ボクの日記   第1章 「朝と夜」   ボクは誰ですか
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第一週 「起床」
1月8日(月) クモリ
朝、目が覚めたらタケシ君がいました。
ボクはすごくグッスリ寝てたらしく、しばらく頭がボォっとしてたけど
目が覚めていくにつれてタケシ君の姿がハッキリ見えてきました。
タケシ君は朝から夜までずっと中学校の制服を着たままです。
黙ってボクのことを見てるだけで、特に何も話してくれません。
変な人。
1月9日(火) ハレ
おじいさんとおばあさんにはタケシ君は見えないようです。
タケシ君がボクの後についてきても二人は何も言いません。
タケシ君の方もおじいさんとおばあさんには何の関心も持ってないようです。
ご飯も食べずに横でボクを眺めてばかりのタケシ君。
無表情で、よく見てみるとまばたきもしてませんでした。
疲れないのかな。
1月10日(水) クモリ
無愛想なタケシ君も結構イタズラ好きだったりします。
後からボクの目を手でかくすから顔洗うとき鏡が見れなくて不便です。
耳もふさいできたりするからおじいさんたちの会話も聞こえません。
ボクのことを呼んでるっぽい時もそれをされるから返事できなくておじいさんに怒られてしまいます。
でも怒鳴り声も聞こえないからちょっとだけ便利かもしれません。
できればやめて欲しいけど。
1月11日(木) ハレ
タケシ君はお風呂にもトイレにもついてくるのでちょっぴり恥ずかしいです。
お風呂でも制服着たまま立ってるんですが不思議と服は濡れません。
鏡の前でいつものように無表情のままボクを見ながらじっと立ってます。
お風呂あがった後におばあさんが体を拭いてくれるのを手伝うようなこともしてくれません。
めんどくさがりのようです。
1月12日(金) ハレ
おじいさんとおばあさんはしょっちゅう喧嘩してるようなんですがタケシ君のせいで内容はわかりません。
ボクの事を指さしたりするんですがすぐにタケシ君に目を隠されてしまいます。
両耳をふさぎながら目まで隠すなんてタケシ君はすごいと思いました。
手が4本あるのかなと思ったんですがこれも目をふさがれてるのでどうやってるのかは見えません。
見えないことだらけです。
1月13日(土) クモリ
おじいさんとおばあさんにタケシ君がいることを教えてあげるとものすごいいきおいで怒られました。
声が聞こえなくてもおじいさんが鬼みたいな怖い顔して殴ったので怒ってるのだとわかります。
その後寝たフリをしてたらおばあさんに「お前は一人っ子だお前が一人っ子だ」と1時間くらいささやかれました。
少し目をあけるとタケシ君はボクの耳はふさがずに腕を組んでけけけっと鳥の鳴き声みたいな変な声で笑ってました。
なんで笑ってるんだろう。
1月14日(日) ハレ
タケシ君が誰なのか知りたかったけどおじいさんに聞いたら「二度とその名を口にするな」と殴られたので
それ以上は怖くて聞けませんでした。またタケシ君が横でけけけっと笑ってました。
相変わらずタケシ君はボクの目を隠したり耳をふさいだり無表情のまま(たまに笑うけど)ついてきたりします。
おじいさんとおばあさんが喧嘩してても止める気配はありません。ボクが殴られても止めません。
タケシ君は何をしたいんでしょうか。なぜボクについてくるんでしょうか。
誰も教えてくれません。
第二週 「挨拶」
1月15日(月) クモリ
夜になるとタケシ君は喋るようです。
おじいさんとおばあさんが隣の部屋で寝静まった頃、タケシ君はふすまに寄りかかって立ったままでした。
ボクが寝てる間もずっと立ってるのかなと思って試しに「座らないの?」と話しかけてみたら答えてくれました。
「君が寝たら僕も寝るよ」
一言だけどちゃんと返してくれました。タケシ君もどちゃんと寝ることがわかって安心しました。
立ちっぱなしじゃかわいそうだから。
1月16日(火) ハレ
ご飯をタケシ君にもわけてあげようとしたらまたおじいさんに殴られました。
そしてまたおばあさんと喧嘩を始めるんですがタケシ君に耳をふさがれるので聞こえません。
後のタケシ君に「お腹空いたでしょ」と言っても無視されました。
夜、おじいさんとおばあさんが寝るたらタケシ君は「あのご飯は食べれない」と言いました。
おいしかったのに。
1月17日(水) ハレ
今日はおじいさんに押入に閉じこめられたのでとても寒かったです。
おばあさんは泣きながらボクを出そうとしてくれましたがおじいさんに止められてました。
タケシ君も一緒に入ったんですがそんなに狭そうにはしてませんでした。
タケシ君に耳をふさがれるとあったかくなるかなと思ったけど耳は冷たいままでした。
今も体が冷えてます。
1月18日(木) ハレ
どうも風邪を引いたようです。頭がボォっとして寒気がします。
だから一日中寝てました。
おじいさんもおばあさんも看病してくれなかったけど寝てるだけだったので一人でなんとかなりました。
でも頭も痛いのはどんどん酷くなっていきます。タケシ君の顔までぼんやり見えるようになってしまいました。
まだ寒いです。
1月19日(金) クモリ
風邪が治りません。体中が熱いです。タケシ君の姿がぼやけてます。変な煙みたいに見えます。
誰かに「大丈夫?」と聞かれた気がしますがあまり意識が無かったのでよくわかりません。
眠いです。
寝ます。
1月20日(土) ユキ
身体が宙に浮いてるみたいにふわふわした感じがします
目が悪くなってしまったみたいに全部がぼやけて見えます
それにすごく眠いです・・・
・・・・
1月21日(日) ハレ
たくさん寝たおかげで風邪は完全に治ったようです。頭もここ最近の中で一番スッキリしてると思います。
タケシ君もハッキリと見えるようになりました。でもなぜか前より姿がかわってるみたいです。
制服が高校のやつに変わってるし、いつも無表情だったが、少し睨むような感じでボクを見るようになりました。
目が合うと「おはよう」って挨拶してくれたけどすごく睨まれてる感じがしたので目をそらしてしまいました。
タケシ君、怖いです。
第三週 「洗顔」
1月22日(月) クモリ
タケシ君にずっと睨まれてます。ボクは何か悪いことしたんでしょうか。
腕を組んで壁により掛かってボクのことをまじまじとながめてるんですがあまりいい気分じゃありません。
話しかけるのは怖かったけどこのまま睨まれ続けるのはもっと嫌なので勇気を出して「ボク何かした?」と聞きました。
「いや、何もしてない」と答えてくれたけど睨むのはやめてくれません。
落ち着かないです。
1月23日(火) ハレ
タケシ君はボクから目を離しません。いい加減にして欲しいです。
あまりにしつこいのでボクは怒ってしまいました。「なんでそんなに睨むの?」
するとタケシ君は深いため息をついて何度も首を横に振りました。
「その前にさ。君は自分が誰だかわかってる?」
わかりません。
1月24日(水) ハレ
どうゆうことでしょう。ボクは自分が誰だかわかりません。
覚えてるのは、深い眠りから目覚めたあの朝からのことだけです。それより前のことは思い出してはいけません。
鏡を見て自分の顔を確認しようとすると、タケシ君が鏡の前に立つので見ることはできません。
タケシ君はボクのことを知ってるようでした。「察しはついてる」と言ってたけどそれが誰だかは教えてくれませんでした。
気になります。
1月25日(木) アメ
とりあえず鏡で自分の姿を確認したいです。タケシ君にどいてもらうように言ったら断られました。
「今見てもたぶん理解できない」とのことでした。理解できないって何がでしょう。
仕方ないからおじいさんとおばあさんに聞いてみようとしたらタケシ君に腕を捕まれてものすごく睨まれました。
「あいつらには何も言っちゃいけない」って。怖い顔してたから従うことにしました。
でも知りたいです。
1月26日(金) ハレ
どうしても知りたいと言ったらタケシ君は考え込んでしまいました。
「見たら色々理不尽なことが出てくるけど、それでも見る勇気はあるか?」
なんで自分の顔を見るのに勇気が必要なんでしょうか。ボクはそんなに変な顔してるんでしょうか。
手で顔を触って見てもぐにゃぐにゃするだけで何もわかりませんでした。
どうなってるんでしょう。
1月27日(土) ユキ
このままじゃ気になってグッスリ眠れないし唯一の楽しみのご飯もおいしくありません。
何度も何度もタケシ君に頼み込むと、渋い顔してようやく承諾してくれました。
「一つだけ約束してくれよ。見た後、絶対パニックを起こさないこと。」
たぶん約束できます。でもタケシ君は「明日にしよう。じっくり覚悟を決めるんだ。」と言って先延ばししました。
ボクは平気なのに。
1月28日(日) ハレ
顔を洗う時、ついにタケシ君がどいてくれました。鏡にボクの姿が映ってました。
でもそれは、ボクが思ってたのとは全然違って、誰がわからないけどボクが喋ると鏡の中の女の人もちゃんと口を動かして、
やっぱりこの人はボクなんだと思って、つまりボクは鏡に映ったように、なんかちょっと年いったおばさんで・・・??
混乱しそうになるとタケシ君が「何も考えるな」と叫びました。そして「俺の言うとおりにしてれば大丈夫だから。」と。
だから何も考えません。
第四週 「朝食」
1月29日(月) ハレ
タケシ君に色々聞きたいと思ったけどおじいさんとおばあさんがいる時は話してくれなくてもどかしいです。
二人きりになるタイミングを伺っては話しかけました。「ボクの体はどうなってるの?タケシ君はボクのことよく知ってるの?」
タケシ君はちょっと寂しそうな顔をして「俺から教えても意味が無い。自分で気づいてくれ」と答えました。
そうは言ってもタケシ君は相変わらずボクの耳をふさぐしまた鏡の前にも立ったりします。
どうやって気づけばいいんでしょうか。
1月30日(火) ハレ
タケシ君に話しかけるタイミングは大体わかるようになりました。おじいさんとおばあさんに声が届かない所な返事をしてくれます。
ボクのことについていくら考えてもわからないので教えて欲しいとタケシ君に催促しました。
しばらく考え込んだあと「全てが一気に解決する方法があるんだけど」とつぶやきました。
そんな方法があるなだ是非教えて欲しいと言ったら「あまりオススメできない」と言ってまた黙り込んでしまいました。
もどかしいです。
1月31日(水) クモリ
今日はタケシ君から話しかけてくれました。「ずっと考えてたんだ」と前置きを置いて喋り始めました。
「君がそうなった原因を取り除けば、何もかもうまくいくと思うんだよ」と。
原因。それは何?聞こうと思ったらタケシ君が話を続けたので大人しく聞いてることにしました。
「あの二人を殺すんだ。それができればきっと何もかも思い出すよ」あの二人っておじいさんとおばあさん?二人を殺す?
