TITLE : 銀河鉄道の夜
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目次
おきなぐさ
双子《ふたご》の星
貝の火
よだかの星
四《よ》又《また》の百《ゆ》合《り》
ひかりの素《す》足《あし》
十力《じゆうりき》の金《こん》剛《ごう》石《せき》
銀《ぎん》河《が》鉄《てつ》道《どう》の夜
注釈
おきなぐさ《*》
うずのしゅげを知っていますか。
うずのしゅげは、植物学《しよくぶつがく》ではおきなぐさと呼《よ》ばれますがおきなぐさという名は何だかあのやさしい若《わか》い花をあらわさないようにおもいます。
そんならうずのしゅげとは何のことかと云《い》われても私にはわかったようなまたわからないような気がします。
それはたとえば私どものほうでねこやなぎの花《はな》芽《め》をべむべろと言いますが、そのべむべろが何のことかわかったようなわからないような気がするのと全《まつた》くおなじです。とにかくべむべろという語のひびきの中にあの柳《やなぎ》の花芽の銀《ぎん》びろうどのこころもち、なめらかな春のはじめの光の工《ぐ》合《あい》が実《じつ》にはっきり出ているように、うずのしゅげというときはあの毛莨科《きんぽうげか》のおきなぐさの黒《くろ》朱《じゆ》子《す*》の花びら、青じろいやはり銀びろうどの刻《きざ》みのある葉《は》、それから六月のつやつや光る冠《かん》毛《もう》がみなはっきりと眼《め》にうかびます。
まっ赤なアネモネ《*》の花の従兄《いとこ》、きみかげそう《*》やかたくり《*》の花のともだち、このうずのしゅげの花をきらいなものはありません。
ごらんなさい。この花は黒朱子ででもこしらえた変《か》わり型《がた》のコップのように見えますが、その黒いのはたとえば葡萄《ぶどう》酒《しゆ》が黒く見えると同じです。この花の下を始《し》終《じゆう》往《い》ったり来たりする蟻《あり》に私はたずねます。
「おまえはうずのしゅげはすきかい、きらいかい。」
蟻は活《かつ》溌《ぱつ》に答えます。
「大すきです。誰《だれ》だってあの人をきらいなものはありません。」
「けれどもあの花はまっ黒だよ。」
「いいえ、黒く見えるときもそれはあります。けれどもまるで燃《も》えあがってまっ赤な時もあります。」
「はてな、お前たちの眼《め》にはそんな工合《ぐあい》に見えるのかい。」
「いいえ、お日さまの光の降《ふ》る時なら誰にだってまっ赤に見えるだろうと思います。」
「そうそう。もうわかったよ。お前たちはいつでも花をすかして見るのだから。」
「そしてあの葉《は》や茎《くき》だって立派《りつぱ》でしょう。やわらかな銀《ぎん》の糸が植《う》えてあるようでしょう。私たちの仲《なか》間《ま》では誰かが病《びよう》気《き》にかかったときはあの糸をほんのすこうし貰《もら》って来てしずかにからだをさすってやります。」
「そうかい。それで、結《けつ》局《きよく》、お前たちはうずのしゅげは大すきなんだろう。」
「そうです。」
「よろしい。さよなら。気をつけておいで。」
この通りです。
また向《むこ》うの、黒いひのきの森の中のあき地に山男《*》が居《い》ます。山男はお日さまに向《む》いて倒《たお》れた木に腰《こし》掛《か》けて何か鳥を引き裂《さ》いて喰《た》べようとしているらしいのですがなぜあの黝《くろず》んだ黄金の眼玉を地《じ》面《めん》にじっと向けているのでしょう。鳥を喰べることさえ忘れたようです。
あれは空《あき》地《ち》のかれ草の中に一本のうずのしゅげが花をつけ風にかすかにゆれているのを見ているからです。
私は去《きよ》年《ねん》の丁《ちよう》度《ど》今ごろの風のすきとおったある日のひるまを思い出します。
それは小《こ》岩《いわ》井《い》農《のう》場《じよう*》の南、あのゆるやかな七つ森《*》のいちばん西のはずれの西がわでした。かれ草の中に二本のうずのしゅげがもうその黒いやわらかな花をつけていました。
まばゆい白い雲が小さな小さなきれになって砕《くだ》けてみだれて空をいっぱい東の方へどんどんどんどん飛《と》びました。
お日さまは何べんも雲にかくされて銀《ぎん》の鏡《かがみ》のように白く光ったりまたかがやいて大きな宝《ほう》石《せき》のように蒼《あお》ぞらの淵《ふち》にかかったりしました。
山《さん》脈《みやく》の雪はまっ白に燃《も》え、眼《め》の前の野原は黄いろや茶の縞《しま》になってあちこち掘《ほ》り起《おこ》された畑《はたけ》は鳶《とび》いろ《*》の四角なきれをあてたように見えたりしました。
おきなぐさはその変《へん》幻《げん》の光の奇術《トリツク》の中で夢《ゆめ》よりもしずかに話しました。
「ねえ、雲がまたお日さんにかかるよ。そら向《むこ》うの畑がもう陰《かげ》になった。」
「走って来る、早いねえ、もうから松《まつ》も暗《くら》くなった。もう越《こ》えた。」
「来た、来た。おおくらい。急《きゆう》にあたりが青くしんとなった。」
「うん、だけどもう雲が半分お日さんの下をくぐってしまったよ。すぐ明るくなるんだよ。」
「もう出る。そら、ああ明るくなった。」
「だめだい。また来るよ、そら、ね、もう向うのポプラの木が黒くなったろう。」
「うん。まるでまわり燈《どう》籠《ろう》のようだねえ。」
「おい、ごらん。山の雪の上でも雲のかげが滑《すべ》ってるよ。あすこ。そら。ここよりも動《うご》きようが遅《おそ》いねえ。」
「もう下りて来る。ああこんどは早い早い、まるで落《お》ちて来るようだ。もうふもとまで来ちゃった。おや、どこへ行ったんだろう、見えなくなってしまった。」
「不《ふ》思《し》議《ぎ》だねえ、雲なんてどこから出て来るんだろう。ねえ、西のそらは青じろくて光ってよく晴れてるだろう。そして風がどんどん空を吹《ふ》いてるだろう。それだのにいつまでたっても雲がなくならないじゃないか。」
「いいや、あすこから雲が湧《わ》いて来るんだよ。そら、あすこに小さな小さな雲きれが出たろう。きっと大きくなるよ。」
「ああ、ほんとうにそうだね、大きくなったねえ。もう兎《うさぎ》ぐらいある。」
「どんどんかけて来る。早い早い、大きくなった、白《しろ》熊《くま》のようだ。」
「またお日さんへかかる。暗《くら》くなるぜ、奇《き》麗《れい》だねえ。ああ奇麗。雲のへりがまるで虹《にじ》で飾《かざ》ったようだ。」
西の方の遠くの空でさっきまで一生けん命《めい》啼《な》いていたひばりがこの時風に流《なが》されて羽を変《へん》にかしげながら二人のそばに降りて来たのでした。
「今日《きよう》は、風があっていけませんね。」
「おや、ひばりさん、いらっしゃい。今日なんか高いとこは風が強いでしょうね。」
「ええ、ひどい風ですよ。大きく口をあくと風が僕《ぼく》のからだをまるで麦酒《ビール》瓶《びん》のようにボウと鳴らして行くくらいですからね。わめくも歌うも容《よう》易《い》のこっちゃありませんよ。」
「そうでしょうね。だけどここから見ているとほんとうに風はおもしろそうですよ。僕たちも一ぺん飛《と》んでみたいなあ。」
「飛べるどこじゃない。もう二ヶ月お待《ま》ちなさい。いやでも飛ばなくちゃなりません。」
それから二ヶ月めでした。私は御《ご》明《みよう》神《じん*》へ行く途《と》中《ちゆう》もう一ぺんそこへ寄《よ》ったのでした。
丘《おか》はすっかり緑《みどり》でほたるかずら《*》の花が子《こ》供《ども》の青い瞳《ひとみ》のよう、小《こ》岩《いわ》井《い》の野原には牧《ぼく》草《そう》や燕麦《オート》がきんきん光っておりました。風はもう南から吹《ふ》いていました。
春の二つのうずのしゅげの花はすっかりふさふさした銀毛の房《ふさ》にかわっていました。野原のポプラの錫《すず》いろの葉《は》をちらちらひるがえしふもとの草が青い黄金のかがやきをあげますとその二つのうずのしゅげの銀毛の房はぷるぷるふるえて今にも飛び立ちそうでした。
そしてひばりがひくく丘《おか》の上を飛んでやって来たのでした。
「今《こん》日《にち》は。いいお天気です。どうです。もう飛ぶばかりでしょう。」
「ええ、もう僕《ぼく》たち遠いところへ行きますよ。どの風が僕たちを連《つ》れて行くかさっきから見ているんです。」
「どうです。飛んで行くのはいやですか。」
「なんともありません。僕たちの仕《し》事《ごと》はもう済《す》んだんです。」
「恐《こわ》かありませんか。」
「いいえ、飛んだってどこへ行ったって野はらはお日さんのひかりで一《いつ》杯《ぱい》ですよ。僕たちばらばらになろうたってどこかのたまり水の上に落《お》ちようたってお日さんちゃんと見ていらっしゃるんですよ。」
「そうです、そうです。なんにもこわいことはありません。僕だってもういつまでこの野原に居《い》るかわかりません。もし来年も居るようだったら来年は僕はここへ巣《す》をつくりますよ。」
「ええ、ありがとう。ああ、僕まるで息《いき》がせいせいする。きっと今《こん》度《ど》の風だ。ひばりさん、さよなら。」
「僕も、ひばりさん、さよなら。」
「じゃ、さよなら、お大《だい》事《じ》においでなさい。」
奇《き》麗《れい》なすきとおった風がやって参《まい》りました。まず向《むこ》うのポプラをひるがえし、青の燕麦《オート》に波《なみ》をたてそれから丘《おか》にのぼって来ました。
うずのしゅげは光ってまるで踊《おど》るようにふらふらして叫《さけ》びました。
「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。お日さん、ありがとうございました。」
そして丁《ちよう》度《ど》星が砕《くだ》けて散《ち》るときのようにからだがばらばらになって一本ずつの銀毛はまっしろに光り、羽虫のように北の方へ飛んで行きました。そしてひばりは鉄《てつ》砲《ぽう》玉《だま》のように空へとびあがって鋭《するど》いみじかい歌をほんの一寸《ちよつと》歌ったのでした。
私は考えます。なぜひばりはうずのしゅげの銀毛の飛んで行った北の方へ飛ばなかったか、まっすぐに空の方へ飛んだか。
それはたしかに二つのうずのしゅげのたましいが天の方へ行った《*》からです。そしてもう追《お》いつけなくなったときひばりはあのみじかい別《わか》れの歌を贈《おく》ったのだろうと思います。そんなら天上へ行った二つの小さなたましいはどうなったか、私はそれは二つの小さな変《へん》光《こう》星《せい*》になったと思います。なぜなら変光星はあるときは黒くて天文台からも見えず、あるときは蟻《あり》が云《い》ったように赤く光って見えるからです。
双《ふた》子《ご》の星《*》
双子の星 一
天の川の西の岸《きし》にすぎなの胞《ほう》子《し》ほどの小さな二つの星が見えます。あれはチュンセ童《どう》子《じ》とポウセ童子という双《ふた》子《ご》のお星さまの住《す》んでいる小さな水《すい》精《しよう》のお宮《みや》です。
このすきとおる二つのお宮は、まっすぐに向《むか》い合っています。夜は二人とも、きっとお宮に帰って、きちんと座《すわ》り、空の星めぐりの歌に合せて、一《ひと》晩《ばん》銀《ぎん》笛《ぶえ》を吹《ふ》くのです。それがこの双子のお星《ほし》様《さま》の役《やく》目《め》でした。
ある朝、お日様がカッカッカッと厳《おごそ》かにお身体《からだ》をゆすぶって、東から昇《のぼ》っておいでになった時、チュンセ童子は銀笛を下に置《お》いてポウセ童子に申《もう》しました。
「ポウセさん。もういいでしょう。お日様もお昇りになったし、雲もまっ白に光っています。今日は西の野原の泉《いずみ》へ行きませんか。」
ポウセ童《どう》子《じ》が、まだ夢《む》中《ちゆう》で、半分眼《め》をつぶったまま、銀笛を吹いていますので、チュンセ童子はお宮から下りて、沓《くつ》をはいて、ポウセ童子のお宮の段《だん》にのぼって、もう一《いち》度《ど》云《い》いました。
「ポウセさん。もういいでしょう。東の空はまるで白く燃《も》えているようですし、下では小さな鳥なんかもう目をさましている様《よう》子《す》です。今日は西の野原の泉へ行きませんか。そして、風《かざ》車《ぐるま》で霧《きり》をこしらえて、小さな虹《にじ》を飛《と》ばして遊《あそ》ぼうではありませんか。」
ポウセ童子はやっと気がついて、びっくりして笛《ふえ》を置《お》いて云《い》いました。
「あ、チュンセさん。失《しつ》礼《れい》いたしました。もうすっかり明るくなったんですね。僕《ぼく》今すぐ沓をはきますから。」
そしてポウセ童子は、白い貝《かい》殻《がら》の沓をはき、二人は連《つ》れだって空の銀《ぎん》の芝《しば》原《はら》を仲《なか》よく歌いながら行きました。
「お日さまの、
お通りみちを はき浄《きよ》め
ひかりをちらせ あまの白雲。
お日さまの、
お通りみちの 石かけを
深くうずめよ、 あまの青雲。」
そしてもういつか空の泉《いずみ*》に来ました。
此《こ》の泉は霽《は》れた晩《ばん》には、下からはっきり見えます。天の川の西の岸《きし》から、よほど離《はな》れた処《ところ》に、青い小さな星で円《まる》くかこまれてあります。底《そこ》は青い小さなつぶ石でたいらにうずめられ、石の間から綺《き》麗《れい》な水が、ころころころころ湧《わ》き出して泉の一方のふちから天の川への小さな流《なが》れになって走って行きます。私共《ども》の世界が旱《ひでり》の時、瘠《や》せてしまった夜《よ》鷹《だか》やほととぎすなどが、それをだまって見上げて、残《ざん》念《ねん》そうに咽喉《のど》をくびくびさせているのを時々見ることがあるではありませんか。どんな鳥でもとてもあそこまでは行けません。けれども、天の大《おお》烏《がらす*》の星や蠍《さそり》の星や兎《うさぎ》の星ならもちろんすぐ行けます。
「ポウセさんまずここへ滝《たき》をこしらえましょうか。」
「ええ、こしらえましょう。僕石を運《はこ》びますから。」
チュンセ童子が沓をぬいで小流れの中に入り、ポウセ童子は岸から手ごろの石を集《あつ》めはじめました。今は、空は、りんごのいい匂《におい》で一《いつ》杯《ぱい》です。西の空に消《き》え残《のこ》った銀《ぎん》色《いろ》のお月《つき》様《さま》が吐《は》いたのです。
ふと野原の向《むこ》うから大きな声で歌うのが聞こえます。
「あまのがわの にしのきしを、
すこしはなれた そらの井《い》戸《ど》。
みずはころろ、 そこもきらら、
まわりをかこむ あおいほし。
夜《よ》鷹《だか》ふくろう、 ちどり、 かけす、
来よとすれども、 できもせぬ。」
「あ、大《おお》烏《がらす》の星だ。」童《どう》子《じ》たちは一《いつ》緒《しよ》に云《い》いました。
もう空のすすきをざわざわと分けて大烏が向うから肩《かた》をふって、のっしのっしと大《おお》股《また》にやって参《まい》りました。まっくろなびろうどのマントを着《き》て、まっくろなびろうとの股《もも》引《ひき》をはいております。
大烏は二人を見て立ちどまって丁《てい》寧《ねい》にお辞《じ》儀《ぎ》しました。
「いや、今《こん》日《にち》は。チュンセ童《どう》子《じ》とポウセ童子。よく晴れて結《けつ》構《こう》ですな。しかしどうも晴れると咽喉《のど》が乾《かわ》いていけません。それに昨夜《ゆうべ》は少し高く歌い過《す》ぎましてな。ご免《めん》下さい。」と云いながら大烏は泉《いずみ》に頭をつき込《こ》みました。
「どうか構《かま》わないで沢《たく》山《さん》呑《の》んでください。」とポウセ童子が云いました。
大《おお》烏《がらす》は息《いき》もつかずに三分ばかり咽喉を鳴らして呑んでから、やっと顔をあげて一寸《ちよつと》眼《め》をパチパチ云わせて、それからブルルッと頭をふって水を払《はら》いました。
その時向うから暴《あら》い声の歌がまた聞えて参りました。大烏は見る見る顔色を変《か》えて身体《からだ》を烈《はげ》しくふるわせました。
「みなみのそらの、 赤眼のさそり《*》
毒《どく》ある鉤《かぎ》と 大きなはさみを
知らない者は 阿呆《あほう》鳥《どり》。」
そこで大烏が怒《おこ》って云《い》いました。
「蠍《さそり》星《ぼし》です。畜《ちく》生《しよう》。阿呆鳥だなんて人をあてつけてやがる。見ろ。ここへ来たらその赤眼を抜《ぬ》いてやるぞ。」
チュンセ童《どう》子《じ》が、
「大烏さん。それはいけないでしょう。王《おう》様《さま》がご存《ぞん》じですよ。」という間《ま》もなくもう赤い眼の蠍星が向《むこ》うから二つの大きな鋏《はさみ》をゆらゆら動《うご》かし長い尾《お》をカラカラ引いてやって来るのです。その音はしずかな天の野原中にひびきました。
大烏はもう怒ってぶるぶる顫《ふる》えて今にも飛《と》びかかりそうです。双子《ふたご》の星は一生けん命《めい》手まねでそれを押《おさ》えました。
蠍《さそり》は大《おお》烏《がらす》を尻《しり》目《め》にかけてもう泉《いずみ》のふちまで這《は》って来て云いました。
「ああ、どうも咽喉《のど》が乾《かわ》いてしまった。やあ双子さん。今日は。ご免《めん》なさい。少し水を呑《の》んでやろうかな。はてな、どうもこの水は変《へん》に土《つち》臭《くさ》いぞ。どこかのまっ黒な馬《ば》鹿《か》ァが頭をつっ込《こ》んだとみえる。えい。仕《し》方《かた》ない。我《が》慢《まん》してやれ。」
そして蠍は十分ばかりごくりごくりと水を呑みました。その間も、いかにも大烏を馬鹿にするように、毒《どく》の鈎《かぎ》のついた尾《お》をそちらにパタパタ動かすのです。
とうとう大烏は、我慢しかねて羽をパッと開いて叫《さけ》びました。
「こら蠍。貴《き》様《さま》はさっきから阿呆鳥だの何だのと俺《おれ》の悪《わる》口《くち》を云ったな。早くあやまったらどうだ。」
蠍がやっと水から頭をはなして、赤い眼をまるで火が燃《も》えるように動かしました。
「へん。誰《だれ》か何か云ってるぜ。赤いお方だろうか。鼠《ねずみ》色《いろ》のお方だろうか。一つ鈎をお見《み》舞《まい》しますかな。」
大烏はかっとして思わず飛《と》びあがって叫びました。
「何を。生《なま》意《い》気《き》な。空の向《むこ》う側《がわ》へまっさかさまに落《おと》してやるぞ。」
蠍も怒《おこ》って大きなからだをすばやくひねって尾の鈎を空に突《つ》き上げました。大烏は飛びあがってそれを避《さ》け今《こん》度《ど》はくちばしを槍《やり》のようにしてまっすぐ蠍の頭をめがけて落ちて来ました。
チュンセ童《どう》子《じ》もポウセ童子もとめるすきがありません。蠍は頭に深《ふか》い傷《きず》を受《う》け、大《おお》烏《がらす》は胸《むね》を毒《どく》の鈎でさされて、両《りよう》方《ほう》ともウンとうなったまま重《かさ》なり合って気《き》絶《ぜつ》してしまいました。
蠍の血《ち》がどくどく空に流《なが》れて、いやな赤い雲になりました。
チュンセ童子が急《いそ》いで沓《くつ》をはいて、申《もう》しました。
「さあ大《たい》変《へん》だ。大烏には毒がはいったのだ。早く吸《す》いとってやらないといけない。ポウセさん。大烏をしっかり押《おさ》えていて下さいませんか。」
ポウセ童子も沓をはいてしまっていそいで大烏のうしろにまわってしっかり押えました。チュンセ童子が大烏の胸の傷《きず》口《ぐち》に口をあてました。ポウセ童子が申しました。
「チュンセさん。毒を呑《の》んではいけませんよ。すぐ吐《は》き出してしまわないといけませんよ。」
チュンセ童子が黙《だま》って傷口から六遍《ぺん》ほど毒のある血を吸ってはき出しました。すると大烏がやっと気がついてうすく目を開いて申しました。
「あ、どうも済《す》みません。私はどうしたのですかな。たしかに野《や》郎《ろう》をし止めたのだが。」
チュンセ童《どう》子《じ》が申《もう》しました。
「早く流れでその傷口をお洗《あら》いなさい。歩けますか。」大《おお》烏《がらす》はよろよろ立ちあがって、蠍《さそり》を見てまた身体《からだ》をふるわせて云《い》いました。
「畜《ちく》生《しよう》。空の毒虫め。空で死んだのを有《あ》り難《がた》いと思え。」二人は大烏を急いで流れへ連《つ》れて行きました。そして奇《き》麗《れい》に傷口を洗ってやって、その上、傷口へ二、三度香《かぐわ》しい息《いき》を吹《ふ》きかけてやって云いました。
「さあ、ゆるゆる歩いて明るいうちに早くおうちへお帰りなさい。これからこんなことをしてはいけません。王様はみんなご存《ぞん》じですよ。」
大烏はすっかり悄気《しよげ》て翼《つばさ》を力なく垂《た》れ、何《なん》遍《べん》もお辞《じ》儀《ぎ》をして、
「ありがとうございます。ありがとうございます。これからは気をつけます。」と云いながら脚《あし》を引きずって銀《ぎん》のすすきの野原を向《むこ》うへ行ってしまいました。
二人は蠍を調《しら》べてみました。頭の傷《きず》はかなり深《ふか》かったのですがもう血《ち》がとまっています。二人は泉《いずみ》の水をすくって、傷口にかけて奇《き》麗《れい》に洗いました。そして交《かわ》る交《がわ》るふっふっと息をそこへ吹き込《こ》みました。
お日《ひ》様《さま》が丁《ちよう》度《ど》空のまん中においでになった頃《ころ》蠍はかすかに目を開きました。
ポウセ童子が汗《あせ》をふきながら申しました。
「どうですか気分は。」
蠍《さそり》がゆるく呟《つぶや》きました。
「大烏めは死《し》にましたか。」
チュンセ童子が少し怒《おこ》って云いました。
「まだそんな事を云うんですか。あなたこそ死ぬところでした。さあ早くうちへ帰るように元気をお出しなさい。明るいうちに帰らなかったら大《たい》変《へん》ですよ。」
蠍が目を変《へん》に光らして云いました。
「双《ふた》子《ご》さん。どうか私を送《おく》ってくださいませんか。お世《せ》話《わ》の序《ついで》です。」
ポウセ童子が云いました。
「送ってあげましょう。さあおつかまりなさい。」
チュンセ童子も申しました。
「そら、僕《ぼく》にもおつかまりなさい。早くしないと明るいうちに家に行けません。そうすると今夜の星めぐりが出来なくなります。」
蠍は二人につかまってよろよろ歩き出しました。二人の肩《かた》の骨《ほね》は曲《まが》りそうになりました。実《じつ》に蠍のからだは重《おも》いのです。大きさから云っても童子たちの十倍《ばい》ぐらいはあるのです。
けれども二人は顔をまっ赤にしてこらえて一足ずつ歩きました。
蠍《さそり》は尾《お》をギーギーと石ころの上に引きずっていやな息《いき》をはあはあ吐《は》いてよろりよろりとあるくのです。一時間に十町《ちよう》とも進《すす》みません。
もう童《どう》子《じ》たちは余《あま》り重い上に蠍の手がひどく食い込《こ》んで痛《いた》いので、肩や胸《むね》が自分のものかどうかもわからなくなりました。
空の野原はきらきら白く光っています。七つの小《こ》流《なが》れと十の芝《しば》原《はら》とを過《す》ぎました。
童子たちは頭がぐるぐるしてもう自分が歩いているのか立っているのかわかりませんでした。それでも二人は黙《だま》ってやはり一足ずつ進みました。
さっきから六時間もたっています。蠍の家まではまだ一時間半はかかりましょう。もうお日様が西の山にお入りになるところです。
「もう少し急《いそ》げませんか。私らも、もう一時間半のうちにはおうちへ帰らないといけないんだから。けれども苦《くる》しいんですか。大《たい》変《へん》痛みますか。」とポウセ童子が申《もう》しました。
「へい。も少しでございます。どうかお慈《じ》悲《ひ》でございます。」と蠍が泣《な》きました。
「ええ、も少しです。傷《きず》は痛みますか。」とチュンセ童子が肩の骨の砕《くだ》けそうなのをじっとこらえて申しました。
お日様がもうサッサッサッと三遍《べん》厳《おごそ》かにゆらいで西の山にお沈《しず》みになりました。
「もう僕《ぼく》らは帰らないといけない。困《こま》ったな。ここらの人は誰《だれ》か居《い》ませんか。」ポウセ童子が叫《さけ》びました。天の野原はしんとして返《へん》事《じ》もありません。
西の雲はまっかにかがやき蠍《さそり》の眼《め》も赤く悲《かな》しく光りました。光の強い星たちはもう銀《ぎん》の鎧《よろい》を着《き》て歌いながら遠くの空へ現《あら》われた様《よう》子《す》です。
「一つ星めつけた。長《ちよう》者《じや*》になあれ。」下で一人の子《こ》供《ども》がそっちを見上げて叫《さけ》んでいます。
チュンセ童《どう》子《じ》が、
「蠍さん。も少しです。急《いそ》げませんか。疲《つか》れましたか。」と云いました。
蠍が哀《あわ》れな声で、
「どうもすっかり疲れてしまいました。どうかも少しですからお許《ゆる》し下さい。」と云います。
「星さん星さん一つの星で出ぬもんだ。
千も万もででるもんだ。」下で別《べつ》の子供が叫んでいます。もう西の山はまっ黒です。あちこち星がちらちら現われました。
チュンセ童子は背《せ》中《なか》がまがってまるで潰《つぶ》れそうになりながら云いました。
「蠍《さそり》さん。もう私らは今夜は時間に遅《おく》れました。きっと王《おう》様《さま》に叱《しか》られます。事《こと》によったら流《なが》されるかも知れません。けれどもあなたがふだんの所《ところ》に居《い》なかったらそれこそ大《たい》変《へん》です。」
ポウセ童《どう》子《じ》が、
「私はもう疲れて死《し》にそうです。蠍さん。もっと元気を出して早く帰って行って下さい。」と云《い》いながらとうとうバッタリ倒《たお》れてしまいました。蠍は泣《な》いて云いました。
「どうか許《ゆる》して下さい。私は馬《ば》鹿《か》です。あなた方の髪《かみ》の毛一本にも及《およ》びません。きっと心を改《あらた》めてこのおわびは致《いた》します。きっといたします。」
この時水色の烈《はげ》しい光の外《がい》套《とう》を着《き》た稲妻《いなずま》が、向《むこ》うからギラッとひらめいて飛《と》んで来ました。そして童子たちに手をついて申《もう》しました。
「王様のご命《めい》でお迎《むか》いに参《まい》りました。さあご一《いつ》緒《しよ》に私のマントへおつかまり下さい。もうすぐお宮《みや》へお連《つ》れ申します。王様はどう云うわけかさっきからひどくお悦《よろこ》びでございます。それから、蠍。お前は今まで憎《にく》まれ者《もの》だったな。さあこの薬《くすり》を王様から下すったんだ。飲《の》め。」
童子たちは叫《さけ》びました。
「それでは蠍さん。さよなら。早く薬をのんで下さい。それからさっきの約《やく》束《そく》ですよ。きっとですよ。さよなら。」
そして二人は一《いつ》緒《しよ》に稲妻《いなずま》のマントにつかまりました。蠍が沢《たく》山《さん》の手をついて平《へい》伏《ふく》して薬をのみそれから丁《てい》寧《ねい》にお辞《じ》儀《ぎ》をします。
稲妻がぎらぎらっと光ったと思《おも》うともういつかさっきの泉《いずみ》のそばに立っておりました。そして申しました。
「さあ、すっかりおからだをお洗《あら》いなさい。王様から新しい着《き》物《もの》と沓《くつ》をくださいました。まだ十五分間《ま》があります。」
双《ふた》子《ご》のお星様たちは悦んでつめたい水《すい》晶《しよう》のような流《なが》れを浴《あ》び、匂《におい》のいい青光りのうすものの衣《ころも》を着《つ》け新らしい白光りの沓をはきました。するともう身体《からだ》の痛《いた》みもつかれも一《いつ》遍《ぺん》にとれてすがすがしてしまいました。
「さあ、参《まい》りましょう。」と稲妻が申しました。そして二人がまたそのマントに取《と》りつきますと紫《むらさき》色《いろ》の光が一遍ぱっとひらめいて童子たちはもう自分のお宮の前に居《い》ました。稲妻はもう見えません。
「チュンセ童子、それでは支《し》度《たく》をしましょう。」
「ポウセ童子、それでは支度をしましょう。」
二人はお宮にのぼり、向《む》き合ってきちんと座《すわ》り銀《ぎん》笛《ぶえ》をとりあげました。
丁《ちよう》度《ど》あちこちで星めぐりの歌がはじまりました。
「あかいめだまの さそり
ひろげた鷲《わし》の つばさ
あおいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高く うたい
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くも《*》は
さかなのくちの かたち。
大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ《*》。
小《こ》熊《ぐま》のひたいの うえは
そらのめぐりの めあて《*》。」
双《ふた》子《ご》のお星様たちは笛《ふえ》を吹《ふ》きはじめました。
双子の星 二
(天の川の西の岸《きし》に小さな小さな二つの青い星が見えます。あれはチュンセ童《どう》子《じ》とポウセ童子という双《ふた》子《ご》のお星《ほし》様《さま》でめいめい水《すい》晶《しよう》でできた小さなお宮《みや》に住《す》んでいます。
二つのお宮はまっすぐに向《むか》い合っています。夜は二人ともきっとお宮に帰って、きちんと座《すわ》ってそらの星めぐりの歌に合せて一《ひと》晩《ばん》銀《ぎん》笛《ぶえ》を吹《ふ》くのです。それがこの双《ふた》子《ご》のお星様たちの役《やく》目《め》でした。)
ある晩空の下の方が黒い雲で一《いつ》杯《ぱい》に埋《うず》まり雲の下では雨がザアッザアッと降《ふ》っておりました。それでも二人はいつものようにめいめいのお宮にきちんと座って向いあって笛を吹いていますと突《とつ》然《ぜん》大きな乱《らん》暴《ぼう》ものの彗《ほうき》星《ぼし》がやって来て二人のお宮にフッフッと青白い光の霧《きり》をふきかけて云《い》いました。
「おい、双子の青星。すこし旅《たび》に出てみないか。今夜なんかそんなにしなくてもいいんだ。いくら難《なん》船《せん》の船《ふな》乗《の》りが星で方角を定《さだ》めようたって雲で見えはしない。天文台の星の係《かか》りも今日《きよう》は休みであくびをしてる。いつも星を見ているあの生《なま》意《い》気《き》な小学生も雨ですっかりへこたれ、うちの中で絵なんか書いてるんだ。お前たちが笛なんか吹かなくたって星はみんなくるくるまわるさ。どうだ。一寸《ちよつと》旅へ出よう。あしたの晩方までにはここに連《つ》れて来てやるぜ。」
チュンセ童子がちょっと笛をやめて云《い》いました。
「それは曇《くも》った日は笛をやめてもいいと王様からお許《ゆる》しはあるとも。私らはただ面白《おもしろ》くて吹いていたんだ。」
ポウセ童子も一寸笛をやめて云いました。
「けれども旅に出るなんてそんなことはお許しがないはずだ。雲がいつはれるかもわからないんだから。」
彗《ほうき》星《ぼし》が云いました。
「心《しん》配《ぱい》するなよ。王様がこの前俺《おれ》にそう云ったぜ。いつか曇った晩あの双子を少し旅させてやってくれってな。行こう。行こう。俺なんか面白いぞ。俺のあだ名は空の鯨《くじら》と云うんだ。知ってるか。俺は鰯《いわし》のようなヒョロヒョロの星やめだかのような黒い隕石《いし》はみんなパクパク呑《の》んでしまうんだ。それから一番痛《つう》快《かい》なのはまっすぐに行ってそのまままっすぐに戻《もど》るくらいひどくカーブを切って廻《まわ》るときだ。まるで身体《からだ》が壊《こわ》れそうになってミシミシ云うんだ。光の骨《ほね》までがカチカチ云うぜ。」
ポウセ童子が云いました。
「チュンセさん。行きましょうか。王様がいいっておっしゃったそうですから。」
チュンセ童《どう》子《じ》が云《い》いました。
「けれども王様がお許《ゆる》しになったなんていったい本当でしょうか。」
彗星が云いました。
「へん。偽《うそ》なら俺《おれ》の頭が裂《さ》けてしまうがいいさ。頭と胴《どう》と尾《お》がばらばらになって海へ落《お》ちて海鼠《なまこ》にでもなるだろうよ。偽なんか云うもんか。」
ポウセ童子が云いました。
「そんなら王様に誓《ちか》えるかい。」
彗星はわけもなく云いました。
「うん、誓うとも。そら、王様ご照《しよう》覧《らん》。ええ今日、王様のご命《めい》令《れい》で双《ふた》子《ご》の青星は旅《たび》に出ます。ね。いいだろう。」
二人は一《いつ》緒《しよ》に云いました。
「うん。いい。そんなら行こう。」
そこで彗星はいやに真《ま》面《じ》目《め》くさって云いました。「それじゃ早く俺のしっぽにつかまれ。しっかりとつかまるんだ。さ。いいか。」
二人は彗星のしっぽにしっかりつかまりました。彗星は青白い光を一つフウとはいて云いました。
「さあ、発《た》つぞ、ギイギイギイフウ。ギイギイフウ。」
実《じつ》に彗《ほうき》星《ぼし》は空のくじらです。弱い星はあちこち逃《に》げまわりました。もう大分来たのです。二人のお宮《みや》もはるかに遠く遠くなってしまい今は小さな青白い点にしか見えません。
チュンセ童《どう》子《じ》が申《もう》しました。
「もう余《よ》程《ほど》来たな。天の川の落《お》ち口《*》はまだだろうか。」
すると彗星の態《たい》度《ど》がガラリと変《か》わってしまいました。
「へん。天の川の落ち口よりお前らの落ち口を見ろ。それ一《ひ》ぃ二《ふ》の三《み》。」
彗星は尾《お》を強く二、三遍《べん》動《うご》かしおまけにうしろをふり向《む》いて青白い霧《きり》を烈《はげ》しくかけて二人を吹《ふ》き落《おと》してしまいました。
二人は青ぐろい虚《こ》空《くう》をまっしぐらに落ちました。
彗星は、
「あっはっは、あっはっは。さっきの誓《ちか》いも何もかもみんな取《と》り消《け》しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云いながら向《むこ》うへ走って行ってしまいました。二人は落ちながらしっかりお互《たが》いの肱《ひじ》をつかみました。この双《ふた》子《ご》のお星様はどこまでも一《いつ》緒《しよ》に落ちようとしたのです。
二人のからだが空気の中にはいってからは雷《かみなり》のように鳴り赤い火花がパチパチあがり見ていてさえめまいがするくらいでした。そして二人はまっ黒な雲の中を通り暗い波の咆《ほ》えていた海の中に矢のように落ち込《こ》みました。
二人はずんずん沈《しず》みました。けれども不《ふ》思《し》議《ぎ》なことには水の中でも自《じ》由《ゆう》に息《いき》ができたのです。
海の底《そこ》はやわらかな泥《どろ》で大きな黒いものが寝《ね》ていたり、もやもやの藻《も》がゆれたりしました。
チュンセ童《どう》子《じ》が申《もう》しました。
「ポウセさん。ここは海の底でしょうね。もう僕《ぼく》たちは空に昇《のぼ》れません。これからどんな目に遭《あ》うでしょう。」
ポウセ童子が云いました。
「僕らは彗星に欺《だま》されたのです。彗星は王さまへさえ偽《うそ》をついたのです。本《ほん》統《とう》に憎《にく》いやつではありませんか。」
するとすぐ足もとで星の形で赤い光の小さなひとで《*》が申しました。
「お前さんたちはどこの海の人たちですか。お前さんたちは青いひとでのしるしをつけていますね。」
ポウセ童《どう》子《じ》が云《い》いました。
「私らはひとでではありません。星ですよ。」
するとひとでが怒《おこ》って云いました。
「何だと。星だって。ひとではもとはみんな星さ。お前たちはそれじゃ今やっとここへ来たんだろう。何だ。それじゃ新《しん》米《まい》のひとでだ。ほやほやの悪《あく》党《とう》だ。悪《わる》いことをしてここへ来ながら星だなんて鼻《はな》にかけるのは海の底《そこ》でははやらないさ。おいらだって空に居《い》た時は第《だい》一《いつ》等《とう》の軍《ぐん》人《じん》だぜ。」
ポウセ童子が悲《かな》しそうに上を見ました。
もう雨がやんで雲がすっかりなくなり海の水もまるで硝子《ガラス》のように静《しず》まってそらがはっきり見えます。天の川もそらの井《い》戸《ど》も鷲《わし》の星や琴《こと》弾《ひ》きの星やみんなはっきり見えます。小さく小さく二人のお宮も見えます。
「チュンセさん。すっかり空が見えます。私らのお宮も見えます。それだのに私らはとうとうひとでになってしまいました。」
「ポウセさん。もう仕《し》方《かた》ありません。ここから空のみなさんにお別《わか》れしましょう。またおすがたは見えませんが王《おう》様《さま》におわびをしましょう。」
「王様さよなら。私共《ども》は今日《きよう》からひとでになるのでございます。」
「王様さよなら。ばかな私共は彗《ほうき》星《ぼし》に欺《だま》されました。今日からはくらい海の底の泥《どろ》を私共は這《は》いまわります。」
「さよなら王様。また天上の皆《みな》さま。おさかえを祈《いの》ります。」
「さよならみな様。またすべての上の尊《とうと》い王さま、いつまでもそうしておいで下さい。」
赤いひとでが沢《たく》山《さん》集《あつま》まって来て二人を囲《かこ》んでがやがや云《い》っておりました。
「こら着《き》物《もの》をよこせ。」「こら。剣《けん》を出せ。」「税《ぜい》金《きん》を出せ。」「もっと小さくなれ。」「俺《おれ》の靴《くつ》をふけ。」
その時みんなの頭の上をまっ黒な大きな大きなものがゴーゴーゴーと哮《ほ》えて通りかかりました。ひとではあわててみんなお辞《じ》儀《ぎ》をしました。黒いものは行き過《す》ぎようとしてふと立ちどまって、よく二人をすかして見て云いました。
「ははあ、新《しん》兵《ぺい》だな。まだお辞儀のしかたも習《なら》わないのだな。こらくじら様《さま》を知らんのか。俺のあだなは海の彗星と云うんだ。知ってるか。俺は鰯《いわし》のようなひょろひょろの魚や、めだかのようなめくらの魚はみんなパクパクのんでしまうんだ。それから一番痛《つう》快《かい》なのは、まっすぐに行ってぐるっと円を描《えが》いて、まっすぐにかえるくらいゆっくりカーブを切るときだ。まるでからだの油《あぶら》がねとねとするぞ。さて、お前は天からの追《つい》放《ほう》の書き付《つ》けを持《も》って来たろうな。早く出せ。」
二人は顔を見合せました。チュンセ童《どう》子《じ》が、
「僕《ぼく》らはそんなもの持たない。」と申《もう》しました。
すると鯨《くじら》が怒《おこ》って水を一つぐうっと口から吐《は》きました。ひとではみんな顔色を変《か》えてよろよろしましたが二人はこらえてしゃんと立っていました。
鯨が怖《こわ》い顔をして云《い》いました。
「書き付けを持たないのか。悪《あく》党《とう》め。ここにいるのはどんな悪《わる》いことを天上でして来たやつでも書き付けを持たなかったものはないぞ。貴《き》様《さま》らは実《じつ》にけしからん。さあ。呑《の》んでしまうからそう思《おも》え。いいか。」鯨は口を大きくあけて身《み》構《がま》えしました。ひとでや近《きん》所《じよ》の魚は巻《ま》き添《ぞえ》を食っては大《たい》変《へん》だと泥《どろ》の中にもぐり込《こ》んだり一もくさんに逃《に》げたりしました。
その時向《むこ》うから銀《ぎん》色《いろ》の光がパッと射《さ》して小さな海《うみ》蛇《へび》がやって来ます。くじらは非《ひ》常《じよう》に愕《おど》ろいたらしく急《いそ》いで口を閉《し》めました。
海蛇は不思議そうに二人の頭の上をじっと見て云いました。
「あなた方はどうしたのですか。悪いことをなさって天から落《お》とされたお方ではないように思われますが。」
鯨《くじら》が横《よこ》から口を出しました。
「こいつらは追《つい》放《ほう》の書き付《つ》けも持《も》ってませんよ。」
海蛇が凄《すご》い目をして鯨をにらみつけて云《い》いました。
「黙《だま》っておいで。生《なま》意《い》気《き》な。このお方がたをこいつらなんてお前がどうして云えるんだ。お前には善《よ》い事《こと》をしていた人の頭の上の後《ご》光《こう》が見えないのだ。悪《わる》い事をしたものなら頭の上に黒い影《かげ》法《ぼう》師《し》が口をあいているからすぐわかる。お星さま方。こちらへお出《い》で下さい。王の所《ところ》へご案《あん》内《ない》申《もう》しあげましょう。おい、ひとで。あかりをともせ。こら、くじら。あんまり暴《あば》れてはいかんぞ。」
くじらが頭をかいて平《へい》伏《ふく》しました。
愕《おど》ろいたことには赤い光のひとでが幅《はば》のひろい二列《れつ》にぞろっとならんで丁《ちよう》度《ど》街《かい》道《どう》のあかりのようです。
「さあ、参《まい》りましょう。」海蛇は白《はく》髪《はつ》を振《ふ》って恭《うやうや》しく申しました。二人はそれに続《つづ》いてひとでの間を通りました。まもなく蒼《あお》ぐろい水あかりの中に大きな白い城《しろ》の門があってその扉《とびら》がひとりでに開いて中から沢《たく》山《さん》の立《りつ》派《ぱ》な海蛇が出て参りました。そして双《ふた》子《ご》のお星さまだちは海蛇の王さまの前に導《みちび》かれました。王様は白い長い髯《ひげ》のはえた老《ろう》人《じん》でにこにこわらって云いました。
「あなた方はチュンセ童《どう》子《じ》にポウセ童子。よく存《ぞん》じております。あなた方が前にあの空の蠍《さそり》の悪い心を命《いのち》がけでお直しになった話はここへも伝《つた》わっております。私はそれをこちらの小学校の読本《とくほん》にも入れさせました。さて今度はとんだ災《さい》難《なん》で定《さだ》めしびっくりなさったでしょう。」
チュンセ童子が申《もう》しました。
「これはお語《ことば》誠《まこと》に恐《おそ》れ入ります。私共《ども》はもう天上にも帰れませんしできますことならこちらで何なりみなさまのお役《やく》に立ちたいと存じます。」
王が云いました。
「いやいやそのご謙《けん》遜《そん》は恐れ入ります。早《さつ》速《そく》竜《たつ》巻《まき》に云いつけて天上にお送《おく》りいたしましょう。お帰りになりましたらあなたの王《おう》様《さま》に海《うみ》蛇《へび》めが宜《よろ》しく申《もう》し上げたと仰《お》っしゃって下さい。」
ポウセ童子が悦《よろこ》んで申しました。
「それでは王様は私共の王様をご存《ぞん》じでいらっしゃいますか。」
王はあわてて椅《い》子《す》を下って申しました。
「いいえ、それどころではございません。王様はこの私の唯一人《ただひとり》の王でございます。遠いむかしから私めの先生でございます。私はあのお方の愚《おろ》かなしもべでございます。いや、まだおわかりになりますまい。けれどもやがておわかりでございましょう。それでは夜の明けないうちに竜《たつ》巻《まき》にお伴《とも》致《いた》させます。これ、これ。支《し》度《たく》はいいか。」
一疋《ぴき》のけらいの海蛇が、
「はい、ご門の前にお待《ま》ちいたしております。」と答えました。
二人は丁《てい》寧《ねい》に王にお辞《じ》儀《ぎ》をいたしました。
「それでは王様、ごきげんよろしゅう。いずれ改《あらた》めて空からお礼《れい》を申しあげます。このお宮《みや》のいつまでも栄《さか》えますよう。」
王は立って云いました。
「あなた方もどうかますます立《りつ》派《ぱ》にお光りくださいますよう。それではごきげんよろしゅう。」
けらいたちが一《いち》度《ど》に恭《うやうや》しくお辞儀をしました。
童子たちは門の外に出ました。
竜巻が銀《ぎん》のとぐろを巻《ま》いてねています。
一人の海蛇が二人をその頭に載《の》せました。
二人はその角《つの》に取《と》りつきました。
その時赤い光のひとでが沢《たく》山《さん》出て来て叫《さけ》びました。
「さよなら、どうか空の王様によろしく。私どももいつか許《ゆる》されますようおねがいいたします。」
二人は一《いつ》緒《しよ》に云《い》いました。
「きっとそう申《もう》しあげます。やがて空でまたお目にかかりましょう。」
竜《たつ》巻《まき》がそろりそろりと立ちあがりました。
「さよなら、さよなら。」
竜巻はもう頭をまっくろな海の上に出しました。と思うと急《きゆう》にバリバリバリッと烈《はげ》しい音がして竜巻は水と一《いつ》所《しよ》に矢のように高く高くはせのぼりました。
まだ夜があけるのに余《よ》程《ほど》間《ま》があります。天の川がずんずん近くなります。二人のお宮《みや》がもうはっきり見えます。
「一寸《ちよつと》あれをご覧《らん》なさい。」と闇《やみ》の中で竜巻が申しました。
見るとあの大きな青白い光りのほうきぼしはばらばらにわかれてしまって頭も尾《お》も胴《どう》も別《べつ》々《べつ》にきちがいのような凄《すご》い声をあげガリガリ光ってまっ黒な海の中に落《お》ちて行きます。
「あいつはなまこになりますよ。」と竜巻がしずかに云いました。
もう空の星めぐりの歌が聞えます。
そして童子たちはお宮につきました。
竜巻は二人をおろして、
「さよなら、ごきげんよろしゅう。」と云いながら風のように海に帰って行きました。
双《ふた》子《ご》のお星さまはめいめいのお宮に昇《のぼ》りました。そしてきちんと座《すわ》って見えない空の王様に申しました。
