宮崎康平
まぼろしの邪馬台国
目 次
新版の発行にあたって
まえがき
第一部 白い杖の視点
第一章 音表で解釈しなければ解けぬ記紀の謎
一 失明は天与の命
二 意外な記紀の謎
三 古代史とバナナ
第二章 米栽培の二つの流れ
一 バナナと私
二 オリザ・サチヴァ・ヤポニカ
三 押潮《おうちよう》灌漑法とクマ農業
第三章 日の国と筑紫の国の出現
一 日の意味は太陽ではない
二 筑紫とは
三 国文学への提言
第四章 眼底にうつるふるさとの映像
一 嵐をよぶ壁画
二 三千年めの光
三 日本最大の支石墓群
四 鉄鏃への疑惑
五 手さぐりで発見した前期古墳
第五章 帆柱の文化
一 天に向かって造られた前方後円墳
二 白秋《はくしゆう》詩碑
三 詩碑と古墳
四 古墳築造の秘密
五 地上に移された帆柱
第六章 妻が作った私の地図
一 火の雲
二 遠賀川
第七章 黄金に魅せられた古代人たち
一 サの神
二 銅鐸《どうたく》と神籠石《こうごいし》
三 黄金の夢
第八章 考古学への失望と期待
一 邪馬台国を捜すのに考古学は頼りになるか
二 副葬品に対する考え方の限界
三 盗掘された古墳
四 わざわいする学説
第九章 邪馬台国を捜すための基本条件
一 自説のための倭人伝
二 邪馬台国の語義
三 不十分な統属国研究
第十章 海道の国々
一 国名解釈のアプローチ
二 狗邪韓国
三 対馬国
四 一大国
第二部 伊都から邪馬台への道
第一章 東南陸行
一 末盧国
二 伊都国
三 糸島水道
四 邪馬台軍の基地
第二章 金印と稲
一 誤ってはならぬ邪馬台国への道標
二 奴国と不弥国
三 弥生文化の開花地
四 奴国と不弥国の中心地
五 イネつくりと稲城
六 二つの金印
七 奴国と仲哀天皇
八 神話と観光
第三章 プラモデルの国々
一 目の前に並んでいた邪馬台連合
二 和名抄の啓示
三 国名比定の三条件
第四章 筑後川流域にひろがっていた国々
一 烏奴国
二 支惟国
三 巴利国
四 躬臣国
五 邪馬国
第五章 菊池川から阿蘇をめぐる国々
一 鬼奴国
二 為吾国
三 鬼 国
四 華奴蘇奴国
五 呼邑国
六 蘇奴国
七 対蘇国
第六章 緑川から八代海沿岸の国々
一 姐奴国
二 不呼国
三 好古都国
四 投馬国
五 狗奴国
第七章 高塚古墳の畿内発生説が崩れる日
一 神話への復帰
二 ある日の古墳捜しから
三 壺形土師器が示唆するもの
四 静かに眠る女王の遺体
五 日本で最後に夕日の沈む島
第八章 有明海の西岸へもひろがる邪馬台連合
一 邪馬台連合の南限と配列の分岐点
二 弥奴国
三 郡支国
四 伊邪国
五 已百支国
六 斯馬国
第九章 女王の都する国
一 金印への思慕
二 邪馬台国諸論への提言
三 南は南
四 邪馬台国
五 実証の水行十日
六 筑紫の碑文《いしぶみ》
第十章 邪馬台国の展望
一 予期せざる傍証
二 黄海北路、黄海南路
三 神話と史実
四 石鍋の秘密
おことわり
付録
長崎県の弥生遺跡
長崎県の古墳
年 譜
新版の発行にあたって
早いもので、本書をはじめて公《おおやけ》にしてから、もう十余年になる。ご記憶の方もあられると思うが、実は当初、手許の原稿を半分にはしょって出版していたので言いつくせない点が多く、続篇の出版を予告していた。ところが、その準備にとりかかったところ、仕事が終わらないうちに全国の読者から五万通をこえる激励や催促が、どっと押し寄せ、私はこの意外な反響に圧倒された。その上、見も知らぬ人からのひっきりなしの電話や、予期しない来訪者の応対に忙殺されて、身辺はまったく騒然となり、とても執筆どころではなかった。
そうしたある日、これまで考えていた続篇では、これらの読者の方々は、とうてい満足してくれまい、もっともっと掘り下げた私の古代史全般に対する考え方も要求されているので、少し発刊はおくれるが、思いきって予定の原稿の内容を変更し、さらに拡大して読者の期待に応えようと決心した。その上、予想もしなかった莫大な印税収入が精神的な負担となって憂鬱《ゆううつ》な日が続いていたので、ひと思いにこの印税を一銭のこらず次の研究費につぎこもう、もともとこの印税は、一冊一冊購読して支払われた読者のものではないのか、これをすべて読者に還元しよう。そのつもりで心機一転して、さらに困難な古代史と取り組むことが私の義務だと考えたのである。
しかし掘り起こせば起こすほど古代史の根は深く、歩けば歩くほど邪馬台国への道は遠かった。この間十年、実証的な我が研究はエスカレートにエスカレートを重ねて、心ならずものびのびになり、多くの読者からきびしい督促や叱責を受けたが、ここにようやく一応の結論を得たので、近く『我が邪馬台国と古代史探究』全五巻を刊行して読者の批判を仰ぎたいと思っている。本書はそのため、この続篇のプロローグとする目的で改訂した。
改訂に当たっては、できるだけ既刊の内容と体裁を生かし、やむを得ないところだけを改筆し、また補筆した。特に読者から質問の多かった、わかりにくいといわれた点や、難解だとか意味がいくつにもとれるといわれた個所については、平易ではっきりするように改めた。そして本書が続篇の序論としての役目を果たすために、ある重要な個所や全体の流れに幾分軌道修正を加えたことを、ことわっておく。
なおこの機会に著者としての希望をいわせてもらえば、邪馬台国に関心をよせられるのも結構だが、願わくは第一部の「白い杖の視点」を、納得のゆくまで繰り返し読んでいただきたいことである。
顧《かえり》みれば、私が前著を出版してからこの十年間に百冊をこえる邪馬台国に関する本が陸続と出版され、今も続いている。中には傾聴に値するものもあったが、大半はこじつけが多く、倭人伝そのものから逸脱したり、基本的な歴史のルールを無視して、是が非でも邪馬台国の気球をあげねばといった暴論まで加わり、正に百家争鳴の観がある。歴史を国民の手に取りもどそうと呼びかけた当初の私の希望は、その意味で達せられたかもしれないが、出版された書籍の数に反して、質的にはむしろ低下しているような感じさえ受ける。特に残念なことには、発想から構想まで地名をかえただけで拙著にそっくりのものや、明らかに拙著にヒントを得て一《ひと》ひねりか二《ふた》ひねりしただけの厚かましい著書もあった。それらの中には多分に著作権を侵害している個所もあるが、私は大人《おとな》げないので、いちいち取り上げて問題にしようとは思わない。要するにそうしたことは賢明な読者の判断とご批判にまつほかはないと考えるからである。
本書にはなお疑問の点や不十分な個所を多く残していると思う。近刊の続篇をご通読いただき、疑問をはらしてもらえれば幸いである。
また今回の新版は、すでに二年程前に、ほとんど書き上げていたが、生来の筆不精と雑事にかまけて最終的な編集を怠ったため、講談社にも迷惑をかけてしまった。
装幀は前と同じように、今回も永田力君を煩わしたが、それも一年半前に仕上げてもらっていたのに、まったく申しわけない。そのほか、激励やご指導、ご援助をいただいた各位に、この紙面を借りて衷心より感謝申し上げる。
昭和五十四年 秋
宮崎康平
まえがき
スウェン・ヘディンによって発見されるまで、タクラマカン砂漠の砂塵におおわれ、タリム盆地のロブノール湖畔に眠っていた樓蘭《ろうらん》王国のように、邪馬臺国は、きっと有明海《ありあけかい》沿岸のどこかに眠っている。
千七百年の風霜《ふうそう》の中で、あるいは女王|卑彌呼《ひみこ》の百余歩の墓は潰《つい》え去り、その残土すらいまはとどめていないかもしれない。だが、幾多の地変から免《まぬか》れ、津波にもけずり取られず、さいわい往古の残骸が名もない芋《いも》畑となって、かつてホメロスの詩をひたすら信じ、ヒッサリークの丘を発掘して神話と伝説のトロヤを世界の人々に示し、現代考古学の扉を開いたハインリッヒ・シュリーマンを、邪馬臺国が待っていないと、だれが断言できよう。
放棄された王墓の谷間から発掘された、ツタンカーメンの黄金のマスクの輝きにもまして、邪馬臺国が持つなんとすばらしい魅力!
新井白石《あらいはくせき》、本居宣長《もとおりのりなが》以来、わが国の国文学、歴史学、考古学があげて探し求めてきた邪馬臺国。それはわが国に関して二千字を費《つい》やした、まとまった最古の記録である中国の三世紀後半に書かれた『三国志』六十五巻のうち「魏志《ぎし》」巻《まき》三十、烏丸鮮卑東夷伝《うがんせんぴとういでん》・倭人《わじん》の項、通称『魏志倭人伝《ぎしわじんでん》』にしるされた女王の国。
この邪馬臺がヤマトとも読めるというので、倭人伝の解釈をめぐって、女王国がいまの幾内《きない》大和《やまと》地方だったのか、九州に存在したのか、主張はいまもって両派にわかれ、その確たる手がかりさえつかめないでいる。
私がこの邪馬臺国の名をはじめて知ったのは、横光利一の『日輪』で、三十年ほど前であった。それから文学部へ進み、今は亡き恩師|津田左右吉《つだそうきち》先生の講義を聞くに及んで、その名はますます私を捉えた。
戦後に学んだ人や、最近の学生は嘘《うそ》と思うだろう。その頃、私らは教室の扉を固く閉ざして講義を聞いた。数人の学生を前に、記紀歌謡の研究や日本古代史に熱弁をふるわれる先生の声は真剣そのものだった。いや当時としては命がけだったかもしれない。国をあげて皇紀二千六百年の大祝典を催そうとする折も折、応神以前の天皇はいかがわしいときめつけられるのだから、聞いているわれわれも、ハラハラした。はたせるかな、先生は昭和十五年、阿世の学者や一部の便乗者たちの讒《ざん》によって投獄の憂き目に遭われた。私はこの難を聞いたとき、怒りとくやしさに涙があふれた。そして邪馬臺国はきっと私らの手によってさがしてみせると心に誓った。
それから「邪馬臺国」の四文字は、かたときたりとも脳裡を去らず、幻《まぼろし》のように身辺に去来しつづけた。 たとえば戦いたけなわな日、夜空に炸裂《さくれつ》する焼夷弾や爆弾の光芒《こうぼう》をみつめては、落下してゆく地点が取り返しのつかぬ卑彌呼の百歩の冢に、すべて集中しているかのような焦慮と錯覚に襲われたり、破れた戎衣《じゆうい》に身をやつし、掘りかえした丘の防空壕の一塊の土にも、キラキラと光るものがあれば、よもやと知りながらも親魏倭王《しんぎわおう》の金印ではないかと、駆けよろうとしたことさえあった。
かくて終戦は無慈悲にも、私に失明を与えた。それから十五年、なお白い杖にすがりながら、とぼとぼとまぼろしの国を探し求めてさまよい歩き、いまやっとその周辺にたどり着いたような気がする。
戦後、古代王朝の論議や邪馬臺国論もおおっぴらにできるようになり、幾多のすぐれた研究も発表され、考古学もめざましい展開をみせている。だが、いまだに邪馬臺国は確定しない。それは、これらの歴史観に「かくあるべきだ」という精神が底流となって、恐るべき自己埋没が矛盾と混乱を生んでいるからであろう。素朴で純粋なものに対しては、幼稚、低級、非科学的だと考える自負心が、いまや歴史を喪失したその手で、古代史を墨くろぐろと本来の意味さえ判別できないほどに塗りつぶしているのである。
私ら九州の者は、郷里の遺跡と文化財と風土を真剣にみつめ、いまこそねじ曲げられた邪馬臺国への道と、一部の学者によってもみくちゃにされた歴史のページを国民の手に取りもどし、自由な者たちの手で、そのしわをのばそう。こう呼びかけたい気持ちもあって、本書は去る昭和四十年春から約一年にわたり、同じ表題で「九州文学」に連載したものを、今回、講談社の好意で一冊にまとめたものである(後日のため時間的な経過をここに明らかにしておく)。
本書はまた、考えようでは、妻とともに手さぐりで生き抜いてきた私の生活記録である。だから、私は、あえて私の比定する邪馬臺国を、ここが絶対的な邪馬臺国だとは必ずしも主張しない。それほどうぬぼれてもいなければ、自信がないわけでもない。ただ、自己対決の当然の所産としてたどり着いた邪馬臺国を世に問うことによって、ひとりでも多くの賛同者を得て、ますます歴史を国民の手に取りもどしたい気持ちでいっぱいである。
発刊にあたって、なにくれとなく心配してくれた、同郷で友人の画家|永田力《ながたりき》君には、渡欧の前夜まで、本書の装丁に心を砕いてもらった。また講談社では、失明している私のために、特に表題の九文字を、指先で触れてわかるようにと、わざわざ金版印刷までして気をくばってもらっている。そのほか、今日まで、不自由な私の研究に、こ指導やご好意をよせていただいた諸先生や先輩諸氏、ならびに在野の歴史家の方々、友人諸兄にも、本書をかりて心からお礼申し上げたい。
昭和四十一年 秋
有明海の岸辺にて 宮崎康平
第一部 白い杖の視点
第一章 音表で解釈しなければ解けぬ記紀の謎
一 失明は天与の命
執念の四十年
いまでは邪馬台国(目次以下、文中の「臺」は止むを得ざるほか「台」を用いる)といえば、ああ、あの推理小説もどきのナゾの国かといった程度の常識になってしまった。そして、その邪馬台国が、北九州にあったのか、畿内《きない》大和《やまと》地方にあったのかということで、いまだに論争が続き、この種の研究者は、あとを絶たない。
専門家ならずとも、国民の一人として邪馬台国がはたしてどこにあったのか、だれもが知りたいところであろう。私もこの邪馬台国にとりつかれて、もはや四十年になる。
最近は研究が自由なので、いまどき邪馬台国を口にする人にはおそらく理解できないだろう。が、戦前の研究者にとっては、実にきびしいものであった。言論統制の中で、特に古代史を研究するには、いやが応でも神国なるものの実体にふれなければならなかったからである。
いまから述べようとする十分の一の意見でも発表しようものなら、さしずめ網走《あばしり》刑務所送りとなっただろう。まことに今昔《こんじやく》の感が深い。
自己対決から出発
私の邪馬台国追求は、魏志倭人伝《ぎしわじんでん》に邪馬台国が記されているから邪馬台国を捜すのだ、といった形式の、歴史のジャンルとしてではなく、私自身が生きるために、自己への対決として出発した、いわば持てる生命とからだをぶっつけたささやかな文学のモチーフである。というのは、失明という、人生にとって最も不幸な体験を私が余儀なくされたからだ。
それは三十年前であった。突如として襲った霧の世界の恐怖に、やっとの思いでその日の命の峠を越えていたころである。運の悪いときには悪いことが重なるものだ。妻には乳呑《ちの》み児《ご》を置いて出てゆかれるし、おまけに、当時吹きまくったドッジ旋風のあおりをくって、数千万円の保証までかぶった。何度か自殺もしかけたが、そのつど、危機から私を救ってくれたものは、なんと原爆当時の長崎の幻影だった。累々《るいるい》と道端にころがった黒こげの死体、鼻をつく異臭、カラスが群がって死肉をついばんでいる光景。くずれ落ちた民家のかげには、大やけどを負ってゴムまりのようにふくれ上がった顔の負傷者が、ヨダレを垂らして、しゃがみこんでいる。しかも、まだ生きているその目には、うじ虫がはいまわっていた――。
こんな情景をまざまざと思いうかべては、私はぞっとして思わず自分の目のまわりをさすってみた。すると私の目にはまだうじ虫ははいまわっていない。光は失っても自分は完全に生きているのだと思うと、ふしぎに生命感のようなものがわいた。
それは絶望の底からいっさいのものを突き上げ、民族的な悲哀をのりこえようとする孤独感でもあった。私はやがてこんなことを繰り返すうちに、戦死者や傷ついたより多くの人々の不幸を知るに及んで、不幸が自分だけのものではないことを知るようになった。歯をくいしばって、夜泣きする子をオロロンオロロンとあやしながら、「島原の子守唄」を作ったのもこのころである。
盲目が時間を越える
こうして、ようやく平静をとりもどしたある日、当時の文学の傾向にいや気がさしていた私は、友人にたのんで特に古事記を読んでもらい、じっと聞いているうちにはたとつぎのようなことに気づいた。
もともと記紀が編纂《へんさん》されたころまでは、日本にはまだ文字がなかった時代である。ところが万葉仮名《まんようがな》で書きとめられていたはずの帝紀《ていき》や旧辞《きゆうじ》の内容が、書紀や古事記の編纂に当たって、部分的に表意文字に書き改められている。そのため内容がまちがって解釈されているのではなかろうか。あるいはかなづかいのわずらわしさから、単純に表意文字に改めてあっても、そうした個所だけが特に記紀文中の難解な場所となっているのはなぜだろう。また内容的にも、矛盾や混乱を招くポイントとなっていることには、何か深いわけがなければならない。こんな疑問がやつぎばやに私の脳裏をかすめた。そして記紀の文章は本質的には表音文字としてあつかうべきものだと考えたのである。
つまり目が見える人には記紀は千二百年のへだたりがある。失明したいまの私は、どんなにもがいても自ら読むことができない。もとより、点字の古事記や魏志倭人伝があるわけはない。読んでもらって耳で聞く。音《おん》に頼るほかはないのである。だが耳で聞いて覚えるということは、稗田阿礼《ひえだのあれ》とも対座できるということなのだ。そうだ、失明は古代のナゾを解くために、天が私に与えた試練ではなかったのか。と、考えたとき、「邪馬臺国」の四字は、ふたたび太陽のように暗黒の私の視界に輝きはじめた。
二 意外な記紀の謎
火野さんの励まし
火野葦平《ひのあしへい》さんが亡くなってから、早いものでもう二十年近くになる。その年(昭和四十一年)も一月二十三日の葦平忌《あしへいき》には島原から馳《は》せ参じて、例年のように北九州市の高塔山《たかとうやま》の文学碑に一輪の菊を献じたが、いつもの年とちがって、花を捧げる私の気持ちは複雑であった。それは年来の宿願だった本書(旧版)を出版しようと思っている矢先でもあり、私の母の一周忌の前日にも当たっていたからである。前の年の葦平忌は、ちょうど日曜日が命日の二十四日と重なった。それでいっそう意義深い日だと思っていると、母が危篤だという知らせを受けて飛ぶように宴会の席上から帰ったが、その夜、母は他界した。そのために、火野さんと母堂のマンさんと私の母の命日が奇《く》しくも重なってしまったのである。何かの因縁《いんねん》であろう。かねがね母は、火野さんにたいへん感謝していた。めくらの息子と姑《しゆうとめ》である自分に、こんなにもよく仕える嫁を世話してもらったというのが口ぐせだったから、きっと母も葦平忌に死ねて満足だったろうと思う。
かれこれ二十数年前になろうか、火野さんは私をモデルに、西日本、中日、北海道新聞の三紙に『活火山』という小説を連載されていた。そのころ、失明の衝撃からようやく立ち直りかけた私が、古事記や日本書紀はめくらのために書かれているようなものだ、この記紀を音表解釈によって究明し、邪馬台国の所在をたしかめたい、と打ちあけると、「それはすばらしい。それこそ活火山だ」といって、そのためには目となりペンとなる女房を是が非でも探さねばならない。おまえにはキリョウはどうでもいい、声がよくて気のきいた奴が大事だ、その女房はおれが物色しよう、ということになって、火野さんや、同じ「九州文学」の劉寒吉《りゆうかんきち》さんらに世話してもらったのがその嫁である。こんなわけで、火野さんは文学上の先輩だったばかりではなく、わが邪馬台国の研究にとってもかけがえのない後援者であった。
数百回も聞いた記紀
さてその女房であるが、まず結婚第一夜に読ませたのも魏志東夷伝であった。当時、私は仕事の関係でひじょうに忙しかったので、そのころはやりかけたばかりのテープレコーダーを思いきって二台買った。まだ高価だったので、目あきのときの記念にと残しておいたコンタックスとローライコードを、めくらの生活には不要だと手放し、めくらの生活により切実で必要なテープレコーダーにかえたのである。
翌日から、一台は会社の用件、メモ、連絡などに使い、他の一台は、魏志、後漢書《ごかんじよ》、古事記、日本書紀などの重要な部分を片っ端から女房に吹き込ませて、もっぱらその再生音で勉強することにした。こうなると、女房はまるで声の活字だった。生《なま》の声で本を読ませるのもテープで聞くのも、私にとっては同じである。生きた女房にはコーヒーなど入れさせて、いっしょに聞いた方が得なのだ。暇さえあれば、私はくり返しくり返しテープを聞いて、耳で読書する練習を続けた。ある時は同じ個所を数十回も聞くことさえあった。特に、人が野球や相撲のテレビにうつつを抜かしている時は、わざとその時間をねらって聞いた。目あきの何倍も努力しなければならないことを覚悟していたし、私があまりに多忙な仕事にたずさわっていたからでもあった。私はここでふたたび言語学や国語学、国語史などのやりなおしをせまられた。さいわいこれらの講義を金田一京助《きんだいちきようすけ》先生に受けていたので、それが二十年後に、こんなに役立つとは思わなかった。
こうして、いつのまにかすっかり記紀の大半を暗記してしまうと、意外な謎が解けはじめた。しかも同じ方法で倭人伝を追究すると、実に微妙で深い関係が記紀と倭人伝の相互間にあることもわかってきた。私の邪馬台国解決の鍵は、こうした端緒《たんしよ》によって与えられたのである。
実在した高天原
それでは記紀を音表で読解すると、いったいどうなるか。あとで必要に応じて説明するが、その一例について少しだけ述べておこう。
従来、天上の神話とされてきた高天原《たかまがはら》の物語は、実は、地上にくりひろげられた血のかよったラブロマンスであり闘争であった。神々もまた実在の人物である。神代と称せられる時代は、魏志倭人伝に記された三、四世紀ごろの邪馬台国時代を上限として、有明海《ありあけかい》沿岸から博多《はかた》湾周辺を中心に、西九州におきたできごとが物語られているのである。
たとえば、天照《あまてらす》大神は肥前の大女王(実は|大日※《おおひるめ》貴《むち》の投影)で、須佐之男命《すさのおのみこと》(書紀では素戔嗚尊)は肥後の大王。大国主命《おおくにぬしのみこと》は遠賀川《おんががわ》流域を含む筑前筑後の大王だったように推定される。問題の天《あま》の岩戸隠れの実体も、筑後川をはさんで、天照軍とスサノオ軍とが交戦したとき、天照大神が戦死され、遺体を葬《ほうむ》るときの鏡に魂《たましい》を移す魂入《たまい》れのありさまを伝えているのである。天の岩戸隠れはイワトカクレではなく、イワトカクシであって、天の岩戸、すなわち天《あま》ツ族形式の高塚古墳を意味し、岩戸隠しは石室に天井石をかけ渡す古墳の埋葬をいっているのである。天の安河における誓約も、剣や玉をかみ砕いて生まれたもうたという神々の名は、何れも西九州の神々であり、その領土の分割にほかならない。
漢字の意味で誤《あやま》る
なぜそうなるかという詳細な説明については順を追って述べるが、ここでは関係のあるその一端についてふれておこう。
目の見える人は、天をアマと読んでも、天という漢字の意味にひきずられて、何のかかわりもない天上を想像してしまう。神々が天から降りてきたとは記紀のどこにも書いてないのである。邇邇藝命《ににぎのみこと》(瓊瓊杵尊)によって天ツ族を降服せしめた天降(アマクダシ)をアマクダリと読んでしまったので、いまでは意味が全く逆転して収拾がつかなくなっている。このことは非常に重大なことで、読者諸君も、注意深く記紀を読まれるなら諒解されると思う。アマはア(大で広い意味)とマ(邪馬台国の馬に当たる語で墾田《ハリタ》、畑のこと)の結合語である。また田(水田ではない、単に耕地のこと。邪馬台の台に当たる)を漢音でテンと読むところから、天の字をあてる発想がおきたのだと考えられる。
さらに同じアの音の用例について説明すると、
アキ=秋。安芸国《あきのくに》。大きくて広々とした台地。アサ=朝。朝倉などの地名にみられる広い川原。アシ=葦。沼沢や川岸の広い湿地帯。アソ=阿蘇。広い盆地。ソはヘソの意味でくぼみのこと。臼をウスというのは、ウは大きい意味で、スはソの転音、大きなくぼみの形態からきた言葉を、同意義の臼をもってウスと訓じているのである。アナホ=穴穂。穴穂宮などのアナホ。アは広い。ナは倭人伝に出てくる奴国のナで、苗代《なわしろ》水田のこと。ホは帆かけ船のホにも通じ、マホラ、イナホなどのホで、半円形に丸くふくらんだ意。したがって、広い湾の奥にある水田地帯という意味である。
アマノサカホコ=天の逆鉾も、漢字の意味から類推すると、天に向かってさかさに突き立てられた鉾といった避雷針もどきの、いわくありげなホコと思われるが、なんのことはない、アマは高天原などのアマで、天ツ族系である肥前|佐嘉《さか》(現在の佐賀)製のホコという意味である。考古学的にもすでに明らかにされているように、銅鉾文化圏の、祭りに使用された銅鉾の製造の中心地が佐賀県地方であることからもこのことが証明される。にもかかわらず過去の国文学での解釈は珍無類である。
このように記紀文中の文字には、音だけとればことたりる、文字の意味にはなんら関係のない漢字が、わざと読者にまちがって解釈されるように、ある目的のためにたくみに意味を含ませて用いられた個所が多い。そのため、記紀の大半の内容が誤解され、特に神話の中でも重要な位置を占める豊葦原水《とよあしはらのみず》(瑞)穂国《ほのくに》(現在の熊本県である肥後の国)と葦原中国《あしはらのなかつくに》(現在の福岡県である筑前、筑後の国)までが混同されて、邪馬台国分裂後における古代の二大王朝対立の歴史が抹殺されているのである。
魏志倭人伝に記された邪馬台連合の国々の動静や、その離合と集散についても、記紀は巧妙な文字の使いわけと、神々の名に託した神話によって、実にその間の事情を明確に伝えているのである。これらの問題について、だれもいままでふれていないところをみると、あるいは私だけのドグマ(独断)だろうか。
〔注〕この音表による記紀解釈の私の発想は、旧著発行以来、多くの人々の賛同を得て常識となりつつある。また各方面からの要望も強いので、不明の古代語をできるだけ集めて音表で解釈したものを、いずれまとめて発表しなければならないと考えている。
三 古代史とバナナ
真の邪馬台国はひとつしかない
ひとつしかないはずの邪馬台国をめぐって、いまなお各方面に論議をまき起こし、結着がつかないのはなぜだろう。これは、それぞれの論拠を結論づけるに足る確固たる理由があって選択に迷うのではなく、それがどれにもないということを雄弁に物語っているようである。
ある日、私は魏志倭人伝を前に腕ぐみしながら、ふとこんなことを考えた。
邪馬台国は、きっといままで論争されたり、見当づけられてきた場所とは全く別なところにある。
めくらはよくこんな考え方をするものだ。失明して痛感したことは、目あきの頃は、ものを見るとき、影があってはじめてものが見えるのに、ものの姿だけ見て、影の部分に気づかないということであった。
目あきの人は、めくらの視界は真っ暗だと思っているらしい。だが実際は、光を失っているのだから、影もない。だから明るくもなければ暗くもないのである。ちょっと表現しかねるが、灰色で霧のような感じだといっておこう。
邪馬台国論争も、二つの枝がどんなに茂り合おうと、根元は一つだ。それで、その根元を掘ればいい。ただこの二股の巨木は、根際から分かれているので始末が悪い。私は梢《こずえ》を仰ぐ気持ちで、この根をどんな方法で掘ろうかと、白い杖の先で軽くたたいてみた。ゴボゴボと音がするだけで、中身はうつろになっていた。どうやらシロアリの巣になっているらしい。
手さぐりで植物を栽培
いまから考えると、まわりくどい計画だった。
失明してまもない頃、私は植物の栽培を決意した。このとっぴで至難なわざに取り組んだのは、次のような理由からであった。
何もしないでじっとしていると狂い出したい衝動にかられる。それをしずめる目的と、当時、乳呑《ちの》み児《ご》を置き去りにして出奔した先妻に対する不信も手伝って、植物がものはいわないがけっして愛情を裏切らないことを知っていたからである。それからどんなものを栽培したらいいだろうかと迷っているうちに、考古学について次のようなことが頭にうかんだ。
発掘された土器や鏡がものをいうわけではなく、結局はその物について語るのは現代人である。土器や銅剣そのものは、その時代の事実を証明してはくれるが、厳密な意味で生命がないから、その時代を伝えているのではなく、伝えようとしているだけである。だから学説もわかれ、知恵の勝負の世界が生まれてくる。
こんなむずかしいことは私には不向きで危険だと思い、考古学は、なまじっか自分から飛び込んで手を染めるより、専門家の研究を勉強させてもらった方がいいと思った。そこで何か二千年、三千年前の古代にさかのぼって直接語りかけられる生きたものはないものかと考えた。
バナナに悲願をかける
邪馬台国にはえていた椿《つばき》は、いまも春先になると赤い花をつけるだろう。香椎《かしい》神宮の境内《けいだい》に茂る樫《かし》や椎の闊葉樹林《かつようじゆりん》は、その昔、より好ましい風土の中で叢林《そうりん》をなしていたにちがいない。それらの植物は脈々として生命を伝え、今日も変わることがないのである。
弥生《やよい》時代はもっぱら米だけを作ったかのように考えられてきたが、麦も粟《あわ》も豆類も、その他の雑穀も、畑作地帯では盛んに耕作されている。つまり耕作農業の展開と考えた方がいいのではなかろうか。
こうした新しい作物や品種と取り組んだ古代人は、私たちの風土にどのように対処しただろう。
めくらの私が簡便で気候の変化に敏感な植物を手近に栽培できたら、風土に対する適応性を確認することができるのだ。
米という亜熱帯植物を私たちのものとした古代人に近づくには、馴致《じゆんち》した米の栽培より、亜熱帯と温帯のすれすれまで生きるバナナや観葉植物を栽培することだ。もしバナナの実を自由にならせることができたら、植物の言葉もいくらか読みとれるようになるだろう。そして、バナナが実《みの》る日には、私の遠い邪馬台国へもたどり着けるかもしれないと悲願をかけたのである。
黄金の実をもとめて
ふさふさと実るバナナの誘惑。黄金《こがね》色に熟《う》れたマス・ピーサン(インドネシア最高の黄金バナナ)の夢は、親魏倭王《しんぎわおう》の金印にも通じる輝きをもって私の官能をゆさぶる。この甘美で無言の光への対座は、私だけにゆるされたロマンだ。
米よりも麦よりも、人類の栽培植物として最も古い歴史をもつバナナ。いまなお、米を主食とする人口にまさるとも劣らない、バナナを主食としている世界人口。かつて東洋のスパイスを香料諸島に求めて、喜望峰を迂回してきたヨーロッパの民たちのように、私も白い舵輪《ラツト》をにぎりしめ、黄金の実を求めるカピタンとなって、南の国ならぬ邪馬台への旅に旅立とう。
ああ、バナナにかける夢は、はてしなくひろがる。矢も楯もたまらなくなった私が、裏庭に二十坪ほどの温室を建ててバナナの栽培に着手したのは、昭和二十七年の夏のことであった。
それから数年ののち、どうやら我が国ではじめて自由にバナナを実らせることに成功したが、いまでは棟高十メートル、二千五百平方メートル(七百五十坪)の大温室に発展し、世界中の十数種のバナナをはじめ、マンゴー、パパイヤ、チェリモヤ、アボカードなどが、一年中、次々に実っている。このようにバナナに寄せた夢はみのったが、はたして謎の邪馬台国へはたどり着けただろうか。
探れば探るほど根は深く、歩けば歩くほど邪馬台への道は遠かった。私が邪馬台国研究と同じように、農業への情熱を燃やしてきたのも、実は農業を通して試みた古代へのアプローチであったのである。
農業のことをアグリ(土)カルチュア(耕す)というが、われわれの祖先が狩猟生活から農耕生活に移り、そこではじめて集落ができ、社会が生まれ、経済が発展して現在の文明と文化ができあがった過程についてはだれも否定しないだろう。本来、耕す語源のカルチュアが文化を意味するなら、文化とは耕すことである。古代史とは素朴な人間の生き方を知ることであり、農業の原点を探ることでもある。自給自足の生活から打ち立てられた文化、それを知らずして古代史が語られようか。追体験によって少しでも古代へ近づこうとした私の努力は決して無駄ではなかった。いくつかの大きな収穫を得て実証的に解明してゆく報告書が、続篇五巻であり、本書はその序論ともいえるだろう。
第二章 米栽培の二つの流れ
一 バナナと私
視点のおき方
台湾のバナナに負けないほどの実をみのらせ、大規模に栽培している現在でも、私がバナナの話をすると、現実に見た者でなければ、たいていの人が信用してくれない。写真を見せても半信半疑である。
これは、自分の知らない世界、つまり経験によって割り出される自分の理解可能な認識の埒外《らちがい》に問題の対象があると、自分の無力や認識の浅さを反省する前に、相手を疑い、またそんなばかげたことが――と否定してしまうからである。つまり、自己閉鎖である。
日本人には特にこの傾向が強い。負け嫌いや自尊心を傷つけられたことも手伝って、自分の不明は棚に上げ、なかにはめくらのほら吹きとか、素人のくせにのぼせているなどという人さえある。普通の人がいうのならまだしも、某大学のS教授など学生に放言している。私からいわせれば、もったいない高額の給料を貪《むさぼ》る似而非《えせ》学者だといいたいが、世間はそうは取ってくれない。日本人は世界でいちばん肩書きを尊重する国民だ。私もときに肩書きを欲しくなるときがあるが、嫌いな肩書きの仲間になることはさらに憂鬱《ゆううつ》である(バナナ問題に限らず、邪馬台国論についても、すでにこうした誹謗《ひぼう》をあびせられているので、一応つけ加えておく)。
バナナを熱帯の果物《くだもの》だと頭からきめこんでしまうから、私のバナナ栽培を奇異に感じるのであろうか。土の中にできる澱粉《でんぷん》のかたまりを芋《いも》だと一言でいいきるなら、バナナも空中にぶらさがる芋(澱粉のかたまり)だといってもいいはずである。南極に向かう○○漁業の捕鯨船団ときけば、私は、ああ、あの水産|蛋白《たんぱく》捕獲業会社の船かと、頭の中に捕鯨船を想像する。
いまでは普通作になっている米だって、粟《あわ》だって、さつまいもだって、温州蜜柑《うんしゆうみかん》だって枇杷《びわ》だって、トマトもきゅうりも南瓜《かぼちや》も西瓜《すいか》も、もとはといえば、日本の農民が栽培している植物の大半は、熱帯ないし亜熱帯の植物ばかりである。なぜ、バナナの栽培にうちこんでいる私だけが非難されなければならないのだろうか。視点を変えて考えればなんでもないものを。惰性と、習慣と、観念の世界ほどおそろしいものはない。
食糧と平和
視点といえば、私がバナナを栽培している大きな目的のひとつに、農政問題がある。主穀農業が経済的に不利だとみれば、東北はりんごに、伊豆半島から四国、九州の南端に至るまで蜜柑畑に早変わりする日本農業の単純さと底の浅さ。
「五年後におしよせる生産過剰と、それからくるパニックや農村の悲劇を思えば、ぞっとする。『養豚は採算がトントン、酪農《らくのう》は乳牛がギュウギュウ、養鶏はもうケッコウケッコウ、みかんはいまに農民がカンカンになる』」と、十二年前の初版当時、本ページで警告しておいたが、その通りになった。現在は「今にキウイフルーツもキュウキュウいうぞ」と、さらにつけ加えておこう。
十数年前、ソ連のフルシチョフ首相が国連の議場で、靴を脱いでテーブルを叩き、いきまいたことがあった。そのあとでケネディ大統領と手をにぎり、平和共存を唱えた。そのとき、私は、ハハン、ソ連は深刻な食糧不足におちいっているな、と直観した。果せるかなそれからまもなくソ連はアメリカから二百万トンの小麦を輸入した。コルホーズの失敗と気象の激変による計画農業の不振から、暴動は起きないまでも餓死者を出す寸前にあったと思われる。軍事専門家は、人工衛星や原子力やミサイルなどの数字をならべて、もっぱら平和共存の実体は戦力の均衡にあるのだと説く。だが立場を変えてみれば、イデオロギーや原爆より食糧が優先するから、平和共存の実体は食糧問題にあるのだともいえるのである。
またその頃、中国もソ連以上に食糧難のまっただ中にあった。そのとき、ソ連は、輸入した二百万トンの小麦のうちから中国には一握りも分けてやらなかった。そのため、中国には相当数の餓死者が出たはずである。今日、中ソ両国が相容れない理由の一つは、マルクス主義の実践形態よりも、案外こんなところに民族的な感情のしこりが残っているのかもしれない。いまもソ連は数百万トンの小麦を輸入している。この輸入が続くかぎり、米ソ両国の平和共存は保たれるだろう。
日本はいま、必要な食糧の六五パーセントしか生産できない。そのため、不足分の食糧に二十五億ドル(九千億円、昭和四十年当時)という莫大な外貨を支払っている。民族が自立するためには、不足分を輸入にまつとしても、最低七五パーセントの生産を必要とするはずだ。その意味では、日本もひじょうに危険な立場に立たされているといわなければならない。
日本が輸出の花形として誇る真珠の昭和四十年度の総輸出高は約五千五百万ドルであった。これに対しバナナの輸入高は六千五百万ドルをこえていた。なんとバナナの好きな人種ではないか。
蒙古斑《もうこはん》を有する日本人が、バナナを主食にしている同じ蒙古斑のある人種と共通していることは、ふしぎではないが、ここに国産化によって、バナナを過去の果物としてではなく、新たな食糧として登場させることができたらというのが私の夢である。米の栽培によって弥生《やよい》文化はひらけ、畑作農業によって古墳文化は開花した。近世の日本ルネッサンスは、南蛮船の渡来によって幕をあけ、携《たずさ》えられた芋という新しい食糧によって、庶民の命はつながれた。文化の交替期は、つねに食糧の変革を伴うものである。輸入食糧としての小麦に頼らなければならないパンが、はたしてわれわれの風土と民族に密着し、その任務を果たしうるだろうか。
だからといって、私だけが不足した食糧のバナナ代替《だいたい》論を唱えてみたところでどうすることもできない。その動機と基礎を私はつくればいいのである。邪馬台国論も、従来の似たような考証ではなく、あらゆる視点を変えた観点から追求すべきだと主張したいのである。
〔注〕米の豊作によって最近の食糧事情は一変したかのように見えるが、ガン細胞が体内を蝕むように、日本の食糧問題は実は深刻な問題を包蔵しながら、取り返しのつかぬ方向へ転落しつつあることを忘れてはならない。
二 オリザ・サチヴァ・ヤポニカ
ばかげた米の南朝鮮渡来説
米は弥生《やよい》時代を代表し、米あっての文化とされてきた。はたしてそうだろうか。
また弥生時代にならなければ、米の栽培は開始されず、その栽培法は、南朝鮮から北九州へ渡ってきたのだと伝統的に考えられている。
私は多くの熱帯植物を手がけてきた経験から、まずこのことに疑問を抱いた。
米という亜熱帯植物が、北九州よりも寒い朝鮮半島に優先的に栽培されただろうか。他の文化とちがって、風土に支配される植物の栽培は、大陸に近い地続きであるからということだけでは理由にならない。戦後、特に暖かい韓国南岸の島嶼《とうしよ》に日本から苗を輸入して、辛うじて小規模に蜜柑《みかん》が栽培されてはいるが、もともと柑橘類が栽培できない朝鮮半島に、どうして米が優先的に栽培され得ただろうか。伊豆半島に蜜柑が栽培されているからといって、九州の文化が大和の影響を受けているように、蜜柑も紀伊半島を経て瀬戸内海沿岸から四国九州へ蜜柑の栽培が伝わったのだと説く人があれば、読者はどう考えられるか。この植物生理を無視した一部の歴史学者や考古学者の無知! このことについて植物学者も園芸学者も、もっと異議をとなえるべきだと思う。漢・魏時代においてすらも、米は華北では栽培されておらず、淮河《わいが》以南に限られていた。殷《いん》・周の時代から、華北文化は麦と粱《りよう》と粟《ぞく》とともに発展してきた畑作文化である。
さらに、気候・風土に、より有利な西南九州では、朝鮮より早く栽培が発達しやすい。また直接、華南・南洋方面から伝えられたとする説に従っても、九州の方が万事に有利である。
考古学の片手落ち
南九州から西九州の海岸に、気根を垂らしてエスケイプ・ワイルド(野生化)している亜熱帯樹のアコウと、有明海《ありあけかい》名物のムツゴロウの問題である。
九州がまだ大陸とつながっていて、ナウマン象などがすんでいた、いまよりずっと暖かかった時代から、いまのような地形に変化する過程で、ムツゴロウは逃げおくれて有明海にとじこめられ、生き残ってきたのだといわれる。特殊な植物についても、いろいろの渡来説が考えられているが、南方産のムツゴロウが生き残れるなら、ある種の植物だって、生き残れないはずはないのである。米もあながち渡来説にたよらなくても、野生のものが、西南九州のアコウ地帯のどこかに生き残っていたと想定しても、けっしてむりな飛躍ではないと考えられる。日本の米の原種、オリザ・サチヴァ・ヤポニカと共通なものを大陸南部に求めて、ただちに渡来説の根拠にしようとする考え方は早断であろう。
この場合、問題となるのは、米の栽培を知っていた文化の担《にな》い手がはたしてどこからやってきたのか、あるいはふとした動機から九州の古代人自身の手によって始められたのかであって、それを検討することが先決であろう。
考古学は、弥生時代から古墳時代にかけて出土する鏡や剣を異常な執念をもって追求してきた。そして農作物の対象といえば、米オンリーである。剣や鏡は銅をもっとも尊重した漢民族の文化的所産であるのに、彼らの主要食糧であった麦や粟《ぞく》類には目を向けず、南方的な米のみに対象を置くのは、はなはだしい矛盾といわなければならない。この原因は、麦や粟に対する研究不足も手伝っているだろう。だがそれより、彼らに矛盾を感じさせないほど、なぜ米が歴史の大きな分野を占めるにいたったのだろうか。華北文化を代表する麦や粟の畑作文化と、南方的な米の水耕文化とがからみ合っている古代の謎を解くことは、邪馬台国の謎を解くひとつの手がかりだとも考えられる。
米の籾痕《もみあと》を発見
あるとき、私は同好の友人たちにこんなことをいった。
米の栽培を弥生時代以後だとする考古学の考え方は、縄文《じようもん》土器の中に米の圧痕を発見していないということを物語っているだけであって、もし籾痕《もみあと》を発見したとすれば、従来の考え方は一変するだろう。私には、弥生時代に始まった米の栽培が、弥生時代とともにすぐ国内を米作地帯に変えていったとは、どうしても考えられないのである。さつまいもでさえ、近世において、西南九州から関東地方に達するのに三百年もかかっている。米も、弥生時代の先駆的培養期間に、西南九州を必要としたはずだ。だから、縄文晩期の土器に米の圧痕はかならず発見できる、と。
この私の意見に、友人たちも全く同感してくれた。
それからその中の古田正隆《ふるたまさたか》君と上田俊之《うえだとしゆき》君の涙ぐましい発掘が続いた。ついに彼らは島原市から雲仙《うんぜん》に登る登山道路の、山《やま》の寺《てら》部落で、米の籾痕のある縄文晩期の土器と、組織痕土器(織物の痕のついた土器)、紡錘《ぼうすい》車などを掘り当てた。これが後に日本考古学協会で認められた山の寺式土器である。
つづいて、わが国最大といわれる島原の原山支石墓《はらやましせきぼ》群を調査中の森貞次郎《もりていじろう》氏も、同行の上田君と、甕棺《かめかん》にのこされた同じようなものを発見した。
かくして縄文晩期における米の栽培は、動かしがたい考古学上の常識となっている。現在の日本考古学界に対する私の疑問と不信は、この手がかりを足場に、ますますひろがっていったのである。
三 押潮《おうちよう》灌漑法とクマ農業
初期の水稲《すいとう》はどんな方法でつくられたか
火田による陸稲《りくとう》問題はしばらくおくとして、わが国古代の初期水稲耕作は、どんな方法で行なわれていただろうか。私の今日までの研究を、かいつまんで、その一端を紹介しながら考えてみよう。
初期の水稲耕作は、現在の水稲耕作を幼稚にしたようなものではなく、少なくともある意味でひじょうに進歩していたように思われる。
灌漑水路を設けて川岸に水田(与田、依田、川依田)が発達するのは後のことである。まず水田耕作の対象となった所は、河口の三角州《さんかくす》や沖積層《ちゆうせきそう》の形成の進んだ入り江などで、かならず海水の満干を必要としたように思われる。「豊葦原《とよあしはら》の瑞穂《みずほ》の国」という言葉がそれを表わしている。葦はひじょうに大切なもので、干潟《ひがた》の周囲をこの葦の堤防で囲い、一種の干拓地のようなものを作る。そして川の上流の方に水の取入口をあけておく。この取入口からは、常時、川の水を引かない。そうしないと上流の土砂が流入したり、田んぼが掘られたり、稲が倒伏するからである。そのかわり、満潮になると、海水が河口部に海嘯《かいしよう》(高波)を起こして川の流れを食い止めるので、自然に川の水は取入口に流れ込んでくる、という仕掛けであったように思う。海水の流入は、あらかじめわかっている満潮時の水位に対して、取入口の位置や高さなどで防げるから心配はない。
また少々の海水が混じっていても、原種の米は海水に強かったようである。
潮《しお》に強かった米の原種
このことについてアガミ一号(Agami No.1)という、ナイル河口から百数十キロ上流に栽培されているソルト・ライス(海嘯《かいしよう》がさすので川水に塩分が強い)を、日本の干拓地用の栽培品種に改良しようと研究されていた農学者|玉利幸次郎《たまりこうじろう》先生を、私は十数年前大阪府|交野《かたの》市|私市《きさいち》にある大阪市大植物園に訪ねて、親しく教えを受ける機会を得た。
そのときの同先生のお話によれば、ソルト・ライスは、ナトリウムを吸収しないが、現在の品種は、吸収してしおれたり、枯れたりしてしまうのだそうである。また台風のあとで、塩水をかむった干拓地の稲が枯れるのは、葉からナトリウムを吸収して、気孔をつまらせ、呼吸できなくなるからだそうである。こうしたことから、私はますますつぎに述べるクマ農業が、日本の水稲耕作の主力を占めていったことに確信を抱いた。
海岸や河口近くに栽培されていた日本の初期水稲耕作時代に塩分に強かった品種も、やがて水田が川上にさかのぼるにしたがって、しだいに原種のふるさとを忘れ、二千年間に塩分への抵抗力を失ったのではなかろうか。
もし私の考え方がゆるされないなら、それは同時に、日本の米の原種が水稲ではなく陸稲系のものだったことにもなるのである。もっとも水稲が陸稲にもなりうるし、陸稲が水耕にも耐えるので、問題は、耕作された場所のいずれが優先したかを対象としなければならない。要するにミネラルとしての塩分を多くの植物は必要とするが、その程度の微量要素としてではなく、私たちの住む有明海沿岸の干拓地には、現在も相当の潮のさす場所に耐えて稲が生育している事実をつけ加えておこう。
播種《はしゆ》を告げる花
そのころの種子は、暦《こよみ》がないから、桜の花が咲くと、平らにならした広い田んぼに、いっせいにばら撒いた。だから登呂《とろ》遺跡から発掘された田ゲタのようなものが要《い》るのである。収穫は真夏だったろう。この方が日照時間から割り出しても、合理的で、台風の被害も受けない。いまは、多くの人が後作《あとさく》の麦に押されて、おくてにまわった耕作を正当なものと考え、本来の米の作り方を忘れて、わざわざ早期栽培と呼んでいる。
近代技術を誇る造船界でも、双胴船というのが話題になったが、なんのことはない、古代にはふたまた舟と呼んで、きわめてポピュラーなものだった。
サクラもコノハナサクヤ姫から転訛《てんか》したとされているが、私はサミダレ、サツキ、サヲトメなどの米に関係のあるサにツクバナ(花)、つまり米の作業に入るという意味でコメをまく時期を知らせる花と解している。
こうした初期の水稲耕作法を、私は押潮《おうちよう》灌漑法と名づけているが、この解釈に従わなければ、弥生時代における各時期の遺跡の地理的条件は、沖積土の伸長だけでは解決しないのである。また、邪馬台国の謎を解く手がかりともならない。
クマ農業とは
弥生期の苗代《なわしろ》耕作法にまで発展した水稲栽培は、やがてその進歩のゆえに一応の頓挫《とんざ》をきたす。
いままで未開拓だった海岸線のデルタはほとんど利用しつくされ、しだいに川をさかのぼり、あらゆる耕作可能な水田を求めて弥生人は全国に散在した。その歴史は、穂積《ほづみ》、安積《あづみ》(阿曇)の全国的な散らばり方や、諏訪湖《すわこ》畔までさかのぼっていった実例が物語るであろう。
このことは、拡張と開拓の過程においては、次から次へと新天地を求めて移動したにもかかわらず、いったん安住の地をえて腰を下ろすと、多難な水田作りのために投下された莫大な労力資本と部落形成のために、人々はそこに完全に固定してしまうことを示している。したがって人口の膨張や、よりよい生活条件の向上に対応できなくなるので、むりにでも小さな川の支流にも分け入っていく。
私は、この過程をクマ農業と名づける。雑餉隈《ざつしようくま》、七隈《ななくま》、三隈《みくま》などと、九州に多いクマのクは、コで河。マは、邪馬台国のマで、墾田《ハリタ》のことである。従って、川ぞいを新たに開田した耕地を意味している。
クマの地名のつく所は、かならず川岸から遠くない場所であることに気づかれるであろう。こうした所は、水稲と畑作と、水漁と陸猟と養蚕《ようさん》と粗織《あらおり》が同時に可能な地で、有利な立地条件をそなえている。いままで、クマは隅などと、山陰や山のソなどの意味に解されてきたが、これはクとマの意味を理解しないで、クマ農業が行なわれた場所の原因からくる意味をとり違えた、結果論的な地形判断によるものである。この最大の誤解の結果|熊襲《くまそ》を異人種とさえ考えるようになっている。
農業の固定性と移動性からくる二つの部落
こうして、固定化された水田農業からくる部落の形成発達は、より自由な他地域への発展を阻止し、新知識の吸収と進歩を鈍らしたのであろう。
これに反して、大国主命や倭建命《やまとたけるのみこと》の伝承からもうかがえるように、新しい火田による焼畑耕作は容易に集団を移動せしめ、特殊な条件を必要とする水田耕作に比して、より自由な新天地を求めることができたであろう。ここに注目して、弥生期末の水田を主体とする種族と、畑作を主とする人々との間に、対立と抗争を考え、定着性と移動性の可否によって、次の文化への一つの転機をもたらしたとも考えられる。しかもこの移動性に富んだ人々が海浜に住し、半農半漁の生活からくる勇敢さをもち、陸路の発達していなかった古代に船の操舵法に長じていたとしたら、この争いの結果はどちらに軍配があがるだろうか。
また弥生時代への移行は、言葉をかえていえば、鉄利器から鉄器具への移行であり、普及への展開である。
第二次世界大戦前のわが国の農業と、戦後の農業を比較してもわかるだろう。肩でかついだ肥桶《こえおけ》、そして最大の輸送を担当した馬車が、オート三輪からトラックへと、また馬犂《ばれい》から耕運機トラクターへといった変わりようは、石製の突《つ》き鍬《ぐわ》から鉄鋤《てつすき》、鉄鍬へと変わった当時と類似している。
だから、高塚古墳の封土《ほうど》は、土工具の発達によって、スコップ、ショベルに頼った戦前の土木が、ブルドーザーに変わったような意味を持っているのである。
弥生時代における水田は、刃物としての鉄利器があれば、それを利用して木工具を作り、その木製農具で耕作ができた。畑作はそんなわけにはいかない。鉄農具の普及によってはじめて発達をみるのである。したがって古墳時代は、畑作の発展時代であるといっても過言ではないと思う。邪馬台国は、こうした時期の境目にあった。そして邪馬台国を取り巻く国々の名から、異なった生活様式や生産方式の違いを読みとることもできるのである。
ア系統とホ系統
古代の海浜や入り江に移住し、川を遡《さかのぼ》って開拓に従事した一族、つまり私のいうクマ農業の移住者を、アヅミ族、ホヅミ族だと説かれながら、なぜホヅミ、アヅミの別があったのか、いままで明らかにされていない。
またアヅミ、ホヅミが海事にも従事し、大いに歴史的にも活躍しているところから、ますますこの問題の焦点をぼかす結果にもなっていたように考えられる。
ツミは、ワダツミの神、オオヤマヅミの神というように、オシホミミの命などのミミ(大海の王)に対して海浜の王に冠した称号である。転じて海浜の半農半漁に従事した一族の首長を呼ぶようになり、さらにその一族を引き連れて移住していった統率者や、船団の指揮者が、ツミと呼ばれているうちに、いつかその一族そのものを呼ぶようになったものと考えられる。
そのツミにアとホの二つの系統があった。言葉や入れ墨や風習に、船の作り方や帆の形に、漁業のしかたに、農業のしかたに、違いがあったのであろう。
アとホの語源についていえば、アは、葦原の中ツ国の、アシハラのアに当たる略称で、国津《くにつ》神系の文化や自然神崇拝の宗教を持った一族である。
ホは、豊葦原瑞穂国《とよあしはらのみずほのくに》のミズホのホに当たる略称で、天津《あまつ》神や邇邇藝命《ににぎのみこと》(瓊瓊杵尊)系の太陽神崇拝の一族であったものと推定される。
従来、ほとんどの人が、葦原の中ツ国と豊葦原瑞穂国を混同しているが、これはまったく別な国である。さきにものべたように葦原の中ツ国は筑前筑後のことで、豊葦原瑞穂国は肥後の国をさしているのである。つまり古代の西九州における有明海北部文化と南部文化の違いをも意味している。このことがわかれば、神代神話のおよその謎も解けるし、難解な記紀の内容や、アヅミ、ホヅミが政権の交替に従って、時に興隆し時に没落した意味もわかるのである。
それはしばらくおくとして、クマ農業にもおのずから異なった二つの農耕法と二つの習俗、二つの生活様式があったように思われる。現在の伊勢神宮の外宮《げくう》と内宮《ないくう》の建築様式の違いや二神|並祀《へいし》の原因も、ここらにあるのではなかろうか。
第三章 日の国と筑紫の国の出現
一 日の意味は太陽ではない
有明海の思い出が糸口
だれもが知っている、きわめて簡単な、そして上代史にもっとも重要な位置を占める筑紫の国が、どのようにして生まれ、どのような語源にもとづいて呼びならわされるようになったのか、そのことについてはだれも知らない。私はこのふしぎな言葉に魅せられて、チクシ、ツクシ、チクシ、ツクシと口の中でどんなにつぶやいたことだろう。
ある日、私は例によって何百回目かの古事記を妻に読ませて聞いていた。
私は聞きながら目を閉じて、聞いている文章とはおよそ縁の遠い、いろいろの妄想や連想をたくましゅうする癖がある。何も見えないものが、目を閉じて考えるというのは、おかしいではないかという人もいる。しかし、めくらも静かにモノを考えるときは瞼《まぶた》を閉じた方がいい。そうでないと、コタツの一方の口から空気がスウスウはいりこむような気がして、考えが暖まらないのである。
その時も伊邪那岐《いざなぎ》、伊邪那美《いざなみ》の国生みの条《くだり》を聞きながら、
「然《しか》れど久美度《くみど》におこして生《あ》れし子は水蛭《ひる》子《こ》、この子は葦船に入れて流しうてき――」
と、アシブネと聞くと、すぐアシブネのアシから葦の生えた風景を連想した。葦は干拓地の潮あそびにいっぱい生えていた。
少年の日の私は、その堤防に立って、島原の沖を通る外国通いの大きな貨物船に手を振っていた。日暮れの海に、三池の港でずっしりと石炭を積んで出てきた船は沈みそうだ。夕日に映えたマストが赤い。引《ひ》き潮《しお》にのっていまから天草灘《あまくさなだ》へ出てゆく、あの青煙突のバッタンフルはどこの国へ行くのだろう。
こうした童話的な生活を豊かにしてくれた追憶は、突然、妻の読んでいる次の一句によって破られた。
「次に筑紫の島を生みき。この島も亦《また》身ひとつにして面《おも》四つあり。面ごとに名あり。故《かれ》、筑紫の国は白日別《しらひわけ》と謂《い》ひ、豊《とよ》の国は豊日別《とよひわけ》と謂ひ、肥《ひ》の国は建日向日豊久士比泥別《たけひむかひとよくしひねわけ》と謂《い》ひ、熊曾《くまそ》の国は建日別《たけひわけ》と謂ふ――」
何度聞いても気にとめなかったこの一節が、私をしびれるようにたたきのめしたのである。
「そうだ、ヒキシオだ。日が太陽などとはとんでもない」
思わず私は叫んだ。
とんでもない太陽の国
九州をツクシの国と呼ぶ以前に、もとは四つの国にわかれていたという、いままでにわかっている九州のもっとも古い国名。この国名の由来すら、歴史や国文学上では、まだはっきりしていない。
このことについて、ある有名な歴史学者は著書の中で次のように説明されている。
豊の国は太陽の日ざしが豊かで明るく、筑紫の国は白く太陽がキラキラ輝く国である。熊曾《くまそ》の国は南国で太陽までがたけだけしく、火の国はふしぎな火を噴く山、阿蘇《あそ》山を仰いで火の神を崇《あが》める者たちが住んでいたから、こう呼ぶようになったのだというのである。
他の学者の解釈も似たりよったりである。
後の世に火の国または肥の国と呼ばれるようになった肥前・肥後について、他の三つの国にみな日別《ひわけ》の名称がついているのに、この国だけが泥別《ねわけ》となっている。この疑問に答えることなく、また国名形成の前後の時代的検討もしないで、有明海沿岸から見えもしない阿蘇山をひっぱり出して論拠にすることは、単なる思いつきにすぎない。しかも後世になると、他の三つの国からは日の字が取り除かれて、逆にこの国だけがヒの国となっているふしぎな現象を呈している。「ヒ」の根元をつきとめないで論議するから、こんな誤まった解釈が生まれてくるのである。
また、他の国々についていえば、福岡県と大分県とで、太陽の光や輝きぐあいがちがうなどという話は聞いたことがない。
九州に生まれ、九州に育った者にこんな話をしてきかせたら、ふきだしてしまうだろう。
私は久しい間、この豊日別、白日別、建日別などの「日」が、太陽のヒ、火山のヒ、不知火《しらぬひ》のヒではなく、他になんらかの意味をもっているのではないかと疑問を持ちつづけてきた。
ついにそのナゾは、前述したまったく偶然の端緒《たんしよ》で解けた。まさにこの「ヒ」は、四面海に囲まれた九州の湾や入り江や、岬《みさき》などの海岸線に引き潮がのこす、ヒガタ(干潟)のヒだったのである。
古事記、日本書紀の編纂に当たって、「日」が「賓」または「干」の字で書かれていたなら、歴史も国文学も今のような混乱は避けられたであろう。それをあえて日の字を用いたところに、邪馬台国を意識的に隠蔽しようとした意図があるように思われてならない。この日輪には、きっと陰がある。その陰の部分に邪馬台国がひそんでいるのではないかと考えたのである。
二 筑紫とは
九州の四つの文化圏
古代の部族国家が水田耕作の部落共同体から発展したことは、多くの学者によって述べられてきた。
そして、その水田耕作の部落が、デルタ地帯の米栽培に始まり、海岸ぞいに発達していったことは、疑いのない事実である。したがって、それぞれの海湾の異なった風土性は、その部落にもまた異なった特徴を与え、異なった文化を発達せしめた。
九州の四つの日の国は、こうした意味での初期のちがった文化圏を物語っており、それは考古学やその他の事例に照らしても、明らかなことである。
では四つの日の国の名はどうして起きたのだろうか。
五メートルをこえる有明海の満干の差は、古代人にとって、驚異であるばかりでなく、むしろ神秘的なものだったろう。
現在の肥前・肥後をさして、他の国とちがって単にヒの国と呼んでいるのは、日の国の根元が有明海にあったからだといわなければならない。それをわざわざ建日向日豊久士比泥別《たけひむかひとよくしひねわけ》と、なぜややこしい名前で呼ばなければならなかったのだろうか。
問題となる速日別
有明海のことを古くは速日別とも呼んでいる。そして肥の国と同じ意味に用いられている場合が多い。このハヤヒワケを前記某学者の解釈に従えば、太陽が速く通りすぎる国とでもいわなければなるまい。しかし、言葉の意味から判断すると、潮の満干のはげしい国ということらしい。
もっとも、素戔嗚尊《すさのおのみこと》の頭に建速《たけはや》須佐之男命とついていたり、忍穂耳尊《おしほみみのみこと》を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊《まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと》などといっているところから、速日は建速日と勝速日の二つの勢力圏にわかれていたことがわかる。だとすれば、ハヤのハ(ホの転音で馬蹄形の意)や、ヤ(エの原音、入り江のこと)の結合語ともなり、大きな湾の意味も持っており、地形的にも一致する(神々の名称から判断される本地と言葉と地形とにつながるこれらの問題は、いずれくわしく述べよう)。
語義についてはさておき、このように有明海が現在の肥前・肥後に匹敵する二つの大きな勢力圏に分かれていたことが、神話構成の上に支障をきたしたのであろう。建日向日豊久士比泥別の背後に、なんらかの虚構の事実が顔をのぞかせている。したがって、速日別の名称が後代になって抹殺されたのも、この辺の事情がからんでいるからであろう。問題がのこる国名である。
筑紫の国を白日別《しらひわけ》と呼んだのは、有明海のどす黒い干潟《ひがた》に対して、白砂青松のきれいな干潟の国、すなわち玄界灘沿岸をさしたのではなかろうかとも考えられるが、また一方、「アシハラの中ツ国」のシラの日別とも解される。
豊日別《とよひわけ》は速日別に比べるとあまり満干の差はないが、比較的干潟の多い土地という意味とも考えられるが、トヨはもともとト(瀬戸のト)とヨ(エの転音で入江のこと)のようにも考えられる。
このように、四つの国がそれぞれブロックをつくって発展している途上に調和が破れて、ある一つの変革が起きた(実に邪馬台国はこの時期に介在するのだが)。分裂から統合、そして離合から再編成へと、それは女酋《じよしゆう》から男王への交替期でもあった。かくして九州には、景行朝による新たな統一国家の基礎が生まれる。それが筑紫の国の出現と考えられるのである。
古事記の苦しい弁明
白日別から速日別まで、玄界灘沿岸の大部分と有明海の奥とを貫《つらぬ》いてできた筑紫の国は、ここに白日を解消し、速日の国を二分する結果となった。ところが別な魂胆や目的のために、「筑紫の国を白日別と謂《い》ひ――」といってしまったので、筑紫にとられた残る速日の国々の処置に困って、説明に窮した古事記の著者は、これをひとまとめにタケヒムカヒとやってのけたのである。
タケヒムカヒとは、タケヒとムカヒの二つの国であり、タケヒの対岸(ムカヒ)だけをさしているようにも考えられる。それを目が見える人は、建日向日と書かれた文字の意味に引きずられて、タケ、ヒムカイなどと表意文字に解し、ヒムカとヒムカシとムカヒを混同して、歴史も国文学も、後述する神代神話から応神天皇にいたる、さまざまな誤解と重大なミスを重ねるにいたっているのである。
次にタケヒムカヒにくっつけられた豊久士比泥別という不可解な言葉であるが、トヨ、クシヒ、ネワケと読めば意味がわかる。従来、トヨクジと読まれてきたが、トヨクシが正しいと思う。ヒは前述した海岸の意味で、ネはオネ、ミネなどの山脈とも解されそうだが、神話に出てくる根《ね》の国のことだと思う。したがってタケヒムカヒトヨクシヒネワケとは、タケヒ(肥前の国)の対岸の国という意味である。その対岸とは、トヨクシヒからネの国までだということを説明しているのである。
なぜこんなややこしい国名の呼び方をしなければならなかったのだろうか。それは筑紫の国を白日別と言い、すでに筑紫の国に併合されたトヨの国(豊久士比)のかつての所在を忘れ、後の豊の国(豊前、豊後)を混同して、豊の国を豊日別と説明したがために混乱が起きているのである。その混乱と間違いは、さらに間違いを生んで、肥前の国であるべき建日別を熊曾国といってしまい収拾がつかなくなった結果だと思う。もともと熊曾国は熊襲の国で肥後の南部をいうのである。だから筑前の国を白日別といい、筑後の国を豊日別といい、肥前の国を建日別といい、肥後の国(北半)を泥《ね》(根)の国というといえばわかり易いだろう。
当時はまだ筑後は、筑前と一括してツクシとは呼ばれていない。したがってトヨクシヒネは、現在の筑後川を境に、南は熊本県境あたりまでの筑後の国を指しているのである。
では、クシというのはいったいどこをさしているのだろうか。実はこのクシこそ、私にとってかけがえのない邪馬台国への入国|査証《ビザ》であった。
筑紫の語義が示唆するもの
こう考えてくると、ツクシは、白日と速日を貫いたツクヒであり、シはヒの転音のようにも解されるが、いろいろ実証的に探ってみると、ツクイシ(築石)がつまってツクシとなったものらしい。
この間の事情について、古事記は、垂仁および景行記のなかで、つぎのように暗示している。
「またその大国の淵の女《むすめ》、弟苅羽田刀弁《おとかりはたとべ》を娶《めと》して生みませる御子、石衝別王《いわつくわけのみこ》、次に石衝毘売命《いわつくひめのみこと》、またの名は布多遅能伊理毘売命《ふたじのいりひめのみこと》……云々」(垂仁記)
この意味は、伊久米伊理毘古《いくめいりひこ》(垂仁天皇)と、弟苅羽田刀弁の間にできたのが、石衝別王と石衝毘売命であるという簡単なことがらのようであるが、実は、この名前が問題である。
イワツクワケというイワは、とりもなおさず石のことであり、ツクは築地、築紫などの築、すなわち築くことを意味する。したがって「石垣を築いた王」という意味を持っているのである。王は石垣を築いて何をしたかということになるが、実は運河を掘削したのである。
このツクと、イシが結合してツクシの語が生まれたのだと、今では私は確信をもっていえるような気がする。そこは筑後川の旧河口地帯から博多湾をつなぐ、太宰府を中心にした地帯で、驚くべき事実が秘められている。私は長い間の踏査と地検によってこの事実を確認しているが、この筑紫の出現は、邪馬台国の位置を決定する上で決定的な証拠となり、邪馬台国論争に終止符をうつことになるだろう。このことは、第二部第九章で述べよう。
三 国文学への提言
注意すべき記紀の肥と日の混用
邪馬台国論争で、畿内大和説の人たちは、九州説の福岡県|山門《やまと》郡を邪馬台国に比定する説に対しては、真っ向から万葉仮名の八母音説を持ち出して反対する。
つまり畿内大和のヤマトのトは、記紀に邪麻騰、夜麻登、夜摩苔、耶魔等などと記され、いずれも乙類なのに、山門郡の門は甲類であるから、邪馬台の台が乙類であるのに符合しないというのである。
この八母音説というのは、もはや国文学上の常識となっているので、説明の必要もあるまいと思うが、念のため略解しておこう。
橋本進吉博士の研究で、万葉仮名の用字法を分析した結果、奈良朝には、現在のアイウエオの五母音のほかに、イ段、エ段、オ段に、甲類と乙類に分けられる異なった用字で、八つの母音の存在していたことがわかった。エ段では、サケ(酒)などというときのケには「気」を用い、けり、けむ等のときは「家」の文字を使用している。このように、キ、ヒ、ミ。ケ、ヘ、メ。コ、ソ、ト、ノ、モ、ヨ、ロに顕著な母音の使いわけがなされているのである。
五百年のへだたりがあるので、邪馬台国時代と奈良朝時代の用語法が全く同じだったかという問題はしばらくおくとして、この筆法でゆけば、伊都国の都は、その後に用いられた伊覩《いと》、怡土《いと》のトのいずれも甲類で、問題はないということになる。
ところが、豊日別、白日別などの日の国の「日」が訓仮名で甲類に属するのに、山門郡の門を八母音説で否定しておきながら、いままでの学者は火の国、肥の国のヒが乙類である問題との関連についてはなんらふれようとしない。そして火の由来を、不知火《しらぬひ》の説話や、阿蘇山の火でごまかしたり、火は肥に通ずるなどといって、解明できないでいる。
火は訓仮名の乙類で、肥は音仮名の乙類であることについては、私らなどより学者の方が詳しいはずである。しかも倭人伝のヤマトと、奈良朝のヤマトのように、五百年のへだたりがある問題とちがって、同じ記紀の中で日と肥とを同時にならべて記してあるのだから始末が悪い。
さらに混乱することは、筑紫の国を白日別、豊の国を豊日別、熊曾国を建日別と、いずれも日の字を用いながら、肥の国には建日向日豊久士比泥別《たけひむかひとよくしひねわけ》という不可解な国名をつけているのである。
だが、よく考えてみると、豊久士比泥の比は甲類で、日を音解で比に改められていることがわかる。だから中身はすべて建ヒ向ヒ豊久士ヒ泥であるから、あえて肥の字を使わなくても、日の国とするか、比の国とするか、甲類のヒをあてておいてもよかったはずである。それを肥の字を使ったのは、すでに記紀の編纂以前に混用されていたのだろうか。それとも、まだ甲類、乙類の使いわけがはっきりしていた当時であるから、故意に肥の字をあてたのだろうか。あるいは、ただし書きの挿入がずっと後代になされたものか。いずれにしても、国文学上の大きな問題点であろう。
日向のまちがった解釈
前にも述べたが、建日向日をタケヒ、ムカヒと読まなければならないところを、タケ、ヒムカ、ヒとまちがって考え、当時すでに誤写している例があるので、その方から考えてみよう。
それは、現在も国文学界で問題となっており、いまだに決定をみていない。道祥《どうしよう》本、春瑜《しゆんゆ》本、道果《どうか》本、寛永版本、度会延佳鼇頭《わたらいのぶよしごうとう》(頭註)古事記、田中|頼庸《よりつね》校訂古事記などの諸本に、
「謂二速日別一日向曰二豊久志比泥別一」
「謂二速日別一日向国謂二豊久士比泥別一」
と記されているが、これは、明らかに誤写ではなく、前記した速日別と、建日別に対する解釈の混乱を示しているのだと思う。
なんとなれば、筑紫の国はもと四つの国とことわってあるのに、これでは五つの国になるからであり、建日向日を日向とまちがって読んだ証拠でもある。
注目すべきことは、この中に速日別という国の名が記されていることである(この速日別については前述した通りである)。右の写本の当時、速日別の国名は知っていたが、筑紫の国の出現のために、白日別と速日別がぶち切られた理由を知らないで、こう記したのであろう。
ここまで説明すれば、前に述べた筑紫の国の出現が、いかなる理由をもっていたかについて、いっそう理解いただけたと思う。だから私は、肥の国を、他の三つの日の国の中心であるから、日の国と記してもよかったろうといいたいのである。
それならばなぜ、肥の国を日の国としなかったのか。
記紀の中で、彦を比古、姫のことを比売《ひめ》、毘売《ひめ》などと、いずれもヒは甲類の文字を使用している。興味深いことは、魏志倭人伝の中でも、ヒミコを卑弥呼と書き、ヒコを卑狗と書いてある。このヒも甲類である。偶然の一致だろうか。
天照大神を最高神として、日をあがめる思想の中で、日の文字を特に避けて肥の字を用いたのではないかとも考えられるが、問題はもっと別な根深いところにあるように思う。
潮の満干《みちひ》と数
私が前に、日は干潟の干だと述べたことについて、単なる直観だという人もいるだろう。しかし日は干に通じるのである。とくにデルタ水田に始まる九州の海岸文化の発展途上において、古代人にとっては、海の満干はひじょうに関係の深いものであった。そしてこの自然現象は、雷や風とともに、ひじょうな驚異でもあり、神秘でもあった。
彼らはこの満干を、太陽のしわざと考えたに違いない。
たとえば、いままで、数字の一、二、三、四を、指を折ってピト、プタ、ミ、ヨと数えたことから始まったのだと言語学では説く。しかし、ヒ、フ、ミ、ヨという言葉は、ヒル、フユ、ミツ、ヨルとも置きかえられる。二をフタツと呼ぶのだから、フユをフユルまたはフトル(futar=futats)と考えてもよい。ミツは当然ミツルである。
一がヒルという意味をもっているというのは、ヒが日=干=昼であり、四がヨで、よす=よる(黄泉《よみ》もここからおきている)=夜の意味をもって、ヒルとヨルが対立的に組み合わさっているのである。五はイツツ(itu = itutu)で移る意味の原語か。十はトオ(to-o)で、toという区切りの意味に対して、oと重ねることによって大きさを示したものであり、小をオ、大をオオと呼んだ対比が、ここでは小=五にその二つの大きな大五=十という意味の呼び方になっている。
五のtuのuが十のtoのoに変化する変化のしかたは、二(fu)のuが、四(yo)のoに変化する場合と同じ倍率的な約束をもっている。
このことから、形の上では十進法であるが、最初は四進の重ね方式をとったものが、その後、五進を重ねて結果的に十進法になったものだと考えられる。
素人の私が、いちばんむずかしい言語学の基礎をなす数字構造の問題をとやかくいう資格はないかもしれない。しかし、私には私なりに、もうひとつ次のような疑問があるので、専門家に考えてもらいたい気持ちもあって述べておく。
太陽でふとる潮やせる潮
海の満干が干潮から満潮へ移る、この一から四にいたる状態は、さらに正味四日を周期として、毎月の潮が、潮汐表《ちようせきひよう》の示すとおり小潮《カラマ》から大潮へと繰り返して、ふとったり細ったりするのと一致する。五つはこの場合、潮変わりの境めであり、十は潮が大きく動く変わりめに当たっている。
これだけではない。海に関係のある人ならだれでも知っているが、一年間の潮の満干は、四季を通じて夜昼同じように満ちたり引いたりしているのではない。
おおむね春の彼岸から秋の彼岸まで、つまり夏の間は同じ潮時の日でも、昼間はひじょうに引くが、夜はほとんど引かない。これに反して冬の間は、夜間に大きく引き、昼間はほとんど引かないのである(この現象は、太平洋岸と日本海側では逆であることをことわっておく)。いいかえると、太陽の勢力が強いときには、海は昼間が引き、しだいに太陽が衰えはじめると、昼の海は引かなくなり、ついに太陽が衰えてしまったころには、昼間は全然引かなくなるのである。やがて冬が去って太陽が勢力をもり返しはじめると、昼の海はふたたび引きはじめる。このことは、海岸地帯の生活にとってひじょうに関係が深いのである。私らのように海岸で育った者でなければ、この実感は湧いてこないだろう。
そこで月と太陽の作用によることを知らない古代人たちは、一年間のうち、潮がふとったりやせたり、昼引いたり夜引いたりすることを、もっぱら力の上で太陽のしわざと考え、その日その日の現象を月の満ち欠けによって判別したのであろう。従来説かれてきた冬至《とうじ》祭りの意義が太陽の力を鼓舞することにあったとする点では結果的に同じだが、直接春を招くという意味の前に、初期水田耕作時代の半農半漁の古代人には、潮を招くための太陽の呼び戻しにも目的があったのではなかろうかと思う。まして四面海に囲まれたわが国である。農耕は海岸や河口に発生し、上流へさかのぼったわが国の農耕の歴史にてらしても、海に従事する人々も含めて、太陽信仰の根元は、山の峰に祖先が天から降ったという伝説に関係があるのではなく、海の満干と太陽の関係、それにヒルとヨルによったものと考えられる。
海から上陸した神々
天照大神の岩戸隠れを日蝕《につしよく》にたとえる学者も多いが、日蝕はほんの短時間である。私はやはり冬至祭りの風習を伝えたものと思う。そして天照大神にひきいられる、太陽を崇拝する天ツ神々は、海に関係ある天ツ族の卑近な祖先伝承の集約が、記紀編纂当時のハイカラな外来思想と結びついて、一応の形を整えたものだと思われるのである。端的にその最大の証拠を示そう。
天照大神の別名をオオヒルメといい、大国主命のことをオオナムチと呼んだことについて、いまだに学界ではオオヒルメの意味が究明されていない。以上のような見解から私は、ヒルメのヒが日ル=干ルであり、干潟《ひがた》地帯の女王を意味するものと考える。もしこの私の見解が許されるなら、ヒルメのヒルもミルも同じ海の現象として同意義であるから、邪馬台国の女王ヒミコのヒミにも共通点を見出すことができる。そして当然、肥の国は日の国でなければならないのである。
まわりくどく述べてきたが、最後に私は次のことがいいたいのである。
テーマがなくては小説は書けない。記紀の神代神話に虚飾はあっても、その実体が、なんらかの形で現存しなければ、これらの神話をデッチ上げることはできないのだ。
つぶさに記紀を読んでみると、崇神《すじん》、垂仁記と、景行から応神記にいたる内容とを加えて圧縮したテーマは、神代神話と全く一致し、また神話の前半と、崇神、垂仁記の骨組みは、奇《く》しくも問題の魏志倭人伝の内容とも酷似する。しかもこのことは現実の問題として、その後の幾多の考証によって証明することができる。私はここに倭人伝の解釈をめぐって、旧態依然とした一部の考古学が優先することに抵抗を感じ、記紀の絶対的な必要性をあらためて強調したいのである。
第四章 眼底にうつるふるさとの映像
一 嵐をよぶ壁画
ふるさとの映像
「ふるさとは遠くにありて……云々《うんぬん》」とは、郷里を離れた人たちが、たまさか帰郷して、幻滅の悲哀を感じたときに口にする言葉とは限らない。むしろ姑息《こそく》で因循《いんじゆん》なふるさとに、毎日を地方人として生き抜かねばならぬ私らのように、複雑で悪意に満ちた対人関係に悩まされつづけ、うっ憤とも吐息ともつかぬ、半ば諦《あきら》めに似た気持ちで吐くときの言葉に、より意味が深いのである。
目が見えない私にとっては、朝な夕な雲仙岳にかかる雲を、どんなに見たいと願っても見ることができない。その気持ちは、かつて、ふるさとを離れて遠くにあって郷里を偲《しの》んだとき以上である。そのふるさとに私は現に住み、生きている。それも遠くにありて偲ぶべきだとだれしもが考える、きびしい地方の耐えがたいほどの現実に生きねばならないのであるから、私にとっては、二重の相剋《そうこく》である。それでも、ふるさとの山や川や海は、なぜ私をとりこにするのだろうか。
痛めつけられれば痛めつけられるほど、私は反発して立ち上がってきた。それは、ひとくちにいって、故郷が好きだからである。故郷といっても、暗い眼底に去来する白い雲の流れと、青く広がる有明海から天草灘の潮騒《しおさい》が、私を、ゆえ知らず仕事へかりたてるのである。私には、地方の文化を守ろうとか、新しくつくろうなどという思いあがった意識はない。ただ矛盾と相剋に満ちた郷土へ、戦場の兵士が突撃するときのように肉体をぶっつけるだけで、頭の中には何も考えていない。むしろ空虚な視界の一点に、流れる雲を捉《とら》え、その暗黒の世界を海の満干の青さで昼と夜とに分けて満たすだけである。
こうした、全くかかわりのない非現実の世界が、激しい日常の仕事に夢を呼ぶのであろうか。邪馬台国と、その国をめぐる三十の国々の集落のありかや、入れ墨をした人々の風貌もここから泛《う》かび、ふるさとの山や川の延長として、千七百年前の祖先たちに、なんの距《へだ》てもなく対座できるのである。
蕨手文《わらびてもん》への疑問
装飾古墳の前に立っても、その図柄と色は見えないが、馬を乗せたゴンドラのような舟には、私も自由に乗ることができる。乗るだけではない。その舵《かじ》をとって、彼らが東シナ海を横切ったように帆走《はんそう》することもできるのである。
これは単なる想像の世界ではない。かつて日本海軍の施設工事に従事していたとき、私は十トン足らずの小舟で韓国南岸から奄美《あまみ》群島へかけて、たびたび東シナ海を往来した経験を持っている。なかでも五島の島々を、昼夜を分かたず経《へ》めぐり、男女群島へは風浪を冒《おか》してたどりつき、時には大シケにあって激浪に呑まれたこともあった。いま生きているのは、九死に一生を得た結果といっても過言ではない。もちろん、小さなエンジンを備えた舟だったが、極度に燃料が不足していた当時だったので、ゆるす限り帆で走った。実際のこうした経験は、おそらく、どの論者も持っていないだろう。経験を持たない人が、どんなに壁画の前に立って、二股舟《ふたまたぶね》で渡洋した古代を想像しても、実感はわいてこないはずだ。想像は単なる想像に終わり、漠然とした空想の域にとどまるほかはないであろう。ゴンドラのような舳《みよし》(へさき)がなければ、船は帆走した場合、少しでも海上がシケると、頭を海中に突っ込んで波に乗れないのである。
従来疑問とされてきた装飾古墳の蕨手文《わらびてもん》も、私の想像では、海上で襲ってくる大きなうねりの一発波を象徴しているように思う。大シケにあって、船が木の葉のように翻弄《ほんろう》されるというが、これは外海のシケに経験のない人の表現である。小舟はつぶてのように波の谷間に落下し、また棒立ちに立ったまま疾風のように海面を走るのである。昼間なら生きる気力も湧いてくるが、雷鳴の轟《とどろ》く暗夜に、小舟を一口に呑もうとする波頭が、たまたま稲妻に映し出されると、まるで巨大な竜が波の中から突如と現われ、いまにも襲いかかってくるような気がして、生きた心地がしない。
