かまいたち
宮部みゆき
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)宵《よい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|刻《とき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)木のうろ[#「うろ」に傍点]
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〈カバー〉
夜な夜な出没して江戸市中を騒がす正体不明の辻斬りかまいたち=B人は斬っても懐中は狙わないだけに人々の恐怖はいよいよ募っていた。そんなある晩、町医者の娘おようは辻斬りの現場を目撃してしまう……。サスペンス色の強い表題作はじめ、純朴な夫婦に芽生えた欲望を描く「師走の客」、超能力をテーマにした「迷い鳩」「騒ぐ刀」を収録。宮部ワールドの原点を示す時代小説短編集。
宮部みゆき
Miyabe Miyuki
1960(昭和35)年、東京生れ。'87年「我らが隣人の犯罪」でオール讀物推理小説新人賞を受賞。'89年「魔術はささやく」で日本推理サスペンス大賞を受賞。'92年「龍は眠る」で日本推理作家協会賞を、「本所深川ふしぎ草紙」で吉川英治文学新人賞を受賞。'93年「火車」で山本周五郎賞を受賞。
[#改ページ]
新潮文庫
かまいたち
[#地から1字上げ]宮部みゆき著
[#地から1字上げ]新潮社版
目 次
かまいたち
師走の客
迷い鳩
騒ぐ刀
あとがき
解説 笹川吉晴
[#改ページ]
か ま い た ち
一
宵《よい》のうちから降り始めた雨が、いよいよ本降りになって薄い屋根を叩《たた》く。その音を聞きながら、そろそろ五つをまわろうかというころに、おようは一人、留守居をしていた。
父の玄庵《げんあん》は、急病人があって、須田《すだ》町の先まで往診に行っていた。出かけていってからもうかれこれ一|刻《とき》はたつだろう。繕いものをしながら待っていたおようは、次第に落ち着かなくなってきた。
(やっぱり一緒に行くんだった)
玄庵は、ここ八辻《やつじ》が原《はら》先の十軒長屋で、もう十五年も町医者をしている。はやっているが、治療を受けに来る者たちの大半はその日暮らしの貧乏人であるから、きちんと薬礼を払える者などめったにいない。玄庵のほうも、「無い袖《そで》は振れんだろう」などと言って取ろうともしない。だから、門前市をなすほどに患者たちがあふれていても、父娘《おやこ》の暮らしはいつもかつかつである。大店《おおだな》や大名のかかりになって、左うちわで暮らしている医者たちとは、天と地ほどの差があった。
もっとも、おようはそんなことなど少しも気に病んだことはなかった。暮らしていけないわけではなし、足りない分は仕立物の内職でもすればおぎなえる。薬礼の代わりにと商売物を置いていく患者たちもいて、それもまた結構暮らしの足しになる。玄庵は腕が悪いのではなく、好きでこういう暮らしをしているのだから、何も嘆くことはない。おようの母親はおようを生んでまもなく亡《な》くなったが、それから十八年、父娘二人で楽しく暮らしてきた。
おようはのびのびと育った。ふっくらした頬《ほお》と下がり気味の目尻《めじり》が愛らしく、はきはきしたところが、玄庵と同じくらい患者たちから好かれ、頼りにされている。
今、おようが父親の遅い帰りに気をもんでいるのは、このところ市中を騒がせている辻斬《つじぎ》りのためだった。九月に入ってからだけでも、すでに三人斬られている。
この辻斬りの噂《うわさ》が人の口にのぼり始めたのは、春のはじめのころだった。風のように現れ、風のように消える。姿を見た者はみな、変わり果てた骸《むくろ》となって見つかる。用心深く、狙《ねら》った獲物《えもの》がもし犬を連れていればその犬までも斬るという周到さで、殺し方も酷《むご》い。どれもみな喉《のど》をひとかき、ほとんど首がとれそうなほどにかき斬られているのである。その手口から、誰が言い始めたのでもなく、この辻斬りは「かまいたち」と呼ばれるようになった。
いっそう恐ろしいのは、かまいたちが、人は斬っても懐中のものは狙わないことであった。江戸市民は震えあがった。正体が知れないために憶測が飛び交い、かまいたちの正体はやれお武家の試し斬りだの、乱心した食い詰め浪人だの、いや近頃《ちかごろ》では町人にも腕自慢がいる、そういう輩《やから》の腕試しに違いないだの、そしてまたそういう風聞が次の風聞を呼んでいく。なかには、どこそこの神社の御神体の妖刀《ようとう》が、夜な夜な人の生き血を欲しがっているんだなどと、読み売りが喜びそうな話まで出てきた。
「剣術の心得は相当にある者だろうが、尋常ではないぞ」
玄庵もそう言ったことがある。
「剣はある種の魔力を持っているものだ。世に剣豪とうたわれる者は、その魔力を飼い慣らし、自らのものにできた者のことだろう。けれども、そこまでの力のない者は、剣の力に足を取られる。剣が主、人が従になりはててしまうのだろうよ」
江戸の町では、ちょうど前の年、享保《きょうほう》二年の二月に、大岡|越前守忠相《えちぜんのかみただすけ》が南町奉行の座についたばかりであった。忠相は四十一歳。異例に若い町奉行である。当時、六代|家宣《いえのぶ》、七代家継の治政において、非能率・不公平なことはなはだしく、弛緩《しかん》しきっていた奉行所・評定所を根本から立て直すための、将軍|吉宗《よしむね》の英断による抜擢《ばってき》人事であった。
期待にたがわず、忠相は次々と市政の立て直しにかかった。
なかでも力を入れたものが、言うまでもなく警察・司法制度の整備である。与力同心の風紀を正し、遅滞している訴えの数々を進んで取り上げ、罪の定まらぬまま何年間も伝馬《てんま》町の牢《ろう》につながれている者たちについても検《あらた》めなおした。江戸市民がたちまち忠相に大きな信頼を寄せるようになったのも、当然のことであった。
そこへ、かまいたちが現れた。
最初のうちは、「なあに、すぐに大岡さまがひっとらえてくださるさ」という声が高かった。かまいたちがいつお縄《なわ》になるかをたねに、人を募って賭《か》けをする者さえいた。血気盛んな若い連中が徒党を組み、「かまいたちの首を狙うんだ」といきまいていたりもした。
しかし、おおかたの予想に反して、かまいたちはいつまでたっても捕らえられない。確かな手がかりをつかんだという話すら聞こえない。そのあいだにも、無残な死骸《しがい》はどんどん増えていく。
秋風のたつころになるとようやく、奉行所はいったい何をしているのだ、大岡さまはどうしたのだという声がちらほらと聞こえ始めた。それはすぐに、どこにいても耳をつく声高な批判に成長していった。町名主の中にも、「ことによると、かまいたちはお奉行さまの首も切ることになるやもしれぬ」と案じるむきが出てきた。奉行は忠相一人ではなく、北町にもれっきとした中山|出雲守《いずものかみ》というおかたがいるのだが、こちらは老齢でもあり、また、忠相は日頃の信望があつかっただけに、いっそう批判の風あたりも強いものがあったのである。
もとより、お上《かみ》でも厳しい探索をしている。しかし、これという成果はあがらない。
じんわりと、人を骨から侵す病のように、江戸の町を恐怖が押し包み始めた。誰もみな息を殺して家に閉じこもり、怪しい気配が近づいて来はしないかと怯《おび》えるようになった。それは、おようの暮らすこの長屋でも同じことである。
(それだというのに)心配がこうじて、おようは居もしない玄庵にあたった。
(父さんは怖いもの知らずにもほどがあるわ)
往診を頼みにきたのは、須田町の水菓子問屋の若い者で、息せききって冷や汗を流していた。
「お内儀《かみ》さんがひどいめまいで倒れたんですが、外へ出るのは勘弁してくれと、どこの医者も来てくれません。困りはてておりましたら、ここの先生なら胆《きも》がすわっているからきっと来てくださると教えられました」
それを聞くと、玄庵はもう座ってはいなかった。もちろん、おようは止めた。
「普通の辻斬りとはわけが違うんですよ。父さんみたいに、一目で貧乏医者の一文なしとわかる身なりをしていたって、問答無用で斬られちまうんだから」
「かまいたちが百人も出るわけじゃなかろう。江戸は広い、心配するな」
「それならあたしも一緒に行きます」
「馬鹿《ばか》もん。そのほうがよほど危ない」
そう言うなり、さっさと出て行ってしまった。迎えの若い者は、帰りもきちんとお送りしますと言ってはいた。でもそれが怪しいものだ。「胆がすわっている」なんて言われていい気持ちになっている父さんが断ってしまうかもしれない。あたしは父さんの往診にはちょくちょくついて行くんだし、ここでじりじりしているほうがずっと辛《つら》い。ああ、どうして一緒に行かなかったんだろう。
そうしているうちにも時はたっていく。家の外では風も出てきたらしく、がたがたと戸口をゆさぶっていく。
(それも須田町だ)
おようはいらいらと思った。辻斬りは十件起きているが、そのうちの三件までが須田町の近くで起きているのだ。
(よりによって、場所も悪すぎるわ)
おようは立ったり座ったり、用もなく薬棚《くすりだな》を片付け直したりしていたが、やがてきっと顔を上げた。
(もう、ここでいくら心配してもらちがあかない。様子を見に行ってみよう)
この娘も、そういう意味では気が短い。決めたらもう提灯《ちょうちん》に灯《ひ》を入れて、はきものをつっかけていた。引き戸を開ける。外は縫い針のような雨が降り落ち、凄《すご》い闇《やみ》である。番傘《ばんがさ》を手に提灯を掲げて敷居をまたぐ。傘を打つ激しい雨の音がおようを包みこんだ。
提灯のあかりは、それでも娘の足もとを明るく照らした。この提灯は玄庵が特に作らせたもので、白地に黒く「八辻が原先 医師 新野玄庵」と書いてある。こうしておけば、夜道を行くときに、もしも医師を呼びに走る者と行きあったとき、役にたつだろうというのである。陽《ひ》が落ちると、軒下にも同じ提灯をつるす。
家を出たおようは目を伏せてどんどん歩き、すぐに八辻が原に出た。この広場は筋違《すじかい》御門と青山|下野守《しもつけのかみ》の屋敷の間で、一は昌平《しょうへい》橋へ、二は芋洗坂へ、三は駿河台《するがだい》へ、四は参河《みかわ》町筋へ、五は連雀《れんじゃく》町へ、六は須田町へ、七は柳原へ、八は筋違御門へと八方へ通じているのでこの名がついている。おようはいったん立ち止まった。どの方向にも、提灯の明かりのとどく限りでは人の影はない。どこかで野良犬《のらいぬ》のむせぶような遠吠《とおぼ》えが一声響いた。
(怖くない、およう、怖くないわよ)
背中をしゃんと伸ばし、心に言い聞かせた。また、足を早めて歩き始めた。
提灯の灯でできた細長い影が、歩くにつれてゆらゆら揺れる。ともすればその影を追い越そうかという勢いで、おようは歩き続けた。
行っても行っても、向こうから人の来る気配はない。耳に入るのも、衰えない雨の音だけである。しばらくして足を止め、提灯をかざし、銀色に降りしきる雨の向こうをすかしてみた。目に入るのは、水たまりが灯を照り返すぬかるんだ道と、その道に沿って続く暗い木立。そして、黒々と高くそそりたつ武家屋敷の築地塀《ついじべい》だけである。
(どうしよう)おようはくちびるを噛《か》んだ。
(もう少し先まで行ってみようか……ここは一本道だもの、行き違うはずはないし)
ぞくっとした。
(ひょっとしたら父さんはもう斬られてしまったのかもしれない。どこかそこらの暗がりに転がされていて、知らずにそばを通り過ぎているのかもしれない)
もう、いてもたってもいられない。今ここでおてんとうさまが照ってくれるなら、何千両出しても惜しくはない、一生かかっても払うのに――と、傘の柄《え》をぎゅっと握った。そのときだった。
闇を切り裂き、叫び声が聞こえてきた。ぬかるみに重いものの倒れる音が続く。
ぎょっとした。一瞬すくんでしまってから、おようは傘を放《ほう》り出してその方向へ走り出した。怖いと思うより先に足が動いていた。
叫び声は左の方から聞こえた。数歩行くとそこに本道からそれて木立の中に消える細い上り坂があった。滑る足もとをこらえ、軒の高さほどに上がると平らな切り崩しに出た。そこまで来て、今度こそ本当におようは立ちすくんだ。
提灯の灯に黒い人影が浮かびあがった。おようの足音に振り向いた。そのそばには手足を投げだして木偶《でく》のように人が倒れている。
(かまいたちだ)
動けなかった。足に根が生えるって本当のことなんだわ。喉が干上《ひあ》がって声も出ない。おようは棒立ちになっていた。提灯を消す才覚もそのときは働かなかった。灯はあかあかとおようを照らし、人影を照らした。およそ二間の距離を隔てて二人はにらみあった。
相手は黒装束、右手には抜き放った刀を下げて、降る雨の中に仁王立ちしていた。覆面をつけていたが、おそらくは今人を斬ったはずみに、それが半ばずれて顔が見えた。まだ若い男で、端整な顔だが目が鋭く、その目が殺気にあふれておようを見た。丈が高く、肩が広く、片袖が切れてむき出しになっている腕は、おようなど楽々と捕まえてしまう力を秘めていた。闇の中のその姿は、おようの逃げ道をふさぐほどに大きく見えた。
(斬られる――あたしは斬られるんだわ)
おようの頭はすごい勢いでいちどきにいろいろなことを考えた。
(あたしは斬られる、あたしが死んだら父さんは独りになってしまうわ、こんな風に死ぬなんて思ってもみなかった、斬られたら痛いかしら)
凍りついたように立ちすくんだまま、耳も聞こえずまばたきさえできない。その一瞬はこれまでの人生よりも長かった。男の肩が前へ動き、おようは観念して身を縮め目をつぶった。
何も起こらなかった。
おそるおそる目を開けてみると、男はいなくなっていた。どの方向へか、辻斬りは姿を消していた。あわててあたりを見回しても、人の動く気配すらしない。雨音が大きく耳を打った。
提灯を持つ手が震えだし、膝《ひざ》ががくがくしてきた。
(助かった)歯がかちかち鳴った。
(助かった。ともかく助かったんだわ、なぜかわからないけれど)
激しい降りに頭からずぶ濡《ぬ》れになり、力の抜けた足を押し出すようにして、おようは何とか、倒れている人に近づいた。ひょっとしてまだ息があればと思ったものの、無残な斬られかたを見てすぐに、それは無理だと気がついた。無数の傷。だが、とどめのひと太刀は、左肩から入った袈裟《けさ》斬りだ。着物もその傷に沿ってすっぱりと切り離され、白蝋《はくろう》のような膚《はだ》が見えている。
(何てむごい)
歳《とし》のころは三十ほどの侍である。錦織《にしきお》りの角《すみ》ずきんをつけ、羽織り袴《はかま》に身なりを整えている。腰に立派な印籠《いんろう》をつけている。提灯の明かりを近づけると、紋どころが見てとれた。丸に桐《きり》。おようは少し考えてみたが、どこの家中のものかわからなかった。
死体は右手に抜き放った刀を握ったまま、目をかっと見開いたすさまじい形相である。おようは目をそむけ、来た道を戻った。本道に出ても誰もいない。すべったり転んだりしながら番屋へ走った。
おようが手近の番屋に駆けこんだとき、南町奉行所同心、井手|官兵衛《かんべえ》が、ちょうど番屋に立ちよっていたところだった。このところの「かまいたち」騒ぎで、同心たちは皆かりだされ、毎夜町役人と市中を見回っているのである。詰めていた町役人たちはおようの申しじょうに色めきたって立ちあがったが、まだ四十そこそこ、働き盛りのはずのこの同心だけは、どことなく様子が違うようにおようには思えた。
奉行所の同心というのは、生涯《しょうがい》を下積みの役人として終わる運命にある。三十俵二人|扶持《ぶち》という薄給で、年寄同心になるまで勤めたとしても五俵の加増があるくらいのものだ。まれに出世して与力になるものもいないではないが、容易なことではない。地捜しが小判を拾いあてることの方がまだやさしいだろう。
それでも昔は、それはそれなりの実入りのある職だった。俗に「八丁堀《はっちょうぼり》の七不思議」といわれるもののなかに、「銭で首がつながる」という言葉があるように、以前はずっと、与力同心への賄賂《わいろ》は半ば公然と認められてきた。
忠相が赴任してきて、まず厳しく禁じたのがこの賄賂についてだった。単に禁じただけでなく、子飼いの同心たちを使って常に目を光らせている。派手にやっていた者たちはいく人もお役御免になった。また、忠相はそれだけでなく、それまで禁令によって一応は禁止されていたものの実際には禁止以前と同じように使われていた「目明かし」を使うことも厳禁した。人手の足らない分は、町役人たちを使って補えというお触れを出した。しかし、噂では、お奉行は直属の「目明かし」役の者たちを抱えているらしい。
これらの施策は全《すべ》て、庶民にとってはありがたいことだ。しかし、奉行所の与力同心たちの一部では、不満の声があがっていることも事実だった。「目明かし」は与力同心が個人で抱えている者たちだが、自然に町中で顔がきくようになるし、そうなればそちらの方からも「なにとぞよろしく――」というのが入ってくる。それを断たれ、手下がいない分だけ不自由も増える。仕事も増える。町役人たちを使うとなると、あまり適当なことはできなくなる。梅雨どきにかびがはびこるように不満分子が現れるのも、悲しいかな、当然のなりゆきともいえた。
そこへ、かまいたちが現れた。しかも、なかなかお縄にならない。町人たちのなかからも、奉行をなじる声が出てきた。これら奉行所の不満分子にとっては、願ってもないことだろう。いっそかまいたちがお縄にならないほうがいいなどというふとどきなことを言う者が、奉行所内部にいる――ちらほらと流れるそんな不愉快なうわさを、おようも耳にしたことがある。
(このお方も、ひょっとしたらそんな口ではないのかしら)
彼女を上から下までじろりとながめまわし、かったるそうに腰をあげた官兵衛を見て、おようはふとそんなことを考え、あわてて打ち消した。
おようと、官兵衛と、町役人が二人、あわせて四人は雨の中を走った。それぞれに苦労してあの上り坂をはいあがり、切り崩しに出た。さっきよりもずっと数多くの提灯がその場を照らした。
「何もないじゃねえか」官兵衛がまず言った。
「娘さん、間違いねえかい? 本当にここかい?」
番人として詰めていた町役人の一人、弥平《やへい》という男が訊《き》いた。半白頭の老人である。
「間違いありません、確かにここです」
おようは答えた。声が上ずった。
「なくなっているわ」
「死骸も歩いてったんじゃねえのか。雨に濡れちゃかなわねえってな」
官兵衛は吐き出すように言った。
「臆病《おくびょう》もんが増えて、今までにも二度ばかりこんなことがあった。すぐ大騒ぎをしやがって、馬鹿な娘のおかげでこっちはずぶ濡れだ」
唾《つば》を吐くように横を向かれ、おようは喉《のど》のあたりまで涙がこみあがってくるのを感じた。弥平が慰めるように彼女の肩を軽く叩《たた》いて、提灯をかざしてまた探索を始めた。そして、つと顔を上げると、さっきおようから顔をそむけたまま、雨の中に立っていた官兵衛がそこへかがみこむのを見て、声をかけた。
「井手さま、何かございましたか」
「いや、何もない。ただの石っころだった」
面倒くさそうに官兵衛は返事をした。
「おかしいわ、こんなことって」
おようはこらえきれず半泣きになった。
「確かに見たんです。斬《き》られていたのはお武家さまでした。かまいたちの姿も見たんですから」
「そんなら死骸はどこへ行ったんだ」
官兵衛はとげとげしく言った。
「どうやら悪い夢でもみたらしいな。あまりお上をたばかるとお咎《とが》めがかかるぞ。よおく心しておけ」
町役人の方に顎《あご》をしゃくった。
「一応、この娘のところと名前を控えておけ。今度こんな騒ぎを起こしたら、そのときは番所へ引っ張るぞ」
二
「首尾はどうであったか」
静かな声が訊いた。
「は、討ち取りました」きびきびした声が答えた。
「手傷は負わなかったか」
「はい。しかし――」
「どうした」
「その場を通りがかりの者に見られました」
「町方の者か」
「いえ、若い娘です」
「若い娘とな」
声がしばらくとだえた。少したって、感嘆したように言った。
「一人で歩いていたのか」
「はい。とりあえずその場は逃れましたが、不覚でした」
「それはやむを得まい。その娘、どこの誰であるのかわかっているのか」
「はい」
「よし。すぐ手をうつこととしよう」
雨は明け方になってやんだ。
井手官兵衛は、夜が明けるとすぐに出かけた。彼が足を止めたのは、内神田にある旗本小田切|政憲《まさのり》の屋敷の門前だった。
小田切家は知行八千五百石、旗本では大身の家柄《いえがら》である。当主は代々大番頭を勤め、武勇をもってなる名門である。現在の当主である政憲は三十一歳、すでに布衣《ほい》も許され、剣の使い手としてその名を知られた人であった。
門番小屋に向かい、「御家中のかたにおめにかかりたい」と告げた。
「町方の者が何を」という目で、「御来意は」と問われた。
彼はしばらく思案したのち、こう答えた。
「昨夜《ゆうべ》、神田八辻が原《はら》先である物を拾い申した。それが御家中の大事にかかわるものかと思われるのでお目にかけにあがったと伝えられたい」
玄庵《げんあん》は、ようやく空が白むころになって帰ってきた。
「倒れたお内儀《かみ》は卒中だった。昨夜は危なくて目を離せなかったので、泊まりこんだんだ」
父親は疲れているようだったが、おようもあれから一睡もしていない。昨夜のことを一息に話してしまった。
聞き終えると、玄庵は顎をなでた。
「おかしいでしょう」おようは熱を入れて言った。
「あたしは見たのよ。確かに見たんですから」
おようは何とも言えない嫌《いや》な予感がしてきた。父親の顔を見ていれば、心にあることはだいたいわかる。この顔は困っている顔。どんなふうにごまかそうかと思案している顔だ。
「信じてないのね」
おようは言った。父親はしきりに顎をなで、あぐらをかきなおした。
「信じてないんでしょう。父さんも信じてくれないのね」
「あのなあ、およう」玄庵はゆっくりと言いだした。
「おまえ、以前にもそういうことがありやしなかったか」
おようは思い出した。
「だって、あれはまだほんの小さいときのことじゃありませんか」
子供のころ、おようはきわめてはっきりとした夢をみる癖があった。別にそれでどうのということではないのだが、夜中に飛び起きて、「部屋の中に猫《ねこ》がいる」と探してみたり、かと思うと、朝起きて「昨夜あたしの枕《まくら》もとで話していた人はだあれ」と尋ねてみたりする。むろんそんな猫も人もいはしない。みな夢でみたものなのである。玄庵は医師として、想像力の強い子供にはありがちなことだと考えていたが、ある程度大人になってからも生々しい夢をみることはなくならなかったので、それとなく気にしてはいたのだ。
「それに、昨夜はあたし、起きて外を歩いていたんですよ。眠ってなんかいなかったし、あれは夢なんかじゃありません」
「しかしなあ」玄庵は顎をぼりぼりとかいた。
「死骸《しがい》はなかったんだろう?」
おようはぐっとつまった。
「だからそれは――かまいたちがどこかへ隠したのよ」
「何のために? 今まではそんなことはしなかったじゃないかね」
「それは……あたしに顔を見られたから……」
「だったら、死骸を隠すより先におまえを斬っとるはずだろう」
玄庵は言った。そして、なだめるような口調になった。
「なあ、およう。昨夜は本当にすまないことをした。一人で途中まで迎えにくるなんて、さぞ怖かったことだろう。それで何かをひょっと見間違えたのかもしれんな」
おようはうつむいた。
「どんな者にもそういうことはあるものだ。戦国の武将でさえ、敵と見誤って柳の木に斬りかかったという話が残っているほどだ。何もおまえが悪いのじゃない、心配かけたこの親父《おやじ》が悪い。あとで番屋にも顔を出してくるから、もう気にするな」
おようはむくれた。泣きたくなった。同じようなことを言われどおしだ。
死骸のないことがわかったあと、こっぴどく叱《しか》られたり、慰められたり、同情されたりした。朝になればなったで、耳の早い者がもう聞きこんでいて、様子を見にやってくる。来るのはいいが、誰もかれも頭から信じていない。
「ほら、明神下でもあったじゃないの、やっぱり若い娘さんがさ、かまいたちを見たって騒ぎになって、それってんで駆けつけたら、張り板にぼろがひっかかってたんだっての」
「そうそう、それだって仕方ないやね。おっかないものねえ」
「おようちゃんにそんなに気をもませてさ、玄庵先生がいけないよ」
本当なんですと、どんなに頑張《がんば》ってもこういうときは通用しない。言い張れば言い張るだけなだめられ、あげくにからかわれる。
「そうすっと、やっぱりかまいたちの野郎もべっぴんには弱いんだな。おようちゃんを斬らなかったんだからよ」
「ちょいと、そんならあたしも平気かねえ」
「てめえはだめだ、一目でばっさりだ」
おようはため息をついた。もうすぐ患者さんたちが来る時刻だ。きれいに洗ったさらしをくるくると巻きながら、もう一度、昨夜のことを思い出してみた。
あれは絶対に夢や幻じゃなかった。
思い出すだけで背中が寒くなる。医者の娘だから、かなり血なまぐさいことに慣れてはいるけれど、たった今倒した無残な骸《むくろ》を足もとに、血刀をさげ殺気だった男と間近に向きあったときの金縛りにあったような恐ろしさ。決して夢ではない。目で見ただけでも、耳で聞いただけでもない。身体《からだ》全体で感じたことなのだ。
(どうして死骸がなくなったんだろう)
確かに、父親の言うとおり、かまいたちには死骸を隠す理由などない。これまでだって、思わず目をそむけるような有様の死骸を、平気で往来の真ん中に放《ほう》り出していたのだから。
(それに、どうしてあたしを殺さなかったんだろう)
これもわからない。首をかしげているところに、戸口で声がした。はい、と返事をして出ていくと、定町廻《じょうまちまわ》りの同心、大町半五郎が立っていた。
「ちょいとお邪魔してもいいかい?」
半五郎はにっこりした。
大町半五郎は年齢は玄庵と同じくらいだが、玄庵よりずっと恰幅《かっぷく》がよく、人柄《ひとがら》も丸い。あれでよく定町廻りが勤まると、玄庵がときどき言うほどだ。その半五郎が、
「聞いたよ。おようちゃん、昨夜はえらい目にあったねえ」
と言ったので、おようはわずかに期待をもった。
「ええ、本当にかまいたちを見たんです。顔も見ました。斬られたお侍の印籠についていた紋まではっきり覚えてるんですから」
半五郎は妙な顔をした。そして、少しあわてたように身を乗り出すと、「おいおい、めったなことを言うもんじゃないよ」と言った。
「どうしてですか」
「どうしても何も、死骸はないんだろう? わたしは何かの見間違いだったと聞いているよ。えらい目にあったというのも、そういう意味だ。まして、ちゃんとした証《あかし》もないのにお武家が斬られたなんて軽々しく口に出すもんじゃあない」
そうらみろ、という顔で玄庵が娘を見た。おようはがっかりした。
「じゃあ、大町さまもあたしが夢でもみてたっておっしゃるんですか?」
「まあ、夢とは言わんが、似たような話がいろいろあるからな」
半五郎は笑ってみせた。
「我々が早くかまいたちをお縄《なわ》にできんのがいちばん悪いんだが」
「それはそのとおりですな」玄庵が重々しく同意した。
「まあ、そう言わんでくれ。力を尽くしてはいるんだ」
おようは出しぬけに言った。
「あたし、気にいりません」
玄庵と半五郎がぽかんとした。
「気にいりません」おようは膝《ひざ》の上でぐっとこぶしを握った。
「みんなしててんから信じてくれないで、夢だの幻だのって」
「おいおい」
「見つけてみせますから、証を。ちゃんと見たって証を。それでかまいたちをとっつかまえてやります!」
半五郎は呆《あき》れ、玄庵は首を振って、また顎をさすり始めた。おようはそれきり口もきかなかったが、半五郎はくどいほどに「うかつなことをするな」と念を押して帰って行った。それからしばらくすると最初の患者が来て忙しい一日が始まり、話はそれっきりになった。
ところが、思いがけないところから味方が現れた。
それは、午後一番で診た平太という若いかごかきで、彼は軽い打ち身に湿布をあててもらいながら、おようにこう言ったのだ。
「お嬢さんが、昨夜かまいたちを見たっていうおようさんですか?」
おようが驚くと、平太はえへへと笑った。丸い目に、人なつっこい笑い顔である。
「かごかきをやってると、いろんな話が聞こえてくるんでさ。おれ、早耳の平太って呼ばれてんだ」
「じゃあ、それが間違いだったことも知っているんでしょう?」
「間違い? そうじゃねえ、死骸がなくなってただけじゃねえか」
「どう違うの?」
「大違いさ。死骸がないからって、辻斬《つじぎ》りもなかったってことにはならねえよ」
おようはまた驚いた。今度はうれしい驚きだった。
「じゃあ、あたしの言うことを信じてくれるんですか」
「あたぼうよ」
「およう」玄庵が厳しい声を出した。
「手が留守になっとるぞ」
平太はひょいと首をすくめた。おようは彼の腕にさらしをまきながら声をひそめた。
「でも、ほかの人は誰も信じてくれないのよ」
「そりゃ、証がねえからさ。あの場に、斬られた侍の身につけていたものでも落っこちていたらなあ」
そうだ、と、おようも思った。陽《ひ》の光の下で探してみたら、何か出てくるかもしれないではないか。
「あたし、探してみるわ」
「おっと、一人じゃ危ねえよ。おいらも行く」
平太はそう行って、さらに声を落とした。
「実を言うと、おいら、昔は目明かしだったんだ」
おようは目を見張った。
「目明かし禁止のお触れのことは知ってるだろう? あれは目明かしの名前で悪どいことをするやつらがあんまり多いんで、そういうやつらを根だやしにするためのものだったんだ。それでも、目明かしだって悪いやつらばっかりじゃねえよ。だから、そのなかの何人かは、今でもこっそりお上の御用をしてるんだ。おいらもその一人なんだ。お奉行さまだって、それはご存じなんだぜ。そういう隠れた目明かしのことを『お耳』って呼ぶ」
「お耳……」
「うん、お奉行さまのお耳ってこった」
おようはうなずいた。平太の言うことに、思い当たることがあったからだ。
幕府が正式に禁令を出して「目明かし」を禁じたのは、正徳二年のことである。理由は平太の言うように、目明かしの名を利用して金品を脅し取ったり、金をもらって罪を目こぼししたり、逆に罪もない者を陥《おとしい》れたりすることがあとを絶たなかったためだ。この禁令以後、目明かしを詐称《さしょう》した者は軽くて遠島、重い場合には死罪にも処せられることになった。
しかし、南北合わせても百人足らずの与力同心だけで治めるには、江戸の町はいささか広すぎる。そのために、この禁令も、以前はまったくの腰くだけに終わっていたのだ。
大岡|越前守《えちぜんのかみ》は、ざる法になっていたこの禁令を本格的に押し進め、徹底させることに力を入れてきた。そして、さしたる困難もなく、定められた手勢だけで町を治めてきた。悪どい目明かしに苦しめられてきた江戸の町人たちは、ここでも忠相《ただすけ》の手腕に感嘆したが、面白いことに、それと並行して、やっぱり大岡さまだって、内緒で特別の目明かしに代わる者たちを使っているに違いないという噂《うわさ》も流れていた。
「噂は本当だったのね」おようはうなずいた。
「そうさ。だけど、他人には言っちゃいけねえよ」
「わかっているわ。で、どうしよう?」
「そうさな……」
平太との約束の七ツ(午後四時)が近くなると、おようは買い物に行くと言いおいて家を出た。
昨夜《ゆうべ》と同じ路《みち》を小走りに急ぐ。今日は空も晴れ、まだ陽もあるので、まるで別の道のりのように思える。
しばらく行ったところで足をゆるめ、息を整えながらゆっくりと歩いた。何だか、昨夜からこっち、泡《あわ》をくって走ってばかりいる。少し落ちつこう。平太もそう言っていたではないか。
(証さえ見つければいいんだ。焦《じ》れちゃいけねえよ)
信じてもらえた。それが本当にうれしかった。しかも、平太さんはお上の御用をつとめている。これで本当に、かまいたちをお縄にする足がかりになるかもしれないではないか。
自然と、おようの足どりはまた速くなっていた。塗り下駄《げた》が道に軽い音をたてる。後ろから足音がついてきているような気がしたのは、そのときだった。
おようは立ち止まった。すると、一瞬遅れて背後の足音も止まったように聞こえた。
振り向いてみた。ずっと遠くの方を、印ばんてんの男が二人、急ぎ足で歩いていく。近くに人影はない。
おようは首を振り、歩き始めた。が、いくらも行かないうちにまた止まった。
やはり誰か尾《つ》いて来ている。
足を止めたままあたりを見回し、「平太さん」と呼びかけてみた。
返事なし。前にも後ろにも、傾きかけた陽の光の下に、ほこりっぽい道が伸びているだけである。おようはその場から駆けだした。
息を切らしてあの細い道を駆けあがると、平太が先に来て待っていた。彼は驚いた顔をした。
「どうしたんだい? そんなに息を切らしてさ」
「誰かに尾けられたような気がしたの」
えっと言って、平太はあたりの様子をうかがった。そして、安心させるようにおように笑いかけた。
「誰もいねえよ。おようちゃん、昨夜っから少し気がたってるんだろう。無理もねえ」
そうねと、おようも答えた。
「何か見つかった?」
「いんや、今んとこはまだだ。あの雨がまずかったな。血の痕《あと》や足跡なんぞは、みんなきれいに流されちまってる」
二人は手分けしてそのあたりを探し始めた。
しばらくして、平太が「あれ」と声をあげた。
太い椎《しい》の木の下を探ってみていたおようは振り向き、「何?」と訊《き》いた。
「ほら、あれは――」平太はおようの腕をつかんだ。
そのとき、何かがひゅっと空を切った。
それはおようをきわどくかすめ、椎の木の幹に突き刺さった。長さは三寸ほど、鋭く細い錐《きり》のような刃物だ。おようは悲鳴をあげ、平太もわっと叫んだ。二本目が飛んできて彼の頭をかすった。
「逃げろ!」平太が怒鳴った。二人は走った。坂を転がりおりるように本道へ飛び出したところで誰かにしたたかぶつかり、おようはまた大声をあげた。ぶつかられた相手は危ういところでおようをつかまえ、負けない大声で言った。
「ちょっと、あんたは昨夜の娘さんじゃないか」
その声に、おようはやっと我にかえった。
「わたしは昨夜番屋にいた弥平《やへい》ですよ。どうしたんだね。まるで鬼にでも追われたようじゃないか」
切り崩しから遠く離れた場所で、おようと平太は今のいきさつを弥平に語った。平太は怖い顔であたりを見張ったが、追ってくるものはいなかった。
「そうだったのかい」弥平はうなずいた。
「どうやら、わたしと同じことを考えていたようだ」
「それじゃ、弥平さんも」
「そうだよ。わたしも、昨夜あんたが見たというもんは幻なんぞじゃないという気がしたんだ。あんたが嘘《うそ》をついているとも思えなかったし。だから、もう一度あの場所を調べようと来てみたんだが」
「あっしらを狙《ねら》いやがった」平太は歯噛《はが》みした。
「かまいたちの野郎だ」
「証になりそうなものは何も残ってませんでした。もし残っていたとしても、もう先を越されちまったわ」おようは身震いした。
「わたしに考えがある」弥平は言った。
「こうなってはもうぐずぐずしてはいられん。これからでも――」
「考えって、どうなさるつもりなんです」平太が訊いた。
「証があるかもしれないんだよ。いや、きっとある」弥平は言った。そして安心させるようにおようの肩を軽く叩《たた》いた。
「すぐにもあたってみるから、案じなくていいよ。今日はもうこのまま戻って、用心していなさい。軽はずみなことは決してしちゃいけない。平太さん、あんたもだ」
言われるまでもなく、その日はもう外に出る気にもなれなかった。しかも、家に帰ると飯場で怪我《けが》をした人夫がかつぎ込まれていて、玄庵《げんあん》はついてきた人夫たちに指図しながらその手当におおわらわだった。おようは何も言わずに夕餉《ゆうげ》の支度にかかった。
安全な家に戻ったことで、今さらのように恐怖がこみあげてきた。おようの頬《ほお》から血の気がひいていた。水を飲もうとひしゃくを取ったが、手が震え、あんまり震え続けて止まらないので、とうとうひしゃくを置かなければならなかった。
「おようちゃん、いる?」
ふいに厨《くりや》の戸が開き、元気な声が響いた。おようはまさに飛び上がった。
「いやだ、どうしたの?」
半ば笑い、半ば心配そうな顔をしているのは、近くに住んでいる大工の棟梁《とうりょう》の娘、お園だった。おようとは幼なじみで仲がいい。けれども、気性は反対に万事ににぎやかで派手好きな娘で、暮らし向きもいいせいか、たいへんな衣装道楽だった。今日も華やかな色あいの袷《あわせ》を着ている。
「あら、ひどい顔色をしてる。具合でも悪いの?」
「ううん」おようはかぶりを振った。ここでお園を心配させることもあるまい。
「今日はすごくせわしかったものだから。お園ちゃんこそどうしたの?」
「御注進、御注進」お園はうれしそうに笑った。
「ここのお向かい、ずっと空いていたでしょう? あすこに新顔が来たわよぉ」
「引っ越し? こんな時刻になってから?」
「うん、何でも昨日、本所の方で火事があったとかで、そこの人らしいわよ」
それがねえと、お園はとろけそうな顔をした。
「すごい男前なの。あたしもう、ほうっとなっちゃった」
おようは笑った。笑うことができたことに自分でも少し驚いたが、お園という娘には、周りもぱっと明るくする不思議な力があるのだ。そこがおようも好きなのだが、お園の困ったところはここだ。のぼせやすいのである。
「また、お園ちゃんの悪いくせがはじまったね」
「あら、そんなことはないわよ。なんなら確かめてごらん。今ならまだその辺にいるから」
お園はおようを外へ引っ張り出した。おようはくすくす笑いながら、袖《そで》を取られてついて行った。
空はすっかり暮れていた。夕日と、それぞれの家からもれる灯《ひ》の光で、路地は不思議な色あいに浮かびあがっていた。おようはお園が「ほら」と指す先を見た。
そこには、差配の卯兵衛《うへえ》といっしょに、背の高い若い男が一人立っていた。こざっぱりと清潔だが着古した身なりをして、一見して職人だとわかる。こちらに背を向けていたが、人の視線を感じたのか振り向いた。その顔を見たとたん、おようの身体中《からだじゅう》の血が凍りついた。
あの、昨夜の男が、そこにいた。
おようはまばたきした。時が逆戻りしたように感じた。そんな馬鹿《ばか》な。男の目がおようをとらえ、縛りつける。どやしつけられたようにおようは悟った。
(知ってる。この男はあたしを知ってる。あたしがこいつを覚えているようにあたしのことを覚えていて、それでやって来たんだ、追ってきたんだ)
差配の声が遠くから聞こえてきた。
「こら、人さまを指さしちゃいかん」
お園は愛想よく笑った。
「すみません。でも、おようちゃんにも引き合わせてあげようと思って」
「それはわたしの仕事だよ」卯兵衛はぽんぽん言い返す。この近所で、お園がどうしても懐柔できないのはこの卯兵衛一人だけなのだ。それだけは大したもんだと、変なところで一目置かれている。
おようの耳には、お園の甘い声も卯兵衛の言い返す言葉も入っていなかった。立ちすくんだまま、恐ろしく長い時間を男とにらみあっていた。直感が怒濤《どとう》のように押し寄せ、火事を知らせる半鐘さながらに、頭の中ががんがんしていた。男の方が先に目をそらした。そのとき、その薄いくちびるの端に、ほとんどそれとわからないほどの笑みが浮かぶのを見た。背筋に寒気が走った。
「錺《かざり》職の新吉さんだ」
卯兵衛が言った。
「今夜からあんたの向かいに住むことになった。よろしく頼むよ、おようちゃん」
新吉と呼ばれたその男は、律儀《りちぎ》な様子でおように頭を下げた。
おようはお園にひじでつつかれてようやく挨拶《あいさつ》を返した。首の骨のきしむ音が聞こえそうなほど、身体中がこわばっていた。
(だけど、どうして? どうして、どうしてここだとわかったのよ?)