「私どもの不《ふ》注《ちゆう》意《い》からしばらく役《やく》目《め》を欠《か》かしましてお申し訳《わ》けございません。それにもかかわらず今《こん》晩《ばん》はおめぐみによりまして不《ふ》思《し》議《ぎ》に助《たす》かりました。海の王様が沢《たく》山《さん》の尊《そん》敬《けい》をお伝《つた》えしてくれと申されました。それから海の底《そこ》のひとでがお慈《じ》悲《ひ》をねがいました。また私どもから申しあげますがなまこももしできますならお許《ゆる》しを願《ねが》いとう存《ぞん》じます。」
そして二人は銀《ぎん》笛《ぶえ》をとりあげました。
東の空が黄金色になり、もう夜明けに間《ま》もありません。
貝の火《*》
今は兎《うさぎ》たちは、みんなみじかい茶色の着《き》物《もの》です。
野原の草はきらきら光り、あちこちの樺《かば*》の木は白い花をつけました。
実《じつ》に野原はいい匂《におい》で一《いつ》杯《ぱい》です。
子兎のホモイ《*》は、悦《よろこ》んでぴんぴん踊《おど》りながら申《もう》しました。
「ふん、いいにおいだなあ。うまいぞ、うまいぞ、鈴《すず》蘭《らん*》なんかまるでパリパリだ。」
風が来たので鈴蘭は、葉《は》や花を互《たがい》にぶっつけて、しゃりんしゃりんと鳴りました。
ホモイはもう嬉《うれ》しくて、息《いき》もつかずにぴょんぴょん草の上をかけ出しました。
それからホモイは一寸《ちよつと》立ちどまって、腕《うで》を組んでほくほくしながら、
「まるで僕《ぼく》は川の波《なみ》の上で芸《げい》当《とう》をしているようだぞ。」と云《い》いました。
本当にホモイは、いつか小さな流《なが》れの岸《きし》まで来ておりました。
そこには冷《つめ》たい水がこぼんこぼんと音をたて、底《そこ》の砂《すな》がピカピカ光っています。
ホモイは一寸頭を曲《ま》げて、
「この川を向《むこ》うへ跳《と》び越《こ》えてやろうかな。なあに訳《わけ》ないさ。けれども川の向う側《がわ》は、どうも草が悪《わる》いからね。」とひとりごとを云《い》いました。
すると不《ふ》意《い》に流れの上《かみ》の方から、
「ブルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ、ブルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ。」とけたたましい声がして、うす黒いもじゃもじゃした鳥のような形のものが、ばたばたばたばたもがきながら、流《なが》れて参《まい》りました。
ホモイは急《いそ》いで岸《きし》にかけよって、じっと待《ま》ちかまえました。
流されるのは、たしかに瘠《や》せたひばりの子《こ》供《ども》です。ホモイはいきなり水の中に飛《と》び込《こ》んで、前あしでしっかりそれを捉《つか》まえました。
するとそのひばりの子供は、いよいよびっくりして、黄色なくちばしを大きくあけて、まるでホモイのお耳もつんぼになるくらい鳴くのです。
ホモイはあわてて一《いつ》生《しよう》けん命《めい》、あとあしで水をけりました。そして「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》さ、大丈夫さ。」と云いながら、その子の顔を見ますと、ホモイはぎょっとして危《あぶ》なく手をはなしそうになりました。それは顔中しわだらけで、くちばしが大きくて、おまけにどこかとかげに似《に》ている《*》のです。
けれどもこの強い兎《うさぎ》の子は、決《けつ》してその手をはなしませんでした。怖《おそ》ろしさに口をへの字にしながらも、それをしっかりおさえて、高く水の上にさしあげたのです。
そして二人《ふたり》は、どんどん流されました。ホモイは二《に》度《ど》ほど波《なみ》をかぶったので、水を余《よ》程《ほど》呑《の》みました。それでもその鳥の子ははなしませんでした。
すると丁《ちよう》度《ど》、小《こ》流《なが》れの曲がりかどに、一本の小さな楊《やなぎ》の枝《えだ》が出て、水《みず》をピチャピチャ叩《たた》いておりました。ホモイはいきなりその枝に、青い皮《かわ》の見えるくらい深《ふか》くかみつきました。そして力一《いつ》杯《ぱい》にひばりの子を岸《きし》の柔《やわら》らかな草の上に投《な》げあげて、自分も一とびにはね上《あが》りました。
ひばりの子は草の上に倒《たお》れて、目を白くしてガタガタ顫《ふる》えています。
ホモイも疲《つか》れでよろよろしましたが、無《む》理《り》にこらえて、楊の白い花をむしって来て、ひばりの子に被《かぶ》せてやりました。ひばりの子はありがとうと云うようにその鼠《ねずみ》色《いろ》の顔をあげました。
ホモイはそれを見るとぞっとして、いきなり跳《と》び退《の》きました。そして声をたてて逃《に》げました。
その時、空からヒュウと矢のように降《お》りて来たものがあります。ホモイは立ちどまって、ふりかえって見ると、それは母親のひばりでした。母親のひばりは、物《もの》も云えずにぶるぶる顫《ふる》えながら、子《こ》供《ども》のひばりを強く強く抱《だ》いてやりました。
ホモイはもう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》と思ったので、一《いち》目《もく》散《さん》におとうさんのお家《うち》へ走って帰りました。
兎《うさぎ》のお母《つか》さんは、丁《ちよう》度《ど》、お家で白い草の束《たば》をそろえておりましたが、ホモイを見てびっくりしました。そして、
「おや、どうかしたのかい。大《たい》変《へん》顔色が悪《わる》いよ。」と云《い》いながら棚《たな》から薬《くすり》の箱《はこ》をおろしました。
「おっかさん、僕《ぼく》ね、もじゃもじゃの鳥の子の溺《おぼ》れるのを助《たす》けたんです。」とホモイが云いました。
兎のお母《かあ》さんは箱《はこ》から万《まん》能《のう》散《さん*》を一服《ぷく》出《だ》してホモイに渡《わた》して、
「もじゃもじゃの鳥の子ってひばりかい。」と尋《たず》ねました。
ホモイは薬を受《う》けとって、
「多分ひばりでしょう。ああ頭がぐるぐるする。お母《つか》さん、まわりが変《へん》に見えるよ。」と云いながら、そのままバッタリ倒れてしまいました。ひどい熱《ねつ》病《びよう》にかかったのです。
*
*
ホモイが、おとうさんやおっかさんや、兎のお医《い》者《しや》さんのおかげで、すっかりよくなったのは、鈴《すず》蘭《らん》にみんな青い実《み》ができた頃《ころ》でした。
ホモイは、或《あ》る雲の無《な》い静《しず》かな晩《ばん》、はじめてうちから一寸《ちよつと》出て見ました。
南の空を、赤い星がしきりにななめに走りました。ホモイはうっとりそれを見とれました。すると不《ふ》意《い》に、空でブルルッとはねの音がして、二疋《ひき》の小鳥が降《お》りて参《まい》りました。
大きいほうは、円《まる》い赤い光るものを大《だい》事《じ》そうに草におろして、恭《うやうや》しく手をついて申《もう》しました。
「ホモイさま。あなたさまは私《わたくし》ども親子の大《だい》恩《おん》人《じん》でございます。」
ホモイは、その赤いものの光で、よくその顔を見て云《い》いました。
「あなた方は先《せん》頃《ころ》のひばりさんですか。」
母親のひばりは、
「さようでございます。先日はまことにありがとうございました。せがれの命《いのち》をお助《たす》け下さいまして誠《まこと》にありがとう存《ぞん》じます。あなた様《さま》はそのために、ご病《びよう》気《き》にさえおなりになったとの事でございましたが、もうお宜《よろ》しゅうございますか。」
親子のひばりは、沢《たく》山《さん》おじぎをしてまた申しました。
「私《わたくし》共《ども》は毎日この辺《へん》を飛《と》びめぐりまして、あなたさまの外へお出《で》なさいますのをお待《ま》ち致《いた》しておりました。これは私どもの王からの贈《おくり》物《もの》でございます。」と云ながら、ひばりはさっきの赤い光るものをホモイの前に出して、薄《うす》いうすいけむりのようなはんけちを解《と》きました。それはとちの実《み*》ぐらいあるまんまるの玉で、中では赤い火がちらちら燃《も》えているのです。ひばりの母親がまた申しました。
「これは貝の火という宝《ほう》珠《じゆ》でございます。王さまのお言《こと》伝《づて》ではあなた様のお手入れ次第で、この珠《たま》はどんなにでも立《りつ》派《ぱ》になると申します。どうかお納《おさ》めをねがいます。」
ホモイは笑《わら》って云いました。
「ひばりさん、僕《ぼく》はこんなものいりませんよ。持《も》って行ってください。大《たい》変《へん》きれいなもんですから、見るだけで沢《たく》山《さん》です。見たくなったらまたあなたの所《ところ》へ行《ゆ》きましょう。」
ひばりが申しました。
「いいえ。それはどうかお納めをねがいます。私《わたくし》共《ども》の王からの贈《おくり》物《もの》でございますから。お納め下さらないと、また私《わたくし》はせがれと二人で切《せつ》腹《ぷく》をしないとなりません。さ、せがれ。お暇《いとま》をして。さ。おじぎ。ご免《めん》下さいませ。」
そしてひばりの親子は二、三遍《べん》お辞《じ》儀《ぎ》をして、あわてて飛《と》んで行ってしまいました。
ホモイは玉を取《と》りあげて見ました。玉は赤や黄の焔《ほのお》をあげて、せわしくせわしく燃《も》えているように見えますが、実《じつ》はやはり冷《つめ》たく美《うつくし》しく澄《す》んでいるのです。目にあてて空にすかして見ると、もう焔は無《な》く、天の川が奇《き》麗《れい》にすきとおっています。目からはなすとまたちらりちらり美しい火が燃《も》え出します。
ホモイはそっと玉を捧《ささ》げて、おうちへ入りました。そしてすぐお父さんに見せました。すると兎《うさぎ》のお父さんが玉を手にとって、目がねをはずしてよく調《しら》べてから申《もう》しました。
「これは有《ゆう》名《めい》な貝の火という宝《たから》物《もの》だ。これは大《たい》変《へん》な玉だぞ。これをこのまま一《いつ》生《しよう》満《まん》足《ぞく》に持《も》っていることのできたものは今までに鳥に二人魚《さかな》に一人あっただけだという話だ。お前はよく気《き》をつけて光をなくさないようにするんだぞ。」
ホモイが申しました。
「それは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ。僕《ぼく》は決《けつ》してなくしませんよ。そんなようなことは、ひばりも云《い》っていました。僕は毎日百遍ずつ息《いき》をふきかけて百遍ずつ紅《べに》雀《すずめ*》の毛でみがいてやりましょう。」
兎のおっかさんも、玉を手にとってよくよく眺《なが》めました。そして云いました。
「この玉は大変損《そん》じ易《やす》いということです。けれども、また亡《な》くなった鷲《わし》の大《だい》臣《じん》が持っていた時は、大《だい》噴《ふん》火《か》があって大臣が鳥の避《ひ》難《なん》のために、あちこちさしずをして歩いている間にこの玉が山ほどある石に打《う》たれたり、まっかな熔《よう》岩《がん》に流されたりしても、一向《いつこう》きずも曇《くも》りもつかないで却《かえ》って前よりも美《うつく》しくなったという話ですよ。」
兎のおとうさんが申しました。
「そうだ。それは名高いはなしだ。お前もきっと鷲《わし》の大臣のような名高い人になるだろう。よく意《い》地《じ》悪《わる》なんかしないように気を付けないといけないぞ。」
ホモイはつかれてねむくなりました。そして自分のお床《とこ》にコロリと横《よこ》になって云《い》いました。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ。僕《ぼく》なんかきっと立《りつ》派《ぱ》にやるよ。玉は僕持《も》って寝《ね》るんだから下さい。」
兎のおっかさんは玉を渡《わた》しました。ホモイはそれを胸《むね》にあててすぐねむってしまいました。
その晩《ばん》の夢《ゆめ》の奇《き》麗《れい》なことは、黄や緑《みどり》の火が空で燃《も》えたり、野原が一《いち》面《めん》黄《き》金《ん》の草に変ったり、沢《たく》山《さん》の小さな風《かざ》車《ぐるま》が蜂《はち》のようにかすかにうなって空中を飛《と》んであるいたり、仁《じん》義《ぎ》をそなえた鷲の大臣が、銀《ぎん》色《いろ》のマントをきらきら波《なみ》立《だ》てて野原を見まわったり、ホモイは嬉《うれ》しさに何遍《べん》も、
「ホウ。やってるぞ、やってるぞ。」と声をあげたくらいです。
*
*
あくる朝、ホモイは七時頃《ころ》目をさまして、まず第《だい》一《いち》に玉を見ました。玉の美《うつく》しいことは、昨夜《ゆうべ》よりもっとです。ホモイは玉をのぞいて、ひとりごとを云《い》いました。
「見える、見える。あそこが噴《ふん》火《か》口《こう》だ。そら火をふいた。ふいたぞ。面《おも》白《しろ》いな。まるで花火だ。おや、おや、おや、火がもくもく湧《わ》いている。二つにわかれた。奇《き》麗《れい》だな。火花だ。火花だ。まるでいなずまだ。そら流《なが》れ出したぞ。すっかり黄《き》金《ん》色《いろ》になってしまった。うまいぞうまいぞ。そらまた火をふいた。」
おとうさんはもう外へ出ていました。おっかさんがにこにこして、おいしい白い草の根《ね》や青いばらの実《み》を持《も》って来て云《い》いました。
「さあ早くおかおを洗《あら》って、今日《きよう》は少し運《うん》動《どう》をするんですよ。どれ一寸《ちよつと》お見せ。まあ本当に奇麗だね。お前がおかおを洗っている間おっかさんは見ていてもいいかい。」
ホモイが云いました。
「いいとも。これはうちの宝《たから》物《もの》なんだから、おっかさんのだよ。」そしてホモイは立って家《うち》の入り口の鈴《すず》蘭《らん》の葉《は》さきから、大《おお》粒《つぶ》の露《つゆ》を六《む》つほど取《と》ってすっかりお顔を洗いました。
ホモイはごはんがすんでから、玉へ百遍《べん》息《いき》をふきかけ、それから百遍紅《べに》雀《すずめ》の毛でみがきました。そして大《たい》切《せつ》に紅雀のむな毛につつんで、今まで兎《うさぎ》の遠めがね《*》を入れておいた瑪瑙《めのう》の箱《はこ》にしまってお母さんにあずけました。そして外に出ました。
風が吹《ふ》いて草の露がバラバラとこぼれます。つりがねそう《*》が朝の鐘《かね》を、
「カン、カン、カンカエコ、カンコカンコカン。」と鳴らしています。ホモイはぴょんぴょん跳《と》んで樺《かば》の木の下に行《ゆ》きました。
すると向《むこ》うから、年を老《と》った野《の》馬《うま》がやって参《まい》りました。ホモイは少し怖《こわ》くなって戻《もど》ろうとしますと馬は丁《てい》寧《ねい》におじぎをして云《い》いました。
「あなたはホモイさまでござりますか。こんど貝の火がお前さまに参られましたそうで実《じつ》に祝《しゆう》着《ちやく》に存《ぞん》じまする。あの玉がこの前獣《けもの》の方に参りましてからもう千二百年たっていると申《もう》しまする。いや、実に私《わたくし》めも今朝《けさ》そのおはなしを承《うけたま》わりまして、涙《なみだ》を流《なが》してござります。」馬はボロボロ泣《な》きだしました。
ホモイは呆《あき》れていましたが、馬があんまり泣くものですから、ついつりこまれて一寸《ちよつと》鼻《はな》がせらせらしました。馬は風《ふ》呂《ろ》敷《しき》ぐらいある浅《あさ》黄《ぎ》のはんけちを出して涙をふいて申しました。
「あなた様《さま》は私《わたくし》共《ども》の恩《おん》人《じん》でございます。どうかくれぐれもおからだを大《だい》事《じ》になされて下されませ。」そして馬は丁寧におじぎをして向うへ歩いて行きました。
ホモイは何《なん》だか嬉《うれ》しいようなおかしいような気がしてぼんやり考えながら、にわとこの木の陰《かげ》に行きました。するとそこに若《わか》い二疋《ひき》の栗鼠《りす》が、仲《なか》よく白いお餅《もち》を食べておりましたがホモイの来たのを見ると、びっくりして立ちあがって急《いそ》いできもののえりを直し、目を白黒くして餅をのみ込《こ》もうとしたりしました。
ホモイはいつものように、
「りすさん。お早う。」とあいさつをしましたが、りすは二疋《ひき》共《とも》堅くなってしまって、一《いつ》向《こう》語《ことば》も出ませんでした。ホモイはあわてて、
「りすさん。今日《きよう》も一《いつ》所《しよ》にどこか遊《あそ》びに行《ゆ》きませんか。」と云《い》いますと、りすは飛《と》んでもないと云うように目をまん円《まろ》にして顔を見合わせて、それからいきなり向《むこ》うを向《む》いて一生けん命《めい》逃《に》げて行ってしまいました。
ホモイは呆《あき》れてしまいました。そして顔色を変《か》えてうちへ戻《もど》って来て、
「おっかさん。何だかみんな変《へん》な工合《ぐあい》ですよ。りすさんなんか、もう僕《ぼく》を仲《なか》間《ま》はずれにしましたよ。」と云いますと兎《うさぎ》のおっかさんが笑《わら》って答えました。
「それはそうですよ。お前はもう立《りつ》派《ぱ》な人になったんだから、りすなんか恥《はずか》しいのです。ですからよく気をつけてあとで笑われないようにするんですよ。」
ホモイが云いました。
「おっかさん。それは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ。それなら僕はもう大《たい》将《しよう》になったんですか。」
おっかさんも嬉《うれ》しそうに、
「まあそうです。」と申《もう》しました。
ホモイが悦《よろこ》んで踊《おど》りあがりました。
「うまいぞ。うまいぞ。もうみんな僕《ぼく》のてしたなんだ。狐《きつね》なんかもうこわくも何ともないや。おっかさん。僕ね、りすさんを少将にするよ。馬はね、馬は大《たい》佐《さ》にしてやろうと思うんです。」
おっかさんが笑いながら、
「そうだね、けれどもあんまりいばるんじゃありませんよ。」と申しました。ホモイは、
「大丈夫ですよ。おっかさん、僕一寸《ちよつと》外へ行って来ます。」と云ったままぴょんと野原へ飛《と》び出しました。するとすぐ目の前を意《い》地《じ》悪《わる》の狐が風のように走って行《ゆ》きます。
ホモイはぶるぶる顫《ふる》えながら思い切って叫《さけ》んでみました。
「待《ま》て。狐。僕は大《たい》将《しよう》だぞ。」
狐がびっくりしてふり向《む》いて顔色を変《か》えて申《もう》しました。
「へい。存《ぞん》じております。へい、へい。何かご用でございますか。」
ホモイができるくらい威《い》勢《せい》よく云《い》いました。
「お前《まい》はずいぶん僕をいじめたな。今《こん》度《ど》は僕のけらいだぞ。」
狐は卒《そつ》倒《とう》しそうになって、頭に手をあげて答えました。「へい、お申し訳《わ》けもございません。どうかお赦《ゆる》しをねがいます。」
ホモイは嬉《うれ》しさにわくわくしました。
「特《とく》別《べつ》に許《ゆる》してやろう。お前を少《しよう》尉《い》にする。よく働《はたら》いてくれ。」
狐が悦《よろこ》んで四《し》遍《へん》ばかり廻《まわ》りました。
「へいへい。ありがとう存《ぞん》じます。どんなことでもいたします。少しとうもろこしを盗《ぬす》んで参《まい》りましょうか。」
ホモイが申しました。
「いや、それは悪《わる》いことだ。そんなことをしてはならん。」
狐は頭を掻《か》いて申しました。
「へいへい。これからは決《けつ》していたしません。何《なん》でもおいいつけを待《ま》っていたします。」
ホモイは云《い》いました。
「そうだ。用があったら呼《よ》ぶからあっちへ行っておいで。」狐はくるくるまわっておじぎをして向こうへ行ってしまいました。
ホモイは嬉しくてたまりません。野原を行ったり来たりひとりごとを云ったり、笑《わら》ったりさまざまの楽しいことを考えているうちに、もうお日《ひ》様《さま》が砕《くだ》けた鏡《かがみ》のように樺《かば》の木の向《むこ》うに落《お》ちましたので、ホモイは急《いそ》いでおうちに帰りました。
兎《うさぎ》のおとうさまももう帰っていて、その晩《ばん》は様《さま》々《ざま》のご馳《ち》走《そう》がありました。ホモイはその晩も美《うつく》しい夢《ゆめ》を見ました。
*
*
次《つぎ》の日ホモイは、お母さんに云《い》いつけられて笊《ざる》を持《も》って野原に出て、鈴《すず》蘭《らん》の実《み》を集《あつ》めながらひとりごとを云《い》いました。
「ふん、大《たい》将《しよう》が鈴蘭の実を集めるなんておかしいや。誰《たれ》かに見つけられたらきっと笑《わら》われるばかりだ。狐が来るといいがなあ。」
すると足の下がなんだかもくもくしました。見るとむぐらが土をくぐってだんだん向《むこ》うへ行こうとします。ホモイは叫《さけ》びました。
「むぐら、むぐら、むぐらもち、お前は僕《ぼく》の偉《えら》くなったことを知ってるかい。」
むぐらが土の中で云いました。
「ホモイさんでいらっしゃいますか。よく存《ぞん》じております。」
ホモイは大《おお》威《い》張《ば》りで云いました。
「そうか。そんならいいがね。僕、お前を軍《ぐん》曹《そう》にするよ。その代《かわ》り少し働《はたら》いてくれないかい。」
むぐらはびくびくして尋《たず》ねました。
「へいどんなことでございますか。」
ホモイがいきなり、
「鈴《すず》蘭《らん》の実《み》を集《あつ》めておくれ。」と云《い》いました。
むぐらは土の中で冷《ひや》汗《あせ》をたらして頭をかきながら、
「さあ誠《まこと》に恐《おそ》れ入りますが私《わたくし》は明るい所《ところ》の仕《し》事《ごと》は一《いつ》向《こう》無《ぶ》調《ちよう》法《ほう》でございます。」と云いました。
ホモイは怒《おこ》ってしまって、
「そうかい。そんならいいよ。頼《たの》まないから。あとで見ておいで。ひどいよ。」と叫《さけ》びました。
むぐらは「どうかご免《めん》をねがいます。私は長くお日《ひ》様《さま》を見ますと死《し》んでしまいますので。」としきりにおわびをします。
ホモイは足をばたばたして、
「いいよ。もういいよ。だまっておいで。」と云いました。
その時向《むこ》うのにわとこの陰《かげ》からりすが五疋《ひき》ちょろちょろ出て参《まい》りました。そしてホモイの前にぴょこぴょこ頭を下げて申《もう》しました。
「ホモイさま、どうか私《わたし》共《ども》に鈴蘭の実《み》をお採《と》らせくださいませ。」ホモイが、
「いいとも。さあやってくれ。お前たちはみんな僕《ぼく》の少《しよう》将《しよう》だよ。」
りすがきゃっきゃっ悦《よろこ》んで仕《し》事《ごと》にかかりました。
この時向うから仔《こ》馬《うま》が六疋《ぴき》走って来てホモイの前にとまりました。その中の一番大きなのが「ホモイ様《さま》、私共にも何かおいいつけをねがいます。」と申しました。ホモイはすっかり悦んで、
「いいとも。お前たちはみんな僕の大《たい》佐《さ》にする。僕が呼《よ》んだら、きっとかけて来ておくれ。」といいました。仔馬も悦んではねあがりました。
むぐらが土の中で泣きながら申しました。
「ホモイさま、どうか私にもできるようなことをおいいつけ下さい。きっと立《りつ》派《ぱ》にいたしますから。」
ホモイはまだ怒《おこ》っていましたので、
「お前なんかいらないよ。今に狐《きつね》が来たらお前たちの仲《なか》間《ま》をみんなひどい目にあわしてやるよ。見ておいで。」と足ぶみをして云《い》いました。
土の中ではひっそりとして声もなくなりました。
それからりすは、夕方までに鈴蘭の実を沢《たく》山《さん》集《あつ》めて、大《おお》騒《さわ》ぎをしてホモイのうちへ運《はこ》びました。
おっかさんが、その騒ぎにびっくりして出て見て云《い》いました。
「おや、どうしたの、りすさん。」
ホモイが横《よこ》から口を出して、
「おっかさん。僕の腕《うで》前《まえ》をごらん。まだまだ僕はどんなことでもできるんですよ。」と云いました。兎《うさぎ》のお母さんは返《へん》事《じ》もなく黙《だま》って考えておりました。
すると丁《ちよう》度《ど》兎のお父さんが戻《もど》って来て、その景《け》色《しき》をじっと見てから申《もう》しました。
「ホモイ、お前は少し熱《ねつ》がありはしないか。むぐらを大《たい》変《へん》おどしたそうだな。むぐらの家《うち》では、もうみんなきちがいのようになって泣《な》いてるよ。それにこんなに沢《たく》山《さん》の実《み》を全《ぜん》体《たい》誰《だれ》がたべるのだ。」
ホモイは泣きだしました。りすはしばらく気の毒《どく》そうに立って見ておりましたが、とうとうこそこそみんな逃《に》げてしまいました。
兎のお父さんがまた申しました。
「お前はもうだめだ。貝の火を見てごらん。きっと曇《くも》ってしまっているから。」
兎のおっかさんまでが泣いて、前かけで涙《なみだ》をそっと拭《ぬぐ》いながら、あの美《うつく》しい玉《たま》のはいった瑪瑙《めのう》の函《はこ》を戸《と》棚《だな》から取《と》り出しました。
兎のおとうさんは函《はこ》を受《う》けとって蓋《ふた》をひらいて驚《おどろ》きました。珠《たま》は一昨日《おととい》の晩《ばん》よりももっともっと赤くもっともっと速《はや》く燃《も》えているのです。
みんなはうっとりみとれてしまいました。兎のおとうさんはだまって玉をホモイに渡《わた》してご飯《はん》を食べはじめました。ホモイもいつか涙《なみだ》が乾《かわ》きみんなはまた気《き》持《もち》ちよく笑《わら》い出し一《いつ》緒《しよ》にご飯をたべてやすみました。
*
*
次《つぎ》の朝早くホモイはまた野原に出ました。
今日もよいお天気です。けれども実《み》をとられた鈴《すず》蘭《らん》は、もう前のようにしゃりんしゃりんと葉《は》を鳴らしませんでした。
向《むこ》うの向うの青い野原のはずれから、狐《きつね》が一生けん命《めい》に走って来て、ホモイの前にとまって、
「ホモイさん。昨日《きのう》りすに鈴蘭の実を集《あつ》めさせたそうですね。どうです。今日は私がいいものを見《み》附《つ》けて来てあげましょう。それは黄色でね、もくもくしてね、失《しつ》敬《けい》ですが、ホモイさん、あなたなんかまだ見たこともないやつですぜ。それから、昨日むぐらに罰《ばち》をかけると仰《お》っしゃったそうですね。あいつは元《がん》来《らい》横《おう》着《ちやく》だから、川の中へでも追《お》いこんでやりましょう。」と云《い》いました。
ホモイは、
「むぐらは許《ゆる》しておやりよ。僕《ぼく》もう今朝《けさ》許したよ。けれどそのおいしいたべものは少しばかり持《も》って来てごらん。」と云いました。
「合《がつ》点《てん》、合点。十分間だけお待《ま》ちなさい。十分間ですぜ。」と云って狐はまるで風のように走って行《ゆ》きました。
ホモイはそこで高く叫《さけ》びました。
「むぐら、むぐら、むぐらもち。もうお前は許してあげるよ。泣《な》かなくてもいいよ。」
土の中はしんとしておりました。
狐《きつね》がまた向《むこ》うから走って来ました。そして、
「さあおあがりなさい。これは天国の天ぷらというもんですぜ。最《さい》上《じよう》等《とう》の所《ところ》です。」と云いながら盗《ぬす》んで来た角《かく》パンを出しました。
ホモイは一寸《ちよつと》たべてみたら、実《じつ》にどうもうまいのです。そこで狐に、
「こんなものどの木に出来るのだい。」とたずねますと狐が横《よこ》を向《む》いて一つ「ヘン。」と笑《わら》ってから申《もう》しました。
「台《だい》所《どころ》という木ですよ。ダアイドコロという木ね。おいしかったら毎日持《も》って来てあげましょう。」
ホモイが申しました。「それでは毎日きっと三つずつ持って来ておくれ。ね。」
狐がいかにもよくのみこんだというように目をパチパチさせて云いました。
「へい。よろしゅうございます。その代《かわ》り私の鶏《とり》をとるのを、あなたがとめてはいけませんよ。」
「いいとも。」とホモイが申しました。
すると狐が、
「それでは今日の分《ぶん》、もう二つ持って来ましょう。」と云いながらまた風のように走って行《ゆ》きました。
ホモイはそれをおうちに持って行ってお父さんやお母さんにあげる時の事を考えていました。お父さんだって、こんな美《お》味《い》しいものは知らないだろう。僕はほんとうに孝《こう》行《こう》だなあ。
狐が角パンを二つくわいて来てホモイの前に置いて、急《いそ》いで「さよなら。」と云いながらもう走っていってしまいました。ホモイは、
「狐はいったい毎日何をしているんだろう。」とつぶやきながらおうちに帰りました。
今日はお父さんとお母さんとが、お家の前で鈴《すず》蘭《らん》の実《み》を天《てん》日《ぴ》にほしておりました。
ホモイが、
「お父さん。いいものを持って来ましたよ。あげましょうか。まあ一寸《ちよつと》たべてごらんなさい。」と云《い》いながら角《かく》パンを出しました。
兎《うさぎ》のお父さんはそれを受《う》けとって眼《め》鏡《がね》を外して、よくよく調《しら》べてから云いました。
「お前はこんなものを狐《きつね》にもらったな。これは盗《ぬす》んで来たもんだ。こんなものをおれは食べない。」そしておとうさんはも一つホモイのお母さんにあげようと持っていた分も、いきなり取《と》りかえして自分のと一《いつ》緒《しよ》に土に投《な》げつけてむちゃくちゃにふみにじってしまいました。
ホモイはわっと泣《な》きだしました。兎のお母さんも一緒に泣きました。
お父さんがあちこち歩きながら、
「ホモイ、お前はもう駄《だ》目《め》だ。玉を見てごらん。もうきっと砕《くだ》けているから。」と云いました。
お母さんが泣きながら函《はこ》を出しました。玉はお日さまの光を受けてまるで天上に昇《のぼ》って行《ゆ》きそうに美《うつく》しく燃《も》えました。
お父さんは玉をホモイに渡《わた》してだまってしまいました。ホモイも玉を見ていつか涙《なみだ》を忘《わす》れてしまいました。
*
*
次《つぎ》の日ホモイはまた野原に出ました。
狐《きつね》が走って来てすぐ角《かく》パンを三つ渡《わた》しました。ホモイはそれを急《いそ》いで台《だい》所《どころ》の棚《たな》の上に載せてまた野原に来ますと狐がまだ待《ま》っていて云《い》いました。
「ホモイさん。何か面《おも》白《しろ》いことをしようじゃありませんか。」ホモイが「どんなこと?」とききますと狐が云いました。
「むぐらを罰《ばち》にするのはどうです。あいつは実《じつ》にこの野原の毒《どく》むしですぜ。そしてなまけものですぜ。あなたが一《いつ》遍《ぺん》許《ゆる》すって云ったのなら今日は私だけでひとつむぐらをいじめますからあなたはだまって見ておいでなさい。いいでしょう。」
ホモイは「うん、毒むしなら少しいじめてもよかろう。」と云いました。
狐は、しばらくあちこち地《じ》面《めん》を嗅《か》いだり、とんとんふんでみたりしていましたが、とうとう一つの大きな石を起こしました。するとその下にむぐらの親子が八《はつ》疋《ぴき》かたまってぶるぶるふるえておりました。狐が、
「さあ、走れ、走らないと、噛《か》み殺《ころ》すぞ。」といって足をどんどんしました。むぐらの親子は、
「ごめん下さい。ごめん下さい。」と云いながら逃《に》げようとするのですがみんな目が見えない上に足が利《き》かないものですからただ草を掻《か》くだけです。
一番小さな子はもう仰《あお》向《む》けになって気《き》絶《ぜつ》したようです。狐《きつね》ははがみをしました。ホモイも思わず「シッシッ。」と云って足を鳴らしました。その時、「こらっ、何をする。」と云う大きな声がして、狐がくるくると四《し》遍《へん》ばかりまわってやがて一《いち》目《もく》散《さん》に逃げました。
見るとホモイのお父さんが来ているのです。
お父さんは、急《いそ》いでむぐらをみんな穴《あな》に入れてやって、上へもとのように石をのせて、それからホモイの首すじをつかんで、ぐんぐんおうちへ引《ひ》いて行《ゆ》きました。
おっかさんが出て来て泣《な》いておとうさんにすがりました。お父さんが云いました。
「ホモイ。お前はもう駄《だ》目《め》だぞ。今日こそ貝の火は砕《くだ》けたぞ。出して見ろ。」
お母さんが涙《なみだ》をふきながら函を出して来ました。お父さんは函の蓋《ふた》を開いて見ました。
するとお父さんはびっくりしてしまいました。貝の火が今日ぐらい美《うつく》しいことはまだありませんでした。それはまるで赤や緑《みどり》や青や様《さま》々《ざま》の火が烈《はげ》しく戦《せん》争《そう》をして、地《じ》雷《らい》火《か》をかけたり、のろしを上げたり、またいなずまが閃《ひらめ》いたり、光の血《ち》が流《なが》れたり、そうかと思うと水色の焔《ほのお》が玉の全《ぜん》体《たい》をパッと占《せん》領《りよう》して、今《こん》度《ど》はひなげしの花や、黄色のチューリップ、薔《ば》薇《ら》やほたるかずらなどが、一《いち》面《めん》風にゆらいだりしているように見えるのです。
兎《うさぎ》のお父さんは黙《だま》って玉をホモイに渡《わた》しました。ホモイは間《ま》もなく涙《なみだ》も忘《わす》れて貝の火を眺《なが》めてよろこびました。
おっかさんもやっと安《あん》心《しん》して、おひるの支《し》度《たく》をしました。
みんなは座《すわ》って角《かく》パンを喰《た》べました。
お父さんが云《い》いました。
「ホモイ。狐《きつね》には気をつけないといけないぞ。」
ホモイが申《もう》しました。
「お父さん、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ。狐なんか何でもありませんよ。僕《ぼく》には貝の火があるのですもの。あの玉が砕《くだ》けたり曇《くも》ったりするもんですか。」
お母さんが申しました。
「本当にね、いい宝石《いし》だね。」
ホモイは得《とく》意《い》になって云いました。
「お母さん。僕《ぼく》はね、うまれつきあの貝の火と離《はな》れないようになってるんですよ。たとえ僕がどんなことをしたって、あの貝の火がどこかへ飛《と》んで行《ゆ》くなんてそんなことがあるもんですか。それに僕毎日百ずつ息《いき》をかけてみがくんですもの。」
「実《じつ》際《さい》そうだといいがな。」とお父さんが申《もう》しました。
その晩《ばん》ホモイは夢《ゆめ》を見ました。高い高い錐《きり》のような山の頂《ちよう》上《じよう》に片《かた》脚《あし》で立っているのです。
ホモイはびっくりして泣《な》いて目をさましました。
*
*
次《つぎ》の朝ホモイはまた野に出ました。
今日は陰《いん》気《き》な霧《きり》がジメジメ降《ふ》っています。木も草もじっと黙《だま》り込《こ》みました。ぶなの木さえ葉《は》をちらっとも動《うご》かしません。
ただあのつりがねそうの朝の鐘《かね》だけは高く高く空にひびきました。
「カンカンカンカエコカンコカンコカン。」
おしまいの音がカアンと向《むこ》うから戻《もど》って来ました。
そして狐《きつね》が角《かく》パンを三つ持《も》って半ズボンをはいてやって来ました。
「狐。お早う。」とホモイが云《い》いました。
狐はいやな笑《わら》いようをしながら、
「いや、昨日《きのう》はびっくりしましたぜ。ホモイさんのお父さんも随《ずい》分《ぶん》頑《がん》固《こ》ですな。しかしどうです。すぐご機《き》嫌《げん》が直ったでしょう。今日は一つうんと面《おも》白《しろ》いことをやりましょう。動《どう》物《ぶつ》園《えん》をあなたは嫌《きら》いですか。」と云いました。
ホモイが、
「うん。嫌《きら》いではない。」と申《もう》しました。
狐が懐《ふところ》から小さな網《あみ》を出しました。そして、
「そら、こいつをかけておくととんぼでも蜂《はち》でも雀《すずめ》でもかけすでも、もっと大きなやつでもひっかかりますぜ。それを集《あつ》めて一つ動物園をやろうじゃありませんか。」と云いました。
ホモイは一寸《ちよつと》その動物園の景《け》色《しき》を考えてみて、たまらなく面白くなりました。そこで、
「やろう。けれども、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》その網でとれるかい。」と云いました。
狐がいかにもおかしそうにして、
「大丈夫ですとも。あなたは早くパンを置いておいでなさい。そのうちに私はもう百ぐらいは集めておきますから。」と云《い》いました。
ホモイは、急《いそ》いで角《かく》パンを取《と》ってお家《うち》に帰って、台《だい》所《どころ》の棚《たな》の上に載《の》せて、また急いで帰って来ました。
見るともう狐《きつね》は霧《きり》の中の樺《かば》の木に、すっかり網《あみ》をかけて、口を大きくあけて笑《わら》っていました。
「はははは、ご覧《らん》なさい。もう四《し》疋《ひき》つかまりましたよ。」
狐はどこから持《も》って来たか大きな硝子《ガラス》箱《ばこ》を指《ゆび》さして云いました。
本《ほん》統《とう》にその中には、かけすと鶯《うぐいす》と紅《べに》雀《すずめ》とひわ《*》と、四疋入ってばたばたしておりました。
けれどもホモイの顔を見ると、みんな急《きゆう》に安《あん》心《しん》したように静《しず》まりました。
鶯が硝子越《ご》しに申《もう》しました。
「ホモイさん。どうかあなたのお力で助《たす》けてやって下さい。私らは狐につかまったのです。あしたはきっと食われます。お願いでございます。ホモイさん。」ホモイはすぐ箱《はこ》を開こうとしました。
すると、狐が額《ひたい》に黒い皺《しわ》をよせて、眼《め》を釣《つ》りあげてどなりました。
「ホモイ。気をつけろ。その箱に手でもかけてみろ。食い殺《ころ》すぞ。泥《どろ》棒《ぼう》め。」
まるで口が横《よこ》に裂《さ》けそうです。
ホモイは怖《こわ》くなってしまって、一《いち》目《もく》散《さん》におうちへ帰りました。今日はおっかさんも野原に出て、うちに居《い》ませんでした。
ホモイはあまり胸《むね》がどきどきするのであの貝の火を見ようと函《はこ》を出して蓋《ふた》を開きました。
それはやはり火のように燃《も》えておりました。
けれども気のせいか、一《ひと》所《ところ》小さな小さな針《はり》でついたくらいの白い曇《くも》りが見えるのです。
ホモイはどうもそれが気になって仕《し》方《かた》ありませんでした。そこでいつものように、フッフッと息《いき》をかけて、紅《べに》雀《すずめ》の胸《むな》毛《げ》で上を軽《かる》くこすりました。
けれども、どうもそれがとれないのです。その時、お父さんが帰って来ました。そしてホモイの顔《かお》色《いろ》の変《かわ》っているのを見て云《い》いました。
「ホモイ。貝の火が曇《くも》ったのか。大《たい》変《へん》お前の顔色が悪《わる》いよ。どれお見せ。」そして玉をすかして見て笑《わら》って云いました。
「なあに、すぐ除《と》れるよ。黄色の火なんか却《かえ》って今までより余《よ》計《けい》燃《も》えているくらいだ。どれ。紅雀の毛を少しおくれ。」そしてお父さんは熱《ねつ》心《しん》にみがきはじめました。けれどもどうも曇りがとれるどころか段《だん》々《だん》大きくなるらしいのです。
お母さんか帰って参《まい》りました。そして黙《だま》ってお父さんから貝の火を受《う》け取《と》ってすかして見てため息《いき》をついて今《こん》度《ど》は自分で息をかけてみがきました。
実《じつ》にみんな、だまってため息ばかりつきながら、交《かわ》る交《がわ》る一生《しよう》けん命《めい》みがいたのです。
もう夕方になりました。お父さんは、にわかに気がついたように立ちあがって、
「まあご飯《はん》を食べよう。今夜一《ひと》晩《ばん》油《あぶら》に漬《つ》けておいてみろ。それが一番いいという話だ。」といいました。お母さんはびっくりして、
「まあ、ご飯の支《し》度《たく》を忘《わす》れていた。なんにもこさえてない。一昨日《おととい》のすずらんの実《み》と今朝《けさ》の角《かく》パンだけを喰《た》べましょうか。」と云《い》いました。
「うんそれでいいさ。」とおとうさんがいいました。ホモイはため息をついて玉を函《はこ》に入れてじっとそれを見《み》詰《つ》めました。
みんなは、だまってご飯をすましました。
お父さんは、
「どれ油を出してやるかな。」と云いながら棚《たな》からかやの実の油の瓶《びん》をおろしました。
ホモイはそれを受けとって貝の火を入れた函に注《そそ》ぎました。そしてあかりをけしてみんな早くからねてしまいました。
*
*
夜中にホモイは眼《め》をさましました。
そしてこわごわ起《お》きあがってそっと枕《まくら》もとの貝の火を見ました。貝の火は、油《あぶら》の中で魚《さかな》の眼《め》玉《だま》のように銀《ぎん》色《いろ》に光っています。もう赤い火は燃《も》えていませんでした。
ホモイは大声で泣《な》き出しました。
兎《うさぎ》のお父さんやお母さんがびっくりして起きてあかりをつけました。
貝の火はまるで鉛《なまり》の玉のようになっています。ホモイは泣きながら狐《きつね》の網《あみ》のはなしをお父さんにしました。
お父さんは大《たい》変《へん》あわてて急《いそ》いで着《き》物《もの》をきかえながら云《い》いました。
「ホモイ。お前は馬《ば》鹿《か》だぞ。俺《おれ》も馬鹿だった。お前はひばりの子《こ》供《ども》の命《いのち》を助《たす》けてあの玉を貰《もら》ったのじゃないか。それをお前は一昨日《おととい》なんか生《うま》れつきだなんて云っていた。さあ野原へ行こう。狐がまだ網を張《は》っているかもしれない。お前はいのちがけで狐とたたかうんだぞ。勿《もち》論《ろん》おれも手《て》伝《つだ》う。」
ホモイは泣いて立ちあがりました。兎のお母さんも泣いて二人の後《あと》を追《お》いました。
霧《きり》がポシャポシャ降《ふ》って、もう夜があけかかっています。
狐はまだ網をかけて、樺《かば》の木の下に居《い》ました。そして三人を見て口を曲《ま》げて大声でわらいました。ホモイのお父さんが叫《さけ》びました。
「狐。お前はよくもホモイをだましたな。さあ決《けつ》闘《とう》をしろ。」
狐が実《じつ》に悪《あく》党《とう》らしい顔をして云《い》いました。
「へん。貴《き》様《さま》ら三疋《びき》ばかり食い殺《ころ》してやってもいいが、俺《おれ》もけがでもするとつまらないや。おれはもっといい食べものがあるんだ。」
そして函《はこ》をかついで逃《に》げ出そうとしました。
「待《ま》てこら。」とホモイのお父さんがガラスの箱《はこ》を押《おさ》えたので狐はよろよろしてとうとう函を置《お》いたまま逃げて行ってしまいました。
見ると箱の中に鳥が百疋《ぴき》ばかり、みんな泣《な》いていました。雀《すずめ》やかけすやうぐいすは勿《もち》論《ろん》大きな大きな梟《ふくろう》や、それにひばりの親子までがはいっているのです。
ホモイのお父さんは蓋《ふた》をあけました。
烏がみんな飛《と》び出して地《じ》面《めん》に手をついて声をそろえて云いました。
「ありがとうございます。ほんとうに度《たび》々《たび》おかげ様《さま》でございます。」
するとホモイのお父さんが申《もう》しました。
「どう致《いた》しまして、私《わたくし》共《ども》は面《めん》目《ぼく》次《し》第《だい》もございません。あなた方の王さまからいただいた玉をとうとう曇《くも》らしてしまったのです。」
鳥が一《いつ》遍《ぺん》に云いました。
「まあどうしたのでしょう。どうか一寸《ちよつと》拝《はい》見《けん》いたしたいものです。」
「さあどうぞ。」と云いながらホモイのお父さんはみんなをおうちの方へ案《あん》内《ない》しました。鳥はぞろぞろついて行《ゆ》きました。ホモイはみんなのあとを泣きながらしょんぼりついて行きました。梟が大《おお》股《また》にのっそのっそと歩きながら時々こわい眼《め》をしてホモイをふりかえって見ました。
みんなはおうちに入りました。
鳥は、ゆかや棚《たな》や机《つくえ》やうち中のあらゆる場《ば》所《しよ》をふさぎました。梟が目玉を途《と》方《ほう》もない方に向《む》けながら、しきりに「オホン、オホン。」とせきばらいをします。
ホモイのお父さんがただの白い石になってしまった貝の火を取《と》りあげて、
「もうこんな工合《ぐあい》です。どうか沢《たく》山《さん》笑《わら》ってやって下さい。」と云うとたん、貝の火は鋭《するど》くカチッと鳴って二つに割《わ》れました。
と思うと、パチパチパチッと烈《はげ》しい音がして見る見るまるで煙《けむり》のように砕《くだ》けました。
ホモイが入口でアッと云って倒《たお》れました。目にその粉《こな》が入ったのです。みんなは驚《おどろ》いてそっちへ行こうとしますと、今《こん》度《ど》はそこらにピチピチピチと音がして煙がだんだん集《あつ》まり、やがて立《りつ》派《ぱ》ないくつかのかけらになり、おしまいにカタッと二つかけらが組み合って、すっかり昔《むかし》の貝の火になりました。玉はまるで噴《ふん》火《か》のように燃《も》え、夕日のようにかがやき、ヒューと音を立てて窓《まど》から外の方へ飛《と》んで行《ゆ》きました。
