処《どこ》にいてもつながるのが携帯電話のはずなのに、何度かけても留守番電話サービスが応答した。寒風のなかで公衆電話の受話器をつかみ、機械音のメッセージを聞くたびにがちゃんとフックを降ろす。そしてまたかけなおす。
十回を越えると、その繰り返しが機械的なものになってきた。だから、受話器から人の声が聞こえてきたときも、それと意識する前にフックを降ろしてしまいそうになった。はっとして、すんでのところで手を止めた。
「もしもし?」
受話器の向こう側から、ガサガサというような雑音が聞こえてくる。もう一度、淳子は声を張り上げた。
「もしもし? もしもし?」
雑音よりもなお聞き取りにくい、男のしわがれ声が応じた。
「はい、誰?」
喜びで、目の前がぱっと開けた。雪原に獲物の足跡を認めたときのハンターのように、淳子の心は高揚した。
「あの、ツツイさんですか」
一拍おいて、相手は訊いた。「あんた誰?」
「敬一――浅羽敬一に頼まれて電話してるんですけど」
「なんだって?」
「西芳寺に行ってきたんです。ピースの缶の中身を取ってきてくれって」
「………」
「そこにロッカーのキーが入ってるはずだから、持ってきてくれってね。だけど、帰ってみたら、敬一がどっか出かけちゃってていないの。ケイタイも通じないし。これってさ、大事な用件なんでしょ? 放っておくの、心配でさ」
できるだけ軽い口調で、はすっぱな感じで話をした。今のあたしは、浅羽敬一と付き合う女だ。彼にぶら下がっている女だ。彼に頼まれて西芳寺へ行ったのだ。そしてピース缶から鍵を取り、浅羽の元へ持ち帰ったけれど彼は不在。しかしピース缶のなかに入っていたメモには、すぐに電話をくれと書いてある。浅羽はこれを大事な用件にまつわるものだと言っていたし、放っておいていいのだろうか、判断に迷って、とりあえずこの番号に電話をしてみた――
「さっきからケイタイを鳴らしてたの、あんたか」
「ええ、そうよ」
「なんで浅羽本人じゃないんだ」
「知らないわよ。頼まれたんだもの、あたし」
「あんた誰なんだ」
「誰ってことないわ、あんたこそ誰よ」
「浅羽があんたなんかに頼むわけがねえ」
「どうして? なんでそんなことがわかるのよ。あたし西芳寺へ行ったもん」
問題の鍵を握る手が汗ばんできた。淳子は強気に声を励まして続けた。
「なによ、すぐ電話してくれって書いてあるからかけてやったんじゃない。なんで文句言われるの?」
「まあ、待てよ」
相手は、ちょっと引いた口調になった。今までどんな姿勢で電話に出ていたのか判らないが、とりあえず座り直したか起きあがったかしたようだ。声がはっきりした。
「あんたがどこの誰だか知らないがね、浅羽本人じゃないと、俺は話をしないよ」
「あたし浅羽に頼まれたのに」
口を尖らせるようにして言って、淳子はちょっと目を閉じた。頭を使え。この電話の主を丸め込むには、どういう台詞《せりふ》を言えばいい?
「あのね、浅羽の様子がヘンだったのよ」
「ヘン?」
「うん。あたしにピース缶のこと頼んだときも、なんかバタバタしててね。そういえば誰かと電話してたかな。そのときは出かけるなんて一言も言ってなかったのに、帰ってきたらいなくなってて」
声を低くして、淳子は言った。
「ねえ、あの人なんかヤバいことに巻き込まれてんじゃないの? ここのとこ、ずっとイライラしててね。警察がどうのこうのって」
相手は沈黙している。淳子も口を閉じて待った。ここで食いついてきてくれなければ、次はどう出ようか。
相手は、ゆっくりと確認するような口調で訊いた。
「おねえさん、あんた今、手元に持ってるんだね?」
「何を? あ、ピース缶の中身?」
「そうだよ」
「持ってるわよ、ちゃんと」
「あんたにそれを取ってこいって言いつけた浅羽が、あんたが帰ってみたら居なくなってたってわけか?」
「うん」
「どこへ行ったか判らない?」
「全然」淳子は芝居を続けた。「ねえあんた、ツツイさん? あたし心配なのよ。あんた、浅羽と早く連絡を取りたかったんでしょ?」
しばし沈黙してから、相手は言った。
「そうなんだ。どうやら、あんたと会った方がよさそうだな」
息を呑んで、淳子は眼を見開いた。
「あんたに会って、返してもらった方がよさそうだ」と、しわがれ声の男は続けた。
「返すって、何を?」
「ピース缶の中身をだよ」
男はその「中身」について、わざとはっきり言わないようにしているらしい。淳子が本当にそれを持っているのかどうか、確かめようとしているのだろう。ずいぶん慎重というか、臆病だ。
「鍵でしょ、これ」と、彼女は手早く言った。
「コインロッカーの鍵みたい。どこの?」
そして、この鍵で開く扉の奥には何が保管されているのだ? そのことをこそ、淳子は知りたい。
「どこの鍵かなんてことを、おねえちゃん、あんたは知らない方がいいよ」
しわがれ声の男はそう言うと、ちょっと電話機から離れたのか、声が聞こえなくなった。しばらくすると戻ってきて、言った。
「あんた今、何か手元に書く物を持ってるかい?」
何も持ってない。が、気が急いていたので、淳子は言った。「持ってるわよ」
「水戸《みと》街道と環七の交差点、青戸《あおと》陸橋って判るか?」
「判るわよ」
「その交差点を左に曲がると――白鳥《しらとり》の方から見て左だぞ――最初の信号の手前に『カレント』って店がある。喫茶店だ。そこへ鍵を持ってきてくれ」
「それはいいけど、ねえおじさん」
「何だよ」
「あたし、アサバに黙っておじさんに鍵を返しちゃうわけにはいかないよ」
相手はちょっと黙った。
「アサバにも相談してからでないとさ。おじさん、アサバの居場所知らない?」
「アパートにいなきゃ、俺は知らねえ」
「アパートって、どこの?」
「あんたアサバと付き合ってんだろう、ねえちゃん。なんで奴のアパートを知らねえんだ」
しわがれ声の男の口調に、警戒の響きが混じってきた。
淳子は不満そうな口振りで言った。「あたしが知ってるアサバの家はさ、ハイム大西《おおにし》っていう御茶《おちゃ》の水《みず》にある汚いマンションだよ。だけどあいつ、あそこは本当の家じゃないみたいに言ってたことがあるんだよね。そういえば家具とかも少ないし、ザコ寝みたいにして他の男がいるときも多いし」
ハイム大西なんて、口から出任せである。心のなかで、必死に念じていた。おっさん、お願いだから引っかかってきてよ。お願いだから、アサバの本当の住処《すみか》を教えてよ。あいつが女の子を監禁しそうな場所を教えてよ。
「ハイム大西? 御茶の水?」
「うん。駅裏の汚ったないとこ」
「じゃあ、あんたが西芳寺の墓から鍵を取り出して届けに戻ったっていうのも、そのハイム大西なのかい?」
「そうよ」
「俺はそんなところは知らねえ」
「やっぱり。じゃ、アサバのアパートってのは別の場所にあるんだね」
いかにも悔し気に、淳子は舌打ちしてみせた。
「あたしのこと、騙してたんだ。他に女がいるんだ。だから本当の住所とか教えなかったんだ。頭きちゃう」
「おい、ねえちゃん――」
「おじさん、アサバのアパートがどこだか教えてよ。あたし、あいつと直に話すわ。そいでそれからカレントとかいう店におじさんに会いに行く。おじさんだって、あたしひとりで行くよか、アサバが一緒の方がいいでしょ? 用件はなんだか知らないけど、おじさんだって、アサバと急いで連絡を取りたかったんだからさ」
ひと息に言って、返事を待つまでもなく、にべもない答えが返ってきた。
「浅羽があんたに家を教えてないんなら、俺からあんたに教えるわけにはいかねえよ」
からかうような、下卑た笑い声をあげて、
「あいつの女のことで、ゴタゴタに巻き込まれるのは御免だからな」
このクソおやじ!
「そんなこと言わないでさ」
「いや、駄目だ。それよりカレントへ来てくれや。鍵を受け取る。浅羽には、俺から改めて連絡をつけて渡すから」
「おじさん……」
「駄目だよ」
これ以上は、ここでいくら踏ん張って押してみても駄目なようだ。ため息をついて、淳子は言った。
「判ったわよ」
教えられた「カレント」の場所を復唱してみせると、しわがれ声の男は、
「ついでに電話番号も教えておく」
「ちょ、ちょっと待って」
今度こそメモするものが必要だ。あわてて周囲を見回したが、狭いボックスのなかに、役に立ちそうなものは見あたらなかった。
仕方がない。とっさに、淳子は決断した。幸い、寒風吹きさらしの道に人通りは少ない。
「いいわよ。教えて」と、受話器に向かって言った。そして電話機の右手のガラスを睨んだ。
男が電話番号を告げる。淳子は集中力を高めた。わき出てくる力を、さながらレーザーメスのように細く尖らせるために、彼女のまぶたも糸のように細く閉じられている。
「三六〇四の――」
3、6、0、4。ガラスの上に、ゆっくりと、さながら水飴《みずあめ》の表面に箸《はし》で筋をつけるかのように、数字が刻まれてゆく。
「――二二八だ」
2、2、8。「8」の下の輪を閉じるときに力がぶれて、数字に短いしっぽがくっついた。ぴしゃりとまぶたを閉じきって、淳子は力を引っ込めた。
「書き取ったかい?」
「書き取ったわよ」
「そこからなら、三十分もありゃ来れる距離だ。三時でどうだ?」
今、午後二時を十分ほど過ぎたところだ。
「いいわ。おじさん、絶対に来てよ」
「おねえちゃんこそ、来ないとまずいぞ。浅羽のためにもならねえからな」
しわがれ声の男は、初めて、脅すような口調になった。
「このことはな、あんたなんかの考えてる以上に大事なことなんだ。いいな? カレントに、俺は先に行ってる。窓際の赤いシートの席に座って、競馬新聞を広げてる。若い女の子なんかあんまり来たがる店じゃねえから、あんたが来たらすぐに判るよ。ねえちゃん、名前は何だ?」
とっさに、淳子は答えた。「ノブエだよ」
「ノブエか。じゃ、待ってるからな」
電話は切れた。淳子もがちゃんと受話器を置いた。数秒のあいだボックスのなかに佇んで、出任せと嘘とこれから掴《つか》むべき情報とを整理してから、外に出た。
幸い、すぐ近くに小さな煙草屋があり、店先でライターやポケットティッシュと一緒にボールペンを売っていた。それを買ってボックスまで戻ると、バッグのなかから「プラザ」のマッチを取り出し、その蓋の裏に、ボックスのガラスに刻んだ電話番号を書き留めた。
つい先の角を曲がって、学生らしい少年のふたり連れが現れた。淳子は急いで電話ボックスを離れ、水戸街道の方向に向かって歩き出した。大きな交差点を目指せばいいのだ。そして歩きながら振り返ると、ふたり連れの少年たちが、ちょうど電話ボックスの前を通りかかるところだった。淳子は道ばたの電柱の陰に身を寄せた。ふたりの少年の会話が、ところどころ切れ切れに聞こえてくる。笑っているようだ。なかなか電話ボックスのそばを離れてくれない。
しばらくしてやっと、ふたりがこちらの方へ向かって歩き始めた。淳子のすぐ近くまできたが、そこから道を渡り、反対側の歩道へ行った。向かいにパン屋がある。彼らはそこで買い物をするようだ。
淳子は鋭く首をめぐらすと、電話ボックスを振り返った。
力は一直線にボックスの方へと飛んでいった。しゅっと乾いた布をこするような音と共に、それはボックスを直撃した。衝突の瞬間、淳子は、意図した以上の力を放ってしまったことに気がついた。しわがれ声の男とのやりとりに、イライラしていたせいだ。
電話ボックスのぐるりのコンクリートの土台から、白い煙がふっとわき出た。その直後、四面のガラスが一斉に、上から下へと砕け落ちた。ドミノ倒しのような整然とした砕け方で、まるでブラインドを引き下ろすように四面のガラスが消えてなくなり、ボックスの足元には無数の白いガラスのかけらが、誰かが冗談で電話ボックスの周囲に盛り塩をしたかのように、ぐるりと積もった。すべて、一瞬のことだった。
ぷんと、硝石《しょうせき》の匂いがした。物音を聞きつけて、さっきのあの学生たちがパン屋から飛び出してくる頃には、淳子はその場から立ち去っていた。ガラス、一枚割るだけでよかったのに――と、手をあげて軽くこめかみを叩きながら。
「カレント」は小汚い店だった。
ふりの客を拒否しているというよりも、最初から見捨てられているような店だった。この店もこの店の馴染み客も、同じようにうらぶれて、非衛生的で、生業の採算がとれておらず、またそれをどうにかしようという意志も持ち合わせていないのだと、世間に向かって公言しているような店だった。入口のドアのノブに手を触れると、手がべたべたした。ノブも錠前も真鍮《しんちゅう》製だった。それを確かめてから、淳子はドアを開けた。
なかに入ると、薄汚れた床の上に、赤いビニールシートの椅子が、安っぽい合板のテーブルを囲んでいくつか並べられていた。入ってすぐの正面のカウンターの内側に、派手なエプロンを掛けた女がひとりいて、すぐ手前の椅子に腰掛けた客の男とふたり、大声をあげて笑っていた。ふたりは笑いながら淳子を振り返った。いらっしゃいませの声もなく、客の男はだらしなく口を開けて笑いながら、舐めるように淳子の全身を見回した。ワイシャツにズボンを穿《は》いているが、ネクタイはなく、襟元から太い金のネックレスがのぞいていた。
淳子はすぐに、店の右手の窓際に目をやった。そこに小柄な中年の男がひとり、うずくまるようにして腰掛けていた。灰色の作業着の上下を身につけ、同色の帽子をかぶっている。その手に競馬新聞があり、淳子の姿を認めると、男は新聞をわずかに上に動かしてみせた。
淳子は彼に近寄り、向かいの席に腰をおろした。赤いビニールシートも汚れて、ところどころ破けてなかの詰め物がはみ出していた。座り心地は最悪で、ズボンの布地を通してダニが股《もも》まではい上がってくるような感じがした。
「あんた、ノブエさんかい?」と、男は訊いた。
「電話のおじさんね?」
「そうだよ」
「すぐ判ったわ」淳子は笑ってみせた。「だけど、このお店のシートって、窓際のだけじゃなく、みんな赤いよね」
正面から見ると、座席のすぐ後ろに据えられている、ひと目で作り物とわかる観葉植物ゴムの木の、プラスチックの色も褪《あ》せた葉が、男の顔のすぐ脇にまで飛び出していた。そのせいか、男の顔が、しけたジャングルにひそむしけた猿のように見えた。それもひどく年老いて、仲間からも見捨てられた猿のように。
「鍵は持ってきたかい?」
「それより、あたしも何か頼んでいい?」
男はコーヒーを飲んでいた。コーヒーカップに入っているからかろうじてコーヒーに見えているというだけの、真っ黒な液体だ。
喉が乾いているわけではなかった。ただ、この店の様子を知るために、時間を稼ぎたかった。もしもこの男から知りたい情報を引き出せるならば、あとはどうにでもできる。ただ、騒ぎになることだけは避けたい。今ここには何人いるのか。入口は正面ドアだけか。
幸運なことに、窓はどれも小さく、ステンドグラスを模したシールがペタペタと貼り付けられていて、おまけにカフェカーテンまで下げられている。このカーテンを燃やさないように気をつければ、外の道路の側から内部をのぞきこまれる気遣いはあるまい。
「アイスコーヒーがいいな」
淳子が言うと、男はちょっと手をあげ、カウンターの内側の女に合図した。
「アイスコーヒーをくれ」
女はむくれたような顔で、返事もしない。さっき彼女と会話していた男の客は、手元にあった雑誌を広げる仕草に隠して、ちらちらと淳子の顔を盗み見ている。
「お冷やもちょうだい」
カウンターの女に、淳子は声をかけた。
「それと、お手洗いはどっち?」
女は、淳子に失礼なことでも言われたかのように目つきを険しくし、おおざっぱにカウンターの左手の方に向かって手を振った。そこにスクリーンドアが一枚あり、かつてはそこに「お手洗い」という札が貼ってあったのだろう、四角い痕がくっついていた。
淳子は立ち上がり、手洗いに向かった。カウンターの前を通り過ぎるとき、左側からあの男の客の、右側からは店の女の、無遠慮で不躾《ぶしつけ》な視線を浴びることになった。淳子は素早くカウンターの内側をのぞき見た。女の立っているすぐ後ろに大型の冷蔵庫が据えられてあり、そのすぐ脇に、店の裏手に通じるのだろう、引き戸が一枚あった。ついてないな、ドアなら手っ取り早いのに――
それから、わざと左側の男の客の方を向き、通りしな、嫣然《えんぜん》と微笑みかけた。客の男の視線はぎろぎろと淳子を追いかけてきた。
手洗いも汚かった。異臭で胸が悪くなった。こんな場所で手を洗ったら、かえって汚れそうだ。淳子は両手で身体を包み、目を閉じた。
あの男の客は、すぐには帰りそうにない。一撃で、店の女とあの男、ふたりを倒さねばならないということになる。その前に、退路を断っておかねば。
異臭と不衛生な雰囲気が心を乱したが、淳子は強いて集中力を高め、やるべきことの手順を確認した。そして手洗いを出た。
ドアを開けて出ると、カウンター内の女が、だらだらした足取りで、窓際の席からカウンターの方に戻ってくるところだった。テーブルにお冷やが置いてある。
「ありがとう、すみません」
そう言って、淳子は微笑みかけた。
「それと、マッチをひとつくださいな」
カウンターに向きあって立つと、あの男の視線が後ろから尻の辺りをなでまわすのが感じられた。
女はカウンターの内側にかがみ込み、マッチを取りだそうとしている。この瞬間に淳子は、奥歯をがちんと噛みしめ、自分の真後ろ、出入口のドアに向かって力を飛ばした。短く太い針の形で送り出された力は、忠実な猟犬のように、真鍮のドアノブと錠前めがけて飛び出した。瞬時にそれを包み、溶かし、溶接した。
バチン! と音がした。溶接され固定されたドアノブに引っ張られ、ドアの蝶番《ちょうつがい》の側がはずれそうになったのだ。
「おい、なんだ?」
男の客が座席の背もたれごしにドアを振り返った。
「ママ――ドアから煙が出てるぜ」
カウンターの女は身を乗り出した。「え?」
ドアノブの周囲から黒い煙が漂っている。その臭いがする。しかし淳子はためらわなかった。即座に、すぐ後ろの客の男を見た。彼は今ドアの方を向き、淳子の前に無防備な後頭部をさらしている。彼の右側頭部をなぎはらうように、淳子は力を繰り出した。
今度の力は太い針ではなく、鞭の形をしていた。力は大きく弧を描いて淳子から解き放たれ、淳子が首を横に振ると、あやまたず正確に男の右こめかみを打った。
男の身体が座席から転がり落ちた。声も出さず、彼は床に転がった。
「ちょっとあんた!」
カウンター内の女が悲鳴をあげた。淳子は力の鞭を繰り出したまま、半円を描いて彼女を振り向いた。力はうなりをあげて彼女に襲いかかり、カウンターの支柱にぶつかると、それをへし折った。そのままの勢いで女に衝突し、女は後ろに吹っ飛んだ。
彼女の身体は引き戸の前に倒れた。完全に気を失っている。淳子はすぐに視線を冷蔵庫の方に向けた。力の鞭をそちらに向かってもうひと振りすると、冷蔵庫の脇腹がぐにゃりと溶けた。溶けながら、それは衝撃波にぐらつき、ゆっくりと女の方に倒れかかった。
「おい、何なんだ、あんた何してるんだ!」
作業服のしわがれ声の男が、淳子の方に突進してきた。すかさず首を振り、男の腰の真ん中あたりを横から叩いた。男は跳ね飛ばされ、床に尻餅をついた。それとほとんど同時に、カウンターの内側で冷蔵庫が横倒しに倒れた。
気絶している女の身体から、ほんの五センチも離れていない場所だ。目測は正確だった。女を押し潰して殺すために冷蔵庫を倒したのではない。引き戸を塞《ふさ》ぎたかっただけなのだ。
作業を終えると、淳子はカウンターの前を離れた。床に倒れている客の男の手が、彼女の進路を横切るように伸びていた。踏みつけないように、慎重にまたいだ。
心臓の鼓動は、今や淳子自身にも数え切れないほどの速さになっていた。体温があがり、額に汗が浮かんでいた。しかしこれも力を使ったための現象ではなかった。この程度の力を行使することは、淳子の肉体に、何の影響も与えないのだ。すべては興奮のせいだった。本性を――装填された銃としての本性を露《あら》わにし、誰が権力を持っているのか、誰が一番強いのか、それをはっきりさせられる局面が、ようやくやってきた。そのことが、淳子を驚喜させていた。
「こわがることないわ、おじさん」
仰向けに床に倒れ、必死に首を持ち上げながら、顔をひきつらせてこちらを見上げている作業服の男に、淳子は語りかけた。
「殺しやしないわ。あたしの訊くことに素直に答えてくれればいいの。それでいいの」
「こ、こ」作業服の男は口の端をふるわせ、涎《よだれ》を流しながら言った。「こ、殺さないでくれ」
「だから言ってるでしょ、殺しはしないって。このふたりだって死んでない。気絶してるだけよ」
作業服の男も、床にへたばったまま動くことができないでいる。淳子から逃げようと後ずさりを試みるが、頭がしきりとぐらぐらするだけだ。
「腰骨を折っちゃったのね」と、淳子はほほえんだ。「ごめんなさい。最初から手荒な真似をするつもりはなかったの。だけどおじさん、こうなったのもおじさんのせいなのよ。おじさんがさっきの電話で浅羽の居所を教えてくれさえすれば、あたし、何もしなかったのに」
今や泣きだしはじめている作業服の男に、淳子は一歩詰め寄った。
「さあ、おじさん。あたしの質問に答えて。浅羽はいつもどこにいるの? 今どこにいそうなの? おじさんと浅羽はどういう関係なの?」
作業服の男の口がわなわなと震えだした。血の混じった唾《つば》が糸を引いて床に滴る。
「おじさん、答えてよ。人ひとりの命がかかってるのよ。教えてちょうだい」
淳子はしゃがみこみ、作業服の男の顔をひたと見つめた。男の目はぐるぐると動き、恐怖でまぶたがひくついているが、淳子の強い視線に引きつけられて、顔を背《そむ》けることもできない。
「さ――」
「さ?」
「サクライ」
「サクライ? 人の名前?」
「み、店の名前だ」
男は喉をごくりとさせると、舌をもつらせながら吐き出した。
「奴――浅羽たちが、よく、集まってる店だ。俺は知らねえ。ほかのことは、俺は知らねえ」
「そのサクライって店はどこにあるの?」
「う、うえ」
「どこなのよ!」
男は身を縮め、目をつぶった。「殺さないでくれよお」
「ちゃんと話せば殺さないわ。どこなの? 言いなさい」
「上原《うえはら》、四丁目だよ。代々木《よよぎ》上原《うえはら》の駅の近くだよ、酒屋、だから、駅前に看板が出てるんだ、すぐわかるよ」
男は咳き込み始めた。そしてしきりと唾を吐く。床に倒れた身体は腰を中心にして奇妙にねじ曲がり、上半身はぶるぶると痙攣するように震えているのに、足はぐったりと投げ出されたまま動かない。麻痺《まひ》しているのかもしれない。
淳子は手をのばし、男の肩に触れた。男はぴくりとし、潤んで血走った目を泳がせながら淳子の顔を仰いだ。
「おじさん、嘘はついてないね?」
「嘘じゃねえよ、ホントだよ」
「サクライって酒屋が、本当に浅羽たちのたまり場なんだね?」
男は首にばねがついているみたいに激しくうなずいた。
「浅羽のおふくろがやってる店なんだ。俺もいっぺんだけ、行ったことがある。奴に、か、金がちゃんと、用意できるかどうか、怪しいから。そしたらお袋に会えって」
淳子の目が再び細められた。
「お金って、どういうお金? この鍵と関係のあるお金?」
ジャケットのポケットから、淳子は西芳寺で見つけたあの鍵を取り出し、男の顔のすぐそばまで近づけた。
男はまた必死の形相でうなずく。「そうだ、そうだ」
「おじさん、この鍵はコインロッカーの鍵だよね? どこの鍵?」
「し、渋谷《しぶや》駅の、北口のコインロッカーだ」
「なかには何が入ってるの?」
男は首を振り、哀願するように淳子の方ににじり寄った。
「なあお願いだ、俺は、何も知らねえ。頼むから殺さないでくれ。頼むよ、頼むよ」
「訊いたことに答えてよ。ロッカーの中身は何?」淳子は言って、男の肩を揺さぶった。
「言えないなら、あたしが言ってあげようか。拳銃でしょう。違う?」
男はまた口を震わせながら唾を流し始めた。淳子は床の上にのばされている男の手を見た。ごつく荒れた手で、指の爪の先がささくれ、黒い汚れがついている。機械油だろう。
「おじさん、職人なんだね。違う?」
男の手を見つめながら、淳子は言った。
「旋盤工かな。腕はいいんだろうね、きっと」
「なあ、ねえちゃん――」
「おじさん、拳銃をつくってるの? つくって売りさばいてるの?」
「俺は何も知らねえんだ!」
「さっきから言ってるでしょう、知ってることを正直に答えてくれれば、あたしはこれ以上何もしないわ。おじさんを殺しもしない。だから言ってよ。おじさん、闇で拳銃をつくってるのね? それを浅羽や彼の仲間たちに売ってるのね? そうなんでしょう?」
観念したようにがっくりと頭を垂れて、男はすすり泣いた。
「こんなことが、ばれたら、俺は本当に殺されちまう」
「誰に殺されるの? 浅羽?」
「浅羽なんかじゃねえ。あんなのは、ただのチンピラだ」息を切らして、男は言った。
「こ――小遣い稼ぎがしたかっただけなんだ。だから、あいつらに、売ってやってただけなんだ」
淳子は理解した。「そうか……そういうことか。おじさん、拳銃密造グループのメンバーなんだね。下っ端なんだね? 浅羽たちに売っていたのは、仲間に内緒の横流しだったってことね?」
男は返事をしなかったが、それが答えになっていた。
「そういうことだったの。よく判った」
そう言って、淳子はゆっくりと立ち上がった。床の上の男は、すがりつくように淳子を見上げた。床を遣うようにして手をのばすと、淳子の足首をつかもうとした。
「全部、話した、な? 俺はしゃべった。ねえちゃん、俺はちゃんとしゃべったぞ」
「そうね。ありがとう」
微笑して、淳子は足を後ろに引いた。彼女の靴の爪先に触れていた男の手が、また床に落ちた。
「正直に言ったぞ、だから見逃してくれ、な? 殺さないでくれ。あんたのことは誰にも言わねえよ」
「おじさん、御礼に、あたしもひとつおじさんに教えてあげる」
「救急車呼んでくれ、な、ねえちゃん頼む。あんたのことはしゃべらねえから」
「おじさんがつくって売り飛ばした拳銃で、昨夜、人が撃ち殺されたんだよ」
「ねえちゃん――」
「あたし、その場にいたんだ。実はね、あたしも拳銃で撃たれたんだよ、おじさん」
作業服の男はもう、淳子の言葉など聞いていなかった。命乞いをしながら淳子の足にしがみつこうとするだけで、何も耳に入ってはいなかった。遣いずって、また淳子の足をつかもうとする。
汚い芋虫《いもむし》みたいだと、淳子は思った。
「さっきあたし、正直に答えれば殺さないって言ったよね?」
男はバカみたいに嬉々としてうなずいた。その顔を見おろし、男と同じように目に喜色を浮かべて、淳子は言った。
「あれは嘘よ」
次の瞬間、力を繰り出した。男の薄汚いしわの寄った首をめがけて、力は咆哮《ほうこう》とともに飛び出した。
一撃で、男の首は折れた。勢い余って床板が砕けた。
男の髪がぱっと燃え上がった。スラックスに火が燃え移らないよう、淳子はすぐに後ろに下がった。振り向くと、出入口のドアを見た。さっき溶接した錠前の部分を、もう一度見つめる――
真鍮の錠前は、高出力の力に耐えられず、すぐに溶け始めた。ノブがぽとりと床に落ちた。
ドアの真ん中を押し、淳子は外へ出た。ドアは焦げ臭い匂いを放っていたが、店の外には煙も漏れておらず、通りを歩く人びとも、何も怪しんではいないようだった。
慎重に、ドアが傾かないようにそっと押して閉めた。近づいてよく観察すれば、錠前のところがおかしいと気づくだろうけれど、ちょっと見ただけでは誰もわからないだろう。
ドアの表側に掛けられていた「営業中」の札をひっくり返し、「準備中」にした。それから歩き出した。青戸陸橋の交差点のところで、信号待ちをしていた若い女性に、代々木上原という駅に行くには何線に乗ればいいのかと尋ねた。
若い女性は親切で、丁寧に教えてくれた。そして、微苦笑の表情で付け加えた。
「ごめんなさい、失礼だけど、あなたの顔に何かついてますよ。黒い汚れみたいな――煤かしら」
淳子は手をあげて、頬をこすった。なるほど、手の甲に黒い染みがついた。
「ありがとう」と、にっこりした。「さっきまで換気扇を掃除していたもんですから」
[#改段]
青木淳子が「カレント」を立ち去った、ちょうどその時刻、石津ちか子は警視庁の刑事部屋の一角で衣笠巡査部長と会っていた。
衣笠の所属する捜査二係は、現在、一週間前に赤羽《あかばね》で発生した強盗殺人事件の捜査を担当している。そのため、衣笠も赤羽北署の捜査本部にいることが多いのだが、たまたま本庁に戻ってきていたところをつかまえることができたのだった。
衣笠は五十二歳、小柄だが恰幅《かっぷく》のいい男である。真面目で几帳面《きちょうめん》な仕事をする刑事だが、目尻の下がった穏和な顔で、人柄も温かい。ちか子は正式には彼と初対面だったが、後輩たちから「キヌさん」と慕われる彼の評判についてはよく聞き知っていた。
衣笠は砂糖をたっぷり入れたインスタントコーヒーを飲んでいた。ちか子の目にも、彼が疲れていることが見えた。ワイシャツの襟刳《えりぐ》りが垢《あか》じみている。強盗殺人事件発生以来、まとまった睡眠もとらず、入浴もせずという状態なのだろう。
「聞きましたよ、田山町の件」と、衣笠はコーヒーをすすりながら言った。「こっちもこっちでてんやわんやなんで、ちらっと立ち聞きした程度でしてね、詳細は知りませんが」
「一昨年、二係で扱った荒川河川敷の事件に様子が似ているんです。あの事件は、荒川署で継続捜査扱いになっているとうかがいました。ひょっとすると同一犯かもしれませんし、手を貸してもらいたいんですが、誰にあたってみればいちばん詳しく事件を掌握しているでしょうか」
本来なら、衣笠からいろいろと意見を聞きたいところなのだが、今のこの彼の顔色を見ては、それもはばかられる。
衣笠は細い目をなお細くして、ちょっと考えた。コーヒーをもうひと口すすり、それから言った。
「荒川署の刑事課に、牧原《まきはら》というのがいます。若いが、なかなか優秀な刑事ですよ。力になってくれるでしょう。私からもひと言、声をかけておきましょう」
「助かります」
喜ぶちか子の顔を見て、衣笠はちょっと声をひそめて言った。「田山町の件は、正式には四係の事件でしょう」
「はい。わたしたちはオブザーバーの立場ですね」
「やりにくいですな」と、衣笠は笑った。「放火殺人なら放火班に一任してくれりゃいいのにね」
「ただ、単に『放火殺人』と言い切っていいかどうか微妙な事件でしょう。荒川河川敷の件もそうでしたわよね」
衣笠はゆっくりとうなずいた。
「あれも奇妙な手口でしたからな。見た目には、被害者四人とも焼き殺されているように見えたし、実際、あの火傷だけで充分致命傷になったでしょうが――」
それについては、ちか子も承知していた。解剖所見によると、被害者は四人とも、一様に頸部《けいぶ》を骨折しているのである。首の骨が折れているのだ。ただしこの骨折が起こったのが、被害者たちが火をつけられる前なのか、火をつけられた後なのか、それが判然としないのだ。
火災で死亡した焼死体の頭部に、まるで鈍器で殴られたような傷が残っているということは、時々ある。それだけを見ると、すわ放火殺人かという誤解を招きかねないような無惨な傷だが、これは、遺体が高温で焼かれたために脳が膨張し、頭蓋骨が破壊されて生じた傷であるという場合が多い。
しかし、頸部の骨折となると話は別だ。高温で焼かれたために首の骨が折れたなどというケースは、少なくとも現在知られている限りでは存在していない。となると、荒川河川敷の事件の四人の被害者は、それぞれに首を折られ、その後に遺体に火をつけられたということになるはずなのだが、しかし、全身を覆う火傷には、あきらかに生活反応が認められるのだ。これはつまり、生きながら焼かれたということを示している。矛盾した事実がふたつ並ぶことになるのであった。
荒川河川敷事件の検死解剖を担当した法医学教室では、最終的には四人を「焼殺されたもの」として結論を出したが、ただしこの焼殺を行うための手段として、なんらかの強い衝撃波を伴う凶器が使用され、その作用で、被害者たちの身体に火がついたのと同時に頸部の骨折も起こったのではないか――という意見を述べている。つまり、放火による燃焼と頸部骨折がほとんど同時に起こったということだ。
さらに、この「衝撃波」という仮説には、もうひとつの拠《よ》り所《どころ》がある。三つの死体を乗せていた車の窓ガラスだ。全部が全部、きれいに割れて砕けていた。だが、この窓ガラスの破壊も、被害者たちが焼かれるその前に起こったものであると考えられるのだ。被害者たちの身体の周りに落ちていたガラスの破片のなかに、溶けているものがいくつかあったからである。そして、ガラスの破片の飛び散り方から推測すると、ガラスを割ったなんらかの「力」は、車の外側、車体の右後方から発せられたものであるらしいという。
しかし、そんな「力」を発する凶器が、この世に在るものだろうか。
それでなくても、短時間で人間を炭化するほどまでに焼き尽くすことのできる熱媒体は数少ない。しかも強い衝撃波を伴い、なおかつ、特に大げさな運搬機械など必要なく普通に持ち運べる大きさのもの――重量もそこから推して知るべしだ。
さらに、もうひとつ難しい条件がつく。荒川河川敷事件では、被害者四人のうち三人までは同一の車内でおとなしく焼き殺されていた。河川敷の地面に倒れていた被害者はひとりだけだった。ということは、この未知の「凶器」は、それを向けられた被害者たちに逃げ出す隙を与えないほど、素早く動くものだということになってくる。
彼らは全員、シートベルトさえ締めていなかった。むろん、縄やロープで縛られていたという形跡もない。自由な状態だったのだ。隣にいる人間が焼き殺されてゆくのを、座ったまま見ていなければならない理由はなかった。逃げ出すことはできたのだ。だとすれば、彼ら――少なくとも車内の三人は、ほぼ同時にこの「凶器」による攻撃を受け、同時に殺害されたのだとしか考えようがない。たったひとり、車の外で死んでいた被害者も、あわてて外へ逃げ出したというよりは、最初からそこにいて、そこで殺害されたと考えた方が自然だった。車のドアが、きちんと閉められていたからである。
「荒川の一件は、常識はずれのことばかりの事件でした」と、ちか子は言った。「今度の件にも、同じ常識はずれの事柄が目立つんです。同一犯人か、少なくとも同一の凶器を使った殺人であることに間違いはないと思うんですよ」
現場の廃工場のスチール棚の一部が溶けていたことを、ちか子は話した。
「なにしろ廃工場ですから、なかは雑然としていて、ほかにも何か機材や設備で壊れたり溶けたりしているものがあるかどうか、今はまだ判りません。さっき現場を見た限りでは、今回はガラスはどこも割れていなかったようですが」
「問題は、今度の被害者たちも、首の骨を折られているかどうかということですな」
「そうですね……。ただ、今回はひとり、銃創のある遺体が出ました」
衣笠が細い目をしばしばさせた。「撃たれたんですか」
「はい。若い男性です。たぶん、その銃創が致命傷でしょう。というのは、彼だけは遺体が焼かれていないんです。同じ場所で発見されたのに、彼だけは火傷ひとつ負っていないように見えました」
ため息をついて、ちか子は衣笠の表情をうかがった。
「これも、荒川の件と共通する要素じゃありませんか」
衣笠は、ちか子の肩越しにどこか遠い一点を見つめるような目をして呟いた。「燃焼範囲がきわめて狭い――」
「そうです。荒川の件では、運転席に座っていた被害者が骨まで焼かれているのに、彼の身体のすぐ脇に垂れていたシートベルトはまったく焼けていませんでした。焦げてさえいなかった。いえ、被害者たちの身体を運び出すと、彼らの座っていた座席のシートさえ燃えていないことが判った。そうでしたね?」
それだけではない。後部座席で発見された遺体などは、衣服の一部が焼け残っていた。身体は炭化しているのに、シャツの袖やズボンの膝から下などは、きれいに残っていたのである。彼ら被害者たちが身体を拘束されてはいなかったということも、それで判ったのだった。
またぴくりとまばたきをすると、衣笠はちか子に目を向けた。
「燃焼促進剤の形跡は?」
「現場で見た限りでは、見つかりませんでした。何も匂いませんでしたね」
「それも同じですな」
衣笠は、空になったコーヒーの紙コップをぐちゃりと握りつぶし、立ち上がった。ちか子も腰をあげた。
「しかし、今度は銃創のある死体がある、か」
呟いて、疲れたように軽く頭を振った。
「私らの強殺事件も、銃ですよ」
「ふたり撃ち殺されたそうですね」
「パチンコの景品交換所なんですがね。店員がふたりとも即死です。やりきれない話だ。本当に本腰を入れて銃器対策に乗り出さないと、今は後手後手に回ってますよ」
衣笠が本庁へ戻ってきたのは、銃器犯罪特別対策本部にレポートを出すためだということは、ちか子も知っていた。
「とにかく、牧原に連絡をとってみてください。オブザーバーという立場なら、逆に自由もきくでしょう。少し、先入観を取り払って調べてみたほうがいいかもしれない」
「先入観ですか」
それはどういう? と問いかけそうになって、ちか子が迷っていると、衣笠は笑った。
「いやつまり、なんといいますかね、奇妙だ、奇妙だと思いながら調べるんじゃなくて、とりあえず「奇妙だ」という感触そのものも脇へ除けて、白紙で調べ直してみるというような意味ですよ。余計なことかもしれませんが」
「とんでもありません。ありがとうございます」
衣笠は席を離れ、刑事部屋の出入口の方へ向かってゆく。ちか子はそれを見送ってから、また腰をおろした。
だけど、奇妙な事件なのよ――と考えていた。どうしたって、縦にしても横にしても奇妙なものは奇妙なのだ。
(それに……)
今の衣笠の、「先入観抜きに」という言葉も、あとで彼が説明したような意味合いで発せられた言葉ではないような気がした。本当は、もっと別の含みがあって言ったことだったのではないか。
眉を寄せて考えていた。そのために、刑事部屋を出ていく衣笠が、傍らのゴミ箱に紙コップを放り捨てつつ、その動作に隠してちらりと振り向き、つかの間、鋭い視線でこちらを見つめていたことに、ちか子はまったく気づかなかった。
[#改段]
代々木上原駅前に、確かに「桜井酒店」の看板はあった。改札口を出てすぐに目につく結構な場所に掲げられた、畳半分ほどもある大きな看板だ。しかも真新しい。
すぐそばまで近づいて、青木淳子はそれを見上げた。看板には店の所番地と一緒に、所在地を示す簡単な地図まで描かれている。駅から徒歩十分だそうだ。頭のなかに道順をたたき込む。
――浅羽のおふくろがやってる店なんだ。
作業服の男は、そう言っていた。だから浅羽たちがよく集まっている、と。
この看板を見る限り、「桜井酒店」はなかなか景気のいい店であるようだ。少なくとも、潰れてしまった「プラザ」よりは上等の商売屋だろう。あの作業服の男の言葉が掛け値なしの真実であるならば、浅羽の母親は「プラザ」の経営には失敗したけれど、その後もっといい目を出したということになる。
覚えた道順をたどって歩き始めながら、淳子は顔をしかめた。だけど、そんな巧い話があるものだろうかと考えた。そもそも、浅羽の母親の店であるならば、なぜ「桜井[#「桜井」に傍点]――酒店」なのだろう。なぜ「プラザ」のような飲み屋ではなく、酒店なのだろう。浅羽の母親は、どういう立場で「桜井酒店」に居るのだろう。雇われ経営者か? しかし、母親の勤め先に、息子とその仲間たちが頻繁に集まってとぐろを巻いているなどという光景は、ちょっと想像しにくい。雇い主がいい顔をするわけがない。だいたい、酒屋という「商店」に不良グループが「よく集まっている」というのも妙な話だ。これも、飲み屋ならまだ話は判るのだけれど。
浅羽たちも、自分たちが何をやっているのかは判っているはずだ。若い女性を拉致して逃走しているのである。廃工場の件も報道され始めている。彼らとて、「フジカワ」から奪った車に「ナツコ」を乗せたまま、漫然と走り回っていられると考えてはいないだろう。必ず、どこかに逃げ込んでいるはずだ。そしてその「どこか」とは、九割以上の確率で、彼らが熟知しており安心して隠れることのできる「巣」であるはずだった。
過去何度かこの種の追跡と戦闘を繰り返してきた淳子は、それをよく知っていた。こういうケースで、逃げる側が、たとえばまったくの飛び込みでモーテルやホテルに入り込むとか、どこかで別の車を都合して乗り換えるとかいう知恵を働かせることは、まずない。いや、正確には、淳子が標的としてきたタイプの人殺したちにはそんな知恵はない、と言うべきか。血の痕も生々しいまま、あるいは犠牲者を拉致したまま「巣」に帰る――それはけっして大胆不敵なのでも恐れを知らないのでもない。彼らの頭には、それでまずいことになるとか、発覚するかもしれないとか、危険だとかいう考えが浮かばないのだ。何をやっても捕まらないと思っているし、疑われることもないとたかをくくっている。とりわけ、人殺しの直後は特にそうだ。血と殺戮に浮かれていて、天下におのれほど強く賢いものはないと思っている。
そういう意味では、彼らは「巣」に逃げ帰ったのでもない。獲物を「巣」に持ち帰ったのである。もっと時間をかけて味わうために。
だからこそ淳子も「巣」を探しているのだ。そうしてどうやら手がかりをつかんだらしいのに、それが酒屋とは――。こんな例は、過去にはなかった。いったいどんな店なのだろう?