意味がわかりません。
2月1日(木) アメ
ボクは何がなんだかわかりませんでしたがタケシ君は「殺さきゃたぶん一生そのままだ」とか言ってます。
あのおじいさんとおばあさんは悪い人なんでしょうか。それに、殺すって言ってもどうやって。
タケシ君は「寝込みを襲えば大丈夫。あいつらは死んで当然の奴だから気兼ねする必要は無い」ともう殺す気になってます。
二人はそんなことになってるのも知らずに相変わらず喧嘩ばっかりです。おじいさんはまだボクに物を投げつけたりします。
どうしよう。
2月2日(金) クモリ
おばあさんはボクの身の回りの世話をしてくれるけど顔しかめながら嫌々やってるしおじいさんはボクを殴ります。
二人ともあまりいい人とは思えないのでかわいそうだけどボクが自分のことを知るために死んでもらうことにしました。
タケシ君に言うと「善は急げだ。早速今夜やろう」と乗り気になってしまいました。「実はずっとこの機会を待ってたんだよ」と。
やることは決めたけどボクはまだ心の準備ができてないので明日にすることにしました。タケシ君も待ってるそうです。
明日、二人を殺します。
2月3日(土) ハレ
夜中二人の寝室に忍び込んでボクはおばあさんを、タケシ君はおじいさんの首に手をかけました。
数分後、ボクが自分の布団でぼんやりしてるとタケシ君が話しかけてきました。「なんで殺さなかった」
ボクは下を向いたまま答えました。「だって、ご飯を作ってくれる人がいなくなっちゃう」言い終わったらボクは泣きました。
タケシ君の深いため息が聞こえました。首を何度も横に振り、目をつぶって黙り込んでしまいました。
ボクは泣き続けました。
2月4日(日) クモリ
朝ご飯がおいしくてやっぱり殺さなくて良かったと思いました。タケシ君にも「ご飯おいしかったよ」って言ったけど睨まれました。
そしてボソっと言ってました。「新しい朝が来ると思ったのに。これでまた夜が続く。」
ボクには一人で生きれる自信はありません。だから一生このままだとしても世話してくれる人達を殺すことはできません。
ボクは自分のこともわからないバカだけどそれだけはわかりました。
夜のままでいいです。
第1章「朝と夜」 完
ボクの日記   第2章 「動と静」   彼は誰ですか
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第五週 「音色」
2月5日(月) ハレ
タケシ君が話してくれなくなりました。何かを考え込んでるように目を閉じてじっとしてます。
ボクは仕方なく自分の姿を鏡に映して眺めました。もうタケシ君は邪魔しません。
なんでボクは女の人の体なんだろう。鏡から目を離して自分の姿を見ようとすると、すぐにタケシ君に目を隠されました。
まだ後から耳をふさいできたりするのでおじいさんとおばあさんの声は聞こえないままです。
何も変わってません。
2月6日(火) クモリ
一生このままだと言われても、やっぱり自分のことは知りたいです。
鏡に映った自分をよく見ました。おばさんと呼ぶには少し若いかもしれません。
今は髪の毛がボサボサだけど整えたら綺麗になりそうです。じっと見てると確かに何かを思い出しそうになりました。
ボクは必死に考えました。そしたらものすごい頭痛が襲ってきてそれ以上考えることはできませんでした。
まだ痛いです。
2月7日(水) アメ
タケシ君が話してくれなくなったとおじいさんに言うとおもいっきり頬をぶたれました。
ボクは飛ばされてタンスに体を打ち付けたけどおばあさんは哀れな目で見るだけで助けてくれませんでした。
なんでタケシ君の名前を出すと怒るんでしょうか。何かを叫んでるのはわかりますがボクにはなぜか聞き取れません。
ボクが女の人の体なのと何か関係あるんでしょうか。不思議なことがいっぱい。
謎です。
2月8日(木) ハレ
おじいさんが古い写真をボクの目の前に突き出して何か叫びながらビリビリに破いてました。
とっさにタケシ君に目を隠されたのでその写真に何が映ってたのかよくわかかりませんが
破けた残骸に火を付けて燃やしてるところを見るとよほどそこに映ってるものが嫌いなんだと思います。
その後服を上だけ脱いでお腹をボクに見せつけてさらに叫んでました。お腹には切り傷があって痛々しかったです。
気持ち悪い。
2月9日(金) ハレ
怒鳴っているのはわかるのに耳がふさがれてるので言ってる意味がわかりません。
ボクそのことを言うとさらに怒った顔をして殴られます。おばあさんもタケシ君も助けてくれません。
さすがにもう嫌になってきました。理由もわからず殴られるのは痛いし辛いです。
タケシ君は何か難しそうな本を読んでてボクのことを気にかけてもくれません。
見捨てられました。
2月10日(土) ハレ
二人を殺せなかったせいでタケシ君に嫌われたと思って一人で枕を叩きながら嘆いていました。
タケシ君に「落ち着け。音たてると後がやっかいだぞ」と言われたけど「ボクには何も聞こえないからいいよ」と反抗しました。
そしたらタケシ君に「奴らの会話を聞きたいか」と聞かれました。ボクは頷きました。
その時おじいさんが枕を叩く音をききつけてやってきて「うるさい!」と叫んでボクを殴って去っていきました。
聞こえた。確かにおじいさんの声が聞こえた。不思議に思ってるとタケシ君が黙ってボクの両腕を掴んでるのに気づきました。
どうゆうことでしょう。
2月11日(日) クモリ
今日もおじいさんが叫んでました。最近では理由もなく怒ってる気がします。
ボクはまた聞こえなかったけどタケシ君と目が合ったら昨日のことを思い出したので「また聞こえるようにして欲しい」と言いました。
タケシ君は頷いておもむろにボクの両腕を掴んで・・・手を下ろさせました。
おじいさんが「わけわかんねぇこと言ってるんじゃねぇ」と叫んでるのが聞こえます。音が聞こえる。
どうもタケシ君のせいじゃなく、ボクは自分で自分の耳を塞いでいたようです。
気づきませんでした。
第六週 「景観」
2月12日(月) ハレ
意識すればちゃんと耳を塞がないでも済みます。
これでおじいさんとおばあさんの会話も聞こえるようになりました。
けど最初に聞こえたのはおじいさんの「お、今日は耳塞いでねぇじゃねぇか」という汚い声でした。
おばあさんは怒ったような声で「ボケっとしてんじゃないわよ」と嫌な言葉を浴びせてきます。
いい気分はしません。
2月13日(火) ハレ
耳が聞こえるようになってから、変なことに気づきました。
おじいさんもおばあさんもボクのことを「アサミ」と呼びます。アサミ、邪魔だ。アサミ、ご飯食べなさい。アサミ、じっとしてなさい。アサミ・・
知らない名前なので返事をしなかったら「返事しやがれ」とおじいさんに殴られました。
それでやっとなんでいつもボクが殴られるのかわかりました。でもこれからも返事はしないと思います。
ボクはの名前はアサミじゃないから。
2月14日(水) クモリ
タケシ君に「返事をした方がいい」と言われました。「その体の主はアサミって名前だから。」
鏡に映ってるおばさんがどうやらアサミさんらしいです。
でもボクはアサミって名前じゃないと文句を言うと「君はその体を借りてると思えばいい。その方がわかりやすいし。」となだめられました。
仕方ないのでこれからアサミを呼ばれたら返事をすることにします。
その方がわかりやすいから。
2月15日(木) ハレ
ちゃんと返事をするとおじいさんはすぐには怒らなくなりました。
けど別のことで殴ってきます。「お前はなんで老けたんだ」「お前なんか俺のアサミじゃない」「この狂人が」
その度におばあさんが「アサミだってもう年だから」と口を挟んで言い争いが始まります。
二人はアサミさんのことで喧嘩をしてるらしいけどボクには関係ないことです。
聞き流しました。
2月16日(金) クモリ
またタケシ君に助言されました。「あの二人の会話を聞いてればきっと自分のこともわかるはずだよ」
ボクは今すぐ知りたいと言ったけど「二人を殺せないのならじっくり自分で考えるしかない」とはねつけられました。
鏡でアサミさんの体を見たけどボクらしき部分は見つかりませんでした。直接詳しく見てみようとすると突然目の前が暗くなります。
こんな変なことばっかりなのにその理由を自分で考えろなんでタケシ君も酷なことを言います。
考えようがありません。
2月17日(土) ハレ
自分の体を見ようともがいてるのをおじいさんに見られて「また狂ったことしやがって」と殴られました。
血が出たので拭ってるとタケシ君にも「何がしたいんだ?」と言われてしまいました。
自分の体を見たいのに目の前が真っ暗になるのはタケシ君のせいだと文句言いました。
そしたらあっさり言われました。「目を開けなよ」。目を開けました。
見えました。
2月18日(日) ハレ
音も聞こえて目の前が暗くなることもなくなったので心おきなく周りを観察することができました。
家の中をウロウロしてここは狭い家で窓から見える景色もボロボロの塀だけなのがわかったけどボクには関係なさそうです。
他人の体を借りてるのは変な気分だけどもう慣れてちゃんと息してるし歩けるしご飯も食べれるし部屋で大人しくしてることもできます。
やっと一人前になった気分です。
第七週 「思考」
2月19日(月) ハレ
おじいさんとおばあさんの会話を聞いたりしてボクに繋がる材料は無いか探しました。
二人の喧嘩も初めてじっくり聞くことができました。「連れ戻すんじゃなかった」「あんたがアサミに会いたいって言うから」
「まさか狂ってるとは思わなかった」「何度愚痴を言えば気が済むの」「黙れ」「ほっとけば良かったのに」「お前だってアサミに」・・
ボクが畳に座って聞き耳を立ててるのもお構いなしに二人は言い争いを続けます。
ずっと聞いてるとさすがにうるさかったです。
2月20日(火) クモリ
外にも出ようとしたらものすごく怖くなって足ががくがく震えて気持ち悪くなってうずくまってしまいました。
おばあさんに引っ張られて部屋に戻されてしまいましたけど部屋に戻ると安心した気分になりました。
タケシ君に「大丈夫か」と聞かれたのであまり大丈夫じゃないと答えたら「無理しない方がいい」と言われました。
「そのまま大人しくしてればあの地獄に戻らなくて済む。少なくとも今は。」
地獄?
2月21日(水) ハレ
やっぱりタケシ君はボクの過去を知ってるようです。でも教えてくれないのはケチだからだと思います。
地獄に戻らなくて済むっていうのが昨日から気にかかってたので聞いてみたら逆に質問されてしまいました。
「自分の状態がおかしいと思うか?」思うと答えました。タケシ君は本をパタンと閉じて続けました。
「奴らはおかしくなった君を他人に見られたくないんだ。だから外に出なくて済む。」
その言葉の意味を考えようとしたけどよくわかりませんでした。
とにかく家に居ろってことでしょうか。
2月22日(木) ハレ
何かヒントがないか部屋の中を引っかき回してたらタケシ君に止められました。「またあいつに殴られるぞ」
タケシ君は色々知ってるくせに何も教えてくれないから仕方なく自分でなんとかしようとしてるんだと反論しました。
ボクはもう耳も聞こえるし身体を見ることもできる。ヒントさえ見つかればボクだって自分のことがわかるんだ。
「わかった」とタケシ君が深く頷きました。「今度俺が最終的にどうすればいいのか教えてやるから。今は大人しくしてるんだ」
いつも「今度」で逃げられてしまうけどボクにはどうすることもできないので黙って待つしかありません。
2月23日(金) ハレ
タケシ君が教えてくれるのを今か今かと待ってみたけど考え込んだフリをしてなかなか教えてくれません。
しびれを切らして「なんでいっつも後で後でとか言って教えてくれないの?」と催促しました。
タケシ君は顔を上げてボクをまっすぐ見つめました。
「なぁ。俺はね。君に話す一言一言にすごく気を使ってるんだよ。何を、どう言えば効果的なのか。タイミングも。
全部考えてる。だから時間がかかるんだ。俺だって悩んでるだ。だからもう少し待ってくれ。」
なんかうまく逃げられた気がするけど待つことにします。
2月24日(土) クモリ
もう待てないので何でもいいから言ってくれと叫びました。おじいさんに聞きつけられて「うるさい」とぶたれました。
殴られる時、タケシ君は歯を食いしばってものすごく悲しい顔をするけど助けてはくれません。
おじいさんが言ってしまうとタケシ君は観念したらしくため息をつきながら言いました。
「俺が最終的に何をしたいか。結論だけ言うときっと意味がわからないと思う。それでも聞きたいか?」
ボクはうなずきました。そしたら教えてくれました。
「この表現が正しいかわからないけど・・アサミを復活させたい。それが俺の望みなんだ。」
やっぱり意味不明でした。
2月25日(日) クモリ
ボクはボクなりに必死に考えたけど頭が痛くなるばかりで何もわかりません。
手でこめかみを押さえてうなってるとタケシ君がまた混乱させることを言いました。
「深く考えちゃいけない。君はそうゆう風にはできてないんだ」タケシ君は意味のわからないことばかり言ってボクをいじめる。
これはアサミさんの身体とかアサミさんの復活を願うとか。アサミさんのことはいい。ボクは、ボクのことを知りたいんだ!