鳥はみな興《きよう》をさまして、一人去《さ》り二人去り今はふくろうだけになりました。ふくろうはじろじろ室《へや》の中を見まわしながら、
「たった六日《むいか》だったな。ホッホ
たった六日だったな。ホツホ。」
とあざ笑って肩をゆすぶって大《おお》股《また》に出て行《ゆ》きました。
それにホモイの目は、もうさっきの玉のように白く濁《にご》ってしまって、まったく物《もの》が見えなくなったのです。
はじめからおしまいまでお母さんは泣《な》いてばかりいました。お父さんが腕《うで》を組んでじっと考えていましたが、やがてホモイのせなかを静《しず》かに叩《たた》いて云《い》いました。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいわいなのだ。目はきっとまたよくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」
窓《まど》の外では霧《きり》が晴れて鈴《すず》蘭《らん》の葉《は》がきらきら光り、つりがねそうは、
「カン、カン、カンカエコカンコカンコカン。」と朝の鐘《かね》を高く鳴らしました。
よだか《*》の星
よだかは、実《じつ》にみにくい鳥です。
顔は、ところどころ、味《み》噌《そ》をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
足は、まるでよぼよぼで、一間《けん*》とも歩けません。
ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合《ぐあい》でした。
たとえば、ひばりも、あまり美《うつく》しい鳥ではありませんが、よだかよりは、ずっと上だと思っていましたので、夕方など、よだかにあうと、さもさもいやそうに、しんねりと目をつぶりながら、首をそっ方《ぽ》へ向《む》けるのでした。もっとちいさなおしゃべりの鳥などは、いつでもよだかのまっこうから悪《わる》口《くち》をしました。
「ヘン。また出て来たね。まあ、あのざまをごらん。ほんとうに、鳥の仲《なか》間《ま》のつらよごしだよ。」
「ね、まあ、あのくちの大きいことさ。きっと、かえるの親《しん》類《るい》か何かなんだよ。」
こんな調《ちよう》子《し》です。おお、よだかでないただのたかならば、こんな生《なま》はんかのちいさい鳥は、もう名前を聞いただけでも、ぶるぶるふるえて、顔色を変《か》えて、からだをちぢめて、木の葉《は》のかげにでもかくれたでしょう。ところが夜だかは、ほんとうは鷹《たか》の兄弟でも親類でもありませんでした。かえって、よだかは、あの美しいかわせみ《*》や、鳥の中の宝《ほう》石《せき》のような蜂《はち》すずめ《*》の兄さんでした。蜂すずめは花の蜜《みつ》をたべ、かわせみはお魚を食べ、夜だかは羽虫をとってたべるのでした。それによだかには、するどい爪《つめ》もするどいくちばしもありませんでしたから、どんなに弱い鳥でも、よだかをこわがるはずはなかったのです。
それなら、たかという名のついたことは不《ふ》思《し》議《ぎ》なようですが、これは、一つはよだかのはねが無《む》暗《やみ》に強くて、風を切って翔《か》けるときなどは、まるで鷹のように見えたことと、も一つはなきごえがするどくて、やはりどこか鷹に似《に》ていたためです。もちろん、鷹は、これをひじょうに気にかけて、いやがっていました。それですから、よだかの顔さえ見ると、肩《かた》をいからせて、早く名前をあらためろ、名前をあらためろと、いうのでした。
ある夕方、とうとう、鷹がよだかのうちへやって参《まい》りました。
「おい。居《い》るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥《はじ》知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人《じん》格《かく》がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛《と》んで行く。おまえは、曇《くも》ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無《む》理《り》です。私の名前は私が勝《かつ》手《て》につけたのではありません。神《かみ》さまから下さったのです。」
「いいや。おれの名なら、神さまから貰《もら》ったのだと云《い》ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両《りよう》方《ほう》から貸《か》りてあるんだ。さあ返《かえ》せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市《いち》蔵《ぞう》というんだ。市蔵とな。いい名だろう。そこで、名前を変《か》えるには、改《かい》名《めい》の披《ひ》露《ろう》というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以《い》来《らい》市蔵と申《もう》しますと、口《こう》上《じよう》を云って、みんなの所《ところ》をおじぎしてまわるのだ。」
「そんなことはとてもできません。」
「いいや。出来る。そうしろ。もしあさっての朝までに、お前がそうしなかったら、もうすぐ、つかみ殺《ころ》すぞ。つかみ殺してしまうから、そう思え。おれはあさっての朝早く、鳥のうちを一軒ずつまわって、お前が来たかどうかを聞いてあるく。一軒《けん》でも来なかったという家があったら、もう貴《き》様《さま》もその時がおしまいだぞ。」
「だってそれはあんまり無《む》理《り》じゃありませんか。そんなことをするくらいなら、私はもう死《し》んだほうがましです。今すぐ殺して下さい。」
「まあ、よく、あとで考えてごらん。市《いち》蔵《ぞう》なんてそんなにわるい名じゃないよ。」鷹は大きなはねを一《いつ》杯《ぱい》にひろげて、自分の巣《す》の方へ飛《と》んで帰って行きました。
よだかは、じっと目をつぶって考えました。
(一たい僕《ぼく》は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味《み》噌《そ》をつけたようで、口は裂《さ》けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪《わる》いことをしたことがない。赤ん坊《ぼう》のめじろ《*》が巣から落《お》ちていたときは、助《たす》けて巣へ連《つ》れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑《わら》ったっけ。それにああ、今《こん》度《ど》は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ)
あたりは、もううすくらくなっていました。夜だかは巣から飛び出しました。雲が意《い》地《じ》悪《わる》く光って、低《ひく》くたれています。夜だかはまるで雲とすれすれになって、音なく空を飛びまわりました。
それからにわかによだかは口を大きくひらいて、はねをまっすぐに張《は》って、まるで矢のようにそらをよこぎりました。小さな羽虫が幾《いく》匹《ひき》も幾匹もその咽喉《のど》にはいりました。
からだがつちにつくかつかないうちに、よだかはひらりとまたそらへはねあがりました。もう雲は鼠《ねずみ》色《いろ》になり、向《むこ》うの山には山《やま》焼《や》けの火がまっ赤です。
夜だかが思い切って飛ぶときは、そらがまるで二つに切れたように思われます。一疋《ぴき》の甲虫《かぶとむし》が、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはすぐそれを呑《の》みこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたように思いました。
雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐《おそ》ろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、またそらへのぼりました。
また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉《のど》をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無《む》理《り》にのみこんでしまいましたが、その時、急《きゆう》に胸《むね》がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣《な》き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎《まい》晩《ばん》僕《ぼく》に殺《ころ》される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹《たか》に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ。つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓《う》えて死《し》のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向《むこ》うに行ってしまおう)
山《やま》焼《や》けの火は、だんだん水のように流《なが》れてひろがり、雲も赤く燃《も》えているようです。
よだかはまっすぐに、弟の川せみの所《ところ》へ飛《と》んで行きました。きれいな川せみも、丁《ちよう》度《ど》起きて遠くの山《やま》火《か》事《じ》を見ていたところでした。そしてよだかの降《お》りて来たのを見て云《い》いました。
「兄さん。今《こん》晩《ばん》は。何か急のご用ですか。」
「いいや、僕は今《こん》度《ど》遠い所へ行くからね、その前に一寸《ちよつと》お前に遭《あ》いに来たよ。」
「兄さん、行っちゃいけませんよ。蜂《はち》雀《すずめ》もあんなに遠くにいるんですし、僕ひとりぼっちになってしまうじゃありませんか。」
「それはね、どうも仕《し》方《かた》ないのだ。もう今日は何も云わないでくれ。そしてお前もね、どうしてもとらなければならない時のほかはいたずらにお魚を取ったりしないようにしてくれ。ね。さよなら。」
「兄さん。どうしたんです。まあもう一寸お待《ま》ちなさい。」
「いや、いつまで居《い》てもおんなじだ。はちすずめへ、あとでよろしく云ってやってくれ。さよなら。もうあわないよ。さよなら。」
よだかは泣《な》きながら自分のお家へ帰って参《まい》りました。みじかい夏の夜はもうあけかかっていました。
羊歯《しだ》の葉《は》は、よあけの霧《きり》を吸《す》って、青くつめたくゆれました。よだかは高くきしきしきしと鳴きました。そして巣《す》の中をきちんとかたづけ、きれいにからだじゅうのはねや毛をそろえて、また巣から飛《と》び出しました。
霧がはれて、お日さまが丁度《ちようど》東からのぼりました。夜だかはぐらぐらするほどまぶしいのをこらえて、矢のように、そっちへ飛んで行きました。
「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所《ところ》へ連《つ》れてって下さい、灼《や》けて死《し》んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい。」
行っても行っても、お日さまは近くなりませんでした。かえってだんだん小さく遠くなりながらお日さまが云《い》いました。
「お前はよだかだな。なるほど、ずいぶんつらかろう。今夜そらを飛んで、星にそうたのんでごらん。お前はひるの鳥ではないのだからな。」
夜だかはおじぎを一つしたと思いましたが、急《きゆう》にぐらぐらしてとうとう野原の草の上に落《お》ちてしまいました。そしてまるで夢《ゆめ》を見ているようでした。からだがずうっと赤や黄の星のあいだをのぼって行ったり、どこまでも風に飛《と》ばされたり、また鷹《たか》が来てからだをつかんだりしたようでした。
つめたいものがにわかに顔に落ちました。よだかは眼《め》をひらきました。一本の若《わか》いすすきの葉から露《つゆ》がしたたったのでした。もうすっかり夜になって、空は青ぐろく、一《いち》面《めん》の星がまたたいていました。よだかはそらへ飛びあがりました。今夜も山やけの火はまっかです。よだかはその火のかすかな照《て》りと、つめたいほしあかりの中をとびめぐりました。それからもう一ぺん飛びめぐりました。そして思い切って西のそらのあの美《うつく》しいオリオンの星の方に、まっすぐに飛びながら叫《さけ》びました。
「お星さん。西の青じろいお星さん。どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」オリオンは勇《いさ》ましい歌をつづけながらよだかなどはてんで相《あい》手《て》にしませんでした。よだかは泣《な》きそうになって、よろよろと落ちて、それからやっとふみとまって、もう一ぺんとびめぐりました。それから、南の大《おお》犬《いぬ》座《ざ》の方へまっすぐに飛びながら叫びました。
「お星さん。南の青いお星さん。どうか私をあなたの所《ところ》へつれてって下さい。やけて死んでもかまいません。」大犬は青や紫《むらさき》や黄やうつくしくせわしくまたたきながら云《い》いました。「馬《ば》鹿《か》を云うな。おまえなんか一体どんなものだい。たかが鳥じゃないか。おまえのはねでここまで来るには、億《おく》年兆《ちよう》年億兆年だ。」そしてまだ別《べつ》の方を向きました。
よだかはがっかりして、よろよろ落《お》ちて、それからまた二へん飛びめぐりました。それからまた思い切って北の大《おお》熊《ぐま》星《ぼし》の方へまっすぐに飛びながら叫びました。
「北の青いお星さま、あなたの所へどうか私を連《つ》れてって下さい。」
大熊星はしずかに云いました。
「余《よ》計《けい》なことを考えるものではない。少し頭をひやして来なさい。そう云うときは、氷《ひよう》山《ざん》の浮《う》いている海の中へ飛び込《こ》むか、近くに海がなかったら、氷《こおり》をうかべたコップの水の中へ飛び込むのが一《いつ》等《とう》だ。」
よだかはがっかりして、よろよろ落ちて、それからまた、四へんそらをめぐりました。そしてもう一《いち》度《ど》、東から今のぼった天の川の向《むこ》う岸《ぎし》の鷲《わし》の星に叫びました。
「東の白いお星さま、どうか私をあなたの所へ連れてって下さい。やけて死んでもかまいません。」鷲は大《おお》風《ふう》に云いました。
「いいや、とてもとても、話にも何にもならん。星になるには、それ相《そう》応《おう》の身《み》分《ぶん》でなくちゃいかん。またよほど金もいるのだ。」
よだかはもうすっかり力を落《おと》してしまって、はねを閉《と》じて、地に落ちて行きました。そしてもう一尺《しやく*》で地《じ》面《めん》にその弱い足がつくというとき、よだかは俄《にわ》かにのろしのようにそらへとびあがりました。そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲《わし》が熊《くま》を襲《おそ》うときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫《さけ》びました。その声はまるで鷹《たか》でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山《やま》焼《や》けの火はたばこの吸《すい》殻《がら》のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
寒《さむ》さにいきはむねに白く凍《こお》りました。空気がうすくなったために、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。
それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変《かわ》りません。つくいきはふいご《*》のようです。寒さや霜《しも》がまるで剣《けん》のようによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最《さい》后《ご》でした。もうよだかは落《お》ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血《ち》のついた大きなくちばしは、横《よこ》にまがってはいましたが、たしかに少しわらっておりました。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐《りん》の火のような青い美《うつく》しい光になって、しずかに燃《も》えているのを見ました。
すぐとなりは、カシオピア座《ざ》でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。
四又《よまた》の百合《ゆり》
「正《しよう》〓《へん》知《ち*》はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河《かわ》をおわたりになってこの町に入らっしゃるそうだ。」
斯《こ》う云《い》う語《ことば》がすきとおった風といっしょにハームキャの城《しろ》の家々にしみわたりました。
みんなはまるで子《こ》供《ども》のようにいそいそしてしまいました。なぜなら町の人たちは永《なが》い間どんなに正〓知のその町に来るのを望《のぞ》んでいたか知れないのです。それにまた町から沢《たく》山《さん》の人たちが正〓知のとこへ行ってお弟《で》子《し》になっていたのです。
「正〓知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町に入らっしゃるそうだ。」
みんなは思いました、正〓知はどんなお顔いろでそのお眼《め》はどんなだろう、噂《うわさ》の通り紺《こん》いろの蓮《れん》華《げ》のはなびらのような瞳《ひとみ》をしていなさるだろうか、お指《ゆび》の爪《つめ》やほんとうに赤《しやく》銅《どう》いろに光るだろうか、また町から行った人たちが正〓知とどんなことを云《い》いどんななりをしているだろう、もうみんなはまるで子供のようにいそいそして、まず自分の家をきちんとととのえそれから表《おもて》へ出て通りをきれいに掃《そう》除《じ》しました。あっちの家からもこっちの家からも人が出て通りを掃《は》いております。水がまかれ牛《ぎゆう》糞《ふん》や石ころはきれいにとりのけられ、また白い石《せき》英《えい》の砂《すな》が撒《ま》かれました。
「正〓知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町に入らっしゃるそうだ。」
もちろんこの噂《うわさ》は早くも王《おう》宮《きゆう》に伝《つた》わりました。
「申《もう》し上げます。如《によ》来《らい》正〓知はあしたの朝の十時頃《ごろ》ヒームキャの河をお渡《わた》りになってこちらにいらっしゃるそうでございます。」
「そうか、たしかにそうか。」王さまはわれを忘《わす》れて瑪瑙《めのう》で飾《かざ》られた玉《ぎよく》座《ざ》を立たれました。
「たしかにさようと存《ぞん》ぜられます。今朝《けさ》ヒームキャの向《むこ》う岸《ぎし》でご説《せつ》法《ぽう》のをハムラの二人の商《しよう》人《にん》が拝《おが》んで参《まい》ったと申します。」
「そうか、それではまちがいあるまい。ああ、どんなにお待《ま》ちしただろう。すぐ町を掃《そう》除《じ》するよう布令《ふれ》を出せ。」
「申しあげます。町はもうすっかり掃除ができてございます。人《じん》民《みん》どもはもう大《おお》悦《よろこ》びでお布令を待たずきれいに掃除をいたしました。」
「うう。」王さまはうなるようにしました。
「なお参ってよく粗《そ》匆《そう》のないよう注《ちゆう》意《い》いたせ。それから千人の食《しよく》事《じ》の支《し》度《たく》を申し伝《つた》えてくれ。」
「畏《かしこ》まりました。大《だい》膳《ぜん》職《しき》はさっきからそのご命《めい》を待《ま》ちかねてうろうろうろうろ厨《くりや》の中を歩きまわっております。」
「ふう。そうか。」王さまはしばらく考えていられました。「すると次《つぎ》は精《しよう》舎《じや*》だ。城《じよう》外《がい》の柏《かしわ》林《ばやし》に千人の宿《やど》をつくるよう工作のものへ云《い》ってくれないか。」
「畏まりました。ありがたい思召《おぼしめし》でございます。工作のほうのものどもはもう万一ご命《めい》令《れい》もあるかと柏林の測《そく》量《りよう》にとりかかっております。」
「ふう。正《しよう》〓《へん》知《ち》のお徳《とく》は風のようにみんなの胸《むね》に充《み》ちる。あしたの朝はヒームキャの河《かわ》の岸《きし》までわしがお迎《むか》えに出よう。みなにそう伝えてくれ。お前は夜明の五時に参れ。」
「畏まりました。」白《しろ》髯《ひげ》の大《だい》臣《じん》はよろこんで子《こ》供《ども》のように顔を赤くして王さまの前を退《さ》がりました。
次の夜明になりました。
王様は帳《とばり》の中で総《そう》理《り》大臣のしずかに入って来る足音を聴《き》いてもう起《お》きあがっていられました。
「申《もう》し上げます。ただ今丁度《ちようど》五時でございます。」
「うん、わしはゆうべ一《ひと》晩《ばん》ねむらなかった。けれども今朝《けさ》わしのからだは水《すい》晶《しよう》のようにさわやかだ。どうだろう、天気は。」王さまは帳を出てまっすぐに立たれました。
「大へんにいい天気でございます。修弥山《しゆみせん》の南《みなみ》側《がわ》の瑠璃《るり*》もまるですきとおるように見えます。こんな日如《によ》来《らい》正《しよう》〓《へん》知《ち》はどんなにお立《りつ》派《ぱ》に見えましょう。」
「いいあんばいだ。街《まち》は昨日《きのう》の通りさっぱりしているか。」
「はい、阿耨達《アノブタブ》湖《こ*》の渚《なぎさ》のようでございます。」
「斎食《とき》のしたくはいいか。」
「もうすっかりできております。」
「柏林の造《ぞう》営《えい》はどうだ。」
「今朝のうちには大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》でございます。あとはただ窓《まど》をととのえて掃《そう》除《じ》するだけでございます。」
「そうか。では支度しよう。」
王さまはみんなを従《したが》えてヒームキャの川《かわ》岸《ぎし》に立たれました。
風がサラサラ吹《ふ》き木の葉《は》は光りました。
「この風はもう九月の風だな。」
「さようでございます。これはすきとおったするどい秋の粉《こな》でございます。数しれぬ玻璃《はり》の微塵《みじん》のようでございます。」
「百合《ゆり》はもう咲《さ》いたか。」
「蕾《つぼみ》はみんなできあがりましてございます。秋風の鋭《するど》い粉がその頂《ちよう》上《じよう》の緑《みどり》いろのかけ金《かね》を削《けず》って減《へら》してしまいます。今朝一《いつ》斉《せい》にどの花も開くかと思われます。」
「うん。そうだろう。わしは正《しよう》〓《へん》知《ち》に百合《ゆり》の花を捧《ささ》げよう。大《おお》蔵《くら》大《だい》臣《じん》。お前は林へ行って百合の花を一《ひと》茎《くき》見《み》附《つ》て来てくれないか。」
王さまは黒《くろ》髯《ひげ》に埋《うず》まった大蔵大臣に云《い》われました。
「はい。かしこまりました。」
大蔵大臣はひとり林の方へ行きました。林はしんとして青く、すかして見ても百合の花は見えませんでした。
大臣は林をまわりました。林の陰《かげ》に一軒《けん》の大きなうちがありました。日がまっ白に照《て》って家は半分あかるく夢《ゆめ》のように見えました。その家の前の栗《くり》の木の下に一人のはだしの子《こ》供《ども》がまっ白な貝《かい》細《ざい》工《く》のような百合の十の花のついた茎をもってこっちを見ていました。
大臣は進《すす》みました。
「その百合をおれに売れ。」
「うん、売るよ。」子供は唇《くちびる》を円《まる》くして答えました。
「いくらだ。」大臣が笑いながらたずねました。
「十銭《せん*》。」子供が大きな声で勢《いきおい》よく云いました。
「十銭は高いな。」大臣はほんとうに高いと思いながら云いました。
「五銭。」子供がまた勢よく答えました。
「五銭は高いな。」大臣はまだほんとうに高いと思いながら笑って云いました。
「一銭。」子供が顔をまっ赤にして叫《さけ》びました。
「そうか。一銭。それではこれでいいだろうな。」大臣は紅宝玉《ルビー》の首かざりをはずしました。
「いいよ。」子供は赤い石を見てよろこんで叫びました。大臣は首かざりを渡《わた》して百合を手にとりました。
「何にするんだい。その花を。」子供がふと思い付《つ》いたように云いました。
「正《しよう》〓《へん》知《ち》にあげるんだよ。」
「あっ、そんならやらないよ。」子供は首かざりを投《な》げ出しました。
「どうして。」
「僕《ぼく》がやろうと思ったんだい。」
「そうか。じゃ返《かえ》そう。」
「やるよ。」
「そうか。」大臣はまた花を手にとりました。
「お前はいい子だな。正〓知がいらっしゃったらあとについてお城《しろ》へおいで。わしは大《おお》蔵《くら》大《だい》臣《じん》だよ。」
「うん、行くよ。」子供はよろこんで叫《さけ》びました。
大臣は林をまわって川の岸《きし》へ来ました。
「立《りつ》派《ぱ》な百合《ゆり》だ。ほんとうに。ありがとう。」王さまは百合を受《う》けとってそれから恭《うやうやし》くいただきました。
川の向《むこ》うの青い林のこっちにかすかな黄金いろがぽっと虹《にじ》のようにのぼるのが見えました。みんなは地にひれふしました。王もまた砂《すな》にひざまずきました。
二億《おく》年ばかり前どこかであったことのような気がします。
ひかりの素《す》足《あし》
一 山《やま》小《ご》屋《や》
鳥の声があんまりやかましいので一《いち》郎《ろう》は眼《め》をさましました。
もうすっかり夜があけていたのです。
小《こ》屋《や》の隅《すみ》から三本の青い日光の棒《ぼう》が斜《なな》めにまっすぐに兄弟の頭の上を越《こ》して向《むこ》うの萱《かや》の壁《かべ》の山刀やはむばきを照《て》らしていました。
土《ど》間《ま》のまん中では榾《ほだ*》が赤く燃《も》えていました。日光の棒もそのけむりのために青く見え、またそのけむりはいろいろなかたちになってついついとその光の棒の中を通って行くのでした。
「ほう、すっかり夜ぁ明げだ。」一郎はひとりごとを云《い》いながら弟の楢《なら》夫《お》の方に向《む》き直りました。楢夫の顔はりんごのように赤く口をすこしあいてまだすやすや睡《ねむ》っていました。白い歯《は》が少しばかり見えていましたので一郎はいきなり指《ゆび》でカチンとその歯をはじきました。
楢《なら》夫《お》は目をつぶったまま一寸《ちよつと》顔をしかめましたがまたすうすう息《いき》をしてねむりました。
「起ぎろ、楢夫、夜ぁ明げだ、起《お》ぎろ。」一郎は云《い》いながら楢夫の頭をぐらぐらゆすぶりました。
楢夫はいやそうに顔をしかめて何かぶつぶつ云っていましたがとうとう眼《め》を開きました。そしていかにもびっくりしたらしく、
「ほ、山さ来てらたもな《*》。」とつぶやきました。
「昨夜《ゆべな》、今朝《けさ》方《がた》だたがな、火ぁ消《け》でらたな、覚《おべ》だが《*》。」
一郎が云いました。
「知らなぃ。」
「寒《さむ》くてさ。お父さん起ぎてまた燃《も》やしたようだっけぁ。」
楢夫は返《へん》事《じ》しないで何かぼんやりほかのことを考えているようでした。
「お父さん外《そど》で稼《かせ》ぃでら。さ起ぎべ。」
「うん。」
そこで二人は一《いつ》所《しよ》にくるまって寝た小さな一枚《まい》の布団《ふとん》から起き出しました。そして火のそばに行きました。楢夫はけむそうにめをこすり、一郎はじっと火を見ていたのです。
外では谷川がごうごうと流《なが》れ鳥がツンツン鳴きました。
その時にわかにまぶしい黄金の日光が一郎の足もとに流れて来ました。
顔をあげて見ますと入口がパッとあいて向《むこ》うの山の雪がつんつんと白くかがやきお父さんがまっ黒に見えながら入って来たのでした。
「起ぎだのが。昨夜《ゆべな》寒ぐなぃがったが。」
「いいえ。」
「火ぁ消《け》でらたもな。おれぁ二度《ど》起ぎで燃やした。さあ、口漱《すす》げ、飯《まま》でげでら、楢夫。」
「うん。」
「家ど山どどっちぁ好《い》い。」
「山の方ぁいいんとも学校さ行がれなぃもな。」
するとお父さんが鍋《なべ》を少しあげながら笑《わら》いました。一郎は立ちあがって外に出ました。楢夫もつづいて出ました。
何というきれいでしょう。空がまるで青びかりでツルツルしてその光はツンツンと二人の眼《め》にしみ込《こ》みまた太《たい》陽《よう》を見ますとそれは大きな空の宝《ほう》石《せき》のように橙《だいだい》や緑《みどり》やかがやきの粉《こな》をちらしまぶしさに眼をつむりますと、今《こん》度《ど》はその蒼《あお》黒《ぐろ》いくらやみの中に青あおと光って見えるのですあたらしく眼をひらいては前の青ぞらに桔梗《ききよう》いろや黄金やたくさんの太陽のかげぼうしが、くらくらとゆれてかかっています。
一郎はかけひの水を手にうけました。かけひからはつららが太い柱《はしら》になって下までとどき、水はすきとおって日にかがやきまたゆげをたてていかにも暖《あたた》かそうに見えるのでしたがまことはつめたく寒《さむ》いのでした。一郎はすばやく口をそそぎそれから顔もあらいました。
それからあんまり手がつめたいのでお日さまの方へ延《の》ばしました。それでも暖まりませんでしたからのどにあてました。
その時楢夫も一郎のとおりまねをしてやっていましたが、とうとうつめたくてやめてしまいました。まったく楢夫の手は霜《しも》やけで赤くふくれていました。一郎はいきなり走って行って、
「冷《つめ》だぁが。」と云《い》いながらそのぬれた小さな赤い手を両《りよう》手《て》で包《つつ》んで暖めてやりました。
そうして二人はまた小《こ》屋《や》の中にはいりました。
お父さんは火を見ながらじっと何か考え、鍋《なべ》はことこと鳴っていました。
二人も座《すわ》りました。
日はもうよほど高く三本の青い日光の棒《ぼう》もだいぶ急《きゆう》になりました。
向《みこ》うの山の雪は青ぞらにくっきりと浮《う》きあがり見ていますと何だかこころが遠くの方へ行くようでした。
にわかにそのいただきにパッとけむりか霧《きり》のような白いぼんやりしたものがあらわれました。
それからしばらくたってフィーとするどい笛《ふえ》のような声が聞えて来ました。
すると楢《なら》夫《お》がしばらく口をゆがめて変《へん》な顔をしていましたがとうとうどうしたわけかしくしく泣《な》きはじめました。一郎も変な顔をして楢夫を見ました。
お父さんがそこで、
「何《な》した、家さ行ぐだぐなったのが、何した。」とたずねましたが楢夫は両手を顔にあてて返《へん》事《じ》もしないで却《かえ》ってひどく泣くばかりでした。
「何した、楢夫、腹《はら》痛《いた》ぃが。」一郎もたずねましたがやっぱり泣くばかりでした。
お父さんは立って楢夫の額《ひたい》に手をあてて見《み》てそれからしっかり頭を押《おさ》えました。
するとだんだん泣きやんでついにはただしくしく泣きじゃくるだけになりました。
「何して泣ぃだ。家さ行ぐだぃぐなったべぁな。」お父さんが云《い》いました。
「うんにゃ。」楢《なら》夫《お》は泣きじゃくりながら頭をふりました。
「どごが痛くてが。」
「うんにゃ。」
「そだらなして泣ぃだりゃ、男などぁ泣がなぃだな。」
「怖《お》っかなぃ。」まだ泣きながらやっと答えるのでした。
「なして怖っかなぃ。お父さんも居《い》るし兄《あい》なもいるし昼まで明りくて何《な》っても怖っかなぃごとぁ無《な》いじゃい。」
「うんう、怖っかなぃ。」
「風の又《また》三《さぶ》郎《ろう*》ぁ云ったか。」
「何て云った。風の又三郎など怖っかなぐなぃ。何て云った。」
「お父さんおりゃさ新らしきもの着《き》せるって云ったか。」楢夫はまた泣きました。一郎もなぜかぞっとしました。けれどもお父さんは笑《わら》いました。
「ああははは、風の又三郎ぁ、いいことえったな。四月になったら新らし着《き》物《もの》買ってけらな。一《いつ》向《こう》泣ぐごとぁなぃじゃぃ。泣ぐな泣ぐな。」「泣ぐな。」一郎も横《よこ》らのぞき込《こ》んでなぐさめました。
「もっと云ったか。」楢夫はまるで眼をこすってまっかにして云いました。
「何て云った。」
「それがらお母《つか》さん、おりゃのごと湯《ゆ》さ入れで洗《あら》うて云ったか。」
「ああはは、そいづぁ虚《うそ》ぞ。楢夫などぁいっつも一人して湯さ入るもな。風の又三郎などぁ偽《うそ》こぎさ。泣ぐな、泣ぐな。」
お父さんは何だか顔色を青くしてそれに無《む》理《り》に笑っているようでした。一郎もなぜか胸《むね》がつまって笑えませんでした。楢夫はまだ泣きやみませんでした。
「さあお飯《まま》食べし泣ぐな。」
楢夫は眼をこすりながら変《へん》に赤く小さくなった眼で一郎を見ながらまた云いました。
「それがらみんなしておりゃのごと送《おく》って行ぐて云ったか。」
「みんなして汝《うな》のごと送てぐど。そいづぁなぁ、うな立《りつ》派《ぱ》になってどごさが行ぐ時ぁみんなして送ってぐづごとさ。みんないいごとばがりだ。泣ぐな。な、泣ぐな。春になったら盛《もり》岡《おか》祭《まつり》見《み》さ連《つれ》でぐはんて泣ぐな。な。」
一郎はまっ青になって、だまって日光に照《て》らされたたき火を見ていましたが、この時やっと云いました。
「なぁに風の又三郎など、怖《お》っかなぐなぃ。いっつも何だりかだりって人だますじゃぃ。」
楢夫もようやく泣きじゃくるだけになりました。けむりの中で泣いて眼をこすったもんですから眼のまわりが黒くなってちょっと小さな狸《たぬき》のように見えました。
お父さんはなんだか少し泣くように笑《わら》って、
「さあもう一《ひと》がえり面《つら》洗《あら》なぃやなぃ《*》。」と云《い》いながら立ちあがりました。
二 峠《とうげ》
ひるすぎになって谷川の音もだいぶかわりました。何だかあたたかくそしてどこかおだやかに聞えるのでした。
お父さんは小《こ》屋《や》の入口で馬を引いて炭《すみ》をおろしに来た人と話していました。ずいぶん永《なが》いこと話していました。それからその人は炭《すみ》俵《だわら》を馬につけはじめました。二人は入口に出て見ました。
馬はもりもりかいばをたべてそのたてがみは茶色でばさばさしその眼《め》は大きくて眼の中にはさまざまのおかしな器《き》械《かい》が見えて大へんに気の毒《どく》に思われました。
お父さんが二人に云いました。
「そいでぁうなだ、この人さ随《つ》ぃで家さ戻れ。この人ぁ楢《なら》鼻《はな》まで行がはんて。今《こん》度《ど》の土曜日に天気ぁ好《よ》がったらまたおれぁ迎《むか》ぃに行がはんてなぃ《*》。」
あしたは月曜日ですから二人とも学校へ出るために家へ帰らなければならないのでした。
「そだら行がんす。」一郎が云《い》いました。
「うん、それがら家さ戻ったらお母《つか》さんさ、ついでの人さたのんで大きな方の鋸《のこぎり》をよごしてけろって云えやぃな、いいが。忘《わす》れなよ。家まで丁度《ちようど》一時間半かがらはんてゆっくり行っても三時半にぁ戻れる。のどぁ乾《かわ》ぃでも雪たべなやぃ。」
「うん。」楢《なら》夫《お》が答えました。楢夫はもうすっかり機《き》嫌《げん》を直してピョンピョン跳《と》んだりしていました。
馬をひいた人は炭《すみ》俵《だわら》をすっかり馬につけてつなを馬のせなかで結《むす》んでから、
「さ、そいでぃ、行ぐまちゃ《*》。わしら達《たち》ぁ先に立ったら好《い》がべがな。」と二人のお父さんにたずねました。「なぁに随《つい》で行ぐごたんす《*》。どうがお願《ねが》ぁ申《もう》さんすじゃ。」お父さんは笑《わら》っておじぎをしました。
「さ、そいでぁ、まんつ。」その人は牽《ひき》づなを持《も》ってあるき出し鈴《すず》はツァリンツァリンと鳴り馬は首を垂《た》たれてゆっくりあるきました。
一郎は楢夫をさきに立ててあとに跡《つ》いて行きました。みちがよくかたまってじっさい気《き》持《も》ちがよく、空はまっ青にはれて、却《かえ》って少しこわいくらいでした。
「房《ふさ》下《さが》ってるじゃぃ。」にわかに楢夫が叫《さけ》びました。一郎はうしろからよく聞えなかったので、「何や。」とたずねました。
「あの木さ房下がってるじゃぃ。」楢夫がまた云いました。見るとすぐ崖《がけ》の下から一本の木が立っていてその枝《えだ》には茶いろの実《み》がいっぱいに房になって下っておりました。一郎はしばらくそれを見ました。それから少し馬におくれたので急《いそ》いで追《お》いつきました。馬を引いた人はこの時ちょっとうしろをふりかえってこっちをすかすようにして見ましたがまた黙《だま》って歩きだしました。
みちの雪はかたまってはいましたがでこぼこでしたから馬はたびたびつまずくようにしました。楢夫もあたりを見てあるいていましたので、やはりたびたびつまずきそうにしました。
「下見で歩げ。」と一郎がたびたび云ったのでした。
みちはいつか谷川からはなれて大きな象《ぞう》のような形の丘《おか*》の中《ちゆう》腹《ふく》をまわりはじめました。栗《くり》の木が何本か立って枯《か》れた乾《かわ》いた葉をいっぱい着《つ》け、鳥がちょんちょんと鳴いてうしろの方へ飛《と》んで行きました。そして日の光がなんだか少しうすくなり雪がいままでより暗《くら》くそして却《かえ》って強く光って来ました。
その時向《むこ》うから一列《れつ》の馬が鈴《すず》をチリンチリンと鳴らしてやって参《まい》りました。
みちが一《ひと》むらの赤い実《み》をつけたまゆみの木のそばまで来たとき両《りよう》方《ほう》の人たちは行きあいました。兄弟の先に立った馬は一寸《ちよつと》みちをよけて雪の中に立ちました、兄弟も膝《ひざ》まで雪にはいってみちをよけました。
「早ぃな。」
「早がったな。」挨《あい》拶《さつ》をしながら向うの人たちや馬は通り過《す》ぎて行きました。
ところが一ばんおしまいの人は挨拶をしたなり立ちどまってしまいました。馬はひとりで少し歩いて行ってからうしろから「どう。」と云《い》われたのでとまりました。兄弟は雪の中からみちにあがり二人とならんで立っていた馬もみちにあがりました。ところが馬を引いた人たちはいろいろ話をはじめました。
兄弟はしばらくは、立って自分たちの方の馬の歩き出すのを待《ま》っていましたがあまり待ち遠しかったのでとうとう少しずつあるき出しました。あとはもう峠《とうげ》を一つ越《こ》えればすぐ家でしたし、一里《り》もないのでしたからそれに天気も少しは曇《くも》ったってみちはまっすぐにつづいているのでしたから何でもないと一郎も思いました。
馬をひいた人は兄弟が先に歩いて行くのを一寸よこめで見ていましたがすぐあとから追《お》いつくつもりらしくだまって話をつづけました。
楢《なら》夫《お》はもう早くうちへ帰りたいらしくどんどん歩き出し一郎もたびたびうしろをふりかえって見ましたが馬が雪の中で茶いろの首を垂《た》れ二人の人が話し合って白い大きな手《てつ》甲《こう》がちらっと見えたりするだけでしたからやっぱり歩いて行きました。
みちはだんだんのぼりになりついにはすっかり坂《さか》になりましたので楢夫はたびたび膝《ひざ》に手をつっぱって「うんうん。」とふざけるようにしながらのぼりました。一郎もそのうしろからはあはあ息《いき》をついて、
「よう、坂道、よう、山道。」なんて云いながら進《すす》んで行きました。
けれどもとうとう楢夫は、つかれてくるりとこっちを向《む》いて立ちどまりましたので、一郎はいきなりひどくぶっつかりました。
「疲《こわ》いが。」一郎もはあはあしながら云《い》いました。来た方を見ると路は一すじずうっと細くついて人も馬ももう丘《おか》のかげになって見えませんでした。いちめんまっ白な雪、(それは大へんくらく沈《しず》んで見えました、空がすっかり白い雲でふさがり太《たい》陽《よう》も大きな銀《ぎん》の盤《ばん》のようにくもって光っていたのです)がなだらかに起《き》伏《ふく》しそのところどころに茶いろの栗《くり》や柏《かしわ》の木が三本四本ずつちらばっているだけじつにしぃんとして何ともいえないさびしいのでした。けれども楢夫はその丘の自分たちの頭の上からまっすぐに向《むこ》うへかけおりて行く一疋《ぴき》の鷹《たか》を見たとき高く叫《さけ》びました。
「しっ、鳥だ。しゅう。」一郎はだまっていました。けれどもしばらく考えてから云いました。
「早ぐ峠《とうげ》越《こ》えるべ。雪降《ふ》って来るじょ。」
ところが丁《ちよう》度《ど》そのときです。まっしろに光っている白いそらに暗《くら》くゆるやかにつらなっていた峠の頂《いただき》の方が少しぼんやり見えて来ました。そしてまもなく小さな小さな乾《かわ》いた雪のこなが少しばかりちらっちらっと二人の上から落《お》ちて参《まい》りました。
「さあ楢夫、早ぐのぼれ、雪降って来た。上さ行げば平《たい》らだはんて。」一郎が心配そうに云いました。
楢夫は兄の少し変《かわ》った声を聞いてにわかにあわてました。そしてまるでせかせかとのぼりました。
「あんまり急《いそ》ぐな。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だはんて、なあにあど一里《り》も無《な》ぃも。」一郎も息《いき》をはずませながら云いました。けれどもじっさい二人とも急がずにいられなかったのです。めの前もくらむように急ぎました。あんまり急ぎすぎたのでそれはながくつづきませんでした。雪がまったくひどくなって来た方も行く方もまるで見えず二人のからだもまっ白になりました。そして楢夫が泣いていきなり一郎にしがみつきました。
「戻《もど》るが、楢《なら》夫《お》。戻るが。」一郎も困《こま》ってそう云いながら来た下の方を一寸《ちよつと》見ましたがとてももう戻ろうとは思われませんでした。それは来た方がまるで灰《はい》いろで穴《あな》のようにくらく見えたのです。それにくらべては峠の方は白く明るくおまけに坂《さか》の頂《ちよう》上《じよう》だってもうじきでした。そこまでさえ行けばあとはもう十町《ちよう》もずうっと丘の上で平《たい》らでしたし、来るときは山鳥も何べんも飛《と》び立ち、灌《かん》木《ぼく》の赤や黄いろの実《み》もあったのです。
「さあもう一あしだ。歩《あ》べ。上まで行げば雪も降《ふ》ってなぃしみぢも平らになる。歩べ、怖《お》っかなぐなぃはんて歩べ。あどがらあの人も馬ひで来るしそれ、泣《な》がなぃで、今《こん》度《ど》ぁゆっくり歩べ。」一郎は楢夫の顔をのぞき込《こ》んで云いました。楢夫は涙《なみだ》をふいてわらいました。楢夫の頬《ほお》に雪のかけらが白くついてすぐ溶《と》けてなくなったのを一郎はなんだか胸《むね》がせまるように思いました。一郎が今度は先に立ってのぼりました。みちももうそんなにけわしくはありませんでしたし雪もすこし薄《うす》くなったようでした。それでも二人の雪《ゆき》沓《ぐつ》は早くも一寸《すん》も埋《うず》まりました。
だんだんいただきに近くなりますと雪をかぶった黒いゴリゴリの岩が、たびたびみちの両《りよう》がわに出て来ました。
二人はだまってなるべく落《お》ち着《つ》くようにして一足ずつのぼりました。一郎はばたばた毛《もう》布《ふ》をうごかしてからだから雪をはらったりしました。
そしていいことはもうそこが峠《とうげ》のいただきでした。
「来た来た。さぁ、あどぁ平らだぞ、楢夫。」
一郎はふりかえって見ました。楢夫は顔をまっかにしてはあはあしながらやっと安《あん》心《しん》したようにわらいました。けれども二人の間にもこまかな雪がいっぱいに降《ふ》っていました。
「馬もきっと坂《さか》半分ぐらい登《のぼ》ったな。叫《さけ》んで見べが。」
「うん。」
「いいが、一二三、ほおお。」
声がしんと空へ消《き》えてしまいました。返《へん》事《じ》もなくこだまも来ずかえってそらが暗《くら》くなって雪がどんどん舞《ま》いおりるばかりです。
「さあ、歩《あ》べ。あど三十分で下りるにい。」
一郎はまたあるきだしました。
にわかに空の方でヒィウと鳴って風が来ました。雪はまるで粉《こな》のようにけむりのように舞いあがりくるしくて息《いき》もつかれずきもののすきまからはひやひやとからだにはいりました。兄弟は両手を顔にあてて立ちどまっていましたがやっと風がすぎたのでまたあるき出そうとするときこんどは前よりいっそうひどく風がやって来ました。その音はおそろしい笛《ふえ》のよう、二人のからだも曲《ま》げられ足もとをさらさら雪の横《よこ》にながれるのさえわかりました。