記憶した道順と番地を頼りに歩いて行くと、傍らの電柱に「桜井酒店スグソコ」という看板を見つけた。右折しろと表示してある。淳子は角を右に曲がった。そして足を止めた。
三階建てのビルだった。
こぢんまりとしてはいるが、ビルはビルだ。その一階に「桜井酒店」の看板が出ている。間口二間はあるだろう。出入口の脇にビールの自動販売機が据えてあり、ちょうどそこでエプロンをかけた小柄な女が商品の入れ替えをしていた。
淳子の居るところからは、女の横顔しか見えない。若い女ではなさそうだ。真っ赤なエプロンに、ジーンズをはいている。ショートカットの髪は、エプロンに負けないくらい真っ赤に染めてあった。
桜井酒店のビルの両隣は、ごく普通の二階建ての民家である。ぐるりと見回すと、落ち着いた住宅の街並みのなかに、ところどころ小さな商店や三、四階建ての小振りなマンションが混在している。あっちにクリーニング屋が、こっちに洋品屋が、そしてここには桜井酒店が。東京のどこにでもある町の風情だ。
桜井酒店の建物は、それらのなかではかなり新しいもののようで、外壁はまだ真っ白だ。すぐ後ろに、かなり年季の入った古い三階建てのビルがくっついて建っているので、なおさら白く引き立って見える。そしてそのあくまでも白い壁に、傾きかかってきた日差しが照り映えていた。
一階は酒店。二、三階は住居。二階のベランダは洗濯物で満艦飾だ。しかし三階は、ベランダの真ん中に仕切があるだけで、それ以外は何もない。ただ窓の内側を、安物の黄色いカーテンがぺったりと覆っている。淳子はその手のカーテンを他所でも目にしたことがあった。部屋探しをしているときだ。入居者のいない賃貸しの部屋の窓には、よくああいう薄黄色いカーテンがかけられている。日差しで畳や壁紙が焼けるのを防ぐために、家主がかけるカーテンだ。
道路の方に背を向け、赤いエプロンの女は黙々と自動販売機に缶ビールを入れている。そっと歩み寄りながら、淳子は納得していた。ベランダの様子からして、二階は「桜井酒店」の住居なのだろうが、ベランダに仕切壁の設けられている三階は、おそらく賃貸用の部屋だろう。こちらからは見えない側に、上の部屋へとあがる賃借り人用の階段かエレベーターのある入口が在るに達いない。
三階の二部屋は、建物の大きさから見て、たぶん単身者向けのワンルームだろう。そして今現在は賃借り人がいない。部屋が空いているのだ。
――浅羽たちがよく集まってた。
あの作業服の男はそう言っていた。酒店に集まるというのは妙だけれど、これなら判る。浅羽たちは空き部屋を使っているのだろう。それなら充分に「巣」になる。
問題は、浅羽の母親のここでの立場だ。そして彼女の浅羽たちへの関わり方だ。
――おふくろに会えって言われて
密造拳銃の代金の話を、浅羽は母親にもっていっている。母親は浅羽が銃を持っていることを知っているというわけか。
それなら、人殺しについても知っているのではないか。あの男の話と、この「桜井酒店」の造りとを合わせ考えると、浅羽が「ナツコ」を連れてここへ帰って来ている可能性もあるのではないかと思えてくる。胸が高鳴った。
母親に訊いてみれば済むことだ。話したくないというのなら話させてやる。浅羽がここに居ればよし、居なくても、情報は取ることができるだろう。淳子は口の端を吊り上げて微笑した。
赤いエプロンの女のすぐ後ろに立った。
「こんにちは」と、淳子は声をかけた。
女は振り返った。そして、淳子が目と鼻の先に立っているのに驚いて、背をのけぞらせた。
「ちょっと、何よあんた」と、しゃがれ声で言った。
淳子は微笑したまま、その場を動かずに立ちはだかっていた。女はよろけて後ろに下がり、自動販売機に背中をくっつけた。
「びっくりした――お客さんですか?」
「こんにちは」と、もう一度笑顔で繰り返した。「浅羽君のお母様でいらっしゃいますか?」
女は目を見開き、淳子を上から下まで素早く眺め回すと、なんということもなく手をあげて頬をかいた。爪が長い。真っ赤に染めてある。
「浅羽ならあたしですけど」と、しゃがれ声で答えた。「どちらさん?」
淳子は前歯がのぞくほどに大きく微笑んだ。ビンゴだ。
「浅羽敬一君のお母様ですよね?」
「そうだけど」
女は細い眉をしかめた。描いた眉だ。赤茶色だ。
「あたしに何の用? あんた誰よ」
「ちょっとご相談がありまして」
淳子はすたすたと店の入口へ向かった。構えの割には店内は狭く見えた。商品のレイアウトが悪いのだろう。左右に冷蔵ケース、正面にカウンター。カウンターの脇に奥へ通じるドア。今は開け放しにしてあって、ドアストッパーがかってある。廊下と、廊下に敷かれたマットが見える。
店内は無人だった。お客も、他の店員も、見える範囲内にはいない。
淳子はまっすぐにカウンターへ近づいた。女があわてて追いかけてきた。
「ねえ、何の用なのよ? あんたどこの人?」
淳子は振り向くと、正面から女の顔を見据えた。
四十代の半ばぐらいだろうか。ずいぶんと化粧が濃いので、すぐには見当がつかない。いくぶん吊り目気味の二重瞼《ふたえまぶた》。小さな鼻としゃくれ気味の顎。貧相な兎《うさぎ》のような口元。それでも、若い頃はそこそこ美人で通ったかもしれない。いや今だって、本人は充分その気なのだろう。
強い香水の匂いがした。
「浅羽さんのお母様」と、淳子はゆっくり切り出した。「ちょっと内密なお話なんですけど、ここで話してもいいかしら。ほかにお店の方は?」
女は眉根を寄せたが、ちらっと入口の方を振り返ってから、言った。「店番はあたしひとりよ。うちの人は配達に出てるから」
「うちの人? あら、お母様再婚したんですか」
女はさらに深く眉をしかめ、額にも目尻にも醜いしわを刻んだ。返事はしない。
「まあいいわ。用件を言いましょう。わたし、浅羽君を探しているんです。彼が今どこに居るかご存じですか? ある人から、彼はよく仲間たちと一緒にこのお店に集まってるって聞いてきたんですけど、今も階上の部屋のどこかに居るんでしょうか?」
敬一の名を聞くと、女はぐいと顎を引いた。その目に火花のようなものが散った。
「あんた誰? 何しに来たの? 敬一に何の用さ?」
淳子はにっこり笑った。「彼はここに居るんですか、居ないんですか?」
「居ないよ」
「本当に?」
女は手を伸ばすと乱暴に淳子の二の腕をつかんだ。しゃにむに引っ張って、店から追い出そうとする。
痛みに、淳子は顔をしかめた。
「ちょっと、乱暴しないでください。わたし怪我をしてるの」
「乱暴なのはあんたの方じゃないか、人が働いてるところに押しかけてきて」
「痛いから手を離してよ、おばさん」
笑みを消して、淳子は言った。
「あたし、あんたの息子に拳銃で撃たれたのよ」
まるで平手打ちでもくったかのように、女はぎょっと目をむいた。その目をのぞきこむようにして、淳子は言った。
「あんたの息子が買った密造拳銃で撃たれたのよ」
汚らわしいものを振り払うように、女は淳子の二の腕を離した。後ろに飛び下がる。
「あんた、何言ってんの? 頭おかしいんじゃないの? 何が拳銃よ――」
「知ってるはずよ」
淳子は一歩詰め寄った。女の顔から目を離さず、しかしぬかりなく、店の出入口ごしに外の様子もちらりと見た。通行人はいない。
「知ってるはずよ。だって浅羽から、お金の話を持ちかけられたことがあるはずだもの。横流ししてるおっさんに会ったことがあるでしょ? おっさんがここに来たんでしょ? 本人から聞いたよ」
「あんた……」女のくちびるがわななき始めた。「あんたどこの誰なのよ?」
「それは永遠の謎だわね」と、淳子は笑った。
「それより、あたしの質問に答えてよ。浅羽敬一はここに居るの? あんたのバカ息子よ。知らないとは言わせないわ、教えなさいよ」
女は淳子を睨み付けた。目が血走ってきた。ぐいと顔を近づけると、唾を飛ばして言った。
「やなこった!」
淳子は吹き出した。「あら、そう?」
「何のお遊びだか知らないけど、お嬢さん、あんた相手を間違ってるよ。とっととお帰り」
「あら、そう?」
「あたしが優しい顔してる間が華《はな》だよ」
「あんたのどこに華があんのよ、厚化粧のクソババア」
女の顔が糊付《のりづ》けした洗濯物のように強ばった。それがおかしくて、さらに淳子は笑った。
「クソババアだって?」女の頬に、厚い化粧さえ隠せないほどの赤みがさした。「もういっぺん言ってごらん!」
「何度だって言ってやるわよ、このすべた[#「すべた」に傍点]」
女の真っ赤なくちびるがぱくぱくした。腕があがって淳子の顔めがけて振り下ろされる――
次の瞬間、その腕が燃え上がった。
炎は女の腕から生まれ出たかのようだった。指先も、手首も、肘も二の腕も、なめらかな赤い炎の衣に包まれた。女は右腕を振り上げたまま、ぽかんと口を開けてそれを眺めた。それから、悲鳴をあげようと息を吸い込んだ。
女が息を吐き出そうとしたその刹那、淳子は繰り出した力の鞭で女の頬を打った。淳子にしてみれば軽くびんたをしたくらいの力加減だったが、女の頭はがくんと横に振れ、身体が大きくよろめいた。淳子はそれを受け止めると、慣れた手つきで女の燃える右腕を掴み、大きく上下に振った。炎は手品のように消えた。が、女の着ていた薄いセーターはすっかり焼け焦げ、黒い皮膜となって女の腕にこびりついている。肉の焼ける臭いが漂った。
「大きな声を出すんじゃないよ。さもないと、今度は髪を燃やしてやるからね」
笑顔のままそう言って、淳子は両手で女の襟元をつかんだ。
「さあ、おふくろさん、奥へ入りましょう。聞かせてもらいたい話があるの」
女の胸ぐらをつかんで、淳子は店の奥へと引きずっていった。そこは三畳間ほどの広さの板の間で、事務室代わりに使っているのか机が据えてあった。電話機もある。小さな洗面台もある。部屋の隅にはビールのケースが積み上げてあり、そのケースの陰に半ば隠されて、二階にあがる階段があった。
奥にはもう一枚ドアがあった。女の胸ぐらをつかんだまま、淳子は顎の先でそちらを示した。
「あれはどこに通じるドア?」
女は口をあわあわさせている。くちびるの端から白い泡を吹いている。
「しゃべれるはずよ、おふくろさん」
淳子は女の首をぐいと持ち上げた。
「しゃべれなくなるほど強く叩いちゃいないわ。撫でたくらいよ。さあ、言いなさい」
女は口を尖らせ、それからがくがくと顎を開き、よだれをたらしながら言った。
「そ、そうこ」
「倉庫? オーケイ、なかに入りましょう」
女を倉庫に引っ張り込むと、淳子はドアを閉めた。重たい、頼もしいドアだった。段ボール箱やビール瓶や酒瓶のぎっしり詰まったプラスチックのケースが積み上げられており、床はコンクリートむき出しだ。そこに両足を踏ん張って立つと、淳子は女の襟首を掴みなおし、壁に押しつけた。
「おふくろさん、あたしはあんたのバカ息子を探しているの」と、撫でるような優しい声で言った。「どうしてかって言ったらね、あいつが人殺しで、若い女の子をさらって逃げてるからよ。あたしはその女の子を助けに来たの。だから手加減しないわよ、いいわね?」
女の目がうるうると潤んだ。鼻水が滴り落ちる。
「た、たすけ――」
「汚いわよ、おふくろさん。鼻なんか垂らさないでよ。いい女が台無しじゃない」
「たすけて――」
「あんたの命乞いなんか聞いてるヒマはないのよ。言いなさい。浅羽敬一は今ここにいるの? それとも他所にいるの? え?」
「いな、いな、いな――」
「いないの? 本当に? 嘘ついたら、今度こそ手加減しないわよ。おふくろさん、あんたこの顔が自慢なんでしょ? こんなにきれいに化粧してさ。これからも化粧したいでしょ? え? お肌のお手入れしたいでしょ? 大事な顔を焼き豚みたいにされたくないでしょ?」
女の両目からぽろぽろと涙が流れ落ちた。黒い涙だった。マスカラの色だ。
「腹黒い人間は涙まで黒くなるのね。面白いわね、おふくろさん」
淳子は笑って、女の頭を壁にごつんとぶつけた。女はうめいて目をつぶった。
「浅羽は今ここにはいないの?」
目を閉じたまま、女はうなずいた。何度も何度も。
「じゃ、どこに居るのよ」
「し、知らない」
淳子は女から一歩後ずさって離れた。
「おふくろさん、目を開けてごらん」
女は目を開けた。今度は右足の爪先が燃え上がっていた。女はぎゃっと叫んで逃げだそうとした。淳子は彼女を突き飛ばし、壁に叩きつけた。
「サンダルが燃えてるだけよ。ぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃないよ」
女が足をばたばたさせると、サンダルは脱げた。ぽんと飛んで裏返しになり、ぶすぶすとくすぶって嫌な臭いをさせている。
両手で顔を押さえると、女はずるずると尻餅をついた。淳子は腕組みをして女を見おろした。
「浅羽敬一はどこにいるの?」
女は頭を抱えてうずくまった。そうやってできるだけ小さくなれば、淳子から逃げられると思ってでもいるかのように。
「あんたは知ってるはずよ、おふくろさん。彼はどこ? ここの階上の部屋が彼の巣なの? そうなの?」
しゃくりあげながら、身を縮めて両腕で自分自身を抱きしめながら、女はただただかぶりを振った。
淳子は周囲を見回した。それから、女の様子に気を配りながらそっと後ずさりし、隣の事務室に戻った。求めるものは、机のいちばん下の引き出しに入っていた。ビニール紐。そして机の足元に汚いバケツがひとつあり、その縁に雑巾が一枚掛けられていた。手で触れてみると、湿っている。
「埒《らち》があかないから、縛らせてもらうわ」
淳子が近づくと、女は尻で後ずさり、しゃにむに逃げようとした。倉庫の奥へ奥へとはいずってゆく。
「手間暇かけさせないでよ。階上へ行きたいの。ホントに浅羽がいないのかどうか、見てこなきゃ。おふくろさん、あんたの言うことがあてにならないからね」
「嘘、ついて、ないよお」
女は手放しで泣いていた。口の端のさっき淳子の力で叩かれた場所の皮膚が赤くなり、へこんだようになっていて、そのせいでろれつがおかしかった。「嘘」が「うろ」と聞こえた。
浅羽がここにいなかった場合、この女は大事な情報源だ。簡単に殺してしまうわけにはいかない。縛って、倉庫のドアを溶接して閉じこめておこう。手早くしなくては、配達に行っているとかいう「うちの人」がいつ帰ってくるか判らないし、店を無人にしていることで、客が来たら不審に思うだろう。
淳子は苛立ち、ひどい頭痛を感じ始めていた。力を抑えて使っているせいだ。もっと激しく解放してくれと、頭のなかで暴れているのだ。淳子自身、それができるならこの建物を土台から吹き飛ばし、焼き尽くしてしまいたかった。
「ナツコ」さえ助けた後なら、それも可能だ。それまでの我慢だ。
雑巾で猿ぐつわをかませようと、女の髪をつかんで顔をあげさせた。その時だった。
悲鳴が聞こえた。かすかだが、間違いない。女の声だった。だが、目の前の女の喉から漏れたものではない。
瞬間、聞き違いかと思った。が、涙で化粧がはげ落ちどろどろになった女の顔を見、目を見たとき、そうではないと悟った。
女の目は恐怖に満たされていた。両の瞳がいっぱいに叫んでいた。「しまった!」と。
淳子は倉庫の天井を見上げた。
階上の部屋のどこかに、浅羽がいる。
[#改段]
一瞬だけ頭上に気をとられた淳子の隙をついて、浅羽の母親が体当たりをしてきた。淳子を押し倒して逃げようというのだ。その目で淳子を睨み殺すことができるなら殺してやりたいというかのように、両目をかっと見開いていた。
その目と目があった刹那、淳子の脳裏を何かがもの凄いスピードでよぎった。突風のようなその記憶は鮮やかに淳子の内側によみがえり、それとは逆に現実の目の前の出来事は夢のなかのそれのようにゆっくりとスピードダウンして、浅羽の母親の動きはオイルのなかを上下する油クズのそれのように緩慢になり、淳子は現実から離れ、浅羽の母の狂気に潤んだ目を見据えながら回想のなかへと――
これと同じ目を、あたしは確かに見たことがある。あれは、あれは確か――
なぜこんなことをしたの、淳子?
お母さんの声だ。
――どうしてお隣のワンちゃんをあんなひどい目にあわせたの? 可愛いワンちゃんだったでしょ? あんただって好きだったはずでしょ?
だけど、だけどあの犬はねお母さん。
――いきなり、あたしを噛んだの。
――ヘンなふうに身体をよじらして走ってきて、いきなり飛びついてあたしを噛んだの。
――お隣のワンちゃんが怖かったの。だから、だからあたし――
浅羽の母親の勢いに押されて、淳子は彼女と一緒に倉庫の床に転がった。したたか背中と肘を打ち、はずみで肩の傷からまた新しい血が流れ出すのを感じた。
そう、あのときのお隣のワンちゃんと同じだ。狂ったワンちゃんがこの目をしていた。この女と同じ目を。
――だからあたし、お隣のワンちゃんを焼いちゃった!
そうだ、そうだった。淳子は思い出した。あれは初めてあたしが生き物を殺したときの記憶。どうしてこんなときに思い出すんだろう?
――生き物があんたを苛《いじ》めたら、あんたに逆らったら、みんな焼いて殺してしまうの、淳子? そういうつもりなの? それじゃあお父さんもお母さんも、あんたを叱ったり叩いたりしたら、あんたの機嫌を損ねたら、たちまち焼き殺されてしまうの?
浅羽の母親は淳子の身体をまたごうともせず、踏みつけて逃げようとする。倉庫の扉に向かって突進してゆく。
――そんなふうにしていったら、あんたの周りでは誰も、何も、生きていくことができなくなってしまうよ。
――あんたは独りぼっちになってしまうよ。
――独りぼっちになりたいの、淳子?
遠い昔の母の詰問が、回想の緩やかな流れを断ち切った。スローモーションのようだった現実が元の速さを取り戻した。淳子は跳ね起きた。浅羽の母親は倉庫のドアにたどりつき、ひっかくようにして開けようとしている。彼女の背中に、後頭部に向かって、淳子は力の一撃を送り出した。
浅羽の母親は、倉庫のドアごと前方に吹っ飛んだ。瞬間、大の字に手足を伸ばして倉庫のドアにはりついた彼女が、まるで魔法の絨毯《じゅうたん》に乗るおとぎ話の主人公のように空を飛んで行くのを淳子は見た。倉庫のドアは店のなかを突っ切り、出入口のガラスの自動ドアに激突してそれを粉々にした。そして燃え上がった。
淳子は立ち上がり、破壊された店先でドアと共に燃え上がる浅羽の母親の残骸を見た。はっきりそれと形が判るのは、彼女の両足だけだった。驚いたことに、まだ左足のサンダルをちゃんと履いていた。
爆発音と炎に驚いて、近所の人びとが集まってくる。淳子は素早く移動して、階上にあがる階段を探した。手間取りはしなかった。物音を聞きつけて、誰かがどたどたと階下へ降りてきたからだ。
「なんだよ、うっるせえな!」
淳子は階段の真下へ駆けつけた。降りてきたのは若い男だった。長髪で、上半身裸だ。薄汚れたトランクス一枚だけを身につけている。ガリガリに痩せた生白い身体を見あげて、淳子は声を張りあげた。
「浅羽はどこ?」
長髪の男は階段の半ばで立ち止まった。
「な、なんだよおまえ」
「浅羽はどこにいるの?」淳子は階段に足をかけた。
「そこをどきなさい」
長髪の男は後ずさりをした。階段のステップを踏みそこない、よろめいて手すりをつかんだ。
「おまえ何なんだよ? ここで何してんだよ?」
店の方に人が集まってきている。「桜井さん、桜井さん」と呼ぶ声が聞こえる。店主の安全を案じているのだ。声が近づいてくる。ぐずぐずしてはいられない。
淳子は頭上の長髪の男を振り仰ぐと、彼に向かって力を繰り出した。男はあっけなく後ろに飛ばされた。二階の階段の上がり口の壁に激突し、そこで燃えあがった。
「どかないから悪いのよ」
淳子は階段をかけあがった。二階につくと、すぐ右手のドアがぱっと開いた。応接セットのようなものがちらりと見えたかと思うと、男の頭がひょいとドアの陰からのぞいた。そしてまたばたんとドアが閉じた。
今の男も浅羽ではなかったようだ。浅羽のほかに何人いるんだろう? 廃工場で三人殺したのに、彼はまた別の仲間をここに呼び寄せたのだろうか。何のために?
さっき閉じたドアの向こうで、再び女の悲鳴があがった。聞き間違えようがないほどはっきりと、切実な恐怖の叫び。
何のために仲間を呼んだか? 明らかだ。「ナツコ」をなぶりものにするためだ。
淳子はドアをぶち破った。淳子の感情の高ぶりにあわせて「力」もまた高揚し、解放を望み、暴れたがっていた。ドアは一撃で木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になり、粉々になった破片が燃え上がりながら天井まで舞い上がった。いくつかは淳子の上にも落ちかかってきて、髪の焦げる臭いがぷんと鼻をついた。
踏み込むと、そこはリビングルームだった。肘掛けのついた椅子と、ガラスのテーブルがあり、そのテーブルの上に脱ぎ捨てた衣類が山になっていた。床の上にも靴下や下着が散乱している。さっき舞い散ったドアの破片からそれらに火が燃え移り、ぶすぶすとくすぶり始めていた。
リビングルームの左手の先に、一対の引き戸があった。和室があるのだろう。今の騒ぎにも開こうとしないその引き戸の向こうに、きっと「ナツコ」がいる。そして浅羽も。
淳子は踏み出した。
「動くな! 動くんじゃねえ!」
突然、声がした。右手の部屋の隅に、男がしゃがむようにして隠れていた。両手を挙げて淳子に狙いをつけている。
銃を持っていた。
淳子は首だけねじってそちらを向いた。ガラステーブルの上でくすぶっている衣類から煙が流れてきて、淳子の目を刺した。少し涙が出たのでまばたきをした。
「動くなって言ってんだよ、撃つぞ!」
言うなり、男は撃った。淳子の頭のすぐ右脇で弾丸がひゅんと空を切る音がして、横手の壁に大穴が開いた。
淳子はそちらを見もしなかった。銃を持った男を見た。
大柄な、がっちりした身体つきの若者だった。やはり上半身は裸だが、褪せたカーキ色のズボンを穿いている。裸足《はだし》の足の裏がこちら側に向いている。ドアの破片の燃えカスを踏んだのか、黒くなっていた。
撃つぞと警告したくせに、実際に弾が飛び出してしまったことにうろたえているようだった。銃を持つ手つきが急に危なっかしくなった。
淳子が一歩詰め寄ると、男は身を縮めて背中を壁にくっつけた。
「こ、こっちへ来るな!」
男の指が再び引き金をまさぐる。淳子は目を細め、力をしぼって銃へと向けた。途端に、男が銃を放り出した。
「熱《アチ》チ!」
男の両手が真っ赤になっている。柔らかな手のひらに、見る間に火膨《ひぶく》れができてくる。男はうわあとわめいて両手をズボンにこすりつけた。
「熱いでしょ」と、淳子は呟いた。優しいといっていい口調で、にっこり笑いながら。
「ごめんなさいね。でも心配しないで。もう何も感じないようにしてあげるから」
言葉と同時に、力の塊を繰り出した。壁際に座り込んでいた男は、瞬時に燃え上がった。髪が燃え上がり、見開いた彼の両眼が溶け始めるのだけを見届けて、淳子は引き戸の方へと首を向けた。
引き戸が十センチほど開いていた。淳子が視線を向けるとぴしゃりと閉まった。
淳子は微笑した。
部屋中が煙くさくなっていた。部屋全体の温度もあがっていた。それがドアの破片からの延焼や、部屋の隅で燃えているあの若者のせいではなく、自分のせいであることを淳子は知っていた。怒りは燃え上がり、力は制御を受けてもなお淳子の身体全体から外へ外へとほとばしり、それが室温をあげてしまっているのだ。
このままこの引き戸を開け、浅羽の姿を見たら、その瞬間に閃光放射を起こして、「ナツコ」まで焼き払ってしまうかもしれない。淳子は深呼吸をひとつすると、軽く頭を振った。リビングルームの窓のレースのカーテンが、手品のようにさあっと炎に包まれて燃え上がった。桜井酒店の主人には申し訳ないが、この店には全焼してもらう。
淳子は慎重に身体を引き戸にくっつけ、身を潜めた。燃えるカーテンの熱気に背中が熱くなってきた。
一気に引き戸を開けた。
六畳ほどの和室だった。家具はほとんど無い。中央に、寝乱れた布団が敷かれていた。引き戸を開けると女のすすり泣きが聞こえたが、顔は見えない。淳子は踏み込んだ。
窓が開いていた。そのすぐ外に、鉄製の外階段が見えた。三階の賃貸マンション用の階段であるらしい。手すりをまたげばすぐそこという距離だ。
開いた窓から消防車のサイレンが聞こえてきた。近づいてくる。
すすり泣き。淳子は振り返った。窓の反対側にある押入の脇、部屋の角に身体をくっつけ、できるだけ小さくなって隠れようというかのように手足を縮めて、若い女がいた。ほとんど全裸のようだったが、身体に大判のタオルのようなものを巻きつけていた。
「あなた、ナツコさん?」
近寄りながら、淳子は訊いた。若い女はますます縮こまり、涙に濡れた顔を背けてタナルの陰に隠れてしまった。
素早く女のそばにかがみ込むと、淳子は両手で彼女を抱いた。
「心配しないで。あたしは味方よ。あなたを助けに来たの。フジカワさんに頼まれてあなたを探してたの」
フジカワの名前を出した途端、若い女はぱっと顔をあげた。まるでその名前にすがりつくように。その名前そのものが命綱であるかのように。
「藤川さん? 彼生きてるの? 無事なの?」
戦闘に、淳子の神経は張りつめていた。力は興奮を自己増殖し、あたかも高速増殖炉のようなメカニズムで次から次へとより強いパワーを生み出していた。それだけに淳子の心は疲れ、視野《しや》狭窄《きょうさく》を起こしていた。ナツコの放ったとっさの質問に、上手な嘘をついてやれるだけのゆとりはなかった。
「ええ、彼は無事よ」と、言葉では言った。しかしその反応は遅く、表情は言葉を裏切っていた。
ナツコはそれを読みとった。「彼、死んだの?」と、震える声で訊いた。「嘘をつかないで。死んだの?」
ナツコは淳子にしがみついてきた。間近で見る彼女の顔にも身体にも、おそらく殴られたのだろう、青黒い痣《あざ》がたくさんあった。くちびるは切れて腫《は》れあがっている。淳子にしがみついた右腕の、二の腕の柔らかい皮膚に、煙草の火でできた大きな丸い火傷の火膨れがあった。
「ええ」と、淳子はうなずいた。「殺されたわ。死ぬ間際に、あたしにあなたを助けてくれって頼んでいったの」
ナツコの顔が大きく歪んだ。まだ彼女の身体にそれだけの体力が残っていたのかと思うほどの声を張り上げて、彼女は泣いた。ひと声大きく、悲鳴のような声をあげた。そして震えた。
「さあ、立って。ここから逃げましょう」
リビングルームが燃えている。カーテンから天井まで火が移った。
「あの窓の外の階段から上に行きましょう」
淳子がナツコを支えて立ち上がろうとすると、彼女は激しく後ずさりした。
「駄目よ! あの階段の上には――」
「あなたをさらってひどい目にあわせた男が逃げていったんでしょう?」
ナツコは震えながらうなずいた。
「さっき大きな音がしてから――引き戸の隙間からずっと様子を見てたんだけど、あなたが来る前に窓から逃げ出したの。あの外階段をのぼっていったの」
「彼を追いかけなくちゃ」
「殺されるわ!」
「大丈夫よ。あたしの方が強い」
自信をもって、淳子は言い切った。
「あなたにこれをやったのは、窓から逃げた男?」
ナツコの二の腕の火膨れを指して、淳子は訊いた。彼女はうなずいた。
「それなら、あいつにはもっと熱い目にあってもらわなくちゃ。さあ、行きましょう。どっちにしろ、ここにいたら焼け死んじゃうわ」
手近には、ナツコが身につけることができそうな衣類が見当たらなかった。どのぐらい前から彼女が裸にむかれていたのかと考えると、淳子はこめかみが痛くなってきた。力が暴れたいといっている――
ナツコは淳子のジャケットを羽織り、窓の手すりをまたいだ。外階段に移るのは、それほど危険な作業ではなかった。狭い土地に無理して建てたビルの設計ミスのおかげだ。ジャケットがちらりとめくれて、彼女の太股の内側に幾筋も血が流れた跡がついているのが見えた。淳子は胸がむかついて、こめかみが激しくうずいた。
ナツコが外階段に移ると、淳子も後に続いた。すでに陽は暮れていたが、外階段の踊り場に立つと視界が開け、近所の人びとが道路に出てこちらを見上げていたり、窓をさして騒いでいるのが建物の隙間からちらちらと見えた。消防車の赤い車体も、消防士の銀色の耐火服も見える。
「あたし怖い」と、ナツコが泣いた。
淳子は彼女を左腕でしっかりと抱きかかえた。
外階段に出ると、もうひとつはっきりしたことがあった。ここから下には降りられないということだ。一階に、そして安全な地面へと続くはずの階段には、壊れたビールケースや段ボール箱、大きな木箱などのガラクタがうずたかく積み上げられているのだ。階段倉庫か。ちょっとやそっとではどかすことさえできそうにない。乗り越えるのも難しそうだ。下の人たちが騒いでいるのも、ひとつにはこのせいかもしれない。
しかし、二階から飛び降りるわけにもいかない――
「しょうがないわね」
三階まであがる。建物は三階建てだが、外階段はまだ上へと続いていた。小さな給水タンクが見える。屋上があるのだろう。
浅羽も同じルートをたどっているなら、屋上へ向かうだろう。しかし、そのまま階段をのぼって行こうとしたとき、三階の非常階段の内側でがたんと音がした。淳子は緊張した。浅羽か?
しかし、外階段から非常ドアを開けてなかに入ると、三階は嘘のように静まり返っていた。
廊下に沿ってドアが三つ並んでいる。どのドアもきちんと閉じられていた。ノブをつかんで揺さぶっても開かない。
突き当たりには小さなエレベーターがあり、そのドアも閉じている。
浅羽はもうこの階にいないのか。それなら、さっきの物音はなんだろう?
ここへきて初めて、淳子は逡巡《しゅんじゅん》した。ナツコを先にひとりで逃がした方がいいか? それとも、最後まで彼女をそばにおいて行動した方が守ってやりやすいか?
階下の火事の影響で、エレベーターはあてにできない。ここまできてナツコを火事で死なせるわけにはいかない。逃がすなら屋上だが、ひとりにするのは心配だ。
「ナツコさん、ここにいて」と、小声で言った。
「何かあったらすぐドアを開けて外階段に出るのよ、いい? そして屋上まであがって、大声で助けを呼びなさい。梯子車が来れば、簡単にあなたをおろしてくれる」
ナツコは血の気の失《う》せた顔で淳子を見あげる。
「あなたは?」
「あたしはこの階の部屋を調べてみる。浅羽を捕まえなきゃ」
「あいつ、銃を持ってるわ」と、ナツコは震えた。「危ないわ、駄目よ、行っちゃ駄目」
「それなら、余計にあいつがどこにいるか確かめてからじゃなくちゃ逃げられないわ。屋上へ出たところを後ろから撃たれたらたまらないもの」
「だけど……」
「大丈夫、三つの部屋を調べたらすぐにあなたと一緒に逃げるから」
ナツコを非常ドアの前にしゃがみこませ、淳子はするすると行動を始めた。ドアの脇の壁にぴったりと身体をくっつけ、「力」を送って錠前を溶かす。そしてドアを跳ね開ける。部屋をのぞきこむ。もしも浅羽が銃を向けてきても、すぐに対抗できるだけの「力」が身体中に満ちていた。
ワンルームの賃貸用の部屋には、三つとも人気がなかった。トイレのドアまで開けてみたが、浅羽はいない。
エレベーターのボタンを押してみた。ドアは開かない。やはり、電気系統のどこかが火事でやられているのだろう。
どこからともなく煙が忍び込んできて、三階の廊下もきな臭くなってきた。淳子は早足でナツコのそばに戻った。
「奴はいないわ。悔しいけど、逃げられたみたい。あたしたちも屋上に行きましょう」
ナツコを支えてまた外階段をのぼった。屋上へは、半階分だけのぼればよかった。身を低く、ほとんど這うようにして、屋上とは名ばかりという感じの四畳半ほどの広さの場所に出た。ぐるりは低い手すりに囲まれ、中央に給水タンクがある。
頭をあげて周囲を見回そうとしたとき、おかしなものが目に入った。給水タンクの足元に、タバコの残骸がたくさん落ちているのだ。吸い殻ではなく残骸≠ナある。すっかり紙をはぎとられてパラパラにほぐされた紙巻きタバコの中身が、北風に吹き散らされている。フィルターが三つ転がっているところを見ると、これで紙巻き三本分だろう。まるで、誰かが時間つぶしに、タバコを吸うのではなく、タバコを解体していたかのようだった。
――何かしら、これ。
浅羽たちはドラッグにも手を出しているのだろうか。紙巻きをほぐし、そのなかに大麻を巻き込んで吸うやり方があるということは、週刊誌か何かで読んで知っていた。
背後で、ナツコが身を伏せたまま小さくくしゃみをした。淳子は振り返って彼女の肩を励ますようにさすり、膝立ちになって周囲の様子をうかがった。
さらに、屋上の東側の端に、ぽつんと飛び出した小さな部屋があることに気づいた。片開きのドアがついており、「立入禁止」の表示がある。エレベーター用の動力室だろう。
浅羽がここにあがってきたなら、まだ下に降りられずに潜んでいる可能性が高い。身を隠すことができそうなのは動力室のなかだけだ。淳子は手振りでナツコにこの場を動くなと指示をして、そっと給水タンクの方へとにじり寄った。
給水タンクを盾に、動力室の様子をうかがう。ドアが開く様子はない。浅羽は隠れていないのだろうか? 自分たちを襲ってきた者の正体を確かめることも、反撃することもせずに、もう逃げ出してしまったのだろうか? しかし、方法は? 浅羽が下に降りるには、消防の梯子車の助けを借りるしかないはずだ。周囲に足がかりになるようなものはない。
淳子は素早く身を起こし、動力室に近寄った。慎重にドアに近づき、ノブをつかんだ。
ゆっくりと、右に回す。音もなく、なめらかに回る。このドアは手前に引いて開けるタイプのドアのようだ。
ちょっと手前に引いてみる。重い。十センチほど開く。気配をうかがう。
何も感じられない。動悸を抑えながら、淳子は慎重にドアを元通りに閉めた。
首をよじって振り返り、ナツコの姿を探した。淳子から離れて、ナツコは階段のそばにうずくまっている。淳子のジャケット一枚で不器用に身体を隠し、ひどく寒そうだ。むき出しの両足は、股の半ばまで外気にさらされており、擦過傷《さっかしょう》や痣がなおさら痛々しく見える。
淳子は大きく息を吸い込むと、思い切ってドアを全開した。思いがけないほど力が要った。開けたドアにもたれて背中をつける。浅羽が飛び出してきたなら、あるいは銃声が聞こえたなら、すぐにも身を伏せて力を全開にして放射するつもりだった。
風の音が聞こえる。救急車や消防車のサイレンも、野次馬のざわめきも。音は上にあがるものだから――と、この緊張の瞬間に、そんなことをぼんやり思った。
浅羽は出てこない。しかし――何かずるりとものを引きずるような音がする。
淳子はわずかにドアから身体を離した。閃光放射の用意を調えたまま力を制御し続けるには、恐ろしく強い意志の力が要る。歯をくいしばっているせいで、こめかみがガンガンした。
淳子はさらに姿勢を低くし、ゆっくりと、右手を地面について、ほとんど這うようにしてドアの前へと進んだ。
そのとき、視界の上の方で、黒い影がゆらりと揺れた。淳子はとっさに立ち上がった。中腰になると、黒い影が倒れかかってくるのをまともに受け止める形になった。
黒い影は人間だった。その体重を支えきれず、淳子はもろともにコンクリートの屋上の床に倒れた。ぷんと血の臭いがした。
背後でナツコがけたたましい悲鳴をあげた。淳子はもがきながら倒れてきた人間の身体の下から抜け出した。上半身裸で、ズボンだけをはいている。足も裸足だ。血にまみれている。首も、肩も胸も腹も。そして俯《うつぶ》せになっているその人間の後頭部は、ほとんど形をなしていなかった。
淳子は手を伸ばし、今やぐったりと俯せに倒れているその半裸の人間の短い前髪をつかんだ。ぐいと頭をあげさせた。
若い男だった。両目を見開いていた。その目のなかにも血が流れ込んでいた。
額の中央にぽっかりと赤黒い穴が開いている。淳子の親指が入りそうな大きさだ。
再び、ナツコが叫び声をあげた。とぎれることのないヒステリックなその声は、地上の人びとの耳にも届いているに違いない。救助の人びとを必要以上にあわてさせることになる。淳子は素早く動き、ナツコのそばに駆け寄った。
「しっかりしてよ、大丈夫、黙って、お願いだから黙って!」
両肩をつかんで揺すぶっても、ナツコはまだ悲鳴をあげ続ける。淳子は手をあげて彼女の頬を打った。
寒さで青白くなっていたナツコの頬が、打たれたところだけ赤くなった。彼女は悲鳴をあげるのをやめ、あえぐように息を吸い込んで震え始めた。
「あれ、浅羽敬一?」
淳子は肩越しに半裸の男の死体の方を顎で指し示した。
ナツコはぶるぶると震え続ける。死体の方を見ようとしない。
「確かめて、お願い。あれが浅羽敬一なの?」
震えるナツコのくちびるが、なんとか言葉を発しようとして動き、歪む。
「ア、アサバ――」
「そう、浅羽よ。ああそうか、あなたはあいつの名前を知らないのね? だけど顔や姿は判るでしょ? あいつが、あなたと恋人のフジカワさんをこんなひどい目にあわせた奴? さっきまで、あたしが乗り込むまで、二階の和室であなたを監禁していた奴? そうね?」
ナツコの両目から、涙があふれ出した。まばたきを繰り返し、全身で震えながら、彼女は何度かうなずいた。
「そう……」
淳子は振り向いて浅羽の死体を見た。裸の肩がよく見える。風になぶられる白い肌は妙に生白い。こちら側から見ることのできる彼の左腕に、何か傷痕のようなものが残されていることに淳子は気づいた。ずいぶん古いもののようだった。深い切り傷を縫合した痕のように見える。子供のころの怪我の名残だろうか。
彼がこの傷を負ったとき、母親はさぞかし心配したことだろう。彼を抱いて病院へ走り、泣く子を抱きしめてなだめ、痛い治療が終わればよく我慢したと誉めたことだろう。この子がやがて、好んで他者を傷つけ殺してはばからない怪物のような人間になってしまうなんて、夢にも思わなかったことだろう。
道はどこで分かれたのだろう。もしも標識が立っていたのだとしたら、なぜ誰もそれに気づかなかったのだろう。何がいけなかったのだろう。
あたしにはわからない――淳子は浅羽の傷跡から目をそらした。
「もう大丈夫、あいつ死んでるわ」
そう言いながら、そっとナツコの身体を抱いて揺さぶった。
「あなたにひどいことをした奴は報いを受けたのよ」
ナツコの喉からひゅうひゅうという音が漏れ始めた。それまでは音もなく流していた涙に、悲痛な声が混じり始めた。どこかが破れたかのような声をあげて、ナツコは泣き崩れた。その肩を抱きながら、冷たい風に向かって目を細め、淳子は考えた。
――浅羽、どうやって死んだの?
自殺なのか。手にしていた銃で頭を撃ったのか。ほかに誰もいない以上、それ以外には考えようがない。だいいち浅羽は主犯だ。リーダーだ。犯行グループのなかで、彼を殺せるのは彼しかいない。
「あ、あ、あたしたち」
苦しそうにあえぎながら、ナツコが言い始めた。
「初めて、の、デート、だった」
「あなたとフジカワさん?」
痙攣するように、ナツコはうなずく。
「あたし、たち、今日、お休みで、だからドライブしようって――ホントに初めて――彼、会社の先輩で――」
淳子はナツコの背中をさすってやった。
「いいのよ、今は無理してしゃべらないで」
そっと膝をついて立ち上がると、淳子は浅羽の死体に近寄った。ぐるりと見回す。拳銃はない。動力室のなかだろう。浅羽はあのなかで頭を撃ち、あのなかで死体となり、自分を追ってくる者がドアを開けるのを待っていた。最後のひと脅かし。死体となって倒れかかり、追っ手の身体に自らの血をなすりつけてやる――
「あた、し――どうしてこんな――どうしてこんなひどいこと――できるの?」
ナツコがしゃがれた声で訴え続ける。淳子は浅羽の死体をまたいで動力室の方へと向かいながら、一瞬目を閉じた。ナツコの問いに、あなたたちは運が悪かった、悪いときに悪い場所にいて、浅羽という凶運に遭遇してしまった、それだけのことよ――そう答えるのは忍びない。事実はそれだけのことだけれど、言葉にするには惨《むご》すぎる。
開けはなったドアの内側、動力室のなかの闇には濃い油の臭いがした。淳子は内部に踏み込み、注意深く床や物陰に目を走らせた。
拳銃は、あった。
動力室の隅の、半ば壊れた段ボール箱の陰に落ちていた。段ボール箱は蓋が壊れ、なかからケーブルの切れ端のようなものがのぞいている。淳子が拳銃を拾おうとして手を伸ばすと、切れたケーブルの端がちくりと手の甲を刺した。まるで、浅羽の意志を代弁し、最後の些末《さまつ》な抵抗を試みるかのように。
「往生際が悪いわね」
そう言って、淳子は拳銃を拾い上げた。ケーブルに刺された手の甲に、針の頭ほどの血の粒が浮いた。首を下げてその血を舐めると、口のなかに鉄の味が広がった。動力室内に立ちこめている、機械油の臭いもした。
今までの戦闘で、淳子に追いつめられ、命乞いをした連中はたくさんいた。いや、ほとんど全員そうだった。他人の命は玩具《おもちゃ》のように扱うくせに、自分の命が危険にさらされるとなると、見苦しく泣いたりわめいたり。淳子に這い寄って爪先を舐めるようにして懇願する奴までいた。そういう輩《やから》はみんな、自分のやった悪事を認めようとせず、きまって誰かのせいにした。先に死んだ誰か。先に淳子の手で処刑された誰か。あいつにたきつけられたんだ。あいつに脅かされて手伝わされたんだ。俺は、あたしは、本当はあんなことしたくなかったんだ、信じてくれ――
しかし、自殺した者はいない。今まではひとりもいなかった。
浅羽は特別なのか? 凶悪さという点でも、その身の処し方も。いや、彼よりももっと凶悪で、もっと死にたがらなかった奴を淳子は知っている。数人の女子高生を車で追いかけ回し、獲物を狩るようにして死に追いやった若者だった。あいつは最後の最後まで、今度は自分が追いつめられ、自分が狩られる番だということを認めようとしなかった。閃光放射を放とうとする淳子に向かって、彼はこう叫んだ――こんなことをしてただで済むと思うなよ!
しかし、浅羽は自分で自分の頭を撃ち抜いて死んだ――本当にそうか?