ボクが叫ぶとタケシ君は渋い顔をしました。何かを言おうとしてるけど、言葉を吟味してるような。
気にしない。もうタケシ君には頼らないから。自分で考え、自分の力で答えを見つけます。
できるはずです。
第八週 「吐息」
2月26日(月) ハレ
耳を澄ませるとおじいさんとおばあさんの会話が聞こえます。
「病院にぶち込むべきだ」「医者に何て言うの」「うまく言えよ。俺はもう耐えられん」「バカ言わないで」
「ならあっちの家に戻そうぜ」「引き取ってくれないのはわかってるでしょ。あっちだってせいせいしてるんだから」
「畜生!これも全部あいつのせいだ!責任取ってこいつも道連れにすりゃぁ良かったんだよ!」「あの子は悪くない」
「なんだお前。今になって自分を刺した奴のことを許すのか!?俺はこの傷忘れんぞ!」「けどあの子は私たちの・・」
聞いてると気分が悪くなりました。
2月27日(火) ハレ
家の中をくまなく見て回りました。部屋中を歩き回って。
ご飯を食べるテレビのある部屋。おじいさんとおばあさんが寝る部屋。ボクが寝る部屋。部屋を区切る狭い廊下に引き戸。
玄関には黒ずんだ靴箱と傘がさしてあるバケツ。家は古い感じがするのにトイレだけは新しい様式トイレ。
ボクの部屋はなぜか机が二つ。布団は敷きっぱなしだけど部屋は広めだからもう一人くらい寝れそう。はじっこにタケシ君。
本棚とか押入とか机を引っかき回しても写真とか昔のものはいっさい見つからなくて
ただ疲れただけでした。
2月28日(水) クモリ
深く考えようとしたのに考えたくなくて考えることができませんでした。
話を聞いたり家をウロウロしたりはできるのに何かを考えようとすると途端に嫌になってしまいます。
この異常なまでの嫌悪感はなぜだろうと思ったら頭が痛くなってそれ以上考えることができません。
何もかもが面倒臭くなってしまうんです。このままでいいやって。今度にしようって。思ってしまうんです。
落ち着いたらまた自分で答えを見つけようって気になるけどすぐに諦めてしまって
いつまでたっても先に進めません。
3月1日(木) アメ
きっと外に出ればきっと何かがわかる。そう思って飛び出しました。
部屋から走り出して靴を履いて玄関を出て。外の光を浴びた途端、頭痛に襲われました。
雨が降ってるのにとても眩しく感じられました。それでもめげずに走ろうとしました。
10メートルくらい進んだところで我慢できずに悲鳴を上げました。
気付いたら部屋で寝かされてました。おじいさんが怒声をあげてるのが聞こえてきました。
悲しくなりました。
3月2日(金) ハレ
昨日のお仕置きでご飯がボクの分だけありません。「部屋から出るな」と言われました。
お昼までは我慢できたけど夕方にはお腹が減ったので部屋から出て冷蔵庫に何かないか探しました。
おじいさんに見つかって冷蔵庫から引き離されました。どうしてもご飯が食べたかったので抵抗しました。
腕を話してくれないので思わず言ってしまいました。「タケシ君、助けてよ」
タケシ君は部屋から出てきてくれず、おじいさんには「その名を二度と口にするな!」と猛烈に怒鳴られてしまいました。
けどその後に言われた言葉が意味不明でした。「死んだ奴にいつまでもすがりやがって!」
死んだ奴って。
3月3日(土) クモリ
お腹が減りすぎて苦しんでると、おじいさんが笑いながら「そら、欲しいか」とパンを投げつけてきました。
ボクは顔に当たったパンを大急ぎで拾い、かぶりつきました。久々のご飯は美味しかった。
「まるで獣だな」と大笑いするおじいさん。そこに突然タケシ君が部屋から飛び出してきました。
怖い顔して、おじいさんに殴りかかろうとして・・・消えてました。拳がおじいさんの頭に当たる直前に。フッと。
部屋に戻るとタケシ君はいつも通り本を読んでました。
タケシ君。おじいさんとおばあさんには見えないこの人。
おじいさんはタケシ君を死んだ奴だと言いました。じゃあ目の前にいるこの人は、幽霊?
タケシ君に触れました。すり抜けるかと思ったのに。確かに人肌に触れた感覚がありました。
そっと腕に手を乗せてみるとちゃんと手のひらから温かさが伝わってきます。
タケシ君が顔を上げました。ボクの腕を掴んで言いました。
「大丈夫。奴らを殺さないでも解決策はあるはずだ。きっと俺が見つけるから。それまで大人しくしてるんだ。」
ボクは黙って頷きました。
3月4日(日) アメ
不思議な存在のタケシ君。他の人には見えないけど、ボクはしっかりこの目で見える。息する音も聞こえる。
幽霊でないとしたらボクにしか見えない幻なんでしょうか。
本物はおじいさんが言ってた通り死んでしまってるのかもしれません。そう思うと悲しくなってきました。
けどいい。幻でも。例え幻だったって、目の前にいるこの人はボクの味方。
彼はボクの為に動いてくれる。ボクは静かに待ってればいい。下手な悪あがきはせず、彼の言う通りにしようと思います。
その方がうまくいきそうだから。
頼りになるから。
第2章「動と静」 完
ボクの日記   第3章 「光と影」 彼女は誰ですか
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第九週 「暗影」
3月5日(月) ハレ
ボクも手伝えることが無いかとタケシ君が読んでる本を横から覗き込んだら心理とか精神って漢字が見えました。
難しそうだから読んでもらおうとしたら「無理しなくていい。これは俺が理解するから」と言われてしまいました。
それでも頑張ってみようと思ってよく見てみるとそこには文字ですらない適当に書いた記号みたいのが並んでるだけでした。
*」:`P;心理%#。p:q・」@精神!#「@0・・・・・・・
この本も幻なんだと思いました。
3月6日(火) クモリ
せっかく協力する気になったのでボクも何かやりたいです。タケシ君に「ボクにもできることは無い?」と聞いてみました。
「まだいいよ。直に色々頭を使ってもらうから、あともう少しだけ待ってくれ」
従うことにしました。黙って座ってるとタケシ君がボクを見ました。「なぁ。自分のことをボクというのは止めてくれないかな。」
なぜ?ボクは男だから自分のことを言うのはボクなはずだけど。そう言うとタケシ君は困ったような顔をしました。
「確かに君は男だ。けど身体は女だし、それに君のその人格は俺が良く知ってる人で恥ずかしいというか・・・いいや。忘れてくれ」
変なの。でも忘れてくれと言うから忘れます。
3月7日(水) ハレ
タケシ君は幻のくせに人間くさくて面白いです。本を読んでるときも鼻をかいたり目をこすったりする仕草がリアルです。
ボクにしかみえないボクの中で作り上げた幻の人間なんだってことはボクでもわかります。
でもなぜタケシ君が出てきたのか?ボクの思い出せない過去にその原因があるようです。
問題はわかるのにいざ解こうとすると頭が痛くなって解く気がなくなるなんて変な話です。
けどそれはボクの頭が変だから仕方なくてボクの頭が変だと思うのは他の人には見えないタケシ君が見えてそれが見える原因は・・・
わからないです。
3月8日(木) ハレ
タケシ君があまりに真剣に本を読んでるので聞いてしまいました。
「難しいのばかり良く読めるね」読めない字が多くてボクにはサッパリ意味不明。
タケシ君は顔を上げて照れるようにして笑いました。「まぁね。このまま知識が増えればいずれ専門で食べていけるかもな。」
専門で食べてくなんて凄いです。そんな職業と言えばあれかなと思ってると突然泣きたくなってきて不思議でした。
きっと食べていけるよ。なぜかボクにはわかりました。
3月9日(金) クモリ
タケシ君は時々おじいさんを睨みます。
今日も睨みながら「自分で稼げたらあんな野郎なんかの世話にはならないのに」と呟いてました。
もちろんおじいさんには聞こえてなくて寝転がってスポーツ新聞を読んでました。
そんなんでもたまに出かけたりするからきっとどこかでお金を稼いできてるのでしょう。
だからおばあさんも買い物ができてボクもご飯が食べられる。
自分で働けるようにはなりたいけど今のままではできそうにありません。
ボクは変だから。
3月10日(土) ハレ
タケシ君が「やっぱそれしかないか」と言って分厚い本をパタンと閉じました。
「カウンセリングっていうんだけどね。過去を思い出して君がそうなった原因と自ら向かい合う。
多重人格者を統合するときなんかによく使う手らしいんだけど、君も似たようなものだから効くかもしれない。」
多重人格者って言葉を使われてボクは少し気になりました。それは自分の中にいくつかの人格があることのはずです。
いや、でもタケシ君はボクの作り出した幻だからある意味じゃボクの一部とも言えるかもしれません。
ボクの中にもこの状態をどうにかしなきゃって思ってる部分があってそれがタケシ君となってこうして目の前に・・?
タケシ君はブツブツとカウンセリングの方法をあーでもにこーでもないと一人で考えてました。
難しいことを考えるのはよそう。タケシ君が何であろうと、任せてれば解決してくれる。
ボクより頭いいのは確かです。
3月11日(日) ハレ
カウンセリングってどんなことをするのか聞いてみました。
「本では催眠療法とかを勧めてるんだけどさ。俺にはそんな技術無いから質問に答える会話形式みたいな感じでやろうと思ってる。」
ボクが不安げな顔をすると「大丈夫。きっと成功するよ。」と励ましてくれました。
その時です。タケシ君が暗くなりました。全身が一瞬暗い影になって、すぐに元に戻りました。
なんだったんだろう。しばらく考えてみたら思い当たりました。
もしかしたらあれは、ボクが回復に向かおうとしてるからかもしれません。
ボクが変じゃなくなるってことはタケシ君が見えなくなってしまうってこと。
元に戻るとタケシ君は消える・・・?