壁画の前に立って静かに瞼《まぶた》を閉じ、船と蕨手文を想像すると、私にはふしぎに、海上の嵐を冒して必死に舵《かじ》をあやつり、大陸へ渡っていった被葬者の素顔が、実感を伴ってうかんでくるのである。
あるとき私は、古墳の石室の中で、どこからともなく湧き起こってくる嵐のような幻覚に襲われ、耳をつんざくような怒濤の反響に息苦しくなって外へとび出したことがあった。これは私が失明者なるがゆえの、常人以上の感受性によるものだろうか。
二 三千年めの光
目あきは不必要なものを見すぎる
昭和三十二年の夏だった。私の住んでいる島原半島は未曾有《みぞう》の集中豪雨で惨憺《さんたん》たる水害を受けた。そのため、当時、私が常務取締役だった島原鉄道は、一夜のうちに営業区間の半分に当たる諫早《いさはや》―島原間の四十キロ区間をめちゃめちゃにされ、再起不能とまでいわれた。線路の切れたところが百八十ヵ所、四十五の鉄橋はあとかたもなく流されてしまった。
再建をあきらめ、専用のバス道路にせよという人が多かった。しかし、鉄道をバスやトラックに切り替えたのでは、単線である線路の道床は、幅が狭く専用道路には使えない。既存の国道を利用していままでの貨物や乗客を輸送しようとすれば、朝晩の通勤時には諫早から島原まで車がぎっしりつまって身動きできなくなり、そのためにはもう二本の道路が必要になってくるので、どうしても鉄道を再建しなければならなかったのである。
水害後の数日間、私は手を引かれて現場を踏査し、すでに必要な数字を握っていたので、
「二ヵ月もあれば、汽車は走るだろう」
と役員会に報告した。すると大部分の重役は、
「君は目が見えないから、のんきなことをいっている。あの惨憺たる現場を知っているかね。二ヵ月や三ヵ月で、そう簡単に復旧できるような被害ではない」というのだ。
「目が見えないから、かえっていいのです。あなたがたは目が見えているので、よけいなことまで見ている。土砂に埋められた田んぼの復旧は農林省におまかせなさい。架線や堤防の切れた復旧工事は建設省がやるでしょう。家屋が押しつぶされ、流失した部落への援助は、県や町役場の受け持ちですよ。私らは、幅五メートルの道床を盛り上げ、線路をつなげばいいのではないですか?」
と答えた。かくて着工以来四十五日で線路はつながり、汽車は走った。
これと同じように、邪馬台国論についても、多くの人は大事なことを見落とし、不必要なことを知りすぎている。たとえば、論争の的《まと》になっている高塚古墳の発生も、畿内であろうと、九州であろうと、実際はどちらでもいいのである。埋葬の外見的形式が、どのように変化しようと、内部的に、玉と剣と鏡を組み合わせた伸展埋葬法の精神が、弥生時代の中期から古墳時代へと、一貫して引き継がれてゆく、本質的な意志をたしかめればいいのである。
私にとって、新しい車輛のデザインや色彩よりも、より重要で必要なことは、よりスピーディに、かつ安全に汽車を走らせることであった。
莫大な土器が流出
この水害で、私はまたまた思いがけない大収穫を得た。
ある日、工事現場を見まわって鉄橋の残骸のかげで休んでいると、
「こんな土器の破片が川の中にたくさんあります」と教えた者がいる。
さし出されたかけらを指先でまさぐってみると、すぐにそれとわかる、きざみのふかい縄文《じようもん》中期の阿高《あたか》式だ。さっそくそこへ行ってみると、上流から押し流された、たくさんの土器が堆積《たいせき》していた。縄文中期から晩期《ばんき》とおぼしきもの、弥生《やよい》から土師《はじ》器《き》にいたる、さまざまの土器類が、こともなげに三千年目の日の光をあびているのだった。
彼の話によると、まだまだこんなものが、あちこちの工事現場に出ているという。
私はしめたと思った。仕事の合間をみて、それらの土器を採集し、ここかしことしらべてまわると、各時期の土器が、全工事現場にわたって散在していた。
そこで私は思った。島原半島はまるで遺跡の宝庫だ。いままで各地で話題になった遺跡もほとんどが偶然の発見にすぎず、この分でゆくと、埋蔵された遺跡は無尽蔵に近い。したがっていままでの考古学は全くの資料不足といわなければならない。水と日光と食物の供給源に近い南面の丘ならば、昔も今のようにたくさんの人が住んでいたはずである。そのことを土器が雄弁に物語っている。露出した遺跡の類型的な地理的条件に教えられて、その後、あちこちの丘や川岸を見当をつけて掘ってみると、おもしろいほど、土器が出るではないか。これではまるで遺跡があちこちにあるのではなく、遺跡の上に郷土があると考えたほうが正しいと思った。
そこで私は、学校の先生や郷土史家の人たちに呼びかけ、和名抄《わみようしよう》に記載された島原の古地名にちなみ、「のとり文化会」なるものを結成した。考古学的基礎調査をすすめるためだった。その後この会は「島原史学会」と名を改め、さらに島原歴史懇話会に発展して現在も活動を続けている。
会を結成すると、会員の協力を得て、水害でわかった各地の遺跡を手はじめに、昭和四十年当時で、すでに、島原半島二百数十ヵ所の遺跡調査と、三十ヵ所におよぶ発掘をなしとげた。その後に判明して、いまから手をつけようとする遺跡を加えると、無土器時代から、縄文《じようもん》、弥生《やよい》、古墳の各時期を通して、なんと五百ヵ所をこえるのである。この嘘のような事実は、何を物語るのだろうか(現在わかっている弥生、古墳両期の遺跡一覧表を第二部第十章に掲載している)。
こうした条件のなかで、邪馬台国時代に関係の深い古代の集落文化や農耕法などについて、私は多くのことを学びとることができた。この間《かん》の事情と経過については、古田、上田の両君と三人で共同執筆した『島原半島の古代文化』(昭和三十七年十月刊)なる小冊子にまとめて出版している。
三 日本最大の支石墓群
南朝鮮渡来説への疑問
支石墓《しせきぼ》とはドルメンの訳語で、大きな石を数個の小石で支えた古代の墓である。その下に甕棺《かめかん》や石棺などが埋められている。
弥生時代のものといわれ、わが国では主として福岡、佐賀、長崎、熊本の四県に散在し、韓国にもこれと似たようなものがあるので、わが国の支石墓は韓国方面から伝わったものとされている。
銅の剣、鏡、多数の玉類などを出土した有名な福岡市郊外の須玖《すく》遺跡の甕棺も、この支石墓から発掘されたものである。
私はこの簡単な説明を書きながら、南朝鮮渡来説に対して、米の場合と同じように抵抗を感じる。それは一見なんでもないこの常識的な解釈に、恐るべき観念の世界がひそんでいるからである。
わが国古代の歴史や言語学を研究する人たちは、ややもすれば、日本と南朝鮮との間に、ある共通したものを見出すと、専ら向こうから渡来したように説明したがる。なぜもう一歩じっくりとかまえて国内に目を向けないのだろうか。私はそのいい例として、ことさらにドルメンを取り上げたのではないが、ドルメンの伝播経路が南朝鮮とわが国とでは異なっていることを指摘したいのである。
今日までに発見された日本で最大のドルメン群は、島原の原山《はらやま》支石墓群(長崎県南|高来《たかき》郡北有馬町)である。これらに埋設《まいせつ》された甕棺はほとんど縄文晩期のもので、石棺も初原的である。小長井《こながい》(長崎、佐賀の県境)で発見されたものも、同じように古い。佐賀県や福岡県のものは、弥生の前期から中期のものが多く、南朝鮮のものもこれに類似している。つまり南朝鮮から北九州へ伝えたはずの本家の内容が新しくて、伝えられたはずの分家のものが古いのはどうしたわけだろう。
この奇妙な事実については、その後、再三韓国に赴き、現地のものを見聞した結果、形式も違うし年代も異なっているので、このことにますます確信を得た。ここでは特に邪馬台国に関係が深いので、弥生時代に、ある種の文化層が大きな足跡をのこして支石墓群のように西九州(有明海沿岸の肥前、肥後)を南から北へ縦走していることだけを付記しておこう。また支石墓は米の栽培普及にも深い関係があるようである。
米の籾痕《もみあと》と製塩土器の発見
米といえば学会の定説を破って山の寺遺跡の縄文晩期の土器から米の籾痕を発見したことについて前に述べたが、昭和四十一年六月、新たに私たちの島原史学会で発掘した島原半島の筏《いかだ》遺跡(長崎県南高来郡国見町)第四回調査で、さらに縄文後期の包含層の中から、幾多の農耕具、鉄鏃《てつぞく》などと共に米の籾痕のある土器を発掘したことを追記しておく。だからといって、ただちに農耕文化が縄文晩期まで遡り得るかどうか、問題が問題だけに慎重を期し、一万点近い資料を対象に目下検討中である。
またわれわれは昭和四十一年三月、同じ島原半島の口之津《くちのつ》町にある弥生時代の三軒屋《さんげんや》貝塚を、熊本女子大の乙益重隆《おとますしげたか》教授(現、《〈底本ママ〉》国学院大)の協力を得て発掘調査を試みた結果、莫大な量の製塩土器と、漁具、ピストル型石器など多数の遺物を発見した。
いままでにわかっていた製塩土器はいずれも古墳後期のもので、全国で二、三ヵ所の発見にすぎなかった。それが単なる発見ではなく、一躍、弥生時代まで遡ったのであるから、意義は大きい。
ただ私として、この貝塚の発掘によって得た問題の中からいっておきたいのは、当時、すでに組織的な分業生活がはじまっていたということである。彼らはここで塩を作り、ひじょうに貴重品であったに違いない塩の交易に従事し、広く生活の行動を他地方にまでひろげていたことが想像される。また、文化が、北九州に偏在しているのではなく、むしろ大陸に近い側がより早く進歩をとげつつあったある種の事実をつかんだこともいっておきたい。いままで考古学的な調査がおくれていたので、調査の進んでいた北九州が、西九州の文化に優先したかのように思われてきたのである。
縄文後期の土器から米の籾痕を発見したことと、この弥生貝塚からの製塩土器の発見は、いずれも一貫して流れる文化的遺産として、邪馬台国問題の背景をなす有明海文化の源流となりうることを、私は信じて疑わない。
四 鉄鏃への疑惑
奇妙な鉄鏃
郷里で発掘された考古学資料の中で、私に考古学への疑いの目を向けさせた遺物がある。それは長崎県|諫早《いさはや》市の有喜《うき》貝塚、および同県|西彼杵《にしそのぎ》郡|雪《ゆき》の浦《うら》貝塚で発掘された人体にささっていた鉄鏃《てつぞく》だ。
これが二例のため、偶然といってしまえばそれまでだが、いずれも弥生後期の副葬品とともに、申し合わせたように、遺体の左|肋間《ろつかん》から心臓を貫《つらぬ》くように、鋒《さき》を下方に向けた鉄鏃が刺さったまま埋葬されていたものである。
すでに述べられてきた考古学者の見解によれば、この地に上陸してきた鉄利器を有するある種族によって打ち破られた、この地方の鉄器を持たない族長の遺体であろうということになっている。
科学的だというかくれみのを着た一部考古学者の実証的見解の範囲では、なぜ鉄という金属のみを対象として、石器との時代的配列に終始したがるのだろう。せいぜい判断の領域が、刺さっていた鏃《やじり》によって、戦いのみしか想像できないのだろうか。
私は思う。忍者の放った鏃でない限り、空中を舞ってきた矢が、斜め上から心臓に向かって肋間を突き通して下へ向かって射込まれることはまずありえない。それがたった一例ならば全くの偶然か、鏃をつけた矢がやや彎曲《わんきよく》していたために弧を描いて射込まれたと強《し》いて考えられないこともない。だが、同じ状態で同じ個所に、同じように鉄鏃が刺さっている同じ地方の二例の一致の方が、よっぽど偶然といえば偶然である。
私がこの二例をあげて問題にしようとするのは、こうした意味で、けっして偶然の一致とは思わないからである。そして疑問がむらむらと起きてくるのは、鉄鏃のかっこうや、副葬品や遺体に対する興味ではない。鏃の刺さった、というよりも刺された位置そのものに心惹かれるのである。
まずこういえば、私と同じようにだれしも疑問を抱くだろう。
わざわざ鄭重《ていちよう》に葬《ほうむ》る死骸から、敵に射込まれた鏃を抜き取らないで、そのまま埋めてしまうようなことがあるだろうか。身内の者はきっとその鏃を抜き取り、怒りに燃えた一族の先頭に立って、その矢を還《かえ》し矢として戦いの場に臨んだであろう。
きわめて普遍的なこの考え方に立って判断すると、問題の鏃が、被葬者の死の原因を作ったのではなく、なんらかの別の意味で故意に刺されたのではないかと思われるのである。これは埋葬者に対する宗教的な行為、たとえば永久に眠りにつくようにとか、死者の悪霊をはらうためにとか、ミイラ的な遺体の保存の目的をもって、死の直後に一時に多量の血液を排出させて、できるだけ腐敗を少なくするために講じられた手術の跡とも考えていいはずである。
これに類似する例として、銅のヤジリの刺さった遺体や、鋭利な貝殻が胸の上に置かれた遺体と石棺が、九州のあちこちで発掘されている。
伸展葬が意味するもの
遺体について考えてみると、甕棺《かめかん》の埋葬でもなく屈葬でもない。二例とも伸展葬を行なっているところからみれば、おそらく遺体の保存を目的として、従来からあった貝塚に、土壙《どこう》(墓穴)墓の形式で埋葬したものであろう。
この埋葬法が貝塚のない所では石棺として発展し、古墳時代の竪穴《たてあな》式となったのではなかろうか。
こう考えてくると、貝塚に伸展葬で葬る風習をもっていた種族、ないしは伸展葬を行なった思想は、なんらかの形で古墳に直接関係があるように思われるのである。
また発掘された遺跡の地帯は、完全な畑作地帯であって、半農半漁の生活は営まれても、稲作には頼れない場所である。したがって畑作と伸展葬とのつながりも考えられる。
弥生時代から古墳時代へ移るときの高塚古墳発生の動機も、まずこの伸展埋葬を目的とし、それに剣と鏡と玉のセットが加えられ、封土(盛り土)という外観が発展したものと考えてよい。いいかえると古墳の外観的封土を取り除けば、中身は依然として弥生時代から引き継がれたそのままなのだ。だから封土は畑作文化を意味し、また古墳時代の前期は畑作文化の所産だともいえよう。
武器としての三種の神器
三種の神器に代表される剣と鏡と玉のセットは、祭器、宝器と考えられてきたが、いずれも戦いの武器である。初期の剣はいうまでもなく武器であることは、だれも否定しないだろう。だが武器がなぜ祭器に変わったのだろうか。
古代、神事をつかさどったものはハフリというが、たぶん悪霊をはらう意味で、剣を神前で振り、空間をきる所作《しよさ》をしたのでこの名が生まれたのだと思う。大きな剣を使う者が上位であったからオオハフリといったのである。
鏡は女の魂となる前に、姿をうつすのに実用的でないこの鏡は、中国の鏡製作の目的がどうあろうと、わが国では伝来の初期には武器として使用されたと思われる。その証拠に古事記は神代神話の天照大神の岩戸隠しのとき、鏡を使って光をあて大神を導き出した例を伝えている。戦いの場で太陽の光を反射して相手の射手の目をくらましたり、方向の合い図をしたり、指揮者の位置を知らせるのに使用したのだと思う。
玉も単なる装身具や財宝ではなかった。同じ高天原の条《くだり》に、須佐之男命が風を鳴りどよませて高天原に登られるのを聞いて、天照大神は、スワ一大事と、戦闘態勢を整えられた。そのとき大神が玉を頭にまきつけ、四股《しこ》を踏まれたさまがくわしく述べられている。この例から推して、玉は女酋《じよしゆう》の戦いの場における士気を鼓舞《こぶ》するための威厳に使用されたのだと思われる。またヒスイの勾玉《まがたま》は硬玉で水晶より硬く、ガラスも切れるし、かつては刃物であり医療用具だったと考えられる。
いずれもこのセットは戦いに関係があり、そして、神にささげる前に征服の意味を象徴している。だから伸展葬は、天に向かって葬ったことを意味し、セットはこの征服者の過去における支配的地位を神に告げるものだとも解することができるのである。そして伸展葬はさらに自然崇拝の宗教に対する太陽一神教の対比をも意味しているようである。
古墳は動く
中期古墳以後における副葬品が馬具やその他のものに変わろうと、その底に一貫して流れるものは、やはり戦いの意志であり、征服の象徴といわなければならない。
前に述べた鉄鏃をつけたままの埋葬法は、これら古墳につながる初原的な意味を示唆《しさ》しているものとはいえないだろうか。邪馬台国が弥生時代と古墳時代の中間に位置すると考えるならば、古墳のもつ意志と、弥生時代から引き継がれた墓葬の精神とのつながりが、邪馬台国を捜す手がかりとして、けっして無視できないのである。
元来、全国的に散在する古墳は、そこに相当の長年月の経過をみなければ、ある場所の発生地から模倣ないし伝播《でんぱ》によって、築造の技術がただちに伝えられたのではないと考えた方が正しいと思う(ややもすれば、現代の情報時代に慣れて、いかにも古墳形式が簡単に地方へ伝播したように考える傾向が強い)。なかには模倣や伝播によるものもあったろうが、主体をなしたものは、その風習をもつ人、またはその築造をなす人たちそのものが各地に移動し、その場所に永住することによってその古墳は散在していったのだと私は考える。つまりいいかえると、古墳が動いたのである。
こう考えると、古墳が突如として畿内に発生し、それがしだいに九州へ波及したのではなく、九州に起きた墓制が期を同じくして封土の風習に発展して、その担《にな》い手が逆に畿内へ移動していったと考えた方が妥当である。なかば宗教的に考古学界を支配している高塚古墳の畿内発生説の矛盾を修正しないかぎり、突如として消え失《う》せた銅鐸《どうたく》文化の謎は解けないだろう。何人かの学者はこのことに気づいているかもしれない。だが高塚古墳の畿内発生説の壁はかたく、そのことを批判することすら、いまもってタブーである。ひところガンのヴィールス説を唱えた者が、ガン研究の医学界から白眼視され、学界の圏外に追いやられたように、考古学界の内部を覗《のぞ》けば、学界というところは大同小異のようだ。
だれか考古学者で、同時代の前期古墳が九州にも存在していることを畿内説に対して堂々と証明しうる勇気のある人はいないのか。このねがいは私ひとりのものではないと思う。
最後にもう一度私は重ねていっておきたい。古墳発生の意志は、中期や後期の古墳ならずとも、戦いを意味し、戦闘の勝利を意味し、部族間の分裂と抗争と開拓の困難の果てに願ったであろう平和への希求を表現しているということを。
五 手さぐりで発見した前期古墳
古墳に対する考古学界の偏見
九州における考古学的遺跡、なかんずく高塚古墳の調査は、現在までのところまだ九州全域に及んでおらず、とびとびで抜けたところが多い。広い地域だからやむをえないと思うが、古墳専門の学者が少ないのと、予算不足も手伝って、まだまだの観がある。
それに古墳の発掘には、ほかの遺跡の調査より金がかかるのと、前にも述べたように高塚古墳の発生が畿内だったときめこんでいる学界では興味が薄いのか、あるいは、歴史時代にも近いのでうっかりしたことはいえない、というわけでもあるまいが、とにかく高塚古墳を専門に心がける人が少ないのは残念なことである。
おまけに、高塚古墳の発生を畿内地方だとする、信仰にも似た学説は、前期形式のすべての古墳に対してすら、ろくろく中身の調査もせず、形式は古いが、畿内の模倣によるものだと頭からきめこんで、どのような形で、どのような経路をとって畿内から九州に及んだかと説こうとする。
畿内発生説に対して九州発生説を唱えないまでも、同時代のものがあれば、同じころすでに九州にも前期古墳が築造されていたのではないか、と疑問だけでもいだいていいはずである。それさえもいい出せない学界の内部事情が、下々のわれわれにはどうしても解《げ》せないのである。
この結果、畿内地方の勢力が、西九州に及ぶのがおそかったので、僻遠《へきえん》の長崎県南部などには、後期の横穴式古墳はあっても、竪穴《たてあな》式の前期・中期の円墳や前方後円墳は存在しないというのが、学界の定説になっていた。
縄文から弥生、弥生から古墳時代へと引き継がれてゆく時代の流れのなかで、前期・中期の古墳時代だけが、長崎県なるがゆえにポックリと前歯が抜けたように抜けることがあるだろうか。
有明海をはさんで目と鼻の対岸の熊本県や佐賀県にはたくさんの高塚古墳があるのに、県がちがうだけで、長崎県にはないという。古墳時代にも鉄のカーテンがあったのだろうか。
このまことしやかで実はでたらめな説にたまりかねた私は、何人もの学者に質問を発した。だが答えはみな同じで、いつも冷笑をもって応酬《おうしゆう》された。
実は私も、このころまでは日本の考古学界をすべての点で高く評価しすぎていたのである。
夢のお告げ
考えれば考えるほど、激しい抵抗を感じた私は、かくなるうえは自分で前期古墳を捜すよりほかはないと決心した。
ある日、かねて見当をつけていた島原半島のある村に、私は妻をつれてひそかに調査に出かけた。そしてそこで、想像していた以上の百メートルほどもある後円部が高い前期形式の前方後円墳とその培冢《ばいちよう》を発見した。
妻に手を引かれて、丘を上ったり下ったり、ステッキで土堤の周囲をコツコツたたいてまわり、これが古墳だと確信を得たときは、嬉し涙がこぼれた。菜の花やレンゲ草の咲き乱れた三月はじめのかんばしい風は、古墳の一角に腰をおろした私たちの周囲を、まるで花粉の嵐のように吹きぬけた。
雉《きじ》がやにわに横合いから飛び立った。ケケンと一声鳴くと、後円部とおぼしき方向へはすかいに飛び去ってゆく。
「白い雉のようですわ」
妻が、さりげなくいった。
翼が夕日に光っていたのであろう。記紀に語られた古墳造営にまつわる霊兆としての白い鹿のイメージが妻の脳裡に泛《う》かんだのだろうか。これなら、きっと妻も邪馬台国にたどりつくまで私についてくるつもりだなと思った。まったく、この日は私の生涯にとって、かつてない感激であった。
その後、何くわぬ顔で、私は同好の友人たちにこういった。
「実は昨夜夢をみてねえ。靫《ゆぎ》を負い、甲冑《かつちゆう》に身をかため、剣《つるぎ》はかせる大王と五百箇御統之玉《いおつみすまるのたま》をその首に嬰《うな》げたる姫とが、大きな古墳の上に立って私をさし招くんだ。それで気になるから、あの村の川の上流一帯を調査してくれないか」と切り出した。
はじめ彼らは単なる冗談だと思ったのか、笑ってとりあわなかったが、その夏、彼らの主張で発掘を予定していた、縄文晩期のある遺跡の応援をことわる、と私に脅迫《きようはく》されて、しぶしぶ承知した。
その翌日であった。夕方近く友人たちはしょんぼりと調査から帰ってきた。私は彼らが指示した場所をまちがえたのではないかと思った。しかしそれは単なる杞憂《きゆう》にすぎなかった。
彼らの話によると、夢のお告げによる前方後円墳はすぐ見つかったが、それからがたいへんで、さらに付近を調査すると、その近くにまた二基も前方後円墳が並んでいたというのである。つづいてその付近から山手一帯にかけて、数基の円墳も発見して帰ってきたとのことであった。
まったく、しょげかえった彼らには気の毒だった。というのは、この友人たちも畿内発生説を妄信して、日頃私の長崎県南部における前期・中期古墳の存在可能説に対し、抵抗を試みていたからである。その後、あのときの夢のお告げは本当だったのかと、この友人たちにたびたびたずねられることがあるが、今も「そうだよ」と私は答えている(ある村とは長崎県南高来郡吾妻町のことで、発見した前期前方後円墳は同町所在の大塚である。)。
生きていた古代の集落
こんなことがあって以来、自信を得た私は、すすんでその後も各地の高塚古墳を発見することにつとめた。ところが探し回ってみると、高塚古墳はまだどこにもたくさんあるのである。学界に発表されていない数は、意外に多い。もちろん豪華で巨大なものはあまり残っていない。だが消滅しかけた小円墳や古墳群などは、相当の数にのぼっている。発掘も大切だが、今のうちに、これらの存在個所をいっせいに調査して明らかにしておく必要があろう。
今日までの私の調査では、これらの古墳群が残っていた地方は、すべて私が邪馬台国の国々を比定しようとした国の中心とふしぎに一致した。また記紀の伝承や風土記《ふどき》その他の古代説話が、その土地になんらかのかかわりをもっている場所には、必ずといっていいほど高塚古墳が多い。そのほか、和名抄《わみようしよう》に記載された郡の役所や郷《おおさと》、駅なども見逃せない。考えてみると千七百年前の邪馬台国時代から、国造《くにのみやつこ》、県主《あがたぬし》などを経て、守護・地頭から戦国時代となり、諸大名が土地を分割して城を築き、維新の廃藩置県にいたるまでつづいてきた国や郡の分け方は、多少の変遷《へんせん》はあってもほとんど変わっていない。そして氾濫する川岸や変化の多い海岸を除けば、人間の集落はほとんど動いていない。この事実から、古代の集落は現在も生きているのである。
これは後日のことになるが、島原半島のネックと諫早《いさはや》との間の森山町に、上井牟田という部落がある。井牟田は忌田《いむた》ではないかと思って調査に出かけてみると、はたせるかなこの小盆地全体が、大きな前方後円墳と円墳に取りまかれた中期の大古墳群部落であった。石室は、生姜《しようが》やサツマイモの保管庫に利用され、何のためらいもなく生活にとけこんでいた。このように、まだまだ各地に未発見の古墳群が存在しているのである(その後、文化庁の全国遺跡地図や、各県の文化課でまとめた史跡名勝天然記念物所在地名一覧などが出ているが、まだまだ相当数のものが洩れている)。
こうした日本人の集落に対する執着の原因はいったいどこにあるのだろうか。
それはひとくちにいって、太陽と水だ。そのことに気づかなかった私は、この太陽がひた照り、水の涌くありかを求めて、二十数年間をさまよいつづけてきたのである。
邪馬台国の国々の所在は、この太陽が鏡のように反射する泉をさがすことでもあった。
その後判明した古墳の数は、長崎県南部だけでも相当の数にのぼっている。
かつて、長崎県南部に中期以前の高塚古墳は存在しないと断言せしめた牢固《ろうこ》たる思想の背後に、いつもちらちらと顔をのぞかせていた畿内発生説から、少なくとも私は、これらの発見によって完全に解放されることができた。このことは、とりもなおさず邪馬台国畿内説の根底をなす古墳の畿内発生説がいかに皮相的な仮説にすぎなかったかを、多くの人々に呼びかける足場ともなったのである。
第五章 帆柱の文化
一 天に向かって造られた前方後円墳
水は古墳の生命
前方後円墳は、航空写真で撮《と》ると、なぜはっきりするのだろう。あざやかで、雄大で、美しい。この墓型は上空から見た場合のみ、いちばん造型的だ。このことが、とりもなおさず、前方後円墳の墓型の意味を示しているように思われる。
従来説かれてきた墓型の意味には、それぞれ、その説かれてきた理由がある。だが、その理由は、一部分ではあっても全部ではない。だから、だれもがその一説のみに頼れない。その決定的な大きな理由を見落とさせているものはなんだろう。それは内部に蔵された出土品を部分的に取り上げ、その編年に執着して、時代的にのみ割り出そうとする考古学の固定観念が、背後から自由な考え方を引っ張っているからではなかろうか。
厖大《ぼうだい》なあの伝仁徳《にんとく》天皇陵や、伝応神《おうじん》・履中《りちゆう》天皇陵などを見て、人々はなぜ、ある種の疑問を抱かないのだろうか。
上空から見たあざやかな円と角の組み合わされた輪郭。学者はその縦横の寸法を計算して数学的に対比を求め、平面図を作る。そしてなんらかの理屈を割り出そうとする。だが、そんな縦横の数字の比例や長さの尺度は、地上に立って眺める庶民にとっては何の役にも立たない。ただ壮大でさえあればいい。そして、神々《こうごう》しく畏敬の念をもよおしさえすればいいのである。
だのに、地上から眺めるとき、上面の美しい前方後円の輪郭は、だれも見ることができない。見ようとして見られるものでもない。
私は、かつて目が見えていた頃、墓陵の傍らに立って、壮大であり、優美であり、神々しい墓型だけを目的とするなら、地上から眺める庶民のために、もっとそれに適した、もっと目的を達しうる造り方だってありそうなものだと考えたことがある。それから、周囲をめぐってみたが、この形でなければならないというような決定感は、どうしても湧いてこなかった。
周囲の堀は、庶民が近づけないように、霊域を守るために必要であろう。また築造のおりの、バンキング(築堤)にカッティング(掘削)の必要があったことはいうまでもない。
これらの従来の学者の理由は正しい。だが私は、なんとなくそれだけでは割り切れない気持ちで、長い間疑問を持ちつづけてきた。ところが、失明して植物を栽培するようになってから、私自身の中にわだかまっていた疑問は解けた。
それは、あれだけの封土《ほうど》に、あの堀がなかったら――堀ではない、水だ――あんなに高く盛り上げられているけれども、土の表面からは、間断なく毛細管現象で水分が発散しているのである。そうでなければ夏などたちまち乾燥して、ひとたび豪雨や台風に襲われると、たとえ十分な築き固めがしてあってもひとたまりもなく崩壊してしまう。水があって、はじめて封土は適当の湿度を保ち、あの厖大な土の塊《かたまり》が今日まで生き続けてきたのである。今日までこのことにだれも気づいていない。御陵の自然に生えた樹木はいきいきとしている。古代人はそうした科学的な理由を経験的に知っていて、水は命と考え、周囲に堀を掘ったのだろう。
さらに、この堀は上空から見たとき、あるときは青く澄んで、あるときは鏡のように光を反射して、陵全体の存在をくっきりと浮き出すのに役立っているのである。この意味で、上空からの前方後円墳の輪郭を、くっきりと浮き出させる目的で、この堀の役割は大きい。そうでなければ、ただたんに壮大さを誇りたいだけならば、自然の丘をそのまま利用してもいいはずだ。
従来、古墳が自然の丘から平野に移ったのは、より壮大さを誇示するためだと説かれてきたが、ただ、それだけでは、平野の中にわざわざ築造しなければならなかった決定的な理由にはならない。
問題はいろいろあろう。しかし、この水を考慮に入れないときは、万里の長城やピラミッドなどとちがって、土だけでは厖大な古墳は築けない。水は生命であり、堀は絶対的な条件だったと考えられるのである。
埴輪の意図するもの
次に、埴輪《はにわ》についてもこんなことは考えられないだろうか。
あの周囲の莫大な数にのぼる埴輪は、これまた、いままで説かれてきたように、埴輪には埴輪の意義があるだろう。私はその理由を、すべて否定しようとは思わないが、あまりにも手のこんだ装飾であり、投資であるように思う。
あの厖大な前方後円墳の築造者たちは、各自がその胸の中で厖大さに似合わず、意外に地上からみた側面や周囲が、味気なく、つまらないものだということをだれよりもよく知っていた。
歳月をある目的のために費《つい》やし、作り上げた前方後円墳の大きさのわりに、地上から見たときのつまらなさ、単調さ。ただ漠然と土を盛り上げただけの異様な塊《かたまり》。
彼らは目的のためにのみ、築造の意志を集中して、予想しなかった地上から見た芸のなさに驚きあわてたことであろう。そこで地上から眺めたときの欠点をかくすために、単調を補うために、あの莫大な数の埴輪は、あまり美人でない女が必要以上に飾り立てるときのように並べられたような気がする。並べても並べても、あの大きな図体にはこたえなかった。近づいてみれば、あんなに優美で手のこんだ埴輪も、離れてみればただ茶褐色ひといろの集積だ。そしてあの大きな山をさっさと造り上げた力と雄大さに比して、なんとちっぽけな細工であろう。私は、コンストラクション(構造)の上で、どうしても合点《がてん》がゆかないのである。
墓型に託された征服の意図
さて、それでは、前方後円墳の輪郭の意志しているものは何か。
私はまず、上部が平たいことに疑問を持つ。この平面部分はむりして平面にしてあることはだれの目にもわかるはずだ。封土の耐久性と、地上から見た姿の優美さからいえば、むしろカマボコ型か庵《いおり》型のほうがよかったはずである。
学者の中にはこのグラウンドをさして、平気で祭礼の場所と考えてはばからない人もいる。遺体の安置された場所が前方部にも後円部にもあるのに、祖先たちは遺体をふんづけて祭礼を行なっただろうか。こんな無謀な考えが許されていいはずはない。それにわれらの祖先たちは、このグラウンドに登るために、ノミのように数十メートルを一挙に跳躍したのだろうか。そうとでもいわなければ、登るためのはっきりした階段が設けられているわけではないし、必要のつど、縄梯子《なわばしご》でもかけて、登ったのだというほかはなかろう。
この平面部分は、実は上部周辺の輪郭をくっきり浮き出すためと、上空から見た場合の全景をまったく明確にするために役立っている。
こう考えてくると、この前方後円の平面形こそ、伸展埋葬の拡大された人間の姿だと考えられる。
征服者のこの巨大な姿は、いかにもその征服の意志を、天の神々に向かって告げているように思われる。かつて倭の五王たちが中国に送った書簡のように、幾つかの位と大将軍の称号を求めてやまなかった自負と熱望の精神がありありとうかがえるではないか。さきに述べた伸展埋葬法と、剣、鏡、玉のセットによる組み合わせは、ここにはじめて戦いと征服の意義を持ってくるのである。
されば畿内の古墳も、副葬品の編年がどんなに古かろうと、その初期の築造者たちは、他の場所からやってきた征服者であり、副葬品は彼らの占領品であり、所持品であったといいうるのである。またその後における莫大な副葬品のうち、古いものはその被葬者の戦利品を意味し、伝世を絶った品とは考えられない。伝世は、天皇家の三種の神器でも明らかなように、最高の統治者には依然として伝世されている。降服のしるしに、榊《さかき》の枝に剣、鏡、玉をかけて献上した風習が、記紀の中に幾度となく明記されていることからも了解されるであろう。
話は墓型にもどるが、千五百年の昔、太陽と天の神々にのみ対決しようとした偉大な征服者たちは、その意志と姿を、よもや神ならぬ下僕《しもべ》たちにさらけ出して、ヘリコプターの機上から、まんまと写真に撮られようなどとは、夢にも思わなかったであろう。
そしてこの写真は、今日までがちゃがちゃ論議されてきた形式論をしりめに、前方後円墳の図形が、二等辺三角形の頂点と円の中心を共有する組み合わせになっていることを明快に解答してくれるのである。かくも単純な事実がなぜ今日まで気づかれなかったのであろうか。
二 白秋《はくしゆう》詩碑
長谷健の思い出
さきごろ、矢部《やべ》川河口の移動の状態と、福岡県|山門《やまと》郡瀬高町にある金栗《かなぐり》古代住居址の地理的条件などを調査に出かけた。
帰途、風浪《ふうろう》神社(福岡県大川市)へも寄るつもりで、柳川《やながわ》市内を通過しながら、ふと白秋《はくしゆう》詩碑のことを思い出して久しぶりに立ち寄ってみる気になった。私の車は最も経済的なパブリカのライトバンである。雨上がりだったので沖端《おきのはた》の悪路にめり込むのではないかと、少々気になった。
カン高い男女生徒のざわめきが聞こえる。伝習館高校の前とおぼしきあたりを通り過ぎて、しばらくいってから車は右に曲がる。すぐに橋らしいものを渡った。記憶にある橋だ。この先から左に入ったところに長谷健《はせけん》のいた家がある。そう思うと、「長谷さん、しばらく」と私は思わず目をつむって念仏を唱えた。
あの家は、そのままいまも建っているだろうか。目が見えていたら、その家が見たかった。
彼と私がつきあうようになったのは、同じ「九州文学」の仲間になってからではなく、彼が芥川賞を受賞する以前からである。たしか彼とはじめて会ったのは、「文芸首都」の保高《やすたか》徳蔵先生のお宅だったように覚えている。
こんな私と長谷健の古いつきあいについて知っている者は「九州文学」でも少ない。
いつのまにか、車は白秋詩碑のある矢留《やどめ》小学校の裏手に着いていた。駄菓子を作っている家があるらしい。沖端《おきのはた》独特の渋い風の匂いにまじって、香ばしいかおりがただよってくる。
からたちの若葉は、バルサムのような香気を発散していた。私は犬のように鼻をクンクン鳴らして、あたりの葉先を、行きつ戻りつ、しばらく嗅《か》いでまわった。
雨上がりの空は底知れず澄んでいるらしく、雲雀《ひばり》が何羽もさえずっている。詩碑の周囲に植えられたからたちの幹は、思ったよりがっしりと育っていた。ほどよく剪定《せんてい》された枝の棘《とげ》を気にしながら、私があちこちさわっていると、背後で妻が碑面の朗読をはじめた。
山門《やまと》は我《わ》が産土《うぶすな》
雲騰《あが》る南風《はえ》のまほら
飛ばまし今|一度《ひとたび》
筑紫よかく呼《よ》ばへば
恋《こ》ほしよ潮《しほ》の落差
火照《ほでり》沁《し》む夕日の潟《かた》
盲《し》ふるに早やもこの眼
見ざらむまた葦《あし》かび
籠飼《ろうげ》や水かげろふ――
「盲ふるに早やもこの眼、見ざらむまた葦かび、ろうげや水かげろふ」と、私も思わず妻の声に和していた。「盲ふるに早やもこの眼」という言葉が、棘のようにグサリと喉につきささる。こらえようとしたがわれ知らず、熱いものがこみ上げてきて、どうすることもできなかった。
白秋詩碑の建設
昭和二十三年の早春だった。私と風木雲太郎は、「九州文学」で思い立った白秋詩碑建設の、長崎県での浄財を集める役を受け持っていた。二人は手分けして小学校をまわった。子どもたちを相手にへたな節回しで「赤い鳥小鳥」「あわて床屋」「砂山」「ペチカ」「この道」などをドラ声をはり上げてうたってから、「この歌を作られた北原白秋先生という偉い人の記念碑を作ります。いくらでもいいから入れてください」と帽子を脱いでどなるのである。すると、子どもたちはペンギンのように集まってきて、がやがやと帽子の中へ十円硬貨を投げ入れてくれた。
「もっとうたえばもっと入れてやるバイ」と子どもたちにはやし立てられるのには困った。
こうして、楽しい旅芸人のまねごとをして廻り、千数百円を得た。
その年の夏、深刻な顔をして長谷健がやってきた。
彼は詩碑建設の現場責任者だった。話を聞いてみると工事の進め方や技術がまずく、何度も失敗しているので、出費がかさみ、手許の資金が心細くなっていることと、技術的にどうすればいいのかと、思案にくれて相談にきたというのだった。翌日、私たちは連れだって柳川《やながわ》へ出かけた。
現地へ行って調べてみると、十数トンもあろうか、巨大な碑石を石塔屋のいいなりに、そのまま簡単な基礎の上にすえようとしたので、沈下させたり、転倒させていたことがわかった。付近一帯は数十メートルもある有明海のへどろの表面が乾いて陸化した場所である。基礎杭は打ってあったが、かんじんの梯子胴木《はしごどうぎ》が施されていなかった。しかも用地のすぐ背後には数メートル幅のクリークがあって、基礎に荷重《かじゆう》がかかると、柔らかい餅を押しつけたときにアンコがとび出すように、地下のへどろが、このクリークへ噴き出してくる。だから何度碑石をすえようとしても、のめったり、転んだりしたのである。それを彼らは知らなかったのである。
この工事を完成させるためには、まず、クリークのふちに完全な石垣を築く必要があった。基礎はもちろん、はじめからやり直しだ。敷地も美観という点から門柱を立て、周囲にはからたちのいけ垣をめぐらし、ある程度の土留《どど》め石を並べなければならないだろう。計算してみると、相当量の石材が入用となってくる。私は観念した。
暑い日盛りの中で長谷健は石屋の棟梁《とうりよう》とともに私のさしずに従って地面にせっせとなわを張った。彼は、しばらくやっては、汗が目にしみるといってぼやいた。入り口付近の直角が、定規がないので出せないと石屋がブツクサいうので、私が「三、四、五、だ!」とどなって、綱を使ってピタゴラスの定理で直角を出してやると、数学に弱い長谷健はえらく感心していた。
白秋は柳川だけの詩人ではない。この碑文の詩にも、「火照り沁む夕日の潟」とあるように、有明海が生んだ詩人だ。有明海の新潮は、はるか天草灘から、その向こうの東シナ海のかなたから滔々《とうとう》と流れこんでくる。この暖流の恵みがあったればこそ、からたちの歌がうたわれ、この帰去来の詩が生まれたのではないのか。だから白秋は黒潮の詩人であり、暖流が育《はぐく》んだ日本民族の、郷愁の大詩人なのだ。
この詩碑の巨石は、長崎県と佐賀県の県境である多良岳《たらだけ》山麓の帆崎《ほざき》から運んできた。だから、クリークの石垣には天草の大矢野島《おおやのじま》の石を、からたちのいけ垣にそって並べる石は、雲仙岳の爆発でできた島原角閃安山岩を、碑文の礎石の周囲には、白秋にとってその出発を飾った邪宗門にゆかりの島原の乱で血潮に染まった原城の海岸の石をと、それぞれ異なった有明海をめぐる各地の石を集めて組み合わせてみたらどうだろう。あなたは女山《ぞやま》か矢部川流域の石を馬車一台分、だれかに寄付してもらいなさい。そしたら私も、必要な石を舟三そうに積んで送ります、といったら、彼は「すまんすまん」と、私の手を握りしめ、子どものようにベソをかいて喜んだ。よほど困《こう》じ果てていたのだろう。まだその頃まではいくらかでも見えていた私のおぼつかない視界に、彼の童顔が印象的にゆれていたのを、覚えている。
白秋詩碑のいけ垣のからたちは、いまりっぱに育っている。だが、それからの私は、どれだけ成長しただろうか。
三 詩碑と古墳
古墳と白秋
久しぶりに白秋詩碑を訪れた私は、妻に手をひかれて詩碑の裏手にまわった。クリークの石垣を調べるつもりであった。石垣は心配するほどのことはなく、ふるさとの歌を秘めて、ほどよく苔むしていた。私はわけもなくその石面を白いステッキでたたいた。ビシリと鈍い音がしただけで、そこからは天草のなつかしい潮騒《しおさい》は聞こえなかった。
だが、しばらくつっ立っていると、灰色の視界に、累々《るいるい》と置き去りにされた数百の石棺群、丹《に》で彩《いろど》られた巨大な石室、岬の突端から崖のある丘へ、芋畑やみかん畑の片すみに、むせるように芭蕉《ばしよう》の花が咲いた民家の裏庭に、わすれたように放置されてねむっている古墳の群れ、いまは日一日と天草と宇土《うと》半島をむすぶ巨大な鉄の橋が姿を現わしつつあるだろう。あの大矢野島から維和《いわ》島、戸馳《とばせ》島、宇土半島の陸と空の風景が忽然《こつぜん》とうつったのである。
古墳が白秋となんの関係があるのだろう。このふしぎな幻影に、私はしばしとまどったが、しばらくするとこの謎は解けた。
白秋は潮流《うしお》の詩人である。
天草を出発点とする石棺の足取りは、肥後から筑後、筑後から豊前《ぶぜん》へ、そして周防灘《すおうなだ》から伊予《いよ》、讃岐《さぬき》、淡路《あわじ》島、畿内へとのびている。考古学で謎とされているこのコースは、東シナ海の暖流が、沿岸の岸辺を洗って、瀬戸内海から畿内の水際へ到達するための、海路による最短コースなのだ。そして太陽は、常にかれらの前方に姿を現わし、背後の水平線に沈んでいった。
かくて、太陽を崇拝するかれらが安住の地を求めて、最終的に得た一つの場所、というよりも、地理的な、気象的な風土に阻《はば》まれ、強力な他部族の抵抗にあって前進をあきらめたとする。
そこでやむなく上陸した付近に住んでみると、意外に住みごこちがよかった。
こうしてつぎつぎにやってきた彼らの仲間同士の間には争いが起きた。争いはやがて数世紀の後に一つの統一国家へと発展していった。そこが畿内ではなかったのか。そして彼らは、征服の勝利と統一の喜びを天に向かって宣言する形で、地上最大の墳丘を築いた。それが仁徳天皇陵と呼ばれていまに残る大前方後円墳ではなかろうか。
だとすれば、白秋が、もしこの時代に生を享《う》けていたら、どんな詩を残していただろう。
「山門《やまと》は我が産土《うぶすな》」と歌う彼のふるさとは、わが「まぼろしの邪馬台国」で比定する邪馬《やま》国の河口のなぎさである。四季のあけくれに西から東へ戦う者たちの一団が、わめきながら、磯づたいに通りすぎてゆく。そして彼らは新しい大陸の文明をまき散らしていった。多感な白秋は、彼らの姿を一本の釣り竿を手にして黙って見送っただろうか。きっと太陽の出る東の彼方には黄金の夢が待っている、おれもゆこうと、釣り竿をすてて脱兎のようにかけだしてゆく白秋の姿が目に浮かぶ。
大古墳築造への疑問
このときまた私の脳裏に一つの疑問がうかんだ。あの大古墳はどうして造ったのだろう。どんな技術で、どのようにして造られたのだろうか。
ふと私は、クリークの石垣を、なんのために気にして調べようとしたのかに気づいた。もし胴木《どうぎ》が狂っておれば、石垣は波打っているはずである。わずか十数トンの石碑の荷重《かじゆう》からくる土圧を、私はこんなに気にしていたのだ。それならば、あの前方後円墳の数百万立方メートルに及ぶ厖大な土圧をなぜ気にしないのか。
たいていの大古墳の周囲には堀がめぐらされている。地盤のいいところもあれば悪いところもある。しかしいずれにせよ、あの大古墳の土は、そのままうずたかく積み上げただけでは用をなさない。さいわい、いくつかのものが崩壊をまぬがれたとしても、長年月の間には雨風や土圧のために、堀はおろか古墳そのものが姿をとどめなくなっているはずである。それがなんの損傷もなく、現在、堀をめぐらして、築造当時の姿で残っているということは、そこになんらかのしかけがほどこされているとみなければならない。すでに生《お》い茂った樹木のためと、御陵としての管理によって崩壊が防止されているのだといってしまえばそれまでだが。
私はさきに前方後円墳の形状や堀のもつ意味などについて述べたが、そうした外形的な観察ではなく、いまは新たに、その築造の工法ないしは技術に深い興味を覚えるにいたった。
いま、古墳の地表部から切り取ってその内部と断面を詳細に検討してみたら、どんなことが発見されるだろうか。さらに地下五メートルほどの縦断図と横断図を作成することができたら、私たちは、古代人の知恵と能力という点について、現代人が恥ずべき幾多の新知識を学び取ることができるような気がしてならない。
新潟地震で、マッチ箱のようにひっくり返るビルやアパートを設計して技術者面をしている現代日本の過信した精神。ビルの周囲から間断なく地下水を汲み上げ、デコボコの道路をつくり、ビルを傾けている似非《えせ》技術者の群れ。Sカーブの勾配にカントを入れそこなって、毎日のように転落事故や衝突事故を起こさせている道路はいっこうに直そうともせず、責任を運転者側に押しつけて恬《てん》として恥じない傲岸不遜《ごうがんふそん》の精神。こうしたいまの日本人に共通した意識過剰と自己埋没はどこで培《つちか》われ、増長したのだろうか。
日本の土木工学や建築の基礎学の本には、外国の橋やダムを例にとり、万里の長城やピラミッド、ローマの建築については、大きく説明を費やしながら、この地上における世界最大の生土《なまつち》で造られたわが国の大古墳については、なんにも触れていないのである。それもそのはずだ。わが国の大学には、建築史の講座はあっても、土木史の講座がないのである。
私は数人の工学博士の肩書きを持つ土木専門学者と話したことがあるが、その認識はきわめてとぼしく、なかには、伝仁徳、応神、履中天皇陵などの存在すら知らない人がいたのには驚いた。
万里の長城やピラミッドのように、日本の古墳は煉瓦や石で築かれているのではない。天日でねり上げた土を干したり、焼いたり、そうした煉瓦で積み上げたのならふしぎはないが、日本の古墳は、まったくのナマの土で築かれた封土《ほうど》である。外壁や周囲を石積みで固め、安土《あづち》桃山式の築城法のようにだれにも理解できる工法で築かれているのではない。
まず、注意して考えると、古墳の封土は、すべてつき固めてある。このことは土木に少々知識のある者ならば、だれでも理解できる。しかし、つき固めただけでは、あれだけの封土を維持することはできない。問題は基礎にあるのだ。古墳の周囲は水をたたえた堀で取り巻かれている。この水は古墳の脚下を浸蝕しないのか。フリクション(横圧)の計算がされているわけではなかろうが、古墳の脚部にのしかかってくる横圧は、どうして食い止められているのか。堤塘《ていとう》(どて)の生命ともいうべき鋼土《はがねど》(スチール・ウッド)のようなものが、周囲に施されているのではなかろうか。場合によっては基礎杭が打ち込まれ、矢板《やいた》(崩壊を防ぐための板状の杭)がうずめられているのかもしれない。弥生時代の溝にすら、りっぱな板が驚くほどの精密さで用いられている。
私は技術屋でもなければ、土木を専攻した者でもない。だが素人の私にさえ、こんな疑問がわくのである。こうした技術上の問題は、いずれ専門家の研究に待たなければならないが、考古学者だけにまかせず、土木学者が、一日も早く乗り出してくれることを期待してやまない。
四 古墳築造の秘密
滑車と柱
古墳は土をつき固めて、築《つ》き上げられている。この素朴な私の疑問によって得た結論については、だれも文句をいう者はいないだろう。
問題は「つき固めた」ということに重要さがあるのではなく、「どうして、どんな方法でつき固めたのか」ということを私はいいたいのである。
また、基礎のある部分に杭が打ってあるだろう、矢板が打ちこんであるだろう、中心ハガネドがあるだろうといった私の疑問については、「あるいはあるかもしれない」と読者は答えるほかはないのである。未知の問題であるから、いずれ調査の結果が是非を決定するだろう。だから、それでかまわない。だが私が「打ってあるだろう」といった意味には、「どうして打ったのか、どのような方法で打ち込んだのだろうか」といった施工上の問題が前提としてあることを注意してもらいたいのである。
適当な丸太を一人または二人で抱きかかえてつき固める方法や、適当な大きさの石に綱をつけて、現在でもやっている胴突きのような方法で、土を固めたであろうことは想像にかたくない。しかし、これらの小規模な動作で、分厚い封土や広汎な場所を理想的に固めるやり方は、あまり適当とは思われない。大規模な土木工事にふさわしい、なんらかの道具を使用した方法がとられたのではないかという疑問をいだかざるをえないのである。大じかけな櫓《やぐら》を使用するまでもなく、二叉や三叉の丸太を組み合わせた程度の櫓ぐらいは使っただろう。杭を打つにしても櫓が要《い》る。
現在、出雲《いずも》大社の史跡調査でわかっている往古の高床式の大宮殿は、丸ビルの二倍の高さがあったといわれている。こんな大宮殿の柱を立てるにも、トラ綱と二叉、または単柱《ぼうず》はどうしても欠くことができない。ましてや基礎杭や矢板を打ったとすれば、櫓が要るのである。櫓の形式がどうあろうと、これらの労具になくてはならないものが綱と滑車《かつしや》である。滑車さえあれば、どんな重量物でも、三車、四車を組み合わせることによって、簡単に動かすことができるのである。
古墳の石室に使用された巨石も、輦《れん》(蓮)台《だい》や修羅《スラ》にコロを使って、おそらく綱と滑車で巻き上げたことだろう。考えてみると、滑車と綱さえあれば、たいていの仕事ができる。
大古墳の築造にあたって、あの厖大な量の土を二十メートルもの高さまで、モッコをかついだり、背負《しよい》子《こ》を背負って登っただろうか。そして、そんな高い場所のふくれ上がった土を、丸太や石の手動で、完全につき固めることができただろうか。
権力と技術
学者は、人海戦術で、大王が権力によって果たしたと説くだけである。はたして権力が、絶対的な技術の世界と物理の限界をどこまで支配することができるだろうか。ただ威圧と号令によって、人を集め、叱咤《しつた》激励しただけでは、動かない巨岩は動かないのである。そこに機械と技術の必要性が生じてくるのだ。
前方後円墳の表面に敷きつめられた葺《ふ》き石《いし》は、数キロも離れた川岸からコンベヤーのように一列に並んだ人々の手送りによって運ばれたと学者が説けば、たいていの人はなるほどと納得《なつとく》してしまう。こんなばかげたことがあろうか。手送りできる小石ならまだいい。分厚い、一人では持てそうもない石が手送りできるなどとはとんでもない。あるいはむりをして、川床から川岸へ手送りで運び上げた例ぐらいはあるだろう。そんな場合は短距離に限られている。かりに数キロを五キロとして、一人が一メートルごとに立って一列に並べば五千人、二列に並んだら一万人になるのだ。この使役《しえき》に応じた人々の食糧や住居についてはどのように解釈したらいいのか。
権力を集めた大王は、かならずしも人民を虫ケラのようにこき使ったとは限らない。権力に対する概念やイデオロギーの立場から、権力はつねに忌《い》むべき対象として考えられているが、人民を経済的な価値の対象として考えれば、頭のよい権力者は、かえって粗末にしなかったはずだ。武力だけに頼った者は、権力を集めた大王にはなれなかっただろう。知と武が兼ね備わった者でなければ天下を統一することができなかったことは、歴史のしるすところである。
奴隷《どれい》は経済的な対象として個人の自由は奪われていたが、虫ケラのように殺したり、ようやく生かしている状態だけではなかったろうと私は考える。ある場合には鞭打ち、また足蹴《あしげ》にしたりといった悪い例だけが、われわれの印象に残っているので、多くの人は誤解している。奴隷は財産だから、へたな使い方をすれば、それだけ財産をスリ減らすことになるのである。かつて奴隷を売買していたころの欧米人たちは、女奴隷が妊娠するといたわるのが常識になっていた。それは愛情からではなく、子供が生まれると、家畜と同じように財産がふえるからである。
大古墳の築造にあたっても、権力者なるがゆえに、どんなむだなことをしてもかまわないとは考えなかっただろう。人民を不必要にかり立て、非能率な仕事のさせ方をするのが権力ではない。むしろ能率的に人員を配置し、合理的に仕事をさせることによって、権力はさらに権力を拡大していったのである。
だから葺き石の運搬や封土の収集に当たっては、牛馬車を使用したことも考えられるが、大古墳の厖大な土量に対しては無価値に等しい。
もし私がいま、大王にかわって古墳を造るとしたら、まず舟を用いるだろう。ある程度の平坦地ならば、近くの川と運河をもってつなぐ。それに舟を浮かべて上流から土や石を古墳の足許まで積んできて、そこから楽々と運び上げるだろう。いまも大古墳の周囲にめぐらされた堀は、こうした工法によって完成後にしめ切られた舟溜《ふなだ》まりの名残《なごり》だと私は考える。もちろんこの堀から掘り上げた土は、古墳の封土に使用されている。その後、運河はある程度埋めもどされ、灌漑水路に利用され、周囲の水田は、このとき、いまでいう基盤整備によって開田されているのである。
こうした意味で、平地の大古墳は、古墳の築造とともに耕地の造成に多大の投資がなされた結果だともいいうるのである。あるいはそのことが優先していたかもしれない。古墳の傍らに立って広々とした水田を眺めるとき、読者も実感をもってこのことを理解されるであろう。
さて、このような方法で運ばれた土や石は、それから高い古墳の頂上までどうして積み上げられていっただろうか。一本の柱に一本の腕木、そして一本の綱。それに滑車が加われば、完全なデリック(起重機)である。滑車を自由に使いわける人々にとっては、何事も素手によらなければならない人海戦術は愚劣なことだとわらっただろう。
土は自由に巻き上げられ、巨石は苦もなくはい上がり、封土は何トンもある巨木の胴突きによって逐次《ちくじ》つき固められ、古墳はみるみるうちにできあがってゆく。こんな空想を私はけっして非現実的な考えだとは思わない。なんとなれば、私は綱と滑車と必要な人を与えてもらえば、いますぐにでもやってのける自信をもっている。いかなる古墳の巨石も、希望とあれば、綱と滑車によって自由に動かしてみせるだけの経験をもっているからである。
古墳築造に使用した修羅の発見
修羅《すら》(しゅらと読むのは関西、関東で、九州地方ではスラと呼ぶ)は、トラクターやレッカー車が普及するごく最近までは、神楽《かぐら》桟《さん》(木製竪形ウィンチでロクロの一種)とともにトビ職や土方《どかた》が使用する当たりまえの道具であった。戦時中、私も大刀洗《たちあらい》飛行場付近から疎開《そかい》する航空機会社の二百トン・プレスを、十キロメートルも離れた甘木市郊外の安川村まで、まったく同じ型の修羅に輦台《れんだい》やコロ、神楽桟を使って、人力だけで一昼夜半で運んだ経験がある。ところが最近(昭和五十三年四月)、大阪府藤井寺市の仲津媛《なかつひめ》陵古墳の陪冢《ばいちよう》の堀の底から修羅が発掘され、「古代の古墳築造の謎を解き明かすための画期的な遺物」として学者も新聞も大騒ぎを演じたが、私はこのことを新聞やラジオ、テレビで知り、実に奇妙な気持ちになった。
ごく最近まで使用されてきたこのような道具が、すでに五世紀ごろから使用されていたという観点で取り上げられるのなら話は別だが。経験のない世界に対する無知といおうか。戦後に育った人たちの経験や常識のなさ、そして未知のものに対する驚き。私は戦前派と戦後派の経験の格差に、いまさらのように驚いた。しかもその後、南方の島で原住民が、そっくりの修羅を現在も使用していたというので、わざわざ買い求めて日本へ持ち帰り、古代の謎を解き明かそうという後日談に及んでは、情なくもあり、おそろしくもなった。田植機に頼っている百姓が、もはや手植えの技術を忘れ、田植えのときに使用する玉のついた綱をみて驚くのと同じ感じを受けた。
古墳築造の技術や方法については、このようにすでに十二年前、本書(旧版)で明らかにしておいた通りだが、それがそっくり事実となって現われたのである。実はこれは仮定の形で、ひかえめに文章を書いただけで、実際は土木屋の常識であり、現場に経験のある戦前の土木技術者ならだれもが理解し、知っていたことである。私がここで、このように付け加えるのは、俺の言った通りではないかと誇らしげにいいたいためではなく、修羅に対する大騒ぎから察して、常識がこの程度なら、あるいは私の文章や意図した内容が少しも理解されていなかったのではないか、ということに対する失望からである。
なお、輦(蓮)台は修羅のように二股の自然木を利用して作ったものではなく、矩形をしていて同じ目的に使用される。単独で使用する時もあれば、器材を積んだ複数の輦台を修羅に移しかえる手間を省いて、そのままのせる場合もある。また何本ものコロにのせた修羅に綱をつけ、そのまま牛馬に曳かせるものと理解している人が多いようだが、そのような利用のしかたはまれで、実際は滑車をくぐらせた綱を修羅に取り付け、前方に固定した神楽桟(あるいは大木を利用して)に巻き寄せるのである。この場合、滑車の数が多ければ荷は軽くなり、その代わり修羅の速度はおそくなる。そして綱が長く要ることは物理の教科書通りだ。近年は綱はワイヤーロープに変わり、コロには鉄のパイプを使用したが、修羅と輦台と神楽桟は昔のままであった。
綱の使い方
もう一つ、古墳の築造には問題が残っている。円墳であろうと、前方後円墳であろうと、円と直線の組み合わせによってできているということである。この円と直線は、さらにつきつめてゆくと、一本の綱によって描けるということなのだ。
一本の綱! 古代人はその綱をどのように使いわけただろうか。
白秋詩碑の建設に当たって、私が一本の綱で直角を作ってみせたら、長谷健が驚いていたと前に述べたが、こんなことは大工や左官の常識である。ただ彼らは3・4・5の比率で綱を引っぱれば直角三角形になることだけを経験によって知っている。彼らにとって理屈は無用なのだ。ところがその理屈が、学者には必要で、これをピタゴラスの定理として説明しなければおさまりがつかない。ここに経験のおそろしさと知恵の積み重ねがあり、実際を無視しがちな知識だけの学問とのわかれめがあるのである。後円部を描くためには、一本の綱を、打ちこんだ一本の柱に巻きつけて地上をひとまわりすればよい。半径の二分の一に当たる長さを求めようとすれば、その綱を二つに折ればよいのである。四分の一の長さを求めようとすれば、さらにその二つ折りの綱を、もう一度折り返せばいいのだ。物差しのなかった古代には、こうしたヒモや綱を折り返したり、伸ばしたりする方法によって、必要な寸法を割り出したように思う。
日本の数の数え方が、四進法ではなかったかと前に述べたのも、実はこの一本の綱の折り返し法を意識してのことである。一、二、三、四の数詞をよぶのに、ヒ、フ、ミ、ヨといい、一ツ、二ツ、三ツ、四ツとも呼ぶのである。この一ツ、二ツというヒに対してトツ、フに対してタツとくっついている言葉は、ひとつとは、すなわち一本のヒモまたは綱という意味で、ふたつとは、それをフにタツことで、二つに切断する、または折り曲げるといった意味をもっているのである。
私はときおり、一本のヒモをもって子どもと遊ぶ。ヒモをじょうずに折り曲げて一から九まで、どのようにしたら等分に割ることができるかと、それを子どもにやらせてみるのである。私もやってみるが、めくらの手あそびとしてはなかなかおもしろい。
この同じような方法をもって、いままで報告されている古墳の一覧表の寸法に従い、前方後円墳の稜線の長さや円の直径などの数の対比を処理してみると、ふしぎに割り切れたり、倍数になっていたり、合理的な一致をみるのである。
また、横穴式の石室をもった前方後円墳の石室の全長が、後円部の中心で止まっていることは半径に等しいという意味をもっており、築造中に円の中心部に一本の柱が立てられていたことを証明している。それは一本の綱を常にこの柱に巻きつけておき、それを半径として絶えず後円部の外周を測定しながら仕上げてゆかなければ、絶対に完全な円は仕上がらないからである。
さらに注目すべきことは、前方部の両側の線も、この円の中心を頂点として均等に引き出された二等辺三角形となっているのである。わかりやすくいえば、前方後円墳の基礎図形は、前にもちょっとふれたように、実際は前方後円ではなく、二等辺三角形の頂点と円の中心を共有する、三角結合円墳なのである。
なお前方部の外郭も、各段ごとにその延長された頂点は円の中心と外周との半径を軌跡として移動しているにすぎない。
アメノヒモロギ
この柱が問題だ。柱はデリックのポストに使用され、石室の石材をつり上げ、石室ができあがった後には、周囲の封土を築《つ》き上げる役をなしたであろう。またこの柱は、先端に取り付けた滑車によって、神を祀《まつ》るためのいけにえを入れた籠を空高くつり上げたり、サナミ(鈴)や鏡を結びつけた綱を引き上げて、なんらかの祭礼や儀式にも供したのではなかろうか。しかる後に、この柱は切り取られ、あるいは引き抜かれて、人に知られないまま葬り去られたにちがいない。アメノヒモロギ(天の神籬)と呼ばれて、いまも伊勢神宮の本殿床下に眠る謎の直立した一本の丸太も、あるいはこの柱のもつ意味に何か関連がありそうである。
ヒモロギは、ヒマワリまたはヒマルキまたはヒモ、ル、キあるいはヒ、ミル、キとも読めるし、滑車をつけた柱の意(ヒモまわるキ)か、柱に対して何かがまわる意味をもっているので、いずれにしても、もとはある目的のための柱であったことだけはまちがいない。ヒ、マモル、キとすれば、太陽をあがめる儀式や行事に使用された柱だということになる。これは飛躍した考えかもしれないが、ある記念すべき舟の帆柱だったとしてもふしぎではないのである。
私は、いま、畿内地方の大古墳の後円部の中心にあたるところを掘って、そこに柱がのこっているかどうかを確かめてみたいと思う。
以上のように旧版で述べた「古墳築造の秘密」に関する私の意見は、その後、多くの専門家に採用され、実証されつつある。ところが中には、さりげなく私の意見を取り入れながら、新たな自己の意見のように発表する人がいることは遺憾である。
五 地上に移された帆柱
綱と滑車の文化
白秋詩碑の傍らに立ってゆくりなくも得た私の考察と想像は、一応ここで終わるのだが、最後に結びとして、次のことをつけ加えておきたい。
古代にだれが綱と滑車を自由に使いわけ、どんな人々が自由に使いこなしたかということである。それに加えて一本の柱を打ち立てることで、そこから数十人分の力を生みだし、おそるべき経験の集積によって、稀有《けう》の大事業をなしとげた集団。こういえばそれがどんな部族の人々であったかは、だれにでもわかるだろう。
私はいま、はるかに畿内の大古墳を頭に描きながら、帆綱のきしみと帆のはためきを聞き、潮風の匂いを感じるのである。命がけで大海を渡航することによって得た貴重な経験、それはしかし彼らにとって日常の生活であった。その生活からにじみ出た経験と知恵の積み重ねによって打ち立てられたのが綱と滑車の文化である。
彼らは、疾風よりも速く海上をかけまわり、突如と現われては、米作りの平和に慣れた弥生《やよい》集落に突入して、海岸や川岸の国をつぎつぎに席巻していった。銅鐸はかくて地中に埋められ、戦い終われば、海岸にたむろし、いざとなれば船に引き揚げた。船は彼らの城であった。城はやがて帆柱だけを携《たずさ》えて地上に移された。そのため水は土となり、動く船は騎馬と変わった。それでも海岸を捨てえない彼らは、内陸へはなかなか入ろうとしなかった。ここに畿内の特殊な綱と滑車の文化が生まれたのである。
古事記冒頭の国生みの条《くだり》に、淡路島のことを「淡道之穂之狭別島《あわじのほのさわけのしま》」という。ホは目が見えている人には稲穂のホと解されがちで、文字の意味にひきずられてしまうが、穂は音表で解すると帆である。応神天皇のことを誉田別(紀)と書き、ホムダワケと読むが、これも帆持別《ほむちわけ》で大奴持《おおなむち》などと同じように、帆で航海する外洋船をたくさんもっている大王とも解される。したがって穂之狭別島というのは、ホヅミ、ホダカのホをかけた船に乗ってやってきた海兵隊が、まず最初に上陸して占領した島、という意味であろう。さしずめ地中海における不沈空母のキプロス島といったところだろうか。彼らはこの島を足がかりに、対岸の河内《かわち》平野や和泉《いずみ》、摂津《せつつ》へと進出していったことがうかがわれる。
海洋文化のふるさと
銅鐸文化を滅ぼしたものは、一般にいわれるように銅鉾《どうほこ》文化ではない。帆柱を地上に移し、サナギとサナミを打ちふりながら、海上からあばれこんできた鉄の文化である。畿内の古墳文化はこう考えなければ理解できないのである。だから、大和の統一国家がもっていた畿内文化の源流は、海上文化といわなければならない。このことは記紀を読んでも、古墳の副葬品からも、だれにだって理解できるはずだ。
私はもとより畿内そのものに存在していた文化を否定するものではない。ただ統一国家への道が、こうした文化の担《にな》い手によって拓《ひら》かれたといっているのである。そうだとわかったら、私たちはその海洋文化のふるさとを捜さねばならない。ここに邪馬台国を捜す意義もあるのである。そして畿内の文化が帆柱の文化だったと考えるとき、潮流《うしお》の詩人であった白秋が、当時に生を享《う》けていたら、大古墳の傍らに立って、民族の大長編叙事詩をうたいあげたであろう。彼こそ真の桂冠《けいかん》詩人だったように思われる。
静かにねむる大古墳の哀愁は、その中に秘められた黄金の夢があればこそ尊い。白秋の詩は、そのうたの心に触れるとき、はるかなふるさとの潮騒《しおさい》が聞けるから美しいのである。
第六章 妻が作った私の地図
一 火の雲
たのしかった病床生活
昭和三十七年秋、五度目の邪馬台国連合の踏査を前に、私はついに過労のため倒れてしまった。十数年に及ぶ、長崎県を相手にした交通事業の抗争に終止符を打って、私に勝利の日がきた。その喜びと安堵《あんど》に、長いあいだ張りつめていた気力が一時にゆるんだせいもあったのだろう。それから二年近くも寝こんでしまったのである。
父子二代にわたる抗争といったら、いささかオーバーに過ぎるかもしれないが、それまで雲仙から長崎市までは、長崎県営バスの独占路線で、しかも権力をかさに妨害し続けられ、県庁の所在地というのに島原鉄道のバスは、どうしても長崎市へ乗り入れることができなかったのである。それをついに果たしたのだから、経営の任に当たる者として、こんなに嬉しいことはなかった(終戦直後、民営にすべしという運輸省の斡旋で、県営バスはすべて島原鉄道に移譲されることになっていた。それが父の急死と、交替した最後の官選知事の豹変によって覆ったのである)。実は私の失明の半分も、この目的のため支払ったようなもので、文学をすて、他のあらゆる事業をすてて、なぜ失明してからもなお、この仕事に全霊を打ちこまなければならなかったのか、今もって私にもわからない。
こうした、泥まみれになって現実と取り組む仕事は、一見、まぼろしの邪馬台国を追求する非現実の世界と矛盾しているように思われるかもしれないが、私にとっては不即不離であった。
文学に志す者は、実際的な世間の事業に無能力だという、世の汚名を返上しようとまでは思わなかったが、私は、ひたすら文学を仕事で描きたかった。それは、非合理の世界が合理主義に対して絶対優位だと信じていたからである。
現実的な合理主義者たちは、非合理を理解できない無教養さを棚に上げて、不合理としてすてさってしまう。つまり、合理主義の下にある不合理と、相対する非合理を混同しているからだ。不合理を選別して、不合理をすて、非合理の世界を仕事にいかしたなら、きっとりっぱな仕事ができると私は信じていた。
それゆえ邪馬台国という非合理の世界が、毎日の苦しい仕事と試練に立たされている私を引きずったのであろう。ついにバスは雲仙から長崎へ向かって走った。それにつれて、私の邪馬台国研究も急速な進展をみた。
いま、仕事を離れて病床に横たわった二年間を思えば、このときほど私にとって豊かで充実した生活はかつてなかった。雑務から解放され、読みたいと思っていた本を、枕元で妻に読ませて聞き、ときには仲のいい友人たちだけが遊びにやってきた。
「九州文学」の仲間はもちろん、ロケにことよせては、森繁久弥、その監督の杉江敏男、読売の谷村錦一、『虹の設計』を書くためにハンティングにやってきたという北条誠君などの友人たちが、はるばる訪ねてきてくれた。菊田一夫、村上元三の先輩諸氏も、九州旅行のついでにわざわざ立ち寄り、どうしているかと、ねぎらってもらったりなどしたので、少しも退屈しなかったばかりか、ますます情熱をかきたてられた。
その間《かん》、友人たちの協力を得て、北九州から有明海岸の地図に、遺跡をたどりながら、縄文期と弥生期の海岸線を、コンター(等高線)に従って赤線で書きわけてもらい、それをもとに私はわたし用の古代地図を作ることを思いたった。その後、九大名誉教授の山崎光夫先生からも、地質学の専門的立場から作成された陸化前の地図をいただいたので、地図はおおむね正確を期することができた。
めくらのための地図
わたし用の地図というのは、目の見えない私にとって、ひとりでいるときは、普通の地図は無価値である。それでパノラマのような特殊な地図を作った。
まずベニヤ板を買ってきて、目的の地図を貼りつけ、川には細い紐を、山には三角に切ったボール紙を高さに応じて、厚く、薄く、ボンド糊で貼りつけるのである。本来ならば、山から海へ、しだいに重ねた紙が薄くなるのが常識であるが、そんなことをしていたら、いくら時間があっても足りない。それで海の方を先にぺったりと貼ってしまう。私の場合は指の触感で海岸線がわかればいいのである。だから私の急いで作った地図では、逆に海の部分がいちだんと高くなっている。こんな簡単な地図でも、九州の西半分を作るとなると、なかなかたいへんであった。
妻が家事や子供の世話に追われながら、前後三ヵ月を要してやっと作りあげた地図を枕元に置くと、私は昼夜の区別なく指先でなでまわしながら、実にたのしい一年余の療養生活をおくったのである。
地図に触れると、春には春の、秋には秋の感興が湧いた。
そこには、ふるさとの山や川が、くっきりと雲を浮かべてうつり、川は豊かな水をたたえて流れた。深く入りこんだ入り江や岬から、指先は古墳のありかと遺跡を伝い、過ぎ去った遠い日の思い出までがまざまざとよみがえってくる。
この地図には、私の苦しかった半生と、貧しい人生のすべてが秘められていた。指先は、生きることを教え、触れてゆく凸凹の海や島は、かぎりないふるさとへの郷愁をさそい、ゆくりなく病床に舞いこんできた木の葉に、たけてゆく季節を知るのであった。
その地図の一端について少し説明しておこう。
地図の右上には一本の長い紐が、垂れ下がるように貼りつけてある。遠賀川《おんががわ》だ。河口のビーズ玉は、神武紀の崗水門《おかのみなと》、古事記では岡田宮として関係の深い、岡の港のしるしである。
さらにその右手に、豆粒ほどの小さな島がある。いまの若松だ。洞海《どうかい》湾は、まだその頃|響灘《ひびきなだ》とつながっていたので、若松は島になっている。
現在私が使っている九州地図は、当時、国土地理院の院長だった安芸《あき》元清氏、及び九州地方建設局長であった田原隆氏の両氏からその後に贈られた米国製の軍用地図である。これは平面と高低をそれぞれ違った縮尺で組み合わせ、航空写真に凸凹をつけたすばらしいものである。全九州が九枚からなり、指先で触《ふ》れると、たちどころに地形がわかり、目が見える人でも、こんなわかりやすい、すばらしい地図ははじめてだという。私はこの地図をつぎ合わせ、一・八メートル角の額にして応接間に置いているが、訪れる人たちは、しばしこの地図をながめて九州を再認識するということである。
火野さんの思い出
若松……。ああ、あの今は亡き火野さんの若松である――。毎年命日の一月二十四日の葦平忌《あしへいき》(実際はその前後の日曜日)に集まって、菊の花を捧げる高塔山《たかとうやま》の風が冷たい。およそ三十年前、私が失明したとき、いちばん親身になって激励してくれたのは、この火野さんと劉《りゆう》寒吉さんだった。妻に去られて、その後、今の家内と結婚したときの仲人も、この人である。いつもおおらかで涙もろい、この人への追憶は、いつまでたっても尽きない。
雪の日だった。葬儀にまにあわなかった私が、東京からの帰途、弔《とむら》いに立ち寄ると、お母さんは、私が家に入るなり、私に抱きついて泣きながらこういわれた。
「勝則《かつのり》(火野氏の本名、姓は玉井)の命は、あなたがくれた赤い花より短い命でした……」
その言葉はとぎれとぎれではあったが、嗚咽《おえつ》の中から、文章のようにはっきりと聞きとれた。まぎれもない『花と竜』の母堂マンさんの声である。私はしばし立ちつくした。
その前年、火野さんが私のところに遊びにやってきて、盆栽仕立てにしていた榕樹《ガジマル》と、この人がフィリピンに従軍したとき、もっとも印象的だったという、あちらの発音でボゲンビリア(ブーゲンベリア)と称する、トゲのあるやつ、それに芋のような葉っぱに赤い花をつけたあれをくれとの注文だったので、正月にとどけておいた。
そのアンスリュームの大輪を火野さんはひじょうによろこんで、頼まれていたある雑誌の扉に彩色で写生し、とてもよく描けたと、お母さんにその絵を見せられていたそうである。その夜、火野さんは不帰の客となられ、色紙はそのまま絶筆になった。
いま静かに瞼《まぶた》を閉じて、そのときのことを思うと、この花の赤い仏焔苞《ぶつえんほう》が、燃えさかる火の雲となって、つぎつぎに灰色の向こうから、私の方へおしよせてくる。
耐えられなくなって地図から手を放すと、その雲は消える。また若松のあたりに指をつけると、再び火の雲が浮かんでくる。これではいけないと指をずらすと、今度は、遠賀川《おんががわ》の細い糸に触れる。だが、ここにも火野さんはいた。土手っぷちをむこうから彼の作品に登場するドテラ婆さんがやってくる。開通したばかりの鉄道線路には岡蒸気が威勢よく汽笛を鳴らす。見わたすかぎりの遠賀川の川べりは、黄色い菜の花の花盛りである(火野葦平氏の遺徳をしのび、霊前に供える気持ちで、旧版の初版の発行日は彼の命日である一月二十四日にしている)。
二 遠賀川
古代九州の象徴
遠賀川の流域は九州の大和《やまと》である。周防《すおう》灘から瀬戸内海へ、博多湾から玄界灘へ、有明海から天草灘へと、自然の砦《とりで》になっている周囲の山を一つ越せば、どこへでもつながっている。そして自分も河口に響灘《ひびきなだ》という海をもっている。この恵まれた地理的条件と、豊かな土地を支配してきた遠賀川は、筑後川と共に古代九州の象徴であった。
弥生期末から古墳時代の前期にかけて、この川の河口はまだ直方《のうがた》市付近にあって、古遠賀湾と称せられる湾の奥に注いでいた。したがって木屋瀬《こやのせ》も中間《なかま》も水巻《みずまき》も、当時はみな海中で、現在の鞍手郡や遠賀郡の大部分が陸化したのは、きわめて新しい。
洞海湾も久妓《くき》の海と呼ばれて、奈良朝までは響灘につづいていた。これを地質学者は洞海水道という。
その頃のようすを伝えるものとして、筑前風土記逸文の一節をあげてみると――、
「塢舸県《おかのあがた》。県の東の側《ほとり》近く、大江《おおかわ》の口あり。名を塢舸水門《おかのみなと》という。大船を容《い》るるに堪えたり。彼《そこ》より島・鳥旗《とはた》の澳《うみのくま》に通う。名を岬戸《くきど》という。小船を容るるに堪えたり。海の中に両《ふたつ》の小島あり。其の一を河島《かどしま》という。島は支子《くちなし》生い、海は鮑魚《あわび》を出す。其の一つを資波島《しばしま》という。両の島は倶《とも》に烏葛《つづら》、冬薑《ふゆはじかみ》生う」
また、書紀の仲哀紀にも次の一文がある。
「時に崗県主《おかのあがたぬし》の祖《おや》、熊鰐《くまわに》、天皇《すめらみこと》いでますと聞きて、かねて五百枝《いほえ》の賢木《さかき》をこじ取りて、九|尋《ひろ》船の舳《へ》に立て、上つ枝には白銅《ますみの》鏡《かがみ》をとりかけ、中つ枝には十握《とつか》剣をとりかけ、下つ枝には八尺瓊《やさかに》をとりかけて、周芳沙《すほうさば》の浦に参迎《まいむか》えて魚塩《なしお》の地を献《たてまつ》る。……中略……既にして海路を導きまつりて山鹿《やまが》岬より廻りて崗浦に入る。水門《みなと》に入りて御船進みゆくことを得ず……云々」
遠賀川の語源
この頃は、すでに相当の陸化がすすんでいたものとみえ、塢舸水門はいくつにも分かれた三角州の水脈《みお》を遡行《そこう》しなければならなかったようである。塢舸県の「大江の口あり」といった記述からも判断されるように、塢舸(崗)水門のヲカは、もともとオオコ(大河)がオウコとなって、オカと転訛したものである。古代語で川のことをコといったことについては前にもたびたび述べてきた。続日本紀《しよくにほんぎ》に遠河、和名抄に遠賀と記されているのも同系の音をうつしたものである。したがって現在の遠賀は、大川の意味がオウコからオンガに変化して固有名詞化したものだということについては何人《なんびと》も異論はなかろう。だから遠賀川とは大川川の意味である。この簡単で、しかも重要な事実が気づかれていない。
このことは、倭人伝や記紀の謎を解くに当たって深い関係があるので、念のため書きそえておいた。
古くは大川をオオコ、またはオコ、あるいはオカという場合と、ウカという場合がある。画然《かくぜん》と判別はできないが、どうも特定の遠賀川をさして、オオコ、またはオカといい、筑後川や緑川などの有明海に注ぐ大川のことをウカといったようである(稲荷《いなり》神の別名をウカノミタマというが、そのウカである。トヨウケのウケはトヨのウカである)。それは現在も、大の字の発音に、北九州と西九州とに違いがあって、たとえば、大野、大江を、前者ではオオ、後者はウウと発音して、ウウノ、ウウエと呼ぶように、地理的な風土性が左右しているように思われる。
同じこの川の流域にある嘉穂郡は、もと嘉麻郡《かまのこほり》と穂波《ほなみ》郡に分かれていた。その嘉麻郡のカマも、カはコであって、川の近くに丘や畑の多い場所という意味で、遠賀川に関係が深い。
熊鰐の正体
また、前掲の仲哀紀に述べられている熊鰐が帰順して領土の一部を献上したという物語も、崗県主《おかのあがたぬし》の祖先が遠賀川の流域を中心に周防灘沿岸まで勢力をふるっていた北九州の大王であったことをほのめかしている。
