TITLE : 注文の多い料理店
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序
わたしたちは、氷《こおり》砂《ざ》糖《とう》をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃《もも》いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうど《*》や羅《ら》紗《しや*》や、宝《ほう》石《せき》いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄《てつ》道《どう》線《せん》路《ろ》やらで、虹《にじ》や月あかりからもらってきたのです。
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾《いく》きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
大正十二年十二月二十日
宮沢 賢治
目次
序
どんぐりと山《やま》猫《ねこ》
狼《オイノ》森《もり》と笊《ざる》森《もり》、盗《ぬすと》森《もり》
注《ちゆう》文《もん》の多い料《りよう》理《り》店《てん》
烏《からす》の北《ほく》斗《と》七《しち》星《せい》
水《すい》仙《せん》月《づき》の四《よつ》日《か》
山男の四月
かしわばやしの夜
月夜のでんしんばしら
鹿《しし》踊《おど》りのはじまり
付録『注文の多い料理店』新刊案内
注釈
どんぐりと山《やま》猫《ねこ*》
おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一《いち》郎《ろう》のうちにきました。
かねた一郎《*》さま 九月十九日
あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいで
んなさい。とびどぐ《*》もたないでくなさい。
山ねこ 拝《はい》
こんなのです。字はまるでへたで、墨《すみ》もがさがさして指《ゆび》につくくらいでした。けれども一郎はうれしくてうれしくてたまりませんでした。はがきをそっと学校のかばんにしまって、うちじゅうとんだりはねたりしました。
ね床《どこ》にもぐってからも、山猫のにゃあとした顔や、そのめんどうだという裁《さい》判《ばん》のけしきなどを考えて、おそくまでねむりませんでした。
けれども、一郎が眼《め》をさましたときは、もうすっかり明るくなっていました。おもてにでてみると、まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのようにうるうるもりあがって、まっ青《さお》なそらのしたにならんでいました。一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川に沿《そ》ったこみちを、かみの方へのぼって行きました。
すきとおった風がざあっと吹《ふ》くと、栗《くり》の木はばらばらと実《み》をおとしました。一郎は栗の木をみあげて、
「栗の木、栗の木、やまねこがここを通らなかったかい。」とききました。栗の木はちょっとしずかになって、
「やまねこなら、けさはやく、馬車でひがしの方へ飛《と》んで行きましたよ。」と答えました。
「東ならぼくのいく方だねえ、おかしいな、とにかくもっといってみよう。栗の木ありがとう。」
栗の木はだまってまた実をばらばらとおとしました。
一郎がすこし行きますと、そこはもう笛《ふえ》ふきの滝《たき》でした。笛ふきの滝というのは、まっ白な岩の崖《がけ》のなかほどに、小さな穴《あな》があいていて、そこから水が笛のように鳴って飛《と》び出し、すぐ滝《たき》になって、ごうごう谷におちているのをいうのでした。
一郎は滝に向《む》いて叫《さけ》びました。
「おいおい、笛《ふえ》ふき、やまねこがここを通らなかったかい。」滝がぴーぴー答えました。
「やまねこは、さっき、馬車で西の方へ飛んで行きましたよ。」
「おかしいな。西ならぼくのうちの方だ。けれども、まあも少し行ってみよう。ふえふき、ありがとう。」
滝はまたもとのように笛を吹《ふ》きつづけました。
一郎がまたすこし行きますと、一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変《へん》な楽《がく》隊《たい》をやっていました。
一郎はからだをかがめて、
「おい、きのこ、やまねこが、ここを通らなかったかい。」
とききました。するときのこは、
「やまねこなら、けさはやく、馬車で南の方へ飛んで行きましたよ。」とこたえました。一郎は首をひねりました。
「みなみならあっちの山のなかだ。おかしいな。まあもすこし行ってみよう。きのこ、ありがとう。」
きのこはみんないそがしそうに、どってこどってこと、あのへんな楽《がく》隊《たい》をつづけました。
一郎はまたすこし行きました。すると一本のくるみの木の梢《こずえ》を、栗鼠《りす》がぴょんととんでいました。一郎はすぐ手まねぎしてそれをとめて、
「おい、りす、やまねこがここを通らなかったかい。」とたずねました。するとりすは、木の上から、額《ひたい》に手をかざして、一郎を見ながらこたえました。
「やまねこなら、けさまだくらいうちに馬車でみなみの方へ飛《と》んで行きましたよ。」
「みなみへ行ったなんて、二《ふた》とこでそんなことを言うのはおかしいなあ。けれどもまあもすこし行ってみよう。りす、ありがとう。」りすはもう居《い》ませんでした。ただくるみのいちばん上の枝《えだ》がゆれ、となりのぶなの葉《は》がちらっとひかっただけでした。
一郎がすこし行きましたら、谷川にそったみちは、もう細くなって消《き》えてしまいました。そして谷川の南の、まっ黒な榧《かや*》の木の森の方へ、あたらしいちいさなみちがついていました。一郎はそのみちをのぼって行きました。榧の枝はまっくろに重《かさ》なりあって、青ぞらは一きれも見えず、みちは大へん急《きゆう》な坂《さか》になりました。一郎が顔をまっかにして、汗《あせ》をぽとぽとおとしながら、その坂をのぼりますと、にわかにぱっと明るくなって、眼《め》がちくっとしました。そこはうつくしい黄金《きん》いろの草《くさ》地《ち》で、草は風にざわざわ鳴り、まわりは立《りつ》派《ぱ》なオリーブいろのかやの木のもりでかこまれてありました。
その草地のまん中に、せいの低《ひく》いおかしな形の男が、膝《ひざ》を曲《ま》げて手に革《かわ》鞭《むち》をもって、だまってこっちをみていたのです。
一郎はだんだんそばへ行って、びっくりして立ちどまってしまいました。その男は、片《かた》眼《め》で、見えない方の眼は、白くびくびくうごき、上《うわ》着《ぎ》のような半《はん》天《てん》のようなへんなものを着《き》て、だいいち足が、ひどくまがって山羊《やぎ》のよう、ことにそのあしさきときたら、ごはんをもるへらのかたちだったのです。一郎は気《き》味《み》が悪《わる》かったのですが、なるべく落《お》ちついてたずねました。
「あなたは山《やま》猫《ねこ》をしりませんか。」
するとその男は、横《よこ》目《め》で一郎の顔を見て、口をまげてにやっとわらって言いました。
「山ねこさまはいますぐに、ここに戻《もど》ってお出《で》やるよ。おまえは一郎さんだな」
一郎はぎょっとして、一あしうしろにさがって、
「え、ぼく一郎です。けれども、どうしてそれを知ってますか。」と言いました。するとその奇《き》体《たい》な男はいよいよにやにやしてしまいました。
「そんだら、はがき見だべ。」
「見ました。それで来たんです。」
「あのぶんしょうは、ずいぶん下《へ》手《た》だべ。」と男は下をむいてかなしそうに言いました。一郎はきのどくになって、
「さあ、なかなか、ぶんしょうがうまいようでしたよ。」
と言いますと、男はよろこんで、息《いき》をはあはあして、耳のあたりまでまっ赤《か》になり、きもののえりをひろげて、風をからだに入れながら、
「あの字もなかなかうまいか。」とききました。一郎は、おもわず笑《わら》いだしながら、へんじしました。
「うまいですね。五年生だってあのくらいには書けないでしょう。」
すると男は、急《きゆう》にまたいやな顔をしました。
「五年生っていうのは、尋《じん》常《じよう》五年生《*》だべ。」その声が、あんまり力なくあわれに聞えましたので、一郎はあわてて言いました。
「いいえ、大学校の五年生《*》ですよ。」
すると、男はまたよろこんで、まるで、顔じゅう口のようにして、にたにたにたにた笑って叫《さけ》びました。
「あのはがきはわしが書いたのだよ。」一郎はおかしいのをこらえて、
「ぜんたいあなたはなにですか。」とたずねますと、男は急《きゆう》にまじめになって、
「わしは山ねこさまの馬車別《べつ》当《とう*》だよ。」と言いました。
そのとき、風がどうと吹《ふ》いてきて、草はいちめん波《なみ》だち、別当は、急にていねいなおじぎをしました。
一郎はおかしいとおもって、ふりかえって見ますと、そこに山《やま》猫《ねこ》が、黄いろな陣《じん》羽《ば》織《おり*》のようなものを着《き》て、緑《みどり》いろの眼《め》をまん円《まる》にして立っていました。やっぱり山猫の耳は、立って尖《とが》っているなと、一郎はおもいましたら、山ねこはぴょこっとおじぎをしました。一郎もていねいに挨《あい》拶《さつ》しました。
「いや、こんにちは、きのうははがきをありがとう。」
山猫はひげをぴんとひっぱって、腹《はら》をつき出して言いました。
「こんにちは、よくいらっしゃいました。じつはおとといから、めんどうなあらそいがおこって、ちょっと裁《さい》判《ばん》にこまりましたので、あなたのお考えを、うかがいたいとおもいましたのです。まあ、ゆっくり、おやすみください。じき、どんぐりどもがまいりましょう。どうもまい年《とし》、この裁判でくるしみます。」山ねこは、ふところから、巻《まき》煙草《たばこ》の箱《はこ》を出して、じぶんが一本くわい、
「いかがですか。」と一郎に出しました。一郎はびっくりして、
「いいえ。」と言いましたら、山ねこはおおようにわらって、
「ふふん、まだお若《わか》いから。」と言いながら、マッチをしゅっと擦《す》って、わざと顔をしかめて、青いけむりをふうと吐《は》きました。山ねこの馬車別《べつ》当《とう》は、気を付《つ》けの姿《し》勢《せい》で、しゃんと立っていましたが、いかにも、たばこのほしいのをむりにこらえているらしく、なみだをぼろぼろこぼしました。
そのとき、一郎は、足もとでパチパチ塩《しお》のはぜるような、音をききました。びっくりして屈《かが》んで見ますと、草のなかに、あっちにもこっちにも、黄金《きん》いろの円《まる》いものが、ぴかぴかひかっているのでした。よくみると、みんなそれは赤いずぼんをはいたどんぐりで、もうその数《かず》ときたら三百でも利《き》かないようでした。わあわあわあわあ、みんななにか云《い》っているのです。
「あ、来たな。蟻《あり》のようにやってくる。おい、さあ、早くベルを鳴らせ。今日《きよう》はそこが日当たりがいいから、そこのとこの草を刈《か》れ。」やまねこは巻《まき》たばこを投《な》げすてて、大いそぎで馬車別当にいいつけました。馬車別当もたいへんあわてて、腰《こし》から大きな鎌《かま》をとりだして、ざっくざっくと、やまねこの前のとこの草を刈りました。そこへ四方の草のなかから、どんぐりどもが、ぎらぎらひかって、飛《と》び出して、わあわあわあわあ言いました。
馬車別《べつ》当《とう》が、こんどは鈴《すず》をがらんがらんがらんがらんと振《ふ》りました。音はかやの森に、がらんがらんがらんがらんとひびき、黄金《きん》のどんぐりどもは、すこししずかになりました。見ると山ねこは、もういつか、黒い長い繻《しゆ》子《す》の服《ふく》を着《き》て、勿《もつ》体《たい》らしく、どんぐりどもの前にすわっていました。まるで奈《な》良《ら》のだいぶつさま《*》にさんけいするみんなの絵のようだと一郎はおもいました。別当がこんどは革《かわ》鞭《むち》を二、三べん、ひゅう、ぱちっ、ひゅう、ぱちっと鳴らしました。
空が青くすみわたり、どんぐりはぴかぴかしてじつにきれいでした。
「裁《さい》判《ばん》ももう今日で三日目だぞ、いい加《か》減《げん》になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心《しん》配《ぱい》そうに、それでもむりに威《い》張《ば》って言いますと、どんぐりどもは口々に叫《さけ》びました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判《はん》事《じ》さんがおっしゃったじゃないか。」
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」
「押《お》しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、がやがやがやがや言って、なにがなんだか、まるで蜂《はち》の巣《す》をつついたようで、わけがわからなくなりました。そこでやまねこが叫《さけ》びました。
「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ。」
別《べつ》当《とう》がむちをひゅうぱちっとならしましたのでどんぐりどもは、やっとしずまりました。やまねこは、ぴんとひげをひねって言いました。
「裁《さい》判《ばん》ももうきょうで三日目だぞ。いい加《か》減《げん》に仲《なか》なおりしたらどうだ。」
すると、もう、どんぐりどもが、くちぐちに云《い》いました。
「いえいえ、だめです。なんといったって、頭のとがっているのがいちばんえらいのです。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」
「そうでないよ。大きなことだよ。」がやがやがやがや、もうなにがなんだかわからなくなりました。山《やま》猫《ねこ》が叫びました。
「だまれ、やかましい。ここをなんと心《こころ》得《え》る。しずまれしずまれ。」別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らしました。山《やま》猫《ねこ》がひげをぴんとひねって言いました。
「裁《さい》判《ばん》ももうきょうで三日目だぞ。いい加《か》減《げん》になかなおりをしたらどうだ。」
「いえ、いえ、だめです。あたまのとがったものが……。」がやがやがやがや。
山ねこが叫《さけ》びました。
「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ。」別《べつ》当《とう》が、むちをひゅうぱちっと鳴らし、どんぐりはみんなしずまりました。山猫が一郎にそっと申《もう》しました。
「このとおりです。どうしたらいいでしょう。」一郎はわらってこたえました。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説《せつ》教《きよう》できいたんです。」山猫はなるほどというふうにうなずいて、それからいかにも気取《ど》って、繻《しゆ》子《す》のきものの胸《えり》を開《ひら》いて、黄いろの陣《じん》羽《ば》織《おり》をちょっと出してどんぐりどもに申しわたしました。
「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」
どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅《かた》まってしまいました。
そこで山《やま》猫《ねこ》は、黒い繻《しゆ》子《す》の服《ふく》をぬいで、額《ひたい》の汗《あせ》をぬぐいながら、一郎の手をとりました。別《べつ》当《とう》も大よろこびで、五、六ぺん、鞭《むち》をひゅうぱちっ、ひゅうぱちっ、ひゅうひゅうぱちっと鳴らしました。やまねこが言いました。
「どうもありがとうございました。これほどのひどい裁《さい》判《ばん》を、まるで一分《ぷん》半《はん》でかたづけてくださいました。どうかこれからわたしの裁《さい》判《ばん》所《しよ》の、名《めい》誉《よ》判《はん》事《じ》になってください。これからも、葉《は》書《がき》が行ったら、どうか来てくださいませんか。そのたびにお礼《れい》はいたします。」
「承《しよう》知《ち》しました。お礼なんかいりませんよ。」
「いいえ、お礼はどうかとってください。わたしのじんかくにかかわりますから。そしてこれからは、葉書にかねた一郎どのと書いて、こちらを裁判所としますが、ようございますか。」
一郎が、「ええ、かまいません。」と申《もう》しますと、やまねこはまだなにか言いたそうに、しばらくひげをひねって、眼《め》をぱちぱちさせていましたが、とうとう決《けつ》心《しん》したらしく言い出しました。
「それから、はがきの文《もん》句《く》ですが、これからは、用《よう》事《じ》これありに付《つ》き、明《みよう》日《にち》出《しゆつ》頭《とう》すべしと書いてどうでしょう。」
一郎はわらって言いました。
「さあ、なんだか変《へん》ですね。そいつだけはやめた方がいいでしょう。」
山《やま》猫《ねこ》は、どうも言いようがまずかった、いかにも残《ざん》念《ねん》だというふうに、しばらくひげをひねったまま、下を向《む》いていましたが、やっとあきらめて言いました。
「それでは、文句はいままでのとおりにしましょう。そこで今日のお礼《れい》ですが、あなたは黄金《きん》のどんぐり 一升《しよう*》と、塩《しお》鮭《ざけ》のあたまと、どっちをおすきですか。」
「黄金のどんぐりがすきです。」
山猫は、鮭《しやけ》の頭でなくて、まあよかったというように、口《くち》早《ばや》に馬車別《べつ》当《とう》に云《い》いました。
「どんぐりを一升早くもってこい。一升にたりなかったら、めっきのどんぐりもまぜてこい。はやく。」
別当は、さっきのどんぐりをますに入れて、はかって叫《さけ》びました。
「ちょうど一升あります。」山ねこの陣《じん》羽《ば》織《おり》が風にばたばた鳴りました。そこで山ねこは、大きく延《の》びあがって、めをつぶって、半分あくびをしながら言いました。
「よし、はやく馬車のしたくをしろ。」白い大きなきのこでこしらえた馬車が、ひっぱりだされました。そしてなんだかねずみいろの、おかしな形の馬がついています。
「さあ、おうちへお送《おく》りいたしましょう。」山《やま》猫《ねこ》が言いました。二人は馬車にのり別《べつ》当《とう》は、どんぐりのますを馬車のなかに入れました。
ひゅう、ぱちっ。
馬車は草《くさ》地《ち》をはなれました。木や藪《やぶ》がけむりのようにぐらぐらゆれました。一郎は黄金《きん》のどんぐりを見、やまねこはとぼけたかおつきで、遠くをみていました。
馬車が進《すす》むにしたがって、どんぐりはだんだん光がうすくなって、まもなく馬車がとまったときは、あたりまえの茶《ちや》いろのどんぐりに変《かわ》っていました。そして、山ねこの黄いろな陣《じん》羽《ば》織《おり》も、別当も、きのこの馬車も、一《いち》度《ど》に見えなくなって、一郎はじぶんのうちの前に、どんぐりを入れたますを持《も》って立っていました。
それからあと、山ねこ拝《はい》というはがきは、もうきませんでした。やっぱり、出頭すべしと書いてもいいと言えばよかったと、一郎はときどき思うのです。
狼《オイノ》森《もり》と笊《ざる》森《もり》、盗《ぬすと》森《もり*》
小《こ》岩《いわ》井《い》農《のう》場《じよう*》の北に、黒い松《まつ》の森が四つあります。いちばん南が狼森で、その次《つぎ》が笊森、次は黒《くろ》坂《さか》森《もり*》、北のはずれは盗森です。
この森がいつごろどうしてできたのか、どうしてこんな奇《き》体《たい》な名前がついたのか、それをいちばんはじめから、すっかり知っているものは、おれ一人《ひとり》だと黒坂森のまんなかの巨《おお》きな巌《いわ》が、ある日、威《い》張《ば》ってこのおはなしをわたくしに聞かせました。
ずうっと昔《むかし》、岩《いわ》手《て》山《さん》が、何べんも噴《ふん》火《か》しました。その灰《はい》でそこらはすっかり埋《うず》まりました。このまっ黒な巨きな巌も、やっぱり山からはね飛《と》ばされて、今のところに落《お》ちて来たのだそうです。
噴火がやっとしずまると、野原や丘《おか》には、穂《ほ》のある草や穂のない草が、南の方からだんだん生《は》えて、とうとうそこらいっぱいになり、それから柏《かしわ》や松も生え出し、しまいに、いまの四《よ》つの森ができました。けれども森にはまだ名前もなく、めいめい勝《かつ》手《て》に、おれはおれだと思っているだけでした。するとある年の秋、水のようにつめたいすきとおる風が、柏《かしわ》の枯《か》れ葉《は》をさらさら鳴らし、岩手山の銀《ぎん》の冠《かんむり》には、雲の影《かげ》がくっきり黒くうつっている日でした。
四人の、けら《*》を着《き》た百《ひやく》姓《しよう》たちが、山刀《なた》や三《さん》本《ぼん》鍬《ぐわ》や唐《とう》鍬《ぐわ》や、すべての山と野原の武《ぶ》器《き》を堅《かた》くからだにしばりつけて、東の稜《かど》ばった燧《ひうち》石《いし》の山《*》を越《こ》えて、のっしのっしと、この森にかこまれた小さな野原にやって来ました。よくみるとみんな大きな刀もさしていたのです。
先頭の百姓が、そこらの幻《げん》燈《とう》のようなけしきを、みんなにあちこち指《ゆび》さして、
「どうだ。いいとこだろう。畑《はたけ》はすぐ起《おこ》せるし、森は近いし、きれいな水もながれている。それに日あたりもいい。どうだ、俺《おれ》はもう早くから、ここと決《き》めておいたんだ。」と云《い》いますと、一人の百姓は、
「しかし地《ち》味《み》はどうかな。」と言いながら、屈《かが》んで一本のすすきを引き抜《ぬ》いて、その根《ね》から土を掌《てのひら》にふるい落《おと》して、しばらく指でこねたり、ちょっと嘗《な》めてみたりしてから云いました。
「うん。地《じ》味《み》もひどくよくはないが、またひどく悪《わる》くもないな。」
「さあ、それではいよいよここときめるか。」
も一人が、なつかしそうにあたりを見まわしながら云いました。
「よし、そう決《き》めよう。」いままでだまって立っていた、四人目の百《ひやく》姓《しよう》が云《い》いました。
四人はそこでよろこんで、せなかの荷《に》物《もつ》をどしんとおろして、それから来た方へ向《む》いて、高く叫《さけ》びました。
「おおい、おおい。ここだぞ。早く来《こ》お。早く来《こ》お。」
すると向《むこ》うのすすきの中から、荷物をたくさんしょって、顔をまっかにしておかみさんたちが三人出て来ました。見ると、五つ六つより下の子《こ》供《ども》が九《く》人《にん》、わいわい云いながら走ってついて来るのでした。
そこで四《よつ》人《たり》の男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃《そろ》えて叫びました。
「ここへ畑《はたけ》起《おこ》してもいいかあ。」
「いいぞお。」森が一《いつ》斉《せい》にこたえました。
みんなはまた叫びました。
「ここに家《いえ》建《た》ててもいいかあ。」
「ようし。」森は一ぺんにこたえました。
みんなはまた声をそろえてたずねました。
「ここで火たいてもいいかあ。」
「いいぞお。」森は一ぺんにこたえました。
みんなはまた叫《さけ》びました。
「すこし木《きい》貰《もら》ってもいいかあ。」
「ようし。」森は一《いつ》斉《せい》にこたえました。
