TITLE : セロ弾きのゴーシュ
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雪渡《ゆきわた》り
やまなし
氷河鼠《ひようがねずみ》の毛皮《けがわ》
シグナルとシグナレス
オツベルと象《ぞう》
ざしき童子《ぼつこ》のはなし
寓話《ぐうわ》 猫《ねこ》の事務所《じむしよ》
北守将軍《ほくしゆしようぐん》と三人兄弟《さんにんきようだい》の医者《いしや》
グスコーブドリの伝記《でんき》
朝に就《つい》ての童話的構図《どうわてきこうず》
セロ弾《ひ》きのゴーシュ
付録
ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記《でんき》
ペンネンノルデはいまはいないよ
太陽《たいよう》にできた黒い棘《とげ》をとりに行ったよ
注 釈                  大塚常樹
雪渡《ゆきわた》り
雪渡り その一(小狐《こぎつね》の紺三郎《こんざぶろう》)
雪がすっかり凍《こお》って大理石よりも堅《かた》くなり、空も冷《つめ》たい滑《なめ》らかな青《あお》い石の板《いた》で出来ているらしいのです。
「堅雪《かたゆき》かんこ、しみ雪しんこ《*》。」
お日様《ひさま》がまっ白に燃《も》えて百合《ゆり》の匂《におい》を撒《ま》きちらしまた雪をぎらぎら照《て》らしました。
木なんかみんなザラメ《*》を掛《か》けたように霜《しも》でぴかぴかしています。
「堅雪かんこ、凍《し》み雪しんこ。」四郎《しろう》とかん子とは小さな雪沓《ゆきぐつ》をはいてキックキックキック、野原に出ました。
こんな面白《おもしろ》い日が、またとあるでしょうか。いつもは歩けない黍《きび》の畑《はたけ》の中でも、すすきで一杯《いつぱい》だった野原の上でも、すきな方へどこまででも行けるのです。平らなことはまるで一枚《まい》の板《いた》です。そしてそれが沢山《たくさん》の小さな小さな鏡《かがみ》のようにキラキラキラキラ光るのです。
「堅雪《かたゆき》かんこ、凍《し》み雪しんこ。」
二人《ふたり》は森の近くまで来ました。大きな柏《かしわ》の木は枝《えだ》も埋《う》まるくらい立派《りつぱ》な透《す》きとおった氷柱《つらら》を下げて重そうに身体《からだ》を曲《ま》げて居《お》りました。
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐《きつね》の子ぁ、嫁《よめ》ぃほしい、ほしい。」と二人は森へ向《む》いて高く叫《さけ》びました。
しばらくしいんとしましたので二人はも一度叫ぼうとして息《いき》をのみこんだとき森の中から、
「凍み雪しんしん、堅雪かんかん。」と云《い》いながら、キシリキシリ雪をふんで白い狐の子が出て来ました。
四郎《しろう》は少しぎょっとしてかん子をうしろにかばって、しっかり足をふんばって叫びました。
「狐こんこん白狐、お嫁ほしけりゃ、とってやろよ。」
すると狐がまだまるで小さいくせに銀《ぎん》の針《はり》のようなおひげをピンと一つひねって云いました。
「四郎《しろう》はしんこ、かん子はかんこ、おらはお嫁《よめ》はいらないよ。」
四郎が笑《わら》って云《い》いました。
「狐《きつね》こんこん、狐の子、お嫁がいらなきゃ餠《もち》やろか。」すると狐の子も頭を二つ三つ振《ふ》って面白《おもしろ》そうに云いました。
「四郎はしんこ、かん子はかんこ、黍《きび》の団子《だんご》をおれやろか。」
かん子もあんまり面白いので四郎のうしろにかくれたままそっと歌いました。
「狐こんこん狐の子、狐の団子は兎《うさ》のくそ。」
すると小狐紺三郎《こぎつねこんざぶろう》が笑って云いました。
「いいえ、決《けつ》してそんなことはありません。あなた方のような立派《りつぱ》なお方が兎《うさぎ》の茶色の団子なんか召《め》しあがるもんですか。私《わたし》らは全体《ぜんたい》いままで人をだますなんてあんまりむじつの罪《つみ》をきせられていたのです。」
四郎がおどろいて尋《たず》ねました。
「そいじゃきつねが人をだますなんて偽《うそ》かしら。」
紺三郎が熱心《ねっしん》に云いました。
「偽ですとも。けだし最《もっと》もひどい偽です。だまされたという人は大抵《たいてい》お酒《さけ》に酔《よ》ったり、臆病《おくびよう》でくるくるしたりした人です。面白《おもしろ》いですよ。甚兵衛《じんべえ》さんがこの前、月夜の晩《ばん》私たちのお家の前に坐《すわ》って一晩じょうるりをやりましたよ。私らはみんな出て見たのです。」
四郎《しろう》が叫《さけ》びました。
「甚兵衛《じんべえ》さんならじょうるりじゃないや。きっと浪花《なにわ》ぶしだぜ。」
子狐紺三郎《こぎつねこんざぶろう》はなるほどという顔をして、
「ええ、そうかもしれません。とにかくお団子《だんご》をおあがりなさい。私のさしあげるのは、ちゃんと私が畑《はたけ》を作って播《ま》いて草をとって刈《か》って叩《たた》いて粉《こな》にして練《ね》ってむしてお砂糖《さとう》をかけたのです。いかがですか。一皿《ひとさら》さしあげましょう。」
と云《い》いました。
と四郎が笑《わら》って、
「紺三郎さん、僕らは丁度《ちようど》いまね、お餠《もち》をたべてきたんだからおなかが減《へ》らないんだよ。この次《つぎ》におよばれしようか。」
子狐の紺三郎が嬉《うれ》しがってみじかい腕《うで》をばたばたして云いました。
「そうですか。そんなら今度幻燈会《げんとうかい》のときさしあげましょう。幻燈会にはきっといらっしゃい。この次の雪の凍《こお》った月夜の晩です。八時からはじめますから、入場券《にゆうじようけん》をあげておきましょう。何枚《なんまい》あげましょうか。」
「そんなら五枚お呉《く》れ。」と四郎《しろう》が云《い》いました。
「五枚ですか。あなた方が二枚にあとの三枚はどなたですか。」と紺三郎《こんざぶろう》が云いました。
「兄《にい》さんたちだ。」と四郎が答えますと、
「兄さんたちは十一歳《さい》以下《いか》ですか。」と紺三郎がまた尋《たず》ねました。
「いや小兄《ちいにい》さんは四《(ママ)》年生だからね、八つの四つで十二歳。」と四郎が云いました。
すると紺三郎は尤《もつと》もらしくまたおひげを一つひねって云いました。
「それでは残念《ざんねん》ですが兄さんたちはお断《こと》わりです。あなた方だけいらっしゃい。特別席《とくべつせき》をとっておきますから、面白《おもしろ》いんですよ。幻燈《げんとう》は第一《だいいち》が『お酒《さけ》をのむべからず。』これはあなたの村《むら》の太《た》右衛《え》門《もん》さんと、清作《せいさく》さんがお酒をのんでとうとう目がくらんで野原にあるへんてこなおまんじゅうや、おそばを喰《た》べようとしたところです。私《わたし》も写真《しやしん》の中にうつっています。第二が『わなに注意《ちゆうい》せよ。』これは私共《わたしども》のこん兵衛《べえ》が野原でわなにかかったのを画《か》いたのです。絵です。写真ではありません。第三が『火を軽《けい》べつすべからず。』これは私共のこん助《すけ》があなたのお家へ行って尻尾《しつぽ》を焼《や》いた景色《けしき》です。ぜひおいで下さい。」
二人《ふたり》は悦《よろこ》んでうなずきました。
狐《きつね》は可笑《おか》しそうに口を曲《ま》げて、キックキックトントンキックキックトントンと足ぶみをはじめてしっぽと頭を振《ふ》ってしばらく考えていましたがやっと思いついたらしく、両手《りようて》を振《ふ》って調子《ちようし》をとりながら歌いはじめました。
「凍《し》み雪しんこ、堅雪《かたゆき》かんこ、
野原のまんじゅうはポッポッポ。
酔《よ》ってひょろひょろ太《た》右衛《え》門《もん》が、
去年《きよねん》、三十八、たべた。
凍み雪しんこ、堅雪かんこ、
野原のおそばはホッホッホ。
酔ってひょろひょろ清作《せいさく》が、
去年十三ばいたべた。」
四郎《しろう》もかん子もすっかり釣《つ》り込《こ》まれてもう狐と一緒《いつしよ》に踊《おど》っています。
キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キック、トントントン。四郎が歌いました。
「狐こんこん狐の子、去年《きよねん》狐のこん兵衛《べえ》が、ひだりの足をわなに入れ、こんこんばたばたこんこんこん。」
かん子が歌いました。
「狐《きつね》こんこん狐の子、去年《きよねん》狐のこん助《すけ》が、焼《や》いた魚を取ろとしておしりに火がつききゃんきゃんきゃん。」
キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キックトントントン。
そして三人は踊《おど》りながらだんだん林の中にはいって行きました。赤い封臘細工《ふうろうざいく*》のほおの木の芽《め》が、風に吹《ふ》かれてピッカリピッカリと光り、林の中の雪には藍色《あいいろ》の木の影《かげ》がいちめん網《あみ》になって落ちて日光のあたる所《ところ》には銀《ぎん》の百合《ゆり》が咲《さ》いたように見えました。
すると子狐紺三郎《こぎつねこんざぶろう》が云《い》いました。
「鹿《しか》の子も呼《よ》びましょうか。鹿の子はそりゃ笛《ふえ》がうまいんですよ。」
四郎《しろう》とかん子とは手を叩《たた》いてよろこびました。そこで三人は一緒《いつしよ》に叫《さけ》びました。
「堅雪《かたゆき》かんこ、凍《し》み雪しんこ、鹿の子ぁ嫁《よめ》ぃほしいほしい。」
すると向《むこ》うで、
「北風ぴいぴい風三郎《かぜさぶろう》、西風どうどう又三郎《またさぶろう》。」と細いいい声がしました。
狐の子の紺三郎がいかにもばかにしたように、口を尖《とが》らして云いました。
「あれは鹿《しか》の子です。あいつは臆病《おくびよう》ですからとてもこっちへ来そうにありません。けれどもう一遍《いつぺん》叫《さけ》んでみましょうか」
そこで三人はまた叫びました。
「堅雪《かたゆき》かんこ、凍《し》み雪しんこ、しかの子ぁ嫁《よめ》ほしい、ほしい。」
すると今度はずうっと遠くで風の音か笛の声か、または鹿の子の歌かこんなように聞えました。
「北風ぴいぴい、かんこかんこ
西風どうどう、どっこどっこ。」
狐《きつね》はまたひげをひねって云《い》いました。
「雪が柔《やわ》らかになるといけませんからもうお帰りなさい。今度月夜に雪が凍《こお》ったらきっとおいで下さい。さっきの幻燈《げんとう》をやりますから。」
そこで四郎《しろう》とかん子とは
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」と歌いながら銀《ぎん》の雪を渡《わた》っておうちへ帰りました。
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」
雪渡《ゆきわた》り その二(狐《きつね》小学校の幻燈会《げんとうかい》)
青白い大きな十五夜のお月様《つきさま》がしずかに氷《ひ》の上山《かみやま》から登《のぼ》りました。
雪はチカチカ青く光り、そして今日も寒水石《かんすいせき*》のように堅《かた》く凍《こお》りました。
四郎《しろう》は狐《きつね》の紺三郎《こんざぶろう》との約束《やくそく》を思い出して妹のかん子にそっと云《い》いました。
「今夜狐の幻燈会なんだね。行こうか。」
するとかん子は、
「行きましょう。行きましょう。狐こんこん狐の子、こんこん狐の紺三郎。」とはねあがって高く叫《さけ》んでしまいました。
すると二番目の兄《にい》さんの二郎《じろう》が、
「お前たちは狐のとこへ遊《あそ》びに行くのかい。僕《ぼく》も行きたいな。」と云いました。
四郎は困《こま》ってしまって肩《かた》をすくめて云いました。
「大兄《おおにい》さん。だって、狐の幻燈会は十一歳《さい》までですよ、入場券《にゆうじようけん》に書いてあるんだもの。」
二郎が云いました。
「どれ、ちょっとお見せ、ははあ、学校生徒《せいと》の父兄にあらずして十二歳《さい》以上《いじよう》の来賓《らいひん》は入場をお断《こと》わり申《もう》し候《そろ》。狐《きつね》なんて仲々《なかなか》うまくやってるね。僕《ぼく》はいけないんだね。仕方《しかた》ないや。お前たち行くんならお餠《もち》を持《も》って行っておやりよ。そら、この鏡餠《かがみもち》がいいだろう。」
四郎とかん子はそこで小さな雪沓《ゆきぐつ》をはいてお餠をかついで外に出ました。
兄弟の一郎《いちろう》二郎《じろう》三郎《さぶろう》は戸口に並《なら》んで立って、
「行っておいで。大人《おとな》の狐にあったら急《いそ》いで目をつぶるんだよ。そら僕ら囃《はや》してやろうか。堅雪《かたゆき》かんこ、凍《し》み雪しんこ、狐の子ぁ嫁《よめ》ぃほしいほしい」と叫《さけ》びました。
お月様《つきさま》は空に高く登《のぼ》り森は青白いけむりに包《つつ》まれています。二人《ふたり》はもうその森の入口に来ました。
すると胸《むね》にどんぐりのきしょうをつけた白い小さな狐の子が立って居《い》て云《い》いました。
「今晩は。お早うございます。入場券《にゆうじようけん》はお持ちですか。」
「持っています。」二人はそれを出しました。
「さあ、どうぞあちらへ。」狐の子が尤《もつと》もらしくからだを曲げて眼《め》をパチパチしながら林の奥《おく》を手で教えました。
林の中には月の光が青い棒《ぼう》を何本《なんぼん》も斜《なな》めに投《な》げ込《こ》んだように射《さ》して居《お》りました。その中のあき地に二人は来ました。
見るともう狐《きつね》の学校生徒《せいと》が沢山《たくさん》集《あつま》って栗《くり》の皮《かわ》をぶっつけ合ったりすもうをとったり殊《こと》におかしいのは小さな小さな鼠《ねずみ》ぐらいの狐の子が大きな子供《こども》の狐の肩車《かたぐるま》に乗ってお星様《ほしさま》を取ろうとしているのです。
みんなの前の木の枝《えだ》に白い一枚《いちまい》の敷布《しきふ》がさがっていました。
不意《ふい》にうしろで、
「今晩《こんばん》は、よくおいででした。先日は失礼《しつれい》いたしました。」という声がしますので四郎《しろう》とかん子とはびっくりして振《ふ》り向《む》いて見ると紺三郎《こんざぶろう》です。
紺三郎なんかまるで立派《りつぱ》な燕尾服《えんびふく》を着て水仙《すいせん》の花を胸《むね》につけてまっ白なはんけちでしきりにその尖《とが》ったお口を拭《ふ》いているのです。
四郎は一寸《ちよつと》お辞儀《じぎ》をして云《い》いました。
「この間は失敬《しつけい》。それから今晩はありがとう。このお餠《もち》をみなさんであがって下《くだ》さい。」
狐の学校生徒はみんなこっちを見ています。
紺三郎は胸を一杯《いっぱい》に張《は》ってすまして餠を受けとりました。
「これはどうもおみやげを戴《いただ》いて済《す》みません。どうかごゆるりとなすって下さい。もうすぐ幻燈《げんとう》もはじまります。私《わたくし》は一寸《ちよつと》失礼《しつれい》いたします。」
紺三郎《こんざぶろう》はお餠《もち》を持《も》って向《むこ》うへ行きました。
狐《きつね》の学校生徒《せいと》は声をそろえて叫《さけ》びました。
「堅雪《かたゆき》かんこ、凍《し》み雪しんこ、かたいお餠《もち》はかったらこ、白いお餠はべったらこ。」
幕《まく》の横《よこ》に、
「寄贈《きぞう》、お餠沢山《たくさん》、人の四郎《しろう》氏、人のかん子氏。」と大きな札《ふだ》が出ました。狐の生徒は悦《よろこ》んで手をパチパチ叩《たた》きました。
その時ピーと笛《ふえ》が鳴りました。
紺三郎がエヘンエヘンとせきばらいをしながら幕の横から出て来て丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をしました。みんなはしんとなりました。
「今夜は美しい天気です。お月様《つきさま》はまるで真珠《しんじゆ》のお皿《さら》です。お星さまは野原の露《つゆ》がキラキラ固《かた》まったようです。さて只今《ただいま》から幻燈会《げんとうかい》をやります。みなさんは瞬《またたき》やくしゃみをしないで目をまんまろに開《ひら》いて見ていて下さい。
それから今夜は大切《たいせつ》な二人《ふたり》のお客《きやく》さまがありますからどなたも静《しず》かにしないといけません。決《けつ》してそっちの方へ栗《くり》の皮《かわ》を投《な》げたりしてはなりません。開会《かいかい》の辞《じ》です。」
みんな悦んでパチパチ手を叩きました。そして四郎がかん子にそっと云《い》いました。
「紺三郎《こんざぶろう》さんはうまいんだね。」
笛《ふえ》がピーと鳴りました。
『お酒《さけ》をのむべからず。』大きな字が幕《まく》にうつりました。そしてそれが消《き》えて写真《しやしん》がうつりました。一人《ひとり》のお酒に酔《よ》った人間のおじいさんが何かおかしな円《まる》いものをつかんでいる景色《けしき》です。
みんなは足ぶみをして歌いました。
キックキックトントンキックキックトントン
凍《し》み雪しんこ、堅雪《かたゆき》かんこ、
野原のまんじゅうはぽっぽっぽ
酔ってひょろひょろ太《た》右衛《え》門《もん》が
去年《きよねん》、三十八たべた。
キックキックキックキックトントントン
写真が消えました。四郎《しろう》はそっとかん子に云《い》いました。
「あの歌は紺三郎さんのだよ。」
別に写真がうつりました。一人のお酒に酔った若《わか》い者《もの》がほおの木の葉《は》でこしらえたお椀《わん》のようなものに顔をつっ込《こ》んで何か喰《た》べています。紺三郎が白い袴《はかま》をはいて向《むこ》うで見ているけしきです。
みんなは足踏《あしぶ》みをして歌いました。
キックキックトントン、キックキック、トントン。
凍《し》み雪しんこ、堅雪《かたゆき》かんこ、
野原のおそばはぽっぽっぽ、
酔《よ》ってひょろひょろ清作《せいさく》が、
去年《きよねん》十三ばい喰《た》べた。
キック、キック、キック、キック、トン、トン、トン。
写真《しやしん》が消《き》えて一寸《ちよつと》やすみになりました。
可愛《かあい》らしい狐の女の子が黍団子《きびだんご》をのせたお皿《さら》を二つ持《も》って来ました。
四郎《しろう》はすっかり弱ってしまいました。なぜってたった今太《た》右衛《え》門《もん》と清作《せいさく》との悪《わる》いものを知らないで喰《た》べたのを見ているのですから。
それに狐の学校生徒《せいと》がみんなこっちを向《む》いて「食うだろうか。ね、食うだろうか。」なんてひそひそ話し合っているのです。かん子ははずかしくてお皿を手に持ったまままっ赤になってしまいました。すると四郎は決心《けつしん》して云《い》いました。
「ね。喰べよう。お喰べよ。僕《ぼく》は紺三郎《こんざぶろう》さんが僕らを欺《だま》すなんて思わないよ。」そして二人《ふたり》は黍団子《きびだんご》をみんな喰べました。そのおいしいことは頬《ほ》っぺたも落《お》ちそうです。狐《きつね》の学校生徒《せいと》はもうあんまり悦《よろこ》んでみんな踊《おど》りあがってしまいました。
キックキックトントン、キックキックトントン。
「ひるはカンカン日のひかり
よるはツンツン月あかり。
たとえからだを、さかれても
狐の生徒はうそ云《い》うな。」
キック、キックトントン、キックキックトントン。
「ひるはカンカン日のひかり
よるはツンツン月あかり
たとえこごえて倒《たお》れても
狐の生徒はぬすまない。」
キックキックトントン、キックキックトントン。
「ひるはカンカン日のひかり
よるはツンツン月あかり
たとえからだがちぎれても
狐の生徒《せいと》はそねまない《*》。」
キックキックトントン、キックキックトントン。
四郎《しろう》もかん子もあんまり嬉《うれ》しくて涙《なみだ》がこぼれました。
笛《ふえ》がピーとなりました。
『わなを軽《けい》べつすべからず。』と大きな字がうつりそれが消《き》えて絵がうつりました。狐のこん兵衛《べえ》がわなに左足をとられた景色《けしき》です。
「狐こんこん狐の子、去年《きよねん》狐のこん兵衛が
左の足をわなに入れ、こんこんばたばた
こんこんこん。」
とみんなが歌いました。
四郎がそっとかん子に云《い》いました。
「僕《ぼく》の作った歌だねい。」
絵が消えて『火を軽べつすべからず。』という字があらわれました。それも消えて絵がうつりました。狐のこん助《すけ》が焼いたお魚を取ろうとしてしっぽに火がついたところです。
狐の生徒がみな叫《さけ》びました。
「狐《きつね》こんこん狐の子。去年狐のこん助が
焼《や》いた魚を取《と》ろとしておしりに火がつき
きゃんきゃんきゃん。」
笛《ふえ》がピーと鳴り幕《まく》は明るくなって紺三郎《こんざぶろう》がまた出て来て云《い》いました。
「みなさん。今晩《こんばん》の幻燈《げんとう》はこれでおしまいです。今夜みなさんは深《ふか》く心に留《と》めなければならないことがあります。それは狐のこしらえたものを賢《かしこ》いすこしも酔《よ》わない人間のお子さんが喰《た》べて下すったということです。そこでみなさんはこれからも、大人《おとな》になってもうそをつかず人をそねまず私共《わたくしども》狐の今までの悪《わる》い評判《ひようばん》をすっかり無《な》くしてしまうだろうと思います。閉会《へいかい》の辞《じ》です。」狐の生徒《せいと》はみんな感動《かんどう》して両手《りようて》をあげたりワーッと立ちあがりました。そしてキラキラ涙《なみだ》をこぼしたのです。
紺三郎が二人《ふたり》の前に来て、丁寧《ていねい》におじぎをして云いました。
「それでは。さようなら。今夜のご恩《おん》は決《けつ》して忘《わす》れません。」二人もおじぎをしてうちの方へ帰りました。狐の生徒たちが追《お》いかけて来て二人のふところやかくしにどんぐりだの栗《くり》だの青びかりの石だのを入れて、
「そら、あげますよ。」「そら、取《と》ってください。」なんて云って、風のように逃《に》げ帰って行きます。
紺三郎は笑《わら》って見ていました。
二人は森を出て野原を行きました。
その青白い雪の野原のまん中で三人の黒い影《かげ》が向《むこ》こうから来るのを見ました。それは迎《むか》いに来た兄《にい》さん達《たち》でした。
やまなし《*》
小さな谷川の底《そこ》を写した二枚《まい》の青い幻燈《げんとう》です。
一 五月
二疋《ひき》の蟹《かに》の子供《こども》らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボン《*》はわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳《はね》てわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
上の方や横《よこ》の方は、青くくらく鋼《はがね》のように見えます。そのなめらかな天井《てんじよう》を、つぶつぶ暗《くら》い泡《あわ》が流《なが》れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
つぶつぶ泡《あわ》が流《なが》れて行きます。蟹《かに》の子供《こども》らもぽっぽっぽっとつづけて五、六粒《つぶ》泡を吐《は》きました。それはゆれながら水銀《すいぎん》のように光って斜《なな》めに上の方へのぼって行きました。
つうと銀のいろの腹《はら》をひるがえして、一疋《ぴき》の魚が頭の上を過《す》ぎて行きました。
『クラムボンは死《し》んだよ』
『クラムボンは殺《ころ》されたよ』
『クラムボンは死んでしまったよ……。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄《にい》さんの蟹は、その右側《みぎがわ》の四本の脚《あし》の中の二本を、弟の平《ひら》べったい頭にのせながら云《い》いました。
『わからない。』
魚がまたツウと戻《もど》って下流《かりゆう》の方へ行きました。
『クラムボンはわらったよ。』
『わらった。』
にわかにパッと明るくなり、日光の黄金《きん》は夢《ゆめ》のように水の中に降《ふ》って来ました。
波《なみ》から来る光の網《あみ》が、底《そこ》の白い磐《いわ》の上で美《うつく》しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。泡《あわ》や小さなごみからはまっすぐな影《かげ》の棒《ぼう》が、斜《なな》めに水の中に並《なら》んで立ちました。
魚がこんどはそこら中の黄金《きん》の光をまるっきりくちゃくちゃにしておまけに自分は鉄《てつ》いろに変《へん》に底びかりして、また上流《かみ》の方へのぼりました。
『お魚はなぜああ行ったり来たりするの。』
弟の蟹《かに》がまぶしそうに眼《め》を動《うご》かしながらたずねました。
『何か悪《わる》いことをしてるんだよ。とってるんだよ。』
『とってるの。』
『うん。』
そのお魚がまた上流《かみ》から戻《もど》って来ました。今度《こんど》はゆっくり落《お》ちついて、ひれも尾《お》も動かさずただ水にだけ流《なが》されながらお口を環《わ》のように円くしてやって来ました。その影は黒くしずかに底の光の網の上をすべりました。
『お魚は……。』
その時です。俄《にわか》に天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾《てつぽうだま》のようなものが、いきなり飛込《とびこ》んで来ました。
兄《にい》さんの蟹《かに》ははっきりとその青いもののさきがコンパスのように黒く尖《とが》っているのも見ました。と思ううちに、魚の白い腹《はら》がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の方へのぼったようでしたが、それっきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金《きん》の網《あみ》はゆらゆらゆれ、泡《あわ》はつぶつぶ流《なが》れました。
二疋《ひき》はまるで声も出ず居《い》すくまってしまいました。
お父さんの蟹が出て来ました。
『どうしたい。ぶるぶるふるえているじゃないか。』
『お父さん、いまおかしなものが来たよ。』
『どんなもんだ。』
『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖っているの。それが来たらお魚が上へのぼって行ったよ。』
『そいつの眼《め》が赤かったかい。』
『わからない。』
『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ、かわせみ《*》と云うんだ。大丈夫《だいじようぶ》だ、安心《あんしん》しろ。おれたちはかまわないんだから。』
『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』
『魚かい。魚はこわい所《ところ》へ行った。』
『こわいよ、お父さん。』
『いいいい、大丈夫《だいじようぶ》だ。心配《しんぱい》するな、そら、樺《かば》の花《*》が流《なが》れて来た。ごらんきれいだろう。』
泡《あわ》と一緒《いつしよ》に、白い樺の花びらが天井《てんじよう》をたくさんすべって来ました。
『こわいよ、お父さん。』弟の蟹《かに》も云《い》いました。
光の網《あみ》はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影《かげ》はしずかに砂《すな》をすべりました。
二 十二月
蟹の子供《こども》らはもうよほど大きくなり、底《そこ》の景色《けしき》も夏から秋の間にすっかり変《かわ》りました。
白い柔《やわら》かな円石《まるいし》もころがって来小さな錐《きり》の形の水晶《すいしよう*》の粒《つぶ》や、金雲母《きんうんも*》のかけらもながれて来てとまりました。
そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶《びん》の月光がいっぱいに透《す》きとおり天井では波《なみ》が青じろい火を、燃《も》やしたり消《け》したりしているよう、あたりはしんとして、ただいかにも遠くからというように、その波《なみ》の音がひびいて来るだけです。
蟹《かに》の子供《こども》らは、あんまり月が明るく水がきれいなので睡《ねむ》らないで外に出て、しばらくだまって泡《あわ》をはいて天井《てんじよう》の方を見ていました。
『やっぱり僕《ぼく》の泡は大きいね。』
『兄《にい》さん、わざと大きく吐《は》いてるんだい。僕だってわざとならもっと大きく吐けるよ。』
『吐いてごらん。おや、たったそれきりだろう。いいかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだろう。』
『大きかないや、おんなじだい』
『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒《いつしよ》に吐いてみよう。いいかい、そら。』
『やっぱり僕の方大きいよ。』
『本統《ほんとう》かい。じゃ、も一つはくよ。』
『だめだい、そんなにのびあがっては。』
またお父さんの蟹が出て来ました。
『もうねろねろ。遅《おそ》いぞ。あしたイサド《*》へ連《つ》れて行かんぞ。』
『お父さん、僕《ぼく》たちの泡《あわ》どっち大きいの。』
『それは兄さんの方だろう。』
『そうじゃないよ、僕の方大きいんだよ。』弟の蟹《かに》は泣《な》きそうになりました。
そのとき、トブン。
黒い円《まる》い大きなものが、天井《てんじよう》から落《お》ちてずうっとしずんでまた上へのぼって行きました。キラキラッと黄金《きん》のぶちがひかりました。
『かわせみだ。』子供らの蟹は頸《くび》をすくめて云《い》いました。
お父さんの蟹は、遠めがねのような両方《りようほう》の眼《め》をあらん限《かぎ》り延《の》ばして、よくよく見てから云いました。
『そうじゃない、あれはやまなしだ、流《なが》れてゆくぞ、ついて行ってみよう、ああいい匂《にお》いだな。』
なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂いでいっぱいでした。
三疋《びき》はぽかぽか流れて行くやまなしのあとを追《お》いました。
その横《よこ》あるきと、底《そこ》の黒い三つの影法師《かげぼうし》が、合せて六つ踊《おど》るようにして、山なしの円い影を追いました。
間もなく水はサラサラ鳴り、天井《てんじよう》の波《なみ》はいよいよ青い焔《ほのお》をあげ、やまなしは横《よこ》になって木の枝《えだ》にひっかかってとまり、その上には月光の虹《にじ》がもかもか集《あつ》まりました。
『どうだ、やっぱりやまなしだよ、よく熟《じゆく》している、いい匂《にお》いだろう。』
『おいしそうだね、お父さん。』
『待《ま》て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈《しず》んで来る、それからひとりでにおいしいお酒《さけ》ができるから、さあ、もう帰って寝《ね》よう、おいで。』
親子《おやこ》の蟹《かに》は三疋《びき》自分等《ら》の穴《あな》に帰って行きます。
波はいよいよ青じろい焔をゆらゆらとあげました。それはまた金剛石《こんごうせき*》の粉《こ》をはいているようでした。
私《わたし》の幻燈《げんとう》はこれでおしまいであります。
氷河鼠《ひようがねずみ*》の毛皮《けがわ》
このおはなしは、ずいぶん北の方の寒《さむ》いところからきれぎれに風に吹《ふ》きとばされて来たのです。氷《こおり》がひとでや海月《くらげ》やさまざまのお菓子《かし》の形をしているくらい寒い北の方から飛《と》ばされてやって来たのです。
十二月の二十六日の夜八時ベーリング《*》行の列車《れつしや》に乗ってイーハトヴ《*》を発《た》った人たちが、どんな眼《め》にあったかきっとどなたも知りたいでしょう。これはそのおはなしです。
ぜんたい十二月の二十六日はイーハトヴはひどい吹雪《ふぶき》でした。町の空や通りはまるっきり白だか水色だか変《へん》にばさばさした雪の粉《こ》でいっぱい、風はひっきりなしに電線や枯《か》れたポプラを鳴らし、鴉《からす》なども半分凍《こご》ったようになってふらふらと空を流《なが》されて行きました。ただ、まあ、その中から馬そりの鈴《すず》のチリンチリン鳴る音が、やっと聞えるのでやっぱり誰《たれ》か通っているなということがわかるのでした。
ところがそんなひどい吹雪《ふぶき》でも夜の八時になって停車場《ていしやじよう》に行ってみますと暖炉《だんろ》の火は愉快《ゆかい》に赤く燃《も》えあがり、ベーリング行の最大急行《さいだいきゆうこう*》に乗《の》る人たちはもうその前にまっ黒に立っていました。
何せ北極《ほつきよく》のじき近くまで行くのですからみんなはすっかり用意《ようい》していました。着物《きもの》はまるで厚《あつ》い壁《かべ》のくらい着込《きこ》み、馬油《ばゆ》を塗《ぬ》った長靴《ながぐつ》をはきトランクにまで寒《さむ》さでひびが入らないように馬油を塗ってみんなほうほうしていました。
汽缶車《きかんしや》はもうすっかり支度《したく》ができて暖《あたたか》そうな湯気《ゆげ》を吐《は》き、客車《きやくしや》にはみな明るく電燈《でんとう》がともり、赤いカーテンもおろされて、プラットホームにまっすぐにならびました。
『ベーリング行、午後八時発車《はつしや》、ベーリング行。』一人《ひとり》の駅夫《えきふ》が高く叫《さけ》びながら待合室《まちあいしつ》に入って来ました。
すぐ改札《かいさつ》のベルが鳴り、みんなはわいわい切符《きつぷ》を切《き》ってもらってトランクや袋《ふくろ》を車の中にかつぎ込みました。
間もなくパリパリ呼子《よびこ》が鳴り汽缶車は一つポーとほえて、汽車は一目散《いちもくさん》に飛《と》び出しました。何せベーリング行の最大急行ですから実《じつ》にはやいもんです。見る間にそのおしまいの二つの赤い火が灰《はい》いろの夜のふぶきの中に消《き》えてしまいました。ここまではたしかに私《わたし》も知っています。
列車《れつしや》がイーハトヴの停車場《ていしやじよう》をはなれて荷物《にもつ》が棚《たな》や腰掛《こしかけ》の下に片附《かたづ》き、席《せき》がすっかりきまりますとみんなはまずつくづくと同じ車の人たちの顔つきを見まわしました。
一つの車には十五人ばかりの旅客《りよきやく》が乗《の》っていましたがそのまん中には顔の赤い肥《ふと》った紳士《しんし》がどっしりと腰掛《こしか》けていました。その人は毛皮《けがわ》を一杯《いつぱい》着込《きこ》んで、二人前の席をとり、アラスカ金の大きな指環《ゆびわ》をはめ、十連発《れんぱつ》のぴかぴかする素敵《すてき》な鉄砲《てつぽう》を持《も》っていかにも元気そう、声もきっとよほどがらがらしているにちがいないと思われたのです。
近くにはやっぱり似《に》たようななりの紳士たちがめいめい眼鏡《めがね》を外したり時計を見たりしていました。どの人も大へん立派《りつぱ》でしたがまん中の人にくらべては少し痩《やせ》ていました。向《むこ》うの隅《すみ》には痩た赤ひげの人が北極狐《ほつきよくぎつね*》のようにきょとんとすまして腰を掛けこちらの斜《はす》かいの窓《まど》のそばにはかたい帆布《はんぷ》の上着《うわぎ》を着て愉快《ゆかい》そうに自分にだけ聞えるような微《かす》かな口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いている若《わか》い船乗《ふなの》りらしい男が乗っていました。そのほか痩て眉《まゆ》も深《ふか》く刻《きざ》み陰気《いんき》な顔を外套《がいとう》のえりに埋《う》めている人さっぱり何でもないというようにもう睡《ねむ》りはじめた商人風《しようにんふう》の人など三、四人居《お》りました。
汽車は時々素通《すどお》りする停車場《ていしやじよう》の踏切《ふみきり》でがたっと横《よこ》にゆれながら一生けん命《めい》ふぶきの中をかけました。しかしその吹雪《ふぶき》もだんだんおさまったのかそれとも汽車が吹雪の地方を越《こ》したのか、まもなくみんなは外の方から空気に圧《お》しつけられるような気がし、もう外では雪が降《ふ》っていないというように思いました。黄いろな帆布《はんぷ》の青年は立って自分の窓《まど》のカーテンを上げました。そのカーテンのうしろに《(ママ)》は湯気《ゆげ》の凍《こご》り付《つ》いたぎらぎらの窓ガラスでした。たしかにその窓ガラスは変《へん》に青く光っていたのです。船乗《ふなの》りの青年はポケットから小さなナイフを出してその窓の羊歯《しだ》の葉の形をした氷《こおり》をガリガリ削《けず》り落《おと》しました。
削り取られた分の窓ガラスは、つめたくて実《じつ》によく透《すき》とおり向《むこ》うでは山脈《さんみやく》の雪が耿々《こうこう》とひかり、その上の鉄《てつ》いろをしたつめたい空にはまるでたったいまみがきをかけたような青い月がすきっとかかっていました。
野原の雪は青じろく見え煙《けむり》の影《かげ》は夢《ゆめ》のようにかけたのです。唐檜《とうひ*》やとど松《まつ》がまっ黒に立ってちらちら窓を過《す》ぎて行きます。じっと外を見ている若者《わかもの》の唇《くちびる》は笑《わら》うようにまた泣《な》くようにかすかにうごきました。それは何か月に話し掛《か》けているかとも思われたのです。みんなもしんとして何か考え込《こ》んでいました。まん中の立派《りつぱ》な紳士《しんし》もまた鉄砲《てつぽう》を手に持《も》って何か考えています。けれども俄《にわか》に紳士は立ちあがりました。鉄砲を大切《たいせつ》に棚《たな》に載《の》せました。それから大きな声で向《むこ》うの役人らしい葉巻《はまき》をくわえている紳士に話し掛《か》けました。
『何せ向うは寒《さむ》いだろうね。』
向うの紳士が答えました。
『いや、それはもう当然《とうぜん》です。いくら寒いと云《い》ってもこっちのは相対的《そうたいてき》ですがなあ、あっちはもう絶対《ぜつたい》です。寒さがちがいます。』
『あなたは何べん行ったね。』
『私《わたし》は今度二辺目《へんめ》ですが。」
『どうだろう、わしの防寒《ぼうかん》の設備《せつび》は大丈夫《だいじようぶ》だろうか。』
『どれくらいご支度《したく》なさいました。』
『さあ、まあイーハトヴの冬の着物《きもの》の上に、ラッコ《*》裏《うら》の内外套《うちがいとう》ね、海狸《ビバア*》の中外套ね、黒狐《くろぎつね*》表裏《おもてうら》の外外套ね。』
『大丈夫でしょう、ずいぶんいいお支度です。』
『そうだろうか、それから北極兄弟商会《ほつきよくきようだいしようかい》パテント《*》の緩慢燃焼《かんまんねんしよう》外套ね……。』
『大丈夫《だいじようぶ》です。』
『それから氷河鼠《ひようがねずみ》の頸《くび》のとこの毛皮《けがわ》だけでこさえた上着《うわぎ》ね。』
『大丈夫です。しかし氷河鼠の頸のとこの毛皮はぜい沢《たく》ですな。』
『四百五十疋《ひき》分だ。どうだろう。こんなことで大丈夫だろうか。』
『大丈夫です。』
『わしはね、主《おも》に黒狐《くろぎつね》をとって来るつもりなんだ。黒狐の毛皮九百枚《まい》持って来てみせるというかけをしたんだ。』
『そうですか。えらいですな。』
『どうだ。祝盃《しゆくはい》を一杯《いつぱい》やろうか。』紳士《しんし》はスチームでだんだん暖《あたた》まってきたらしく外套《がいとう》を脱《ぬ》ぎながらウイスキーの瓶《びん》を出しました。
すじ向《むか》いではさっきの青年が額《ひたい》をつめたいガラスにあてるばかりにして月とオリオンとの空をじっとながめ、向うの隅《すみ》ではあの痩《やせ》た赤髯《あかひげ》の男が眼《め》をきょろきょろさせてみんなの話を聞きすまし、酒《さけ》を呑《の》み出した紳士のまわりの人たちは少し羨《うらや》ましそうにこの剛勢《ごうせい》な北極《ほつきよく》近くまで猟《りよう》に出かける暢気《のんき》な大将《たいしよう》を見ていました。
毛皮外套《けがわがいとう》をあんまり沢山《たくさん》もった紳士《しんし》はもうひとりの外套を沢山もった紳士と喧嘩《けんか》をしましたがそのあとの方の人はとうとう負《まけ》て寝《ね》たふりをしてしまいました。
紳士はそこでつづけさまにウイスキーの小さなコップを十二ばかりやりましたらすっかり酔《え》いがまわってもう目を細くして唇《くちびる》をなめながらそこら中の人に見あたり次第《しだい》くだを巻《ま》きはじめました。
『ね、おい、氷河鼠《ひようがねずみ》の頸《くび》のところの毛皮だけだぜ。ええ、氷河鼠の上等《じようとう》さ。君《きみ》、君、百十六疋《ひき》の分なんだ。君、君斯《こ》う見渡《みわた》すというと外套二枚《まい》ぐらいのお方もずいぶんあるようだが外套二枚じゃだめだねえ、君は三枚だからいいね、けれども、君、君、君のその外套は全体《ぜんたい》それは毛じゃないよ。君はさっきモロッコ狐《きつね》だとか云《い》ったねえ。どうしてどうしてちゃんとわかるよ。それはほんとの毛じゃないよ。ほんとの毛皮じゃないんだよ。』
『失敬《しつけい》なことを云うな。失敬な。』
『いいや、ほんとのことを云うがね、たしかにそれはにせものだ。絹糸《きぬいと》で拵《こしら》えたんだ。』
『失敬なやつだ。君はそれでも紳士かい。」
『いいよ。僕《ぼく》は紳士でもせり売屋《うりや》でも何でもいい。君のその毛皮はにせものだ。』
『野蕃《やばん》なやつだ。実《じつ》に野蕃だ。』
『いいよ。おこるなよ向《むこ》うへ行って寒《さむ》かったら僕《ぼく》のとこへおいで。』
『頼《たの》まない。』
よその紳士《しんし》はすっかりぶりぶりしてそれでもきまり悪《わる》そうにやはりうつうつ寝《ね》たふりをしました。
氷河鼠《ひようがねずみ》の上着《うわぎ》を有《も》った大将《たいしよう》は唇《くちびる》をなめながらまわりを見まわした《ママ》。
『君《きみ》、おい君、その窓《まど》のところのお若いの。失敬《しつけい》だが君は船乗《ふなの》りかね。』
若者《わかもの》はやっぱり外を見ていました。月の下にはまっ白な蛋白石《たんぱくせき*》のような雲の塊《かたまり》が走って来るのです。
『おい、君、何と云《い》っても向うは寒《さむ》い、その帆布《はんぷ》一枚《まい》じゃとてもやり切れたもんじゃない。けれども君はなかなか豪儀《ごうぎ》なとこがある。よろしい貸《かし》てやろう。僕のを一枚貸《かし》てやろう。そうしよう。』
けれども若者はそんな言が耳にも入らないというようでした。つめたく唇を結《むす》んでまるでオリオン座《ざ》のとこの鋼《はがね》いろ《*》の空の向うを見透《みす》かすような眼《め》をして外を見ていました。
『ふん。パースレーかね。黒狐《くろぎつね》だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが外套《がいとう》を一枚お貸申《かしもう》すとしようじゃないか。黄いろの帆布《はんぷ》一枚じゃどうしてどうして零下《れいか》の四十度《ど》を防《ふせ》ぐもなにもできやしない。黒狐《くろぎつね》だから。おい、若《わか》いお方、君《きみ》、君、おいなぜ返事《へんじ》せんか。無礼《ぶれい》なやつだ君は我輩《わがはい》を知らんか。わしはねイーハトヴのタイチだよ。イーハトヴのタイチを知らんか。こんな汽車へ乗《の》るんじゃなかったな。わしの持船《もちぶね》で出かけたらだまって殿《との》さまで通るんだ。ひとりで出掛《でか》けて黒狐を九百疋《ひき》とってみせるなんて下らないかけをしたもんさ。』
こんな馬鹿《ばか》げた大きな子供《こども》の酔《えい》どれをもう誰《たれ》も相手《あいて》にしませんでした。みんな眠《ねむ》るか睡《ねむ》る支度《したく》でした。きちんと起《お》きているのはさっきの窓《まど》のそばの一人の青年と客車《きやくしや》の隅《すみ》でしきりに鉛筆《えんぴつ》をなめながらきょときょと聴《き》き耳をたてて何か書きつけているあの痩《やせ》た赤髯《あかひげ》の男だけでした。
『紅茶《こうちや》はいかがですか。紅茶はいかがですか。』
白服《しろふく》のボーイが大きな銀《ぎん》の盆《ぼん》に紅茶のコップを十ばかり載《の》せてしずかに大股《おおまた》にやって来ました。
『おい、紅茶をおくれ。』イーハトヴのタイチが手をのばしました。ボーイはからだをかがめてすばやく一つを渡《わた》し銀貨《ぎんか》を一枚受《う》け取《と》りました。
そのとき電燈《でんとう》がすうっと赤く暗《くら》くなりました。
窓《まど》は月のあかりでまるで螺鈿《らでん*》のように青びかりみんなの顔も俄《にわか》に淋《さび》しく見えました。
『まっくらでござんすなおばけが出そう。』ボーイは少し屈《かが》んであの若《わか》い船乗《ふなの》りののぞいている窓からちょっと外を見ながら云《い》いました。
『おや、変《へん》な火が見えるぞ。誰《たれ》かかがりを焚《た》いているな。おかしい。』
この時電燈がまたすっとつきボーイはまた、
『紅茶《こうちや》はいかかですか。』と云いながら大股《おおまた》にそして恭《うやうや》しく向《むこ》うへ行きました。
これが多分風の飛《と》ばしてよこした切れ切れの報告《ほうこく》の第《だい》五番目にあたるのだろうと思います。
夜がすっかり明けて東側《ひがしがわ》の窓がまばゆくまっ白に光り西側の窓が鈍《にぶ》い鉛色《なまりいろ》になったとき汽車が俄にとまりました。みんなは顔を見合わせました。
『どうしたんだろう。まだベーリングに着《つ》くはずがないし、故障《こしよう》ができたんだろうか。』
そのとき俄に外ががやがやしてそれからいきなり扉《とびら》ががたっと開《ひら》き朝日はビールのようにながれ込《こ》みました。赤ひげがまるで違《ちが》った物凄《ものすご》い顔をしてピカピカするピストルをつきつけてはいって来ました。
そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人というよりは白熊《しろくま》といった方がいいような、いや、白熊というよりは雪狐《ゆききつね》と言った方がいいようなすてきにもくもくした毛皮《けがわ》を着《き》た、いや、着たというよりは毛皮で皮ができてるというた方がいいようなものが変《へん》な仮面をかぶったりえり巻《まき》を眼《め》まで上げたりしてまっ白ないきをふうふう吐《は》きながら大きなピストルをみんな握《にぎ》って車室の中にはいって来ました。
先登《せんとう》の赤ひげは腰《こし》かけにうつむいてまだ睡《ねむ》っていたゆうべの偉《えら》い紳士《しんし》を指《ゆび》さして云《い》いました。
『こいつがイーハトヴのタイチだ。ふらちなやつだ。イーハトヴの冬の着物《きもの》の上にねラッコ裏《うら》の内外套《うちがいとう》と海狸《ビバア》の中外套と黒狐裏表《くろぎつねうらおもて》の外外套を着ようというんだ。おまけにパテント外套と氷河鼠《ひようがねずみ》の頸《くび》のとこの毛皮だけでこさえた上着《うわぎ》も着ようというやつだ。これから黒狐の毛皮九百枚《まい》とるとぬかすんだ、叩《たた》き起《おこ》せ。』
二番目の黒と白の斑《ぶち》の仮面《かめん》をかぶった男がタイチの首すじをつかんで引きずり起しました。残《のこ》りのものは油断《ゆだん》なく車室中にピストルを向《む》けてにらみつけていました。
三番目のが云いました。
『おい、立て、きさまこいつだなあの電気網《でんきあみ》をテルマの岸《きし》に張《は》らせやがったやつは。連《つ》れてこう。』
