TITLE : 風の又三郎
風の又三郎
宮沢賢治
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角川e文庫
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目 次
風の又《また》三《さぶ》郎《ろう》
とっこべとら子
祭《まつり》の晩《ばん》
なめとこ山の熊《くま》
土《つち》神《がみ》ときつね
気のいい火《か》山《ざん》弾《だん》
化《ばけ》物《もの》丁《ちよう》場《ば》
ガドルフの百《ゆ》合《り》
マグノリアの木
注 釈         大 塚 常 樹
風の又《また》三《さぶ》郎《ろう*》
九月一日
どっどどどどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹《ふ》きとばせ
すっぱいかりんもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう
谷川の岸《きし》に小さな学校がありました。
教室はたった一つでしたが生《せい》徒《と》は三年生がないだけであとは一年から六年までみんなありました。運《うん》動《どう》場《じよう》もテニスコートのくらいでしたがすぐうしろは栗《くり》の木のあるきれいな草の山でしたし運動場の隅《すみ》にはごぼごぼつめたい水を噴《ふ》く岩《いわ》穴《あな》もあったのです。
さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。 黒い雪《ゆき》袴《ばかま*》をはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかに誰《だれ》も来ていないのを見て、
「ほう、おら一《いつ》等《とう》だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫《さけ》びながら大《おお》悦《よろこ》びで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒《ぼう》立《だ》ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。がひとりはとうとう泣《な》き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪《かみ》の子《こ》供《ども》がひとり一番前の机《つくえ》にちゃんと座《すわ》っていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり眼《め》をりんと張《は》ってそっちの方をにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から、
「ちょうはあかぐり《 *》、ちょうはあかぐり。」と高く叫《さけ》ぶ声がしてそれからまるで大きな烏《からす》のように嘉《か》助《すけ》が、かばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐《さ》太《た》郎《ろう》だの耕《こう》助《すけ》だのどやどややってきました。
「なして泣いでら、うなかもたのが《 *》。」嘉助が泣かないこどもの肩《かた》をつかまえて云《い》いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると教室の中にあの赤毛のおかしな子がすましてしゃんとすわっているのが目につきました。みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集《あつま》って来ましたが誰《だれ》も何とも云《い》えませんでした。
赤毛の子どもは一《いつ》向《こう》こわがる風もなくやっぱりちゃんと座《すわ》ってじっと黒《こく》板《ばん》を見ています。
すると六年生の一《いち》郎《ろう》が来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大《おお》股《また》にやってきてみんなを見て「何した。」とききました。みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変《へん》な子を指《さ》しました。一郎はしばらくそっちを見ていましたがやがて鞄《かばん》をしっかりかかえてさっさと窓《まど》の下へ行きました。
みんなもすっかり元気になってついて行きました。
「誰《だれ》だ、時間にならなぃに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して云いました。
「お天気のいい時教室さ入ってるづど先生にうんと叱《しか》らえるぞ。」窓の下の耕助が云いました。
「叱らえでもおら知らなぃよ。」嘉《か》助《すけ》が云いました。
「早ぐ出はって来《こ*》、出はって来。」一郎が云《い》いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室の中やみんなの方を見るばかりでやっぱりちゃんとひざに手をおいて腰《こし》掛《かけ》に座《すわ》っていました。
ぜんたいその形からが実《じつ》におかしいのでした。変《へん》てこな鼠《ねずみ》いろのだぶだぶの上《うわ》着《ぎ》を着《き》て白い半ずぼんをはいてそれに赤い革《かわ》の半《はん》靴《ぐつ》をはいていたのです。それに顔と云ったらまるで熟《じゆく》した苹果《りんご》のよう殊《こと》に眼《め》はまん円《まる》でまっくろなのでした。一《いつ》向《こう》語《はなし》が通じないようなので一郎も全《まつた》く困《こま》ってしまいました。
「あいつは外国人だな。」「学校さ入るのだな。」みんなはがやがやがやがや云いました。ところが五年生の嘉《か》助《すけ》がいきなり、
「ああ、三年生さ入るのだ。」と叫《さけ》びましたので「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが一郎はだまってくびをまげました。
変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけきちんと腰掛けています。
そのとき風がどうと吹《ふ》いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱《かや》や栗《くり》の木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもは何だかにやっとわらってすこしうごいたようでした。すると嘉助がすぐ叫《さけ》びました。「ああ、わかった、あいつは風の又《また》三《さぶ》郎《ろう》だぞ。」そうだっとみんなもおもったとき俄《にわ》かにうしろの方で五郎が「わあ、痛《いた》ぃじゃあ。」と叫びました。みんなそっちへ振《ふ》り向《む》きますと五郎が耕《こう》助《すけ》に足のゆびをふまれてまるで怒《おこ》って耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助も怒って「わあ、われ悪《わる》くてでひと撲《はだ》ぃだなあ《 *》。」と云《い》ってまた五郎をなぐろうとしました。五郎はまるで顔中涙《なみだ》だらけにして耕助に組み付《つ》こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押《おさ》えてしまいました。「わあい、喧《けん》嘩《か》するなったら、先生ぁちゃんと職《しよく》員《いん》室《しつ》に来てらぞ。」と一郎が云いながらまた教室の方を見ましたら一郎は俄《にわ》かにまるでぽかんとしてしまいました。たったいままで教室にいたあの変な子が影《かげ》もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友《とも》達《だち》になった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕《と》った山《やま》雀《がら*》に遁《に》げられたように思いました。
風がまたどうと吹《ふ》いて来て窓《まど》ガラスをがたがた云わせうしろの山の萱《かや》をだんだん上《か》流《み》の方へ青じろく波《なみ》だてて行きました。
「わあうなだ喧《けん》嘩《か》したんだがら又《また》三《さぶ》郎《ろう》居《い》なぐなったな。」嘉助が怒《おこ》って云いました。みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申《もう》し訳《わ》けないと思って足の痛いのも忘《わす》れてしょんぼり肩《かた》をすぼめて立ったのです。
「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」
「二百十日《 *》で来たのだな。」「靴《くつ》はいでだたぞ。」
「服《ふく》も着《き》でだたぞ。」「髪《かみ》赤くておがしやづだったな。」
「ありゃありゃ、又三郎おれの机《つくえ》の上さ石かげ乗《の》せでったぞ。」二年生の子が云《い》いました。見るとその子の机の上には汚《きた》ない石かけが乗っていたのです。
「そうだ。ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」
「そだなぃでぁ。あいづぁ休み前に嘉《か》一《いち》石ぶっつけだのだな。」「わあい。そだなぃでぁ。」と云っていたときこれはまた何という訳《わけ》でしょう。先生が玄《げん》関《かん》から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼《よぶ》子《こ》を右手にもってもう集《あつま》れの仕《し》度《たく》をしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権《ごん》現《げん》さまの尾《お》っぱ持《も》ち《 *》のようにすまし込《こ》んで白いシャッポ《 *》をかぶって先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。
みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と云いましたのでみんなもついて「先生お早うございます。」と云っただけでした。「みなさん、お早う。どなたも元気ですね。では並《なら》んで。」先生は呼子をビルルと吹《ふ》きました。それはすぐ谷の向《むこ》うの山へひびいてまたピルルルと低《ひく》く戻《もど》ってきました。
すっかりやすみの前の通りだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、三年生は十二人、組ごとに一列《れつ》に縦《たて》にならびました。
二年生は八人一年生は四人前へならえをしてならんだのです。するとその間あのおかしな子は何かおかしいのかおもしろいのか奥《おく》歯《ば》で横《よこ》っちょに舌《した》を噛《か》むようにしてじろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は高田さんこっちへおはいりなさいと云いながら四年《ママ》生の列《れつ》のところへ連《つ》れて行って丈《たけ》を嘉《か》助《すけ》とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。先生はまた玄《げん》関《かん》の前に戻って、
前へならえと号《ごう》令《れい》をかけました。
みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたがじつはあの変《へん》な子がどういう風にしているのか見たくてかわるがわるそっちをふりむいたり横《よこ》眼《め》でにらんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平《へい》気《き》で両《りよう》腕《うで》を前へ出して指《ゆび》さきを嘉助のせなかへやっと届《とど》くくらいにしていたものですから嘉助は何だかせなかがかゆいかくすぐったいかという風にもじもじしていました。「直れ。」先生がまた号令をかけました。
「一年から順《じゆん》に前へおい。」そこで一年生はあるき出しまもなく二年も三年もあるき出してみんなの前をぐるっと通って右手の下《げ》駄《た》箱《ばこ》のある入口に入って行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大《おお》威《い》張《ば》りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとのものもじっと見ていたのです。
まもなくみんなははきものを下《げ》駄《た》箱《ばこ》に入れて教室へ入って、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一《いち》列《れつ》に机《つくえ》に座《すわ》りました。さっきの子もすまし込《こ》んで嘉助のうしろに座りました。ところがもう大さわぎです。
「わあ、おらの机代《かわ》ってるぞ。」
「わあ、おらの机さ石かけ入ってるぞ。」
「キッコ、キッコ、うな通《つう》信《しん》簿《ぼ》持《も》って来たが。おら忘《わす》れで来たじゃあ。」
「わあい、さの、木《き》ぺん《 *》借《か》せ、木ぺん借せったら。」
「わぁがない。ひとの雑《ざつ》記《き》帳《ちよう》とってって。」
そのとき先生が入って来ましたので、みんなもさわぎながらとにかく立ちあがり一郎がいちばんうしろで「礼《れい》。」と云《い》いました。
みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたがそれからまたがやがやがやがや云いました。
「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が云いました。
「叱《し》っ、悦《えつ》治《じ》、やがましったら。嘉《か》助《すけ》ぇ、喜《き》っこぅ。わあい。」と一郎が一番うしろからあまりさわぐものを一人ずつ叱《しか》りました。
みんなはしんとなりました。先生が云いました。「みなさん長い夏のお休みは面《おも》白《しろ》かったですね。みなさんは朝から水《みず》泳《およ》ぎもできたし林の中で鷹《たか》にも負《ま》けないくらい高く叫《さけ》んだりまた兄さんの草《くさ》刈《か》りについて上の野原へ行ったりしたでしょう。けれどももう昨日《きのう》で休みは終《おわ》りました。これからは第《だい》二《に》学《がつ》期《き》で秋です。むかしから秋は一番からだこころもひきしまって勉《べん》強《きよう》のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんも今日からまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友《とも》達《だち》が一人ふえました。それはそこに居《い》る高田さんです。その方のお父さんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道の学校に居られたのですが今日からみなさんのお友達になるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗《くり》拾《ひろ》いや魚とりに行くときも高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」
すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢《いきおい》よく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたがすぐ、
「わかりましたね、ではよし。」と云いましたのでみんなは火の消《き》えたように一ぺんに手をおろしました。
ところが嘉《か》助《すけ》がすぐ「先生。」といってまた手をあげました。
「はい。」先生は嘉助を指《ゆび》さしました。
「高田さん名は何て云《い》うべな。」「高田三郎さんです。」
「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又《また》三《さぶ》郎《ろう》だな。」嘉助はまるで手を叩《たた》いて机《つくえ》の中で踊《おど》るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑《わら》いましたが三年生から下の子どもらは何か怖《こわ》いという風にしいんとして三郎の方を見ていたのです。先生はまた云いました。
「今日はみなさんは通《つう》信《しん》簿《ぼ》と宿《しゆく》題《だい》をもってくるのでしたね。持《も》って来た人は机の上へ出してください。私がいま集《あつ》めに行きますから。」
みんなはばたばた鞄《かばん》をあけたり風《ふ》呂《ろ》敷《しき》をといたりして通信簿と宿題帖《ちよう》を机の上に出しました。
そして先生が一年生のほうから順《じゆん》にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。という訳《わけ》はみんなのうしろのところにいつか一人の大人《おとな》が立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻《あさ》服《ふく》を着《き》て黒いてかてかした半《ハン》巾《カチ》をネクタイの代《かわ》りに首に巻《ま》いて手には白い扇《おうぎ》をもって軽《かる》くじぶんの顔を扇《あお》ぎながら少し笑《わら》ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしぃんとなってまるで堅《かた》くなってしまいました。ところが先生は別《べつ》にその人を気にかける風もなく順々に通信簿を集めて三郎の席《せき》まで行きますと三郎は通信簿も宿題帖もない代りに両《りよう》手《て》をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教《きよう》壇《だん》に戻《もど》りました。
「では宿題帖はこの次《つぎ》の土曜日に直して渡《わた》しますから、今日持って来なかった人は、あしたきっと忘《わす》れないで持って来てください。それは悦《えつ》治《じ》さんとコージさんとリョウサクさんとですね。では今日はここまでです。あしたからちゃんといつもの通りの仕《し》度《たく》をしてお出《い》でなさい。それから五年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃《そう》除《じ》をしましょう。ではここまで。」
一郎が気を付《つ》けと云《い》いみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人《おとな》も扇《おうぎ》を下にさげて立ちました。
「礼《れい》。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽《かる》く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一《いち》目《もく》散《さん》に教室を飛《と》び出しましたが四年生の子どもらはまだもじもじしていました。
すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服《ふく》の人のところへ行きました。先生も教壇を下りてその人のところへ行きました。
「いやどうもご苦《く》労《ろう》さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。
「じきみんなとお友《とも》達《だち》になりますから。」先生も礼を返《かえ》しながら云いました。
「何《なに》分《ぶん》どうかよろしくおねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして眼《め》で三郎に合《あい》図《ず》すると自分は玄《げん》関《かん》の方へまわって外へ出て待《ま》っていますと三郎はみんなの見ている中を眼《め》をりんとはってだまって昇《しよう》降《こう》口《ぐち》から出て行って追《お》いつき二人は運《うん》動《どう》場《じよう》を通って川下の方へ歩いて行きました。
運動場を出るときその子はこっちをふりむいてじっと学校やみんなの方をにらむようにするとまたすたすた白服の大人について歩いて行きました。
「先生、あの人は高田さんのお父さんすか。」一郎が箒《ほうき》をもちながら先生にききました。
「そうです。」
「何の用で来たべ。」
「上の野原の入口にモリブデン《 *》という鉱《こう》石《せき》ができるので、それをだんだん掘《ほ》るようにするためだそうです。」
「どごらあだりだべな。」
「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから少し川下へ寄《よ》った方なようです。」
「モリブデン何にするべな。」
「それは鉄《てつ》とまぜたり、薬《くすり》をつくったりするのだそうです。」
「そだら又三郎も掘るべが。」嘉《か》助《すけ》が云《い》いました。
「又三郎だなぃ、高田三郎だじゃ。」佐《さ》太《た》郎《ろう》が云いました。
「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤にしてがん張《ば》りました。
「嘉助、うなも残《のこ》ってらば掃《そう》除《じ》してすけろ《 *》。」一郎が云いました。
「わぁい。やんたじゃ。今日五年生ど六年生だな。」
嘉助は大《おお》急《いそ》ぎで教室をはねだして遁《に》げてしまいました。
風がまた吹《ふ》いて来て窓《まど》ガラスはまたがたがた鳴り雑《ぞう》巾《きん》を入れたバケツにも小さな黒い波《なみ》をたてました。
九月二日
次《つぎ》の日孝《こう》一《いち》はあのおかしな子《こ》供《ども》が今日からほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がしていつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは孝《こう》一《いち》よりもっとそう考えていたとみえてとうにごはんもたべふろしきに包《つつ》んだ本ももって家の前へ出て孝一を待《ま》っていたのでした。二人は途《と》中《ちゆう》もいろいろその子のことを談《はな》しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七、八人集《あつま》っていて棒《ぼう》かくしをしていましたがその子はまだ来ていませんでした。また昨日《きのう》のように教室の中に居《い》るのかと思って中をのぞいて見ましたが教室の中はしいんとして誰《だれ》も居《い》ず黒《こく》板《ばん》の上には昨日掃《そう》除《じ》のとき雑《ぞう》巾《きん》で拭《ふ》いた痕《あと》が乾《かわ》いてぼんやり白い縞《しま》になっていました。
「昨日のやつまだ来てないな。」孝一が云いました。
「うん。」嘉《か》助《すけ》も云ってそこらを見まわしました。
孝一はそこで鉄《てつ》棒《ぼう》の下へ行ってじゃみ上り《 *》というやり方で無《む》理《り》やりに鉄棒の上にのぼり両《りよう》腕《うで》をだんだん寄《よ》せて右の腕《うで》木《ぎ》に行くとそこへ腰《こし》掛《か》けて昨日《きのう》又三郎の行った方をじっと見おろして待《ま》っていました。谷川はそっちの方へきらきら光ってながれて行きその下の山の上の方では風も吹《ふ》いているらしくときどき萱《かや》が白く波《なみ》立《だ》っていました。嘉助もやっぱりその柱《はしら》の下じっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに永《なが》く待つこともありませんでした。それは突《とつ》然《ぜん》又三郎がその下《しも》手《て》のみちから灰《はい》いろの鞄《かばん》を右手にかかえて走るようにして出て来たのです。
「来たぞ。」と孝一が思わず下に居《い》る嘉助へ叫《さけ》ぼうとしていますと早くも又三郎はどてをぐるっとまわってどんどん正門を入って来ると、
「お早う。」とはっきり云《い》いました。みんなはいっしょにそっちをふり向《む》きましたが一人も返《へん》事《じ》をしたものがありませんでした。それはみんなは先生にはいつでも「お早うございます。」というように習《なら》っていたのでしたがお互《たがい》に「お早う。」なんて云ったことがなかったのに又三郎にそう云われても孝一や嘉助はあんまりにわかでまた勢《いきおい》がいいのでとうとう臆《おく》せてしまって孝一も嘉助も口の中でお早うというかわりにもにゃもにゃっと云ってしまったのでした。ところが又三郎のほうはべつだんそれを苦《く》にする風もなく二、三歩また前へ進《すす》むとじっと立ってそのまっ黒な眼《め》でぐるっと運《うん》動《どう》場《じよう》じゅうを見まわしました。そしてしばらく誰《だれ》か遊《あそ》ぶ相《あい》手《て》がないかさがしているようでした。けれどもみんなきろきろ又三郎の方は見ていてももじもじしてやはり忙《いそが》しそうに棒《ぼう》かくしをしたり又三郎の方へ行くものがありませんでした。又三郎はちょっと工《ぐ》合《あい》が悪《わる》いようにそこにつっ立っていましたがまた運動場をもう一《いち》度《ど》見まわしました。それからぜんたいこの運動場は何《なん》間《げん》あるかというように正門から玄《げん》関《かん》まで大《おお》股《また》に歩数を数えながら歩きはじめました。孝一は急いで鉄《てつ》棒《ぼう》をはねおりて嘉助とならんで息《いき》をこらしてそれを見ていました。
そのうち又三郎は向《むこ》うの玄関の前まで行ってしまうとこっちへ向《む》いてしばらく諳《あん》算《ざん》をするように少し首をまげて立っていました。
みんなはやはりきろきろそっちを見ています。又三郎は少し困《こま》ったように両《りよう》手《て》をうしろへ組むと向う側《がわ》の土《ど》手《て》の方へ職《しよく》員《いん》室《しつ》の前を通って歩きだしました。
その時風がざあっと吹《ふ》いて来て土手の草はざわざわ波《なみ》になり運動場のまん中でさあっと塵《ちり》があがりそれが玄関の前まで行くときりきりとまわって小さなつむじ風になって黄いろな塵は瓶《びん》をさかさまにしたような形になって屋《や》根《ね》より高くのぼりました。すると嘉助が突《とつ》然《ぜん》高く云《い》いました。「そうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいつ何かするときっと風吹《ふ》いてくるぞ。」「うん。」孝《こう》一《いち》はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。又三郎はそんなことにはかまわず土手の方へやはりすたすたと歩いて行きます。
そのとき先生がいつものように呼《よぶ》子《こ》をもって玄関を出て来たのです。
「お早うございます。」小さな子どもらははせ集《あつま》りました。「お早う。」先生はちらっと運動場中を見まわしてから「ではならんで。」と云いながらプルルッと笛《ふえ》を吹きました。
みんなは集ってきて昨日《きのう》のとおりきちんとならびました。又三郎も昨日云われた所《ところ》へちゃんと立っています。先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号《ごう》令《れい》をだんだんかけてとうとうみんなは昇《しよう》降《こう》口《ぐち》から教室へ入りました。そして礼《れい》がすむと先生は「ではみなさん今日から勉《べん》強《きよう》をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道《どう》具《ぐ》をもってきましたね。では一年生と二年生の人はお習《しゆう》字《じ》のお手本と硯《すずり》と紙を出して、三年生と四年生の人は算《さん》術《じゆつ》帖《ちよう》と雑《ざつ》記《き》帖《ちよう》と鉛《えん》筆《ぴつ》を出して五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」
さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも又三郎のすぐ横《よこ》の四年生の机《つくえ》の佐《さ》太《た》郎《ろう》がいきなり手をのばして三年生のかよの鉛筆をひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは「うわあ兄《あい》な木《き》ぺん取《と》ってわかんないな《 *》。」と云《い》いながら取り返《かえ》そうとしますと佐太郎が「わあこいつおれのだなあ。」と云いながら鉛筆をふところの中へ入れてあとは支《し》那《な》人《じん》がおじぎするときのように両手を袖《そで》へ入れて机へぴったり胸《むね》をくっつけました。するとかよは立って来て、「兄な 兄なの木ぺんは一昨日《おととい》小《こ》屋《や》で無《な》くしてしまったけなあ。よこせったら。」と云いながら一生けん命《めい》とり返《かえ》そうとしましたがどうしてもう佐太郎は机にくっついた大きな蟹《かに》の化《か》石《せき》みたいになっているのでとうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣《な》きだしそうになりました。すると又三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困《こま》ったようにしてこれを見ていましたがかよがとうとうぼろぼろ涙《なみだ》をこぼしたのを見るとだまって右手に持《も》っていた半分ばかりになった鉛《えん》筆《ぴつ》を佐《さ》太《た》郎《ろう》の眼《め》の前の机に置《お》きました。すると佐太郎はにわかに元気になってむっくり起《お》き上りました。そして「呉《く》れる?」と又三郎にききました。又三郎はちょっとまごついたようでしたが覚《かく》悟《ご》したように「うん。」と云いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。
先生は向《むこ》うで一年生の子の硯《すずり》に水をついでやったりしていましたし嘉《か》助《すけ》は又三郎の前ですから知りませんでしたが幸《こう》一《いち》はこれをいちばんうしろでちゃんと見ていました。
そしてまるで何と云ったらいいかわからない変《へん》な気《き》持《も》ちがして歯《は》をきりきり云わせました。
「では三年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習《なら》ってみましょう。これを勘《かん》定《じよう》してごらんなさい。」先生は黒《こく》板《ばん》にと書きました。三年生のこどもらはみんな一生けん命にそれを雑《ざつ》記《き》帖《ちよう》にうつしました。かよも頭を雑記帖へくっつけるようにして書いています。「四年生の人はこれを置《お》いて」と書きました。四年生は佐太郎をはじめ喜《き》蔵《ぞう》も甲《こう》助《すけ》もみんなそれをうつしました。「五年生の人は読本の〔一字空白〕頁《ページ》の〔一字不明〕課《か》をひらいて声をたてないで読めるだけ読んでごらんなさい。わからない字は雑《ざつ》記《き》帖《ちよう》へ拾《ひろ》っておくのです。」五年生もみんな云われたとおりしはじめました。「幸《こう》一《いち》さんは読本の〔一字空白〕頁をしらべてやはり知らない字を書き抜《ぬ》いてください。」
それがすむと先生はまた教《きよう》壇《だん》を下りて一年生と二年生の習《しゆう》字《じ》を一人一人見てあるきました。又三郎は両手で本をちゃんと机の上へもって云われたところを息《いき》もつかずじっと読んでいました。けれども雑記帖へは字を一つも書き抜《ぬ》いていませんでした。それはほんとうに知らない字が一つもないのかたった一本の鉛《えん》筆《ぴつ》を佐太郎にやってしまったためかどっちともわかりませんでした。