第十週 「遮光」
3月12日(月) アメ
疑問を抱いたままタケシ君のカウンセリングが始まりました。と言ってもただ単に質問に答えるだけです。
「過去を思い出すんだ。少しずつでいい。覚えてるところから話してくれないか。」
タケシ君の声はとても穏やかでとても安心した気分になれました。
ボクは目を閉じて目覚めた時のことを思い出して話しました。深い真っ暗な穴から這い出たような、目覚めたときのまぶしさ。
横にはタケシ君が立ってた。名前は教えてもらわなくてもなぜか頭に思い浮かんだ。
あの時のタケシ君はまだあまりお喋りじゃなくて中学の制服を着てたっけ。ちょっと気弱そうだった。
今はこんなに凛々しいのに。
3月13日(火) ハレ
昨日の話じゃ不満なようです。質問が変わりました。
「今日は昨日思い出したことよりも以前のこと。眠ってた頃、どんな感じだったかを思い出してみてくれ。」
眠ってる時のことなんて思い出せるわけがありません。文句言ったけどタケシ君は諦めませんでした。
「イメージだけででいいんだ。何か夢を見てなかったか?誰か他の人の存在を感じたりは?」
質問が難しくなってきたのでボクは困ってしまいました。夢は見てた気がするけど内容はとてもうっすらとしてます。
話せるほど覚えてない。
3月14日(水) ハレ
記憶がおぼろげでも「頑張ってイメージすることが大切なんだ」と言われてしまいました。
だから頑張ってみます。目覚める前に見てた夢。あの時のイメージは・・・
プールがある。干からびてて水が無い。蛇口が壊れてて水が出ない。水が無いと泳げない。
隣のプールには水がたっぷり入ってる。そこから水をもらうことにした。バケツで少しづつ運んで。
あっちはちゃんと蛇口から水が出てる。勝手にもらっても誰も困らない。こっちが一杯になるまでもらい続けた。
自分の水じゃないのは知ってたけど、一度自分のプールに入れてしまえばもう自分の水だと思った。
・・・たぶんこんな感じだったと思う。
3月15日(木) ハレ
タケシ君はプールの話を聞いてから考え込むようになりました。
ボクはあの夢は完全に覚えてるわけじゃないので細かいことを聞かれると答えに詰まりました。
蛇口はなぜ壊れてたか。バケツは誰が運んでたのか。周りには他に何かあったか。
ボクが思い出せるのはあの水を運んでたイメージと、運んでた理由だけです。
水が無いから隣からもらった。それしかわかりません。
考えすぎて頭が疲れました。
3月16日(金) ハレ
おじいさんが「独り言をブツブツうるせえ」と怒鳴ってきたので質問タイムは中止になりました。
「まったく、何度狂えば気が済むんだこのアマ。穀潰しは穀潰しらしく飯だけ食って寝てりゃいいんだよ。」
タケシ君がおじいさんを睨んでました。でもおじいさんは気付きません。
おばあさんも「何叫んでるの」とやってきてボクは取り囲まれました。怖くなってタケシ君の隣に逃げました。
「おい。いっそこの部屋、座敷牢にしようぜ。」「今でも同じようなものじゃない。」「前はどうしたか覚えてるか」「あの時は」・・
ボクを閉じこめる話をしてたんだと思うけど頭が痛くなってきたので耳を塞ぎました。
聞きたくない。
3月17日(土) アメ
閉じこめられたらタケシ君とずっと一緒なんだと思いました。ゆっくりタケシ君のカウンセリングを受けて元に戻る。
おじいさんは怖いけどおばあさんがご飯を持ってきてくれる。友達もいる。生きていける。
「外に出たくない」思わずそう漏らしたらタケシが怒りました。
「今はそんな身体だから無理はできないけど、いずれは外に出るんだ。こんな家に居ちゃ行けない。」
外に出た時のことを想像して怖くなるとタケシ君が言ってくれました。
「大丈夫。俺がずっと一緒にいる。みんなで行こう。」
そうだよね。外に出れるかどうかはわからないけど、これだけはハッキリしてる。タケシ君はボクの心の一部。
決して離れることはありません。
3月18日(日) ハレ
本当に一緒にいてくれるのか気になったので聞いてみました。
「ボクが回復したらタケシ君は消えちゃうの?」「何言ってるんだよ。消えるわけないじゃないか」
「でもタケシ君はボクにしか見えない幻だから」
言った途端、タケシ君が薄まっていきました。見る見るうちに透けていく。
焦って一生懸命タケシ君のことを考えました。目をつぶって、タケシ君の姿をイメージ。高校の制服。睨むような目。
光を断って真っ暗闇に。じっと見てるとほら、タケシ君の姿が浮かんでくる・・・
ゆっくり目を開けると何事もなかったようにタケシ君がそこにいました。
これで確信しました。タケシ君はああ言ってくれてるけど、ボクが元に戻ったらタケシ君は消える。なら。
回復しなくていい。
第十一週 「黒雲」
3月19日(月) ハレ
タケシ君が他の人には見えないのなら、黙ってればいいんです。カウンセリングだって単なる自問自答です。
全部ボクの頭の中で起きてることなんだから誰にも迷惑かけません。
でもまだボクの中で回復しようと頑張る部分が有るんでしょう。タケシ君がしきりに質問してきます。
「何か懐かしさを感じるものってないか?何でもいい。モノでもセリフでも。」
目の前にあるこの机は昔ボクも使ってた気がする。アサミって呼ばれると「ボクじゃない」って言葉が頭の中で響く。
ポツリポツリと答えたけれど、ボクにやる気はありませんでした。
このままでもやっていけると思います。
3月20日(火) クモリ
ボクの気持ちとは裏腹にボクを元に戻そうと必死なタケシ君。
幾らがんばっても肝心のボクが元に戻る気になってない。「このままでいようよ」とボソリと言ってしまいました。
無視されました。相変わらず熱意の篭もった視線で「自分の中に女性的な部分を感じないか?」と聞いたりしてます。
男だからって誰でも女っぽい部分は抱えてるんじゃないのかな?身体が女性なのはもう知ってるし。
この「カウンセリング」も段々意味のあるものだとは思えなくなってきました。
余計なことはやめようよ。
3月21日(水) ハレ
おじいさんたちからは放置されてる状態だからボクが余計なことさえしなければ気にすることはありません。
ご飯にはありつける。タケシ君は外に出たがってるけど、ボクは外に出ようとすると頭が痛くなる。
ボクが外に出てるほど回復したらタケシ君は消える。だから一緒にはいられない。一人じゃ外で生きていけない。
破滅に向かってるとしか思えません。ボク自身が生きるためにも回復しない方がいいように思えます。
友達とお喋りして過ごすだけの人生だって悪くありません。
3月22日(木) ハレ
カウンセリングの効果が上がらないのにタケシ君は焦ってるようです。
「まいったな。こんなに時間がかかると思わなかった。このままじゃ身体がもたない。」
そんなに焦ることないよ。確かに身体は女性で心は男というのはあまり健康的じゃないかもしれない。
病気。そうだよ。この状態は病気だよ。でも死なない病気でしょ?
下手な治療はやめてこの状態で生きていく方法を考えようよ。言ってもタケシ君は聞いてくれませんでした。
タケシ君が消えるのは嫌だ。何度言ったらわかってくれるんでしょう。
3月23日(金) ハレ
ボクが何度言っても無視されて質問を浴びせてきます。いくらなんでもこれはおかしいです。
ハッキリと「もう質問には答えない」と宣言してもまだ女性の本能がどうだとかって意味不明の質問をしてきます。
とうとうボクは耳を塞いで叫びました。思い出せないものは思い出せないんだ!これ以上こんなことやったって
駆けつけてきたおじいさんにはり倒されました。「黙ってろ!また飯抜きにされたいのか!」
ご飯が食べれなくなるのは辛いです。「ごめんなさいごめんなさい」というセリフが勝手に口から出てきました。
おじいさんが行ったあと、タケシ君の方に顔を向けました。さっきの質問を繰り返してます。
ボクの言うことが聞こえてない・・?
3月24日(土) クモリ
何かがズレてます。
完全に無視されてるわけではありません。タケシ君の名を呼ぶと「何?」と振り返ってくれます。
タケシ君の質問にも答えるとちゃんと頷いて反応してくれます。
おじいさんが怖いって話にも「復讐より今は自分の身の方が大事だ」とアドバイスまでしてくれます。
けど、それだけです。「カウンセリングをやめよう」みたいにボクが意見を言うと無視される。
世間話ができないんです。これまでそんな話する余裕が無かったから気付きませんでした。
映画の中に入ってる感じ。脚本に無いことは話せない。シナリオに無いシーンは飛ばされる。余計な会話は許されない。
ボクを回復させるために出てきた幻。ボクの変わりに考え、ボクを導こうとする。
ボクが深く考えることができないのは当然。考えることのできる部分は切り離され、タケシ君として独立したんだから。
ただし彼は、シナリオ以外のことはできない。おじいさんを殴ることはできない。
そして役目を終えたら消える。
そうなの?
3月25日(日) アメ
ボクのこと、タケシ君のコトを話す限りはちゃんと会話はできるはず。思いの丈をぶつけました。
タケシ君はボクの心が産み出したプログラムみたいなものなんだ。
ボクが回復したら消える。ずっと一緒にいるなんて嘘だ。役目が終わったら消えちゃうんだ。
タケシ君は真剣な顔で聞いてくれました。ボクが一通り言い終わると、目をつぶって考え込みました。
「君は少し勘違いしてるよ」何がどう勘違いなんでしょうか。
ボクがキョトンとするとタケシ君は深いため息をついで何度も首を横に振りました。
「もう時間が迫ってることだし、この際ハッキリ言おう。」ボクの目をまっすぐ見ました。
「回復したら消えるのは、君の方だ。」
は?思わずとぼけた声を上げてしまいました。
「プールの話とは別物として聞いて欲しい。今の状態を例えると、君は空を覆う黒い雲みたいなものだと思ってる。
雲の上にはちゃんと青空がある。今の天気は『曇り』だけど、青空が消えてるわけじゃない。雲に覆われてるだけ。
雲は君で青空はアサミ。雲が消えれば太陽が見えて『晴れ』になる。」
頭が混乱してきました。なおもタケシ君は言葉を続けます。」
「もうカウンセリングなんて言ってる場合じゃないけど、とにかくその意味をじっくり考えてみてくれ。
我ながらいい現だと思ってるんだ。なんとなくでいいから、そんな感じだってのをわかって欲しい。」
そう言ってまた一人で考え込んでしまいました。だからボクも考えろと。
ボクは雲・・・雲は消える・・・消えた後は青空・・・青空はアサミさん・・・
・・・ボクは・・・どこに・・・
第十二週 「雷鳴」
3月26日(月) アメ
タケシ君に聞かれました。「どう?なんとなくわかってくれたか?」
ボクは首を横に振りました。あんな話だけじゃわからない。第一ボクは深く考えれるようにはできてないんだ。
タケシ君は残念そうに眉をひそめてがっくりとうなだれました。「そうか。やっぱり説明してやらないとダメなのか・・・」
説明してくれるならその方が楽です。意味不明なカウンセリングや会話のすれ違いはもう嫌です。
ボクの憶測だってどれが正しいのかわかったものじゃない。
いっそのこと教えてよ。何が、どうなってるのか。タケシ君は全部知ってるんでしょ!