『うん、立て。さあ立ていやなつらをしてるなあさあ立て。』
紳士《しんし》は引ったてられて泣《な》きました。ドアがあけてあるので室の中は俄《にわか》に寒《さむ》くあっちでもこっちでもクシャンクシャンとまじめ臭《くさ》ったくしゃみの声がしました。
二番目がしっかりタイチをつかまえて引っぱって行こうとしますと三番目のはまだ立ったままきょろきょろ車中を見まわしました。
『外にはないか。そこのとこに居《い》るやつも毛皮《けがわ》の外套を三枚持《まいも》ってるぞ。』
『ちがうちがう。』赤ひげはせわしく手を振《ふ》って云《い》いました。『ちがうよ。あれはほんとの毛皮じゃない絹糸《きぬいと》でこさえたんだ。』
『そうか。』
ゆうべのその外套をほんとのモロッコ狐《きつね》だと云った人は変《へん》な顔をしてしゃちほこばっていました。
『よし、さあでは引きあげ、おい誰《たれ》でもおれたちがこの車を出ないうちに一寸《ちよつと》でも動《うご》いたやつは胸《むね》にスポンと穴《あな》をあけるから、そう思え。』
その連中《れんちゆう》はじりじりとあと退《すさ》りして出て行きました。
そして一人ずつだんだん出て行っておしまい赤ひげがこっちヘピストルを向《む》けながらせなかでタイチを押《お》すようにして出て行こうとしました。タイチは髪《かみ》をばちゃばちゃにして口をびくびくまげながら前からはひっぱられうしろからは押されてもう扉《とびら》の外へ出そうになりました。
俄《にわか》に窓《まど》のとこに居《い》た帆布《はんぷ》の上着《うわぎ》の青年がまるで天井《てんじよう》にぶっつかるくらいのろしのように飛《と》びあがりました。
ズドン。ピストルが鳴りました。落《お》ちたのはただの黄いろの上着だけでした。と思ったらあの赤ひげがもう足をすくって倒《たお》され青年は肥《ふと》った紳士《しんし》をまた車室の中に引っぱり込《こ》んで右手には赤ひげのピストルを握《にぎ》って凄《すご》い顔をして立っていました。
赤ひげがやっと立ちあがりましたら青年はしっかりそのえり首をつかみピストルを胸《むね》につきつけながら外の方へ向《む》いて高く叫《さけ》びました。
『おい、熊ども《*》。きさまらのしたことは尤《もっと》もだ。けれどもなおれたちだって仕方《しかた》ない。生きているにはきものも着《き》なけぁいけないんだ。おまえたちが魚をとるようなもんだぜ。けれどもあんまり無法《むほう》なことはこれから気を付《つ》けるように云《い》うから今度《こんど》はゆるしてくれ。ちょっと汽車が動《うご》いたらおれの捕虜《ほりよ》にしたこの男は返《かえ》すから。』
『わかったよ。すぐ動かすよ。』外で熊どもが叫びました。
『レールを横《よこ》の方へ敷《し》いたんだな。』誰《たれ》かが云いました。
氷《こおり》ががりがり鳴ったりばたばたかけまわる音がしたりして汽車は動《うご》き出しました。
『さあけがをしないように降《お》りるんだ。』船乗《ふなの》りが云《い》いました。赤ひげは笑《わら》ってちょっと船乗りの手を握《にぎ》って飛《と》び降りました。
『そら、ピストル。』船乗りはピストルを窓《まど》の外へほうり出しました。
『あの赤ひげは熊《くま》の方の間諜《かんちよう*》だったね。』誰《たれ》かが云いました。わかものはまた窓の氷を削《けず》りました。
氷山《ひようざん》の稜《かど》が桃色《ももいろ》や青やぎらぎら光って窓の外にぞろっとならんでいたのです。これが風のとばしてよこしたお話のおしまいの一切れです。
シグナルとシグナレス《*》
(一)
『ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
さそりの赤眼《あかめ*》が 見えたころ、
四時から今朝《けさ》も やって来た。
遠野《とおの*》の盆地《ぼんち》は まっくらで、
つめたい水の 声ばかり。
ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
凍《こご》えた砂利《じやり》に 湯気《ゆげ》を吐《は》き、
火花を闇《やみ》に まきながら、
蛇紋岩《サアペンテイン*》の 崖《がけ》に来て、
やっと東が 燃《も》え出した。
ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
鳥がなき出し 木は光り、
青々川は ながれたが、
丘《おか》もはざまも いちめんに、
まぶしい霜《しも》を 載《の》せていた。
ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
やっぱりかけると あったかだ
僕《ぼく》はほうほう 汗《あせ》が出る。
もう七、八里 はせたいな、
今日も、一日 霜《しも》ぐもり。
ガタンガタン、ギー、シュウシュウ。』
軽便鉄道《けいべんてつどう*》の東からの一番列車《れつしや》が少しあわてたようにこう歌いながらやって来てとまりました。機関車《きかんしや》の下からは、力のない湯気《ゆげ》が逃出《にげだ》して行き、ほそ長いおかしな形の煙突《えんとつ》からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。
そこで軽便鉄道附《つ》きの電信柱《でんしんばしら》どもは、やっと安心《あんしん》したように、ぶんぶんとうなり、シグナルの柱《はしら》はかたんと白い腕木《うでぎ》をあげました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。
シグナレスはほっと小さなため息《いき》をついて空を見上げました。そらにはうすい雲が縞《しま》になっていっぱいに充《み》ち、それはつめたい白光《しろびかり》、凍《こお》った地面《じめん》に降《ふ》らせながら、しずかに東に流《なが》れていたのです。
シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それからやさしい腕木を思い切りそっちの方へ延《の》ばしながら、ほんのかすかにひとりごとを云《い》いました。
『今朝《けさ》は伯母《おば》さんたちもきっとこっちの方を見ていらっしゃるわ。』シグナレスはいつまでもいつまでもそっちに気をとられて居《お》りました。
『カタン。』
うしろの方のしずかな空でいきなり音がしましたのでシグナレスは急《いそ》いでそっちを振《ふ》り向《む》きました。ずうっと積《つ》まれた黒い枕木《まくらぎ》の向《むこ》うにあの立派《りつぱ》な本線のシグナルばしらが今はるかの南から、かがやく白けむりをあげてやって来る列車《れつしや》を迎《むか》える為《ため》にその上の硬《かた》い腕をさげたところでした。
『お早《はよ》う今朝は暖《あたたか》ですね。』本線のシグナル柱はキチンと兵隊《へいたい》のように立ちながらいやにまじめくさって挨拶《あいさつ》しました。
『お早《はよ》うございます。』シグナレスはふし目になって声を落《おと》して答えました。
『若《わか》さま、いけません。これからはあんなものに矢鱈《やたら》に声をおかけなさらないようにねがいます。』本線のシグナルに夜電気を送《おく》る太い電信《でんしん》ばしらがさも勿体《もったい》ぶって申《もう》しました。
本線のシグナルはきまり悪《わる》そうにもじもじしてだまってしまいました。気の弱いシグナレスはまるでもう消《き》えてしまうか飛《と》んでしまうかしたいと思いました。けれどもどうにも仕方《しかた》がありませんでしたからやっぱりじっと立っていたのです。
雲の縞《しま》は薄《うす》い琥珀《こはく*》の板《いた》のようにうるみ、かすかなかすかな日光が降《ふ》って来ましたので本線シグナル附《つ》きの電信柱《ばしら》はうれしがって向《むこ》うの野原を行く小さな荷馬車《にばしや》を見ながら低《ひく》く調子《ちようし》はずれの歌をやりました。
『ゴゴン、ゴーゴー、
うすい雲から
酒《さけ》が降り出す、
酒の中から
霜《しも》がながれる。ゴゴンゴーゴー
ゴゴンゴーゴー霜がとければ、
つちはまっくろ。
馬はふんごみ、
人もぺちゃぺちゃ。ゴゴンゴーゴー。』
(二)
それからもっともっとつづけざまにわけのわからないことを歌いました。
その間に本線のシグナル柱《ばしら》が、そっと西風にたのんでこう云《い》いました。
『どうか気にかけないで下さい。こいつはもうまるで野蛮《やばん》なんです。礼式《れいしき》も何も知らないのです。実際私《じつさいわたし》はいつでも困《こま》ってるんですよ。』
軽便鉄道《けいべんてつどう》のシグナレスは、まるでどぎまぎしてうつむきながら低《ひく》く、
『あら、そんなことございませんわ。』と云いましたが何分風下でしたから本線のシグナルまで聞えませんでした。
『許《ゆる》してくださるんですか、本統《ほんとう》を云ったら、僕《ぼく》なんかあなたに怒《おこ》られたら生きている甲斐《かい》もないんですからね。』
『あらあら、そんなこと。』軽便鉄道の木でつくったシグナレスは、まるで困ったというように肩《かた》をすぼめましたが、実《じつ》はその少しうつむいた顔は、うれしさにぼっと白光《しろびかり》を出していました。『シグナレスさん、どうかまじめで聞いて下さい。僕《ぼく》あなたの為《ため》なら、次《つぎ》の十時の汽車が来る時腕《うで》を下げないで、じっと頑張《がんば》り通してでも見せますよ。』わずかばかりヒュウヒュウ云《い》っていた風が、この時ぴたりとやみました。
『あら、そんなこといけませんわ』
『勿論《もちろん》いけないですよ。汽車が来るとき、腕を下げないで頑張るなんて、そんなことあなたの為にも僕の為にもならないから僕はやりはしませんよ。けれどもそんなことでもしようと云うんです。僕あなたのくらい大事《だいじ》なものは世界中《せかいじゆう》ないんです。どうか僕を愛《あい》して下さい。』
シグナレスは、じっと下の方を見て黙《だま》って立っていました。本線シグナル附《つ》きのせいの低《ひく》い電信柱《でんしんばしら》は、まだ出鱈目《でたらめ》の歌をやっています。
『ゴゴンゴーゴー、
やまのいわやで、
熊《くま》が火をたき、
あまりけむくて、
ほらを逃出《にげだ》す。ゴゴンゴー、
田螺《にし》はのろのろ、
うう、田螺はのろのろ。
田螺のしゃっぽは、
羅紗《らしや》の上等《じようとう》、ゴゴンゴーゴー。』
本線のシグナルはせっかちでしたから、シグナレスの返事《へんじ》のないのに、まるであわててしまいました。
『シグナレスさん、あなたはお返事をして下さらないんですか。ああ僕《ぼく》はもうまるでくらやみだ。目の前がまるでまっ黒な淵《ふち》のようだ。ああ雷《かみなり》が落ちて来て、一ぺんに僕のからだをくだけ。足もとから噴火《ふんか》が起《おこ》って、僕を空の遠くにほうりなげろ。もうなにもかもみんなおしまいだ。雷が落ちて来て一ぺんに僕のからだを砕《くだ》け。足もと……。』
『いや若様《わかさま》、雷が参《まい》りました節《せつ》は手前一身におんわざわいを頂戴《ちようだい》いたします。どうかご安心《あんしん》をねがいとう存《ぞん》じます。』
シグナル附《つ》きの電信柱《でんしんばしら》が、いつかでたらめの歌をやめて頭の上のはりがねの槍《やり》をぴんと立てながら眼《め》をパチパチさせていました。
『えい。お前なんか何を云《い》うんだ。
僕《ぼく》はそれどこじゃないんだ。』
『それはまたどうしたことでござりまする。
ちょっとやつがれまでお申《もう》し聞けになりとう存《ぞん》じます。』
『いいよ、お前はだまっておいで。』シグナルは高く叫《さけ》びました。しかしシグナルも、もうだまってしまいました。
雲がだんだん薄《うす》くなって柔《やわら》かな陽《ひ》が射《さ》して参《まい》りました。
(三)
五日の月が、西の山脈《さんみやく》の上の黒い横雲《よこぐも》から、もう一ぺん顔を出して山へ沈《しず》む前の、ほんのしばらくを鈍《にぶ》い鉛《なまり》のような光で、そこらをいっぱいにしました。冬がれの木やつみ重《かさ》ねられた黒い枕木《まくらぎ》はもちろんのこと、電信柱《でんしんばしら》まで、みんな眠《ねむ》ってしまいました。遠くの遠くの風の音か水の音がごうと鳴るだけです。
『ああ、僕はもう生きてる甲斐《かい》もないんだ。汽車が来るたびに腕《うで》を下げたり、青いめがねをかけたり一体何の為《ため》にこんなことをするんだ。もうなんにも面白《おもしろ》くない。ああ死《し》のう。けれどもどうして死ぬ。やっぱり雷《かみなり》か噴火《ふんか》だ。』
本線のシグナルは、今夜も眠《ねむ》られませんでした。非常《ひじよう》なはんもんでした。けれどもそれはシグナルばかりではありません。枕木《まくらぎ》の向《むこ》うに青白くしょんぼり立って赤い火をかかげている、軽便鉄道《けいべんてつどう》のシグナル、即《すなわち》シグナレスとても全《まった》くその通りでした。
『ああ、シグナルさんもあんまりだわ、あたしが云《い》えないでお返事《へんじ》も出来ないのを、すぐあんなに怒《おこ》っておしまいになるなんて。あたしもう何もかもみんなおしまいだわ。おお神様《かみさま》、シグナルさんに雷《かみなり》を落《おと》すとき、一緒《いつしよ》に私《わたし》にもお落し下さいませ。』
こう云《い》って、しきりに星ぞらに祈《いの》っているのでした。ところがその声が、かすかにシグナルの耳に入りました。シグナルはぎょっとしたように胸《むね》を張《は》って、しばらく考えていましたが、やがてガタガタ顫《ふる》え出しました。
顫えながら云いました。
『シグナレスさん。あなたは何を祈っていられますか。』
『あたし存じませんわ。』シグナレスは声を落して答えました。
『シグナレスさん、それはあんまりひどいお言葉《ことば》でしょう。僕《ぼく》はもう今すぐでもお雷《らい》さんに潰《つぶ》されて、または噴火《ふんか》を足もとから引っぱり出して、またはいさぎよく風に倒《たお》されて、またはノアの洪水《こうずい*》をひっかぶって、死《し》んでしまおうと云うんですよ。それだのに、あなたはちっとも同情《どうじよう》して下さらないんですか。』
『あら、その噴火《ふんか》や洪水《こうずい》を。あたしのお祈《いの》りはそれよ。』シグナレスは思い切って云《い》いました。シグナルはもううれしくてうれしくて、なおさらガタガタガタガタふるえました。その赤い眼鏡《めがね》もゆれたのです。
『シグナレスさん、なぜあなたは死《し》ななけあならないんですか。ね僕《ぼく》へお話下さい。ね。僕へお話下さい。きっと、僕はそのいけないやつを追《お》っぱらってしまいますから、一体どうしたんですね。』
『だって、あなたがあんなにお怒《おこ》りなさるんですもの。』
『ふふん。ああ、そのことですか。ふん。いいえ。そのことならご心配《しんぱい》ありません。大丈夫《だいじようぶ》です。僕ちっとも怒ってなんか居《い》はしませんからね。僕、もうあなたの為《ため》なら、めがねをみんな取《と》られて、腕《うで》をみんなひっぱなされて、それから沼《ぬま》の底《そこ》へたたき込《こ》まれたって、あなたをうらみはしませんよ。』
『あら、ほんとう。うれしいわ。』
『だから僕を愛《あい》して下さい。さあ僕を愛するって云って下さい。』
五日のお月さまは、この時雲と山のはとの丁度《ちようど》まん中に居ました。シグナルはもうまるで顔色を変《か》えて灰色《はいいろ》の幽霊《ゆうれい》みたいになって言いました。
『またあなたはだまってしまったんですね。やっぱり僕がきらいなんでしょう。もういいや、どうせ僕《ぼく》なんか噴火《ふんか》か洪水《こうずい》か風かにやられるにきまってるんだ。』
『あら、ちがいますわ。』
『そんならどうですどうです、どうです。』
『あたし、もう大昔《おおむかし》からあなたのことばかり考えていましたわ。』
『本統《ほんとう》ですか、本統ですか、本統ですか。』
『ええ。』
『そんならいいでしょう。結婚《けつこん》の約束《やくそく》をして下さい。』
『でも。』
『でもなんですか、僕たちは春になったら燕《つばめ》にたのんで、みんなにも知らせて結婚の式《しき》をあげましょう。どうか約束して下さい。』
『だってあたしはこんなつまらないんですわ。』
(四)
『わかってますよ、僕にはそのつまらないところが尊《たつと》いんです。』
すると、さあ、シグナレスはあらんかぎりの勇気《ゆうき》を出して云《い》い出しました。
『でもあなたは金《かね》でできてるでしょう。新式《しんしき》でしょう。赤青めがねを二組まで持《も》っていらっしゃるわ、夜も電燈《でんとう》でしょう、あたしは夜だってランプですわ、めがねもただ一つきりそれに木ですわ。』
『わかってますよ。だから僕《ぼく》はすきなんです。』
『あら、ほんとう。うれしいわ。あたしお約束《やくそく》するわ。』
『え、ありがとう、うれしいなあ僕もお約束しますよ。あなたはきっと、私《わたし》の未来《みらい》の妻《つま》だ。』
『ええ、そうよ、あたし決《けつ》して変《かわ》らないわ。』
『結婚指環《エンゲージリング》をあげますよ、そらねあすこの四つならんだ青い星ね。』『ええ。』
『あの一番下の脚《あし》もとに小さな環《わ》が見えるでしょう、環状星雲《フイツシユマウスネビユラ*》ですよ。あの光の環ね、あれを受《う》け取《と》って下さい。僕のまごころです。』
『ええ。ありがとう、いただきますわ。』
『ワッハッハ。大笑《おおわら》いだ。うまくやってやがるぜ。』
突然《とつぜん》向《むこ》うのまっ黒な倉庫《そうこ》が、そらにもはばかるような声でどなりました。二人《ふたり》はまるでしんとなってしまいました。
ところが倉庫がまた云《い》いました。
『いや心配《しんぱい》しなさんな。このことは決《けつ》してほかへはもらしませんぞ。わしがしっかり呑《の》み込《こ》みました。』
その時です、お月さまがカブンと山へお入りになってあたりがポカッとうすぐらくなったのは。
今は風があんまり強いので電信《でんしん》ばしらどもは、本線の方も、軽便鉄道《けいべんてつどう》の方のもまるで気が気でなく、ぐうんぐうんひゅうひゅうと独楽《こま》のようにうなって居《お》りました。それでも空はまっ青に晴れていました。
本線シグナルつきの太っちょの電しんばしらも、もうでたらめの歌をやるどころの話ではありません。できるだけからだをちぢめて眼《め》を細くして、ひとなみに、ブウウ、フウウとうなってごまかして居りました。
シグナレスは、この時、東のぐらぐらするくらい強い青びかりの中をびっこをひくようにして走って行く雲を見ておりましたがそれからチラッとシグナルの方を見ました。
シグナルは、今日は巡査《じゆんさ》のようにしゃんと、立っていましたが、風が強くて太っちょの電信ばしらに聞えないのをいいことにして、シグナレスにはなしかけました。
(五)
『どうもひどい風ですね。あなた頭《かしら》がほてって痛《いた》みはしませんか。どうも僕《ぼく》は少しくらくらしますね。いろいろお話しますから、あなたただ頭《あたま》をふってうなずいてだけいて下さい。どうせお返事《へんじ》をしたって、僕のところへ届《とど》きはしませんから、それから僕の話で面白《おもしろ》くないことがあったら横《よこ》の方に頭を振《ふ》ってください。これは、本とうは、欧羅巴《ヨーロツパ》の方のやり方なんですよ。向《むこ》うでは、僕たちのように仲《なか》のいいものがほかの人に知れないようにお話をするときは、みんなこうするんですよ。僕それを向うの雑誌《ざつし》で見たんです、ね、あの倉庫《そうこ》のやつめ、おかしなやつですね、いきなり僕たちの話してるところへ口を出して、引き受《う》けたの何のって云《い》うんですもの、あいつはずいぶん太ってますね、今日も眼《め》をパチパチやらかしてますよ。
僕のあなたに物《もの》を言ってるのはわかっていても、何を言ってるのか風で一向《いつこう》聞えないんですよ、けれども全体《ぜんたい》、あなたに聞えてるんですか、聞えてるなら頭を振って下さい。ええそう、聞えるでしょうね、僕たち早く結婚《けつこん》したいもんですね。早く春になれあいいんですね。
僕《ぼく》のとこのぶっきりこ《*》に少しも知らせないでおきましょう。そしておいて、いきなり、ウヘン、ああ風でのどがぜいぜいする。ああひどい。一寸《ちよつと》お話をやめますよ。僕のどが痛《いた》くなったんです。わかりましたか、じゃちょっとさよなら』
それからシグナルは、ううううと云《い》ながら眼《め》をぱちぱちさせてしばらくの間だまって居《い》ました。シグナレスもおとなしくシグナルの咽喉《のど》のなおるのを待《ま》っていました。電信《でんしん》ばしらどもは、ブンブンゴンゴンと鳴り、風はひゅうひゅうとやりました。
(六)
シグナルはつばをのみこんだり、えーえーとせきばらいをしたりしていましたが、やっと咽喉の痛いのが癒《なお》ったらしく、もう一ぺんシグナレスに話しかけました。けれどもこの時は、風がまるで熊《くま》のように吼《ほ》え、まわりの電信ばしらどもは、山一ぱいの蜂《はち》の巣《す》をいっぺんに壊《こわ》しでもしたように、ぐゎんぐゎんとうなっていましたので、折角《せっかく》のその声も、半分ばかりしかシグナレスに届《とど》きませんでした。
『ね、僕はもうあなたの為《ため》なら、次《つぎ》の汽車の来るとき、頑張《がんば》って腕《うで》を下げないことでも、何でもするんですからね、わかったでしょう。あなたもそのくらいの決心《けつしん》はあるでしょうね。あなたはほんとうに美《うつく》しいんです、ね、世界《せかい》の中《うち》にだって僕《ぼく》たちの仲間《なかま》はいくらもあるんでしょう。その半分はまあ女の人でしょうがねえ、その中《うち》であなたは一番美しいんです。もっとも外の女の人僕よく知らないんですけれどね、きっとそうだと思うんですよ、どうです聞えますか。僕たちのまわりに居《い》るやつはみんな馬鹿《ばか》ですねのろまですね、僕のとこのぶっきりこが僕が何をあなたに云《い》ってるのかと思って、そらごらんなさい、一生けん命《めい》、目をパチバチやってますよ、こいつと来たら全《まつた》くチョークよりも形がわるいんですからね、そら、こんどはあんなに口を曲《ま》げていますよ、呆《あき》れた馬鹿《ばか》ですねえ、僕のはなし聞えますか、僕の……。』
『若《わか》さま、さっきから何をべちゃべちゃ云っていらっしゃるのです。しかもシグナレス風情《ふぜい》と、一体何をにやけて居らっしゃるんです。』
いきなり本線シグナル附《つき》の電信《でんしん》柱が、むしゃくしゃまぎれにごうごうの音の中《うち》を途方《とほう》もない声でどなったもんですから、シグナルは勿論《もちろん》シグナレスもまっ青になってぴたっとこっちへまげていたからだをまっすぐに直しました。
『若《わか》さま、さあ仰《おつ》しゃい。役目《やくめ》として承《うけたまわ》らなければなりません。』
(七)
シグナルはやっと元気を取《と》り直しました。そしてどうせ風の為《ため》に何を云《い》っても同じことなのをいいことにして、
『馬鹿《ばか》、僕《ぼく》はシグナレスさんと結婚《けつこん》して幸福《こうふく》になって、それからお前にチョークのお嫁《よめ》さんを呉《く》れてやるよ。』
とこうまじめな顔で云ったのでした。その声は風下のシグナレスにはすぐ聞えましたので、シグナレスは恐《こわ》いながら思わず笑《わら》ってしまいました。さあそれを見た本線シグナル附《つ》きの電信《でんしん》ばしらの怒《いか》りようと云ったらありません、早速《さつそく》ブルブルッとふるえあがり、青白く逆上《のぼ》せてしまい唇《くちびる》をきっと噛《か》みながらすぐひどく手を廻《まわ》してすなわち一ぺん東京まで手をまわして風下に居《い》る軽便鉄道《けいべんてつどう》の電信ばしらに、シグナルとシグナレスの対話《たいわ》が、一体何だったか今シグナレスが笑ったことは、どんなことだったかたずねてやりました。
ああ、シグナルは一生の失策《しつさく》をしたのでした。シグナレスよりも少し風下にすてきに耳のいい長い長い電信ばしらが居て知らん顔をしてすまして空の方を見ながら、さっきからの話をみんな聞いていたのです。そこで、早速《さつそく》、それを東京を経《へ》て本線シグナルつきの電信ばしらに返事《へんじ》をしてやりました。
本線シグナル附《つ》きの電信ばしらはキリキリ歯《は》がみをしながら聞いていましたが、すっかり聞いてしまうと、さあまるでもう馬鹿《ばか》のようになってどなりました。
『くそッ、えいっ。いまいましい。あんまりだ。犬畜生《いぬちくしよう》、あんまりだ、犬畜生、ええ、若さまわたしだって男ですぜ、こんなにひどく馬鹿にされてだまっているとお考えですか。結婚《けつこん》だなんてやれるならやってごらんなさい。電信ばしらの仲間《なかま》はもうみんな反対《はんたい》です。シグナルばしらの人だちだって鉄道長《てつどうちよう》の命令《めいれい》にそむけるもんですか。そして鉄道長はわたしの叔父《おじ》ですぜ。結婚なり何なりやってごらんなさい。えい、犬畜生め、えい。』
本線シグナル附《つ》きの電信ばしらは、すぐ四方に電報《でんぽう》をかけました。それからしばらく顔色を変《か》えてみんなの返事をきいていました。確《たし》かにみんなから反対の約束《やくそく》を貰《もら》ったらしいのでした。それからきっと叔父のその鉄道長とかにもうまく頼《たの》んだにちがいありません。シグナルもシグナレスもあまりのことに今さらポカンとして呆《あき》れていました。本線シグナル附きの電信ばしらはすっかり反対の準備《じゆんび》が出来るとこんどは急《きゆう》に泣《な》き声で言いました。
(八)
『あああ、八年の間、夜ひる寝《ね》ないで面倒《めんどう》を見てやってそのお礼がこれか。ああ情《なさけ》ない、もう世《よ》の中はみだれてしまった。ああもうおしまいだ。なさけない。メリケン国のエジソン《*》さまもこのあさましい世界《せかい》をお見棄《みす》てなされたか。オンオンオンオン、ゴゴンゴーゴーゴゴンゴー。』
風はますます吹《ふ》きつのり、西のそらが変《へん》にしろくぼんやりなってどうもあやしいと思っているうちにチラチラチラチラとうとう雪がやって参《まい》りました。
シグナルは力を落《おと》して青白く立ち、そっとよこ眼《め》でやさしいシグナレスの方を見ました。シグナレスはしくしく泣《な》きながら、丁度《ちようど》やって来る二時の汽車を迎《むか》える為《ため》にしょんぼりと腕《うで》をさげ、そのいじらしい撫肩《なでかた》はかすかにかすかにふるえて居《お》りました。空では風がフイウ、涙《なみだ》を知らない電信《でんしん》ばしらどもはゴゴンゴーゴーゴゴンゴーゴー。
さあ今度《こんど》は夜ですよ。シグナルはしょんぼり立って居りました。
月の光が青白く雪を照《てら》しています。雪はこうこうと光ります。そこにはすきとおって小さな紅火《べにび》や青の火をうかべました。しいんとしています。山脈《さんみやく》は若《わか》い白熊《しろくま》の貴族《きぞく》の屍体《したい》のようにしずかに白く横《よこた》わり、遠くの遠くを、ひるまの風のなごりがヒュウと鳴って通りました、それでもじつにしずかです。黒い枕木《まくらぎ》はみなねむり赤の三角や黄色の点々さまざまの夢《ゆめ》を見ているとき、若《わか》いあわれなシグナルはほっと小さなため息《いき》をつきました。そこで半分凍《こご》えてじっと立っていたやさしいシグナレスも、ほっと小さなため息をしました。
『シグナレスさん。ほんとうに僕《ぼく》たちはつらいねえ。』
たまらずシグナルがそっとシグナレスに話掛《はなしか》けました。
『ええみんなあたしがいけなかったのですわ。』シグナレスが青じろくうなだれて云《い》いました。
(九)
諸君《しよくん》、シグナルの胸《むね》は燃《も》えるばかり、
『ああ、シグナレスさん、僕たちたった二人だけ、遠くの遠くのみんなの居《い》ないところに行ってしまいたいね。』
『ええ、あたし行けさえするならどこへでも行きますわ。』
『ねえ、ずうっとずうっと天上にあの僕《ぼく》たちの婚約指環《エンゲイジリング》よりも、もっと天上に青い小さな小さな火が見えるでしょう。そら、ね、あすこは遠いですねえ。』
『ええ。』シグナレスは小さな唇《くちびる》でいまにもその火にキッスしたそうに空を見あげていました。
『あすこには青い霧《きり》の火が燃《も》えているんでしょうね。その青い霧の火の中へ僕たち一緒《いつしよ》に坐《すわ》りたいですねえ。』
『ええ。』
『けれどあすこには汽車はないんですねえ、そんなら僕畑《はたけ》をつくろうか。何か働《はたら》かないといけないんだから。』
『ええ。』
『ああ、お星さま、遠くの青いお星さま、どうか私《わたし》どもをとって下さい。ああなさけぶかいサンタマリヤ《*》、まためぐみふかいジョウジスチブンソン《*》さま、どうか私どものかなしい祈《いの》りを聞いて下さい。』
『ええ。』
『さあ一緒に祈りましょう。』
『ええ。』
『あわれみふかいサンタマリヤ、すきとおるよるの底《そこ》、つめたい雪の地面《じめん》の上にかなしくいのるわたくしどもをみそなわせ、めぐみふかいジョウジスチブンソンさま、あなたのしもべのまたしもべ、かなしいこのたましいのまことの祈《いの》りをみそなわせ、ああ、サンタマリヤ。』
『ああ。』
(十)
星はしずかにめぐって行きました。そこであの赤眼《あかめ》のさそりが、せわしくまたたいて東から出て来そしてサンタマリヤのお月さまが慈愛《じあい》にみちた尊《たつと》い黄金《おうごん》のまなざしに、じっと二人《ふたり》を見ながら、西のまっくろの山におはいりになったとき、シグナルシグナレスの二人は、いのりにつかれてもう睡《ねむ》って居《い》ました。
今度《こんど》はひるまです。なぜなら夜昼はどうしてもかわるがわるですから。
ぎらぎらのお日さまが東の山をのぼりました。シグナルとシグナレスはぱっと桃色《ももいろ》に映《は》えました。いきなり大きな巾広《はばひろ》い声がそこらじゅうにはびこりました。
『おい。本線シグナル附《つ》きの電信《でんしん》ばしら、おまえの叔父《おじ》の鉄道長《てつどうちよう》に早くそう云《い》って、あの二人は一緒《いつしよ》にしてやった方がよかろうぜ。』
見るとそれは先《せん》ころの晩《ばん》の倉庫《そうこ》の屋根《やね》でした。
倉庫の屋根は、赤いうわぐすりをかけた瓦《かわら》を、まるで鎧《よろい》のようにキラキラ着込《きこ》んで、じろっとあたりを見まわしているのでした。
本線シグナル附きの電信ばしらは、がたがたっとふるえてそれからじっと固《かた》くなって答えました。
『ふん、何だとお前はなんの縁故《えんこ》でこんなことに口を出すんだ。』
『おいおい、あんまり大きなつらをするなよ。ええおい。おれは縁故と云えば大縁故さ、縁故でないと云えば、一向《いつこう》縁故でもなんでもないぜ、がしかしさ。こんなことにはてめいのような変《へん》ちきりんはあんまりいろいろ手を出さない方が結局《けつきよく》てめいの為《ため》だろうぜ。』
『何だと。おれはシグナルの後見人だぞ。鉄道長の甥《おい》だぞ。』
『そうか。おい立派《りつぱ》なもんだなあ。シグナルさまの後見人で鉄道長の甥かい。けれどもそんならおれなんてどうだい。おれさまはな、ええ、めくらとんびの後見人、ええ風引きの脈《みやく*》の甥だぞ。どうだ、どっちが偉《えら》い。』
『何をっ。コリッ、コリコリッ、カリッ。』
『まあまあそう怒《おこ》るなよ。これは冗談《じようだん》さ。悪《わる》く思わんでくれ。な、あの二人《ふたり》さ、可哀《かあい》そうだよ。いい加減《かげん》にまとめてやれよ。大人《おとな》らしくもないじゃないか。あんまり胸《むね》の狭《せま》いこと云《い》わんでさ。あんな立派《りつぱ》後見人を持《も》って、シグナルもほんとうにしあわせだと云われるぜ。な、まとめてやれ、まとめてやれ。』
本線シグナルつきの電信《でんしん》ばしらは、物《もの》を云おうとしたのでしたがもうあんまり気が立ってしまってパチパチパチパチ鳴るだけでした。
倉庫《そうこ》の屋根《やね》もあんまりのその怒《いか》りように、まさかこんなはずではなかったと云うように少し呆《あき》れてだまってその顔を見ていました。お日さまはずうっと高くなり、シグナルとシグナレスとはほっとまたため息《いき》をついてお互《たがい》に顔を見合せました。シグナレスは瞳《ひとみ》を少し落《おと》しシグナルの白い胸《むね》に青々と落《お》ちためがねの影《かげ》をチラッと見てそれから俄《にわか》に目をそらして自分のあしもとをみつめ考え込《こ》んでしまいました。
今夜は暖《あたたか》です。
霧《きり》がふかくふかくこめました。
そのきりを徹《とお》して、月のあかりが水色にしずかに降《お》り、電信《でんしん》ばしらも枕木《まくらぎ》も、みんな寝《ね》しずまりました。
シグナルが待《ま》っていたようにほっと息《いき》をしました。シグナレスも胸《むね》いっぱいのおもいをこめて小さくほっとといきしました。
そのときシグナルとシグナレスとは、霧《きり》の中から倉庫《そうこ》の屋根《やね》の落《お》ちついた親切《しんせつ》らしい声の響《ひび》いて来るのを聞きました。
『お前たちは、全《まつた》く気の毒《どく》だね、わたしは今朝《けさ》うまくやってやろうと思ったんだが、却《かえ》っていけなくしてしまった。ほんとうに気の毒なことになったよ。しかしわたしにはまた考えがあるからそんなに心配《しんぱい》しないでもいいよ。お前たちは霧でお互《たがい》に顔も見えずさびしいだろう。』
『ええ。』
『ええ。』
『そうか。ではおれが見えるようにしてやろう。いいか、おれのあとについて二人いっしょに真似《まね》をするんだぜ。』
(十一)
『ええ。』
『そうか。ではアルファー《*》。』
『アルファー。』
『ビーター。』『ビーター。』
『ガムマア。』『ガムマーアー。』
『デルタア。』『デールータァーアアア。』
実《じつ》に不思議《ふしぎ》です。いつかシグナルとシグナレスとの二人《ふたり》はまっ黒な夜の中に肩《かた》をならべて立っていました。
『おや、どうしたんだろう。あたり一面《いちめん》まっ黒びろうどの夜だ。』
『まあ、不思議ですわね、まっくらだわ。』
『いいや、頭の上が星で一杯《いつぱい》です。おや、なんという大きな強い星なんだろう、それに見たこともない空の模様《もよう》ではありませんか、一体あの十三連《つら》なる青い星《*》は前どこにあったのでしょう、こんな星は見たことも聞いたこともありませんね。僕《ぼく》たちぜんたいどこに来たんでしょうね。』
『あら、空があんまり速《はや》くめぐりますわ。』
『ええ、あああの大きな橙《だいだい》の星は地平線から今上ります。おや、地平線じゃない。水平線かしら。そうです。ここは夜の海の渚《なぎさ》ですよ。』
『まあ奇麗《きれい》だわね、あの波《なみ》の青びかり。』
『ええ、あれは磯波《いそなみ》の波がしらです、立派《りつぱ》ですねえ、行ってみましょう。』
『まあ、ほんとうにお月さまのあかりのような水よ。』
『ね、水の底《そこ》に赤いひとでがいますよ。銀色《ぎんいろ》のなまこがいますよ。ゆっくりゆっくり、這《は》ってますねえ。それからあのユラユラ青びかりの棘《とげ》を動《うご》かしているのは、雲丹《うに》ですね。波《なみ》が寄《よ》せて来ます。少し遠退《とおの》きましょう。』
『ええ。』
『もう、何べん空をめぐったでしょう。大へん寒《さむ》くなりました。海が何だか凍《こご》ったようですね。波はもううたなくなりました。』
『波がやんだせいでしょうかしら。何か音がしていますわ。』
『どんな音。』
『そら、夢《ゆめ》の水車の軋《きし》りのような音。』
『ああそうだ。あの音だ。ピタゴラス派《は》の天球運行《てんきゆううんこう》の諧音《かいおん*》です。』
『あら、なんだかまわりがぼんやり青白くなってきましたわ。』
『夜が明けるのでしょうか。いやはてな。おお立派《りつぱ》だ。あなたの顔がはっきり見える。』
『あなたもよ。』
『ええ、とうとう、僕《ぼく》たち二人《ふたり》きりですね。』
『まあ、青白い火が燃《も》えてますわ。まあ地面《じめん》と海も。けど熱《あつ》くないわ。』
『ここは空ですよ。これは星の中の霧《きり》の火ですよ。僕たちのねがいが叶《かな》ったんです。ああ、さんたまりや。』
『ああ。』
『地球《ちきゆう》は遠いですね。』
『ええ。』
『地球はどっちの方でしょう。あたりいちめんの星どこがどこかもうわからない。あの僕のブッキリコはどうしたろう。あいつは本とうはかあいそうですね。』
『ええ、まあ火が少し白くなったわ、せわしく燃えますわ。』
『きっと今秋ですね。そしてあの倉庫《そうこ》の屋根《やね》も親切《しんせつ》でしたね。』
『それは親切とも。』いきなり太い声がしました。気がついてみるとああ二人とも一緒《いつしよ》に夢《ゆめ》を見ていたのでした。
いつか霧《きり》がはれてそら一めんのほしが、青や橙《だいだい》やせわしくせわしくまたたき、向《むこ》うにはまっ黒な倉庫の屋根が笑《わら》いながら立って居《お》りました。
二人はまたほっと小さな息《いき》をしました。(完)
オツベルと象《ぞう》
……ある牛飼《うしか》いがものがたる
第一《だいいち》日曜
オツベルときたら大したもんだ。稲扱器械《いねこききかい*》の六台も据《す》えつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。
十六人の百姓《ひやくしよう》どもが、顔をまるっきりまっ赤にして足で踏《ふ》んで器械をまわし、小山のように積《つ》まれた稲を片《かた》っぱしから扱《こ》いていく。藁《わら》はどんどんうしろの方へ投《な》げられて、また新らしい山になる。そこらは、籾《もみ》や藁から発《た》ったこまかな塵《ちり》で、変《へん》にぼうっと黄いろになり、まるで沙漠《さばく》のけむりのようだ。
そのうすぐらい仕事場《しごとば》を、オツベルは、大きな琥珀《こはく》のパイプをくわい、吸穀《すいがら》を藁に落《おと》さないよう、眼《め》を細くして気をつけながら、両手《りようて》を背中《せなか》に組みあわせて、ぶらぶら往《い》ったり来たりする。
小屋《こや》はずいぶん頑丈《がんじよう》で、学校ぐらいもあるのだが、何せ新式稲扱器械《いねこききかい》が、六台もそろってまわってるから、のんのんのんのんふるうのだ。中にはいるとそのために、すっかり腹《はら》が空《す》くほどだ。そしてじっさいオツベルは、そいつで上手《じようず》に腹をへらし、ひるめしどきには、六寸《すん》ぐらいのビフテキ《*》だの、雑巾《ぞうきん》ほどあるオムレツの、ほくほくしたのをたべるのだ。
とにかく、そうして、のんのんのんのんやっていた。
そしたらそこへどういうわけか、その、白象《はくぞう*》がやって来た。白い象だぜ、ペンキを塗《ぬ》ったのでないぜ。どういうわけで来たかって? そいつは象のことだから、たぶんぶらっと森を出て、ただなにとなく来たのだろう。
そいつが小屋の入口に、ゆっくり顔を出したとき、百姓《ひやくしよう》どもはぎょっとした。なぜぎょっとした? よくきくねえ、何をしだすか知れないじゃないか。かかり合っては大へんだから、どいつもみな、いっしょうけんめい、じぶんの稲を扱《こ》いていた。
ところがそのときオツベルは、ならんだ器械のうしろの方で、ポケットに手を入れながら、ちらっと鋭《するど》く象を見た。それからすばやく下を向《む》き、何でもないというふうで、いままでどおり往ったり来たりしていたもんだ。
するとこんどは白象《はくぞう》が、片脚床《かたあしゆか》にあげたのだ。百姓《ひやくしよう》どもはぎょっとした。それでも仕事《しごと》が忙《いそが》しいし、かかり合ってはひどいから、そっちを見ずに、やっぱり稲《いね》を扱《こ》いていた。
オツベルは奥《おく》のうすぐらいところで両手をポケットから出して、も一度《いちど》ちらっと象を見た。それからいかにも退屈《たいくつ》そうに、わざと大きなあくびをして、両手を頭のうしろに組んで、行ったり来たりやっていた。ところが象が威勢《いせい》よく、前肢《まえあし》二つつきだして、小屋《こや》にあがって来ようとする。百姓どもはぎくっとし、オツベルもすこしぎょっとして、大きな琥珀《こはく》のパイプから、ふっとけむりをはきだした。それでもやっぱりしらないふうで、ゆっくりそこらをあるいていた。
そしたらとうとう、象がのこのこ上って来た。そして器械《きかい》の前のとこを、呑気《のんき》にあるきはじめたのだ。
ところが何せ、器械はひどく廻《まわ》っていて、籾《もみ》は夕立か霧《きり》のように、パチパチ象にあたるのだ。象はいかにもうるさいらしく、小さなその眼《め》を細めていたが、またよく見ると、たしかに少しわらっていた。
オツベルはやっと覚悟《かくご》をきめて、稲扱器械の前に出て、象に話をしようとしたが、そのとき象が、とてもきれいな、鶯《うぐいす》みたいないい声で、こんな文句《もんく》を云《い》ったのだ。
「ああ、だめだ。あんまりせわしく、砂《すな》がわしの歯《は》にあたる。」
まったく籾《もみ》は、パチパチパチパチ歯にあたり、またまっ白な頭や首にぶっつかる。
さあ、オツベルは命懸《いのちが》けだ。パイプを右手にもち直し、度胸《どきよう》を据《す》えて斯《こ》う云《い》った。
「どうだい、此処《ここ》は面白《おもしろ》いかい。」
「面白いねえ。」象《ぞう》がからだを斜《なな》めにして、眼《め》を細くして返事《へんじ》した。
「ずうっとこっちに居《い》たらどうだい。」
百姓《ひやくしよう》どもははっとして、息《いき》を殺《ころ》して象を見た。オツベルは云ってしまってから、にわかにがたがた顫《ふる》え出す。ところが象はけろりとして、
「居てもいいよ。」と答えたもんだ。
「そうか。それではそうしよう。そういうことにしようじゃないか。」オツベルが顔をくしゃくしゃにして、まっ赤になって悦《よろこ》びながらそう云った。
どうだ、そうしてこの象は、もうオツベルの財産《ざいさん》だ。いまに見たまえ、オツベルは、あの白象《はくぞう》を、はたらかせるか、サーカス団《だん》に売りとばすか、どっちにしても万円《*》以上《いじよう》もうけるぜ。
第二《だいに》日曜
オツベルときたら大したもんだ。それにこの前稲扱小屋《いねこきごや》で、うまく自分のものにした、象《ぞう》もじっさい大したもんだ。力も二十馬力もある。第一みかけがまっ白で、牙《きば》はぜんたいきれいな象牙《ぞうげ》でできている。皮《かわ》も全体《ぜんたい》、立派《りつぱ》で丈夫《じようぶ》な象皮《ぞうがわ》なのだ。そしてずいぶんはたらくもんだ。けれどもそんなに稼《かせ》ぐのも、やっぱり主人《しゆじん》が偉《えら》いのだ。
「おい、お前は時計は要《い》らないか。」丸太《まるた》で建《た》てたその象小屋の前に来て、オツベルは琥珀《こはく》のパイプをくわえ、顔をしかめて斯《こ》う訊《き》いた。
「ぼくは時計は要らないよ」象がわらって返事《へんじ》した。
「まあ持《も》ってみろ、いいもんだ。」斯う言いながらオツベルは、ブリキでこさえた大きな時計を、象の首からぶらさげた。
「なかなかいいね。」象も云《い》う。
「鎖《くさり》もなくちゃだめだろう。」オツベルときたら、百キロもある鎖をさ、その前肢《まえあし》にくっつけた。
「うん、なかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいう。
「靴《くつ》をはいたらどうだろう。」
「ぼくは靴などはかないよ。」
「まあはいてみろ、いいもんだ。」オツベルは顔をしかめながら、赤い張子《はりこ》の大きな靴を、象《ぞう》のうしろのかかとにはめた。
「なかなかいいね。」象も云《い》う。
「靴に飾《かざ》りをつけなくちゃ。」オツベルはもう大急《おおいそ》ぎで、四百キロある分銅《ふんどう》を靴の上から穿《は》め込《こ》んだ。
「うん、なかなかいいね」象は二あし歩いてみて、さもうれしそうにそう云った。
次の日、ブリキの大きな時計と、やくざな紙の靴とはやぶけ、象は鎖《くさり》と分銅だけで、大よろこびであるいて居《お》った。
「済《す》まないが税金《ぜいきん》も高いから、今日はすこうし、川から水を汲《く》んでくれ。」オツベルは両手《りようて》をうしろで組んで、顔をしかめて象に云う。
「ああ、ぼく水を汲んで来よう。もう何ばいでも汲んでやるよ。」
象は眼《め》を細くしてよろこんで、そのひるすぎに五十だけ、川から水を汲んで来た。そして菜《な》っ葉《ぱ》の畑《はたけ》にかけた。
夕方象は小屋《こや》に居《い》て、十把《ぱ》の藁《わら》をたべながら、西の三日の月を見て、
「ああ、稼《かせ》ぐのは愉快《ゆかい》だねえ、さっぱりするねえ。」と云《い》っていた。
「済《す》まないが税金《ぜいきん》がまたあがる。今日は少うし森から、たきぎを運《はこ》んでくれ。」オツベルは房《ふさ》のついた赤い帽子《ぼうし》をかぶり、両手《りようて》をかくし《*》につっ込んで、次《つぎ》の日象《ぞう》にそう言った。
「ああ、ぼくたきぎを持《も》って来よう。いい天気だねえ。ぼくはぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらってこう言った。
オツベルは少しぎょっとして、パイプを手からあぶなく落《おと》しそうにしたがもうあ《(ママ)》のときは、象がいかにも愉快なふうで、ゆっくりあるきだしたので、また安心《あんしん》してパイプをくわい、小さな咳《せき》を一つして、百姓《ひやくしよう》どもの仕事《しごと》の方を見に行った。
そのひるすぎの半日に、象は九百把《ぱ》たきぎを運び、眼《め》を細くしてよろこんだ。
晩方《ばんがた》象は小屋《こや》に居《い》て、八把《わ》の藁《わら》をたべながら、西の四日の月を見て、
「ああ、せいせいした、サンタマリア。」と斯《こ》うひとりごとしたそうだ。
その次の日だ、
「済まないが、税金が五倍《ばい》になった、今日は少うし鍛冶場《かじば》へ行って、炭火《すみび》を吹《ふ》いてくれないか。」
「ああ、吹いてやろう。本気でやったら、ぼく、もう、息《いき》で、石もなげとばせるよ。」
オツベルはまたどきっとしたが、気を落《お》ち付《つ》けてわらっていた。
象《ぞう》はのそのそ鍛冶場《かじば》へ行って、べたんと肢《あし》を折《お》って座《すわ》り、ふいごの代《かわ》りに半日炭《すみ》を吹《ふ》いたのだ。
その晩《ばん》、象は象小屋《ぞうごや》で、七把《わ》の藁《わら》をたべながら、空の五日の月を見て、
「ああつかれたな、うれしいな、サンタマリア。」と斯《こ》う言った。
どうだ、そうして次の日から、象は朝からかせぐのだ。藁も昨日《きのう》はただ五把だ。よくまあ、五把の藁などで、あんな力がでるもんだ。
じっさい象はけいざいだよ。それというのもオツベルが、頭がよくてえらいためだ。オツベルときたら大したもんさ。
第五《だいご》日曜
オツベルかね、そのオツベルは、おれも云《い》おうとしてたんだが、居《い》なくなったよ。
まあ落《お》ちついてききたまえ。前にはなしたあの象を、オツベルはすこしひどくし過《す》ぎた。しかたがだんだんひどくなったから、象がなかなか笑《わら》わなくなった。時には赤い竜《りゆう》の眼《め*》をして、じっとこんなにオツベルを見おろすようになってきた。
ある晩《ばん》象《ぞう》は象小屋《ぞうごや》で、三把《わ》の藁《わら》をたべながら、十日の月を仰《あお》ぎ見て、
「苦《くる》しいです。サンタマリア。」と云《い》ったということだ。
こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。
ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒《たお》れて地べたに座《すわ》り、藁もたべずに、十一日の月を見て、
「もう、さようなら、サンタマリア。」と斯《こ》う言った。
「おや、何だって? さよならだ?」月が俄《にわか》に象に訊《き》く。
「ええ、さよならです。サンタマリア。」
「何だい、なりばかり大きくて、からっきし意気地《いくじ》のないやつだなあ。仲間《なかま》へ手紙を書いたらいいや。」月がわらって斯う云った。
「お筆《ふで》も紙もありませんよう。」象は細ういきれいな声で、しくしくしくしく泣《な》き出した。
「そら、これでしょう。」すぐ眼《め》の前で、可愛《かわい》い子どもの声がした。象が頭を上げて見ると、赤い着物《きもの》の童子《どうじ》が立って、硯《すずり》と紙を捧《ささ》げていた。象は早速《さつそく》手紙を書いた。
「ぼくはずいぶん眼《め》にあっている。みんなで出て来て助《たす》けてくれ。」
童子はすぐに手紙をもって、林の方へあるいて行った。
赤衣《しやくえ》の童子《どうじ》が、そうして山に着《つ》いたのは、ちょうどひるめしごろだった。このとき山の象《ぞう》どもは、沙羅樹《しやらじゆ*》の下のくらがりで、碁《ご》などをやっていたのだが、額《ひたい》をあつめてこれを見た。
「ぼくはずいぶん眼《め》にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」
象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠《ほ》えだした。
「オツベルをやっつけよう。」議長《ぎちよう》の象が高く叫《さけ》ぶと、
「おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。」みんながいちどに呼応《こおう》する。
さあ、もうみんな、嵐《あらし》のように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。どいつもみんなきちがいだ。小さな木などは根《ね》こぎになり、藪《やぶ》や何かもめちゃめちゃだ。グワア グワア グワア グワア、花火みたいに野原の中へ飛《と》び出した。それから、何の、走って、走って、とうとう向《むこ》うの青くかすんだ野原のはてに、オツベルの邸《やしき》の黄いろな屋根《やね》を見附《みつ》けると、象はいちどに噴火《ふんか》した。
グララアガア、グララアガア。その時はちょうど一時半、オツベルは皮《かわ》の寝台《しんだい》の上でひるねのさかりで、烏《からす》の夢《ゆめ》を見ていたもんだ。あまり大きな音なので、オツベルの家の百姓《ひやくしよう》どもが、門から少し外へ出て、小手をかざして向うを見た。林のような象だろう。汽車より早くやってくる。さあ、まるっきり、血の気も失《う》せてかけ込《こ》んで、
「旦那《だんな》あ、象《ぞう》です。押《お》し寄《よ》せやした。旦那あ、象です。」と声をかぎりに叫《さけ》んだもんだ。
ところがオツベルはやっぱりえらい。眼《め》をぱっちりあいたときは、もう何もかもわかっていた。
「おい、象のやつは小屋《こや》にいるのか。居《い》る? 居る? 居るのか。よし、戸をしめろ。戸をしめるんだよ。早く象小屋の戸をしめるんだ。ようし、早く丸太《まるた》を持《も》って来い。とじこめちまえ、畜生《ちくしよう》めじたばたしやがるな、丸太をそこへしばりつけろ。何ができるもんか。わざと力を減《へ》らしてあるんだ。ようし、もう五、六本持って来い。さあ、大丈夫《だいじようぶ》だ。大丈夫だとも。あわてるなったら。おい、みんな、こんどは門だ。門をしめろ。かんぬきをかえ。つっぱり。つっぱり。そうだ。おい、みんな心配《しんぱい》するなったら。しっかりしろよ。」オツベルはもう仕度《したく》ができて、ラッパみたいな声で、百姓《ひやくしよう》どもをはげました。ところがどうして、百姓どもは気が気じゃない。こんな主人《しゆじん》に巻《ま》き添《ぞ》いなんぞ食いたくないから、みんなタオルやはんけちや、よごれたような白いようなものを、ぐるぐる腕《うで》に巻きつける。降参《こうさん》をするしるしなのだ。
オツベルはいよいよやっきとなって、そこらあたりをかけまわる。オツベルの犬も気が立って、火のつくように吠《ほ》えながら、やしきの中をはせまわる。
間《ま》もなく地面《じめん》はぐらぐらとゆられ、そこらはばしゃばしゃくらくなり、象《ぞう》はやしきをとりまいた。グララアガア、グララアガア、その恐《おそ》ろしいさわぎの中から、
「今助《たす》けるから安心《あんしん》しろよ。」やさしい声もきこえてくる。
「ありがとう。よく来てくれて、ほんとに僕《ぼく》はうれしいよ」象小屋《ぞうごや》からも声がする。さあ、そうすると、まわりの象は、一そうひどく、グララアガア、グララアガア、塀《へい》のまわりをぐるぐる走っているらしく、度々《たびたび》中から、怒《いか》ってふりまわす鼻《はな》も見える。けれども塀はセメントで、中には鉄《てつ》も入っているから、なかなか象もこわせない。塀の中にはオツベルが、たった一人《ひとり》で叫《さけ》んでいる。百姓《ひやくしよう》どもは眼《め》もくらみ、そこらをうろうろするだけだ。そのうち外の象どもは、中間《なかま》のからだを台にして、いよいよ塀を越《こ》しかかる。だんだんにゅうと顔を出す。その皺《しわ》くちゃで灰《はい》いろの、大きな顔を見あげたとき、オツベルの犬は気絶《きぜつ》した。さあ、オッベルは射《う》ちだした。六連発《れんぱつ》のピストルさ。ドーン、グララアガア、ドーン、グララアガア、ドーン、グララアガア、ところが弾《たま》は通らない、牙《きば》にあたればはねかえる。一疋《ぴき》なぞは斯《こ》う言った。
「なかなかこいつはうるさいねえ。ばちばち顔へあたるんだ。」オツベルはいつかどっかで、こんな文句《もんく》をきいたようだと思いながら、ケースを帯《おび》からつめかえた。そのうち、象の片脚《かたあし》が、塀からこっちへはみ出した。それからも一つはみ出した。五匹《ひき》の象《ぞう》が一ぺんに、塀《へい》からどっと落《お》ちてきた。オッベルはケースを握《にぎ》ったまま、もうくしゃくしゃに潰《つぶ》れていた。早くも門があいていて、グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込《こ》む。
「牢《ろう》はどこだ。」みんなは小屋《こや》に押《お》し寄《よ》せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折《お》られ、あの白象《はくぞう》はたいへん痩《や》せて小屋を出た。
「まあ、よかったねやせたねえ。」みんなはしずかにそばにより、鎖《くさり》と銅《どう》をはずしてやった。
「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助《たす》かったよ。」白象はさびしくわらってそう云《い》った。
おや、〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。
ざしき童子《ぼつこ*》のはなし
ぼくらの方の、ざしき童子のはなしです。
あかるいひるま、みんなが山へはたらきに出て、こどもがふたり、庭《にわ》であそんで居《お》りました。大きな家にたれも居《い》ませんでしたから、そこらはしんとしています。
ところが家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒《ほうき》の音がしたのです。
ふたりのこどもは、おたがい肩《かた》にしっかりと手を組みあって、こっそり行ってみましたが、どのざしきにもたれも居ず、刀の箱《はこ》もひっそりとして、かきねの檜《ひのき》が、いよいよ青く見えるきり、たれもどこにも居ませんでした。
ざわっざわっと箒の音がきこえます。
とおくの百舌《もず》の声なのか、北上川《きたかみがわ》の瀬《せ》の音か、どこかで豆《まめ》を箕《み》にかけるのか、ふたりでいろいろ考えながら、だまって聴《き》いてみましたが、やっぱりどれでもないようでした。
たしかにどこかで、ざわっざわっと箒《ほうき》の音がきこえたのです。
も一どこっそり、ざしきをのぞいてみましたが、どのざしきにもたれも居《い》ず、ただお日さまの光ばかり、そこらいちめん、あかるく降《ふ》って居《お》りました。
こんなのがざしき童子《ぼつこ》です。
「大道めぐり《*》、大道めぐり。」
一生けん命《めい》、こう叫《さけ》びながら、ちょうど十人の子供《こども》らが、両手《りようて》をつないで円《まる》くなり、ぐるぐるぐるぐる、座敷《ざしき》のなかをまわっていました。どの子もみんな、そのうちのお振舞《ふるまい》によばれて来たのです。
ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんで居りました。
そしたらいつか、十一人になりました。
ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけ居りました。その増《ふ》えた一人《ひとり》がざしきぼっこなのだぞと、大人《おとな》が出て来て云《い》いました。
けれどもたれが増えたのか、とにかくみんな、自分だけは、何だってざしきぼっこだないと、一生けん命眼《め》を張《は》って、きちんと座《すわ》って居りました。
こんなのがざしきぼっこです。
それからまたこういうのです。
ある大きな本家では、いつも旧《きゆう》の八月のはじめに、如来《によらい》さまのおまつりで分家の子供《こども》らをよぶのでしたが、ある年その中の一人の子が、はしかにかかってやすんでいました。
「如来さんの祭《まつり》へ行くたい。如来さんの祭へ行くたい。」と、その子は寝《ね》ていて、毎日毎日云《い》いました。
「祭延《の》ばすから早くよくなれ。」本家のおばあさんが見舞《みまい》に行って、その子の頭をなでて云いました。
その子は九月によくなりました。
そこでみんなはよばれました。ところがほかの子供らは、いままで祭を延ばされたり、鉛《なまり》の兎《うさぎ》を見舞にとられたりしたので、何ともおもしろくなくてたまりませんでした。あいつのためにめにあった。もう今日は来ても、何たってあそばないて、と約束《やくそく》しました。
「おお、来たぞ、来たぞ。」みんながざしきであそんでいたとき、にわかに一人《ひとり》が叫《さけ》びました。「ようし、かくれろ。」みんなは次《つぎ》の、小さなざしきへかけ込《こ》みました。
そしたらどうです。そのざしきのまん中に、今やっと来たばかりのはずの、あのはしかをやんだ子が、まるっきり痩《や》せて青ざめて、泣《な》き出しそうな顔をして、新らしい熊《くま》のおもちゃを持《も》って、きちんと座《すわ》っていたのです。
「ざしきぼっこだ。」一人が叫《さけ》んで遁《に》げだしました。みんなもわあっ遁げました。ざしきぼっこは泣きました。
こんなのがざしきぼっこです。
また、北上川《きたかみがわ》の朗妙寺《ろうみょうじ*》の淵《ふち》の渡《わたし》し守《もり》が、ある日わたしに云《い》いました。
「旧暦《きゅうれき》八月十七日の晩《ばん》に、おらは酒《さけ》のんで早く寝《ね》た。おおい、おおいと向《むこ》うで呼《よ》んだ。起《お》きて小屋《こや》から出てみたら、お月さまはちょうどそらのてっぺんだ。おらは急《いそ》いで舟《ふね》だして、向うの岸《きし》に行ってみたらば、紋付《もんつき》を着《き》て刀をさし、袴《はかま》をはいたきれいな子供《こども》だ。たった一人で、白緒《しろお》のぞうりもはいていた。渡《わた》るかと云ったら、たのむと云った。子どもは乗《の》った。舟がまん中ごろに来たとき、おらは見ないふりしてよく子供を見た。きちんと膝《ひざ》に手を置《お》いて、そらを見ながら座っていた。
お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかあいい声で答えた。そこの笹田《ささだ》のうちにずいぶんながく居《い》たけれど、もうあきたから外《ほか》へ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供《こども》はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば更木《さらき*》の斎藤《さいとう》へ行くよと云《い》った。岸《きし》に着いたら子供はもう居ず、おらは小屋《こや》の入口にこしかけていた。夢《ゆめ》だかなんだかわからない。けれどもきっと本統《ほんとう》だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気《びようき》もすっかり直ったし、むすこも大学を終《おわ》ったし、めきめき立派《りつぱ》になったから。」
こんなのがざしき童子《ぼつこ》です。
寓話《ぐうわ》 猫《ねこ》の事務所《じむしよ》
……ある小さな官衙《かんが*》に関《かん》する幻想《げんそう》……
軽便鉄道《けいべんてつどう》の停車場《ていしやば》のちかくに、猫の第六《だいろく》事務所がありました。ここは主《おも》に、猫の歴史《れきし》と地理をしらべるところでした。
書記はみな、短《みじか》い黒の繻子《しゆす》の服《ふく》を着《き》て、それは大へんみんなに尊敬《そんけい》されましたから、何かの都合《つごう》で書記をやめるものがあると、そこらの若《わか》い猫は、どれもどれも、みんなそのあとへ入りたがってばたばたしました。
けれども、この事務所の書記の数はいつもただ四人ときまっていましたから、その沢山《たくさん》の中で一番字がうまく詩《し》の読めるものが、一人《ひとり》やっとえらばれるだけでした。
事務長はおおきな黒猫で、少しもうろくしてはいましたが、眼《め》などは中に銅線《どうせん》が幾重《いくえ》も張《は》ってあるかのように、じつに立派《りつぱ》にできていました。
さてその部下《ぶか》の
一番書記は白猫でした、
二番書記は虎猫《とらねこ》でした、
三番書記は三毛猫《みけねこ》でした。
四番書記は竈猫《かまねこ》でした。
竈猫というのは、これは生《うま》れ付《つ》きではありません。生れ付きは何猫でもいいのですが、夜かまどの中にはいってねむる癖《くせ》があるために、いつでもからだが煤《すす》できたなく、殊《こと》に鼻《はな》と耳にはまっくろにすみがついて、なんだか狸《たぬき》のような猫のことを云《い》うのです。
ですからかま猫はほかの猫に嫌《きら》われます。
けれどもこの事務所《じむしよ》では、何せ事務長が黒猫なもんですから、このかま猫もあたり前ならいくら勉強《べんきよう》ができても、とても書記なんかになれないはずのを、四十人の中からえらびだされたのです。
大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が、まっ赤な羅紗《らしや》をかけた卓《つくえ》を控《ひかえ》えてどっかり腰《こし》かけ、その右側《みぎがわ》に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番の虎猫と四番のかま猫が、めいめい小さなテーブルを前にして、きちんと椅子《いす》にかけていました。
ところで猫に、地理だの歴史《れきし》だの何になるかと云いますと、
まあこんな風です。
事務所の扉《とびら》をこつこつ叩《たた》くものがあります。
「はいれっ。」事務長《じむちよう》の黒猫《くろねこ》が、ポケットに手をいれてふんぞりかえってどなりました。
四人の書記は下を向《む》いていそがしそうに帳面《ちようめん》をしらべています。
ぜいたく猫がはいって来ました。
「なんの用だ。」事務長が云《い》います。
「わしは氷河鼠《ひようがねずみ》を食いにベーリング地方へ行きたいのだが、どこらがいちばんいいだろう。」
「うん、一番書記、氷河鼠の産地《さんち》を云え。」
一番書記は、青い表紙《ひようし》の大きな帳面をひらいて答えました。
「ウステラゴメナ、ノバスカイヤ、フサ河《がわ》流域《りゆういき》であります。」
事務長はぜいたく猫に云いました。
「ウステラゴメナ、ノバ………何と云ったかな。」
「ノバスカイヤ。」一番書記とぜいたく猫がいっしょに云いました。
「そう、ノバスカイヤ、それから何!?」
「フサ川。」またぜいたく猫が一番書記といっしょに云ったので、事務長は少しきまり悪《わる》そうでした。
「そうそう、フサ川。まああそこらがいいだろうな。」
「で、旅行についての注意《ちゆうい》はどんなものだろう。」
「うん、二番書記、べーリング地方旅行の注意を述《の》べよ。」
「はっ。」二番書記はじぶんの帳面《ちようめん》を繰《く》りました。「夏猫《なつねこ》は全然《ぜんぜん》旅行に適《てき》せず。」するとどういうわけか、この時みんながかま猫の方をじろっと見ました。
「冬猫もまた細心の注意を要《よう》す。函館附近《はこだてふきん》、馬肉にて釣《つ》らるる危険《きけん》あり。特《とく》に黒猫は充分《じゆうぶん》に猫なることを表示《ひようじ》しつつ旅行するに非《あらざ》れば、応々黒狐《おうおうくろぎつね》と誤認《ごにん》せられ、本気にて追跡《ついせき》さるることあり。」
「よし、いまの通りだ。貴殿《きでん》は我輩《わがはい》のように黒猫ではないから、まあ大した心配《しんぱい》はあるまい。函館で馬肉を警戒《けいかい》するぐらいのところだ。」
「そう、で、向《むこ》うでの有力者《ゆうりよくしや》はどんなものだろう。」
「三番書記、ベーリング地方有力者の名称《めいしよう》を挙《あ》げよ。」
「はい、ええと、ベーリング地方と、はい、トバスキー、ゲンゾスキー、二名であります。」
「トバスキーとゲンゾスキーというのは、どういうようなやつらかな。」
「四番書記、トバスキーとゲンゾスキーについて大略《たいりやく》を述べよ。」
「はい。」四番書記のかま猫は、もう大原簿《だいげんぼ》のトバスキーとゲンゾスキーとのところに、みじかい手を一本ずつ入れて待《ま》っていました。そこで事務長《じむちよう》もぜいたく猫も、大へん感服《かんぷく》したらしいのでした。
ところがほかの三人の書記は、いかにも馬鹿《ばか》にしたように横目《よこめ》で見て、ヘッとわらっていました。かま猫は一生けん命《めい》帳面《ちようめん》を読みあげました。
「トバスキー酋長《しゅうちょう》、徳望《とくぼう》あり。眼光炳々《がんこうへいへい*》たるも物《もの》を言うこと少しく遅《おそ》し。ゲンゾスキー財産家《ざいさんか》、物を言うこと少しく遅《おそ》けれど眼光炳々たり。」
「いや、それでわかりました。ありがとう。」
ぜいたく猫は出て行きました。
こんな工合《ぐあい》で、猫にはまあ便利《べんり》なものでした。ところが今のおはなしからちょうど半年ばかりたったとき、とうとうこの第六事務所《だいろくじむしよ》が廃止《はいし》になってしまいました。というわけは、もうみなさんもお気づきでしょうが、四番書記のかま猫は、上の方の三人の書記からひどく憎《にく》まれていましたし、ことに三番書記の三毛猫《みけねこ》は、このかま猫の仕事《しごと》をじぶんがやってみたくてたまらなくなったのです。かま猫は、何とかみんなによく思われようといろいろ工夫《くふう》をしましたが、どうもかえっていけませんでした。
たとえば、ある日となりの虎猫《とらねこ》が、ひるのべんとうを、机《つくえ》の上に出してたべはじめようとしたときに、急《きゆう》にあくびに襲われました。
そこで虎猫《とらねこ》は、みじかい両手《りようて》をあらんかぎり高く延《の》ばして、ずいぶん大きなあくびをやりました。これは猫仲間《なかま》では、目上の人にも無礼《ぶれい》なことでも何でもなく、人ならばまず鬚《ひげ》でもひねるぐらいのところですから、それはかまいませんけれども、いけないことは、足をふんばったために、テーブルが少し坂《さか》になって、べんとうばこがするするっと滑《すべ》って、とうとうがたっと事務長《じむちよう》の前《まえ》の床《ゆか》に落ちてしまったのです。それはでこぼこではありましたが、アルミニュームでできていましたから、大丈夫《だいじようぶ》こわれませんでした。そこで虎猫は急《いそ》いであくびを切り上げて、机《つくえ》の上から手をのばして、それを取《と》ろうとしましたが、やっと手がかかるかかからないかぐらいなので、べんとうばこは、あっちへ行ったりこっちへ寄《よ》ったり、なかなかうまくつかまりませんでした。
「君、だめだよ。とどかないよ。」と事務長の黒猫が、もしゃもしゃパンを喰《た》べながら笑って云《い》いました。その時四番書記のかま猫も、ちょうどべんとうの蓋《ふた》を開《ひら》いたところでしたが、それを見てすばやく立って、弁当《べんとう》を拾《ひろ》って虎猫に渡《わた》そうとしました。ところが虎猫は急《きゆう》にひどく怒《おこ》り出して、折角《せっかく》かま猫の出した弁当も受《う》け取らず、手をうしろに廻《まわ》して、自暴《やけ》にからだを振《ふ》りながらどなりました。
「何だい。君は僕《ぼく》にこの弁当を喰べろというのかい。机から床の上へ落ちた弁当を君は僕に喰《く》えというのかい。」
「いいえ、あなたが拾《ひろ》おうとなさるもんですから、拾ってあげただけでございます。」
「いつ僕が拾おうとしたんだ。うん。僕はただそれが事務長《じむちよう》さんの前に落《お》ちてあんまり失礼《しつれい》なもんだから、僕の机《つくえ》の下へ押《お》し込《こ》もうと思ったんだ。」
「そうですか。私《わたし》はまた、あんまり弁当《べんとう》があっちこっち動《うご》くもんですから……。」
「何だと失敬《しつけい》な。決闘《けつとう》を……。」
「ジャラジャラジャラジャラン。」事務長が高くどなりました。これは決闘をしろと云《い》ってしまわせない為《ため》に、わざと邪魔《じやま》をしたのです。
「いや、喧嘩《けんか》するのはよしたまえ。かま猫君《ねこくん》も虎猫《とらねこ》君に喰《た》べさせようというんで拾ったんじゃなかろう。それから今朝云うのを忘《わす》れたが虎猫君は月給《げつきゆう》が十銭《せん》あがったよ。」
虎猫は、はじめは恐《こわ》い顔してそれでも頭を下《さ》げて聴《き》いていましたが、とうとう、よろこんで笑《わら》い出しました。
「どうもおさわがせしましてお申《もう》しわけございません。」それからとなりのかま猫をじろっと見て腰掛《こしか》けました。
みなさんぼくはかま猫に同情《どうじよう》します。
それからまた五、六日たって、丁度《ちょうど》これに似《に》たことが起《おこ》ったのです。こんなことがたびたび起《おこ》るわけは、一つは猫《ねこ》どもの無精《ぶしよう》なたちと、も一つは猫の前あし即《すなわ》ち手が、あんまり短《みじか》いためです。今度《こんど》は向《むこ》うの三番書記の三毛猫《みけねこ》が、朝仕事《しごと》を始《はじ》める前に、筆《ふで》がポロポロころがって、とうとう床《ゆか》に落《お》ちました。三毛猫はすぐ立てばいいのを、骨惜《ほねお》しみして早速《さっそく》前に虎猫《とらねこ》のやった通り、両手《りようて》を机越《つくえご》しに延《の》ばして、それを拾《ひろ》い上げようとしました。今度もやっぱり届《とど》きません。三毛猫は殊《こと》にせいが低《ひく》かったので、だんだん乗《の》り出して、とうとう足が腰掛《こしか》けからはなれてしまいました。かま猫は拾ってやろうかやるまいか、この前のこともありますので、しばらくためらって眼《め》をパチパチさせて居《い》ましたが、とうとう見るに見兼《みかね》て、立ちあがりました。
ところが丁度《ちようど》この時に、三毛猫はあんまり乗り出し過《す》ぎてガタンとひっくり返《かえ》ってひどく頭をついて机から落ちました。それが大分ひどい音でしたから、事務長《じむちよう》の黒猫もびっくりして立ちあがって、うしろの棚《たな》から、気付《つ》けのアンモニア水の瓶《びん》を取《と》りました。ところが三毛猫はすぐ起《お》き上って、かんしゃくまぎれにいきなり、
「かま猫、きさまはよくも僕《ぼく》を押《お》しのめしたな。」とどなりました。
今度はしかし、事務長がすぐ三毛猫をなだめました。
「いや、三毛君《くん》。それは君《きみ》のまちがいだよ。
かま猫君は好意《こうい》でちょっと立っただけだ。君にさわりも何もしない。しかしまあ、こんな小さなことは、なんでもありゃしないじゃないか。さあ、ええとサントンタンの転居届《てんきよとど》けと。ええ。」事務長《じむちよう》はさっさと仕事にかかりました。そこで三毛猫《みけねこ》も、仕方《しかた》なく、仕事にかかりはじめましたがやっぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見ていました。
こんな工合《ぐあい》ですからかま猫は実《じつ》につらいのでした。
かま猫はあたりまえの猫になろうと、何べんも窓《まど》の外にねてみましたが、どうしても夜中に寒《さむ》くてくしゃみが出てたまらないので、やっぱり仕方《しかた》なく竈《かまど》のなかに入るのでした。
なぜそんなに寒くなるかというのに皮《かわ》がうすいためで、なぜ皮が薄《うす》いかというのに、それは土用《どよう*》に生れたからです。やっぱり僕《ぼく》が悪《わる》いんだ、仕方ないなあと、かま猫は考えて、なみだをまん円な眼《め》一杯《いつぱい》にためました。
けれども事務長さんがあんなに親切《しんせつ》にして下さる、それにかま猫仲間《なかま》のみんながあんなに僕《ぼく》の事務所《じむしよ》に居《い》るのを名誉《めいよ》に思ってよろこぶのだ、どんなにつらくてもぼくはやめないぞ、きっとこらえるぞと、かま猫は泣《な》きながら、にぎりこぶしを握《にぎ》りました。
ところがその事務長も、あてにならなくなりました。それは猫なんていうものは、賢《かしこ》いようでばかなものです。ある時、かま猫は運《うん》わるく風邪《かぜ》を引いて、足のつけねを椀《わん》のように腫《は》らし、どうしても歩けませんでしたから、とうとう一日やすんでしまいました。かま猫《ねこ》のもがきようといったらありません。泣《な》いて泣いて泣きました。納屋《なや》の小さな窓《まど》から射《さ》し込《こ》んで来る黄いろな光をながめながら、一日一杯《いつぱい》眼《め》をこすって泣いていました。
その間に事務所《じむしよ》ではこういう風でした。
「はてな、今日はかま猫君《くん》がまだ来んね。遅《おそ》いね。」と事務長が、仕事《しごと》のたえ間に云《い》いました。
「なあに、海岸《かいがん》へでも遊《あそ》びに行ったんでしょう。」白猫が云いました。「いいやどこかの宴会《えんかい》にでも呼《よ》ばれて行ったろう。」虎猫《とらねこ》が云いました。「今日どこかに宴会があるか。」事務長はびっくりしてたずねました。猫の宴会に自分の呼ばれないものなどあるはずはないと思ったのです。「何でも北の方で開校式《かいこうしき》があるとか云いましたよ。」「そうか。」黒猫はだまって考え込《こ》みました。「どうしてどうしてかま猫は。」三毛猫《みけねこ》が云い出しました。「この頃《ごろ》はあちこちへ呼ばれているよ。何でもこんどは、おれが事務長になるとか云ってるそうだ。だから馬鹿《ばか》なやつらがこわがってあらんかぎりご機嫌《きげん》をとるのだ。」
「本とうかい。それは。」黒猫がどなりました。
「本とうですとも。お調べになってごらんなさい。」三毛猫《みけねこ》が口を尖《とがら》せて云《い》いました。
「けしからん。あいつにおれはよほど目をかけてやってあるのだ。よし。おれにも考えがある。」
そして事務所《じむしよ》はしばらくしんとしました。
さて次《つぎ》の日です。
かま猫は、やっと足のはれが、ひいたので、よろこんで朝早く、ごうごう風の吹《ふ》くなかを事務所へ来ました。するといつも来るとすぐ表紙《ひようし》を撫《な》でてみるほど大切な自分の原簿《げんぼ》が、自分の机《つくえ》の上からなくなって、向《むこ》う隣《どな》りの三つの机に分けてあります。
「ああ、昨日《きのう》は忙《いそが》しかったんだな。」かま猫は、なぜか胸《むね》をどきどきさせながら、かすれた声で独《ひとり》ごとしました。
ガタッ。扉《とびら》が開《あ》いて三毛猫がはいって来ました。
「お早《はよ》うございます。」かま猫は立って挨拶《あいさつ》しましたが、三毛猫はだまって腰《こし》かけて、あとはいかにも忙しそうに帳面《ちようめん》を繰《く》っています。ガタン。ピシャン。虎猫《とらねこ》がはいって来ました。「お早うございます」かま猫は立って挨拶しましたが、虎猫は見向きもしません。
「お早うございます。」三毛猫が云いました。
「お早《はよ》う、どうもひどい風だね。」虎猫《とらねこ》もすぐ帳面《ちようめん》を繰《く》りはじめました。
ガタッ、ピシャーン。白猫がはいって来ました。
「お早うございます。」虎猫と三毛猫《みけねこ》が一緒《いつしよ》に挨拶《あいさつ》しました。
「いや、お早う、ひどい風だね。」白猫も忙《いそ》がしそうに仕事《しごと》にかかりました。その時かま猫は力なく立ってだまっておじぎをしましたが、白猫はまるで知らないふりをしています。
ガタン、ピシャリ。
「ふう、ずいぶんひどい風だね。」事務長《じむちよう》の黒猫がはいって来ました。「お早うございます」三人はすばやく立っておじぎをしました。かま猫もぼんやり立って、下を向《む》いたままおじぎをしました。
「まるで暴風《ぼうふう》だね、ええ。」黒猫は、かま猫を見ないで斯《こ》う言いながら、もうすぐ仕事をはじめました。
「さあ、今日は昨日《きのう》のつづきのアンモニアック《*》の兄弟を調《しら》べて回答しなければならん。二番書記、アムモニアック兄弟の中で、南極《なんきよく》へ行ったのは誰《だれ》だ。」仕事がはじまりました。かま猫はだまってうつむいていました。原簿《げんぼ》がないのです。それを何とか云《い》いたくっても、もう声が出ませんでした。
「パン、ポラリス《*》であります。」虎猫《とらねこ》が答えました。
「よろしい、パン、ポラリスを詳述《しようじゆつ》せよ。」と黒猫が云《い》います。ああ、これはぼくの仕事《しごと》だ、原簿《げんぼ》、原簿、とかま猫はまるで泣《な》くように思いました。
「パン、ポラリス、南極探検《なんきよくたんけん》の帰途《きと》、ヤップ島《*》沖《おき》にて死亡《しぼう》、遺骸《いがい》は水葬《すいそう》せらる。」一番書記の白猫が、かま猫の原簿で読んでいます。かま猫はもうかなしくて、かなしくて頬《ほお》のあたりが酸《す》っぱくなり、そこらがきいんと鳴ったりするのを、じっとこらえてうつむいて居《お》りました。
事務所《じむしよ》の中は、だんだん忙《いそ》がしく湯《ゆ》のようになって、仕事はずんずん進《すす》みました。みんな、ほんの時々、ちらっとこっちを見るだけで、ただ一ことも云いません。
そしておひるになりました。かま猫は、持《も》って来た弁当《べんとう》も喰《た》べず、じっと膝《ひざ》に手を置《お》いてうつむいておりました。
とうとうひるすぎの一時から、かま猫はしくしく泣《な》きはじめました。そして晩方《ばんがた》まで三時間ほど泣いたりやめたり、また泣きだしたりしたのです。
それでもみんなはそんなこと、一向《いつこう》知らないというように面白《おもしろ》そうに仕事をしていました。
その時です。猫どもは気が付《つ》きませんでしたが、事務長のうしろの窓《まど》の向《むこ》うにいかめしい獅子《しし》の金いろの頭が見えました。
獅子は不審《ふしん》そうに、しばらく中を見ていましたが、いきなり戸口を叩《たた》いてはいって来ました。猫《ねこ》どもの愕《おど》ろきようといったらありません。うろうろうろうろそこらをあるきまわるだけです。かま猫だけが泣《な》くのをやめて、まっすぐに立ちました。
獅子が大きなしっかりした声で云《い》いました。
「お前たちは何をしているか。そんなことで地理も歴史《れきし》も要《い》ったはなしでない。やめてしまえ。えい。解散《かいさん》を命《めい》ずる。」
こうして事務所《じむしよ》は廃止《はいし》になりました。
ぼくは半分獅子に同感《どうかん》です。
北守将軍《ほくしゆしようぐん》と三人兄弟《さんにんきようだい》の医者《いしや》
一 三人兄弟の医者
むかしラユーという首都《しゆと》に、兄弟三人の医者がいた。いちばん上のリンパーは、普通《ふつう》の人の医者だった。その弟のリンプーは、馬や羊《ひつじ》の医者だった。いちばん末《すえ》のリンポーは、草だの木だのの医者だった。そして兄弟三人は、町のいちばん南にあたる、黄いろな崖《がけ》のとっぱなへ、青い瓦《かわら》の病院《びよういん》を、三つならべて建てていて、てんでに白や朱《しゆ》の旗《はた》を、風にぱたぱた云《い》わせていた。
坂《さか》のふもとで見ていると、漆《うるし》にかぶれた坊《ぼう》さんや、少しびっこをひく馬や、萎《しお》れかかった牡丹《ぼたん》の鉢《はち》を、車につけて引く園丁《えんてい》や、いんこを入れた鳥籠《とりかご》や、次《つぎ》から次とのぼって行って、さて坂上に行き着《つ》くと、病気の人は、左のリンパー先生へ、馬や羊や鳥類《るい》は、中のリンプー先生へ、草木をもった人たちは、右のリンポー先生へ、三つにわかれてはいるのだった。
さて三人は三人とも、実《じつ》に医術《いじゆつ》もよくできて、また仁心《じんしん》も相当《そうとう》あって、たしかにもはや名医の類《るい》であったのだが、まだいい機会《おり》がなかったために別《べつ》に位《くらい》もなかったし、遠くへ名前も聞えなかった。ところがとうとうある日のこと、ふしぎなことが起《おこ》ってきた。
二 北守将軍《ほくしゆしようぐん》ソンバーユー《*》
ある日のちょうど日の出ごろ、ラユーの町の人たちは、はるかな北の野原の方で、鳥か何かがたくさん群《む》れて、声をそろえて鳴くような、おかしな音を、ときどき聴《き》いた。はじめは誰《だれ》も気にかけず、店を掃《は》いたりしていたが、朝めしすこしすぎたころ、だんだんそれが近づいて、みんな立派《りつぱ》なチャルメラや、ラッパの音だとわかってくると、町じゅうにわかにざわざわした。その間にはぱたぱたいう、太鼓《たいこ》の類の音もする。もう商人《あきうど》も職人《しよくにん》も、仕事《しごと》がすこしも手につかない。門を守《まも》った兵隊《へいたい》たちは、まず門をみなしっかりとざし、町をめぐった壁《かべ》の上には、見張《みは》りの者《もの》をならべて置《お》いて、それからお宮《みや》へ知らせを出した。
そしてその日の午《ひる》ちかく、ひづめの音や鎧《よろい》の気配《けはい》、また号令《ごうれい》の声もして、向《むこ》うはすっかり、この町を、囲《かこ》んでしまった模様《もよう》であった。
番兵《ばんぺい》たちや、あらゆる町の人たちが、まるでどきどきやりながら、矢《や》を射《い》る孔《あな》からのぞいて見た。壁《かべ》の外から北の方、まるで雲霞《うんか》の軍勢《ぐんぜい》だ。ひらひらひかる三角旗《ばた》や、ほこがさながら林のようだ。ことになんとも奇体《きたい》なことは、兵隊《へいたい》たちが、みな灰《はい》いろでぼさぼさして、なんだかけむりのようなのだ。するどい眼《め》をして、ひげが二いろまっ白な、せなかのまがった大将《たいしよう》が、尻尾《しつぽ》が箒《ほうき》のかたちになって、うしろにぴんとのびている白馬に乗《の》って先頭にたち、大きな剣《けん》を空にあげ、声高々と歌っている。
「北守将軍《ほくしゆしようぐん》ソンバーユーは
いま塞外《さいがい》の砂漠《さばく》から
やっとのことで戻《もど》ってきた。
勇《いさ》ましい凱旋《がいせん》だと云《い》いたいが
実《じつ》はすっかり参《まい》って来たのだ
とにかくあすこは寒《さむ》い処《ところ》さ。
三十年という黄いろなむかし
おれは十万の軍勢をひきい
この門をくぐって威張《いば》って行った。
それからどうだもう見るものは空ばかり
風は乾《かわ》いて砂《すな》を吹《ふ》き
雁《かり》さえ干《ほ》せてたびたび落《お》ちた
おれはその間馬でかけ通し
馬がつかれてたびたびペタンと座《すわ》り
涙《なみだ》をためてはじっと遠くの砂を見た。
その度《たび》ごとにおれは鎧《よろい》のかくしから
塩《しお》をすこうし取《と》り出して
馬に嘗《な》めさせては元気をつけた。
その馬も今では三十五歳《さい》
五里《り》かけるにも四時間かかる
それからおれはもう七十だ。
とても帰れまいと思っていたが
ありがたや敵《てき》が残《のこ》らず脚気《かつけ》で死《し》んだ
今年の夏はへんに湿気《しつき》が多かったでな。
それに脚気《かつけ》の原因《げんいん》が
あんまりこっちを追《お》いかけて
砂《すな》を走ったためなんだ
そうしてみればどうだやっぱり凱旋《がいせん》だろう。
殊《こと》にも一つほめられていいことは
十万人もでかけたものが
九万人迄《まで》戻《もど》って来た。
死《し》んだやつらは気《き》の毒《どく》だが
三十年の間には
たとえいくさに行かなくたって
一割《わり》ぐらいは死ぬんじゃないか。
そこでラユーのむかしのともよ
またこどもらよきょうだいよ
北守将軍《ほくしゆしようぐん》ソンバーユーと
その軍勢《ぐんぜい》が帰ったのだ
門をあけてもいいではないか。」
さあ城壁のこっちでは、湧《わ》きたつような騒動《そうどう》だ。うれしまぎれに泣《な》くものや、両手《りようて》をあげて走るもの、じぶんで門をあけようとして、番兵《ばんぺい》たちに叱《しか》られるもの、もちろん王のお宮《みや》へは使《つかい》が急《いそ》いで走って行き、城門《じようもん》の扉《と》はぴしゃんと開《あ》いた。おもての方の兵隊《へいたい》たちも、もううれしくて、馬にすがって泣いている。
顔から肩《かた》から灰《はい》いろの、北守将軍《ほくしゆしようぐん》ソンバーユーは、わざとくしゃくしゃ顔をしかめ、しずかに馬のたづなをとって、まっすぐを向《む》いて先登《せんとう》に立ち、それからラッパや太鼓《たいこ》の類《るい》、三角ばたのついた槍《やり》、まっ青に錆《さ》びた銅《どう》のほこ、それから白い矢をしょった、兵隊たちが入ってくる。馬は太鼓《たいこ》に歩調《ほちよう》を合せ、殊《こと》にもさきのソン将軍の白馬は、歩くたんびに膝《ひざ》がぎちぎち音がして、ちょうどひょうしをとるようだ。兵隊たちは軍歌《ぐんか》をうたう。
「みそかの晩《ばん》とついたちは
砂漠《さばく》に黒い月が立つ。
西と南の風の夜は
月は冬でもまっ赤だよ。
雁《がん》が高みを飛《と》ぶときは
敵《てき》が遠くへ遁《に》げるのだ。
追《お》おうと馬にまたがれば
にわかに雪がどしゃぶりだ。」
兵隊《へいたい》たちは進《すす》んで行った。九万の兵というものはただ見ただけでもぐったりする。
「雪の降《ふ》る日はひるまでも
そらはいちめんまっくらで
わずかに雁《がん》の行くみちが
ぼんやり白く見えるのだ。
砂《すな》がこごえて飛《と》んできて
枯《か》れたよもぎをひっこぬく。
抜《ぬ》けたよもぎは次々《つぎつぎ》と
都《みやこ》の方へ飛んで行く。」
みんなは、みちの両側《りようがわ》に、垣《かき》をきずいて、ぞろっとならび、泪《なみだ》を流《なが》してこれを見た。
かくて、バーユー将軍《しようぐん》が、三町ばかり進《すす》んで行って、町の広場についたとき、向《むこ》うのお宮《みや》の方角から、黄いろな旗《はた》がひらひらして、誰《たれ》かこっちへやってくる。これはたしかに知らせが行って、王から迎《むか》いが来たのである。
ソン将軍は馬をとめ、ひたいに高く手をかざし、よくよくそれを見きわめて、それから俄《にわか》に一礼《いちれい》し、急《いそ》いで、馬を降《お》りようとした。ところが馬を降りれない、もう将軍《しようぐん》の両足《りようあし》は、しっかり馬の鞍《くら》につき、鞍はこんどは、がっしりと馬の背中《せなか》にくっついて、もうどうしてもはなれない。さすが豪気《ごうぎ》の将軍も、すっかりあわてて赤くなり、口をびくびく横《よこ》に曲《ま》げ、一生けん命《めい》、はねおりようとするのだが、どうにもからだがうごかなかった。ああこれこそじつに将軍が、三十年も国境《こつきよう》の空気の乾《かわ》いた砂漠《さばく》のなかで、重《おも》いつとめを肩《かた》に負《お》い、一度《いちど》も馬を下りないために、馬とひとつになったのだ。おまけに砂漠のまん中で、どこにも草の生えるところがなかったために、多分はそれが将軍の顔を見付《みつ》けて生《は》えたのだろう。灰《はい》いろをしたふしぎなものがもう将軍の顔や手や、まるでいちめん生えていた。兵隊たちにも生えていた。そのうち使いの大臣《だいじん》は、だんだん近くやって来て、もうまっさきの大きな槍《やり》や、旗《はた》のしるしも見えて来た。
将軍、馬を下りなさい。王様《おうさま》からのお迎《むか》いです。将軍、馬を下りなさい。向うの列《れつ》で誰《だれ》か云《い》う。将軍はまた手をばたばたしたが、やっぱりからだがはなれない。
ところが迎いの大臣は、鮒《ふな》よりひどい近眼《きんがん》だった。わざと馬から下りないで、両手を振《ふ》って、みんなに何か命令《めいれい》してると考えた。
「謀叛《むほん》だな。よし。引き上げろ。」そう大臣はみんなに云った。そこで大臣一行は、くるっと馬を立て直し、黄いろな塵《ちり》をあげながら、一目散《いちもくさん》に戻って行く。ソン将軍はこれを見て肩《かた》をすぼめてため息《いき》をつき、しばらくぼんやりしていたが、俄にうしろを振《ふ》り向《む》いて、軍師《ぐんし》の長を呼《よ》び寄《よ》せた。
「おまえはすぐに鎧《よろい》を脱《ぬ》いで、おれの刀と弓《ゆみ》をもち、早くお宮《みや》へ行ってくれ、それから誰《だれ》かにこう云《い》うのだ。北守将軍《ほくしゆしようぐん》ソンバーユーは、あの国境《こつきよう》の砂漠《さばく》の上で、三十年のひるも夜も、馬から下りるひまがなく、とうとうからだが鞍《くら》につき、そのまま鞍が馬について、どうにもお前へ出られません。これからお医者《いしや》に行きまして、やがて参内《さんだい》いたします。こうていねいに云ってくれ。」
軍師の長はうなずいて、すばやく鎧と兜《かぶと》を脱ぎ、ソン将軍の刀をもって、一目散《いちもくさん》にかけて行く。ソン将軍はみんなに云った。
「全軍《ぜんぐん》しずかに馬をおり、兜をぬいで地に座《すわ》れ。ソン大将はただ今から、ちょっとお医者へ行ってくる。そのうち音をたてないで、じいっとやすんでいてくれい。わかったか。」
「わかりました。将軍。」兵隊共《へいたいども》は声をそろえて一度《いちど》に叫《さけ》ぶ。将軍はそれを手で制《せい》し、急いで馬に鞭《むち》うった。たびたびぺたんと砂漠に寝《ね》た、この有名《ゆうめい》な白馬は、ここで最後《さいご》の力を出し、がたがたがたがた鳴りながら、風より早くかけ出した。さて将軍は十町ばかり、夢中《むちゆう》で馬を走らせて、大きな坂《さか》の下に来た。それから俄にこう云った。
「上手《じょうず》な医者《いしや》はいったい誰《だれ》だ。」
一人の大工《だいく》が返事《へんじ》した。
「それはリンパー先生です。」
「そのリンパーはどこにいる。」
「すぐこの坂《さか》のま上です。あの三つある旗《はた》のうち、一番左でございます。」
「よろしい、しゅう。」と将軍は、例《れい》の白馬に一鞭《ひとむち》くれて、一気に坂をかけあがる。大工はあとでぶつぶつ云《い》った。
「何だ、あいつは野蛮《やばん》なやつだ。ひとからものを教わって、よろしい、しゅう、とはいったいなんだ。」ところがバーユー将軍《しようぐん》は、そんなことには構《かま》わない。そこらをうろうろあるいてから、病人《びようにん》たちをはね越《こ》えて、門の前まで上っていた。なるほど門のはしらには、小医《しょうい》リンパー先生と、金看板《きんかんばん》がかけてある。
三 リンパー先生
さてソンバーユー将軍は、いまやリンパー先生の、大玄関《だいげんかん》を乗《の》り切って、どしどし廊下《ろうか》へ入って行く。さすがはリンパー病院《びよういん》だ、どの天井《てんじよう》も室《へや》の扉《と》も、高さが二丈《じよう》ぐらいある。
「医者はどこかね。診《み》てもらいたい。」ソン将軍《しようぐん》は号令《ごうれい》した。
「あなたは一体何ですか。馬のまんまではいるとは、あんまり乱暴《らんぼう》すぎましょう。」萌黄《もえぎ》の長い服《ふく》を着《き》て、頭を剃《そ》った一人の弟子《でし》が、馬のくつわをつかまえた。
「おまえが医者のリンパーか、早くわが輩《はい》の病気《びようき》を診ろ。」
「いいえ、リンパー先生は、向《むこう》の室《へや》に居《い》られます。けれどもご用がおありなら、馬から下りていただきたい。」
「いいや、そいつができんのじゃ。馬からすぐに下りれたら、今ごろはもう王様《おうさま》の、前へ行ってたはずなんじゃ。」
「ははあ、馬から降《お》りられない。そいつは脚《あし》の硬直《こうちよく》だ。そんならいいです。おいでなさい。」
弟子は向うの扉《と》をあけた。ソン将軍はぱかぱかと馬を鳴らしてはいって行った。中には人がいっぱいで、そのまん中に先生らしい、小さな人が床几《しようぎ》に座《すわ》り、しきりに一人の眼《め》を診ている。
「ひとつこっちをたのむのじゃ。馬から降りられないでのう。」そう将軍はやさしく云《い》った。ところがリンパー先生は、見向きもしないし動《うご》きもしない。やっぱりじっと眼《め》を見ている。
「おい、きみ、早くこっちを見んか。」将軍《しようぐん》が怒鳴《どな》りだしたので、病人《びようにん》たちはびくっとした。ところが弟子《でし》がしずかに云った。
「診《み》るには番がありますからな。あなたは九十六番で、いまは六人目ですから、もう九十人お待《ま》ちなさい。」
「黙《だま》れ、きさまは我輩《わがはい》に、七十二人待てっと云うか。おれを誰《だれ》だと考える。北守《ほくしゆ》将軍ソンバーユーだ。九万人もの兵隊《へいたい》を、町の広場に待たせてある。おれが一人を待つことは七万二千の兵隊が、向《むこ》うの方で待つことだ。すぐ見ないならけちらすぞ。」将軍はもう鞭《むち》をあげ馬は一いきはねあがり、病人たちは泣《な》きだした。ところがリンパー先生は、やっぱりびくともしていない、てんでこっちを見もしない。その先生の右手から、黄の綾《あや》を着《き》た娘《むすめ》が立って、花瓶《かびん》にさした何かの花を、一枝《ひとえだ》とって水につけ、やさしく馬につきつけた。馬はぱくっとそれを噛《か》み、大きな息《いき》を一つして、ぺたんと四つ脚《あし》を折《お》り、今度《こんど》はごうごういびきをかいて、首を落《おと》してねむってしまう。ソン将軍はまごついた。
「あ、馬のやつ、また参《まい》ったな。困《こま》った。困った。困った。」と云って、急《いそ》いで鎧《よろい》のかくしから、塩《しお》の袋《ふくろ》をとりだして、馬に喰《た》べさせようとする。
「おい、起《お》きんかい。あんまり情《なさけ》けないやつだ。あんなにひどく難儀《なんぎ》して、やっと都《みやこ》に帰って来ると、すぐ気がゆるんで死《し》ぬなんて、ぜんたいどういう考《かんがえ》なのか。こら、起きんかい。起きんかい。しっ、ふう、どう、おい、この塩を、ほんの一口たべんかい。」それでも馬は、やっぱりぐうぐうねむっている。ソン将軍はとうとう泣《な》いた。