とうげのいただきはまったくさっき考えたのとはちがっていたのです。楢夫はあんまりこころぼそくなって一郎にすがろうとしました。またうしろをふりかえっても見ました。けれども一郎は風がやむとすぐ歩き出しましたし、うしろはまるで暗く見えましたから楢夫はほんとうに声を立てないで泣くばかりよちよち兄に追《お》い付《つ》いて進《すす》んだのです。
雪がもう沓《くつ》のかかと一《いつ》杯《ぱい》でした。ところどころには吹《ふ》き溜《だま》りが出来てやっとあるけるぐらいでした。それでも一郎はずんずん進みました。楢夫もそのあしあとを一生けん命《めい》ついて行きました。一郎はたびたびうしろをふりかえってはいましたがそれでも楢夫はおくれがちでした。風がひゅうと鳴って雪がぱっとつめたいしろけむりをあげますと、一郎は少し立ちどまるようにし楢夫は小《こ》刻《きざ》みに走って兄に追いすがりました。
けれどもまだその峯《みね》みちを半分も来てはおりませんでした。吹きだまりがひどく大きくなってたびたび二人はつまずきました。
一郎は一つの吹きだまりを越《こ》えるとき、思ったより雪が深《ふか》くてとうとう足をさらわれて倒《たお》れました。一郎はからだや手やすっかり雪になって軋《きし》るように笑《わら》って起《お》きあがりましたが楢夫はうしろに立ってそれを見てこわさに泣きました。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。楢夫、泣ぐな。」一郎は云《い》いながらまたあるきました。けれどもこんどは楢夫がころびました。そして深く雪の中に手を入れてしまって急《きゆう》に起きあがりもできずおじぎのときのように頭をさげてそのまま泣いていたのです。一郎はすぐ走り戻《もど》ってだき起《おこ》しました。そしてその手の雪をはらってやりそれから、
「さあも少しだ。歩げるが。」とたずねました。
「うん。」と楢夫は云っていましたがその眼《め》はなみだで一《いつ》杯《ぱい》になりじっと向《むこ》うの方を見口はゆがんでおりました。
雪がどんどん落《お》ちて来ます。それに風が一そうはげしくなりました。二人はまた走り出しましたけれどももうつまずくばかり一郎がころび楢夫がころびそれにいまはもう二人ともみちをあるいてるのかどうか前に無《な》かった黒い大きな岩がいきなり横《よこ》の方に見えたりしました。
風がまたやって来ました。雪は塵《ちり》のよう砂《すな》のようけむりのよう楢夫はひどくせき込《こ》んでしまいました。
そこはもうみちではなかったのです。二人は大きな黒い岩につきあたりました。
一郎はふりかえって見ました。二人の通って来たあとはまるで雪の中にほりのようについていました。
「路《みち》まちがった。戻《もど》らなぃばわがなぃ《*》。」
一郎は云っていきなり楢《なら》夫《お》の手をとって走り出そうとしましたがもうただの一足ですぐ雪の中に倒《たお》れてしまいました。
楢夫はひどく泣きだしました。
「泣ぐな。雪はれるうぢ此処《ここ》に居《い》るべし、泣ぐな。」一郎はしっかりと楢夫を抱《だ》いて岩の下に立って云いました。
風がもうまるできちがいのように吹《ふ》いて来ました。いきもつけず二人はどんどん雪をかぶりました。
「わがなぃ。わがなぃ。」楢夫が泣いて云いました。その声もまるでちぎるように風が持《も》って行ってしまいました。一郎は毛《もう》布《ふ》をひろげてマントのまま楢夫を抱きしめました。
一郎はこのときはもうほんとうに二人とも雪と風で死んでしまうのだと考えてしまいました。いろいろなことがまるでまわり燈《とう》籠《ろう》のように見えて来ました。正月に二人は本《ほん》家《け》に呼《よ》ばれて行ってみんながみかんをたべたとき楢夫がすばやく一つたべてしまっても一つを取ったので一郎はいけないというようにひどく目で叱《しか》ったのでした。そのときの楢夫の霜《しも》やけの小さな赤い手などがはっきり一郎に見えて来ました。いきが苦《くる》しくてまるでえらえらする毒《どく》をのんでいるようでした。一郎はいつか雪の中に座《すわ》ってしまっていました。そして一そう強く楢夫を抱きしめました。
三 うすあかりの国
けれどもけれどもそんなことはまるでまるで夢《ゆめ》のようでした。いつかつめたい針《はり》のような雪のこなもなんだかなまぬるくなり楢《なら》夫《お》もそばに居《い》いなくなって一郎はただひとりぼんやりくらい藪《やぶ》のようなところをあるいておりました。
そこは黄色にぼやけて夜だか昼だか夕方かもわからずよもぎのようなものがいっぱいにはえあちこちには黒いやぶらしいものがまるでいきもののようにいきをしているように思われました。
一郎は自分のからだを見ました。そんなことが前からあったのか、いつかからだには鼠《ねずみ》いろのきれが一枚《まい》まきついてあるばかりおどろいて足を見ますと足ははだしになっていて今までもよほど歩いて来たらしく深《ふか》い傷《きず》がついて血《ち》がだらだら流《なが》れておりました。それに胸《むね》や腹《はら》がひどく疲《つか》れて今にもからだが二つに折《お》れそうに思われました。一郎はにわかにこわくなって大声に泣《な》きました。
けれどもそこはどこの国だったのでしょう。ひっそりとして返《へん》事《じ》もなく空さえもなんだかがらんとして見れば見るほど変《へん》なおそろしい気がするのでした。それににわかに足が灼《や》くように傷《いた》んできました。
「楢《なら》夫《お》は。」ふっと一郎は思い出しました。
「楢夫ぉ。」一郎はくらい黄色なそらに向《む》かって泣きながら叫《さけ》びました。
しいんとして何の返事もありませんでした。一郎はたまらなくなってもう足の痛《いた》いのも忘《わす》れてはしり出しました。すると俄《にわ》かに風が起《おこ》って一郎のからだについていた布《ぬの》はまっすぐにうしろの方へなびき、一郎はその自分の泣きながらはだしで走って行ってぼろぼろの布が風でうしろへなびいている景《け》色《しき》を頭の中に考えて一そう恐《おそ》ろしくかなしくてたまらなくなりました。
「楢夫ぉ。」一郎はまた叫びました。
「兄《あい》な。」かすかなかすかな声が遠くの遠くから聞えました。一郎はそっちへかけ出しました。そして泣きながら何べんも「楢夫ぉ、楢夫ぉ。」と叫びました。返事はかすかに聞こえたりまた返事したのかどうか聞こえなかったりしました。
一郎の足はまるでまっ赤になってしまいました。そしてもう痛《いた》いかどうかもわからず血《ち》は気《き》味《み》悪《わる》く青く光ったのです。
一郎ははしってはしって走りました。
そして向《むこ》うに一人の子《こ》供《ども》が丁度《ちようど》風で消《き》えようとする蝋《ろう》燭《そく》の火のように光ったりまた消えたりぺかぺかしているのを見ました。
それが顔に両《りよう》手《て》をあて、泣いている楢夫でした。一郎はそばへかけよりました。そしてにわかに足がぐらぐらして倒《たお》れました。それから力いっぱい起きあがって楢夫を抱《だ》こうとしました。楢夫は消えたりともったりしきりにしていましたがだんだんそれが早くなりとうとうその変《か》わりもわからないようになって一郎はしっかりと楢夫を抱いていました。
「楢夫、僕《ぼく》たちどこへ来たろうね。」一郎はまるで夢《ゆめ》の中のように泣いて楢夫の頭をなでてやりながら云いました。その声も自分が云っているのか誰《だれ》かの声を夢で聞いているのかわからないようでした。
「死《し》んだんだ。」と楢夫は云ってまたはげしく泣きました。
一郎は楢夫の足を見ました。やっぱりはだしでひどく傷がついておりました。
「泣かなくってもいいんだよ。」一郎は云《い》いながらあたりを見ました。ずうっと向こうにぼんやりした白びかりが見えるばかり、しいんとしてなんにも聞こえませんでした。
「あすこの明るいところまで行ってみよう。きっとうちがあるから、お前あるけるかい。」
一郎が云いました。
「うん。おっかさんがそこに居《い》るだろうか。」
「いるとも。きっと居る。行こう。」
一郎はさきになってあるきました。そらが黄いろでぼんやりくらくていまにもそこから長い手が出て来そうでした。
足がたまらなく痛《いた》みました。
「早くあすこまで行こう。あすこまでさえ行けばいいんだから。」一郎は自分の足があんまり痛くてバリバリ白く燃《も》えてるようなのをこらえて云いました。けれども楢《なら》夫《お》はもうとてもたまらないらしく泣いて地《じ》面《めん》に倒《たお》れてしまいました。
「さあ、兄さんにしっかりつかまるんだよ。走っていくから。」一郎は歯《は》を喰《く》いしばって痛みをこらえながら楢夫を肩《かた》にかけました。そして向うのぼんやりした白光をめがけて、まるでからだもちぎれるばかり痛いのを堪《こら》えて走りました。それでももうとてもたまらなくなって何べんも倒《たお》れました。倒れてもまた一生懸《けん》命《めい》に起きあがりました。
ふと振《ふ》りかえって見ますと来た方はいつかぼんやり灰《はい》色《いろ》の霧《きり》のようなものにかくれてその向こうを何かうす赤いようなものがひらひらしながら一《いち》目《もく》散《さん》に走って行くらしいのです。
一郎はあんまりの怖《こわ》さに息《いき》もつまるようにおもいました。それでもこらえてむりに立ちあがってまた楢《なら》夫《お》を肩《かた》にかけました。楢夫はぐったりとして気を失《うしな》っているようでした。一郎は泣《な》きながらその耳もとで、
「楢夫、しっかりおし、楢夫、兄さんがわからないかい。楢夫。」と一生けん命呼《よ》びました。
楢夫はかすかにかすかに眼《め》をひらくようにはしましたけれどもその眼には黒い色も見えなかったのです。一郎はもうあらんかぎりの力を出してそこら中いちめんちらちらちらちら白い火になって燃《も》えるように思いながら楢夫を肩にしてさっきめざした方へ走りました。足がうごいているかどうかもわからずからだは何か重《おも》い巖《いわ》に砕《くだ》かれて青びかりの粉《こな》になってちらけるよう何べんも何べんも倒れてはまた楢夫を抱《だ》き起《おこ》して泣きながらしっかりとかかえ夢《ゆめ》のようにまた走り出したのでした。それでもいつか一郎ははじめにめざしたうすあかるい処《ところ》に来てはいました。けれどもそこは決《けつ》していい処ではありませんでした。かえって一郎はからだ中凍《こお》ったように立ちすくんでしまいました。すぐ眼の前は谷のようになった窪《くぼ》地《ち》でしたがその中を左から右の方へなんともいえずいたましいなりをした子《こ》供《ども》らがぞろぞろ追《お》われて行くのでした。わずかばかりの灰《はい》いろのきれをからだにつけた子もあれば小さなマントばかりはだかに着《き》た子もありました。瘠《や》せて青ざめて眼ばかり大きな子、髪《かみ》の赭《あか》い小さな子、骨《ほね》の立った小さな膝《ひざ》を曲《ま》げるようにして走って行く子、みんなからだを前にまげておどおど何かを恐《おそ》れ横《よこ》を見るひまもなくただふかくふかくため息をついたり声を立てないで泣いたり、ぞろぞろ追われるように走って行くのでした。みんな一郎のように足が傷《きず》ついていたのです。そして本とうに恐ろしいことはその子供らの間を顔のまっ赤な大きな人のかたちのものが灰いろの棘《とげ》のぎざぎざ生えた鎧《よろい》を着《き》て髪などはまるで火が燃えているよう、ただれたような赤い眼をして太い鞭《むち》を振《ふ》りながら歩いて行くのでした。その足が地《じ》面《めん》にあたるときは地面はガリガリ鳴りました。一郎はもう恐ろしさに声も出ませんでした。
楢《なら》夫《お》ぐらいの髪のちぢれた子が列《れつ》の中に居《い》ましたがあんまり足が痛むとみえてとうとうよろよろつまずきました。そして倒れそうになって思わず泣いて、
「痛いよう。おっかさん。」と叫《さけ》んだようでした。するとすぐ前を歩いて行ったあの恐ろしいものは立ちどまってこっちを振り向きました。その子はよろよろして恐ろしさに手をあげながらうしろへ遁《に》げようとしましたら忽《たちま》ちその恐ろしいものの口がぴくっとうごきばっと鞭が鳴ってその子は声もなく倒れてもだえました。あとから来た子供らはそれを見てもただふらふらと避《さ》けて行くだけ一語も云《い》うものがありませんでした。倒れた子はしばらくもだえていましたがそれでもいつかさっきの足の痛みなどは忘《わす》れたようにまたよろよろと立ちあがるのでした。
一郎はもう行くにも戻《もど》るにも立ちすくんでしまいました。俄《にわ》かに楢《なら》夫《お》が眼を開いて「お父さん。」と高く叫んで泣き出しました。すると丁度《ちようど》下を通りかかった一人のその恐ろしいものはそのゆがんた赤い眼をこっちに向けました。一郎は息もつまるように思いました。恐ろしいものはむちをあげて下から叫びました。
「そこらで何をしてるんだ。下りて来い。」一郎はまるでその赤い眼にすい込《こ》まれるような気がしてよろよろ二、三歩そっちへ行きましたが、やっとふみとまってしっかり楢夫を抱《だ》きました。その恐ろしいものは頬《ほお》をぴくぴく動かし歯《は》をむき出して咆《ほ》えるように叫んで一郎の方に登《のぼ》って来ました。そしていつか一郎と楢夫とはつかまれて列《れつ》の中に入っていたのです。ことに一郎のかなしかったことはどうしたのか楢夫が歩けるようになって、はだしでその痛い地面をふんで一郎の前をよろよろ歩いていることでした。一郎はみんなと一《いつ》緒《しよ》に追われてあるきながら何べんも楢夫の名を低《ひく》く呼《よ》びました。けれども楢《なら》夫《お》はもう一郎のことなどは忘《わす》れたようでした。ただたびたびおびえるようにうしろに手をあげながら足の痛さによろめきながら一生けん命歩いているのでした。一郎はこの時はじめて自分たちを追っているものは鬼《おに》というものなこと、また楢夫などに何の悪《わる》いことがあってこんなつらい目にあうのかということを考えました。そのとき楢夫がとうとう一つの赤い稜《かど》のある石につまずいて倒れました。鬼のむちがその小さなからだを切るように落《お》ちました。一郎はぐるぐるしながら、その鬼の手にすがりました。
「私を代《かわ》りに打《う》って下さい。楢夫はなんにも悪いことがないのです。」
鬼はぎょっとしたように一郎を見てそれから口がしばらくぴくぴくしていましたが大きな声で斯《こ》う云《い》いました。その歯がギラギラ光ったのです。
「罪《つみ》はこんどばかりではないぞ《*》。歩け。」一郎はせなかがシィンとしてまわりがくるくる青く見えました。それからからだ中からつめたい汗《あせ》が湧《わ》きました。
こんなにして兄弟は追われて行きました。けれどもだんだんなれて来たと見えて、二人ともなんだか少し楽になったようにも思いました。ほかの人たちの傷《きず》ついた足や倒れるからだを夢《ゆめ》のように横《よこ》の方に見たのです。にわかにあたりがぼんやりくらくなりました。それから黒くなりました。追われて行く子《こ》供《ども》らの青じろい列《れつ》ばかりその中に浮《う》いて見えました。
だんだん眼が闇《やみ》になれて来た時一郎はその中のひろい野原にたくさんの黒いものがじっと座《すわ》っているのを見ました。微《かす》かな青びかりもありました。それらはみなからだ中黒い長い髪《かみ》の毛で一《いつ》杯《ぱい》に覆《おお》われてまっ白な手足が少し見えるばかりでした。その中の一つがどういうわけか一寸《ちよつと》動《うご》いたと思いますと俄《にわ》かにからだもちぎれるような叫《さけ》び声をあげてもだえまわりました。そしてまもなくその声もなくなって一かけの泥《どろ》のかたまりのようになってころがるのを見ました。そしてだんだん眼がなれて来たときその闇の中のいきものは刀の刃《は》のように鋭《するど》い髪の毛でからだを覆《おお》われていること一寸でも動けばすぐからだを切ることがわかりました。
その中をしばらくしばらく行ってからまたあたりが少し明るくなりました。そして地面はまっ赤でした。前の方の子供らが突《とつ》然《ぜん》烈《はげ》しく泣《な》いて叫びました。列もとまりました。鞭《むち》の音や鬼《おに》の怒《おこ》り声が雹《ひよう》や雷《かみなり》のように聞えて来ました。一郎のすぐ前を楢《なら》夫《お》がよろよろしているのです。まったく野原のその辺《へん》は小さな瑪瑙《めのう》のかけら《*》のようなものでできていて行くものの足を切るのでした。
鬼《おに》は大きな鉄《てつ》の沓《くつ》をはいていました。その歩くたびに瑪瑙はガリガリ砕《くだ》けたのです。一郎のまわりからも叫び声が沢《たく》山《さん》起《おこ》りました。楢夫も泣きました。
「私たちはどこへ行くんですか。どうしてこんなつらい目にあうんですか。」楢夫はとなりの子にたずねました。「あたしは知らない。痛《いた》い。痛いなあ。おっかさん。」その子はぐらぐら頭をふって泣き出しました。
「何を云《い》ってるんだ。みんなきさまたちの出かしたこった。どこへ行くあてもあるもんか。」
うしろで鬼《おに》が咆《ほ》えてまた鞭《むち》をならしました。
野はらの草はだんだん荒《あら》くだんだん鋭《するど》くなりました。前の方の子供らは何べんも倒《たお》れてはまた力なく起《お》きあがり足もからだも傷《きず》つき、叫《さけ》び声や鞭の音はもうそれだけでも倒れそうだったのです。
楢夫がいきなり思い出したように一郎にすがりついて泣きました。
「歩け。」鬼が叫びました。鞭が楢夫を抱《だ》いた一郎の腕《うで》をうちました。一郎の腕はしびれてわからなくなってただびくびくうごきました。楢夫がまだすがりついていたので鬼がまた鞭をあげました。
「楢夫は許《ゆる》して下さい、楢夫は許して下さい。」一郎は泣いて叫びました。
「歩け。」鞭がまた鳴りましたので一郎は両腕であらん限り楢夫をかばいました。かばいながら一郎はどこからか、
「にょらいじゅりょうぼん第十六《*》。」というような語がかすかな風のようにまた匂《におい》のように一郎((ママ))に感《かん》じました。すると何だかまわりがほっと楽になったように思って、
「にょらいじゅりょうぼん。」と繰《く》り返《かえ》してつぶやいてみました。すると前の方を行く鬼《おに》が立ちどまって不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに一郎をふりかえって見ました。列《れつ》もとまりました。どう云《い》うわけか鞭の音も叫び声もやみました。しいんとなってしまったのです。気がついて見るとそのうすくらい赤い瑪瑙《めのう》の野原のはずれがぼうっと黄金いろになってその中を立《りつ》派《ぱ》な大きな人《*》がまっすぐにこっちへ歩いて来るのでした。どう云うわけかみんなはほっとしたように思ったのです。
四 光のすあし
その人の足は白く光って見えました。実《じつ》にはやく実にまっすぐにこっちへ歩いて来るのでした。まっ白な足さきが二度《ど》ばかり光りもうその人は一郎の近くへ来ていました。
一郎はまぶしいような気がして顔をあげられませんでした。その人ははだしでした。まるで貝《かい》殻《がら》のように白くひかる大きなすあしでした。くびすのところの肉はかがやいて地《じ》面《めん》まで垂《た》れていました。大きなまっ白なすあしだったのです。けれどもその柔《やわ》らかなすあしは鋭《するど》い瑪瑙《めのう》のかけらをふみ燃《も》えあがる赤い火をふんでも少しも傷《きず》つかずまた灼《や》けませんでした。地面の棘《とげ》さえまた折れませんでした。
「こわいことはないぞ。」微《かす》かに微かにわらいながらその人はみんなに云《い》いました。その大きな瞳《ひとみ》は青い蓮《はす》のはなびらのように、りんとみんなを見ました。みんなはどう云うわけともなく一度に手を合せました。
「こわいことはない。おまえたちの罪《つみ》はこの世《せ》界《かい》を包《つつ》む大きな徳《とく》の力にくらべれば太《たい》陽《よう》の光とあざみの棘のさきの小さな露《つゆ》のようなもんだ。なんにもこわいことはない。」
いつの間にか、みんなはその人のまわりに環《わ》になって集《あつま》まっておりました。さっきまであんなに恐《おそ》ろしく見えた鬼《おに》どもがいまはみなすなおにその大きな手を合わせ首を低《ひく》く垂れてみんなのうしろに立っていたのです。
その人は、しずかに、みんなを見まわしました。
「みんなひどく傷を受《う》けている。それはおまえたちが自分で自分を傷つけたのだぞ。けれどもそれも何でもない。」その人は大きなまっ白な手で楢《なら》夫《お》の頭をなでました。楢夫も一郎もその手のかすかにほおの花のにおいのするのを聞きました。そしてみんなのからだの傷はすっかり癒《なお》っていたのです。
一人の鬼がいきなり泣《な》いて、その人の前にひざまずきました。それから頭をけわしい瑪瑙《めのう》の地面に垂れ、その光る足を一寸《ちよつと》手でいただきました。
その人はまた微《かす》かに笑《わら》いました。すると大きな黄金いろの光が円《まる》い輪《わ》になってその人の頭のまわりにかかりました。その人は云いました。
「ここは地面が剣《けん》でできている。お前たちはそれで足やからだをやぶる。そうお前たちは思っている、けれどもこの地面はまるっきり平《たい》らなのだ。さあご覧《らん》。」
その人は少しかがんで、そのまっ白な手で地面に一つ輪をかきました。みんなは眼《め》を擦《こす》ったのです。また耳《みみ》を疑ったのです。今までの赤い瑪瑙の棘《とげ》ででき暗《くら》い火の舌《した》を吐《は》いていたかなしい地面が今は平らな波《なみ》一つ立たないまっ青な湖《こ》《すい》水の面に変《かわ》りその湖水はどこまでつづくのかはては孔雀《くじやく》石《いし*》の色に何《なん》条《じよう》もの美《うつく》しい縞《しま》になり、その上には蜃《しん》気《き》楼《ろう》のようにそしてもっとはっきりと沢《たく》山《さん》の立《りつ》派《ぱ》な木や建《たて》物《もの》がじっと浮《うか》んでいたのです。それらの建物はずうっと遠くにあったのですけれども見上げるばかりに高く青や白びかりの屋《や》根《ね》を持《も》ったり、虹《にじ》のようないろの幡《はた》が垂《た》れたり、一つの建物から一つの建物へ空中に真《しん》珠《じゆ》のように光る欄《らん》干《かん》のついた橋《きよう》廊《ろう》がかかったり高い塔《とう》はたくさんの鈴《すず》や飾《かざ》り網《あみ》を掛《か》けそのさきの棒《ぼう》はまっすぐに高くそらに立ちました。それらの建物はしんとして音なくそびえその影《かげ》は実《じつ》にはっきりと水面に落《お》ちたのです。
またたくさんの樹《き》が立っていました。それは全《まつた》く宝《ほう》石《せき》細《ざい》工《く》としか思われませんでした。はんの木のようなかたちでまっ青な樹もありました。楊《やなぎ》に似《に》た木で白金のような小さな実《み》になっているのもありました。みんなその葉《は》がチラチラ光ってゆすれ互《たがい》にぶっつかり合って微《び》妙《みよう》な音をたてるのでした。
それから空の方からはいろいろな楽《がつ》器《き》の音がさまざまのいろの光のこなと一《いつ》所《しよ》に微《かす》かに降《ふ》って来るのでした。もっともっと愕《おどろ》いたことはあんまり立派な人たちのそこにもここにも一《いつ》杯《ぱい》なことでした。ある人々は鳥のように空中を翔《か》けていましたがその銀《ぎん》いろの飾りのひもはまっすぐにうしろに引いて波一つたたないのでした。すべて夏の明方のようないい匂《におい》で一杯でした。ところが一郎は俄《にわ》かに自分たちもまたそのまっ青な平《たい》らな平らな湖水の上に立っていることに気がつきました。けれどもそれは湖水だったでしょうか。いいえ、水じゃなかったのです。硬《かた》かったのです。冷《つめ》たかったのです、なめらかだったのです。それは実に青い宝石の板《いた》でした。板じゃない、やっぱり地面でした。あんまりそれがなめらかで光っていたので湖水のように見えたのです。
一郎はさっきの人を見ました。その人はさっきとはまたまるで見ちがえるようでした。立派な瓔珞《ようらく*》をかけ黄金の円光を冠《かぶ》りかすかに笑《わら》ってみんなのうしろに立っていました。そこに見えるどの人よりも立《りつ》派《ぱ》でした。金と紅宝石《ルビー》を組んだような美《うつく》しい花《はな》皿《ざら》を捧《ささ》げて天人たちが一郎たちの頭の上をすぎ大きな碧《あお》や黄金のはなびらを落《おと》して行きました。
そのはなびらはしずかにしずかにそらを沈《しず》んでまいりました。
さっきのうすくらい野原で一《いつ》緒《しよ》だった人たちはいまみな立派に変《かわ》っていました。一郎は楢《なら》夫《お》を見ました。楢夫がやはり黄金いろのきものを着《き》瓔珞《ようらく》も着《つ》けていたのです。それから自分を見ました。一郎の足の傷《きず》や何かはすっかりなおっていまはまっ白に光りその手はまばゆくいい匂《におい》だったのです。
みんなはしばらくただよろこびの声をあげるばかりでしたがそのうちに一人の子が云《い》いました。
「此《こ》処《こ》はまるでいいんだなあ、向《むこ》うにあるのは博《はく》物《ぶつ》館《かん》かしら。」
その巨《おお》きな光る人が微笑《わら》って答えました。
「うむ。博物館もあるぞ。あらゆる世《せ》界《かい》のできごとがみんな集《あつ》まっている。」
そこで子《こ》供《ども》らは俄《にわ》かにいろいろなことを尋《たず》ね出しました。一人が云いました。
「ここには図書館もあるの。僕《ぼく》はアンデルセン《*》のおはなしやなんかもっと読みたいなあ。」
一人が云いました。
「ここの運《うん》動《どう》場《じよう》なら何でも出来るなあ、ボールだって投《な》げたってきっとどこまでも行くんだ。」
非《ひ》常《じよう》に小さな子は云いました。
「僕はチョコレートがほしいなあ。」
その巨きな人はしずかに答えました。
「本はここにはいくらでもある。一冊《さつ》の本の中に小さな本がたくさんはいっているようなのもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入っているような本もある、お前たちはよく読むがいい。運動場もある、そこでかけることを習《なら》うものは火の中でも行くことができる。チョコレートもある。ここのチョコレートは大へんにいいのだ。あげよう。」その大きな人は一寸《ちよつと》空の方を見ました。一人の天人が黄いろな三角を組みたてた模《も》様《よう》のついた立《りつ》派《ぱ》な鉢《はち》を捧《ささ》げて、まっすぐに下りて参《まい》りました。そして青い地《じ》面《めん》に降《お》りて虔《うやうや》しくその大きな人の前にひざまずき鉢を捧げました。
「さあたべてごらん。」その大きな人は一つを楢《なら》夫《お》にやりながらみんなに云いました。みんなはいつか一つずつその立派な菓《か》子《し》を持《も》っていたのです。それは一寸嘗《な》めたときからだ中すうっと涼《すず》しくなりました。舌《した》のさきで青い蛍《ほたる》のような色や橙《だいだい》いろの火やらきれいな花の図《ず》案《あん》になってチラチラ見えるのでした。たべてしまったときからだがピンとなりました。しばらくたってからだ中から何とも云えないいい匂《におい》がぼうっと立つのでした。
「僕たちのお母さんはどっちに居《い》るだろう。」楢夫が俄《にわ》かに思いだしたように一郎にたずねました。
するとその大きな人がこっちを振《ふ》り向《む》いて、やさしく楢夫の頭をなでながら云いました。
「今にお前の前のお母さんを見せてあげよう。お前はもうここで学校に入らなければならない。それからお前はしばらく兄さんと別《わか》れなければならない。兄さんはもう一《いち》度《ど》お母さんの所《ところ》へ帰るんだから。」
その人は一郎に云いました。
「お前はも一度あのもとの世《せ》界《かい》に帰るのだ。お前はすなおないい子供だ。よくあの棘《とげ》の野原で弟を棄《す》てなかった。あの時やぶれたお前の足はいまはもうはだしで悪《わる》い剣《けん》の林を行くことができるぞ。今の心持を決《けつ》して離《はな》れるな。お前の国にはここから沢《たく》山《さん》の人たちが行っている。よく探《さが》してほんとうの道を習え。」その人は一郎の頭を撫《な》でました。一郎はただ手を合せ眼《め》を伏《ふ》せて立っていたのです。それから一郎は空の方で力一《いつ》杯《ぱい》に歌っているいい声の歌を聞きました。この歌の声はだんだん変《かわ》り、すべての景《け》色《しき》はぼうっと霧《きり》の中のように遠くなりました。ただその霧の向うに一本の木が白くかがやいて立ち楢《なら》夫《お》がまるで光って立派になって立ちながら何か云いたそうにかすかにわらってこっちへ一寸《ちよつと》手を延《の》ばしたのでした。
五 峠《とうげ》
「楢夫。」と一郎は叫《さけ》んだと思いましたら俄《にわ》かに新らしいまっ白なものを見ました。それは雪でした。それからそれから青空がまばゆく一郎の上にかかっているのを見ました。
「息《いき》吐《はい》だぞ。眼《め》開《あ》いだぞ。」一郎のとなりの家の赤《あか》髯《ひげ》の人がすぐ一郎の頭のとこに曲《かが》んでいてしきりに一郎を起《おこ》そうとしていたのです。そして一郎ははっきり眼を開きました。楢夫を堅《かた》く抱《だ》いて雪に埋《うず》まっていたのです。まばゆい青空に、村の人たちの顔や赤い毛《もう》布《ふ》や黒の外《がい》套《とう》がくっきりと浮《うか》んで一郎を見下しているのでした。
「弟ぁなじょだ《*》。弟ぁ。」犬の毛《け》皮《がわ》を着《き》た猟《りよう》師《し》が高く叫びました。となりの人は楢夫の腕《うで》をつかんで見ました。一郎も見ました。
「弟ぁわがなぃよだ。早ぐ火焚《た》げ。」となりの人が叫びました。
「火焚ぃでわがなぃ。雪さ寝《ね》せろ。寝せろ。」
猟師が叫びました。一郎は扶《たす》けられて起《おこ》されながら、も一度楢夫の顔を見ました。その顔は苹果《りんご》のように赤くその唇《くちびる》はさっき光の国で一郎と別《わか》れたときのまま、かすかに笑《わら》っていたのです。けれどもその眼はとじその息は絶《た》えそしてその手や胸《むね》は氷《こおり》のように冷《ひ》えてしまっていたのです。
十《じゆう》力《りき*》の金《こん》剛《ごう》石《せき*》
むかし、ある霧《きり》のふかい朝でした。
王子はみんながちょっと居《い》なくなったひまに、玻璃《はり*》で畳《たた》んだ自分のお室《へや》から、ひょいっと芝《しば》生《ふ》へ飛《と》び下りました。
そして蜂《はち》雀《すずめ》のついた青い大きな帽《ぼう》子《し》を急《いそ》いでかぶって、どんどん向《むこ》うへかけ出しました。
「王子さま。王子さま。どちらにいらっしゃいますか。はて、王子さま。」
と年よりのけらいが、室の中であっちを向《む》いたりこっちを向いたりして叫《さけ》んでいるようすでした。
王子は霧の中で、はあはあ笑《わら》って立ちどまり、一寸《ちよつと》そっちを向きましたが、またすぐ向き直って音をたてないように剣《けん》のさやをにぎりながら、どんどんどんどん大《だい》臣《じん》の家の方へかけました。
芝生の草はみな朝の霧をいっぱいに吸《す》って、青く、つめたく見えました。
大臣の家のくるみの木が、霧の中から不《ふ》意《い》に黒く大きくあらわれました。
その木の下で、一人の子《こ》供《ども》の影《かげ》が、霧の向うのお日《ひ》様《さま》をじっとながめて立っていました。
王子は声をかけました。
「おおい。お早う。遊《あそ》びに来たよ。」
その小さな影はびっくりしたように動《うご》いて、王子の方へ走って来ました。それは王子と同じ年の大臣の子でした。
大臣の子はよろこんで顔をまっかにして、
「王子さま、お早うございます。」と申《もう》しました。王子が口早にききました。
「お前さっきからここに居《い》たのかい。何してたの。」
大臣の子が答えました。
「お日さまを見ておりました。お日さまは霧がかからないと、まぶしくて見られません。」
「うん。お日様は霧がかかると、銀《ぎん》の鏡《かがみ》のようだね。」
「はい、また、大きな蛋《たん》白《ぱく》石《せき*》の盤《ばん》のようでございます。」
「うん。そうだね。僕《ぼく》はあんな大きな蛋白石があるよ。けれどもあんなに光りはしないよ。僕はこんど、もっといいのをさがしに行くんだ。お前も一《いつ》緒《しよ》に行かないか。」
大《だい》臣《じん》の子はすこしもじもじしました。
王子はまたすぐ大臣の子にたずねました。
「ね、おい。僕のもってるルビーの壺《つぼ》やなんかより、もっといい宝石《いし》は、どっちへ行ったらあるだろうね。」
大臣の子が申しました。
「虹《にじ》の脚《あし》もとにルビー《*》の絵《え》の具《ぐ》皿《ざら》があるそうです。」
王子が口早に云《い》いました。
「おい、取《と》りに行こうか。行こう。」
「今すぐでございますか。」
「うん。しかし、ルビーよりは金《こん》剛《ごう》石《せき》のほうがいいよ。僕黄色な金剛石のいいのを持《も》ってるよ。そして今《こん》度《ど》はもっといいのを取って来るんだよ。ね、金剛石はどこにあるだろうね。」
大臣の子が首をまげて少し考えてから申しました。
「金剛石は山の頂《ちよう》上《じよう》にあるでしょう。」
王子はうなずきました。
「うん。そうだろうね。さがしに行こうか。ね。行こうか。」
「王さまに申し上げなくてもようございますか。」と大臣の子が目をパチパチさせて心《しん》配《ぱい》そうに申しました。
その時うしろの霧《きり》の中から、
「王子さま、王子さま、どこにいらっしゃいますか。王子さま。」
と、年《とし》老《と》ったけらいの声が聞えて参《まい》りました。
王子は大臣の子の手をぐいぐいひっぱりながら、小声で急《いそ》いで云《い》いました。
「さ、行こう。さ、おいで、早く。追《お》いつかれるから。」
大臣の子は決《けつ》心《しん》したように剣《けん》をつるした帯《おび》革《がわ》を堅《かた》くしめ直しながらうなずきました。
そして二人は霧の中を風よりも早く森の方へ走って行きました。
*
二人はどんどん野原の霧の中を走って行きました。ずうっとうしろの方で、けらいたちの声がまたかすかに聞こえました。
王子ははあはあ笑《わら》いながら、
「さあ、も少し走ってこう。もう誰《だれ》も追い付《つ》きやしないよ。」
大臣の子は小さな樺《かば》の木の下を通るときその大きな青い帽《ぼう》子《し》を落《おと》しました。そして、あわててひろってまた一生けん命《めい》に走りました。
みんなの声ももう聞えませんでした。そして野原はだんだんのぼりになってました。
二人はやっと馳《か》けるのをやめて、いきをせかせかしながら、草をばたりばたりと踏《ふ》んで行きました。
いつか霧《きり》がすうっとうすくなって、お日さまの光が黄金色に透《とお》って来ました。やがて風が霧をふっと払《はら》いましたので、露はきらきら光り、きつねのしっぽのような茶色の草《くさ》穂《ぼ》は一《いち》面《めん》波《なみ》を立てました。
ふと気が付《つ》きますと遠くの白《しら》樺《かば》の木のこちらから、目もさめるような虹《にじ》が空高く光ってたっていました。白樺のみきは燃《も》えるばかりにまっかです。
「そら虹だ。早く行ってルビーの皿《さら》を取《と》ろう。早くお出《い》でよ。」
二人はまた走り出しました。けれどもその樺の木に近づけば近づくほど美しい虹はだんだん向《むこ》うへ逃《に》げるのでした。そして二人が白樺の木の前まで来たときは、虹はもうどこへ行ったか見えませんでした。
「ここから虹は立ったんだね。ルビーのお皿が落《お》ちてないか知らん。」
二人は足でけむりのような茶色の草穂をかきわけて見ましたが、ルビーの絵の具皿はそこに落《お》ちていませんでした。
「ね、虹は向うへ逃げるときルビーの皿もひきずって行ったんだね。」
「そうだろうと思います。」
「虹は一体どこへ行ったろうね。」
「さあ。」
「あ、あすこに居《い》る。あすこに居る。あんな遠くに居るんだよ。」
大臣の子はそっちを見ました。まっ黒な森の向こう側《がわ》から、虹は空高く大きく夢《ゆめ》の橋《はし》をかけていたのでした。
「森の向うなんだね。行ってみよう。」
「また逃げるでしょう。」
「行ってみようよ。ね。行こう。」
二人はまた歩き出しました。そしてもう柏《かしわ》の森まで来ました。
森の中はまっくらで気《き》味《み》が悪《わる》いようでした。それでも王子は、ずんずんはいって行きました。小《こ》藪《やぶ》のそばを通るとき、さるとりいばら《*》が緑《みどり》色《いろ》の沢《たく》山《さん》のかぎを出して、王子の着《き》物《もの》をつかんで引き留《と》めようとしました。はなそうとしても仲《なか》々《なか》はなれませんでした。
王子は面《めん》倒《どう》臭《くさ》くなったので剣《けん》をぬいていきなり小藪をばらんと切ってしまいました。
そして二人はどこまでもとこまでも、むくむくの苔《こけ》やひかげのかつらをふんで森の奥《おく》の方へはいって行きました。
森の木は重《かさ》なり合ってうす暗《ぐら》いのでしたが、そのほかにどうも空まで暗くなるらしいのでした。
それは、森の中に青くさし込《こ》んでいた一本の日光の棒《ぼう》が、ふっと消《き》えてそこらがぼんやりかすんできたのでもわかりました。
また霧《きり》が出たのです。林の中は間もなくぼんやり白くなってしまいました。もう来た方がどっちかもわからなくなってしまったのです。
王子はためいきをつきました。
大《だい》臣《じん》の子もしきりにあたりを見ましたが、霧がそこら一《いつ》杯《ぱい》に流《なが》れ、すぐ眼《め》の前の木だけがぼんやりかすんで見えるだけです。二人は困《こま》ってしまって腕《うで》を組んで立ちました。
すると小さなきれいな声で、誰《だれ》か歌い出したものがあります。
「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。
はやしのなかにふる霧《きり》は、
蟻《あり》のお手玉、三角帽《ぼう》子《し》の、一《いつ》寸《すん》法《ぼう》師《し》の
ちいさなけまり。」
霧がトントンはね踊《おど》りました。
「ポッシャリポッシャリ、ツイツイトン。
はやしのなかにふる霧は、
くぬぎのくろい実《み》、柏《かしわ》の、かたい実の
つめたいおちち。」
霧がポシャポシャ降《ふ》ってきました。そしてしばらくしんとしました。
「誰《だれ》だろう。ね。誰だろう。あんなことうたってるのは。二、三人のようだよ。」
二人はまわりをきょろきょろ見ましたが、どこにも誰も居《い》ませんでした。
声はだんだん高くなりました。それは上《じよう》手《ず》な芝《しば》笛《ふえ》のように聞えるのでした。
「ポッシャリポッシャリ、ツイツイツイ。
はやしのなかにふるきりの、
つぶはだんだん大きくなり、
いまはしずくがポタリ。」
霧がツイツイツイツイ降《ふ》って来《き》て、あちこちの木からポタリッポタリッと雫《しずく》の音がきこえて来ました。
「ポッシャン、ポッシャン、ツイ、ツイ、ツイ。
はやしのなかにふるきりは、
いまはこあめにかぁわるぞ、
木はぁみんな 青《あお》外《がい》套《とう》。
ポッシャン、ポッシャン、ポッシャン、シャン。」
きりはこあめにかわり、ポッシャンポッシャン降って来ました。大臣の子は途《と》方《ほう》に暮《く》れたように目をまん円《まる》にしていました。
「誰《だれ》だろう。今のは。雨を降らせたんだね。」
大臣の子はぼんやり答えました。
「ええ、王子さま。あなたのきものは草の実《み》で一《いつ》杯《ぱい》ですよ。」そして王子の黒いびろうどの上《うわ》着《ぎ》から、緑《みどり》色《いろ》のぬすびとはぎ《*》の実を一ひらずつとりました。
王子がにわかに叫《さけ》びました。
「誰だ、今歌ったものは、ここへ出ろ。」
するとおどろいたことは、王子たちの青い大きな帽《ぼう》子《し》に飾《かざ》ってあった二羽の青びかりの蜂《はち》雀《すずめ》が、ブルルルブルッと飛《と》んで、二人の前に降《お》りました。そして声をそろえて云《い》いました。
「はい。何かご用でございますか。」
「今の歌はお前たちか。なぜこんなに雨をふらせたのだ。」
蜂雀は上《じよう》手《ず》な芝《しば》笛《ふえ》のように叫びました。
「それは王子さま。私共《ども》の大《だい》事《じ》のご主人さま。私どもは空をながめて歌っただけでございます。そらをながめておりますと、きりがあめにかわるかどうかよくわかったのでございます。」
「そしてお前らはどうして歌ったり飛んだししたのだ。」
「はい。ここからは私共の歌ったり飛んだりできる所《ところ》になっているのでございます。ご案《あん》内《ない》致《いた》しましょう。」
雨はポッシャンポッシャン降っています。蜂雀はそう云いながら、向《むこ》うの方へ飛び出しました。せなかや胸《むね》に鋼《こう》鉄《てつ》のはり金がはいっているせいか飛びようがなんだか少し変《へん》でした。
王子たちはそのあとをついて行きました。
*
にわかにあたりがあかるくなりました。
今までポシャポシャやっていた雨が急《きゆう》に大《おお》粒《つぶ》になってざあざあと降《ふ》って来《き》たのです。
はちすずめが水の中の青い魚のように、なめらかにぬれて光りながら、二人の頭の上をせわしく飛びめぐって、
ザッ、ザ、ザ、ザザァザ、ザザァザ、ザザァ、
ふらばふれふれ、ひでりあめ、
トパァス《*》、サファイア《*》、ダイアモンド。
と歌いました。するとあたりの調《ちよう》子《し》がなんだか急に変《へん》な工合《ぐあい》になりました。雨があられに変《かわ》ってパラパラパラパラやってきたのです。
そして二人はまわりを森にかこまれたきれいな草の丘《おか》の頂《ちよう》上《じよう》に立っていました。
ところが二人は全《まつた》くおどろいてしまいました。あられと思ったのはみんなダイアモンドやトパァスやサファイアだったのです。おお、その雨がどんなにきらびやかなまぶしいものだったでしょう。
雨の向《むこ》うにはお日さまが、うすい緑《みどり》色《いろ》のくまを取《と》って、まっ白に光っていましたが、そのこちらで宝《ほう》石《せき》の雨はあらゆる小さな虹《にじ》をあげました。金《こん》剛《ごう》石《いし》がはげしくぶっつかり合っては青い燐《りん》光《こう》を起《おこ》しました。
その宝《ほう》石《せき》の雨は、草に落《お》ちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴るはずだったのです。りんどう《*》の花は刻《きざ》まれた天河石《アマゾンストン*》と、打《う》ち劈《さ》かれた天河石で組み上がり、その葉《は》はなめらかな硅孔雀石《クリソコラ*》で出来ていました。黄色な草《くさ》穂《ぼ》はかがやく猫睛石《キヤツツアイ*》、いちめんのうめばちそう《*》の花びらはかすかな虹を含《ふく》む乳《ちち》色《いろ》の蛋《たん》白《ぱく》石《せき》、とうやく《*》の葉は碧《へき》玉《ぎよく*》、そのつぼみは紫水晶《アメシスト*》の美《うつく》しいさきを持《も》っていました。そしてそれらの中で一番立《りつ》派《ぱ》なのは小さな野ばらの木でした。野ばらの枝《えだ》は茶色の琥《こ》珀《はく*》や紫《むらさき》がかった霰石《アラゴナイト*》でみがきあげられ、その実《み》はまっかなルビーでした。
もしその丘《おか》をつくる黒土をたずねるならば、それは緑青《ろくしよう*》か瑠《る》璃《り*》であったにちがいありません。二人はあきれてぼんやりと光の雨に打たれて立ちました。
はちすずめが度《たび》々《たび》宝石に打《う》たれて落ちそうになりながら、やはりせわしくせわしく飛《と》びめぐって、
ザッザザ、ザザァザ、ザザァザザザァ、
降《ふ》らばふれふれひでりあめ
ひかりの雲のたえぬまま。
と歌いましたので雨の音は一《ひと》しお高くなりそこらはまた一しきりかがやきわたりました。
それから、はちすずめは、だんだんゆるやかに飛んで、
ザッザザ、ザザァザ、ザザァザザザァ、
やまばやめやめ、ひでりあめ
そらは みがいた 土耳古《トルコ》玉《だま*》。
と歌いますと、雨がぴたりとやみました。おしまいの二つぶばかりのダイアモンドがそのみがかれた土耳古玉のそらからきらきらっと光って落《お》ちました。
「ね、このりんどうの花はお父さんの所《ところ》の一《いつ》等《とう》のコップよりも美《うつく》しいんだね。トパァスが一《いつ》杯《ぱい》に盛《も》ってあるよ。」
「ええ立《りつ》派《ぱ》です。」
「うん。僕《ぼく》、このトパァスを半けちへ一ぱい持《も》ってこうか。けれど、トパァスよりはダイアモンドのほうがいいかなあ。」
王子ははんけちを出してひろげましたが、あまりいちめんきらきらしているので、もう何だか拾《ひろ》うのがばかげているような気がしました。