熊鰐のクマを倭人伝ふうに「狗奴国」の狗と「邪馬国」の馬を合わせて「狗馬」と書けば、嘉麻郡のカマも用字と発音が違うだけで同じ意味であることがわかられるであろう。当時の国名や地名、人名に共通した関連性のあったことも理解できよう。またクマワニのワニを同じ筆法で書きかえると、「烏奴」である(これは発音上の用字を示しただけで、倭人伝中の烏奴国ではないから念のためことわっておく)。訓仮名で大奴《ワニ》、と書いた方がわかりやすいかもしれない。ワニのワは、ウまたはオの転音で、ニはナ、またはヌの転音である。だからワは大の意味で、ニはヌシ(主)、オシ(忍)などのシを省略した国名をもって代表者に代えているのである。
古代は地名がそのまま人名であったり、人名が地名である場合がほとんどであるから、はじめから「クマのオオヌシ」と訓読みしておけば混乱が起きないでよかったろうにと思う。
筑後屋といえば、その屋号を用いた商売の店舗をさす場合と、筑後屋を経営する筑後屋の人そのものを屋号で呼んでいる場合と、二つの意味があるように、クマのオオヌシが、クマのヌシ、またはクマのオシと呼ばれなくても、クマのオオヌと呼ばれてもいいのである。ただ古代のヌの発音がニに近かったので、オオニがワニになっただけである。それを他の国名や地名に通常用いられているような文字を使用すればわかりやすいのに、記紀の編纂に当たって、つごうの悪い人名には、作為的に動物の名を用いているのが特徴的である。これは倭人伝の筆法にならったのだろうか。
実にこの熊鰐こそ、あとで述べる倭人伝の狗奴国王や大国主命に関係が深く、遠賀川は、いままでの学者が狗奴国を球磨《くま》川と関係づけようとして南に気をとられている間に、背後から邪馬台国の連合国家群に干渉していたように推察される。
第七章 黄金に魅せられた古代人たち
一 サの神
「お猿さま」縁起
いま流行の漢方薬で、副腎皮質ホルモンの分泌《ぶんぴつ》を旺盛にする高貴薬の鹿茸《ろくじよう》(鹿の角袋)とともにノイローゼの治療や鎮静剤として珍重された竜骨《りゆうこつ》(恐竜のもあるが実はマンモスやナウマン象の化石が多い――)をわが国で古代にただ一ヵ所産出して、朝廷に献上していた記事が豊前風土記《ぶぜんふどき》の逸文や古記録に見られる。
福岡県田川郡|香春《かはら》(古くはカハルと呼んだようである)の香春岳がそうだ。その近くに採銅所《さいとうしよ》という所があって、ここは古代における北九州最大の銅の産地であった。奈良の大仏鋳造に際しても、ここから多量の銅が供出されている。その上採銅所《かみさいとうしよ》にお猿さまと呼ばれる現人《うつつひと》神社が祀《まつ》られており、この神社は古代史に非常に関係が深い。
伝えによると、香春の城主、原田義種が、大友軍に囲まれたとき、香春岳の猿たちが大挙してこの軍に当たったという。義種は囲みを破って逃れたが東山で戦死した。屍《かばね》を採銅所に葬ると、その年|疱瘡《ほうそう》が流行し、飢饉《ききん》が起きた。あわてた村人たちがこれは義種の祟《たた》りだと墓を浄《きよ》めると、「これからさき、現人命に仕え、猿を使い女《め》として村人を救おう」と夢のお告げがあった。そこで人々は義種を神として祀り、お猿さまと崇《あが》めるようになったということである。
この話は現地に野猿が多かったところから、もともとあった現人神社の曖昧《あいまい》な縁起《えんぎ》に、銅の採掘に従事した人足までが、あげて義種に協力して大友軍と戦った物語が、好事家《こうずか》の手によってつけ加えられたものと思う。
銅にサル(猿)はつきものだ。黒いカネの鉄はイ(猪)、赤いカネの銅はサ(猿)である。
猿はもともとマシラと呼んだが、猿の顔がアカガネのように赤いのでサルと呼ぶようになったのだと思う。
このことは神代神話の猿田彦の物語で明らかであろう。話に付随する猿女(サルメ)は、もと銅の採掘や精錬に従事した集団であった。それが後《のち》に鈴を持って踊る女たちを呼ぶようになったのである。
記紀に猿田彦(書紀)、手力男命《たぢからおのみこと》(古事記)が、伊勢の狭長田《さながた》(紀)、佐那那県《さなながた》(記)に住まれたと伝えているので、このこともその付会された理由と、サナの意味がわからないまま、多くのまちがった解釈を生んでいる。
サの神
道祖神のことをサエの神、サヒの神、サイの神などといい、田植え前後の苗をサナエ、それを植える女をサオトメ、それを植える月がサツキ、終わってレクリエーションをするのがサナボリ、前にもちょっと触れたが、米をまく時期の合図をする花だからサクラ(桜)などと、農業、とりわけ田植えに関する言葉にサの語が多い。これはサが銅を意味し、弥生《やよい》文化の発生に深い関係があるからである。
狂言や踊りの三番叟《さんばそう》も、元来、猿楽からきた五穀豊穣を祈る田植えや種まきの踊りであった。能の「翁《おきな》」で三番目の役だから三番叟と呼ぶのではない。この踊りに鈴をもって踊ることにも注意しなければならない。
現在も、中国・四国地方では、田の神のことを「さんばい」という。これは「サの棒」の訛《なま》ったもので、田植えのとき、田の神が降下するための依代《よりしろ》に、一本の竹の棒を田の中に突き刺す習慣から、こう呼ぶのである。実際は五月雨《さみだれ》の落雷をおそれて、避雷針の代わりに利用したのかもしれない。田植えがすむと、田の神はふたたびこの棒から天に昇る。だから田植え祝いのことをサノボリ、あるいはサナボリ、サナブリというのである。いずれにしても田の神は一本足だといわれてきた。神話でクエビコ(カガシのこと)を稲作の神に関係づけようとした意図も理解できるのである。
また、鐸《たく》のことをヌリテ、あるいはサナギというが、主として鉄鐸のことをいって、銅でできた鐸は、依然として銅鐸と呼ばれている。
サナギとサナミ
考古学や民俗学では、鉄板を細長くまるめた鉄鐸の形が蛹《さなぎ》に似ているので、サナギというのだそうである。実に噴飯ものだ。芋が芋虫に似ているからイモというのだろうか。蛹が鉄鐸に似ていたので、虫のサナギといったのが、サナギとなったのではないのか。
このような考え方による、日本歴史のまちがった解釈は、あらゆる分野に氾濫し、いまや一部の学者は自説の矛盾に当惑しきっているようにみえる。その重大な誤謬《ごびゆう》は、早くも神代史の第一ページから始まっている。
伊弉諾《いざなぎ》(古事記では伊邪那岐)、伊弉冉《いざなみ》(伊邪那美)の二神の国生みによって日本の歴史がはじまるという、その神の名であるが、イサナギ、イサナミと書いて、二つの神の名をじっと見つめてもらいたい。
イサナギとイサナミで、ちがっているところはギとミである。男神と女神である。そうすると、ギという言葉は男子で、ミという言葉は女子を意味するのだろうか。その前に、双方の神の頭から、まずイの字をとってみよう。そうすると、いずれもサの神であり、サナギとサナミである。
サナギとは、いま述べた鐸であり、サナミとは鈴である。
サナギ本来の意味は、サ(銅でできた)ナ(鳴る)キ(木)であると思われる。木で作った鉾《ほこ》の先にサナルをくくりつけて、それを振り、祭礼の用に供したのであろう。
サナルキがサナキ、サナギと呼ばれるようになったのだと思う。サナミも、サナルミ(銅でできた鳴る実、鈴)が、サナミとなったのであろう。こう考えてくると、鉄鐸はイナギと呼ばなければならなくなってくる。しかし、本来は銅で作るのがたてまえだったものを、鉄でも作ったので、鉄のサナギという意味で、鉄鐸のことをイサナギと呼んだ。それが、のち最高神の名に抵触《ていしよく》するので、イの発音を遠慮したか、この種の言葉では、頭のイの音が消えやすいので、自然に消えていったか、材料が何であろうと一般的には器物そのものがサナギと呼ばれていたので、ことさらイの字をつける必要がなくなって、単にサナギと呼ばれるようになったのだとも考えられる。
それでは最高神のイサナギの命《みこと》は、単に鉄鐸という意味だろうか。ここに重要な解釈のわかれめがある。本来の銅でできたサナギによって祀られていた神々に対して、このイサナギは、鉄鐸、すなわち鉄の文化を持った者たちによって祀られた神だったとは解釈できないだろうか。したがって、従来の銅鐸の文化と神々を排し、鉄鐸の神を賞揚して、征服の勝利を誇示しようとする、多分に否定的な意味を持っているものと、私は解釈したい。
イサナミの場合も同様で、ただ、キとミの違いは、キが農業に専従した人たちの神々、または祭礼の奉仕の方法を表わしているのに対し、ミは海事や半農半漁の人たちの神、または祭りのしかたの違いを表わしているようである。そして、キとミは最終的に、男の首長と女の首長によってひきいられた部族の系統の違いを物語っている。
さきに述べた猿女《さるめ》もサナミメの転訛《てんか》で、今様にいえばサナラシメ、あるいは、サナルメであろう。
猿楽も、中国伝来の散楽の流れをくんでいるから、散楽がサル(申、猿)楽となったという説もあるが、猿のものまねをとり入れた所作から猿楽といったのではなかろうか。それとも逆に、猿楽の装束《しようぞく》を着けてマシラを踊らせるようになったので、サルマシラがサルになったのか。いずれにしてもアカガネのサと、鈴に重要な関係があることだけはまぎれもない事実である。
古代の要地鹿春の郷
香春《かはら》(鹿春)は以上のような見地から、銅が鉄と併用され、さらに金の時代へ移行する過程で、地理的にも、考古学上からも、きわめて重要な場所である。
香春を古くは鹿春(カハル)と書いた。原音からくる意味を文字で表わすなら、河原とも書けそうである。しかし、カをコ(川)の転音に求めることは、遠賀《おんが》川の流域としてはあまり好ましくない。もしコ(川)が原音なら、クバル(久原)となっていたであろうと思われる。カに鹿の字を古くからあてられた場所には、金(カネ)の意味が含まれている場合がある。金辺《きべ》峠、金辺川などから判断して、この鹿は、何か関係がありそうに思われる。
いっそう疑問をさそわれることは、風土記《ふどき》に、もと清河原の郷と書いたとことわってあるからだ。風土記当時、三字名は二字名に改めねばならなかったことは承知しているが、それなら、清だけを省いて河原としておいてもいいのである。「今、鹿春の郷というは訛《よこなま》れるなり」とわざわざ訛れるものとしなければならなかったところが腑《ふ》におちない。
允恭《いんぎよう》天皇の子で、皇位継承をめぐって安康天皇に殺された木梨軽皇子《きなしのかるのみこ》のカルの原音や、応神紀に記載された大船「枯野」に香春(カルとも読める)はなんらかの関係がありそうに思われる。枯野はカラヌまたはカラノと読まれてきたが、カルヌ、またはカルノと読んではいけないのだろうか。記念すべき大船を焼きはらった逸話も、いかにもこじつけであり、特に枯という文字を使用しているところが臭い。また、書紀と古事記とでは、時代、内容ともに食い違いがあり、事実を覆《おお》いかくそうとした跡が見受けられる。
垂仁紀(古事記では応神記)に出てくる比売語曾社《ひめこそのやしろ》もこの地にあり、この説話の本体である都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》も現人神社と関係がありそうである。
直方《のうがた》市付近まで入り江が深く波打っていた頃、遠賀川の本流から左手に遡《さかのぼ》れば、すぐ田川郡一帯の沃野がひろがる。いたるところ三角州でできた沖積地であるから、水利の便はよく、上流には鉱物資源をかかえ、ひと山こせば、企救《きく》の海から周防灘も至近の距離にある。博多湾沿岸以上の条件に恵まれたこの地を古代人は見逃しただろうか。港にも近く、山にも近く、川は豊かに流れ、弥生文化の花が咲かずにはおかない土地である。上代(奈良時代)にくだらずとも、古代人は北九州の西と東をつなぐ陸路の要衝として注目したであろう。
いまは、セメント工場や数多い炭坑のために変貌しているが、指先に触れるこの付近一帯の私の地図が教えてくれるものは、大古墳の群れと、遺跡の宝庫である。河内王の墳墓のようなチャチなものではなく、もっと大きな古墳がまだまだいくつも発見できると思う(逆に私の知っている大古墳が最近の開発ブームのためにいくつもこの地方から消えている)。
遠賀川流域の小国家群の中で、犬鳴《いぬなき》川ぞいの有名な装飾古墳のある竹原付近や、上流の穂波方面にくらべて、私にはこの香春地方がもっとも有力な中心地だったように思われる。
というのは、あとで述べる猿田彦が大国主命の別名であり、天宇受売命《あめのうずめのみこと》が意富多多泥古《おほたたねこ》であることとも関連している。はじめに書いた現人神《うつつひとがみ》は、ウツツヒトではなく、アラヒトと読むべきで、都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》と考えるべきであろう。このことから、かつて猿田彦王の支配下にあった遠賀川流域も邪馬台国と関係があるのだが、ここでは関係があったことだけをいっておこう。
二 銅鐸《どうたく》と神籠石《こうごいし》
古代の謎
祭器か銅鼓《どうこ》に使われたであろうというだけで、その鋳造《ちゆうぞう》の目的すら何もわかっていない銅鐸。古い山城か神霊域であったろうというだけで、その築造の目的すら何もわかっていない神籠石《こうごいし》。
この二つはいずれも考古学に少しでも興味をいだく者なら、だれでも知っている古代の謎である。しかもこの二つは、三世紀から五世紀にかけて、銅鐸は突如として地上から消え失《う》せ、神籠石は突如として山上に現われたことになっている。私は、この銅鐸の絵がらの写真を指先でなでながら、こんなふうに考えた。
虫にせよ鳥にせよ獣にせよ、足が六本か四本か二本ついているものばかりである。風にのって天から来た神は、まず空気中でクモの巣にとまって、虫の体にはいる。一方、トンボも空気の中を飛んでいるうちに神がのりうつる。そしてこれらの虫はつぎつぎに他のものに食われて、魂だけが成長しつづける。そのたびに足が一対《つい》ずつ減ってゆく。最後に人間だけが二本足になりおおせる。その傍らには飼いならされた動物や射殺される動物が、まだ四本足のまま、この罰あたりめ、といわんばかりの構図である。まるでツングース族やウイグル族のシャーマニズムの思想そっくりだ。彼らは今も日本海をへだてた対岸にいる。
一方銅鐸の形だが、これは北京《ペキン》や華北地方でいまもみられる、塔の四隅の軒先にぶらさげられた鳥の巣よけの風鐸《ふうたく》そっくりである。米が南方から、鏡や銅剣が大陸から共に東シナ海を渡ってきたというなら、銅鐸の文化が日本海を渡ってきたと考えてもさしつかえなかろう。
三世紀を頂点として畿内を中心に銅鐸文化圏の勢力範囲が設定されている現在、私はほぼ同時代に属する邪馬台国問題と結びつけて、邪馬台国畿内説がいかに矛盾しているかを痛感する。いいかえると、九州説に対抗する前に、畿内説は足もとの銅鐸文化と、鏡と古墳の問題を対決せしめて、解決をはからなければならないのである。銅鐸文化圏はほとんど九州および山口県へは及んでいない。そしてその接点は、山上に築かれた神籠石の遺跡が点在する場所である。おそらく現在までいわれてきた倣製《ほうせい》の銅鉾《どうほこ》文化圏と銅鐸文化圏の勢力均衡が、銅鉾文化によって破られる時期に神籠石は現われ、その前線を接点としているのに興味をひかれる。
四国の北岸から、中国地方、但馬《たじま》から紀伊半島、美濃《みの》から東海地方へ散在して銅鐸の発見された場所は、みな現在も銅の産地ばかりである。銅鐸は別な意味で鉄文化に対するおそくまで残った銅産地の銅文化ともいいうる。
一部の学者がいうように、分析の結果、銅鐸の成分に、少量の錫《すず》が混入しているからといって、その材料をただちに舶載の銅剣に求めることは量的にみても飛躍であろう。錫も銅と共存して産出するし、あれだけの技術をもっていた古代人たちが、湯の冷え加減で鋳造物の大小により、錫を混入しなければならないことぐらい知らなかったはずはない。そして銅鐸が疑問をのこしたままこの地上から消え失せた時期は、高塚古墳が築きはじめられた時期と相前後している。まるで古墳の足許に踏みにじられたような気がするが、いずれにしても銅鐸の文化と古墳文化が無縁ではないということはいえるようである。
神籠石の秘密
神籠石《こうごいし》は、山の中腹を数キロにわたって取り巻く列石であるが、まだその時代に、各所に独立した山に石垣を築いてまで山城を築かねばならなかった理由が私にはどうしてもわからない。
後代の大野城や記夷《きい》城や怡土《いと》城が築かれた理由は、その政治的、軍事的目的もさることながら、その選定された地理的位置に、より重要さがみとめられる。神籠石にはそれがない。畑や田んぼが見渡せる山ならば、どこでもいいのだ。いままでのところ山口、大分、福岡、佐賀の四県に十ヵ所ほど見つかっているが、山の中腹にあるというだけでは、必ずしも山城の意味をなさない。だいいち、列石の高さが七十センチ程度しかないのに、城として防衛の役目を果たしうるだろうか。
私は、福岡県の山門《やまと》郡、女山《ぞやま》の神籠石を見学にいったときに、はしなくもこんなことに気づいた。目の見える人は、この山上から現在の麓《ふもと》の畑や水田や海を一望におさめて、古代の軍事を連想し、戦闘と防衛にその場所が便なることをきめこんでしまうのではないか、と。
だが、そのころ、山林はうっそうと繁り、麓の原野はまだ十分に開墾されず、樹木が繁茂しあっていただろう。耕地は川岸にだけ細くのび、いまの完璧に近い耕地をもって古代を連想することはゆるされないのである。こう考えてくると、山上から麓を見てはいけない。逆に麓から山上を仰いで考えねばならないのではないかと思った。
川べりに立って、私はしばらく考えているうちに、神籠石に付随した、記夷《きい》城などに見られる朝鮮式の山城の、水門に似て非なる水門の謎がわかった。これは単なる川筋だ。この足もとの川筋はあの水門につながると考えたとき、私の推理は展開した。
いまでも、猪《いのしし》や鹿を鉄砲で撃つことはなかなかむつかしい。いかに古代に獣が多かったからといって、チャチな鏃《やじり》でそうたやすく射とめられるものではない。毒矢であっても、駆けてゆく獣に対してはあまりにも射程距離が遠すぎる。だから彼らは水辺にひそんで、水を飲みにやってくる獣をねらったであろう。そうしたとき、射損じた獣は、一目散に川べりに沿って山上に向かって駆け上がる。後から追いかけられると、四ツ足の動物は横へ曲がらないで、まっすぐ高い方へ駆け上がってゆく習性がある。古代人たちはこのことを利用して、勢子《せこ》で追い上げ多量の獣を捕殺しようと企《くわだ》てた。それはふだんの畑を荒らされることに対する防衛にも役立った。
現在、神籠石の石垣の外側にそって残された遺構《いこう》は一種の柵《さく》の柱の跡だったように考えられる。獣を柵と石垣の間に追いこんだ彼らは、石垣の上から銛を打ち、綱をかけ、容易に捕捉することができただろう。
この獣を捕獲するための設備ではなかったか、という私の神籠石に対する解釈は、本書の旧版以来多くの人々から支持を得た。この機会に私の着想のヒントになった二つの例を紹介しておこう。
一つは長崎県|西彼杵《にしそのぎ》半島の稜線近くにいまも残る、十数キロに及ぶ猪垣《ししがき》である。これは猪の害をさけるためと、捕獲の目的で旧幕時代に作られたものだが、設置された位置や構造の上で、神籠石と内容的に共通する点が多い。山を取り巻く環状の神籠石を長くのばしたものと思えばよい。第二のものは有明海の沿岸に魚を採《と》るために昔から設置されている、スクイと称する石垣である。高さが一〜四メートル、厚さが三〜五メートル、半径が五十メートルから二百メートル近くもある岸から半円形に突き出た構築物である。特殊な有明海の満干の差を利用した、いわば恒久的な定置網のようなもので、満潮時には海中に没し、干潮時には完全に姿を現わし、潮のひいた石垣の内部でたくさんの魚が、時にはイワシやボラやイルカの大群が、またオサガメがといった具合にらくらくととれる仕掛けになっている。いつごろからこのスクイが構築されるようになったかは、わかっていないが、干拓工事と関係があることだけは確かである。そしてこのスクイは、神籠石を山から海岸へすっぽりとおろしてきたのではないかと思われるほど、発想に似かよったものがある。
しからば、当時なぜかくも大規模な獣狩りの石垣を築造しなければならなかったのだろうか。それは、一時に多量の獣皮と肉が欲しかったからである。一時に多量のとは、戦いのためと組織された集団の生活のためである。
鉄を作るためのフイゴ。武具に必要な皮、および骨角。水と食糧をつめる袋。干し肉と塩漬けの肉。数えあげればきりがない。それは現在のコンビナートをつくる以上に、重要な軍事力の原動力となりえたから、王は、人民を督励して、これほどの投資をしてもけっして損はしなかったはずである。
こうした意味の軍事力の背景をなす生産過程については、いままで部族の抗争だけを取り上げてだれも論議をしない。しかもこの軍事力をもっとも必要とした時代が、四世紀から五世紀だった。この意味で、銅鐸の消滅と神籠石の築造との間には、なんらかの関係がありそうに思えてならない。そして、この均衡が破れるまで拡大された邪馬台連合のひとつの文化圏が、九州から中国方面に向かって大きな勢力をのばし、一方、畿内を中心に、これにまさるとも劣らない銅鐸文化圏の大勢力が存在して、この二大勢力は互いに東と西にわかれてしのぎをけずり、対立しあっていたのではなかろうか。その後もたびたび私は白い杖を頼りに各地の神籠石を訪ねて柱の遺構をまさぐり、石垣をなでては千五百年の昔を偲んでみるが、なにしろ千五百年という長い年月の風雪は苔むした石にしみこんではいても、容易にその昔を語ろうとしない。
三 黄金の夢
鐸の文化と鈴の文化
過去に弥生時代の鈴文化について論じられたこともあるが、近年、銅鐸文化圏と銅鉾文化圏の論争がはなばなしいので、その陰に押しやられ、鈴文化が置き去りにされているのは残念なことである。記紀の物語に、たびたび鈴が話題の中心となって取り上げられている。これは単なる装身具としてではなく、雑多な部族の中に、鈴文化の系統を見失うまいと、目印のために結びつけた暗示であることに注意をはらわなければならない。
わが国の鉄文化は銅文化に先行して開始されている。しかるに鉄に銅が優先した中国文化を古代からわが国が受け入れているので、わが国もそうだったように考えられてきた。加えて特定の製鉄技術が後続したので、誤認を深める結果となった。これは非常に重大なことである。弥生時代の銅文化は鉄に優先した初原的銅文化ではなく、米と共に大陸南方から導入されたもので、後続した鉄文化は北方系のものであったことも認識しなければならない。
イサナギ、イサナミのイという鉄文化とサという銅文化の同時発達によって、わが国の弥生文化は開花した。それでは、日本神話の第一ページを飾るこの二神の合体が意味するものは何だろうか。そこには、銅鐸文化圏と銅鉾文化圏が戦いを交《まじ》える前に、銅鉾文化圏内に鉄鐸文化と鈴文化の抗争があったことを伝えている。それは男子にひきいられた部族と、女の首長をいただく部族との、幾世紀かにわたる複雑な争いであった。
女子はついに男子に屈服することによって最高神とはなりえたが、部族の主権は男子に委《ゆだ》ねられ、神の奉仕者に転落してしまう。こうした彼此《ひし》交替の時期に、神話は、はなばなしい幕をあけるのである。記紀はこの間《かん》の哀歌を奏《かな》で、肉親の血で血を洗うみにくい争いを、勇壮な進軍ラッパでかき消し、皇位継承のどんでん返しによって幕をおろすのである。
イサナギ、イサナミの物語が、記紀という民族の一大長編叙事詩のプロローグとすれば、壬申《じんしん》の乱はエピローグである。
魏志倭人伝は、古墳時代前期という第一幕にあてられた強烈なスポットである。鉄と銅と金の金管楽器による不協和音は、時にみやびやかな笙《しよう》、篳篥《ひちりき》のB・G・M(バック・グラウンド・ミュージック)をかきまぜ、幕間《まくあい》のアトラクションを演じた。丹《に》で彩《いろど》られた装飾古墳の背景はシュールな技法によって人々を困惑させ、突如として据《す》えられた銅鐸という奇怪な大道具に、学者は目をみはったまま固唾《かたず》をのんでいる。
いま、こうして歴史の跡をつぶさにたどりながら、私は、今日までわれわれが見落としてきた、簡単でしかも重大なことがらに気づいた。
それは、新しい文化の建設と戦いの連続によって綴《つづ》られた古代史に、なぜ人々が争ったのか、どうして文化が生まれたのか、文化の中心と権力の中心がなぜ移動していったのかということを求める前に、何が人々を余儀なく争わせたのか、何が文化を生んだのか、何が文化と権力の中心地を変えたのか、という、「何が」ということについて、もう少し知っておかねばならないことだった。
私はそれをもろもろの文化の原料に求めた。地形に対する太陽と月と星と雨と雲と風とに。動物と植物と鉱物とに。位置に対する季節の温度差と日照時間に。海流の方向と河川の変化と海岸線の陸化と移動と、地質の輪廻《りんね》などに対してである。
古代の文化圏と鉱物資源
いままでに述べてきた私の意見も、実は以上のような観点に立脚している。そして、いままで人々に論議されなかった見落とされた歴史観、すなわち鉱物資源の地質学的な分布状態と、文化圏と、権力発生の場所を歴史的に組み合わせることによって未知の世界を探ろうとしたものである。
九州の中央を熊本県の葦北《あしきた》半島から豊後《ぶんご》水道へ横断する古生層の縁辺は、金、銀、銅の産地である(福岡県|八女《やめ》郡と大分県の県境にある釈迦岳《しやかだけ》一帯および福岡県田川郡の一部、長崎県西|彼杵《そのぎ》半島などにも点在しているが――)。いったん海中に没したこの古生層は四国に上陸して中央部を縦走し、吉野川河口からふたたび海中に潜って紀伊半島へ上陸する。
一方、中国山脈の一部と日本海沿岸から但馬《たじま》と琵琶湖を経た古生層は合流して南下し、九州部隊に激突する。その間に湖底が隆起して介在するのが奈良盆地だ。この古生層の一部は、さらに岐阜県の山ぞいを木曾川まで達している。昔から知られたわが国の金属鉱山は、みなこの地帯に沿って散在し、この範囲こそが、初期大和王朝の勢力範囲であったのである。日本のある時期からの古代文化もこのゾーンに培《つちか》われ、この道をたどって奈良盆地へと集中している。銅鐸の出土分布の状態も、この古生層の地帯と一致するのである。この意味で、大和は「何が」という私の疑問に対してすばらしい価値を生じてくる。
黄金に寄せる夢とその力は現代ばかりではなかった。維新の志士を養い、幕府を倒した薩長の勢力の基盤も金《きん》の力であった。薩摩には串木野《くしきの》をはじめ、多数の有名な金山がある。同様に長州をはじめ勤皇の各藩にも金山があり、ひそかに金を貯えていた。
広大な領地を有し、農業のみに頼っていた大藩は、金山を持つ小藩には、力の上ではとうてい及ばなかった。勤皇とは金納といえそうだ。
家康は金を掘り、金を貯えて天下を統一した。秀吉は金のつまった箱を強奪《ごうだつ》して国内を制覇した。藤原氏は、東北の砂金を集めて、中尊寺に栄華をほこった。坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》の蝦夷《えみし》征討も、実は不足した平安|奠都《てんと》の資金を、直接、蝦夷から得んがための手段にほかならなかった。
魏《ぎ》の明帝によって卑弥呼《ひみこ》に与えられたものは……親魏倭王という金印に魅せられた日本人の胸に黄金の夢をかりたて、倭の五王をして幾度も大海を渡らせた。いまもその夢は、古墳の輝く王冠に名残《なごり》をとどめる。これらの悲願にこたえて綴られた記紀は、黄金の夢を秘めた筐《はこ》。倭人伝は、その筐をあける鑰《かぎ》といえそうである。
第八章 考古学への失望と期待
一 邪馬台国を捜すのに考古学は頼りになるか
考古学と文献歴史学
考古学はひじょうに大切な学問である。いまさらこんなことをいいだしたりして、よほどどうかしていると思われるかもしれない。だが邪馬台国研究に直接つながりのある考古学派の意見には、ややもすれば未決定の研究過程の学説で、文献歴史学をひきずりまわす傾向があるように思われる。
実証主義に基盤をおいた考古学では、もの以外について語ろうとしない。しかも、いかに用心しながら語られる内容でも、最初の判断にあやまりがあれば、その学説はさらに虚構を拡大して、結果的には歴史を壟断《ろうだん》する。そして人々に取りかえしのつかぬ、まちがった学問を教えこむ危険性があるのである。これが直接人畜に危害を加えるような実際的な学問だったら、すでに何度も爆発を起こしたり、殺傷事件がもち上がっているだろう。
過去の邪馬台国に関する混乱の原因も、その一部は、ここから起きているのである。そのいい例を示そう。
畿内大和に邪馬台国をもってゆこうとする人々の、考古学上の主な根拠は、古墳の発生と、それにつながる鏡の問題である。
魏の皇帝が、卑弥呼に贈るため、邪馬台国の使者に百枚の銅鏡を託したという魏志倭人伝の記事から、いわゆる三角縁神獣鏡《さんかくぶちしんじゆうきよう》と称せられる多数の出土品をもってこれにあて、有力な証拠としてきた。ところがこの三角縁神獣鏡なるものは、はたして魏の皇帝から授かったものなのだろうか。倭人伝はもとより、他の記録や傍証に確たる証拠は何もない。自分たちだけで三角縁神獣鏡が魏の皇帝から贈られたものだと勝手にきめこんでいるのである。また、この鏡が魏時代のものであるかどうかも実に疑わしい。
先年、中国の考古学資料を見学にいった日本の学者の一団が、この三角縁神獣鏡のスライドを持参して向こうでうつしてみせたところ、向こうの学者はだれも知らなかったということである。また魏時代の鏡だといって説明しても、莫大な発掘資料の中にそんな鏡を見た者はだれひとりとしていなかったそうだ(このことは井上光貞氏も『日本の歴史』第一巻で触れられている)。
文字のなかった弥生時代以前のことならいざ知らず、記録に残った邪馬台国を論議するのに、その証拠を、ものいわぬ遺産に頼りすぎて、れっきとした、ものいう生きた人間の記録を無視したのでは、まちがいを起こさない方がむりである。
ここに現代人の「かくあるべきだ」とする意識過剰と自己埋没があるといわなければならない。たびたび強調するように、邪馬台国はどんな場合も魏志倭人伝を離れてはありえないのだ。もちろん文献には嘘もある。だがすべてが嘘ではない。こう考えて私は十年ほど前、考古学にかたよりすぎていたいままでの考え方を改めて、魏志倭人伝とこれを取り巻く関連文献の徹底した再検討を思いたった。
次に古墳の問題についてであるが、わかりやすく次のような例を示しておこう。
旧家と文化住宅
私の家はもっとも近代的な文化住宅です。コンクリート塀で取り巻かれ、応接間などにはオランダふうのランタンが取り付けてあって、灰皿には南蛮渡来のギヤマンが置いてあります。時計も古風な砂時計。生来、骨董《こつとう》が好きですから、焼き物は李参平《りさんぺい》以来、歴代の柿右衛門《かきえもん》の皿や器《うつわ》が棚の上にはずらりと並んでいます。書画刀剣類はもとより、切支丹《キリシタン》ものの遺物、縄文・弥生の壺や、たかつきの完形品にいたるまで、博物館のようにそろっています。
ところが、隣家はこれにひきかえ、明治時代に建てた、抱きかかえるような柱が立ち並んだ、薄暗くてだだっ広い旧家です。いかつい門構えに周囲は練り塀で取り巻かれ、手入れのゆきとどいた庭木など、見るからに由緒《ゆいしよ》の深い大邸宅なのですが、ここの主人ときたら、まるで家のようすとはうって変わり、実はとてもハイカラな人なのです。家も建て直したいらしいのですが、肝腎のご隠居が健在なので、いましばらくはそれもできないとぼやいています。家の中は完全に電化され、どの部屋も冷暖房。什器《じゆうき》や家具はなんでも新製品ずくめで、テレビもカラーが三台もおいてあって羨ましいかぎりです。ここの主人はいつも舶来の布地で誂《あつら》えたりっぱな背広ばかり着ています。私が着物ばかり着ているので、おもしろい対照だと町の評判です。
もしも、こんな二つの対照的な家が隣同士に並んでいたとする。そこへポンペイの町のような大異変が起きて、そのままスッポリ灰に埋まったと仮定しよう。化石にならずとも、この状態が十数世紀の後に考古学者たちによって発掘されたとしたらどうなるだろう。
私の家をAとし、隣家をBとして、Aの家は形式が新しいように思われるが、調度品から判断すると数世紀以上前のものばかりであるから、Bの家屋よりも古い時代に建築されたものと推定しなければならない。
しかるにBの家屋ははなはだもって建築の形式はAより旧式に属するが、その内容や調度品はすべて新しいものばかりであるから、この建物は形式だけ畿内大和地方の勢力が及んでから模倣したものであって、実はAより新しいのである、と判断を下され、これが一般的な通説となって学界にまかり通ったとしたなら、われわれは黙って「はい、そうですか」と引きさがれるだろうか。
ところが現在、古墳の発生が畿内地方であったとする考え方や、九州の初期形式の古墳に対する考え方は、ちょうどこんないい方で説明されているのである。このことを一歩さがって考えてみると、辻褄《つじつま》を合わせているだけだといえるのである。それほど不可解な、そして、まだまだ追求されなければならない多くの問題が残されている。まだ学界の一部には、こうした辻褄を合わせただけの考え方が定説となっている場合が多い。だから極端にいえば、他人に隙を与えない理屈をつけたり、もっともらしく辻褄を合わせたものが、勝ちということになる。だれも千数百年以前のことに立ち会った者はいないから、文句のつけようがない。文字も残っていなければ、あの世から古墳の主がどなりこんでくる心配もないので、安心してものがいえるのである。ここに考古学のむずかしさとやさしさがある。そして真の考古学者と便乗者やニセ学者のわかれめもあるのである。りっぱな学者も多い。どの人がまともなことをいっているか、だれがいいかげんなことをいっているかを判断するのはわれわれだ。したがって、考古学に対する常識がもっと一般化されなければならないと思う。
浅学な私の知識で、専門の考古学者に、こうしたもの申すことは、おこがましいかもしれないが、ここに私は一般的な読者のひとりとして、一つの問題を提起しておきたい。
二 副葬品に対する考え方の限界
一致しない中身と外身
古墳に副葬された鏡、剣、玉、甲冑《かつちゆう》類などの資料的な価値についてはいまさら云々《うんぬん》する必要もないが、従来考えられてきた考古学上の取り扱い方には、少し行き過ぎがあると思う。
それは、古い時代の品物なるがゆえに、それを証拠として持ち出すことによって、多くの意見が述べられる。その意見が、いかにも決定的な当時の意志を伝えているかのように説明されることである。
なるほど、資料としては古い時代の遺品であるから、そのことにまちがいはない。だが、その説明をしているのは、神ならぬ現代人である。もしもその解説者がまちがったり、偏《かたよ》った考え方で判断を下していたとすれば、結果はとんでもないことになる。このことについてはたびたび力説してきた通りだ。いわんや、文学博士や大学教授の肩書きのある人によって、まちがった判断が下されたとする。たいていの人は、その考えを容易に受け入れるだろう。かくて誤りはつぎつぎに拡大され、その被害が大きければ大きいほど、学界の定説にもなりうる危険をはらんでいるのである。
つまり、遺物は古代を告げようと意志しているかもしれないが、完全に言葉をもって伝えているのではないということを、読者は知っておかねばならない。ここに判断に対する考え方の限界があるのである。だからこそ考古学の学説ほど、ぐらつくものはない。
次に、遺物は人々の手によって容易に運び去ることのできる移動性の強いものであることに、もっと注意しなければならない。副葬品であるから、自然に埋没した土器より多くの人為的な手が加わっている。したがって、古墳には追葬も合葬も容易にできるのであるから、それがなされていないとだれも断言できない。いちがいに副葬品に対する時代の判定だけによって結論を出したならば、前に述べたたとえ話のように、珍無類の結果になってしまう。ここにも移動性の可否に関するきびしい考え方の限界が必要となってくる。
たとえば、剣や鏡や玉類は、本来、征服者のものであって同時に祭祀に関係の深いものでもある。だから、これらの所持品なり副葬品の数々は、その被葬者と、かならずしも同時代のものと限ってはいない。これをわかりやすくいえば、前のたとえ話のように、A古墳の副葬品は古いが、B古墳はA古墳より形式が古いのに、副葬品の時代がさがるのはどうしたわけだろうといった問題点について、移動性のつよい副葬品の時代判定を主とし古墳の形式を従としたがる傾向にも注意を払わねばならない。
A古墳の副葬品の内容が古いのは、A古墳に埋葬された○○大王が、自分の所持品は別に伝世品として後継者にゆずり、他の、より古い伝世品を所持していた××王を倒して奪い、あるいは戦いによってかち得たものを、埋葬者の武勲として副葬していたとするなら、どうなるだろう。こんな考え方も許されるのである。
逆に形式の古いB古墳の副葬品が新しいというのは、従来の考え方のように、築造形式の流行的なおくれの場合もあるだろう。だがB古墳の形式と副葬品の下限がほとんど同時代であったと考えれば、古墳形式と副葬品を同時代とあたりまえに判定してもいいのである。その場合、A古墳の内容に時代的な重点をおくから混乱するのであって、A古墳はB古墳よりも古い時代のものを副葬はしているが、B古墳よりA古墳は新しいのだとすなおに判断してもなんらさしつかえない。もしそれができないというなら、A古墳、B古墳の形式に対する時代判定そのものに、最初から誤りがあったといわなければならないのである。
古墳研究の欠陥
このことは、古墳の時代判定が、埋葬形式や副葬品などの内容に偏《かたよ》り、古墳そのものが軽視されている欠陥を暴露《ばくろ》している。古墳そのものの研究は、まだ単なる外見的な形式や様式研究にとどまり、副葬品などの研究に対してひじょうにおくれている。早急《さつきゆう》に築造の技術や封土の内部形式、基礎構造などの土木的な真の内容研究がなされなければならないのである。そして、発見された新構造形式によって形式判断の価値を高め、副葬品と同程度の比重をもって年代判定をしなければ、真の形式判断は期待できないのである。だからいまの場合、従来の形式判断による古墳の年代判定にもおのずから限界があるといわなければならない。土木工学的な研究が煩《わずら》わしかったり、前記のA式、B式のようなややこしい古墳の年代を急いで知りたかったら、全国の問題になっている古墳から、それぞれ封土の一部を集め、各種の進んだ測定機によって相互間の同時判定を試みてもいいのである。もし時代が新しく、かつ相互の時代が接近しあっているから判定が困難だというなら、それが可能な精密な機器や検出法を、わが国で作るなり考えたりしてもいいのだ。各種の医療器具、機械などから考えて、わが国の理工学はこんなことくらい、すぐに解決できる水準にあると思う。費用の点で困難と考えるなら、考古学界が一丸となって政府に働きかければ、解決できるはずだ。それをしないのは考古学者の不熱心さによるものか、それとも、いまのままで有耶無耶《うやむや》にしておいた方が学者にとってつごうがいいと考えているのか、と勘ぐられてもしかたがあるまい。
三 盗掘された古墳
ふしぎな盗掘
蒲生《がもう》君平《くんぺい》に始まるわが国の古墳研究は、喜田貞吉《きだていきち》博士によってようやく学問的な基礎が築かれ、さらに小林行雄氏の多角的な目によって、新しい展開をみせたといえるようである。文科系の学者とちがって、技術者としての小林氏の独特の幅広い見解は、低迷していた考古学界に異常な刺激をあたえ、従来の考え方に多くの問題を投げかけた(同氏の岩波新書『古墳の話』は素人にもわかりやすく書かれているので、未読の人は機会があれば一度読んでおかれたらよいと思う)。
しかし、同氏すらも、一つの古墳に何体かの遺体が埋葬されている問題については、明確な意見を示されておらない。六世紀以降の古墳に、夫婦または母子などの家族墓的なものがあることについては、早くから知られていたが、それ以前の古墳時代前半の合葬が、もともとひとりの埋葬者を対象として築造されたと思われている一つの古墳に、なぜそんなことが行なわれているかということについては、いまもって疑問とされている。
現在、畿内地方に残っている大古墳は、天皇陵といえども、仁徳天皇陵と称せられる堺《さかい》市の大古墳以外は、ほとんどその副葬品が鎌倉時代以来盗掘にあっているといわれている。中身がそっくり外国の博物館に飾ってあるのだから、明治のはじめごろ、ゴールドラッシュのようなある時期があって、専門の盗掘屋が大いに活躍したにちがいない。またおりおりに、黄金や財宝をねらって、単なる物取りが金品の対象として盗んだことも考えられるが、特に好学の士や骨董屋のために専門の盗掘屋が相伝で近年まで活躍したという、盗掘屋に関する国学院大学、樋口清之教授の話は有名である。
だが、そうしたいわゆる一般的な盗掘による古墳のほかに、これはまたあざやかによくぞ盗掘したものだと思われる完璧な盗掘古墳がたくさんあるのである。完璧だというのは、私もいくつかの古墳の発掘に立ち会ったが、盗掘されたものは、なんらかの荒らされた形跡や、いくらかでも副葬品の一部が残っているものである。それが横穴式の古墳なら、出入口が比較的に簡単だから疑いもしないが、竪穴《たてあな》式の古墳で、副葬品はおろか、遺体を収容していた木棺がそのまま腐ったと思われる形跡すらなくて、中身がスッポリ消え失せているような古墳があるからである。
単なる盗掘を目的とした行為なら、天井石などを丁寧に復旧しておかなくてもよかったろうに。しかも古墳群の中で、盗掘しやすいすぐ傍らの横穴古墳が盗掘をまぬがれ、竪穴《たてあな》式の古墳が盗掘されている例すらあるのである。現在、多くの人は、こんな古墳に遭遇しても、残念ながら盗掘されていたと簡単に片づけてしまう。それが中、後期の横穴式古墳ならまだいい。私は初期形式の竪穴式古墳に、この種の盗掘が比較的多いところに疑問をいだくのである。
もともと竪穴古墳は一人一基が原則であることについては、多くの学者の意見も一致するところである。夫婦らしい男女の二体合葬はまだいいとして、埋葬さるべき定位置の後円部以外に、いくつもの遺体が埋葬されていることは、まったく異常である。この異常ということでは、一人一基原則に反している点で、まったく遺体が埋葬されていない空の古墳もまた異常である。だから異常という点については、なんらかの共通点を認めなければならない。
合葬墳の謎
大古墳の周囲には、最初から遺体を収容しない副葬品だけの陪冢《ばいちよう》が多い。このいわば、無人墳とも称すべき陪冢を、単に陪冢として片づけるなら、合葬墳に対してもなんら異常なものとしての疑問を投げる必要はないのである。
無人墳である陪冢は、権力を誇った被葬者の副葬品があまりに多かったので、同時に収容しきれなかったから、別に陪冢を築いたのだろうか。それなら前方部に埋葬する余地はいくらでもあるのである。またそうではなく、いくつもの陪冢を築くことによって、本体の衛星的役割を果たさせる目的で築かれたのなら、遺体埋葬を目的とした古墳であるから、どの陪冢にもそれぞれ遺体を埋葬していいはずである。それをしないで、たとえば伝仁徳天皇陵のように、厖大な大古墳の前方部から石棺が見出されるということは、陪冢に納める遺体を、ここに合葬もしくは追葬したのだと考えてもさしつかえないだろう。
そうなってくると、応神、仁徳、履中《りちゆう》の各天皇陵と称せられる大古墳などは、その被葬されたひとりの埋葬を目的として作られたのではなく、最初からその一族、または、その部族の祖先を合葬する目的をもって作られたのだということができるのである。
合葬墳に対しては、いままでの学者は、これが竪穴式の場合、合葬者が相前後して死去したか、殉葬されたものか、あるいは途中で築造を待って加葬したか、などと説いている。そんな場合もあろう。だが人間の死はいつでも、そんなにつごうよくゆくものではない。これでは、まるで古墳を造営するために人間が死んでゆくようなものだ。
大古墳がその地方を統治した王の権力の象徴であることについては、いまさらいうまでもない。この権力の象徴ということは、この王がこの地方の統治者であったという自他共にゆるされた絶対的意思表示である。だから小は小なりに、大は大なりに、古墳はその当時のその地方における国家や権力の存在を明らかにしているところに意義があるのである。
大古墳はなぜ築かれたのか
ところが畿内地方のなかでも、特に堺市から南河内にかけて、ほぼ同時代とみられる大古墳が、多少形式的な変化はあっても、同様の形式で集中的に並んでいるのは、この意味からも不思議に思われてならない。単なる権力を誇る意味ならば、あまりにも大きな犠牲であり、投資である。こんなに大きな古墳が意志する大国家が、そんなにめまぐるしく短期間に交替したのだろうか。交替したとすれば、一人一基を目的としたこの大古墳築造のために、すべての労力は集中され、戦いを挑んだり、挑まれたりする余裕はなかったはずである。大王は統治の権力を伸張する前に、生涯を古墳築造に終始しなければならなかっただろう。従来説かれてきた、大王の権力が徹底して人民の労力を集めえたからだとする考え方は、あまりにも単純な考え方である。
それは、記紀に説かれた物語を鵜呑《うの》みして「昼は人造り、夜は神造る」といった話であっさり片づけたり、人海戦術で造ったのだといいきってしまうには、あまりにも稀有《けう》の大土木工事ではないか。
かりに数百万立方メートルの土量を動かすために必要な労務者の数は簡単に割り出されても、その人々をいったいどこから短期日のうちに集め、どのような住居を与えて収容し、どのように食糧を補給し、どのような技術で築造されたかについては究明しようとされない。
おそらくは、仁徳天皇が生前から築造に着手されたということを記紀がしるしているのは、その生涯を通じて、あるいは先帝にひきつづいてこの大事業を継続されたという意味のことを伝えているのだとも解される。もしもあの大古墳が数年で造り上げられたと、記紀の額面どおりに説く人があれば、その前に、どのような技術で、どのようにして造られたかということが、もっと納得《なつとく》できるように明らかにされなければならないのである。
そこで、こうした桁外《けたはず》れの大古墳が築造された目的は、ひとりの被葬者のためというよりも、ある時期に国家統一がなされたとき、何よりも、確実な証拠として、この地上に統治者の絶対的な統一の意志が、宣言の形で表明されたものだと考えた方が、前後の事情から理解しやすいのである。
だから、大古墳の合葬は、従来の考え方からすれば異常であっても、陪冢に遺体の埋葬がないことを認める以上、それは異常ではないのである。それならば、合葬が異常ではなく、当初からの目的であったとすれば、それらの合葬の遺体はどこからか運ばれてこなければならない。
わかりやすくいえば、旧藩時代に大名が国替えをすると、先祖からの菩提寺《ぼだいじ》もろとも前任地から新任地へ墓地を移すのが通例であった。この場合、遺体もしくは遺骨もろとも移すときもあれば、墓石のみを移すときもある。極端な例では、分骨と菩提寺の名前だけ移して、任地先で墓石は新たに刻ませる。実に、実際の遺体埋葬の場所と墓地と食い違っている場合が多いのである。
また現在もやることだが、財をなし名を得た人が、かならずといっていいほど○○家|累代《るいだい》之墓としるしてりっぱな墓地を造る。そのとき、いままで散在していた小墓柱の下から遺骨を集めて合葬するのが通例である。不幸にして土葬のため、または火葬であっても、人骨が消滅してわからなくなっているようなとき、なんらかの副葬された遺品だけが発見されたとする。そのときは、その遺品をもって合葬の魂の代わりにするだろう。もし遺品がないときは、その場所の土塊《つちくれ》さえ代用するのである。
こうした卑近な例から、大古墳が建設されるに当たって、それまで各地に散在していた、その大王の祖先や係累の遺体や副葬品が集められて、より壮大なこの大古墳に合葬されなかったとだれがいいうるだろうか。
副葬品は語る
陪冢《ばいちよう》に遺体がないのは、すでに副葬品を掘り出して、その陪冢に移す前に、遺体が消滅していたのかもしれない。もしあったとしても、なんらかの理由で腐敗して動かせない状態にあったか、宗教的な理由からか、被葬者の分身として副葬品だけが持ち込まれたのかもしれない。もしそうだとすると、特に遺体に代わるものとして、土塊ならずとも被葬者にとって最高と思われる鏡なり剣が、中心部に石棺に代わって埋めてあったとしても、なんらふしぎはないのである。さらに陪冢へはそれらの副葬品だけを集めて埋葬する場所とし、遺体だけは主墳に納めたとすれば、より合理的である。
だから古い形式だと信じこまれている古墳に新しい鏡が、それよりも幾分新しい形式だと思われている古墳に、より古い漢代の鏡が埋葬されていたとしても、いっこうにふしぎはない。
いままでもたびたび強調したように、副葬品は容易に持ち運びができるものであり、極言すれば、その可搬性のゆえに、副葬品はその製作年代によって、古墳が築造された上限だけを決定するものであるから、畿内の大古墳は、いままで考えられてきた築造年代より、案外、時代が下がるかもしれない。そして波状的に畿内に集中してきた各部族によって古墳は持ち込まれ、それが国家統一の時期にリファインされて途方もない大古墳となって出現したのではなかろうか。伝仁徳天皇陵などの大古墳は、こうした疑問を投げかけている。持ち込まれた古墳のふるさとでは、あくまで遅々として形式の近代化がおくれ、持ち込んだ場所では、部族の新鮮な感覚と対抗意識によってますます畿内化されて、最大の形式まで達したのであろう。
そうなると、いままで考えられていたように、畿内の勢力がしだいに地方へ及んで、影響をうけた各地に古墳が築造されるようになったから形式がおくれているのだとは、いちがいにいえなくなってくるのである。私は、この問題は、畿内から以東・以北にあてはまるだろうが、瀬戸内海沿岸から九州へかけての以南・以西の地では、畿内の影響を受けておくれて発達したのではなく、前期の古い形式のものがそのまま取り残されたか、いやむしろ発生は九州だったとさえ思うのである。また古墳の価値をその大小によって決定したがる傾向があるが、これも大いに注意しなければならないことである。大古墳というものは、ちょうど高層ビルが小さいものから経験や技術の積み重ねによって巨大化したように、小規模なものが次第に発達したものである(その極に達するとまた逆に小さくなる傾向がある)。それを畿内地方の前期古墳が大きく、九州地方のものが小さいからといって、単純に権力の優劣だけを対象として優先させようとする考え方は皮相的で幼稚といわなければならない。
九州にも多い初期古墳
なんとなれば、初期古墳のみならず、横穴式古墳も装飾古墳も、いな、弥生時代に始まる古墳の内容的な埋葬形式もすべて九州に始まり、漸次《ぜんじ》、瀬戸内海を畿内へと移行している形跡が歴然としているからである。こういえば、古墳の畿内発生説を信じている人たちは、弥生期のものと横穴式以後の装飾古墳の発生が九州にあることを認めながらも、初期古墳だけは違うというであろう。その証拠を示せというであろう。さいわい、九州には、その初期古墳と思われるものがいくつも発見されつつあり、しかも軌《き》を一にするように、前期大古墳に持ち去られたであろうと思われるような竪穴式の初期形式に属するもぬけのからの盗掘古墳が、熊本県|宇土《うと》半島を中心に各地に散在していることが、わかりはじめたのである。
かく考えるとき、畿内の大古墳が、集約された部族を代表する統一国家への意思表示とするならば、その大王もまたいずこからか来て主権を打ち立てた、どこかにふるさとを持つ部族の首長だったといわなければならない。
なお、京都府茶臼山古墳や、他の畿内地方の古墳の石棺や石室の壁に阿蘇泥溶岩が使用されているのは、何を物語るのだろうか。きわめて重要な問題である。
記紀埋葬記事の謎
記紀が伝える仲哀天皇の遺体を筑紫から都へ運んだという記事。そのための豊浦宮《とよらのみや》の「无火殯斂《ほなしあがり》」、神功《じんぐう》皇后が紀伊の小竹《しのの》宮《みや》に行かれたときに、夜のように暗い日がつづいた。なぜだろうと調べられると、二社の祝《はふり》を合葬して阿豆那比《あずない》の罪をおかしていたことがわかった、といった合葬に関する不可解な物語。仁徳紀の古墳築造にまつわる強調された逸話。顕宗紀に述べられた父王の遺骸を掘り出して佐伯部仲子《さえきべのなかこ》と判別がつかないので合葬されたという記事。同じく顕宗天皇が当時太子であった兄、仁賢天皇に、自分たちの仇敵である雄略天皇の御陵を破壊しようではないかと相談を持ちかけられた事件などの、埋葬や古墳に関する記事は、そのまま解釈すればなんでもない記事のようであるが、前後の事情から、きわめて不可解な、それでいて謎めいた意味をもっている。すべて九州の風土記がある一つの目的のために擬古文《ぎこぶん》をもって、まるで反対の意味のことが記されているように逆に考えると、これらの謎は実は解けるのである。それはあとで解こう。
また記紀の前半の各章に、王や妃などの死後に「合わせ葬る」という記事が散見される。これら諸伝も、すべて後の天皇の祖先が、九州であったことを物語っているのである。何よりも、神話の構成が、高天原からなぜ筑紫の日向の岳に天降りすることを必要としたのか、なんのために神武天皇の東征は物語られているのか。記紀の前半の枢要な部分が、なぜ畿内の事件は皆無に近く、九州を対象として描かれているのか。当然すぎるこの疑問が、個々の事件に矛盾はあっても、何よりの証拠であろう。
最近の横道にそれた考古学の有力な異説は、これら記紀に述べられた根本理念すら破壊し去り、ある一部の末梢的な矛盾と矛盾を組み合わせたり、矛盾した部分のみを取り上げることによって、いまや民族の歴史さえ混乱に導いている。その意味でも、邪馬台国の所在を明らかにすることは焦眉《しようび》の問題といわなければならない。
四 わざわいする学説
考古学にあやつられた邪馬台国
邪馬台国は、きわめて長期間にわたって論争されているわりに、いろいろな意味でその底が意外に浅い。
一部の文献史学派と、考古学派によってなされた今日までの研究の対象や範囲はきわめて狭く、考証が広範囲にわたっていないことを読者は察知されているであろう。
それにはわけがある。戦前には、邪馬台国をおおっぴらに論ずることはタブーであった。したがって、おのずから研究の対象が狭められたのは当然であるが、それにもまして固定したわが国の古い歴史的既成観念が作用していた。これにもう一つ拍車をかけたものがいる。いつの世も同じことだが、それはいちばんたちの悪い便乗的な学者だ(戦前とは違った意味で、いまもウヨウヨひしめいている)。
これらの学者が錦の御旗をかざして横合いから突っ込んだり、足をとったりしていたのである。いまから想像すると、一見なんでもないようであるが、戦前の邪馬台国を研究していた学者は、精神的にもたいへんな苦労であったろう。いまの若い人たちには想像もできないのではないか。
津田左右吉先生は獄に繋《つな》がれ、鳥居竜蔵博士は神代の一族が海上からやってきたといったばかりに東大を追われ、古賀博士は、二千六百年祭典の日向の古墳調査で、おそらくどんなに古くみても二千年前には遡《さかのぼ》れないと、詰めかけた新聞記者に口をすべらせて日本にはいられなくなり、ロンドンで客死された話などは有名である。
ところがその逆に、戦後は堰《せき》を切ったように、われもわれもと邪馬台国ばやりで、一時は歴史を論ずる者、邪馬台国を論ぜざるべからず、といった観があった。しかし、その多くは、単なる歴史に対する解放感から邪馬台国が論じられているのではないかと思うものが多く、私が本書の旧版を執筆の当時も、かろうじて榎《えのき》一雄博士によって点じられた新解釈の灯が、わずかに新しい考証の扉を照らしているだけで、邪馬台国は依然として五里霧中であった。
この困惑のうちにわが国の考古学は擡頭《たいとう》してきたのだった。急ピッチに拡充された考古学に基礎をおいて数多く出された新解釈は、いい意味でも悪い意味でも幾多の問題を提起した。その一つが衰えかけていた畿内説を勇気づけ、巻き返しの戦法に出たのが、古墳の畿内発生説であった。これに対して、九州説派はすすんで反撃に出るどころか、みずから古墳の発生が九州にあったのだという証拠をあえてあげようともせず、漫然と日をついやしてますます論争を膠着《こうちやく》させている。
不可解な九州の学者の態度
九州説にもっとも不利なことは、九州の考古学界で古墳の九州発生説を信じている者は、数人にすぎず、ほとんどの人が畿内発生説を信じこまされていることである。しかも、九州発生説を裏づけようと努力しているのは在野の者が多く、研究の機会にも恵まれない。私らがこれらの問題について畿内派の学者に質問すると、神父や牧師さんに「マリアは処女で受胎したのですか」と質問する以上にいやな顔をする。
いや味をいうようだが、もう少し九州大学あたりが、古墳の発生は九州にあったのではないかと首をひねってみてもよさそうなものである。なにもセクト的になってくれとはいわないが、コンプレックスを持つ必要もなかろう。特に九州大学など、その影響するところが大きいからだ。それにしても、他の九州の大学の諸先生までが、みんなうち揃って九大に追従しているのは遺憾である。まったく医者の世界と同じだ。
もちろん、学問は自由で普遍的である。だが同時に、その学問を授ける大学には、伝統や特色がなければならないのである。いやしくも九大は昨日今日できた駅弁大学ではない。そこから巣立ってゆく学生や九州の各地の大学に及ぼす影響は大きい。かつて、北大は北海道なるがゆえにその価値を認められ、いまもその伝統を維持している。ここの農学部で熱帯植物の研究ばかりしていたら、だれが大学の門をくぐるだろうか。各大学の医学部やかつての医大は、その地方のフィラリアや風土病の研究をすすめることによってわが国の医学に多くの貢献をしてきた。現在も、同じ九大の経済学部や農学部は、地域産業の開発問題や農業問題に積極的である。文学部ももっともっと積極的になってもよさそうなものである。早大と慶大が私学の精神を失い、官学のエピゴーネン(追従者)になりさがったら、早慶戦がどんなに若人の血を燃やしても、わが国の私学に対する信頼は喪失するだろう。
古墳の発生が、畿内地方にあったのだとすべての人に信じられている間はまだいい。それが考古学の進歩と新たな研究によって、だんだん疑いがさしはさまれ、疑問の点が大きくなったとしたら、一応その疑問にこたえて、みずからも反対の側に立って研究してみる態度と意欲が学者には望ましい。
もしも近い将来に確実な証拠が発見され、古墳の発生が九州地方にあったとする考え方が確定的となったとき、この諸先生方は、いったいどんな態度をとられるだろうか。われわれのような在野のものとちがって、この人たちはいやしくも学者という特別の職にある。これが政治家だったら政権をゆずり、会社の重役だったら責任を問われて追放されるのだが、学者の場合は、せいぜい「九州の古墳も畿内地方とほぼ同時代に発生をみている」といった程度の妥協的な結論をつけることによって、いつのまにかお茶を濁してしまうのだ。
不安定な日本の考古学
まだ日本の考古学は、未開拓で、不安定で、充分な確立をみていないことを読者はよく知っておかねばならない。ひじょうに失礼ないい方だが、考古学者のいうことだからと、すべてを鵜呑みにしてはならない。
ローム層には文化はないと信じられていた。この考古学界の定説を覆《くつがえ》して、ローム層から石器を発見し、日本の考古学界に一大変革を起こさせた事件はつい先年のことだった。しかもこの発見者は学者ではなく、当時|納豆《なつとう》売りをして、営々とローム層をほじくりまわっていた好学の相沢忠洋《あいざわただひろ》青年であったことは、あまりにも有名な話である。
まだ日本の考古学は基礎づくりがやっとできたばかりで、真の研究というものはこれからといった段階である。他の学問の分野に比較してみると、数学ならば微積分の一歩手前である組み合わせ方式の研究が終わった程度、医学ならば病理学教室が設けられた程度、といったら学者に怒られるかもしれないが、正直にいって、現在の日本の考古学は、いまやっと基礎的な組織づくりが終わったばかりである。正しい意味での研究はこれからであるから、あまり自説に拘泥《こうでい》せず、もっともっと疑問をもって自分たちの考えを過信しないようにしないと、日本の考古学は、考古学者自身の手によって阻《はば》まれているとのそしりをまぬかれないであろう。すでに元老的な某先生が、自説の誤りを正そうとして後輩の諸先生方の抵抗に会い、それができないでおられる事実を私は知っている。もし論文が発表されると、屋上屋を重ねた自分たちの学説が覆《くつがえ》り、収拾がつかなくなるからである。
こんなことをある友人と話しながら、「九州の考古学界があげて古墳の発生を、畿内地方ではなく九州ではなかったのかと、もう少し積極的に考えてくれたら――」といったところ、彼は「問題は一発で解決するよ。邪馬台国が九州に存在した確証をあげさえすれば――」といった。まったくその通りである。しかし私はなお考える。高塚古墳の発生が邪馬台国問題にからもうとからむまいと、発生そのものの正否が学問的に明らかにされることは、なお重要なことではないかと。
いまや九州の前期古墳はつぎつぎに発見されつつある。だがそれが発掘した人々によって、あえて宣言されないことも残念の一つである。また最近はトンピンな大学教授などが、クイズ番組のゲストに出たりテレビでいいかげんなことをいってはしゃぎまわるので、まじめな学者は迷惑し、国民の大多数の顰蹙《ひんしゆく》をかっている。まことに残念なことだと思う。
第九章 邪馬台国を捜すための基本条件
一 自説のための倭人伝
結局はどこですか
近ごろ邪馬台国論について、私に話しかける人が、めっきり多くなった。
いい気になってしゃべろうものなら、なるほどと、うなずいてはいるが、てんで話の内容については聞いていないのである。いいかげんにしゃべらせておいて、まだ本論にも触れないうちに、必ずといっていいほど「で、邪馬台国は結局はどこですか?」と問いただすのである。
いままで数百人以上とも話したろうか。だが一人としてこの質問をさしはさまない者はいなかった。まさに一〇〇パーセントである。してみると、この人たちの関心は、ミステリーを読むような気持ちで邪馬台国に向けられているのである。
過去数世紀にわたる邪馬台国に魅せられた学者間の論争も、ある意味では、この、私に話しかけた人たちとなんら変わるところがないように、私には思われてならない。
昭和四十二年、本書を私が発表以来、すでに百冊をこえる邪馬台国に関する著書が陸続と刊行されている。私はこれらの大半を読んでみたが、いずれも大同小異で単に邪馬台国のみを追い求める者が多く、失望せざるを得なかった。そしてこれらを遠慮なく批評させてもらうと、次のような三つの共通した盲点と誤った考え方があるように思う。
ホシをあげてはならぬ
その第一はどの著者も、ここが邪馬台国だと、最初から自分の考える邪馬台国をいずれかの土地に想定して、その目的のために、すべての論証が展開されていることである。
そのために、倭人伝に記載された方向は、ときに南が東に改められたり、里数や日程が継ぎ足されたり飛躍したり、自説を立証するためには、驚くべき珍説が主張されている。こうなると、魏志倭人伝は彼らの自己満足のための副本と化し、倭人伝本来の根本的な意義は失われている。このことすら判別できないほど著者は真っ黒になり、自己埋没の谷間に落ちこんでいるように思われる。
このことをわかりやすく説明すれば、推理小説でも読むつもりで、犯人であるところの邪馬台国というホシを、どのような捜査の手で詰めてゆくのか、興味をもって見まもっている読者のために、真の研究者なら推理小説を書いてはいけないということだ。小説の場合は、はじめから設定した犯人を、作者自身が知っている。だから小説が書けるのであって、この場合は邪馬台国がどこにあるのか、はじめからてんでわからないのである。
参考までに、現在の邪馬台国に対する一部の著者の考え方を推理小説ふうに説明してみよう。
ある腕利《うでき》きの刑事がいたとする。彼は事件発生の経過や前後の事情から、犯行の動機や、犯人の手口をまず調べる。
魏の使者は帯方《たいほう》郡からやってきて、対馬《つしま》から壱岐《いき》、末盧《まつろ》、伊都《いと》と、そこまでは足取りがはっきりしていたが、さてその先が――足跡ものこっていない。周囲に遺物もない。ドアのハンドルや手摺りにも指紋は検出されない。聞き込みの結果、だれも魏の使者なるものを見た者はいない。そこで刑事は推理をはたらかせる。犯人はビルの裏口を出て横町をまっすぐに抜けて電車通りに出て、東へいったのだろうか、それとも西へいったのだろうか。南へ電車通りを横断して向こうへ渡ったのだろうか。あるいは地下鉄の階段を降りて地下鉄に乗ったのではなかろうか。地下鉄に乗ったとすれば、犯行が行なわれて少なくとも犯人が部屋を飛び出し、ここまでやってくるためにはちょうど五分かかる。そのときやってきた電車は、新宿行きである。しかも、聞き込みの結果、犯人らしいと思われる人物が、三十分後に地下鉄の階段をのぼり、伊勢丹デパートの中に消えたという情報をたまたまキャッチする。そこで勘の鋭い、経験の豊富なくだんの刑事は、犯人が逃げた方向はきっと新宿方面だと判断を下す。
それでも一応疑って、ビルから地下鉄の入り口、電車の所要時間、地下鉄から降りて伊勢丹までの時間などを合計して計算に狂いはないかどうかをあたってみる。そうだ「水行十日、陸行一月」というのは、ビルから電車、電車から伊勢丹と合計した時間のように、これは水行なら十日、陸行なら一月という意味ではなく、水行ののち陸行するものと解して、合算しなければならない。そうしないと、犯人らしい者を見かけた伊勢丹の方角や古墳の発生が畿内地方という、大前提と一致しない。犯人はたとえ逃げこむのに最適のドヤ街が電車道路の向こう側にあっても、まさか交番の前を通りぬけてまで向こう側へ渡ってはゆかなかっただろう。南に邪馬台国とあるのは、東の誤りではないか。犯人はかならずこの階段をまっすぐに駆けおりて地下鉄にとびのったに相違ない。彼はこう考え上司に懇請《こんせい》して、ただちに新宿一帯に非常警戒網を張る。
こんな事件がこのように設定されたら、読者はどんな判断をくだされるだろうか。どなたも刑事の判断につぎのような疑問をもたれるであろう。それは、伊勢丹に消えていった犯人らしいという聞き込みの相手が、まだ決定的な犯人であるとの証拠はない。だのに非常線を張ってしまった。これは一応の処置としては許されても、はたして犯人が地下鉄に飛び乗ったかどうか、問題はその以前にあると気づかれるであろう。ちょうどこの犯人のように、邪馬台国の畿内大和説の根底をなす古墳の畿内発生説は、一部の有力な学者とその学閥に支えられた主張であって、まだ決定していない。なかには同じ学閥のなかで邪馬台国の九州説を主張したい学者がいても、捜査本部の決定にもとづき、捜査一課長がこの方向だと捜査の手配を決定すれば、平の刑事は動きがとれないのである。
そしてこの根本的な勘が狂って、もしも伊勢丹に消えていった犯人らしい者がまったくの別人だとわかれば、この事件はいったいどうなるだろう。三億円事件がいい例だ。これは結果論であるが、もう少し最初の手配や判断に慎重さがあれば、三億円事件は解決していたはずである。
かくまわれている犯人
邪馬台国の追求の場合は、学問の世界であるから、もう少し科学的であるが、それにしても、科学的と称するある種の捜査方法に似ているのである。
たとえば、ホシをあげるために、ABCDという事件の鍵を並べ、Aという有力な目的のために、BCDの反証をあげて、つぎつぎに消してゆく方法である。そして、しだいに捜査の対象をしぼり、Aの手がかりによって凱歌をあげるのであるが、これは推理小説でもいちばん初歩的な手だ。実際の事件の場合、Aという対象に最初向けられた勘が当たっておれば成功するだろう。刑事の勘のはずれたときには、捜査のやり直しか、迷宮入りになるのである。小説の場合は最初からその目的で書かれているので、絶対に事件は落着することにきまっている。嘘と思ったら松本清張氏に訊《たず》ねてみられるといい。問題は終結に導くための落着のさせ方に小説のおもしろさがあるのであって、事件の犯人を実際は捜しているのではない。犯人はいつも作家の留置場にかくまわれているのである。邪馬台国はそういうわけにはいかない。だから、今日まで邪馬台国の所在がわからなかったのである。ところが、それをあえて逆手《さかて》にとって、最近の著者の中には邪馬台国をまじめに追求するどころか、はじめから面白半分に書いている人が多いのは、残念なことである。
二 邪馬台国の語義
どこにもあるヤマトの名
これはすこし古典的な考え方に属するが、邪馬台国が混乱している第二の理由は、邪馬台がヤマトと読めるというところから、畿内大和、あるいは九州地方のヤマトに結びつく地名と邪馬台国を関係づけようとする考え方である。
ヤマトの地名は全国的に多い。そのため、ほかにもある似たような古墳群は特定化され、鏡や副葬品の中からはつごうのいいものだけが選び出されて、作り上げた有利な条件によって説得が試みられる。だが、その意識の根底をなす地名の考証については、基礎がきわめて薄弱で、もっぱら考古学的な遺産でごまかそうとする。
がんらい、邪馬台がヤマトと読めるというが、そのように説く学者のほとんどは、ただ読めるというだけで、読める理由については何も触れていない。これは、最初いい出した国学者の考えを、単に踏襲しているにすぎない。エピゴーネン的で、明らかに孫引きである。
台をトと読ませているのは、書紀別伝第三および旧事紀《くじき》の中で興台産霊《ココトムスビ》の神の台《ト》として用いてあるだけである。だから一般的な用字とはいえない。台をトと読むのは、もともとむりな読み方で、原音は明らかに漢語でタイ、呉音でダイであるからタとしか読めない。また、ヤ、マ、トの各音が、どんな意味をもっており、邪馬台という国の名が何を意味するかということすらわからないで、これまでの邪馬台国論争は、ただ漠然とヤマトとかヤマタイとか読んで論争を繰り返しているのである。恋人同士が単に「あなた」と呼び交わして、相手の名前もわからないまま、結婚する人がいるだろうか。
邪馬台の真の意味
いずれくわしくは後述するが、邪馬台の邪は、ヤとエの中間音y?と発音すべきで、記紀では屋の字をもってあてられ、どうやら入り江の意味らしい。現在、入り江といっているエの部分の原音だと思われる。
馬は本来漢音でバ、呉音ではメであるが、後代合体して慣用的にマとも発音される。バラ(原)、イバラ(茨)、イマラクの国(茨城の国)、マメ(豆)、ハマ(浜)などが意味する畑《やきはた》の意味である。
台はタと読まなければならないことについては、先ほどのべたとおりである。本来、倭人伝に記された固有名詞は、音写を目的とした漢字を用いただけの音表であるから、一文字を日本語の二字音として発音してならないことは常識である。この原則さえわからず平気で一字を二字音で読んだり、漢音と呉音を混同して読んでいる人も多い。台の意味は耕地であるタ(田)を意味しているようである。したがって邪馬台本来の音の組み合わせはヤ+バタであってヤバ+タではない。この本義がわからないから、ヤマ+トとしてヤマトと読みたがるのである。タナツモノなどというときのタは田で畑、ナは奴で水田のことである。ツは接尾語のように解されてきたが、ツはあくまで津であって、海浜のことである。したがってタナツモノとは、農産物のほかに水産物も意味しているのである。倭人伝中の対馬《つしま》や壱岐《いき》の項に、「無二良田一」とか「差《ヤヤ》有二田地一、耕レ田猶不レ足レ食」などとある田《でん》が、必ずしもいまでいう水田だけを意味しないことは注意しておく必要があろう。田は、朝鮮語のパタと共通の意味を持つハタが畑とよばれるようになり、本来の田は水田だけをさすことになってしまったが、このことは古代農業の変遷を研究する上からも重要である。
要するに、邪馬台という言葉自身の意味は、入り江にのぞんだ畑の続いた岡や岬の国と解すべきであろう。邪馬台国論の最大のキーポイントともいうべきこの問題は、いましばらくおくとして、話をさきへすすめよう。
したがって、邪馬台が後代の大和と関係があるとすれば、はなはだ結構なことだが、ここでは大和と邪馬台とを直結させなければならない理由はなんらみとめられない。この飛躍した希望的前提条件を切り離すことによって、はじめて邪馬台国は、倭人伝中の邪馬台国として意義をもつのである。
そして基本的な諸条件をふまえて精密な研究の結果、しかも倭人伝全体に矛盾せず導き出された邪馬台国が、たとえ鹿児島であろうと、奄美《あまみ》大島であろうと、宇佐であろうと、四国の伊予であろうと、讃岐《さぬき》であろうと、出雲《いずも》であろうと、畿内大和であろうと、邪馬台国はどこにあってもいいのだ。つまり邪馬台国は、従来の考え方や想定のしかたにとらわれることなく、ふりだしにもどって、素直に倭人伝中の邪馬台国を追求しなければならないのである。
三 不十分な統属国研究
無視された国々
いままでの邪馬台国の研究で、もうひとつだれの目にもうつる第三の欠点は、統属国の研究が不十分なことである。邪馬台国の比定(位置づけ)を急ぐあまり、統属国を軽視するからであろう。
倭人伝に記載された邪馬台国以外の三十の国々は、このため確定的な数国を除けばほとんど十分な研究もされず、その比定もいいかげんなものである。読みかえのきく似たような地名や神社名などにそれぞれの国をふり当て、お茶を濁している程度だ。そこには、相互間の関係もなければ邪馬台国との必然的な結びつきもない。いまや、倭人伝に列記された三十の統属国を、邪馬台国と同時に、その必然的な関係によって的確に比定しない限り、邪馬台国だけを単独に比定しても、その邪馬台国は無価値であろう。
それにもかかわらず、一部の人はいまなお統属国をかえりみず、自分の主張する邪馬台国だけを強調されているが、そんな説はいかにも底が浅く、単なる読み物にすぎない。
盲点を捜す
以上述べてきた三つの観点から、私はいままでの説に、邪馬台国の決め手がなかったのは、どこかに無理があるからだと思う。
その無理はどこからきているのだろう。その無理とはどんな無理だろうか。だれもが納得し、だれもが理解する邪馬台国、それは魏志倭人伝に照らして、無理のないもっとも的確に対応できる邪馬台国でなければならない。このきわめて純粋でかつ普遍的なモラルが、いまではかえりみられないどころか、突飛な説を出して得々とされる向きもある。いまや邪馬台国研究は著書の数によって拡大されたかに見えるが、質的には低下しているといわざるを得ない。問題は総合的な問題の捕え方に対する発想の転換であって、転換こそ私はアナだと思う。このアナは決して思いつきであってはならない。平たくいって非常に重要な問題点、いくつかの見落とされてきた決定的な問題解決につながる重要な個所を探り出すことだと思う。そこが盲点になっているのではなかろうか。めくらが目あきの盲点を捜すというのは、おかしないい方だが、盲点という言葉の意味は、あるいはこんなところにあるのかもしれない。
第十章 海道の国々
一 国名解釈のアプローチ
てのひら文字の日課
アプローチはゴルフだけのものではない。ヒの解明に力を得た私は、倭人伝に記載された邪馬台国以外の国々の名を解き明かすことは、邪馬台国を捜す適確な方法だと考えた。
日本人が語る国の名を、当時、日本へやってきた魏の使者は、繰り返し問いただして、その発音にもっとも近い文字を選び、忠実に音写したであろう。文字の国といわれる中国だから、当時も適当な対応する文字を捜すのに、不自由はしなかったはずなのに、わざわざ動物の名をあてているのが気にくわない。よほど当時の倭国を軽視していたのであろう。倭人伝に記載された国名の読み方は、人によってまちまちである。そればかりか、同一人で、国がちがうと同じ文字を勝手に読みかえる人さえいる。まったく言語道断《ごんごどうだん》だ。
たとえば、邪馬台国の邪をヤと読んでおきながら、伊邪国の邪はサと読み、イサ国と読んではばからない。馬をバと読んだら、音表であるから、どの国の場合も、バと読むべきである。中には大学教授でありながら、漢音で読むべき国名を平気で呉音で読んだり、漢音と呉音を混合して読まれるのには開いた口がふさがらない。
私はまず倭人伝に記載された順序に従って、三十一ヵ国の国名を、妻に命じて大きな紙に書き写させ、それを部屋の壁に張った。毎日国の名を一つずつ、あらゆる角度から考えようと思ったのである。
目の見えない私は、妻の読んでくれる国の名を聞いて、右手を握らせ、人さし指で左手のてのひらに、あらためてその文字を書かせた。この日課は私の重要な仕事となっておよそ二年近くもつづいた。
日本の古代語を新たな立場から考え直して、その音がどんな意味を表わしているのか、またそれぞれの国の名に意味があるとすれば、どんな意味をもっているだろうか。
五百年のへだたりはあっても、古事記、日本書紀、風土記になんらかの痕跡を発見できないだろうか、などについて考えたのである。
いままでの論者は邪馬台国だけに重きをおいて、他の列記された国を軽視している。私は逆に、この場合、邪馬台国をいっさい念頭におかないことにした。これらの国々を究明してさえゆけば、邪馬台国はきっと霧の衣を脱いで、おのずから姿を現わすはずだとの結論に達した。
あれこれやっているうちに、あらまし次のような二つのことがわかってきた。だれもが気づくことだが、三十一の国名に共通の文字がたくさん使われている。参考までに国の名をしるしておこう。
狗邪韓。対馬。一大。末盧。伊都。奴。不弥。投馬。邪馬台。斯馬。已百支。伊邪。郡支。弥奴。好古都。不呼。姐奴。対蘇。蘇奴。呼邑。華奴蘇奴。鬼。為吾。鬼奴。邪馬。躬臣。巴利。支惟。烏奴。奴。狗奴。
右の列記でもわかるように、対馬、邪馬、投馬、斯馬といったぐあいに、同字同音の馬の字を下部に用いた国、同じように奴を用いた弥奴、姐奴、蘇奴、鬼奴、烏奴などは、一定の形が整っているので読みやすくもあり、解明もやさしそうに思われた。ところが同じ用字が上下に別々に使われている国は、難解に思われる。郡支、支惟。弥奴、不弥。不呼、呼邑の例である。
これらの国名を繰り返し読んでいると、ある種の共通した国がら、発音からくる相互に関係のある国、きわめて顕著に立地条件を表わしている国などがあるのに気づいた。さらに追求していくと、これらの国々はまた幾つかの小国家群にわかれ、お互いに星座のように輝きあっているように思われた。なお、この用字用例は東夷伝中の倭人伝の前に書かれた韓伝にも共通している。
私は前記した要領や、記紀に示された音解法をもって、つぎつぎに三十の国名の語義を解いていった。すくなくとも、私としてはその全部を解読したつもりでいる。
しかし、言葉の読み方や意味がわかっても、問題はそれらの国々がはたしてどこだったのか。その国を現在のここだと見当をつけて、いいかげんな勘でいいきることは、もっとも慎《つつし》むべきことである。のどから出かかっている国々を比定するのに、私はさらに慎重を期した。
いままでのところ、対馬を現在の対馬、一大を壱岐、末盧を松浦、伊都を糸島に当てることについては、どなたの意見も一致している。奴を現在の福岡市付近、不弥を宇美付近にあてることについても、ほとんどの人が了解しているようである。
だが、これらの国々についてさえも私は鵜呑《うの》みにせず、最終的には現地を詳細に踏査してその適否を確かめることにした。それではこれから、倭人伝に記載された国々の順序に従い現地を踏査して得た報告をかねて、狗邪韓国を振り出しに解説を試みてみよう。
二 狗邪韓国
韓国への実地踏査の収穫