そのうち先生は教壇へ戻《もど》って三年生と四年生の算《さん》術《じゆつ》の計算をして見せてまた新らしい問《もん》題《だい》を出すと今《こん》度《ど》は五年生の生《せい》徒《と》の雑記帖へ書いた知らない字を黒《こく》板《ばん》へ書いてそれをかなとわけをつけました。そして「では嘉《か》助《すけ》さんここを読んで。」と云いました。嘉助は二、三度ひっかかりながら先生に教えられて読みました。又三郎もだまって聞いていました。先生も本をとってじっと聞いていましたが十行ばかり読むと「そこまで。」と云ってこんどは先生が読みました。
そうして一まわり済《す》むと先生はだんだんみんなの道《どう》具《ぐ》をしまわせました。それから「ではここまで。」と云って教壇に立ちますと孝一がうしろで「気を付《つ》けい。」と云いました。そして礼《れい》がすむとみんな順《じゆん》に外へ出てこんどは外へならばずにみんな別《わか》れ別れになって遊《あそ》びました。
二時間目は一年生から六年生までみんな唱《しよう》歌《か》でした。そして先生がマンドリンをもって出て来てみんなはいままでに唱《うた》ったのを先生のマンドリンについて五つもうたいました。
又三郎もみんな知っていてみんなどんどん歌いました。そしてこの時間は大へん早くたってしまいました。
三時間目になるとこんどは三年生と四年生が国語で五年生と六年生が数学でした。先生はまた黒板へ問題を書いて五年生と六年生に計算させました。しばらくたって孝一が答えを書いてしまうと又三郎の方をちょっと見ました。すると又三郎はどこから出したか小さな消《け》し炭《ずみ*》で雑記帖の上へがりがりと大きく運《うん》算《ざん》していたのです。
九月四日 日曜
次《つぎ》の朝空はよく晴れて谷川はさらさら鳴りました。一郎は途《と》中《ちゆう》で嘉《か》助《すけ》と佐《さ》太《た》郎《ろう》と悦《えつ》治《じ》をさそって一《いつ》緒《しよ》に三郎のうちの方へ行きました。学校の少し下流で谷川をわたって、それから岸《きし》で楊《やなぎ》の枝《えだ》をみんなで一本ずつ折《お》って青い皮《かわ》をくるくる剥《は》いで鞭《むち》を拵《こしら》えて手でひゅうひゅう振《ふ》りながら上の野原への路《みち》をだんだんのぼって行きました。みんなは早くも登《のぼ》りながら息《いき》をはあはあしました。
「又三郎ほんとにあそごの湧《わき》水《みず》まで来て待《ま》ぢでるべが。」
「待ぢでるんだ。又三郎偽《うそ》こがなぃもな。」
「ああ暑《あつ》う、風吹《ふ》げばいいな。」
「どごがらだが風吹いでるぞ。」
「又三郎吹がせだらべも。」
「何だがお日さんぼゃっとして来たな。」空に少しばかりの白い雲が出ました。そしてもう大分のぼっていました。谷のみんなの家がずうっと下に見え、一郎のうちの木《き》小《ご》屋《や》の屋《や》根《ね》が白く光っています。
路《みち》が林の中に入り、しばらく路はじめじめして、あたりは見えなくなりました。そして間もなくみんなは約《やく》束《そく》の湧水の近くに来ました。するとそこから「おうい。みんな来たかい。」と三郎の高く叫《さけ》ぶ声がしました。
みんなはまるでせかせかと走ってのぼりました。向《むこ》うの曲《まが》り角の処《ところ》に又三郎が小さな唇《くちびる》をきっと結《むす》んだまま三人のかけ上って来るのを見ていました。三人はやっと三郎の前まで来ました。けれどもあんまり息がはあはあしてすぐには何も云《い》えませんでした。嘉助などはあんまりもどかしいもんですから、空へ向《む》いて「ホッホウ。」と叫んで早く息を吐《は》いてしまおうとしました。すると三郎は大きな声で笑《わら》いました。「ずいぶん待ったぞ。それに今日は雨が降《ふ》るかもしれないそうだよ。」
「そだら早ぐ行ぐべすさ。おらまんつ水呑《の》んでぐ《 *》。」
三人は汗《あせ》をふいてしゃがんでまっ白な岩からこぼこぼ噴《ふ》きだす冷《つめ》たい水を何べんも掬《すく》ってのみました。
「ぼくのうちはここからすぐなんだ。ちょうどあの谷の上あたりなんだ。みんなで帰りに寄《よ》ろうねえ。」
「うん。まんつ野原さ行ぐべすさ。」
みんながまたあるきはじめたとき湧《わき》水《みず》は何かを知らせるようにぐうっと鳴り、そこらの樹《き》もなんだかざあっと鳴ったようでした。
四人は林の裾《すそ》の藪《やぶ》の間を行ったり岩かけの小さく崩《くず》れる所《ところ》を何べんも通ったりしてもう上の原の入口に近くなりました。
みんなはそこまで来ると来た方からまた西の方をながめました。光ったり陰《かげ》ったり幾《いく》通《とお》りにも重《かさ》なったたくさんの丘《おか》の向《むこ》うに川に沿《そ》ったほんとうの野原がぼんやり碧《あお》くひろがっているのでした。
「ありゃ、あいづ川だぞ。」
「春日《かすが》明《みよう》神《じん》さんの帯《おび*》のようだな。」又三郎が云《い》いました。
「何のようだど。」一郎がききました。
「春日明神さんの帯のようだ。」「うな神さんの帯見だごとあるが。」「ぼく北海道で見たよ。」
みんなは何のことだかわからずだまってしまいました。
ほんとうにそこはもう上の野原の入口で、きれいに刈《か》られた草の中に一本の巨《おお》きな栗《くり》の木が立ってその幹《みき》は根《ね》もとの所《ところ》がまっ黒に焦《こ》げて巨きな洞《ほら》のようになり、その枝《えだ》には古い縄《なわ》や、切れたわらじなどがつるしてありました。
「もう少し行ぐづどみんなして草刈ってるぞ。それがら馬の居《い》るどごもあるぞ。」一郎は云いながら先に立って刈った草のなかの一ぽんみちをぐんぐん歩きました。
三郎はその次《つぎ》に立って「ここには熊《くま》居ないから馬をはなしておいてもいいなあ。」と云って歩きました。
しばらく行くとみちばたの大きな楢《なら》の木の下に、縄で編《あ》んだ袋《ふくろ》が投《な》げ出してあって、沢《たく》山《さん》の草たばがあっちにもこっちにもころがっていました。
せなかに〔約二字分空白〕をしょった二匹《ひき》の馬が、一郎を見て、鼻《はな》をぷるぷる鳴らしました。
「兄《あい》な。居《い》るが。兄な。来たぞ。」一郎は汗《あせ》を拭《ぬぐ》いながら叫《さけ》びました。
「おおい。ああい。其《そ》処《こ》に居ろ。今行ぐぞ。」
ずうっと向うの窪《くぼ》みで、一郎の兄さんの声がしました。
陽《ひ》がぱっと明るくなり、兄さんがそっちの草の中から笑《わら》って出て来ました。
「善《ゆ》ぐ来たな。みんなも連《つ》れで来たのが。善《ゆ》ぐ来た。戻《もど》りに馬こ連れでてけろな。今日ぁ午《ひる》まがらきっと曇《くも》る。俺《おら》もう少し草集《あつ》めて仕《し》舞《む》がらな、うなだ遊《あそ》ばばあの土手の中さ入ってろ。まだ牧《まき》場《ば》の馬二十疋《ぴき》ばがり居るがらな。」
兄さんは向うへ行こうとして、振《ふ》り向いてまた云いました。
「土手がら外さ出はるなよ。迷《まよ》ってしまうづど危《あぶ》なぃがらな。午まになったらまた来るがら。」
「うん。土手の中に居るがら。」
そして一郎の兄さんは、行ってしまいました。空にはうすい雲がすっかりかかり、太《たい》陽《よう》は白い鏡《かがみ》のようになって、雲と反《はん》対《たい》に馳《は》せました。風が出て来てまだ刈《か》ってない草は一面に波《なみ》を立てます。一郎はさきにたって小さなみちをまっすぐに行くとまもなくどてになりました。その土手の一とこちぎれたところに二本の丸太の棒《ぼう》を横《よこ》にわたしてありました。耕《こう》助《すけ》がそれをくぐろうとしますと、嘉《か》助《すけ》が「おらこったなもの外せだだど。」と云《い》いながら片《かた》っ方のはじをぬいて下におろしましたのでみんなはそれをはね越《こ》えて中へ入りました。向うの少し小高いところにてかてか光る茶いろの馬が七疋ばかり集《あつま》ってしっぽをゆるやかにばしゃばしゃふっているのです。
「この馬みんな千円以上するづもな。来年がらみんな競《けい》馬《ば》さも出はるのだづじゃい。」一郎はそばへ行きながら云いました。
馬はみんないままでさびしくって仕《し》様《よう》なかったというように一郎だちの方へ寄《よ》ってきました。
そして鼻《はな》づらをずうっとのばして何かほしそうにするのです。
「ははあ、塩《しお》をけろづのだな《 *》。」みんなは云いながら手を出して馬になめさせたりしましたが三郎だけは馬になれていないらしく気《き》味《み》悪《わる》そうに手をポケットへ入れてしまいました。
「わあ又三郎馬怖《おつか》ながるじゃい。」と悦《えつ》治《じ》が云いました。
すると三郎は「怖《こわ》くなんかないやい。」と云いながらすぐポケットの手を馬の鼻《はな》づらへのばしましたが馬が首をのばして舌《した》をべろりと出すとさあっと顔いろを変《か》えてすばやくまた手をポケットへ入れてしまいました。
「わあい、又三郎馬怖ながるじゃい。」悦治がまた云《い》いました。すると三郎はすっかり顔を赤くしてしばらくもじもじしていましたが、
「そんなら、みんなで競《けい》馬《ば》やるか。」と云いました。
競馬ってどうするのかとみんな思いました。
すると三郎は、「ぼく競馬何べんも見たぞ。けれどもこの馬みんな鞍《くら》がないから乗《の》れないや。みんなで一疋《ぴき》ずつ馬を追《お》ってはじめに向《むこ》うの、そら、あの巨《おお》きな樹《き》のところに着《つ》いたものを一《いつ》等《とう》にしよう。」
「そいづ面《おも》白《しろ》な。」嘉助が云いました。
「叱《しか》らえるぞ。牧《ぼく》夫《ふ》に見っ附《け》らえでがら。」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ。競馬に出る馬なんか練《れん》習《しゆう》をしていないといけないんだい。」三郎が云いました。
「よしおらこの馬だぞ。」「おらこの馬だ。」
「そんならぼくはこの馬でもいいや。」みんなは楊《やなぎ》の枝《えだ》や萱《かや》の穂《ほ》でしゅうと云いながら馬を軽《かる》く打《う》ちました。ところが馬はちっともびくともしませんでした。やはり下へ首を垂《た》れて草をかいだり首をのばしてそこらのけしきをもっとよく見るというようにしているのです。
一郎がそこで両《りよう》手《て》をぴしゃんと打ち合せて、だあと云いました。すると俄《にわ》かに七疋ともまるでたてがみをそろえてかけ出したのです。
「うまぁい。」嘉助ははね上って走りました。けれどもそれはどうも競馬にはならないのでした。第《だい》一《いち》馬はどこまでも顔をならべて走るのでしたしそれにそんなに競《きよう》争《そう》するくらい早く走るのでもなかったのです。それでもみんなは面《おも》白《しろ》がってだあだと云いながら一生けん命《めい》そのあとを追《お》いました。
馬はすこし行くと立ちどまりそうになりました。みんなもすこしはあはあしましたがこらえてまた馬を追いました。するといつか馬はぐるっとさっきの小高いところをまわってさっき四人ではいって来たどての切れた所《ところ》へ来たのです。
「あ、馬出はる、馬出はる。押《おさ》えろ、押えろ。」
一郎はまっ青になって叫《さけ》びました。じっさい馬はどての外へ出たのらしいのでした。どんどん走ってもうさっきの丸太の棒《ぼう》を越《こ》えそうになりました。一郎はまるであわてて「どうどうどうどう。」と云いながら一生けん命走って行ってやっとそこへ着《つ》いてまるでころぶようにしながら手をひろげたときはもう二疋はもう外へ出ていたのでした。
「早ぐ来て押えろ。早ぐ来て。」一郎は息《いき》も切れるように叫びながら丸太棒をもとのようにしました。三人は走って行って急《いそ》いで丸太をくぐって外へ出ますと二疋の馬はもう走るでもなくどての外に立って草を口で引っぱって抜《ぬ》くようにしています。「そろそろど押えろよ。そろそろど。」と云いながら一郎は一ぴきのくつわについた札《ふだ》のところをしっかり押えました。嘉助と三郎がもう一疋を押えようとそばへ寄《よ》りますと馬はまるで愕《おどろ》いたようにどてへ沿《そ》って一《いち》目《もく》散《さん》に南の方へ走ってしまいました。
「兄《あい》な馬ぁ逃《に》げる、馬ぁ逃げる。兄な。馬逃げる。」とうしろで一郎が一生けん命叫んでいます。三郎と嘉助は一生けん命馬を追いました。
ところが馬はもう今《こん》度《ど》こそほんとうに遁《に》げるつもりらしかったのです。まるで丈《たけ》ぐらいある草をわけて高みになったり低《ひく》くなったりどこまでも走りました。
嘉助はもう足がしびれてしまってどこをどう走っているのかわからなくなりました。それからまわりがまっ蒼《さお》になって、ぐるぐる廻《まわ》り、とうとう深《ふか》い草の中に倒《たお》れてしまいました。馬の赤いたてがみとあとを追って行く三郎の白いシャッポが終《おわ》りにちらっと見えました。
嘉助は、仰《あお》向《む》けになって空を見ました。空がまっ白に光って、ぐるぐる廻《まわ》り、そのこちらを薄《うす》い鼠《ねずみ》色《いろ》の雲が、速《はや》く速く走っています。そしてカンカン鳴っています。
嘉助はやっと起《お》き上って、せかせか息しながら馬の行った方に歩き出しました。草の中には、今馬と三郎が通った痕《あと》らしく、かすかな路《みち》のようなものがありました。嘉助は笑《わら》いました。そして、(ふん。なあに、馬何《ど》処《こ》かで、こわくなってのっこり立ってるさ。)と思いました。
そこで嘉助は、一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》それを跡《つ》けて行きました。ところがその路のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、おとこえし《 *》や、すてきに背《せ》の高い薊《あざみ》の中で、二つにも三つにも分れてしまって、どれがどれやら一《いつ》向《こう》わからなくなってしまいました。嘉助はおういと叫《さけ》びました。
おうとどこかで三郎が叫んでいるようです。思い切って、そのまん中のを進《すす》みました。けれどもそれも、時々断《き》れたり、馬の歩かないような急《きゆう》な所《ところ》を横《よこ》様《ざま》に過《す》ぎたりするのでした。
空はたいへん暗《くら》く重《おも》くなり、まわりがぼうっと霞《かす》んで来ました。冷《つめ》たい風が、草を渡《わた》りはじめ、もう雲や霧《きり》が、切れ切れになって眼《め》の前をぐんぐん通り過ぎて行きました。
(ああ、こいつは悪《わる》くなって来た。みんな悪いことはこれから集《たか》ってやって来るのだ。)と嘉助は思いました。全《まつた》くその通り、俄《にわか》に馬の通った痕《あと》は、草の中で無《な》くなってしまいました。
(ああ、悪くなった、悪くなった。)嘉《か》助《すけ》は胸《むね》をどきどきさせました。
草がからだを曲《ま》げて、パチパチ云《い》ったり、さらさら鳴ったりしました。霧《きり》が殊《こと》に滋《しげ》くなって、着《き》物《もの》はすっかりしめってしまいました。
嘉助は咽《の》喉《ど》一《いつ》杯《ぱい》叫《さけ》びました。
「一郎、一郎こっちさ来《こ》う。」
ところが何の返《へん》事《じ》も聞えません。黒《こく》板《ばん》から降《ふ》る白《はく》墨《ぼく》の粉《こな》のような、暗《くら》い冷《つめ》たい霧の粒《つぶ》が、そこら一《いち》面《めん》踊《おど》りまわり、あたりが俄《にわか》にシインとして、陰《いん》気《き》に陰気になりました。草からは、もう雫《しずく》の音がポタリポタリと聞えて来ます。
嘉助はもう早く、一郎たちの所《ところ》へ戻《もど》ろうとして急《いそ》いで引っ返《かえ》しました。けれどもどうも、それは前に来た所とは違《ちが》っていたようでした。第《だい》一《いち》、薊《あざみ》があんまり沢《たく》山《さん》ありましたし、それに草の底《そこ》にさっき無《な》かった岩かけが、度《たび》々《たび》ころがっていました。そしてとうとう聞いたこともない大きな谷が、いきなり眼《め》の前に現《あら》われました。すすきが、ざわざわざわっと鳴り、向《むこ》うの方は底知れずの谷のように、霧の中に消《き》えているではありませんか。
風が来ると、芒《すすき》の穂《ほ》は細い沢《たく》山《さん》の手を一ぱいのばして、忙《せわ》しく振《ふ》って、
「あ、西さん、あ、東さん。あ西さん。あ南さん。あ、西さん。」なんて云《い》っているようでした。
嘉助はあんまり見っともなかったので、目を瞑《つぶ》って横《よこ》を向《む》きました。そして急いで引っ返しました。小さな黒い道が、いきなり草の中に出て来ました。それは沢山の馬の蹄《ひづめ》の痕《あと》で出来上っていたのです。嘉助は、夢《む》中《ちゆう》で、短《みじか》い笑《わら》い声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。
けれども、たよりのないことは、みちのはばが五寸《すん》ぐらいになったり、また三尺《じやく》ぐらいに変《かわ》ったり、おまけに何だかぐるっと廻《まわ》っているように思われました。そして、とうとう、大きなてっぺんの焼《や》けた栗《くり》の木の前まで来た時、ぼんやり幾《いく》つにも岐《わか》れてしまいました。
其《そ》処《こ》は多分は、野馬の集《あつ》まり場《ば》所《しよ》であったでしょう、霧の中に円《まる》い広場のように見えたのです。
嘉助はがっかりして、黒い道をまた戻りはじめました。知らない草《くさ》穂《ぼ》が静《しず》かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合《あい》図《ず》をしてでもいるように、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏《ふ》せて避《さ》けました。
空が光ってキインキインと鳴っています。それからすぐ眼《め》の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらわれました。嘉助はしばらく自分の眼《め》を疑《うたが》って立ちどまっていましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近《ちか》寄《よ》って見ますと、それは冷《つめ》たい大きな黒い岩でした。
空がくるくるくるっと白く揺《ゆ》らぎ、草がバラッと一《いち》度《ど》に雫《しずく》を払《はら》いました。
「間《ま》違《ちが》って原を向《むこ》う側《がわ》へ下りれば、又三郎もおれももう死《し》ぬばかりだ。」と嘉助は、半分思うように半分つぶやくようにしました。それから叫《さけ》びました。
「一郎、一郎、居《い》るが。一郎。」
また明るくなりました。草がみな一《いつ》斉《せい》に悦《よろこ》びの息《いき》をします。
「伊《い》佐《さ》戸《ど*》の町の、電気工《こう》夫《ふ》の童《わらす》ぁ、山男《 *》に手足ぃ縄《しば》らえてたふうだ。」といつか誰《だれ》かの話した語《ことば》が、はっきり耳に聞えて来ます。
そして、黒い路《みち》が、俄《にわか》に消《き》えてしまいました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非《ひ》常《じよう》に強い風が吹《ふ》いて来ました。
空が旗《はた》のようにぱたぱた光って翻《ひるが》えり、火花がパチパチパチッと燃《も》えました。嘉助はとうとう草の中に倒《たお》れてねむってしまいました。
そんなことはみんなどこかの遠いできごとのようでした。
もう又三郎がすぐ眼の前に足を投《な》げだしてだまって空を見あげているのです。いつかいつもの鼠《ねずみ》いろの上《うわ》着《ぎ》の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴《くつ》をはいているのです。
又三郎の肩《かた》には栗《くり》の木の影《かげ》が青く落《お》ちています。又三郎の影はまた青く草に落ちています。そして風がどんどんどんどん吹《ふ》いているのです。又三郎は笑《わら》いもしなければ物《もの》を云《い》いません。ただ小さな唇《くちびる》を強そうにきっと結《むす》んだまま黙《だま》ってそらを見ています。いきなり又三郎はひらっとそらへ飛《と》びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。ふと嘉助は眼をひらきました。灰《はい》いろの霧が速《はや》く速く飛んでいます。
そして馬がすぐ眼の前にのっそりと立っていたのです。その眼は嘉《か》助《すけ》を怖《おそ》れて横《よこ》の方を向《む》いていました。
嘉助ははね上って馬の名《な》札《ふだ》を押《おさ》えました。そのうしろから三郎がまるで色のなくなった唇をきっと結んでこっちへ出てきました。嘉助はぶるぶるふるえました。「おうい。」霧の中から一郎の兄さんの声がしました。雷《かみなり》もごろごろ鳴っています。
「おおい。嘉助。居《い》るが。嘉助。」一郎の声もしました。嘉助はよろこんでとびあがりました。
「おおい。居る、居る。一郎。おおい。」
一郎の兄さんと一郎が、とつぜん、眼の前に立ちました。嘉助は俄《にわ》かに泣《な》き出しました。
「探《さが》したぞ。危《あぶ》ながったぞ。すっかりぬれだな。どう。」一郎の兄さんはなれた手《て》付《つ》きで馬の首を抱《だ》いてもってきたくつわをすばやく馬のくちにはめました。「さあ、あべさ《 *》。」「又三郎びっくりしたべぁ。」一郎が三郎に云《い》いました。三郎がだまってやっぱりきっと口を結んでうなずきました。
みんなは一郎の兄さんについて緩《ゆる》い傾《けい》斜《しや》を、二つほど昇《のぼ》り降《お》りしました。それから、黒い大きな路《みち》について、暫《しば》らく歩きました。
稲《いな》光《びかり》が二度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を焼《や》く匂《におい》がして、霧《きり》の中を煙《けむり》がほっと流《なが》れています。
一郎の兄さんが叫《さけ》びました。
「おじいさん。居《い》だ、居だ。みんな居だ。」
おじいさんは霧の中に立っていて、
「ああ心《しん》配《ぱい》した、心配した。ああ好《え》がった。おお嘉助。寒《さむ》がべぁ、さあ入れ。」と云いました。嘉助は一郎と同じようにやはりこのおじいさんの孫《まご》なようでした。
半分に焼けた大きな栗《くり》の木の根《ね》もとに、草で作った小さな囲《かこ》いがあって、チョロチョロ赤い火が燃えていました。
一郎の兄さんは馬を楢《なら》の木につなぎました。
馬もひひんと鳴いています。
「おおむぞやな《 *》。な。何ぼが泣《な》いだがな。そのわろは金山掘《ほ》りのわろだな。さあさあみんな、団《だん》子《ご》たべろ。食べろ。な。今こっちを焼《や》ぐがらな。全《ぜん》体《たい》何《ど》処《こ》まで行ってだった。」
「笹《ささ》長《なが》根《ね》の下り口だ。」と一郎の兄さんが答えました。
「危《あぶな》ぃがった。危ぃがった。向《むこ》うさ降《お》りだら馬も人もそれっ切りだったぞ。さあ嘉助。団子喰《た》べろ。このわろもたべろ。さあさあ、こいづも食べろ。」
「おじいさん。馬置《お》いでくるが。」と一郎の兄さんが云いました。
「うんうん。牧《ぼく》夫《ふ》来るどまだやがましがらな。したどもも少し待《ま》で。またすぐ晴れる。ああ心《しん》配《ぱい》した。俺《おれ》も虎《とら》こ山の下まで行って見で来た。はあ、まんつ好《え》がった。雨も晴れる。」
「今《け》朝《さ》ほんとに天気好がったのにな。」
「うん。また好ぐなるさ。あ、雨《あめ》漏《も》って来たな。」
一郎の兄さんが出て行きました。天《てん》井《じよう》がガサガサガサガサ云います。おじいさんが、笑《わら》いながらそれを見上げました。
兄さんがまたはいって来ました。
「おじいさん。明るぐなった。雨ぁ霽《は》れだ。」
「うんうん。そうが。さあみんなよっく火にあだれ、おらまた草刈《か》るがらな。」
霧《きり》がふっと切れました。陽《ひ》の光がさっと流《なが》れて入りました。その太陽は、少し西の方に寄《よ》ってかかり、幾《いく》片《へん》かの蝋《ろう》のような霧が、逃《に》げおくれて仕《し》方《かた》なしに光りました。
草からは雫《しずく》がきらきら落《お》ち、総《すべ》ての葉《は》も茎《くき》も花も、今年の終《おわ》りの陽《ひ》の光を吸《す》っています。
はるかな西の碧《あお》い野原は、今泣《な》きやんだようにまぶしく笑《わら》い、向《むこ》うの栗《くり》の木は、青い後《ご》光《こう》を放《はな》ちました。みんなはもう疲《つか》れて一郎をさきに野原をおりました。湧《わき》水《みず》のところで三郎はやっぱりだまってきっと口を結《むす》んだままみんなに別《わか》れてじぶんだけお父さんの小《こ》屋《や》の方へ帰って行きました。
帰りながら嘉助が云《い》いました。
「あいづやっぱり風の神だぞ。風の神の子っ子だぞ。あそごさ二人して巣《す》食《く》ってるんだぞ。」
「そだなぃよ。」一郎が高く云いました。
九月六日
次《つぎ》の日は朝のうちは雨でしたが、二時間目からだんだん明るくなって三時間目の終《おわ》りの十分休みにはとうとうすっかりやみ、あちこちに削《けず》ったような青ぞらもできて、その下をまっ白な鱗《うろ》雲《こぐも》がどんどん東へ走り、山の萱《かや》からも栗《くり》の木からも残《のこ》りの雲が湯《ゆ》気《げ》のように立ちました。
「下《さが》ったら葡《ぶ》萄《どう》蔓《づる》とりに行がなぃが。」耕《こう》助《すけ》が嘉《か》助《すけ》にそっと云《い》いました。
「行ぐ行ぐ。又三郎も行がなぃが。」嘉助がさそいました。耕助は、
「わあい、あそご又三郎さ教えるやなぃじゃ。」と云いましたが三郎は知らないで、
「行くよ。ぼくは北海道でもとったぞ。ぼくのお母さんは樽《たる》へ二っつ漬《つ》けたよ。」と云いました。
「葡萄とりにおらも連《つれ》でがなぃが。」二年生の承《しよう》吉《きち》も云いました。
「わがなぃじゃ。うなどさ教えるやなぃじゃ《 *》。おら去《きよ》年《ねん》な新らしいどご目《め》附《つけ》だじゃ。」
みんなは学校の済《す》むのが待ち遠しかったのでした。五時間目が終《おわ》ると、一郎と嘉助が佐《さ》太《た》郎《ろう》と耕助と悦《えつ》治《じ》と又三郎と六人で学校から上《か》流《み》の方へ登《のぼ》って行きました。少し行くと一けんの藁《わら》やねの家があって、その前に小さなたばこ畑《ばたけ》がありました。たばこの木はもう下の方の葉《は》をつんであるので、その青い茎《くき》が林のようにきれいにならんでいかにも面《おも》白《しろ》そうでした。
すると又三郎はいきなり、
「何だい、此《こ》の葉は。」と云《い》いながら葉を一枚《まい》むしって一郎に見せました。すると一郎はびっくりして、
「わあ、又三郎、たばごの葉とるづど専《せん》売《ばい》局《きよく*》にうんと叱《しか》られるぞ。わあ、又三郎何《な》してとった。」と少し顔いろを悪《わる》くして云いました。みんなも口々に云いました。
「わあい。専売局でぁ、この葉一枚ずつ数えて帖《ちよう》面《めん》さつけでるだ。おら知らなぃぞ。」
「おらも知らなぃぞ。」
「おらも知らなぃぞ。」みんな口をそろえてはやしました。
すると三郎は顔をまっ赤にして、しばらくそれを振《ふ》り廻《ま》わして何か云おうと考えていましたが、
「おら知らないでとったんだい。」と怒《おこ》ったように云いました。
みんなは怖《こわ》そうに、誰《だれ》か見ていないかというように向《むこ》うの家を見ました。たばこばたけからもうもうとあがる湯《ゆ》気《げ》の向うで、その家はしいんとして誰も居《い》たようではありませんでした。
「あの家一年生の小《こ》助《すけ》の家だじゃい。」嘉《か》助《すけ》が少しなだめるように云いました。ところが耕《こう》助《すけ》ははじめからじぶんの見《み》附《つ》けた葡《ぶ》萄《どう》藪《やぶ》へ、三郎だのみんなあんまり来て面白くなかったもんですから、意《い》地《じ》悪《わる》くもいちど三郎に云いました。
「わあ、又三郎なんぼ知らなぃたってわがなぃんだじゃ。わあい、又三郎もどの通りにしてまゆんだであ《 *》。」
又三郎は困《こま》ったようにしてまたしばらくだまっていましたが、
「そんなら、おいら此《こ》処《こ》へ置《お》いてくからいいや。」と云いながらさっきの木の根《ね》もとへそっとその葉を置きました。すると一郎は、
「早くあべ。」と云って先にたってあるきだしましたのでみんなもついて行きましたが、耕助だけはまだ残《のこ》って、
「ほう、おら知らなぃぞ。ありゃ、又三郎の置いた葉、あすごにあるじゃい。」なんて云っているのでしたがみんながどんどん歩きだしたので耕助もやっとついて来ました。
みんなは萱《かや》の間の小さなみちを山の方へ少しのぼりますと、その南《みなみ》側《がわ》に向《む》いた窪《くぼ》みに栗《くり》の木があちこち立って、下には葡《ぶ》萄《どう》がもくもくした大きな藪《やぶ》になっていました。
「こごおれ見っ附《つけ》だのだがらみんなあんまりとるやなぃぞ。」耕助が云《い》いました。
すると三郎は、
「おいら栗《くり》の方をとるんだい。」といって石を拾《ひろ》って一つの枝《えだ》へ投《な》げました。青いいがが一つ落《お》ちました。
又三郎はそれを棒きれで剥《む》いて、まだ白い栗を二つとりました。みんなは葡《ぶ》萄《どう》の方へ一生けん命でした。
そのうち耕助がも一つの藪《やぶ》へ行こうと一本の栗の木の下を通りますと、いきなり上から雫《しずく》が一ぺんにざっと落ちてきましたので、耕助は肩《かた》からせなかから水へ入ったようになりました。耕助は愕《おどろ》いて口をあいて上を見ましたら、いつか木の上に又三郎がのぼっていて、なんだか少しわらいながらじぶんも袖《そで》ぐちで顔をふいていたのです。
「わあい、又三郎何する。」耕助はうらめしそうに木を見あげました。
「風が吹《ふ》いたんだい。」三郎は上でくつくつわらいながら云いました。
耕助は樹《き》の下をはなれてまた別《べつ》の藪で葡萄をとりはじめました。もう耕助はじぶんでも持《も》てないくらいあちこちへためていて、口も紫《むらさき》いろになってまるで大きく見えました。
「さあ、このくらい持って戻《もど》らなぃが。」一郎が云いました。
「おら、もっと取ってぐじゃ。」耕助が云いました。
そのとき耕助はまた頭からつめたい雫《しずく》をざあっとかぶりました。耕助はまたびっくりしたように木を見上げましたが今《こん》度《ど》は三郎は樹の上には居《い》ませんでした。
けれども樹の向《むこ》う側《がわ》に三郎の鼠《ねずみ》いろのひじも見えていましたし、くつくつ笑《わら》う声もしましたから、耕助はもうすっかり怒《おこ》ってしまいました。
「わあい又三郎、まだひとさ水掛《か》げだな。」
「風が吹《ふ》いたんだい。」
みんなはどっと笑いました。
「わあい又三郎、うなそごで木ゆすったけぁなあ。」
みんなはどっとまた笑いました。
すると耕助はうらめしそうにしばらくだまって三郎の顔を見ながら、
「うあい又三郎汝《うな》などあ世《せ》界《かい》になくてもいなあぃ。」すると又三郎はずるそうに笑いました。「やあ耕助君《くん》失《しつ》敬《けい》したねえ。」耕助は何かもっと別のことを云おうと思いましたがあんまり怒ってしまって考え出すことが出来ませんでしたのでまた同じように叫《さけ》びました。「うあい、うあいだが、又三郎、うなみだぃな風など世界中になくてもいいなあ、うわあい。」「失敬したよ。だってあんまりきみもぼくへ意《い》地《じ》悪《わる》をするもんだから。」又三郎は少し眼《め》をパチパチさせて気の毒《どく》そうに云いました。けれども耕《こう》助《すけ》のいかりは仲《なか》々《なか》解《と》けませんでした。そして三度《ど》同じことをくりかえしたのです。「うわい、又三郎風などあ世界中に無《な》くてもいな、うわい。」すると又三郎は少し面《おも》白《しろ》くなったようでまたくつくつ笑いだしてたずねました。「風が世界中に無くってもいいってどう云《い》うんだい。いいと箇《か》条《じよう》をたてていってごらん、そら。」又三郎は先生みたいな顔つきをして指《ゆび》を一本だしました。耕助は試《し》験《けん》のようだしつまらないことになったと思って大へん口《く》惜《や》しかったのですが仕《し》方《かた》なくしばらく考えてから云いました。「汝《うな》など悪《いた》戯《ずら》ばりさな、傘《かさ》ぶっ壊《か》したり。」「それからそれから。」又三郎は面白そうに一足進《すす》んで云いました。「それがら樹《き》折《お》ったり転《おつ》覆《けあ》したりさな。」「それから、それからどうだい。」「家もぶっ壊《か》さな。」「それからそれから、あとはどうだい。」「あかし《 *》も消《け》さな。」