淳子は頭を振り、手のなかで冷たい銃身を握りしめた。その重みが心地よかった。そのまま踵を返し、動力室から出ようとした。
そのとき――
「誰? 誰かいるの?」
ナツコの声が聞こえた。淳子は急いで動力室のドア枠をまたいだ。外に出ると、さっきと同じ場所にうずくまっているナツコが見えた。浅羽の死体も見えた。
ナツコは右手の方を向いていた。淳子に横顔を見せ、身体はぴったりと壁にくっつけている。彼女は、給水タンクに隠されて淳子の居る場所からは見えない誰かに、何かに向かい、誰何《すいか》の声をあげていた。
「そこに誰かいる――あ! あなたは!」
驚きに両目を見開いて、ナツコは声を呑む。淳子は走った。彼女の元へ、短い距離を飛ぶように、前のめりになって駆けた。すべてがまたいまいましいほどのスローモーションになった。瞬間が引き延ばされて、コマ落としで淳子の眼前に広がる。
浅羽の死体をまたぎ越えたその瞬間、つんざくような銃声が轟き、ナツコの身体が後ろへ吹っ飛ばされた。彼女の頭が大きく後ろにそり返り、目は見開かれ、両腕が舞うように宙を泳ぐ。今にも誰かを抱きしめようとするかのように、ナツコは空に向かって大きく両手を広げ、そのまま仰向けに倒れてゆく。
淳子の目の前で、ナツコの額から飛び散った血がコンクリートの床に、階段室の壁に、淳子自身の頬にと飛び散る。
「ナツコ!」
抱き起こした身体からは、力が抜けていた。額に穴が――浅羽のそれと同じ穴が開いている。そして紛れもない火薬の臭い。
淳子はナツコが撃たれる直前に見ていた方向へと頭を向けた。何もない。暮れたばかりの宵の空があるだけ。淳子は立ち上がり、屋上の手すりに取り付いて、狂気のように左右を見回した。
左隣と右隣は二階屋で、見おろす屋根の上はこの桜井酒店の窓から吹き出す黒い煙で覆われている。だが、表通りからは見ることのできなかった裏手には、二階建て陸屋根《るくやね》の、屋上付きの家屋があった。そして淳子が手すりから身を乗り出してそちらを見おろしたその瞬間、その陸屋根の屋上から、誰かがひらりと身をひるがえして地上へと姿を消した――ように見えた。煙がかばうように流れて淳子の視界を遮ってしまったのだ。
――飛び降りた?
あれは誰だ? あんなところになぜ人がいた? あれが、あれがナツコを撃った人間か?
――どうして?
浅羽のほかにも追うべき敵がいたのだろうか? フジカワとナツコを襲った若者グループのリーダーは、首謀者は、浅羽ではなかったのか。
呆然としてよろめいたとき、足の裏が何か小さくて硬いものを踏みつけた。自動人形のように動いて、淳子はそれを拾った。何であるか、すぐに判った。
薬莢《やっきょう》だった。長さは三センチほど。触れるとまだ熱い。しかし淳子はそれを握りしめた。
ナツコの亡骸のそばに引き返した。もうそんな必要などないのに、ナツコにはもう何も聞こえないのに、足音を忍ばせ、できるだけ静かに傍らにひざまずいた。昨夜以来、ナツコはさんざん恐ろしい目に遭い、汚らわしい言葉を聞かされてきた。彼女の亡骸のそばで、もう騒々しい物音はたてたくない。
ナツコの目は開いていた。淳子は浅羽の銃を足元に置くと、手を伸ばし、その目を閉じてやった。ナツコの目はもう乾いていたが、まるで彼女の代理を務めるかのように、淳子のまぶたが熱くなった。
ほんの数秒のあいだ、ナツコに代わって淳子は泣いた。
――ごめんなさい。
あなたを助けることができなかった。あたしが何かを見落としていたから、誰かを見逃していたから、こんなぎりぎりの土壇場になってあなたを死なせることになってしまった。
ナツコの亡骸に手を触れながら、淳子は浅羽の死体を振り返った。
完全に死んでいる。もう誰を脅かすこともない、無害な肉の塊だ。破壊された彼の後頭部を見つめているうちに、刃物をあてられたような冷ややかな戦慄《せんりつ》と共に、淳子は思いついた。
――あれば、自殺じゃなかった?
浅羽もまた殺されたのではないのか。
でも、でも、いったい誰に?
さっき裏手の家の屋上から消えたあの姿。あれが浅羽を殺した誰かの姿だったのか。そうだとしたら、じゃああれは誰だ? どういう立場の人間だ?
浅羽の仲間なら、自分たちの犯行の生き証人を消すためにナツコを殺すことはしても、浅羽を殺すはずがない。浅羽の敵ならば、ナツコを殺すはずがない。相対する立場の浅羽とナツコのふたりを、相前後してこの場で撃ち殺す――そんな必要のある人間は、いったいどこの誰だというんだ。
浅羽の仲間ならば[#「浅羽の仲間ならば」に傍点]、今までどこにいた[#「今までどこにいた」に傍点]? ナツコは、窓から逃げたのは浅羽ひとりだと言っていた。
浅羽の敵ならば[#「浅羽の敵ならば」に傍点]、いったいどこからやってきた[#「いったいどこからやってきた」に傍点]?
屋上の周囲を黒い煙が包み始めた。その光景はそのまま、淳子の心のなかに渦巻き始めた疑惑の光景だった。
淳子は梯子車によって救出された。
梯子車から乗り移ってきた消防隊員がすぐに毛布をかけてくれたので、それを頭からかぶった。すっかり怯えてすくみあがっているふりをした。
「ほかにも誰かいますか?」
早口の質問に、激しく頭を上下にうなずかせて答えた。声は出さなかった。
消防隊員たちがナツコたちを発見する前に、淳子は地上に降りていた。誰かが救急車の方に誘導してくれたが、淳子はその手をやんわりとほどいた。
「気分が悪くて吐きそうなんです。ちょっとごめんなさい」
そして、走って手近の下水口の方へ行った。現場は消防隊員と野次馬でごったがえしている。頭をかがめ、人混みにまぎれ、顔を伏せてそっと現場から抜け出すことができた。
通りを渡り、十重二十重《とえはたえ》の野次馬の輪のいちばん外側から桜井酒店を見あげた。煙を吐きながらくすぶる建物は、場違いに陽気な看板を掲げた大型の墓石のように見えた。
敗北感と同時に、きりで突き刺されるような頭痛を感じた。足を緩めたら倒れてしまいそうだったから、立ち止まりはしなかった。
この戦闘は失敗だった。助けるべき人をふたりも見殺しにして、残ったのは謎だけ。しかも今の淳子は、そんな自分に腹を立てることができるほどの力も残されていなかった。
淳子は歩いた。撃ち殺された戦友の認識票を握りしめて前線から後退する兵士のように、ただあの薬莢だけをしっかりと手のなかにつかんで。
[#改段]
本庁で衣笠巡査部長と話したあと、石津ちか子はすぐに荒川署に向かった。衣笠の教えてくれた、河川敷の焼殺事件を継続捜査しているという牧原刑事に会うためである。
都心部の夕方の道路渋滞が始まる時間帯まではまだ間があったので、タクシーに乗った。車に揺られながらぼんやりと、田山町の廃工場の様子を頭に思い浮かべていると、運転手が話しかけてきた。
「奥さん、ご苦労さんだね」
ちか子はちょっと驚き、物思いから覚めた。
「あたしですか?」
問い返すと、運転手はがらがらと笑った。横目でちらちらとルームミラーのなかのちか子の顔をうかがいながら、言った。
「いやあ、警察に行くなんざ、いいことであるわけねえからさ。何しに行くの? 子供さんが何かやったのかい? 近ごろのガキどもは性悪だからね」
頭頂部の禿《は》げあがった小太りの男だ。ちか子と同年配のようである。そのせいもあって、余計に気やすい口調になっているのか。
ちか子は内心、苦笑した。ひとりでタクシーに乗り、都内の警察署や監察医務院に向かう場合、ときどきこういうことがある。運転手たちは誰も、ちか子を刑事だと思わないのである。
しかし、ここまで剥《む》き出《だ》しに、奥さんあんたの子供が何か悪いことをして警察に呼び出されたのだろう、などと問いかけられたのは初めてだ。気を悪くするというより、興味が湧いてきた。なかなか想像力豊かな運転手である。
それとも、何か近場で「近ごろの性悪なガキ」と遭遇することがあったのだろうか。その体験が、今の発言を呼んだのかもしれない。
それを探るために、ちょっとかまをかけてみることにした。
「本当に、今の子供たちは難しいですからね」
わざと、一般論で切り返してみた。
「大人顔負けの知恵が働くし、身体も大きいし。だけど、やっぱり子供だからどっか抜けていたりするしねえ」
運転手は大きく頭を動かしてうなずくと、またルームミラーのなかのちか子の顔を見た。ちか子にも、落ち着きなくきょろきょろと動く彼の小さな目が見えた。
「あたしゃね、この前の出番のときに、ガキに襲われそうになったんすよ」
へえ、とちか子は思った。どうやらこちらの推測があたっていたようだ。
「襲われそうになったって、タクシー強盗ですか?」
「そう、そう。三人で乗り込んできやがってね。ありゃみんな未成年だね。髪なんかキンキンに染めちまって、だぶだぶのズボンはいてさ」
「どこで乗せたんです?」
「新富町《しんとみちょう》の中央会館の近く。奥さん知ってる?」
「ああ、だいたい判ります。何時ごろ? 遅かったんでしょ?」
「そうでもないですよ。十一時になってなかったからね。連中、新宿へ行ってくれっていうんだけど、あたしゃそのとき、まだ電車が走ってる時間なのに、贅沢《ぜいたく》なもんだこの兄ちゃんたちはって思ったんですから」
行き先を告げると、彼らはやかましくおしゃべりを始めたそうだ。話の様子では、三人組はみな新富町のあたりの住人であるらしく、家を抜け出して夜遊びに出掛けるところであるようだった。親は何をしているんだろうと、運転手は呆れてしまった。
「あたしだったら、まだ学生の分際《ぶんざい》で倅《せがれ》が夜の十一時すぎに遊びに出掛けるなんて、絶対に許さねえよ。ぶん殴《なぐ》ってやりますよ」
「そうですよねえ」と、ちか子も同調した。
「だいいち、平日だったんだからね。あいつら学校なんか行ってないんだろうね」
その夜のことを思い出すにつれて、運転手の憤激は高まる。鼻息も荒く、彼は続けた。
「車のなかでも行儀が悪くてさ。あたしのいる運転席の背もたれに足を乗っけたり――それも土足でですよ――信号待ちで隣に停まったタクシーに若い女のお客さんが乗ってるのをみっけて、窓開けてからかうしさ。そりゃもう、今どきのヤクザだって使わないような汚い言葉で女の人をからかうんだよ、聞いてて肝が縮んじゃったよ、あたしは」
「その若い男の子たち、酔ってました?」
「いやあ、ありゃ素面《しらふ》だったよ。だから余計におっかないよね。素面であんなふるまいができるんだからさ」
運転手の言うとおりである。もっとも、酒は飲んでいなくとも、何か薬物を摂取していた可能性はある。
「それでね、あたしも嫌な客を乗っけちまったなあ、怒鳴りつけて放り出してやりたいけど、相手はなにしろ三人だからねえ、腹は煮え繰り返るけど、辛抱してるしかねえなあとか思いながら走ってさ、九段下《くだんした》の交差点のところまで来たときに――」
やはり信号待ちで並んだタクシーの座席に、また若い女性の顔を見つけた。しかし、今度の彼女はひとりではなく、中年男性とふたりで乗っていた。
「それ見て、三人組がいきなり騒ぎだしやがってね。なんだあのオヤジ許しちゃおけねえとかさ、窓開けてぎゃあぎゃあわめくのよ。先方さんはビックリ仰天ですよ」
そのときちょうど信号が変わったので、隣のタクシーは急発進をした。もちろん、野蛮な三人組から逃げ出したのである。
「すると連中、あたしに、あのタクシーを追っかけろって言い出したんだよ」
あのオヤジ、絶対とっつかまえてやると、彼らは意味もなく息巻いていた。オヤジのくせに許せねえとか、ああいうのは生かしちゃおかねえとか、なにしろ物騒なことを口にするのである。
「あたしもさすがに我慢が切れてね。お客さん降りてくれって、言ってやったんですよ。あたしゃ前のタクシーを追っかけるなんて嫌だよってね。すると連中、ますます大騒ぎでさ、なんだこいつ生意気だ、タクシーの運転手のくせにオレたちに逆らいやがったとか言い出すわけですよ。これには頭きちまってね、運転手のくせにとはなんだ、オレはおめえらに雇われてるわけじゃねえぞって怒鳴ってやったんです」
三人組は笑い始めた。「運転手のくせに反抗するな」とか「オヤジ、おまえ誰に向かってしゃべってっかわかってんのか」とか、盛んにわめくのだけれど、運転手の目には、なにやら種類の判らないケダモノが啼《な》き騒いでいるように見えたという。
「同じ人間だなんて思えないよね。それであたしはさ、ずいぶん気味も悪かったんだけど、九段下の交差点には交番もあるしね、とにかくこいつらに言いたいことを言わせっぱなしにしておくもんかいと腹くくってさ、車停めて、降りてね、交番の明かりを確かめて、それから言ってやったんですよ――」
おまえら、ふた言目には「オヤジのくせに」とか「運転手のくせに」とか言ってるな、よっぽど「――のくせに」って言い回しが好きなんだろうが、じゃあそういうおまえらはいったい何なんだ、ただのガキで、なんの取《と》り柄《え》もねえし、親がかりで遊び回ってるだけで、自分の力じゃ一円だって稼げねえじゃねえか、おめえらがどこの誰で、何をしていようと、この世のなかの誰が気にするってんだ、なんでおまえらがそんなに立派なもんか、てめえじゃ何様だと思ってるか知らねえが、おまえらなんかただの社会のクズだってんだ、クズのくせに一人前の口をきくんじゃねえ!
三人連れの若者たちの顔から笑みが消えた。
「連中、真っ青になったね。あたしも運転手やって二十年になるし、ずいぶんいろんな人間がいろんな顔をするのを見たけど、あんなふうに見る見る血の気が失せていくってのを見たのは、あのときが初めてだった」
若者たちは、ものも言わずに襲いかかってきた。運転手は身を翻《ひるがえ》して逃げ出した。交番を目ざして。
「あたしがどこに向かって逃げてるか、あいつらも気づいたんだね。ひとりが、おいヤバイぞって言い出して、途中であたしを追っかけるのをやめて、二人目もやめて、だけど三人目のね、いちばん大柄で、金髪をクルーカットにしてた奴だけが、しゃにむにあたしを捕まえようとしてたね。まあ、そいつも最後には仲間に引き止められて諦めたけど」
悔しまぎれに、彼らは運転手の車のドアを蹴りあげていった。運転手は交番に駆け込み、事情を話し、充分に時間をおいてから車のそばに戻っていった。
「ドアがくぼんじまってましたよ。よっぽど凄い力で蹴りあげたんだね」
交番の巡査には、その手の不良少年をあまり挑発するようなことを言ったりしたりしてはいけないと諫《いさ》められたそうだ。
「あいつらは限度を知らないから、本当に殺されることだってありえますよってね。あたしも、あいつらの怒り狂いぶりを目のあたりに見せてもらったから、以後気をつけますって言ったんだけど」
ちか子は考えた。確かに、その三人の若者は、運転手の言葉に怒ったのだろう。腹を立てたのだろう。だが、彼らを暴発させかけた原因は、ただの怒りだけではない。
彼らは怖かったのだ。運転手の言葉に図星をさされて、恐ろしかったのだ。
(てめえじゃ何様だと思ってるか知らねえが)
(おめえらこそクズ)
現代の若者たちにとっては、この言葉こそ本当に恐ろしいものなのだ。何者でもない自分への恐れ。
何不自由ない育ち方をして、不足はなく、豊かで満ち足りている自分。しかしその豊かさを享受しているのは自分だけじゃない。隣のあいつも、後ろのこいつも、みんな同じだ。だけどこんなに満足している自分は、きっと何か特別の存在であるはずで、きっと隣のこいつや後ろのあいつとは違う存在であるはずで、そうでなければならないはずで――
それなのに、その「違い」が見つからない。飽食によって純粋培養された「強力な自尊心」だけが、まるで水栽培の球根のように無色透明な虚無の中央にぽっかりと浮かんでいるだけで、それを包んでいるはずの「自分」には色も形もない。存在感さえないのだ。
それでも、日々の暮らしには困ることはない。遊びは、浪費は、楽しくてたまらない。だからいつもは忘れていることができる。自分には「自尊心」しかないということを。そして彼らの「自尊心」は豊富な栄養を吸ってどんどん根っこを伸ばし、野放図に成長し、ジャングルの蔦《つた》のようにからまりあいもつれあって、ますます動きがとれなくなる。どこへ行くにも、何をするにも、その肥大して錯綜《さくそう》して元の球根そのものよりも大きな場所を必要とするようになった自尊心の根を引きずって行かねばならないから、彼らの動きはきわめて鈍く、だから彼らは否応無《いやおうな》しに怠惰《たいだ》になる。
「――と思うんだよね」
ちか子は再度、ひとりきりの物思いから覚めた。運転手が何か話しかけている。
「どう思う? お客さん」
「そうですねえ、あたしもそう思う……かな」
適当にうなずくと、運転手は勢い込んだ口調で続けた。
「だろ? やっぱりね、いつまでもアメリカに頼って守ってもらってるようだから駄目なんだよ。また徴兵制度をつくってさ、若いやつらをみんな一度軍隊にぶちこんで性根を叩き直さなきゃ。今のままじゃ、もし戦争が起こったら大変だよ。今の若い連中はさ、てめえさえいい思いができりゃ、この国まるごと売り渡したっていいと思ってるんだからね。それどころか、日本がアメリカの属国になりゃいいなんて、本気で考えてんだからさ。そうなりゃオレだってハリウッドでスターになるチャンスが増えるってなぐらいに考えてよ」
ちか子が考えこんでいるあいだに、運転手の思考はかなりずれた方向に進んでしまっていたようだ。ちか子は苦笑した。話題をもう少し穏便な方向に戻すため、道路の混み具合について話しかけようとしたときに、ハンドバッグのなかの携帯電話が鳴り始めた。
ちか子は急いで電話を取り出した。
「石津です」
ルームミラーごしに、運転手がびっくりしたような目でこちらを見ているのを感じた。ちか子は顔をうつむけた。
電話の相手は清水邦彦だった。放火班の自分の机からかけているという。ひどくせっかちに、ちか子が今どこにいるのかときくので、タクシーで荒川署に向かっていると答えた。
すると清水の声が勢いを得た。
「それならちょうどいいや、そのまま青戸陸橋へ向かってください。葛飾《かつしか》の青戸ですよ、判るでしょ」
「ええ、判るけど、どうしたんです? 何があったの」
「また出たんですよ、例の焼殺」
「なんですって?」
ちか子が顔をあげると、運転手が緊張した。
「青戸陸橋の近くの、カレントという喫茶店です。死者がふたり、重傷者がひとり出てます。死者の死亡状況が、田山町の黒焦げ死体とよく似てましてね。現場の様子もそっくりなんです」
「なんてこと……」
荒川河川敷の事件と昨夜の田山町の事件は、同一犯人によるものだと、ちか子は確信していた。これは連続殺人なのだ。しかし、時間的にこれほど近接して第三の事件が起こるとは。
「判ったわ、すぐに向かいます」
「僕も行きます。現場で落ち合いましょう」
ちか子は電話を切ると、運転手に行き先変更を告げた。車はちょうど信号で停車中だった。
そこでちか子は、ふっと思いついた。
「スミマセン、行き先変更をちょっと待ってくださいな。ちょっと停めて待っていて」
そして携帯電話で荒川署の代表電話にかけた。刑事課の牧原刑事というと、すぐに「お待ちください」と返事があった。そこから、青信号を二回見送るあいだ、待たされた。
「牧原です」
ようやく聞こえてきた声は、どちらかと言えば軟弱な、あたりの優しい声だった。歳も若いようだ。そういえば衣笠も、牧原刑事は若いが優秀だと評していた。
ちか子は手早く名乗り、自分の立場を説明した。ついで、青戸陸橋近くの事件について語り、よかったらこれから一緒に現場に行かないかと言った。
「タクシーで近くにいるので、このまま牧原さんを拾っていくことができるんですよ」
牧原は迷う様子を見せなかった。即断即決という感じで返事を寄越した。
「いいですよ、うかがいます。今、どこにいます? 通りの名前か、目立つ建物を教えてください」
ちか子は交差点の信号機の下にさがっている表示を見た。それをそのまま読み上げた。
「判りました。一度署に寄ってもらうより、僕がそこまで行った方が早い。待っていてください」
「わたしは車の脇に立っていますよ。東都《とうと》タクシーです。黄色い車体に、赤の二本線」
「石津さんですね」
「そうです。小太りのおばさんですから、すぐにお判りですよ」
ちか子は笑いを含んだ声で告げたが、牧原は笑わなかった。
「五分で行きます」
電話を切ると、運転手が目をぱちぱちさせてちか子を見ていた。
「奥さん、警察の人なんすか」
「ええ、実はそうなんですよ」
「ひゃあ、驚いたな」
運転手は白い手袋をはめた手でぴしゃりと額を打った。
「奥さん、偉いんだねえ」
ちか子は微笑した。それでもやはり、あたしみたいな中年女は、「奥さん」以外の呼称を持たないのだな、と思って。まあ実際にちか子は奥さんでもあるわけだから、間違いじゃないのだけれど。
牧原刑事は本当に五分でやってきた。きっかり五分だった。
横断歩道の向こうに、長身で痩せぎすの、妙に手足の長い男が現れて、急ぎ足でこちらへ向かってくる。最初にそれを見つけたとき、あれが牧原刑事なのだとしたら、衣笠巡査部長の云う「若い」という基準と、ちか子の思う「若い」の基準とのあいだには、十年以上の差がありそうだと思った。黒いコートの裾《すそ》をひるがえして走ってくるその男は、なんともくたびれたうらぶれた感じを発散していて、走る姿からもまったく覇気《はき》が感じられないのだ。
――四十歳近いんじゃないかしら。
そして、ひょっと考えた。衣笠はちか子をいくつだと思ったのだろう。実際よりも老《ふ》けて見られたのかもしれない。そしてそのちか子よりも「若い」から、牧原のことを「若い」と評したのではないか。
そういうことを考えるからオンナは暇なんだと、同僚たちから嗤《わら》われそうなことを思いながら見守っていると、横断歩道の向かい側で信号待ちをしている問題の男は、ちか子に気づいた。軽く頭をうなずかせて会釈する。ああ、ではやっぱりこの男が牧原なのだ。ちか子も会釈を返した。
信号が変わると、牧原は走って渡ってきた。ちか子はちらと腕時計を見おろした。すると本当にきっかり五分だったのだ。
「本庁の石津さんですね」
「左様でございます」と、ちか子は使い慣れない言葉を口に出した。「牧原さんね。どうぞよろしくお願いします」
階級はきかなかった。牧原がきかなかったからだ。急いでタクシーに乗り込んだ。
「じゃ、青戸陸橋までお願いします」
運転手はへいと言った。先ほどまでの馴々《なれなれ》しさは消えてなくなり、ただきょときょと動く目だけがルームミラーのなかに残った。
「僕の名前はどなたから?」
席に落ち着くと、牧原はきいた。その声は電話の声とほとんど変化がなく、穏和でなめらかだった。
「衣笠巡査部長です」
すると牧原はひょいと両眉をあげた。
「へえ」と、声を出してつぶやいた。「それは驚きだ」
ちか子は再度、牧原刑事の年齢について推定をしなおしていた。近くで見ると、目の下の皮膚の艶や口元の締まり具合などで、やはり若い男だと認識したからだ。せいぜい三十歳ぐらいだろう。白髪もない。それなのに、遠目で見たときには、なぜあんなにしょぼくれて老けて見えたのだろうか。
――姿勢が悪いんだねえ、きっと。
牧原はちか子の方にちらっと顔を向けた。その瞳もきれいに澄んでいた。
「衣笠さんは、なんと言って僕の名前をあげたんです?」
「河川敷事件について調べるなら、あなたが力になってくれるだろう、と」
「へえ」と、牧原はまた言った。
「若いが優秀な刑事だとおっしゃいましたよ」
なんとなく、ちか子は牧原が笑いだすのではないかと思った。今にも笑いだしそうな、面白がっているような表情が目のあたりに浮かんでいたからである。
だが、牧原は真顔のままだった。
「衣笠さんから電話が入りませんでしたか」
「いえ、何も聞いてません」
「そう、じゃあわたしがせっかちに動きすぎたのかもしれませんね」
前を見たまま、牧原はきいた。「衣笠巡査部長は、僕を優秀だと言ったんですか」
「ええ、そうですよ」
「変わり者だと言ったんじゃなく?」
ちか子は彼の顔を見た。
「そんなことはおっしゃいませんでしたね」
「へえ」
そうつぶやいて、今度こそ牧原はちょっと笑った。笑うと子供のような顔になった。
「そいつは意外だ」
皮肉っぽくそう言うと、黙りこんでしまった。ちか子も黙ってタクシーに揺られていった。ちょっと驚いたように、牧原は首をよじってちか子を見た。彼の瞳は色が薄く、ちか子は一瞬、ガラス玉をのぞきこんでいるような気がした。
唐突に、牧原は言った。「パイロキネシス」
呪文《じゅもん》みたいな言葉である。ちか子は「は?」と聞き返した。「なんですか」
「念力放火能力」
淡い瞳でちか子の顔を見据えたままそう言うと、牧原は正面を向いた。
「河川敷焼殺事件の捜査本部で、僕はその説を提示したんです。この事件を捜査するには、念力放火能力現象を念頭において、それについて知識を深めてからの方がいいとね」
そして前を向いたまま、またイタズラ小僧のように笑った。
「どうですか。変わり者でしょう?」
青戸陸橋下の交差点でタクシーを降りれば、「カレント」の場所はすぐに判ると、清水は言っていた。
「看板と店の出入口の日除けがまったく無傷で残ってるそうなんです。三人も死傷している火事なのに、それだけ聞いたっておかしな話ですよね?」
彼の言うとおり、煤けたオレンジ色の看板は健在で、それを見あげるようにして野次馬が集まっている。店の前にはパトカーが二台停車しているが、ちか子がざっと見渡して気づいた限りでも、他にあと二台、機動捜査隊の車があった。
現場の警備にあたっている所轄警察署の巡査に事情を話すと、現場の指揮官にとりついでくれた。ちか子も面識のある一課六係の警部で、応対は親切だったが、一方で、今の段階ではまだ放火捜査班に正式に乗り出してもらうような事件かどうかは判断しかねると、やんわりと釘《くぎ》をさされた。
それでも一応、現場の様子を見せてもらうことはできた。出入口のドアは丸ごと外し取られ、黄色い通路帯が暗い店内へとのびている。そこに近づくだけで、合成塗料や合板が焼けこげたときに発する独特の甘ったるい異臭を感じることができた。
その時点まで牧原は非常に無口で、彼の名前と身分の紹介さえもちか子がしなくてはならなかった。黙ってちか子に従い、大人しくくっついてくる。
いろいろな点で彼は、ちか子に、以前に石津家で飼っていたコリー犬を思い出させた。「カレント」の店内に踏み込み、通路帯の上に立つと、そこで初めて目が覚めたみたいに牧原は首をあげ、ちか子を追い越して店内の奥の方へと進んでいった。そのときの動作も――ちか子を追い越すときのそのなんともさりげない動き方も、あのコリー犬を連想させた。
子犬の時に知人からもらった犬だった。純血種ではなかったが、きれいな犬だった。最初はイアンという名前だった。命名者は当時中学生の生意気盛りだった息子で、アイルランド名の「イアン」は英語では「ジョン」にあたるのだなどと得々と説明したものだ。小さなことでもバカバカしく気取りたがる年頃の息子のことを苦笑しつつ、ちか子と夫は、息子のいないところではこのコリー犬を「ジョン」と呼んだ。生き物は素直なもので、いちばん頻繁に世話を焼いてくれるちか子にもっともよくなつき、だから結局、名前も「ジョン」に落ち着いてしまったのだった。
けっして病弱でも軟弱でもなく、ジョンは元気で毛並みもつやつやしていたが、ひどく静かで穏やかな気性の犬だった。散歩に連れ出しても、飛んだり跳ねたりするようなことはなく、馬でいうなら並足ぐらいの足取りでとことこと駆けるだけだった。子犬の時からそんなふうだったから、成犬になるともっと落ち着いてしまい、夫はこの犬は妙に老成しているから長生きしないのではないかと心配した。
ジョンはちか子が家にいるとき、しょっちゅう後ろにくっついていた。音もなく、大きな身体を苦もなくするりと動かして、気配さえ消してくっついていた。ソファに座って雑誌など読んでおり、ふっと目をあげると膝のすぐ脇にジョンの鼻があって驚いた――ということもしばしばある。
「あんた、いつからいたの?」
そう声をかけて耳を撫でてやると、ジョンは目を細めた。そういうときでさえ、唸《うな》ったり喉を鳴らしたりしない犬だった。ちか子が庭の手入れをしていれば庭の隅に、車を洗っていれば車庫の奥に、黙って静かに控えていた。そして、たとえばちか子がチューリップの球根を植えることに熱中していて、玄関に人が来ていることに気づかなかったりすると、ジョンはするりとちか子を追い越して、ちか子の前に回り、注意を促した。さっきの牧原の動作は、そういうときのジョンと、本当によく似ていた。
息子が大学に合格した年の夏の終わりごろ、ジョンはどうしたことか急に元気がなくなり、毛並みが褪せてきたかと思うと、三日と経たないうちに寝ついてしまった。そのころちか子は仕事が今以上に忙しく、すぐに獣医に診せてやれなかったこともまずかった。食あたりか夏風邪だろうと、犬小屋に湯たんぽをいれてやったり古毛布でくるんでやったりして騙し騙し様子を見て時間を過ごしている内に、ジョンは食べ物を受けつけなくなり、ある夜、とうとうごろりと横になったまま起きあがることもできないところにまでいってしまった。
そして翌日の早朝、静かに息を引き取った。
業者に依頼して荼毘《だび》にふしてもらい、庭に小さな墓をつくって、その骨を埋めた。夫はちか子が予想していた以上に寂しがり、こんなものがあると切ないからと、その日のうちに犬小屋を壊してしまった。
ジョンがいなくなって初めて、ちか子も、この何年かのあいだに彼の与えてくれた慰めのいかに大きかったかを思い知らされた。一週間ぐらいのあいだは、スーパーでドッグフードを見かけるだけで涙が出てしまって困った。
ところが、この牧原という刑事には、ジョンと似た感じがあるのである。彼のおかげで、本当に久しぶりにジョンの気配を思い出した。ちか子はちょっとおかしくなった。
ひょっとすると、かなり扱いにくいタイプの男なのかもしれない――と思っていたら、懐かしいジョンを思い出させてくれたのだ。これがおかしくなくてどうしよう。あなたは昔わたしが飼っていたおとなしいコリー犬に似てるんですよなんて言ってやったら、牧原はどんな顔をするだろうか。会ったばかりのおばさんに、犬に似てると言われて、怒るだろうか困るだろうか。
「僕の顔に何かついてますか?」
問われて、ちか子ははっと我に返った。厨房《ちゅうぼう》のなかの、横倒しに倒れた冷蔵庫の前に立って、牧原がこちらを見ていた。別段、怪訝そうでもなく、詰問口調でも、またからかっているのでもなかった。
「いえ、何にも」
ちか子は軽く手をあげて否定した。微笑が顔に浮かばないように口元を引き締め、目前の光景に注意を戻した。
死傷者が倒れていた位置は、テープでマーキングしてある。ささくれだってろくにワックスもかけていないような店の床の上にふたり。厨房の奥に、経営者の女性がひとり。先ほど聞いた話では、死者も重傷者も火傷は深いがそれほど広範囲のものではなく、死者の直接の死因は頸骨《けいこつ》骨折によるものと思われるということだった。
遺体のうち一体は、床の上に俯《うつぶ》せに倒れていたが、首と頭は、その状態ではっきりと頸部が折れていることが判るほどに、不自然な方向を向いてねじれていたという。もう一体の方も、遺体を搬出しようと持ち上げると、首が壊れた人形みたいにぶらりとぶらさがったそうだ。
――凶器は、発火に強い衝撃波を伴い、高熱を発する。
毎度のパターンだ。しかし、そんな器具や機械がこの世に存在しているものだろうか?