その時、風が来て、りんどうの花はツァリンとからだを曲《ま》げて、その天河石《アマゾンストン》の花の盃《さかずき》を下の方に向《む》けましたので、トパァスはツァラツァランとこぼれて下のすずらんの葉《は》に落ちそれからきらきらころがって草の底《そこ》の方へもぐって行きました。
りんどうの花はそれからギギンと鳴って起《お》きあがり、ほっとため息《いき》をして歌いました。
トツパァスのつゆはツァランツァリルリン、
こぼれてきらめく サング、サンガリン、
ひかりの丘《おおか》に すみながら
なあにがこんなにかなしかろ。
まっ碧《さお》な空でははちすずめがツァリル、ツァリル、ツァリルリン、ツァリル、ツァリル、ツァリルリンと鳴いて二人とりんどうの花との上をとびめぐっておりました。
「ほんとうにりんどうの花は何がかなしいんだろうね。」王子はトツパァスを包《つつ》もうとして、一ぺんひろげたはんけちで顔の汗《あせ》をふきながら云《い》いました。
「さあ私にはわかりません。」
「わからないねい。こんなにきれいなんだもの。ね、ごらん、こっちのうめばちそうなどはまるで虹《にじ》のようだよ。むくむく虹が湧《わ》いてるようだよ。ああそうだ、ダイアモンドの露《つゆ》が一つぶはいってるんだよ。」
ほんとうにそのうめばちそうは、ぷりりぷりりふるえていましたので、その花の中の一つぶのダイアモンドは、まるで叫《さけ》び出すくらいに橙《だいだい》や緑《みどり》に美《うつく》しくかがやき、うめばちそうの花びらにチカチカ映《うつ》って云《い》いようもなく立《りつ》派《ぱ》でした。
その時丁度《ちようど》風が来ましたのでうめばちそうはからだを少し曲《ま》げてパラリとダイアモンドの露をこぼしました。露はちくちくっとおしまいの青光をあげ碧《へき》玉《ぎよく》の葉《は》の底《そこ》に沈《しず》んで行きました。
うめばちそうはブリリンと起《お》きあがってもう一ぺんサッサッと光りました。金《こん》剛《ごう》石《せき》の強い光の粉《こな》がまだはなびらに残《のこ》ってでもいたのでしょうか。そして空のはちすずめのめぐりも叫びも、にわかにはげしくはげしくなりました。うめばちそうはまるで花びらも萼《がく》もはねとばすばかり高く鋭《するど》く叫びました。
「きらめきのゆきき
ひかりのめぐみ
にじはゆらぎ
陽《ひ》は織《お》れど
かなし。
青ぞらはふるい
ひかりはくだけ
風のきしり
陽は織れど
かなし。」
野ばらの木が赤い実《み》から水《すい》晶《しよう》の雫《しずく》をポトポトこぼしながらしずかに歌いました。
「にじはなみだち
きらめきは織る
ひかりのおかの
このさびしさ。
こおりのそこの
めくらのさかな
ひかりのおかの
このさびしさ。
たそがれぐもの
さすらいの鳥
ひかりのおかの
このさびしさ。」
この時光の丘《おか》はサラサラサラッと一めんけはいがして草も花もみんなからだをゆすったりかがめたりきらきら宝《ほう》石《せき》の露《つゆ》をはらいギギンザン、リン、ギギンと起《お》きあがりました。そして声をそろえて空高く叫《さけ》びました。
十《じゆう》力《りき》の金《こん》剛《ごう》石《せき》はきょうも来ず
めぐみの宝石《いし》はきょうも降《ふ》らず
十力の宝石《いし》の落《お》ちざれば、
光の丘も まっくろのよる
二人は腕《うで》を組んで棒《ぼう》のように立っていましたが王子はやっと気がついたように少しからだを屈《かが》めて、
「ね、お前たちは何がそんなにかなしいの。」と野ばらの木にたずねました。
野ばらは赤い光の点々を王子の顔に反《はん》射《しや》させながら、
「今云《い》った通りです。十力の金剛石がまだ来ないのです。」
王子は向《むこ》うの鈴《すず》蘭《らん》の根《ね》もとからチクチク射《さ》して来る黄金色の光をまぶしそうに手でさえぎりながら、
「十力の金剛石ってどんなものだ。」とたずねました。
野ばらがよろこんでからだをゆすりました。
「十力の金剛石はただの金剛石のようにチカチカうるさく光りはしません。」
碧《へき》玉《ぎよく》のすずらんが百の月が集《あつま》った晩《ばん》のように光りながら向うから云《い》いました。
「十力の金剛石はきらめくときもあります。かすかににごることもあります。ほのかにうすびかりする日もあります。ある時は洞《ほら》穴《あな》のようにまっくらです。」
ひかりしずかな天河石《アマゾンストン》のりんどうも、もうとても踊《おど》り出さずにいられないというようにサァン、ツァン、サァン、ツァン、からだをうごかして調《ちよう》子《し》をとりながら云いました。
「その十力の金剛石は春の風よりやわらかくある時は円《まる》くある時は卵《たまご》がたです。霧《きり》より小さなつぶにもなればそらとつちとをうずめもします。」
まひるの笑《わら》いの虹《にじ》をあげてうめばちそうが云いました。
「それはたちまち百千のつぶにもわかれ、また集って一つにもなります。」
はちすずめのめぐりはあまり速《はや》くてただルルルルルルと鳴るぼんやりした青い光の輪《わ》にしか見えませんでした。
野ばらがあまり気が立ち過《す》ぎてカチカチしながら叫《さけ》びました。
「十《じゆう》力《りき》の大《だい》宝《ほう》珠《じゆ》はある時黒い厩《きゆう》肥《ひ》のしめりの中に埋《うず》もれます。それから木や草のからだの中で月光いろにふるい、青白いかすかな脉《みやく》をうちます。それから人の子《こ》供《ども》の苹果《りんご》の頬《ほお》をかがやかします。」
そしてみんなが一《いつ》緒《しよ》に叫びました。
「十力の金剛石は今日も来ない。
その十力の金《こん》剛《ごう》石《せき》はまだ降《ふ》らない。
おお、あめつちを充《み》てる十力のめぐみ
われらに下れ。」
にわかにはちすずめがキィーンとせなかの鋼《こう》鉄《てつ》の骨《ほね》も弾《はじ》けたかと思うばかりするどいさけびをあげました。びっくりしてそちらを見ますと空が生き返《かえ》ったように新らしくかがやきはちすずめはまっすぐに二人の帽《ぼう》子《し》に下《お》りて来ました。はちすずめのあとを追《お》って二つぶの宝《ほう》石《せき》がスッと光って二人の青い帽子に下((ママ))ち、それから花の間に落《お》ちました。
「来た来た。ああ、とうとう来た。十力の金剛石がとうとう下った。」と花はまるでとびたつばかりかがやいて叫びました。
木も草も花も青ぞらも一《いち》度《ど》に高く歌いました。
「ほろびのほのお湧《わ》きいでて
つちとひととをつつめども
こはやすらけき くににして
ひかりのひとらみちみてり
ひかりにみてるあめつちは
…………………。」
急《きゆう》に声がどこか別《べつ》の世《せ》界《かい》に行ったらしく聞えなくなってしまいました。そしていつか十力の金剛石は丘《おか》いっぱいに下っておりました。そのすべての花も葉《は》も茎《くき》も今はみなめざめるばかり立《りつ》派《ぱ》に変《かわ》っていました。青いそらからかすかなかすかな楽《がく》のひびき、光の波《なみ》、かんばしく清《きよ》いかおり、すきとおった風のほめことば丘いちめんにふりそそぎました。
なぜならすずらんの葉は今はほんとうの柔《やわら》かなうすびかりする緑《みどり》色《いろ》の草だったのです。
うめばちそうはすなおなほんとうのはなびらをもっていたのです。そして十力の金剛石は野ばらの赤い実《み》の中のいみじい細《さい》胞《ぼう》の一つ一つにみちわたりました。
その十力の金剛石こそは露《つゆ》でした。
ああ、そしてそして十力の金剛石は露ばかりではありませんでした。碧《あお》いそら、かがやく太《たい》陽《よう》、丘《おか》をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらやしべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちのびろうどの上《うわ》着《ぎ》や涙《なみだ》にかがやく瞳《ひとみ》、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大《だい》宝《ほう》珠《じゆ》でした。あの十力の尊《とうと》い舎《しや》利《り*》でした。あの十力とは誰《だれ》でしょうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人もまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの蒼《あお》鷹《たか》のように若《わか》い二人がつつましく草の上にひざまずき指《ゆび》を膝《ひざ》に組んでいたことはなぜでしょうか。
さてこの光の底《そこ》のしずかな林の向《むこ》うから二人をたずねるけらいたちの声が聞えて参《まい》りました。
「王子様《さま》王子様。こちらにおいででございますか。こちらにおいででございますか。王子様。」
二人は立ちあがりました。
「おおい。ここだよ。」と王子は叫《さけ》ぼうとしましたが、その声はかすれていました。二人はかがやく黒い瞳を蒼《あお》ぞらから林の方に向《む》けしずかに丘を下って行きました。
林の中からけらいたちが出て来てよろこんで笑《わら》ってこっちへ走って参りました。
王子も叫んで走ろうとしましたが一本のさるとりいばらがにわかにすこしの青い鈎《かぎ》を出して王子の足に引っかけました。王子はかがんでしずかにそれをはずしました。
銀《ぎん》河《が》鉄《てつ》道《どう》の夜
一 午《ご》后《ご》の授《じゆ》業《ぎよう》
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云《い》われたり、乳《ちち》の流《なが》れたあと《*》だと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承《しよう》知《ち》ですか。」先生は、黒《こく》板《ばん》に吊《つる》した大きな黒い星《せい》座《ざ》の図の、上から下へ白くけぶった銀《ぎん》河《が》帯《たい》のようなところを指《さ》しながら、みんなに問《とい》をかけました。
カムパネルラ《*》が手をあげました。それから四、五人手をあげました。ジョバンニ《*》も手をあげようとして、急《いそ》いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑《ざつ》誌《し》で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気《き》持《も》ちがするのでした。
ところが先生は早くもそれを見《み》附《つ》けたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」
ジョバンニは勢《いきおい》いよく立ちあがりましたが、立ってみるともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席《せき》からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた云《い》いました。
「大きな望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》で銀《ぎん》河《が》をよっく調《しら》べると銀河は大体何でしょう。」
やっぱり星だとジョバンニは思いましたがこんどもすぐに答えることができませんでした。
先生はしばらく困《こま》ったようすでしたが、眼《め》をカムパネルラの方へ向けて、「ではカムパネルラさん。」と名《な》指《ざ》しました。
するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上がったままやはり答えができませんでした。
先生は意《い》外《がい》なようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、急《いそ》いで「ではよし。」と云いながら、自分で星図を指しました。
「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう。」
ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙《なみだ》がいっぱいになりました。そうだ僕《ぼく》は知っていたのだ、勿《もち》論《ろん》カムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博《はか》士《せ》のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑《ざつ》誌《し》のなかにあったのだ。それどこでなくカンパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書《しよ》斎《さい》から巨《おお》きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な頁《ページ》いっぱいに白い点々のある美《うつく》しい写《しや》真《しん》を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘《わす》れるはずもなかったのに、すぐに返《へん》事《じ》をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午《ご》后《ご》にも仕《し》事《ごと》がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊《あそ》ばず、カムパネルラともあんまり物《もの》を云わないようになったので、カムパネルラがそれを知って気の毒《どく》がってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。
先生はまた云《い》いました。
「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂《すな》や砂《じや》利《り》の粒《つぶ》にもあたるわけです。またこれを巨《おお》きな乳《ちち》の流《なが》れと考えるならもっと天の川とよく似《に》ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂《し》油《ゆ》の球《きゆう》にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云《い》いますと、それは真《しん》空《くう》という光をある速《はや》さで伝《つた》えるもので、太《たい》陽《よう》や地球もやっぱりそのなかに浮《うか》んでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲《す》んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深《ふか》いほど青く見えるように、天の川の底《そこ》の深く遠いところほど星がたくさん集《あつま》って見えしたがって白くぼんやり見えるのです。この模《も》型《けい》をごらんなさい。」
先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両《りよう》面《めん》の凸《とつ》レンズを指《さ》しました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろに《*》あって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄《うす》いのでわずかの光る粒《つぶ》即《すなわ》ち星しか見えないでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚《あつ》いので、光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるというこれがつまり今《こん》日《にち》の銀《ぎん》河《が》の説《せつ》なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次《つぎ》の理科の時間にお話します。では今日《きよう》はその銀河のお祭《まつ》りなのですから、みなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。」
そして教室中はしばらく机《つくえ》の蓋《ふた》をあけたりしめたり本を重《かさ》ねたりする音がいっぱいでしたがまもなくみんなはきちんと立って礼《れい》をすると教室を出ました。
二 活《かつ》版《ぱん》所《じよ》
ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七、八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校《こう》庭《てい》の隅《すみ》の桜《さくら》の木のところに集《あつ》まっていました。それはこんやの星《ほし》祭《まつり》に青いあかりをこしらえて川へ流《なが》す烏《からす》瓜《うり》を取《と》りに行く相《そう》談《だん》らしかったのです。
けれどもジョバンニは手を大きく振《ふ》ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀《ぎん》河《が》の祭りにいちいの葉《は》の玉をつるしたりひのきの枝《えだ》にあかりをつけたりいろいろ支《し》度《たく》をしているのでした。
家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲《まが》ってある大きな活《かつ》版《ぱん》所《じよ》にはいってすぐ入口の計算台に居《い》ただぶだぶの白いシャツを着《き》た人におじぎをしてジョバンニは靴《くつ》をぬいで上りますと、突《つ》き当りの大きな扉《とびら》をあけました。中にはまだ昼なのに電《でん》燈《とう》がついて、たくさんの輪《りん》転《てん》機《き》がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェード《*》をかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働《はたら》いておりました。
ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子《テーブル》に座《すわ》った人の所《ところ》へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚《たな》をさがしてから、
「これだけ拾《ひろ》って行けるかね。」と云《い》いながら、一枚《まい》の紙切れを渡《わた》しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平《ひら》たい函《はこ》をとりだして向《むこ》うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁《かべ》の隅《すみ》の所へしゃがみ込《こ》むと小さなピンセットでまるで粟《あわ》粒《つぶ》ぐらいの活字を次《つぎ》から次と拾いはじめました。青い胸《むね》あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四、五人の人たちが声もたてずこっちも向《む》かずに冷《つめ》たくわらいました。
ジョバンニは何べんも眼《め》を拭《ぬぐ》いながら活字をだんだんひろいました。
六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱《はこ》をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持《も》って来ました。その人は黙《だま》ってそれを受《う》け取《と》って微《かす》かにうなずきました。
ジョバンニはおじぎをすると扉《とびら》をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白《しろ》服《ふく》を着《き》た人がやっぱりだまって小さな銀《ぎん》貨《か》を一つジョバンニに渡《わた》しました。ジョバンニは俄《にわ》かに顔いろがよくなって威《い》勢《せい》よくおじぎをすると、台の下に置《お》いた鞄《かばん》をもっておもてへ飛《と》びだしました。それから元気よく口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》きながらパン屋《や》へ寄《よ》ってパンの塊《かたまり》を一つと角《かく》砂《ざ》糖《とう》を一《ひと》袋《ふくろ》買いますと一《いち》目《もく》散《さん》に走りだしました。
三 家
ジョバンニが勢《いきおい》よく帰って来たのは、ある裏《うら》町《まち》の小さな家でした。その三つならんだ入口の一番左《ひだり》側《がわ》には空《あき》箱《ばこ》に紫《むらさき》いろのケール《*》やアスパラガスが植《う》えてあって小さな二つの窓《まど》には日《ひ》覆《おお》いが下りたままになっていました。
「お母さん。いま帰ったよ。工合《ぐあい》悪《わる》くなかったの。」ジョバンニは靴《くつ》をぬぎながら云《い》いました。
「ああ、ジョバンニ、お仕《し》事《ごと》がひどかったろう。今日《きよう》は涼《すず》しくてね。わたしはずうっと工合がいいよ。」
ジョバンニは玄《げん》関《かん》を上って行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の室に白い巾《きれ》を被《かぶ》って寝《やす》んでいたのでした。ジョバンニは窓《まど》をあけました。
「お母さん、今日は角砂糖を買ってきたよ。牛《ぎゆう》乳《にゆう》に入れてあげようと思って。」
「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」
「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」
「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」
「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」
「来なかったろうかねえ。」
「ぼく行ってとって来よう。」
「あああたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置《お》いて行ったよ。」
「ではぼくたべよう。」
ジョバンニは窓《まど》のところからトマトの皿《さら》をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」
「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」
「だって今朝《けさ》の新聞に今年は北の方の漁《りよう》は大へんよかったと書いてあったよ。」
「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」
「きっと出ているよ。お父さんが監《かん》獄《ごく》へ入るようなそんな悪《わる》いことをしたはずがないんだ。この前お父さんが持《も》ってきて学校へ寄《き》贈《ぞう》した巨《おお》きな蟹《かに》の甲《こう》らだのとなかいの角《つの》だの今だってみんな標《ひよう》本《ほん》室にあるんだ。六年生なんか授《じゆ》業《ぎよう》のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。一昨年《おととし》修《しゆう》学《がく》旅《りよ》行《こう》で〔以下数文字分空白〕」
「お父さんはこの次《つぎ》はおまえにラッコ《*》の上《うわ》着《ぎ》をもってくるといったねえ。」
「みんながぼくにあうとそれを云《い》うよ。ひやかすように云うんだ。」
「おまえに悪《わる》口《くち》を云うの。」
「うん、けれどもカムパネルラなんか決《けつ》して云わない。カムパネルラはみんながそんなことを云うときは気の毒《どく》そうにしているよ。」
「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまえたちのように小さいときからのお友《とも》達《だち》だったそうだよ。」
「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途《と》中《ちゆう》たびたびカムパネルラのうちに寄《よ》った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円《まる》くなってそれに電《でん》柱《ちゆう》や信《しん》号《ごう》標《ひよう》もついていて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石《せき》油《ゆ》をつかったら、缶《かま》がすっかり煤《すす》けたよ。」
「そうかねえ。」
「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしいんとしているからな。」
「早いからねえ。」
「ザウエル《*》という犬がいるよ。しっぽがまるで箒《ほうき》のようだ。ぼくが行くと鼻《はな》を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏《からす》瓜《うり》のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」
「そうだ。今《こん》晩《ばん》は銀河のお祭《まつり》だねえ。」
「うん。ぼく牛《ぎゆう》乳《にゆう》をとりながら見てくるよ。」
「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」
「ああぼく岸《きし》から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」
「もっと遊《あそ》んでおいで。カムパネルラさんと一《いつ》緒《しよ》なら心《しん》配《ぱい》はないから。」
「ああきっと一緒だよ。お母さん、窓《まど》をしめておこうか。」
「ああ、どうか。もう涼《すず》しいからね。」
ジョバンニは立って窓をしめお皿《さら》やパンの袋《ふくろ》を片《かた》附《づ》けると勢《いきおい》よく靴《くつ》をはいて、
「では一時間半で帰ってくるよ。」と云《い》いながら暗《くら》い戸口を出ました。
四 ケンタウル祭《さい*》の夜
ジョバンニは、口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》いているようなさびしい口《くち》付《つ》きで、檜《ひのき》のまっ黒にならんだ町の坂《さか》を下りて来たのでした。
坂の下に大きな一つの街《がい》燈《とう》が、青白く立《りつ》派《ぱ》に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影《かげ》ぼうしは、だんだん濃《こ》く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振《ふ》ったり、ジョバンニの横《よこ》の方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派な機《き》関《かん》車《しや》だ。ここは勾《こう》配《ばい》だから速《はや》いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越《こ》す。そうら、こんどはぼくの影《かげ》法《ぼう》師《し》はコンパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た)
とジョバンニが思いながら、大《おお》股《また》にその街燈の下を通り過《す》ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新らしいえりの尖《とが》ったシャツを着《き》て、電燈の向《むこ》う側《がわ》の暗《くら》い小路《こうじ》から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。
「ザネリ、烏《からす》瓜《うり》ながしに行くの。」ジョバンニがまだそう云ってしまわないうちに、
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上《うわ》着《ぎ》が来るよ。」その子が投《な》げつけるようにうしろから叫《さけ》びました。
ジョバンニは、ばっと胸《むね》がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るように思いました。
「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返《かえ》しましたがもうザネリは向うのひばの植《うわ》った家の中へはいっていました。
「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのだろう。走るときはまるで鼠《ねずみ》のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのはザネリがばかなからだ」
ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの灯《ひ》や木の枝《えだ》で、すっかりきれいに飾《かざ》られた街《まち》を通って行きました。時《と》計《けい》屋《や》の店には明るくネオン燈《とう》がついて、一秒《びよう》ごとに石でこさえたふくろうの赤い眼《め》が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝《ほう》石《せき》が海のような色をした厚《あつ》い硝子《ガラス》の盤《ばん》に載《の》って星のようにゆっくり循《めぐ》ったり、また向《むこ》う側《がわ》から、銅《どう》の人馬かゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中に円《まる》い黒い星《せい》座《ざ》早見が青いアスパラガスの葉《は》で飾ってありました。
ジョバンニはわれを忘《わす》れて、その星座の図に見入りました。
それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですがその日と時間に合せて盤をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕《だ》円《えん》形《けい》のなかにめぐってあらわれるようになっておりやはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむったような帯《おび》になってその下の方ではかすかに爆《ばく》発《はつ》して湯《ゆ》気《げ》でもあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本の脚《あし》のついた小さな望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》が黄いろに光って立っていましたしいちばんうしろの壁《かべ》には空じゅうの星座をふしぎな獣《けもの》や蛇《へび》や魚や瓶《びん》の形に書いた大きな図がかかっていました。ほんとうにこんなような蠍《さそり》だの勇《ゆう》士《し》だのそらにぎっしり居《い》るだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いてみたいと思ってたりしてしばらくぼんやり立っていました。
それから俄《にわ》かにお母さんの牛《ぎう》乳《にゆう》のことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。そしてきゅうくつな上《うわ》着《ぎ》の肩《かた》を気にしながらそれでもわざと胸《むね》を張《は》って大きく手を振《ふ》って町を通って行きました。
空気は澄《す》みきって、まるで水のように通りや店の中を流《なが》れましたし、街《がい》燈《とう》はみなまっ青なもみや楢《なら》の枝《えだ》で包《つつ》まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢《たく》山《さんん》の豆《まめ》電《でん》燈《とう》がついて、ほんとうにそこらは人魚の都《みやこ》のように見えるのでした。子どもらは、みんな新らしい折《おり》のついた着《き》物《もの》を着て、星めぐりの口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》いたり、
「ケンタウルス、露《つゆ》をふらせ。」と叫《さけ》んで走ったり、青いマグネシヤの花火《*》を燃《も》したりして、たのしそうに遊《あそ》んでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深《ふか》く首を垂《た》れて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考えながら、牛《ぎう》乳《にゆう》屋《や》の方へ急《いそ》ぐのでした。
ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が幾《いく》本《ほん》も幾本も、高く星ぞらに浮《うか》んでいるところに来ていました。その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂《におい》のするうすくらい台《だい》所《どころ》の前に立って、ジョバンニは帽《ぼう》子《し》をぬいで、「今《こん》晩《ばん》は、」と云《い》いましたら、家の中はしぃんとして誰《だれ》も居《い》たようではありませんでした。
「今晩は、ごめんなさい。」ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。するとしばらくたってから、年《とし》老《と》った女の人が、どこか工合《ぐあい》が悪《わる》いようにそろそろと出て来て何か用かと口の中で云いました。
「あの、今日、牛乳が僕《ぼく》んとこへ来なかったので、貰《もら》いにあがったんです。」ジョバンニが一生けん命《めい》勢《いきおい》よく云いました。
「いま誰もいないでわかりません。あしたにして下さい。」
その人は、赤い眼《め》の下のとこを擦《こす》りなから、ジョバンニを見おろして云いました。
「おっかさんが病《びよう》気《き》なんですから今晩でないと困《こま》るんです。」
「ではもう少したってから来てください。」その人はもう行ってしまいそうでした。
「そうですか。ではありがとう。」ジョバンニは、お辞《じ》儀《ぎ》をして台所から出ました。
十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、向《むこ》うの橋《はし》へ行く方の雑《ざつ》貨《か》店《てん》の前で、黒い影《かげ》やぼんやり白いシャツが入り乱《みだ》れて、六、七人の生《せい》徒《と》らが、口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》いたり笑《わら》ったりして、めいめい烏《からす》瓜《うり》の燈火《あかり》を持《も》ってやって来るのを見ました。その笑い声も口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同《どう》級《きゆう》の子《こ》供《ども》らだったのです。ジョバンニは思わずどきっとして戻《もど》ろうとしましたが、思い直して、一そう勢よくそっちへ歩いて行きました。
「川へ行くの。」ジョバンニが云おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、
「ジョバンニ、らっこの上《うわ》着《ぎ》が来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。
「ジョバンニ、ラッコの上着が来るよ。」すぐみんなが、続《つづ》いて叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いているかもわからず、急《いそ》いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラが居《い》たのです。カムパネルラは気の毒《どく》そうに、だまって少しわらって、怒《おこ》らないだろうかというようにジョバンニの方を見ていました。
ジョバンニは、逃《に》げるようにその眼《め》を避《さ》け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過《す》ぎて行ってまもなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。町かどを曲《まが》るとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて向うにぼんやり件橋の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも云《い》えずさびしくなって、いきなり走りだしました。すると耳に手をあてて、わああと云いながら片《かた》足《あし》でぴょんぴょん跳《と》んでいた小さな子供らは、ジョバンニが面《おも》白《しろ》くてかけるのだと思ってわあいと叫びました。まもなくジョバンニは黒い丘《おか》の方へ急ぎました。
五 天《てん》気《き》輪《りん》の柱《はしら*》
牧《ぼく》場《じよう》のうしろはゆるい丘《おか》になって、その黒い平《たい》らな頂《ちよう》上《じよう》は、北の大《おお》熊《くま》星《ぼし》の下に、ぼんやりふだんよりも低《ひく》く、連《つら》なって見えました。
ジョバンニは、もう露《つゆ》の降《ふ》りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに照《て》らしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉《は》は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持《も》って行った烏《からす》瓜《うり》のあかりのようだとも思いました。
そのまっ黒な、松《まつ》や楢《なら》の林を越《こ》えると、俄《にわ》かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘《わた》っているのが見え、また頂《いただき》の、天《てん》気《き》輪《りん》の柱《はしら》も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢《ゆめ》の中からでもかおりだしたというように咲《さ》き、鳥が一疋《ぴき》、丘《おか》の上を鳴き続《つづ》けながら通って行きました。
ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投《な》げました。
町の灯《ひ》は、暗《やみ》の中をまるで海の底《そこ》のお宮《みや》のけしきのようにともり、子《こ》供《ども》らの歌う声や口《くち》笛《ぶえ》、きれぎれの叫《さけ》び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘《おか》の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの汗《あせ》でぬれたシャツもつめたく冷《ひや》されました。ジョバンニは町のはずれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。
そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列《れつ》車《しや》の窓《まど》は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅《たび》人《びと》が、苹果《りんご》を剥《む》いたり、わらったり、いろいろな風にしていると考えますと、ジョバンニは、もう何とも云《い》えずかなしくなって、また眼《め》をそらに挙《あ》げました。
あああの白いそらの帯《おび》がみんあ星だというぞ。
ところがいくら見ていても、そのそらはひる先生の云ったような、がらんとした冷《つめ》たいとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧《ぼく》場《じよう》やらある野原のように考えられて仕《し》方《かた》なかったのです。そしてジョバンニは青い琴《こと》の星が、三つにも四つにもなって、ちらちら瞬《またた》き、脚《あし》が何べんも出たり引っ込《こ》んだりして、とうとう蕈《きのこ》のように長く延《の》びるのを見ました。またすぐ眼の下のまちまでがやっぱりぼんやりしたたくさんの星の集《あつま》りか一つの大きなけむりかのように見えるように思いました。
六 銀《ぎん》河《が》ステーション
そしてジョバンニはすぐうしろの天《てん》気《き》輪《りん》の柱《はしら》がいつかぼんやりした三《さん》角《かく》標《ひよう*》の形になって、しばらく蛍《ほたる》のように、ぺかぺか消《き》えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃《こ》い鋼《こう》青《せい*》のそらの野原にたちました。いま新らしく灼《や》いたばかりの青い鋼《はがね》の板《いた》のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
するとどこかで、ふしぎな声が、銀《ぎん》河《が》ステーション、銀河ステーションと云《い》う声がしたと思うと、いきなり眼《め》の前が、ぱっと明るくなって、まるで億《おく》万《まん》の蛍烏賊《ほたるいか》の火を一ぺんに化《か》石《せき》させて、そら中に沈《しず》めたという工合《ぐあい》、またダイアモンド会社《*》で、ねだんがやすくならないために、わざと穫《と》れないふりをして、かくしておいた金《こん》剛《ごう》石《せき》を、誰《だれ》かがいきなりひっくりかえして、ばら撒《ま》いたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦《こす》ってしまいました。
気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗《の》っている小さな列《れつ》車《しや》が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽《けい》便《べん》鉄《てつ》道《どう》の、小さな黄いろの電《でん》燈《とう》のならんだ車室に、窓《まど》から外を見ながら座《すわ》っていたのです。車室の中は、青い天蚕絨《びろうど》を張《は》った腰《こし》掛《か》けが、まるでがら明きで、向《むこ》うの鼠《ねずみ》いろのワニスを塗《ぬ》った壁《かべ》には、真鍮《しんちゆう》の大きなぼたんが二つ光っているのでした。
すぐ前の席《せき》に、ぬれたようにまっ黒な上《うわ》着《ぎ》を着た、せいの高い子《こ》供《ども》が、窓から頭を出して外を見ているのに気が付《つ》きました。そしてそのこどもの肩《かた》のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰《だれ》だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔を出そうとしたとき、俄《にわ》かにその子供が頭を引っ込《こ》めて、こっちを見ました。
それはカムパネルラだったのです。
ジョバンニが、カムパネルラ、きみは前からここにいたの、と云おうと思ったとき、カムパネルラが、
「みんなはねずいぶん走ったけれども遅《おく》れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追《お》いつかなかった。」と云《い》いました。
ジョバンニは、(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出《で》掛《か》けたのだ。)とおもいながら、
「どこかで待《ま》っていようか。」と云いました。するとカムパネルラは、
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎《むか》いにきたんだ。」