旧版で狗邪韓国に関する記事が簡略にすぎて、意外に多くの読者から叱責を受けた。実は私も当時狗邪韓国の比定については疑問を抱いていたので、ぜひ現地に赴いて調査したかったが、なにぶんにもその頃はまだ韓国内の事情がゆるさず、あきらめざるを得なかった。それで従来の説に従いお茶を濁す結果となってしまい、申しわけなく思っている。
その後、念願かなって大韓民国国際観光公社や講談社の好意で、たびたび渡韓し、旧帯方郡から韓国の西海岸及び南岸地方をつぶさに踏査することができた。
その結果、洛東江河口の金海付近を狗邪韓国だとする従来の通説が誤りであることがわかった。この踏査記録は、一巻にまとめ、「限られし海の道」として続刊することにしているので、ここではその要点だけを述べておこう。なお、この一部はすでに講談社刊行のムック「韓国の本」の中にも、ややくわしく述べているので、一読してもらえれば幸いである。
狗邪韓国は巨済島
狗邪韓は漢音ではコゥヤカン、呉音ではクヤ(ジャ)ガンと読む。現在の韓語《ハングル》では狗邪韓国《クサハンクク》と読む。ついでだが、邪馬台国はサマテェククである。一般に狗邪韓《クヤカン》と読まれているが、クヤと呉音で読むなら正しくはクヤガンと読むべきであろう。ちなみに弁韓の弁も呉音でベンと読むならベンガンで、漢音ではヘンカンである。注意すべきではなかろうか。
私はコヤカンと読みたい。三国志の著者|陳寿《ちんじゆ》が参考にしたといわれる魚豢《ぎよかん》の魏略逸文《ぎりやくいつぶん》にも邪韓《コヤカン》とみえる。冒頭でもちょっとふれたように、従来狗邪韓国の所在地を、ほとんどの人が洛東江河口の金海付近だったように、はじめからきめてかかっていられるが、これは大きな誤りで、倭人伝の前に記された東夷韓伝を詳細に検討して現地を踏査し照合してみると、そこは弁辰狗邪国に当たるのである。弁辰狗邪国と狗邪韓国とはまったく別な国である。頭に弁辰と冠せられているのを忘れ、狗邪の二字にひかれて混同するのであろう。あるいは金海地方が、のちの伽耶(駕洛)国であったところから安易にそうだと考えられるのかもしれない。だが韓伝には「其の涜盧国は倭と界を接す」とわざわざことわってあり、その倭こそが、まさに倭人伝に記載された「其の北岸狗邪韓国に到る七千余里」の狗邪韓国である。
いままでその涜盧国がどこだったのか、涜盧国と界を接するという倭とはどこを指しているのか、それがわからなかったばかりに、うやむやにされてきたのである。しかし、ついにその謎は解けた。五年がかりの追求の結果、私はそこが、韓国慶尚南道の巨済島であることをつきとめた。
巨済島は済州島に次ぐ韓国第二の大きな島で、固城半島からさらに突き出た統営半島の先端に接し、いまでは忠武(かつての統営)と橋でつながれている。周囲が約三百キロというが、行ってみると岬が多く、面積としては私が住んでいる島原半島よりやや小さいように思われる。だが、他の弁韓の村程度に等しい小国に対して狗邪韓国として大国をかまえるに充分な島である。
巨老県の謎
巨済島、この文字は一見狗邪韓国とはなんら関係がなさそうにみえる。だが実は大ありなのである。韓語《ハングル》ではコジェと読むが、なぜここが巨済と名付けられたのか、その由来をたどってみよう。
まず巨済の巨は漢音でキョ、呉音でコである。済は漢音でセイ、呉音でサイと読む。わが国の古事記をはじめ多くの上代文献が漢字を呉音で読ませているように、韓国の新羅時代の文字も、おおむね呉音で読むようになっている。だから巨済とはまさにコサであり、その根源はコヤまたはクヤなのである。
そもそも狗邪韓国であったこの島が巨済と名づけられた歴史はかなり古い。はじめ百済、高句麗を滅して統一新羅を建国した文武王(七世紀後半)によって、裳郡と名付けられていたが、さらに慶州の仏国寺を建立した景徳王(八世紀中葉、このころわが国でも奈良の大仏が建立されている)のとき巨済と改められて現在に及んでいるのである。現存する韓国最古の史書である三国史記雑志地理篇によれば、裳郡を巨済郡と改めたときの記事に、「巨済郡に、もとの巨老県を鵝州県に、買珍伊県を溟珍県に、松辺県を南垂県と改めて三県を置く」とある。現在も鵝州県は鵝州里、溟珍県は明珍里として残っている。
問題の鍵は、この記事の中の巨老県である。巨は裳郡を巨済と改めた巨であり、老は涜盧の盧の意味と解される。このことから巨老県とは狗邪韓国と涜盧国が、ここでかつて相接していたことを意味するものか、あるいは狗邪韓国の一部にかつての涜盧国が、一部食い込んでいて、忠武と巨済島との間の水道も涜盧国の範囲に含まれていたものか、といったことをうかがわせる。私は新羅時代のものといわれる古地図を見たことがあるが、それによると、巨済島の忠武よりの一部に涜盧と記されていた。また忠武から巨済に渡った橋のたもと一帯を、いまでも徳湖里というが、あるいはこの徳湖里が涜盧の遺称であるかもしれない。
日本書紀によれば、任那時代には巨済島のことを沙都島《さとのせま》と呼んでいる(当時朝鮮語で島のことをセマとよんだ)。このころ狗邪の邪をすでにサと発音し(これが巨済《コサ》の済となる)他の文字にも転用しているので、沙都島の沙は邪であり、とりもなおさず狗邪韓の邪である。
都は倭人伝の中の伊都国や好古都国の都と同じように水道(後世の瀬戸、山門《やまと》、長門《ながと》)を意味するから、巨済《コサ》の都《ト》と解すべきであろう。要するに沙都も、もとは狗邪韓に由来しているのである。
都が水道の意味であることを改めて考えなおしてみると、涜盧《トクロ》のトもまた倭と境を接していた以上、水道を意味しているように思われる。残るクロは狗邪《コヤ》に対する狗盧《クロ》ではなかったろうか。つまり都狗盧《トクロ》が涜盧になったことが十分に推察されるのである。というのは、邪《ヤ》の音がもっぱら海湾を意味しているのに対して、盧《ロ》が後述する末盧《まつろ》国の盧《ろ》と同じく、未開、雑木の地、転じて古代における焼き畑を意味するからである(ロの意味は後代、原または野の字を以ってあてられる)。だから涜盧も狗邪と同じく、「コの海」に面した焼き畑の国を意味する国ではなかったろうか。
ともあれ巨老県の老が涜盧の盧を意味する以上、涜盧と相接する水道に面した県という意味で、沙都も巨老も共に同じことをいっているのである。呼び名としては時代的に裳郡や巨老より沙都島の方がはるかに早く、そして古い。この沙の音から裳郡と名づけられるまでは、巨済島のことをサトといったりコサといったり、トクロといったりして混同していたので、コロウ(巨老)という呼び名が自然に生まれたのではなかろうか。だから巨済島の一部に涜盧と記されていても、漠然とした当時の地図でもあり、いっこう不思議はないのである。
幸い現地調査によって、この沙都島の沙都が現存していることも確認した。現在の用字は違っているが、そこは沙等面といって巨済大橋を渡ってすぐの鎮海湾に面した村である。沙等里も徳湖里もこの沙等面の中にある。忠武水道から鎮海湾にかけて、要害の地を占め、背後の丘には城砦の跡らしい遺跡ものこっている。
ところで、巨済島のことを邪馬台国時代になぜ狗邪韓と呼んだか、という問題が残る。これは河のことをコ、入り江や湾のことをヤと呼んだということについてはたびたび詳述したとおりだが、ここでは大きな河(洛東江)が注いでいる湾の意味であったように受けとれる。すなわち鎮海湾を指しているのだと思う。わかりやすくいえば、当時この海を狗邪の海といった呼び方をしていたのではなかろうか。したがって狗邪韓とは、狗邪の海に面した韓の国という意味であろう。弁辰狗邪国も同じ狗邪の海に面し、巨済島の対岸に当たるのである。
韓伝と倭人伝の共通性
ここでちょっとことわっておくが、読者の中には、このころの韓国の国名に、旧い日本語の解釈を押しつけていいのか、という疑問を抱く人もいるだろう。だが韓伝に記載された国名の中には、不弥国、弁楽奴国、弁辰弥烏邪馬国などといった倭人伝と同字同音の国名があり、これから私が比定しようとする邪馬台国所属の国名解釈と同じ解釈で、韓国内の地形に応じてあてはめてみると、立派に解釈できるのである。そして韓伝に記載された弁韓、辰韓、併せて二十四国という国々がどこだったかを、すでに私は現地踏査によって、おおむね比定し終わっている。
また韓伝には「男女は倭に近く、亦《また》文身し……弁韓と辰韓は雑居している」と記されている。このことは言語風俗習慣が倭人と似かよっていることを説明しており、当時は九州北西岸とあまり差がなかったように考えられる。考古学的遺物もこのことを裏づけているようである。特に現在の日本と韓国という二国間の問題として韓伝や倭人伝を考える人が多いが、当時はまだ強力な国家体制が確立されておらず、壱岐、対馬と韓国南岸との間の海はまったく自由で共通の海域だったのである。だからこの時代の日本語と韓国南岸の言語が、韓伝に記載されているように、さほど違ってはいなかったといっても過言ではない。それゆえ国名の意味も比較的容易に解釈できるのである。
半島に進出した倭人たちの拠点
次に、狗邪韓国が巨済島であったということまではわかったが、狗邪韓国が果たして倭国に属していたかどうかという点についての疑問が、まだ読者には残るであろう。この問題については古来意見の分かれるところだが、私をして言わしむれば、答えはきわめて簡単である。それは狗邪韓国が国名の示すとおり韓国の地でありながら韓伝にはあげられず、わざわざ倭人伝の冒頭に記載されているという事実である。これほど倭国に属していたという確かな証拠があろうか。
もはや冗言になるかもしれないが、もし狗邪韓国が倭国に属しなかったとすれば、「其の北岸狗邪韓国に到る」という倭人伝の記事は「其の南岸狗邪韓国に到る」と訂正されなければならないのである。ややもすれば倭人伝を九州から韓国の方を向いた姿勢で解釈しがちだが、記事の内容は、あちらからわが国をさしてやって来た文章であることを忘れてはならない。
なお、狗邪韓国が倭に属していた実体は何であったろうか。稲を作り、半農半漁に従事する、いれずみをした倭人の集団が、耕地の狭い対馬や壱岐から、自由な海を越えて、風土の似かよったこの地へ移り住み、小国を作っていたか、あるいは、もともと倭人と同じ言葉や習俗の者たちが、以前から住みついていて小国家を作っていたところへ、倭国の進出によって本格的に倭国に属するようになったものとも考えられる。
しかし私は、こうした一般的な解釈のほかに、以前から研究を続けているが、紀元前から朝鮮半島の北部海岸まで相当な濃密さで定住していた倭人たちが、北からの漢民族やツングース族の流入によって圧迫され、次第に後退し、南岸地方に韓人と雑居することによって、辛うじてこの時期は余命を保っていたものと思う。その生きた証拠が、倭人によって伝えられた稲作という遺産である。
こうした朝鮮半島に在住した倭人たちの拠点が、とりもなおさず巨済島であったというのが私の結論である。
メモ――従来の説に従えば、帯方郡からの使者も、倭人が往来するときも、対馬と最短距離にある巨済島を避け、わざわざ忠武水道を通りすぎて、なぜ遠回りになる金海付近を選ばねばならなかったのか。しかもこの水域は潮流の具合も悪く、風向きも一定しない。このことを読者もよく認識しておいてもらいたいのである。
任那時代の、韓国へ向かうわが国の拠点も、元寇のとき元軍が集結した場所も、文禄・慶長の役《えき》で秀吉軍が侵攻の足がかりとしたところも、みな巨済島であり、なかんずく東岸の長承浦であった。
倭人伝に「郡より倭に至るには、海岸に循《したが》って水行し、韓国を歴《へ》て、乍《サ》南|乍《サ》東し、其の北岸狗邪韓国に到《いた》る七千余里。始めて一海を度《わた》る千余里、対馬国に至る」と記されたこの簡潔な文章の行間に、見落とされがちないくつかの重要な事実を知らなければならない。それはまず、「至」に対する「狗邪韓国に到る」の「到」の使い方とその意味である。
帯方郡から巨済島までやって来るためには、満干の差の激しい海岸を、満潮のときだけ、しかも天気のいい日だけをえらんで韓国の西岸から多島海を抜け、南岸の閑麗《かんれい》水道へと浦や津を泊りつぎ、長い船旅を経てたどり着かねばならなかった。それから最後に閑山島を迂回して巨済湾の村に上陸したものと思われる。ここで、いったん韓国沿岸の船旅は終わるのである。そして一行はいくばくかの休養をとったであろう。
「到」はこのことを意味しているのである。これまでの船は櫓を主とし帆を従とした、あまり大きくないものであっただろう。なんとなれば沿岸伝いの小航海に耐えればよく、浦々を泊りつぐためには浅い入り江にも泊《は》てる必要があったからである。七千余里という四十数日を要した船旅(倭人伝の里数は実数によらず、一日分の行程を陸路では五十里、海路では百五十里と換算して記載されている。このことについては後でくわしく述べる)が、このことをよく物語っている。ところが次の「始めて一海を渡《わた》る千余里、対馬国に至る」という「始めて」の意味は、いままでのこうした小さい船では朝鮮海峡を渡ることができない。つまり文中の「海岸に循って水行」する船と、大海を渡る船とでは構造的に大きな差があり、また船人たちの航海術や航海法にも自ら違いがあるからである。
このことは沿岸で暮らしを立てる海浜《あまべ》族と、航海を主とする渡海《わたつみ》族が、当時すでに分かれていたことを示唆している。次の倭人伝対馬の条《くだり》の「船に乗りて南北に市糴《してき》す」とある記事も、こうした意味を伝えているのである。一貫して帯方郡から対馬まで、あるいは末盧まで、この長い航路を、一つの船、一人の船乗りの指揮者で渡ることの難しさや、航海術に熟達することの至難さは、だれにでも想像できよう。このため、帯方郡からやって来る使者たちは、ここで、対馬の南北に市糴する人たちが航海するような「一海を度る」ための大きな船に乗り替えねばならなかった。
「始めて一海を度《わた》る」という意味は、広い海を渡ることを強調しているのではなく、新たにいままでと違った大きな渡洋船に乗り込んで、という意味に受けとれるのである。浦々を泊りついで来た船は小さく、そのために一行は何艘かの船に分乗してやって来たかもしれない。またあるときは途中でいくつかの船を乗り継いだであろうということさえも容易に想像できるのである。
そうでなければ、最初から大きな船でやって来たのなら、半島南西岸の木浦や麗水港あたりから、対馬を経由しないで直接壱岐や末盧へ直行したであろう。そこで渡洋の支度《したく》が整った連絡を受けると、一行は巨済湾の宿舎を発《た》って長承浦へ向かったものと思われる(この間の島の中央を横切る古来からの十数キロの道はいまも残っており、近年まで東岸と西岸を結ぶ重要な通商路であった。市が立つ日などは西岸から東岸へ、東岸から西岸へ、朝出て、その日のうちに商《あきな》いをすませて帰っていたという)。
かくて一行は好天と順風の日をえらんで長承浦を出帆し、確実にその日のうちに対馬へ着いて、夜は入墨をした美人?を侍らせ、酒盛《さかもり》に打ち興じたことであろう。この海は気長く待って天候さええらべば安全な海なのである。現在の海難事故は自然を無視し機械力を過信するから起こるのである。古代人は決して自然に逆らうようなことはせず、安全に、かつ確実に渡洋渡海していたと思われる。
私が長承浦の港に固執するのは、ここからだと対馬もよく見えており(この距離は長崎から五島の福江島までくらいの距離に当たる)、順風で天気が好ければ、その日のうちに朝鮮海峡をらくらくと横断することができる。しかも港を出れば年間の半分近くは時計の針の四時から八時までの角度の風が吹いており、きわめて帆走に有利な港だからである。かつてこの港が歴史的な船団の集結地として、たびたびえらばれたのも、こうした理由からであろう。
まだ巨済島の考古学的調査はすすんでいない。いずれ日韓古代交渉史の基礎となる貴重な遺跡、遺物が発掘されて時代の脚光をあびる日が近いことを信じて疑わない。
以上長々と述べてきたが、かつての狗邪韓国は沙都島となり、裳郡となり、巨済郡となって、その本意を受け継ぎながら脈々と千七百年を経た現在も依然として生き続けているのである。私は巨済島の一角に立って来し方の岬に潮騒を聞きながら、私たちの祖先である入墨をした船人たちが、褌《ふんどし》一つで帆を張り、波風をものともせず船出してゆく光景を思い浮べては、踏査の足を休めることも、しばしばであった。
三 対馬国
対馬はタツ島
次に、倭人伝に始めて一海をわたる最初の国として記録された対馬国であるが、現在も同じ文字を使っている対馬《つしま》であることについては何人も異存なかろう。ところで対馬とはどんな意味を持っているのだろうか。倭人伝の国名の用字は一字一音なのに、どうして通志馬《つしま》と書かないで対馬と書いたのだろう。対はtsushiとは読めない。漢音でタイ、呉音でツイだから、三国志の倭人伝である以上漢音で読まなければならないので「タバ」としか読めないのである(呉音ではツイメ)。
バ(馬)はのちのマとも解されるが、厄介なのはタである。タバはバタ(邪馬台の馬台)の転位したものではないかとも考えてみたが、少し無理なようである。そこでタは、数字の二をフタツと呼ぶのはタツ(断)の意味ではないかと述べておいたが、そのタツのタではなかろうか。各地にタツシマ(立島、辰島、竜島)と名付けられた島が、文字に違いはあっても必ず二つ並んでいるその一つの島か、二つ連なった島に名づけられている場合が多いのに気づいた。したがって二つ連なったシバ(島の古い語)という意味で、古くは対馬をタツバと呼んでいたものと考えられる。この二つ連なった島の地形から帯方郡の使者はタツの音に「対」をあて、対馬と書き表わしたのではなかろうか。のちに対を呉音でツイ、馬をマと呼ぶようになってから、ツイマがツシマとなったのか、ツイシマがツシマになったのか、そのいずれかについては判じがたい。津の多い島、一対の島などと、いろいろの解釈もあるが、それは現在のツシマと呼ばれるようになってから後の結果論的解釈で、問題にならない(さきに対馬をツルむ島と解釈した不明をわびてここに改める)。
千余里は一週間
倭人伝を解釈する上で、この国にとって重要なことは「始めて一海を度《わた》る千余里、対馬国に至る」の千余里である。著者は実測したり、人から聞いて実地に距離を確かめたりして千余里と書きとめたのではなかろう。それは次の対馬、一支間も、一支、末盧間も、実際は、三対二対一ほどの距離の開きがあるのに、それを実距離とは関係なく同じように千余里と記載されているからだ。実測していない里数を、一里は何メートルだとか、何キロに当たるだとか、ガチャガチャいって糺《ただ》してみたところではじまらない。狗邪韓国のところでちょっとふれておいたように、海路の場合は一日分の行程を百五十里と換算して書いてあるので、この海を渡るのに約一週間を要すると解釈すればよかろう。
なぜ陸路の場合は五十里、海路は百五十里が一日分の行程に相当するのかという問題については、おいおい説明するつもりでいるが、ここではいちおう陸路五十里=海路百五十里=一日行程分として了承しておいてもらいたい。
この付近の海は日本海海戦のときの東郷元帥の言として有名な「天気晴朗なれども波高し」で代表されるように、気象の変化が激しい海域である。航海には風待ち潮待ちお天気待ちというのがつきものだ。特に追い風の順風をえらばなければならない。帆船でも好天の順風をえらべば、巨済島から対馬までは、朝早く発《た》つとその日のうちに到着することができる。このことは今も昔も変わらない。
三寒四温という言葉があるが、風と天気の関係も同様に、南東の風から南西の風、北西の風へと、およそ一週間を周期として、この付近の海風は吹きかわるのである。安全でかつ確実な最良の船発ちをえらぼうとすれば、まず一週間の日和見《ひよりみ》を覚悟しなければならない。「一海を度《わた》る千余里」すなわち約一週間を要するとは、まさに適切な記事というべきであろう。
魏の使者は上陸した
次に対馬国に関する記事であるが、きわめて短い文章ながら、現在からおしはかって往時を容易にしのぶことができるように的確にとらえられている。特に「土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し」とあるは、魏の使者か、あるいは陳寿がこの記事を挿入するに当たって入手した資料の作成者のだれかが、実際にこの島に上陸していることを思わせる。というのは、この文は海上から眺めたり、話を聞いただけでは、ものすることのできない実感を伴っている。このことから私は踏査の結果、次のような結論を得た。
朝鮮海峡を渡った船は不慮の天候に災《わざわ》いされないかぎり、必ず浅茅湾をめざして入津し、魏の使者たちはいったんここでその船をすてた。この船を引き続き一支や末盧まで利用するのではなく、常にこの海域だけを専門に往来する海上部族の船だったからである。そして彼らは島のくびれ部に当たる舟越《ふなごし》を越え、東側の玄海に面した海岸に出て、ここから再び新たな船に乗って一大国へ向かったのである。
このように実際に島に上陸して、樹木の繁茂した険しい山坂を歩かなければ、右の文章は生まれてこない。彼らがこうした乗り継ぎの方法をとったのは、いうまでもなく一挙に島を迂回して次の島へと帆走することの至難さと危険をさけて、最も安全な航路をえらんだからである。
遣新羅使も同じ海路を
その証拠として万葉集によい例がある。それは巻十五(この巻には天平《てんぴよう》八年丙子〔七三六年〕夏六月、使を新羅《しらぎ》に遣《つか》わしたとき、道中で遣使《けんし》の一行がうたった百四十五首がおさめられている)の中に、「対馬の浅茅《あさじ》の浦に到りて舶泊《ふねは》てし時に順風を得ず、とどまること五日なり、ここに物華《ぶつか》を瞻望《せんぼう》し各々|慟《いた》む心をのべて作る歌三首」と題して、
百船《ももふね》の泊《は》つる対馬の浅茅《あさじ》山|時雨《しぐれ》の雨にもみたひにけり
など三首の歌が掲げられている。続いていったん帆をあげて湾口まで出てみたものの風が思わしくなかったので、再び引き返したのだろう。次に「竹敷《たけしき》の浦に舶泊《ふねは》てし時に各々おもひをのべて作る歌十八首」として、
竹敷の黄葉《もみじ》を見れば吾妹子《わぎもこ》が待たむといひし時ぞ来にける
などと十八首がのせられている。この中の浅茅の浦とは、浅茅《あそう》湾のいちばん奥まった東端で、竹敷の浦も同じ浅茅湾の中の南側の入り江である。
この歌からも察せられるように、いかに風待ちが旅程を左右したかがよくわかる。邪馬台国時代からちょうど五百年のちの遣《けん》新羅《しらぎ》使《し》のことではあるが、このころも、私が前に説明した同じコースをとっている。そしてこの歌の風待ちの状態は、倭人伝の逆コースをたどろうとしているのである。こうしたことから、一海をわたる千余里が一週間を要する意味だといっても決して誇張ではないことがわかられるであろう。また文中に「方《ほう》四百余里|可《ばか》り」とあるのは、島を一周するのに十日余りかかるという意味である。
この島には弥生遺跡や古墳などが非常に多く、日韓古代交渉史を解き明かす考古学の宝庫である。特に邪馬台国時代に関係の深い弥生中、後期の遺跡、石棺群などが、前記したコースに当たる浅茅湾沿岸や東岸の鶏知《けち》付近に集中しているのも、往時を物語る証拠ではなかろうか。
四 一大国
イッキは五つの岬
一大国はもちろん一支国の誤りであるという説に私も従う。支は大の字に書き誤られやすいだけでなく、翰苑の魏略逸文や他の中国の史書にも一支国と書かれているからである。
伊支と書かれた時代もあるが、いまなお壱岐と書かれてイチキとは読まないでイキと読まれている。一支は漢音でイッキ、呉音ではイチギである。
支(キ)とは、ミサキのキで、きわだって突き出た丘の意味である。一はもちろん表意文字ではないから、一つの島という意味にはならない。これはイッと発音してits kiと読むのが本来の読み方だろうと考える。
それではイッとは何だろう。ヒ、フ、ミ、ヨ、イッの五だと考えられないだろうか。
そこで地図を出させ、妻の手をかりてイキの島の周囲を指先でたどってみた。
するとどうだろう。島を一周するのに大きく迂回しなければならない、海上はるかに突出した岬が五つある。
海豚《いるか》鼻《ばな》、赤瀬鼻をはじめ、阿母《あぼ》ケ崎などの岬にはばまれて、部落も、東、西、南、北、南東の五地方に分かれ、それを物語るように発達している。芦辺《あしべ》、勝本、湯野本、郷《ごう》ノ浦武生水《うらむしようず》、石田|印通寺《いんどうじ》などを、その中心に挙げることができよう。
したがって、一支とは五つの大きな岬からなる国と解される。
イキとユキ
壱岐は往古は一国として扱われ、壱岐郡と石田郡に分かれていた。石田は万葉集によれば、イハタとも呼ばれている。古くは、由岐《ゆき》の島とも呼ばれて混用されたため、中にはユキが正しいととなえる人さえいるが、これは本末転倒した考えである。古事記、日本書紀にはイキと明らかに記されており、歴史的にみてユキよりイキがはるかに古い。ユはイの転音で、万葉集や和名抄の訓《よみ》はイから転じたものである。有明海に湯島という島があるが、むかし湯が出ていたという話を真《ま》に受け、観光ブームにのって温泉を試掘した馬鹿がいた。もともと石材を採取した島だったのでイシジマと呼んでいたのがイシマとなり、ユシマとなったのであるが、ユキの島というのも同類であろう。
魏使の通った道
文中、「竹木叢林多く三千|許《ばか》りの家有り、差《やや》田地有り」とは、対馬の例と同じように魏の使者は実際にこの島を見聞しているのである。そのコースを現地に赴いてつぶさに検討した結果、私は次のように考える。
対馬を発した船は西海岸のいまの勝本《かつもと》湾か、湯野本《ゆのもと》、片苗《かたなえ》湾か、郷《ごう》の浦のいずれの湾を目指したか、選択に迷うところだが、実際に行ってみると、勝本湾は波が荒く着岸に適しない。郷の浦は大きな岬を迂回しなければならず、入津に不利である。したがって深い入り江の波静かな湯野本、片苗湾でなければならないことは、だれの目にも明らかだ。湾口が一つで二つに分かれた、湯野本湾と片苗湾のいずれの奥が着船場になっていただろうかと非常に迷ったが、外海との風向き、遺跡、古記録、現地の状態などから、片苗湾だったように思う。対馬からやってきた彼らは船を降りると、すぐ目の前の丘を越え、河内川の右岸にそって石田の印通《いんどう》寺へ向かったであろう。そうでなければ「三千|許《ばか》りの家有り」とか「差《やや》田地有り」の記事は、他の場所を通ったのでは書けないのである。
またこのコースは、かつての壱岐郡と石田郡の境界線に当たっており、続風土記によれば、ここはかつての水道で、両方の海が通じ合っていた。ところが永仁二年四月十三日の大地震で山が崩れて、現在のような田んぼや畑になったとある。中に挿入された伝説や、永仁二年四月十三日というのが、前年の同月同日、数万の死者を出したといわれる鎌倉の大地震に付会したフシもあり、早急には信じがたいが、現地を歩いてみて、埋没の時期はともかく、あるいはそうかもしれぬといった感じも受けた。湯野本温泉があるので、ここが構造線に当たっていることだけは確かだ。
また貴重な各種の遺物を出した有名な弥生中、後期のカラカミ遺跡、原の辻遺跡もこの沿道にある。この点からも邪馬台国時代に結びつく。なお文中の「方三百里|可《ばか》り」とあるのは、島を船で一周すると、およそ八日内外を要するという意味である。
さきの対馬国で述べた遣新羅使の一行は、対馬に渡る前に、この壱岐では石田に泊っている。ここでも私の考える魏使の足どりを逆にたどっているのである。そして万葉集に記された遣使の旅程も、ほぼ私の想定を証明している。ここで遣使の一人|雪連宅満《ゆきのむらじやかまろ》は、時あたかも猖獗をきわめていた天然痘にかかって死去したのだった(このときに埋葬された墓は現在も石田町池田東触に遺《のこ》っている)。奈良の大仏造営も、実はこのときの両三年にわたる全国的な天然痘の大流行で国民の大半が病没病臥したため、その鎮護を目的とした悲願といわれる。
海道は風の道
かくて石田に風待ちをした一行は順風の日をえらび、印通寺の浜から南の方、末盧国をめざして船出したであろう。巨済島から対馬へ、対馬から壱岐へ、壱岐から東松浦半島へと、これみな一海をわたる千余里だった。このコースは図で明らかなように、北西から南東へ一直線の島伝いのコースである。卑弥呼が遣《つかわ》す使は南東から北西へ向かった。北西に舵をとれば東の風から南の風まで、南東へ向かえば北の風から西の風まで、帆がはらむ。この週余にして吹き変わる風が島と島とをつないだのであった。ここに一海をわたる千余里、千余里、千余里の意味があるのである。海道はまた風の道でもあった。
第二部 伊都から邪馬台への道
第一章 東南陸行
一 末盧国
末盧の意味
長々と述べてきた第一部の「白い杖の視点」で、読者はおよそ古代史に対する基本的な私の考え方について理解されたと思う。
いよいよ伊都をふり出しに、邪馬台国への旅にのぼるのだが、その前にちょっと末盧国や伊都国について、従来の説と私の考えにくいちがいがあるので、まずそのことから述べておこう。
末盧を、たいていの人が後年の松浦なるマツラであるとして、すぐ結果論的にきめてしまう。松浦があるから末盧があるのではなく、末盧国があったから松浦が生まれたのである。
現在の松浦という言葉と用字は、いまの地形や風景をいい得て妙である。だからといって、末盧の意味が松の浦を意味しないことは、過去の用字の変遷で明らかである。
肥前風土記《ひぜんふどき》に、神功《じんぐう》皇后が新羅《しらぎ》を討とうとして、この地の玉嶋《たましま》の小川の畔《ほとり》で戦勝の占いに鮎《あゆ》を釣られた物語がある。飯粒を鉤《はり》につけて川に投げ入れたところが、すぐに鮎がかかったので、「あなめずらしきもの」といわれた。そこで、希見《めずら》の国というようになった。「今は訛《よこなま》りて松浦の郡という」と記載されている。
ばかげた話と思ってはならない。邪馬台国時代から五百年を経た奈良朝時代には、松浦なる文字を使用していたことと、マツラの語源が当時、何であるか、すでにわからなくなっていたか、わからせまいとしたかのいずれかであろう。
もっとも記紀や風土記の文中には「ヨコナマれるものなり」という表現が、うんざりするほど出現する。単純な地名の縁起と考えて、稚気《ちき》愛すべきなどと思ったら、とんだ見当ちがいだ。
このヨコナマれると記載された部分が、いちばんうさんくさいのである。私は、かつてこのヨコナマれる個所だけを、記紀や風土記から抜き出して、もっぱら考えたことがある。「ヨコナマれるものの研究」といった題をつけて一冊の本を出してもいいくらいだ。
とぼけて事実を隠蔽《いんぺい》しようとしたり、つごうの悪いことをいかにももっともらしく、記紀や風土記の編者が、むりに努力してこじつけている。そんなところがひじょうに多いのである。もし読者も記紀、風土記を読んでいて、ヨコナマれると出てきたら、その前後を注意して、裏からひっくりかえして考えてみると、作為の意味がわかるはずだ。
だから、末盧の意味も、当時はまだわかっていたのかもしれない。あるいはわからなくなっていたのか、とにかく疑問に値《あたい》することだけは確かである。
末盧をマツロと読んでいけないことは、対馬や一支の場合と同じである。本来がマツラに通じるマツロという三字音の語源だったとすれば、表音文字であるから、後代の万葉集や和名抄のように、はじめから麻通良、麻通羅、万豆良などと記されてしかるべきだと思う。
末盧の末は漢音ではバツ、呉音ではマチ、盧は漢音呉音ともロである。したがって倭人伝に忠実な読み方で読もうとすればバロとしか読めない。ではバロとはいったい何だろう。
古事記に末羅《まつら》とあるが、このraはroの通音で、roがraに転じていることについては何人も異存なかろう。この例から、音写された当時、ラとロは混用されていたか、ラに近いロの発音であったとも解される。そこで私は末盧国を「バラのくに」と読みたい。
バラとは刺のある美しい花のバラのことである。この最もわが国で古い名を持つ花の名を外来語だと思っている人が意外に多い。バラ、イバラ、イバラギの国(茨木の国)といえばわかるであろう。この国の意味は、雑木林の生い茂った不毛の地という意味である。木を切り倒して焼畑にした開墾の地が、いまも原道《ばらみち》、新原《にいばり》の地名で残っている。原のついた町や村はその名残《なごり》である。倭人伝に「草木茂盛し行くに前人を見ず」とあり、この国の状態が実に的確な表現で記述されている。
右のように考えてくると、前述した神功皇后伝説の「希見《めずら》の国」の希見《めずら》とは、この地一帯が人を見るのもまれで、きわめて人家が少ない未開の地であったということを伝えているのである。
官のいない国
次に倭人伝の記事の中で奇異に感じることは、対馬、一支、伊都に、それぞれ官を卑狗、または爾支、副を卑奴母離、あるいは泄謨觚、柄渠觚と明記しておいて、末盧国に限っては、国のようすを比較的に詳しく述べながら、王や駐留した官名が記載されていない。
また対馬の千余戸、一支の三千|許《ばかり》の家、伊都の千余戸に対して、四千余戸もある。より人口の密集した末盧国に、官および副がいないというのは、どうしたわけだろう。
いままでは、このことにだれも触れていない。倭人伝の編者が書き落としたとも思われないし、これには何かわけがありそうである。
伊都国の説明に、「世有王、皆統属女王国、郡使往来常所駐」とあり、この「世々王有るも(私は世々王ありてと読みたい)皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐《とど》まる所なり」という解釈をめぐって、王が各国々にいて代々女王国に統属しているのか、この王は、伊都国だけに限るのか、という点については論議されてきたが、なぜ伊都国の説明の部分だけに突如として王の存在が特記され、末盧国には官名が抜けているかについては疑問を持たれなかった。
私は、ここで、この二つの疑問を別々に考えるのではなく、双方に関連があるものとして考えたいのである。つまり末盧国に官がいないのは、この伊都に従属した国だったからではなかろうか。
それはふしぎな王の存在よりも、統属という言葉の方に、より深い意味が感じられるからである。
したがって末盧に官や副がいないのは、大陸と直接往来する船舶の着岸場であるので、伊都にいた駐在官が直接統轄兼務して直轄地になっていたからであろう。伊都の副官が他の国と違って二人記されているのが、それを物語っている。なお、官もいない末盧国に四千余戸とあるのは多すぎるという意見もあるが、これは文中で明らかなように集落の中心が漁村であり、漁村特有の密集した人家の状態を考えればさほど不思議ではない。
上陸地点は名護屋
末盧国の位置については、諸家の意見も東松浦半島に一致している。もちろん私も賛成だが、一支国からやってきた使者たちの上陸地点を呼子《よぶこ》付近とする説には絶対反対である。詳細は続篇にゆずるとして、当時はまだ呼子の瀬戸が通じておらず、前面の加部《かべ》島が地続きだったから、名護屋《なごや》でなければならないのである。中には唐津《からつ》付近ではなかったかと説く人もいるが、いいかげんな当て推量といわざるを得ない。わざわざ唐津に上陸して、伊都までの悪路を何を好んで歩かねばならないのだろうか。唐津に上陸するくらいなら、直接伊都まで船を乗りつければよかったはずだ。それができないところに問題があるのだ。
壱岐、名護屋の航路によらず伊都へ直行しようとすれば、距離は二倍近くのび、しかも波の荒い玄界灘を乗り切らねばならない。それだけ航海日和の選択は不確実となり、追い風が少し西に寄りすぎているので操舵がむずかしく、危険性は倍加する。そこへゆくと名護屋コースは距離も近く、安全かつ最も適確な航路で、より航海に適した日和を多くえらぶことができるのである。古代の人たちは前にも述べたように、このより安全で適確な航路をえらんだのである。そこに名護屋の価値があり、上陸してから少々歩こうと、できるだけ海路を避けたのであった。東南陸行五百里という陸行の意味も、実はここにあるのだと思う。
二 伊都国
南は東の誤りなのか
次は伊都国であるが、本論に入る前に、いつも問題になる「東南陸行五百里、到伊都国」の解釈について少々見解を述べておこう。
いままで畿内説の人は、伊都、すなわち現在の福岡県糸島郡前原、深江方面が、末盧からは東北に当たるので、倭人伝の方位方角はまちがっている、といって、「東南陸行五百里、到伊都国」の記事をとりあげ、よりどころとしてきた。東北が東南と記されているから、倭人伝の記事は九十度だけ方位が狂っているというのである。つまり南は東の誤りだ、「南邪馬台国に至る」は「東邪馬台国に至る」のだ、とこじつけて、邪馬台国を畿内大和へ是が非でも結びつけようとしてきたのである。狂っているという方位で、次に記載されている国の方位を訂正したらどうなるだろう。
奴国の「東南至奴国百里」は東北至奴国となり、奴国は博多湾に没してしまうのである。次の「東行至不弥国百里」も北行至不弥国となり、同じように海中になる。
その他、はじめの「韓国を歴《へ》て乍南乍東し、其の北岸狗邪韓国に到る……」も「……乍東乍北し、其の西岸狗邪韓国……」となり、このように倭人伝の文章は意味がつかめないほど、めちゃめちゃになってしまうのである。この矛盾がわからないのだろうか。いや、わかっていて南だけを東と主張するのだから、こじつけというのである。それにもっと不可解なことは、このわかりきった無茶な論理を出発点として展開される邪馬台国の畿内説が、いまもって一部の人に継承されるというのは、どうしたわけだろう。
末盧と伊都を直線で結べば、たしかに伊都は東北に当たる。だからといって方角の記事がまちがっているとはいえないのだ。そのようにまちがって感じさせるのは、原文を「東南陸行五百里にして伊都国に到る」と読むからである。前後の文章から判断すると、
「始めて一海を度る千余里、対馬国に到る」
「又南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰う。一大国に至る」
の例のように、
「東南に陸行して五百里、伊都国に到る」
と読むべきである。
「東南に(向かって)陸行すれば五百里で伊都国に達する」という意味で、「東南の伊都国に到る陸行五百里」といった意味のことは書いていないのである。
到と至の使い分け
ところで倭人伝の伊都まで記載された文中に、注意すべき二つの文字がある。到という文字と、至という文字の使い方である。
このことについては狗邪韓国のところでもちょっとふれておいたが、到は大きな目的と目標をもっており、至は単なる方向を示すにすぎないが、その使い方に問題がある。到が使用されている個所は「其の北岸狗邪韓国に到る七千余里」というところと、「東南陸行五百里、伊都国に到る」という二ヵ所である。これは長途の旅の区切りなり、一段落することも意味しているのである。
伊都国に到を使った意味は、榎博士が説かれたとおり、魏の使者はここまでしか来ていないことに注意しなければならない。伊都から先は聞き書きであるということも如実に示した証拠であろう。
私はいままで魏志倭人伝に関する研究書を渉猟したなかで、邪馬台国の比定を除けば、榎博士の説がいちばん信頼できると思う。解釈のしかたが合理的で正確で、広範囲の原典に及んでいる。わかりやすくもあるので、読者にもぜひ機会があれば同博士著の『邪馬台国』(至文堂刊)を一読されるようにすすめたい。
倭人伝の方位は正確だった
末盧すなわち名護屋付近に上陸して、前原方面へゆくには、まず、東松浦半島を南下しなければならない。この半島は、行程の半分近い距離である。しかも名護屋から唐津《からつ》方面へ出るには、東南へ向かって歩かねばならないのである。逢賀《おうか》の宿を振り出しに奈良朝時代の古道(旧道ではない)を踏査してみると、道は明らかに東南に向かっており、倭人伝の記事はまさに実状に合致していた。
磁石《じしやく》をもたなかった古代人の旅行は、太陽が最大の目標だった。月や星や、それらの天体に対する彼らの知識と判断は、とうてい、現代人の及ぶところではない。それがまた生命でもあった。だから魏の使者がそんなにたやすく方向を誤るはずはない。また誤りやすい地形でもない。まことに倭人伝の方位は正確であったといわざるを得ない。
いままでたびたびふれたように、当時の中国の文書に書かれた旅程に関する里数は、距離の実数ではなく、陸行の場合は一日分の行程をかりに五十里として換算して述べられている。だから、陸行五百里とは九泊十日の旅だということになるのである。
私は妻に手を引かれて、白い杖を頼りに、消滅しかけたこの往古の道を艱難辛苦しつつ踏査を試みた。その結果、名護屋から前原付近に至る全行程が九泊十日に該当する道のりであることを確かめた(この間のくわしい事情は続篇で述べる)。最近の邪馬台国を論じる人の中には車で虹の松原を突っ走り、実地に踏査したなどとうそぶく人もいるが、いまの国道は近世まで交通不能の岩礁と海だったのだ。
現在の唐津市の平野部のほとんどは、邪馬台国時代はおろか、奈良朝直前まで干潟の海だった。ここが古来歌にうたわれた松浦潟で、それをいまの唐津湾だと思っている人が多い。したがって東南に陸行した古道は、現在の唐津市の海岸部は通らず、見借《みるかし》の里から背後の山を迂回して現在の松浦川(かつての松浦川はいまの玉島川のことで、これも間違われやすい)の合流点よりさらに上流に遡《さかのぼ》って、波多川、栗川、半田川の三つの河を渡河しなければならなかったことを参考までに付記しておく。
伊都の集落
伊都国が福岡県の旧|怡土《いと》郡だったことは疑う余地のないところで、万人の一致した意見である。その中心を現在の前原付近か深江方面ではなかったかと説く人が多い。地図の上で適当に推定したか、現地を訪れたとしても、海に近くかつ背後に広々とひろがる水田に眩惑されて、ここぞ伊都国の中心ではなかったかと考えるのであろう。この平野は現在糸島半島と地続きになっているが、かつての糸島水道が陸化したところで、最終的に水路が断《た》たれた時期は新しい。
元寇のとき、この水道に船を通した記録があるので、完全に怡土《いと》と志摩《しま》がつながったのは、それ以後のことであろう。
唐津湾に注ぐ雷山川の岸に、国の指定史跡で知られる志登《しと》支石墓群(前原町)があるので、この付近に弥生時代の集落があったことだけはわかるが、それがただちに伊都の中心とはいい得ない。旧|怡土《いと》郡の中で弥生時代から古墳時代にかけて遺跡が集中的に多いのは、博多湾に注ぐ瑞梅寺《ずいばいじ》川と、前記した雷山川との中流域である。そこは現在の今宿から西へのびる国道以南の山手で、この一帯が「世王あり」と記載された王がいた伊都国の中心ではなかったろうかと私は思う。
ここで注意したいのは、一|大率《だいそつ》が「常に伊都国に治す」とある伊都国は、伊都国の中の特定の場所を指しており、王のいた場所とは違うように考えられる。なぜかというと「郡の倭国に使するや皆津に臨みて捜露し」とあるからである。それでは「津に臨みて」とは、何を意味し、どこを指しているのだろうか。
なお、邪馬台国時代の遺跡のメッカといわれるこの国の遺跡については大いに紙数をさくべきだと思うが、すでに多くの著書によって紹介されており、また本書は倭人伝に記載された国々の比定と邪馬台国の位置を探るのが目的だから、遺跡の追求は別著にゆずることにしたのでおゆるしを願いたい。
伊都の意味
次に注目すべきことは、本来、音だけで足りる用字に常識的な文字は使用せず、蔑視した動物の名で埋めつくされた倭人伝の国々の中で、伊都に格式のある都(漢音はト、呉音はツ)の文字をあてていることも、ここに他の国と違って王がいたればこそ使用しているのである。イトのト本来の音《おん》の持つ意味は、瀬戸のトと同じ水道のことで、糸島水道を指しているのだと思うが、同音の都を用いたところに深い配慮がなされていることを知らねばならない。
都は宗廟のある邑《むら》、転じて王のいる町である。古くから周辺の国々を統括した王がいたと考えるとき、世有王の意味が、いっそうはっきりしてくる。そしてその王が「女王国ニ統属ス」れば、この小衛星国も当然女王国に統属することになるので、他の国の王を国ごとに記載してもしなくてもいいことになるのである。
アジアの開発途上国で、現在も行なわれているラジャやサルタンたちが寄合国家を作って、彼らがサルタンであると同時に、大統領や大臣や知事に就任しているのと同じように、王のいない国の官である卑狗は、そのまま王がこの役職名となってすり替わっていたとも考えられる。そうすると邪馬台国から直接派遣された、いわば準植民地における弁務官が副の卑奴母離ではなかったろうか。
次に、隣接の末盧国が四千余戸、奴国が二万余戸とあるのに伊都国が千余戸というのは少なすぎるという疑問が湧く。万余戸の誤りではないかという人もいるが、私はそうは思わない。伊都国の大部分の海岸地帯が、邪馬台国の基地に切り取られ、王の住んでいる集落だけが一つの邑《むら》を形成していた、そこが千余戸だったと考えれば無理はない。あとに出てくる好古都とともに都の字は、こうした特別の意味を持っているように思う。
イ国グループ
倭人伝に記載された国名に共通の意味を持つ、または同字同音の文字を使用した国家群のグループが存在することは前にも述べた。ここでも玄界灘をめぐる国々に、歴史的な地名と思い合わせて、ひとつのグループがあるように思われる。
すなわち、伊の字で代表される国名である。倭人伝中に、伊の字を用いた国は、伊都と伊邪の二国であるが、已百支《イホキ》、支惟《キイ》も同系であると思われる。このほか、記紀その他に散見されるイサ、地名に残る伊万里《いまり》、今福、今宿《いまじゆく》、今山、今津など、数多くの関連した地名がこの地帯には多い。
イは、イシ(石)、イワ(岩)、イソ(磯)などのイで、岩石の意味を持っているので、この地方に特有な切り立った断崖の下に荒波が打ち寄せる磯の国を象徴しているようである。つまり、玄界灘沿岸の生活様式、風土性に根ざした人たちのイニシアルではなかったろうか。これらのイ国グループを代表する国王こそ、「世有王」の伊都国王だったように考えられる。そして「王有り」の意味も「都」の意味も、ここではじめて価値を生じてくるのである。このことから、さらに「都」を用いた邪馬台国傘下の好古都国も、伊都国と同じようにコの国グループを支配した王のいた国ではなかったろうか。
こうしたことから邪馬台国連合は、同一部族からなるいくつかの小国家群が、地方的に一つのグループを作り、さらにそれらのグループが連合して卑弥呼を推戴していたのだと私は考えるのである。
三 糸島水道
千七百年前の海岸線
邪馬台国が確実に存在した時代は、いうまでもなく三世紀の中葉であった。弥生時代の最終末期といってもよく、古墳時代の初期でもある。
その頃、現在の糸島半島は、まだ完全な島であった。半島として地続きになったのは、先にも元寇の役《えき》以後だといったが、現在でも地峡を歩いてみると、ジメジメした湿地帯が沼沢地と入り乱れて東西に長くのびており、最終陸化がきわめて新しいことがよくわかる。第一、現在糸島半島とか糸島郡といっている糸島は、明治二十二年に奈良朝以来の怡土《いと》郡と志麻《しま》郡を合併して名付けられたもので、その呼び名さえホヤホヤなのだ。イトとシマが、このように分けて呼ばれてきたところにも、ここが水道であったことを窺《うかが》い知ることができる。地名にも浦志、津和崎、泊、潟などが残っており、この辺《あたり》を踏査してみると、いくつもの新田で仕切られ、ゼロメートル地帯なのである。
少なくとも、邪馬台国時代には、現在の唐津へ向かう国道から糸島半島の山つきまでの幅で、加布里《かぶり》付近(雷山《らいざん》川口)から今津湾(瑞梅寺《ずいばいじ》川口)までは、比較的に広い海峡であった。つまり、博多湾と唐津湾はつながっていたのである。この海峡のことを地質学では糸島水道と呼ぶのだそうだ。
地下は花崗岩であるが、同じ花崗岩といっても両岸は異質で、生成の年代が違っている。これとよく似ているのが筑後川で、同じように佐賀県側と福岡県側とでは花崗岩の性質がそれぞれ異なっている。
こうしたことを十分に頭に入れておかないと、古代の伊都国を探る上で、とんでもないまちがいを引き起すことになる。伊都国の中心が深江方面ではなかったかとする考え方も、実証的な歴史観に欠けるからであろう。実証を経ない邪馬台国論は、初めから疑ってかかったほうがいいように思う。
さいわい、九州大学名誉教授の山崎光夫博士が、考古学者の意見を取り入れて、専門の地質学の立場から作成された、弥生期の博多湾一帯の地図があるので、ゆるしを得てここに掲載しておく。これによって、記入された弥生線と現在の町の関係を比較してもらうと、当時のようすがよくわかる。おおむねこの弥生線の近くが、邪馬台国時代の海岸線と考えればいいだろう。
この地図から教えられることは、当時は、まだ深江も、加布里も、今宿も、完全に海中であったことである。福岡市内もほとんど海中であった。主要な当時の海岸線の地名をたどってみると、まず、志賀島《しかのしま》はいうに及ばず、西戸崎《さいとざき》も島であった。和白《わじろ》と三苫《みとま》の間も切れていて、ここを三苫水道というのだそうである。名島《なじま》の付近から、多々良《たたら》川の河口はずっと上流にあり、宇美《うみ》川は別に海へ直流し合流していない。市内の海岸線と思われる地名を列記してみると、土井、別府《べふ》、臼井、住吉神社、新柳町、高宮駅、平尾、薬院、警固《けご》、草ケ江、小田部、長垂《ながたれ》山、周船寺《すせんじ》、志登《しと》、波多江《はたえ》、前原《まえばる》となる。千五百年の間に、四キロから五キロも陸化している所があり、なかなか現在の地形では、素人《しろうと》判断することはむずかしい。とにかく、標高五メートル内外の線を基準として見当をつけてみた。糸島水道では、半島側は比較的に陸化が遅く、地形が弥生線で安定しているので、瑞梅寺《ずいばいじ》川河口と、雷山《らいざん》川河口の堆積《たいせき》による変化が問題だ。
この山崎先生の地図を参考にしながら、私は先に述べたように現地を踏査してみたが、実に現在の地形に到達するまでの変化が理解しやすく、とても教導されることが多かった。
万葉集巻十五に記載された新羅《しらぎ》使の歌をみると、船はこの水道を通らず、糸島半島の先端を迂回しているが、これは歌の内容からもわかるように、唐津湾を横断するのに、より有利な風の選択を求めたためである。それでも幾日も船がかりして風待ちをし、せっかく糸島半島の韓亭《からどまり》を出帆しても引津へ押し流されている。当時この水道が、干潮時に大船を通すには浅くなっていたのではないかとも考えられるが、それより雷山川河口から船出することは、風向きをえらぶのにきわめて不利なのである。新羅使の歌の内容が証明しているように、唐津湾を横断することのむずかしさが理解される。そこにもまた「東南陸行五百里」の陸行しなければならない必要があったことを物語っている。
こうして私が糸島水道にこだわるのは、倭人伝の解釈に大きなかかわりを持っているからにほかならない。
盲目でも地形はわかる
私はこの地についても地図を頼りに、何度か手をひかれて踏査を試みた。めくらのことだから、たどたどしく、地形を一望で視界におさめることはできないが、コツコツとステッキをついて歩いてゆくと、意外に目あきの人にはわからないことが、わかるものである。
たとえば、目あきの場合は、視界が広いので、微妙な足許の起伏を見落とす。少し目の前に盛り上げて整地した畑があれば、すぐに、そこは陸化が早かったものと判断してしまう。特に現在の耕地は基盤整備によってほとんど変貌しているのである。道も畑も、ステッキを突いて歩いてゆくと、手にひびくカンで、新しい土か、地山《じやま》か、川は見えなくても、その川が、どのように左手から右手へ屈曲しながら移動していったかも判断できる。ただ、何度もくり返して視線に代わって歩かねばならないので、時間がかかるだけだ。
陽がさしてさえおれば、いちいち妻の目を借りて磁石を確かめる必要もない。頬や首筋に当たる太陽のぬくみで方位がわかるからである。
田んぼのふちを歩いていて、私がよく「この田は秋落ちするだろう」というと、たいていの人が驚く。タネを明かせば、田んぼにステッキを突き刺してみるのである。そうすると、目で見ただけではわからない土の深さや、土質がわかる。ことに砂利層や砂が多くて浅い場合は、肥料が散りやすいから、当然、着果や結実が悪い。肥料の保有力がないから、追肥をくり返す。見た目には稲穂が重くたれ下がっているので、りっぱなできばえだと思うだろうが、稲穂に手を触れてみると、意外に籾殻《もみがら》が堅くて厚い。こんな田は、実収益が少なく、食べてみると米の味も悪い。つまり、目的の米より、籾殻を作っているのである。
自然の山野を歩いていても、雑草や雑木《ぞうき》によって、およそその地中の判断がつく。さいわい、私は、植物の栽培に経験が長いので、種類によってその植物の好む場所、土の変化や条件によって姿勢が変わること、生育の状態などで判断するのだが、かえって目あきの人より、的確にいい当てる場合が多い。それは、いくら目があいた人であろうと、土の中までは見えないから、見えない場所を探るのだったら、最初から見えない私の方が便利である。
街を歩けば、ここは食料品店、薬局、八百屋、果物屋、魚屋、美容院などと、漂ってくる匂いでほとんどの店がわかるので退屈しない。汽車、バス、待合所などで、脇にいる人がしゃべっていると、声を聞いただけで、その人が美人であるか、そうでないか、えくぼがあるか、歯並びがいいか、といった容貌までたいていは想像がつく。これは二十余年にわたって、一人一人の音感に対する私の判断を女房にチェックしてもらい修練した結果である。
こんなことがあった。春先の村道を歩いていた時、同行の人に「もうすみれが咲いていますね」といったら、しばらくあたりを見回して、「そら豆の花なら咲いていますが」という。そら豆とすみれの花とでは似かよってはいるが匂いが少々違う。この人は、この簡単な匂いさえ嗅ぎ分けることができなかったのである。そこらをよく見てごらんなさい、と言われて、キョロキョロ探しているようすだったが、
「ありました、ありました、この石垣の根っこに小さいのが咲いています」
と、すみれの花は小さいことにきまっているのに、今更のように嘆声をもらすのであった。
こうして踏査のため山野を跋渉している時は楽しいのだが、失明以来、極度に発達してきた嗅覚に、実は悩まされる場合が多い。
私はできるだけ飛行機と新幹線には乗らないことにしている。広くもない愛する我が日本列島を、ひとまたぎにすることが私には耐えられないのである。
博多、広島、大阪、京都、名古屋と確認しながら上京する時、初めて国土への思慕がわいてくる。
ところが静岡を過ぎてしばらくすると、製紙工場の異様な臭気が車内に流れ込んできて嘔吐をもよおすどころか、本当に吐くのである。そして東京へ着くと、ドブ臭い飲み水にまたしても吐き気をもよおすのである。
こんなことを書いて、めくらの自慢話をするつもりはないが、めくらのくせに、どうしてわかるのか、との質問をたびたび受けるので、ましてや、めくらが地形を論じるのだから、読者にも一応の理解を求めておく必要があろうと思ったからである。
四 邪馬台軍の基地
基地を示唆する倭人伝
伊都国についてもう一つ述べておかねばならない重要なことが残っている。それは王のいた中心地とは別に伊都国内に、邪馬台国の駐屯基地があったのではないかと、倭人伝の記事から推察されるからである。
「郡使の往来常に駐《とどま》る所なり」とか、「一大率を置き(中略)常に伊都国に治す」とか、「皆津に臨みて捜露し」などと記載してあることは、明らかに特定の地区があったことをうかがわせる。
すでに邪馬台国は魏を宗主国と仰いで朝貢しているのであるから、魏の使者がやって来た時の宿泊所や接待の館《やかた》ぐらいは設けられていただろう。ましてや一大率が諸国を検察したり、ふだんは伊都国に駐在していたとあるから、その役所や住宅があったことも考えられる。特に一大率が諸国を巡検する時は警固の兵士をしたがえていただろうし、国境警備の任も負っている以上、相当の軍隊が駐屯していたはずである。
このような諸点から、その所在した一角を探っておく必要もあろうと私は考えた。
津はどこを指すか
いうまでもなく邪馬台国は伊都国に対して占領者であり、連合国の統率者である。また彼らの生活は戦いの意志でもあった。自由に選択しうるこの海岸線で、邪馬台国は最も有利な駐屯地をきめるのに遠慮しただろうか。駐留した邪馬台軍は、伊都の田んぼに米を作りにやってきたのではない。作物のできる良田は、伊都人にとって、かけがえのない土地ではあっても、邪馬台軍には、さほど重要ではない。軍事と、政治的な意味を持つ場所が、より重要なのである。そこはいったいどこだろう。
私は古代の情景を想いうかべながら、あちこち捜しまわってみた。ところが前原方面はヒンターランドがせまく偏在している。一方、博多湾側は奴国、不弥国の肥沃な土地と多くの住民に睨みをきかせることができる。またこの奴国、不弥国の外《そと》はみな非連合国であるから、いわば敵国である。これらの国々に対しても国防上の考慮がはらわれなければならない。
細かい話になるが、「津に臨みて」とある津の文字が私の頭にこびりついて離れないのである。津とは水辺の集落地や渡し場のことであるから、常識的にいって、末盧国から「東南陸行」して五百里の道をやってきた彼らに「津に臨みて」というのはおかしい気もする。おそらく伊都国の入り口である前原付近で一応勢ぞろいした彼らは、凸凹道の伊都の集落を避け、ここで歩行より楽な船に乗りかえ、糸島水道を水行して最後の到着を飾っていたのではなかろうか。東西古今を問わず、使者の一団や、個人グループでも最後の目的地に到着する時は、一応の心入れをすることが常識であり、この慣わしは今も続いている。津はそんな意味を持っているのである。
さてそうなってくると、基地は瑞梅寺川の河口付近をおいてはほかにない。この意味でも唐津湾と博多湾をつなぐ往来としてのみならず糸島水道は彼らのこうした目的にもかなっていただろうし、邪馬台国へ至る水行十日の水行とも関連するのである。
山城の目
私は糸島水道の跡を調べてまわるうちに、ふと邪馬台軍の基地の跡がのこっているのではないかとの幻想にとりつかれた。はるかな大昔のことを馬鹿げているといえばそれまでだが、万が一ということもある。捜せない時はもともとだから、とにかく捜してみる気になった。
そこで、およその見当をつけるために、まず高祖《たかす》山へ登ることにした。ここには邪馬台国時代からおよそ五百年のちの天平勝宝八年(七五六年)時の大宰《だざい》の大弐《だいに》であった吉備真備《きびのまきび》によって築かれた怡土《いと》城(国指定史跡)の跡がある。この城は当時のアジア情勢に対応して、半島への出兵と新羅に対する防衛を目的として築かれたといわれ、一般的な山城とちがって望楼形式になっている。
真備《まきび》は遣唐副使として再入唐して、帰国後二年目にこの城を築城している。律宗の開祖|鑒真《がんじん》もこの時帰国した一行にともなわれて来日しているのである。ついでだが奈良の大仏も韓国慶州の仏国寺もこの築城の五年前の同じ年に建立が完成し、唐の安禄山の乱も築城の前年に起きているのである。
このようにアジアをめぐる情勢はきわめて複雑で、一見、五百年前の邪馬台国時代と何ら関係がなさそうにみえるが、実はすでにこの時代の祖型が邪馬台国時代に形成され、次第に彼我の関係が発展してこのような結果を招来しているのである。この過程は興味深いので詳記したいのだが、今は省略する。
さて山上からの眺望は、眼下の伊都国をはじめ、はるかに唐津湾をこえて玄界灘まで、そしてかつての末盧国であった松浦半島も一望に収めることのできる場所である。この風景は怡土城が築城された最も重要な条件の一つであった。これほど大きな山城でなくても、邪馬台軍も自然の要害を利用した小さい城程度は持っていただろう。ただしその場合、目的は違っていても、城の目が海に向けられている意志は共通だったはずである。このことを確かめると、高祖山の山麓を北へ向かって、それらしい場所は残っていないかと捜してまわった。複雑な現在の地形から基地の跡を判断することは難かしい。だから砦《とりで》を捜した方が早道だと考えたのである。千七百年前の砦を捜すことを思い立った私の馬鹿さ加減や悠長さに我ながら呆れかえり、おかしくもあったが。だが、こうと考えたらやってみるものだ。うろついてから三日目に、とうとうそれらしい、しかも天然のすばらしい山城にゆき当ったのである。それが今山だった。
今 山
今山は糸島水道の中に噴き出した玄武岩の島で、弥生時代の北九州一円に供給された石斧を採取、製作した考古学上にも知られた場所である。邪馬台国時代から一方が地続きで、三方は水道に面して絶壁になっており、現在でも見るからに堅固な自然の砦だ。水に浮かんだ不沈戦艦といった方が理解し易いかも知れない。
山上近くはほどよい広さの平坦部で、熊野神社が祀られている。熊野神社が祀られているところをみると、何か平家と関係があるか、それとも近世まで、唐津湾や博多湾に出没した鯨を、この瀬戸に追い込んで捕獲していた鯨捕りの一団が、この近くに住んでいたのだろうか。あるいは山上の見晴らしが、潮吹き鯨の見張り所として利用されていたことも考えられる。そうするとこのことは、怡土城と同じ城の目を共有しているのである。しかもやっとの思いで山上に登ってみると、予想した通り、西の唐津湾はおろか、東は博多湾から、かつての「東南至奴国百里」の林立した福岡市内のビルも手にとるように看取された(これは妻の説明による)。ということは、さしたる高さでもないのに、怡土城の視界より、はるかに優位な条件を具備していたのである(ただし最近行ってみると、砕石や宅地造成のステグリ採取のために見るも哀れなほど、神社を残して山の大半がごっそり削り取られて変貌しているではないか。何の文化財指定地なのか。前から感じていたが、九州一の経済県を誇る福岡県には、真の文化性がないらしい)。ここで私は再び考える。伊都国に駐在した邪馬台国の軍隊は、船着き場のあたりで庶民といっしょに雑居していただろうか。倭人伝の風俗に関する文章から考えると、相当に組織された軍隊であり、きびしい上下の階級が整っている。ましてや占領と鎮圧を兼ねた軍隊であるから、砦が必要だったはずである。
砦は怡土城を小規模にしたようなものだったろうか。まだ当時は、そこまで築城の技術はすすんでいなかっただろう。そのことは、高塚古墳の築土の歴史が示すように、土木的な技術は、まず古墳と住宅に始まり、それから築城となる。当時はまだ、自然の地形を利用した要害だったと思う。それならば、高祖山の中腹の一部ではないかということにもなるが、ここは視界が二分の一はさえぎられ、頂上近くに視界を求めて登れば、怡土城のように大規模になりすぎる。だから山を降りて恰好の砦らしい所を捜したのだ。今山が石器製造の場所だったというのも、石器も作ったろうが、古代城砦の跡だから石器類も残っているのだと考えられる。
ここからは周船寺付近の集落や瑞梅寺川の河口も居ながらにして監視できるし、山の日当たりのよい東南面の台地はこれらの対岸と向き合っているのである。周船寺付近との距離もほどよく、前に述べたヤマ(邪馬)と語源がつながるこの山城に等しい今山こそ城でなくて何であろう(機会があれば読者にもぜひ登ってみてもらいたい。私の考えが単なる地図の上の想定ではなく、原文に則して実地に踏査した結果、誰しもたどりつく結論であることに気付かれるであろう)。
またこの今山は文献的な問題にも興味をそそられる。唐の張楚金《ちようそきん》の翰苑《かんえん》に「邪屈、伊都傍、連斯馬」と倭国について記されていることに関してである(最近太宰府天満宮所蔵の国宝となっている同書がそのまま原本通り復刊されている。すばらしい出来で一見の価値があると思う)。邪屈を誤記と学者の間では解されてきたが、同書にはあとの文章に邪馬嘉国とも出てくるので、屈が馬の誤りならば後の邪馬嘉も邪屈嘉と書いてあってもよさそうなものであるが、ここではその論議が目的ではないから、鵜呑みにしておこう。
文章の意味は、邪屈が伊都の傍らにあって、斯馬に連なっている、というのだから、この邪屈は、今山の意味として受け取れないだろうか。斯馬に連なるといった表現は、実に同地の情景にぴったりで、そしてこの邪屈が今山だとすれば、文章の意味もすっきりと合理的に理解できるのである。
イとマの用例
ところでこの今山に関連して、ぜひ述べておかねばならないことがある。今山、今津などの今は、現在とか、新しいとかという意味ではなく、もとは伊馬で、邪馬に対応する言葉である。イはさきにも述べた石、岩、マは畑のことといえば理解されるだろう。イマのついた古い地名を他の場所に拾ってみても、伊万里、今福など、みな磯に畑や丘が続いた場所である。
ここで面白いのは、今津、今山、今宿が直線上に並んでいることだ。これは糸島水道が陸化するにしたがって、イマ地帯の海岸に次々と部落が形成されていったからであろう。
ついでにここでもう少し、マの地縁に関する用例について述べておこう。日本語の原点を探る上からも、本書最大の目的たる邪馬台のバ=マ(馬)の持つ意味について、より理解を深めておく必要があるからである。
もともとマはバ(馬)で、焼畑を意味する語であることは末盧国のところで述べておいた。次に掲げる諸語から読者も容易に納得されるであろう。そして日本の古典語の名詞は現在のガラス、パン、ランプといった西欧語が定着しているように、意外に漢語が倭語化していることに気づかれるであろう。
アマ――アは広いとか大きいことを表わす語で、天《あま》は広い畑、広大な耕地を意味する(天、天草、甘木。ところが記紀でアマに天をあてられたため、多くの場合、空《そら》と勘違いされ、今日まで取り返しのつかぬ、おびただしい誤訳を生んでいる)。カマ――川岸の耕地(釜、鎌、鎌田、釜崎)。クマ――川ぞいの耕地(熊、隈、熊谷、熊田、熊本、雑餉隈、佐久間)。コマ――クマにほぼ同じ(駒、駒沢、駒田)。シマ――もとは島嶼《とうしよ》のことではなく、湿地にのぞんだ耕地、高地(島、宇和島、淡島、鹿島、杵島、田島)。スマ――砂浜や洲にのぞんだ畑(須磨、高知県の宿毛《すくも》はこのスとクマが合体した地形上の地名と思われる)。ソマ――杣。セマの転音もあるが、小盆地の畑。タマ――田圃と畑の入り乱れた耕地(玉の字をあてる場合が多い。豊玉、玖玉、玉川)。ツマ――舟がかりのできる比較的平坦な土地(妻、津間、薩摩)。ハマ――水辺の畑(浜、大浜、小浜、浜田)。ヤマ――入江にのぞんだ耕地(山、大山津見の神のヤマ、邪馬台国のヤマ、ここでいうヤマは山岳のヤマではない。山岳の山はユマまたはヨマの変化した音で、数字の四または八に関係のある、いよいよとか、いや増すといった意味のマの重なりを意味しているように解される。もと山はミネ、タケといった)。
今山、今宿、今津が、右の例からヤマと関係があるだけでなく、この糸島水道地帯と周船寺方面とを結びつけるとき、地形上から名づけた地名のほかに、邪馬台国の軍隊があるいは駐留していたこととも関係があるのではないかと考えられる。それは邪馬台連合が崩壊した後のことも一応考えておく必要があろう。伊都人と邪馬台人とは風貌も違っていたろうが、言葉も入れ墨も違っていただろう。邪馬台国滅亡後も彼らの一部は、そのままこの付近に土着しなかっただろうか。そのとき、耕作のより有利な瑞梅寺川、雷山川流域は、伊都人に占められ、よそ者の彼らにゆるされた開拓地は、つぎつぎに堆積《たいせき》されてゆく河口の沼田であったに違いない。そして海事にたけた彼らは、ただちに漁業に従事することもできた。そうした意味で、彼らは彼らだけの小部落を作り、長年にわたって伊都人と同化するまでは、彼らだけの孤立した生活がつづいただろう。それで、今山を中にはさんで、今宿、今津、今出と、申し合わせたように、瑞梅寺川のもっとも不利な河口線上に偏在して残ったのではなかろうか。
伊都国の戦略的価値
このように糸島水道は伊都国の盛衰に関与し、「津に臨みて捜露し」とか、「郡使の往来常に駐まる所」とかあるように、水によって歴史を支配し、邪馬台国への出発点として大きな意義を持っているのである。後世この地に大宰府の主船司(現在の周船寺はこの事に由来する)が置かれたこともその一端をうかがわせる。また伊都国と糸島水道の重要性は、本国(邪馬台国)へ水行十日、投馬国へも水行二十日という遠隔地なればこそ、いわば玄海方面軍司令官ともいうべき「一大率」を、伊都国に駐留せしめたことでもわかる。大陸からの、「郡使の往来常に駐《とど》まる所なり」と、倭人伝にしるされた意味は、単に大陸外交の拠点として、ここを接待所に選んでいたばかりではない。それならば、末盧国内の唐津方面でもよかったはずである。
問題は、その後方につづく、奴国、不弥国をはじめ、国内の統属国に対する軍政的役割のほかに、不弥国に接する「その他の傍国」つまり邪馬台国にまだ統属してない国がすぐ近くにあるのだから、外敵にも備えなければならなかっただろう。統属してない国だけに、邪馬台国にとっても手強《てごわ》い相手だったか、地理的条件に阻《はば》まれていたか、とにかく伊都国から百里という不弥国のすぐ外は敵である。また博多湾を出れば沿岸の地は、これまた敵である。
攻めるに難《かた》く守るに易《やす》し、という言葉が昔からあるが、伊都国は、こうした意味でも条件を具備した位置にあったと考えられる。
つまり、彼らは陸戦のほかにひじょうに水行に慣れ、海戦にも秀でていたことになる。いや彼らはむしろ海上からの攻撃を得意にしていたゆえに、もっぱら敵前上陸で国々を従えたのではなかろうか。
道路のない不便な古代のわが国では、陸上から攻略しかけるよりも、海上からの方が有利である。三十の国々を邪馬台国が統属せしめたという理由も、この辺にある。そうすると、邪馬台国治下の国々は案外内陸にはなく、北九州から西九州の海岸にかけて散らばっていたか、ある程度船で遡行《そこう》しうる川の中流域にあったことも想像できる。要するに、邪馬台国と、その統属国を探るためには、常に古代の戦いのあり方や攻撃順路も頭に入れておかなければならないと思う。
以上のようなことから、戦略的背景を無視するなら、伊都国は邪馬台国にとって無価値なものといわなければならない。
第二章 金印と稲
一 誤ってはならぬ邪馬台国への道標
倭人伝は正しく読め
倭人伝に記録された伊都国から先の国々の方向や道程はすべて聞き書きであるとして放射状説を主張された榎一雄博士の卓見に、私も大いに啓発されたが、今は少し違っている。聞き書きであるという点は「郡使の往来常に駐る所なり」とはっきり書いてあるから、榎博士の説によらずとも、まさにそうであるが、倭人伝を熟読してみると放射状には書いてないのである。また宇佐説や九州の内陸や東岸、瀬戸内海方面に邪馬台国をこじつけようとする人のためにも、都合よくはけっして書かれていないのである。
この伊都国からの迷路といおうか、お目あての場所に邪馬台国を持ってゆくために、わざとそらとぼけて倭人伝を読まれるのか、まげて解釈されるのか、奇々怪々の説が多い。
たとえば邪馬台国を位置づけるのに、伊都国から先の記事を、東南奴国→東行不弥国→南投馬国→南邪馬台国といったふうに解釈するに至っては、どこをどう押せばこんな解釈が生まれるのか、おそらくこれは、だれかの読み下し文だけを読んで漢文が読めない人であろう。原則として漢文は白文で読まなければならない。
奴国や不弥国に対しては、先に述べた「東南に陸行して五百里伊都国に到る」と同じ筆法で、「東南百里にして奴国に至る」とも「東行百里にして不弥国に至る」とも書いてはないのである。ここが非常に重要なところで、「東南の奴国に至るには百里」「東行すれば不弥国に至る百里」と読めば理解し易い。ここの文章は、東南の奴国に行ってさらに東の不弥国へ向かう意味にはどうしても解釈できない。何となれば「東南至奴国」に対し、「東方至不弥国」ではなく、わざわざ「東行」と、「東行すれば」の意味をこめて書かれているからである。
そこでよくよく倭人伝を注意して読んでみると、この二国を経由して投馬国へ行くのではなく、あくまで次の「南至投馬国」「南至邪馬台国」を前提として伊都国から東南に奴国、東方に不弥国、そして単純に南へ行けば投馬国があり、同じように邪馬台国があると書かれているのである。だから奴国や不弥国へは陸行とも水行とも記されていない。単に両国の位置と概略を示しているにすぎない。そうなると投馬国や邪馬台国へは現在の陸地を博多湾からどうして水行できるのかということになるが、実はそれができるのである。そのことについては第九章で述べよう。
二 奴国と不弥国
伊都国から奴国、不弥国へ
さて、倭人伝に従い、伊都国の基点を瑞梅寺川河口付近(周船寺、今山間)とすれば、奴国は、倭人伝に従うと、「東南至奴国百里」で、不弥国は、「東行至不弥国百里」と記されている。そもそもこの百里が現在の何キロメートルに当たるかといった議論を多くの人がしているが、まったく愚かなことである。もともと実際に測量もしていない里数を実数に換算しようなどとは、はじめから無理な話だ。なかには一里が○○メートルだと、さも得意げに主張している人もいる。嘘から出たまことか。
三国志を全般にわたって読んでみると、A点からB点までの○百里と書いてあっても、それは○百里あるという意味ではなく、前にもたびたび述べているとおり、五十里を一日分の旅程として何日かかるかということを里数に換算して書き表わされているのである。それも遠距離の場合は、雨風の旅行不能な日も入れてであるから、ざっと何日ぐらいかかるかといった程度に考えればいいのである。同書に示された西域の国々への距離も、これをいまの実距離にあてはめれば、とんでもない距離の誤差を生じる。この誤差をしたり顔に取り上げて論議される人もいるが、御苦労な話だ。
ところで奴国と不弥国はいずれも百里とあるから、一泊二日の距離内に存在していたのだろう。ついでだが、この機会に一応当時の人が一日にどのくらいの距離を歩いたかを考えてみる必要もあろう。旧日本軍の一日行程は二十キロとされていた。唐時代の十里は約四キロで、当時の一日行程も五十里とされていたから、人間の行軍力は千年たってもほとんど変わっていない。もっともこの距離は、あくまで平坦な道路の場合で、険阻な山坂道は規定どおりにはゆかない。ましてや往古は、行くに前人を見ず、といった道なき道も多かったろうし、途中の宿泊地の問題もある。それで一日に十キロがやっとだという日もあったはずだ(これは地図の上での直距離ではない)。そこで百里、すなわち一泊二日の距離は、いったい何キロぐらいに当たるのだろうか。
私の実際に踏査した経験によると、地図上の直距離に対して、県道は一・五倍、旧道は約二倍、古道は約三倍の距離を歩かねばならない。だから地図の上で無理に測ろうとすれば、周船寺を中心に半径約十五キロ内外の距離に奴国と不弥国の中心があったと考えれば、まず妥当であろう。特にこの奴国と不弥国の位置と距離について留意しなければならないことは、前にも述べたように陸行とも水行とも書いてないことである。方位は単に方向を示し、水陸いずれの便にても行けるということを示唆しているのではないかと、私には思われる。奴国と不弥国が博多湾沿岸にあったことについては、だれにも異論がないようである。
奴国と不弥国の正しい読み方
奴国の奴は漢音でド、呉音でヌである。ほとんどの人がナ国と読んでいるが、ナと読んではならない。正しくはド国と読むべきで、ドとはドロ(泥)、ドブのドで、泥土の河岸または水田を意味するのだと思う。のちに呉音で奴がヌと読まれるようになってから、倭人伝中の他の奴の文字を使用した国と共に、地域と時代によって、ナまたはニ、ヌ、ネと呼ばれて今日に及んでいる。
博多をナ(那、儺、奈)の津と呼ぶところから、奴国をついナ国と呼ぶのだろうが、大いに注意すべきことである。
不弥国の不は漢音でフゥ、呉音でフ、弥は漢音でビ、呉音でミであるから、当時はフゥビの国と呼ばれていたであろう。旧版でフミと読んでおいたが、やはり原典にのっとり、漢音と呉音の違いを明らかにしておく。またどんな気持で弥の字が採用されたかわからないが、渡るという意味があるので、原文の東行至不弥国と何か関係があるように思われる。
古代の博多湾沿岸
つぎに博多湾沿岸地図をごらんになれば、すぐ諒解されると思うが、二、三世紀前後の博多湾の入江は意外に奥深く、現在の市街地は、ほとんどその後に陸化したところばかりである。
邪馬台国時代の海岸線はこうした状態であったことを念頭において考えなければならない。特に、博多湾の奥は、大きく分けて二つの入江に分かれていた。すなわち多々良川の河口を右岸とすれば、長垂《ながたれ》山を左岸として、その中央に薬院、警固《けご》の岬が突出して、那珂《なか》川河口と室見《むろみ》川河口との小入江に分かれていたのである(このことは、その流域における集落のあり方を決定する。有名な須玖《すく》遺跡や板付遺跡は、この小湾のうち、石堂川と那珂川の間にはさまれた突出台地で、双方の流域を合わせ持つ、いかにも弥生の遺跡がたくさんにありそうな、しまりのよい地形である。同様に多々良川と宇美川の流域、樋井《ひい》川と室見川の中間台地は、いずれも川筋やコンターを私が指先でなでただけでも、ほれぼれする弥生時代向きの地形である。こんな所は、有明海沿岸ならどこを掘っても、潮干狩りでアサリ貝でも掘るように土器がざくざくと出てくる)。
海岸から見るのと逆に、陸上から海岸に対して地形を判断すれば、油山《あぶらやま》を中心とする鴻巣《こうのす》山を含めた山塊は特徴的である。そのため長垂山から背振山につながる南北の脊梁《せきりよう》と、油山の山塊と、大城山《おおきやま》につながる石堂川、宇美川の中間台地と、若杉山および城《じよう》ノ越《こし》山によって、博多湾沿岸の集落は大きく分けて五地帯に形成されるような自然条件をそなえている。
奈良朝時代の集落
前述の地形を物語るように、自然の条件によって、自然に発達した古代の集落のあり方は、邪馬台国時代と五百年のへだたりはあっても、つぎに示す和名抄に記載されるにいたった奈良朝時代から平安朝にかけての郡(コホリ)と郷(オホサト)によって、おおよその見当がつくと思う。
私は、五地帯に分けられるといったが、この和名抄の記録では四地帯である。それは多々良川以北が糟屋《かすや》の郡一つにまとめられているからで、中身は二つの地帯に分かれている。二つの地帯とは農耕地帯と半農半漁の海岸の地帯とである。
つぎにあげる四郡の郷についても略解を試みたかったが、紙数がないので省略する。
早良《サハラ》郡……|※伊《ヒイ》(比)、能解《ノケ》(乃計)、額田《ヌカタ》(奴加多)、早良《サハラ》(佐波良)、平群《ヘクリ》(倍久利)、田部《タベ》(田倍)
那珂《ナカ》郡……田来《タク》、日佐《オサ》、那珂《ナカ》、良人《ヨシト》、海部、中島、三宅《ミヤケ》、山口(也幕久知)、板曳《イタヒキ》(伊多比岐)
席田《ムシロタ》郡……石田(伊之多)、大国(於保久爾)、新居《ニヒイ》(爾比井)
糟屋《カスヤ》郡……香椎《カスヒ》(加須比)、志阿、厨戸《クリヤト》、大村(於保牟良)、池田、阿曇《アズミ》、柞原《クハラ》(久波良)、勢門《セト》(世止)
だいたい、以上のような諸点から、奴国は早良郡を中心に、石堂川(左岸)、那珂川流域にひろがっていた国だったように思われる。早良郡を那珂郡より優先するように判断したのは、弥生時代の地図や遺跡の状態と、那珂郡の若い郷名から後進的だと考えたからである。不弥国は多々良川と宇美川の流域を中心に旧糟屋郡の海岸沿いにひろがっていたように思う。
三 弥生文化の開花地
古代の生活条件と人口
倭人伝には「東南至奴国百里、官曰※馬觚、副曰卑奴母離、有二万余戸。東行至不弥国百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千余家」と記録されている。
伊都国の周船寺付近から女原《みようばる》を経て長垂《ながたれ》山の裾をまわり、当時の海岸沿いに奴国へゆくには、まさに東南に向かわなければならない。不弥国へゆくには、同じように東へ向かうのである。倭人伝の記事は正確である。