男たちはよろこんで手をたたき、さっきから顔色を変《か》えて、しんとしていた女やこどもらは、にわかにはしゃぎだして、子《こ》供《ども》らはうれしまぎれに喧《けん》嘩《か》をしたり、女たちはその子をぽかぽか撲《なぐ》ったりしました。
その日、晩《ばん》方《がた》までには、もう萱《かや》をかぶせた小さな丸太の小《こ》屋《や》が出来ていました。子供たちは、よろこんでそのまわりを飛《と》んだりはねたりしました。次《つぎ》の日から、森はその人たちのきちがいのようになって、働《はたら》いているのを見ました。男はみんな鍬《くわ》をピカリピカリさせて、野原の草を起《おこ》しました。女たちは、まだ栗鼠《りす》や野《の》鼠《ねずみ》に持《も》って行かれない栗《くり》の実《み》を集《あつ》めたり、松《まつ》を伐《き》って薪《たきぎ》をつくったりしました。そしてまもなく、いちめんの雪が来たのです。
その人たちのために、森は冬のあいだ、一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》、北からの風を防《ふせ》いでやりました。それでも、小さなこどもらは寒《さむ》がって、赤くはれた小さな手を、自分の咽喉《のど》にあてながら、「冷《つめ》たい、冷たい。」と云《い》ってよく泣《な》きました。
春になって、小屋が二つになりました。
そして蕎麦《そば》と稗《ひえ》とが播《ま》かれたようでした。そばには白い花が咲《さ》き、稗は黒い穂《ほ》を出しました。その年の秋、穀《こく》物《もつ》がとにかくみのり、新らしい畑《はたけ》がふえ、小《こ》屋《や》が三《み》つになったとき、みんなはあまり嬉《うれ》しくて大人《おとな》までがはね歩きました。ところが、土の堅《かた》く凍《こお》った朝でした。九《く》人《にん》のこどもらのなかの、小さな四《よ》人《にん》がどうしたのか夜の間に見えなくなっていたのです。
みんなはまるで、気《き》違《ちが》いのようになって、その辺《へん》をあちこちさがしましたが、こどもらの影《かげ》も見えませんでした。
そこでみんなは、てんでにすきな方へ向《む》いて、一《いつ》緒《しよ》に叫《さけ》びました。
「たれか童《わらし》ゃど知らないか《*》。」
「しらない。」と森は一《いつ》斉《せい》にこたえました。
「そんだらさがしに行くぞお。」とみんなはまた叫びました。
「来《こ》お。」と森は一《いつ》斉《せい》にこたえました。
そこでみんなは色々の農《のう》具《ぐ》をもって、まず一番ちかい狼《オイノ》森《もり》に行きました。森へ入りますと、すぐしめったつめたい風と朽《くち》葉《は》の匂《にお》いとが、すっとみんなを襲《おそ》いました。
みんなはどんどん踏《ふ》みこんで行きました。
すると森の奥《おく》の方で何かパチパチ音がしました。
急《いそ》いでそっちへ行ってみますと、すきとおったばら色の火がどんどん燃《も》えていて、狼《オイノ》が九《く》疋《ひき》、くるくるくる、火のまわりを踊《おど》ってかけ歩いているのでした。
だんだん近くへ行って見ると居《い》なくなった子《こ》供《ども》らは四《よ》人《にん》共《とも》、その火に向《む》いて焼《や》いた栗《くり》や初《はつ》茸《たけ》などをたべていました。
狼はみんな歌を歌って、夏のまわり燈《とう》籠《ろう》のように、火のまわりを走っていました。
「狼《オイノ》森《もり》のまんなかで、
火はどろどろぱちぱち
火はどろどろぱちぱち、
栗はころころぱちぱち、
栗はころころぱちぱち。」
みんなはそこで、声をそろえて叫《さけ》びました。
「狼どの狼どの、童《わら》しゃど返《かえ》してけろ。」
狼はみんなびっくりして、一ぺんに歌をやめてくちをまげて、みんなの方をふり向きました。
すると火が急《きゆう》に消《き》えて、そこらはにわかに青くしいんとなってしまったので火のそばのこどもらはわあと泣《な》き出しました。
狼《オイノ》は、どうしたらいいか困《こま》ったというようにしばらくきょろきょろしていましたが、とうとうみんないちどに森のもっと奥《おく》の方へ逃《に》げて行きました。
そこでみんなは、子《こ》供《ども》らの手を引いて、森を出ようとしました。すると森の奥の方で狼どもが、
「悪《わる》く思わないでけろ。栗《くり》だのきのこだの、うんとご馳《ち》走《そう》したぞ。」と叫《さけ》ぶのがきこえました。みんなはうちに帰ってから粟《あわ》餅《もち》をこしらえてお礼《れい》に狼《オイノ》森《もり》へ置《お》いて来ました。
春になりました。そして子供が十一人になりました。馬が二疋《ひき》来ました。畠《はたけ》には、草や腐《くさ》った木の葉《は》が、馬の肥《こえ》と一《いつ》緒《しよ》に入りましたので、粟《あわ》や稗《ひえ》はまっさおに延《の》びました。
そして実《み》もよくとれたのです。秋の末《すえ》のみんなのよろこびようといったらありませんでした。
ところが、ある霜《しも》柱《ばしら》のたったつめたい朝でした。
みんなは、今《こ》年《とし》も野原を起《おこ》して、畠をひろげていましたので、その朝も仕《し》事《ごと》に出ようとして農《のう》具《ぐ》をさがしますと、どの家《うち》にも山刀《なた》も三《さん》本《ぼん》鍬《ぐわ》も唐《とう》鍬《ぐわ》も一つもありませんでした。
みんなは一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》そこらをさがしましたが、どうしても見《み》附《つ》かりませんでした。それで仕《し》方《かた》なく、めいめいすきな方へ向《む》いて、いっしょにたかく叫《さけ》びました。
「おらの道《どう》具《ぐ》知らないかあ。」
「知らないぞお。」と森は一ぺんにこたえました。
「さがしに行くぞお。」とみんなは叫びました。
「来《こ》お。」と森は一《いつ》斉《せい》に答えました。
みんなは、こんどはなんにももたないで、ぞろぞろ森の方へ行きました。はじめはまず一番近い狼《オイノ》森《もり》に行きました。
するとすぐ狼《オイノ》が九《く》疋《ひき》出て来て、みんなまじめな顔をして、手をせわしくふって云《い》いました。
「無《な》い、無い、決《けつ》して無い、無い。外《ほか》をさがして無かったら、もう一ぺんおいで。」
みんなは、尤《もつと》もだと思って、それから西の方の笊《ざる》森《もり》に行きました。そしてだんだん森の奥《おく》へ入って行きますと、一本の古い柏《かしわ》の木の下に、木の枝《えだ》であんだ大きな笊《ざる》が伏《ふ》せてありました。
「こいつはどうもあやしいぞ。笊森の笊はもっともだが、中には何があるかわからない。一つあけてみよう。」と云《い》いながらそれをあけてみますと、中には無くなった農《のう》具《ぐ》が九つとも、ちゃんとはいっていました。
それどころではなく、まんなかには、黄金《キン》色《いろ》の目をした、顔のまっかな山男《*》が、あぐらをかいて座《すわ》っていました。そしてみんなを見ると、大きな口をあけてバアと云《い》いました。
子《こ》供《ども》らは叫《さけ》んで逃《に》げ出そうとしましたが、大人《おとな》はびくともしないで、声をそろえて云《い》いました。
「山男、これからいたずら止《や》めてけろよ。くれぐれ頼《たの》むぞ、これからいたずら止《や》めでけろよ。」
山男は、たいへん恐《きよう》縮《しゆく》したように、頭をかいて立っておりました。みんなはてんでに、自分の農《のう》具《ぐ》を取《と》って森を出て行こうとしました。
すると森の中で、さっきの山男が、
「おらさも粟《あわ》餅《もち》持《も》って来てけろよ。」と叫んでくるりと向《むこ》うを向《む》いて、手で頭をかくして、森のもっと奥《おく》の方へ走って行きました。
みんなはあっはあっはと笑《わら》って、うちへ帰りました。そしてまた粟餅をこしらえて、狼《オイノ》森《もり》と笊《ざる》森《もり》に持って行って置《お》いて来ました。
次《つぎ》の年の夏になりました。平《たい》らな処《ところ》はもうみんな畑《はたけ》です。うちには木《き》小《ご》屋《や》がついたり、大きな納《な》屋《や》が出来たりしました。
それから馬も三疋《びき》になりました。その秋のとりいれのみんなの悦《よろこ》びは、とても大へんなものでした。
今《こ》年《とし》こそは、どんな大きな粟《あわ》餅《もち》をこさえても、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だとおもったのです。
そこで、やっぱり不《ふ》思《し》議《ぎ》なことが起《おこ》りました。
ある霜《しも》の一《いち》面《めん》に置いた朝《あさ》納《な》屋《や》のなかの粟《あわ》が、みんな無《な》くなっていました。みんなはまるで気が気でなく、一生けん命《めい》、その辺《へん》をかけまわりましたが、どこにも粟は、一《ひと》粒《つぶ》もこぼれていませんでした。
みんなはがっかりして、てんでにすきな方へ向《む》いて叫《さけ》びました。
「おらの粟知らないかあ。」
「知らないぞお。」森は一ぺんにこたえました。
「さがしに行くぞ。」とみんなは叫びました。
「来《こ》お。」と森は一《いつ》斉《せい》にこたえました。
みんなは、てんでにすきなえ物《もの》を持って、まず手《て》近《ぢか》の狼《オイノ》森《もり》に行きました。
狼《オイノ》共《ども》は九疋《ひき》共《とも》もう出て待《ま》っていました。そしてみんなを見て、フッと笑《わら》って云《い》いました。
「今日《きよう》も粟餅だ。ここには粟なんか無《な》い、無い、決《けつ》して無い。ほかをさがしてもなかったらまたここへおいで。」
みんなはもっともと思って、そこを引きあげて、今《こん》度《ど》は笊《ざる》森《もり》へ行きました。
すると赤つらの山男は、もう森の入口に出ていて、にやにや笑《わら》って云《い》いました。
「あわもちだ、あわもちだ。おらはなっても取《と》らないよ。粟《あわ》をさがすなら、もっと北に行ってみたらよかべ。」
そこでみんなは、もっともだと思って、こんどは北の黒《くろ》坂《さか》森《もり》、すなわちこのはなしを私《わたくし》に聞かせた森の、入口に来て云《い》いました。
「粟を返《かえ》してけろ。粟を返してけろ。」
黒坂森は形は出さないで、声だけでこたえました。
「おれはあけ方《がた》、まっ黒な大きな足が、空を北へとんで行くのを見た。もう少し北の方へ行ってみろ。」そして粟《あわ》餅《もち》のことなどは、一《ひと》言《こと》も云《い》わなかったそうです。そして全《まつた》くその通りだったろうと私も思います。なぜなら、この森が私へこの話をしたあとで、私は財《さい》布《ふ》からありっきりの銅《どう》貨《か》を七《しち》銭《せん*》出して、お礼《れい》にやったのでしたが、この森は仲《なか》々《なか》受け取《と》りませんでした。このくらい気《き》性《しよう》がさっぱりとしていますから。
さてみんなは黒坂森の云《い》うことが尤《もつと》もだと思って、もう少し北へ行きました。
それこそは、松《まつ》のまっ黒な盗《ぬすと》森《もり》でした。ですからみんなも、
「名からしてぬすと臭《くさ》い。」と云《い》いながら、森へ入って行って、「さあ粟《あわ》返《かえ》せ。粟返せ。」とどなりました。
すると森の奥《おく》から、まっくろな手の長い大きな大きな男が出て来て、まるでさけるような声で云いました。
「何《なん》だと、おれをぬすとだと。そう云うやつは、みんなたたき潰《つぶ》してやるぞ。ぜんたい何の証《しよう》拠《こ》があるんだ。」
「証《しよう》人《にん》がある。証人がある。」とみんなはこたえました。
「誰《たれ》だ。畜《ちく》生《しよう》、そんなこと云うやつは誰だ。」と盗森は咆《ほ》えました。
「黒《くろ》坂《さか》森《もり》だ。」と、みんなが負《ま》けずに叫《さけ》びました。
「あいつの云うことはてんであてにならん。ならん。ならん。ならんぞ。畜生。」と盗森はどなりました。
みんなももっともだと思ったり、恐《おそ》ろしくなったりしてお互《たがい》に顔を見合せて逃《に》げ出そうとしました。
すると俄《にわか》に頭の上で、
「いやいや、それはならん。」というはっきりした厳《おごそ》かな声がしました。
見るとそれは、銀《ぎん》の冠《かんむり》をかぶった岩《いわ》手《て》山《さん》でした。盗《ぬすと》森《もり》の黒い男は、頭をかかえて地に倒《たお》れました。
岩《いわ》手《て》山《さん》はしずかに云《い》いました。
「ぬすとはたしかに盗《ぬすと》森《もり》に相《そう》違《い》ない。おれはあけがた、東の空のひかりと、西の月のあかりとで、たしかにそれを見《み》届《とど》けた。しかしみんなももう帰ってよかろう。粟《あわ》はきっと返《かえ》させよう。だから悪《わる》く思わんでおけ。一体盗森は、じぶんで粟《あわ》餅《もち》をこさえてみたくてたまらなかったのだ。それで粟も盗《ぬす》んで来たのだ。はっはっは。」
そして岩手山は、またすましてそらを向《む》きました。男はもうその辺《へん》に見えませんでした。
みんなはあっけにとられてがやがや家《うち》に帰ってみましたら、粟はちゃんと納《な》屋《や》に戻《もど》っていました。そこでみんなは、笑《わら》って粟もちをこしらえて、四《よ》つの森に持《も》って行きました。
中でもぬすと森には、いちばんたくさん持って行きました。その代《かわ》り少し砂《すな》がはいっていたそうですが、それはどうも仕《し》方《かた》なかったことでしょう。
さてそれから森もすっかりみんなの友だちでした。そして毎年、冬のはじめにはきっと粟餅を貰《もら》いました。
しかしその粟餅も、時《じ》節《せつ》がら、ずいぶん小さくなったが、これもどうも仕《し》方《かた》がないと、黒《くろ》坂《さか》森《もり》のまん中のまっくろな巨《おお》きな巌《いわ》がおしまいに云《い》っていました。
注《ちゆう》文《もん》の多い料《りよう》理《り》店《てん》
二人の若《わか》い紳《しん》士《し》が、すっかりイギリスの兵《へい》隊《たい》のかたちをして、ぴかぴかする鉄《てつ》砲《ぽう》をかついで、白《しろ》熊《くま》のような犬を二疋《ひき》つれて、だいぶ山《やま》奥《おく》の、木の葉《は》のかさかさしたとこを、こんなことを云《い》いながら、あるいておりました。
「ぜんたい、ここらの山は怪《け》しからんね。鳥も獣《けもの》も一疋《ぴき》も居《い》やがらん。なんでも構《かま》わないから、早くタンタアーンと、やってみたいもんだなあ。」
「鹿《しか》の黄いろな横《よこ》っ腹《ぱら》なんぞに、二、三発《ぱつ》お見《み》舞《まい》もうしたら、ずいぶん痛《つう》快《かい》だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒《たお》れるだろうねえ。」
それはだいぶの山奥でした。案《あん》内《ない》してきた専《せん》門《もん》の鉄砲打《う》ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。
それに、あんまり山が物《もの》凄《すご》いので、その白熊のような犬が、二疋いっしょにめまいを起《おこ》して、しばらく吠《うな》って、それから泡《あわ》を吐《は》いて死《し》んでしまいました。
「じつにぼくは、二千四百円《*》の損《そん》害《がい》だ。」と一人《ひとり》の紳士が、その犬の眼《ま》ぶたを、ちょっとかえしてみて言いました。
「ぼくは二千八百円の損《そん》害《がい》だ。」と、もひとりが、くやしそうに、あたまをまげて言いました。
はじめの紳《しん》士《し》は、すこし顔いろを悪《わる》くして、じっと、もひとりの紳士の、顔つきを見ながら云《い》いました。
「ぼくはもう戻《もど》ろうとおもう。」
「さあ、ぼくもちょうど寒《さむ》くはなったし腹《はら》は空《す》いてきたし戻ろうとおもう。」
「そいじゃ、これで切りあげよう。なあに戻りに、昨日《きのう》の宿《やど》屋《や》で、山鳥《*》を拾《じゆう》円《えん》も買って帰ればいい。」
「兎《うさぎ》もでていたねえ。そうすれば結《けつ》局《きよく》おんなじこった。では帰ろうじゃないか。」
ところがどうも困《こま》ったことは、どっちへ行けば戻れるのか、いっこう見《けん》当《とう》がつかなくなっていました。
風がどうと吹《ふ》いてきて、草はざわざわ、木の葉《は》はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
「どうも腹が空いた。さっきから横《よこ》っ腹《ぱら》が痛《いた》くてたまらないんだ。」
「ぼくもそうだ。もうあんまりあるきたくないな。」
「あるきたくないよ。ああ困《こま》ったなあ、何かたべたいなあ。」
「喰《た》べたいもんだなあ。」
二人の紳《しん》士《し》は、ざわざわ鳴るすすきの中で、こんなことを云《い》いました。
その時ふとうしろを見ますと、立《りつ》派《ぱ》な一軒《けん》の西《せい》洋《よう》造《づく》りの家《うち》がありました。
そして玄《げん》関《かん》には、
という札がでていました。
「君《きみ》、ちょうどいい。ここはこれでなかなか開《ひら》けてるんだ。入ろうじゃないか。」
「おや、こんなとこにおかしいね。しかしとにかく何か食《しよく》事《じ》ができるんだろう。」
「もちろんできるさ。看《かん》板《ばん》にそう書いてあるじゃないか。」
「はいろうじゃないか。ぼくはもう何か喰《た》べたくて倒《たお》れそうなんだ。」
二人《ふたり》は玄《げん》関《かん》に立ちました。玄関は白い瀬《せ》戸《と》の煉《れん》瓦《が》で組んで、実《じつ》に立《りつ》派《ぱ》なもんです。
そして硝子《ガラス》の開《ひら》き戸がたって、そこに金《きん》文《も》字《じ》でこう書いてありました。
「どなたもどうかお入りください。決《けつ》してご遠《えん》慮《りよ》はありません。」
二人はそこで、ひどくよろこんで言いました。
「こいつはどうだ、やっぱり世《よ》の中はうまくできてるねえ、きょう一日なんぎしたけれど、こんどはこんないいこともある。このうちは料《りよう》理《り》店《てん》だけれどもただでご馳《ち》走《そう》うするんだぜ。」
「どうもそうらしい。決してご遠慮はありませんというのはその意《い》味《み》だ。」
二人は戸を押《お》して、なかへ入りました。そこはすぐ廊《ろう》下《か》になっていました。その硝子戸の裏《うら》側《がわ》には、金文字でこうなっていました。
「ことに肥《ふと》ったお方《かた》や若《わか》いお方は、大《だい》歓《かん》迎《げい》いたします。」
二人は大歓迎というので、もう大よろこびです。
「君、ぼくらは大歓迎にあたっているのだ。」
「ぼくらは両《りよう》方《ほう》兼《か》ねてるから。」
ずんずん廊下を進《すす》んで行きますと、こんどは水いろのペンキ塗《ぬ》りの扉《と》がありました。
「どうも変《へん》な家《うち》だ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。」
「これはロシア式《しき》だ。寒《さむ》いとこや山の中はみんなこうさ。」
そして二人はその扉《と》をあけようとしますと、上に黄いろな字でこう書いてありました。
「当《とう》軒《けん》は注《ちゆう》文《もん》の多い料《りよう》理《り》店《てん》ですからどうかそこはご承《しよう》知《ち》ください。」
「なかなかはやってるんだ。こんな山の中で。」
「それあそうだ。見たまえ、東京の大きな料《りよう》理《り》屋《や》だって大通りにはすくないだろう。」
二人は云《い》いながら、その扉《と》をあけました。するとその裏《うら》側《がわ》に、
「注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえてください。」
「これはぜんたいどういうんだ。」ひとりの紳《しん》士《し》は顔をしかめました。
「うん、これはきっと注文があまり多くて支《し》度《たく》が手《て》間《ま》取《ど》るけれどもごめん下さいと斯《こ》ういうことだ。」
「そうだろう。早くどこか室《へや》の中にはいりたいもんだな。」
「そしてテーブルに座《すわ》りたいもんだな。」
ところがどうもうるさいことは、また扉が一つありました。そしてそのわきに鏡《かがみ》がかかって、その下には長い柄《え》のついたブラシが置《お》いてあったのです。
扉《と》には赤い字で、
「お客《きやく》さまがた、ここで髪《かみ》をきちんとして、それからはきもの
の泥《どろ》を落《おと》してください。」と書いてありました。
「これはどうも尤《もつと》もだ。僕《ぼく》もさっき玄《げん》関《かん》で、山のなかだとおもって見くびったんだよ。」
「作《さ》法《ほう》の厳《きび》しい家《うち》だ。きっとよほど偉《えら》い人たちが、たびたび来るんだ。」
そこで二人は、きれいに髪《かみ》をけずって、靴《くつ》の泥を落としました。
そしたら、どうです。ブラシを板《いた》の上に置《お》くや否《いな》や、そいつがぼうっとかすんで無《な》くなって、風がどうっと室《へや》の中に入ってきました。
二人はびっくりして、互《たがい》によりそって、扉をがたんと開《あ》けて、次《つぎ》の室へ入って行きました。早く何か暖《あたたか》いものでもたべて、元気をつけておかないと、もう途《と》方《ほう》もないことになってしまうと、二人とも思ったのでした。
扉の内《うち》側《がわ》に、また変《へん》なことが書いてありました。
「鉄《てつ》砲《ぽう》と弾丸《たま》をここへ置いてください。」
見るとすぐ横《よこ》に黒い台がありました。
「なるほど、鉄砲を持《も》ってものを食《く》うという法《ほう》はない。」
「いや、よほど偉《えら》いひとが始《し》終《じゆう》来ているんだ。」
二人は鉄《てつ》砲《ぽう》をはずし、帯《おび》皮《かわ》を解《と》いて、それを台の上に置《お》きました。
また黒い扉《と》がありました。
「どうか帽《ぼう》子《し》と外《がい》套《とう》と靴《くつ》をおとり下さい。」
「どうだ、とるか。」
「仕《し》方《かた》ない、とろう。たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥《おく》に来ているのは。」
二人は帽子とオーバーコートを釘《くぎ》にかけ、靴をぬいでぺたぺたあるいて扉の中にはいりました。
扉の裏《うら》側《がわ》には、
「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡《めがね》、財《さい》布《ふ》、その他《た》金《かな》物《もの》類《るい》、
ことに尖《とが》ったものは、みんなここに置いてください。」
と書いてありました。扉のすぐ横には黒《くろ》塗《ぬ》りの立《りつ》派《ぱ》な金《きん》庫《こ》も、ちゃんと口を開《あ》けて置いてありました。鍵《かぎ》まで添《そ》えてあったのです。
「ははあ、何かの料《りよう》理《り》に電気をつかうとみえるね。金《かな》気《け》のものはあぶない。ことに尖ったものはあぶないと斯《こ》う云《い》うんだろう。」
「そうだろう。してみると勘《かん》定《じよう》は帰りにここで払《はら》うのだろうか。」
「どうもそうらしい。」
「そうだ。きっと。」
二人はめがねをはずしたり、カフスボタンをとったり、みんな金《きん》庫《こ》の中に入れて、ぱちんと錠《じよう》をかけました。
すこし行きますとまた扉《と》があって、その前に硝子《ガラス》の壺《つぼ》が一つありました。扉には斯《こ》う書いてありました。
「壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗《ぬ》ってください。」