「おい、きみ、わしはとにかくに、馬だけどうかみてくれたまえ。こいつは北の国境《こつきよう》で、三十年もはたらいたのだ。」むすめはだまって笑《わら》っていたが、このときリンパー先生が、いきなりこっちを振《ふ》り向《む》いて、まるで将軍の胸底《むなそこ》から、馬の頭も見徹《みとお》すような、するどい眼《め》をしてしずかに云《い》った。
「馬はまもなく治《なお》ります。あなたの病気《びようき》をしらべるために、馬を座《すわ》らせただけです。あなたはそれで向《むこ》うの方で、何か病気をしましたか。」
「いいや、病気はしなかった。病気は別《べつ》にしなかったが、狐《きつね》のために欺《だま》されて、どうもときどき困《こま》ったじゃ。」
「それは、どういう風《ふう》ですか。」
「向うの狐はいかんのじゃ。十万近い軍勢《ぐんぜい》を、ただ一ぺんに欺すんじゃ。夜に沢山《たくさん》火をともしたり、昼間いきなり砂漠《さばく》の上に、大きな海をこしらえて、城《しろ》や何かも出したりする。全《まつた》くたちが悪《わる》いんじゃ。」
「それを狐《きつね》がしますのですか。」
「狐とそれから、砂鶻《さこつ*》じゃね、砂鶻というて鳥なんじゃ。こいつは人の居《お》らないときは、高い処《ところ》を飛《と》んでいて、誰《だれ》かを見ると試《ため》しに来る。馬のしっぽを抜《ぬ》いたりね。目をねらったりするもんで、こいつがでたらもう馬は、がたがたふるえてようあるかんね。」
「そんなら一ぺん欺《だま》されると、何日ぐらいでよくなりますか。」
「まあ四日《よつか》じゃね。五日《いつか》のときもあるようじゃ。」
「それであなたは今までに、何べんぐらい欺されました?」
「ごく少くて十ぺんじゃろう。」
「それではお尋《たず》ねいたします。百と百とを加《くわ》えると答えはいくらになりますか。」
「百八十じゃ。」
「それでは二百と二百では。」
「さよう、三百六十だろう。」
「そんならも一つ伺《うかが》いますが、十の二倍《ばい》は何ほどですか。」
「それはもちろん十八じゃ。」
「なるほど、すっかりわかりました。あなたは今でもまだ少し、砂漠《さばく》のためにつかれています。つまり十パーセントです。それではなおしてあげましょう。」
パー先生は両手《りようて》をふって、弟子《でし》にしたくを云《い》い付《つ》けた。弟子は大きな銅鉢《どうばち》に、何かの薬《くすり》をいっぱい盛《も》って、布巾《ふきん》を添《そ》えて持《も》って来た。ソン将軍《しようぐん》は両手を出して鉢をきちんと受《う》けとった。パー先生は片袖《かたそで》まくり、布巾に薬をいっぱいひたし、かぶとの上からざぶざぶかけて、両手でそれをゆすぶると、兜《かぶと》はすぐにすぱりととれた。弟子がも一人《ひとり》、もひとつ別の銅鉢へ、別の薬をもってきた。そこでリンパー先生は、別の薬でじゃぶじゃぶ洗《あら》う。雫《しずく》はまるでまっ黒だ。ソン将軍《しようぐん》は心配《しんぱい》そうに、うつむいたまま訊《き》いている。
「どうかね、馬は大丈夫《だいじようぶ》かね。」「もうじきです。」とパー先生は、つづけてじゃぶじゃぶ洗っている。雫がだんだん茶いろになって、それからうすい黄いろになった。それからとうとうもう色もなく、ソン将軍の白髪《はくはつ》は、熊《くま》より白く輝《かがや》いた。そこでリンパー先生は、布巾を捨《す》てて両手を洗い、弟子は頭と顔を拭《ふ》く。将軍はぶるっと身ぶるいして、馬にきちんと起《お》きあがる。
「どうです、せいせいしたでしょう。ところで百と百とをたすと、答えはいくらになりますか。」「もちろんそれは二百だろう。」「そんなら二百と二百とたせば。」「さよう、四百にちがいない。」「十の二倍《ばい》はどれだけですか。」「それはもちろん二十じゃな。」さっきのことは忘《わす》れた風《ふう》で、ソン将軍はけろりと云《い》う。
「すっかりおなおりになりました。つまり頭の目がふさがって、一割《わり》いけなかったのですな。」
「いやいや、わしは勘定《かんじよう》などの、十や二十はどうでもいいんじゃ。それは算師《さんし》がやるでのう。わしは早速《さっそく》この馬と、わしをはなしてもらいたいんじゃ。」
「なるほどそれはあなたの足を、あなたの服《ふく》と引きはなすのは、すぐ私《わたくし》に出来るです。いやもう離《はな》れているはずです。けれども、ずぼんが鞍《くら》につき、鞍がまた馬についたのを、はなすというのは別《べつ》ですな。それはとなりで、私の弟がやっていますから、そっちへおいでいただきます。それにいったいこの馬もひどい病気《びようき》にかかっています。」
「そんならわしの顔から生えた、このもじゃもじゃはどうじゃろう。」
「そちらもやっぱり向《むこ》うです。とにかくひとつとなりの方へ、弟子《でし》をお供《とも》に出しましょう。」
「それではそっちへ行くとしよう。ではさようなら。」さっきの白いきものをつけた、むすめが馬の右耳に、息《いき》を一つ吹《ふ》き込《こ》んだ。馬はがばっとはねあがり、ソン将軍は俄《にわか》に背《せい》が高くなる、将軍は馬のたづなをとり、弟子とならんで室《へや》を出る。それから庭《にわ》をよこぎって厚《あつ》い土塀《どべい》の前に来た。小さな潜《くぐ》りがあいている。
「いま裏門《うらもん》をあけさせましょう。」助手《じよしゆ》は潜《くぐ》りを入って行く。
「いいや、それには及《およ》ばない。わたしの馬はこれぐらい、まるでなんとも思ってやしない。」
将軍《しようぐん》は馬にむちをやる。
ぎっ、ばっ、ふう。馬は土塀《どべい》をはね越《こ》えて、となりのリンプー先生の、けしのはたけをめちゃくちゃに、踏《ふ》みつけながら立っていた。
四 馬医《ばい》リンプー先生
ソン将軍が、お医者《いしや》の弟子《でし》と、けしの畑《はたけ》をふみつけて向《むこ》うの方へ歩いて行くと、もうあっちからもこっちからも、ぶるるるふうというような、馬の仲間《なかま》の声がする。そして二人《ふたり》が正面《しようめん》の、巨《おお》きな棟《むね》にはいって行くと、もう四方から馬どもが、二十疋《ぴき》もかけて来て、蹄《ひづめ》をことこと鳴らしたり、頭をぶらぶらしたりして、将軍の馬に挨拶《あいさつ》する。
向うでリンプー先生は、首のまがった茶いろの馬に、白い薬《くすり》を塗《ぬ》っている。さっきの弟子が進《すす》んで行って、ちょっと何かをささやくと、馬医のリンプー先生は、わらってこっちをふりむいた。巨きな鉄《てつ》の胸甲《むなあて》を、がっしりはめていることは、ちょうどやっぱり鎧《よろい》のようだ。馬にけられぬためらしい。将軍《しようぐん》はすぐその前へ、じぶんの馬を乗《の》りつけた。
「あなたがリンプー先生か。わしは将軍ソンバーユーじゃ。何分ひとつたのみたい。」
「いや、その由《よし》を伺《うかが》いました。あなたのお馬はたしか三十九《(ママ)》ぐらいですな。」
「四捨《しや》五入して、そうじゃ、やっぱり三十九じゃな。」
「ははあ、ただいま手術《しゆじゆつ》いたします。あなたは馬の上に居《い》て、すこし煙《けむ》いかしれません。それをご承知《しようち》くださいますか。」
「煙い? なんのどうして煙《けむ》ぐらい、砂漠《さばく》で風の吹《ふ》くときは、一分間に四十五以上《いじよう》、馬を跳躍《ちようやく》させるんじゃ。それを三つも、やすんだら、もう頭まで埋《う》まるんじゃ。」
「ははあ、それではやりましょう。おい、フーシュ。」プー先生は弟子《でし》を呼《よ》ぶ。弟子はおじぎを一つして、小さな壺《つぼ》をもって来た。プー先生は蓋《ふた》をとり、何か茶いろな薬《くすり》を出して、馬の眼《まなこ》に塗《ぬ》りつけた。それから、「フーシュ。」とまた呼んだ。弟子はおじぎを一つして、となりの室《へや》へ入って行って、しばらくごとごとしていたが、まもなく赤い小さな餠《もち》を、皿《さら》にのっけて帰って来た。先生はそれをつまみあげ、しばらく指《ゆび》ではさんだり、匂《にお》いをかいだりしていたが、何か決心《けつしん》したらしく、馬にぱくりと喰《た》べさせた。ソン将軍は、その白馬《しろうま》の上に居て、待《ま》ちくたびれてあくびをした。すると俄《にわか》に白馬は、がたがたがたがたふるえ出しそれからからだ一面《いちめん》に、あせとけむりを噴《ふ》き出した。プー先生はこわそうに、遠くへ行ってながめている。がたがたがたがた鳴りながら、馬はけむりをつづけて噴いた。そのまた煙《けむり》が無暗《むやみ》に辛《から》い。ソン将軍《しようぐん》も、はじめは我慢《がまん》していたが、とうとう両手《りようて》を眼《め》にあてて、ごほんごほんとせきをした。そのうちだんだんけむりは消《き》えてこんどは、汗《あせ》が滝《たき》よりひどくながれだす。プー先生は近くへよって、両手をちょっと鞍《くら》にあて、二っつばかりゆすぶった。
たちまち鞍はすぱりとはなれ、はずみを食った将軍は床《ゆか》にすとんと落《おと》された。ところがさすが将軍だ。いつかきちんと立っている。おまけに鞍と将軍も、もうすっかりとはなれていて、将軍はまがった両足を、両手でぱしゃぱしゃ叩《たた》いたし、馬は俄に荷《に》がなくなって、さも見当がつかないらしく、せなかをゆらゆらゆすぶった。するとバーユー将軍は、こんどは馬のほうきのようなしっぽを持《も》って、いきなりぐっと引っ張《ぱ》った。すると何やらまっ白な、尾《お》の形した塊《かたまり》が、ごとりと床《ゆか》にころがり落ちた。馬はいかにも軽《かる》そうに、いまは全《まつた》く毛《け》だけになったしっぽを、ふさふさ振《ふ》っている。弟子が三人集《あつま》って、馬のからだをすっかりふいた。
「もういいだろう。歩いてごらん。」馬はしずかに歩きだす。あんなにぎちぎち軋《きし》んだ膝《ひざ》が、いまではすっかり鳴らなくなった。プー先生は手をあげて、馬をこっちへ呼《よ》び戻《もど》し、おじぎを一つ将軍《しようぐん》にした。
「いや謝《しゃ》しますじゃ。それではこれで。」将軍は、急《いそ》いで馬に鞍《くら》を置《お》き、ひらりとそれにまたがれば、そこらあたりの病気《びようき》の馬は、ひんひん別《わか》れの挨拶《あいさつ》をする。ソン将軍は室《へや》を出て、塀《へい》をひらりと飛《と》び越《こ》えて、となりのリンポー先生の、菊《きく》のはたけに飛び込《こ》んだ。
五 リンポー先生
さてもリンポー先生の、草木を治《なお》すその室《へや》は、林のようなものだった。あらゆる種類《しゆるい》の木や花が、そこらいっぱいならべてあって、どれにもみんな金《きん》だの銀《ぎん》の、巨《おお》きな札《ふだ》がついている。そこを、バーユー将軍は、馬から下りて、ゆっくりと、ポー先生の前へ行く。さっきの弟子《でし》がさきまわりして、すっかり談《はな》していたらしく、ポー先生は薬《くすり》の函《はこ》と大《おお》きな赤い団扇《うちわ》をもって、ごくうやうやしく待《ま》っていた。ソン将軍は手をあげて、
「これじゃ。」と顔を指さした。ポー先生は黄いろな粉《こな》を、薬函から取《と》り出して、ソン将軍の顔から肩《かた》へ、もういっぱいにふりかけて、それから例《れい》のうちわをもって、ばたばたばたばた扇《あお》ぎ出す。するとたちまち、将軍《しようぐん》の、顔じゅうの毛《け》はまっ赤に変《かわ》り、みんなふわふわ飛《と》び出して、見ているうちに将軍は、すっかり顔がつるつるなった。じつにこのとき将軍は、三十年ぶりにっこりした。
「それではこれで行きますじゃ。からだもかるくなったでのう。」もう将軍はうれしくて、はやてのように室《へや》を出て、おもての馬に飛び乗《の》れば、馬はたちまち病院《びよういん》の、巨《おお》きな門を外に出た。あとから弟子《でし》が六人で、兵隊《へいたい》たちの顔から生えた灰《はい》いろの毛をとるために、薬《くすり》の袋《ふくろ》とうちわをもって、ソン将軍を追《お》いかけた。
六 北守《ほくしゆ》将軍仙人《せんにん》となる
さてソンバーユー将軍は、ポー先生の玄関《げんかん》を、光のように飛び出して、となりのリンプー病院《びよういん》を、はやてのごとく通り過《す》ぎ、次のリンパー病院を、斜《なな》めに見ながらもう一散《いつさん》に、さっきの坂《さか》をかけ下りる。馬は五倍《ばい》も速《はや》いので、もう向《むこ》うには兵隊《へいたい》たちの、やすんでいるのが見えてきた。兵隊たちは心配《しんぱい》そうにこっちの方を見ていたのだが、思わず歓呼《かんこ》の声をあげ、みんな一緒《いつしよ》に立ちあがる。そのときお宮《みや》の方からはさっきの使《つか》いの軍師《ぐんし》の長が一目散《いちもくさん》にかけて来た。
「ああ、王様《おうさま》は、すっかりおわかりなりました。あなたのことをおききになって、おん涙《なみだ》さえ浮《うか》べられ、お出《い》でをお待《ま》ちでございます。」そこへさっきの弟子《でし》たちが、薬《くすり》をもってやってきた。兵隊《へいたい》たちはよろこんで、粉《こな》をふってはばたばた扇《あお》ぐ。そこで九万の軍隊《ぐんたい》は、もう輪郭《りんかく》もはっきりなった。
将軍《しようぐん》は高く号令《ごうれい》した。「馬にまたがり、気をつけいっ。」みんなが馬にまたがれば、まもなくそこらはしんとして、たった二疋《ひき》の遅《おく》れた馬が、鼻《はな》をぶるっと鳴らしただけだ。
「前へ進めっ。」太鼓《たいこ》も銅鑼《どら》も鳴り出して、軍は粛々《しゆくしゆく》行進した。
やがて九万の兵隊は、お宮《みや》の前の一里の庭《にわ》に縦横《じゅうおう》ちょうど三百人、四角な陣《じん》をこしらえた。
ソン将軍は馬を降《お》り、しずかに壇《だん》をのぼって行って床《ゆか》に額《ひたい》をすりつけた。王はしずかに斯《こ》ういった。
「じつに永《なが》らくご苦労《くろう》だった。これからはもうここに居《い》て、大将《たいしよう》たちの大将として、なお忠勤《ちゆうきん》をはげんでくれ。」
北守将軍《ほくしゆしようぐん》ソンバーユーは、涙《なみだ》を垂《た》れてお答えした。
「おことばまことに畏《かしこ》くて、何とお答えいたしていいか、とみに言葉《ことば》も出でませぬ。とは云《い》えいまや私《わたくし》は、生きた骨《ほね》ともいうような、役《やく》に立たずでございます。砂漠《さばく》の中に居《い》ました間、どこから敵《てき》が見ているか、あなどられまいと考えて、いつでもりんと胸《むね》を張《は》り、眼《め》を見開《みひら》いておりましたのが、いま王様《おうさま》のお前に出て、おほめの詞《ことば》をいただきますと、俄《にわか》に眼さえ見えぬよう。背骨《せぼね》も曲《まが》ってしまいます。何卒《なにとぞ》これでお暇《ひま》を願《ねが》い、郷里《きようり》に帰りとうございます。」
「それでは誰《だれ》かおまえの代《かわ》り、大将五人の名を挙《あ》げよ。」
そこでバーユー将軍《しようぐん》は、大将四人の名をあげた。そして残《のこ》りの一人《ひとり》の代り、リン兄弟の三人を国のお医者《いしや》におねがいした。王は早速《さつそく》許《ゆる》されたので、その場でバーユー将軍は、鎧《よろい》もぬげば兜《かぶと》もぬいで、かさかさ薄《うす》い麻《あさ》を着《き》た。そしてじぶんの生れた村のス山の麓《ふもと》へ帰って行って、粟《あわ》をすこうし播《ま》いたりした。それから粟の間引きもやった。けれどもそのうち将軍は、だんだんものを食わなくなってせっかくじぶんで播いたりした、粟も一口たべただけ、水をがぶがぶ呑《の》んでいた。ところが秋の終《おわ》りになると、水もさっぱり呑まなくなって、ときどき空を見上げては何かしゃっくりするようなきたいな形をたびたびした。
そのうちいつか将軍は、どこにも形が見えなくなった。そこでみんなは将軍さまは、もう仙人《せんにん》になったと云って、ス山の山のいただきへ小さなお堂《どう》をこしらえて、あの白馬は神馬《しんば》に祭《まつ》り、あかしや粟《あわ》をささげたり、麻《あさ》ののぼりをたてたりした。
けれどもこのとき国手《こくしゆ》になった例《れい》のリンパー先生は、会う人ごとに斯《こ》ういった。
「どうして、バーユー将軍《しようぐん》が、雲だけ食ったはずはない。おれはバーユー将軍の、からだをよくみて知っている。肺《はい》と胃《い》の腑《ふ》は同じでない。きっとどこかの林の中に、お骨《こつ》があるにちがいない。」なるほどそうかもしれないと思った人もたくさんあった。
グスコーブドリの伝記《でんき》
一 森
グスコーブドリは、イーハトーブの大きな森のなかに生れました。お父さんは、グスコーナドリという名高い木樵《きこ》りで、どんな巨《おお》きな木でも、まるで赤ん坊《ぼう》を寝《ね》かしつけるように訳《わけ》なく伐《き》ってしまう人でした。
ブドリにはネリ《*》という妹があって、二人《ふたり》は毎日森で遊《あそ》びました。ごしっごしっとお父さんの樹《き》を鋸《ひ》く音が、やっと聴《きこ》えるくらいな遠くへも行きました。二人はそこで木苺《きいちご》の実《み》をとって湧水《わきみず》に漬《つ》けたり、空を向いてかわるがわる山鳩《やまばと》の啼《な》くまねをしたりしました。するとあちらでもこちらでも、ぽう、ぽう、と鳥が睡《ねむ》そうに鳴き出すのでした。
お母さんが、家の前の小さな畑《はたけ》に麦《むぎ》を播《ま》いているときは、二人はみちにむしろをしいて座《すわ》って、ブリキ缶《かん》で蘭《らん》の花を煮《に》たりしました。するとこんどは、もういろいろの鳥が、二人のぱさぱさした頭の上を、まるで挨拶《あいさつ》するように啼《な》きながらざあざあざあざあ通りすぎるのでした。
ブドリが学校へ行くようになりますと、森はひるの間大へんさびしくなりました。そのかわりひるすぎには、ブドリはネリといっしょに、森じゅうの樹《き》の幹《みき》に、赤い粘土《ねんど》や消《け》し炭《ずみ》で、樹の名を書いてあるいたり、高く歌ったりしました。
ホップの蔓《つる》が、両方《りようほう》からのびて、門のようになっている白樺《しらかば》の樹には、
「カッコウドリ、トオルベカラズ」と書いたりもしました。
そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変《へん》に白くて、いつもなら雪がとけると間もなく、まっしろな花をつけるこぶし《*》の樹もまるで咲《さ》かず、五月になってもたびたび霙《みぞれ》がぐしゃぐしゃ降《ふ》り、七月の末になっても一向《いつこう》に暑さが来ないために去年《きよねん》播《ま》いた麦《むぎ》も粒《つぶ》の入らない白い穂《ほ》しかできず、大抵《たいてい》の果物《くだもの》も、花が咲いただけで落《お》ちてしまったのでした。
そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗《くり》の木は青いからのいがばかりでしたし、みんなでふだんたべるいちばん大切なオリザ《*》という穀物《こくもつ》も、一つぶもできませんでした。野原ではもうひどいさわぎになってしまいました。
ブドリのお父さんもお母さんも、たびたび薪《たきぎ》を野原の方へ持《も》って行ったり、冬になってからは何べんも巨《おお》きな樹《き》を町へそりで運《はこ》んだりしたのでしたが、いつもがっかりしたようにして、わずかの麦の粉《こ》などもって帰ってくるのでした。それでもどうにかその冬は過《す》ぎて次の春になり、畑《はたけ》には大切にしまっておいた種子《たね》も播《ま》かれましたが、その年もまたすっかり前の年の通りでした。そして秋になると、とうとうほんとうの饑饉《ききん》になってしまいました。もうそのころは学校へ来るこどももまるでありませんでした。ブドリのお父さんもお母さんも、すっかり仕事《しごと》をやめていました。そしてたびたび心配《しんぱい》そうに相談《そうだん》しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍《きび》の粒《つぶ》など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪《わる》くして帰ってくることもありました。そしてみんなは、こならの実や、葛《くず》やわらびの根や、木の柔《やわ》らかな皮やいろんなものをたべて、その冬をすごしました。けれども春が来たころは、お父さんもお母さんも、何かひどい病気《びようき》のようでした。
ある日お父さんは、じっと頭をかかえて、いつまでもいつまでも考えていましたが、俄《にわ》かに起《お》きあがって、
「おれは森へ行って遊《あそ》んでくるぞ。」と云《い》いながら、よろよろ家を出て行きましたが、まっくらになっても帰って来ませんでした。二人《ふたり》がお母さんにお父さんはどうしたろうときいても、お母さんはだまって二人の顔を見ているばかりでした。
次の日の晩方《ばんかた》になって、森がもう黒く見えるころ、お母さんは俄《にわ》かに立って、炉《ろ》に榾《ほだ*》をたくさんくべて家《うち》じゅうすっかり明るくしました。それから、わたしはお父さんをさがしに行くから、お前たちはうちに居《い》てあの戸棚《とだな》にある粉《こな》を二人《ふたり》ですこしずつたべなさいと云《い》って、やっぱりよろよろ家を出て行きました。二人が泣《な》いてあとから追《お》って行きますと、お母さんはふり向《む》いて、「何たらいうことをきかないこどもらだ。」と叱《しか》るように云いました。そしてまるで足早に、つまずきながら森へ入ってしまいました。二人は何べんも行ったり来たりして、そこらを泣いて廻《まわ》りました。とうとうこらえ切れなくなって、まっくらな森の中へはいって、いつかのホップの門のあたりや、湧水《わきみず》のあるあたりをあちこちうろうろ歩きながら、お母さんを一晩《ひとばん》呼《よ》びました。森の樹《き》の間からは、星がちらちら何か云うようにひかり、鳥はたびたびおどろいたように暗《やみ》の中を飛《と》びましたけれども、どこからも人の声はしませんでした。とうとう二人はぼんやり家へ帰って中へはいりますと、まるで死《し》んだように睡《ねむ》ってしまいました。
ブドリが眼《め》をさましましたのは、その日のひるすぎでした。お母さんの云った粉のことを思いだして戸棚を開《あ》けてみますと、なかには、袋《ふくろ》に入れたそば粉やこならの実《み》がまだたくさん入っていました。ブドリはネリをゆり起《おこ》して二人でその粉をなめ、お父さんたちがいたときのように炉《ろ》に火をたきました。
それから、二十日ばかりぼんやり過《す》ぎましたら、ある日戸口で、
「今日《こんにち》は、誰《たれ》か居《い》るかね。」と言うものがありました。お父さんが帰って来たのかと思ってブドリがはね出して見ますと、それは籠《かご》をしょった目の鋭《するど》い男でした。その男は籠の中から円《まる》い餠《もち》をとり出してぽんと投《な》げながら言いました。
「私《わたし》はこの地方の飢饉《ききん》を救《たす》けに来たものだ。さあなんでも喰《た》べなさい。」二人はしばらく呆《あき》れていましたら、「さあた喰べるんだ、食べるんだ。」とまた云《い》いました。二人がこわごわたべはじめますと、男はじっと見ていましたが、
「お前たちはいい子供《こども》だ。けれどもいい子供だというだけでは何にもならん。わしと一緒《いつしよ》についておいで。尤《もつと》も男の子は強いし、わしも二人はつれて行けない。おい女の子、おまえはここにいても、もうたべるものがないんだ。おじさんと一緒《いつしよ》に町へ行こう。毎日パンを食べさしてやるよ。」そしてぷいっとネリを抱《だ》きあげて、せなかの籠へ入れて、そのまま、「おおほいほい。おおほいほい。」とどなりながら、風のように家《うち》を出て行きました。ネリはおもてではじめてわっと泣《な》き出し、ブドリは、「どろぼう、どろぼう。」と泣きながら叫《さけ》んで追《お》いかけましたが、男はもう森の横《よこ》を通ってずうっと向《むこ》うの草原《くさはら》を走っていて、そこからネリの泣き声が、かすかにふるえて聞えるだけでした。
ブドリは、泣いてどなって森のはずれまで追《お》いかけて行きましたが、とうとう疲《つか》れてばったり倒《たお》れてしまいました。
二 てぐす《*》工場
ブドリがふっと眼《め》をひらいたとき、いきなり頭の上で、いやに平《ひら》べったい声がしました。
「やっと眼がさめたな。まだお前は飢饉《ききん》のつもりかい。起《お》きておれに手伝《てつだ》わないか。」見るとそれは茶いろなきのこしゃっぽをかぶって外套《がいとう》にすぐシャツを着《き》た男で、何か針金《はりがね》でこさえたものをぶらぶら持《も》っているのでした。
「もう飢饉は過《す》ぎたの? 手伝いって何を手伝うの?」ブドリがききました。
「網掛《あみか》けさ。」「ここへ網を掛けるの?」「掛けるのさ。」「網をかけて何にするの?」「てぐすを飼《か》うのさ。」見るとすぐブドリの前の栗《くり》の木に、二人《ふたり》の男がはしごをかけてのぼっていて一生けん命《めい》何か網を投《な》げたり、それを繰《く》ったりしているようでしたが、網も糸も一向《いつこう》見えませんでした。
「あれでてぐすが飼《か》えるの?」
「飼えるのさ。うるさいこどもだな。おい。縁起《えんぎ》でもないぞ。てぐすも飼えないところにどうして工場なんか建《た》てるんだ。飼えるともさ。現《げん》におれはじめ沢山《たくさん》のものが、それでくらしを立てているんだ。」ブドリはかすれた声で、やっと、「そうですか」と云《い》いました。
「それにこの森は、すっかりおれが買ってあるんだから、ここで手伝《てつだ》うならいいが、そうでもなければどこかへ行ってもらいたいな。もっともお前はどこへ行ったって食うものもなかろうぜ。」ブドリは泣《な》き出しそうになりましたが、やっとこらえて云いました。
「そんなら手伝うよ。けれどもどうして網《あみ》をかけるの?」
「それは勿論《もちろん》教えてやる。こいつをね。」男は手にもった針金《はりがね》の籠《かご》のようなものを両手《りようて》で引き伸《の》ばしました。「いいか。こういう工合《ぐあい》にやるとはしごになるんだ。」
男は大股《おおまた》に右手の栗《くり》の木に歩いて行って、下の枝《えだ》に引っ掛《か》けました。
「さあ、今度《こんど》はおまえが、この網をもって上へのぼって行くんだ。さあ、のぼってごらん。」
男は変《へん》なまりのようなものをブドリに渡《わた》しました。ブドリは仕方《しかた》なくそれをもってはしごにとりついて登って行きましたが、はしごの段々《だんだん》がまるで細くて手や足に喰《く》いこんでちぎれてしまいそうでした。「もっと登るんだ。もっと。もっとさ。そしたらさっきのまりを投《な》げてごらん。栗《くり》の木を越《こ》すようにさ。そいつを空に投げるんだよ。なんだい。ふるえてるのかい。意気地《いくじ》なしだなあ。投げるんだよ。投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」ブドリは仕方《しかた》なく力一杯《いつぱい》それを青空に投げたと思いましたら俄《にわ》かにお日さまがまっ黒に見えて逆《さか》さまに下へ落《お》ちました。そしていつか、その男に受《う》けとめられていたのでした。男はブドリを地面《じめん》におろしながらぶりぶり憤《おこ》りだしました。
「お前もいくじのないやつだ。何というふにゃふにゃだ。俺《おれ》が受け止めてやらなかったらお前は今ごろは頭がはじけていたろう。おれはお前の命《いのち》の恩人《おんじん》だぞ。これからは、失礼《しつれい》なことを云《い》ってはならん。ところで、さあ、こんどはあっちの木へ登れ。も少したったらごはんもたべさせてやるよ。」
男はまたブドリへ新しいまりを渡《わた》しました。ブドリははしごをもって次《つぎ》の樹《き》へ行ってまりを投げました。
「よし、なかなか上手《じようず》になった。さあまりは沢山《たくさん》あるぞ。なまけるな。樹も栗《くり》の木ならどれでもいいんだ。」
男はポケットから、まりを十ばかり出してブドリに渡すと、すたすた向《むこ》うへ行ってしまいました。ブドリはまた三つばかりそれを投げましたが、どうしても息《いき》がはあはあしてからだがだるくてたまらなくなりました。もう家《うち》へ帰ろうと思って、そっちへ行ってみますと愕《おどろ》いたことには、家にはいつか赤い土管《どかん》の煙突《えんとつ》がついて、戸口には「イーハトーブてぐす工場」という看板《かんばん》がかかっているのでした。そして中からたばこをふかしながら、さっきの男が出て来ました。
「さあこども、たべものをもってきてやったぞ。これを食べて暗《くら》くならないうちにもう少し稼《かせ》ぐんだ。」「ぼくはもういやだよ。うちへ帰るよ。」「うちっていうのはあすこか。あすこはおまえのうちじゃない。おれのてぐす工場だよ。あの家もこの辺《へん》の森もみんなおれが買ってあるんだからな。」ブドリはもうやけになって、だまってその男のよこした蒸《む》しパンをむしゃむしゃたべて、またまりを十ばかり投《な》げました。
その晩《ばん》ブドリは、昔《むかし》のじぶんのうち、いまはてぐす工場になっている建物《たてもの》の隅《すみ》に、小さくなってねむりました。さっきの男は、三、四人の知らない人たちと遅《おそ》くまで炉《ろ》ばたで火をたいて、何か呑《の》んだりしゃべったりして居《い》ました。次《つぎ》の朝早くから、ブドリは森に出て、昨日《きのう》のようにはたらきました。
それから一月ばかりたって、森じゅうの栗《くり》の木に網《あみ》がかかってしまいますと、てぐす飼《か》いの男は、こんどは粟《あわ》のようなものがいっぱいついた板《いた》きれを、どの木にも五、六枚《まい》ずつ吊《つる》させました。そのうちに木は芽《め》を出して森はまっ青になりました。すると、樹につるした板《いた》きれから、たくさんの小さな青じろい虫が、糸をつたわって列《れつ》になって枝《えだ》へ這《は》いあがって行きました。ブドリたちはこんどは毎日薪《たきぎ》とりをさせられました。その薪が、家《うち》のまわりに小山のように積《つ》み重《かさ》なり、栗《くり》の木が青じろい紐《ひも》のかたちの花を枝いちめんにつけるころになりますと、あの板から這いあがって行った虫も、ちょうど栗の花のような色とかたちになりました。そして森じゅうの栗の葉《は》は、まるで形もなくその虫に食い荒《あ》らされてしまいました。それから間もなく虫は、大きな黄いろな繭《まゆ》を、網《あみ》の目ごとにかけはじめました。
するとてぐす飼《か》いの男は、狂気《きようき》のようになって、ブドリたちを叱《しか》りとばして、その繭を籠《かご》に集《あつ》めさせました。それをこんどは片《かた》っぱしから鍋《なべ》に入れてぐらぐら煮《に》て、手で車をまわしながら糸をとりました。夜も昼もがらがらがらがら三つの糸車をまわして糸をとりました。こうしてこしらえた黄いろな糸が小屋《こや》に半分ばかりたまったころ、外に置《お》いた繭からは、大きな白い蛾《が》がぽろぽろぽろぽろ飛《と》びだしはじめました。てぐす飼いの男は、まるで鬼《おに》みたいな顔つきになって、じぶんも一生けん命《めい》糸をとりましたし、野原の方からも四人人を連《つ》れてきて働《はたら》かせました。けれども蛾の方は日ましに多く出るようになって、しまいには森じゅうまるで雪でも飛んでいるようになりました。するとある日、六、七台の荷馬車《にばしや》が来て、いままでにできた糸をみんなつけて、町の方へ帰りはじめました。みんなも一人ずつ荷馬車《にばしや》について行きました。いちばんしまいの荷馬車がたつとき、てぐす飼《か》いの男が、ブドリに、
「おい、お前の来春《らいはる》まで食うくらいのものは家《うち》の中に置《お》いてやるからな、それまでここで森と工場の番をしているんだぞ。」
と云《い》って変《へん》ににやにやしながら、荷馬車についてさっさと行ってしまいました。
ブドリはぼんやりあとへ残《のこ》りました。うちの中はまるで汚《きたな》くて、嵐《あらし》のあとのようでしたし森は荒《あ》れはてて山火事にでもあったようでした。ブドリが次《つぎ》の日、家のなかやまわりを片附《かたづ》けはじめましたらてぐす飼いの男がいつも座《すわ》っていた所《ところ》から古いボール紙の函《はこ》を見附《みつ》けました。中には十冊《さつ》ばかりの本がぎっしり入《はい》って居《お》りました。開《ひら》いてみると、てぐすの絵や機械《きかい》の図がたくさんある、まるで読めない本もありましたし、いろいろな樹《き》や草の図と名前の書いてあるものもありました。
ブドリは一生けん命《めい》その本のまねをして字を書いたり図をうつしたりしてその冬を暮《くら》しました。
春になりますとまたあの男が六、七人のあたらしい手下を連《つ》れて、たいへん立派《りつぱ》ななりをしてやって来ました。そして次の日からすっかり去年《きよねん》のような仕事《しごと》がはじまりました。
そして網《あみ》はみんなかかり、黄いろな板《いた》もつるされ、虫は枝《えだ》に這《は》い上り、ブドリたちはまた、薪作《たきぎつく》りにかかるころになりました。ある朝、ブドリたちが薪をつくっていましたら俄《にわ》かにぐらぐらっと地震《じしん》がはじまりました。それからずうっと遠くでどーんという音がしました。
しばらくたつと日が変《へん》にくらくなり、こまかな灰《はい》がばさばさばさばさ降《ふ》って来て、森はいちめんにまっ白になりました。ブドリたちが呆《あき》れて樹《き》の下にしゃがんでいましたら、てぐす飼《か》いの男が大へんあわててやって来ました。
「おい、みんな、もうだめだぞ。噴火《ふんか》だ。噴火がはじまったんだ。てぐすはみんな灰をかぶって死《し》んでしまった。みんな早く引き揚《あ》げてくれ。おい、ブドリ。お前ここに居《い》たかったら居てもいいが、こんどはたべ物《もの》を置《お》いてやらないぞ。それにここに居ても危《あぶな》いからなお前も野原へ出て何か稼《かせ》ぐ方がいいぜ。」そう云《い》ったかと思うと、もうどんどん走って行ってしまいました。ブドリが工場へ行ってみたときはもう誰《たれ》も居《お》りませんでした。そこでブドリは、しょんぼりとみんなの足痕《あしあと》のついた白い灰をふんで野原の方へ出て行きました。
三 沼《ぬま》ばたけ
ブドリは、いっぱいに灰《はい》をかぶった森の間を、町の方へ半日歩きつづけました。灰は風の吹《ふ》くたびに樹《き》からばさばさ落《お》ちて、まるでけむりか吹雪《ふぶき》のようでした。けれどもそれは野原へ近づくほど、だんだん浅《あさ》く少くなって、ついには樹も緑《みどり》に見え、みちの足痕《あしあと》も見えないくらいになりました。
とうとう森を出切ったとき、ブドリは思わず眼《め》をみはりました。野原は眼の前から、遠くのまっしろな雲まで、美しい桃《もも》いろと緑と灰いろのカードでできているようでした。そばへ寄《よ》ってみると、その桃いろなのには、いちめんにせいの低《ひく》い花が咲《さ》いていて、蜜蜂《みつばち》がいそがしく花から花をわたってあるいていましたし、緑いろなのには小さな穂《ほ》を出して草がぎっしり生え、灰いろなのは浅い泥《どろ》の沼でした。そしてどれも、低い幅《はば》のせまい土手でくぎられ、人は馬を使《つか》ってそれを掘《ほ》り起《おこ》したり掻《か》き廻《まわ》したりしてはたらいていました。
ブドリがその間を、しばらく歩いて行きますと、道のまん中に、二人《ふたり》の人が、大声で何か喧嘩《けんか》でもするように云《い》い合っていました。右側《みぎがわ》の方の鬚《ひげ》の赭《あか》い人が云いました。
「何でもかんでも、おれは山師張《やましば》るときめた。」するとも一人《ひとり》の白い笠《かさ》をかぶったせいの高いおじいさんがいいました。
「やめろって云《い》ったらやめるもんだ。そんなに肥料《こやし》うんと入れて、藁《わら》はとれるったって、実《み》は一粒《ひとつぶ》もとれるもんでない。」
「うんにゃ、おれの見込《みこ》みでは、今年《ことし》は今までの三年分暑《あつ》いに相違《そうい》ない。一年で三年分とってみせる。」
「やめろ。やめろ、やめろったら。」
「うんにゃ、やめない。花はみんな埋《うず》めてしまったから、こんどは豆玉《まめたま》を六十枚《まい》入れてそれから鶏《とり》の糞《かえし》、百駄《だん》入れるんだ。急《いそ》がしったら何のこう忙《いそが》しくなれば、ささげの蔓《つる*》でもいいから手伝《てつだ》いに頼《たの》みたいもんだ。」
ブドリは思わず近寄《ちかよ》っておじぎをしました。「そんならぼくを使《つか》ってくれませんか。」
すると二人は、ぎょっとしたように顔をあげて、あごに手をあててしばらくブドリを見ていましたが、赤鬚《あかひげ》が俄《にわ》かに笑《わら》い出しました。
「よしよし、お前に馬の指竿《させ》とり《*》を頼むからな。すぐおれについて行くんだ。それではまず、のるかそるか、秋まで見ててくれ。さあ行こう。ほんとに、 ささげの蔓でもいいから頼《たの》みたい時でな。」赤鬚《あかひげ》は、ブドリとおじいさんに交《かわ》る交《がわ》る云《い》いながら、さっさと先に立って歩きました。あとではおじいさんが、
「年寄《としよ》りの云うこと聞かないで、いまに泣《な》くんだな。」とつぶやきながら、しばらくこっちを見送《みおく》っているようすでした。
それからブドリは、毎日毎日沼《ぬま》ばたけへ入って馬を使《つか》って泥《どろ》を掻《か》き廻《まわ》しました。一日ごとに桃《もも》いろのカードも緑《みどり》のカードもだんだん潰《つぶ》されて、泥沼《どろぬま》に変《かわ》るのでした。馬はたびたびぴしゃっと泥水をはねあげて、みんなの顔へ打《う》ちつけました。一つの沼ばたけがすめばすぐ次《つぎ》の沼ばたけへ入るのでした。一日がとても永《なが》くて、しまいには歩いているのかどうかわからなくなったり、泥が飴《あめ》のような、水がスープのような気がしたりするのでした。風が何べんも吹《ふ》いて来て近くの泥水に魚の鱗《うろこ》のような波《なみ》をたて、遠くの水をブリキいろにして行きました。そらでは、毎日甘《あま》くすっぱいような雲が、ゆっくりゆっくりながれていて、それがじつにうらやましそうに見えました。こうして二十日《はつか》ばかりたちますと、やっと沼ばたけはすっかりどろどろになりました。次の朝から主人《しゆじん》はまるで気が立って、あちこちから集《あつ》まって来た人たちといっしょに、その沼ばたけに緑いろの槍《やり》のようなオリザの苗《なえ》をいちめん植《う》えました。それが十日《とおか》ばかりで済《す》むと、今度はブドリたちを連《つ》れて、今まで手伝《てつだ》ってもらった人たちの家《うち》へ毎日働《はたら》きにでかけました。それもやっと一まわり済《す》むと、こんどはまたじぶんの沼《ぬま》ばたけへ戻《もど》って来て、毎日毎日草取《くさと》りをはじめました。ブドリの主人の苗《なえ》は大きくなってまるで黒いくらいなのに、となりの沼ばたけはぼんやりしたうすい緑《みどり》いろでしたから、遠くから見ても、二人《ふたり》の沼ばたけははっきり堺《さかい》まで見わかりました。七日ばかりで草取りが済むとまたほかへ手伝《てつだ》いに行きました。ところがある朝、主人はブドリを連れて、じぶんの沼ばたけを通りながら、俄《にわ》かに、「あっ」と叫《さけ》んで棒立《ぼうだ》ちになってしまいました。見ると唇《くちびる》のいろまで水いろになって、ぼんやりまっすぐ見つめているのです。「病気《びようき》が出たんだ。」主人がやっと云《い》いました。「頭でも痛《いた》いんですか。」ブドリはききました。「おれでないよ。オリザよ。それ。」主人は前のオリザの株《かぶ》を指《ゆび》さしました。ブドリはしゃがんでしらべてみますと、なるほどどの葉《は》にも、いままで見たことのない赤い点々がついていました。主人はだまってしおしおと沼ばたけを一まわりしましたが、家《うち》へ帰りはじめました。ブドリも心配《しんぱい》してついて行きますと、主人はだまって巾《きれ》を水でしぼって、頭にのせると、そのまま板《いた》の間に寝《ね》てしまいました。するとまもなく、主人のおかみさんが表《おもて》からかけ込《こ》んで来ました。
「オリザへ病気が出たというのはほんとうかい。」
「ああ、もうだめだよ。」
「どうにかならないのかい。」
「だめだろう、すっかり五年前のとおりだ。」
「だから、あたしはあんたに山師《やまし》をやめろといったんじゃないか。おじいさんもあんなにとめたんじゃないか。」おかみさんはおろおろ泣《な》きはじめました。すると主人が俄《にわ》かに元気になってむっくり起《お》きあがりました。
「よし。イーハトーブの野原で、指折《ゆびお》り数えられる大百姓《おおひやくしよう》のおれが、こんなことで参《まい》るか。よし。来年こそやるぞ。ブドリ、おまえおれのうちへ来てから、まだ一晩《ひとばん》も寝《ね》たいくらい寝たことがないな。さあ、五日《いつか》でも十日《とおか》でもいいから、ぐうというくらい寝てしまえ。おれはそのあとで、あすこの沼《ぬま》ばたけでおもしろい手品《てづま》をやって見せるからな。その代《かわ》り今年の冬は、家《うち》じゅうそばばかり食うんだぞ。おまえそばはすきだろうが。」それから主人はさっさと帽子《ぼうし》をかぶって外へ出て行ってしまいました。ブドリは主人に云《い》われた通り納屋《なや》へ入って睡《ねむ》ろうと思いましたが、なんだかやっぱり沼ばたけが苦《く》になって仕方《しかた》ないので、またのろのろそっちへ行ってみました。するといつ来ていたのか、主人がたった一人腕組《うでぐ》みをして土手に立って居《お》りました。見ると沼ばたけには水がいっぱいで、オリザの株《かぶ》は葉をやっと出しているだけ、上にはぎらぎら石油《せきゆ》が浮《うか》んでいるのでした。主人が云いました。
「いまおれこの病気《びようき》を蒸《む》し殺《ころ》してみるとこだ。」「石油で病気の種《たね》が死《し》ぬんですか。」とブドリがききますと、主人《しゆじん》は、「頭から石油《せきゆ》に漬《つ》けられたら人だって死ぬだ。」と云《い》いながら、ほうと息《いき》を吸《す》って首をちぢめました。その時、水下《みずしも》の沼《ぬま》ばたけの持主《もちぬし》が、肩《かた》をいからして息《いき》を切ってかけて来て、大きな声でどなりました。
「何だって油《あぶら》など水へ入れるんだ。みんな流《なが》れて来て、おれの方へはいってるぞ」
主人は、やけくそに落《お》ちついて答えました。
「何だって油など水へ入れるったって、オリザへ病気がついたから、油など水へ入れるのだ。」
「何だってそんならおれの方へ流すんだ。」
「何だってそんならおまえの方へ流すったって、水は流れるから油もついて流れるのだ。」
「そんなら何だっておれの方へ水来ないように水口《みなくち》とめないんだ。」
「何だっておまえの方へ水行かないように水口とめないかったって、あすこはおれのみな口でないから水とめないのだ。」となりの男は、かんかん怒《おこ》ってしまってもう物《もの》も云えず、いきなりがぶがぶ水へはいって、自分の水口に泥《どろ》を積みあげはじめました。主人はにやりと笑《わら》いました。
「あの男むずかしい男でな。こっちで水をとめると、とめたといって怒《おこ》るからわざと向《むこ》うにとめさせたのだ。あすこさえとめれば、今夜中に水はすっかり草の頭までかかるからな。さあ帰ろう。」主人《しゆじん》はさきに立ってすたすた家《うち》へあるきはじめました。
次《つぎ》の朝ブドリはまた主人と沼《ぬま》ばたけへ行ってみました。主人は水の中から葉《は》を一枚《まい》とってしきりにしらべていましたが、やっぱり浮《う》かない顔でした。その次の日もそうでした。その次の日もそうでした。その次の日もそうでした。その次の朝、とうとう主人は決心《けつしん》したように云《い》いました。
「さあブドリ、いよいよここへ蕎麦播《そばま》きだぞ。おまえあすこへ行って、となりの水口《みなくち》こわして来い。」ブドリは云われた通りこわして来ました。石油《せきゆ》のはいった水は、恐《おそ》ろしい勢《いきお》いでとなりの田へ流れて行きます。きっとまた怒《おこ》ってくるなと思っていますと、ひるごろ例《れい》のとなりの持主《もちぬし》が、大きな鎌《かま》をもってやってきました。
「やあ、何だってひとの田へ石油ながすんだ。」
主人がまた、腹《はら》の底《そこ》から声を出して答えました。
「石油ながれれば何だって悪《わる》いんだ」
「オリザみんな死《し》ぬでないか」
「オリザみんな死ぬか、オリザみんな死なないか、まずおれの沼ばたけのオリザ見なよ。今日で四日頭から石油《せきゆ》かぶせたんだ。それでもちゃんとこの通りでないか。赤くなったのは病気《びようき》のためで、勢《いきお》いのいいのは石油のためなんだ。おまえのところなど、石油がただオリザの足を通るだけでないか。却《かえ》っていいかもしれないんだ。」
「石油こやしになるのか。」向《むこ》うの男は少し顔いろをやわらげました。
「石油こやしになるか石油こやしにならないか知らないが、とにかく石油は油《あぶら》でないか。」
「それは石油は油だな。」男はすっかり機嫌《きげん》を直してわらいました。水はどんどん退《しりぞ》き、オリザの株《かぶ》は見る見る根《ね》もとまで出て来ました。すっかり赤い斑《まだら》ができて焼《や》けたようになっています。
「さあおれの所ではもうオリザ刈《が》りをやるぞ。」
主人は笑《わら》いながら云《い》って、それからブドリといっしょに、片《かた》っぱしからオリザの株を刈り、跡《あと》へすぐ蕎麦《そば》を播《ま》いて土をかけて歩きました。そしてその年はほんとうに主人の云ったとおり、ブドリの家《うち》では蕎麦ばかり食べました。次の春になりますと主人が云いました。
「ブドリ、今年は沼《ぬま》ばたけは去年《きよねん》より三分の一減《へ》ったからな、仕事《しごと》はよほど楽《らく》だ。その代《かわ》りおまえは、おれの死《し》んだ息子《むすこ》の読んだ本をこれから一生けん命《めい》勉強《べんきよう》して、いままでおれを山師《やまし》だといってわらったやつらを、あっと云《い》わせるような立派《りつぱ》なオリザを作る工夫《くふう》をしてくれ。」そして、いろいろな本を一山ブドリに渡《わた》しました。ブドリは仕事《しごと》のひまに片《かた》っぱしからそれを読みました。殊《こと》にその中の、クーボーという人の物《もの》の考え方を教えた本は面白《おもしろ》かったので何べんも読みました。またその人が、イーハトーブの市で一ヶ月の学校をやっているのを知って、大へん行って習《なら》いたいと思ったりしました。
そして早くもその夏、ブドリは大きな手柄《てがら》をたてました。それは去年《きよねん》と同じ頃《ころ》、またオリザに病気《びようき》ができかかったのを、ブドリが木の灰《はい》と食塩《しお》を使《つか》って食いとめたのでした。そして八月のなかばになると、オリザの株《かぶ》はみんなそろって穂《ほ》を出し、その穂の一枝《ひとえだ》ごとに小さな白い花が咲《さ》き、花はだんだん水いろの籾《もみ》にかわって、風にゆらゆら波《なみ》をたてるようになりました。主人《しゆじん》はもう得意《とくい》の絶頂《ぜつちよう》でした。来る人ごとに、
「何のおれも、オリザの山師で四年しくじったけれども、今年《ことし》は一度《いちど》に四年前とれる。これもまたなかなかいいもんだ。」などと云って自慢《じまん》するのでした。
