TITLE : インドラの網
インドラの網
宮沢賢治
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角川e文庫
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目 次
インドラの網《あみ》
雁《かり》の童《どう》子《じ》
学《がく》者《しや》アラムハラドの見た着《き》物《もの》
三人兄弟の医《い》者《しや》と北《ほく》守《しゆ》将《しよう》軍《ぐん》(韻文形)
竜《りゆう》と詩《し》人《じん》
チュウリップの幻《げん》術《じゆつ》
さるのこしかけ
楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》の野《の》宿《じゆく》
風《かぜ》野《の》又《また》三《さぶ》郎《ろう》
注 釈         大 塚 常 樹
インドラの網《あみ*》
そのとき私は大へんひどく疲《つか》れていてたしか風と草《くさ》穂《ぼ》との底《そこ》に倒《たお》れていたのだとおもいます。
その秋風の昏《こん》倒《とう》の中で私は私の錫《すず》いろの影《かげ》法《ぼう》師《し》にずいぶん馬《ば》鹿《か》ていねいな別《わか》れの挨《あい》拶《さつ》をやっていました。
そしてただひとり暗《くら》いこけももの敷《カア》物《ペツト》を踏《ふ》んでツェラ高原《 *》をあるいて行きました。
こけももには赤い実《み》もついていたのです。
白いそらが高原の上いっぱいに張《は》って高《カオ》陵《リン》産《さん*》の磁《じ》器《き》よりもっと冷《つめ》たく白いのでし
た。
稀《き》薄《はく》な空気がみんみん鳴っていましたがそれは多分は白《はく》磁《じ》器《き》の雲の向《むこ》うをさびしく渡《わた》った日《にち》輪《りん》がもう高原の西を劃《かぎ》る黒い尖《とげ》々《とげ》の山《さん》稜《りよう》の向うに落《お》ちて薄《はく》明《めい》が来たためにそんなに軋《きし》んでいたのだろうとおもいます。
私は魚のようにあえぎながら何べんもあたりを見まわしました。
ただ一かけの鳥も居《い》ず、どこにもやさしい獣《けだもの》のかすかなけはいさえなかったのです。
(私は全《ぜん》体《たい》何をたずねてこんな気《き》圏《けん》の上の方、きんきん痛《いた》む空気の中をあるいているのか。)
私はひとりで自分にたずねました。
こけももがいつかなくなって地《じ》面《めん》は乾《かわ》いた灰《はい》いろの苔《こけ》で覆《おお》われところどころには赤い苔の花もさいていました。けれどもそれはいよいよつめたい高原の悲《ひ》痛《つう》を増《ま》すばかりでした。
そしていつか薄明は黄《たそ》昏《がれ》に入りかわられ、苔の花も赤ぐろく見え西の山《さん》稜《りよう》の上のそらばかりかすかに黄いろに濁《にご》りました。
そのとき私ははるかの向《むこ》うにまっ白な湖《みずうみ*》を見たのです。
(水ではないぞ、また曹達《ソーダ》や何かの結《けつ》晶《しよう》だぞ。いまのうちひどく悦《よろこ》んで欺《だま》されたとき力を落《おと》しちゃいかないぞ。)私は自分で自分に言いました。
それでもやっぱり私は急《いそ》ぎました。
湖はだんだん近く光ってきました。間もなく私はまっ白な石《せき》英《えい》の砂《すな》とその向うに音なく湛《たた》えるほんとうの水とを見ました。
砂がきしきし鳴りました。私はそれを一つまみとって空の微《び》光《こう》にしらべました。すきとおる複《ふく》六《ろく》方《ほう》錐《すい*》の粒《つぶ》だったのです。
(石《せき》英《えい》安《あん》山《ざん》岩《がん*》か流《りゆう》紋《もん》岩《がん*》から来た。)
私はつぶやくようにまた考えるようにしながら水《みず》際《ぎわ》に立ちました。
(こいつは過《か》冷《れい》却《きやく*》の水だ。氷《こおり》相《そう》当《とう》官《かん*》なのだ。)私はも一《いち》度《ど》こころの中でつぶやきました。
全《まつた》く私のてのひらは水の中で青じろく燐《りん》光《こう》を出していました。
あたりが俄《にわか》にきいんとなり、
(風だよ、草の穂《ほ》だよ。ごうごうごうごう。)こんな語《ことば》が私の頭の中で鳴りました。まっくらでした。まっくらで少しうす赤かったのです。
私はまた眼《め》を開《ひら》きました。
いつの間にかすっかり夜になってそらはまるですきとおっていました。素《す》敵《てき》に灼《や》きをかけられてよく研《みが》かれた鋼《こう》鉄《てつ》製《せい》の天の野原に銀《ぎん》河《が》の水は音なく流《なが》れ、鋼《こう》玉《ぎよく*》の小《こ》砂《じや》利《り》も光り岸《きし》の砂も一つぶずつ数えられたのです。
またその桔《き》梗《きよう》いろの冷《つめ》たい天《てん》盤《ばん》には金《こん》剛《ごう》石《せき*》の劈《へき》開《かい*》片《へん》や青《せい》宝《ほう》玉《ぎよく*》の尖《とが》った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄《き》水《ずい》晶《しよう*》のかけらまでごく精《せい》巧《こう》のピンセットできちんとひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい勝《かつ》手《て》に呼《こ》吸《きゆう》し勝手にぷりぷりふるえました。
私はまた足もとの砂《すな》を見ましたらその砂《すな》粒《つぶ》の中にも黄いろや青や小さな火がちらちらまたたいているのでした。恐《おそ》らくはそのツェラ高原の過《か》冷《れい》却《きやく》湖《こ》畔《はん》も天の銀《ぎん》河《が》の一《いち》部《ぶ》と思われました。
けれどもこの時は早くも高原の夜は明けるらしかったのです。
それは空気の中に何かしらそらぞらしい硝子《ガラス》の分子のようなものが浮《うか》んできたのでもわかりましたが第《だい》一《いち》東の九つの小さな青い星で囲《かこ》まれたそらの泉《せん》水《すい》のようなものが大へん光が弱くなりそこの空は早くも鋼《こう》青《せい*》から天《てん》河《が》石《せき*》の板《いた》に変《かわ》っていたことから実《じつ》にあきらかだったのです。
その冷《つめ》たい桔《き》梗《きよう》色《いろ》の底《そこ》光《びか》りする空間を一人の天《 *》が翔《か》けているのを私は見ました。
(とうとうまぎれ込《こ》んだ、人の世《せ》界《かい》のツェラ高原の空間から天の空間へふっとまぎれこんだのだ。)私は胸《むね》を躍《おど》らせながら斯《こ》う思いました。
天《てん》人《にん》はまっすぐに翔けているのでした。
(一《いつ》瞬《しゆん》百由《ゆ》旬《じゆん*》を飛《と》んでいるぞ。けれども見ろ、少しも動《うご》いていない。少しも動かずに移《うつ》らずに変らずにたしかに一瞬百由旬ずつ翔けている。実にうまい。)私は斯うつぶやくように考えました。
天人の衣《ころも》はけむりのようにうすくその瓔《よう》珞《らく*》は昧《まい》爽《そう*》の天《てん》盤《ばん》からかすかな光を受《う》けました。
(ははあ、ここは空気の稀《き》薄《はく》が殆《ほと》んど真《しん》空《くう》に均《ひと》しいのだ。だからあの繊《せん》細《さい》な衣のひだをちらっと乱《みだ》す風もない。)私はまた思いました。
天人は紺《こん》いろの瞳《ひとみ》を大きく張《は》ってまたたき一つしませんでした。その唇《くちびる》は微《かす》かに哂《わら》いまっすぐにまっすぐに翔《か》けていました。けれども少しも動かず移らずまた変りませんでした。
(ここではあらゆる望《のぞ》みがみんな浄《きよ》められている。願《ねが》いの数はみな寂《しず》められている。重《じゆう》力《りよく》は互《たがい》に打《う》ち消《け》され冷《つめ》たいまるめろ《 *》の匂《にお》いが浮《ふ》動《どう》するばかりだ。だからあの天《てん》衣《い》の紐《ひも》も波《なみ》立たずまた鉛《えん》直《ちよく》に垂《た》れないのだ。)
けれどもそのとき空は天《てん》河《が》石《せき》からあやしい葡《ぶ》萄《どう》瑪《め》瑙《のう*》の板《いた》に変《かわ》りその天人の翔ける姿《すがた》をもう私は見ませんでした。
(やっぱりツェラの高原だ。ほんの一時のまぎれ込《こ》みなどは結《けつ》局《きよく》あてにならないのだ。)斯《こ》う私は自分で自分に誨《おし》えるようにしました。けれどもどうもおかしいことはあの天盤のつめたいまるめろに似《に》たかおりがまだその辺《へん》に漂《ただよ》っているのでした。そして私はまたちらっとさっきのあやしい天の世《せ》界《かい》の空間を夢《ゆめ》のように感《かん》じたのです。
(こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の感《かん》覚《かく》のすぐ隣《とな》りに居《い》るらしい。みちをあるいて黄金いろの雲《うん》母《も》のかけらがだんだんたくさん出て来ればだんだん花《か》崗《こう》岩《がん》に近づいたなと思うのだ。ほんのまぐれあたりでもあんまり度《たび》々《たび》になるととうとうそれがほんとになる。きっと私はもう一《いち》度《ど》この高原で天の世《せ》界《かい》を感ずることができる。)私はひとりで斯《こ》う思いながらそのまま立っておりました。
そして空から瞳《ひとみ》を高原に転《てん》じました。全《まつた》く砂《すな》はもうまっ白に見えていました。湖《みずうみ》は緑《ろく》青《しよう》よりももっと古びその青さは私の心《しん》臓《ぞう》まで冷《つめ》たくしました。
ふと私は私の前に三人の天の子《こ》供《ども》らを見ました。それはみな霜《しも》を織《お》ったような羅《うすもの》をつけすきとおる沓《くつ》をはき私の前の水《みず》際《ぎわ》に立ってしきりに東の空をのぞみ太《たい》陽《よう》の昇《のぼ》るのを待《ま》っているようでした。その東の空はもう白く燃《も》えていました。私は天の子供らのひだのつけようからそのガンダーラ系《けい》統《とう*》なのを知りました。またそのたしかに于《コウ》〓《タン*》大寺の廃《はい》趾《し》から発《はつ》掘《くつ》された壁《へき》画《が》の中の三人なことを知りました。私はしずかにそっちへ進《すす》み愕《おどろ》かさないようにごく声低《ひく》く挨《あい》拶《さつ》しました。
「お早う、于〓大寺の壁画の中の子供さんたち。」
三人一《いつ》緒《しよ》にこっちを向《む》きました。その瓔《よう》珞《らく》のかがやきと黒い厳《いか》めしい瞳。
私は進みながらまた云《い》いました。
「お早う。于《コウ》〓《タン》大寺の壁画の中の子供さんたち。」
「お前は誰《だれ》だい。」
右はじの子《こ》供《ども》がまっすぐに瞬《またたき》もなく私を見て訊《たず》ねました。
「私は于〓大寺を沙《すな》の中から掘《ほ》り出した青《あお》木《き》晃《あきら*》というものです。」
「何しに来たんだい。」少しの顔色もうごかさずじっと私の瞳《ひとみ》を見ながらその子はまたこう云《い》いました。
「あなたたちと一《いつ》緒《しよ》にお日さまをおがみたいと思ってです。」
「そうですか。もうじきです。」三人は向《むこ》うを向《む》きました。瓔《よう》珞《らく》は黄や橙《だいだい》や緑《みどり》の針《はり》のようなみじかい光を射《い》、羅《うすもの》は虹《にじ》のようにひるがえりました。
そして早くもその燃《も》え立った白金のそら、湖《みずうみ》の向うの鶯《うぐいす》いろの原のはてから熔《と》けたようなもの、なまめかしいもの、古びた黄金、反《はん》射《しや》炉《ろ》の中の朱《しゆ》、一きれの光るものが現《あら》われました。
天の子供らはまっすぐに立ってそっちへ合《がつ》掌《しよう》しました。
それは太《たい》陽《よう》でした。厳《おごそ》かにそのあやしい円《まる》い熔けたようなからだをゆすり間もなく正しく空に昇《のぼ》った天の世《せ》界《かい》の太陽でした。光は針や束《たば》になってそそぎそこらいちめんかちかち鳴りました。
天の子《こ》供《ども》らは夢《む》中《ちゆう》になってはねあがりまっ青《さお》な寂《じやく》静《じよう》印《いん*》の湖の岸《きし》硅《けい》砂《しや*》の上をかけまわりました。そしていきなり私にぶっつかりびっくりして飛《と》びのきながら一人が空を指《さ》して叫《さけ》びました。
「ごらん、そら、インドラの網《あみ》を。」
私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変《かわ》ったその天《てん》頂《ちよう》から四方の青白い天《てん》末《まつ》までいちめんはられたインドラのスペクトル《 *》製《せい》の網、その繊《せん》維《い》は蜘《く》蛛《も》のより細く、その組《そ》織《しき》は菌《きん》糸《し》より緻《ち》密《みつ》に、透《とう》明《めい》清《せい》澄《ちよう》で黄金でまた青く幾《いく》億《おく》互《たがい》に交《こう》錯《さく》し光って顫《ふる》えて燃えました。
「ごらん、そら、風の太《たい》鼓《こ》。」も一人がぶっつかってあわてて遁《に》げながら斯《こ》う云《い》いました。ほんとうに空のところどころマイナスの太陽ともいうように暗《くら》く藍《あい》や黄金や緑《みどり》や灰《はい》いろに光り空から陥《お》ちこんだようになり誰《だれ》も敲《たた》かないのにちからいっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。私はそれをあんまり永《なが》く見て眼《め》も眩《くら》くなりよろよろしました。
「ごらん、蒼《あお》孔《く》雀《じやく*》を。」さっきの右はじの子供が私と行きすぎるときしずかに斯う云いました。まことに空のインドラの網のむこう、数しらず鳴りわたる天《てん》鼓《こ》のかなたに空一ぱいの不《ふ》思《し》議《ぎ》な大きな蒼い孔雀が宝《ほう》石《せき》製《せい》の尾《お》ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。その孔雀はたしかに空には居《お》りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。
そして私は本《ほん》統《とう》にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。
却《かえ》って私は草《くさ》穂《ぼ》と風の中に白く倒《たお》れている私のかたちをぼんやり思い出しました。
雁《かり》の童《どう》子《じ》
流《る》沙《さ*》の南の、楊《やなぎ》で囲《かこ》まれた小さな泉《いずみ》で、私は、いった麦《むぎ》粉《こ》を水にといて、昼の食《しよく》事《じ》をしておりました。
そのとき、一人の巡《じゆん》礼《れい》のおじいさんが、やっぱり食事のために、そこへやって来ました。私たちはだまって軽《かる》く礼をしました。
けれども、半日まるっきり人にも出《で》会《あ》わないそんな旅《たび》でしたから、私は食事がすんでも、すぐに泉とその年《とし》老《と》った巡礼とから、別《わか》れてしまいたくはありませんでした。
私はしばらくその老《ろう》人《じん》の、高い咽《の》喉《どぼ》仏《とけ》のぎくぎく動《うご》くのを、見るともなしに見ていました。何か話し掛《か》けたいと思いましたが、どうもあんまり向《むこ》うが寂《しず》かなので、私は少しきゅうくつにも思いました。
けれども、ふと私は泉のうしろに、小さな祠《ほこら》のあるのを見《み》付《つ》けました。それは大へん小さくて、地理学者や探《たん》険《けん》家《か》ならばちょっと標《ひよう》本《ほん》に持《も》って行けそうなものではありましたがまだ全《まつた》くあたらしく黄いろと赤のペンキさえ塗《ぬ》られていかにも異《い》様《よう》に思われ、その前には、粗《そ》末《まつ》ながら一本の幡《はた》も立っていました。
私は老《ろう》人《じん》が、もう食事も終《おわ》りそうなのを見てたずねました。
「失《しつ》礼《れい》ですがあのお堂《どう》はどなたをおまつりしたのですか。」
その老人も、たしかに何か、私に話しかけたくていたのです。だまって二、三度《ど》うなずきながら、そのたべものをのみ下して、低《ひく》く言いました。
「……童《どう》子《じ》のです。」
「童子ってどう云《い》う方ですか。」
「雁《かり》の童子と仰《お》っしゃるのは。」老人は食《しよつ》器《き》をしまい、屈《かが》んで泉《いずみ》の水をすくい、きれいに口をそそいでからまた云いました。
「雁の童子と仰っしゃるのは、まるでこの頃《ごろ》あった昔《むかし》ばなしのようなのです。この地方にこのごろ降《お》りられました天《てん》童《どう》子《じ》だというのです。このお堂はこのごろ流《る》沙《さ》の向《むこ》う側《がわ》にも、あちこち建《た》っております。」
「天のこどもが、降りたのですか。罪《つみ》があって天から流《なが》されたのですか。」
「さあ、よくわかりませんが、よくこの辺《へん》でそう申《もう》します。多分そうでございましょう。」
「いかがでしょう、聞かせて下さいませんか。お急《いそ》ぎでさえなかったら。」
「いいえ、急ぎはいたしません。私の聴《き》いただけお話いたしましょう。
沙《さ》車《しや*》に、須《す》利《り》耶《や》圭《けい》という人がございました。名《めい》門《もん》ではございましたそうですが、おちぶれて奥《おく》さまと二人、ご自分は昔《むかし》からの写《しや》経《きよう》をなさり、奥さまは機《はた》を織《お》って、しずかにくらしていられました。
ある明《あけ》方《がた》、須利耶さまが鉄《てつ》砲《ぽう》をもったご自分の従弟《いとこ》のかたとご一《いつ》緒《しよ》に、野原を歩いていられました。地《じ》面《めん》はごく麗《うる》わしい青い石で、空がぼうっと白く見え、雪もま近《ぢか》でございました。
須利耶さまがお従弟さまに仰《お》っしゃるには、お前もさような慰《なぐさ》みの殺《せつ》生《しよう》を、もういい加《か》減《げん》やめたらどうだと、斯《こ》うでございました。
ところが従弟の方が、まるですげなく、やめられないと、ご返《へん》事《じ》です。
(お前はずいぶんむごいやつだ、お前の傷《いた》めたり殺《ころ》したりするものが、一体どんなものだかわかっているか、どんなものでもいのちは悲《かな》しいものなのだぞ。)と、須利耶さまは重《かさ》ねておさとしになりました。
(そうかもしれないよ。けれどもそうでないかもしれない。そうだとすればおれは一《いつ》層《そう》おもしろいのだ、まあそんな下らない話はやめろ、そんなことは昔の坊《ぼう》主《ず》どもの言うこった、見ろ、向うを雁《かり》が行くだろう、おれは仕《し》止《と》めて見せる。)と従弟のかたは鉄《てつ》砲《ぽう》を構《かま》えて、走って見えなくなりました。
須《す》利《り》耶《や》さまは、その大きな黒い雁の列《れつ》を、じっと眺《なが》めて立たれました。
そのとき俄《にわ》かに向《むこ》うから、黒い尖《とが》った弾《だん》丸《がん》が昇《のぼ》って、まっ先きの雁の胸《むね》を射《い》ました。
雁は二、三べん揺《ゆ》らぎました。見る見るからだに火が燃《も》え出し、世《よ》にも悲《かな》しく叫《さけ》びながら、落《お》ちて参《まい》ったのでございます。
弾丸がまた昇って次《つぎ》の雁の胸をつらぬきました。それでもどの雁も、遁《に》げはいたしませんでした。
却《かえ》って泣《な》き叫びながらも、落ちて来る雁に随《したが》いました。
第三の弾丸が昇り、
第四の弾丸がまた昇りました。
六発の弾丸が六疋《ぴき》の雁を傷《きず》つけまして、一ばんしまいの小さな一疋だけが、傷つかずに残《のこ》っていたのでございます。燃え叫ぶ六疋は、悶《もだ》えながら空を沈《しず》み、しまいの一疋は泣いて随い、それでも雁の正しい列は、決《けつ》して乱《みだ》れはいたしません。
そのとき須利耶さまの愕《おど》ろきには、いつか雁がみな空を飛《と》ぶ人の形に変《かわ》っておりました。
赤い焔《ほのお》に包《つつ》まれて、歎《なげ》き叫んで手足をもだえ、落ちて参る五人、それからしまいに只《ただ》一人、完《まつた》いものは可《か》愛《わい》らしい天の子《こ》供《ども》でございました。
そして須《す》利《り》耶《や》さまは、たしかにその子供に見《み》覚《おぼ》えがございました。最《さい》初《しよ》のものは、もはや地《じ》面《めん》に達《たつ》しまする。それは白い鬚《ひげ》の老《ろう》人《じん》で、倒《たお》れて燃《も》えながら、骨《ほね》立《だ》った両《りよう》手《て》を合せ、須利耶さまを拝《おが》むようにして、切なく叫びますのには、
(須利耶さま、須利耶さま、おねがいでございます。どうか私の孫《まご》をお連《つ》れ下さいませ。)
もちろん須利耶さまは、馳《は》せ寄《よ》って申《もう》されました。(いいとも、いいとも、確《たし》かにおれが引き取《と》ってやろう。しかし一体お前らは、どうしたのだ。)そのとき次《つぎ》々《つぎ》に雁《かり》が地面に落《お》ちて来て燃えました。大人《おとな》もあれば美《うつく》しい瓔《よう》珞《らく》をかけた女《おな》子《ご》もございました。その女子はまっかな焔《ほのお》に燃えながら、手をあのおしまいの子にのばし、子供は泣《な》いてそのまわりをはせめぐったと申《もう》しまする。雁の老人が重《かさ》ねて申しますには、
(私共《ども》は天の眷《けん》属《ぞく*》でございます。罪《つみ》があってただいままで雁の形を受《う》けておりました。只《ただ》今《いま》報《むく》いを果《はた》しました。私共は天に帰ります。ただ私の一人の孫はまだ帰れません。これはあなたとは縁《えん》のあるものでございます。どうぞあなたの子にしてお育《そだ》てを願《ねが》います。おねがいでございます。)と斯《こ》うでございます。
須利耶さまが申されました。
(いいとも。すっかり判《わか》った。引き受けた。安《あん》心《しん》してくれ。)
すると老人は手を擦《こす》って地面に頭を垂《た》れたと思うと、もう燃えつきて、影《かげ》もかたちもございませんでした。須利耶さまも従弟《いとこ》さまも鉄《てつ》砲《ぽう》をもったままぼんやりと立っていられましたそうでいったい二人いっしょに夢《ゆめ》を見たのかとも思われましたそうですがあとで従弟さまの申されますにはその鉄砲はまだ熱《あつ》く弾《だん》丸《がん》は減《へ》っておりそのみんなのひざまずいた所《ところ》の草はたしかに倒《たお》れておったそうでございます。
そしてもちろんそこにはその童《どう》子《じ》が立っていられましたのです。須利耶さまはわれにかえって童子に向《むか》って云《い》われました。
(お前は今日《きよう》からおれの子供だ。もう泣かないでいい。お前の前のお母《かあ》さんや兄さんたちは、立《りつ》派《ぱ》な国に昇《のぼ》って行かれた。さあおいで。)
須利耶さまはごじぶんのうちへ戻《もど》られました。途《と》中《ちゆう》の野原は青い石でしんとして子供は泣きながら随《つ》いて参《まい》りました。
須利耶さまは奥《おく》さまとご相《そう》談《だん》で、何と名前をつけようか、三、四日お考えでございましたが、そのうち、話はもう沙《さ》車《しや》全《ぜん》体《たい》にひろがり、みんなは子供を雁の童子と呼《よ》びましたので、須利耶さまも仕《し》方《かた》なくそう呼んでおいででございました。」
老《ろう》人《じん》はちょっと息《いき》を切りました。私は足もとの小さな苔《こけ》を見ながら、この怪《あや》しい空から落《お》ちて赤い焔《ほのお》につつまれ、かなしく燃《も》えて行く人たちの姿《すがた》を、はっきりと思い浮《うか》べました。老人はしばらく私を見ていましたが、また語りつづけました。
「沙《さ》車《しや》の春の終《おわ》りには、野原いちめん楊《やなぎ》の花が光って飛《と》びます。遠くの氷《こおり》の山からは、白い何とも云《い》えず瞳《ひとみ》を痛《いた》くするような光が、日光の中を這《は》ってまいります。それから果《か》樹《じゆ》がちらちらゆすれ、ひばりはそらですきとおった波《なみ》をたてまする。童《どう》子《じ》は早くも六つになられました。春のある夕方のこと、須《す》利《り》耶《や》さまは雁《かり》から来たお子さまをつれて、町を通って参《まい》られました。葡《ぶ》萄《どう》いろの重《おも》い雲の下を、影《かげ》法《ぼう》師《し》の蝙《こう》蝠《もり》がひらひらと飛んで過《す》ぎました。
子供らが長い棒《ぼう》に紐《ひも》をつけて、それを追《お》いました。
(雁の童子だ。雁の童子だ。)
子供らは棒を棄《す》て手をつなぎ合って大きな環《わ》になり須利耶さま親子を囲《かこ》みました。
須利耶さまは笑《わら》っておいででございました。
子供らは声を揃《そろ》えていつものようにはやしまする。
(雁の子、雁の子雁童子、
空から須利耶におりて来た。)と斯《こ》うでございます。けれども一人の子供が冗《じよう》談《だん》に申《もう》しまするには、
(雁のすてご、雁のすてご、
春になってもまだ居《い》るか。)
みんなはどっと笑いましてそれからどう云うわけか小さな石が一つ飛《と》んで来て童《どう》子《じ》の頬《ほお》を打《う》ちました。須《す》利《り》耶《や》さまは童子をかばってみんなに申されますのには、
おまえたちは何をするんだ、この子《こ》供《ども》は何か悪《わる》いことをしたか、冗談にも石を投《な》げるなんていけないぞ。
子供らが叫《さけ》んでばらばら走って来て童子に詫《わ》びたり慰《なぐさ》めたりいたしました。或《あ》る子は前《まえ》掛《か》けの衣〓《かくし》から干《ほ》した無花果《いちじく》を出して遣《や》ろうといたしました。
童子は初《はじ》めからお了《しま》いまでにこにこ笑《わら》っておられました。須利耶さまもお笑いになりみんなを赦《ゆる》して童子を連《つ》れて其《そ》処《こ》をはなれなさいました。
そして浅《あさ》黄《ぎ》の瑪《め》瑙《のう*》の、しずかな夕もやの中でいわれました。
(よくお前はさっき泣《な》かなかったな。)その時童子はお父さまにすがりながら、
(お父さんわたしの前のおじいさんはね、からだに弾《た》丸《ま》をからだに七つ持《も》っていたよ。)と斯《こ》う申《もう》されたと伝《つた》えます。」
巡《じゆん》礼《れい》の老《ろう》人《じん》は私の顔を見ました。
私もじっと老人のうるんだ眼《め》を見あげておりました。老人はまた語りつづけました。
「また或《あ》る晩《ばん》のこと童《どう》子《じ》は寝《ね》付《つ》けないでいつまでも床《とこ》の上でもがきなさいました。(おっかさんねむられないよう。)と仰《お》っしゃりまする、須《す》利《り》耶《や》の奥《おく》さまは立って行って静《しず》かに頭を撫《な》でておやりなさいました。童子さまの脳《のう》はもうすっかり疲《つか》れて、白い網《あみ》のようになって、ぶるぶるゆれ、その中に赤い大きな三《み》日《か》月《づき》が浮《う》かんだり、そのへん一《いつ》杯《ぱい》にぜんまいの芽《め》のようなものが見えたり、また四角な変《へん》に柔《やわ》らかな白いものが、だんだん拡《ひろ》がって恐《おそ》ろしい大きな箱《はこ》になったりするのでございました。母さまはその額《ひたい》が余《あま》り熱《あつ》いといって心《しん》配《ぱい》なさいました。須利耶さまは写《うつ》しかけの経《きよう》文《もん》に、掌《て》を合せて立ちあがられ、それから童子さまを立たせて、紅《べに》革《がわ》の帯《おび》を結《むす》んでやり表《おもて》へ連れてお出になりました。駅《えき》のどの家ももう戸を閉《し》めてしまって、一《いち》面《めん》の星の下に、棟《むね》々《むね》が黒く列《なら》びました。その時童子はふと水の流《なが》れる音を聞かれました。そしてしばらく考えてから、
(お父さん、水は夜でも流れるのですか。)とお尋《たず》ねです。須利耶さまは沙《さ》漠《ばく》の向《むこ》うから昇《のぼ》って来た大きな青い星を眺《なが》めながらお答えなされます。
(水は夜でも流れるよ。水は夜でも昼でも、平《たい》らな所《ところ》でさえなかったら、いつまでもいつまでも流れるのだ。)
童子の脳は急《きゆう》にすっかり静《しず》まって、そして今《こん》度《ど》は早く母さまの処《ところ》にお帰りなりとうなりまする。
(お父さん。もう帰ろうよ。)と申《もう》されながら須《す》利《り》耶《や》さまの袂《たもと》を引《ひ》っ張《ぱ》りなさいます。お二人は家に入り、母さまが迎《むか》えなされて戸の環《わ》を嵌《は》めておられますうちに、童子はいつかご自分の床《とこ》に登《のぼ》って、着《き》換《が》えもせずにぐっすり眠《ねむ》ってしまわれました。
また次《つぎ》のようなことも申《もう》します。
ある日須利耶さまは童子と食《しよく》卓《たく》にお座《すわ》りなさいました。食品の中に、蜜《みつ》で煮《に》た二つの鮒《ふな》がございました。須利耶の奥《おく》さまは、一つを須利耶さまの前に置《お》かれ、一つを童子にお与《あた》えなされました。
(喰《た》べたくないよおっかさん。)童子が申されました。(おいしいのだよ。どれ、箸《はし》をお貸《か》し。)
須利耶の奥さまは童子の箸をとって、魚を小さく砕《くだ》きながら、(さあおあがり、おいしいよ。)と勧《すす》められます。童子は母さまの魚を砕く間、じっとその横《よこ》顔《がお》を見ていられましたが、俄《にわ》かに胸《むね》が変《へん》な工《ぐ》合《あい》に迫《せま》ってきて気の毒《どく》なような悲《かな》しいような何とも堪《たま》らなくなりました。くるっと立って鉄《てつ》砲《ぽう》玉《だま》のように外へ走って出られました。そしてまっ白な雲の一《いつ》杯《ぱい》に充《み》ちた空に向《むか》って、大きな声で泣《な》き出しました。まあどうしたのでしょう、と須利耶の奥さまが愕《おど》ろかれます。どうしたのだろう行ってみろ、と須利耶さまも気づかわれます。そこで須《す》利《り》耶《や》の奥さまは戸口にお立ちになりましたら童子はもう泣きやんで笑《わら》っていられましたとそんなことも申し伝《つた》えます。
またある時、須利耶さまは童子をつれて、馬《うま》市《いち》の中を通られましたら、一疋《ぴき》の仔《こ》馬《うま》が乳《ちち》を呑《の》んでおったと申します。黒い粗《あら》布《ぬの》を着《き》た馬《うま》商《しよう》人《にん》が来て、仔馬を引きはなしもう一疋の仔馬に結《むす》びつけ、そして黙《だま》ってそれを引いて行こうと致《いた》しまする。母親の馬はびっくりして高く鳴きました。なれども仔馬はぐんぐん連《つ》れて行かれまする。向うの角《かど》を曲《まが》ろうとして、仔馬は急《いそ》いで後《あと》肢《あし》を一方あげて、腹《はら》の蠅《はえ》を叩《たた》きました。
童子は母馬の茶いろな瞳《ひとみ》を、ちらっと横《よこ》眼《め》で見られましたが、俄《にわ》かに須利耶さまにすがりついて泣き出されました。けれども須利耶さまはお叱《しか》りなさいませんでした。ご自分の袖《そで》で童《どう》子《じ》の頭をつつむようにして、馬市を通りすぎてから河《かわ》岸《ぎし》の青い草の上に童子を座《すわ》らせて杏《あんず》の実《み》を出しておやりになりながら、しずかにおたずねなさいました。
(お前はさっきどうして泣《な》いたの。)
(だってお父さん。みんなが仔馬をむりに連《つ》れて行くんだもの。)
(馬は仕《し》方《かた》ない。もう大きくなったからこれから独《ひと》りで働《はた》らくんだ。)
(あの馬はまだ乳を呑んでいたよ。)
(それはそばに置《お》いてはいつまでも甘《あま》えるから仕方ない。)
(だってお父さん。みんながあのお母さんの馬にも子《こ》供《ども》の馬にもあとで荷《に》物《もつ》を一《いつ》杯《ぱい》つけてひどい山を連れて行くんだ。それから食べ物がなくなると殺《ころ》して食べてしまうんだろう。)
須《す》利《り》耶《や》さまは何《なに》気《げ》ないふうで、そんな成人《おとな》のようなことを云《い》うもんじゃないとは仰《お》っしゃいましたが、本《ほん》統《とう》は少しその天の子供が恐《おそ》ろしくもお思いでしたと、まあそう申《もう》し伝《つた》えます。
須利耶さまは童子を十二のとき、少し離《はな》れた首《しゆ》都《と》のある外《げ》道《どう*》の塾《じゆく》にお入れなさいました。
童子の母さまは、一生けん命機《はた》を織《お》って、塾《じゆく》料《りよう》や小《こ》遣《づか》いやらを拵《こし》らえてお送《おく》りなさいました。
冬が近くて、天山《 *》はもうまっ白になり、桑《くわ》の葉《は》が黄いろに枯《か》れてカサカサ落《お》ちました頃《ころ》、ある日のこと、童子が俄《にわ》かに帰っておいでです。母さまが窓《まど》から目《め》敏《ざと》く見《み》付《つ》けて出て行かれました。
須利耶さまは知らないふりで写《しや》経《きよう》を続《つづ》けておいでです。
(まあお前は今ごろどうしたのです。)
(私、もうお母さんと一《いつ》緒《しよ》に働《はた》らこうと思います。勉《べん》強《きよう》している暇《ひま》はないんです。)
母さまは、須《す》利《り》耶《や》さまのほうに気《き》兼《が》ねしながら申《もう》されました。
(お前はまたそんなおとなのようなことを云《い》って、仕《し》方《かた》ないではありませんか。早く帰って勉《べん》強《きよう》して、立《りつ》派《ぱ》になって、みんなの為《ため》にならないとなりません。)
(だっておっかさん。おっかさんの手はそんなにガサガサしているのでしょう。それだのに私の手はこんななんでしょう。)
(そんなことをお前が云わなくてもいいのです。誰《だれ》でも年を老《と》れば手は荒《あ》れます。そんなことより、早く帰って勉強をなさい。お前の立派になることばかり私には楽《たのし》みなんだから。お父さんがお聞きになると叱《しか》られますよ。ね。さあ、おいで。)と斯《こ》う申されます。
童《どう》子《じ》はしょんぼり庭《にわ》から出られました。それでも、また立ち停《どま》ってしまわれましたので、母さまも出て行かれてもっと向《むこ》うまでお連《つ》れになりました。そこは沼《ぬま》地《ち》でございました。母さまは戻《もど》ろうとしてまた(さあ、おいで早く。)と仰《お》っしゃったのでしたが童子はやっぱり停《と》まったまま、家の方をぼんやり見ておられますので、母さまも仕方なくまた振《ふ》り返《かえ》って、蘆《あし》を一本抜《ぬ》いて小さな笛《ふえ》をつくり、それをお持《も》たせになりました。
童《どう》子《じ》はやっと歩き出されました。そして、遥《はる》かに冷《つめ》たい縞《しま》をつくる雲のこちらに、蘆がそよいで、やがて童子の姿《すがた》が、小さく小さくなってしまわれました。俄《にわ》かに空を羽音がして、雁《かり》の一《いち》列《れつ》が通りました時、須《す》利《り》耶《や》さまは窓《まど》からそれを見て、思わずどきっとなされました。
そうして冬に入りましたのでございます。その厳《きび》しい冬が過《す》ぎますと、まず楊《やなぎ》の芽《め》が温和《おとな》しく光り、沙《さ》漠《ばく》には砂《さ》糖《とう》水《みず》のような陽《かげ》炎《ろう》が徘《はい》徊《かい》いたしまする。杏《あんず》やすももの白い花が咲《さ》き、次《つい》では木《こ》立《だち》も草地もまっ青《さお》になり、もはや玉《ぎよく》髄《ずい》の雲の峯《みね*》が、四方の空を繞《めぐ》る頃《ころ》となりました。
ちょうどそのころ沙《さ》車《しや》の町はずれの砂《すな》の中から、古い沙車大寺のあとが掘《ほ》り出されたとのことでございました。一つの壁《かべ》がまだそのままで見《み》附《つ》けられ、そこには三人の天童子が描《えが》かれ、ことにその一人はまるで生きたようだとみんなが評《ひよう》判《ばん》しましたそうです。或《あ》るよく晴れた日、須利耶さまは都《みやこ》に出られ、童子の師《し》匠《しよう》を訪《たず》ねて色々礼《れい》を述《の》べ、また三《み》巻《まき》の粗《あら》布《ぬの》を贈《おく》り、それから半日、童子を連《つ》れて歩きたいと申《もう》されました。
お二人は雑《ざつ》沓《とう》の通りを過ぎて行かれました。
須利耶さまが歩きながら、何《なに》気《げ》なく云《い》われますには、
(どうだ、今日《きよう》の空の碧《あお》いことは、お前がたの年は、丁《ちよう》度《ど》今あのそらへ飛《と》びあがろうとして羽をばたばた云《い》わせているようなものだ。)
童《どう》子《じ》が大へんに沈《しず》んで答えられました。
(お父さん。私はお父さんとはなれてどこへも行きたくありません。)
須《す》利《り》耶《や》さまはお笑《わら》いになりました。
(勿《もち》論《ろん》だ。この人の大きな旅《たび》では、自分だけひとり遠い光の空へ飛び去《さ》ることはいけないのだ。)
(いいえ、お父さん。私はどこへも行きたくありません。そして誰《だれ》もどこへも行かないでいいのでしょうか。)とこう云う不《ふ》思《し》議《ぎ》なお尋《たず》ねでございます。
(誰もどこへも行かないでいいかってどう云うことだ。)
(誰もね、ひとりで離《はな》れてどこへも行かないでいいのでしょうか。)
(うん。それは行かないでいいだろう。)と須利耶さまは何の気もなくぼんやりと斯《こ》うお答えでした。
そしてお二人は町の広場を通り抜《ぬ》けて、だんだん郊《こう》外《がい》に来られました。沙《すな》がずうっとひろがっておりました。その砂《すな》が一ところ深《ふか》く掘《ほ》られて、沢《たく》山《さん》の人がその中に立ってございました。お二人も下りて行かれたのです。そこに古い一つの壁《かべ》がありました。色はあせてはいましたが、三人の天の童子たちがかいてございました。須利耶さまは思わずどきっとなりました。何か大きい重《おも》いものが、遠くの空からばったりかぶさったように思われましたのです。それでも何気なく申《もう》されますには、
(なるほど立《りつ》派《ぱ》なもんだ。あまりよく出来てなんだか恐《こわ》いようだ。この天《てん》童《どう》はどこかお前に肖《に》ているよ。)
須《す》利《り》耶《や》さまは童《どう》子《じ》をふりかえりました。そしたら童子はなんだかわらったまま、倒《たお》れかかっていられました。須利耶さまは愕《おど》ろいて急《いそ》いで抱《だ》き留《と》められました。童子はお父さんの腕《うで》の中で夢《ゆめ》のようにつぶやかれました。
(おじいさんがお迎《むか》いをよこしたのです。)
須利耶さまは急いで叫《さけ》ばれました。
(お前どうしたのだ。どこへも行ってはいけないよ。)
童子が微《かす》かに云《い》われました。
(お父さん。お許《ゆる》し下さい。私はあなたの子です。この壁《かべ》は前にお父さんが書いたのです。そのとき私は王の……だったのですがこの絵ができてから王さまは殺《ころ》されわたくしどもはいっしょに出《しゆ》家《つけ》したのでしたが敵《てき》王《おう》がきて寺を焼《や》くとき二日ほど俗《ぞく》服《ふく》を着《き》てかくれているうちわたくしは恋《こい》人《びと》があってこのまま出家にかえるのをやめようかと思ったのです。)