「それじゃ、先生のとこにはまたあとで寄るから」
卯兵衛は言い、そっくりかえって新吉を従え通り過ぎた。卯兵衛の後に続くとき、新吉がおようのすぐそばを通った。
(血の匂《にお》いだ)
怪我人を扱い慣れたおようの鼻には、すぐにそれがわかった。
(人を斬《き》ったら、手を洗おうと着がえようとお湯をつかおうと、血の匂いは一日や二日じゃ消えないって父さんは言ってた。間違いない。この男があたしの見たかまいたちなんだ)
「ね? あたしの言ったとおりでしょう」お園は言った。
「浅黒くって顎《あご》がしまってて――あれ、どうしたの、おようちゃんたら、真っ青だわ」
「あたし、さっきから少し具合が悪いの」
おようはやっと言った。
「なんだかくらくらするみたい。かんべんしてね」
「そりゃ、いけないわ。風邪かもしれないね、横になってた方がよくってよ」
お園に抱えられて厨へ戻る間にも、おようは心で同じことを繰り返していた。
(どうして? どうしてここがわかったんだろう? 昼間、あの切り崩しから尾けられていたんだろうか……いいえ、そんなはずはない、平太さんがあれだけ気をつけていたのだもの)
「先生、おようちゃん病気」
お園が声をかけると、玄庵があわてて出てきた。
「どうした」
「何でもないの、きっと風邪……」
言いかけて、絶句した。開けた戸口から、軒先にさがった提灯《ちょうちん》が見えたのだ。
「八辻《やつじ》が原《はら》先 医師 新野玄庵」
(あの時さげてた提灯だ)
おようは絶望的に目を閉じた。
(提灯に名前が入ってた。ああ、だけど、今ごろ気がついたってもう遅すぎる!)
三
「様子はどうか」
「はい、やはり不審な者が現れました」
「そうか、案じていたとおりだ。小田切の家の者たちであろう」
「いえ、それがどうも、そうではないように見うけられます」
「なに」
「今日姿を現した男は身なりも町人風、あとを尾けてみましたが、小田切さまの御家中とつなぎをとる様子もまったく見えません」
「うむ……」
「――これはあくまで憶測ではありますが」
「申してみよ」
「これには、どうも町方の者がからんでいるような気がいたします」
「恐れながら」と、別の声が割りこんだ。
「どうした」
「只今《ただいま》、神田石川町|徳兵衛《とくべえ》店差配、弥平という者が路上にて斬り殺されている旨《むね》、届出がありました」
「――聞いたか」
「はい、弥平とは例の町役人です」
「うむ。用心してくれ」
翌日、おようはまだ夜の明けないうちに起きだした。
前の晩、玄庵が煎《せん》じてくれた薬湯を飲み、早く床についたが、むろん眠れるはずもなかった。細かな一日の仕事を終えて玄庵が横になったあと、おようは一晩中|闇《やみ》の中で目を開けていた。ついたて一つ隔てた向こうでは、父親が軽いいびきをかいていた。
外へ出て、明け方の風にあたり、おようは震えた。目を上げて向かいの家を見る。傾きかけた長屋の一番端、ほかのどことも違うところのない造りだ。ただ、その中にいる人間だけが違っている。おそろしく違っている。
(今、何をしているんだろう)
眠っているのか、起きているのか。昨夜は、おようの見ていたかぎりでは出かけた様子はなかった。でも、相手はかまいたちだ。今までお上の目をくぐり抜けてきた蛇《へび》のようにずる賢いやつだ。おようの目をごまかすことなど、赤子の手をひねるようなものだろう。
(弥平さんや平太さんは無事だろうか)
「おようさん」
不意に背後で声がした。
おようはびくっとした。膝《ひざ》が震え始めた。誰の声かわかったからだ。
「いや、振り返らない方がいいな」
おようはぎゅっとこぶしを握って前を見つめ、精一杯気丈な声を出した。
「何の用ですか」
「それは言わなくてもわかっているだろう」
おようは、何とか怖がっていないふりをしようと努めたが、うまくいかなかった。
「あなたのことを、誰にも言うなと口止めするつもりですか」
「そうかな」
相手はふっと笑った。声の調子は静かで、それがなおさら恐ろしかった。
「それなら、どうぞ、すぐにでもあたしを斬ってしまえばいいでしょう」
強がったつもりが、言ってしまってから、もし相手が本当にそのつもりだったらどうしようと、一瞬冷や汗をかいた。ところが、相手はまた軽く笑った。
「おれはそれほどの阿呆《あほう》じゃないよ。今あんたを斬ってみても、何の得にもならない。それどころか、あんたが見たものは本当だったんじゃないかと思われるような、藪《やぶ》へびになりかねないからな。それより、しばらくあんたが黙っておとなしくしていてくれれば、そのまま、あの切り崩しであったことはうやむやになっちまうだろう?」
「どうしてあたしがおとなしくしているなんて思うの?」
「してないかい?」
「番屋へ駆け込むかもしれないわよ」
おようはぐいと顎をあげた。
「真っ昼間にあたしが番屋へ行くと言って出かけたって、あんたには止めようがないでしょう? ここには大勢の人がいるんですからね」
「そうだ、大勢いるな」
声がゆっくりと、低くなった。
「あんたの親父《おやじ》さんもいる」
おようは首を絞められたような気がした。
「父さんを……」
「なるほど、あんたは好きなときに好きな所へ行って、好きなことを話すことができる。番屋へ走るのも自由だ。だが、おれにもそれなりの才覚はあるからな。危ないと思ったら風をくらって逃げさせてもらうし、置きみやげにあんたの親父さん一人くらい斬るのはやさしいことだしな」
おようは煮え湯を浴びた猫《ねこ》のように飛び上がった。振り向いて身がまえると、新吉は腕組みし、板戸に寄りかかって一間と離れていないところに立っていた。
おようは知っている限りの悪態を探し、探しきれずにかすれ声で叫んだ。
「ひとでなし!」
新吉は肩をそびやかした。
「あいにくだったな」
「きっと後悔させてやるから」
おようは震えながら言った。それはもう、恐ろしさと怒りが入り混じった震えだった。
「あんたがあの場であたしを斬らなかったことを、必ず後悔させてやるから」
おようの頭の中には、弥平《やへい》の言葉が浮かんでいた。
(証《あかし》はある、きっとある)
ところが、新吉はおようの心を見抜いたかのように言った。
「町役人の弥平のことかい」
おようはあえいで息を吸い込んだ。
「弥平なら死んだよ」
「死んだ……」
新吉の声が、厳しく警告する色をおびた。
「だから余計なことをするなと言ってるんだ。命が惜しかったら、おとなしくだんまりで通すことだな。さもないと、これがただの脅しじゃないことが、いやというほどわかる羽目になるぜ」
おようはできるかぎりの凄《すご》い目つきで、新吉と、かれの得体の知れない冷たい目をにらみすえ、それから背を向けて逃げ出した。だから、おようが背を向けたとたん、新吉の目にそれまでと全く違った表情がさっとかすめたことには気づかなかった。
弥平がかまいたちに斬られたという知らせが届くと、長屋中がまた大騒ぎになった。
おようはこわばった顔で弥平の住まいまで走った。町中が、かまいたちの新しい犠牲者の話でもちきりだった。あっちでもこっちでも人が寄り集まっている。読み売りが大声で知らせながら駆け抜けていく。
弥平の住まいでは、ちょうど遺骸《いがい》が番所から引き渡されてきたところだった。近所の者たちが集まっている。そのなかを、すみませんと声をかけながら通り抜けていくと、戸板の上でむしろをかぶせられた弥平の姿が目の前にあった。むしろの端から、青白く変色し、ねじ曲がった指がはみ出していた。
死骸の頭のところに、髪を乱し、がっくりと首うなだれて、小さな子供を抱いた女が座り込んでいた。弥平の娘だろう、おもざしが似ている。おようは胸がつまった。
集まった者たちの言い交わす声が耳に入ってきた。
「なんてひどいことをするんだろうねえ」
「人間のやることじゃねえ、かまいたちの野郎はけだもんだ」
「お上はどうして早くとっつかまえて下さらないんだろう」
「大岡さまもとんだふぬけだぜ」
おようは遠慮がちに尋ねた。
「弥平さんはどこへ行くところだったんでしょう」
さあねえ、というつぶやきが渡って、あの子供を抱いた女が顔を上げた。目は木のうろ[#「うろ」に傍点]のように暗く、うつろだった。
「ちょいと出てくるって、そう言って出かけたんです」
気の抜けた声だった。
「すぐに戻るって。どこへ行くとも言ってませんでした。まだ陽《ひ》もあるうちだったし、だから心配ないと思ったんですよ」
抱えられた子供も、母親のその様子に普通でないものを感じているのか、怯《おび》えてしがみついている。
「それなのに、こんな姿で帰ってくるなんて……」
おようは茫然《ぼうぜん》としてその場を離れた。もう駄目《だめ》だ。弥平さんが何をつかんでいたにしろ、それはもうわからなくなってしまった。
(平太さんが何か聞いていれば……)と考えて、おようははっとした。平太は――平太は無事だろうか?
それからのいく時間かは、おようにとっては拷問《ごうもん》のようなものだった。玄庵《げんあん》は今日も忙しく、患者たちはひきもきらない。表向きはいつもと変わりないようにふるまいながら、気もふれそうな思いで平太がやってくるのを待った。
治療の手伝いをしながら、時折、向かいへ目をやる。気持ちのいい日和《ひより》のことで、どこでも戸口は開けっ放してあった。新吉のところでもそれは同じで、おようのいる場所からでも、彼が銀細工らしいものの上にかがみこんでいるのが見えた。しかし、それは、裏を返せばかれのところからもおようが見えるということなのだ。
しかも、新吉が仕事しているそのそばの上がり框《かまち》に、お園がぺったりと腰をおろして、何か楽しげに話しかけているではないか。おようはめまいがしてきた。
(ああ、お園ちゃん、お願い、お願い、お願いよ)心で叫んだ。
(そいつは人殺しよ、そいつがかまいたちなのよ)
昼過ぎに、平太のがっちりした姿が路地を入ってくるのを見たとき、おようは井戸端にいた。洗い物をしていたのだが、顔色を変えて手にしていたものを取り落としたので、周りのおかみさんたちが驚いた。
「大丈夫かい、おようちゃん。手を切んなかったかい?」
おかみさんの一人が言った。おようは返事もそこそこにすっ飛んで行った。後ろの方で、「あんれ、おようちゃんのいいひとかね」と誰かが言い、どっと笑い声が起きたのも耳に入らなかった。
「聞いたよ、弥平さんだろ?」
平太はおようの顔色を見て、すぐにそう言った。
「それだけじゃないの」
幸い、玄庵は重い水腫《すいしゅ》をわずらっている老人にかかりきりだったので、おようは手早く昨夜からのことを語った。平太は仰天した。
「そりゃ、本当かい?」
おようはくちびるを噛《か》んでうなずいた。
「平太さん、用心してちょうだい。あいつは知ってるのよ。昨日、切り崩しであたしたちを狙《ねら》ったのもあいつ、あそこで弥平さんが何かつかんでいることを盗み聞きして、斬り殺したのもあいつなのよ」
平太はうなった。
「ちくしょう――」
「何とかして証を探さなくちゃ。それとも、あのお侍の死骸を見つけるか、そうして番屋に届ければ、今度は信じてもらえるわ」
「くそ、おいらが昔どおりの目明かしだったらな。証なんざ無くたって引っ張ってやるんだが。大岡さまは、ちゃんとした証が見つからねえかぎりは、決してお縄《なわ》にしちゃならねえとおっしゃってるんだ。そんなんだから、かまいたちみたいな野郎をのさばらすことになるんだ」
「探しましょう、何とかして」
「おう、必ず見つけてみせるぜ。だがな、おようちゃん、野郎には決してこのことを気《け》どられちゃいけねえぜ。もう、あきらめましたってなふりをするんだ。いいかい何か見つけたら、おいらがそれをうまく知らせるから。そうなりゃ、かまいたちなんざすぐに獄門首よ」
おようと別れたあとの平太の足は、のんびりと、だがまっすぐに湯島の方へ向かった。表通りは人の往来も激しく、大八車が行き交い、平太の姿はそのなかに紛れ込んだ。
湯島天神の門前町に入るあたりで、彼の足どりは少し速くなった。小さな茶店の角を曲がり、少し奥まったところにある「青柳《あおやぎ》」という居酒屋に入るときには、ほとんど小走りになっていた。
「青柳」は、粗末な造りの狭い店だった。仕切りの向こうで、けだるそうに仕込みをしていた女が、平太の顔を見ると「あら、早いじゃないの」と言った。たった今起きたような顔で、着物の襟《えり》をだらしなく抜いている。
「兄貴はいるかい?」
「いつだっているさね」
女は口を歪《ゆが》めて笑った。
「目明かしでなくなってからこっち、あの人の行くところなんかないし、することといったら酒を飲むことだけだからね」
「上がるぜ」
平太はなかへ通った。店の裏手に、同じくらいの広さの座敷が一間ある。平太が障子を開けると、寝床も敷きっ放しに、足の踏み場もないほどとり散らかされていた。部屋の窓際《まどぎわ》に格子《こうし》にもたれ、三十半ばの男が一人座っていた。平太の顔を見ると、深酒に濁った目がどろんと動いた。
「兄貴、仕事だぜ」
「仕事か」
男はおそろしくゆっくりと言葉を口にした。
「つい昨日しくじったばかりじゃねえか」
「あれはもういいんだ。理由《わけ》が知れた」
「知れた?」
男は身体《からだ》を起こした。その拍子に左の袖《そで》がめくれ、二の腕がむき出しになった。そこにはっきりと二本の入れ墨が見えた。
「そうさ。ありゃあ、かまいたちだ」
「かまいたちだと?」
「ああ、そうだ。あの小娘を脅しに出てきやがった。目と鼻の先に陣どってるぜ」
「ほう」入れ墨男の目が、鈍くではあるが初めて輝いた。
「そいつは面白いことになってきたな」
平太はにんまりと笑った。おように見せたのと同じ、人なつっこそうな笑みだ。が、目が違っていた。
「旦那《だんな》がお喜びになるな。これでまた、ねたが増えたじゃねえか」
入れ墨の男はよろよろと立ち上がった。
「で? おれにどうしろってんだい」
「かまいたちの野郎を揺さぶってやるんだ。取り引きさ。こっちの言うとおりにしてさえいりゃあ、これからも人を斬《き》り放題だってな」
「旦那には、かまいたちをふん縛ってお手柄《てがら》にしようって気はねえのかい」
「お手柄なんぞ、旦那が欲しがるもんかい」
平太はふんと鼻を鳴らした。
「そんなことは兄貴だって先刻承知のはずじゃねえか。それに――」
平太の丸顔に、およそ似つかわしくない激しい悪意が浮かび上がった。
「かまいたちが暴れれば暴れるほど、大岡の首が締まるんだ。それを見るためなら、こっちから金を出しても惜しくねえくらいだぜ。大岡を奉行所から追っ払うことさえできれば、兄貴だってそんな酒びたりでいることもなくなる。また、目明かしとしてお江戸を肩で風切って歩けるんだぜ」
四
平太は丸三日姿を見せなかった。
おようはその間、外見には何でもない顔をつくり、少しも変わりなく働き、そうして新吉を油断なく見張っていた。
(証を探すのはおいらに任せておいてくんな。おようちゃんはめったに動きまわっちゃ危ねえし、先生にも妙に思われるといけねえ。辛抱だぜ)
おようは平太の言葉に従った。そのかわり、夜もほとんど眠らずに見張りを続けた。「夢見が悪いから」と言い訳して、玄庵に寝床の位置をかわってもらい、戸口の横に切ってある連子《れんじ》窓から向かいの家がよく見えるようにした。父親の手前、横にはなるものの、寝床の中で一晩中そうやって外の闇《やみ》に目をこらしている。もしも新吉が外に出ていく気配があったら、何とでも口実をつくって騒ぎたててやるつもりだった。そうすれば、少なくともこれ以上人が斬られることは防げるかもしれない。
長屋の人たちも、寄るとさわるとかまいたちの話である。
「新吉原《なか》もすっかり灯《ひ》が消えたようだそうだぜ」
「そら、女より命の方が惜しいからな」
「へえ、おいらは女の方がいいぜ」
「しょうのないことばっかり言ってるんじゃないよ、この宿六、さっさと稼《かせ》ぎにいっといで!」
そういう言葉を耳にするたびに、おようは心の中で繰り返す。
(あたしが見張ってるかぎり、もうこれ以上は決して人殺しはさせやしない。決して、決して)
けれども、そんなことを三晩も続けると、おようは見るからにげっそりとしてきた。眠らないだけでなく、気持ちの休まるときがないのだから、それも無理はない。玄庵が心配していろいろと尋ねるのをうまく言い抜けるのにもひと苦労をした。
心配してくれるのは、お園も同じだった。
「何か心配ごとがあるの? ここんとこ、すごくふさいでるね」
「何でもないのよ。昨夜《ゆうべ》、あまりよく眠れなかったの」
「本当? それならいいけど、でも、あたしで何か役にたつようなことがあったら、遠慮しないで言ってちょうだいね」
ありがとうとおようは言って、にっこりした。お園はそれを見て、
「ねえ、おようちゃん、ひょっとしてさ――」
「なあに」
「おようちゃん、あれなんじゃない? 恋わずらいってやつ」
おようはびっくりしたが、お園は真面目《まじめ》だった。
「うちのおっかさんなんかさ、そうに違いないって言ってるのよ。おようちゃんはあんたと違ってうぶ[#「うぶ」に傍点]だからねえって」
「そんなのとは違うわ」
おようは答え、もしそれだったらどんなにいいかと思った。
「本当? ほんとうにそうじゃないの? でも、あたしも聞いたのよ、お種さんから。なんかそれらしいひとが来たのを見たことがあるって」
平太さんのことだ。おようは思った。
「いいえ、お種さんの早とちりだわ、それは」
「そうか。てっきりそうだと思ってたんだけどね。そういうことなら、あたしに任せてくれればたちまちまとめたげるのにって。幼なじみのおようちゃんのことなんだし、あたしはそういう手くだにかけちゃ、ちょっとしたもんなんだから」
おようは微笑《ほほえ》んだ。お園ちゃんのそういうとこが好きなんだ。
「ありがとう。そんなときにはお頼みもうします」
「任せてよ。実を言うと、あたしも今、しゃっちきになってんの」
「おやまあ、そんなお幸せなひとはどなたです?」
お園は顔をほころばせた。
「新吉さん」
おようはどきりとした。お園が時々かれにまとわりついているのは知っていたし、それを見るたびに背中が寒くなったが……。
「本気なの?」
「うん、本気よ」
お園はあっさりとうなずく。
「あのひとも? 何かそんなようなことをお園ちゃんに言ったの?」
「それがねえ、全然なのよ」
お園はいかにも口惜《くや》しげだった。
「鼻もひっかけないって、あのことね。あたしくやしくって。今までこんなことなかったもの。差配さんにもさ、あれは身持ちが堅いことで知られてるっていうから引き受けたんだ、無理だからやめとけなんて言われてさ、余計熱くなってきちゃったわよ。きっと何とかしてみせるからね」
おようはお園の顔をじっと見つめた。お園は、このあたりでは一、二の器量良しで知られている。見染めて縁談を持ち込んでくる人も多い。それなのによりによって、どうしてあんな……。
「お園ちゃん」おようはゆっくりと、声を低めて言った。
「これからあたしの言うこと、理由をきいたり怒ったりしないで聞いてくれる?」
お園はやや驚いた顔になった。
「あのひとには近づかない方がいいわ。お園ちゃんだったら、もっとほかにいくらでもいいひとが見つかる。あの人だけは駄目よ」
「あら――どうして? あ、そうか、理由はきいちゃいけないのね」
おようは真剣にうなずいた。
「お願いだから。悪いことは言わないから、よしたほうがいいわ」
お園は紅《あか》いくちびるをすぼめて考えていたが、やがてちらとおようの顔に目を走らせた。
「ははん、さては――」いたずらっぽく笑い、「さてはおようちゃん、その気があるな?」
おようはがっくりした。
「そんなことじゃないのよ……」
「いいの、いいの、そんなら何も遠慮することなんかないのよ」
お園は一人合点《ひとりがてん》してしまった。今までとうって変わった陽気な調子でおようをつつく。
「そうか、そうか、こりゃ、このお園さんが気がきかなかったわね。初めっからへんだとは思ってたんだ。おようちゃん、新吉さんのこと、まじまじと見つめたりしてさ。そんならそうと、早く言ってくれればいいのに」
おようは頭を抱えたくなった。
「お園ちゃん――」
「いいの、あたしのことなら気にしないでいいのよ。あたしはさ、差配さんにあんなことを言われたもんで、よおし、なんて思ってただけで、とことん本気ってわけじゃなかったんだから。それは本当よ。だから大丈夫、もうこうなったらこのお園に任せといて。あたしがうまくはからったげる」
どっちへ転んだっていいことはない。おようは観念した。
(平太さん、早く証《あかし》を見つけてきてちょうだい)
同じころ、新吉のところには妙な客が来ていた。
男がやってきたとき、新吉は仕上がった平打ちに磨《みが》きをかけているところだった。相手は「商売の話で来たんだが」と、近所に聞こえよがしの声を出したが、板戸を閉めると、ことさらに腕まくりし、くっきりした二本の入れ墨を見せ、にやりとした。
「おれは湯島の通り下に住んでる猪助《いすけ》ってもんだ」
新吉が手を休めないでいると、
「目明かし禁止のお触れが出るまでは、お上の御用をつとめて、『鬼殺しの猪助』っていやあ、ちっとは知れてたもんだ」
「その鬼殺しの親分が何の御用です」
男は答えず、口の端にねじ曲がった笑みを浮かべながら新吉をながめた。
「人は見かけによらねえ、か」
猪助は独り言のように言った。
「かまいたちの正体が、大店《おおだな》にも出入りしている職人で、しかも若い男前と知れたら世間さまはひっくりけえるだろうな」
新吉は目を上げた。猪助の赤い目がそれをとらえ、無言のうちに押し問答は猪助が勝ったようだった。新吉が先に目をそらした。
「何で知れたかと思うだろうが、まあ、聞けよ」
猪助は含み笑いしながら続けた。
「おめえも油断なく見張ってるつもりだろうが、あのおようって娘はどうでもおめえのしっぽをつかむつもりでいるぜ。こっちが投げた餌《えさ》に飛びついてきやがったからな。おれの仲間の平太ってやつは、おめえも顔は知ってるだろう? あの切り崩しで見ているだろうからな。そいつと一緒に、あそこで確かに辻《つじ》斬りがあった証を探してるよ。めでてえ話さ」
猪助は陰気に笑った。
「あの切り崩しで邪魔したのはおめえだろう。余計なことだったぜ。平太には、はなっから証を探す気はねえ。あれは娘を外へ引っ張り出す方便よ。あの時、あの場でばっさりやる手筈《てはず》でおれが陰から狙《ねら》ってたのさ」
「ほう。そりゃ惜しいことをしたな」
新吉はよそを向いたまま言った。
「そうよ。だが、あわてることもねえ。娘の方はこっちで始末する。明日にでもな」
「どういうことだ?」
新吉の目が険しくなった。
「あんたらに、何であの娘を始末する理由がある?」
「さる御方が」猪助はたっぷりと抑揚をつけて言った。
「おめえが斬った小田切の家から頼まれたのさ」
「小田切?」
「ああ。あの晩お前が斬り捨てたのは、旗本の大身小田切|政憲《まさのり》だったんだぜ。小田切といやあ、先祖代々武勇で鳴らして、おれたちだって知らねえもんはねえ家柄《いえがら》だ。そこの当主が辻斬りに斬られました、なんざ、面目がたたねえ。下手をすりゃおとりつぶしだぜ。それで、お付きのもんが泡《あわ》くって死骸《しがい》を隠し、あとは何としてもあの場を見た者を片付ける必要があるわけさ。あの娘も馬鹿《ばか》だぜ。おとなしく黙っていりゃあいいもんを」
「なるほどな」新吉は低く笑った。
「侍は不自由なもんだ。だが、それなら何で小田切の家臣が出てこない?」
「そりゃあ、おまえがここで手をこまねいてるのと一緒だぜ。うっかり手を出せばかえって藪《やぶ》へびになるってもんだ。うまくだまくらかして斬り捨てて、かまいたちに殺《や》られたように見せかけねえとな。で、さる御方がそれを引き受けたわけよ」
「ご丁寧に、証人を消してくれるってわけか。じゃあ、弥平《やへい》を斬ったのもそのさる御方のさしがねかい?」
「そうだ。あいつもうるせえじじいだったからな。見なくてもいいもんを見て、言わなくてもいいことを言い出しやがったから始末した」
「で?」新吉は猪助を見た。
「そこまでしてくれるあんたらの狙いは何だ。見返りに、おれに何をさせようっていうんだい」
「何もねえ」
「何も?」
「ああ。ただ、今までどおりに世間を騒がしてくれりゃあそれでいいってことよ。それどころか、さる御方のほうで手を回して、もっと大騒ぎになるような人間を斬れるようにはからったっていい」
しばし沈黙が落ちた。
「どうだ、え? おめえにとっちゃ、万々歳のはずだ。あとはただのんびりかまえて、平太があの娘を始末するのを見ていりゃいいんだぜ」
新吉は計るように相手を見た。そしてかぶりを振った。
「信用できねえな」
「何がだ」
「その『さる御方』ってのはいったいどこの誰なのか、何のためにおれを捕らえずに辻斬りを続けろというのか、それがはっきりしないことにはな」
「さる御方のことは気にするな」
猪助はきっぱり言った。
「それはおめえには係《かか》わりのないこった。ただ、その御方がおめえをふん縛らねえのは、奉行の首を絞めたいからよ」
「奉行の首を」
「大岡のな」
猪助の目が暗闇の獣のそれのように光った。
「そのために、おめえにはまだまだ暴れてもらいてえ。奉行の首が切れるのを見るのは、おめえだって小気味いいんじゃねえかい」
新吉はしばらくして言った。
「どうやって娘を始末するんだ」
「証を見つけたと言っておびき出すんだ。それは平太がうまくやるってことよ」
「証……」
「そうさ、証さ」
猪助はまた口の端を曲げて笑った。
「あんまり早く見つかっても怪しまれるから間をおいたんだが、明日には仕掛ける。まあ、ゆっくり見物しとくんだな」
「あんまりあの娘を甘く見ない方がいいぜ。偽《にせ》の証にひっかかるとは限らん」
「いんや、証は確かに本物なんだ。あの場に落ちていた、小田切政憲の印籠《いんろう》よ」
「印籠か……。さる御方はどうしてそれを手に入れたんだい」
猪助はそれには答えなかった。
「まあ、見てな。任しときなよ」
そう言いながら、面白そうに新吉をながめた。
「しかし、おめえも変わった野郎だぜ。何だって人斬《ひとき》りなんぞしてる? 腕試しか?」
新吉は返事をしなかった。
「ふん、まあいい。これだけ世の中が窮屈になってくると、誰だってむちゃをしたくなるもんだよ。だが、何だってあの娘をその場で斬っちまわなかったんだ」
「あの時は、ほかにも人がいた。あんたの言う小田切のお付きだろう。ぐずぐずしてたんじゃこっちが危なかったからな」
「本当は、わざわざ小田切を狙ったんじゃねえのかい? おめえ、ひょっとして元は侍――いや、それはねえかな、生業《なりわい》が生業だ。案外、おめえも目明かしくずれかもしれねえな」
「さあな」
「どうもそんな匂《にお》いがするぜ。手口も鮮やかすぎるし、小田切政憲を斬るほどの腕があるとなると――」
新吉は猪助をさえぎった。
「詮索《せんさく》なしってのは、そっちが言い出したことだぜ」
猪助は笑い、来たときと同じようにだらしのない足取りで去って行った。
一人になると、新吉はしばらく考え込んだ。
板戸を半ば開けると、向かいの玄庵《げんあん》の家から患者が出て来た。おようが見送っている。
彼女は家に戻るとき、ちらりと新吉の方を見た。硬く凍ったすきのない目で、彼女が夜もほとんど眠らずにその目で張り番をしていることには、新吉も気づいていた。おかげで、用心して動かなければならなかった。
「さる御方、か」新吉はつぶやいた。
「ねえ、父さん」おようが訊《き》いた。
「何だね」
「父さんはどんなやつだと思う? かまいたちのこと。どうしてあんなに人斬りをしているのかしらね」
「さあなあ」
「お侍じゃあないとは思わない?」
「どうだろうな」
「もしお侍でなくて、町人だとして、試し斬りでもないとしたら、なぜあんな惨《むご》いことをしているんだろ」
「ふむ……殺人|淫楽《いんらく》というのもあるな」
「殺人淫楽?」
「そうだ。和蘭《オランダ》の医書に出てくる心の病でな。人をあやめること自体に快楽を感じるのだよ」
「病なの」
「そうだ」
「でも、そういう人は」
おようはおそるおそる訊いた。
「見た目にはちっとも普通と変わらないんでしょう?」
「そうだな。見かけではわからん」
おようは黙った。すると、今度は父親の方が訊いた。
「おまえ、今でもまだかまいたちを見たと思っとるのかね」
「ううん」娘は嘘《うそ》をついた。
「あたしはきっと、みんなが言うように、あの辺に住んでいる狸《たぬき》にでもばかされたんでしょう」
「そうか。まあ、狸はともかく、かまいたちだったらおまえだって無事にはすまなかったろうからな」
「猫《ねこ》は鼠《ねずみ》をなぶり殺しにすることがあるでしょう」とおようは言った。玄庵はけげんそうに顔をしかめた。
「……何のことだね、それは」
「何でもない。ただ、鼠だって猫を噛《か》むことがあると思ったの」
五
「御前」
「どうした。背後の者の名は知れたか」
「はい、恐らくは」
声がある名前を告げた。
「事のつじつまは合いますが、いかように取り計らいますか」
沈黙ののち、ややあって、声がもれた。
「小田切政憲と同じように取り計らってくれ」
「よろしいのですか」
「うむ。やむをえまい」
「承知しました」
「おまえには続けて辛《つら》い役目をはたしてもらわねばならぬ。頼むぞ」
平太からの知らせがあったのは、ようやく四日目の昼過ぎだった。
おようが患者たちの世話をやいているところへ、七つぐらいのきかん気そうな男の子がやってきて、「はい、これ」と、一巻きのさらしを差し出したのだ。
「そこで、知らないおじさんに頼まれたんだよ。これ、おねえさんに返してくれってさ」
おようは一瞬いぶかったが、すぐにぴんときた。受け取って男の子には駄賃《だちん》をやり、何でもないような顔で奥へ引っ込み、あわててさらしをほどいてみた。そこにはこうあった。
「あかしをみつけた いんろう 六つにおいかわいなりでまつ へいた」
おようは胸がどきどきしてきた。笈川稲荷なら、ここからすぐのところだ。やはり人気のない寂しい場所ではあるが、境内の奥を抜けていくと、数寄屋《すきや》橋の南町奉行所への近道なのである。
(でも、どうやって見つけたんだろう……よく印籠が残っていたもんだわ)
とはいえ、いい知らせであることには違いない。細かいことは平太に会ってから確かめればいい。おようはぐっと顎《あご》を引きしめた。新吉は朝から忙しげに仕事している。
(あの人、腕はいいわよ)
あれっきりのん気な誤解をしたままのお園が、ちょくちょく色々と聞き込んできては教えてくれた。
(湊屋《みなとや》さんにもおさめてるんだって。湊屋といったら、大奥にも出入りしようかって大店《おおだな》でしょう? すごいじゃないの)
そりゃあ、確かにすごいことだわと、おようも思った。そして、実のところ、お園が聞き込んでくるそういう話と考え合わせていくと、新吉がどうしてあんな惨いことをしているのか、その理由が皆目わからなくなってしまうのだ。何のために? どんな不足があって? そう考えていくと、およう自身でさえ、もしもあの時あのお侍が斬られたその場に居合わせてさえいなかったら、新吉がかまいたちだと言われたところで、信じられないとさえ思えてしまう。
(殺人淫楽)
おようの考えは、結局そこへ戻っていく。
今もまた、彼女は身震いをひとつして、その考えを頭の奥にしまい込んだ。相手は尋常じゃない。うんと用心してかからなくては。おようは、戸口越しに見える新吉の広い背中を目のすみにとらえながら、はやる気持ちを押さえて六つのくるのを待った。
おように六つの約束を知らせたあと、平太の足はまたぶらぶらと「青柳」に向かっていた。
こうなったらもう焦《あせ》ることはない。彼女の方から出てくるのを待てばいいのである。
(かまいたちか、へっ)
平太はほくそえんだ。
「青柳」の入り口を入りかけたとき、後ろから誰かがぽんとその肩を叩《たた》いた。振り向いてみると、定町廻《じょうまちまわ》りの同心大町半五郎が、いやににこにこしながら立っていた。
「こりゃ、旦那《だんな》、お役目ごくろうさんでございますね」
「ありがとうよ、おまえさんもな」半五郎は言った。
「ごくろうついでに、おまえさんにちっとばかり訊きたいことがあるんだがね」
平太ははっとした。様子が変だと思った。が、もう遅かった。背中に冷たい金気が突きつけられるのを感じた。首だけよじって後ろを見たとき、平太の丸顔に驚きが走った。
「お、おめえが?」
六ツ近くになったとき、おようはちょうど一人だった。玄庵は少し前に往診に出かけている。家を抜け出す口実を考えずに済むのだから、助かった。そんなささいなことでも、彼女には心強く思えた。
(今までは先手ばっかりうたれてきたけれど、少しはこっちにもつきがまわってきたのかもしれない)
当の新吉は、今日はほとんど外に出ていない。昼過ぎに一度出かけたが、その時は大町半五郎が一緒だった。というより、出かけていく新吉を半五郎が呼び止めたのだ。
「おおい、湊屋へ行くのかい?」
半五郎はにこにこしながら言った。
「そんなら、ちょっとわたしも付き合っていいかね? 実は、女房に新しい簪《かんざし》をせがまれているんだが、どうにも懐《ふところ》が寂しくってな。湊屋の主人にかけあってみようかと思っていたんたが、一人じゃ敷居が高くてなあ」
半五郎のこの言いぐさに、あちこちからどっと笑いが起きた。こういうところが、玄庵に「あれでよく定町廻りの同心がつとまるもんだ」と言われるゆえんなのだが、半五郎は実に気やすい人柄《ひとがら》で、おようでも、うっかりすると相手がお役人なのだということを忘れてしまうことがある。
それでも、その時のおようは、歩いていく半五郎の背中に手を合わせたい気持ちだった。
(大町さま、どうぞそうやって、そいつを足止めしておいてくださいまし)
半刻ほどして、新吉だけが戻ってきた。それでも、また腰を据《す》えて仕事にかかったので、おようは安心した。気づかれていない。約束の時がくると、そうっと家を出た。笈川稲荷まで、鷹《たか》に追われた野兎《のうさぎ》のようにまっしぐらに走った。
一目で見渡せる境内についた時には、平太はまだ来ていなかった。
それどころか、ずっと来なかった。
おようは待ち続けた。影がだんだん長くなる。あたりが薄暗くなってくる。それにつれて、おようの胸の中に恐ろしい予感が広がった。
(なぜ来ないの、平太さん)
仕事を終えて帰る途中らしい鳶《とび》の二人連れが通りかかり、
「おねえさん、逢《あ》い引《び》きかい? 早くしねえとかまいたちが出るよ」
とからかって、馬鹿《ばか》笑いを残していった。
(なぜ来ないの? 何があったの?)
とうとうあきらめておようが家に帰ると、玄庵が戻っていて、怖い顔をした。
「こんな時刻まで、いったいどこに行っとったんだ」
「すみません」
おようは気落ちして答えた。
「おまえ、このごろ少しどうかしとるぞ。何をとりのぼせておるんだ」
おようは、とりつくろって言い訳する気力もなく座り込んでいた。ちょうどその時、表通りを駆け抜けていく読み売りの声が聞こえてきたのだ。
「かまいたちだ、かまいたちがまた出たぞう!」
おようは息をとめた。さまざまな声が入り乱れて聞こえてきた。
「今度斬られたのは、平太っていうかごかきだそうだ」
「定町廻りの大町さまが死骸《しがい》を見つけなすったが、あんまり惨《むご》たらしいので、誰の目にも触れさせないようにというお奉行さまのおおせがあったそうだぜ」
「何てこった」
「かまいたちの野郎、今度は陽《ひ》の暮れないうちから出やがったのか」
悪いものでも食べたときのように、胸がむかついてきた。手足の先の先まで冷たくなった。証《あかし》の印籠もとられた。平太も殺された。これでもう、おようには何のなすすべもない。
おようの目が、向かいの戸口にもたれている新吉の姿をとらえた。見た目には長屋の人達と同じように、この知らせに驚いたふりをしていた。おようは奥歯を噛みしめて彼をにらんだ。今まで一度も感じたことのない、ほとんど錯乱に近い激しい怒りをおぼえ、目をそらすことができなかった。
新吉の、冷ややかな、金物をあてられたような視線が返ってきた。その時、あたかも耳もとではっきり言われたかのように、彼の言葉を聞くことができた。
(これでわかったろう。命が惜しかったらもう関《かか》わりあうなということだ)
立ち上がり、厨《くりや》に入ると、かまどの前にかがみこんだ。しばらくするとお園が、「たいへん、たいへん」と大声で言いながら入ってきた。
「あの平太って人、確か先生の患者さんだった人でしょう? ひどいことになっ……」
おようは手で顔をおおった。
「どうしたの、おようちゃん」
お園の声がうろたえ、細い手がおようの背中をなでた。
「泣いてるの……?」
その夜。
おようは上から下まですっかり着がえると、ぎゅっと帯を締め、髪もなでつけて一人、座敷に座っていた。玄庵はお園の父親のところへ行っていた。二人とも酒好きで、月に一度は夜を徹して飲み明かすことがある。今月はそれがまだなかったので、気を落ちつけ、ようやく話ができるほどに立ち直ると、おようはすぐにお園に頼んだのだ。
「今夜、うちの父さんを誘ってくれるように、棟梁《とうりょう》に頼んで見てくれる?」
「うん、いいわよ、そんなことはおやすい御用だけどさ、どうして?」
「あたしね、今夜、父さんに内緒で行きたいところがあるのよ」
「夜? 危ないわよ」
「平気よ。一人じゃないから」
おようはその時、一世一代の大芝居で、うれしそうに微笑《ほほえ》んでみせた。
「新吉さんが一緒だから」
お園はまあという顔をした。そして、彼女の今までの勘ちがいを、おようは心から感謝した。お園は二つ返事で、先生を引き止めて時間をこさえてあげる、殺されたっておようちゃんがどうしているかなんて言わないからねと請けあってくれたのだった。
「うまくやってね」お園はそうささやいて帰っていった。おようはうなずいた。
頭の中には、幼い子を抱えて放心したように座り込んでいた弥平《やへい》の娘の姿や、死骸のねじ曲がった指や、自分を信じ、力を貸してくれ、そのために命を落とすことになってしまった平太の顔が浮かんでいた。もう逃げてはいられない。今度はあたしの番がきたんだ。心に決めた。たとえ刺し違えても、かまいたちの息の根を止めてやるのだ。
おようは、父親が書き物机の後ろに隠している匕首《あいくち》を取りだし、たもとに忍ばせると、帯のあいだに、さっきこさえておいた小さな薬包みを押し込んだ。そして、一つ深く息をついた。
(母さん)亡《な》くなった母の位牌《いはい》に祈った。
(あたしを守ってちょうだいね)
戸を開け、敷居をまたいだ。そのとき、外へ出ようとしていた新吉と出くわした。
「ちょうどよかった」
おようは、自分でも驚くほどの落ちついた声で言った。
「あなたにお話があるんです」
「そんな暇はない」
新吉は言下に言うと、大股《おおまた》に歩きだした。おようはぐいと顎を引き、その後に続いた。
新吉の足取りは速く、おようはほとんど走るようにしてついていかなければならなかった。離されまいとして行く間は、自分とこの男とは殺すか殺されるかという間柄《あいだがら》なのだという感情が失《う》せ、恐ろしいとは思わなかった。果たしあいに向かうお侍はこんな気持ちではないのかしらと考えるゆとりすらあった。
それでも、新吉が立ち止まったときにはどきりとした。おようも一緒に足を止めた。
新吉は振り向いた。
「どういう気でいるんだ?」
おようを見て、腹だたしげに言った。
「だから、お話があると言ってるんです」
落ちついて、おようは答えた。
「あんた、自分が何をやってるのかわかってるのか?」
「よくわかってます」
おようが今まで見たことのないほど、新吉はじりじりしていた。
「大馬鹿の強情娘だ」
彼は険しい声を出した。
「後ろを向いて、今来た道をひっかえすんだ。さもないと……」
「斬《き》りますか」
新吉はいまいましそうに息を吐き、また歩きだした。さっきよりももっと急いでいる。おようは後をついて走り、その道があの切り崩しに続く道だと気づいた。何をするつもりなんだろう?