「それから、あとは? それからあとは? どうだい。」「シャップもとばさな。」
「それから? それからあとは? あとはどうだい。」「笠《かさ》もとばさな。」「それからそれから。」「それがらうう電《でん》信《しん》ばしらも倒《たお》さな。」「それから? それから? それから?」
「それがら屋《や》根《ね》もとばさな。」「アアハハハ屋根は家のうちだい。どうだいまだあるかい。それから、それから?」「それだがら、うう、それだがらランプも消さな。」
「アハハハハハ、ランプはあかしのうちだい。けれどそれだけかい。え、おい。それから? それからそれから。」
耕助はつまってしまいました。大《たい》抵《てい》もう云《い》ってしまったのですからいくら考えてももう出ませんのでした。又三郎はいよいよ面《おも》白《しろ》そうに指《ゆび》を一本立てながら「それから? それから? ええ? それから。」と云うのでした。
耕助は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました、「風車もぶっ壊《か》さな。」すると又三郎はこんどこそはまるで飛《と》び上って笑《わら》ってしまいました。みんなも笑いました。笑って笑って笑いました。
又三郎はやっと笑うのをやめて云いました。
「そらごらんとうとう風車などを云っちゃったろう。風車なら風を悪《わる》く思っちゃいないんだよ、勿《もち》論《ろん》時々こわすこともあるけれども廻《まわ》してやる時のほうがずっと多いんだ。風車ならちっとも風を悪く思っていないんだ。それに第《だい》一《いち》お前のさっきからの数えようはあんまりおかしいや。うう、うう、でばかりいたんだろう。おしまいにとうとう風車なんか数えちゃった、ああおかしい。」又三郎はまた泪《なみだ》の出るほど笑いました。耕助もさっきからあんまり困《こま》ったために怒《おこ》っていたのもだんだん忘《わす》れて来ました、そしてつい又三郎と一しょに笑い出してしまったのです。すると又三郎もすっかりきげんを直して、「耕助君《くん》、いたずらをして済《す》まなかったよ。」と云《い》いました。
「さあそれでぁ行ぐべな。」と一郎は云いながら又三郎にぶどうを五ふさばかりくれました。又三郎は白い栗《くり》をみんなに二つずつ分けました。そしてみんなは下のみちまでいっしょに下りてあとはめいめいのうちへ帰ったのです。
九月七日
次《つぎ》の朝は霧《きり》がじめじめ降《ふ》って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。ところが今日も二時間目ころからだんだん晴れて間もなく空はまっ青になり日はかんかん照《て》ってお午《ひる》になって三年生から下が下ってしまうとまるで夏のように暑《あつ》くなってしまいました。
ひるすぎは先生もたびたび教《きよう》壇《だん》で汗《あせ》を拭《ふ》き四年生の習《しゆう》字《じ》も五年生六年生の図画もまるでむし暑くて書きながらうとうとするのでした。
授《じゆ》業《ぎよう》が済むとみんなはすぐ川下の方へそろって出《で》掛《か》けました。嘉《か》助《すけ》が「又三郎水《みず》泳《あ》びに行がなぃが。小さいやづど今ころみんな行ってるぞ。」と云いましたので又三郎もついて行きました。
そこはこの前上の野原へ行ったところよりもも少し下《か》流《りゆう》で右の方からも一つの谷川がはいって来て少し広い河《か》原《わら》になりそのすぐ下流は巨《おお》きなさいかち《 *》の樹《き》の生えた崖《がけ》になっているのでした。「おおい。」とさきに来ているこどもらがはだかで両《りよう》手《て》をあげて叫《さけ》びました。一郎やみんなは、河原のねむの木の間をまるで徒《と》競《きよう》争《そう》のように走っていきなりきものをぬぐとすぐどぶんどぶんと水に飛《と》び込《こ》んで両足をかわるがわる曲げてだぁんだぁんと水をたたくようにしながら斜《なな》めにならんで向《むこ》う岸《ぎし》へ泳《およ》ぎはじめました。
前に居《い》たこどもらもあとから追《お》い付《つ》いて泳ぎはじめました。
又三郎もきものをぬいでみんなのあとから泳ぎはじめましたが、途《と》中《ちゆう》で声をあげてわらいました。
すると向う岸についた一郎が髪《かみ》をあざらしのようにして唇《くちびる》を紫《むらさき》にしてわくわくふるえながら、「わあ又三郎、何《な》してわらった。」と云いました。又三郎はやはりふるえながら水からあがって「この川冷《つめ》たいなあ。」と云いました。
「又三郎何してわらった?」一郎はまたききました。
「おまえたちの泳ぎ方はおかしいや。なぜ足をだぶだぶ鳴らすんだい。」と云いながらまた笑《わら》いました。
「うわあい。」と一郎は云《い》いましたが何だかきまりが悪《わる》くなったように、
「石《いし》取《と》りさなぃが。」と云いながら白い円《まる》い石をひろいました。
「するする。」こどもらがみんな叫《さけ》びました。
おれそれでぁあの木の上がら落《おと》すがらな。と一郎は云いながら崖《がけ》の中ごろから出ているさいかちの木へするする昇《のぼ》って行きました。そして「さあ落すぞ、一二三。」と云いながら、その白い石をどぶーんと淵《ふち》へ落しました。みんなはわれ勝《がち》に岸からまっさかさまに水にとび込んで青白いらっこ《 *》のような形をして底《そこ》へ潜《もぐ》ってその石をとろうとしました。けれどもみんな底まで行かないに息《いき》がつまって浮《うか》びだして来て、かわるがわるふうとそらへ霧《きり》をふきました。
又三郎はじっとみんなのするのを見ていましたが、みんなが浮んできてからじぶんもどぶんとはいって行きました。けれどもやっぱり底まで届《とど》かずに浮いてきたのでみんなはどっと笑いました。そのとき向うの河《か》原《わら》のねむの木のところを大人《おとな》が四人、肌《はだ》ぬぎになったり網《あみ》をもったりしてこっちへ来るのでした。
すると一郎は木の上でまるで声をひくくしてみんなに叫びました。
「おお、発《はつ》破《ぱ*》だぞ。知らないふりしてろ。石とりやめで早ぐみんな下《し》流《も》ささがれ。」そこでみんなは、なるべくそっちを見ないふりをしながらいっしょに下《し》流《も》の方へ泳ぎました。一郎は、木の上で手を額《ひたい》にあてて、もう一《いち》度《ど》よく見きわめてから、どぶんと逆《さかさ》まに淵《ふち》へ飛《と》びこみました。それから水を潜《くぐ》って、一ぺんにみんなへ追《お》いついたのです。
みんなは、淵の下《し》流《も》の、瀬《せ》になったところに立ちました。「知らないふりして遊《あそ》んでろ。みんな。」一郎が云いました。みんなは、砥《と》石《いし》をひろったり、せきれい《 *》を追ったりして、発《はつ》破《ぱ》のことなぞ、すこしも気がつかないふりをしていました。
すると向《むこ》うの淵の岸では、下流の坑《こう》夫《ふ》をしていた庄《しよう》助《すけ》が、しばらくあちこち見まわしてから、いきなりあぐらをかいて、砂《じや》利《り》の上へ座《すわ》ってしまいました。それからゆっくり、腰《こし》からたばこ入れをとって、きせるをくわいて、ぱくぱく煙《けむり》をふきだしました。奇《き》体《たい》だと思っていましたら、また腹《はら》かけから、何か出しました。「発破だぞ、発破だぞ。」とみんな叫《さけ》びました。一郎は、手をふってそれをとめました。庄助は、きせるの火を、しずかにそれへうつしました。うしろに居《い》た一人は、すぐ水に入って、網《あみ》をかまえました。庄助は、まるで落《お》ちついて、立って一あし水にはいると、すぐその持《も》ったものを、さいかちの木の下のところへ投《な》げこみました。するとまもなく、ぼぉというようなひどい音がして、水はむくっと盛《も》りあがり、それからしばらく、そこらあたりがきぃんと鳴りました。向うの大人《おとな》たちは、みんな水へ入りました。
「さあ、流《なが》れて来るぞ。みんなとれ。」と一郎が云《い》いました。まもなく、耕《こう》助《すけ》は小《こ》指《ゆび》ぐらいの茶いろなかじか《 *》が、横《よこ》向《む》きになって流れて来たのをつかみましたしそのうしろでは嘉《か》助《すけ》が、まるで瓜《うり》をすするときのような声を出しました。それは六寸《すん》ぐらいある鮒《ふな》をとって、顔をまっ赤にしてよろこんでいたのです。それからみんなとってわあわあよろこびました。「だまってろ、だまってろ。」一郎が云いました。
そのとき、向うの白い河《か》原《わら》を、肌《はだ》ぬぎになったり、シャツだけ着《き》たりした大人が、五、六人かけて来ました。そのうしろからは、ちょうど活《かつ》動《どう》写《しや》真《しん》のように、一人の網シャツを着た人が、はだか馬に乗《の》って、まっしぐらに走って来ました。みんな発破の音を聞いて、見に来たのです。
庄助は、しばらく腕《うで》を組んでみんなのとるのを見ていましたが、「さっぱり居《い》なぃな。」と云いました。すると又三郎がいつの間にか庄助のそばへ行っていました。
そして中ぐらいの鮒《ふな》を二疋《ひき》「魚返《かえ》すよ。」といって河《か》原《わら》へ投《な》げるように置《お》きました。すると庄助が、
「何だこの童《わらす》ぁ、きたいなやづだな。」と云いながらじろじろ又三郎を見ました。
又三郎はだまってこっちへ帰ってきました。庄助は変《へん》な顔をしてみています。みんなはどっとわらいました。
庄助はだまって、また上《か》流《み》へ歩きだしました。ほかのおとなたちもついて行き網《あみ》シャツの人は、馬に乗《の》って、またかけて行きました。耕助が泳《およ》いで行って三郎の置いて来た魚を持ってきました。みんなはそこでまたわらいました。
「発《はつ》破《ぱ》かけだら、雑《ざ》魚《こ》撒《ま》かせ。」嘉助が、河原の砂《すな》っぱの上で、ぴょんぴょんはねながら、高く叫《さけ》びました。
みんなは、とった魚を、石で囲《かこ》んで、小さな生《いけ》洲《す》をこしらえて、生き返っても、もう遁《に》げて行かないようにして、また上《か》流《み》のさいかちの樹《き》へのぼりはじめました。ほんとうに暑《あつ》くなって、ねむの木もまるで夏のようにぐったり見えましたし、空もまるで、底《そこ》なしの淵《ふち》のようになりました。
そのころ誰《だれ》かが、
「あ、生洲、打《ぶつ》壊《こわ》すとこだぞ。」と叫《さけ》びました。見ると、一人の変《へん》に鼻《はな》の尖《とが》った、洋《よう》服《ふく》を着《き》てわらじをはいた人が、手にはステッキみたいなものをもって、みんなの魚を、ぐちゃぐちゃ掻《か》きまわしているのでした。
「あ、あいづ専《せん》売《ばい》局《きよく》だぞ。専売局だぞ。」佐《さ》太《た》郎《ろう》が云いました。
「又三郎、うなのとった煙草《たばこ》の葉《は》めっけだんだぞ。うな、連れでぐさ来たぞ。」嘉助が云《い》いました。
「何だい。こわくないや。」又三郎はきっと口をかんで云いました。
「みんな又三郎のごと囲んでろ囲んでろ。」と一郎が云いました。
そこでみんなは又三郎をさいかちの樹《き》のいちばん中の枝《えだ》に置《お》いてまわりの枝にすっかり腰《こし》かけました。
その男はこっちへびちゃびちゃ岸《きし》をあるいて来ました。
「来た来た来た来た来たっ。」とみんなは息《いき》をころしました。ところがその男は、別《べつ》に又三郎をつかまえる風でもなくみんなの前を通りこしてそれから淵《ふち》のすぐ上《か》流《み》の浅《あさ》瀬《せ》をわたろうとしました。それもすぐに河《かわ》をわたるでもなく、いかにもわらじや脚《きや》絆《はん》の汚《きた》なくなったのを、そのまま洗《あら》うというふうに、もう何べんも行ったり来たりするもんですから、みんなはだんだん怖《こわ》くなくなりましたがその代《かわ》り気《き》持《も》ちが悪《わる》くなってきました。そこで、とうとう、一郎が云いました。
「お、おれ先に叫《さけ》ぶから、みんなあとから、一二三で叫ぶこだ。いいか。
あんまり川を濁《にご》すなよ、
いつでも先《せん》生《せ》云うでなぃか。一、二ぃ、三。」
「あんまり川を濁すなよ、
いつでも先《せん》生《せ》云うでなぃか。」その人は、びっくりしてこっちを見ましたけれども、何を云ったのか、よくわからないというようすでした。そこでみんなはまた云いました。
「あんまり川を濁すなよ、
いつでも先《せん》生《せ》、云うでなぃか。」鼻《はな》の尖《とが》った人は、すぱすぱと、煙草《たばこ》を吸《す》うときのような口つきで云いました。
「この水呑《の》むのか、ここらでは。」
「あんまり川をにごすなよ、
いつでも先《せん》生《せ》云うでなぃか。」鼻の尖った人は、少し困《こま》ったようにして、また云いました。
「川をあるいてわるいのか。」
「あんまり川をにごすなよ、
いつでも先《せん》生《せ》云うでなぃか。」その人は、あわてたのをごまかすように、わざとゆっくり、川をわたって、それから、アルプスの探《たん》険《けん》みたいな姿《し》勢《せい》をとりながら、青い粘《ねん》土《ど》と赤《あか》砂《じや》利《り》の崖《がけ》をななめにのぼって、崖の上のたばこ畠《ばたけ》へはいってしまいました。すると又三郎は「何だいぼくを連《つ》れにきたんじゃないや。」と云いながらまっ先にどぶんと淵《ふち》へとび込《こ》みました。
みんなも何だかその男も又三郎も気の毒《どく》なような、おかしながらんとした気《き》持《も》ちになりながら、一人ずつ木からはね下りて、河《か》原《わら》に泳《およ》ぎついて、魚を手《て》拭《ぬぐい》につつんだり、手にもったりして、家《うち》に帰りました。
九月八日
次《つぎ》の朝授《じゆ》業《ぎよう》の前みんなが運《うん》動《どう》場《じよう》で鉄《てつ》棒《ぼう》にぶら下ったり棒かくしをしたりしていますと少し遅《おく》れて佐《さ》太《た》郎《ろう》が何かを入れた笊《ざる》をそっと抱《かか》えてやって来ました。「何だ。何だ。何だ。」とすぐみんな走って行ってのぞき込《こ》みました。すると佐太郎は袖《そで》でそれをかくすようにして急《いそ》いで学校の裏《うら》の岩《いわ》穴《あな》のところへ行きました。みんなはいよいよあとを追《お》って行きました。一郎がそれをのぞくと思わず顔いろを変《か》えました。それは魚の毒《どく》もみ《 *》につかう山《さん》椒《しよう》の粉《こな》で、それを使《つか》うと発《はつ》破《ぱ》と同じように巡《じゆ》査《んさ》に押《おさ》えられるのでした。ところが佐太郎はそれを岩穴の横《よこ》の萱《すげ》の中へかくして、知らない顔をして運動場へ帰りました。そこでみんなはひそひそ時間になるまでひそひそその話ばかりしていました。
その日も十時ごろからやっぱり昨日《きのう》のように暑《あつ》くなりました。みんなはもう授業の済《す》むのばかり待《ま》っていました。二時になって五時間目が終《おわ》ると、もうみんな一《いち》目《もく》散《さん》に飛《と》びだしました。佐太郎もまた笊《ざる》をそっと袖《そで》でかくして耕《こう》助《すけ》だのみんなに囲《かこ》まれて河《か》原《わら》へ行きました。又三郎は嘉《か》助《すけ》と行きました。みんなは町の祭《まつり》のときの瓦《ガ》斯《ス》のような匂《におい》のむっとする、ねむの河原を急いで抜《ぬ》けて、いつものさいかち淵《ぶち》に着《つ》きました。すっかり夏のような立《りつ》派《ぱ》な雲の峰《みね》が、東でむくむく盛《も》りあがり、さいかちの木は青く光って見えました。みんな急《いそ》いで着《き》物《もの》をぬいで、淵《ふち》の岸《きし》に立つと、佐太郎が一郎の顔を見ながら云《い》いました。
「ちゃんと一《いち》列《れつ》にならべ。いいか。魚浮《う》いて来たら、泳《およ》いで行ってとれ。とったくらい与《や》るぞ。いいか。」小さなこどもらは、よろこんで顔を赤くして、押《お》しあったりしながら、ぞろっと淵を囲《かこ》みました。ペ吉《きち》だの三、四人は、もう泳いで、さいかちの木の下まで行って待《ま》っていました。
佐太郎、大《おお》威《い》張《ば》りで、上《か》流《み》の瀬《せ》に行って笊をじゃぶじゃぶ水で洗《あら》いました。みんなしぃんとして、水をみつめて立っていました。又三郎は水を見ないで、向《むこ》うの雲の峰の上を通る黒い鳥を見ていました。一郎も河原に座《すわ》って石をこちこち叩《たた》いていました。ところがそれからよほどたっても、魚は浮いて来ませんでした。
佐太郎は大へんまじめな顔で、きちんと立って水を見ていました。昨日《きのう》発《はつ》破《ぱ》をかけたときなら、もう十疋《ぴき》もとっていたんだと、みんなは思いました。またずいぶんしばらくみんなしぃんとして待ちました。けれどもやっぱり、魚は一ぴきも浮いて来ませんでした。
「さっぱり魚、浮《うか》ばなぃな。」耕《こう》助《すけ》が叫《さけ》びました。佐太郎はびくっとしましたけれども、まだ一しんに水を見ていました。
「魚さっぱり浮ばなぃな。」ペ吉《きち》が、また向《むこ》うの木の下で云《い》いました。するともうみんなは、がやがや云い出して、みんな水に飛《と》び込《こ》んでしまいました。
佐太郎は、しばらくきまり悪《わる》そうに、しゃがんで水を見ていましたけれど、とうとう立って、
「鬼《おに》っこしないか。」と云った。「する、する。」みんなは叫んで、じゃんけんをするために、水の中から手を出しました。泳いでいたものは、急いでせいの立つところまで行って手を出しました。一郎も河《か》原《わら》から来て手を出しました。そして一郎は、はじめに、昨日あの変《へん》な鼻《はな》の尖《とが》った人の上って行った崖《がけ》の下の、青いぬるぬるした粘《ねん》土《ど》のところを根《ヽ》っ《ヽ》こ《ヽ》にきめました。そこに取《と》りついていれば、鬼《おに》は押《おさ》えることができないというのでした。それから、は《ヽ》さ《ヽ》み《ヽ》無《ヽ》し《ヽ》の《ヽ》一《ヽ》人《ヽ》ま《ヽ》け《ヽ》か《ヽ》ち《ヽ》で、じゃんけんをしました。ところが、悦《えつ》治《じ》はひとりはさみを出したので、みんなにうんとはやされたほかに鬼になった。悦治は唇《くちびる》を紫《むらさき》いろにして、河原を走って、喜《き》作《さく》を押《おさ》えたので、鬼は二人になりました。それからみんなは、砂《すな》っぱの上や淵《ふち》を、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、押えたり押えられたり、何べんも鬼《ヽ》っ《ヽ》こ《ヽ》をしました。
しまいにとうとう、又三郎一人が鬼になりました。又三郎はまもなく吉《きち》郎《ろう》をつかまえました。みんなは、さいかちの木の下に居《い》てそれを見ていました。すると又三郎が、「吉郎君《くん》、きみは上《か》流《み》から追《お》って来るんだよ、いいか。」と云いながら、じぶんはだまって立って見ていました。吉郎は、口をあいて手をひろげて、上流から粘《ねん》土《ど》の上を追って来ました。みんなは淵へ飛び込む仕《し》度《たく》をしました。一郎は楊《やなぎ》の木にのぼりました。そのとき吉郎が、あの上流の粘土が、足についていたためにみんなの前ですべってころんでしまいました。みんなは、わあわあ叫《さけ》んで、吉郎をはねこえたり、水に入ったりして、上流の青い粘土の根《ね》に上ってしまいました。
「又三郎、来《こ》。」嘉《か》助《すけ》は立って、口を大きくあいて、手をひろげて、又三郎をばかにしました。すると又三郎は、さっきからよっぽど怒《おこ》っていたとみえて、「ようし、見ていろよ。」と云いながら、本気になって、ざぶんと水に飛《と》び込《こ》んで、一生けん命《めい》、そっちの方へ泳《およ》いで行きました。又三郎の髪《かみ》の毛が赤くてばしゃばしゃしているのにあんまり永《なが》く水につかって唇もすこし紫《むらさき》いろなので子どもらは、すっかり恐《こわ》がってしまいました。第《だい》一《いち》、その粘土のところはせまくて、みんながはいれなかったのにそれに大へんつるつるすべる坂《さか》になっていましたから、下の方の四、五人などは、上の人につかまるようにして、やっと川へすべり落ちるのをふせいでいたのでした。一郎だけが、いちばん上で落ち着《つ》いて、さあ、みんな、とか何とか相《そう》談《だん》らしいことをはじめました。みんなもそこで、頭をあつめて聞いています。又三郎は、ぼちゃぼちゃ、もう近くまで行きました。みんなは、ひそひそはなしています。すると又三郎は、いきなり両《りよう》手《て》で、みんなへ水をかけ出した。みんながばたばた防《ふせ》いでいましたら、だんだん粘土がすべって来て、なんだかすこうし下へずれたようになりました。又三郎はよろこんで、いよいよ水をはねとばしました。するとみんなは、ぼちゃんぼちゃんと一《いち》度《ど》に水にすべって落ちました。又三郎は、それを片《かた》っぱしからつかまえました。一郎もつかまりました。嘉助がひとり、上をまわって泳《およ》いで遁《に》げましたら、又三郎はすぐに追《お》い付《つ》いて、押《おさ》えたほかに、腕《うで》をつかんで、四、五へんぐるぐる引っぱりまわしました。嘉助は、水を呑《の》んだとみえて、霧《きり》をふいて、ごほごほむせて、
「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と云《い》いました。小さな子どもらはみんな砂《じや》利《り》に上ってしまいました。又三郎は、ひとりさいかちの樹《き》の下に立ちました。
ところが、そのときはもう、そらがいっぱいの黒い雲で、楊《やなぎ》も変《へん》に白っぽくなり、山の草はしんしんとくらくなりそこらは何とも云われない、恐《おそ》ろしい景《け》色《しき》にかわっていました。
そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷《かみなり》が鳴り出しました。と思うと、まるで山つなみのような音がして、一ぺんに夕立がやって来ました。風までひゅうひゅう吹《ふ》きだしました。淵《ふち》の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなってしまいました。みんなは河《か》原《わら》から着《き》物《もの》をかかえて、ねむの木の下へ遁《に》げこみました。すると又三郎も何だかはじめて怖《こわ》くなったとみえてさいかちの木の下からどぼんと水へはいってみんなの方へ泳ぎだしました。すると誰《だれ》ともなく、
「雨はざっこざっこ雨三郎
風はどっこどっこ又三郎」と叫《さけ》んだものがありました。みんなもすぐ声をそろえて叫びました。
「雨はざっこざっこ雨三郎
風はどっこどっこ又三郎」
すると又三郎はまるであわてて、何かに足をひっぱられるように淵からとびあがって一《いち》目《もく》散《さん》にみんなのところに走ってきてがたがたふるえながら、
「いま叫んだのはおまえらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんなは一しょに叫びました。ペ吉《きち》がまた一人出て来て、「そでない。」と云《い》いました。又三郎は、気《き》味《み》悪《わる》そうに川のほうを見ましたが色のあせた唇《くちびる》をいつものようにきっと噛《か》んで「何だい。」と云いましたが、からだはやはりがくがくふるっていました。
そしてみんなは雨のはれ間を待《ま》ってめいめいのうちへ帰ったのです。
九月十二日 第《だい》十二日
「どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも、吹《ふ》きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう」
先《さき》頃《ごろ》又三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢《ゆめ》の中でまたきいたのです。
びっくりして跳《は》ね起きて見ると外ではほんとうにひどく風が吹いて林はまるで咆《ほ》えるよう、あけがた近くの青ぐろい、うすあかりが障《しよう》子《じ》や棚《たな》の上の提《ちよう》灯《ちん》箱《ばこ》や家中一《い》っぱいでした。一郎はすばやく帯《おび》をしてそして下《げ》駄《た》をはいて土《ど》間《ま》を下り馬《うま》屋《や》の前を通って潜《くぐ》りをあけましたら風がつめたい雨の粒《つぶ》と一《いつ》緒《しよ》にどうっと入って来ました。
馬屋のうしろの方で何か戸がばたっと倒《たお》れ馬はぶるるっと鼻《はな》を鳴らしました。一郎は風が胸《むね》の底《そこ》まで滲《し》み込《こ》んだように思ってはあと強く息《いき》を吐《は》きました。そして外へかけだしました。外はもうよほど明るく土はぬれておりました。家の前の栗《くり》の木の列《れつ》は変《へん》に青く白く見えてそれがまるで風と雨とで今洗《せん》濯《たく》をするとでも云《い》うように烈《はげ》しくもまれていました。青い葉《は》も幾《いく》枚《まい》も吹《ふ》き飛《と》ばされちぎられた青い栗のいがは黒い地《じ》面《めん》にたくさん落《お》ちていました。空では雲がけわしい灰《はい》色《いろ》に光りどんどんどんどん北の方へ吹《ふ》きとばされていました。遠くの方の林はまるで海が荒《あ》れているようにごとんごとんと鳴ったりざっと聞えたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷《つめ》たい雨の粒《つぶ》を投《な》げつけられ風に着《き》物《もの》をもって行かれそうになりながらだまってその音をききすましじっと空を見上げました。
すると胸《むね》がさらさらと波《なみ》をたてるように思いました。けれどもまたじっとその鳴って吠《ほ》えてうなってかけて行く風をみていますと今《こん》度《ど》は胸がどかどかなってくるのでした。昨日《きのう》まで丘《おか》や野原の空の底《そこ》に澄《す》みきってしんとしていた風が今《け》朝《さ》夜あけ方俄《にわ》かに一《いつ》斉《せい》に斯《こ》う動《うご》き出してどんどんどんどんタスカロラ海《かい》床《しよう*》の北のはじをめがけて行くことを考えますともう一郎は顔がほてり息もはあ、はあ、なって自分までが一《いつ》緒《しよ》に空を翔《か》けて行くような気《き》持《も》ちになって胸を一ぱいはって息をふっと吹きました。
「ああひで風だ。今日はたばこも粟《あわ》もすっかりやらえる。」と一郎のおじいさんが潜《くぐ》りのところに立ってじっと空を見ています。一郎は急《いそ》いで井《い》戸《ど》からバケツに水を一ぱい汲《く》んで台《だい》所《どころ》をぐんぐん拭《ふ》きました。それから金《かな》だらいを出して顔をぶるぶる洗《あら》うと戸《と》棚《だな》から冷《つめ》たいごはんと味《み》噌《そ》をだしてまるで夢《む》中《ちゆう》でざくざく喰《た》べました。
「一郎、いまお汁《つけ》できるから少し待《ま》ってだらよ。何《な》して今《け》朝《さ》そったに早く学校へ行がなぃやなぃがべ。」
お母さんは馬にやる〔一字空白〕を煮《に》るかまどに木を入れながらききました。
「うん。又三郎は飛《と》んでったがも知れなぃもや。」
「又三郎って何だてや。鳥こだてが。」
「うん又三郎って云《い》うやづよ。」一郎は急いでごはんをしまうと椀《わん》をこちこち洗って、それから台所の釘《くぎ》にかけてある油《あぶら》合《がつ》羽《ぱ》を着《き》て下《げ》駄《た》はもってはだしで嘉《か》助《すけ》をさそいに行きました。嘉助はまだ起《お》きたばかりで「いまごはんだべて行ぐがら。」と云いましたので、一郎はしばらくうまやの前で待っていました。
まもなく嘉助は小さい蓑《みの》を着て出てきました。
烈《はげ》しい風と雨にぐしょぬれになりながら二人はやっと学校へ来ました。昇《しよう》降《こう》口《ぐち》からはいって行きますと教室はまだしいんとしていましたがところどころの窓《まど》のすきまから雨が板《いた》にはいって板はまるでざぶざぶしていました。一郎はしばらく教室を見まわしてから「嘉助、二人して水掃《は》ぐべな。」と云ってしゅろ箒《ぼうき》をもって来て水を窓の下の孔《あな》へはき寄《よ》せていました。
するともう誰《だれ》か来たのかというように奥《おく》から先生が出てきましたがふしぎなことは先生があたり前の単衣《ひとえ》をきて赤いうちわをもっているのです。「たいへん早いですね。あなた方二人で教室の掃《そう》除《じ》をしているのですか。」先生がききました。
「先生お早うございます。」一郎が云いました。
「先生お早うございます。」嘉助も云いましたが、すぐ、
「先生、又三郎今日来るのすか。」とききました。先生はちょっと考えて、
「又三郎って高田さんですか。ええ、高田さんは昨日《きのう》お父さんといっしょにもう外《ほか》へ行きました。日曜なのでみなさんにご挨《あい》拶《さつ》するひまがなかったのです。」「先生飛《と》んで行ったのすか。」嘉助がききました。「いいえ、お父さんが会社から電《でん》報《ぽう》で呼《よ》ばれたのです。お父さんはもいちどちょっとこっちへ戻《もど》られるそうですが高田さんはやっぱり向《むこ》うの学校に入るのだそうです。向うにはお母さんもおられるのですから。」
「何《な》して会社で呼ばったべす。」一郎がききました。
「ここのモリブデンの鉱《こう》脉《みやく》は当分手をつけないことになったためなそうです。」
「そうだなぃな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」
嘉助が高く叫《さけ》びました。宿《しゆく》直《ちよく》室《しつ》の方で何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。
二人はしばらくだまったまま相《あい》手《て》がほんとうにどう思っているか探《さぐ》るように顔を見合せたまま立ちました。
風はまだやまず、窓がらすは雨つぶのために曇《くも》りながらまだがたがた鳴りました。
とっこべとら子
おとら狐《ぎつね*》のはなしは、どなたもよくご存《ぞん》じでしょう。おとら狐にも、いろいろあったのでしょうか、私の知っているのは、「とっこべ、とら子。」というのです。
「とっこべ」というのは名《みよう》字《じ》でしょうか。「とら」というのは名前ですかね。そうすると、名字がさまざまで、名前がみんな「とら」と云《い》う狐が、あちこちに住《す》んでいたのでしょうか。
さて、むかし、とっこべとら子は大きな川の岸《きし》に住んでいて、夜、網《あみ》打《う》ちに行った人から魚を盗《と》ったり、買《かい》物《もの》をして町から遅《おそ》く帰る人から油《あぶら》揚《あ》げを取《と》りかえしたり、実《じつ》に始《し》末《まつ》に終《お》えないものだったそうです。
慾《よく》ふかのじいさんが、ある晩《ばん》ひどく酔《よ》っぱらって、町から帰って来る途《と》中《ちゆう》、その川岸を通りますと、ピカピカした金らんの上《かみ》下《しも》の立《りつ》派《ぱ》なさむらいに会いました。じいさんは、ていねいにおじぎをして行き過《す》ぎようとしましたら、さむらいがピタリととまって、一《ちよ》寸《つと》そらを見上げて、それからあごを引いて、六《ろく》平《へい》を呼《よ》び留《と》めました。秋の十五夜でした。
「あいや、しばらく待《ま》て。そちは何と申《もう》す。」
「へいへい。私は六平と申します。」
「六平とな。そちは金《かね》貸《か》しを業《わざ》と致《いた》しおるな。」
「へいへい。御《ぎよ》意《い》の通りでございます。手元の金《きん》子《す》は、すべて、只《ただ》今《いま》ご用《よう》立《だて》致しております。」
「いやいや、拙《せつ》者《しや》が貸りようと申すのではない。どうじゃ。金貸しは面《おも》白《しろ》かろう。」
「へい、御《ご》冗《じよう》談《だん》、へいへい。御意の通りで。」
「拙者に少しく不《ふ》用《よう》の金子がある。それに遠国に参《まい》るところじゃ。預《あず》かっておいてもらえまいか。尤《もつと》も拙者も数々敵《てき》を持《も》つ身《み》じゃ。万一途《と》中《ちゆう》相《あい》果《は》てたなれば、金子はそのままそちに遣《つか》わす。どうじゃ。」
「へい。それはきっとお預かりいたしまするでございます。」