この時を随分待ちこがれてた気がします。タケシ君は渋い顔をしてゆっくりと頷きました。
「全部知った後も君が協力してくれるなら、教える。少しずつ話していこう。」
ボクは頷きました。
3月27日(火) ハレ
おじいさんに聞かれて話が中断されないように、ひそひそと話を始めました。
「余計な質問はしないで欲しい。こうして教えるのはもう時間が無いからだ。こんな方法、本当は混乱を招くだけなんだよ。」
タケシ君の前置きは長いです。少しずつなんだから混乱はしないと思います。考える時間はたっぷりある。
「考えると言うより、事実を受け止める時間だよ」とタケシ君が横から口を挟んできました。
そうかもしれない。とにかく早く教えてよ。散々じらされた後にタケシ君は話し始めました。
「自分ではわからないだろうけど、君の中にはまだアサミは残ってる。俺はそれを解放させたいんだ」
アサミさんが残ってる?ボクは何も感じないけど。反論しようと思ったけど余計な質問しないって約束を思い出してやめました。
「無意識でやってることって、記憶にないだろ?でも端から見ればそれらの仕草は全てアサミのものなんだ。」
トイレの記憶、風呂の記憶、君はあまり覚えてないと思う。細かいところで結構残ってるんだよ。今日はそこら辺のこと考えてみてくれ。」
言われてみればトイレに行くときの記憶って無い。トイレに入るのは覚えてるけど、気付けば用は済んで部屋に戻ってる。
意識して行ってみたけどダメでした。やっぱり記憶が飛んでしまいます。
別にこれは普通だと思ってたけど。どうもおかしいらしいです。
アサミさんのせいなんでしょうか。
3月28日(水) ハレ
自分の手を見つめると不思議な感じがします。ボクの手だけどボクのじゃない。アサミさんの手。
今日の話はそのアサミさんについてでした。
「アサミの話をしよう。これはそのまま君の誕生につながる。
アサミはとても辛い目にあった。それが何だったかは知らなくていい。とにかく、死にたくなるような地獄を味わった。
その時、アサミは自分の意識を遠のけようと思った。2重人格みたいになればいいと願った。
けどそれはできなかった。願ってなれるものじゃないからね。仕方なく彼女は別の方法、全くの他人になることにした。
私はアサミじゃない。私はアサミじゃない。ひたすらそう思ってたんだろう。思いこむうちにアサミは心の奥に閉じこもっていった。
そして目が覚めた時・・・望み通り、アサミはアサミじゃなくなった。アサミの記憶を失った、新しい自分になっていた。」
ボクは言いました。「それがボクなんだね」
タケシ君は頷きました。「だからもう一度目覚める前のことを思い出してくれ。あのプールのイメージを。」
干からびたプール。アサミさんの水は消えた。だから隣のプールから水をもらった。
やっぱりこの身体は借り物だったんだ。アサミさんの身体にボクの意識があるだけ。隣のプールからもらった水。
じゃぁ隣のプールには誰の水が・・
タケシ君は照れくさそうにしてそっぽを向きました。「その話は明日にしよう」
明日にします。
3月29日(木) アメ
あまり話したくなさそうだったけど、タケシ君は渋々今日の分の話をしてくれました。
「アサミは自分を他人と思いこむ時、身近な人の姿を思い浮かべた。君の言う『隣のプール』だ。
よく知ってるその人を自分に投影させたんだ。私はアサミじゃない。私はあの人だ、という感じだったんじゃないかな。
自分はその人だと思いこんだ結果、完全にその人に・・君になってしまったと言うべきかもしれない。」
そんなことができるんだ。自分のコトながらボクは感心してしまいました。
タケシ君は苦笑いしながら話を続けました。そんな表情をするタケシ君は初めて見た気がします。
「たぶんアサミは、その人に憧れを抱いてたんだろうよ。身近にいたその人と同じ様になりたいって思いがあったから
こんな風になってしまったんじゃないかと思う。俺にはそこまでわからないよ。答えは君の心の奥に眠るアサミだけが知ってる。」
その人は誰?間髪入れずに聞きました。ボクの元となってる人は。
無視されました。でもこれは「ずれ」のせいでは無いと思います。
タケシ君はわざとらしく咳払いして「アサミの話はこれくらいにしておこう」と言って無理に話を終わらせたから。
答えてくれそうにありません。
3月30日(金) クモリ
話は最後の段階に入ったようです。
「散々難しいこと言ってきたけど、やらなきゃいけないことは簡単なんだよ。その身体をアサミに返す。」
それはつまり、ボクに消えろってこと?
タケシ君は目をつぶって考え込んだけど、数秒後には目をあけてハッキリと言いました。
「残酷なようだけど、そう言うことだ。」
消える。ボクが消える。
幻なのはボクの方だった。
記憶が無いのは当たり前。アサミさんはアサミさんで頭のどこかにいるんだから。
ボク自身の記憶はあまり大したものは無い。
タケシ君と一緒にお話したことと、おじいさんに殴られたことと、ご飯を食べたことくらい。
外に出たこともない。悲しい思いはしてないけれど楽しい思いもしていない。
消えてもいいようなことばかり。
けど、だからって。
「いつもまでもそのままではいられない。これだけは確かなんだ。
君が協力してくれなきゃひどいことになる。アサミは無理にでも戻ってくることになるだろう。
そしたらどうなる?君が残ってるのにアサミも出てこようとする。身体にも影響が出るだろうし、正気でいられるわけがない。」
どうしてアサミさんが戻ってくるってわかるの?
タケシ君はとても悲しそうな目をして、絞り出すようにして言いました。
「君の姿を見てれば、嫌でもわかってしまうんだよ」
ボクは自分の身体を見たけど何もわかりませんでした。
アサミさんのこの身体。ボクのだけどボクのじゃない。
「君に『消えろ』とは言いたくなかった。自分で気付いてくれれば、自然と元に戻ると思ってた。
けど、いつまで経っても君が戻りそうに無いから・・・とにかくじっくり考えてくれ。」
アサミさんに身体を返す覚悟を決めてくれ、ということだね。
ボクが消えればタケシ君も消えてしまうというのに。変なこと言うな。
ボクが作り上げた人格がボクに消えろと言う。そもそもタケシ君がボクの作り上げた幻って考え自体が間違ってたのかな?
不自然なことが多すぎる。なんだか幻じゃなくて、本当に存在してる見たい。
幻はボクの方でボクはアサミさんお作り出した幻でアサミさんは・・?
誰が幻で誰が存在してるのか。ボクにはもうわからなくなってしまいました。
ただ、どうもボクの存在は間違ってるようです。
それだけは感じます。
3月31日(土) クモリ
タケシ君に迫られました。
「もう決意してくれた?」
ボクは何も答えませんでした。顔も上げずに黙ったままでいました。
まだ迷ってました。消えるのは嫌だって気持ちはあります。
けど、自分の存在があやふやになってきた今、このまま生きていけるとも思えません。
タケシ君の協力も得られそうにない。そのタケシ君の存在すらも何なのかわからない。
ハッキリした答えが欲しい。
しじれを切らしたタケシ君が声を上げました。
「頼む。もうこれは君だけの問題じゃないんだ。早くアサミを元に戻してくれ。
君がアサミと話してくれれば徐々に戻れるかもしれない。何もしなければ強制的に消える羽目になるぞ。」
タケシ君の言うことも素直に信じることができない。
かと言ってボクに何が正しいのか判断する力は無い。
アサミさん。あなたのせいだ。答えはあなたが全部知ってるんだ。
「思い出せ。蛇口から水の補給が無ければプールは干からびる。隣から汲んできた水は、ほっといても消えてしまうんだ。
うまく蛇口を治せば、アサミの水は少しずつ補充される。少しずつ君と混じり合って・・意識を共有して・・いずれアサミだけになる。
けど、このままだと干からびるより酷いことになる。水が暴発するんだ。出たがってるアサミの水が、一気に。
そうなればプールそのものを破壊してしまう。だから今すぐ蛇口の修理をして、アサミの水を出すんだ。」
タケシ君は焦ってるようでしたが、ボクはもっと焦りました。
蛇口の修理を、と言われても何をすればいいのかわかりません。
「感じてくれ。アサミの水がうねるのを。」
そんな抽象的なこと言われてもできるわけありません。
アサミさん。どこにいるんだよ。出てきてどうすればいいか教えてよ。
どこか心の奥底に。いるかもしれない。いないかもしれない。
何かが足りない。あの人のところへ行くのに。
できない。できないよ。タケシ君の言うとおりにできない。
どうすればいい
どうすればいい
どうすれば
4月1日(日) ハレ
一日経っても結局何もできませんでした。
ボクはボクのままだし、アサミさんの存在を感じることはできない。
「ごめんなさい」ボクは謝りました。
タケシ君は「いいよ」と寂しそうに笑いました。
「たぶん俺が肝心なことを話してなかったからだ。」
タケシ君がボクの前に座り込み、ボクの両肩を掴んで視線を合わせました。
「アサミには兄がいた。気弱な兄貴でね。ものごとをあまり深く考えない奴だった。」
突然何の話を始めたんだろう。ボクは耳を傾けました。
「アサミが憧れた人ってのは、その兄貴のことだ。アサミは一番身近にいた味方、兄のようになりたいと願った。」
そうだったのか。前からの疑問があっけなく解けてしまいました。
驚きよりも素直に「へぇ」と思いました。
けど話は続きます。
「自分の昔の姿を見てるようでね。照れ臭かったんだよ。」
ちょっと視線を落として片方だけ口元を上げてました。少し間をおいてから視線をボクに戻しました。
もう笑ってない。真剣な顔をして言いました。
「兄の名はタケシ。」
え?
「俺だ。君は俺の過去の姿なんだ。
タケシ君はボクの反応を伺うようにボクの顔を見つめました。
ボクは一瞬頭が真っ白になってました。けど、彼の言葉を何度か頭で繰り返すウチにようやく意味がわかりました。
嘘だ!思わず叫んでしまいました。おじいさんが来ないかと心配になったけど、幸い声は届いてなかったようです。
ボクは声のトーンを落としてまくしたてました。
そんな。性格が違いすぎるよ。ボクはそんなに頭良くないし強くない。
「変わったからさ。俺の方がね。」
タケシ君はボクの肩をがっちり掴みました。
「いいか。俺は最初、アサミが助けを求めてたのに気付かなかった。
だからあいつは自分の中で助けを求め、俺が助けてくれるのを想像した。想像は膨らみ、膨らみ過ぎて・・君になった。
妹が酷い目にあってたことを知って、俺は変わった。救おうと思った。だがその時はもう、君になっていた。」
君のその仕草、セリフ回し。昔の俺にそっくりだよ。
畜生。なんで俺なんかになろうと思ったんだよ。あんな気弱で、何も考えてない奴に。」
ボクはタケシ君と目を合わせることができませんでした。
「なぁ、アサミは中にいるんだろ?教えてくれよ。なんですぐに言ってくれなかったんだよ。
おいお前。感じるだろ。お前の後に引っ込んでるアサミの存在を。アサミを出して出してくれよ。
頼むから、早く、アサミを出してくれ。お願いだよ!」
タケシ君はボクでボクはタケシ君の昔の姿で今のタケシ君はボクじゃないけどアサミさんの兄でアサミさんはボクで
ボクの中にアサミさんがいてアサミさんの中のボクがタケシ君でタケシ君のアサミさんがボクになってボクは
「早く戻って来るんだ!でないと、でないと・・・!!」
でないと?
突然強烈な痛みが頭を襲いました。
雷が落ちたようにその痛みは一気に全身を駆けめぐりました。
雷鳴がガラガラガラと凄い音を立てて頭の中に響きます。
お腹にビリビリと電撃が走りました。目の前が真っ白になっていく。
お腹が痛い。頭も痛い。全身が痛い。痛い痛い痛い!
タケシ君。どこにいるの?見えない。何も聞こえない。
アサミさん。そこにいるの?これはあなたの仕業?
痛いよ。苦しいよ。助けてよ。
ねぇ。誰か。いないの。
あ、女の子が
第3章「光と影」 完
ボクの日記   第4章(終章) 「夢と現」 私で終わりです
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第十三週 「霧中」
4月2日(月) ハレ?