人気のない道。今夜は雲もなく、中天に爪痕《つめあと》のような月がかかっている。夜風が吹きつけ、おようの首すじのおくれ毛とあたりの草むらを寒々と震わせた。
再び新吉が足を止めたとき、おようはかなり息を切らし、それでもすぐ後ろについていた。彼は呆《あき》れ、かつ驚いていた。
「いったい……」
「まこうとしても無駄《むだ》ですから」
おようは、はあはあしながら言った。
「急患のとき、重い薬籠《やくろう》を担《かつ》いで父さんについて走るから、脚は丈夫なんです」
新吉は腰に両手をあて、ため息をついて首を振った。
「いいかい、あんたのしてることは……」
「あの印籠、偽物《にせもの》よ」
おようはだしぬけに言った。
(兵法の極意とは、機先を制することだそうだ)
玄庵《げんあん》が酔うといつも言うことである。
(つまりは相手を出し抜けということだ。そうなると、兵法というのは、如何《いか》に卑怯者《ひきょうもの》になれるかという知恵比べだな)
おようは何度となくこのせりふを聞かされてきたので、いささかうんざりしていた。けれども、卑怯者だろうと何だろうと、今ほどこの言葉の重みを感じたことはない。初めて、おようは先手をうてたと感じた。新吉がたじろいだからだ。
「何だって?」
彼は訊《き》き返した。
「あなたが平太さんから取り上げた印籠」
おようは大声を出した。
「あれは真っ赤な偽物でした。本物はまだ、あたしが持ってるわ」
木立が、草むらが、あたりの景色全体が月の光りの下でざわざわと揺れた。おようの頭の中にもその音が聞こえた。あるいはそれは、血の騒ぐ音かもしれない。
「嘘《うそ》は言わないわ。本物はあたしが持っています」
「それじゃ、なぜ」
新吉はなにげない仕草で腕組みし、あたりにちらりと目をやりながら訊いた。
「それを持ってすぐに番屋に駆けこまないんだ」
「つまらないからよ、それではね」
おようは肩をすくめてみせた。
「だから、あんたと取り引きしようと思ったの。平太さんはあんたをお縄《なわ》にすることばっかり考えていたけれど、あんたは別に賞金首というわけでもなし、つかまえたところで何の得にもならないものね。それで、印籠をすりかえておいたのよ。うちでは、表|沙汰《ざた》になると困るような怪我《けが》を負ったお武家を内緒で診てあげたりしますからね、そんな時、かたに取り上げた印籠があるのよ」
「なるほど。お奉行がしみったれておれの首に賞金をかけなかったんで助かったわけか」
「そうよ。お奉行さまを有難く思いなさいな」
「で? 取り引きってのは、どうしようってんだ?」
「お金よ。決まっているじゃない」
そう言いながら、おようはごくわずかずつ新吉に近づいていった。顔には、日頃《ひごろ》はほとんど縁のない媚《こび》をふくんだ微笑を浮かべ、それとなく、帯に手をやりながら。
「すぐに大金を、とは言わないわ。だけど、どう? これからは、人を斬ったら懐中のものを盗《と》ればいいじゃないの。違う? こうやって、喉《のど》をひとかき――」
間近に立ち、次の瞬間、素早く右手を帯のあいだに入れ、取り出したものをありったけの力で相手の顔めがけて投げつけた。白い粉末がぱっと散り、新吉が叫んで手で顔をおおった。
蟾酥《せんそ》である。蝦蟇《ひきがえる》から採る高価な秘薬で、強心、鎮痛と何にでも効く。ただ一つ気をつけなければならないのは恐ろしく目にしみるということで、この薬に触れたあとは何をおいても手を洗え、というのが玄庵の口癖だった。
おようは間髪入れずに匕首を抜いた。月明かりに、刃物は凶悪に閃《ひらめ》いた。つっかかっていくと確かに手応《てごた》えを感じ、はずみで自分もどうと倒れた。おようはもがいて立ち上がり、もう一度刃物を握りなおした。
新吉はうつ伏せに倒れたままだ。おようは震えながら何度も匕首を握りなおし、構えたが、彼が起き上がる気配はなかった。
人殺しとは、こんなに造作ないことなのだろうか。おようは呆然《ぼうぜん》として足もとの男を見、匕首を見、我と我が手を見た。匕首の刃と自分の右手のひらに、多くはないが確かに血がついている。
手から匕首が落ちた。身体《からだ》がふらふらと揺れた。終わった。これで済んだんだ。
おようが考えていたことは、ともかくもこうしよう、それで自分が殺されたとしても、その時はお園が自分がどこの誰といたのかを覚えていて、それが手がかりになってくれるだろう。そうでなく、今のように自分が勝ったなら、その足でお奉行所へ行こう。そして大岡さまに全《すべ》てうち明けて話すんだ。大岡さまは、筋の通った賢明な御方だ。心底から訴えれば、どうしてこうしなければならなかったか、きっとわかってくださるだろう。そして新吉の身辺を調べてもらえれば、きっと何か、彼が辻斬《つじぎ》りをしていたという証が出てくる。それでいい。そうでもしないことには、この先何人もの人が殺されることになる。あたしだって、父さんだって、結局は無事ではすむまい。こうしなかったなら……。
ふらつく足に力をこめ、来た道を戻ろうと振り向きかけた。その時、首筋に、背後から刀の切っ先が突きつけられた。同時に、どこかで聞いた覚えのある声が言った。
「御苦労だったな」
おようはその顔を見た。目を疑った。
「井手さま……!」
「まったく御苦労なこった」井手|官兵衛《かんべえ》は笑った。
「こっちにしてみれば、邪魔者どうしの同士討ち、手間が省けて結構なことだったぜ」
何が何だかわからないまま、おようは両腕で身体を抱くようにして立ちすくんでいた。それを見て、官兵衛と、その後ろにいる男はいっそう高く笑い始めた。おようは知るはずもなかったが、後ろの男は猪助《いすけ》である。
「いったいどういうことなんですか」
何とか頭をはっきりさせようとしながら、おようは訊いた。これはまるで、子供のころにみた悪夢のようだ。
「なあに、話せば容易なことさ」官兵衛は言った。
「およう、おまえが見たものは、全て本当のことだったんだ。こいつが」
と、足先で新吉を軽く小突くと、
「小田切政憲という旗本を斬ったところを、おまえさんは見ちまった。そこでこいつは逃げた。死骸を隠したのはこいつじゃなく、斬られた旗本たちの家臣たちさ。どうしてかわかるかい? 武勇で鳴る名門の当主が、得体の知れねえ辻斬りの手にかかって命を落としたとあっちゃ、お家の大事にかかわるからよ」
おようはあの時の、身なりを整えた侍を思い出した。
「おめえがおれたちを連れて戻ったとき、だから死骸はもう消えていた。ところが、おれはそこで印籠を拾った。おまえが死骸のそばで見つけたやつさ。丸に桐《きり》。小田切家のものだとすぐわかったよ。事情はのみこめた。おれは小田切の屋敷に出向き、これこれこうだと話すと、連中はあわてておれに頼んできた。何とかその場を見た者を始末してくれとな。もちろん、おれは取るものは取ってそれを引き受けた。そうして、おれの手下をおまえのところへ差し向けたんだ。平太をな」
身を守るように身体の前で組んでいたおようの腕から力が抜けた。
「平太さんが?」
「そうさ。おめえはえらくあいつを信用していたようだが、あいつがおめえの味方のようなふりをしたのも、みんなおめえを外に連れ出して、怪しまれないようにばっさりやるためだったんだ」
官兵衛はあざ笑った。
「ところが、こいつが出てきた。かまいたちがな」
官兵衛は足もとの新吉を顎《あご》の先でさした。
「おめえに顔を見られたうえ、おめえがどうあってもあきらめねえんで、口止めするためにな。こいつもおめえと同様、平太をおめえの味方と思って、証《あかし》を探しに行ったおめえら二人を狙《ねら》った。あの時、実はこの猪助が、平太としめし合わせておめえを殺すつもりだったなんて、夢にも思っていなかったわけだ」
おようは思い出してみた。あの時、平太がおようの腕を押えた。
(じゃあ、あれは……)
官兵衛は懐手《ふところで》したまま、おようが事の次第を理解していくのを面白そうにながめていた。そしてまた、足先で新吉をさす。
「この野郎が現れて、おめえに脅しをかけている。平太からそれを聞いたとき、おれは取り引きしようと考えた。代わりにおめえの始末をつけてやる。今までのように辻斬りを続けろってな」
「なぜそんなことを……あなたは、あなたはお役人じゃありませんか」
「お役人、か」官兵衛は唾《つば》を吐いた。
「お役人も、霞《かすみ》を食って生きているわけじゃあねえんだよ。こいつが今までのように暴れ続け、時にはおれたちの手引きにしたがって、廓《くるわ》帰りの商人や蕎麦《そば》屋の親父《おやじ》なんぞより、ずっと大物を狙ってくれりゃあ、これほど好都合のことはねえんだ」
「好都合?」
「大岡が奉行所から消えてくれるからよ」
官兵衛の言葉に、背後の猪助が陰気な笑いで同調した。官兵衛は続けた。
「こいつにとっても、悪い話じゃなかったはずだ。それなのに、証の印籠のことを知ると、この野郎は色気を出しやがった。おめえをおびき出すはずだった平太をぶった斬り、印籠を取り上げ、おれと直《ちょく》に取り引きしようと言い出しやがったんだ。おれがのらなきゃ、じかに小田切家にかけあうってな。旗本なんざ、市中を騒がしている辻斬りよりもお家が大事、この野郎に金を払って印籠を取り返し、何処《どこ》へなりと消えろということになる。そうなると、今度はおれたちこそ危ねえ。ゆすりのねたがなくなったからには、小田切家はおれたちの口をふさごうとやっきになるだろう。脅されたことの腹いせにもな。そこで、おれは仕方なしにこの野郎と手を組むことにした。今夜もそのために、こいつにここへ呼び出されたわけなんだが、およう、よくやったな、おめえのおかげでこっちは大助かりだぜ。印籠が偽物だ、なんざ、うまい嘘をついたもんだ」
官兵衛の背後で、猪助が不気味な笑いを浮かべ、匕首を抜いた。
「この猪助は『鬼殺し』の異名をとった男でな。腕は確かだ。痛い思いはせずにあの世へ行けるぜ」
「弥平さんを斬ったのもあんたなのね?」
おようは猪助を見た。
「おう、そうさ。あいつは井手の旦那《だんな》が印籠を拾うところを見ていやがったんだ」
「観念しな、およう。おめえはかまいたちに殺《や》られた、そのかまいたちをおれが斬った。明日の朝には、江戸中がその話でもちきりになるだろうさ。本当なら、かまいたちにはもうちっと暴れてもらいたかったんだが、こうなったら仕方ねえ。なに、大岡を追い払う算段は、またいくらでも考えるさ。ここは一つ、かまいたちを退治したというお手柄《てがら》をとることにするぜ」
官兵衛が合図をすると、猪助がゆらりとおように歩み寄った。おようは半歩あとずさり、倒れている新吉の腕をまたいでさらに一歩さがった。猪助はすぐそばまでやってきた。歯をむき出して笑う。今度こそ本当に駄目《だめ》だと、おようは身を縮めた。猪助は刃《やいば》を振り上げた。きっ先が月の光を浴びて光った。
突然、ぎょっとするような叫び声をあげ、猪助は頭からひっくり返った。
「よう、鬼殺しの親分」
新吉がゆっくり起きあがった。先ほどのおようの不意打ちのために、左目を閉じたままだった。だが、残った右目には強い意志の色があった。
棒立ちになったのは、おようも官兵衛も同じだった。官兵衛は目も口もいっぱいに開けて、うめくように言った。
「お、おめえ……」
「死んだふりってのは楽じゃないもんだ。特に、頭の上で自分の悪口を言われているときはなおさらな」
新吉は前に出て、ぽかんとしているおようを背中にかばった。倒れたきり低くうなっていた猪助ががっくりと首を落とし、静かになった。足首をつかまれ倒された拍子に、構えていた匕首《あいくち》が自分の腹に突き刺さったのだ。
「さあて、どうします。井手の旦那」
新吉は官兵衛に言った。
「あんたの用心棒は役にたたんようだ」
「おめえ、おれを斬るつもりじゃねえんだろうな」
官兵衛は冷や汗を流し始めた。
「欲しいもんはみんな手に入れているはずだろう。おれはおりる。今までのことには目をつぶるから、なかったことにしてくれ。おれを斬ったところで何にもならんぞ」
「御前はおまえを斬《き》れと言っておられる」
新吉は冷たく言った。
「小田切政憲と同じように斬れ、とな」
「御前?」
「大岡さまのことだ」
官兵衛の後ろで新しい声がした。姿を現したのは、大町半五郎だった。
「井手さん、あんたは一番肝心なところで読み違いをしているよ。与力同心のお役目をはきちがえているのとおんなしにな。新吉はかまいたちじゃねえ、お耳だよ」
(お耳!)
おようはあ然として新吉の背中を見つめた。この男の方が平太の言っていた「お耳」だっていうの?
新吉が動こうとしたのを、半五郎が首を振って止めた。
「いいんだ、おれにやらせてくれ」
半五郎は刀を抜いた。その温厚な顔が、月光の下で能面のように無表情に変わった。官兵衛があわてて刀の鯉口《こいぐち》を切ったが、気迫が違っていた。
勝負は一瞬でついた。
おようははっと目を閉じ、開けたときにはもう官兵衛は倒れ、半五郎の刀はもとのところへおさまって、おようがいつも見る丸いあの顔に戻っていた。
「怪我《けが》はないかい、おようちゃん」
半五郎は訊いた。
半五郎が淡々と絵解きしてくれるのを、おようはぼうっと聞いていた。
「かまいたちは、お旗本の小田切政憲さまだったんだよ……大岡さまは、ずいぶんと早くからそれに気づいておられた。だが、相手が旗本ではめったに手だしはできん。よしんば人を斬ったその場を押えたとしても、無礼討ちであるとでも言われたらどうにもならん。町方の者は、それで何度も煮え湯を飲まされてきた。そこで、お奉行さまはお耳を使って小田切家を調べさせてきたのだ」
半五郎は新吉に目をやった。おようもそうした。かれの目から、あの冷たい色が消えているような気がするのは気のせいだろうか。それともこれが本当なのか。
新吉があとを引きとった。
「小田切の家臣たちの間では、当主の乱心は周知の事実だったんだ。ただ、跡目が決まらないうちに政憲に何かあってはまずい。政憲の病は、いわば『人斬りの病』で――」
「殺人|淫楽《いんらく》」
おようはつぶやいた。新吉と半五郎は顔を見合わせた。
「新野先生がそう言ったのかい?」
半五郎が訊《き》いた。
「はい。かまいたちはそういう心の病にかかった者だろうって」
「そりゃ、さすがに慧眼《けいがん》だったよ」
新吉もうなずいた。
「だから、人を斬ってさえいれば、見た目には普通の状態でいる。そこで、家臣たちまでくっついて、政憲の人斬りに手を貸していたわけさ」
「やむをえずに、お奉行さまは内々に政憲を斬ることを新吉に命じられた」
半五郎は続けた。
「ところが、そこをおようちゃん、あんたに見られてしまった。見られたところで奉行所としてはかまわんが、小田切家ではそうはいかん。そこのところは、井手官兵衛の考えたとおりだ。やつは、そう思い込んで小田切家をゆすぶっていたんだからな。小田切家の方としちゃあ、そう思ってもらっていた方が都合がいい。勘違いをさせたまま官兵衛におようちゃんを始末させ、政憲は病死したことにでもして、ほとぼりがさめたころに官兵衛の口もふさぐ手筈《てはず》になっていたんだろう。官兵衛も馬鹿《ばか》なやつだ」
おようは頬《ほお》に手をあて、かぶりを振った。
「こんがらがってきました」
「まあ、無理もない。色々なことが一度に起こったからな。しかし」
半五郎はにっこりした。
「あんたはやっぱり新野先生の娘だけのことはあるよ。脅そうとすかそうと見たものは見たと譲らんし、さっきもな、新吉が『出るな』と合図しなかったら、わたしは危うく飛び出すところだった。ちょっとの間は、本当に新吉がやられたかと思ったほどだ」
「あれは名案だった」
新吉は笑った。左のひじのすぐ上が切れて、血がにじんでいる。おようの匕首がかすったあとである。
「まさかあんな手を考えつくとは思ってなかったんだが、おれもおようさんを甘く見ていたらしいな」
おようは二人の顔をかわるがわるながめた。わけても、新吉の顔を。
「それじゃ、全部承知の上のお芝居だったんですか」
ようやっと、そう訊いた。
「あたしや父さんを殺すって脅したことも、さっきのことも全部?」
「うん」新吉はさすがにすまなそうな顔になった。
「おようさんには、本当に――」
「気やすく呼ばないでよ」
おようはきっとなった。
「さんざん人のことをだまくらかしておいて、すまなかったですむと思うんですか」
「おいおい」半五郎がなだめにかかった。
「そりゃ確かにそうだが、嘘《うそ》をついたのもみんな、おようちゃんを守るためだったんだよ」
そんなことは言われなくったってわかっているのだ。けれども、一度言い出してしまった言葉は止められなかった。
「あんまりだわ、こんなことって。あたし、さっきは本当に人殺しをしたつもりで……ほんとに……覚悟して……」
言葉は宙ぶらりんに、おようは震えだし、顔色をなくした。新吉がなだめるように手を伸ばしかけたのをふりはらうと、かの女はよろけ、途端に今までの全《すべ》ての恐怖が、緊張が、疲労がどっとあふれでた。おようは拳《こぶし》を振り上げて新吉に飛びかかった。したたか殴ってやったらどんなにすっきりするだろう。
新吉は半歩さがっただけでおようを受け止め、叩《たた》かれるままになっていた。けれども、子供のかんしゃくのように振り上げた腕は、振り回すうちに力が失《う》せ、おようは泣きだした。こらえてきた涙が堰《せき》をきってあふれた。
そして、気がつくと新吉の腕に抱かれていた。
おようは震えながら泣き、しゃくりあげた。新吉は何も言わず、ただおようを抱きかかえ、ときおり優しく彼女の背中をたたいた。その仕草は、おようが子供のころ、夜中に悪い夢をみて飛び起きたとき、落ちついて泣きやむまで父の玄庵《げんあん》がしてくれたことと、びっくりするほどよく似ていた。そうして抱かれていることの心地よさに、ずっとこうしていたい、こうしていればもう怖いことなど何も起こりっこないと思えるほどだった。
しばらくして、半五郎が遠慮がちに声をかけた。
「邪魔するのは野暮だと思うが」
同心は頭をかいた。
「わたしはそろそろ呼び笛を吹かないとならん」
六
翌朝早くから「かまいたちが御用になった」という知らせが飛び交った。
「猪助《いすけ》っていう、昔は目明かしをしていた男だったんだってねえ」
「南町奉行所の井手|官兵衛《かんべえ》というお方がしとめたんだそうだ。ただ、それで自分も手傷を負って、まもなく死んだそうじゃないか」
「お役目とはいえ、有難いこった。これでやっと、安心して夜出歩けるってもんだよ」
おようはそんな町の噂《うわさ》を聞き、少しばかり不満があった。
「どうして、すべて井手官兵衛のお手柄にしてしまうの? 本当のことを公《おおやけ》にできないのはわかっているけど、何だかしゃくだわ」と、新吉に言ってみた。
「お奉行のお考えだよ」
彼は微笑しながら答えた。
「奉行所の不正を隠すわけじゃないが、井手のようなやつのことが広く知れたら、それ自体の引き起こすことの方がずっと困ったことになる。江戸中の人が、奉行所は信用できないと思い始めたら、恐ろしいことになるだろう?」
そうかもしれない。おようは考えなおした。せっかく大岡さまがここまで建て直してこられた市政なのだ。
小田切政憲の印籠《いんろう》の方は、朝一番で、大町半五郎が市中見回り中に取得したということで奉行に届け、それが評定所から老中の手に渡った。「急病」ということで押し通していた小田切家も、そうなってはもうごまかしきれないと見たのか、「当主政憲は『かまいたち』なる正体不明の輩《やから》により落命した」旨《むね》、言上した。それは半分だけの真実ではあるが、小田切家はまもなくおとりつぶしとなったから、結局は同じことであった。
江戸市中はすぐにもとのにぎわいを取り戻した。
新吉の腕の傷は案外深く、治るまで半月ほどかかった。治療はもちろん玄庵がした。
「喧嘩《けんか》かね」
「はあ」
「そりゃまた、理由は何だ? 酒か? 女か?」
新吉が何か言う前に、おようが父親をどんと脇《わき》へ押しやった。
「はい、はい、さらしを巻くんでしたらあたしがします。父さんは向こうの患者さんを診てあげてね」
玄庵が妙な顔をして行ってしまうと、おようは舌を出した。新吉は吹き出した。おようは澄ました顔で言った。
「あたしは案外、剣術の筋がいいでしょう」
その日の夕刻、玄庵が一人で薬研《やげん》をつかっているところに、差配の卯兵衛《うへえ》がやってきた。
「店賃《たなちん》かね」
「ここんところは、きちんと薬礼を払う患者が多いと聞きましたんで」
玄庵は渋い顔をした。
「早耳だな」
「向かいの新吉も、先生に腕かどこかの傷を診てもらっていたそうじゃないですか。あれは律儀《りちぎ》だから、薬礼もきちんと納めたでしょう」
「まあな」と、玄庵は顎《あご》をなでた。
「その代わりと言っちゃなんだが、どうも娘をもって行かれそうな気はするがな……」
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|師 走《しわす》 の 客
一
その客は毎年師走の一日にやってきて、五日の間、「梅屋」に泊まっていく。今年もまた律儀《りちぎ》にやってきた。
千住上宿にある梅屋は、夫婦二人と、年があければ九つになる息子の三人できりまわしている小さな旅籠《はたご》だ。
千住の宿は、奥州《おうしゅう》街道を上り下りする伊達《だて》様、松平様、佐竹様、南部様の通る宿場だから、古くからたいへんに繁盛してきた。それだけでなく、大勢の飯盛り女を抱えた遊女屋の町としても知られている。そんな中で、梅屋ひとつは取り残されたようなこぢんまりした商いを続けてきた。
それでも、梅屋でお客に出す飯は、千住上宿でもちょっとした評判のものなのである。板前あがりの竹蔵の腕のほどは、国中のあちこちを流れ歩いて舌の肥えている行商人たちが、わざわざ梅屋を選んで泊まっていくことをみてもよくわかる。
それにもうひとつ、この小さな旅籠は名前が良かった。主《あるじ》が竹蔵、子供が松吉、女房がお里で宿の名前が梅屋。四つあわせれば「松竹梅の里」になるという具合。師走の風と一緒に泊まりにやって来るその客も、飯と名前が気にいったと笑っている。
その客は、名を常二郎といった。伊達様の御城下で「鏡屋」という小間物屋をひらいているという。毎年師走に江戸に出てくるのは、鏡屋で正月用に商う髪飾りや櫛《くし》を仕入れに来るためだった。
「やはり、江戸のものは垢抜《あかぬ》けておりますから、御武家の奥様やお嬢様、商家の娘さんなんぞが喜んで買っていかれます」
さすがは商人、年齢は竹蔵と同じくらいだが、流暢《りゅうちょう》な江戸言葉をあやつる。色こそ抜けるように白いが、北国の人の、あのはにかんだような無口のところもなくて、人をそらさない常二郎は、梅屋の常客のなかでも特に逗留《とうりゅう》を待たれている人だった。
それはもうひとつ、常二郎の宿賃の払いかたがまた変わっていて、楽しみなものだったこともある。
「来年は巳《み》年、常二郎さん、どんな細工のものを置いていかれるでしょうね」
厨《くりや》で大根の皮をむきながら、お里が竹蔵に小声できいた。今夜の逗留客は八人、その八つの膳《ぜん》すべてに、できたてで熱つ熱つのふろふき大根を乗せようというので、竹蔵はせわしかった。
常二郎に限らず、師走に梅屋に泊まる客は、この年のうちに片づけねばならない商用を抱えてきているので、みな忙しい。だが竹蔵は、お客が遅くに戻っても、決して冷たい飯を出さないことを身上としている。そのために、小さな旅籠のわりには炭代や油代がかさむし、竹蔵が夜通し起きていなければならないこともあるのだが、これが梅屋の自慢だと思い定めているので、気にもならない。
「今度いただく細工もので、干支《えと》の半分になりますよ」お里がうきうきと言った。「子《ね》、丑《うし》、寅《とら》、卯《う》、辰《たつ》、巳――」
「早合点《はやがてん》しちゃいけない。常二郎さんが、今年も細工もので宿賃を払ってくださるとはかぎらねえよ」
竹蔵は笑って女房をいさめたが、心の中では女房と同じことを考えて楽しんでいた。
鏡屋常二郎は、梅屋の宿賃としていつも、金製の飾り物を置いていくのがきまりになっているのだった。その飾り物は、翌年、つまり新しく来る年の干支のもので、大きさは大人の親指の爪《つめ》ほどのささやかなものだが、細工は見事なまでに細かい。子年のねずみなら、しっぽに生えた産毛《うぶげ》まで見えるよう、寅の縞《しま》模様は金の表面にいぶしをかけてつくってあるという具合だった。
こんな次第になったのは、初めて常二郎が梅屋の客となった年の師走、宿泊が終わり、明日の朝には出立というときに、常二郎が竹蔵を座敷に呼び寄せたのが始まりだった。
「じつはね、ご主人」
常二郎は障子をたてきり、あたりをはばかるように低い声を出した。これで目つきが怪しかったなら、竹蔵はすぐと、このお客、逗留しておいて宿賃がないと言うつもりだなと思うところだった。
だが、常二郎の顔は明るく、目は生き生きとしていた。声をひそめて竹蔵を手招きしたのは、これがたいへんに良い話であるからだと説明を始めた。
「私がこうして毎年師走に江戸へ出てくるのは、表向きには、暮に商いするめぼしい品物を探して仕入れるためとなっていますが、本当は違います。私は、前の年に来たときに頼んでおいた細工ものを引き取りに来るのですよ。ですから、私が国に持って帰るのは、腕のいい職人が一年がかりでこさえた、たいへん素晴らしいものばかりなのです。もちろん、金銀、水晶、珊瑚《さんご》などをふんだんに使った、たいそう値のはるものばかりです。そして、おおかたは買い手がもう決まっています」
竹蔵は、感嘆したような顔はせずにうなずいてみせた。常二郎の言うことをうのみ[#「うのみ」に傍点]にはしない気持でいたからである。常二郎は竹蔵の目を見て続けた。
「ここでは、あいにくですがそれらの細工ものをお見せするわけにはいきません。師走の江戸は、走る駕籠《かご》かきのわらじさえ盗むようなやからがうろうろしておりますからね。どこで誰が耳をそばだてているや知れたもんじゃありません。ただ、これ一つだけはお目にかけて、ご主人にうかがってみようと思いましたもので」
そう言って、常二郎は懐《ふところ》から紫色のふくさを取り出した。ぺたりと平たくて、なにも包まれていないように見えたが、常二郎がゆっくりと広げていくと、とても小さな金色のねずみが出てきた。
「来年の干支の子でございますよ」と、常二郎はささやいた。「金むくです。この細工をごらんなさい」
竹蔵はまだ半信半疑ではあったものの、そっと手を伸ばしてねずみをつまんでみた。大きさに似合わぬ重さと細工の見事さで、どうも、本物のように思えた。
「見事なものでございますね」
常二郎に返すと、かれはそれを押しいただくようにして受け取った。
「そりゃあ見事ですよ。江戸でも一番の職人がこさえたものですから」そして、目を一段と見開いてささやいた。「大きな声では申せませんが、これは伊達様からのご注文でこさえさせたものなのです」
「それはまた……」竹蔵は身を引いた。「そんな大切なものを、私なんぞにお見せになってよろしいんですか」
常二郎は膝《ひざ》を揃《そろ》えて座り直した。「話はここからです」と、真顔になる。
「伊達様は、毎年一つずつ、その年の干支の置物をお集めになりたいということで、私どもにおおせつけになったのです。さすが、『伊達者』という言葉の土地|柄《がら》です。金にあかせて一時に揃えるのも簡単なことなのに、それでは趣向がないと、毎年ひとつずつ、年によって、干支によって少しずつ違う職人の腕前も楽しみながら、十二年かけてひと揃いにしようというのですからね」
「なるほど、さすがに粋《いき》でございますね」
竹蔵は如才なくあいづちを打ってはみたが、まだ、この話のどこに梅屋がおさまるのか見当もつかなかった。
「この話を| 承 《うけたまわ》ったとき、私は考えました。同じものをもうひと揃えつくろうと。もちろん、伊達様には内緒でです」
常二郎はにっこりと笑った。「気の長い話と思われるかもしれませんが、伊達様が十二年かけて集められる間、私も十二年かけて同じことをしようと思ったのですよ。そして、干支が揃ったあかつきには、それをそっと売りに出すのです」
「売ってしまうのですか?」
「はい。百両の商いになると思いますよ。伊達様はこれを揃えたなら、きっとご自慢の品として吹聴《ふいちょう》なさることでしょう。ひょっとしたら、将軍様に献上なさるかもしれません。そうなったらどうでしょう。どちらにしても、私の持っているもう一揃えは、にわかに価値があがるのです。伊達様や将軍様と同じものを持ちたい、それにはどれだけでも金を積もうという趣味人は、たくさんいるのですよ」
「でも、そんな大金を払って同じひと揃えを手に入れても、そのお人はどうしようもないのではありませんか。同じものを持っていることを吹聴しては、鏡屋さんが迷惑するでしょう」
常二郎はおおらかに笑った。「はい。ですから、秘密に持っていることが条件ですよ。それでも、趣味人というものは、他人に見せることができなくても、ただそれを持っているだけで満足だというものなのです」
竹蔵はうなずいた。自分にはとんと縁のない話ではあるが、金子のあるところではそんな見栄《みえ》や自慢の張りあいが幅を利《き》かせているのだろう。
「こちらに宿をとるまでは、私は、このもう一方の細工ものは、自分の手で大切におさえておこうと思っていました」常二郎は続けた。
「ただ、こちらでたいへんうまい暖かな飯を食べ、旅の身にはうれしいきれいな布団《ふとん》で眠り、掃除の行き届いた座敷にいるうちに、考え直したのです。私はこんな商いですから、こういう取り引きをすることも、これから何度でもあるでしょう。でもご主人、あなたのような方は、失礼ですが、こういうことにはなかなかめぐりあわないと思います」
「もちろんです」竹蔵は言った。「夢のような話ですよ」
「夢をかなえてみる気はありませんか」常二郎は身を乗り出した。「簡単なことです。私の宿賃を、この細工もので払わせて下さればいいのですよ」
竹蔵は驚いた。ちょっと言葉が出なかった。
「これから毎年同じ時期に、私はこちらに寄せてもらいます」常二郎はにこやかに言った。「そしてそのたびに、この細工もので宿賃を払いましょう。十二年たてば、伊達様がお持ちのと同じ一揃いが集まります。そうしたら、私がうまく仲立ちをして、それを欲しいというお人に売ることにすればよろしいのです」
竹蔵は返事に困った。常二郎はにこにこしている。
「私は、一生に一度くらい、あなたがたのように正直で、まっとうな商いをしているお方に、こんな良い機会をあげたいのですよ。十二年間、誰にも知られないように、大切にとっておくだけでいいのですよ。ひと揃い集めればいいのですよ。そうすれば、ここの松吉さんが大人になるころには、梅屋を千住の宿で一番の旅籠にすることも夢じゃあない」
竹蔵は、若い娘のように胸がどきどきしてくるのを感じた。
松吉も、梅屋も、かれにとってはかけがえのないものだった。そのかけがえのないものを、今よりもっと立派なものにすることができるかもしれない。こんないい話はめったにあるものではない。
竹蔵はこれまで、正直に地味に商いすることだけに専心してきた。賭事《かけごと》はもちろん、先物買いのようなことなど、手を出したこともないし、考えたことさえない。
だがこの話は、寝ているところに来た果報のようなものだ。
「本当に私どもに……」かれは慎重に問うた。
「ええ。私はすっかりそのつもりでいるのです。いかがでしょうか」
そう言ってから、竹蔵の困ったような顔を見て、常二郎はぴしゃりと額を叩《たた》いた。
「これはしたり。お困りになるのもあたりまえですね。どうです、まずはこのねずみを持って、あなたの御存じの口利きの人に、これが本当に金であるかどうか見てもらっては。ただし、その人は口の固い人でなければ困りますが」
結局、常二郎と竹蔵は連れだって、上宿には一軒しかない骨董《こっとう》屋にでかけていった。そこの主人は黙々とねずみを検《あら》ため、厳かに、すべて本物の金むくであると断言した。
「それでも、これではいただきすぎです」竹蔵は言った。「私どもの宿賃では、五日分でもこの細工ものに使われている金の値段の半分にもなりませんよ」
「ではそれは、来年の師走に私が来たときに、飯をたんと奢《おご》ってください」常二郎は言った。「毎年こちらに来ることが楽しみになってきました」
竹蔵はお里と額を寄せて相談をした。松吉も加わった。どんなことにせよ、いつも親子三人で決めてきたのだ。
「おとっつぁん、それ、おもらいよ」松吉は無邪気に言った。「とってもきれいだもの」
常二郎の申し入れを受け入れれば、かれの宿賃はもらえなかったと同じことになる。この細工ものは、十二個揃わないうちに売りにだしては意味がないし、下手をすると伊達様のお怒りにふれることになるやも知れないからだ。
「それでも、縁起ものではあるし」お里は優しく言った。「鏡屋常二郎さんは、私たちに儲《もう》けさせてやりたいとおっしゃっているんでしょう。そういうお心は、有難くちょうだいしましょうよ、おまえさん」
そんな次第で、梅屋はねずみの置物を受け取った。大喜びの常二郎は、十二個揃うまでは決して売りに出さないこと、盗まれることのないように用心することをくどいほど念押しして、国へ帰っていった。
約束どおり、翌年も、その翌年も、常二郎はやって来た。そして、丑、寅、卯、辰と、干支の順につくられた置物で宿賃を払っていった。
寅のところまではいちいち目利きを頼んでいた梅屋夫婦も、次第に常二郎に心をあずけるようになって、やがてはそれもやめてしまった。常二郎に対する信頼が深まるにつれ、かれへのもてなしは篤《あつ》いものになり、常二郎は滞在の間に、約束に違《たが》わず大切に保管されている置物を肴《さかな》に、竹蔵と楽しく酒を飲むことも、毎年のならわしとなっていった。
二
「今年も、いつものときがやってまいりましたね」
逗留の五日目の夜、梅屋夫婦を座敷に呼んで、常二郎は切り出した。
竹蔵夫帰は、毎年この客が来るのを心待ちにするようになっていた。常二郎もまた、年に一度の楽しみに顔を輝かせるのだった。
ところが、今年は様子が違った。常二郎は眉間《みけん》にしわを寄せ、落ちつかなげに指先を組んだりほどいたりしている。
「どうかなさいましたか」
気づかわしげな竹蔵に、ため息を一つもらしてから、常二郎は言った。
「どうも困ったことになりました」
「何かまちがいごとでも?」
「はい、実はほかでもない、あの置物のことなのですが……」
そのとき、たてきった障子の向こうでかすかな足音がした。常二郎は飛びあがらんばかりに驚き、血相を変えて障子を開け放った。
そこには、いやに太った大きな白い犬を抱えた松吉が、こちらもびっくり顔で立っていた。
「ごめんなさい。鉄がこっそり抜け出して歩き回っているものだから、連れに来たんです」
常二郎は竹蔵夫婦を見やった。なかばおかしそうに、なかばすまなそうに、お里が言った。
「鉄というのは、その犬の名前なんです。松吉がどこからか拾ってきまして。ごはんはたくさん食べるし、夜中でもこそこそ旅籠《はたご》中を歩き回ってお客様を驚かすし、困った犬なんですが」
「でも、ねずみを捕るじゃないか」松吉は頬《ほお》をふくらませた。「それに蛇《へび》も。鏡屋さん、鉄は、かけすやひばりやこまどりの卵を盗《と》りに来る蛇を捕まえて食べてしまうんだよ。とても役に立つ犬なんです」
「わかった、わかった」常二郎はうなずいた。「だから、しばらくよそで遊んでいなさい。おとっつぁんおっかさんは私と大事なお話をしているからね」
「わかりました」
おとなしくうなずいて、松吉は鉄を抱いていってしまった。鉄は名残惜しそうな鳴き声をたてた。
「さて、話をもどしましょう。まず、これをごらんなさい。来年の干支、巳年の蛇の置物です」
常二郎がふくさから取り出して見せたのは、金色に輝く見事な蛇の置物だった。ぐるぐると三重もとぐろを巻いて、頭をそのなかに伏せている。
「これはまた、見事なものですね」竹蔵は感嘆した。お里はほうとため息をした。
右回りにとぐろを巻いた蛇体《じゃたい》には、微細なうろこの模様まではっきりと見てとれる。これまでの置物と違い、二つのまなこは、特別に水晶でもはめ込んであるのか、きらきらと生きているように輝いていた。
だがもう一つ、これまでの置物と全く違うところがあった。大きさである。
「ごらんのとおり、とぐろの指し渡しが一寸半ほどの大きさです。これまでの置物の三個分の金が使われています」常二郎は言った。「それで困っているのですよ」
そこから先は言われなくても、竹蔵にも察しがついた。
「お困りの理由が分かりました。今年、私どもがこれをいただくと、余りに過分にお支払いいただくことになってしまうわけですね」
お里がまあといった。常二郎は陰気にうなずいた。