「左《さ》様《よう》か。あいや、金子はこれにじゃ。そち自《みずか》ら蓋《ふた》を開《ひら》いて一《いち》応《おう》改《あらた》めくれい。エイヤ。はい。ヤッ。」さむらいはふところから白いたすきを取《と》り出して、たちまち十字にたすきをかけ、ごわりと袴《はかま》のもも立ちを取り、とんとんとんと土《ど》手《て》の方へ走りましたが、一《ちよ》寸《つと》かがんで土手のかげから、千《せん》両《りよう》ばこを一つ持って参りました。
ははあ、こいつはきっと泥《どろ》棒《ぼう》だ、そうでなければにせ金《がね》使《つか》い、しかし何でもかまわない、万一途中相果てたなれば、金はごろりとこっちのものと、六平はひとりで考えて、それからほくほくするのを無《む》理《り》にかくして申《もう》しました。
「へい。へい。よろしゅうござります。御《ぎよ》意《い》の通り一《いち》応《おう》お改《あらた》めいたしますでござります。」
蓋《ふた》を開《ひら》くと中に小《こ》判《ばん》が一ぱいつまり、月にぎらぎらかがやきました。
ハイ、ヤッとさむらいは千《せん》両《りよう》函《ばこ》をまた一つ持って参りました。六平は尤《もつとも》らしくまたあらためました。これも小判が一ぱいで月にぎらぎらです。ハイ、ヤッ、ハイヤッ、ハイヤッ。千両ばこはみなで十ほどそこに積《つ》まれました。
「どうじゃ。これだけをそち一人で持ち参れるかの。尤《もつと》もそちの持てるだけ預《あず》けることといたそうぞよ。」どうもさむらいのことばが少し変《へん》でしたし、そしてたしかに変ですが、まあ六平にはそんなことはどうでもよかったのです。
「へい。へい。何の千両ばこの十やそこばこ、きっときっと持ち参るでござりましょう。」
「うむ。左《さ》様《よう》か。しからば。いざ。いざ。持ち参れい。」
「へいへい。ウントコショ、ウントコショ、ウウントコショ。ウウウントコショ。」
「豪《ごう》儀《ぎ》じゃ、豪儀じゃ、そちは左《さ》程《ほど》になけれども、そちの身《み》に添《そ》う慾《よく》心《しん》が実《げ》に大力じゃ。大力じゃのう。ほめ遣《つか》わす。ほめ遣わす。さらばしかと預《あず》けたぞよ。」
さむらいは銀《ぎん》扇《せん》をパッと開いて感《かん》服《ぷく》しましたが、六平は余《あま》りの重《おも》さに返《へん》事《じ》も何も出来ませんでした。
さむらいは扇《おうぎ》をかざして月に向《むか》って、
「それ一《いち》芸《げい》あるものはすがたみにくし。」と何だか謡《よう》曲《きよく》のような変《へん》なものを低《ひく》くうなりながら向《むこ》うへ歩いて行きました。
六平は十の千《せん》両《りよう》ばこをよろよろしょって、もうお月さまが照《て》ってるやら、路《みち》がどう曲《まが》ってどう上ってるやら、まるで夢《む》中《ちゆう》で自分の家までやってまいりました。そして荷《に》物《もつ》をどっかり庭《にわ》におろして、おかしな声で外から怒《ど》鳴《な》りました。
「開《あ》けろ開けろ。お帰りだ。大《だい》尽《じん》さまのお帰りだ。」
六平の娘《むすめ》が戸をガタッと開けて、
「あれまあ、父さん。そったに砂《じや》利《り》しょて何しただす。」と叫《さけ》びました。
六平もおどろいておろしたばかりの荷物を見ましたら、おやおや、それはどての普《ふ》請《しん》の十の砂《じや》利《り》俵《だわら》でした。
六平はクウ、クウ、クウと鳴って、白い泡《あわ》をはいて気《き》絶《ぜつ》しました。それからもうひどい熱《ねつ》病《びよう》になって、二ヶ月の間というもの、
「とっこべとら子に、だまされだ。ああ欺《だま》されだ。」と叫《さけ》んでいました。
みなさん。こんな話は一体ほんとうでしょうか。どうせ昔《むかし》のことですから誰《だれ》もよくわかりませんが多分偽《うそ》ではないでしょうか。
どうしてって、私はその偽のほうの話をも一つちゃんと知ってるんです。それはあんまりちかごろ起《おこ》ったことでもうそれがうそなことは疑《うたがい》もなにもありません。実《じつ》はゆうべ起ったことなのです。
さあ、ご覧《らん》なさい。やはりあの大きな川の岸《きし》で、狐《きつね》の住《す》んでいた処《ところ》から半町《ちよう》ばかり離《はな》れた所《ところ》に平《へい》右衛《え》門《もん》と云《い》う人の家があります。
平右衛門は今《こ》年《とし》の春村《そん》会《かい》議《ぎ》員《いん》になりました。それですから今夜はそのお祝《いわ》いで親《しん》類《るい》はみな呼《よ》ばれました。
もうみんな大よろこび、ワッハハ、アッハハ、よう、おらおととい町さ行ったら魚《さかな》屋《や》の店で章《た》魚《こ》といかとが立ちあがって喧《けん》嘩《か》した、ワッハハ、アッハハ、それはほんとか、それがらどうした、うん、かつおぶしが仲《ちゆう》裁《さい》に入った、ワッハハ、アッハハ、それからどうした、ウン、するとかつおぶしがウウゥイ、ころは元《げん》禄《ろく》十四年んん、おいおい、それは何だい、うん、なにさ、かつおぶしだもふしばがり、ワッハハアッハハ、まあのめ、さあ一《いつ》杯《ぱい》、なんて大さわぎでした。ところがその中に一人一《いつ》向《こう》笑《わら》わない男がありました。それは小《こ》吉《きち》という青い小さな意《い》地《じ》悪《わる》の百《ひやく》姓《しよう》でした。
小吉はさっきから怒《おこ》ってばかりいたのです。(第《だい》一《いち》おら、下《しも》座《ざ》だちゅうはずぁあんまい、ふん、お椀《わん》のふぢぁ欠《か》げでる、油《ゆ》煙《えん》はばやばや、さがなの眼《め》玉《だま》は白くてぎろぎろ、誰《だ》っても盃《さかずき》よごさないえい糞《くそ》面《おも》白《しろ》ぐもなぃ。)とうとう小吉がぷっと座《ざ》を立ちました。
平右衛門が「待《ま》て、待て、小吉。もう一杯やれ、待てったら。」と云《い》っていましたが小吉はぷいっと下《げ》駄《た》をはいて表《おもて》に出てしまいました。
空がよく晴れて十三日の月がその天《てつ》辺《ぺん》にかかりました。小吉が門を出ようとしてふと足もとを見ますと門の横《よこ》の田の畔《あぜ》に疫《やく》病《びよう》除《よ》けの「源《みなもと》の大《たい》将《しよう*》」が立っていました。
それは竹へ半紙を一枚《まい》はりつけて大きな顔を書いたものです。
その「源の大将」が青い月のあかりの中でこと更《さら》顔を横にまげ眼《め》を瞋《いか》らせて小吉をにらんだように見えました。小吉も怒《おこ》ってすぐそれを引っこ抜《ぬ》いて田の中に投《な》げてしまおうとしましたが俄《にわ》かに何を考えたのかにやりと笑《わら》ってそれを路《みち》のまん中に立て直しました。
そしてまたひとりでぷんぷんぷんぷん云いながら二つの低《ひく》い丘《おか》を越《こ》えて自分の家に帰り、おみやげを待《ま》っていた子《こ》供《ども》を叱《しか》りつけてだまって床《とこ》にもぐり込《こ》んでしまいました。
丁《ちよう》度《ど》その頃《ころ》平《へい》右衛《え》門《もん》の家ではもう酒《さか》盛《も》りが済《す》みましたので、お客《きやく》様《さま》はみんなご馳《ち》走《そう》の残《のこ》りを藁《わら》のつとに入れて、ぶらりぶらりと提《さ》げながら、三人ずつぶっつかったり、四人ずつぶっつかり合ったりして、門の処《ところ》まで出て参《まい》りました。
縁《えん》側《がわ》に出てそれを見《み》送《おく》った平右衛門は、みんなにわかれの挨《あい》拶《さつ》をしました。
「それではお気をつけて。おみやげをとっこべとらこに取《と》られなぃようにアッハッハッハ。」
お客さまの中の一人がだらりと振《ふ》り向《む》いて返《へん》事《じ》しました。
「ハッハッハ。とっこべとらこだらおれのほうで取って食ってやるべ。」
その語がまだ終《おわ》らないうちに、神《しん》出《しゆつ》鬼《き》没《ぼつ》のとっこべとらこが、門の向《むこ》うの道のまん中にまっ白な毛をさか立てて、こっちをにらんで立ちました。
「わあ、出た出た。逃《に》げろ。逃げろ。」
もう大へんなさわぎです。みんな泥《どろ》足《あし》でヘタヘタ座《ざ》敷《しき》へ逃げ込《こ》みました。
平右衛門は手早くなげしから薙《なぎ》刀《なた》をおろし、さやを払《はら》い物《もの》凄《すご》い抜《ぬき》身《み》をふり廻《まわ》しましたので一人のお客さまはあぶなく赤いはなを切られようとしました。
平右衛門はひらりと縁側から飛《と》び下りて、はだしで門前の白《びや》狐《つこ》に向《むか》って進《すす》みます。
みんなもこれに力を得《え》てかさかさしたときの声をあげて景《けい》気《き》をつけ、ぞろぞろ随《つ》いて行きました。
さて平右衛門もあまりと云《い》えばありありとしたその白狐の姿《すがた》を見ては怖《こわ》さが咽《の》喉《ど》までこみあげましたが、みんなの手前もありますので、やっと一声切り込んで行きました。
たしかに手ごたいがあって、白いものは薙刀の下で、プルプル動いています。
「仕《し》留《と》めたぞ。仕留めたぞ。みんな来い。」と平右衛門は叫《さけ》びました。
「さすがは畜《ちく》生《しよう》の悲《かな》しさ、もろいもんだ。」とみんなは悦《よろこ》び勇《いさ》んで狐《きつね》の死《し》骸《がい》を囲《かこ》みました。
ところがどうです。今《こん》度《ど》はみんなは却《かえ》ってぎっくりしてしまいました。そうでしょう。
その古い狐は、もう身《み》代《がわ》りに疫《やく》病《びよう》よけの「源《みなもと》の大《たい》将《しよう》」などを置《お》いて、どこかへ逃《に》げているのです。
みんなは口々に云いました。
「やっぱり古い狐だな。まるで眼《め》玉《だま》は火のようだったぞ。」
「おまけに毛といったら銀《ぎん》の針《はり》だ。」
「全《まつた》く争《あらそ》われないもんだ。口が耳まで裂《さ》けていたからな。祟《たた》られまぃが。」
「心《しん》配《ぱい》するな。あしたはみんなで川《かわ》岸《ぎし》に油《あぶら》揚《あげ》を持《も》って行って置いて来るとしよう。」
みんなは帰る元気もなくなって、平右衛門の所《ところ》に泊《とま》りました。
「源の大将。」はお顔を半分切られて月光にキリキリ歯《は》を喰《く》いしばっているように見えました。
夜中になってから「とっこべ、とら子」とその沢《たく》山《さん》の可愛《かわい》らしい部《ぶ》下《か》とがまた出て来て、庭《にわ》に抛《ほう》り出されたあのおみやげの藁《わら》の苞《つと》を、かさかさ引いた、たしかにその音がしたとみんながさっきも話していました。
祭《まつり》の晩《ばん》
山の神《かみ》の秋の祭《まつ》りの晩《ばん》でした。
亮《りよう》二《じ》はあたらしい水色のしごきをしめて、それに十五銭《せん》もらって、お旅《たび》屋《や*》にでかけました。「空《くう》気《き》獣《じゆう》」という見《み》世《せ》物《もの》が大《だい》繁《はん》盛《じよう》でした。
それは、髪《かみ》を長くして、だぶだぶのずぼんをはいたあばたな男が、小《こ》屋《や》の幕《まく》の前に立って、「さあ、みんな、入れ入れ。」と大《おお》威《い》張《ば》りでどなっているのでした。亮二が思わず看《かん》板《ばん》の近くまで行きましたら、いきなりその男が、「おい、あんこ《 *》、早ぐ入れ。銭《ぜに》は戻《もど》りでいいから。」と亮二に叫《さけ》びました。亮二は思わず、つっと木《き》戸《ど》口《ぐち》を入ってしまいました。すると小屋の中には、高木の甲《こう》助《すけ》だの、だいぶ知っている人たちが、みんなおかしいようなまじめなような顔をして、まん中の台の上を見ているのでした。台の上に空気獣がねばりついていたのです。それは大きな平《ひら》べったいふらふらした白いもので、どこが頭だか口だかわからず、口《こう》上《じよう》云《い》いがこっち側《がわ》から棒《ぼう》でつっつくと、そこは引っこんで向《むこ》うがふくれ、向うをつつくとこっちがふくれ、まん中を突《つ》くとまわりが一たいふくれました。亮二は見っともないので、急《いそ》いで外へ出ようとしましたら、土《ど》間《ま》の窪《くぼ》みに下《げ》駄《た》がはいってあぶなく倒《たお》れそうになり、隣《とな》りの頑《がん》丈《じよう》そうな大きな男にひどくぶっつかりました。びっくりして見上げましたら、それは古い白《しろ》縞《じま》の単物《ひとえ》に、へんな蓑《みの》のようなものを着《き》た、顔の骨《ほね》ばって赤い男で、向うも愕《おどろ》いたように亮二を見おろしていました。その眼《め》はまん円《まる》で煤《すす》けたような黄金いろでした。亮二が不《ふ》思《し》議《ぎ》がってしげしげ見ていましたら、にわかにその男が、眼をぱちぱちっとして、それから急いで向うを向いて木戸口の方に出ました。亮二もついて行きました。その男は木戸口で、堅《かた》く握《にぎ》っていた大きな右手をひらいて、十銭《せん》の銀《ぎん》貨《か》を出しました。亮二も同じような銀貨を木戸番にわたして外へ出ましたら、従兄《いとこ》の達《たつ》二《じ》に会いました。その男の広い肩《かた》はみんなの中に見えなくなってしまいました。
達二はその見《み》世《せ》物《もの》の看《かん》板《ばん》を指《ゆび》さしながら、声をひそめて云《い》いました。
「お前はこの見世物にはいったのかい。こいつはね、空《くう》気《き》獣《じゆう》だなんて云ってるが、実《じつ》はね、牛の胃《い》袋《ぶくろ》に空気をつめたものだそうだよ。こんなものにはいるなんて、おまえはばかだな。」
亮二がぼんやりそのおかしな形の空気獣の看板を見ているうちに、達二がまた云いました。「おいらは、まだおみこしさんを拝《おが》んでいないんだ。あしたまた会うぜ。」そして片《かた》脚《あし》で、ぴょんぴょん跳《は》ねて、人ごみの中にはいってしまいました。
亮《りよう》二《じ》も急いでそこをはなれました。その辺《へん》一ぱいにならんだ屋《や》台《たい》の青い萃果《りんご》や葡《ぶ》萄《どう》が、アセチレン《 *》のあかりできらきら光っていました。
亮二は、アセチレンの火は青くてきれいだけれどもどうも大《だい》蛇《じや》のような悪《わる》い臭《におい》がある、などと思いながら、そこを通り抜《ぬ》けました。
向うの神楽《かぐら》殿《でん》には、ぼんやり五つばかりの提《ちよう》灯《ちん》がついて、これからおかぐらがはじまるところらしく、てびらがね《 *》だけしずかに鳴っておりました。(昌《しよう》一《いち》もあのかぐらに出る。)と亮二は思いながら、しばらくぼんやりそこに立っていました。
そしたら向《むこ》うのひのきの陰《かげ》の暗《くら》い掛《かけ》茶《ぢや》屋《や》の方で、なにか大きな声がして、みんながそっちへ走って行きました。亮二も急いでかけて行って、みんなの横《よこ》からのぞき込《こ》みました。するとさっきの大きな男が、髪《かみ》をもじゃもじゃして、しきりに村の若《わか》い者《もの》にいじめられているのでした。額《ひたい》から汗《あせ》を流《なが》してなんべんも頭を下げていました。
何か云おうとするのでしたが、どうもひどくどもってしまって語《ことば》が出ないようすでした。
てかてか髪《かみ》をわけた村の若《わか》者《もの》が、みんなが見ているので、いよいよ勢《いきおい》よくどなっていました。
「貴《き》様《さま》んみたいな、他《よ》処《そ》から来たものに馬《ば》鹿《か》にされて堪《たま》っか。早く銭《ぜに》を払《はら》え、銭を。無《ない》のか、この野《や》郎《ろう》。無なら何《な》して物《もの》食《く》った。こら。」
男はひどくあわてて、どもりながらやっと云《い》いました。
「た、た、た、薪《たきぎ》百把《ぱ》持《も》って来てやるがら。」
掛《かけ》茶《ぢや》屋《や》の主《しゆ》人《じん》は、耳が少し悪《わる》いと見えて、それをよく聞きとりかねて、却《かえ》って大声で云いました。
「何だと。たった二《ふた》串《くし》だと。あたりまえさ。団《だん》子《ご》の二串やそこら、呉《く》れてやってもいいのだが、おれはどうもきさまの物《もの》云《い》いが気に食わないのでな。やい。何つうつらだ。こら、貴《き》さん。」
男は汗《あせ》を拭《ふ》きながら、やっとまた云いました。
「薪をあとで百把持って来てやっから、許《ゆる》してくれろ。」
すると若者が怒《おこ》ってしまいました。
「うそをつけ、この野郎。どこの国に、団子二串に薪百把払《はら》うやづがあっか。全《ぜん》体《たい》きさんどこのやつだ。」
「そ、そ、そ、そ、そいつはとても云われない。許してくれろ。」男は黄金色の眼《め》をぱちぱちさせて、汗《あせ》をふきふき云いました。一《いつ》緒《しよ》に涙《なみだ》もふいたようでした。
「ぶん撲《なぐ》れ、ぶん撲れ。」誰《だれ》かが叫《さけ》びました。
亮《りよう》二《じ》はすっかりわかりました。
(ははあ、あんまり腹《はら》がすいて、それにさっき空《くう》気《き》獣《じゆう》で十銭《せん》払《はら》ったので、あともう銭《ぜに》のないのも忘《わす》れて、団子を食ってしまったのだな。泣《な》いている。悪い人でない。却《かえ》って正《しよう》直《じき》な人なんだ。よし、僕《ぼく》が助《たす》けてやろう。)
亮二はこっそりがま口から、ただ一枚《まい》残《のこ》った白《はく》銅《どう*》を出して、それを堅《かた》く握《にぎ》って、知らないふりをしてみんなを押《お》しわけて、その男のそばまで行きました。男は首を垂《た》れ、手をきちんと膝《ひざ》まで下げて、一生けん命《めい》口の中で何かもにゃもにゃ云《い》っていました。
亮二はしゃがんで、その男の草《ぞう》履《り》をはいた大きな足の上に、だまって白銅を置《お》きました。すると男はびっくりした様《よう》子《す》で、じっと亮二の顔を見下していましたが、やがていきなり屈《かが》んでそれを取《と》るやいなや、主《しゆ》人《じん》の前の台にぱちっと置いて、大きな声で叫《さけ》びました。
「そら、銭《ぜに》を出すぞ。これで許《ゆる》してくれろ。薪《たきぎ》を百把《ぱ》あとで返《かえ》すぞ。栗《くり》を八斗《と*》あとで返すぞ。」云うが早いか、いきなり若《わか》者《もの》やみんなをつき退《の》けて、風のように外へ遁《に》げ出してしまいました。
「山男だ、山男だ。」みんなは叫んで、がやがやあとを追《お》おうとしましたが、もうどこへ行ったか、影《かげ》もかたちも見えませんでした。
風がごうごうっと吹《ふ》き出し、まっくろなひのきがゆれ、掛《かけ》茶《ぢや》屋《や》のすだれは飛《と》び、あちこちのあかりは消《き》えました。
かぐらの笛《ふえ》がそのときはじまりました。けれども亮二はもうそっちへは行かないで、ひとり田圃《たんぼ》の中のほの白い路《みち》を、急《いそ》いで家の方へ帰りました。早くお爺《じい》さんに山男の話を聞かせたかったのです。ぼんやりしたすばるの星がもうよほど高くのぼっていました。
家に帰って、厩《うまや》の前から入って行きますと、お爺さんはたった一人、いろりに火を焚《た》いて枝《えだ》豆《まめ》をゆでていましたので、亮二は急いでその向《むこ》う側《がわ》に座《すわ》って、さっきのことをみんな話しました。お爺さんははじめはだまって亮二の顔を見ながら聞いていましたが、おしまいとうとう笑《わら》い出してしまいました。
「ははあ、そいつは山男だ。山男というものは、ごく正直なもんだ。おれも霧《きり》のふかい時、度《たび》々《たび》山で遭《あ》ったことがある。しかし山男が祭《まつり》を見に来たことは今度はじめてだろう。はっはっは。いや、いままでも来ていても見《み》附《つ》からなかったのかな。」
「おじいさん、山男は山で何をしているのだろう。」
「そうさ、木の枝《えだ》で狐《きつね》わなをこさえたりしてるそうだ。こういう太い木を一本、ずうっと曲《ま》げて、それをもう一本の枝《えだ》でやっと押《おさ》えておいて、その先へ魚などぶら下げて、狐だの熊《くま》だの取《と》りに来ると、枝にあたってばちんとはねかえって殺《ころ》すようにしかけたりしているそうだ。」
その時、表《おもて》の方で、どしんがらがらがらっと云《い》う大きな音がして、家は地《じ》震《しん》の時のようにゆれました。亮《りよう》二《じ》は思わずお爺《じい》さんにすがりつきました。お爺さんも少し顔色を変《か》えて、急《いそ》いでランプを持《も》って外に出ました。
亮二もついて行きました。ランプは風のためにすぐ消《き》えてしまいました。
その代《かわ》り、東の黒い山から大きな十八日の月が静《しず》かに登《のぼ》って来たのです。
見ると家の前の広場には、太い薪《たきぎ》が山のように投《な》げ出されてありました。太い根《ね》や枝までついた、ぼりぼりに折《お》られた太い薪でした。お爺さんはしばらく呆《あき》れたように、それをながめていましたが、俄《にわ》かに手を叩《たた》いて笑《わら》いました。
「はっはっは、山男が薪をお前に持って来てくれたのだ。俺《おれ》はまたさっきの団《だん》子《ご》屋《や》にやるということだろうと思っていた。山男もずいぶん賢《かしこ》いもんだな。」
亮二は薪をよく見ようとして、一足そっちへ進《すす》みましたが、忽《たちま》ち何かに滑《すべ》ってころびました。見るとそこらいちめん、きらきらきらきらする栗《くり》の実《み》でした。亮二は起《お》きあがって叫《さけ》びました。
「おじいさん、山男は栗も持って来たよ。」
お爺さんもびっくりして云いました。
「栗まで持って来たのか。こんなに貰《もら》うわけには行かない。今《こん》度《ど》何か山へ持って行って置《お》いて来よう。一番着《き》物《もの》がよかろうな。」
亮《りよう》二《じ》はなんだか、山男がかあいそうで泣《な》きたいようなへんな気もちになりました。
「おじいさん、山男はあんまり正直でかあいそうだ。僕《ぼく》何かいいものをやりたいな。」
「うん、今度夜《や》具《ぐ》を一枚《まい》持って行ってやろう。山男は夜具を綿《わた》入《いれ》の代《かわ》りに着《き》るかも知れない。それから団《だん》子《ご》も持って行こう。」
亮二は叫《さけ》びました。
「着物と団子だけじゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉《うれ》しがって泣いてぐるぐるはねまわって、それからからだが天に飛《と》んでしまうくらいいいものをやりたいなあ。」
おじいさんは消《き》えたランプを取《と》りあげて、
「うん、そういういいものあればなあ。さあ、うちへ入って豆《まめ》をたべろ。そのうちに、おとうさんも隣《とな》りから帰るから。」と云いながら、家の中にはいりました。
亮二はだまって青い斜《なな》めなお月さまをながめました。
風が山の方で、ごうっと鳴っております。
なめとこ山《 *》の熊《くま》
なめとこ山の熊《くま》のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵《ふち》沢《ざわ》川《 *》はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧《きり》か雲かを吸《す》ったり吐《は》いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海《うみ》坊《ぼう》主《ず》のような山だ。山のなかごろに大きな洞《ほら》穴《あな》ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺《しやく》ぐらいの滝《たき》になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落《お》ちて来る。
中山街《かい》道《どう*》はこのごろは誰《だれ》も歩かないから蕗《ふき》やいたどりがいっぱいに生えたり牛が遁《に》げて登《のぼ》らないように柵《さく》をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里《り》ばかり行くと向《むこ》うの方で風が山の頂《いただき》を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大《おお》空《ぞらの》滝《たき*》だ。そして昔《むかし》はそのへんには熊がごちゃごちゃ居《い》たそうだ。ほんとうはなめとこ山も熊の胆《い》も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかも知れないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊《くま》の胆《い》は名高いものになっている。
腹《はら》の痛《いた》いのにも利《き》けば傷《きず》もなおる。鉛《なまり》の湯《ゆ*》の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔《むかし》からの看《かん》板《ばん》もかかっている。だからもう熊はなめとこ山で赤い舌《した》をべろべろ吐《は》いて谷をわたったり熊の子《こ》供《ども》らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲《なぐ》りあったりしていることはたしかだ。熊《くま》捕《と》りの名人の淵《ふち》沢《さわ》小《こ》十《じゆう》郎《ろう》がそれを片《かた》っぱしから捕ったのだ。
淵沢小十郎はすがめの赭《あか》黒《ぐろ》いごりごりしたおやじで胴《どう》は小さな臼《うす》ぐらいはあったし掌《てのひら》は北島の毘《び》沙《しや》門《もん*》さんの病《びよう》気《き》をなおすための手形ぐらい大きく厚《あつ》かった。小十郎は夏なら菩提樹《マダ》の皮《かわ》でこさえたけらを着《き》てはむばきをはき生《せい》蕃《ばん*》の使《つか》うような山刀とポルトガル伝《でん》来《らい》というような大きな重《おも》い鉄《てつ》砲《ぽう》をもってたくましい黄いろな犬をつれてなめとこ山からしどけ沢《ざわ*》から三《み》つ又《また》からサッカイの山からマミ穴《あな》森《もり》から白《しろ》沢《さわ》からまるで縦《じゆう》横《おう》にあるいた。木がいっぱい生えているから谷を溯《さかのぼ》っているとまるで青黒いトンネルの中を行くようで時にはぱっと緑《みどり》と黄金いろに明るくなることもあればそこら中が花が咲《さ》いたように日光が落《お》ちていることもある。そこを小十郎が、まるで自分の座《ざ》敷《しき》の中を歩いているという風でゆっくりのっしのっしとやって行く。犬はさきに立って崖《がけ》を横《よこ》這《ば》いに走ったりざぶんと水にかけ込《こ》んだり淵《ふち》ののろのろした気《き》味《み》の悪《わる》いとこをもう一生けん命《めい》に泳《およ》いでやっと向《むこ》うの岩にのぼるとからだをぶるぶるっとして毛をたてて水をふるい落《おと》しそれから鼻《はな》をしかめて主《しゆ》人《じん》の来るのを待《ま》っている。小十郎は膝《ひざ》から上にまるで屏《びよう》風《ぶ》のような白い波《なみ》をたてながらコンパスのように足を抜《ぬ》き差《さ》しして口を少し曲《ま》げながらやって来る。そこであんまり一ぺんに云《い》ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊《くま》は小十郎をすきなのだ。その証《しよう》拠《こ》には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり《 *》谷の岸《きし》の細い平《たい》らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見《み》送《おく》っているのだ。木の上から両《りよう》手《て》で枝《えだ》にとりついたり崖《がけ》の上で膝をかかえて座《すわ》ったりしておもしろそうに小十郎を見送っているのだ。まったく熊どもは小十郎の犬さえすきなようだった。けれどもいくら熊どもだってすっかり小十郎とぶっつかって犬がまるで火のついたまりのようになって飛《と》びつき小十郎が眼《め》をまるで変《へん》に光らして鉄砲をこっちへ構《かま》えることはあんまりすきではなかった。そのときは大ていの熊は迷《めい》惑《わく》そうに手をふってそんなことをされるのを断《こと》わった。けれども熊もいろいろだから気の烈《はげ》しいやつならごうごう咆《ほ》えて立ちあがって、犬などはまるで踏《ふ》みつぶしそうにしながら小十郎の方へ両手を出してかかって行く。小十郎はぴったり落《お》ち着《つ》いて樹《き》をたてにして立ちながら熊の月の輪《わ》をめがけてズドンとやるのだった。すると森までががあっと叫《さけ》んで熊はどたっと倒《たお》れ赤黒い血《ち》をどくどく吐《は》き鼻をくんくん鳴らして死《し》んでしまうのだった。小十郎は鉄砲を木へたてかけて注《ちゆ》意《うい》深《ぶか》くそばへ寄《よ》って来て斯《こ》う云《い》うのだった。「熊《くま》。おれはてまえを憎《にく》くて殺《ころ》したのでねえんだぞ。おれも商《しよう》売《ばい》ならてめえも射《う》たなけぁならねえ。ほかの罪《つみ》のねえ仕事していんだが畑《はたけ》はなし木はお上《かみ》のものにきまったし里《さと》へ出ても誰《だれ》も相《あい》手《て》にしねえ。仕《し》方《かた》なしに猟《りよう》師《し》なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因《いん》果《が*》ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次《つぎ》には熊なんぞに生れなよ。」
そのときは犬もすっかりしょげかえって眼《め》を細くして座《すわ》っていた。
何せこの犬ばかりは小十郎が四十の夏うち中みんな赤《せき》痢《り》にかかってとうとう小十郎の息《むす》子《こ》とその妻《つま》も死んだ中にぴんぴんして生きていたのだ。
それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎《あご》のとこから胸《むね》から腹《はら》へかけて皮《かわ》をすうっと裂《さ》いて行くのだった。それからあとの景《け》色《しき》は僕《ぼく》は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆《い》をせなかの木のひつに入れて血《ち》で毛がぼとぼと房《ふさ》になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。
小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした。ある年の春はやく山の木がまだ一本も青くならないころ小十郎は犬を連《つ》れて白《しろ》沢《さわ》をずうっとのぼった。夕立になって小十郎はばっかぃ沢《 *》へこえる峯《みね》になった処《ところ》へ去《きよ》年《ねん》の夏こさえた笹《ささ》小《ご》屋《や》へ泊《とま》ろうと思ってそこへのぼって行った。そしたらどう云《い》う加《か》減《げん》か小十郎の柄《がら》にもなく登《のぼ》り口をまちがってしまった。
なんべんも谷へ降《お》りてまた登り直して犬もへとへとにつかれ小十郎も口を横《よこ》にまげて息《いき》をしながら半分くずれかかった去年の小屋を見つけた。小十郎がすぐ下に湧《わき》水《みず》のあったのを思い出して少し山を降りかけたら愕《おどろ》いたことは母親とやっと一歳《さい》になるかならないような子熊と二疋《ひき》丁《ちよう》度《ど》人が額《ひたい》に手をあてて遠くを眺《なが》めるといった風に淡《あわ》い六日の月光の中を向《むこ》うの谷をしげしげ見つめているのにあった。小十郎はまるでその二疋の熊のからだから後《ご》光《こう》が射《さ》すように思えてまるで釘《くぎ》付《づ》けになったように立ちどまってそっちを見つめていた。すると小熊が甘《あま》えるように云ったのだ。「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側《がわ》だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん。」すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと云った。「雪でないよ、あすこへだけ降《ふ》るはずがないんだもの。」子熊はまた云った。「だから溶《と》けないで残《のこ》ったのでしょう。」「いいえ、おっかさんはあざみの芽《め》を見に昨日《きのう》あすこを通ったばかりです。」小十郎もじっとそっちを見た。