みるとたしかに壺の中のものは牛《ぎゆう》乳《にゆう》のクリームでした。
「クリームをぬれというのはどういうんだ。」
「これはね、外がひじょうに寒《さむ》いだろう。室《へや》のなかがあんまり暖《あたたか》いとひびがきれるから、その予《よ》防《ぼう》なんだ。どうも奥《おく》には、よほどえらいひとがきている。こんなとこで、案《あん》外《がい》ぼくらは、貴《き》族《ぞく》とちかづきになるかも知れないよ。」
二人は壺のクリームを、顔に塗って手に塗ってそれから靴《くつ》下《した》をぬいで足に塗りました。それでもまだ残《のこ》っていましたから、それは二人ともめいめいこっそり顔へ塗るふりをしながら喰《た》べました。
それから大《おお》急《いそ》ぎで扉をあけますと、その裏《うら》側《がわ》には、
「クリームをよく塗《ぬ》りましたか、耳にもよく塗りましたか。」
と書いてあって、ちいさなクリームの壺がここにも置《お》いてありました。
「そうそう、ほくは耳には塗らなかった。あぶなく耳にひびを切らすとこだった。ここの主《しゆ》人《じん》はじつに用《よう》意《い》周《しゆう》到《とう》だね。」
「ああ、細《こま》かいとこまでよく気がつくよ。ところでぼくは早く何か喰《た》べたいんだが、どうもこ斯《こ》うどこまでも廊《ろう》下《か》じゃ仕《し》方《かた》ないね。」
するとすぐその前に次《つぎ》の戸がありました。
「料《りよう》理《り》はもうすぐできます。
十五分とお待《ま》たせはいたしません。
すぐたべられます《*》。
早くあなたの頭に瓶《びん》の中の香《こう》水《すい》をよく振《ふ》りかけてください。」
そして戸の前には金ピカの香水の瓶が置いてありました。
二人はその香水を、頭へぱちゃぱちゃ振りかけました。
ところがその香水は、どうも酢《す》のような匂《におい》がするのでした。
「この香水はへんに酢くさい。どうしたんだろう。」
「まちがえたんだ。下《げ》女《じよ》が風《か》邪《ぜ》でも引いてまちがえて入れたんだ。」
二人は扉《と》をあけて中にはいりました。
扉の裏《うら》側《がわ》には、大きな字で斯《こ》う書いてありました。
「いろいろ注《ちゆう》文《もん》が多くてうるさかったでしょう。お気の毒《どく》でした。
もうこれだけです。どうかからだ中《じゆう》に、壺《つぼ》の中の塩《しお》をたくさ
んよくもみ込《こ》んでください。」
なるほど立《りつ》派《ぱ》な青い瀬《せ》戸《と》の塩《しお》壺《つぼ》は置《お》いてありましたが、こんどというこんどは二人ともぎょっとしてお互《たがい》にクリームをたくさん塗《ぬ》った顔を見合わせました。
「どうもおかしいぜ。」
「ぼくもおかしいとおもう。」
「沢《たく》山《さん》の注文というのは、向《むこ》うがこっちへ注文してるんだよ。」
「だからさ、西《せい》洋《よう》料《りよう》理《り》店《てん》というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家《うち》とこういうことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが……。」がたがたがたがた、ふるえだしてもうものが言えませんでした。
「その、ぼ、ぼくらが、……うわあ。」がたがたがたがたふるえだして、もうものが言えませんでした。
「遁《に》げ……。」がたがたしながら一人の紳《しん》士《し》はうしろの戸を押《お》そうとしましたが、どうです、戸はもう一分《ぶ》も動《うご》きませんでした。
奥《おく》の方にはまだ一枚《まい》扉《と》があって、大きなかぎ穴《あな》が二つつき、銀《ぎん》いろのホークとナイフの形が切りだしてあって、
「いや、わざわざご苦《く》労《ろう》です。
たいへん結《けつ》構《こう》にできました。
さあさあおなかにおはいりください。」
と書いてありました。おまけにかぎ穴からはきょろきょろ二つの青い眼《め》玉《だま》がこっちをのぞいています。
「うわあ。」がたがたがたがた。
「うわあ。」がたがたがたがた。
ふたりは泣《な》き出しました。
すると戸の中では、こそこそこんなことを云《い》っています。
「だめだよ。もう気がついたよ。塩《しお》をもみこまないようだよ。」
「あたりまえさ。親《おや》分《ぶん》の書きようがまずいんだ。あすこへ、いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒《どく》でしたなんて、間《ま》抜《ぬ》けたことを書いたもんだ。」
「どっちでもいいよ。どうせぼくらには、骨《ほね》も分《わ》けてくれやしないんだ。」
「それはそうだ。けれどももしここへあいつらがはいって来なかったら、それはぼくらの責《せき》任《にん》だぜ。」
「呼《よ》ぼうか、呼ぼう。おい、お客《きやく》さん方《がた》、早くいらっしゃい。いらっしゃい。いらっしゃい。お皿《さら》も洗《あら》ってありますし、菜《な》っ葉《ぱ》ももうよく塩《しお》でもんでおきました。あとはあなたがたと、菜っ葉をうまくとりあわせて、まっ白なお皿にのせるだけです。はやくいらっしゃい。」
「へい、いらっしゃい、いらっしゃい。それともサラドはお嫌《きら》いですか。そんならこれから火を起《おこ》してフライにしてあげましょうか。とにかくはやくいらっしゃい。」
二人はあんまり心を痛《いた》めたために、顔がまるでくしゃくしゃの紙屑《くず》のようになり、お互《たがい》にその顔を見合わせ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣《な》きました。
中ではふっふっとわらってまた叫《さけ》んでいます。
「いらっしゃい、いらっしゃい。そんなに泣いては折《せつ》角《かく》のクリームが流《なが》れるじゃありませんか。へい、ただいま。じきもってまいります。さあ、早くいらっしゃい。」
「早くいらっしゃい。親《おや》方《かた》がもうナフキンをかけて、ナイフをもって、舌《した》なめずりして、お客さま方を待《ま》っていられます。」
二人は泣《な》いて泣いて泣いて泣いて泣きました。
そのときうしろからいきなり、
「わん、わん、ぐわあ。」という声がして、あの白《しろ》熊《くま》のような犬が二疋《ひき》、扉《と》をつきやぶって室《へや》の中に飛《と》び込《こ》んできました。鍵《かぎ》穴《あな》の眼《め》玉《だま》はたちまちなくなり、犬どもはううとうなってしばらく室の中をくるくる廻《まわ》っていましたが、また一声、
「わん。」と高く吠《ほ》えて、いきなり次《つぎ》の扉に飛びつきました。戸はがたりとひらき、犬どもは吸《す》い込まれるように飛んで行きました。
その扉の向《むこ》うのまっくらやみのなかで、
「にゃあお、くわあ、ごろごろ。」という声がして、それからがさがさ鳴りました。
室はけむりのように消《き》え、二人は寒《さむ》さにぶるぶるふるえて、草の中に立っていました。
見ると、上《うわ》着《ぎ》や靴《くつ》や財《さい》布《ふ》やネクタイピンは、あっちの枝《えだ》にぶらさがったり、こっちの根《ね》もとにちらばったりしています。風がどうと吹《ふ》いてきて、草はざわざわ、木の葉《は》はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
犬がふうとうなって戻《もど》ってきました。
そしてうしろからは、
「旦《だん》那《な》あ、旦那あ。」と叫《さけ》ぶものがあります。
二人は俄《にわ》かに元気がついて、
「おおい、おおい、ここだぞ、早く来い。」と叫びました。
簔《みの》帽《ぼう》子《し》をかぶった専《せん》門《もん》の猟《りよう》師《し》が、草をざわざわ分けてやってきました。
そこで二人はやっと安《あん》心《しん》しました。
そして猟師のもってきた団《だん》子《ご》をたべ、途《と》中《ちゆう》で十円だけ山鳥を買って東京に帰りました。
しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯《ゆ》にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。
烏《からす》の北《ほく》斗《と》七《しち》星《せい》
つめたいいじの悪《わる》い雲が、地べたにすれすれに垂《た》れましたので、野はらは雪のあかりだか、日のあかりだか判《わか》らないようになりました。
烏の義《ぎ》勇《ゆう》艦《かん》隊《たい》は、その雲に圧《お》しつけられて、しかたなくちょっとの間、亜鉛《トタン》の板《いた》をひろげたような雪の田《たん》圃《ぼ》のうえに横《よこ》にならんで仮《か》泊《はく》ということをやりました。
どの艦《ふね》もすこしも動《うご》きません。
まっ黒くなめらかな烏の大《たい》尉《い*》、若《わか》い艦《かん》隊《たい》長《ちよう》もしゃんと立ったままうごきません。
からすの大《だい》監《かん》督《とく》はなおさらうごきもゆらぎもいたしません。からすの大監督は、もうずいぶんの年《とし》老《よ》りです。眼《め》が灰《はい》いろになってしまっていますし、啼《な》くとまるで悪い人形のようにギイギイ云《い》います。
それですから、烏の年齢《とし》を見分ける法《ほう》を知らない一人《ひとり》の子《こ》供《ども》が、いつか斯《こ》う云《い》ったのでした。
「おい、この町には咽喉《のど》のこわれた烏が二疋《ひき》いるんだよ。おい。」これはたしかに間《ま》違《ちが》いで、一疋《ぴき》しか居《お》りませんでしたし、それも決《けつ》してのどが壊《こわ》れたのではなく、あんまり永《なが》い間、空で号《ごう》令《れい》したために、すっかり声が錆《さ》びたのです。それですから烏《からす》の義《ぎ》勇《ゆう》艦《かん》隊《たい》は、その声をあらゆる音の中で一《いつ》等《とう》だと思っていました。
雪のうえに、仮《か》泊《はく》ということをやっている烏の艦隊は、石ころのようです。胡《ご》麻《ま》つぶのようです。また望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》でよくみると、大きなのや小さなのがあって馬《ば》鈴《れい》薯《しよ*》のようです。
しかしだんだん夕方になりました。
雲がやっと少し上の方にのぼりましたので、とにかく烏の飛《と》ぶくらいのすき間《ま》ができました。
そこで大《だい》監《かん》督《とく》が息《いき》を切らして号《ごう》令《れい》を掛《か》けます。
「演《えん》習《しゆう》はじめぃおいっ、出《しゆつ》発《ぱつ》。」
艦《かん》隊《たい》長《ちよう》烏《からす》の大《たい》尉《い》が、まっさきにぱっと雪を叩《たた》きつけて飛《と》びあがりました。烏の大尉の部《ぶ》下《か》が十八隻《せき》、順《じゆん》々《じゆん》に飛びあがって大尉に続《つづ》いてきちんと間《かん》隔《かく》をとって進《すす》みました。
それから戦《せん》闘《とう》艦隊が三十二隻、次《つぎ》々《つぎ》に出発し、その次に大監督の大艦長が厳《おごそ》かに舞《ま》いあがりました。
そのときはもうまっ先の烏の大尉は、四《し》へんほど空で螺旋《うず》を巻《ま》いてしまって雲の鼻《はな》っ端《ぱし》まで行って、そこからこんどはまっ直《す》ぐに向《むこ》うの杜《もり》に進《すす》むところでした。
二十九隻《せき》の巡《じゆん》洋《よう》艦《かん*》、二十四隻の砲《ほう》艦《かん*》が、だんだんだんだん飛《と》びあがりました。おしまいの二隻は、いっしょに出《しゆつ》発《ぱつ》しました。ここらがどうも烏《からす》の軍《ぐん》隊《たい》の不《ふ》規《き》律《りつ》なところです。
烏の大《たい》尉《い》は、杜のすぐ近くまで行って、左に曲《ま》がりました。
そのとき烏の大《だい》監《かん》督《とく》が、「大《たい》砲《ほう》撃《う》てっ。」と号《ごう》令《れい》しました。
艦隊は一《いつ》斉《せい》に、があがあがあがあ、大砲をうちました。
大砲をうつとき、片《かた》脚《あし》をぷんとうしろへ挙《あ》げる艦《ふね》は、この前のニダナトラの戦《せん》役《えき》での負《ふ》傷《しよう》兵《へい》で、音がまだ脚《あし》の神《しん》経《けい》にひびくのです。
さて、空を大きく四《し》へん廻《まわ》ったとき、大監督が、
「分《わか》れっ、解《かい》散《さん》。」と云《い》いながら、列《れつ》をはなれて杉《すぎ》の木の大監督官《かん》舎《しや》におりました。みんな列《れつ》をほごしてじぶんの営《えい》舎《しや》に帰りました。
烏の大尉は、けれども、すぐに自分の営舎に帰らないで、ひとり、西のほうのさいかちの木に行きました。
雲はうす黒く、ただ西の山のうえだけ濁《にご》った水色の天の淵《ふち》がのぞいて底《そこ》光《びか》りしています。そこで烏仲《なか》間《ま》でマシリイ《*》と呼《よ》ぶ銀《ぎん》の一つ星がひらめきはじめました。
烏の大《たい》尉《い》は、矢のようにさいかちの枝《えだ》に下《お》りました。その枝に、さっきからじっと停《とま》って、ものを案《あん》じている烏があります。それはいちばん声のいい砲《ほう》艦《かん》で、烏の大尉の許嫁《いいなずけ》でした。
「があがあ、遅《おそ》くなって失《しつ》敬《けい》。今日《きよう》の演《えん》習《しゆう》で疲《つか》れないかい。」
「かあお、ずいぶんお待《ま》ちしたわ。いっこうつかれなくてよ。」
「そうか。それは結《けつ》構《こう》だ。しかしおれはこんどしばらくおまえと別《わか》れなければなるまいよ。」
「あら、どうして、まあ大へんだわ。」
「戦《せん》闘《とう》艦《かん》隊《たい》長《ちよう》のはなしでは、おれはあした山《やま》烏《がらす*》を追《お》いに行《ゆ》くのだそうだ。」
「まあ、山烏は強《つよ》いのでしょう。」
「うん、眼《め》玉《だま》が出しゃばって、嘴《くちばし》が細くて、ちょっと見《み》掛《か》けは偉《えら》そうだよ。しかし訳《わけ》ないよ。」
「ほんとう。」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》さ。しかしもちろん戦《せん》争《そう》のことだから、どういう張《はり》合《あい》でどんなことがあるかもわからない。そのときはおまえはね、おれとの約《やく》束《そく》はすっかり消《き》えたんだから、外《ほか》へ嫁《い》ってくれ。」
「あら、どうしましょう。まあ、大へんだわ。あんまりひどいわ、あんまりひどいわ。それではあたし、あんまりひどいわ、かあお、かあお、かあお、かあお。」
「泣《な》くな、みっともない。そら、たれか来た。」
烏《からす》の大《たい》尉《い》の部《ぶ》下《か》、烏の兵《へい》曹《そう》長《ちよう*》が急《いそ》いでやってきて、首をちょっと横《よこ》にかしげて礼《れい》をして云《い》いました。
「があ、艦《かん》長《ちよう》殿《どの》、点《てん》呼《こ》の時間でございます。一同整《せい》列《れつ》しております。」
「よろしい、本《ほん》艦《かん》は即《そつ》刻《こく》帰《き》隊《たい》する。おまえは先に帰ってよろしい。」
「承《しよう》知《ち》いたしました。」兵曹長は飛《と》んで行きます。
「さあ、泣《な》くな。あした、も一《いち》度《ど》列《れつ》の中で会《あ》えるだろう。
丈《じよう》夫《ぶ》でいるんだぞ。おい、お前ももう点呼だろう、すぐ帰らなくてはいかん。手を出せ。」
二疋《ひき》はしっかり手を握《にぎ》りました。大尉はそれから枝《えだ》をけって、急《いそ》いでじぶんの隊《たい》に帰りました。娘《むすめ》の烏は、もう枝に凍《こお》り着《つ》いたように、じっとして動《うご》きません。
夜になりました。
それから夜中になりました。
雲がすっかり消《き》えて、新らしく灼《や》かれた鋼《はがね》の空に、つめたいつめたい光がみなぎり、小さな星がいくつか聯《れん》合《ごう》して爆《ばく》発《はつ》をやり、水《すい》車《しや》の心《しん》棒《ぼう》がキイキイ云《い》います。
とうとう薄《うす》い鋼の空に、ピチリと裂罅《ひび》がはいって《*》、まっ二つに開《ひら》き、その裂《さ》け目から、あやしい長い腕《うで》がたくさんぶら下がって、烏《からす》を握《つか》んで空の天《てん》井《じよう》の向《むこ》う側《がわ》へ持《も》って行こうとします。烏の義《ぎ》勇《ゆう》艦《かん》隊《たい》はもう総《そう》掛《がか》りです。みんな急いで黒い股《もも》引《ひき》をはいて一生けん命《めい》宙《ちゆう》をかけめぐります。兄《あに》貴《き》の烏も弟をかばう暇《ひま》がなく、恋《こい》人《びと》同《どう》志《し》もたびたびひどくぶっつかり合います。
いや、ちがいました。
そうじゃありません。
月が出たのです。青いひしげた二十日《はつか》の月が、東の山から泣《な》いて登《のぼ》ってきたのです。そこで烏の軍《ぐん》隊《たい》はもうすっかり安《あん》心《しん》してしまいました。
たちまち杜《もり》はしずかになって、ただおびえて脚《あし》をふみはずした若《わか》い水《すい》兵《へい》が、びっくりして眼《め》をさまして、があと一《いつ》発《ぱつ》、ねぼけ声の大《たい》砲《ほう》を撃《う》つだけでした。
ところが烏の大《たい》尉《い》は、眼《め》が冴《さ》えて眠《ねむ》れませんでした。
「おれはあした戦《せん》死《し》するのだ。」大尉は呟《つぶ》やきながら、許嫁《いいなずけ》のいる杜の方にあたまを曲《ま》げました。
その昆《こん》布《ぶ》のような黒いなめらかな梢《こずえ》の中では、あの若《わか》い声のいい砲《ほう》艦《かん》が、次《つぎ》から次といろいろな夢《ゆめ》を見ているのでした。
烏《からす》の大《たい》尉《い》とただ二人《ふたり》、ばたばた羽をならし、たびたび顔を見合せながら、青黒い夜の空を、どこまでもどこまでものぼって行きました。もうマジエル《*》様《さま》と呼《よ》ぶ烏の北《ほく》斗《と》七《しち》星《せい》が、大きく近くなって、その一つの星のなかに生《は》えている青じろい苹果《りんご》の木さえ、ありありと見えるころ、どうしたわけか二人とも、急《きゆう》にはねが石のようにこわばって、まっさかさまに落《お》ちかかりました。マジエル様と叫《さけ》びながら愕《おど》ろいて眼《め》をさましますと、ほんとうにからだが枝《えだ》から落ちかかっています。急《いそ》いではねをひろげ姿《し》勢《せい》を直し、大尉の居《い》る方を見ましたが、またいつかうとうとしますと、こんどは山《やま》烏《がらす》が鼻《はな》眼鏡《めがね》などをかけてふたりの前にやって来て、大尉に握《あく》手《しゆ》しようとします。大尉が、いかんいかん、と云《い》って手をふりますと、山烏はピカピカする拳銃《ピストル》を出していきなりずどんと大尉を射《い》殺《ころ》し、大尉はなめらかな黒い胸《むね》を張《は》って倒《たお》れかかります、マジエル様と叫《さけ》びながらまた愕《おどろ》いて眼《め》をさますというあんばいでした。
烏の大尉はこちらで、その姿勢を直すはねの音から、そらのマジエルを祈《いの》る声まですっかり聴《き》いておりました。
じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマジエルの星を仰《あお》ぎながら、ああ、あしたの戦《たたかい》でわたくしが勝《か》つことがいいのか、山烏がかつのがいいのかそれはわたくしにわかりません、ただあなたのお考《かんがえ》のとおりです、わたくしはわたくしにきまったように力いっぱいたたかいます、みんなみんなあなたのお考のとおりですとしずかに祈《いの》っておりました。そして東のそらには早くも少しの銀《ぎん》の光が湧《わ》いたのです。
ふと遠い冷《つめ》たい北の方で、なにか鍵《かぎ》でも触《ふ》れあったようなかすかな声がしました。烏《からす》の大《たい》尉《い》は夜間《ナイト》双眼鏡《グラス*》を手早く取《と》って、きっとそっちを見ました。星あかりのこちらのぼんやり白い峠《とうげ》の上に、一本の栗《くり》の木が見えました。その梢《こずえ》にとまって空を見あげているものは、たしかに敵《てき》の山烏です。大尉の胸は勇《いさ》ましく躍《おど》りました。
「があ、非《ひ》常《じよう》召《しよう》集《しゆう》、があ、非常召集。」
大尉の部《ぶ》下《か》はたちまち枝《えだ》をけたてて飛《と》びあがり大尉のまわりをかけめぐります。
「突《とつ》貫《かん》。」烏の大尉は先《せん》登《とう》になってまっしぐらに北へ進《》みました。
もう東の空はあたらしく研《と》いだ鋼《はがね》のような白《しろ》光《びかり》です。
山烏はあわてて枝をけ立てました。そして大きくはねをひろげて北の方へ遁《に》げ出そうとしましたが、もうそのときは駆《く》逐《ちく》艦《かん*》たちはまわりをすっかり囲《かこ》んでいました。
「があ、があ、があ、があ、があ。」大《たい》砲《ほう》の音は耳もつんぼになりそうです。山烏は仕《し》方《かた》なく足をぐらぐらしながら上の方へ飛びあがりました。大尉はたちまちそれに追《お》い付《つ》いて、そのまっくろな頭に鋭《するど》く一《ひと》突《つ》き食《く》らわせました。山烏はよろよろっとなって地《じ》面《めん》に落《お》ちかかりました。そこを兵《へい》曹《そう》長《ちよう》が横《よこ》からもう一《ひと》突《つ》きやりました。山烏は灰《はい》いろのまぶたをとじ、あけ方《がた》の峠《とうげ》の雪の上につめたく横《よこた》わりました。
「があ、兵曹長。その死《し》骸《がい》を営《えい》舎《しや》までもって帰るように。があ。引き揚《あ》げっ。」
「かしこまりました。」強《つよ》い兵曹長はその死骸を提《さ》げ、烏《からす》の大《たい》尉《い》はじぶんの杜《もり》の方に飛びはじめ十八隻《せき》はしたがいました。
杜に帰って烏の駆《く》逐《ちく》艦《かん》は、みなほうほう白い息《いき》をはきました。
「けがは無《な》いか。誰《たれ》かけがしたものは無いか。」烏の大尉はみんなをいたわってあるきました。
夜がすっかり明けました。
桃《もも》の果汁《しる》のような陽《ひ》の光は、まず山の雪にいっぱいに注《そそ》ぎ、それからだんだん下に流《なが》れて、ついにはそこらいちめん、雪のなかに白《しろ》百合《ゆり》の花を咲《さ》かせました。
ぎらぎらの太《たい》陽《よう》が、かなしいくらいひかって、東の雪の丘《おか》の上に懸《かか》りました。
「観《かん》兵《ぺい》式《しき》、用《よう》意《い》っ、集《あつま》れい。」大《だい》監《かん》督《とく》が叫《さけ》びました。
「観兵式、用意っ、集れい。」各《かく》艦《かん》隊《たい》長《ちよう》が叫びました。
みんなすっかり雪のたんぼにならびました。
烏の大尉は列《れつ》からはなれて、ぴかぴかする雪の上を、足をすくすく延《の》ばしてまっすぐに走って大《だい》監《かん》督《とく》の前に行きました。
「報《ほう》告《こく》、きょうあけがた、セピラの峠《とうげ》の上に敵《てき》艦《かん》の碇《てい》泊《はく》を認《みと》めましたので、本《ほん》艦《かん》隊《たい》は直《ただ》ちに出《しゆつ》動《どう》、撃《げき》沈《ちん》いたしました。わが軍《ぐん》死《し》者《しや》なし。報告終《おわ》りっ。」
駆《く》逐《ちく》艦《かん》隊《たい》はもうあんまりうれしくて、熱《あつ》い涙《なみだ》をぼろぼろ雪の上にこぼしました。
烏《からす》の大監督も、灰《はい》いろの眼《め》から泪《なみだ》をながして云《い》いました。
「ギイギイ、ご苦《く》労《ろう》だった。ご苦労だった。よくやった。もうおまえは少《しよう》佐《さ*》になってもいいだろう。おまえの部《ぶ》下《か》の叙《じよ》勲《くん》はおまえにまかせる。」