人々が集《あつま》って口々に叫びました。
(雁《かり》の童子だ。雁の童子だ。)
童子はも一《いち》度《ど》、少し唇《くちびる》をうごかして、何かつぶやいたようでございましたが、須利耶さまはもうそれをお聞きとりなさらなかったと申《もう》します。
私の知っておりますのはただこれだけでございます。」
老《ろう》人《じん》はもう行かなければならないようでした。私はほんとうに名《な》残《ご》り惜《お》しく思い、まっすぐに立って合《がつ》掌《しよう》して申しました。
「尊《とうと》いお物《もの》語《がたり》をありがとうございました。まことにお互《たが》い、ちょっと沙《さ》漠《ばく》のへりの泉《いずみ》で、お眼《め》にかかって、ただ一時を、一《いつ》緒《しよ》に過《す》ごしただけではございますが、これもかりそめのことではないと存《ぞん》じます。ほんの通りかかりの二人の旅《たび》人《びと》とは見えますが、実《じつ》はお互がどんなものかもよくわからないのでございます。いずれはもろともに、善逝《スガタ*》の示《しめ》された光の道を進《すす》み、かの無《む》上《じよう》菩《ぼ》提《だい*》に至《いた》ることでございます。それではお別《わか》れいたします。さようなら。」
老人は、黙《だま》って礼《れい》を返《かえ》しました。何か云《い》いたいようでしたが黙って俄《にわ》かに向《むこ》うを向《む》き、今まで私の来た方の荒《あれ》地《ち》にとぼとぼ歩き出しました。私もまた、丁《ちよう》度《ど》その反《はん》対《たい》の方の、さびしい石原を合掌したまま進みました。
学《がく》者《しや》アラムハラドの見た着《き》物《もの》
学《がく》者《しや》のアラムハラドはある年十一人の子を教えておりました。
みんな立《りつ》派《ぱ》なうちの子どもらばかりでした。
王さまのすぐ下の裁《さい》判《ばん》官《かん》の子もありましたし農《のう》商《しよう》の大《だい》臣《じん》の子も居《い》ました。また毎年じぶんの土地から十石《こく》の香《こう》油《ゆ》さえ穫《と》る長《ちよう》者《じや》のいちばん目の子も居たのです。
けれども学者のアラムハラドは小さなセララバアドという子がすきでした。この子が何か答えるときは学者のアラムハラドはどこか非《ひ》常《じよう》に遠くの方の凍《こお》ったように寂《しず》かな蒼《あお》黒《ぐろ》い空を感《かん》ずるのでした。それでもアラムハラドはそんなに偉《えら》い学者でしたからえこひいきなどはしませんでした。
アラムハラドの塾《じゆく》は街《まち》のはずれの楊《やなぎ》の林の中にありました。
みんなは毎日その石で畳《たた》んだ鼠《ねずみ》いろの床《ゆか》に座《すわ》って古くからの聖《せい》歌《か》を諳《あん》誦《しよう》したり兆《ちよう》よりももっと大きな数まで数えたりまた数を互《たがい》に加えたり掛《か》け合せたりするのでした。それからいちばんおしまいには鳥や木や石やいろいろのことを習《なら》うのでした。
アラムハラドは長い白い着《き》物《もの》を着て学者のしるしの垂《た》れ布《ぬの》のついた帽《ぼう》子《し》をかぶり低《ひく》い椅《い》子《す》に腰《こし》掛《か》け右手には長い鞭《むち》をもち左手には本を支《ささ》えながらゆっくりと教えて行くのでした。
そして空気のしめりの丁《ちよう》度《ど》いい日またむずかしい諳《あん》誦《しよう》でひどくつかれた次《つぎ》の日などはよくアラムハラドはみんなをつれて山へ行きました。
このおはなしは結《けつ》局《きよく》学《がく》者《しや》のアラムハラドがある日自分の塾《じゆく》でまたある日山の雨の中でちらっと感《かん》じた不《ふ》思《し》議《ぎ》な着《き》物《もの》についてであります。
アラムハラドが言いました。
「火が燃《も》えるときは焔《ほのお》をつくる。焔というものはよく見ていると奇《き》体《たい》なものだ。それはいつでも動《うご》いている。動いているがやっぱり形もきまっている。その色はずいぶんさまざまだ。普《ふ》通《つう》の焚《たき》火《び》の焔なら橙《だいだい》いろをしている。けれども木によりまたその場《ば》処《しよ》によっては変《へん》に赤いこともあれば大へん黄いろなこともある。硫《い》黄《おう》を燃せばちょっと眼《め》のくるっとするような紫《むらさき》いろの焔をあげる。それから銅《どう》を灼《や》くときは孔《く》雀《じやく》石《いし》のような明るい青い火をつくる。こんなにいろはさまざまだがそれはみんなある同じ性《せい》質《しつ》をもっている。さっき云《い》ったいつでも動いているということもそうだ。それは火というものは軽《かる》いものでいつでも騰《のぼ》ろう騰ろうとしている。それからそれは明るいものだ。硫黄のようなお日さまの光の中ではよくわからない焔でもまっくらな処《ところ》に持《も》って行けば立《りつ》派《ぱ》にそこらを明るくする。火というものはいつでも照《て》らそう照らそうとしているものだ。それからも一つは熱《あつ》いということだ。火ならばなんでも熱いものだ。それはいつでも乾《かわ》かそう乾かそうとしている。斯《こ》う云う工《ぐ》合《あい》に火には二つの性質がある。なぜそうなのか。それは火の性質だから仕《し》方《かた》ない。そう云う、熱いもの、乾かそうとするもの、光るもの、照らそうとするもの軽いもの騰ろうとするものそれを焔と呼《よ》ぶのだから仕方ない。
それからまたみんなは水をよく知っている。水もやっぱり火のようにちゃんときまった性質がある。それは物《もの》をつめたくする。どんなものでも水にあってはつめたくなる。からだをあつい湯《ゆ》でふいても却《かえ》ってあとではすずしくなる。夏に銅の壺《つぼ》に水を入れ壺の外《そと》側《がわ》を水でぬらしたきれで固《かた》くつつんでおくならばきっとそれは冷《ひ》えるのだ。なんべんもきれをとりかえるとしまいにはまるで氷《こおり》のようにさえなる。このように水は物をつめたくする。また水はものをしめらすのだ。それから水はいつでも低《ひく》い処へ下ろうとする。鉢《はち》の中に水を入れるならまもなくそれはしずかになる。阿耨達池《あのく》達《だつ》池《ち*》やすべて葱嶺《パミール*》から南東の山の上の湖《みずうみ》は多くは鏡《かがみ》のように青く平《たい》らだ。なぜそう平らだかとならば水はみんな下に下ろうとしてお互《たが》い下れるとこまで落《お》ち着《つ》くからだ。波《なみ》ができたら必《かなら》ずそれがなおろうとする。それは波のあがったとこが下ろうとするからだ。このように水のつめたいこと、しめすこと下に行こうとすることは水の性《せい》質《しつ》なのだ。どうしてそうかと云《い》うならばそれはそう云う性質のものを水と呼ぶのだから仕《し》方《かた》ない。
それからまたみんなは小鳥を知っている。鶯《うぐいす》やみそさざい《 *》、ひわ《 *》やまたかけす《 *》などからだが小さく大へん軽《かる》い。その飛《と》ぶときはほんとうによく飛ぶ。枝《えだ》から枝へうつるときはその羽をひらいたのさえわからないくらい早く、青ぞらを向《むこ》うへ飛んで行くときは一つのふるえる点のようだ。それほどこれらの鶯やひわなどは身《み》軽《がる》でよく飛ぶ。また一生けん命《めい》に啼《な》く。うぐいすならば春にはっきり啼く。みそさざいならばからだをうごかすたびにもうきっと啼いているのだ。
これらの鳥のたくさん啼いている林の中へ行けばまるで雨が降《ふ》っているようだ。おまえたちはみんな知っている。このように小さな鳥はよく飛びまたよく啼くものだ。それはたべ物をとってしまっても啼くのをやめない。またやすまない。どうして疲《つか》れないかと思うほどよく飛びまたよく啼くものだ。
そんならなぜ鳥は啼くのかまた飛ぶのか。おまえたちにはわかるだろう。鳥はみな飛ばずにいられないで飛び啼かずに居《い》られないで啼く。それは生れつきなのだ。
さて斯《こ》う云うふうに火はあつく、乾《かわ》かし、照《て》らし騰《のぼ》る、水はつめたく、しめらせ、下る、鳥は飛び、またなく。魚について獣《けもの》についておまえたちはもうみんなその性質を考えることができる。けれども一体どうだろう、小鳥が啼かないでいられず魚が泳《およ》がないでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。考えてごらん。」
アラムハラドは斯う言って堅《かた》く口を結《むす》び十一人の子《こ》供《ども》らを見まわしました。子供らはみな一生けん命《めい》考えたのです。大人《おとな》のように指《ゆび》をまげて唇《くちびる》にあてたりまっすぐに床《ゆか》を見たりしました。その中で大《だい》臣《じん》の子のタルラが少し顔を赤くして口をまげてわらいました。
アラムハラドはすばやくそれを見て言いました。
「タルラ、答えてごらん。」
タルラは礼《れい》をしてそれから少し工《ぐ》合《あい》わるそうに横《よこ》の方を見ながら答えました。
「人は歩いたり物《もの》を言ったりいたします。」
アラムハラドがわらいました。
「よろしい。よくお前は答えた。全《まつた》く人はあるかないでいられない。病《びよう》気《き》で永《なが》く床《とこ》の上に居《い》る人はどんなに歩きたいだろう。ああ、ただも一《いち》度《ど》二本の足でぴんぴん歩いてあの楽《らく》地《ち》の中の泉《いずみ》まで行きあの冷《つめ》たい水を両《りよう》手《て》で掬《すく》って呑《の》むことができたらそのまま死《し》んでもかまわないと斯《こ》う思うだろう。またお前の答えたように人は物を言わないでいられない。
考えたことをみんな言わないでいることは大へんにつらいことなのだ。そのため病気にさえもなるのだ。人がともだちをほしいのは自分の考えたどんなことでもかくさず話しまたかくさずに聴《き》きたいからだ。だまっているということは本《ほん》統《とう》につらいことなのだ。
たしかに人は歩かないでいられない、また物を言わないでいられない。けれども人にはそれよりももっと大切なものがないだろうか。足や舌《した》とも取《と》りかえるほどもっと大切なものがないだろうか。むずかしいけれども考えてごらん。」
アラムハラドが斯う言う間タルラは顔をまっ赤《か》にしていましたがおしまいは少し青ざめました。アラムハラドがすぐ言いました。
「タルラ、も一度答えてごらん。お前はどんなものとでもお前の足をとりかえないか。お前はどんなものとでもお前の足をとりかえるのはいやなのか。」
タルラがまるで小さな獅《し》子《し》のように答えました。
「私は饑《き》饉《きん》でみんなが死《し》ぬとき若《も》し私の足が無《な》くなることで饑饉がやむなら足を切っても口《く》惜《や》しくありません。」
アラムハラドはあぶなく泪《なみだ》をながしそうになりました。
「そうだ。おまえには歩くことよりも物《もの》を言うことよりももっとしないでいられないことがあった。よくそれがわかった。それでこそ私の弟《で》子《し》なのだ。お前のお父さんは七年前の不作のとき祭《さい》壇《だん》に上って九日祷《いの》りつづけられた。お前のお父さんはみんなのためには命《いのち》も惜《お》しくなかったのだ。ほかの人たちはどうだ。ブランダ。言ってごらん。」
ブランダと呼《よ》ばれた子はすばやくきちんとなって答えました。
「人が歩くことよりも言うことよりももっとしないでいられないのはいいことです。」
アラムハラドが云《い》いました。
「そうだ。私がそう言おうと思っていた。すべて人は善《よ》いこと、正しいことをこのむ。善《ぜん》と正《せい》義《ぎ》とのためならば命を棄《す》てる人も多い。おまえたちはいままでにそう云う人たちの話を沢《たく》山《さん》きいて来た。決《けつ》してこれを忘《わす》れてはいけない。人の正義を愛《あい》することは丁《ちよう》度《ど》鳥のうたわないでいられないと同じだ。セララバアド。お前は何か言いたいように見える。云《い》ってごらん。」
小さなセララバアドは少しびっくりしたようでしたがすぐ落《お》ちついて答えました。
「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」
アラムハラドはちょっと眼《め》をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこら中ぼうっと燐《りん》の火のように青く見え、ずうっと遠くが大へん青くて明るくてそこに黄金の葉《は》をもった立《りつ》派《ぱ》な樹《き》がぞろっとならんでさんさんさんと梢《こずえ》を鳴らしているように思ったのです。アラムハラドは眼をひらきました。子《こ》供《ども》らがじっとアラムハラドを見上げていました。アラムハラドは言いました。
「うん。そうだ。人はまことを求《もと》める。真《しん》理《り》を求める。ほんとうの道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことはちょうど鳥の飛《と》ばないでいられないとおんなじだ。おまえたちはよくおぼえなければいけない。人は善《ぜん》を愛《あい》し道を求めないでいられない。それが人の性《せい》質《しつ》だ。これをおまえたちは堅《かた》くおぼえてあとでも決《けつ》して忘《わす》れてはいけない。おまえたちはみなこれから人生という非《ひ》常《じよう》なけわしいみちをあるかなければならない。たとえばそれは葱嶺《パミール》の氷《こおり》や辛《しん》度《ど》の流《なが》れ《 *》や流《る》沙《さ》の火やでいっぱいなようなものだ。そのどこを通るときも決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまえたちをまもる。それはいつもおまえたちを教える。決して忘れてはいけない。
それではもう日中だからみんなは立ってやすみ、食《しよく》事《じ》をしてよろしい。」
アラムハラドは礼《れい》をうけ自分もしずかに立ちあがりました。そして自分の室に帰る途《と》中《ちゆう》ふとまた眼をつぶりました。さっきの美しい青い景《け》色《しき》がまたはっきりと見えました。そしてその中にはねのような軽《かる》い黄金いろの着《き》物《もの》を着た人が四人まっすぐに立っているのを見ました。
アラムハラドは急《いそ》いで眼をひらいて少し首をかたむけながら自分の室に入りました。
アラムハラドは子供らにかこまれながらしずかに林へはいって行きました。
つめたいしめった空気がしんとみんなのからだにせまったとき子供らは歓《かん》呼《こ》の声をあげました。そんなに樹《き》は高く深《ふか》くしげっていたのです。それにいろいろの太さの蔓《つる》がくしゃくしゃにその木をまといみちも大へんに暗《くら》かったのです。
ただその梢《こずえ》のところどころ物《もの》凄《すご》いほど碧《あお》いそらが一きれ二きれやっとのぞいて見えるきり、そんなに林がしげっていればそれほどみんなはよろこびました。
大《だい》臣《じん》の子のタルラはいちばんさきに立って鳥を見てはばあと両《りよう》手《て》をあげて追《お》い栗《り》鼠《す》を見つけては高く叫《さけ》んでおどしました。走ったりまた停《とま》ったりまるで夢《む》中《ちゆう》で進《すす》みました。
みんなはかわるがわるいろいろなことをアラムハラドにたずねました。アラムハラドは時々はまだ一つの答をしないうちにも一つの返《へん》事《じ》をしなければなりませんでした。
セララバアドは小さな革《かわ》の水入れを肩《かた》からつるして首を垂《た》れてみんなの問《とい》やアラムハラドの答をききながらいちばんあとから少し笑《わら》ってついて来ました。
林はだんだん深《ふか》くなりかしの木やくすの木や空も見えないようでした。
そのときサマシャードという小さな子が一本の高いなつめの木《 *》を見つけて叫びました。
「なつめの木だぞ。なつめの木だ。とれないかなあ。」
みんなもアラムハラドも一《いち》度《ど》にその高い梢を見上げました。アラムハラドは云《い》いました。
「あの木は高くてとどかない。私どもはその実《み》をとることができないのだ。けれどもおまえたちは名高いヴェーッサンタラ大王《 *》のはなしを知っているだろう。ヴェーッサンタラ大王は檀《だん》波《ば》羅《ら》蜜《みつ*》の行《ぎよう》と云ってほしいと云われるものは何でもやった。宝《ほう》石《せき》でも着《き》物《もの》でも喰《た》べ物でもそのほか家でもけらいでも何でもみんな乞《こ》われるままに施《ほどこ》された。そしておしまいとうとう国の宝《たから》の白い象《ぞう》をもお与《あた》えなされたのだ。けらいや人《じん》民《みん》ははじめは堪《こら》えていたけれどもついには国も亡《ほろ》びそうになったので大王を山へ追《お》い申《もう》したのだ。大王はお妃《きさき》と王子王女とただ四人で山へ行かれた。大きな林にはいったとき王子たちは林の中の高い樹《き》の実《み》を見てああほしいなあと云《い》われたのだ。そのとき大王の徳《とく》には林の樹もまた感《かん》じていた。樹の枝《えだ》はみな生物のように垂《た》れてその美《うつく》しい果《くだ》物《もの》を王子たちに奉《たてまつ》った。
これを見たものみな身《み》の毛もよだち大地も感《かん》じて三べんふるえたと云うのだ。いま私らはこの実をとることができない。けれどももしヴェーッサンタラ大王のように大へんに徳のある人ならばそしてその人がひどく飢《う》えているならば木の枝はやっぱりひとりでに垂れてくるにちがいない。それどころでない、その人は樹をちょっと見あげてよろこんだだけでもう食べたとおんなじことにもなるのだ。」
アラムハラドは斯《こ》う云ってもう一《いち》度《ど》林の高い木を見あげました。まっ黒な木の梢《こずえ》から一きれのそらがのぞいておりましたがアラムハラドは思わず眼《め》をこすりました。さっきまでまっ青《さお》で光っていたその空がいつかまるで鼠《ねずみ》いろに濁《にご》って大へん暗《くら》く見えたのです。樹はゆさゆさとゆすれ大へんにむしあつくどうやら雨が降《ふ》って来そうなのでした。
「ああこれは降って来る。もうどんなに急《いそ》いでもぬれないというわけにはいかない。からだの加《か》減《げん》の悪《わる》いものは誰《だれ》々《だれ》だ。ひとりもないか。畑《はたけ》のものや木には大へんいいけれどもまさか今日こんなに急《きゆう》に降るとは思わなかった。私たちはもう帰らないといけない。」
けれどもアラムハラドはまだ降るまではよほど間《ま》があると思っていました。ところがアラムハラドの斯《こ》う云ってしまうかしまわないうちにもう林がぱちぱち鳴りはじめました。それも手をひろげ顔をそらに向《む》けてほんとうにそれが雨かどうか見ようとしても雨のつぶは見えませんでした。
ただ林の濶《ひろ》い木の葉《は》がぱちぱち鳴っている〔以下原稿数枚?なし〕
入れを右手でつかんで立っていました。〔以下原稿空白〕
三人兄弟の医《い》者《しや》と北《ほく》守《しゆ》将《しよう》軍《ぐん》(韻文形)
一 プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》
ある日の丁《ちよう》度《ど》ひるころだった
グレッシャムの町の北の方から
「ピーピーピピーピ、ピーピーピ。」
大へんあわれな たくさんの
チャルメラの音が聞えて来た。
その間には
「タンパララタ、タンパララタ、ペタンペタンペタン。」
という豆《まめ》太《だい》鼓《こ》の音もする。
だんだんそれが近づいて
馬の足音や鎧《よろい》の気《け》配《はい》
とうとう町の壁《かべ》の上から
ひらひらする三角の旗《はた》や
かがやくほこがのぞき出す。
北の城《じよう》門《もん》の番《ばん》兵《ぺい》や
そこいら辺《へん》の人たちは
敵《てき》が押《お》し寄《よ》せて来たと思って
まるでどきどきやりながら
銃《じゆう》眼《がん》から外をのぞいて見た。
壁の外には沙《さ》漠《ばく》まで
まるで雲《うん》霞《か》の軍《ぐん》勢《ぜい》だ。
みんな不《ふ》思《し》議《ぎ》に灰《はい》いろや
鼠《ねずみ》がかってもさもさして
天まで続《つづ》いているようだ。
するどい眼《め》をしてひげのまっ白な
せなかのまがった大《たい》将《しよう》が
馬に乗《の》って先頭に立ち
剣《けん》を抜《ぬ》いて高く歌っている。
「北《ほく》守《しゆ》将《しよう》軍《ぐん》のプランペラポラン
いま塞《さい》外《がい》のくらい谷から、
やっとのことで戻《もど》って来た。
勇《いさ》ましい凱《がい》旋《せん》だと云《い》いたいのだが
実《じつ》はすっかり 参《まい》って来たのだ
とにかくあすこは寒《さむ》い処《ところ》だよ。
三十年という黄いろなむかし
おれは百万の軍《ぐん》勢《ぜい》をひきい
チャルメラを朝風に吹《ふ》いて出かけた。
それからどうだ一日も太《たい》陽《よう》を見ない
霧《きり》とみぞれがじめじめと降《ふ》り
雁《かり》まで脚《かつ》気《け》でたびたび落《お》ちた。
おれはその間 馬で馳《か》けどおし
馬がつかれてたびたびぺたんと座《すわ》り
涙《なみだ》をためてじっとおれを見たもんだ。
その度《たび》ごとにおれは鎧《よろい》のかくしから
上《じよう》等《とう》の朝《ちよう》鮮《せん》人《にん》蔘《じん》をとり出して
馬に喰《た》べさせては元気をつけた。
その馬も今では三十五歳《さい》
四里《り》かけるにも四時間かかる
それからおれはもう七十だ。
とても帰らないと思っていたが
ありがたや敵《てき》が残《のこ》らず腐《くさ》って死《し》んだ。
今年の夏はずいぶん湿《しつ》気《き》が多かったでな
おまけに腐る病《びよう》気《き》の種《た》子《ね》は
こっちが持《も》って行ったのだ
そうしてみればどうだやっぱり凱《がい》旋《せん》だろう。
殊《こと》にも一ついいことは
百万人も出かけたものが
九十九万人まで戻《もど》って来た。
死んだ一万人はかなり気の毒《どく》だが
それはいくさに行かなくても死んだろうぜ、
そうしてみるとどうだ、やっぱり凱旋だろう。
そこでグレッシャムの人々よ
北《ほく》守《しゆ》将《しよう》軍《ぐん》プランペラポランが帰ったのだ
歓《かん》迎《げい》してもいいではないか。」
するとお城《しろ》の壁《かべ》のなかは
俄《にわ》かにどうっと沸《わ》きたった。
「万《ばん》歳《ざい》 万歳、
早く王さまへお知らせしろ。」
「帰って来た 帰って来た
ありがたい。
せがれも無《ぶ》事《じ》に相《そう》違《い》ない。」
「門をひらけ ひらけ
北守将軍の凱《がい》旋《せん》だ。」
番《ばん》兵《ぺい》たちは灰《はい》いろの
厚《あつ》い城《じよう》門《もん》の扉《と》を開《ひら》く。
外の兵《へい》隊《たい》たちもざわっとする。
灰《はい》いろになったプランペラポラン将軍が
わざと顔をしかめながら
しずかに馬のたづなをとって
まっすぐを向《む》いて先《せん》登《とう》に立ち
それからチャルメラ豆《まめ》太《だい》鼓《こ》
ぎらぎらのほこ三角の旗《はた》
軍《ぐん》勢《ぜい》は楽《がく》隊《たい》の音に合わせて
足なみをそろえ軍《ぐん》歌《か》をうたい
門から町へ入って来た。
「タンパララタ、タンパララタ、ペタン、ペタン、ペタン、
月はまっくろだ、
雁《がん》は高く飛《と》ぶ
やつらは遠く遁《に》げる。
追《お》いかけようとして
馬の首を叩《たた》けば
雪が一《いつ》杯《ぱい》に降《ふ》る。
タンパララタ、タンパララタ、ペタンペタンペタン、
北の七つ星
息《いき》もとまるばかり
冷《ひ》えは落《お》ちて来る
斯《こ》うしては居《い》られないと
太《た》刀《ち》のつかをとれば
手はすぐこごえつく。
タンパララタ タンパララタ ペタンペタンペタン、
雪がぷんぷんと降《ふ》る
雁《がん》のみちができて
そこがあかるいだけだ、
こごえた砂《すな》が飛《と》び
ひょろひょろのよもぎが
みんなねこぎにされる。
タンパララタ、タンパララタ ペタンペタンペタン。」
みんなはみちの両《りよう》側《がわ》に
垣《かき》になってぞろっとならび
北から帰った軍《ぐん》勢《ぜい》を
大《おお》悦《よろこ》びで迎《むか》えたのだ。
「ああプランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》は
すっかり見ちがえるようおなりだ。
おからだいっぱい灰《はい》いろだ。
兵《へい》隊《たい》たちもみなそうだ。
頭も肩《かた》ももじゃもじゃだ。
どんなに難《なん》儀《ぎ》しただろう。」
プランペラポラン将軍が
顔をしかめて軍《ぐん》楽《がく》と
歓《かん》呼《こ》の声とのただ中を
一町《ちよう》ばかり馬を泳《およ》がせたとき
向《むこ》うの王《おう》宮《きゆう》の方角から
まっ赤《か》な旗《はた》がひらひらして
たしか大《だい》臣《じん》がやって来る。
これは王からの迎《むか》いなのだ。
プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》は
ひたいに高く手をかざし
よくよくそれを見きわめて
それから俄《にわ》かに一《いち》礼《れい》し
急《いそ》いで馬を降《お》りようとした。
ところが馬を降りられない。
もう将軍の両《りよう》足《あし》は
堅《かた》く堅く馬の鞍《くら》につき
鞍はまた堅く馬の背《せ》中《なか》の皮《かわ》に
くっついていてはなれない。
プランペラポラン将軍は
すっかりあわてて赤くなり
口をびくびく横《よこ》に曲《ま》げ
一生けん命《めい》馬を下りようとするのだが
ますますそれができなかった。
ああ、こいつは実《じつ》に将《しよう》軍《ぐん》が
三十年も北の方の国《こつ》境《きよう》の
深《ふか》い暗《くら》い谷の底《そこ》で
重《おも》いつとめを肩《かた》に負《お》い
一《いち》度《ど》も馬を下りないため
将軍の足やズボンが
すっかり鞍《くら》と結《けつ》合《ごう》し
鞍はまた馬と結合し
全《まつた》くひとつになったのだ。
おまけにあんまり永《なが》い間
じめじめな処《ところ》に居《い》たもんだから
将軍の顔や手からは
灰《はい》いろの猿《さる》おがせ《 *》が
いっぱいに生えてしまったのだ。
尤《もつと》もこのさるおがせには
九十九万人みなかかっていた。
王の迎《むか》いの大《だい》臣《じん》が
だんだん近くやって来て
もう先頭の赤い上《うわ》着《ぎ》の
警《けい》部《ぶ》の顔も見え出した。
「将《しよう》軍《ぐん》、馬を下りなさい。
王《おう》様《さま》からのお迎《むか》いです。
将軍 馬を下りなさい。」
「はい、ただ今。」
将軍はまた手をバタバタしたけれど
もうどうしても下りられない。
ところが迎いの大臣は
まるで鮒《ふな》のような近《きん》眼《がん*》だ
将軍が馬を下りないで
しきりにばたばたしてるのを
わざと馬から下りないで
手を振《ふ》ってみんなに何か
命《めい》令《れい》してると考えた。
「謀《む》叛《ほん》だな。よし
さあ 遁《に》げろ、いや引きあげろ。」
大臣は高く叫《さけ》んだ。
そこで大臣の一《いつ》行《こう》は
くるっと馬を立て直し
黄いろな塵《ちり》をあげながら
一《いち》目《もく》散《さん》に王《おう》宮《きゆう》の方に戻《もど》って行く。
プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》は
馬を停《と》めてため息《いき》をつき
しばらくそれを見《み》送《おく》って
それから俄《にわ》かに振《ふ》り返《かえ》り
一《ちよ》寸《つと》あごを突《つ》き出して
参《さん》謀《ぼう》長《ちよう》を呼《よ》び寄《よ》せた。
「おまえはどうか
鎧《よろい》や兜《かぶと》をすっかり脱《ぬ》ぎ
早く王《おう》様《さま》のとこへ行ってくれ。
プランペラポランは
塞《さい》外《がい》の砂《さ》漠《ばく》で
三十年馬を下りなかったために
とうとうからだが鞍《くら》に着《つ》き
鞍がまた馬とくっついて
また顔や手にはさるおがせが
一《いち》面《めん》に生えて どうしても
このままお目通りに出られません。
いますぐ医《い》者《しや》にかかりまして
それからお顔を拝《はい》します
と、な、こう、行って云《い》ってくれ。
いいか。」
「はい。かしこまりました。」
参《さん》謀《ぼう》長《ちよう》は
まるですばやく鎧《よろい》や兜《かぶと》を脱《ぬ》ぎ棄《す》てて
同じく黄いろの塵《ちり》をたて
一《いち》目《もく》散《さん》にかけて行く。
「全《ぜん》軍《ぐん》 休め、
将《しよう》軍《ぐん》プランペラポランは
今一《ちよ》寸《つと》医《い》者《しや》へ行って来る。
全軍はその間
全《まつた》く音を立てないで
静《しず》かにやすんで居《い》てくれい。
わかったか。」
「わかりました、将軍。」
兵《へい》隊《たい》共《ども》は一ぺんに叫《さけ》ぶ。
将軍は急《いそ》いで馬に鞭《むち》をあてる。
たびたび朝《ちよう》鮮《せん》人《にん》蔘《じん》をたべて
その有名な馬はもう
まるで風のように飛《と》ぶ。
そこで将《しよう》軍《ぐん》は丁《ちよう》度《ど》十町《ちよう》行ったとき
大きな坂《さか》の下に来て
全《ぜん》体《たい》何という医《い》者《しや》に
自分が行こうとしているか
考えないのに気がついた。
あわてて馬から斯《こ》う叫《さけ》ぶ。
「おい、町中で
一番いい医者は誰《だれ》だ。」
町を歩いていた一人の学生が答えた。
「それはホトランカン先生です。」
「ホトランカンの病《びよう》院《いん》はどこだ。」
「その坂の上であります、
あの赤い三つの旗《はた》の中
一番左の下であります。」
「よろしい、ふう、しゅう。」
将《しよう》軍《ぐん》は馬に一《ひと》鞭《むち》呉《く》れて
一《いつ》散《さん》に坂をかけあがる。
今返《へん》事《じ》した学生は
まだ将軍が誰かも知らず
「何だい、人に物《もの》をたずねておいて
よろしい、ふう、しゅうとは何だ。
失《しつ》敬《けい》な。智《ち》識《しき》のどろぼうめ
実《じつ》に失敬な野《や》蛮《ばん》なやつだ。」
斯《こ》う云《い》ってひとり怒《おこ》っていた。
さて将軍の馬のほうは、
坂《さか》をうずうずのぼって行く
六、七本の病《びよう》気《き》の木を、
けとばしたりはねとばしたり
みしみし枝《えだ》を折《お》ったりする。
それでも元《がん》来《らい》木のことだから
別《べつ》段《だん》のけがもなかったのだ。
今や将軍は
まっすぐに坂をのぼり切って
一番左の赤い旗《はた》をめあてに
その門までやって来た。
なるほど門のはしらには
ホトランカン人間病《びよう》院《いん》と
金看《かん》板《ばん》がかけてある。
二 ホトランカン人間病院
プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》は
いまホトランカン病院の
煉《れん》瓦《が》の門を乗《の》り切って
白い瀬《せ》戸《と》の玄《げん》関《かん》をはいる。
病《びよう》人《にん》がうようよしていたが
将軍は構《かま》わず馬のまま
どしどし廊《ろう》下《か》へのぼって行く。
さすがは名高い
ホトランカンの病院だ。
どの室の扉《と》も窓《まど》も
高さが二丈《じよう》ぐらいある。
馬でずんずん入れたのだ。
「診《しん》察《さつ》室《しつ》はどこだ、診察室はどこだ。」
将軍は高く叫《さけ》ぶ。
「あなたは一体何ですか、
馬のまま入って来るなんて、
あんまり野《や》蛮《ばん》じゃありませんか。」
白い仕《し》事《ごと》着《ぎ》を着た助《じよ》手《しゆ》が
馬のくつわを押《おさ》えてしまう。
「お前がホトランカンなのか。
早くおれの病《びよう》気《き》を診《み》ろ。」
「いいえ、ホトランカン先生は
この室の中に居《お》られます。
診《しん》察《さつ》をお受《う》けになりたいのなら
まず馬から降《お》りて戴《いただ》きたい。」
「いいやこれが病気だ。
早く診《み》てもらいたい。」
「ははあ、馬から降りられない
そいつは脚《あし》の硬《こう》直《ちよく》症《しよう》だ。
そんならよろしいです。
そのままお入りなさい、さあ。」
助手は急《いそ》いでドアを開《あ》けた。
プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》は
馬のまま診察室にはいる。
中は病人でいっぱいだ。
向《むこ》うにはホトランカンらしい
顔のまっ赤な肥《ふと》った医《い》者《しや》が
しきりに一人の病人を診《み》る。
「おい、ホトランカン、
早くおれを見てくれ。」
ところがホトランカン先生は
見《み》向《む》きもしなけぁ動《うご》きもしない。
患《かん》者《じや》のせなかに耳をあてて
じっとからだの音を聴《き》く。
助《じよ》手《しゆ》が将《しよう》軍《ぐん》を手で制《と》めた。
「いいえ、診《しん》察《さつ》は順《じゆん》番《ばん》があります。
番《ばん》号《ごう》札《ふだ》をあげましょう。
あなたは九十六番で
今が三十三番ですから
もう六十三人お待《ま》ちなさい。」
「いけない、おれは北《ほく》守《しゆ》将軍
プランペラポラン大将だ。
九十九万の兵《へい》隊《たい》を
北の城《じよう》門《もん》に置《お》いてある。
さあ今すぐに診察しろ。」
「いえ、いけません時間まで
待つのがそんなにおいやなら
どうかほかの病《びよう》院《いん》へお出《い》で下さい。」
「いいや、ならない。診《み》ないなら
もう医《い》者《しや》もくそもあるもんか、
ただ一《ひと》息《いき》にけちらすぞ。
それ、いいか。しっ。」
将《しよう》軍《ぐん》はもう鞭《むち》をあげ
馬もたしかにはねあがり
病人どもはうろたえる。
ところがホトランカン先生は
まるでびくともしていない、
こっちを見ようともしない、
助《じよ》手《しゆ》も全《まつ》く《た》その通り
馬のくつわをにぎったまま
左手で白いはんけちを
チョッキのポケットから出して
馬の鼻《はな》さきをちょっとこする。
すると何か大へんな
薬《くすり》がしかけてあったらしく
馬が大きくふうふうと
夢《ゆめ》のような息をしたと思うと
俄《にわ》かにぺたんと脚《あし》を折《お》り
今《こん》度《ど》はごうごういびきをかいて
よだれも垂《た》らして寝《ね》てしまう。
将《しよう》軍《ぐん》はすっかりあわて
「あ、馬のやつ、また参《まい》った
困《こま》った 困った、」と云《い》いながら
急《いそ》いで鎧《よろ》の《い》かくしから
一本の朝《ちよう》鮮《せん》人《にん》蔘《じん》を出し
からだを曲《ま》げて馬の上に
持《も》って行ったが馬はもう
人蔘どこじゃないようだ。
「おい、起《お》きんかい。
あんまり情《なさ》けないやつだ。
あんなにひどく難《なん》儀《ぎ》をして
やっと都《みや》に《こ》帰って来ると
すぐ気がゆるんで死《し》ぬなんて
あんまり情けないやつだ。
おい、起きんかい、起きんかい。
しっ、ふう、どう、おい、
貴《き》さまの大《だい》好《す》きの朝鮮人蔘を
ほんの一口たべんかい。おい。」
将《しよう》軍《ぐん》は倒《たお》れた馬のせなかで
ひとりぼろぼろ泪《なみだ》を流《なが》し
とうとうしくりあげて言う。
「医《い》者《しや》さん、どうぞたのみます。
はやくこの馬を診《み》て下さい。
わたしも北の国《こつ》境《きよう》で
三十年というものは
ずいぶん兵《へい》隊《たい》や人《じん》民《みん》の
衛《えい》生《せい》や外《げ》科《か》にはつくしました。」
助《じよ》手《しゆ》はだまって笑《わら》っていたが
ホトランカン先生は
この時俄《にわ》かにこっちを向《む》いて
まるで将軍の胸《むね》の奥《おく》や
馬の臓《ぞう》腑《ふ》も見《み》徹《とお》すような
するどい眼《め》をしてしずかに云《い》った。
「その馬の今倒《たお》れたのは
けして病気ではありません。
しかしあなたの北の方での
医学に対《たい》する貢《こう》献《けん》に
敬《けい》意《い》を払《はら》って私は
急《きゆう》病《びよう》人《にん》だけ三人診《み》たら、
すぐにあなたをなおしましょう。
おい、その馬を起《おこ》してあげろ。」
助《じよ》手《しゆ》は軽《かる》くはいと答え
馬の耳に口をあてて
ふっと一っつ息《いき》を吹《ふ》く。
馬はがばっとはね起きて
将《しよう》軍《ぐ》も《ん》俄《にわ》かにせいが高くなる。
ホトランカン先生は
さっきからの病人を
やっと診《しん》察《さつ》してしまい
〔この間原稿数枚なし〕
「発《はつ》泡《ぽう》やめっ。」と号《ごう》令《れい》する。
一人の助手はいなずまのよう
底《そこ》の栓《せん》を抜《ぬ》いて飛《と》び込《こ》んで
まっ青《さお》になって気《き》絶《ぜつ》している
病人を引っ張《ぱ》り出して来る。
「よろしい、別《べつ》室《しつ》で人《じん》工《こう》呼《こ》吸《きゆう》。」
今《こん》度《ど》はいよいよ将《しよう》軍《ぐん》だ。
「今度はあなた、
どうかこちらへお出《い》で下さい。」
プランペラポラン将軍は
なるべくしずかに馬を出す。
ホトランカン先生は
まず将軍の眼《め》を見つめる。
「あなたは向《むこ》うで狐《きつね》などに
だまされたことがありますか。」
「あります、いやどうも、
向うの狐はいかんです。
百万近い軍《ぐん》勢《ぜい》を
ただ一ぺんに欺《だま》します。
夜に沢《たく》山《さん》火を出したり
昼間いきなり谷の上に
大きな城《しろ》をこさえたり
全《まつ》く《た》たちが悪《わる》いです。」
「ふんふん、一ぺん欺《だま》されるのに
何日ぐらいかかります。」
「まあ四日です。
十日のときもありますな。」
「それであなたは 全《ぜん》体《たい》で
何べんぐらい欺されました。」
「さよう、まあごく少くて
十九へんは欺されてるだろう、
もっとも欺されたかどうか
わからないのもあるでしょう。」
「ふんふん、そんならお尋《たず》ねします。
百と百とを加《くわ》えると
答がいくらになりますか。」
「百八十だ。」
「ふん、ふん、二百と二百では。」
「さよう、三百六十だろう。」
「ふん、ふん、四百と四百では。」
「七百二十に相《そう》違《い》ない。」
「なるほど、すっかりわかりました。
あなたは今でもまだ少し
欺されておいでのようですよ。
もっともほんの少しです。
それじゃなおしてあげましょう。
清《せい》洗《せん》用《よう》意《い》。」助《じよ》手《しゆ》がすぐ
ガラスの槽《おけ》をもって来た。
ホトランカン先生は
それを受《う》け取《と》り台《だい》に置《お》く
「ここへ頭をお出しなさい。」
プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》は
馬の上から下にしゃがみ
頭を槽の上に出す。
「エーテル《 *》それから噴《ふん》霧《む》器《き》。」
すぐ両《りよう》方《ほう》がやって来る。
ホトランカン先生は
それをきっきと手で押《お》して
将軍のしらが頭の上に
はげしく霧《きり》を注《そそ》ぎかける。
プランペラポラン将軍の
鼻《はな》から雫《しず》が《く》ぽとぽと落《お》ちて
ガラスの槽にたまって行く。
それははじめは黒かった。
それからだんだんうすくなり
とうとうすっかり無《む》色《しよく》になった。
「清《せい》洗《せん》やめっ。」
ホトランカン先生が