ところがその次《つぎ》の年はそうは行きませんでした。植《う》え付《つ》けの頃からさっぱり雨が降《ふ》らなかったために、水路《すいろ》は乾《かわ》いてしまい、沼《ぬま》にはひびが入って、秋のとりいれはやっと冬じゅう食べるくらいでした。来年こそと思っていましたが次の年もまた同じようなひでりでした。それからも来年こそ来年こそと思いながら、ブドリの主人《しゆじん》は、だんだんこやしを入れることができなくなり、馬も売り、沼《ぬま》ばたけもだんだん売ってしまったのでした。
ある秋の日、主人はブドリにつらそうに云《い》いました。
「ブドリ、おれももとはイーハトーブの大百姓《おおひやくしよう》だったし、ずいぶん稼《かせ》いでも来たのだが、たびたびの寒《さむ》さと旱魃《かんばつ》のために、いまでは沼ばたけも昔《むかし》の三分の一になってしまったし、来年は、もう入れるこやしもないのだ。おれだけでない、来年こやしを買って入れれる人ったらもうイーハトーブにも何人もないだろう。こういうあんばいでは、いつになってもおまえにはたらいてもらった礼《れい》をするというあてもない。おまえも若《わか》いはたらき盛《ざか》りを、おれのとこで暮《くら》してしまってはあんまり気《き》の毒《どく》だから、済《す》まないがどうかこれを持《も》って、どこへでも行っていい運《うん》を見つけてくれ。」そして主人は一ふくろのお金と新しい紺《こん》で染めた麻《あさ》の服《ふく》と赤革《あかがわ》の靴《くつ》とをブドリにくれました。ブドリはいままでの仕事《しごと》のひどかったことも忘《わす》れてしまって、もう何にもいらないから、ここで働《はたら》いていたいとも思いましたが、考えてみると、居《い》てもやっぱり仕事もそんなにないので、主人に何べんも何べんも礼を云って、六年の間はたらいた沼ばたけと主人に別《わか》れて、停車場《ていしやば》をさして歩きだしました。
四 クーボー大《だい》博士《はかせ》
ブドリは二時間ばかり歩いて、停車場《ていしやば》へ来ました。それから切符《きつぷ》を買って、イーハトーブ行きの汽車に乗《の》りました。汽車はいくつもの沼《ぬま》ばたけをどんどんどんどんうしろへ送《おく》りながら、もう一散《いつさん》に走りました。その向《むこ》うには、たくさんの黒い森が、次《つぎ》から次と形を変《か》えて、やっぱりうしろの方へ残《のこ》されて行くのでした。ブドリはいろいろな思いで胸《むね》がいっぱいでした。早くイーハトーブの市に着《つ》いて、あの親切《しんせつ》な本を書いたクーボーという人に会い、できるなら、働《はたら》きながら勉強《べんきよう》して、みんながあんなにつらい思いをしないで沼ばたけを作れるよう、また火山の灰《はい》だのひでりだの寒《さむ》さだのを除《のぞ》く工夫《くふう》をしたいと思うと、汽車さえまどろこくってたまらないくらいでした。汽車はその日のひるすぎ、イーハトーブの市に着きました。停車場を一足出ますと、地面《じめん》の底《そこ》から何かのんのん湧《わ》くようなひびきやどんよりとしたくらい空気、行ったり来たりする沢山《たくさん》の自働車《じどうしや》のあいだに、ブドリはしばらくぼうとしてつっ立ってしまいました。やっと気をとりなおして、そこらの人にクーボー博士の学校へ行くみちをたずねました。すると誰《たれ》へ訊《き》いても、みんなブドリのあまりまじめな顔を見て、吹《ふ》き出しそうにしながら、「そんな学校は知らんね。」とか、「もう五、六丁《ちよう*》行って訊《き》いてみな。」とかいうのでした。そしてブドリがやっと学校をさがしあてたのはもう夕方近くでした。その大きなこわれかかった白い建物《たてもの》の二階《かい》で、誰か大きな声でしゃべっていました。
「今日《こんにち》は。」ブドリは高く叫《さけ》びました。誰も出てきませんでした。「今日はあ。」ブドリはあらん限《かぎ》り高く叫びました。するとすぐ頭の上の二階の窓《まど》から、大きな灰《はい》いろの頭が出て、めがねが二つぎらりと光りました。それから、
「今授業中《じゆぎようちゆう》だよ。やかましいやつだ。用があるならはいって来い。」とどなりつけて、すぐ顔を引っ込《こ》めますと、中では大勢《おおぜい》でどっと笑《わら》い、その人は構《かま》わずまた何か大声でしゃべっています。ブドリはそこで思い切って、なるべく足音をたてないように二階にあがって行きますと、階段《かいだん》のつき当りの扉《と》があいていて、じつに大きな教室が、ブドリのまっ正面《しようめん》にあらわれました。中にはさまざまの服装《ふくそう》をした学生がぎっしりです。向《むこ》うは大きな黒い壁《かべ》になっていて、そこにたくさんの白い線が引いてあり、さっきのせいの高い眼《め》がねをかけた人が、大きな櫓《やぐら》の形の模型《もけい》を、あちこち指《ゆび》さしながら、さっきのままの高い声で、みんなに説明《せつめい》して居《お》りました。
ブドリはそれを一目見ると、ああこれは先生の本に書いてあった歴史《れきし》の歴史《*》ということの模型だなと思いました。先生は笑いながら、一つのとってを廻《まわ》しました。模型はがちっと鳴って奇体《きたい》な船のような形になりました。またがちっととってを廻《まわ》すと、模型《もけい》はこんどは大きなむかでのような形に変《かわ》りました。
みんなはしきりに首をかたむけて、どうもわからんという風《ふう》にしていましたが、ブドリにはただ面白《おもしろ》かったのです。
「そこでこういう図ができる。」先生は黒い壁《かべ》へ別《べつ》の込《こ》み入った図をどんどん書きました。左手にもチョークをもって、さっさっと書きました。学生たちもみんな一生けん命《めい》そのまねをしました。ブドリもふところから、いままで沼《ぬま》ばたけで持《も》っていた汚《きた》ない手帳《てちよう》を出して図を書きとりました。先生はもう書いてしまって、壇《だん》の上にまっすぐに立って、じろじろ学生たちの席《せき》を見まわしています。ブドリも書いてしまって、その図を縦横《たてよこ》から見ていますと、ブドリのとなりで一人《ひとり》の学生が、
「あああ。」とあくびをしました。ブドリはそっとききました。「ね、この先生はなんて云《い》うんですか。」すると学生はばかにしたように鼻《はな》でわらいながら答えました。「クーボー大《だい》博士《はかせ》さお前知らなかったのかい。」それからじろじろブドリのようすを見ながら、
「はじめから、この図なんか書けるもんか。ぼくでさえ同じ講義《こうぎ》をもう六年もきいているんだ。」と云《い》って、じぶんのノートをふところへしまってしまいました。その時教室に、ぱっと電燈《でんとう》がつきました《*》。もう夕方だったのです。大《だい》博士《はかせ》が向《むこ》うで言いました。
「いまや夕《ゆうべ》ははるかに来《きた》り、拙講《せつこう》もまた全課《ぜんか》を了《お》えた。諸君《しよくん》のうちの希望者《きぼうしや》は、けだしいつもの例《れい》により、そのノートをば拙者《せつしや》に示《しめ》し、更《さら》に数箇《すうこ》の試問《しもん》を受けて、所属《しよぞく》を決《けつ》すべきである。」学生たちはわあっと叫《さけ》んで、みんなばたばたノートをとじました。それからそのまま帰ってしまうものが大部分《だいぶぶん》でしたが、五、六十人は一列《いちれつ》になって大博士の前をとおりながらノートを開《ひら》いて見せるのでした。すると大博士はそれを一寸《ちよつと》見て、一言か二言質問《しつもん》をして、それから白墨《はくぼく》でえりへ、「合《ごう》」とか、「再来《さいらい》」とか、「奮励《ふんれい》」とか書くのでした。学生はその間、いかにも心配《しんぱい》そうに首をちぢめているのでしたが、それからそっと肩《かた》をすぼめて廊下《ろうか》まで出て、友達《ともだち》にそのしるしを読んでもらって、よろこんだりしょげたりするのでした。
ぐんぐん試験《しけん》が済《す》んで、いよいよブドリ一人《ひとり》になりました。ブドリはその小さな汚《きた》ない手帳《てちよう》を出《だ》したとき、クーボー大博士は大きなあくびをやりながら、屈《かが》んで眼《め》をぐっと手帳につけるようにしましたので、手帳はあぶなく大博士に吸《す》い込《こ》まれそうになりました。
ところが大《だい》博士《はかせ》は、うまそうにこくっと一つ息《いき》をして、「よろしい。この図は非常《ひじよう》に正しくできている。そのほかのところは、何だ、ははあ、沼《ぬま》ばたけのこやしのことに、馬のたべ物《もの》のことかね。では問題《もんだい》を答えなさい。工場《こうば》の煙突《えんとつ》から出るけむりには、どういう色の種類《しゆるい》があるか。」
ブドリは思わず大声に答えました。
「黒、褐《かつ》、黄、灰《はい》、白、無色《むしよく》。それからこれらの混合《こんごう》です。」
大博士はわらいました。
「無色のけむりは大へんいい。形について云《い》いたまえ。」
「無風《むふう》で煙《けむり》が相当《そうとう》あれば、たての棒《ぼう》にもなりますが、さきはだんだんひろがります。雲の非常に低《ひく》い日は、棒は雲まで昇《のぼ》って行って、そこから横《よこ》にひろがります。風のある日は、棒は斜《なな》めになりますが、その傾《かたむ》きは風の程度《ていど》に従《したが》います。波《なみ》や幾《いく》つもきれになるのは、風のためにもよりますが、一つはけむりや煙突のもつ癖《くせ》のためです。あまり煙の少ないときは、コルク抜《ぬ》きの形にもなり、煙も重《おも》い瓦斯《ガス》がまじれば、煙突の口から房《ふさ》になって、一方乃至《ないし》四方に落《お》ちることもあります。」大博士はまたわらいました。
「よろしい。きみはどういう仕事《しごと》をしているのか。」
「仕事《しごと》をみつけに来たんです。」
「面白《おもしろ》い仕事がある。名刺《めいし》をあげるから、そこへすぐ行きなさい。」博士《はかせ》は名刺をとり出して何かするする書き込《こ》んでブドリに呉《く》れました。ブドリはおじぎをして、戸口を出て行こうとしますと、大博士はちょっと眼《め》で答えて、
「何だ、ごみを焼《や》いてるのかな。」と低《ひく》くつぶやきながら、テーブルの上にあった鞄《かばん》に、白墨《チヨーク》のかけらや、はんけちや本や、みんな一緒《いつしよ》に投《な》げ込《こ》んで小脇《こわき》にかかえ、さっき顔を出した窓《まど》から、プイッと外へ飛《と》び出しました。びっくりしてブドリが窓へかけよって見《み》ますといつか大博士は玩具《おもちや》のような小さな飛行船《ひこうせん*》に乗《の》って、じぶんでハンドルをとりながら、もううす青いもやのこめた町の上を、まっすぐに向《むこ》うへ飛んでいるのでした。ブドリがいよいよ呆《あき》れて見ていますと、間もなく大博士は、向うの大きな灰《はい》いろの建物《たてもの》の平屋根《ひらやね》に着《つ》いて、船を何かかぎのようなものにつなぐと、そのままぽろっと建物の中へ入《はい》って見えなくなってしまいました。
五 イーハトーブ火山局《かざんきよく》
ブドリが、クーボー大博士から貰《もら》った名刺の宛名《あてな》をたずねて、やっと着《つ》いたところは大きな茶いろの建物で、うしろには房《ふさ》のような形をした高い柱《はしら》が夜のそらにくっきり白く立って居《お》りました。ブドリは玄関《げんかん》に上って呼鈴《よびりん》を押《お》しますと、すぐ人が出て来て、ブドリの出した名刺《めいし》を受《う》け取《と》り、一目見ると、すぐブドリを突《つ》き当りの大きな室《へや》へ案内《あんない》しました。そこにはいままでに見たこともないような大きなテーブルがあって、そのまん中に一人《ひとり》の少し髪《かみ》の白くなった人のよさそうな立派《りつぱ》な人が、きちんと座《すわ》って耳に受話器《じゆわき》をあてながら何か書いていました。そしてブドリの入って来たのを見ると、すぐ横《よこ》の椅子《いす》を指《さ》しながら、また続《つづ》けて何か書きつけています。
その室の右手の壁《かべ》いっぱいにイーハトーブ全体《ぜんたい》の地図が、美《うつく》しく色どった巨《おお》きな模型《もけい》に作ってあって、鉄道《てつどう》も町も川も野原もみんな一目でわかるようになって居り、そのまん中を走るせぼねのような山脈《さんみやく》と、海岸《かいがん》に沿《そ》って縁《へり》をとったようになっている山脈、またそれから枝《えだ》を出して海の中に点々の島をつくっている一列《いちれつ》の山々には、みんな赤や橙《だいだい》や黄のあかりがついていて、それが代《かわ》る代《がわ》る色が変《かわ》ったりジーと蝉《せみ》のように鳴ったり、数字が現《あら》われたり消《き》えたりしているのです。下の壁に添《そ》った棚《たな》には、黒いタイプライターのようなものが三列に百でもきかないくらい並《なら》んで、みんなしずかに動《うご》いたり鳴ったりしているのでした。ブドリがわれを忘《わす》れて見とれて居りますと、その人が受話器をことっと置《お》いてふところから名刺入れを出して、一枚《まい》の名刺をブドリに出しながら、
「あなたが、グスコーブドリ君《くん》ですか。私《わたし》はこう云《い》うものです。」と云いました。見ると、イーハトーブ火山局《かざんきよく》技師《ぎし》ペンネンナームと書いてありました。その人はブドリの挨拶《あいさつ》になれないでもじもじしているのを見ると、重《かさ》ねて親切《しんせつ》に云いました。「さっきクーボー博士《はかせ》から電話があったのでお待《ま》ちしていました。まあこれから、ここで仕事《しごと》しながらしっかり勉強《べんきよう》してごらんなさい。ここの仕事は、去年《きよねん》はじまったばかりですが、じつに責任《せきにん》のあるもので、それに半分はいつ噴火《ふんか》するかわからない火山の上で仕事するものなのです。それに火山の癖《くせ》というものは、なかなか学問でわかることではないのです。われわれはこれからよほどしっかりやらなければならんのです。では今晩はあっちにあなたの泊《とま》るところがありますから、そこでゆっくりお休みなさい。あしたこの建物中《たてものじゆう》をすっかり案内しますから。」
次の朝、ブドリはペンネン老技師《ろうぎし》に連《つ》れられて、建物のなかを一々つれて歩いてもらいさまざまの器械《きかい》やしかけを詳《くわ》しく教わりました。その建物のなかのすべての器械はみんなイーハトーブ中の三百幾《いく》つかの活火山や休火山に続《つづ》いていて、それらの火山の煙《けむり》や灰《はい》を噴《ふ》いたり、鎔岩《ようがん》を流《なが》したりしているようすは勿論《もちろん》、みかけはじっとしている古い火山でも、その中の鎔岩や瓦斯《ガス》のもようから、山の形の変《かわ》りようまで、みんな数字《すうじ》になったり図になったりして、あらわれてくるのでした。そして烈《はげ》しい変化《へんか》のある度《たび》に、模型《もけい》はみんな別々《べつべつ》の音で鳴るのでした。
ブドリはその日からペンネン老技師《ろうぎし》について、すべての器械《きかい》の扱《あつか》い方《かた》や観測《かんそく》のしかたを習《なら》い、夜も昼も一心に働《はたら》いたり勉強《べんきよう》したりしました。そして二年ばかりたちますとブドリはほかの人たちと一緒《いつしよ》に、あちこちの火山へ器械を据《す》え付《つ》けに出されたり、据え付けてある器械の悪《わる》くなったのを修繕《しゆうぜん》にやられたりもするようになりましたので、もうブドリにはイーハトーブの三百幾《いく》つの火山と、その働き工合《ぐあい》は掌《てのひら》の中にあるようにわかってきました。じつにイーハトーブには七十幾つの火山が毎日煙《けむり》をあげたり、鎔岩《ようがん》を流《なが》したりしているのでしたし、五十幾つかの休火山は、いろいろな瓦斯《ガス》を噴《ふ》いたり、熱《あつ》い湯《ゆ》を出したりしていました。そして残《のこ》りの百六、七十の死火山《しかざん》のうちにもいつまた何をはじめるかわからないものもあるのでした。
ある日ブドリが老技師とならんで仕事をして居《お》りますと、俄《にわ》かにサンムトリという南の方の海岸《かいがん》にある火山が、むくむく器械に感《かん》じ出してきました。老技師が叫《さけ》びました。「ブドリ君《くん》。サンムトリは、今朝まで何もなかったね。」「はい、いままでサンムトリのはたらいたのを見たことがありません。」
「ああ、これはもう噴火が近い。今朝の地震《じしん》が刺激《しげき》したのだ。この山の北十キロのところにはサンムトリの市がある。今度《こんど》爆発《ばくはつ》すれば、多分山は三分の一、北側《きたがわ》をはねとばして、牛や卓子《テーブル》ぐらいの岩は熱《あつ》い灰《はい》や瓦斯《ガス》といっしょに、どしどしサンムトリ市に落《お》ちてくる。どうでも今のうちにこの海に向《む》いた方へボーリングを入れて傷口《きずぐち》をこさえて、瓦斯を抜《ぬ》くか鎔岩《ようがん》を出させるかしなければならない。今すぐ二人《ふたり》で見に行こう。」二人はすぐに支度《したく》して、サンムトリ行きの汽車に乗《の》りました。
六 サンムトリ火山
二人は次《つぎ》の朝、サンムトリの市に着《つ》き、ひるころサンムトリ火山の頂《いただき》近く、観測器械《かんそくきかい》を置《お》いてある小屋《こや》に登《のぼ》りました。そこは、サンムトリ山の古い噴火口《ふんかこう》の外輪山《がいりんざん》が、海の方へ向いて欠《か》けた所《ところ》で、その小屋《こや》の窓《まど》からながめますと、海は青や灰いろの幾《いく》つもの縞《しま》になって見え、その中の汽船は黒いけむりを吐《は》き、銀《ぎん》いろの水脈《みお》を引いていくつも滑《すべ》って居《い》るのでした。
老技師《ろうぎし》はしずかにすべての観測機を調《しら》べ、それからブドリに云いました。
「きみはこの山はあと何日ぐらいで噴火すると思うか。」
「一月《ひとつき》はもたないと思います。」
「一月はもたない。もう十日ももたない。早く工作をしてしまわないと、取《と》り返《かえ》しのつかないことになる。私《わたし》はこの山の海に向《む》いた方では、あすこが一番弱いと思う。」老技師《ろうぎし》は山腹《さんぷく》の谷の上のうす緑《みどり》の草地を指《ゆび》さしました。そこを雲の影《かげ》がしずかに青く滑《すべ》っているのでした。「あすこには鎔岩《ようがん》の層《そう》が二つしかない。あとは柔《やわら》らかな火山灰《ばい》と火山礫《れき》の層《そう》だ。それにあすこまでは牧場《ぼくじよう》の道も立派《りつぱ》にあるから、材料《ざいりよう》を運《はこ》ぶことも造作《ぞうさ》ない。ぼくは工作隊《こうさくたい》を申請《しんせい》しよう。」老技師は忙《せわ》しく局《きよく》へ発信《はつしん》をはじめました。その時脚《あし》の下では、つぶやくような微《かす》かな音がして、観測小屋《かんそくごや》はしばらくぎしぎし軋《きし》みました。老技師は機械《きかい》をはなれました。
「局からすぐ工作隊を出すそうだ。工作隊といっても半分決死隊《けつしたい》だ。私はいままでに、こんな危険《きけん》に迫《せま》った仕事《しごと》をしたことがない。」
「十日のうちにできるでしょうか。」
「きっとできる。装置《そうち》には三日、サンムトリ市の発電所《はつでんしよ》から、電線を引いてくるには五日かかるな。」
技師はしばらく指《ゆび》を折《お》って考えていましたが、やがて安心《あんしん》したようにまたしずかに云《い》いました。
「とにかくブドリ君《くん》。一つ茶をわかして呑《の》もうではないか。あんまりいい景色《けしき》だから。」ブドリは持《も》って来たアルコールランプに火を入れて茶をわかしはじめました。空にはだんだん雲が出て、それに日ももう落《お》ちたのか、海はさびしい灰《はい》いろに変《かわ》り、たくさんの白い波《なみ》がしらは、一せいに火山の裾《すそ》に寄《よ》せて来ました。
ふとブドリはすぐ眼《め》の前にいつか見たことのあるおかしな形の小さな飛行船《ひこうせん》が飛《と》んでいるのを見つけました。老技師《ろうぎし》もはねあがりました。
「あ、クーボー君《くん》がやって来た。」ブドリも続《つづ》いて小屋《こや》をとび出しました。飛行船はもう小屋の左側《ひだりがわ》の大きな岩の壁《かべ》の上にとまって中からせいの高いクーボー大《だい》博士《はかせ》がひらりと飛び下りていました。博士はしばらくその辺《へん》の岩の大きなさけ目をさがしていましたが、やっとそれを見つけたと見えて、手早くねじをしめて飛行船をつなぎました。
「お茶をよばれに来たよ。ゆれるかい。」大博士はにやにやわらって云《い》いました。老技師が答えました。
「まだそんなでない。けれどもどうも岩がぽろぽろ上から落ちているらしいんだ」
ちょうどその時、山は俄《にわ》かに怒《おこ》ったように鳴り出し、ブドリは眼の前が青くなったように思いました。山はぐらぐら続《つづ》けてゆれました。見るとクーボー大博士も老技師もしゃがんで岩へしがみついていましたし、飛行船も大きな波に乗《の》った船のようにゆっくりゆれて居《お》りました。地震《じしん》はやっとやみクーボー大《だい》博士《はかせ》は、起《お》きあがってすたすたと小屋《こや》へ入って行きました。中ではお茶がひっくり返《かえ》って、アルコールが青くぽかぽか燃《も》えていました。クーボー大博士は機械《きかい》をすっかり調《しら》べて、それから老技師《ろうぎし》といろいろ談《はな》しました。そしてしまいに云《い》いました。
「もうどうしても来年は潮汐発電所《ちょうせきはつでんしょ*》を全部《ぜんぶ》作ってしまわなければならない。それができれば今度《こんど》のような場合にもその日のうちに仕事《しごと》ができるし、ブドリ君が云っている沼《ぬま》ばたけの肥料《ひりょう》も降《ふ》らせられるんだ。」「旱魃《かんばつ》だってちっともこわくなくなるからな。」ペンネン技師も云いました。ブドリは胸《むね》がわくわくしました。山まで踊《おど》りあがっているように思いました。じっさい山は、その時烈《はげ》しくゆれだして、ブドリは床《ゆか》へ投《な》げ出されていたのです。大博士が云いました。
「やるぞ。やるぞ。いまのはサンムトリの市へも可成《かなり》感《かん》じたにちがいない。」
老技師が云いました。
「今のはぼくらの足もとから、北へ一キロばかり地表下《ちひようか》七百米《メートル》ぐらいの所《ところ》で、この小屋の六、七十倍《ばい》ぐらいの岩の塊《かたまり》が鎔岩《ようがん》の中へ落《お》ち込《こ》んだらしいのだ。ところが瓦斯《ガス》がいよいよ最後《さいご》の岩の皮《かわ》をはね飛《と》ばすまでにはそんな塊を百も二百も、じぶんのからだの中にとらなければならない。」
大《だい》博士《はかせ》はしばらく考えていましたが、「そうだ、僕《ぼく》はこれで失敬《しつけい》しよう。」と云《い》って小屋《こや》を出て、いつかひらりと船に乗《の》ってしまいました。老技師《ろうぎし》とブドリは、大博士があかりを二、三度振《ふ》って挨拶《あいさつ》しながら山をまわって向《むこ》うへ行くのを見送《おく》ってまた小屋に入り、かわるがわる眠《ねむ》ったり観測《かんそく》したりしました。そして暁方《あけがた》麓《ふもと》へ工作隊《こうさくたい》がつきますと、老技師はブドリを一人《ひとり》小屋に残《のこ》して、昨日《きのう》指《ゆび》さしたあの草地まで降《お》りて行きました。みんなの声や、鉄《てつ》の材料の触《ふ》れ合う音は、下から風が吹《ふ》き上げるときは、手にとるように聴《きこ》えました。ペンネン技師からはひっきりなしに、向うの仕事《しごと》の進《すす》み工合《ぐあい》も知らせてよこし、瓦斯《ガス》の圧力《あつりよく》や山の形の変《かわ》りようも尋《たず》ねて来ました。それから三日の間は、はげしい地震《じしん》や地鳴りのなかでブドリの方も、麓の方もほとんど眠るひまさえありませんでした。その四日目の午后《ごご》、老技師からの発信《はつしん》が云って来ました。
「ブドリ君《くん》だな。すっかり支度《したく》ができた。急《いそ》いで降りてきたまえ。観測の器械《きかい》は一ぺん調《しら》べてそのままにして、表《ひよう》は全部《ぜんぶ》持《も》ってくるのだ。もうその小屋は今日の午后にはなくなるんだから。」ブドリはすっかり云われた通りにして山を下りて行きました。そこにはいままで局《きよく》の倉庫《そうこ》にあった大きな鉄材が、すっかり櫓《やぐら》に組み立っていて、いろいろな機械《きかい》はもう電流《でんりゆう》さえ来ればすぐに働《はたら》き出すばかりになっていました。ペンネン技師の頬《ほお》はげっそり落《お》ち、工作隊の人たちも青ざめて眼《め》ばかり光らせながら、それでもみんな笑《わら》ってブドリに挨拶《あいさつ》しました。老技師が云《い》いました。
「では引き上げよう。みんな支度《したく》して車に乗《の》り給《たま》え。」みんなは大急《おおいそ》ぎで二十台の自働車《じどうしや》に乗りました。車は列《れつ》になって山の裾《すそ》を一散《いつさん》にサンムトリの市《し》に走りました。丁度《ちようど》山と市とのまん中ごろで技師《ぎし》は自働車をとめさせました。「ここへ天幕《テント》を張《は》り給え。そしてみんなで眠《ねむ》るんだ。」みんなは、物《もの》を一言《ひとこと》も云えずにその通りにして倒《たお》れるように睡《ねむ》ってしまいました。
その午后《ごご》、老技師《ろうぎし》は受話器《じゆわき》を置いて叫《さけ》びました。「さあ電線は届《とど》いたぞ。ブドリ君、初《はじ》めるよ。」老技師はスイッチを入れました。ブドリたちは、天幕の外に出て、サンムトリの中腹《ちゆうふく》を見つめました。野原には、白百合《しろゆり》がいちめん咲き、その向《むこ》うにサンムトリが青くひっそりと立っていました。
俄《にわ》かにサンムトリの左の裾がぐらぐらっとゆれまっ黒なけむりがぱっと立ったと思うとまっすぐに天にのぼって行って、おかしなきのこの形になり、その足もとから黄金色《きんいろ》の鎔岩《ようがん》がきらきら流《なが》れ出して、見るまにずうっと扇形《おうぎがた》にひろがりながら海へ入りました。と思うと地面《じめん》は烈《はげ》しくぐらぐらゆれ、百合の花もいちめんゆれ、それからごうっというような大きな音が、みんなを倒すくらい強くやってきました。それから風がどうっと吹《ふ》いて行きました。
「やったやった。」とみんなはそっちに手を延《のば》して高く叫びました。この時サンムトリの煙《けむり》は、崩《くず》れるようにそらいっぱいひろがって来ましたが、忽《たちま》ちそらはまっ暗《くら》になって、熱《あつ》いこいしがぱらぱらぱらぱら降《ふ》ってきました。みんなは天幕《テント》の中にはいって心配《しんぱい》そうにしていましたが、ペンネン技師《ぎし》は、時計《とけい》を見ながら、
「ブドリ君《くん》、うまく行《い》った。危険《きけん》はもう全《まつた》くない。市の方へ灰《はい》をすこし降らせるだけだろう。」と云《い》いました。こいしはだんだん灰にかわりました。それもまもなく薄《うす》くなってみんなはまた天幕の外へ飛《と》び出しました。野原はまるで一めん鼠《ねずみ》いろになって、灰は一寸ばかり積《つも》り、百合《ゆり》の花はみんな折《お》れて灰に埋《うず》まり、空は変《へん》に緑《みどり》いろでした。そしてサンムトリの裾《すそ》には小さな瘤《こぶ》ができて、そこから灰いろの煙が、まだどんどん登《のぼ》って居《お》りました。
その夕方みんなは、灰やこいしを踏《ふ》んで、もう一度《いちど》山へのぼって、新しい観測《かんそく》の機械《きかい》を据《す》え着《つ》けて帰りました。
七 雲の海
それから四年の間に、クーボー大《だい》博士《はかせ》の計画通り、潮汐発電所《ちようせきはつでんしよ》は、イーハトーブの海岸《かいがん》に沿《そ》って、二百も配置《はいち》されました。イーハトーブをめぐる火山には、観測小屋《かんそくごや》といっしょに、白く塗《ぬ》られた鉄の櫓《やぐら》が順々《じゆんじゆん》に建《た》ちました。
ブドリは技師心得《ぎしこころえ》になって、一年の大部分《だいぶぶん》は火山から火山と廻《まわ》ってあるいたり、危《あぶな》くなった火山を工作したりしていました。
次《つぎ》の年の春、イーハトーブの火山局《かざんきよく》では、次のようなポスターを村や町へ張《は》りました。
「窒素肥料《ちつそひりよう》を降《ふ》らせます。
今年の夏、雨といっしょに、硝酸《しようさん》アムモニア《*》をみなさんの沼《ぬま》ばたけや蔬菜《そさい》ばたけに降らせますから、肥料を使《つか》う方は、その分を入れて計算してください。分量《ぶんりよう》は百メートル四方につき百二十キログラムです。
雨もすこしは降らせます。
旱魃《かんばつ》の際《さい》には、とにかく作物《さくもつ》の枯れないぐらいの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなって作付《さくづけ》しなかった沼ばたけも、今年は心配《しんぱい》せずに植《う》え付《つ》けてください。」
その年の六月、ブドリはイーハトーブのまん中にあたるイーハトーブ火山の頂上《ちようじよう》の小屋に居《お》りました。下はいちめん灰《はい》いろをした雲の海でした。そのあちこちからイーハトーブ中の火山のいただきが、ちょうど島のように黒く出て居《お》りました。その雲のすぐ上を一隻《いつせき》の飛行船《ひこうせん》が、船尾《せんび》からまっ白な煙《けむり》を噴《ふ》いて一つの峯《みね》から一つの峯へちょうど橋《はし》をかけるように飛《と》びまわっていました。そのけむりは、時間がたつほどだんだん太くはっきりなってしずかに下の雲の海に落《お》ちかぶさり、まもなく、いちめんの雲の海にはうす白く光る大きな網《あみ》が山から山へ張《は》り亘《わた》されました。いつか飛行船はけむりを納《おさ》めて、しばらく挨拶《あいさつ》するように輪《わ》を描《か》いていましたが、やがて船首を垂《た》れてしずかに雲の中へ沈《しず》んで行ってしまいました。受話器《じゆわき》がジーと鳴りました。ペンネン技師《ぎし》の声でした。
「船はいま帰って来た。下の方の支度《したく》はすっかりいい。雨はざあざあ降《ふ》っている。もうよかろうと思う。はじめてくれ給たまえ。」
ブドリはぼたんを押《お》しました。見る見るさっきのけむりの網は、美《うつく》しい桃《もも》いろや青や紫《むらさき》に、パッパッと眼《め》もさめるようにかがやきながら、点《つ》いたり消《き》えたりしました。ブドリはまるでうっとりとしてそれに見とれました。そのうちにだんだん日は暮《く》れて、雲の海もあかりが消えたときは、灰《はい》いろか鼠《ねずみ》いろかわからないようになりました。
受話器が鳴りました。
「硝酸《しようさん》アムモニアはもう雨の中へでてきている。量《りよう》もこれぐらいならちょうどいい。移動《いどう》のぐあいもいいらしい。あと四時間やれば、もうこの地方は今月中は沢山《たくさん》だろう。つづけてやってくれたまえ。」
ブドリはもううれしくってはね上りたいくらいでした。この雪の下で昔の赤鬚《あかひげ》の主人《しゆじん》もとなりの石油《せきゆ》がこやしになるかと云《い》った人も、みんなよろこんで雨の音を聞いている。そしてあすの朝は、見違《みちが》えるように緑《みどり》いろになったオリザの株《かぶ》を手で撫《な》でたりするだろう、まるで夢《ゆめ》のようだと思いながら雲のまっくらになったり、また美《うつく》しく輝《かがや》いたりするのを眺《なが》めて居《お》りました。ところが短《みじか》い夏の夜はもう明けるらしかったのです。電光の合間に、東の雲の海のはてがぼんやり黄ばんでいるのでした。
ところがそれは月が出るのでした。大きな黄いろな月がしずかに登《のぼ》ってくるのでした。そして雲が青く光るときは変に白《しろ》っぽく見え、桃《もも》いろに光るときは何かわらっているように見えるのでした。ブドリは、もうじぶんが誰《だれ》なのか何をしているのか忘《わす》れてしまって、ただぼんやりそれをみつめていました。受話器《じゆわき》がジーと鳴りました。
「こっちでは大分雷《かみなり》が鳴りだしてきた。網《あみ》があちこちちぎれたらしい。あんまり鳴らすとあしたの新聞か悪口《わるくち》を云うからもう十分ばかりでやめよう。」
ブドリは受話器を置《お》いて耳をすましました。雲の海はあっちでもこっちでもぶつぶつぶつぶつ呟《つぶや》いているのです。よく気をつけて聞くとやっぱりそれはきれぎれの雷の音でした。ブドリはスイッチを切りました。俄《にわ》かに月のあかりだけになった雲の海は、やっぱりしずかに北へ流《なが》れています。ブドリは毛布《もうふ》をからだに巻《ま》いてぐっすり睡《ねむ》りました。
八 秋
その年の農作物《のうさくもつ》の収穫《しゆうかく》は、気候《きこう》のせいもありましたが、十年の間にもなかったほど、よく出来ましたので、火山局《かざんきよく》にはあっちからもこっちからも感謝状《かんしやじよう》や激励《げきれい》の手紙が届《とど》きました。ブドリははじめてほんとうに生きた甲斐《かい》があるように思いました。
ところがある日、ブドリがタチナという火山へ行った帰り、とりいれの済《す》んでがらんとした沼《ぬま》ばたけの中の小さな村を通りかかりました。ちょうどひるころなので、パンを買おうと思って、一軒《けん》の雑貨《ざつか》や菓子《かし》を売っている店へ寄《よ》って、
「パンはありませんか。」とききました。すると、そこには三人のはだしの人たちが、眼《め》をまっ赤にして酒《さけ》を呑《の》んで居《お》りましたが、一人が立ち上って、「パンはあるが、どうも食われないパンでな。石盤《せきばん》だもな。」とおかしなことを云《い》いますと、みんなは面白《おもしろ》そうにブドリの顔を見てどっと笑《わら》いました。ブドリはいやになって、ぷいっと表《おもて》へ出ましたら、向《むこ》うから髪《かみ》を角刈《かくが》りにしたせいの高い男が来て、いきなり、
「おい、お前、今年の夏、電気でこやし降《ふ》らせたブドリだな。」と云《い》いました。
「そうだ。」ブドリは何気《なにげ》なく答えました。その男は高く叫《さけ》びました。
「火山局《かざんきよく》のブドリが来たぞ。みんな集《あつま》れ。」
すると今の家《うち》の中やそこらの畑《はたけ》から、七、八人の百姓《ひやくしよう》たちが、げらげらわらってかけて来ました。
「この野郎《やろう》、きさまの電気のお蔭《かげ》で、おいらのオリザ、みんな倒《たお》れてしまったぞ。何してあんなまねしたんだ。」一人が云いました。
ブドリはしずかに言いました。
「倒れるなんて、きみらは春に出したポスターを見なかったのか。」
「何この野郎。」いきなり一人がブドリの帽子《ぼうし》を叩《たた》き落《おと》しました。それからみんなは寄《よ》ってたかってブドリをなぐったりふんだりしました。ブドリはとうとう何が何だかわからなくなって倒れてしまいました。
気がついてみるとブドリはどこか病院《びよういん》らしい室《へや》の白いベッドに寝《ね》ていました。枕《まくら》もとには見舞《みまい》の電報《でんぽう》や、たくさんの手紙がありました。ブドリのからだ中は痛《いた》くて熱《あつ》く、動《うご》くことができませんでした。けれどもそれから一週間ばかりたちますと、もうブドリはもとの元気になっていました。そして新聞で、あのときの出来事《できごと》は、肥料《ひりよう》の入れ様《よう》をまちがって教えた農業技師《のうぎようぎし》が、オリザの倒れたのをみんな火山局《かざんきよく》のせいにして、ごまかしていたためだということを読んで、大きな声で一人《ひとり》で笑《わら》いました。その次《つぎ》の日の午后、病院の小使《こづかい》が入って来て、
「ネリというご婦人《ふじん》のお方が訪《たず》ねておいでになりました。」と云《い》いました。ブドリは夢《ゆめ》ではないかと思いましたら、まもなく一人の日に焼《や》けた百姓《ひやくしよう》のおかみさんのような人が、おずおずと入って来ました。それはまるで変《かわ》ってはいましたが、あの森の中から誰《たれ》かにつれて行かれたネリだったのです。二人はしばらく物《もの》も言えませんでしたが、やっとブドリが、その後《のち》のことをたずねますと、ネリもぼつぼつとイーハトーブの百姓のことばで、今までのことを談《はな》しました。ネリを連《つ》れて行ったあの男は、三日ばかりの後、面倒臭《めんどうくさ》くなったのか、ある小さな牧場《ぼくじよう》の近くへネリを残《のこ》してどこかへ行ってしまったのでした。
ネリがそこらを泣《な》いて歩いていますと、その牧場の主人《しゆじん》が可哀《かあい》そうに思って家《うち》へ入れて赤ん坊《ぼう》のお守《もり》をさせたりしていましたが、だんだんネリは何でも働《はたら》けるようになったのでとうとう三、四年前にその小さな牧場の一番上の息子《むすこ》と結婚《けつこん》したというのでした。そして今年は肥料も降《ふ》ったので、いつもなら厩肥《うまやごえ》を遠くの畑まで運《はこ》び出さなければならず、大へん難儀《なんぎ》したのを、近くのかぶらの畑《はたけ》へみんな入れたし、遠くの玉蜀黍《とうもろこし》もよくできたので、家《うち》じゅうみんな悦《よろこ》んでいるというようなことも云《い》いました。またあの森の中へ主人《しゆじん》の息子《むすこ》といっしょに何べんも行ってみたけれど、家はすっかり壊《こわ》れていたし、ブドリはどこへ行ったかわからないのでいつもがっかりして帰っていたら、昨日《きのう》新聞で主人がブドリのけがをしたことを読んだのでやっとこっちへ訪《たず》ねて来たということも云いました。ブドリは、直ったらきっとその家へ訪ねて行ってお礼《れい》を云う約束《やくそく》をしてネリを帰しました。
九 カルボナード《*》島
それからの五年は、ブドリにはほんとうに楽《たの》しいものでした。赤鬚《あかひげ》の主人の家にも何べんもお礼に行きました。
もうよほど年は老《と》っていましたが、やはり非常《ひじよう》な元気で、こんどは毛《け》の長い兎《うさぎ》を千疋《びき》以上《いじよう》飼《か》ったり、赤い甘藍《かんらん*》ばかり畑《はたけ》に作ったり、相変《あいかわ》らずの山師《やまし》はやっていましたが、暮《くら》しはずうっといいようでした。
ネリには、可愛《かあい》らしい男の子が生れました。冬に仕事《しごと》がひまになると、ネリはその子にすっかりこどもの百姓《ひやくしよう》のようなかたちをさせて、主人といっしょに、ブドリの家に訪《たず》ねて来て、泊《とま》っていったりするのでした。
ある日、ブドリのところへ、昔《むかし》てぐす飼《か》いの男にブドリといっしょに使《つか》われていた人が訪ねて来て、ブドリたちのお父さんのお墓《はか》が森のいちばんはずれの大きな榧《かや》の木の下にあるということを教えて行きました。それは、はじめ、てぐす飼いの男が森に来て、森じゅうの樹《き》を見てあるいたとき、ブドリのお父さんたちの冷《つめた》くなったからだを見附《みつ》けて、ブドリに知らせないように、そっと土に埋《うず》めて、上へ一本の樺《かば》の枝《えだ》をたてておいたというのでした。ブドリは、すぐネリたちをつれてそこへ行って、白い石灰岩《せつかいがん》の墓をたてて、それからもその辺《へん》を通るたびにいつも寄《よ》ってくるのでした。
そしてちょうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐《おそ》ろしい寒《さむ》い気候《きこう》がまた来るような模様《もよう》でした。測候所《そつこうじよ》では、太陽《たいよう》の調子《ちようし》や北の方の海の氷《こおり》の様子《ようす》からその年の二月にみんなへそれを予報《よほう》しました。それが一足ずつだんだん本統《ほんとう》になってこぶしの花が咲《さ》かなかったり、五月に十日もみぞれが降《ふ》ったりしますと、みんなはもう、この前の凶作《きようさく》を思い出して生きたそらもありませんでした。クーボー大《だい》博士《はかせ》も、たびたび気象《きしよう》や農業《のうぎよう》の技師《ぎし》たちと相談《そうだん》したり、意見を新聞へ出したりしましたが、やっぱりこの烈《はげ》しい寒さだけはどうともできないようすでした。
ところが六月もはじめになって、まだ黄いろなオリザの苗《なえ》や、芽《め》を出さない樹を見ますと、ブドリはもう居《い》ても立ってもいられませんでした。このままで過《す》ぎるなら、森にも野原にも、ちょうどあの年のブドリの家族《かぞく》のようになる人がたくさんできるのです。ブドリはまるで物《もの》も食べずに幾晩《いくばん》も幾晩も考えました。ある晩ブドリは、クーボー大《だい》博士《はかせ》のうちを訪《たず》ねました。
「先生、気層《きそう》のなかに炭酸瓦斯《たんさんガス*》が増《ふ》えてくれば暖《あたた》かくなるのですか。」
「それはなるだろう。地球《ちきゆう》ができてからいままでの気温《きおん》は、大抵《たいてい》空気中《くうきちゆう》の炭酸瓦斯の量《りよう》できまっていたと云われてるくらいだからね。」
「カルボナード火山島が、いま爆発《ばくはつ》したら、この気候を変《か》えるくらいの炭酸瓦斯を噴《ふ》くでしょうか。」
「それは僕《ぼく》も計算した。あれがいま爆発すれば、瓦斯はすぐ大循環《だいじゆんかん》の上層《じようそう》の風にまじって地球ぜんたいを包《つつ》むだろう。そして下層の空気や地表《ちひよう》からの熱《ねつ》の放散《ほうさん》を防《ふせ》ぎ、地球全体を平均《へいきん》で五度くらい温《あたたか》にするだろうと思う。」
「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事《しごと》に行ったもののうち、最後《さいご》の一人《ひとり》はどうしても遁《に》げられないのでね。」
「先生、私《わたくし》にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許《ゆる》しの出るようお詞《ことば》を下さい。」
「それはいけない。きみはまだ若《わか》いし、いまのきみの仕事《しごと》に代《かわ》れるものはそうはない。」
「私のようなものは、これから沢山《たくさん》できます。私よりもっともっと何んでもできる人が、私よりもっと立派《りつぱ》にもっと美《うつく》しく、仕事をしたり笑《わら》ったりしていくのですから。」
「その相談《そうだん》は僕《ぼく》はいかん。ペンネン技師《ぎし》に談《はな》したまえ。」
ブドリは帰って来て、ペンネン技師に相談《そうだん》しました。技師はうなずきました。
「それはいい。けれども僕がやろう。僕は今年もう六十三なのだ。ここで死ぬなら全《まつた》く本望《ほんもう》というものだ。」
「先生、けれどもこの仕事はまだあんまり不確《ふたし》かです。一ぺんうまく爆発《ばくはつ》してもまもなく瓦斯《ガス》が雨にとられてしまうかもしれませんし、また何もかも思った通りいかないかもしれません。先生が今度お出《い》でになってしまっては、あと何とも工夫《くふう》がつかなくなると存《ぞん》じます。」老技師《ろうぎし》はだまって首を垂《た》れてしまいました。
それから三日の後《のち》、火山局《かざんきよく》の船が、カルボナード島へ急《いそ》いで行きました。そこへいくつものやぐらは建《た》ち、電線は連結《れんけつ》されました。
すっかり仕度《したく》ができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島に残《のこ》りました。
そしてその次《つぎ》の日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑《みどり》いろに濁《にご》り、日や月が銅《あかがね》いろになったのを見ました。けれどもそれから三、四日たちますと、気候《きこう》はぐんぐん暖《あたた》かくなってきて、その秋はほぼ普通《ふつう》の作柄《さくがら》になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖いたべものと、明るい薪《たきぎ》で暮《くら》すことができたのでした。
朝に就《つい》ての童話的構図《どうわてきこうず》
苔《こけ》いちめんに、霧《きり》がぽしゃぽしゃ降《ふ》って、蟻《あり》の歩哨《ほしよう*》は鉄《てつ》の帽子《ぼうし》のひさしの下から、するどいひとみであたりをにらみ、青く大きな羊歯《しだ》の森の前をあちこち行ったり来たりしています。
向《むこ》うからぷるぷるぷるぷる一ぴきの蟻の兵隊《へいたい》が走って来ます。 「停《と》まれ、誰《だれ》かッ。」
「第《だい》百二十八聯隊《れんたい》の伝令《でんれい》!」
「どこへ行くか。」
「第五十聯隊聯隊本部《ほんぶ》。」
歩哨はスナイドル式《しき》の銃剣《じゆうけん*》を、向こうの胸《むね》に斜《なな》めにつきつけたまま、その眼《め》の光りようや顎《あご》のかたち、それから上着《うわぎ》の袖《そで》の模様《もよう》や靴《くつ》の工合《ぐあい》、いちいち詳《くわ》しく調《しら》べます。
「よし、通れ。」
伝令はいそがしく羊歯の森のなかへ入って行きました。
霧《きり》の粒《つぶ》はだんだん小さく小さくなって、いまはもううすい乳《ちち》いろのけむりに変《かわ》り、草や木の水を吸《す》いあげる音は、あっちにもこっちにも忙《いそが》しく聞え出しました。さすがの歩哨《ほしよう》もとうとう睡《ねむ》さにふらっとします。
二疋《ひき》の蟻《あり》の子供《こども》らが、手をひいて、何かひどく笑《わら》いながらやって来ました。そして俄《にわ》かに向こうの楢《なら》の木の下を見てびっくりして立ちどまります。
「あっあれなんだろう。あんなとこにまっ白な家ができた。」
「家じゃない山だ。」
「昨日《きのう》はなかったぞ。」
「兵隊《へいたい》さんにきいてみよう。」
二疋の蟻は走ります。
「兵隊さん、あすこにあるのなに?」
「何だうるさい、帰れ。」
「兵隊さん、いねむりしてんだい。あすこにあるのなに?」
「うるさいなあ、どれだい、おや!」
「昨日はあんなものなかったよ。」
「おい、大変《たいへん》だ。おい。おまえたちはこどもだけれども、こういうときには立派《りつぱ》にみんなのお役《やく》に立つだろうなあ。いいか。おまえはね、この森を入って行ってアルキル中佐《ちゆうさ》どのにお目にかかる。それからおまえはうんと走って陸地測量部《りくちそくりようぶ》まで行くんだ。そして二人《ふたり》ともこう云《い》うんだ。北緯《ほくい》二十五度《ど》東経《とうけい》六厘《りん》の処《ところ》に、目的《もくてき》のわからない大きな工事《こうじ》ができましたとな。二人とも云ってごらん。」
「北緯二十五度東経六厘の処に目的のわからない大きな工事ができました。」
「そうだ。では早く。そのうち私《わたし》は決《けつ》してここを離《はな》れないから。」
蟻《あり》の子供《こども》らは一目散《いちもくさん》にかけて行きます。
歩哨《ほしよう》は剣《けん》をかまえて、じっとそのまっしろな太い柱《はしら》の、大きな屋根《やね》のある工事をにらみつけています。
それはだんだん大きくなるようです。だいいち輪廓《りんかく》のぼんやり白く光ってぷるぷるぷるぷる顫《ふる》えていることでもわかります。
俄《にわ》かにぱっと暗《くら》くなり、そこらの苔《こけ》はぐらぐらゆれ、蟻の歩哨は夢中《むちゆう》で頭をかかえました。眼《め》をひらいてまた見ますと、あのまっ白な建物《たてもの》は、柱が折《お》れてすっかり引っくり返《かえ》っています。