烏の新しい少佐は、お腹《なか》が空《す》いて山から出て来て、十九隻《せき》に囲《かこ》まれて殺《ころ》された、あの山《やま》烏《がらす》を思い出して、あたらしい泪《なみだ》をこぼしました。
「ありがとうございます。就《つい》ては敵《てき》の死《し》骸《がい》を葬《ほうむ》りたいとおもいますが、お許《ゆる》しくださいましょうか。」
「よろしい。厚《あつ》く葬ってやれ。」
烏の新らしい少佐は礼《れい》をして大監督の前をさがり、列《れつ》に戻《もど》って、いまマジエルの星の居《い》るあたりの青ぞらを仰《あお》ぎました。(ああ、マジエル様《さま》、どうか憎《にく》むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世《せ》界《かい》がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂《さ》かれてもかまいません。)マジエルの星が、ちょうど来ているあたりの青ぞらから、青いひかりがうらうらと湧《わ》きました。
美《うつく》しくまっ黒な砲《ほう》艦《かん》の烏《からす》は、そのあいだ中《じゆう》、みんなといっしょに、不《ふ》動《どう》の姿《し》勢《せい》をとって列《なら》びながら、始《し》終《じゆう》きらきらきらきら涙《なみだ》をこぼしました。砲《ほう》艦《かん》長《ちよう》はそれを見ないふりしていました。あしたから、また許嫁《いいなずけ》といっしょに、演《えん》習《しゆう》ができるのです。あんまりうれしいので、たびたび嘴《くちばし》を大きくあけて、まっ赤《か》に日光に透《す》かせましたが、それも砲艦長は横を向《む》いて見《み》逃《のが》していました。
水《すい》仙《せん》月《づき*》の四《よつ》日《か》
雪《ゆき》婆《ば》んごは、遠くへ出かけておりました。
猫《ねこ》のような耳をもち、ぼやぼやした灰《はい》いろの髪《かみ》をした雪婆んごは、西の山《さん》脈《みやく》の、ちぢれたぎらぎらの雲を越《こ》えて、遠くへでかけていたのです。
ひとりの子《こ》供《ども》が、赤い毛布《ケツト*》にくるまって、しきりにカ《ヽ》リ《ヽ》メ《ヽ》ラ《ヽ*》のことを考えながら、大きな象《ぞう》の頭のかたちをした、雪《ゆき》丘《おか*》の裾《すそ》を、せかせかうちの方へ急《いそ》いでおりました。
(そら、新聞紙を尖《とが》ったかたちに巻《ま》いて、ふうふうと吹《ふ》くと、炭《すみ》からまるで青《あお》火《び》が燃《も》える。ぼくはカリメラ鍋《なべ》に赤《あか》砂《さ》糖《とう》を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮《に》るんだ。)ほんとうにもう一生けん命《めい》、こどもはカリメラのことを考えながらうちの方へ急いでいました。
お日さまは、空のずうっと遠くのすきとおったつめたいとこで、まばゆい白い火を、どしどしお焚《た》きなさいます。
その光はまっすぐに四方に発《はつ》射《しや》し、下の方に落《お》ちて来ては、ひっそりした台地の雪を、いちめんまばゆい雪《せつ》花《か》石《せつ》膏《こう*》の板《いた》にしました。
二疋《ひき》の雪《ゆき》狼《おいの*》が、べろべろまっ赤《か》な舌《した》を吐《は》きながら、象《ぞう》の頭のかたちをした、雪《ゆき》丘《おか》の上の方をあるいていました。こいつらは人の眼《め》には見えないのですが、一ぺん風に狂《くる》い出すと、台地のはずれの雪の上から、すぐぼやぼやの雪雲をふんで、空をかけまわりもするのです。
「しゅ、あんまり行っていけないったら。」雪狼のうしろから白《しろ》熊《くま》の毛《け》皮《がわ》の三《さん》角《かく》帽《ぼう》子《し》をあみだにかぶり、顔を苹果《りんご》のようにかがやかしながら、雪《ゆき》童子《わらす》がゆっくり歩いて来ました。
雪狼どもは頭をふってくるりとまわり、またまっ赤な舌《した》を吐《は》いて走りました。
「カシオピイア《*》、
もう水《すい》仙《せん》が咲《さ》き出すぞ
おまえのガラスの水《みず》車《ぐるま》
きっきとまわせ。」雪童子はまっ青なそらを見あげて見えない星に叫《さけ》びました。その空からは青びかりが波《なみ》になってわくわくと降《ふ》り、雪狼どもは、ずうっと遠くで焔《ほのお》のように赤い舌をべろべろ吐いています。
「しゅ、戻《もど》れったら、しゅ。」雪童子がはねあがるようにして叱《しか》りましたら、いままで雪にくっきり落《お》ちていた雪《ゆき》童子《わらす》の影《かげ》法《ぼう》師《し》は、ぎらっと白いひかりに変《かわ》り、狼《おいの》どもは耳をたてて一さんに戻《もど》ってきました。
「アンドロメダ《*》、
あぜみの花《*》がもう咲《さ》くぞ、
おまえのランプのアルコオル《*》、
しゅうしゅと噴《ふ》かせ。」
雪童子は、風のように象《ぞう》の形の丘《おか》にのぼりました。雪には風で介《かい》殻《がら》のようなかたがつき、その頂《いただき》には、一本の大きな栗《くり》の木が、美《うつく》しい黄金《きん》いろのやどりぎ《*》のまりをつけて立っていました。
「とっといで。」雪童子が丘《おか》をのぼりながら云《い》いますと、一疋《ぴき》の雪《ゆき》狼《おいの》は、主《しゆ》人《じん》の小さな歯《は》のちらっと光るのを見るや、ごむまりのようにいきなり木にはねあがって、その赤い実《み》のついた小さな枝《えだ》を、がちがち噛《か》じりました。木の上でしきりに頸《くび》をまげている雪狼の影法師は、大きく長く丘の雪に落ち、枝はとうとう青い皮《かわ》と、黄いろの心《しん》とをちぎられて、いまのぼってきたばかりの雪童子の足もとに落ちました。
「ありがとう。」雪童子はそれをひろいながら、白と藍《あい》いろの野はらにたっている、美《うつく》しい町をはるかにながめました。川がきらきら光って、停《てい》車《しや》場《ば》からは白い煙《けむり》もあがっていました。雪《ゆき》童子《わらす》は眼《め》を丘《おか》のふもとに落《おと》しました。その山《やま》裾《すそ》の細い雪みちを、きっきの赤《あか》毛布《ケツト》を着《き》た子《こ》供《ども》が、一しんに山のうちの方へ急《いそ》いでいるのでした。
「あいつは昨日《きのう》、木炭《すみ》のそりを押《お》して行った。砂《さ》糖《とう》を買って、じぶんだけ帰ってきたな。」 雪童子はわらいながら、手にもっていたやどりぎの枝《えだ》を、ぷいっとこどもになげつけました。枝はまるで弾丸《たま》のようにまっすぐに飛《と》んで行って、たしかに子供の目の前に落ちました。
子供はびっくりして枝をひろって、きょろきょろあちこちを見まわしています。雪童子はわらって革《かわ》むちを一つひゅうと鳴らしました。
すると、雲もなく研《みが》きあげられたような群《ぐん》青《じよう》の空から、まっ白な雪が、さぎの毛のように、いちめんに落ちてきました。それは下の平《へい》原《げん》の雪や、ビール色の日光、茶《ちや》いろのひのきでできあがった、しずかな奇《き》麗《れい》な日曜日を、一そう美《うつく》しくしたのです。
子供は、やどりぎの枝をもって、一生けん命《めい》にあるきだしました。
けれども、その立《りつ》派《ぱ》な雪が落ち切ってしまったころから、お日さまはなんだか空の遠くの方へお移《うつ》りになって、そこのお旅《たび》屋《や*》で、あのまばゆい白い火を、あたらしくお焚《た》きなされているようでした。
そして西《にし》北《きた》の方からは、少し風が吹《ふ》いてきました。
もうよほど、そらも冷《つめ》たくなってきたのです。東の遠くの海の方では、空の仕《し》掛《か》けを外《はず》したような、ちいさなカタッという音が聞え、いつかまっしろな鏡《かがみ》に変《かわ》ってしまったお日さまの面《めん》を、なにかちいさなものがどんどんよこ切って行《ゆ》くようです。
雪《ゆき》童子《わらす》は革《かわ》むちをわきの下にはさみ、堅《かた》く腕《うで》を組み、唇《くちびる》を結《むす》んで、その風の吹《ふ》いて来る方をじっと見ていました。狼《おいの》どもも、まっすぐに首をのばして、しきりにそっちを望《のぞ》みました。
風はだんだん強くなり、足もとの雪は、さらさらさらさらうしろへ流《なが》れ、間もなく向《むこ》うの山《さん》脈《みやく》の頂《いただき》に、ぱっと白いけむりのようなものが立ったとおもうと、もう西の方は、すっかり灰《はい》いろに暗《くら》くなりました。
雪童子の眼《め》は、鋭《するど》く燃《も》えるように光りました。それはすっかり白くなり、風はまるで引き裂《さ》くよう、早くも乾《かわ》いたこまかな雪がやって来ました。そこらはまるで灰いろの雪でいっぱいです。雪だか雲だかもわからないのです。
丘《おか》の稜《かど》は、もうあっちもこっちも、みんな一《いち》度《ど》に、軋《きし》るように切るように鳴り出しました。 地《ち》平《へい》線《せん》も町も、みんな暗い烟《けむり》の向うになってしまい、雪童子の白い影《かげ》ばかり、ぼんやりまっすぐに立っています。
その裂くような吼《ほ》えるような風の音の中から、
「ひゅう、なにをぐずぐずしているの。さあ降《ふ》らすんだよ。降らすんだよ。ひゅうひゅうひゅう、ひゅひゅう、降らすんだよ、飛《と》ばすんだよ、なにをぐずぐずしているの。こんなに急《いそ》がしいのにさ。ひゅう、ひゅう、向《むこ》うからさえわざと三人連《つ》れてきたじゃないか。さあ、降らすんだよ。ひゅう。」あやしい声がきこえてきました。
雪《ゆき》童子《わらす》はまるで電気にかかったように飛《と》びたちました。雪《ゆき》婆《ば》んごがやってきたのです。
ぱちっ、雪童子の革《かわ》むちが鳴りました。狼《おいの》どもは一ぺんにはねあがりました。雪わらすは顔いろも青ざめ、唇《くちびる》も結《むす》ばれ、帽《ぼう》子《し》も飛んでしまいました。
「ひゅう、ひゅう、さあしっかりやるんだよ。なまけちゃいけないよ。ひゅう、ひゅう。さあしっかりやっておくれ。今日はここらは水《すい》仙《せん》月《づき》の四《よつ》日《か》だよ。さあしっかりさ。ひゅう。」
雪婆んごの、ぼやぼやつめたい白《しら》髪《が》は、雪と風とのなかで渦《うず》になりました。どんどんかける黒雲の間から、その尖《とが》った耳と、ぎらぎら光る黄金《きん》の眼《め》も見えます。
西の方の野原から連《つ》れて来られた三人の雪童子も、みんな顔いろに血《ち》の気《け》もなく、きちっと唇を噛《か》んで、お互《たがい》挨《あい》拶《さつ》さえも交《か》わさずに、もうつづけざませわしく革むちを鳴らし行ったり来たりしました。もうどこが丘《おか》だか雪けむりだか空だかさえもわからなかったのです。聞えるものは雪《ゆき》婆《ば》んごのあちこち行ったり来たりして叫《さけ》ぶ声、お互《たがい》の革《かわ》鞭《むち》の音、それからいまは雪の中をかけあるく九《く》疋《ひき》の雪《ゆき》狼《おいの》どもの息《いき》の音ばかり、そのなかから雪《ゆき》童子《わらす》はふと、風にけされて泣《な》いているさっきの子《こ》供《ども》の声をききました。
雪童子の瞳《ひとみ》はちょっとおかしく燃《も》えました。しばらくたちどまって考えていましたがいきなり烈《はげ》しく鞭をふってそっちへ走ったのです。
けれどもそれは方角がちがっていたらしく雪童子はずうっと南の方の黒い松《まつ》山《やま》にぶっつかりました。雪童子は革むちをわきにはさんで耳をすましました。
「ひゅう、ひゅう、なまけちゃ承《しよう》知《ち》しないよ。降らすんだよ、降らすんだよ。さあ、ひゅう。今日は水《すい》仙《せん》月《づき》の四《よつ》日《か》だよ。ひゅう、ひゅう、ひゅう、ひゅうひゅう。」
そんなはげしい風や雪の声の間からすきとおるような泣《なき》声《ごえ》がちらっとまた聞えてきました。雪童子はまっすぐにそっちへかけて行きました。雪婆んごのふりみだした髪《かみ》が、その顔に気みわるくさわりました。峠《とうげ》の雪の中に、赤い毛布《ケツト》をかぶったさっきの子が、風にかこまれて、もう足を雪から抜《ぬ》けなくなってよろよろ倒《たお》れ、雪に手をついて、起《お》きあがろうとして泣いていたのです。
「毛布をかぶって、うつ向《む》けになっておいで。毛布をかぶって、うつむけになっておいで。ひゅう。」雪童子は走りながら叫《さけ》びました。けれどもそれは子どもにはただ風の声ときこえ、そのかたちは眼《め》に見えなかったのです。
「うつむけに倒《たお》れておいで。ひゅう。動《うご》いちゃいけない。じきやむからけっとをかぶって倒れておいで。」雪わらすはかけ戻《もど》りながらまた叫《さけ》びました。子どもはやっぱり起《お》きあがろうとしてもがいていました。
「倒れておいで、ひゅう、だまってうつむけに倒れておいで、今日はそんなに寒《さむ》くないんだから凍《こご》やしない。」
雪《ゆき》童子《わらす》は、も一ど走り抜《ぬ》けながら叫びました。子供は口をびくびくまげて泣《な》きながらまた起きあがろうとしました。
「倒れているんだよ。だめだねえ。」雪童子は向《むこ》うからわざとひどくつきあたって子どもを倒しました。
「ひゅう、もっとしっかりやっておくれ、なまけちゃいけない。さあ、ひゅう。」
雪《ゆき》婆《ば》んごがやってきました。その裂《さ》けたように紫《むらさき》な口も尖《とが》った歯《は》もぼんやり見えました。
「おや、おかしな子がいるね、そうそう、こっちへとっておしまい。水《すい》仙《せん》月《づき》の四《よつ》日《か》だもの、一人や二人とったっていいんだよ。」
「ええ、そうです。さあ、死《し》んでしまえ。」雪童子はわざとひどくぶっつかりながらまたそっと云《い》いました。
「倒《たお》れているんだよ。動《うご》いちゃいけない。動いちゃいけないったら。」
狼《おいの》どもが気ちがいのようにかけめぐり、黒い足は雪雲の間からちらちらしました。
「そうそう、それでいいよ。さあ、降《ふ》らしておくれ。なまけちゃ承《しよう》知《ち》しないよ。ひゅうひゅうひゅう、ひゅひゅう。」雪《ゆき》婆《ば》んごは、また向《むこ》うへ飛《と》んで行きました。
子《こ》供《ども》はまた起《お》きあがろうとしました。雪《ゆき》童子《わらす》は笑《わら》いながら、も一《いち》度《ど》ひどくつきあたりました。もうそのころは、ぼんやり暗《くら》くなって、まだ三時にもならないに、日が暮《く》れるように思われたのです。こどもは力もつきて、もう起きあがろうとしませんでした。雪童子は笑いながら、手をのばして、その赤い毛布《ケツト》を上からすっかりかけてやりました。
「そうして睡《ねむ》っておいで。布《ふ》団《とん》をたくさんかけてあげるから。そうすれば凍《こご》えないんだよ。あしたの朝までカリメラの夢《ゆめ》を見ておいで。」
雪わらすは同じとこを何べんもかけて、雪をたくさんこどもの上にかぶせました。まもなく赤い毛布も見えなくなり、あたりとの高さも同じになってしまいました。
「あのこどもは、ぼくのやったやどりぎをもっていた。」雪童子はつぶやいて、ちょっと泣《な》くようにしました。
「さあ、しっかり、今日は夜の二時までおやすみなしだよ。ここらは水《すい》仙《せん》月《づき》の四《よつ》日《か》なんだから、やすんじゃいけない。さあ、降《ふ》らしておくれ。ひゅう、ひゅうひゅう、ひゅひゅう。」
雪《ゆき》婆《ば》んごはまた遠くの風の中で叫《さけ》びました。
そして、風と雪と、ぼさぼさの灰《はい》のような雲のなかで、ほんとうに日は暮《く》れ雪は夜じゅう降って降って降ったのです。やっと夜明けに近いころ、雪婆んごはも一《いち》度《ど》、南から北へまっすぐに馳《は》せながら云《い》いました。
「さあ、もうそろそろやすんでいいよ。あたしはこれからまた海の方へ行くからね、だれもついて来ないでいいよ。ゆっくりやすんでこの次《つぎ》の支《し》度《たく》をしておいておくれ。ああまあいいあんばいだった。水仙月の四日がうまく済《す》んで。」
その眼《め》は闇《やみ》のなかでおかしく青く光り、ばさばさの髪《かみ》を渦《うず》巻《ま》かせ口をびくびくしながら、東の方へかけて行きました。
野はらも丘《おか》もほっとしたようになって、雪は青じろくひかりました。空もいつかすっかり霽《は》れて、桔《き》梗《きよう》いろ《*》の天《てん》球《きゆう》には、いちめんの星《せい》座《ざ》がまたたきました。
雪《ゆき》童子《わらす》は、めいめい自分の狼《おいの》をつれて、はじめてお互《たがい》挨《あい》拶《さつ》しました。
「ずいぶんひどかったね。」
「ああ。」
「こんどはいつ会《あ》うだろう。」
「いつだろうねえ、しかし今《こ》年《とし》中《じゆう》に、もう二へんぐらいのもんだろう。」
「早くいっしょに北へ帰りたいね。」
「ああ。」
「さっき子供がひとり死《し》んだな。」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ。眠《ねむ》ってるんだ。あしたあすこへぼくしるしをつけておくから。」
「ああ、もう帰ろう。夜明けまでに向《むこ》うへ行かなくちゃ。」
「まあいいだろう。ぼくね、どうしてもわからない。あいつはカシオペーアの三つ星《*》だろう。みんな青い火なんだろう。それなのに、どうして火がよく燃《も》えれば、雪をよこすんだろう。」
「それはね、電気菓《が》子《し》とおなじだよ。そら、ぐるぐるぐるまわっているだろう。ザラメがみんな、ふわふわのお菓子になるねえ、だから火がよく燃えればいいんだよ。」
「ああ。」
「じゃ、さよなら。」
「さよなら。」
三人の雪《ゆき》童子《わらす》は、九疋《ひき》の雪《ゆき》狼《おいの》をつれて、西の方へ帰って行きました。
まもなく東のそらが黄ばらのように光り、琥《こ》珀《はく*》いろにかがやき、黄金《きん》に燃《も》えだしました。丘《おか》も野原もあたらしい雪でいっぱいです。
雪狼どもはつかれてぐったり座《すわ》っています。雪童子も雪に座ってわらいました。その頬《ほお》は林《りん》檎《ご》のよう、その息《いき》は百合《ゆり》のようにかおりました。
ギラギラのお日さまがお登《のぼ》りになりました。今朝《けさ》は青《あお》味《み》がかって一そう立《りつ》派《ぱ》です。日光は桃《もも》いろにいっぱいに流《なが》れました。雪狼は起《お》きあがって大きく口をあき、その口からは青い焔《ほのお》がゆらゆらと燃《も》えました。
「さあ、おまえたちはぼくについておいで。夜《よ》があけたから、あの子どもを起《おこ》さなけぁいけない。」
雪童子は走って、あの昨日《きのう》の子《こ》供《ども》の埋《うず》まっているとこへ行きました。
「さあ、ここらの雪をちらしておくれ。」
雪狼どもは、たちまち後《あと》足《あし》で、そこらの雪をけたてました。風がそれをけむりのように飛《と》ばしました。
かんじきをはき毛《け》皮《がわ》を着《き》た人が、村の方から急《いそ》いでやってきました。
「もういいよ。」雪童子は子供の赤い毛布《ケツト》のはじが、ちらっと雪から出たのをみて叫《さけ》びました。
「お父さんが来たよ。もう眼《め》をおさまし。」雪わらすはうしろの丘《おか》にかけあがって一本の雪けむりをたてながら叫《さけ》びました。子どもはちらっとうごいたようでした。そして毛《け》皮《がわ》の人は一生けん命《めい》走ってきました。
山男の四月
山《やま》男《おとこ》は、金いろの眼《め》を皿《さら》のようにし、せなかをかがめて、にしね山《*》のひのき林のなかを、兎《うさぎ》をねらってあるいていました。
ところが、兎はとれないで、山《やま》鳥《どり》がとれたのです。
それは山鳥が、びっくりして飛《と》びあがるとこへ、山男が両《りよう》手《て》をちぢめて、鉄《てつ》砲《ぽう》だまのようにからだを投《な》げつけたものですから、山鳥ははんぶん潰《つぶ》れてしまいました。
山男は顔をまっ赤《か》にし、大きな口をにやにやまげてよろこんで、そのぐったり首を垂《た》れた山鳥を、ぶらぶら振《ふ》りまわしながら森から出てきました。
そして日あたりのいい南《みなみ》向《む》きのかれ芝《しば》の上に、いきなり獲《え》物《もの》を投げだして、ばさばさの赤い髪《かみ》毛《け》を指《ゆび》でかきまわしながら、肩《かた》を円《まる》くしてごろりと寝《ね》ころびました。
どこかで小鳥もチッチッと啼《な》き、かれ草のところどころにやさしく咲《さ》いたむらさきいろのかたくりの花もゆれました。
山男は仰《あお》向《む》けになって、碧《あお》いああおい空をながめました。お日さまは赤と黄金《きん》でぶちぶちのやまなし《*》のよう、かれくさのいいにおいがそこらを流れ、すぐうしろの山《さん》脈《みやく》では、雪がこんこんと白い後《ご》光《こう》をだしているのでした。
(飴《あめ》というものはうまいものだ。天《てん》道《と》は飴をうんとこさえているが、なかなかおれにはくれない。)
山男がこんなことをぼんやり考えていますと、その澄《す》みきった碧《あお》いそらをふわふわうるんだ雲が、あてもなく東の方へ飛《と》んで行きました。そこで山男は、のどの遠くの方を、ごろごろならしながら、また考えました。
(ぜんたい雲というものは、風のぐあいで、行ったり来たりぽかっと無《な》くなってみたり、俄《にわ》かにまたでてきたりするもんだ。そこで雲《くも》助《すけ》とこういうのだ。)
そのとき山男は、なんだかむやみに足とあたまが軽《かる》くなって、逆《さか》さまに空気のなかにうかぶような、へんな気もちになりました。もう山男こそ雲助のように、風にながされるのか、ひとりで飛ぶのか、どこというあてもなく、ふらふらあるいていたのです。
(ところがここは七《なな》つ森《もり*》だ。ちゃんと七っつ、森がある。松《まつ》のいっぱい生《は》えてるのもある、坊《ぼう》主《ず》で黄いろなのもある。そしてここまで来てみると、おれはまもなく町へ行く。町へはいって行くとすれば、化《ば》けないとなぐり殺《ころ》される。)
山男はひとりでこんなことを言いながら、どうやら一人《ひとり》まえの木樵《きこり》のかたちに化《ば》けました。そしたらもうすぐ、そこが町の入口だったのです。山男は、まだどうも頭があんまり軽《かる》くて、からだのつりあいがよくないとおもいながら、のそのそ町にはいりました。
入口にはいつもの魚《さかな》屋《や》があって、塩《しお》鮭《ざけ》のきたない俵《たわら》だの、くしゃくしゃになった鰯《いわし》のつらだのが台にのり、軒《のき》には赤ぐろいゆで章魚《だこ》が、五つつるしてありました。その章魚を、もうつくづくと山男はながめたのです。
(あのいぼのある赤い脚《あし》のまがりぐあいは、ほんとうにりっぱだ。郡《ぐん》役《やく》所《しよ》の技《ぎ》手《て》の、乗《じよう》馬《ば》ずぼんをはいた足よりまだりっぱだ。こういうものが、海の底《そこ》の青いくらいところを、大きく眼《め》をあいてはっているのはじっさいえらい。)
山男はおもわず指《ゆび》をくわえて立ちました。するとちょうどそこを、大きな荷《に》物《もつ》をしょった、汚《きた》ない浅《あさ》黄《ぎ》服《ふく》の支《し》那《な》人《じん*》が、きょろきょろあたりを見まわしながら、通りかかって、いきなり山男の肩《かた》をたたいて言いました。
「あなた、支那反《たん》物《もの》よろしいか。六《ろく》神《しん》丸《がん*》たいさんやすい。」
山男はびっくりしてふりむいて、
「よろしい。」とどなりましたが、あんまりじぶんの声がたかかったために、円《まる》い鈎《かぎ》をもち、髪《かみ》をわけ下《げ》駄《た》をはいた魚《さかな》屋《や》の主《しゆ》人《じん》や、けらを着《き》た村の人たちが、みんなこっちを見ているのに気がついて、すっかりあわてて急《いそ》いで手をふりながら、小声で言い直しました。