噴《ふん》霧《む》器《き》をかたかたやるのをやめ
号《ごう》令《れい》するとすぐ助《じよ》手《しゆ》が
タオルで頭や顔を拭《ふ》く。
将《しよう》軍《ぐん》はぶるっと身《み》ぶるいして
馬にきちんと起《お》きあがる。
「どうです、せいせいしたでしょう。
そこで百と百とをたすと
答はいくらになりますか。」
「もちろん二百だろう。」
将軍はさっきのことなどは
忘《わす》れたふうでけろりと云《い》う。
「そんなら二百と二百では。」
「それはもちろん四百だろう。」
「そんなら四百と四百では。」
「もちろんそれは八百だ。」
「よろしい、すっかりなおりました。」
「いや、いや、私はこの馬と
私を離《はな》してもらいに来た。」
「なるほど、それは、あなたの足と
あなたのズボンとはなすのは
すぐ私に出来るのです。
もう離《はな》れているはずです。
けれどもズボンがくらにつき
くらがまた馬につくことは
私の責《せき》任《にん》ではありません。
それはやっぱりズボンの医《い》者《しや》
また鞍《くら》の医者 馬の医者
別《べつ》々《べつ》にかからなければなりません。
ではご案《あん》内《ない》をさせますから。
私の弟、となりの院《いん》長《ちよう》
サラバアユウにおいでなさい。
それにいったいこの馬も
ひどい病《びよう》気《き》にかかっています。」
「そんならわしの顔から生えた
さるおがせだけあなたの処《ところ》で
とってもらいたいもんですな。」
「それも私はもう見ました。
けれどもそれも私は
一《ちよ》寸《つと》手をつけかねますから、
そちらのほうはまた別《べつ》の
植《しよく》物《ぶつ》の医《い》者《しや》におかかりなさい。
やはり私の弟で
ペンクラアネイというものが
となりのとなりに居《い》ますから
そこへも案《あん》内《ない》させましょう。」
「いや、そうですか、ありがとう
そう云《い》うことにねがいます。
それではこれで、さようなら。」
「や、まことに失《しつ》礼《れい》いたしました。
おい、隣《とな》りへご案内してあげろ。」
一人の助《じよ》手《しゆ》が将《しよう》軍《ぐん》と
ならんで診《しん》察《さつ》室《しつ》を出る。
それからいぬしだの花の咲《さ》いた
五角の庭《にわ》をよこぎって
厚《あつ》いセメントの塀《へい》に来る。
小さな潜《くぐ》りがそこにある。
「いま裏《うら》門《もん》をあけさせます。」
助手は潜りを入って行く。
「いいや、それには及《およ》ばない。
わしの馬はこんな塀《へい》ぐらい
まるで何とも思わない。」
将軍は馬にむちをやる。
「ばっ、ふゅう」馬は塀を越《こ》え
サラバアユウ先生の
けしの花《か》壇《だん》をめちゃくちゃに
踏《ふ》みつけながら立っていた。
三 サラバアユウ馬病《びよう》院《いん》
馬に乗《の》ったプランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》と
青くなったホトランカン氏《し》の助《じよ》手《しゆ》とは
サラバアユウ馬病院の
けしの花壇をよこぎって
診《しん》察《さつ》室《しつ》の方へ行く。
もうあっちからもこっちからも
エヘンエヘンブルルル
エヒンエヒン フウという
馬の挨《あい》拶《さつ》が聞えて来る。
診察室のセメントの
床《ゆか》に二人が立ったとき
もう三方から馬どもが
三十疋《ぴき》も飛《と》んで来て
将軍の馬に挨《あい》拶《さつ》する。
ホトランカン先生の助《じよ》手《しゆ》は
すっかりいろをうしなって
「あの向《むこ》うに居《お》られるのが
サラバアユウ先生です。」と云《い》ったまま
一《いち》目《もく》散《さん》に遁《に》げ帰る。
もうそのうちに将軍の
馬はほかの病《びよう》気《き》の馬と
すっかり挨拶をかわしていた。
そこで将軍は千疋も
集《あつ》まっている馬の中を
とっとと自分の馬を進《すす》め
サラバアユウ氏《し》の前に行く。
そのときバアユウ先生は
丁《ちよう》度《ど》一ぴきの首《くび》巻《まき》の
年《とし》老《よ》りの馬を診《み》ていたのだ。
「せきは夜にも出ますかね。」
「どうも出ますよ、ごほん、ごほん。」
「ずいぶん胸《むね》が痛《いた》みますか。」
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」
「ずいぶん胸が痛みますか。」
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」
「どうです胸が痛みますか。」
「痛みます、ごほん、ごほん、ごほん。」
「たべものはおいしいですか。」
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」
〔この間原稿一枚?なし〕
馬《ば》医《い》小《しよう》学《がく》士《し》院《いん》長《ちよう》サラバアユウ、
あなたのご主《しゆ》人《じん》は何と云《い》います。」
「フランドルテール、ごほんごほん。」
「フランドルテール殿《どの》と
それでよろしい、封《ふう》をして。
ではこの手紙をお持《も》ちなさい。
もうよろしい、その次《つぎ》は。」
サラ先生はこっちを向《む》き
肺《はい》癆《ろう》の年《とし》老《よ》り馬は
お辞《じ》儀《ぎ》をして帰って行く。
将《しよう》軍《ぐん》は急《いそ》いで進《すす》み出る。
「ホトランカン先生から教わって
裏《うら》門《もん》の方から参《まい》りましたじゃ
どうかわしの馬を見て下さい。
三十年暗《くら》い谷《たに》底《そこ》に居《い》て
とうとうせなかの皮《かわ》が鞍《くら》と
くっついて離《はな》れなくなりましたじゃ。」
「ああ、兄のとこからおいででしたか。
このお方は三十六、七ですね、
少しリウマチ《 *》にかかっています。
それから鞍はすぐはなれます。
おい、エーテル。」
助《じよ》手《しゆ》がすぐエーテルの瓶《びん》を持《も》って来る。
サラバアユウ先生は
手ばやくそれを受《う》けとって
将《しよう》軍《ぐん》の足にがぶがぶそそぐ。
するとにわかに将軍の
ずぼんは鞍とはなれたので
将軍はひどくはずみを喰《く》って
どたりと馬から落《お》とされた。
けれどもそれは待《ま》っていた
助手がすばやく受けとめて
きちんと床《ゆか》の上におろす。
サラバアユウ先生は
そんなことには頓《とん》着《じやく》なく
今《こん》度《ど》は馬のせなかから
じわじわ鞍《くら》を引きはなす。
間もなく鞍はすぽっととれ
馬は見《けん》当《とう》がつかないらしく
四、五へんせ中をゆすぶった。
「ええ、お馬のほうは
少しリウマチスなようですから
ただ今直してあげましょう。
おい、電気。」
助《じよ》手《しゆ》がもうその支《し》度《たく》をして
紐《ひも》のついた電気の盤《ばん》を
ちゃんと捧《ささ》げて待っていた。
サラバアユウ先生は受けとって
軽《かる》くスイッチをひねり
馬のももに押《お》しつけた。
馬はこわがってばたばたしたが
プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》が
じっとその眼《め》をみつめたので
安《あん》心《しん》して暴《あば》れ出さなかった。
「もういいだろう。歩いてごらん。」
馬はおとなしく歩き出す。
サラバアユウ先生は
しばらくそれを見ていたが
「もういいようです。
今《こん》度《ど》は弟のとこへお出《い》でになりますか。」
「そうです、どうもありがとう、
いずれまたお目にかかります。」
「ではご案《あん》内《ない》させましょう、
おい行ってくれ。」助《じよ》手《しゆ》に云《い》う。
そこでプランペラポラン将軍は
馬に鞍《くら》を置《お》き直し
一人の助手に案内され
診《しん》察《さつ》室《しつ》を出て行った。
それからけしの花《か》壇《だん》を通り
塀《へい》をひらりと乗《の》り越《こ》えて
ペンクラアネイ先生の
ばらの花壇に飛《と》び込《こ》んだ。
四 ペンクラアネイ植《しよく》物《ぶつ》病《びよう》院《いん》
ペンクラアネイ先生の
診察室なんというものは
林のようなものだった。
あらゆる種《しゆ》類《るい》の木や草が
もじゃもじゃ一《いつ》杯《ぱい》集《あつ》っ《ま》て、
泣《な》いたり笑《わら》ったりやっている。
プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》は
馬から下りて案《あん》内《ない》の
助《じよ》手《しゆ》と一《いつ》緒《しよ》に木をくぐり
ペンクラアネイの前に出る。
木はみんな眼《め》を光らせて
二人を通しまた見《み》送《おく》る。
ペンクラアネイ先生は
まだ若《わか》くて顔が赤く
いかにもうれしそうに
歯《は》をきらきらと出していた。
そのすぐ前に一本の
いじけた桃《もも》の木が立った。
〔この間原稿数枚なし〕
桃の木は泪《なみだ》をながし
しばらく立って泣《な》いていたが
いきなり
「わかりました。」と
高く叫《さけ》んで泣いて泣いて泣き
一《いち》目《もく》散《さん》に走って行った。
ペンクラアネイ先生は
じっとそのあとを見《み》送《おく》ってから
しずかに将《しよう》軍《ぐん》に礼《れい》をした。
「ご病《びよう》気《き》はよくわかりました。
すぐなおしてさしあげます。
おい、アルコールとかみそり。」
すぐアルコールの瓶《びん》と
大きな青いかみそりが
先生の手に渡《わた》される。
ペンクラアネイ先生は
すばやく酒精《アルコール》を綿《わた》につけ
将軍の顔をしめしてから
すっすとさるおがせを剃《そ》った。
将軍は気がせいせいして
三十年ぶり笑《わら》い出した。
「もういいようです。」
ペンクラアネイ先生も
にこにこ笑って斯《こ》う云《い》った。
「今日は兵《へい》隊《たい》が待《ま》っていますから
これで失《しつ》礼《れい》いたします。
ではさようなら いずれまた。」
プランペラポラン将軍は
はやてのように室を出て
いなずまのように馬に乗《の》る。
「さあ、しっ、行けっ。」
馬は一秒《びよう》十米《メートル》
たちまち植《しよく》物《ぶつ》病《びよう》院《いん》の
大きな門を外に出た。
プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》は
ペンクラアネイ病《びよう》院《いん》を
光のように飛《と》び出して
サラバアユウ病院の
前を夢《ゆめ》のように過《す》ぎ
ホトランカン病院を
斜《なな》めに見ながら早くも坂《さか》を下りていた。
両《りよう》側《がわ》の家がふらふらと
影《かげ》法《ぼう》師《し》のように見えるだけ
もうプランペラポラン将軍は
向《むこ》うの方で兵《へい》隊《たい》の
「おお将軍 将軍。」と
歓《かん》呼《こ》するのをはっきり聞いた。
将軍は急《いそ》いで馬をとめ
汗《あせ》を拭《ぬぐ》ってあたりを見る。
向うからは参《さん》謀《ぼう》長《ちよう》が
黄いろの塵《ちり》を高くあげ
一《いち》目《もく》散《さん》にかけて来る。
「王《おう》様《さま》がすっかりご承《しよう》知《ち》なさいました。
あなたのご難《なん》儀《ぎ》について
おん涙《なみ》さ《だ》え浮《う》かべられました。
お出《い》でをお待《ま》ちでございます。」
プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》は
剃《そ》りたての顔をかがやかす。
「よし、さあみんな支《し》度《たく》をしろ
薬《くすり》屋《や》からアルコールを
早く千斤《きん》だけ買って来て
みんなで分けて顔をしめし
剣《けん》でさるおがせを剃《そ》れ。」
兵《へい》隊《たい》たちはよろこんで
またもやわっと歓《かん》呼《こ》する。
もうアルコールがやって来て
みんなはピチャピチャそれを塗《ぬ》り
剣ですっすと顔を剃《そ》る
「さあ、いいか、支《し》度《たく》をして。
いいか、気を付《つ》けっ。」
全《ぜん》軍《ぐん》しんとしてしまい
たった一疋《ぴき》の馬が
ブルッと鼻《はな》を鳴らしただけ
「前へ進《すす》めっ。」
「タンパララタ、タンパララタ、ペタンペタン ペタン、
そらがしろびかり
水の中のような
おれの服《ふく》のあや、
ピーピーピピーピピーピーピー
河《かわ》ははて遠く
夕日はまっしろく
ゆれていま落《お》ちる。
タンパララタ、タンパララタ、ペタンペタン ペタン、
雪でまっくらだ
旗《はた》の画《え》もしぼみ
つづみと風の音。
ピーピーピピーピ、ピーピーピ。」
プランペラポラン将《しよう》軍《ぐん》は
顔をしかめて先頭に立ち
ひとびとの万《ばん》歳《ざい》の中を
しずかに馬を泳《およ》がせた。
竜《りゆう*》と詩《し》人《じん》
竜《りゆう》のチャーナタは洞《ほら》のなかへさして来る上げ潮《しお》からからだをうねり出した。
洞の隙《すき》間《ま》から朝日がきらきら射《さ》して来て水《みな》底《そこ》の岩の凹《おう》凸《とつ》をはっきり陰《いん》影《えい》で浮《う》き出させ、またその岩につくたくさんの赤や白の動《どう》物《ぶつ》を写《うつ》し出した。
チャーナタはうっとりとその青くすこし朧《おぼ》ろな水を見た。それから洞のすきまを通して火のようにきらきら光る海の水と浅《あさ》黄《ぎ》いろの天《てん》末《まつ》にかかる火球日《につ》天《てん》子《し》の座《ざ》を見た。
(おれはその幾《いく》千《せん》由《ゆじ》旬《ゆん》の海を自由に潜《かつ》ぎ、その清《きよ》いそらを絶《た》え絶《だ》え息《いき》して黒雲を巻《ま》きながら翔《か》けれるのだ。それだのにおれはここを出て行けない。この洞の外の海に通ずる隙間は辛《から》く外をのぞくことができるに過《す》ぎぬ。)
(聖《せい》竜《りゆ》王《うおう》、聖竜王。わたくしの罪《つみ》を許《ゆる》しわたくしの呪《のろい》をお解《と》きください。)
チャーナタはかなしくまた洞のなかをふりかえり見た。そのとき日光の柱《はしら》は水のなかの尾《お》鰭《ひれ》に射して青くまた白くぎらぎら反《はん》射《しや》した。そのとき竜は洞の外で人の若《わか》々《わか》しい声が呼《よ》ぶのを聴《き》いた。竜は外をのぞいた。
(敬《うやま》うべき老《お》いた竜チャーナタよ。朝日の力をかりてわたしはおまえに許しを乞《こ》いに来た。)
瓔《よう》珞《らく》をかざり黄金の大刀をはいた一人の立《りつ》派《ぱ》な青年が外の畳《たた》石《みいし》の青い苔《こけ》にすわっていた。
(何を許せというのか。)
(竜よ。昨日《きのう》の詩《し》賦《ふ》の競《きそ》いの会に、わたしも出て歌った。そしてみんなは大へんわたしをほめた。
いちばん偉《えら》い詩人のアルタは座《ざ》を下りて来て、わたしを礼《れい》してじぶんの高い座にのぼせ〔二字空白〕の草《くさ》蔓《つる》をわたしに被《かぶ》せて、わたしを賞《ほ》める四句《く》の偈《げ*》をうたい、じぶんは遠く東の方の雪ある山の麓《ふもと》に去《さ》った。わたしは車にのせられてわたくしのうたった歌のうつくしさに酒《さけ》のように酔《よ》いみんなのほめることばや、わたしを埋《うず》める花の雨にわれを忘《わす》れて胸《むね》を鳴らしていたが、夜《よ》更《ふ》けてわたしは長《ちよ》者《うじや》のルダスの家を辞《じ》してきらきらした草の露《つゆ》を踏《ふ》みながらわたしの貧《まず》しい母親のもとに戻《もど》るとき月《がつ》天《てん》子《し》の座に瑪《め》瑙《のう》の雲がかかりくらくなったのでわたくしがそれをふり仰《あお》いでいたら、誰《だれ》かがミルダの森で斯《こ》うひそひそ語っているのを聞いた。
((わかもののスールダッタは洞《ほら》に封《ふう》ぜられているチャーナタ老《ろう》竜《りゆう》の歌をぬすみ聞いてそれを今日歌の競《くら》べにうたい古い詩《し》人《じん》のアルタを東の国に去《さ》らせた))
わたしはどういうわけか足がふるえて思うように歩けなかった。そして昨夜《ゆうべ》一ばんそこらの草はらに座《すわ》って悶《もだ》えた。考えてみるとわたしはここにおまえの居《い》るのを知らないでこの洞《ほら》穴《あな》のま上の岬《みさき》に毎日座り考え歌いつかれては眠《ねむ》った。そしてあのうたはある雲くらい風の日のひるまのまどろみのなかで聞いたような気がする。そこで老《お》いたる竜のチャーナタよ。わたくしはあしたから灰《はい》をかぶって街《まち》の広場に座りおまえとみんなにわびようと思う。あのうつくしい歌を歌った尊《とうと》ぶべきわが師《し》の竜よ。おまえはわたしを許《ゆる》すだろうか。)
(東へ去った詩人のアルタは
どういう偈《げ》でおまえをほめたろう。)
(わたしはあまりのことに心が乱《みだ》れてあの気《け》高《だか》い韻《いん》を覚《おぼ》えなかった。けれども多分は
風がうたい雲が応《おう》じ波《なみ》が鳴らすそのうたをただちにうたうスールダッタ
星がそうなろうと思い陸《りく》地《ち》がそういう形をとろうと覚《かく》悟《ご》する
あしたの世《せ》界《かい》に叶《かな》うべきまことと美《び》との模《も》型《けい》をつくりやがては世界をこれにかなわしむる予《よ》言《げん》者《しや》、
設《せつ》計《けい》者《しや》スールダッタ
と こういうことであったと思う。)
(尊《そん》敬《けい》すべき詩人アルタに幸《さち》あれ、
スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまえのうたである。いったいわたしはこの洞《ほら》に居《い》てうたったのであるか考えたのであるか。おまえはこの洞の上にいてそれを聞いたのであるか考えたのであるか。
おおスールダッタ。
そのときわたしは雲であり風であった。そしておまえも雲であり風であった。詩《し》人《じん》アルタがもしそのときに瞑《めい》想《そう》すれば恐《おそ》らく同じいうたをうたったであろう。けれどもスールダッタよ。アルタの語とおまえの語はひとしくなくおまえの語とわたしの語はひとしくない韻《いん》も恐らくそうである。この故《ゆえ》にこそあの歌こそはおまえのうたでまたわれわれの雲と風とを御《ぎよ》する分のその精《せい》神《しん》のうたである。)
(おお竜《りゆう》よ。そんならわたしは許《ゆる》されたのか。)
(誰《だれ》が許して誰が許されるのであろう。われらがひとしく風でまた雲で水であるというのに。スールダッタよ、もしわたくしが外に出ることができおまえが恐れぬならばわたしはおまえを抱《だ》きまた撫《ぶ》したいのであるがいまはそれができないのでわたしはわたしの小さな贈《おく》物《りもの》をだけしよう。ここに手をのばせ。)竜は一つの小さな赤い珠《たま》を吐《は》いた。そのなかで幾《いく》億《おく》の火を燃《も》した。(その珠《たま》は埋《うず》もれた諸《しよ》経《きよう》をたずねに海にはいるとき捧《ささ》げるのである。)
スールダッタはひざまずいてそれを受《う》けて竜《りゆう》に云《い》った。
(おお竜よ。それをどんなにわたしは久《ひさ》しくねがっていたか。わたしは何と謝《しや》していいかを知らぬ。力ある竜よ。なに故《ゆえ》窟《いわや》を出《い》でぬのであるか。)
(スールダッタよ。わたしは千年の昔《むかし》はじめて風と雲とを得《え》たとき己《おのれ》の力を試《こころ》みるために人々の不《ふ》幸《こう》を来《きた》したために竜王の〔数文字空白〕から十万年この窟に封《ふう》ぜられて陸《りく》と水との境《さかい》を見《み》張《は》らせられたのだ。わたしは日々ここに居《い》て罪《つみ》を悔《く》い王に謝する。)
(おお竜よ。わたしはわたしの母に侍《じ》し、母が首《しゆ》尾《び》よく天に生れたらばすぐに海に入って大経を探《さぐ》ろうと思う。おまえはその日までこの窟に待《ま》つであろうか。)
(おお、人の千年は竜にはわずかに十日に過《す》ぎぬ。)
(さらばその日まで竜よ珠を蔵《ぞう》せ。わたしは来れる日ごとにここに来てそらを見水を見雲をながめ新らしい世《せ》界《かい》の造《ぞう》営《えい》の方《ほう》針《しん》をおまえと語り合おうと思う。)
(おお、老《お》いたる竜の何たる悦《よろこ》びであろう。)
(さらばよ。)(さらば。)
スールダッタは心あかるく岩をふんで去《さ》った。
竜のチャーナタは洞《ほら》の奥《おく》の深《ふか》い水にからだを潜《ひそ》めてしずかに懺《ざん》悔《げ》の偈《げ》をとなえはじめた。
チュウリップの幻《げん》術《じゆ》 《つ》
この農《のう》園《えん》のすもものかきねはいっぱいに青じろい花をつけています。
雲は光って立《りつ》派《ぱ》な玉《ぎよ》髄《くずい》の置《おき》物《もの》です。四方の空を繞《めぐ》ります。
すもものかきねのはずれから一人の洋《よう》傘《がさ》直しが荷《に》物《もつ》をしょって、この月光をちりばめた緑《みどり》の障《しよ》壁《うへき》に沿《そ》ってやって来ます。
てくてくあるいてくるその黒い細い脚《あし》はたしかに鹿《しか》に肖《に》ています。そして日が照《て》っているために荷物の上にかざされた赤白だんだらの小さな洋傘は有《ある》平《へい》糖《とう*》でできてるように思われます。
(洋傘直し、洋傘直し、なぜそうちらちらかきねのすきから農園の中をのぞくのか。)
そしててくてくやって来ます。有平糖のその洋傘はいよいよひかり洋傘直しのその顔はいよいよ熱《ほて》って笑《わら》っています。
(洋傘直し、洋傘直し、なぜ農園の入口でおまえはきくっと曲《まが》るのか。農園の中などにおまえの仕《し》事《ごと》はあるまいよ。)
洋《よう》傘《がさ》直しは農《のう》園《えん》の中へ入ります。しめった五月の黒つちにチュウリップは無《む》雑《ぞう》作《さ》に並《なら》べて植《う》えられ、一めんに咲《さ》き、かすかにかすかにゆらいでいます。
(洋傘直し、洋傘直し。荷物をおろし、おまえは汗《あせ》を拭《ふ》いている。そこらに立ってしばらく花を見ようというのか。そうでないならそこらに立っていけないよ。)
園《えん》丁《てい*》がこてをさげて青い上《うわ》着《ぎ》の袖《そで》で額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ふ》きながら向《むこ》うの黒い独乙《ドイツ》唐《とう》檜《ひ*》の茂《しげ》みの中から出て来ます。
「何のご用ですか。」
「私は洋傘直しですが何かご用はありませんか。若《も》しまた何か鋏《はさみ》でも研《と》ぐのがありましたらそちらのほうもいたします。」
「ああそうですか。一《ちよ》寸《つと》お待《ま》ちなさい。主《しゆ》人《じん》に聞いてあげましょう。」
「どうかお願《ねが》いいたします。」
青い上着の園丁は独乙唐檜の茂みをくぐって消《き》えて行き、それからぽっと陽《ひ》も消えました。
よっぽど西にその太《たい》陽《よう》が傾《かたむ》いて、いま入ったばかりの雲の間から沢《たく》山《さん》の白い光の棒《ぼう》を投《な》げそれは向《むこ》うの山《さん》脈《みやく》のあちこちに落《お》ちてさびしい群《ぐん》青《じよう》の泣《な》き笑《わら》いをします。
有《ある》平《へい》糖《とう》の洋傘もいまは普《ふ》通《つう》の赤と白とのキャラコ《 *》です。
それから今《こん》度《ど》は風が吹《ふ》きたちまち太陽は雲を外《はず》れチュウリップの畑《はたけ》にも不《ふ》意《い》に明るく陽《ひ》が射《さ》しました。まっ赤《か》な花がぷらぷらゆれて光っています。
園《えん》丁《てい》がいつか俄《にわ》かにやって来てガチャッと持《も》って来たものを置《お》きました。
「これだけお願《ねが》いするそうです。」
「へい。ええと。この剪《せん》定《てい》鋏《ばさみ》はひどく捩《ねじ》れておりますから鍛《か》冶《じ》に一ぺんおかけなさらないと直りません。こちらのほうはみんな出来ます。はじめにお値《ね》段《だん》を決《き》めておいてよろしかったらお研《と》ぎいたしましょう。」
「そうですか。どれだけですか。」
「こちらが八銭《せん》、こちらが十銭、こちらの鋏は二丁《ちよう》で十五銭にいたしておきましょう。」
「ようござんす。じゃ願います。水がありますか。持って来てあげましょう。その芝《しば》の上がいいですか。どこでもあなたのすきな処《ところ》でおやりなさい。」
「ええ、水は私が持《も》って参《まい》ります。」
「そうですか。そこのかきねのこっち側《がわ》を少し右へついておいでなさい。井《い》戸《ど》があります。」
「へい。それではお研ぎいたしましょう。」
「ええ。」
園《えん》丁《てい》はまた唐《とう》檜《ひ》の中にはいり洋《よう》傘《がさ》直しは荷《に》物《もつ》の底《そこ》の道《どう》具《ぐ》のはいった引き出しをあけ缶《かん》を持って水を取《と》りに行きます。
そのあとで陽《ひ》がまたふっと消《き》え、風が吹《ふ》き、キャラコの洋傘はさびしくゆれます。
それから洋傘直しは缶の水をぱちゃぱちゃこぼしながら戻《もど》って来ます。
鋼《かな》砥《ど》の上で金《こん》鋼《ごう》砂《しや》がじゃりじゃり云《い》いチュウリップはぷらぷらゆれ、陽がまた降《ふ》って赤い花は光ります。
そこで砥《と》石《いし》に水が張《は》られすっすと払《はら》われ、秋の香《あ》魚《ゆ》の腹《はら》にあるような青い紋《もん》がもう刃《は》物《もの》の鋼《はがね》にあらわれました。
ひばりはいつか空にのぼって行ってチーチクチーチクやり出します。高い処《ところ》で風がどんどん吹きはじめ雲はだんだん融《と》けていっていつかすっかり明るくなり、太陽は少しの午《ご》睡《すい》のあとのようにどこか青くぼんやりかすんではいますがたしかにかがやく五月のひるすぎを拵《こしら》えました。
青い上《うわ》着《ぎ》の園丁が、唐檜の中から、またいそがしく出て来ます。
「お折《せつ》角《かく》ですね、いい天気になりました。もう一つお願《ねが》いしたいんですがね。」
「何ですか。」
「これですよ。」若い園《えん》丁《てい》は少し顔を赤くしながら上着のかくしから角《つの》柄《え》の西《せい》洋《よう》剃《かみ》刀《そり》を取り出します。
洋《よう》傘《がさ》直しはそれを受《う》け取《と》って開《ひら》いて刃《は》をよく改《あらた》めます。
「これはどこでお買いになりました。」
「貰《もら》ったんですよ。」
「研《と》ぎますか。」
「ええ。」
「それじゃ研いでおきましょう。」
「すぐ来ますからね、じきに三時のやすみです。」園丁は笑《わら》って光ってまた唐《とう》檜《ひ》の中にはいります。
太《たい》陽《よう》はいまはすっかり午《ご》睡《すい》のあとの光のもやを払《はら》いましたので山《さん》脈《みやく》も青くかがやき、さっきまで雲にまぎれてわからなかった雪の死《し》火《か》山《ざん》もはっきり土《ト》耳《ル》古《コ》玉《だま*》のそらに浮《う》きあがりました。
洋傘直しは引き出しから合《あわ》せ砥《ど》を出し一《ちよ》寸《つと》水をかけ黒い滑《なめ》らかな石でしずかに練《ね》りはじめます。それからパチッと石をとります。
(おお、洋傘直し、洋傘直し、なぜその石をそんなに眼《め》の近くまで持《も》って行ってじっとながめているのだ。石に景《け》色《しき》が描《か》いてあるのか。あの、黒い山がむくむく重《かさ》なり、その向《むこ》うには定《さだ》めない雲が翔《か》け、渓《たに》の水は風より軽《かる》く幾《いく》本《ほん》の木は険《けわ》しい崖《がけ》からからだを曲《ま》げて空に向《むか》う、あの景色が石の滑らかな面《めん》に描いてあるのか。)
洋傘直しは石を置《お》き剃《かみ》刀《そり》を取ります。剃刀は青ぞらをうつせば青くぎらっと光ります。
それは音なく砥《と》石《いし》をすべり陽《ひ》の光が強いので洋傘直しはポタポタ汗《あせ》を落《おと》します。今は全《まつた》く五月のまひるです。
畑《はたけ》の黒土はわずかに息《いき》をはき風が吹《ふ》いて花は強くゆれ、唐檜も動きます。
洋傘直しは剃刀をていねいに調《しら》べそれから茶いろの粗《あら》布《ぬの》の上にできあがった仕《し》事《ごと》をみんな載《の》せほっと息して立ちあがります。
そして一足チュウリップの方に近づきます。
園丁が顔をまっ赤《か》にほてらして飛《と》んで来ました。
「もう出来たんですか。」
「ええ。」
「それでは代《だい》を持《も》って来ました。そっちは三十三銭《せん》ですね。お取《と》り下さい。それから私の分はいくらですか。」
洋《よう》傘《がさ》直しは帽《ぼう》子《し》をとり銀《ぎん》貨《か》と銅《どう》貨《か》とを受《う》け取《と》ります。
「ありがとうございます。剃《かみ》刀《そり》のほうは要《い》りません。」
「どうしてですか。」
「お負《ま》けいたしておきましょう。」
「まあ取って下さい。」
「いいえ、いただくほどじゃありません。」
「そうですか。ありがとうございました。そんなら一《ちよ》寸《つと》向《むこ》うの番《ばん》小《ご》屋《や》までおいで下さい。お茶でもさしあげましょう。」
「いいえ、もう失《しつ》礼《れい》いたします。」
「それではあんまりです。一寸お待《ま》ち下さい。ええと、仕《し》方《かた》ない、そんならまあ私の作った花でも見て行って下さい。」
「ええ、ありがとう。拝《はい》見《けん》しましょう。」
「そうですか。では。」
その気《き》紛《まぐ》れの洋傘直しと園《えん》丁《てい》とはうっこんこう《 *》の畑《はたけ》の方へ五、六歩寄《よ》ります。
主人らしい人の縞《しま》のシャツが唐《とう》檜《ひ》の向うでチラッとします。園丁はそっちを見かすかに笑い何か云《い》いかけようとします。
けれどもシャツは見えなくなり、園丁は花を指《ゆび》さします。
「ね、此《こ》の黄と橙《だいだい》の大きな斑《ぶち》はアメリカから直《じ》かに取《と》りました。こちらの黄いろは見ていると額《ひたい》が痛《いた》くなるでしょう。」
「ええ。」
「この赤と白の斑《ぶち》は私はいつでも昔《むかし》の海《かい》賊《ぞく》のチョッキのような気がするんですよ。ね。
それからこれはまっ赤《か》な羽《は》二《ぶた》重《え》のコップでしょう。この花びらは半ぶんすきとおっているので大へん有《ゆう》名《めい》です。ですからこいつの球《きゆう》はずいぶんみんなで欲《ほ》しがります。」
「ええ、全《まつた》く立《りつ》派《ぱ》です。赤い花は風で動《うご》いている時よりもじっとしている時のほうがいいようですね。」
「そうです、そうです。そして一《ちよ》寸《つと》あいつをごらんなさい。ね。そら、その黄いろの隣《とな》りのあいつです。」
「あの小さな白いのですか。」
「そうです、あれは此《こ》処《こ》では一番大切なのです。まあしばらくじっと見《み》詰《つ》めてごらんなさい。どうです、形のいいことは一《いつ》等《とう》でしょう。」
洋《よう》傘《がさ》直しはしばらくその花に見入ります。そしてだまってしまいます。
「ずいぶん寂《しず》かな緑《みどり》の柄《え》でしょう。風にゆらいで微《かす》かに光っているようです。いかにもその柄が風に靱《しな》っているようです。けれども実《じつ》は少しも動いておりません。それにあの白い小さな花は何か不《ふ》思《し》議《ぎ》な合図を空に送《おく》っているようにあなたには思われませんか。」
洋傘直しはいきなり高く叫《さけ》びます。
「ああ、そうです、そうです、見えました。
けれども何だか空のひばりの羽の動かしようが、いや鳴きようが、さっきと調《ちよ》子《うし》をちがえてきたではありませんか。」
「そうでしょうとも、それですから、ごらんなさい。あの花の盃《さかずき》の中からぎらぎら光ってすきとおる蒸《じよう》気《き》が丁《ちよう》度《ど》水へ砂《さ》糖《とう》を溶《とか》したときのようにユラユラユラユラ空へ昇《のぼ》って行くでしょう。」
「ええ、ええ、そうです。」
「そして、そら、光が湧《わ》いているでしょう。おお、湧きあがる、湧きあがる、花の 盃《さかず》を《き》あふれてひろがり湧きあがりひろがりひろがりもう青ぞらも光の波《なみ》で一ぱいです。山《さん》脈《みやく》の雪も光の中で機《き》嫌《げん》よく空へ笑《わら》っています。湧きます、湧きます。ふう、チュウリップの光の酒《さけ》。どうです。チュウリップの光の酒。ほめて下さい。」
「ええ、このエステル《 *》は上《じよ》等《うとう》です。とても合《ごう》成《せい》できません。」
「おや、エステルだって、合成だって、そいつは素《す》敵《てき》だ。あなたはどこかの化《か》学《がく》大学校を出た方ですね。」
「いいえ、私はエステル工学校の卒《そつ》業《ぎよ》生《うせい》です。」
「エステル工学校。ハッハッハ。素敵だ。さあどうです。一《いつ》杯《ぱい》やりましょう。チュウリップの光の酒。さあ飲《の》みませんか。」
「いや、やりましょう。よう、あなたの健《けん》康《こう》を祝《しゆく》します。」
「よう、ご健康を祝します。いい酒です。貧《びん》乏《ぼう》な僕《ぼく》のお酒はまた一《いつ》層《そう》に光っておまけに軽《かる》いのだ。」
「けれどもぜんたいこれでいいんですか。あんまり光が過《す》ぎはしませんか。」
「いいえ心《しん》配《ぱい》ありません。酒があんなに湧きあがり波を立てたり渦《うず》になったり花《か》弁《べん》をあふれて流《なが》れてもあのチュウリップの緑《みどり》の花《か》柄《へい》は一《ちよ》寸《つと》もゆらぎはしないのです。さあも一つおやりなさい。」
「ええ、ありがとう。あなたもどうです。奇《き》麗《れい》な空じゃありませんか。」
「やりますとも、おっと沢《たく》山《さん》沢山。けれどもいくらこぼれたところでそこら一《いち》面《めん》チュウリップ酒《しゆ》の波だもの。」
「一面どころじゃありません。そらのはずれから地《じ》面《めん》の底《そこ》まですっかり光の領《りよ》分《うぶん》です。たしかに今は光のお酒が地面の腹《はら》の底《そこ》までしみました。」
「ええ、ええ、そうです。おや、ごらんなさい。向《むこ》うの畑《はたけ》。ね。光の酒に漬《つか》っては花《はな》椰《やさ》菜《い*》でもアスパラガスでも実《じつ》に立《りつ》派《ぱ》なものではありませんか。」
「立派ですね。チュウリップ酒で漬《つ》けた瓶《びん》詰《づめ》です。しかし一体ひばりはどこまで逃《に》げたでしょう。どこまで逃げて行ったのかしら。自分で斯《こ》んな光の波《なみ》を起《おこ》しておいてあとはどこかへ逃げるとは気《き》取《ど》ってやがる。あんまり気取ってやがる、畜《ちく》生《しよ》。《う》」
「まったくそうです。こら、ひばりめ、降《お》りて来い。ははぁ、やつ、溶《と》けたな。こんなに雲もない空にかくれるなんてできないはずだ。溶けたのですよ。」
「いいえ、あいつの歌なら、あの甘《あま》ったるい歌なら、さっきから光の中に溶けていましたがひばりはまさか溶けますまい。溶けたとしたらその小さな骨《ほね》を何かの網《あみ》で掬《すく》い上げなくちゃなりません。そいつはあんまり手数です。」
「まあそうですね。しかしひばりのことなどはまあどうなろうと構《かま》わないではありませんか。全《ぜん》体《たい》ひばりというものは小さなもので、空をチーチクチーチク飛《と》ぶだけのもんです。」
「まあ、そうですね、それでいいでしょう。ところが、おやおや、あんなでもやっぱりいいんですか。向うの唐《とう》檜《ひ》が何だかゆれて踊《おど》り出すらしいのですよ。」
「唐檜ですか。あいつはみんなで、一《いつ》小《しよ》隊《うたい》はありましょう。みんな若《わか》いし擲《グレ》弾《ナデ》兵《ーア*》です。」
「ゆれて踊っているようですが構いませんか。」
「なあに心《しん》配《ぱい》ありません。どうせチュウリップ酒《しゆ》の中の景《け》色《しき》です。いくら跳《は》ねてもいいじゃありませんか。」
「そいつは全《まつた》くそうですね。まあ大目に見ておきましょう。」
「大目に見ないといけません。いい酒だ。ふう。」
「すももも踊り出しますよ。」
「すももは墻《しよ》壁《うへ》仕《きじ》立《たて》です。ダイアモンドです。枝《えだ》がななめに交《こう》叉《さ》します。一中隊はありますよ。義《ぎ》勇《ゆう》中隊です。」
「やっぱりあんなでいいんですか。」
「構《かま》いませんよ。それよりまああの梨《なし》の木どもをご覧《らん》なさい。枝《えだ》が剪《き》られたばかりなので身体《からだ》が一《いつ》向《こう》釣《つ》り合いません。まるで蛹《さなぎ》の踊《おど》りです。」
「《さ》蛹《なぎ》踊《おどり》とはそいつはあんまり可《か》哀《わい》そうです。すっかり悄《しよ》気《げ》て化《か》石《せき》してしまったようじゃありませんか。」
「石になるとは。そいつはあんまりひどすぎる。おおい。梨の木。木のまんまでいいんだよ。けれども仲《なか》々《なか》人の命《めい》令《れい》をすなおに用いるやつらじゃないんです。」
「それより向《むこ》うのくだものの木の踊りの環《わ》をごらんなさい。まん中に居《い》てきゃんきゃん調《ちよ》子《うし》をとるのがあれが桜《おう》桃《とう》の木ですか。」
「どれですか。あああれですか。いいえ、あいつは油《つば》桃《いもも》です。やっぱり巴《はた》丹《んき》杏《よう》やまるめろの歌は上《じよ》手《うず》です。どうです。行って仲《なか》間《ま》にはいりましょうか。行きましょう。」
「行きましょう。おおい。おいらも仲間に入れろ。痛《いた》い、畜《ちく》生《しよ》。《う》」
「どうかなさったのですか。」
「眼《め》をやられました。どいつかにひどく引っ掻《か》かれたのです。」
「そうでしょう。全《ぜん》体《たい》駄《だ》目《め》です。どいつも満《まん》足《ぞく》の手のあるやつはありません。みんなガリガリ骨《ほね》ばかり、おや、いけない、いけない、すっかり崩《くず》れて泣《な》いたりわめいたりむしりあったりなぐったり一体あんまり冗《じよ》談《うだん》が過《す》ぎたのです。」
「ええ、斯《こ》う世《よ》の中が乱《みだ》れては全《まつた》くどうも仕《し》方《かた》ありません。」
「全くそうです。そうら。そら、火です、火です。火がつきました。チュウリップ酒《しゆ》に火がはいったのです。」
「いけない、いけない。はたけも空もみんなけむり、しろけむり。」
「パチパチパチパチやっている。」
「どうも素《す》敵《てき》に強い酒《さけ》だと思いましたよ。」
「そうそう、だからこれはあの白いチュウリップでしょう。」
「そうでしょうか。」
「そうです。そうですとも。ここで一番大《だい》事《じ》な花です。」
「ああ、もうよほど経《た》ったでしょう。チュウリップの幻《げん》術《じゆつ》にかかっているうちに。もう私は行かなければなりません。さようなら。」
「そうですか、ではさようなら。」
洋《よう》傘《がさ》直しは荷《に》物《もつ》へよろよろ歩いて行き、有《ある》平《へい》糖《とう》の広《こう》告《こく》つきのその荷物を肩《かた》にし、もう一《いち》度《ど》あのあやしい花をちらっと見てそれからすももの垣《かき》根《ね》の入口にまっすぐに歩いて行きます。
園《えん》丁《てい》は何だか顔が青ざめてしばらくそれを見《み》送《おく》りやがて唐《とう》檜《ひ》の中へはいります。
太《たい》陽《よう》はいつかまた雲の間にはいり太い白い光の棒《ぼう》の幾《いく》条《すじ》を山と野原とに落《おと》します。