月の光が青じろく山の斜《しや》面《めん》を滑《すべ》っていた。そこが丁《ちよう》度《ど》銀《ぎん》の鎧《よろい》のように光っているのだった。しばらくたって子熊が云った。「雪でなけぁ霜《しも》だねえ。きっとそうだ。」ほんとうに今夜は霜が降《ふ》るぞ、お月さまの近くで胃《コキエ*》もあんなに青くふるえているし第《だい》一《いち》お月さまのいろだってまるで氷《こおり》のようだ。小十郎がひとりで思った。「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくら《 *》の花。」「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕《ぼく》知ってるよ。」「いいえ、お前まだ見たことありません。」「知ってるよ、僕この前とって来たもの。」「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげ《 *》の花でしょう。」「そうだろうか。」子熊はとぼけたように答えました。小十郎はなぜかもう胸《むね》がいっぱいになってもう一ぺん向《むこ》うの谷の白い雪のような花と余《よ》念《ねん》なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻《もど》りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後《あと》退《ずさ》りした。くろもじの《 *》木の匂《におい》が月のあかりといっしょにすうっとさした。
ところがこの豪《ごう》儀《ぎ》な小十郎がまちへ熊の皮《かわ》と胆《きも》を売りに行くときのみじめさと云《い》ったら全《まつた》く気の毒《どく》だった。
町の中ほどに大きな荒《あら》物《もの》屋《や》があって笊《ざる》だの砂《さ》糖《とう》だの砥《と》石《いし》だの金《きん》天《てん》狗《ぐ》やカメレオン印《じるし*》の煙草《たばこ》だのそれから硝子《ガラス》の蠅《はえ》とりまでならべていたのだ。小十郎が山のように毛皮をしょってそこのしきいを一足またぐと店ではまた来たかというようにうすわらっているのだった。店の次《つぎ》の間《ま》に大きな唐《から》金《かね》の火《ひ》鉢《ばち》を出して主《しゆ》人《じん》がどっかり座《すわ》っていた。
「旦《だん》那《な》さん、先ころはどうもありがとうごあんした。」
あの山では主《ぬし》のような小十郎は毛皮の荷《に》物《もつ》を横《よこ》におろして叮《てい》ねいに敷《しき》板《いた》に手をついて云《い》うのだった。
「はあ、どうも、今日は何のご用です。」
「熊《くま》の皮《かわ》また少し持って来たます。」
「熊の皮か。この前のもまだあのまましまってあるし今日ぁまんついいます。」
「旦《だん》那《な》さん、そう云わなぃでどうか買ってくんなさぃ。安《やす》くてもいいます。」
「なんぼ安くても要《い》らなぃます。」主《しゆ》人《じん》は落《お》ち着《つ》きはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、あの豪《ごう》気《き》な山の中の主《ぬし》の小十郎は斯《こ》う云われるたびにもうまるで心《しん》配《ぱい》そうに顔をしかめた。何せ小十郎のとこでは山には栗《くり》があったしうしろのまるで少しの畑《はたけ》からは稗《ひえ》がとれるのではあったが米などは少しもできず味《み》噌《そ》もなかったから九十になるとしよりと子《こ》供《ども》ばかりの七人家内にもって行く米はごくわずかずつでも要ったのだ。
里《さと》の方のものなら麻《あさ》もつくったけれども、小十郎のとこではわずか藤《ふじ》つるで編《あ》む入れ物《もの》の外に布《ぬの》にするようなものはなんにも出来なかったのだ。小十郎はしばらくたってからまるでしわがれたような声で云《い》ったもんだ。
「旦那さん、お願《ねが》だ《い》ます。どうが何ぼでもいいはんて買ってくなぃ《 *》。」小十郎はそう云いながら改《あら》め《た》ておじぎさえしたもんだ。
主人はだまってしばらくけむりを吐《は》いてから顔の少しでにかにか笑うのをそっとかくして云ったもんだ。
「いいます。置《お》いでお出れ。じゃ、平《へい》助《すけ》、小十郎さんさ二円《 *》あげろじゃ。」店の平助が大きな銀《ぎん》貨《か》を四枚《まい》小十郎の前へ座《すわ》って出した。小十郎はそれを押《お》しいただくようにしてにかにかしながら受《う》け取《と》った。それから主人はこんどはだんだん機《き》嫌《げん》がよくなる。「じゃ、おきの、小十郎さんさ一《いつ》杯《ぱい》あげろ。」小十郎はこのころはもううれしくてわくわくしている。主人はゆっくりいろいろ談《はな》す。小十郎はかしこまって山のもようや何か申《もう》しあげている。間もなく台《だい》所《どこ》の《ろ》方からお膳《ぜん》できたと知らせる。小十郎は半分辞《じ》退《たい》するけれども結《けつ》局《きよく》台所のとこへ引っぱられてってまた叮《てい》寧《ねい》な挨《あい》拶《さつ》をしている。
間もなく塩《しお》引《びき》の鮭《さけ》の刺《さし》身《み》やいかの切り込《こ》み《 *》などと酒《さけ》が一本黒い小さな膳にのって来る。
小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰《こし》掛《か》けていかの切り込みを手の甲《こう》にのせてべろりとなめたりうやうやしく黄いろな酒を小さな猪《ちよ》口《こ》についだりしている。いくら物《ぶつ》価《か》の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰《だれ》でも思う。実《じつ》に安《やす》いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒《あら》物《もの》屋《や》なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐《きつ》け《ね》ん《 *》というものもあって狐は猟《りよう》師《し》に負《ま》け猟師は旦《だん》那《な》に負けるときまっている。ここでは熊《くま》は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世《せ》界《かい》がだんだん進《しん》歩《ぽ》するとひとりで消《き》えてなくなって行く《 *》。僕《ぼく》はしばらくの間でもあんな立《りつ》派《ぱ》な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実《じつ》にしゃくにさわってたまらない。
こんな風だったから小十郎は熊どもは殺《ころ》してはいても決《けつ》してそれを憎《にく》んではいなかったのだ。ところがある年の夏こんなようなおかしなことが起《おこ》ったのだ。
小十郎が谷をばちゃばちゃ渉《わた》って一つの岩にのぼったらいきなりすぐ前の木に大きな熊が猫《ねこ》のようにせなかを円《まる》くしてよじ登《のぼ》っているのを見た。小十郎はすぐ鉄《てつ》砲《ぽう》をつきつけた。犬はもう大《おお》悦《よろ》び《こ》で木の下に行って木のまわりを烈《はげ》しく馳《は》せめぐった。
すると樹《き》の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛《と》びかかろうかそのまま射《う》たれてやろうか思《し》案《あん》しているらしかったがいきなり両《りよう》手《て》を樹からはなしてどたりと落《お》ちて来たのだ。小十郎は油《ゆ》断《だん》なく銃《じゆ》を《う》構《かま》えて打《う》つばかりにして近《ちか》寄《よ》って行ったら熊は両手をあげて叫《さけ》んだ。
「おまえは何がほしくておれを殺すんだ。」
「ああ、おれはお前の毛《け》皮《がわ》と、胆《きも》のほかにはなんにもいらない。それも町へ持《も》って行ってひどく高く売れると云《い》うのではないしほんとうに気の毒《どく》だけれどもやっぱり仕《し》方《かた》ない。けれどもお前に今ごろそんなことを云われるともうおれなどは何か栗《くり》かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ。」「もう二年ばかり待《ま》ってくれ、おれも死《し》ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残《のこ》した仕《し》事《ごと》もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから、毛皮も胃《い》袋《ぶくろ》もやってしまうから。」小十郎は変《へん》な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全《ぜん》体《たい》地《じ》面《めん》につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄《てつ》砲《ぽう》を射《う》ったり決《けつ》してしないことがよくわかってるという風でうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせなかが木の枝《えだ》の間から落《お》ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それから丁《ちよう》度《ど》二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈《はげ》しくて木もかきねも倒《たお》れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始《し》終《じゆう》見たことのある赤黒いものが横《よこ》になっているのでした。丁度二年目だしあの熊がやって来るかと少し心《しん》配《ぱい》するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄《よ》って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血《ち》を吐《は》いて倒れていた。小十郎は思わず拝《おが》むようにした。
一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るときいままで云《い》ったことのないことを云った。「婆《ば》さま、おれも年《とし》老《と》ったでばな、今《け》朝《さ》まず生れで始めで水へ入るの嫌《や》んたよな気するじゃ。」すると縁《えん》側《がわ》の日なたで糸を紡《つむ》いでいた九十になる小十郎の母はその見えないような眼《め》をあげてちょっと小十郎を見て何か笑《わら》うか泣《な》くかするような顔つきをした。小十郎はわらじを結《ゆわ》えてうんとこさと立ちあがって出かけた。小《こ》供《ども》らはかわるがわる厩《うま》の《や》前から顔を出して「爺《じ》さん、早ぐお出《で》や。」と云って笑った。小十郎はまっ青なつるつるした空を見あげてそれから孫《まご》たちの方を向《む》いて「行って来るじゃぃ。」と云った。
小十郎はまっ白な堅《かた》雪《ゆき》の上を白《しろ》沢《さわ》の方へのぼって行った。
犬はもう息《いき》をはあはあし赤い舌《した》を出しながら走ってはとまり走ってはとまりして行った。間もなく小十郎の影《かげ》は丘《おか》の向《むこ》うへ沈《しず》んで見えなくなってしまい子供らは稗《ひえ》の藁《わら》でふじつき《 *》をして遊《あそ》んだ。
小十郎は白沢の岸《きし》を溯《さかの》っ《ぼ》て行った。水はまっ青に淵《ふち》になったり硝子《ガラス》板《いた》をしいたように凍《こお》ったりつららが何本も何本もじゅずのようになってかかったりそして両《りよう》岸《がん》からは赤と黄いろのまゆみの実《み》が花が咲《さ》いたようにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との影《かげ》法《ぼう》師《し》がちらちら光り樺《かば》の幹《みき》の影《かげ》といっしょに雪にかっきり藍《あい》いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。
白沢から峯《みね》を一つ越《こ》えたとこに一疋《ぴき》の大きなやつが棲《す》んでいたのを夏のうちにたずねておいたのだ。
小十郎は谷に入って来る小さな支《し》流《りゆう》を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。そこに小さな滝《たき》があった。小十郎はその滝のすぐ下から長《なが》根《ね》の方へかけてのぼりはじめた。雪はあんまりまばゆくて燃《も》えているくらい小十郎は眼《め》がすっかり紫《むらさき》の眼鏡《めがね》をかけたような気がして登《のぼ》って行った。犬はやっぱりそんな崖《がけ》でも負《ま》けないというようにたびたび滑《すべ》りそうになりながら雪にかじりついて登ったのだ。やっと崖を登りきったらそこはまばらに栗《くり》の木の生えたごくゆるい斜《しや》面《めん》の平《たい》らで雪はまるで寒《かん》水《すい》石《せき*》という風にギラギラ光っていたしまわりをずうっと高い雪のみねがにょきにょきつったっていた。小十郎がその頂《ちよう》上《じよ》で《う》やすんでいたときだ。いきなり犬が火のついたように咆《ほ》え出した。小十郎がびっくりしてうしろを見たらあの夏に眼《め》をつけておいた大きな熊が両足で立ってこっちへかかって来たのだ。
小十郎は落ちついて足をふんばって鉄《てつ》砲《ぽう》を構《かま》えた。熊は棒《ぼう》のような両手をびっこにあげてまっすぐに走って来た。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変《か》えた。
ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒《たお》れないで嵐《あらし》のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛《か》み付《つ》いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くで斯《こ》う云《い》うことばを聞いた。「おお小十郎おまえを殺《ころ》すつもりはなかった。」もうおれは死《し》んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ。」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心《こころ》持《もち》はもう私にはわからない。
とにかくそれから三日目の晩《ばん》だった。まるで氷《こお》の《り》玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は燐《りん》光《こう》をあげた。すばる《 *》や参《しん》の星《 *》が緑《みどり》や橙《だいだい》にちらちらして呼《こ》吸《きゆう》をするように見えた。
その栗《くり》の木と白い雪の峯《みね》々《みね》にかこまれた山の上の平《たい》らに黒い大きなものがたくさん環《わ》になって集《あつ》っ《ま》て各《おの》々《おの》黒い影《かげ》を置《お》き回《フイ》々《フイ》教《きよう》徒《と*》の祈《いの》るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動《うご》かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死《し》骸《がい》が半分座《すわ》ったようになって置《お》かれていた。
思いなしかその死んで凍《こご》えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴《さ》え冴《ざ》えして何か笑《わら》っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参《しん》の星が天のまん中に来てももっと西へ傾《かた》い《む》てもじっと化《か》石《せき》したようにうごかなかった。
土《つち》神《がみ*》ときつね
一本木の野原《 *》の、北のはずれに、少し小高く盛《も》りあがった所《ところ》がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇《き》麗《れい》な女の樺《かば》の木《 *》がありました。
それはそんなに大きくはありませんでしたが幹《みき》はてかてか黒く光り、枝《えだ》は美《うつく》しく伸《の》びて、五月には白い花を雲のようにつけ、秋は黄金や紅《くれない》やいろいろの葉《は》を降《ふ》らせました。
ですから渡《わた》り鳥のかっこうや百《も》舌《ず》も、また小さなみそさざえや目白もみんなこの木に停《と》まりました。ただもしも若《わか》い鷹《たか》などが来ているときは小さな鳥は遠くからそれを見《み》付《つ》けて決《けつ》して近くへ寄《よ》りませんでした。
この木に二人の友《とも》達《だち》がありました。一人は丁《ちよう》度《ど》五百歩ばかり離《はな》れたぐちゃぐちゃの谷《や》地《ち》の中に住《す》んでいる土《つち》神《がみ》で一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐《きつね》だったのです。
樺《かば》の木はどちらかと云《い》えば狐のほうがすきでした。なぜなら土神のほうは神《かみ》という名こそついてはいましたがごく乱《らん》暴《ぼう》で髪《かみ》もぼろぼろの木《も》綿《めん》糸《いと》の束《たば》のよう眼《め》も赤くきものだってまるでわかめに似《に》、いつもはだしで爪《つめ》も黒く長いのでした。ところが狐のほうは大へんに上《じよう》品《ひん》な風で滅《めつ》多《た》に人を怒《おこ》らせたり気にさわるようなことをしなかったのです。
ただもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神のほうは正直で狐は少し不正直だったかも知れません。
夏のはじめのある晩《ばん》でした。樺には新らしい柔《やわ》らかな葉《は》がいっぱいについていいかおりがそこら中いっぱい、空にはもう天の川がしらしらと渡《わた》り星はいちめんふるえたりゆれたり灯《とも》ったり消《き》えたりしていました。
その下を狐が詩《し》集《しゆう》をもって遊《あそ》びに行ったのでした。仕《し》立《たて》おろしの紺《こん》の脊《せ》広《びろ》を着《き》、赤《あか》革《がわ》の靴《くつ》もキッキッと鳴ったのです。
「実《じつ》にしずかな晩ですねえ。」
「ええ。」樺の木はそっと返《へん》事《じ》をしました。
「蝎《さそり》ぼしが向《むこ》うを這《は》っていますね。あの赤い大きなやつを昔《むかし》は支《し》那《な》では火《か》と云《い》ったんですよ。」
「火《か》星《せい》とはちがうんでしょうか。」
「火星とはちがいますよ。火星は惑《わく》星《せい》ですね、ところがあいつは立《りつ》派《ぱ》な恒《こう》星《せい》なんです。」
「惑星、恒星ってどういうんですの。」
「惑星というのはですね、自分で光らないやつです。つまりほかから光を受《う》けてやっと光るように見えるんです。恒星のほうは自分で光るやつなんです。お日さまなんかは勿《もち》論《ろん》恒星ですね。あんなに大きくてまぶしいんですがもし途《と》方《ほう》もない遠くから見たらやっぱり小さな星に見えるんでしょうね。」
「まあ、お日さまも星のうちだったんですわね。そうして見ると空にはずいぶん沢《たく》山《さん》のお日さまが、あら、お星さまが、あらやっぱり変《へん》だわ、お日さまがあるんですね。」
狐《きつね》は鷹《おう》揚《よう》に笑《わら》いました。
「まあそうです。」
「お星さまにはどうしてああ赤いのや黄のや緑《みどり》のやあるんでしょうね。」
狐《きつね》はまた鷹《おう》揚《よう》に笑って腕《うで》を高く組みました。詩《し》集《しゆう》はぷらぷらしましたがなかなかそれで落《お》ちませんでした。
「星に橙《だいだい》や青やいろいろある訳《わけ》ですか。それは斯《こ》うです。全《ぜん》体《たい》星というものははじめはぼんやりした雲のようなもんだったんです《 *》。いまの空にも沢《たく》山《さん》あります。たとえばアンドロメダにもオリオンにも猟《りよ》犬《うけ》座《んざ》にもみんなあります。猟犬座のは渦《うず》巻《ま》きです《 *》。それから環状星雲《リングネビユラ*》というのもあります。魚の口の形ですから魚口星雲《フイツシユマウスネビユラ》とも云《い》いますね。そんなのが今の空にも沢山あるんです。」
「まあ、あたしいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんてまあどんなに立《りつ》派《ぱ》でしょう。」
「それは立派ですよ。僕《ぼく》水《みず》沢《さわ》の天文台《 *》で見ましたがね。」
「まあ、あたしも見たいわ。」
「見せてあげましょう。僕実《じつ》は望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》を独乙《ドイツ》のツァイス《 *》に注《ちゆう》文《もん》してあるんです。来年の春までには来ますから来たらすぐ見せてあげましょう。」狐は思わず斯う云《い》ってしまいました。そしてすぐ考えたのです。ああ僕はたった一人のお友《とも》達《だち》にまたつい偽《うそ》を云《い》ってしまった。ああ僕はほんとうにだめなやつだ。けれども決《けつ》して悪《わる》い気で云ったんじゃない。よろこばせようと思って云ったんだ。あとですっかり本《ほん》統《とう》のことを云ってしまおう、狐はしばらくしんとしながら斯う考えていたのでした。樺《かば》の木はそんなことも知らないでよろこんで言いました。
「まあうれしい。あなた本統にいつでも親切だわ。」
狐は少し悄《しよ》気《げ》ながら答えました。
「ええ、そして僕はあなたのためならばほかのどんなことでもやりますよ。この詩集、ごらんなさいませんか。ハイネ《 *》という人のですよ。翻《ほん》訳《やく》ですけれども仲《なか》々《なか》よくできてるんです。」
「まあ、お借《か》りしていいんでしょうかしら。」
「構《かま》いませんとも。どうかゆっくりごらんなすって。じゃ僕もう失《しつ》礼《れい》します。はてな、何か云い残《のこ》したことがあるようだ。」
「お星さまのいろのことですわ。」
「ああそうそう、だけどそれは今《こん》度《ど》にしましょう。僕あんまり永《なが》くお邪《じや》魔《ま》しちゃいけないから。」
「あら、いいんですよ。」
「僕《ぼく》また来ますから、じゃさよなら。本はあげてきます。じゃ、さよなら。」狐《きつね》はいそがしく帰って行きました。そして樺《かば》の木はその時吹《ふ》いて来た南風にざわざわ葉《は》を鳴らしながら狐の置《お》いて行った詩《し》集《しゆう》をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来る微《かす》かなあかりにすかして頁《ページ》を繰《く》りました。そのハイネの詩集にはロウレライ《 *》やさまざま美《うつく》しい歌がいっぱいにあったのです。そして樺の木は一《ひと》晩《ばん》中よみ続《つづ》けました。ただその野原の三時すぎ東から金《きんぎ》牛《ゆうき》宮《ゆう*》ののぼるころ少しとろとろしただけでした。
夜があけました。太《たい》陽《よう》がのぼりました。
草には露《つゆ》がきらめき花はみな力いっぱい咲《さ》きました。
その東北の方から熔《と》けた銅《どう》の汁《しる》をからだ中に被《かぶ》ったように朝日をいっぱいに浴《あ》びて土《つち》神《がみ》がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも分《ふん》別《べつ》くさそうに腕《うで》を拱《こまね》きながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。
樺の木は何だか少し困《こま》ったように思いながらそれでも青い葉をきらきらと動かして土神の来る方を向《む》きました。その影《かげ》は草に落《お》ちてちらちらちらちらゆれました。土神はしずかにやって来て樺の木の前に立ちました。
「樺の木さん。お早う。」
「お早うございます。」
「わしはね、どうも考えてみるとわからんことが沢《たく》山《さん》ある、なかなかわからんことが多いもんだね。」
「まあ、どんなことでございますの。」
「たとえばだね、草というものは黒い土から出るのだがなぜこう青いもんだろう。黄や白の花さえ咲くんだ。どうもわからんねえ。」
「それは草の種《た》子《ね》が青や白をもっている《 *》ためではないでございましょうか。」
「そうだ。まあそう云《い》えばそうだがそれでもやっぱりわからんな。たとえば秋のきのこのようなものは種子もなし全《まつた》く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。」
「狐《きつね》さんにでも聞いてみましたらいかがでございましょう。」
樺《かば》の木はうっとり昨夜《ゆうべ》の星のはなしをおもっていましたのでつい斯《こ》う云ってしまいました。
この語《ことば》を聞いて土神は俄《にわ》かに顔いろを変《か》えました。そしてこぶしを握《にぎ》りました。
「何だ。狐? 狐が何を云いおった。」
樺の木はおろおろ声になりました。
「何も仰《お》っしゃったんではございませんがちょっとしたらご存《ぞん》知《ち》かと思いましたので。」
「狐《きつね》なんぞに神《かみ》が物《もの》を教わるとは一体何たることだ。えい。」
樺《かば》の木はもうすっかり恐《こわ》くなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土《つち》神《がみ》は歯《は》をきしきし噛《か》みながら高く腕《うで》を組んでそこらをあるきまわりました。その影《かげ》はまっ黒に草に落《お》ち草も恐《おそ》れて顫《ふる》えたのです。
「狐の如《ごと》きは実《じつ》に世《よ》の害《がい》悪《あく》だ。ただ一言もまことはなく卑《ひ》怯《きよう》で臆《おく》病《びよう》でそれに非《ひ》常《じよう》に妬《ねた》み深《ぶか》いのだ。うぬ、畜《ちく》生《しよう*》の分《ぶん》際《ざい》として。」
樺の木はやっと気をとり直して云《い》いました。
「もうあなたのほうのお祭《まつり》も近づきましたね。」土神は少し顔色を和《やわら》げました。
「そうじゃ。今日は五月三日、あと六日だ。」
土神はしばらく考えていましたが俄《にわ》かにまた声を暴《あら》らげました。
「しかしながら人間どもは不《ふ》届《とどき》だ。近《ちか》頃《ごろ》はわしの祭にも供《く》物《もつ》一つ持《も》って来ん、おのれ、今《こん》度《ど》わしの領《りよう》分《ぶん》に最《さい》初《しよ》に足を入れたものはきっと泥《どろ》の底《そこ》に引き擦《ず》り込《こ》んでやろう。」土神はまたきりきり歯《は》噛《が》みしました。
樺の木は折《せつ》角《かく》なだめようと思って云ったことがまたもや却《かえ》ってこんなことになったのでもうどうしたらいいかわからなくなりただちらちらとその葉《は》を風にゆすっていました。土神は日光を受《う》けてまるで燃《も》えるようになりながら高く腕《うで》を組みキリキリ歯噛みをしてその辺《へん》をうろうろしていましたが考えれば考えるほど何もかもしゃくにさわって来るらしいのでした。そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠《ほ》えるようにうなって荒《あら》々《あら》しく自分の谷《や》地《ち》に帰って行ったのでした。
土《つち》神《がみ》の棲《す》んでいる所《ところ》は小さな競《けい》馬《ば》場《じよう》ぐらいある、冷《つめ》たい湿《しつ》地《ち*》で苔《こけ》やからくさやみじかい蘆《あし》などが生えていましたがまた所《ところ》々《どころ》にはあざみやせいの低《ひく》いひどくねじれた楊《やなぎ》などもありました。
水がじめじめしてその表《ひよう》面《めん》にはあちこち赤い鉄《てつ》の渋《しぶ》が湧《わ》きあがり見るからどろどろで気《き》味《み》も悪《わる》いのでした。
そのまん中の小さな島のようになった所に丸太で拵《こしら》えた高さ一間《けん》ばかりの土神の祠《ほこら》があったのです。
土神はその島に帰って来て祠の横《よこ》に長々と寝《ね》そべりました。そして黒い瘠《や》せた脚《あし》をがりがり掻《か》きました。土神は一羽の鳥が自分の頭の上をまっすぐに翔《か》けて行くのを見ました。すぐ土《つち》神《がみ》は起《お》き直って「しっ。」と叫《さけ》びました。鳥はびっくりしてよろよろっと落《お》ちそうになりそれからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向《むこ》うへ遁《に》げて行きました。
土神は少し笑《わら》って起きあがりました。けれどもまたすぐ向うの樺《かば》の木の立っている高みの方を見るとはっと顔色を変《か》えて棒《ぼう》立《だ》ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風にそのぼろぼろの髪《かみ》毛《け》を両《りよ》手《うて》で掻《か》きむしっていました。
その時谷《や》地《ち》の南の方から一人の木《き》樵《こり》がやって来ました。三つ森山《 *》の方へ稼《かせ》ぎに出るらしく谷地のふちに沿《そ》った細い路《みち》を大《おお》股《また》に行くのでしたがやっぱり土神のことは知っていたとみえて時々気づかわしそうに土神の祠《ほこら》の方を見ていました。けれども木樵には土神の形は見えなかったのです。
土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔を熱《ほて》らせました。それから右手をそっちへ突《つ》き出して左手でその右手の手首をつかみこっちへ引き寄《よ》せるようにしました。すると奇《き》体《たい》なことは木樵はみちを歩いていると思いながらだんだん谷地の中に踏《ふ》み込《こ》んで来るようでした。それからびっくりしたように足が早くなり顔も青ざめて口をあいて息《いき》をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまわしました。すると木樵はだんだんぐるっと円《まる》くまわって歩いていましたがいよいよひどく周《あ》章《わ》てだしてまるではあはあはあはあしながら何べんも同じ所《ところ》をまわり出しました。何でも早く谷地から遁《に》げて出ようとするらしいのでしたがあせってもあせっても同じ処《ところ》を廻《まわ》っているばかりなのです。とうとう木樵はおろおろ泣《な》き出しました。そして両《りよう》手《て》をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉《うれ》しそうににやにやにやにや笑《わら》って寝《ね》そべったままそれを見ていましたが間もなく木樵がすっかり逆《の》上《ぼ》せて疲《つか》れてばたっと水の中に倒《たお》れてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大《おお》股《また》にそっちへ歩いて行って倒れている木樵のからだを向《むこ》うの草はらの方へぽんと投《な》げ出しました。木樵は草の中にどしりと落《お》ちてううんと云《い》いながら少し動《うご》いたようでしたがまだ気がつきませんでした。
土神は大声に笑いました。その声はあやしい波《なみ》になって空の方へ行きました。
空へ行った声はまもなくそっちからはねかえってガサリと樺《かば》の木の処《ところ》にも落ちて行きました。樺の木ははっと顔いろを変《か》えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。