蟻の子供らが両方《りようほう》から帰ってきました。
「兵隊《へいたい》さん。構《かま》わないそうだよ。あれはきのこというものだって。何でもないって。アルキル中佐《ちゆうさ》はうんと笑《わら》ったよ。それからぼくをほめたよ。」
「あのね、すぐなくなるって。地図に入れなくてもいいって。あんなもの地図に入れたり消《け》たりしていたら、陸地測量部《りくちそくりようぶ》など百あっても足《た》りないって。おや! 引っくりかえってらあ。」
「たったいま倒《たお》れたんだ。」歩哨《ほしよう》は少しきまり悪《わる》そうに云《い》いました。
「なあんだ。あっ。あんなやつも出て来たぞ。」
向《むこ》うに魚の骨《ほね》の形をした灰《はい》いろのおかしなきのこが、とぼけたように光りながら、枝《えだ》がついたり手が出たりだんだん地面《じめん》からのびあがって来るます。二疋《ひき》の蟻《あり》の子供《こども》らは、それを指《ゆび》さして、笑って笑って笑います。
そのとき霧《きり》の向うから、大きな赤い日がのぼり、羊歯《しだ》もすぎごけもにわかにぱっと青くなり、蟻の歩哨は、また厳《いか》めしくスナイドル式銃剣《しきじゆうけん》を南の方へ構《かま》えました。
セロ弾《ひ》きのゴーシュ《*》
ゴーシュは町の活動写真館《かつどうしやしんかん*》でセロ《*》を弾く係《かか》りでした。けれどもあんまり上手《じようず》でないという評判《ひようばん》でした。上手でないどころではなく実《じつ》は仲間《なかま》の楽手《がくしゆ》のなかではいちばん下手《へた》でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。
ひるすぎみんなは楽屋《がくや》に円くならんで今度《こんど》の町の音楽会へ出す第六交響曲《だいろくこうきようきよく*》の練習《れんしゆう》をしていました。
トランペットは一生けん命《めい》歌っています。
ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。
クラリネットもボーボーとそれに手伝《てつだ》っています。
ゴーシュも口をりんと結《むす》んで眼《め》を皿《さら》のようにして楽譜《がくふ》を見つめながらもう一心に弾いています。
にわかにぱたっと楽長が両手《りようて》を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ ここからやり直し。はいっ。」みんなは今のところの少し前のところからやり直しました。ゴーシュは顔をまっ赤にして額《ひたい》に汗《あせ》を出しながら、やっといま云《い》われたところを通りました。ほっと安心《あんしん》しながらつづけて弾《ひ》いていますと楽長がまた手をぱっと拍《う》ちました。
「セロっ。糸《いと》が合わない。困《こま》るなあ。ぼくはきみにドレミファを教えてまでいるひまはないんだがなあ。」みんなは気の毒《どく》そうにして、わざとじぶんの譜《ふ》をのぞき込《こ》んだりじぶんの楽器《がつき》をはじいてみたりしています。ゴーシュはあわてて糸を直しました。これはじつはゴーシュも悪《わる》いのですがセロもずいぶん悪いのでした。
「今の前の小節《しようせつ》から。はいっ」
みんなはまたはじめました。ゴーシュも口をまげて一生けん命《めい》です。そしてこんどはかなり進《すす》みました。いいあんばいだと思っていると楽長がおどすような形をしてまたぱたっと手を拍ちました。またかとゴーシュはどきっとしましたがありがたいことにはこんどは別《べつ》の人でした。ゴーシュはそこでさっきじぶんのときみんながしたようにわざとじぶんの譜《ふ》へ眼《め》を近《ちか》づけて何か考えるふりをしていました。「ではすぐ今の次《つぎ》。はいっ。」
そらと思って弾き出したかと思うといきなり楽長が足をどんと踏《ふ》んでどなり出しました。
「だめだ。まるでなっていない。このへんは曲《きよく》の心臓《しんぞう》なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君《しよくん》。演奏《えんそう》までもうあと十日しかないんだよ。音楽を専門《せんもん》にやっているぼくらがあの金沓鍛冶《かなぐつかじ*》だの砂糖屋《さとうや》の丁稚《でつち*》なんかの寄《よ》り集《あつま》りに負《ま》けてしまったらいったいわれわれの面目《めんぼく》はどうなるんだ。おいゴーシュ君《くん》。君《きみ》には困《こま》るんだがなあ。表情《ひようじよう》ということがまるでできてない。怒《いか》るも喜《よろこ》ぶも感情《かんじよう》というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の楽器《がつき》と合わないも《(ママ)》なあ。いつでもきみだけとけた靴《くつ》のひもを引きずってみんなのあとをついてあるくようなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねえ。光輝《こうき》あるわが金星音楽団《きんせいおんがくだん》がきみ一人のために悪評《あくひよう》をとるようなことでは、みんなへもまったく気の毒《どく》だからな。では今日は練習《れんしゆう》はここまで、休んで六時にはかっきりボックスへ入ってくれ給《たま》え。」みんなはおじぎをして、それからたばこをくわえてマッチをすったりどこかへ出て行ったりしました。ゴーシュはその粗末《そまつ》な箱《はこ》みたいなセロをかかえて壁《かべ》の方へ向《む》いて口をまげてぼろぼろ泪《なみだ》をこぼしましたが、気をとり直してじぶんだけたったひとりいまやったところをはじめからしずかにもいちど弾《ひ》きはじめました。
その晩《ばん》遅《おそ》くゴーシュは何か巨《おお》きな黒いものをしょってじぶんの家へ帰ってきました。家といってもそれは町はずれの川ばたにあるこわれた水車小屋《ごや》で、ゴーシュはそこにたった一人ですんでいて午前は小屋のまわりの小さな畑《はたけ》でトマトの枝《えだ》をきったり甘藍《かんらん》の虫をひろったりしてひるすぎになるといつも出て行っていたのです。ゴーシュがうちへ入ってあかりをつけるとさっきの黒い包《つつ》みをあけました。それは何でもない。あの夕方のごつごつしたセロでした。ゴーシュはそれを床《ゆか》の上にそっと置《お》くと、いきなり棚《たな》からコップをとってバケツの水をごくごくのみました。
それから頭を一つふって椅子《いす》へかけるとまるで虎《とら》みたいな勢《いきおい》でひるの譜《ふ》を弾《ひ》きはじめました。譜をめくりながら弾いては考え考えては弾き一生けん命《めい》しまいまで行くとまたはじめからなんべんもなんべんもごうごうごうごう弾きつづけました。
夜中もとうにすぎてしまいはもうじぶんが弾いているのかもわからないようになって顔もまっ赤になり眼《め》もまるで血走ってとても物凄《ものすご》い顔つきになりいまにも倒《たお》れるかと思うように見えました。
そのとき誰《だれ》かうしろの扉《とびら》をとんとんと叩《たた》くものがありました。
「ホーシュ君《くん》か。」ゴーシュはねぼけたように叫《さけ》びました。ところがすうと扉を押《お》してはいって来たのはいままで五、六ぺん見たことのある大きな三毛猫《みけねこ》でした。
ゴーシュの畑《はたけ》からとった半分熟《じゆく》したトマトをさも重《おも》そうに持《も》って来てゴーシュの前におろして云《い》いました。
「ああくたびれた。なかなか運搬《うんぱん》はひどいやな。」
「何だと。」ゴーシュがききました。
「これおみやです。たべてください。」三毛猫《みけねこ》が云いました。
ゴーシュはひるからのむしゃくしゃを一ぺんにどなりつけました。
「誰《だれ》がきさまにトマトなど持ってこいと云った。第一《だいいち》おれがきさまらのもってきたものなど食うか。それからそのトマトだっておれの畑のやつだ。何だ。赤くもならないやつをむしって。いままでもトマトの茎《くき》をかじったりけちらしたりしたのはおまえだろう。行ってしまえ。ねこめ。」
すると猫は肩《かた》をまるくして眼《め》をすぼめてはいましたが口のあたりでにやにやわらって云いました。
「先生、そうお怒《おこ》りになっちゃ、おからだにさわります。それよりシューマンのトロメライ《*》をひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「生意気《なまいき》なことを云うな。ねこのくせに。」
セロ弾《ひ》きはしゃくにさわってこのねこのやつどうしてくれようとしばらく考えました。
「いやご遠慮《えんりよ》はありません。どうぞ。わたしはどうも先生の音楽をきかないとねむられないんです。」
「生意気《なまいき》だ。生意気だ。生意気だ。」
ゴーシュはすっかりまっ赤になってひるま楽長のしたように足ぶみしてどなりましたがにわかに気を変《か》えて云《い》いました。
「では弾《ひ》くよ。」ゴーシュは何と思ったか扉《とびら》にかぎをかって窓《まど》もみんなしめてしまい、それからセロをとりだしてあかしを消《け》しました。すると外から二十日過《す》ぎの月のひかりが室《へや》のなかへ半分ほどはいってきました。
「何をひけと。」
「トロメライ、ロマチックシューマン作曲《さつきよく》。」猫《ねこ》は口を拭《ふ》いて済《す》まして云いました。
「そうか。トロメライというのはこういうのか。」
セロ弾きは何と思ったかまずはんけちを引きさいてじぶんの耳の穴《あな》へぎっしりつめました。それからまるで嵐《あらし》のような勢《いきおい》で「印度《インド》の虎狩《とらがり*》」という譜《ふ》を弾きはじめました。
すると猫はしばらく首をまげて聞いていましたがいきなりパチパチパチッと眼《め》をしたかと思うとぱっと扉の方へ飛《と》びのきました。そしていきなりどんと扉へからだをぶっつけましたが扉《とびら》はあきませんでした。猫《ねこ》はさあこれはもう一生一代《いちだい》の失敗《しつぱい》をしたという風にあわてだして眼《め》や額《ひたい》からぱちぱち火花を出しました。するとこんどは口のひげからも鼻《はな》からも出ましたから猫はくすぐったがってしばらくくしゃみをするような顔をしてそれからまたさあこうしてはいられないぞというようにはせあるきだしました。ゴーシュはすっかり面白《おもしろ》くなってますます勢《いきおい》よくやり出しました。
「先生もうたくさんです。たくさんですよ。ご生《しよう》ですからやめてください。これからもう先生のタクトなんかとりませんから。」
「だまれ。これから虎《とら》をつかまえるところだ。」
猫はくるしがってはねあがってまわったり壁《かべ》にからだをくっつけたりしましたが壁についたあとはしばらく青くひかるのでした。しまいは猫はまるで風車のようにぐるぐるぐるぐるゴーシュをまわりました。
ゴーシュもすこしぐるぐるしてきましたので、「さあこれで許《ゆる》してやるぞ。」と云《い》いながらようようやめました。
すると猫もけろりとして、
「先生、こんやの演奏《えんそう》はどうかしてますね。」と云いました。
セロ弾《ひ》きはまたぐっとしゃくにさわりましたが何気ない風で巻《まき》たばこを一本だして口にくわいそれからマッチを一本とって、
「どうだい。工合《ぐあい》をわるくしないかい。舌《した》を出してごらん。」
猫はばかにしたように尖《とが》った長い舌をべロリと出しました。
「ははあ、すこし荒《あ》れたね。」セロ弾《ひ》きは云《い》いながらいきなりマッチを舌でシュッとすってじぶんのたばこへつけました。さあ猫は愕《おどろ》いたの何の舌を風車のようにふりまわしながら入口の扉《とびら》へ行って頭でどんとぶっつかってはよろよろとしてまた戻《もど》って来てどんとぶっつかってはよろよろまた戻って来てまたぶっつかってはよろよろにげみちをこさえようとしました。ゴーシュはしばらく面白《おもしろ》そうに見ていましたが、
「出してやるよ、もう来るなよ。ばか。」
セロ弾きは扉をあけて猫が風のように萱《かや》のなかを走って行くのを見てちょっとわらいました。それからやっとせいせいしたというようにぐっすりねむりました。
次《つぎ》の晩《ばん》もゴーシュがまた黒いセロの包《つつ》みをかついで帰ってきました。そして水をごくごくのむとそっくりゆうべのとおりぐんぐんセロを弾きはじめました。十二時は間もなく過《す》ぎ一時もすぎ二時もすぎてもゴーシュはまだやめませんでした。それからもう何時だかもわからず弾いているかもわからずごうごうやっていますと誰《だれ》か屋根裏《やねうら》をこっこっと叩《たた》くものがあります。
「猫《ねこ》、まだこりないのか。」
ゴーシュが叫《さけ》びますといきなり天井《てんじよう》の穴《あな》からぼろんと音がして一疋《ぴき》の灰《はい》いろの鳥が降《お》りて来ました。床《ゆか》へとまったのを見るとそれはかっこう《*》でした。
「鳥まで来るなんて。何の用だ。」ゴーシュが云《い》いました。
「音楽を教わりたいのです。」
かっこう鳥はすまして云いました。
ゴーシュは笑《わら》って、
「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃあないか。」
するとかっこうが大へんまじめに、
「ええ、それなんです。けれどもむずかしいですからねえ。」と云いました。
「むずかしいもんか。おまえたちのはたくさん啼《な》くのがひどいだけで なきようは何でもないじゃないか。」
「ところがそれがひどいんです。たとえばかっこうとこうなくのとかっこうとこうなくのとでは聞いていてもよほどちがうでしょう。」
「ちがわないね。」
「ではあなたにはわからないんです。わたしらのなかまならかっこうと一万云《い》えば一万みんなちがうんです。」
「勝手《かつて》だよ。そんなにわかってるなら何もおれの処《ところ》へ来なくてもいいではないか。」
「ところが私《わたし》はドレミファを正確《せいかく》にやりたいんです。」
「ドレミファもくそもあるか。」
「ええ、外国へ行く前にぜひ一度《いちど》いるんです。」
「外国もくそもあるか。」
「先生どうかドレミファを教えてください。わたしはついてうたいますから。」
「うるさいなあ。そら三べんだけ弾《ひ》いてやるからすんだらさっさと帰るんだぞ。」
ゴーシュはセロを取《と》り上げてボロンボロンと糸を合せてドレミファソラシドとひきました。するとかっこうはあわてて羽《はね》をばたばたしました。
「ちがいます、ちがいます。そんなんでないんです。」
「うるさいなあ。ではおまえやってごらん。」
「こうですよ。」かっこうはからだをまえに曲《ま》げてしばらく構《かま》えてから、
「かっこう。」と一つなきました。
「何だい。それがドレミファかい。おまえたちにはそれではドレミファも第六交響楽《だいろくこうきようがく》も同じなんだな。」
「それはちがいます。」
「どうちがうんだ。」
「むずかしいのはこれをたくさん続《つづ》けたのがあるんです。」
「つまりこうだろう。」セロ弾《ひ》きはまたセロをとって、かっこうかっこうかっこうかっこうかっこうとつづけてひきました。
するとかっこうはたいへんよろこんで途中からかっこうかっこうかっこうかっこうとついて叫《さけ》びました。それももう一生けん命《めい》からだをまげていつまでも叫ぶのです。
ゴーシュはとうとう手が痛《いた》くなって「こら、いいかげんにしないか。」と云《い》いながらやめました。するとかっこうは残念《ざんねん》そうに眼《め》をつりあげてまだしばらくないていましたがやっと、
「……かっこうかっこうかっかっかっかっか。」と云ってやめました。
ゴーシュがすっかりおこってしまって、「こらとり、もう用《よう》が済《す》んだらかえれ。」と云いました。
「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいいようだけれどもすこしちがうんです。」
「何だと、おれがきさまに教わってるんではないんだぞ。帰らんか。」
「どうかたったもう一ぺんおねがいです。どうか。」かっこうは頭を何べんもこんこん下げました。
「ではこれっきりだよ。」
ゴーシュは弓をかまえました。かっこうは、「くっ。」とひとつ息《いき》をして「ではなるべく永《なが》くおねがいいたします。」といってまた一つおじぎをしました。
「いやになっちまうなあ。」ゴーシュはにが笑《わら》いしながら弾きはじめました。するとかっこうはまたまるで本気になって「かっこうかっこうかっこう。」とからだをまげてじつに一生けん命《めい》叫《さけ》びました。ゴーシュははじめはむしゃくしゃしていましたがいつまでもつづけて弾いているうちにふっと何だかこれは鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなという気がしてきました。どうも弾けば弾くほどかっこうの方がいいような気がするのでした。「えいこんなばかなことしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか。」とゴーシュはいきなりぴたりとセロをやめました。
するとかっこうはどしんと頭を叩《たた》かれたようにふらふらっとしてそれからまたさっきのように「かっこうかっこうかっこうかっかっかっかっかっ。」と云《い》ってやめました。それから恨《うら》めしそうにゴーシュを見て「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地《いくじ》ないやつでものどから血が出るまでは叫《さけ》ぶんですよ。」と云いました。
「何を生意気《なまいき》な。こんなばかなまねをいつまでしていられるか。もう出て行け。見ろ。夜があけるんじゃないか。」ゴーシュは窓《まど》を指《ゆび》さしました。
東のそらがぼうっと銀《ぎん》いろになってそこをまっ黒な雲が北の方へどんどん走っています。
「ではお日さまの出るまでどうぞ。もう一ぺん。ちょっとですから。」かっこうはまた頭を下げました。
「黙《だま》れっ。いい気になって。このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯《あさめし》に食ってしまうぞ。」ゴーシュはどんと床《ゆか》をふみました。
するとかっこうはにわかにびっくりしたようにいきなり窓をめがけて飛《と》び立ちました。そして硝子《ガラス》にはげしく頭をぶっつけてばたっと下へ落《お》ちました。「何だ、硝子へ、ばかだなあ。」ゴーシュはあわてて立って窓をあけようとしましたが元来この窓はそんなにいつでもするする開《あ》く窓ではありませんでした。ゴーシュが窓のわくをしきりにがたがたしているうちにまたかっこうがばっとぶっつかって下へ落ちました。見ると嘴《くちばし》のつけねからすこし血《ち》が出ています。
「いまあけてやるから待《ま》っていろったら。」ゴーシュがやっと二寸《すん》ばかり窓《まど》をあけたとき、かっこうは起《お》きあがって何が何でもこんどこそというようにじっと窓の向《むこ》うの東のそらをみつめて、あらん限《かぎ》りの力をこめた風でぱっと飛《と》びたちました。もちろんこんどは前よりひどく硝子《ガラス》につきあたってかっこうは下へ落《お》ちたまましばらく身動《みうご》きもしませんでした。つかまえてドアから飛ばしてやろうとゴーシュが手を出しましたらいきなりかっこうは眼《め》をひらいて飛びのきました。そしてまたガラスへ飛びつきそうにするのです。ゴーシュは思わず足を上げて窓をばっとけりました。ガラスは二、三枚《まい》物《もの》すごい音して砕《くだ》け窓はわくのまま外へ落ちました。そのがらんとなった窓のあとをかっこうが矢のように外へ飛びだしました。そしてもうどこまでもどこまでもまっすぐに飛んで行ってとうとう見えなくなってしまいました。ゴーシュはしばらく呆《あき》れたように外を見ていましたが、そのまま倒《たお》れるように室《へや》のすみへころがって睡《ねむ》ってしまいました。
次《つぎ》の晩《ばん》もゴーシュは夜中すぎまでセロを弾《ひ》いてつかれて水を一杯《ぱい》のんでいますと、また扉《とびら》をこつこつと叩《たた》くものがあります。
今夜は何が来てもゆうべのかっこうのようにはじめからおどかして追《お》い払《はら》ってやろうと思ってコップをもったまま待《ま》ち構《かま》えておりますと、扉《とびら》がすこしあいて一疋《ぴき》の狸《たぬき》の子がはいってきました。ゴーシュはそこでその扉をもう少し広くひらいておいてどんと足をふんで、
「こら、狸、おまえは狸汁《たぬきじる》ということを知っているかっ。」とどなりました。すると狸の子はぼんやりした顔をしてきちんと床《ゆか》へ座《すわ》ったままどうもわからないというように首をまげて考えていましたが、しばらくたって「狸汁ってぼく知らない。」と云《い》いました。ゴーシュはその顔を見て思わず吹《ふ》き出そうとしましたが、まだ無理《むり》に恐《こわ》い顔をして、「では教えてやろう。狸汁というのはな。おまえのような狸をな、キャベジや塩《しお》とまぜてくたくたと煮《に》ておれさまの食うようにしたものだ。」と云いました。すると狸の子はまたふしぎそうに、
「だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんはとてもいい人でこわくないから行って習《なら》えと云ったよ。」と云いました。そこでゴーシュもとうとう笑《わら》い出してしまいました。「何を習えと云ったんだ。おれはいそがしいんじゃないか。それに睡《ねむ》いんだよ。」狸の子は俄《にわか》に勢《いきおい》がついたように一足前へ出ました。
「ぼくは小太鼓《こだいこ》の係《かか》りでねえ。セロへ合せてもらって来いと云われたんだ。」「どこにも小太鼓がないじゃないか。」「そら、これ。」狸の子はせなかから棒きれを二本出しました。「それでどうするんだ。」「ではね、『愉快《ゆかい》な馬車屋《ばしやや*》』を弾《ひ》いてください。」「何だ愉快な馬車屋ってジャズか。」「ああこの譜《ふ》だよ。」狸《たぬき》の子はせなかからまた一枚《まい》の譜をとり出しました。ゴーシュは手にとってわらい出しました。「ふう、変《へん》な曲《きよく》だなあ。よし、さあ弾くぞ。おまえは小太鼓を叩《たた》くのか。」ゴーシュは狸の子がどうするのかと思ってちらちらそっちを見ながら弾きはじめました。
すると狸の子は棒《ぼう》をもってセロの駒《こま》の下のところを拍子《ひようし》をとってぽんぽん叩《たた》きはじめました。それがなかなかうまいので弾いているうちにゴーシュはこれは面白《おもしろ》いぞと思いました。
おしまいまでひいてしまうと狸の子はしばらく首をまげて考えました。
それからやっと考えついたというように云いました。
「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに《*》遅《おく》れるねえ。なんだかぼくがつまずくようになるよ。」
ゴーシュははっとしました。たしかにその糸はどんなに手早く弾いてもすこしたってからでないと音が出ないような気がゆうべからしていたのでした。
「いや、そうかもしれない。このセロは悪《わる》いんだよ。」とゴーシュはかなしそうに云いました。すると狸は気の毒《どく》そうにしてまたしばらく考えていましたが「どこが悪いんだろうなあ。ではもう一ぺん弾《ひ》いてくれますか。」
「いいとも弾くよ。」ゴーシュははじめました。狸《たぬき》の子はさっきのようにとんとん叩《たた》きながら時々頭をまげてセロに耳をつけるようにしました。そしておしまいまで来たときは今夜もまた東がぼうと明るくなっていました。
「あ、夜が明けたぞ。どうもありがとう。」狸の子は大へんあわてて譜《ふ》や棒《ぼう》きれをせなかへしょってゴムテープでぱちんととめておじぎを二つ三つすると急《いそ》いで外へ出て行ってしまいました。
ゴーシュはぼんやりしてしばらくゆうべのこわれたガラスからはいってくる風を吸《す》っていましたが、町へ出て行くまで睡《ねむ》って元気をとり戻《もど》そうと急いでねどこへもぐり込《こ》みました。
次《つぎ》の晩《ばん》もゴーシュは夜通しセロを弾いて明け方近く思わずつかれて楽器《がつき》をもったままうとうとしていますと、また誰《だれ》か扉《とびら》をこつこつと叩くものがあります。それもまるで聞えるか聞えないかのくらいでしたが毎晩《まいばん》のことなのでゴーシュはすぐ聞きつけて「おはいり。」と云《い》いました。すると戸のすきまからはいって来たのは一ぴきの野ねずみでした。そして大へんちいさなこどもをつれてちょろちょろとゴーシュの前へ歩いてきました。そのまた野ねずみのこどもと来たらまるでけしごむのくらいしかないのでゴーシュはおもわずわらいました。すると野ねずみは何をわらわれたろうというようにきょろきょろしながらゴーシュの前に来て、青い栗《くり》の実《み》を一つぶ前においてちゃんとおじぎをして云《い》いました。
「先生、この児《こ》があんばいがわるくて死《し》にそうでございますが先生お慈悲《じひ》になおしてやってくださいまし。」
「おれが医者《いしや》などやれるもんか。」ゴーシュはすこしむっとして云いました。すると野ねずみのお母さんは下を向《む》いてしばらくだまっていましたがまた思い切ったように云いました。
「先生、それはうそでございます。先生は毎日あんなに上手《じようず》にみんなの病気《びようき》をなおしておいでになるではありませんか。」
「何のことだかわからんね。」
「だって先生先生のおかげで、兎《うさぎ》さんのおばあさんもなおりましたし狸《たぬき》さんのお父さんもなおりましたしあんな意地悪《いじわる》のみみずく《*》までなおしていただいたのにこの子ばかりお助けをいただけないとはあんまり情《なさけ》ないことでございます。」
「おいおい、それは何かの間ちがいだよ。おれはみみずくの病気なんどなおしてやったことはないからな。もっとも狸《たぬき》の子はゆうべ来て楽隊《がくたい》のまねをして行ったがね。ははん。」ゴーシュは呆《あき》れてその子ねずみを見おろしてわらいました。
すると野鼠《のねずみ》のお母さんは泣《な》きだしてしまいました。
「ああこの児《こ》はどうせ病気になるならもっと早くなればよかった。さっきまであれくらいごうごうと鳴らしておいでになったのに、病気になるといっしょにぴたっと音がとまってもうあとはいくらおねがいしても鳴らしてくださらないなんて。何てふしあわせな子どもだろう。」
ゴーシュはびっくりして叫《さけ》びました。
「何だと、ぼくがセロを弾《ひ》けばみみずくや兎《うさぎ》の病気がなおると。どういうわけだ。それは。」
野ねずみは眼《め》を片手《かたて》でこすりこすり云《い》いました。
「はい、ここらのものは病気になるとみんな先生のおうちの床下《ゆかした》にはいって療《なお》すのでございます。」
「すると療るのか。」
「はい。からだ中とても血《ち》のまわりがよくなって大へんいい気持《きも》ちですぐに療る方もあればうちへ帰ってから療る方もあります。」
「ああそうか。おれのセロの音がごうごうひびくと、それがあんまの代《かわ》りになっておまえたちの病気《びようき》がなおるというのか。よし。わかったよ。やってやろう。」ゴーシュはちょっとギウギウと糸を合せてそれからいきなりねずみのこどもをつまんでセロの孔《あな》の中へ入れてしまいました。
「わたしもいっしょについて行きます。どこの病院《びよういん》でもそうですから。」おっかさんの野ねずみはきちがいのようになってセロに飛《と》びつきました。
「おまえさんもはいるかね。」セロ弾《ひ》きはおっかさんの野ねずみをセロの孔からくぐしてやろうとしましたが顔が半分しかはいりませんでした。
野ねずみはばたばたしながら中のこどもに叫《さけ》びました。
「おまえそこはいいかい。落《お》ちるときいつも教えるように足をそろえてうまく落ちたかい。」
「いい。うまく落ちた。」こどものねずみはまるで蚊《か》のような小さな声でセロの底《そこ》で返事《へんじ》しました。
「大丈夫《だいじようぶ》さ。だから泣《な》き声出すなというんだ。」ゴーシュはおっかさんのねずみを下におろしてそれから弓をとって何とかラプソディ《*》とかいうものをごうごうがあがあ弾きました。するとおっかさんのねずみはいかにも心配《しんぱい》そうにその音の工合《ぐあい》をきいていましたがとうとうこらえ切れなくなったふうで、
「もう沢山《たくさん》です。どうか出してやってください。」と云《い》いました。
「なあんだ、これでいいのか。」ゴーシュはセロをまげて孔《あな》のところに手をあてて待《ま》っていましたら間もなくこどものねずみが出てきました。ゴーシュはだまってそれをおろしてやりました。見るとすっかり目をつぶってぶるぶるぶるぶるふるえていました。
「どうだったの。いいかい。気分は。」
こどものねずみはすこしもへんじもしないでまだしばらく眼《め》をつぶったままぶるぶるぶるぶるふるえていましたがにわかに起《お》きあがって走りだした。
「ああよくなったんだ。ありがとうございます。ありがとうございます。」おっかさんのねずみもいっしょに走っていましたが、まもなくゴーシュの前に来てしきりにおじぎをしながら、
「ありがとうございますありがとうございます。」と十ばかり云いました。
ゴーシュは何がなかあいそうになって「おい、おまえたちはパンはたべるのか。」とききました。
すると野鼠《のねずみ》はびっくりしたようにきょろきょろあたりを見まわしてから、
「いえ、もうおパンというものは小麦の粉《こな》をこねたりむしたりしてこしらえたものでふくふく膨《ふく》らんでいておいしいものなそうでございますが、そうでなくても私どもはおうちの戸棚《とだな》へなど参《まい》ったこともございませんし、ましてこれくらいお世話になりながらどうしてそれを運《はこ》びになんど参《まい》れましょう。」と云《い》いました。
「いや、そのことではないんだ。ただたべるのかときいたんだ。ではたべるんだな。ちょっと待《ま》てよ。その腹《はら》の悪《わる》いこどもへやるからな。」
ゴーシュはセロを床《ゆか》へ置《お》いて戸棚からパンを一つまみむしって野ねずみの前へ置きました。
野ねずみはもうまるでばかのようになって泣《な》いたり笑《わら》ったりおじぎをしたりしてから大じそうにそれをくわえてこどもをさきに立てて外へ出て行きました。
「あああ。鼠《ねずみ》と話するのもなかなかつかれるぞ。」ゴーシュはねどこへどっかり倒《たお》れてすぐぐうぐうねむってしまいました。
それから六日目の晩《ばん》でした。金星音楽団《きんせいおんがくだん》の人たちは町の公会堂《こうかいどう》のホールの裏《うら》にある控室《ひかえしつ》へみんなぱっと顔をほてらしてめいめい楽器《がつき》をもって、ぞろぞろホールの舞台《ぶたい》から引きあげて来ました。首尾《しゆび》よく第六交響曲《だいろくこうきようきよく》を仕上げたのです。ホールでは拍手《はくしゆ》の音がまだ嵐《あらし》のように鳴って居《お》ります。楽長はポケットへ手をつっ込《こ》んで拍手《はくしゆ》なんかどうでもいいというようにのそのそみんなの間を歩きまわっていましたが、じつはどうして嬉《うれ》しさでいっぱいなのでした。みんなはたばこをくわえてマッチをすったり楽器《がつき》をケースへ入れたりしました。
ホールではまだぱちぱち手が鳴っています。それどころではなくいよいよそれが高くなって何だかこわいような手がつけられないような音になりました。大きな白いリボンを胸《むね》につけた司会者《しかいしや》がはいって来ました。
「アンコールをやっていますが、何かみじかいものでもきかせてやってくださいませんか。」すると楽長がきっとなって答えました。「いけませんな。こういう大物《おおもの》のあとへ何を出したってこっちの気の済《す》むようには行くもんでないんです。」「では楽長さん出て一寸《ちよつと》挨拶《あいさつ》して下さい。」
「だめだ。おい、ゴーシュ君《くん》、何か出て弾《ひ》いてやってくれ。」「わたしがですか。」ゴーシュは呆気《あつけ》にとられました。「君《きみ》だ、君だ。」ヴァイオリンの一番の人がいきなり顔をあげて云いました。
「さあ出て行きたまえ。」楽長が云いました。みんなもセロをむりにゴーシュに持《も》たせて扉《とびら》をあけるといきなり舞台《ぶたい》へゴーシュを押《お》し出してしまいました。ゴーシュがその孔《あな》のあいたセロをもってじつに困《こま》ってしまって舞台へ出るとみんなはそら見ろというように一そうひどく手を叩《たた》きました。わあと叫《さけ》んだものもあるようでした。
「どこまでひとをばかにするんだ。よし見ていろ。印度《インド》の虎狩《とらがり》をひいてやるから。」ゴーシュはすっかり落《お》ちついて舞台のまん中へ出ました。
それからあの猫《ねこ》の来たときのようにまるで怒《おこ》った象《ぞう》のような勢《いきお》いで虎狩りを弾《ひ》きました。ところが聴衆《ちようしゆう》はしいんとなって一生けん命《めい》聞いています。ゴーシュはどんどん弾きました。猫が切ながってぱちぱち火花を出したところも過《す》ぎました。扉《とびら》へからだを何べんもぶっつけたところも過ぎました。
曲《きよく》が終《おわ》るとゴーシュはもうみんなの方などは見もせずちょうどその猫のようにすばやくセロをもって楽屋《がくや》へ遁《に》げ込《こ》みました。すると楽屋では楽長はじめ仲間《なかま》がみんな火事《かじ》にでもあったあとのように眼《め》をじっとしてひっそりとすわり込んでいます。ゴーシュはやぶれかぶれだと思ってみんなの間をさっさとあるいて行って向《むこ》うの長椅子《ながいす》へどっかりとからだをおろして足を組んですわりました。
するとみんなが一ぺんに顔をこっちへ向けてゴーシュを見ましたがやはりまじめでべつにわらっているようでもありませんでした。
「こんやは変《へん》な晩《ばん》だなあ。」
ゴーシュは思いました。ところが楽長は立って云《い》いました。
「ゴーシュ君《くん》、よかったぞう。あんな曲《きよく》だけれどもここではみんなかなり本気になって聞いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶん仕上《しあ》げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊《ぼう》と兵隊《へいたい》だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか君《きみ》。」仲間《なかま》もみんな立って来て「よかったぜ。」とゴーシュに云いました。「いや、からだが丈夫《じようぶ》だからこんなこともできるよ。普通《ふつう》の人なら死《し》んでしまうからな。」楽長が向《むこ》うで云っていました。
その晩遅《おそ》くゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
そしてまた水をがぶがぶ呑《の》みました。それから窓《まど》をあけていつかかっこうの飛《と》んで行ったと思った遠くのそらをながめながら、
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒《おこ》ったんじゃなかったんだ。」と云いました。
付録
ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記《でんき》
一 ペンネンネンネンネン・ネネムの独立《どくりつ》
〔冒頭原稿数枚焼失〕
のでした。実際《じつさい》、東のそらはお「キレ」さまの出る前に、琥珀色《こはくいろ》のビールで一杯《いつぱい》になるのでした。ところが、そのまま夏になりましたが、ばけものたちはみんな騒《さわ》ぎはじめました。
そのわけ〔十七字不明〕ばけもの麦も一向《いつこう》みのらず、大〔六字不明〕が咲《さ》いただけで一つぶも実《み》になりませんでした。秋になっても全《まつた》くその通〔七字不明〕の栗《くり》の木さえ、ただ青いいがばかり、〔八字不明〕飢饉《ききん》になってしまいました。
その年は暮《く》れましたが、次《つぎ》の春になりますと飢饉はもうとてもひどくなってしまいました。
ネネムのお父さん、森の中の青ばけものは、ある日頭をかかえていつまでもいつまでも考えていましたが、急《きゆう》に起《お》きあがって、
「おれは森へ行って何かさがして来るぞ。」と云《い》いながら、よろよろ家を出て行きましたが、それなりもういつまで待《ま》っても帰って来ませんでした。たしかにばけもの世界《せかい》の天国に、行ってしまったのでした。
ネネムのお母さんは、毎日目を光らせて、ため息《いき》ばかり吐《つ》いていましたが、ある日ネネムとマミミとに、
「わたしは野原に行って何かさがして来るからね。」と云って、よろよろ家を出て行きましたが、やはりそれきりいつまで待っても帰って参《まい》りませんでした。たしかにお母さんもその天国に呼《よ》ばれて行ってしまったのでした。
ネネムは小さなマミミとただ二人、寒さと飢《う》えとにガタガタふるえて居《お》りました。
するとある日戸口から、
「いや、今日は。私はこの地方の飢饉《ききん》を救《たす》けに来たものですがね。さあ何でも喰《た》べなさい。」
と云いながら、一人の目の鋭《するど》いせいの高い男が、大きな籠《かご》の中に、ワップル《*》や葡萄《ぶどう》パンや、そのほかうまいものを沢山《たくさん》入れて入って来たのでした。
二人はまるで籠を引ったくるようにして、ムシャムシャムシャムシャ、沢山喰べてから、やっと、「おじさんありがとう。ほんとうにありがとうよ。」なんて云《い》ったのでした。
男は大へん目を光らせて、二人のたべるところをじっと見ておりましたがその時やっと口を開《ひら》きました。
「お前たちはいい子供《こども》だね。しかしいい子供だというだけでは何にもならん。わしと一緒《いつしよ》においで。いいとこへ連《つ》れてってやろう。尤《もつと》も男の子は強いし、それにどうも膝《ひざ》やかかとの骨《ほね》が固《かた》まってしまっているようだから仕方《しかた》ないが、おい、女の子。おじさんとこへ来ないか。一日いっぱい葡萄《ぶどう》パンを喰《た》べさしてやるよ。」
ネネムもマミミも何とも返事《へんじ》をしませんでしたが男はふいっとマミミをお菓子《かし》の籠《かご》の中へ入れて、
「おお、ホイホイ、おお、ホイホイ」と云いながら俄《にわか》にあわてだして風のように家を出て行きました。
何のことだかわけがわからずきょろきょろしていたマミミ〔一字不明〕、戸口を出てからはじめてわっと泣《な》き出しネネムは、
「どろぼう、どろぼう。」と泣きながら叫《さけ》んで追《お》いかけましたが、もう男は森を抜《ぬ》けてずうっと向《むこ》うの黄色な野原を走って行くのがちらっと見えるだけでした。マミミの声が小さな白い三角の光になってネネムの胸《むね》にしみ込《こ》むばかりでした。
ネネムは泣いてどなって森の中をうろうろうろうろはせ歩きましたがとうとう疲《つか》れてばたっと倒《たお》れてしまいました。
それから何日経《た》ったかわかりません。
ネネムはふっと目をあきました。見るとすぐ頭の上のばけもの栗《くり》の木がふっふっと湯気《ゆげ》を吐《は》いていました。
その幹《みき》に鉄《てつ》のはしごが両方《りようほう》から二つかかって二人の男が登《のぼ》って何かしきりにつなをたぐるような網《あみ》を投《な》げるようなかたちをやって居《お》りました。
ネネムは起《お》きあがって見ますとお「キレ」さまはすっかりふだんのようになっておまけにテカテカして何でも今朝《けさ》あたり顔をきれいに剃《そ》ったらしいのです。
それにかれ草がほかほかしてばけものわらびなどもふらふらと生え出しています。ネネムは飛《と》んで行ってそれをむしゃむしゃたべました。するとネネムの頭の上でいやに平《ひら》べったい声がしました。
「おい。子供《こども》。やっと目がさめたな。まだお前は飢饉《ききん》のつもりかい。もうじき夏になるよ。すこしおれに手伝《てつだ》わないか。」
見るとそれは実《じつ》に立派《りつぱ》なばけもの紳士《しんし》でした。貝穀《かいがら》でこしらえた外套《がいとう》を着《き》て水煙草《みずたばこ*》を片手《かたて》に持《も》って立っているのでした。
「おじさん。もう飢饉《ききん》は過《す》ぎたの。手伝いって何を手伝うの。」
「昆布《こんぶ》取《と》りさ。」
「ここで昆布がとれるの。」
「取れるとも。見ろ。折角《せつかく》やってるじゃないか。」
なるほどさっきの二人は一生けん命《めい》網《あみ》をなげたりそれを繰《く》ったりしているようでしたが網も糸も一向《いつこう》見えませんでした。
「あれでも昆布がとれるの。」
「あれでも昆布がとれるのかって。いやな子供《こども》だな。おい、縁起《えんぎ》でもないぞ。取れもしないところにどうして工場なんか建《た》てるんだ。取れるともさ。現《げん》におれはじめ沢山《たくさん》のものがそれでくらしを立てているんじゃないか。」
ネネムはかすれた声でやっと「そうですか。おじさん。」と云《い》いました。
「それにこの森はすっかりおれの森なんだから、さっきのように勝手《かつて》にわらびなんぞ取ることは疾《と》うに差《さ》し止めてあるんだぞ。」
ネネムは大変《たいへん》いやな気がしました。紳士《しんし》はまた云いました。
「お前もおれの仕事《しごと》に手伝《てつだ》え。一日一ドルずつ手間《てま》をやるぜ。そうでもしなかったらお前は飯《めし》を食えまいぜ。」
ネネムは泣《な》き出しそうになりましたがやっとこらえて云《い》いました。
「おじさん。そんなら僕《ぼく》手伝うよ。けれどもどうして昆布《こんぶ》を取《と》るの。」
「ふん。そいつは勿論《もちろん》教えてやる。いいか、そら。」紳士はポケットから小さく畳《たた》んだ洋傘《ようがさ》の骨《ほね》のようなものを出しました。
「いいか。こいつを延《の》ばすと子供《こども》の使《つか》うはしごになるんだ。いいか。そら。」
紳士はだんだんそれを引き延ばしました。まもなく長さ十米《メートル》ばかりの細い細い絹糸《きぬいと》でこさえたようなはしごが出来あがりました。
「いいかい。こいつをね。あの栗《くり》の木に掛《か》けるんだよ。ああ云う工合《ぐあい》にね。」紳士はさっきの二人の男を指《ゆび》さしました。二人は相《あい》かわらず見えない網《あみ》や糸をまっさおな空に投《な》げたり引いたりしています。
紳士ははしごを栗の樹《き》にかけました。
「いいかい。今度はおまえがこいつをのぼって行くんだよ。そら、登《のぼ》ってごらん。」
ネネムはしかたなくはしごにとりついて登って行きましたがはしごの段々《だんだん》がまるで針金《はりがね》のように細くて手や、足に喰《く》い込《こ》んでちぎれてしまいそうでした。
「もっと登《のぼ》るんだよ。もっと。そら、もっと。」下では紳士が叫《さけ》んでいます。ネネムはすっかり頂上《ちようじよう》まで登りました。栗《くり》の木の頂上というものはどうも実《じつ》に寒《さむ》いのでした。それに気がついてみると、自分の手からまるで蜘蛛《くも》の糸でこしらえたようなあやしい網《あみ》がぐらぐらゆれながらずうっと青空の方へひろがっているのです。そのぐらぐらはだんだん烈《はげ》しくなってネネムは危《あぶ》なく下に落《お》ちそうにさえなりました。
「そら、網があったろう。そいつを空へ投《な》げるんだよ。手がぐらぐら云《い》うだろう。そいつはね、風の中のふかやさめがつきあたってるんだ。おや、お前はふるえてるね。意気地《いくじ》なしだなあ。投げるんだよ、投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」
ネネムは何とも云えず厭《いや》な心持《こころもち》がしました。けれども仕方《しかた》なく力一杯《いつぱい》それをたぐり寄《よ》せてそれからあらんかぎり上の方に投げつけました。すると目がぐるぐるっとして、ご機嫌《きげん》のいいおキレさままでがまるで黒い土の球《たま》のように見えそれからシュウとはしごのてっぺんから下へ落ちました。もう死《し》んだとネネムは思いましたがその次《つぎ》にもう耳が抜《ぬ》けたとネネムは思いました。というわけはネネムはきちんと地面《じめん》の上に立っていて紳士《しんし》はネネムの耳をつかんでぶりぶり云いながら立っていました。
「お前もいくじのないやつだ。何というふにゃふにゃだ。俺《おれ》が今お前の耳をつかんで止めてやらなかったらお前は今ごろは頭がパチンとはじけていたろう。おれはお前の大恩人《だいおんじん》ということになっている。これから失礼《しつれい》をしてはならん。ところでさあ、登《のぼ》れ。登るんだよ。夕方になったらたべものを送《おく》ってやろう。夜になったら綿《わた》のはいったチョッキもやろう。さあ、登れ。」
「夕方になったら下へ降《お》りて来るんでしょう。」
「いいや。そんなことがあるもんか。とにかく昆布《こんぶ》がとれなくちゃだめだ。どれ一寸《ちよつと》網《あみ》を見せろ。」
紳士はネネムの手にくっついた網をたぐり寄せて中をあらためました。網のずうっとはじの方に一寸《いつすん》四方ばかりの茶色のヌラヌラしたものがついていました。紳士はそれを取って、
「ふん、たったこれだけか。」と云《い》いながらそれでも少し笑《わら》ったようでした。そしてネネムはまたはしごを上って行きました。
やっと頂上《ちようじよう》へ着《つ》いてまた力一杯《いつぱい》空に網を投《な》げました。それからわくわくする足をふみしめふみしめ網を引き寄《よ》せて見ましたが中にはなんにもはいっていませんでした。
「それ、しっかり投げろ。なまけるな。」下では紳士が叫《さけ》んでいます。ネネムはそこでまた投げました。やっぱりなんにもありません。また投げました。やっぱり昆布ははいりません。
つかれてへトヘトになったネネムはもう何でも構《かま》わないから下りて行こうとしました。すると愕《おどろ》いたことにははしごがありませんでした。
そしてもう夕方になったと見えてばけものぞらは緑色《みどりいろ》になり変《へん》なばけものパンが下の方からふらふらのぼって来てネネムの前にとまりました。紳士《しんし》はどこへ行ったか影《かげ》もかたちもありません。
向《むこ》うの木の上の二人もしょんぼりと頭を垂《た》れてパンを食べながら考えているようすでした。その木にも鉄《てつ》のはしごがもう見えませんでした。
ネネムも仕方《しかた》なくばけものパンを噛《か》じりはじめました。
その時紳士が来て、
「さあ、たべてしまったらみんな早く網《あみ》を投《な》げろ。昆布《こんぶ》を一斤《いつきん》とらないうちは綿《わた》のはいったチョッキをやらんぞ。」とどなりました。
ネネムは叫《さけ》びました。
「おじさん。僕《ぼく》もうだめだよ。おろしておくれ。」紳士が下でどなりました。
「何だと。パンだけ食ってしまってあとはおろしてくれだと。あんまり勝手《かつて》なことを云うな。」
「だってもううごけないんだもの。」
「そうか。それじゃ動《うご》けるまでやすむさ。」と紳士が云《い》いました。ネネムは栗《くり》の木のてっぺんに腰《こし》をかけてつくづくとやすみました。
その時栗の木が湯気《ゆげ》をホッホッと吹《ふ》き出しましたのでネネムは少し暖《あたた》まって楽になったように思いました。そこでまた元気を出して網《あみ》を空に投《な》げました。空では丁度《ちようど》星が青く光りはじめたところでした。