さるのこしかけ《 *》
楢《なら》夫《お》は夕方、裏《うら》の大きな栗《くり》の木の下に行きました。其《そ》の幹《みき》の、丁《ちよう》度《ど》楢夫の目くらい高い所《ところ》に、白いきのこが三つできていました。まん中のは大きく、両《りよう》がわの二つはずっと小さく、そして少し低《ひく》いのでした。
楢夫は、じっとそれを眺《なが》めて、ひとりごとを言いました。
「ははあ、これがさるのこしかけだ。けれどもこいつへ腰《こし》をかけるようなやつなら、ずいぶん小さな猿《さる》だ。そして、まん中にかけるのがきっと小猿の大《たい》将《しよう》で、両わきにかけるのは、ただの兵《へい》隊《たい》にちがいない。いくら小猿の大将が威《い》張《ば》ったって、僕《ぼく》のにぎりこぶしのくらいもないのだ。どんな顔をしているか、一ぺん見てやりたいもんだ。」
そしたら、きのこの上に、ひょっこり三疋《びき》の小猿があらわれて腰《こし》掛《か》けました。
やっぱり、まん中のは、大将の軍《ぐん》服《ぷく》で、小さいながら勲《くん》章《しよう》も六つばかり提《さ》げています。両わきの小猿は、あまり小さいので、肩《けん》章《しよう》がよくわかりませんでした。
小猿の大将は、手《て》帳《ちよう》のようなものを出して、足を重《かさ》ねてぶらぶらさせながら、楢夫に云《い》いました。「おまえが楢《なら》夫《お》か。ふん。何歳《さい》になる。」
楢夫はばかばかしくなってしまいました。小さな小さな猿《さる》のくせに、軍服などを着《き》て、手《て》帳《ちよう》まで出して、人間をさも捕《ほ》虜《りよ》か何かのように扱《あつか》うのです。楢夫が申《もう》しました。
「何だい。小猿。もっと語《ことば》を丁《てい》寧《ねい》にしないと僕《ぼく》は返《へん》事《じ》なんかしないぞ。」
小猿が顔をしかめて、どうも笑《わら》ったらしいのです。もう夕方になって、そんな小さな顔はよくわかりませんでした。
けれども小猿は、急《いそ》いで手帳をしまって、今《こん》度《ど》は手を膝《ひざ》の上で組み合せながら云いました。
「仲《なか》々《なか》強《ごう》情《じよう》な子《こ》供《ども》だ。俺《おれ》はもう六十になるんだぞ。そして陸《りく》軍《ぐん》大《たい》将《しよう》だぞ。」
楢夫は怒《おこ》ってしまいました。
「何だい。六十になっても、そんなにちいさいなら、もうさきの見《み》込《こみ》が無《な》いやい。腰《こし》掛《か》けのまま下へ落《おと》すぞ。」
小猿がまた笑ったようでした。どうも、大《たい》変《へん》、これが気にかかりました。
けれども小猿は急《きゆう》にぶらぶらさせていた足をきちんとそろえておじぎをしました。そしていやに丁寧に云いました。
「楢夫さん。いや、どうか怒らないで下さい。私はいい所《ところ》へお連《つ》れしようと思って、あなたのお年までお尋《たず》ねしたのです。どうです。おいでになりませんか。いやになったらすぐお帰りになったらいいでしょう。」
家《け》来《らい》の二疋《ひき》の小《こ》猿《ざる》も、一生けん命《めい》、眼《め》をパチパチさせて、楢《なら》夫《お》を案《あん》内《ない》するようにまごころを見せましたので、楢夫も一《ちよ》寸《つと》行ってみたくなりました。なあに、いやになったら、すぐ帰るだけだ。
「うん。行ってもいい。しかしお前らはもう少し語《ことば》に気をつけないといかんぞ。」
小猿の大《たい》将《しよう》は、むやみに沢《たく》山《さん》うなずきながら、腰《こし》掛《か》けの上に立ちあがりました。
見ると、栗《くり》の木の三つのきのこの上に、三つの小さな入口ができていました。それから栗の木の根《ね》もとには、楢夫の入れるくらいの、四角な入口があります。小猿の大将は、自分の入口に一寸顔を入れて、それから振《ふ》り向《む》いて、楢夫に申《もう》しました。
「只《ただ》今《いま》、電《でん》燈《とう》を点《つ》けますからどうかそこからおはいり下さい。入口は少し狭《せも》うございますが、中は大へん楽《らく》でございます。」
小猿は三疋、中にはいってしまい、それと一《いつ》緒《しよ》に栗の木の中に、電燈がパッと点きました。
楢夫は、入口から、急《いそ》いで這《は》い込《こ》みました。
栗の木なんて、まるで煙《えん》突《とつ》のようなものでした。十間《けん》置《お》きぐらいに、小さな電燈がついて、小さな小さなはしご段《だん》がまわりの壁《かべ》にそって、どこまでも上の方に、のぼって行くのでした。
「さあさあ、こちらへおいで下さい。」小《こ》猿《ざる》はもうどんどん上へ昇《のぼ》って行きます。楢夫は一ぺんに、段を百ばかりずつ上って行きました。それでも、仲《なか》々《なか》、三疋《びき》には敵《かな》いません。
楢夫はつかれて、はあはあしながら、云《い》いました。
「ここはもう栗の木のてっぺんだろう。」
猿が、一《いち》度《ど》にきゃっきゃっ笑《わら》いました。
「まあいいからついておいでなさい。」上を見ますと、電燈の列《れつ》が、まっすぐにだんだん上って行って、しまいはもうあんまり小さく、一つ一つの灯《ひ》が見わかず、一本の細い赤い線のように見えました。
小猿の大《たい》将《しよう》は、楢夫の少し参《まい》った様《よう》子《す》を見ていかにも意《い》地《じ》の悪《わる》い顔をしてまた申《もう》しました。
「さあも少し急《いそ》ぐのです。ようございますか。私共《ども》に追《お》いついておいでなさい。」
楢夫が申しました。
「此《こ》処《こ》へしるしを付《つ》けて行こう。うちへ帰る時、まごつくといけないから。」
猿《さる》が、一度に、きゃっきゃっ笑いました。生《なま》意《い》気《き》にも、ただの兵《へい》隊《たい》の小猿まで、笑うのです。大《たい》将《しよう》が、やっと笑うのをやめて申しました。
「いや、お帰りになりたい時は、いつでもお送《おく》りいたします。決《けつ》してご心《しん》配《ぱい》はありません。それより、まあ、駈《か》ける用意をなさい。ここは最《さい》大《だい》急《きゆう》行《こう》で通らないといけません。」
楢《なら》夫《お》も仕《し》方《かた》なく、駈け足のしたくをしました。
「さあ、行きますぞ。一二の三。」小猿はもう駈け出しました。
楢夫も一生けん命《めい》、段《だん》をかけ上りました。実《じつ》に小猿は速《はや》いのです。足音ががんがん響《ひび》き電《でん》燈《とう》が矢のように次《つぎ》から次と下の方へ行きました。もう楢夫は、息《いき》が切れて、苦《くる》しくて苦しくてたまりません。それでも、一生けん命、駈けあがりました。もう、走っているかどうかもわからないくらいです。突《とつ》然《ぜん》眼《め》の前がパッと青白くなりました。そして、楢夫は、眩《まぶ》しいひるまの草原の中に飛《と》び出しました。そして草に足をからまれてばったり倒《たお》れました。そこは林に囲《かこ》まれた小さな明《あき》地《ち》で、小猿は緑《みどり》の草の上を、列《なら》んでだんだんゆるやかに、三べんばかり廻《まわ》ってから、楢夫のそばへやって来ました。大将が鼻《はな》をちぢめて云《い》いました。
「ああひどかった。あなたもお疲《つか》れでしょう。もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。これからはこんな切《せつ》ないことはありません。」
楢夫が息をはずませながら、ようやく起《お》き上って云《い》いました。
「ここはどこだい。そして、今《いま》頃《ごろ》お日さまがあんな空のまん中にお出《い》でになるなんて、おかしいじゃないか。」
大将が申しました。
「いや、ご心《しん》配《ぱい》ありません。ここは種《たね》山《やま》ケ《が》原《はら*》です。」楢夫がびっくりしました。
「種山ヶ原? とんでもない処《ところ》へ来たな。すぐうちへ帰れるかい。」
「帰れますとも。今《こん》度《ど》は下りですから訳《わけ》ありません。」
「そうか。」と云いながら楢夫はそこらを見ましたが、もう今やって来たトンネルの出口はなく、却《かえ》って、向うの木のかげや、草のしげみのうしろで、沢《たく》山《さん》の小猿が、きょろきょろこっちをのぞいているのです。
大将が、小さな剣《けん》をキラリと抜《ぬ》いて、号《ごう》令《れい》をかけました。
「集《あつま》れっ。」小猿が、バラバラ、その辺《へん》から出て来て、草原一杯《ぱい》もちゃもちゃはせ廻《まわ》り、間もなく四つの長い列《れつ》をつくりました。大将についていた二疋《ひき》も、その中にまじりました。大将はからだを曲《ま》げるくらい一生けん命に号令をかけました。
「気を付《つ》けっ」「右いおい。」「なおれっ。」「番号。」実《じつ》にみんなうまくやります。
楢《なら》夫《お》は愕《おどろ》いてそれを見ました。大《たい》将《しよう》が楢夫の前に来て、まっすぐに立って申《もう》しました。
「演《えん》習《しゆう》をこれからやります。終《おわ》りっ。」
楢夫はすっかり面《おも》白《しろ》くなって、自分も立ちあがりましたが、どうも余《あま》りせいが高《たか》過《す》ぎて、調《ちよう》子《し》が変《へん》なので、また座《すわ》って云《い》いました。
「宜《よろ》しい。演習はじめっ。」小猿の大将がみんなへ云いました。
「これから演習をはじめる。今日は参《さん》観《かん》者《しや》もあるのだから、殊《こと》に注《ちゆう》意《い》しないといけない。左《ひだり》向《む》けの時、右向けをした者《もの》、前へ進《すす》めを右足からはじめた者、かけ足の号《ごう》令《れい》で腰《こし》に手をあげない者、みんな後で三つずつせ中をつねる。いいか。わかったか。八番。」
八番の小猿が云いました。
「判《わか》りました。」「よろしい。」大将は云いながら三歩ばかり後ろに退《しりぞ》いて、だしぬけに号令をかけました。
「突《とつ》貫《かん》。」楢夫は愕いてしまいました。こんな乱《らん》暴《ぼう》な演習は、今まで見たこともありません。それどころではなく、小猿がみんな歯《は》をむいて楢夫に走って来て、みんな小さな綱《つな》を出して、すばやくきりきり身体《からだ》中を縛《しば》ってしまいました。楢夫は余《よ》程《ほど》撲《なぐ》ってやろうと思いましたが、あんまりみんな小さいので、じっと我《が》慢《まん》をしていました。
みんなは縛ってしまうと、互《たがい》に手をとりあって、きゃっきゃっ笑《わら》いました。
大将が、向《むこ》うで、腹《はら》をかかえて笑いながら、剣《けん》をかざして、「胴《どう》上《あ》げい、用《よう》意《い》っ。」といいました。
楢《なら》夫《お》は、草の上に倒《たお》れながら、横《よこ》目《め》で見ていますと、小猿は向うで、みんな六疋《ぴき》ぐらいずつ、高い高い肩《かた》車《ぐるま》をこしらえて、塔《とう》のようになり、それがあっちからもこっちからも集《あつま》って、とうとう小猿の林のようなものができてしまいました。
それが、ずんずん、楢夫に進んで来て、沢《たく》山《さん》の手を出し、楢夫を上に引っ張《ぱ》りあげました。
楢夫は呆《あき》れて、小猿の列《れつ》の上で、大将を見ていました。
大《たい》将《しよう》は、ますます得《とく》意《い》になって、爪《つま》立《だ》てをして、力《ちから》一《いつ》杯《ぱい》延《の》びあがりながら、号《ごう》令《れい》をかけます。
「胴上げぃ、はじめっ。」
「よっしょい。よっしょい。よっしょい。」
もう、楢夫のからだは、林よりも高いくらいです。
「よっしょい。よっしょい。よっしょい。」
風が耳の処《ところ》でひゅうと鳴り、下では小《こ》猿《ざる》共《ども》が手をうようよしているのが実《じつ》に小さく見えます。
「よっしょい。よっしょい。よっしょい。」
ずうっと向《むこ》うで、河《かわ》がきらりと光りました。
「落《おと》せっ。」「わあ。」と下で声がしますので見ると小猿共がもうちりぢりに四方に別《わか》れて林のへりにならんで草原をかこみ、楢《なら》夫《お》の地べたに落ちて来るのを見ようとしているのです。
楢夫はもう覚《かく》悟《ご》をきめて、向うの川を、もう一ぺん見ました。その辺《へん》に楢夫の家があるのです。そして楢夫は、もう下に落ちかかりました。
その時、下で、「危《あぶな》いっ。何をする。」という大きな声がしました。見ると、茶色のばさばさの髪《かみ》と巨《おお》きな赤い顔が、こっちを見あげて、手を延《の》ばしているのです。
「ああ山《やま》男《おとこ*》だ。助《たす》かった。」と楢夫は思いました。そして、楢夫は、忽《たちま》ち山男の手で受《う》け留《と》められて、草原におろされました。その草原は楢夫のうちの前の草原でした。栗《くり》の木があって、たしかに三つの猿のこしかけがついていました。そして誰《だれ》も居《い》ません。もう夜です。
「楢夫。ごはんです。楢夫。」とうちの中でお母さんが叫《さけ》んでいます。
楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》の野《の》宿《じゆく》
楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》は宝《ほう》石《せき》学の専《せん》門《もん》だ。
ある晩《ばん》大学士の小さな家《うち》へ、
「貝の火《 *》兄弟商《しよう》会《かい》」の、
赤《あか》鼻《はな》の支《し》配《はい》人《にん》がやって来た。
「先生、ごく上《じよう》等《とう》の蛋《たん》白《ぱく》石《せき*》の注《ちゆう》文《もん》があるのですがどうでしょう、お探《さが》しをねがえませんでしょうか。もっともごくごく上等のやつをほしいのです。何せ相《あい》手《て》がグリーンランドの途《と》方《ほう》もない成《なり》金《きん》ですから、ありふれたものじゃなかなか承《しよう》知《ち》しないんです。」
大学士は葉《は》巻《まき》を横《よこ》にくわえ、
雲《うん》母《も》紙《し》を張《は》った天《てん》井《じよう》を、
斜《なな》めに見上げて聴《き》いていた。
「たびたびご迷《めい》惑《わく》で、まことに恐《おそ》れ入りますが、いかがなもんでございましょう。」
そこで楢ノ木大学士は、
にやっと笑《わら》って葉《は》巻《まき》をとった。
「うん、探《さが》してやろう。蛋《たん》白《ぱく》石《せき》のいいのなら、流《りゆう》紋《もん》玻《は》璃《り*》を探せばいい。探してやろう。僕《ぼく》は実《じつ》際《さい》、一ぺんさがしに出かけたら、きっともう足が宝《ほう》石《せき》のある所《ところ》へ向《む》くんだよ。そして宝石のある山へ行くと、奇《き》体《たい》に足が動《うご》かない。直《ちよつ》覚《かく》だねえ。いや、それだから、却《かえ》って困《こま》ることもあるよ。たとえば僕は一千九百十九年の七月に、アメリカのジャイアントアーム会社の依《い》嘱《しよく》を受《う》けて、紅宝玉《ルビー*》を探しにビルマへ行ったがね、やっぱりいつか足は紅宝玉の山へ向く。それからちゃんと見《み》附《つ》かって、帰ろうとしてもなかなか足があがらない。つまり僕と宝石には、一《いつ》種《しゆ》の不《ふ》思《し》議《ぎ》な引力が働《はたら》いている、深《ふか》く埋《うず》まった紅宝玉どもの、日光の中へ出たいというその熱《ねつ》心《しん》が、多分は僕の足の神《しん》経《けい》に感《かん》ずるのだろうね。その時も実《じつ》際《さい》困ったよ。山から下りるのに、十一時間もかかったよ。けれどもそれがいまのバララゲの紅《ル》宝《ビ》玉《ー》坑《こう》さ。」
「ははあ、そいつはどうもとんだご災《さい》難《なん》でございました。しかしいかがでございましょう。こんども多分はそんな工《ぐ》合《あい》に参《まい》りましょうか。」
「それはもうきっとそう行くね。ただその時に、僕が何かの都《つ》合《ごう》のために、たとえばひどく疲《つか》れているとか、狼《おおかみ》に追《お》われているとか、あるいはひどく神経が興《こう》奮《ふん》しているとか、そんなような事《じ》情《じよう》から、ふっとその引力を感じないというようなことはあるかもしれない。しかしとにかく行って来よう。二週間目にはきっと帰るから。」
「それでは何《なに》分《ぶん》お願《ねが》いいたします。これはまことに軽《けい》少《しよう》ですが、当《とう》座《ざ》の旅《りよ》費《ひ》のつもりです。」
貝の火兄弟商《しよう》会《かい》の、
鼻《はな》の赤いその支《し》配《はい》人《にん》は、
ねずみ色の状《じよう》袋《ぶくろ》を、
上《うわ》着《ぎ》の内《うち》衣《ポケ》〓《ツト》から出した。
「そうかね。」
大《だい》学《がく》士《し》は別《べつ》段《だん》気《き》にもとめず、
手を延《の》ばして状袋をさらい、
自分の衣〓《かくし》に投《な》げこんだ。
「では何分とも、よろしくお願いいたします。」
そして「貝の火兄弟商会」の、
赤《あか》鼻《はな》の支配人は帰って行った。
次《つぎ》の日諸《しよ》君《くん》のうちの誰《だれ》かは、
きっと上野の停《てい》車《しや》場《じよう》で、
途《と》方《ほう》もない長い外《がい》套《とう》を着《き》、
変《へん》な灰《はい》色《いろ》の袋《ふくろ》のような背《はい》〓《のう》をしょい、
七キログラムもありそうな、
素《す》敵《てき》な大きなかなづちを、
持《も》った紳《しん》士《し》を見ただろう。
それは楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》だ。
宝《ほう》石《せき》を探《さが》しに出《で》掛《か》けたのだ。
出掛けたためにとうとう楢ノ木大学士の、
野《の》宿《じゆく》ということも起《おこ》ったのだ。
三《み》晩《ばん》というもの起ったのだ。
野宿第《だい》一《いち》夜《や》
四月二十日の午《ご》后《ご》四時頃《ごろ》、
例《れい》の楢ノ木大学士が
「ふん、此《こ》の川《かわ》筋《すじ》があやしいぞ。たしかにこの川筋があやしいぞ。」
とひとりぶつぶつ言いながら、
からだを深《ふか》く折《お》り曲《ま》げて
眼《め》一《いつ》杯《ぱい》にみひらいて、
足もとの砂《じや》利《り》をねめまわしながら、
兎《うさぎ》のようにひょいひょいと、
葛《くず》丸《まる》川《 *》の西《せい》岸《がん》の
大きな河《かわ》原《ら》をのぼって行った。
両《りよう》側《がわ》はずいぶん嶮《けわ》しい山だ。
大《だい》学《がく》士《し》はどこまでも溯《さかのぼ》って行く。
けれどもとうとう日も落《お》ちた。
その両側の山どもは、
一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》の大学士などにはお構《かま》いなく
ずんずん黒く暮《く》れて行く。
その上にちょっと顔を出した
遠くの雪の山《さん》脈《みやく》は、
さびしい銀《ぎん》いろに光り、
てのひらの形の黒い雲が、
その上を行ったり来たりする。
それから川《かわ》岸《ぎし》の細い野原に、
ちょろちょろ赤い野《の》火《び》が這《は》い、
鷹《たか》によく似《に》た白い鳥が、
鋭《するど》く風を切って翔《か》けた。
楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》はそんなことには構わない。
まだどこまでも川を溯《さかのぼ》って行こうとする。
ところがとうとう夜になった。
今はもう河《かわ》原《ら》の石ころも、
赤やら黒やらわからない。
「これはいけない。もう夜だ。寝《ね》なくちゃなるまい。今夜はずいぶん久《ひさ》しぶりで、愉《ゆ》快《かい》な露《ろ》天《てん》に寝るんだな。うまいぞうまいぞ。ところで草へ寝ようかな。かれ草でそれはたしかにいいけれども、寝ているうちに、野火にやかれちゃ一《いち》言《ごん》もない。よしよし、この石へ寝よう。まるでね台《だい》だ。ふんふん、実《じつ》に柔《やわ》らかだ。いい寝《ね》台《だい》だぞ。」
その石は実《じつ》際《さい》柔らかで、
また敷《しき》布《ふ》のように白かった。
そのかわりまた大学士が、
腕《うで》をのばして背《はい》〓《のう》をぬぎ、
肱《ひじ》をまげて外《がい》套《とう》のまま、
ごろりと横《よこ》になったときは、
外套のせなかに白い粉《こな》が、
まるで一《いつ》杯《ぱい》についたのだ。
もちろん学士はそれを知らない。
またそんなこと知ったとこで、
あわてて起《お》きあがる性《せい》質《しつ》でもない。
水がその広い河《かわ》原《ら》の、
向《むこ》う岸《ぎし》近くをごうと流《なが》れ、
空の桔《き》梗《きよう》のうすあかりには、
山どもがのっきのっきと黒く立つ。
大学士は寝《ね》たままそれを眺《なが》め、
またひとりごとを言い出した。
「ははあ、あいつらは岩《がん》頸《けい》だな。岩頸だ、岩頸だ。相《そう》違《い》ない。」
そこで大《だい》学《がく》士《し》はいい気になって、
仰《あお》向《む》けのまま手を振《ふ》って、
岩頸の講《こう》義《ぎ》をはじめ出した。
「諸《しよ》君《くん》、手っ取《と》り早く云《い》うならば、岩頸というのは、地《ち》殻《かく》から一《ちよ》寸《つと》頸《くび》を出した太い岩石の棒《ぼう》である。その頸がすなわち一つの山である。ええ。一つの山である。ふん。どうしてそんな変《へん》なものができたというなら、そいつは蓋《けだ》し簡《かん》単《たん》だ。ええ、ここに一つの火山がある。熔《よう》岩《がん》を流す。その熔岩は地殻の深《ふか》いところから太い棒になってのぼって来る。火山がだんだん衰《おとろ》えて、その腹《はら》の中まで冷《ひ》えてしまう。熔岩の棒もかたまってしまう。それから火山は永《なが》い間に空気や水のために、だんだん崩《くず》れる。とうとう削《けず》られてへらされて、しまいには上の方がすっかり無《な》くなって、前のかたまった熔岩の棒だけが、やっと残《のこ》るというあんばいだ。この棒は大《たい》抵《てい》頸だけを出して、一つの山になっている。それが岩頸だ。ははあ、面《おも》白《しろ》いぞ、つまりそのこれは夢《ゆめ》の中のもやだ、もや、もや、もや、もや。そこでそのつまり、鼠《ねずみ》いろの岩頸だがな、その鼠いろの岩頸が、きちんと並《なら》んで、お互《たがい》に顔を見合せたり、ひとりで空うそぶいたりしているのは、大《たい》変《へん》おもしろい。ふふん。」
それは実《じつ》際《さい》その通り、
向《むこ》うの黒い四つの峯《みね》は、
四人兄弟の岩《がん》頸《けい》で、
だんだん地《じ》面《めん》からせり上ってきた。
楢《なら》ノ木大学士の喜《よろこ》びようはひどいもんだ。
「ははあ、こいつらはラクシャンの四人兄弟だな。よくわかった。ラクシャンの四人兄弟だ。よしよし。」
注《ちゆう》文《もん》通《どお》り岩頸は
丁《ちよう》度《ど》胸《むね》までせり出して
ならんで空に高くそびえた。
一番右は
たしかラクシャン第《だい》一《いつ》子《し》
まっ黒な髪《かみ》をふり乱《みだ》し
大きな眼《め》をぎろぎろ空に向け
しきりに口をぱくぱくして
何かどなっているようだが
その声は少しも聞えなかった。
右から二番目は
たしかにラクシャンの第《だい》二《に》子《し》だ。
長いあごを両《りよう》手《て》に載《の》せて睡《ねむ》っている。
次《つぎ》はラクシャン第《だい》三《さん》子《し》
やさしい眼《め》をせわしくまたたき
いちばん左は
ラクシャンの第《だい》四《よん》子《し》、末《すえ》っ子だ。
夢《ゆめ》のような黒い瞳《ひとみ》をあげて
じっと東の高原を見た。
楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》がもっとよく
四人を見ようと起《お》き上ったら
俄《にわ》かにラクシャン第一子が
雷《かみなり》のように怒《ど》鳴《な》り出した。
「何をぐずぐずしてるんだ。潰《つぶ》してしまえ。灼《や》いてしまえ。こなごなに砕《くだ》いてしまえ。早くやれっ。」
楢ノ木大学士はびっくりして
大《おお》急《いそ》ぎでまた横《よこ》になり
いびきまでして寝《ね》たふりをし
そっと横《よこ》目《め》で見つづけた。
ところが今のどなり声は
大学士に云《い》ったのでもなかったようだ。
なぜならラクシャン第一子は
やっぱり空へ向《む》いたまま
素《す》敵《てき》などなりを続《つづ》けたのだ。
「全《ぜん》体《たい》何をぐずぐずしてるんだ。砕《くだ》いちまえ、砕いちまえ、はね飛《と》ばすんだ。はね飛ばすんだよ。火をどしゃどしゃ噴《ふ》くんだ。熔《よう》岩《がん》の用《よう》意《い》っ。熔岩。早く。畜《ちく》生《しよう》。いつまでぐずぐずしてるんだ。熔岩、用意っ。もう二百万年たってるぞ。灰《はい》を降《ふ》らせろ、灰を降らせろ。なぜ早く支《し》度《たく》をしないか。」
しずかなラクシャン第三子が
兄をなだめて斯《こ》う云った。
「兄さん。少しおやすみなさい。こんなしずかな夕方じゃありませんか。」
兄は構《かま》わずまたどなる。
「地《ちき》球《ゆう》を半分ふきとばしちまえ。石と石とを空でぶっつけ合せてぐらぐらする紫《むらさき》のいなびかりを起《おこ》せ。まっくろな灰《はい》の雲からかみなりを鳴らせ。えい、意《い》気《く》地《じ》なしども。降らせろ、降らせろ、きらきらの熔《よう》岩《がん》で海をうずめろ。海から騰《のぼ》る泡《あわ》で太《たい》陽《よう》を消《け》せ、生き残《のこ》りの象《ぞう》から虫けらのはてまで灰を吸《す》わせろ、えい、畜《ちく》生《しよう》ども、何をぐずぐずしてるんだ。」
ラクシャンの若《わか》い第《だい》四《よん》子《し》が
微《わ》笑《ら》って兄をなだめ出す。
「大兄さん、あんまり憤《おこ》らないで下さいよ。イーハトブさん《 *》が向《むこ》うの空で、また笑《わら》っていますよ。」
それからこんどは低《ひく》くつぶやく。
「あんな銀《ぎん》の冠《かんむり》を僕《ぼく》もほしいなあ。」
ラクシャンの狂《きよう》暴《ぼう》な第一子も
少ししずまって弟を見る。
「まあいいさ、お前もしっかり支《し》度《たく》をして次《つぎ》の噴《ふん》火《か》にはあのイーハトブのくらいになれ。十二ヶ月の中の九ヶ月をあの冠で飾《かざ》れるのだぞ。」
若《わか》いラクシャン第《だい》四《よん》子《し》は
兄のことばは聞きながし
遠い東の
雲を被《かぶ》った高原を
星のあかりに透《すか》し見て
なつかしそうに呟《つぶ》やいた。
「今夜はヒームカさん《 *》は見えないなあ。あのまっ黒な雲のやつは、ほんとうにいやなやつだなあ、今日で四日もヒームカさんや、ヒームカさんのおっかさんをマントの下にかくしてるんだ。僕《ぼく》一つ噴《ふん》火《か》をやってあいつを吹《ふ》き飛《と》ばしてやろうかな。」
ラクシャンの第三子が
少し笑《わら》って弟に云《い》う。
「大へん怒《おこ》ってるね。どうかしたのかい。ええ。あの東の雲のやつかい。あいつは今夜は雨をやってるんだ。ヒームカさんも蛇《じや》紋《もん》石《せき*》のきものがずぶぬれだろう。」
「兄さん。ヒームカさんはほんとうに美《うつく》しいね。兄さん。この前ね、僕、ここからかたくりの花を投《な》げてあげたんだよ。ヒームカさんのおっかさんへは白いこぶしの花をあげたんだよ。そしたら西風がね、だまって持《も》って行ってくれたよ。」
「そうかい。ハッハ。まあいいよ。あの雲はあしたの朝はもう霽《は》れてるよ。ヒームカさんがまばゆい新らしい碧《あお》いきものを着《き》てお日さまの出るころは、きっと一番さきにお前にあいさつするぜ。そいつはもうきっとなんだ。」
「だけど兄さん。僕、今《こん》度《ど》は、何の花をあげたらいいだろうね。もう僕のとこには何の花もないんだよ。」
「うん、そいつはね、おれの所《ところ》にね、桜《さくら》草《そう》があるよ、それをお前にやろう。」
「ありがとう、兄さん。」
「やかましい、何をふざけたことを云《い》ってるんだ。」
暴《あら》っぽいラクシャンの第《だい》一《いつ》子《し》が
金《きん》粉《ぷん》の怒《おこ》り声を
夜の空高く吹《ふ》きあげた。
「ヒームカってなんだ。ヒームカって。ヒームカって云うのは、あの向《むこ》うの女の子の山だろう。よわむしめ。あんなものとつきあうのはよせと何べんもおれが云ったじゃないか。ぜんたいおれたちは火から生れたんだぞ青ざめた水の中で生れた《 *》やつらとちがうんだぞ。」
ラクシャンの第四子は
しょげて首を垂《た》れたが
しずかな直《じ》かの兄《あに》が
弟のために長《ちよう》兄《けい》をなだめた。
「兄さん。ヒームカさんは血《けつ》統《とう》はいいのですよ。火から生れたのですよ。立《りつ》派《ぱ》なカンランガン《 *》ですよ。」
ラクシャンの第一子は
尚《なお》更《さら》怒って
立派な金粉のどなりを
まるで火のようにあげた。
「知ってるよ。ヒームカはカンランガンさ。火から生れたさ。それはいいよ。けれどもそんなら、一体いつ、おれたちのようにめざましい噴《ふん》火《か》をやったんだ。あいつは地《じ》面《めん》まで騰《のぼ》って来る途《と》中《ちゆう》で、もう疲《つか》れてやめてしまったんだ。今こそ地《ち》殻《かく》ののろのろのぼりや風や空気のおかげで、おれたちと肩《かた》をならべているが、元《がん》来《らい》おれたちとはまるで生れ付《つ》きがちがうんだ。きさまたちには、まだおれたちの仕《し》事《ごと》がよくわからないのだ。おれたちの仕事はな、地殻の底《そこ》の底で、とけてとけて、まるでへたへたになった岩《がん》漿《しよう*》や、上から押《お》しつけられて古《ふる》綿《わた》のようにちぢまった蒸《じよう》気《き》やらを取《と》って来て、いざという瞬《しゆん》間《かん》には大きな黒い山の塊《かたまり》を、まるで粉《こな》々《ごな》に引き裂《さ》いて飛《と》び出す。
煙《けむり》と火とを固《かた》めて空に抛《な》げつける。石と石とをぶっつけ合せていなずまを起《おこ》す。百万の雷《かみなり》を集《あつ》めて、地《じ》面《めん》をぐらぐら云《い》わせてやる。丁《ちよう》度《ど》、楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》というものが、おれのどなりをひょっと聞いて、びっくりして頭をふらふら、ゆすぶったようにだ。ハッハッハ。
山も海もみんな濃《こ》い灰《はい》に埋《うず》まってしまう。平《たい》らな運《うん》動《どう》場《じよう》のようになってしまう。その熱《あつ》い灰の上でばかり、おれたちの魂《たましい》は舞《ぶ》踏《とう》していい。いいか。もうみんな大さわぎだ。さて、その煙が納《おさ》まって空気が奇《き》麗《れい》に澄《す》んだときは、こっちはどうだ、いつかまるで空へ届《とど》くくらい高くなって、まるでそんなこともあったかというような顔をして、銀《ぎん》か白金かの冠《かんむり》ぐらいをかぶって、きちんとすましているのだぞ。」
ラクシャンの第三子は
しばらく考えて云う。
「兄さん、私はどうも、そんなことはきらいです。私はそんな、まわりを熱い灰でうずめて、自分だけ一人高くなるようなそんなことはしたくありません。水や空気がいつでも地面を平らにしようとしているでしょう。そして自分でもいつでも低《ひく》い方低い方と流《なが》れて行くでしょう、私はあなたのやり方よりは、却《かえ》ってあのほうがほんとうだと思います。」
暴《あら》っぽいラクシャン第一子が
このときまるできらきら笑《わら》った。
きらきら光って笑ったのだ。
(こんな不《ふ》思《し》議《ぎ》な笑いようを
いままでおれは見たことがない、
愕《おどろ》くべきだ、立《りつ》派《ぱ》なもんだ。)
楢《なら》ノ木大学士が考えた。
暴っぽいラクシャンの第一子が
ずいぶんしばらく光ってから
やっとしずまって斯《こ》う云《い》った。
「水と空気かい。あいつらは朝から晩《ばん》まで、俺《おい》らの耳のそばまで来て、世《せ》界《かい》の平《へい》和《わ》のために、お前らの傲《ごう》慢《まん》を削《けず》るとかなんとか云いながら、毎日こそこそ、俺らを擦《こす》って耗《へら》して行くが、まるっきりうそさ。何でもおれのきくとこに依《よ》ると、あいつらは海《かい》岸《がん》のふくふくした黒土や、美《うつく》しい緑《みどり》いろの野原に行って知らん顔をして溝《みぞ》を掘《ほ》るやら、濠《ほり》をこさえるやら、それはどうも実《じつ》にひどいもんだそうだ。話にも何にもならんというこった。」
ラクシャンの第三子も
つい大声で笑《わら》ってしまう。
「兄さん。なんだか、そんな、こじつけみたいな、あてこすりみたいな、芝《しば》居《い》のせりふのようなものは、一《いつ》向《こう》あなたに似《に》合《あ》いませんよ。」
ところがラクシャン第一子は
案《あん》外《がい》に怒《おこ》り出しもしなかった。
きらきら光って大声で
笑って笑って笑ってしまった。
その笑い声の洪《こう》水《ずい》は
空を流《なが》れて遥《はる》かに遥かに南へ行って
ねぼけた雷《かみなり》のようにとどろいた。
「うん、そうだ、もうあまり、おれたちのがらにもない小《こ》理《り》窟《くつ》は止《よ》そう。おれたちのお父さんにすまない。お父さんは九つの氷《ひよう》河《が》を持《も》っていらしゃったそうだ。そのころは、ここらは、一《いち》面《めん》の雪と氷《こおり》で白《しろ》熊《くま》や雪《ゆき》狐《ぎつね》や、いろいろなけものが居《い》たそうだ。お父さんはおれが生れるときなくなられたのだ。」
俄《にわ》かにラクシャンの末《まつ》子《し》が叫《さけ》ぶ。
「火が燃《も》えている。火が燃えている。大兄さん。大兄さん。ごらんなさい。だんだん拡《ひろ》がります。」
ラクシャン第一子がびっくりして叫ぶ。
「熔《よう》岩《がん》、用《よう》意《い》っ。灰《はい》をふらせろ、えい、畜《ちく》生《しよう》、何だ、野《の》火《び》か。」
その声にラクシャンの第二子が
びっくりして眼《め》をさまし、
その長い顎《あご》をあげて、
眼《め》を釘《くぎ》づけにされたように
しばらく野火をみつめている。
「誰《だれ》かやったのか。誰だ、誰だ、今ごろ。なんだ野火か。地《じ》面《めん》の埃《ほこり》をさらさらさらっと掃《そう》除《じ》する、てまえなんぞに用はない。」
するとラクシャンの第一子が
ちょっと意《い》地《じ》悪《わる》そうにわらい
手をばたばたと振《ふ》って見せて
「石だ、火だ。熔岩だ。用意っ。ふん。」
と叫《さけ》ぶ。
ばかなラクシャンの第二子が
すぐ釣《つ》り込《こ》まれてあわて出し
顔いろをぽっとほてらせながら
「おい兄《あに》貴《き》、一《ひと》吠《ほ》えしようか。」
と斯《こ》う云《い》うた。
兄貴はわらう。
「一吠えってもう何十万年を、きさまはぐうぐう寝《ね》ていたのだ。それでもいくらかまだ力が残《のこ》っているのか。」
無《ぶ》精《しよう》な弟は只《ただ》一《ひと》言《こと》
「ない。」
と答えた。
そしてまた長い顎《あご》をうでに載《の》せ、
ぽっかりぽっかり寝てしまう。
しずかなラクシャン第三子が
ラクシャンの第四子に云う。
「空が大へん軽《かる》くなったネ、あしたの朝はきっと晴れるよ。」
「ええ今夜は鷹《たか》が出ませんね。」
兄は笑《わら》って弟を試《ため》す。
「さっきの野火で鷹の子《こ》供《ども》が焼《や》けたのかな。」
弟は賢《かしこ》く答えた。
「鷹の子供は、もう余《よ》程《ほど》、毛も剛《こわ》くなりました。それに仲《なか》々《なか》強いから、きっと焼けないで遁《に》げたでしょう。」
兄は心《ここ》持《ろもち》よく笑《わら》う。
「そんなら結《けつ》構《こう》だ、さあもう兄さんたちはよくおやすみだ。楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》と云《い》うやつもよく睡《ねむ》っている。さっきから僕《ぼく》等《ら》の夢《ゆめ》を見ているんだぜ。」
するとラクシャン第四子が
ずるそうに一《ちよ》寸《つと》笑ってこう云った。
「そんなら僕一つおどかしてやろう。」
兄のラクシャン第三子が
「よせよせいたずらするなよ。」
と止めたが
いたずらの弟はそれを聞かずに
光る大きな長い舌《した》を出して
大《だい》学《がく》士《し》の額《ひたい》をべろりと嘗《な》めた。
大学士はひどくびっくりして
それでも笑いながら眼《め》をさまし
寒《さむ》さにがたっと顫《ふる》えたのだ。
いつか空がすっかり晴れて
まるで一《いち》面《めん》星が瞬《またた》き
まっ黒な四つの岩《がん》頸《けい》が
ただしくもとの形になり
じっとならんで立っていた。
野《の》宿《じゆく》第《だい》二《に》夜《や》
わが親《しん》愛《あい》な楢《なら》ノ木大学士は
例《れい》の長い外《がい》套《とう》を着《き》て
夕《ゆう》陽《ひ》をせ中に一《いつ》杯《ぱい》浴《あ》びて
すっかりくたびれたらしく
度《たび》々《たび》空気に噛《か》みつくような
大きな欠伸《あくび》をやりながら
平《たい》らな熊《くま》出《で》街《かい》道《どう*》を
すたすた歩いて行ったのだ。
俄《にわ》かに道の右《みぎ》側《がわ》に
がらんとした大きな石《いし》切《きり》場《ば》が
口をあいてひらけてきた。
学士は咽《の》喉《ど》をこくっと鳴らし
中に入って行きながら
三角の石かけを一つ拾《ひろ》い
「ふん、ここも角《かく》閃《せん》花《か》崗《こう》岩《がん*》。」と
つぶやきながらつくづくと
あたりを見れば石切場、
石切りたちも帰ったらしく
小さな笹《ささ》の小《こ》屋《や》が一つ
淋《さび》しく隅《すみ》にあるだけだ。
「こいつはうまい。丁《ちよう》度《ど》いい。どうもひとのうちの門《かど》口《ぐち》に立って、もしもし今《こん》晩《ばん》は、私は旅《たび》の者《もの》ですが、日が暮《く》れてひどく困《こま》っています。今夜一《ひと》晩《ばん》泊《と》めて下さい。たべ物《もの》は持《も》っていますから支《し》度《たく》はなんにも要《い》りませんなんて、へっ、こんなこと云《い》うのは、もう考えてもいやになる。そこで今夜はここへ泊《とま》ろう。」
大《だい》学《がく》士《し》は大きな近《きん》眼《がん》鏡《きよう》を
ちょっと直してにやにや笑《わら》い
小屋へ入って行ったのだ。
土《ど》間《ま》には四つの石かけが
炉《ろ》の役《やく》目《め》をしその横《よこ》には
榾《ほだ*》もいくらか積《つ》んである。
大学士はマッチをすって
火をたき、それからビスケットを出し
もそもそ喰《た》べたり手《て》帳《ちよう》に何か書きつけたり
しばらくの間していたが
おしまいに火をどんどん燃《も》して
ごろりと藁《わら》にねころんだ。
夜中になって大《だい》学《がく》士《し》は
「うう寒《さむ》い。」
と云《い》いながら
ばたりとはね起《お》きて見たら
もうたきぎが燃《も》え尽《つ》きて
ただのおきだけになっていた。
学士はいそいでたきぎを入れる。
火は赤く愉《ゆ》快《かい》に燃え出し
大学士は胸《むね》をひろげて
つくづくとよく暖《あたたま》る。
それから一《ちよ》寸《つと》外へ出た。
二《は》十《つ》日《か》の月は東にかかり
空気は水より冷《つめ》たかった。