店内は、ざっと見渡す限り、小火《ぼや》程度の焼け方だった。しかし、小火には間違いないにしても、かなりむらのある小火だ。なるほど床は焦げている。カーテンも煤けている。椅子のビニールシートが一部焦げている。とりわけ、俯せに倒れていたという遺体のすぐ側の椅子は、座部のシートから溶けたビニールの滴《しずく》が涙の形になってぶら下がっている。
しかしその一方で、各テーブルの脚部はまったく無傷だ。座部の溶けている椅子のすぐ前のテーブルの上には紙ナプキンを立てたグラスが置いてあるが、ナプキンはすべてまっさらで、焦げてもいない。グラスにも熱を受けた様子はない。
ちか子はふんふんと鼻を鳴らした。ここへ入ったときに感じた甘ったるい匂いがする。それだけだ。今回も、燃焼促進剤は使われていないのだ。鑑識が店内の空気を何ヵ所かに分けて採取しているだろうから、ガスクロマトグラフィーによる分析結果を見ればもっとはっきりしたことが判るだろうが、燃焼促進剤が出てこないことは、賭けてもいい。
(とは言っても、少なくとも現在あたしたちが認識しているようなタイプの燃焼促進剤は、という意味だけどね)
内心、ため息をつきながらちか子は訂正した。未知の、新種のものを使われたとしたら、よほど豊富なサンプルがない限り、捜査側としては分析のしようがないからだ。
ちか子は胸の前で腕を組むと、遺体のひとつをマーキングしたテープを見おろした。身元はまだ判明していないが、四十歳代から五十歳代の労務者風の男だという。もうひとりの方もやはり男性で、年齢も四十歳代、こちらはノーネクタイだが上着は着ており、首に太い金のネックレスをしていたという。首から上にかなりひどい火傷を負っているが、焼け残った頭髪にはパーマがかかっていた。
雰囲気からして、ここが真面目なお父さんたちが集《つど》う店とは想像しにくい。ふたりとも、正確な身元の照合には、案外手がかかるかもしれない。だいいち、この殺人が何を目的とし、誰を狙ったものなのか、それさえも判らないのだ。
「そろそろよろしいでしょうか」
巡査に声をかけられて、ちか子は出口へと足を向けた。牧原はまだ厨房のあたりをうろうろしていたが、ちか子が外の空気に深呼吸していると、いくばくもなくして彼も出てきた。仏頂面《ぶっちょうづら》をしている。
ちか子は現場指揮官の警部に礼を述べ、協力できることがあったらさせてくれと申し出た。先方はこれを儀礼的に受け取った。本音としては、とっとと引き上げてくれというところなのだろう。放火班の指揮官の伊東警部からの正式命令もなく、継続捜査扱いになっている事件との関連性が「あるような気がする」というだけで押しかけてきたちか子たちなど、正直言ってお荷物なのだ。おまけに本庁のちか子だけならまだしも、所轄の違う牧原が一緒だ。
「引き上げましょう」
ちか子は牧原に声をかけ、腕時計に目を落とした。それにしても清水の到着が遅い。
青戸陸橋の交差点へと歩き出すと、牧原が音もなく追いついてきた。ますます、ジョンに似ている。
「現場で何を見たかったんですか」
前を向いたまま、ちか子に訊いた。
「そうですねえ……普通の火災じゃないってことを知りたかったんですよ」
ちか子は正直に答えた。実際、現場に燃焼促進剤の匂いがしたり、遺体の倒れていたあたりの床が抜けるほど焼けていたりしたら、ちか子はかなりがっかりしたろう。
「石津さんは何を考えてるんです?」
ちか子は笑った。「何も考えていませんよ。いえ、考えられないんですよ。あまりにも異常な事件ですからね」
「異常ですか」
牧原はそう言って、足を停めた。ちょうどそのとき、一台の車が交差点を猛スピードで曲がってきて、ちか子たちのそばでつんのめるようにして急停車した。
運転席のドアが開くと、飛び出してきたのは清水だった。
「遅かったじゃないの」
のんびりと声をかけたちか子だったが、清水の顔が引きつっているのを見て、言葉を切った。
「またあったんです」と、息をはずませて清水は言った。「今度は代々木上原の酒屋ですよ。いったいぜんたいどうなってんだ!」
興奮する清水は、ちか子の隣の牧原の存在には気づいていないようだった。つかつかとちか子に近づいてくると、不満そうに口をとがらせて言い募った。
「今度はまたとんでもない事件なんです。やっぱり似たような焼殺で、男がふたりと女がひとり殺されてるんですが、ほかに射殺体が二体も出てるんですよ。若い男と女です。現場の酒屋は三階建てのビルで屋上がついてるんですが、射殺体はその屋上に残されてたんです」
ちか子は目を見張ったが、この場では、事件そのものよりも、清水の憤《いきどお》りぶりの方に興味を惹かれた。
「それはいいけど、あなた、何をそんなに怒ってるんですよ?」
清水は急に照れたようにちょっと調子を落とした。
「そんなに怒ってないですよ」と、もごもご言った。
「でも、むくれてるわよねえ。どうしました?」
清水は周りの目と耳を気にするような顔をした。そこで初めて、牧原の存在に気づいた。驚いて顎を引いた。
「こちらは誰ですか?」
せっかく「こちら」と丁寧な言葉を選びながら、「どなたですか」と言えないところが面白い。ちか子は簡単に牧原を紹介した。牧原は無言で会釈しただけだった。
「石津さん、あんまり動き回らない方がいいですよ」と、清水は声を潜めた。
「そうですか? どうして?」
「その……代々木上原の事件の一報が入ったすぐ後に、伊東警部が僕に言ったんです。上から、放火班はこの一連の件からは手を引くようにという命令が来たって」
「上から、ねえ」
「ええ。警部も怒ってるみたいでした。だけど、確かに放火が主体の事件じゃないですからね。銃も使われてるし、死亡者の主な死因はみんな頸骨骨折でしょう? 我々が、現場で発生している不審火と遺体に残されている火傷について意見を求めたくなるまで、君らは引っ込んでろと、そういうことですよ」
「だが、遺体の火傷は死亡後につけられたものじゃない。今までの事件では、火傷の傷にすべて生活反応があった」
突然、それまでずっと黙っていた牧原が、淡々とした口調で割り込んだ。清水はびっくりして目をむき、彼よりも頭ひとつ長身の牧原を見あげた。
「そうである以上、死因と使用された凶器と火傷や小火との関連性を考えてみるべきだ。放火主体の事件じゃないと見るのは間違ってるよ」
「じゃ、本庁へ言ってそう提言してきちゃどうだい?」清水は「本庁」という単語を強調してそう言った。「なんなら上申書でも書くかい?」
とうとう我慢しきれなくなって、ちか子は吹き出した。さっきまでは飼い犬の思い出をたどっていたが、今度は息子の小さいころのことを思い出したのだ。成績はいいが変わり者の男の子と、はしっこくて調子がいいが口ばっかり達者な男の子の喧嘩。
「なんですよ、石津さん。なんで笑うんですか?」と、清水はムキになっている。
「いえいえ、なんでもないですよ」
ちか子は笑いをこらえながら、彼の乗ってきた車の方に目をやった。
「ところで、あれを転がして、清水さんはわざわざわたしを迎えに来てくれたんですか? この件から手を引けというだけならば、携帯電話だって済むことなんですから」
清水は恩着せがましくふんと鼻を鳴らした。
「そうです。僕もけっこう、石津さんの性格を理解してますからね。ただ戻って来いって言ったって無駄だって思ったわけです」
「じゃ、あたしたちはあの車を使えるわけですね?」
「使えます――けど、何をするつもりです?」
「ちょっと人に会いに行きたいんです。ひとりで帰るのがまずいなら、一緒に行きませんか?」
清水より先に、牧原が訊いた。「誰に会いに行くんです?」
「現在進行中の三つの事件には、まったく関わりがない人たちですよ。ただ、遠いところで関連はあります。あると、わたしは思っています。でもとても遠い関連性だから、会って話をしたところで、今度の件から手を引けという伊東警部のご指示に逆らうことになるとは思いませんよ」
「なんかヘンな話だな」と、清水は疑り深い。
「以前にも会いに行ったことのある方々ですから、びっくりされることもないと思いますしね。一緒に来ますか?」
清水はちょっと迷った顔をした。が、また恩着せがましい鼻息を飛ばすと、
「判りました、同行しましょう」と、もったいぶって言った。「僕が運転します」
どうやらちか子のお目付役のつもりらしい。
ちか子たちが歩き出しても、牧原は動かなかった。両手を薄いコートのポケットにつっこんで、少ししかめっ面をしている。
ちか子は足を停め、振り向いた。「行かないんですか?」
ちょっと言葉を選ぶように空を見てから、ちか子に視線を戻し、彼は訊いた。「僕も同行するのが当然だという顔をしているということは、石津さんは荒川河川敷事件の関係者に会うつもりなんですね?」
「ええ、そうです」
「ただし、あの事件で殺された四人の非行青少年の遺族じゃない。そうでしょう?」
ちか子は黙っていたが、嬉しかった。牧原はなかなか勘がいい。
「あの四人のなかにひとり、昔、女子高生を数人拉致・殺害したのではないかという疑いをかけられたことのある青年がいた。名前は小暮《こぐれ》昌樹《まさき》、当時十七歳だった」
「ええ、そうでしたね」
「その小暮昌樹によって殺されたと思われる女子高生たちの遺族に会いに行くんだ。違いますか?」
ちか子は半分驚き、半分満足した。
「よくそこまで判りましたね」
「思い出したんですよ」
車に向かって歩き出しながら、牧原は言った。
「あのころ、僕も女子高生たちの遺族に会いに行きました。何度も通いましたよ。荒川河川敷事件は、小暮昌樹を狙った一種の報復殺人じゃないかと思ったからです。捜査本部内では受け入れられない意見だったけれど」
牧原も、あれを報復殺人だと考えているのか。ちか子は、衣笠巡査部長が彼に会えと勧めてくれたことに感謝した。
「実際、何度主張しても無駄でした。だいたい、小暮が本当に女子高生殺しの主犯だったかどうかも確かじゃないんだから、とね。僕も頑張ったけれど、結局は諦めざるを得なかった。そのときに、小耳にはさんだんですよ。本庁の放火班のなかに、あの事件を女子高生殺しに対する報復・制裁の殺人だと考えている刑事がいる、という噂をね。ただ、その刑事は河川敷事件の捜査に関わってはいなかった」
そのとおりだ。ちか子は当時まだ放火班の新米で、牧原が述べたような意見を持ってはいたが、内部でささやかに主張するのが精一杯だった。
牧原は助手席のドアを開けると、頭を屈めて乗り込む間際に、初めてまともにちか子の目を見た。その目が笑っていたようだった。
「あれは石津さんだったわけだ」
彼は破顔した。実に、実に愉快そうだった。
「あなたも大した変わり者ですね」
清水ひとり、釈然としない顔をしている。
「で、行き先はどこです?」
「お台場《だいば》に行ってくださいな」
ちか子はちらりと腕時計を見た。
「もう、ご夫婦ともうちに帰っておられる時間ですから。夕食も済んでるだろうし」
運転席には清水が、助手席には牧原が乗り込んだ。ちか子は後部座席に浅く腰かけると、運転席のシートの背もたれに手をかけて身を乗り出し、話を始めた。
「牧原さんがおっしゃったように、わたしは荒川河川敷の四重殺事件に興味を持っていましたし、それなりの意見も持ってはいましたけれど、捜査には関わっていません。当時はそういう立場にありませんでしたからね。ただね、そのもうひとつ前の、連続女子高生拉致殺人事件に関しては、ちょっと関わりがあるんですよ。順番から言えばそちらが先で、だからこそ、四重殺事件が気になって仕方なかったわけなんです」
女子高生殺しが世間を騒がせていたころ、ちか子は丸の内署の警務課に所属していた。警務課の仕事は、拾得物の扱いや、事故証明などの発行、各種届け出の受付など、言ってみれば事務仕事である。
「ですから、女子高生殺しの件も、わたしは捜査にはタッチしていないんですけどね――」
話を続けようとしたちか子を、清水がからかうような口調でさえぎった。
「そんな石津さんがいきなり本庁の刑事部へ引っ張られたんで、すげえ話題になりましたよねえ。女は得だって」
「そう。でも、トクはトクでもお買い得の得じゃなくて、道徳の徳ですからね。いいことをして徳を積んでおくと、いい見返りがあるんですよ、清水さん」
ちか子は笑顔で切り返した。
清水は「フン」というような声を出した。
「そうかな、ただの人事の力関係ですよ」
と憎まれ口を追加する。が、目は笑っていた。
ちか子は、この歳若い後輩の「何かひと言相手のカンに触るようなことを言ってしまいたいけれどそれは笑って許してもらえるよね症候群」には、とっくに慣れっこである。現代の若者は、たいていそうだからだ。ちか子のひとり息子にしても例外ではない。
牧原は黙って前を見ている。奇妙なことに、清水と並ぶと、彼はまた実年齢よりもずっと老けて見えるようになった。
「あのころ、丸の内署警務部の田中《たなか》部長が中心になって、月に一度の勉強会を開いていましてね。内容は毎月さまざまで、たいていの場合は外部から講師を呼んでお話をうかがう、というものだったんですが」
ちか子は指を折って数えあげた。
「『犯罪に強い街づくりとは』とか、『高層集合住宅の防犯体制』とか、『学校教育で薬物依存症についてどう教えるか』とか、面白いテーマが多かったんですよ。だから、主催は警務課でしたけれど、捜査課や警備課からもたくさん人が集まってきてね。で、その勉強会のなかで、第五回目だったかしらねえ、『犯罪被害者の心の傷について』というテーマを選んだことがあったんです」
牧原がちらっと眉をあげるのが、ルームミラーに映った。
「阪神大震災と地下鉄サリン事件をきっかけに、今じゃすっかり一般的になった言葉ですけれど、『PTSD』ね、それについて、専門の研究者の方をお招きして講義していただいたわけです」
「なんでしたっけ……心的外傷後ストレス障害?」清水が、そらんじるようにして言った。
「犯罪や災害に巻き込まれた人が、あとあとまでその恐怖を忘れられなくて苦しんでしまう、ということですよね?」
「そうですね。被害者本人はもちろんだし、被害者の家族や遺族にも同じことが起こりますよねえ」
「だけど、我々がそこまで考える必要があるのかなあ。それは専門の医者とかカウンセラーの仕事じゃないんですか? だって我々は、被害者の葬式で涙にくれていた夫が、実は犯人だったなんてケースにぶつかることだってあるんですよ。いちいち遺族の心の傷にまで深い配慮をしていたら、厳しい捜査はできなくなりますよ」
一人前の口をきいてはいるが、清水はまだそれほどの経験を積んでいるわけではないのだ。彼の言う「厳しい捜査」も、じゃあ具体的にはどういうものなのかと突っ込んで尋ねてみたら、きっと答えられまい。やれやれこの坊っちゃまときたら、今日はとりわけ扱いにくいこと――と、ちか子は内心苦笑した。
牧原が平たい口調で言った。「取り調べの段階でも、被害者の心の傷に対する配慮が必要なケースがあるんじゃないですか」
清水は横目で牧原を見た。「どういう?」
「典型的な例は、レイプでしょうね」
一本取られた形だが、清水はそれを認めなかった。僕はレイプの被害者を扱ったことはないからねと、あっさり言い捨てた。
「なるほど、本庁じゃ扱わないタイプの事件でしょうからね」
清水はもう一度横目で牧原を睨んだ。彼の心の動きはきわめて読みとりやすい。パチンコ台の上を走っていく玉の動きを目で追うのと同じくらいに簡単だ。そして、パチンコ玉はこちらの予想したところには落ちないが、清水の心は、九九パーセントの確率で、ちか子が読みとって予想した場所に落ちる。
口を尖らせて、清水は言った。「所轄にいたんじゃ、扱う事件は限られてるもんな」
牧原は表情を動かさず、真面目に応じた。「おっしゃるとおりです」
清水は黙って運転を続けるしかなかった。
ちか子は会話の舵《かじ》を切り直した。「そのときの勉強会は特に盛会で、時間もオーバーするくらいでしてね。それだけみんな真剣に取り組んだってことですよ。でね、次回もう一度、引き続き同じテーマを取り上げようということになったんです。そうしましたら、講師にお招きした精神医学の先生が、被害者や被害者の家族・遺族から、直接その心の内を語ってもらう機会を持ってはどうかという提案がありましてね。もちろん、先方から、警察の面々の勉強会みたいな場で話をしてもいいという承諾があった場合ですけれどね」
「それが実現したんですね?」と、牧原が素早く訊いた。
「実現したんです。ちょうど、講師の先生のカウンセリングを受けた方々を中心につくられたグループがありましてね。皆さん、自分たちと同じような立場で苦しんでいるたくさんの被害者や遺族の手助けをしたい、と。で、警察や裁判所の人たちに、被害者や遺族の心情に対する理解を深めてもらえる手伝いになるなら、どこへでも出かけていって話をしますと言ってくれたものですからね」
当日、勉強会の場には、四人の話し手が来場した。それぞれに、強盗や殺人事件などで家族を失ったり、自ら傷を負わされたりした人びとである。
「そのなかに、連続女子高生殺しでお嬢さんを失ったご夫婦がおられたんです。今言った被害者や遺族のグループの、中心になっているおふたりでした」
これから会いに行こうとしているのも、そのご夫婦だとちか子は説明した。
「当時はまだ事件の捜査の真っ最中で――そう、あの小暮昌樹という少年と彼をリーダーとしたグループの存在がマスコミで取り上げられ始めたばかりのころでした。ですからご夫妻の心の傷もどくどくと血を流しているような時ですよ。わたしたちの講師で、ご夫妻のカウンセラーである精神科のお医者様は、まだ大勢の人間の前で話をするのはやめた方がいいと、止められたそうです。でも、いやどうしても聞いてほしいとね。まだ捜査段階の生々しい事件の被害者の遺族だからこそ味わう気持ちもあるし、おふたりとも学校の先生で、教育者としての立場からも発言したいことがあるからと言っておられました」
その勉強会のことを思い出すと、ちか子は今も心がうずくのを感じる。気丈なご夫妻が、できるだけ涙を見せまい、取り乱すまいと自分を抑えつつ話をしているのが、かえって痛ましかった。
「勉強会が終わったあと、話し手の皆さんをそれぞれの自宅まで送ることになりましてね。当時は、そのご夫妻のお住まいがわたしの家のごく近くにあったものですから、一緒にタクシーに乗って帰ったんです。それでまたいろいろお話を聞いて、特に被害者と遺族のためのグループの活動の内容についてね――」
「石津さん、それで感動しちゃったんですね?」と、清水が言った。「感動屋なんだからなあ」
「ええ、ええ、そうですよ。以来、親しくお付き合いをしてるってわけです」
葛飾から有明《ありあけ》まで、東京都の東側を縦断してゆく道のりだが、道路はそれほど渋滞していなかった。車は水戸街道を順調に上っている。
「両親ともに教師というと――」
牧原が記憶をたどるように目を細めた。
「佐田《さだ》蓉子《ようこ》――殺されたとき、高校二年生の娘さんじゃありませんでしたか」
ちか子はうなずいた。「そうです。蓉子ちゃんて、バスケットボール部に入っていて、身長が一七三センチあったんだそうです。彼女は連続女子高生殺しの二番目の被害者なんですが、最初の娘さんの事件があったあと、お母さんが心配して、学校の行き帰りに注意するように言うと、あたしみたいなノッポは絶対に狙われないから平気よって、笑ってたそうでした」
佐田夫妻にとって、娘の「ノッポ」なことと、彼女のバスケットボールへの情熱とは、切っても切り離せない思い出になっていた。蓉子の葬儀の後、たとえば町中でバスに乗っていて、車窓から学校の校庭に設置してあるバスケットボールのゴールを見かけると、それだけで嗚咽《おえつ》がこみ上げてきて仕方がなかったと言った。
「だけど今、そんな人たちに会いに行って、何をするんですか?」
清水としては、本当は「会いに行って、何になるんですか」と訊きたかったのだろう。顔が不満そうだった。それでも、かろうじて「何になる」を「何をする」と言い換えるだけ、彼も可愛気があるのだ。
通過する東京の街の景色は、すっかり夜景に転じている。車窓から外を眺めながら、ちか子はゆっくりと言った。
「荒川河川敷四重殺事件の捜査の初めの段階では、捜査本部のなかでも女子高生殺しとの濃い関連を疑う声が大きくて、有《あ》り体《てい》に言うならばね、女子高生の遺族の方々の事件当時のアリバイ調べまでやったそうなんですよ。これはわたし、調べられた側の佐田夫妻から聞いたんですけどね」
小暮昌樹という少年が背負っている過去のいきさつを考えれば、当然の処置である。
「ええ、やりましたよ。ひと通りはね」と、牧原が言った。「ひと通り調べて、遺族のなかには疑わしい人間がいなかったと判った。あんな特殊な殺し方を実行できるだけのノウハウを持ち合わせているような人物もいなかった。だから、その時点で、報復殺人の線は捨てられたんです。実にあっさりとね。それ以降は、何をどう主張しても無駄でした」
疲れたような口調だった。
「でも、そうやって捜査本部が捜査方針を変更したあとも、佐田さんご夫妻は、河川敷事件は報復殺人だろうと信じておられました」と、ちか子は言った。
「じゃ、佐田夫妻は女子高生の遺族のなかに犯人がいると考えてたわけですね? いってみれば、自分たちの仲間のなかに犯人がいると」清水が言って、目をぱちぱちさせた。
「それはつまり、心当たりがあったってことなんですか?」
「いえいえ、そうじゃないのよ」
「だけど――」
「ご夫妻が言うには、報復というよりはむしろ処刑と言った方が適切だって」
「処刑?」
「ええ。さっき牧原さんも、制裁という言葉を使ってましたよねえ」
牧原は無言だった。清水がまた横目で彼を見た。
「その場合はね、小暮昌樹と、荒川河川敷事件当時彼とつるんでいた仲間たちを殺した犯人は、殺された女子高生たちの遺族でなくてもいいわけですよ。第三者でもいいわけです。小暮昌樹の所行と、彼が法的処分を逃れたことへの怒りに燃えて、あんな連中を生かしておくことはできないと決断した人間であるならば、誰でもいいということになるんです」
清水がちょっと口を開いた。「それじゃ、私刑じゃないですか」
「そうなりますねえ」
「そんなことは許されませんよ。この国は法治国家なんですからね」
「そうよねえ」
「だいいち、小碁昌樹が女子高生殺しの主犯だという確証はないんですよ。彼は無実だったかもしれない。現に、物証がなくて逮捕も起訴もされなかったわけなんだから」
ため息をついて、牧原が言った。「あれが制裁殺人である場合には、小暮が本当に犯人だった――という事実は必要じゃないんですよ。制裁殺人をしようと決意した人物が、小暮が犯人だと確信してさえいればいいんです」
清水は牧原の発言の内容より、ため息の方に反発を感じたようだった。
「それぐらい、僕だって判ってる」と、鼻息を荒くして言い返した。
「それなら結構ですけどね」
「結構って言い方はなんだよ」
「失礼」
ちか子は笑って割って入った。「とにかく、小暮昌樹は、彼が女子高生殺しの主犯だと信じている何者かの手で制裁を受けて殺され、たまたま彼とつるんでいた仲間が側杖を食った――それが荒川河川敷事件の真相だと、わたしも考えているし、佐田夫妻も同じ意見なんですよ。でもね、ここから先が肝心なんですけどね」
「何なんですよ」と、清水がまた怒りながら先を促した。
「あれが制裁と処刑であるならば、それをやった人物が誰であれ、その人物は、いずれは、そして少なくとも一度は、自分のやったことにそういう意味があることを――殺された女子高生たちの仇を討って、正義の鉄鎚《てっつい》を下したということを――何らかの形で遺族に知らせてくるのじゃないか。佐田夫妻はそう考えているんです」
すっと風が吹き込むように、短い沈黙が落ちた。車は信号待ちで止まり、溝水がハンドルから手を離して頭をかいた。
「そりゃまた……」と、ちょっと笑ったような声を出した。「なんか、映画みたいですよ、それじゃ」
「いや、考えられないことじゃない」と、牧原は言った。「ただ、受け手の側が遺族とは限らないでしょう。マスコミに向けて犯行声明を――この場合は処刑声明か――出すというやり方もある」
「だけど、そんなの今まで出てないじゃないか」
「今まではね。だが、今後はどうか判らない。小暮昌樹はあくまでも女子高生殺しの主犯格であって、当時彼と共犯関係にあったグループのメンバーの大半はまだ生きてピンピンしてる。全員を片づけたところで、おもむろに声明を出すつもりでいるのかもしれませんよ」
「組織力も捜査技術もなしに、グループ全員を捜し出せるもんか」
「それだって判らない。この処刑者も、単独じゃなくて、組織だったグループかもしれないんだから」
またぞろ険悪になりそうな運転席と助手席のあいだに、ちか子は首を出して割り込んだ。
「清水さん、その標識の出ている角を曲がってくださいよ」
清水はあわててウインカーを出した。ちか子が交通課の婦警なら、拡声器で注意を呼びかけたくなるような運転ぶりである。
車が周囲の交通の流れのなかに落ち着くと、清水はまた声を荒らげた。
「とにかく、処刑者の組織なんてあまりにも現実離れし過ぎた説ですよ。我々は警察官なんですからね。小説家じゃないんだから、もっと現実を直視しなくちゃいけない」
牧原がまた、はっきりと意味を込めたため息をもらした。(誰も一連の事件が処刑者組織の仕業だなんて断言してないだろうが)と言っている。ちか子は笑ってしまった。
「もちろん、全部仮定のお話ですよ。ただ、佐田さんご夫妻はね――」
清水の怒り顔を見て、あわてて続けた。
「この仮説が当たっていた場合に備えて、遺族のグループとしての情報の受け皿をつくっておきたいと仰《おっしゃ》ってるんです。つまり、万が一、これが制裁殺人で、手を下している第三者がいるならば、その人物が遺族に向かってメッセージを発したいと考えたとき、間違いなく受け取ってあげられるようにね。あるいは、制裁殺人をしている第三者に向かって積極的に働きかけて、メッセージを寄越してもらえるように」
ゆっくりと、牧原がうなずいた。「なるほど……」
「どうやって働きかけるんですよ?」
「雑誌に投稿したり、新聞に投書したり」
「まどろっこしいなあ」
「そうですね。それで最近は、インターネットにホームページをつくってね、もちろんそこでは、あからさまに仮説の制裁殺人の処刑者に呼びかけたりしてはいませんよ。女子高生殺しへの情報提供を呼びかけたり、他の凶悪事件の被害にあった方や遺族の方に、被害者の会への参加を呼びかけたりね」
ふうん、そうですかと、清水はやっと納得した。
「つまり僕らは、その佐田さんのところに目立った情報が来ていないかどうか、見にいくわけですね?」
「そういうこと」
ちか子は車の前方を指さした。夜景のなかに、高層住宅が書き割りのように浮かび上がっている。
「あのトミンハイムですよ。ちょっと電話をかけてみましょ」
携帯電話を取り出すと、登録してある佐田夫妻の番号をプッシュした。呼び出し音が二度鳴っただけで、相手が出た。
「あ、石津さん!」
佐田夫人の声だった。勢い込んでいた。
「まあ、やっとつかまった。わたしたち昼間から、何度も何度も石津さんに電話をかけていたんです」
[#改段]
10
佐田夫妻の住まいは、お台場の海を見下ろす高層住宅の十一階にあった。2LDKの室内には家具や小物がごたごたと詰め込まれているが、それが乱雑な印象を与えず、むしろ温かな家庭的雰囲気を生み出す元になっている。
リビングの窓に面して、まだ新しい仏壇が据えてあった。もちろん、夫妻のひとり娘の魂の家である。
「ヨウちゃん、石津さんが来てくれたよ」
佐田夫人が明るく声をかけ、仏壇の蝋燭《ろうそく》に火を点《つ》けた。ちか子は線香をともし、手を合わせた。仏壇に納められた小さな写真立てのなかから、制服姿の女の子の顔が笑いかけてくる。モノクロの写真でも、スポーツ好きだった佐田蓉子の頬や額が健康的に日焼けしていることが、はっきりと見て取れるようだった。
ふたりの刑事もちか子に続いたが、牧原はかなり長いこと合掌をした後で夫人を振り返り、訊いた。
「位牌に、戒名をつけてありませんね」
俗名の「蓉子」だけが書き記してあるのだ。
佐田夫人は仏壇を見やりながらうなずいた。
「難しい戒名をつけるより、蓉子は蓉子の名前で呼びかけてあげた方がずっといいと思いましてね」
明るい色の布張りのソファに落ち着いてから、あらためて、ちか子はふたりの刑事を紹介した。佐田夫妻は、牧原が荒川河川敷事件の捜査本部にいたと聞いて、顔を見合わせた。
「わたしたち、当時はずいぶん捜査本部の方にお会いしましたが、お目にかかりませんでしたね」
「刑事さんの数は多いからなあ」
牧原はまた、つと仏壇の「蓉子」の位牌を見た。それから言った。「一時期、捜査本部では、小碁昌樹をリーダーとする女子高生殺し事件の被害者の遺族を調べ回ったことがありましたからね」
実は、そのことでうかがったのだと、ちか子は言った。「でもその前に、佐田さんのお話を伺いたいですね。何かあったんですか?」
「じゃ、先にちょっと見ていただけます?」
夫人は身軽に立ち上がると、いったん隣室に姿を消し、すぐに戻ってきた。コンピュータ用の連続印刷用紙をひと綴《つづ》り、手にしている。
「これ、印刷してみました。今朝方の、あの廃工場の焼殺事件のニュースが報道されてから、石津さんたちがお見えになるまでのあいだに、わたしたちのところに来た電子メイルなんですけどね」
ちか子は連続用紙を受け取り、視線を走らせた。メイルのひとつひとつは短いものが多く、長くてもせいぜい十行程度だが、なかには一ページをまるまる埋め尽くしている長文もあった。
「被害者の会のあいだでは、メイルを送るときにハンドルネームのほかに本名も添えるという決まりがあるんですが、わたしたちのホームページを見てメイルを送ってくる人たちは、そうじゃありませんからね。本名も発信元も判らないんです。そこにある印刷したものの半分くらいが、そういう匿名のメイルですけど……」
うなずきながら、ちか子はメイルの列から目をあげた。
「このなかに、何か気になるものを発見されたんですか?」
佐田が手を伸ばし、いかにも教師らしい慣れた手つきで指し示した。
「三ページ目の、上から二番目のメイルです」
ハンドル名「はなこさん」から送られてきたものだった。他のふたりの刑事のことを考えて、ちか子はそれを音読した。
「こんにちは。ときどき佐田さんたちのページをのぞいています。半年ぐらい前からです。今朝、田山町でまたおかしな事件がありましたね。荒川の事件によく似てますよね。
実はわたしは昔、荒川の事件のあった現場の近くに住んでいたことがあるんです。事件のときはまだ学生でした。学校で、一時、荒川の事件は不良グループ同士の仲間割れだという噂がたったことがありました。小暮たちを殺したグループのリーダーが、うちの学校にいるとかいないとか、そういう話でした。わたしより二年上級の男の子でした。
今、彼がどこでどうしているのか判りません。佐田さんたち、調べてみたらいいんじゃないかと思います」
ずっとおとなしくしていた清水が、佐田家の家庭的雰囲気にも安心したのか、急に地を露わにしてしまって、あからさまにバカにしたような声を出した。
「なんだこれ、ガセネタでしょう。今ごろになってこんなことを言ってくるなんて。だいいち、河川敷で殺された当時、小碁昌樹は学生じゃなかったんだから、地元の高校の不良グループともめたりするわけがない」
ちか子はとりなすように佐田夫妻を見た。夫妻はニコニコしていた。
「ええ、清水さんのおっしゃるとおりなんです。この情報はたいしてあてにならないでしょうねえ。でも、後ろの方にね……」
今度は佐田夫人が指し示す。次のページだ。
「同じ『はなこさん』が、またメイルをくれてるんですよ。そちらがね」
確かに、また「はなこさん」のメイルだ。昼過ぎに来ている。ちか子はまた読んだ。
「お昼休みに、昔の友達と電話で話してみました。友達は今も河川敷の近くに住んでいるので、わたしよりいろいろ覚えています。彼女の話では、河川敷事件があった後、一年くらいのあいだ、三十歳くらいのやせっぽちでのっぽ[#「やせっぽちでのっぽ」に傍点]の男の人が、ひとりで、しょっちゅう河川敷の現場を見にきていたそうです。警察の人かと思っていたそうです。だけど、ずっと佐田さんたちのホームページを見てたら、警察の人がひとりで現場へ行くことはなさそうだと判ったので、気になります。今度の田山町の事件でも、三十歳ぐらいの、背の高い痩せた男の人が現場をうろうろするようだったら、どうでしょうね」
ちか子が文面から目を上げると、牧原が手を伸ばしてプリントアウトの連続用紙を取り上げた。
「三十歳くらいの背の高い痩せた男の人、ね」
ちか子が確認口調で言うと、清水がまた割って入った。
「だから石津さん、これもあてにならないって。荒川河川敷事件は一昨年の事件ですよ。今頃になってそんな男がどうのこうのなんて、まともに取り合うべき情報じゃない――」
ちか子は清水に微笑みかけた。彼を黙らせるために。日本の母は、子供の口を閉じさせる働きを持つこの種の笑みを、みんな体得しているものなのだ。少なくとも、ちか子の年代までは。
「この三十歳代の男の人というのが、問題なのですね? 別の意味でね?」
佐田夫妻は気を揃えてうなずいた。夫人が言った。「多田《ただ》さんじゃないかと思いまして」
牧原が、さっとプリントアウトから目を上げた。「多田|一樹《かずき》のことですか? 多田|雪江《ゆきえ》の兄の」
佐田夫妻は驚いたようだった。
「多田さんをご存じなんですか?」
「河川敷事件の直後に、彼の名前を見かけたんです。もちろん、アリバイ調べの対象者のリストのなかにあったんですが。彼と、彼の父親です」
「お母さんは、河川敷事件のちょっと後で、亡くなりましたものね。ずっと病院暮らしをしていたし」
「多田雪江って、誰です?」
清水の問いに、ちか子は座り直して説明を始めた。
「多田雪江さんは、佐田蓉子さんと同じ、女子高生殺し事件の被害者なんですよ。彼女のお兄さんが、一樹さん」
佐田夫人が後を引き取る。
「妹さんがあんな殺され方をして、お母さんも事件のショックですっかり身体を壊してしまって、家庭もバラバラになってしまったんでしょうね。わたしも佐田も、最初に小さな被害者の会みたいなのをつくったとき、一樹さんにも多田さんのお父さんにも声をかけたんですけど、そっとしておいて欲しいの一点張りで。でも、一樹さんの方は、一時は相当思い詰めてる様子だって聞いて、わたしたちも他人事《ひとごと》じゃないですからね、心配だったから、断られても断られても働きかけたんだけど、やっぱり駄目で」
「当時、多田一樹と直接会われたことはあるんですか」と、牧原が訊いた。
「いいえ、電話だけです。当時、一樹さんはご両親と離れておひとり暮らしをしてたから。昼間は会社ですしね、夜も帰りが不規則だから、訪ねていっても空振りばかりで。でも、しつこく連絡はするようにしていました」
「だけどその多田一樹が、どうして『はなこさん』のメイルの男なんですか?」と、清水が訊いた。これは適切なタイミングの質問だった。
「ええ、そうそう、それですよね。女子高生殺し事件の頃は、そんな次第で多田一樹さんと会うことができなかったんですけどもね。あちらの方から連絡をくださったんですよ。うちがホームページを開いてまもなくだから、二年くらい前だったかしら。荒川河川敷事件のすぐ後でしたけど。それで、訪ねてきてくだすって」
「彼の方から」と、牧原が念を押した。
「はい。でも、なんかこう……不思議な感じでね。わたしたちの活動に加わってくれるというのじゃないんですよ。慰めとかカウンセリングが必要だというのでもなさそうで。ただ、河川敷事件で小碁昌樹が死んだってことには、ひどくショックを受けているようでした」
「ショックを受けていた? 快哉《かいさい》を叫んでいるのじゃなくて?」牧原はわずかに顔をしかめた。「動揺している様子だったんですか」
「ええ、まあ……心を乱されてるという感じでしたね。うちを訪ねて来たときは、まだ河川敷事件の衝撃が生々しいときだったから、当然かもしれないけれど」
「だけど、彼がやったんじゃないでしょう? 捜査本部は女子高生の遺族の身辺を捜査した上で、捜査線から外したんだから」と、清水が言う。
いつもそうだが、清水の口調からは、自らの所属している警察組織の能力に対する疑いや不完全感が、全く感じられない。これだけ誇りと信頼感を持って組織に所属できるなら、それはそれで幸せだろうとちか子は思ってしまう。
「一樹さんじゃないですよ。あの人は、あんな残酷なことができる人じゃありません。だけど妹さんを愛していたから、犯人を許せないから、だから苦しんでいたんだもの。勘弁できないっていって、あっさりと小暮昌樹を殺してしまえるような人間なら、誰も苦しまないんです」
佐田夫妻だってそうなのだ。
「それで、その訪問の後は? 多田一樹とはつきあいが続いたんですか?」牧原が先を促した。
「それが、そうはうまくいきませんでね。うちを訪ねてきたときも、あの人、なんとなく様子が変だったんですよ。わたしたちに何を求めているのか判らない……。何の目的で訪ねてきたのか、ねえ。河川敷事件そのものにも、興味はないって言ってました。小暮昌樹は、自分のやったことにふさわしい罰を受けたんだし、誰がその罰を下してくれたにしても、自分は気にしないと、そんなことを言ってました。自分を調べにきた警察にもそう言ったって」
「もちろん、河川敷の現場になんて、行く気もないって。わたしたちは現場に行って、小暮昌樹と彼の友達が倒れていたという場所を見てきたんですけどね、なんだかそうしないと落ち着かなかったから。彼らのために花を置いてくるような気分にはなれなかったけど」
「頑《かたく》なだったんですね」
「ええ……。わたしたち、一樹さん急に、何しに来たんだろうって、しばらく首をひねっていました。それで、やっぱり心が辛くて、同じ重荷を背負っているわたしら夫婦と話がしたかったんじゃないかなって結論を出したんですけどね。だけどその後は連絡もないし……」
清水が、それがどうしたという顔をした。ちか子はまた微笑んだ。
「それで、まあ」佐田が軽く咳払いをし、続けた。「わたしらが鈍かった、気づくのが遅かったということなんですが、一樹君が訪ねてきてくれてから、いろいろな人と会ったりデータを整理したり小さな会合をしたりして過ごして、半年ばかり経ってからですね、ふっと思ったですよ。一樹君は、情報が欲しかったんじゃないか、とね。このとおり、わたしらは、女子高生殺し事件の被害者の会としてホームページを開いています。ですから、捜査本部も解散されてしまった今、ある意味では、わたしらのところがいちばん情報の濃いところなんですよ。インターネットですから、日本中からいろいろな情報や意見が入ってきますしね。彼はそれに接触したかったんじゃないか。それで、わたしらの顔を見にきたんじゃないか。場合によっては、わたしらにもっと近づいてくるつもりで。結果的にはそうならなかったわけですが――」
「でも、情報を集めて、どうしようっていうんです?」と、清水が訊いた。
「それは判りません。だが、想像はできます。女子高生殺し事件の全体像を明らかにして、それが河川敷事件とどう繋がっているのか、裁きを受けなくてはならない人間が残っているのかいないのか、いるとしたらどこにいるのか、それを探しているんでしょう」
「そりゃ、警察の仕事です」
「でも、その仕事は果たされておりませんわね」
佐田夫人にきっぱりと切り返されて、清水は口を尖らせた。きかん気そうな目つきになり、「だけど、多田一樹が何を考えて行動していたかは、やっぱり判らないですよ。今の話も、単なる想像に過ぎないんだ」
「もちろん、そうです」
教職にあった佐田氏の声は落ち着いていてよく通り、説得力があった。清水の言うことをいったん受け止めておいて、投げ返す。
「しかし、それで今日のメイルが問題になるわけですよ。多田一栂君は長身で、妹さんの事件があってから、見る見る痩せ始めましてね。一時は体重が戻ったこともあったらしいが、わたしらが顔を合わせた当時は、ぱっと見かけただけで、誰でもああ痩せた人だなあと感じるくらいにまで肉が落ちていました。ですからこの『はなこさん』のメイルを見て、頻繁に河川敷事件の現場をうろついていた男というのが、一樹君じゃなかったかと思ったわけです」
「なるほど」と、牧原が適切に合いの手を入れた。ただ、彼の目はまたプリントアウトの文字を追っている。
「彼は、わたしらに向かっては、河川敷の現場には行く気はないと言った。でも、実際には、地元の人の記憶に残るくらいにちょくちょくあの場所に行っていた。だとすると、当時わたしらが推測したことも、あながち外れてはいなかったんじゃないかと考え始めたんです。やっぱり、多田一樹は情報を求めている。探している。ひとりでその行動を続けている――」
「今度の事件の現場にも、現れるかもしれませんね」と、ちか子は言った。「情報を探しているのだとしたらね。河川敷事件の手口と今回の一連の事件の手口が似ていることは、誰にでも一目瞭然《いちもくりょうぜん》ですから」
「そうです。だからわたしら、石津さんに連絡してたんですよ。石津さんなら、今回、一樹君を見つけるチャンスがあるかもしれないと思って」
清水が意外そうに目をパチパチさせた。
「一樹君を見つけるって、あなたがたも今の彼の居所を知らないんですか?」
「知らないんですよ。お母様が亡くなって間もなく、会社もやめて、アパートも引き払って、お父様のお話だと、この二年、実家にもずっと帰ってないそうなんです。ときどき電話だけはかかってくるそうですが」
ちか子にも事情が呑み込めた。
「判りました、そういうことなら、気をつけています。多田さんに会えたら、皆さんが心配しているってことを話してあげなくちゃいけませんね」
佐田夫妻の顔に安堵の色が広がった。
「あら、嫌だ、お茶もお出ししなくて失礼しました」
夫人が立ち上がり、仏壇の前を通り過ぎて、キッチンへ入っていった。位牌の前に供えられた花が、ふわりと揺れた。あたかも蓉子が、「お母さんてば、そそっかしいんだから」と、手をひらひらさせながら笑っているかのように、ちか子には思えた。
佐田夫人のいれてくれた香りのいいコーヒーを飲みながら、ちか子はちか子たちの側の来訪の目的を説明した。今日到着したメイルを見せてもらっていたから、話は早かった。
小暮昌樹たちを殺し、今回もまた同じ手口で殺人を重ねている犯人の目的が「制裁」であり「処刑」であるのならば、なんらかの形でそれを宣言する可能性がある――その際、媒体として夫妻のホームページが使われることもあり得る――ちか子の説明に、夫妻は口元を引き締めて聞き入っていた。
「気をつけて、書き込みやメイルをチェックするようにします。確かに、石津さんのおっしゃるとおりのような気がしてきた」
ちか子は、夫妻があまり身構えすぎないよう、少し水をかけた。
「でも、あまり考えすぎないでください。今回の事件――今日一日で、三件の事件が起こっているんですよ。しかも、件数は三件ですが、死傷者の数ときたら、河川敷事件の倍はありそうです。確かに手口はそっくりですけれども、河川敷事件の犯人が今日の三つの事件の犯人だとしたら、いったい動機は何なんだということになってきてしまうことも事実なんですよ」
佐田が顔を歪め、愛娘《まなむすめ》の遺影の方へと目をやった。
「確かに、殺しすぎ[#「殺しすぎ」に傍点]ですな……」
「今日の三つの事件の被害者たちの身元は判っているんですかしら」
「いいえ、まだほとんど」
「じゃ、身元が判った時点で、またいろいろ考え直さなくちゃならないかもしれないですねえ。殺された人たちが、まったく何も悪いことをしてない、無垢《むく》な市民だったとしたら」
佐田夫妻は夕食を勧めてくれたが、ちか子たちはそれを辞して帰ることにした。車を返さなくてはならないから署に戻ると、清水は言う。
「そうですか……。じゃあ、わたしは『ゆりかもめ』で帰ろうかなあ」
「石津さん、署に寄らないんですか」
「今日はもう、寄っても仕方ないでしょう。放火班は手を引けというお達しがあったところだし。うちへ帰って、伊東警部にお見せするためのレポートを書きますよ」
「僕もここで失礼します」
牧原の言葉に、清水は(言われるまでもないや)という顔をした。彼の乗った車のライトが角を曲がって見えなくなるまで、ちか子は苦笑していた。
「佐田さんご夫妻には、会ってみてよかったでしょう」
ちか子は牧原の憂鬱そうな横顔を見上げて声をかけた。彼は佐田夫妻からあのプリントアウトをもらい受けてきて、今は小脇にはさんでいた。冬の夜風が吹くと、牧原のコートの裾とプリントアウトの束が、調子をあわせてひらひらとひるがえった。
「多田一樹は、気になりますね」
ちか子の問いには応じずに、彼はそう言った。
「そうね。どうするつもりなんでしょうね。事件の真相を探り出すのは、彼ひとりの力では無理だと思うけど」
ちか子は歩き出した。牧原も半歩遅れてついてきた。ずっと黙り込んでいた。てっきり一緒に行くのだとばかり思っていたら、お台場の駅が見えてきたあたりで、
「それじゃ、ここで。ありがとうございました」と言った。
「ゆりかもめに乗らないんですか?」
「もうちょっと、そのへんを歩いてみます」
「あらまあ、寒いのに」
「考えたいことがあるんで」
何を? とちか子が訊く前に、牧原はあっさり言った。「気になって仕方ないんですよ、多田一樹は、いったい誰を捜しているんだろうかって」
「え?」
問い返そうとしても、無駄だった。牧原はちか子に背を向け、どんどん遠ざかってしまった。
[#改段]
11
青木淳子は疲れていた。ようやくアパートに帰り着いた頃には、疲労のせいで足元がおぼつかないほどだった。銃で撃たれた肩の傷からも、また出血が始まっていた。
部屋に入ると、そのままベッドに倒れ込み、昏々と眠った。数時間後か十数時間後か判らないが、一度目を覚まし、喉が乾いてたまらなかったので、冷蔵庫からペットボトルを出してそのまま飲んだ。着替えもせず、またベッドに戻る。そのときは夕暮れなのか、窓の外は薄暗かった。
次に目を覚ましたときには、窓から明るい陽光がさしこんでいた。淳子は起きあがり、フラフラしながらトイレを使った。また喉も乾いていたが、猛烈に空腹だった。冷蔵庫を調べると、パンやチーズやハムの類が、冷え切ってかちかちになっていた。取り出して、頭はぼんやりとしたまま、ただ機械的に調理し、黙々と食べた。
食事を終えてしばらくすると、やっと人心地がついてきて、自分がどれほどひどい格好をしているか、今さらのように気がついた。下着もシャツも、戦闘続きで汗にまみれ、泥がつき、傷からの出血が染み込んで乾き、パリパリになっている。この状態で横たわってしまったのだから、ベッドのシーツも枕カバーも汚れてしまったろう。全部洗濯しなくては――そう思いながら、うらうらとベランダを照らす陽光をながめていて、今何時だろうかと思った。どのくらいのあいだ、眠りこけていたのだろう。
小さなリビングルームの時計の針は、正午を五分過ぎたところを指していた。昨夜帰ってきたなり、昼まで寝ていたということか。
テレビを点けると、NHKでニュースを放送していた。その画面に日付が出ている。驚いたことに、桜井酒店での出来事から丸二日が経っていた。淳子は今さらのように呆れて、自分の身体を見おろした。
他のチャンネルに回すと、昼のワイドショウ番組で、代々木上原の、あの桜井酒店の前から中継をしていた。淳子が吹っ飛ばしてしまったシャッターの代わりに、青いビニールシートが店先を覆っていた。
無意識のうちに、獲物を狙う猛獣のように目を細め、淳子はテレビ画面に見入った。浅羽が死んでいた――動力室のドアを開けた途端、頭を撃ち抜かれてぐったりとした浅羽の身体がこちらに倒れかかってきた――あのときの光景、あのときの驚き。忘れてはいない。
誰が浅羽を射殺したのだろう? あのとき、淳子と「ナツコ」の他に誰があの場にいたのだろう?
しかし、テレビではそれらの疑問への回答となりそうな情報は流されていなかった。警察当局も、まだそこまでは掴んでいないのだ。淳子は首を振って立ち上がり、冷蔵庫から冷たいミネラルウォーターを出してきて、ひと息に飲み干した。
チャンネルをNHKに戻した。ニュースは続いている。しばらく観ていると、浅羽をリーダーとする若者たちのグループが、ここ一、二年のあいだに、密造拳銃を持ち歩き、強盗や暴行などの多数の事件を起こしていたこと、覚醒剤の密売にも関わっていたらしいこと、あの日桜井酒店に居合わせなかったおかげで命拾いをした他の構成メンバーたちも、芋蔓《いもづる》式に逮捕・補導されていることなどが報じられた。どうやら警察では、桜井酒店での惨事は、このグループの内輪もめだったのではないかと考えているらしい。
被害者たちの――ナツコと「フジカワ」の身元も判明していた。藤川|賢治《けんじ》と三田《みた》奈津子。二十六歳と二十三歳のカップルで、都内のコンピュータ会社で働いていたという。
つかの間助け出したときの、ナツコのあの細く白い肩が思い出された。後悔と罪悪感とが、二連の鞭のように束になって淳子を打った。あのとき、もっと早く奈津子をあの場から連れだしていたなら。目を離さずにそばにいてやったなら。
奈津子も撃ち殺されたのだ。殺される直前に、彼女が発した言葉を、淳子は覚えている。奈津子は誰かを見かけて、驚いて声をあげたのだ。
(そこに誰かいる――あ! あなたは!)
言葉の様子から推して、その「誰か」の顔を、奈津子は以前から知っていたのだろう。そうでなければ、(あなたは!)というふうにはいわなかっただろうから。
警察当局は、桜井酒店に連れ込んだ奈津子の身柄をどうするかについて、グループ内で意見が分かれ、それがあの争いにつながったと考えているようだ。アナウンサーが、社会部の記者とふたり、怒ったような顔で掛け合いをしながら説明をしている。
やがて画面が切り替わり、顔の部分をモザイクで消した十代の少年の映像が登場した。事件現場には居合わせず、今のところ逮捕もされていない、浅羽のグループのメンバーのひとりだという。記者の質問に答える少年の声も、変声処理がされている。
――それで君は、いつごろグループに入ったの?
――半年ぐらい前。
――どういうきっかけで入ったの?
――友達に連れていかれて、入ったっていうか、なんとなく。
――どんなことをしたの?
――オレはそんな、あんまり何も知らない。
――君自身は、以前、自動車の窃盗で補導されてるよね?
――浅羽さんに命令されたから。
――やったわけだ。
――でもあれで捕まったんで、オレ殴られて。それからあんまり付き合ってない。
――怖くなったの?
――うん。オレのこと誘った友達も、浅羽さんのこと怖がってた。怒ってたし。ホントはあんな奴、許せねえって。
――何が許せなかったんだろう。
――気にくわないとすぐリンチとかするし、金も独り占めしてるって。
――覚醒剤の密売で儲《もう》けた金だね?
――そうだけど。でも、他にもいろいろやってたみたいで、浅羽さんはいつも金いっぱい持ってた。
――今までに、浅羽くんと他のメンバーが喧嘩になったことはあったの?
――喧嘩まではいかないけど、言い合いとかはしたことある。
――どんなことで。
――いろいろだから、よく覚えてない。
――少しも?
――浅羽さんがあんまりひどいことやろうとするんで、止めに入った奴とかいて、そいつと言い合いしてたことはある。オレは怖いから、知らん顔してたけど。
淳子は立ち上がると、風呂場へ行き、蛇口を開けて浴槽に湯を張り始めた。渦気が心地よく頬に触れた。リビングに戻ってみると、画面はまたアナウンサーと記者の掛け合いに戻っていた。
「先ほどの少年の証言によると、グループ内でも対立があったようですね。それが今回の銃撃事件と関わりがありそうだというのが、現在の捜査本部の見解だということですね」
「まだ判明していないことも多いので、断定はできませんが、そういう方向に考えていいようです」
「被害者の藤川さん、三田さんが拉致された田山町の駐車場と、そこから五百メートルほど離れた場所にあります廃工場――ここで藤川さんの遺体が発見されたわけですが――そして代々木上原の桜井酒店と、少年たちのグループは移動しているわけですが、このほかにも代々木上原の桜井酒店で事件が起こる二時間ほど前に、葛飾区青戸の喫茶店で、似たような爆発炎上事件が発生していますね。ここでも死傷者が三人出ていますが、この事件との関連はどうなんでしょう」
「そちらはまだはっきりしていません。死傷者も少年たちではありませんから、直接的に関連があるかどうか、まだ判らないというのが現状です。しかし、局所的に爆発的な火災が発生していること、死傷者が火傷を負っていることなど、共通点も多くありますので、慎重な捜査が必要でしょう」
では、警察ではまだ、青戸の「カレント」で死んだ中年男が、浅羽たちに密造拳銃を提供していたということまで調べ上げていないのだ。「カレント」の件では、お客をひとりと経営者の女を巻き添えにしてしまったことを思いだし、淳子はくちびるを噛んだ。あのときは、その場の勢いで、彼らのことなどどうでもよくなってしまったのだ――
社会部の記者は、桜井酒店の近くの地図を示しながら説明をしている。酒店のオーナーの桜井という人物は男やもめで、一年ほど前から浅羽の母親と交際しており、この半年は、彼女と同棲しているような状態だったという。母親が桜井酒店に住み着くと、浅羽もいりびたるようになり、酒店の三階が浅羽たちグループのアジトと化してしまった。
桜井氏は大いに後悔し、浅羽たちを追い出そうと試みたり、彼らのことで近所から苦情を受けると、逆に相談を持ちかけたりもしていたらしいが、なにしろ浅羽の母親に首根っこを押さえつけられているので、どうにも動きがとれなかったようだ。事件が起こったときは配達に出ていて現場におらず、命拾いしたわけだが、震え上がってしまっていて、警察の事情聴取にも、進んで協力しているという。
彼の話によると、浅羽の母親は息子に甘く、彼の悪事の大半を承知していたという。当然だろう、頭の上でやってたんだからと、淳子は思った。この桜井という店主だって、浅羽の悪事を見て見ぬふりをしていたんだ。怖かったから。我が身可愛さで。彼があのとき店に居なかったことが残念でならなかった。一緒に焼いてしまいたかったのに。
浴槽がいっぱいになったので、淳子はリビングを出て風呂に入った。肩の傷口は血が固まり、噴火口のような有様になっていた。タオルをあてがって湯に沈んだが、一瞬飛び上がるほどに痛かった。
狭い浴槽のなかでできるだけゆったりとくつろぐ姿勢をとり、浴槽の縁に頭を乗せて、淳子は目を閉じた。もやもやとした映像が目の裏に展開する。映像は形を成さないが、色だけははっきりしていた。火の色だ。淳子が何よりも愛し、誇りにしている色だ。
そっとタオルを動かしてみると、血のかたまりが溶けて、肩の傷口がよく見えるようになっていた。皮膚が裂けているが骨は見えない。やはり、それほど深い傷ではないのだ。動かさないようにして、化膿《かのう》に気をつければ、きっと大丈夫だろう。ほっとして、また目を閉じた。
もやもやとした映像が晴れ、浅羽の死に顔が目に浮かんできた。彼の母親の、淳子の喉笛を食い破ってやろうかというような、敵意に満ちた顔も思い出された。あの女は、自分の経営していた店が左前になったのか、店のあった建物のオーナーに追い立てをくったのか、とにかく商売が立ち行かなくなったのだ。そして、桜井酒店の店主という格好の獲物に食らいついた。店主を騙して、息子とその仲間たちを引き入れ、事実上は桜井酒店を乗っ取った――
藤川賢治や三田奈津子の以前にも、何人かの犠牲者がいたはずだ。桜井酒店の三階のあの寝乱れた布団は、いったい何人の血と汗と悲鳴を吸い込んでいることだろう。そんな地獄のような部屋を頭の上にいただいて、浅羽の母親は平気な顔をしていたのだ。
なぜだろう? なぜそんなことができるのだ?