「そうなのです。どうしてこんなことになったのか、私も職人に問いただしてみたのですが、蛇というのはことさらにむずかしい代物《しろもの》で、気の済むように細工するにはこの大きさになってしまうのだというだけなのです。私があんまり大きさにこだわりますので、伊達《だて》様が、こんなに大きくては高くて買い取れないというわけはなかろうと言い出す始末でして」
どうしましょう。常二郎は夫婦の顔をじっと見やった。
「今回ばかりは、次の年に私が参ったとき、旨《うま》い食事と酒で埋め合わせてくれればいいというものではないのです。桁《けた》がちがってしまっています。だからといって、この巳年だけは抜かして十一個でいいだろうというわけにもいきません。あの置物は、十二個揃って初めて莫大《ばくだい》な価値をもつものになるわけですから……」
せっかくここまで集めていただいてきたのに、と、常二郎は唇《くちびる》を噛《か》む。しばしの沈黙のあと、竹蔵は思い切って尋ねた。
「この蛇の置物をちょうだいするとしたら、宿賃の分に加えて、あとどれほどお支払いすればよろしいのでしょうか」
「おまえさん……」お里が夫の腕に手をおいた。竹蔵はその手を優しく叩いた。
「いかがです?」
常二郎は考え込んだ。やがて、ぽつりと言った。
「十両はちょうだいしませんと」
「十両!」お里は座り直した。「とても無理です」
「残念ですなぁ……」常二郎は腕組みして目を閉じる。「なんとかなりませんか」
竹蔵は懸命に考えた。外では師走《しわす》の風がほとほとと窓を叩いている。
「十両、お支払いしましょう」かれは言い切った。
竹蔵が打った手は、目利きを頼んだあの骨董屋の主人に頼んで、この蛇の置物をかたに十両貸してもらうことだった。
骨董屋には、常二郎も一緒に行ってくれた。かれはふくさに包んだ置物を手にさげて、みぞれのちらつく夜道を、竹蔵に詫《わ》びたり、かれを励ましたりしながらついてきた。
骨董屋の主人は、表情のない平たい顔で二人の話を聞き取った。それから、蛇の置物をじっくりとながめた。そのときには、竹蔵と常二郎は隣の座敷に追い払われた。骨董屋の細君が出してくれた薄い茶をすすりながら、二人は黙って待った。
「お貸ししましょう」
やがて障子が開き、にこりともしない骨董屋の主人がそう返事したとき、竹蔵と常二郎は肩を叩きあって喜んだ。
「大事に保管して下さいよ。どこに置いておかれるつもりです?」
常二郎は心配そうに尋ね、骨董屋が鍵《かぎ》のかかる蔵におさめておくと答えると、では、私自身の手でそこに納めさせて下さいと頑張《がんば》った。
「梅屋さんにお渡しするときもそうしてきたのです。これが万一盗まれるようなことになって、同じものをもう一揃い、こっそりつくらせていたことが分かってしまったら、私は首が飛ぶかもしれないんですから」
骨董屋はその願いを聞き入れた。常二郎は、自分の気のすむ場所に蛇の置物を納め、うれしそうに竹蔵を見やった。
「これで私も、安心して明日の朝、発《た》つことができます」
帰り道は、雪でうっすらと白くなっていた。だが、竹蔵の心はほんわかと暖かかった。本当に夢を買ったという気持になっていた。十両はとほうもなく大きな借金だが、あと六年、十二支すべてが揃うころまでには払い終えることができる。いや、払い終えられるように精進しよう。
常二郎も喜んでいた。かれは竹蔵とお里に何度も礼を言い、明日が早いからと部屋にひきとった。竹蔵は弾む胸でお里と語りあい、すっかり夜更《よふか》しをした。また旅籠のなかをうろついていた鉄を叱《しか》り、二人で床についたときには、もう夜の九ツをすぎていた。それでも翌朝はいつもより早く起きて、常二郎のために豪華な弁当をしつらえた。
三
骨董屋から梅屋に、息せき切って丁稚《でっち》が駆けつけてきたのは、そろそろ昼の食事のしたくにかかるころだった。
「ないんです」丁稚は赤い頬をなお紅潮させて大声を出した。「あの蛇の置物がないんです!」
とるものもとりあえず、昨日とうってかわった暖かな日ざしに解けた雪を蹴散《けち》らしながら、竹蔵は骨董屋に走った。懐手《ふところで》に顔をしかめた骨董屋の主《あるじ》は、蔵の前で竹蔵を待っていた。
「消えてしまったんですよ」丁稚よりは落ち着いた口調だが、苦虫を噛み潰《つぶ》している。
「今朝私が、丁稚にも見せておいて、扱いに気を付けるよう言って聞かせようと蔵を開けると、蛇の置物だけがなくなっていたのです」
「あれだけが? ほかのものはなくなっていないのですか?」竹蔵は青ざめた。
「そうです」骨董屋はうなずいた。「それについて、私もちっと考えがあるので、今、女房と丁稚と二人とで、床下や裏庭を探させているところです」
「床下や裏庭?」竹蔵はただ、馬鹿《ばか》のように繰り返した。
そこへ、「いたいた! 旦那《だんな》さん、いました、見つけました!」という声が聞こえてきた。骨董屋は目顔で竹蔵を促すと、裏庭に向かった。
骨董屋の趣味なのか、形のいい盆栽が並び、解けた雪に濡《ぬ》れて、緑の松や椿《つばき》の葉がきらめいている。そのそばに丁稚が立って、二人に向けて棒っきれを高く差し上げた。
「そら、こいつです」
棒の先には、金色の蛇が巻きついていた。ゆっくりと、じっと見つめていなければ分からないほどの早さで動いている。
「びっくりしたなあ。旦那さん、こんな小さい蛇がいるもんですか」丁稚がきいた。
「これは青山蛇といって、奥州《おうしゅう》の山のなかにいるのだ。小さくておとなしい。それに、これはまだうんと子供の蛇だろう」
懐手をしたまま竹蔵を振り向くと、骨董屋は怒ったように言った。
「これで、あなたは十両と宿賃を騙《だま》し盗られたんですよ」
「騙し盗られた?」竹蔵はつぶやいた。
「騙し盗られたですって?」今度は叫んだ。
「そうですよ。あの男、あなたがたをすっかり油断させておいて、こんなものをつかませていったのです。寒いとき、蛇は動きが鈍いですからね。冷たい水のなかや雪のなかに置いておくと、まるで死んだようになってしまうものです。それに金粉を塗って、置物のように見せかけておいていったのです。今朝になって暖かくなったものだから、餌《えさ》を探して外へ這《は》い出していったんでしょう」
「だけど、あなたは目利《めき》きしたじゃありませんか」
「そのときだけは本物を使ったんでしょうよ」骨董屋はぶすりと言った。「そして、蔵に納めるときにすり替えたんです」
竹蔵は座り込んでしまった。しばらくは口をきくことができなかった。
「笑いなさい」面白くもなさそうに、骨董屋は助言した。「私のような商売では、こんなことにぶつかることもありますからね。そんなとき、私は笑うことにしているんです。それもできるだけ大きな声でね。さもないと、気が狂います」
竹蔵はしょぼしょぼと笑った。骨董屋は言った。
「それじゃあ、お宅に行ってみましょう」気の毒そうに竹蔵を見た。
「お宅に残されているほかの置物も、まず間違いなく、偽物《にせもの》にすり替えられていることと思いますから。確かめてみなければ」
竹蔵は立ち上がる気にもなれなかった。
四
骨董《こっとう》屋の懸念《けねん》は的中していた。子《ね》も、丑《うし》も、寅《とら》も卯《う》も辰《たつ》も、みんな二束三文の偽物にすり替えられていた。驚きもさることながら、夫の落胆の激しさに、お里は涙ぐんだ。
「おまえさん、どうかそんなに自分を責めないで下さいな」
「いや、何もかも俺《おれ》が悪い。俺が欲を出したから罰が当たったんだ」
両親のやり取りを聞いていた松吉は、悲しそうにうなだれて表に出ていった。
「それにしても、これだけ手の込んだことをして、私らのような小さな旅籠を騙して、一体どんな得があるんでしょう。ああいう人から見たら、十両ぐらい、ほんのはした金でしょうに」
骨董屋は気の毒そうに言った。「騙されたのがあなたたちばかりとは限りませんよ。ほかにも、品川や新宿、板橋、いやもっと遠くでも、たくさんの旅籠で同じようなことをやっているんでしょう。騙すための小道具は、一|揃《そろ》いこさえれば、あとは使い回しがきく。一件で十両、十件で百両。私だってやりたいですよ」
竹蔵夫婦ががっくりと肩を落とし、骨董屋が空をにらんでいると、松吉が半泣き顔でかけこんできた。
「おっかさん、鉄の様子がおかしいよ。何か悪いものを食べたのかな。暴れ回って苦しんでいるよ」
お里は夫を見やった。犬のことなど、竹蔵の頭からは消えている。と、にわかに骨董屋がしゃんとした。
「犬を飼っておいでなんですか」
「はい」相手の勢いに、お里はちょっと後ろに下がった。
「放し飼いにしていますか?」
「はい」
「昨夜《ゆうべ》も?」
「はい」
「様子を見にいきましょう。ところで、ここには虫下しを置いておられますか?」
暴れ回ったあと、鉄は苦しそうに腹を見せてふうふういっている。骨董屋は、水にとかした虫下しを飲ませると、松吉に鉄の腹をさすってやるように言いつけた。それから、かれの耳元で何かを短く囁《ささや》いた。松吉はぱっと目を見張った。
「本当?」
「たぶん」と、骨董屋は真面目《まじめ》に言った。
松吉は言われたとおりにした。骨董屋は梅屋の座敷で待ち、竹蔵とお里は気落ちをまぎらわすために忙しく立ち働いた。
半刻《はんとき》ほどして、松吉の歓声が聞こえた。
「骨董屋さん、出た出た出た!」
骨董屋は、竹蔵夫婦を連れて松吉のもとへかけつけた。松吉は、井戸水を盛大に流して何かを洗っていた。
そのそばで、すっかり元気になった鉄が尻尾《しっぽ》を振っている。
「そら、これだ!」
松吉が両親に差し出したのは、金色の蛇だった。あの置物の蛇だった。骨董屋は、唖然《あぜん》としている竹蔵夫婦に先んじて、それを手にとった。
「私が目利きしたほうですよ。本物ですよ」
「鉄は食いしんぼうだから、本物の蛇と間違って食べちゃったんだ」
松吉がぴょんぴょん跳ねる。鉄はわんわん吠《ほ》えてまつわりつく。
「上手にさばけば三十両にはなる」と、骨董屋は言った。「私が買い手を見つけましょう。大丈夫、いい正月が迎えられますよ」
竹蔵とお里は、きらきら輝く蛇から目を離さずに、しっかりと手を握りあった。
「でも、あの人はどうしましょう。常二郎さん」お里がつぶやく。
「ほうっておけばいいさ。もうやって来るもんか。今ごろ、どこかでおおあわてしているだろうよ」と、竹蔵。
「そうですな。今後、もしあいつがやって来ることがあって、置物の蛇はどうしたかときいてきたら、あれはあんまりよくできていたので、夜中になると鳥の卵を狙《ねら》ってしょうがない。困ったので、犬に食べさせてしまったと言ってやったらいいですよ」
骨董屋は言った。そして、鉄と松吉の頭をなでた。
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迷 い 鳩《ばと》
一
日本橋通町は、江戸中のありとあらゆる品物の問屋街である。時節を限らず一年中、行き交う人がひきも切らない。
そのにぎやかな人通りのなか、お客の切れ目に「姉妹《しまい》屋」の店まわりを掃除し、打ち水をしながら、お初は軽く鼻歌を歌っていた。
手桶《ておけ》の水はまだ冷たいが、ほうきを使うためにかがんだ背中やうなじにあたる日ざしは心地よい。温かな手で撫《な》でられているようだ。
お初のかたわらを、重そうな荷をしょった行商人やら、白粉《おしろい》のいい香りをさせた姐《ねえ》さんたちが通りすぎる。馬もいけば駕籠《かご》も通る。その間をぬって、使い走りか、前垂れにたすき掛けの商家の小僧さんが駆け抜ける。通りを彩《いろど》る立看板や屋根看板も、春の光の下、色合いもいっそう美しい。
お江戸はなんてきれいな町だこと。この町で生まれたあたしは幸せもんだこと。今さらのようにそんなことを思っているお初だった。
ところがそのとき、妙なものを見かけた。つい先を歩いていく女の人のたもとに、べっとりと血が着いているのである。
お初はぱちぱちとまばたきをした。
商家のお内儀《かみ》さんらしいなりをしている。お供づれだ。こちらからでは後ろ姿しか見えないが、すらりとした姿勢のいい人だ。
お初は目をこらした。目の迷いかもしれない。
けれども、よくよく見ても、その人の着ている小紋の袖《そで》に、濡《ぬ》れたような赤い色が見える。それだけでなく、じっとりと湿って、今にも地面にしたたり落ちそうなほどなのだ。
少しためらってから、お初は足元に手桶を置いた。小走りにその人に追いつき、声をかけた。
「もし」
振り向いたのは、三十を少し過ぎたところの、きりりと美しい顔だった。一緒に、お供の、いかにもお店《たな》の切れ者という感じの男も立ち止まる。
「なにか」女は小首をかしげた。
「お袖に血がついています。どこかお怪我《けが》でもされてはいませんか」
お初の言葉に、女は顔をしかめた。自分のたもとに目をやる。それからお初を見、お供の男と目を合せると、今度は両袖にふれてみて、訊《き》いた。
「何処《どこ》に?」
お初は驚いた。ほら、今にも地面に、子供にだって分かる赤い血がしたたりそうだというのに。
「あなた様のお袖です。どうして見えないんですか」
伸ばした手を、女はじゃけんに振りはらった。
「まあ、なんだろうこの娘は。そんな気味の悪い言いがかりをつけて、いったい何をしようとお言いだい?」
女の大声が、通りかかる人たちの耳にも入った。何だ、何だと足が止まる。
「どうしたい、巾着《きんちゃく》切りかい?」
早合点《はやがてん》の声が上がる。江戸という町は気が短い。取りまかれ、八ぽうから騒ぎ立てられて、お初はどうしていいかわからなくなってしまった。何度、この方のお袖に血がついているからと言い張っても、こぞってそんなものは見えないと言い返される。しまいには、こいつ顔ににあわねえふてえあまっこだ、番屋に引っ張っていくぞと怒鳴られて、冷や汗が流れた。番屋なんてとんでもない話だ。知った顔が通りかからないかと必死で見回す。押されたり小突かれたり、本当に巾着切りの扱いだ。
救いの神が声をかけてくれたのは、そのときだった。
「本当にありがとう存じました」
姉妹屋の奥の小さな座敷で、お初とおよしは並んで頭を下げた。
姉妹屋は、お初と、お初の兄嫁であるおよしが二人で切り盛りしている一膳飯《いちぜんめし》屋である。
「まあ、もうそれぐらいでいいではないか」
お初の救いの神は、目尻《めじり》のしわをいっそう深くして笑みを見せた。着流しに大小を差し、深編み笠《がさ》を手にしている。
さきほどから、是非にお名前をとたずねても、やんわりとはぐらかすだけである。着物にも紋はない。だが、相当の仕立てのものだということだけでも、そこそこの身分だろうと見当はつく。
「お武家様のおとりなしがなければ、とんだ大事になるところでございました」
「本当だわ。義姉《ねえ》さんたら、肝心なときにお店を空けているんだもの。あたしは心底、肝が冷えました」
人だかりに近づいてきたこのお武家が、騒ぎの一方の火元であるお内儀ふうの女に、静かだがよく通る口調で説いてくれたのだ。
「まずは懐中をあらためてみられてはどうかな。それで失《う》せ物がないようならば、ここはこの老体に免じておさめてくれまいか」
もとより、失せ物があるはずもない。お初はようやく解放された。そして、そのまま行きすぎようとするこのお方を請《こ》うて姉妹屋まで案内し、折好《おりよ》く買い物から戻ってきたおよしと二人、何度も畳に手をついているのである。
「もうよい、もうよい。それより――」
お武家は、お初の差し出した湯飲みを手に、店先の看板のほうを振りかえった。
「わしは、町中を歩くたびに、一膳飯屋に掛かっているあのような看板を不思議に思っておったのだが、あれにはどういう意味があるのかの」
姉妹屋の看板には、「鬼」と「姫」があしらってある。鬼は一人、姫は二人。近ごろかきかえたばかりで、小ぶりではあるが人目をひくものだ。
「煮しめの味が自慢の店は、みなああいう看板を出すのでございます」およしが答えた。
「鬼と姫で、『おにしめ』というしゃれでございます。よそでは鬼も姫も一人ずつでございますが、私どもは姉妹屋でございますので、姫は二人にいたしました」
「それは考えたものだ、なるほど」お武家はうなずいた。
「確かに、美しい姫が二人いる店であるな」
「鬼にあたるものもちゃんとおります」お初が言った。
「ほう。誰かの」
「お初ちゃんたら」およしがお初をたしなめる真似《まね》をしてから、笑みを浮かべて答えた。
「この娘の兄、わたくしの連れあいが、お上の御用をつとめさせていただいております。人によりましては鬼親分などと……」
「それでは、ここの主《あるじ》は通町の六蔵親分かね」
「はい。まあ、お武家様もご存じで」
「通町の六蔵を知らぬものなど、この辺りにはおるまいて。しかし、それならば、先刻の騒ぎのおりにも、皆にそう言ってやればよかったのではないかの」と、お初を見る。お初はおおげさに首を縮めてみせた。
「巾着切りに間違われるようなことをしでかしたと知れたら、兄のほうがずっと恐ろしゅうございます」
お武家は笑った。若者のような張りのある声だ。
「そうか、内緒、内緒ということだの。しかし――」
ふと、真顔に戻る。
「目明しの妹にしては、それらしくない見間違えをしたものよな。本当に、あのお内儀の袖に血がついているように見えたのかの」
お初は困った。今となると、自分が見たものが本当か、それともただの間違いか、心もとなくなっていた。
およしを見ると、こちらも膝《ひざ》のうえに手を揃《そろ》え、切れ長の目をじっと据《す》えて答えを待っている。なおさら返事がしにくい。
「わたくしは、確かに見たと思いました。それでも、あの場にいたほかの誰も、そんなものは見えないと言います」
目を上げて、お武家の思慮深い顔をまっすぐに見た。
「お武家様はいかがでございましたか」
「うむ。わしの目にもなにも見えなんだ」
「少しとりのぼせていたのでございましょう」
およしがすぐに、口をはさんだ。短兵急の六蔵とよくまあつれそっていられると思うほどおっとりがたの義姉にしては、あまりに軽い口調である。心配を押し隠していることが分かる。お初には、ありがたいが、気づまりなものでもあった。
ちょうどそこへ、いい具合にいい人がやって来た。お初は元気よく言った。
「お帰りなさい、直《なお》兄さん」
姉妹屋の入り口に顔をのぞかせたのは、お初の次兄の直次である。
日に焼けた顔に、背中に「庭」と染め抜いた紺のはんてん。六蔵より頭ひとつ背が高い。生業《なりわい》は植木職で、もうかなり前から植木町で独り住いをしており、姉妹屋には時々、思い出したように帰ってくる。そのほうが親方の住いにも近いし、気ままだからだろう。
「よう、近くまで来たんで――」
寄ってみたんだが、と言いかけて、直次は口をつぐんだ。ひどく驚いたような目でお武家の顔を見ている。いかにも思いがけない人に会った、という様子である。
お武家様はとお初が見ると、こちらも意外そうに、ほう、と口に出した。
「私の義弟でございますが……」伺うように、およしが言った。
「ふむ」お武家は顎《あご》を撫でる。
「そうか……ここがそなたの家だったか」と、直次に言った。
直次はきっちりと頭を下げた。
「御前様はお一人で」
「うむ。ちと散歩でな」
短く答えると、二人の顔を見比べているお初ににっこりとして立ち上がった。
「さて、思いがけぬ長居をしてしまった。造作をかけたの」
編み笠を取ると、もう一度念を押すようにちらりと直次を見る。彼もわずかにうなずき返したように、お初には見えた。
「では、通町の親分には内聞にの」
楽しげに、お初に笑みを見せ、お武家は外に出ていった。およしと二人、追いかけるように礼を述べ、その後ろ姿が見えなくなると、お初は飛びつくように訊いた。
「直兄さん、あのお武家様を知っているの? 何処のどなた? あたしたちには教えてくださらなかったんです」
「お旗本だよ」
そっけない返事である。お住いはどちらと問われて、ただ「日本橋」と答えるようなものだ。
「お旗本たって……」
「何度かお庭の御用で伺ったことがあるんだ。それより――」
逆に、直次が問うた。
「どうしてまた、あのお武家様がうちにいらしていたんだい?」
お初はことの顛末《てんまつ》を話して聞かせた。
「しょうがねえな……そそっかしい話だ」
苦笑いを浮かべて、直次は言った。
「まあ、お初らしいといえば、らしいかな」
「ひどいわねぇ。あのときは本当に見えたと思ったんですよ」
「本当に、本当?」およしがまた心配声を出す。あらあらと、お初は思った。
「どうかしらね。よくわかんなくなってきちまったわ」と、笑ってみせた。
「どこか具合が悪いわけじゃあねえんだな?」直次が訊いた。
お初はおよしの顔を見てしまった。それはさっきから、およしも尋ねたがっていたことで……そして、どうして尋ねないでいたのかも、お初にはよく分かっていたのだ。
「どこも、なんともありませんよ」
お初はぽんと胸を叩《たた》いた。直次はおよしに笑いかけた。
「心配無用だよ、義姉《ねえ》さん。これじゃ、病のほうで逃げ出しそうなもんだ」
「それならいいけれど」ようやく、およしが笑った。
「そう。ね、だから、後生だから六蔵兄さんには内緒にしておいてね。心配させてもいけないし」
「また叱《しか》られちまうしな」
お初は直次をポンとぶった。六蔵とは日頃《ひごろ》、喧嘩《けんか》ばかりしている。それでも、こんな真似はできない。何事もまず叱ってから、という短気な六蔵も面白いが、お初は、万事に温和で静かなこの下の兄が好きだった。
長兄の六蔵は、今年三十六になる。その下の直次が二十三、お初は十六だから、ずいぶんと年の離れた兄弟だ。兄弟たちの親は、お初が三つのときに火事でとられてしまった。それ以後は、六蔵とおよしが親代りになってお初を育ててきてくれたのである。
「義姉さん、ね、だから本当に心配しないでちょうだい。ね?」
ことさらに、お初は念を押した。ちらりと、およしの心が読めたような気がしたからだ。
「さてと。そうすると、今夜は口止め料に、うんと夕飯をおごってもらわねえと、な」
直次は陽気に言った。
二
その晩のことである。
通町四丁目のろうそく問屋、柏屋《かしわや》から遣いのものがやって来た。その一人は、間違いなく、お初が昼間見たあのお供の男である。手代の誠太郎と名乗り、頭を下げた。
もう一人はもっと年配で、番頭の弥助《やすけ》といった。そして、あのお内儀風の女が、柏屋の女主人、お清だったという。
「たまたま昼間の騒ぎを見かけていた人にあとから知らされまして……手前どもの女中のことでお手間をおかけしております親分さんの妹さんとも知らず、大変なご無礼をいたしました。これは些少《さしょう》ではございますが、柏屋からのお詫《わ》びのしるしとしてお納め下さいますよう」
酒樽《さかだる》と菓子折。お初とおよしは泣き笑いの顔をした。いつもは忙しい忙しいの六蔵が、今夜に限って奥の座敷にどっかりといる。
お初は大目玉をくった。
「そこつもんだな、おめえは」通町の親分はきめつけた。
「おれが日頃、何か口に出すときはようく考えて、胸の中で十数えてからにしろ、おめえはそそっかしいんだからと、あれほど言ってきかせてるのに、わからねえやつだ」
なにもそんなにぽんぽん言わなくたって。お初はふくれた。
「それだって、本当に見たんだもの」
ついさっきまでは、自分でも、あれはやっぱり目の迷い、気のせいだったのだろうと納得していたのだが、こう頭ごなしに叱られると、持ち前のきかん気が頭をもたげてきた。
この兄妹の気性をよく知っているおよしは、手慣れたもので、大一番に水を入れる行司のように二人の間に割ってはいった。
「おまえさん、それくらいにしておきなさいな。すんじまったことなんだし、お初ちゃんばかりが悪いわけじゃない、向こうさんだってはやとちりだったんですからね」
「まったく」六蔵はふんと鼻息をはいた。話の風向きを変えようと、直次が言った。
「しかし、お初が揉《も》め事を起こした相手が柏屋だったとは、通町も狭いもんだな」
「揉め事じゃありませんて」と、お初。
「わかった、わかった。でも兄さん、さっき柏屋さんが、女中のことで手間がどうのと言っていたのは、何の話だい?」
「おう、実はな……それでおれも頭を痛めているんだが」
六蔵はあぐらをかいて乗り出した。妹を叱りとばしていた顔に、別の懸念《けねん》がさした。
「柏屋でまた、女中が逃げ出してな」
「あら……またですか? あの噂《うわさ》のせいですか」およしが声をひそめた。
柏屋は、通町でも古株の老舗《しにせ》である。お初の出会ったお清は先代の一人娘で、五年前、婿《むこ》を迎えて跡をとった。それが、今の主人の宇三郎である。
宇三郎は、生まれは竪川町の小さな八百屋の次男坊である。十のときに柏屋へ奉公に出され、お清の婿に引き立てられたときは、柏屋のなかでも一番若い手代だった。
口数も少なく、真面目《まじめ》で、商いも手堅い。奉公人から引き立てられたからといって高ぶらず、むしろ、使われる側の心をよく承知しているので、店の者たちからも慕われている。
かれが婿になったのは、半分はその勤勉・誠実を買われたことでもあるが、残りの半分は、先代が、かれに惚《ほ》れ込んだお清に押し切られたのだという事情は、通町では有名な話だ。そんなわけで、通町の旦那《だんな》衆も、最初のうちは宇三郎をはすっかいにながめていたが、二年もすると、柏屋の円滑な商いぶりが認められ、宇三郎の旦那としての信用も、しっかり地に着いたものになっていた。
ところが、その宇三郎が半年前に突然、原因の分からない病に倒れた。以来、寝たきりである。
しかも、その病は悪疫《あくえき》で、人に伝染《うつ》る――という噂が立ち始めた。
ふた月前に、寝ついている宇三郎の世話をしていた女中が逃げ出したことが、そもそもの始まりである。柏屋から町役に届出があり、六蔵が手を尽くして逃げた女中を探し出すと、かの女はどうしてもお店《たな》に戻るのは嫌《いや》だという。
「旦那様のお付きをしていると、あたしも具合が悪くなるんです」
確かに、女中の愁訴は宇三郎のそれとよく似ていた。頭痛に吐き気。時には熱も出る。ただ、女中のほうが、宇三郎よりも軽くて済んでいた。
その一時期、柏屋はかなり客足が落ちた。しかし、勝気なお清は、人の噂は聞き流し、しつこく訪ねてくる怪しげな祈祷《きとう》師やら占い師をせっせと追い返して、商いを続けてきた。柏屋の真ん前で悪疫よけのお札を売っていたいんちき巫女《みこ》に、お清が手桶《ておけ》で水をぶっかけたときは、六蔵もその場に居合わせていて、大いに胸のすく思いをしたものだ。
お清のそのきっぱりとした態度と、宇三郎を診ている町医者の榊原《さかきばら》の、
「医師の私がそう診立てている以上、間違いない。柏屋さんの病は人に伝染るようなものではない」
という、終始冷静な言葉のかいあって、ここのところようやく、商いも元通りになってきたところだ。
そこへまた、噂を蒸し返す、女中の出奔である。
「今度の女中の名はおつね、としは十八、やっぱり宇三郎の世話をしていた」
「逃げ出したのはいつのこと?」
「三日前の晩だ。出ていくところを見たものはいねえし、今のところ、足取りもさっぱりつかめねえ。大したものはねえが、荷物もきれいに片づいていたよ」
「やっぱり、宇三郎さんの病が怖くて逃げたのかしら」
「そうとしか思えねえんだよ」六蔵は腹立たしげに言った。
「いなくなるちっと前に、おつねは仲間の女中に、『旦那様のお部屋にいると気持が悪くなる』と話していたそうだ。柏屋も女中の数が減っちまって、仲間といっても、残っていたのは飯炊《めした》きの小娘だけなんだが、その娘だって馬鹿《ばか》じゃねえ。おつねがいなくなったことですっかり怯《おび》えちまって、こっちはなだめるのに大骨をおらされたよ」
「しかし、まずいことになったもんだな」直次がつぶやいた。
「そうなんだ。また、らちもねえことを言いふらす奴等《やつら》が出てくると、今度は以前に輪をかけた騒ぎになるだろう。柏屋もそれを気に病んでな。さすがのお内儀《かみ》も青くなっていたわけよ」
「それで、おまえさん、内聞に始末してあげるつもりなんですね」およしが言った。一段、優しい声である。
「うむ。本当なら、きちんと探索のお届けを出すところなんだが、まあ、事情が事情だ。柏屋も気の毒だしなあ」
めずらしいなと、お初は思った。六蔵という人は、通町の親分は金座の大秤《おおばかり》、ぴたりと公平、お目こぼし一切なし、お城の石垣《いしがき》なみのかちんかちんという通り評判で、それが看板の岡っ引きなのだ。
「それはおまえさん、いいことをしましたよ」
「ほんとだわ」お初もうなずいた。
「なんなら、あたし、明日柏屋さんまで謝りに行ってきます。気持の悪いことを言っちまったんだもの。怒られてあたりまえだったわね」
機嫌《きげん》をなおしたのか、六蔵は直次に、一杯やるかともちかけた。およしとお初は支度にかかった。
「兄さんは、柏屋のお清さんて人のことを知っていたの?」
思いついて、お初は訊《き》いてみた。
「お店の主の顔も知らねえじゃ、ここでの御用はつとまらねえよ」
「あら、それだけかしらねえ」ひやかすようにおよしが言った。
「お清さんて、若い頃《ころ》は通町小町って呼ばれてたんですってさ。だから、宇三郎さんと祝言《しゅうげん》となったときには、ずいぶんと悔しがった男衆が多かったそうよ」
「そういや、きれいな人だったわ」お初は笑った。少し取っ付きにくい感じもしたが、出会いが出会いだけに、それは割り引かねばなるまい。
「兄さんも、悔しがったうちの一人だったんでしょう」
「なまを言うんじゃねえよ、おめえは」
お初は笑って、ひょいと酒樽を持ち上げた。重かった。
そのとき。
お初の頭が、がんと痛んだ。こめかみからこめかみへ、畳針でも突き抜けたかのように。目がくらみ、辺りが真っ暗になり、その瞬間、お初は耳の底に激しい叫び声を聞いた。「助けて、助けて、人殺し!」
樽を持つ手に、火傷《やけど》のような痛みが走った。思わず取り落し、派手な音がして中身があふれ出た。
それは真っ赤な血、血、血しぶきだった。畳のうえいっぱいに、お初の手にも、足にも、着物の袖《そで》にも裾《すそ》にも。たった今ここで人殺しがあったかのように。そして再び、耳も割れるばかりの悲鳴が。
「ひ・と・ご・ろ・し!」
お初は気が遠くなった。
三
翌日。
朝一番で、榊原先生がお初を診に来てくれた。柏屋をとりまいた悪い噂の一件以来、六蔵はこの若い医師の人柄《ひとがら》に惚れ込んでいて、誰よりも先に、この医師のところに使いを走らせたのだった。
昨夜《ゆうべ》のあの恐ろしい光景は、またも、お初の目にしか見えなかったものだった。
家族からそれを聞かされても、お初には信じられなかった。あんなにも生々しく、血の匂《にお》いさえ鼻についたような光景が、どうして目の迷いや気のせいであるものか。
それでも、それでも、お初以外の誰も、六蔵も、直次も、およしも、なにも見えはしなかったという。見たのはただ、お初が悲鳴をあげて酒樽を落し、倒れたところだけだという。もとより、「人殺し!」という叫び声など、どこからも聞こえはしなかったという。
医師が特に時間をかけてお初の目のなかをのぞき込むのを、およしが乾いた唇《くちびる》を噛《か》んでながめていた。
「これという異常はないように思えますが」
しばらくして、榊原医師はゆっくりと言った。
「どこか痛むところはないかね?」
「ございません」お初は答えた。
「とりあえずは安静にしていることだ。それで少し、様子を見ることにしよう」
およしは医師を送り、しばらくたってから一人で戻ってきた。唇を噛みしめるのをやめてちょっと微笑《ほほえ》むと、お初の枕元《まくらもと》に座った。
「気分はどう?」
「もうなんともないわ。心配をかけてごめんなさいね」
お初も少しばかり無理して微笑み返した。そうすることで、自分も、およしも、安心しあわなくてはならないような気がした。
「ねえ、お初ちゃん」およしが少しためらって、小さく言った。
「お初ちゃん、今、月のさわりだわね……」
お初はうなずいた。一昨日からだ。お初にしてみれば、これで二度目のことだった。先月の今ごろ、初めてそのことがあったときには、ひどく具合が悪くなって困ったものだが、今はそんなことはない。女なら誰でもそのときに思う、「うっとうしい」という気持だけである。
「女はね、月のさわりのときには、誰でも少しばかりとりのぼせたり、いらいらしたりするものよ。あたしだってそう」
「先生もそうおっしゃっていたの?」
およしが戻ってくるのにひまがかかったのは、その話をしていたからなのだろう。
「そうね、そのことは考えに入れたほうがいいとおおせでしたよ」
お初は黙っていた。せめて、榊原先生がもっとお年寄りだったなら、こんなにきまり悪くないだろうに。
「とくに、お初ちゃんはまだ慣れていないし。だから……」
「わかったわ。義姉さんも、そのことでは心配しないでちょうだいね。昨日からずっと、そのことで案じていてくれたんでしょう?」
およしは返事のかわりに微笑んでみせた。
「さあ、おとなしく寝ているんですよ。あたしは少し、買い出しに行かなくちゃ」
その頃、六蔵は一石橋のたもとにいた。
一石《いちこく》橋は日本橋の北方、西河岸町の近くにかかる橋である。ここに今朝早く、若い男の土左衛門《どざえもん》が上がったという知らせが入ったのだった。
「どうやら、飛び込みのようです」
定町廻《じょうまちまわ》り同心の石部《いしべ》正四郎がやって来るのをみて、六蔵は死骸《しがい》のそばから立ち上がった。彼はこの石部から手札をもらってお上の御用をつとめているのである。
「仏は何者だい」
がっちりとはしているが小柄《こがら》な六蔵にくらべて、石部は相撲とりになろうかという巨体である。急いできたので息が切れている。
「こりゃあまた、えらく痩《や》せていやがるな」
「病み上がり、という様子ですねえ。身元の分かるようなもんは身につけていませんでした」
「そうなると、ちっとやっかいだな」石部は軽く舌打ちした。
「死顔はこのとおりきれいなもんですし、身体《からだ》にも傷がねえ。まだむくみがきてねえところを見ると、どぶんとやらかしたのは昨夜《ゆうべ》でしょう。念のため、近所をあたらせていますが」
六蔵はまた片膝《かたひざ》をつき、片手で仏を拝むと、痩せさらばえた身体をむしろでおおってやった。合図して、番屋まで運ばせる。それをしおに、たかっていた弥次馬《やじうま》も散っていった。
戻ってきた下っ引きたちの話では、昨夜この辺りで不審な人影や物音を見聞きしたというものはなかった。そのうえ、日本橋川を一町ほどさかのぼった土手蔵の陰に、わらじが一足、揃《そろ》えて脱ぎ捨てられているのがみつかった。
「ほかには何もなかったかい」
「へい、こぎたねえわらじだけで。おおかた、博打《ばくち》にでも金をつぎこんで、どうにも困っちまってどぶん、てところじゃねえですかね」
「まあ、あて推量したってはじまらねえ。まずは身元を洗うこった。人相書きをつくって町役をとおしてふれさせろ。早いとこ身よりのところへ帰してやらねえと、仏も落ち着くめえ」
「六蔵兄さんは」と、お初は言った。
「榊原先生に任せておけば心配ねえ、万事先生のおっしゃるとおりにしておけって」
夕刻である。暮六ツの鐘が、いくらかくぐもって耳に届く。ひと雨きそうな気配だ。
「先生は心配ないっていうお診立てだったんだろう?」直次が言った。少し前に仕事を終え、急いでお初の様子を見に来ていた。
「うん」
返事をしてから、お初は布団《ふとん》に顎《あご》をうめ、考えた。あたしの目に映る幻、この騒ぎは、もともと病じゃない。だから、榊原先生がいくら名医でも、分からないのじゃないかしら……。
「なあ、お初」
腕組みをして、どこか遠いところを見るような目をしていた直次が、お初に顔を向けた。
「昨夜見た幻と、その前の、柏屋のお清さんの袖に血が見えたことと、もう一度、詳しく話してくれねえかな」
お初は言われたとおりにした。そうするのは、直次が枕元にやって来てから、もう三度目になるのだが。
「どうしてそんなに同じことばっかり訊くの?」
兄は考え込んでいる。そしてぽつりと言う。
「何度聞いても、ちゃんと同じことを言ってるなあ」
「だって、見たとおり――ううん、見たと思ったとおりのことだもの」
「それに、お前の見た幻は、みんな柏屋《かしわや》にからんでる。そのことが、おれはひっかかるんだがな」
そういえばそうだ。お清の袖に見えた血。手代の誠太郎が持ってきた酒樽《さかだる》。
「それと、お前の聞いた例の悲鳴だ」
温かな布団のなかで、お初は身震いした。
「人殺し! って叫んでた」
「どんな声だったか覚えているかい? 男か、女か、子供かそれとも年寄りか」
「そうね……若い娘さんの声だったような気がするわ。カン高くて、必死の感じだった」