前にも述べたように、陸行の百里とは、一日ないし二日を要する道のりのことである。二万余戸という人家と、これから割り出される人口によって、相当に密集した大集落を考える人があるが、おそらくは室見川上流の早良《さわら》方面から石堂川流域にいたる広い地域も含めて、ばらばらに散らばっている総数を二万余戸といったのであろう。
東南とは、ざっとこうした奴国全体の方位をさしていっているのだと思う。それを従来、直線を引いて、その方向が東南であるとかないとか論議されてきたが、しからば古代の人家は、一直線上に並んでいたのだろうか。
後の早良、那珂の両郡を合わせた地域に、一戸当たり五人として、十万の人口を擁することは、さほど無理ではなかろう。
よく奈良朝の郷里《ごうり》によって人口を計算する人がいる。基準を求める点では参考になるだろうが、これはあくまで唐の制度を百パーセント模倣したプランにすぎない。全国の郷や里が、計算通り碁盤の目のように区画された中に住んでいたとは思われない。
それに弥生《やよい》の遺跡を検討してみると、条件のよい場所には、意外に集落が集中し、ない所には全然ないのである。全く自然条件によって生きていた当時は、条件がいいとなると、想像以上にそこへ集中し、現在の都会と地方のような傾向が、古代にも見られるのである。
これは集団によって、有無《うむ》相通じようとする未発達の古代経済の原則であり、また自然への抵抗も集団によって排除しようとしたことにほかならない。部族国家群の発生もそこにあった。ましてや、ほどよい丘と山の周囲には、幾多の小河川が発達し、肥沃な川岸の耕地を提供している。気候は温暖で、海には魚族も多い。こんなにいい場所が、日本のどこにあるだろうか。古代の文化と経済が発達する場所としては、狭い日本の土地にはもっとも似つかわしい、大陸での黄河流域や、チグリス、ユーフラテス川の流域にも比すべき地帯であろう。奴国がイネ(稲)の言葉を生み、わが国弥生文化の花を咲かせたのも、こうした条件が具備されていたからである。
大なり小なり、こんな条件の場所が、古代部族国家群の発生の場所でもあった。やがてある時期に、おそらく極度の条件集中によって起きたであろう人口過剰のため、これらの小国家群は、互いに攻略と統合を重ね、さらに分裂を招いたであろう。
部族国家の分裂と統合
邪馬台国は、おそらく、ある特殊な事情と目的のため、こうした時期に統合された小国家連合であった。邪馬台国の崩壊は、つぎの同じような対立する小国家連合体との均衡が破れて(あるいは摩擦によって)、二次的統合を重ね、そのため吸収されたか消滅してしまったように思われる。
この間《かん》の事情を、古事記は神々の名をかりて明確に伝えているのである。たとえば「この大山津見《おおやまつみ》神、野椎《のづち》神の二はしらの神、山野によりて持ち別《わ》けて生める神の名は……云々」とあり、これを音表で解釈すると、大山津見の山は一字二音になっているが、ヤマすなわち、邪馬台国の邪馬を明らかに書きかえたものであり、野椎神の野は奴国の奴であり、椎はツチと読んできたが、大国主などのヌシにあたる語のようである。本文の意味は、大邪馬台国の神と、奴国の神は、それぞれ自国を中心にしてつぎのような小国家連合を作られた、とことわって、つぎに生みませる神々の名を列記して、完全に読みかえのきく、倭人伝に記載された統属国の一部の国々の名をあげているのである。この文章から判断すると、はじめ邪馬台国連合は、邪馬台国を中心とするグループと、奴国を中心とするグループの二つの小国家群が連合して、さらに他の小国家群を加えてできあがったものと思われる。なぜ連合したかについては、狗奴国王に対抗する目的があったようである。狗奴国王の死後、ふたたび邪馬台連合は分裂し、やがて抗争をくり返しながら強力な王の出現によって統一に傾いてゆくのだが、記紀はこの間の事情を、前記した方法で、神々の名をもって随所に語り伝えているのである。
九州の部族国家群は、こうした統合を一世紀ごとにくり返して、第三次の統合によって九州全体が統一される。それは五世紀ごろのことで、大和王朝は、いわば第四次のふくれあがった九州国家群の延長であった。私は、倭の五王時代までは、日本の国家としての歴史の中心は、まだ畿内ではなく、九州にあったのだと思う。本格的に畿内への進出をはかったのは雄略天皇で、大和王朝の基礎をつくりあげた、いわゆる神武の東征によって表現されている九州勢による完全な畿内の制圧は、継体天皇からであったと考えられる。
神話の謎は解ける
このことは記紀を裏返して丹念に読んでゆけばわかることだ。それをいままでだれもいい出さなかったのは、畿内に仁徳陵と称せられる巨大な前方後円墳をはじめ(実はあとで築造されたと思われるが)多くの古墳が○○天皇のものとして現存し、かつ記紀にそのようにしるされているからであろう。また考古学上の古墳の畿内発生説や、いささかあげすぎていると思われる大前方後円墳築造の時代判定に眩惑されていることもあろう。
神代神話の謎は解けるのである。解けば、このことがわかる。そして倭人伝から神話、神話から天ツ族、天ツ族から天智天皇へと、脈々とつながる。
歴史の間を縫って物語られる天ツ族への讃歌は、一見、矛盾と唐突の連続のようにみえる記紀の根幹をなして、暗にこのことを物語っているのである。したがって記紀に盛られている内容の矛盾は、叙述の拙劣さや資料の混乱に原因があるのではなく、天ツ族を讃美するのあまり起きているのである。
唐突な場面は、その目的のため、つごうの悪い点を隠蔽《いんぺい》しようとした煙幕にほかならない(この私の着想は、旧版を公にしてから何人かの人に換骨奪胎され、種々の題名で発表されている。機会があれば比較検討していただきたい)。
四 奴国と不弥国の中心地
王の居住地
奴国の中心はどの付近にあったのだろうか。私は那珂《なか》町から屋形原《やかたばる》一帯の、縄文《じようもん》線と弥生《やよい》線の間に当たる小台地にあったと思う。
王は屋形原から油山にかけた東南向きの台地にいただろう。古代人は、川の近くで東南向きの台地がいちばん好きだったようである。背後は油山と金山、真北は鴻巣《こうのす》山の、二面に囲まれている。
須玖《すく》遺跡から鏡や剣などが発掘されて有名だからといって、そこは墓場なのだから中心ではない。たとえ近くに住む者がいたとしても、古代人が墓場と好んで共存したことにはならないのである。
考古学の悪い癖だが、ある地方に一つの遺跡が発見されて、Aという地点と、それから出た遺物が、学界の注目を浴びて、A式土器などと名づけられると、つぎに発見されたB地点の遺跡とその文化は、いかにもA点からB点に移動したかのような、あるいは影響を及ぼしたかのようないい表わし方をしたり、またそうした錯覚におちいっている人が多いのである。そのいい例として、各地に遠賀《おんが》川式土器が出土すると、真剣な顔つきで、彼らは遠賀川下流からその地の文化が、どのように他の地を支配したかについて考え、かつ論じるのである。
問題は相互間にあるのであって、一方的に視線を向けてはならない。ましてや広い那珂川流域であるから、自由に条件のよい場所を捜せばいいのである。
すでに発掘された遺跡の範囲内にとどまってものを考えたのでは、くまなく地上が発掘されるまで考えをストップしておかねばならなくなるのだ。私は考古学の遺跡や資料はまだまだ微々たるものだと思っている。だから信用するにあたらないというのではなく、貴重なそれらの研究や資料をもととして、それのみに束縛されず、自由奔放であってほしいという気持をいったまでである。
奴と不弥の本質的相違
不弥国のフゥビは、先にもちょっとふれておいたように、フゥ=ふたつ、ビ=干潟の意味で、二つの大きな干潟の国とでもいえそうである。いまの福岡空港付近から宇美川、多々良川流域を中心に広範囲に考えれば、古賀町の海岸に至る旧糟屋郡一帯が不弥国だったように思われる。多くの人は現在の宇美付近に比定されているが、それも結構であろう。同じ不弥国の内だからである。しかし私には、その中心は宇美付近ではなく、当時の多々良川の河口にあったように思われる。
宇美というのもフゥビのフがとれてウビ(宇美)となり、ウミと呼ぶようになったのではなかろうか。
香椎のことを古くはカスヒと呼んだ。河口の砂のたまった干潟の海岸という意味である。現在の松崎台地の突端を境に福岡空港から、かつて宇美川、須恵川(洲の入江の意)、多々良川が、それぞれそそいでいた粕屋町、志免町一帯にわたる内湾を総称してウスヒ(大きな洲の入江)といい、前記したカスヒと合わせて、二つのスヒの国がフゥビと国名を呼ばしめた理由のように考えられる。
和名抄の郷名から判断すると、奴国の中にももちろん漁業部落はある。しかし農業と漁業の専業部落が判然としている。それが不弥国の場合は池田のほか、半農半漁を思わせる部落ばかりである。
そこに奴国の「戸」に対して不弥国が一支国と同じように「家」をもって記された原因があるのだと思う。
対馬や伊都その他の国の住家の説明に千余戸、二万余戸と、戸の字を用いているのに、一支国と不弥国の二国に限って、三千|許《ばか》りの家、千余家と家の字を用いてある。この戸と家は、どんなに違うのだろうか。
単純に入り口に戸のある家と、そうでないものとの違いだと判断してよかろうか。そもそも戸は門の片側の戸で、トビラのことである。家の宀は屋根のしるしで、豕はブタである。家の床下に豚を飼っていたところから家の字が生まれたことを思えば、家畜を飼っている農家、あるいはそうした半農半漁の生活環境をいっているのではなかろうか。そうすると、戸は密集した漁村特有の家や、集団で住んでいる、ある集落の長屋を意味するのではないかと思う。この二者の間には、極端な部族の違いや、金属併用の程度から、土器などにも微妙な差があったと思う。後日の考古学的な考証を待つほかはない。
とにかく、奴と不弥は、隣り合っていながら、人口に極端な差があるように、生活の方法や様式にも、極度の違いがあったのだろう。奴国の官を|※馬觚《シバコ》といい、不弥国の官を多模《タボ》という。この文字から受ける感じも、本質的な違いが両国の間にあったことを物語っている。
宇美と近江国
応神朝といわれる倭の五王時代までは、記紀の文中に、近淡海、近江国としるされている所を、従来のようにチカツアフミと読むのはよいが、滋賀《しが》県の近江《おうみ》と解してはならない。応神天皇の妃となられた宮主矢河枝比売(記)、宮主宅媛(紀)=「ミヤヌシヤカワエヒメ」の父を丸邇之比布礼能意富美《ワニノヒフレノオホミ》(記)、和珥臣《わにのおみ》の祖《おや》、日触御主《ヒフレノオミ》(紀)と呼ぶが、その意富美(オホミ)が正しい意味を伝えている。古事記では、オホミと書き、日本書紀ではオミと変わっているところにも注意しなければならない。
後世、琵琶湖があるので、オオミと呼んだからといって、海のない滋賀県の近江国に、どうして海神の物語や海に関する伝承が生まれよう。書紀が、チカツアフミと古事記で書いている場所を、畿内大和に物語の中心を置くために、近江国としてしまったところに、まちがいの原因がある。
私は古事記の近淡海も、正しくはチカツアフミではなく、チカノアフミまたはチカノオホミと読むべきだと考える。近のチカはもちろん、チカ島(志賀島、鹿島)のことである。
アフミまたはオホミは、この不弥国のフミから生まれた。二つの海が合うところの意、または大不弥国の大不弥を伝えているのだと思う。したがって、この時代の近江の記事は筑前の物語として解すれば、内容が容易に、しかもきわめて自然に解釈ができるのである。
不弥を呉音で読むとフミであるから、他の国と同じように後世になるとフゥビはフミとなる。不弥が宇美の音に似つかわしいので、たいていの人が不弥国を宇美付近に比定してしまう。この誤謬については前に指摘したとおりである。その上、神功皇后が三韓征伐から帰られて、ここで応神天皇を産まれたのでウミという、という記紀伝承の説話があまりにも有名なので、何か不弥といわくありげに考えられるのだろうか。実は応神天皇のことを品陀和気命《ホムダワケノミコト》(記)、誉田別《ホムダワケ》尊(紀)というが、そのホムダとは、ホのムタすなわち干潟の入江の意味で、応神天皇そのものの本地がこの地方であったことを述べているにすぎない。一応、出生地だけでもここにしておかないと大和へ応神天皇物語の上で連れ去ることが後ろめたかったのであろう。
五 イネつくりと稲城
イネの語源
奴国の奴が稲と関係のあることについて少し述べておこう。
奴とは、苗代《なわしろ》による水稲耕作の国といった意味を持っているようである。当時はまだ耕作の場所や、部族の文化の程度によって、米をばら播きにする耕作のしかたと、すでに完全な苗代仕立てによる栽培法とに分かれていたようである。
前者は半農半漁、狩猟兼業の農民に多く採用され、後者は弥生文化の本流をなす発達した専業農家の耕作法になっていたと思われる。まだ陸化の終わらない、水はけの悪いデルタ地帯では、いまの干拓地のようなものを葦の土手で築き、前に述べた田ゲタなどを使ってばら播きをしていた。
倭人伝中の国々の中で奴の字を用いた国は、専業農家を主体とした国であることを表わしている。
奴国は、もと邪馬台国に統一される前まで(あるいは邪馬台国とは別の国から攻略されたのかもしれない)、北九州の小国家群を統一して君臨していた当時には、伊奴国と称していたように思われる。
米をとる草をイネ(稲)と呼ぶようになったのは、イナ、イネ、ともに、この奴国によって弥生文化を代表する発達した水田耕作法が全国に伝えられた結果、「イネ(伊奴)作り」と称する苗代栽培法が、いつか植物自身の名称となったのであろう。だから米のことをイネとはいわないし、さらにイネの実とも呼ばない。あくまでイネはイネであって、結実した米の名称とくっつかないのである。普通の呼び方では、実《み》と植物の本体は直結して呼ばれる。ビワの木、ウメの木、シイの実、麦と麦藁《むぎわら》(コメワラとはいわない)の例でもわかるように、イネとコメの関係は、もっともわれわれの生活に関係が深いのに、ふしぎな呼び方をしている。
この点について疑問を持っている人も多いと思う。
イナキと奴国
記紀の中に散見されるイナキも、稲城と書いてあるが、本来ならば伊奴城と書くべきではなかろうか。垂仁紀に、狭穂彦《さほひこ》が叛乱を起こしたとき、
「忽ち稲を積みて城(キ)に作る。その堅きこと破るべからず。此を稲城と謂《い》う」
とあり、稲城は特殊な戦法であったように思われる。一般的な陣地で、普通に用いられていたならば、こんな説明を加える必要はなかったろう。
周囲に壕を掘り、内側に稲わらを積み上げてバリケードとした陣地だったように考えられるが、骨鏃や鉄鏃や銅鏃を使った弓矢の戦いであったから、この程度のものでも射通せなかったのかもしれない。
それにしても、稲わらを積み上げて陣地を構築したという稲そのものに意味があるのではなく、その陣地の作り方が特殊だったから「イネ作り」の場合と同じように、伊奴国式の陣地という意味でイナキと呼んだと思われる。イナキによって戦ったという記事がほかにも二ヵ所ある。
雄略紀に「根使主《ねのおみ》、逃れ匿《かく》れて、日根に至りて稲城を造りて待ち戦う」
崇峻《すしゆん》紀に「大連《おおむらじ》、親《みずか》ら子弟と奴軍《いへのこ》とを率《ひき》いて、稲城を築きて戦う」とある。
ともに奴の文字に関係があるのは、どうしたことだろう。根使主の根は奴と同義の異字で、日根に至りてという日根の根も同様である。従来、使主を「オミ」と読んできたが、これはいまの各国に駐在する大使のような意味にとれるから、「ツカサ」または「ヌシ」と読んだ方がいいだろう。
倭の五王の一人、武にあてられる雄略天皇のとき、根使主は中国からやってきた使者を歓待するために、天皇の命をうけて共食者《あいたけひと》となっているが、前後の事情から判断すると、この頃はまだ契約国家連合の形をとっていた時代だったように思われるので、根使主は根(奴国に関係のある国)を代表して半ば人質のような形で、雄略天皇のもとに出仕していたのではなかろうか。
「アイタケヒト」は接待役であるとともに、中国語を理解できる者でなければならなかっただろう。そうした意味で、根使主は特殊な存在である。その特殊な根使主がイナキによって戦ったということは、イナキと根国の間になんらかの特別な意味があったように思われる。
崇峻天皇紀の大連《おおむらじ》というのは、物部守屋《もののべのもりや》のことで、蘇我《そが》の馬子《うまこ》の策略によって殺された事件の顛末《てんまつ》の一節である。
物部氏は、九州に基盤を持つ豪族で、守屋は、いわば国防大臣だった。それで常に軍隊を養っていたと思われるが、その主力は、伝承によっても明らかなように、九州勢だった。そうした彼らが不測の戦いで稲城によったことは、物部氏と稲城との関係が特殊であったことを裏づけるものといわなければならない。
文中の奴軍は、いままで「イヘノコ」と読まれてきたが、単なる奴婢や奴隷の意味ならばイヘノコでもよかろう。しかしそれならば、軍の文字は不要である。
もし軍をイクサと読んで軍隊の意味を持たせようとするなら、あえて奴の文字を用いる必要はないのである。あとにつづく文章から、奴婢以上の多くの眷族《けんぞく》が参加していたのだから、一軍でも族軍でもあるいは単に軍でもよかったはずである。憶測が過ぎるだろうか。なんとしても奴の文字は、イナキのナと関係がありそうに思われてならない。
六 二つの金印
イネと金印
イネの語源に関係があるもので、もう一つの重要なものに、博多湾の志賀島《しかのしま》から発見されたという有名な金印がある。この金印の文字「漢委奴国王」を、いままでもっぱら「カンのワのナの国王」と読んできた。
この奴が奴国に関係のあることはいうまでもないが、問題はその頭に冠せられた委の文字である。
委は従来、委=倭としてだれも疑わなかった。それは当時のわが国を倭国と呼んだ先入観に無条件に服従したからであろう。したがって倭=委=伊として、お互いに意味は同じだと理解しながら、倭をワと読んで委=倭であることの研究や説明はなされてきたが、委をイと読んではいけないという証明はなされていないのである。
つまり委をワと読もうとした努力と証明があるだけで、イと読んではならないという絶対的な反証はない。このことは委がワと読めるというだけであって、ワと読まなければならないという理由にはならないのだ。
また奴の文字をナと読んでいるのも習慣的で、かってな日本語読みである。原音はたびたび述べるように、漢音はド、呉音はヌである。だから後にヌがネまたはナに転訛してもなんらおかしいことではないが、文字そのものの正しい読み方については一応心得ておくべきであろう。
本来この金印の文字は、日本人が読むのにつごうのいいようにと中国側で刻印して贈ったものではないはずだ。解釈の立場はあくまで日本側にあるのではなく、金印を贈った後漢《ごかん》側にあるのである。
当時の中国は、東夷伝の夷《えびす》の文字でもわかるように、はなはだもって日本を軽視している。その思想の根底には夷=委として扱った形跡がある。私はそれだからこそ親魏倭王の金印を贈るに及んで、委ではあんまりだという意味で人偏《にんべん》を加え、倭として格上げしたような気がしてならないのである。したがって委奴国王は正しくはイド国王と読むべきで、意味の上からイネのクニの王と読んだ方がいいように思う。記紀の内容に照らしても、より合法的な理解を得られるいくつかの証拠があるからである。
二人いた金印の所持者
問題はこのことだけにとどまらず、この金印をめぐって日本歴史に与えた悲劇は、つぎに記す仲哀天皇の死の原因にもつながりがあるのである。
金印が志賀島で発見されたことについて、当時、奴国の国内になんらかの異常な事態が発生したのではないかと、従来、そこまでは言及されてきた。まったくそのとおりである。われわれは、もう一歩そこでつっこんで考えなければならない。というのは、少なくとも邪馬台国の卑弥呼が、親魏倭王の金印を魏から授けられた以後においては、日本にはまさに金印の所持者が、二人いたという事実である。これは中国から大倭国王の免許を受けた者が、二人存在していいかどうかという、きわめて興味ある問題となってくる。一方は、後漢からもらったおれの方が本家だというであろうし、片や後漢が滅んだのだからこちらが本物だといいはって互いにゆずらなかったであろう。その結果、戦いの口火が切られ、二つの金印をめぐって抗争がくりひろげられることは必至である。ここに天ツ神と国ツ神、すなわち、高天原《たかまがはら》系と大国主系の神話がわかれ、幾多の物語を作り出した母胎があることを知らなければならない。もっと詳しく説明したいが、先を急ぐので、ひとまず後述の天孫降臨の問題にゆずることにしよう。
七 奴国と仲哀天皇
ナのつく人名と奴国
博多《はかた》の別名であるナノツが奴国のツ(港)であることについては、おぼろげながら大方の人が知っている。これはナが地名としてのこった例で、実は人名にも記紀の中にたくさん記録されているのである。その顕著な例について少し触れておこう。
古い氏や姓が地名と職業に由来して名のられたことはいうまでもない。記紀の前半に現われる神々の名や人名は、ほとんど出生したその土地や、王として領有していた地名が名づけられている。しかも継体天皇以前の歴代の天皇の名や神々の名前は、意外に倭人伝と関係があり、九州と不可分なのである。
ナのつく人名の代表として、ナカツヒコに例をとってみよう。仲哀天皇のことを、書紀では足仲彦と書き、「タラシナカツヒコ」と読んできた。古事記では「帯中日子」としるしている。
従来の考え方では、ナカツというところから、地名に由来するとすれば、神武天皇紀に宇佐のことがしるされているので、豊前《ぶぜん》の中津か、その他の津に関係があるのではないかと説く人もいる。
仲、または中の字があてられているところから、文字の上で判断する人は、三人の兄弟のうちの二番目、または、五人のうちの三番目といったぐあいに中央の意味に解してきた。
私は、ナカツのツは、単なる接尾語で、正しくはナカノヒコと読むべきだと思う。天皇のことであるから、訓読みすれば、ナカのスメラミコトと読んでもいいわけである。
目が見える人は、文字をそのまま表意文字として、読んだときにすでに直感的に受け取っている。だが、これらの天皇は、記紀が書かれた時代からすれば数百年も前の天皇だし、倭人伝の時代にはるかに近く、まだ草創期で、奴国の名がなんらかの形で地方を代表する部族名や、あらゆることに用いられていたと考えてもいい過ぎではなかろう。
たいていの人は、歴史を現在の位置から一方的に古代の方を向いてのみ考える。古代から逆に現在に近い方を向いて考えてもいいはずである。平地から山の峰を仰いだ場合と、頂上から麓《ふもと》を眺める場合とでは、まったく様相が一変する。ましてやこの場合、倭人伝という上限の規定があるのだから、倭人伝の時代を時点として、現在を振り返るのではなく、倭人伝の位置に立って考えてもいいはずだと思う。タイムマシンは空想だが、日本歴史にとって、れっきとした倭人伝や百済《くだら》記は、古代、上代に対するタイムマシンだと考えてはいけないだろうか。
われわれは書紀編纂の時代が、わが国固有の文字なくしてスタートしていることを忘れてはならない。すべて漢字による表音である。それを適当に訓仮名としてあてているから、読みようによっては、どうにでもよめる。ナカツと読まなければならないなら、津の字を挿入すべきであろう。
是が非でもツが必要な場合には、わざわざほかの人名には津の字があてられているのに注意すべきである。第三代安寧天皇(磯城津彦玉手看《シキツヒコタマテミ》)、第五代孝昭天皇(観松彦香殖稲《ミマツヒコカエシネ》)、第十九代|允恭《いんぎよう》天皇(雄朝津間稚子宿禰《オアサツマワクゴノスクネ》)は、古事記ではそれぞれ、「師木津日子玉手見」「御真津日子訶恵志泥」「男浅津間若子宿禰」と記されていることが、このことを証明している。
仲哀天皇は筑紫の大王
ナカが中の意味だとすれば、足彦《たらしひこ》系の景行天皇から三代目に当たる仲哀天皇は、二代目のワカタラシヒコ(成務天皇)と位置が逆になっているので、入れ替わらねばならないことになる。兄弟の関係をみると、仲哀天皇は古事記では、倭建命《やまとたけるのみこと》と、布多遅能伊理毘売《フタジノイリヒメ》との間にできた、ただ一人の子になっている。書紀では、両道入姫《ふたじのいりひめ》の次男で、四人兄弟のうちの第二子、三番目が姫で、他は男子であるから、中の彦と解されないこともないが、第四子の稚武《わかたけ》王は古事記では弟橘比売《おとたちばなひめ》との間にできた子となっており、他の兄弟も別な妃の子としてバラバラである。書紀の伝えるところを鵜呑みにしても、長子が稲依別《いなよりわけ》(古事記によると、仲哀天皇とは異母兄弟であるが、天皇の母がフタジノ入姫、稲依別の母がフタジ姫で、母同士まんざら関係がないわけではない。ヨリヒメとつく人名は、たいていが姉妹で、母の妹、つまり叔母《おば》を娶《めと》った場合に名づけられているが、実際は父の妃を腹のちがった息子が共有し、または父の死後、その妃を引き継いで重婚した場合に名づけられているから、男子のヨリワケもこうした関係から生まれたものにちがいない。したがって書紀ではこれをいっしょにくるめて記録したのであろう)、三番目が布忍入姫《ぬのしのいりひめ》(実はヌノシのヌはナで、ナのヌシの入姫の意)で、いずれも奴に関係があるのである。
こう考えてくると、ナカツヒコとは、ナ(奴)のカ(河)の王という意味で、九州に王朝のあった頃の、後の那珂《なか》郡、すなわち、那珂川流域をホームグラウンドとした筑紫の大王だったことになるのである。そうでないと那の津の意義も、奴国の存在も否定されなければならないであろう(この私の考えも、その後、私にことわりなく、類似の書が、自分の発想のようにして発表されている)。
八 神話と観光
カスヒと香椎と糟屋
仲哀天皇が、いかがわしい神がかりで香椎の宮に崩御されたと伝えられているのも、福岡地方に因縁が深い。風土記に香椎のことを奇襲と書いて可紫比(カシヒ)と読むようにしるされている。和名抄には、現代の香椎を加須比(カスヒ)と読ませ、書紀には橿日、古事記には訶志比としるされている。
このことから、カスヒがカシヒとなり、カシイ(現在の香椎)となる一方、カスイとなり、カスエ、さらにカスヤ(糟屋)に変化していることがわかる。
カスヒの説明と重複するが、念のためこの場合のカスヒを説明しておこう。現在の福岡市内に堅粕《かたかす》という地名がのこっている。これはカタ(川の田=潟)にカスは御笠川(石堂川の古名)、古くはカスガとも呼んだカス(川の洲)である。カスヤとは、御笠川や宇美川、多々良川などの河口にできた大きなデルタのあるカスのヤ(入江)の地方という意味を持っている。板付《いたつけ》飛行場の海岸に近い方を臼井と呼ぶが、これはウ(大)ス(洲)ヒ(干)で、大きな洲の海岸という意味である。
このように例をあげてゆくと、博多湾沿岸には、数限りない古代の地名が現存している。ナカツヒコのカをさらにこのカスヒのカも含めて考えるとき、博多湾沿岸のナカ、カスヤの二郡を中心として筑紫に君臨した大王となってくるのである。
仲哀天皇は、もともとが博多湾の大王で、けっしてはるばると物語のように三韓征伐のため、畿内大和から西下されたのではない。
うっかり信用できぬ記紀の地名
明治維新後の内地から北海道へ移住した人たちは、故郷の村や町の名をとって新しい村の名とした。現在、アイヌ語に由来する地名のほかは、ほとんどこうして名づけられた地名であることについては、だれもが知っている。現在も南米へ集団で移住する人たちは、かならずふるさとの名を自分たちの移住先の村につけている。その世界的な例として、アメリカ合衆国の地名は、あまりにも有名である。
わが国における畿内大和地方の地名も、ほとんどが九州から東征後に移されたものが多い。それで、よほど注意して記紀を読まないと、前に述べた近江国の例のように、九州の地名を畿内大和地方の物語として扱われているので混乱し、記紀編者の思うつぼにはまってしまうのである。どこからどこまでが新たに畿内で発生した名前なのか、どの付近から以前が九州の地名を畿内にこじつけているのかを判断することが、今後の歴史の大きなカギともいえそうだ。
書紀の景行紀に例をとると、一つの物語が終わるごとにかならず、「○年○月筑紫に出《い》でます」とただし書きがついている。これは地名を畿内地方のものとしてこじつけるために、こんなしるし方をしたことは明らかだ。どうしても伝承などが残っていて、ごまかしがきかないような有力な物語などについては、「今○○といふはヨコナマれるなり」と強引《ごういん》なこじつけをしているのである。この極端なこじつけについてはそのつど後述するが、いずれにしても、こじつけとして解釈しないと、前後に盛られた文章が、はっきりした歴史的な事実と矛盾するから、私はあえてこのことを前もって強調しておくのである。ただ、ことわっておくが、数多い地名や人名のことであるから、なかには、畿内が元で後に九州に移ったものもあるだろう。
セットされた日向地方の地名
ここにその逆輸入のおもしろい一例がある。それは日向《ひゆうが》地方の地名だ。もともと北九州や西九州が元で、畿内大和の物語として伝えられたものが、ある時期に、少なくとも記紀の物語が成立した後に、大和朝廷の作為であったか、葛城襲津彦《かつらぎのそつひこ》一派の気の早い、由緒《ゆいしよ》を深めるためのしわざであったかはわからないが、とにかく神話にあやかって名づけられていることである。
日向地方の地名をうっかりそのままあてようものなら、記紀の神話は解けない。多くの人が、本居宣長《もとおりのりなが》以来、半信半疑で神話を解こうとしたから、あくまで神話として解けなかったのである。事実は事実だ。応神天皇以前の九州には四つの日の国をおいてなく、日向や大隅《おおすみ》などは、襲《そ》の国としてまったく歴史の外にあったのである。
ちかごろ、日向地方に、もしやと期待をかける人たちは、神話と直接関係のない考古学的な資料を手前味噌に解釈して、なんとか結論を得ようとしている。
神話の国、宮崎が観光地としてスタートしたのは、近年に始まったことではない。一バス会社の課長時代から、せっせとフェニックスを植え、南国ムードづくりを生涯の仕事として一大観光地をつくりあげられた宮崎交通の岩切章太郎氏のようなロマンチストが、すでに千二百年前にもいたのであろう。それは葛城襲津彦であったか、稗田阿礼《ひえだのあれ》であったかはわからないが、神話の地名がかくも見事に盛りだくさんにあつらえられているのをみると、ディズニーランドを連想する。デパートのウインドーに新柄の着物を着て立っている等身大の美人の人形が生命感に乏しいように、日向の神々は林立した埴輪《はにわ》を見るようである。
奈良朝前後の地名考証すらなかなかわからないのに、それよりさらにさかのぼる神代の地名が、神話そのままにそっくりセットされているということは、当時、大がかりなリバイバル・ロケが行なわれたにちがいないといったら、いい過ぎだろうか。
金色夜叉《こんじきやしや》のお宮の松が、半世紀で熱海の海岸に厳然とのさばっていたり、雲仙に真知子岩が人気を集めているのと、なんら変わるところがない。ただ問題の対象が神話に由来しているだけで、中身は似たようなものだといっても、けっして神々を冒涜《ぼうとく》することにはならないと思う。
私があえてこういうのは、神話は単なる神話ではなく、実在した神々の物語であって、その神々の本地は日向ではなく、邪馬台国に関係がある国々であることを、記紀によって容易に証明できるからである。
第三章 プラモデルの国々
一 目の前に並んでいた邪馬台連合
環状の国名列記
すでに奴国と不弥国に関して概略の私見を述べたが、問題はいよいよこれからである。倭人伝によると、奴、不弥両国のあとにすぐ「南至投馬國水行二十日(中略)南至邪馬壹(臺)國、女王之所都、水行十日・陸行一月(中略)自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶不可得詳」と記述されている。この文章から判断すれば、投馬国や邪馬台国は、伊都、奴、不弥国あたりから、明らかに南の位置にあり、統属国もまたこの邪馬台国との間に介在していることになっている。つまり次の文章に述べられている三十近い統属国は、この奴国付近から南の邪馬台国までずっと続いているということを言外に説明しているのである。そこで考えられることは、狗邪韓から狗奴国に至る三十一ヵ国は、倭人伝の「今、使訳通ずる所三十国」という記事に対して一国だけ余るのである。しかも奴という同字同音の国が二つも出てくる。倭人伝は女王国に属した国の名を挙げてその最後を「次に烏奴国あり。次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり」と結んでいる。
これ女王の境界の尽くる所とは、単にこれでおしまいだ、という意味ではなく、これで女王の国をひとまわりした、という意味である。最後にしるされた奴は、はじめの奴と同じ奴で、ひとまわりすれば、この奴に戻ってくるということを、言外に含んでいるものと解釈できる。
そこで、国名の列記は、女王国を中心に環状にしるしてあるのではなかろうか。それならば、すでにわかっている奴を起点に、記載された順序を逆に、烏奴、支惟、巴利と尻から詰めてゆけばいいではないかとの結論に達したのである。
この観点に立って私は、まず烏奴国を手はじめに、次のような条件を設定して推理をすすめることにした。末盧、伊都、奴、不弥国の例からもわかるように、
一、それぞれの国は一国だけとび離れておらず、互いに隣接し合っている。
二、一国の広さは和名抄の二ないし三郡程度で、現在の町村より大きく、県よりはるかに小さい。
三、国々の境界は海、山、河などの自然的条件によって設定されている。
右の三条件を基礎として、まず和名抄に記載された郡や郷のあり方を実際の地形にてらし、さらに奴国から以南に当たる筑前、筑後、肥前、肥後の諸国と、邪馬台国に統属した国々が、なんらかの関係を持ってはいないかと検討を続けたのである。すると私の想像したとおり、和名抄にも、倭人伝に列記された順序とは逆に、二、三の国々と同じ呼名の郡が同じ順序で有明海に向かって並んでいたではないか。
これはただならぬことだ。天佑神助とはこのことだろうか。私はこおどりして喜んだ。そしてさっそく、例の手探り用の私の地図を、指先で有明海沿岸の岬から山へ、河から平野部へとまさぐりながら、倭人伝の国々と和名抄の郡名を対照させては、自然条件との関係を考え続ける毎日が続いた。知りつくしたつもりの有明海沿岸も、こうしてつぶさに検討してみると、意外に知らないことが多すぎた。
はめ絵のようにはまった!
かくするうち、私は倭人伝の国々をカードに書いて、これらの地方に並べ、はめ絵のようにはめてみたらどうだろうと思った。はまるかはまらないかは別問題である。むりにこじつけようと思っていないのだから、ぐあいよくはまらなくても、そのときはあきらめればいいのであって、もともとなのだ。こう思って、従来の総合判断に立ってつぎつぎに札を当てはめてみると、意外に順序よく並んでゆくのである。
それまで頭にえがいていた邪馬台国時代の生活や、これらの国々のようすが、その国名の表わす意味と、妻が読んでくれる詳細な地図にしるされている限りの部落名や小字《こあざ》名、山、川、その流域と、それを取り巻く丘、記紀、風土記の記録、その土地の伝承、考古学的な遺跡や物証などに、ピッタリ一致するのである。
ふしぎなこともあるものだ。はじめは偶然の一致だろうと本気にはなれなかったが、やっているうちに、どの国も私の想像以上に、プラモデルのようにはまってゆく。気味悪くなって、後には、もしも、つぎにこの国がうまくはまらなければどうしよう、などと考えるようにさえなった。
一ヵ月もたったろうか。あらまし三十の国々をはめおえると、私は妻に手をひかれてこれらの土地をたずね、本格的な実証を試みようと決心した。この頃になると私は、このプラモデルの国々を真剣に考えるようになっていたのである。というのは、二、三の国がもっともらしく比定できたとしても、偶然の一致ということもありうる。しかし三十の国が、こうも一つ残らずコンプリート(完全)に、どの一つを抜いても相互間の関係が崩れるようなしくみで配置されるということは、そこに必然的な、私の知らない、大きな、なんらかの事実にぶち当たっているのではないかと考えたからである。
また従来のように、それらしい地名と、いわくありげな物語などを拾って、倭人伝の国々をとびとびに比定するのではなく、私の場合は、三十の国を切り離すことなく、スッポリひとまとめに比定できるのであるから、偶然といえば、むしろいままで気付かれなかったこの事実に私がぶち当たっていることの方が、よほど偶然だとも考えた。
どんなに頭がよくて、ものずきな人でも、三十の国を、こんなにうまくこじつけることができるだろうか。私も伊都から邪馬台への道を、学者のように推論に推論を重ねて、研究の果てに発見したとは思っていない。たとえ長年の研究が、その後の考証に役立ったとしても、発見の動機と端緒《たんしよ》は、こうしてきわめて単純なことであった。
黄色い菜の花をめざして紋白蝶がヒラヒラと飛んでゆくのはなぜだろう。実験の結果、黄色い紙を結びつけておいても、蝶々は集まってくるのである。それを、蝶々がなぜ黄色いものに憧れるのかとたずねても、科学者は黙って頭を振るだけで、蝶々が黄色いものを好きだから、と答えるほかはなかろう。
私の場合も、後に述べる三十の国々がどうしてぐあいよく配置できたかとたずねられても、それはわからない。問題は、ただそのはまったという妥当性の上に立って、いかにも必然的な発見のようにいってみたところで、私には意味がない。だから、この国々がはめ絵のようにはまったという偶然の結果を隠してまで、話をすすめようとは思っていないのである。
星座の国々
以上のようなことから得た結論として、倭人伝にしるされた国々の配置は、星座のようなものでなければならないと思う。
さらにこのことを確信するに至ったのは、和名抄の示唆《しさ》によるものである。いままでのように、邪馬台国とおぼしき、のどから手が出そうな場所が、単独でいかに有利な条件をそなえて目に映ろうと、蛙《かえる》のようにたやすく飛びついてはならない。
関連した周囲の国々が同時に比定できなければ、実証とはならないのだ。邪馬台国は、三十に近い国々を統率することによって、はじめてその意義があり、存在の価値があるのである。したがってキラキラと輝く大きな星を発見しても、単独の金星のようなものであってはならない。
それを、わかりきったこの基礎的条件を無視して、いままでの説が邪馬台国に飛びついたので、いずれも不発に終わっているのである。将来といえども、どんな著名な学者がいかに克明な説明をもって考証に及ぼうとも、邪馬台国が単独で比定されるかぎり、それは、まことしやかな空説にすぎないだろう。
二 和名抄の啓示
和名抄の郡名記載の法則
考えてみると、伊都から邪馬台への道を、いままでの人はなぜ一直線上に求めたり、放射線的に捜そうとしたのだろうか。
和名抄《わみようしよう》の郡名の記録のしかたは、現代人のそんな単純な考え方を冷笑しているようである。
もともと、山、川、丘、入江などの複雑な地形によって自然発生的にできあがった国が、一直線上に並んでいたり、近代的な都市計画にもとづいた道路のように、はじめから放射線的に配置されているはずがない。それを今日まであえて犯してきた原因は、ろくろく現地も調査せず、地図の上で定規をあてがった程度で結論を下したがためであろう。
和名抄に記載された郡名の順序を検討してみると、一見、複雑で多面的なように思われるが、その記載のしかたには必然的なものがあり、どの国の場合も一定の法則にささえられている。
それは、郡と郡とが互いに接続し合って、相互の関係を保ちながら、東から西へ、あるときは南から北へと、一定の方向へ実際の地理にかなったように書き並べられている。
筑前の国の内容についてその実例を示してみよう(各郡の郡の字は省略する)。
筑前国(ツクシノミチノクチノクニ)、怡土(イト)、志摩(シマ)、早良(サハラ)、那珂(ナカ)、席田(ムシロタ)、糟屋(カスヤ)、宗像(ムナカタ)、遠賀(ヲカ)、鞍手(クラテ)、嘉麻(カマ)、穂波(ホナミ)、夜須(ヤス)、下座(シモツアサクラ)、上座(カミツアサクラ)、御笠(ミカサ)。
右の例でわかるように、記載順をたどってみると、怡土の郡を起点に、西から東へ隣接し合った順序で書きつらね、筑前の国を一周しているのである。
この中で注意しなければならないのは御笠郡であろう。本来ならば、那珂の郡《こおり》と席田の郡の間に挿入してもよさそうだと考えられるが、記載の順序は、博多湾から海岸に沿って、響灘《ひびきなだ》をへて遠賀川の河口に至り、さらにそこから流れを遡《さかのぼ》って冷水峠《ひやみずとうげ》を越えると、御笠郡へはあと戻りせず、筑後川の上流へ向かって国境の山腹に沿って書きとめたのち、はじめて末尾に御笠郡を記載しているのである。
これは、単に複雑な記載の方法をさけたばかりでなく、海や川や山に沿って区切られた国境線の地理を、郡名の配列によって表現しようと意図している。またこの御笠郡の例外的位置は、つぎの筑後の国に記載された、いちばんはじめの御原《みはら》郡に接続するように用意されているのである。
これは将来の文化的発展過程に必要なので、ついでに書きとめておくが、この御笠郡を基点として、頭にミのつく郡が北から南へ有明海の東岸沿いに、ミハラ、ミイ、ミネ、ミズマ、ミケと続いているのである。かつてこの地方が沼沢地であった頃、潮のさす運河にも似た一本の水路によって、これらの国々が交流していたことを物語るものだが、この水行の目じるしとなったのが、そもそものミオツクシである。
和名抄と倭人伝
倭人伝の国々も、あるいはこうした順序や方式によって書きとめられているのではなかろうか。こんな考えがふっと私の脳裏に浮かんだ。だとすれば、邪馬台国傘下の国々は、環状に書きつらねられているのかもしれない。あるいは馬蹄形かもしれない。いや、もっと複雑だと考えた方が正しいであろう。だが、隣接し合っていることだけは確かである。しかしその場合、ちょうどこの御笠郡のように、どこかの国と国との間に大きな地形上の変化や断絶があって、配列の順序が途中で方向を転じている場合も考えなければならない。そのジョイント(つなぎめ)はいったいどこだろう。それを捜すことだ。
奴国から南へ、烏奴、支惟、巴利と尻から逆に詰めてゆくことは、私の予定の行動であるから、前にも述べたように、筑後川、矢部川、菊池川と、有明海に沿った大きな川の流域に国々を配置しながら、途中で対岸の佐賀、長崎の両県側にもあたってみる必要があるので、どこかでこのジョイントのめやすをつけなければならない。それがこの問題のポイントのように思われたのである。
それでは、地形からばかりでなく、ほどよい国の大きさをどのような形で、当てはめていったらいいものだろうか。何か標準になるような適当なものはなかろうかと捜した。結局、それが和名抄に記載された郡名だった。
一郡を決定した単位の裏には自然の条件がある。そこから生活の匂いを汲み取り、風土的な特徴を組み合わせることで、あれこれ按配していったならば、意外に正確な答えを手近に得られるような気がした。
いまから千七百年前の邪馬台国時代の国々を、現在の位置に立って私が暗中模索するより、千年前のれっきとした郡の存在は、わずか七百年のへだたりしかないのである。
この和名抄の啓示に従ってロックに足場をつくろう。それからクライミングをすればきっと頂上にたどりつける。こう考えた私は、陳腐のようであるが、しっかりと和名抄の岩角にザイルを結びつけて、夜明けを待つような気持で、例の私用の和名抄国郡地図を別につくったのである。
三 国名比定の三条件
三条件と物的証拠の扱い方
私はこれらの女王国に統属した国々の比定や考証にあたって、つぎの三点を条件として重視した。
一、比定する国が、なんらかの形で、地名や文献や神社や伝承などに残っているか、それとも関係があるか。
二、考古学的証拠があるか。
三、自然的な条件にかなっているか。
右の三項目のうち、一の地名と三の地理的条件については、地図の上でもおよその見当をつけることができる。同じように、一の伝承や記録についても、記紀、風土記《ふどき》のほかに旧事紀《くじき》、社寺縁起、大宰《だざい》管内誌、郷土史(もっともこの方はあまり当てにならない場合が多い)などをくまなくあさればよい。問題は二の考古学的な物的証拠であるが、私は、つぎのように考えた。
発掘された遺跡や遺物に対して、国名の記録されたものが出土しない限り、だれもその土地を倭人伝のどの国と断定することはできないであろう。また倭人伝の国名どおりの金石文を将来に求めようとしても、それは不可能なことだ。それで、邪馬台国時代が、弥生期末から古墳時代の前期であったことは、疑いのない事実であるから、双方の遺跡が、同時に同地帯に共存しておればいいのである。
遺跡といっても、ちっぽけなカケラの出土や申しわけ程度の小規模なものであってはならない。その地方一帯にまたがる遺跡を総合して一つのゾーンを形成しているかどうかを考えることが肝心である。また遺跡の規模が大きくなければならないことと同時に、時代的にも断続的ではなく、継承《けいしよう》的でなければならないのである。
古墳も王のいた場所であるから、いいかげんな円墳ではなく、堂々たる前方後円墳の二、三基や、それを取り巻く古墳群がなければならないだろう。こういうと、高塚古墳発生の時期は邪馬台国前後だとするのが常識だから、それより時代の下がる前方後円墳を証拠とするのはおかしいではないかという人もいるだろう。しかし時代が下がるといっても、前方後円墳の築かれた時代との差は、せいぜい二、三世紀にすぎない。
その地方の国は、当時からおこるべくしておきているのであって、そうたやすく滅びない。たとえ、その後、国名の変化や統率者としての氏族に交替はあっても、その地帯の国をささえる立地条件そのものは変わらないから、王の墓は、依然としてその国の王の墓である。したがって前方後円墳が現存することは、より必要となってくるのである。
邪馬台国が解体の憂《う》き目にあった後も、なおこれらの国々は別な形で存続したであろう。大和朝によって統一された当時の県主《あがたぬし》や国造《くにのみやつこ》こそ、こうした国々の延長を物語っているのである。
私はこう考えて、考古学的な物的証拠を、特定の遺物よりも、それらを含む総体的なもののなかに求めた。そしてその実体を時代の流れのなかで把握することにつとめた。
貧困な資料
なにしろ、各県の遺跡や古墳の所在などをまとめて明らかにした書きものは、いまのところまだバラバラで少ない。あっても指定史跡ないしはこれに準ずる程度のもので、内容はきわめて常識的なものである。
しかし、西九州四県のうち、熊本県教育委員会から発行されたものは、内容が整っている。熊本県にはもう一つ、熊本日日新聞社から発行された『熊本の歴史』というきわめていい本が出ている。
佐賀県のものは比較的に内容が若い。長崎県のものにはムラがある。
日本でも考古学的に貴重な遺跡がもっとも多い福岡県にいたっては、まったく話にならない。この県の教育委員会には、古いガリ版刷りの簡単な指定文化財一覧表があるだけで、おそろしく文化的に貧困な政治の一面を感じさせる。足もとには九州の探題である九大考古学教室が相当な資料をかかえ込んで、予算がないので整理に困っている。
福岡県には人材も多い。だのに、日本でも有数の経済力を誇る福岡県がこの程度であるから、わが国の文化財保護法が空文にひとしいのはあたりまえのことだろう。
学会から発行されたレポートや調査報告書はあまりに部分的で、調べるのに骨が折れる。私は調査や交渉にあたって、この遺跡の所在を捜すのに、いちばん苦労した。したがって遺跡の調査は、熊本県を除く他の県では、個人的につてを求めて好学の士をたずねて回るか、自分で見当をつけて捜すほかはなかった(その後、この十年間に、福岡県の県立九州歴史資料館をはじめ、各地に考古学的な資料館がぞくぞくと設立され、目覚ましい拡充をみせている。また、遺跡の資料についても、文化庁によって各県、各郡市町村にわたる詳細なものが作成され、当時に比較すれば、今昔の感がある)。
学者間の真空地帯
さて今日もなお、学者の一部に邪馬台国を単独で比定する人があるのは、残念なことである。研究不足といおうか、気短かといおうか、実に過去の累積を無視したやり方である。
もっともこれらの人達は専門の学者ではなく、大学教授という肩書きがついているだけで、興味本位かマスコミにのろうとする人達が多い。
小野道風《おののとうふう》という人は、柳にとびつく蛙をみて、学者になった。専門の学者が興味本位で蛙のようにポンポンとびついていたのでは、飯の食い上げになるだろう。修練のつんだ学者は、このことをよく心得ている。それで現在では、邪馬台国の研究に造詣《ぞうけい》の深い学者たちも、よほどのことがなければ、なかなか口を開こうとしない。もしもひとりがへたなことでもいおうものなら、学界というところは、周囲からダダッと火砲の集中攻撃を浴びせられる。そうでなければ、でたらめな学者がふえるかもしれない。
いまや邪馬台国を中に挟んで対峙《たいじ》した学者間の陣地には、火を吹かんばかりの銃眼が光っている。
かつて、NHK教育テレビ放送の松本清張氏をまじえた一流学者の邪馬台国座談会を、期待に満ちてご覧になった人は多いと思う。そのときの話の内容のなんと空虚だったことか。あとで期待はずれの思いをされた人も、これまた多かっただろう。このとき、多くの人が感じとられたと思うが、一種独特の対峙した空気――それは、邪馬台国を中にはさんで、学者の間に一種の真空地帯のようなものが存在していることだった。
実はここが、私ら肩書きもつかなければ定年もない退職金ももらわない、草莽布衣《そうもうほい》の臣(在野の人間)の特権で、学者なら、ダダッと一発で倒されるところを、私らは、真空地帯を堂々と通れるのである。
もっとも、修験者《しゆげんじや》のようなものがいて、金剛杖《こんごうづえ》を振り回しながら、一本歯の高下駄であばれこむ者がいないとも限らない。同じめくらでも『大菩薩峠《だいぼさつとうげ》』の机竜之助か座頭市《ざとういち》のような剣法を持ち合わせているなら別だが、私のような者が白いステッキを振り上げてみたところで、はじめから勝負にならないときめこんでいるから、いつうたれてもいいという諦《あきら》めも手伝って、なお悠々と通り抜けられるのである。
では、その真空地帯をくぐりぬけて、うっとうしい森の向こうに、いよいよまぼろしの国をたずねることにしよう。
第四章 筑後川流域にひろがっていた国々
一 烏奴国
邪馬台国は南に
いよいよ女王国に統属した国の所在地を明らかにするところまできた。
いまさら説明の必要もないと思うが、つぎに略記する比定の順序は、倭人伝に記載された女王国より以北にあると記された国々を、逆コースで取り上げてゆく。
したがって邪馬台国は、あくまで倭人伝に記載されたとおり南にある、という大前提に立っていることを改めて強調しておきたい。詳細は最後にのべるつもりでいるが、今まで多くの人が、なぜ邪馬台国を、倭人伝を無視して宇佐に大和に、その他全国のあちこちに勝手きままにきめてしまったのだろうか。倭人伝には明らかに、投馬も邪馬台も「南至投馬國」「南至邪馬壹(臺)國」と記されている。目が見えて字の読める人なら、もう一度、倭人伝を確かめてもらいたい。どんな偉い肩書の人が、もっともらしい論旨や、なるほどと思わせる説明で強調されようと南は南である。この重大な方位を勝手に修正することは、倭人伝全部の方位を否定または修正変更してもいいということにつながるのである。しかも、よくよく倭人伝を読むと、東南に奴国があって、東に行けば不弥国があり、南に行けば投馬国と邪馬台国がある、といったふうに書き分けてあるのだ。ところが博多湾と有明海の間が現在陸地になっているので、水行二十日、水行十日陸行一月の水行の解釈に当惑して、いろいろのことを考えるのである。
ひとまずここでは、先にもふれておいたように、南へまっすぐ水行できたという点については、話を最後にまわすこととし、邪馬台国はやはり南だとの前提に立って考えを進める。
こうして比定する以下の国々のうち、そのいくつかは、その場所にいままでも多くの学者によって比定されてきた。しかし、それらはすべて単独で前後の国に関係なく、ばらばらに比定されたものであった。現在も記録として残り、地名としても残っている著名ないくつかの国を、一貫した総合的な考え方のもとに一つの点とみなし、点と点とをつないでいけば、その線上に倭人伝の記載の順序は、きわめて合理的に組みこまれてしまうのである。したがって倭人伝に記載された国名の順序は、意識的に配列されたものであり、この順序に従って配置した国の比定は、最初から必然的な性格を持っていたと考えるべきであろう。地理と地名と記録が、かくも総合的に一致し、倭人伝の記載の配列どおりにあてはまるこの配置と比定の方法を最後まで詰めていけば、ついには邪馬台国に到達しうることになるのである。そのうえ、考古学的証拠を添えれば何もいうことはあるまい。
では読者諸氏も、つぎの烏奴国から始まる私の調査報告を虚心坦懐な気持で聞いてもらいたい。
烏奴ヲドウヌ
(以後漢音の読みを、呉音の読みをで表わす)筑前国|御笠郡《みかさのこほり》(は和名抄記載を表わす)。現、福岡県大野城市、春日市、筑紫野市及び筑紫郡一帯を中心とした国。ウヌは後世ウゥノと呼ばれオォノとなる。
奴国の南に隣接した国として比定した。御笠郡の郷《おおさと》に大野あり。
また現存する奈良朝時代の大野城趾は、同じく相対する佐賀県側の基肄《きい》城趾と共に、その名称は倭人伝の記載順とまったく一致し、動かし難い事実を証明している。
メモ――なぜ大宰府は置かれたか? 竈《かまど》神社(太宰府町)、筑紫神社(筑紫野市)、日拝塚(春日市)、五郎山古墳(筑紫野市)ほか、弥生遺跡など無数に散在。詳しくは太宰府町の福岡県立九州歴史資料館を訪ねられたい。
二 支惟国
支惟(シ)キヰ(シ)キヰ
肥前国|基肄郡《きいのこほり》、養父《やふ》郡、及び神埼《かむさき》郡の一部。現、佐賀県|鳥栖《とす》市、旧三根《みね》郡を除く三養基《みやき》郡及び神埼《かんざき》郡の一部で、背振《せぶり》山系の東南麓一帯に拡がっていた国。原音がキヰとなり、そのまま現在に及んでいる。
烏奴国の南に隣接した国として比定した。烏奴国と共に倭人伝の記載順に全く一致する。
メモ――仁徳朝以前の記紀に記載された紀伊の国を、このキヰにあてて解釈すれば、妥当性を欠いた内容が、きわめて合理的に、容易に理解できる。肥前風土記の同郡に関する記事も、この国の古さを暗示し、示唆に富んでいる。
鳥栖《とす》市|田代《たしろ》一帯の広汎な弥生遺跡は、近くの太田装飾古墳、剣塚《つるぎづか》、庚申堂《こうしんどう》塚、岡寺《おかでら》古墳、杓子《しやくし》が峰古墳群などと共存し、邪馬台国時代の時代性がもっとも濃厚である。
またこの付近から中原町姫方遺跡にかけて山麓に点在する集落遺跡、製鉄遺跡は、さらに当時の生活内容を強力に示している。皮肉にもこの遺跡の上を踏んづけるように九州横断道路が建設されつつある。
この国はまた姫神を祀るのが特徴的である。
三 巴利国
巴利ハリヘリ
筑前国|夜須郡《やすのこほり》、下座《しもつあさくら》郡、上座《かみつあさくら》郡。筑後国御原郡。現、福岡県甘木市及び朝倉郡ならびに小郡市及び三井《みい》郡の一部で、旧筑後川右岸に拡がっていた国。ハリはハル(原)、ハラ(原)などに転じ、現在の原田《はるた》、針摺《はりずり》、原鶴などの地名に残っている。
烏奴国の東南、支惟国の東に当たり、共に両国に相接する国として比定した。
倭建命《やまとたけるのみこと》の歌として有名な「邇比婆理《にひばり》 都久波袁須疑弖《つくはをすぎて》 伊久用加泥都流《いくよかねつる》」(古事記)のニイバリのバリもこのハリと同じ語で、さきに末盧の項で述べたバラも同意の古語である。朝倉のクラも、もとは河原《カハラ》(クハラ)で河岸のハリという意味である。
ついでだから朝倉の朝についても説明しておくと、アサは大砂《オオサ》がアサに転じたもので、朝倉といえば、広い砂の溜った河原という意味である。マレー語と偶然の一致かもしれないが、クアラ・ルンプールなどのクアラのついた町は、いずれも河岸の町で河原を意味している。
五、六世紀頃まで筑後川の本流は、筑前と筑後の国境《くにざかい》を大きく北に迂回して流れていたようである。原則的に筑後の国は筑後川より南になければならないのに、三井郡の大半が筑後川の右岸(北側)にあるのは、本流が次第に流れを変えたためであろう。少なくとも邪馬台国時代には点々と島洲はあっても、筑後平野の中心部は有明海に続いて大きな内湾になっていたようである。浮羽《うきは》郡の元の語、ウクホが大きな河口の入江の意味を持っているのもそのためであろう。今、鳥栖と書くトスの意味も、ここらが有明海とをつなぐ瀬戸になっていて、河原が形成されていたことに由来した地名だと思う。夜須郡のヤスも入江の洲の意で、この付近まで内湾の波が寄せていたのであろう。なお御原郡《みはらのこほり》がこの巴利国と烏奴国、支惟国の間に挟入しているが、当時はまだ完全に陸化が終らず、一部の小丘台地を除き湿原の不毛の地帯だったと考えられる。ミハラの意味が湿原を意味するからである。
御笠郡からこの御原郡、次の三根郡へと続く和名抄のミの音がつく一連の郡名については、先に述べたとおりである。
特にこの国の西北端の針摺峠、針摺部落が巴利国のなごりをとどめている。
メモ――筑紫野市から夜須町、三輪町を経て甘木市へ、そしてさらに南の原鶴へ向かって丘や平野部に眠る弥生甕棺群と古墳の群。斉明天皇は新羅征討のおり、なぜここに行宮《あんぐう》を造営されたのか。和名抄はなぜ上座、下座をカミツアサクラ、シモツアサクラと読ませたのか。
記紀伝承の大部分が、なぜこの地方に関係が深いのか。大和地方の重要な地名が、そっくりこの地方にあるのはなぜか。それに神話の高天原が、何らかの実在した地方にイメージの発想があったとすれば、日向地方のディズニーランド的な地名と違って、甘木《アマキ》、馬田《マダ》、夜須川《ヤスカワ》、天降山《アモリヤマ》、古処《コシ》、白坂峠(ヨミのヒラサカ)などが、そのまま当てはまるのである(この私の着目した神話への発想は、そ知らぬ顔で、何人かの著書に利用されている)。
四 躬臣国
躬臣キュウシンクジン
筑後国|生葉郡《いくはのこほり》、竹野《たかの》郡、山本郡、御井郡。現、福岡県|浮羽《うきは》郡、三井郡南部と久留米市及び同市に接する三潴《みずま》郡の一部を含む筑後川の左岸地帯に沿った国。その頃、キシ、またはクシの国と称していたのだろうか。要するに川べりの国という意味である。筑後川をはさんで巴利国の対岸、支惟国の東南に接する国として比定した。
岸にはもともとキシとクシの別があって、波の打ち寄せる水際のキシ(岐渚、意味の上から仮にこの字をあてておく)と、川べりの湿地帯を呼ぶ時のクシ(河湿)とに分れていたようである。したがって私は後者の呼び名をとりたい。
古事記の冒頭に肥国《ひのくに》を建日向日豊久士比泥別《タケヒムカヒトヨクシヒネワケ》とある久士もこのクシと考えられる。あるいはこの場合、クシはク(河)ス(洲)ヒ(干)が転じたものか。上流の草野、楠名は、もと躬臣奴《クシヌ》、下流の櫛原《くしはら》(和名抄には節原とあり)にクシの名残《なごり》をとどめている。
須佐之男命《すさのおのみこと》の大蛇《おろち》退治にゆかりの櫛名田比売《くしなだひめ》もこのクシ、大国主命《おおくにぬしのみこと》と須世理毘売《すせりひめ》が愛の巣を営まれたのも宇迦能山《うかのやま》の山本(この国に山本郡あり)、八上比売《やがみひめ》との間に出来た神が御井《みいの》神(この国に御井郡あり)、そして沼河《ぬなかわ》比売に大国主命が会いに行かれる高志国《こしのくに》もこの躬臣国のクシである。このように読み替えることによって、九州の地名を畿内地方に置き換えた他の物語と同じように、大国主命の物語も出雲の国の出来事にすりかえてあるのである(越路《こしじ》が朝廷に服属したのは、はるか後代で、書紀に皇極天皇二年、蝦夷《えみし》が入朝した記事が見える。このときが信頼できる最初の記録とされている)。
前にも述べたが、遠賀《おんが》川のことをオコまたはオカ(大河)と呼び、筑後川はウカ(大河)と呼んだようである。さきの宇迦の山本のウカも、お稲荷様すなわち宇迦之御魂《うかのみたま》のウカもこの川に関係があるように思われる。神話の基盤をなす「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気《くしふるたけ》に天降《あも》りまさしめき」(古事記)とあるクシもこのクシ、フルはハリで巴利国ではなかろうか。
またこの国の竹野(タケヌ)郡を崇神紀の武渟川別《たけぬなかわわけ》と結びつけて考えると、武埴安彦《たけはにやすひこ》の反乱に出てくる地名が、この地方に現存する地名とぴったり一致し、内容がわかりやすいのはなぜだろう。三輪山の大物主《おおものぬし》の伝説も崇神紀である(三輪の大物主神社の本地は朝倉郡地内であり、このことは書紀神功紀に見える)。共に筑紫平野を対象として物語られているような内容から、倭人伝に記録された時代と、崇神、垂仁、景行紀の歴史的な推定年数がほぼ一致する点で、これらの国を探ることは、神話のベールをとり除く手がかりともなろう。特に久留米市の高良《こうら》大社の祭神、玉垂命《たまたれのみこと》は、櫛玉饒速日《くしたまにぎはやひ》命(クシに注意)と思われるので、もっと注目すべきだと思う。
メモ――この地方の古代遺跡は、これまた類をみない変化に富んだ貴重なものばかりである。
朝倉郡の段丘に沿って、帯のようにつながる一大遺跡群は、この国でも、主流の筑後川を渡って、水縄《みのう》山稜の山腹や麓《ふもと》の丘や村を縫うように久留米《くるめ》市へ続いている。
この遺跡群の帯は、この国ばかりではない。さらに、八女《やめ》、山門《やまと》の両郡を経て、はるかに肥後の丘から、海岸から、河岸を縫い、三つに分かれて、一つは阿蘇高原を越えて高千穂峡へ、一つは球磨《くま》川河口から球磨の山奥へ、他の一つは、宇土半島から天草の島へと及んでいるのである。いな、及んでいるのではなく、逆に南から北上して筑後川の河口で西からきた肥前からのものと合流して、この河岸に渦を巻いたように集積しているのである。弥生遺跡は、高三潴をはじめ各所に散在し、特に装飾古墳は、わが国でも代表的な古墳が集中している。
著名なものをあげれば、久留米の日輪寺古墳、荒木の楠山《くすやま》古墳、同じく茶臼山《ちやうすやま》古墳、御塚《おんづか》、権現塚古墳、浮羽郡福富の富永古墳、浮羽郡|千歳《ちとせ》の若宮神社|境内《けいだい》の日の岡古墳、同じく月の岡古墳、筑後|千足《せんぞく》朝田の楠名古墳、重定《しげさだ》古墳、同地の塚花塚古墳、同じく姫治《ひめはる》の蝙蝠穴《こうもりあな》古墳など、数え上げればきりがない。
なぜこれらの古墳が、ここに集中しているのだろうか。
五 邪馬国
邪馬(シャ)ヤバ(ジャ)ヤメ
筑後国|三潴郡《みむまのこほり》、上妻《かむつま》郡、下妻《しもつま》郡、山門《やまと》郡、三毛《みけ》郡。現、福岡県|三潴《みずま》郡、八女《やめ》郡、山門郡、三池郡及びこの郡と共にある各市を含む筑後南半に拡がっていた国。邪馬台国時代の三潴郡はまだほとんど海中で、大川市や城島町の一部などが点々と島洲になっていただけである。
山門郡と三池郡も国鉄鹿児島本線や西日本鉄道以西の大半は海中であった。筑後川の河口は佐賀県|三根《みね》町天建寺付近と久留米市安武町住吉を結んだ付近にあって、それから南は佐賀県側も含めて、すべて海であった。この海が古来歌にうたわれた、いわゆる筑紫潟、筑紫の海である(現在の博多湾を筑紫潟と混同している人が多い。要注意)。景行紀に八女県《やめのあがた》、神功摂政前紀にも山門県《やまとのあがた》とあり、共に元はヤマである。躬臣国の南に隣接した有明海沿岸の国として比定した。
この邪馬が、倭人伝の記載順によると躬臣国と隣接して明記されているにもかかわらず、従来、山門郡を邪馬台国、八女郡(上妻、下妻)を投馬国に比定する人が多い。南至投馬国、南至邪馬台国と倭人伝に併記されているのと、何となく音が似かよっており遺跡も多いところから単純にそうきめこんでしまうのであろう。邪馬台国へは水行十日陸行一月と記されており、投馬国へは水行二十日を要するという記事の水行だけとっても、両国の間に十日間の距離があることは歴然としている。
そもそもツマという言葉の意味は、川岸や海岸の船着場に続く畑や台地の場所を指しており(東国《アツマノクニ》、薩摩国《サツマノクニ》のツマも同じ)、この上妻、下妻は陸化が進むに従って八女県《やめのあがた》が後に名付けられた郡名であるから、八女国すなわち邪馬国の一部として考えなければならない。
山門郡の場合も現地をつぶさに調査してみると誰にもわかることだが、船小屋温泉と下妻(筑後市)の間で沖端川が矢部川と分かれる付近(瀬高町本郷)から、大和町住吉で有明海に注ぐこの間の矢部川本流は、かつて陸化の早かった島洲(現、三橋町、大和町)に挟まれて水道になっていた。山門の名称もそのことを物語っている。門《と》は長門《ながと》の門《と》、瀬戸の戸《と》であり、門も戸も同意義である。現在も有明海の満潮時には沖端川を分岐点近くまで潮がさかのぼっている。このことから下妻のあたりが矢部川の河口で、三潴郡一帯がごく最近まで海であったことが誰の目にもすぐわかる。そこで邪馬台国時代以後、陸化に従って水道にのぞんでいたこの邪馬国の一部を山門県とし、矢部川以北のそうでない部分を八女県としたものと推定される。
このとき、山門を八女戸としておけば混乱もしなかったろうに、風土記編纂に当たって全国の郡名を二字名に改めさせたときに山門と名付けたので、後遺症が今に及んでいるのである。その後、陸化が終った所に三潴郡ができ、八女県は前記風土記作成の頃、上妻、下妻に二分され、再び現在の八女郡になっているのである。
こう説明するとヤマの語義が、入江にのぞんだ高地(シマに対するヤマ)であり、山門が邪馬台国と、妻が投馬国と何ら関係のないことが理解されるであろう。また邪馬台がヤマトと読めるといっては、それがこの山門か畿内の大和かといった論争や、トが甲類か、乙類に属するかといった論議をくり返すことも、もはや無益なことである。
にもかかわらず、今や現地には「日本発祥の地、卑弥呼の里」と書いた巨大な立看板が立てられたり、耶馬台とか卑弥呼と名付けた酒、団子、まんじゅうの類まで出現して、ふざけた限りである。こうした邪馬台国論争に便乗したコマーシャリズムは、ここばかりではなく西日本の各地に飛散し、中にはもっとひどいものもある。茶目っ気があって面白い、というには、あまりにも愚かな、民族の歴史を侮辱し文化を破壊する行為といわなければならない。
メモ――この国の弥生遺跡や古墳群は枚挙にいとまがない。大別すると八女《やめ》市(亀甲、室岡両弥生住居跡。乗馬、岩戸山古墳群。童男山古墳群)。八女郡広川町(藤田高塚遺跡及び同古墳群。石人山古墳群)。山門郡瀬高町(金栗、鉾田遺跡、清水《きよみず》山及び女山《ぞやま》古墳群)。三池郡高田町(二川、今福両貝塚、竹飯地区弥生遺跡、住居趾。愛宕山古墳群、唐川原古墳群)。大牟田市(倉永地区荒田比貝塚、弥生遺跡、古墳。田隈遺跡。甘木山古墳群、上内地区釈迦堂古墳群、茂登山古墳群、黒崎古墳群)。以上のようなものであるが、詳細については目的が違うので他日に稿をゆずる。
田浦津媛《たぶらつひめ》(神功紀)とは? 景行王朝は邪馬台国時代と関係があるか? 同天皇の纏向《まきむく》の日代宮《ひしろのみや》は大牟田市内にあった。
筑紫君《きみ》と肥君《ひのきみ》の存在。磐井《いわい》の反乱は、はたして反乱だったろうか。大和朝の皇位継承につながる邪馬台国以来の伝統をひく九州に残存した勢力と部族国家間の流れ。
大川市の風浪神社と二つの大陸航路などを背景に、この国が歴史時代へどのようにつながってゆくかを考えるとき、古代史はさらに面白さをましてくる。
第五章 菊池川から阿蘇をめぐる国々
一 鬼奴国
鬼奴クィドクィヌ
肥後国|玉名郡《たまいなのこほり》。現、熊本県玉名市を中心に荒尾市を含む玉名郡一帯で菊池川流域に拡がっていた国。邪馬国の南に位置し、後述する為吾国と鬼国に隣接した有明海沿岸の国として比定した。
特にいまから述べるこの鬼奴国が、動かしがたい歴史的事実によって玉名郡であったことが裏付けられるということは、今まで私が比定してきた決定のしかたが間違っていないことを証明するばかりではなく、邪馬台連合の主なる諸国が有明海沿岸に存在していた歴然たる事実をも物語るものである。
いいかえると倭人伝の記載順にしたがって逆に奴国から烏奴、支惟、巴利、躬臣、邪馬、鬼奴とつめてくれば、やがては邪馬台国へたどり着けるという考え方が、今や現実のものとなりつつあることに、ここで私は非常な自信を深めた。そして和名抄に記載された郡名の読みと配列が、そのまま倭人伝の記事と一致してゆくので、倭人伝に記載された国々が決していいかげんなものではなく、現実に存在していたということと、記事の内容が信ずるに足るものであることを、ここで改めて確認できるのである(これまで尻から詰めて略解してきた国名を、倭人伝の記載どおりに書き直してみると、鬼奴、邪馬、躬臣、巴利、支惟、烏奴、奴となり、まったく原文に一致し、しかも現存しているのである)。
それでは鬼奴国という国の名がどんな意味を持ち、どんなわけで名付けられたのだろうか。千七百年前の日本語の古い言葉の意味を探るのだから、ちょっとむずかしい気もするが、その謎はすぐに解けた。
鬼の読み方が、単なるキの音《おん》であれば、他にも倭人伝の中に使用されている「支」でもよかったはずである。諸橋轍次先生の大漢和辞典を開くと鬼の発音は「〔集韻〕矩偉切」と書いてある。これは矩《ク》の音と偉《イ》の音を合わせた発音をせよという意味で、集韻はその出典である(集韻というのは宋代に勅撰された十巻からなる五万三千五百二十五字を集めた本)。
同じく支のキの音《おん》を調べてみると「〔集韻〕翹移切」とある。これは翹《ケウ》と移《イ》の合体音で初めから日本語のキの音である。こう説明すれば、どなたにも理解されると思うが、鬼の字はいたずらに倭人伝特有の蔑んだ意味だけで使用されているのではない。冒頭の読みもそのため、単なるキと違うことを明らかにするためにクィと付しておいたのである。
そこで今度はクィとは一体どんな意味だろうかということになる。単なる杭や食いの意味でもなさそうだし、奴の呉音のヌの音が、野《ノ》に転じたり、水田を表わすナとなっていることから、鬼奴と結合している点からも考えてみなければならない。
前にもたびたび説明してきたように、クィのクは河のことである。奴は水田地帯のことであるから、川と水田地帯との間にクィのイをからませて現状の地形にてらして考えてみよう。ここには九州でも屈指の熊本県の母なる菊池川が南北に流れている。そしてこの川には五メートルを越す有明海の激しい満干の差で相当に強い海嘯《かいしよう》が起きる。大潮の満潮のときなどは、はるか上流まで海水が遡行するのである。したがって干潮時には河口一帯が一変して広い干潟となる特異な川なのだ(特異といっても有明海と八代海に注ぐ川はみな同じだが、ここでは他地方の川に対して著しい特徴があることをいっているのである)。
こうしたことからクィのイは干潟のヒのh音が消えて母音だけが残り、クヒがクィとなったものと考えられる。現在の菊池川もその名の起こりは、この干潟になる鬼《クイ》が河口になっている川という意味でキクチ(鬼口)と呼ばれたことに始まるのだと思う(狗古智卑狗の狗古智《クコチ》とキクチとの意味の違いは後述する)。
全国の各地に、文字はそれぞれ異なるがキの川、ヒの川、キイ川、ヒイ川などと名付けられたたくさんの川があるけれども、意味はこの菊池川と同じく、多少の差はあっても潮のさす川ばかりである。
鬼奴国は以上のような判断から、大きな干潟を持つ河口の周囲に拡がった水田のクニという意味の国だったように推定される。
景行紀十八年の記事に玉杵名邑《たまきなのむら》の記載があるが、これを倭人伝風に書けば対馬鬼奴《タバクイヌ》であり、対馬が玉に、鬼奴が杵名に、発音と共に変化していることがわかる。倭人伝の頃から古墳時代にかけて火田開墾が盛んとなり、北部の丘陵地帯や山手に耕地が拡大されて、水田を中心とした鬼奴の国が国土拡張によって、これらの北部地帯も併せて玉杵名と呼ぶようになったのであろう。
下って延喜式には玉名とあり、これは和銅六年(七一三年)の中央官命により二字名に改めたとき、杵の字を抜き玉名としたものである。それで和名抄には多萬伊奈《タマイナ》と読ませているが、これはタマキナのキの音のうちクィのクが逆に抜けて母音のイの音を強く発音していたため、タマイナと読んだのであろう。これとても玉杵名の杵が鬼の音を継承していることはいうまでもない。
かくして現在も玉名と呼ばれているその玉名は、遠く倭人伝の鬼奴にさかのぼることができるのである。ということは倭人伝に記された国が現在もなお脈々と千七百年の風雪を経て有明海沿岸に生き続けていたことを証明している。
ところで景行紀や風土記に次のような注目すべき物語が書き残されている。
筑紫の三池の高田宮に景行天皇がおられたとき、大木が倒れていた。その長さは九百七十丈もあった。百寮《もものつかさ》たちがその上を渡って往き来した。そこで時の人がこんな歌をうたった。
「阿佐志毛能《あさしもの》、瀰概能佐烏麼志《みけのさをばし》、魔弊菟耆瀰《まへつきみ》、|伊和※羅秀暮《いわたらすも》、瀰開能佐烏麼志《みけのさをばし》」
そこで天皇は「これは何の樹ぞ」と問われた。すると一人の老夫《おきな》がすすみ出て答えた。
「この木は、くぬぎの木であります。昔、生《お》い茂っていた頃には、朝日が射すと杵島《きしま》の山までかげらせ、夕べには阿蘇の山まで影をおとしました」と。
天皇は聞き終わって、「これは神木だ、よってこの国を御木国《みけのくに》と名づけよう」といわれたとある。
ここで気付かねばならないことは、この大木がくぬぎであることと、その長さが九百七十丈(約二千九百三十九メートル)もあったということである。雲仙岳よりも高い、このばかげた数字を書紀がなぜ掲げているのか。数字そのものにこだわるから、今までのように珍無類の解釈が生まれる。
九百七十丈の九七は、クナという音にかけてナゾを解く手がかりに残してある。クヌギという木の名前も同じようにクナの木という意味で、つまり、ここが前に比定した邪馬国と鬼奴国の境界の稜線であったことを暗に伝えているのである。しかも肥後装飾古墳の様式のわかれめもここにあり、肥後と筑後のわかれめとも一致する。そして朝には杵島山を云々というのは、その勢力が対岸の杵島国(佐賀県)と阿蘇の国まで及んでいたという勢力範囲を物語っているのである。ここでは景行天皇が統治者になっているが、実際は、ヤマトヲグナと称せられた日本《やまと》武尊《たけるのみこと》であるかもしれない。あるいは景行天皇そのものが日本武尊の分身であったかもしれない。そしてミケが御木と書かれていることも鬼奴に関係があり「海の鬼」という意味でミキ(クィ)またはミケと呼ばれているのである。
メモ――鬼奴が菊池川河口域の玉名地方であったことは、以上の地名考証だけで充分に立証されたと思うが、遺跡の上でも、このことを裏書きするようなものばかりである。
著名な弥生遺跡として天水町斎藤山貝塚(鉄斧出土)、野辺田遺跡。岱明《たいめい》町尾崎遺跡、中道貝塚をはじめ野口地区一帯の弥生から古墳にかけての沢山の遺跡群。荒尾市牛水貝塚、玉名市石貫、立願寺、築地などの小袋山東麓から南麓の遺跡群をあげることができる。特筆すべきことは、熊本県における弥生期の遺跡が、この玉名郡の周辺台地に圧倒的に多いことである。
古墳としては、有名な菊水町の江田船山古墳に代表される舟形石棺が特徴的で、このことは邪馬台国時代に大きな関係を持っている。大牟田市荻の尾古墳、荒尾市平井、野原などの大古墳群、岱明町弁財天、院塚古墳。天水町大塚。玉名市根木をはじめ、石貫などの古墳群、菊水町の江田古墳群等々、この玉名郡に限らず熊本県の遺跡や古墳はおびただしい数にのぼり、列記するのが煩わしいほどである。
なお江田古墳の近くにトンカラリと呼ばれる石造の暗渠が、邪馬台国に関係があるのではないかと一時騒がれたが、現地に行って詳しく調べてみると構造が非常に新しく、とうてい三、四世紀にさかのぼるものとは断じて考えられない。
二 為吾国
為吾ヰゴヰゴ
肥後国|山鹿郡《やまかのこほり》。現、熊本県|山鹿《やまが》市を中心に、鹿本《かもと》郡鹿北町及び菊鹿町、鹿本《かもと》町の一部を含む菊池川右岸にひろがっていた小国。鬼奴国の東北部に隣接し、後述する華奴蘇奴国との間にはさまれた国として比定した。
旧版では玉名郡の北半部を比定していたが、その後の調査で山鹿市が中心だったことが判明したので、今回訂正する。本来の山鹿郡は中世に分けられた山鹿荘、尾登利荘、宮崎荘の三荘からなっていた。詳しく調べられる人は、和名抄に記載された郷名の存在場所と、前記した三荘との間に食い違いや矛盾が生じるので不審がられる人もあると思うが、これはむしろ和名抄の記載に誤りがあるようである。
為吾《ヰゴ》という国名が、いままでのように和名抄郡名に直接結びつかないので奇異に感じられる人もあると思う。しかしよく語源を探ってみると、まんざら関係がないことはない。川(河)がカ、ク、コと呼ばれることについては、たびたびすぎるほど説明してきた。九州ではさらにガ、グ、ゴとも発音されるのである。たとえば魚洗川《イワラゴ》(音に従って魚洗郷とも書く)、江川《エゴ》(エグともいう)、石河内《ユゴチ》、湯河内《イゴチ》(石をユ、湯をイと逆に発音するところが面白い。もちろん石をイ、湯をユと呼ぶ場合も多い)、小川内《オゴチ》、広川原《ヒロゴラ》、大川原《オオゴウラ》のようなものである。右の例から吾《ゴ》が川や川内を意味し、為《ヰ》が湯《ユ》の転音と考えれば理解できるのである。
この地帯は山鹿温泉を中心に支流の各所にも温泉が点在し、さながら湯河内の観がある。山鹿郡の郷名に温泉とあるが、肥後国志にも指摘されているように、この温泉はもと湯郷であったものを和銅の二字名改正のおり、温泉と改称し、郡名も多分むずかしい為吾の国(湯郷の国とも)を山鹿郡に改めたものではないかと推定される。してみると、山鹿温泉はわが国で最古の邪馬台国時代からの著名な温泉場であったことになる。
山鹿の鹿は、温泉によく鹿が浴したという俗説によるものではなく、この国に多い川のカを音だけ鹿《カ》の音に残し、その頭に山をつけたものと思う。それは北からミイ、ミネ、ミヌマ、ミケと海沿いの郡にミの音を連ねているのと歩調を合わせるように、山手の郡には山本《ヤマモト》、八女《ヤメ》、山門《ヤマト》、山鹿《ヤマカ》と、ヤマの音《オン》が意識的に付けられているので、編成上、鹿の上に山が付けられたのも至極当然であろう。
メモ――玉名郡に引き続き、この地方にも貴重な弥生遺跡や特殊な古墳が多く、山鹿市を中心に枚挙にいとまがないので、個別に記載することを省略する(詳細は山鹿市発行の古墳地図などによられたい)。
三 鬼 国
鬼クィクィ
肥後国|飽田郡《あきたのこほり》及び山本郡《やまもとのこほり》。現、熊本県|飽託《ほうたく》郡のうち旧|飽田《あきた》郡(白川右岸)と植木町(山本郡)及び熊本市を中心に有明海沿岸にひろがっていた国。為吾国の南、鬼奴国の南東部に隣接し、北東の華奴蘇奴国に接する国として、倭人伝記載の順序に従い、かつ、鬼奴国と鬼国との共通の語意により当然の帰着として比定した。旧版では鬼奴国に直接相対する菊池川の左岸地帯と比定していたが、その後の調査で誤まっていたことがわかったので今回訂正する。