「カレント」で殺した密造拳銃の中年男だってそうだ。金が目当てで横流しをしたのだろうけれど、そうやって世に出た拳銃のために、誰かが殺されたり傷ついたりする可能性があることが、まったく判っていなかったわけはない。百も承知で、しかし自分には関係ないと、知らん顔を決め込んでいたのだ。
なぜだろう? なぜそんなことができる?
淳子は目を開け、パステルピンクの風呂場の天井を見あげた。ほんのりと石鹸の香りがして、平和な湯気が周囲を包んでいる。
――あたしには、判らない。
青木淳子は今まで、たくさんの悪事を見てきた。大勢の悪人を見てきた。浅羽敬一のような「悪」は、どこにでもいる。どうしようもなくいる。彼らはいわば社会の灰汁《あく》のようなもので、社会が機能する生き物である以上、根絶することはできないのだ。現れたら即、退治する。それしかない。
しかし、浅羽の母親や密造拳銃の男のような、
「ついでの悪」はどうだろう。ひとつの「凶悪」の尻馬に乗る「悪」はどうだろう。彼らの怠慢や強欲が、社会に対してどれほどの害を及ぼすか、ほとんど計り知れないほどだ。それなのに、彼ら自身は「悪」ではない。限りなく「悪」に近いけれど、単独では機能しない。あくまで尻馬に乗り、派生するものだから。
――だから、一緒に焼き払うしかないんだわ。
今さら、迷ったり心が痛んだりすることはない。そう、自分に言い聞かせた。
夕方近くになって、ようやく職場に電話をかけた。店長は淳子の無断欠勤に腹を立てており、クビを言い渡されてしまった。
仕方がない。淳子はまったく反論しなかった。今後しばらくは、仕事についていないほうが、時間の自由がきいて便利なので、かえって都合がいいくらいだった。
そのあと、買い物に出た。最初に立ち寄ったコンビニで、新聞を何種類か買った。どの新聞も一面に大見出しで浅羽たちの事件を取り上げていた。淳子はそれを無造作に買い物用のズックのバッグに放り込み、それからチョコレートやクッキーの箱をレジに持っていった。
「力」をたくさん使った後、無性に甘いものが欲しくなる。クッキーのひと箱くらい、ぺろりと食べてしまう。「力」の放出によって消費される体内のエネルギーが、糖分によって補給されるものであるとしたら、それは「力」の巻き起こす現象の激しさに比べ、ずいぶんとまっとうな感じがするが、事実なのだから仕方がない。これは子供のころからそうだった。
淳子に「力」をコントロールする訓練をさせたあと、両親は決まって、フルーツパーラーやケーキ屋に連れていってくれた。何でも好きなものを食べていいよと、軽く頭を撫でる父親の手の感触は、今でも忘れられない。
父も母も、ごく平凡な、優しくて正直な人たちだった。ふたりとも、淳子のような「力」を持ち合わせてはいなかった。しかし、母の母親、淳子にとっては祖母にあたる人が、淳子と似たような「力」を持ち合わせており、そのために辛い生涯を送ったということを、淳子は母親の口から聞かされたことがある。
――おばあちゃんは、とっても美人で素敵な女性だったのよ。
――おまけに、とっても強かった。正義の味方だったんだから。
――だけどね、お父さんもお母さんも、淳子がおばあちゃんと同じような力を持って生まれないようにって、お祈りしていたの。どうしてかって言ったら、「力」を持ってると、とても大変だからなの。
――でも、淳子は力を持って生まれた。だからお父さんとお母さんで、淳子がそれを正しく使えるように、使って幸せになれるように、一生懸命考えるからね。安心していていいよ。
お父さん、お母さん……淳子は呟いた。
建築家だった父は、淳子が高校一年生のときに、足場から転落して亡くなった。もともと身体が弱かった母は、父を追いかけるようにして二年後に亡くなった。だから、高校を卒業したときには、淳子は立派なひとりぼっちだった。
両親が残してくれた預金や保険金、母が粗母から受け継いだ資産などのおかげで、生活に不自由はない。それらの財産は、弁護士にまとめて管理してもらっているので、運用に頭を悩ますこともない。実際、質素な暮らしを保つならば、一生働く必要はないくらいだった。
だが淳子には、世捨て人になる気はなかった。生まれ持った「力」を、両親が期待したとおりに活用するためには、社会と関わりを持っていなければならない。装填された一丁の銃である青木淳子は、その銃口を、いつだって正しい方向へ向けていなければならないのだ。
買い物を済ませ、アパートに戻ると、電話が鳴っていた。両手いっぱいに荷物を持っていたので、すぐに出ることができず、あわてているうちにベルが鳴り止んでしまった。
誰だろう? 淳子には、親しく電話をかけてくるような知り合いはいない。少なくとも、この田山町では。
それから三十分ほどして、台所でサラダをつくっていると、また電話が鳴った。今度は急いで飛びつき、出ることができた。
「もしもし?」
相手は沈黙している。なんだイタズラ電話かと、気が抜けた。
「もしもし、どちらさまですか?」
もう一度、大声で訊いた。返事がなかったら切ってしまおうと、手を動かしかけたとき――
「青木淳子さんていうんだね」
男の声だった。からかうような響きがあった。淳子は急いで受話器を耳に当て直した。
「もしもし?」
「初めまして、青木淳子さん」
若い男だ。はきはきとした、通りのいい話し方だった。
「どなたですか? 何番におかけです?」
「今はまだ、それを言うわけにはいかないんだ」と、男は応じた。「君のことが、すべて判ったわけじゃないからさ。本当なら、まだ連絡もしちゃいけないんだけど、早く君の声を聞いてみたくてさ。可愛い声だね」
淳子は身を固くした。誰なんだ、こいつ?
「どういうことなの? 何を言ってるんですか?」
男は笑った。その笑い方が、思いがけず涼やかだった。
「いいんだよ、そんなに心配しないで。もうすぐちゃんと会いに行くからね」
「あなた、誰です?」
ちょっと間があいて、それから返事が来た。
「ガーディアン」
「え? 何ですって?」
「ガーディアン。守護者という意味だよ、知らないかい?」
くすくすっと笑って、男は続けた。
「知らなければそれでいいんだ。そのうち判ることだしね。今はただ、我々があなたの働きぶりに感心してるってことを知ってくれればいい」
そう言ってから、陽気な口調で付け加えた。
「それにあなたは、とても美人だね。じゃあ、さよなら」
電話は切れた。唖然《あぜん》として、淳子は取り残された。
[#改段]
12
青木淳子が傷を癒し、昏々と眠っていた二日のあいだに、石津ちか子は、淳子の引き起こした事件の衝撃波が広がってゆくのを目の当たりに見ていた。ただし、捜査に携わるものとしてではなく、完全な傍観者として。
捜査当局は早い時期から、この三つの事件、少なくとも田山町の廃工場での事件と代々木上原の桜井酒店の事件は、浅羽敬一をリーダーとする非行少年グループの内輪もめが拡大した結果発生したものだという「解釈」をし、その解釈を、公的な会見でこそないが、個々の番記者への情報提供などの形で外部に出していた。マスメディアはその解釈を踏襲し、「荒れる十代」「若年層の凶悪犯罪の激増」「少年法改正の必要性」などの見出しのもとに、他人の命にゴミくずほどの価値も感じない冷血な少年たちの顔を犯人像として糾弾して、報道合戦をくりひろげていた。
ちか子は無論、この推論にはくみしない。
しかし、現時点での推測や解釈がいくら間違っていようが、事件は今始まったばかりなのである。
しかし、「放火班は関わるな」という上からの指示があったという清水の話は本当であったらしく、ちか子は伊東警部から直々に、別の仕事を頼みたいと言われてしまった。
「どういうことなんでしょうか」
思わず詰問口調になってしまった。伊東警部はちか子の丸顔を見上げて苦笑した。
「まあ、そう気色《けしき》ばまないでくれよ」
ちか子は気持ちを鎮めるために、警部の顔から目をそらし、彼の手元を見た。この年代の男性には珍しく、伊東警部はいつもきちんと結婚指輪をはめている。今朝も、ごつい手に不似合いなほど優雅な銀色の指輪が光っていた。
「今回の事件について、君が考えていることはよく判っているし、私自身、その推測に可能性はあると思う。田山町やあの酒屋で起こった事件は、小暮昌樹たちの荒川の事件と必ず関連性があるはずだ」
「だったら――」
警部は手をあげてちか子を制した。
「しかし、今それをあからさまにするのはまずい。復讐者説を提示しても、じゃあ凶器は何だ、復讐者というのはひとりか、ふたりか? そんな少人数でどうやってあのような大量殺人をやってのけることができたんだ? そうつっこまれるのがオチだよ。挙げ句に、そんなバカバカしい説は検討に値しないとあっさり退けられて、かえってやりにくいことになる」
昨日の現場での暗い雰囲気を、ちか子も思い出した。積極的に復讐者説を訴え続けてきた牧原が、鬱々とした顔をしているということも。
「ここは少し慎重に構えた方がいい。煮えたぎった鍋を扱うのは他の連中に任せて、情報を集めながら時期を待つんだ。必ず、介入できるチャンスが来るよ。そのときのために、昨日は一応、顔見せをしておいてもらったんだからな」
つまり、現場の連中に挨拶をしておけということだったのか。出しゃばるつもりは毛頭ないが、放火捜査班もこの事件には注目しておりますと、穏やかにアピールしておくために。
「そうですか。判りました」ちか子はようやく頭を下げた。「それで、わたしをお呼びになりましたもうひとつのご用件は?」
警部は机の引き出しを開け、一冊のファイルを取り出した。公式な事件記録の綴りではなく、薄いビニールのファイルだった。
机の上にそれを載せ、ちか子にうなずきかける。
「この件なんだ」
ちか子はファイルを取り上げた。タイトルはついていない。ページをめくると、几帳面な線の細い文字でびっしりと書き込まれている。女性の文字のようである。
「じっくり読んでくれ。そして、できたらこのレポートを書いた女性刑事に力を貸してやってほしい。放火捜査班というだけでなく、経験を積んだ女性の先輩刑事のアドバイスを必要としている」
その口調の底に、ふといつもと違う感情が流れているのを感じたような気がして、ちか子は警部の顔を見た。警部はちらとあたりを見回し、ほんの少しちか子の方に身を乗り出すと、声をひそめた。
「言いにくい話なんだが、怒らずに聞いてくれるか」
「はあ」
「このレポートを書いた女性刑事は、現在、中央《ちゅうおう》区|湊《みなと》警察署の少年課に勤務している。まだ私服刑事になって五年足らずで、歳は二十八歳だ。彼女が警察官になったのは父親の影響があったからで、父親は立派な警察官だった。そして私の尊敬する先輩だった」
そういうことか。ちか子は微笑した。
「警部にとっては、この女性刑寮は娘も同然ということですか」
伊東警部も笑みを返した。「娘はひどいな。歳の離れた妹と言ってくれよ。まだ未熟だが、熱意はある。実はこのファイルも、彼女が個人的に私の意見を求めて寄越したものなんだ。そういう意味では、私が君にこの件を託すことは、一種の職権濫用になるんだが――」
笑みを消して、さらに声をひそめると、
「ただ、内容的に非常に面白いものがあってね。とにかく、レポートを読んでみてくれないか。君も、きっと興味を持つと思う。事件としては小規模な連続放火事件なのだが、不可解という点では、荒川河川敷事件や今回の事件と同じくらい、不可解だから」
結局、ちか子がそのレポートを読み終えたのは、その日の深夜のことだった。刑事部屋にいれば、他にもいろいろと仕事はあり、かなりのページ数のあるファイルを一冊、集中して読み通すことは難しかったのである。それに、理屈としては警部の言っていることが正しい――正しいかもしれないと判ったけれど、心では納得していなかったので、気持ちと熱意の大部分が、まだ田山町を始めとする三事件の方に向いていたのだ。
夫は帰りが遅く、ちか子は独りだった。ダイニングのテーブルの上にファイルを広げ、読み始める前に紅茶を一杯いれて手元に置いていたのだが、読み終えたときには紅茶は手つかずのまま冷え切っていた。ちか子は立ち上がり、もう一度湯を沸かしにかかった。
確かに、不可解な事件だった。
湊署管内の高級マンションに暮らす十三歳の少女の身辺で、繰り返し小規模な小火《ぼや》が発生しているという。それだけ聞くならば、単純な事件だ。小火はいずれも少女の居る場所で発生している――つまり、現場には常に少女が居合わせている。小火はこれまで十八回発生しており、少女の同級生が火傷をして病院に運ばれたこともあった。
全ての現場に居合わせている少女。大いに怪しい。ところが、当の少女は、火を点けたりしていないと否定しているという。自分は何もしていないと。確かに、いつも自分のいるところで小さな火事が起こるけれど、それは、突然に火が「現れる」のだと主張しているのである。
レポートによると、相手が十三歳の少女のことだから、捜査にあたっている湊署の担当者も、すれっからしの犯罪者を扱うときのようにはいかず、かなり苦心しているようだ。しかもこの少女はそんじょそこらの不良娘とは違う。学校の成績もよく、素行にも問題はなく、家庭もしっかりしている。父親は大手都市銀行の支店長、母親は裕福な医者の娘で、実家の経営する総合病院の理事の職についている。少女はこの両親のあいだのひとり娘で、かなり遅くに恵まれた子供であることもあり、親の愛を一身に受けて成長しているのだ。
レポートでは、この少女と会って話をした人間のほとんどは、少女の愛らしさや性格の明るさ、素直さに魅せられて、彼女の言葉を信じたくなるだろうと書いてある。しかし、少女がどれだけ無実を主張しようと、どんな荒唐無稽《こうとうむけい》な現象を言い立てようと、十八回の小火はすべて少女の居る場所で発生しているのである。状況証拠ではあるが、強力な証拠だ。
担当の女性刑事は、正確を重んじる几帳面な性格であるらしい。十八の小火すべての発生状況が、それぞれに項目を立てて記録してある。ちか子はこれを丁寧に読み、記述者に好感を持った。事実と裏のとれたことはどんな細かいことでも漏らさず記載してあるようだが、自身の憶測や推測は書いていない。そのうえで、小火が数重なるごとに少女の身辺に流れ始めた噂話などは、それを噂であると明記した上で記録してある。また、それらの噂が少女本人や少女の両親にどんな影響を与えているかということについても。
新しくいれなおした紅茶を飲みながら、ちか子は、このレポートの記述者――伊東警部の秘蔵っ子の女性刑事に会うのが楽しみだと感じていた。どんな女性だろう?
――砧《きぬた》路子《みちこ》さん、か。
それと同時に、砧刑事が頭を痛め、不安に包まれ、個人的なつながりを利用して伊東警部に相談を持ちかけたことに対して、あたしは反感を持つことはないだろうとも感じていた。なぜならば、湊署少年課の他の刑事たちが、どんなにいい家庭のいい娘でも嘘はつくものだし、この連続する小火は結局は少女の仕業であるに決まっていると割り切って突き放しているなかで、砧刑事だけは、本当にそう断定してしまっていいのだろうかと煩悶しつつ、他の刑事たちが見落としている、この連続小火の本当に憂うべき別の一面にちゃんと気づいているからである。
十八の小火は、多少の波はあっても、回を重ねるごとに、少しずつ少しずつ大きくなっている。少女が指を火傷したのは、十八回目の小火だ。ここで初めて怪我人が出た。
次は、もっと大きくなるのではないか?
それはいつか? 最初の小火は、少女が十一歳四ヶ月の時、自宅で発生した。以後、三週間から一ヶ月の間隔をあけて発生し続けている。そして、少女が火傷をした十八回目の小火は、今月の初め、今から十五日前のことだ。あと一週間から十日で、十九回目が起こる可能性があるのである。
その夜、二時頃になってようやく帰宅した夫と夜食をとり、眠りにつく頃には、ちか子は少しニヤニヤしながら、伊東警部にしてやられたと思っていた。確かに警部の言うとおり、荒川河川敷事件と今回の三事件からは、ちか子はしばらく距離をとるべきなのかもしれない。その方が、結果的にはうまくいくのかもしれない。が、気持ちとしては、それは忍びない。だから警部は、実にうまい他の餌《えさ》を投げたわけである。ちか子はすっかり、この少女の事件に心を惹きつけられてしまっていた。
翌朝早く、ちか子は砧路子刑事の自宅に電話をかけた。伊東警部からのレポートの引き渡しは非公式なものであるから、最初はそうするべきだと考えたからだ。
時刻は七時半をわずかに過ぎたところで、テレビのニュースでは田山町を始めとする三事件の続報を流している。音を消して画面だけを見ながら――破壊された桜井酒店の店先を映している――電話をかけると、最初の呼び出し音で相手が出た。すでに活動中の人間の、てきぱきとした応対だった。
「はい、砧です」
想像していたよりも可愛らしい、温かみのある声だった。もっとハスキーな、いかにも「やり手」という感じの声を想像していたちか子は、内心苦笑した。ちか子自身が、無意識のうちに、まだまだ男性社会の警察のなかで頭角を現すことのできる女性刑事は、みんなどこか男っぽいところを持ち合わせているはずだと、心のどこかで思いこんでいる。これでは、警察内部の頭の古い「おやじたち」に文句を言うことなどできやしない。
「おはようございます。わたくしは警視庁の石津ちか子と申します」
ちか子は自己紹介をし、伊東警部からファイルを渡されたくだりのことを、簡単に説明した。砧路子はひどくびっくりしたようで、ちか子の話を聞き終えると、急《せ》きこんだ様子で謝った。
「申し訳ありません。お忙しい本庁の方に、こんなことでわざわざお電話をいただくなんて。伊東のお――伊東警部にご相談したときには、警部のアドバイスがいただければ、それもいつか時間のあるときに、というくらいの軽い気持ちでいたものでして」
伊東のお――と言いかけて訂正したのは、「伊東のおじさん」だろうか、それとも「伊東のおじさま」だろうかと考えながら、ちか子はにっこりした。
「こちらこそ、警部からのご依頼とは言え、あなたには無断でファイルを読んでしまったことにはお詫《わ》びをしなくてはなりません。でも、わたし自身、砧さんの抱えておられるこの事件について、興味がわいております。お力になれるかどうかは自信がないですが、どうでしょう、一度お目にかかれませんか」
「もちろんです、ありがとうございます」
砧路子の声が明るくなった。
「石津さんのご都合さえよろしければ、いつでもお会いしたいです。実はわたくしは、今日は非番なんですが――」
「じゃあ、明日にしましょうか」
「いえ、むしろ今日の方がありがたいのです。というのは、今日は一日、かおりちゃんと過ごす予定を立てているので、石津さんにもすぐかおりちゃんと会っていただけますから」
ちか子は、ちょっと黙った。かおりちゃん――倉田《くらた》かおりというのが、問題の少女の名前である。
「小火を起こしていると疑われている、張本人の倉田かおりさんに会うんですか? 非番の日に?」
「そうです」砧路子は、きっぱりと答えた。
ちか子は、彼女が伊東警部に相談を寄越した真の理由が判ったような気がした。あのレポートはすべてではなく、あのレポートの外に本当の問題があるのではないか。
「砧さん、あなたは、倉田かおりさんと個人的に親しくなっているんですか?」
少年課の刑事が、捜査や保護の対象となる少年少女と親しくなるのは、珍しいことではない。そうやって個人的な信頼関係を築くことが、彼らの更生に力を貸すことになったり、犯罪を未然に防いだりすることにも繋がるからだ。が、今の場合はちょっとまずいような気がした。倉田かおりは、一般に少年課に出入りする年齢の青少年よりはさらに幼いし、今、砧路子が、のっけから彼女を「かおりちゃん」と呼んだ――そのうえ、「かおりちゃんと会う」のではなく、「かおりちゃんと一日を過ごす」と言った。
少し、踏み込み過ぎているのではないだろうか。いくら十三歳の少女でも、相手には連続放火の疑いがかかっているのである。
「一日を過ごすって、倉田かおりさんと遊びに行くつもりですか?」と、ちか子は訊いた。
「石津さんも、やり過ぎだとお思いなんですね?」ため息まじりに、砧路子は言った。「伊東警部にも、詳しく話せばそう言われるのではないかと覚悟していました。署でもそれで叱られていますから」
「なるほどね……」と、ちか子は言った。が、あとは黙っていた。しばしの沈黙の後、砧路子は意外そうに、また少しばかり喧嘩を売るような元気の良さで、訊いてきた。
「石津さんは、お怒りにならないんですか? そういうことじゃ、捜査にならないとおっしゃらないんですか」
こういうときよくあることだが、砧路子は自分で自分の言葉に煽《あお》られていた。興奮し、早口になってきた。
「わたしは、倉田かおりは本当のことを言っていると思っています。彼女は小火を起こしていない。放火なんかしていないんです。おかしな小火が続いていることは事実ですが、かおりちゃんは容疑者ではなくて、被害者です。わたしはそう確信してるんです。どうなさいます、石津さん? わたしを怒鳴りつけるか笑い飛ばすかなさいますか?」
ちか子はくすくす笑った。「いきなり電話で、それはできませんよ。まだあなたにも、当の倉田かおりさんにも会っていませんからね。それよりわたしは、砧さんあなたが、今日かおりさんがそばにいるってことを、隠さずに最初にはっきり仰ったことが、気に入りました」
先輩風を吹かして、敢えてそういう言い方をした。
「事件の内容があのファイルのようなもので、あなたがかおりさんにそういう態度をとっておられるとすると、署内でだいぶ風当たりが強いでしょうけれどね。それにあなたは、気持ちとしてはかおりさんに肩入れしていても、あのファイルのレポートは、実に冷静に、客観的に書いておられました。それも立派だと思います」
初めて、砧路子は笑った。「ありがとうございます。わたしも、石津さんにお会いするのが楽しみになってきました」
待ち合わせ場所を約束し、電話を切った後、ひょっとするとあたしは砧路子に試されたのかなと、ちか子は思いついた。
伊東警部が自身で乗り出してこず、誰か部下を寄越すというケースを、路子とてまったく想像していなかったわけではあるまい。そういうとき、最初に一発こうかます――「わたしは今日非番の日を、倉田かおりちゃんと過ごします。わたしはあの子の味方です。あの子は放火犯じゃありません」
これを聞いて、笑ったり怒ったりするような相手だったら、頼むには足らない。どうせ公的な仕事じゃないんだし、喧嘩して追い返してやればいい。砧路子は、最初からそう計画していたのではないか。
――頭のいいひとだ。
一段と、やる気が出てきた。ちか子は張り切って家を出た。
[#改段]
13
砧路子は長身だった。一七〇センチ以上あるのではないかと、目測しながらちか子は思った。このところ、男女を問わず、背の高い人物に縁があるようだ。
問題の少女、倉田かおりの自宅があるというマンションは、ただ高級であるだけでなく、目も眩《くら》むような超高層だった。砧路子はそのエントランスの大きな自動ドアの前に立っていた。マンションの前庭を歩いてエントランスの方に近づきながら、ちか子は、このマンションが売りに出されたときのパンフレットの一ページに、今自分が目にしているような光景を写した写真が載せられていても、けっしておかしくはないと思った。
「砧さんですか? 石津です」
声をかけると、長身の女性ははっとしたようにちか子を見おろした。しばしばとまばたきをする。
「石津さんですね? 失礼しました、砧です」
言いながら、大股に歩み寄る。ちか子はすっと右手を差し出した。
砧路子は実に自然にちか子の手を握り、一瞬力強く握り返してから、その手を離した。彼女にとっては慣れた動作であるという印象を受けた。
「かおりちゃんには、石津さんのことを、わたしの先輩だと説明してあります――」
エントランスの自動ドアを通り抜けながら、砧路子は説明した。しかし、自動ドアの向こう側に広がっていた空間の贅沢さに虚をつかれ、ちょっとのあいだ、ちか子は彼女の言葉を聞いていなかった。
この場所をなんと呼べばいいのだろう。やはり、ロビーとでも呼ぶのだろうか。ちか子の小さなマイホームが丸ごと入ってしまうような広さだ。しかも頭上には、このマンションの三階分ほどをぶち抜いた吹き抜けが展開している。吹き抜けの上部は三角錐《さんかくすい》の形に閉じあわされており、だからこのロビーに足を踏み入れた者は、大理石とガラスで構成されたピラミッドを内側から仰いでいるような気分になるのだった。
「素晴らしい眺めですね」
社会見学で初めて国会議事堂や最高裁判所を訪れた小学生のように、天井を仰いでぐるりと回りながら、ちか子は呟いた。ちか子の数歩先を歩いていた砧路子は、足を止めて笑顔になった。
「でしょう? わたしも、初めてここに来たときにはびっくりしました。あんまり驚いたので、しゃっくりが出たくらい」
もういっぺんぐるりと回ってから、ちか子は周囲に目を移した。エントランスのドアから見て左側に、幅の広いカウンターがある。「フロント」なのだ。身なりのきちんとした中年の男性がひとり、その内側で立ち働いている。今、電話が鳴った。彼が受話器をとって応対する。この部分だけを切り取ってみるならば、まさにホテルのようだ。
反対側の壁際には、大理石の黄金色によく映るベージュ色にシャープな黒でアクセントをつけた二組のソファが据えてある。それぞれのソファの中央に配置されたガラステーブルの上には、赤いバラのつぼみとかすみ草のアレンジメントが載せられている。ソファのセットを見おろす壁一面の壁画は、どうやらタイルをモザイクのように組み合わせて創りあげられたものであるらしい。ベネチアの町と水路とゴンドラを描いたものだ。
ちか子はため息をついた。それは羨望《せんぼう》というより、むしろ畏敬のため息だった。人間が、普通の家庭人が、さてこんなところに住んでいいものだろうかというような思いが、ちらりと心の隅をよぎった。
「参りましょう」
わずかにせかすような口調で、砧路子が声をかけた。ちか子は急いで歩き出した。ふたりの前方には、さっき抜けてきた自動ドアをひと回り小ぶりにしたぐらいの自動ドアがあった。エントランスのそれとこの自動ドアとの違いは、前者が透明ガラスでできていたのに対して、後者は曇りガラスだということだ。さらに、この自動ドアのすぐ左手には、ちょうど公園の水飲器ぐらいの大きさで、ちか子の腰の高さぐらいの大理石の柱が立っていた。上部にパネルがついており、たくさんのボタンが並んでいて、その隣に受話器がセットしてある。
「オートロックですね、もちろん」
ちか子が言うと、砧路子はうなずきながら、手をさしのべて受話器を取り上げ、列の一番右端のボタンを押した。そのボタンだけ、ぽつんとひとつ孤立していた。
「こんにちは、砧です」
砧路子は、受話器に向かってあの温かみのある声で話しかけた。ちか子の耳にはしかと聞き取れないが、受話器の向こうで誰かが何かを言った。数字のようだった。
砧路子はいちいちうなずく。「はい、判りました」
そして受話器を置いた。それとほとんど同時に、かすかなブーンというような音が、閉じられている自動ドアの方向から聞こえた。路子がそちらに足を踏み出すと、自動ドアはしずしずと開いた。
「倉田さんのお宅は何階ですか?」
「最上階です。三十九階」と、砧路子は答えた。「ペントハウスです。エレベーターも、直通の独立したものがついているんです」
曇りガラスの自動ドアの内側に入ると、そこがエレベーターホールだった。左右二つずつのエレベーターのドアが、これもまた礼儀正しいドアボーイのように向き合っている。直通のエレベーターはさらにその奥、右手に折れる短い廊下の突き当たりにあった。共用エレベーターよりもぐっと小ぶりで、両開きのドアの脇に、上昇・下降ボタンと並べて電卓のようなテンキーのパネルが設置されている。
砧路子は、慣れた手つきでそのテンキーを叩き、四ケタの数字を打ち込みながら説明した。
「このエレベーターは、決められた暗証番号を打ち込まないと扉が開かないようになっているんです。暗証番号は毎週末に変更されるので……」
さっきの、オートロックのところのインタフォンでのやりとりは、そういうことだったのだ。
これだけの高級マンションの、しかもペントハウスなのだから、セキュリティに気を遣うのは当然のことだ。しかしらか子は、砧路子に続いて小さな専用エレベーターに乗り込みながら、昨日読んだ「砧レポート」に記載されていた十八件の小火《ぼや》のうち、倉田かおりの自宅内で発生した八件の小火について考えていた。外部から来た、倉田家とはまったくつながりのない人間が、その八つの小火を起こすためには、不審者として見咎められたり訪問先を尋ねられたりせずにフロント前を通り、オートロックを解除し、専用エレベーターを開ける暗証番号をつかまなくてはならない。
事実上、不可能と言っていいだろう。百歩譲って、たとえばたった一度なら、僥倖《ぎょうこう》に恵まれてそれらの関門を通過することができるかもしれないが、二度目、三度目はあるまい。
そうなるとやはり、怪しいのは倉田家の家族と、彼らのこの家に親しく出入りすることのできる人間だ。これが、事実を括《くく》る推論の、いちばん外側の輪ということになる。
では外から二番目の輪は何か。十八件引く八件の残り十件の小火がどこで発生しているかということだ。四件は学校の教室内、一件は学校の校庭、三件が路上、一件は図書館、そして最後の一件が病院の待合室だ。かなりバラつきがある。
――十件全ての現場に、倉田かおりが居合わせていたという事実を除けば。
だからこの少女が、事実を括る推論の、いちばん内側の輪になるのだ。十八件の放火が少女の仕業なのか、あるいは少女を狙う誰かの――少女に怪我をさせることが目的なのか、放火魔のぬれぎぬを着せることが目的なのかはさておき――仕業なのかということは、さらにその内側の、まだ未知の領域だ。それでもちか子は、その未知の領域には、自分にとって多少なりともなじみ深い「色」がついているだろうと思い始めていた。
放火は「場《フィールド》」の犯罪である。「人《パーソナリティ》」だけでは絶対に成立しないという、他の凶悪犯罪にはない特異な側面を持っている。「場」と「人」とが組み合わさって初めて、火をつけるという行動を起こすための最後のスイッチを入れる原動力が、行為者に与えられるのである。
それは単に、放火癖のある人間をそそのかす、放火しやすい「場」というものがあるということだけではない。もちろん、きちんと片づけられていないゴミ捨て場とか、可燃性の雑多な建材を積み上げたうえに、塀もなければ囲いもない資材置き場など、「火が燃えるのを見ると胸がすっとする」「炎を見ると、性的に興奮する」などの厄介な衝動と心の動きを抱えた人間を手招きしてしまうような「場所」があることは事実だ。だが、それはあくまでも「場所」であって「場」ではない。ちか子の思う「場」とは、放火という行為を仕掛けられたその地点が――家、建物、施設等――持ち合わせている、その場所の雰囲気のようなもののことなのだった。
前記のような、あくまでも自分の内側の欲求を満たすために火を放つタイプの放火犯でも、よく話を聞き出してみると、火をつける場所を選ぶときに、実に微妙な選択をしていることが判ってくる。たとえば、放火捜査斑に移ってきて初めてちか子が取り調べを担当した四十歳代半ばのある女性の放火犯の例がある。彼女は、夫の浮気とそれによる家庭内のゴタゴタからノイローゼ気味になった。ひとり息子は地方の大学に合格し、家を離れていた。彼女は孤独で、相談相手もなく、気晴らしの方法も知らなかった。あるとき、テレビドラマで火災の場面を見て、妙にすっとした。もっと大きな火を、もっと間近で見たならば、もっとすっとするのではないかと思いついた。その結果、全部で六件の小火を起こしたのだった。
六件の放火現場はすべて、彼女の自宅から半径二キロ以内の小さな円の内側にあり、かつ、築五年以内の相対的に新しい一戸建ての家ばかりを対象としていた。その地域は、ちょうど高度成長のころに住宅地として開けたところで、古くからの建て売り住宅と、昭和末期と平成の初頭に新たに分譲されたり建設されたりした新しい住宅とが、ごま塩のように入り交じっているところだった。
取り調べの段階では、この女性本人も、自分がなぜ、比較的新しい家ばかりを狙って火をつけたのか、はっきりと自覚していなかった。ただ「たまたま目に付いたから」「目立ったからじゃないですか、あたしはどこだってよかったんですもの。火が見たかっただけだから」と言い続けていた。
ちか子は六件の現場を訪ね、最後に犯人の女性の家を訪ねた。女性の自宅は、彼女の夫が親から譲り受けた木造の二階屋を増改築したもので、かなり老朽化し、継《つ》ぎ接《は》ぎ増築のために不細工な格好になっていた。取調室に戻ったちか子は、ごく普通の主婦の好奇心を働かせて質問した。――いいお宅だけど、だいぶ古いわよね。ご主人と、建て替えの相談はしなかったの?
したと、彼女は答えた。そのために、ずっと貯金もしてきたという。彼女はずっとパートタイムで働いていたが、毎月の給料も、家の新築費用にあてるためにすべて銀行に預けていたのだという。
――だけどそのお金、主人が使っちゃったんですよ。あたしに内緒でね。なんだかんだで五百万ぐらいあったんだけど、気がついたら百万も残ってなかった。
――何に使ったのかしら。
――女と遊ぶのに、お金が要ったんですよ。浮気はお金かかるんでしょうよ。
ちか子は彼女の夫に確認をとった。夫は当時すでに彼女との離婚手続きを始めており、実に冷淡な態度で捜査にも非協力的だった。だが、貯金を引き出した件については、俺の稼いだ金を俺が使って何が悪いと開き直り、むしろ居直ったような様子であっさりと認めた。
ちか子はもう一度、六件の現場を訪ね歩いた。彼女の起こした放火はどれも小火に毛が生えたようなもので、壁を焦がしたり、勝手口の脇に積み上げられていた古新聞を焼いたりした程度のものだったので、被害にあった家は皆、きれいに修復がなされていた。ちか子はその家の窓に、その家の玄関脇のフラワーボックスに、二階の出窓に飾られた大きな壺《つぼ》に、今、取調室で向きあっても顔をあげることのない陰気な女が、火を放った瞬間に見ていたものが見えるような気がした。
――不公平だ。
彼女はそう思ったのだ。こんなに真面目に働いているのに、一生懸命貯金だってしているのに、夫のため子供のために頑張って、何ひとつ後ろ暗いことをしていないのに、あたしの手には何も残らない。誰も認めてくれない。夫は女をつくって遊んでいる。子供は自分の人生を謳歌《おうか》することで忙しい。あたしには何もない。かつては持っていたかもしれないものは皆、夫のために、子供を育てるために失くしてしまった。
だけれどこの町に、買い物するため、パートの仕事先に通勤するため、そこらを歩いているだけで、嫌でも目に入る場所に、あたしが得ることのできなかったものを持っている人たちがいっぱいいる。新しくてきれいな家。きちんとした家庭の、幸せの、彼女から取り上げられるばかりで与えてもらうことのできなかったものの、それは象徴だった。
――不公平だ。
だから火をつけたのだ。火は浄化の火だ。不公平なものを焼き払う。
ちか子がこの推論をぶつけてみると、取調室の女は、初めてちょっと顔をあげ、ちか子を見た。そしてひどく草臥《くたび》れたような声で、ぼそりと言った。
――そうだったかもしれない。だけどそんなこと、もうどうでもいいじゃないですか。だからって、罪が軽くなるわけじゃないんだし、それにあたし、思い出してみたら、昔っから火を燃やすの好きだったんですよ。だから、何もなくたって、いつかは放火やってたかもしれませんよ。
なるほどそうかもしれない。それでもちか子は、折に触れてふと考えずにはいられなかったものだ。もし、彼女の夫の浮気が、彼女たちの家が新しく建て替えられた後に始まっていたとしたらどうだったろう? そのときには彼女は、他人のきれいな家ではなく、自分の家に――さまざまなものを犠牲にし、堪え忍んで建てたのに、夫婦の絆《きずな》にとっては何のプラスにもならなかった自分たちの家にこそ火をかけていたのではなかったか。確かに彼女は火が好きだったのだろう。その破壊力と、その浄化力が。だが、それを行使する方向を決めるのは、あくまでも現実の彼女の心の向きだ。放たれる炎は、心が鬱屈している方向めがけて奔《はし》ったのだから。
他にも例はある。受験ノイローゼで二十一件の連続放火をしたある浪人生は、夕暮れの住宅地をうろついて、窓に明かりが灯り、笑い声が聞こえてくる家を探したと告白した。そういう家やマンションの窓を見つけると、場所を覚えておいて、深夜に火をつけるのだ。その一方で、汚い廃工場や、放置された廃屋ばかりに放火する者もいた。リストラにあって職を失った中年のサラリーマンだった。本人は自覚していなかったが、彼の目にはそういう見捨てられた場所が、自分自身の姿と重なって見えたに違いない。
こうした、ある意味では「純粋な」放火犯ではなく、強盗殺人の痕跡を消そうとしたり、最初からなかにいる人間を焼き殺そうと企んで建物に火を放つ犯人たちの場合でも、もしも「場」が違っていたならば、結果も違っていたのではないかと思われるケースによくぶつかる。不倫関係のもつれから、憎い男を殺そうとして彼の自宅に火をつけ、結果的に彼の老母を焼き殺すことになってしまった若い女性を取り調べたことがある。彼女は、一対一では男にかなわないので、家に放火することは最初から決めていたと言った――このあたりが、放火が「弱者の犯罪」だと言われる所以だ――それでも、その場になって火をつける勇気が出てくるかどうか、本当は自信がなかったという。彼女は子供のころに救急車で運ばれるような火傷をした経験があり、実は火が怖かったのだ。
――だけど、あの人の家を見た瞬間に、迷いとか怖さは消し飛んでしまいました。
いい家だったという。けっして豪華でも新しくもないが、本当に「家庭」という感じがしたのだという。
――ベランダに、ハーブを植えた鉢植えがたくさん並んでいました。ミニトマトの鉢もあって、赤い実がついていました。そういう家庭菜園みたいなベランダの端に、子供の三輪車がとめてありました。車輪に泥がついているのが見えました。
男や男の妻が、ハーブやミニトマトの手入れをし、収穫したものを料理に使い、テーブルを囲む光景を想像した。男が子供を三輪車に乗せ、笑いながらそこらを走り回る光景を想像した。
――我慢できませんでした。わたしにあんなひどいことをした裏切り者が、しゃあしゃあとしてこんな暮らしをしてる。こんなの不公平だ。これは嘘だ。この家は嘘だ。ここを焼き払わなくちゃいけないと思ったんです。
ちか子は、彼女の言葉の変化に注目した。最初は、一対一じゃかなわないからと言いつつ、目的はあくまで憎い男だった。しかし、彼の家を見てからは、対象が「この家」「ここ」に変化をしている。
彼女は「場」の魔力にかかってしまったのだ。もしも男の家が、もっとみすぼらしく、もっと乱雑な外見と雰囲気を持っていたなら、彼女は火をかけることを躊躇《ためら》ったかもしれない。ここで問題なのは、彼女の気持ちを決めさせたのは、男と妻と子の「本当の」家族関係や仲むつまじさではないということだ。夕食の光景も、三輪車の父子も、彼女は直接目撃したわけではない。それらの光景は、彼女が頭のなかに思い描いただけのものだ。現実は全然違っていたかもしれないのである。
しかし、彼女にとっては、そのとき頭に浮かんだものが事実となった。これが「場」の魔力なのだ。家が、「場」が持っていた磁力が彼女に働きかけてしまったのだ。
――不公平よ。
たとえ犯罪の局面でも、火は聖なるものなのだということが、これでよく判るとちか子は思う。殺人者が痕跡をくらますために死体や犯行現場に火を放つときも、その火によってすべてが浄化され、何もなかったかのように清められることを、無意識のうちに期待しているのではないかと思う。
過ちを正し、不正なものを焼き払い、すべてを灰に還して静謐《せいひつ》な無を招来する絶対の力――それが「火」だ。
それを思ったとき、ちか子の思考は、やはりあの不可解な連続焼殺事件へと返っていく。ちか子自身が、どうしても、河川敷事件と繋がっているに違いない今回の一連の事件を、遠い以前の女子高生殺しの遺族による復讐と制裁だと思わずにはいられない理由のひとつに、使用されているものが「火」だということがあるのではないか、と。火は裁きの色なのだから。
「石津さん、着きましたよ」
砧路子の声に、ちか子ははっと我に返った。エレベーターは停まっており、ドアが開いている。路子は先に降りて、明るいレンガ色のタイルの敷き詰められた、こぢんまりしたポーチに立っていた。
正面には、どっしりとした樫《かし》材でできたドアがある。路子がドアの脇のインタフォンを押すと、すぐにスピーカーから返事があった。「はい、どうぞお入りくださいまし。開いています」
ちか子は静かに深呼吸をした。放火が「場」の犯罪であるならば、それをする人間は、「場」を壊そうとしているか、「場」から逃げようとしているか、そのどちらかだ。なぜ壊したいのか、なぜ逃げたいのかは、むしろ副次的な動機だろう。ただ、壊したい者を動かすのはその「場」に対する憎悪であり、逃げたい者を動かすのはその「場」に対する愛であるということは、確かに言える。
それならば、この塔のようなマンションのてっぺんで、この「場」の磁力と孤独な格闘をしているのは、いったいどんな人間だ?