カムパネルラは、なぜかそう云いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦《くる》しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘《わす》れたものがあるというような、おかしな気《き》持《も》ちがしてだまってしまいました。
ところがカムパネルラは、窓《まど》から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直って、勢《いきおい》よく云いました。
「ああしまった。ぼく、水《すい》筒《とう》を忘れてきた。スケッチ帳《ちよう》も忘れてきた。けれど構《かま》わない。もうじき白鳥の停《てい》車《しや》場《じよう》だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛《と》んでいたって、ぼくはきっと見える。」そして、カムパネルラは、円《まる》い板《いた》のようになった地図を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったくその中に、白くあらわされた天の川の左の岸《きし》に沿《そ》って一《いち》条《じよう》の鉄《てつ》道《どう》線《せん》路《ろ》が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立《りつ》派《ぱ》なことは、夜のようにまっ黒な盤《ばん》の上に、一々の停車場や三《さん》角《かく》標《ひよう》、泉《せん》水《すい》や森が、青や橙《だいだい》や緑《みどり》や、うつくしい光でちりばめられてありました。ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。
「この地図はどこで買ったの。黒《こく》曜《よう》石《せき*》でできてるねえ。」
ジョバンニが云《い》いました。
「銀《ぎん》河《が》ステーションで、もらったんだ。君もらわなかったの。」
「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちの居《い》るとこ、ここだろう。」
ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指《さ》しました。
「そうだ。おや、あの河原《かわら》は月夜だろうか。」そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波《なみ》を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉《ゆ》快《かい》になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》きながら一生けん命《めい》延《の》びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水《すい》素《そ》よりもすきとおって、ときどき眼《め》の加《か》減《げん》か、ちらちら紫《むらさき》いろのこまかな波《なみ》をたてたり、虹《にじ》のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流《なが》れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐《りん》光《こう》の三《さん》角《かく》標《ひよう》が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙《だいだい》や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或《ある》いは三角形、あるいは四《し》辺《へん》形《けい》、あるいは電《いなずま》や鎖《くさり》の形、さまざまにならんで、野原いっぱいに光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振《ふ》りました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息《いき》をつくように、ちらちらゆれたり顫《ふる》えたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云《い》いました。「それに、この汽車石《せき》炭《たん》をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓《まど》から前の方を見ながら云いました。
「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。
ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微《び》光《こう》の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
「ああ、りんどうの花が咲《さ》いている。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラが、窓の外を指《ゆび》さして云いました。
線《せん》路《ろ》のへりになったみじかい芝《しば》草《くさ》の中に、月《げつ》長《ちよう》石《せき*》ででも刻《きざ》まれたような、すばらしい紫《むらさき》のりんどうの花が咲《さ》いていました。
「ぼく飛びおりて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸をおどらせて云いました。
「もうためだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」
カムパネルラが、そう云ってしまうかしまわないうち、次《つぎ》のりんどうの花が、いっぱいに光って過《す》ぎて行きました。
と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底《そこ》をもったりんどうの花のコップが、湧《わ》くように、雨のように、眼《め》の前を通り、三《さん》角《かく》標《ひよう》の列《れつ》は、けむるように燃《も》えるように、いよいよ光って立ったのです。
七 北《きた》十《じゆう》字《じ*》とプリオシン海《かい》岸《がん*》
「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか。」
いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急《せ》きこんで云《い》いました。
ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙《だいだい》いろの三《さん》角《かく》標《ひよう》のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸《しあわせ》になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣《な》きだしたいのを、一生けん命《めい》こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫《さけ》びました。
「ぼくわからない。けれども、誰《だれ》だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決《けつ》心《しん》しているように見えました。
俄《にわ》かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金《こん》剛《ごう》石《せき》や草の露《つゆ》やあらゆる立《りつ》派《ぱ》さをあつめたような、きらびやかな銀《ぎん》河《が》の河《かわ》床《どこ》の上を水は声もなくかたちもなく流《なが》れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後《ご》光《こう》の射《さ》した一つの島《しま》が見えるのでした。その島の平《たい》らないただきに、立派な眼《め》もさめるような、白い十《じゆう》字《じ》架《か》がたって、それはもう、凍《こお》った北《ほつ》極《きよく》の雲で鋳《い》たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永《えい》久《きゆう》に立っているのでした。
「ハレルヤ、ハレルヤ。」前からもうしろからも声が起《おこ》りました。ふりかえって見ると、車室の中の旅《たび》人《びと》たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂《た》れ、黒いバイブルを胸《むね》にあてたり、水《すい》晶《しよう》の珠数《じゆず》をかけたり、どの人もつつましく指《ゆび》を組み合わせて、そっちに祈《いの》っているのでした。思わず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬《ほお》は、まるで熟《じゆく》した苹果《りんご》のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。
そして島と十字架とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。
向《むこ》う岸《ぎし》も、青じろくぽうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀《ぎん》いろがけむって、息《いき》でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐《きつね》火《び*》のように思われました。
それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列《れつ》でさえぎられ、白鳥の島は、二度《ど》ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、絵のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつから乗《の》っていたのか、せいの高い、黒いかつぎ《*》をしたカトリック風の尼《あま》さんが、まん円《まる》な緑《みどり》の瞳《ひとみ》を、じっとまっすぐに落《おと》して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝《つた》わって来るのを、虔《つつし》んで聞いているというように見えました。旅人たちはしずかに席《せき》に戻《もど》り、二人も胸いっぱいのかなしみに似《に》た新らしい気《き》持《も》ちを、何《なに》気《げ》なくちがった語《ことば》で、そっと談《はな》し合ったのです。
「もうじき白鳥の停《てい》車《しや》場《じよう》だねえ。」
「ああ、十一時かっきりには着《つ》くんだよ。」
早くも、シグナルの緑の燈《だいだい》と、ぼんやり白い柱《はしら》とが、ちらっと窓《まど》のそとを過《す》ぎ、それから硫《い》黄《おう》のほのおのようなくらいぼんやりした転《てん》てつ機《き》の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一《いち》列《れつ》の電《でん》燈《とう》が、うつくしく規《き》則《そく》正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度《ちようど》白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。
さわやかな秋の時計の盤《ばん》面《めん》には、青く灼《や》かれたはがねの二本の針《はり》が、くっきり十一時を指《さ》しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまいました。
〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。
「ぼくたちも降《お》りてみようか。」ジョバンニが云《い》いました。
「降りよう。」二人は一度にはねあがってドアを飛《と》び出して改《かい》札《さつ》口《ぐち》へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫《むらさき》がかった電《でん》燈《とう》が、一つ点《つ》いているばかり、誰《だれ》も居《い》ませんでした。そこら中を見ても、駅《えき》長《ちよう》や赤《あか》帽《ぼう》らしい人の、影《かげ》もなかったのです。
二人は、停車場の前の、水《すい》晶《しよう》細《ざい》工《く》のように見える銀杏《いちよう》の木に囲《かこ》まれた、小さな広場に出ました。そこから幅《はば》の広いみちが、まっすぐに銀《ぎん》河《が》の青光の中へ通っていました。
さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩《かた》をならべて行きますと、二人の影《かげ》は、ちょうど四方に窓のある室の中の、二本の柱《はしら》の影のように、また二つの車《しや》輪《りん》の輻《や》のように幾《いく》本《ほん》も幾本も四方へ出るのでした。そしてまもなく、あの汽車から見えたきれいな河《かわ》原《ら》に来ました。
カムパネルラは、そのきれいな砂《すな》を一つまみ、掌《てのひら》にひろげ、指《ゆび》できしきしさせながら、夢《ゆめ》のように云っているのでした。
「この砂はみんな水晶だ《*》。中で小さな火が燃《も》えている。」
「そうだ。」どこでぼくは、そんなことを習《なら》ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。
河原の礫《こいし》は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉《トパーズ》や、またくしゃくしゃの皺《しゆう》曲《きよく》をあらわしたのや、また稜《かど》から霧《きり》のような青白い光を出す鋼《こう》玉《ぎよく*》やらでした。ジョバンニは、走ってその渚《なぎさ》に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水《すい》素《そ》よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流《なが》れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮《う》いたように見え、その手首にぶっつかってできた波《なみ》は、うつくしい燐《りん》光《こう》をあげて、ちらちらと燃《も》えるように見えたのでもわかりました。
川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えている崖《がけ》の下に、白い岩が、まるで運《うん》動《どう》場《じよう》のように平《たい》らに川に沿《そ》って出ているのでした。そこに小さな五、六人の人かげが、何か掘《ほ》り出すか埋《う》めるかしているらしく、立ったり屈《かが》んたり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。
「行ってみよう。」二人は、まるで一度に叫《さけ》んで、そっちの方へ走りました。その白い岩になった処《ところ》の入口に、
〔プリオシン海《かい》岸《がん》〕という、瀬《せ》戸《と》物《もの》のつるつるした標《ひよう》札《さつ》が立って、向《むこ》うの渚《なぎさ》には、ところどころ、細い鉄《てつ》の欄《らん》干《かん》も植《う》えられ、木《もく》製《せい》のきれいなべンチも置《お》いてありました。
「おや、変《へん》なものがあるよ。」カムパネルラが、不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきの尖《とが》ったくるみの実《み》のようなものをひろいました。
「くるみの実だよ。そら、沢《たく》山《さん》ある。流れて来たんじゃない。岩の中に入ってるんだ。」
「大きいね、このくるみ、倍《ばい》あるね。こいつはすこしもいたんでない。」
「早くあすこへ行ってみよう。きっと何か掘ってるから。」
二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持《も》ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波《なみ》がやさしい稲《いな》妻《づま》のように燃《も》えて寄《よ》せ、右手の崖《がけ》には、いちめん銀《ぎん》や貝《かい》殻《がら》でこさえたようなすすきの穂《ほ》がゆれたのです。
だんだん近《ちかづ》いて見ると、一人のせいの高い、ひどい近《きん》眼《がん》鏡《きよう》をかけ、長《なが》靴《ぐつ》をはいた学者らしい人が、手《て》帳《ちよう》に何かせわしそうに書きつけながら、鶴《つる》嘴《はし》をふりあげたり、スコープをつかったりしている、三人の助《じよ》手《しゆ》らしい人たちに夢《む》中《ちゆう》でいろいろ指《さし》図《ず》をしていました。
「そこのその突《とつ》起《き》を壊《こわ》さないように、スコープを使《つか》いたまえ、スコープを。おっと、も少し遠くから掘って。いけない、いけない、なぜそんな乱《らん》暴《ぼう》をするんだ。」
見ると、その白い柔《やわ》らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獣《けもの》の骨《ほね》が、横《よこ》に倒《たお》れて潰《つぶ》れたという風になって、半分以上掘り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄《ひずめ》の二つある足《あし》跡《あと》のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取《と》られて番《ばん》号《ごう》がつけられてありました。
「君《きみ》たちは参《さん》観《かん》かね。」その大《だい》学《がく》士《し》らしい人が、眼《め》鏡《がね》をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。「くるみが沢《たく》山《さん》あったろう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしいほうさ。ここは百二十万年前、第《だい》三《さん》紀《き*》のあとのころは海《かい》岸《がん》でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流《なが》れているとこに、そっくり塩《しお》水《みず》が寄《よ》せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボス《*》といってね、おいおい、そこつるはしはよしたまえ。ていねいに鑿《のみ》でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先《せん》祖《ぞ》で、昔《むかし》はたくさん居《い》たさ。」
「標《ひよう》本《ほん》にするんですか。」
「いや、証《しよう》明《めい》するに要《い》るんだ。ぼくらからみると、ここは厚《あつ》い立《りつ》派《ぱ》な地《ち》層《そう》で、百二十万年ぐらい前にできたという証《しよう》拠《こ》もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおいそこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋《ろつ》骨《こつ》が埋《う》もれてるはずじゃないか。」大学士はあわてて走って行きました。
「もう時間だよ。行こう。」カムパネルラが地図と腕《うで》時《ど》計《けい》とをくらべながら云《い》いました。
「ああ、ではわたくしどもは失《しつ》礼《れい》いたします。」ジョバンニは、ていねいに大学士におじぎしました。
「そうですか。いや、さよなら。」大学士は、また忙《いそが》しそうに、あちこち歩きまわって監《かん》督《とく》をはじめました。
二人は、その白い岩の上を、一生けん命《めい》汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息《いき》も切れず膝《ひざ》もあつくなりませんでした。
こんなにしてかけるなら、もう世《せ》界《かい》中《じゆう》だってかけれると、ジョバンニは思いました。
そして二人は、前のあの河《かわ》原《ら》を通り、改《かい》札《さつ》口《ぐち》の電《でん》燈《とう》がだんだん大きくなって、まもなく二人は、もとの車室の席《せき》に座《すわ》っていま行って来た方を、窓《まど》から見ていました。
八 鳥を捕《と》る人《*》
「ここへかけてもようございますか。」
がさがさした、けれども親《しん》切《せつ》そうな、大人《おとな》の声が、二人のうしろで聞えました。
それは、茶いろの少しぼろぼろの外《がい》套《とう》を着《き》て、白い巾《きれ》でつつんだ荷《に》物《もつ》を、二つに分けて肩《かた》に掛《か》けた、赤《あか》髯《ひげ》のせなかのかがんだ人でした。
「ええ、いいんです。」ジョバンニは、少し肩《かた》をすぼめて挨《あい》拶《さつ》しました。その人は、ひげの中でかすかに微笑《わら》いながら荷物をゆっくり網《あみ》棚《だな》にのせました。ジョバンニは、なにか大へんさびしいようなかなしいような気がして、だまって正《しよう》面《めん》の時計を見ていましたら、ずうっと前の方で、硝子《ガラス》の笛《ふえ》のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の天《てん》井《じよう》を、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い甲《かぶと》虫《むし》がとまってその影《かげ》が大きく天井にうつっていたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしそうにわらいながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわる窓の外から光りました。
赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人に訊《き》きました。
「あなた方は、どちらへ入《い》らっしゃるんですか。」
「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪《わる》そうに答えました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」
「あなたはどこへ行くんです。」カムパネルラが、いきなり、喧《けん》嘩《か》のようにたずねましたので、ジョバンニは思わずわらいました。すると、向《むこ》うの席《せき》にいた、尖《とが》った帽《ぼう》子《し》をかぶり、大きな鍵《かぎ》を腰《こし》に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑いだしてしまいました。ところがその人は別《べつ》に怒《おこ》ったでもなく、頬《ほお》をぴくぴくしながら返《へん》事《じ》をしました。
「わっしはすぐそこで降《お》ります。わっしは、鳥をつかまえる商《しよう》売《ばい》でね。」
「何鳥ですか。」
「鶴《つる》や雁《がん》です。さぎも白《はく》鳥《ちよう》もです。」
「鶴はたくさんいますか。」
「居《い》ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。」
「いいえ。」
「いまでも聞えるじゃありませんか。そら、耳をすまして聴《き》いてごらんなさい。」
二人は眼《め》を挙《あ》げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧《わ》くような音が聞えて来るのでした。
「鶴、どうしてとるんですか。」
「鶴ですか、それとも鷺《さぎ》ですか。」
「鷺です。」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。
「そいつはな、雑《ぞう》作《さ》ない。さぎというものは、みんな天の川の砂《すな》が凝《こご》って、ぼおっとできるもんですからね、そして始《し》終《じゆう》川へ帰りますからね、川原で待《ま》っていて、鷺がみんな、脚《あし》をこういう風にしておりてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押《おさ》えちまうんです。するともう鷺は、かたまって安《あん》心《しん》して死《し》んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押《お》し葉《ば》にするだけです。」
「鷺を押し葉にするんですか。標《ひよう》本《ほん》ですか。」
「標本じゃありません。みんなたべるじゃありませんか。」
「おかしいねえ。」カムパネルラが首をかしげました。
「おかしいも不《ふ》審《しん》もありませんや。そら。」その男は立って、網《あみ》棚《だな》から包《つつ》みをおろして、手ばやくくるくると解《と》きました。「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです。」
「ほんとうに鷺だねえ。」二人は思わず叫びました。まっ白な、あのさっきの北の十《じゆう》字《じ》架《か》のように光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚《あし》をちぢめて、浮《うき》彫《ぼり》のようにならんでいたのです。
「眼《め》をつぶってるね。」カムパネルラは、指《ゆび》でそっと、鷺の三日月《みかづき》がたの白い瞑《つむ》った眼にさわりました。頭の上の槍《やり》のような白い毛もちゃんとついていました。
「ね、そうでしょう。」鳥《と》捕りは風《ふ》呂《ろ》敷《しき》を重《かさ》ねて、またくるくると包んで紐《ひも》でくくりました。誰《だれ》がいったいここらで鷺なんぞ喰《た》べるだろうとジョバンニは思いながら訊《き》きました。
「鷺はおいしいんですか。」
「ええ、毎日注《ちゆう》文《もん》があります。しかし雁《がん》のほうが、もっと売れます。雁《がん》のほうがずっと柄《がら》がいいし、第《だい》一《いち》手数がありませんからな。そら。」鳥捕りは、また別《べつ》のほうの包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁が、ちょうどさっきの鷺のように、くちばしを揃《そろ》えて、少し扁《ひら》べったくなって、ならんでいました。
「こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽《かる》くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。
「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕《と》りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰《た》べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓《か》子《し》だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛《と》んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓《か》子《し》屋《や》だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、大へん気の毒《どく》だ)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。
「も少しおあがりなさい。」鳥捕りがまた包《つつ》みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、
「ええ、ありがとう。」と云《い》って遠《えん》慮《りよ》しましたら、鳥捕りは、こんどは向《むこ》うの席《せき》の、鍵《かぎ》をもった人に出しました。
「いや、商《しよう》売《ばい》ものを貰《もら》っちゃすみませんな。」その人は、帽《ぼう》子《し》をとりました。
「いいえ、どういたしまして。どうです、今年の渡《わた》り鳥の景《けい》気《き》は。」
「いや、すてきなもんですよ。一昨日《おととい》の第《だい》二《に》限《げん》ころなんか、なぜ燈《とう》台《だい》の灯《ひ》を、規《き》則《そく》以《い》外《がい》に間〔一字分空白〕させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故《こ》障《しよう》が来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、渡り鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですから仕《し》方《かた》ありませんや。わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦《く》情《じよう》は、おれのとこへ持《も》って来たって仕方がねえや、ばさばさのマントを着《き》て脚《あし》と口との途《と》方《ほう》もなく細い大《たい》将《しよう》へやれって、斯《こ》う云《い》ってやりましたがね、はっは。」
すすきがなくなったために、向うの野原から、ぱっとあかりが射《さ》して来ました。
「鷺《さぎ》のほうはなぜ手数なんですか。」カムパネルラは、さっきから、訊《き》こうと思っていたのです。
「それはね、鷺を喰《た》べるには。」鳥捕りは、こっちに向き直りました。「天の川の水あかりに、十日もつるしておくかね、そうでなけぁ、砂《すな》に三、四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、水《すい》銀《ぎん》がみんな蒸《じよう》発《はつ》して、たべられるようになるよ。」
「こいつは鳥じゃない。ただのお菓《か》子《し》でしょう。」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、尋《たず》ねました。鳥捕《と》りは、何か大へんあわてた風で、
「そうそう、ここで降《お》りなけぁ。」と云いながら、立って荷《に》物《もつ》をとったと思うと、もう見えなくなっていました。
「どこへ行ったんだろう。」二人は顔を見合せましたら、燈《とう》台《だい》守《もり》は、にやにや笑《わら》って、少し伸《の》びあがるようにしながら、二人の横《よこ》の窓《まど》の外をのぞきました。二人もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐《りん》光《こう》を出す、いちめんのかわらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両《りよう》手《て》をひろげて、じっとそらを見ていたのです。
「あすこへ行ってる。ずいぶん奇《き》体《たい》だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな。」と云った途《と》端《たん》、がらんとした桔梗《ききよう》いろの空から、さっき見たような鷺《さぎ》が、まるで雪の降《ふ》るように、ぎゃあぎゃあ叫《さけ》びながら、いっぱいに舞《ま》いおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注《ちゆう》文《もん》通《どお》りだというようにほくほくして、両足をかっきり六十度《ど》に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚《あし》を両手で片《かた》っ端《ぱし》から押《お》えて、布《ぬの》の袋《ふくろ》の中に入れるのでした。すると鷺は、蛍《ほたる》のように、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消《き》えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、眼《め》をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無《ぶ》事《じ》に天の川の砂《すな》の上に降《お》りるもののほうが多かったのです。それは見ていると、足が砂へつくや否《いな》や、まるで雪の融《と》けるように、縮《ちぢ》まって扁《ひら》べったくなって、まもなく熔《よう》鉱《こう》炉《ろ》から出た銅《どう》の汁《しる》のように、砂や砂利《じやり》の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についているのでしたが、それも二、三度明るくなったり暗《くら》くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。
鳥捕りは、二十疋《ぴき》ばかり、袋に入れてしまうと、急《きゆう》に両手をあげて、兵《へい》隊《たい》が鉄《てつ》砲《ぽう》弾《だま》にあたって、死《し》ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、却《かえ》って、
「ああせいせいした。どうもからだに恰《ちよう》度《ど》合うほど稼《かせ》いでいるくらい、いいことはありませんな。」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣《とな》りにしました。見ると鳥捕《と》りは、もうそこでとって来た鷺《さぎ》を、きちんとそろえて、一つずつ重《かさ》ね直しているのでした。
「どうして、あすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問《と》いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」
ジョバンニは、すぐ返《へん》事《じ》しようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、頬《ほお》をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
「ああ、遠くからですね。」鳥捕りは、わかったというように雑《ぞう》作《さ》なくうなずきました。
九 ジョバンニの切符《きつぷ》
「もうここらは白《はく》鳥《ちよう》区《く》のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオ《*》の観《かん》測《そく》所《じよ》です。」
窓《まど》の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建《たて》物《もの》が四棟《とう》ばかり立って、その一つの平《ひら》屋《や》根《ね》の上に、眼《め》もさめるような、青宝玉《サフアイア》と黄玉《トパーズ*》の大きな二つのすきとおった球《きゆう》が、輪《わ》になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向《むこ》うへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進《すす》んで来、間もなく二つのはじは、重《かさ》なり合って、きれいな緑《みどり》いろの両《りよう》面《めん》凸《とつ》レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、とうとう青いのは、すっかりトパースの正《しよう》面《めん》に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環《わ》とができました。それがまただんだん横《よこ》へ外《そ》れて、前のレンズの形を逆《ぎやく》に繰《く》り返《かえ》し、とうとうすっとはなれて、サファイアは向うへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、また丁《ちよう》度《ど》さっきのような風になりました。銀《ぎん》河《が》の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測《そつ》候《こう》所《じょ》が、睡《ねむ》っているように、しずかによこたわったのです。
「あれは、水の速《はや》さをはかる器《き》械《かい》です。水も……。」鳥捕《と》りが云《い》いかけたとき、
「切符《きつぷ》を拝《はい》見《けん》いたします。」三人の席《せき》の横《よこ》に、赤い帽《ぼう》子《し》をかぶったせいの高い車《しや》掌《しよう》が、いつかまっすぐに立っていて云いました。鳥捕りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌はちょっと見て、すぐ眼《め》をそらして(あなた方のは?)というように、指《ゆび》をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。
「さあ。」ジョバンニは困《こま》って、もじもじしていましたら、カムパネルラはわけもないという風で、小さな鼠《ねずみ》いろの切符《きつぷ》を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上《うわ》着《ぎ》のポケットにでも、入っていたかとおもいながら、手を入れてみましたら、何か大きな畳《たた》んだ紙きれにあたりました。こんなもの入っていたろうかと思って、急《いそ》いで出してみましたら、それは四つに折《お》ったはがきぐらいの大さの緑《みどり》いろの紙でした。車掌が手を出しているもんですからなんでも構《かま》わない、やっちまえと思って渡《わた》しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って叮《てい》寧《ねい》にそれを開いて見ていました。そして読みながら上《うわ》着《ぎ》のぼたんやなんかしきりに直したりしていましたし燈《とう》台《だい》看《かん》守《しゆ》も下からそれを熱《ねつ》心《しん》にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証《しよう》明《めい》書《しよ》か何かだったと考えて少し胸《むね》が熱《あつ》くなるような気がしました。
「これは三《さん》次《じ》空間《*》のほうからお持《も》ちになったのですか。」車掌がたずねました。
「何だかわかりません。」もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だと安《あん》心《しん》しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑《わら》いました。
「よろしゅうございます。南十字《サウザンクロス*》へ着《つ》きますのは、次《つぎ》の第《だい》三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました。
カムパネルラは、その紙切れが何だったか待《ま》ち兼《か》ねたというように急いでのぞきこみました。ジョバンニも全《まつた》く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐《から》草《くさ》のような模《も》様《よう》の中に、おかしな十ばかりの字《*》を印《いん》刷《さつ》したものでだまって見ていると何だかその中へ吸《す》い込《こ》まれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕《と》りが横《よこ》からちらっとそれを見てあわてたように云《い》いました。
「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符《きつぷ》だ。天上どこじゃない、どこでも勝《かつ》手《て》にあるける通《つう》行《こう》券《けん》です。こいつをお持《も》ちになれぁ、なるほど、こんな不《ふ》完《かん》全《ぜん》な幻《げん》想《そう》第《だい》四《よん》次《じ*》の銀《ぎん》河《が》鉄《てつ》道《どう》なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方大したもんですね。」
「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答えながらそれをま畳《たた》んでかくしに入れました。そしてきまりが悪《わる》いのでカムパネルラと二人、また窓《まど》の外をながめていましたが、その鳥捕りの時々大したもんだというように、ちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。
「もうじき鷲《わし》の停《てい》車《しや》場《じよう》だよ。」カムパネルラが向《むこ》う岸《ぎし》の、三つならんだ小さな青じろい三《さん》角《かう》標《ひよう》と、地《ち》図《ず》とを見《み》較《くら》べて云《い》いました。
ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒《どく》でたまらなくなりました。鷺《さぎ》をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包《つつ》んだり、ひとの切符《きつぷ》をびっくりしたように横《よこ》目《め》で見てあわててほめだしたり、そんなことを一々考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸《しあわせ》になるなら、自分があの光る天の川の河原《かわら》に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙《だま》っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊《き》こうとして、それではあんまり出し抜《ぬ》けだから、どうしようかと考えて振《ふ》り返《かえ》って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居《い》ませんでした。網《あみ》棚《だな》の上には白い荷《に》物《もつ》も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支《し》度《たく》をしているのかと思って、急《いそ》いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂《すな》子《ご》と白いすすきの波《なみ》ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖《とが》った帽《ぼう》子《し》も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったろう。」カムパネルラもぼんやりそう云《い》っていました。
「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。僕《ぼく》はどうしても少しあの人に物《もの》を云わなかったろう。」
「ああ、僕もそう思っているよ。」
「僕はあの人が邪《じや》魔《ま》なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変《へん》てこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思いました。
「何だか苹果《りんご*》の匂《におい》がする。僕いま苹果のこと考えたためだろうか。」カムパネルラが不《ふ》思《し》議《ぎ》そうにあたりを見まわしました。
「ほんとうに苹果の匂だよ。それから野《の》茨《いばら》の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでもはいって来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のするはずはないとジョバンニは思いました。