学士はしばらく足《あし》踏《ぶ》みをし
それからたばこを一本くわえてマッチをすって
「ふん、実《じつ》にしずかだ、夜あけまでまだ三時間半あるな。」
つぶやきながら小屋に入った。
ぼんやりたき火をながめながら
わらの上に横《よこ》になり
手を頭の上で組み
うとうとうとうとした。
突《とつ》然《ぜん》頭の下のあたりで
小さな声で物《もの》を云《い》い合ってるのが聞えた。
「そんなに肱《ひじ》を張《は》らないでおくれ。おれの横《よこ》の腹《はら》に病《びよう》気《き》が起《おこ》るじゃないか。」
「おや、変《へん》なことを云うね、一体いつ僕《ぼく》が肱を張ったね。」
「そんなに張っているじゃないか、ほんとうにお前この頃《ごろ》湿《しつ》気《け》を吸《す》ったせいかひどくのさばり出して来たね。」
「おやそれは私のことだろうか。お前のことじゃなかろうかね、お前もこの頃は頭でみりみり私を押《お》しつけようとするよ。」
大《だい》学《がく》士《し》は眼《め》を大きく開《ひら》き
起《お》き上ってその辺《へん》を見まわしたが
誰《だ》れも居《お》らないようだった。
声はだんだん高くなる。
「何がひどいんだよ。お前こそこの頃はすこしばかり風を呑《の》んだせいか、まるで人が変《かわ》ったように意《い》地《じ》悪《わる》になったね。」
「はてね、少しぐらい僕が手足をのばしたってそれをとやこうお前が云うのかい。十万二千年昔《むかし》のことを考えてごらん。」
「十万何千年前とかがどうしたの。もっと前のことさ、十万百万千万年、千五百の万年の前のあの時をお前は忘《わす》れてしまっているのかい。まさか忘れはしないだろうがね。忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押《お》すなんて出来た義《ぎ》理《り》かい。」
大学士はこの語《ことば》を聞いて
すっかり愕《おど》ろいてしまう。
「どうも実《じつ》に記《き》憶《おく》のいいやつらだ。ええ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまっているのかい。まさか忘れはしないだろうがね、ええ。これはどうも実《じつ》に恐《おそ》れ入ったね、いったい誰《だれ》だ。変《へん》に頭のいいやつは。」
大学士はまたそろそろと起きあがり
あたりをさがすが何もない。
声はいよいよ高くなる。
「それはたしかに、あなたは僕《ぼく》の先《せん》輩《ぱい》さ。けれどもそれがどうしたの。」
「どうしたのじゃないじゃないか。僕がやっと体《たい》骼《かく》と人《じん》格《かく》を完《かん》成《せい》してほっと息《いき》をついてるとお前がすぐ僕の足もとでどんな声をしたと思うね。こんな工《ぐ》合《あい》さ。もし、ホンブレン《 *》さま、ここのところで私もちっとばかり延《の》びたいと思いまする。どうかあなたさまのおみあしさきにでも一《ちよ》寸《つと》取《と》りつかせて下さいませ。まあこう云《い》うお前のことばだったよ。」
楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》は手を叩《たた》く。
「ははあ、わかった。ホンブレンさまと、一人はホルンブレンドだ。すると相《あい》手《て》は誰《だれ》だろう。わからんなあ。けれども、ふふん、こいつは面《おも》白《しろ》い。いよいよ今日も問《もん》答《どう》がはじまった。しめ、しめ、これだから野《の》宿《じゆく》はやめられん。」
大学士は煙草《たばこ》を新らしく
一本出してマッチをする。
声はいよいよ高くなる。
もっともいくら高くても
せいぜい蚊《か》の軍《ぐん》歌《か》ぐらいだ。
「それはたしかにその通りさ、けれどもそれに対《たい》してお前は何と答えたね。いいえ、そいつは困《こま》ります、どうかほかのお方とご相《そう》談《だん》下さいと斯《こ》んなに立《りつ》派《ぱ》にはねつけたろう。」
「おや、とにかくさ。それでもお前はかまわず僕《ぼく》の足さきにとりついたんだよ。まあ、そんなこと出来たもんだろうかね。もっとも誰《だれ》かさんは出来たようさ。」
「あてこするない。とりついたんじゃないよ。お前の足が僕の体《たい》骼《かく》の頭のとこにあったんだよ。僕はお前よりももっと前に生れたジッコ《 *》さんを頼《たの》んだんだよ。今だって僕はジッコさんは大《だい》事《じ》に大事にしてあげてるんだ。」
大《だい》学《がく》士《し》はよろこんで笑《わら》い出す。
「はっはっは、ジッコさんというのは磁《じ》鉄《てつ》鉱《こう》だね、もうわかったさ、喧《けん》嘩《か》の相《あい》手《て》はバイオタイト《 *》だ。してみるとなんでもこの辺《へん》にさっきの花《か》崗《こう》岩《がん》のかけらがあるね、そいつの中の鉱《こう》物《ぶつ》がかやかや物《もの》を云《い》ってるんだね。」
なるほど大学士の頭の下に
支《し》那《な》の六銭《せん》銀《ぎん》貨《か》のくらいの
みかげのかけらが落《お》ちていた。
学士はいよいよにこにこする。
「そうかい。そんならいいよ。お前のような恩《おん》知らずは早く粘《ねん》土《ど》になっちまえ。」
「おや、呪《のろ》いをかけたね。僕《ぼく》も引っ込《こ》んじゃいないよ。さあ、お前のような。」
「一《ちよ》寸《つと》お待《ま》ちなさい。あなたがたは一体何をさっきから喧《けん》嘩《か》してるんですか。」
新らしい二人の声が
一《いつ》緒《しよ》にはっきり聞え出す。
「オーソクレ《 *》さん。かまわないで下さい。あんまりこいつがわからないもんですからね。」
「双《ふた》子《ご》さん。どうかかまわないで下さい。あんまりこいつが恩《おん》知《し》らずなもんですからね。」
「ははあ、双《そう》晶《しよう》のオーソクレースが仲《ちゆう》裁《さい》に入った。これは実《じつ》におもしろい。」
大学士はたきびに手をあぶり
顔中口にしてよろこんで云《い》う。
二つの声がまた聞える。
「まあ、静《しず》かになさい。僕たちは実《じつ》に実に長い間堅《かた》く堅く結《むす》び合ってあのまっくらなまっくらなとこで一《いつ》緒《しよ》にまわりからのはげしい圧《あつ》迫《ぱく》やすてきな強い熱《ねつ》にこらえて来たではありませんか。一時はあまりの熱と力にみんな一緒に気《き》違《ちが》いにでもなりそうなのをじっとこらえて来たではありませんか。」
「そうです、それは全《まつた》くその通りです。けれども苦《くる》しい間は人をたのんで楽《らく》になると人をそねむのはぜんたいいいことなんでしょうか。」
「何だって。」
「ちょっと、ちょっと、ちょっとお待《ま》ちなさい。ね。そして今やっとお日さまを見たでしょう。そのお日さまも僕たちが前に土の底《そこ》でコングロメレート《 *》から聞いたとは大へんなちがいではありませんか。」
「ええ、それはもうちがってます。コングロメレートのはなしではお日さまはまっかで空は茶いろなもんだと云っていましたが今見るとお日さまはまっ白で空はまっ青《さお》です。あの人はうそつきでしたね。」
双《ふた》子《ご》の声がまた聞えた。
「さあ、しかしあのコングロメレートという方は前にただの砂《じや》利《り》だったころはほんとうに空が茶いろだったかも知れませんね。」
「そうでしょうか。とにかくうそをつくこととひとの恩《おん》を仇《あだ》でかえすのとはどっちも悪《わる》いことですね。」
「何だと、僕《ぼく》のことを云ってるのかい。よしさあ、僕も覚《かく》悟《ご》があるぞ。決《けつ》闘《とう》をしろ、決闘を。」
「まあ、お待ちなさい。ね、あのお日さまを見たときのうれしかったこと。どんなに僕らは叫《さけ》んだでしょう。千五百万年光というものを知らなかったんだもの。あの時鋼《はがね》の槌《つち》がギギンギギンと僕らの頭にひびいて来ましたね。遠くの方で誰《だれ》かが、ああお前たちもとうとうお日さまの下へ出るよと叫《さけ》んでいた、もう僕たちの誰と誰とが一緒になって誰と誰とがわかれなければならないか。一《いつ》向《こう》判《わか》らなかったんですね。さよならさよならってみんな叫びましたねえ。そしたら急《きゆう》にパッと明るくなって僕たちは空へ飛《と》びあがりましたねえ。あの時僕はお日さまの外に何か赤い光るものを見たように思うんですよ。」
「それは僕も見たよ。」
「僕も見たんだよ。何だったろうね、あれは。」
大学士はまた笑《わら》う。
「それはね、明らかにたがねのさきから出た火花だよ。パチッて云《い》ったろう。そして熱《あつ》かったろう。」
ところが学士の声などは
鉱《こう》物《ぶつ》どもに聞えない。
「そんなら僕たちはこれからさきどうなるでしょう。」
双《ふた》子《ご》の声がまた聞えた。
「さあ、あんまりこれから愉《ゆ》快《かい》なことでもないようですよ。僕が前にコングロメレートから聞きましたがどうも僕らはこのまままた土の中にうずもれるかそうでなければ砂《すな》か粘《ねん》土《ど》かにわかれてしまうだけなようですよ。この小《こ》屋《や》の中に居《い》たって安《あん》心《しん》にもなりません。内に居たって外に居たってたかが二千年もたってみれば結《けつ》局《きよく》おんなじことでしょう。」
大学士はすっかりおどろいてしまう。
「実《じつ》にどうも達《たつ》観《かん》してるね。この小屋の中に居たって外に居たってたかが二千年も経《た》ってみれば粘土か砂のつぶになる、実にどうも達観してる。」
その時俄《にわ》かにピチピチ鳴り
それからバイオタが泣《な》き出した。
「ああ、いた、いた、いた、いた、痛《いた》ぁい、いたい。」
「バイオタさん。どうしたの、どうしたの。」
「早くプラジョ《 *》さんをよばないとだめだ。」
「ははあ、プラジョさんというのはプラジオクレースで青白いから医《い》者《しや》なんだな。」
大学士はつぶやいて耳をすます。
「プラジョさん、プラジョさん。プラジョさん。」
「はあい。」
「バイオタさんがひどくおなかが痛がってます。どうか早く診《み》て下さい。」
「はあい、なあにべつだん心《しん》配《ぱい》はありません。かぜを引いたのでしょう。」
「ははあ、こいつらは風を引くと腹《はら》が痛くなる。それがつまり風《ふう》化《か》だな。」
大学士は眼鏡《めがね》をはずし
半《はん》巾《けち》で拭《ふ》いて呟《つぶ》やく。
「プラジョさん。お早くどうか願《ねが》います。只《ただ》今《いま》気《き》絶《ぜつ》をいたしました。」
「はぁい。いまだんだんそっちを向《む》きますから。ようっと。はい、はい。これは、なるほど。ふふん。一《ちよ》寸《つと》脈《みやく》をお見せ、はい。こんどはお舌《した》、ははあ、よろしい。そして第《だい》十八へきかい予《よ》備《び》面《めん*》が痛いと。なるほど、ふんふん、いやわかりました。どうもこの病《びよう》気《き》は恐《こわ》いですよ。それにお前さんのからだは大地の底《そこ》に居《い》たときから慢《まん》性《せい》りょくでい病《びよう*》にかかって大分軟《なん》化《か》してますからね、どうも恢《かい》復《ふく》の見《み》込《こみ》がありません。」
病人はキシキシと泣《な》く。
「お医者さん。私の病気は何でしょう。いつごろ私は死《し》にましょう。」
「さよう、病人が病名を知らなくてもいいのですがまあ蛭《ひる》石《いし》病《びよう*》の初《しよ》期《き》ですね。所《いわ》謂《ゆる》ふう病《 *》の中の一つ。俗《ぞく》にかぜは万《まん》病《びよう》のもとと云《い》いますがね。それから、ええと、も一つのご質《しつ》問《もん》はあなたの命《いのち》でしたかね。さよう、まあ長くても一万年は持《も》ちません。お気の毒《どく》ですが一万年は持ちません。」
「あああ、さっきのホンブレンのやつの呪《のろ》いが利《き》いたんだ。」
「いや、いや。そんなことはない。けだし、風《ふう》病《びよう》にかかって土になることはけだしすべて吾《ご》人《じん》に免《まぬ》かれないことですから。けだし。」
「ああ、プラジョさん。どんな手あてをいたしたらよろしゅうございましょうか。」
「さあ、そう云う工《ぐ》合《あい》に泣《な》いているのは一番よろしくありません。からだをねじってあちこちのへきかいよび面《めん》にすきまをつくるのはなおさら、よろしくありません。その他《た》風にあたれば病気のしょうけつを来《きた》します。日にあたれば病《びよう》勢《せい》がつのります。霜《しも》にあたれば病勢が進《すす》みます。露《つゆ》にあたれば病《びよう》状《じよう》がこう進《しん》します。雪にあたれば症《しよう》状《じよう》が悪《あく》変《へん》します。じっとしているのはなおさらよろしくありません。それよりは、その、精《せい》神《しん》的《てき》に眼《め》をつむって観《かん》念《ねん》するのがいいでしょう、わがこの恐《おそ》れるところの死《し》なるものは、そもそも何であるか、その本《ほん》質《しつ》はいかん、生《せい》死《し》巌《がん》頭《とう》に立って、おかしいぞ、はてな、おかしい、はて、これはいかん、あいた、いた、いた、いた、いた。」
「プラジョさん、プラジョさん、しっかりなさい。一体どうなすったのです。」
「うむ、私も、うむ、風病のうち、うむ、うむ。」
「苦《くる》しいでしょう、これはほんとうにお気の毒《どく》なことになりました。」
「うむ、うむ、いいえ、苦しくありません。うむ。」
「何かお手あていたしましょう。」
「うむ、うむ、実《じつ》はわたくしも地《じ》面《めん》の底《そこ》から、うむ、うむ、大分カオリン病《びよう*》にかかっていた、うむ、オーソクレさん、オーソクレさん。うむ、今こそあなたにも明《あか》します。あなたも丁《ちよう》度《ど》わたし同《どう》様《よう》の病《びよう》気《き》です。うむ。」
「ああ、やっぱりさようでございましたか。全《まつた》く、全く、全く、実《じつ》に、実に、あいた、いた、いた、いた。」
そこでホンブレンドの声がした。
「ずいぶん神《しん》経《けい》過《か》敏《びん》な人だ。すると病気でないものは僕《ぼく》とクォーツ《 *》さんだけだ。」
「うむ、うむ、そのホンブレンもバイオタと同病。」
「あ、いた、いた、いた。」
「おや、おや、どなたもずいぶん弱い。健《けん》康《こう》なのは僕一人。」
「うむ、うむ、そのクォーツさんもお気の毒《どく》ですがクウショウ《 *》中の瓦《ガ》斯《ス》が病《びよう》因《いん》です。うむ。」
「あいた、いた、いた、いた。た。」
「ずいぶんひどい医《い》者《しや》だ。漢《かん》法《ぽう》の藪《やぶ》医《い》だな。とうとうみんな風《ふう》化《か》かな。」
大《だい》学《がく》士《し》はまた新らしく
たばこをくわいてにやにやする。
耳の下では鉱《こう》物《ぶつ》どもが
声をそろえて叫《さけ》んでいた。
「あ、いた、いた、いた、いた、た、たた。」
みんなの声はだんだん低《ひく》く
とうとうしんとしてしまう。
「はてな、みんな死《し》んだのか。あるいは僕だけ聞えなくなったのか。」
大学士はみかげのかけらを
手にとりあげてつくづく見て
パチッと向《むこ》うの隅《すみ》へ弾《はじ》く。
それから榾《ほだ》を一本くべた。
その時はもうあけ方で
大学士は背《はい》〓《のう》から
巻《まき》煙草《たばこ》を二《ふた》包《つつ》み出して
榾《ほだ》のお礼《れい》に藁《わら》に置《お》き
背〓をしょい小《こ》屋《や》を出た。
石《いし》切《きり》場《ば》の壁《かべ》はすっかり白く
その西《にし》側《がわ》の面《めん》だけに
月のあかりがうつっていた。
野《の》宿《じゆく》第《だい》三《さん》夜《や》
(どうも少し引き受《う》けようが軽《けい》卒《そつ》だったな。グリーンランドの成《なり》金《きん》がびっくりするほど立《りつ》派《ぱ》な蛋《たん》白《ぱく》石《せき》などを、二週間でさがしてやろうなんてのは、実《じつ》際《さい》少し軽卒だった。
どうも斯《こ》う人の居《い》ない海《かい》岸《がん》などへ来て、つくづく夕方歩いていると東京のまちのまん中で鼻《はな》の赤い連《れん》中《ちゆう》などを相《あい》手《て》にして、いい加《か》減《げん》の法《ほ》螺《ら》を吹《ふ》いたことが全《まつた》く情《なさ》けなくなっちまう。どうだ、この頁《けつ》岩《がん*》の陰《いん》気《き》なこと。全くいやになっちまうな。おまけに海も暗《くら》くなったし、なかなか、流《りゆう》紋《もん》玻《は》璃《り》にも出《で》っ会《く》わさない。それに今夜もやっぱり野宿だ。野宿も二《ふた》晩《ばん》ぐらいはいいが、三晩となっちゃうんざりするな。けれども、まあ、仕《し》方《かた》もないさ。ビスケットのあるうちは、歩いて野宿して、面《おも》白《しろ》い夢《ゆめ》でも見る分が得《とく》というもんだ。)
例《れい》の楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》が
衣《ポケ》〓《ツト》に両《りよう》手《て》を突《つ》っ込《こ》んで
少しせ中を高くして
つくづく考え込《こ》みながら
もう夕方の鼠《ねずみ》いろの
頁《けつ》岩《がん》の波《なみ》に洗《あら》われる
海《かい》岸《がん》を大《おお》股《また》に歩いていた。
全《まつた》く海は暗《くら》くなり
そのほのじろい波がしらだけ
一《いち》列《れつ》、何かけもののように見えたのだ。
いよいよ今日《きよう》は歩いても
だめだと学《がく》士《し》はあきらめて
ぴたっと岩に立ちどまり
しばらく黒い海《かい》面《めん》と
向《むこ》うに浮《うか》ぶ腐《くさ》った馬鈴《い》薯《も》のような雲を
眺《なが》めていたが、またポケットから
煙草《たばこ》を出して火をつけた。
それからくるっと振《ふ》り向《む》いて
陸《りく》の方をじっと見《み》定《さだ》めて
急《いそ》いでそっちへ歩いて行った。
そこには低《ひく》い崖《がけ》があり
崖の脚《あし》には多分は濤《なみ》で
削《けず》られたらしい小さな洞《ほら》があったのだ。
大《だい》学《がく》士《し》はにこにこして
中へはいって背《はい》〓《のう》をとる。
それからまっくらなとこで
もしゃもしゃビスケットを喰《た》べた。
ずうっと向《むこ》うで一《いち》列《れつ》濤《なみ》が鳴るばかり。
「ははあ、どうだ、いよいよ宿《やど》がきまって腹《はら》もできると野《の》宿《じゆく》もそんなに悪《わる》くない。さあ、もう一《いつ》服《ぷく》やって寝《ね》よう。あしたはきっとうまく行く。その夢《ゆめ》を今夜見るのも悪くない。」
大学士の吸《す》う巻《まき》煙草《たばこ》が
ポツンと赤く見えるだけ。
「斯《こ》う納《おさ》まってみると、我《わが》輩《はい》もさながら、洞《ほら》熊《くま》か、洞《どう》窟《くつ》住《じゆう》人《にん*》だ。ところでもう寝よう。
闇《やみ》の向《むこ》うで
濤《なみ》がぼとぼと鳴るばかり
鳥も啼《な》かなきゃ
洞をのぞきに人も来ず、と。ふん、斯《こ》んなあんばいか。寝ろ、寝ろ。」
大学士はすぐとろとろする
疲《つか》れて睡《ねむ》れば夢も見ない。
いつかすっかり夜が明けて
昨夜《ゆうべ》の続《つづ》きの頁《けつ》岩《がん》が
青白くぼんやり光っていた。
大学士はまるでびっくりして
急《いそ》いで洞《ほら》を飛《と》び出した。
あわてて帽《ぼう》子《し》を落《おと》しそうになり
それを押《おさ》えさえもした。
「すっかり寝《ね》過《す》ごしちゃった。ところでおれは一体何のために歩いているんだったかな。ええと、よく思い出せないぞ。たしかに昨日《きのう》も一昨日《おととい》も人の居《い》ない処《ところ》をせっせと歩いていたんだが。いや、もっと前から歩いていたぞ。もう一年も歩いているぞ。その目《もく》的《てき》はと、はてな、忘《わす》れたぞ。こいつはいけない。目的がなくて学《がく》者《しや》が旅《りよ》行《こう》をするということはない、必《かなら》ず目的があるのだ。化石じゃなかったかな。ええと、どうか第《だい》三《さん》紀《き*》の人《じん》類《るい》に就《つ》いてお調《しら》べを願《ねが》います、と、誰《だれ》か云《い》ったようだ。いいや、そうじゃない、白《はく》堊《あ》紀《き*》の巨《おお》きな爬《は》虫《ちゆう》類《るい》の骨《こつ》骼《かく》を博《はく》物《ぶつ》館《かん》のほうから頼《たの》まれてあるんですがいかがでございましょう、一つお探《さが》しを願われますまいかと、斯《こ》うじゃなかったかな。斯うだ、斯うだ、ちがいない。さあ、ところでここは白堊系《けい》の頁《けつ》岩《がん》だ。もうここでおれは探し出すつもりだったんだ。なるほど、はじめてはっきりしたぞ。さあ探せ、恐《きよう》竜《りゆう》の骨《こつ》骼《かく》だ。恐竜の骨骼だ。」
学士の影《かげ》は
黒く頁岩の上に落《お》ち
大《おお》股《また》に歩いていたから
踊《おど》っているように見えた。
海はもの凄《すご》いほど青く
空はそれよりまた青く
幾《いく》きれかのちぎれた雲が
まばゆくそこに浮《う》いていた。
「おや出たぞ。」
楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》が叫《さけ》び出した。
その灰《はい》いろの頁《けつ》岩《がん》の
平《たい》らな奇《き》麗《れい》な層《そう》面《めん》に
直《ちよつ》径《けい》が一米《メートル》ばかりある
五本指《ゆび》の足あとが
深《ふか》く喰《く》い込《こ》んでならんでいる。
所《ところ》々《どころ》上の岩のために
かくれているが足《あし》裏《うら》の
皺《しわ》まではっきりわかるのだ。
「さあ、見《み》附《つ》けたぞ。この足《あし》跡《あと》の尽《つ》きた所《ところ》には、きっとこいつが倒《たお》れたまま化石している。巨《おお》きな骨《ほね》だぞ。まず背《せ》骨《ぼね》なら二十米はあるだろう。巨きなもんだぞ。」
大学士はまるで雀《こお》躍《どり》して
その足あとをつけて行く。
足跡はずいぶん続《つづ》き
どこまで行くかわからない。
それに太《たい》陽《よう》の光線は赭《あか》く
たいへん足が疲《つか》れたのだ。
どうもおかしいと思いながら
ふと気がついて立ちどまったら
なんだか足が柔《やわ》らかな
泥《どろ》に吸《す》われているようだ。
堅《かた》い頁《けつ》岩《がん》のはずだったと思って
楢《なら》ノ木大学士はうしろを向《む》いた。
そしたら全《まつた》く愕《おどろ》いた。
さっきから一心に跡《つ》けて来た
巨《おお》きな、蟇《がま》の形の足あと《 *》は
なるほどずうっと大学士の
足もとまでつづいていて
それから先ももっと続くらしかったが
も一つ、どうだ、大学士の
銀《ぎん》座《ざ》でこさえた長《なが》靴《ぐつ》の
あともぞろっとついていた。
「こいつはひどい。我《わが》輩《はい》の足《あし》跡《あと》までこんなに深《ふか》く入るというのは実《じつ》際《さい》少し恐《おそ》れ入った。けれどもそれでも探《たん》求《きゆう》の目《もく》的《てき》を達《たつ》することは達するな。少し歩きにくいだけだ。さあもう斯《こ》うなったらどこまでだって追《お》って行くぞ。」
学士はいよいよ大《おお》股《また》に
その足跡をつけて行った。
どかどか鳴るものは心《しん》臓《ぞう》
ふいごのようなものは呼《こ》吸《きゆう》
そんなに一生けん命《めい》だったが
またそんなにあたりもしずかだった。
大学士はふと波《なみ》打《うち》ぎわを見た。
濤《なみ》がすっかりしずまっていた。
たしかにさっきまで
寄《よ》せて吠《ほ》えて砕《くだ》けていた濤が
いつかすっかりしずまっていた。
「こいつは変《へん》だ。おまけにずいぶん暑《あつ》いじゃないか。」
大学士はあおむいて空を見る。
太《たい》陽《よう》はまるで熟《じゆく》した苹果《りんご》のようで
そこらも無《む》暗《やみ》に赤かった。
「ずいぶんいやな天気になった。それにしてもこの太陽はあんまり赤い。きっとどこかの火山が爆《ばく》発《はつ》をやった。その細かな火《か》山《ざん》灰《ばい》が正《まさ》しく上《じよう》層《そう》の気《き》流《りゆう》に混《こん》じて地《ち》球《きゆう》を包《ほう》囲《い》しているな。けれどもそれだからと云《い》って我《わが》輩《はい》のこの追《つい》跡《せき》には害《がい》にならない。もうこの足あとの終《おわ》るところにあの途《と》方《ほう》もない爬《は》虫《ちゆう》の骨《ほね》がころがってるんだ。我輩はその地点を記《き》録《ろく》する。もう一足だぞ。」
大学士はいよいよ勢《いきおい》こんで
その足跡をつけて行く。
ところが間もなく泥《どろ》浜《はま》は
岬《みさき》のように突《つ》き出した。
「さあ、ここを一つ曲《まが》って見ろ。すぐ向《むこ》う側《がわ》にその骨がある。けれども事《こと》によったらすぐ無《な》いかも知れない。すぐなかったらも少し追《お》って行けばいい。それだけのことだ。」
大学士はにこにこ笑《わら》い
立ちどまって巻《まき》煙草《たばこ》を出し
マッチを擦《す》って煙《けむり》を吐《は》く。
それからわざと顔をしかめ
ごくおうように大《おお》股《また》に
岬をまわって行ったのだ。
ところがどうだ名高い楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》が
釘《くぎ》付《づ》けにされたように立ちどまった。
その眼《め》は空《むな》しく大きく開《ひら》き
その膝《ひざ》は堅《かた》くなってやがてふるえ出し
煙草もいつか泥《どろ》に落《お》ちた。
青ぞらの下、向《むこ》うの泥の浜《はま》の上に
その足《あし》跡《あと》の持《も》ち主《ぬし》の
途《と》方《ほう》もない途方もない雷《らい》竜《りゆう*》氏《し》が
いやに細長い頸《くび》をのばし
汀《なぎさ》の水を呑《の》んでいる。
長さ十間《けん》、ざらざらの
鼠《ねずみ》いろの皮《かわ》の雷竜が
短《みじか》い太い足をちぢめ
厭《いや》らしい長い頸をのたのたさせ
小さな赤い眼《め》を光らせ
チュウチュウ水を呑んでいる。
あまりのことに楢《なら》ノ木大学士は
頭がしいんとなってしまった。
「一体これはどうしたのだ。中《ちゆう》生《せい》代《だい*》に来てしまったのか。中生代がこっちの方へやって来たのか。ああ、どっちでもおんなじことだ。とにかくあすこに雷竜が居《い》て、こっちさえ見ればかけて来る。大学士も魚も同じことだ。見るなよ、見るなよ。僕《ぼく》はいま、ごくこっそりと戻《もど》るから。どうかしばらく、こっちを向《む》いちゃいけないよ。」
いまや楢ノ木大学士は
そろりそろりと後《あと》退《ずさ》りして
来た方へ遁《に》げて戻る。
その眼《め》はじっと雷竜を見
その手はそっと空気を押《お》す。
そして雷竜の太い尾《お》が
まず見えなくなりその次《つぎ》に
山のような胴《どう》がかくれ
おしまい黒い舌《した》を出して
びちょびちょ水を呑んでいる
蛇《へび》に似《に》たその頭《 *》がかくれると
大学士はまず助《たす》かったと
いきなり来た方へ向いた。
その足《あし》跡《あと》さえずんずんたどって
遁げてさえ行くならもう直《じ》きに
汀《なぎさ》に濤《なみ》も打《う》って来るし
空も赤くはなくなるし
足あとももう泥《どろ》に食《く》い込《こ》まない
堅《かた》い頁《けつ》岩《がん》の上を行く。
崖《がけ》にはゆうべの洞《ほら》もある
そこまで行けばもう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》
こんなあぶない探《たん》険《けん》などは
今《こん》度《ど》かぎりでやめてしまい
博《はく》物《ぶつ》館《かん》へも断《こと》わらせて
東京のまちのまん中で
赤い鼻《はな》の連《れん》中《ちゆう》などを
相《あい》手《て》に法《ほ》螺《ら》を吹《ふ》いていればいい。
大体こんな計算だった。
それもまるきり電《いなずま》のような計算だ。
ところが楢《なら》ノ木大《だい》学《がく》士《し》は
も一《いち》度《ど》ぎくっと立ちどまった。
その膝《ひざ》はもうがたがたと鳴り出した。
見たまえ、学士の来た方の
泥《どろ》の岸《きし》はまるでいちめん
うじゃうじゃの雷《らい》竜《りゆう》どもなのだ。
まっ黒なほど居《お》ったのだ。
長い頸《くび》を天に延《の》ばすやつ
頸をゆっくり上下に振《ふ》るやつ
急《いそ》いで水にかけ込《こ》むやつ
実《じつ》にまるでうじゃうじゃだった。
「もういけない。すっかりうまくやられちゃった。いよいよおれも食われるだけだ。大学士の号《ごう》も一《いつ》所《しよ》になくなる。雷竜はあんまりひどい。前にも居《い》るしうしろにも居る。まあただ一つたよりになるのはこの岬《みさき》の上だけだ。そこに登《のぼ》っておれは助《たす》かるか助からないか、事《こと》によったら新《しん》生《せい》代《だい》の沖《ちゆう》積《せき》世《せい*》が急いで助けに来るかも知れない。さあ、もうたったこの岬だけだぞ。」
学士はそっと岬にのぼる。
まるで蕈《きのこ》とあすなろとの
合《あい》の子みたいな変《へん》な木が
崖《がけ》にもじゃもじゃ生えていた。
そして本《ほん》統《とう》に幸《さいわい》なことは
そこに雷《らい》竜《りゆう》が居なかった。
けれども折《せつ》角《かく》登《のぼ》っても
そこらの景《け》色《しき》は
あんまりいいというでもない。
岬《みさき》の右も左の方も
泥《どろ》の渚《なぎさ》は、もう一めんの雷竜だらけ
実《じつ》にもじゃもじゃしていたのだ。
水の中でも黒い白鳥のように
頭をもたげて泳《およ》いだり
頸《くび》をくるっとまわしたり
その厭《いや》らしいこと恐《こわ》いこと
大学士はもう眼《め》をつぶった。
ところがいつか大学士は
自分の鼻《はな》さきがふっふっ鳴って
暖《あたたか》いのに気がついた。
「とうとう来たぞ、喰《く》われるぞ。」
大学士は観《かん》念《ねん》をして眼《め》をあいた。
大《おおき》さ二尺《しやく》の四っ角な
まっ黒な雷竜の顔が
すぐ眼の前までにゅうと突《つ》き出され
その眼は赤く熟《じゆく》したよう。
その頸《くび》は途《と》方《ほう》もない向《むこ》うの
鼠《ねずみ》いろのがさがさした胴《どう》まで
まるで管《くだ》のように続《つづ》いていた。
大学士はカーンと鳴った。
もう喰われたのだ、いやさめたのだ。
眼がさめたのだ、洞《ほら》穴《あな》は
まだまっ暗《くら》で恐《おそ》らくは
十二時にもならないらしかった。
そこで楢《なら》ノ木大学士は
一つ小さなせきばらいをし
まだ雷《らい》竜《りゆう》が居《い》るようなので
つくづく闇《やみ》をすかして見る。
外ではたしかに濤《なみ》の音。
「なあんだ。馬《ば》鹿《か》にしてやがる。もう睡《ねむ》れんぞ。寒《さむ》いなあ。」
またたばこを出す。火をつける。
楢ノ木大学士は宝《ほう》石《せき》学《がく》の専《せん》門《もん》だ。
その大学士の小さな家
「貝の火兄弟商《しよう》会《かい》」の
赤《あか》鼻《はな》の支《し》配《はい》人《にん》がやって来た。
「先生お手紙でしたから早《さつ》速《そく》とんで来ました。大へんお早くお帰りでした。ごく上《じよう》等《とう》のやつをお見あたりでございましたか、何せ相《あい》手《て》がグリーンランドの途《と》方《ほう》もない成《なり》金《きん》ですからありふれたものじゃなかなか承《しよう》知《ち》しないんです。」
大学士は葉《は》巻《まき》を横《よこ》にくわい
雲《うん》母《も》紙《し》を張《は》った天《てん》井《じよう》を
斜《なな》めに見ながらこう云《い》った。
「うん探《さが》して来たよ、僕《ぼく》は一ぺん山へ出かけるともうどんなもんでも見《み》附《つ》からんと云うことは断《だん》じてない、けだしすべての宝《ほう》石《せき》はみな僕をしたってあつまって来るんだね。いやそれだから、此《こん》度《ど》なんかもまったくひどく困《こま》ったよ。殊《こと》に君《きみ》注《ちゆう》文《もん》が割《わり》合《あい》に柔《やわ》らかな蛋《たん》白《ぱく》石《せき》だろう。僕がその山へ入ったら蛋白石どもがみんなざらざら飛《と》びついて来てもうどうしてもはなれないじゃないか。それが君みんな貴蛋白石《プレシアスオーパル》の火の燃《も》えるようなやつなんだ。望《のぞ》みのとおりみんな背《はい》〓《のう》の中に納《おさ》めてやりたいことはもちろんだったが、それでは僕も身《み》動《うご》きもできなくなるのだから気の毒《どく》だったがその中からごくいいやつだけ撰《えら》んださ。」
「ははあ、そいつはどうも、大へん結《けつ》構《こう》でございました。しかし、そのお持《も》ち帰りになりました分はいずれでございますか。一《ちよ》寸《つと》拝《はい》見《けん》をねがいとう存《ぞん》じます。」
「ああ、見せるよ。ただ僕はあんな立《りつ》派《ぱ》なやつだから、事《こと》によったらもうすっかり曇《くも》ったじゃないかと思うんだ。実《じつ》際《さい》蛋白石ぐらいたよりのない宝石はないからね。今日虹《にじ》のように光っている。あしたは白いただの石になってしまう。今日は円《まる》くて美《うつく》しい。あしたは砕《くだ》けてこなごなだ。そいつだね、こわいのは。しかしとにかく開《ひら》いて見よう。この背《はい》〓《のう》さ。」
「なるほど。」
貝の火兄弟商《しよう》会《かい》の
鼻《はな》の赤いその支《し》配《はい》人《にん》は
こくっと息《いき》を呑《の》みながら
大学士の手もとを見つめている。
大学士はごく無《む》雑《ぞう》作《さ》に
背〓をあけて逆《さか》さにした。
下《か》等《とう》な玻《は》璃《り》蛋《たん》白《ぱく》石《せき》が
三十ばかりころげだす。
「先生、困《こま》るじゃありませんか。先生、これでは、何でも、あんまりじゃありませんか。」
楢《なら》ノ木大学士は怒《おこ》り出した。
「何があんまりだ。僕《ぼく》の知ったこっちゃない。ひどい難《なん》儀《ぎ》をしてあるんだ。旅《りよ》費《ひ》さえ返《かえ》せばそれでよかろう。さあ持《も》って行け。帰れ、帰れ。」
大学士は上《うわ》着《ぎ》の衣〓《かくし》から
鼠《ねずみ》いろの皺《しわ》くちゃになった状《じよう》袋《ぶくろ》を
出していきなり投《な》げつけた。
「先生困ります。あんまりです。」
貝の火兄弟商《しよう》会《かい》の
赤《あか》鼻《はな》の支《し》配《はい》人《にん》は云《い》いながら
すばやく旅費の袋をさらい
上着の内《うち》衣《ポケ》〓《ツト》に投げ込《こ》んだ。
「帰れ、帰れ、もう来るな。」
「先生、困ります。あんまりです。」
とうとう貝の火兄弟商会の
赤鼻の支配人は帰って行き
大学士は葉《は》巻《まき》を横《よこ》にくわい
雲《うん》母《も》紙《し》を張《は》った天《てん》井《じよう》を
斜《なな》めに見ながらにやっと笑《わら》う。
風《かぜ》野《の》又《また》三《さぶ》郎《ろう》
〔後期下書稿〕
九月一日
どっどどどどうど どどうど どどう、
ああまいざくろも吹《ふ》きとばせ
すっぱいざくろもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう
谷川の岸《きし》に小さな四角な学校がありました。
学校といっても入口とあとはガラス窓《まど》の三つついた教室がひとつあるきりでほかには溜《たま》りも教《きよ》員《うい》室《んしつ》もなく運《うん》動《どう》場《じよう》はテニスコートのくらいでした。
先生はたった一人で、五つの級《クラス》を教えるのでした。それはみんなでちょうど二十人になるのです。三年生はひとりもありません。
さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪《ゆき》袴《ばかま》をはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかに誰《だれ》も来ていないのを見て、
「ほう、おら一《いつ》等《とう》だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫《さけ》びながら大《おお》悦《よろこ》びで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒《ぼう》立《だ》ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。がひとりはとうとう泣《な》き出してしまいました。というわけはそのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪《かみ》の子《こ》供《ども》がひとり一番前の机《つくえ》にちゃんと座《すわ》っていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり眼《め》をりんと張《は》ってそっちの方をにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から「ちょうはあぶどり《 *》、ちょうはあぶどり。」と高く叫ぶ声がしてそれからいなずまのように嘉《か》助《すけ》が、かばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐《さ》太《た》郎《ろう》だの耕《こう》助《すけ》だのどやどややってきました。
「なして泣《な》いでら、うなかもたのが《 *》。」嘉《か》助《すけ》が泣かないこどもの肩《かた》をつかまえて云《い》いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると教室の中にあの赤毛のおかしな子がすましてしゃんとすわっているのが目につきました。みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集《あつま》って来ましたが誰《だれ》も何とも云えませんでした。赤毛の子どもは一《いつ》向《こう》こわがる風もなくやっぱりじっと座《すわ》っています。すると六年生の一《いち》郎《ろう》が来ました。一郎はまるで坑《こう》夫《ふ》のようにゆっくり大《おお》股《また》にやってきて、みんなを見て「何《な》した。」とききました。みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変《へん》な子を指《さ》しました。一郎はしばらくそっちを見ていましたがやがて鞄《かばん》をしっかりかかえて、さっさと窓《まど》の下へ行きました。みんなもすっかり元気になってついて行きました。
「誰だ、時間にならなぃに教室へはいっているのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して云いました。
「先生にうんと叱《しか》らえるぞ。」窓の下の耕助が云《い》いました。
「叱らえでもおら知らなぃよ。」嘉助が云いました。
「早ぐ出はって来《こ》、出はって来。」一郎が云いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室の中やみんなの方を見るばかりでやっぱりちゃんとひざに手をおいて腰《こし》掛《かけ》に座《すわ》っていました。