「いや、そうだない。買う、買う。」
すると支《し》那《な》人《じん》は、
「買わない、それ構《かま》わない、ちょっと見るだけよろしい。」
と言いながら、背《せ》中《なか》の荷《に》物《もつ》をみちのまんなかにおろしました。山男はどうもその支那人のぐちゃぐちゃした赤い眼《め*》が、とかげのようでへんに怖《こわ》くてしかたありませんでした。
そのうちに支那人は、手ばやく荷物へかけた黄いろの 真《さな》田《だ》紐《ひも》をといてふろしきをひらき、行《こう》李《り》の蓋《ふた》をとって反《たん》物《もの》のいちばん上にたくさんならんだ紙《かみ》箱《ばこ》の間から、小さな赤い薬《くすり》瓶《びん》のようなものをつかみだしました。
(おやおや、あの手の指《ゆび》はずいぶん細《ほそ》いぞ。爪《つめ》もあんまり尖《とが》っているしいよいよこわい。)山男はそっとこうおもいました。
支那人はそのうちに、まるで小《こ》指《ゆび》ぐらいあるガラスのコップを二つ出して、ひとつを山男に渡《わた》しました。
「あなた、この薬《くすり》のむよろしい。毒《どく》ない。決《けつ》して毒ない。のむよろしい。わたしさきのむ。心《しん》配《ぱい》ない。わたしビールのむ、お茶のむ、毒のまない。これながいきの薬ある。のむよろしい。」支《し》那《な》人《じん》はもうひとりでかぷっと呑《の》んでしまいました。
山男はほんとうに呑んでいいだろうかとあたりを見ますと、じぶんはいつか町の中でなく、空のように碧《あお》いひろい野原のまんなかに、眼《め》のふちの赤い支那人とたった二人《ふたり》、荷《に》物《もつ》を間に置《お》いて向《むか》いあって立っているのでした。二人のかげがまっ黒に草に落《お》ちました。
「さあ、のむよろしい。ながいきのくすりある。のむよろしい。」支那人は尖《とが》った指《ゆび》をつき出して、しきりにすすめるのでした。山男はあんまり困《こま》ってしまって、もう呑んで遁《に》げてしまおうとおもって、いきなりぷいっとその薬をのみました。するとふしぎなことには、山男はだんだんからだのでこぼこがなくなって、ちぢまって平《たい》らになってちいさくなって、よくしらべてみると、どうもいつかちいさな箱《はこ》のようなものに変って草の上に落《お》ちているらしいのでした。
(やられた、畜《ちく》生《しよう》、とうとうやられた、さっきからあんまり爪《つめ》が尖《とが》ってあやしいとおもっていた。畜生、すっかりうまくだまされた。)山男は口惜《くや》しがってばたばたしようとしましたが、もうただ一《ひと》箱《はこ》の小さな六《ろく》神《しん》丸《がん》ですからどうにもしかたありませんでした。
ところが支《し》那《な》人《じん》のほうは大よろこびです。ひょいひょいと両《りよう》脚《あし》をかわるがわるあげてとびあがり、ぽんぽんと手で足のうらをたたきました。その音はつづみのように、野原の遠くのほうまでひびきました。
それから支那人の大きな手が、いきなり山男の眼《め》の前にでてきたとおもうと、山男はふらふらと高いところにのぼり、まもなく荷《に》物《もつ》のあの紙《かみ》箱《ばこ》の間におろされました。
おやおやとおもっているうちに上からばたっと行《こう》李《り》の蓋《ふた》が落《お》ちてきました。それでも日光は行李の目からうつくしくすきとおって見えました。
(とうとう牢《ろう》におれははいった。それでもやっぱり、お日さまは外で照《て》っている。)山男はひとりでこんなことを呟《つぶ》やいて無《む》理《り》にかなしいのをごまかそうとしました。するとこんどは、急《きゆう》にもっとくらくなりました。
(ははあ、風《ふ》呂《ろ》敷《しき》をかけたな。いよいよ情《なさ》けないことになった。これから暗《くら》い旅《たび》になる。)山男はなるべく落《お》ち着《つ》いてこう言いました。
すると愕《おど》ろいたことは山男のすぐ横《よこ》でものを言うやつがあるのです。
「おまえさんはどこから来なすったね。」
山男ははじめぎくっとしましたが、すぐ、
(ははあ、六《ろく》神《しん》丸《がん》というものは、みんなおれのようなぐあいに人間が薬《くすり》で改《かい》良《りよう》されたもんだな。よしよし。)と考えて、
「おれは魚《さかな》屋《や》の前から来た。」と腹《はら》に力を入れて答えました。すると外から支《し》那《な》人《じん》が噛《か》みつくようにどなりました。
「声あまり高い。しずかにするよろしい。」
山男はさっきから、支那人がむやみにしゃくにさわっていましたので、このときはもう一ぺんにかっとしてしまいました。
「何《なん》だと。何をぬかしやがるんだ。どろぼうめ。きさまが町へはいったら、おれはすぐ、この支那人はあやしいやつだとどなってやる。さあどうだ。」
支那人は、外でしんとしてしまいました。じつにしばらくの間、しいんとしていました。山男はこれは支那人が、両《りよう》手《て》を胸《むね》で重《かさ》ねて泣《な》いているのかなともおもいました。そうしてみると、いままで峠《とうげ》や林のなかで、荷《に》物《もつ》をおろしてなにかひどく考え込《こ》んでいたような支那人は、みんなこんなことを誰《たれ》かに云《い》われたのだなと考えました。山男はもうすっかりかあいそうになって、いまのはうそだよと云おうとしていましたら、外の支那人があわれなしわがれた声で言いました。
「それ、あまり同《どう》情《じよう》ない。わたし商《しよう》売《ばい》たたない。わたしおまんまたべない。わたし往《おう》生《じよう》する、それ、あまり同《どう》情《じよう》ない。」山男はもう支《し》那《な》人《じん》が、あんまり気の毒《どく》になってしまって、おれのからだなどは、支那人が六十銭《せん》もうけて宿《やど》屋《や》に行って、鰯《いわし》の頭や菜《な》っ葉《ぱ》汁《じる》をたべるかわりにくれてやろうと思いながら答えました。
「支那人さん、もういいよ。そんなに泣《な》かなくてもいいよ。おれは町にはいったら、あまり声を出さないようにしよう。安《あん》心《しん》しな。」すると外の支那人は、やっと胸《むね》をなでおろしたらしく、ほうという息《いき》の声も、ぽんぽんと足を叩《たた》いている音も聞えました。それから支那人は、荷《に》物《もつ》をしょったらしく、薬《くすり》の紙《かみ》箱《ばこ》は、互《たがい》にがたがたぶっつかりました。
「おい、誰《たれ》だい。さっきおれにものを云《い》いかけたのは。」
山男が斯《こ》う云いましたら、すぐとなりから返《へん》事《じ》がきました。
「わしだよ。そこできっきの話のつづきだがね、おまえは魚《さかな》屋《や》の前からきたとすると、いま鱸《すずき》が一匹《ぴき》いくらするか、またほしたふかのひれが、十両《テール》に何《なん》片《ぎれ》くるか知ってるだろうな。」
「さあ、そんなものは、あの魚屋には居《い》なかったようだぜ。もっとも章魚《たこ》はあったがなあ。あの章魚の脚《あし》つきはよかったなあ。」
「へい。そんないい章魚かい。わしも章魚は大すきでな。」
「うん、誰《たれ》だって章魚《たこ》のきらいな人はない。あれを嫌《きら》いなくらいなら、どうせろくなやつじゃないぜ。」
「まったくそうだ。章魚ぐらいりっぱなものは、まあ世《せ》界《かい》中《じゆう》にないな。」
「そうさ。お前はいったいどこからきた。」
「おれかい。上《シヤン》海《ハイ》だよ。」
「おまえはするとやっぱり支《し》那《な》人《じん》だろう。支那人というものは薬《くすり》にされたり、薬にしてそれを売ってあるいたり気の毒《どく》なもんだな。」
「そうでない。ここらをあるいてるものは、みんな陳《ちん》のようないやしいやつばかりだが、ほんとうの支那人なら、いくらでもえらいりっぱな人がある。われわれはみな孔《こう》子《し》聖《せい》人《じん*》の末《すえ》なのだ。」
「なんだかわからないが、おもてにいるやつは陳というのか。」
「そうだ。ああ暑《あつ》い、蓋《ふた》をとるといいなあ。」
「うん。よし。おい、陳さん。どうもむし暑くていかんね。すこし風を入れてもらいたいな。」
「もすこし待《ま》つよろしい。」陳が外で言ました。
「早く風を入れないと、おれたちはみんな蒸《む》れてしまう。おまえの損《そん》になるよ。」
すると陳《ちん》が外でおろおろ声を出しました。
「それ、もとも困《こま》る、がまんしてくれるよろしい。」
「がまんも何もないよ、おれたちがすきでむれるんじゃないんだ。ひとりでにむれてしまうさ。早く蓋《ふた》をあけろ。」
「も二十分まつよろしい。」
「えい、仕《し》方《かた》ない。そんならも少し急《いそ》いであるきな。仕方ないな。ここに居《い》るのはおまえだけかい。」
「いいや、まだたくさんいる。みんな泣《な》いてばかりいる。」
「そいつはかあいそうだ。陳はわるいやつだ。なんとかおれたちは、もいちどもとの形にならないだろうか。」
「それはできる。おまえはまだ、骨《ほね》まで六《ろく》神《しん》丸《がん》になっていないから、丸《がん》薬《やく》さえのめばもとへ戻《もど》る。おまえのすぐ横《よこ》に、その黒い丸薬の瓶《びん》がある。」
「そうか。そいつはいい、それではすぐ呑《の》もう。しかし、おまえさんたちはのんでもだめか。」
「だめだ。けれどもおまえが呑んでもとの通りになってから、おれたちをみんな水に漬《つ》けて、よくもんでもらいたい。それから丸薬をのめばきっとみんなもとへ戻る。」
「そうか。よし、引き受《う》けた。おれはきっとおまえたちをみんなもとのようにしてやるからな。丸《がん》薬《やく》というのはこれだな。そしてこっちの瓶《びん》は人間が六《ろく》神《しん》丸《がん》になるほうか。陳《ちん》もさっきおれといっしょにこの水《みず》薬《ぐすり》をのんだがね、どうして六神丸にならなかったろう。」
「それはいっしょに丸薬を呑《の》んだからだ。」
「ああ、そうか。もし陳がこの丸薬だけ呑んだらどうなるだろう。変《かわ》らない人間がまたもとの人間に変るとどうも変《へん》だな。」
そのときおもてで陳が、
「支《し》那《な》たものよろしいか。あなた、支那たもの買うよろしい。」
と云《い》う声がしました。
「ははあ、はじめたね。」山男はそっとこう云っておもしろがっていましたら、俄《にわ》かに蓋《ふた》があいたので、もうまぶしくてたまりませんでした。それでもむりやりそっちを見ますと、ひとりのおかっぱの子《こ》供《ども》が、ぽかんと陳の前に立っていました。
陳はもう丸薬を一つぶつまんで、口のそばへ持《も》って行きながら、水薬とコップを出して、
「さあ、呑むよろしい。これながいきの薬《くすり》ある。さあ呑むよろしい。」とやっています。
「はじめた、はじめた。いよいよはじめた。」行《こう》李《り》のなかでたれかが言いました。
「わたしビール呑《の》む、お茶のむ、毒《どく》のまない。さあ、呑むよろしい。わたしのむ。」
そのとき山男は、丸《がん》薬《やく》を一つぶそっとのみました。すると、めりめりめりめりっ。
山男はすっかりもとのような、赤《あか》髪《がみ》の立《りつ》派《ぱ》なからだになりました。陳《ちん》はちょうど丸薬を水《みず》薬《ぐすり》といっしょにのむところでしたが、あまりびっくりして、水薬はこぼして丸薬だけのみました。さあ、たいへん、みるみる陳のあたまがめらあっと延《の》びて、いままでの倍《ばい》になり、せいがめきめき高くなりました。そして、「わあ。」と云《い》いながら山男につかみかかりました。山男はまんまるになって一生けん命《めい》遁《に》げました。ところがいくら走ろうとしても、足がから走りということをしているらしいのです。とうとうせなかをつかまれてしまいました。
「助《たす》けてくれ、わあ。」と山男が叫《さけ》びました。そして眼《め》をひらきました。みんな夢《ゆめ》だったのです。
雲はひかってそらをかけ、かれ草はかんばしくあたたかです。
山男はしばらくぼんやりして、投《な》げ出してある山《やま》鳥《どり》のきらきらする羽をみたり、六《ろく》神《しん》丸《がん》の紙《かみ》箱《ばこ》を水につけてもむことなど考えていましたがいきなり大きなあくびをひとつして言いました。
「ええ、畜《ちく》生《しよう》、夢《ゆめ》のなかのこった。陳《ちん》も六《ろく》神《しん》丸《がん》もどうにでもなれ。」
それからあくびをもひとつしました。
かしわばやしの夜
清《せい》作《さく》は、さあ日《ひ》暮《ぐ》れだぞ、日暮れだぞと云《い》いながら、稗《ひえ》の根《ね》もとにせっせと土をかけていました。
そのときはもう、銅《あかがね》づくりのお日さまが、南の山《やま》裾《すそ》の群《ぐん》青《じよう》いろをしたとこに落《お》ちて、野はらはへんにさびしくなり 、白《しら》樺《かば》の幹《みき》などもなにか粉《こな》を噴《ふ》いているようでした。
いきなり、向《むこ》うの柏《かしわ》ばやしの方から、まるで調《ちよう》子《し》はずれの途《と》方《ほう》もない変《へん》な声で、
「鬱《う》金《こん》しゃっぽ《*》のカンカラカンのカアン。」とどなるのがきこえました。
清作はびっくりして顔いろを変《か》え、鍬《くわ》をなげすてて、足音をたてないように、そっとそっちへ走って行《ゆ》きました。
ちょうどかしわばやしの前まで来たとき、清作はふいに、うしろからえり首をつかまれました。
びっくりして振《ふ》りむいてみますと、赤いトルコ帽《ぼう*》をかぶり、鼠《ねずみ》いろのへんなだぶだぶの着《き》ものを着て、靴《くつ》をはいた無《む》暗《やみ》にせいの高い眼のするどい画《え》かきが、ぷんぷん怒《おこ》って立っていました。
「何《なん》というざまをしてあるくんだ。まるで這《は》うようなあんばいだ。鼠《ねずみ》のようだ。どうだ、弁《べん》解《かい》のことばがあるか。」
清《せい》作《さく》はもちろん弁解のことばなどはありませんでしたし、面《めん》倒《どう》臭《くさ》くなったら喧《けん》嘩《か》してやろうとおもって、いきなり空を向《む》いて咽喉《のど》いっぱい、
「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」とどなりました。するとそのせ高の画《え》かきは、にわかに清作の首すじを放《はな》して、まるで咆《ほ》えるような声で笑《わら》いだしました。その音は林にこんこんひびいたのです。
「うまい、じつにうまい。どうです、すこし林のなかをあるこうじゃありませんか。そうそう、どちらもまだ挨《あい》拶《さつ》を忘《わす》れていた。ぼくからさきにやろう。いいか、いや今《こん》晩《ばん》は、野はらには小さく切った影《かげ》法《ぼう》師《し》がばら播《ま》きですね、と。ぼくのあいさつはこうだ。わかるかい。こんどは君《きみ》だよ。えへん、えへん。」と云《い》いながら画かきはまた急《きゆう》に意《い》地《じ》悪《わる》い顔つきになって、斜《なな》めに上の方から軽《けい》べつしたように清作を見おろしました。
清作はすっかりどぎまぎしましたが、ちょうど夕がたでおなかが空《す》いて、雲が団《だん》子《ご》のように見えていましたからあわてて、
「えっ、今晩は。よいお晩でございます。えっ。お空はこれから銀《ぎん》のきな粉《こ》でまぶされます。ごめんなさい。」と言いました。
ところが画《え》かきはもうすっかりよろこんで、手をぱちぱち叩《たた》いて、それからはねあがって言いました。
「おい君《きみ》、行こう。林へ行こう。おれは柏《かしわ》の木《き》大《だい》王《おう》のお客《きやく》さまになって来ているんだ。おもしろいものを見せてやるぞ。」
画かきはにわかにまじめになって、赤だの白だのぐちゃぐちゃついた汚《きた》ない絵《え》の具《ぐ》箱《ばこ》をかついで、さっさと林の中にはいりました。そこで清《せい》作《さく》も、鍬《くわ》をもたないで手がひまなので、ぶらぶら振《ふ》ってついて行きました。
林のなかは浅《あさ》黄《ぎ》いろで、肉《につ》桂《けい*》のようなにおいがいっぱいでした。ところが入口から三本目の若《わか》い柏の木は、ちょうど片《かた》脚《あし》をあげておどりのまねをはじめるところでしたが二人《ふたり》の来たのを見てまるでびっくりして、それからひどくはずかしがって、あげた片脚の膝《ひざ》を、間《ま》がわるそうにべろべろ嘗《な》めながら、横《よこ》目《め》でじっと二人の通りすぎるのをみていました。殊《こと》に清作が通り過《す》ぎるときは、ちょっとあざ笑《わら》いました。清作はどうも仕《し》方《かた》がないというような気がしてだまって画かきについて行きました。
ところがどうも、どの木も画《え》かきには機《き》嫌《げん》のいい顔をしますが、清作にはいやな顔を見せるのでした。
一本のごつごつした柏《かしわ》の木が、清《せい》作《さく》の通るとき、うすくらがりに、いきなり自分の脚《あし》をつき出して、つまずかせようとしましたが清作は、
「よっとしょ。」と云《い》いながらそれをはね越《こ》えました。
画かきは、
「どうかしたかい。」といってちょっとふり向《む》きましたが、またすぐ向《むこ》うを向いてどんどんあるいて行きました。
ちょうどそのとき風が来ましたので、林中の柏の木はいっしょに、
「せらせらせら清作、せらせらせらばあ。」とうす気《き》味《み》のわるい声を出して清作をおどそうとしました。
ところが清作は、却《かえ》ってじぶんで口をすてきに大きくして横《よこ》の方へまげて、
「へらへらへら清作。へらへらへら、ばばあ。」とどなりつけましたので、柏の木はみんな度《ど》ぎもをぬかれてしいんとなってしまいました。画かきはあっはは、あっははとびっこのような笑《わら》いかたをしました。
そして二人はずうっと木の間を通って、柏の木大王のところに来ました。
大王は大小とりまぜて十《じゆう》九《く》本の手と、一本の太い脚《あし》とをもっておりました。まわりにはしっかりしたけらいの柏《かしわ》どもが、まじめにたくさんがんばっています。
画《え》かきは絵《え》の具《ぐ》ばこをカタンとおろしました。すると大王はまがった腰《こし》をのばして、低《ひく》い声で画かきに云《い》いました。
「もうお帰りかの。待《ま》ってましたじゃ。そちらは新しい客《きやく》人《じん》じゃな。が、その人はよしなされ。前《ぜん》科《か》者《もの》じゃぞ。前科九《く》十《じゆう》八《はつ》犯《ぱん》じゃぞ。」
清《せい》作《さく》が怒《おこ》ってどなりました。
「うそつけ、前科者だと。おら正《しよう》直《じき》だぞ。」
大王もごつごつの胸《むね》を張《は》って怒りました。
「なにを。証《しよう》拠《こ》はちゃんとあるじゃ。また帳《ちよう》面《めん》にも載《の》っとるじゃ。貴《き》さまの悪《わる》い斧《おの》のあとのついた九十八の足さきがいまでもこの林の中にちゃんと残《のこ》っているじゃ。」
「あっはっは。おかしなはなしだ。九十八の足さきというのは、九十八の切《きり》株《かぶ》だろう。それがどうしたというんだ。おれはちゃんと、山《やま》主《ぬし》の藤《とう》助《すけ》に酒《さけ》を二升《しよう》買ってあるんだ。」
「そんならおれにはなぜ酒を買わんか。」
「買ういわれがない。」
「いや、ある、沢《たく》山《さん》ある。買え。」
「買ういわれがない。」
画《え》かきは顔をしかめて、しょんぼり立ってこの喧《けん》嘩《か》をきいていましたがこのとき、俄《にわ》かに林の木の間から、東の方を指《ゆび》さして叫《さけ》びました。
「おいおい、喧嘩はよせ。まん円《まる》い大《たい》将《しよう》に笑《わら》われるぞ。」
見ると東のとっぷりとした青い山《さん》脈《みやく》の上に、大きなやさしい桃《もも》いろの月がのぼったのでした。お月さまのちかくはうすい緑《みどり》いろになって、柏《かしわ》の若《わか》い木はみな、まるで飛《と》びあがるように両《りよう》手《て》をそっちへ出して叫《さけ》びました。
「おつきさん、おつきさん、おっつきさん、
ついお見《み》外《そ》れして すみません
あんまりおなりが ちがうので
ついお見外れして すみません。」
柏の木大王も白いひげをひねって、しばらくうむうむと云《い》いながら、じっとお月さまを眺《なが》めてから、しずかに歌いだしました。
「こよいあなたは ときいろ《*》の
むかしのきもの つけなさる
かしわばやしの このよいは
なつのおどりの だいさんや
やがてあなたは みずいろ《*》の
きょうのきものを つけなさる
かしわばやしの よろこびは
あなたのそらに かかるまま。」
画《え》かきがよろこんで手を叩《たた》きました。
「うまいうまい。よしよし。夏のおどりの第《だい》三《さん》夜《や》。みんな順《じゆん》々《じゆん》にここに出て歌うんだ。じぶんの文《もん》句《く》でじぶんのふしで歌うんだ。一等《とう》賞《しよう》から九等賞まではぼくが大きなメタルを書いて、明日《あした》枝《えだ》にぶらさげてやる。」
清《せい》作《さく》もすっかり浮《う》かれて云《い》いました。
「さあ来い。へたなほうの一等から九等までは、あしたおれがスポンと切って、こわいとこへ連《つ》れてってやるぞ。」
すると柏の木大王が怒りました。
「何を云うか。無《ぶ》礼《れい》者《もの》。」
「何が無礼だ。もう九本切るだけは、とうに山《やま》主《ぬし》の藤《とう》肋《すけ》に酒《さけ》を買ってあるんだ。」
「そんならおれにはなぜ買わんか。」
「買ういわれがない。」
「いやある、沢《たく》山《さん》ある。」
「ない。」
画《え》かきが顔をしかめて手をせわしく振《ふ》って云《い》いました。
「またはじまった。まあぼくがいいようにするから歌をはじめよう。だんだん星も出て来た。いいか、ぼくがうたうよ。賞《しよう》品《ひん》のうただよ。
一とうしょうは 白《はつ》金《きん》メタル
二とうしょうは きんいろメタル
三とうしょうは すいぎんメタル
四とうしょうは ニッケルメタル
五とうしょうは とたんのメタル
六とうしょうは にせがねメタル
七とうしょうは なまりのメタル
八とうしょうは ぶりきのメタル
九とうしょうは マッチのメタル
十とうしょうから百とうしょうまで
あるやらないやらわからぬメタル。」
柏《かしわ》の木大王が機《き》嫌《げん》を直してわははわははと笑《わら》いました。
柏の木どもは大王を正《しよう》面《めん》に大きな環《わ》をつくりました。
お月さまは、いまちょうど、水いろの着《き》ものと取《と》りかえたところでしたから、そこらは浅《あさ》い水の底《そこ》のよう、木のかげはうすく網《あみ》になって地に落《お》ちました。
画《え》かきは、赤いしゃっぽもゆらゆら燃《も》えて見え、まっすぐに立って手《て》帳《ちよう》をもち鉛《えん》筆《ぴつ》をなめました。
「さあ、早くはじめるんだ、早いのは点《てん》がいいよ。」
そこで小さな柏の木が、一本ひょいっと環のなかから飛《と》びだして大王に礼《れい》をしました。
月のあかりがぱっと青くなりました。
「おまえのうたは題《だい》はなんだ。」画かきは尤《もつと》もらしく顔をしかめて云《い》いました。
「馬と兎《うさぎ》です。」
「よし、はじめ。」画かきは手《て》帳《ちよう》に書いて云いました。
「兎《うさぎ》のみみはなが……。」
「ちょっと待《ま》った。」画《え》かきはとめました。「鉛《えん》筆《ぴつ》が折《お》れたんだ。ちょっと削《けず》るうち待ってくれ。」
そして画かきはじぶんの右足の靴《くつ》をぬいでその中に鉛筆を削りはじめました。柏《かしわ》の木は、遠くからみな感《かん》心《しん》して、ひそひそ談《はな》し合いながら見ておりました。そこで大王もとうとう言いました。
「いや、客《きやく》人《じん》、ありがとう。林をきたなくせまいとの、そのおこころざしはじつに辱《かたじ》けない。」