目の前がぐるぐるまわってます。
身体中がしくしく痛んで今では気持ち悪くなってます。
耳鳴りが激しくて何も聞こえません。
タケシ君は見えません。
4月3日(火) クモリ
意識が朦朧とする中で、おじいさんとおばあさんの声を聞きました。
「風邪でも引いたんじゃないの」「ほっとけ。寝てりゃ治る」
ご飯を食べる気にもなれません。頭とお腹が特に痛い。
心臓はドキドキ鳴ってる。熱が出てるかもしれない。
冷や汗が背中をたれていきます。寝返りをうつとグチャっと濡れて気持ち悪い。
息をするのさえ苦しい。
4月4日(水) ハレ
汗でびっしょりになってしまったので服を替えました。
タンスの引き出しを開けるのに立ち上がるのに苦労しました。足がフラフラ。
服を掴むとすぐに倒れ込んで芋虫のように這いながら着替えました。
お腹の痛みは治らない。耳鳴りもひどくなってきてる。
奥歯がガタガタ鳴ってます。寒い。寒くなってきた。
おばあさんがくれたタオルもこれ以上水を吸わない。新しいのが欲しいけど声が出ない。
気付いて。
4月5日(木) ハレ
とうとう吐いてしまいました。
覚悟はしてたけどやっぱりおじいさんに殴られた。
おばあさんが「自分で片づけなさい」と言ってバケツと雑巾を置いていきました。
ゆっくり時間をかけてなんとか処理し終わると、また気持ち悪くなってバケツの中に吐きました。
シーツと服は染みがついてしまってもう使えません。一緒にくるめて隅によけました。
新しい服を。引き出しをあけるともうTシャツが一枚しか残ってませんでした。
それを着て一息ついたら部屋の中がすごく臭いのに気付いて3度目の嘔吐をしました。
最後のTシャツも胃液でまみれ、口の中は酸っぱくて。
泣きました。
4月6日(金) クモリ
おばあさんが文句を言いながら着替えを手伝ってくれました。
何度も気持ち悪くなったけど胃の中には何も残ってないのでのどが鳴るだけでもう何も出てきません。
水は飲んだけどその後吐かなかったのは自分でも偉いと思います。
トイレに行くのは至難の業でしたがこれ以上おばあさんに迷惑かけるわけにはいきません。
わかってたのに、やってしまいました。
汗と勘違いしてくれれば助かったのにおばあさんは気付いてしまいました。
呆れて行ってしまいました。ボクはどうすることもできずに彼の名を呼び続けました。
タケシ君。何処行っちゃったんだよ。タケシ君。
4月7日(土) ハレ
熱が下がる気配はありません。お腹の痛みもおさまりません。
寝てても背中が床についてる気がしません。浮いてどこかへ行ってしまいそうです。
ペットボトルが布団の横に転がってます。手を伸ばすのも大変だけどフタを開けるのはもっと辛いです。
なんとか水を飲むと少し楽になりました。こんな時ばかりはペットボトルを置いてってくれたおばあさんに感謝しました。
怒らせて水がもらえなくなるのは嫌なのでこぼさないように気を付けてフタを閉めました。
服は何度着替えてもすぐに汗がびっしょりになるのでもう気にしてません。
濡れてて気持ち悪いといってもお腹の痛さの方が大きくてどうでもよくなってしまいます。
足もロクに動かず、トイレに行くときは這って行ってます。立ち上がることができません。
寝転がってもだえ苦しむだけの生活。これがタケシ君の言ってた「酷いこと」なんでしょうか。確かに酷い。
酷すぎるよ。
4月8日(日) クモリ
このままではボクがボクでなくなってしまいそうです。狂ってしまう。
寝てるだけじゃ治らない。何かをしないと。治すための何か。
起きあがろうとしました。ガクガク震える足を必死に支え、壁づたいに身体を起こす。
膝をついて少しずつ。息が切れる。頑張れ。右足を立てて、次は左足を。
両足で立ち上がった途端、フウっと力が抜けました。倒れ込んで布団に逆戻り。
ダメです。立ち上がることはできても、立った状態を維持することができません。
ご飯を食べてないせいでしょうか。でも食欲は沸かない。ご飯を想像しただけで気持ち悪い。
そうだ。動き回らずとも、考えることはできる。意識は朦朧としてるけど。ただ寝てるけよりマシだ。
どうやったら治る?どうやったらタケシ君は戻ってくる?あの女の子は?
さぁ、考えるんだ・・
第十四週 「終局」
4月9日(月) ハレ
タケシ君はアサミさんの兄。ボクはタケシ君の過去の姿。
ということはあのタケシ君は幽霊だったのかもしれません。
でもタケシ君の表現は間違ってると思います。ボクはやっぱり、タケシ君じゃない。
ボクにタケシ君の記憶は無いし、アサミさんのために変わるとこは無い。
タケシ君の昔の姿と同じ性格をした別人。アサミさんにそう作られた。
ボクの存在は実に薄っぺらいモノなんだと思うけど、こうして熱にうなされてるボクがいるのは確かです。
まだここにいる。
4月10日(火) クモリ
タケシ君の言ってたこと本当なら、アサミさんを復活させるのが回復への道なんだと思います。
あの時見えた女の子がアサミさんなんでしょうか。思ってたより全然若い。
あるいはボクの心の中にあるアサミさんがそうゆうイメージなだけなのかもしれない。
もう目をつぶっても映像は浮かんでこないけど、確かにその存在は感じます。
ボクの中に他の人がいる。いや、ボクが他の人の中にいるのか?
いずれにせよどちらの存在が間違ってるのかは明白です。
ボクだ。
4月11日(水) ハレ
皮肉なことに、タケシ君が見えなくなってから彼の言ってたことが理解できるようになりました。
アサミさんの存在がだんだん膨らんでる気がします。そしてボクの存在感が徐々に薄れていく。
押し出されていくような感じです。ボクはここにいちゃいけないような。「どけ」と言われてるような。
強制的に消える羽目になる。タケシ君の言ったと通りだ。消える。それはつまり、死ぬってことかな。
ボクにはわずかな記憶しかないけど、それでも死ぬのは嫌だ。でも止められない。
アサミさんの心の片隅にちょこんと置いといてもらえないかな。
4月12日(木) ハレ
アサミさんの存在が大きくなっても彼女の記憶がボクに流れてくることはありません。
どうも一緒にはなれなさそうです。ボクはこのままはじき出されるんでしょう。
身体を失えば死んでしまう。とても残念なことだけどボクにはどうすることもできない。
アサミさんはどんどん大きくなってきてるのにその姿を見ることもできない。
ただ感じるだけです。せめて声くらい聞かせて欲しい。
結局あのタケシ君は何だったのか。アサミさんなら全てを知ってそうなのに。
ボクも知りたかった。
4月13日(金) ハレ
自分が消えていくのを止められないのは悲しいことだと思います。
踏みとどまろうとしても、本来の身体の持ち主であるアサミさんにかなうわけがありません。
アサミさん。弾き出すつもりなら、なんでボクを作ったりしたんですか。
今戻ってきたって状況は何も変わらないはずじゃないですか。
タケシ君が見えたのだってなんの意味があったと言うんですか。
本当に、ボクがなんの為に作られたのかわからない。
アサミさんにはずっと声をかけてたけど、答えが返ってくる気配はありません。
もうダメなんでしょう。
4月14日(土) クモリ
理由もわからないお腹や頭の痛みに苦しむためだけに生きるのも辛いです。
ボクは諦めました。どうせ苦しいままなんだ。もう消えてしまった方が楽になる。
ボクさえ消えればこの身体はアサミさんの元に戻り、きっと熱も下がると思う。
それに不思議なことなんですが、膨らみゆくアサミさんの存在はボクにとっては脅威のはずなのに
全然嫌じゃないんです。ボクは消えるのはやっぱり正しいことなんだとさえ思うようになりました。
少し悲しいけどこれが運命なら仕方ありません。
アサミさん。戻ってきなよ。遠慮することはありません。元々あなたの身体じゃないですか。
ボクはもういいから。
4月15日(日) ハレ
もうほとんどアサミさんは戻ってきてる。ボクの残り時間もあとわずか。
いよいよ終わりだって思ったとき、感じました。
最後の一押しが来ない。アサミさんの方が留まってる。
膨らむ勢いは感じるのに、それを自分で押さえ込んでる。
あともう少しなのに。どうして今更?ボクは思わず聞きました。
すると、初めてアサミさんから返事が返ってきました。
それは言葉じゃなかったけど、直接ボクの意識のその「感じ」が流れてきました。
アサミさんは出たがってない。やむを得ない事情でそこまで戻ってきてるけど、本当は嫌なんだ。
かたくなに拒否するアサミさんの感情が手に取るようにわかります。
嫌がってる。今のまま出るのは嫌だって。だからボクに・・・
ボクは崖っぷちに立ちながらも、なんとかこの場に踏みとどまっています。
なんの為に残されてるのか。ようやく理解できました。
やり残したことがある。
だからまだ消えるわけにはいかない。
第十五週 「夢幻」
4月16日(月) ハレ
ボクが産み出された理由は今ではよくわかります。
ただ、その使命を果たすには体力が必要です。
身体に力が入らない今ではうまくできるかわかりません。
でも、やらなきゃいけない。アサミさんのためにも。
ボクのためにも。
4月17日(火) クモリ
手を握って拳を作ってみました。大丈夫。手は動く。
問題はあの場所に移動することです。あそこにたどり着かなければ何も始まりません。
お腹の痛みは増すばかり。這うことはできても足に力が入らないから立てない。
少しだけ。たった数歩だけでいいから。
立たせて。
4月18日(水) アメ
アサミさんがボクに託した時間は本当にわずかなものです。
本人に意思に反して戻ろうとする力は大きく、本人にももう押さえきれなくなってきてる。
ボクも徐々に押し出されかけてる。崖っぷちで足の半分は地に着いてないみたい。
何かの勢いがあればすぐにでも落ちてしまう。
早く。早くやらないと。
4月19日(木) クモリ
這って行くことも考えたけど、あれは音が出るから気付かれてしまいます。
チャンスは一回しかありません。一度気付かれたら終わりです。
失敗したらボクは消えてかわいそうなアサミさんが無理矢理表に出される。
それだけは避けなきゃいけない。
失敗は許されない。
4月20日(金) クモリ
身体が軽くなっていきます。スゥっとそのまま気を失ってしまいそうな。
いよいよダメかもしれないと思ったけど、よく考えてみると逆にこれはチャンスかもしれません。
重力を感じなくなってきてる。このままどんどん軽くなっていけば立てそうです。
そうだよ。崖から飛べばいいんだ。飛べば落ちる前に少しだけ浮くことができる。
つま先立ちの状態まであと少し。ギリギリまで待つんだ。
最後の一瞬に全てを賭けるんだ。
4月21日(土) アメ
ラストチャンスを待つ間、アサミさんの声を聞きました。
最初は何のことを言ってるかわからなかったけど、どうもボクを呼んでるようでした。
「ケンジ君」
それがボクの名前だと気付くのに時間がかかりました。
なんでケンジなんだろう。ボクはタケシ君じゃなかったの?