「柏屋からは、おつねって女中がいなくなってる」
直次はゆっくりと言った。
「そのことと、その悲鳴と、なにかつながらねえかな」
お初はちょっと返事ができなかった。
「つながりって――どうして? どういうつながりがあるっていうの?」
「もしもの話が、だ」
もしも、のところを強くして、直次は続けた。
「おつねって女中が、本当は逃げ出したんではなくて、何か災難にあって死んだか、あるいは殺されているのだとしたらどうだい。それを知らせようとして、お前の目に幻を見せているのだとしたら」
お初はぽかんと口を開けた。またひどく突飛なことを言い出したものだ、この兄さんは。
「あたしは八卦見《はっけみ》でも何でもないわよ。兄さん、お芝居の掛け小屋にでも通ったんでしょう。そこでそんな話を聞き込んできたんじゃあないの」
直次は笑いだした。
「そうじゃない。もっと出所の確かなところから、そんなような話を聞いたことがあるんだよ」
「気味が悪いわ」
「そうだな……まあ、そんなこともあるかもしれねえってことさ。おれも少し気になったから、柏屋に出入りしたことのある仲間に、それとなく訊いてみたんだよ。そいつらの言うことじゃ、おつねって娘は旦那《だんな》につかえてよくやっていたそうだ。まあ、それほどはきはきしたほうじゃなかったが、気立てが優《よ》くて、てまめでな。そんな娘が、病人をほったらかして、しかもなんの断わりもなしに逃げ出すようなことをするかな」
「でもね、人の気持は変わるものでしょう。自分も具合が悪くなったら急に怖くなったのかもしれないわ。奉公人には、身体の丈夫だけが身代だもの」
江戸の町に身ひとつで働きに出てくるものは大勢いる。それらの人たちが何とか暮していけるだけの仕事があるからだ。しかし、それはあくまでも身体が丈夫であってのこと。病や怪我《けが》で動けなくなったら、すぐに食べることさえ困るようになる。華やかに、豊かにものの溢《あふ》れるこの町は、どこよりも「金が仇《あだ》」の町でもあるのだ。
直次が部屋を出ていったあと、雨が降り始めた。その雨音を聞きながら、ひと眠りしようとお初は目を閉じた。
しばらくして、枕に頭をつけたまま、ぱちりと目を開いた。
四
六蔵の元へ、土左衛門の男の身元が分かったという知らせが来たのは、三日後のことだった。
桶《おけ》町に住む藤兵衛《とうべえ》という桶屋の親方が、それはひょっとすると、半年前まで自分のところで働いていた圭太《けいた》という男ではないかと申し出てきたのである。
「まちがいございません。これは圭太でございます」
仏の顔を検《あらた》めると、藤兵衛はそう返事をした。死骸にはもう腐《いた》みがきていたが、その額にそっと手をやって、可哀想《かわいそう》にな、とつぶやいた。
「なかなか真面目《まじめ》な働き者でしたが、胸を患《わずら》いましてね。元は川越《かわごえ》の在で、兄夫婦がそこで畑をこさえているので、いっそしばらくそっちへ引っ込んで、ゆっくり養生してからまた江戸へ出てこいと言ってやったんですが……」
「この身体つきじゃあ、病がすっかりよくなったというわけじゃなさそうだがな。何でまた江戸に出て来たのかねえ」
さあ……と、藤兵衛は首をかしげた。
「また働きたいというのだったら、何をおいても私に知らせてきたと思います。圭太は律儀《りちぎ》ものでしたから」
「江戸に身よりは?」
「ねえはずです」
「親方のところでは住み込みだったのかい?」
「いいえ、通いでした。住まいは確か……そう、鈴木町のほうだったと思います。ぼんぼり店《だな》という裏長屋で」
そこで、下っ引きの一人を川越へ走らせたあと、六蔵は鈴木町に向かった。
長屋はどこでも、違うのは名前だけ、中身は似たようなものである。
ぼんぼり店も、風流な名前を裏切る見栄《みば》えのしないところだったが、差配は頭のしっかりした、自分の役目にも、それこそぼんぼりのように明るい男だった。圭太のこともよく覚えていた。
「店賃を滞ることもありませんでしたし、働き者でしたよ。あの年ごろの男にしちゃ、悪所通いをすることもなかったし、隣近所のかみさん連中にも好かれてましたね。あたしも、ああいう店子ならいつだって引き受けてやるつもりでしたから、病がよくなってまた出てくるときには、うちを頼っておいでと言ってやったくらいです」
「特に親しくしていたもんはいましたかね」
「さあね……無口でおとなしい男でしたから、人に親切にされればありがたく受けてはいましたが、自分から他人《ひと》様に関《かか》わろうとするところはなかったなあ。いや、私も一度、縁談を持ち込んで断わられたことがありましてね。隣町の小さい煙草《たばこ》屋の一人娘で、良い話だと思ったんだが、どうしても気がすすまねえというんでね」
思い出すと、今でも残念そうな口ぶりである。
「ほかに女でもいたのかね」
もしそうなら、その女に会いに江戸に出てきたのかもしれないと、六蔵は思った。
だが、差配は笑って手を振った。
「とんでもない。圭太には女っけはありませんでしたよ。あたしの話を断わったのは、桶屋の親方に気兼ねしたからでしょう。あれには男の友達もいないようだったし――」
ふと言葉をきって、思案顔になった。
「そうそう、忘れちゃいけない。圭太は鳩《はと》を飼っていましてね」
「鳩? ひとりもんの男が鳩を飼って暮していたってことかい?」
「そうですよ。それだけが道楽でしたねえ。足のところに赤い紐《ひも》を結んであったから、近所のもんもすぐに見分けがつくようになりましてね。よく仕込んでありましたよ。どこにいても、口笛一つでぴゅっと飛んで帰ってくるし。川越へ引っ込むときも、小さい籠《かご》に入れて連れて帰りました。うちのところの子供らは、ずいぶん寂しがったもんです」
圭太がなぜ、わざわざ江戸に出てきて死ぬようなことになったのか――今のところは、川越にやった下っ引きを待つより手がなさそうだ。
六蔵はそう思い切って、榊原《さかきばら》医師の住む平松町へと足を向けた。お初のことを、もう少し聞いておきたいと思ったのである。
榊原医師は、父親の代からの町医者である。まだ独り身で、六十近い母親と二人、下働きの男を一人置いただけで暮している。急病人のあるときは自分で薬籠《やくろう》を担《かつ》いででかけていく。式台もなし玄関もなし、先生のいるときには、いつも患者が表まで溢れている。
「ちょうど良かった。たった今、柏屋さんから戻ったところだったのです」
若い医師はきさくに六蔵を出迎えたが、心なしか元気がないように見えた。
「また、宇三郎さんの具合が悪くなったんで?」
六蔵は急いで訊《き》いた。
「ひどい腹痛です。とりあえず薬湯を飲ませ温湿布をしてきましたが、あれで落ち着いてくれるかどうか……」
板敷の床に座り込み、医師は背中を丸めている。六蔵は黙って、勧められた湯飲みに手を伸ばした。ここで出される白湯《さゆ》や茶は、気のせいか薬くさいようだ。一方の壁をふさいでいる大きな薬棚《くすりだな》や、使い込まれた薬研《やげん》や乳鉢《にゅうばち》が目に入るからかもしれない。
宇三郎の病状が相当悪いことは、六蔵も知っている。おつねの一件で柏屋を訪ねたとき、彼がわざわざ起き出して挨拶《あいさつ》に来たからだ。紙のようにかさかさになった肌《はだ》。寝巻の隙間《すきま》からのぞくあばら骨の飛び出し具合。痛ましいほどだった。
(おつねが逃げ出したくなったのも、わからねえではないな……)
江戸という町は女が少ない。娘一人、腹のくくりようによっては、重病の主を介抱してすごすより、もっとずっと気楽で豊かな暮しがおくれるというものだ。
「情けない話ですが、今の私の力では、宇三郎さんの、そのときそのときの苦しみを和らげてあげることで精一杯の有様です」
「先生のお診立てを疑うわけじゃ毛頭ございませんが、他人に伝染《うつ》ることはねえ、というのは確かなことでございますか」
「それは間違いなく」医師はきっぱりとうなずいた。
「働き盛りの大の男をあれほどに弱らせるほどの激しい病です。もし他人にも伝染るものなら、今ごろ、柏屋には元気なものなど一人もいなくなっていることでしょう。この私とて、ここに床を延べて寝込んでいますよ」
疲れたような笑みを見せる。
「今だから申し上げられることですが、私もほとほと手をつかねて、あるいはこれは病とは別のものではないかと考えたことさえあったのです」
「と、おっしゃいますと」
「何か毒物のせいではないかと思ったのです」
それと分かるほどに目付きを鋭くして、六蔵は座り直した。医師はあわてて手で制した。
「そんな怖い顔をしないでください。私の思い過しでした。口実をつけて内密に調べてみたのですが、毒物などどこからも見つからなかったのです」
食事はもとより、井戸水や、肌に触れる衣服や寝具まで調べてみたが、怪しいところは何もなかったという。
六蔵は声をひそめた。
「そうでしたか……いや、それを聞いたらお話しできますが、実はあっしも同じようなことを考えたことがありましたんで」
「六蔵親分も?」
「へい。といっても、言い出したのはあっしの弟の直次のやつなんですが。あいつはあっちこっちに出入りしますんで、色々と見聞きしています。で、宇三郎さんの病の様子が、以前、石見《いわみ》銀山ねずみとりで心中し損なった親子の様子と、よく似ていると申しますんで」
医師は、ほう、と声をあげた。
「それは慧眼《けいがん》ですね……。私も、考えられる毒物として真っ先に思い浮かべたのは、砒毒《ひどく》でした」
「なるほど。いや、あっしもそのときは、確かに直次の言うことも理にかなっていると思ったんですが、しかしねえ」
六蔵は顎をひねった。
「いったい、柏屋のなかの誰が、宇三郎さんに毒を盛ろうと思いますかねえ? 奉公人たちにも慕われているし、お内儀《かみ》のお清さんとは、惚《ほ》れあって、先代の反対を押し切って一緒になった仲だ。今だって、商いを切り盛りしながら、そりゃあよく尽くしているじゃありませんか」
医師は大きくうなずいた。
「私も、お内儀には頭がさがる思いです。それだけに、よけいに自分の力足らずが歯がゆいのですよ」
「あっしとしては、そのへんの事情を知っているだけに、まさかと思いましてね。それに、もしそんなことなら、真っ先に先生がそれと気がつかれるはずだ。それで、口に出さずにきたんですが。やっぱり、先生も同じことをお考えでしたか」
「らちもない話でした」医師は苦笑した。
「――ただ、ちっとばかり気になることがないわけではねえんです」
六蔵が言うと、医師も真顔に戻った。
「これはあっしの思いすごしかもしれねえんですが――先生は、手代の誠太郎というやつをどう思われますか」
「どうといっても……いたって真面目な男のようですし、商いにもなかなか冴《さ》えがあるという評判ですよ」
「へい。誠太郎は、ほかの奉公人たちとは違って、年季奉公で柏屋にいるわけじゃありません。実家は会津の大きなろうそく問屋で、柏屋とも取り引きのあるところです。そこから、いわば商いの修業に来ている身でしてね。そのせいかもしれませんが、お内儀のお清さんにもなれなれしいところがありますし、宇三郎さんが倒れてからこっち、しょっちゅうお内儀にくっついていますしねえ」
「今の柏屋は、お清さんと誠太郎でもっているようなものですから、仕方ないのでしょう」
話がそんなところにいったので、お初のことを尋ねそこねてしまった。医師のほうがそれを察したのか、
「妹ごの具合はいかがです?」と、水を向けてくれた。
「へい、今のところは落ち着いているようで」六蔵はほっとして答えた。
「普段はもう、うるさいくらい元気のいいやつですから、なに、ちょうどいいくらいですよ」
「あまり心配されないほうがいいですよ」榊原医師は優しく言った。
「病とは思えませんし、もともと若い娘ごは感じやすいものです。お初さんは明るいひとですから、すぐに元気になられるでしょう」
その頃《ころ》、当のお初は柏屋《かしわや》に向かっていた。
こっそり身支度して、およしのすきをみて外に出ることなど、造作もない。姉妹屋はいつもどおりの繁盛だったから、およしは一人でてんてこまいしていた。
あれからずっと、お初はお初なりに、これまでの出来事を考えてみていた。そうしているうちに、直次の言っていたことが、小さなささくれが気になってたまらないように、お初の心のなかをちくちくとつっつくようになってきたのである。
直次の言ったことをうのみにしたわけではない。だが、じっとしていてもらちはあかないのだし、幻を見たのも、悩まされているのもお初一人のことだ。どうにかして理由を突き止めて見ようじゃないのと、度胸を決めた。
義姉《ねえ》さんの言うとおり、あたしが今、少しばかりとりのぼせているだけのことなのかもしれない。でもひょっとしたら、もっと深いわけがあって、ほかの人には見えないもの、感じ取れないものが、あたしにだけは分かるのかもしれない。
春の風にのって燕《つばめ》が一羽、お初のまえを気持よさそうに横切ってゆく。
(あの燕だって、うんと目のいい人には胸の羽毛の色まで見分けられるけれど、近目の人には燕か雀《すずめ》かも分からない。そういうことと同じかもしれないわ)
まずは、先日のお詫《わ》びという口実でお清にあってみよう。そこでまた何かが起こるなら、今度はしっかりとそれを見とどけるのだ。
(六蔵兄さんにこんなことを話したら正気を疑われるのがおちだけど、あたしにはあたしの考えがあるってもんだわ)
目を上げると、柏屋の堂々たる店構えがもう間近にきていた。見事な桟瓦《さんがわら》が重たげにおおいかぶさって、その下に眠る秘密を押し隠しているように見える。お初はひとつ身震いをした。
「ごめんくださいまし」
五
お清は丁重にお初を迎えた。
奥の間に通されたお初は、屋敷の広さ、決して派手ではないが贅《ぜい》を尽くした造りに驚かされ、張りつめた気分が少し緩んだほどだった。やはり、美しいものには目がない年ごろなのだ。
今日のお清もまた、美しかった。薄紫色の着物が白い肌をひきたてている。お清が現われたとき、少しどきりとしてたもとに目をやったが、血のしみは見えなかった。
「素晴らしいお屋敷でございますね」
宇三郎の病のために柏屋も一時は商いに苦しんでいたはずだが、これだけの屋敷を維持しているのは、やはり並大抵の財力ではない。
お清は微笑《ほほえ》んだ。このひとの笑顔をお初は初めて見た。
「みな、先代、先々代の残したものでございます。わたくしどもでは、奉公人の数も減ってしまいましたし、なかなか手入れも行き届きません」
そういう言葉つきは、どこかなげやりだった。そういえば、家のなかはずいぶんとひっそりしている。残っている奉公人たちは、みな店に出ているのだろうか。
「あの欄間は、みんな季節の花を彫ったものなのですか」
お初が訊いたのは、大輪の牡丹《ぼたん》を絵柄《えがら》にした欄間の透かし彫りのことだった。唐紙で仕切られた隣の座敷のものは、通りがかりにちらりと見かけたかぎりでは、あやめのようだった。
「お気に召しましたか」
さしてうれしくもなさそうに、お清は言った。
「あれは、会津藩名産の絵ろうそくの下絵をもとに、江戸でも指折りの大工に彫らせたものなのだそうです。先代は、絵ろうそくを柏屋の売り物にしておりましたから。今でも、会津の製造元とは親しく行き来しております」
お清がそんな説明をしているところに、
「お内儀さん」と、声がした。
「失礼いたします」お清がつと立って、座を外した。廊下のほうに引っ込んでしまっているので姿は見えないが、相手は女中だろう。おつねと一緒にいたという飯炊《めした》きの娘にちがいない。声をひそめたやり取りのなかで、ときどき、「旦那《だんな》さまが……」とか、「それは私がしましょう、らくはお店のほうを」などの言葉がこぼれてくる。飯炊き娘の名は、おらくというらしい。
宇三郎さんの具合がまた、悪くなったのかもしれない。そう思いながら頭をめぐらせ、また欄間の方へと目をやった。
そこに、血しぶきが見えた。
透かし彫りのあちこちに、なすったような血の色が見える。さっき感嘆して見上げたときにはなかったものだ。お初は息を呑《の》み、目を見開いた。
よく見ると、その欄間はこの座敷のものではない。彫られている花は牡丹ではなく、菊だった。その細い花びらのあちこちに血がついている。
また、頭が絞り込むように痛んできた。どきんとした。来た、と、手のひらに汗がにじんでくる。目のまえがすうっと暗くなり、身体《からだ》が縮むような感じがしたと思うと、お初の目のまえに、観音|扉《とびら》をいっぱいに開き、あかあかと燈明《とうみょう》をともした仏壇に向かっているやせて縮こまった男の背中が見えた。
(これは……このひとが宇三郎さんだ……)
明りをふっと吹き消したように、その光景が消え、畳に広がった血の海のなかに倒れている、一人の娘の姿がとってかわった。同じ場所だ。仏壇と、菊の欄間が見える。娘は洗いざらした縞《しま》の着物を着て、その胸のあたりが血でぐっしょりと濡《ぬ》れている。乱れた髪が顔にかかっているのに、大きく開いた目で天井を見据《みす》えている。
血の気の失《う》せた白いほおに、小さなほくろが見えた。ぴくりともせずに横たわっているその娘の手に、真新しいろうそくが一本握られているのも見えた。指の関節が白く浮き出すほどにきつく握りしめている。流れ出た血がどんよりと溜《たま》りをつくり、生き物のようにじわじわ広がっていく――
お初ははっと我にかえった。首ががくんとした。
「どうかなさいましたか」
気がつくと、お清が戻ってきていた。お初は声も出せず、かぶりを振った。お清の頭越しに欄間を見上げる。柔らかな花の線をそのまま映して彫った、見事な牡丹。
お清は少しも変わりなく、すっきりと背を伸ばして座っている。髪一筋の乱れもない。さっきお清のいれかえてくれた湯飲みからは、まだ温かな湯気がたちのぼっている。幻は、今度もほんの一瞬のことだったのだ。だが、それで十分だった。
いとまをつげて帰るお初を、お清はきちんと見送りに出てくれた。お初は人知れず背中に冷たい汗を流していた。
それでも、ここまで来て引き下がるわけにはいかない。表から柏屋を出ると、その足で今度は勝手口に回る。飯炊きの娘に会わなければならない。
店先からまわれ右して、総檜《そうひのき》の塀《へい》をめぐる。こうしてみても、この屋敷は広い。
一段低いくぐり戸を抜け、勝手口から厨《くりや》に入った。土間に背を向けるようにしてかまどがきってあり、その脇《わき》に大きな水瓶《みずがめ》がある。
人の気配はない。だが、しばらく様子をうかがっていると、軽い足音が近づいてきた。十四、五の小柄《こがら》な娘である。声をかけると、
「なあに、物売りならお断わりだよ」と、愛想のない声を出した。
「そうじゃないの。あたしは、ここで働いていたおつねさんの友達なんだけど」
娘は疑わしげに顔をしかめた。
「おつねさんには友達なんていなかったよ」
「そんなことないわ。あたしたち、そりゃあ仲良しだったのよ。あんた、おらくちゃんでしょう?」
「どうしてあたしのこと、知ってるのよ」
「おつねちゃんにきいたの。あんたが働き者だから、とっても助かるってほめていたもんよ」
ようやく、おらくの表情がゆるんだ。お初は続けた。
「あたしは四丁目の小さい雑穀問屋にいるんだけど、お使いでついそこまで来たもんだから、おつねちゃんに会えないかと思って寄ってみたの。お店《たな》の人には内緒で、ちょっと呼んでもらえないかしら」
おらくは困った顔になった。嘘《うそ》が下手なのだ。
「おつねさん、今はいないわ」
「あら、お使い?」
そう言ってから、お初は心配顔をつくってみせた。六蔵から、おつねの出奔は、表向きには、母親が急病で故郷《くに》に帰ったことにしてあると聞いている。
「それとも、ひょっとしたら故郷に帰っちまったのかしら。このまえ話したとき、おっかさんが具合が悪いって言ってたけど……」
おらくは飛びついてきた。
「うん、そうよ。そうなの」
「あらまあ……おつねちゃんもたいへんだわ」
そのとき、お初の頭のうえで不意に羽音がした。振り向く間もなく、一羽の鳩《はと》が騒々しく羽ばたきながら、お初の肩にとまろうとしておりてきた。驚いたお初は思わず手を上げて顔をかばうと、鳩は離れ、一間ほど先の地べたに降りると、のどを鳴らしながら首をかしげた。
「――びっくりしたわ。でも、可愛《かわい》いこと。よく慣らしてあるのね」
おらくは首を横に振った。
「あたしが飼ってるわけじゃないわ」
「まあ、野鳩には見えないけれど」
鳩の羽は白く、右の足に赤い紐《ひも》が結んである。こんなに近くに人がいても逃げないのだし、どこかで飼われているものだろうと、お初は思った。
「その鳩、おつねちゃんがよくかまっていたのよ。ときどきうちに飛んできちゃ、餌《えさ》や水をもらってたの。おつねちゃんはいなくなっちまったのに、まだ飛んでくるの」
「そうだったの……」
直兄さんの言っていたとおり、おつねさんは優しい娘だったんだわ。迷い鳩の面倒をみていたんだもの。そう思うと、さっき見た幻の恐ろしさがよみがえり、同時に、無性に腹立たしくなってきた。
そんなお初を、鳩はつぶらな黒い目で見つめ、ぱっと飛び立っていった。
「あの鳩も、おつねちゃんがいなくて寂しいでしょうね」
「おつねさん、とっても可愛がっていたからね。いつかなんぞ、このお屋敷の床下に野良猫《のらねこ》が這《は》い込んでね。そんなところで住みついて、鳩にかかられたらいけないって、おつねさん、床下にもぐりこんで猫を引っ張り出したくらいよ。あたしも手伝わされちまって」
「たいへんねえ。床下なんて、気味悪かったでしょうに」
「うん。でも、旦那様の病がよくならないのは、床下にがま[#「がま」に傍点]が住み着いているからじゃないかって、番頭さんがどこかから聞き込んできて、みんなで掃除をしたあとだったから、あたしにはたいして苦じゃなかったわ。おつねさんは、あとで気持が悪くなっちまって、なんだか青い顔をしてたけど、面倒かけてごめんねって、きれいな半襟《はんえり》をくれたっけ」
「がま[#「がま」に傍点]ねえ……ここのお内儀《かみ》さんは、そんなまじないごとみたようなことは嫌《きら》いだと聞いていたけれど。いいお医者様がついていることだし」
「そうよ。だから、内緒でしたの。がまなんて、いやしなかったけれど」
主の病を治そうと、お店のものたちも懸命なのだ。おつねもそうであったはずだ。急にいなくなるなんて、筋が通らない。
そういえば、さっきの幻は、宇三郎が仏壇に向かっている光景だった。
「ねえ、旦那様も信心をなすっているの?」
「信心て?」
「お仏壇を拝むとか……」
おらくはうなずいた。
「そんなら、毎日よ。今みたいに病にかかるまえから、旦那様の習慣だったのよ。今でも朝晩拝んでるわ。加減が悪くてできないときは、お内儀さんに言って、かわりに拝んでもらっているくらいだもの。ご先祖を大事にしないと罰が当たるって」
あたし、もういかなくっちゃ。おらくはそわそわしだした。
「こんなところで油売っているのを見つかったら叱《しか》られちまうわ」
「そうね。ひきとめてごめんなさいね」
おらくがぺたぺたと足音を立てて廊下を去っていったあと、しばらくして、お初はもう一度柏屋に上がり込んだ。脱いだ履物は帯の間に突っ込んで、とんだくのいち[#「くのいち」に傍点]である。
おつねが殺されたのは、菊の彫られた欄間のある部屋だ。仏壇も見えたところをみると、たぶん仏間だろう。そこで宇三郎が朝晩、おつとめをしているのだ。
足音を忍ばせ、そっと廊下をたどる。広い屋敷のなかはどこまでもしんとしている。
お初とて、通町に生れ育った娘だ。大きな屋敷はほかにも見たことがある。それでも、こんなに静かで人のぬくもりのないところは初めてだ。
(人殺しがあったうちだからだ。このうちは、ここでむごいことが起きたことを知っているんだ)
いったい、いくつ部屋があるんだろう。用心深く唐紙を開けては中をのぞき込むと、そこには広い畳があるばかり。菊の欄間はみつからない。それに、磨《みが》き込まれた廊下はひどく滑る。
角をひとつ曲がり、思わずため息をついたとき、仏壇で鐘を打つ音が聞こえてきた。
お初はぴたりと動きを止めた。低い読経《どきょう》の声もする。お清の声だ。おらくの言ったとおり、宇三郎のかわりにおつとめをしているのだろう。
声を頼りに、お初は十分に用心して唐紙を開けた。その唐紙は、お初が手をかけるまえから、ほんの少し隙間《すきま》があいていた。
お清の後ろ姿が見えた。仏壇の扉が開いている。線香の香りがする。欄間の透かし彫りは――
(菊だ!)
間違いない。さっきの幻の場所だ。ちゃんとあった。
お清の読経は続く。部屋のなかは、幻で見た有様とは全く逆に、畳が光り、唐紙は白く、欄間の菊は美しい。仏壇は、お初のうちのつつましいものの倍はありそうな大きさで、金もふんだんに使ってあった。
ただ、なんとなく、ちょっとおかしなところがある。それが何だか、お初は考えてみたが、すぐには答えがみつからなかった。
お初はそっと、唐紙を閉めた。ところが、閉めても、またほんの少し隙間が残る。柏屋さんのお屋敷で、立てつけが悪いはずもなかろうに。
廊下の向こうから、人声が近づいてきた。お初はあわてて勝手口に戻った。
おつとめをするお清の様子のどこがおかしかったのか、それが分かったのは、柏屋からだいぶ離れて、ようやく胸の動悸《どうき》がおさまってからだった。
あの仏壇には、お燈明がともっていなかった。
そのまま姉妹屋に戻る気にもなれず、川岸にそって江戸橋まで歩きながら、お初は思いに沈んだ。
(おつねさんは、どうして殺されたのかしら)
気になるのは、幻のなかのおつねが手にしていた一本のろうそくだ。命を落してもまだ、しっかりと握りしめていた。
たかがろうそく一本盗んだくらいで殺されるなんて、どう考えてみてもおかしすぎる。おつねは奉公人だ。何か不調法があったなら、年季の途中だろうと、やめさせてしまえばすむことではないか。
欄干にもたれて、あしもとを見おろした。日本橋川はゆるゆると眠気を誘うように流れている。
お初はぐったりと疲れが出てくるのを感じた。
(こんな捕物みたようなことはあたしの得手じゃないわ。やっぱり、六蔵兄さんに話してみようか)
それでも、どう話す? 今度はあたし、柏屋さんで死んだおつねさんの姿を見たのよ、では、兄さんは尻《しり》っぱしょりで榊原《さかきばら》先生を呼びに行くだけだろう。お初はため息をついた。
「お初!」
不意に、後ろで大きな声がした。直次だった。走ってきたのか、はあはあいっている。
「なんだ、直兄さん」
「なんだじゃねえぜ、おどかすやつだな。いったい、どこへ行ってたんだ? おまえの姿が見えねえって、義姉《ねえ》さんが青くなって、おれのところまですっとんできたんだ。今、みんなで探し回ってるぞ」
「柏屋《かしわや》さんに行ってたの」
お初は元気なくつぶやいた。これでまた、ひと騒ぎだ。
「直兄さん、あたし、あそこで大変なものを見ちまったのよ」
お初は、これまでのことを、できるだけ順序だてて話して聞かせた。
直次は終始腕組みをしたまま、じっと聞き入っていた。お初の話をさえぎったのは一度だけ、幻のなかで見たおつねがろうそくを握りしめていた、というくだりにきたときだった。
「ろうそく――確かにろうそくだったんだな?」
「そうよ。あたしもそれが不思議でしょうがないの。蔵いっぱいにろうそくのある柏屋で、どうしてろうそくを握って殺されたのかしら。合点《がてん》がいかないわ。わからないわ」
お初は嘆いた。
「直兄さんから、六蔵兄さんに、柏屋を調べてくれるように頼んでみてくれないかしら。あたしが言ったんじゃ見込みないもの」
「それはどうかな……おれでも駄目《だめ》だろうよ。兄貴は、夢幻なんかじゃない、はっきりしたよりどころがなければむやみに人に疑いをかけたりはしねえからな。まあ、そこが信用できるところなんだが」
「石頭だもんね」
しばらく黙り込んでから、直次はぽんと欄干を叩《たた》いた。
「この際、てっとり早くいこう。柏屋の仏間のろうそくを調べてみればいいんだ」
お初は目を見張った。
「どうやって? ごめんください、ろうそくを拝見って行くの?」
「馬鹿《ばか》な。こっそり調べてみるのさ」
「夜盗の真似《まね》をするの? 兄さんが?」
「おまえだってくのいちの真似をしたじゃねえか。おれにできねえってことはねえさ。たまには下っ引きめいたことをするのも面白いかもしれねえぜ」
六
その夜、真夜中も大きくまわった頃《ころ》。
お初は、明りを消した部屋のなかで、布団《ふとん》をひっかぶり、格子《こうし》窓から首だけ出して胸をどきどきさせていた。
結局のところ、直次はでかけていったのである。
(商売|柄《がら》、身は軽いんだ。心配するな)
そう言い置いていって、かれこれ一刻はたつ。お初は夜に耳を澄まし、呼び子は聞こえないか、人声はしないかと、息を殺して待っていた。
幸か不幸か、新月の夜は墨を流したような真っ暗闇《くらやみ》である。通りの外れの番屋の灯《ひ》がぽつんと一つ震えているだけで、あとはなにも見えない。どこかで猫がなき、立て掛けてあるものが倒れるような音がした。
(遅い、遅いわ)
お初は布団を引っ張ってじりじりした。
階下の部屋では、六蔵とおよしが寝静まっている。昼間は、およしには泣かれ、六蔵には叱り飛ばされた。ただただ謝ってあとはおとなしくしていたのだが、今はもう、いざとなったら二人を叩き起こそうと思い始めていた。
それから四半刻。そっけなく静まり返った夜に、お初の辛抱が切れた。
乗り出した窓から、軒を伝って外に出られる。お初はとうとう格子をまたぎ、足音を立てないように用心して屋根に降りた。闇にまぎれて下が見えないから怖くはないが、どうにも足元が心もとない。板葺《いたぶき》の屋根を踏み抜いたら、兄夫婦の頭のうえに真っ逆さまである。
軒先までにじり寄ると、うまい具合にすぐ近くに天水|桶《おけ》がある。そこに足を掛けて下へ降りたら、あとは柏屋まで何とか走っていこうと、裾《すそ》をたくし上げて膝《ひざ》を乗り出したところに、不意にかちかちと送り拍子木の音が耳に入った。こんな時刻に誰が木戸を通ったのか知らないが、お初はびっくりして足を滑らせた。
(おっこちる!)
――と思ったが、落ちなかった。黒い影がぱっとかすめて、危ないところでお初を捕まえた。
「こんなところで何をしてるんだよ!」
直次だった。上から下まで黒ずくめの格好だが、まちがいない。
「よかった! あんまり遅いから心配になって」
直次はお初を抱えて軽々と歩いた。屋根を踏む音さえしない。
「直兄さん、まるでお猿《さる》だわね」
感心する間に、ひょいと格子を越えて、お初は部屋に戻っていた。そこには六蔵のぶっちょう面《づら》が待ちかまえていた。
「直次はともかく、お初は間者《かんじゃ》にはなれねえな。えらい音がしたぜ」
むっつり顔の六蔵に、直次は手早く子細を話した。話がお初の見たおつねの幻のことにかかると、六蔵は目をむいた。
「おめえら、二人してまだそんなことにかかずらっていやがるのか」
強く言ってから、一時、気遣わしげにお初の顔を見た。お初は身を縮めた。
「兄さん、以前、柏屋の宇三郎さんの病は本当は病じゃないかもしれないって話をしたことを覚えているかい?」
「忘れるわけがねえよ」六蔵は太い声を出した。
「今日もちょうど、榊原先生とその話を蒸し返したばかりだ。だから言うがな、先生もいささか怪しいと思って、お調べになったそうだ。それで、食い物からも水からも着物からも、柏屋のどんなものからも毒なんぞこれっばかりも見つからなかった、というおおせだったんだよ」
「そうさ。見つかるはずがねえんだ。毒がしかけられていたのは、このろうそくなんだからね」
直次は言って、柏屋から盗み出してきたろうそくに火をともした。黄色い炎がともり、小さくゆらめいて、光の輪をこさえた。
「宇三郎さんには、朝晩、仏壇にむかっておつとめをする習慣があった。病にかかるまえからだ。そのとき仏壇にともすお燈明《とうみょう》に毒をしかけておけば、誰にもわからないじゃないか」
そういうことだったのか……お初は、知らない人の顔を見るように、直次の横顔を見た。この兄さんは、捕物のような荒ごとには無縁の人だと思っていたのに。
「それだから、宇三郎さんのそばにいることの多い女中も、具合が悪くなったんだ。榊原先生の来るときには、戸を開けて風を入れておけば、なにも残らねえ」
「あたしが今日見たとき、お清さんは仏壇にお燈明を上げずにおつとめしていたわ」
お初がつぶやくと、六蔵はえらの張った顎《あご》を突き出した。
「だからお清がやったっていうのかい?」
「おれはそう思う。もっとも、一人で考えたことじゃあないとは思うよ。女が自分の亭主をどうこうしようと思うなんて、たいがい、後ろに別の男がいるときだ。これは兄さんからの受け売りだったかな。怪しいのは、手代の誠太郎だ。しょっちゅうお清とつるんでるし、生まれは会津のろうそく屋じゃないか、そのくらいの細工はお手のものだろう」
六蔵は居心地悪そうにあぐらをかきなおした。
「ふん、まあいい。それで、おめえたちの考えたその筋書きのどこに、おつねが殺されたことがはまるんだよ?」
「おつねはそれに気がついたんだよ。だから、証《あかし》になるろうそくを盗んで届け出ようとして、殺されたんだ」
「榊原先生にも見抜けなかったそんなからくりに、おつねがどうして気がつくことができたんだい」
「たぶん、そのからくりをしかけているところを見たか、聞いたかしたのよ」
お初が割ってはいった。
「あたし、おらくさんから聞いたんだけれど、這《は》い込んだ猫《ねこ》を追い出すために、おつねさんと二人で床下にもぐりこんだことがあったんですって。そのあと、おつねさん、青い顔をして元気がなかったって――」
「おつねの幽霊の次は、猫ときたか」
六蔵は天井に鼻を向けた。お初は頑張《がんば》った。
「だって本当のことなんですよ。おらくちゃんの言うには、おつねさんは迷い鳩《ばと》を可愛《かわい》がっていて、そのときも、猫が鳩にかかるといけないからって――」
お初はぷつりと言葉を切った。六蔵の顔色が変わったからだ。
「おめえ、今何と言った?」
「だから、猫が鳩に……」
「おつねが鳩を飼ってたっていうのか?」
兄の勢いに押されて、お初はたじたじとうなずいた。
「あたしも今日、柏屋さんで見たわ」
「まさか……その鳩は、足に赤い紐《ひも》をつけてやしなかったろうな」
「どうして知っているの?」
今度はお初が驚く番だった。
長いこと、六蔵は口をへの字に結んで黙り込んでいた。
「おれも今夜、柏屋で妙なものを見たよ」直次が言った。
「おめえまで幽霊や幻にかぶれたか」
六蔵は言ったが、どこかうわのそらの口調である。直次は続けた。
「そうじゃない。店の裏手の庭を掘り返した様子があるんだ。ここんとこ、柏屋には庭師も植木屋も入ってねえのにな。湿っぽい、独特の土の匂《にお》いがしたから間違いっこないよ」
ろうそくが燃え続けている。一度、じじっと音がした。お初と直次は沈黙を守った。
「こいつを、榊原先生に調べてもらおう」
ろうそくに目をあてて、ようやく六蔵が言った。
「そんな必要はないようですよ」
それまで静かになりゆきを見守っていたおよしが、初めて口を開いた。
「そら、ろうそくの周りをごらんなさいな」
燭台《しょくだい》がわりの小皿の周りに、光につられて寄ってきた羽虫がいくつも落ちていた。一つ。それからまた一つ。落ち続ける。一同の見守るまえで、ろうそくから立ち上る薄黒い煙に触れては落ちるのだ。
「六蔵兄さん!」お初は叫んだ。
七
「女心ってのは、わからねえな」
六蔵が嘆くように言った。
「あのお清が、あれだけ惚《ほ》れて惚れて惚れて一緒になった亭主に毒を盛るとはなあ」
姉妹屋は、今日は商いを休んでいた。直次が、ぜひお初に会いたいという、大事なお客人を連れてくるからといっていたからである。
柏屋での一件は解決していた。お初と直次の考えていたことはほぼ正しく、店の裏手の庭からは胸を一突きされたおつねの死骸《しがい》が見つかった。
ろうそくに砒毒《ひどく》をしかけようとお清を唆《そそのか》したのは、やはり、手代の誠太郎だった。お清にも柏屋の身代にも野心のあったこの男は、宇三郎を亡《な》きものにして、そのあとを襲おうと考えていたのである。
その企《たくら》みをおつねに知られ、やむをえず殺す羽目になった。手を下したのは誠太郎で、お清は彼に引きずられるまま、そのあとをとりつくろうことに荷担したのだった。
二人の恐ろしい企てを床下で耳にしたおつねは、何とか宇三郎を助けようとしたのだろう。しかし、おとなしい娘のこと、心のうちに隠した怯《おび》えがしぐさや表情に出て、それをお清と誠太郎に悟られたのがいけなかった。
それでも、おつねの死骸はまだ、ろうそくを握りしめたままだった。お清の話では、どうしても手のひらを開けてそれをとりあげることができなかったそうだ。