砧路子がドアを開けた。
「こんにちは――」
砧路子が挨拶の言葉を言い終えないうちに、開いたドアの陰から何か黄色いものが飛び出してきて、ぱっと彼女に飛びついた。路子ははずみで後ろに二、三歩下がったが、すぐに笑い声をあげてその黄色い存在を受け止めた。
「かおりちゃん!」
「びっくりした?」
路子に抱き留められて歓声をあげたのは、長身の路子の胸ぐらいの背丈しかない少女であった。柔らかそうな黄色いセーターを着て、ジーンズのミニスカートをはいている。
「もう、砧さん遅刻だよ!」
「ごめんね。でも十五分くらいの遅れでしょ?」
「いいえ、もっとです」少女はしかつめらしい顔で右手首にはめている腕時計を見た。
「十八分の遅刻」
砧路子は大仰に驚いた顔をつくった。
「それはまあ、すみませんでした。お許しくださいませね」
そこでようやく、少女はちか子の存在に気づいた。ちか子はまだ身体半分はドアの外にいて、砧路子と黄色いセーターの少女が子犬のようにころころと抱き合うのをながめていたのだった。
「あなた――誰?」砧路子の腰に両腕を巻きつけたまま、少女は問うた。咎めるような訊き方だった。
「何しに来たの?」
ちか子は微笑んでいたのだが、その笑みが固まってしまった。それほどに、少女の口調には鋭い難詰《なんきつ》の響きがあった。
「ねえ砧さん、この人誰?」と、重ねて少女は訊いた。砧路子はあわてて姿勢を真っ直ぐにし、少女の手をほどきながらちか子の方に向き直った。
「失礼しました、石津さん、こちらが倉田かおりちゃんです」と、少女の肩に手を置く。
「こんにちは、石津です。初めまして」
ちか子はさらに微笑んで挨拶をした。しかし、少女の固い表情に変化はない。
「この人、何しに来たの?」顔はちか子を見つめたまま、砧路子の方にすり寄って、少女は訊いた。
砧路子は、少女のこういう反応には慣れっこになっているらしい。彼女の肩を軽くぽんぽんと叩きながら、優しく言った。
「そんな言い方をしたらいけないわね。まず、ご挨拶をしなくちゃ。石津さんは、わたしの先輩の刑事さんなの。一緒にお仕事をしているのよ。だからかおりちゃんにも紹介しようと思って、今日は一緒に――」
倉田かおりのつぶらな瞳が、大きくまたたいた。豪奢《ごうしゃ》な住まいの玄関ホールの広い天井に、甲高い声がこだました。
「嫌よ!」
その声のなかには千の針が含まれており、その針が一斉に突き刺さってくるのをちか子は感じた。これほど判りやすくあからさまな拒絶には、めったにお目にかかれるものではない。
「帰ってよ! あなたなんかにここにいて欲しくない! 帰って! 帰って!」
身体全体でそう叫ぶと、かおりはくるりと身をひるがえし、玄関ホールの先にのびる廊下の方へと駆けだした。突き当たりに、表面に凝った浮き彫りの施された両開きのドアがある。少女はそれを体当たりで開けると、その内側に姿を消した。
「かおりちゃん――」
さすがに、砧路子の頬が引きつっている。
「申し訳ありません、石津さん」
あわてる彼女を、ちか子は柔らかく制した。
「いいんですよ、気にしないで。不審火の件でいろいろ調べられて、警察の人間には嫌な思いをさせられているんでしょう」
「ええ……確かにかなり人見知りをする子ではあるんです」
砧路子は鼻の頭に汗をかいている。どれほど落ち着いて見えようと、聡明であろうと、やはりこういう点では、この人はまだまだ青いとちか子は思った。世の中に、刑事が刑事であるというだけで、蛇蝎《だかつ》のように忌み嫌う人間は大勢いるのだ。そのたびに心やプライドを傷つけられていては、仕事にならない。
ただ、そのことを念頭においてもなお、今のこの状況は不思議だった。倉田かおりとちか子は、まだ顔をあわせたばかりで、ロクに話もしていない。いきなりあれほど攻撃的になるとは。
少女の消えていった両開きのドアが開き、洒落たエプロンをかけた女性がひとり、小走りに出てきた。普通の家ならこの女性が母親だろうと推測するところだが――
「こんにちは、砧さん、どうも」
エプロンの女性は小腰をかがめ、様子をうかがうようにちか子を見た。上目遣いのその目つきは、一家の主婦のそれではない。
「あの、お嬢様どうかなすったんでしょうか」と、くだんの女性は訊いた。やはり、使用人のようだ。容姿にも、かおりと似通ったところは見あたらない。歳は四十歳前後というところか。
「ごめんなさい、ご機嫌を損ねてしまったらしいの」と、砧路子は言った。面目なさそうな顔だった。エプロンの女性に対してではなく、自分自身に対してだ。
「あの、こちらは――」
路子に紹介される前に、ちか子は自分で名乗った。
「実は、石津さんは本庁の放火捜査班の方なんです」と、路子が補足する。「石津さん、こちらは江口《えぐち》|総子《ふさこ》さん。倉田家の家事をなすっている方です」
ちか子は丁寧に挨拶してから、尋ねた。
「かおりさんは、ときどきあんなふうに癇癪《かんしゃく》を起こすことがあるんですか?」
江口総子は大急ぎという感じで首を振った。
「とんでもない。普段は大人しすぎるくらい大人しいお嬢様です」
大人しいというところと、お嬢様という言葉に強いアクセントがおかれていた。表情でこそ恐縮しているが、頭のかしげ方、口元の歪み方、ちか子を見る視線、すべてが、
――あなたがお嬢様を怒らせたんでしょう。
と責めている。
「少しそっとしておいて、後で様子を見にいった方がいいかもしれないわね。とりあえず、奥へ通していただいてもいいかしら」と、砧路子が訊いた。くだけた口調だった。
江口総子は、ちらりとちか子を見た。
「はい、そうですわね。こんなところで立ち話もなんでございますから、とにかくどうぞ」
ちか子は落ち着き払って訊いた。「かおりさんは?」
「ご自分の部屋に駆け込んで、ドアを閉めておしまいになりました」
「かおりちゃんの部屋は上にあるんです。ここはメゾネットなので」
だからすぐには顔をあわせませんよと宥《なだ》めるように――あるいは、だからすぐに強引にかおりちゃんと会おうとしないでくださいねと牽制しているのか――砧路子が言った。
「それじゃ、入らせていただきましょうか」
ちか子は言って、臆することなく江口総子を促した。あたしはここに、十八件もの不審な小火《ぼや》がなぜ起こり、誰がそれを起こしているのか、捜査し調査するためにやって来たのだ。家庭教師でもなければ、家庭訪問に来た教師でもない。子供の機嫌を損じたくらいで、ビクついてはいられない。
確かに、捜査や尋問の影響で、かおりが心を傷つけられ、刑事嫌いになっているのだとしたら、それは痛ましいことだ。だが、それはちか子がしたことではないし、これからちか子がしなくてはならないことは、それらのハンディキャップを乗り越えた上で、十八件の不審火の重要な関係者である倉田かおりとのあいだに、必要なだけの信頼関係を築くことなのだから、なおさらオドオドしてはいられないのである。
ちか子と砧路子は、これはなんというのだろう――南欧風か? ――リゾートホテルの広告写真をそのまま立体化したようなリビングルームに通された。広さは――三十畳分以上ありそうだ。部屋の反対側の壁は、ピクチャア・ウィンドウというのだろう、一面に窓ガラスになっており、ベランダには、ちょっとした一戸建ての家が丸ごと入ってしまいそうな広い庭がある。芝生まである。ここは高層マンションのはずなのだが……。
右手に、かおりの部屋があるという階上に通じる階段が見えている。緩いカーブを描き、堂々たる手すりを巡らせた階段である。天井も高い。室内は掃除も行き届いており、手前の壁際に据えられた装飾用のテーブルは、ちか子の自宅の窓ガラスよりもきれいに磨き込まれていて、そばを通りかかった砧路子とちか子の顔を、鏡のようにはっきりと映した。そのテーブルの上には、鮮やかな色合いの花瓶が載せられており、部屋の明るい色調によく釣り合う花がどっさりと活けられていた。ちか子たちに椅子を勧めておいて、江口総子がキッチンへ――おそらくはキッチンの方へ――引き下がった隙に、ちか子はその花を調べてみた。生花ではない。造花だった。それにしても安物ではない。これだけ豪華に活けるためには、四、五万円はかかっていることだろう。
砧路子は、リビングの窓の方に半ば背中を向けて設置されている二人掛けのソファに座った。そこが、このリビングにおける彼女のいつもの定位置であるらしく、座り方に迷いがなかった。しかし、倉田かおりの爆発のあおりをくらって、突然、ちか子との距離感の取り方が判らなくなってしまったらしく、黙り込んで、自分の手の爪ばかりを調べている。
ちか子の方は、さすがにこの広さと美しさに戸惑ってしまい、結局、このリビングに入って来るときに使った両開きのドアと、階上に通じる階段を等分に見渡すことのできる肘掛け椅子に浅く腰かけた。
江口総子が、大きな銀の盆を捧げて戻ってきた。まるでホテルだ。ちか子は、この家に住まう親子の日常生活を想像してみようとして、途中でやめた。下手な想像、休むに似たり。
江口総子は紅茶を用意して来ていた。テーブルの上に、美しい薄手の茶碗やポットを並べてゆく。
「後片づけなどが、大変でしたでしょうね」と、ちか子は話しかけた。
「は?」江口総子は慇懃《いんぎん》な感じで顔を上げたが、こちらが問いかけたことの意味が判っていないようだ。ちか子は続けた。
「記録を拝見しましたが、それによると、二年足らずのあいだに、こちらのおうちのなかで、八回の小火が起こっているわけですね。それぞれ、どこでどういうものが燃えたのか、おいおい教えていただきたいのですが、それにしても、今こうして拝見すると、小火の爪痕のようなものがまったく見受けられませんのでね。修理や修復に、お力を入れておられるのだろうと思いまして」
江口総子は、ちか子の前に置こうとしていた紅茶のカップを、がたんと鳴らした。顔は平静だったが、腹を立ててわざとしたことかもしれない。どうやら、この家を訪れる客にとっては、倉田かおりに嫌われるということは、致命的ミスであるらしい。
――小さな女王様か。
それもまた、「場」の力だ。
「小火は、どれもそう大きなものではございませんでした」江口総子は、とってつけたような丁寧な口調で答えた。「ですから、後片づけや家具の入れ替えなども、大した手間ではございません」
「石津さん――」砧路子が割って入った。
「それぞれの小火の発生した位置や、火災の様子については、報告書に細かく書いておいたはずですが」
ちか子はせいぜい気のいいおばさんの顔をつくって、にっこり笑った。
「はい、承知していますよ。ただ、せっかくこうしてお邪魔したのですから、特にこちらのおうちのなかのことを取り仕切っておられる江口さんにも、直にお話を聞いてみたいのです」
砧路子は意固地に続ける。「いちばん最近の不審火は、ここで起こったのではありません。学校の教室で起こっているんです」
「そうでしたね。それでかおりさんが火傷をした。十五日前のことです」ちか子は静かに言葉を返した。
「そして、今までの不審火のサイクルから推して、今から一週間から十日後には、十九回目の小火が発生するのではないかと考えられる――それが心配だから、わたしたちは今ここでこうしているのです」
暗に、気持ちを切り替えて仕事を始めましょうと、砧路子に釘を刺したつもりであった。
「はあ……それはそうですが」と、路子はしょげる。
ちか子は少しばかり呆れていた。まったく、しっかりした聡明な人だと思っていたのに――そりゃまあ、まだ会ったばかりだから即断は禁物だけど――あんな華奢な女の子の癇癪にびっくりさせられたくらいで、自分を見失ってしまうなんて。今目一日のご褒美のケーキ一切れ、別のことに賭けた方がよさそうだ。砧路子は、ちか子をここに同道したことを、心から後悔しているに違いない――という賭けに。これなら、百パーセント勝てる。
「お嬢様の様子を見て参りましょうか」
江口総子が、砧路子に訊いた。
「今日は、砧さんとご一緒にピアノのコンサートにお出かけになるはずでしたね? お昼も、外で召し上がるご予定でしたでしょう?」
「ええ……」砧路子は、ちらりと腕時計を見た。
「早めにお邪魔したので、時間的にはまだ大丈夫ですけれど」
「でも、お嬢様は、今日のお出かけに着ていくお召し物を、砧さんに相談してお決めになるのだとおっしゃって、待っていらしたのですよ」
「ですから、今日は石津さんをご紹介だけしようと思いまして」
ちか子は、ふたりの会話の内容に、わざと無頓着なふりをして、訊いた。「かおりさんは、学校はどうなさっているのですか? 今日は平日ですよね?」
「今日は――お休みを」江口総子ではなく、路子が答えた。
「病気でもないのに?」
「報告書にも書きましたが、不審火続きで、かおりちゃんは学校で嫌な噂を立てられたりして、辛い思いをしているんです。それでときどき、どうしても学校には行きたくないと言い出す日があって」
江口総子が、訳知り顔で乗り出した。「お嬢様の通っておられる精華学園《せいかがくえん》中等部は、そこらのガリ勉の学校とは違うんです。自由な校風で、個性を尊重する教育方針で――」
「そうですか」ちか子はまたにっこりし、まだ続けてまくしたてそうな総子に肩すかしを食わせるつもりで、あっさり引き下がった。
「そういうことなら、音楽鑑賞もよろしいでしょうね」
そして紅茶のカップを手に取った。
「頂戴します――いい香りですね」
ちか子は澄まして紅茶を飲んだ。確かに香りは素晴らしいが、温《ぬる》かった。
「それでしたら江口さん」
ちか子がひと口紅茶を飲み、出し抜けに声をかけると、砧路子と話の接《つ》ぎ穂《ほ》に困ったような顔を見合わせていた江口総子は、目に見えてびくんとした。
「はい?」
「江口さんだけでも、お話をうかがえませんか。かおりちゃんの世話は、砧に任せて。もともと、そういう予定だったのでしょう?」
江口総子はおろおろして、助けを求めるように砧路子を見ている。
「お手間はとらせません。一時間ほどいただければ結構です。何でしたら……そうですね、わたしはかおりさんを動揺させてしまったようですし、一旦、これで失礼しましょう。そして、砧がかおりさんと外出したころを見計らって、もう一度お邪魔いたしましょう」
「でも、あの……石津さんにはその、おひとりでそんなことをなさる……その、権限というんですか、そういうのは――」
「正式には、ございません。ございませんが、なにしろ不可解な不審火が続いていますし、怪我人も出ています。砧から報告を聞きました以上は、放置しておくわけには参りません。今までの捜査で光明が見えないようでしたら、人員を入れ替えるなりの手を打つ必要もございます。ですからぜひ、ご協力をお願いしたいのです。もちろん、かおりさんのご両親や学校の先生にも、同じようなお願いをするつもりです」
今や砧路子は、子供のころから可愛がってくれた「伊東のおじさま」の――間違いない、彼女は「おじさま」と呼ぶタイプだ――非公式な援助を求めたことをも、深く深く後梅していることだろうと、ちか子は思った。案の定、路子はまた鼻の頭に汗をかいている。
「そういうことでしたら……」
そのとき、江口総子の煮え切らない言葉の語尾をかき消して、鈍く、低く、何かがはじけるような音がした。この室内で、すぐそばで。
驚いて、音が聞こえてきた方へと首を巡らす刹那《せつな》、ちか子はまばたきした。それは本当の反射作用で、頭が何かを判断するよりも先に、身体が反応したのだった。ちか子の目が、異物から自分を守ろうとしたのだ。
火の粉が飛んできた。頬がちくりとした。
江口総子が銀の盆を取り落とした。砧路子がティーカップをがちゃんと鳴らした。ちか子はふかふかの肘掛け椅子から勢いよく立ち上がった。
壁際で、装飾用のテーブルの上の花瓶が燃えていた。豪華な造花の束が、まるごと炎の大輪の花に化身《けしん》して、この世のものならぬその花の花粉である火の粉をまき散らしながら、静かに、音もなく、しかし天井を焦がすほどに高く燃えあがっていた。
[#改段]
14
石津ちか子は素早く行動した。勢いをつけて肘掛け椅子から立ちあがると、取り落とした銀の盆のすぐそばで立ちすくんでいる江口総子の腕をつかんで揺さぶった。
「消火器はどこですか?」
江口総子は顎をがくがくさせながらちか子の顔を見た。「し、消火器?」
「そうです。どこにあります?」
もう一度強く揺さぶってやると、総子はやっとしゃっきりした。ちか子に返事をするより先に、リビングの出入口の両開きのドアに向かって突進した。ちか子も彼女のすぐ後ろにくっついてドアを抜けた。
広い廊下を、総子は左に曲がった。突き当たりにまた両開きのドアがある。開けると、また廊下だ。その廊下のなかほどに、ちか子の腰ぐらいの高さの洒落た飾り棚があり、総子はその陰から中型の消火器を引っぱり出すと、見るからにあわてた手つきでそれをいじくり始めた。
ちか子は彼女の手から消火器をひったくり、そのままものも言わずにリビングにとって返した。この消火器は安全ピンを抜いて使用するタイプのもので、泡消火器だった。リビングの両開きのドアを抜けたときには、ちか子はすでに構えていた。
花瓶の花はまだ燃えていた。しかし、炎はすでに天井には届いていないし、ついさっきまで炎の赤い舌先になめ回されていた天井にも、わずかに煤の跡が見えるだけで、火は回っていない。当然のことながら、このマンションの内装には、防火面でも完璧な対策がなされているのだろう。
ちか子は落ち着いて消火器のノズルを花瓶の方に向けると、泡を放射した。小気味いい音をたてて飛び出した泡は、すぐに炎を押さえ込んだ。薬臭い匂いが室内に充満し、炎と煙の匂いを圧倒しきるまで、一分とかからなかった。
火の色が見えなくなっても、ちか子はまだ消火器の泡を放射し続け、そうしながら一歩ずつ花瓶に近づいていった。泡の勢いが弱まり、もう直接あてても花瓶を倒してしまう心配がなくなると、一気にそばに寄って、花瓶の口のなかに、残りの泡を全部注ぎ込んだ。花瓶を満たしていた造花はほとんど燃え尽き、灰や煤と化して泡のなかに溶けこんでしまい、花瓶のなかに残っているのは造花の茎の部分を形成していた針金ばかりになっていたのでこれは易しい作業だった。
ちか子は、燃え残ったそれらの針金が溶けかけて捻《ねじ》れたり曲がったりしているのを見た。針金と言っても一本ではなく、豪華な造花をしっかりと支えるためにしっかり縒《よ》り合わされたもので、全体では太さが五ミリから七ミリくらいはありそうだ。道具がなくては、自由に曲げたり切ったりすることもできないだろう。こんな短時間の燃焼で、これだけのものが溶げたり曲がったりするということは、よほど燃焼温度が高かったということである。
さっきここに通されたとき、もっと子細にこの造花を観察しておけばよかったと、ちか子は後悔した。短時間で高温を発するような材質のものが使われていたのかもしれない。少なくとも市販されている洋紙や和紙では、普通に火をつけたぐらいで、針金を溶かしたり曲げたりするような高い燃焼温度に達することはないのだ。
ただ、花瓶の造花が燃えだしたとき、ちか子が感じた匂いは、ごく普通の紙が燃えているときのそれだった。放火班に配属されたとき受けた初歩的なレクチュアのなかに、様々な材質のものに火をつけて、その燃えるときの匂いをかぐというものがあった。もちろん、有毒ガスを発生させるようなものでそんな実験をするわけにはいかないので、使われた材料は紙とか材木、綿や麻の布、一部の新建材、プラスチックなどの安全なものばかりであったが、それぞれに匂いが違うので、ずいぶんと驚かされたものだ。
花瓶の造花が燃えるときの匂いは、紙の生み出す炎と熱の匂いだった。他のものではない。
しかし、燃焼促進剤の匂いもしない。ちか子の鼻には感じられない。奇妙だった。ただの紙で、何の燃焼促進剤もなく、こんな高温が生み出されるとは。
そういえば、ほんの数日前に、まったく別の状況で、これとほとんど同じ疑問に突き当たったのだということを、ちか子はちらりと考えた。田山町の廃工場で、一部が炭化するほどに焼け焦げた遺体のそばで、スチール製の工具棚の角が溶けて変形しているのを発見した――
いや、田山町の事件だけではない。あの一連の焼殺人事件に、常につきまとっている疑問こそがこれなのだ。あまりに高温すぎる[#「あまりに高温すぎる」に傍点]。
奇妙な符合――もちろん、ただの偶然にちがいないのだけれど。
花瓶の口から、すでに泡の消えた消火剤が溢《あふ》れて流れ出した。消火器の放出も止まった。空になった消火器はとても軽く、ちか子はそれを片手でぶらさげて、リビングの女性たちを振り返った。
「どなたも、怪我はないですか?」
江口総子と砧路子は、かばいあうように寄り添って、ちか子の座っていた肘掛け椅子のすぐ後ろに立っていた。そして、いつの間に階段からおりてきたのか、倉田かおりが、路子の腰のあたりに両腕で抱きついて、ぴったりとくっついている。
三人ともこちらを見ていた。まるで、ちか子が何かひどい粗相をして、それを三人で咎めているかのように。いや、ちか子がひどい乱暴を働き、それから三人で逃れようとするかのように。
しかし、ちか子が視線をあわせ、その裏にある何物かを読み取ろうと心を集中してのぞきこんだのは、そのなかのひとり、倉田かおりの瞳だけであった。少女の黒い眼はつぶてのように固くなり、ちか子に向けられる視線は鏃《やじり》のように尖っていた。
ちか子は少女に問いかけた。「大丈夫? 怖くなかった? 火はもう消えたから、安心していいわよ」
倉田かおりは、砧路子に抱きついたまま、つと顔を背けた。
「頭が痛いの」と小声で言った。泣き出しそうな声だった。
「石津さん」倉田かおりの細い背中に手を回しながら、砧路子が言った。「私は――このことを署に連絡しなくては」
「ええ、そうね。十九件目の不審火の発生ですものね」
「はい」うなずいて、しかし、砧路子は言いにくそうにくちびるをなめた。「署の同僚たちには、わたしが伊東のおじさまに援助を求めたということは伏せてあります。ですから、ここに石津さんがいらっしゃると――」
皆までは言わず、またくちびるをなめた。
砧路子の言いたいことはよく判ったし、ちか子は逆らわなかった。この場のぎくしゃくした雰囲気を和《やわ》らげるため、ほんの少しだけ――ここで許される範囲内の笑顔を浮かべて言った。「そうね。判りました。わたしは引き上げましょう。でも、江口さん」
江口総子はぴくんとした。「はい?」
「またいずれ、ご連絡をしてから、お話を伺いにあがりたいと思います。どうぞご協力をお願いしますね」
江口総子は、返事の前に、砧路子の顔を見た。路子はわざとのようにうつむいて、かおりの髪を撫でていた。
総子は、口のなかでもごもごと、とりあえずは肯定したと受け取れるが、後になって否定の意味にも解釈ができるような言葉を口にした。ちか子はろくに、聞いていなかった。さっさと帰り支度をして、エレベーターで下に降りた。
マンションのエントランスを出て、前庭を横切っているとき、どうやら所轄の湊署のものと思われる地味な車が一台、こちらの方に向かって乗り入れてくるのに行き会った。ちか子は足を緩めず、その車とすれ違った。砧路子と同い歳くらいの若い男が運転していた。他には誰も乗っていない。あの男は、湊署の少年課のなかでは、砧路子に次ぐ倉田かおりのお気に入りであるのだろう。今のこの状況で、路子が、さらにかおりの機嫌を損じそうな同僚を呼びつけるわけもない。これだけ急いで駆けつけてくるところを見ると、砧路子とも親しい同僚なのだろう。ボーイフレンドであってもおかしくないくらいだ。今夜のケーキを賭ける対象をそれにしようかと思って、ちか子はちょっと笑った。
倉田家のマンションの最寄りの駅は、地下鉄|日比谷《ひびや》線の築地《つきじ》駅だった。行きはタクシーで来てしまったので気づかなかったが、駅までの道のりは結構長い。電車通勤をしなければならない会社員など、最初から入居者として想定していなかったのかもしれない。
もっとも、そうやって歩いたおかげで、それなりに興奮していた頭も冷えた。築地|本願寺《ほんがんじ》の見える交差点で小さな喫茶店を見つけたので、そこに入った。本庁に帰り、伊東警部に今日の出来事を報告する前に、今後の方針と、自分の考えをまとめておきたかった。
窓際の席につき、ウエイトレスにコーヒーを注文すると、上着の内側で携帯電話が鳴り始めた。携帯電話というのは、ハンドバッグのなかに入れておくとおよそ役に立たないシロモノなので、ちか子は専用のホルダーを縫って、愛用している。ちか子が懐《ふところ》から携帯電話を取り出すのを、ウエイトレスが奇異なまなざしで見つめていた。
「石津さんですか」
牧原の声だった。ちか子には天啓のように思われた。彼に電話をかけようかと、ぼんやり考えていたからだ。
「牧原さんはテレパシーが使えるんですか」と至極真面目にちか子は訊いた。「ちょうど電話しようかと思っていたところなんですよ」
「何かあったんですか。それとも、何もないから暇つぶしに僕としゃべろうかと思ったわけですか」
いくらか、言い方に棘《とげ》があった。いや、揶揄《やゆ》しているような調子とでもいうか。
ちか子はピンときた。
「牧原さん、今どこにいるんです? 本庁の近くでしょう?」
図星だったようだ。
「なぜ判るんです?」と、彼は訊いた。
「わたしを訪ねて来てくれて、部内の誰かから、わたしがもう田山町の事件には関わっていないと教えられたんじゃないですか? ひと晩経っただけで、くるっと気が変わったみたいにね。それであなた、気を悪くしたんでしょう」
ちょっと間が空いた。
「僕はそんなに判りやすい人間ですかね」
「いいえ。ただ、状況が判りやすいだけですよ」
ウエイトレスがコーヒーを運んできた。ちか子は声を潜めた。
「どうしてわたしが他の事件にまわされたか、ちゃんと説明しますから、まあお聞きなさいよ。口先ばっかりの調子のいいヤツだと見限るのは、それからでも遅くないでしょうからね。それに、わたしは今さっき、実に興味深い体験をしたところなんです」
ちか子が、倉田かおりの事件の非公式なサポートを依頼された経緯と、今日の初会見での出来事を説明するあいだ、牧原はまったく言葉をはさまず、じいっと聞き入っていた。相づちさえうたず、あまりにも静かにしているので、もしもこの場の会話を録音したならば、ちか子が独り言を言っているように聞こえてしまうだろう。
ちか子が話し終えてもまだ、黙っている。冷めてしまったコーヒーをひと口飲んで、ちか子は促した。
「どう思います?」
牧原は砂糖もミルクも何も入れない紅茶を飲んでいた。そしてしきりと煙草を吸った。紅茶好きのヘビースモーカーというのは珍しい。
「どう思うとは、何についてですか?」
やっと口を開くと、煙そうな目でちか子を見た。
「倉田家の不審火は、どういう手段で発生させられていると思うかということですか? それとも、この不審火の犯人は誰だと思うかということですか?」
ちか子は吹き出した。この人は、おっとりと気の優しい飼い犬に似ているかと思えば、反抗期の男の子みたいなところも持ち合わせている。昔、うちの子の友達に、しょっちゅう遊びに来るくせに、わざとちか子を挑発するような汚い言葉遣いをしたり、家の備品を壊したり汚したりする男の子がいたっけ。叱ると、口を尖らせて小理屈をこねたものだった。
「どちらもです」と、丁寧に答えた。「わたしは放火の捜査官としては経験が浅いですからね。目の前であんなふうに出火があったことで、やはり動揺しました。正直言って、どうやって火を点けたのか、見当もつきません。お手上げですよ」
牧原は短くなった煙草を消した。
「しかし、犯人はもう判っているじゃないですか。他には考えられない」
ちか子は、彼の真意をはかるつもりで念を押した。
「つまり、倉田かおりちゃんということですね?」
「もちろんです」
「確かに、あの子は第一容疑者ですよ。わたしもそう思っていました。でも、目の前で火が出るのを見て、わからなくなってしまったのです」
牧原はまた煙草に火を点けた。ちか子は続けた。
「かおりちゃんが犯人だということは、あの子が、恐ろしく巧妙な遠隔放火の手口なり装置なりを発明して、それを自在に使いこなしているということです。しかもその遠隔放火の手口や装置は痕跡を残さず、一度の出火で針金を溶かすほどの高温を発生させることができる……。十三歳の子供に、そんなことが可能でしょうかね? ありそうにない話だと思いませんか」
「考え方を変えれば、けっして可能性が薄いわけじゃない」と、牧原は言った。「ただし、こういうことを言い出すから、僕は変人だと思われるわけですが。特に警察組織のなかではね」
投げ出すように言い切る牧原の顔を見ていて、ちか子はまた、反抗ばかりしていた子供の友達のことを思い出した。あの子――名前なんていったっけねえ。やっぱりこういう話し方をしたものだった――どうせボクは、不良とかって呼ばれるんだからさ、と。一見、返事など要求していないように言い捨てながらも、実は、心の底から切実に、
――どうしてキミが不良なの?
――なんで他の人たちはそんなこと言うのかしらね?
と問いかけてもらいたがっていた。牧原も同じだ。
「まあ、そう拗《す》ねなさんな」ちか子は笑った。
「時間の無駄ですよ。主人や息子のおかげで、わたしには免疫ができてますからね。それとね、昨日初対面のときにも感じたんだけど、あなた、うちで飼ってた犬のジョンに似てるんです。そりゃもうおとなしくて気だてのいい犬でした。あなたの顔を見た瞬間にジョンのことを思い出して、懐かしくってね。昨夜なんか、何年ぶりかにジョンの夢を見ましたよ。ですから、拗ねたり小理屈を並べたりひねたりしてこのおばさんを挑発しても、効き目ありませんよ、はい」
さすがにあっけにとられたのか、牧原は口をつぐんだ。ちか子は手をあげてウエイトレスを呼び、コーヒーのおかわりを注文した。
牧原の吸いかけの煙草の先から、灰がぽろりと落ちた。彼はそれを、何か自分の身体の一部が不用意に落ちて転がっているのを見るような目でちらりと見た。
「あなたの頭のなかに、どんな考えがあるんです? 教えてくださいな」と、ちか子は言った。「何を聞かされても驚かないつもりですし、それにあなた、話したがっておられるしね」
牧原はため息をついた。バケツ一杯に溜まった泥水をぶちまけようとして傾けたら、いつの間にか泥はすっかり下の方に沈んでいて、思いの外きれいなうわずみがこぼれ出た――そんな感じの、なんだか可愛らしいような素直なため息だった。
そして目を上げると、言った。
「河川敷事件の捜査本部で、僕は自分の頭のなかにある考えを正直に話しました。すると笑い飛ばされて、非現実的だと叱られて、外されたんですよ。ですからそれ以来、慎重にふるまうことにしてるんです」
「でも、それじゃ何も先に進みませんよね?」と、ちか子は悪びれずに言った。「それに、わたしはどんなに突飛な意見を提示されても、それであなたをどこかから外すなんてことはしませんよ。そもそも外すべきポジションを持っていませんからね。あなたがこの場で意見を開陳するときに覚悟しなくちゃならないのは、ただ単に、石津ちか子というおばさんの同僚に、やっぱりこの人は変人だと思われるという、なんとも他愛ない危険だけですよ。ですから、いいじゃないですか、お話しなさいよ」
牧原はじっとちか子の顔を見つめ、それから思わずという感じで吹き出した。ちか子も一緒に笑ったが、意識してすぐに真顔に戻した。
「さあ、あなたが捜査本部で述べた意見というのは、いったいどういうものだったんです?」
今度は、躊躇したからではなく、正確に言葉を発するために間を置いて、牧原はゆっくりと言った。
「パイロキネシス」
「パイロ――?」
「念力放火能力のことです」
ちか子はまばたきをした。初対面のときも、こんなカタカナ言葉を言ってなかったか――
牧原は言った。「念じるだけで、その対象が有機物であるか無機物であるかにかかわらず、自由自在に火を点けることができる――そういう能力のことです。ただ火を点けるだけじゃない、瞬時のうちに、鋼鉄をも溶かすような高温の炎を発生させることができる」
ちか子の目の裏に、またあの映像が浮かびあがった――廃工場の、溶けて歪んでいたスチール製の工具棚。
「僕は、河川敷事件や今回の三連続焼殺事件を起こした犯人は、間違いなくこの念力放火能力の持ち主だと思っています。しかも、能力者のなかでもきわめて珍しいタイプ――この能力をほぼ完璧に使いこなすだけの技術と、使いどころを間違えないだけの高い判断力を持っているタイプだ」
ちょっと肩をすくめて、
「そして、石津さんが遭遇した倉田かおりも、やはりこの能力者じゃないかと思う。もっとも、彼女はまだまだ未熟ではありますがね。どうです? さっきは何を聞かされても驚かないと言ってたけど、やっぱり驚いてるみたいですね?」
そのとおり、ちか子は驚いていた。こんな話を聞かされて――しかも、現役の警察官の口から大真面目に聞かされて、驚かない方がおかしい。
牧原は、(そらみたことか)というような、ややふてくされた感じで黙っている。ちか子の伏せた目の端に、彼が新しい煙草を一本取り出すのが見えた。苛《いら》ついているのか、煙草のパックをくしゃくしゃにしてしまっている。よく見ると、女のように白くて細くて長い指だ。神経質そうな印象を与える。彼が「変人」と呼ばれているのは、彼の主張する意見が突飛であるからだけではなく、彼の性格にも大きな原因があるのではないかという気がしてきた。
それにこの人ときたら、大した甘えん坊だ。男の同僚や上司相手にこういう態度をとったら、そりゃ敬遠されるに決まっている。だけど反面、この人は女性にはけっこうモテるかもしれない。そう思うと、自然にまた微笑んでいた。
「牧原さん」
目を上げて、ちか子は言った。
「あなたはなぜ、そういう不思議な能力の存在を信じるんですか?」
牧原はつと両眉をつり上げた。「こんなバカバカしい話をなぜ信じるのかというご質問ですか?」
「いえいえ、違います。よく聞いてくださいよ。わたしは、不思議な話[#「不思議な話」に傍点]と言ったんです。バカバカしいとは言ってません。もし、あなたのおっしゃるような力が本当に存在して、それを操ることのできる人間が実在するのならば、それはバカバカしいどころか恐ろしいことですからね」
牧原はちか子の顔を見ている。調子よく話をあわせてはいるが、腹の底では笑っているんだろうと、疑っている目つきだ。
「教えてほしいんです」と、ちか子は続けた。「あなたの署の皆さんや、河川敷事件のときの捜査本部の指揮官たちも、あなたがこの意見を述べたとき、同じことを知りたがったんじゃありませんか」
牧原は鼻先で笑った。「そんなことはありませんでしたね。現実の事件は、SF小説とは違うんだと笑い飛ばされただけでしたよ」
その気持ちも判らないではない。しかし、今、ちか子が彼に投げかけている問いは、けっして表向きだけのものではないのだった。このことについて語る牧原には、どこかせっぱ詰まったような感じがある。だからこそせっかちにもなっているのだろう。今日、わざわざ本庁にちか子を訪ねて行ったのだって、そしてちか子が早々に他の事件に関わっているのを知って腹を立てたのだって、裏返せば、それだけ彼がちか子に望みをかけていたということを表している。どれほど笑い飛ばされようと、バカにされようと、河川敷事件を振りだしとするこの一連の惨《むご》く不可解な事件の捜査に、なんとかして彼は食いついていたいのだ。パイロキネシスなどという荒唐無稽な説を手放さないままで。
「実際問題として、わたしだって、パイロキネシスというものの存在を、すぐには信じられませんよ。だから教えて欲しいんです。からかっているわけでもないし、バカにしているわけでもないですよ。これは本当に、純粋な質問です。あなたはどうして信じるんです? 何か根拠があるんでしょう?」
ちか子は重ねて問いかけた。
「話として聞いて、それで信じ込んでるっていうだけじゃ、そういうお話の好きな子供と一緒ですよ。先回りして言っておきますけど、目の前で火の気のないところからものが燃えあがるのを見たとかいうことだけなら、そんなのはね、根拠にも何もなりませんよ。かおりちゃんのことだってそうです。確かに、奇妙な発火現象を見ましたけれど、あれだけを根拠にパイロキネシスを信じる気にはなれません。人間の五感には限界があるし、特に視覚というのは騙されやすいものですからね。この目で見たからって、それだけを拠り所に百パーセント信じちゃ危険です。根拠と言えるだけのものならば、もっとしっかりしていなくちゃ」
そのとき、牧原の瞳が、ほんの一瞬、ちょっと焦点を失ったかのように、宙に泳いだ。
私服刑事になったばかりのころ、ちか子は、その当時その署内一の取り調べの名人と呼ばれる先輩と、一年ばかり机を並べていたことがあった。落としの〇〇と呼ばれるような取調べ名人は、どの署にもひとりやふたりは居るもので、たいていは苦労人の、年輩の男性刑事である。この人も例外ではなかった。苦労人の常で、不遇な者には優しく、まだまだ女刑事など戦力としてあてにできないという風潮の強かったあの当時の刑事部屋のなかで、何かとちか子の味方をし、後《うし》ろ楯《だて》になってくれたものだ。そして、その名人がちか子に教えてくれたことで、ちか子の身についたことが、たったひとつだけあった。
取調室で相対している被疑者の目が、不用意に宙に泳ぐことがある――話の矛盾を突かれて狼狽したり、嘘に嘘を重ねようとしてあわててしまって目がウロウロするのではなく、当の本人も自覚しないままに、不意に瞳が焦点を失うのだ。たいていの場合はほんの一瞬で、本人もそれと意識していないことも多い。
――そういう時はね、石津さん。
名人は言ったものだ。
――本人が、思い出したくなくて頭のなかに封じ込めているような記憶が、ひゅっと蘇ってるんだよ。それも、もの凄く鮮明にな。だから、一瞬、そっちの方に注意を奪われて、瞳が泳ぐんだ。デタラメを言ったり、嘘をついてるときに目が泳ぐのとは、全然違うんだ。これをちゃんと見分けられるかどうかが、大事だよ。
そうやって不用意に蘇り本人の注意を奪うような記憶は、ある被疑者にとっては犯行の詳細な再現記憶であるかもしれない。だが、ある被疑者にとっては、自分をさんざん虐待した継父の記憶であるかもしれない。ある被疑者にとっては、恐ろしく辛く痛い思いをした事故の瞬間の記憶であるかもしれない。
――瞳が泳いだからと言って、そいつが犯人とは限らない。つまり、調べの対象となっている事件と、瞳を泳がせるような記憶とが、直接関わりがあるかどうかは判らないんだ。だが、瞳が泳いだ瞬間に、その被疑者の頭のなかに蘇っていた記憶ってやつは、その被疑者について理解を深めるためには、大切な鍵になるものなんだ。だから、もしも向かいに座っている被疑者の瞳が、まるで内側に引っ張られるみたいに宙に浮いて焦点をなくすような瞬間があったら、そのときに何を話していたか、そのときにどんな様子だったか、よく覚えておかなきゃいけない。大きな手がかりに繋がるかもしれないからね。
今日まで、ちか子はその教えを忘れたことがない。だからといって取調べ名人になれたわけではないけれど、この教えには助けられることが多かった。
今もそうだ。ちか子は、牧原の目が不用意に彼自身の内側に注意を引きつけられ、そこに映ったものを大急ぎで片づけて、そこから目をそらして、またちか子の上に戻ってきたその瞬間を、けっして見逃しはしなかった。
牧原は今、何を思い出していたのだろう? 彼の意思に関わりなく蘇り、しかし大急ぎで封じ込めてしまわねばならない記憶。
そしてパイロキネシス――今、あたしたちはその話をしてるんだ。
そうだ、ひょっとしたら――
ちか子は訊いた。「牧原さん、まさかあなた自身がそういう力を持ってるってことじゃないでしょうねえ?」
牧原は、顔に水をひっかけられたみたいにキョトンとした。指先にはさんでいた煙草から灰がぽろりと落ちた。
「そうなんですか? だから、そんなに確信を持ってパイロキネシスの実在を力説できるんですか?」
ちか子は身を乗り出し、真剣に問いかけた。牧原はまともにちか子の顔を見て、そして――
吹き出した。
「あらまあ」ちか子も力が抜けて、笑った。
「違うんですね?」
さっきからこちらの様子が気になって仕方がないらしいウエイトレスが、何事かと首をのばして様子をうかがっている。興味津々の彼女は、お冷やのポットをひったくるようにして、このテーブルに近づいてくる。
「違うんですね?」
もう一度尋ねると、牧原はうなずいた。
「違いますよ。僕にはそんな力はない」
「じゃ、あなたのお身内がそうだとか」
牧原は、今度は針でつつかれたみたいにびくりとした。質問の矢が、的の中心に近いところを射たのだと、ちか子は感じた。
ウエイトレスがやって来た。探るような視線で、ちか子と牧原の顔を見比べている。わざとらしくゆっくりとした動作でお冷やを足すと、のろのろと離れて行く。
「うちの息子がSF小説が好きでしてね」と、ちか子は言った。「映画もいろいろ観てて、ビデオも集めてましたからね。わたしも、なんですかその超能力? そういうもののことを全然知らないわけじゃないんです。普通のおばさんよりは、ちょっと詳しいくらいかもしれませんよ」
「息子さんはおいくつですか」と、牧原は訊いた。気のせいかもしれないが、ぐっと安堵したような、肩の力が抜けたような顔に見える。
「二十歳です。広島の大学に行ってるんで、わたしは年にいっぺんしか顔を見ませんけれどね、お正月にね。男の子はつまらないわねえ」
ちか子は笑って、注ぎ足されたお冷やを飲んだ。
「牧原さん、さっき何か思い出しておられたでしょう」
「………」
「何か、この件に関わることじゃないんですか? それでわたし、思ったんですよ。牧原さんにとって、このパイロキネシスというのは、個人的な問題なんじゃないかってね」
「個人的」と、牧原は呟くように繰り返した。
「ええ、そうです。あなた自身が身近に体験しているとかね。あなたさっき、そのことを思い出しておられたんじゃないですか」
牧原は、苦笑まじりに言った。「石津さんは他人の心が読めるんですか」
「いえいえとんでもない。ただ、少しばかり技術を教えてもらっただけですよ。刑事の技術をね」
唐突に手を伸ばすと、牧原は伝票をつかんで立ち上がった。
「出ましょう」
「でも、話は済んでないですよ?」
「続きは、ここでは話したくないんです。刑事は刑事らしく、現場を踏もうじゃないですか」
牧原の車で移動した。都内を走り抜けて行く間、彼はほとんど無言で、ちか子が何を尋ねても、とにかく「現場」に着くまでは待ってくれの一点張りだった。
道が混んでいたので、小一時間かかってしまった。牧原が「ここです」と車を停めたのは、目白《めじろ》通りの豊玉《とよたま》陸橋を右折して、桜台《さくらだい》の方へ五分ほど走ったところの町中の一角だった。
二車線の道の左側に、小さな児童公園がある。住宅やマンションの多い、静かな町だ。すぐそばにスクールゾーンの標識が立てられている。児童公園は、ぐるりを木立に囲まれているが、すっかり葉を落として見通しのよくなった木々の枝越しに、走ったり跳んだりブランコに乗ったりする子供たちの着込んだジャケットやセーターばかりが、色とりどりに散っている。
牧原は低いブロック塀をまたぐと、公園の植え込みを突っ切り、大きな弧を描いて揺れているブランコの方へと歩いて行く。彼ほど身軽に塀をまたぐことのできないちか子は、やや迂回《うかい》して入口の門を抜け、牧原と反対の方向からブランコを目指した。
ブランコには小学生ぐらいの子供が乗っており、立《た》ち漕《こ》ぎをして、ちょっと危険なくらいまで高くあがっていた。鎖が鳴る音が聞こえてくる。牧原はブランコの手前までくると、そこで両手をコートのポケットに突っ込んで立ち止まった。
「ここが現場なんですか?」
追いついたちか子は尋ねた。牧原はちか子の方を見返ると、うなずいた。
「僕はこの町の生まれなんです」
「あら、まあ」
「家はここから歩いて五分くらいのところにありました。この公園も、僕が子供のころからあったところで、よく遊んだ場所でした。ずいぶん整備されてきれいになりましたが、ブランコの位置はそのままだし、木立や植え込みも場所は変わっていないんですよ」
すぐ傍らにベンチがある。牧原はそちらを顎で示した。「このベンチもずっとここにあった」
ようやく、話の続きが聞けそうだ。少し寒かったけれど、ちか子はベンチに腰をおろした。
「今から、ちょうど二十年前の話ですよ。僕は当時中学二年で――ですから十四歳ですか。歳の暮れだった。十二月十三日。まだ冬休み前で、僕は期末試験の最中でした」
記憶をたどっているという話し方ではなかった。はっきりと記録されたものを、正確に読み上げているという感じだった。
「夕方の――六時を過ぎていたと思います。その季節のことだから、もちろんもう陽が暮れて真っ暗ですよ。遊んでいた子供たちも帰ってしまってた。それなのに、努《つとむ》の奴、独りでブランコに乗っていた」
「ツトム?」
「ええ。弟なんです。当時、まだ小学校の二年生でした」
「弟さんは小さかったのね」
立ち漕ぎしている子供が、威勢良く風を切って「ひゅうー!」と声をあげるのが聞こえてくる。揺れるブランコの方を見つめていた牧原は、ちか子を見おろして言った。「腹違いなんですよ。僕の母は、僕が生まれてすぐに亡くなりましてね。心臓が弱かったもんだから。親父は独りで大骨おって僕を育ててくれたんですが、僕が小学校にあがる歳に、縁があって再婚した。その人が、弟を産んだんです」
寒そうに肩をすぼめると、ちょっと首を振った。