そしたら俄《にわ》かにそこに、つやつやした黒い髪《かみ》の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたような顔をしてがたがたふるえてはだしで立っていました。隣《とな》りには黒い洋《よう》服《ふく》をきちんと着《き》たせいの高い青年が一ぱいに風に吹《ふ》かれているけやきの木のような姿《し》勢《せい》で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。
「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり、十二ばかりの眼《め》の茶いろな可《か》愛《わい》らしい女の子が、黒い外《がい》套《とう》を着て青年の腕《うで》にすがって不思議そうに窓の外を見ているのでした。
「ああ、ここはランカシャイヤ《*》だ。いや、コンネクテカット《*》州だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神《かみ》さまに召《め》されているのです。」黒服の青年はよろこびにかがやいてその女の子に云《い》いました。けれどもなぜかまた額《ひたい》に深《ふか》く皺《しわ》を刻《きざ》んで、それに大へんつかれているらしく、無《む》理《り》に笑《わら》いながら男の子をジョバンニのとなりに座《すわ》らせました。
それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席《せき》を指《ゆび》さしました。女の子はすなおにそこへ座って、きちんと両《りよう》手《て》を組み合せました。
「ぼく、おおねえさんのとこへ行くんだよう。」腰《こし》掛《か》けたばかりの男の子は顔を変《へん》にして燈《とう》台《だい》看《かん》守《しゆ》の向《むこ》うの席に座《すわ》ったばかりの青年に云いました。青年は何とも云えず悲《かな》しそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手を顔にあててしくしく泣《な》いてしまいました。
「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕《し》事《ごと》があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永《なが》く待《ま》っていらっしゃったでしょう。わたしの大《だい》事《じ》なタダシはいまどんな歌をうたっているだろう、雪の降《ふ》る朝にみんなと手をつないでぐるぐるにわとこのやぶをまわってあそんでいるだろうかと考えたりほんとうに待って心《しん》配《ぱい》していらっしゃるんですから、早く行っておっかさんにお目にかかりましょうね。」
「うん、だけど僕《ぼく》、船に乗《の》らなけぁよかったなあ。」
「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立《りつ》派《ぱ》な川、ね、あすこはあの夏じゅう、ツインクル、ツインクル、リトル、スター《*》をうたってやすむとき、いつも窓《まど》からぼんやり白く見えていたでしょう。あすこですよ。ね、きれいでしょう、あんなに光っています。」
泣いていた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は教えるようにそっと姉弟にまた云いました。
「わたしたちはもう、なんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅《たび》して、じき神《かみ》さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂《におい》がよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代《か》わりにボートへ乗《の》れた人たちは、きっとみんな助《たす》けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう。」青年は男の子のぬれたような黒い髪《かみ》をなで、みんなを慰《なぐさ》めながら、自分もだんだん顔いろがかがやいて来ました。
「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」さっきの燈台看守がやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。
「いえ、氷《ひよう》山《ざん》にぶっつかって船が沈《しず》みましてね《*》、わたしたちはこちらのお父さんが急《きゆう》な用で二ケ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発《た》ったのです。私は大学へはいっていて、家《か》庭《てい》教《きよう》師《し》にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日《きよう》か昨日《きのう》のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾《かたむ》きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧《きり》が非《ひ》常《じよう》に深《ふか》かったのです。ところがボートは左《さ》舷《げん》の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗《の》り切《き》らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必《ひつ》死《し》となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫《さけ》びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子《こ》供《ども》たちのために祈《いの》ってくれました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居《い》て、とても押《お》しのける勇《ゆう》気《き》がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助《たす》けするのが私の義《ぎ》務《む》だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行くほうがほんとうにこの方たちの幸《こう》福《ふく》だとも思いました。それからまたその神にそむく罪《つみ》はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれども、うして見ているとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂《きよう》気《き》のようにキスを送《おく》りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸《はらわた》もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚《かく》悟《ご》して、この人たち二人を抱《だ》いて、浮《うか》べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待《ま》っていました。誰《だれ》が投《な》げたかライフヴイが一つ飛《と》んで来ましたけれども滑《すべ》ってずうっと向《むこ》うへ行ってしまいました。私は一生けん命《めい》で甲《かん》板《ぱん》の格《こう》子《し》になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく〔約二文字分空白〕番の声《*》があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのとき俄《にわ》かに大きな音がして私たちは水に落《お》ちました、もう渦《うず》に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一昨年《おととし》没《な》くなられました。ええ、ボートはきっと助《たす》かったにちがいありません、何せよほど熟《じゆく》練《れん》な水《すい》夫《ふ》たちが漕《こ》いですばやく船からはなれていましたから。」
そこらから小さな嘆《たん》息《そく》やいのりの声が聞こえジョバンニもカムパネルラもいままで忘《わす》れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼《め》が熱《あつ》くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフィック《*》というのではなかったろうか。その氷《ひよう》山《ざん》の流《なが》れる北のはての海で、小さな船に乗《の》って、風や凍《こお》りつく潮《しお》水《みず》や、烈《はげ》しい寒《さむ》さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうに気の毒《どく》でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう。)ジョバンニは首を垂《た》れて、すっかりふさぎ込《こ》んでしまいました。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進《すす》む中でのできごとなら峠《とうげ》の上りも下りもみんなほんとうの幸《こう》福《ふく》に近づく一あしずつですから。」
燈《とう》台《だい》守《もり》がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至《いた》るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」青年が祈《いの》るようにそう答えました。
そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいぐったり席《せき》によりかかって睡《ねむ》っていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い柔《やわ》らかな靴《くつ》をはいていたのです。
ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐《りん》光《こう》の川の岸《きし》を進みました。向《むこ》うの方の窓《まど》を見ると、野原はまるで幻《げん》燈《とう》のようでした。百も千もの大小さまざまの三《さん》角《かく》標《ひよう》、その大きなものの上には赤い点々をうった測《そく》量《りよう》旗《き》も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集《あつま》まってぼおっと青白い霧《きり》のよう、そこからかまたはもっと向うからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙《のろし》のようなものが、かわるがわるきれいな桔梗《ききよう》いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇《き》麗《れい》な風は、ばらの匂《におい》でいっぱいでした。
「いかがですか。こういう苹果《りんご》はおはじめてでしょう。」向《むこ》うの席《せき》の燈《とう》台《だい》看《かん》守《しゆ》がいつか黄金と紅《べに》でうつくしくいろどられた大きな苹果を落《おと》さないように両《りよう》手《て》で膝《ひざ》の上にかかえていました。
「おや、どっから来たのですか。立《りつ》派《ぱ》ですねえ。ここらではこんな苹果ができるのですか。」青年はほんとうにびっくりしたらしく燈台看守の両手にかかえられた一もりの苹果を眼《め》を細くしたり首をまげたりしながらわれを忘《わす》れてながめていました。
「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」
青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。「さあ、向こうの坊《ぼつ》ちゃんがた。いかがですか。おとり下さい。」ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまっていましたがカムパネルラは「ありがとう、」と云《い》いました。すると青年は自分でとって一つずつ二人に送《おく》ってよこしましたのでジョバンニも立ってありがとうと云いました。
燈台看守はやっと両《りよう》腕《うで》があいたのでこんどは自分で一つずつ睡《ねむ》っている姉弟の膝《ひざ》にそっと置《お》きました。
「どうもありかとう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果《りんご》は。」
青年はつくづく見ながら云いました。
「この辺《へん》ではもちろん農《のう》業《ぎよう》はいたしますけれども大ていひとりでにいいものができるような約《やく》束《そく》になっております。農業だってそんなに骨《ほね》は折《お》れはしません。たいてい自分の望《のぞ》む種子《たね》さえ播《ま》けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺《へん》のように殻《から》もないし十倍《ばい》も大きくて匂《におい》もいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓《か》子《し》だってかすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。」
にわかに男の子がぱっちり眼をあいて云いました。「ああぼくいまお母さんの夢《ゆめ》をみていたよ。お母さんがね立派な戸《と》棚《だな》や本のあるとこに居《い》てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげましょう云《い》ったら眼がさめちゃった。ああここさっきの汽車のなかだねえ。」
「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が云いました。「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」姉はわらって眼《め》をさまし、まぶしそうに両《りよう》手《て》を眼にあててそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを喰《た》べるようにもうそれを喰べていました。また折《せつ》角《かく》剥《む》いたそのきれいな皮《かわ》も、くるくるコルク抜《ぬ》きのような形になって床《ゆか》へ落《お》ちるまでの間にはすうっと、灰《はい》いろに光って蒸《じよう》発《はつ》してしまうのでした。
二人はりんごを大切にポケットにしまいました。
川《かわ》下《しも》の向《むこ》う岸《ぎし》に青く茂《しげ》った大きな林が見え、その枝《えだ》には熟《じゆく》してまっ赤に光る円《まる》い実《み》がいっぱい、その林のまん中に高い高い三《さん》角《かく》標《ひよう》が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォン《*》にまじって何とも云えずきれいな音《ね》いろが、とけるように浸《し》みるように風につれて流《なが》れて来るのでした。
青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。
だまってその譜《ふ》を聞いていると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑《みどり》の明るい野原か敷《しき》物《もの》かがひろがり、またまっ白な蝋《ろう》のような露《つゆ》が太《たい》陽《よう》の面《めん》を擦《かす》めて行くように思われました。
「まあ、あの烏《からす》。」カムパネルラのとなりのかおると呼《よ》ばれた女の子が叫《さけ》びました。
「からすでない。みんなかささぎ《*》だ。」カムパネルラがまた何《なに》気《げ》なく叱《しか》るように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑《わら》い、女の子はきまり悪《わる》そうにしました。まったく河原《かわら》の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列《れつ》になってとまってじっと川の微《び》光《こう》を受《う》けているのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延《の》びてますから。」青年はとりなすように云いました。
向うの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方から、あの聞きなれた〔約二字分空白〕番の讃《さん》美《び》歌《か》のふしが聞えてきました。よほどの人数で合《がつ》唱《しよう》しているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまた座《すわ》りました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。ジョバンニまで何だか鼻《はな》が変《へん》になりました。けれどもいつともなく誰《だれ》ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラも一《いつ》緒《しよ》にうたい出したのです。
そして青い橄欖《かんらん》の森が見えない天の川の向うにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまいそこから流《なが》れて来るあやしい楽《がつ》器《き》の音ももう汽車のひびきや風の音にすり耗《へ》らされてずうっとかすかになりました。
「あ、孔雀《くじゃく*》が居《い》るよ。」
「ええたくさんいたわ。」女の子がこたえました。
ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑《みどり》いろの貝ぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀がはねをひろげたりとじたりする光の反《はん》射《しや》を見ました。
「そうだ、孔雀の声だってさっき聞えた。」カムパネルラがかおる子に云いました。
「ええ、三十疋《ぴき》ぐらいはたしかに居たわ。ハープのように聞こえたのはみんな孔雀よ。」女の子が答えました。ジョバンニは俄《にわ》かに何とも云えずかなしい気がして思わず、「カムパネルラ、ここからはねおりて遊《あそ》んで行こうよ。」とこわい顔をして云おうとしたくらいでした。
(カムパネルラ、僕《ぼく》もう行っちまうぞ。僕なんか鯨《くじら》だって見たことないや)ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながらそれでも堅《かた》く唇《くちびる》を噛《か》んでこらえて窓《まど》の外を見ていました。その窓の外には海豚《いるか》のかたちももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらな島《しま》のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれてその上に一人の寛《ゆる》い服《ふく》を着《き》て赤い帽《ぼう》子《し》をかぶった男が立っていました。そして両《りよう》手《て》に赤と青の旗《はた》をもってそらを見上げて信《しん》号《ごう》しているのでした。ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤い旗をふっていましたが俄《にわ》かに赤旗をおろしてうしろにかくすようにし青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指《し》揮《き》者《しや》のように烈《はげ》しく振《ふ》りました。すると空中にざあっと雨のような音がして何かまっくらなものがいくかたまりもいくかたまりも鉄《てつ》砲《ぽう》丸《だま》のように川の向《むこ》うの方へ飛《と》んで行くのでした。ジョバンニは思わず窓《まど》からからだを半分出してそっちを見あげました。美《うつく》しい美しい桔梗《ききょう》いろのがらんとした空の下を実《じつ》に何万という小さな鳥どもが幾組《いくみ》も幾組もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。「鳥が飛んで行くな。」ジョバンニが窓の外で云《い》いました。「どら。」カムパネルラもそらを見ました。そのときあのやぐらの上のゆるい服《ふく》の男は俄《にわ》かに赤い旗をあげて狂《きよう》気《き》のようにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群《むれ》は通らなくなりそれと同時にぴしゃあんという潰《つぶ》れたような音が川下の方で起《おこ》ってそれからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤《あか》帽《ぼう》の信《しん》号《ごう》手《しゆ》がまた青い旗をふって叫《さけ》んでいたのです。「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはっきり聞えました。それといっしょにまた幾万という鳥の群がそらをまっすぐにかけたのです。二人の顔を出しているまん中の窓からあの女の子が顔を出して美しい頬《ほお》をかがやかせながらそらを仰《あお》ぎました。「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと。」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生《なま》意《い》気《き》ないやだいと思いながらだまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっと息《いき》をしてだまって席《せき》へ戻《もど》りました。カムパネルラが気の毒《どく》そうに窓から顔を引っ込《こ》めて地図を見ていました。
「あの人鳥へ教えてるんでしょうか。」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでしょう。」カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしいんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったのでだまってこらえてそのまま立って口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》いていました。
(どうして僕《ぼく》はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸《きし》のずうっと向うにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ。)ジョバンニは熱《ほて》って痛《いた》いあたまを両手で押《おさ》えるようにしてそっちの方を見ました。(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談《はな》しているし僕はほんとうにつらいなあ。)ジョバンニの眼《め》はまた泪《なみだ》でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした。
そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖《がけ》の上を通るようになりました。向《むこ》う岸《ぎし》もまた黒いいろの崖が川の岸を下《か》流《りゆう》に下るにしたがってだんだん高くなって行くのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その葉《は》はぐるぐるに縮《ちぢ》れ葉の下にはもう美《うつく》しい緑《みどり》いろの大きな苞《ほう》が赤い毛を吐《は》いて真《しん》珠《じゆ》のような実《み》もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増《ま》して来て、もういまは列《れつ》のように崖と線《せん》路《ろ》との間にならび思わずジョバンニが窓から顔を引っ込《こ》めて向う側《がわ》の窓《まど》を見ましたときは美しいそらの野原の地《ち》平《へい》線《せん》のはてまでその大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植《う》えられてさやさや風にゆらぎその立《りつ》派《ぱ》なちぢれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸《す》った金《こん》剛《ごう》石《せき》のように露《つゆ》がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃《も》えて光っているのでした。カムパネルラが「あれとうもろこしだねえ。」とジョバンニに云《い》いましたけれども、ジョバンニはどうしても気《き》持《もち》がなおりませんでしたからただぶっきり棒《ぼう》に野原を見たまま「そうだろう。」と答えました。そのとき汽車はだんだんしずかになっていくつかのシグナルとてんてつ器《き》の灯《ひ》を過《す》ぎ、小さな停《てい》車《しや》場《じよう》にとまりました。
その正《しよう》面《めん》の青じろい時計はかっきり第《だい》二時を示《しめ》しその振《ふり》子《こ》は風もなくなり汽車もうごかずしずかなしずかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻《きざ》んで行くのでした。
そしてそのころなら汽車は新《しん》世《せ》界《かい》交《こう》響《きよう》楽《がく*》のように鳴りました。
車の中ではあの黒《くろ》服《ふく》の丈《たけ》高い青年も誰《だれ》もみんなやさしい夢《ゆめ》を見ているのでした。(こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉《ゆ》快《かい》になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗《の》っていながら、まるであんな女の子とばかり談《はな》しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして向こうの窓のそとを見つめていました。すきとおった硝子《ガラス》のような笛《ふえ》が鳴って汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛を吹《ふ》きました。
「ええ、ええ、もうこの辺《へん》はひどい高原ですから。」うしろの方で誰《だれ》かとしよりらしい人の、いま眼《め》がさめたという風ではきはき談《はな》している声がしました。「とうもろこしだって棒《ぼう》で二尺《しやく》も孔《あな》をあけておいてそこへ播《ま》かないと生えないんです。」
「そうですか。川まではよほどありましょうかねえ。」「ええええ河《かわ》までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峡《きよう》谷《こく》になっているんです。」そうそうここはコロラドの高原《*》じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。あの姉が小さな妹を自分の胸《むね》によりかからせて睡《ねむ》らせながら黒い瞳《ひとみ》をうっとりと遠くへ投《な》げて何を見るでもなしに考え込《こ》んでいるのでしたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》き二番目の女の子はまるで絹《きぬ》で包《つつ》んだ苹果《りんご》のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。突《とつ》然《ぜん》とうもろこしがなくなって巨《おお》きな黒い野原がいっぱいにひらけました。新《しん》世《せ》界《かい》交《こう》響《きよう》楽《がく》はいよいよはっきり地《ち》平《へい》線《せん》のはてから湧《わ》きそのまっ黒な野原のなかを一人のインデアン《*》が白い鳥の羽《は》根《ね》を頭につけたくさんの石を腕《うで》と胸にかざり小さな弓に矢を番《つが》えて一《いち》目《もく》散《さん》に汽車を追《お》って来るのでした。
「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい。」黒《くろ》服《ふく》の青年も眼をさましました。ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。「走って来るわ、あら、走って来るわ。追いかけているんでしょう。」「いいえ、汽車を追ってるんじゃないんですよ。猟《りよう》をするか踊《おど》るかしてるんですよ。」青年はいまどこに居《い》るか忘《わす》れたという風にポケットに手を入れて立ちながら云《い》いました。
まったくインデアンは半分は踊っているようでした。第《だい》一《いち》かけるにしても足のふみようがもっと経《けい》済《ざい》もとれ本気にもなれそうでした。にわかにくっきり白いその羽根は前の方へ倒《たお》れるようになりインデアンはぴたっと立ちどまってすばやく弓を空にひきました。そこから一羽の鶴《つる》がふらふらと落《お》ちて来てまた走り出したインデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。イソデアンはうれしそうに立ってわらいました。そしてその鶴をもってこっちを見ている影《かげ》ももうどんどん小さく遠くなり電しんばしらの碍《がい》子《し》がきらっきらっと続《つづ》いて二つばかり光ってまたとうもろこしの林になってしまいました。こっち側《がわ》の窓《まど》を見ますと汽車はほんとうに高い高い崖《がけ》の上を走っていてその谷の底《そこ》には川がやっぱり幅《はば》ひろく明るく流《なが》れていたのです。
「ええ、もうこの辺《へん》から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水《すい》面《めん》までおりて行くんですから容《よう》易《い》じゃありません。この傾《けい》斜《しや》があるもんですから汽車は決《けつ》して向《むこ》うからこっちへは来ないんです。そらもうだんだん早くなったでしょう。」さっきの老《ろう》人《じん》らしい声が云《い》いました。
どんどんどんどん汽車は降《お》りて行きました。崖のはじに鉄《てつ》道《どう》がかかるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなって来ました。汽車が小さな小《こ》屋《や》の前を通ってその前にしょんぼりひとりの子《こ》供《ども》が立ってこっちを見ているときなどは思わずほうと叫《さけ》びました。
どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中のひとたちは半分うしろの方へ倒《たお》れるようになりながら腰《こし》掛《かけ》にしっかりしがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ横《よこ》手《て》をいままでよほど激《はげ》しく流れて来たらしくときどきちらちら光ってながれているのでした。うすあかい河原《かわら》なでしこの花があちこち咲《さ》いていました。汽車はようやく落《お》ち着《つ》いたようにゆっくりと走っていました。
向うとこっちの岸《きし》に星のかたちとつるはしを書いた旄《はた》がたっていました。
「あれ何の旗《はた》だろうね。」ジョバンニがやっとものを云《い》いました。「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄《てつ》の舟《ふね》がおいてあるねえ。」「ああ。」「橋《はし》を架《か》けるとこじゃないんでしょうか。」女の子が云いました。
「あああれ工《こう》兵《へい》の旗だねえ。架《か》橋《きよう》演《えん》習《しゆう》をしてるんだ。けれど兵《へい》隊《たい》のかたちが見えないねえ。」
その時向こう岸ちかくの少し下《か》流《りゆう》の方で、見えない天の川の水がぎらっと光って柱《はしら》のように高くはねあがりどおと烈《はげ》しい音がしました。「発《はつ》破《ぱ》だよ、発破だよ。」カムパネルラはこおどりしました。
その柱のようになった水は見えなくなり大きな鮭《さけ》や鱒《ます》がきらっきらっと白く腹《はら》を光らせて空中に抛《ほう》り出されて円《まる》い輪《わ》を描《えが》いてまた水に落《お》ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらい気《き》持《も》ちが軽《かる》くなって云《い》いました。「空の工《こう》兵《へい》大《だい》隊《たい》だ。どうだ、鱒《ます》なんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕《ぼく》こんな愉《ゆ》快《かい》な旅《たび》はしたことない。いいねえ。」「あの鱒なら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさんさかな居《い》るんだな、この水の中に。」
「小さなお魚もいるんでしょうか。」女の子が談《はなし》につり込《こ》まれて云いました。「居るんでしょう。大きなのが居るんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり機《き》嫌《げん》が直って面《おも》白《しろ》そうにわらって女の子に答えました。
「あれきっと双《ふた》子《ご》のお星さまのお宮《みや》だよ。」男の子がいきなり窓《まど》の外をさして叫《さけ》びました。
右手の低《ひく》い丘《おか》の上に小さな水《すい》晶《しよう》ででもこさえたような二つのお宮がならんで立っていました。
「双子のお星さまのお宮って何だい。」
「あたし前になんべんもお母さんから聴《き》いたわ。ちゃんと小さな水晶のお宮で二つならんでいるからきっとそうだわ。」
「はなしてごらん。双子のお星さまが何したっての。」
「ぼくも知ってらい。双子のお星さまが野原へ遊《あそ》びにでて、からすと喧《けん》嘩《か》したんだろう。」「そうじゃないわよ。あのね、天の川の岸《きし》にね、おっかさんお話しなすったわ、……。」「それから彗星《ほうきぼし》がギーギーフーギーギーフーて云《い》って来たねえ。」「いやだわたあちゃんそうじゃないわよ。それはべつのほうだわ。」「するとあすこにいま笛《ふえ》を吹《ふ》いているんだろうか。」「いま海へ行ってらあ。」「いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ。」「そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう。」
川の向《むこ》う岸が俄《にわ》かに赤くなりました。楊《やなぎ》の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波《なみ》もときどきちらちら針《はり》のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃《も》されその黒いけむりは高く桔梗《ききよう》いろのつめたそうな天をも焦《こ》がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウム《*》よりもうつくしく酔《よ》ったようになってその火は燃えているのでした。「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云いました。「蝎《さそり*》の火だな。」カムパネルラがまた地図と首っ引きして答えました。「あら、蠍の火のことならあたし知ってるわ。」
「蠍の火って何だい。」ジョバンニかききました。「蠍がやけて死《し》んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴《き》いたわ。」「蠍って、虫だろう。」「ええ、蠍は虫よ。だけどいい虫だわ。」「蠍いい虫じゃないよ。僕《ぼく》博《はく》物《ぶつ》館《かん》でアルコールにつけてあるの見た。尾《お》にこんなかぎがあってそれで螫《さ》されると死ぬって先生が云ったよ。」「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯《こ》う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺《ころ》してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見《み》附《つ》かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命《めい》遁《に》げて遁げたけど、とうとういたちに押《おさ》えられそうになったわ、そのときいきなり前に井《い》戸《ど》があってその中に落《お》ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺《おぼ》れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈《いの》りしたというの。
ああ、わたしはいままで、いくつのものの命《いのち》をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉《く》れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神《かみ》さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次《つぎ》にはまことのみんなの幸《しあわせ》のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蠍はじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照《て》らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰《おつしや》ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
「そうだ。見たまえ。そこらの三《さん》角《かく》標《ひよう》はちょうどさそりの形にならんでいるよ。」
ジョバンニはまったくその大きな火の向《むこ》うに三つの三角標がちょうどさそりの腕《うで》のようにこっちに五つの三角標がさそりの尾《お》やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃《も》えたのです。
その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云《い》えずにぎやかな、さまざまの楽《がく》の音《ね》や草花の匂《におい》のようなもの、口《くち》笛《ぶえ》や人々のざわざわ云う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあってそこにお祭《まつり》でもあるというような気がするのでした。
「ケンタウル露《つゆ》をふらせ。」いきなりいままで睡《ねむ》っていたジョバンニのとなりの男の子が向うの窓《まど》を見ながら叫《さけ》んでいました。
ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐《とう》檜《ひ》かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆《まめ》電《でん》燈《とう》がまるで千の蛍《ほたる》でも集《あつま》ったようについていました。
「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云いました。〔以下原稿一枚?なし〕
「ボール投《な》げなら僕《ぼく》決《けつ》してはずさない。」
男の子が大《おお》威《い》張《ば》りで云《い》いました。
「もうじきサウザンクロスです。おりる支《し》度《たく》をしてください。」青年がみんなに云いました。
「僕、も少し汽車に乗《の》ってるんだよ。」男の子が云いました。カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。
「ここでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結《むす》んで男の子を見おろしながら云いました。「厭《いや》だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」ジョバンニがこらえ兼《か》ねて云いました。「僕たちと一《いつ》緒《しよ》に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符《きつぷ》持《も》ってるんだ。」「だけどあたしたち、もうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」「だっておっ母《か》さんも行ってらっしゃるしそれに神《かみ》さまが仰《お》っしゃるんだわ。」「そんな神さまうその神さまだい。」「あなたの神さまうその神さまよ。」「そうじゃないよ。」「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑《わら》いながら云いました。「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです。」「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈《いの》ります。」青年はつつましく両《りよう》手《て》を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別《わか》れが惜《お》しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣《な》き出そうとしました。
「さあもう支《し》度《たく》はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」
ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川《かわ》下《しも》に青や橙《だいだい》やもうあらゆる光でちりばめられた十《じゆう》字《じ》架《か》がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環《わ》になって后《ご》光《こう》のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子《こ》供《ども》が瓜《うり》に飛《と》びついたときのようなよろこびの声や何とも云《い》いようない深《ふか》いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正《しよう》面《めん》になりあの苹果《りんご》の肉のような青じろい環《わ》の雲もゆるやかにゆるやかに繞《めぐ》っているのが見えました。
「ハレルヤハレルヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとおった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電《でん》燈《とう》の灯《ひ》のなかを汽車はだんだんゆるやかになりとうとう十字架のちょうどま向《むか》いに行ってすっかりとまりました。「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひき姉妹たちは互《たが》いにえりや肩《かた》を直してやってだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。「じゃさよなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。「さよなら。」ジョバンニはまるで泣《な》き出したいのをこらえて怒《おこ》ったようにぶっきり棒《ぼう》に云いました。女の子はいかにもつらそうに眼《め》を大きくしても一《いち》度《ど》こっちをふりかえって、それからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上も空《あ》いてしまい俄《にわ》かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹《ふ》き込《こ》みました。
そして見ているとみんなはつつましく列《れつ》を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神《こう》々《ごう》しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子《ガラス》の呼子《よぶこ》は鳴らされ汽車はうごき出しと《(ママ)》思ううちに銀《ぎん》いろの霧《きり》が川下の方からすうっと流《なが》れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉《は》をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金の円光をもった電気栗鼠《りす》が可愛《かわい》い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。
そのとき、すうっと霧《きり》がはれかかりました。どこかへ行く街《かい》道《どう》らしく小さな電燈の一《いち》列《れつ》についた通りがありました。
それはしばらく線《せん》路《ろ》に沿《そ》って進《すす》んでいました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆《まめ》いろの火はちょうど挨《あい》拶《さつ》でもするようにぽかっと消《き》え二人が過《す》ぎて行くときまた点《つ》くのでした。
ふりかえって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまいほんとうにもうそのまま胸《むね》にも吊《つる》されそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚《なぎさ》にまだひざまずいているのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。
ジョバンニは、ああ、と深《ふか》く息《いき》しました。「カムパネルラ、また僕《ぼく》たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一《いつ》緒《しよ》に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸《さいわい》のためならば僕のからだなんか百ぺん灼《や》いてもかまわない。」「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼《め》にはきれいな涙《なみだ》がうかんでいました。「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸《むね》いっぱい新らしい力が湧《わ》くようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石《せき》炭《たん》袋《ぶくろ*》だよ。そらの孔《あな》だよ。」カムパネルラが少しそっちを避《さ》けるようにしながら天の川のひととこを指《ゆび》さしました。ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどおんとあいているのです。その底《そこ》がどれほど深《ふか》いかその奥《おく》に何があるかいくら眼《め》をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛《いた》むのでした。ジョバンニが云いました。「僕もうあんな大きな暗《やみ》の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進《すす》んで行こう。」「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集《あつま》ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄《にわ》かに窓《まど》の遠くに見えるきれいな野原を指《さ》して叫《さけ》びました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向《むこ》うの河《かわ》岸《ぎし》に二本の電《でん》信《しん》ばしらが丁度《ちようど》両《りよう》方《ほう》から腕《うで》を組んだように赤い腕《うで》木《ぎ》をつらねて立っていました。「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯《こ》う云いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラの座《すわ》っていた席《せき》に、もうカムパネルラの形は見えず。
ジョバンニはまるで鉄《てつ》砲《ぽう》丸《だま》のように立ちあがりました。そして誰《だれ》にも聞えないように窓《まど》の外へからだを乗《の》り出して力いっぱいはげしく胸《むね》をうって叫びそれからもう咽喉《のど》いっぱい泣《な》きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。
ジョバンニは眼《め》をひらきました。もとの丘《おか》の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱《ほて》り頬《ほお》にはつめたい涙《なみだ》がながれていました。
ジョバンニはばねのようにはね起《お》きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯《ひ》を綴《つづ》ってはいましたがその光はなんだかさっきよりは熟《じゆく》したという風でした。そしてたったいま夢《ゆめ》であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかりまっ黒な南の地《ち》平《へい》線《せん》の上では殊《こと》にけむったようになってその右には蠍《さそり》座《ざ》の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位《い》置《ち》はそんなに変《かわ》ってもいないようでした。
ジョバンニは一《いつ》さんに丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待《ま》っているお母さんのことが胸いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い松《まつ》の林の中を通ってそれからほの白い牧《ぼく》場《じよう》の柵《さく》をまわってさっきの入口から暗《くら》い牛《ぎゆう》舎《しや》の前へまた来ました。そこには誰かがいま帰ったらしくさっきなかった一つの車が何かの樽《たる》を二つ乗《の》っけて置《お》いてありました。
「今《こん》晩《ばん》は。」ジョバンニは叫びました。
「はい。」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。
「なんのご用ですか。」
「今日牛《ぎゆう》乳《にゆう》がぼくのところへ来なかったのですが。」
「あ済《す》みませんでした。」その人はすぐ奥《おく》へ行って一本の牛乳瓶《びん》をもって来てジョバンニに渡《わた》しながら、また云《い》ました。
「ほんとうに済みませんでした。今日はひるすぎうっかりしてこうしの柵をあけておいたもんですから大《たい》将《しよう》早《さつ》速《そく》親牛のところへ行って半分ばかり呑《の》んでしまいましてね……。」その人はわらいました。
「そうですか。ではいただいて行きます。」「ええ、どうも済みませんでした。」「いいえ。」ジョバンニはまだ熱《あつ》い乳《ちち》の瓶《びん》を両方のてのひらで包《つつ》むようにもって牧場の柵《さく》を出ました。
そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になってその右手の方通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流《なが》しに行った川へかかった大きな橋《はし》のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。
ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七、八人ぐらいずつ集《あつま》って橋の方を見ながら何かひそひそ談《はな》しているのです。それから橋の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。
ジョバンニはなぜかさあっと胸《むね》が冷《つめ》たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ、
「何かあったんですか。」と叫《さけ》ぶようにききました。
「こどもが水へ落《お》ちたんですよ。」一人が云いますとその人たちは一《いつ》斉《せい》にジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢《む》中《ちゆう》で橋の方へ走りました。橋の上は人でいっぱいで河《かわ》が見えませんでした。白い服《ふく》を着《き》た巡《じゆん》査《さ》も出ていました。
ジョバンニは橋の袂《たもと》から飛《と》ぶように下の広い河原《かわら》へおりました。
その河原の水《みず》際《ぎわ》に沿《そ》ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向《むこ》う岸《ぎし》の暗《くら》いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏《からす》瓜《うり》のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰《はい》いろにしずかに流《なが》れていたのでした。
河原のいちばん下《か》流《りゆう》の方へ洲《す》のようになって出たところに人の集りがくっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会いました。マルソがジョバンニに走り寄《よ》ってきました。「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」「どうして、いつ。」「ザネリがね、舟《ふね》の上から烏うりのあかりを水の流《なが》れる方へ押《お》してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落《お》っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛《と》びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」「みんな探《さが》してるんだろう。」「ああ、すぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見《み》附《つ》からないんだ。ザネリはうちへ連《つ》れられてった。」
ジョバンニはみんなの居《い》るそっちの方へ行きました。そこに学生たち町の人たちに囲《かこ》まれて青じろい尖《とが》ったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服《ふく》を着《き》てまっすぐに立って右手に持《も》った時計をじっと見つめていたのです。
みんなもじっと河《かわ》を見ていました。誰《だれ》も一言も物《もの》を云《い》う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして黒い川の水はちらちら小さな波《なみ》をたてて流れているのが見えるのでした。
下流の方の川はばいっぱい銀《ぎん》河《が》が巨《おお》きく写《うつ》って、まるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
けれどもみんなはまだ、どこかの波《なみ》の間から、
「ぼくずいぶん泳《およ》いだぞ。」と云いながらカムパネルラが出て来るか或《ある》いはカムパネルラがどこかの人の知らない洲《す》にでも着《つ》いて立っていて誰かの来るのを待《ま》っているかというような気がして仕《し》方《かた》ないらしいのでした。けれども俄《にわ》かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云いました。
「もう駄《だ》目《め》です。落《お》ちてから四十五分たちましたから。」
ジョバンニは思わずかけよって博《はか》士《せ》の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っていますぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのですと云おうとしましたがもうのどがつまって何とも云えませんでした。すると博士はジョバンニが挨《あい》拶《さつ》に来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが、
「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今《こん》晩《ばん》はありがとう。」と叮《てい》ねいに云いました。
ジョバンニは何も云えずにただおじぎをしました。
「あなたのお父さんはもう帰っていますか。」博士は堅《かた》く時計を握《にぎ》ったまままたききました。
「いいえ。」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ、ぼくには一昨日《おととい》大へん元気な便《たよ》りがあったんだが。今日あたりもう着《つ》くころなんだが。船が遅《おく》れたんだな。ジョバンニさん。あした放《ほう》課《か》后《ご》みなさんとうちへ遊《あそ》びに来てくださいね。」
そう云いながら博士はまた川下の銀《ぎん》河《が》のいっぱいにうつった方へじっと眼《め》を送《おく》りました。ジョバンニはもういろいろなことで胸《むね》がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛《ぎゆう》乳《にゆう》を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一《いち》目《もく》散《さん》に河原《かわら》を街《まち》の方へ走りました。
注 釈
『おきなぐさ』
*おきなぐさ キンポウゲ科の草。赤ワイン色の鐘《かね》形《がた》の花(実際は萼《がく》)をつける。花の咲いた後、長い花《か》柱《ちゆう》が多数伸《の》びて白い髭《ひげ》のようになるところから「翁《おきな》」の名がついた。「アネモネの花の従兄《いとこ》」とは、アネモネ類に近くて旧学名にもアネモネがついていたことに基づく。
*黒《くろ》朱《しゆ》子《ず》 朱子とはサテン(織り方のひとつ)のこと。耐《たい》久《きゆう》性《せい》には劣《おと》るが美しい光《こう》沢《たく》がある。
*アネモネ キソポウゲ科のアネモネ類。日本でも白い5片の花(萼《がく》片《へん》)をつけるイチリンソウ、ニリンソウ等が自生する。アネモネ類のひとつであるプルサティラは、現在のオキナグサの学名にも採られているように、オキナグサに似《に》た羽《う》毛《もう》状《じよう》の花《か》柱《ちゆう》を伸《の》ばす。
*きみかげそう スズラン(鈴蘭)のこと(→『貝の火』)。
*かたくり 早春に群《ぐん》生《せい》するユリ科の植物。葉は深緑で紫《むらさき》の紋《もん》様《よう》があり、花は淡《たん》紅《こう》色《しよく》。
*山男 山奥に住む怪《かい》人《じん》。柳田国男『遠野物語』では里《さと》の女を奪《うば》ったりするが、賢治の作品では人のよいデクノボー的な存在。『山男の四月』『紫《し》紺《こん》染《ぞめ》について』等に登場。
*小《こ》岩《いわ》井《い》農《のう》場《じよう》 明治24年に岩手山《さん》麓《ろく》の荒れ地を切り開いて開設された、敷《しき》地《ち》二六〇〇ヘクタールの日本最大の民間農場。樹木の多くは植林である。ヨーロッパからエアーシャやホルスタイン牛を輸入し在来種の品種改良にあたった。賢治は好んでしばしば訪れた。
*七つ森 小岩井農場の南西、雫《しずく》石《いし》の手前の、雫石川の北岸にある小山群。
*鳶《とび》いろ トビの羽《はね》の色。焦《こげ》茶《ちや》色《いろ》の一種。ココナッツブラウベグレイッシュブラウン
*御《ご》明《みよう》神《じん》 小岩井農場の南西、七つ森の先、JR田《た》沢《ざわ》湖《こ》線春《はる》木《き》場《ば》駅の南側一帯の地名。
*ほたるかずら ムラサキ科の草。別名るり草。花は青く筒《つつ》状《じよう》で、先が五裂《れつ》する。
*天の方へ行った 花の魂が天に昇り星になるという結末は、〈星は天上の花、花は地上の星〉、よって天上と地上は同価値であるとする、賢治の世界観の表出。『ひのきとひなげし』『めくらぶどうと虹《にじ》』等参照。
*変《へん》光《こう》星《せい》 光度が一定周期で変化する星。膨《ぼう》張《ちよう》と収《しゆう》縮《しゆく》を繰《く》り返す老いた赤色巨《きよ》星《せい》(鯨《くじら》座《ざ》のミラ等)の場合と、連星による場合があるが、ここでは前者で、「おきな」の意味が重なる。
『双子の星』
*双《ふた》子《ご》の星 天の川の西岸にお宮があるとされるので、双《ふた》子《ご》座《ざ》ではない・蠍《さそり》座《ざ》の毒《どく》針《ばり》にあたるシャウラとレサト(日本でも兄弟星と呼ぶ地方がある)だとする説もあるが、毒針であること、天の川の中にあることなどが問題点。チュンセとポーセの名は賢治が知り合いに送った『手紙四』(『ポラーノの広場』に収録)では明らかに、賢治と妹トシを暗示する。
*空の泉《いずみ》 夏の天頂付近に見られる冠《かんむり》座《ざ》のこと。天の川の西、少し離《はな》れた位置にある。
*大《おお》烏《がらす》 烏座が実在する。この他「蠍《さそり》」「兎《うさぎ》」「海《うみ》蛇《へび》」等も星座が実在する。
*赤眼のさそり 蠍《さそり》座の赤色の一等星アンタレスを指す。実際の星座では、蠍《さそり》の心臓とされる。赤眼は賢治文学では、修《しゆ》羅《ら》的な生き物の身体的特《とく》徴《ちよう》として描《えが》かれる。
*長《ちよう》者《じや》 長者は富貴の人の意味。上笙一郎『日本のわらべ歌』には、類《るい》似《じ》の歌として「ひとつ星見いつけた/長者になあれ」(関東)や、本作品の7行後で歌われる歌に類似の「お星さん/ひとつ星も出るもんじゃ/千も万も出るもんじゃ」(中部)が収録されている。北原白秋『日本伝承童謡集成』にも東北地方の伝承童謡として同様の歌が収録されている。
*アンドロメダの くも アンドロメダ座の大星雲(銀河系)M《メシエ》31のこと。魚の口の形ではない。賢治にとって星雲のイメージは魚の形に似《に》た琴《こと》座《ざ》の環《かん》状《じよう》星雲M《メシエ》57(『シグナルとシグナレス』参照)であったためか、『土神ときつね』でも多くの星雲を魚の口の形としている。
*五つのばした ところ 北極星を探すには、北《ほく》斗《と》七星(大《おお》熊《くま》座《ざ》の一部)のαβ2星間の距《きよ》離《り》を5倍する方法が有名。ただし北斗七星は「大ぐまのあし」ではなく背中と尾《お》である。
*そらのめぐりの めあて 北極星(小《こ》熊《ぐま》座《ざ》の一部)のこと。『ポラーノの広場』の解説参照。
*天の川の落ち口 (→『銀河鉄道の夜』の「石《せき》炭《たん》袋《ぶくろ》」)
*ひとで 棘《きよく》皮《ひ》動物で多くは5本の腕《うで》をもつ。海星とも書く。英語でもstarfish。
『貝の火』
*貝の火 オパール(特にメキシコ産出のファイアオパール)がモデル。『楢《なら》の木大学士の野宿』を参照。オパールは珪《けい》酸《さん》の潜《せん》晶《しよう》質《しつ》のもので、水分を含《ふく》み、乾《かん》燥《そう》すると割れやすい。
*樺《かば》 賢治作品では山《やま》桜《ざくら》類《るい》と白《しら》樺《かば》の両方の場合がある。ここでは、花の色から山桜。
*ホモイ エスペラント語の「人間」を表すhomoの、複数形homojに基づく。
*鈴《すず》蘭《らん》 ユリ科の多年草。北海道の牧場に多い。鈴《すず》に似《に》た白い花を総状につけ、芳《ほう》香《こう》を放つ。
*とかげに似《に》ている 鳥は爬《は》虫《ちゆう》類《るい》から進化したから。進化論心理学によれば、幼児期は先祖の特《とく》徴《ちよう》が出やすい。賢治文学では爬虫類的要素は修《しゆ》羅《ら》的意識の象徴。
*万《まん》能《のう》散《さん》 すべての傷に効くと宣伝された万《まん》能《のう》膏《こう》からの発想か。「散」は散《さん》剤《ざい》(粉薬)の意味。
*とちの実《み》 栃《とち》の木はトチノキ属の落葉高木。非常食となる実の大きさは4センチ位。
*紅《べに》雀《すずめ》 東南アジアに分布する、カエデチョウ科の小鳥で、顔や胸が深《しん》紅《く》色《いろ》で全長は約10センチ。江戸時代に輸入されて以来日本でも飼われる。
*遠めがね 望遠鏡のこと。
*つりがねそう キキョウ科のツリガネニンジン。束《たば》になった茎《くき》の先に、青《あお》紫《むらさき》色《いろ》の1、2センチの釣《つり》鐘《がね》形の花をたくさんつける。詩「早《はや》池《ち》峰《ね》山《さん》巓《てん》」に「釣鐘人参《ブリユーベル》のいちいちの鐘もふるえる」とあり、ブリューベル(bluebell)は、青紫の釣鐘形の花の総称。
*ひわ アトリ科の小鳥。カワラヒワやマヒワ、ベニヒワ等の総称。
『よだかの星』
*よだか 夜行性で、飛びながら昆《こん》虫《ちゆう》を捕《ほ》捉《そく》する体長約30センチの暗《あん》褐《かつ》色《しよく》の鳥。賢治の世代の必読書、丘浅次郎『進化論講話』では、口を特に大きく開けるように進化したよだかが、適者生存の典型例とされる。大正3年の内田清之助『日本鳥類図説』は、H・ガドーの分類法に基づき、同じブッポウソウ目の中に、よたか(ヨタカ亜《あ》目《もく》)、かわせみ(ブッポウソウ亜目)を入れる。昭和9年の黒田長礼『鳥類原色大図説』には、ハチドリ(はちすずめ)を学士によってはブッポウソウ目アマツバメ亜目に入れるとあり、これらの鳥を三兄弟とする賢治の捉《とら》え方(詩「花鳥図《ず》譜《ふ》・七月」にも見られる)は、この分類法に基づいていよう。
*一間《けん》 6尺《しやく》。約一・八メートル。
*かわせみ 翡《ひ》翠《すい》。淡《たん》水《すい》の水場にいる鳥。嘴《くちばし》が大きく、腹が橙《だいだい》色《いろ》、背から尾《お》はコバルト色で他は深緑色。急降下して魚を捕《と》る。
*蜂《はち》すずめ ハチドリ(ハミングバード)。中南米に生《せい》息《そく》。羽《はね》を高速で動かすので蜂《はち》の羽《は》音《おと》に似《に》る。種類が多く小型のものは10センチ以下。翡《ひ》翠《すい》色《いろ》や黄玉《トパーズ》色《いろ》の鮮《あざや》やかな胸である。
*めじろ オリーブ色の体に眼の周《まわ》りが白い小鳥。ジューチェイジューチェイと鳴く。
*一尺《しやく》 約30センチ。
*ふいご 金属の精《せい》錬《れん》に使う送風機。
『四又の百合』
*正〓《へん》知 正《しよう》等《とう》覚《かく》とも。片寄りのない知恵。仏の十号のひとつ。
*精《しよう》舎《じや》 仏教で、修行者の住居のことを指す。
*修《しゆ》弥《み》山《せん》の南《みなみ》側《がわ》の瑠《る》璃《り》 修(須)弥山は、仏教で宇宙の中心に聳《そび》えるとされる山。我々の住む譫《せん》部《ぶ》洲《しゆう》はこの山の南にあり、山の南面が瑠璃でできているために空が青いとされる。
*阿《ア》耨《ノブ》達《タブ》湖《こ》 譫《せん》部《ぶ》洲《しゆう》の大雪山《ヒマラヤ》の北、四大河の源泉とされる湖。別名、無《む》熱《ねつ》悩《のう》池《ち》。チベットのマナサロワール湖がモデル。賢治はS・ヘディンや河口慧《え》海《かい》の探検記を読んでいた。
*十銭《せん》 銭は円の百分のー。10銭は現在に換《かん》算《ざん》すると大体二、三百円。
『ひかりの素足』
*榾《ほだ》 炉《ろ》にくべる薪《まき》。
*山さ来てらたもな 「山に来てたんだな」の方言。
*火ぁ消《け》でらたな、覚《おべ》だが 「火が消えたみたいだったな、知ってたか」の方言。
*風の又《また》三《さぶ》郎《ろう》 東北地方で風の擬《ぎ》人《じん》化《か》とされる風の三郎伝説を、賢治流に解釈して取り入れた風の精。いたずら好きの風の妖《よう》精《せい》の場合と、死神としての北風の場合とがある。
*さあもう一《ひと》がえり面《つら》洗《あら》なぃやなぃ 「さあもう一度顔を洗わなくちゃな」の方言。
*おれぁ迎《むか》ぃに行がはんてなぃ 「おれはまた迎えに行くのだからさ」の方言。
*そいでぃ、行ぐまちゃ 「それじゃあ、行きますよ」の方言。
*随《つい》で行ぐごたんす 「きっとついて行きますよ」の方言。
*象《ぞう》のような形の丘《おか》 障害をもたらす魔《ま》神《じん》、象頭の歓《かん》喜《ぎ》天《てん》(毘《び》那《な》耶《や》迦《か》、聖《しよう》天《てん》)に出くわす場所。この神はヒンズー教のガネーシャで(破《は》壊《かい》と性欲の魔神シヴァの息《むす》子《こ》)の仏教的受容。
*戻《もど》らなぃばわがなぃ 「戻《もど》らなければいけない」の方言。
*罪《つみ》はこんどばかりではないぞ 輪《りん》廻《ね》転《てん》生《しよう》を繰《く》り返してきた問にはいくつもの罪を背負っているから、子供だからといって罪がないということにはならない、という意味。
*瑪《め》瑙《のう》のかけら 賢治作品では地《じ》獄《ごく》の地面を示す。
*にょらいじゅりょうぼん第《だい》十六 『法《ほ》華《け》経《きよう》』第十六「如《によ》来《らい》寿《じゆ》量《りよう》品《ぼん》」。賢治の世界認識のエッセンス。釈《しや》迦《か》は、自分の入《にゆう》滅《めつ》は方《ほう》便《べん》で、本当は永遠の命をもち、宇宙の寿《じゆ》命《みよう》が尽《つ》きて大爆発する時も、自分が主《しゆ》宰《さい》するこの娑《しや》婆《ば》世界は安《あん》穏《のん》で、常に天《てん》人《にん》が充《じゆう》満《まん》していると説く。つまり地上世界は常に浄《じよう》土《ど》(天国)になりうるという思想である。賢治は一《いつ》水《すい》四《し》見《けん》(人には水と見えても、天人は宝の池、餓《が》鬼《き》は膿《のう》血《けつ》と見る)の比《ひ》喩《ゆ》に示される、仏教の唯《ゆい》識《しき》論《ろん》の影《えい》響《きよう》を受けて、一《いつ》切《さい》は心の持ちようで変わるという唯《ゆい》心《しん》論《ろん》を展開した(『マグノリアの木』参照)。
*立《りつ》派《ぱ》な大きな人 「如《によ》来《らい》寿《じゆ》量《りよう》品《ぼん》」との関係からすれば釈《しや》迦《か》如来。如来の身体的特《とく》徴《ちよう》を表す三十二相のひとつとして、身体は黄《き》金《ん》色《いろ》に輝く。
*孔《く》雀《じやく》石《いし》 銅の二次鉱物。緑《ろく》青《しよう》とほぼ同成分。深緑色で、縞《しま》模様を呈《てい》する。天然の顔《がん》料《りよう》。
*瓔《よう》珞《らく》 仏像や天人像の首にかけられる宝石や貴石をつなげた首飾り。
*アンデルゼン 賢治が影《えい》響《きよう》を受けた19世紀のデンマークの童話作家。『注文の多い料理店』の広告チラシに『大クラウス小クラウス』の名が見られるほか、短編『猫《ねこ》』短歌「アンデルゼン氏白鳥の歌」等で言《げん》及《きゆう》。
*弟ぁなじょだ 「弟の方はどうだ」の方言。
『十力の金剛石』
*十《じゆう》力《りき》 如《によ》来《らい》(悟《さと》りに到《とう》達《たつ》した者)がもつ10の超《ちよう》能力、あるいは如来の別名。ここでは如来になりうる可能性、如来の要素のこと。
*金《こん》剛《ごう》石《せき》 最も堅《かた》い(金剛)石。ダイアモンド。ここは最も清《せん》浄《じよう》で壊《こわ》れにくい知恵の比《ひ》喩《ゆ》。
*玻璃《はり》 ガラス、あるいは透《とう》明《めい》な結《けつ》晶《しよう》、ガラス質。
*蛋白石 オパール。二酸化珪《けい》素《そ》から成る半《はん》透《とう》明《めい》鉱物。色は普《ふ》通《つう》は卵の白身に似《に》た乳白色。
*ルビー コランダムの赤い結《けつ》晶《しよう》で産出が少なくて高価。サファイアとは色《いろ》違《ちが》い。
*さるとりいばら ユリ科のつる性落葉低木。茎《くき》のとげと、葉の付け根から出る巻き鬚《ひげ》があり、近づきがたい。なお「剣をぬいていきなり」切ってしまう王子が、帰り際には「しずかにそれをはずしました」と、態度に変化が見られ、王子の成長が暗示される。
*ぬすびとはぎ マメ科の草で高さ1メートル弱。実は衣服などについて運ばれる。
*トパァス 黄玉。珪《けい》酸《さん》アルミニウムに水酸基が加わった透《とう》明《めい》な結《けつ》晶《しよう》。宝石に用いられるのは普《ふ》通《つう》黄色。黄水晶《シトリン》によく似《に》るが、硬《こう》度《ど》8でずっと堅《かた》く、高価。
*サファイア コランダムの青い結晶。ルビーとは色《いろ》違《ちが》い。
*りんどう 茎《くき》が紫《むらさき》色《いろ》で、初秋に、筒《つつ》形《がた》で先が五裂《れつ》した青紫色の花をつける。
*天河石《アマゾンストン》 アマゾナイト。斜《しや》長《ちよう》石《せき》の半透明な結晶。鉛《なまり》を含《がん》有《ゆう》して薄《うす》い青色を呈《てい》する。
*硅孔雀石《クリソコラ》 非晶質で珪酸を含《ふく》む。銅の二次鉱物。硬度は2強で柔《やわ》らかく、不透明な青緑色。
*猫睛石《キヤツツアイ》 クリソベリル(金縁石)の変種。針《はり》状《じよう》の不純物が並《へい》行《こう》に走るため、猫《ねこ》の目のような縦《たて》光りが出る。普通は薄《うす》い半透明な黄色。
*うめばちそう 山地の草むらに咲くユキノシタ科の多年草。花は白色で梅《うめ》に似《に》る。雄《お》しべと雄しべの間に5個の,仮《かり》雄しべがあり、先《せん》端《たん》が細かく分かれ、色は黄緑色。
*とうやく センブリ。リンドウ科の植物。葉は緑《りよく》褐《かつ》色《しよく》で針《はり》形《がた》。実は胃《い》腸《ちよう》薬《やく》となる。花は白だが、紫《むらさき》色《いろ》の条線がある。
*碧《へき》玉《ぎよく》 ジャスパー。不純物を2割以上含む不透明な玉《ぎよく》髄《ずい》(メノウ)。普《ふ》通《つう》は暗《あん》褐《かつ》色《しよく》。
*紫水晶《アメシスト》 放射性物質の影《えい》響《きよう》で紫色を呈《てい》する透明な水《すい》晶《しよう》
*琥《こ》珀《はく》 松《まつ》脂《やに》の化石で、褐色半透明で光《こう》沢《たく》がある。
*霰 石《アラゴナイト》 方解石(六方《ほう》晶《しよう》系《けい》)と同成分だが斜《しや》方晶系に属する石。真《しん》珠《じゆ》やサンゴもアラゴナイトの一種である。半《はん》透《とう》明《めい》でもろい。通常は蛍《けい》光《こう》や燐《りん》光《こう》を放つ。
*緑《ろく》青《しよう》 銅の酸化物。ここでは孔《く》雀《じやく》石《いし》などの銅鉱物のこと。
*瑠《る》璃《り》 ラピスラズリ。青金石。学名はラズライト。不透明で、顔料の群《ぐん》青《じよう》の成分。
*土《ト》耳《ル》古《コ》玉《だま》 タークォイス。燐《りん》酸《さん》アルミニウムの結《けつ》晶《しよう》。銅を含《ふく》むので不透明な空色となる。古来から金との相性がよいとされた。賢治も太陽の黄金と組み合わせ、青空の比《ひ》喩《ゆ》に使う。
*舎《しや》利《り》 仏の遺骨のこと。
『銀河鉄道の夜』
*乳《ちち》の流《なが》れたあと 天の川の英語名は、The Milky Way。またこの作品はジョバンニが病気の母のために牛乳を受け取りに行く話である。牛乳は古今東西、様々な宗教的隠《いん》喩《ゆ》であり、例えば、仏教ではすべての人の心に埋《う》もれている仏性(悟《さと》りの境地にいたることのでぎる可能性、如《によ》来《らい》の要素)を牛乳にたとえ、それが酪《らく》や酥《そ》を経《へ》て、最後に美味な醍《だい》醐《ご》に到《とう》達《たつ》するまでの過程を、迷いから悟りに至る精神的な段階にたとえる。
*カムパネルラ イタリア語圈《けん》の人名。一説によればユートピア小説『太陽の都』等を著した17世紀のイタリアの社会思想家、トマソ・カンパネ(ル)ラを意識した命名。
*ジョバンニ イタリアのありふれた男子の名前。聖ヨハネにちなむ洗礼名。『ひのぎとひなげし』にも「セントジョバンニ様」が登場する。
*太陽がこのほぼ中ごろに 大正時代の天文書ではこのような銀河系モデルが通用していた。現在の天文学では、銀河系の中心から3万光年離れている。
*ラムプシェード ここではランプの傘《かさ》(ランプシェード、電《でん》灯《とう》の笠《かさ》も類《るい》似《じ》形《けい》)に似《に》た帽《ぼう》子《し》、ランプシェード・ハットのこと。活字拾いでは髪《かみ》の毛が混入しないよう帽子をかぶる。
*ケール キャベツ類の一種。羽《は》衣《ごろも》甘《かん》藍《らん》。結球せず縮《ちり》緬《めん》状《じよう》の葉を食べる。
*ラッコ イタチ科の水生動物で、泳ぎがうまい(『風の又三郎』を参照)。かつては北太平洋に広く生《せい》息《そく》していたが、毛皮の乱《らん》獲《かく》のために激《げき》減《げん》した。
*ザウエル ドイツ語のsauerで、酸っぱい、の意味。
*ケンタウル祭《さい》 南天星座ケンタウルス座(夏の南天の地平線上。ケンタウルスはギリシャ神話に登場する人馬神)を念頭に置いたもの。
*マグネシヤの花火 マグネシヤ(酸化マグネシウム)は耐《たい》熱《ねつ》材《ざい》に使われるように燃えにくく、文脈に合わない。ここは、マグネシアがマグネシウムの燃焼によって合成される事実を踏《ふ》まえていよう。マグネシウムの燃焼は青白い閃《せん》光《こう》を放つのでフラッシュ撮《さつ》影《えい》にも使われる。
*天《てん》気《き》輪《りん》の柱《はしら》 実在しない。詩「病技師〔二〕」では「五《ご》輪《りん》塔《とう》」からの書き換《か》え。五輪塔は、宇宙のすべてを5根本要索(地水火風空)に還《かん》元《げん》し、人体も5要索から成る小宇宙と見なす密教の宇宙観の具象化。即《すなわ》ち人間を宇宙の統《とう》率《そつ》神《しん》そのものの具現化とする。また『銀河鉄道の夜』を織りなすもう一方の宗教キリスト教では、神は絶対的な創造主で人間が成ることは不可能である。作中に登場する賛美歌「主よみもとに近づかん」や、ジョバンニとキリスト教徒の青年との、神さまや天国のありかたをめぐる論争が、この天気輪の機能に反映されていよう。なお中野美代子(新校本全集「月報1」)は、「海の底のお宮」が竜《りゆう》宮《ぐう》を指すことから、中国の天文学の竜座と麒《き》麟《りん》座《ざ》、ケフェウス座中の3星を結んだ、紫《し》微《び》宮《きゆう》にあたる「天の麒《き》麟《りん》の輪」と解釈する。
*三《さん》角《かく》標《ひよう》 陸軍陸地測量部が測量した標高を刻んだ三角標石のこと。ふつうは長方形で山頂に置く。遠方から見えるように標石の上に三角形の櫓《やぐら》を設置したことから三角標と呼ばれた。
*鋼《こう》青《せい》 steel blueの訳語。暗い灰青色。
*ダイアモンド会社 詩「〔北いっぱいの星ぞらに〕」下書稿《こう》にほぼ同一の表現があるが、そこではダイアモンドのトラストとなっている。南アフリカのデ・ビアス社がほぼ独《どく》占《せん》して値段を維《い》持《じ》していることを、一時は宝石商に成ろうとした賢治が、批判的に表現したもの。
*黒《こく》曜《よう》石《せき》 天然のガラス。黒色のものが多く、古来から矢《や》尻《じり》や石器として用いられて来た。
*月《げつ》長《ちよう》石《せき》 長石の結《けつ》晶《しよう》のひとつ。ある一定方向に青白い光を放つので月光に結びつけられた。
*北《きた》十《じゆう》字《じ》 白鳥座の主な星を結ぶと十字になるので、南十字星に対して北十字と呼ぶ。
*プリオシン海《かい》岸《がん》 Pliocene。第《だい》三《さん》紀《き》の後半の鮮《せん》新《しん》世《せい》のこと。ここはイギリス海岸でのくるみや偶《ぐう》蹄《てい》類《るい》の化石の発見が基になっている。詳《くわ》しくは童話『イギリス海岸』参照。
*狐《きつね》火《び》 鬼《おに》火《び》とも。正体不明の不気味な燐《りん》光《こう》。キツネが化かすという言い伝えによる。
*かつぎ 被衣。頭から被《かぶ》るベール。
*砂はみんな水《すい》晶《しよう》だ 実際に地球上の砂の大部分は石英(透《とう》明《めい》なものが水《すい》晶《しよう》)である。
*鋼《こう》玉《ぎよく》 コランダム。透明な結晶のうち、赤がルビー、青がサファイア。
*第《だい》三《さん》紀《き》 今から六五〇〇万年前から二〇〇万年前までの地質年代。哺《ほ》乳《にゆう》類《るい》の時代。
*ボス ラテン語でウシのこと。ウシ科のウシ、ガウル、ヤク、バソテンの学名につく。
*鳥を捕《と》る人 仏教では特に、食べるために殺《せつ》生《しよう》する者を罪深いとして、仏道者に彼《かれ》らとの交際を禁じることが多い(『ビジテリアソ大祭』参照)。『法《ほ》華《け》経《きよう》』にも、「安《あん》楽《らく》行《ぎよう》品《ぼん》」や「普《ふ》賢《げん》菩《ぼ》薩《さつ》勧《かん》発《ぼつ》品《ほん》」等で同様のことが述《の》べられている。賢治はしかし『なめとこ山の熊《くま》』等で、生きるためにやむを得ず殺生する者に、優しいまなざしを送っている。
*アルビレオ 白鳥座の2番星。双《そう》眼《がん》鏡《きよう》で見ると、青と黄の二つの連星であることが分かる。
*青宝石《サフアイア》と黄玉《トパース》 →『十力の金《こん》剛《ごう》石《せき》』
*三《さん》次《じ》空間 縦《たて》、横、高さの三軸《じく》で成り立つ立体世界。我々が存在しているこの世界。
*南《サザン》十字《クロス》 南十字星。
*十ばかりの字 様々な読みが可能。そのひとつは仏教の生命分類を表す十《じつ》界《かい》(如《によ》来《らい》、菩《ぼ》薩《さつ》、縁《えん》覚《がく》、声《しよう》聞《もん》、天人、人、修《しゆ》羅《ら》、畜《ちく》生《しよう》、餓《が》鬼《き》、地《じ》獄《ごく》)の頭文字。日本仏教のルーツである天《てん》台《だい》宗《しゆう》では十界はそれぞれが他の九界の意識を持ち合うとする(十《じつ》界《かい》互《ご》具《ぐ》)。これを幻《げん》想《そう》の空間に置き換《か》えると、あらゆる世界へ行くことができる夢《ゆめ》の中の切《きつ》符《ぷ》の意昧になる。
*幻《げん》想《そう》第《だい》四《よん》次《じ》 三次に時間軸《じく》が加わった空間を四次元空間(時空間)という。アインシュタインの特《とく》殊《しゆ》相《そう》対《たい》性《せい》理《り》論《ろん》によって、時間と空間は独立せず、相《そう》互《ご》に関連性があるとされた。賢治の場合は純《じゆん》粋《すい》な物理学用語ではなく、仏教の囚《いん》果《が》論《ろん》や唯《ゆい》心《しん》論《ろん》と結びつき、夢の中ではあらゆる生物の意識が、過去、末来という時間的制限を超《ちよう》越《えつ》して出現するという意昧である。
*苹《りん》果《ご》 賢治作品では聖なる果物で、天使に近い純粋な子供の頬《ほお》の描《びよう》写《しや》に使われる。キリスト教ではアダムとエヴァが蛇《へび》にそそのかされて食べ、原罪を背負うことになる禁断の果実とされるが、賢治は詩「真空溶《よう》媒《ばい》」で、この原罪としての革果を椰《や》喩《ゆ》している。
*ランカシャイヤ イギリス中西部、マンチェスターの北々西に位置するランカシャー地方。
*コンネクテカット アメリカ合衆国東北部、ニューヨークの北東にあるコネティカット州。
*ツインクル、ツインクル、リトル、スター 日本でも「キラキラ星」として歌われる。
*船が沈《しず》みましてね 一九一二年四月に沈《ちん》没《ぼつ》したタイタニック号事件を想定。詩の「〔今日もまたしようがないな〕」に賛美歌とともに記されている。
*番の声 下書稿《こう》等から、賛美歌三二〇番「主よみもとに近づかん」である。番号は版ごとに変わった。タイタニック号沈没時に、残された乗客が合唱したことで有名。旧約聖書のヤコブの夢《ゆめ》(梯《はし》子《ご》が天まで達し、神の使いが上り下りする夢)に基づく。この『銀河鉄道の夜』の主題が、神(天国)と人間との関係(ほんとうの神様論争)にあることを暗示する。
*パシフィック 太平洋。
*オーケストラベルやジロフォン 前者は金管を叩《たた》いて音をだすチューブベル。後者はオーストリアによく見られる反《はん》響《きよう》板《ばん》のない木《もつ》琴《きん》、キロフォンのこと。
*かささぎ カラス科の鳥で、体色は黒を基調に、腰《こし》や腹は真白である。中国の伝説では、七《たな》夕《ばた》の夜に、牽《けん》牛《ぎゆう》星と織《しよく》女《じよ》星が会えるよう、天の川に翼《つばさ》の橋を懸《か》けるという。
*孔《く》雀《じやく》 孔雀座は南天の星座で、インディアン座の南側、日本からはほとんど見えない。賢治作品では孔雀は天上世界の出現を告げる鳥(『インドラの網《あみ》』『氷と後光』等)。
*新《しん》世《せ》界《かい》交《こう》響《きよう》楽《がく》 19世紀のチェコの作曲家ドヴォルザークが作曲した交《こう》響《きよう》曲《きよく》第9番ホ短調のこと。アメリカインディアンの曲を取り入れた。第2楽章ラルゴは賢治が特に好んだ曲。
*コロラドの高原 アメリカ合衆国中部の高原。ここは大陸横断鉄道のイメージの反映。
*インデアン インディアン座は秋の南天星座。地平線付近の天の川の東側に位置する。
*リチウム 銀白色の金属元素。水と反応して深《しん》紅《く》の炎《ほのお》をあげるので、花火にも使われる。
*蝎《さそり》 蠍《さそり》座《ざ》。嫌われ者が自分の身体を人々のために捧《ささ》げる(捨《しや》身《しん》布《ふ》施《せ》、菩《ぼ》薩《さつ》道《どう》のひとつ)ことで、天上の星に生まれ変わるという主題は『よだかの星』『手紙一』等にも見られる。
*石《せき》炭《たん》袋《ふくろ》 南十字星のすぐ脇《わき》にある天の川中の暗い部分。コールサック。光らない物質による後方光の遮《しや》断《だん》(暗黒星雲)だが、大正期の天文書ではしばしば銀河の穴《あな》と表現された。
大塚常樹
宮沢賢治 角川e文庫・本文について
(1)角川文庫版(「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房 平7・5―を底本とする)を電子化した。
(2)角川文庫版の底本に疑問があっても、その形を残さざるをえなかった場合は、該当箇所に(ママ)と注記した。
(8)本文中には、現代の人権擁護の見地からは差別語と考えられるものもあるが、時代的背景と作品価値を考え合わせ、そのままとした。
(編集部)
銀《ぎん》河《が》鉄《てつ》道《どう》の夜《よる》
宮《みや》沢《ざわ》賢《けん》治《じ》
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平成12年9月1日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『銀河鉄道の夜』平成8年5月25日改訂初版刊行