土神はたまらなそうに両手で髪《かみ》を掻《か》きむしりながらひとりで考えました。おれのこんなに面《おも》白《しろ》くないというのは第《だい》一《いち》は狐《きつね》のためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木のほうはおれは怒《おこ》ってはいないのだ。樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。樺《かば》の木さえどうでもよければ狐《きつね》などはなおさらどうでもいいのだ。おれはいやしいけれどもとにかく神《かみ》の分《ぶん》際《ざい》だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないというのは情《なさけ》ない。それでも気にかかるから仕《し》方《かた》ない。樺の木のことなどは忘《わす》れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今《け》朝《さ》は青ざめて顫《ふる》えたぞ。あの立《りつ》派《ぱ》だったこと、どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれにあんなあわれな人間などをいじめたのだ。けれども仕方ない。誰《だれ》だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。
土《つち》神《がみ》はひとりで切《せつ》ながってばたばたしました。空をまた一疋《ぴき》の鷹《たか》が翔《か》けて行きましたが土神はこんどは何とも云《い》わずだまってそれを見ました。
ずうっとずうっと遠くで騎《き》兵《へい》の演《えん》習《しゆう》らしいパチパチパチパチ塩《しお》のはぜるような鉄《てつ》砲《ぽう》の音が聞えました。そらから青びかりがどくどくと野原に流《なが》れて来ました。それを呑《の》んだためかさっきの草の中に投《な》げ出された木《き》樵《こり》はやっと気がついておずおずと起《お》きあがりしきりにあたりを見《み》廻《まわ》しました。
それから俄《にわ》かに立って一《いち》目《もく》散《さん》に遁《に》げ出しました。三つ森山の方へまるで一目散に遁げました。
土神はそれを見てまた大きな声で笑《わら》いました。その声はまた青ぞらの方まで行き途《と》中《ちゆう》から、バサリと樺の木の方へ落ちました。
樺の木はまたはっと葉《は》の色をかえ見えないくらいこまかくふるいました。
土神は自分のほこらのまわりをうろうろうろうろ何べんも歩きまわってからやっと気がしずまったとみえてすっと形を消《け》し融《と》けるようにほこらの中へ入って行きました。
八月のある霧《きり》のふかい晩《ばん》でした。土《つち》神《がみ》は何とも云《い》えずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕《し》方《かた》ないのでふらっと自分の祠《ほこら》を出ました。足はいつの間にかあの樺《かば》の木の方へ向《むか》っていたのです。本《ほん》統《とう》に土神は樺の木のことを考えるとなぜか胸《むね》がどきっとするのでした。そして大へんに切《せつ》なかったのです。このごろは大へんに心《こころ》持《もち》が変《かわ》ってよくなっていたのです。ですからなるべく狐《きつね》のことなど樺の木のことなど考えたくないと思ったのでしたがどうしてもそれがおもえて仕方ありませんでした。おれはいやしくも神《かみ》じゃないか、一本の樺の木がおれに何のあたいがあると毎日毎日土神は繰《く》り返《かえ》して自分で自分に教えました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。殊《こと》にちょっとでもあの狐のことを思い出したらまるでからだが灼《や》けるくらい辛《つら》かったのです。
土《つち》神《がみ》はいろいろ深《ふか》く考え込《こ》みながらだんだん樺《かば》の木の近くに参《まい》りました。そのうちとうとうはっきり自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだということに気が付《つ》きました。すると俄《にわ》かに心《こころ》持《もち》がおどるようになりました。ずいぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待《ま》っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすれば大へんに気の毒《どく》だというような考が強く土神に起《おこ》って来ました。土神は草をどしどし踏《ふ》み胸を踊《おど》らせながら大《おお》股《また》にあるいて行きました。ところがその強い足なみもいつかよろよろしてしまい土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴《あ》びてつっ立たなければなりませんでした。それは狐《きつね》が来ていたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりに澱《よど》んだ霧《きり》の向《むこ》うから狐の声が聞えて来るのでした。
「ええ、もちろんそうなんです。器《き》械《かい》的《てき》に対称《シインメトリー》の法《ほう》則《そく》にばかり叶《かな》っているからってそれで美《うつく》しいというわけにはいかないんです。それは死《し》んだ美《び》です。」
「全《まつた》くそうですわ。」しずかな樺《かば》の木の声がしました。
「ほんとうの美はそんな固《こ》定《てい》した化《か》石《せき》した模《も》型《けい》のようなもんじゃないんです。対称の法則に叶うって云《い》ったって実《じつ》は対称の精《せい》神《しん》を有《も》っているというぐらいのことが望《のぞ》ましいのです。」
「ほんとうにそうだと思いますわ。」樺《かば》の木のやさしい声がまたしました。土神は今《こん》度《ど》はまるでべらべらした桃《もも》いろの火《 *》でからだ中燃《も》されているようにおもいました。息《いき》がせかせかしてほんとうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまえを切《せつ》なくするのか、高《たか》が樺の木と狐《きつね》との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱《みだ》されてそれでもお前は神《かみ》と云《い》えるか、土神は自分で自分を責《せ》めました。狐がまた云いました。
「ですから、どの美《び》学《がく》の本にもこれくらいのことは論《ろん》じてあるんです。」
「美学のほうの本沢《たく》山《さん》おもちですの。」樺の木はたずねました。
「ええ、よけいもありませんがまあ日本語と英《えい》語《ご》と独乙《ドイツ》語《ご》のなら大《たい》抵《てい》ありますね、伊太利《イタリア》のは新らしいんですがまだ来ないんです。」
「あなたのお書《しよ》斎《さい》、まあどんなに立《りつ》派《ぱ》でしょうね。」
「いいえ、まるでちらばってますよ、それに研《けん》究《きゆう》室《しつ》兼《けん》用《よう》ですからね、あっちの隅《すみ》には顕《けん》微《び》鏡《きよう》こっちにはロンドンタイムス《 *》、大《だい》理《り》石《せき》のシィザアがころがったりまるっきりごったごたです。」
「まあ、立派だわねえ、ほんとうに立派だわ。」
ふんと狐の謙《けん》遜《そん》のような自《じ》慢《まん》のような息の音がしてしばらくしいんとなりました。
土《つち》神《がみ》はもう居《い》ても立ってもいられませんでした。狐《きつね》の言っているのを聞くと全《まつた》く狐のほうが自分よりはえらいのでした。いやしくも神《かみ》ではないかと今まで自分で自分に教えていたのが今《こん》度《ど》はできなくなったのです。ああつらいつらい、もう飛《と》び出して行って狐を一《ひと》裂《さ》きに裂いてやろうか、けれどもそんなことは夢《ゆめ》にもおれの考えるべきことじゃない、けれどもそのおれというものは何だ結《けつ》局《きよく》狐にも劣《おと》ったもんじゃないか、一体おれはどうすればいいのだ、土神は胸《むね》をかきむしるようにしてもだえました。
「いつかの望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》まだ来ないんですの。」樺《かば》の木がまた言いました。
「ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧《おう》州《しゆう》航《こう》路《ろ》は大分混《こん》乱《らん》してますからね。来たらすぐ持《も》って来てお目にかけますよ。土《ど》星《せい》の環《わ》なんかそれぁ美《うつく》しいんですからね。」
土神は俄《にわか》に両《りよう》手《て》で耳を押《おさ》えて一《いち》目《もく》散《さん》に北の方へ走りました。だまっていたら自分が何をするかわからないのが恐《おそ》ろしくなったのです。
まるで一目散に走って行きました。息《いき》がつづかなくなってばったり倒《たお》れたところは三つ森山の麓《ふもと》でした。
土神は頭の毛をかきむしりながら草をころげまわりました。それから大声で泣《な》きました。その声は時でもない雷《かみなり》のように空へ行って野原中へ聞えたのです。土神は泣いて泣いて疲《つか》れてあけ方ぼんやり自分の祠《ほこら》に戻《もど》りました。
そのうちとうとう秋になりました。樺《かば》の木はまだまっ青でしたがその辺《へん》のいのころぐさはもうすっかり黄金いろの穂《ほ》を出して風に光りところどころすずらんの実《み》も赤く熟《じゆく》しました。
あるすきとおるように黄金いろの秋の日土《つち》神《がみ》は大へん上《じよう》機《き》嫌《げん》でした。今《こ》年《とし》の夏からのいろいろなつらい思いが何だかぼうっとみんな立《りつ》派《ぱ》なもやのようなものに変《かわ》って頭の上に環《わ》になってかかったように思いました。そしてもうあの不《ふ》思《し》議《ぎ》に意《い》地《じ》の悪《わる》い性《せい》質《しつ》もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐《きつね》と話したいなら話すがいい、両《りよう》方《ほう》ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木に云《い》ってやろうと思いながら土神も心も軽《かる》く樺の木の方へ歩いて行きました。
樺の木は遠くからそれを見ていました。
そしてやっぱり心《しん》配《ぱい》そうにぶるぶるふるえて待《ま》ちました。
土神は進《すす》んで行って気軽に挨《あい》拶《さつ》しました。
「樺《かば》の木さん。お早う。実《じつ》にいい天気だな。」
「お早うございます。いいお天気でございます。」
「天《てん》道《とう》というものはありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると葡《ぶ》萄《どう》は紫《むらさき》になる。実にありがたいもんだ。」
「全《まつた》くでございます。」
「わしはな、今日は大へんに気ぶんがいいんだ。今《こ》年《とし》の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今《け》朝《さ》からにわかに心《ここ》持《ろも》ちが軽《かる》くなった。」
樺の木は返《へん》事《じ》しようとしましたがなぜかそれが非《ひ》常《じよう》に重《おも》苦《くる》しいことのように思われて返事しかねました。
「わしはいまなら誰《だれ》のためにでも命《いのち》をやる《 *》。みみずが死《し》ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」土《つち》神《がみ》は遠くの青いそらを見て云《い》いました。その眼《め》も黒く立《りつ》派《ぱ*》でした。
樺の木はまた何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわずか吐《と》息《いき》をつくばかりでした。
そのときです。狐《きつね》がやって来たのです。
狐は土神の居《い》るのを見るとはっと顔いろを変《か》えました。けれども戻《もど》るわけにも行かず少しふるえながら樺の木の前に進《すす》んで来ました。
「樺《かば》の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」狐は赤《あか》革《がわ》の靴《くつ》をはき茶いろのレーンコートを着《き》てまだ夏《なつ》帽《ぼう》子《し》をかぶりながら斯《こ》う云いました。
「わしは土神だ。いい天気だ。な。」土神はほんとうに明るい心持で斯う言いました。狐は嫉《ねた》ましさに顔を青くしながら樺の木に言いました。
「お客《きやく》さまのお出《い》でのところにあがって失《しつ》礼《れい》いたしました。これはこの間お約《やく》束《そく》した本です。それから望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》はいつかはれた晩《ばん》にお目にかけます。さよなら。」
「まあ、ありがとうございます。」と樺の木が言っているうちに狐はもう土神に挨《あい》拶《さつ》もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷり顫《ふる》いました。
土神はしばらくの間ただぼんやりと狐《きつね》を見《み》送《おく》って立っていましたがふと狐の赤革の靴のキラッと草に光るのにびっくりして我《われ》に返《かえ》ったと思いましたら俄《にわ》かに頭がぐらっとしました。狐がいかにも意《い》地《じ》をはったように肩《かた》をいからせてぐんぐん向《むこ》うへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒《おこ》りました。顔も物《もの》凄《すご》くまっ黒に変《かわ》ったのです。美《び》学《がく》の本だの望遠鏡だのと、畜《ちく》生《しよう》、さあ、どうするか見ろ、といきなり狐のあとを追《お》いかけました。樺の木はあわてて枝《えだ》が一ぺんにがたがたふるえ、狐もそのけはいにどうかしたのかと思って何《なに》気《げ》なくうしろを見ましたら土《つち》神《がみ》がまるで黒くなって嵐《あらし》のように追って来るのでした。さあ狐《きつね》はさっと顔いろを変え口もまがり風のように走って遁《に》げ出しました。
土神はまるでそこら中の草がまっ白な火になって燃《も》えているように思いました。青く光っていたそらさえ俄《にわ》かにガランとまっ暗《くら》な穴《あな》になってその底《そこ》では赤い焔《ほのお》がどうどう音を立てて燃えると思ったのです。
二人はごうごう鳴って汽車のように走りました。
「もうおしまいだ、もうおしまいだ、望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》、望遠鏡、望遠鏡。」と狐は一心に頭の隅《すみ》のとこで考えながら夢《ゆめ》のように走っていました。
向《むこ》うに小さな赤《あか》剥《は》げの丘《おか》がありました。狐はその下の円《まる》い穴にはいろうとしてくるっと一つまわりました。それから首を低《ひく》くしていきなり中へ飛《と》び込《こ》もうとして後あしをちらっとあげたときもう土神はうしろからばっと飛《と》びかかっていました。と思うと狐はもう土神にからだをねじられて口を尖《とが》らして少し笑《わら》ったようになったままぐんにゃりと土神の手の上に首を垂《た》れていたのです。
土神はいきなり狐を地べたに投《な》げつけてぐちゃぐちゃ四、五へん踏《ふ》みつけました。
それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗《くら》くただ赤土が奇《き》麗《れい》に堅《かた》められているばかりでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変《へん》な気がして外へ出て来ました。
それからぐったり横《よこ》になっている狐の屍《し》骸《がい》のレーンコートのかくしの中に手を入れてみました。そのかくしの中には茶いろなかもがや《 *》の穂《ほ》が二本はいっていました。土神はさっきからあいていた口をそのまままるで途《と》方《ほう》もない声で泣《な》き出しました。
その泪《なみだ》は雨のように狐に降《ふ》り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑《わら》ったようになって死んでいたのです。
気のいい火《か》山《ざん》弾《だん*》
ある死《し》火《か》山《ざん》のすそ野のかしわの木のかげに、「ベゴ《 *》」というあだ名の大きな黒い石が永《なが》いことじぃっと座《すわ》っていました。
「ベゴ」と云《い》う名は、その辺《へん》の草の中にあちこち散《ち》らばった、稜《かど》のあるあまり大きくない黒い石どもが、つけたのでした。ほかに、立《りつ》派《ぱ》な、本とうの名前もあったのでしたが、「ベゴ」石もそれを知りませんでした。
ベゴ石は、稜がなくて、丁《ちよう》度《ど》卵《たまご》の両《りよう》はじを、少しひらたくのばしたような形でした。そして、ななめに二本の石の帯《おび》のようなものが、からだを巻《ま》いてありました。非《ひ》常《じよう》に、たちがよくて、一ぺんも怒《おこ》ったことがないのでした。
それですから、深《ふか》い霧《きり》がこめて、空も山も向《むこ》うの野原もなんにも見えず退《たい》くつな日は、稜のある石どもは、みんな、ベゴ石をからかって遊《あそ》びました。
「ベゴさん。今《こん》日《ち》は。おなかの痛《いた》いのは、なおったかい。」
「ありがとう。僕《ぼく》は、おなかが痛くなかったよ。」とベゴ石は、霧《きり》の中でしずかに云《い》いました。
「アァハハハハ。アァハハハハハ。」稜《かど》のある石は、みんな一《いち》度《ど》に笑《わら》いました。
「ベゴさん。こんちは。ゆうべは、ふくろうがお前さんに、とうがらしを持《も》って来てやったかい。」
「いいや。ふくろうは、昨夜《ゆうべ》、こっちへ来なかったようだよ。」
「アァハハハハ。アァハハハハハ。」稜のある石は、もう大笑いです。
「ベゴさん。今《こん》日《ち》は。昨日《きのう》の夕方、霧《きり》の中で、野馬がお前さんに小《しよう》便《べん》をかけたろう。気の毒《どく》だったね。」
「ありがとう。おかげで、そんな目には、あわなかったよ。」
「アァハハハハ。アァハハハハハ。」みんな大《おお》笑《わら》いです。
「ベゴさん。今日は。今《こん》度《ど》新らしい法《ほう》律《りつ》が出てね、まるいものや、まるいようなものは、みんな卵《たまご》のように、パチンと割《わ》ってしまうそうだよ。お前さんも早く逃《に》げたらどうだい。」
「ありがとう。僕《ぼく》は、まんまる大《たい》将《しよう》のお日さんと一しょに、パチンと割られるよ。」
「アァハハハハ、アァハハハハハ。どうも馬《ば》鹿《か》で手がつけられない。」
丁《ちよう》度《ど》その時、霧《きり》が晴れて、お日《ひ》様《さま》の光がきん色に射《さ》し、青ぞらがいっぱいにあらわれましたので、稜《かど》のある石どもは、みんな雨のお酒《さけ》のことや、雪の団《だん》子《ご》のことを考えはじめました。そこでベゴ石も、しずかに、まんまる大将の、お日さまと青ぞらとを見あげました。
その次《つぎ》の日、また、霧《きり》がかかりましたので、稜石どもは、またベゴ石をからかいはじめました。実《じつ》は、ただからかったつもりだっただけです。
「ベゴさん。おれたちは、みんな、稜がしっかりしているのに、お前さんばかり、なぜそんなにくるくるしてるだろうね。一《いつ》緒《しよ》に噴《ふん》火《か》のとき、落《お》ちて来たのにね。」
「僕《ぼく》は、生れてまだまっかに燃《も》えて空をのぼるとき、くるくるくるくる、からだがまわったからね。」
「ははあ、僕たちは、空へのぼるときも、のぼるくらいのぼって、一《ちよ》寸《つと》とまった時も、それから落ちて来るときも、いつも、じっとしていたのに、お前さんだけは、なぜそんなに、くるくるまわったろうね。」
その癖《くせ》、こいつらは、噴《ふん》火《か》で砕《くだ》けて、まっくろな煙《けむり》と一緒に、空へのぼった時は、みんな気《き》絶《ぜつ》していたのです。
「さあ、僕は一《いつ》向《こう》まわろうとも思わなかったが、ひとりでからだがまわって仕《し》方《かた》なかったよ。」
「ははあ、何かこわいことがあると、ひとりでからだがふるえるからね。お前さんも、ことによったら、臆《おく》病《びよう》のためかも知れないよ。」
「そうだ。臆病のためだったかも知れないね。じっさい、あの時の、音や光は大へんだったからね。」
「そうだろう。やっぱり、臆病のためだろう。ハッハハハハッハ、ハハハハハ。」
稜《かど》のある石は、一しょに大声でわらいました。その時、霧《きり》がはれましたので、角のある石は、空を向《む》いて、てんでに勝《かつ》手《て》なことを考えはじめました。
ベゴ石も、だまって、柏《かしわ》の葉《は》のひらめきをながめました。
それから何べんも、雪がふったり、草が生えたりしました。かしわは、何べんも古い葉を落《おと》して、新らしい葉をつけました。
ある日、かしわが云《い》いました。
「ベゴさん。僕とあなたが、お隣《とな》りになってから、もうずいぶん久《ひさ》しいもんですね。」
「ええ。そうです。あなたは、ずいぶん大きくなりましたね。」
「いいえ。しかし僕なんか、前はまるで小さくて、あなたのことを、黒い途《と》方《ほう》もない山だと思っていたんです。」
「はあ、そうでしょうね。今はあなたは、もう僕の五倍《ばい》もせいが高いでしょう。」
「そう云《い》えばまあそうですね。」
かしわは、すっかり、うぬぼれて、枝《えだ》をピクピクさせました。
はじめは仲《なか》間《ま》の石どもだけでしたがあんまりベゴ石が気がいいのでだんだんみんな馬《ば》鹿《か》にし出しました。おみなえし《 *》、斯《こ》う云いました。
「ベゴさん。僕《ぼく》は、とうとう、黄金のかんむりをかぶりましたよ。」
「おめでとう。おみなえしさん。」
「あなたは、いつ、かぶるのですか。」
「さあ、まあ私はかぶりませんね。」
「そうですか。お気の毒《どく》ですね。しかし。いや。はてな。あなたも、もうかんむりをかぶってるではありませんか。」
おみなえしは、ベゴ石の上に、このごろ生えた小さな苔《こけ》を見て、云いました。
ベゴ石は笑《わら》って、
「いやこれは苔ですよ。」
「そうですか。あんまり見ばえがしませんね。」
それから十日ばかりたちました。おみなえしはびっくりしたように叫《さけ》びました。
「ベゴさん。とうとう、あなたも、かんむりをかぶりましたよ。つまり、あなたの上の苔がみな赤ずきん《 *》をかぶりました。おめでとう。」ベゴ石は、にが笑《わら》いをしながら、なにげなく云いました。
「ありがとう。しかしその赤《あか》頭《ず》巾《きん》は、苔のかんむりでしょう。私のではありません。私の冠《かんむり》は、今に野原いちめん、銀《ぎん》色《いろ》にやって来ます。」
このことばが、もうおみなえしのきもを、つぶしてしまいました。
「それは雪でしょう。大へんだ。大へんだ。」
ベゴ石も気がついて、おどろいておみなえしをなぐさめました。
「おみなえしさん。ごめんなさい。雪が来て、あなたはいやでしょうが、毎年のことで仕《し》方《かた》もないのです。その代《かわ》り、来年雪が消《き》えたら、きっとすぐまたいらっしゃい。」
おみなえしは、もう、へんじをしませんでした。またその次《つぎ》の日のことでした。蚊《か》が一疋《ぴき》くうんくうんとうなってやって来ました。
「どうも、この野原には、むだなものが沢《たく》山《さん》あっていかんな。たとえば、このベゴ牛のようなものだ。ベゴ牛のごときは、何のやくにもたたない。むぐらのようにつちをほって、空気をしんせんにするということもしない。草っぱのように露《つゆ》をきらめかして、われわれの目の病《やまい》をなおすということもない。くううん。くううん。」と云《い》いながら、また向《むこ》うへ飛《と》んで行きました。
ベゴ石の上の苔《こけ》は、前からいろいろ悪《わる》口《くち》を聞いていましたが、ことに、今の蚊《か》の悪口を聞いて、いよいよベゴ石を、馬《ば》鹿《か》にしはじめました。
そして、赤い小さな頭《ず》巾《きん》をかぶったまま、踊《おど》りはじめました。
「ベゴ黒《くろ》助《すけ》、ベゴ黒助、
黒助どんどん、
あめがふっても黒助、どんどん、
日が照《て》っても、黒助どんどん。
ベゴ黒助、ベゴ黒助、
黒助どんどん、
千年たっても、黒助どんどん、
万年たっても、黒助どんどん。」
ベゴ石は笑《わら》いながら、
「うまいよ。なかなかうまいよ。しかしその歌は、僕《ぼく》はかまわないけれど、お前たちには、よくないことになるかも知れないよ。僕が一つ作ってやろう。これからは、そっちをおやり。ね、そら、
お空。お空。お空のちちは、
つめたい雨の ザァザザザ、
かしわのしずくトンテントン、
まっしろきりのポッシャントン。
お空。お空。お空のひかり、
おてんとさまは、カンカンカン、
月のあかりは、ツンツンツン、
ほしのひかりの、ピッカリコ。」
「そんなものだめだ。面《おも》白《しろ》くもなんともないや。」
「そうか。僕は、こんなこと、まずいからね。」
ベゴ石は、しずかに口をつぐみました。
そこで、野原中のものは、みんな口をそろえて、ベゴ石をあざけりました。
「なんだ。あんな、ちっぽけな赤《あか》頭《ず》巾《きん》に、ベゴ石め、へこまされてるんだ。もうおいらは、あいつとは絶《ぜつ》交《こう》だ。みっともない。黒助め。黒助、どんどん。ベゴどんどん。」
その時、向《むこ》うから、眼《め》がねをかけた、せいの高い立《りつ》派《ぱ》な四人の人たちが、いろいろなピカピカする器《き》械《かい》をもって、野原をよこぎって来ました。その中の一人が、ふとベゴ石を見て云《い》いました。
「あ、あった、あった。すてきだ。実《じつ》にいい標《ひよう》本《ほん》だね。火《か》山《ざん》弾《だん》の典《てん》型《けい》だ。こんなととのったのは、はじめて見たぜ。あの帯《おび》の、きちんとしてることね。もうこれだけでも今《こん》度《ど》の旅《りよ》行《こう》は沢《たく》山《さん》だよ。」
「うん。実によくととのってるね。こんな立《りつ》派《ぱ》な火山弾は、大《だい》英《えい》博《はく》物《ぶつ》館《かん》にだってないぜ。」
みんなは器械を草の上に置《お》いて、ベゴ石をまわってさすったりなでたりしました。
「どこの標本でも、この帯の完《かん》全《ぜん》なのはないよ。どうだい。空でぐるぐるやった時の工《ぐ》合《あい》が、実によくわかるじゃないか。すてき、すてき。今日すぐ持《も》って行こう。」
みんなは、また、向《むこ》うの方へ行きました。稜《かど》のある石は、だまってため息《いき》ばかりついています。そして気のいい火山弾は、だまってわらっておりました。
ひるすぎ、野原の向うから、またキラキラめがねや器《き》械《かい》が光って、さっきの四人の学《がく》者《しや》と、村の人たちと、一台の荷《に》馬《ば》車《しや》がやって参《まい》りました。
そして、柏《かしわ》の木の下にとまりました。
「さあ、大切な標《ひよう》本《ほん》だから、こわさないようにしてくれ給《たま》え。よく包《つつ》んでくれ給え。苔《こけ》なんかむしってしまおう。」
苔は、むしられて泣《な》きました。火《か》山《ざん》弾《だん》はからだを、ていねいに、きれいな藁《わら》や、むしろに包まれながら、云《い》いました。
「みなさん。ながながお世《せ》話《わ》でした。苔さん。さよなら。さっきの歌を、あとで一ぺんでも、うたって下さい。私の行くところは、ここのように明るい楽しいところではありません。けれども、私共《ども》は、みんな、自分でできることをしなければなりません。さよなら。みなさん。」
「東京帝《てい》国《こく》大学校地《ち》質《しつ》学教室行。」と書いた大きな札《ふだ》がつけられました。
そして、みんなは、「よいしょ。よいしょ。」と云いながら包みを、荷馬車へのせました。
「さあ、よし、行こう。」
馬はプルルルと鼻《はな》を一つ鳴らして、青い青い向うの野原の方へ、歩き出しました。
化《ばけ》物《もの》丁《ちよう》場《ば*》
五、六日続《つづ》いた雨の、やっとあがった朝でした。黄《き》金《ん》の日光が、青い木や稲《いね》を、照《てら》してはいましたが、空には、方角の決《き》まらない雲がふらふら飛《と》び、山《さん》脈《みやく》も非《ひ》常《じよう》に近く見えて、なんだかまだほんとうに霽《は》れたというような気がしませんでした。
私は、西の仙《せん》人《にん》鉱《こう》山《ざん*》に、小さな用《よう》事《じ》がありましたので、黒《くろ》沢《さわ》尻《じり*》で、軽《けい》便《べん》鉄《てつ》道《どう*》に乗《の》りかえました。
車室の中は、割《わり》合《あい》空《す》いておりました。それでもやっぱり二十人ぐらいはあったでしょう。がやがや話しておりました。私のあとから入って来た人もありました。
話はここでも、本《ほん》線《せん》のほうと同じように、昨日《きのう》までの雨と洪《こう》水《ずい》の噂《うわさ》でした。大《たい》抵《てい》南の方のことでした。狐《こ》禅《ぜん》寺《じ*》では、北《きた》上《かみ》川が一丈《じよ》 《う》六尺《しやく》増《ま》したと誰《だれ》かが云《い》いました。宮《みや》城《ぎ》の品《しな》井《い》沼《ぬま*》の岸《きし》では、稲がもう四日も泥《どろ》水《みず》を被《かぶ》っている、どうしても今《こ》年《とし》はあの辺《へん》は半作だろうとまた誰か言っていました。
ところが私のうしろの席《せき》で、突《とつ》然《ぜん》太い強い声がしました。
「雫《しずく》石《いし》、橋《はし》場《ば》間《 *》、まるで滅《め》茶《ちや》苦《く》茶《ちや》だ。レールが四間《けん》も突《つ》き出されている。枕《まくら》木《ぎ》も何もでこぼこだ。十日や十五日でぁ、一《ちよ》寸《つと》六《むつ》ヶ《か》敷《し》ぃな。」
ははあ、あの化《ばけ》物《もの》丁《ちよう》場《ば》だな、私は思いながら、急《いそ》いでそっちを振《ふ》り向《む》きました。その人は線《せん》路《ろ》工《こう》夫《ふ》の絆《はん》纏《てん》を着《き》て、鍔《つば》の広い麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》を、上の棚《たな》に載《の》せながら、誰に云《い》うとなく大きな声でそう言っていたのです。
「ああ、あの化物丁場ですか、壊《こわ》れたのは。」私は頭を半分そっちへ向《む》けて、笑《わら》いながら尋《たず》ねました。鉄《てつ》道《どう》工《こう》夫《ふ》の人はちらっと私を見てすぐ笑《わら》いました。
「そうです。どうして知っていますか。」少し改《あらたま》った兵《へい》隊《たい》口《く》調《ちよう》で尋《たず》ねました。
「はあ、なあに、あの頃《ころ》一《ちよ》寸《つと》あすこらを歩いたもんですから。今《こん》度《ど》は大分ひどくやられましたか。」
「やられました。」その人はやっと席《せき》へ腰《こし》をおろしながら答えました。
「やっぱり今でも化《ばけ》物《もの》だって云いますか。」
「うんは。」その人は大へん曖《あい》昧《まい》な調《ちよう》子《し》で答えました。これが、私を、どうしても、もっと詳《くわ》しく化物丁《ちよう》場《ば》の噂《うわさ》を聴《き》きたくしたのです。そこで私は、向《むこ》うに話をやめてしまわれないために、また少し遠まわりのことから話し掛《か》けました。
「鉄道院《いん*》へ渡《わた》してから、壊れたのは今度始《はじ》めてですか。」
「はあ、鉄《てつ》道《どう》院《いん》でも大《おお》損《ぞん》す。」
「渡《わた》す前にも三、四度《ど》壊《こわ》れたんですね。」
「はあ、大きなのは三度です。」
「請《うけ》負《おい》のほうでも余《よ》程《ほど》の損だったでしょう。」
「はあ、やっぱり損だってました。ああ云《い》う難《なん》渋《じゆう》な処《ところ》にぶっつかっては全《まつた》く損するより仕《し》方《かた》ありません。」
「どうしてそう度《たび》々《たび》壊れたでしょう。」
「なあに、私ぁ行ってから二度崩《くず》れましたが雨降《ふ》るど崩れるんだ。そうだがらって水のためでもないんだ、全くおかしいです。」
「あなたも行って働《はたら》いていたのですか。」