「よくあるパターンだと、僕が義母とうまくいかなくて云々ということになるんでしょうが、我が家ではそういうことはありませんでした。まるっきり逆だったんです。義母はたぶん、僕が傷つかないよう、寂しい思いをしないようにと、気を遣いすぎたんですね。その分、実の子である弟には、必要以上に厳しくなってしまった。で、努は、当時既に立派な問題児に育っていたというわけで」
その日も、一度学校から帰宅した後、何か家のなかで暴れてものを壊したとかで、さんざんに叱られ、飛び出してしまったのだという。
「義母は放っておけと言いましたが、僕はもうそのころには半分大人の分別もありましたからね。それが良いことではないけど。とにかく、義母が、本当はひどく心配していると判ったから、探しに出かけたんです。小学生のことだから、行き先が豊富にあるわけはない。この公園で、ヤケみたいにぶんぶんブランコを漕いでいる弟を見つけるのは、それほど難しいことじゃなかった」
迎えに来た兄の姿を見つけた弟は、いっそう反抗的な面付《つらつ》きになり、ブランコを大きく漕いで、勢いつけて飛び降りると、一散に逃げ出した。
「僕は、もう外は真っ暗なんだから帰れとか、バカな兄貴が言いそうなことを言いながら後を追いかけました。努は足が速くてね、どんどん先に行ってしまう。で、ブランコの向こうに、今は砂場になってるところですが――」
牧原が見やった方向を、冷たい風に目を細めながら、ちか子も見た。冬場の冷え切った砂場には、遊ぶ子供の姿はない。
「あの場所に、そのころは、小さい滑り台があったんです。弟はそのそばを駆け抜けようとしました。ところが、急に足を止めたんです。あれ? というような感じでね。そして何か言った。追いかけていた僕には、はっきりとは聞こえなかったんですが、誰かの名前を呼んだような感じでした」
「友達がいたとか?」
何気なく訊いたちか子は、牧原の険しい横顔に驚いた。さっきまでとは表情が違ってしまっている。
「友達だったかどうか、判らない」と、彼は言った。「今もそれは判らないんです。とにかく、誰かがいた――滑り台の陰に隠れて。今はそれだけにしておいてください」
牧原は真っ直ぐに砂場を見ている。彼の目には、当時そこにあったという滑り台が見えているのだと、ちか子は思った。
心臓が冷たくなるような、嫌な感じがした。「現場」を踏んでくれという意味ありげな台詞の意味も、パイロキネシスとの関わりも、今これから牧原が口を開いて語る事柄のなかにあるはずだけれど、それはきっと良くないことで――小さな子供、母親とのあいだがうまくいかず、自分の感情を処理することもできずに暴れる幼い男の子の身の上に起こったことで――
「努は立ち止まって、何か言った」と、牧原は続けた。「僕は努から、十メートルと離れていない場所にいた。あいつが停まったから、追いつこうと足を早めて近づいて、声をかけた」
努、うちへ帰ろうよ。お母さんが心配してる――
子供の立ち漕ぎするブランコはまだ揺れている。歓声がちか子の耳に届く。
ひどく寒い。
突っ立ったまま、砂場に目を据えて、牧原は言った。
「途端に、僕の目の前で、弟が燃えあがったんです。まるで爆発するみたいに、低い、ぽんという音を立ててね」
その瞬間、牧原がぶるりと身震いするのが、ちか子には判った。
人は普通、こんな吹きさらしの公園のような火の気のないところで身震いなどしないものだ。がたがた震えることはあっても、身震いはしない。人が身震いするのは、凍《い》てついた寒気の厳しい場所で、身体を温めてくれる火に巡り会ったときだ。
しかし今、この場に火は存在しない。ちか子の目には見えない。火があるのは、牧原の頭のなかだ。記憶のなかだ。彼は今一度、目と鼻の先で幼い弟の身体が燃えあがるのを見ている。火はすぐそばにある。だから身震いが出たのだ。
「火がどこから来たのか、僕には判らなかった」と、彼は続けた。「一瞬前には何もなくて、一瞬後には努の全部が燃えていた。そんな感じだった。ぽん――という音の直後に、あいつが一瞬棒立ちになって両手を広げたのを覚えてる。とても不思議そうに、自分の身体を見おろしていた。ほら、壊れた自転車を修理していて、夢中になっていて、ふと気がついたら身体中が機械油だらけになっていた――そんなことがあるでしょう。特に子供には」
「ええ、ありますね」と、ちか子は静かに合いの手を入れた。
「ちょうどそんなふうだった。あれ、いつの間にこんなにあっちこっちに油がくっついちゃったのかなと訝《いぶか》っている――それと同じように、あいつもただびっくりしていただけだった。それも、ちょっとびっくりしていただけだった。あれ、なんでこんなに燃えてるんだろうなってね。そうやって自分の腕や身体を見まわして――それから」
ちょっと言葉を切り、わずかに語尾を震わせて、彼は言った。
「それから、叫び始めた。僕はそのときには弟のそばまで駆け寄っていたから、あいつの叫び声が口から飛び出すのが見えた。これは比喩《ひゆ》じゃないんです。本当にあいつの悲鳴が見えた。努が口を開けたら、そこから炎が吹き出したんだ。まるで映画のなかのドラゴンみたいにね。そしてあいつは飛んだり跳ねたりし始めた――火を振り払うために。火を振り切るために。顔にひっかかった蜘蛛《くも》の巣を払い落とすときのように、やたらに手や頭を動かして」
つとむ、と兄は呼んだ。弟の悲鳴を聞いた途端、牧原少年もその場に棒立ちになってしまい、動くことができなかった。ただ口を開いて、叫ぶように弟の名を呼んだ。
「努は僕を見た。あいつの目が真っ直ぐに僕を見たんです。いっぱいに見開かれた目のなかで、黒い瞳がまるで目のなかから逃げ出そうとしているかのように激しく動いていた。瞳だけじゃない、あいつの鼻も、口も、腕も足も、身体のパーツの全部があいつの本体から逃げ出そうとしているみたいに、てんでんばらばらの方向に動いていた。その周りを、炎がぐるりと包んでいた。まるでゼラチン膜みたいに。努がどんなに腕を突き出しても爪を立てても、その膜を破ることはできなかった」
努は両腕を前にさしのべ、義兄の方へよろよろと走り寄ってきた。それが牧原少年を金縛りから解き放った。
「僕は一瞬、後ずさりした。弟が助けを求めて近寄ってきたのに、僕は逃げようとした。一秒の半分ぐらいの時間だったけれど、僕は逃げにかかった。努にはそれが判った」
炎の衣を脱ぎ捨てようともがきながら、幼い弟は叫んだ。おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん――
「あいつの内部にまで火が回ってた」と、牧原は言った。「目の奥も口のなかも真っ黒に見えた。すべてが焼け焦げていた。爪の先からも炎がほとばしっていた。努はその手を伸ばして――僕の方に――そして口が動いて――」
タスケテ――と言った。
牧原はがっくりと首を下げた。そしてまた身震いをした。ベンチから立ち上がり、彼の背後に立ったちか子は、コートの襟足からわずかにのぞいた彼の首筋に鳥肌がたっているのを見た。
「そうして、倒れた。僕の足元に」と、うつむいたまま牧原は続けた。「薪を組み上げて焚《た》き火《び》をしたことがありますか? あるいは、木箱を燃やしたことは?」
「ええ、ありますよ」
「炎に包まれて燃えあがって、ある時点で、がくんと壊れるでしょう? 組んでいた薪が崩れる。木箱がぺしゃんこになる。人間もあれと同じですよ。努もいっぺんに壊れた。まさに焼け落ちたんです。柱が焼けて家が崩れるみたいに、骨が焼けて関節がはずれて、趣味の悪いガイコツ人形が崩れるみたいにね」
ちか子は寒さから身を守るために胸の前で腕を組み、首を縮めて牧原の隣に立った。いつの間にか、ブランコの揺れは停まっていた。さっきまで高く高く漕いでいた子供はどこかへ行ってしまったらしい。歓声は聞こえず、あたりは静かで、あいかわらず砂場には人気がなく、木枯らしだけがちか子の耳元をかすめて通り過ぎて行く。まるで子供の悲鳴のような細い音をたてて。
「努がぺしゃんこになって倒れて、それで初めて僕は消火にとりかかった」と、牧原は言葉を続けた。「弟の身体をめちゃめちゃに叩いて、火を消そうとしたんです。途中で思いついて着ていたシャツを脱いで、それでバタバタ叩いたりもしました。だけど、どっちにしろもう手遅れだった。努は燃え尽きていた」
「こうして話をすると長い時間のことのように思えるけど、実際にはほんの十秒か二十秒ぐらいのことだったんですよ、きっと」と、ちか子は言った。
「だからあなたは、現実にはけっしてグズグズしてはいなかったはずですよ。弟さんに駆け寄って、火を消すために一生懸命やったはずなんです。あとで思い出すと、自分がひどくのろくさかったように思えるだろうけれど、それはみんなそうなんです。一種の錯覚なんですよ」
慰めるための口から出任せではなかった。事件や事故の最中には、時の流れが遅くなる。時間が延びるわけではない。その場に巻き込まれている人間の脳の情報処理スピードが、平常時の倍にも三倍にもなってしまうのだ。だから記憶は異常に鮮やかになり、観察力が研ぎ澄まされ、日頃は一秒では読みとることさえできない情報を、〇・五秒で処理してしまう。だから時間ばかりは異常にのろくなるように感じられ、しかし身体は脳のその三倍モードにはついていくことができないから、いつもどおりにしか動かない。こうして、異常事態から生き延びた者は、その瞬間の自分の行動を詳細に再現しては、自分がいかに無様で役立たずであったかと、あとあとまで苦しむことになるのだ。痛ましいが、けっして珍しいことではない。
「僕が叩いて火を消そうとしていたのは、もう弟じゃない、弟の残骸でした」抑揚を欠いた声で、牧原は言った。「さっきまでの努と同じように、僕も何かわめいたり叫んだりしていた。喉いっぱいに大声を出していた。そうやって努を叩いているうちに、炎はおさまって、ぶすぶす燻《いぶ》り始めて、遠くの方で誰かが叫ぶような声が聞こえてきた。児童公園で火の手があがったのを、通りがかりの人が見ていたんでしょう。公園の柵のあたりで、二、三人の大人がこっちを見ていた。おーい大丈夫かとか、どうしたんだとか、大声で僕に呼びかけてきた。僕は息を切らしていて――ちょうつがいが外れたみたいにガタガタ震えていて、ほとんど口もきけなかった。両目からだらだら涙が流れて、まぶたを開いているのがやっとだった――あとで判ったことだけど、両方のまつげがすっかり焼け焦げていたんです」
両手をあげて、手のひらで疲れたように顔を撫でた。
「でも、耳は聞こえていた――すぐそばで、誰かが泣いている――僕じゃない誰かが。僕はそのときはまだ泣いていなかった」
顔をあげると、牧原は砂場の方を指さした。
「あそこには小さな滑り台があったと言ったでしょう? 弟はそのすぐそばを駆け抜けようとしたときに燃えだしたって」
「ええ、そうでしたね」
「僕は努の残骸のそばにへたりこんでいた。そしてそこからは、滑り台の下の暗がりが見えた。滑り台にのぼる階段の裏側が。そこに、小さい女の子がうずくまっているのが見えたんです。努と同い歳くらいの、小柄で華奢な女の子でした」
公園のなかには照明灯が立てられているが、もう陽の暮れた後のことでもあり、階段の陰でもあり、女の子の顔はよく見えなかった。ただ、彼女が鮮やかなカナリア・イエローのセーターを着ていることと、小さな手で顔を隠すようにして泣いていることは判った。彼女はしゃくりあげていた。引きつけるように、小さな頭が前後に動いていた。
「僕はよろよろっと立ち上がって――その女の子の方に近寄ろうとしました。でも実際には、身体を傾けることしかできなかった。何か声をかけたような気もします。大丈夫かとか、怪我はないかとか、そんなようなことだったでしょう。そのときには、その子が泣いているのは、炎に怯えたせいだと思っていたから」
よろめきながら牧原少年が近づこうとすると、滑り台の階段の陰に隠れていた少女は、驚くほどの敏捷さでぱっと立ち上がった。そのはずみで、女の子のひらひらしたスカートがぱっとめくれ、紺色の下穿きが一瞬ちらりと見えたほどだった。
少女は泣いていた。きれいに整った、ぱっと人目を惹く可愛い顔立ちの少女だったが、今はそれが涙で崩れている。その泣き顔を牧原の方に向け、瞬間、まだぶすぶすと煙をあげている努の残骸に視線を落とし、「ごめんなさい」と、彼女は言った。ささやくような早口だった。
「いじめないでっていったのに、いじめるんだもん。だけどごめんなさい、もやしちゃって、ごめんなさいごめんなさい」
そして少女は走り出した。彼女が助けを求めて駆け出したのではなく、大人の声を聞きつけてその方向へ走り寄ったのではなく、明らかにこの場から逃げ出したのだということに気づくまで、数秒の時間を要した。
「我に返ったときには、もう女の子の姿は消えていました」と、牧原は言った。
彼の目は、二十年前にその少女が走って逃げたルートを追いかけていた。今でもそこに少女の足跡が残っているのだとでもいうように、その視線にはいささかの迷いも感じられなかった。
「その後は、大人たちが駆けつけてきて、救急車を呼んでくれたり、巡査が来たり、うちの両親が飛んできたり――」
少女の逃走ルートからやっと視線をはずして、牧原はちか子を見た。そして苦く笑った。
「両親は、最初、僕の頭がおかしくなったかと思ったそうです」
「どうしてです?」
「僕が、女の子を探してくれ、女の子が努に火をつけたんだって、言い張ったからですよ。女の子が弟を燃やしたんだって」
「駆けつけた人たちは、女の子の姿を目撃しなかったんですね?」
「ええ、運悪く」
「だけど、あなたは見た。彼女が『もやしちゃった』と言ったのも聞いた。『ごめんなさい』と謝るのも聞いた」
「そうです」
「大人たちはそれを信じなかったの?」
わずかに顎をあげて、諳《そら》んじるような口調で牧原は言った。「努は全身の八二パーセントに第三度の火傷を負っていました。表皮だけでなく、火傷は食道や気管にまで及んでいた。まるで焼身自殺を遂げた遺体のような有様だった。だが、努と焼身自殺者とのあいだには、ものすごく大きな相違点があった――」
「燃焼促進剤がない、ということだったのね?」と、ちか子は言った。「わたしたちは、再三再四、この台詞を口にしているような気がしますね」
牧原はうなずいた。「努はガソリンをかぶっていたわけでもないし、衣類に灯油がしみこんでいたわけでもない。綿の下着に綿のズボン、アクリルのセーターを着ていましたが、ご承知の通り、どちらも爆発的燃焼を起こすような素材じゃない。ただ、努の下着は、燃え尽きてほとんど炭化していたそうです」
彼はかぶりを振り、その動作で自分が今戸外にいることをあらためて思い出したという様子で、寒そうに首を縮めた。
「燃焼促進剤もなしに、小さな子供とはいえ、生身の人間をほんの数分で焼き尽くす――そんなことをやってのけるためには、大型の火炎放射器でも担いでこなければ不可能だ。そんな大事を、この不幸なお兄ちゃんは、死んだ弟とおっつかっつの子供がやってのけたと証言している。その女の子が『ごめんなさい』と言い、泣きながら逃げ出す現場を見たからと言ってね。可哀想に、弟が焼け死ぬ現場を見せられて、このお兄ちゃんは気が狂ってしまったんじゃないかねえ、というわけですよ」
「それでも、あなたの見た女の子を探す努力はするべきでした。それはやったんですか?」と、ちか子は訊いた。「まず第一に、彼女は目撃者です。それに、大切なことを言っていますよ。『いじめないでっていったのに、いじめるんだもん』。努ちゃんは、お兄さんのあなたから見ても問題児だったと言いましたね? その女の子は、努ちゃんの同級生で、努ちゃんにいじめられていた子供だったのかもしれない。彼女がなんらかの手段を使って――故意か過失かは別として――努ちゃんに火をつけたのかもしれない」
ちか子の吐く息が白く凍った。
「努ちゃんの身体に火がついた状況に、彼女が関わっている可能性は相当高いでしょう? 彼女は滑り台の陰にいた。努ちゃんは走ってそのそばを通り抜けようとしていた。そして、彼女が階段の裏に隠れているのを見つけた。努ちゃんはびっくりした。なんでそんなところにいるんだろう? と思った。彼女が、努ちゃんが日頃ちょっかいをだして困らせているいじめ相手であったとしたら、なおさらですよ。そこで努ちゃんは足を停めた。女の子に声をかけようとしたのかもしれない。そして、次の瞬間には身体に火がついていた――そうでしょう? この女の子が何か知っている可能性は、百パーセント以上ですよ」
憤然と、ちか子はのっぽの牧原の顔を見上げた。しかし彼は目を閉じていた。
「一応、探しはしたんです」と、小さく言った。「僕の見た、努と同い歳くらいの女の子を探したんです。あいつと同じ学校に通っている同年代の女の子たちの写真を、僕は片っ端から見せられました。学区違いの女の子たちの写真までチェックしたんです。だが、いなかった。僕の見た少女はそのなかにいなかった。あまりたくさんの写真を見せられたので、かえって混乱してしまったのかもしれないけれど、とにかく、僕はその女の子を見つけることができなかったんです」
なんだ、謎の女の子なんかいやしないじゃないか。だいたい、最初っからこの話はおかしいんだ。女の子が「燃やしちゃった」と謝ったって? そんなわけがあるか。小さな女の子が火炎放射器を担いで公園を歩いていたとでもいうのかい? いじめっ子を焼き殺すために?
バカバカしい。このお兄ちゃんの話は、根っから作り話なんじゃないのか――事がそういう方向に転がっていくのを、牧原少年はただながめていることしかできなかったのだ。
「両親は、僕がショックでおかしくなったと思った」
気の進まない行事の式次第を読み上げるように、牧原は言った。
「他の大人たちは――学校の先生たちや警察や消防の人たちは――僕が嘘をついていると判断した。そしてそれを両親に話した。両親は青ざめた。あの子が嘘をついている? 作り話をしている? どうして? なぜそんなことを? 弟よりはずっと成長していて、大人に近い分別も持ち合わせている長男が、なぜ夢みたいな作り話をやっきになって主張するんだ? そういう疑問は、結局のところ、おきまりの疑惑のところへ落ち着くことになったんです」
牧原の口からそれを言わせたくなかったので、先回りしてちか子は言った。「あなたが、弟さんを焼き殺したのではないかという疑惑ですね」
ほんのわずかの間をおいて、牧原は肯定した。
「そうです」
彼の息も、白く凍った。さっきまでずっと、幼い弟の無惨な死について語っているときは、彼の吐く息が白く見えるようなことはなかった。まるで、語っている彼自身の体温が、外気と同じくらいに冷え切っていたみたいだと、ちか子は思った。語り終えてようやく今、普通の人間の体温に戻った。だから息が白く見えるようになった。死者から生者に戻ったから。牧原にとって、弟について語ることは、そのたびごとに、いったん死ぬことなのだ。
「努が死んで以来、父も義母も、家のなかで笑わなくなりました」と、牧原は続けた。「まるで努に遠慮しているみたいだった。僕が何かおかしいことをしたり、外で何か面白いことがあって、家族三人で声をあわせて笑ったりしたら、それが努に対する裏切り行為になると思っているみたいだった」
ちか子は、継子である牧原少年の心を傷つけまいとするあまり、実子である努に厳しくなりすぎる嫌いがあったという母親の心中を思っていた。そういう母親が、実子を失い、その実子を殺したのではないかという疑惑を背負った継子と対峙《たいじ》して、いったいどういう家庭を築くことができるだろう?
「僕は高校から全寮制のところに進みましてね、家を出ました。夏休みや冬休みにも両親のところには帰らなかった。いったん家を離れてみると、帰るのが怖かったし辛かったし腹立たしかったから」
「じゃ、ご両親とは……」
「父は僕が二十五のときに亡くなりました。脳溢血だったんで、ずっと意識もなくて、十年ぶりに会ったのに、もう話もできなかった。義母とは――」
わずかに言いよどんでから、
「父の葬式のあとで、話をしました。僕はもうこれで二度と義母に会うこともないだろうと覚悟していたから、別れる前に、母さんが心にしまっていることを、なんでも話してくださいと持ちかけたんです」
ちか子は穏やかに問いかけた。「お母様はなんておっしゃいました?」
おそらくは、思い出す必要などないほどくっきりと心に刻まれている言葉であるだろうに、牧原は少し考える素振りをした。そうやって自分に折り合いをつけているのかもしれなかった。
「おまえが警官になったのは、昔、自分のしたことを償《つぐな》うためかと訊きました」
ちか子は黙っていた。
「僕は、違うと答えました。母さんが、僕がしたと思っていることを、僕はしていないから、とね。それ以上は、義母はもう何も訊かなかった」
[#改段]
15
その晩、ぬるめの湯にゆっくりと浸《つ》かりながら、石津ちか子は公園での牧原の言葉を何度も頭によみがえらせてみた。
――あれはありきたりの火災じゃなかった。弟は、普通の方法で火を点けられたのじゃなかったんです。
念力放火能力。結論としてその言葉にたどりつくために、牧原は、青春時代の大半を費やしてしまったようだった。彼は自分が読んだたくさんの書籍や、訪ねていって話を聞き、教えを請うたたくさんの人びとの名前を教えてくれた――ちか子には馴染みのない世界のことではあったけれど、しかし、牧原が本気であることは感じ取れた。本気と狂気の境目は、ときとして危険なほどあいまいなものではあるけれど。
――念力放火能力を持つ人間は、もちろん数は少ないけれど、確実に実在するんです。
夕暮れの公園の滑り台の陰に。
――信じられないというのなら、それでもいい。ただ、素晴らしい機会だから、倉田かおりを注意深く観察してごらんなさい。この少女は能力者だ。僕には百パーセントの確信がある。倉田かおりのことをよく知るようになれば、石津さんも、僕の言葉を笑うことはできなくなるはずです。
燃焼促進剤なしで、人間ひとりを炭化するほどに焼き焦がす熱を発生させることのできる子供。
ちか子は首を振り、顔を洗った。
牧原の弟の件は、本当に気の毒な話だ。あまりに惨い体験だったから、彼はそれに憑《つ》かれてしまったのだ。弟の死に足首をつかまれてしまったのだ。
念力放火? 滑り台の陰の女の子が、牧原の幼い弟に火を点けた?
そんなバカな。
いや、百歩も千歩も譲って、仮に念力放火能力というものが実在し、二十年前の滑り台の陰の女の子がその能力を持っているとしても、なぜ彼女が牧原の弟を焼き殺さねばならない? 虐《いじ》められたから? 脅かされたから? それなら、砂場の砂でもつかんで投げてやればいい。大声で泣いて助けを求めたっていい。いくらお手軽な能力者だからといって、いきなり火を点けることはないだろう。
(いじめないでっていったのに、いじめるから。もやしちゃって、ごめんなさい)
女の子がそう言ったって? いかにも作り話くさいエピソードだ。いくら子供だって、受けた被害と仕返しの釣り合わないことぐらい判りそうなものだから、承知の上でやったことなら、こんな弁解をするものか。
お話、物語だ。
牧原の話には、現実味がない。
風呂からあがって冷たい麦茶を飲んでいると、夫が帰宅した。午前零時を過ぎていた。夫は酒臭く、顔も真っ赤で、吐く息が臭いのでちか子は顔をしかめた。
職場で何かいいことがあったのか、夫は上機嫌だった。喉が乾いたと言って、ちか子の手から麦茶のグラスを取り上げ、ぐいぐいと飲み干してしまった。食卓のテーブルの、ちか子の向かい側の椅子に座り込むと、お茶漬けが食いたいと言い出した。
ちか子は口では飲み過ぎだのだらしないのと説教をしたが、心のなかでは微笑みながら、湯を沸かし漬け物を切り、てきぱきと支度をした。あたしがあの連続殺人事件の捜査から外されていて、あなた幸運だったわよと、夫に言ってやりたかった。もしもあの捜査で忙殺されていたとしたら、そもそもちか子はまず帰宅していまい。
夫がお茶漬けを食べ終わり、ちか子がいれた番茶を飲みながら、テーブルの上の灰皿を近くに引き寄せて、煙草のパッケージを取り出し、一本くわえた。
ちか子は夫がライターを使うのをながめた。酔っているせいで、手つきがあぶなっかしい。ライターも、ガスが減っているのか、なかなか火が点かない。口にくわえた煙草の先が、夫が手を動かすたびに、ひょい、ひょい、と上下した。
念力放火。
ふと、ちか子は思った。念力放火とはつまり、こうして夫の向かいに座っていて、手も動かさず、ただちょっと意識を集中するだけで、あの煙草の先に火を点けることができる能力だ。
かちり。
ライターが小さな火を点《とも》した。夫は深々と煙草を吸い込んだ。ちか子は立ちあがって、テーブルの上の食器をさげた。
ちか子は中性洗剤に弱い。台所用の肘までの長さのゴム手袋をはめて、洗い物を始めた。そして考え続けた。
煙草の火を点けるくらいなら、なんということもない。風の強い日の屋外などでは、むしろ重宝なくらいの能力だ。
だが、そういう能力を持っている人間が、自身の力を、親切のためだけに使うとは限らない。
ほんのちょっとでも、誰かが気にくわないと思ったら、焼き殺してしまうことができる。それが念力放火能力者だ。
だったら、いじめられただけで、お返しに火を点けることだってある?
今日の夫はすこぶる機嫌がいい。鼻歌など歌いながら夕刊を読んでいる。気をつけないと、あのまま椅子で居眠りをしてしまうかもしれない。
だが、夫だって、今日丸一日ずっと上機嫌であったわけはないのだ。一日のうちで数回は、ぶっきらぼうな喫茶店のウエイトレスに出くわしたり、得意先の嫌味な部長に挨拶しなくてはならなくなったり、満員電車のなかで足を踏まれたりして、一瞬でも、ほんの数分でも、むかっとすることがあるはずだ。それが日常というものだ。
我々はそれをガマンする。それが日常というものだから、ガマンをする。そうやって大人になってゆく。そんな些細なことにいちいち腹を立て、気に障ることをした相手を非難したり、やっつけたりしていたら、社会に適応できなくなるだけでなく、貴重な自分自身の時間を無駄にしてしまう。
だが、ガマンする必要がなかったら?
即座に仕返しをすることができたら?
しかも、その仕返しをしたのが自分だということを、誰にも気づかれることもなく。
電車のなかで自分の足を踏みつけたハイヒールの女。踏んだことに気づいていたのに、謝りもせずツンとしていた。頭にきた。その女が今電車を降りて行く。ケッを振って、気取った歩き方だ。意識を集中し、女の派手なパーマのかかった髪を見つめる。見つめる。見つめる。
女の髪が燃えあがる。
ああ、スッとした。
能力者に逆らう奴は[#「能力者に逆らう奴は」に傍点]、能力者を不機嫌にさせた奴は[#「能力者を不機嫌にさせた奴は」に傍点]、すぐに報いを受けるんだ[#「すぐに報いを受けるんだ」に傍点]。
「おい、水が出しっぱなしだぞ」
夫に声をかけられて、ちか子ははっと我に返った。蛇口を開けっ放しにしたまま、突っ立って考え込んでいたのだ。
「風呂に入って寝るよ」
夫はよろよろと立ち上がった。
「大丈夫ですか、酔ってるのに」
「このくらいなら平気だよ」
「もうぬるくなってるから、追い焚きをしないと」
「いいよ、自分でやる。先に寝てていいぞ。だいぶ疲れてるようじゃないか」
夫が風呂場の方へと楽しそうにふらふら歩いてゆくのを見送って、ちか子はまた、あらぬことを考えた。火を点けることのできる能力ならば、湯を沸かすこともできるのでは? 台所にいて、スイッチも押さずガスも使わず、念力を送るだけで、浴槽に張った水を四十度の適温まで沸かすことができたら、なんて便利で節約になるだろう?
ちか子は、ふふっと声を出して笑った。さっきまでは真面目に考えているつもりだったのに、結局こんなバカなことを思いつく。あたしは、やっぱり牧原さんの気持ちを理解することはできないし、彼の主張を全面的に受け入れることもできないってことだわね。
台所の電気を消して、ちか子は寝室へと引き上げた。夫の言うとおり、自分で自覚している以上にくたびれているのだと、ベッドに潜り込んでみて初めて気づいた。
浴室には湯気が立ちこめていた。
あの華々しい能力をフル活用した機会からもすでに数日が過ぎ、青木淳子は、身体の内側にエネルギーが堆積しつつあるのを感じていた。
体力は、少しずつ回復していた。銃創はまだずきずきと痛むが、幸い、化膿はしていないようだ。出血のせいでいくらか貧血気味になっているのか、朝ベッドから起きあがるときなど、ふらりと天井が半周することがある。が、それも少しずつ収まっていくだろう。
そして淳子の内側の「力」は、彼女の身体の回復の曲線を見定めると、まるで独自の意思と判断を兼ね備えた生き物のように、「これならもう安心」とばかりに、自身の存在を主張するようになり始めたのだった。
淳子は「力」が外に出たがっているのを感じた。「力」が行使されたがっているのを感じた。あの派手な殺戮と破壊は、淳子にとっても本当に久しぶりの遠慮のない「解放」だったのだが、「力」はあの解放をとことん楽しみ、味をしめてしまったらしい。淳子をせっついている。
暴れたがっている「力」を宥めるために、もうあの廃工場は使えない。田山町は今、日本一マスコミ関係者のたくさんいる町になってしまっているので、運河や公園でうかつに「力」を散歩させるのも危険に思えた。万が一、誰かに見られたり、写真を撮られたりしてはいけない。
仕方がないので、淳子はもっぱら湯を沸かしているのだった。浴槽にたっぷり冷水を張り、そのなかに「力」をそそぎ込む。三十分としないうちに、淳子の小さなアパートの浴室は、サウナのようになってしまう。
――ああ、蒸し暑い。
顔に浮かんだ汗を拭い、浴室から外に出た。身につけているバスローブが湿っぽくなっている。窓を開けて、空気を入れ換えよう。
窓枠に手をかけたとき、電話が鳴りだした。電話機に手を伸ばそうとすると、撃たれた肩がずきんと大きくうずいた。淳子はちょとためらい、痛む肩から腕へと視線を走らせてから、反対側の手で受話器を取った。
「青木淳子さんだね?」
数日前にかかってきた、あの電話の声だった。
「少し、お話できるかな?」
無意識のうちに、淳子は肩の傷を手で押さえていた。
今、電話に出ようとした途端に傷が疼《うず》いたのは、何かの予兆のような気がしてならなかった。
「あなたは何者なの?」
受話器を握りなおして、淳子は聞いた。受話器は、浴室からあふれ出る熱い蒸気のために、しっとりと湿っていた。
「いきなり名乗るのは難しいんだが」
穏やかな、落ち着いた口調だった。男性だ。歳も若くはない。自分の能力や課せられた責任についてちゃんとわきまえている人間の話し方だった。まるで医者のようだと淳子は思った。彼女自身はもう長いあいだ、どんな種類の医者にも診てもらったことがないが、記憶に残る医者の声は、みんなこんな感じだった。
――大丈夫だよ、淳子ちゃん。お母さんは必ずよくなるからね。
――そろそろお母さんの親類や親しい人たちに病状を報せておいた方がいいですね。もちろん治療には全力を尽くすつもりですが、なにしろ心臓が弱っているので。
記憶のなかの声。
「もしもし、そこにいるのだろう?」
呼びかけられて、淳子は追憶から覚めた。あらためて受話器を握り直す。
「ガーディアン……ガーディアンという言葉を知っているかね? 守護者という意味があるのだが」
似たような言葉を、ごく最近誰かの口から聞かされたような気がした。そう……あれは……やっぱり電話だった……
思い出して、淳子は思わず声を高くした。
「このあいだ電話をかけてきたふざけた若い男が、そんな言葉を口にしてたわ。ホントならまだわたしには電話しちゃいけないんだとか何とか言って」
相手は驚いたようだった。舌打ちする様子が感じられた。
「お調子者め。もう君に連絡していたのか」
「あなたもあの男の仲間なの? あいつ、我々はあなたの働きぶりに感心してるって言ってた。ねえ、何なの? ガーディアンて何?」
「我々の組織《グループ》≠フ名称だ」
「そんなの教えてもらったって、あなたの正体を知ったことにはならないわよ。あなたの言う我々≠ェどんな団体なのか判らないんだし」
「もちろん、君の言うとおりだ」
相手の声が微笑んでいるのを淳子は感じた。「だから、今日はぜひとも一度君に会いたいと思って電話をかけたんだよ。我々に会ってくれるだろうか。君にその気はあるだろうか」
「なんでわたしがあなたたちに会わなきゃいけないの?」
淳子はわざとバカにしたように鼻を鳴らしてみせた。
「判った、あなたたち、訪問販売か何かでしょう? それともねずみ講?」
今度こそ、相手は電話の向こうで大笑いをした。ちょっと声が遠くなったのは、受話器を顔から遠ざけたからだろう。
「失礼よ。そんなに笑うことないじゃない。わたしは真面目に質問してるのよ」
「そうだね、すまない」まだ言葉尻に笑みを残したまま、相手は電話口に戻ってきた。
「いきなり会いたいと言ったところで君が出てきてくれるわけがないのは承知している。だから今日は、君にひとつプレゼントをしようと思う。それが気に入るかどうか試してみてくれ。そうだな……明後日もう一度電話をしよう。またこの時刻にね」
「どういうこと?」
淳子の問いつめる声にはかまわず、相手はいきなり言った。「カノウ、ヒトシ」
淳子はつと目を見開いた。「え? なんですって?」
「カノウヒトシの現住所を教えよう。君がずっと追跡していた少年だ。彼は二十歳になった。もちろん車の免許も取得している。現在はスノウボードに凝っていて、週末ごとに車のキャリアにボードを積んでは方々へ滑りに出かけている。仲間たちとね」
仲間たち。淳子は思わず目を閉じた。カノウヒトシ。今はいったいどんな仲間たちと付き合っている?
「そうそう、先月、彼の住んでいる地区で衆議院議員の補欠選挙があった。カノウヒトシが選挙に行ったかどうかは知らないが、少なくとも彼が有権者であることは間違いない。私は感慨を深くしたよ。国民の義務であり権利である投票権を、彼も持っているわけだ。この国は、良心のかけらも持たず更生する意思もないけだもののような人殺しに対して、なんと寛大で公平なのだろうかとね」
無意識のうちに、淳子は質問していた。
「あいつの居所を教えて」
「教えるとも」
ひと続きの住所と電話番号を告げられ、淳子は急いでメモをとった。心が昂ぶった。こいつだけはどうしても行方を突き止めることができなくて、ずっと悔しい思いをしていたのだ。
しかし、昂揚するなかにも疑問は残った。「あなた、どうやってこいつの居所を調べたの? どうしてわたしに教えてくれるの? どうしてわたしがこいつを探していたことを知ってるのよ?」
電話の向こうで、またかすかな含み笑いが聞こえた。
「君のことなら何でも知っている。なぜなら、我々は望みと目標を同じくする同志であるからだ」
「――同志」
「君が首尾良く目的を果たすことを祈っているよ。まあ、君の能力ならば心配はないがね。それと、君がこのプレゼントを喜んでくれて、然るべき処置をとることができた暁には、もうひとつプレゼントを用意してある」
淳子は身を乗り出し、電話機に近づいた。それで相手との物理的距離が縮まるわけではないけれど、そうせずにはいられなかったのだ。
「何を教えてくれるの? 誰の居所?」
「多田一樹の消息を」
それだけ言って、電話はいきなり切れた。淳子は片手に受話器を、片手にメモをきつく握ったまま、急に置いてきぼりをくったように呆然とするだけだった。
カノウヒトシ。
三年前は東京の中野区内に住む十七歳の無職少年で、小暮昌樹の仲間だった。グループのなかではいちばん立場が弱く、使いっ走りのようなことをさせられていた。そういうポジションに置かれた者特有のひがみっぽさと、弱者に対する極端な残虐性を持ち合わせている少年だった――
今は二十歳だ。立派な成年だ。スノウボードに凝っているだと? 車の免許も持っているだと?
その車で[#「その車で」に傍点]、今度は誰を轢き殺すつもりだ[#「今度は誰を轢き殺すつもりだ」に傍点]? 怒りがこみあげてきて、頬が熱い。こめかみがガンガンしてきた。淳子が怒ると、「力」も勢いを増す。そんなときでも、一度に放射するのは危険な場合が多いから、蛇口を細く絞るように、淳子はエネルギーを絞る。すると、こんなふうに偏頭痛が始まることがあるのだ。「力」の流動するエネルギーに、淳子の身体というハードが堪えきれず、ガタガタと震動するからだろう。
淳子は再び浴室にいた。下着姿になって、浴槽の縁に腰かけ、膝から下を湯に浸して、蒸気で髪を濡らしていた。蛇口を開き、浴槽には絶え間なく冷たい水を注ぎ込んでいるが、湯は一向に温《ぬる》くならなかった。時折、機械的に手を動かし、風呂の栓を抜いて湯を流す。そうしないと、すぐに縁まで一杯に溢れてしまうからだ。
「力」は水を熱し、蒸気をつくる。エネルギーとしてはそれで解消される。しかし、感情の持って行き所はない。水を相手に放出しても、淳子は満たされないのだ。
今夜はもう遅い。行動を起こすならば明日だ。しかし、理屈ではそう思っても、心は動き始めていて止められなかった。カノウヒトシ。あいつを見つけた。やっと息の根を止めてやることができる。
漢字で書くならば「叶仁志」。タレントのような洒落た姓名である。しかし、淳子がたった一度だけ遠目に見た彼の実像は、およそ冴えないものだった。つぶれた鼻と乱杭歯《らんぐいば》ばかりが目立つ、ゴミのように醜い人間だった。
もう三年前のことになる。東京の一角で、残虐な女子高生殺しが連続して発生した。運悪く一人歩きをしていたというだけで、犯人グループの標的とされてしまった彼女たちは、路上から拉致され、人気《ひとけ》のない山中の林道や、季節はずれで観光客も訪れない湖畔の道路などに連れて行かれる。そこへ到着するまでのあいだに、彼女たちは乱暴され、拷問され、さんざんにいたぶられてボロボロにされてしまう。だが現地に着くと、彼女たちは犯人たちから「逃げていい」と告げられる。そして車から路上へと放り出される。彼女たちの多くは半裸で裸足だ。しかし犯人たちは言う。「オレたちから逃げ切ることができたら命を助けてやる。これは命がけの鬼ごっこだ」と。
彼女たちは、傷ついた身体にムチうって逃げ出す。犯人たちは彼女を車で追いかける。走って逃げ込むことはできても車が入ることのできないような藪や草地や斜面など見あたらない。事前にそういう場所が選ばれているのだ。彼女たちはキツネ狩りの獲物も同然だった。
そうして彼女たちは轢き殺される。遺体はボロ雑巾のように放置されるか、拾い上げられてもまた別の場所に捨てられる。
被害者が三人目を数えたとき、面目にかけて大捜査網を敷いていた警視庁は、ある非行少年グループに目をつけた。きっかけは、別件で補導された触法少年が取調室でもらしたひと言だった。このことが後々大いにたたるのだが、そのころはとにかくどんな小さな手がかりでもいいから欲しい時だった。
捜査が始まった。情報漏れがあり、マスコミも報道を始めた。どれほど事件が凶悪でも、捜査対象となっているのは全員が未成年の少年たちばかりだったから、強引に事を進めるわけにはいかない。タレコミから始まった捜査であるだけに、物証に欠けることも痛かった。
そうこうしているうちに、主犯格のひとりとして捜査対象になっていた小暮昌樹という十六歳の少年が、警視庁を相手に訴えを起こすとぶちあげて、記者会見を開いた。彼の言い分では、自分はまったく無実であり、疑いをかけられる覚えもない。しかし警察は自分の身辺をかぎ回るだけでなく、わざと自分の身元に関する情報をリークして、自分をマスコミの餌食にしようとしている――
小暮昌樹には一種のひねこびた魅力があり、弁が立ち、立ち居振る舞いがスマートだった。彼は一躍、一部マスコミの寵児《ちょうじ》となった。彼がテレビのワイドショウ番組だけでなく、バラエティ番組にまで出演しているのを、淳子は何度も見かけた。まるでアイドルタレント並の人気者だった。若者のプロテストする魂を素材に小説を書き、それを自らメガホンを取って映画化するのが夢だと、滔々《とうとう》と語っていた。
物証はない。しかし状況証拠は山ほどあった。証言も掃いて捨てるほど出てきた。マスコミは左手で小暮昌樹を持ち上げ、右手では警察からリークされるそれらの情報について報じていた。世論も割れた。
だが結局、小暮昌樹は逮捕されなかった。彼も、彼をリーダーとする非行グループのメンバーも、誰ひとり。
――だから、あたしは。
だから淳子は多田一樹に会いに行ったのだ。
多田一樹は、三人目の犠牲者の兄だった。殺された彼の妹の名前は雪江。雪のように色白の可愛らしい女の子だった。
法律が小暮昌樹のような怪物を捕らえることができないのなら、他の手段を選ばねばならない。だから淳子は多田一樹の役に立てると思ったのだ。装填された一丁の銃として。
彼の復讐を、処刑を、手伝うことができる。彼と同じ職場に自分が居合わせたことは、まさに天恵なのだと思った。
その年の秋の始め、淳子は多田一樹と共に計画を立て、小暮昌樹を襲った。実際には、離れたところから狙いをつけるだけでよかった。小暮昌樹の髪が、肌が、シャツが燃えあがり、彼が悲鳴をあげて転げ回るのを、淳子はじっと見つめた。
だが、土壇場で多田一樹は考えをひるがえした。小暮昌樹にとどめをささないうちに、彼は現場から淳子を連れ去った。そして自分は人殺しをしたくはないと言った。殺人に手を染めれば、僕たちは二人とも小暮と同じになってしまうと。
淳子には理解できなかった。どうして多田一樹が、彼の「銃」である淳子が、小暮昌樹と同じになるのだ? 多田一樹は犠牲者をいたぶってはいない。なぶり殺しにしてはいない。殺しを愉しんではいない。小暮昌樹を処刑することは、課せられた神聖な義務なのだ。
だが、多田一樹はかぶりを振り続けた。
淳子は彼から離れた。そして、たった一人で追跡を続けた。
小暮昌樹を仕留めるまで、それから丸二年かかってしまった。世間には荒川河川敷の四重殺人事件として知られるその「処刑」を終えたあと、淳子は多田一樹に会いに行った。「処刑」を終えたことを、彼に報告するために。
彼は淳子のしたことに気づいていた。濃い霧雨の夜だった。彼はもう止めろと言った。淳子は止めるつもりはなく、とうとう彼とは分かり合えないのだということを再確認し、落胆しただけで、雨のなかを去った。
それから一度も会っていない。
その後も淳子は追跡を続けた。女子高生殺しに関わっていたグループのメンバーの身元は、小暮昌樹が派手なタレント活動をしたり、インタビューに応じたり、自伝まがいのものを書いたりしてくれたおかげで、比較的容易に調べることができた。淳子は自分でも動き回ったし、素人の手に余る部分は調査会社を頼んだりして、残りのメンバーの動向を見定めた。
本丸である小幕昌樹を倒すまでは、不用意なことをして彼を警戒させたくなかったので、他のメンバーのことは後回しにしていた。だから、小暮を倒してしまえば、いよいよ彼らの番だった。ところが、小暮の惨死の衝撃は彼らのあいだに素早く伝わり、一時、それが女子高生殺しに憤る人物による復讐ではないかという憶測が流れたせいで、彼らは逃げ始めた。住居を変えたり、東京から地方へ出たり、偽名を名乗ったりし始めた。淳子の追跡は難しいものになった。
それでも淳子は、小暮の後、小暮と同格の主犯格だった当時十九歳の青年と、運転手役をしていた十八歳の青年のふたりを「処刑」することに成功した。前者は家ごとまとめて焼き殺してやった。この火災は不審火として処理された。火が出たとき不在だった両親は、彼のために盛大な葬式を出してやった。淳子は会葬者を装ってその場を訪れたが、故人が天使のように善良で前途洋々たる若者だったとぬけぬけと語る父親をながめていると、両親も一緒に片づけてやればよかったと思った。この青年が、最初の犠牲者である十六歳の女子高生を縛り上げ、抵抗できない彼女の目にアイスピックを刺してやったと、ゲラゲラ笑いながら自慢しているのを、相互につながりのない三人の少年が耳にし、証言している。後者の十八歳の方は、車に火を点けてやった。炎をあげながら突っ走り、車は電柱にぶつかって大破した。しかし運転席の青年は死ななかった。しぶとく生き延び、今も生き延びているはずだ。サボテンと大差ない植物状態の人間となって。
そして、叶仁志ひとりが残った。
狡猾《こうかつ》なサルのようなこの青年は、身元を偽り名前を変え、過去をぬぐってのうのうと生きていた。淳子は彼が拉致した女子高生たちに対してしたことも、それ以外の知られざる被害者たちに対してしたことも、すべて知っている。小暮と同格の十九歳の青年を家ごと白い灰に変えてやる前に、「力」で彼の両足をへし折って逃げ出せないようにしておいてから、くまなく聞き出したのだ。
そいつは泣きながら全部白状し、すべてを認めた。三人の女子高生殺しについては言うまでもなく、ほかにも表面化していない傷害や婦女暴行事件が何件もあった。そしてそのどのケースでも、いちばん残虐なことをしたのは、主犯格の連中の尻馬に乗って犯行に加わり、いつだって犠牲者をいたぶる順番が回ってくるまで指をくわえて待たされていた叶仁志なのだった。
奴を屠《ほふ》らないうちは、女子高生殺しに関して任務が終わったことにはならない。淳子はそう思い決めていた。
その叶仁志に、やっとたどりついた。
――我々は目的を同じくする同志。
ガーディアン。守護者。淳子は目を閉じて考えた。あの男の言う我々≠ニは、淳子と同じ「力」を持つ集団なのだろうか? だとすれば、彼らは何を「守護」するつもりなのだろう?