この国は菊池川の河口と白川との間にはさまれているが、この間には唐入川、河内川、坪井川の三本の中小河川も有明海に注いでおり、何れも河口は干潟で、連続した広い遠浅地帯である。国情が鬼奴国と鬼《クイ》の意味ではまったく共通しており、違っているのは奴の文字があるかないかだけである。それは前者に水田が多く、後者には乏しく、畑作地帯が多かったからであろう。それゆえ、後世この国を飽田郡と名付けたのも、背後の丘陵地帯が開墾され、耕地が拡がったので、大杵(鬼)田と称していたものを、和銅の改名で表記のように二字名に改めたものと思われる。キが単なるキならば秋田でもよかったはずである。クィの発音を残すため、大杵(大鬼)に飽の字をあてていることは、誰の目にも明らかであろう。またこうした用字法は改名当時の常套手段であった。一見関係がなさそうに見える飽田郡も、こうして追求してゆくと鬼国の名残が今にはっきりと残されていることに、今さらのように驚く。それに比べて、近年全国的に無学文盲の徒によって無差別に遂行されつつある町名改正は狂気の沙汰といわなければならない。悔を千載に残すというのはこのことであろう。
現在熊本市に編入されている川尻方面は、邪馬台国時代にはまだ海中で、緑川と白川との間は熊本市の中心部付近まで大きな干潟の入江になっていたことを付記しておく。
メモ――この国の弥生遺跡や古墳は鬼奴国に劣らずおびただしいもので、特に白川と坪井川の中間台地には立田、黒髪などの貴重な遺跡が多い。有名な装飾古墳としては稲荷山及び権現山古墳群などがある。本書旧版の表紙カバーも、熊本市の有明海にのぞんだ前記権現山南麓にある千金甲装飾古墳の壁画の一部である。
また鬼奴国と為吾国と当国の接点に当たる菊池川左岸地帯(鹿央町)の岩原古墳群や、千田、塚原古墳群などは見学に値する。現在は案内書や遺跡地図なども多数発行されているので、詳細は省略する。
四 華奴蘇奴国
華奴蘇奴クワドソドゲヌソヌ
肥後国|合志郡《かはしのこほり》、菊池郡《くくちのこほり》。現、熊本県菊池市及び菊池郡のうち白川沿いの大津町菊陽町を除く一帯で、菊池川をはさんでその本流及び支流にわたって拡がっていた国。鬼国の北東、為吾国の東部に隣接する国として比定した。
華奴は菊池川本流に沿った川岸の水田地帯を指し、蘇奴は上流の蘇奴(阿蘇)に近い水田地帯を指しているようである。華《クワ》は川の意で、川奴がつまってクヮド(ヌ)と発音されていたのであろう。その証拠に、後世この地方が合志《かわし》郡と呼ばれるようになったのも、奴の字にかえて、網の目のように小川が入り組んだこの地方にふさわしい水源地帯の意を表す志《シ》(沁《シ》みる、湿《シ》める)に変わっているだけである。蘇奴もまた菊池市の背後はすぐ阿蘇であり、その阿蘇の蘇奴と混同を避けるために、蘇奴に続く菊池川流域の蘇奴の意味で華奴蘇奴と呼ばれたのではなかろうか。
菊池《ククチ》も菊池川本流の水源という意味で、川河内がククチになったものと思われる。
メモ――この国の遺跡の特徴は、縄文、弥生、古墳の各期にわたる貴重な重層遺跡が多いことである。菊池市だけでも五十ヵ所を越えるほどだし、いちいち取り上げていてはきりがない。幸い菊池川の上流に達したところで、この川の流域全体の遺跡について総括的にのべておこう。
菊池川流域の考古学的遺跡は優に千ヵ所を越える。有明海の河口から本流の流域はいうに及ばず、各支流の流域ごとに、そして最上流の菊池川水源地方にいたるまで、まさにわが国における考古学研究のメッカである。そこには先土器遺跡あり、縄文、弥生、土師、須恵など各様式の土器出土遺跡あり、生活遺跡あり、住居趾あり、製鉄遺跡あり、支石墓あり。古墳は弥生甕棺群、石棺群、舟形石棺をはじめ、わが国でも著名な方墳、円墳、前方後円墳などの高塚古墳がひしめき合っている。中でも丹《に》に彩られた装飾古墳の多いことでは、わが国随一であろう。山鹿温泉のごときは町中が古墳だらけで、古墳の湯町とでもいいたいくらいだ。私たちはこの流域だけで、すべての考古学的遺産に接することができる。目の悪い私など終日車でかけまわってその場所を確かめるだけで、ざっと十日間を要した。それでもまだ十分とはいえなかったほどである。
大和地方の古墳は規模こそ大きいが、権力の威圧があるだけで生活の匂いが漂ってこない。日本人のふるさとを偲びたいと思うなら、この菊池川流域を中心に、北は筑紫平野から南は熊本県南を経て薩摩路へ、そして佐賀県から長崎県へと有明海沿岸をめぐる古墳ベルトをたずねるとき、諸君はそのふるさとが、どんな風土で培われたかを新たに発見されるだろう。
五 呼邑国
呼邑コィコオフ
肥後国|託麻郡《たくまのこほり》、合志郡《かはしのこほり》の一部。現、熊本県菊池郡大津町、菊陽町及び熊本市東半(白川以東)の白川流域にひろがっていた国。
鬼国の東、華奴蘇奴国の南、蘇奴国の西及び対蘇国の北に隣接する。
呼邑を漢音で読めば河《コ》と入江《イフ〈エ〉》の意味となり、呉音で読めば単に川(河尾《コヲ》)と考えられる。いずれにしても鬼国や華奴蘇奴国に隣接し、しかも誰が考えても今に残る阿蘇の奴(蘇奴国)に続く川に縁のある国といえば、白川流域を除いては他に考えられない。現在熊本市の周辺にわずかに残る飽託郡は、説明するまでもなく飽田と託麻を合併して名付けられた郡である。その飽田郡と託麻郡の境界は、ほぼ現在の熊本市を貫流する白川であった。
熊本の地名の由来もいろいろ論じられているが、要するにタクマのタをとってクマ(川岸の高地)のモト、すなわち川口の邑《ムラ》という意味になりそうだ。こじつけになるようだが、熊本そのものが呼邑国の名を、そのまま引き継いでいるように思われてならない。
この熊本市はその大半が邪馬台国時代にはまだ海中であったと前に述べたが、そのころの海は宇土半島から現在の熊本平野を覆いつくし、深く入りこんで大きな湾になっていた。この陸化の原因を多くの人が、ここに流入する何本かの川が阿蘇の火山灰を運んで堆積させたように単純に考えているが、それは上流のごく一部の地帯であって、大部分のゼロメートルに近い平地は、いったん有明海に放出された泥土が再び満潮時に押し返されて、よどんだ泥土がそのまま沈澱堆積して形成されたものである。これは満干の差が激しい有明海や八代海の最高満潮日から小潮に移る毎日の過程で起こる顕著な現象によるものである。有明海や八代海の広い干潟は、みなこうしてできたものである。
これを記紀神話では産巣日《むすひ》、産霊《むすひ》と記し、大部分の学者はその理由を知らず、霊や結びと結びつけて神霊学的に説明されているが、珍なることといわなければならない。
大津町や菊陽町は現在菊池郡に属しているが、もとは合志郡であった。それで領域の説明がややこしくなっているのもそのためである。
メモ――この国の考古学的な遺産として特徴的なことは、縄文、弥生、須恵、古墳の各期に及ぶ貴重な遺跡が、菊池川上流に劣らず多いことである。中でも大津町のワクド石遺跡は、第一部で述べた島原の山の寺式土器とともに、玄米の圧痕のある縄文晩期の土器が発見されたことで有名である。これらの証拠が、従来考えられてきた稲作開始の時期を弥生初期としてきた定説を覆し、さらにそれより古い縄文晩期までさかのぼることが、いまや常識となっている端緒であることを忘れてはなるまい。
なお銅器の出土例からみて、背振山東南麓から筑紫平野を中心とする銅鉾文化圏が、この白川をほぼ南限としていることは注目すべきことである。また同様に肥後南部産の弥生後期に属する免田式土器が白川以北で激減するといった不思議な一致をみるが、このことについては続篇で論及したい。
六 蘇奴国
蘇奴ソドソヌ
肥後国|阿蘇郡《あそのこほり》北半。現、熊本県阿蘇郡のうち、西は白川口より阿蘇内外輪山を東西に結んだ北半部。呼邑国及び華奴蘇奴国の東、対蘇国の北に隣接する国として比定した。阿蘇国は元、平地や水田の多いこの黒川沿いの蘇奴国と、比較的に丘陵や高原の多い白川からさらに上流へさかのぼった高森町あたりまでの、次に比定する対蘇国とを合併してのちに総称するようになったもののようである。
蘇奴のソは、ヘソ(臍)、ソソ(陰部)などのソや、ソマ(杣)、ソムク(背)などに共通する、面に対する背であり、くぼみである。古語で女性の陰部をホトというのは、ホは腹のハやへの発音と原音は同じであるから、腹のくぼみがヘソ、ホソであり、玄関口がホトである。そのように地形でソというときは、谷間や盆地と訳した方が正しいようである。たとえば、木曾も丘陵(キ)と谷間(ソ)すなわち渓谷の国という意味であり、杣《ソマ》はそうした谷間の台地をいうのである。単に人里離れた山奥を杣《ソマ》ともいうが、本来の意味は周囲の山が壁のように迫った山間の平地を指している。隣接する宮崎県臼杵郡のスもソの転音で、大きな渓谷という意味を持っており、木曾をひっくり返した曾木といってもいいわけである。五ケ瀬川流域の地形をよくいい表わしており、さらに西に隣接した緑川流域の熊本県益城郡がこれに対応する。大渓谷(ウ)に対してそれより耕地(マ)が多いという意味の違いだけである。
後世、郡家の中心が一宮付近にあったようであるから、遺跡の数からみても蘇奴国の中心は一宮町から阿蘇町付近ではなかったろうか。旧版では阿蘇全体を蘇奴国に比定していたが、その後の再調査で南北に対蘇国と二分したほうが適当だと考えられるので、訂正する。
蘇奴、対蘇がいまの阿蘇地方であることについては、だれにも異存はなかろう。この地方は意外に早くから開けていたようである。景行紀、風土記にも阿蘇都彦、阿蘇津媛の物語が記載されており、他の国の場合は、厚鹿文《あつかや》、|※鹿文《さかや》とか土折《つちおり》、猪折《いおり》、津頬《つつら》などと土俗的な土蜘蛛《つちぐも》名をもって呼ばれているのに対し、島原半島の高来津座《たかくつくら》神と共に、神の敬称をもって記されているのが特徴である。相当の勢力と高度の文化があったからだといわざるを得ない。
メモ――この阿蘇地方にも遺跡は相当に多く、中でも一宮付近には縄文、弥生の各期にわたる遺跡と、壮大な古墳群が集中している。ここの古墳群は中通り古墳群と古城古墳群の二地帯に分けられるようである。中通りの長目塚は全長百二十メートル、後円部の高さが十メートルもある肥後でも最大級のもので、後円部が高く前方部が低くて細長い、典型的な前期形式のものである。阿蘇の噴煙を背景に高原に眠る雄大な姿は古代をしのぶのにふさわしい。かつて私は学生の頃、とうきび畑の彼方にこの古墳を眺めて感動したことがあるが、いまだにそのときの情景が瞼に焼きついて離れない。
ところが、たまたまこの古墳の前方部から発見された石室は竪穴式で、古い形式に属するものであったが、中の勾玉《まがたま》や鏡、鉄鏃などの副葬品は、畿内の古墳中期以後に現われる新しいものであった。そこで九州の前期形式の古墳は、形は古いが内容は新しいので、畿内の模倣であるといった例に、よくこの長目塚が引用される。しかし、発掘された副葬品は前方部からであって、古墳の中心たる後円部からではない。おそらく前に述べた、合葬形式による後の追葬と考えられないこともないのである。この状態は仁徳陵と酷似しており、肝心の後円部から発掘されたのではないから、完全な調査とはいいがたい。問題をなげかける古墳である。
七 対蘇国
対蘇タィソツィソ
肥後国|阿蘇郡《あそのこほり》南半部と、日向《ひうがの》国《くに》臼杵郡《うすきのこほり》西半部。現、熊本県阿蘇郡のうち、蘇奴国に比定した以南の阿蘇地方から、宮崎県西臼杵郡の高千穂一帯にかけてひろがっていた国。
この地方は有名な民謡「刈干切唄」のふるさとである。対蘇の対《タ》が畑作地帯を意味するので、水田が比較的に多い蘇の奴に続く蘇の畑(対)の国という意味で、蘇奴国の南に、次の姐奴国の東に隣接する国として比定した。旧版では、外輪山から以南の地だけを比定していたが、その後の調査で南郷谷も含めたほうがいいように思うので、少し地域を北に拡大する。
ところで、高千穂町は現在宮崎県に属しているが、古くは知保郷《ちほのおおさと》と呼ばれ、阿蘇国に属していた。その後、広域の襲《ソ》(蘇)の国から日向国を分割して独立せしめたとき、阿蘇国を阿蘇郡として肥後国に編入し、そのとき、知保も臼杵郡と阿蘇郡に二分して現在のようになったものと考えられる。知保地方は、緑川と五ケ瀬川の最上流で、それぞれ東西に分かれて源を発するところである。阿蘇外輪山の峠を一つ越えれば白川の上流であり、さらに尾根伝いに行けば、菊池川の上流にも通じているのである。東北へ進めば大野川の上流であり、北の峠を越えれば筑後川の上流である。
この高原から東に下れば日向《ひゆうが》、東北に下れば豊後《ぶんご》、北に下れば筑後、西に下れば肥後である。九州中央の屋根とはいいながら、この高原には、水あり、山あり、丘あり、水田あり、畑あり、豊かな生活環境に加えて、九州古代交通路の要衝《ようしよう》でもあった。東西横断の、そして南北縦断の最短コースにも当たっているこの対蘇国は、それぞれ異なった文化圏の交流や交易の場所ともなり、それはあたかもシルクロードによって栄えた、かつての中央アジアのオアシスのようでもあった。
神功《じんぐう》皇后の名によって伏せられている、その実は神武天皇(その子を応神天皇と称するのは神武に対する名称である)の東征物語を神代と地上の中間にさしはさんで、フィクションによってつなごうとするとき、その本名である狭野尊《サヌノミコト》の出身地、姐奴《シヤヌ》から出発させず、緑川を遡《さかのぼ》って五ケ瀬川を下らせ、九州の東海岸を東に向かわせたとしても、いっこうにふしぎではないのである。
そしてまた神武紀に物語られた性格は、継体天皇の畿内進出にもその分身が認められることをここに予告しておこう。案外、五ケ瀬川の河口の王は、神武天皇ではなく葛城曾都比古《カツラギノソツヒコ》であったかもしれないことも。
要するに神話の発想が、漠然とではあるが、この地上とつなぐのになぜこの地方を利用しなければならなかったかという点の原因を重くみて、私はいま、一応のアウトラインを説明しているのである。それだけにきわめて重要な地帯であるが、だからといって神話に述べられる「筑紫の日向の高千穂の峰」や高天原とは、なんら文献的にも考古学的にも結びつかない。
宮崎県の人には悪いが、神話でいう日向《ひむか》はいまの宮崎県である日向《ひゆうが》を指しているのではなく、明らかに筑紫の対岸という意味なのである。いままでもたびたび述べてきたように、日が太陽の日ではなく、だれがなんといおうと、干潟のヒであることは、呼邑国の項でもちょっとふれておいたが、産巣日《ムスヒ》(産霊)をはじめ随所に干潟や海岸の意味として使用されていることが、このことを雄弁に物語っている。
メモ――この地方の遺跡としては、縄文早期から弥生晩期にわたる長期の継承的な遺跡が各地に多い。これは、この地方に古くからある程度の文化が開けていたことを物語るものである。古墳は上の園古墳群を含む十基内外の高森町のものを除けば、西原町の横穴古墳や石棺群、蘇陽町の北平古墳、高千穂町付近の横穴古墳群などがあるが、あまり見るべきものはない。しかし、このことは現地を踏査した結果、古墳時代にはいってから、文化と権力の中心が阿蘇谷中流域から海岸近くに移動したため、そのまま弥生時代の姿で取り残され、同じ弥生期のものでも相当に時代がずれて、判別が誤られているのではないかという印象を受ける。
毛むくじゃらの熊襲《くまそ》を連想させ、しっぽがついていたというナンセンスな土ぐもを生んだ説話も、こうした弥生時代の姿のままで、古墳時代の末期まで存在した部落や集団があったことを物語っているのかもしれない。
私はかつて戦前に東北を旅行したことがある。まだ雪解けがはじまったばかりの春先だった。山形から新発田《しばた》へ抜ける山村の寒駅で、四、五人の人がどやどやと乗り込んできた。ひょいと振り向いて、私は肝をつぶすほど驚いた。すぐ背後に大きなケダモノが何匹も立っていたからである。よく見ると、いま乗り込んできた人たちが、マントの代わりに羽織っているケダモノの皮だった。しっぽが床までとどくほど垂れていた。そのとき、私は「土ぐもの本体はこれだナ」と思った。単純だが案外こんなところに説話の本質がひそんでいるのかもしれない。
第六章 緑川から八代海沿岸の国々
一 姐奴国
姐奴シャ(ショ)ドセ(ソ)ヌ
肥後国|益城郡《ましきのこほり》。現、熊本県|上益城《かみましき》郡及び下益城《しもましき》郡(富合町、松橋《まつばせ》町、小川町を除く)一帯で、緑川流域にひろがっていた国。呼邑国の南、対蘇国の西に隣接した国として比定した。
現在の緑川は国道三号線より下流でも、有明海に達する河口までは七キロもある。ところが邪馬台国時代には、それよりさらに約四キロもさかのぼった付近が入江の海岸になっていた。千七百年の間に緑川は少なくとも河口を十キロ余も張り出している。実に毎年、六・五メートルずつ歩き続けていたことになる。したがって嘉島町城南町の一部、富合町のほとんどはまだ当時は水中であった。今、熊本平野の一角に立って邪馬台国時代を偲ぼうとすれば、熊本市から宇土《うと》半島までの目に映るすべての水田を取り除き、目の高さより高い周囲の丘を当時の海岸線として想像しなければならない。とかく最近の邪馬台国を論じる人の中には、平気でこうした海中すらも国の中心部として扱っているような傾向の人が多い。そして、ヒンターランドの生産力という現代的な言葉を使いたがるのである。
姐のシャとかショとかいう音で写された日本語の元の音は、サに近い音ではなかったろうか。たとえば岬をミシャキ、私に対しては「ミヤシャキさん」と呼ぶある国の人たちがいる。異国人ならずとも、喫茶《キツシヤ》店、臭《クシヤ》い、魚《シヤカナ》といったり、また猛者《モサ》(モシャ)、砂金《サキン》(シャキン)といった具合に混用されやすいのである。特に九州弁にはこの傾向が強い。
それでは「サ」とはいったい何を意味するのだろうか。この場合、サキ(崎)、ミサキ(岬)などに使われるサのことで、峙《そばだ》つとか、切り立つとか、抉る、壁のような、といった意味のようである。サは姐の呉音が示すようにソにも転じやすく、さらにスにも転訛する。だから阿蘇のソも臼杵のスも、益城のスも、元は同意義なのである。和名抄に益城を萬志岐《ましき》と読ませているが、これは阿蘇や祖母(山)や臼杵と対応して名付けられているので、マスキと読むべきであろう。
益城のマはクマのマであり、スはサ、ソなどのスをとり、この二音を合わせて益の字をあてたように思われる。かつての河口近くに古い地名として隈庄《くまのしよう》(上古は隈牟田という)、中流に甲佐《こうさ》(甲は川のこと)が現存するほか、シャがサとなって残っている地名に寒野《さまの》(マをとればまさに姐奴である)、佐俣《さまた》、入佐などがあり、みな川岸である。
次に城の音であるが、この地方は広い丘陵や山が重なり合った、いわゆるタケ(建《たけ》、岳、嶽、古事記では多気《タケ》と書く)地帯である。このタケに火(ホ、ハ)をつけて燃せば、畑《ハタケ》となる。こうして開墾された畑と、盆地や川の流域の水田とが抱き合って、この地方の耕地は意外に広くて充実している。ケは万葉仮名でもわかるように、キの音に変わりやすい。高千穂の高も、タケのチホという意味である。中流域から上流にかけて、熊襲に対してクマのタケまたはソのタケの国と呼んでいたような形跡もある(クマソを学者までが特定の人種のようにいわれるが、もともとクマソは以上のような地形や地方を指しているのである)。このキをとって城をあて、前記の益と組み合わせて益城と名付けたのではなかろうか。
姐奴とは以上のような意味から、こうした地勢をふまえて、実情に即して呼ばれた国名だと思う。そしてこの姐奴は、素戔嗚尊《すさのおのみこと》、記では建速須佐之男命《たけはやすさのおのみこと》(従来スサノオノミコトと続けて読んできたが、ソのサノのオオミコトと読んだほうが適切だと思う。建速のハヤは記紀に明記されたとおり有明海のこと)の物語や、日本《やまと》武尊《たけるのみこと》(小碓《おうす》命)伝説の熊襲の川上《かわかみ》梟帥《たける》(熊曾建《くまそたける》)の物語や狭野尊(神武天皇)とも深い血縁を持っているのである。
佐俣と寒野
例によって私が姐奴を緑川流域に比定したとき、シャヌの音に関係のある地名はないかと妻に地図を捜させた。すぐにその地名はみつかった。佐俣《さまた》と寒野《さまの》だ。さっそく現地に出かけて調べてみると、私が頭にえがいていた古代語そっくりの地形になっているのには驚いた。
佐俣とは川岸から段々に水田がつづいている地形でなければならない。佐俣にいってみると、眼下に緑川の支流である釈迦院《しやかいん》川が深い谿谷《けいこく》をつくって流れ、その川岸から、段々に耕された水田や畑が町の背後へ積み上げられていた。地図ではわからなかったが、町はこの川岸の段丘に沿って静まりかえっていた。
この地方を旅行された方ならご存じのはずだが、このような部落が、川岸の段々になった絶壁の上に点々と取り残されている風景に異様な感じを抱かれたと思う。これは川の両岸が堅い岩石で形成されているために、川床が長年月の間に下へ下へと抉られてゆくから、谿谷はますます深くなる。それで、かつての川岸にあった部落が、下から見るといつの間にか、はるか頭上にあるように見えるのである。それとは逆に、山中の川で比較的に川岸がなだらかなのは、地盤が柔らかくて、洪水のたびに崩壊するからである。
全国の河川はこのいずれかのパターンに属するわけだが、この流域に住む古代の人も、その川の性格に従ってその風土に適する生き方を決定してきた。農業もそのためにさまざまな変化と様式を持っている。だから考古学的な遺物も、形式が優先するのではなく、その河川や風土が優先することを忘れてはならない。そして、その風土の中に形成された文化が今日もなお、それぞれの地方に継承されているはずである。それが本当の文化なのだ。それなのに、今は文化を喪失して、文明の残骸に喘《あえ》いでいる都市消費生活者の、衝動的な人の気を引くさまざまな生活の様子がマスコミにのって流されると、それが本当の新しい文化と早合点したり、鵜呑みしてそれをまねようとする傾向が、今や全国を覆《おお》いつくしているが、まことに憂うべきことである。
この緑川をさかのぼり、あるいは阿蘇高原を越えて、高千穂から五ケ瀬川への旅は、おそらく多くの人に忘れられた日本人のふるさとを思いおこさせ、はるかな原始の太古にかえり、人間が人間であるためには、どんなことを、どんなふうに考えればいいのかを、そこに住む人たちが自然の黙示として教えてくれるだろう。
寒野は、妻がステッキをとってさし示してくれる渓谷の向こう側にあった。はじめサムノと読むのだろうと思っていたら、土地の人から、サマノだと聞かされた。それはどちらでもよい。私たちはいったん川底に降りてふたたび坂をのぼり寒野へ向かった。車が山裾をめぐって眼前に寒野の町がひらけたとき、妻はかすかに嘆声を漏らした。田植えの真っ最中だったのである。広々とひらけた水田とその向こうに丘のある風景が、目の見えない私にも容易に感じとれた。舞い込んでくる風の匂いに河童《かつぱ》の小便のようななまぐさいにおいが混じっている。
「川だ!」思わず私が叫ぶと、「そうです。向こうに緑川の本流が見えます」と妻がいった。
寒野《さまの》は、佐俣の足もとを流れていた釈迦院川と緑川の本流にはさまれた台地にあった。二つの川はすぐこの下流で合流する。そこが甲佐《こうさ》である。緑川の川幅はここからぐっと広くなり、御船町のあたりで、台地をはさんで御船川としばらく並行して流れ、嘉島《かしま》町と城南町が向かい合った所で合流し、有明海へ注ぐのである。
この付近の複雑な地形は、地図の上では簡単なようであるが、いってみなければわからない。海岸に近い河口は平凡なデルタで、ご多分にもれない干拓地のつぎはぎだらけの平野であるが、少し上流では、台地や丘が突出して、それぞれ独立した川岸の平野をつくっており、他の河川にみられるような簡単な三角州ではないのである。
このことについて乙益重隆氏は、次のようなおもしろい話をしてくれた。
緑川流域の二つの文化圏
御船《みふね》川が緑川本流と合流する城南町以西の下流では(ここらあたりが邪馬台国時代の海岸で以下の水田はその後の陸化によるものである)緑川をはさんで右岸と左岸とでは、条里溝の立て方がまったく異なっている。北側の右岸では溝が緑川に直角に南北に掘られており、南側の左岸では緑川と並行して東西に作られているということであった。氏は緑川をはさんで異なった文化圏が存在していたからではないかということについて、さらに強調された。彼はわが国でも知名の、私の最も尊敬するバイタリティに富んだまじめな学者である。
この話を、なるほどと聞きながらも、失礼なことではあるが、私はまったく別なことを考えていた。それは、この緑川をはさんで条里溝の立て方が違っているのは、「流れ」のせいではないかと思ったからである。
緑川の本流は大きくて長い。雨が降れば上流の山や谷の水を集めて、一時にどっと水量を増して流れ下ってくる。したがって下流の川幅は晴雨によって振幅の度が大きい。これに対して、御船川が合流する少し下流で、加勢川というのがきわめて複雑な蛇行をしながら緑川に接近している。昔は、接近した付近では合流していたのだろう。この川は、緑川とはほぼ直角に南北に流れ込んでいる。これらの川は本流に比べて上流の集水面積も小さい。かりに両方の川が雨後に増水した場合と、晴天続きで減水した場合の、流域の水田がこうむる影響について考えてみると、右岸と左岸とでは、水の溢れぐあいが東西と南北にそれぞれ違った溢れ方をするはずである。逆にふだんの日の、水の取り口や排水のぐあいは、川に沿って溝を立てなければならないだろう。川の水は太古から、低い方へ向かって流れるようにきまっている。また川の水が上流の土砂を運搬する場合の性質にも、川によって違いがあるだろう。それに南側には浜戸川も並行して流れているのである。ふだんの濁りぐあい、上流の土質の違い、堆積《たいせき》される場所が中流の屈曲部と下流の場合とでは、性質に相当の差が生じることも考慮されなければならない。また増水のつど、土砂でたびたび溝が埋められるようなことであってはならない。
こうした自然条件に対抗して、適当な方法を講じようとする知恵が古代人にも必ずあったはずである。私は一つの文化圏によって方法が決定される前に、生き方の方法が決定されることによって一つの文化圏が生まれるのだと考える。ここで私が緑川下流の水田について、くどくど述べているのは、乙益氏への反駁を試みているのではない。むしろ私は彼の考えに大いに賛成している。だから私は私の考え方を加えて、それから生じた二つの水田様式なり文化圏がここに存在していた事実を、より強調しておきたいのである。それはこの緑川を境に考古学的な遺産も著しい差を示し、多くの問題を提起しているからである。
メモ――この地方にも縄文から弥生、古墳時代の各期にわたる遺跡が多い。特に横穴古墳はこの地方に特徴的なもので、呼邑国の項で述べたように、北九州に対して南九州の生活様式の違いを如実に物語っている。注目すべきことは、以上のような私の説明から、緑川をはるかにさかのぼった阿蘇の外輪山地帯は邪馬台国と関係のある文化が当時果たして存在しただろうかと疑問を持つ人もあるだろうが、矢部町の枯木原縄文弥生混合遺跡から漢式鏡が出土していることを付け加えておく。なおまた、この緑川上流域の調査はいまだ充分に尽されておらず、今後ぞくぞくと新事実が発見されるだろう。
城南町の阿高、御領、沈目《しずめ》、尾窪、宮地、隈庄、塚原、坂野などの各地区には、縄文弥生の貝塚、遺跡、古墳が密集し、考古学館さながらの観がある。ここの遺跡には学界でも有名なものが多く、国学院大の乙益重隆氏が、熊本女子大教授当時、発掘して名付けられた九州の代表的な幾つかの土器形式名のふるさとでもある。ところがこの中の塚原大古墳群のまっ只中を九州縦貫道が蹴散らして通るのである。
この塚原古墳群は南北五百メートル、東西八百メートルにひろがり、わが国最大の方形周溝墓群をはじめ、前方後円墳、石棺など百数十基がひしめきあっている熊本県最大の大古墳群である。虚構の畿内高塚古墳発生説を嘲笑《あざわら》うかのように、ここの古墳群は四世紀から五、六世紀へかけて、方形墓から円墳、前方後円墳へと移行してゆく鮮かな模式を示す貴重な遺跡である。
ここに縦貫道を通すか通さないか、破壊するか保存するか、地元と県と道路公団との間で数年間もめ続けてきた。結局、昭和五十一年十二月に文化庁も史跡として指定し、県と地元と地権者と公団とで該地域を保存地域として確保し、道路はトンネルを掘り、古墳の下を通すことで落着した。まさにナンセンスである。
公団側が終始、設計変更は絶対にできないと頑張り続けたから、こんなぶざまなことになったのである。人間がきめたことが、どうして変更できないことがあろうか。センターを少し東へ修正しさえすれば、古墳群はほとんど避けて通れるのである。それができないというのは、用地買収予算その他を変更するのがいやなのだ。それをいつも彼らは、技術的に絶対にできないと言いはるのである。事前調査の段階でセンターが古墳の上を通ることくらいは、だれでもわかるはずである。それを平気で杭を打って仕事をすすめようとするところに、土木技術屋の視野の狭さと教養の低さがある。これは大学教育が技術オンリーに偏しているからだ。その結果、彼らは自分たちだけが最高の文化の保持者と誤信し、逆に文化の破壊者となり下ってしまうのである。着工がのびのびになり、最後にトンネルを掘るくらいなら、最初からいさぎよく変更すれば恥をさらさないでよかったろうに。成田空港とともに末代までの語りぐさとなろう。
当時は、公団側が工事を始めるようになったから、この古墳群が発見されたという人もいたが、三十七年度熊本県教委作定の「熊本県埋蔵文化財遺跡地名表」にも、すでに十数基の古墳がその豊富な内容とともに記載されている。私も旧版でこの地方の遺跡や古墳の保存と発見を特に呼びかけ、講演や執筆の機会あるごとに声を嗄らしてきた。もう少し事態を認識し、県教委が積極的に手続きをとり、文化庁が重い腰をあげて、もっと早く指定していたら、こんな紛争は起きなかっただろう。今後はこうした工事計画の当初に、もっと地元や地方の研究家たちの意見も面倒くさがらずに聞き、慎重に事をすすめることが大事だと思う。
私が声を大にして呼びかけたというのも、肥後国志の中の次のような一文を記憶していたからである。「肥後国志。下益城郡|廻江手永《マイノエテナガ》、豊田荘塚原村、九十九塚――塚原ノ地名|依之《コレニヨル》、九十九ノ塚諸所ニアリ、其|所以《ユエン》ヲ知ラズ。里俗此塚ハ百ケ所ニアリトテ百本ノ串ヲ造リ、塚毎ニ一本ヅツ立ルニ一本ハ必ズ残ル故ニ九十九塚ト言フ。享保年間農夫過ツテ塚ノ傍ヲ崩セシニ内ニ石棺有テ崩レタル中ニ、亘リ二寸計リノ金ノ環アリシヲ驚キ怖レテ旧ノ如ク納メタリト言フ」と。
二 不呼国
不呼フウコフク
肥後国|宇土郡《うとのこほり》及び益城郡《ましきのこほり》の一部。現、熊本県宇土市から木原山西南麓を中心に宇土半島一帯にひろがっていた国。姐奴国に続く呼邑国の対岸、そして次の好古都国に隣接した国として、また地名考証や歴史的遺産の上からもこの地方を不呼国として比定した。
不呼の不は、不弥国の不、呼は呼邑国の呼に対応する言葉である。その国の項で述べたように、「不」は丸い形をした地形や入江、「呼」は河であることについては、すでにご理解ねがっているものと思う。現在の熊本平野が、当時はまだ海であったことについても、述べてきた。ここを水没した状態で考えると、まさに不(浦《ほ》)の海である。
この小湾には北から坪井川、白川、木山川(加勢川)、御船川、緑川、浜戸川といった比較的に水量の多い大きな川が、やたらと流入して河口デルタ地帯を形成している。そんな状態を不呼《フウコ》(福)の海と称し、その海に面していたから不呼と呼んだのであろう。これを呉音で発音すると、フクとなる。後世ある時期には福の国と称していたのかもしれない。河川が浸蝕や堆積によって屈曲し、デルタの状態もふくれて成長するから、今福(この場合の岸は岩石か在来の陸地)、豊福(かつて水道と入江に面していた所)などの地名が生まれるのである。
実は宇土半島の北側を福の海と仮称したが、南側の海についても同様のことがいえるのである。いずれの海をとって不呼国と呼んだか、今もって私自身も正直のところ決しかねている。
宇土半島のネックから以東の木原山周辺は上古以来、八代《やつしろ》郡であったり益城郡になったり宇土郡であったり、特に中古以後は武将争奪の地となって交替が激しいので、もともとどの村がどの郡に属していたかを詳細に述べることは不可能に近い。益城郡に富神《フコウ》なる郷名がある。これはトムチと読み、砥用《ともち》方面だとする説もあるが、定かではない。現在宇土市に隣接して富合《とみあい》町があるが、これもフコウと読めないことはない。しかしこの町は守富《もりどみ》村と杉合《すぎあい》村が合併してできた町である(このことについて、旧版では紙数がないので省略して特にふれなかったところ、相当数の読者からこの町は関係がないのかとの質問を受けたので、念のため付記しておく。地名は、うっかり鵜呑みにしてはならない。私が古い地名をあげる場合は、少なくとも中世以前の文献などに記録されたものに限り採用している)。
地形の変貌により不呼が宇土に?
この地方には、前記した豊福の他、古保山《こほやま》、古保里《こほさと》などの古い地名が多いのも、この不呼国と何か深い関係があるように思われる。そもそも宇土《うと》市の地名の由来も、もとは次に記す好古都国の都(戸)と不呼国のフウのウと併わせて(都《ト》、土《ト》、戸《ト》のいずれも甲類である)宇土《うと》となったように考えられないこともないが、実はここは上古まで八代海と有明海をつなぐ水道になっていたのである。幕末まで市の中央にある宇土城の堀には、満潮時になると数キロも離れた有明海から掘割を伝って潮がさしていた記録が残っている。それほどこの付近の低地は若いのである。
実際に現地を踏査してみると、不知火《しらぬい》町と宇土市との境界に近い小曾部《こそべ》部落と柏原部落との間は、現在も標高三、四メートルの水田で、だれの目にも水道であったことがよくわかる。国鉄鹿児島本線と国道三号線は、おおむねこの水道を東側の岸に沿って走っているのである。少なくとも私の知見では、不呼の戸が宇土となったものだと考える。
しかしここで私には、もう一点、大きな疑問が残るのである。それはこの水道に面した東側の台地が、半月形のフクの形状をしているので、わざわざ両サイドの海をフクの海と考えなくても、宇土そのものが不呼であったかもしれない。そしてある時期に周囲の海の陸化が進み、それまで豊かな海の潮で満たされていた小海峡は、満潮時にだけ潮の通う水道となり、役に立たなくなってしまう。そこで多くの人々によって水路が掘削されたとき、不呼の名称が消滅して宇土にとって代わられたのではないかとも考えられるのである。この地形の変貌に伴う地名の変化は、不弥国が宇美となるのと、不呼国が宇土になるのと酷似していないだろうか。ともあれ、宇土は不呼の変身であることにまちがいはないようである。
古代の有明海沿岸の文化と八代海沿岸の文化は、この水道を通って互いに交流し、物資も交易され、戦いも繰り返されたであろう。その証拠に、担いではとうてい運べそうもない、発掘されているだけでも莫大な量の土器、古墳に使用されたその土地のものとは異質な石材の移動が、この水道を利用して容易に果たされていたことを、遺跡や古墳が色濃く物語っている。
旧版では城南町一帯を不呼国に含めていたが、その後の調査で、邪馬台国時代には木原山北麓はまだ山裾まで完全な海であった。そのため耕地も宇土方面とは続いていなかったことが判明したので、同地方を姐奴国にくり入れ、不呼国からはずした。旧版の早断をわびて、ここに訂正する。
メモ――この国には遺跡や古墳が足の踏み場もないほど多い。そのいくつかは考古学の標式遺跡になっている。汐干狩で貝を掘るように、どこを掘っても土器のかけらがザクザク出てくる。遺跡が多いのではなく、遺跡の上に町や村が、スッポリとのっかっているのである。そして人々は今もさりげなく古墳や遺跡と共存しているのである。それは大和地方の比ではない。宇土半島の先端、三角町から宇土市に至る丘という丘や岬は古墳の連続で、木原山や古保山は古墳の山といっていいくらいに、今でも一歩足を踏み入れると、どの古墳かに突き当たる。三号線を車で通ると、窓外の目に映る小高い丘という丘は、すべて古墳なのである。中には全長が百メートルもある後円部の高い前期形式のものも多く、詳細に調査すれば、この地方の古墳は優に数百基はあるだろう。それらについて、いちいちあげていたら紙数がいくらあっても足りない。著名なものの中から問題とされる遺跡や古墳だけをあげておこう。
まず宇土半島の先端、三角町には八十ヵ所余りの縄文から古墳時代に至る遺跡、古墳群を数えることができるが、主に波多地区に集中して発見されている。南岸の郡浦《こおのうら》、戸馳《とばせ》島にも多い。
宇土市では縄文早期の土器の基準となっている曾畑《そばた》(標式地)、縄文前期の轟《とどろき》(標式地)などの貝塚が知られ、前記した国道三号線沿いの東側の丘には、チャン山古墳に続いて、完全な女性人骨をはじめ豊富な副葬品で最近学界の注目を集めた向野田《むかいのだ》古墳(いずれも前期形式)がある。木原山西麓からこのあたりにかけては、縄文―弥生―古墳を通じての遺跡群をなしている。
国道をはさんで反対側の宇土半島のネックに当たる丘には、天神山、迫《さこ》の上《かみ》、擂鉢山、稜線の南、不知火《しらぬい》町側には、旧版に詳しく述べた国越《くにごし》、鴨籠《かもご》、弁天山等、いずれも前期形式の相当大きな前方後円墳がある。国鉄松橋駅裏の御領、高良から、松橋《まつばせ》町の大野、豊福へかけては縄文貝塚が多く、やはり弥生、古墳へと引き続く遺跡群に、古代人の生活がしのばれる。同町|古保山《こほやま》には円墳を主とする古墳、石棺群が多く、宇土市の古保里《こほさと》と対応している。宇賀岳《うがだけ》古墳は突起を持つ装飾古墳で知られる。
また豊福から小川町にかけては、微高地、東部台地に、中小野引地貝塚、南小野立田遺跡、高倉遺跡をはじめ、竹崎、年の神古墳などが継承的に断続している。なお、先に述べた木原山から八代市を経て芦北半島に至る約四十キロの八代断層線の東部台地は、いちいち、遺跡や古墳名をあげるのも煩わしいほど、遺跡ベルト地帯をなしている。宇土半島や、これらの遺跡、古墳に対する見解は、一括して後で詳しく述べるので、ここでは省略する。
三 好古都国
好古都カウコトコウクツ
肥後国|八代郡《やつしろのこほり》。現、熊本県八代市及び八代郡の内、干拓部を除く球磨川《くまがわ》、氷川《ひかわ》の流域にひろがっていた国。不呼国の南に隣接した国として比定した。
好古都を意味の上からだけで考えるなら、呼邑国、不呼国の呼呼都でもよかったはずである。呼にも好と同じように、カウ、ケウの音もある。伊都の都をトと漢音で読んできているので、ここでもツとは読めない。したがって前後の発音の関係から呼呼都が好古都と書き表わされたものだと思う。
今でも古い発音で呼ばれている地名に川頭《こうがしら》、甲田《こうだ》(川田)、甲佐《こうさ》(河佐)などとあるように、コウ(呼)が川の意味であることについては、しばしば述べてきた。だから好古都を現代風に書くなら、河河戸とも書けるのである。つまり二つ以上の川が接し合い、その間を水路で連絡し合っているような地形を好古都と称したのであろう。この付近は写真で示すように実にそうした地形になっている。
この私の地形に対する説明がこじつけでない証拠に、氷川左岸の河口堆積地に鏡町がある。池に鏡が沈んでいた伝説から、この町の名が生まれたというが、全くのでっちあげである。鏡の名がつく所には必ずこんな話が、好事家の手によって加えられている。佐賀県唐津市を貫流する松浦川の流域にも、肥前風土記に記載された「鏡の渡」というところがあるが、ここにも同じような話がのこっている。そもそも鏡はカカミ(河河海)のあて字で、二つ以上の河が海に注いでいる湾をいうのである。かつて八代海のうち芦北半島以北の干潟の多い海を、カカミまたはココミと称していたのではなかろうか。唐津市の松浦川流域平野も、上古までは現在の海岸から数キロ奥が湾の水際であった。ここが、かつての松浦潟であったことについては、末盧国のところで述べた通りである。そしてここにも数本の河《カ》、河《カ》がこの海《ミ》に流れこんでいたから、カカミといい、カカミの渡というのである。
氷川の右岸にある竜北町も、この町のすぐ北にある、その名も砂川という、莫大な砂を吐き出している砂の堆積によってできた町である。氷川は日川、斐川と同じ意味であるから海嘯も強く、氷川自身の堆積土に、この砂も大いに手伝って、竜北町と同じように鏡町も洲の町として形成されている。その上、鏡町はその南を流れる、これまた棚川を作るほどの排砂の激しい日置川の影響を受けているのである。
さらにこの日置川は木綿葉《ゆふば》川(古くは球磨川のことをこう呼んだ)と接近してその間に大きな中洲の微高地を作る。ここが現在の八代市の中心部である。ところが、写真でもわかるように、この球磨川と日置川は国道三号線の近くで近世までつながっていたのである。日置川に至ってはごく近年まで国道三号線よりほど遠からぬところに河口があって、鏡町と八代市の間は奥深い入江になっていた(現在の千丁干拓地)。それが邪馬台国時代には、東部台地の足許(八代断層線)まではまだ海で、前面のいくつかの大きな洲をはさんで、氷川、日置川、球磨川の河口は、ほぼ国鉄鹿児島本線にそった形で水道(ト)によって連絡し合っていたのである。このことは現場をごらんになればすぐわかることだし、数多くの遺跡の位置がそのことを証明している。
好古都の中心部は現在の八代市の中心部ではなく、市の北部に当たる竹原町、井上町を海岸の突端として、それより背後の片町から宮地町の妙見神社方面にかけてひろがっていたように考えられる。それは縄文から弥生、古墳時代へと継承される遺跡の密度、竹原の津という古い地名などから判断されるのである。
宮原町、竜北町の東部台地にも相当数の古墳が密在しているが、それらは先に述べた川の流域が陸化されて生産力が高まってから後の所産だと思う。
ところで倭人伝の通例として国名や人名に、好ましくない文字を使用しているのに反して、この国には好ましく古い都としたのは何か意味があってのことだろうか。いささか奇異の感がしないでもない。文中に記載こそされていないが、八代海をめぐる沿岸諸国を統率した大王が、以前からここにいたということを言外に含めての「好」の字の使用ではなかろうか。伊都と同じくトの音に都をあてているのは異例で、邪馬台の台に対応する文字であるから、ここにも「世有王」の一句が欲しいところである。
的確な書紀の記載
どこまで信憑性があるか、時代判定をどうするかといった問題は別として、書紀の一書(旧事紀)の天照大神の岩戸隠れの条《くだり》に、「中臣連の遠祖興台産霊の児、天児屋命を遣して祈しむ」とある。この興台《ココト》産霊《ムスヒ》神の興台《ココト》と好古都国とは大いに関係があるように思われる。旧事紀にはトに登をあててあるが、書紀では全巻中、ただ一ヵ所だけこの神に台をトとしてあててある。邪馬台国の台がトと読めるという問題に関連して注目すべき文字である。
ココトムスヒの神というからには、河口の堆積デルタを開田して大いに生産力を高められた神という意味であるから、風土的にも好古都国と関係があると思わなければならない。
さらに注目すべきことは、書紀の一書に「素戔嗚尊の田、亦《また》三処有り。号《なづ》けて天《あま》ノ|※田《くいた》、天ノ川依田《かわよりた》、天ノ川口《かわくち》ノ鋭田《とがりた》と曰《い》ふ。此皆|磽地《やせち》なり。雨ふれば則ち流れ、旱《ひて》れば則ち焦《や》く」とある川口鋭田を記紀風に音読すれば(鋭は訓読)ココトの田である。川口の堆積デルタをいい表わして実に興味深い。しかも※田は、鬼《クイ》奴国、鬼国に、川依田は呼邑国に、川口鋭田は好古都国に、今まで述べてきた倭人伝、あるいは和名抄記載の有明海及び八代海東岸に並んだ国々の国名郡名と配置がまったく一致するのである。のみならず、文中に磽地とある磽は石ころや砂利の多い土地のことで、菊池川、緑川、球磨川の河口は、筑後川の河口と違って、きわめて砂利の多いところである。また雨が降ると、短時間で急激に増水し、降らないとただちに激減するといった特徴的な自然条件まで正確に観察して、この短い文章は事実を伝えているのである。
これほど的確な一致をみれば、否が応でも神話のある程度の信憑性と、倭人伝に記載された国々の実在性を、だれもが認めざるをえないだろう。そして私の比定してきた国の位置づけが、さほど間違っていないことも再確認してもらいたい。なおまた少彦名命《すくなひこなのみこと》が乗って来られたという天《あま》の羅摩船《かかみぶね》について、本居宣長以来、多くの国学者は、いろいろ変な説を立てておられるが、カカミ船とは前述したように、河口の干潟で用いる一枚底の浅い川舟であることを付け加えておこう。
要するに好古都国が、八代海に注ぐこれらの河口付近にあったことは、ほぼ間違いない事実だと思う。旧版で、好古都国を氷川河口から宇土方面にあて、球磨川河口を狗奴国の範囲に含めていたが、その後の研究と調査で、少し位置を誤っていたことがわかったので訂正した。
八代の地名については、いろいろの異説があるが、ココトの状態から次第に堆積陸化が進んだ次の時代、すなわち入江(ヤ)や水辺の村々(ツ)に水田(シロ。上古は田はハタ、水田をシロといった)の多い地方という意味で名付けられたのであろう。
メモ――この国にも遺跡や古墳が、うんざりするほど多い。本論に参考となる継承的なものだけをあげておく。
まず八代市井上町一帯、その東部の西片町、長田町、川田町付近にかけては、縄文、弥生の各遺跡、貝塚、古墳が共存し、さらに川田町東、岡町古墳群へと続いている。球磨川河口の最近まで島であった鼠蔵《そぞう》町、大鼠蔵、小鼠蔵の土師期貝塚、古墳群、石棺群も、時代性の上から見落とせない。
鏡町下有佐の縄文中・後期貝塚、その東部台地に続く宮原町の立神、大王山などの大古墳群、竜北町には、明治十二年、E・S・モースの発掘で知られる西平貝塚(縄文後期標式地)、大野貝塚があり、これらに続く東部台地の古墳群等はいずれも邪馬台国時代に関連した祖先の遺産である。
四 投馬国
投馬トウバヅメ
肥後国天草郡。現、熊本県|本渡《ほんど》市、牛深市及び天草郡。本渡市を中心に天草諸島にひろがっていた国。倭人伝記載の方向距離、内容などから、邪馬台連合の南限の国として比定した。
烏奴国から有明海東岸を南下して比較的順調に八代海沿岸の好古都国までたどり着いたが、倭人伝記載の逆順序に従えば、次は弥奴国となる。ところが、この弥奴国を好古都国の周辺にいくら捜しても、該当に値する場所が見つからないのである。特に順序からいえば次の国として比すべき葦北郡は旧事紀によると阿蘇、天草と同じく、元は一国をなし、日《ヒ》(火)の国とは別な国であった。日の国が肥前肥後に分かれたとき、阿蘇、天草とともに、この国も肥後国に編入された郡である(この三国の頭にいずれもアの音が付くのに注意)ということから、遺跡の上からなども判断して異質な文化圏に属していたのではないか、そして今まで順序よく並んだ東岸の国の中で、好古都国が南のはずれになっているのではないかといった示唆も与えてくれるのである。
そこで次の弥奴国は、素通りして来た有明海西岸の肥前国ではなかろうか、と思って調べてみると、果たせるかな筑後川の河口に近い右岸に、れっきとした弥奴国があったのである。そしてそれに続く以下の国々の存在も確かめ得たので、それらについては追って述べることとし、ここでは順不同になるが、有明海の南端で同じ八代海に面している対岸の投馬国について述べることにしよう。
投馬が島であることの論拠
この国は邪馬台国に次いで以前からもっとも論議の焦点となってきた国である。ある人は福岡県八女郡の妻に比定し、ある人は薩摩が投馬だといい、また宮崎県児湯郡の妻がそうだといって、あちこちに引っぱりまわされてきた国である。それだけに投馬国は、女王国そのものの位置すら決定しかねない重要な国である。
このことは邪馬国の項で述べるべきだったが、福岡県八女郡の妻は、もともと邪馬国(八女県《やめのあがた》)がそれまで四つの地区に分けて呼ばれていたと思われる地域を、和銅改名の折に二字名に改められて、はじめて出現した郡名である。すなわち、南西の八女の戸を山門《やまと》郡に、北東の上《かみ》ツ八女を上妻《かむづま》に、南東の下ツ八女を下妻《しもづま》に、さらに北西の海に面した海ツ八女を三潴《みづま》にという具合に、うまく変形されているのである。こうしたいきさつも知らず、単なる語呂合わせ的に投馬国を比定するのは、まったくの研究不足といわなければならない。したがって投馬が後世ヅマまたはツマと呼ばれたにしても、八女郡の妻とはなんら関係がないのである。
ついでだが、当時、二字名とするために極端に改められている例を和名抄から拾ってみると、同じ福岡県の上朝倉《かみつあさくら》を上座《かみつあさくら》に、下朝倉《しもつあさくら》を下座《しもつあさくら》に、文字だけを圧縮して読み方は従来通りに押しつけているところさえある。このほか、同字同名の郡が全国に、那賀が五、那珂、大野、海部、賀茂、山田が各四もあり、郷《おおさと》に至っては余戸が百二、駅家が八十、神戸が五十六といった具合に画一的に名付けられている。多くの人が邪馬台に結びつけたがる山門も、筑後山門のほかに、すぐ近くの肥後の菊池郡にも山門があるのである。だから、山門同士で邪馬台国は筑後だ肥後の菊池だと、引っぱりだこにされるのである。
こうした画一的な名付け方を当世風にいえば、ない知恵をしぼって付けられた緑町に曙町に平和町といったところだろうか。昔も今も下手な町名改正は正しい意味での生活をぶちこわし、徒《いたず》らな混乱を後世に招くばかりで困ったものである。唐の制度を、当時の役人が得々と鵜呑みにして和銅の改名を行なっていなかったならば、わが国の古代史はもっと正確に知り得ただろうにと悔まれてならない。海外の文化を鵜呑みにすることは民族の文化を売り渡すことにもなりかねないのである。
次に薩摩のツマは、サのツマであって、後述するようにサをツマと切り離しては意味をなさない。宮崎県の妻(現、西都市)は、いかに高塚古墳が多かろうと、海に面していない。いわば内陸であるから、根本的に対象となり得ないのである。
「南、投馬国に至る水行二十日、官を弥弥と曰い、副を弥弥那利と曰う、五万余戸可り」。この原文を素直に読めば、水行だけ記して陸行が記されていないから、島だということは誰にでもただちに判断できるはずである。特に「官を弥弥《ミミ》と曰う」とあるミミは、海上部族の王に対する称号で、忍穂耳尊《おしほみみのみこと》、手研耳命《たぎしみみのみこと》、神八井耳命《かむやいみみのみこと》、神渟名川耳尊《かむぬなかわみみのみこと》などがそうである。このミミ(海王《ミミ》)に対して、大山《おおやま》祇神《つみ》、海童《わたつみ》神などのツミ(津王《ツミ》)は半農半漁の海浜の王である。大君《おおぎみ》などというときのキミはもともと岐王《キミ》で、火田農耕を営む製鉄部族の王のことであった。
このようなわけで、原文に水行だけを記し、官を弥弥と明記していることは、内容的にも妥当な記述といえよう。投馬国が島であったということについては、これ以上説明の必要はないと思う。
瀬戸のある島
さて投馬の意味であるが、「投」は伊都、好古都などの都と同じ瀬戸、水道の意味ではないかと思われる。トが頭にくると、トォと長音になりやすいので、投の字をあてたのであろう。投も都も漢字本来の意味からして同系の音である。
「馬」は対馬、邪馬などの馬と同じ意味である。したがって瀬戸のある島、または浜という意味で、投(戸)馬と呼んだのであろう。
これをツマと読んで、投馬国を前述したように、あちこちのツマに比定する人が今でも多いが、投馬はツマとは読めないのである。ツマはあくまでツマである。ツマのツは津の意味で、海浜や川岸の渡し場や船着き場や、水辺の集落などのことをいうのである。こうしたマと組み合わされた土地名をあげてみると、カマ(釜、加茂)、クマ(隈、熊、球磨)、シマ(島、志摩)、スマ(須磨)、タマ(多摩)、ツマ(妻)、ヌマ(沼)、ノマ(野間)、ハマ(浜)、ヤマ(邪馬)など、前にも述べたように、いずれも水に関係が深く、それぞれ異なった微妙な地形をいい表わしていることに気付かれるであろう。薩摩となると、あちこちに多いツマの中でも特別な意味を含んでいるように思われる。
サはさきに姐奴国の項で述べたミサキ(岬)、ナギサ(渚)などの崖の意味のほかに、サツキ(五月)、サオトメ(早乙女)、サナエ(早苗)といった稲作のサの神に関係した意味も持っているが、薩摩の場合はサの意味がちょっと趣きが違うようである。
薩摩国というのは鹿児島県の西半部のことで、和銅六年(七一三年)四月に日向から分離独立した大隅国を併わせて、明治になってから鹿児島県と呼ぶようになったのだが、今では鹿児島県全体を即薩摩だと混同している人が多い。薩摩の語源について、古来|※間《サチマ》説がとられてきたが、風土記には球磨贈於《くまそお》と記し、クマとソオを併記しているが、その贈於が薩摩のことで、サチマとは関連がない。また続日本紀には唱更国と記され、いずれもソオ、シャウに意味がある。そのソオ、シャウのツマという意味で薩摩と名付けられた公算が強いのである。砂《スナ》を九州ではショナとも発音するが、シャウは薩摩の大半を占めるシラス台地のことであろうか。ツマはもちろん薩摩最大の河川である川内川《せんだいがわ》流域を指し、この川はシラス台地に源を発して、莫大な流砂で棚川《たながわ》を作っている。薩摩とは、まことにこの国の地勢をいい得て妙だと思う。
本論に該当するトマではないが(一部の人には投馬国として比定もされているようだが)、語義の上での同じトマに、広島県福山市の鞆《とも》の浦がある。これは鞆にまつわる伝説でこの名が生まれたのではなく、まさに瀬戸に面したトマがトモに転訛して鞆の字があてられており、前述したカカミが鏡になっている例と同じようなものである。
さて、伊都から南へ水行二十日のところに、投馬がある、という島は、いったいどこだろう。問題の邪馬台国も同じ南で、陸路でも行けるが水行すれば十日かかると記されている。十日と二十日だから、投馬国が邪馬台国よりさらに南であることについては、誰にも否定できまい。列記された邪馬台連合の諸国が、いずれも邪馬台国より以北にあると記し、そしてわざわざ傘下の投馬国を「南至投馬国水行二十日」と別個に記していることは、この投馬国が南限であり、その以北に邪馬台国も、その他の連合諸国も存在するのだという地理的位置を、より正確に規定するために挿入された一句と考えなければならないだろう。
そこで読者も九州地図を開いてもらいたい。十日、二十日の旅程の問題はしばらくおくとして、伊都国や奴国があった博多湾から南の方角に一国(今の一郡程度)をなす島を捜すと、まず目にとまるのが天草群島であり、天草のほかにそれに該当するような島はないのである。投馬国は倭人伝の記事の内容から、連合国とあまりかけ離れた位置にあってはならないのである。だから、はるか南の甑島《こしきじま》や種子島、屋久島、奄美大島、さらには沖縄諸島といった南方の島嶼は絶対に対象となり得ない、論外の島である。ところが最近の邪馬台国に関する著者の中には、何らかの該当しそうなわずかな一句をとらえて、これらの島々や、中には赤道直下にまで邪馬台国を比定して、倭人伝を弄《もてあそ》んでいる人さえいる。いやしくも邪馬台国を論ずる人なら、倭人伝全体の内容を綜合的に判断して、いずれの個所とも矛盾しない結論を下さなければならないのである。
天草の語源
それでは天草をまず投馬国と仮定して考えてみよう。そのためには天草をなぜアマクサと呼ぶのか、という点から解明しておく必要があろう。
古事記の冒頭の国生みの一節に、「次に知訶島《チカノシマ》を生みき、亦《また》の名は天之|忍男《オシオ》という。次に両児《ふたご》島を生みき、亦の名は天両屋《アマノフタヤ》という」、これらの伊邪那岐《イザナギ》、伊邪那美《イザナミ》の二神によって生まれたという島の順序は、およそ大和朝成立の順序を示したもので、統合の年代からいえば逆に記載されているというのが常識となっている。知訶島は現在の五島列島であることは、風土記その他の記載でも明らかで、小値賀《おじか》島にその名をとどめている。大値賀島もあったのだろうが、いまはどこか判然としない。たぶん下五島の福江島であろう。
両児の島については、権威あるといわれる某社版の古事記の注釈にすら「貝原益軒《かいばらえきけん》の扶桑記勝《ふそうきしよう》に、『五島の南に女島男島として小さき島二あり。是《これ》唐船紅毛船のとおる海路なり。五島よりも四十八里、薩摩よりも四十八里ありて五島につけり』とある男女群島のことであろうと思われる」と引用し、天両屋《あまのふたや》については「天は美称、海中に家が二つ並んでいるようだからこの名があるのであろう。これも人体化されていない」としるされている。
さて、この男女群島中の男島と女島であるが、この島は現実にいってみた者でなければわからない。天候がひじょうに変わりやすくてめったにこの島に近づけず、油断をすると船をたたき割ってしまう。まったく人間の住めるような島ではないのだ。私は戦時中、海軍のある施設工事で、この島に渡ったが、命がけだった。東シナ海に面した西側は、|※岩柱状節理《ふんがんちゆうじようせつり》の絶壁で、その高さがなんと二百メートルから三百メートルもあるのである。こんなよりつけもしない人間の住めない島が、航海の標識となるほかに、どうして古代人の生活する土地として関係があろう。ましてや、大和朝成立の歴史に、国生みとして編入されなければならない理由はどこにも認められない。対島《つしま》、壱岐《いき》を記載し、五島を記載し、肥前、肥後の国を記載しておきながら、天草を国生みの中に落とすわけがないと私は思うのである。
天草は二つの大きな主島からなっているので、まさに両児の島である。甘い草(甘草《かんぞう》、苓《れい》)がたくさん生えていたからアマクサと呼ぶようになったのだ、という俗説があるが、とんでもない。アマフタシマを繰り返して読めばアマクサシマとなるのである。
この天草は、私が住んでいる島原半島のすぐ南にあり、東の島を上《かみ》島、西の島を下《しも》島と呼んでいるが、下島は島原半島より大きい島である。東シナ海から深く入り込んだ大きな湾の口をふさぐようにして有明海と八代海を分けており、その北端は、ちょうど好古都国に比定した八代の対岸に当たっている。そして上島と下島の間を本渡《ほんど》の瀬戸といい、古来、長崎と芦北の佐敷《さしき》(肥後南部と薩摩路へ通じる港)をつなぐ要路であった。この瀬戸が、投馬のトに当たるセトと考えられるのである。馬はここではシマの意味で、前記した古事記の両児島に該当するようである。
歴史的な日本生成の島として神話にも取り上げられるほどの島であるから、いちおう民族の発展と古代の文化に寄与したことを評価しなければならない。そうすると、他の倭人伝に記載された列国が現存する以上、好古都国の対岸で、それよりやや南にある有明海南端のこの島を投馬国と比定せざるを得ないのである。二十日を要するという旅程の正当性については、重複するので邪馬台国の水行十日と併わせて後でのべる。
旧版では大矢野島を投馬国の中心に比定していたが、その後の研究の結果、本渡市付近が当時の中心地だったように考えられる。古墳時代になってから国内国外の交易が非常に活発となり、海上部族としては、九州の東西南北を結ぶ海路の中心に当たる、より優位な大矢野島をえらんで、あるいは他の要素も加わって、漸次、本渡市付近から勢力の移動があったように思われる。だから大矢野《おおやの》島、千束《せんぞく》島、戸馳《とばせ》島、宇土半島の先端、三角町にかけて、莫大な石棺群、古墳群の山が築かれているのである。
投馬に関係がありそうな地名の考証を長年にわたって試みたが、残念ながら現在まで確信をもって発表できる段階に至っていない。ホンドというのは、天草諸島にたくさんの瀬戸がある、その中での第一の瀬戸という意味らしい。だからこの付近に戸間《トマ》か門馬《トマ》という地名が残っていてもよさそうなものだと思うが、近くに遺跡地として有名な妻《つま》の鼻《はな》は残っていても、すっかり変わり果てた現在では、どうすることもできない。かえって東北端の大矢野《おおやの》島に東満《とうまん》、対岸の島に戸馳《とばせ》の地名が残っており、前記したように古墳で充満した島の歴史と、何か関係があるのかもしれない。
メモ――この島の考古学的な遺産は、まだ十分に調査されていないが、それにもかかわらず、島内の各地には、縄文貝塚、縄文―弥生―古墳時代へと同一集落地内で受け継がれた遺跡や古墳群だけでも数ヵ所以上にのぼる。このことから、この島が非常に早くから開けていたことを、うかがい知ることができる。そして時代が下るにしたがって、その中心勢力が東部に移動した形跡がある。なぜこんなことをいうかというと、本渡市の妻の鼻遺跡が強烈に私の脳裡に焼き付いて離れないからである。
妻の鼻遺跡は天井を錣《しころ》積みの板石で覆った、地下式板石積石室と呼ばれる特殊な埋葬形式の群集墓である。弥生時代から引き継がれた埋葬形式といわれ、薩摩地方を中心に、本土では球磨川より以北では発見されておらず、日向、大隅にもほとんどない。いわば薩摩独得のものである。この形式のものが本渡市にあるということは、島伝いに薩摩の勢力が侵攻したことを物語っている。そしてこの勢力に追われるように、上島の東北端に異常なまでの古墳や石棺群が、時代を追って増加し続けている。この現象は次に比定する狗奴国の増大と、忽然と消え失せた邪馬台国とその連合国が、その後にどのような過程をたどったかを推察する上で、非常に重要な示唆を与えてくれるものである。もっとこのことや、遺跡、古墳についてもふれたいのだが、紙数がないので続篇にゆずることとして先を急ごう。
五 狗奴国
狗奴コゥドクヌ
薩摩国|出水郡《いずみこほり》及び高城《たかきの》郡、伊佐《いさ》郡。現、鹿児島県出水市、出水郡を中心に、紫尾《しび》山麓周辺から大口《おおぐち》盆地へかけてひろがっていた国。倭人伝の「その南に狗奴国あり」という記事から、邪馬台連合の南に位置する国として、また国名、記事の内容、考古学的な知見などから、この地方を狗奴国と比定した。
今までの解説で、好古都国及び投馬国が邪馬台連合の南限であることについては、すでにご理解ねがえたと思う。「その南に狗奴国あり」というのだから、さらにこれらの国の南に狗奴国があることになる。旧版では研究不足で、狗奴国を球磨川河口に比定していたが、前述した通り、ここを好古都国に訂正したので、狗奴国は、これよりさらに南に探さねばならない。投馬国(天草)の南は東シナ海であり、好古都国(八代)の南は葦北《あしきた》の国である。葦北は山塊で、狗奴という言葉の意味に該当しない。そこでさらに南に求めると、「川岸の広い水田の国」という意味を持った狗奴国にぴったりの出水平野がある。だがこの出水平野が、記事の内容にてらして果たして狗奴国に該当しうるだろうか。
南九州には弥生時代に引き続く墓葬形式として、大きな特徴を持った二つの墳墓形式があることに注目しなければならない。その一つは地下式横穴と呼ばれるもので、地上から垂直に竪穴を掘り、さらに横に掘り進んで天井を屋根形に仕上げた墓室の、いわばL型をした地下墳墓である。主として武具を副葬し、四世紀中葉から七、八世紀頃までにわたるものと推定されている。分布は西都市付近を北限として、宮崎県南部及び全鹿児島県下に及んでいる。これは私見だが、この分布はシラス、ボラ地帯と一致しており、シラスなればこそ、こうした地下墳墓も容易に構築し得たものと思われる。
もう一つは投馬国のところで述べた地下式板石積石室で、埋葬の形式内容など両者間には本質的な差はないといわれている。しかしこの方の分布は、鹿児島県でも大口盆地を中心に、川内《せんだい》川流域から出水《いずみ》地方と、そのごく一部の周辺に限られ、いわば薩摩地方独得のものである。この分布区域を別な言葉でいえば、日向大隅隼人と薩摩隼人の文化圏の違いということにもなる。しかも考えさせられることは、円墳、前方後円墳などの高塚古墳が、太平洋側の日向大隅地方には相当のものが数多く存在するのに、薩摩地方にはほとんどないということである。
熊本県の西岸を南下した肥後の古墳は、同じ八代海沿岸であるにもかかわらず、芦北半島を越えて出水地方に入るとたちまち勢力を失って消滅してしまう。いわば葦北は高塚古墳の南限であり、薩摩は北からの古墳文化も、太平洋岸から西進した古墳文化も拒絶していたということになるのである。
古墳文化は邪馬台国の文化を引き継ぐものであり、大和朝廷の成立まで受け継がれた日本の主流をなす文化であった。だとすれば、その主流の文化を受け付けなかった薩摩地方は、日本の四世紀から七世紀にいたる主たる文化の埒外に置かれていたことを証言している。
その南にあってともに女王を推戴することを拒絶し、独自に男王を立て邪馬台連合に属さなかった狗奴国は、この意味からも薩摩国のどこかに比定せざるを得なくなるのである。
狗奴と卑弥弓呼
ところで狗奴とは、特定のこの狗奴国だけを指すのではなく、広い川岸の水田の国という意味で、他にもクナと呼ばれる国があったことをつけ加えておこう。記紀、風土記に朝来名(朝はアソ、アタなどのアと、水際の石ころ地帯であるサが合体したもの)の来名《クナ》、倭建《やまとたける》命のまたの名、倭男具那《やまとをぐな》の具那《クナ》、大国魂《おおくにたま》神、大国主命の国《クナ》などとあるのがそれである。問題なのは、少彦名《すくなひこな》命の少《スクナ》、彦名《ヒクナ》であるが、スクナとはサ(サツマ)のクナの意味で、ヒクナとは日《ヒ》の国のクナのことである。日《ヒ》のクナとは、朝来名の峰のクナのことであろうか(姐奴国の別名)、それとも玉杵名のク※ナのことであろうか(鬼奴国の別名)。
いずれにしても少彦名命は、サの国とヒの国を併せ持った大王という意味であるから、八代海から有明海沿岸にかけて薩摩と肥後に君臨された稲作の神ということになるようである。してみると、この狗奴国の狗古智卑狗は、のちに邪馬台国の混乱に乗じて、八代海から有明海へ進出して筑紫の国を侵攻した王ではなかろうか。こう思って記紀の素戔嗚尊《すさのおのみこと》(スクナとサヌの合名)や少彦名命の物語を読むと、不思議に話の筋が符合し、もしかすると、この三者は同一人ではなかったろうかとさえ思われる節がある。このことは、あとで述べる古墳に葬られた女王の現実的な示唆から、女王時代から男王時代への過渡期が邪馬台国時代だったとする私の考えとも一致するのである。
次にこの国の男王卑弥弓呼のことであるが、女王卑弥呼の弥と呼の間に弓が入っているだけで、何と読めばいいか、どんなことを意味するのか、正直のところまだ私にもわからない。弓は漢音キュウ、呉音クであるから、文字の上だけで読めば、ヒビキュコまたはヒミクコである。もと卑弓弥呼であったものが誤写され、弓の位置が入れちがっているのではないか、だからヒコミコと読むべきであろうなどと、卑弥呼とともにいろいろと読み方に説がある。決定的なことがわからないので、私はひとまずさわらないで、文字のまま読むことにしておく。いえることは卑弥呼が女王で、弓が加わって男王となっていることだけである。
そこで私は考える。各国の「官を卑狗と曰う」「弥弥と曰う」という記述に対して、女王国と狗奴国の場合は「官有」と記載されている。前にも触れておいたように、一国の王が連合国に所属しているので王といわず官と記されているのではないか、だから王と理解してもよいと私はいっておいた。ところが卑弥呼の場合は各国合意のもとに擁立されている女王であるから、いわば共立の女王である。しかも「鬼道に事《つか》え」とあり、直接軍事や政治にたずさわってはいない。だから邪馬台国の事実上の王は「官有」と記された伊支馬と考えられる。狗奴国の場合もおそらく一国だけで女王連合軍を悩ますだけの力はなかったろうから、薩摩地方の数ヵ国が連合して仮に男王の盟主を立てて対立していたと考えたほうが妥当であろう。してみると事実上の権力者は「官有」の記事から狗古智卑狗ではなかったろうかと推測されるのである。
河内の支配者狗古智卑狗
その狗古智卑狗は漢音でコゥコチヒコゥ、呉音でククチヒクである。コゥもクも、たびたび述べてきたように、いずれも河、川の意味で、それにチが加わり河内《こうち》(川内)のことを意味している。したがって狗古智卑狗とは、コゥチヒコ(河内彦)すなわち水源地帯を固有名詞とした王という意味に解される。
しかるにこのコゥコチヒコゥは従来、和名抄のふり仮名から菊池彦と混同され、菊池川流域に君臨した王であったように誤解されてきたが、まったく別な人物なのである。中にはこの混同した解釈と、菊池川が肥後、筑後の装飾古墳の形式の違いの接点になっているところから、この付近を邪馬台連合の南限と考えている人もいるが、倭人伝の記事に照らして地理的になり立たない。それならば河内の王は、私が狗奴国に比定する出水地方と関係があるのかということになるようだが、出水平野を貫流する広瀬川をさかのぼれば、現在も大川内、白木川内をはじめ峠を越えた大口盆地には道河内、小川内、石井川内といった具合に川内だらけである。だいいち大口《おおぐち》の地名そのものも大川内のつまった語であり、薩摩地方を代表する川内《せんだい》川と川内市も、読んで字のごとくコウチである。
このように河内と人間の生活が密着しているのは、薩摩の特殊な地形や風土によるものであろう。狗古智卑狗は大口盆地に本拠をおき、出水平野や川内川の上流地域も狗奴国として支配していたのではなかろうかと考えられる。考古学的な知見からそう考えざるを得ないのである。
出水地方はまた八代海の南限であるばかりではなく、北西に突出した笠山半島の先端は天草(投馬国)に続く長島に対し、黒之瀬戸(この間は現在大橋でつなぐ)によって外海(東シナ海)に通じている。この半島の東の付け根が、鶴の渡来地として有名な荒崎である。西側の阿久根《あくね》地方は直接外海に面し、この海によって南方との文化や経済が、古代から交流していたことを忘れてはならない。狗奴国が邪馬台連合に属さなかったのは、この南方交通路と共に、直接大陸と接触し、別な意味での広い異質な文化を持っていたからだとも考えられる。文化史的にも、もっと開発研究されなければならない重要な地帯である。
以上のように考えてくると、邪馬台国とその統属国は筑前・筑後・肥前・肥後の四ヵ国内に納まり、博多湾から有明海、八代海沿岸にかけて互いに相接しながら環状にひろがっていたように想定される(古事記に筑紫島は「身一つにして面四つあり」とあるのが、このことを指すのであろう)。そして狗奴国はこの一連の環状の南の外縁にあって、女王連合軍をおびやかし続けていたのである。しかも同じ内湾で八代海が尽きるところ、その名も奈良朝から幕末まで独特の気風をもって抵抗し続けてきた薩摩が狗奴国ということになれば、倭人伝に示された方角位置の按配からも、全文の解釈の上からも、しごく簡明率直にだれの目にも理解できる、そして納得のゆく国の位置づけということになろう。
日本の国家形態の祖型は邪馬台国に
特にここでいい添えておきたいことは、卑弥呼と卑弥弓呼という女王と男王の存在である。ともに連合して擁立した王であるにもかかわらず、政治や軍事の実権を与えず、なぜ連合国の盟主として推戴したのであろうか。ちょっと考えると無意味なようだが、そこに意味があるのである。
卑弥呼についていえば、「鬼道に事《つか》え」とあるので、大方の人がすぐに呪術者的な存在としてシャーマニズムを引き合いに出して、簡単に片付けてしまう。呪術者だけならば呪術者としての特別な地位を与えればいいのであって、何も連合軍の盟主として奉る必要はないのである。不安定な中の安定感を求めようとする心理が、連合国の中にはたらいていたことを見逃してはならない。
これをわかりやすくいえば、源頼朝も北条時政、時宗も、信長も秀吉も家康も、天下の生殺を握る実力者でありながら、一応朝廷をたて、決して天皇家をつぶそうとはしなかった。そして自分は執権なり将軍なりの名のもとに実権をほしいままにし、政治、軍事を動かしてきたのである。それは天皇を国民の象徴とし、その下に内閣を構成している現在の総理大臣が、世襲する形をとることにほかならないのである。この一見ポピュラーな、しかし、きわめて合理的な、天皇の下に幕府なり内閣を置いて政治を推しすすめようとする日本人的発想は、範をイギリスに求めずとも、すでに邪馬台国時代にその祖型があったといわなければならない。したがって官を伊支馬といい、狗古智卑狗というは、征夷大将軍または内閣総理大臣と解してもいいのである。
こう考えてくると、今まで大和朝が成立するまで日本には国家が成立していなかったように考えられてきたが、日本列島の大半を統合しないまでも、すでに邪馬台連合の存在をもってわが国に国家が成立した時期とみなすべきであろう。
鶴の渡来と文化圏
最後に、私は鶴の渡来と文化圏の関係について十数年間研究し続けてきた。このことについては続篇にくわしく述べるが、鶴と狗奴国の関係についてだけふれておこう。
鶴の帰去来は日本列島の基本的な気象の節目《ふしめ》と関係があり、そのために生じる風土の差が、いくつかの異なった文化圏をわが国に形成する結果となっている。縄文、弥生、古墳の各時期を通してこの鶴の帰去来が、今まで不可解だった多くの難問を私に解決してくれた。
現在のわが国における鶴の渡来地は、この鹿児島県の出水《いずみ》地方と、山口県の徳山に近い八代《やしろ》、及び北海道の釧路《くしろ》地方(今は留鳥化しているが、もとは渡来していた)の三ヵ所であるが、記録その他から、若狭湾と伊勢湾を結ぶ線、ならびに新潟県北部と米沢、福島を結ぶ線も渡来のコースとなっていたようである。よく日本フォッサマグナ(ラテン語で大きな割れ目の意)を歴史的な文化圏の境界として取り上げる人が多いが、私の研究では、あまり該当しないどころか、矛盾が多いように思われる。
シベリア、中国東北部から朝鮮半島を経て出水を結ぶ線は、古来東アジアにおける文化の接点であった。またその九州における延長線も、国内における文化と風土の接点に当たっている。たとえば高塚古墳の南限がこの線で食いとめられ、南方的色彩の強い独特な海洋的勢力も、この線を破ることはできなかった。断片的ながら倭人伝に語られている邪馬台連合と狗奴国の抗争も、実は邪馬台国時代にとどまらず、近年に至るまでの歴史が示すように、実にこの鶴の飛来コースを境界として戦いがくりひろげられ、文化の交流が行なわれているのである。
かつての狗奴国の空に飛ぶ鶴の姿は美しい。だがその飛翔の背後にかくされた気象と風土と民族の歴史も見落としてはならない。
メモ――この地方には縄文―弥生―古墳時代へと継承された遺跡が多く、その中心は大口盆地である。その主なものをあげると、
出水貝塚(出水市上知識。東西約四百メートル。南北約二百五十メートル、縄文早期―後期の土器石器。貝輪。人・獣骨など出土。中に倭人伝に馬なしと記されている馬の骨が出土している)。上知識成願寺(弥生―古墳)、同溝下古墳群。
大口市羽月。大住《うずん》、手向、焼山など(いずれも弥生―古墳)。
出水郡高尾野町の古墳群。伊佐郡菱刈町、筑地、塞《せ》の神《かん》(縄文―弥生―古墳)など。
第七章 高塚古墳の畿内発生説が崩れる日
一 神話への復帰
豊かな宇土の自然
今まで烏奴国から狗奴国まで、その実在性をたしかめながら比定してきたが、これらの国々はいずれも有明海東岸の国々であった。そして論旨の随所で、同じ有明海でも北と南、海岸と内陸では、気象や風土に相当のひらきがあることを説いてきたが、大方の読者にはご理解いただけたと思う。その中でも特に宇土半島はほぼその中央部に当たり、亜熱帯樹のあこうの木が気根をたれて亭々とそびえ、画然とこの南北の世界を分断していることが、だれの目にも確認できる半島である。
そこでこの宇土半島を中心に、いままで述べてきた国々の文化や考古学的遺跡や歴史上の顕著な相違点を一応ここらでまとめておく必要があろうと考える。
たとえば現在でも九州において清酒を醸造している酒蔵は宇土半島が南限で(東岸では五ケ瀬川、延岡付近まで。例外として二、三の近代装備をほどこした小酒蔵はあるが――)、これから以南の地はすべて焼酎王国である。焼酎は安くてすむから、民族が粗野だから強い焼酎を飲むのだといった単純な考え方は大まちがいで、これから以南の地では醸造した酒が暑くて夏を越せないから蒸溜するのである。つまりそれが焼酎なのだ。文明が発達した現在でも、風土の特性は厳然として邪馬台国以来生きているのである。古代史を解くカギとして、考古学とともに風土学がいかに重要であるかがおわかりになるであろう。
こうした意味で、私は久しい以前から、八代海と有明海の奥深い入り江にはさまれた、この小半島の頸部地帯に興味を抱いてきた。
古代人が自然の条件の中で、住みよい場所をさがすとしたら、どんな山野に目をつけただろうか。まず水である。水のないところには、古代人は絶対に住まなかった。遺跡のあるところには水ありだ。もし今、水がなければ、そこは自然災害によるものか、近世以後において人々が枯渇させたのである。近ごろ、ちょっとした旱魃《かんばつ》で都市が断水さわぎを起こすのも、きわめて当たり前のことで、水を考慮に入れないで必要以上に人々が雲集しているからである。
古代人にも劣る無謀な大集落を作りながら、近代都市とは? そして宅地造成のため山林を伐採する一方で、緑化運動を提唱したり、それも水源を保持し水害から守らねばならぬ林野庁が、過剰人員を食わせるためにやたらと山の木を伐り倒して、今や日本列島の水を枯渇させている。この愚かなしわざが続くかぎり、日本は海にとり巻かれた世にもまれなる砂漠の国となるだろう。
余談はさておき、深い森さえあれば、山から流れる谷川の清水は、一年じゅう涸れることがない。そこで畑を作ろうと思えば、背後の丘に火をつけて焼けばよい。田作りをしたいなら、川岸を耕せばよい。絹糸がほしければ、すぐ近くの雑木《ぞうき》林にやままゆを捜せばよい。たくさんとりたければ桑《くわ》の木を植えて蚕を飼う。冬は暖かくほとんど雪も降らない。日当たりのよい山や丘の森には、人間が住みやすいように鳥も獣も多い。焼き鳥を食いたければ、一本の矢で、バーベキューが食いたければ、ワナですぐ仕留めることができる。獣皮はペルシアまがいの絨毯《じゆうたん》よりすばらしく、これは敷き物のほかに衣類ともなる。鹿の首をチョン切って四肢もろとも逆剥《さかは》ぎにすれば、大国主命が背負われていた頭陀《ずだ》袋よりもりっぱな皮のリュックサックができる。これは船旅や戦いの水嚢ともなれば、砂鉄を鋳《い》るときのフイゴにもなる。
魚が食いたければ、川魚はいうに及ばず、海岸に出れば、潮のひいた干潟にはピチピチ魚がはねており、名も知らぬ多くの貝がころがっている。しかも素手でつかみ取りすることができる。大きな魚を食いたければ釣ればよい。小舟にのって海に出れば、糸をおろす間がないほど釣れる。一年じゅう食物には不自由しない。
海はいつも波静かで、交易のため各地に出かけようとすれば、岬をまわっただけで外海に出られる。こんな山、丘、野、川、森、林、入り江、砂浜、干潟、海、岬などの条件のそろった、小規模ながら彼らの要求をすべて満たしてくれる地帯はないものだろうか。もし日本で、そして西九州にあるとすれば、いったいそこはどこだろう。それがすなわち倭人伝記載のほとんどの国々である。なかでも宇土半島の周辺は、これらの国々のうちで、もっとも恵まれた地帯だったように思われる。
その証拠として実に愉快な話がある。
宇土市に轟貝塚という有名な貝塚があるが、昭和四十一年に慶応大学の江坂輝弥氏を団長として小形(新潟大学)、乙益(熊本女子大学)氏らが同貝塚を発掘されたとき、女の酋長と思われる人骨が発見された。両腕に一個ずつの貝輪をはめ、アマオブネやイモ貝などを輪切りにして連ねたネックレスをつけていた。縄文早期末(今から約六千年前)のもので、貝輪をはめた人骨としてはわが国で最も古いものである(慶応大学に保管)。