「私の行ったのは十一月でしたが、丁《ちよう》度《ど》砂《じや》利《り》を盛《も》って、そいつが崩れたばかりのところでした。全《ぜん》体《たい》、あれは請負の岩《いわ》間《ま》組《ぐみ》の技《ぎ》師《し》が少し急《いそ》いだんです。ああ云う場《ば》所《しよ》だがら思い切って下の岩からコンクリー使《つか》えば善《よ》かったんです。それでもやっぱり崩れたかも知れませんが。」
「大した谷川も無《な》かったようでしたがね。」
「いいえ、水は、いくらか、下の岩からも、横《よこ》の山の崖《がけ》からも、湧《わ》くんです。土も黒くてしめっていたのです。その土の上に、すぐ砂《じや》利《り》を盛《も》りましたから、一《いつ》層《そう》いけなかったのです。」
その時汽《き》笛《てき》が鳴って汽車は発《た》ちました。私は行《ゆく》手《て》の青く光っている仙《せん》人《にん》の峡《はざま》を眺《なが》め、それからふと空を見て、思わず、こいつはひどい、と、つぶやきました。雲が下の方と上の方と、すっかり反《はん》対《たい》に矢のように馳《は》せちがっていたのです。
「また嵐《あらし》になりますよ。風がまったく変《へん》です。」私は工《こう》夫《ふ》に云《い》いました。
その人も一《ちよ》寸《つと》立って窓《まど》から顔を出してそれから、
「まだまだ降《ふ》ります、今日は一寸あらしの日曜という訳《わけ》だ。」と、つぶやくように云いながら、また席《せき》に戻《もど》りました。電《でん》信《しん》柱《ばしら》の瀬《せ》戸《と》の碍《がい》子《し》が、きらっと光ったり、青く葉《は》をゆすりながら楊《やなぎ》がだんだんめぐったり、汽車は丁《ちよう》度《ど》黒《くろ》沢《さわ》尻《じり》の町をはなれて、まっすぐに西の方へ走りました。
「でその崩《くず》れた砂利を、あなたも積《つ》み直したのですか。」
「そうです。」その人は笑《わら》いました。たしかにこの人は化《ばけ》物《もの》丁《ちよう》場《ば》の話をするのが厭《いや》じゃないのだと私は思いました。
「それが、また、崩れたのですか。」私は尋《たず》ねました。
「崩れたのです。それも百人からの人《にん》夫《ぷ》で、八日かかってやったやつです。積《つ》み直しといっても大部分は雫《しずく》石《いし》の河《か》原《わら》から、トロで運《はこ》んだんです。前に崩《くず》れた分もそっくり使《つか》って。だからずうっと脚《あし》がひろがっていかにも丈《じよう》夫《ぶ》そうになったんです。」
「中々容《よう》易《い》じゃなかったんでしょう。」
「ええ、とても。鉄《てつ》道《どう》院《いん》から進《しん》行《こう》検《けん》査《さ》があるので請《うけ》負《おい》のほうの技《ぎ》師《し》のあせりようったらありませんや、従《したが》って監《かん》督《とく》は厳《きび》しく急《いそ》ぎますしね、毎日天気でカラッとして却《かえ》って風は冷《つめ》たいし、朝などは霜《しも》が雪のようでした。そこを砂《じや》利《り》を、掘《ほ》っては、掘っては、積《つ》んでは、トロを押《お》したもんです。」
私は、あのすきとおった、つめたい十一月の空気の底《そこ》で、栗《くり》の木や樺《かば》の木もすっかり黄いろになり、四方の山にはまっ白に雪が光り、雫《しずく》石《いし》川がまるで青ガラスのように流《なが》れている、そのまっ白な広い河原を小さなトロがせわしく往《い》ったり来たりし、みんなが鶴《つる》嘴《はし》を振《ふ》り上げたり、シャベルをうごかしたりする景《け》色《しき》を思いうかべました。それからその人たちが赤い毛《もう》布《ふ》でこさえたシャツを着《き》たり、水で凍《こご》えないために、茶色の粗《そ》羅《ら》紗《しや》で厚《あつ》く足を包《つつ》んだりしている様《よう》子《す》を眼《め》の前に思い浮《うか》べました。
「ほんとうにお容《よう》易《い》じゃありませんね。」
「なあに、そうやって、やっと積み上ったんです。進行検査にも間に合ったてんで、監《かん》督《とく》たちもほっとしていたようでした。私どももそのひどい仕《し》事《ごと》で、いくらか割《わり》増《まし》も貰《もら》うはずでしたし、明日からの仕事も割《わり》合《あい》楽《らく》になるという訳《わけ》でしたから、その晩《ばん》は実《じつ》は、春木場《 *》で一《いつ》杯《ぱい》やったんです。それから小《こ》舎《や》に帰って寝《ね》ましたがね、いい晩なんです、すっかり晴れて庚《こう》申《しん》さん《 *》なども実にはっきり見えてるんです。あしたは霜《しも》がひどいぞ、砂利も悪《わる》くすると凍《こお》るぞって云《い》いながら、寝たんです。すると夜中になって、そう、二時過《す》ぎですな、ゴーッと云うような音が、夢《ゆめ》の中で遠くに聞えたんです。眼《め》をさましたのが私たちの小《こ》屋《や》に三、四人ありました。ぼんやりした黄いろのランプの下へ頭をあげたまま誰《だれ》も何とも云わないんです。だまってその音のした方へ半分からだを起《おこ》してほかのものの顔ばかり見ていたんです。すると俄《にわ》かに監督が戸をガタッとあけて走って入って来ました。
『起《お》きろ、みんな起きろ、今日のとこ崩《くず》れたぞ。早く起きろ、みんな行ってくれ。』って云うんです。誰も不《ふ》精《しよう》無《ぶ》精《しよう》起きました。まだ眼をさまさないものは監督が起《おこ》して歩いたんです。なんだ、崩れた、崩れた処《ところ》へ夜中に行ったって何《な》じょするんだ、なんて睡《ねむ》くて腹《はら》立《だ》ちまぎれに云うものもありましたが、大《たい》抵《てい》はみな顔色を変《か》えて、うす暗《ぐら》いランプのあかりで仕《し》度《たく》をしたのです。間もなく、私たちは、アセチレンを十ばかりつけて出かけました。水をかけられたように寒《さむ》かったんです。天の川がすっかりまわってしまっていました。野原や木はまっくろで、山ばかりぼんやり白かったんです。場《ば》処《しよ》へ着《つ》いて見ますと、もうすっかり崩《くず》れているらしいんです。そのアセチレンの青の光の中をみんなの見ている前でまだ石がコロコロ崩れてころがって行くんです。気《き》味《み》の悪《わる》いったら。」その人は一《ちよ》寸《つと》話を切りました。私もその盛《も》られた砂《じや》利《り》をみんなが来てもまだいたずらに押《お》しているすきとおった手のようなものを考えて、何だか気味が悪く思いました。それでもやっと尋《たず》ねました。
「それからまた工《こう》事《じ》をやったんですか。」
「やったんです。すぐその場《ば》からです。技《ぎ》師《し》がまるで眼を真《まつ》赤《か》にして、別《べつ》段《だん》な訳《わけ》もないのに怒《ど》鳴《な》ったり、叱《しか》ったりして歩いたんです。滑《すべ》った砂利を積《つ》み直したんです。けれどもどうしたって誰《だれ》も仕事に実《み》が入りませんや。そうでしょう。一《いち》度《ど》別段の訳《わけ》もなく崩れたのならいずれまた格《かく》別《べつ》の訳もなしに崩れるかもしれない、それでもまあ仕事さえしていれゃ賃《ちん》金《ぎん》は向《むこ》うじゃ払《はら》いますからね、いくらつまらないと思っても、技師がそうしろって云うことを、その通りやるより仕方ありませんや。ハッハッハ。一《ちよ》寸《つと》。」
その工《こう》夫《ふ》の人は立ちあがって窓《まど》から顔を出し手をかざして行《ゆく》手《て》の線《せん》路《ろ》をじっと見ていましたが、俄《にわ》かに下の方へ「よう。」と叫《さけ》んで、挙《きよ》手《しゆ》の礼《れい》をしました。私も、窓から顔を出して見ましたら、一人の工夫がシャベルを両《りよう》手《て》で杖《つえ》にして、線路にまっすぐに立ち、笑《わら》ってこっちを見ていました。それもずんずんうしろの方へ遠くなってし《う》まい、向うには栗《くり》駒《こま》山《 *》が青く光って、カラッとしたそらに立っていました。私たちはまた腰《こし》掛《か》けました。
「今《こん》度《ど》の積《つ》み直しもまた八日もかかったんですか。」私は尋ねました。
「いいえ、その時は前の半分もかからなかったのです。砂利を運ぶ手数がなかったものですから。その代《かわ》り乱《らん》杭《ぐい》を二、三十本打《う》ちこみましたがね、昼になってその崩れた工《ぐ》合《あい》を見ましたらまるでまん中から裂《さ》けたようなあんばいだったのです。県からも人が来てしきりに見ていましたがね、どうもその理《り》由《ゆう》がよくわからなかったようでした。それでも四日でとにかくもとの通り出来あがったんです。その出来あがった晩《ばん》は、私たちは十六人、たき火を三つ焚《た》いて番をしていました。尤《もつ》も《と》番をするったって何をめあてって云《い》うこともなし、変《へん》なもんでしたが、酒《さけ》を呑《の》んで騒《さわ》いでいましたから、大して淋《さび》しいことはありませんでした。それに五日の月もありましたしね。ただ寒《さむ》いのには閉《へい》口《こう》しましたよ。それでも夜中になって月も沈《しず》み話がとぎれるとしいんとなるんですね、遠くで川がざあと流れる音ばかり、俄《にわか》に気《き》味《み》が悪《わる》くなることもありました。それでもとうとう朝までなんにも起《おこ》らなかったんです。次《つぎ》の晩《ばん》も外の組が十五人ばかり番しましたがやっぱり何もありませんでした。そこで工事はだんだん延《の》びて行って、尤《もつと》もそこをやっているうちに向《むこ》うの別《べつ》の丁《ちよう》場《ば》では別の組がどんどんやっていましたからね、レールだけは敷《し》かなくてもまあ敷《しき》地《ち》だけは橋《はし》場《ば》に届《とど》いたんです。そのうちとうとう十二月に入ったでしょう。雪も二遍《へん》か降《ふ》りました。降ってもまたすぐ消えたんです。ところが、十二月の十日でしたが、まるで春降るようなポシャポシャ雨が、半日ばかり降ったんです。なあに河《かわ》の水が出るでもなし、ほんの土をしめらしただけですよ。それでいて、その夕方にまたあの丁場がざあっと来たもんです。折《せつ》角《かく》入れた乱《らん》杭《ぐい》もあっちへ向《む》いたりこっちへまがったりです。もうこの時はみんなすっかり気《き》落《お》ちしました。それでもまたかというような気分で前の時ぐらいではなかったのです。その時はもうだんだん仕《し》事《ごと》が少くなって、また来春という約《やく》束《そく》で人《にん》夫《ぷ》もどんどん雫《しずく》石《いし》から盛《もり》岡《おか》をかかって帰って行ったあとでしたし、第《だい》一《いち》これから仕事なかばでいつ深《ふか》い雪がやって来るかわからなかったんですから何だか仕事するっても張《は》りがありませんや。それでも云いつけられた通り私たちはみんな、そう、みんなで五十人居《い》たでしょうか、あちこちの丁場から集《あつ》めたんです。崩《くず》れた処《とこ》を《ろ》掘《ほ》り起《おこ》す、それからトロで河《か》原《わら》へも行きましたが次の日などは砂《じや》利《り》が凍《こお》ってもう鶴《つる》嘴《はし》が立たないんです。いくら賃《ちん》銀《ぎん》は貰《もら》ったって、こんなあてのない仕事は厭《いや》だ、今《こ》年《とし》はもうだめなんだ、来年神《しん》官《かん》でも呼《よ》んで、よくお祭《まつ》を《り》してから、コンクリーで底《そこ》からやり直せと、まあ私たちは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》のようなことを云《い》いながら働《はた》い《ら》たもんです。それでもとうとう、十二月中には、雪の中で何とかかんとか、もとのような形になったんです。おまけに安《あん》心《しん》なことはその上に雪がすっかり被《かぶ》さったんです。堅《かた》まって二尺《しやく》以《い》上《じよう》もあったでしょう。」
「ああそうです。その頃《ころ》です。私の行ったのは。」私は急《いそ》いで云《い》いました。
「化《ばけ》物《もの》丁《ちよう》場《ば》の話をどこでお聞きでした。」
「春木場です。」
「ではあなたの入らしゃったのは、鉄《てつ》道《どう》院《いん》の検《けん》査《さ》官《かん》の来た頃《ころ》です。」
「いや、その検査官かも知れませんよ、私が橋《はし》場《ば》から戻《もど》る途《と》中《ちゆう》で、せいの高い鼠《ねずみ》色《いろ》の毛糸の頭《ず》巾《きん》を被って、黒いオーバアを着《き》た老《ろう》人《じん》技《ぎ》師《し》風《ふう》の人たちや何かと十五、六人に会ったんです。」
「天気のいい日でしたか。」
「天気がよくて雪がぎらぎらしてました。橋場では吹雪《ふぶき》も吹《ふ》いたんですが。一月の六、七日頃ですよ。」
「ではそれだ。その検査官が来ましてね、この化物丁場はよくあちこちにある、山の岩の層《そう》が釣《つり》合《あい》がとれないために起《おこ》るって云ったそうですがね、誰《だれ》もあんまりほんとにはしませんや。」
「なるほど。」
汽車が、藤《ふじ》根《ね*》の停《てい》車《しや》場《ば》に近くなりました。
工《こう》夫《ふ》の人は立って、棚《たな》から帽《ぼう》子《し》をとり、道《どう》具《ぐ》を入れた布《ぬの》の袋《ふく》を《ろ》持《も》って、扉《と》の掛《かけ》金《がね》を外して停《と》まるのを待《ま》っていました。
「ここでお下りになるんですか。いろいろどうもありがとう。私は斯《こ》う云《い》うもんです。」
と云いながら、私は処《ところ》書《が》の《き》ある名《めい》刺《し》を出しました。
「そうですか。私は名刺を持って来ませんで。」その人は云いながら、私の名刺を腹《はら》掛《かけ》のかくしに入れました。汽車がとまりました。
「さよなら。」すばやくその人は飛《と》び下りました。
「さよなら。」私は見《み》送《おく》りました。その人は道具を肩《かた》にかけ改《かい》札《さつ》の方へ行かず、すぐに線《せん》路《ろ》を来た方に戻《もど》りました。その線路は、青い稲《いね》の田の中に白く光っていました。そらでは風も静《しず》まったらしく、大したあらしにもならないでそのまま霽《は》れるように見えたのです。
ガドルフの百《ゆ》合《り》
ハックニー《 *》馬のしっぽのような、巫《ふ》戯《ざ》けた楊《やなぎ》の並《なみ》木《き》と陶《とう》製《せい》の白い空との下を、みじめな旅《たび》のガドルフは、力いっぱい、朝からつづけて歩いておりました。
それにただ十六哩《マイル*》だという次《つぎ》の町が、まだ一《いつ》向《こう》見えても来なければ、けはいもしませんでした。
(楊がまっ青に光ったり、ブリキの葉《は》に変《かわ》ったり《 *》、どこまで人をばかにするのだ。殊《こと》にその青いときは、まるで砒《ひ》素《そ》をつかった下《か》等《とう》の顔料《えのぐ*》のおもちゃじゃないか。)
ガドルフはこんなことを考えながら、ぶりぶり憤《おこ》って歩きました。
それに俄《にわ》かに雲が重《おも》くなったのです。
(卑《いや》しいニッケル《 *》の粉《こな》だ。淫《みだ》らな光だ。)
その雲のどこからか、雷《かみなり》の一切れらしいものが、がたっと引きちぎったような音をたてました。
(街《かい》道《どう》のはずれが変《へん》に白くなる。あそこを人がやって来る。いややって来ない。あすこを犬がよこぎった。いやよこぎらない。畜《ちく》生《しよう》。)
ガドルフは、力いっぱい足を延《の》ばしながら思いました。
そして間もなく、雨と黄《たそ》昏《がれ》とがいっしょに襲《おそ》いかかったのです。
実《じつ》にはげしい雷《らい》雨《う》になりました。いなびかりは、まるでこんな憐《あわ》れな旅のものなどを漂《ひよう》白《はく》してしまいそう、並《なみ》木《き》の青い葉《は》がむしゃくしゃにむしられて、雨のつぶと一《いつ》緒《しよ》に堅《かた》いみちを叩《たた》き、枝《えだ》までがガリガリ引き裂《さ》かれて降《ふ》りかかりました。
(もうすっかり法《ほう》則《そく》がこわれた。何もかもめちゃくちゃだ。これで、も一《いち》度《ど》きちんと空がみがかれて、星《せい》座《ざ》がめぐることなどはまあ夢《ゆめ》だ。夢でなけぁ霧《きり》だ。みずけむりさ。)
ガドルフはあらんかぎりすねを延《の》ばしてあるきながら、並《なみ》木《き》のずうっと向《むこ》うの方のぼんやり白い水明りを見ました。
(あすこはさっき曖《あい》昧《まい》な犬の居《い》たとこだ。あすこが少ぅしおれのたよりになるだけだ。)
けれども間もなく全《まつた》くの夜になりました。空のあっちでもこっちでも、雷《かみなり》が素《す》敵《てき》に大きな咆《ほう》哮《こう》をやり、電光のせわしいことはまるで夜の大空の意《い》識《しき》の明《めい》滅《めつ》のようでした。
道はまるっきりコンクリート製《せい》の小川のようになってしまって、もう二十分と続《つづ》けて歩けそうにもありませんでした。
その稲《いな》光《びか》りのそらぞらしい明りの中で、ガドルフは巨《おお》きなまっ黒な家が、道の左《ひだり》側《がわ》に建《た》っているのを見ました。
(この屋《や》根《ね》は稜《かど》が五角で大きな黒電気石《 *》の頭のようだ。その黒いことは寒《かん》天《てん》だ。その寒天の中へ俺《おれ》ははいる。)
ガドルフは大《おお》股《また》に跳《は》ねて、その玄《げん》関《かん》にかけ込《こ》みました。
「今《こん》晩《ばん》は。どなたかお出《い》でですか。今晩は。」
家の中はまっ暗《くら》で、しんとして返《へん》事《じ》をするものもなく、そこらには厚《あつ》い敷《しき》物《もの》や着《き》物《もの》などが、くしゃくしゃ散《ち》らばっているようでした。
(みんなどこかへ遁《に》げたかな。噴《ふん》火《か》があるのか。噴火じゃない。ペストか。ペストじゃない。またおれはひとりで問《もん》答《どう》をやっている。あの曖昧な犬だ。とにかく廊《ろう》下《か》のはじででも、ぬれた着物をぬぎたいもんだ。)
ガドルフは斯《こ》う頭の中でつぶやきまた唇《くちびる》で考えるようにしました。そのガドルフの頭と来たら、旧《きゆう》教《きよう》会《かい》の朝の鐘《かね》のようにガンガン鳴っておりました。
長《なが》靴《ぐつ》を抱《だ》くようにして急《いそ》いで脱《と》って、少しびっこを引きながら、そのまっ暗《くら》なちらばった家にはね上って行きました。すぐ突《つ》きあたりの大きな室は、たしか階《かい》段《だん》室らしく、射《さ》し込《こ》む稲《いな》光《びか》りが見せたのでした。
その室の闇《やみ》の中で、ガドルフは眼《め》をつぶりながら、まず重《おも》い外《がい》套《とう》を脱《ぬ》ぎました。そのぬれた外套の袖《そで》を引っぱるとき、ガドルフは白い貝《かい》殻《がら》でこしらえあげた、昼の楊《やなぎ》の木をありありと見ました。ガドルフは眼をあきました。
(うるさい。ブリキになったり貝殻になったり。しかしまたこんな桔《き》梗《きよう》いろの背《はい》景《けい》に、楊の舎《しや》利《り*》がりんと立つのは悪《わる》くない。)
それは眼をあいてもしばらく消《き》えてしまいませんでした。
ガドルフはそれからぬれた頭や、顔をさっぱりと拭《ぬぐ》って、はじめてほっと息《いき》をつきました。
電光がすばやく射し込んで、床《ゆか》におろされて蟹《かに》のかたちになっている自分の背《はい》〓《のう》をくっきり照《て》らしまっ黒な影《かげ》さえ落《おと》して行きました。
ガドルフはしゃがんでくらやみの背〓をつかみ、手《て》探《さぐ》りで開《ひら》いて、小さな器《き》械《かい》の類《たぐい》にさわってみました。
それから少ししずかな心《こころ》持《も》ちになって、足音をたてないように、そっと次《つぎ》の室にはいってみました。交《かわ》る交《がわ》るさまざまの色の電光が射し込んで、床に置《お》かれた石《せつ》膏《こう》像《ぞう》や、黒い寝《しん》台《だい》や引っくり返《かえ》った卓《テー》子《ブル》やらを照《て》らしました。
(ここは何かの寄《き》宿《しゆく》舎《しや》か。そうでなければ避《ひ》病《びよう》院《いん》か。とにかく二階にどうもまだ誰《だれ》か残《のこ》っているようだ。一ぺん見て来ないと安《あん》心《しん》ができない。)
ガドルフはしきいをまたいで、もとの階段室に帰り、それから一ぺん自分の背〓につまずいてから、二階に行こうと段《だん》に一つ足をかけた時、紫《むらさき》いろの電光が、ぐるぐるするほど明るくさし込《こ》んで来ましたので、ガドルフはぎくっと立ちどまり、階段に落ちたまっ黒な自分の影とそれから窓《まど》の方を一《いつ》緒《しよ》に見ました。
その稲光りの硝子《ガラス》窓から、たしかに何か白いものが五つか六つ、だまってこっちをのぞいていました。
(丈《たけ》がよほど低《ひく》かったようだ。どこかの子《こ》供《ども》が俺《おれ》のように、俄《にわ》かの雷《らい》雨《う》で遁《に》げ込《こ》んだのかも知れない。それともやっぱりこの家の人たちが帰って来たのだろうか。どうだかさっぱりわからないのが本《ほん》統《とう》だ。とにかく窓を開《ひら》いて挨《あい》拶《さつ》しよう。)
ガドルフはそっちへ進《すす》んで行ってガタピシの壊《こわ》れかかった窓を開きました。たちまち冷《つめ》たい雨と風とが、ぱっとガドルフの顔をうちました。その風に半分声をとられながら、ガドルフは叮《てい》寧《ねい》に云《い》いました。
「どなたですか。今《こん》晩《ばん》は。どなたですか。今晩は。」
向《むこ》うのぼんやり白いものは、かすかにうごいて返《へん》事《じ》もしませんでした。却《かえ》って注《ちゆう》文《もん》通《どお》りの電光が、そこら一《いち》面《めん》ひる間のようにしてくれたのです。
「ははは、百《ゆ》合《り》の花《 *》だ。なるほど。ご返事のないのも尤《もつと》もだ。」
ガドルフの笑《わら》い声は、風といっしょに陰《いん》気《き》に階《かい》段《だん》をころげて昇《のぼ》って行きました。
けれども窓《まど》の外では、いっぱいに咲《さ》いた白《しら》百《ゆ》合《り》が、十本ばかり息《いき》もつけない嵐《あらし》の中に、その稲《いな》妻《ずま》の八分一秒《びよう》を、まるでかがやいてじっと立っていたのです。
それからたちまち闇《やみ》が戻《もど》されて眩《まぶ》しい花の姿《すがた》は消《き》えましたので、ガドルフはせっかく一枚《まい》ぬれずに残《のこ》ったフランのシャツ《 *》も、つめたい雨にあらわせながら、窓からそとにからだを出して、ほのかに揺《ゆ》らぐ花の影《かげ》を、じっとみつめて次《つぎ》の電光を待《ま》っていました。
間もなく次の電光は、明るくサッサッと閃《ひら》めいて、庭《にわ》は幻《げん》燈《とう》のように青く浮《うか》び、雨の粒《つぶ》は美《うつく》しい楕《だ》円《えん》形《けい》の粒になって宙《ちゆう》に停《と》まり、そしてガドルフのいとしい花は、まっ白にかっと瞋《いか》って立ちました。
(おれの恋《こい》は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕《くだ》けるなよ。)
それもほんの一《いつ》瞬《しゆん》のこと、すぐに闇は青びかりを押《お》し戻《もど》し、花の像《ぞう》はぼんやりと白く大きくなり、みだれてゆらいで、時々は地《じ》面《めん》までも屈《かが》んでいました。
そしてガドルフは自分の熱《ほて》って痛《いた》む頭の奥《おく》の、青《あお》黝《ぐろ》い斜《しや》面《めん》の上に、すこしも動《うご》かずかがやいて立つ、もう一むれの貝《かい》細《ざい》工《く》の百《ゆ》合《り》を、もっとはっきり見ておりました。たしかにガドルフはこの二むれの百合を、一緒に息をこらして見つめていました。
それもまた、ただしばらくのひまでした。
たちまち次《つぎ》の電光は、マグネシア《 *》の焔《ほのお》よりももっと明るく、菫《きん》外《がい》線《せん*》の誘《ゆう》惑《わく》を、力いっぱい含《ふく》みながら、まっすぐに地《じ》面《めん》に落《お》ちて来ました。
美《うつく》しい百合の憤《いか》りは頂《ちよう》点《てん》に達《たつ》し、灼《しやく》熱《ねつ》の花《か》弁《べん》は雪よりも厳《いか》めしく、ガドルフはその凜《りん》と張《は》る音さえ聴《き》いたと思いました。
暗《やみ》が来たと思う間もなく、また稲《いな》妻《ずま》が向《むこ》うのぎざぎざの雲から、北《ほく》斎《さい》の山下白雨《 *》のように赤く這《は》って来て、触《ふ》れない光の手をもって、百合を擦《かす》めて過《す》ぎました。
雨はますます烈《はげ》しくなり、かみなりはまるで空の爆《ばく》破《は》を企《くわだ》て出したよう、空がよくこんな暴《あば》れものを、じっと構《かま》わないでおくものだと、不《ふ》思《し》議《ぎ》なようにさえガドルフは思いました。
その次の電光は、実《じつ》に微《かす》かにあるかないかに閃《ひら》めきました。けれどもガドルフは、その風の微《び》光《こう》の中で、一本の百合が、多分とうとう華《きや》奢《しや》なその幹《みき》を折《お》られて、花が鋭《するど》く地《じ》面《めん》に曲《まが》ってとどいてしまったことを察《さつ》しました。
そして全《まつた》くその通り稲《いな》光《びか》りがまた新らしく落《お》ちて来たときその気の毒《どく》ないちばん丈《たけ》の高い花が、あまりの白い興《こう》奮《ふん》に、とうとう自分を傷《きず》つけて、きらきら顫《ふる》うしのぶぐさの上に、だまって横《よこた》わるのを見たのです。
ガドルフはまなこを庭《にわ》から室の闇《やみ》にそむけ、丁《てい》寧《ねい》にがたがたの窓《まど》をしめて、背《はい》〓《のう》のところに戻《もど》って来ました。
そして背〓から小さな敷《しき》布《ふ》をとり出してからだにまとい、寒《さむ》さにぶるぶるしながら階《かい》段《だん》にこしかけ、手を膝《ひざ》に組み眼《め》をつむりました。
それからたまらずまたたちあがって、手さぐりで床《ゆか》をさがし、一枚《まい》の敷《しき》物《もの》を見つけて敷布の上にそれを着《き》ました。
そして睡《ねむ》ろうと思ったのです。けれども電光があんまりせわしくガドルフのまぶたをかすめて過《す》ぎ、飢《う》えとつかれとが一しょにがたがた湧《わ》きあがり、さっきからの熱《ほて》った頭はまるで舞《ぶ》踏《とう》のようでした。
(おれはいま何をとりたてて考える力もない。ただあの百《ゆ》合《り》は折《お》れたのだ。おれの恋《こい》は砕《くだ》けたのだ。)ガドルフは思いました。
それから遠い幾《いく》山《やま》河《かわ》の人たちを、燈《とう》籠《ろう》のように思い浮《うか》べたり、また雷《かみなり》の声をいつかそのなつかしい人たちの語《ことば》に聞いたり、また昼の楊《やなぎ》がだんだん延《の》びて白い空までとどいたり、いろいろなことをしているうちに、いつかとろとろ睡《ねむ》ろうとしました。そしてまた睡っていたのでしょう。
ガドルフは、俄《にわ》かにどんどんどんという音をききました。ばたんばたんという足《あし》踏《ぶ》みの音、怒《ど》号《ごう》や嘲《ちよう》罵《ば》が烈《はげ》しく起《おこ》りました。
そんな語《ことば》はとても判《わか》りもしませんでした。ただその音は、たちまち格《かく》闘《とう》らしくなり、やがてずんずんガドルフの頭の上にやって来て、二人の大きな男が、組み合ったりほぐれたり、けり合ったり撲《なぐ》り合ったり、烈しく烈しく叫《さけ》んで現《あら》われました。
それは丁《ちよう》度《ど》奇《き》麗《れい》に光る青い坂《さか》の上のように見えました。一人は闇《やみ》の中に、ありありうかぶ豹《ひよう》の毛《け》皮《がわ》のだぶだぶの着《き》物《もの*》をつけ、一人は烏《からす》の王のように、まっ黒くなめらかによそおっていました。そしてガドルフはその青く光る坂の下に、小さくなってそれを見上げてる自分のかたちも見たのです。
見る間に黒い方は咽《の》喉《ど》をしめつけられて倒《たお》されました。けれどもすぐに跳《は》ね返《かえ》して立ちあがり、今《こん》度《ど》はしたたかに豹の男のあごをけあげました。
二人はも一度組みついて、やがてぐるぐる廻《まわ》って上になったり下になったり、どっちがどっちかわからず暴《あば》れてわめいて戦《たたか》ううちに、とうとうすてきに大きな音を立てて、引っ組んだまま坂をころげて落《お》ちて来ました。
ガドルフは急《いそ》いでとび退《の》きました。それでもひどくつきあたられて倒れました。
そしてガドルフは眼《め》を開《ひら》いたのです。がたがた寒《さむ》さにふるえながら立ちあがりました。
雷《かみなり》はちょうどいま落ちたらしく、ずうっと遠くで少しの音が思い出したように鳴っているだけ、雨もやみ電光ばかりが空を亘《わた》って、雲の濃《のう》淡《たん》、空の地形図をはっきりと示《しめ》し、また只《ただ》一本を除《のぞ》いて、嵐《あらし》に勝《か》ちほこった百《ゆ》合《り》の群《むれ》を、まっ白に照《て》らしました。
ガドルフは手を強く延《の》ばしたり、またちぢめたりしながら、いそがしく足ぶみをしました。
窓《まど》の外の一本の木から、一つの雫《しずく》が見えていました。それは不《ふ》思《し》議《ぎ》にかすかな薔《ば》薇《ら》いろをうつしていたのです。
(これは暁《あけ》方《がた》の薔《ば》薇《ら》色《いろ》ではない。南の蝎《さそり》の赤い光がうつったのだ。その証《しよう》拠《こ》にはまだ夜中にもならないのだ。雨さえ晴れたら出て行こう。街《かい》道《どう》の星あかりの中だ。次《つぎ》の町だってじきだろう。けれどもぬれた着《き》物《もの》をまた引っかけて歩き出すのはずいぶんいやだ。いやだけれども仕《し》方《かた》ない。おれの百合は勝ったのだ。)
ガドルフはしばらくの間、しんとして斯《こ》う考えました。
マグノリア《 *》の木
霧《きり》がじめじめ降《ふ》っていた。
諒《りよう》安《あん》は、その霧の底《そこ》をひとり、険《けわ》しい山谷の、刻《きざ》み《 *》を渉《わた》って行きました。
沓《くつ》の底を半分踏《ふ》み抜《ぬ》いてしまいながらそのいちばん高い処《ところ》からいちばん暗《くら》い深《ふか》いところへまたその谷の底から霧に吸《す》いこまれた次《つぎ》の峯《みね》へと一生けんめい伝《つた》って行きました。
もしもほんの少しのはり合で霧を泳《およ》いで行くことができたら一つの峯から次の巌《いわ》へずいぶん雑《ぞう》作《さ》もなく行けるのだが私はやっぱりこの意《い》地《じ》悪《わる》い大きな彫《ちよう》刻《こく》の表《ひよう》面《めん》に沿《そ》ってけわしい処ではからだが燃《も》えるようになり少しの平《たい》らなところではほっと息《いき》をつきながら地《じ》面《めん》を這《は》わなければならないと諒安は思いました。
全《まつた》く峯にはまっ黒のガツガツした巌が冷《つめ》たい霧を吹《ふ》いてそらうそぶき折《せつ》角《かく》いっしんに登《のぼ》って行ってもまるでよるべもなくさびしいのでした。
それから谷の深い処には細《こま》かなうすぐろい灌《かん》木《ぼく》がぎっしり生えて光を通すことさえも慳《けん》貪《どん*》そうに見えました。
それでも諒《りよう》安《あん》は次《つぎ》から次とそのひどい刻《きざ》みをひとりわたって行きました。
何べんも何べんも霧《きり》がふっと明るくなりまたうすくらくなりました。
けれども光は淡《あわ》く白く痛《いた》く、いつまでたっても夜にならないようでした。
つやつや光る竜《りゆう》の髯《ひげ*》のいちめん生えた少しのなだらに来たとき諒安はからだを投《な》げるようにしてとろとろ睡《ねむ》ってしまいました。
(これがお前の世《せ》界《かい》なのだよ、お前に丁《ちよう》度《ど》あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景《け》色《しき*》なのだよ。)
誰《だれ》かが、或《ある》いは諒安自《じ》身《しん》が、耳の近くで何べんも斯《こ》う叫《さけ》んでいました。
(そうです。そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから仕《し》方《かた》がないのです。)諒安はうとうと斯《こ》う返《へん》事《じ》しました。
(これはこれ
惑《まど》う木《こ》立《だち》の
中ならず
しのびをならう
春の道場《 *》)
どこからかこんな声がはっきり聞えて来ました。諒《りよう》安《あん》は眼《め》をひらきました。霧《きり》がからだにつめたく浸《し》み込《こ》むのでした。