ところが今度の網がどうも実《じつ》に重《おも》いのです。ネネムはよろこんでたぐり寄《よ》せてみますとたしかに大きな大きな昆布《こんぶ》が一枚《まい》ひらりとはいっておりました。
ネネムはよろこんで、
「おじさん。さあ投げるよ。とれたよ。」
と云《い》いながらそれを下へ落《おと》しました。
「うまい、うまい。よし、さあ綿《わた》のチョッキをやるぜ。」チョッキがふらふらのぼって来ました。ネネムは急《いそ》いでそれを着《き》て云いました。
「おじさん。一ドル呉《く》れるの。」
紳士が下の浅黄色《あさぎいろ》のもやの中で云いました。
「うん。一ドルやる。しかしパンが一日一ドルだからな。一日十斤《きん》以上《いじよう》こんぶを取《と》ったらあとは一斤十セントで買ってやろう。そのよけいの分がおまえのもうけさ。ためておいていつでも払《はら》ってやるよ。その代《かわ》り十斤に足《た》りなかったら足りない分がお前の損《そん》さ。その分かしにしておくよ。」
ネネムは実《じつ》にがっかりしました。向《むこ》うの木の二人の男はもういくら星あかりにすかして見ても居《い》ないようでした。きっとあんまり仕事《しごと》がつらくて消滅《しようめつ》してしまったのでしょう。さてネネムは決心《けつしん》しました。それからよるもひるも栗《くり》の木の湯気《ゆげ》とばけものパンと見えない網《あみ》と紳士《しんし》と昆布《こんぶ》と、これだけを相手《あいて》にして実に十年というものこの仕事《しごと》をつづけました。これらの対手《あいて》の中でもパンと昆布とがまず大将《たいしよう》でした。はじめの四年は毎日毎日借りばかり次《つぎ》の五年でそれを払《はら》いおしまいの三ヶ月でお金がたまりました。そこで下に降《お》りてたまった三百ドルをふところにして、ばけもの世界《せかい》のまちの方へ歩き出しました。
二 ペンネンネンネンネン・ネネムの立身《りつしん》
ペンネンネンネンネン・ネネムは十年のあいだ木の上に直立し続《つづ》けた為《ため》にしきりに痛《いた》む膝《ひざ》を撫《な》でながら、森を出て参《まい》りました。森の出口に小さな雑貨商《ざつかしよう》がありましたので、ネネムは店にはいって、まっ黒な上着《うわぎ》とズボンを一つ買いました。それから急《いそ》いでそれを着《き》ながら考えました。
「何か学問をして書記になりたいもんだな。もう投《な》げるようなたぐるようなことは考えただけでも命《いのち》が縮《ちぢ》まる。よしきっと書記になるぞ。」
ペンネンネンネンネン・ネネムはお銭《あし》を払《はら》って店を出る時ちらっと向《むこ》うの姿見《すがみ》にうつった自分の姿を見ました。
着物《きもの》が夜のようにまっ黒、縮れた赤毛《あかげ》が頭から肩《かた》にふさふさ垂《たれ》まっ青な眼《め》はかがやきそれが自分だかと疑《うたが》ったくらい立派《りつぱ》でした。
ネネムは嬉《うれ》しくて口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いてただ一息《ひといき》に三十ノット《*》ばかり走りました。
「ハンムンムンムンムン・ムムネの市までもうどれくらいありましょうか。」とペンネンネンネンネン・ネネムが、向《むこ》うからふらふらやって来た黄色な影法師《かげぼうし》のばけ物《もの》にたずねました。
「そうだね。一寸《ちよつと》ここまでおいで。」その黄色な幽霊《ゆうれい》は、ネネムの四角な袖《そで》のはじをつまんで、一本のばけものりんごの木の下まで連《つ》れて行って、自分の片足《かたあし》をりんごの木の根《ね》にそろえておいて云《い》いました。
「あなたも片足をここまで出しなさい。」ネネムは急《いそ》いでその通りしますとその黄色な幽霊は、屈《かが》んで片っ方の目をつぶって、足さきがりんごの木の根とよくそろっているか検査《けんさ》したあとで云《い》いました。
「いいか。ハンムンムンムンムン・ムムネ市の入口までは、丁度《ちようど》この足さきから六ノット六チェーンあるよ。それでは途中《とちゆう》気をつけておいで。」そしてくるっとまわって向《むこ》うへ行ってしまいました。
ネネムはそのうしろから、ていねいにお辞儀《じぎ》をして、
「ああ、ありがとうございます。六ノット六チェーンならば、私が一時間一ノット一チェーンずつあるきますと六時間で参《まい》れます。一時間三ノット三チェーンずつあるきますと二時間で参れます。すっかり見当がつきまして、こんなうれしいことはありません。」と云いながら、もう一つ頭を下げました。赤毛《あかげ》はじゃらんと下に垂《さ》がりましたけれども、実《じつ》は黄色の幽霊《ゆうれい》はもうずうっと向うのばけもの世界《せかい》のかげろうの立つ畑《はたけ》の中にでもはいったらしく、影《かげ》もかたちもありませんでした。
そこでネネムはまたあるき出しました。するとまた向こうから無暗《むやみ》にぎらぎら光る鼠色《ねずみいろ》の男が、赤いゴム靴《ぐつ》をはいてやって参りました。そしてネネムをじろじろ見ていましたが、突然《とつぜん》そばに走って来て、ネネムの右の手首をしっかりつかんで云いました。
「おい。お前は森の中の昆布《こんぶ》採《と》りがいやになってこっちへ出て来た様子《ようす》だが、一体これから何が目的《もくてき》だ。」
ネネムは、これはきっと探偵《たんてい》にちがいないと思いましたので、堅《かた》くなって答えました。
「はい。私は書記が目的《もくてき》であります。」
するとその男は左手で短《みじか》いひげをひねって一寸《ちよつと》考えてから云《い》いました。
「ははあ、書記が目的か。して見ると何だな。お前は森の中であんまりばけものパンばかり喰《く》ったな。」
ネネムはすっかり図星をさされて、面《めん》くらって左手で頭を掻《か》きました。
「はい実《じつ》は少々たべすぎたかと存じます。」
「そうだろう。きっとそうにちがいない。よろしい。お前の身分《みぶん》や考えはよく諒解《りようかい》した。行きなさい。わしはムムネ市の刑事《けいじ》だ。」
ネネムはそこでやっと安心《あんしん》してていねいにおじぎをしてまた町の方へ行きました。
丁度《ちようど》一時間と六分かかって、三ノット三チェーンを歩いたとき、ネネムは一人の百姓《ひやくしよう》のおかみさんばけものと会いました。その人は遠くからいかにも不思議《ふしぎ》そうな顔をして来ましたが、とうとう泣《な》き出してかけ寄《よ》りました。
「まあ、クエクや。よく帰っておいでだね。まあ、お前はわたしを忘《わす》れてしまったのかい。ああなさけない。」
ネネムは少し面《めん》くらいましたが、ははあ、これはきっと人ちがいだと気がつきましたので急《いそ》いで云《い》いました。
「いいえ、おかみさん。私《わたし》はクエクという人ではありません。私はペンネンネンネンネン・ネネムというのです。」
するとその橙色《だいだいいろ》の女のばけものはやっと気がついたと見えて俄《にわ》かに泣《な》き顔をやめて云いました。
「これはどうもとんだ失礼《しつれい》をいたしました。あなたのおなりがあんまりせがれそっくりなもんですから。」
「いいえ。どう致《いた》しまして。私は今度《こんど》はじめてムムネの市に出るところです。」
「まあ、そうでしたか。うちのせがれも丁度《ちようど》あなたと同じ年ころでした。まあ、お髪《かみ》のちぢれ工合《ぐあい》から、お耳のキラキラする工合、何から何までそっくりです。それにまあ、なめくじばけもののような柔《やわ》らかなおあしに、硬《かた》いはがねのわらじをはいて、なにが御志願《ごしがん》でいらっしゃるのやら。おお、うちのせがれもこんなわらじでどこを今ごろ、ポオ、ポオ、ポオ、ポオ。」とそのおかみさんばけものは泣き出しました。ネネムは困《こま》って、
「ね、おかみさん。あなたのむすこさんは、もうきっとどこかの書記になってるんでしょう。きっとじきお迎《むか》いをよこすにちがいありません。そんなにお泣きなさらなくてもいいでしょう。私は急《いそ》ぎますからこれで失礼いたします。」と云いながらクラリオネットのようなすすり泣《な》きの声をあとに、急いでそこを立ち去《さ》りました。
さてそれから十五分でネネムはムムネの市までもう三チェーンのところまで来ました。ネネムはそこで髪《かみ》をすっかり直して、それから路《みち》ばたの水銀《すいぎん》の流《なが》れで顔を洗《あら》い、市にはいって行く支度《したく》をしました。
それからなるべく心を落《お》ちつけてだんだん市に近づきますと、さすがはばけもの世界《せかい》の首府《しゆふ》のけはいは、早くもネネムに感《かん》じました。
ノンノンノンノンノンといううなりは地の〔以下原稿数枚焼失〕
「今 授業中《じゆぎようちゆう》だよ。やかましいやつだ。用があるならはいって来い。」とどなりましたので、学校の建物《たてもの》はぐらぐらしました。
ネネムはそこで思い切って、なるべく足音を立てないように二階《かい》にあがってその教室にはいりました。教室の広いことはまるで野原です。さまざまの形、とうがらしや、臼《うす》や、鋏《はさみ》や、赤や白や、実《じつ》にさまざまの学生のばけものがぎっしりです。向《むこ》うには大きな崖《がけ》のくらいある黒板《こくばん》がつるしてあって、せの高さ百尺《しやく》あまりのさっきの先生のばけものが、講義《こうぎ》をやっておりました。
「それでその、もしも塩素《えんそ》が赤い色のものならば、これは最《もつと》も明らかな不合理《ふごうり》である。黄色でなくてはならん。してみると黄色ということはずいぶん大切《たいせつ》なもんだ。黄という字はこう書くのだ。」
先生は黒板を向《む》いて、両手《りようて》や鼻《はな》や口や肱《ひじ》やカラアや髪《かみ》の毛やなにかで一ぺんに三百ばかり黄という字を書きました。生徒《せいと》はみんな大急《おおいそ》ぎで筆記帳《ひつきちよう》に黄という字を一杯《いつぱい》に書きましたがとても先生のようにうまくは出来ません。
ネネムはそっと一番うしろの席《せき》に座《すわ》って、隣《とな》りの赤と白のまだらのばけもの学生に低《ひく》くたずねました。
「ね、この先生は何て云《い》うんですか。」
「お前知らなかったのかい。フウフィーボー博士《はかせ》さ。化学《かがく》の。」とその赤いばけものは馬鹿《ばか》にしたように目を光らせて答えました。
「あっ、そうでしたか。この先生ですか。名高い人なんですね。」とネネムはそっとつぶやきながら自分もふところから鉛筆《えんぴつ》と手帳を出して筆記をはじめました。
その時教室にパッと電燈《でんとう》がつきました。もう夕方だったのです。博士が向《むこ》うで叫《さけ》んでいます。
「しからば何が故《ゆえ》に夕方緑色《りよくしよく》が判然《はんぜん》とするか。けだしこれはプウルウキインイイの現象《げんしよう*》によるのである。プウルウキインイイとはこう書く。」
博士《はかせ》はみみずのような横文字《よこもじ》を一ぺんに三百ばかり書きました。ネネムも一生けん命《めい》書きました。それから博士は俄《にわ》かに手を大きくひろげて、
「げにも、かの天にありて濛々《もうもう》たる星雲、地にありてはあいまいたるばけ物律《ものりつ》、これはこれ宇宙《うちゆう》を支配《しはい》す《*》。」と云《い》いながらテーブルの上に飛《と》びあがって腕《うで》を組み堅《かた》く口を結《むす》んできっとあたりを見まわしました。
学生どもはみんな興奮《こうふん》して「ブラボオ。フウフィーボー先生。ブラボオ。」と叫《さけ》んでそれからバタバタ、ノートを閉《と》じました。ネネムもすっかり釣《つ》り込《こ》まれて、「ブラボオ。」と叫んで堅く堅く決心《けつしん》したように口を結びました。この時先生はやっとほんのすこうし笑《わら》って一段《いちだん》声を低《ひく》くして云いました。
「みなさん。これからすぐ卒業試験《そつぎようしけん》にかかります。一人ずつ私の前をお通りなさい。」と云いました。
学生どもは、そこで一人ずつ順々《じゆんじゆん》に、先生の前を通りながらノートを開《ひら》いて見せました。
先生はそれを一寸《ちよつと》見てそれから一言か二言質問《しつもん》をして、それから白墨《はくぼく》でせなかに「及《きゆう》」とか「落《らく》」とか「同情及《どうじようきゆう》」とか「退校《たいこう》」とか書くのでした。
書かれる間学生はいかにもくすぐったそうに首をちぢめているのでした。書かれた学生は、いかにも気がかりらしく、そっと肩をすぼめて廊下《ろうか》まで出て、友達《ともだち》に読んでもらって、よろこんだり泣《な》いたりするのでした。ぐんぐんぐんぐん、試験がすんで、いよいよネネム一人になりました。ネネムがノートを出した時、フウフィーボー博士《はかせ》は大きなあくびをやりましたので、ノートはスポリと先生に吸《す》い込《こ》まれてしまいました。先生はそれを別段《べつだん》気にかけるでもないらしく、コクッと呑《の》んでしまって云《い》いました。
「よろしい、ノートはたいへんによくできている。そんなら問題《もんだい》を答えなさい。煙突《えんとつ》から出るけむりには何種類《なんしゆるい》あるか。」「四種類あります。もしその種類を申《もう》しますならば、黒、白、青、無色《むしよく》です。」
「うん。無色の煙《けむり》に気がついたところは、実《じつ》にどうも偉《えら》い。そんなら形はどうであるか。」
「風のない時はたての棒《ぼう》、風の強い時は横《よこ》の棒、その他はみみずなどの形。あまり煙の少ない時はコルク抜《ぬ》きのようにもなります。」
「よろしい。お前は今日の試験では一等《いつとう》だ。何か望《のぞ》みがあるなら云いなさい。」
「書記になりたいのです。」
「そうか。よろしい。わしの名刺《めいし》に向《むこ》うの番地を書いてやるから、そこへすぐ今夜行きなさい。」ネネムは名刺を呉《く》れるかと思って待《ま》っていますと、博士はいきなり白墨《はくぼく》をとり直してネネムの胸《むね》に、「セム《*》二十二号《ごう》。」と書きました。
ネネムはよろこんで叮嚀《ていねい》におじぎをして先生の処から一足退《しりぞ》きますと先生が低《ひく》く、
「もう藁《わら》のオムレツが出来あがった頃《ころ》だな。」と呟《つぶ》やいてテーブルの上にあった革《かわ》のカバンに白墨のかけらや講義《こうぎ》の原稿《げんこう》やらを、みんな一緒《いつしよ》に投《な》げ込《こ》んで、小脇《こわき》にかかえ、さっき顔を出した窓《まど》からホイッと向うの向うの黒い家をめがけて飛《と》び出しました。そしてネネムはまちをこめた黄色の夕暮《ゆうぐれ》の中の物干台《ものほしだい》にフウフィーボー博士が無事《ぶじ》に到着《とうちやく》して家の中にはいって行くのをたしかに見ました。
そこでネネムは教室を出てはしご段《だん》を降《お》りますと、そこには学生が実《じつ》に沢山《たくさん》泣《な》いていました。全《まつた》く三千六百五十三回、則《すなわ》ち閏《うるう》年も入れて十年という間、日曜も夏休みもなしに落第《らくだい》ばかりしていては、これが泣かないでいられましょうか。けれどもネネムは全くそれとは違います。
元気よく大学校の門を出て、自分の胸の番地を指《ゆび》さして通りかかったくらげのようなばけものに、どう行ったらいいかをたずねました。
するとそのばけものは、ひどく叮嚀《ていねい》におじぎをして、
「ええ。それは世界裁判長《せかいさいばんちよう》のお邸《やしき》でございます。ここから二チェーンほどおいでになりますと、大きな粘土《ねんど》でかためた家がございます。すぐおわかりでございましょう。どうか私《わたくし》もよろしくお引き立てをねがいます。」と云《い》ってまた叮嚀におじぎをしました。
ネネムはそこで一時間一ノット一チェーンの速さで、そちらへ進《すす》んで参《まい》りました。たちまち道の右側《みぎがわ》に、その粘土作りの大きな家がしゃんと立って、世界裁判長官邸《せかいさいばんちようかんてい》と看板《かんばん》がかかって居《お》りました。
「ご免《めん》なさい。ご免なさい。」とネネムは赤い髪《かみ》を掻《か》きながら云《い》いました。
すると家の中からペタペタペタペタ沢山《たくさん》の沢山のばけものどもが出て参りました。
みんなまっ黒な長い服《ふく》を着《き》て、恭々《うやうや》しく礼《れい》をいたしました。
「私は大学校のフウフィーボー先生のご紹介《しようかい》で参りました世界裁判長に一寸《ちよつと》お目にかかれましょうか。」
するとみんなは口をそろえて云いました。
「それはあなたでございます。あなたがその裁判長でございます。」
「なるほど、そうですか。するとあなた方は何ですか。」
「私どもはあなたの部下《ぶか》です。判事《はんじ》や検事《けんじ》やなんかです。」
「そうですか。それでは私はここの主人《しゆじん》ですね。」
「さようでございます。」
こんなような訳《わけ》でペンネンネンネンネン・ネネムは一ぺんに世界裁判長《せかいさいばんちょう》になって、みんなに囲《かこ》まれて裁判長室の海綿《かいめん》でこしらえた椅子《いす》にどっかりと座《すわ》りました。
すると一人の判事が恭々《うやうや》しく申《もう》しました。
「今晩《こんばん》開廷《かいてい》の運《はこ》びになっている件《けん》が二つございますが、いかがでございましょうお疲《つか》れでいらっしゃいましょうか。」
「いいや、よろしい。やります。しかし裁判の方針《ほうしん》はどうですか。」
「はい。裁判の方針はこちらの世界の人民が向《むこ》うの世界になるべく顔を出さぬように致《いた》したいのでございます。」
「わかりました。それではすぐやります。」
ネネムはまっ白なちぢれ毛のかつらを被《かぶ》って黒い長い服《ふく》を着《き》て裁判室に出て行きました。部下がもう三十人ばかり席《せき》についています。
ネネムは正面《しようめん》の一番高い処《ところ》に座りました。向うの隅《すみ》の小さな戸口から、ばけものの番兵に引っぱられて出て来たのはせいの高い眼《め》の鋭《するど》い灰色《はいいろ》のやつで、片手《かたて》にほうきを持《も》って居《お》りました。一人の検事が声高く書類《しよるい》を読み上げました。
「ザシキワラシ。二十二歳《さい》。アツレキ《*》三十一年二月七日、表、日本岩手県《いわてけん》上閉伊郡《かみへいぐん》青笹村《あおざさむら*》字瀬戸《あざせと》二十一番戸伊藤万太《いとうまんた》の宅《たく》、八畳座敷中《はちじようざしきちゆう》に故《ゆえ》なくして擅《ほしいまま》に出現《しゆつげん》して万太の長男千太《せんた》、八歳《さい》を気絶《きぜつ》せしめたる件《けん》。」
「よろしい。わかった。」とネネムの裁判長《さいばんちよう》が云いました。
「姓名年齢《せいめいねんれい》、その通りに相違《そうい》ないか。」
「相違ありません。」
「その方はアツレキ三十一年二月七日、伊藤万太方の八畳座敷に故《ゆえ》なくして擅《ほしいまま》に出現《しゆつげん》したることは、しかとその通りに相違《そうい》ないか。」
「全《まつた》く相違ありません。」
「出現後は何を致《いた》した。」
「ザシキをザワッザワッと掃《は》いて居りました。」
「何の為《ため》に掃いたのだ。」
「風を入れる為です。」
「よろしい。その点は実《じつ》に公益《こうえき》である、本官に於《おい》て大いに同情《どうじよう》を呈《てい》する。しかしながらすでに妄《みだ》りに人の居《い》ない座敷《ざしき》の中に出現《しゆつげん》して、箒《ほうき》の音を発《はつ》した為に、その音に愕《おど》ろいて一寸《ちよつと》のぞいてみた子供《こども》が気絶《きぜつ》をしたとなれば、これは明らかな出現罪《ざい》である。依《よ》って今日より七日間当ムムネ市の街路《がいろ》の掃路《そうろ》を命《めい》ずる。今後はばけもの世界長《せかいちよう》の許可《きよか》なくして、妄《みだ》りに向《むこ》う側《がわ》に出現することはならん。」
「かしこまりました。ありがとうございます。」
「実に名断《めいだん》だね。どうも実に今度の長官《ちようかん》は偉《えら》い。」と判事《はんじ》たちは互《たが》いにささやき合いました。
ザシキワラシはおじぎをしてよろこんで引っ込《こ》みました。
次《つぎ》に来たのは鳶色《とびいろ》と白との粘土《ねんど》で顔をすっかり隈取《くまど》って、口が耳まで裂《さ》けて、胸《むね》や足ははだかで、腰《こし》に厚《あつ》い蓑《みの》のようなものを巻《ま》いたばけものでした。一人の判事が書類《しよるい》を読みあげました。
「ウウウウエイ。三十五歳《さい》。アツレキ三十一年七月一日夜、表、アフリカ、コンゴオの林中の空地《あきち》に於《おい》て故《ゆえ》なくして擅《ほしいまま》に出現《しゆつげん》、舞踏中《ぶとうちゆう》の土地人を恐怖散乱《きようふさんらん》せしめたる件《けん》。」
「よろしい。わかった。」とネネムは云《い》いました。
「姓名年齢《せいめいねんれい》その通りに相違《そうい》ないか。」
「へい。その通りです。」
「その方はアツレキ三十一年七月一日夜、アフリカ、コンゴオの林中空地に於《おい》て、故《ゆえ》なくして擅《ほしいまま》に出現《しゆつげん》、折柄《おりから》月明によって歌舞《かぶ》、歓《かん》をなせるところの一群《いちぐん》を恐怖散乱せしめたことは、しかとその通りにちがいないか。」
「全《まつた》くその通りです。」
「よろしい。なんの目的《もくてき》で出現したのだ。既《すで》に法律《ほうりつ》上故《ゆえ》なく擅《ほしいまま》となってあるが、その方の意中《いちゆう》を今一応《いちおう》尋《たず》ねよう。」
「へい、その実《じつ》は、あまり面白《おもしろ》かったもんですから。へい。どうも相済《あいす》みません。あまり面白かったんで。ケロ、ケロ、ケロ、ケロロ、ケロ、ケロ。」
「控《ひか》えろ。」
「へい。全くどうも相済みません。恐《おそ》れ入りました。」
「うん。お前は、最《もつとも》明らかな出現罪《しゆつげんざい》である。依《よ》って明日より二十二日間、ムッセン街道《かいどう》の見まわりを命《めい》ずる。今後ばけもの世界長《せかいちよう》の許可《きよか》なくして、妄《みだ》りに向側《むこうがわ》に出現いたしてはならんぞ。」
「かしこまりました。ありがとうございます。」そのばけものも引っ込《こ》みました。
「実《じつ》に名断《めいだん》だ。いい判決《はんけつ》だね。」とみんなささやき合いました。その時向うの窓《まど》がガタリと開《あ》いて「どうだ、いい裁判長《さいばんちよう》だろう。みんな感心《かんしん》したかい。」と云《い》う声がしました。それはさっきの灰色《はいいろ》の一メートルある顔、フウフィーボー先生でした。
「ブラボオ。フウフィーボー博士《はかせ》。ブラボオ。」と判事《はんじ》も検事《けんじ》もみんな怒鳴《どな》りました。その時はもう博士の顔は消《き》えて窓《まど》はガタンとしまりました。
そこでネネムは自分の室《へや》に帰って白いちぢれ毛のかつらを除《と》りました。それから寝《ね》ました。
あとはあしたのことです。
三 ペンネンネンネンネン・ネネムの巡視《じゆんし》
ばけもの世界裁判長《せかいさいばんちよう》になったペンネンネンネンネン・ネネムは、次《つぎ》の朝六時に起《お》きて、すぐ部下《ぶか》の検事《けんじ》を一人呼呼《よ》びました。
「今日は何時に公判《こうはん》の運びになっているか。」
「本日もやはり晩《ばん》の七時から二件《けん》だけございます。」
「そうか。よろしい。それでは今朝は八時から世界長《せかいちよう》に挨拶《あいさつ》に出よう。それからすぐ巡視だ。みんなその支度《したく》をしろ。」
「かしこまりました。」
そこでペンネンネンネンネン・ネネムは、燕麦《えんばく》を一把《わ》と、豆汁《まめじる》を二リットルで軽《かる》く朝飯をすまして、それから三十人の部下《ぶか》をつれて世界長《せかいちよう》の官邸《かんてい》に行きました。
ばけもの世界長は、もう大広間の正面《しようめん》に座《すわ》って待《ま》っています。世界長は身のたけ百九十尺《しやく》もある中世代《ちゅうせいだい》の瑪瑙木《めのうぼく*》でした。
ペンネンネンネンネン・ネネムは、恭々《うやうや》しく進《すす》んで片膝《かたひざ》を床《ゆか》につけて頭を下げました。
「ペンネンネンネンネン・ネネム裁判長《さいばんちよう》はおまえであるか。」
「さようでございます。永久《えいきゆう》に忠勤《ちゅうきん》を誓《ちか》い奉《たてまつ》ります。」
「うん。しっかりやってくれ。ゆうべの裁判のことはもう聞いた。それに今朝はこれから巡視《じゆんし》に出るそうだな。」
「はい。恐《おそ》れ入ります」
「よろしい。どうかしっかりやってくれ。」
「かしこまりました。」
そこで、ペンネンネンネンネン・ネネムはまたうやうやしく世界長に礼《れい》をして、後戻《あともど》りして退《しりぞ》きました。三十人の部下はもう世界長の首尾《しゆび》がいいので大喜《おおよろこ》びです。
ペンネンネンネンネン・ネネムも大機嫌《だいきげん》でそれから町を巡視しはじめました。
ばけもの世界のヘンムンムンムンムン・ムムネ市の盛《さか》んなことは、今日とて少しも変《かわ》りません。億《おく》百万のばけものどもは、通り過《す》ぎ通りかかり、行きあい行き過ぎ、発生《はつせい》し消滅《しようめつ》し、聯合《れんごう》し融合《ゆうごう》し、再現《さいげん》し進行《しんこう》し、それはそれは、実《じつ》にどうも見事《みごと》なもんです。ネネムもいまさらながら、つくづくと感服《かんぷく》いたしました。
その時向《むこ》うから、トッテントッテントッテンテンと、チャリネル《*》いう楽器《がつき》を叩《たた》いて、小さな赤い旗《はた》を立てた車が、ほんの少しずつこっちへやって来ました。見物《けんぶつ》のばけものがまるで赤山のようにそのまわりについて参《まい》ります。
ペンネンネンネンネン・ネネムは、行きあいながらふと見ますと、その赤い旗には、白くフクジロ《*》と染《そ》め抜《ぬ》いてあって、その横《よこ》にせいの高さ三尺《じゃく》ばかりの、顔がまるでじじいのように皺《しわ》くちゃな殊《こと》に鼻《はな》が一尺《しやく》ばかりもある怖《こわ》い子供《こども》のようなものが、小さな半ずぼんをはいて立ち、車を引っ張《ぱ》っている黒い硬《かた》いばけものから、「フクジロ印《じるし》」という商標《しようひよう》のマッチを、五つばかり受《う》け取《と》っていました。ネネムは何をするのかと思ってもっと見ていますと、そのいやなものはマッチを持《も》ってよちよち歩きだしました。
赤山のようなばけものの見物は、わいわいそれについて行きます。一人の若《わか》いばけものが、うしろから押《お》されてちょっとそのいやなものにさわりましたら、そのフクジロといういやなものはくるりと振《ふ》り向《む》いて、いきなりピシャリとその若ばけものの頬《ほつ》ぺたを撲《なぐ》りつけました。
それからいやなものは向うの荒物屋《あらものや》に行きました。その荒物屋というのは、ばけもの歯《は》みがきや、ばけもの楊枝《ようじ》や、手拭《てぬぐい》やずぼん、前掛《まえかけ》などまで、すべてばけもの用具《ようぐ》一式《いつしき》を売っているのでした。
フクジロがよちよちはいって行きますと、荒物屋のおかみさんは、怖《こわ》がって逃《に》げようとしました。おかみさんだって顔がまるで獏《ばく》のようで、立派《りつぱ》なばけものでしたが、小さくてしわくちゃなフクジロを見ては、もうすっかりおびえあがってしまったのでした。
「おかみさん。フクジロ、マッチ買っておくれ。」おかみさんはやっと気を落《お》ちつけて云《い》いました。「いくらですか。ひとつ。」
「十円。」おかみさんは泣《な》きそうになりました。「さあ買っておくれ。買わなかったら踊《おどり》をやるぜ。」
「買います、買います。踊の方はいりません。そら、十円。」おかみさんは青くなってブルブルしながら銭函《ぜにばこ》からお金を集《あつ》めて十円出しました。
「ありがとう。へン」と云いながらそのいやなものは店を出ました。
そして今度《こんど》は、となりのばけもの酒屋《さかや》にはいりました。見物《けんぶつ》はわいわいついて行きます。酒屋のはげ頭のおじいさんばけものも、やっぱりぶるぶるしながら十円出しました。
その隣《となり》はタン屋《や》という店でしたが、ここでも主人《しゆじん》が黄色な顔を緑色《みどりいろ》にしてふるえながら、十円でマッチ一つ買いました。
「これはいかん。実《じつ》にけしからん。こう云《い》ういやなものが町の中を勝手《かつて》に歩くということはおれの恥辱《ちじよく》だ。いいからひっくくってしまえ。」とペンネンネンネンネン・ネネムは部下《ぶか》の検事《けんじ》に命令《めいれい》しました。一人の検事がすぐ進《すす》んで行ってタン屋の店から出て来るばかりのそのいやなものをくるくる十重《とえ》ばかりにひっくくってしまいました。ペンネンネンネンネン・ネネムがみんなを押《お》し分《わ》けて前に出て云いました。
「こら。その方は自分の顔やかたちのいやなことをいいことにして、一つ一銭《せん》のマッチを十円ずつに家ごと押しつけてあるく。悪《わる》いやつだ。監獄《かんごく》に連《つ》れて行くからそう思え。」
するとそのいやなものは泣《な》き出しました。
「巡査《じゆんさ》さん。それはひどいよ。僕《ぼく》はいくらお金を貰《もら》ったって自分で一銭もとりはしないんだ。みんな親方《おやかた》がしまってしまうんだよ。許《ゆる》しておくれ。許しておくれ。」
ネネムが云いました。
「そうか。するとお前は毎日ただ引っぱり廻《まわ》されて稼《かせ》がせられるだけだな。」
「そうだよ。そうだよ。僕を太夫《たゆう*》さんだなんて云《い》いながら、ひどい目にばかりあわすんだよ。ご飯さえ碌《ろく》に呉《く》れないんだよ。早く親方をつかまえておくれ。早く、早く。」今度はそのいやなものが俄《にわ》かに元気を出しました。  そこで、「あの車のとこに居《お》るものを引っくくれ。」とネネムが云いました。丁度《ちようど》出て来た巡査《じゆんさ》が三人ばかり飛《と》んで行って、車にポカンと腰掛《こしか》けて居《い》た黒い硬《かた》いばけものを、くるくるくるっと縛《しば》ってしまいました。ネネムはいやなものと一緒《いつしよ》にそっちへ行きました。
「こら。きさまはこんなかたわなあわれなものをだしにして、一銭《せん》のマッチを十円ずつに売っている。さあ監獄《かんごく》へ連《つ》れて行くぞ。」親方《おやかた》が泣《な》き出しそうになって口早に云いました。
「お役人《やくにん》さん。そいつぁあんまり無理《むり》ですぜ。わしぁ一日一杯《いつぱい》あるいてますがやっと喰《く》うだけしか貰《もら》わないんです。あとはみんな親方がとってしまうんです。」「ふん、そうか。その親方はどこにいるんだ。」
「あすこにいます。」「どれだ。」
「あのまがり角でそらを向《む》いてあくびをしている人です。」
「よし、あいつをしばれ。」まがり角の男は、しばられてびっくりして、口をパクパクやりました。ネネムは二人を連れてそっちへ歩いて行って云《い》いました。
「こらきさまは悪《わる》いやつだ。何も文句《もんく》を云うことはない。監獄《かんごく》にはいれ。」
「これはひどい。一体《いつたい》どうしたのです。ははあ、フクジロもタンイチもしばられたな。そのことならなあに私《わたし》はただこうやって監督《かんとく》に云いつかって車を見ているだけでございます。私は日給《につきゆう》三十銭《せん》の外に一銭だって貰《もら》やしません。」
「ふん。どうも実にいやな事件《じけん》だ。よし。お前の監督はどこにいるか、云え。」
「向《むこ》うの電信柱《でんしんばしら》の下で立ったまま居睡《いねむ》りをしているあの人です。」
「そうか。よろしい。向こうの電信ばしらの下のやつを縛《しば》れ。」巡査《じゆんさ》や検事《けんじ》がすぐ飛《と》んで行こうとしました。その時ネネムは、ふともっと向うを見ますと、大抵《たいてい》五間隔《お》きぐらいに、あくびをしたり、うでぐみをしたり、ぼんやり立っているものがまだまだたくさん続《つづ》いています。そこでネネムが云いました。
「一寸《ちよつと》待《ま》て。まだ向こうにも監督が沢山《たくさん》居《い》るようだ。よろしい。順《じゆん》ぐりにみんなしばって来い。一番おしまいのやつを逃《に》がすなよ。さあ行け。」十人ばかりの検事と十人ばかりの巡査がふうとけむりのように向うへ走って行きました。見る見る監督どもが、みんなペタペタしばられて十五分もたたないうちに三十人というばけものが一列《いちれつ》にずうっとつづいてひっぱられて来ました。
「一番おしまいのやつはこいつか。」とネネムが緑色《みどりいろ》のたいへんハイカラなばけものをゆびさしました。
「そうです。」みんなは声をそろえて云《い》います。
「よろしい。こら。その方は、あんなあわれなかたわを使《つか》って一銭《せん》のマッチを十円に売っているとは一体どう云うわけだ。それに三十二人も人を使って、あくまで自分の悪《わる》いことをかくそうとは実《じつ》にけしからん。さあどうだ。」
ところが緑色のハイカラなばけものは口を尖《とが》らして、一向《いつこう》恐《おそ》れ入りません。
「これはけしからん。私《わたし》はそんなことをした覚《おぼ》えはない。私は百二十年前にこの方に九円だけ貸《か》しがあるので今はもう五千何円になっている。わしはこの方のあとをつけて歩いて毎日、日《にち》プで三十円ずつとる商売《しようばい》なんだ。」と云いながら自分の前のまっ赤なハイカラなばけものを指《ゆび》さしました。
するとその赤色のハイカラが云いました。
「その通りだ。私はこの人に毎日三十円ずつ払《はら》う。払っても払っても元金は殖《ふ》えるばかりだ。それはとにかく私はまたこの前のおかたに百四十年前に非常《ひじよう》な貸しがあるので、それをもとでに毎日この人について歩いて実は五十円ずつとっているのだ。マッチの罪《つみ》とかなんとか一向私《わたし》はしらない。」と云《い》いながら自分の前の青い色のハイカラなばけものを指さしました。すると青いのが云いました。
「その通りだ。わしは毎日五十円ずつ払《はら》う。そしてわしはこの前のおかたに二百年前かなりの貸《か》しがあるので、それをもとでに毎日ついて歩いて百円ずつとるだけなのだ。」指されたその前の黄色なハイカラが云いました。
「そうだ。その通りだ。そしてわしはこの前のお方に昔《むかし》すてきなかしがあるので、毎日ついて歩いて三百円ずつとるのだ。」
「ふうん。大分わかって来たぞ。あとはもう貸した年と今とる金だかだけを云え。」とネネムが申《もう》しました。
「二百五十年 五百円。」「三百年 千円。」「三百一年 千七円。」「三百二年 千八円。」「三百三年 千九円。」「三百四年 千十円。」ネネムはすばやく勘定《かんじよう》しました。
「もうわかった。第《だい》三十番。電信柱《でんしんばしら》の下の立ちねむり。おまえは千三十円とっているだろう。」
「全《まつた》くさようでございます。ご明察恐《めいさつおそ》れ入ります。」
その時さっきの角のところに立って、あくびをしていた監督《かんとく》が云いました。
「どうです。そうでしょう。私は毎日千三十円三十銭《せん》だけとって、千三十円だけこの人に納《おさ》めるのです。」
ネネムが云《い》いました。
「そうか。すると一体誰《だれ》がフクジロを使《つか》って歩かせているのだ。」
「私にはわかりません。私にはわかりません。」とみんなが一度《いちど》に云いました。そこでネネムも一寸《ちよつと》困《こま》りましたが、しばらくたってから申《もう》しました。
「よし。そんならフクジロのマッチを売っていることを知っているものは手をあげ。」
硬い黒いタンイチはじめ順《じゆん》ぐりに十人だけ手をあげました。
「よろしい。すると十人目の貴《き》さまが一番悪《わる》い。監獄《かんごく》にはいれ。」
「いいえ。どういたしまして。私はただフクジロのマッチを売っていることを遠くから見ているだけでございます。それを十円に売るなんて、めっそうな、私は一向に存《ぞん》じません。」
「どうもこれはずいぶん不愉快《ふゆかい》な事件《じけん》だね。よろしい。そんならフクジロがマッチを十円で売るということを知っているものは手をあげ。」
硬《かた》い黒いタンイチからただ三人でした。
「するとお前だ。監獄にはいれ。」とネネムが云いました。
「それはさっきも申しあげました。私はただ命令《めいれい》で見ていただけです。」
「するとお前は十円に売ることは知っている。けれどもただ云《い》いつかっているだけだというのだな、それから次《つぎ》のお前は云いつけてはいる。けれども十円に売れなんて云ったおぼえもなしまた十円に売っているとも思わない、ただまあ、フクジロがよちよち家を出たりはいったりして、それでよくこんなにもうかるもんだと思っていたと、こうだろう。」
「全《まつた》くご名察《めいさつ》の通り。」と二人が一緒《いつしよ》に云いました。
「よろしい。もうわかった。お前がたに云い渡《わた》す。これは順《じゆん》ぐりに悪《わる》いことがたまってきているのだ。百年も二百年もの前に貸《か》した金の利息《りそく》を、そんなハイカラななりをして、毎日ついてあるいてとるということは、けしからん。殊《こと》にそれが三十人も続《つづ》いているというのは実《じつ》にいけないことだ。おまえたちはあくびをしたりいねむりをしたりしながら毎日を暮《くら》して、食事《しよくじ》の時間だけすぐ近くの料理屋《りようりや》にはいる、それから急《いそ》いで出て来て前の者《もの》がまだあまり遠くへ行っていないのを見てやっと安心《あんしん》するなんという実にどうも不届《ふとどき》だ。それからおれがもうけるんじゃないと云うので、悪いことをぐんぐんやるのもあまりよくない。だからみんな悪い。みんなを罪《つみ》にしなければならない。けれどもそれではあんまりかあいそうだから、どうだ、みんな一ぺんに今の仕事《しごと》をやめてしまえ。そこでフクジロはおれがどこかの玩具《がんぐ》の工場の小さな室《へや》で、ただ一人仕事をして、時々お菓子《かし》でもたべられるようにしてやろう。あとのものはみんな頑丈《がんじよう》そうだから自分で勝手《かつて》に仕事をさがせ。もしどうしても自分でさがせなかったらおれのところに相談《そうだん》に来い。」
「かしこまりました。ありがとうございます。」みんなはフクジロをのこして赤山のような人をわけてちりぢりに逃《に》げてしまいました。そこでネネムは一人の検事《けんじ》をつけてフクジロを張子《はりこ》の虎《とら》をこさえる工場へ送《おく》りました。
見物人《けんぶつにん》はよろこんで、
「えらい裁判長《さいばんちよう》だ。えらい裁判長だ。」とときの声をあげました。そこでネネムはまた巡視《じゆんし》をはじめました。
それから少し行きますと通りの右側《みぎがわ》に大きな泥《どろ》でかためた家があって世界警察長官邸《せかいけいさつちようかんてい》と看板《かんばん》が出て居《お》りました。
「一寸《ちよつと》はいってみよう。」と云《い》いながらネネムは玄関《げんかん》に立ちました。その家中が俄《にわ》かにザワザワしてそれから警察長がさきに立って案内《あんない》しました。一通り中の設備《せつび》を見てからネネムは警察長と向《むか》い合って一つのテーブルに座《すわ》りました。警察長は新聞のくらいある名刺《めいし》を出してひろげてネネムに恭々《うやうや》しくよこしました。見ると、
ケンケンケンケンケンケン・クエク警察長
と書いてあります。ネネムは、
「はてな、クエクと、どうも聞いたような名だ。一寸《ちよつと》突然《とつぜん》ですが、あなたはこの近在《きんざい》の農家《のうか》のご出身《しゆつしん》ですか。」と云《い》いました。
すると警察長《けいさつちよう》はびっくりしたらしく、
「全《まつた》くご明察《めいさつ》の通りです。」と答えました。
「それではあなたは無断《むだん》で家から逃《に》げておいでになりましたね。お母さんがたいへん泣《な》いておいでですよ。」とネネムが云いました。
「いや、全く。実《じつ》は昨晩《さくばん》も電報を打《う》ちましたようなわけで、実はその、逃げたというわけでもありません。丁度《ちようど》一昨昨日《いつさくさくじつ》の朝、一寸した用事《ようじ》で家から大学校の小使室《こづかいしつ》まで参《まい》りましたのですが、ついそのフウフィーボー博士《はかせ》の講義《こうぎ》につり込《こ》まれまして昨日まで三日というもの、聴《き》いたり落第《らくだい》したり、考えたりいたしました。昨晩やっと及第《きゆうだい》いたしましてこちらに赴任《ふにん》いたしました。」
「ハッハッハ。そうですか。それは結構《けつこう》でした。もう電報をおかけでしたか。」
「はい。」そこでネネムも全く感服《かんぷく》してそれから警察長の家を出て、それからまたグルグルグルグルと巡視《じゆんし》をして、おひるごろ、ばけもの世界裁判長《せかいさいばんちよう》の官邸《かんてい》に帰りました。おひるのごちそうは藁《わら》のオムレツでした。
四 ペンネンネンネンネン・ネネムの安心《あんしん》
ばけもの世界裁判長《せかいさいばんちよう》、ペンネンネンネンネン・ネネムの評判《ひようばん》は、今はもう非常《ひじよう》なものになりました。この世界が、はじめ一疋《ぴき》のみじんこ《*》から、だんだん枝《えだ》がついたり、足が出来たりして発達《はつたつ》しはじめて以来《いらい》、こんな名判官《めいはんがん》は実にはじめてだとみんなが申《もう》しました。
シャァロン《*》というばけものの高利貸《こうりかし》でさえ、ああ実にペンネンネンネンネン・ネネムさまは名判官だ、ダニーさまの再来《さいらい》だ、いやダニーさまの発達だとほめたくらいです。
ばけもの世界長からは、毎日一つずつ位《くらい》をつけてきましたし、勲章《くんしよう》を贈《おく》ってよこしましたので、今はその位を読みあげるだけに二時間かかり、勲章はネネムの室《へや》の壁《かべ》一杯《いつぱい》になりました。それですから、何かの儀式《ぎしき》でネネムが式辞《しきじ》を読んだりするときは、その位を読むのがつらいので、それをあらかじめ三十に分けて置《お》いて、三十人の部下《ぶか》に一ぺんにがやがやと読み上げてもらうようにしていましたが、それでさえやはり四分はかかりました。勲章《くんしよう》だってその通りです。どうしてもネネムの胸《むね》につけ切れるもんではありませんでしたから、ネネムの大礼服《たいれいふく*》の上着《うわぎ》は、胸の処《ところ》から長さ十米《メートル》ばかりの切れがずうと続《つづ》いて、それに勲章をぞろっとつけて、その帯《おび》のようなものを、三十人の部下《ぶか》の人たちがぞろぞろ持《も》って行くのでした。さてネネムは、このような大へんな名誉《めいよ》を得《え》て、そのほかに、みなさんももうご存知《ぞんじ》でしょうが、フウフィーボー博士《はかせ》のほかに、誰《だれ》も決《けつ》して喰《た》べてならない藁《わら》のオムレツまで、ネネムは喰べることを許《ゆる》されていました。それですから、誰が考えてもこんな幸福《こうふく》なことがないはずだったのですが、実はネネムは一向《いつこう》面白《おもしろ》くありませんでした。それというのは、あのネネムが八つの飢饉《ききん》の年、お菓子《かし》の籠《かご》に入れられて、「おおホイホイ、おおホイホイ。」と云《い》いながらさらって行かれたネネムの妹のマミミのことが、一寸《ちよつと》も頭から離《はな》れなかった為《ため》です。
そこでネネムは、ある日、テーブルの上の鈴《リン》をチチンと鳴らして、部下の検事《けんじ》を一人、呼《よ》びました。
「一寸君《きみ》にたずねたいことがあるのだが。」
「何でございますか。」
「膝《ひざ》やかかとの骨《ほね》の、まだ堅《かた》まらない小さな女の子をつかう商売《しようばい》は、いったいどんな商売だろう。」
検事《けんじ》はしばらく考えてから答えました。
「それはばけもの奇術《きじゆつ》でございましょう。ばけもの奇術師《きじゆつし》が、よく十二、三くらいまでの女の子を、変身術《へんしんじゆつ》だと申《もう》して、ええこんどは犬の形、ええ今度は兎《うさぎ》の形などと、ばけものをしんこ細工《ざいく*》のように延《の》ばしたり円めたり、耳を附《つ》けたりまたとったり致《いた》すのをよく見受《みう》けます。」
「そうか。そして、そんなやつらはいったい世界中《せかいじゆう》に何人くらいあるのかな。」
「左様《さよう》。一昨年《いつさくねん》の調《しら》べでは、奇術を職業《しよくぎよう》にしますものは、五十九人となって居《お》りますが、只今《ただいま》は大分減《へ》ったかと存《ぞん》ぜられます。」
「そうか。どうもそんなしんこ細工のようなことをするというのは、この世界がまだなめくじでできていたころの遺風《いふう》だ。一寸《ちよつと》視察《しさつ》に出よう。事《こと》によると禁止《きんし》をしなければなるまい。」
そこでネネムは、部下の検事を随《したが》えて、今日もまちへ出ました。そして検事の案内《あんない》で、まっすぐに奇術大一座《だいいちざ》のある処《ところ》に参りました。奇術はいまや丁度《ちようど》まっ最中《さいちゆう》です。
ネネムは、検事と一緒《いつしよ》に中へはいりました。楽隊《がくたい》が盛《さか》んにやっています。ギラギラする鋼《はがね》の小手だけつけた青と白との二人のばけものが、電気決闘《でんきけつとう》というものをやっているのでした。剣がカチャンカチャンと云《い》うたびに、青い火花が、まるで箒《ほうき》のように剣から出て、二人の顔を物凄《ものすご》く照《て》らし、見物《けんぶつ》のものはみんなはらはらしていました。
「仲々《なかなか》勇壮《ゆうそう》だね。」とネネムは云《い》いました。
そのうちにとうとう、一人はバアと音がして肩《かた》から胸《むね》から腰《こし》へかけてすっぽりと斬《き》られて、からだがまっ二つに分かれ、バランチャンと床《ゆか》に倒《たお》れてしまいました。
斬った方は肩を怒《いか》らせて、三べん刀を高くふり廻《まわ》し、紫色《むらさきいろ》の烈《はげ》しい火花を揚《あ》げて、楽屋《がくや》へはいって行きました。
すると倒れた方のまっ二つになったからだがバタッとまた一つになって、見る見る傷口《きずぐち》がすっかりくっつき、ゲラゲラゲラッと笑《わら》って起《お》きあがりました。そして頭をほんのすこし下げてお辞儀《じぎ》をして、
「まだ傷口がよくくっつきませんから、粗末《そまつ》なおじぎでごめんなさい。」と云いながら、またゲラゲラゲラッと笑って、これも楽屋へはいって行きました。
ボロン、ボロン、ボロロン、とどらが鳴りました。一つの白いきれを掛《か》けた卓子《テーブル》と、椅子《いす》とが持《も》ち出されました。眼《め》のまわりをまっ黒に塗《ぬ》った若《わか》いばけものが、わざと少し口を尖《とが》らして、テーブルに座《すわ》りました。白い前掛《まえか》けをつけたばけものの給仕《きゆうじ》が、さしわたし四尺《しやく》ばかりあるまっ白の皿《さら》を、恭々《うやうや》しく持って来て卓子の上に置《お》きました。
「フォーク!」と椅子にかけた若ばけものがテーブルを叩《たた》きつけてどなりました。
「へい。これはとんだ無調法《ぶちようほう》を致《いた》しました。ただ今、すぐ持って参《まい》ります。」と云いながら、その給仕《きゆうじ》は二尺《しやく》ばかりあるフォークを持《も》って参《まい》りました。