ところが画かきは平《へい》気《き》で、
「いいえ、あとでこのけずり屑《くず》で酢《す》をつくります《*》からな。」
と返《へん》事《じ》したものですからさすがの大王も、すこし工《ぐ》合《あい》が悪《わる》そうに横《よこ》を向《む》き、柏の木もみな興《きよう》をさまし、月のあかりもなんだか白っぽくなりました。
ところが画かきは、削るのがすんで立ちあがり、愉《ゆ》快《かい》そうに、
「さあ、はじめてくれ。」と云《い》いました。
柏はざわめき、月光も青くすきとおり、大王も機《き》嫌《げん》を直してふんふんと言《い》いました。
若《わか》い木は胸《むね》をはってあたらしく歌いました。
「うさぎのみみはながいけど
うまのみみよりながくない。」
「わあ、うまいうまい。ああはは、ああはは。」みんなはわらったりはやしたりしました。
「一とうしょう、白《はつ》金《きん》メタル。」と画《え》かきが手《て》帳《ちよう》につけながら高く叫《さけ》びました。
「ぼくのは狐《きつね》のうたです。」
また一本の若《わか》い柏《かしわ》の木がでてきました。月光はすこし緑《みどり》いろになりました。
「よろしいはじめっ。」
「きつね、こんこん、きつねのこ、
月よにしっぽが燃《も》えだした。」
「わあ、うまいうまい。わっはは、わっはは。」
「第《だい》二とうしょう、きんいろメタル。」
「こんどはぼくやります。ぼくのは猫《ねこ》のうたです。」
「よろしいはじめっ。」
「やまねこ、にゃあご、ごろごろ
さとねこ、たっこ、ごろごろ。」
「わあ、うまいうまい。わっはは、わっはは。」
「第《だい》三とうしょう、水《すい》銀《ぎん》メタル。おい、みんな、大きいやつも出るんだよ。どうしてそんなにぐずぐずしてるんだ。」画《え》かきが少し意《い》地《じ》わるい顔つきをしました。
「わたしのはくるみの木のうたです。」
すこし大きな柏《かしわ》の木がはずかしそうに出てきました。
「よろしい、みんなしずかにするんだ。」
柏の木はうたいました。
「くるみはみどりのきんいろ、な、
風にふかれて すいすいすい、
くるみはみどりの天《てん》狗《ぐ》のおうぎ、
風にふかれて ばらんばらんばらん、
くるみはみどりのきんいろ、な、
風にふかれて さんさんさん。」
「いいテノールだねえ、うまいねえ、わあわあ。」
「第《だい》四《し》とうしょう、ニッケルメタル。」
「ぼくのはさるのこしかけです。」
「よし、はじめ。」
柏《かしわ》の木は手を腰《こし》にあてました。
「こざる、こざる、
おまえのこしかけぬれてるぞ、
霧《きり》、ぽっしゃん ぽっしゃん ぽっしゃん、
おまえのこしかけくされるぞ。」
「いいテノールだねえ、いいテノールだねえ、うまいねえ、うまいねえ、わあわあ。」
「第《だい》五とうしょう、とたんのメタル。」
「わたしのはしゃっぽのうたです。」それはあの入口から三ばん目の木でした。
「よろしい。はじめ。」
「うこんしゃっぽのカンカラカンのカアン
あかいしゃっぽのカンカラカンのカアン。」
「うまいうまい。すてきだ。わあわあ。」
「第六とうしょう、にせがねメタル。」
このときまで、しかたなくおとなしく聞いていた清《せい》作《さく》が、いきなり叫《さけ》びだしました。
「なんだ、この歌にせものだぞ。さっきひとのうたったのまねしたんだぞ。」
「だまれ、無《ぶ》礼《れい》もの、そのほうなどの口を出すところでない。」柏《かしわ》の木大王がぶりぶりしてどなりました。
「なんだと、にせものだからにせものと云《い》ったんだ。生《なま》意《い》気《き》いうと、あした斧《おの》をもってきて、片《かた》っぱしから伐《き》ってしまうぞ。」
「なにを、こしゃくな。そのほうなどの分《ぶん》際《ざい》でない。」
「ばかを云《い》え、おれはあした、山《やま》主《ぬし》の藤《とう》肋《すけ》にちゃんと二升《しよう》酒《さけ》を買ってくるんだ。」
「そんならなぜおれには買わんか。」
「買ういわれがない。」
「買え。」
「いわれがない。」
「よせ、よせ、にせものだからにせがねのメタルをやるんだ。あんまりそう喧《けん》嘩《か》するなよ。さあ、そのつぎはどうだ。出るんだ出るんだ。」
お月さまの光が青くすきとおってそこらは湖《みずうみ》の底《そこ》のようになりました。
「わたしのは清《せい》作《さく》のうたです。」
またひとりの若《わか》い頑《がん》丈《じよう》そうな柏の木が出ました。
「何《なん》だと。」清作が前へ出てなぐりつけようとしましたから画《え》かきがとめました。
「まあ、待《ま》ちたまえ。君《きみ》のうただって悪《わる》口《くち》ともかぎらない。よろしい。はじめ。」柏《かしわ》の木は足をぐらぐらしながらうたいました。
「清《せい》作《さく》は、一《いつ》等《とう》卒《そつ》の服《ふく》を着《き》て
野原に行って、ぶどうをたくさんとってきた。
と斯《こ》うだ。だれかあとをつづけてくれ。」
「ホウ、ホウ。」柏の木はみんなあらしのように、清作をひやかして叫《さけ》びました。
「第《だい》七《しち》とうしょう、なまりのメタル。」
「わたしがあとをつけます。」さっきの木のとなりからすぐまた一本の柏の木がとびだしました。
「よろしい、はじめ。」
かしわの木はちらっと清作の方を見て、ちょっとばかにするようにわらいましたが、すぐまじめになってうたいました。
「清作は、葡《ぶ》萄《どう》をみんなしぼりあげ
砂《さ》糖《とう》を入れて
瓶《びん》にたくさんつめこんだ。
おい、だれかあとをつづけてくれ。」
「ホッホウ、ホッホウ、ホッホウ。」柏《かしわ》の木どもは風のような変《へん》な声をだして清《せい》作《さく》をひやかしました。
清作はもうとびだしてみんなかたっぱしからぶんなぐってやりたくてむずむずしましたが、画《え》かきがちゃんと前に立ちふさがっていますので、どうしても出られませんでした。
「第《だい》八《はつ》等《とう》、ぶりきのメタル。」
「わたしがつぎをやります。」さっきのとなりから、また一本の柏の木がとびだしました。
「よし、はじめっ。」
「清作が、納《な》屋《や》にしまった葡《ぶ》萄《どう》酒《しゆ》は
順《じゆん》序《じよ》ただしく
みんなはじけてなくなった。」
「わっはっはっは、わっはっはっは、ホッホウ、ホッホウ、ホッホウ。がやがやがや……。」
「やかましい。きさまら、なんだってひとの酒《さけ》のことなどおぼえてやがるんだ。」清作が飛《と》び出そうとしましたら、画かきにしっかりつかまりました。
「第《だい》九《く》とうしょう。マッチのメタル。さあ、次《つぎ》だ、次だ、出るんだよ。どしどし出るんだ。」
ところがみんなは、もうしんとしてしまって、ひとりも出《で》るものがありませんでした。
「これはいかん。でろ、でろ、みんなでないといかん。でろ。」画かきはどなりましたが、もうどうしても誰《たれ》も出ませんでした。
仕《し》方《かた》なく画かきは、
「こんどはメタルのうんといいやつを出すぞ。早く出ろ。」と云《い》いましたら、柏《かしわ》の木どもははじめてざわっとしました。
そのとき林の奥《おく》の方で、さらさらさらさら音がして、それから、
「のろづきおほん《*》、のろづきおほん、
おほん、おほん、
ごぎのごぎのおほん、
おほん、おほん 。」とたくさんのふくろうどもが、お月さまのあかりに青じろくはねをひるがえしながら、するするするする出てきて、柏の木の頭の上や手の上、肩《かた》やむねにいちめんにとまりました。
立《りつ》派《ぱ》な金モールをつけたふくろうの大《たい》将《しよう》が、上手《じようず》に音もたてないで飛《と》んできて、柏《かしわ》の木大王の前に出ました。そのまっ赤《か》な眼《め》のくまが、じつに奇《き》体《たい》に見えました。よほど年《とし》老《よ》りらしいのでした。
「今《こん》晩《ばん》は、大王どの、また高《こう》貴《き》の客《きやく》人《じん》がた、今晩はちょうどわれわれのほうでも、飛《と》び方と握《つか》み裂《さ》き術《じゆつ》との大《だい》試《し》験《けん》であったのじゃが、ただいまやっと終《おわ》りましたじゃ。
ついてはこれから聯《れん》合《ごう》で、大《だい》乱《らん》舞《ぶ》会《かい》をはじめてはどうじゃろう。あまりにもたえなるうたのしらべが、われらのまどいのなかにまで響《ひび》いてきたによって、このようにまかり出ましたのじゃ。」「たえなるうたのしらべだと、畜《ちく》生《しよう》。」清《せい》作《さく》が叫《さけ》びました。
柏の木大王がきこえないふりをして大きくうなずきました。
「よろしゅうござる。しごく結《けつ》構《こう》でござろう。いざ、早《さつ》速《そく》とりはじめるといたそうか。」
「されば。」梟《ふくろう》の大将はみんなの方に向《む》いてまるで黒《くろ》砂《さ》糖《とう》のような甘《あま》ったるい声でうたいました。
「からすかんざえもんは
くろいあたまをくうらりくらり、
とんびとうざえもんは
あぶら一升《しよう》でとうろりとろり、
そのくらやみはふくろうの
いさみにいさむもののふ《*》が
みみずをつかむときなるぞ
ねとりを襲《おそ》うときなるぞ。」
ふくろうどもはもうみんなばかのようになってどなりました。
「のろづきおほん、
おほん、おほん、
ごぎのごぎおほん、
おほん、おほん。」
かしわの木大王が眉《まゆ》をひそめて云《い》いました。
「どうもきみたちのうたは下《か》等《とう》じゃ。君《くん》子《し》のきくべきものではない。」ふくろうの大《たい》将《しよう》はへんな顔をしてしまいました。すると赤と白の綬《じゆ》をかけたふくろうの副《ふく》官《かん》が笑《わら》って云いました。
「まあ、こんやはあんまり怒《おこ》らないようにいたしましょう。うたもこんどは上《じよう》等《とう》のをやりますから。みんな一しょにおどりましょう。さあ木のほうも鳥のほうも用《よう》意《い》いいか。
おつきさんおつきさん まんまるまるるるん
おほしさんおほしさん ぴかりぴりるるん
かしわはかんかの かんからからららん
ふくろはのろづき おっほほほほほほん。」
かしわの木は両《りよう》手《て》をあげてそりかえったり、頭や足をまるで天上に投《な》げあげるようにしたり、一生けん命《めい》踊《おど》りました。それにあわせてふくろうどもは、さっさっと銀《ぎん》いろのはねを、ひらいたりとじたりしました。じつにそれがうまく合ったのでした。月の光は真《しん》珠《じゆ》のように、すこしおぼろになり、柏《かしわ》の木大王もよろこんですぐうたいました。
「雨はざあざあ ざっざざざざざあ
風はどうどう どっどどどどどう
あられぱらぱらぱらぱらったたあ
雨はざあざあ ざっざざざざざあ。」
「あっだめだ、霧《きり》が落《お》ちてきた。」とふくろうの副《ふく》官《かん》が高く叫《さけ》びました。
なるほど月はもう青白い霧にかくされてしまってぼうっと円《まる》く見えるだけ、その霧はまるで矢《や》のように林の中に降《お》りてくるのでした。
柏《かしわ》の木はみんな度《ど》をうしなって、片《たか》脚《あし》をあげたり両《りよう》手《て》をそっちへのばしたり、眼《め》をつりあげたりしたまま化《か》石《せき》したようにつっ立ってしまいました。
冷《つめ》たい霧《きり》がさっと清《せい》作《さく》の顔にかかりました。画《え》かきはもうどこへ行ったか赤いしゃっぽだけがほうり出してあって、自分はかげもかたちもありませんでした。
霧の中を飛《と》ぶ術《じゆつ》のまだできていないふくろうの、ばたばた遁《に》げて行《ゆ》く音がしました。
清作はそこで林を出ました。柏の木はみんな踊《おど》りのままの形で残《ざん》念《ねん》そうに横《よこ》眼《め》で清作を見《み》送《おく》りました。
林を出てから空を見ますと、さっきまでお月さまのあったあたりはやっとぼんやりあかるくて、そこを黒い犬のような形の雲がかけて行き、林のずうっと向《むこ》うの沼《ぬま》森《もり*》のあたりから、
「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」と画かきが力いっぱい叫《さけ》んでいる声がかすかにきこえました。
月夜のでんしんばしら
ある晩《ばん》、恭《きよう》一《いち》はぞうりをはいて、すたすた鉄《てつ》道《どう》線《せん》路《ろ》の横《よこ》の平《たい》らなところをあるいておりました。
たしかにこれは罰《ばつ》金《きん》です。おまけにもし汽《き》車《しや》がきて、窓《まど》から長い棒《ぼう》などが出ていたら、一ぺんになぐり殺《ころ》されてしまったでしょう。
ところがその晩は、線路見まわりの工《こう》夫《ふ》もこず、窓から棒の出た汽車にもあいませんでした。そのかわり、どうもじつに変《へん》てこなものを見たのです。
九日《ここのか》の月が空にかかっていました。そしてうろこ雲が空いっぱいでした。うろこぐもはみんな、もう月のひかりがはらわたの底《そこ》までもしみとおってよろよろするというふうでした。その雲のすきまからときどき冷《つめ》たい星がぴっかりぴっかり顔をだしました。
恭一はすたすたあるいて、もう向《むこ》うに停《てい》車《しや》場《ば》のあかりがきれいに見えるとこまできました。ぽつんとしたまっ赤《か》なあかりや、硫《い》黄《おう》のほのお《*》のようにぼうとした紫《むらさき》いろのあかりやらで、眼《め》をほそくしてみると、まるで大きなお城《しろ》があるようにおもわれるのでした。
とつぜん、右手のシグナルばしらが、がたんとからだをゆすぶって、上の白い横《よこ》木《ぎ》を斜《なな》めに下の方へぶらさげました。これはべつだん不《ふ》思《し》議《ぎ》でもなんでもありません。
つまりシグナルがさがったというだけのことです。一《ひと》晩《ばん》に十《じゆう》四《し》回《かい》もあることなのです。
ところがそのつぎが大へんです。
さっきから線《せん》路《ろ》の左がわで、があん、があんとうなっていたでんしんばしらの列《れつ》が大《おお》威《い》張《ば》りで一ぺんに北のほうへ歩きだしました。みんな六《む》つの瀬《せ》戸《と》もののエボレット《*》を飾《かざ》り、てっぺんにはりがねの槍《やり》をつけた亜鉛《トタン》のしゃっぽをかぶって、片《かた》脚《あし》でひょいひょいやって行くのです。そしていかにも恭《きよう》一《いち》をばかにしたように、じろじろ横めでみて通りすぎます。
うなりもだんだん高くなって、いまはいかにも昔《むかし》ふうの立《りつ》派《ぱ》な軍《ぐん》歌《か》に変《かわ》ってしまいました。
「ドッテテドッテテ、ドッテテド、
でんしんばしらのぐんたいは
はやさせかいにたぐいなし
ドッテテドッテテ、ドッテテド
でんしんばしらのぐんたいは
きりつせかいにならびなし。」
一本のでんしんばしらが、ことに肩《かた》をそびやかして、まるでうで木もがりがり鳴るくらいにして通りました。
みると向《むこ》うの方を、六本うで木の二十二の瀬《せ》戸《と》もののエボレットをつけたでんしんばしらの列《れつ》が、やはりいっしょに軍歌をうたって進《すす》んで行きます。
「ドッテテドッテテ、ドッテテド
二本うで木の工《こう》兵《へい》隊《たい》、
六本うで木の竜《りゆう》騎《き》兵《へい*》
ドッテテドッテテ、ドッテテド
いちれつ一万五千人
はりがねかたくむすびたり。」
どういうわけか、二本のはしらがうで木を組んで、びっこを引いていっしょにやってきました。そしていかにもつかれたようにふらふら頭をふって、それから口をまげてふうと息《いき》を吐《つ》き、よろよろ倒《たお》れそうになりました。
するとすぐうしろから来た元気のいいはしらがどなりました。
「おい、はやくあるけ。はりがねがたるむじゃないか。」
ふたりはいかにも辛《つら》そうに、いっしょにこたえました。
「もうつかれてあるけない。あしさきが腐《くさ》り出したんだ。長《なが》靴《ぐつ》のタールもなにももうめちゃくちゃになってるんだ。」
うしろのはしらはもどかしそうに叫《さけ》びました。
「はやくあるけ、あるけ。きさまらのうち、どっちかが参《まい》っても一万五千人みんな責《せき》任《にん》があるんだぞ。あるけったら。」
二人《ふたり》はしかたなくよろよろあるきだし、つぎからつぎとはしらがどんどんやって来ます。
「ドッテテドッテテ、ドッテテド
やりをかざれるとたん帽《ぼう》
すねははしらのごとくなり。
ドッテテドッテテ、ドッテテド
肩《かた》かけたるエボレット
重《おも》きつとめをしめすなり。」
二人の影《かげ》もずうっと遠くの緑《ろく》青《しよう》いろの林の方へ行ってしまい、月がうろこ雲からぱっと出て、あたりはにわかに明るくなりました。
でんしんばしらはもうみんな、非《ひ》常《じよう》なご機《き》嫌《げん》です。恭《きよう》一《いち》の前に来ると、わざと肩《かた》をそびやかしたり、横《よこ》めでわらったりして過《す》ぎるのでした。
ところが愕《おど》ろいたことは、六本うで木のまた向《むこ》うに、三本うで木のまっ赤《か》なエボレットをつけた兵《へい》隊《たい》があるいていることです。その軍《ぐん》歌《か》はどうも、ふしも歌もこっちのほうとちがうようでしたが、こっちの声があまり高いために、何をうたっているのか聞きとることができませんでした。こっちはあいかわらずどんどんやって行きます。
「ドッテテドッテテ、ドッテテド、
寒《さむ》さはだえをつんざくも
などて腕《うで》木《ぎ》をおろすべき
ドッテテドッテテ、ドッテテド
暑《あつ》さ硫《い》黄《おう》をとかすとも
いかでおとさんエボレット。」
どんどんどんどんやって行き、恭一は見ているのさえ少しつかれてぼんやりなりました。
でんしんばしらは、まるで川の水のように、次《つぎ》から次とやって来ます。みんな恭《きよう》一《いち》のことを見て行《ゆ》くのですけれども、恭一はもう頭が痛《いた》くなってだまって下を見ていました。
俄《にわ》かに遠くから軍歌の声にまじって、
「お一二、お一二。」というしわがれた声がきこえてきました。恭一はびっくりしてまた顔をあげてみますと、列《れつ》のよこをせいの低《ひく》い顔の黄いろなじいさんがまるでぼろぼろの鼠《ねずみ》いろの外《がい》套《とう》を着《き》て、でんしんばしらの列を見まわしながら、
「お一二、お一二。」と号《ごう》令《れい》をかけてやってくるのでした。
じいさんに見られた柱《》はしらは、まるで木のように堅《かた》くなって、足をしゃちほこばらせて、わきめもふらず進《すす》んで行き、その変《へん》なじいさんは、もう恭一のすぐ前までやってきました。そしてよこめでしばらく恭一を見てから、でんしんばしらの方へ向《む》いて、
「なみ足い。おいっ。」と号《ごう》令《れい》をかけました。
そこででんしんばしらは少し歩《ほ》調《ちよう》を崩《くず》して、やっぱり軍《ぐん》歌《か》を歌って行きました。
「ドッテテドッテテ、ドッテテド、
右とひだりのサアベルは
たぐいもあらぬ細《ほそ》身《み》なり。」
じいさんは恭《きよう》一《いち》の前にとまって、からだをすこしかがめました。
「今《こん》晩《ばん》は、おまえはさっきから行《こう》軍《ぐん》を見ていたのかい。」
「ええ、見てました。」
「そうか、じゃ仕《しかた》方ない。ともだちになろう、さあ、握《あく》手《しゆ》しよう。」
じいさんはぼろぼろの外《がい》套《とう》の袖《そで》をはらって、大きな黄いろな手をだしました。恭一もしかたなく手を出しました。じいさんが「やっ。」と云《い》ってその手をつかみました。
するとじいさんの眼《め》だまから、虎《とら》のように青い火花がぱちぱちっとでたとおもうと、恭一はからだがびりりっとしてあぶなくうしろへ倒《たお》れそうになりました。
「ははあ、だいぶひびいたね、これでごく弱いほうだよ。わしとも少し強く握《あく》手《しゆ》すればまあ黒《くろ》焦《こ》げだね。」
兵《へい》隊《たい》はやはりずんずん歩いて行きます。
「ドッテテドッテテ、ドッテテド、
タールを塗《ぬ》れるなが靴《くつ》の
歩《ほ》はばは三百六十尺《しやく》。」
恭一はすっかりこわくなって、歯《は》ががちがち鳴りました。じいさんはしばらく月や雲の工《ぐ》合《あい》をながめていましたが、あまり恭《きよう》一《いち》が青くなってがたがたふるえているのを見て、気の毒《どく》になったらしく、少ししずかに斯《こ》う云《い》いました。
「おれは電気総《そう》長《ちよう*》だよ。」
恭一も少し安《あん》心《しん》して、
「電気総長というのは、やはり電気の一《いつ》種《しゆ》ですか。」とききました。するとじいさんはまたむっとしてしまいました。
「わからん子《こ》供《ども》だな。ただの電気ではないさ。つまり、電気のすべての長、長というのはかしらとよむ。とりもなおさず電気の大《たい》将《しよう》ということだ。」
「大将ならずいぶんおもしろいでしょう。」恭一がぼんやりたずねますと、じいさんは顔をまるでめちゃくちゃにしてよろこびました。
「はっはっは、面《おも》白《しろ》いさ。それ、その工《こう》兵《へい》も、その竜《りゆう》騎《き》兵《へい》も、向《むこ》うのてき弾《だん》兵《へい*》も、みんなおれの兵《へい》隊《たい》だからな。」
じいさんはぷっとすまして、片《かた》っ方の頬《ほお》をふくらせてそらを仰《あお》ぎました。それからちょうど前を通って行く一本のでんしんばしらに、
「こらこら、なぜわき見をするか。」とどなりました。するとそのはしらはまるで飛《と》びあがるぐらいびっくりして、足がぐにゃんとまがりあわててまっすぐを向《む》いてあるいて行きました。次《つぎ》から次とどしどしはしらはやって来ます。
「有《ゆう》名《めい》なはなしをおまえは知ってるだろう。そら、むすこが、エングランド、ロンドンにいて、おやじがスコットランド、カルクシャイヤ《*》にいた。むすこがおやじに電《でん》報《ぽう》をかけた、おれはちゃんと手《て》帳《ちよう》へ書いておいたがね。」
じいさんは手帳を出して、それから大きなめがねを出してもっともらしく掛《か》けてから、また云《い》いました。
「おまえは英《えい》語《ご》はわかるかい、ね、センド、マイブーツ、インスタンテウリイ、すぐ長《なが》靴《ぐつ》送《おく》れとこうだろう、するとカルクシャイヤのおやじめ、あわてくさっておれのでんしんのはりがねに長靴をぶらさげたよ。はっはっは、いや迷《めい》惑《わく》したよ。それから英《えい》国《こく》ばかりじゃない、十二月ころ兵《へい》営《えい》へ行ってみると、おい、あかりをけしてこいと上《じよう》等《とう》兵《へい》殿《どの》に云《い》われて新《しん》兵《ぺい》が電《でん》燈《とう》をふっふっと吹《ふ》いて消《け》そうとしているのが毎年五人や六人はある。おれの兵《へい》隊《たい》にはそんなものは一人もないからな。おまえの町だってそうだ、はじめて電燈がついたころはみんながよく、電気会社では月に百《ひやつ》石《こく*》ぐらい油《あぶら》をつかうだろうかなんて云ったもんだ。はっはっは、どうだ、もっともそれはおれのように勢《せい》力《りよく》不《ふ》滅《めつ》の法《ほう》則《そく*》や熱《ねつ》力《りき》学《がく》第《だい》二《に》則《そく*》がわかるとあんまりおかしくもないがね、どうだ、ぼくの軍《ぐん》隊《たい》は規《き》律《りつ》がいいだろう。軍《ぐん》歌《か》にもちゃんとそう云ってあるんだ。」
でんしんばしらは、みんなまっすぐを向《む》いて、すまし込《こ》んで通り過《す》ぎながら一《ひと》きわ声をはりあげて、
「ドッテテドッテテ、ドッテテド
でんしんばしらのぐんたいの
その名せかいにとどろけり。」
と叫《さけ》びました。
そのとき、線《せん》路《ろ》の遠くに、小さな赤い二つの火が見えました。するとじいさんはまるであわててしまいました。