全《まつた》く霧は白く痛《いた》く竜《りゆう》の髯《ひげ》の青い傾《けい》斜《しや》はその中にぼんやりかすんで行きました。諒安はとっとっとかけ下りました。
そしてたちまち一本の灌《かん》木《ぼく》に足をつかまれて投《な》げ出すように倒《たお》れました。
諒安はにが笑《わら》いをしながら起《お》きあがりました。
いきなり険《けわ》しい灌木の崖《がけ》が目の前に出ました。
諒安はそのくろもじの枝《えだ》にとりついてのぼりました。くろもじはかすかな匂《におい》を霧に送《おく》り霧は俄《にわ》かに乳《ちち》いろの柔《やわ》らかなやさしいものを諒安によこしました。
諒安はよじのぼりながら笑いました。
その時霧は大へん陰《いん》気《き》になりました。そこで諒安は霧にそのかすかな笑《わら》いを投《な》げました。そこで霧はさっと明るくなりました。
そして諒安はとうとう一つの平《たい》らな枯《かれ》草《くさ》の頂《ちよう》上《じよう》に立ちました。
そこは少し黄《き》金《ん》いろ《 *》でほっとあたたかなような気がしました。
諒安は自分のからだから少しの汗《あせ》の匂《にお》いが細い糸のようになって霧の中へ騰《のぼ》って行くのを思いました。その汗という考から一疋《ぴき》の立《りつ》派《ぱ》な黒い馬がひらっと躍《おど》り出して霧の中へ消《き》えて行きました。
霧が俄《にわ》かにゆれました。そして諒《りよう》安《あん》はそらいっぱいにきんきん光って漂《ただよ》う琥《こ》珀《はく*》の分子のようなものを見ました。それはさっと琥珀から黄金に変《かわ》りまた新《しん》鮮《せん》な緑《みどり》に遷《うつ》ってまるで雨よりも滋《しげ》く降《ふ》って来るのでした。
いつか諒安の影《かげ》がうすくかれ草の上に落《お》ちていました。一きれのいいかおりがきらっと光って霧《きり》とその琥珀との浮《ふ》遊《ゆう》の中を過《す》ぎて行きました。
と思うと俄かにぱっとあたりが黄金に変りました。
霧が融《と》けたのでした。太《たい》陽《よう》は磨《みが》きたての藍《らん》銅《どう》鉱《こう*》のそらに液《えき》体《たい》のようにゆらめいてかかり融《と》けのこりの霧はまぶしく蝋《ろう》のように谷のあちこちに澱《よど》みます。
(ああこんなけわしいひどいところを私は渡《わた》って来たのだな。けれども何というこの立《りつ》派《ぱ》さだろう。そしてはてな、あれは。)
諒安は眼《め》を疑《うたが》いました。そのいちめんの山谷の刻《きざ》みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲《さ》いているのでした。その日のあたるところは銀《ぎん》と見え陰《かげ》になるところは雪のきれと思われたのです。
(けわしくも刻《きざ》むこころの峯《みね》々《みね》に いま咲きそむるマグノリアかも《 *》。)斯《こ》う云《い》う声がどこからかはっきり聞えて来ました。諒安は心も明るくあたりを見まわしました。
すぐ向《むこ》うに一本の大きなほおの木が《 *》ありました。その下に二人の子《こ》供《ども*》が幹《みき》を間にして立っているのでした。
(ああさっきから歌っていたのはあの子供らだ。けれどもあれはどうもただの子供らではないぞ。)諒《りよう》安《あん》はよくそっちを見ました。
その子供らは羅《うすもの》をつけ瓔《よう》珞《らく*》をかざり日光に光り、すべて断《だん》食《じき》のあけがたの夢《ゆめ》のようでした。ところがさっきの歌はその子供らでもないようでした。それは一人の子供がさっきよりずうっと細い声でマグノリアの木の梢《こずえ》を見あげながら歌い出したからです。
「サンタ、マグノリア、
枝《えだ》にいっぱいひかるはなんぞ。」
向《むこ》う側《がわ》の子が答えました。
「天に飛《と》びたつ銀《ぎん》の鳩《はと》。」
こちらの子がまたうたいました。
「セント、マグノリア、
枝にいっぱいひかるはなんぞ。」
「天からおりた天の鳩。」
諒安はしずかに進《すす》んで行きました。
「マグノリアの木は寂《じやく》静《じよう》印《いん*》です。ここはどこですか。」
「私たちにはわかりません。」一人の子がつつましく賢《かし》こそうな眼《め》をあげながら答えました。
「そうです、マグノリアの木は寂静印です。」
強いはっきりした声が諒《りよう》安《あん》のうしろでしました。諒安は急《いそ》いでふり向《む》きました。子供らと同じなりをした丁《ちよう》度《ど》諒安と同じくらいの人がまっすぐに立ってわらっていました。
「あなたですか、さっきから霧《きり》の中やらでお歌いになった方は。」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感《かん》じているのですから。」
「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」
その人は笑《わら》いました。諒安と二人ははじめて軽《かる》く礼《れい》をしました。
「ほんとうにここは平《たい》らですね。」諒安はうしろの方のうつくしい黄金の草の高原を見ながら云《い》いました。その人は笑いました。
「ええ、平らです、けれどもここの平らかさはけわしさに対《たい》する平らさです。ほんとうの平らさではありません。」
「そうです。それは私がけわしい山谷を渡《わた》ったから平らなのです。」
「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲《さ》いています。」
「ええ、ありがとう、ですからマグノリアの木は寂《じやく》静《じよう》です。あの花びらは天の山《や》羊《ぎ》の乳《ちち》よりしめやかです。あのかおりは覚《かく》者《しや*》たちの尊《とうと》い偈《げ*》を人に送《おく》ります。」
「それはみんな善《ぜん》です。」
「誰《だれ》の善ですか。」諒安はも一《いち》度《ど》その美《うつく》しい黄金の高原とけわしい山谷の刻《きざ》みの中のマグノリアとを見ながらたずねました。
「覚者の善です。」その人の影《かげ》は紫《むらさき》いろで透《とう》明《めい》に草に落《お》ちていました。
「そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は絶《ぜつ》対《たい》です。それはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯《みね》のつめたい巌《いわ》にもあらわれ、谷の暗《くら》い密《みつ》林《りん》もこの河《かわ》がずうっと流《なが》れて行って氾《はん》濫《らん》をするあたりの度《たび》々《たび》の革《かく》命《めい》や饑《き》饉《きん》や疫《やく》病《びよう》やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です。」
諒安とその人と二人はまた恭《うやうや》しく礼をしました。
注 釈
『風の又三郎』
*風の又《また》三《さぶ》郎《ろう》 東北から新潟にかけて、風を「風の三郎」と呼ぶ習慣がある。
*雪《ゆき》袴《ばかま》 腰《こし》板《いた》の付いていない仕事用の袴である山袴のこと。モンペとも言う。
*ちょうはあかぐり 異《い》稿《こう》『風野又三郎』では「ちょうはあぶどり」であり、一説では子供達の中に「長八ぶどう売り」というあだ名の生徒がいるということ。「かぐり」の意味は不明だが、このバリエーション。
*なして泣いでら、うなかもたのが 「なぜ泣いてるの、おまえがいじめたのか」の方言。
*早ぐ出はって来《こ》 「はやく出て来い」の方言。
*われ悪《わる》くてでひと撲《はだ》ぃだなあ 「おまえは自分が悪いくせに人をぶったな」の方言。
*山《やま》雀《がら》 シジュウカラ科の小鳥。黒い頭と胸、白い頬《ほお》、灰色の羽。茶《ちや》褐《かつ》色《しよく》の腹が特《とく》徴《ちよう》。
*二百十日 立春から二百十日め。大体9月1日頃。台風の来《らい》襲《しゆう》時期なので風祭が盛ん。
*権《ごん》現《げん》さまの尾《お》っぱ持《も》ち 権現(山《やま》伏《ぶし》神楽《かぐら》の獅《し》子《しが》頭《しら》)の長い尾を持つ係。
*シャッポ 作中ではシャップとも。フランス語の chapeau(シャポー、帽《ぼう》子《し》)から来た語。
*木《き》ペン 「鉛《えん》筆《ぴつ》」の方言。
*モリブデン 金属元素で鋼《こう》鉄《てつ》に加えて特殊鋼を作る。軍《ぐん》需《じゆ》用《よう》として重要。書《しよ》簡《かん》77番(大正7)の封《ふう》筒《とう》内側に、賢治はモリブデンの発見の可能性について、阿《あ》原《ばら》峠《とうげ》や江《え》刺《さし》市《し》の日の神等から産出される石英や角《かく》閃《せん》石《せき》中、と英語で記している。
*掃《そう》除《じ》してすけろ 「掃除を手伝え」の方言。
*じゃみ上り 無理やりに鉄《てつ》棒《ぼう》に上がること。平山輝男他篇『現代日本語方言辞典』や小松代融一『岩手方言集』等には、岩手方言の「じゃみる」が「羨《うらや》む」「ねたむ、横《よこ》槍《やり》をいれる、むずがる」の意味として記《き》載《さい》されている。
*わかんないな 「よくないな」の方言。
*消《け》し炭《ずみ》 火を途《と》中《ちゆう》で消して柔《やわ》らかくした炭。筆記道具の代用品。
*おらまんつ水呑《の》んでぐ 「ぼくはまずは水を飲んで行く」の方言。
*春《かす》日《が》明《みよう》神《じん》さんの帯《おび》 春日神社は奈良の春日大社への信《しん》仰《こう》で、岩手では東北開発の神として各地に存在した。花巻の鍋《なべ》倉《くら》にもある。帯は、細谷川を三《み》笠《かさ》山《やま》(春日大社がある)の帯にみたてる発想で、万葉集の「一一〇二」「一七七〇」「三二二七」番の歌等に見られる。
*塩《しお》をけろづのだな 「塩をくれというのだな」の方言。
*おとこえし オミナエシ科の草。オミナエシは黄色の花で、対するオトコエシは白い花。
*伊《い》佐《さ》戸《ど》 『種山ケ原』『やまなし』にも登場。江刺市の岩《いわ》谷《や》堂《どう》がモデルだといわれる。
*山男 柳田国男『遠野物語』では、山に住み里の女を奪ったりする怪《かい》人《じん》。賢治作品では人のよい男の場合が多い。他に『狼森と笊森、盗森』『山男の四月』『紫紺染について』等に登場。
*あべさ 「一《いつ》緒《しよ》に行こう」の方言。
*おおむぞやな 「とてもかわいそうだな」の方言。
*わがなぃじゃ〜 「だめだよ、おまえたち教えてはだめだよ」の方言。
*専《せん》売《ばい》局《きよく》 大蔵省専売局。国家が専売するものとしては、塩やたばこ等があった。
*もどの通りにしてまゆんだであ 「元通りにして弁《べん》償《しよう》するんだぞ」の方言。
*あかし あかりのこと。
*さいかち マメ科の落葉高木。鋭《するど》い刺《とげ》をもつ。
*らっこ イタチ科の水生動物。かつては北太平洋全域に生息していた。体長一五〇センチ体重30キロ程度で、泳ぎが巧《たく》みである。
*発《はつ》破《ぱ》 爆《ばく》薬《やく》を使って爆発させること。気《き》絶《ぜつ》した魚を捕る方法。
*せきれい セキレイ科の鳥で、セグロセキレイやハクセキレイ、キセキレイ等がいる。川べり、湖《こ》畔《はん》に住み、尾を上下に激しく振《ふ》る。
*かじか 清流に住む、頭の大きい15センチ程度の魚で、ゴリ料理として食される。
*毒《どく》もみ 毒物を川に流して痺《しび》れた魚を捕る方法。山《さん》椒《しよう》はミカン科の落葉高木で、実や皮は神経を麻《ま》痺《ひ》させる作用がある。『毒もみのすきな署長さん』を参照。
*タスカロラ海《かい》床《しよう》 日本列島の東北、千《ち》島《しま》・カムチャッカ海《かい》溝《こう》(古くは日本海溝の一部と見なされた)の中央付近にある深所。正しくはタスカロラ海《かい》淵《えん》。
『とっこべとら子』
*おとら狐《ぎつね》 人を騙《だま》したり、人に憑《つ》いたりする狐の話は全国各地に伝わるが、大体は女の名前がつけられた。お虎《とら》はその代表。柳田国男に『おとら狐の話』がある。
*源《みなもと》の大《たい》将《しよう》 平安時代末期の武将源《みなもとの》為《ため》朝《とも》(鎮《ちん》西《ぜい》八《はち》郎《ろう》)のこと。かつては疱《ほう》瘡《そう》(天《てん》然《ねん》痘《とう》)等の伝染病は疫《えつ》鬼《き》のせいとされ、力に勝る武将を魔《ま》よけとする風習が江戸時代後期に流行した。特に赤色で姿を描《えが》いた「疱瘡絵」が有名で、その武将として中国の鍾《しよう》馗《き》の他《ほか》に、源為朝が流された八《はち》丈《じよう》島《じま》では疱瘡が流《は》行《や》らないという迷信から、為朝がよく描かれた。また絵ではなく厄《やく》払《ばら》い人形に顔を描いたり、「鎮西八郎殿《どの》御定宿」という紙を貼《は》る風習もあった。
『祭の晩』
*お旅《たび》屋《や》 神輿《みこし》が氏《うじ》子《こ》区内を巡幸する際に、途《と》中《ちゆう》で一時的に安置される場所。
*あんこ 「男の子」の方言。
*アセチレン 窒《ちつ》素《そ》肥料の原料となるカーバイドに水を加えた物質。アセトアルデヒド等の原料になるが、昔はその燃えやすさと有《ゆう》毒《どく》性とで、虫よけ灯《とう》火《か》として用いられた。
*てびらがね 手平鉦。銅製の拍《ひよう》子《し》を打つ楽器。民《みん》俗《ぞく》芸能に使う。
*白《はく》銅《どう》 ニッケルを含む銅合金。ここでは5銭白銅貨のこと。大福1個は大正11年には2銭。
*八斗《と》 斗は升《しよう》の10倍で、約18リットルだが、「ます(枡)」の意味にも使う。
『なめとこ山の熊』
*なめとこ山 花巻市街の西方、沢《さわ》内《ち》村との境界付近にあるとされる山。しかしこの作品では、中山峠《とうげ》一帯の山として、特に限定されていない。
*淵《ふち》沢《ざわ》川 豊沢川(次項参照)を念頭に置いた創作の川。
*中山街《かい》道《どう》 花巻市街から豊沢川沿いに西行し、鉛《なまり》温泉、中山峠を通って沢内村へ抜《ぬ》ける。
*大《おお》空《ぞら》滝《のたき》 中山峠近くに実在する滝。
*鉛《なまり》の湯《ゆ》 豊沢川上流の温泉の中で最も上流に位置する温泉のひとつ。
*北島の毘《び》沙《しや》門《もん》 花巻市街の東の郊外にある、北《きた》成《なる》島《しま》の毘《び》沙《しや》門《もん》天《てん》像が念頭にある。
*生《せい》蕃《ばん》 台《たい》湾《わん》に住む原住民(高《たか》砂《さご》族)を漢民族がこのように卑《いや》しめて呼んだ。
*しどけ沢《ざわ》 「しどけ」はキク科の山菜「もみじがさ」の岩手方言。以下の地名は「白沢」のように実在する沢から、「マミ穴《あな》森《もり》」のように高《たか》狸《まみ》山《やま》からの創作地名など様々。
*こいだり 「こぐ」は岩手方言で、水を徒《と》渉《しよう》すること。
*因《いん》果《が》 前世の行いの結果。ここでは決められた運命の意味。
*ばっかぃ沢 「ばっかぃ」は「ふきのとう」の岩手方言。
*胃《コキエ》 中国の星座、28宿のひとつ。こきえぼし。現在のおひつじ座35、39、41番星。
*ひきざくら 『和《わ》名《みよう》抄《しよう》』等にも記される辛夷《こぶし》(↓『マグノリアの木』)の古名。現在でも北東北や北海道ではこの呼び名が使われる。賢治文学では聖なる花。
*きささげ ノウゼンカズラ科の落葉高木。6月頃《ころ》、漏《ろう》斗《と》形で3センチ弱の黄白色の花を円《えん》錐《すい》状に多数つける。
*くろもじ クスノキ科の落葉低木。高さ5メートル程度で細い幹が数本集まって生えているように見える。樹皮は地《ち》衣《い》類《るい》が付着して黒ずむ。ショウガに似た芳《ほう》香《こう》を放つ。
*金《きん》天《てん》狗《ぐ》やカメレオン印《じるし》 明治37年にタバコが専売になるまで、多くの民営タバコがあった。特に岩谷松平の岩《いわ》谷《や》天《てん》狗《ぐ》は派《は》手《で》な宣《せん》伝《でん》で人気があり、「金天狗」はその高級銘《めい》柄《がら》。「カメレオン印」に該《がい》当《とう》する煙草《たばこ》はなく、おそらく「カメオ」または「カメリヤ」のこと。
*何ぼでもいいはんて買ってくなぃ 「いくらでもいいですから買ってください」の方言。
*二円 昭和5年頃、白米10キロが2円30銭。
*切り込《こ》み ぶつ切りにした魚《ぎよ》介《かい》類《るい》を塩で漬けたもの。塩《しお》辛《から》類。酒の肴《さかな》。
*狐《きつね》けん ジャンケンの一種で身ぶりで勝負する。狐は鉄《てつ》砲《ぽう》に、鉄砲は庄《しよう》屋《や》に、庄屋は狐に負ける。藤《とう》八《はち》拳《けん》ともいうのは、一説には吉原の幇《ほう》間《かん》藤八が始めたため。明治以降、民権、同権などのケンがブームになって、その一《いつ》環《かん》として藤八拳が大ブームになったという。
*ずるいやつらは〜なくなって行く 賢治の進化論的な未来観で、詩「政治家」や詩「〔サキノハカという花が〕」や『洞《ほら》熊《くま》学校を卒業した三人』等に示される。
*ふじつき 藤突。藤の葉の茎《くき》で地面に桝《ます》形《がた》を作って、相手からその中に入れられるだけの藤の花を取る遊び。
*寒《かん》水《すい》石《せき》 石灰岩が変成し、純白の結晶質となった大《だい》理《り》石《せき》。
*すばる 牡《お》牛《うし》座《ざ》の散開星団M《メシ》45《エ》(プレアデス)。賢治は庚《こう》申《しん》とも呼ぶ(↓『化物丁《ちよう》場《ば》』)。
*参《しん》の星 オリオン座の中央にある三つ星の、中国の28宿での呼び名。
*回《フイ》々《フイ》教《きよう》徒《と》 イスラム教徒。
『土神ときつね』
*土《つち》神《がみ》 一般には土公《どくう》神《じん》(産《うぶ》土《すな》神《がみ》)をいうが、ここでは近代化によって忘れ去られる土着の神。詩「春と修《しゆ》羅《ら》」との描《びよう》写《しや》の共通性から、怒《いか》りの感情に苦しむ「修羅」(↓畜《ちく》生《しよう》)の具象化と言えるが、そもそも修羅はインド神話に登場する土着の神で、あとから来たインド・ヨーロッパ語族の神々に追われて海底に逃《のが》れ、常に天の神々に戦いを仕《し》掛《か》ける鬼《き》神《しん》。出自は貴いが現在は神から失《しつ》墜《つい》させられ、そのことに苦しむという点でも、土神は修羅と一《いつ》致《ち》する。
*一本木の野原 一本木野。岩手山の東側に広がる野原。現在は自衛隊の演習場。
*樺《かば》の木 賢治作品では白樺と山桜類のいずれか。ここは、幹が黒く花が白いとあるので山桜。賢治は桜を性意識を誘《ゆう》発《はつ》する花と捉《とら》えた(『或《あ》る農《のう》学生の日《につ》誌《し》』詩「小《こ》岩《いわ》井《い》農《のう》場《じよう》」等)。
*全《ぜん》体《たい》星というものは〜雲のようなもんだったんです 現在の天文学から見れば、ガス星雲(ネビュラ、恒《こう》星《せい》の母体または恒星の爆《ばく》発《はつ》の残《ざん》骸《がい》)と銀河系(ギャラクシー。10億《おく》個以上の恒星が作り出す小宇宙)が区別されていないが、大正時代はまだこのような説が通用していた。
*猟《りよう》犬《けん》座《ざ》のは渦《うず》巻《ま》きです 猟犬座は北《ほく》斗《と》七《しち》星《せい》のすぐ南にある小さな星座。ここではギャラクシーM《メシ》51《エ》(子持ち)のこと。大小二つの渦《うず》巻《ま》き状銀河がつながっていることで有名。
*環状星雲《リングネビユラ》 琴《こと》座《ざ》のガス星雲M《メシ》57《エ》のこと。楕《だ》円《えん》リング状で『シグナルとシグナレス』では結《けつ》婚《こん》指輪の宝石にたとえられる。魚の口を正面から見た形に似ている。
*水《みず》沢《さわ》の天文台 水沢の緯《い》度《ど》観《かん》測《そく》所《じよ》。賢治は一度訪れている。
*ツァイス ドイツのイエナにある光学メーカーで、昭和前期までは日本の光学メーカーの実力は遠く及《およ》ばず、ツァイスが最高級品であった。望遠鏡は一八九四年から製造。
*ハイネ 19世紀のドイツのロマン主義詩人。
*ロウレライ ハイネの名高い詩。ライン河の岩場で歌う美少女の歌に、船人たちが聞き惚《ほ》れてしまい、船は座《ざ》礁《しよう》する。ここは、美しい樺をめぐって、悲劇がおきることの暗示。
*金《きん》牛《ぎゆう》宮《きゆう》 牡《お》牛《うし》座のこと。この牡《お》牛《うし》はゼウスがエウローペに求愛するために化けたもので愛欲の象《しよう》徴《ちよう》。ハイネの詩集を読むこととの意味上の連関がある。
*草の種《た》子《ね》が青や白をもっている このように、結果は原因の中にすでに内在するという一種の決定論を因《いん》中《ちゆう》有《う》果《が》論《ろん》といい、仏教はこれを基本的に否定する。
*畜《ちく》生《しよう》 仏教で考える生物(の意識)の10の段階(十《じつ》界《かい》)のひとつで、下から3番目。悟《さと》りに近い段階から、如《によ》来《らい》、菩《ぼ》薩《さつ》、縁《えん》覚《がく》、声《しよう》聞《もん》、天《てん》、人《ひと》、修《しゆ》羅《ら》、畜《ちく》生《しよう》、餓《が》鬼《き》、地《じ》獄《ごく》の順番。
*冷《つめ》たい湿《しつ》地《ち》 詩「春と修羅」で描《えが》かれる、修羅の彷徨《さまよ》う場所と共通する。
*三つ森山 岩手山の東北の裾《すそ》野《の》にある小山。すぐ近くにある噴《ふん》火《か》によってできた溶《よう》岩《がん》流《りゆう》について、賢治は「鬼神たちの棲《す》みかだ」(詩「鎔《よう》岩《がん》流《りゆ》」《う》)と書いている。
*桃《もも》いろの火 性欲の昂《こう》揚《よう》の比《ひ》喩《ゆ》表現。『サガレンと八月』等を参照。
*ロンドンタイムス 意識の高い人が読むとされる高級日刊紙ザ・タイムズのこと。アメリカにも同名の新聞があるので、区別してロンドンタイムズと呼ばれる。
*誰《だれ》のためにでも命《いのち》をやる 捨《しや》身《しん》布《ふ》施《せ》の標《ひよう》榜《ぼう》。土神が菩《ぼ》薩《さつ》の意識にあることを示す。
*眼《め》も黒く立《りつ》派《ぱ》 赤眼が黒眼に変化したのは、意識段階が高度になったことを表す指標。
*かもがや イネ科の牧草。オーチャードグラス。花のつき方が鴨《かも》の足に似る。
『気のいい火山弾』
*火《か》山《ざん》弾《だん》 溶《よう》岩《がん》から放出された塊《かたまり》。玄《げん》武《ぶ》岩《がん》質のものは楕《だ》円《えん》形《けい》となる。
*ベゴ 「牛」の方言。ここでは火山弾が動かなくなった牛に似ているという意味あい。
*おみなえし 秋の七草のひとつ。火山灰地に多く、茎《くき》の先《せん》端《たん》に黄色の花を密生させる。
*赤ずきん 〓《さく》が赤くなる苔《こけ》としてツボゴケ等がある。
『化物丁場』
*丁《ちよう》場《ば》 工事の受け持ち区間。工区。
*仙《せん》人《にん》鉱《こう》山《ざん》 花巻市の西南西、和《わ》賀《が》川の仙人峡《きよう》谷《こく》に明治40年から昭和初期まであった鉄山。
*黒《くろ》沢《さわ》尻《じり》 現在の北《きた》上《かみ》市の中心街。旧黒沢尻町の人口は大正9年に約七千人。
*軽《けい》便《べん》鉄《てつ》道《どう》 横黒線。現在のJR北上線。「本線」は東北本線のこと。
*狐《こ》禅《ぜん》寺《じ》 一《いちの》関《せき》市の北上川西岸にある地名。両側が丘《きゆう》陵《りよう》地《ち》帯《たい》で川《かわ》幅《はば》が狭《せま》い。
*品《しな》井《い》沼《ぬま》 成瀬川の下流にあった沼。JR東北本線の駅名が残る。
*雫《しずく》石《いし》、橋《はし》場《ば》間 旧橋場線のこの区間は大正11年に開通。現在のJR田沢湖線は、赤《あか》渕《ぶち》駅から南側の志《し》戸《ど》前《まえ》川沿いを通るため、現在は廃《はい》線《せん》。
*鉄道院《いん》 明治41年から大正9年まで、鉄道の監《かん》督《とく》と国鉄の管理を行った官庁。
*春木場 雫《しずく》石《いし》町の地名。竜川と葛《かつ》根《こん》田《だ》川の合流付近。駅がある。
*庚《こう》申《しん》さん 文語詩「庚申」で賢治は、干《え》支《と》の庚申の日が年に5〜7回(普《ふ》通《つう》は6回)来ることと、肉眼で見えるスバルの星が5〜7個であるということとの類比から、スバルを庚申と結びつけている。5庚申の年は凶《きよう》作《さく》、7庚申の年は豊作になると信じられた。庚申信《しん》仰《こう》の本尊は「青《しよう》面《めん》金《こん》剛《ごう》」であり、賢治がスバルを青い星として描《えが》くこととの類《るい》似《じ》性《せい》もある。
*栗《くり》駒《こま》山 一関の西方にある標高一六二八メートルの山。このあたりでは最も高い山。
*藤《ふじ》根《ね》 北上市街の西方6キロにある地名。
『ガドルフの百合』
*ハックニー イギリス原産の軽《けい》挽《ばん》馬《ば》。足を高く折り曲げる歩行が優美とされ、馬車を挽《ひ》く馬として人気があった。岩手種馬場にも3頭いた。尾はオカッパ頭のように短く刈《か》られる。
*哩《マイル》 約1・6キロメートル。
*ブリキの葉《は》に変《かわ》ったり 楊《やなぎ》やはんのきのような広葉樹は一般に葉の裏が表に比べて色が薄《うす》いので、風に揺《ゆ》れる葉の裏《うら》側《がわ》を賢治はブリキのように白く光ると形容した。
*砒《ひ》素《そ》をつかった下《か》等《とう》の顔料《えのぐ》 亜《あ》砒《ひ》酸《さん》を原料とするパリグリーン(一八一四年シュバインフルトで合成。別名エメラルドグリーン)のこと。毒《どく》性《せい》が強いので殺《さつ》虫《ちゆう》剤《ざい》としても売られていた。賢治は詩「〔その洋《よう》傘《がさ》だけではどうかな〕」にもパリグリーンの名を記している。
*ニッケル 軽く柔《やわ》らかい銀白色の金属元素。ここでは卑《ひ》俗《ぞく》で軽《けい》薄《はく》な感じの比《ひ》喩《ゆ》表現。
*黒電気石 トルマリン(電気石)グループで最も産出の多い、黒色柱状の鉄《てつ》電《でん》気《き》石《いし》(Schorl)のこと。稜《かど》は六角が正しい。
*舎《しや》利《り》 釈《しや》迦《か》の骨。ここでは舎利を収める仏《ぶつ》舎《しや》利《り》塔《とう》のこと。楊《やなぎ》はハコヤナギ類のことだが、白《しら》樺《かば》に似ているため、賢治は両者をよく一《いつ》緒《しよ》に登場させる。賢治はひのきと杉は魔《ま》神《じん》(詩「春と修《しゆ》羅《ら》」詩「〔地蔵堂の五本の巨《おお》杉《すぎ》が〕」等)の、白樺は菩《ぼ》薩《さつ》(詩「樺《から》太《ふと》鉄道」等。『ポラーノの広場』の解説参照)の化《け》身《しん》として描《えが》くので、ここでの楊は白樺の類像と言える。
*百《ゆ》合《り》の花 百合は純潔の象《しよう》徴《ちよう》。ここでは清純な愛の象徴。対する雷《かみなり》は性欲、肉欲を表す。
*フランのシャツ フランネル(平織りか綾《あや》織《お》りで、両面に起毛がある織物)のシャツ。
*マグネシア 酸《さん》化《か》マグネシウム。燃焼しにくく耐《たい》熱《ねつ》材《ざい》に使われるので文意に合わない。ここはマグネシアがマグネシウムの燃焼(閃《せん》光《こう》を放つ)によって生成される事実に基づくと思われる。
*菫《きん》外《がい》線《せん》 紫《し》外《がい》線《せん》のこと。目には見えないが、殺《さつ》菌《きん》光線、日焼け光線として知られる。
*北《ほく》斎《さい》の山下白雨 江戸の浮《うき》世《よ》絵《え》師《し》葛《かつ》飾《しか》北《ほく》斎《さい》の「富岳三十六景」のひとつ。赤富士の右下に稲妻が大《だい》胆《たん》に描かれる。
*豹《ひよう》の毛《け》皮《がわ》のだぶだぶの着《き》物《もの》 ヒンズー教の性《シヤ》力《クテイ》の神シヴァ(マケイシュバラ。三目で虎《とら》皮《がわ》をつける)か。賢治はカシオペア座をシヴァの三目とみなす(『水仙月の四日』を参照)。
『マグノリアの木』
*マグノリア モクレン科の総《そう》称《しよう》。この作品では辛夷《こぶし》と朴《ほお》の木の両方を指す。辛夷は初春に香《かお》りある大きな白い花をつける。種《たね》蒔《ま》きの時期を告げる木として知られる。
*険《けわ》しい山谷の、刻《きざ》み 初期作品の「〔峯や谷は〕」と同想。地《じ》獄《ごく》のイメージ。
*慳《けん》貪《どん》 情け容《よう》赦《しや》ないこと。
*竜《りゆう》の髯《ひげ》 別名蛇《じや》の髭《ひげ》。ユリ科の多年草。根ぎわから20センチほどの線状の葉を多数出す。
*お前の中の景《け》色《しき》 仏教の唯《ゆい》識《しき》無《む》竟《きよう》(世界は心が見させる虚《こ》妄《もう》のものとみなす思想)に基づく。賢治は『春と修《しゆ》羅《ら》』序文で、歴史や地史も「かんじているにすぎません」と主張する。
*これはこれ〜 「大正六年七月より」中の短歌六四一番にほぼ同じ。
*黄《き》金《ん》いろ 世界が変化する前《ぜん》兆《ちよう》。黄金は賢治世界では聖なる色でもある。
*琥《こ》珀《はく》 艶《つや》のある暗《あん》褐《かつ》色《しよく》半《はん》透《とう》明《めい》な松《まつ》脂《やに》の化石。賢治は太陽光線を「琥珀のかけら」と描《えが》く。
*藍《らん》銅《どう》鉱《こう》 アズライト。銅鉱床《しよう》の二次鉱物。ガラス光《こう》沢《たく》のある淡い青色の結晶。
*けわしくも〜 短歌六四〇番の「けわしくも/刻《きざ》むこころのみねみねに/かおりわたせるほおの花かも」(後半が「うすびかり咲《さ》くひきざくらかも」の異《い》稿《こう》もある)を踏《ふ》まえる。
*ほおの木 朴の木。モクレン科の落葉高木。学名マグノリア・オボヴァタ。辛夷《こぶし》との大きな違《ちが》いは、樹皮が灰白色で、葉が大きく卵型である点。樹皮は健胃整腸薬となる。
*二人の子《こ》供《ども》 天の童子。詩「小岩井農場」にもペムペルとユリアが登場する。
*瓔《よう》珞《らく》 仏像等の首にかけられる宝珠の付いた首《くび》飾《かざ》り。
*寂《じやく》静《じよう》印《いん》 涅《ね》槃《はん》寂静印。煩《ぼん》悩《のう》を滅《めつ》した悟《さと》りの境地。仏教であることの絶対基準である三法印(他の二つは諸《しよ》行《ぎよう》無《む》常《じよう》と諸《しよ》法《ほう》無《む》我《が》)のひとつ。
*覚《かく》者《しや》 真理を体得した者。ブッダの漢訳。
*偈《げ》 頌《しよう》とも。仏教の教えを韻《いん》文《ぶん》で述べたもの。
大 塚 常 樹
おことわり
今回の改版にあたり、「気のいい火山弾」を新たに収録し、「虔十公園林」を新編成の『ビジテリアン大祭』に移しました。御了承お願い申し上げます。
平成八年五月                編集部 宮沢賢治文庫本文について
〓底本には「新校本 宮澤賢治全集」(筑摩書房 平7・5―)を使用させていただいた。
〓底本の旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めた。
〓小学生からでも読めることを目的とし、教育用漢字学年別配当表第一・二学年に含まれるもの以外の漢字には振仮名をつけた。ただし繁を避けるため適宜間を置いた。
〓漢字の読み方は一般的なものをとるように心がけた。難読のものは多く「ちくま文庫版 宮沢賢治全集」(筑摩書房 昭60・12―平7・4)を参照した。
〓表記は原則として底本に従ったが、通常と著しく異なる漢字表記を改めたり、一部の漢字を仮名に変えたりしたところがある。
〓句読点・字あき・字下げ・行あき・改行・追い込みなどは原則として底本に従ったが、著しく統一性を欠く場合や不自然な場合は変更して形を整えた。
〓疑問があっても底本の形をそのままのこさざるをえなかった場合は、該当箇所に(ママ)と注記した。
〓本文中には、現代の人権擁護の見地からは差別語と考えられるものもあるが、時代的背景と作品価値を考え合わせ、底本のままとした。
(編集部)
風《かぜ》の又《また》三《さぶ》郎《ろう》
宮《みや》沢《ざわ》賢《けん》治《じ》
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平成14年12月13日 発行
発行者  福田峰夫
発行所  株式会社  角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『風の又三郎』平成8年6月25日初版発行
平成8年9月25日3版発行