「ナイフ!」とまた若《わか》ばけものはテーブルを叩《たた》いてどなりました。
「へい。これはとんだ無調法《ぶちようほう》を致《いた》しました。ただ今、すぐ持って参ります。」と云《い》いながらその給仕は、幕《まく》のうしろにはいって行って、長さ二尺ばかりあるナイフを持って参りました。ところがそのナイフをテーブルの上に置《お》きますと、すぐ刃《は》がくにゃんとまがってしまいました。
「だめだ、こんなもの。」とその椅子《いす》にかけたばけものは、ナイフを床《ゆか》に投《な》げつけました。
ナイフはひらひらと床に落《お》ちて、パッと赤い火に燃《も》えあがって消《き》えてしまいました。
「へい。これは無調法いたしました。ただ今のはナイフの広告《こうこく》でございました。本物《ほんもの》のいいのを持って参ります。」と云いながら給仕は引っ込《こ》んで行きました。
するとどうもネネムも検事《けんじ》もだれもかれもみんな愕《おど》ろいてしまったことは、いつの間にか、どうして出て来たのか、すてきに大きな青いばけものがテーブルに置かれた皿《さら》の上にあぐらをかいて、椅子に座《すわ》った若ばけものを見おろしてすまし込《こ》んでいるのでした。青いばけものは、しずかにみんなの方を向《む》きました。眼《め》のまわりがまっ赤です。俄《にわ》かに見物《けんぶつ》がどっと叫《さけ》びました。
「テン・テンテンテン・テジマア《*》! うまいぞ。」
「ほう 素敵《すてき》だぞ。テジマア!」
テジマアと呼《よ》ばれた皿《さら》の上の大きなばけものは、顔をしずかにまた廻《まわ》して、椅子《いす》に座ったわかばけものの方を向《む》きました。そして二人はまるで二匹《ひき》の獅子《しし》のように、じっとにらみ合いました。見物はもうみんな総立《そうだ》ちです。
「テジマア! 負《ま》けるな。しっかりやれ。」
「しっかりやれ。テジマア! 負けると食われるぞ。」こんなような大さわぎのあとで、こんどはひっそりとなりました。そのうちに椅子にすわった若《わか》ばけものは眼が痛《いた》くなったらしく、とうとうまばたきを一つやりました。皿の上のテジマアは、じりじりと顔をそっちへ寄《よ》せて行きます。若ばけものはまた五つばかりつづけてまばたきをして、とうとうたまらなくなったと見えて、両手《りようて》で眼を覆《おお》いました。皿の上のテジマアは落《お》ちついてにゅうと顔を差《さ》し出しました。若ばけものは、がたりと椅子から落ちました。テジマアはすっくりと皿の上に立ちあがって、それからひらりと皿をはねおりて、自分が椅子にどっかりすわりそれから床《ゆか》の上に倒《たお》れている若ばけものを、雑作《ぞうさ》もなく皿の上につまみ上げました。
その時給仕《きゆうじ》が、たしかに金《かね》でできたらしいナイフを持《も》って来て、テーブルの上に置《お》きました。テジマアは一寸《ちよつと》うなずいて、ポッケットから財布《さいふ》を出し、半紙判《はんしばん》の紙幣《しへい》を一枚《まい》引っぱり出して給仕《きゆうじ》にそれを握《にぎ》らせました。
「今度《こんど》の旦那《だんな》は気前が実《じつ》にいいなあ。」とつぶやきながら、ばけもの給仕は幕《まく》の中にはいって行きました。そこでテジマアは、ナイフをとり上げて皿《さら》の上のばけものを、もにゃもにゃもにゃっと切って、フォークに刺《さ》して、むにゃむにゃむにゃっと喰《く》ってしまいました。
その時「バア。」と声がして、その食われたはずの若《わか》ばけものが、床《ゆか》の下から躍《おど》りだしました。
「君よくたっしゃで居《い》てくれたね。」と云《い》いながら、テジマアはそのわかばけものの手を取《と》って、五、六ぺんぶらぶら振《ふ》りました。
「テジマア、テジマア!」
「うまいぞ、テジマア!」みんなはどっとはやしました。
舞台《ぶたい》の上の二人は、手を握《にぎ》ったまま、ふいっとおじぎをして、それから、
「バラコック、バララゲ、ボラン、ボラン。」と変《へん》な歌を高く歌いながら、幕の中に引っ込んで行きました。
ボロン、ボロン、ボロロンと、どらがまた鳴りました。
舞台《ぶたい》が月光のようにさっと青くなりました。それからだんだんのんびりしたいかにも春らしい桃色《ももいろ》に変《かわ》りました。まっ黒な着物《きもの》を着たばけものが左右から十人ばかり大きなシャベルを持《も》ったりきらきらするフォークをかついだりして出て来て、
「おキレの角はカンカンカン
ばけもの麦はベランベランベラン
ひばり、チッチクチッチクチー
フォークのひかりはサンサンサン。」
とばけもの世界《せかい》の農業《のうぎよう》の歌を歌いながら畑《はたけ》を耕《たがや》したり種子《たね》を蒔《ま》いたりするようなまねをはじめました。たちまち床《ゆか》はベランベランベランと大きな緑色《みどりいろ》のばけもの麦の木がはえ出して見る間に立派《りつぱ》な茶色《ちやいろ》の穂《ほ》を出し小さな白い花をつけました。舞台は燃《も》えるように赤く光りました。
「おキレの角はケンケンケン
ばけもの麦はザランザララ
とんびトーロロトーロロトー、
鎌《かま》のひかりはシンシンシン。」
とみんなは足踏《あしぶ》みをして歌いました。たちまち穂は立派《りつぱ》な実《み》になって頭をずうっと垂《た》れました。黒いきもののばけものどもはいつの間にか大きな鎌《かま》を持《も》っていてそれをサクサク刈《か》りはじめました。歌いながら踊《おど》りながら刈りました。見る見る麦の束《たば》は山のように舞台《ぶたい》のまん中に積《つ》みあげられました。
「おキレの角はクンクンクン
ばけもの麦はザック、ザック、ザ
からすカーララ、カーララ、カー
唐箕《とうみ》のうなりはフウララフウ。」
みんなはいつの間にか棒《ぼう》を持っていました。そして麦束はポンポン叩《たた》かれたと思うと、もうみんな粒《つぶ》が落《お》ちていました。麦稈《むぎわら》は青いほのおをあげてめらめらと燃《も》え、あとには黄色な麦粒の小山が残りました。みんなはいつの間にかそれを摺臼《すりうす》にかけていました。大きな唐箕がもう据《す》えつけられてフウフウフウと廻《まわ》っていました。
舞台が俄《にわ》かにすきとおるような黄金色《こがねいろ》になりました。立派《りつぱ》なひまわりの花がうしろの方にぞろりとならんで光っています。それから青や紺《こん》や黄やいろいろの色硝子《いろガラス》でこしらえた羽虫《はむし》が波《なみ》になったり渦巻《うずまき》になったりきらきらきらきら飛《と》びめぐりました。
うしろのまっ黒なびろうどの幕《まく》が両方《りようほう》にさっと開《ひら》いて顔の紺色な髪《かみ》の火のようなきれいな女の子がまっ白なひらひらしたきものに宝石《ほうせき》を一杯《いつぱい》につけてまるで青や黄色のほのおのように踊《おど》って飛《と》び出しました。見物《けんぶつ》はもうみんなきちがい鯨《くじら》のような声で、「ケテン! ケテン!」とどなりました。
女の子は笑《わら》ってうなずいてみんなに挨拶《あいさつ》を返《かえ》しながら舞台《ぶたい》の前の方へ出て来ました。
黒いばけものはみんなで麦の粒《つぶ》をつかみました。
女の子も五、六つぶそれをつまんでみんなの方に投《な》げました。それが落《お》ちて来たときはみんなまっ白な真珠《しんじゆ》に変《かわ》っていました。
「さあ、投げ。」と云《い》いながら十人の黒いばけものがみな真似《まね》をして投げました。バラバラバラバラ真珠の雨は見物の頭に落ちて来ました。
女の子は笑って何かかすかに呪《まじな》いのような歌をやりながらみんなを指図《さしず》しています。
ペンネンネンネンネン・ネネムはその女の子の顔をじっと見ました。たしかにたしかにそれこそは妹のペンネンネンネンネン・マミミだったのです。ネネムはとうとう堪《こら》え兼《か》ねて高く叫《さけ》びました。
「マミミ。マミミ。おれだよ。ネネムだよ。」女の子はぎょっとしたようにネネムの方を見ました。それから何か叫んだようでしたが声がかすれてこっちまで届《とど》きませんでした。ネネムはまた叫びました。
「おれだ。ネネムだ。」マミミはまるで頭から足から火がついたようにはねあがって舞台から飛《と》び下りようとしましたら、黒い助手《じよしゆ》のばけものどもが麦をなげるのをやめてばらばら走って来てしっかりと押《おさ》えました。
「マミミ。おれだ。ネネムだよ。」ネネムは舞台《ぶたい》へはねあがりました。
幕《まく》のうしろからさっきのテジマアが黄色なゆるいガウンのようなものを着《き》ていかにも落《お》ち着《つ》いて出て参《まい》りました。
「さわがしいな。どうしたんだ。はてな。このおかたはどうして舞台へおあがりになったのかな。」
ネネムはその顔をじっと見ました。それこそはあの飢饉《ききん》の年マミミをさらった黒い男でした。
「黙《だま》れ。忘れたか。おれはあの飢饉の年の森の中の子供《こども》だぞ。そしておれは今は世界裁判長《せかいさいばんちよう》だぞ。」
「それはたいへんよろしい。それだからわしもあの時男の子は強いし大丈夫《だいじようぶ》だと云《い》ったのだ。女の子の方は見ろ。このくらい立派《りつぱ》になっている。もうスタアと云うものになってるぞ。お前も裁判長ならよく裁判して礼《れい》をよこせ。」
「しかしお前は何故《なぜ》しんこ細工《ざいく》を興業《こうぎよう》するか。」
「いや。いやいややや。それは実《じつ》に野蛮《やばん》の遺風《いふう》だな。この世界がまだなめくじでできていたころの遺風《いふう》だ。」
「するとお前のところじゃしんこ細工の興業《こうぎよう》はやらんな。」
「勿論《もちろん》さ。おれのとこのはみんな美学《びがく》にかなっている。」
「いや。お前は偉《えら》い。それではマミミを返《かえ》してくれ。」
「いいとも。連《つ》れて行きなさい。けれども本人が望《のぞ》みならまた寄越《よこ》してくれ。」
「うん。」
どうです。とうとうこんな変《へん》なことになりました。これというのもテジマアのばけもの格が高いからです。
とにかくそこでペンネンネンネンネン・ネネムはすっかり安心《あんしん》しました。
五 ペンネンネンネンネン・ネネムの出現《しゆつげん》
ペンネンネンネンネン・ネネムは独立《どくりつ》もしましたし、立身《りつしん》もしましたし、巡視《じゆんし》もしましたし、すっかり安心もしましたから、だんだんからだも肥《ふと》り声も大へん重《おも》くなりました。
大抵《たいてい》の裁判《さいばん》はネネムが出て行って、どしりと椅子《いす》にすわって物《もの》を云《い》おうと一寸《ちよつと》唇《くちびる》をうごかしますと、もうちゃんときまってしまうのでした。
さて、ある日曜日、ペンネンネンネンネン・ネネムは三十人の部下《ぶか》をつれて、銀色の袍《ほう*》をひるがえしながら丘《おか》へ行きました。
クラレ《*》という百合《ゆり》のような花が、まっ白にまぶしく光って、丘にもはざまにもいちめん咲《さ》いておりました。ネネムは草に座《すわ》って、つくづくとまっ青な空を見あげました。
部下の判事《はんじ》や検事《けんじ》たちが、その両側《りようがわ》からぐるっと環《わ》になってならびました。
「どうだい。いい天気じゃないか。
ここへ来てみるとわれわれの世界《せかい》もずいぶんしずかだね。」ネネムが云《い》いました。
みんなの影法師《かげぼうし》が草にまっ黒に落《お》ちました。
「ちかごろは噴火《ふんか》もありませんし、地震《じしん》もありませんし、どうも空は青い一方ですな。」
判事たちの中で一番位《くらい》の高いまっ赤なばけものが云いました。
「そうだね全《まつた》くそうだ。しかし昨日《きのう》サンムトリが大分鳴ったそうじゃないか。」
「ええ新報に出て居《お》りました。サンムトリというのはあれですか。」
二番目にえらい判事が向《むこ》うの青く光る三角な山を指《さ》しました。
「うん。そうさ。僕《ぼく》の計算によると、どうしても近いうちに噴《ふ》き出さないといかんのだがな。何せ、サンムトリの底《そこ》の瓦斯《ガス》の圧力《あつりよく》が九十億気圧以上《おくきあついじよう》になってるんだ。それにサンムトリの一番弱いところは、八十億気圧にしか耐《た》えないはずなんだ。それに噴火《ふんか》をやらんというのはおかしいじゃないか。僕《ぼく》の計算にまちがいがあるとはどうもそう思えんね。」
「ええ。」
上席判事《じようせきはんじ》やみんなが一緒《いつしよ》にうなずきました。その時向《むこ》うのサンムトリの青い光がぐらぐらっとゆれました。それからよこの方へ少しまがったように見えましたが、忽《たちま》ち山が水瓜《すいか》を割《わ》ったようにまっ二つに開《ひら》き、黄色や褐色《かつしよく》の煙《けむり》がぷうっと高く高く噴《ふ》きあげました。
それから黄金色《こがねいろ》の鎔岩《ようがん》がきらきらきらと流《なが》れ出して見る間にずっと扇形《おうぎがた》にひろがりました。見ていたものは、
「ああ、やったやった。」と、
そっちに手を延《のば》して高く叫《さけ》びました。
「やったやった。とうとう噴いた。」と、
ペンネンネンネンネン・ネネムはけだかい紺青色《こんじよういろ》にかがやいてしずかに云いました。
その時はじめて地面《じめん》がぐらぐらぐら波《なみ》のようにゆれ、
「ガーン、ドロドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」と耳もやぶれるばかりの音がやって来ました。それから風がどうっと吹《ふ》いて行って忽《たちま》ちサンムトリの煙《けむり》は向《むこ》うの方へ曲《まが》り空はますます青くクラレの花はさんさんとかがやきました。上席判事《じょうせきはんじ》が言いました。
「裁判長《さいばんちよう》はどうも実に偉《えら》い。いまや地殻《ちかく》までが裁判長の神聖《しんせい》な裁断《さいだん》に服《ふく》するのだ。」
二番目の判事《はんじ》が言いました。
「実にペンネンネンネンネン・ネネム裁判長は超怪《ちょうかい*》である。私はニイチャの哲学《てつがく》が恐《おそ》らくは裁判長から暗示《あんじ》を受けているものであることを主張《しゆちよう》する。」
みんなが一度《いちど》に叫《さけ》びました。
「ブラボオ、ネネム裁判長。ブラボオ、ネネム裁判長。」
ネネムはしずかに笑《わら》っておりました。その得意《とくい》な顔はまるで青空よりもかがやき、上等《じようとう》の瑠璃《るり》よりも冴《さ》えました。そればかりでなく、みんなのブラボオの声は高く天地にひびき、地殻がノンノンノンノンとゆれ、やがてその波《なみ》がサンムトリに届《とど》いたころ、サンムトリがその影響《えいきよう》を受けて火柱《ひばしら》高く第《だい》二回の爆発《ばくはつ》をやりました。
「ガーン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」
それから風がどうっと吹いて行って、火山弾《かざんだん》や熱《あつ》い灰《はい》やすべてあぶないものがこの立派《りつぱ》なネネムの方に落《お》ちて来ないように山の向《むこ》うの方へ追《お》い払《はら》ったのでした。ネネムはこの時は正《まさ》によろこびの絶頂《ぜつちよう》でした。とうとう立ちあがって高く歌いました。
「おれは昔《むかし》は森の中の昆布取《こんぶと》り、
その昆布網《あみ》が空にひろがったとき
風の中のふかやさめがつきあたり
おれの手がぐらぐらとゆれたのだ。
おれはフウフィーボー博士《はかせ》の弟子《でし》
博士はおれの出した筆記帳《ひつきちよう》を
あくびといっしょにスポリと呑《の》みこんだ。
それから博士は窓《まど》から飛《と》んで出た。
おれはむかし奇術師《きじゆつし》のテジマアに
おれの妹をさらわれていた。
その奇術師のテジマアのところで
おれの妹はスタアになっていた。
いまではおれは勲章《くんしよう》が百ダアス
藁《わら》のオムレツももうたべあきた。
おれの裁断《さいだん》には地殻《ちかく》も服《ふく》する
サンムトリさえ西瓜《すいか》のように割《わ》れたのだ。」
さあ三十人の部下《ぶか》の判事《はんじ》と検事《けんじ》はすっかりつり込《こ》まれて一緒《いつしよ》に立ち上がって、
「ブラボオ、ペン、ネンネンネンネン、ネネム
ブラボオ、ペン、ペンペンペンペン、ペネム。」
と叫《さけ》びながら踊《おど》りはじめました。
「フィーガロ《*》、フィガロト、フィガロット。」
クラレの花がきらきら光り、クラレの茎《くき》がパチンパチンと折《お》れ、みんなの影法師《かげぼうし》はまるで戦《いくさ》のように乱《みだ》れて動《うご》きました。向《むこ》うではサンムトリが第《だい》三回の爆発《ばくはつ》をやっています。
「ガアン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」
黄金の鎔岩《ようがん》、まっ黒なけむり。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
ペンネンネンネンネン・ネネム裁判長《さいばんちよう》
その威《い》オキレの金角《きんかく》とならび
まひるクラレの花の丘《おか》に立ち
遠い青びかりのサンムトリに命令《めいれい》する。
青びかりの三角のサンムトリが
たちまち火柱《ひばしら》を空にささげる。
風が来てクラレの花がひかり
ペンネンネンネンネン・ネネムは高く笑《わら》う。
ブラボオ、ペン、ネンネンネンネン、ネネム
ブラボオ、ペン、ペンペンペンペン、ペネム。」
その時サンムトリが丁度《ちようど》第《だい》四回の爆発《ばくはつ》をやりました。
「ガアン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノンノン。」
ネネムをはじめばけものの検事《けんじ》も判事《はんじ》もみんな夢中《むちゆう》になって歌ってはねて踊《おど》りました。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
風が青ぞらを吼《ほ》えて行けば、
そのなごりが地面《じめん》に下って
クラレの花がさんさんと光り
おれたちの袍《ほう》はひるがえる。
さっきかけて行った風が
いまサンムトリに届《とど》いたのだ。
そのまっ黒なけむりの柱《はしら》が
向《むこ》うの方に倒《たお》れて行く。
フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
ブラボオ、ペン、ネンネンネンネン・ネネム
ブラボオ、ペン、ペンペンペンペン、ペネム。
おれたちの叫《さけ》び声は地面《じめん》をゆすり
その波《なみ》は一分に二十五ノット
サンムトリの熱《あつ》い岩漿《がんしよう*》にとどいて
とうとうも一度爆発《いちどばくはつ》をやった。
フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
フィーガロ、フィガロト、フィガロット」
ネネムは踊《おど》ってあばれてどなって笑《わら》ってはせまわりました。
その時どうしたはずみか、足が少し悪《わる》い方へそれました。
悪い方というのはクラレの花の咲《さ》いたばけもの世界《せかい》の野原の一寸《ちよつと》うしろのあたり、うしろと言うよりは少し前の方でそれは人間の世界なのでした。
「あっ。裁判長《さいばんちよう》がしくじった。」
と誰《だれ》かがけたたましく叫《さけ》んでいるようでしたが、ネネムはもう頭がカアンと鳴ったまままっ黒なガツガツした岩の上に立っていました。
すぐ前には本当に夢《ゆめ》のような細い細い路《みち》が灰色《はいいろ》の苔《こけ》の中をふらふらと通っているのでした。そらがまっ白でずうっと高く、うしろの方はけわしい坂《さか》で、それも間もなくいちめんのまっ白な雲の中に消《き》えていました。
どこにたった今歌っていたあのばけもの世界のクラレの花の咲いた野原があったでしょう。実《じつ》にそれはネパールの国からチベットへはいる峠《とうげ》の頂《いただき》だったのです。
ネネムのすぐ前に三本の竿《さお》が立ってその上に細長い紐《ひも》のようなぼろ切れが沢山《たくさん》結《むす》びつけられ、風にパタパタパタパタ鳴っていました。
ネネムはそれを見て思わずぞっとしました。
それこそはたびたび聞いた西蔵《チベット》の魔よけの幡《はた*》なのでした。ネネムは逃《に》げ出しました。まっ黒なけわしい岩の峯《みね》の上をどこまでもどこまでも逃げました。
ところがすぐ向《むこ》うから二人の巡礼《じゆんれい》が細い声で歌を歌いながらやって参《まい》ります。ネネムはあわててバタバタバタバタもがきました。何とかして早くばけもの世界《せかい》に戻《もど》ろうとしたのです。
巡礼たちは早くもネネムを見つけました。そしてびっくりして地にひれふして何だかわけのわからない呪文《じゆもん》をとなえ出しました。
ネネムはまるでからだがしびれてきました。そしてだんだん気が遠くなってとうとうガーンと気絶《きぜつ》してしまいました。
ガーン。
それからしばらくたってネネムはすぐ耳のところで、
「裁判長《さいばんちよう》。裁判長。しっかりなさい。裁判長。」という声を聞きました。おどろいて眼《め》を明いて見るとそこはさっきのクラレの野原でした。
三十人の部下《ぶか》たちがまわりに集《あつ》まって実《じつ》に心配《しんぱい》そうにしています。
「ああ僕《ぼく》はどうしたんだろう。」
「只今《ただいま》空から落《お》ちておいででございました。ご気分はいかがですか。」
上席判事《じようせきはんじ》が尋《たず》ねました。
「ああ、ありがとう。もうどうもない。しかしとうとう僕は出現《しゆつげん》してしまった。
僕は今日は自分を裁判《さいばん》しなければならない。
ああ僕は辞職《じしよく》しよう。それからあしたから百日、ばけものの大学校の掃除《そうじ》をしよう。ああ、何もかもおしまいだ」
ネネムは思わず泣《な》きました。三十人の部下《ぶか》も一緒《いつしよ》に大声で泣きました。その声はノンノンノンノンと地面《じめん》に波《なみ》をたて、それが向《むこ》うのサンムトリに届《とど》いたころサンムトリが赤い火柱《ひばしら》をあげて第《だい》五回の爆発《ばくはつ》をやりました。
「ガアン、ドロドロドロドロ。」
風がどっと吹《ふ》いて折《お》れたクラレの花がブルブルとゆれました。〔以下原稿なし〕
ペンネンノルデはいまはいないよ
太陽《たいよう》にできた黒い棘《とげ》をとりに行ったよ
一、ペンネンノルデが七つの歳《とし》に太陽にたくさんの黒い棘《とげ》ができた。赤、黒い棘、父赤い眼《め》、ばくち。
二、ノルデはそれからまた十二年、森《ナスタ》のなかで昆布《こんぶ》とりをした。
三、ノルデは書記になろうと思ってモネラ《*》の町へ出かけて行った。氷羊歯《こおりしだ》の汽車、恋人《こいびと》、アルネ。
四、フウケーボー大《だい》博士《はかせ》はあくびといっしょにノルデの筆記帳《ひつきちよう》をすぽりとのみ込《こ》んでしまった。
五、噴火《ふんか》を海へ向《む》けるのはなかなか容易《ようい》なことでない。
化物丁場《ばけものちようば》、おかしなならの影《かげ》、岩頸《がんけい*》問答《もんどう》、大博士発明《はつめい》のめがね。
六、さすがのフウケーボー大博士も命《いのち》からがらにげだした。
恐竜《きようりゆう》、化石《かせき》の向《む》こうから《*》。
大《だい》博士《はかせ》に疑問《ぎもん》をいだく。噴火係《ふんかがかり》の職《しよく》をはがれ、その火山灰《ばい》の土壌を耕《たがや》す。部下《ぶか》みな従《したが》う。
七、ノルデは頭からすっかり灰をかぶってしまった。
サンムトリの噴火。ノルデ海岸《かいがん》でつかれてねむる。ナスタ現《あら》わる。夢《ゆめ》のなかでうたう。
八、ノルデは野原にいくつも茶いろなトランプのカードをこしらえた。
ノルデ奮起《ふんき》す。水の不足。
九、ノルデがこさえたトランプのカードを、みんなは春は桃《もも》いろに夏は青くした。
恋人《こいびと》アルネとの結婚《けつこん》……夕方。
十、ノルデはみんなの仕事《しごと》をもっとらくにしようと考えた。そんなことをしなくってもいいよ。 おれは南の方でやってみせるよ。大雷雨《だいらいう》。桜《さくら》の梢《こずえ》からセントエルモの火《*》。暗《やみ》のなか。
十一、ノルデは三べん胴上《どうあ》げのまま地べたにべちゃんと落《お》とされた。
どうだい。ひどくいたいかい。どう? あなたひどくいたい? ノルデつかれてねむる。
十二、ノルデは太陽から黒い棘《とげ》をとるためにでかけた。
太陽がまたぐらぐらおどりだしたなあ。困《こま》るなあ。おい断《こと》わっちまえよ。奮起《ふんき》す。おーい、火山だなんてまるで別《べつ》だよ。ちゃんと立派《りつぱ》なビルデングになってるんだぜ。
注 釈
『雪渡り』
*堅雪《かたゆき》かんこ、しみ雪しんこ 九戸《くのへ》郡や和賀《わが》郡など、岩手県内に広く流布《るふ》する童歌《わらべうた》。千葉瑞夫『岩手のわらべ歌』には「雪渡かんこ(寒気)」の歌として、和賀郡和賀町で採取した「堅雪かんこ、凍み雪しんこ」ではじまる歌が載《の》っている。
*ザラメ 粗目。結晶《けつしよう》の粗《あら》い砂糖のこと。
*封蝋《ふうろう》 封じ蝋。松脂《まつやに》にマグネシア等を混ぜたものに着色したもの。瓶《びん》や封筒《ふうとう》の密封《みつぷう》に使う。
*寒水石《かんすいせき》 大理石《だいりせき》(石灰岩が熱変成作用を受けて方解石の結晶《けつしょう》となった光沢《こうたく》のある美しい石)の一種。水戸《みと》寒水石が名高い。
*そねまない 「そねむ」は、嫉妬《しつと》する、羨《うらや》ましがって恨《うら》むこと。
『やまなし』
*やまなし バラ科の落葉高木。岩手にはイワテヤマナシがある。秋に3センチほどの実をつける。酸味が強い。
*クラムボン 蟹《かに》の子供にとっての未知なる生物。泡《あわ》、蛙《かえる》、アメンボ等諸説あるが、特定できるように書かれていない。「kurammbonn」という音から来る音感イメージが重要。
*かわせみ 淡水《たんすい》の水場近くにいる鳥。くちばしが大きく、腹は橙色《だいだいいろ》だが、その他は暗緑色《あんりよくしよく》で、背から尾は鮮《あざ》やかなコバルト色である。翡翠《ひすい》ともいう。急降下して魚を捕《と》る。
*樺《かば》の花  賢治作品の樺は白樺と山桜類のいずれかを指すが、花が白とあるのでここは山桜。
*錐《きり》の形の水晶《すいしよう》 水晶の結晶は、六面の三角形で錐体《すいたい》を構成する。六方晶系の鉱物である。
*金雲母《きんうんも》 雲母はガラス光沢《こうたく》を持ち層状《そうじよう》に剥《は》げることで知られる鉱物。ナトリウムとチタンを含《ふく》む黒雲母のうち、鉄やマンガンが少なく黄褐色《おうかつしよく》のものを金雲母という。
*イサド 『風の又三郎』『種山ヶ原』では「伊佐戸」。一説では江刺《えさし》市の岩谷堂《いわやどう》のもじり。
*金剛石《こんごうせき》 ダイヤモンドのこと。金剛は最も堅《かた》いという意味。
『氷河鼠の毛皮』
*氷河鼠《ひようがねずみ》 Glacier Bay Water-shrew(アラスカトガリネズミ。Glacier は「氷河」)のことか。同じトガリネズミ科のチビトガリネズミはベーリング海沿岸にも棲息し、また同科のジャコウネズミ(麝香鼠)は毛皮として珍重《ちんちよう》されたから、これらの知識を総合して氷河鼠という動物が想定されたのかもしれない。「モロッコ狐《ぎつね》」は未詳《みしよう》。
*ベーリング ロシアのベーリング海沿岸を意識した架空《かくう》の都市。詩「一本木野」に「電信ばしらはやさしく白い碍子《がいし》をつらね/ベーリング市までつづくとおもわれる」とある。
*イーハトヴ 理想的世界として虚構化《きよこうか》された岩手県。
*最大急行《さいだいきゆうこう》 特別急行の旧名。
*北極狐《ほつきよくぎつね》 北極地方に棲息するキツネ。明るいときでも瞳《ひとみ》が丸いままであることが特徴《とくちよう》。
*唐檜《とうひ》 ここではトウヒ属のエゾマツ、アカエゾマツ、ドイツトウヒのいずれか。
*ラッコ イタチ科の愛らしい水生動物。泳ぎが巧《たく》みで北太平洋全域に生息《せいそく》していたが、毛皮を採るための乱獲《らんかく》の結果、激減《げきげん》している。
*海狸《ビバア》 大型の齧歯《げつし》類。体長1メートル、体重25キロ。川に木切れでダムを作る。毛皮は高級品で、分泌物《ぶんぴつぶつ》は香料となるので乱獲《らんかく》され、現在はカナダやシベリヤに僅《わず》かに生息している。
*黒狐《くろぎつね》 黒色相《こくしきそう》のキツネ。これに白が交じったものが最も高価な毛皮となる銀ギツネ。
*パテント 専売特許品、の意味。
*蛋白石《たんぱくせき》 オパール。二酸化珪素《にさんかけいそ》からなる半透明《はんとうめい》な鉱物。名前の由来は卵の白身に似ているため。しばしば葡萄《ぶどう》の房《ふさ》状で出土するので、賢治は雲の形状の比喩《ひゆ》に使う。
*鋼《はがね》いろ steelblueのこと。暗灰青色《あんかいせいしよく》。
*螺鈿《らでん》 夜光貝等の真珠光《しんじゆこう》を放つ部分を薄く切り取り、木材や漆器《しつき》に装飾《そうしよく》したもの。
*熊《くま》ども この作品の発表はロシア革命(一九一七)の6年後であり、列車の行き先も考慮すると、当時、ロシア人のことを揶揄《やゆ》して「熊」と呼んだこととの関連も考えられる。
*間諜《かんちよう》 スパイのこと。
『シグナルとシグナレス』
*シグナレス signalに女性名詞を作る接尾語「ess」をつけ、女性名詞化した創作語彙《ごい》。
*さそりの赤眼《あかめ》 蠍座《さそりざ》の一等星アンタレスのこと。正しくは心臓だが賢治は眼として描《えが》く。
*遠野《とおの》 岩手軽便鉄道(現JR釜石《かまいし》線)で、花巻から40キロ東。
*蛇紋岩《サアペンテイン》 蛇《へび》のような紋《もん》を呈《てい》する変成岩。カンラン岩が風化してできる。北上山地に多く分布する。軽便鉄道の路線では特に岩根橋《いわねばし》付近に分布。
*軽便鉄道《けいべんてつどう》 ここでは花巻から遠野を通り仙人峠《せんにんとうげ》まで走っていた岩手軽便鉄道(軽便鉄道は線路幅が79センチ)。賢治は地質調査等によく利用した。銀河鉄道のモデル。
*琥珀《こはく》 松脂《まつやに》の化石で、暗褐色《あんかつしよく》半透明《はんとうめい》な樹脂《じゆし》状を呈《てい》する。
*ノアの洪水《こうずい》 聖書の創世記にある挿話《そうわ》。アダムとエヴァの子孫達の堕落《だらく》に怒《いか》った神が、洪水をおこして滅《ほろ》ぼすが、敬虔《けいけん》なノアの家族には船を作らせ、つがいの動物たちを乗せさせる。そして再び地上に戻《もど》す。神は二度と洪水をおこさぬと誓《ちか》い、虹《にじ》をその契約《けいやく》の印とする。
*環状星雲《フイツシユマウスネビユラ》 琴《こと》座のガス状星雲で星の爆発《ばくはつ》による星雲。フィッシュマウスネビュラとは魚の口星雲という意味だが、確かに魚の口の形に見える。内側が青く外側が赤い。ここでは、琴座の主な4星を結ぶと円形になるため、これを指輪に、星雲をその宝石にたとえたもの。
*ぶっきりこ 棒《ぼう》状の飴《あめ》をぶっきる(叩《たた》き切る)「ぶっきり棒」と、電信柱(昔は木製)との類似からきたあだなか。「ぶっきり」には無愛想《ぶあいそう》の意味もある。「こ」は岩手独特の名詞語尾。
*エジソン 「メリケン国」(アメリカ)の発明家。電信機、蓄音機《ちくおんき》、白熱電灯、電気機関車、タイプライターに加えて、ここでは鉄道シグナルの発明者であることをふまえている。
*サンタマリヤ 祈りのことば。「(慈悲《じひ》深い)聖母マリア様」。『オツベルと象』でも象の祈《いの》りのことばとして登場。キリスト教のことばだが、仏教の観音《かんのん》信仰とも交錯《こうさく》する。
*ジョウジスチブンソン イギリスの発明家。蒸気機関車を発明し、一八二五年、ロコモーション号によって、世界最初の公共鉄道を開通させた。
*風引きの脈《みやく》 風化した岩脈の意味か(『楢の木大学士の野宿』の「風病」参照)。
*アルファー ビーター、ガムマア、デルタアと続くのは、一次元、二次元、三次元、四次元の意味。賢治は四次元では時空を越《こ》えてすべての生物がひとつの意識を共有しうるとした。
*十三連《つら》なる青い星 牡牛座《おうしざ》の散開星団《さんかいせいだん》、すばる(昴、プレアデス、M《メシエ》45)のこと。詩「〔そのとき嫁《とつ》いだ妹に云《い》う〕でも賢治は「十三連もある昴の星」と記している。
*ピタゴラス派《は》の天球運行《てんきゆううんこう》の諧音《かいおん》 ピタゴラスは紀元前6世紀のギリシャの哲学者。輪廻転生《りんねてんしよう》を信じる彼の教団は、質的なものは量的なものに置き換《か》えうるとして、万物の根源に数を置き、宇宙を10の球層と捉《とら》え、それらの天体運動の調和が、音楽を奏《かな》でていると説いた。
『オツベルと象』
*稲扱器械《いねこききかい》 割竹の間に稲穂《いなほ》を挟《はさ》んで実を落とす器械。江戸時代から大正時代中期までは、沢山《たくさん》の歯をもつことから「千歯《せんば》こき」と呼ばれるものが普及していた。
*ビフテキ ビーフステーキのことを約《つづ》めてこのように言う。
*白象《はくぞう》 仏教では釈迦《しやか》の化身《けしん》とされる。また仏の知恵の象徴化《しようちようか》である普賢菩薩《ふげんぼさつ》は、この白象に乗る姿で一般化している。
*万円 当時の給料は、総理大臣で月額八〇〇円、公務員の初任給は75円。
*かくし ポケット。
*赤い竜《りゆう》の眼《め》 竜は蛇《へび》の神格化。賢治作品では竜の赤眼は、修羅《しゆら》意識の身体記号。
*沙羅樹《しやらじゆ》 沙羅双樹《しやらそうじゆ》、鶴林《かくりん》とも。インド等の熱帯に生える落葉高木。釈迦《しやか》が入滅《にゆうめつ》する際、臥床《がしよう》の周りにあったことで知られる。
『ざしき童子のはなし』
*ざしき童子《ぼつこ》 ザキシワラシとも。童子《どうじ》の精霊《せいれい》で、居なくなるとその家は没落《ぼつらく》するという。
*大道めぐり どうどうめぐりともいう。手を繋《つな》いでぐるぐる回る遊びの類《たぐ》い。
*朗明寺《ろうみようじ》 土沢《つちさわ》街道の更木《さらき》と対岸の旧二子村との間をつなぐ渡《わた》し場近くには永明寺がある。
*更木《さらき》 現北上市の地名。花巻市の南々東6キロの北上川東岸の地帯。
『寓話 猫の事務所』
*官衙《かんが》 官署。立法や行政、司法を執《と》り行う国家の事務所。
*眼光炳々《がんこうへいへい》 目がキラキラ輝《かがや》いていること。利発で有能なことを示す。
*土用《どよう》 普通は立秋の前18日間。最も暑いころ。
*アンモニアック 接着剤として利用するアンモニアゴム(ammoniac)からの命名。
*パン、ポラリス pan・polaris。汎《はん》北極星の意味。
*ヤップ島 西太平洋上、カロリン諸島の島。第一次世界大戦後に一時的に日本領。
『北守将軍と三人兄弟の医者』
*ソンバーユー インドの風神vayu(ヴァーユ)にちなむ名。ヴァーユはふつう、鎧《よろい》をつけ、冠《かんむり》を被《かぶ》り、髭《ひげ》を生し、右手に幢旙《どうばん》をもった白髪《はくはつ》の老人として描《えが》かれる。
*砂鶻《さこつ》 鶻はタカ類を示す漢名。ここでは砂漠《さばく》に生息するタカ類のこと。
『グスコーブドリの伝記』
*ネリ 『黄いろのトマト』でも妹の名前。大正時代には、ドストエフスキーがよく読まれ、その『虐《しいた》げられた人々』に登場する少女ネ(ル)リがよく知られていた。
*こぶし モクレン科の落葉高木。初春に白い花をつける。種蒔《たねま》きの時期を知らせる花として知られる。賢治は『マグノリアの木』の中で聖なる花として描《えが》いている。
*オリザ oryza。稲《いね》(もち米を含む)のこと。普通見られるのはサチバ種である。
*榾《ほだ》 炉《ろ》にくべる薪《たきぎ》。
*てぐす 天蚕糸。ヤママユガ科のクスサン(樟蚕)等の繭《まゆ》から採る糸。釣《つ》り糸に使う。クスサンの幼虫は白髪太郎《しらがたろう》ともいわれる栗《くり》の木の害虫。栗の花は黄白色。
*ささげの蔓《つる》 マメ科の草。蔓《つる》状の茎を長く伸《の》ばして絡《から》みつく。
*指竿《させ》とり 小松代融一『岩手方言集』に、田植えの時に馬のかじ棒《ぼう》をとる人、とある。
*丁《ちよう》 町とも。約一〇九メートル。
*歴史《れきし》の歴史 賢治は『春と修羅《しゆら》』序で、歴史は時空的制約の中で感じるものに過ぎないと主張する。ここは、世界認識が変わるたびに歴史(歴史観)が変化してきたことを示す模型。
*ぱっと電燈《でんとう》がつきました 昔は電気会社の方が夕方になると電気を供給した。
*飛行船《ひこうせん》 明治末から大正時代にかけて、飛行船が世界的に流行した。一九二九年にはツェッペリン伯爵《はくしやく》号が世界一周の途中に霞《かすみ》ヶ浦《うら》に寄港した。爆発《ばくはつ》しやすいので廃《すた》れた。
*潮汐発電所《ちようせきはつでんしよ》 太陽と月の引力によって海面の高低差が生じ、その潮流でタービンを回して発電する。一九六六年フランスで実用化。高低差が10メートルは必要で、日本では難しい。
*硝酸《しようさん》アムモニア 硝酸をアンモニアで中和した肥料(硝安《しようあん》)。空中に放電し、窒素《ちつそ》からアンモニアを取り出す空中窒素固定法は、一九〇七年ドイツのハーバーによって実用化。
*カルボナード carbonado。黒ダイヤ(石炭)のこと。石炭紀《き》や炭酸ガス等、炭素(carbon)を意識した名前。
*甘藍《かんらん》 キャベツまたは葉牡丹《はぼたん》のこと。
*炭酸瓦斯《たんさんガス》 炭酸ガスは保温効果があり、地球温暖化の原因となる。ここは、シダ植物が大繁栄《だいはんえい》した石炭紀《き》の大気には炭酸ガスが多かったから、火山爆発《ばくはつ》は地球温暖化を可能にすると説いた、スウェーデンの科学者S・アレニウス(詩「晴天恣意《せいてんしい》」に名が記される)の影響。
『朝に就ての童話的構図』
*歩哨《ほしよう》 警戒《けいかい》や監視の任務についている歩兵のこと。
*スナイドル式《しき》の銃剣《じゆうけん》 アメリカのJ・スナイダーが19世紀中頃《ごろ》に発明した後装銃《こうそうじゆう》。日本政府は歩兵銃としてイギリスから輸入したが、明治13年以降、村田経芳が発明した村田銃に代った。なお岩手県の釜石《かまいし》製鉄所は、国産の野戦砲《やせんほう》用の良質の銑鉄《せんてつ》を生産していた。
『セロ弾きのゴーシュ』
*ゴーシュ フランス語のgauche(不器用な、歪《ゆが》んだ)より。草稿《そうこう》では「テイシウ」「ゴーパー」の名前が検討されている。詩「樺太鉄道《からふとてつどう》」ではゴーシュは山の蔭《かげ》の形容に使われる。
*活動写真館《かつどうしやしんかん》 映画館のこと。かつては無声映画で、弁士《べんし》が楽団の伴奏《ばんそう》に併《あわ》せて講釈《こうしやく》した。
*セロ チェロのこと。
*第六交響曲《だいろくこうきようきよく》 ベートーヴェンの田園交響曲のこと。賢治が好んだ曲のひとつ。
*金沓鍛冶《かなぐつかじ》 金沓は鉄沓、馬の蹄《ひづめ》に打ち付ける半円の鉄のこと。鍛冶はその職人のこと。
*丁稚《でつち》 商家や職人の元に年季奉公《ぼうこう》する年少の雑役夫。
*シューマンのトロメライ シューマンは19世紀前半のドイツのロマン派音楽の作曲家。『子供の情景』の第7曲が「トロイメライ(夢想)」。「トロメライ」「ロマチック」と、「イ」や「ン」がぬけているのは、猫の知ったかぶりを示すため。
*印度《インド》の虎狩《とらがり》 未詳《みしよう》。ビクターのカタログに載《の》っているエヴァンス作曲のダンス用の曲、「インドへ虎狩りにですって」がモデルか。
*かっこう ホトトギス科の鳥。郭公。「外国へ行く」とあるのは渡《わた》り鳥であるため。
*愉快《ゆかい》な馬車屋《ばしやや》 未詳《みしよう》。ビクターのカタログに載《の》っている、サロニィ作曲のフォックストロット(ダンスの一種)用の曲、「愉快な牛乳屋」がモデルか。
*きたいに 奇態に。変に、奇妙《きみよう》に、の意味。
*みみずく ふくろうのこと。
*ラプソディ 狂詩曲。楽想が自由に展開する器楽曲。ジプシー音楽を取り入れた、リストの「ハンガリアンラプソディー」が有名。
『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』
*ワップル ワッフル。西洋菓子《がし》の一種。卵黄と牛乳、砂糖に小麦粉を混ぜて焼く。
*水煙草《みずたばこ》 アジアの一部に見られる水煙具のことか。煙を水にくぐらせるパイプの一種。
*ノット 海里《かいり》に同じで、約一八五二メートル。チェーンは約20メートル。
*プウルウキインイイの現象《げんしよう》 プルキンエ現象のばけもの世界での変奏《へんそう》。夕方など、視野の輝度《きど》が減じると、青の領域が強調される現象。
*かの天にありて……宇宙《うちゆう》を支配《しはい》す ドイツの哲学者エマニエル・カントのの「ここに二つの物がある、それは――我々がその物を思念すること長くかつしばしばなるにつれて、常にいや増す新たな感嘆と畏敬《いけい》の念とをもって我々の心を余すところなく充足《じゆうそく》する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である。」(『実践《じつせん》理性批判』第二部の結び。引用は岩波文庫)という有名な言葉の暗示引用。
*セム seminar(研究課程、セミナー)を踏まえた表現。「二十二号」は卒業生の順番。
*アツレキ 「軋轢《あつれき》」の年号への転用。「レキ」は「○○暦」に通じる。
*青笹村《あおざさむら》 遠野市街の東に位置する旧青笹村(現遠野市)。賢治とも親交のあった佐々木喜善の『奥州のザシキワラシの話』(大正9)にザシキワラシの出現場所として登場。
*中生代《ちゆうせいだい》の瑪瑙木《めのうぼく》 中生代とは古生代に続いて、今から六五〇〇万年前まで続いた爬虫類《はちゆうるい》全盛(恐竜)の時代。瑪瑙木とは、木が温泉水等の影響で珪化《けいか》して蛋白石のようになったもの。
*チャリネル 明治時代に3回来日して大人気となったイタリアの曲馬団「チャリネ」にちなみ、サーカス一般を指すようになった「チャリネ」を踏まえた表現。
*フクジロ おそらく「福助《ふくすけ》」と天狗《てんぐ》のイメージを合成したばけもの。「福助」は祈ると幸福になるといわれた小躯《しようく》巨頭の男性の人形。江戸時代から遊女屋等で流行した。また開盛社製造のマッチ「明治通宝」は、この「福助」がトレードマークとして描《えが》かれた。
*太夫《たゆう》 元は五位の通称。後、芸能集団の長や中心人物、曲芸者、最上位の遊女等の呼称。
*一疋《ぴき》のみじんこから 進化論の言い換《か》え。ミジンコは最も単純な単細胞《たんさいぼう》動物ではなく、アメーバーとするのが適当。
*シャァロン シェークスピアの『ベニスの商人』中の悪徳ユダヤ商人シャイロックの変奏《へんそう》。「ダニーさまの再来だ」は、シャイロックが裁判官に向かって叫《さけ》ぶ言葉の引喩《いんゆ》。
*大礼服《たいれいふく》 宮殿等で着用する儀礼服《ぎれいふく》。ヨーロッパではラシャ製の上衣、金糸で花模様《はなもよう》を刺繍《ししゆう》した袖口《そでぐち》、ダチョウの羽飾《はねかざ》りつきの山高帽、白い乗馬ズボンの組み合わせ。日本では明治5年制定の文官大礼服、明治17年の宮内《くない》官大礼服があり、第二次世界大戦終了まで使われた。
*しんこ細工 屋台で子供相手に、乾《かわ》いた白米の粉をねって動物等を作って売る細工菓子《がし》。
*テジマア 奇術《きじゆつ》(手品)のことを昔は「手づま」と言った。
*袍《ほう》 中国から伝来の、体を包むようなまるえりの上衣。ここでは裁判官が羽織《はお》る上着。
*クラレ 実在しない花の名。エスペラント語のklara(澄《す》みきった、明瞭《めいりよう》な)の濃い語を「e」に変えて派生副詞化したklare(澄みきって、明瞭に)に基づくか。
*超怪《ちようかい》 19世紀のドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』で唱《とな》えた「超人《ちようじん》」のもじり。ニーチェは、現在の人間は先祖の蛆虫《うじむし》や猿とほとんど変わっていず、克服して超人に進化すべきだと主張する。「ニイチャ」はニーチェのもじり。
*フィーガロ おそらくロッシーニ作曲の歌曲『セビリアの理髪師《りはつし》』の中で、理髪師フィガロが、副業(恋愛仲介《ちゅうかい》)の繁盛《はんじよう》ぶりを自慢《じまん》して、「フィガロフィガロフィーガロ!」と自分の名があちこちで呼ばれると歌う「おいらは町の何でも屋」を意識していよう。詩「函館《はこだて》港春夜光景」に「セビラの床屋《とこや》」の記述もあり、賢治は浅草オペラでの上演を見たらしい。
*岩漿《がんしよう》 マグマのこと。
*西蔵《チベット》の魔除《まよ》けの幡《はた》 幡は旗。チベット密教では魔除《まよ》けに、仏教に帰依《きえ》したかつての魔神《まじん》達の力を崇拝《すうはい》する信仰《しんこう》が盛《さか》んである。日本でも密教の明王《みようおう》信仰はこれに類似《るいじ》する。
『ペンネンノルデはいまはいないよ 太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ』
*モネラ ドイツの進化論生物学者ヘッケル(→『ビジリアン大祭』)が唱《とな》えた無核《むかく》の原生動物の名に基づく。モネラは動物の始原《しげん》として想定された。今日のウイルスにあたる。
*岩頸《がんけい》 neck。火口をふさぐ火成岩が浸食《しんしよく》に耐《た》えて残ることで出来る山。奥羽《おうう》山脈に多い。
*恐竜《きようりゆう》、化石《かせき》の向《む》こうから この主題は『楢《なら》の木大学士の野宿』に書かれている。人類の意識下部には、爬虫類《はちゆうるい》の時代等の過去の記憶が残されているとする、進化論心理学に基づく。
*セントエルモの火 山の頂で、尖《とが》った物体の先のコロナ発電によって発光がおこる現象。
大塚 常樹
セロ弾《ひ》きのゴーシュ
宮沢賢治《みやざわけんじ》
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平成12年9月15日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
宮沢賢治 角川e文庫・本文について
(1)角川文庫版の底本に疑問があっても、その形を残さざるをえなかった場合は、街頭箇所に(ママ)と注記した。
(2)本文中には、現代の人権擁護の見地からは差別語と考えられるものもあるが、
時代的背景と作品価値を考え合わせ、そのままとした。
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました。
角川文庫『セロ弾きのゴーシュ』平成8年5月25日改訂新版