血の飛び散った畳や欄間は、奉公人たちに気づかれないうちにふき取ることができたが、始末に困ったのは唐紙だった。しかたなしに、屋敷の、日頃《ひごろ》人の出入りしない座敷から唐紙を外してきて、仏間のものと取り替えた。それだから、お初がお清の姿を盗み見たとき、唐紙の立てつけが悪かったのだ。
もう一つ、鳩のことがある。
おつねと桶屋の圭太《けいた》は、ひそかに将来を約束している仲だったのだ。おつねは年季奉公の身だし、圭太もまだ一人前ではない。いつかきっと所帯を持とうと約束し、なかなか身軽には会うことのできない寂しさを埋めるために、圭太の飼っていた鳩を飛ばして、文をやり取りしていたのだった。それは、胸を病んだ圭太が川越に引っ込んでからも続いていたことだった。
二人とも無筆だったので、文といっても絵柄《えがら》を交じえた他愛《たわい》ないものだった。しかし、六蔵の下っ引きが川越から持ってきた、おつねから圭太にあてた文には、人を恋することなど遠い昔に置いてきてしまったものの目にも、ほほえましく、心を温めるものがあった。
川越の圭太は、おつねが殺されたことなどつゆとも知らなかった。ただ、何度鳩を飛ばしても返事がない。自分の付けた文がそのまま戻ってくる。それを不安に思って、江戸に戻ってきた。柏屋《かしわや》を訪ねた。
「あのひとは、近所の噂《うわさ》で、おつねが故郷に帰ったという表向きの話を聞きつけてきていました。それは嘘《うそ》だし、おつねが自分に何の断わりもなく姿を消すはずがない。どうしても町役に訴え出て調べてもらうと言い張りまして」
それで、命を落す羽目になったのだ。圭太は柏屋でのおつねの立場をおもんぱかって、人目に立たないように訪ねてきていたから、足取りを消してしまうのも易しいことだった。
圭太が抱いて来た鳩は、彼が誠太郎の手にかかったときに飛び去った。だがそのあとも、主たちのいた柏屋の場所を覚えていて、ときおり舞い戻ってきていたのである。
六蔵が嘆くように、この一件のなかで一番不思議だったのは、お清の心である。
お調べのとき、お清はぽつりぽつりと語った。もうなにもかもどうでもいいとあきらめてしまったのか、静かな声だった。
「あたしは、宇三郎に惚れて一緒になりました。今だって惚れています。その気持は変わっちゃいませんよ、旦那《だんな》」
ただね……と、寂しげに笑う。
「宇三郎はあたしと一緒になったんじゃなくて、柏屋と一緒になったんです。柏屋のために働くことだけがあの人の心にあることでした。あたしなんて、最初っからあの人の目には映っちゃいなかったんですよ。先代や、先代が亡くなってからは親戚《しんせき》や、通町の旦那がたの目ばっかり気にして、一時だって気の休まる暇がありゃしない。夫婦でしみじみ話をすることもありませんでした」
寂しくて、寂しくて……そう言ったとき、お清の目に初めて涙が浮かんだ。
「あたしは、あのひとを手にかけるつもりなんて、これっぽっちもありませんでした。誠太郎だって、ろうそくに仕込んだ砒毒じゃ死ぬことはない、具合が悪くなるだけだって言っていたんです。それを真に受けたあたしも馬鹿でしたけれど……」
あたしはあのひとに、少しは商いのことを頭から追い出して、あたしのほうを見てほしかったんですよ。あの人の世話をやいて、あの人にあたしが側《そば》にいることに気がついてほしかったんですよ。お清は子供のように泣いた。
「なんだか可哀想《かわいそう》ですねえ……」
六蔵の話を聞いて、およしがため息まじりに言った。
「真面目《まじめ》に商いに精を出している旦那に毒を盛った女だぞ」
六蔵はとがめるような声を出したが、およしはひるまなかった。
「こんな気持は、女にしか分からないかもしれませんねえ。そのために、したくもなかった人殺しをする羽目になって……お清さん、きっと死罪になるんでしょうね」
「あたしも、なんとなく分かる気がするわ」
お初も義姉の肩をもった。
「六蔵兄さんだって、いつもは捕物ばっかりにかまけて義姉《ねえ》さんをほうっているけれど、風邪でもひいて具合が悪くなると、およし、およしって騒ぐじゃないの」
「馬鹿《ばか》言ってるんじゃねえよ」
六蔵はぴしゃりときめつけ、頑固《がんこ》な顎を引きしめてお初に向き直った。
「お初、今度のことでは、おめえの言うことを頭っから信じなかったおれも悪かった。だがなあ、やっぱりおれは心配なんだよ。おめえ、頼むからもう一度、榊原《さかきばら》先生に診てもらっちゃくれねえか?」
そこへ、ごめんよと声がして、直次が顔を出した。
「お客人をお連れしました」
見ると、そのお客人とは、お初を助けてくれたあのお武家だった。今日もあのときと同じようないでたちで、お初にむかってにっこりと笑った。
「まあ、先日の」
お初とおよしが声を揃《そろ》えた。
「商いの邪魔をして申し訳ないが、ぜひともまた、お初の顔を見たくてな。柏屋の一件でのお初の働きは、直次からすっかり聞かせてもらった」
お武家は、父親のように優しい目でお初を見やった。
「それから、通町の六蔵親分にも会いとうてな。手柄《てがら》の数々、日頃から村山に聞かされておるのでな」
村山とは、六蔵を抱えている同心|石部《いしべ》の、そのまたうえの与力の名である。六蔵の細い目が大きくなった。
「と、おっしゃいますと、あなたさまは……」
「わしは直次の知り合いでな」
お武家はおおらかに言った。
「わしの役宅の庭にある桜の木は、わしと同じ老体での。直次のように身の軽いものでないと、手入れができぬのだよ」
六蔵、お初、およしの戸惑った顔に、直次が軽く頭をかがめ、お武家のかわりに言った。
「南町奉行、根岸肥前守鎮衛《ねぎしひぜんのかみやすもり》さまで」
「人の心というものは」
お奉行は、大きな手で円を描くようにした。
「一つのまとまったものでありながら、その実、複雑な細工もののように、何重にも入り組んだものなのだそうだ。そして日頃は、誰でも、その表側しか使ってはおらぬ。わかるかの」
「はい」お初は神妙に答えた。
「ところが、何かのきっかけで、その細工ものの内側のほうでも物事をとらえるようになることがある。それは厳しい修行を積んだ結果のこともあれば、全くの偶然からということもある。そういう者たちは、ほかの者には見えないものが見え、分からないものが分かるようになる」
何かのきっかけで。お初はおよしと目をあわせた。
今度のことは、お初がお清の袖《そで》に血を見たことに始まった。血の幻。お初にもおよしにも、それには思うところがあったのだ。
いくら母親代りに育ててきてくれたといっても、およしはやはり、兄の嫁である。遠慮もあれば気遣いもある。それが悪いほうに転がったのが、お初に初めて、女の月のさわりがきたときだった。
特にお初は、その訪れの遅いほうだった。およしとしても、その意味と、それがとてもめでたい、幸せなことなのだということをお初に教えるのに、いささか期を逸したきらいがあった。
それだから、初めてそれがあったとき、お初の驚きは大変なものだった。折悪《おりあ》しくおよしは不在で、うちのなかには誰もいない。身体《からだ》から流れ出ていく血は、お初を怯えさせ、震え上がらせた。一刻ほどしておよしが帰ってきたときには、お初はおよしの腕のなかに倒れてしまったほどだった。
そのことがあったから、最初にお初が血の幻を見たときに、およしがひととおりではない心配に心を痛めたのだった。
これも、男の人には分かることではないね……姉妹は目顔でうなずきあった。
お初は考えた。今度のことが、お奉行様の言うとおりのことならば、あたしのこの不思議な幻を見る力が現われたのは、あのことがきっかけになったからに違いない。
お奉行は、黙ってそんな二人を見つめていた。やがて、静かに言葉を続けた。
「世の中には、理屈だけではどうにも割り切れぬ、ということがある。だからといって、捨て置くばかりではいかぬ。不思議は不思議なりに筋が通っていることもあれば、今度の柏屋の件のように、不思議が真実を掘り起こすこともある。のう、お初」
「はい」
「そなたは、どういう縁でか、そういう不思議につながる力を身につけることになったようだ。これは良いことばかりとは限らぬ。むしろ恐ろしいことかもしれぬ。今度も、ずいぶんと怖い思いをしたのではないかの。しかし、ほかのものには無い力を持つというのは、そういうことなのだ」
お初はうなずいた。
「それをようく心しておくのだぞ。そして、またその力を役に立てられるときが来たら、恐れずにそうするのだ。どうかの、それをこの奉行と約束できるかの」
お初は一瞬ためらい、目を伏せた。だが、すぐにきっぱりと答えた。
「はい、お約束いたします」
「そうか」お奉行は笑顔になった。
「これほど頼もしいことはないの。それに、お初には通町の六蔵がついておる。まさに、鬼に金棒であるな」
満足げなお奉行に、お初は尋ねてみた。
「お奉行様は、どうしてそのようなお話に詳しくていらっしゃるのでございますか」
「わしは、幼い頃《ころ》から人の話を聞くのが好きでの」お奉行は答えた。
「そうして聞いていると、人はみな、不思議な話というものが好きなようじゃ。わしはお役目で様々な土地を巡ってきたが、どこへ行っても、人々の不思議好きは変わらぬ。そこで、その土地土地に伝わる珍しい話、不思議な話を集めようと思い立ったのが始めでの。この江戸に参ってからも色々な話を聞いた。そのことは、直次がよく存じておるよ」
そうだったのか。ようやくお初にも、直次の言った「確かな出所」がどこだったのか分かった。
「ところでな」と、お奉行は身を乗り出した。
「そうして集め、書き記した話が、近頃ではかなりの分量になっての。公《おおやけ》にする心積もりはないが、それにしても、名前を付けぬことには何かと不便じゃ。いくつか考えてみたのだが、その方らの意見を聞かせてはくれぬか」
およしに半紙を持ってこさせると、矢立てをとり、さらさらと書き付けた。
難しい文字が並んでいる。お初が困った顔になると、では、と、もう二つ書き足した。
お初はそれをみて、右側の文字を指した。
「私は、これがよろしいかと存じます」
「ほう、これか」
「はい。いかにも、お奉行様がお耳で聞かれて集められたこと、という響きがいたします」
お奉行は顎《あご》をなで、書いたものを少し離してよく見なおした。
「なるほど、お初の言うとおりかもしれぬ。では、これにしようかの。『耳袋』じゃ」
「耳袋」あとの三人がおうむがえしに言った。
「そうじゃ。霊験お初の命名じゃからな。良い名前ではないか。のう?」
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騒 ぐ 刀
一
南町奉行所|定町廻《じょうまちまわ》り同心内藤|新之助《しんのすけ》は入り婿《むこ》である。生来の小心者で、袖《そで》の下も取れない。同心の扶持《ふち》など知れたものだから、暮しに困ることも度々である。そのうえに、義理の母が年明け早々からそこひを病んで、その治療費がまた馬鹿《ばか》にならない。収支の支の方ばかりが脹《ふく》らんで、とうとう腰に差した大小の小の方、脇差《わきざし》を質に入れた。十日間できっとうけだす、このことは他言してくれるなとかけあい、質屋の主人も承知した。天下泰平のしるし、なあにこういうことはよくありますよと、代わりの竹光まで用立ててもらい、成程それでさしたる不便もなかったので、十日の約束が二十日、三十日と過ぎてしまった。
ところが、それから半月ほどして、ある商家に関《かかわ》りの事件が出来し、その引き合いを抜くために、そこの主人がいささか金をまいた。その一部が新之助にもまわってきた。自分一人のことではないので、安心して受け取れたのである。で、そうなると、やはり脇差のことが気になる。そこが生真面目《きまじめ》なところだが、さっそくうけ出しに行った。ところが、質屋の親父《おやじ》は、新之助に輪をかけて意地悪なほど生真面目な性分らしく、彼の脇差はとっくに何処《どこ》かに流れていた。
「やれ村正の正宗《まさむね》のというわけではあるまいし」と、主人は涼しい顔で言った。「ほかのものでもよろしゅうございましょう」
そういうわけで、新之助は無事、別の脇差を腰に帰って来た。一件落着である。
ところが、話はここで終わらない。新之助の手にしたその脇差は――
ものを言った[#「ものを言った」に傍点]。
正確に言うならば、うめき声をあげるのである。毎夜九ツごろになると、荒れ寺の古鐘が陰にこもってものすごく無縁仏も叩《たた》き起こすというように、腹の底に響くような声でおうおう[#「おうおう」に傍点]とうめき始める。四半刻もうめいてしまうとぴたりととまるのだが、家人は眠れたものではない。三晩も続くと、まず妻女が参ってしまった。夜はまんじりともせず、昼に時を盗んで寝るようになった。新之助はそうもいかず、赤い目をして頑張《がんば》ってはみたが、眠りが足らないというのは、食べないよりも身にこたえる。妻女にしても、いささかうだつが上がらないとは言え仮にも八丁堀《はっちょうぼり》の旦那《だんな》の奥方が、遊女のように昼日中ぐうぐう寝ているというのは外聞も悪い。困り果てた新之助は、まず質屋の主人にねじ込んだ。
「旦那、おたわむれを。なんぼなんでも、刀がものを言うわけはありますまいて」
もしもそんなことがあるならば、これからは私の代わりに鍋釜《なべかま》がここに座って帳面を付けますと、主人はしゃあしゃあとしている。いくらぼんやりしているとはいえ、新之助も同心の端くれである。主人の目の動き、わしっ鼻の頭に浮かんだ汗を見れば、実はこの主人、この刀がこういういわくつきの物と先刻承知のうえで、その処置に困って押し付けてきたのだと察しがついた。そうなると、これはもう駄目《だめ》である。相手は知っていてしらを切っているのだ。あまりくどくど言えば、あの旦那はとんだ臆病者《おくびょうもの》だぐらいのことを、逆に言い触らされかねまい。新之助はすごすごと引き返した。騒ぐ刀は腰に残ったまま、また夜のくるのを待っている。
「然《しか》るべき寺に頼んで供養《くよう》をしてみたらどうだろう」
「それはそうでございますが」妻女は細い眉《まゆ》をひそめる。「それには、相応の金子を包まねばなりませんでしょう」
寂しい懐《ふところ》で腕を組んで、新之助は考えた。そして――
二
「それで、これを預かって来たというわけだ」
兄の六蔵が畳の上に置いたひとふりの刀に、お初はそっと手を触れてみた。
「これがその、ものを言う刀なんですか」
日本橋通町の一膳飯《いちぜんめし》屋「姉妹屋」である。ここの奥の狭い座敷は、この家の主人の六蔵が、暇な時はいつも陣取っている場所である。もっとも、お上の御用をつとめる岡っ引きであるかれには、暇などめったにない。飯屋のほうは妹のお初と女房のおよしの二人で切り回している。
「内藤様もお気の毒に、また竹光を差しているそうだ」六蔵は首の辺りをかくと、
「これはどうも、お初やおめえの領分のようだぜ」と、弟に頭を振り向けた。
「なるほど、御前のお喜びになりそうな話だな」
問われた直次はそう答えた。かれが腕組みして問題の刀を眺《なが》めている様は、六蔵に泣き付いて来る前の新之助のしていた格好とよく似ていたが、違うのは、直次はこの手の話に慣れているということである。
「内藤様は、俺《おれ》たちのことを御存知だったのかな」
「いや、そうじゃねえ。俺に頼み込んできたのはたまたまだ。あの御方は棒っ杭《くい》みたいに真《ま》っ直《す》ぐで、だが棒っ杭なみに折れるってことを知らねえもんだから、岡っ引き連中の間じゃあ受けが良くねえ。俺は先《せん》の大増屋の件でちょいと関りがあったから、それで頼られたんだろう」
お初は刀を手に取って、しげしげとながめた。新しいものではなさそうだが、それほど使い込まれた様子もない。黒糸で巻いた柄《つか》にはへたった感じがない。黒蝋《くろろう》塗の鞘《さや》にも傷はなく、ただし、何の飾りもついていない。確かに正式なこしらえではあるが、愛想もなければ華やぎもない。
「刃の方はどうだ」
六蔵に聞かれて、お初は鯉口《こいぐち》を切った。
「刃文も直刃《すぐは》か。何か彫り物はねえか」
刃文というのは、焼き入れによってつく色々な文様のことである。大波小波のようだったり、らくだのこぶをつなげたようだったり、様々である。直刃はそれがほとんど一本の線のようになっているものを言う。
「何もないようよ」と、お初は答えた。銅の鍔《つば》にも飾り一つない。どこまでも無愛想につくられている。
いったい、元禄《げんろく》ごろからこっち、刀というものは本来の目的から逸《そ》れて、もっぱら鑑賞用・愛玩《あいがん》用・芸術品としてつくられるようになってきていた。武士だけでなく、豪商などが金にあかせて豪華なものをこしらえ、それを自慢しあう。刀身に不動明王や玉追龍《たまおいりゅう》を彫り込んだり、鍔にも蝶《ちょう》や千鳥を金や色金であしらってみたり、見事なものが現代《いま》でも残っている。これは、言うまでもなく天下泰平だったからで、だから幕末の黒船が現れるころになると、にわかにまた「武器としての刀」が復活するのだが、この頃《ころ》はまだまだ呑気《のんき》な時代である。
「妙だなあ。脇差だけつくらせたんなら、もっと手が込んでいそうなもんだ」
「やっぱり何処かに、脇差だけ竹光を差している御武家さんがいるんじゃないのかしら」およしが口をはさんだ。
「銘はどうだ?」
「それを見るには柄を取らなきゃならねえし、明日にしちゃどうかな? とにかく今夜はこのまま置いて、一体どんな声でものを言うのか、聞いてみたいじゃないか」と、直次が言った。
「おう、それなんだが」六蔵は顎《あご》をひねった。「内藤様の話じゃ、えらく大きな声で騒ぐんだそうだが、何を言ってるのかは、さっぱり聞き取れねえそうなんだ」
「お初ちゃん、気をつけてよ、手を切るから」およしが声を高くした。お初は刃の上にそっと指をすべらせてみていた。
「義姉《ねえ》さん、半紙をくださいな」と、お初。銀色の刃には、お初の白い顔がぼうっと映っている。
およしからもらった半紙を二つに折ると、お初はその間に刀の刃をいれて、斜めに傾けて、そっと手前に引いた。子供が竹とんぼを作るのに使う小刀でも、これなら半紙はすぱりと切れる。
ところが――
半紙はびくともしない。刃の上をずずず[#「ずずず」に傍点]と滑るだけである。縫い物に使う物差で半紙を切ろうとしているようなものだ。お初は気をつけて指を当ててみたが、これも結果は同じだった。障子の桟《さん》をいくら強く押しても指は切れないが、それと似たようなものだった。
とにかく、夜中にこの刀が何と言うのか、それを待とうということになった。
春につきものの、強い風の吹き荒れる夜だった。火事に弱い江戸の町は、風を嫌《きら》う。どの家でも神経を尖《とが》らす。枕《まくら》をそばだてて、何処かで半鐘の音がしないかと、あまりのんびりとは眠れない。
姉妹屋でも、表の風を気にしていた。だが――
「おい」
船を漕《こ》いでいた六蔵がぬっと体を起こした。およしが座り直して訳もなく胸元をかき寄せ、後ろに寄り掛かっていた直次は柱から背中を離して乗り出した。
お初は、両手を口元に、内緒話を聞くような顔をしていた。
おおおおおおおう――と、その声は聞こえた。刀は確かにうめいていた。一声、二声、雨の夜に野良犬《のらいぬ》の遠吠《とおぼ》えするような、死んで行く者をよみの国から呼び戻そうと井戸の底に向かって呼びかけているような。耳を覆《おお》っても指の隙間《すきま》から、懇願するかのように忍び込んでくる。
「これは一体何――」
六蔵がおよしの腕を掴《つか》んで黙らせた。
おおおおおお――う
四半刻どころか、一晩中のように長く感じられるほど時が過ぎたあと、震えながら長く尾を引いて最後に一声うめくと、刀は黙った。
狭い座敷の中が静かになると、表の風の音が急に耳を打った。何処かの掛|行灯《あんどん》でも吹き飛ばされたのかばたばたという音がして、およしがまたびくりとした。
「お初――」
直次が妹に顔を向けた。お初は唇《くちびる》を半開きに、近所の誰かと誰かが駆け落ちしたとかの、びっくりするような噂話《うわさばなし》を聞かされたかのように、切れ長の目を見張っていた。
六蔵がしわの寄った額を拭《ぬぐ》い、太い息をはいた。
「……本当だわ、何も聞き取れやしないわね」およしが身震いした。
「ううん、聞き取れたわ。ちゃんとしゃべっているわ」お初が、ようやく我に返ったように言った。
「何と言ってる?」
「この声を聞きとどけたなら、木下河岸《きおろしかし》は小咲村、坂内の小太郎に伝えてくれ、虎《とら》が暴れている、虎が暴れている……そう繰り返しているわ」
三
翌朝早く、直次は、神田明神下にある質屋「まさご屋」に向かった。このまさご屋が、内藤新之助に例の脇差を押し付けた質屋なのである。主人の吉三《きちぞう》は、土左衛門《どざえもん》の狸《たぬき》のような脹れた顔の中年男で、愛想はいいが油断のできない感じだった。
直次は、兄の六蔵とは違い、御上の御用をつとめる者ではない。本業は植木職である。根岸|肥前守《ひぜんのかみ》とのつながりも本業を通してできたものだ。ただ、元来植木職というのは動き回る仕事である。方々に顔を出し、家の中まで入り込む。有名な「お庭番」という隠密《おんみつ》集団もここからきているくらいだ。だから、そういう意味では直次はなかなか都合の良い立場にいるわけで、自然、下っ引き的な仕事はするようになっている。
下っ引きというのは、岡っ引きのそのまた下にいて、彼等を助けて働く者たちのことである。公職ではないにしろ、一応世間的に認められている岡っ引きと違い、下っ引きは、世間的には他の職業を表看板にして、下っ引きであることを隠している場合が多かった。
「実は、ほかでもない、内藤様の脇差のことで、ちょっと教えてもらいたいことがあってじゃましたんですよ」と、直次は端的に切り出した。
吉三は、ほうという顔になった。「内藤様? はて」
とぼけあいで時間を無駄《むだ》にすることはない。直次は、自分は内藤家に出入りの植木屋で、それで内々に例の脇差の処分を頼まれたのだと話した。
「内藤様はえらくお困りでしてね。この際、金のことはどうでも、あの脇差を元の持ち主に返してしまいたいとおっしゃってるんですよ。それならまさご屋さんにも損はかけないで済むわけだし、どうですかね」
吉三の狸顔が、もうひと回りぶっくりとした。
「本当ですかね」と疑い眼である。
直次は頭を振って笑い顔をつくった。長身で童顔の彼は、笑うとさらにあたりの良い感じになる。兄弟とは言え、こわもての六蔵にはできない芸当がこれである。
渋々ではあるが、吉三はあの脇差を質に入れた人物を教えてくれた。昌平《しょうへい》橋のそば、湯島横町の長屋の差配だという。
「いつごろ質入れされたものなんです?」
吉三は、おっくうそうに帳面をくった。
「一月の、三十日でしたな」
「で、そのころからもう、ものを言う脇差だったわけで?」
「いんや。あの――おかしなことが起こるようになってからは、そうはたっておらんですよ。十日ばかりですかな」吉三はうんざりした口調だった。
直次は礼を言ってきびすを返し、門口を出るところで、ふと思いついたように立ち止まった。
「まさご屋さん、あの脇差が何と言って騒いでいるのか、聞き取れましたか?」
吉三はぶるぶるとかぶりを振った。
「さっぱりでしたな」
直次はうなずいて外へ出た。
ちょうどそのころ姉妹屋では、朝方の忙しい時間を過ぎて、店の方はおよしに任せ、お初は奥に引っ込んで、例の脇差《わきざし》を調べてみていた。
お初は両手をきれいに洗い、たすきをはずし、きちんと正座して、脇差を手に取った。慎重に鞘をはらい、明るい陽《ひ》の光にかざしてみると、白刃《はくじん》は美しく輝いた。お初はもとより刀の目利《めき》きではない。使う刃物といったら包丁や肥後守《ひごのかみ》ぐらいのものだが、それでも、この刀の美しさは理解できた。華美ではない。が、どこか気品が感じられる。
(こんなにいいこしらえの刀が、どうして……)
昨夜、お初のあとにこの刀を検《あらた》めた六蔵は、切れる道理がねえ、刃が立てられてないんだと言った。
「こいつはなまって切れねえんじゃねえ。元々切れねえようにつくられているんだ」
柄を外して刀身を出してみると、刀銘は、
「安永七年二月吉日」
裏を返すと、「国信《くにのぶ》」とだけある。あっさりしたものだ。ここから読みとることができるのは、ざっと二十年ほど前に、国信という刀|鍛冶《かじ》が鍛えた刀だということだけである。
(この刀が、何故《なぜ》……)
下野国《しもつけのくに》は小咲村、坂内の小太郎という人物に伝えてくれと頼んでいるのだろう。それも、虎が暴れているなどという、妙なことを。
お初は脇差を元通りにしながら、考え込んだ。しっかりした物言いや、くるくると店を切り回すところから、少し大人びて見られがちだが、お初はまだ十六である。若い娘が手にするには少し殺風景な脇差など抜きにすれば、こんな風にもの想《おも》いに沈んでいるところなど、恋わずらいとでも見られるかもしれない。
(虎が暴れている……)
この時代にしろいつにしろ、日本に虎のいたためしはない。屏風絵《びょうぶえ》や蒔絵《まきえ》なら話は別だが、とんち話ではあるまいし、絵のなかの虎が抜け出して暴れ回ったという話など、聞いたこともない。
(それに……)
この声を聞きとどけたなら――ということに、お初はこだわっていた。今のところ、ほかには誰一人、刀のこの言葉を聞き分けた者はいない。お初だけなのだ。そこに、なにがしか責任のようなものを感じずにはいられない。
廊下の方へ背を向けて、お初は考えに沈んでいた。だから、何か表の方が騒がしいなと感じた時には、あわただしい足音と甲走った大声とが、もうすぐ間近にまで迫っていた。
どどどという足音と、「お初ちゃん!」というおよしの声とが同時に耳に飛び込んできた。お初はびっくりして振り返り、途端に、庭から裸足《はだし》で駆け上がってきた男と鉢合《はちあ》わせして息が止まる思いをした。
男は十七、八、着物の前を乱し、髷《まげ》も歪《ゆが》んで口から泡《あわ》をふいていた。とっさにお初が見とどけたのはそれだけで、男が右手にしっかりと、まだ血糊《ちのり》の附いた匕首《あいくち》を握っていることに気がついたときはもう、相手は獣のような声をあげて、お初に飛びかかってきた。
その後のことは、お初にもどういう順序で起こったのかわからない。ただ、あっと思った瞬間に、膝《ひざ》の上にあった脇差が抜き放たれていた。お初にやっとうの心得はない。それなのに、柄はしっかりとお初の右手の中に、白刃は向かってくる匕首を、空に光る弧を描いてはっしと受け取め、跳ね上げると同時に匕首はぴんとあっけない音をたてて真っ二つになった。
狼藉《ろうぜき》男を追ってきた人達が座敷に雪崩込《なだれこ》んできたときに見たのは、正座したまま膝も乱さず、ぽかんと口を開けて脇差の柄を支えているお初、折れた匕首を手に突っ立っている男。男は見る間に、がくがくと膝を崩してその場にへたりこんだ。
脇差をかざして、お初はようやくつぶやいた。
「切れた……」
昌平橋の長屋の差配はよく言えば実にてきぱきとした、悪く言えば因業《いんごう》な親父《おやじ》だった。あの脇差が差配の手で質入れされた事情をきいて、直次はいささか驚いた。
「店賃《たなちん》のかただと、そういうわけですか」
脇差の持ち主は、今年の初めまでこの長屋に住んでいた野島|治憲《はるのり》とみさおという浪人ものの夫婦だった。二人とも、今はもう墓の下である。
治憲は、西国の小藩で小納戸《こなんど》役を務めていたが、五年ほど前、ふとしたことで藩金横領の疑いをかけられ、それがもとで人を斬《き》り、敵《かたき》持ちとなって江戸へ逃げてきた。妻のみさおも夫に従い、逃亡者ながら、しばらくはそれなりに平穏に暮らしていたらしい。それが一月前、とうとう追っ手の知れるところとなって、治憲はあえない最期《さいご》をとげ、その際にみさおも一緒に落命したというわけだ。
「横領の疑いは、ぬれぎぬだったようです。野島様はなかなかしっかりした人柄《ひとがら》でしたしな。が、店賃は店賃。溜《た》めたまま亡《な》くなられては、私も困ります。それで、残されていた家財道具やあれこれを質入れしたというわけで」
「それにしても、武士の魂を質入れとは、少しやり過ぎじゃないですかね」
差配はふんといった。「なんぼわたしでも、そこまではしとりませんぞ。私が質入れしたのは、奥方のものです」
「しかし、懐刀じゃない、確かに脇差だったでしょう」
「あのみさおという人は、元は武家の生まれではないのですよ。親は刀|鍛冶《かじ》だとか。それで、実家からでも持たされたんでしょうが、脇差をひとふり、あの奥方がもっていたんです。その話を以前に聞いてましてね、持参金がわりの刀ならたいそういい値がつくだろうと思ったんですが、あてがはずれましたな」
こいつは筋金入りの強つくばりだね。直次は呆《あき》れ返って差配と別れた。
(刀鍛冶の娘が親から託されていた脇差か――)そういぶかりながら一度姉妹屋へ戻り、そこで大騒ぎに出くわした。
姉妹屋に飛び込んできた若い男は、評判の悪い遊び人で、金に困って姉妹屋の近くの両替屋に押し入り、しくじって追っ手をかけられたあげく、行き掛かりで姉妹屋へ逃げ込んだのだった。お初に襲いかかってきたのは人質に取って時間を稼《かせ》ぐつもりだったためらしい。知らせを聞いて飛び帰ってきた六蔵も交えて、無事を喜んだ後で、お初は例の脇差の不思議を語った。
「守り刀だ[#「守り刀だ」に傍点]」
話を聞いた直次が言うのに、六蔵もうなずいた。「ああ、それなら俺《おれ》も聞いたことがあるぜ」
守り刀とは、身を守る時にだけ刃をたてる刀のことである。心無い者の手に渡って、人を殺したり傷付けたりすることに使われないよう、力無い女や子供を武器を持った者の脅威から守れるよう。しかしそれには、名匠と称されるほどの刀鍛冶が心血注いで鍛えなければつくりあげることはできないとされている。
「あたしは何もしなかったし、何もできなかったけれど、刀の方が勝手に動いて、危ないところを助けてくれたのよ」
「こいつは、思ったより面倒なことになってきたぞ」六蔵が言った。
「直次、おまえはともかく、木下河岸小咲村に行ってみることだ。そこで坂内の小太郎という男を捜すことが先決だな」
お初は騒ぐ脇差と共に江戸に残り、脇差はその夜も同じようにうめき続けた。切迫の度合いを増しているようなその調子に、お初は心をせかされる思いをした。
(ねえ、何をそんなに伝えてほしいの)刀を眺《なが》めて問うてみる。
(坂内の小太郎という人は、どういう人なの。虎は何処《どこ》で暴れているの)
刀は沈黙したままである。
ところが、翌日、姉妹屋の者たちにとりあえずは騒ぐ脇差のことさえ忘れさせてしまうほどの出来ごとが起きた。通町三丁目の雑穀問屋「遠州屋」が、一家皆殺しにあったのである。
四
遠州屋は、間口二間と店の構えこそ小さいが、近辺のあちこちに地所を持ち、そこから上がる地代と堅実な商いで、通町でも裕福なことで知られていた。それだから、知らせを受けた六蔵の頭に真っ先に浮かんだのは、押し込みの線だった。遠州屋はぼつぼつ六十に手の届く夫婦二人と年頃《としごろ》の娘が一人いるだけの所帯である。刃物をもった賊でも押し入れば、手向かいできるはずもない。六蔵も日頃からそのことは気にかけていたほどで、一人娘に早く婿《むこ》をもらえと勧めていた。つい先頃、その婿取りが決まって、やれやれと喜んでいた矢先の惨事である。
早起きのはずの遠州屋さんが、往来に人が行き来するような時刻になっても雨戸も開けない。何かあったんじゃないかと踏み込んでみた、隣の煮豆屋の親父が見つけた。なかなか肝のすわった老人で、いたずらに騒ぎたてず、小僧を番屋に走らせて、自分は残って張り番をしていた。もっとも六蔵が駆け付けたときには、この親父も青くなっていたが。
「裏口にかんぬきはかかっていたかい?」と、六蔵は親父に尋ねた。
「へい、がっちりと。八兵衛《はちべえ》さんは用心のいい人でしたから、そのへんはいつも怠りありませんでした。親分さんも御存知でしょう」
六蔵はむっつりとうなずいた。「で、あんたが鉈《なた》で木戸を叩《たた》き割ったんだな」
「さいです。何度声をかけても、戸を叩いても返事がありませんし、少し乱暴かとは思いましたが、今までにこんなことはございませんでしたから」
踏み込んだ親父が見たのは、きちんと片づけられた厨《くりや》と、しんと静まりかえった廊下、そして、奥の座敷にぼんやりとともった行灯《あんどん》の光だった。親父の背中から照らす朝日の光に比べて、しまり屋のはずの遠州屋八兵衛が灯《とも》しっぱなしにしているその行灯の光は、何とも禍々《まがまが》しく、変事の起きたことを知らせていた。
震える膝を前へ押し出し、八兵衛やおかみ、娘の名を呼びながら奥へ進んで行った親父は、そこでこの先死ぬまで忘れられそうにないものをみつけた。座敷の敷居|際《ぎわ》に転がって見えぬ目で親父を見あげている、八兵衛の生首である。その向こうに、おかみと娘の無残な骸《むくろ》が、窓の格子《こうし》にすがりつくようにして倒れていた。親父は足の裏がねばねばすることに気がついた。畳はじっとりと血を吸い込んでいた。八兵衛の胴体は、首からよほど離れた床の間の近くに、仰向けに、両手足を大の字に広げて倒れていた。
ほどなく検使の役人も到着し、細かな調べが始まった。六蔵の懸念《けねん》とはうらはらに、この殺しは物盗《ものと》りではなさそうな様相をていしてきた。戸締りはきっちりとしてあり、物色の様子もない。
「こいつは妙だな」六蔵は独りごちた。
外から人の踏み込んだ跡が見えない。三和土《たたき》にはほうきのはき跡まで残っているほどで、履き物も揃《そろ》えられている。もとより足跡も残っていない。座敷には蒲団《ふとん》が敷いてあり、おかみと娘は寝巻きに着かえている。ぐっしょりと血を吸っている夜具に刃物の跡があり、それが二人の体の傷ともぴたりと一致するうえ、体中に傷を負っているにもかかわらず腕や手に手向かい傷がないところをみると、眠っているところを襲われたのだろう。おどろいて必死に逃げ、寝床から這《は》い出し、窓までたどりついたところで事切れたのだ。
それに反して、八兵衛一人だけはきっちりと着物を着込んでいる。胴と首が切り離されているほかには傷もない。
「こいつは、まるで無理心中じゃねえか」
六蔵が日ごろの八兵衛の人柄を知らなかったなら、すぐにもそう決め付けるところである。しかし、ついおとつい顔を合わせたときも、娘の婚礼の話ばかりをしていたあの八兵衛の顔からは、とてもそんなことは考えられなかった。
さらにもうひとつ、何よりもおかしなことは、これだけの凶事をしでかすのに使われた刃物が何処にも見あたらないことであった。包丁から裁ち鋏《ばさみ》までくまなく調べてみたが、血曇りや脂《あぶら》の跡、刃こぼれのあるようなものは見あたらない。
「なあ、親父、あんたが踏み込んだとき、八兵衛は手に何か持ってなかったかい?」
煮豆屋の親父は首を横に振った。「何も見ませんでしたが」
あの八兵衛が、一体全体どうしたってんだ――戸板に乗せられて運び出される三つの骸を見送りながら、六蔵は繰り返した。何故だ。
戸板にかぶせられたむしろから、空をつかむように八兵衛の右手がはみ出している。その指は、何かを握りしめていたかのように、内側に曲げられている……。
そのころお初は、所在なげにまた、騒ぐ脇差に向き合っていた。なぜか落ちつかず、店に出ていても上の空のようになってしまい、手があけば脇差をぼんやりとながめてしまう。
お初の、自分でもよく分からない不思議な力があらわれたのは、この春に、初めて月のものがあったときだった。以来、他人には見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりする。御前様はそれを、入れ子のようになっている人の魂の、閉ざされた部分が開いたからだとおっしゃっていたけれど……
お初は溜め息をついた。
(もっともっと、わかりよくならないものかしら。見えるならいっそ、謎《なぞ》の一つもないように何でも見えるようになればいいのに)
そう思ってしまってから、ぞっとした。もしそんなことになったなら、生きていくのがどんなに恐ろしいことになるんだろう。それはごめんだ。
お初は手を伸ばして脇差に触れた。そして今日だけでも何度目になるか、刀の鞘《さや》をはらった。
銀色の刀身。動かすにつれて、跳ね返る光の角度が変わる。新しい反物に見入るように、お初は見とれた。
そのとき。
刀身の光のなかに、何かがふっとよぎったような気がした。目を凝らすと、なにもない。
(……?)