悲しいことに、淳子には何かを「守る」ことはできない。自分のごく身近に、生活圏のなかに凶悪な何かが近づいてきたならば、そのときは迎撃することもできよう。しかし、悪意は至る所に存在するが、淳子は一時にひとつの場所にしか居ることができないし、瞬間移動することもできない。淳子にできることは、悲劇が起こった後に出かけていって、その悲劇を起こしたけだものを退治することだけなのだ。
結局その夜は、午前二時過ぎまで浴室にいる羽目になった。やっとベッドに入ってからも、身体が熱くてなかなか眠れなかった。
目をつぶると、なぜかしら、叶仁志の顔よりも、多田一街の顔ばかりが浮かんできてしまう。不思議だった。もう今は、彼に対して何の感情も抱いてはいないはずだった。確かにあのころは、好意を持っていた。真面目で優しくていい人だと思った。その好意が、彼に対して「銃」として助力を申し出るきっかけになったということも否めない。
だが、今はもう違う。彼は淳子を理解してくれなかった。しょせんは別の世界の人間だ。彼は淳子を受け入れてくれなかった。妹の仇を討つよりも、「殺人者」にならないことの方が重要だと言った。
なぜ、あのガーディアンを名乗る男は、淳子に多田一樹の消息を教えることが「プレゼント」であるなどと考えたのだろう? 淳子はもう彼には会いたくない。会っても仕方がないのだから。
浅い眠りは、明け方近くになって訪れた。起きているような眠っているような、はっきりしない状態で、ただ身体だけはぐったりと弛緩《しかん》していた。
そして夢を見た。
ずいぶん昔の出来事の夢だった。淳子は不用意に誰かを燃やしてしまったらしく、泣きながら謝っている。まだ子供のころだ。燃やしちゃってゴメンナサイと、もつれる舌で叫んでいる。
逃げだそうとする淳子の前で、火がごうごうと燃えている。炎のかたまりの中心には子供がひとりいて、身体が燃える熱さのせいで踊り狂っている。その目が驚愕に見開かれ頬に涙が流れているのが淳子には見える。
それとは別に、もうひとり誰かがいて、燃える子供の方に手をさしのべて、何か大声でわめいている。彼もまた――そう、彼だ、少年だ――泣いている。彼の声が裏返り、身体がよろめき、しかし彼は淳子の姿を認めて、走って追いかけてこようとする。淳子は必死で足を動かし、懸命に逃げ出そうとする。ごめんなさい、ごめんなさい、もう二度としないからカンベンしてください――
そこで完全に目が覚めた。
なぜあんな古い夢を見たのか、自分でも判らない。嫌な記憶だ。ずっと押し込めていた記憶だ。寝間着が身体にくっつき、胸の谷間を汗が一筋流れ落ちる。
起きあがり、ベッドから抜け出して、カーテンを引いた。白じらと夜が明け初めていた。淳子は頭を振って夢を振り落とし、くちびるを引き締めた。再び、戦闘の朝がやってきたのだ。
[#改段]
16
横浜《よこはま》市|港東《こうとう》区|下田中《しもたなか》二丁目。ガーディアンを名乗る男が教えてくれた住所をたどってゆくと、淳子はすぐに一軒の家にたどりつくことができた。堂々たる構えの、白壁に赤い西洋瓦が映える邸宅である。スペイン風と呼んでいいのだろうか。
緑の多い住宅街だった。並ぶ家々の敷地も広く、垣根や石垣で仕切られた内側には、芝生や庭が広がっている。横浜のこのあたりに足を踏み入れるのは初めてのことだったし、土地勘もさっぱりだが、ここが裕福な町であることは、周囲を一望するだけで容易に見て取ることができる。まだ昼前の時間ということもあり、人通りもなければ車の行き来もない。
淳子はジーンズの上に着古した厚手のジャケットを着込み、足になじんだハイカットのスニーカーを履いていた。髪も頭の後ろで無造作に縛り、化粧もしていない。すべて戦闘優先の支度をしてきたわけだが、その格好でこの町を歩くと、場違いでかえって目立ってしまいそうな感じがした。誰か通りかかれば、ちらっと見てもすぐに、淳子が外の町から紛れ込んできた人物と気づくことだろう。ちょうど地図を手に持っていることでもあるし、願わくば、安いアパートや下宿を探して歩き回っているうちに、閑静な高級住宅地に迷い込んでしまった地味な女子大生に見えることを祈ろう。
それにしても、なぜあの叶《かのう》仁志《ひとし》がこんな町に住んでいるのか。
淳子の記憶の限りでは、彼は裕福な家庭の出身ではなかったはずだ。親分格であった小暮昌樹の書いた噴飯ものの「自伝」なるもののなかで、叶仁志は「K」というイニシャルで登場するが、それによると、彼らが知り合ったのは深夜の渋谷の路上で、互いに懐には一銭もなく、すぐにふたりで通りがかりの女子高生を釣り上げ、彼女たちから金を巻き上げてホテルにしけこんでいる。その際、「K」が不用意に父親から殴られてできたという傷跡を見せたので、女の子たちが怖がって逃げてしまったというエピソードだった。
――俺も「K」も、親との軋轢《あつれき》に疲れた子供だった。俺は立派すぎる親父に引け目を感じ、「K」は人間のクズのような親父に虐《しいた》げられていたのだ。
そんな文章だったと思う。「自伝」はどうせ小暮が書いたものでなく、彼のしゃべり散らしたことをゴーストライターがまとめただけだろうし、ウソもふんだんに混ぜ込まれているから完全に信用することはできない。だが、少なくとも「K」イコール叶仁志がこんな金持ちの家の出身であったならば、小暮をリーダーとするグループのなかで、もう少しいい地位を確保できたろうと思われる。父親による虐待の事実はともかく、叶仁志が恵まれた家庭の子弟であるとは考えにくい。
ガーディアンは、叶仁志が現在この住所地におり、生活を楽しんでいるらしいことは教えてくれたが、そこに至る経過については何も言わなかった。小暮昌樹が一種のスターになり、彼らのグループがやってのけた非道については次第にうやむやになり、やがて誰もが確信犯的な沈黙を選んで事件を忘れ去った。その後に、叶仁志の身の上にはどんな変化が起こったのだろう?
――まあ、本人を捕まえて訊いてみればすむことだけど。
淳子は色ガラスを組み合わせて作られているガス灯風の門灯を見あげた。ここは正面玄関で、二メートル以上の高さのある錬鉄の門扉が淳子の行く手をはばんでいる。門扉の脇に掲げられた金属製の表札には、洒落た斜体のアルファベットの「Kinosita」の文字が並んでいるだけで、この邸宅の住人の家族構成はまったく窺《うかが》い知ることができない。門扉の先には広い芝生の庭が広がり、よく手入れされて落ち葉ひとつ落ちていない砂利道が邸宅の玄関までゆるいカーブを描いて続いていた。
ぐるりの塀は邸宅の壁面と同じ化粧レンガで出来ており、淳子が指先でひっかくと細かなクズがはがれ落ちた。「力」を集中してぶつければ、容易に倒せそうなヤワな塀だ。
木下――ここは叶仁志の母親の実家だろうか。それとも、母親が父親と別れて再婚した? あるいは、叶仁志は養い親の家に住んでいるのか。
淳子は正面玄関から右へ歩き始め、塀をぐるりと回った。邸宅の正面にあたる側は隣家の石垣とくっついており、せいぜい猫が通り抜けるぐらいの隙間しか開いていない。踵を返してまた正面玄関へ戻り、今度は左へと進んでゆくと、西側の端に勝手口があった。勝手口と言っても、淳子の住まいの玄関のドアぐらいの幅の門扉が立っており、その脇にインタフォンがある。試みに門扉のノブをつかんでみると、鍵がかかっていた。鉄柵の隙間からのぞくと、内側に掛けがね式の錠がついている。指を差し入れると、かたんという音がしてはずれた。
さて、どうするべきか。正直言って、これほど接近しにくい邸宅を予想してはいなかった。普通の住宅ならば、ぐるりを歩けばだいたい居住者の在不在のあたりをつけることができるし、訪問販売やアンケートでも装って玄関のベルを鳴らすこともできる。しかしここでは、勝手口のインタフォンを鳴らしてみたところで、どうせ応答するのは使用人だろう。こちらに叶仁志という人は住んでいるかと、固有名詞を出して尋ねるのだけは避けたい。彼を屠ったあと、当然捜査に乗り出してくるはずの警察に、殺害の直前に被害者を訪ねてきた女がいるという、格好の手がかりを与えてしまうことになるからだ。
ふん、被害者か。淳子は自身の頭の内側の思考のなかでさえ、叶仁志に向かってこの言葉を使うのは嫌だった。本当の被害者たちに対する侮辱になるような気がするからだ。
警察はどうなのだろう。小暮昌樹を倒したときも、荒川河川敷四人焼殺事件を報道するニュースを見ながら思ったものだ。警察のなかには、小暮昌樹があの小暮昌樹であることにすぐに気づき、荒川の事件と彼の「過去」とを結びつける向きがいて当然だ。そのとき、それについて考える彼らの頭のなかでは、小暮昌樹は果たして本当に「被害者」なのだろうかと。小暮昌樹を被害者と認定することは、彼らによって無惨に殺された三人の女子高生を辱《はずかし》めることになると考えはしないのかと。
警察のことを考えたからだろう、そのときふと、初めて思いついた。ガーディアン――ガーディアンが淳子の同志であるならば、彼らだって警察とは敵対しないまでも、警察の目を逃れなければならない存在であるのだろう。ガーディアンが今までの活動のなかで、警察に追われたことはなかったのだろうか。具体的に、彼らは今までどんな行動をとってきたのだろう。
再び、不審と困惑が眉の高さぐらいまでこみあがってきて、淳子は数歩あとずさりをし、あらためてスペイン風の邸宅を仰ぎ見た。あたしは騙されているのじゃないのか。ここに本当に叶仁志は住んでいるのか。長いこと探しあぐねていた彼の情報を投げてもらったことで舞い上がり、あたしは少し軽率になりすぎてはいないか。
いったんこの場を離れ、この住所の「木下」という姓で電話番号を調べてみようか。接近する前に、叶仁志の実在を確認しないと、今回は危険が大きすぎるかもしれない……。
心を決めかねていると、すぐ近くで車が軽くクラクションを鳴らすのが聞こえてきた。首をめぐらすと、人気《ひとけ》もなく静かな路上を、遠く豆粒のように、一台の赤い乗用車が走ってくるのが見えた。こっちへ近づいてくる。淳子は急いで手のなかの地図を見おろし、アパート探しをしていて迷ってしまった女子大生を装った。
赤い乗用車は、木下邸の塀の角のところで一時停車をした。淳子は地図と所番地を確認するようなふりをしながら様子を見ていた。車はミニクーパーだった。横断者がいないかどうか確かめているにしては、長すぎる一時停車だ。淳子は地図を手に持ったまま、木下邸の勝手口に背を向け、ミニクーパーと反対の方へ歩き出した。運転者に顔を見られたくなかったからである。
淳子の後ろで、またクラクションの音がした。ミニクーパーの運転手が鳴らしているのだ。淳子はそれが自分に向けられている合図だとは思いもしなかったので、振り向かなかった。
すると、後ろから若い女の声が呼びかけた。
「ねえちょっと、そこのカノジョー」
淳子は左右を見た。誰もいない。前方にも人影はない。
「カノジョってば、ねえあなた!」
どうやら、呼ばれているのは淳子であるらしい。そっと振り向いてみた。
ミニクーパーは、木下邸の勝手口のすぐそばで停車していた。運転席の窓から、車と同じ色合いのセーターを着た女が身を乗り出していて、淳子に手を振っていた。
「ねえあなた、ひょっとしてヒトシを訪ねてきたの?」と、女は言った。
驚きで、さすがにすぐには声が出なかった。女はごく陽気で明るい様子で、小鳥のように機敏に身軽に車から降り立つと、小走りで淳子に追いついた。すると、強い香水の匂いがした。
「この家に来たんでしょ? お手伝いさん、出てこない?」
若い女が気取った手つきで親指を立てて示したのは、紛れもなく木下邸だった。淳子は、自分が何もしないうちに、これはどうやらダイスの方がこちらに転がってきたらしいと判断した。
「そうなんです。だけど、あんまり大きなお屋敷だから気後れしちゃって」と、淳子は言った。「叶仁志さんのお住まいは、ここで間違いないんでしょうか」
「間違いないわよ。みんな最初はびっくりするの」女は笑顔で応じた。「遠慮しなくていいわよ。あたしもこれからヒトシのとこ行くの。いっしょにおいでよ」
若い女は先にたって勝手口の門扉を開けると、さっさとなかに入っていった。淳子は思いきって彼女の後に続いた。
門扉を通り抜けると、冬枯れの芝生の広がる庭の先から、かすかに音楽が聞こえてきた。クラシックのメロディのようだった。
「ああ、やっぱりそうだ」若い女は淳子を振り返ると、音楽が聞こえてくる方向へ手を振ってみせた。
「ここのおじさん、クラシック聴くのが趣味なのよ。お手伝いさんも音楽好きでさ、おまけに少し耳の遠いおばあさんだから、ああやってCDかけてるときにお客がインタフォン鳴らしても、なかなか気づいてくれないんだよね」
彼女の足取りに迷いは感じられなかった。屋敷の正面玄関に向かっているのではなく、勝手口から建物のやや裏手の方へ歩いてゆく。
スペイン風の造りの木下邸は、近寄ってよく見ると、もともと一つの建築物だったのではなく、建て増しを繰り返して今のような大きな邸宅になったものであることが判ってきた。この若い女が行こうとしている場所も、建て増しされた棟のようだ。
「あそこから入るのよ」
女が手をあげて、棟の一角を指さした。植え込みの陰に隠れていて見にくいが、そこには出入口のドアがあった。いかにも通用口という風情の、機能一点張りの粗末なドアだ。すぐ外に、泥に汚れた男物のスニーカーが一足脱ぎ捨ててある。淳子は鼓動が早まるのを感じた。
「叶さんは、あそこに住んでいるんですか?」
「うん、そうよ」
ひょっとすると叶仁志の母親は木下邸の住み込みの使用人で、彼は母親にくっついて居候しているのかもしれないと思った。が、それ以上つっこんで尋ねる前に、女が勝手に説明してくれた。
「ヒトシのお母さん、二年くらい前に離婚してさ、あっちこっち転々としてたんだけど、結局はここで世話になることでやっと落ち着いたんだって。それでヒトシも呼び寄せたってわけ」
「正面の門のところには木下さんという表札が出てましたけど……」
「ああ、だから、その人がここのご主人で、ヒトシのお母さんの義理のお兄さんなの。木下の奥さんが、ヒトシのお母さんのお姉さん」
なるほど、そういうわけだったのか。叶仁志は伯母の家に厄介になっているのだ。
「すごいお屋敷ですよね」
「お金持ちなんだよぉ」女は自分のことのように自慢げに言った。「ヒトシも、やっと運が向いてきたって感じね」
ふたりはようやく、スニーカーの転がっていたドアの前までやってきた。淳子は足をゆるめた。
「あの、スミマセン、わたしまだよく判ってないんですけど、あなたは叶さんの――」
「ああ、ごめん、説明してなかったね。あたしはね、ヒトシの友達。サークルSの方のメンバーでもあるから、あなたちょうどいいところに来たってわけ。誰に紹介されたの?」
紹介? サークルS?
淳子が黙っていると、女はまた先回りをした。
「そっか、橋口《はしぐち》さんかな? あの人熱心だけど、強引でしょ? あなたも渋々来たクチじゃない? でも安心して、サークルSはおかしなものは亮らないし、ペイバックもちゃんと払うからね。入会金はちょっと高いように感じるかもしれないけど、友達を誘って会員にすれば、そんなの三ヶ月ぐらいでモトとれちゃうからさ」
早口にそれだけ言うと、女は足元に転がっていたスニーカーを爪先で蹴って横にどかし、ドアを開けて声を張りあげた。
「ヒトシぃ! 入るよ! まだ寝てんじゃないの、起きなさい、新入会員だよ!」
ドアの内側は、およそ十畳ぐらいの広さのワンルームの部屋になっていた。板張りの床はまだ新しく、内壁や天井のクロスも白い。だが、室内の散らかりようといったらひどいもので、まるで震災にでもあったかのようだった。
部屋の片隅に洗濯物が山のように積まれており、その山がもそもそと動いたかと思うと、人の頭が飛び出した。若い男だった。淳子ははっと息を飲み、それを女に気づかれたのではないかとどきりとした。だが、女はすでに淳子のそばから離れていた。洗濯物の山のあいだから顔を出した男に突進し、ぴょんとジャンプすると、彼の身体の上に飛び乗った。
「やっぱり寝てた! 今何時だと思ってんの?」
午前十一時になるところだった。淳子は寝ぼけ眼《まなこ》の若い男の顔を確認した。自分を抑えるために右足で左足を強く踏みつけ、笑ったり騒いだりしながら猫の子のようにじゃれあうふたりを見つめていた。
この顔。この男。叶仁志に間違いはなかった。ガーディアンの情報は正しかったのだ。
「俺たちはね、無理は言わない。だから、いったん家に帰ってよく検討してくれてかまわないんだ。押し売りと違うからね」
叶仁志はそう言って、散らかったテーブルごしに、一束のパンフレットとカタログを淳子に渡して寄越した。
この一時間ほど、淳子は叶仁志と彼の仲間である若い女の講釈を聞かされてきた。「サークルS」というのは、要するに彼らが運営しているマルチ商法まがいの輸入品販売会社の名称で、能書きはあれこれあれども、所詮まともな商売ではなかった。売り物は輸入品の健康食品と化粧品らしいが、どれも効能がはっきりしない。個人輸入をしているというそれらの商品が、本当に彼らの言うとおり、アメリカの権威ある機関でお墨付きをもらった、日本ではサークルS以外では入手できない希少な品物であるかどうかという賭けに、淳子は抜け落ちた髪の毛一本を賭ける気にもならなかった。
だがふたりが話し合っている様子から推すに、サークルSはそこそこ成功しているらしい。友達や仲間を騙して会員に引き入れても、自分の得が多くなればいいという良心の薄い若者が、それだけ増えているということなのだろう。
それにしても、詐欺師と殺人者に互換性があるとは知らなかった。叶仁志は裕福な伯母の庇護のもとに入って以来、他人の血を搾りとることをやめた代わりに、金を搾りとることに商売替えをしたのだろう。資産家の木下家での居候生活が、この狡猾で身勝手で残忍な若者の心に、富への憧れを植え付けたのかもしれない。人殺しはどれほど楽しくても金にはならないからもうやめた、というわけだ。
叶仁志も彼の仲間の女も、淳子が「橋口」という彼らの会員の紹介でここを訪れたと頭から思いこんでおり、まったく警戒せず、淳子の身元を確認しようとさえもしなかった。淳子は思いついた偽名を使い、できるだけ寡黙《かもく》にして、あとは彼らが勝手に解釈するに任せた。彼らの目には、淳子が、世慣れておらず田舎臭く頭の回転の遅い絶好のカモと映っているに違いなかった。アメリカ製の化粧品を使って、少しはきれいになりたいと願っているあか抜けない若い娘。口先だけで騙して金を引き出すことのできる、お手軽な獲物だ。
叶仁志は、淳子の記憶のなかの姿よりも、ずいぶんと男っぽくなっていた。Tシャツに綿パンツという格好で、寝て起きたままだから、どちらもくしゃくしゃだ。髪は茶色に脱色し、肉体派の映画スターのように短く刈り込んであり、左耳にピアスが光っている。
室内はむっとするほどに暖房がきいており、女もしばらくするとセーターを脱いで、下に着ていた半袖のプルオーバー一枚になってしまった。彼女は名乗らなかったが、叶仁志は「ヒカリ」と呼んでいた。
「入会条件に納得がいったら、そこに署名して認めを押して、ここに持ってくるか郵便で送ってくれればいいんだ」
いかにもさわやかな好青年という風情で白い歯を見せながら、叶仁志は言った。
「入会金二十万円は銀行振込でもいいし、申込書といっしょに持ってきてくれてもいい。ここに来てくれれば、すぐに正式な会員証と領収書を出せるから、ホントは来てくれた方がいいんだけど、仕事の都合とかあるだろ? 橋口さん、うるさいからね」
ふたりの話から推測するに、この橋口という会員は三十歳代のレストランの店長で、子会員や孫会員を増やしてペイバックで儲けるために、弱い立場の出入り業者の社員やアルバイト店員たちをここへ送り込んでいるらしかった。淳子も彼の部下のウエイトレスだと、叶仁志と「ヒカリ」は思いこんでいる。
淳子の心はすでに決まっていた。このワンルームで叶仁志を片づけよう。室内で済ませる限り、屋敷内の他の人びとには気づかれないだろう。この部屋はもう使いものにならなくなってしまうだろうけれど、どうやら叶仁志がここに居候する際に改装された部屋のようだから、彼と一緒にお釈迦になっても、木下家の人たちも文句は言うまい。
問題は「ヒカリ」の存在だった。淳子は、偶然とはいえこの家のなかに導き入れてくれた彼女に感謝をしなくてはならない。できれば殺したくなかった。
だが、その一方で、腹の底では淳子から金を騙し取ってやろうと考えているに違いない彼女の強欲に腹を立ててもいた。彼女の洒落たセーターや、真新しいミニクーパーを買った金の出所はどこなのか。他人からたかり盗ったものではなかったのか。それを考えると平静ではいられなくなった。
それに、「ヒカリ」はどうやら叶仁志にベタ惚れのようだった。おそらく、彼の過去を知らないのだろう。叶仁志が本当はどんな人間か、教えてやった方が彼女のためになるかもしれない。
だが、「ヒカリ」に叶仁志の過去を話して聞かせれば、彼女は即、事情を知った上での目撃者となる。そうなれば、生かしておくことはできない。危険すぎる。密造拳銃のおっさんを倒したとき、あの喫茶店「カレント」に居合わせた客のように、死なせない程度に怪我を負わせて逃走する時間を稼ぐという手が、今度は使えないのだ。
淳子は迷った。思い出したようにこめかみがうずき始めた。
力は出口を探していた。力には躊躇《ためら》いがなかった。力は目の前の標的を欲していた。淳子の心のなかの人間的な逡巡に、力は影響を受けないのだ。
幼いころから訓練を重ねて、淳子は力をコントロールできるようになった。あの夕暮れの公園で男の子を焼き殺してしまったときのような不用意な暴発は、淳子がコントロールカを高めてゆくに連れて、目に見えて減っていった。そうやって成長し、大人になってきたのだ。だからもう、完璧なコントロールだと思っていた。力はもう淳子のものだと。
だが、田山町の廃工場での出来事以来、本当にそうなのかという疑問が、時折ちらりと心の隅をかすめるようになってきた。ちょうど今みたいに。あたしは殺したくない。だけど力は殺したがっている。主体はどっちにあるのだろう? 力か? それとも淳子か?
田山町の廃工場での出来事を皮切りに、淳子は大勢の人間を殺傷してきた。深夜の廃工場を振り出しに、あの酒屋の屋上へたどりつくまで――一日足らずのあいだに、いったい何人を閃光放射で焼き殺し、衝撃波で首をへし折り、吹っ飛ばされた彼らが壁に激突して背骨が砕ける音を、何度耳にしてきたことだろう。
そのときはそれでよかった。あれは救出作戦だったのだし、殲滅戦《せんめつせん》だったのだから。淳子の意志でそうしていると思っていた。だが今、この地点から静かに振り返ると、あれが本当に自分の意志だったのか、わずかながらあやふやになってくるのだ。あそこまでやることが[#「あそこまでやることが」に傍点]、本当に自分の望んでいたことなのかどうか[#「本当に自分の望んでいたことなのかどうか」に傍点]。
そしてひやりと思い出すのは、廃工場を訪れたあの深夜、唐突に眠りから目覚める直前まで見ていた夢のことだ。あの夢の終わりに、淳子は自分の腕を炎が駆け上がってくる光景を見ていた。そこで目が覚めたのだ。夢の後味は悪かった。身を起こしてすぐに、布団や毛布や寝間着を叩いて、くすぶっていないかどうか確かめなければならなかった。そして思った――ひょっとしたら、力をコントロールするテクニックが落ちてきているのではないかと。
だが、真実はどうだろう? 逆なのではないか。淳子のテクニックが落ちたのではなく、力がより大きく、より賢く、よりしっかりした主体性を持ち始めているということではないのか。そのことに気づかないまま行動しているものだから、大量殺戮に対する感覚が鈍くなり、相手が本当に戦闘の対象であるかどうかの判断基準も甘くなっているのではないか。
いつの間にか成長し、知恵を付け、時には飼い主をだしぬく術《すべ》も身につけている番犬のように狡猾に、力は淳子の足元にいる。その気になればいつでも淳子を引きずり回すことができると判っていながら、今は鎖につながれている――
「ねえ、キミ」
遠くで声がした。淳子はまばたきをした。うずくこめかみに触れていた指が離れた。
「大丈夫かい? 顔色が良くないね」
叶仁志がこちらに身を乗り出し、淳子の顔をのぞきこんでいた。淳子ははっとして身を引いた。叶仁志は一メートルと離れていないところにいて、さらに近寄ってきそうな感じだったからだ。不用意に彼の呼気を感じたり、もしも手で触れられたりしたら、力が即座に飛び出してしまうだろう。今はまだ、それはまずい。
「すみません、ちょっとぼうっとしてて」
叶仁志はほほえんだ。「寝不足なの?」
「かもしれません」
「橋口さんはホント、人使い荒いからね。うちにはいいビタミン剤もあるから、試してみるといいよ。化粧品より、そっちの方が美容にも効果があるって言う会員もいるし」
猫撫で声だ。淳子は身震いをこらえて微笑を浮かべるふりをした。
「ヒトシって、可愛い女の子には目がないんだから」ヒカリがそう言って、右手で彼の背中をぶった。「やたら親切なのよね。アッタマきちゃう」
「おまえに腹を立てられる理由なんかないよ」
「ええ、そうですわよね。はいはい」
ヒカリは鼻先をツンと天井に向けて、パッと立ち上がった。
「あたし、ヒトシの伯父さんのところに行って来る。ほら、ベジタブル・ビタミンミックスの注文のことがあるからさ」
「伯父貴、まとめ買いするのか?」
「半ダースよん」
「いい小遣い稼ぎになるじゃんか」
あははと笑って、ヒカリは靴をはいた。
「そうよ、おかげで大助かりよ」淳子の方を振り向き、「ね、あなた、帰りはあたしが駅まで送ってあげるから、待っててね。ヒトシからいろいろ詳しいこと聞いといて」
急ぎ足で出ていった。庭石を踏んで行く足音が遠ざかる。ヒカリの開け放ったドアがゆっくりと自然に閉じ始め、かちりという音をたてて完全に閉まった。
二人きりになった。
罠《わな》の蓋が閉じた。
さっきまで頭を占めていた思考が消えた。
淳子という機械のスイッチが入った。
「それでさ、キミ――」
ふたたび、叶仁志が淳子の方ににじり寄りながら話しかけてきた。淳子は首をよじって彼の方を見た。まともに目と目がぶつかった。
「女の子の目にアイスピックを突き刺すのはどんな気分だった?」と、淳子は訊いた。
瞬間、叶仁志は両目を見開いた。彼の左の瞳のすぐ脇に、ごく小さな黒子《ほくろ》のような真っ黒な点があることに、淳子は気づいた。あたしなら[#「あたしなら」に傍点]、そこへ突き刺してやる[#「そこへ突き刺してやる」に傍点]。まるで神様が印を付けておいてくれたみたいだ[#「まるで神様が印を付けておいてくれたみたいだ」に傍点]。目には目を[#「目には目を」に傍点]、歯には歯を[#「歯には歯を」に傍点]。
「な、何言うんだよ?」叶仁志の声が裏返った。
「あたしが何を言ってるか、ちゃんと判ってるくせに」淳子はほほえんだ。今度こそ本物の笑みだった。「あんたが昔やらかしたことよ。今さら何もやってないとは言わせない。あんたの仲間から洗《あら》いざらい聞き出したからね」
叶仁志は座ったまま後ずさりした。愚か者め、逃げるなら立ち上がって逃げろ。後も見ずに逃げ出せ。逃げるのならば死ぬ気で逃げ出せ。
それでもあたしは必ず追いつく[#「それでもあたしは必ず追いつく」に傍点]。
「探してたのよ、ずっと」
淳子のその言葉と同時に、叶仁志の顔が炎上した。
ふたたび庭石を踏む音がして、ヒカリが戻ってくることに気づいたとき、淳子はドアのそばで靴をはいていた。室内にはむっとするような熱気がこもり、焦げ臭い異臭が立ちこめている。いや、いるはずだった。淳子の鼻はすっかり慣れてしまっていて何も感じない。
ヒカリの足取りは軽い。淳子はドアの前に突っ立って、動き出さずにそれを聞いていた。淳子という機械のスイッチはまだ入ったままだった。彼女をドアの内側に招き入れ、その髪が燃え上がるのを見るのはいともたやすいことだった。
振り返ると、ほんの十分前までは生きた叶仁志が座っていた場所に、薄汚い毛布がこんもりと盛り上がっているのが見える。真っ黒に焼け焦げた叶仁志を、淳子が彼の毛布で覆ってやったのだ。室内は彼女がここを訪れたとき同様に散らかっていたが、家具や備品はほとんど燃えていない。小さなテーブルの上に煤がぱらぱらと落ちているのと、叶仁志が倒れているあたりの床が若干焦げているだけだ。
淳子は外に出た。後ろ手にしっかりとドアを閉めた。こちらに近づいてきたヒカリが、ようやく淳子に気づき、驚いたように立ち止まった。
「あら、帰るの?」
淳子は無言でうなずいた。
「どう? 説明を聞いてその気になった? ヒトシはあたしよりずっと話が上手いから、彼の言うことなら飲み込みやすかったでしょ? サークルSで、ちゃんと販売指導員の研修を受けてるからね、彼」
淳子がドアの前を動かないので、ヒカリはその場に立ったまましゃべった。愛想のいい笑いに変化はないが、目がきょときょと動いてドアの方を見ている。視線が、そこをどいて通してくれない? と言っている。
「あたし帰りたいんですが」と、淳子は言った。「送ってくださるんですよね?」
「ええ、送るわよ。だけどちょっと待ってくれない? ヒトシに伝票を渡さなくちゃならないから」
ヒカリは手に何かひらひらした紙を持っていた。
「ヒトシの伯父さんが、高いビタミン剤のパックをまとめ買いしてくれたの。ヒトシにはしょっちゅうお小遣いをねだられてるんだから、なにもあいつの販売成績にしてやることはない、あたしの成績にしろって言ってくれて」
無意識に、説明に裏付けを与えようとするような感じで、ヒカリは紙を持ち上げて振ってみせる。彼女の表情のなかに、つと、なにがしか不安げなものが走るのを、淳子は冷静に観察していた。
たぶん、淳子の様子が違っているからだろう。目の輝きが違っているからだろう。言葉付きが違っているからだろう。
殺戮機械のスイッチは、まだ切れない。
「ね、ちょっとそこどいてくれない?」
しびれを切らしたように前に出ながら、ヒカリが言った。
「伝票渡したら、あたしもすぐに帰れるから」
とっさに、淳子は言った。「叶さんは出かけましたよ」
「え?」
「お友達から電話があって、出かけたんです。わたしには、あなたがここへ戻ってくるまで、ドアの前で待っているようにって仰って」
「じゃ、ドアは鍵かけちゃってあるの?」
「ええ、そうです」
「なあんだ」ヒカリは舌打ちした。「気まぐれなんだからね。ま、いいけど。今日はあたしも忙しいから。電話をかけてきたの、女の子だったでしょ?」
「さあ、判りませんでした」
「たいてい女の子なのよね。あれでヒトシ、けっこうモテるから。じゃ、行きましょうか」
ヒカリは日ごろからこんなふうにあっけらかんと遠慮なく、叶仁志の部屋に出入りしているのだろう。淳子の嘘を疑う様子も見せず、むしろさっきちらりと顔の上をかすめた不安の色さえも消して、くるりと踵を返すと勝手口の方に向かって歩き始めた。
彼女と一緒に庭を横切り、彼女のミニクーパーの停めてあるところまで行く。車に乗り込みはしない。彼女に送ってもらうことはない。彼女が走り去るのを見届けて、淳子もこの場を立ち去るだけだ。彼女を殺しはしない。
殺さなくても済むと、淳子は思う。
だがしかし、力は彼女を殺したがっている。淳子はそれを感じることができる。力の欲求を。だからまだスイッチが切れない。淳子が切れないのではなく、力がスイッチを入れたままにしておくことを要求しているから。
ふたたび、渦巻くような疑問。主体はどちらだ? 淳子か、力か。
この強欲で手前勝手な女を生かしておいていいのか[#「この強欲で手前勝手な女を生かしておいていいのか」に傍点]。
死刑にするほどの罪じゃない。
この女の蒔く種がどれほど大きな邪悪の樹木に成長するか[#「この女の蒔く種がどれほど大きな邪悪の樹木に成長するか」に傍点]、考えてみなくていいのか[#「考えてみなくていいのか」に傍点]。
彼女はそんなに大きな悪の種じゃない。
この女のせいで誰かが死んだとき[#「この女のせいで誰かが死んだとき」に傍点]、おまえは後悔せずにいられるか[#「おまえは後悔せずにいられるか」に傍点]。
こんな女に、計算尽くで誰かの命を奪うようなことができるわけがない。
叶仁志とつるんでいたような女を[#「叶仁志とつるんでいたような女を」に傍点]、なぜおまえは見過ごしにできるのだ[#「なぜおまえは見過ごしにできるのだ」に傍点]。
この女は叶仁志の正体を知らなかったんだ。
嘲《あざけ》るように、力は淳子のなかで膨れあがる。殺してしまえ。屠ってしまえ。こんな女の命に一片の価値もあるものか。審判の秤《はかり》はおまえの手のなかにある。彼女はおまえの顔を覚えているかもしれない。警察におまえのことを話すかもしれない。やってしまえ。「カレント」の客のように。浅羽敬一の母親のように。すべてを灰燼《かいじん》に帰して立ち去るのがおまえの身の安全のためだ。
おまえがこの女を殺したがっているのは判っている[#「おまえがこの女を殺したがっているのは判っている」に傍点]。
「ねえ、乗らないの?」
淳子は赤いミニクーパーのそばに立っていた。運転席のドアに手をかけて、ヒカリが不審そうに首をかしげ、淳子を見つめている。
喉元から不用意に何かが膨らんで飛び出してきそうで、淳子はぐっと顎を噛みしめた。
「わたしは、サークルSには入らないことにしました」
一語一語慎重に、言葉を取り出して並べるようにして言った。
「あら、そう」
「あまり感心できるシステムじゃないと思うから。友達を巻き込まなきゃならないし。あなただってそうしてるでしょう? 気持ちのいいものじゃないと思うけど」
「あたしは……」
ヒカリの顔の上に、また不安の色がよぎった。今度はさっきよりもずっと濃く、大きく「怯え」の方に針の振れた不安が。
「あたしのことなんか聞かないでよ。あなた、なんでさっきからそんな怖い顔してるのよ」喧嘩を売るように口をとがらせて、ヒカリは言った。「なにか文句あるの? サークルが気に入らなかったら、別に入らなくたっていいのよ」
淳子は歯を食いしばったまま目を伏せた。ミニクーパーの、深いワイン色の車体を見つめた。そうだこれを溶かしてしまおう。どろどろの溶岩のように。
「何とか言いなさいよ」
ヒカリの声が鋭くなった。自分が怯えや不安の感情を抱いていることを、彼女自身はまだ気づいていない。だから攻撃的になっている。怖いから、先に手を出すのだ。
「ヒトシから話、聞いたでしょ? マルチ商法とかじゃないのよ。そりゃお金は儲かるけど、それだって目端が利いてちゃんとやる人間だけよ。誰だっていいってわけじゃないのよ。そういうの、世の中にはごろごろしてる話じゃない。言っておくけど、警察とか消費者センターとかへ言いつけたって、無駄だからね。別に法律違反てわけじゃないんだからさ。ねえ、そんな顔で睨まないでよ!」
ヒカリは荒々しく音をたてて車のドアを開けた。
「せっかくいい話だっていうのに、つまんないミソつけられちゃたまんないわ。参加しないのは自由よ。頭悪い奴は一生頭悪いんだからさ。だけどね、自分がいい思いをできないからって、うまくやってる人間を責めないでよね!」
ヒカリは車に乗り込もうとする。身をかがめた彼女の後頭部に向かって、淳子は言った。「叶仁志の過去を知っていましたか?」
ヒカリは跳ねるようにして頭をあげた。純粋に驚いているという様子で、いささか滑稽にさえ見えるほどだ。
「ヒトシの過去?」
「ええ、そうです」
ヒカリの顔に、今までまったく見せたことのなかった表情が浮かんだ。淳子としては予想外の反応だった。
「あんた、ヒトシと何かあったの?」
ヒカリは両手を腰にあて、挑みかかるような口調になった。
「そういうことなの? あんたヒトシに捨てられた女かなんか? さっきの様子だと、ヒトシはあんたのことなんか覚えてないみたいだったけど、ナンパでもされたの? それでヒトシのこと追っかけてきたの? そうなの?」
淳子は面食らった。「過去」と言えば男女の間柄のことだけだと簡単に考えてしまう人生は、淳子とは縁遠いものだったから。
「黙ってないで何とか言いなさいよ」
ヒカリは車の前を回って淳子に近づいてきた。目の端がつり上がっている。
「場合によっちゃ、あたしだって黙ってないわよ。ヒトシはあたしの――」
「あなたの何?」淳子は落ち着いて問いかけた。身体の底の方で、力がせき立てているのを感じた。そらみたことか。こんな女の命に何の価値がある?
「ヒトシはあたしの男なんだからね」と、ヒカリは唾を吐くようにして言い捨てた。「あたしの男に、あんた何を因縁つけようっていうのよ?」
「あんたの男は人殺しよ」身体の前で腕を組み、深く呼吸をして自分をコントロールしながら、淳子は言った。「女子高生を殺してるの。それもひとりじゃないわ。もう三年ぐらい前のことだけど」
ヒカリは立ち止まり、両足を肩幅に開いて、まるで強い風に押し戻されないように踏ん張ってでもいるみたいに、ぐいと顎を引いた。
「何よそれ? 何のデタラメ?」
「デタラメじゃないわ。ちょっと調べてみればすぐに判ることよ。あんたの男とその仲間が何をやったのかってことはね」
ヒカリはわずかにひるんだ。「ヒトシには前科なんかないわよ」
「証拠が足りなくて、結局警察も逮捕できなかったの。どのみち、当時はそいつら、みんな未成年だったしね」
ヒカリはしげしげと淳子を見つめた。何かを考えながら、その考えを裏付けるようなものを探しているという目つきだった。そして、ぽつりと言った。
「あんた、その殺されたっていう女子高生とかと何か関係あんの?」
淳子は黙っていた。
「あんた、ここに何しに来たの?」なおも淳子を見つめたまま、ヒカリは問いかけた。そしてその問いに、自分で勝手に答えを見つけたように、彼女ははっと目を見開いた。
「あんた[#「あんた」に傍点]、ヒトシに何かしたの[#「ヒトシに何かしたの」に傍点]?」
淳子は答えなかった。
「ヒトシに何かしたのね? 彼が出かけたなんて嘘ね? 何をしたのよ!」
叫びだしながら、ヒカリは車から離れて勝手口の方へ駆け出した。淳子は後を追わなかったが、ヒカリは逃げていた。転がるように前のめりになりながら走ってゆく。
振り向かないでと、淳子は思った。あたしはこのまま去りたい。だから振り向かないで。
だが、ヒカリは振り向いた。勝手口の門扉を抜けたところで、淳子に追いつかれていないか確かめるかのように、逃げ切れたかどうか確かめるように。
そこにある恐怖と憎しみが、淳子を打ちのめした。力は勝ち誇ったように躍り出て、ヒカリに向かって飛びかかった。
ぽんという音が響いた。ヒカリの髪が逆立ち、華奢な身体がふわりと浮いた。洒落た靴を履いた二本の足が、投げ出すように空《くう》に飛び上がり、落下するときには炎に包まれていた。熱風が淳子の顔に吹き付けてきた。そのなかに、ヒカリのつけていた強い香水の匂いが混じっていた。
悲鳴は聞こえなかった。淳子はできるだけゆっくりとその場を離れた。最初の四つ角にたどりつくまでは走ろうともしなかった。頭のなかで数を数えていた。
あたりは静かだった。誰も変事に気づいていなかった。木下邸の方から、またクラシック音楽が聞こえてくる。
百まで数えてから、淳子は走り出した。誰かが叫んでいるような気がしたが、それが現実のものなのか、それとも淳子の心のなかのものなのか判らなかった。
[#地付き]〈上巻 了〉
「クロスファイア」(上・下)は「小説宝石」(光文社刊)一九九六年一月号から、一九九八年十一月号まで連載された作品に加筆したものです。
[#地付き](編集部)