ぜんたいその形からが実《じつ》におかしいのでした。変《へん》てこな鼠《ねずみ》いろのマントを着《き》て水《すい》晶《しよう》かガラスか、とにかくきれいなすきとおった沓《くつ》をはいていました。それに顔と云ったら、まるで熟《じゆく》した苹果《りんご》のよう殊《こと》に眼《め》はまん円《まる》でまっくろなのでした。一《いつ》向《こう》語《ことば》が通じないようなので一郎も全《まつた》く困《こま》ってしまいました。
「外国人だな。」「学校さ入るのだな。」みんなはがやがやがやがや云いました。ところが五年生の嘉助がいきなり「ああ三年生さ入るのだ。」と叫《さけ》びましたので「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが一郎はだまってくびをまげました。
変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけきちんと腰掛けています。ところがおかしいことは、先生がいつものキラキラ光る呼《よぶ》子《こ》笛《ぶえ》を持っていきなり出入口から出て来られたのです。そしてわらって「みなさんお早う。どなたも元気ですね。」と云いながら笛を口にあててピルルと吹《ふ》きました。そこでみんなはきちんと運《うん》動《どう》場《じよう》に整《せい》列《れつ》しました。
「気を付《つ》けっ。」みんなは気を付けをしました。けれども誰《だれ》の眼もみんな教室の中の変な子に向《む》いていました。先生も何があるのかと思ったらしく、ちょっとうしろを振《ふ》り向いて見ましたが、なあになんでもないという風でまたこっちを向いて、
「右ぃおいっ。」と号《ごう》令《れい》をかけました。ところがおかしな子どもはやっぱりちゃんとこしかけたままきろきろこっちを見ています。みんなはそれから番号をかけて右向けをして順《じゆん》に入口からはいりましたが、その間中も変な子《こ》供《ども》は少し額《ひたい》に皺《しわ》を寄《よ》せて〔以下原稿数枚なし〕
と一郎が一番うしろからあまりさわぐものを一人ずつ叱《しか》りました。みんなはしんとなりました。「みなさん休みは面《おも》白《しろ》かったね。朝から水《みず》泳《およ》ぎもできたし林の中で鷹《たか》にも負《ま》けないくらい高く叫《さけ》んだりまた兄さんの草《くさ》刈《か》りについて行ったりした。それはほんとうにいいことです。けれどももう休みは終《おわ》りました。これからは秋です。むかしから秋は一番勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんも今日《きよう》からまたしっかり勉強しましょう。みなさんは休み中でいちばん面白かったことは何ですか。」
「先生。」と四年生の悦《えつ》治《じ》が手をあげました。
「はい。」「先生さっきたの人あ何だったべす。」
先生はしばらくおかしな顔をして「さっきの人……」
「さっきたの髪《かみ》の赤いわらす《 *》だんす。」みんなもどっと叫《さけ》びました。
「先生髪のまっ赤《か》なおかしなやづだったんす。」
「マント着《き》てたで。」
「笛《ふえ》鳴《な》らなぃに教室さはいってたぞ。」
先生は困《こま》って、
「一人ずつ云《い》うのです。髪の赤い人がここに居《い》たのですか。」
「そうです、先生。」〔以下原稿数枚なし〕
の山にのぼってよくそこらを見ておいでなさい。それからあしたは道《どう》具《ぐ》をもってくるのです。それではここまで。」と先生は云いました。みんなもうあの山の上ばかり見ていたのです。
「気を付《つ》けっ。」一郎が叫びました。「礼っ。」みんなはおじぎをするや否《いな》やまるで風のように教室を出ました。それからがやがやその草山へ走ったのです。女の子たちもこっそりついて行きました。けれどもみんなは山にのぼるとがっかりしてしまいました。みんながやっとその栗《くり》の木の下まで行ったときはその変《へん》な子はもう見えませんでした。そこには十本ばかりのたけにぐさが先生の云《い》ったとおり風にひるがえっているだけだったのです。けれども小さいほうのこどもらはもうあんまりその変な子のことばかり考えていたもんですからもうそろそろ厭《あ》きていました。
そしてみんなはわかれてうちへ帰りましたが一郎や嘉《か》助《すけ》は仲《なか》々《なか》それを忘《わす》れてしまうことはできませんでした。〔以上後期下書稿〕
〔初期清書後手入稿〕
二 九月二日
次《つぎ》の日もよく晴れて谷川の波《なみ》はちらちらひかりました。
一郎と五年生の耕《こう》一《いち》とは、丁《ちよう》度《ど》午《ご》后《ご》二時に授《じゆ》業《ぎよう》がすみましたので、いつものように教室の掃《そう》除《じ》をして、それから二人一《いつ》緒《しよ》に学校の門を出ましたが、その時二人の頭の中は、昨日《きのう》の変《へん》な子《こ》供《ども》で一《いつ》杯《ぱい》になっていました。そこで二人はもう一《いち》度《ど》、あの青山の栗《くり》の木まで行ってみようと相《そう》談《だん》しました。二人は鞄《かばん》をきちんと背《せ》負《お》い、川を渡《わた》って丘《おか》をぐんぐん登《のぼ》って行きました。
ところがどうです。丘の途《と》中《ちゆう》の小《ちい》さな段《だん》を一つ越《こ》えて、ひょっと上の栗の木を見ますと、たしかにあの赤《あか》髪《がみ》の鼠《ねず》色《みいろ》のマントを着《き》た変な子が草に足を投《な》げ出して、だまって空を見上げているのです。今日《きよう》こそ全《まつた》く間《ま》違《ちが》いありません。たけにぐさは栗の木の左の方でかすかにゆれ、栗の木のかげは黒く草の上に落《お》ちています。
その黒い影《かげ》は変な子のマントの上にもかかっているのでした。二人はそこで胸《むね》をどきどきさせて、まるで風のようにかけ上りました。その子は大きな目をして、じっと二人を見ていましたが、逃《に》げようともしなければ笑《わら》いもしませんでした。小さな唇《くちびる》を強そうにきっと結《むす》んだまま、黙《だま》って二人のかけ上って来るのを見ていました。
二人はやっとその子の前まで来ました。けれどもあんまり息《いき》がはあはあしてすぐには何も云《い》えませんでした。耕《こう》一《いち》などはあんまりもどかしいもんですから空へ向《む》いて、「ホッホウ。」と叫《さけ》んで早く息を吐《は》いてしまおうとしました。するとその子が口を曲《ま》げて一《ちよ》寸《つと》笑いました。
一郎がまだはあはあ云いながら、切れ切れに叫びました。
「汝《うな》ぁ誰《だれ》だ。何だ汝《うな》ぁ。」
するとその子は落《お》ちついて、まるで大人《おとな》のようにしっかり答えました。
「風《かぜ》野《の》又《また》三《さぶ》郎《ろう*》。」
「どこの人だ、ロシヤ人か《 *》。」
するとその子は空を向《む》いて、はあはあはあはあ笑《わら》い出しました。その声はまるで鹿《しか》の笛《ふえ》のようでした。それからやっとまじめになって、
「又三郎だい。」とぶっきら棒《ぼう》に返《へん》事《じ》しました。
「ああ風の又三郎だ。」一郎と耕《こう》一《いち》とは思わず叫《さけ》んで顔を見合せました。
「だからそう云《い》ったじゃないか。」又三郎は少し怒《おこ》ったようにマントからとがった小さな手を出して、草を一本むしってぷいっと投《な》げつけながら云いました。
「そんだらあっちこっちと飛《と》んで歩くな。」一郎がたずねました。
「うん。」
「面《おも》白《しろ》いか。」と耕一が言いました。すると風の又三郎はまた笑い出して空を見ました。
「うん面白い。」
「昨日《きのう》何《な》して逃げた。」
「逃げたんじゃないや。昨日は二百十日だい。本《ほん》統《とう》なら兄さんたちと一《いつ》緒《しよ》にずうっと北の方へ行ってるんだ。」
「何《な》して行かなかった。」
「兄さんが呼《よ》びに来なかったからさ。」
「何て云《い》う、汝《うな》の兄《あい》なは。」
「風野又三郎。きまってるじゃないか。」又三郎はまた機《き》嫌《げん》を悪《わる》くしました。
「あ、判《わか》った。うなの兄なも風野又三郎、うなぃのお父さんも風野又三郎、うなぃの叔《お》父《じ》さんも風野又三郎だな。」と耕一が言いました。
「そうそう。そうだよ。僕《ぼく》はどこへでも行くんだよ。」
「支《し》那《な》へも行ったか。」
「うん。」
「岩手山へも行ったが。」
「岩手山から今来たんじゃないか。ゆうべは岩手山の谷へ泊《とま》ったんだよ。」
「いいなぁ、おらも風になるたぃなぁ。」
すると風の又三郎はよろこんだの何のって、顔をまるでりんごのようにかがやくばかり赤くしながら、いきなり立ってきりきりきりっと二、三べんかかとで廻《まわ》りました。鼠《ねずみ》色《いろ》のマントがまるでギラギラする白光りに見えました。
それから又《また》三《さぶ》郎《ろう》は座《すわ》って話し出しました。
「面《おも》白《しろ》かったぞ。今《け》朝《さ》のはなし聞かせようか、そら、僕《ぼく》は昨日《きのう》の朝ここに居《い》たろう。」
「あれから岩手山へ行ったな。」耕《こう》一《いち》がたずねました。
「あったりまえさ、あったりまえ。」又三郎は口を曲《ま》げて耕一を馬《ば》鹿《か》にしたような顔をしました。「そう僕のはなしへ口を入れないで黙《だま》っておいで。ね、そら、昨日の朝、僕はここから北の方へ行ったんだ。途《と》中《ちゆう》で六十五回もいねむりをしたんだ。」
「何《な》してそんなにひるねした?」
「仕《し》方《かた》ないさ。僕たちが起《お》きてはね廻《まわ》っていようたって、行くところがなくなればあるけないじゃないか。あるけなくなりゃ、いねむりだい。きまってらぁ。」
「歩けないたって立つが座《ねま》るかして目をさましていればいい。」
「うるさいねえ。いねむりたって僕がねむるんじゃないんだよ。お前たちがそう云《い》うんじゃないか。お前たちは僕らのじっと立ったり座《すわ》ったりしているのを、風がねむると云うんじゃないか。僕はわざとお前たちにわかるように云ってるんだよ。うるさいねえ。もう僕、行っちまうぞ。黙って聞くんだ。ね、そら、僕は途中で六十五回いねむりをして、その間考えたり笑ったりして、夜中の一時に岩手山の丁《ちよう》度《ど》三合《ごう》目《め》についたろう。あすこの小《こ》屋《や》にはもう人が居《い》ないねえ。僕は小屋のまわりを一ぺんぐるっとまわったんだよ。そしてまっくろな地《じ》面《めん》をじっと見おろしていたら何だか足もとがふらふらするんだ。見ると谷の底《そこ》がだいぶ空《あ》いてるんだ。僕らは、もう、少しでも、空いているところを見たらすぐ走って行かないといけないんだからね、僕はどんどん下りて行ったんだ。谷底はいいねえ。僕は三本の白《しら》樺《かば》の木のかげへはいってじっとしずかにしていたんだ。朝までお星さまを数えたりいろいろこれからの面《おも》白《しろ》いことを考えたりしていたんだ。あすこの谷底はいいねえ。そんなにしずかじゃないんだけれど。それは僕の前にまっ黒な崖《がけ》があってねえ、そこから一《ひと》晩《ばん》中《じゆう》ころころかさかさ石かけや火《か》山《ざん》灰《ばい》のかたまったのやが崩《くず》れて落《お》ちて来るんだ。けれどもじっとその音を聞いてるとね、なかなか面白いんだよ。そして今《け》朝《さ》少し明るくなるとその崖がまるで火が燃《も》えているようにまっ赤《か》なんだろう。そうそう、まだ明るくならないうちにね、谷の上の方をまっ赤な火がちらちらちらちら通って行くんだ。楢《なら》の木や樺《かば》の木が火にすかし出されてまるで烏《からす》瓜《うり》の燈《とう》籠《ろう》のように見えたぜ。」
「そうだ。おら去《きよ》年《ねん》烏瓜の燈火《あがし》拵《こさ》えた。そして縁《えん》側《がわ》へ吊《つる》しておいたら風吹いて落ちた。」と耕《こう》一《いち》が言いました。
すると又《また》三《さぶ》郎《ろう》は噴《ふ》き出してしまいました。
「僕《ぼく》お前の烏《からす》瓜《うり》の燈《とう》籠《ろう》を見たよ。あいつは奇《き》麗《れい》だったねい、だから僕がいきなり衝《つ》き当って落してやったんだ。」
「うわぁい。」
耕一はただ一言云《い》ってそれから何ともいえない変《へん》な顔をしました。
又三郎はおかしくておかしくてまるで咽《の》喉《ど》を波《なみ》のようにして一生けん命《めい》空の方に向《む》いて笑《わら》っていましたがやっとこらえて泪《なみだ》を拭《ふ》きながら申《もう》しました。
「僕失《しつ》敬《けい》したよ。僕はそのかわり今《こん》度《ど》いいものを持《も》って来てあげるよ。お前んとこへね、きれいなはこやなぎの木を五本持って行ってあげるよ。いいだろう。」耕一はやっと怒《おこ》るのをやめました。そこで又三郎はまたお話をつづけました。
「ね、その谷の上を行く人たちはね、みんな白いきものを着《き》て一番はじめの人はたいまつを持っていただろう。僕すぐもう行って見たくて行って見たくて仕《し》方《かた》なかったんだ。けれどどうしてもまだ歩けないんだろう、そしたらね、そのうちに東が少し白くなって鳥がなき出したろう。ね、あすこにはやぶうぐいすや岩《いわ》燕《つばめ》やいろいろ居《い》るんだ。鳥がチッチクチッチクなき出したろう。もう僕は早く谷から飛《と》び出したくて飛び出したくて仕方なかったんだよ。すると丁《ちよう》度《ど》いいことにはね、いつの間にか上の方が大へん空《あ》いてるんだ。さあ僕はひらっと飛びあがった。そしてピゥ、ただ一足でさっきの白いきものの人たちのとこまで行った。その人たちはね一《いち》列《れつ》になってつつじやなんかの生えた石からをのぼっているだろう。そのたいまつはもうみじかくなって消《き》えそうなんだ。僕《ぼく》がマントをフゥとやって通ったら火がぽっぽっと青くうごいてね、とうとう消えてしまったよ。ほんとうはもう消えてもよかったんだ。東が琥《こ》珀《はく*》のようになって大きなとかげの形の雲《 *》が沢《たく》山《さん》浮《うか》んでいた。
『あ、とうとう消《け》だ。』と誰《だれ》かが叫《さけ》んでいた。おかしいのはねえ、列のまん中ごろに一人の少し年《とし》老《と》った人が居《い》たんだ。その人がね、年を老って大《たい》儀《ぎ》なもんだから前をのぼって行く若《わか》い人のシャツのはじにね、一《ちよ》寸《つと》とりついたんだよ。するとその若い人が怒《おこ》ってね、
『引っ張《ぱ》るなったら、先刻《さつき》たがらひで処《とこ》さ来るづどいっつも引っ張らが。』と叫んだ。みんなどっと笑《わら》ったね。僕も笑ったねえ。そしてまた一あしでもう頂《ちよう》上《じよう》に来ていたんだ。それからあの昔《むかし》の火口のあとにはいって僕は二時間ねむった。ほんとうにねむったのさ。するとね、ガヤガヤ云うだろう、見るとさっきの人たちがやっと登《のぼ》って来たんだ。みんなで火口のふちの三十三の石ぼとけにね、バラリバラリとお米を投《な》げつけてね、もうみんな早く頂上へ行こうと競《きよう》争《そう》なんだ。向《むこ》うの方ではまるで泣《な》いたばかりのような群《ぐん》青《じよう》の山《さん》脈《みやく》や杉《すぎ》ごけの丘《おか》のようなきれいな山にまっ白な雲が所《ところ》々《どころ》かかっているだろう。すぐ下にはお苗《なわ》代《しろ》や御《お》釜《かま》火《か》口《こう》湖《こ*》がまっ蒼《さお》に光って白《しら》樺《かば》の林の中に見えるんだ。面《おも》白《しろ》かったねい。みんなぐんぐんぐんぐん走っているんだ。すると頂上までの処《ところ》にも一つ坂《さか》があるだろう。あすこをのぼるときまたさっきの年《とし》老《よ》りがね、前の若い人のシャツを引っぱったんだ。怒っていたねえ。それでも頂上に着《つ》いてしまうとそのとし老《よ》りがガラスの瓶《びん》を出してちいさなちいさなコップについでそれをそのぷんぷん怒っている若い人に持《も》って行って笑って拝《おが》むまねをして出したんだよ。すると若い人もね、急《きゆう》に笑い出してしまってコップを押《お》し戻《もど》していたよ。そしておしまいとうとうのんだろうかねえ。僕《ぼく》はもう丁《ちよう》度《ど》こっちへ来ないといけなかったもんだからホウと一つ叫んで岩手山の頂上からはなれてしまったんだ。どうだ面白いだろう。」
「面白いな。ホウ。」と耕《こう》一《いち》が答えました。
「又三郎さん。お前《まい》はまだここらに居《い》るのか。」一郎がたずねました。
又三郎はじっと空を見ていましたが、
「そうだねえ。もう五、六日は居るだろう。歩いたってあんまり遠くへは行かないだろう。それでももう九日たつと二百二《は》十《つ》日《か》だからね。その日は、事《こと》によると僕はタスカロラ海《かい》床《しよう*》のすっかり北のはじまで行っちまうかも知れないぜ。今日もこれから一《ちよ》寸《つと》向《むこ》うまで行くんだ。僕たちお友《とも》達《だち》になろうかねえ。」
「はじめから友だちだ。」一郎が少し顔を赤くしながら云《い》いました。
「あした僕はまたどっかであうよ。学校から帰る時もし僕がここに居《い》たようならすぐおいで。ね。みんなも連《つ》れて来ていいんだよ。僕はいくらでもいいこと知ってんだよ。えらいだろう。あ、もう行くんだ。さよなら。」
又三郎は立ちあがってマントをひろげたと思うとフィウと音がしてもう形が見えませんでした。
一郎と耕一とは、あしたまたあうのを楽しみに、丘《おか》を下っておうちに帰りました。
風野又三郎(九月三日)
その次《つぎ》の日は九月三日でした。昼すぎになってから一郎は大きな声で云《い》いました。
「おう、又《また》三《さぶ》郎《ろう》は昨日《きのう》また来たぞ。今日も来るかも知れないぞ。又三郎の話聞きたいものは一《いつ》緒《しよ》にあべ。」
残《のこ》っていた十人の子《こ》供《ども》らがよろこんで、
「わぁっ。」と叫《さけ》びました。
そしてもう早くもみんなが丘にかけ上ったのでした。ところが又三郎は来ていないのです。みんなは声をそろえて叫《さけ》びました。
「又《また》三《さぶ》郎《ろう》、又三郎、どうどっと吹《ふ》いで来《こ》。」
それでも、又三郎は一《いつ》向《こう》来ませんでした。
「風どうと吹いて来《こ》、豆《まめ》呉《け》ら風どうと吹いで来《こ》。」
空には今日も青光りが一《いつ》杯《ぱい》に漲《みな》ぎり、白いまばゆい雲が大きな環《わ》になって、しずかにめぐるばかりです。みんなはまた叫びました。
「又三郎、又三郎、どうと吹いて降《お》りで来《こ》。」
又三郎は来ないで、却《かえ》ってみんな見上げた青空に、小さな小さなすき通った渦《うず》巻《まき》が、みずすましのように、ツイツイと、上ったり下ったりするばかりです。みんなはまた叫びました。
「又三郎、又三郎、汝《うな》、何《な》して早ぐ来ない。」
それでも又三郎はやっぱり来ませんでした。
ただ一疋《ぴき》の鷹《たか》が銀《ぎん》色《いろ》の羽をひるがえして、空の青光を咽《の》喉《ど》一杯に呑《の》みながら、東の方へ飛《と》んで行くばかりです。みんなはまた叫びました。
「又三郎、又三郎、早ぐ此《こ》さ飛んで来《こ》。」
その時です。あのすきとおる沓《くつ》とマントがギラッと白く光って、風の又三郎は顔をまっ赤《か》に熱《ほて》らせて、はあはあしながらみんなの前の草の中に立ちました。
「ほう、又三郎、待《ま》っていたぞ。」
みんなはてんでに叫びました。又三郎はマントのかくしから、うすい黄色のはんけちを出して、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ふ》きながら申《もう》しました。
「僕《ぼく》ね、もっと早く来るつもりだったんだよ。ところがあんまりさっき高いところへ行きすぎたもんだから、お前達《たち》の来たのがわかっていても、すぐ来られなかったんだよ。それは僕が高いところまで行って、そら、あすこに白い雲が環《わ》になって光っているんだろう。僕はあのまん中をつきぬけてもっと上に行ったんだ。そして叔《お》父《じ》さんに挨《あい》拶《さつ》して来たんだ。僕の叔父さんなんか偉《えら》いぜ。今日だってもう三十里《り》から歩いているんだ。僕にも一《いつ》緒《しよ》に行こうって云《い》ったけれどもね、僕なんかまだ行かなくてもいいんだよ。」
「汝《うな》ぃの叔父さんどごまで行く。」
「僕の叔父さんかい。叔父さんはね、今《こん》度《ど》ずうっと高いところをまっすぐに北へすすんでいるんだ。
叔父さんのマントなんか、まるで冷《ひ》えてしまっているよ。小さな小さな氷《こおり》のかけらがさらさらぶっかかるんだもの、そのかけらはここから見えやしないよ。」
「又三郎さんは去《きよ》年《ねん》なも今《いま》頃《ごろ》ここへ来たか。」
「去年は今よりもう少し早かったろう。面《おも》白《しろ》かったねえ。九《きゆう》州《しゆう》からまるで一《ひと》飛《と》びに馳《か》けて馳けてまっすぐに東京へ来たろう。そしたら丁《ちよう》度《ど》僕は保《やす》久《ひさ》大《たい》将《しよう》の家を通りかかったんだ。僕はね、あの人を前にも知っているんだよ。だから面白くて家の中をのぞきこんだんだ。障《しよう》子《じ》が二枚《まい》はずれてね『すっかり嵐《あらし》になった』とつぶやきながら障子を立てたんだ。僕はそこから走って庭《にわ》へでた。あすこにはざくろの木がたくさんあるねえ。若《わか》い大《だい》工《く》がかなづちを腰《こし》にはさんで、尤《もつと》もらしい顔をして庭の塀《へい》や屋《や》根《ね》を見《み》廻《まわ》っていたがね、本当はやっこさん、僕たちの馳けまわるのが大《たい》変《へん》面白かったようだよ。唇《くちび》が《る》ぴくぴくして、いかにもうれしいのを、無《む》理《り》にまじめになって歩きまわっていたらしかったんだ。
そして落《お》ちたざくろを一つ拾《ひろ》って噛《かじ》ったろう、さあ僕はおかしくて笑《わら》ったね、そこで僕は、屋《や》敷《しき》の塀に沿《そ》って一《ちよ》寸《つと》戻《もど》ったんだ。それから俄《にわ》かに叫《さけ》んで大工の頭の上をかけ抜《ぬ》けたねえ。
ドッドド ドドウド ドドウド ドドウ、
甘《あま》いざくろも吹《ふ》き飛《と》ばせ
酸《す》っぱいざくろも吹き飛ばせ
ホラね、ざくろの実《み》がばたばた落ちた。大工はあわてたような変《へん》なかたちをしてるんだ。僕《ぼく》はもう笑って笑って走った。
電《でん》信《しん》ばしらの針《はり》金《がね》を一本切ったぜ、それからその晩《ばん》、夜どおし馳《か》けてここまで来たんだ。
ここを通ったのは丁《ちよう》度《ど》あけがただった。その時僕は、あの高《たか》洞《ほら》山《やま*》のまっ黒な蛇《じや》紋《もん》岩《がん》に、一つかみの雲を叩《たた》きつけて行ったんだ。そしてその日の晩方にはもう僕は海の上にいたんだ。海と云《い》ったって見えはしない。もう僕はゆっくり歩いていたからね。霧《きり》が一《いつ》杯《ぱい》にかかってその中で波《なみ》がドンブラゴッコ、ドンブラゴッコ、と云ってるような気がするだけさ。今年だって二百二《は》十《つ》日《か》になったら僕はまた馳けて行くんだ。面《おも》白《しろ》いなあ。」
「ほう、いいなあ、又三郎さんだちはいいなあ。」
小さな小《こ》供《ども》たちは一《いつ》緒《しよ》に云いました。
すると又三郎はこんどは少し怒《おこ》りました。
「お前たちはだめだねえ。なぜ人のことをうらやましがるんだい。僕だってつらいことはいくらもあるんだい。お前たちにもいいことはたくさんあるんだい。僕は自分のことは一《いつ》向《こう》考えもしないで人のことばかりうらやんだり馬《ば》鹿《か》にしているやつらを一番いやなんだぜ。僕たちのほうではね、自分を外《ほか》のものとくらべることが一番はずかしいことになっているんだ。僕たちはみんな一人一人なんだよ。さっきも云《い》ったような僕たちの一年に一ぺんか二へんの大《だい》演《えん》習《しゆう》の時にね、いくら早くばかり行ったって、うしろをふりむいたり並《なら》んで行くものの足なみを見たりするものがあると、もう誰《だれ》も相《あい》手《て》にしないんだぜ。やっぱりお前たちはだめだねえ。外の人とくらべることばかり考えているんじゃないか。僕はそこへ行くとさっき空で遭《あ》った鷹《たか》がすきだねえ。あいつは天気の悪《わる》い日なんか、ずいぶん意《い》地《じ》の悪いこともあるけれども空をまっすぐに馳《か》けてゆくから、僕はすきなんだ。銀《ぎん》色《いろ》の羽をひらりひらりとさせながら、空の青光の中や空の影《かげ》の中を、まっすぐにまっすぐに、まるでどこまで行くかわからない不《ふ》思《し》議《ぎ》な矢のように馳けて行くんだ。だからあいつは意地悪で、あまりいい気《き》持《もち》はしないけれども、さっきも、よう、あんまり空の青い石を突《つ》っつかないでくれっ、て挨《あい》拶《さつ》したんだ。するとあいつが云ったねえ、ふん、青い石に穴《あな》があいたら、お前にも向《むこ》う世《せ》界《かい》を見《けん》物《ぶつ》させてやろうって云うんだ。云うことはずいぶん生《なま》意《い》気《き》だけれども僕は悪い気がしなかったねえ。」
一郎がそこで云いました。
「又三郎さん。おらはお前をうらやましがったんでないよ、お前をほめたんだ。おらはいつでも先生から習《なら》っているんだ。本当に男らしいものは、自分の仕《し》事《ごと》を立《りつ》派《ぱ》に仕上げることをよろこぶ。決《けつ》して自分が出来ないからって人をねたんだり、出来たからって出来ない人を見くびったりさない。お前もそう怒《おこ》らなくてもいい。」
又三郎もよろこんで笑《わら》いました。それから一《ちよ》寸《つと》立ち上ってきりきりとかかとで一ぺんまわりました。そこでマントがギラギラ光り、ガラスの沓《くつ》がカチッ、カチッとぶつかって鳴ったようでした。又三郎はそれからまた座《すわ》って云いました。
「そうだろう。だから僕は君たちもすきなんだよ。君たちばかりでない。子《こ》供《ども》はみんなすきなんだ。僕がいつでもあらんかぎり叫《さけ》んで馳《か》ける時、よろこんできゃっきゃっ云うのは子供ばかりだよ。一昨日《おととい》だってそうさ。ひるすぎから俄《にわ》かに僕たちがやり出したんだ。そして僕はある峠《とうげ》を通ったね。栗《くり》の木の青いいがを落《おと》したり、青《あお》葉《ば》までがりがりむしってやったね。その時峠の頂《ちよう》上《じよう》を、雨の支《し》度《たく》もしないで二人の兄弟が通るんだ、兄さんのほうは丁《ちよう》度《ど》おまえくらいだったろうかね。」
又三郎は一郎を尖《とが》った指《ゆび》で指《さ》しながらまた言《こと》葉《ば》を続《つづ》けました。
「弟のほうはまるで小さいんだ。その顔の赤い子よりもっと小さいんだ。その小さな子がね、まるでまっ青《さお》になってぶるぶるふるえているだろう。それは僕たちはいつでも人間の眼《め》から火花を出せるんだ。僕の前に行ったやつがいたずらして、その兄弟の眼を横《よこ》の方からひどく圧《お》しつけて、とうとうパチパチ火花が発《た》ったように思わせたんだ。そう見えるだけさ、本当は火花なんかないさ。それでもその小さな子は空が紫《むらさき》色《いろ》がかった白光をしてパリパリパリパリと燃《も》えて行くように思ったんだ。そしてもう天地がいまひっくりかえって焼《や》けて、自分も兄さんもお母さんもみんなちりぢりに死《し》んでしまうと思ったんだ。かあいそうに。そして兄さんにまるで石のように堅《かた》くなって抱《だ》きついていたね。ところがその大きいほうの子はどうだい。小さな子を風のかげになるようにいたわってやりながら、自分はさも気《き》持《もち》がいいというように、僕の方を向《む》いて高く叫《さけ》んだんだ。そこで僕も少ししゃくにさわったから、一つ大あばれにあばれたんだ。豆《まめ》つぶぐらいある石ころをばらばら吹《ふ》きあげて、たたきつけてやったんだ。小さな子はもう本当に大声で泣《な》いたねえ。それでも大きな子はやっぱり笑《わら》うのをやめなかったよ。けれどとうとうあんまり弟が泣くもんだから、自分も怖《こわ》くなったとみえて口がピクッと横《よこ》の方へまがった。そこで僕は急《きゆう》に気の毒《どく》になって、丁《ちよう》度《ど》その時行く道がふさがったのを幸《さいわい》に、ぴたっとまるでしずかな湖《みずうみ》のように静《しず》まってやった。それから兄弟と一《いつ》緒《しよ》に峠《とうげ》を下りながら横の方の草原から百《ゆ》合《り》の匂《におい》を二人の方へもって行ってやったりした。
どうしたんだろう、急に向《むこ》うが空《あ》いちまった。僕は向うへ行くんだ。さよなら。あしたもまた来てごらん。また遭《あ》えるかも知れないから。」
風の又三郎のすきとおるマントはひるがえり、たちまちその姿《すがた》は見えなくなりました。みんなはいろいろ今のことを話し合いながら丘《おか》を下り、わかれてめいめいの家に帰りました。
風野又三郎(九月四日)
「サイクルホール《 *》の話聞かせてやろうか。」
又三郎はみんなが丘の栗《くり》の木の下に着《つ》くやいなや、斯《こ》う云《い》っていきなり形をあらわしました。けれどもみんなは、サイクルホールなんて何だか知りませんでしたから、だまっていましたら、又三郎はもどかしそうにまた言いました。
「サイクルホールの話、お前たちは聴《き》きたくないかい。聴きたくないなら早くはっきりそう云ったらいいじゃないか。僕《ぼく》行っちまうから。」
「聴きたい。」一郎はあわてて云いました。又三郎は少し機《き》嫌《げん》を悪くしながらぼつりぼつり話しはじめました。
「サイクルホールは面《おも》白《しろ》い。人間だってやるだろう。見たことはないかい。秋のお祭《まつり》なんかにはよくそんな看《かん》板《ばん》を見るんだがなあ、自《じ》転《てん》車《しや》ですりばちの形になった格《こう》子《し》の中を馳《か》けるんだよ。だんだん上にのぼって行って、とうとうそのすりばちのふちまで行った時、片《かた》手《て》でハンドルを持《も》ってハンケチなどを振《ふ》るんだ。なかなかあれでひどいんだろう。ところが僕《ぼく》等《ら》がやるサイクルホールは、あんな小さなもんじゃない。尤《もつと》も小さい時もあるにはあるよ。お前たちのかまいたちっていうのは、サイクルホールの小さいのだよ。」
「ほ、おら、かまいたぢ《 *》に足切られたぞ。」
嘉《か》助《すけ》が叫《さけ》びました。
「何だって足を切られた? 本当かい。どれ足を出してごらん。」
又三郎はずいぶんいやな顔をしながら斯《こ》う言いました。嘉助はまっ赤《か》になりながら足を出しました。又三郎はしばらくそれを見てから、
「ふうん。」
と医《い》者《しや》のような物《もの》の言い方をしてそれから、
「一《ちよ》寸《つと》脈《みやく》をお見せ。」
と言うのでした。嘉助は右手を出しましたが、その時の又三郎のまじめくさった顔といったら、とうとう一郎は噴《ふ》き出しました。けれども又三郎は知らん振《ふ》りをして、だまって嘉助の脈を見てそれから云いました。
「なるほどね、お前ならことによったら足を切られるかも知れない。この子はね、大へんからだの皮《かわ》が薄《うす》いんだよ。それに無《む》暗《やみ》に心《しん》臓《ぞう》が強いんだ。腕《うで》を少し吸《す》っても血《ち》が出るくらいなんだ。殊《こと》にその時足をすりむきでもしていたんだろう。かまいたちで切れるさ。」
「何《な》して切れる。」一郎はたずねました。
「それはね、すりむいたとこから、もう血がでるばかりにでもなっているだろう。それを空気が押《お》して押さえてあるんだ。ところがかまいたちのまん中では、わりあい空気が押さないだろう。いきなりそんな足をかまいたちのまん中に入れると、すぐ血が出るさ。」
「切るのだないのか。」一郎がたずねました。
「切るのじゃないさ、血が出るだけさ。痛《いた》くなかったろう。」又三郎は嘉《か》助《すけ》に聴《き》きました。
「痛くなかった。」嘉助はまだ顔を赤くしながら笑《わら》いました。
「ふん、そうだろう。痛いはずはないんだ。切れたんじゃないからね。そんな小さなサイクルホールなら僕たちたった一人でも出来る。くるくるまわって走れぁいいからね。そうすれば木の葉《は》や何かマントにからまって、丁《ちよう》度《ど》うまい工《ぐ》合《あい》かまいたちになるんだ。ところが大きなサイクルホールはとても一人じゃ出来あしない。小さいのなら十人ぐらい。大きなやつなら大人《おとな》もはいって千人だってあるんだよ。やる時は大《たい》抵《てい》ふたいろあるよ。日がかんかんどこか一とこに照《て》る時か、また僕たちが上と下と反《はん》対《たい》にかける時ぶっつかってしまうことがあるんだ。そんな時とまあふたいろにきまっているねえ。あんまり大きなやつは、僕よく知らないんだ。南の方の海から起《おこ》って、だんだんこっちにやってくる時、一《ちよ》寸《つと》僕《ぼく》等《ら》がはいるだけなんだ。ふうと馳《か》けて行って十ぺんばかりまわったと思うと、もうずっと上の方へのぼって行って、みんなゆっくり歩きながら笑っているんだ。そんな大きなやつへうまくはいると、九《きゆう》州《しゆう》からこっちの方まで一ぺんに来ることも出来るんだ。けれどもまあ、大抵は途《と》中《ちゆう》で高いとこへ行っちまうね。だから大きなのはあんまり面《おも》白《しろ》かあないんだ。十人ぐらいでやる時は一番愉《ゆ》快《かい》だよ。甲《こう》州《しゆう》ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ッ岳《たけ》の麓《ふもと》の野原でやすんでたろう。曇《くも》った日でねえ、すると向《むこ》うの低《ひく》い野原だけ不《ふ》思《し》議《ぎ》に一日、日が照ってね。ちらちらかげろうが上っていたんだ。それでも僕はまあやすんでいた。そして夕方になったんだ。するとあちこちから『おいサイクルホールをやろうじゃないか。どうもやらなけぁ、いけないようだよ。』ってみんなの云《い》うのが聞えたんだ。
『やろう。』僕はたち上って叫《さけ》んだねえ、
『やろう。』『やろう。』声があっちこっちから聞えたね。
『いいかい、じゃ行くよ。』僕はその平《へい》地《ち》をめがけてピーッと飛《と》んで行った。するといつでもそうなんだが、まっすぐに平地に行かさら((ママ))ないんだ。急《いそ》げば急ぐほど右へまがるよ、尤《もつと》もそれでサイクルホールになるんだよ。さあ、みんながつづいたらしいんだ。僕はもうまるで、汽車よりも早くなっていた。下に富《ふ》士《じ》川の白い帯《おび》を見てかけて行った。けれども間もなく、僕はずっと高いところにのぼって、しずかに歩いていたねえ。サイクルホールはだんだん向《むこ》うへ移《うつ》って行って、だんだんみんなもはいって行って、ずいぶん大きな音をたてながら、東京の方へ行ったんだ。きっと東京でもいろいろ面《おも》白《しろ》いことをやったねえ。それから海へ行ったろう。海へ行ってこんどは竜《たつ》巻《まき》をやったにちがいないんだ。竜巻はねえ、ずいぶん凄《すご》いよ。海のには僕はいったことはないんだけれど、小さいのを沼《ぬま》でやったことがあるよ。丁《ちよう》度《ど》お前《まえ》達《たち》のほうのご維《い》新《しん》前ね、日《ひ》詰《づめ》の近くに源《げん》五《ご》沼《ぬま*》という沼があったんだ。そのすぐ隣《とな》りの草はらで、僕《ぼく》等《ら》は五人でサイクルホールをやった。ぐるぐるひどくまわっていたら、まるで木も折《お》れるくらい烈《はげ》しくなってしまった。丁度雨も降《ふ》るばかりのところだった。一人の僕の友だちがね、沼を通る時、とうとう機《はず》みで水を掬《すく》っちゃったんだ。さあ僕等はもう黒雲の中に突《つ》き入ってまわって馳《か》けたねえ、水が丁《ちよう》度《ど》漏《じよう》斗《ご》の尻《しり》のようになってくるんだ。下から見たら本当にこわかったろう。
『ああ竜《りゆう》だ、竜だ。』みんなは叫《さけ》んだよ。実《じつ》際《さい》下から見たら、さっきの水はぎらぎら白く光って黒雲の中にはいって、竜のしっぽのように見えたかも知れない。その時友だちがまわるのをやめたもんだから、水はざあっと一ぺんに日《ひ》詰《づめ》の町に落《お》ちかかったんだ。その時は僕はもうまわるのをやめて、少し下に降《お》りて見ていたがね、さっきの水の中にいた鮒《ふな》やなまずが、ばらばらと往《おう》来《らい》や屋《や》根《ね》に降っていたんだ。みんなは外へ出て恭《うや》々《うや》しく僕《ぼく》等《ら》の方を拝《おが》んだり、降って来た魚を押《お》し戴《いただ》いていたよ。僕等は竜じゃないんだけれども拝まれるとやっぱりうれしいからね、友だち同《どう》志《し》にこにこしながらゆっくりゆっくり北の方へ走って行ったんだ。まったくサイクルホールは面《おも》白《しろ》いよ。
それから逆《ぎやく》サイクルホールというのもあるよ。これは高いところから、さっきの逆にまわって下りてくることなんだ。この時ならば、そんな急《きゆう》なことはない。冬は僕等は大《たい》抵《てい》シベリヤに行って《 *》それをやったり、そっちからこっちに走って来たりするんだ。僕たちがこれをやってる間はよく晴れるんだ。冬ならば咽《の》喉《ど》を痛《いた》くするものがたくさん出来る。けれどもそれは僕等の知ったことじゃない。それから五月か六月には、南の方では、大抵支《し》那《な》の揚《よう》子《す》江《こう》の野原で大きなサイクルホールがあるんだよ。その時丁《ちよう》度《ど》北のタスカロラ海《かい》床《しよう》の上では、別《べつ》に大きな逆《ぎやく》サイクルホール《 *》がある。両《りよう》方《ほう》だんだんぶっつかるとそこが梅《つ》雨《ゆ》になるんだ。日本が丁度それにあたるんだからね、仕《し》方《かた》がないや。けれどもお前《まえ》達《たち》のところは割《わり》合《あい》北から西へ外れてるから、梅《つ》雨《ゆ》らしいことはあんまりないだろう。あんまりサイクルホールの話をしたから何だか頭がぐるぐるしちゃった。もうさよなら。僕はどこへも行かないんだけれど少し睡《ねむ》りたいんだ。さよなら。」
又三郎のマントがぎらっと光ったと思うと、もうその姿《すがた》は消《き》えて、みんなは、はじめてほうと息《いき》をつきました。それからいろいろいまのことを話しながら、丘《おか》を下って銘《めい》々《めい》わかれておうちへ帰って行ったのです。
風野又三郎(九月五日)
「僕は上《シヤン》海《ハイ》だって何べんも知ってるよ。」みんなが丘へのぼったとき又三郎がいきなりマントをぎらっとさせてそこらの草へ橙《だいだい》や青の光を落《おと》しながら出て来てそれから指《ゆび》をひろげてみんなの前に突《つ》き出して云《い》いました。
「上海と東京は僕たちの仲《なか》間《ま》なら誰《だれ》でもみんな通りたがるんだ。どうしてか知ってるかい。」
又三郎はまっ黒な眼《め》を少し意《い》地《じ》わるそうにくりくりさせながらみんなを見まわしました。けれども上《シヤン》海《ハイ》と東京ということは一《いち》郎《ろう》も誰も何のことかわかりませんでしたからお互《たがい》しばらく顔を見合せてだまっていましたら又三郎がもう大得《とく》意《い》でにやにや笑《わら》いながら言ったのです。