きらり、もう一度。今度ははっとさせられた。人影だ。いや、人だ。六蔵と同じぐらいの年格好の男が一人、辺りの様子をうかがいながら、小走りに行く。こすっ辛そうな目つき。右の口元に引きつれたような傷跡。火傷《やけど》だろうか。腕に何か抱えている。――紫の風呂敷《ふろしき》包み――いや、刀だ。この脇差か。違う、違う、よく似ているがこの刀ではない。なぜなら、なぜなら――焦点が合ったように、はっと思い付いた。
(この刀[#「この刀」に傍点]、鍔がないわ[#「鍔がないわ」に傍点])
はっと身震いして、お初は我に返った。今のは幻――
恐る恐るもう一度のぞきこんでも、刀はただ冷たく光っているだけである。一瞬だけ、騒ぐ脇差がお初に見せた幻だったのか。
でも。お初は脇差を元に戻しながら、考えた。今の男、そして今の刀。ひょっとしたら、この脇差の叫ぶ「虎《とら》」と何かつながりがあるのかも知れない。胸に残るなんとも言えない不吉な思い、背中の冷たさがそう教えていた。あの男は一体誰だろう? お初は幻のなかの男の顔を胸に刻みつけた。六蔵兄さんに話してみよう。
そしてあの鍔《つば》のない刀。
男があの刀を胸に抱えているところが、まるで蛇《へび》を抱いているかのように見えたのだった。
五
木下河岸《きおろしかし》は、利根《とね》川の中流にあり、下総国《しもうさのくに》・常陸国《ひたちのくに》でとれる魚類を江戸へ運ぶ重要な拠点である。またそれだけでなく、香取・鹿島《かしま》・息栖《いきす》の三社に参詣《さんけい》する人々を乗せる、茶船という乗客船も発着し、大変なにぎわいをみせる土地だった。
直次は、質屋まさご屋を訪ねた夜に江戸を立ち、江戸川から利根川の水路をとって、翌日ここへ着いた。ずらりとならぶ問屋場と、河面《かわも》を行き交う高瀬船。たった今|銚子《ちょうし》から着いた船には、わらわらと人足たちがたかり、勢いよく荷が担《かつ》ぎ出されている。
あの脇差のうめき声は、「木下河岸は小咲村」と告げた。しかし、木下河岸自体は、印旛《いんば》郡竹袋村内にある。この辺りで土地に詳しいといえば、参詣客相手の茶屋の主人ぐらいのものだろうと見当をつけて尋ねてみると、
「小咲村なら、もっとずっと北になるねえ」
「どのくらいありますかね?」
急な脇道がうねうねと木立の中に消えていく、北側の山を見あげてきくと、
「たっぷり日暮れまではかかろうかね。山を一つ越さなならんよ、あんた」
茶屋の主人の口ぶりは、何の用であんな所にいくんだねという、いぶかるような調子があった。
「実は、人を捜しに行くんですがね」
万が一ということもある。たとえばあの「坂内の小太郎」というのが、土地で知られた侠客《きょうかく》なんぞだったら、大いに手間が省けようというものだ。が、
「坂内の小太郎?」主人はうなるような声でそうおうむ返しに言うと、首を横に振った。
「知らないねえ。小咲村といったら、木こりと炭焼きしか居《お》らんようなところだし」
直次はあきらめて山道を登りにかかった。
茶屋の主人の言った通り、緑の木立がようやく途切れ、狭い開墾地にぽつぽつと粗末な板葺《いたぶ》きの掘っ立て小屋が見かけられるようになったころには、もう陽《ひ》は大きく西に傾いていた。それでも、直次は足を止めて、思わずほっと息をついた。ここまでのぼる道そのものも、まるでけもの道である。すれ違う人など一人もなかった。姿の見えない野鳥が、頭の上や木立の何処かで鳴き交す声や、時々まつわり付くように飛んでくる羽虫ぐらいがお供とあっては、本当にそんな村があるんだろうかと疑いたくなるほどだったのだ。
辺りに薄い煙が漂っているのは、近くに炭焼き小屋でもあるのだろう。確かに人気《ひとけ》のある証拠だ。元気づく思いで先を急ぐと、右手の方で水音がし、まもなく、板葺きの上に重しがわりの石を乗せ、その石の重みでひしゃげてしまっているような小さな小屋が見えてきた。気がつくと、この辺りから、足もとの登り道にも丸太が埋め込まれ、気持ち程度には歩きやすいようにしてある。
その丸太の最後の一本に足をかけ、直次が開かれた平らな所にでた時に、ちょうど、さっきの小屋から女が一人出てきた。背中に乳飲み子をくくりつけ、まげもゆわずにぞんざいにうなじで纏《まと》めただけの髪である。直次が立ち止まると気がついたらしく、こちらに顔を向けた。野良猫《のらねこ》のような眼《め》だった。
小咲村はここかと尋ねても、返事がない。もう一度同じことを繰り返すと、
「あんた、何者だい」
「江戸の者でね」直次は努めて愛想よく言った。「ちょいと野暮用で、人を訪ねてきたんだが」
探るような眼が、彼を上から下まで眺め回した。
「人捜しだって?」ようやくその言葉が返ってきた。
「ああ、そうだ。おかみさん、ここにいるのはあんただけかい? 御亭主は?」
「男連中はみんな、山にいるよ」女ははっと顎《あご》を引っ込めた。「でも、もうすぐ戻ってくる。みんな」念を押すように付け加えた。「大勢いるんだよ、男衆は」
直次は苦笑した。怪し気な振舞いに及ぶとでも思われたらしい。
「そうか。それで一つ、教えてもらえないかね。ここの男衆の中に、小太郎という名前の男はいるかい?」
女の険のある眉《まゆ》が寄った。「小太郎?」
「ああ、小太郎、坂内の小太郎という男なんだ」
女はしばらく、上目つかいに直次をにらんでいた。それから、それが開けっ放しの敵意に変わり、女はわめきだした。
「あんた、何者なのさ? 一体何しに来たんだい?」
「坂内の小太郎という男を捜しにさ」直次は努めて落ち着いた声で答えた。
「坂内の小太郎か、笑わすじゃないのさ、坂内の小太郎を訪ねて、はるばる江戸からここへやって来たなんて、誰が信じるもんか。本当のことをお言い、何しにきたんだ?」
こいつはきりがない。直次は見切りをつけて、「村長は?」と訊《き》いた。女は返事をしなかったが、この掘っ立て小屋の向こうへ目が動いた。見ると、ここよりははるかにましな、少なくとも家と呼べそうなものが一軒だけぽつりと建っている。そちらに足を向けた。背中にいつまでも、女の、あまり気持のよくない視線が張り付いているのを感じながら。
それから半刻ほどして、直次はまた山道を登っていた。ただし、今度は行き先がはっきり見えている。村長が、そこへ行けば坂内の小太郎に会えると教えてくれた場所である。そこは、村の背後に広がる山の頂き近く、姉妹屋の座敷ほどの広さしかない、狭苦しく寂しい墓地であった。
「坂内の小太郎をお訪ねに」直次の問いに、村長は、考えぶかそうに幾度かうなずいてそう言ったのだった。
「心当たりがおありですか」
まだ一人うなずき続けていた村長は、はっとして、相手のいたことを今思い出したというように、今度は直次に向かって大きく顎をうなずかせた。
「あります、ありますよ。国信《くにのぶ》さんも、いつかきっとこういうことがあると言っていたが……」
「国信?」それは、あの騒ぐ脇差《わきざし》に銘打たれていた刀|鍛冶《かじ》の名前である。
「一昨年の冬でしたか、道に迷ってこの村にたどりついた男で、年も年でしたが、ひどく病で弱っていましてな、私の所で世話をして、最期《さいご》も見とってやったのです」
「その国信というのは、刀鍛冶じゃありませんでしたか」
村長は驚いた。「そうです。もとは摂津の方で、藩主お抱えになろうかというほどの腕前だったそうで……しかし、どうしてそんなことを。わたしだって、あの男がいよいよいまわの際《きわ》になって、やっと聞かされたのですよ」
自分の命が尽きることを悟った国信は、村長を呼び、手厚い看護に礼を言った後で、驚くようなことを話し始めたのだった。
「……国信は、摂津の国でも指折りの刀鍛冶に、十二の年から弟子入りしたのだそうです。一つ年上の兄弟子に、国広という男がいて、数多い弟子たちの中でも二人は抜きん出て優秀で、相競い、相鍛える仲だったそうです」
貞享《じょうきょう》のころ、摂津の国には国輝という名高い刀工がいた。大坂刀工界の第一人者であり、のちに伊勢守《いせのかみ》にもなっている。国信の弟子入りした師匠も、もとをただせばこの国輝の門下につながる人物であったという。ただし作柄《さくがら》は師匠筋に似ず、刃文は直刃《すぐは》が多く、脇差、平作り脇差をよくした。それはそのまま、国広、国信の作柄へと受け継がれている。二人には、実の兄弟のように親《ちか》しいものが通っていたのだ。だが、国信は、兄弟子と自分と引き比べて、こういう言葉で表わした。
「わたしの腕は石、国広は玉でした」
そして、石は自分もいつかは玉になれる時がくると信じて修業を積んでいたのだと言ったという。
それに対して、生まれながらに玉である国広は、旅慣れた者が足弱の連れを振り返り振り返り、けれども足取りは緩めずに先を行くように、天性のものに磨《みが》きをかけることに打ち込んでいた。ところが――
「年ごろになった国信と国広は、同じ娘に恋をしたのだそうです」
その娘とは、師匠のひとり娘の佳代。国信とおないどしの、城下でも評判の美人だった。
「刀鍛冶の生活というものは、それは厳しい世界ですから、あまり潤《うるお》いのあるものではなかったそうです。あたりまえの若者たちのようには、町娘たちと若さを楽しむこともできなんだ。それだけに、一度胸に抱かれた思いがどれだけ強かったかは、お若い方、あなたにも察しはつくでしょう」村長はそう言って直次を見やると、微《かす》かに口元をほころばせた。が、すぐに真顔に戻ると、
「この恋の行き着いた先が何処《どこ》だったか、それを申し上げないとなりませんな。佳代という娘は、結局、生涯《しょうがい》を共にする男として、国信を選んだのでした。そして、父である師匠もそれを許し、国信を後継者として公《おおや》けに認めたのです」
臨終の床にあっても国信は、そのときのことを語る時には、痩《や》せこけた頬《ほお》が緩んだという。
「……佳代がわたしを選んでくれたとき、わたしはもううれしさに目がくらんで、ほかのことは何も考えられないほどでしたよ。ただ、不思議でたまらなかったのは、佳代が何故《なぜ》わたしをとったのかということでした。当然でしょう。玉よりも石を選んだその理由《わけ》を、わたしは佳代に尋ねました」
すると佳代は、こう答えた。「わたくしは、国広が恐ろしいのです――あの人も、あの人の鍛えた刀も。あの人の手で生まれた刀は、鞘に納められていても抜き身のように冷たく感じられるのですわ」
佳代の父である師もまた、国信に語った。
「国広の鍛える刀には、確かに魂がある。意志がある。しかし、何よりもなくてはならぬ慈悲というものが欠けている。それがない限り、国広の刀はどんなに美しかろうと、鋭かろうと、この世に置かれる価値がない」
国広は、意外とも言えることのなり行きにも、大して気落ちしている様子は見えなかった。しかし、目には見えぬ病が内から広がっていくように、彼の内部で何かが少しずつ崩れ始め、それを塞《ふさ》ぎ止める堤が切れたときに、さながら鉄砲水のようにすべてを押し流し破壊しつくす力となってあふれ出た。
「石は傷がついても石のままでいられるが、玉は、ひとたび傷がついてはもはや元の玉ではありえないのですよ」
国信は村長にそう言ったという。
それは、国信と佳代の婚礼の晩だった。とどこおりなく盃《さかずき》がすんだところで、自ら鍛えた脇差を引っさげて、国広が踏み込んできた。
「五人|斬《き》られたそうでした」村長は重い口調で言った。「師匠と、花嫁と、国広がその脇差を鍛えるのを手伝って先手を勤めた弟子が三人。命を取り留めたのは花嫁の佳代だけで、しかし右の頬に、一生消えない傷を負わされたのだそうです」
錯乱の国広は、そのまま惨劇の現場から城下へ走り出た。知らせを受けて追っ手がかかり、町はずれを流れる川のほとりで、とうとう取り囲まれたのだが、折から降り出した篠《しの》つく雨の中、暗い河面を背に、血の気が引いた顔に目ばかり炯々《けいけい》として、斬り捨てた人の血と脂《あぶら》に濁った刃をかざして、国広は吠《ほ》えた。追っ手のなかに交じって駆け付けた、国信に向かって叫んだのである。
「いいか、覚えておくがいい、俺《おれ》の命は絶えてもこの刃《やいば》は残る、残って天の下に留《とど》まり続け、俺と相容《あいい》れなかったこの世の全《すべ》てに、全てのおのれのような輩《やから》に禍《わざわ》いをもたらし、血を流し続ける。おのれはこれから、それをその二つの目でとくと見て、もがき苦しみながら生き続けるがいい」
その呪《のろ》いの言葉を最後に、右手の刃をさっと肩にかつぎ上げ、獣の牙《きば》のように白く鋭い白刃《はくじん》をうなじにあてがうと、一声高く笑って、我と我が首を斬り落とした。二つに分かれた首と胴、それに右腕にしかと握られた脇差が後ろ向きにどうっと川に落ちて行ったしばらく後までも、その声はあたりに尾を引いて漂い、そこにいる者たち、大の男ばかりの追っ手の背筋を凍りつかせた。
「後になって川底をさらってみると、二つの眼を見開いたままの国広の首と胴が見つかったそうです。ところが、国広の使った脇差は、どうしても見つけることができなかったそうで」
惨事の後、それでも国信は刀鍛冶としての暮らしを続けていた。一年ほどして娘みさおが生まれ、その産後の肥立ちが思わしくなく、佳代は二十一歳の若さでこの世を去った。そしてその喪も明けぬうちに、城下で奇怪な辻《つじ》斬り事件が起こったのである。物盗《ものと》りでなく、互いに何の関《かかわ》りあいもない三人の人間が相次いで惨殺《ざんさつ》されるというもので、ほどなく、ある屋敷の中間《ちゅうげん》が下手人として捕えられた。それによって、使われた刀が、あの国広の脇差だったことがわかったのだ。ただ、どういう経路でその中間の手に入ったものか、詳しいことはわからなかった。捕えられてまもなく、かれの気がふれてしまったからである。
そして、更に不思議なことに、押収《おうしゅう》されたはずの例の脇差は、まもなく何処かへ忽然《こつぜん》と消えてしまったのだった。
「この事件で国信は、国広が死に際《ぎわ》に残した言葉の意味を悟りました。それがどれほど恐ろしいことであるのか――そして、残る自分の人生を、国広の残した災いを防ぐために捧《ささ》げようと決意したのだそうです」
そのために、国信はまず、半年近くの時間をかけて、ひと振りの脇差を鍛え上げた。その作業は恐ろしいものだったらしく、新しい刀を捧《ささ》げて現れた彼は、餓鬼のように痩《や》せ細り、目だけが輝いていた。ただ、その目の輝きは、狂ってしまった国広のそれとは違っていた。「これはこの子の守り刀となるでしょう。そして、この子もまた、この刀を守るのです」まだ乳飲み子のみさおを預かることになった遠縁の者に、国信はそう言った。
「今の私の力では、守ることだけしかかなわない。しかし、この子に、言い聞かせてください。これはおまえを国広の影から守ってくれるだろう、だから、おまえもまたこの刀を世に残し、守り通すようにと。そうすれば、私はいつか必ず、守るだけでなく、国広の呪われた力を封じることをかなえてみせましょう。そしてそのときこそ、私の――石の腕前でしかない刀鍛冶の力の足らないところを助け、補ってくれる遣い手を、この刀自らが捜し当てることでしょう」
野島みさおは、騒ぐ脇差を鍛えた刀鍛冶の娘だった。
「こうして娘に別れを告げ、国信はあての無い修業の旅に出ました。そして、ようやく二十年かかって、国広の呪われた刀を封じる方法を捜し当てたというのですよ。国信はすでに五十の峠を越えていました」
「その方法というのは? 国信はそれを言い残していったんですね?」
村長は静かにうなずいた。「それが、坂内の小太郎なのですよ。小太郎がそれを知っている。だから、いつかきっと、小太郎を訪ねてくる人がいるだろうと、ね……」
「小太郎は何処に? どういう人物なんですか」
「村にはおりませんよ――夜にはいつも、国信の墓を守っているのです。どういうものなのかは、直接にあって確かめられるのが早いでしょう」
こうして、直次はこの寂しい墓地へやって来た。山の頂きに近いので、木々の背も低く、枝が長く地に這《は》うように伸び、昼間ならそれなりに春の若葉が美しいのだろうが、提灯《ちょうちん》の明りを頼りに手探りで歩くこの夜には、顔や腕にがさがさとあたるだけの邪魔ものである。
国信の墓は、ただ丸石を積んだだけの、ごく粗末なものだった。縁の欠けた茶碗《ちゃわん》が一つ、夜目にも白い。
最後の一歩を踏み出したとき、直次の足の下で何かがぱしりと折れた。枯れ枝のようだった。その微かな音が消えるか消えないかのうちに、国信の墓石の傍《かたわ》らで、何かがはっと起き上がる気配があった。
新月の夜である。満天の星は、どれほど美しくても足許《あしもと》を照らす用はなさない。提灯を地面すれすれに落としているので、辺りを包む闇《やみ》は肌《はだ》に感じられるほどに濃かった。
「坂内の小太郎か」直次は闇の奥に向かって呼びかけた。
「おまえを捜して、江戸から訪ねてきた者だ。おまえの主《あるじ》の国信がおまえに託していったことで、おまえの力を借りにきた」
闇は静まり返っている。
「聞いているか、小太郎。国信の鍛えた脇差がおまえを呼んでいる。虎《とら》が暴れていると伝えてくれってな」
ひそやかに、ごく柔らかに、土を踏む足音がした。こちらに近付いてくる。直次は提灯を上げた。
ほのかな黄色い光の中に立っているのは、一匹の犬だった。
六
直次がようやく坂内の小太郎を捜しあてることができたその夜、江戸では――
遠州屋の事件は、どこをどうつついてみても、主人の八兵衛が妻と娘を何らかの凶器で斬り殺し、とどのつまりに我と我が首を斬り飛ばした、というふうにしか解釈のしようがなくなっていた。
自分で自分の首を斬ることができるものなのか、六蔵は手刀をつくってあれこれ試し、結局、刀を肩の上に担《かつ》ぎ上げるようなやり方で可能になると納得がいった。
検使の役人の見たところでは、傷口の様子から、使われた凶器は大刀もしくはそれに類するもので、包丁や短刀の類《たぐ》いではないという。ところが、遠州屋には刀など影も形もない。
六蔵は、それらのことがはっきりした後、遠州屋に関わる者の中のたった一人の生き残りとも言える男、後ほんの何日かで、死んだ娘のお夏の婿《むこ》になるはずだった、達吉という若者に会ってみることにした。達吉は数えで二十四、通町の老舗《しにせ》の蕎麦《そば》屋の次男坊である。遠州屋とは親の代からの付き合いで、お夏とも幼馴染《おさななじ》みの間柄《あいだがら》だった。そして、達吉の方は、もの心つく頃《ころ》からずっとお夏にぞっこんだった。
それだけに、彼の傷心はたいへんなものだった。ようやく惚《ほ》れた娘を嫁にとれるという矢先に、よりにもよってその娘の父親の手で全てを亡《な》くされてしまったのだ。六蔵が訪ねて行ったときも、まるでふぬけのように座り込んだままで、名前を呼んでも返事もしない。店の者たちの話では、知らせを受けた時にはまったく本気にせず、代わりに遠州屋まで走った者が間違いないと悲報を確かめてくると、それきりそうして座り込んだままだという。
六蔵はしばらくの間、そういう達吉を見おろしていた。それから、つっと立って行って、大きな柄杓《ひしゃく》に水をいっぱいくんでくると、それを達吉の頭からぶちまけた。
達吉は首を縮め、ぐいと目をむいて起き上がろうとした。今度はそこを、六蔵の手が突き飛ばすようにして座らせた。
「おい、よく聞けよ」と、六蔵はどら声を出した。「死んだお夏のことを思うなら、いつまでも聞き分けのねえ餓鬼みてえな真似《まね》をしているんじゃねえ。いったい何処のどいつがあんな惨《むご》いことをやらかしたのか、目串《めぐし》を刺すためにはおめえだけが取っ掛かりなんだ。そこんところをわきまえて、これから俺のきくことにしっかり答えろ、いいか?」
まだ顎《あご》の先から水を滴《したた》らせながら、達吉は上目使いに六蔵をにらみ返した。と、その顔がくしゃくしゃに歪《ゆが》んで、彼は嗚咽《おえつ》し始めた。
「なあ、おめえの気持ちも分からねえじゃねえ」六蔵は、一段声を和らげた。「だがな、俺の言ってることは、嘘《うそ》やごまかしじゃあねえぞ。お夏の仇《あだ》を打ちてえなら、手を貸しちゃあくれねえか」
「それでも、――お夏は親父《おやじ》さんの手にかかって死んだんでしょう」達吉は切れ切れに言った。「無理心中らしいって、お役人様も言ってたじゃありませんか。仇を打とうったって、どうすりゃあいいんです」
六蔵はしゃがみこみ、達吉と目と目を合わせた。「そうだ。俺も、八兵衛が女房と娘を斬ったことには間違いないと思ってる。あげくに自分で自分をばっさりやりやがったんだ。だが、なあ達吉、遠州屋の親父が何でそんなことをやらかしたのか、解《げ》せねえとは思わねえか?」
達吉は目をぱちぱちさせた。
「解せないですよ、そりゃあ」目に生気が戻った。「てんでわけがわからないですよ。それでも、お役人様が八兵衛がやったに違いないって――それに、それに」
「それに、何だい?」
「親父さんは昔、十年以上も前の話だけれど、商いがうまくいかなくて、借金がかさんだとき、一度は一家心中をしようとまで思い詰めたことがあったって、話したことがあったもんで」
遠州屋も、昔から今のように裕福だったわけではない。六蔵も知っているが、かなり身代を傾けて、危なかったことが確かにあった。
「そのときは、お夏の寝顔を見ているうちに思い留《とど》まったんだって言っていましたよ。思い留まって本当に良かった、こうしてお夏の花嫁姿が見られるんだからって。親父さんは泣上戸《なきじょうご》だったけれど、それだけでなしに、涙ぐんで話してくれたんですよ」
だから、と、達吉は腕で顔をぬぐった。「ひょっとして俺の知らない何かがあって、親父さんはそういう思い詰める人だから、また魔が差したようになって、それでやっちまったのかって――」
六蔵は、がっちりした顎をきっぱりと横に振った。「何でそれを早く言わねえ。そんな親父が、今さら何があったからって、娘を心中の道連れにするもんかい。それともおめえ、親父が心中まで思い詰めそうな、その何かに思いあたる節でもあるのかい?」
ないと、達吉は答えた。
「それじゃあ、今までに遠州屋で、そうさな、大刀でも脇差《わきざし》でもいい、そういう類いの物を見たことがあるかい?」
達吉はかぶりを振った。そうか……と顎をひねる六蔵に、しばらくして、ただ、と頭をかしげながら、
「そういえば、お夏が、おとっつぁんがここ二晩ぐらい夜中にうなされてるって、心配してたっけ……」
「そりゃ、いつごろのことだ」
「あれは、親父さんが砂村の弔いに行って、その一日か二日ぐらい後だったような気がしますから、もう十日は前のことです」
「砂村で弔い?」
「はい、ほら、先の大雨で、あっちの方では川の堤が切れて、大水が出たでしょう。親父さんの知り合いも亡くなったそうで――あ、そうだ!」達吉は起き直った。「そのあと、砂村から親父さんを訪ねてきた人がありました。そいつが、何か刀がどうこう言ってたな……」
達吉はその人物を、年の頃は四十ぐらい、良い身なりをしていたけれど、こすっ辛そうな目つきが気になったと話した。
「口元に、火傷《やけど》の引っつれみたいな傷のある奴《やつ》で、そのせいで口のきき方が何か妙なんですよ。店の裏口で、親父さんと何やら押し問答していたんです。あんたがあんな鍔《つば》のない脇差を持ってたってしょうがないだろうとか……うん、確かそうでしたよ、結局親父さんが追い返したんですが、何処の誰ですかときいたら、何でもない、つまらん古道具屋だって――」
達吉からそれを聞くと、六蔵は煮豆屋に取って返した。どうやら遠州屋には、鍔のない脇差があったらしい。それが今は見あたらない。そして、八兵衛のあの指の形を見れば、何かを握っていたことは明らかだ。刀は一人歩きするはずもなく、ということは、番屋の者たちが駆け付けるまであの場に一人でいた煮豆屋の親父が怪しいということになる。人は見掛けによらないものなのだ。こいつはうんと締め上げねえとと、六蔵は顎を引き締めた。
が、煮豆屋の親父は、何も締め上げることもなく、鬼瓦《おにがわら》みたいな顔で戻ってきた六蔵を見ただけでぺらぺら話した。というよりも、誰かがそれを聞きただしてくれるのを待っていたという様子でさえあった。そのうえ、ひどく怯《おび》えていた。
「昼間、親分にお話ししたときは、何故《なぜ》あんな嘘がつけたのか、自分でもわからんくらいです。だまそうなどという気持ちはありません、わっしがしゃべっていたんではなくて、ほかのもんがしゃべっているのを脇で聞いているような心持ちでした」
煮豆屋の親父は、八兵衛が砂村の弔いに行った日、奇妙な、鍔のない脇差を抱えて帰ってきたのをたまたま見かけた。一体それはなんだねと尋ねると、八兵衛は、自分でもよく分からないが、無性にこの刀を手にしたくなって、どうしようもなかったんだと答えた。そして、家の者に言うとうるさいから黙っていてくれとも頼んできた。煮豆屋の親父は、八兵衛さんにしては珍しいことだと思いながらも、承知した。そして、二、三日すると、八兵衛を訪ねて一人の男がやってきた。八兵衛はその男を追い返したが、彼はその後も数日の間に二度やってきて、二度目の時の帰りぎわに、煮豆屋に声をかけ、自分は砂村で古道具屋をしている者だが、もしも八兵衛さんが気が変わって、あの脇差を売るなどと言い出したら、すぐに教えてくれと言い置いて帰って行った。
「それで、八兵衛の手にあの脇差を見付けた時に、とっさに隠しちまったというわけか」六蔵が言うと、親父はぶるぶると震えた。
「それでも、あの場に踏み込んだときは、わっしも気が動転しているし、そんなことはすっかり忘れとったんですよ、本当です。それが、あの脇差が――」
煮豆屋の親父は、頭を抱え込むように両手を上げた。「わっしの耳のなかに、何やらものを言ってきたんですよ。何と言ったらいいか、自分を持って逃げるように、隠すようにとね……わっしのまだ若いころ、岡場所の女が声かけてきたときのような、もっともっと、思わず魔がさしてしまうような声で」
そうして脇差を隠しておくと、あの古道具屋がやってきて、買い取って行った。無論、他言無用と念を押して。
「そいつは、口元に引きつれ傷があったろう」
親父はうなずく。
「いくら払っていったんだ」
「二十両で」
十両盗めば首が飛ぶ時代である。
「砂村の、井筒《いづつ》屋という店でした」
小さくなっている親父からそれを聞くと、六蔵は飛び出した。
六蔵が戻らないので、お初はその晩一人だった。およしもいない。実家で祝いごとがあって、その手伝いに駆り出され、今夜は泊まりである。
お初は火鉢《ひばち》の縁に頬杖《ほおづえ》をついて、ぼんやりとした。
あの幻のなかの男と、鍔のない刀。
(どうしてあの脇差に、あんなものが映ったのかしら……それに、あの鍔のない刀は、そのことを除いては、騒ぐ脇差にそっくりだったわ)
まるで、最初から対《つい》につくられたかのように。
(でも、そう考えてみたら)お初は頭を起こして首をひねった。(刀の鍔というのは、いったい何の為《ため》に付けてあるものなのかしらね?)
武家の奥方の持つ懐刀には鍔はついていないし、匕首《あいくち》もそうだ。だとすると、刃物には必ず要るというものでもないのだろう。それなのに大刀や脇差には必ず鍔があって、そして――
(鍔がないと、どうしてあんなに空恐ろしい、薄気味の悪い様子になるのかしらね……)
そのときだった。何処《どこ》かでかたりと音がした。お初は六蔵が帰ってきたのかと、戸口の方へ首を伸ばした。
「六蔵兄さん?」
返事なし。
また、かたり。そして、かちり。
お初はだんだん横座りになって、家の中の気配に耳をすませた。
かたり[#「かたり」に傍点]。
行灯《あんどん》の明りは丸いので、部屋の隅々《すみずみ》、廊下の端、そういう四角い所には、とどかない暗がりが残される。一人でいると、心の中にもそういう暗がりが広がってくるようで、
「六蔵兄さん? それとも、義姉《ねえ》さんが帰ってきたの?」
お初はそろそろっと立ち上がりかけ、すると突然、その背中に何かが打ちかかってきた。驚きのあまり声も出せずに振り返ると、それはあの脇差、六蔵の陣取る場所の後ろ、形ばかりの床の間に置かれていたものが、何の拍子にか倒れ掛かってきたのだ。お初は大袈裟《おおげさ》に息を吐いて、刀を手の中に受け止めた。すると――
脇差は始め、お初の手にずっしりと重かった。こんなに重かったかと驚くほどに。そしてお初の手は、まるでそれが重くて堪《たま》らないからしっかり支えようとでもするかのように、お初の意志にかかわりなく、右手は柄《つか》、左手は鞘《さや》、しっかりと握っていく。手は小刻みに震えている。
(いったいどうして……何をさせようというの)
お初の両手は左右に動き、ゆっくりと刀の鯉口《こいぐち》を切り、鞘を払い、きらめく白刃《はくじん》が現れた。刀身の反りをなぞって一筋の光が走り、切っ先に宿って高く輝く。そして、呆然《ぼうぜん》と見守るお初の目の前で、刀は見る見る刃を立てていく。
(ああ、わかった、小太郎に何かあったのね!)
稲妻のように閃《ひらめ》いた直感が、お初にそう教えた。それは極めて明瞭《めいりょう》に、初めから承知していることのようにお初の頭に閃いたのだった。書かれている物を読むのにも似ている。
お初は逆らうことを止《や》めた。手は震えなくなった。すると、それを待っていたように、お初の手の中で刀は重さを失い始めた。薄紙を一枚ずつ取り除けていくように、ひらりひらりと軽くなる。現身《うつしみ》だけをここに残し、魂だけは何処かに飛び去って行く。守るべきものがある何処かへ。
お初は白く輝く刀身に額をあて、静かに待った。
夜の山道は、漆黒の迷路である。直次は小太郎を先に立て、その迷路を足早に下っていた。
小太郎は、ごく当り前のように直次の足のすぐ先に回り、山を下る道をひたひたと歩き始めたのだった。後ろから追って行く直次の目には、小太郎の銀色に光る背中の毛並みが、ぼんやりとした提灯《ちょうちん》の明りに浮かんで見えた。
小太郎は、成りは小さな犬である。ただ、ぴんと立った耳と、頭の上に黒い毛の交じるところが、気性の強さと勇猛さをうかがわせる。
直次の呼びかけに答えて出てきた小太郎は、しばらくのあいだ、まるで秤《はかり》にかけているかのように彼を眺《なが》めていた。それから、納得がいったとばかりに不意とまた姿を消し、国信《くにのぶ》の墓の後ろ辺りをしきりに掘り返す。そして、古びた皮袋を一つくわえてもどってくると、直次を促すように歩きだしたのだった。歩いて行く間には、その皮袋が何なのか、何が入っているのか、直次に触れさせようともしなかった。
(妙なことになってきたな……)直次は考えた。
(この小太郎を連れて帰って、それでどういうことになるか……子供の遣いみたいなことにならなきゃいいが)
そのとき。
ぴたりと小太郎が。まばたきするほど遅れて直次が足を止めた。
痩《や》せた雑木林を夜風が渡っていく、それと違う微《かす》かな風の音がする。
足音か。
申し合わせたように人と犬とは耳をそばだてた。
風。
木々がざわめき、静まる。
今度ははっきりと足音。数人の。息づかいさえ耳にはいる。病葉《わくらば》を踏むうかつな音。直次は頭をかがめ、提灯の明かりを動かさずに、一息に吹き消した。
闇《やみ》が下りる。
小太郎が低くうなり、それにこたえるように、足音が前方に乱れ出た。四、五人はいる。一呼吸遅れて背後にも。無防備に音をたてるようすから、たぶんあの連中だろうと察しはついていた。あの無愛想な女が「たくさんいる」と言った「村の男衆」――何の用があるのか知らないが、どうやら数を頼みにきたらしい。直次はゆっくりと後退《あとずさ》りしながら、ちらりと後ろに目を走らせた。闇の中で、粗末な野良着《のらぎ》の衣《きぬ》ずれの音がする。
小太郎はまだうなり続けている。
「こんな時分に何の用だい」
ど素人《しろうと》が闇討ちをかけようというときには、音頭《おんど》取りはたいてい前にいる。先陣を気取ろうというわけだ。直次は前方の闇にそう問うた。
間。
「てめえに用はねえ。用があるのは小太郎の方だ」背後からがらがら声がかえってきた。
なるほどな。すり足でゆっくりと、雑木林を背に向きを変える。こんなときは、後ろを固める奴の方が危ない。雑木林の下は斜面、それ以上は下がれない所まで下がると、
「何故小太郎に用があるんだ」
「その犬を連れていかれちゃ具合が悪い」
ほう。
当の小太郎は、例の皮袋をしっかり噛《か》みしめたまま、姿勢を低く、ほとんど地面に這《は》いつくばるようにして、相手の出方をうかがっている。すったもんだには慣れている直次だが、味方が犬というのは初めてだ。
「何で今さら、こんな野良犬に用がある?」
「うるせえ、てめえこそ、なんだってそんな野良犬を捜して江戸からわざわざ来やがった。そいつはあの変わり者の爺《じい》さんの犬だったんだ」
「しこたまためこんでいやがったんだ」と、別の声。
ははん、それで合点《がてん》がいった。ここの連中が無愛想なのは、別にはにかんでいるわけではない、余所者《よそもの》はすべて、山の兎《うさぎ》や鹿《しか》と同じく獲物《えもの》でしかないからなのだ。
「あんたら、どうも小太郎のくわえている皮袋が目当てらしいな」
無言。図星の印である。
「ところがな、残念ながら、おおせのとおり俺《おれ》が江戸くんだりからこんな所までやってきたのも、この小汚い犬と、その皮袋に用があるからなんだな――わるいけどよ」言いながら、あさっての方向に向かって提灯を投げ出すと、ざっと入り乱れた音が走った。
両手が自由になると同時に、直次は頭の上に張り出した枝に飛びついた。一瞬支えてくれればそれでいい。反動をつけて前を固める連中の真ん中に飛び降りると、その勢いで二人なぎ倒し、組み付いてきた一人を背中越しに投げ飛ばし、折り重なったその即席の人垣《ひとがき》を盾に、
「小太郎、逃げろ!」
背後の追っ手も迫っている。退路を断たれる前に逃げるのが上策だ。多勢に無勢、おまけにこちらはいかんせん土地カンがなさ過ぎる。突っ走る直次の横を小太郎も駆け抜ける。
次の瞬間、さく裂音がして直次の右手が焼けた。勢い余って飛びつくように行く手の立ち木にぶつかり、そこで我にかえった。飛び道具か。
「小太郎止まるな、行くんだ!」下り坂の向こうに向かって怒鳴り、撃たれた右の二の腕を押さえて手近の藪《やぶ》に身をかがめた。
かすり傷だったが、(うかつだったぜ――それにしても、こうも欲しがるような何が、あの皮袋に入ってるんだ……?)
運良く、直次は風下にいた。火薬の匂《にお》いが流れてくる。次第に強く。直次は懐《ふところ》を探り、武士が大小を帯びるように肌身《はだみ》離さず持っている仕込み杖《づえ》をつかんだ。仕込み杖と言っても、そう名付けているだけで、刃はない。代わりに、柄をつかんで一振りで肘《ひじ》の長さに伸びる樫《かし》の杖の、先端に鉛の重みがつけてあるのだ。これなら、狙《ねら》い所を間違えなければ、相手を殺さず傷付けず、当面動きを封じることができる。
火薬の匂いは、ますます近い。追っ手は余りいい猟師ではなさそうだ。息づかいが闇に響く。直次は左手に、その息づかいがそばにくるのを待って、息づかい目掛けて振り出した。この際、手加減は抜き、顎《あご》が割れるくらい我慢してもらおうか。
また一発、銃声が響いた。
火花が見えた。とっさに伏せ、何か甲高い音を聞いた。弾丸があたって、跳ね返った音。
(何に[#「何に」に傍点]?)
仕込み杖だった。
(まさか、いくらなんだって)
ぐずぐずしてはいられなかった。詰め替えられた次の弾丸が飛んでくる。それでも、直次は一瞬棒立ちになった。左手に握った杖が、次第次第に重くなっていく。腕が下がるほどはっきりと。
銃声!
跳ね上がるように左手が上がり、杖に火花が走って跳弾が斜め後ろの木の幹にあたった。
跳ね返してるってのか?
唖然《あぜん》とする直次の左手を引っ張るように、杖はぐいと銃声のした方向を向いた。信じられないことに、杖は白く輝きはじめていた――まるで、姉妹屋に残してきたあの脇差《わきざし》のように。その白刃が空を斬《き》る。わっという声がして、真っ二つに切れた火縄《ひなわ》銃が後ろの斜面を転げ落ちていった。直次と同じくらい呆気《あっけ》にとられた追っ手の二人は、開いていた口を閉じると、それでからくりの仕掛けが動きだしたように、転げ落ちる銃の残骸《ざんがい》よりも遠く逃げ去った。
直次だけが、依然として呆然と取り残された。
背後に、柔らかな足音がした。
小太郎だった。二つの目が燃えている。
「あの――守り刀が」直次は頭を強く振って、水からあがった犬と同類のような顔をした。「小太郎、おまえは知ってたんだろうな、このことを」
もとより、答えが返るはずもない。犬はゆっくりと向きを変え、とんだ邪魔が入った、さあ急ごうというようにひたひたと下り始めた。皮袋はしっかりとくわえたままである。
その後を追いながら、直次は思った。
(あの連中は、おおかた、死んだ国信が小判でも隠して、それを小太郎に守らせていたぐらいに思っていたんだろう――ただ、何処にあるかわからないんで、手が出せなかったんだ。でも、本当に、あの中身は何なんだ?)