ところがである。この女酋長の食道から胃、腸、肛門にいたるまで(死後脱糞も)、体内はすべてカタクチイワシやムツゴロウによって一分のすきもなく充填されていた(こうした体内の食物や鳥獣の糞などが化石になったものを糞石といい、糞石を専門に研究する学問もある)。研究の結果、彼女は食後二十四時間以内に死亡しているのだそうである。食いすぎの頓死か、理由はわからないが、太古の水際にピチピチとはねる魚を、手掴《づか》みで、矢つぎ早に口に入れている女酋長の姿をほうふつと想像させる豊かな海辺の物語ではないか。
いま、かりにこれらの国々の豊かな地理的条件を取り除いてしまえば、ほかにどんなに広い地域があっても、ゴツゴツした岩山か絶壁の荒磯《あらいそ》、草もはえない石原しか残らない。だから自然条件に左右された古代の集落は、とびとびに離れて栄えたのである。私は倭人伝の国々のあり方や特徴とその盛衰は、西洋ふうにいえば、地中海沿岸に栄枯盛衰を重ねた都市国家のようなものであったと思う。
古代ローマが邪馬台で、スパルタが狗奴国、アテネが奴国、ミケナイが鬼奴、トロヤが好古都といったぐあいに、それぞれ覇をきそい、いちばんおくれて発生したローマが、都市から領土へと発展してついにいちばん栄えたように、邪馬台国が大倭国をつくりあげたところも似ているのである。
ギリシア神話と日本神話
私はこう考えたとき、ふとホメロスのイリヤスとオデュッセイアを思い出した。すると、そこに浮かんでくる神々と、わが国の記紀に伝えられる神々の映像が、きわめて酷似しているのである。私はここでその類似点をあげ、相互の共通性を示すことによって、日本の古代文化が地中海の古代文化と関係があるのではないかといった、この種の今ばやりの飛躍やこじつけを試みようとは思わない。
そもそも一八六一年、シュリーマンによって、ダーダネルス海峡に近いヒッサリークの丘が発掘され、トロヤの遺跡と文明が発見されるまでは、だれもギリシアの神話を単なる伝説として、その実在を信ずる者はいなかった。ところが、この偉大な発見によって近代考古学の扉が開かれると、スウェン・ヘディンのシルクロード探検の成功や楼蘭《ろうらん》王国の発見なども手伝って、異常なまでに刺激をうけた十九世紀末の歴史学界は、一種のブームを起こして、ツタンカーメンの陵墓の発掘にまでこぎつけたのである。そうなると、いままで神話や伝説を小馬鹿にしていた学者たちは、こぞって神話や伝説の発展過程をたどり、神話を類別して、人間生活の対比において神々を論じるようになった。この考え方と説明のしかたは、そのままわが国にも輸入され、現在の西洋史の根幹をなしている。
ところが、ことわが国の神話や伝承となると、ろくに記紀も読まないで、大方の人は依然として小馬鹿にしている。いやむしろ、わが国の神話伝説を、きわめて実在性の乏しいものとして扱うことが、いかにも科学的だと思い込んでいる一種のポーズに、私は憤懣《ふんまん》を抑えることができない。
ギリシアの神話は高級で、しっかりしているから買いそこないがない。日本の神話は安価で実在性が確かめられていないから、うっかり買ったら損をするというのだろう。だから、デパートの外国品コーナーの品物が良《よ》し悪《あ》しにかかわらずよく売れて、ローマ字の頭文字が織り込まれたバッグがもてはやされるというものだ。いまもって十九世紀的なわが国の一部に保持されている考え方は、終戦後に闊歩した科学的だという言葉のとりちがえからきているらしい。神話や伝説を史実とみなさないのが科学的だと考えることによって、彼らはますます自分自身が十九世紀的であることを暴露《ばくろ》しているのに気づかない。
だから、奈良朝前の少なくとも一世紀前後から五世紀ごろまでの、最もわが国にとって重要な史実を究明しようとする学者は少なく、記紀の神話伝説を単なる空想として、弥生時代以降の歴史を、すぐに大陸文化の影響と安易に結びつけて片づけようとする傾向が目だって多いのも、このためである(拙著を前に刊行したころから、この種の傾向はずいぶんと改められ、多くの、神話を歴史的に究明する著書が刊行されていることは同慶にたえない。中には前著にそっくりヒントを得たと思われる著書もある)。
二 ある日の古墳捜しから
古墳での夫婦問答
私はある夏の日、この宇土半島に調査に出かけた。リューマチが完全に治っていなかった私にとって、坂道がいちばん苦手だ。ガクガクする膝の痛みをこらえながら、焼けつくような坂道を、妻に手をひかれて登る。雨上がりの赤土の道に何度か足をすべらせた。やっとの思いで登りつめると、丘の頂には森があった。汗だくの体を休めようと、森の中にはいっていくと、そこに意外にも大きな前方後円墳がよこたわっていた。
蝉《せみ》の鳴き声がスコールのように降ってくる。それ以外には何も聞こえない。草いきれのなかで古墳は静もりかえり、古代の物語を私に伝えようと待っていたかのように思われた。私は煙草《たばこ》に火をつけながら、意味もなく、
「汝《いまし》は誰の子ぞ?」と、妻を振り返っていった。
こんな奇妙な台詞《せりふ》をなぜいいだしたのか、そのときのことは私にもわからない。ただなんとなく古墳の傍らだったので、そういってみたかったのであろう。すると妻は、すかさず、
「吾《あ》は大山津見《オオヤマツミ》の神の女《むすめ》、名を神阿多都比売《カムアタツヒメ》、またの名は木花之佐久夜比売《コノハナノサクヤヒメ》と申す」と答えた。
そうなると、こっちも負けてはいられない。
「我《あれ》、汝《いまし》に目合《まぐわい》せむと欲《おも》うはいかに」
「何すれば汝《なれ》の命《みこと》はえらぎするや」
妻はけろりとして答える。
「ただまぼろしの邪馬台国を得むとのみ欲《おも》う」
「かくのりごちて、王と比売は契《ちぎ》りたまいき。しかありてのち、いと冷たきお茶を召し給う」
こんな冗談を交わしながら、私たちは携《たずさ》えてきた魔法びんから氷のはいったお茶をついで飲んだ。
この台詞は、いうまでもなく記紀文中の瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》の一節をもじったものである。二十年前、この妻と連れ添った頃には、まだ彼女は古事記の一ページを読むことだけが精いっぱいだった。
さきごろ、ある人の「記紀は何度くらい読みましたか」という問いに、「古事記だけでも、二百回ではきかないでしょう」と答えている妻の言葉を聞いた。
私はまったくすまないと思った。書紀はそれ以上に読んでいるから、記紀を合わせると五百回以上にもなるだろう。細かい計算をするようだが、一年に五十回は繰り返して読んだことになる。新聞を読まない日はあっても、記紀のどちらかを読まない日はないから、これはけっして誇張ではない。
私には、失明した私に連れ添う妻の苦労がいまさらのように思いやられた。しかし、傍らの石に腰をおろした彼女は、緑色の微風になぶられながら、満足しきっているようすであった。
「おやッ」妻が奇声をあげるのと同時に夕立が降ってきた。私たちはこんなことには慣れている。雑嚢《ざつのう》から畳二枚ほどもあるビニールをすばやく取り出すと大樹の陰にひそんだ。
突然の啓示
ビニールの下で、することもなく私はこのときつぎのようなことを考えていた。記紀の神話や物語には一字一句もむだがない。たとえば二人の神がたくさんの神々を生んだ話も、なぜ生んだのか、なんのために生まれたのか、生まれることによって何を物語ろうとしているのか。それにはかならず一つの目的があって、いいかげんに神々の名が羅列されているのではない。一本の木、一羽の鳥も単なる物語を進めるために引用されたのではなく、なぜその木を選んだかという意味には、目的と、そのよってきたる理由と、事実の説明がかくされているのである。
長い間に変形され、美化されたとしても、ばかげた話と思われる話ほど、記紀の話は、ギリシア神話以上に事実を伝えている。一つの石、一つの丘、一つの動物の名も、その名が変形されるまでの経路をたどって、その実在を確かめなければならない。シュリーマンが、かつてホメロスの詩を信じたように、記紀の実在性を信じていけないという理由はない。
ようやくわかりかけてきた神話の実体と、神々の映像や地理や事物を明らかにすることによって、記紀の信憑性《しんぴようせい》を世に問い、逆に歴史によって考古学の謎を解くことは、もはや邪馬台国を捜すこと以上に、日本人のひとりとして大切なことだと、このとき私はかたく信じた。それは、魂のない単なる唯物的な考古学の一面に対する激しい反駁《はんばく》でもあった。
晴れ上がるのを待って、私たちは丘のいちばん高いところに登った。涼風が私のシヤツを旗のようにはためかせる。視界が一度に明るくなったようで、私にも丘の上からの風景が手にとるように見えるような気がした。
こんなとき、私はできるだけ大きな地図を実際の方向にひろげて、妻がさし示してくれるステッキの方向に応じながら、指の先で、海岸線なり、平野なり、山や川をなでまわして判断するのである。
その丘からは、雲仙岳の山々や島原半島の岬や海岸線も、一望のもとに収めることができた。長崎県と佐賀県境の多良《たら》岳も、はるかに佐賀県と福岡県境の背振《せぶり》山も、その足もとの佐賀平野も、肥筑の山野も見ることができた。八代海はまったくの眼下にあった。デルタの広い水田、その向こうに芦北《あしきた》半島が大きく突き出している。天草群島は、意外に大きくひろがり、天草灘はわずかに山や岬の間からとぎれとぎれに見える程度であった。このすばらしい眺めは、かつて私も経験したことがない。それは単なる観光的な眺望ではなく、古代の有明海や八代海の沿岸に新しい文化をつくりあげていった、その必然性と発展の経過を示す古代地図のようなものであった。私は目をつむってこの古代の風景のなかに浸った。するといままでいちばん記紀文中で疑問だった「豊」の文字が、大きな活字となって脳裏にひらめいてすぐに消えた。おやと思って心を澄ましてみたが、ふたたび浮かんではこなかった。しかし私は心の中で「しめた!」と叫んだ。
記紀の中には豊久士比泥別《トヨクシヒネワケ》とか豊秋とか豊玉比売《トヨタマヒメ》とか、大分県の豊の国とは結びつかない「豊」の字がやたらに多いのである。これはどうやら大分県の豊の国とは違う別の豊の国なり、豊に関係のあることが、有明海の沿岸か八代海の沿岸にあるからではないかと、少し前から疑問をいだいていたが、やっとその意味がわかりかけたのである。
そもそも「豊」とはどんなことを意味しているのだろうか。従来の「ユタカ」という意味では、記紀の解釈はつかないのである。私はこのとき「トヨ」すなわち「トエ」または「ツエ」の転音だと直感した。倭人伝ふうに書けば、「都邪」であり、わかりやすく書けば「津江」または「戸江」、あるいは「田江」である。
宇土半島の八代海に面した海岸線は、実に典型的な入り江と岬が鋸《のこぎり》の歯のように連続した豊《トヨ》である。これは実際にいってみなければ、たいていの地図ではわからない。古代人の生活を維持するのには、最高の条件をそなえた山と丘と沖積地と干潟の沿岸の組み合わせである。まさにこうしたところが豊の国だ。現在の福岡、大分両県の豊の国も、かつてはこうした入り江と津の多い国という意味で名づけられたものが、自然に固有名詞化したものであろう。考えてみると、うっかりしていたものだ。妻に地図から拾わせると、この地方には豊福、豊田、豊秋、豊野とトヨの字のついた地名がばかに多い。
こうなると、さらにある大きな疑問がわいてきて、私はじっとしておれなくなったのである。ころぶように丘をかけおりると、待ちくたびれて眠っていた運転手をゆり起こして熊本市へと急いだ。帰宅して自宅の本を繙《ひもと》くのが待てないほど気がせいていたので、市内で古事記と日本書紀の文庫本を買い求めると、とある喫茶店にとびこんだ。
葦原の中ツ国と豊葦原の水穂国
片隅のテーブルに陣取るのももどかしく、私は瓊瓊杵尊のくだりを読むように妻に命じた。はたせるかな私の予想は的中した。そこにはまぎれもなく、わざと誤認するように書かれてはいるが、明らかに葦原の中ツ国と豊葦原水(瑞)穂国の二つが、まったく別な国として記載されていたのである。どうしてこの簡単なことに今日まで誰も気づかなかったのだろうか。このときほど私はうれしいことはなかった。
日本歴史の大きなミス、国文学の大誤認――いままで日本人のすべてが、葦原の中ツ国と豊葦原の水穂の国をごっちゃにして考えてきた。この二国の混同が記紀の解釈や、王朝発生の複雑な経過をますます混乱させ、神話の謎を解くことのできない原因もここにあったのである。
私はいまこそ「葦原の中ツ国」が、福岡県の博多湾沿岸から筑後川流域の、倭人伝にいう、奴、烏奴、支惟、巴利、躬臣などが実在した福岡県の中心部であることを、確信をもって指摘することができる。また「豊葦原の水穂の国」が、有明海南部のいくつかの川の流域にまたがる熊本県の水田地帯であったことも、同様に断言できるのである(江田船山古墳出土の太刀にきざまれた金石文中の王に擬せられる丹比《タシヒノ》瑞歯別(反正天皇)のミズハワケもこの豊葦原瑞穂国のミズホである)。
そして、少なくとも記紀の応神朝までの記録が、すべて西九州における有明海沿岸の北部と南部をめぐって、相対立して抗争をつづけた二大勢力の存在を伝えたものであり、その結果、合流した勢力が発展して、大和王朝成立への過程を物語る貴重な歴史的事実であったことも立証できそうである。
このことは、さらに天智天皇の革命にまでつながり、記紀はその革命の正当化を主張したものともいえるし、風土記は書紀に倣《なら》ったとか、書紀が風土記を参考に編纂されたとかという、見当違いの議論を尻目に、風土記は、完全にこの記紀の内容を正当化せんがためのPR用に作成された擬古文であったことを、あわせて明言できるのである。
注目すべき乙益氏の発言
昭和四十年十月のある日、熊本の乙益重隆氏から、つぎのような親切な便りが舞いこんできた。私は妻がゲラゲラ笑うほど、こおどりして喜んだ。その一節を原文のまま拝借して紹介しておこう。
「今年の夏も七月上旬から八月末まで土工生活がつづき、ついに山積した原稿を九月に持ち越してしまいました。その間《かん》、古墳二ヵ所、先史遺跡二ヵ所を掘りましたが、いずれも農業構造改善によるみかん園|開墾《かいこん》や、工場敷地によってこわされるものでありまして、やむなく発掘したしだいであります。そのうちの最後に掘りました熊本県|宇土《うと》郡|不知火《しらぬい》町亀崎の古墳群はまことに重要で、かつ、ご参考になるかと思いますので、ご報告申し上げます。これらの古墳はいずれも不知火海を見はるかす絶景の地にあります。まず亀崎弁天山は前方後円墳で初期高塚古墳の姿を呈し(全長約四十メートル)、後円内部に竪穴式石室が設けられていました。しかもそれは幅一メートル、長さ六メートルの細長いもので、割り石をもって小口に積み、まさに畿内に比定すれば最古様式に属するものでした。床に粘土床があり、その上に割り竹形木棺のスタンプがあざやかに残っていました。そして古式古墳特有なツボ形|埴輪《はにわ》を伴い、もしこれが畿内にあったら四世紀前半か三世紀時代ということになります。地域性を考慮して四世紀末と目下のところ考えていますが、考えようによっては、こうした古式古墳は九州が先だったのではないかという人もあります。盗掘墳のため遺物がなく、目下のところ年代の決め手がありません。
その近くにある国越《くにごし》の前方後円墳は象形《しようけい》埴輪を伴う六十メートルばかりの古墳で、五世紀中葉と考えられました。予算と労力なく、石室の一部を露出したところで中止しました。共に墳頂だけは保存してもらうべく話がつきました。来年発掘を予定しています。しかるにこれらの古墳から約一キロ離れた宇土の轟《とどろき》との境に、山頂を利用した全長約百メートル以上、高さ十二メートルもある大前方後円墳(千巻塚《せんがんづか》)を発見しました。すでにブルドーザーでこわす寸前でしたが、一応作業を中止してもらい、測量してもらっています。惜しいことにこの古墳もこわされます。その隣に迫《さこ》の上という前方後円墳があり、石室は弁天山と同様な古式と思われますが、すでにブルでこわされています。惜しいことです。これらから考えると、千巻塚の大前方後円墳も古式古墳と思われます。
まったく宇土半島のごときに、このような初期様式の高塚古墳があろうとは予想しないことでした。千巻塚は実測数値をまだ出していませんが、卑弥呼《ヒミコ》女王の墓が径百歩であれば魏尺をメートルに換算して百四十六メートルばかりになりますので、それに近い数値が考えられます。ただ三世紀に上るものとは考えられません。目下、予算もなく労力もなく、墳頂だけを残して開墾のやむない状態です。近日中にブルドーザーを乗り入れるはずです。私はそのことで十一日現地で地主を説くことになっていますが、とりとめるのは困難でしょう。県庁側と宇土市に頼んで調査費のことを相談中です。地主は古墳を五万円で買ったのだそうですが、調査費はその三倍を要する始末で、これからめぼしい古墳は買いとってしまうようにするつもりです。みかんブームでこうした遺跡は全部失われることでしょう。
いずれにしても宇土半島の頸部《けいぶ》にこうした古式古墳があり、中に巨大な前方後円墳を含んでいることは重要視されます。先般ご報告申し上げました肥後の古代文化について、その後の新資料を追加させていただきます」
乙益重隆氏(現、《〈底本ママ〉》国学院大学教授、日本考古学会長)は、今のように考古学の書籍が充実していなかった当時から、多忙な身にもかかわらず、このように種々考古学上の知識を教示していただいたいわば師匠で、私の最も尊敬する学者の一人である。
しかしながら、右の文中「まったく宇土半島のごときに、このような初期様式の……」とあったことは実に残念だったが、それでもほんとうにこの便りは私を勇気づけてくれた。かねがね私が考えていたことがまさに的中したのである。そして考古学との距離がひじょうに近くなっていることを知った(その後、昭和四十一年夏の発掘により、前記、乙益氏の書簡文中にある国越古墳からは、半円方格四神四獣鏡および二面の舶載鏡など多数の貴重な遺物が発見された。また、昭和四十二年二月、宇土市松山町の通称チャン山〔茶臼山〕で竪穴式石室が発掘され、舶載の鳥獣鏡一面、鉄剣一、直刀一の出土をみた。いずれも前期古墳であった)。
三 壺形土師器が示唆するもの
前期古墳の多い宇土半島の頸部
ここでもう少し熊本県南部の前期古墳について述べておこう。それは高塚古墳の発生が邪馬台国とは不即不離だからである。
さきに姐奴国の項で、城南町の塚原大古墳群が、弥生時代の地下式墳墓から方形周溝墓へ、そして前方後円墳や円墳などの高塚古墳へと移行する、わが国古墳の発展経過を示す模式のようなものだと述べておいたが、問題はわが国の考古学界で半ば定説化している高塚古墳の畿内発生説についても、それがはたして絶対的なものであるかどうかを、以下にのべる諸点から読者諸氏にも考えてもらいたいのである。
前記した宇土市周辺の前期古墳のほかに、八代海沿岸では八代市金剛の大鼠蔵《おおそぞう》古墳群の中の二号墳、八代郡宮原町大王山三号墳及び同町の室の山古墳などが以前から知られているが、前期古墳が集中的に多いのは、なんといっても宇土半島の頸部地帯である。前に記載した前期古墳のほかに、群集する古墳の中から、その後確認されたり発見されたりした前期形式のものを拾ってみると、ざっと次のようなものがある。
城の越前方後円墳跡(三角縁四神四獣鏡出土)=既破壊、宇土市栗崎町。
迫の上前方後円墳(既盗掘)=同市神合。
擂鉢山前方後円墳(未調査、底部穿孔壺形土師器出土)=全長約百メートル。千巻塚、黄金塚などとも呼ばれてきたが、この呼名に統一。半壊後円部のみ残存。同市神合。
天神山前方後円墳(未調査、土師片出土)=全長約百メートル、同市野鶴。
向野田前方後円墳(未調査で処女墳だった)=全長約九十メートル、半破壊、後円部残存葺石露出。同市松山町。
九州の前期古墳への学界の認識不足
このほかにもまだまだあるようだが、目下のところ調査中である。右にあげた古墳はいずれも壺形|土師《はじ》器《き》を伴っており、形式内容ともに完璧な前期古墳である。しかし肥後の古墳は畿内のものに比して、概して寸づまりである。そのため往々にして後続性のためだといわれてきたが、古墳の大小は必ずしも古墳の時代性を決定するものではない。このことについては第一部でも述べておいたように、物事の発生はおおむね漸進的でなければならないのに、畿内の古墳は、そうした過程を経ることなく、突如として巨大古墳として出現している。静かに考えればこのことだけでもおかしいのに、畿内の古式古墳が大きく、九州のものが小さいからといって、これを蔑視し、後進地域扱いにするのは、近代コンビナートなどの出現に眩惑された事大主義によるものか、都市生活者が地方の者を田舎者扱いにしたがる思考の偏見によるものであろうか。九州の前期古墳群の中でも、肥後の古墳が寸づまりなのは、寸づまりなるがゆえに意義があるのだと私は思う。
また壺形土師器というのは、乙益氏の書簡文中にもあるように、円筒埴輪の前段階である壺形埴輪(または朝顔形埴輪)の祖型をなすもので、底に孔があり、前期古墳に伴って出土する。九州でも宇土地方のほかに隣接の八代郡竜北町の高塚から出土したもの、同じ熊本県玉名郡岱明町の院塚、阿蘇郡一ノ宮町の長目塚、佐賀市金立町の銚子塚などのものが著名である。
中でも宇土郡不知火町の弁天山から出土した底部穿孔の長頸土師壺は、焼成前に穴が明けられたものである。これは壺形土師器の最も古い形式とされ、大和地方でも最古に属する古墳の家元のようにいわれてきた奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳のものと形も類似しており、同時代のものである。
ところが、いままで九州の前期古墳に対しては、たいていの考古学研究家が十分な検討も経ず、前にもちょっとふれた長目塚(熊本県阿蘇郡一ノ宮町)の特殊な例を取り上げて「形式は古いが中身は新しい」というのである。
さらに、こうした前期古墳が北九州や大分県などにある場合は、観念的に通俗的に、なかば迷信的に、そして古墳の畿内発生説に対する信奉者的な態度で、頭から九州の古墳がいかにして畿内の影響を受けているかという説明を、たとえば次のような解説のしかたでなされるのである。
「これらの古墳は周防灘、玄界灘などの沿海地帯にあって、畿内型古墳の伝播が瀬戸内海にそって進み、豊前地域に上陸したことを示している」といった具合に簡単に片づけられてしまう。
だがここは残念ながら北九州と違って、畿内とは遠く離れた西陲の地である。それに格別副葬品や出土品からみて前期ではないと反証を試みても、ケチのつけようがない。一基だけぽつんとあるのならとにかく、かくも多数の前期古墳が集中的に存在しているのである。頭の痛いところだ。私も、今まで西九州には畿内の文化がおくれて波及したので、前期中期の古墳は存在しないのだという考古学界の定説を破って、これに似た前期中期の古墳を島原半島や諫早、長崎方面に、あるいは五島の福江島に、いくつも発見している。
これらの古墳は、その後、私にはなんの連絡もなく、長崎県文化課は自分たちが発見したように、そ知らぬ顔で遺跡一覧に掲載し、文化庁に報告している。そればかりではない。最近の全国的な傾向として、これら文化財関係にたずさわる人々が、専門的な意識過剰からくる思い上がりで、遺跡を役人特有の考え方で独占化をはかり、精神的に私物化しつつある現状は目に余るものがある。今にして改めなければ、文化財は死蔵財になるだろう。
古墳の畿内発生説が訂正される日
次に装飾古墳との関係についても言及しておく必要があろう。中期以後の肥後の装飾古墳が特徴的であることについてはさきに述べたが、この熊本県や福岡県の装飾古墳は、畿内の影響をなんら受けることなく九州で発生し、発達しているのである。そして瀬戸内海から畿内へと影響を及ぼしている。ところが考古学界では長い間、高塚古墳の発生が畿内だと信じられてきた。しかも同じ内容の埋葬形式による弥生時代の墳墓は九州に発生したと認めながら、突如として高塚古墳の発生のみを畿内におくのは、この点でもなんとしても合点がいかないのである。九州のように弥生時代の墳墓が数多く畿内にあって、それを基礎として高塚古墳が築かれるようになったというのならばまだしも、弥生後期の墳墓とはなんら関係なく、断絶の上に突如として発生しているのである。さらに不可解なのは、九州の前期古墳は畿内の影響を受けたものだと主張しながら、装飾古墳になると、ふたたび九州独自の発生を認めているのである。
物事には発生から発展への順序がある。それを無視していかに多数の、そして巨大な古墳が畿内地方にあろうと、古墳の発生と発達とは全然意味が違うのである。この点をはっきりと認識しなければ、畿内発生論者は自らの首を縊ることになろう。
ある時期を風靡した一説を定説と勘違いして、いまだに目のさめない教師が、学生や生徒たちにその説を押し売りすると、純真な教え子はそのまま盲信し、さらにその迷信は受け継がれてゆくのである。混乱はそうしたことから生じる。色分けしたヘルメットで殺し合いをする過激派の学生たちも、こうした思想的伝授のいきさつと経過をたどった結果にほかならない。
私はいま、考古学の本を書いているのではないから、これ以上考古学的論争を推し進めようとは思わないが、以上のような幾多の実例から、どうしても合点がゆかないので疑問をぶっつけているにすぎない。
要するに高塚古墳の発生が九州だったとか、畿内だったとか、九州のものは畿内の影響を受けたとかいう前に、同じ時代に共通の文化を持った人たちが、九州にも畿内にもいたということだけは確かである。いまはどちらが先だとは結論づけまい。自らの手によって自らが確認しなければ学者は納得しないだろうから、私らはこうした考え方が是正される日を待つほかはないのである。
御用学者の多い中で、古墳の畿内発生説に対して客観的にユニークな論旨を展開されている同志社大学の森浩一氏のような人もおられるから、将来を楽しみにしている。
四 静かに眠る女王の遺体
向野田古墳の発見
昭和四十一年の夏だった。当時高校生だった平山君が、宇土市松山町|向野田《むこうのだ》の九州電力の送電線鉄塔わきに、古墳の墳頂らしきものを発見して確めようと思ったが、雑木が覆い茂って登ることができなかった。続いて翌年の夏、同じ高校生だった高木君(現、《〈底本ママ〉》宇土市教育委員会勤務)が、すでに土採り場の目的で伐採された同地付近から、土師《はじ》片一個を採集して前方後円墳らしいことを、宇土高校の教師をしていた私の早稲田の先輩である富樫卯三郎《とがしうさぶろう》氏(日本考古学会員)に報告した。そこで同氏がさっそく検分してみると、意外に大きな百メートル近い前期形式の前方後円墳であることがわかった。その後彼は、業者によって毎日けずり取られてゆく現地の保存対策に腐心し、四十三年一月、遺跡を守る「宇土文化の会」を結成して各方面に実状を訴えた。
ついに彼の熱意が通じて、四十四年秋、松本雅明氏(熊本大学教授)を団長に、富樫氏を副団長として、熊本日日新聞社と宇土市教育委員会からなる熊日学術調査団の結成にこぎつけたのであった。かくして九月から十月にかけて、この向野田古墳の発掘がはじまった。
後円部の墳頂に設けられた墓壙は長さ十メートル、幅七メートル、深さ一・七メートル、断面は逆台形だった。かまぼこ形に粘土で覆われた覆土をはぎ取ると、七枚の板石からなる蓋石が現われ、周囲には割石が一面に敷きつめられていた。
蓋石をはずすと、割石小口積みの竪穴式石室の中に、当地方で灰石と呼ばれる阿蘇凝灰岩でできた長大な舟形石棺が安置されていたのである。石室の長さは床面で四メートル、幅は北側で七十六センチ、南側で五十四センチ、石棺の長さは蓋石が四メートル、棺身が三・八メートル(内部は長さ三・五メートル、深さ三十センチ)で、蓋石の両端には大きな縄かけ突起があった。一同は興奮をおさえきれず、今やおそしと固唾《かたず》をのんで立ち会いの人たちが見守る中で、世紀の石蓋をはずした。
千六百年目の光がさっと柩の中に流れた瞬間――なんとそこには、石枕を北に、ヒスイの勾玉、管玉、小玉の絢爛たる首飾りをかけ、朱に染った女王の遺体が現われたのである(巻頭の写真がそれである)。
日の国の中心地はこの付近に?
有明海の岸辺で静かに眠り続けてきたこの女王は、いったい今日の私たちに何を語りかけようとして眠っていたのだろうか。径百歩の冢《つか》、女王の遺体、それはまさに卑弥呼に匹敵するのである。これが十年前だったら、人々はこれぞ卑弥呼と大騒ぎしたであろう。遺品や副葬品も次にのべるように豊富だから、なおさらのことである。だが残念なことに考古学は、この古墳が四世紀前半にさかのぼることをゆるさないのである。
富樫氏からの連絡を受けて現地へかけつけたとき、居合わせた人々は異口同音に、「これがもう百年ほど古かったら、まさに卑弥呼の墓として通るのだが……」と、冗談ともつかぬ溜息をもらしていた。それより重要なことは、この古墳を築いた時代が、半ば邪馬台国と共存していたということである。それにしても、かくも多くの人が卑弥呼の冢《つか》を渇望していたのだろうか。幸い処女墳で埋葬のしかたが優れていたから、われわれはわが国で最も完全な、稀に見る四世紀の人骨に接することができたのである(人骨は熊本大医学部に保管)。
こうした場合、人々は、発掘によって新たに知り得た事実を、えてして考古学上の大発見をしたかのように過信し、有頂天になりたがるものである。たしかに向野田古墳の発掘は、宇土地方に群集する前期古墳群のチャンピオンとして、わが国考古学の実証面に光彩をそえた。この古墳を畿内地方の前期古墳と比較するならば、金石文のある太刀は含まれていないが、奈良県天理市の東大寺山古墳に匹敵するだろう。
だからといってこうした比較や価値は、あくまで学問的な資料としての対象であって、問題はこれからである。決して富樫氏が有頂天になっているなどと私はいっているのではない。温厚で学究的な彼が、停年退職後の情熱をどこまで燃やし続け、この古墳を足場に新たな考古学上の主張をうちたて得るか、むしろ私はそこに期待している。
秋とはいっても西南九州の十月はまだ暑い。蒸すような向野田古墳の傍《かたわら》に立って、山ひとつへだてた城南町の大古墳群のことなどとも考えあわせ、私は古墳の畿内発生説がついに崩れる日は来たと確信しつつ、親愛なる先輩に好意を謝して彼のもとを辞した。
遺体の女性は三十歳前後と判定されている。さきに述べた、小魚を食いすぎて糞詰りで死んだ轟貝塚の女酋長にこだわるわけではないが、この女性はいろいろの点から、この地方を統治した女王だったと私は思うのだが、ほかに男王の存在も考えられないことはない。いい得ることは、「日の国」の中心地がこの付近ではなかったろうかということである。このことについては続篇で詳しくのべる。
参考までに副葬品を列記しておこう。
一、棺内にあったもの
内行花文鏡(舶載)一面、鳥獣鏡(※製)一面、ともに枕の上方に立てかけてあった。
方格規矩鳥文鏡(舶載)一面、右肩わきに立てかけてあった。
碧玉製車輪石一個(右手先)。
硬玉製勾玉四個、碧玉製管玉八十二個、ガラス小玉二百二十五個プラス|α《アルフア》(胸部一帯にあり)。
貝輪十三個プラスα(二枚貝、足先にあり、砕けたもの多し)。
二、棺外にあったもの(石室の壁と石棺の間にあった)
長剣一本(一・一八メートル)、直刀四本、短剣三本(長剣と直刀は右側、短剣は左側に、いずれも先端を足先に向けてあった)。
刀子七十五本(先端をいずれも足先に向け、礫上にあった)。
鉄斧三個(大小あり蛤刃、頭上にあり)。
三、墳丘にあったもの
壺形土師器三(破砕残存部より推定)、壺形埴輪破砕破片多数(ブルドーザーのため破砕)。
これらの刀剣類を、金石文が刻まれていないか、X線によって確かめるようにと、私は早くからすすめてきた。埼玉県稲荷山古墳の刀から金石文が発見される以前のことである。
五 日本で最後に夕日の沈む島
古墳の島
宇土半島に接して、宇土半島の遺跡や古墳と不即不離の関係にある天草北端の大矢野島や、真向かいの維和《いわ》島に興味を抱いて私が通いはじめたのは久しい。その維和島を一名|千束《せんぞく》島ともいうが、島原の乱のおり、切支丹の幹部だった千束《ちづか》善右衛門のいた島でもある。千束をチツカとも読むところから古くは千塚とも書き、そう読んだのであろう。この島はまさに千塚の島ともいわれるだけあって、累々とした古墳の島である。露出した石棺、装飾のある石棺、えたいのしれない円墳などが島の丘の頂をおおっており、なぜこんな小島にかくも数知れぬ古墳が埋蔵されているのか、いままで、謎の島とされてきた島である。
また蔵々《ぞぞ》の瀬戸をへだてた、隣の大矢野島から見て東北部の戸馳《とばせ》島も、同じように古墳だらけの島である。数年前から、これらの島の謎を調べはじめて以来、疑惑はますます深まるばかりだった。なぜここにこれだけの古墳の山が築かれたのか、その謎を私はどうしても解くことができなかった。
ところが昨年の夏である。天草の本渡市に出かけたついでに、この島の間を定期船に乗って通った。おりあしく台風の襲来する直前で、波は立ち騒ぎ、帽子は掴んでいないと吹き飛ばされるほど、すでに風は吹き荒れていた(当時はまだ島をつなぐ架橋が完成していなかったので、天草との往来はすべて舟便であった)。船が三角港へむけて有明海から柳の瀬戸を通り、維和《いわ》島と大矢野島と戸馳島に囲まれた湾内にはいると、風浪は忘れたように消え去り、いままでの嵐の前触れはどこに吹いていたのかといわんばかりの静けさだった。私はこの一変した変わりように驚いた。なぜだろうかと考え込んでいると、妻はパチパチとしきりにカメラのシャッターを切っていた。何が珍しいのかとたずねると、ジャン・コクトーの詩のようだ、と答える。港に停泊した帆船の帆柱や帆桁《ほげた》がぎっしり寄せ合った光景を櫛のようだとうたっているコクトーの詩が、彼女はお気に入りだそうである。その詩のように、いまこの湾内には、たくさんの機帆船が台風を避けてひしめきあっているというのであった。まわりくどい話だ。これだから女の話はやりきれない。
私は、よほどこの湾は台風の避難に適するのだろうと、この船の船長さんにたずねてみた。すると、彼は、避難どころではない、この湾は周囲を島に取り囲まれているので、東西南北のどんな風にも絶対に安全だ、千トン程度の船なら、平気でいかりを入れることもできるし、数百ぱいの機帆船が一度に避難することもできる、どうかすると、自分の船が通れないときさえあるくらいだ、それほど避難のために機帆船が集まってくる、ここは西海《さいかい》最高の避難場所だ、と説明してくれたのである。
この話を聞いたとき、古墳の島の謎が、私にもおぼろげながらわかりかけてきた。
「官を弥弥といい、副を弥弥那利という。五万余戸ばかり――」
倭人伝の一節がサッと頭の中をかすめる。
ここは海王の島だ。この湾こそ大陸渡航の根拠地ではなかったろうか。
朱で塗った石棺。朱で塗った鳥居。朱で塗った門柱。朱で塗った海王の家。竜宮城。豊玉姫。
累々と積み上げられた石棺の群れ。高塚を築くにも土のない岩肌の岬の墓場。露出した石棺群。
密集した人家。膨張する人口。大陸渡航。勇猛果敢。国内交易。生産。加工。材料。鉄。
砂鉄。フイゴ。焔。鍛冶《かじ》屋。刃物。鉄鏃《てつぞく》。鉄鉾《てつほこ》。
交換。衣類。食糧。掠奪《りやくだつ》。闘争。戦い。
集団。命令。出陣。軍船。出撃。奇襲。攻撃。
狼狽《ろうばい》。戦闘。放火。降服。米倉。占領。強姦。混血。
入り婿《むこ》。入り嫁。掠奪結婚。雑婚。融和。交流。往来。
分立。分家。移動。定着。拡大。分村。神。祭り。葬儀。石棺。
直弧文《ちよつこもん》。朱塗り。装飾。石室。石棺群。累々。……
こうした連想が、果てしなく私を古代へさそう。石棺群は東へ東へと移動する。そして、安曇《あずみ》の歌が穂積《ほずみ》の歌と交錯しながら、水辺に沿ってはるか東方の岬に消えてゆく……。
天草灘の落日
こんなことがあった年の冬、暇ができたので大矢野島へ出かける気になった。風のない南国の冬の海は、日暮れになっても暖かい。私はこの島の西岸にある鯨道《くじらみち》と名づけられた突端に妻と立っていた。
鯨道というのは、鯨の見張り所のことである。ここにも以前、鯨の物見櫓《ものみやぐら》が立っていたのであろう。私の子どもの頃までは、有明海でも、反対側の千々石《ちぢわ》湾でも鯨がときどき潮を吹いているのを見ることができた。もっともゴンドウ鯨らしかったが、イルカなどにいたっては鰯《いわし》を追いかけて数十頭も砂浜に乗り上げたり、オサガメが芋畑に卵を生みおとし、かえったばかりの海亀の子を拾って遊んだものである。いまどきは、大型バスを十台も載せた航送船《フエリーボート》が異様なうねりをたてて、私たちの鼻先を足しげく往来するので、およそこんな海で古代を想像することはもはや似つかわしくない。
大矢野島までやってくると、ここはまったく別天地だ。鵜《う》の鳥が鳴いているので、あすは雨になるだろうと、妻をうながして鯨道を立ち去ろうとしたが、彼女はもうしばらくといって、いっこうに動こうとはしなかった。いま、沈んでゆく太陽が、たとえようもなく美しいというのだ。
この鯨道から見た、はるか向こうの水平線は天草灘で、東シナ海につづいている。左手は天草下島の北端、鬼池の岬、右手の岬は島原半島の南端、口之津の早崎の鼻(笠佐《かつさ》の岬)。この二つの岬が相対しているはずである。水平線はその岬と岬を結んで、いま、焼けただれたように赤いだろう。私は失明前の記憶をたどって、夕日が沈んでゆく風景を想像していた。
「まあ、太陽が岬と岬の間にスッポリと落ちてゆくわ」
感嘆した妻の言葉に、私はドキリとした。
この太陽だ。ここの鯨道から見た水平線は、真西にある。もやいを解いた二股船が、順風に帆をあげ岬をひとまわりして有明海へ出れば、東シナ海は目と鼻の距離だ。そしたら、あの太陽を追えばいい。
いま、真西にスッポリと落ちてゆく太陽、あの太陽のかなたに揚子江《ようすこう》がある。彼らはきっとあの水平線の、落日の方向をめざして東シナ海を横断していっただろう。やがて幾日かののち、黄色く濁った川岸にたどりつき、そこから船を降りて洛陽《らくよう》へ向かったのではなかろうか。
いまも海底電話線は、この天草から上海《シヤンハイ》へ敷設されているが、その距離は八百キロ。長崎と五島の福江島とは八十キロ、その十倍にしか当たらないのである。われわれはここから泉州の堺へ行くよりも上海が近いということを知っておかねばならない。
ああ! あの太陽は、私がいま立っているこの岸辺から洛陽への道を照らしている。魏の明帝に率善中郎将に叙せられた難升米《なんしようまい》。汝が持ち帰った親魏倭王の金印は、いま、どこに眠っているのか。まぼろしの国はいずこにあるのだろうか。
私は落ちてゆく太陽の方向に、白い杖をさし向けるように妻に命じた。杖は黄金に輝いていたであろう。こんなとき、妻は私の杖に瞼《まぶた》をしばたたくのだそうである。杖をさし向けたまま、私はしばらくの間動かなかった。夕日がほのかな暖かみを私の瞼にも伝えてくれる。
やがて帰りかけようとして、夕日を背に浴びたときであった。私は思わずいままでとは反対の方角にふたたび杖をさし向けていた。その杖の方向は真東だった。夕日はこの岸辺から大和への道も同時に照らしていることに気付いたのである。そしていまさらながら、太陽一神教の天ツ族が鉄の文化をまきちらしながら、そのめざしていった方向に心うたれるのであった。
第八章 有明海の西岸へもひろがる邪馬台連合
一 邪馬台連合の南限と配列の分岐点
倭人伝の国名記載順序の謎
前章までに、好古都国までと、問題の投馬国や狗奴国についてもおよその検討をすませたが、これまでにもたびたび述べてきたように、これは奴国から烏奴、支惟、巴利と、倭人伝に記載された国名の逆順序に従って、博多湾を基点に有明海の東海岸をまっすぐに南下したものである。そして、この順序で配列された邪馬台連合のさらに南に、記載通りの狗奴国があるという事実についても指摘しておいた。
こうしたいままでの国々に対する比定の結果は、一見複雑とも思われる倭人伝の内容とも無理をせずまったく一致し、解釈になんら手を加えることなく、また原文の訂正や変更も必要としないのである。私がひとつの想定のもとに故意に内容をまげたり、比定する国をこじつけようとしていないことだけは了解してもらえたと思う。
そこで弥奴国以下の国々は、好古都国よりさらに南には比定できないのだと、さきに述べておいたが、それではこの継ぎ手をどこに取り付ければいいのかということになる。さきの比定で、奴国からまっすぐに南下したとき、支惟から巴利、躬臣、邪馬と、筑後川をかまわず渡ってしまった。筑後川の河口は、筑後、肥後と、肥前との別れ口である。筑紫潟《つくしがた》と呼ばれる河口によって、有明海の沿岸も、東西にここではっきりわかれるのである。したがって、素通りしていったこの河口より西の肥前の国々も当然、弥奴国以下の対象として考えなければならない。だから継ぎ手は筑後川の河口だということになるのである。
こうした倭人伝の解釈に従い、当然の帰着として、弥奴国を佐賀県の東部、筑後川の右岸で支惟国に近い河口地帯に捜さねばならない。するとどうだろう。弥奴国は千七百年の世の移り変わりにもめげず、現在も生き続けているのである。すなわち、鳥栖市を中心とする三養基《みやき》郡(旧|三根《みね》、養父《やぶ》、基肄《きい》三郡の合郡名)の中の三根郡がそうだ。しかもこの三根郡と基肄郡が合併されて同一郡内にいまも存在しているということは、さきにのべた支惟国と弥奴国が隣接していたという事実を如実に物語っている。
改めてここで倭人伝に記載された国の順序をふりかえってみると、邪馬台国の次に斯馬国あり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に郡支国あり、次に弥奴国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり――次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、となっている。つまり現実的には弥奴国と支惟国が隣接しているにもかかわらず、弥奴国の次に好古都国が記載されているのは、ここを一つのジョイントとして一挙に肥後国の南端にあった好古都国にとび、ここから有明海の東岸を北上して書き連ね、はじめて巴利国から肥前の支惟国へとつないでいるのである。
これは有明海の沿岸に環状にひろがっていた邪馬台連合の国々を、順序よくまとめて列記するためにとられた、きわめて合理的な記述法といわなければならない。この記述された内容のテクニックといおうか、謎といおうか、重要な鍵がわからないばかりに、大方の人たちは国々がバラバラに存在していたかのように考え、自ら不必要な混乱を招いてきたのである。
またこの記載の順序が示唆するものは、弥奴国の対岸に当たる邪馬国(現在の福岡県山門郡、八女郡)との間が、邪馬台国時代にはまだ大きな湾(のちの筑紫潟。現在の地図では陸地になっているが、佐賀県の筑後川に面した東南部も、河口から十五〜十六キロはみな新しい干拓地である)であるから、記載の順序を邪馬国からただちに支惟国へつないでいないこと。そして躬臣国を一つおいて巴利国から、はじめて支惟国へつないでいるのは、躬臣国がいまの浮羽郡であり、その古い原名ウクホがウ(大)ク(河)ホ(浦)であり、彼我の間がまだ大きな内海であったことを物語っている。
これは余談になるが、鳥栖《とす》という地名は、踏査の結果、大河浦《うくほ》と筑紫《つくし》潟を結ぶ久留米市との間のくびれ部分のト(水道)に堆積した砂洲または河原の意味である。現在の鳥栖市は、いまからのべる、かつての弥奴国と支惟国にまたがる重要なポイントで、それだけに貴重な遺跡が多い。
縄文晩期は弥生早期と改称するのが適切
一見単純にみえる倭人伝に列記された国々は、つきつめて考えてゆくと、このように多くの見逃せない史実と内容を包蔵しているのである。とくに肥前の国々には、いまだ十分な学術的調査が及んでいないので、一般には知られていないが、それでも宅地造成や九州横断道路の建設などによって、学界を瞠目せしめるような貴重な大遺跡が続々と発見されつつある。旧版において既知の遺跡から当然かくあるべきだと私が指摘しておいた通り、いまや私の考えを裏付けるように、そしてこれらの新たな遺跡は、邪馬台連合の国々が肥前地方に存在していた事実を証明しつつあるのである。それも単発的な遺跡ではなく、縄文時代から弥生時代へ、そして古墳時代へと引き継がれてゆく、それぞれの前、中、後期にわたる総合的な遺跡が、長い伝統の歴史と継承された文化をだれの目にもたやすく理解できるような姿で開陳しているのである。邪馬台国とその連合国は、こうした条件を具備した地方にしか絶対に存在しないことをわれわれにさとしている。
さきの著書で、縄文晩期には、すでに稲作が普及していた事実を、私はいくつかの実例をあげて指摘しておいた。そうでなければ、自然に対応してこそ可能な稲作が、突如として弥生前期から開始されるものではない。このきわめて常識的な見解が、長い間、考古学という狭いジャンルの中でかえりみられなかった官僚的思考を悲しいと思ったのだが、当時はまだ多くの学者から、素人のモノ書きが生意気なとか、飛躍した想像だと非難をあびたものであった。
ところが最近、かの有名な板付《いたづけ》遺跡(福岡市)の弥生前期の下層部から、縄文晩期の水田跡や、人の足跡、排水路跡、モミガラ、木製の鍬などが夜臼式土器と共に福岡市教委の発掘調査によって発見された(昭和五十三年四月〜八月)。しかし関係者の間ではもはやだれも異議をさしはさむ者もなくこの大収穫に驚き、かつ喜び、いかにも至極当然の発見だったかのように批評する人たちばかりだった。私は新聞記事でこのことを知り、ただちに現場へ見学に赴いたが、わずか十年の短い間に、歴史がかくも飛躍するものかと、うたた感無量のものがあった。そしてこのとき、縄文晩期と弥生前期との間には、縄文後期と縄文晩期ほどの格差はない。さすれば縄文晩期という名称は、稲作が開始されていた事実を確認する以前に名付けられた名称であるから、稲作ばかりではなく、鉄器の使用や、幾多の内容上からも当然後期に後続する晩期としてよりも、より弥生前期に直結した内容にふさわしい名称に改めるべきではないかと私は考えた。
すなわち縄文前期の前に縄文早期を新たに設定したように、縄文時代を後期で打ち切り、晩期を弥生早期と改称すべきではなかろうかと思ったのである。そうすれば、縄文時代の早、前、中、後期に対して、弥生時代も早、前、中、後期とするとき、だれにも理解しやすく、また縄文、弥生の分け方が無理なく対応するのである。私はこの機会に、ぜひ縄文晩期を弥生早期に改称すべきだと考古学界に提唱したい。そして肥前地方にも近い将来、板付遺跡に劣らぬ弥生早期のすばらしい遺跡が、次々に発見されることを信じて疑わない。
二 弥奴国
弥奴ビドヌミ
肥前国|神埼郡《かむさきのこほり》、三根《みね》郡。現、佐賀県神埼郡から三養基《みやき》郡のうちの旧三根郡一帯にわたって背振山南麓から平地にかけてひろがっていた国(ただし現在の干拓地を除く)。
三養基郡のうち旧養父郡と基肄郡を除いたのは、養父郡の大部分を占める鳥栖市が、前に述べた支惟国に属していたと思われるからである。また北茂安《きたしげやす》町の東端に当たる千栗《ちりく》(チクリとは読まない)の台地が、旧筑後川に面して支惟国と自然の境界を形成している。千栗の対岸である長門石《ながといし》(久留米市)との間が福岡県と佐賀県の県境になっているのもこのためである。
地図の上で見ると、現在の筑後川は、さらにこの長門石の東南を流れているが、これは新筑後川の河川改修によるものである。中洲のように取り残された長門石に、有名な日輪寺古墳があるのも、かつて久留米の市街地と地続きで筑後川に面した重要な位置を占めていたことを物語っている。
旧版で佐嘉郡を弥奴国に含めていたが、まちがっていることに気付いたので削除した。
弥奴国の弥《び》の解釈については、不弥国の項で述べておいたので、重複を避けるが、後年呉音でミと読まれるようになり、ミネの郡となったのであろう。ただし奴は呉音でヌであるから、上をミと読めばミヌと読むべきである。ところが前にもたびたび説明したように、奴はヌとは読まれず、ほとんどナと呼ばれてきた。それならば、ネはヌがナとなったように、ネに転音したのだろうか。私はそうは思わない。ヌエすなわち入り江の水田という意味でヌエがつまってネになったのだろう。ネというのは初期の干拓地を意味する言葉ではなかろうか。
記紀に素戔嗚尊《すさのおのみこと》(須佐之男命)が根の国に追放されたとある根の国も、実はこうした意味の土地柄であったように考えられる。
説明が前後したが、弥奴の弥はミ、すなわち海の意味で、奴はいわずと知れた水田であるから、海に面した水田地帯の国という意味である。ことさら海を強調して海岸の水田の国といっているのは、川べりの水田地帯をナカといったのに対して、河口より外にひろがった、直接海に面した国だという必要があったのである。
ついでだが、別天神《ことあまつかみ》である天之御中主《あめのみなかぬし》神は、この弥奴国の筑後川河口から中流域を本地とされた神ではなかったろうか。なんとなれば、ミ(海)ナ(奴)カ(河)の言葉がこのことを伝えているようである。
同じく高御産巣日《たかみむすひ》神もタカすなわち有明海の西岸、高《たか》ツの海(諫早湾)のムスヒ(干潟)の新田の神であり、神産巣日《かみむすひ》神もカムサキ(神埼)、サカ(佐嘉)の海のムスヒの神であり、いまから述べようとする有明海の西岸地帯にゆかりの神々である。またこの弥奴国一帯は物部氏発祥の地であり、米多国造《めたのくにのみやつこ》の本拠でもあった。わが国の神代史につながる、まことに由緒のふかい土地である。
弥奴国をこの付近に比定したのは、いままでの説明ですでに理解されたと思うが、支惟国に接し、かつ国名の意味から当然の帰着と考えている。
メモ――この地帯には年々大遺跡が発見され、意外な事実が歴史のブランクを埋めつつある。既成の考古学的な常識も近く改訂されなければならないだろう。私はいつも貴重な遺跡が発見されるたびにいっているのだが、遺跡がたまたま発見されるのではなく、現在のわれわれの集落が遺跡の上にのっかっているのだと。それほど人間の住む自然的条件は昔も今もあまり変っていないのである。
主なる遺跡は、ほぼ国鉄長崎本線付近から山麓にそって散在しており、中でも中原町の姫方遺跡は特記すべきものであろう。いままでわかっているものだけでも甕棺約四百個、人骨二百五十体、土壙墓数基、石棺約三十基(副葬鉄剣二)、環状列石墓、方形周溝墓各一、弥生住居跡二、前期円墳二基など。今日まで発掘及び調査された西日本最大の墳墓群で、いまからおよそ二千年前の弥生時代の中期から千五百年前の古墳前期に至る貴重な遺跡である。
問題なのは、この遺跡の時代層の中に、邪馬台国時代がすっぽりと入り、その中核をなしていることである。発見例の少ない弥生時代の人骨の中で、この厖大な数は山口県土居ケ浜の弥生人骨群に匹敵し、一貫した墓層の集積はさきにのべた熊本県城南町の塚原古墳群とともに、高塚古墳発生の過程を知る上でかけがえのない遺跡である。ここでも高塚古墳の畿内発生説は、もろくも打ち破られているのである。
このほか、弥生貝塚は千代田町から三田川町にかけて数多く見られ、弥生遺跡や古墳群は数え切れないほど、この国内の至るところに充満している。中でも神埼町の城原《じようばる》を中心に城原川流域には、驚くほどの各種遺跡と、おびただしい数の古墳群が集中しており、かつての大きな文化圏が存在していたことを証明している。また東背振村の三津一帯にも、縄文、弥生、古墳と、各期にわたる遺跡や古墳群が集中しており、銅戈の鋳型が出現した石動付近も見落とせない土地柄である。
三 郡支国
郡支クンキ(シ)グンギ(シ)
肥前国|小城郡《おきのこほり》、佐嘉《さか》郡。現、佐賀県|多久《たく》市及び小城郡一帯と佐賀市、佐賀郡の背振《せぶり》山南麓から低湿地干拓地を除く平地にかけてひろがっていた国。
その東端は、神籠《こうご》石で知られる帯隈《おびくま》山付近で弥奴国と境界を接していたろうか。「クキの国」と読むべきだと思う(紹興本系の各種刊本に「郡」を「都」とあるも、郡のあやまりならんとする先学の説に従った)。クはうんざりするほど述べてきた川、河の意味で、キは丘、台地の意味であろう。川と丘陵、すなわち水田と畑の国といった意味を表しているようである。
弥奴国に接し、かつクキが、古くから存在する小城《おぎ》郡にその名を保ち、しかも豊かな土地柄と、そこに形成された大集落、および文化圏の存在を証明するに足る幾多の歴史的遺産によって、この地方を郡支国に比定した。その中心は川上川と牛津川にはさまれた流域地帯ではなかったろうか。いわゆる記紀のタケ(岳、または建)の国の中心である。
謎の大異変と有明海の陸化
現在、佐賀平野となっているこの河口地帯は、地図だけで判断すると誤解を生じかねないが、まるで嘘のような海の中だった土地である。それもそんなに古い時代のことではない。
たとえば、いまから千五百年前の古墳時代前期ごろまでは、旧佐賀市内のほとんどは海、または海浜であった。本来ならば佐賀市付近が海岸であった頃には、現在のような佐賀県にみられる泥土の海岸ではなく、たいへんきれいな海岸だったのである。それは記紀の文からも察せられるが、川上川の上流から流されてくる美しい金砂が河口となってひろがっていたのでサカ(佐嘉)と呼んだのだと思われる(このことはさきに説明した遠賀川のことを大きな川という意味でオカと呼んでいた例と同じである)。現在も大和町付近で川上川の川岸に立てば、このことがだれの目にもただちに了解できる。石英質の硬くて良質なここの砂は、植木の培土に混ぜたり、さし木床に最適なので、私は久しい以前から、わざわざここの砂を取り寄せて使用している。けだし九州最高の植木用の砂である。だからこの流域や佐賀市内の楠がとくに繁茂するのであろう。
佐賀県に限らず有明海沿岸の干潟となって堆積している泥土は、単なる海退や沖積陸化によるものではなく、分析してみると、そのほとんどが阿蘇火山灰であるから、ある時期に想像を絶した大異変が起こり、驚くべき莫大な量の火山灰が一時にどっと流入した形跡がある。それは太古のことではなく、長年私が追求した結果、欠史時代と呼ばれる謎の四世紀中のできごとであることが推定できる。このことは近く出版する別著の中でデータをそえ詳細にのべているので、ここでは省略したい。
要するにこの異変のために、筑後川、菊池川、白川、緑川、球磨川などの有明海、八代湾に注ぐあらゆる河川によって、過去に堆積したウルム期以来の阿蘇火山灰が一挙に投入され、泥土の海と化したのであった。それがやがて海底に沈澱し、満干の差の激しいこの海の特性によって、入江や湾曲した海岸に急速な堆積陸化を促しているのである。
筑後川河口の陸化速度は、年平均で厚さ一センチ、十メートルものびている。しからば千七百年前の邪馬台国時代の海岸からは、四世紀におきた気象異変までの一世紀分を差し引き、距離にして十六キロ、高低で十六メートルも増していることになるが、本当だろうか。実際に踏査してみると、まさにその通りである。
弥奴国の海岸線だったと推定される弥生貝塚の線から筑後川河口までの直距離は約十五キロであり、干拓地内の大きなクリークは、有明海の満干の差に等しい約五メートルを基準として段階的に海に並行して残っているのである。だから山手に近い最後のクリークをたどれば、そこが五、六世紀頃の海岸線だったと考えてもまずまちがいない。このように短い歳月で、この地方に土地が新しくできていることについては、もはやご理解ねがえたと思うが、邪馬台国時代以後の歴史も、同じような変貌をとげているので、よほど注意して現地をくり返しくり返し調査しないと、元の姿がつかめない。
外海と内海の重要な接触点
この地方は、現地を歩いてみると、背後の豊かな背振山系の水源に恵まれた、たくさんの川が耕地をうるおしている。水田のみならず、畑地も、旱魃《かんばつ》にあっても栽培植物が枯死していないところをみると、毛細管現象で近くの水を吸い上げているのであろう。それほど古代人の生活にとって最適な条件を具備している。だから豊かな生活からくる力の結晶は、あらゆる舌状台地に相当の大古墳を残しているのである。
加うるに、有明海の奥まった一隅で窒息しそうに受け取られがちな地方だが、実は幾多の河川の河口は水運の便がよく、川上川をさかのぼれば、三瀬《みつせ》峠を越えて、伊都国と奴国境の博多湾に容易に出ることができる。また厳木《きうらぎ》の山峡《やまかい》をぬければ、ただちに現在の松浦川に沿って唐津湾に達し、多久市西方の八幡岳と徳連岳との間の川古《かわご》の峠を越えれば、伊万里湾は指呼の間にある。さらに鬼ノ鼻山の馬神峠を越えるか、六角川に沿ってさかのぼれば、武雄方面を経て、大村湾から佐世保方面へ出るのも容易である。実際はこのように、東西南北の各方面と文化交流や交易のルートが四通八達しているため、西九州における外海と内海の重要な接触点の役目を果たしてきたのである。示唆に富んだ各種の遺跡や特徴的な古墳がこの地方に多いのは、そのためである。
メモ――筑後川から伊万里湾に達する背振山脈を中心とした肥前の国を東西に縦断する約六十キロの山塊南麓の丘という丘、舌状台地の先端には、これみな古墳の丘といっても過言ではないほど大小無数の円墳や前方後円墳がひしめき合っている。この間の空隙《くうげき》を縄文や弥生の遺跡や散布地が埋めているのである。私はこれを背振古墳ベルトと呼んできたが、その数は数百基をくだるまいと思う。のみならず、これらの古墳の帯は、さらに有明海西岸づたいに多良岳から雲仙山麓へとのび、また東岸では福岡県の甘木市方面から耳納山麓を経て福岡県から熊本県へ、筑肥のあらゆる台地や丘を席捲しつくし、八代方面の球磨川流域まで及んでいるが、その数は優に数千基をくだるまい。私はこれを有明海古墳環状ベルトとも呼んでいる。
畿内地方が古墳の本場のようにいわれてきたが、それは研究がすすみ管理がいいから有名になっただけで、伝仁徳陵などの特筆すべき数基の超大型古墳を除けば、畿内地方は有明海沿岸の古墳群に比して問題ではない。ただ専門家以外には、この地方がまだ世間にあまり知られておらず、学術的な調査もほとんど及んでいない上に、管理の立ちおくれから放置されたまま眠っているだけである。やがて調査がすすめば、前記した宇土市の向野田古墳のように続々と新事実が発見されるだろう。
大都会に近ければ、ちょっとしたことでもマスコミが寄ってたかって取り上げる。学者たちも口をそろえて問題にしたがる。そのため一般の人たちまでが、必要以上に関心をかき立てられる。ところが僻遠の地では、相当に重大な発見がなされても、あまり世間の人には知られないで終わってしまう。しかし学界内部ではそのことに敏感に反応し合い、いつの間にか学説や考え方に、少しずつ変化を及ぼし、十年もたつと学説もすっかり衣裳を改めているのである。その意味で取り上げたい遺跡や古墳が、この国には実に多いのだが、いまはこれらに関するたくさんの印刷物も発行されていることだし、また紙数が足りないので残念ながら割愛した。
ただ一つ、これは最近発見された遺跡だが、非常に重要なのであげておく。それは一万五千年前のものと推定される多久《たく》市茶園原西畑の旧石器時代の石器遺跡だ。ここから出土する石器は単純な旧い形式の尖頭石器であるが、一平方メートル当たり二十個程度も発見されれば大量発見といわれるのに、ここでは五百個近くも発見されている。それも約百五十平方メートルくらいの範囲にわたって約三十センチの厚さで、ぎっしりと敷きつめたように重なり合っているのである。製品、材料を合わせると厖大な数にのぼる、他に類例のないわが国最大の旧石器遺跡である。しかもこの付近には、六キロ四方にわたってまだ数百ヵ所の遺跡があり、埋蔵された石器の数は、はかり知れない。かつて日本考古学会の西北九州総合調査で、昭和三十五年、杉原壮介氏(明治大学)らの手によって、その一部が調査確認されていたが、今回多久市教委の手によって新たに発掘がすすめられ、陽の目をみるにいたったものである。
この地方は、サヌカイト(玄武岩の一種)の産地であり、工房の趾《あと》も見つかっているが、ここからそんな古い時代に九州各地へ製品を送り出していたかは疑問であるけれども、とにかくこんなに古い時代に、予想もしなかった石器の大製造遺跡が存在していたという事実は、わが国の考古学界に、またまた問題をなげかける遺跡である。またそれだけに、多くの人々がこの地方に集落を作り、社会を形成していたことだけは、このことによって歴然としているので、それが果たして何を意味するか、それが、はるかに時代が下る邪馬台国となんらかの意味でつながりを持つのか、今後の研究にまつほかはない。ただここでは、この地方が古い時代から開けていたことをわかってもらえば、それだけでも私はいいと思う。
四 伊邪国
伊邪イヤ(シヤ)イヤ(ジヤ)
肥前国松浦郡の一部。現、佐賀県伊万里市を中心に伊万里湾沿岸にひろがっていた国。
国名はイヤと読むべきであろう。学者の中にさえ、これをイサとかイザとか読まれる人もおられるが、如何なものであろうか。単独で無理に読もうとすれば、イサとかイザでもかまわない。だが倭人伝の中の国名として読むなら、イヤでなければならないのである。邪馬台をヤバタイと読まずサメダイと読むなら別だが――。もっとも呉音に準拠した韓国語では邪馬台国《サマテエクク》と読む。
伊邪のイは、イシ(石)、イワ(磐)、イソ(磯)などのイで、はじめは堅いことを表わす語であったようである。のちに堅いものの代表として鉄の意味に用いるようになった。イモノ(鋳鉄)、イカケ(鋳造)、イサメル(諫める)などの言葉が残っているところから、鋳鉄の意味とも考えられる。イタ(板)という言葉も、金物で材木をタツ(断つ)意味で、イタツモノがイタになったのだろうが、そうなると古代の鉄鋸《てつのこ》や斧《おの》は鋳鉄だったということになる。
とにかく、イという言葉は、これは結果論になるようだけれども、福岡県と佐賀県の県境にある背振山および佐賀県と長崎県の北部にまたがる筑紫山地をさして、古代にはイのミネと呼んだのではなかろうか。ふしぎにこの山系を取り巻くように伊都、支惟、伊邪、已百支《イホキ》、そのほか、現在も伊のつく町や村の名が周囲に多いのは、イがこの山になんらかの関係があるのではないかと思われる。
また伊邪那岐《いざなぎ》、伊邪那美命のイも、記紀を読んでみると、この山に関係のあることは確かで、倭人伝の倭のことであるイ(委)が実はこの地方を支配していた、後漢書《ごかんじよ》に伝えられる王帥升の委の国の勢力範囲とも、つながりがあったように思われてならないのである。
イヤのヤは、たびたびいままでも述べてきたように、のちの入り江の江である。だから伊邪とは、岩石からなる入り江という意味を持っているように思われる。ついでだが、記紀文中に八十と書いてヤソ、あるいは八咫の鏡、八咫烏などのヤタと、八の字をやたらと使ってあるが、これも倭人伝中の邪馬台、伊邪などの邪と字は違っていても同意語である。従来、ヤソタケルなどといって、八十の十をソと読んできたが、これは「ヤト」または「ヤタ」と読んだほうが妥当なようである。
八咫の鏡や八咫烏のヤタも、八アタがつまった語だと説明される人もいる。アタとは古代の指を折って測る寸法のことである。こうした解釈のしかたは、あくまで八の字を数の対象として考えるからで、だから、鏡の直径と八の数字を割り出す寸法に苦心がはらわれたり、カラスに対する妙な動物学的新説が飛び出したりするのである。ヤタのタは前記の八十の十とも等しく、ヤタとは邪馬台の馬を抜いた邪台に当たる意味の言葉である。倭と書いて記紀ではヤマトと読ませているが、この場合のヤマトからマを抜くとこれもヤトとなる。同じ意味を持っている言葉だからだ。
話が横道にそれたが、伊邪国の位置は郡支国に接した岩石の多い海岸でなければならない。多久市から松浦《まつら》川にそって海岸へ下れば唐津へ出るが、ここの海岸はイソといった感じで、イヤではない。また末盧国の国内である。そこで伊邪を比定するなら、伊万里湾方面をのぞいては他にない。伊万里湾の奥深い入り江、露出した第三紀層の砂岩からなる岬、それに伊万里という言葉もあつらえ向きである。伊万里とは岩の海岸の原という意味であるから、もとは伊邪のハリ(原)といっていたのかもしれぬ。あるいはイマの里またはイヤの里といったのが、イマリとなったのかもしれない。いずれにしても、東松浦半島を境に、唐津湾側と伊万里湾側とでは、風土的にもいちじるしい差があるのである。だから二つの異なった部族が別個に存在したとしてもふしぎはない。
和名抄では単に松浦郡として範囲が広いし、現在も佐賀県、長崎県の両県にわたって東西南北の松浦郡に分かれ、南松浦郡ははるか南の下五島方面である。このように九州の西北部は、なかなか限界がつけにくい。伊邪国の勢力範囲も、中心は伊万里湾だったろうが、平戸《ひらど》付近まで及んでいたのではなかろうか。それとも佐賀県と長崎県境の福島方面までだったかもしれない。
この地方の生活は農業が従で、漁業と海上生活に頼っていただろう。距離的にいえば、末盧や伊都よりも、島伝いに渡れば朝鮮半島や大陸には近いのである。その意味で記録には残っていないが、倭寇時代のことから考えれば、この時代にも海外渡航の一起点だったとも考えられる。後年松浦党がこの地方に蟠居《ばんきよ》して勢力をのばしたのは、かかる地理的条件と地勢によるものであるから、古代においても、こうしたことを類推しても無理ではないと思う。
メモ――この地方には、先土器時代から縄文、弥生、古墳時代へと一貫して遺跡が存在している。早くから人が住み、古い文化が継続していたことを物語っている。市内の二里町からは、多数の弥生甕棺群および石棺群が発見されているので、伊邪国ならずとも、同時代に多数の人が住み、集落が存在したことを証明している。さらに同じ二里町の杢路寺古墳(前期形式、前方後円墳)からは、礫槨から三角縁神獣鏡、剣、刀、|※《やりがんな》が、箱式石棺から斧、※、砥石などが出土しており、同地方における弥生時代から古墳時代への移行を如実に物語っている。このほか県指定の小島古墳など数基の古墳があるが、まだ学術調査がすすんでいないので、弥生遺跡とともに、まだまだ今後発見される率が多い地帯として、私は今後に期待している。
これは伊邪国の範囲に含めるべきか、次の已百支国として扱った方が適当なのか、あるいはそのいずれにも属しない独立した地帯だったかもしれないが、ぜひこの項にあげておかねばならない弥生中期の大遺跡がある。それは里田原《さとたばる》遺跡だ。遺跡は伊万里市からも佐世保市からも、ほぼ等距離に当たる平戸市に近い田平《たびら》町の国道二〇四号線のすぐ傍らにある。
出土品は保存良好な幾多の木製農具、矢板、弓、アンペラなど、土器、石器は種類を問わずおびただしい量にのぼり、水門跡、穀物貯蔵穴なども発見されている。遺跡の範囲は四十ヘクタールに及び、調査が進み全貌が明らかになれば、登呂遺跡にまさるとも劣らない、可能性を秘めた大集落遺跡である。
もともとこの遺跡が発見された端緒は、ある縫製工場の敷地造成からであった。このように、まだまだ肥前の国には、邪馬台国時代の生活を物語る大文化遺産が眠っているのである。
五 已百支国
已百支イハクキ(シ)イヒャクキ(シ)
肥前国松浦郡の一部および彼杵郡《そのきのこほり》の一部。現、長崎県佐世保市を中心に北松浦郡の一部と東彼杵郡にかけてひろがっていた国。
伊邪国や、次にのべる斯馬国に接し、郡支国ともほど遠からぬ場所で、かつ国名の解釈からこの地方に比定した。
イはイシ(石)の意味で、百はイハキと続けて発音するために、音感の上からこの字をえらんだのであろう。ハはホとも通じ、半円形のことである。穂も帆も訓読すればホであり、音読のまま浦《ホ》を用いるなどして、古くから形状からくる名詞に、それぞれ使いわけられてきた。このことは、いままでもたびたび述べてきた通りである。
なお、ハ(歯)の語源についていろいろの説があるが、いずれも納得しがたいものばかりである。やはりはじめは半円に並んだ形状から、歯並び全体をさしていたのではなかろうか。あるいは基本的名詞が身体の各部からはじまるので、ホ(穂、帆など)の語源も、この歯《ハ》から生まれたのではないかと思われる。
さて、已百支という国は巨大な石の丼《どんぶり》の一方が欠けたような、岬に取り巻かれた浦といった意味を持っている。
佐世保はまったくそのような三紀層の砂岩からできた湾である。とくにホ(保)の意味がそのことを表わしている。
また佐世保湾内には、庵浦《いほのうら》、庵崎《いほのさき》などイホに関係のある特殊な地名も残っており、いまでは西海橋で有名になった、大村湾と佐世保湾を仕切っている針尾島も、もとは畑の開墾を意味する原《ハリ》と庵《イホ》の島がつまってハリヲ(針尾)島となったものである。
キもまた丘陵、岬の意味であることについては、たびたび述べた通りだが、この地方は彼杵《そのき》、杵島《きしま》と相接した郡名にその名を残し、早岐《はいき》、柚木《ゆのき》などキのつく地名も多い。
己と巳の問題
ここでちょっと読者諸賢にことわっておきたいのだが、それは已百支国の已が、巳《し》なのか己《き》なのか、今日まで多くの人が混用し、そのことについてだれも論議していないことである。この似たような字についてご存じの人も多いと思うが、昔から次のような歌があるので参考までにまず記しておこう。
「キ、コの声、オノレ、ツチノト下につき、イ、スデニ中ば、シ、ミは皆つく」
巳の漢音はシ、呉音はジであり、己はいずれもキである。だから巳百支のときはシハキとなり、己百支ならキハキと読まなければならないのである。したがって意味も違ってくる。
邪馬臺国か邪馬壹国かについては侃侃諤諤、論議を呼んだが、已百支国が傍国だからといって見過ごすわけにもいくまい。紹煕本をはじめ各種刊本に巳とあるも已の誤りとして、ここでも先学の説に従い、かつ私は始めから九州大学所蔵の汲古閣刊本によっているので、已《イ》を採用した。さきの郡支国の場合の都を郡としたのも、同じ理由によるものである。
景行天皇の三太子の一人で、どこへ消えたのかなんらの説明も加えられていない不思議な王、五百城《いほき》入彦皇子の国も、実はここではなかったろうかと私は考えている。
天照大神の真珠の首飾り
最後にもう一つ、天照大神の首にかけられていたという五百箇御統《いほつみすまる》の玉である。この玉を、従来は五百箇と書かれているところから、多くの勾玉などを連ねた首飾りだったとし、御統を漢字の意味に従って最高の統治者が身につける玉として解釈して、何の不思議もいだかなかった。だが、この五百箇《イホツ》は、已百支《イホキ》のイホのツで、御統はミ(海)スム(澄む、または産する)マル(まるい)玉の意味で、実は真珠の首飾りだったのである。
とくに私がこのことを強調したいのは、わが国における天然真珠の往古からの産地は、この佐世保湾と大村湾をおいてはほかにないからだ。いまは三重県の志摩(英虞《あご》湾)も有名だが、これは明治以後の養殖真珠によるものである。
メモ――この国の考古学的遺跡としては、大村から佐世保方面にかけて、至るところに縄文、弥生の遺跡や各期の円墳、前方後円墳、古墳群などが数多く存在している。中でも大村市を中心に海岸から山麓に集中し、副葬品としては時代は下るが、直刀十二、金鍔《つば》、金環、銀環、甲、馬具などが大村高校に保管されている。これらはいずれも見事なものだ。
次に彼杵《そのき》町を中心に、また川棚町から波佐見町にかけても同様に遺跡や古墳群が多く、佐世保方面には、あまりにも近代的な開発が進んでいるので古墳の数は少ないが、それでも縄文、弥生の遺跡は多く、邪馬台国時代とその前後の歴史的背景を証明するのにはこと欠かない。佐世保市に隣接した佐々町の大型の支石墓群(弥生時代)もあげておかなければならないだろう。
なにしろこの地方は、終戦までわが国でも代表的な軍用地帯であったから、戦時中の防空壕、高射砲陣地、掩体壕《えんたいごう》、疎開建物用地、米軍からの被爆などによって破壊消滅されたものがひじょうに多い。
とくに肝心の佐世保港の周囲であるが、ここが明治のはじめから軍港であったことは周知のことである。佐世保市はこのため早くから、香港《ホンコン》の町のように山の上までギッシリと家が立ち並んでいる。丘や海岸線などの地形はまったく変貌し、考古学的調査の対象としてはきわめて不利な場所である。
それにもかかわらず、偶然の発見というものはおそろしいものだ。戦時中の防空壕を掘った跡から、ふとした機会に人骨や土器が発見された。それを日本考古学協会の西部特別調査班が戦後発掘調査にのり出し、調べてみると土器の形式がひじょうに古い。縄文早期よりも古いのでラジオカーボンにかけてみると、一万年から一万一千年前のものであることがわかった。そして遺体を洞穴の中段に作った床の上に置いて、一種のミイラ化のような埋葬形式が行なわれていたのではないかということもわかった。これが、有名な岩下洞穴(相浦川上流右岸)である。
この岩蔭遺跡からは、このほか多数の縄文早期の土器石器を主体として、人骨二十五体のほか、三ヵ所の炉跡も発見されているので、住居址というべきであろう。続いて昭和三十五年、芹沢長介氏(東北大学)、鎌木義昌氏(倉敷考古館)らの手によって北松浦郡吉井町(佐世保市と平戸市の中間)の福井洞穴から、さらにそれより古い一万二千年前の土器が発見された。細石器文化には土器を伴わないと考えられてきた従来の定説を破って、九州でははじめての爪形文《つめがたもん》土器に続いて隆線《りゆうせん》文土器(一万二千七百年前、ラジオカーボン測定による)が発見されたのである。爾来、各地の岩蔭遺跡が注目されるようになったのだが、それまで横須賀の夏島貝塚から出た土器が八千年前のものとして日本および世界最古の土器とされてきた。それが岩下、福井の両岩蔭遺跡によって覆ったのである。横須賀といい佐世保といい、ともに軍港であるところがおもしろい。
その後、麻生優氏(国学院大学)らによって佐世保周辺の岩蔭遺跡が継続的に調査され、昭和四十八年夏には泉福寺洞穴(相浦川上流左岸で岩下洞穴の対岸に当たる)から、隆線文土器よりさらに古い、わが国では初めての豆粒文《とうりゆうもん》土器が発見された。この岩蔭遺跡には外部と区切るための石積みが残されており、住居的色彩が濃厚である。このことは、われわれの祖先がいつごろから住居という観念を持ちはじめたか、それがどの時期までさかのぼり得るかという問題を投げかけている。これらのほか、佐世保市内には、なお数ヵ所の岩蔭遺跡があり、いかに古い時代から、この地方に人々が集落を作り住んでいたかを物語っている。
一見、余分とも思われるような、邪馬台国とはかけはなれたこれらの遺跡について述べたのは、こんなに古い時代から人々がこの地方に住みついていたという事実を、歴史的にみればきわめて底の浅い都会に住む人たちが、常に地方に対して抱いている「僻遠の地にそんなものが――」といった意識や優越感を改めてもらいたいためである。さきに述べた多久市の茶園原遺跡をはじめ、里田原《さとたばる》遺跡、福井洞穴、岩下洞穴その他幾多の日本の歴史を支える貴重な遺跡が、まだまだ西九州の外海地帯にはずらりと並んでいるのである。それをまだ専門家以外の人が知らないというだけである。邪馬台国問題にしても、現地を知らずして論じてもらっては困るのだ。過去のあらゆる大陸の文化が、いったいどこを経由して流入したのか、もう一度考えなおしてもらいたいものである。
六 斯馬国
斯馬シバシメ
肥前国|杵島郡《きしまのこほり》、藤津《ふじつ》郡。現、佐賀県杵島、藤津の両郡に杵島山を中心としてひろがっていた国(ただし干拓地を除く)。シバの国と読みたい。のち転じてシマの国と呼ばれたものと思う。
現在の杵島山は、邪馬台国時代にはまったくの島であった。佐賀市を出た長崎本線は、肥前山口から、肥前白石、肥前鹿島を経て肥前七浦までの間は、当時の海の中を走っているのである。西側の武雄市と塩田町の間も、虚空蔵山付近のせまい水道で両方の海はつながっていた。したがって斯馬国はこの島を足がかりに、東は海の幸多い有明海に面し、北は現在六角川が流れる海を境に郡支国に接し、西北部は有田町方面で伊邪国に接し、西は武雄市及び嬉野町で已百支国に接し、南は佐賀県と長崎県の県境をなす多良岳の広い北麓を占めて、豊かな国だったように思われる。のちに陸化が進むにつれて、クキ、イハキに近い方をキシマとし、南をフジツにわかつことによって、斯馬は単なる島から杵島山と呼ばれるようになったようである。
以上のようなことから、郡名も現存しているし、いままで倭人伝記載の順序通りに逐次比定してきた国々とも相互に接しあい、遺跡も豊富なので、自信をもってこの地に斯馬国を比定した。邪馬台国を除けば、これで傍国はすべて終わるのである。倭人伝の記事に従えば、邪馬台国の次にまず斯馬国があるというのだから、斯馬国の次には必ず邪馬台国がなければならないことになるのである。その意味で斯馬国は邪馬台国の比定にとってまことに動かしがたい重要な国といわなければならない。
杵島山は、いまはまったく陸地の中の丘陵と山である。だが古墳時代には、東の広い水田地帯はすべて記紀にいう建日別《たけひわけ》の建の海である。つまり現在まで不明とされてきた「建日向日豊久士比泥別《タケヒムカヒトヨクシヒネワケ》」という、そのタケヒであることを頭に入れて次のメモを考えあわせてもらえば、この斯馬国の歴史的意義がいっそうはっきりすると思う。
メモ――この地方の考古学的な遺跡は、縄文、弥生を問わず、各期にわたる古墳がいたるところに充満し、枚挙にいとまがないほどである。とくに弥生時代の甕棺群、石棺群が、古墳期とつなぐ形で同一地区に共存し、すでに数十ヵ所で発見されている。これは邪馬台国時代の時代的背景をあざやかに立証するものである。
杵島山の西麓の武雄市や塩田町、ならびに多良岳山麓にかけてこの傾向が顕著にみられる。私は旧版を発表してからも、さらにこれらの遺跡や古墳を、風土との関係をたしかめるためにたずねてまわったが、ここにはまだ未登録の古墳が多く、そのため断続的ながら二年近くもかかったほどであった。蝮《まむし》を気にしながら手を引かれて藪をかきわけ、谷から丘へといたるところに散在した遺跡や古墳をたずねてまわるのは、仕事とはいいながら、こんなに多いと、うんざりするものだ。菊池川の流域をまわるときもたびたびそう思ったが、ここが最後の斯馬国と思えば、疲れてもいたのだろうが、もはやこれ以上この地を調査してまわる気力はないと思うほどである。それほどこの地区には遺跡や古墳が雑然とひしめきあっているのである。
私の踏査した経験から判断すると、斯馬国の中心は杵島山西麓の地峡に近い武雄市の片白《かたしろ》地区付近だったろうと思われる。時代は下るが、近くにおつぼ山神籠石があり、とくに遺跡や古墳が集中しているからである。片白も、干潟にできた水田の意であり、同じ遺跡、古墳が多い朝日も、もとはアサ(浅い)ヒ(干)の意味であるから、こうしたことを暗に伝えている。後世の風土記や万葉集で知られる「杵島山の歌垣」も、早くから開けたこの地方の生活と文化を背景としなければ生まれてこないのである。
また九州一を誇る鹿島市の祐徳稲荷《ゆうとくいなり》神社も、その神社縁起によれば、鍋島家に嫁した万子姫が京の花山院邸から勧請《かんじよう》した稲荷神社云々とあるが、付近に古墳が多いところから、大古墳に祀《まつ》られた祠《ほこら》がもとで現在のように発展したのではなかろうか。問題はそれ以前にある。整備された広大な神域も大古墳群の跡のように思われてならない。なぜ私がこんなことをいうかといえば、西九州の大きな稲荷神社の大半は古墳に祀られており、いいかえると古墳そのものだからである(不動明王その他の場合もある)。このほか切支丹禁制時代には、古墳の横穴石室が秘密の礼拝堂として利用され、いまでは生姜《しようが》やサツマイモの貯蔵庫として農家に利用されている例もある。多様化された現代の所産とでもいおうか。