「僕《ぼく》たちの仲《なか》間《ま》はみんな上海と東京を通りたがるよ。どうしてって東京には日本の中《ちゆう》央《おう》気《き》象《しよう》台《だい》があるし上海には支《し》那《な》の中《ちゆう》華《か》大気象台があるだろう。どっちだって偉《えら》い人がたくさん居《い》るんだ。本《ほん》統《とう》は気象台の上をかけるときは僕たちはみんな急《いそ》ぎたがるんだ。どうしてって風力計がくるくるくるくる廻《まわ》っていて僕たちのレコードはちゃんと下の機《き》械《かい》に出て新聞にも載《の》るんだろう。誰だっていいレコードを作りたいからそれはどうしても急ぐんだよ。けれども僕たちのほうのきめでは気象台や測《そつ》候《こう》所《しよ》の近くへ来たからって俄《にわか》に急いだりすることは大へん卑《ひ》怯《きよう》なことにされてあるんだ。お前たちだってきっとそうだろう、試《し》験《けん》の時ばかりむやみに勉《べん》強《きよう》したりするのはいけないことになってるだろう。だから僕たちも急ぎたくたってわざと急がないんだ。そのかわりほんとうに一生けん命《めい》かけてる最《さい》中《ちゆう》に気象台へ通りかかるときはうれしいねえ、風力計をまるでのぼせるくらいにまわしてピーッとかけぬけるだろう、胸《むね》もすっとなるんだ。面《おも》白《しろ》かったねえ、一昨年《おととし》だったけれど六月ころ僕丁《ちよう》度《ど》上海に居たんだ。昼の間には海から陸《りく》へ移《うつ》って行き夜には陸から海へ行ってたねえ、大《たい》抵《てい》朝は十時頃《ごろ》海から陸の方へかけぬけるようになっていたんだがそのときはいつでも、うまい工《ぐ》合《あい》に気象台を通るようになるんだ。すると気象台の風力計や風《ふう》信《しん》器《き》や置《お》いてある屋《や》根《ね》の上のやぐらにいつでも一人の支《し》那《な》人《じん》の理学博《はか》士《せ》と子《こ》供《ども》の助《じよ》手《しゆ》とが立っているんだ。
博士はだまっていたが子供の助手はいつでも何か言っているんだ。そいつは頭をくりくりの芥《け》子《し》坊《ぼう》主《ず》にしてね、着《き》物《もの》だって袖《そで》の広い支《し》那《な》服《ふく》だろう、沓《くつ》もはいてるねえ、大へんかあいらしいんだよ、一番はじめの日僕がそこを通ったら斯《こ》う言っていた。
『これはきっと颶《ぐ》風《ふう*》ですね。ずいぶんひどい風ですね。』
すると支那人の博士が葉《は》巻《まき》をくわいたままふんふん笑って、
『家が飛《と》ばないじゃないか。』
と云《い》うと子供の助手はまるで口を尖《とが》らせて、
『だって向《むこ》うの三《さん》角《かく》旗《き》や何かぱたぱた云ってます。』というんだ。博士は笑《わら》って相《あい》手《て》にしないで壇《だん》を下りて行くねえ、子供の助手は少し悄《しよ》気《げ》ながら手を拱《こまね》いてあとから恭《うや》々《うや》しくついて行く。
僕はそのときは二・五米《メートル》というレコードを風力計にのこして笑って行ってしまったんだ。
次《つぎ》の日も九時頃《ごろ》僕は海の霧《きり》の中で眼《め》がさめてそれから霧がだんだん融《と》けて空が青くなりお日さまが黄金のばらのようにかがやき出したころそろそろ陸《りく》の方へ向《むか》ったんだ。これは仕《し》方《かた》ないんだよ、お日さんさえ出たらきっともう僕たちは陸の方へ行かなけぁならないようになるんだ、僕はだんだん岸《きし》へよって〓《かもめ》が白い蓮《れん》華《げ》の花のように波《なみ》に浮《うか》んでいるのも見たし、また沢《たく》山《さん》のジャンクの黄いろの帆《ほ》や白く塗《ぬ》られた蒸《じよう》気《き》船《せん》の舷《げん》を通ったりなんかして昨日《きのう》の気《き》象《しよう》台《だい》に通りかかると僕はもう遠くからあの風力計のくるくるくるくる廻《まわ》るのを見て胸《むね》が踊《おど》るんだ。すっとかけぬけただろう。レコードが一秒《びよう》五米と出たねえ、そのとき下を見ると昨日の博《はか》士《せ》と子《こ》供《ども》の助《じよ》手《しゆ》とが今日《きよう》も出て居《い》て子供の助手がやっぱり云《い》っているんだ。
『この風はたしかに颶《ぐ》風《ふう》ですね。』
支《し》那《な》人《じん》の博士はやっぱりわらって気がないように、
『瓦《かわら》も石も舞《ま》い上らんじゃないか。』と答えながらもう壇《だん》を下りかかるんだ。子供の助手はまるで一生けん命《めい》になって、
『だって木の枝《えだ》が動《うご》いてますよ。』と云うんだ。それでも博士はまるで相手にしないねえ、僕もその時はもう気象台をずうっとはなれてしまってあとどうなったか知らない。
そしてその日はずうっと西の方の瀬《せ》戸《と》物《もの》の塔《とう》のあるあたりまで行ってぶらぶらし、その晩《ばん》十七夜のお月さまの出るころ海へ戻《もど》って睡《ねむ》ったんだ。
ところがその次の日もなんだ。その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気《き》象《しよう》台《だい》を通りかかったらやっぱり博《はか》士《せ》と助《じよ》手《しゆ》が二人出ていた。
『こいつはもう本とうの暴《ぼう》風《ふう》ですね。』またあの子《こ》供《ども》の助手が尤《もつとも》らしい顔つきで腕《うで》を拱《こまね》いてそう云《い》っているだろう。博士はやっぱり鼻《はな》であしらうといった風で、
『だって木が根《ね》こそぎにならんじゃないか。』と云うんだ。子供はまるで顔をまっ赤《か》にして、
『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云うんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米《メートル》だからね、そんなに気象台の所《ところ》にばかり永《なが》くとまっているわけには行かなかったんだ。そしてその次の日だよ、やっぱり僕は海へ帰っていたんだ。そして丁《ちよう》度《ど》八時ころから雲も一ぱいにやって来て波《なみ》も高かった。僕はこの時はもう両《りよう》手《て》をひろげ叫《さけ》び声をあげて気象台を通った。やっぱり二人とも出ていたねえ、子供は高い処《ところ》なもんだからもうぶるぶる顫《ふる》えて手すりにとりついているんだ。雨も幾《いく》つぶか落《お》ちたよ。そんなにこわそうにしながらまだ斯《こ》う云っているんだ。
『これは本《ほん》統《とう》の暴《ぼう》風《ふう》ですね、林ががあがあ云ってますよ、枝《えだ》も折《お》れてますよ。』
ところが博士は落ちついてからだを少しまげながら海の方へ手をかざして云ったねえ、
『うん、けれどもまだ暴風というわけじゃないな。もう降《お》りよう。』僕はその語《ことば》をきれぎれに聴《き》きながらそこをはなれたんだ。それからもうかけてかけて林を通るときは木をみんな狂《きよう》人《じん》のようにゆすぶらせ丘《おか》を通るときは草も花もめっちゃめちゃにたたきつけたんだ、そしてその夕方までに上《シヤン》海《ハイ》から八十里《り》も南西の方の山の中に行ったんだ。そして少し疲《つか》れたのでみんなとわかれてやすんでいたらその晩《ばん》また僕たちは上海から北の方の海へ抜《ぬ》けて今《こん》度《ど》はもうまっすぐにこっちの方までやって来るということになったんだ。そいつは低《てい》気《き》圧《あつ》だよ、あいつに従《つ》いて行くことになったんだ。さあ僕はその晩中あしたもう一ぺん上海の気象台を通りたいといくら考えたか知れやしない。ところがうまいこと通ったんだ。そして僕は遠くから風力計の椀《わん》がまるで眼《め》にも見えないくらい速《はや》くまわっているのを見、またあの支《し》那《な》人《じん》の博士が黄いろなレーンコートを着《き》子供の助手が黒い合《かつ》羽《ぱ》を着てやぐらの上に立って一生けん命《めい》空を見あげているのを見た。さあ僕《ぼく》はもう笛《ふえ》のように鳴りいなずまのように飛《と》んで、
『今日は暴《ぼう》風《ふう》ですよ、そら、暴風ですよ。今日は。さよなら。』と叫《さけ》びながら通ったんだ。もう子《こ》供《ども》の助《じよ》手《しゆ》が何を云《い》ったかただその小さな口がぴくっとまがったのを見ただけ少しも僕にはわからなかった。
そうだ、そのときは僕は海をぐんぐんわたってこっちへ来たけれども来る途《と》中《ちゆう》でだんだんかけるのをやめてそれから丁《ちよう》度《ど》五日目にここも通ったよ。その前の日はあの水《みず》沢《さわ》の臨《りん》時《じ》緯《い》度《ど》観《かん》測《そく》所《しよ*》も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次《つぎ》に通りたがる所《ところ》なんだよ。なぜってあすこを通るとレコードでも何でもみな外国のほうまで知れるようになることがあるからなんだ。あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そうそう、その時は丁度日本では入《にゆう》梅《ばい》だったんだ。僕は観測所へ来てしばらくある建《たて》物《もの》の屋《や》根《ね》の上にやすんでいたねえ、やすんでいたって本《ほん》統《とう》は少しとろとろ睡《ねむ》ったんだ。すると俄《にわ》かに下で、
『大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です、すっかり乾《かわ》きましたから。』と云う声がするんだろう。見ると木村博《はか》士《せ*》と気象のほうの技《ぎ》手《しゆ》とがラケットをさげて出て来ていたんだ。木村博士は瘠《や》せて眼《め》のキョロキョロした人だけれども僕はまあ好《す》きだねえ、それに非《ひ》常《じよう》にテニスがうまいんだよ。僕はしばらく見てたねえ、どうしてもその技手の人はかなわない、まるっきり汗《あせ》だらけになってよろよろしているんだ。あんまり僕も気の毒《どく》になったから屋根の上からじっとボールの往《おう》来《らい》をにらめてすきを見ておいてねえ、丁《ちよう》度《ど》博士がサーヴをつかったときふうっと飛《と》び出して行って球《たま》を横《よこ》の方へ外《そ》らしてしまったんだ。博士はすぐもう一つの球を打《う》ちこんだねえ。そいつは僕は途中に居て途《と》方《ほう》もない遠くへけとばしてやった。
『こんなはずはないぞ。』と博士は云ったねえ、僕はもう博士にこれくらい云わせれば沢《たく》山《さん》だと思って観《かん》測《そく》所《しよ》をはなれて次の日丁度ここへ来たんだよ。ところでね、僕は少し向《むこ》うへ行かなくちゃいけないから今日はこれでお別《わか》れしよう。さよなら。」
又三郎はすっと見えなくなってしまいました。
みんなは今日は又三郎ばかりあんまり勝《かつ》手《て》なことを云《い》ってあんまり勝手に行ってしまったりするもんですから少し変《へん》な気もしましたが一《いつ》所《しよ》に丘《おか》を降《お》りて帰りました。
風野又三郎(九月六日)
一昨日《おととい》からだんだん曇《くも》ってきたそらはとうとうその朝は低《ひく》い雨雲を下してまるで冬にでも降《ふ》るようなまっすぐなしずかな雨がやっと穂《ほ》を出した草や青い木の葉《は》にそそぎました。
みんなは傘《かさ》をさしたり小さな簑《みの》からすきとおるつめたい雫《しずく》をぽたぽた落《おと》したりして学校に来ました。
雨はたびたび霽《は》れて雲も白く光りましたけれども今日《きよう》は誰《だれ》もあんまり教室の窓《まど》からあの丘《おか》の栗《くり》の木の処《ところ》を見ませんでした。又《また》三《さぶ》郎《ろう》などもはじめこそはほんとうにめずらしく奇《き》体《たい》だったのですがだんだんなれてみると割《わり》合《あい》ありふれたことになってしまってまるで東京からふいに田舎《いなか》の学校へ移《うつ》って来た友だちぐらいにしか思われなくなってきたのです。
おひるすぎ授《じゆ》業《ぎよう》が済《す》んでからはもう雨はすっかり晴れて小さな蝉《せみ》などもカンカン鳴きはじめたりしましたけれども誰も今日はあの栗の木の処へ行こうとも云わず一郎も耕《こう》一《いち》も学校の門の処で「あばえ。」と言ったきり別《わか》れてしまいました。
耕一の家は学校から川《かわ》添《ぞ》いに十五町《ちよう》ばかり溯《さかのぼ》った処にありました。耕一の方から来ている子《こ》供《ども》では一年生の生《せい》徒《と》が二人ありましたけれどもそれはもう午前中に帰ってしまっていましたし耕一はかばんと傘を持《も》ってひとりみちを川上の方へ帰って行きました。みちは岩の崖《がけ》になった処の中ごろを通るのでずいぶん度《たび》々《たび》山の窪《くぼ》みや谷に添ってまわらなければなりませんでした。ところどころには湧《わき》水《みず》もあり、またみちの砂《すな》だってまっ白で平《たい》らでしたから耕一は今日も足《あし》駄《だ》をぬいで傘と一《いつ》緒《しよ》にもって歩いて行きました。
まがり角を二つまわってもう学校も見えなくなり前にもうしろにも人は一人も居《い》ず谷の水だけ崖《がけ》の下で少し濁《にご》ってごうごう鳴るだけ大へんさびしくなりましたので耕一は口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》きながら少し早足に歩きました。
ところが路《みち》の一とこに崖からからだをつき出すようにした楢《なら》や樺《かば》の木が路に被《かぶ》さったとこがありました。耕一が何《なに》気《げ》なくその下を通りましたら俄《にわ》かに木がぐらっとゆれてつめたい雫《しずく》が一ぺんにざっと落《お》ちて来ました。耕一は肩《かた》からせなかから水へ入ったようになりました。それほどひどく落ちて来たのです。
耕一はその梢《こずえ》をちょっと見あげて少し顔を赤くして笑《わら》いながら行き過《す》ぎました。
ところが次《つぎ》の木のトンネルを通るときまたざっとその雫が落ちて来たのです。今《こん》度《ど》はもうすっかりからだまで水がしみるくらいにぬれました。耕一はぎょっとしましたけれどもやっぱり口笛を吹いて歩いて行きました。
ところが間もなくまた木のかぶさった処《ところ》を通るようになりました。それも大へんに今までとはちがって長かったのです。耕一は通る前に一ぺんその青い枝《えだ》を見あげました。雫は一ぱいにたまって全《まつた》く今にも落ちそうには見えましたしおまけに二度《ど》あることは三度あるとも云《い》うのでしたから少し立ちどまって考えてみましたけれどもまさか三度が三度とも丁《ちよう》度《ど》下を通るときそれが落ちて来るということはないと思って少しびくびくしながらその下を急《いそ》いで通って行きました。そしたらやっぱり、今度もざあっと雫《しずく》が落ちて来たのです。耕一はもう少し口がまがって泣《な》くようになって上を見あげました。けれども何とも仕《し》方《かた》ありませんでしたから冷《つめ》たさに一ぺんぶるっとしながらもう少し行きました。すると、またざあと来たのです。
「誰《だれ》だ。誰だ。」耕一はもうきっと誰かのいたずらだと思ってしばらく上をにらんでいましたがしんとして何の返《へん》事《じ》もなくただ下の方で川がごうごう鳴るばかりでした。そこで耕一は今度は傘《かさ》をさして行こうと思って足《あし》駄《だ》を下におろして傘を開《ひら》きました。そしたら俄《にわか》にどうっと風がやって来て傘はぱっと開きあぶなく吹き飛《と》ばされそうになりました。耕一はよろよろしながらしっかり柄《え》をつかまいていましたからとうとう傘はがりがり風にこわされて開いた蕈《きのこ》のような形になりました。
耕一はとうとう泣《な》き出してしまいました。
すると丁《ちよう》度《ど》それと一《いつ》緒《しよ》に向《むこ》うではあはあ笑《わら》う声がしたのです。びっくりしてそちらを見ましたらそいつは、そいつは風の又《また》三《さぶ》郎《ろう》でした。ガラスのマントも雫でいっぱい髪《かみ》の毛もぬれて束《たば》になり赤い顔からは湯《ゆ》気《げ》さえ立てながらはあはあはあはあふいごのように笑っていました。
耕一はあたりがきぃんと鳴るように思ったくらい怒《おこ》ってしまいました。
「何《なに》為《す》ぁ、ひとの傘《かさ》ぶっかして。」
又三郎はいよいよひどく笑ってまるでそこら中ころげるようにしました。
耕一はもうこらえ切れなくなって持《も》っていた傘をいきなり又三郎に投《な》げつけてそれから泣きながら組み付《つ》いて行きました。
すると又三郎はすばやくガラスマントをひろげて飛《と》びあがってしまいました。もうどこへ行ったか見えないのです。
耕一はまだ泣《な》いてそらを見上げました。そしてしばらく口《く》惜《や》しさにしくしく泣いていましたがやっとあきらめてその壊《こわ》れた傘も持たずうちへ帰ってしまいました。そして縁《えん》側《がわ》から入ろうとしてふと見ましたらさっきの傘がひろげて干《ほ》してあるのです。照《てる》井《い》耕一という名もちゃんと書いてありましたし、さっきはなれた処《ところ》もすっかりくっつききれた糸も外《ほか》の糸でつないでありました。耕一は縁側に座《すわ》りながらとうとう笑い出してしまったのです。
風野又三郎(九月七日)
次《つぎ》の日は雨もすっかり霽《は》れました。日曜日でしたから誰《だれ》も学校に出ませんでした。ただ耕一は昨日《きのう》又三郎にあんなひどい悪《いた》戯《ずら》をされましたのでどうしても今日《きよう》は遭《あ》ってうんとひどくいじめてやらなければと思って自分一人でもこわかったもんですから一郎をさそって朝の八時頃《ごろ》からあの草山の栗《くり》の木の下に行って待《ま》っていました。
すると又三郎のほうでもどう云《い》うつもりか大へんに早く丁《ちよ》度《うど》九時ころ、丘《おか》の横《よこ》の方から何か非《ひ》常《じよう》に考え込《こ》んだような風をして鼠《ねずみ》いろのマントをうしろへはねて腕《うで》組《ぐ》みをして二人の方へやって来たのでした。さあ、しっかり談《だん》判《ぱん》しなくちゃいけないと考えて耕一はどきっとしました。又三郎はたしかに二人の居《い》たのも知っていたようでしたが、わざといかにも考え込んでいるという風で二人の前を知らないふりして通って行こうとしました。
「又三郎、うわぁい。」耕一はいきなりどなりました。又三郎はぎょっとしたようにふり向《む》いて、
「おや、お早う。もう来ていたのかい。どうして今日はこんなに早いんだい。」とたずねました。
「日曜でさ。」一郎が云いました。
「ああ、今日は日曜だったんだね。僕《ぼく》すっかり忘《わす》れていた。そうだ八月三十一日が日曜だったからね、七日目で今日がまた日曜なんだね。」
「うん。」一郎はこたえましたが耕《こう》一《いち》はぷりぷり怒《おこ》っていました。又三郎が昨日《きのう》のことなど一言も云わずあんまりそらぞらしいもんですからそれに耕一に何も云われないようにまた日曜のことなどばかり云うもんですからじっさいしゃくにさわったのです。そこでとうとういきなり叫《さけ》びました。
「うわぁい、又三郎、汝《うな》などぁ、世《せ》界《かい》に無《な》くてもいいな。うわぁぃ。」
すると又三郎はずるそうに笑《わら》いました。
「やあ、耕一君、お早う。昨日はずいぶん失《しつ》敬《けい》したね。」
耕一は何かもっと別《べつ》のことを言おうと思いましたがあんまり怒ってしまって考え出すことができませんでしたのでまた同じように叫びました。
「うわぁい、うわぁいだが、又三郎、うななどぁ世界中に無くてもいいな、うわぁい。」
「昨日は実《じつ》際《さい》失敬したよ。僕《ぼく》雨が降《ふ》ってあんまり気《き》持《も》ちが悪《わる》かったもんだからね。」
又三郎は少し眼《め》をパチパチさせて気の毒《どく》そうに云《い》いましたけれども耕一の怒《いか》りは仲《なか》々《なか》解《と》けませんでした。そして三度《ど》同じことを繰《く》り返《かえ》したのです。
「うわぁい、うななどぁ、無くてもいいな。うわぁい。」
すると又三郎は少し面《おも》白《しろ》くなったようでした。いつもの通りずるそうに笑って斯《こ》う訊《たず》ねました。
「僕たちが世界中になくてもいいってどう云うんだい。箇《か》条《じよう》を立てて云ってごらん。そら。」
耕一は試《し》験《けん》のようだしつまらないことになったと思って大へん口《く》惜《や》しかったのですが仕《し》方《かた》なくしばらく考えてから答えました。
「汝《うな》などぁ悪《いた》戯《ずら》ばりさな。傘《かさ》ぶっ壊《か》したり。」
「それから? それから?」又三郎は面白そうに一足進《すす》んで云いました。
「それがら、樹《き》折《お》ったり転《おつ》覆《けあ》したりさな。」
「それから? それから、どうだい。」
「それがら、稲《いね》も倒《たお》さな。」
「それから? あとはどうだい。」
「家もぶっ壊《か》さな。」
「それから? それから? あとはどうだい。」
「砂《すな》も飛《と》ばさな。」
「それから? あとは? それから? あとはどうだい。」
「シャッポ《 *》も飛ばさな。」
「それから? それから? あとは? あとはどうだい。」
「それがら、うう、電《でん》信《しん》ばしらも倒さな。」
「それから? それから? それから?」
「それがら、塔《とう》も倒《たお》さな。」
「アアハハハ、塔は家のうちだい、どうだいまだあるかい。それから? それから?」
「それがら、うう、それがら。」耕《こう》一《いち》はつまってしまいました。大《たい》抵《てい》もう云《い》ってしまったのですからいくら考えてももう出ませんでした。
又三郎はいよいよ面《おも》白《しろ》そうに指《ゆび》を一本立てながら、
「それから? それから? ええ? それから。」と云うのでした。耕一は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました。
「それがら、風車もぶっ壊《か》さな。」
すると又三郎は今《こん》度《ど》こそはまるで飛《と》びあがって笑《わら》ってしまいました。笑って笑って笑いました。マントも一《いつ》緒《しよ》にひらひら波《なみ》を立てました。
「そうらごらん、とうとう風車などを云っちゃった。風車なら僕《ぼく》を悪《わる》く思っちゃいないんだよ。勿《もち》論《ろん》時々壊《こわ》すこともあるけれども廻《まわ》してやるときのほうがずうっと多いんだ。風車ならちっとも僕を悪く思っちゃいないんだ。うそと思ったら聴《き》いてごらん。お前たちはまるで勝《かつ》手《て》だねえ、僕たちがちっとばっかしいたずらすることは大《おお》業《ぎよう》に悪《わる》口《くち》を云っていいとこはちっとも見ないんだ。それに第《だい》一《いち》お前のさっきからの数えようがあんまりおかしいや。うう、ううてばかりいたんだろう。おしまいはとうとう風車なんか数えちゃった。ああおかしい。」
又三郎はまた泪《なみだ》の出るほど笑いました。
耕一もさっきからあんまり困《こま》ったために怒《おこ》っていたのもだんだん忘《わす》れてきました。そしてつい又三郎と一《いつ》所《しよ》にわらいだしてしまったのです。さあ又三郎のよろこんだこと俄《にわ》かにしゃべりはじめました。
「ね、そら、僕たちのやるいたずらで一番ひどいことは日本ならば稲《いね》を倒すことだよ、二百十《とお》日《か》から二百二《は》十《つ》日《か》ころまで、昔《むかし》はその頃《ころ》ほんとうに僕《ぼく》たちはこわがられたよ。なぜってその頃は丁《ちよう》度《ど》稲に花のかかるときだろう。その時僕たちにかけられたら花がみんな散《ち》ってしまってまるで実《み》にならないだろう、だから前は本《ほん》統《とう》にこわがったんだ、僕たちだってわざとするんじゃない、どうしてもその頃かけなくちゃいかないからかけるんだ、もう三、四日たてばきっとまたそうなるよ。けれどもいまはもう農《のう》業《ぎよう》が進《すす》んでお前たちの家の近くなどでは二百十日のころになど花の咲《さ》いている稲《いね》なんか一本もないだろう、大《たい》抵《てい》もう柔《やわ》らかな実になってるんだ。早い稲はもうよほど硬《かた》くさえなってるよ、僕らがかけあるいて少しくらい倒《たお》れたってそんなにひどくとりいれが減《へ》りはしないんだ。だから結《けつ》局《きよく》何でもないさ。それからも一つは木を倒すことだよ。家を倒すなんてそんなことはほんの少しだからね、木を倒すことだよ、これだって悪《いた》戯《ずら》じゃないんだよ。倒れないようにしておけぁいいんだ。葉《は》の濶《ひろ》い樹《き》なら丈《じよう》夫《ぶ》だよ。僕たちが少しぐらいひどくぶっつかっても仲《なか》々《なか》倒れやしない。それに林の樹が倒れるなんかそれは林の持《もち》主《ぬし》が悪《わる》いんだよ。林を伐《き》るときはね、よく一年中の強い風《ふう》向《こう》を考えてその風《かざ》下《しも》のほうからだんだん伐って行くんだよ。林の外《そと》側《がわ》の木は強いけれども中のほうの木はせいばかり高くて弱いからよくそんなことも気をつけなけぁいけないんだ。だからまず僕たちのこと悪く云《い》う前によく自分のほうに気をつけりゃいいんだよ。海《かい》岸《がん》ではね、僕たちが波《なみ》のしぶきを運《はこ》んで行くとすぐ枯《か》れるやつも枯れないやつもあるよ。苹果《りんご》や梨《なし》やまるめろや胡《きゆ》瓜《うり》はだめだ、すぐ枯れる、稲や薄《はつ》荷《か》やだいこんなどはなかなか強い、牧《ぼく》草《そう》なども強いねえ。」
又三郎はちょっと話をやめました。耕《こう》一《いち》もすっかり機《き》嫌《げん》を直して云いました。
「又三郎、おれぁあんまり怒《ごしや》で悪《わる》がた《 *》。許《ゆる》せな。」
すると又三郎はすっかり悦《よろこ》びました。
「ああありがとう、お前はほんとうにさっぱりしていい子《こ》供《ども》だねえ、だから僕はおまえはすきだよ、すきだから昨日《きのう》もいたずらしたんだ、僕だっていたずらはするけれど、いいことはもっと沢《たく》山《さん》するんだよ、そら数えてごらん、僕は松《まつ》の花でも楊《やなぎ》の花でも草《くさ》棉《わた》の毛でも運んで行くだろう。稲の花《か》粉《ふん》だってやっぱり僕らが運ぶんだよ。それから僕《ぼく》が通ると草木はみんな丈《じよう》夫《ぶ》になるよ。悪《わる》い空気も持《も》って行っていい空気も運《はこ》んで来る。東京の浅《あさ》草《くさ》のまるで濁《にご》った寒《かん》天《てん》のような空気をうまく太《たい》平《へい》洋《よう》の方へさらって行って日本アルプスのいい空気だって代《かわ》りに持って行ってやるんだ。もし僕がいなかったら病《びよう》気《き》も湿《しつ》気《き》もいくらふえるかも知れないんだ。ところで今日《きよう》はお前たちは僕にあうためにばかりここへ来たのかい。けれども僕は今日は十時半から演《えん》習《しゆう》へ出なけぁいけないからもう別《わか》れなけぁならないんだ。あしたまた来ておくれ。ね。じゃ、さよなら。」
又三郎はもう見えなくなっていました。一郎と耕一も「さよなら。」と云《い》いながら丘《おか》を下りて学校の誰《だれ》もいない運《うん》動《どう》場《じよう》で鉄《てつ》棒《ぼう》にとりついたりいろいろ遊《あそ》んでひるころうちへ帰りました。
風野又三郎(九月八日)
その次《つぎ》の日は大へんいい天気でした。そらには霜《しも》の織《おり》物《もの》のようなまた白い孔《く》雀《じやく》のはねのような雲がうすくかかってその下を鳶《とんび》が黄金《こがね》いろに光ってゆるく環《わ》をかいて飛《と》びました。
みんなは、
「とんびとんび、とっとび。」とかわるがわるそっちへ叫《さけ》びながら丘をのぼりました。そしていつもの栗《くり》の木の下へかけ上るかあがらないうちにもう又三郎のガラスの沓《くつ》がキラッと光って又三郎は一昨日《おととい》の通りまじめくさった顔をして草に立っていました。
「今日は退《たい》屈《くつ》だったよ。朝からどこへも行きゃしない。お前たちの学校の上を二、三べんあるいたし谷《たに》底《そこ》へ二、三べん下りただけだ。ここらはずいぶんいい処《とこ》だけれどもやっぱり僕《ぼく》はもうあきたねえ。」又三郎は草に足を投《な》げ出しながら斯《こ》う云《い》いました。
「又三郎さん北《ほつ》極《きよく》だの南極だのおべだな。」
一郎は又三郎に話させることになれてしまって斯う云って話を釣《つ》り出そうとしました。
すると又三郎は少し馬《ば》鹿《か》にしたように笑《わら》って答えました。
「ふん、北極かい。北極は寒《さむ》いよ。」
ところが耕一は昨日《きのう》からまだ怒《おこ》っていましたしそれにいまの返《へん》事《じ》が大へんしゃくにさわりましたので、
「北極は寒いかね。」とふざけたように云ったのです。さあすると今《こん》度《ど》は又三郎がすっかり怒ってしまいました。
「何だい、お前は僕をばかにしようと思ってるのかい。僕はお前たちにばかにされぁしないよ。悪《わる》口《くち》を云うならも少し上《じよう》手《ず》にやるんだよ。何だい、北極は寒いかねってのは、北極は寒いかね、ほんとうに田舎《いなか》くさいねえ。」
耕一も怒りました。
「何した、汝《うな》などそだら東京だが。一年中うろうろど歩ってばがりいでいだずらばがりさな。」
ところが奇《き》体《たい》なことは、斯《こ》う云ったとき、又三郎がまた俄《にわ》かによろこんで笑い出したのです。
「もちろん僕は東京なんかじゃないさ。一年中旅《りよ》行《こう》さ。旅行のほうが東京よりは偉《えら》いんだよ。旅行たって僕のはうろうろじゃないや。かけるときはきぃっとかけるんだ。赤道から北《ほつ》極《きよく》まで大《だい》循《じゆん》環《かん*》さえやるんだ。東京なんかよりいくらいいか知れない。」
耕一はまだ怒ってにぎりこぶしをにぎっていましたけれども又三郎は大《だい》機《き》嫌《げん》でした。
「北極の話聞かせなぃが。」一郎がまた云いました。すると又三郎はもっとひどくにこにこしました。
「大循環の話なら面《おも》白《しろ》いけれどむずかしいよ。あんまり小さな子はわからないよ。」
「わがる。」一年生の子が顔を赤くして叫《さけ》びました。
「わかるかね。僕は大循環のことを話すのはほんとうはすきなんだ。僕は大循環は二遍《へん》やったよ。尤《もつと》も一遍は途《と》中《ちゆう》からやめて下りたけれど、僕たちは五遍大循環をやって来ると、もうそれぁ幅《はば》が利《き》くんだからね、だからみんなでかけるんだよ、けれども仲《なか》々《なか》うまく行かないからねえ、ギルバート群《ぐん》島《とう*》からのぼって発《た》ったときはうまくいったけれどねえ、ボルネオから発ったときはすっかりしくじっちゃったんだ。それでも面白かったねえ、ギルバート群島の中の何と云《い》う島《しま》かしら小さいけれども白《しら》壁《かべ》の教会もあった、その島の近くに僕は行ったねえ、行くたって仲々容《よう》易《い》じゃないや、あすこらは赤《せき》道《どう》無《む》風《ふう》帯《たい*》ってお前たちが云うんだろう。僕たちはめったに歩けやしない。それでも無風帯のはじの方から舞《ま》い上ったんじゃ中々高いとこへ行かないし高いとこへ行かなきゃ北極だなんて遠い処《とこ》へも行けないから誰《だれ》でもみんななるべく無風帯のまん中へ行こう行こうとするんだ。僕は一生けん命《めい》すきをねらってはひるのうちに海から向《むこ》うの島へ行くようにし夜のうちに島からまた向うの海へ出るようにして何べんも何べんも戻《もど》ったりしながらやっとすっかり赤道まで行ったんだ。赤道には僕たちが見るとちゃんと白い指《し》導《どう》標《ひよう》が立っているよ。お前たちが見たんじゃわかりゃしない。大《だい》循《じゆん》環《かん》志《し》願《がん》者《しや》出《しゆつ》発《ぱつ》線《せん》、これより北極に至《いた》る八千九百ベェスター南極に至る八千七百ベェスターと書いてあるんだ。そのスタートに立って僕は待《ま》っていたねえ、向うの島の椰《や》子《し》の木は黒いくらい青く、教会の白壁は眼《め》へしみるくらい白く光っているだろう。だんだんひるになって暑《あつ》くなる、海は油《あぶら》のようにとろっとなってそれでもほんの申《もう》しわけに白い波《なみ》がしらを振《ふ》っている。
ひるすぎの二時頃《ごろ》になったろう。島で銅《ど》鑼《ら》がだるそうにぼんぼんと鳴り椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむっているよう、赤い魚も水の中でもうふらふら泳《およ》いだりじっととまったりして夢《ゆめ》を見ているんだ。その夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでいるんだ。青ぞらをぷかぷか泳いでいると思っているんだ。魚というものは生《なま》意《い》気《き》なもんだねえ、ところがほんとうは、その時、空を騰《のぼ》って行くのは僕たちなんだ、魚じゃないんだ。もうきっとその辺《へん》にさえ居れや、空へ騰って行かなくちゃいけないような気がするんだ。けれどものぼって行くたってそれはそれはそうっとのぼって行くんだよ。椰《や》子《し》の樹《き》の葉《は》にもさわらず魚の夢もさまさないようにまるでまるでそおっとのぼって行くんだ。はじめはそれでも割《わり》合《あい》早いけれどもだんだんのぼって行って海がまるで青い板《いた》のように見え、その中の白いなみがしらもまるで玩《おも》具《ちや》のように小さくちらちらするようになり、さっきの島などはまるで一《ひと》粒《つぶ》の緑《りよく》柱《ちゆう》石《せき*》のように見えてくるころは、僕《ぼく》たちはもう上の方のずうっと冷《つめ》たい所《ところ》に居《い》てふうと大きく息《いき》をつく、ガラスのマントがぱっと曇《くも》ったりまたさっと消《き》えたり何べんも何べんもするんだよ。けれどもとうとうすっかり冷《つめた》くなって僕たちはがたがたふるえちまうんだ。そうすると僕たちの仲《なか》間《ま》はみんな集《あつま》って手をつなぐ。そしてまだまだ騰《のぼ》って行くねえ、そのうちとうとうもう騰れない処《ところ》まで来ちまうんだよ。その辺《へん》の寒《さむ》さなら北《ほつ》極《きよく》とくらべたってそんなに違《ちが》やしない。その時僕たちはどうしても北の方に行かなきゃいけないようになるんだ。うしろの方では、
『ああ今《こん》度《ど》はいよいよ、かけるんだな。南極はここから八千七百ベェスターだねえ、ずいぶん遠いねえ。』なんて云《い》っている、僕たちもふり向《む》いて、ああそうですね、もうお別《わか》れです、僕たちはこれから北極へ行くんです、ほんの一《ちよ》寸《つと》の間でしたね、ご一《いつ》緒《しよ》したのも、じゃさよならって云うんだよ。もうそう云ってしまうかしまわないうち僕たち北極行きのほうはどんどんどんどん走り出しているんだ。咽《の》喉《ど》もかわき息もつかずまるで矢のようにどんどんどんどんかける。それでも少しも疲《つか》れぁしない、ただ北極へ北極へとみんな一生けん命《めい》なんだ。下の方はまっ白な雲になっていることもあれば海か陸《りく》かただ蒼《あお》黝《ぐろ》く見えることもある、昼はお日さまの下を夜はお星さまたちの下をどんどんどんどんかけて行くんだ。ほんとうにもう休みなしでかけるんだ。
ところがだんだん進《すす》んで行くうちに僕たちは何だかお互《たがい》の間が狭《せま》くなったような気がして前はひとりで広い場《ば》所《しよ》をとって手だけつなぎ合ってかけていたのが今《こん》度《ど》は何だかとなりの人のマントとぶつかったり、手だって前のようにのばしていられなくなって縮《ちぢ》まるんだろう。それがひどく疲れるんだよ。もう疲れて疲れて手をはなしそうになるんだ。それでもみんな早く北極へ行こうと思うから仲《なか》々《なか》手をはなさない、それでもとうとうたまらなくなって一人二人ずつ手をはなすんだ。そして、
『もう僕だめだ。おりるよ。さよなら。』
とずうっと下の方で聞えたりする。
二日ばかりの間に半分ぐらいになってしまった。僕たちは新らしい仲間とまた手をつないでお互顔を見合せながらどこまでもどこまでも北を指《さ》して進《すす》むんだ。先《さき》頃《ごろ》僕行って挨《あい》拶《さつ》して来たおじさんはもう十六回目の大《だい》循《じゆん》環《かん》なんだ。飛《と》びようだってそれぁ落《お》ち着《つ》いているからね、僕が下から、
おじさん、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですかって云《い》ったらおじさんは大きな大きなまるで僕なんか四人も入るようなマントのぼたんをゆっくりとかけながら、うん、お前は今《こん》度《ど》はタスカロラのはじに行くことになってるのだな、おれはタスカロラにはあさっての朝着くだろう。戻《もど》りにどこかでまたあうよ。あんまり乱《らん》暴《ぼう》するんじゃないよってんだ。僕がええ、あばれませんからと云ったときはおじさんはもうずうっと向《むこ》うへ行っていてそのマントのひろいせなかが見えていた、僕がそう云ってもただ大きくうなずいただけなんだ。えらいだろう。ところが僕たちのかけて行ったときはそんなにゆっくりしてはいなかった。みんな若いものばかりだからどうしても急《いそ》ぐんだ。
『ここの下はハワイになっているよ。』なんて誰《だれ》か叫《さけ》ぶものもあるねえ、どんどんどんどん僕たちは急ぐだろう。にわかにポーッと霧《きり》の出ることがあるだろう。お前たちはそれがみんな水玉だと考えるだろう。そうじゃない、みんな小さな小さな氷《こおり》のかけらなんだよ、顕《けん》微《び》鏡《きよう》で見たらもういくらすきとおって尖《とが》っているか知れやしない。
そんな旅《たび》を何日も何日もつづけるんだ。
ずいぶん美《うつく》しいこともあるし淋《さび》しいこともある。雲なんかほんとうに奇《き》麗《れい》なことがあるよ。」
「赤くてが。」耕《こう》一《いち》がたずねました。
「いいや、赤くはないよ。雲の赤くなるのは戻りさ。南極か北極へ向《む》いて上の方をどんどん行くときは雲なんか赤かぁないんだよ。赤かぁないんだけれど、それあ美しいよ。ごく淡《あわ》いいろの虹《にじ》のように見えるときもあるしねえ、いろいろなんだ。
だんだん行くだろう。そのうちに僕たちは大分低《ひく》く下っていることに気がつくよ。
夜がぼんやりうすあかるくてそして大へんみじかくなる。ふっと気がついて見るともう北極圏《けん》に入っているんだ。海は蒼《あお》黝《ぐろ》くて見るから冷《つめ》たそうだ。船も居《い》ない。そのうちにとうとう僕たちは氷《ひよう》山《ざん》を見る。朝ならその稜《りよう》が日に光っている。下の方に大きな白い陸《りく》地《ち》が見えて来る。それはみんながちがちの氷《こおり》なんだ。向《むこ》うの方は灰《はい》のようなけむりのような白いものがぼんやりかかってよくわからない。それは氷の霧《きり》なんだ。ただその霧のところどころから尖《とが》ったまっ黒な岩があちこち朝の海の船のように顔を出しているねえ。