疑問に思って聞いてみるとちゃんと答えてくれました。
「あの人の名前の読み方って間違えやすいの。子供のころはわざとそっちで呼ぶ人が多かったのよ。」
ふと「健史」という文字が頭に浮かびました。
確かにケンジって読める。タケシってすぐに読める人は少ないかもね。
ボクはタケシ君の昔の姿を想定して作られたんだから、その名前も昔のものなんだ。
作ったアサミさんがそう言うんだからそれが正しいのでしょう。
アサミさんありがとう。ボクに名前をくれて。
ボクの名前はケンジ。
この名を机の裏あたりに刻んで置きたくなりました。でも体力を温存するために断念しました。
使命を果たす時はもう目の前だから。アサミさんの願いを叶えるまであと少し。
アサミさん、もうすぐだよ。
4月22日(日) ハレ
時は来ました。
ボクはありったけの力を足に集中して立ち上がりました。
身体は地面に足が着いてないんじゃないかと思うほど軽かったです。
ただ、この状態はそう長く持たない。隣の部屋に急ぎました。ボクの使命を果たす為に。
おじいさんを殺す。
タケシ君が早いうちから答えを出してくれてたじゃないか。
あの人が居る限りアサミさんは幸せになれない。タケシ君、そうなんでしょ?
ふすまを開けるとおじいさんとおばあさんが寝てました。
時間がないからおばあさんまでは殺せません。
座ろうとすると足の力が抜けて倒れ込んでしまいました。
起こさなかったか心配になったけど、おじいさんは変わらずに寝息を立ててました。
ボクは安心して首に手をかけ、力を入れました。
もう足は動かないけど、手に力を込めることはできました。
全ての神経を親指と人差し指に込めてきつく、きつく締めました。
これで全てが終わる。終わるんだ。
どこからかタケシ君の声が聞こえてきました。
「さあアサミ、目を覚ませ。一緒に行こう。この子と共に。」
ボクは奈落の底に落ちていきました。暗闇の中を果てしなく落ち続ける。
やがて光の筋が見えてきました。うずくまってる女の子がいます。
起きて。もう大丈夫だから。怖いものはボクが消してあげたから。
安心して目を覚ましていいんだよ。そうそう。大きなあくびをしたらほら。目を開けてるんだ。
そう・・・そうやって・・・
目を・・開けて・・・
最終週 「解放」
4月23日(月) 晴れ
私が目を覚ました時、いかつい顔をした老人が私の顔を覗き込んでいました。
それが実の父の顔であることを思い出すのにはさほど時間はかかりませんでした。
どれだけ老けても忘れることはできません。
父の様子は明らかに変でした。首に手を当てて恐れるような目で私を見ます。
私と目が合うと驚いたような顔をして、逃げるように部屋から出ていってしまいました。
目が覚めたばかりの私にはなぜそんなことをしたのかわかりませんでした。
それどころか自分が今どこにいるのか、何をしてたのかさえもわからない状態です。
ただ、とても深い眠りについていたのだとは感じていました。
布団から上半身だけ起こして額を押さえていると母がやってきました。
母も老けていたけど、顔を忘れることはありません。
「亜佐美、目が覚めたの?昨日のことは覚えてる?」
昨日のこと・・・?私は考えを巡らせましたがまだ頭がぼやけてて何も思い出せませんでした。
「覚えてない」と答えると母は「そう。ならいいわ」と言って父と同じようにすぐに部屋から出ていってしまいました。
一人になった私は再び布団に身体を横たえ、状況を把握するためにしばらく考え込みました。
頭がハッキリしていくにつれ、色々な場面の記憶が花火の様にパッと光って現れてきました。
いくつもの花火が上がり、それらを繋げてみると徐々に失っていた記憶が戻ってきました。
しかしどの記憶も私が家族を失った瞬間ばかりのものです。
亮平。亮平が手を振って私を見送っている。
早紀。私の腕の中で静かに眠ってる。
そして私の兄にして夫。健史さん。やせ細り、とても悲しい顔をして・・・なぜか私は怖がってる。
思い出しました。これまでどんな状況だったのか。
私は、狂ってた。
4月24日(火) 曇り
この家になぜいるのか。そこまで記憶は戻りました。今では全てが理解できます。
早紀の死から始まった狂気の人生。大勢の人を傷つけ、大切な人も失ってしまいました。
いや、きっかけはもっと前だったのかもしれません。
亮平を刺してしまった時から?インターネットを始めた時から?
いや、兄と共にこの家を出た時から?
あれだけここには二度と戻らないと誓ったのに。運命は皮肉なものです。
不思議と悲しさは感じません。あまりに悲惨なことが多すぎて、悲しみの感情が麻痺してしまったのかもしれません。
自分のせいで兄を・・夫を失ったというのに、涙が出てきません。
私の感情は狂気の人生の中で枯れ果ててしまったんでしょう。
思い出す記憶のほとんどが恐ろしいものであっても全く驚きませんでした。淡々と受け止めています。
私が作ったホームページも今なら冷静に見ることができそうですが、この家にはパソコンがないので諦めました。
子供達にはかわいそうなことをしてしまいました。
私がしっかりしてなかったばっかりに、早紀は死に、亮平は・・
亮平が死んだ記憶はありません。手を振って別れを告げてるところだけです。
今でも生きてるのでしょうか?小田原の家にまだいるのでしょうか?
確認することはできませんが生きていたら無事でいて欲しいものです。
あれだけ家族を不幸にした私には、もう息子に会う権利など無いから。ただ無事を祈るだけです。
亮平と別れるところまではハッキリと思い出したんですが、この家に来てからの記憶がどうもぼやけています。
それまでの狂気とは少し違う。嫌な思い出が詰まったこの家に戻り、私の狂気は加速した。
もはや私は私でなくなり、この身体は別の人のものとなった。
私はその間ずっと暗闇の奥から彼の姿を見つめていました。
彼の行動、彼の感情。全てがわかっていました。
この身を彼に預け、私は奥に引っ込んでしまったんです。
ただ、どうしてもわからないことがまだいくつか残ってます。
なぜ私は正気に戻ったのか?あのまま彼にまかせっきりでも良かったのに。
何か重大なことを忘れている気がします。
彼が求めていた答え。私は知っているはずなのに。
私が身代わりを産み出すのに至った決定的な出来事。何かあったはず。
思い出せない。
4月25日(水) 雨
母は変わらずにご飯を届けてくれます。私は何も言わずに平らげました。
しばらくはこのままギクシャクとしか状態が続くでしょう。あんなことがあった後では仕方有りません。
彼が父の首を絞めたのはもう思い出してます。そして目覚めた母に止められたことも。
その時にはもう彼は消えていました。私の目は覚めてたけど身体を動かすことまではできなかった。
部屋に連れ戻され、再び眠りについた。次の日の朝に本格的に目が覚めたんです。
彼が父の首を絞めた理由は実によくわかります。私の中の憎しみが彼を産み出したんでしょう。
それはわかってるんですが、まだ釈然としないものがあります。
タケシ君。あの人は一体なんだったのか。
重大なことを忘れてる。もう少しで思い出せそうなのに、喉元で止まってしまいます。
ここ数ヶ月のことをゆっくり思い出してみました。
彼が最初に目が覚めた時は、まだ彼自身も完全に形作られてはいなかった。
その証拠にタケシ君はまだ中学生の制服を着ていました。
一度高熱にうなされて、そこから目が覚めた時にやっと私の身代わりとなった。
彼を作り上げた時のことは漠然と覚えています。それはあのタケシ君が言ったとおりでした。
あの人のようになりたい。ただそう思っただけです。
当時の健史さんは両親の私に対する虐待には気付いてませんでしたが
私が何かおかしくなってることには気にかけてくれてました。
私は本当のことが言えずに黙ってただけでしたが、気遣ってくれるその優しさには憧れを感じていました。
何も知らないことがどれだけうらやましかったか。
そうして自分の変化に目をそらし続けてるうちに私は奥に閉じこもってしまったのでした。
あとには憧れてた人をコピーしたものを残して。
・・少しおかしい気がします。
私は一体いつのことを思い出してるんでしょう?
それに、あの人が変わったきっかけが何だったのかも気になります。
両親が話すとも思えません。私は自分のことを絶対話さなかった。
ならどうやって私が虐待を受けてたことを知ったのか?
いや、本当に私は話さなかった?どこかで話した記憶も・・
ああ。思い出せそうなのに思い出せません。
私の身代わりとタケシ君の噛み合わない会話。
その中に答えがある。それはしっかりと感じるのに。
私が正気に戻らざるを得なかった理由も。なぜ会話が噛み合ってなかったのかも。
全てを説明できる明確な答えがあるのに。
この身体に、何かが。
4月26日(木) 曇り
彼の行動を思い出して家の中をめぐりました。
父と母は私の行動にはチラっと目をやるだけで何も言ってきませんでした。
まず鏡を見ました。そこに映ってるのは間違いなく私です。
手も足も随分やせ細ってしまいましたが、長年なじんだ私の身体。
外に出ようとしました。もう気持ち悪くはなりません。
ドアを開けて2,3歩出てみても頭痛は襲ってきませんでした。
古い家が建ち並ぶ住宅街は相変わらずで、私の子供の頃とあまり変わっていません。
懐かしさは込み上げてこず、昔を思い出しても悲しい気持ちにもならず、
私にはもう感情が無くなってしまったんだと改めて認識しました。
家の中を歩いても新しい発見はありませんでした。
高熱でうなされる前はほとんどこの部屋でタケシ君と「カウンセリング」をしてた。
今考えるとあれはそんな立派なものでなく、単なる会話でしか有りません。
けどあの人は自分なりに必死に考えてやってくれてたんでした。
幼い私を救うために・・時間がせまってて・・・何の時間が・・・?
思い出しそうになったのにまた引っ込んでしまいました。
突然の腹痛に倒れてからはもう起きあがることすらできなかった。
ペットボトルはまだ布団の横に転がってます。タンスのなかには母が洗濯してくれた服が綺麗に折り畳んであります。
今でこそこうして動き回れますが、あの時はタケシ君が必死に看病してくれてました。
うろたえる母と怒鳴る父にタケシ君は必死に闘ってくれて、私はそれを横で聞いていて・・・
・・・そんな記憶あったでしょうか?
どうも切れ切れとおかしな場面が頭に浮かんできます。
タケシ君は父を殴ろうとした。でも・・・殴り返された・・・?
ペットボトルは母が持ってきてた・・いや・・タケシ君が・・・
意味がわからなくなってきました。
心の奥で私が身代わりと会話した。それはハッキリ覚えてる。
私はどうしても外に出なければならなかったけど、表に出るのは嫌だった。
彼は自分の使命を感じとり、行動に移してくれた。タケシ君と一緒に・・・?
そして機会を狙う前に・・彼は自分の名前を残そうと・・して・・身体が動かなくて・・・
違う・・・自分の名前を残したいと言ったら・・タケシ君が身体を支えてくれて・・・起きあがって・・
私は思わず机の裏を覗き込みました。
そこにはカッターで削られたような古い文字が刻み込まれてました。
「ケンジ」
それを見た時、大量の記憶が一気に頭の中に流れ込んできました。
全てのシーンが繋がって目の前を駆けめぐります。
私のたどった人生が走馬燈の様に・・ああ・・・
蘇ってくる・・・!!