「あ、いかん、汽車がきた。誰《たれ》かに見《み》附《つ》かったら大へんだ。もう進《しん》軍《ぐん》をやめなくちゃいかん。」
じいさんは片《かた》手《て》を高くあげて、でんしんばしらの列《れつ》の方を向《む》いて叫《さけ》びました。
「全《ぜん》軍《ぐん》、かたまれい、おいっ。」
でんしんばしらはみんな、ぴったりとまって、すっかりふだんのとおりになりました。軍歌はただのがあんがあんといううなりに変《かわ》ってしまいました。
汽車がごうとやってきました。汽《き》缶《かん》車《しや》の石《せき》炭《たん》はまっ赤《か》に燃えて、そのまえで火《か》夫《ふ》は足をふんばって、まっ黒に立っていました。
ところが客《きやく》車《しや》の窓《まど》がみんなまっくらでした。するとじいさんがいきなり、
「おや、電《でん》燈《とう》が消《き》えてるな。こいつはしまった。けしからん。」と云《い》いながらまるで兎《うさぎ》のようにせ中《なか》をまんまるにして走っている列《れつ》車《しや》の下へもぐり込《こ》みました。
「あぶない。」と恭《きよう》一《いち》がとめようとしたとき、客車の窓がぱっと明るくなって、一人《ひとり》の小さな子が手をあげて、
「あかるくなった、わあい。」と叫《さけ》んで行きました。
でんしんばしらはしずかにうなり、シグナルはがたりとあがって、月はまたうろこ雲のなかにはいりました。
そして汽車は、もう停《てい》車《しや》場《ば》に着《つ》いたようでした。
鹿《しし》踊《おど》り《*》のはじまり
そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあいだから、夕《ゆう》陽《ひ》は赤くななめに苔《こけ》の野原に注《そそ》ぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りました。わたくしが疲《つか》れてそこに睡《ねむ》りますと、ざあざあ吹《ふ》いていた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北《きた》上《かみ》の山の方や、野原に行《おこな》われていた鹿踊りの、ほんとうの精《せい》神《しん》を語りました。
そこらがまだまるっきり、丈《たけ》高《たか》い草や黒い林のままだったとき、嘉《か》十《じゆう》はおじいさんたちと北上川の東から移《うつ》ってきて、小さな畑《はたけ》を開《ひら》いて、粟《あわ》や稗《ひえ》をつくっていました。
あるとき嘉十は、栗《くり》の木から落《お》ちて、少し左の膝《ひざ》を悪《わる》くしました。そんなときみんなはいつでも、西の山の中の湯《ゆ》の湧《わ》くとこへ行って、小《こ》屋《や》をかけて泊《とま》って療《なお》すのでした。
天気のいい日に、嘉十も出かけて行きました。糧《かて》と味《み》噌《そ》と鍋《なべ》とをしょって、もう銀《ぎん》いろの穂《ほ》を出したすすきの野原をすこしびっこをひきながら、ゆっくりゆっくり歩いて行ったのです。
いくつもの小《こ》流《なが》れや石原を越《こ》えて、山《さん》脈《みやく》のかたちも大きくはっきりなり、山の木も一本一本、すぎごけのように見わけられるところまで来たときは、太《たい》陽《よう》はもうよほど西に外《そ》れて、十本ばかりの青いはんのき《*》の木《こ》立《だち》の上に、少し青ざめてぎらぎら光ってかかりました。
嘉《か》十《じゆう》は芝《しば》草《くさ》の上に、せなかの荷《に》物《もつ》をどっかりおろして、栃《とち》と粟《あわ》とのだんごを出して喰《た》べはじめました。すすきは幾《いく》むらも幾むらも、はては野原いっぱいのように、まっ白に光って波《なみ》をたてました。嘉十はだんごをたべながら、すすきの中から黒くまっすぐに立っている、はんのきの幹《みき》をじつにりっぱだとおもいました。
ところがあんまり一生けん命《めい》あるいたあとは、どうもなんだかお腹《なか》がいっぱいのような気がするのです。そこで嘉十も、おしまいに栃《とち》の団《だん》子《ご*》をとちの実《み》のくらい残《のこ》しました。
「こいづば鹿《しか》さ呉《け》でやべか《*》。それ、鹿、来て喰《け》。」と嘉十はひとりごとのように言って、それをうめばちそう《*》の白い花の下に置《お》きました。それから荷《に》物《もつ》をまたしょって、ゆっくりゆっくり歩きだしました。
ところが少し行ったとき、嘉十はさっきのやすんだところに、手《て》拭《ぬぐい》を忘《わす》れて来たのに気がつきましたので、急《いそ》いでまた引っ返《かえ》しました。あのはんのきの黒い木《こ》立《だち》がじき近くに見えていて、そこまで戻《もど》るぐらい、なんのことでもないようでした。
けれども嘉《か》十《じゆう》はぴたりとたちどまってしまいました。
それはたしかに鹿《しか》のけはいがしたのです。
鹿が少くても五、六疋《ぴき》、湿《しめ》っぽいはなづらをずうっと延《の》ばして、しずかに歩いているらしいのでした。
嘉十はすすきに触《ふ》れないように気を付《つ》けながら、爪《つま》立《だ》てをして、そっと苔《こけ》を踏《ふ》んでそっちの方へ行きました。
たしかに鹿はさっきの栃《とち》の団《だん》子《ご》にやってきたのでした。
「はあ、鹿《しか》等《だ》あ、すぐに来たもな。」と嘉十は咽喉《のど》の中で、笑《わら》いながらつぶやきました。そしてからだをかがめて、そろりそろりと、そっちに近よって行《ゆ》きました。
一むらのすすきの陰《かげ》から、嘉十はちょっと顔をだして、びっくりしてまたひっ込《こ》めました。六疋ばかりの鹿が、さっきの芝《しば》原《はら》を、ぐるぐるぐるぐる環《わ》になって廻《まわ》っているのでした。嘉十はすすきの隙《すき》間《ま》から、息《いき》をこらしてのぞきました。
太《たい》陽《よう》が、ちょうど一本のはんのきの頂《いただき》にかかっていましたので、その梢《こずえ》はあやしく青くひかり、まるで鹿の群《むれ》を見おろしてじっと立っている青いいきもののようにおもわれました。すすきの穂《ほ》も、一本ずつ銀《ぎん》いろにかがやき、鹿の毛《け》並《なみ》がことにその日はりっぱでした。
嘉《か》十《じゆう》はよろこんで、そっと片《かた》膝《ひざ》をついてそれに見とれました。
鹿《しか》は大きな環《わ》をつくって、ぐるくるぐるくる廻《まわ》っていましたが、よく見るとどの鹿も環のまんなかの方に気がとられているようでした。その証《しよう》拠《こ》には、頭も耳も眼《め》もみんなそっちへ向《む》いて、おまけにたびたび、いかにも引っぱられるように、よろよろと二《ふた》足《あし》三《み》足《あし》、環からはなれてそっちへ寄《よ》って行《ゆ》きそうにするのでした。
もちろん、その環のまんなかには、さっきの嘉十の栃《とち》の団《だん》子《ご》がひとかけ置《お》いてあったのでしたが、鹿どものしきりに気にかけているのは決《けつ》して団子ではなくて、そのとなりの草の上にくの字になって落《お》ちている、嘉十の白い手《て》拭《ぬぐい》らしいのでした。嘉十は痛《いた》い足をそっと手で曲《ま》げて、苔《こけ》の上にきちんと座《すわ》りました。
鹿のめぐりはだんだんゆるやかになり、みんなは交《かわ》る交《がわ》る、前《まえ》肢《あし》を一本環の中の方へ出して、今にもかけ出して行きそうにしては、びっくりしたようにまた引っ込《こ》めて、とっとっとっとっしずかに走るのでした。その足音は気もちよく野原の黒土の底《そこ》の方までひびきました。それから鹿どもはまわるのをやめて、みんな手拭のこちらの方に来て立ちました。
嘉十はにわかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるえました。鹿どもの風にゆれる草《くさ》穂《ほ》のような気もちが、波《なみ》になって伝《つた》わって来たのでした。
嘉《か》十《じゆう》はほんとうにじぶんの耳を疑《うたが》いました。それは鹿《しか》のことばがきこえてきたからです。
「じゃ、おれ行って見て来《こ》べが。」
「うんにゃ、危《あぶ》ないじゃ、も少し見でべ。」
こんなことばもきこえました。
「何時《いつ》だがの狐《きつね》みだいに口《くち》発《はつ》破《ぱ*》などさ罹《かか》ってあ、つまらないもな、高《たか》で栃《とち》の団《だん》子《ご》などでよ。」
「そだそだ、全《まつた》ぐだ。」
こんなことばも聞きました。
「生《い》ぎものだがも知れないじゃい。」
「うん。生ぎものらしどごもあるな。」
こんなことばも聞こえました。そのうちにとうとう一疋《ぴき》が、いかにも決《けつ》心《しん》したらしく、せなかをまっすぐにして環《わ》からはなれて、まんなかの方に進《すす》み出ました。
みんなは停《とま》ってそれを見ています。
進んで行った鹿は、首をあらんかぎり延《の》ばし、四《し》本《ほん》の脚《あし》を引きしめ引きしめそろりそろりと手《て》拭《ぬぐい》に近づいて行きましたが、俄《にわ》かにひどく飛《と》びあがって、一《いち》目《もく》散《さん》に遁《に》げ戻《もど》ってきました。廻《まわ》りの五疋《ひき》も一ぺんにぱっと四方へちらけようとしましたが、はじめの鹿《しか》が、ぴたりととまりましたのでやっと安《あん》心《しん》して、のそのそ戻《もど》ってその鹿の前に集《あつ》まりました。
「なじょだた。なにだた《*》、あの白い長いやづあ。」
「縦《たて》に皺《しわ》の寄《よ》ったもんだけあな。」
「そだら生ぎものだないがべ《*》、やっぱり蕈《きのこ》などだべが。毒《ぶす》蕈《きのこ》だべ。」
「うんにゃ、きのごだない。やっぱり生ぎものらし。」
「そうが。生ぎもので皺《しわ》うんと寄《よ》ってらば、年《とし》老《よ》りだな。」
「うん年老りの番《ばん》兵《ぺい》だ。ううはははは。」
「ふふふ青白の番兵だ。」
「ううははは、青じろ番兵だ。」
「こんどおれ行って見《み》べが。」
「行ってみろ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。」
「喰《く》っつがないが。」
「うんにゃ、大丈夫だ。」
そこでまた一疋《ぴき》が、そろりそろりと進《すす》んで行きました。五疋《ひき》はこちらで、ことりことりとあたまを振《ふ》ってそれを見ていました。
進んで行った一疋は、たびたびもうこわくて、たまらないというように、四本の脚《あし》を集《あつ》めてせなかを円《まろ》くしたりそっとまたのばしたりして、そろりそろりと進みました。
そしてとうとう手《て》拭《ぬぐい》のひと足こっちまで行って、あらんかぎり首を延《の》ばしてふんふん嚊《か》いでいましたが、俄《にわ》かにはねあがって遁《に》げてきました。みんなもびくっとして一ぺんににげだそうとしましたが、その一ぴきがぴたりと停《と》まりましたのでやっと安《あん》心《しん》して五つの頭をその一つの頭に集めました。
「なじょだた、なして逃《に》げで来た。」
「噛《か》じるべとしたようだたもさ《*》。」
「ぜんたいなにだけあ。」
「わがらないな。とにかぐ白どそれがら青ど、両《りよう》方《ほう》のぶぢだ。」
「匂《におい》 あなじょだ、匂あ《*》。」
「柳《やなぎ》の葉《は》みだいな匂だな。」
「はでな、息《いぎ》吐《つ》でるが、息《いぎ》。」
「さあ、そでば、気《き》付《つ》けないがた《*》。」
「こんどあ、おれあ行ってみべが。」
「行ってみろ。」
三番目の鹿《しか》がまたそろりそろりと進《すす》みました。そのときちょっと風が吹《ふ》いて手《て》拭《ぬぐい》がちらっと動《うご》きましたので、その進んで行った鹿はびっくりして立ちどまってしまい、こっちのみんなもびくっとしました。けれども鹿はやっとまた気を落《お》ちつけたらしく、またそろりそろりと進んで、とうとう手拭まで鼻《はな》さきを延《の》ばした《《ママ)》。
こっちでは五疋《ひき》がみんなことりことりとお互《たがい》にうなずき合っておりました。そのとき俄《にわ》かに進んで行った鹿が竿《さお》立《だ》ちになって躍《おど》りあがって遁《に》げてきました。
「何《な》して遁げできた。」
「気《き》味《び》悪《わり》ぐなてよ。」
「息《いぎ》吐《つ》でるが。」
「さあ、息《いぎ》の音《おど》あ為《さ》ないがけあな《*》。口《くぢ》も無《な》いようだけあな。」
「あだまあるが。」
「あだまもゆぐわがらないがったな。」
「そだらこんだおれ行ってみべが。」
四番目の鹿が出て行きました。これもやっぱりびくびくものです。それでもすっかり手《て》拭《ぬぐい》の前まで行って、いかにも思い切ったらしく、ちょっと鼻《はな》を手拭に押《お》しつけて、それから急《いそ》いで引っ込《こ》めて、一《いち》目《もく》さんに帰ってきました。
「おう、柔《や》っけもんだぞ。」
「泥《どろ》のようにが。」
「うんにゃ。」
「草のようにが。」
「うんにゃ。」
「ご《ヽ》ま《ヽ》ざ《ヽ》い《ヽ*》の毛のようにが。」
「うん、あれよりあ、も少し硬《こわ》ぱしな。」
「なにだべ。」
「とにかぐ生ぎもんだ。」
「やっぱりそうだが。」
「うん、汗《あせ》臭《くさ》いも。」
「おれも一《ひと》遍《がえり》行ってみべが。」
五番目の鹿がまたそろりそろりと進《すす》んで行きました。この鹿はよほどおどけもののようでした。手拭の上にすっかり頭をさげて、それからいかにも不《ふ》審《しん》だというように、頭をかくっと動《うご》かしましたので、こっちの五疋《ひき》がはねあがって笑《わら》いました。
向《むこ》うの一疋《ぴき》はそこで得《とく》意《い》になって、舌《した》を出して手《て》拭《ぬぐい》を一つべろりと嘗《な》めましたが、にわかに怖《こわ》くなったとみえて、大きく口をあけて舌《した》をぶらさげて、まるで風のように飛《と》んで帰って来ました。みんなもひどく愕《おど》ろきました。
「じゃ、じゃ、噛《か》じらえだが、痛《いた》ぐしたが。」
「プルルルルルル。」
「舌《した》抜《ぬ》がれだが。」
「プルルルルルル。」
「なにした、なにした。なにした。じゃ。」
「ふう、ああ、舌《した》縮《ちぢ》まってしまったたよ。」
「なじょな味《あじ》だた。」
「味《あじ》無《な》いがたな。」
「生ぎもんだべが。」
「なじょだが判《わか》らない。こんどあ汝《うな》あ行ってみろ。」
「お。」
おしまいの一疋がまたそろそろ出て行きました。みんながおもしろそうに、ことこと頭を振《ふ》って見ていますと、進《すす》んで行った一疋《ぴき》は、しばらく首をさげて手《て》拭《ぬぐい》を嗅《か》いでいましたが、もう心《しん》配《ぱい》もなにもないという風《ふう》で、いきなりそれをくわいて戻《もど》ってきました。そこで鹿《しか》はみなぴょんぴょん跳《と》びあがりました。
「おう、うまい、うまい、そいづさい取《と》ってしめば、あどは何《なん》っても怖《お》っかなぐない。」
「きっともて《*》、こいづあ大きな蝸牛《なめくずら》の旱《ひ》からびだのだな。」
「さあ、いいが、おれ歌《うだ》、うだうはんてみんな廻《ま》れ《*》。」
その鹿はみんなのなかにはいってうたいだし、みんなはぐるぐるぐるぐる手拭をまわりはじめました。
「のはらのまん中の めっけもの
すっこんすっこの 栃《とち》だんご
栃のだんごは 結《けつ》構《こう》だが
となりにいからだ ふんながす《*》
青じろ番《ばん》兵《ぺ》は 気にかがる。
青じろ番兵は ふんにゃふにゃ
吠《ほ》えるもさないば 泣《な》ぐもさない《*》
痩《や》せで長くて ぶぢぶぢで
どごが口《くぢ》だが あだまだが
ひでりあがりの なめぐじら。」
走りながら廻《まわ》りながら踊《おど》りながら、鹿《しか》はたびたび風のように進んで、手《て》拭《ぬぐい》を角《つの》でついたり足でふんだりしました。嘉《か》十《じゆう》の手拭はかあいそうに泥《どろ》がついてところどころ穴《あな》さえあきました。
そこで鹿のめぐりはだんだんゆるやかになりました。
「おう、こんだ団《だん》子《ご》お食《く》ばがりだじょ。」
「おう、煮《に》だ団子だじょ。」
「おう、まん円《まる》けじょ。」
「おう、はんぐはぐ。」
「おう、すっこんすっこ。」
「おう、けっこ。」
鹿はそれからみんなばらばらになって、四方から栃《とち》のだんごを囲《かこ》んで集《あつ》まりました。
そしていちばんはじめに手拭に進《すす》んだ鹿から、一口ずつ団子をたべました。六疋《ぴき》めの鹿は、やっと豆《まめ》つぶ粒のくらいをたべただけです。
鹿《しか》はそれからまた環《わ》になって、ぐるぐるぐるぐるめぐりあるきました。
嘉《か》十《じゆう》はもうあんまりよく鹿を見ましたので、じぶんまでが鹿のような気がして、いまにもとび出そうとしましたが、じぶんの大きな手がすぐ眼《め》にはいりましたので、やっぱりだめだとおもいながらまた息《いき》をこらしました。
太《た》陽《よう》はこのとき、ちょうどはんのきの梢《こずえ》の中ほどにかかって、少し黄いろにかがやいておりました。鹿のめぐりはまただんだんゆるやかになって、たがいにせわしくうなずき合い、やがて一《いち》列《れつ》に太陽に向《む》いて、それを拝《おが》むようにしてまっすぐに立ったのでした。嘉十はもうほんとうに夢《ゆめ》のようにそれに見とれていたのです。
一ばん右はじにたった鹿が細い声でうたいました。
「はんの木《ぎ》の
みどりみじんの葉《は》の向《もご》さ
じゃらんじゃららんの
お日さん懸《か》がる。」
その水《すい》晶《しよう》の笛《ふえ》のような声に、嘉十は目をつぶってふるえあがりました。右から二ばん目の鹿が、俄《にわ》かに飛《と》びあがって、それからからだを波《なみ》のようにうねらせながら、みんなの間を縫《ぬ》ってはせまわり、たびたび太陽の方にあたまをさげました。それからじぶんのところに戻《もど》るやぴたりととまってうたいました。
「お日さんを
せながさしょえば、はんの木《ぎ》も
くだげで光る
鉄《てつ》のかんがみ《*》。」
はあと嘉《か》十《じゆう》もこっちでその立《りつ》派《ぱ》な太《たい》陽《よう》とはんのきを拝《おが》みました。右から三ばん目の鹿《しか》は首をせわしくあげたり下げたりしてうたいました。
「お日さんは
はんの木《ぎ》の向《もご》さ、降《お》りでても
すすぎ、ぎんがぎが《*》
まぶしまんぶし。」
ほんとうにすすきはみんな、まっ白な火のように燃《も》えたのです。
「ぎんがぎがの
すすぎの中《なが》さ立ぢあがる
はんの木《ぎ》のすねの
長《な》んがい、かげぼうし。」
五番目の鹿《しか》がひくく首を垂《た》れて、もうつぶやくようにうたいだしていました。
「ぎんがぎがの
すすぎの底《そこ》の日《ひ》暮《ぐ》れかだ
苔《こげ》の野はらを
蟻《あり》こも行がず。」
このとき鹿はみな首を垂れていましたが、六番目がにわかに首をりんとあげてうたいました。
「ぎんがぎがの
すすぎの底《そご》でそっこりと
咲《さ》ぐうめばぢの
愛《え》どしおえどし。」
鹿はそれからみんな、みじかく笛《ふえ》のように鳴いてはねあがり、はげしくはげしくまわりました。
北から冷《つめ》たい風が来て、ひゅうと鳴り、はんの木はほんとうに砕《くだ》けた鉄《てつ》の鏡《かがみ》のようにかがやき、かちんかちんと葉《は》と葉がすれあって音をたてたようにさえおもわれ、すすきの穂《ほ》までが鹿にまじって一しょにぐるぐるめぐっているように見えました。
嘉《か》十《じゆう》はもうまったくじぶんと鹿《しか》とのちがいを忘《わす》れて、
「ホウ、やれ、やれい。」と叫《さけ》びながらすすきのかげから飛《と》び出しました。
鹿はおどろいて一《いち》度《ど》に竿《さお》のように立ちあがり、それからはやてに吹《ふ》かれた木の葉《は》のように、からだを斜《なな》めにして逃《に》げ出しました。銀《ぎん》のすすきの波《なみ》をわけ、かがやく夕《ゆう》陽《ひ》の流《なが》れをみだしてはるかにはるかに遁《に》げて行き、そのとおったあとのすすきは静《しず》かな湖《みずうみ》の水脈《みお》のようにいつまでもぎらぎら光っておりました。
そこで嘉十はちょっとにが笑《わら》いをしながら、泥《どろ》のついて穴《あな》のあいた手《て》拭《ぬぐい》をひろってじぶんもまた西の方へ歩きはじめたのです。
それから、そうそう、苔《こけ》の野原の夕《ゆう》陽《ひ》の中で、わたくしはこのはなしをすきとおった秋の風から聞いたのです。
付録『注文の多い料理店』新刊案内
イーハトヴ《 *》は一つの地名である。しいて、その地点を求《もと》むるならばそれは、大小クラウス《 *》たちの耕《たがや》していた、野《の》原《はら》や、少女アリス《 *》がたどった鏡《かがみ》の国と同じ世《せ》界《かい》の中、テパーンタール砂《さ》漠《ばく*》のはるかな北東、イヴン王国《 *》の遠い東と考えられる。
じつにこれは著者の心象中に、このような状《じよう》景《けい》をもって実《じつ》在《ざい》したドリームランドとしての日本岩手県である。
そこでは、あらゆることが可《か》能《のう》である。人は一《いつ》瞬《しゆん》にして氷《ひよう》雲《うん》の上に飛《ひ》躍《やく》し大《だい》循《じゆん》環《かん》の風を従《したが》えて北に旅《たび》することもあれば、赤い花《はな》杯《さかずき》の下を行く蟻《あり》と語《かた》ることもできる。罪《つみ》や、かなしみでさえそこでは聖《きよ》くきれいにかがやいている。
深《ふか》い椈《《ママ)》の森や、風や影《かげ》、肉《《ママ)》之草や、不《ふ》思《し》議《ぎ》な都会、ベーリング市《 *》まで続《つづ》く電《でん》柱《ちゆう》の列《れつ》、それはまことにあやしくも楽しい国土である。この童話集の一列はじつに作者の心象スケッチ《 *》の一《いち》部《ぶ》である。それは少年少女期《き》の終りごろから、アドレッセンス《 *》中《ちゆう》葉《よう》に対《たい》する一つの文学としての形《けい》式《しき》をとっている。
この見地からその特色を数えるならば次の諸点に帰する
一 これは正しいものの種《しゅ》子《し》を有《ゆう》し、その美《うつく》しい発《はつ》芽《が》を待《ま》つものである。しかもけっして既《き》成《せい》の疲《つか》れた宗《しゆう》教《きよう》や、道《どう》徳《とく》の残《ざん》滓《し》を色あせた仮《か》面《めん》によって純《じゆん》真《しん》な心《しん》意《い》の所《しよ》有《ゆう》者《しや》たちに欺《あざむ》き与《あた》えんとするものではない。
二 これは新しい、よりよい世《せ》界《かい》の構《こう》成《せい》材《ざい》料《りよう》を提《てい》供《きよう》しようとはする。けれどもそれは全《まつた》く、作者に未《み》知《ち》な絶《た》えざる驚《きよう》異《い》に値《あたい》する世界自《じ》身《しん》の発《はつ》展《てん》であって、けっして畸《き》形《けい》に捏《こ》ねあげられた煤《すす》色《いろ》のユートピアではない。
三 これらはけっして偽《いつわり》でも仮《《ママ)》空でも窃《せつ》盗《とう》でもない。
多《た》少《しよう》の再《さい》度《ど》の内《ない》省《しよう》と分《ぶん》析《せき》とはあっても、たしかにこのとおりその時心《しん》象《しよう》の中に現《あら》われたものである。ゆえにそれは、どんなに馬《ば》鹿《か》げていても、難《なん》解《かい》でも必《かなら》ず心の深《しん》部《ぶ》において万《ばん》人《にん》の共《きよう》通《つう》である。卑《ひ》怯《きよう》な成《せい》人《じん》たちに畢《ひつ》竟《きよう》不《ふ》可《か》解《かい》なだけである。
四 これは田《でん》園《えん》の新《しん》鮮《せん》な産《さん》物《ぶつ》である。われらは田園の風と光との中からつややかな果《か》実《じつ》や、青い蔬《そ》菜《さい》といっしょにこれらの心象スケッチを世《せ》間《けん》に提供するものである。