『あすこはグリーンランドだよ。』僕たちは話し合うんだ。いままでどこをとんでいたのかもう今《こん》度《ど》で三度目だなんていう少し大きいほうの人などが大《おお》威《い》張《ばり》でやって来ていろいろその辺《へん》のことなど云《い》うんだ。
『そら、あすこのとこがゲーキイ湾《わん*》だよ。知ってるだろう。英《えい》国《こく》のサア、アーキバルド、ゲーキーの名をつけた湾なんだ。ごらんそら、氷《ひよう》河《が》ね、氷河が海にはいるねえ、あれで少しずつ押《お》されてだんだん喰《は》み出してるんだよ、そしてとうとう氷河から断《き》れて氷山にならあね。あっちは? あっちが英国さ、ここはもう地《ち》球《きゆう》の頂《ちよう》上《じよう》だからどっちへ行くたって近いやね、少し間《ま》違《ちが》えば途《と》方《ほう》もない方へ降《お》りちまうよ。あっち? あっちが英国さ。』なんてほんとうに威張ってるんだ。僕たちはもう殆《ほと》んど東の方へ東の方へと北極を一まわりするようになるんだ。この時だよ、僕らのこわいのは。大《だい》循《じゆん》環《かん》でいちばんこわいのはこの時なんだよ、この僕たちのまわるもっと中の方に極《きよく》渦《うず》といって大きな環《わ》があるんだ。その環にはいったらもう仲《なか》々《なか》出られない。卑《ひ》怯《きよう》なものはそれでもみんな入っちまうよ。環のまん中に名高い、ヘルマン大《たい》佐《さ》がいるんだ。人間じゃないよ。僕たちのほうだよ。ヘルマン大佐はまっすぐに立って腕《うで》を組んでじろじろあたりをめぐっているものを見ているねえ、そして僕たちの眼《め》の色で卑怯だったものをすぐ見わけるんだ。
『こら、その赤毛、入れ。』と斯《こ》う云うんだ。そう云われたらもうおしまいだ極渦の中へはいってぐるぐるぐるぐるまわる、仲々出ていいとは云わないんだ。だから僕たちそのときは本《ほん》統《とう》に緊《きん》張《ちよう》するよ。けれどもなんにも卑怯をしないものは割《わり》合《あい》平《へい》気《き》だねえ、大循環の途《と》中《ちゆう》でわざとつかれた隣《とな》りの人の手をはなしたものだの早くみんなやめるといいと考えてきろきろみんなの足なみを見たりしたものはどれもすっかり入れられちまうんだ。
そのうちだんだん僕らはめぐるだろう。そして下の方におりるんだ。おしまいはまるで海とすれすれになる。そのときあちこちの氷《ひよう》山《ざん》に、大《だい》循《じゆん》環《かん》到《とう》着《ちやく》者《しや》はこの附《ふ》近《きん》に於《おい》て数日間休《きゆう》養《よう》すべし、帰《き》路《ろ》は各《かく》人《じん》の任《にん》意《い》なるも障《しよう》碍《がい》は来路に倍《ばい》するを以《もつ》て充《じゆう》分《ぶん》の覚《かく》悟《ご》を要《よう》す。海《かい》洋《よう》は磨《ま》擦《さつ》少きも却《かえ》って速《そく》度《ど》は大ならず。最《もつと》も愚《ぐ》鈍《どん》なるもの最も賢《かしこ》きものなり、という白い杭《くい》が立っている。これより赤道に至《いた》る八千六百ベェスターというような標《ひよう》もあちこちにある。だから僕たちはその辺《へん》でまあ五、六日はやすむねえ、そしてまったくあの辺は面《おも》白《しろ》いんだよ。白《しろ》熊《くま》は居《い》るしね、テッデーベーヤ《 *》さ。あいつはふざけたやつだねえ、氷《こおり》のはじに立ってとぼけた顔をしてじっと海の水を見ているかと思うと俄《にわ》かに前《まえ》肢《あし》で頭をかかえるようにしてね、ざぶんと水の中へ飛《と》び込《こ》むんだ。するとからだ中の毛がみんなまるで銀《ぎん》の針《はり》のように見えるよ。あっぷあっぷ溺《おぼ》れるまねをしたりなんかもするねえ、そんなことをしてふざけながらちゃんと魚をつかまえるんだからえらいや、魚をつかまえてこんどは大《おお》威《い》張《ば》りでまた氷にあがるんだ。魚というものは本《ほん》統《とう》にばかなもんだ、ふざけてさえいれば大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》こわくないと思ってるんだ。白熊はなかなか賢いよ。それからその次《つぎ》に面白いのは北極光《オーロラ》だよ。ぱちぱち鳴るんだ、ほんとうに鳴るんだよ。紫《むらさき》だの緑《みどり》だのずいぶん奇《き》麗《れい》な見《み》世《せ》物《もの》だよ、僕らはその下で手をつなぎ合ってぐるぐるまわったり歌ったりする。
そのうちとうとうまた帰るようになるんだ。今《こん》度《ど》は海の上を渡《わた》って来る。あ、もう演《えん》習《しゆう》の時間だ。あしたまた話すからね。じゃさよなら。」又三郎は一ぺんに見えなくなってしまいました。みんなも丘《おか》をおりたのです。
風野又三郎(九月九日)
「北《ほつ》極《きよく》は面《おも》白《しろ》いけれどもそんなに永《なが》くとまっている処《とこ》じゃない。うっかりはせまわってふらふらしているとこなどを、ヘルマン大《たい》佐《さ》になど見られようもんならさっそく、おいその赤毛、入れ、なんて来るからねえ、いくら面白いたって少し疲《つか》れさえなおったら出《しゆ》発《つぱつ》をはじめるんだよ。帰りはもう自《じ》由《ゆう》だからみんなで手をつながなくてもいいんだ。気の合った友《とも》達《だち》と二人三人ずつ向《むこ》うの隙《す》き次《し》第《だい》出《で》掛《か》けるだろう。僕の通って来たのはベーリング海《かい》峡《きよう》から太《たい》平《へい》洋《よう》を渡《わた》って北海道へかかったんだ。どうしてどうして途《と》中《ちゆう》のひどいこと前に高いとこをぐんぐんかけたどこじゃない、南の方から来てぶっつかるやつはあるし、ぶっつかったときは霧《きり》ができたり雨をちらしたり負《ま》ければあと戻《もど》りをしなけぁいけないし丁《ちよう》度《ど》力が同じだとしばらくとまったりこの前のサイクルホールになったりするし勝《か》ったってよっぽど手《て》間《ま》取《ど》るんだからそらぁ実《じつ》際《さい》気がいらいらするんだよ。喧《けん》嘩《か》だってずいぶんするよ。けれども決《けつ》して卑《ひ》怯《きよう》はしない。そら僕らが三人ぐらい北の方から少し西へ寄《よ》って南の方へ進《すす》んで行くだろう、向うから丁度反《はん》対《たい》にやって来るねえ、こっちが三人で向うが十人のこともある、向うが一人のこともある、けれども勝《かち》まけは人数じゃない力なんだよ、人数へ速《はや》さをかけたものなんだよ。
君たちはどこまで行こうっての、こっちが遠くからきくねえ、アラスカだよ。向うが答えるだろう。冗《じよう》談《だん》じゃないや、アラスカなんか行くとこはありゃしない。僕たちがそっちから来たんじゃないか。いいや、行くように云《い》われて来たんだ、さあ通しておくれ、いいや僕たちこそ大《だい》循《じゆん》環《かん》なんだ、よくマークを見てごらん、大循環と云われると大《たい》抵《てい》誰《だれ》でも一《ちよ》寸《つと》顔いろを和《やわ》らげてマークをよく見るねえ、はじめから、ああ大循環だ通してやれなんて云うものもそれぁあるよ。けれども仲《なか》々《なか》大人《おとな》なんかにはたちの悪《わる》いのもあるからね、なんだ、大循環だ、かっぱめ、ばかにしやがるな。どけ。なんてわざと空《から》っぽな大きな声を出すものもあるんだ。いいえどかれません、じゃ法《ほう》令《れい》の通りボックシングをやりましょうとなるだろう、勝つことも負けることもある、けれども僕は卑怯は嫌《きら》いだからねえ、もしすきをねらって遁《に》げたりするものがあってもそんなやつを追《お》いかけやしない、あとでヘルマン大《たい》佐《さ》につかまるよってだけ云《い》うんだ。しずかな日きまった速《はや》さで海《かい》面《めん》を南西へかけて行くときはほんとうにうれしいねえ、そんな日だって十日に三日はあるよ、そう云うにして丁《ちよう》度《ど》北《ほつ》極《きよく》から一ヶ月目に僕は津《つ》軽《がる》海《かい》峡《きよう》を通ったよ、あけがたでね、函《はこ》館《だて》の砲《ほう》台《だい》のある山には低《ひく》く雲がかかっている、僕はそれを少し押《お》しながら進んだ、海すずめが何《なん》重《じゆう》もの環《わ》になって白い水にすれすれにめぐっている、かもめも居《い》る、船も通る、えとろふ丸なんて云う荷《に》物《もつ》を一《いつ》杯《ぱい》に積《つ》んだ大きな船もあれば白く塗《ぬ》られた連《れん》絡《らく》船《せん》もある。そうそう、そのとき僕は北海道の大学の伊《い》藤《とう》さんにも会った。あの人も気《き》象《しよう》をやってるから僕《ぼく》は知っている。
それから僕は少し南へまっすぐに朝《ちよう》鮮《せん》へかかったよ。あの途《と》中《ちゆう》のさびしかったことね、僕はたった一人になっていたもんだから、雲は大へんきれいだったし邪《じや》魔《ま》もあんまりなかったけれどもほんとうにさびしかったねえ、朝鮮から僕はまた東の方へ西風に送《おく》られて行ったんだ。海の中ばかりあるいたよ。商《しよう》船《せん》の甲《かん》板《ぱん》でシガアの紫《むらさき》の煙《けむり》をあげるチーフメートの耳の処《ところ》で、もしもしお子さんはもう歩いておいでですよ、なんて云って行くんだ。船の上の人たちへの僕たちの挨《あい》拶《さつ》は大《たい》抵《てい》斯《こ》んな工《ぐ》合《あい》なんだよ。
上の方を見るとあの冷《つめ》たい氷《こおり》の雲がしずかに流《なが》れている。そうだあすこを新らしい大《だい》循《じゆん》環《かん》の志《し》願《がん》者《しや》たちが走って行く。いつまた僕は大循環へ入るのだろう、ああもう二十日かそこらでこんどのは卒《そつ》業《ぎよう》するんだ、と考えるとほんとうに何とも云えずうれしい気がするねえ。」
「おらのほうの試《し》験《けん》ど同じだな。」耕《こう》一《いち》が云いました。
「うん、だけどおまえたちの試験よりはむずかしいよ。お前たちの試験のようなもんならただ毎日学校へさえ来ていれば遊《あそ》んでいても卒業するだろう。」又三郎はきっと誰《だれ》か怒《おこ》るだろうと思って少し口をまげて笑《わら》いながら斯《こ》う云いました。
「おらのほうだて毎日学校さ来るのひでじゃぃ。」耕一が大して怒ったでもなしに斯う云いました。
「ふん、そうかい、誰だって同じことだな。さあ僕は今日もいそがしい。もうさよなら。」
又三郎のかたちはもうみんなの前にありませんでした。みんなはばらばら丘《おか》をおりました。
風野又三郎(九月十日)
「ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ、
ああまいざくろも吹《ふ》きとばせ、
すっぱいざくろも吹きとばせ、
ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ
ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ。」
先《さき》頃《ごろ》又三郎から聴《き》いたばかりのその歌を一郎は夢《ゆめ》の中でまたきいたのです。
びっくりして跳《は》ね起《お》きて見ましたら外ではほんとうにひどく風が吹いてうしろの林はまるで咆《ほ》えるよう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが障《しよう》子《じ》や棚《たな》の上の提《ちよう》灯《ち》箱《んばこ》や家中いっぱいでした。
一郎はすばやく帯《おび》をしてそれから下《げ》駄《た》をはいて土《ど》間《ま》に下り馬《うま》屋《や》の前を通って潜《くぐ》りをあけましたら風がつめたい雨のつぶと一《いつ》緒《しよ》にどうっと入って来ました。馬屋のうしろの方で何かの戸がばたっと倒《たお》れ馬はぶるるっと鼻《はな》を鳴らしました。
一郎は風が胸《むね》の底《そこ》まで滲《し》み込《こ》んだように思ってはあと強く息《いき》を吐《は》きました。そして外へかけ出しました。
外はもうよほど明るく土はぬれておりました。家の前の栗《くり》の木の列《れつ》は変《へん》に青く白く見えてそれがまるで風と雨とで今洗《せん》濯《たく》をするとでも云《い》うように烈《はげ》しくもまれていました。青い葉《は》も二、三枚《まい》飛《と》び吹きちぎられた栗のいがは黒い地《じ》面《めん》にたくさん落《お》ちておりました。
空では雲がけわしい銀《ぎん》いろに光りどんどんどんどん北の方へ吹きとばされていました。
遠くの方の林はまるで海が荒《あ》れているようにごとんごとんと鳴ったりざあと聞えたりするのでした。一郎は顔や手につめたい雨の粒《つぶ》を投《な》げつけられ風にきものも取《と》って行かれそうになりながらだまってその音を聴《き》きすましじっと空を見あげました。もう又三郎が行ってしまったのだろうかそれとも先《さき》頃《ごろ》約《やく》束《そく》したように誰《だれ》かの目をさますうち少し待《ま》っていてくれたのかと考えて一郎は大へんさびしく胸がさらさらと波《なみ》をたてるように思いました。けれどもまたじっとその鳴って吠《ほ》えてうなってかけて行く風をみていますと今《こん》度《ど》は胸がどかどかなってくるのでした。昨日《きのう》まで丘《おか》や野原の空の底《そこ》に澄《す》みきってしんとしていた風どもが今《け》朝《さ》夜あけ方俄《にわ》かに一《いつ》斉《せい》に斯《こ》う動《うご》き出してどんどんどんどんタスカロラ海《かい》床《しよう》の北のはじをめがけて行くことを考えますともう一郎は顔がほてり息《いき》もはあ、はあ、なって自分までが一《いつ》緒《しよ》に空を翔《か》けて行くように胸を一《いつ》杯《ぱい》にはり手をひろげて叫《さけ》びました。「ドッドドドドウドドドウドドドウ、あまいざくろも吹《ふ》きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ、ドッドドドドウドドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドードドドウ。」その声はまるできれぎれに風にひきさかれて持《も》って行かれましたがそれと一緒にうしろの遠くの風の中から、斯《こ》ういう声がきれぎれに聞えたのです。
「ドッドドドドウドドドウドドドウ、
楢《なら》の木の葉《は》も引っちぎれ
とちもくるみもふきおとせ
ドッドドドドウドドドウドドドウ。」
一郎は声の来た栗《くり》の木の方を見ました。俄《にわ》かに頭の上で、
「さよなら、一郎さん。」と云《い》ったかと思うとその声はもう向《むこ》うのひのきのかきねの方へ行っていました。一郎は高く叫びました。
「又三郎さん。さよなら。」
かきねのずうっと向うで又三郎のガラスマントがぎらっと光りそれからあの赤い頬《ほお》とみだれた赤毛とがちらっと見えたと思うと、もうすうっと見えなくなってただ雲がどんどん飛《と》ぶばかり。一郎はせなか一杯風を受《う》けながら手をそっちへのばして立っていたのです。
「ああ烈《ひ》で風だ。今《こん》度《ど》はすっかりやらえる。一郎。ぬれる、入れ。」いつか一郎のおじいさんが潜《くぐ》りの処《ところ》でそらを見あげて立っていました。一郎は早く仕《し》度《たく》をして学校へ行ってみんなに又三郎のさようならを伝《つた》えたいと思って少しもどかしく思いながらいそいで家の中へ入りました。
注 釈
『インドラの網』
*インドラの網《あみ》 インドラ(帝《たい》釈《しやく》天《てん》)は天界の王で、世界の中心に聳《そび》える須《しゆ》弥《み》山《せん》の頂上に宮《きゆう》殿《でん》があり、屋根には結び目ごとに美しい玉がついた網《あみ》がかかる。個人は世界と無限に関係しあっているという重《じゆう》々《じゆう》無《む》尽《じん》思想(『華《け》厳《ごん》経《きよう》』の重要思想)の比《ひ》喩《ゆ》。
*ツェラ高原 チベット高原を念頭に置いた架《か》空《くう》の高原。
*高《カオ》陵《リン》産《さん》 高陵は、有名な中国の景《けい》徳《とく》鎮《ちん》の磁器の原材料(カオリナイト)を産出する地名。
*まっ白な湖《みずうみ》 チベットの鹹《かん》湖《こ》のイメージ。出口がないため塩がたまって岸が白くなる。
*複《ふく》六《ろく》方《ほう》錐《すい》 鉱物の結《けつ》晶《しよう》の形。十二辺の三《さん》角《かく》錐《すい》のことだが、ここでは六方両錐(六辺の三角錐の上下合体)のこと。地球上の砂の大部分が六方晶系の石英(水《すい》晶《しよう》)であることを踏《ふ》まえた表現。六方晶系には、ルビー、サファイア、エメラルド等の宝石類も含《ふく》まれる。
*石《せき》英《えい》安《あん》山《ざん》岩《がん》 石英を多く含む安山岩。
*流《りゆう》紋《もん》岩《がん》 ライオライト。化学成分は花《か》崗《こう》岩《がん》とほぼ同じながら、無《む》水《すい》珪《けい》酸《さん》(石英や正長石)を多く含《ふく》む火山岩。賢治のころはリパライトと呼ばれていたが、今日では石英粗《そ》面《めん》岩《がん》をリパライト、そのうち流《りゆう》紋《もん》構造の著しいものを流紋岩(ライオライト)と呼ぶ。
*過《か》冷《れい》却《きやく》 液体が凝《ぎよう》固《こ》点《てん》以下でも凝固しない状《じよう》況《きよう》をさす。天空の上層の状態。
*氷《こおり》相《そう》当《とう》官《かん》 過《か》冷《れい》却《きやく》の水は氷に相当するという意味。軍隊での呼びかたを利用した。
*鋼《こう》玉《ぎよく》 コランダム。ダイヤモンドに次いで堅《かた》い。透《とう》明《めい》な結《けつ》晶《しよう》がルビーやサファイア。
*金《こん》剛《ごう》石《せき》 金剛は最も堅《かた》いという意味。ダイヤモンドのこと。
*劈《へき》開《かい》 一定方向に割れる鉱物の性質のこと。
*青《せい》宝《ほう》玉《ぎよく》 サファイアのこと。
*黄《き》水《ずい》晶《しよう》 シトリン。安いトパーズとして利用される。
*鋼《こう》青《せい》 スチールブルーの訳語。暗《あん》灰《かい》青《せい》色《しよく》。
*天《てん》河《が》石《せき》 アマゾナイト。淡《たん》青《せい》色《しよく》にしばしば白色の部分が交じる。ここでは少し明るくなってきた明け方の空の様子。
*天 天人のこと。仏教では生物が輪《りん》廻《ね》転《てん》生《しよう》する世界を6種類に分けるが、その中で最も欲望が少なくて、苦しみも少ない世界(天界)の住人。
*由《ゆ》旬《じゆん》 インドの距《きよ》離《り》単位ヨジャーナの訳語。諸説あるが大体15キロメートル。
*瓔《よう》珞《らく》 仏像、天人像などに見られる宝《ほう》珠《しゆ》のついた首《くび》飾《かざ》り。
*昧《まい》爽《そう》 賢治は「まだき」ともルビをふる。薄《はく》明《めい》(夜明けの初期)。
*まるめろ バラ科の木。洋《よう》梨《なし》形の果実は香《かおり》が強く、ジャム等にする。カリンと混同される。
*葡《ぶ》萄《どう》瑪《め》瑙《のう》 空の色が変わる様子を縞《しま》模《も》様《よう》を特《とく》徴《ちよう》とする瑪《め》瑙《のう》にたとえたもの。瑪瑙は水《すい》晶《しよう》と同じ珪《けい》酸《さん》を成分とする半《はん》透《とう》明《めい》な微《び》結《けつ》晶《しよう》の集合で、大きめの葡《ぶ》萄《どう》の房《ふさ》状《じよう》で出土する。
*ガンダーラ系《けい》統《とう》 アレキサンダー大王の東《とう》征《せい》の影《えい》響《きよう》で、ガンダーラ地方で盛んになった、ギリシャ彫刻風の写実的な仏教美術。
*于《コウ》〓《タン》 タリム盆《ぼん》地《ち》にあるホータンの古名。M・スタインが廃《はい》墟《きよ》を発《はつ》掘《くつ》した。この作品では、スタインがミーランで発掘した有《ゆう》翼《よく》天使像(キューピット)を念頭に置いている。
*青《あお》木《き》晃《あきら》 『秘密の国 西《チベ》蔵《ツト》遊記』を記した青木文教を踏《ふ》まえた表現と思われる。
*寂《じや》 《く》静《じよう》印《いん》 涅《ね》槃《はん》寂《じやく》静《じよう》印《いん》。三法印のひとつ。諸行無常、諸法無我とあわせた三法印は、仏教思想であることの絶対基準。寂静は煩《ぼん》悩《のう》を滅《めつ》した悟《さと》りの境地で、仏典では清《せい》澄《ちよう》な湖にたとえる。
*硅《けい》砂《しや》 硅《けい》(珪《けい》)はシリカのこと。砂のほとんどはシリカを成分とする石英である。
*スペクトル プリズムなどに入光する際に、屈《くつ》折《せつ》率《りつ》の違《ちが》いによって、虹《にじ》のように何色にも分解すること。ここではインドラの網《あみ》の結び目にある宝石による光の反射。
*蒼《あお》孔《く》雀《じやく》 賢治の好む天界のイメージで、他に『春と修《しゆ》羅《ら》』の序文や『氷と後光』等。
『雁の童子』
*流《る》沙《さ》 中国の西北西にひろがるタクラマカン砂《さ》漠《ばく》のこと。
*沙《さ》車《しや》 タクラマカン砂《さ》漠《ばく》のシルクロード都市、ヤルカンドの古代国家時代の名前。
*眷《けん》属《ぞく》 一族、家来、身内。
*浅《あさ》黄《ぎ》の瑪《め》瑙《のう》 浅《あさ》黄《ぎ》は浅葱とも記し、薄《うす》い水色。瑪《め》瑙《のう》は玉《ぎよく》髄《ずい》(↓玉髄の雲の峯)の一種で、縞《しま》模《も》様《よう》がある玉髄のこと。
*外《げ》道《どう》 仏教徒からみて他の宗教の信者のこと。
*天山 中国とキルギスタンとの国境付近にある山脈。タリム盆《ぼん》地《ち》の北に聳《そび》える。賢治はシルクロードのイメージを好んだ。他に詩『春と修《しゆ》羅《ら》』等。
*玉《ぎよく》髄《ずい》の雲の峯《みね》 石英の潜《せん》晶《しよう》質《しつ》で半透明なものを玉《ぎよく》髄《ずい》といい、しばしば馬の脳みそ状(瑪《め》瑙《のう》の語源)やブドウ状を呈《てい》するので、賢治は雲の形状を表す比《ひ》喩《ゆ》に使った。
*善逝《スガタ》 sugata(梵《ぼん》語《ご》)。よく到《とう》達《たつ》した者。悟《さと》った者。仏の十号のひとつ。
*無《む》上《じよう》菩《ぼ》提《だい》 無上は最高、の意味。菩《ぼ》提《だい》は悟《さと》りの意味。
『学者アラムハラドの見た着物』
*阿耨《あのく》達《だつ》池《ち》 仏教で、大雪山の北にあり、四大川の源流とされる湖。チベット高原のマナサロワール湖がモデルで、スヴェン・ヘディンや河口慧《え》海《かい》の探検記を賢治は読んでいた。
*葱嶺《パミール》 タジク共和国にある、天山山脈に囲まれた高原。世界の屋根と呼ばれる。
*みそさざい 茶《ちや》褐《かつ》色《しよく》の、日本で一番小さな鳥。高音でツリツリリリリと鳴く。
*ひわ 萌《もえ》黄《ぎ》色《いろ》で小型の冬の渡《わた》り鳥。ビィンビィンと鳴く。
*かけす カラス科の中型の鳥。紫《むらさき》色《いろ》に黒と白の模様がある。ギャーギャーと鳴く。
*辛《しん》度《ど》の流《なが》れ インダス川。
*なつめの木 「夏芽」の意味。ヨーロッパ南部からアジア西南部の乾《かん》燥《そう》地帯に多い。実《み》は薬用。釈《しや》迦《か》が修行中に食したもののひとつ。
*ヴェーッサンタラ大王 釈《しや》迦《か》の前世の一人。望月信亨編『仏教大辞典』によれば、須《しゆ》大《だい》拏《ぬ》王子のパーリ語名(↓『ビジテリアン大祭』の「檀《だん》特《とく》山《せん》」の語注参照)。
*檀《だん》波《ば》羅《ら》蜜《みつ》 檀《だん》は布《ふ》施《せ》のこと。波《は》羅《ら》蜜《みつ》は菩《ぼ》薩《さつ》になるために行う修行。
『三人兄弟の医者と北守将軍(韻文形)』
*猿《さる》おがせ 地衣類サルオガセ科の総《そう》称《しよう》。とろろ昆《こん》布《ぶ》に似た淡《うす》緑《みどり》の糸状のものを垂らす。
*鮒《ふな》のような近《きん》眼《がん》 末広恭雄『目から鱗《うろこ》の落ちる話』によれば、魚はすべて近眼である。
*エーテル 麻《ま》酔《すい》剤《ざい》。
*リウマチ リウマチスとも。関節や筋肉が痛んだり腫《は》れたりする病気で、原因は不明。
『竜と詩人』
*竜《りゆう》 蛇《へび》の神秘的な力を神話化した空想の動物。蛇との違《ちが》いは天上を飛《ひ》翔《しよう》すること。水神としても有名(竜神池は各地にある)。賢治は蛇を修《しゆ》羅《ら》的な生き方のシンボルに使い、改心して天上に生まれ変わろうとする生き方を竜《りゆう》として描《えが》いた(「手紙一」等)。『法《ほ》華《けき》経《よう》』には有名な竜女成《じよう》仏《ぶつ》の話がある。
*偈《げ》 頌《しよう》とも言う。教理等を歌いやすい韻《いん》文《ぶん》形式にしたもの。
『チュウリップの幻術』
*有《ある》平《へい》糖《とう》 ポルトガルから伝わった菓《か》子《し》。砂糖と水《みず》弄《あめ》を使い様々に色づけする。
*園《えん》丁《てい》 ガーデナー。庭師。
*独乙《ドイツ》唐《とう》檜《ひ》 マツ科の常緑高木。下枝が垂れるのでドイツ等で防雪林、防風林に使われる。日本でも東北や北海道に造林されている。盛岡高等農林学校(現岩手大学)にもあった。
*キャラコ 目が細かい平織りの白色綿布。岩手では、北上市が江戸時代から傘《かさ》の産地であったが、洋傘の進出で明治末には衰《おとろ》えた。
*土《ト》耳《ル》古《コ》玉《だま》 トルコ石。中近東原産。明るい青色を呈《てい》し、賢治は晴れた空のたとえによく使う。
*うっこんこう 鬱金香。日本ではチューリップの漢名として使われた。本来はサフランを指す。
*エステル アルコールと酸から水を分《ぶん》離《り》して生成する化合物。果実の芳《ほう》香《こう》成《せい》分《ぶん》。
*花《はな》椰《や》菜《さい》 カリフラワーのこと。
*擲《グレ》弾《ナデ》兵《ーア》 近《きん》距《きよ》離《り》から爆《ばく》発《はつ》物《ぶつ》を発射する歩兵。原田政右衛門の『大日本兵語辞典』(大正10)によれば、日本には存在しないが、欧《おう》州《しゆう》には19世紀末ころまで存在していたという。
『さるのこしかけ』
*さるのこしかけ 古い木の根元に寄生する大型のきのこ。
*種《たね》山《やま》ケ《が》原《はら》 水《みず》沢《さわ》市の東方にある標高八〇〇メートル程の高原。賢治が特に好んだ場所で、牧場があり、各種の花がさき誇《ほこ》る。『風の又三郎』や詩「種山ケ原」の舞《ぶ》台《たい》。
*山《やま》男《おとこ》 山《やま》奥《おく》に住むといわれる怪《かい》人《じん》。『遠野物語』にも多く登場し、悪さをする。しかし賢治童話では金色目玉で人の好いデクノボー。『山男の四月』『紫《し》紺《こん》染《ぞめ》について』等に登場。
『楢ノ木大学士の野宿』
*貝の火 貝オパールをヒントにした賢治の造語。メキシコ産のファイヤオパールをモデルにしたのが童話『貝の火』。
*蛋《たん》白《ぱく》石《せき》 オパール。二酸化珪《けい》素《そ》からなる半《はん》透《とう》明《めい》な鉱物。名前の由来は卵の白身に似ているため。透明度が高い貴《き》蛋《たん》白《ぱく》石《せき》(プレシャスオパール)は高価だが、保存が難しい。
*流《りゆう》紋《もん》玻《は》璃《り》 オパールには、オーストラリアのような堆《たい》積《せき》岩《がん》中からの産出の場合と、メキシコのような、流《りゆう》紋《もん》岩《がん》の空《くう》隙げき部《ぶ》からの産出の場合があり、ここでは後者。玻《は》璃《り》は珪《けい》酸《さん》質《しつ》のこと。
*紅《ル》宝《ビ》玉《ー》 鋼《こう》玉《ぎよく》(コランダム)の酸化クロムを含《ふく》んだ赤色の結《けつ》晶《しよう》。主産地はビルマとスリランカ。ダイヤモンドに次いで堅《かた》く、産出量も少ないので極めて高価。
*葛《くず》丸《まる》川 奥《おう》羽《う》山地から石《いし》鳥《どり》谷《や》町を流れる北上川の支流のひとつ。賢治は地質調査で訪れている。
*イーハトブさん 岩手山のこと。
*ヒームカさん 姫《ひめ》神《かみ》山《やま》のこと。山容が女性的。
*蛇《じや》紋《もん》石《せき》 蛇《へび》のような紋《もん》を呈《てい》する変成岩。賢治は「サーペンタイン」と呼ぶ。
*火から生れた〜水の中で生れた 火成岩と水成岩のこと。
*カンランガン カンラン石を主成分とする岩石。風化して蛇《じや》紋《もん》岩《がん》になりやすい。
*岩《がん》漿《しよう》 マグマのこと。地下深くにある溶《と》けた造岩物質。
*熊《くま》出《で》街《かい》道《どう》 架《か》空《くう》の街道。このあたりに生息する熊《くま》達《たち》を描《えが》いた『なめとこ山の熊』がある。
*角《かく》閃《せん》花《か》崗《こう》岩《がん》 黒《くろ》雲《うん》母《も》が少なく角《かく》閃《せん》石《せき》が主成分となった花《か》崗《こう》岩《がん》のこと。以下に登場する石達はこの岩石の成分で、縄《なわ》張《ば》り争いをする。
*榾《ほだ》 炉《ろ》にくべる薪《たきぎ》。
*ホンブレン 角《かく》閃《せん》石《せき》(ホルンブレンド)。褐《かつ》黒《こく》色《しよく》の造岩鉱物。薄《うす》い裂《れつ》片《ぺん》は光を透《す》かす。
*ジッコ 磁鉄鉱(マグネタイト)。天然磁石とも言い、金属光《こう》沢《たく》のある鉄黒色。砂鉄の元。
*バイオタイト 黒雲《うん》母《も》。雲《うん》母《も》は層状の珪《けい》酸《さん》塩《えん》鉱物で、ガラス光《こう》沢《たく》と、薄《うす》く剥《は》げることで知られる。黒雲母はナトリウムを含《ふく》む雲母で、火成岩の主成分のひとつ。
*オーソクレ 正長石(オーソクレース)。地《ち》殻《かく》の半分を占《し》める造岩鉱物である長石のうち、カリウムを含《ふく》む長石類の一種。本文に「双子」とあるのは、双《そう》晶《しよう》(カルルスバッド式等)となることが多いため。美しいものは、天《てん》河《が》石《せき》(↓『インドラの網《あみ》』)、月長石等の飾《かざ》り石や宝石となる。
*コングロメレート 礫《れき》岩《がん》。小さな岩や砂が固まった堆《たい》積《せき》岩《がん》。
*プラジョ 斜《しや》長《ちよう》石《せき》(プラジョクレース)。曹《そう》長《ちよう》石《せき》と灰長石の総《そう》称《しよう》。白色のものが多く、曹長石には美しい紺《こん》青《じよう》を呈《てい》するものもある(ラブラドライト)。
*へきかい予《よ》備《び》面《めん》 劈《へき》開《かい》とは一定方向に割れること。予備は間もなく割れること。
*りょくでい病《びよう》 緑《りよ》 《く》泥《でい》病。雲《うん》母《も》が風化して緑泥石に変質することを擬《ぎ》人《じん》化《か》した表現。
*蛭《ひる》石《いし》病《びよう》 雲《うん》母《も》が風化(↓風病)して蛭《ひる》石《いし》になることを擬《ぎ》人《じん》化《か》した表現。
*ふう病《びよう》 岩石の風化を擬《ぎ》人《じん》化《か》したもの。風化とは酸素による岩石の酸化のこと。
*カオリン病《びよう》 斜《しや》長《ちよう》石《せき》(プラジョクレース)や正長石(オーソクレース)が、風化して高《こう》陵《りよう》石《せき》(カオリナイト)に変質することを擬《ぎ》人《じん》化《か》した表現。
*クォーツ 石英。珪《けい》酸《さん》からなる鉱《こう》物《ぶつ》。透《とう》明《めい》なものが水《すい》晶《しよう》。玉《ぎよく》髄《ずい》や瑪《め》瑙《のう》は隠《いん》微《び》晶《しよう》質《しつ》の石英。
*クウショウ 空《くう》晶《しよう》。規則正しい結《けつ》晶《しよう》の形の空《くう》洞《どう》が鉱物内にあること。
*頁《けつ》岩《がん》 泥《でい》岩《がん》が圧力で硬《こう》化《か》して薄《うす》く剥《は》がれるようになった堆《たい》積《せき》岩《がん》。しばしば化石を含《ふく》む。
*洞《どう》窟《くつ》住《じゆう》人《にん》 ネアンデルタール人を念頭に置いた表現。賢治は「原人」とも表現する。賢治は詩「休息」等で、現代人のある種の心的現象を、洞《どう》窟《くつ》人類の記《き》憶《おく》の蘇《よみがえ》りと捉《とら》える。
*第《だい》三《さん》紀《き》 地質年代のひとつ。哺《ほ》乳《にゆう》類《るい》の時代(新生代)の初めの時期。約六五〇〇万年前から二〇〇万年前まで。末期に人類が出現した。
*白《はく》堊《あ》紀《き》 中生代の最後の時代。恐《きよう》竜《りゆう》が栄えたが、末期に突《とつ》如《じよ》絶《ぜつ》滅《めつ》した。白《はく》堊《あ》紀《き》の名は、イギリスのドーヴァー海《かい》峡《きよう》に見られる白い地層から。賢治は北上川の白っぽい海岸(ここは第三紀の頁《けつ》岩《がん》)を白堊紀層になぞらえてイギリス海岸と呼んだ。恐竜は賢治にとって進化論心理学から見た修《しゆ》羅《ら》のイメージのひとつなので、この海岸を「修羅のなぎさ」と歌った。
*蟇《がま》の形の足あと 恐《きよう》竜《りゆう》は爬《は》虫《ちゆう》類《るい》で、蟇《がま》は両生類だが、爬虫類は両生類から進化したから、蟇の形を残しているということ。
*雷《らい》竜《りゆう》 体重が10トンにも達する巨《きよ》大《だい》草食恐《きよう》竜《りゆう》。ブロントザウルス(アパトサウルス)が代表。体重を支えるために水辺に住んだと言われていた。
*中《ちゆう》生《せい》代《だい》 爬《は》虫《ちゆう》類《るい》の時代という意味。二億五〇〇〇万年前から六五〇〇万年前まで。恐《きよう》竜《りゆう》が地球上を闊《かつ》歩《ぽ》した。
*蛇《へび》に似《に》たその頭 恐《きよう》竜《りゆう》は蛇《へび》と同じ爬《は》虫《ちゆう》類《るい》だから。蛇は賢治にとって修《しゆ》羅《ら》の具体的なイメージ。特に蛇と結びついた赤眼は賢治文学のあちこちに恐《おそ》ろしい生物の目として登場する。
*沖《ちゆう》積《せき》世《せい》 地質年代でいう現代のこと。
『風野又三郎』
*ちょうはあぶどり はやし言葉。意味は不明。
*なして泣《な》いでら、うなかもたのが 「なぜ泣いてるの、おまえがいじめたのか」の方言。
*わらす 方言。わらし、童子。子供の意味。
*風《かぜ》野《の》又《また》三《さぶ》郎《ろう》 風の精である又三郎が人間風に名乗ったもの。
*ロシヤ人か 髪《かみ》の毛が赤いから。
*琥《こ》珀《はく》 松《まつ》脂《やに》の化石で、つやのある暗《あん》褐《かつ》色《しよく》。賢治は太陽光線を「琥《こ》珀《はく》のかけら」と表現する。
*とかげの形の雲 琥《こ》珀《はく》中に時々、小動物の化石が見られることを踏《ふ》まえた表現。
*お苗《なわ》代《しろ》や御《お》釜《かま》火《か》口《こう》湖《こ》 岩手山の山頂の西側、窪《くぼ》みである八つ目湿《しつ》原《げん》にある二つの池。
*タスカロラ海《かい》床《しよう》 日本列島の東北、千《ち》島《しま》・カムチャツカ海《かい》溝《こう》(古くは日本海溝の一部と見なされた)の中央付近にある深所。正しくはタスカロラ海《かい》淵《えん》。
*高《たか》洞《ほら》山《やま》 盛《もり》岡《おか》市の北東6キロにある標高五二二メートルの山。
*サイクルホール 「循《じゆん》環《かん》する穴《あな》」の意味の造語。竜《たつ》巻《まき》からのイメージ。空気が回転しながら上《じよう》昇《しよう》する気流(低気圧)のこと。逆サイクルホールは高気圧のこと。
*かまいたぢ 局地的な上《じよう》昇《しよう》気流の、真空に近い中心部によって皮《ひ》膚《ふ》などが切れる現象。
*日《ひ》詰《づめ》の近くに源《げん》五《ご》沼《ぬま》 日《ひ》詰《づめ》駅の南南東1キロにある五《ご》郎《ろう》沼《ぬま》のことか。
*シベリヤに行って 西高東低の気圧配置。冷たいシベリヤ高気圧から北風が来る。
*別《べつ》に大きな逆《ぎやく》サイクルホール オホーツク高気圧のこと。強いと「やませ」が吹《ふ》いて冷害を引き起こす。
*颶《ぐ》風《ふう》 熱帯低気圧(強いものは台風)の旧《きゆう》称《しよう》。
*水《みず》沢《さわ》の臨《りん》時《じ》緯《い》度《ど》観《かん》測《そく》所《しよ》 世界6カ所の緯《い》度《ど》観測所。明治32年設立。
*木村博《はか》士《せ》 水《みず》沢《さわ》緯《い》度《ど》観測所の初代所長木村栄《ひさし》のこと。緯度変化に第三の座《ざ》標《ひよう》軸《じく》を発見したことで有名。
*シャッポ 帽《ぼう》子《し》のこと。フランス語のシャポーから来た語。
*おれぁあんまり怒《ごしや》で悪《わる》がた 「僕《ぼく》はあんまり怒《おこ》って悪かった」の方言。
*大《だい》循《じゆん》環《かん》 熱の伝導の原理で、地球全体として南から北、北から南に空気が循《じゆん》環《かん》すること。
*ギルバート群《ぐん》島《とう》 赤道直下の中部太平洋にある。イギリスの保護領。
*赤《せき》道《どう》無《む》風《ふう》帯《たい》 赤道付近の低気圧帯。南北の貿易風に挟《はさ》まれて風が弱い。
*緑《りよく》柱《ちゆう》石《せき》 エメラルドのこと。
*ゲーキイ湾《わん》 実在しない湾《わん》。アーキバルド・ゲーキイはイギリスの地質学者で、賢治の盛《もり》岡《おか》高等農林学校における卒業論文中にその名前が挙げられている。
*テッデーベーヤ アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが狩《しゆ》猟《りよう》の際、子《こ》熊《ぐま》を助けたことにちなんで、20世紀初頭にドイツで誕《たん》生《じよう》した熊のぬいぐるみ。テッディは大統領の愛《あい》称《しよう》。
大 塚 常 樹
宮沢賢治文庫本文について
〓底本には「新校本 宮澤賢治全集」(筑摩書房 平7・5―)を使用させていただいた。
〓底本の旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めた。
〓小学生からでも読めることを目的とし、教育用漢字学年別配当表第一・二学年に含まれるもの以外の漢字には振仮名をつけた。ただし繁を避けるため適宜間を置いた。
〓漢字の読み方は一般的なものをとるように心がけた。難読のものは多く「ちくま文庫版 宮沢賢治全集」(筑摩書房 昭60・12―平7・4)を参照した。
〓表記は原則として底本に従ったが、通常と著しく異なる漢字表記を改めたり、一部の漢字を仮名に変えたりしたところがある。
〓句読点・字あき・字下げ・行あき・改行・追い込みなどは原則として底本に従ったが、著しく統一性を欠く場合や不自然な場合は変更して形を整えた。
〓疑問があっても底本の形をそのままのこさざるをえなかった場合は、該当箇所に(ママ)と注記した。
〓本文中には、現代の人権擁護の見地からは差別語と考えられるものもあるが、時代的背景と作品価値を考え合わせ、底本のままとした。
(編集部)
インドラの網《あみ》
宮《みや》沢《ざわ》賢《けん》治《じ》
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平成14年12月13日 発行
発行者  福田峰夫
発行所  株式会社  角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『インドラの網』平成8年4月25日 初版発行
平成8年6月20日 再版発行