4月27日(金) 晴れ
目をつぶると幼い頃の記憶が今のことのように蘇ってきます。
父に連れられて行った見知らぬ人の家。
頭を下げて分厚い封筒を受け取る父。父はそれで帰ってしまう。
残された私は見知らぬおじさんに身体をいじり回される。
父の名を叫んでも誰も助けには来ない。身体に激痛が走る。気を失う私。
迎えに来てくれたのは母だった。母に酷い目に会わされたことを報告するとなぜか怒られた。
「このことは誰にも言っちゃいけません」
私は外に出るのが怖くなった。またあのおじさんの家に連れて行かれるのが嫌だった。
父は無理矢理連れ出そうとしたけど、母が止めてくれた。
「無理に連れていくとこの子外でわめき散らすかもしれないわよ」
誰にも言わないのに。私はちゃんと約束を守るよ。
お母さん、私を信用してくれてないんだ。
父は私を外に連れ出すのを諦めたけど、逆にもっと嫌な目にあわされた。
「言うこと聞かないお仕置き」と称して、あのおじさんと同じことをした。
それから何度か、同じことをされた。
いつも家に二人きりになった時だった。母が兄を連れて外に出ていった時は、必ず。
そして私は妊娠した。
兆候を感じて私はこっそりと病院へ行くとその事実を告げられた。
その時から私はおかしくなりはじめた。
何も知らない兄に助けを求めようとした。でも言えなかった。
だから私は自分の世界に閉じこもり、身代わりを立てた。
兄を誘惑したのはこの頃だったかもしれません。
父と、父に連れて行かれた見知らぬおじさんから酷い目にあわされたことを告げて・・
見知らぬおじさんは複数ということにして話を少し大げさにして・・あの人に身を寄せた。
そうして彼と直接関係を持つことで、私の中で「ケンジ君」が完全なものとなった。
ケンジ君に後を任せると、兄は私を救うことを考えた。
妊娠してたことはお腹が膨らみ初めてから気付いたのかも知れません。
お腹の中で子供が育つにつれて、私はせっかく閉じこもったのに再び表にでなければならなくなった。
男の「ケンジ君」には子供が産めない。だから私が。でも私は表に出るのを拒否した。
兄は私が「ケンジ君」のまま出産を行ったら精神が崩壊すると思って、私を元に戻すのに必死になった。
時間がない。まさに兄の言ったとおりでした。
腹痛と頭痛に悩まされた頃、兄の心配をよそに「ケンジ君」は自ら自分の使命に気付いた。
かつて兄が誘ってくれたこと。両親を消す。
身重のまま兄と共に実行に移したけどそれは失敗に終わった。
首を絞めたものの父は途中で目覚めてしまい、私は突き飛ばされ、兄は殴られた。
父の首を絞めた時点で「ケンジ君」は消えてしまっていた。
私は戻っていた。出産のために。
突き飛ばされて倒れ込んだと同時に陣痛が始まった。
兄が何か叫びながら私を風呂場に連れていく。母がやってきて兄を追い出す。
母が泣きながら何度も謝ってたけど、私ずっと「許せない」と思ってた。
出産。
それからしばらく私は寝かされたままだった。
父と母と兄の3人が生まれた子供をどうするか話し合ってたのは覚えてる。
話し合いというより怒鳴り合い。たびたび殴り合う音も聞こえてた。
私が動けるようになるまで回復したある日、兄が真っ赤に染まった手をタオルで拭きながら部屋に入ってきた。
大きなリュックを背負い、赤ん坊を抱き上げ、寝ていた私に言った。
「さあ亜佐実、目を覚ませ。一緒に行こう。この子と共に。」
雨の中、私たちは逃げ出した。
「お兄ちゃん」と私が呼ぶと兄は笑いながら答えてくれた。
「大丈夫。きっとなんとかなるさ」
あれは全て過去のこと。
十数年前の出来事だった。狂気のままこの家に戻ってきた私は、再び同じ状態に陥った。
父と母に再びあってしまったことが引き金になったんだと思います。
過去の幻影にとらわれていたんだとわかると、いろんな疑問が一気に解決しした。
「タケシ君」は何だったのか?
心の中で作り上げた幻だなんてとんでもない。
タケシ君はあの時の兄そのものです。全ては過去に一度あったことだから。
私は思い出していただけだったんです。数ヶ月にも及んで。
ただ、私の身体はあれから10数年も経ってしまい、妊娠もしていません。
だから腹痛と頭痛の痛みだけが蘇り、意味の分からないことになってました。
会話が噛み合わないのも当たり前です。
かつて同じ質問をしていたら「タケシ君」も答えることができるけど、そうでなかったら答えられるわけがありません。
「タケシ君」は実在してたんだから呼吸音が聞こえたり触った感触があって当然。
私の身体に刻み込まれた触感の記憶が、「タケシ君」に触れるたびに再生されていた。
でも父と母の会話は紛れもなく現実。今この目に映ってる部屋も現実。
私は過去の夢と、目に前ににある現実との間をうろついていたんです。
かわいそうな「ケンジ君」。そんな状態だったら混乱しても仕方ないわ。
過去の幻だって全てが正確に再生されてたわけでもなかった。
現実に戻されて「タケシ君」が消えたりもしてた。
最後には過去の夢にとらわれてずっと苦しんでた。父を殺す「使命」はずっと昔のことだったのに。
私が、「ケンジ君」が生きていたのは・・・そう。
狭間の世界。
4月28日(土) 暗雲
こうして自分を取り戻した今、私が考えなければならないのはひとつだけです。
私を狭間の世界に閉じこめた原因。父と母をどうするか?
特に父は私が狂気の人生を歩むきっかけを作った人間です。
許せません。「ケンジ君」に託していた殺したい気持ち。
私が他の感情を失った中で、これだけはまだ心の中に残ってます。
兄は、健史さんは本当に父を刺した。
あの傷跡が残ってるのは私も「ケンジ君」を通して見てました。
でも生きている。目の前で生きてることが、許せない。
あの二人は私が首を絞めたことに対して恐怖を感じてるようです。
怒鳴ってれば大人しくなる私が抵抗したものだからショックを受けてるのかもしれません。
父は私を避けています。かつては殺されそうになんてなったら拳で応酬するような人でしたが
老人となってはその力も、気力も無くなってしまったんでしょう。
その父を、改めて殺すべきなのか?
やるなら刃物でないといけません。首を絞めるのでは失敗する可能性が高いことは実証されてます。
台所には包丁があるはずです。失うものが何も無い私には父を刺すのに抵抗は感じません。
母はうろたえるでしょうが、後のことなど知らない。
ただ、誰かが言ってたように父を殺してしまったら私は食事にありつけなくなるでしょう。
恐らく母だけでは私を満足に養うことはできないと思います。
養ってくれる人がいなければ私には生きる手段がない。となると捨てられる。最悪の場合、死ぬ。
父を殺そうか迷ってると、ふと「ケンジ君」がいた頃を思い出しました。
昔のでなく、この家に戻ってきてから出てきた二人目の方です。
「タケシ君」に誘われて殺そうとした時は失敗した。
自分から殺しに行った時も失敗。それで私は思いました。
人任せでは成功しない。結局は自分でやらなければいけないのね。
さてどうしましょう。その気にさえなれば老人なんていつでも刺すことはできる。
本当にやってしまっていいのでしょうか。
これが最後の選択です。
殺して、全ての運命に決着をつけるか。
殺さず、無駄に生き続けるか。
4月29日(日) Raindrops Keep Fallin' On My Head
私は台所から包丁を持ち出し、ゆっくりと父親の眠る部屋へ向かいました。
足音は立てないようにしました。つい先週にも同じことをしようとしたのであっちも警戒してるはずです。
ただし、今の私は熱にうなされていない。すべて慎重にことを運ぶことができる。
息づかいから服の擦れる音まで。一つ一つに気を使いました。
いよいよ決着をつける時。感情は失ってしまったけど身体はちゃんと反応する。
心臓の鼓動が早まってきました。
かすかに手が震えてるのに気付きました。
襖を開ける。真っ暗で何も見えない。
目が慣れてきてぼんやりと家具や人の顔の輪郭が浮かんでくる。
布団が定期的に上下する。心臓の位置を目測。あそこら辺ね。
横に膝をつく。包丁を振り上げる。余計なことは考えない。
失敗したらまた刺せばいいだけの話。
抵抗されても大丈夫。首を絞めるのと違って、今の私は圧倒的な力を持ってる。
包丁の刃を下に向けて、大きく息を吸う。
手に力を入れる。
最後に生きてる時の顔を目に焼き付けておこうと、横目で父親の顔を見ました。
私はその場で固まりました。
そこに眠ってたのは、亮平でした。
思わず隣も見ました。母親が眠ってるはずなのに。早紀が眠ってます。
二人ともあどけない顔をしてかわいらしい寝息を立てている。
まだ運命などとは縁のない、何にも束縛されてない安らかな顔。
包丁を元に位置に戻した時には、私は全てを悟っていました。
子供達が気付かせてくれたんです。危うく選択を誤るところでした。
例え相手が誰であっても一度殺したら次へ次へと繋がってしまう。
血みどろの運命です。恨みは恨みを呼び、恨みは狂気に至る。
殺すのは運命の断絶でなく継続を意味する。
それに気づいたから、私の選択は「殺さない」
ただし、呪われた運命には決着をつけます。
思えば私は恨みに束縛されてました。
そしてそれが、子供達へも影響してしまった。
もうたくさんです。これ以上続けてはいけません。
父を殺さなくても終わらせることはできる。実に単純な答えです。
父を許す
こんな簡単なことをどうしてやらまいままでいたんでしょう。
誰かが恨みを断ちきらないといつまでも続いてしまいます。
だから私のところで終わりにしました。
天井を仰ぎ、目をつぶって頭の中を空っぽにしました。
呼吸をするたびに恨みの感情が抜けていきます。
そうしていくうちに、悲惨な記憶を思い出しても「過去は過去にすぎない」と思えるようになりました。
いまこの家にいるのは、私と、哀れな老人二人。これでいいでしょ?『タケシ君』
唯一残った感情が消えてしまうと、私は何も感じなくなりました。
けどそれで構いません。私はここで狂人として暮らします。
感情を失った人間が正気と言えるかわかりませんが、
父と母は私が自分を取り戻したことに気付いてません。このまま生き続けるつもりです。
窓から外を眺めました。外は雨が降ってて日の光を浴びることはできません。
それもいいでしょう。これからの私の人生そのものです。
暗い空を眺めてると、幼い私の子供達が雲の向こうに立ってるのが見えました。
ごめんね。辛い目にばかり会わせてしまって。
早紀のところにはお父さんも来てる?
亮平はちゃんとご飯を食べてる?
二人は笑って頷きました。
私も笑顔で応えようとしまいたが、顔の筋肉が言うことを聞いてくれませんでした。
二人の顔が急に曇りました。心配そうに私を見てる。
ダメ。あの子たちに心配させてはいけない。
私は最後の言葉を語りかけました。
聞いて。あなたたちはね。もう家のことは考えないでいいのよ。
呪われた運命からは、今日限りで解放されたから。
思い出して。子供の頃を。素直に生きてたあの頃を。
全ては始まりに戻ったから。終わりのあとには必ず新しい始まりがあります。
そんな所に立ってないで自分の道を進みなさい。私はここで見てるから。
何を気にしてるの?大丈夫。私は何の心配もいらないわ。
この家には私を養ってくれる人がいるわ。食事も出してくれるし私の部屋まで用意してくれてるのよ。
ね?何の問題もないでしょ?
だからほら。自分のことだけ考えて。
誰も邪魔なんてしないから。もう自分の進む道のことだけを考えていいのよ。
そう、そうやって顔を上げて。前へ。あとはその足を動かすだけ。
行きなさい。思った通りの方向に。
辛かった過去にはとらわれないで・・・・振り向かないで。
あなたたちは、自由よ!
狭間の世界
−完−
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