注文の多い料理店はその十二巻《かん》のセリーズの中の第《だい》一《いつ》冊《さつ》でまずその古《こ》風《ふう》な童《どう》話《わ》としての形《けい》式《しき》と地方名とをもって類《るい》集《しゆう》したものであって次《つぎ》の九編《へん》からなる。
目次と…………その説明
(中略、ここに「注《ちゆう》文《もん》の多い料《りよう》理《り》店《てん》」の中《なか》扉《とびら》のカットを挿《そう》入《にゆう》してある)
1 どんぐりと山猫
山《やま》猫《ねこ》拝《はい》と書いたおかしな葉《は》書《がき》が来たので、こどもが山の風の中へ出かけて行くはなし。必《かなら》ず比《ひ》較《かく》をされなければならないいまの学《がく》童《どう》たちの内《ない》奥《おう》からの反《はん》響《きよう》です。
2 狼森と笊森、盗森
人と森との原《げん》始《し》的《てき》な交《こう》渉《しよう》で、自《し》然《ぜん》の順《じゆん》違《い》二《に》面《めん》が農民に与《あた》えた永《なが》い間の印《いん》象《しよう》です。森が子《こ》供《ども》らや農《のう》具《ぐ》をかくすたびに、みんなは「探《さが》しに行くぞお」と叫び、森は「来《こ》お」と答えました。
3 烏の北斗七星
戦《たたか》うものの内《ない》的《てき》感《かん》情《じよう》です。
4 注文の多い料理店
二人の青年紳《しん》士《し》が猟《りよう》に出て路《みち》を迷《まよ》い、「注《ちゆう》文《もん》の多い料《りよう》理《り》店《てん》」にはいり、その途《と》方《ほう》もない経《けい》営《えい》者《しや》からかえって注文されていたはなし。糧《かて》に乏《とぼ》しい村のこどもらが、都《と》会《かい》文《ぶん》明《めい》と放《ほう》恣《し》な階《かい》級《きゆう》とに対《たい》するやむにやまれない反《はん》感《かん》です。
5 水仙月の四日
赤い毛布《ケット》を被《かつ》ぎ、「カリメラ」の銅《どう》鍋《なべ》や青い焔《ほのお》を考えながら雪の高原を歩いていたこどもと、「雪《ゆき》婆《ば》ンゴ」や雪《ゆき》狼《オイノ》、雪《ゆき》童《わら》子《す》とのものがたり。
6 山男の四月
四月のかれ草の中にねころんだ山男の夢《ゆめ》です。「烏《からす》の北《ほく》斗《と》七《しち》星《せい》」といっしょに、一つの小さなこころの種《しゆ》子《し》を有《も》ちます。
7 かしわばやしの夜
桃《もも》色《いろ》の大きな月はだんだん小さく青じろくなり、かしわはみんなざわざわ言《い》い、画《え》描《か》きは自分の靴《くつ》の中に鉛《えん》筆《ぴつ》を削《けず》って変《へん》なメタルの歌をうたう、たのしい「夏の踊《おど》りの第《だい》三夜」です。
8 月夜のでんしんばしら
うろこぐもと鉛《なまり》色《いろ》の月光、九月のイーハトヴの鉄《てつ》道《どう》線《せん》路《ろ》の内《ない》想《そう》です。
9 鹿踊りのはじまり
まだ剖《わか》れない巨《おお》きな愛《あい》の感《かん》情《じよう》です。すすきの花の向《むか》い火や、きらめく赤《せつ》褐《かつ》の樹《こ》立《だち》のなかに、鹿《しか》が無《む》心《しん》に遊《あそ》んでいます。ひとは自分と鹿との区《く》別《べつ》を忘《わす》れ、いっしょに踊《おど》ろうとさえします。
注 文中の〇印は作者自身の付けたもの。ヽ印は原文朱書の文字を示す。書き出しに字下げのないのは原文のままである。一、二、三……や1、2、3……の数字は正四角形の枠でかこんであったが、本書ではそれを除いた。また、この文章の始めには大きな活字で「一九二四、一一、一五発行 新刊書御案内……童話」と印刷してあり、末尾にも種々広告風の文句があるが、それらも省略した。印刷紙は横長の洋紙で、ちらし用に印刷したものである。なお、文中の「肉之草」は理解に苦しむ語で、おそらく誤植であると思うが、原稿が散佚してしまって現存しないので、いかんともなし難い。
注 釈
『序』
*びろうど 天鵞絨。ベルベットとも言う。西洋から渡《と》来《らい》した織り方のひとつで、毛を立たせるので手《て》触《ざわ》りが柔《やわ》らかく弾《だん》力《りよく》に富む。また光沢がある。ドレスやコート等に使われる。
*羅《ら》紗《しや》 羊毛で織る厚地の毛織物。紺《こん》や黒が多く、耐久力があり、制服によく使われる。
『どんぐりと山猫』
*山《やま》猫《ねこ》 山野に生息する猫。耳の先が尖《とが》る。賢治文学では、仏典の比《ひ》喩《ゆ》を受けて、悪をただす仏のような王様は獅《し》子《し》(ライオン。『猫の事務所』『月夜のけだもの』等)。同じ猫族でも、山猫は卑《ひ》怯《きよう》な人物(悪徳政治家等)の比喩である(『ポラーノの広場』参照)。
*かねた一郎 おそらく金《かね》田《だ》一郎。「金だ」は「黄《き》金《ん》のどんぐり」の解《かい》釈《しやく》のための布石。
*とびどぐ 飛び道具。鉄《てつ》砲《ぽう》のこと。
*榧《かや》 イチイ科の常緑高木で、高さは30メートルに達する。葉は針状で、雌雄異《い》株《しゆ》。耐《たい》陰《いん》性《せい》があるので、比較的暗いところにも生えるが、分布は宮城県以南とされる。
*尋《じん》常《じよう》五年生 今の小学校五年生。
*大学校の五年生 旧制では三年生まで、現在でも四年生まで。
*馬車別《べつ》当《とう》 馬《ば》丁《てい》。馬のくつわを取って引く者。
*陣《じん》羽《ば》織《おり》 和装の外衣のひとつ。戦国武将が鎧《よろい》の上に着た防寒具が始まり。後に武士の儀礼用となり次第に装《そう》飾《しよく》過《か》剰《じよう》となった。羅《ら》紗《しや》(→『序』)がよく使われた。
*奈《な》良《ら》のだいぶつさま 東大寺の盧《る》舎《しや》那《な》仏《ぶつ》のこと。宇宙の根本原理を体現する如《によ》来《らい》。奈良は楢《なら》(どんぐりは楢の実)とのかけことば。山猫への批判を如来との比較によって表現する発想は『洞《ほら》熊《くま》学《がつ》校《こう》を卒業した三人』の浄《じよう》土《ど》真《しん》宗《しゆう》批判にも見られ、阿《あ》弥《み》陀《だ》如来への念仏(なむあみだぶつ)が、悪徳に満ちた山猫大明神への「念《ねん》猫《ねこ》」(「なまねこ」)として描かれる。
*一升《しよう》 升は合の10倍で、約一・八リットル。升の10倍が斗《と》。
『狼森と笊森、盗森』
*狼《オイノ》森《もり》と笊《ざる》森《もり》、盗《ぬすと》森《もり》 いずれも小岩井農場の近辺にある小山。森は東北地方で小山のこと。
*小《こ》岩《いわ》井《い》農《のう》場《じよう》 明治24年に岩《いわ》手《て》山《さん》麓《ろく》の荒れ地を開《かい》拓《たく》して開設された日本最大の民間農場。ヨーロッパから牛を輸入して日本在来種の改良にあたった。賢治は好んでしばしば出《で》掛《か》けた。
*黒《くろ》坂《さか》森《もり》 小岩井農場の近辺にある小山。
*けら ワラなどの植物で編んだ外衣。蓑《みの》の一種で背中を覆《おお》うもの。防寒防雨用。
*燧《ひうち》石《いし》の山 燧石とは黒《こく》曜《よう》石《せき》のこと。ここでは小岩井農場の東北にある燧《かど》堀《ぼり》山《やま》のこと。
*童《わらし》ゃど知らないか 「子供たちを知らないか」の方言。
*山男 山奥に住むといわれる怪《かい》人《じん》。柳田国男『遠野物語』では里の女を奪ったりする悪党。賢治童話では金色目玉で、人の良いデクノボー。『山男の四月』『紫《し》紺《こん》染《ぞめ》について』等にも登場。
*七《しち》銭《せん》 銭は1円の百分の一。当時の物価で、7銭でまんじゅうや大福が3個買えた。
『注文の多い料理店』
*二千四百円 当時の公務員の初任給の32倍。現在の値段に換《かん》算《ざん》すると五百万円以上。
*山鳥 キジ科の鳥。赤《せつ》褐《かつ》色《しよく》で眼《め》の周りが赤い。肉の味がよく、狩《しゆ》猟《りよう》鳥《ちよう》として人気がある。
*すぐたべられます 「られる」には、可能と受身の二つの意味がある。「注文の多い」や「おなかにおはいり」(「部屋の中」と「腹の中」)も立場によって違う意味になる。
『烏の北斗七星』
*大《たい》尉《い》 陸海軍士官の尉官の最高位。高級指揮官を目指すエリートの場合、旧制中学校卒業後、兵学校を経て大尉に成るまでに最低10年を要したから、この作品の大尉の年齢は、人間で言えば30少し前くらいと考えてよい。
*馬《ば》鈴《れい》薯《しよ》 ジャガイモのこと。
*巡《じゆん》洋《よう》艦《かん》 戦艦に次ぐ主戦《せん》闘《とう》艦《かん》。戦艦よりも小さいが速力や航続力は逆に大きく、駆《く》逐《ちく》艦《かん》よりは砲の口径が大きく、敵戦艦とも戦闘が可能。大正10年のワシントン軍縮条約以降、建造の制限を受けない1万トン以下の巡洋艦が重視された。攻撃力は大きいが防御性能が弱い。
*砲《ほう》艦《かん》 海岸や河岸に接近して陸上の敵を攻撃する、吃《きつ》水《すい》が浅い小《しよう》艇《てい》。
*マシリイ おそらく水星《マーキユリー》(マーキュリーは、ローマ神話における神々の使者)のこと。夕方に西の地平線に輝く。
*山《やま》烏《がらす》 ふつうハシブトガラス(現在は都会でよく見かける烏)を指す。ハシボソガラスは小型で、嘴《くちばし》が細い。「眼玉が出しゃばって、嘴が細くて、ちょっと見《み》掛《か》けは偉そう」と描写されているが、ハシブトは額が出っ張って偉《えら》そうであり、嘴の細さも体全体から見た短さと解《かい》釈《しやく》すれば、山烏はハシブトの可能性が高いと言える。
*兵《へい》曹《そう》長《ちよう》 曹長(下士官の最上位)の上で、大正9年より少尉と同格の准士官となった。
*鋼《はがね》の空〜裂《ひ》罅《び》がはいって 賢治はこの描写に似た奇妙な水彩画を描いている。賢治は異《い》空《くう》間《かん》の実在を確信していたが、この世界の外に異空間が広がっているとする考えは古今東西多く存在する。
*マジエル ウルサ・マジョール(大《おお》熊《ぐま》座《ざ》)にちなむ。北《ほく》斗《と》七《しち》星《せい》は大熊座の一部。
*夜間《ナイト》双《グ》眼《ラ》鏡《ス》 口径が大きくて倍率が低い双眼鏡。視野が明るい。
*駆《く》逐《ちく》艦《かん》 速度が速く、魚雷を主な兵器とする小型の艦船。
*少《しよう》佐《さ》 陸海軍士官の佐官の最下位。大尉の上で、少佐に昇進すると給料が5割増になる。
『水仙月の四日』
*水《すい》仙《せん》月《づき》 創作と思われるが、水仙の咲くのはほぼ4月。この作品では春の嵐《あらし》の吹く日。
*赤い毛布《ケツト》 ケットは英語で毛布を表すブランケットの略。明治時代に赤毛布が流行し、特に地方からの東京見物の人々の間でショール代わりにするのがはやり、「おのぼりさん」の代名詞となった。ここは、民間信《しん》仰《こう》で赤が厄《やく》よけの色とされることとの関係も想定される。
*カリメラ カルメル。浮石糖。軽目焼き。ざらめに重《じゆう》曹《そう》、または氷砂糖に卵の白身を加えて煮《に》立《た》たせて固めた軽石状のお菓子。
*象《ぞう》の頭のかたちをした、雪《ゆき》丘《おか》 『ひかりの素《す》足《あし》』等でも凶《きよう》事《じ》の前兆として登場。鈴木健司『宮沢賢治 幻想空間の構造』によれば、象《ぞう》頭《とう》山《さん》と呼ばれる山は各地にあり、これは魔《ま》神《じん》シヴァ(→三つ星)の息《むす》子《こ》、象頭神ガネーシャの仏教的受容(毘《び》那《な》耶《や》迦《か》、聖《しよう》天《てん》)。人に凶事をもたらす悪鬼神である。
*雪《せつ》花《か》石《せつ》膏《こう》 アラバスター。硫《りゆう》酸《さん》塩《えん》鉱物で硬《こう》度《ど》が2と柔《やわ》らかい石膏の一種。半透明な純白で、緻《ち》密《みつ》な粒状構造を示す。
*雪《ゆき》狼《おいの》 嵐《あらし》の一種の擬《ぎ》人《じん》化。暴力的な狼《おおかみ》とそれを操る雪《ゆき》婆《ば》んごの組み合わせは、春や性意識と結びついて登場する犬神(犬に乗る魔《ま》神《じん》。『サガレンと八月』詩「真空溶《よう》媒《ばい》」等)の変奏と思われる。背後には破壊と生《せい》殖《しよく》の魔神シヴァ(→三つ星)の忿《ふん》怒《ぬ》形《ぎよう》で、三目で狼(犬)に乗る怖畏神《バイラヴア》の存在が想定される。密教の忿《ふん》怒《ぬ》尊《そん》のひとつ、不《ふ》動《どう》明《みよう》王《おう》はこの怖畏神の影響を受けたといわれ、犬との結びつきが強い。
*カシオピイア W形を呈《てい》する北天の星座。天の川にかかり、北極星の周りを回転するので水車に見立てている。賢治は主な3星を三目(→三つ星)のシヴァ神として捉《とら》える。
*アンドロメダ 秋の星座。ギリシャ神話ではカシオペアの娘で、娘自慢に激怒した海の神ポセイドンは海《かい》獣《じゆう》を送る。このために生け贄《にえ》にされるが、ペルセウスが救う。
*あぜみの花 英語名が「Japanese Andromeda」。一般にはアシビ(馬酔木)と呼ぶ。
*ランプのアルコオル あぜみの釣《つり》鐘《がね》形《がた》の花をアルコールランプに、アンドロメダ大星雲をランプの炎に見立てたもの。賢治は、天上の花=星、地上の星=花として同価値に置く。
*やどりぎ 常緑寄生低木。エノキ、クリ、ブナ、カシワ等の枝の上に寄生し、鳥の巣状を呈《てい》するので、賢治はこれを「まり」にたとえる。黄色くなるのは3月頃に黄色い花をつけるため。やどりぎは、西洋では再生のシンボルとして用いられる。
*お旅《たび》屋《や》 神《み》輿《こし》が、祭り等で氏《うじ》子《こ》区内を巡《じゆん》幸《こう》する際に、途中で一時的に安置される場所。
*桔《き》梗《きよう》いろ 桔梗はキキョウ科の草。8、9月に星形の青《あお》紫《むらさき》色《いろ》の花をつける。
*三つ星 カシオペア座の5星のうちの三つの二等星。賢治は詩「〔温《ぬる》く含《ふく》んだ南の風が〕」下書稿《こう》で、この3星を三目のシヴァ神(↓雪狼)に擬《ぎ》している。
*琥《こ》珀《はく》 松《まつ》脂《やに》の化石。つやがあり、半透明な暗《あん》褐《かつ》色《しよく》を呈《てい》する。
『山男の四月』
*にしね山 賢治作品で山男が住むとされる場所。作品内部から想定すると、小岩井農場の西に西根という地名があり、その西側一帯の山あたり。
*やまなし バラ科の落葉高木。イワテヤマナシの変種もある。秋に熟す実は、3センチほどで、酸《す》っぱい。
*七《なな》つ森《もり》 小岩井農場の南西、盛岡から秋田方面に抜《ぬ》ける街道沿いにある小山群。
*支《し》那《な》人《じん》 中国人のこと。
*六《ろく》神《しん》丸《がん》 中国では二千年の歴史をもつ薬。日本では明治中頃に元祖の亀田家が輸入。成分はガマガエルの耳《じ》下《か》腺《せん》の分《ぶん》泌《ぴつ》物《ぶつ》や、麝《じや》香《こう》、熊《ゆう》胆《たん》等で、大変高価であった。だが毒性の強い砒《ひ》素《そ》が入っていたため輸入禁止となり、明治35年より国産品「赤井筒薬六神丸」として販売。以後富山の置き薬として百社以上で生産された。効能は心臓病、胃腸病、気つけ等。
*赤い眼《め》 賢治作品では爬《は》虫《ちゆう》類《るい》(蛇《へび》やとかげ)と結びつき、蛇の意識が身体に現れたことを示す。
*孔《こう》子《し》聖《せい》人《じん》 紀元前6世紀頃の中国の思想家で、儒《じゆ》教《きよう》の聖人。道徳として、仁《じん》の必要性を説いた。その思想内容は主に『論語』に収められた。
『かしわばやしの夜』
*鬱《う》金《こん》しゃっぽ 鬱金は熱帯アジア原産のショウガ科の多年草。日本では沖縄等で栽培される。カレーの原料のひとつ。止血剤《ざい》にもなる。根《こん》茎《けい》で染《そ》めるのが鬱金色で、鮮《せん》黄《おう》色《しよく》。しゃっぽはフランス語の「chapeau(シャポー)」からきた語で、帽《ぼう》子《し》のこと。
*トルコ帽《ぼう》 トルコ人が被《かぶ》る帽子で、円《えん》錐《すい》形の上半部を切り取った形で、つばや緑がない。色は普通は暗赤色。中央部に房《ふさ》がつく。
*肉《につ》桂《けい》 暖地を好むクスノキ科の常緑高木。シナモンの一種。樹皮は香味料。ニッキ。
*ときいろ トキ(鴾、朱鷺)は絶滅しかけている白い鳥で、羽の付け根が淡桃色。鴾《とき》色《いろ》は襦《じゆ》袢《ばん》等の色に用いられたなまめかしい色(『若い木《こ》霊《だま》』等で同様の使い方をされる)。
*みずいろ 月が薄雲に隠《かく》されて青白くなること。
*酢《す》をつくります 昔は木《き》屑《くず》から酢をつくった。
*のろづきおほん 岩手方言ではフクロウの鳴き声を、ノロズキノホ、ノロズキオホ、ノロズコオーホ等と言う。
*もののふ 武士のこと。
*沼《ぬま》森《もり》 岩《いわ》手《て》山《さん》麓《ろく》の標高五八二メートルの小山。小岩井農場の北西。
『月夜のでんしんばしら』
*硫《い》黄《おう》のほのお 硫黄は酸素中の燃焼では紫《むらさき》色《いろ》の炎をあげて二酸化硫黄となる。
*エボレット フランス語の「epaulette(エポレット)」。肩《けん》章《しよう》のこと。ここは電信柱の碍《がい》子《し》の比《ひ》喩《ゆ》。
*竜《りゆう》騎《き》兵《へい》 一説では、ドラゴンという小《しよう》銃《じゆう》で武装していたことからこの名がついた、フランスで16世紀に生まれた騎兵のこと。第一次世界大戦までは各国の陸軍で活《かつ》躍《やく》していた。
*電気総《そう》長《ちよう》 架《か》空《くう》の地位。総長は事務職の長官にあたる地位の者。
*てき弾《だん》兵《へい》 擲弾兵。近距離から爆発物を発射する歩兵。原田政右衛門『大日本兵語辞典』(大正10)によれば、日本には存在しないが、欧《おう》州《しゆう》では19世紀末頃まで存在していたという。賢治はハイネ(→『土神ときつね』)の詩「二人の擲弾兵」を読んでいたと思われる。
*カルクシャイヤ 賢治は『フランドン農学校の豚《ぶた》』で「ヨークシャー」種を「ヨウクシャイヤ」と記しており、ここも「カークシャー」の意味ととることができる。おそらくスコットランド南部ボーダーズ州中部の旧州名であるセルカークシャー州を指すと思われる。
*百石《こく》 石は約一八〇リットル。
*勢《せい》力《りよく》不《ふ》滅《めつ》の法《ほう》則《そく》 熱力学第一則。エネルギー保存の法則ともいう。エネルギーは形を変えてもその量は一定であるという法則。
*熱《ねつ》力《りき》学《がく》第《だい》二《に》則《そく》 エントロピー増大の原理。何の変化も残さずに、熱が移動する場合、その移動は不可逆(一方向のみ)である、という原理。電気的エネルギーが熱に転《てん》換《かん》する場合等。
『鹿踊りのはじまり』
*鹿《しし》踊《おど》り 岩手から宮城に分布する、獅《し》子《し》舞《まい》の一種。8ないし12人が鹿《しし》頭《がしら》を被《かぶ》り、背に長く白い腰竹を付け、腹に付けた太《たい》鼓《こ》を鳴らして跳《と》びはねる。盆《ぼん》の供《く》養《よう》に家々を廻《まわ》る。
*はんのき カバノキ科の落葉高木。湿《しつ》地《ち》や川沿いに生える。
*栃《とち》の団《だん》子《ご》 栃はトチノキ科の落葉高木で、種子はサポニンやフラボノールを含《ふく》み、痔《じ》や動脈硬《こう》化《か》の治療薬。種子の澱《でん》粉《ぷん》をあく抜《ぬ》きして作るのが渋《しぶ》味《み》のある栃団子。飢《き》饉《きん》時の非常食。
*こいづば鹿《しか》さ呉《け》でやべか 「こいつを鹿にくれてやるか」の方言。
*うめばちそう 山地の草むらに咲くユキノシタ科の多年草。花は白色で梅に似る。
*口《くち》発《はつ》破《ぱ》 東北のマタギが利用する狩《しゆ》猟《りよう》法《ほう》のひとつ。3センチくらいの竹《たけ》筒《づつ》の中に火薬を詰《つ》め、スルメで包んで山野に仕《し》掛《か》ける。食べた動物の口中で爆《ばく》破《は》し、死傷した動物を捕《と》らえる。
*なじょだた。なにだた 「どんなだった、なんだった」の方言。
*そだら生ぎものだないがべ 「それなら生き物でないだろう」の方言。
*噛《か》じるべとしたようだたもさ 「噛《か》じろうとしたようだったからさ」の方言。
*匂《におい》あなじょだ、匂あ 「匂いはどんなだった、匂いは」の方言。
*さあ、そでば、気《き》付《つ》けないがた 「さあ、そこは、気を付けなかった」の方言。
*息《いぎ》の音《おど》あ為《さ》ないがけあな 「息の音はしないようだったな」の方言。
*ごまざい ガガイモ科のガガイモの方言。多年生のつる草で、果実の中には絹糸状の白色の毛が密生し、風で飛んで行く。この毛は綿の代用品とされる。
*きっともて 「きっと(そうだな)」の方言。
*おれ歌《うだ》、うだうはんてみんな廻《ま》れ 「おれが歌を歌うからみんな廻《まわ》れ」の方言。
*ふんながす 「身をなげる」の方言。
*吠《ほ》えるもさないば 泣《な》ぐもさない 「吠えもしなければ、泣きもしない」の方言。
*かんがみ 「鏡」の方言。
*ぎんがぎが 「ぎいらぎら」の方言。
『新刊案内』
*イーハトヴ 理想郷として虚《きよ》構《こう》化《か》、あるいは幻想化された岩手県。
*大小クラウス アンデルセンの童話『大クラウスと小クラウス』の登場人物。貧乏農民の小クラウスが金持ち農民の大クラウスの迫《はく》害《がい》に耐え、最後に勝利する話。
*アリス ルイス・キャロルの童話に登場する少女。ここは『鏡の国のアリス』を踏《ふ》まえる。
*テパーンタール砂《さ》漠《ばく》 インドの詩人タゴールの詩集『新月』に登場する架《か》空《くう》の砂漠。
*イヴン王国 トルストイの童話『イワンの馬《ば》鹿《か》と二人の兄弟』より。軍人、商人、農民の3兄弟が国王を務める国に悪《あく》魔《ま》が取りつくが、馬鹿な農民達のイワン王国だけは滅《ほろ》ぼせない。
*ベーリング市 北海道のはるか北、ベーリング海周辺に空想された架《か》空《くう》の都市。
*心象スケッチ 仏教の輪《りん》廻《ね》転《てん》生《しよう》という生まれ変わりを信じていた賢治は、人間の心は、無限の過去から受け継《つ》がれて来た無数の生物の記《き》憶《おく》の集積と考えた。従って、自分の心の中でおこる現象(心象)を記録(スケッチ)すれば、個人の心があらゆる生物の心の集合体であることの証明となり、世界がひとつの心をもつという理想世界に近づけると考えた。
*アドレッセンス 青年期(12歳くらいから20代前半くらいまで)。ここで「中葉」とあるのは 大人《おとな》社会の悪徳に染まらない少年の純《じゆん》粋《すい》さを維《い》持《じ》し、かつ世界全体の幸福を考えるだけの頭脳をもつ若《わこ》人《うど》を読者に想定したため。
大塚 常樹
宮沢賢治 角川e文庫・本文について
(1)角川文庫版(「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房 平7・5―を底本とする)を電子化した。
(2)角川文庫版の底本に疑問があっても、その形を残さざるをえなかった場合は、該当箇所に(ママ)と注記した。
(3)本文中には、現代の人権擁護の見地からは差別語と考えられるものもあるが、時代的背景と作品価値を考え合わせ、そのままとした。
(編集部)
注《ちゆう》文《もん》の多《おお》い料《りよう》理《り》店《てん》
宮《みや》沢《ざわ》賢《けん》治《じ》
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平成12年9月1日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『注文の多い料理店』平成8年6月25日改訂新版刊行