その答えは、ようやく山を下り、木下河岸《きおろしかし》で帰り船を待っている間に、ようやく得ることができた。夜明けの薄明りの中で、小太郎は促すように直次に皮袋を差し出し、開けて見た彼は、あの闇討ちの連中にはとんでもない期待はずれ、そして、姉妹屋に不思議な脇差を待たせている直次にとっては誠に意味深重な、ある物を見つけた。
それは一枚の刀の鍔《つば》だった。
七
翌日、もう一度砂村に向かう六蔵に、お初もついて行った。
煮豆屋の親父《おやじ》から聞き出したことを元に、六蔵は手下を連れて、昨夜のうちに井筒屋に乗りこんだ。乗りこんだはいいが、とんだ空振りだったのである。
井筒屋の主人もしたたかだった。決して逆らいも、いいわけもしない。自分は遠州屋など知らない、そんな鍔のない脇差など見たこともない、家捜しならどうぞやってくれ、怪しいものなど何もない。その一点張りである。
結果としては、六蔵の負けだった。脇差はなかった。そうなると、いくら達吉や煮豆屋の親父の証言があったところで、まだ無理押しはできない。六蔵は何人かを見張りにつけて、歯噛みしながら姉妹屋に帰って来た。
そこで、お初が幻の男と鍔のない脇差の話をしたのである。
六蔵は、最初の頃《ころ》はともかく、今ではお初の不思議な力に全幅の信頼をおいている。
「おまえが見たその引っつれ傷の男は、間違いねえ、井筒屋だ」
お初はきょとんとした。「でも……でもどうして、遠州屋さんの事件にかかわる人が、この脇差に?」
いよいよもって井筒屋からは目を離せなくなってきた。そこで、六蔵は一計を案じたのである。
「ひとつからめ手[#「からめ手」に傍点]からいこうじゃねえか。井筒屋の野郎も、てめえの道楽で二十両も出そうはずがねえ。もっと高く買おうという買い手がきっといるはずだ。その辺からさぐってみるさ」
砂村は、俗に「十万坪」と呼ばれた埋立地(現在の深川一帯)の南側にあたる。この辺りは享保《きょうほう》のころから埋立てが始められた。それ以前は富岡|八幡宮《はちまんぐう》(現在も門前仲町にある)が海中に突き出るような格好になっていたのだが、その海を地面に変える為《ため》に使われたのは、大江戸の町が毎日吐き出す塵芥《じんかい》――ごみである。
そういう新しい土地であるし、足元に埋まっている物が物である。埋め立ては今も続いているし、古道具屋と言っても、井筒屋はどうみても素性のよろしい店とは思えない。ことによると、ごみの中から適当に物色しては、怪しげな細工ともっともらしい口上をくっつけて売り飛ばすような、いかさまなことをやっているんじゃねえかと――葱《ねぎ》畑の畔道《あぜみち》を歩きながら、六蔵はそんなことを言った。
途中、目立たぬように気を配りながら、元八幡近くの井筒屋の前を通り、六蔵は張り込みの手下と繋《つな》ぎをとり、お初は主人の顔を確かめた。
古道具屋というより骨董《こっとう》屋のようなこぎれいな店にも驚いたが、
「本当だわ、あれは……」確かにお初が幻で見た顔だった。
「あの騒ぐ脇差には、まだまだたまげることがありそうだ」六蔵は難しい顔になった。「直次が気になるな……」
「あたしも心配しているの」お初の顔も、ちょっと曇った。だが、すぐに気を取り直すように、「だけれど、あの脇差はたぶん――ううん、絶対に、小太郎と小太郎を訪ねて行った直兄さんを守りに行ってくれたんだと思うわ」
昨夜、あの刀は、しばらくするとお初の手の中で重さを取り戻し始め、まもなく元通りになってしまった。刀身の輝きも失《う》せた。それだけに、一瞬の不思議はお初の胸をいっそうどきどきさせたのだった。
二人は先を急いだ。井筒屋に張り込んでいる手下とは、何かあったらすぐに、これから六蔵の訪ねていく先に知らせにくるよう、手筈《てはず》を決めてあった。
その行き先とは、砂村を縄張りにしている松吉という岡っ引きである。この男は、もとをたどれば十万坪の埋め立てをお上から許された三人の町人につながるとかで、
「まあ、氏素性のことはほかに知るもんがねえからなんともわからねえが、この辺のことにかけちゃあ生き字引なことには違いねえ。俺も、御用のことで二、三度、助《す》けたり助《す》けられたりしたことがある。信用のおける爺さんだよ」
松吉の家は、女房の名前で湯屋を商っている。下働きの女の子に用向きを話すと、すぐに座敷に通された。松吉は、よちよち歩きの孫娘と張り子の犬を転がして遊んでいるところだったが、六蔵の顔をみると喜んで迎えてくれた。
「見てのとおり、すっかり隠居をきめこんでいてなあ」
六蔵より二回りほど年上の松吉は、すっかり白くなった頭を撫《な》でて笑った。
「近頃じゃあ、御用の向きは佐介《さすけ》に任せっきりの始末さ」
「伜《せがれ》が後を継いでいるのかい、そいつは頼もしいな」
「なあに、そううまくはいかねえ、あいつじゃあ、まだまだ腰が座ってねえ。うちの子分に助《す》けてもらって、どうにかこうにか十手の重みによろめかずにすんでるぐらいなもんよ」そう言いながら、松吉の顔はまんざらでもなさそうに笑っている。
「今日邪魔したのは、松吉さんにちょいと力を借りたくてね」
ほう、そりゃあまたと、松吉は軽く座り直した。
「こんな爺《じじい》のかな。何だい、ひょっとしてそっちのお初ちゃんの縁談かなんかかね」と、お初を見やる。「あんた、お初ちゃんだろう? 子供の頃の面影《おもかげ》があるよ。いい娘になったもんだ。こんなにべっぴんになるんだったら、佐介の奴《やつ》をもう少し待たせておいて、あんたを嫁にもらう算段をするんだったよ」
そんなやりとりのあとで、六蔵が「実は古道具屋の井筒屋のことで……」と切り出すと、にわかに松吉の眉《まゆ》が曇った。
「井筒屋? ああ、あれはいけねえ」と、言下に手を横に振る。
「主人の弥三郎《やさぶろう》は、元は素性もわからねえ流れ者だし、ろくでもねえ野郎だ。俺もせいぜい目を配って、何度か尻尾《しっぽ》は捕まえかけたんだが、そのたびにうまく逃げられちまった。蛇《へび》みてえに抜け目ないし、金に汚ないことにかけちゃ、もう――」
「相当危ねえ橋でも渡る野郎かい?」
「いや、てめえでは渡らねえのさ。人を唆《そそのか》して渡らせて、お宝だけを頂戴《ちょうだい》し、その橋を落して尻《しり》に帆かけて逃げる野郎だ。あの野郎がもし、金のためにてめえのお袋の骨を売りさばいたって、俺は驚きゃしないねえ」
松吉はさらに、
「井筒屋の商っている物の中には、墓荒らしで盗《と》られた物もあるって噂《うわさ》だ。俺のにらんだところでも、まず間違いねえ。だが、どうにもこうにも決め手がねえ。それで煮え湯を飲まされてきたってわけさ。佐介にも、井筒屋から目を離すなときつく言ってある」
先の大水の時もと、松吉は、続けた。
「実はあの大水で、堤の近くの重願寺の墓場が荒されちまってな。えらい騒ぎになったんだ」
ちょうど半月前の大雨は、菜種梅雨などという生易しいものではなかった。日本橋川でもぎりぎりまで増水した。まして、土地の低いこの辺りでは、堤が切れればそれは即死人も出るような大事につながる。
「あのときも、井筒屋が、火事場|泥棒《どろぼう》ならぬ水場泥棒で何か掠《かす》めるんじゃねえかと気になったんだが、三日続きの大降りで、ひょっとすると抜かりがあって、弥三郎の奴にひと儲《もう》けされたかもしれねえ。おまけに、大水がやっと落ち着いたかと思った途端に、今度は妙な事件が起きてな、佐介のやつも井筒屋どころじゃなくなっちまったんだよ」
松吉は渋い顔になった。「ことが起こったのは、川っぷちの掘っ立て小屋に暮らしていた、やぶ[#「やぶ」に傍点]という男の家でね、こいつは地捜しで、この辺でも鼻つまみもんだったんだが、大水のおさまった三日後の夜、一家皆殺しにされちまったんだ。下手人はまだあがってねえ。佐介も躍起になって調べ回ってるんだが、何とも解《げ》せねえことばかりの事件でな。もちろん、物盗りじゃねえ。やぶのところに金目の物なんぞあるはずがねえことは、この辺の人間ならみんなようく知ってる」
お初がはっとして兄の顔を見ると、六蔵は目を険しく、声を低くしてきいた。
「そのやぶという野郎は、首を斬り落とされて死んでいたんじゃないかい」
六蔵の問いに、松吉は手にしていた煙管《きせる》を落とすほど驚いた。「ああ、そうだ。どうしてわかる?」
「それで、やぶの首を斬ったり、一家の者を殺すのに使われたらしい刃物は何処《どこ》からも出てこなかったろう?」
松吉は何度もうなずいた。
「ああ、それを佐介も気に病んでる。それに、どうも怪しいのは、やぶ一家の殺された晩、事件のあったらしい時刻のすぐ後で、やぶの小屋の辺りで井筒屋の姿を見かけたという知らせがあったんだ。まえまえから、やぶは地捜しで見つけたものを井筒屋に売りこんでいるという噂もあったし、佐介もこれで井筒屋の尻尾をつかんだと張り切ったんだが」
「なぜ井筒屋をお縄に出来なかったんで?」
「やぶの小屋で、女子供が騒いでいるような声を、近所の者が聞いている。それがちょうど、亥《い》の刻の鐘を聞いたばっかりの頃だったというんだ。何でそのとき様子を見にいかなかったとは聞かねえでくれよ。やぶのところは、まあ、貧すれば何とかってやつでな、女房子供も揃《そろ》って出来そこないときている。怒鳴るわわめくわ物は投げるわの大騒ぎには、大抵慣れっこになっていて、放《ほ》っとくことにしていたんだ」
「それはわかった。で、どうして井筒屋の疑いが晴れたんだい?」
「その時刻、井筒屋には客が来ていた。それもただの客じゃねえ、廻船《かいせん》問屋の近江屋《おうみや》を知ってるかい?」
「もし知らねえと答えたら、松さん、あんたは俺《おれ》の気がふれちまったと思うだろうな」
松吉は笑った。「そうだ。あの近江屋よ。言っちゃあなんだが、公方《くぼう》様が急に亡《な》くなっちまっても、お江戸の町は痛くもかゆくもねえ。だが、近江屋|孝兵衛《こうべえ》がはやりっ風邪で寝込んだだけでも、食うに困って死人が出るぜ」
「その、孝兵衛が井筒屋に来てたのか」
「ああ。近江屋孝兵衛は仏の孝兵衛、おまけに坊さんが間違って商いをしてるんじゃなかろうかと思うほどの石部《いしべ》金吉だ。だがな、たった一つの道楽がある。何だと思う?」
六蔵とお初は、しんと黙った。やがてお初が恐る恐る――
「もしかしたら、刀ではないですか?」
松吉はぽんと膝《ひざ》を打った。「ほう、何でわかるね? そうさ刀よ。なんでも近江屋の屋敷には、刀だけをいっぱいに納めた豪勢な座敷があるそうだ。金に糸目は付けずに買い漁《あさ》っているって噂で……」
ああ、大変だ――お初は思わず手で顔をおおった。
「ねえ兄さん、わかったわ、理由《わけ》はともかく、あの鍔のない脇差が『虎《とら》』なのよ! だってそうだわ、暴れているじゃないの。殺されたのは遠州屋一家だけじゃないんだわ――そして、井筒屋はその虎を近江屋さんに売るつもりなのよ!」
「鍔のない脇差?」今度は松吉が問い返した。「そんな物が何か関《かか》わりがあるのかい?」
「おおありなんだ、だが、その話は後だ。松さん、すぐに俺と一緒に井筒屋まで走ってくれ、野郎が近江屋と繋ぎを取らねえうちに、何とか押えねえとえらいことになる」
松吉は、老いてもさすがに素早かった。家の者に佐介に知らせろと指図すると、六蔵と一緒に飛び出し、六蔵を追い越すほどの勢いである。六蔵は息を切らしながらも手早く、遠州屋の一件と井筒屋との関わり、そして鍔のない脇差の話をして聞かせた。
「遠州屋の事件と、地捜しのやぶの事件とはそっくりだ。使われたのは、井筒屋が持っているその鍔のない脇差に違いねえと、俺たちはふんでるんだ」
ところが、二人の岡っ引きが井筒屋に着く前に、同じ道を反対がわから、韋駄天《いだてん》走りに走ってくる男と出くわした。六蔵の手下の伍助《ごすけ》だった。六蔵に捕まって改心するまでは腕っこきのすりだった男で、張り込みをやらせたら右に出る者がいない。その伍助が血相を変え、
「親分、たった今、廻船問屋の近江屋から井筒屋に遣いが来やした!」
「おう、そいつはおあつらえむきじゃねえか、そっくり押えてやるってもんだぜ」
六蔵は勢い込んだが、伍助は千切れそうなほど首を横に振った。
「それがそうじゃねえんです。確かに近江屋の遣いは金を持って来たんだ。そういう点じゃあっしの目に狂いはねえ。歩き方のあの感じ、懐《ふところ》に五十両はあるはずですぜ。でもそれだけじゃねえ、あっしは聞いたんだ、『昨日お約束の残りの半金をお持ちしました』って」
「馬鹿《ばか》野郎、何でそれを先に言わねえ!」
六蔵は怒鳴った。
松吉はうなった。「そうさ、通町の。近江屋の身代なら、百両や二百両、右から左だ。脇差《わきざし》は昨日のうちに売られちまってたんだ――」
六蔵と松吉は辻駕籠《つじかご》をつかまえ、近江屋へと走りに走らせた。何としても今度の惨劇は食い止めなくてはならないと、歯を食いしばって。
しかし、間に合わなかった。
八
一足先に姉妹屋に戻ったお初は、直次と小太郎が戻るのを待った。虎の正体が知れた今では、小太郎を待つのは苦しいほどにじれったいことだった。早く。お初は願った。早く。これ以上何も起こらないうちに。遠州屋の、近江屋のような惨劇が。
近江屋では、悪いことに寄り合いのさなかだった。そこにいて助かった者の話では、主人孝兵衛は、厠《かわや》に立つような何でもない様子で座敷を出、戻ってきた時には刀をさげていた。そして、全く無表情に、いちばん下座にいた、孝兵衛自身にとっては甥《おい》にあたり、日頃から孝兵衛との不仲を取り沙汰《ざた》されていた分家したばかりの店の主人から斬《き》って捨てた。あとはもう、気がふれたようなありさまで、たまたま近くにいて駆け付けた定町廻《じょうまちまわ》りの同心に斬り殺されるまで、何と八人を斬っていた。そして、鍔《つば》のない脇差は、また煙のように失せていた。
近江屋に駆け付けて、手遅れだったことを知った六蔵は、姉妹屋に使いをよこして、事情を伝えるのと同時に、脇差が見付かるまでは動き回るなと言ってきた。必ず見つけてやる、同じことを繰り返すわけには、俺の面子《メンツ》にかけていかねえと、伝言《ことづて》にも六蔵の憤《いきどお》りぶりがあらわれていた。
直次の戻ったのは、もう夜になってのことだった。それでも急げるだけ急いできたことは、疲れの見える顔色で分かったが、まずは驚きの方に気をとられて、
「おまえが小太郎……」
お初が立ちすくんでいると、あの皮袋をしっかりとくわえたままの小太郎もお初を真《ま》っ直《す》ぐ見上げかえす。すると、お初の頭のなかに、声が聞こえた。
(急いでください)
「木下河岸《きおろしかし》までこの犬を連れに行って来たっていうことなの?」
およしが仰天した声をあげている。その声にかぶって、また、
(さあ、早く。あの脇差を手に、私に尾《つ》いてきてください。私の声を聞き届けたあなたにだけしか、虎を倒す力を貸せない)
「……誰か……何か言った?」お初はつぶやいた。微《かす》かな寒気がする。いつも、他人には見えないものが見えたりするときと同じだった。
「いや」直次が答えた。ただごとではないお初の様子に、およしを手で制してこちらを見ていた。
「その犬が小太郎だよ」
お初はうなずいた。
「一緒にきてくれって、そう言ってる。あたしじゃなくちゃだめだって」
「この犬が?」およしが及び腰で訊《き》いた。
お初は座敷に戻り、あの騒ぐ脇差を手にした。ずっしりと重い。それを胸に抱くようにして戻ると、
「さあ、行きましょう」
そのころ、さすがに憔悴《しょうすい》した顔で、六蔵は八丁堀《はっちょうぼり》の組屋敷近くを歩いていた。少し前を、やはり疲れた足取りで進んで行くのは、そもそも六蔵に例の騒ぐ脇差を預けた張本人、南町奉行所同心の内藤|新之助《しんのすけ》その人である。
「全くもって、因果なことになったもんです」六蔵は、悔しさを噛《か》み殺しながらそう言った。
ほんの少しの差だったのだ。六蔵が近江屋に駆け付けたときは、斬り殺された者の体がまだ暖かかったほどだ。狂ったように刀を振り回し暴れていた近江屋を斬ったのは、定町廻り同心の佐田|主水《もんど》、そのとき一緒に市中見廻りにあたっていたのが、偶然、内藤新之助だったというわけだ。
ことの成り行き上、六蔵は、あの騒ぐ脇差から始まって今回の近江屋の惨殺《ざんさつ》事件に至るまで、詳しく新之助に報告した。旦那《だんな》が近江屋の現場に居合わせたというのも、こいつは何かの因縁だ、俺も何としてもあの脇差を見付け出して、相応のやり方で始末しないではいられねえ、お手柄《てがら》にもなることです、どうぞ気張っておくんなさいと、ひるんでいる新之助を励ますことも忘れなかった。それが効いたかどうかは、相変らず青白い新之助の顔色からは読み取れないが、今夜は夜通し捜索を続けるという六蔵に、それならせめて、簡単な夕餉《ゆうげ》ぐらいをわたしと一緒にどうだ、組屋敷ならすぐ目と鼻の先でもあるし、時間はとらない。そう申し出られて、やはり疲れていた六蔵は、喜んで承知したのだった。
それにしても……前を歩いて行く新之助の引きずるような足音を聞きながら、六蔵は頭の中をさらい直して考え込んだ。
(例の鍔のない方の脇差は、確かに恐ろしい力を持っているらしい。近江屋ほどの人物を狂わせるんだ。それでも、今までの事件でも、刀一人で雲隠れしているわけじゃあねえ。砂村新田のときには井筒屋が、遠州屋のときには煮豆屋の親父《おやじ》が、それぞれ理由は違うが自分たちの手で脇差を隠している――てことは、今回もそう考えていいってことだ……)
しかし、今度は誰が? 六蔵は今までのことが頭にあったから、近江屋にいた人間は全《すべ》て疑ってかかった。同心も例外ではない。ただ、幸い、例の脇差には鍔がない。事件の後、その場に足を踏み入れた同心のなかには、鍔のない刀を腰にさしているような者はいなかった。だいたい、そんななりでいたら、たとえ六蔵が見落としても、必ずほかの誰かが気がつくはずで、そういう意味では漏れはないと考えた。あとは、生き残った店の者や、座敷になだれこんだ医者、番太郎たち、それに野次馬。それらを調べる一方で、近江屋が道楽で集めていた刀の方も、抜かりなく全てを調べ尽くした。これについては砂村の松吉の言った通りだった。座敷いっぱい、まさに刀の山である。その一本一本を、六蔵と新之助、あとは町役の者まで駆り出して調べまくった。
鍔のない脇差は出てこない。
(雲を霞《かすみ》と……いや、いけねえ、今度こそはそうはさせねえぞ)
六蔵が心に言い聞かせたとき、四ツの鐘が聞こえ始めた。
一つ、二つ……捨て鐘を三つ突いて、それから四つ……暮れ四ツは亥の刻、そういやあ、砂村の事件も、遠州屋も……
ちゃりん[#「ちゃりん」に傍点]。
六蔵の足許《あしもと》に、何かが落ちた。いぶかりながら提灯《ちょうちん》の明りを近付ける。
「旦那、何か落とされませんでしたか――」
刀の鍔だ[#「刀の鍔だ」に傍点]。
ひやりとするような一瞬に、六蔵は悟った。懐の十手に手をやりながら飛び下がると、新之助がゆっくり振り向く。一度|棺桶《かんおけ》に納められた死人が生き返ってきたかと見まがうほど、その顔は精気が失《う》せていた。空《うつ》ろな目線が六蔵の喉《のど》の辺りを漂い、目はそのままに、闇《やみ》の中で手探りするようにもがきながら、鍔のない脇差がゆっくりと抜き放たれた。と思うと、もう白刃《はくじん》が六蔵の頭の上にきていた。これが生きたものの剣でないのは、打ちかかってくる速さでわかった。間がない。間合いがない。この剣は生きていない、息をしていないのだ。
横っ飛びに逃げた六蔵は、勢い余って近くの立ち木にぶつかった。白いひらひらしたものが雪のように降ってくる。満開の桜の木だった。飛ぶように起き上がったところへ次の一撃が降った。刃は桜の幹に食い込み、新之助の上にも花びらが降る。それを薙《な》ぎ払いながら六蔵を追ってくる。頭を狙《ねら》ってくる刃をかろうじて十手で跳ね返すと火花が散って、体ごとどうと地面に倒れた。はずみをつけて横へ転がると、道端の溝《みぞ》に転がり落ちた。
さあ、どうする。組屋敷まではまだ距離がある。いや、たとえ声が届いても、近江屋の事件の後だ、いるのは女子供、かえって――
新之助の足音が、ずるずると近付いてくる。息を切らしている。生き物でない刀が、生きている人間をあやつっている。
道は狭く、暗い。それなのに、闇は六蔵の道をふさぐばかりで味方とはならなかった。今の内藤様は、この暗闇でも目が見えるのか?
雄叫《おたけ》びが六蔵の耳をついた。内藤様があんな声を出してるってのか?
そうじゃねえ、あれはあの――
(脇差の声だ[#「脇差の声だ」に傍点]!)
六蔵は溝から飛び出した。狂った刃が今彼のいた所に振り下ろされた。そして、足を踏み間違えて手をついた六蔵の背中目がけて空をきる。また十手から火花が散る。新之助は跳ね返り、勢いで十手も六蔵の手から弾《はじ》き飛ばされた。
(しまった!)
獣の吠《ほ》え声と共に刃が向かってくる――ちくしょう、と歯噛みして、六蔵は思わず目をつぶった。
鈍い衝撃がはしって、六蔵は地面に倒れた。が、生きていた。信じられないことに、地面で顔を擦《す》り、ひりひりするくらいだ。目を開けると――
犬がいた。背中の毛を逆立て牙《きば》をむき、六蔵にかわって新之助と相対している。これは一体どういうことなんだと、霞む目で辺りを見回すと、
「直次……お初!」
直次が駆け寄ってくると、傷付いてない方の腕で六蔵を助け起こし、肩を貸して立たせた。
「間に合ってよかったよ」
お初は、一人だけ少し離れた所に、騒ぐ刀、国信《くにのぶ》の脇差を捧《ささ》げて立っていた。目は小太郎の動きに釘付《くぎづ》けになっていた。小太郎は新之助をじりじりと追い詰め、一声吠え、ゆっくりと半円を描きながら距離を縮めていく。同心は小太郎をにらみ据《す》え、擦り足で後退《あとずさ》りしていく。隙《すき》を見て踏み込もうとすると、小太郎が食い止める。
「国信……」新之助の食いしばった歯の間から、血が滴《したた》るように言葉が漏れた。
「ありゃ、何だ」六蔵が青ざめた。「お初が――おい、お初が」
「しっ、大丈夫だ」それでも油断なく身構えながら、直次が制した。
「ここはお初でなきゃ駄目《だめ》なんだ。お初と、国信の二人の」
お初は震えていた。小太郎はどうするつもりなのか、今のお初の耳にはまだ何も聞こえない。
明らかに、国広の脇差は、それに斬られる者だけでなく、それに操られる者をも害するのだった。同心は一度に病人のように弱ってしまっていた。青眼につけた脇差がふらふらと揺れている。小太郎はそれに向き合ったまま、じりじりと間合いを詰めて回り込む。
お初は脇差の柄《つか》をしっかりと握り締め、小太郎の動きを見守っていた。ここまで、小太郎に引きずられるようにしてやって来た。小太郎は、国広の脇差の在処《ありか》を知っていた。見えていた。闇夜に灯台に導かれる船のように、まっしぐらにここまでお初を引っ張ってきた。お初の頭の中に、小太郎のしようとしていることが、言葉で告げられたように分かってきたのだ。お初に告げるその声は、ひょっとすると、気がかりを小太郎に託して逝った国信の声だったかもしれない。お初が最初に騒ぐ脇差の声を聞き分けたときと同じ、
(この声を聞き届けたお人よ、あなたでなければ果たせない――)
新之助が獣のようにうなり、不意に凶刃《きょうじん》が閃《ひらめ》いて振り下ろされ、小太郎の左の耳が削《そ》げた。それでもひるまずに頭を屈《かが》め、隙をうかがう。
「小太郎!」
お初の声に、新之助が目を上げた。お初を認めた。口元に惚《ほ》けた笑いが刻まれている。どくろが笑えばこんなようだろう。目は暗がりに向かって開けられた節穴のようだ。ただ空っぽで、真っ暗で、それでもその闇の向こうに何かがいてとらえこまれそうだ。
しかし、それが新之助に隙をつくった。小太郎が大きく飛んで動き、おりた所は新之助の影の上、月明りでくっきりと地面にしるされた、狂った脇差の落とす影の上だった。今までずっといたずらに動いていたのではなかった。これこそが狙いだったのだ。
何かが破れたような声で、新之助がうめいた。動けないんだ[#「動けないんだ」に傍点]とお初は気付いた。これが小太郎の力、国広の残した狂気に相|拮抗《きっこう》できる力なのだ。
ちゃりん、と音がした。今度も鍔の落ちた音、しかしそれは、小太郎がくわえていたあの皮袋の中の鍔を落としたのだった。それと同時にお初の頭に声が響いた。
(さあ、早く!)
あたしが? 人を斬る? 人を斬るなんて? ためらい、声のない悲鳴をあげて、それでもその刹那《せつな》、手にした国信の脇差に引っ張られるようにお初は前に出た。踏み出したとき、新之助の姿が掻《か》き消え、代わりにそこに立っているのは、血走った目に口を歪《ゆが》めた幽鬼のような男――その姿目がけてお初の脇差は討ちかかり、まぶしさにお初は目を閉じ、喉の張り裂けるような新之助の悲鳴と、脇差を握った手に激しい手応《てごた》えを感じた。
まず国信の脇差が、お初の手を離れ短い銀の弧を描いて地面に落ちた。そして新之助の手にあった国広の刃は、あおられたように天高く弾き飛ばされ、この世を離れる断末魔の叫びが耳を聾《ろう》し、地上の三人と一匹は、天を仰いで立ちすくんだ。どさりと音がして、新之助がうずくまるように倒れた。
やがて――
再び空を斬る音がして、釘付けされたように動けないでいるお初たちの真ん中に、いやそれだけでなく小太郎の真上に、皮袋から落とされた鍔の真上に、国広の脇差が落ちてきた。犬はそれを待ち受けていた。避けようとも、逃げようともせず。今度はお初が悲鳴をあげた。
小太郎!
しかしその声が終わらぬうちに、小太郎を貫き通して刃が地に突き刺さり、柄がかすかに左右に揺れて止まった。
小太郎の姿は消えていた。
お初は息を殺し、それから思わず泣き声をあげてそれに近付いて行った。柄に手をかけようとしてはっとした。鍔がついている[#「鍔がついている」に傍点]。握ってみる。地面からは簡単に離れた。ひどく軽い。軽くて、簡単に持ち上げられ、そしてなんて鈍い光なのだろう。どんどん曇っていく、どんどん。
「あ」お初はぽかんと口を開けた。「錆《さ》びていくわ……」
誰の目にも、今やそれははっきりと見えた。国広の禍《わざわ》いの脇差が、錆びていく。それを呆然《ぼうぜん》と目で追いながら、お初は、刀身に巨大な、そして不気味な双頭の虎《とら》が牙をむく姿が彫り込まれているのを見た。
そうか、これが虎なのだ。
その双頭の虎もろとも、国広の妖刀《ようとう》はもろく変じていく。切っ先から、鎬《しのぎ》まで、そして錆びていく順に、赤い鉄粉となって風にさらされて行く。頬《ほお》には暖かいが決して弱くはない春の風が、桜の花びらと一緒に怨念《おんねん》の刀を散らしていく。しまいにお初のつかんでいる柄だけが残り、それもまた見る見るほころびて、手に支えきれないほどになっていき、やがて細かなほこりになって失せていく。残された茎《なかご》も錆びて消えていく。そのまえにちらりと、お初は「国広」の銘を見た。しかしそれもまた空《むな》しく、風が運んで行く……
お初の手には春の夜の風だけが残った。まだ微かな震えを抑えかねているその手に、置きみやげのように桜の花びらが一枚。
「ぼろぼろだ」
直次が、国信の騒ぐ脇差《わきざし》を拾いあげた。
「ひどい刃こぼれだよ。もう使い物にはならないだろう」
役目が終わったんだもの。小さくそうつぶやいて、お初は改めて小太郎を捜した。犬は消えていた。
いってしまったのだ。小太郎もまた、役目を果たして。それとも、小太郎などという犬は、最初からいなかったのだろうか。いたのはただ、刀|鍛冶《かじ》の国信の魂だけ。
不意に涙があふれてきて、お初の目がぼうっと曇った。
「ありがてえ、内藤様は大丈夫なようだぜ」六蔵が明るい声を出した。
「やれやれ、命拾いしたぜ、全く」
九
井筒屋は、地捜しのやぶ一家が殺された晩、刀を奪いに行ったことだけは認めた。
「あれは、お察しの通り、先の大雨で重願寺の墓地から流れだしたのを、やぶがかすめてきたんですよ。一度はやぶの方から、あれを売り付けにきたんです。そのときに近江屋《おうみや》さんも居合わせて、何がそんな気に入ったのか知りませんがね、すぐに買い受ける話がまとまってたのに、こんどはどういうわけか、やぶの方がしぶりだしやがって、やっぱり手放せねえとたわ言[#「たわ言」に傍点]を言いましてね、持って逃げ帰ってしまいました。私としちゃあ、そんな勝手はさせられませんし、矢の催促をしたのに、やぶの奴《やつ》がいつまでたっても刀を持ってこない。それでこっちから出かけて行ったんです。あんなありさまになっていて、どぎもを抜かれたのは私だって同じですよ。ところが、そうやってやっと手に入れた刀を、まだ近江屋さんに渡さないうちに、知り合いの弔いに来た帰りだとかいう――そうそう、遠州屋とかいってましたっけな、そのお人が、まるでかっさらうように買っていっちまって、こちらは大変な迷惑をしましたよ。私は手荒なことは嫌《きら》いですからね、何度も話し合いに行ったんだが、らちがあかなくて。あとは旦那がたが御存知の通りですよ」
結局、ほかのことではいくら疑いをかけても裏付けが見つからず、やぶの刀を盗んだということだけで、井筒屋は江戸ところばらいになった。来たときと同じように、行李《こうり》ひとつを担《かつ》いで。
「しかし、何だって、あの井筒屋だけは、あんな腹黒い奴だけが何で、国広の脇差に取《と》り憑《つ》かれなかったんだろう」
不思議がる六蔵に、松吉が言った。
「本当の妖刀というのは、触れるものは皆|斬《き》るというんではなくて、ああいう井筒屋のような奴をうまく利用して、人から人へと渡っていくのかもしれねえな……何せ、頭の二つある虎だ。一つの頭で獲物《えもの》を喰《く》らいながら、残る頭で逃げ道を捜していたんだろうよ。おっそろしい話じゃないか。国広という刀鍛冶は、よっぽどの腕前だったんだろう。惜しむらくは、国広という人間より先に、その腕前だけが走っていっちまったんだな。考えてみりゃ、憐《あわ》れな話かもしれねえ」
また松吉は、重願寺の墓地の記録を調べ直して、国広の虎の脇差が何処《どこ》にいつごろ埋められたものだったのかを調べていた。昔のことで調べははかばかしくなかったが、先代の住職の時に重願寺の寺男をしていた爺《じい》さんの息子というのが、わずかだが、父親のしてくれた思い出話の記憶を保っていた。
「少なくとも十五年は昔のことで、はっきりしたことは覚えてないと言うんだが、ただ、何処かの旗本の用人から言いつかって、密《ひそ》かに墓地のはずれに埋めたようなんだ。寺男が理由を訊《き》くと――」
用人は、真剣なまなざしでこう答えたという。
「この刀は、人の心の底の、自分でも気づいていない、あるいは忘れてしまっている悪心を掘り起こすものなのだ。だから、めったなことで外へ出してはならないのだ。自分だけは大丈夫だなどと思うなよ。悪心は誰の中にもある。ただ、いつもわしたちは、そういう悪心を知らぬ間に心で矯《た》めて、表に現れないようにして暮らしているだけだ。この刀はそれを煽《あお》ってそそのかすのだよ……。わしの主《あるじ》はこの刀を見てそれを見抜かれて、世の為《ため》にならぬこの刀を封じる為にこうされるのだ。このことは、決して他言してはならないぞ。この刀には、一目みただけで人の心を虜《とりこ》にする怪しい力があるのだからな……しかも、この脇差には、本来あるべき鍔《つば》がない。鍔のない刀は、くつわ[#「くつわ」に傍点]を噛《か》ませていない馬と同じだ。ひとたび暴れだしたら、止めることは難しい。とても難しい」
そうやって、白布できつくぐるぐる巻きにした脇差を、深く掘った穴の底に埋めたのだという。
「まあ、その旗本の用人がどうしてそれを手に入れたのか、今となっては知るすべもねえが、そうしてくれたお陰で、少なくともその十五年間は、虎は封じられていたってわけだな。永久にってわけには、いかなかったんだがね……」
「ふさいでおるようだな、お初」
事件の数日後、遣いが来て、お初は御奉行の役宅に参上した。お初の通される座敷はいつも決まっており、どうやらここは、御奉行様が直《じか》に召し抱えたり使っている者たちの専用の部屋らしいと、お初は察している。
「話のあらましは直次から聞いたが、小太郎という犬には、憐れなことだったの」
「消えてしまいました」
おおせの通り、お初は元気がでない。
「死んだのなら、小太郎の体は残るでしょうに、何も残さず消えてしまったんです」
根岸|肥前守《ひぜんのかみ》は、書き物机に肘《ひじ》を付け、たいそうくだけた様子で座っていた。そして、お初の方に少し乗り出すと、
「私も少し、調べてみたのだがな」
国信という刀鍛冶が、放浪の旅の間にどういう修業を積んだのかはわからぬが、と前置きして、
「小太郎はおそらく、午《うま》年生まれの犬だったのではないかと思うのだよ」
易経《えききょう》では、虎・戌《いぬ》・午と揃《そろ》うと、三合といって、それぞれの持つ意味が失せて、全く違うものになるのだそうだ。
「国信は、そういう犬を捜していたのだろう。坂内というのは、北の、山深い所の土地の名でな、そこは山犬の血をひいた勇猛で気の勝った犬が多く生まれることで、知られているそうだ。何、これも人から聞いた話だが」
あるいはそれとも、国信の魂が、小太郎という犬の姿を借りてこの世に留《とど》まっていたのかもしれぬ。生涯《しょうがい》をかけた役目を果たして、今は安堵《あんど》していることだろうよ……御奉行はそう言って、穏やかな目でお初を見やった。
「そうかもしれません」お初も答えて、少し、気持ちが楽になった。
「御前様は、今度のことを、どのようにお書き残しになられるおつもりでございますか」
そうさなと、肥前守は白髪《しらが》まじりの頭をかしげた。
「騒ぐ刀、とでもしておくかの」
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あ と が き
あとがきの苦手な私でありますが、今回は、特にお願いして書かせていただくことにいたしました。
この作品集に収めてある中短篇四作は、私の、非常に初期の作品たちであります。初出では、「迷い鳩《ばと》」と「騒ぐ刀」は平成三年の作品ということになっておりますが、この二作も、原型となった初稿を仕上げたのは、それぞれ昭和六十一年、六十二年のことでした。今回、単行本収録のため改稿いたしましたが、基本的な人物設定、ストーリー展開などは、初稿のものをほぼそのまま踏襲しております。
本篇を御一読いただければ、上記の二作が同一キャラクターによる連作の形式をとっているということが、すぐにお分りいただけると思います。ただ、この二作の初稿を書き上げた当時、私はまだまったくのド素人《しろうと》でして、将来プロ作家になれる見通しなど一ミリもない時でありましたから、今思えば、ずいぶんと図々《ずうずう》しいことをやったものです。書き直しを進めながら、あらためて赤面いたしました。
さて今回、新人物往来社さんから二冊目の単行本を……というお話をいただきまして、あれこれと収録作品について考えましたとき、いちばん悩みましたのが、この「迷い鳩」と「騒ぐ刀」の扱いについてでありました。本来、同一キャラクターによる連作であれば、ある数だけ作品を書き積んで、それだけで一冊にまとめることが当然であるからです。最終的に、あえてそれを避け、今回のように単発作品を集めたなかに収録することにしましたのは、私のわがままによるものです。
理由のひとつは、冒頭に申し上げましたように、これらが非常に初期の作品たちである――ということにこだわったからです。作品の内容の傾向によって分けるよりも、これはこれでひとまとめにした方が、短篇集としての色合いを、きちんと出せるのではないだろうかというふうに考えました。
ふたつめの理由は、最初のことにも関連しております。私は、「迷い鳩」と「騒ぐ刀」で扱っている根岸|肥前守鎮衛《ひぜんのかみやすもり》という歴史上の人物と、この人の残した『耳袋』という書物とに、現在でもたいへん興味を抱いておりまして、長篇もしくは連作短篇という形で作品を取り上げてゆきたいと願ってはいるのですが、それでも、今後は、この二作を書いた当時とは違った形で取り組んでみたい。そこで、いたずらに、このまま連作という形で続けるのではなく、一度区切りをつけたいというふうに考えたという次第です。
本来、こうした「お断わり」的なあとがきを書くのは恥ずかしいことなのですが、初期のものであるが故《ゆえ》に、愛着の深い作品たちの収められた本でありますので、書き留めさせていただきました。
また、前作『本所深川ふしぎ草紙』に書くことのできなかった感謝の言葉も、今回は記すことができます。途中で何度も音をあげて、「もー、駄目《だめ》です。やめさせてください」と喚《わめ》きつつ、それでもなんとか二冊目の短篇集を上梓《じょうし》するところまで漕《こ》ぎ付けることができたのは、一重にも二重にも、新人物往来社編集部の田中満儀さんと馬場則子さんのおかげです。お二人の辛抱強い励ましがなかったら、この二冊とも、永遠に日の目を見ることはなかったでしょう。ありがとうございました。
[#地から1字上げ](平成三年十一月)
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解 説
[#地から2字上げ]笹 川 吉 晴
本書『かまいたち』は、一九九二年一月に新人物往来社から刊行され、宮部みゆきの時代小説の単行本としては、本所七不思議≠ノ材を取り、第十三回吉川英治文学新人賞を受賞した九一年の『本所深川ふしぎ草紙』に続く、二冊目にあたる。しかし、収録作品の年代を見てみると、第二十六回オール讀物推理小説新人賞を受賞した「我らが隣人の犯罪」(「オール讀物」87・12)に続くデビュー二作目であり、第十二回歴史文学賞佳作となった表題作「かまいたち」は「歴史読本」八八年四月号に発表されている。また、「迷い鳩《ばと》」は発表こそ「別冊歴史読本」九一年八月特別増刊号であるものの、初稿の執筆時期はデビュー前の八六年、「騒ぐ刀」も同じくデビュー前、八七年の第十一回歴史文学賞候補作となったものである。つまり、第一話「片葉の芦《あし》」が掲載されたのが八八年夏の「別冊歴史読本特別増刊」である連作『本所深川ふしぎ草紙』に対して、『かまいたち』は最初期の、言わば宮部みゆきの時代小説の原点を見るような短編集となっているのである(唯一《ゆいいつ》「師走《しわす》の客」だけが、「小説宝石」八九年一月増刊号発表といささか遅め)。
こうして見ると、宮部みゆきがその作家活動の最初期――いや、修業時代からミステリ同様、時代小説にも力を入れていたことに今更ながら気付かされる。縄田一男との対談の中で、宮部は「時代ものと現代もののあいだに明確な区別をつけていらっしゃらないのですね」という問いに、「ええ。時代ものが私にとってむずかしいのは、本当にディテールを知らないから……、ひたすらそれだけです」と答え、敢《あ》えて違いを見出《みいだ》すとすれば「単に素材ですね。たとえば、カード破産のことを書こうとすれば現代で、忠臣蔵に興味があったらこれは時代もの、という程度でしかないんですよね」(「ぶらっと、大江戸二人散歩」/『大江戸ぶらり切絵図散歩』95・PHP研究所)と語っている。宮部みゆきにとっては、時代小説もミステリも等しく〈物語〉なのである。
時代小説と共に、ミステリを創作活動の主なフィールドにしている宮部みゆきに対して、こういう言い方は失礼であるかもしれない。しかし、〈謎《なぞ》〉そのものよりも、その解決の過程にこそドラマがあるという点が、宮部みゆきの一番の魅力であると僕は思う。
例えば辻斬《つじぎ》りを扱った「かまいたち」では、いかにも怪しげな人物が登場しながら、それが犯人ではないことが読者には分かっている。辻斬りの下手人、あるいは事の真相はある程度時代物に親しんでいる人間ならば予想がつくものであって、それほど重要ではない。むしろ、読者には見えている事件を、ただ一人見えていない主人公がどうやって解決するかという点にこそ、作品の面白さがある。香山二三郎は『レベル7』について、「ぼくには事件そのものよりむしろ、その関係性が明らかになったふたつの物語の登場人物たちの行方のほうが気になって仕かたなかった」(新潮文庫版解説・93)と言う。これは、〈謎〉に魅力がないということではもちろんない。〈謎〉以上に、それに挑《いど》む主人公たちが魅力的に描かれているということであり、だから読者はいかに残酷な物語であろうと、彼らに幸福な結末が訪れることを願ってしまうのだ。これを小説の勝利と言わずして何と言おう。
大沢在昌との対談の中で、宮部みゆきは「けっこうエンターテインメントの予定調和は好きだからね」と言う大沢に対して、「わたしも大好き」と答えている(「IN★POCKET」96・7)。「予定調和」という言葉は、一般に悪い意味で使われることが多い。しかし、物事を皆収めるべき所に収めて、なおかつ作品の質を落とさないためには、相当な技術とセンスが必要とされる。そして、宮部みゆきはそれをふたつながら兼ね備えた、優れた物語作家なのである。
北上次郎は『魔術はささやく』新潮文庫版解説(93)の中で、「宮部みゆきは旧来の小説が終わった地点から物語を始めるのである」と指摘している。『魔術はささやく』では連続殺人が阻止され、その真相も暴かれた後、主人公の少年が犯人と同じように、殺人によって人を裁くという行為を行えるかどうかというのが真のクライマックスになっている。つまり、ミステリの命題である〈謎〉の解決がそのまま物語の終わりとはならないのである。
こうしたずれは何故《なぜ》起こるのか。それは宮部みゆきが〈謎〉の真相を〈知る〉ことではなく、〈知ってしまう〉ことの哀しみ[#「哀しみ」に傍点]について語っているからに他ならない。
宮部作品ではよく、〈謎〉があらかじめ存在するのではなく、何かを〈知る〉ことで〈謎〉、そしてそれを産み出す〈悪意〉の存在に気付くという構成が取られる。主人公が人間の悪意を知り、それと正面から対峙《たいじ》することを余儀なくされるという構図は、ミステリという文学形式が日常の蔭《かげ》に隠蔽《いんぺい》されている〈悪意〉を明るみに引きずり出して、告発するものである以上当然のことと言える。宮部作品の特徴は、しばしば、主人公を本来そうした〈悪意〉から保護されるべき少年――しかも、家庭になんらかの形で欠損のある少年に設定する点にある。家庭の欠損によって、人間のネガティヴな部分を知ってしまった彼らは同年代の友人たちよりも、場合によっては大人たちよりも〈悪意〉を見抜き、逸《そ》らすことなく見つめる目を持っている。欠損が彼らに〈知る〉能力を与えるのである。
しかし、〈悪意〉に対して少年らしい純粋な怒りを覚えながらも、彼らは決して声高な告発者になることはない。宮部みゆき自身の言葉を借りるなら「そういう痛みを背負ってる人というのは、人に対して優しいから」(『だからミステリーは面白い〜気鋭BIG4対論集』95・友學書林)、犯罪を行うまでに追い込まれた人間の弱さを哀しく思い、その弱さが自分自身の中にも確かに存在することを認めながら、しかし、彼らはそれに流されることだけはきっぱりと拒絶する。
欠損が〈知る〉能力を与え、それによって哀しみを経験する――という構図が最も強調された形で現れているのが、『龍《りゅう》は眠る』や『鳩笛草』などの超能力物だろう。能力の過剰さは、それによって普通の$l生が送れないという意味において、欠損の裏返しである。超能力少年が自らの力を持て余し、苦しめられながら、それでもその力によって他人を救おうとする『龍は眠る』は、まさに〈知ってしまう〉ことによって起こる哀しみと、それから目を逸らさずに対峙しようとする若さを超能力≠ニいうメタファーをもって描いた作品だと言える。そして、人の心の奥底に隠された、醜い本音を〈知ってしまう〉が故《ゆえ》に人から遠ざかり続けてきたもう一人の超能力者である青年が、ただ一人心を許した女性を悲しませないために事件に関《かか》わり、ついには命を落とすという展開に、宮部みゆきがこだわり続けているものが垣間《かいま》見えているような気がする。
この超能力テーマを時代小説の中で展開したのが、本書に収録された「迷い鳩」「騒ぐ刀」の連作である。霊能力を持つお初は様々なものを〈見る〉。その多くは人の悪意であり、それが引き起こす死のイメージである。霊能力さえなければ、お初はそれらとは無縁の平穏な日常を送っていただろう。しかし、お初は人の世に様々な〈悪意〉があることを知ってしまう。知ってしまった以上、いかに辛《つら》かろうともお初はその〈悪意〉と向き合わなければならない。〈悪意〉が産む哀しみ――それを癒《いや》すことができるのは彼女をおいて他にはいないからである。南町奉行・根岸|肥前守鎮衛《ひぜんのかみやすもり》も言うように、他人にはない〈知る〉力を持った者の、それは務めなのである(なお、鎮衛の手になる奇談集『耳袋』をモティーフにした、このお初の物語は細かい設定を多少変えて、長編『震える岩――霊験お初捕物控』を産むことになる)。
また、表題作「かまいたち」は町医者の娘おようが、偶然目撃してしまった辻斬りの下手人を追うサスペンスだが、冒頭にも述べたように下手人捜しの面白さがメインではない。おようが現場で出会った新吉が、越前の手の者であることは「二」の冒頭で早くも明らかになってしまうし、おように手を貸す平太の正体も後半の早い時期に明かされる。にもかかわらず読者が最後まで引き付けられていくのは、おようの心情が丁寧に描かれているからである。辻斬りを目撃した恐怖から、信じてもらえないもどかしさ。ここでもおようを脅《おび》えさせ、苦しめるのは彼女が〈知ってしまった〉ことである。そして、向かいに越してきた新吉に脅えながらも誰にも話せず、ついに自分一人で片を付けようと、命|懸《が》けの覚悟を決めて対決の場に向かうクライマックスに至って、〈知ってしまった〉以上それから逃げ出すことなく、誰の手も借りずに一人で立ち向かおうとする、おようの凜々《りり》しい健気《けなげ》さには、それが見当違いのものであろうと、いやだからこそ感動を禁じ得ない。
疑惑(おようにとっては事実≠セが)が間違いであった「かまいたち」に対し、信じていたものに裏切られるのが「師走の客」である。地道に暮らしてきた純朴《じゅんぼく》な宿屋夫婦がふとしたことから欲を知り、そして人間の悪意を知る。ここでもまた、〈知ってしまう〉ことは残酷である。しかし無垢《むく》な子供と犬が、後味悪く終わりかけるこの物語に救いを与えているのが清々《すがすが》しく、〈悪意〉をそのままにしておけず、何とかゼロに戻そうとする宮部みゆきの優しさが心地|好《よ》い。
一貫して〈知ってしまう〉ことの哀しみを描きながら、『かまいたち』に収められた四つの短編の素材は超能力、サスペンス、詐欺《さぎ》と多岐にわたる。こうした多様な素材の時代小説における展開は、九四年の『幻色江戸ごよみ』によって、一つの頂点に達する。世話物から捕物風、怪談まで様々なストーリーの物語を、縄田一男は「現代に喪《うしな》われつつある、共同体の中での関係性復活への希求を、別のかたちで、すなわち、怪異を通して描いているんだな、と想《おも》い、何かこう、ホッとするような気持ちを覚えたりするのである」(『東京下町殺人暮色』光文社文庫版解説・94)と評している。
この「共同体の中での関係性復活」というテーマに、ミステリにおける欠損家庭の少年たちを重ね合わせてみれば、彼らが物語内において、様々な形で行う年長者との交流が意識的・無意識的に欠損を埋めようとする、切実な欲求の表れであることがより明確に浮かび上がってくる。そして、この欠損の補完は時代小説においても、形を変えて追求されているのである。本書に収録された作品の中でも、主人公たちはそれぞれ何らかの形で欠損を抱え、思慮深い年長者によってその欠損の埋め方を、あるいは欠損と向き合って生きていく術を教えられる。
未《いま》だ充分な準備ができていないうちに、欠損によって〈悪意〉を知らされてしまった主人公が年長者に導かれ、あるいはそっと道を指し示されながら、人の世に、そして自分自身の中にもある〈悪意〉と対峙する――宮部みゆきが語るのはそういう物語であり、事件が主人公に傍観者であることを許さず、選択を迫るように、読者である僕たちもまた、そこに孕《はら》まれた問題を自分自身のものとして向き合わなければならない。だからこそ、宮部みゆきはどんなに残酷な物語であろうとそれを突き放すことをせず、最後に救いを用意するのだ。それは口当たりの好い甘さ≠ナはなく、人間の弱さ、哀しさを敢えて受け容れ、それでも人間を信じて生きていきたいと願う切実な祈り≠ネのである。
[#地から1字上げ](平成八年八月、文芸評論家)
[#地から1字上げ]この作品は平成四年一月新人物往来社より刊行された。
[#改ページ]
底本
新潮社文庫
かまいたち
著 者――宮部《みやべ》みゆき
平成八年十月一日 発行
発行者――佐藤隆信
発行所――株式会社 新潮社
[#地付き]2008年8月1日作成 hj
[#改ページ]
修正
手礼→ 手札
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35