第九章 女王の都する国
一 金印への思慕
不幸な到達点
前章までで、邪馬台国に統属したすべての国の比定を終わり、最後に残された邪馬台国へ足を踏み入れるわけだが、はたしてそこがどこなのかすでに読者も、おおよその見当がつかれていることであろう。
倭人伝の記事によれば、邪馬台国の次に斯馬国がある。それも「以北」すなわち北側にあると記載されているから、たびたびくり返すように、斯馬国の南には絶対に邪馬台国がなければならないのである。しかも、いままで記載の順序にしたがって邪馬台国に統属した国を次々に比定し、明らかにしてきたが、これらの国々を九州の西部からさし引けば、長崎県の南半分しかのこらないのである。つまりそこが邪馬台国だということになる。そうでなければ、もはや九州の西部には、それだけの陸地しか残っておらず、他に邪馬台国を捜そうとすれば、海中に求めなければならないのである。
ところで私はいま、もっとも不幸な立場で邪馬台国の丘に立っている。なぜなら私は長崎県島原市に生まれ、そこで育ち、いまもそこに住んでいるからである。そしていまから述べようとする邪馬台国を、幸か不幸か、私のふるさとの近くに比定しなければならないからだ。
私は、はじめから邪馬台国がどこにあろうとかまわないと考えてきた。倭人伝を追究して、最後につきとめた場所が邪馬台国であればよかった。そして、ひたすら伊都から邪馬台への道を、白いステッキにすがりながら、妻とともにとぼとぼと、千七百年の昔の道を、十五年もかかって歩きつづけてきた。
そしてやっとたどりついた邪馬台国が、よもやふるさとの近くにあろうとは、ほんとうに夢にも思わなかったのである。
はじめに想像していた邪馬台国は、佐賀県の川上川流域の大和町付近か、三養基《みやき》郡から神埼郡一帯ではなかろうか、と考えていた。あるいは菊池川流域か宇土半島周辺ではなかろうかとも考え、種々考証をすすめたが、最後のきめ手とはならず、四転五転して、その都度振り出しにもどらねばならなかった。
そうこうするうちに、すでに記述したとおりの、倭人伝記載の国家群を逆に奴国から烏奴国、支惟国、巴利国へと追ってゆく新しい方法を考えついたのであった。幸いそれらの国々は、プラモデルのように順序よく並んでいた。私はこれらの国々を実地に踏査しながら、辛抱づよく追い続けてきた。当然の帰着として、邪馬台国は最後に姿を現わしたが、私は、この国にたどりついたとき、実にいいようのないショックを受けたのである。
はたしてこの国に、このまま、のこのこと足を踏み入れていいものだろうか、と躊躇《ちゆうちよ》した。まさかと思っていただけに、何度もそれまでの考証を疑い、証拠となるべき顕著な前期高塚古墳の一基すらないこの地方に気乗りがせず、かつ偶然の結果とはいえ、それが郷里の近くだったことに、むしろ失望した。
ふるさとを愛するあまり、なんでもこじつけたがる郷土史家にありがちなドグマ(独断)と受け取られはしないだろうか。だが、私は、かくれ切支丹の偽物の骨董品を判別する郷土史家でもない。
私が地方の一交通会社に関係しているからといって、観光宣伝の具に供するのではないかと、痛くもない腹を探られるのではなかろうか、などといった危惧さえもいだいたのである。
どうすれば私の郷里が邪馬台国にならないですむかという、逆な見方で反証をあげるため、いろいろの努力も試みた。しかし反証をあげようとすればするほど、かえって有力な証拠が現われ、強力な基盤にささえられた邪馬台国は、逡巡《しゆんじゆん》する私を軽蔑《けいべつ》し叱咤《しつた》するのだった。
邪馬台国への自信
たとえば、それまで長崎県の西南部には後期の横穴式古墳はあっても、僻遠《へきえん》の地でまだ大和王朝の勢力が及んでいなかったから、中期以前の前方後円墳は存在しない、というのが学界の常識だった。だが、前にも述べたように、私はその後、中期・前期と思われるすばらしい前方後円墳や円墳を、この方面でいくつも発見した。めくらに発見される古墳も古墳だが、学者の話もあまりあてにならないと思うようになった。何も遠慮することはないと、学者に対して厚かましくなったのも、邪馬台国に対して自信を持ちはじめたのも、このころからである。
いまは邪馬台国が郷里の近くにあったことを疑ってもいなければ、不愉快にも思っていない。むしろ信じきっているし、誇りに思っている。
ただ残念なことは、なお多くの人が、猜疑《さいぎ》の目と、興味本位に私の比定した邪馬台国を見るだろうことである。しかし、それでもかまわない。歴史的事実は、何人かの、一人でもいい、倭人伝に対する私の解釈を理解し、納得してくれる学者たちとともに発掘した親魏倭王の金印が千七百年目の太陽の光を浴びたとき、はじめて証明されることを自覚しているからである。それまで私の金印への思慕はつづくだろう。これからは、その最後の卑弥呼の冢《つか》をつきとめるために、すべての精力を傾けなければならない。この努力は生涯を必要とするかもしれない。あるいは発見されたとき、もはや私は、この世を去っているかもしれない。
二十五年、まぼろしのように去来しつづけてきた邪馬台国は、いま、ふるさとの近くで、雲仙岳と多良岳の間に長崎の岬へと続いてひろがっている。問題の百歩の冢は、その中に、名もない部落の芋畑と並んで、草におおわれて眠っているだろう。
あの丘の向こうには、西海《さいかい》橋がはるかにかすみ、大村湾が真珠のように光っているはずだ。広い干拓地のはずれには、孤独な表情で白い堤防が水平線を区切り、その向こうに有明海の干潟が陸地のようにどこまでもつづいているだろう。
ああ潮騒《しおさい》が聞こえる。私はいま千々石《ちぢわ》湾を見おろす断崖の上に立っているのである。夕日がまぶしい。真っ赤な海の色が目に沁《し》みて、鵜の鳥の羽音が聞こえるようだ。岬の向こうに帆をあげて、天草灘へ舟が出てゆく。日の翳《かげ》った暗い海の一点。
三方を海に取り巻かれ、静かな山のたたずまいに私の頭の中で暮れなずむ邪馬台国。やっと二十五年もかかってたどりついたその邪馬台国の風景を、私は、もはやこの目で現実に見ることができない。
それでも霧のような視界に、太古の邪馬台国は絵はがきのように映《うつ》っている。
私と妻は、その風景を、手をとり合ったまま、固唾《かたず》をのんでいつまでも見守るのだった。
二 邪馬台国諸論への提言
洋服に合わせて手を切る類の論
早いもので、私が旧版を出版してから、もう十二年になる。そのためある一部の人たちにいわせると、私の著書はもはや古典に属するのだそうだ。その意味が私にはわからないが、どうやらその後におきた邪馬台国ブームの中で、流行おくれになっているということらしい。それも結構だが、いわれてみると、それから邪馬台国に関する本が百冊近くも出ているので、私の本など、はるか雲煙のかなたに押しやられた形になるのも無理はない。
そこで、いよいよ大詰めにきた私の邪馬台国を結論づける前に、ここで他の人々の邪馬台国に対する考え方も、一応ふりかえっておく必要があろう。
これまで陸続として出版された本に目を通すのも容易ではなかったが、大半は読破したつもりでいる。中には傾聴に値するものもあったが、そのほとんどがまことしやかに書かれた推理小説まがいのフィクションであったり、単なる思いつきにすぎないものが多かった。それも私の著書に刺激されて、急に執筆を思い立ったようなものが多いだけに、エピゴーネンの感が深い。
一言にしていえば真実性に欠けているのである。正しく原典によっていないともいえるようだ。倭人伝はフィクションのための単なる材料にすぎず、いいたい放題のことが、部分的な字句を拡大解釈して物語られている。論理学の初歩的説明法をかりれば、「石炭は黒い、烏は黒い、だから烏は石炭である」といったたぐいのものである。あるおもしろい発想法が湧いたとする。これならいけると、さっそく「魏志倭人伝」を既製品の吊しの洋服を着るようにスッポリと着こんで、もっともらしく邪馬台国論がぶたれているのである。つまり自分のからだに寸法が合おうと合うまいと、柄さえ気に入れば、手っとり早く着こんだ感じである。この場合諸君なら、袖が短いからといって、自分の手を切り落としてまで既製服に合わせるだろうか。多くの邪馬台国論には、こうした、とてつもない無理が平気で主張され、もっともらしく論述されているのである。総合的な理解の上に立つことを忘れているから、現在のように邪馬台国公害がおきたのだと思う。
模倣された私の発想
いまではドライブインなみに、西日本のあちこちには、ここが邪馬台国だというところばかりである。中には観光地となるために看板を上げなければ損だと、自ら平気で放言している人さえいる。それをマスコミが取り上げなければいいのに、おもしろがって書きたてるから、さらに始末がわるい。極端にいえば、邪馬台国問題は、野次馬根性ではやし立てられる邪馬台国になりさがっているのである。私が新版への改訂を思い立ったのも、長い間、版を断《た》っていたため新しい読者からの要求がしきりで、その要求に応えるためと、他との比較検討によって、いくらかでも何が真実かをわかってもらいたかったからである。
それに、とくに名はあげないが、拙著を出版した当時、私のものに感動して邪馬台国に興味を覚えたといって、いろいろ質問状までよこした人たちが、その後、邪馬台国に関する本を何人も出されている。出されるのは自由だが、その著書の中で、自分は昭和三十年ごろから研究していたとか、十年もサバをよんだり、明らかに私の発想である重要な部分を、ひとひねりして自説にされているのは心外である。自説として発表されるなら、その前に、宮崎康平はかくかくいっているが、自分はこう思うぐらい一応ことわるべきであろう。また直接、私と接触のなかった人の著書の中にも、たしかに、こうした事例や、私の意見を換骨奪胎した部分が多数散見された。その点、高木彬光氏のように最初からフェアで率直な態度をとられると、こちらも敬意を表したくなる。
学者や専門家の中にも、明らかに私の著書にヒントを得て自説を転換したり、自分の発想のように意見を展開されている人もいる。それらの点をいろいろ指摘することもできるが、論より証拠、私の著書を公にした前と後とを比べてもらえば、この人たちの著書が雄弁にそのことを物語ってくれるはずである。またその後、新聞や雑誌、ラジオ、テレビなどで発表した私の意見や構想が、すばやく利用されてその人の意見として述べられている例もある。考古学、歴史学、国文学、言語学、風土学、動植物学、気象学、製鉄史などの各般にわたるこれらの人々の著書や意見と、私が発表した時期とのどちらが先でどちらが後であるかは、つぶさに比較検討してもらえばすぐにわかることだ。思い上がっていると思われるので、こんなことまでは書きたくなかったが、それらの人たちほど、私を強いて無視する態度に出たり、中には、あえて私の意見を枉《ま》げて解説して非難する人もいるので、後日のため書きそえておいた。
的はずれの邪馬台国論
話が横道にそれてしまったが、それでは、なぜこうまで邪馬台国論が、百家争鳴の観を呈したのであろうか。まずそのことから考えてみよう。
邪馬台国は、はたして存在したのか、存在したとすれば、いったいそこはどこだったのか。その決め手が、今日までだれにも証明できなかったところに紛糾の原因があることはいうまでもない。さらに具体的にいえば、ここが邪馬台国だと証明するためにあげられた決め手が、実に的をはずれていたからである。これらの各説に共通した問題点をあげてみると、まずここが邪馬台国だと思いこみ、あるいは、ある物証をとらえて邪馬台国に関連づけようと、そのための考慮が種々はらわれる。ところが、その証拠や論拠は、いかにも邪馬台国を証明しているかのようにみえるが、実際は特定の邪馬台国を証明する決定的なものではないから、論旨も薄弱となり、読者を納得させることができなかったのである。読者もまた邪馬台国に関心を抱き、続発する邪馬台国論の中に真実を求めようとしたので、ブームがおきたのであろう。
このことを二、三の例をあげてわかりやすく説明すると、まず第一に多いのが、ある一つの古墳を、これが卑弥呼の墓と信じこみ、またはその古墳を種として、ここが邪馬台国だと主張を展開される傾向である。この場合、その古墳が五世紀や六世紀のものであろうとおかまいなしに、見当違いの記紀神話や、近世の伝説までおりまぜて、がむしゃらに邪馬台国の存在を主張されているのである。
卑弥呼の墓と主張される古墳ならば、絶対に三世紀の中期か後期、または、どんなに下っても四世紀はじめまでに築造された古墳でなければならない。そして、その物的証拠が明らかに示されなければならない。ところが、この基本的な条件をまったく無視して、六世紀の古墳を卑弥呼の墓と主張されるに及んでは、何をかいわんやである。
こうした傾向の著者は考古学の常識すら持ち合わせず、これが卑弥呼の墓だと頑《かたく》なに信じこんでいるので、どうすることもできない。中にはそれが、いくらか無理な主張だとわかっていながら、とにかくその古墳を種に邪馬台国を主張しなければ、邪馬台国ブームに乗りおくれるといった論旨と受けとられるようなものさえある。これらの邪馬台国論は、なべて冒してはならない時代錯誤を、はじめから冒しているので問題にならないのである。
古墳を対象とした邪馬台国論の難点
第二に、その主張される古墳が、幸い三世紀、中・後期の古墳であることが、考古学の専門家たちによって証明されたとしても、それだけではただちに卑弥呼の墓とはなり得ないのである。なんとなれば、その古墳がその地方にとっては稀なものであり、著者は鬼の首でもとったように喜ばれるかもしれないが、それに類する古墳は、全国の各地からも何基も発見されているからだ。だからその築造年代がたとえ卑弥呼の死後の時代に適応したとしても、他にも類似の古墳がいくつもあるので、どれが卑弥呼の墓だとは早急に決定しがたい。また卑弥呼の墓が周溝墓であったか方墳であったか円墳であったか、前方後円墳であったかも明らかでない。倭人伝には単に「大いに冢を作る、径百余歩」としか記されていないからである。考古学界においても、この点、いくつも意見がわかれ、いまだに決定をみていないのである。
それでは卑弥呼の墓は、親魏倭王の金印をその墓から発掘しないかぎり決定できないではないかということになるが、まさにその通りだ。しかしこれは求むべくして不可能に近い至難のわざである。よほど偶然の発見によらないかぎり、きわめて時間を要する問題と考えざるを得ない。それだけではない。もし金印が単独に発見されたとしても、鏡と同様に、きわめて可搬性の強いものであるから、それさえも厳密な意味で、それがただちに卑弥呼の墓とはなり得ないのである。おそらく考古学界もそれだけでは卑弥呼の墓とはなかなか認定しないだろう。
そのいい例がかの有名な、志賀島《しかのしま》から出土した「漢委奴国王」の金印で、予想外の場所から発見されている。それだけにその当時の諸条件を満たすための鏡、刀、剣、玉類などの副葬品が要求されるだろう。できれば卑弥呼にふさわしい女性の人骨が、これらの物的証拠とともに発掘されるか、倭人伝に記された記事が真実として「徇葬する者、奴婢百余人」に該当する人骨があればなお結構だが、まずそんなことは考えられない。特に貴重な金印を、さきに「金印への思慕」で追い求めてやまないというふうに私は書いたが、実際のところ、他の伝世品と同じように金印を埋葬したかどうか、それさえも実は疑問なのである。だから、万人が認め得る絶対的な卑弥呼の墓とは、正直にいって現実には存在し得ないといっても過言ではなかろう。それほど古墳を主要な対象として邪馬台国を論ずることはむずかしいのである。それでは邪馬台国をどこだったかと決定しようとしても不可能ではないかという人もいるだろうが、実はその方法があるのである。卑弥呼の冢《つか》が発見されればそれにこしたことはないが、冢を発見することと、邪馬台国を決定することとは、おのずから意味が別なのである。そのことについては追って述べることにしよう。
疑問の多い出土品
ここでちょっと付言しておきたいのは、「漢委奴国王」の金印が、まったく突如として単独で出土しているにもかかわらず、とかく単独出土を警戒し、うるさい条件をつけたがる考古学界が、こぞってこの金印を本物と判定しているのが、私にはどうしても不可解である。これが本物であるとの好意的(?)付説に対して、堂々ともっと反論をとなえる勇気のある学者はいないのか。純金の金印が土の中から掘り出され、かすり傷一つないという不思議な事実を一つとっても、大いに疑問のわくところだが、出土当時の昔の状況をしらべればしらべるほど不思議なことが多い。これではもし将来、親魏倭王の金印が、かすり傷一つうけず単独で出土したとしても考古学界は文句のつけようがなかろう。
私がこんなよけいなことまで書きそえた理由は、卑弥呼の冢がすでにこの地上から消滅してしまっているとも考えられるからである。また、いたずら者がいて本物らしい金印を偽造し、何くわぬ顔でしかるべき古墳に埋めておき、他日掘り出したとしたらどうなるだろう。こうして思いがけぬところから単独で発見されても、そこがただちに邪馬台国となり得るのか、またそれを真実の親魏倭王の金印と判定するのか、そのときのことを前もって憂えるからである。
現に十数年前、天草の本渡市で、あらかじめ埋めておいたらしい偽造の陶版を人前で掘り出して見せ、それが堂々たる切支丹資料の本に収められている事実。また島原の原城の畑の中から同じ手口で掘り出した、天草四郎が使っていたという金の十字架が、法外な値段で取り引きされ、これまた堂々と史料館に展示されている例もあるので、邪馬台国論がエスカレートしている折でもあり、とくに心配するのである。
地名の語呂合わせや遺跡だけの結論を排す
次に第三の傾向であるが、あらかじめ「ここが邪馬台国だ」と想定して、いろいろの証拠をあげる一般的な型である。
まずそのために似かよった地名があげられる。地名とは、とりもなおさずヤマトであるが、これは邪馬台を畿内の大和とする古くからの伝統に根ざしており、そこが部落名であろうと村名であろうと郡の名であろうと国の名であろうと、そして名付けられた年代が近世であってもかまわないのである。邪馬台がヤマトと読めるということに発したこの説は、そう読まなければならないという理由も確証もないのである。それを全国のあちこちに散在したヤマトの中から、ここが邪馬台国だといわれても収拾がつかない。そこで自説を正当化するために考古学を利用して、識見(?)にもとづく証拠があげられるのである。
お目あての場所に邪馬台国時代に該当する弥生後期(三世紀)の遺跡が存在しなければならないことが基本的条件だが、そのことすら考慮されず、単に前記したような古墳をあげてお茶を濁されているのである。
遺跡の存在は縄文、弥生、古墳の各期にわたっていることがもっとも望ましいが、それらがそこにあるということだけでは証拠にならない。そんなところは全国の各地に多いからである。
また弥生時代の遺跡を前・中・後期に分けることは説明の必要もないが、中でもとくに関係の深い後期の遺跡が住居趾などを伴って存在していると、いくら強調されても、これまた全国各地にそんなところは多い。問題はそこに集中しているか否かであるが、それとても、そこに後期の遺跡があるということだけであって、似かよった全国的遺跡の中から、ここが邪馬台国だとは結論づけられないのである。遺跡もまた古墳同様に必要な付帯条件とはなり得ても、遺跡そのものが地名即邪馬台国を証明するに足る証拠とはなり得ないのである。
本末顛倒の証拠
このほか私の説に倣《なら》って統属国を比定し、邪馬台国の傍証と強化にあてようとされている人もいるが、比定の目的が目的とはならず、結局、地名との語呂合わせに終わっている。いわんや倭人伝のある一句ある部分だけを拡大解釈して、奇想天外な論旨を展開されたものや、フィクションに類するものは、いくらまことしやかな証拠があげられていようと論外である。
このように考えてくると、証拠はいらないではないか、正しいと思われる証拠までが、証拠とはなり得ないではないかと、受けとられそうだが、実は私が指摘したいのは、こうした傾向の証拠は、部分的なある一部の傍証のたしにはなり得ても、邪馬台国を決定づけ、ないしは決定するための絶対的な証拠とはなり得ないということをいっているのである。つまり、後になすべき証拠を前にひき出し、前になすべき研究や論証を怠った結果だともいえるであろう。実は各著書についても、いちいち論及したかったが、紙数がないので今回は割愛して他日にゆずることにした。
三 南は南
邪馬台国を捜す手がかり
前項で、邪馬台国を確定するためには、考古学的遺物・遺跡や地名などは、傍証にはなり得ても決定的な証拠とはなり得ないと述べたが、それではどうすれば邪馬台国を捜す手がかりが得られるのか。だれしもそれが知りたいところである。
いまのところ倭人伝をくり返しくり返し熟読して、主観的な考えに偏らず、記事の内容を総合的に判断するほかはない、としかいいようがないのである。しからばそれだけで、ゆるされた確実な方法があるのだろうか。大いにあるのである。
それは文中の記事から正確な方位と距離を割り出し、出てきた答えをあらゆる角度から分析して検討すればいいのである。そもそも邪馬台国は最初から最後まで、倭人伝をおいては他に頼るものがないからだ。あるとすれば他の文献も遺跡も、それらのものはすべて倭人伝を中心にした傍証ないしは参考にほかならない。
この当り前でかつ簡単明瞭な思考態度が、いまでは多くの人に軽視され、原則から逸脱してしまっている。これはいままでの追求のしかたが皮相的だったり、誤った解釈を生んで、屋上屋を重ねた結果、原則すらも軽んじられ、あまつさえ珍奇を好む人達によって捏造された論説が横行し、ますます混乱に陥ったためである。
邪馬台国を捜すことは意味がないのか
だから私のような主張をすれば考え方が古いとか、邪馬台国捜しは意味がないといった言い方さえする人もいる。こうした人は、いいかげんな語呂合わせで、ここが邪馬台国だと軽々しくいってもらっては困る、そのためにはより確実な考古学的傍証が示されなければならない、そして邪馬台国時代の生活を探ったり、歴史的な意義が究明されなければ意味がないと、一部の人達によって強調されたことを、いまでは拡大解釈し、本質的な意味まで取り違えているのである。
もちろん考古学的証拠や歴史的意義の究明が必要であることはいうまでもないが、だからといって邪馬台国を捜す必要がないとはいえないのである。特に最近の傾向として、先に結着をつけておかねばならない邪馬台国を棚に上げ、ああでもない、こうでもないと学問的な御託宣を並べたあげく、さて邪馬台国はとなると、自分が自信をもって邪馬台国を提示できないものだから、「単なる邪馬台国捜しは意味がない」と力説(?)してお茶をにごす人達がふえている。まことに残念なことだ。それだけに読者諸君にも、ここでもう一度倭人伝最大の問題点であり、邪馬台国の鍵をにぎる方位について、じっくりと考えなおしてもらいたいのである。
方位のこじつけ
これまで方位の解釈について十分な検討がなされたであろうか。あるとすれば榎博士の説をおいては、主観的な曲解であり捏造であった。くどいようだが、倭人伝に記載された南を東の誤りとするがごとき諸説は、もっともらしく、いかように述べられようと、すべてこじつけである。いうまでもなく、強引に、南は東だと言いがかりをつける魂胆は、文字にもしや誤りがあったのではないかといった学究的態度から発せられたものではなく、その前にお目当ての邪馬台国があって、その邪馬台国に結びつけんがための作為にほかならないことは、だれの目にも明らかであろう。正に倭人伝を自説のためにねじ曲げているのである。何となれば、帯方郡から伊都国、奴国、不弥国までの正確に述べられた方位を是認し、突如として投馬国や邪馬台国の南だけを東と改めれば、倭人伝全体の文脈が覆ってしまうことを承知しながら、あえて東と読もうとするのだから、こじつけである。たびたび強調してきたように、倭人伝は総合的に把握し、かつ客観的に解釈しなければならない、といったのは、このような矛盾した勝手な解釈をしてはならないということを、重ねて強調したかったからである。
そもそも南を東の誤りだと主張する人や、方角をいじりたい人に重ねて付言しておくが、倭人伝には「女王国より以北はその戸数道里は略載するを得べきも……」と書かれている。以北とは南に対して以北というのであって、東の以北とか西の以北とかはあり得ない。正しく倭人伝を読めば、伊都国や奴国や不弥国の南に投馬国や邪馬台国があって、その間に、つまり以北につぎのような国々があると記されているのである。
このはっきりと明示された文章からも、南を東の誤りとして、東とは絶対解釈できないのである。これは私が特にこう解釈しなければならないというのではなく、倭人伝にそう書かれているから仕方がない。もしこのことに異見があれば、その人は漢文が読めない人である。もっと具体的にいえば、内藤虎次郎博士以来、遮二無二、邪馬台国を畿内大和へ結びつけようとする人達は、よくつぎのようなこじつけをされる。
古代の中国では、東と南の方位を混同する傾向があるとか、間違って作成された中国の地図を特に取り上げて、このように中国人は日本列島が逆に南へのびているように考えて描いている、などと曖昧な説明をされるが、これらは、何ら南が東の誤りであるという決定的な証明にはなり得ない。
中国の傾向がどうあれ、地図がどのように描かれていようと、我等がいま、対象として論議しているのは、三国志の倭人伝である。そしてその倭人伝には、帯方郡から伊都国、奴国、不弥国まで、実に正確な方位で記述されている。それをあえて南が東の誤りだといい曲げたいために、前述のような引用を試みるなら、倭人伝の冒頭からその筆法ですべて否定されなければならない。なぜ南の方位だけが、中国の東と南を混同する傾向や地図に関係があるのだろうか。
会稽の東とは
また文中の「其の道里を計るに当に会稽東冶の東にあるべし」という個所を引用して、このように方位が大変ずれているのではないかと、この人達はいう。会稽の東冶とは、揚子江口から杭州方面をいうのだが、その東とは、正確には九州の南端から奄美大島付近に当る。それを古代に、広い東シナ海をはさんで倭国は、おおよそこの地方の東に当たるのではないかといったとしても、さほど狂っているとは思われない。そのことをもって、我が国の南を指して東というのだから南と東を混同していると主張する彼らの根拠は、畿内地方や東京方面から考えれば、はるか南だという印象が強いのであろう。私等九州に住む者にとっては、さほど南とは思わない。しかも邪馬台国が九州内の南にあるにおいておやだ。そして会稽東冶から九州の位置が北東に当たるならまだしも、北東東にも当たらないのである。この程度のずれは大まかにいって東といっても方位を取りかえなければならないほどの誤差ではないように考えられる。
たとえば、京都から岐阜を指して東だといった場合、いや東は絶対に名古屋の方角だと人々は話題を訂正するだろうか。また東京から鹿島灘を東の方だといったら、東は銚子の方角だ、お前のような言い方をしたら、まるで南は東ということになるではないかといった話題にもなりかねない。
このように卑近な例をもってすれば、噴き出したくなるような方位論が今日までまかり通っていたのである。したがって倭人伝に記された邪馬台国を捜そうとすれば、倭人伝に記載されたとおりの伊都国の南の方角に邪馬台国を捜さねばならないのである。それも水行すれば十日、陸行すれば一ヵ月の所に邪馬台国がなければならないということを再確認しておきたい。
四 邪馬台国
邪馬台(シャ)ヤバタイ(ジャ)ヤメダイ
肥前《ひぜん》国|高来郡《たかきのこほり》及び彼杵《そのき》郡の一部。現、長崎県南部の諫早《いさはや》市を中心に、島原市及び長崎市を含む周囲の北高来《きたたかき》郡、南高来郡、西彼杵郡一帯に拡がっていた国。その中心は諫早湾沿岸だったようである。
当然の帰着として斯馬国及び已百支国の南に接し、西九州で最後に残されたこの地域を邪馬台国に比定せざるを得なかった。
本来ならヤバタと読むべきだろうが、私はヤマタの国と呼びたい。それは神話に登場する八岐《やまたの》大蛇《おろち》(古事記では八俣の遠呂智)退治のヤマタに関係が深いからである。
邪馬臺か邪馬壹か
解説に先だって、いつも問題となる「邪馬臺」か「邪馬壹」かについてまず触れておこう。
東夷伝とはいえ、侮蔑にみちた文字で覆いつくした国名の中に、異例ともいうべき用字の国が三つある。それはいうまでもなくこの邪馬台国の台と、伊都国と好古都国の都である。台については古田武彦氏が邪馬壹国を主張して問題を提起し、一時賛同者も多かったようだが、私などにはどうしても解しかねる。
それというのも誤字であるか誤字でないかの対象となっている紹興本や紹煕本が、いずれも南宋時代(十二世紀後半。紹興は一一三一年から一一六二年、紹煕は一一九〇年から一一九四年、いずれも南宋の年号)の木版刷の刊本で、原本ではないからである。八百年後の日本で、いまこのことを論議しているわけだが、中国ではその刊本が出版される以前に、三国志に続いて、いくつもの正史が出ている。その著者達は、おそらく三国志の原本、またはそれに近い写本を、彼らの目によって確かめ、いずれもその著した正史に「邪馬臺国」と記載しているのである。
より古い時代に、より多くの中国人達によって何の疑いもなく邪馬臺国と書かれた歴史的事実と、後世の一刊本を取り上げて主張される邪馬壹国のいずれが真実か、いかに理路整然と力説されようとも、私は前者に傾かざるを得ないのである。
また氏は、その刊本の中の「臺」と「壹」との使用例を統計風に並べ、かくのごとく間違いがないから、壹は絶対に臺の誤りではないと説かれている。うっかりするとのせられそうだが、飛行機が千回飛んで、間違いなく安全だったからといって、永久に安全だとはいえない。その後に誤って墜落した例も多い。千回飛んで安全でも、千一回目に墜落したらどうなる? 間違いというのはそんなものだ。これだけいえば読者も了解されるだろう。
次に邪馬台国の台について氏は、文字にうるさい中国人が、位の高い台の字を、そうたやすく使用するわけがないとも強調されている。もっともなことだが、それでは親魏倭王という、ただならぬ金印を、魏の皇帝は、なぜ卑弥呼に授けたのだろうか。この事実を無視して台の字を解説されるに及んでは、何をか言わんやである。それだけではない。伊都国と好古都国に、使おうと思えば動物や見下げた文字がいくらでもあるのに、それらの字をはずして特に都を使用しているのである。
「都」は宗廟のある邑《むら》、転じて王のいる町のことである。そこで伊都国と好古都国に、なぜ都を使用したかということを考えてみると、ここに特定の王がいたればこそ、特別の考慮がはらわれているのである。倭人伝の伊都国の条に「世有王」と記されていることからもわかるであろう。さらに已百支国、伊邪国、支惟国などのイの音を持ったグループの宗主国が、伊都国であったことも暗示している。好古都国の場合も同様に、この国もまたコ国グループの宗主国だったように推察される。
こうしたことから、邪馬台国連合は、同一部族からなるいくつかの小国家群が、地方的に一つのグループを作り、王に統率され、さらにそれらの王とグループが連合して卑弥呼を推戴していたと考えられるのである。だから台を使用しても、いっこうに不思議はないと思う。野蛮な他の国がそうだからといって、倭人の国にも同じようにそのすべてを押し着せて解釈する必要はないのである。理由はともあれ、他に例をみない親魏倭王という王位を一応は授けているのだから、台は台として文字どおり解釈すればいいのである。以上のような観点から、私も従来の説に従い「壹」は「臺」の誤りだと考える。
邪馬台の邪は入り江の江
次に国名の音に対する解釈だが、ヤ、バ、タの意味については前にも説明したとおりである。さらに詳しく付言すれば、ヤは入り江や湾の意味で、のちにエに転音して江の字をもってあてられてきた。現代仮名づかいでは、ア行のエもヤ行のエも同じエを用いるが、平安朝初期までは万葉仮名によってつぎのように書き分けられている。
ア行では衣、依、愛、哀、埃、得、榎、荏。
ヤ行では延、叡、曳、遥、要、江、兄、枝。
つまり、eとjeの違いである。おおむね五十音字には音読の文字が使用されているが、エは訓読の江を採用した珍しい例である(音読ではカゥとしか読めない)。入り江という言葉は、よほど古い言葉で、ヤとエとの中間音なので早くから混用されていたのであろう。
馬は原、台は田
バは、末盧国の所で詳しく説明しておいたように、バラ(薔薇)、イバラ(茨)、シマバラ(島原)、コバ(木場)などのバで、墾田《はりだ》や焼畑のことを意味する古い日本語である(尾張国の国名も同意語である)。タは田のことで、もともと焼畑に対して、耕した耕地のことをいう。いまは水田のことを専ら田《タ》と呼んでいるが、もとは奴《ド》、ヌと呼び、それがナとなりノ(野)となって、やがて水田のことをタ、そうでないものをハタと呼び分けするようになったものである(古事記を熟読すればこのことがよくわかる)。ついでだが、畑という字は我が国で作られた国字であって漢字ではない。
したがってヤバタという国名は、入り江や湾にのぞんだ畑の国という意味で、おそらく水田耕作を主とした奴の字を用いた国に対して半農半漁の国だったように想像される。のちに馬《バ》がマとなり、ヤマタまたはヤマダと呼ばれたのではなかろうか。
大山津見神と邪馬台国
もう少しこのヤ、マ、タの古代語の組合せについて述べておこう。
ヤマはその後、山と記されたため、いまだに誤解を生んでいる。前にもふれたが重要なことなので重ねて説明すると、ヤマは、アマ(天、甘木)、カマ(蒲、鎌田、釜ケ崎)、クマ(熊本、熊田、雑餉隈)、ツマ(妻、薩摩、吾妻)、タマ(多摩、玉名)、ハマ(浜、浜田)などと同系統の語で、水辺に関係が深く、いまもって各地の地形をあらわす地名として残っている。ヤマが山として誤解を生んでいる最大の例は、大山津見神《おおやまつみのかみ》(記。書紀では大山祇神)である。ツミとは綿津見神《わたつみのかみ》とともに半農半漁の海浜の王の尊称なのに、山の字をあてたため、間違って山の神としても祀られている(だから鉱山で落盤が起こるのだ)。伊予の大三島の大山祇《おおやまずみ》神社が、海事の神として尊崇があついのは、しごく当然であろう。大山祇神に斎《いつ》きまつる部族が九州から遷《うつ》し祀ったので、和多志大神ともいうのである。
投馬国の項でも述べたように、ツミに対してミミは航海を専門とする海上部族の王で、忍穂耳尊《おしほみみのみこと》の尊称で知ることができる。投馬国の王を弥弥《ミミ》とあり、邪馬台国時代の王と神話の神とは、このように関係が深いのである。なお天皇のことをオオキミというのは、ツミ、ミミに対して内陸の火田地帯の王がキミだったからである。
ところでこの大山祇神《おおやまつみのかみ》は、記紀神話によると、天孫降臨で名高い瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》の妃、木花之開耶姫《このはなのさくやひめ》(海幸彦、山幸彦で知られる火照命と火遠理命の母親)の父親である。そして住んでおられた所は吾田《あた》の長屋《ながや》とあり、木花之開耶姫の別名も神吾田津《かむあたつ》姫であるから、在所はともに吾田《あた》の国であった(鹿児島県の阿多と混同してはならない)。そのアタの国とは、いったいどこを指すのだろうか。最も古い肥前の国の東半部(佐賀県)の国名を建《たけ》の国といい、西半部(長崎県)を吾田《あた》の国といったのである(このアタのタが邪馬台の台に当たる)。とりわけ諫早方面から島原半島のことを古くはアタカツ(吾田勝)の国と呼んでいたが(勝《カツ》=口《クツ》)、アタの入口の国という意味である。それが和銅年間の二字改名令によって高来郡と改められ、現在も北高来郡、南高来郡として続いている。してみると、大山祇神が住んでおられた吾田の長屋(屋=邪=江)というのは、長い入り江という意味であるから、どうやら長崎港のある入江を指しているものらしい。
神話に関係の深い邪馬台国
日本書紀によれば、「天照大神《あまてらすおおみかみ》の子《みこ》、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊《まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと》、高皇産霊尊《たかみむすびのみこと》の女《むすめ》、栲幡千千姫《たくはたちぢひめ》を娶《ま》きたまいて天津彦彦火瓊瓊杵尊《あまつひこひこほのににぎのみこと》を生《あ》れます」とあり、また古事記には「爾《ここ》に天照大御神《あまてらすおおみかみ》、高木《たかき》神の命以《みことも》ちて、太子《ひつぎのみこ》、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命《まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと》に詔《の》りたまいしく……」と記載されている。
文中、忍穂耳尊の頭に冠せられた字句は、本来その統治された領土を示すものだが、いままで多くの国文学者は、漢字の字面《じづら》に眩惑されてその真意を知らず、「正しく勝った吾は勝った素早く勝った」などと珍無類の注釈を施されている。マサカのマは邪馬台国の馬に当たる語で、サカは現在の佐賀地方の古名、アカツは前述した吾田の勝の国のことで、勝速日の速日が有明海の古名であることぐらい、わからないのだろうか。要するに忍穂耳尊は肥前国の海王だったということになる。
つぎに高皇産霊尊であるが、神霊学や民俗学では、わかったようでわからない、いろいろな解釈がされているが、もっと卑近な見方で音解してみると、タカミとはアタのカツのウミということである。ムスヒはもともとムツヒで、干潟のことである。その干潟を、初期の干拓様式で開田されたから「産」の字をあて、皇室の最高神として祀られているが、実は諫早湾を中心に君臨された大王《おおがみ》だったのだ。また瓊瓊杵尊の母親に当たる栲幡千千姫も、タクはタカクがつまった語で、ハタは邪馬台のハタ(馬台)、千千姫のチヂは千々石《ちぢわ》湾の千千である(実際は湾は不要、チヂワは千々|浦《ほ》だからである)。
このようにこれらの神々はこの地方の古来の地名にまったく一致し、神名の由来が容易に理解できるのである。なお、古事記引用文中の高木神は当地の高来のことで、いうまでもなく高皇産霊尊である。そして「高木神の命もちて」とは、天照大神が高木神(高皇産霊神)の御託宣をお受けになってという意味であるから、神話の枢要な中心が、この地方に取材されていることが諒解されるであろう。
長崎市の郊外や長崎半島、島原半島、五島の島々を調査してみると、最も古い形式の祠や、朽ちはてたような広い境内を持った神社の祭神が、奇しくも大山津見神や天宇受売命《あめのうずめのみこと》であることにおどろく。神話になぞらえた日向地方のようなものではなく、たくまざるこのような神社が、この地方に数多く散在していることは何を物語るのだろうか。また名神《みようじん》社や式内《しきない》社が、北は東北地方から南は九州の南端まで、実にこまめに列挙されているのに、この邪馬台国に該当する、神話に最も関係の深い肥前の西南部には皆無で、延喜式神名帳の一ページがもぎ取られたように抹殺されているのはどうした理由によるものだろうか、参考までに記しておく。
このほか邪馬台から中間の馬をとるとヤタとなり、このヤタもヤマあるいはヤマタと共通の意味を持っているのである。八咫《やた》の鏡、八咫烏《やたがらす》、八十猛《やそたける》、八十毘良迦《やそひらか》、八千矛《やちほこ》など、従来は八を数多いことの虚数として扱われてきたが、これを邪馬台のヤと解すれば、いままで理解できなかった多くの問題も解決できるのである。この地方に多い不可解な山の神の八天《はつてん》様も、ヤアマをつめて読めばヤマとなり、山の神として理解しやすい。
八幡大神のヤハタも何気なくヤハタと読んでいるが意味は同じく邪馬台のヤバタで同系統の神か、同じ地形をいいあらわした言葉である(だからといって宇佐が即邪馬台国、八幡大神、即卑弥呼と考えられては困る。それは倭人伝に記載された他のすべての諸条件に適合しないからだ)。前掲の栲幡千千姫の幡も同じハタで、このように邪馬台《やはた》なる語は特定の言葉ではなく、生きた言葉としていまもって通用しているのである。
また八俣《やまた》の遠呂智《おろち》の意味するものも、物語の背後に大山津見の神を明らかに介在させており、大蛇の末尾から草那藝《くさなぎ》の太刀を得たということは、邪馬台国が製鉄の国だったことを示唆するものである。もともと遠呂智《おろち》はオロシで、いまでも鋳鉄《ちゆうてつ》を脱炭したり銑鉄《せんてつ》を加炭するときの製鉄用語である。オロチ物語は、はじめから製鉄の歴史を伝えるために描かれたものといえよう。
このように飾らずこじつけず簡単に了解できる神話の意外性を、邪馬台国は内蔵しているのである。ここに注目して、さらに神話の実在性を追求するならば、私はきっといままで不明確だった神々を、この地上に迎え得る、神話解明の端緒ともなろうことを信じて疑わない。
五 実証の水行十日
東経百三十度十五分
邪馬台国を比定するに当たって最大の条件は方向と距離である。このことは過去の倭人伝解釈の上からも論争の中心となってきた。しかるにこの問題をとびこえ、前項のように邪馬台国を比定してしまったが、はたして伊都からの方位や距離が適合しているだろうか。解明の方法にいささか手間どった気もするが、いまやっとそのことに触れるところまできた。
地図をごらんになれば、どなたにも一目瞭然と思うが、諫早湾沿岸(高来郡《たかきのこほり》)は伊都国の真南に当たるのである。そして先に比定した「南投馬国に至る水行二十日」の天草も、さらにその南に当たるのである。
蛇足かもしれないが、理屈で割り切らないと気がすまない人のために記しておこう。伊都国(周船寺)――背振山中(北山ダム)――郡支国(佐賀県大和町、小城町)――邪馬台国(諫早湾、島原半島)――投馬国(本渡市)は東経百三十度十五分の線上に並んでいるのである。さらにといったのは、同じ南の投馬国が邪馬台国よりさらに南にあることを念のためいっておきたかったからだ。
この作為なく倭人伝の原文通りに方位がぴったりと該当することは、とりもなおさず過去の最大の争点であった方位問題を完全に解決していると思う。しかも邪馬台国だけではなく、同時に投馬国も該当するということは、この比定が必然的な価値を有しているからではなかろうか。この上は、伊都からの距離が水行十日であることを証明できれば、方位と距離の問題、すなわち位置づけに関しては読者にも異議はないと思う。
今日まで多くの論者たちは、ここが邪馬台国だとはじめからきめこんで、そのコースの妥当性を証明せんがために、海から上陸させて丘を越えさせたり、川を上らせたり下らせたり、計算に合うように実に涙ぐましい努力をはらわれるが、なかなか倭人伝の記事どおりにはうまくいかないようだ。それというのも根本的な無理が、はじめからあるからで、勘定合うて銭足らずといった結末になってしまう。だからうず高く積まれた邪馬台国論が、いずれも不発に終わっているのである。
誤解してもらっては困るが、私の場合は、あらかじめここが邪馬台国だと想定してあれこれ理屈をつけているのではない。いままで述べてきたとおり、邪馬台国はどこにあってもよかったのだ。私はひたすら倭人伝を掘り下げ、忠実にその内容どおりに追求してきた。その結果、最後に到達した場所がこの地方であり、はたしてこの地方が、真の邪馬台国なのか、いまその証明を試みているのである。だから私の邪馬台国は虚心坦懐な邪馬台国であることをもう一度ここでいっておきたい。
邪馬台国の南にあった投馬国
さてつぎは距離の問題だが、その前に水行または陸行なのか、水行してしかるのち陸行するのか、という点も、非常に重要なので明らかにしておかねばならない。
倭人伝には「津に臨みて捜露し文書賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ差錯するを得ず」とある。この文は、伊都国から邪馬台国への道が原則として水行によっていたことを明示している。このことがわかれば、ある一部の人が説くように「南邪馬台国に至る女王の都する所、水行十日陸行一月」が、水行してしかる後陸行するのではなく、水行または陸行と解釈しなければならないことがわかるであろう。
また邪馬台国が投馬国の南にあるように解釈する人もいるが、これも大きな誤りである。もしそうだとすれば、なお、続いて、次に、などの「更に」といった意味の文字が加筆されておらねばならないだろう。引き続いて行動するときは、前文にもあるように、「又一海を渡る千余里」と又の字がはっきり書きそえてあるのである。そして「女王国より以北、云々(中略)、次に斯馬国有り、次に已百支国有り」という記事からもおしてわかるように、「次に投馬国有り、次に斯馬国有り」と書くか、「女王国より以北」ではなく、「投馬国より以北」としなければならないのである。
投馬国も邪馬台国もともに南にある国ではあるが、行程に示された水行二十日と水行十日の記述から、投馬国は邪馬台国より更に水行十日を距てた南にある国だと倭人伝は記しているのである。
万二千余里
こうした問題をしめくくるように、もっと重大な記事が倭人伝には示されている。冒頭の「郡より倭に至るには」という書き出しからの文脈は、実は「郡より女王国に至る万二千余里」という所まで続くのである。この間にいろいろの事が書かれてはいるが、結局は万二千余里が目的なのだ。このような筆法は三国志の遠隔地の国を紹介する場合によく用いられている。だから郡より狗邪韓国まで七千里。一海を渡る千余里、千余里、千余里。陸行五百里。水行千五百里。(前に述べたように水行の一日は百五十里に換算されているから十日は千五百里となる)を合計すると、正に万二千余里となるのである。これははじめから明らかに計算して書かれた文章で、一貫した文体が、このことをよく物語っている。
ところが、この万二千余里の解釈について、今日までいろいろと論議され、屁理屈をつけられてきたが、いずれも肝心の文章全体を把握せず、根本的に解釈を誤っていたから見当違いの説が続出したのである。また陸路の一日の行程は五十里に換算して記載されているから、陸行一月は千五百里であり、同じく水行も千五百里であるからこの点でも両者はまったく一致し、水行または陸行の意味が的確に示されているのである。
奴国の百里と不弥国の百里が、万二千余里に含まれていないのは、単なる伊都国からの方角を示したにすぎないからで、同時に邪馬台国へ行くのに両国を通過しないことをも意味している。以上重要なポイントについて述べてきた解釈のしかたでもわかられると思うが、混乱した邪馬台国への道は、倭人伝をありのままに正確に読みさえすれば、自ら開かれるということを私はいいたい。
有明海へ通じていた博多湾
問題の邪馬台国が、博多湾沿岸に位置した伊都国、奴国、不弥国などの一連の国の南にあったことは何人にも否定できない事実である。もしこの方角以外に邪馬台国の存在を主張する人があれば、倭人伝そのものを否定することになり、その説は絶対に倭人伝を逸脱したこじつけといわなければならない。
ところで、博多湾から陸行するならいざ知らず、南の邪馬台国へ水行するということになると、これから先が陸地であるためにだれもがハタと当惑してしまうのである。今日までここに邪馬台国問題最大の難関があり、また解決の鍵があった。倭人伝を忠実に読めば読むほど、どうしても南へ水行しなければならない。このことで私は実に永い間苦労を重ね、研究を続けた結果、遂に邪馬台国時代には博多湾と有明海の間に水道が通じていたことをつきとめた。つまり博多湾と有明海はつながっていて、この時代には自由に航行できたのである。だから水行二十日、水行十日と、投馬国や邪馬台国へ直接博多湾から船で達することができたのである。
この新たな事実の確認によって、今や倭人伝は記事どおりに何の抵抗もなく解釈可能となり、長期にわたる論争はここに終止符を打たざるを得なくなったのである。
では本当に水路が通じていたのだろうか、という疑問に対して、その証明をしなければならないが、論旨をすすめる都合上、いましばらく待ってもらいたい。
一応、博多湾と有明海が水道によって通じていたものとして、有明海岸の既成の干拓地を除き、邪馬台国時代の海岸にそって、糸島水道の博多湾付近から、邪馬台国の入口である諫早湾口まで実際の距離を測定してみると、およそ百キロ余になる。
同じように投馬国(天草本渡市)までを熊本県の西海岸に沿って宇土半島の先端から大矢野《おおやの》島の東岸を抜け、天草|上島《かみしま》の有明海岸経由で測定してみると約二百キロとなる。この数字は水行十日と水行二十日の対比にほぼ等しく、まさしく倭人伝の記事に対応するのである。
私が投馬国へのコースを、邪馬台国へのコースからそのまま延長せず、熊本県の西岸ぞいに計算したのは、つぎの理由によるものである。
奔騰する有明海
有明海沿岸に育ち、子供の頃から沖釣りをして育った私らだからわかるのだが、我が国第一の満干の差を持つ有明海の満ち潮引き潮はとても激しく、手漕ぎの船では満潮時か干潮時以外は、とうてい対岸へ漕ぎ渡れるものではない。地形上、特に島原半島側の流れは速く、今も筑後川河口から天草へ向かうには肥後路にそって南下したほうが、より安全で、かつ容易なために、常識的な順路になっている。太古も今以上に有明海の潮は早かったのであろう。だから速日《はやひ》(干)別《わけ》と呼んだのは、むべなるかなである。
倭人伝に投馬国と邪馬台国のコースをからませず、それぞれ、南投馬国に至る水行二十日、南邪馬台国に至る水行十日と併記してあるのも、右のような別々なコースによっていたからだと思う。
そこで百キロの海岸コースを十日もかかるのかと、疑いをいだかれる人もいるだろう。それは、小さい釣船やプラスチック船に至るまでエンジンを備えている現在の常識から、単純に百キロ割ることの十、すなわち一日当たり十キロといった考え方をされるから誤解をまねくのである。
さきに「一海を渡る千余里」が、風待ち潮待ち天気待ちなどのために、順調であれば一日で渡海できる航路を約一週間を予定しなければならないと述べておいたが、それほど渡海や水行の日程には、想像以上の航海日和が大きな比重を占めるのである。だから水行十日のうち、三、四日は、そうした天気や潮待ちの航行不能な日が含まれているかもしれない。
有明海の満干時の潮流が奔騰することについては、重ねて力説する必要はないと思うが、手漕ぎの船で一部帆を利用したとしても、実際に沿岸を航行できるのは一日のうち二、三時間から四、五時間である。半日もの引き続いての航行は不可能に近い。それは満潮時前後か、干潮時前後の潮流が鈍ったときに航行しなければならないからだ。それだけではない。海岸沿いに航行しようとすれば、干潮時には船が坐るので、事実上は満潮時に限られるのである。しかも毎月(旧暦)の一日、十五日を中心に高潮となり、潮はふとり、その中間はカラマとなって満ち干の差が少ない。およそ一週間ごとに海の水位は格段の高低をくり返しているのである。
有明海における昼間の満潮時は、年中、高潮期は午前中で、カラマ期は午後である。したがって午前午後の二度にわたる満潮時の航行はできないから、午前か午後の一回に限られるのである。それも数時間内に航行しなければならないからきびしい。これを一潮《ひとしお》という。一潮の航行可能な距離は十キロから二十キロであるから、平均して十五キロ程度となり、航海日和によって換算すると、一日平均十キロ内外しか進めないだろう。
実際に合致する、行程記事
伊都国から奴国や不弥国へは百里と記載されていることから、陸行するなら二日以内、水行するなら一日以内の距離にあることを物語っている。一応この距離を基準として勘案した場合も、いま述べた有明海の実際に航行可能な一日分の距離から計算しても、実に投馬国及び邪馬台国への行程はこれまた倭人伝の記事どおりに二十日または十日を要するのである。くり返しくり返し私は現地の海岸にそってこの調査を試みた結果、報告しているようなものだから、ほぼ間違いないと思う。陸行一月の千五百里についても、末盧国から伊都国への道と同じように踏査を試みてみたが、これもほぼ記事どおりに適応しているように確信する。
わかり易く、現在の地名と道路によって説明すると、博多湾側から有明海へ至る古道は、前記の水行コースのように、福岡市方面から太宰府を通り、鳥栖市及び久留米市方面へ通じていた。一方背振山を越える邪馬台国へ通じたと思われる山道は、伊都国の背後から長野峠を越える道と、日向峠を越え室見川にそってのぼり、三瀬峠を越える二つの道がある。ともに川上川にそって下り有明海岸へ出ると、杵島《きしま》山の背後(西側)を抜け、嬉野経由と有明海岸ぞいの二つのコースにわかれていたようである(いずれのコースをとっても諫早市までは、あまり差が出ない)。このコースは現在の道路では約百五十キロ内外であるが、古道の場合は前にも述べたように約三倍の四百五十キロとなり、平坦な道も多いので、一日平均十五キロとして、邪馬台国時代にはおそらく一ヵ月近い行程であっただろう。したがってこの陸行記事も、まず倭人伝の記事どおりに間違いないものと判断される。陸行一月を一日の間違いではないかと自説に都合よく訂正して解釈をする人もいるが、曲解の極《きわ》みともいうべきか。
以上のような諸点から、伊都国から南へ水行十日(陸行ならば一ヵ月)の位置に当たる諫早湾地方が、倭人伝の記事どおりにまったく一致するので、私はこの地方を邪馬台国だと確信するに至ったのである。なおまた邪馬台国のみならず、水行二十日の投馬国が記事どおりにその南に当たり、両者そろって該当するに至っては、ますますこの地方を邪馬台国だと比定せざるを得なかったのである。
さらに付言すると、邪馬台国が諫早湾地方だと確定して、いままで比定してきた邪馬台国に統属した連合国の位置を俯瞰してみると、それらの国々は博多湾から八代海へ、邪馬台国を中心に有明海沿岸に集中しているのである。それも星座のように行儀よく隣り合って並び、しかもこれらの国々はすべて水行によって邪馬台国に直結し、部族的小国家連合の可能性を風土的に暗示しているのである。そして一応、三十の国々を比定し終わった現在、改めて倭人伝を通読してみると、実にその内容が、透き通るように理解され、混迷を続けてきた解釈が、いまさらのように嘆かれてならないのである。
六 筑紫の碑文《いしぶみ》
甕棺は背負って運んだのか
説明が前後してしまったが、最後に残った博多湾と有明海をつなぐ水道が、邪馬台国時代には存在していたという事実の証明をもって「南邪馬台国に至る水行十日」の記事の解釈に終止符を打ちたい。
実はこの問題については、旧著を執筆していた当時から気づいていたのだが、十分な資料と科学的な傍証をそろえなければ、単なるフィクションに終わってしまい、かつは世の非難をあびるおそれもあり、お茶を濁してしまったのである。また重大なこの問題を証明するためには、このことだけで一冊の本がいる。そこで私は「神々の映像」という続篇を読者に約束していたので、その中にこの問題をおり込もうと執筆を続けるうちに、次々と新たな事実にぶち当たり、エスカレートして十年余も経過してしまった。この間、うまずたゆまずコツコツと研究と執筆を続け、いまやっと一応の完成をみたが、原稿もすでに四千枚に達している。そこで今回の「新版まぼろしの邪馬臺国」をひとまず世に送り、旧著の内容を補正し、いくらか軌道修正したのち引き続き続刊をもって私の考えを世に問いたいと思っているので、旧著の内容の不徹底と続刊のおくれをこの機会におわびしておきたい。
考古学に興味のある人で、弥生《やよい》式|甕棺《かめかん》を知っている人ならあの大きな焼物の甕棺が、九州のどの地方に分布し、発掘発見されているか御存じだと思う。その場合福岡市方面のものと、有明海側の佐賀県や福岡県南部のものとが同形式で同質の甕棺であった場合、多くの研究者はその形式と年代と分布状態については詳しく考察されるが、製造された場所の追求や移動の問題については触れられていないことも御存じであろう。
製造された場所がどこであれ、あれだけ莫大な量の大きな甕棺を、だれがいったい道なき道を、背負って運んだのだろうか。そのことについてはだれも疑問をいだかない。その方が私にとってはよほど不思議で、久しい以前から私はそのことについて疑問をいだいていた。特に博多湾側と有明海側のこうした物資の流通問題についてである。
手で持てる小さなものならいざ知らず、傷つけず背負わねばならない甕棺のようなものが、いったいどんな方法で運ばれたのだろうか。数量的に背負って運ぶということは不可能に近い。だとすれば、船に積んで水運に頼るほかはないのである。私がこの水道に着目しはじめたのはこうした動機からであった。
二日市水道
あるとき、こんなことを考えながら水城に立っていたときであった。もしやここに水道か運河が通じていたら(?)と呟いて、私は思わずハッとした。そうすると倭人伝の記事も「南邪馬台国に至る水行十日」が原文どおりにそのまま解釈できるのだがと。そして私の水道研究はその日からスタートしたのだった。
現地の地理を知らない人は、地図によって確かめてもらいたいと思うが、福岡市から筑紫野市へ向かって、国鉄鹿児島本線と西日本鉄道と三号国道が束になって通っている所がある。そこが邪馬台国時代の水道の跡である。現在は典型的な地峡になっているが、それというのも、かつての水道の跡だからである。この地峡の構造線にそって鷺田川が南北に流れ御笠川と合流して石堂川となり博多湾に注いでいる。機会があれば、この地峡にそって探索されるなら、どなたにもここが水道の跡であることが理解されると思う。私はここを二日市水道と呼んでいる。
この水道を確認するに至った経過について簡単に説明すると、沿線のいくつものボーリングのコアや、水城水門その他埋蔵木片のC14の測定結果などによるものである。そしてこの水道が現在のように埋没したのは、四世紀末から五世紀前半にかけておきたたびたびの気象異変による背振山系東端の九千部山の崩壊と、山口川の氾濫によるものであることを確認した。
いまの山口川は、筑後川の支流である宝満川に注いでいるが、もとは鷺田川の本流として博多湾へ流入していたものである。前記したたびたびの氾濫によって屈曲部に莫大な流砂が堆積し、自らの流路を現在のようにかえているのである。これらの気象異変については、前記したコアの他、グリーンランド氷柱O18の研究や、屋久杉年輪の測定などの傍証によって知ることができた。私はこの研究に当たって、九州大学工学部気象学教室の真鍋先生や、同大学採鉱冶金教室の故坂田武彦先生に、十余年にわたって非常な協力と指導を受けた(この機会に紙上を借りて感謝を捧げたい)。
また早稲田時代の学友で、二日市温泉の旅館、大丸別荘主である山田大助の特別の好意によって提供してもらった数年前の同館温泉掘削の際のコア(現在九大工学部に保管中)によれば、同地は現在標高四十メートルであるが、マイナス七十メートル付近の地層が邪馬台国時代に該当し、現在の海面より三十メートル以下となり、その後の海面上昇高をさし引いても、水道は十メートル以上の水深であったことがわかった。この深さはまた、有明海地層年代とも一致している。
埋もれし運河
この研究の途中、私は思いがけぬ我らが祖先の偉大な業績にぶち当たったのである。それはこの水道が埋没した直後に、水運とは比べものにならぬ陸運の不便をかこったのであろうか、ここに一大運河を掘削していることであった。崩壊する砂礫を防護するために、彼らは営々と水路に石垣を築いているのである。
いまに残る同地峡地帯の堤防や築堤を意味する次田《つぎた》、杉田の地名がそのことを物語っている。ちなみに同地からは、工事などで古い石垣が点々と発掘されたことも伝えている。次田、杉田というのは築地《つきじ》、築田《つきた》と同じ意味で、ツキタが訛《なま》った言葉である。大阪府の吹田《すいた》市の吹田も次を吹に書き誤まって吹田となったものである。
これは余談であるが、筑紫の語源についていろいろと憶測されているけれども、実は筑紫の語源は、この運河の築石《つくし》にあると思う。第一部の第三章でもちょっとふれておいたように、この問題を記紀にてらして探ってみると、このときの建設をされた、この地方の王は、垂仁天皇の皇子|石衝別王《いわつくわけのきみ》だったようである。特に瞠目すべきことは、博多湾と有明海の海面の高低と満干の差に対応するためにここに調整水域が必要となり、一大堤塘が築かれていることである。それが謎の水城の建設だったように思われる。御笠川から船がはいると水門をせき止め、増水した水路を遡行せしめたのであろう。いわばパナマ運河のような着想であった。その後、磐井《いわい》の反乱、実は筑紫王朝の崩壊によってこの運河は荒廃し、堤塘もまた半崩壊の状態におかれていた。それを白村江の敗戦によって唐新羅防衛のため、天智天皇の計画で嵩上げをして修復されたのが、史実の一部とともに、いまに残る水城遺跡のように推定される。こう考えると、水城の基底部に残る不可解な問題は、容易に理解できるのである。
水道の問題については、かいつまんで述べたこの程度のことでも、読者にはおおよその理解が願えたと思う。今回もまたまた簡略にすぎたが、さきを急ぐので、詳細は続刊を予定している「筑紫の水や空」にゆずることとして、御寛恕を願いたい。
以上のような次第で、地峡に埋められた筑紫の碑文は、やがてだれかの手によって近く掘り起こされるであろう。私は邪馬台国時代に水道が存在していた事実を今回は確認しただけの報告にとどめ、新たな邪馬台国への道標《みちしるべ》としてこの項を終わりたい。
第十章 邪馬台国の展望
一 予期せざる傍証
山もないのにヤマとは
邪馬台国の方位と距離が、倭人伝の記事どおりに、寸分狂っていないことの証明はできたが、問題はいよいよこれからである。
特定の地名や遺跡、古墳などを前面に押し立て、それから予定した邪馬台国を持ち出してはならないと、先に戒めておいたが、私の場合は、その傍証となるべき証拠を、これから示さなければならないのである。
まず私は古い地名から探ってみることにした。するとどうだろう。諫早市の周辺には、山もないのに、大村湾の入江にそって、旧|真津山《まつやま》村の久山《くやま》、今村などがある。クヤマは川のある入り江の意で、クとヤマの結合した語である。イマムラのイマはエマの転音したもので、現地の地形もそうなっており、この付近には古墳も多い。
諫早湾側には、諫早の対岸である島原半島の北端に旧山田村(現吾妻町)と、それをはさんで、文字は違うが旧|守山《もりやま》村と旧森山村が隣りあっている。かつては一つの大きな村だったと思うが、いつの頃か分村したのであろう。いま海岸は広い干拓地になっているが、この山田や守山、森山も入り江の奥で、特別に山には関係がない。特に山田は和名抄に也萬多《やまた》と記され、広範囲の条里遺構や無数の古墳が散在する由緒ある村である。
さらに地名を追ってみると、雲仙岳の西南麓一帯を占めるスロープの畑作地帯を、串山という(以前は南北両村に分れていた)。この串は、九州のあちこちに多い櫛の字をあてた地名と同じ意味で、櫛の形をしたまるい入り江のことである。この村はそうした海岸にそったヤマの村で、山にはこれまた全然関係なく、山の字が使用されているのである。
つぎに天草四郎で名高い島原の乱があった有馬《ありま》町も、隣の有家《ありえ》町と二つ合せて、古く使っていた文字で書きあらわしてみると、合江馬《あいやま》である。この付近の町村は昔から離合をくり返し、それぞれの村が、みな別々の入り江にのぞんでいるので、ヤマの村を合せるといった意味を持っている。
このほか、千々石《ちぢわ》湾(橘湾)に面し、いまでは長崎市に編入されている旧|矢上《やがみ》村についていえば、隣接の網場《あば》村も田結《たえ》村も、元は牧島を囲んだヤバタで、それが特徴的な地勢毎に分村したものと思われる。
このように追求してゆくと、村々は大字《おおあざ》小字《こあざ》の部落名に至るまで、ヤマタ(ヤハタ)の地名と地形につながり、いわばヤマタの集合地帯なのである。
はじめに邪馬台国が意味する原音と国柄について解説しておいたが、まさにこの地方は、地形も地勢も邪馬台国にふさわしく、一致するのである。
弥生遺跡は語る
つぎに遺跡について調べてみると、現在まで発見、発掘されたものだけでも、無土器時代から古墳時代末期まで、各期にわたって充実している。かつて故人になられた某大学教授が、旧著を指して、残念ながらこの地方には弥生の遺跡が少ないと攻撃されていたが、こうした人達はなんら考古学に対して常識を持ち合せていないばかりか、ろくろく現地のことも知らず、実際は何もわかっていないのである。
縄文晩期から弥生前期に至る過渡期の諸問題や、水害によって流出したこの地方の豊富な遺物、遺跡などについては、第一部ですでに述べておいたとおりである。いま、邪馬台国に比定した範囲内の弥生遺跡を列記してみると、およそ巻末にに示したものである(この他にも相当落ちた個所があると思うが、乞御容赦)。
以上の中で特徴的なのは、南高来郡北有馬町の原山支石墓群(国指定)である。我が国最大のものでこの付近の水田や畑もすべて弥生遺跡で、最近は近くの水田から、農道開削によって集落遺跡も発見された。ここ以外にも各地に支石墓群があり、その数においても我が国第一である。最近の農道工事や基盤整備などによって続々と弥生の集落遺跡や甕棺群、遺構などが発見されつつあり、いまでは単に弥生遺跡といっただけではあまり興味をひかなくなってしまっているほどである。
特に私がいいたいのは、これらの遺跡が一ヵ所に集中せず、きわめて広範囲に、しかも濃密に分布していることである。このことは現在の視点から古代を想像するのか、よく生産基盤が云々と研究者の間では流行語となっているが、あまりあてにならないことを立証しているようだ。そして邪馬台国の人口が七万余戸ばかりとあるところから、邪馬台国にはその生産基盤を支えるヒンターランドがなければならないと、広範囲な土地と、都市型の一大集落を想像して、その立地条件と可能性を求めようとする傾向が、多くの論者にみられるけれども、これら遺跡のあり方は、こうした意見を完全に拒否しているのである。
我らの祖先は倭人伝のために居をかまえたのではない。住みよい所なら、どこにでも住んだのだ。邪馬台国の住民は、あらゆる浦々、耕せる耕地をえらんで、大小の集落を作って住んでいたであろう。その戸数が併せて七万余戸ばかりだったと考えれば、むずかしい議論はいらないのだ。たとえば、写真(電子文庫では割愛)を掲げておいた牧島の五百基にのぼる石棺群のような存在が、このことを雄弁に物語っている。弥生遺跡が福岡市周辺のみに集中しているように錯覚している人が多いが、これは研究者も多く、開発が進んだ結果発掘や調査がゆきとどいてその成果が発表されているからである。実は有明海沿岸ならどこも弥生遺跡だらけで、年を追うにしたがって始末におえなくなるだろう。いまのところ調査報告も不十分で、いかにも後進地の感が深いが、それでも道路工事などによって続々と大遺跡が発見されつつあり、研究者の目が有明海沿岸へと移行している事実は、このことを裏書きするものである。
古墳について
つぎに邪馬台国の存在した時期は弥生時代と古墳時代の接点に当たっているから、どうしても古墳の存在を見過ごしてはならないのである。邪馬台国に比定したこの地方は「中央から僻遠の地なるがゆえに――」という考え方が、いまだに専門家の考えを支配しており、そのため、古墳文化を解明する上で、何かと支障をきたしているのである。
何をもって中央から――というのであろうか。大学は東京にあっても、当時の東京は「夷《えびす》の国」ではなかったのか。畿内地方でも弥生文化が九州よりおくれていた事実は、誰にも否定できない。ましてや邪馬台国を論じるに当たって、大陸との文化の交流を明らかにしようというのに、どちらが地理的に近いのか。大陸の文化がより早く流入しているのか。きわめて基本的で、単純なこれらの問題さえも、中央集権的、現在の都市中心的な意識過剰によって踏みにじられ、いまや古代史全般がこのような考え方で支配されている現状を読者にも知っていただき、共に抗議してもらいたいのである。
巻末に掲げる古墳についてもいまだ調査不十分の点が多く、書き落したものもあると思うが、弥生の遺跡同様におゆるしを得ておきたい。
卑弥呼の冢ははたして残っているか
邪馬台国は右に述べた弥生遺跡や古墳のすべてに何らかの関係を持っていたはずである。問題はその濃度の違いや年代的な基準が、どの程度、邪馬台国の最盛期に近いか、そして邪馬台国の中心がどの付近にあったかを探ることが最終的な目的となってくるが、私の考えを率直にいわせてもらうなら、これだけの資料で判断することはむずかしいということである。それは発掘された遺跡や調査が、いまだ不十分だからで、おいおいその数をまし、あるいは積極的な発掘調査によって、近い将来にゆだねなければならないいくつかの問題が残されているからである。もっとも大体の見当は私にはついているが、ここが邪馬台国の中心だったと最終的に断言することは、なお慎重を要すると思う。
読者の中には、それでは意味がないとか、面白くないとか、興味本位にこの古墳が卑弥呼の冢《つか》だと断言しなければ気がすまない人もおられるだろうが、もしそんな人の要求に応えたとすれば、今度は親魏倭王の金印を掘り出してみせろ、そうしないと信用しないといわれるに違いない。邪馬台国に興味を持っている人の中には、案外そんな人が多いのである。
特にこの際指摘しておきたいことは、倭人伝に「其の死には棺有るも槨《かく》無く、土を封じて冢《つか》を作る」とことわってあり、卑弥呼の塚も、石室が設けられていなかったことだけはたしかである。
右の記事は一般的な庶民のもので、卑弥呼の場合は違うという人がいるかもしれない。しかし墓葬というものは、普遍的なもので、いつも被葬者の身分が問題となるのは、その副葬品の内容と封土の規模及び形式である。だから卑弥呼の冢が径百歩もある壮大なものであっても、本質的な埋葬法は変わっていないと思う。したがって槨がないものとすれば、石棺か木棺の埋めっぱなしで、いまだ前期の高塚古墳の形式が完成しない前のものとして受けとらねばならないだろう。
こう考えると、冢が円墳だったか方墳だったかも定かではなく、また封土の高低もどの程度だったか判断しかねるのである。そして最も私がおそれるのは、槨がないから、長年の風雨によって封土が崩壊し、そのため木棺ならば消滅し、石棺ならば露出して破壊され、すでに卑弥呼の冢がこの地上から永久に消え失せているかもしれないという、きわめて素朴な自然現象に対してである。
邪馬台国の中心地
以上のようなことから私は、今回の最終結論で、倭人伝の信憑性をたしかめ、多くの人が納得する邪馬台国はどこだったか、そしてその中心はどの付近だったかを指摘し、証明すればいいのではないかと思う。その意味で長崎県の南部一帯にわたる地域が、かつての邪馬台国だったということと、倭人伝は妙ないじり方をせず、素直に記事どおりに理解し、追求してゆけば、その内容がほとんど実地に適応していることを、すでに読者も理解されたと思う。
ではその中心が、およそどの付近だったろうかという点についてあらゆる角度から探ってみると、おそらく前記した現在の長崎県|南高来《みなみたかき》郡|吾妻《あづま》町を中心に、北高来郡森山町から、南高来郡の旧愛津村、野井村(現愛野町)、山田村、守山《もりやま》村、三室《みむろ》村(現吾妻町)、古部《こべ》村、伊福《いふく》村、伊古《いこ》村、西郷《さいごう》村(現瑞穂町)、神代《こうじろ》村(現|国見《くにみ》町の一部)にかけての諫早湾南岸地帯だったように考えられる。その主な理由は、
一、弥生、古墳の両期にわたる遺跡が濃密で、特に弥生後期の遺跡と前期古墳が集中的に混在していること。
二、名付けられた村名が非常に古く、ヤマタにかかわりを有していること。そしてこの付近の地名や部落名が、きわめて古典的で、長崎県の南部でもきわだって特異性があること。
三、現存する条里遺構や、坪のつく小部落名が多いことから、律令制の名残をとどめ、上古から相当にひらけていた地方だったことが推定できること。
四、風土的な地勢や地理的条件からも、最適な位置を占めていること。ここは有明海のほぼ中央で、邪馬台連合の各国とも、水行によって直結し、最短距離で結ぶことができる。しかも隣接の大村湾や千々石湾とは一キロ足らずの地峡を、今にのこる船越の地名が語るように、船を曳き越して簡単に渡れる、きわめて水陸の便に富んだ場所である。そして外洋にも直ちに通じることができるのである。
特に倭人伝中に「女王ノ国東渡レル海ヲ千余里、復有レリ国、皆倭種ナリ」とある「東」について、これまで種々論議をかもしてきたが、実はこの付近を邪馬台国の中心だとすれば、この問題も容易に解決するのである。原文を倭人伝の記載例にしたがって解釈してみると、女王国の東の方角に国があるというのではなく、「女王国の東の海を渡ると、千余里でまた国があり、皆倭人の国である」と書かれているのである。この東は女王国の東へ向かって海を渡るのではなく、あくまで東の海を渡ることが条件になっているのである。
これをわかりやすく実地に説明すると、女王国の東の海である有明海を南下すると、千余里行った所にもまた国がある、そこも同じ倭人の国である、となり、つまり薩摩地方を指しているのだと思うが、そうすると次の「又有侏儒国、在其南、人長三四尺、去女王四千余里云々」という文章も内容的にすんなりと続き、地理的にもまったく一致して、前後の文章が完全に理解できるのである。おそらくこの文章が、屋久島以南の諸島嶼を指していることはだれの目にも明らかだと思う。
このように倭人伝の記事は、ほとんど実状と合致し正確なものであることを、この記事からも再確認してほしいのである。
五、自然的な条件に最高に恵まれていること。
この付近は清冽な水が豊富で、長寿者の多い所である。しかも長崎県で酒米がとれるのはここだけで、いわば豊饒の地帯といっても過言ではない。
だれが言い出したのか、考古学界で一時、縄文終末期の土器について、貯蔵性に富んだ鮭鱒《さけます》地帯に比して、西日本のものが形式的に簡略化したのは、獣《けだもの》をとりすぎて、迫ってくる食糧難に対応せんがための新しい傾向を示したものではないかといった説が、大まじめで論じられたことがあった。世間ばなれしたこんな意見が考古学界では堂々とまかり通るのだから面白い。古代の我らが祖先は、鮭鱒だけに頼り、貯蔵性がなければ飢餓に瀕したのだろうか。
いまでこそ簡単な貯蔵法を考えるが、九州の中でも私達の地方では、魚介類は年中豊富で貯蔵の必要がないのである。貯蔵を必要とする土地の人達は、それが最高の生活防衛だと考えるけれども、そんな必要のない豊富な土地の者は、かえってその煩わしさと、貧困をわらうのである。この諫早湾沿岸は、いま、ここをしめ切る南部総合開発問題で紛糾しているが、戦前ほどではないにしても、干潮時にはいまでも魚介類が本当に素手でつかみ取りできる所である。丘を越せば、一時間とかからない隣接の千々石湾は、現在、石油備蓄のためのタンカーがプカプカ浮いているが、非常に鰯のとれる海で、私達が子供の頃までは、さかんに鯨も潮を吹いていた。
こうしたことから、古代を想像すると、いかに恵まれた海だったかがよくわかる。また獣類のことを推しはかってみると、この地方には仁田と名の付く地名が非常に多い。仁田というのは、猪が夜な夜な出没して泥を体にぬたくる湿地帯のことであるから、いかに猪が多かったかがわかるのである。現在も長崎県は猪の多い所で、いまでも長崎半島の農民は農作物を荒されて困っている。このための特異な猪垣《ししがき》については、第一部の神籠石のところで述べたとおりである。
このように食糧が豊富で、年中温暖、冬もほとんど雪や霜が降らず、島原市のごときは、冬の平均最低気温が鹿児島市や宮崎市より高いのである。古代といえども、豊富で恵まれた生活環境を人々が求めたことはだれも否定しないであろう。
六、神話と史実と伝承
この地方が、はたして邪馬台国に関係があるのか、そのことを証明する何らかの手がかりが、史実や古記録や伝承などに残ってはいないかと、いろいろ調べてみると、意外や意外、我が国の神話構成のもとをなす神々の出身地がこの付近だったことを確かめることができた。このことは大山津見神のことで、さきにも少々ふれておいたが、古事記、日本書紀のみならず、幸い現存する肥前風土記にも明らかにこの地方のことが述べてあり、これらの我が国最古の記録に記載されているという事実は、実にこの地方が邪馬台国に関係があったことの最たる証拠といわなければならない。話が長くなるので詳細については項を改めて述べる。
鉄による統一
以上あげてきた諸点で、邪馬台国だったことの証拠は、およそ足りているような気もするが、読者諸氏はどう判断されるか。なお疑問の点があれば、もうすこし辛棒して最後までつきあってもらいたい。
私が常日頃、邪馬台国のことを考えるにつけ不思議でならないことは、邪馬台国が三十の国を従えた背景をなす原動力は何だったかということである。
神占いとして卑弥呼が持っていた神秘な呪術や予言力に人々が眩惑されたのだろうか。
比較的に長期に及ぶ気象異変が襲来して飢餓と不安と動揺の結果、彼女に頼ったのだろうか。
頻発する内乱や部族間の抗争に明け暮れた末、人々が妥協と協力によって安定した世界を求めた結果、期せずして生まれたものだろうか。
その頃、ようやく芽生えた新しい宗教と、古くからあった原始宗教との間におきた抗争が、卑弥呼によって止揚された結果ではなかろうか。
といったことなどを、原因として私は種々考えてみたが、それらのことは一つの要因とはなり得ても、けっして全体を推進せしめる力とはなり得なかったという結論に達した時、それならば、何が?とさらに突っ込んで考えてみたのである。
弥生時代というのは、稲作の普及や、土器形式の簡略化などによって万事が機能的になった時代だと判断されているが、もっともなことである。いわば古代における合理化時代だったのだ。その最高期に達したのが、卑弥呼が女王として君臨した弥生期末から古墳前期にかけてであった。そしてその時期はまた、畑作の拡張期でもあった。私がこんな重大なことを簡単にいいきることができるのは、長年にわたって古代製鉄を研究した結果、鉄の生産拡充によるものであることを、発展の経過をとらえて実際に確認したからである。
石の鏃《やじり》から鉄の鏃へ、銅剣、銅矛《ほこ》から鉄の剣《つるぎ》、鉄の槍へ、石の突棒、突鍬《くわ》、石の刃物から鉄鋤《すき》、鉄鍬、鉋《やりがんな》へと発展してゆく過程で問題なのは、どこでその鉄を生産し、だれがその鉄の生産を握っていたかということである。裏返してこのことを考えてみると、弥生の中期ともなれば、磨製石器はほとんど姿をひそめる。それは鉄器の普及によって後退せざるを得なかったことを意味しているが、その時、どこにいつまでも石器が使用されて残ったか、どの地帯が早くから石器の使用を止めていたか、そのことがとりもなおさず、鉄の生産と普及に関与してくるのである。
やがて鉄利器は、鉄の工具、鉄の農具へと発展普及して、はじめて広範囲の開田開墾が可能となるが、それは石器に対して鉄器で土をいじるということは、現代人にはとうてい実感として理解しにくい程の偉大な進歩であり、技術的飛躍をもたらしたのであった。それはちょうど戦前の農業や土木工事に対するトラクターやブルドーザーのようなものであっただろう。
このような発展段階における銑鉄と鋳鉄と鋼《はがね》の研究を続けているうちに、私はふと鋼が真っ先にこの地方で生産されていたことを知った。それまでの鋼は、低温度でかろうじて海綿鉄を作り、その海綿鉄をさらに大鍛冶場できたえなおして作っていたのである。ところが突如として、はじめから直ちに鋼を作る技術が発見され、その鋼を作る集団が生まれた。追求の結果、その集団が主力となって支えた国こそ邪馬台国であり、その集団の名こそ天津《あまつ》族だったのである。
従来の鉄砲、機関銃、大砲といった兵器の中に、ミサイルが登場して世界の戦略は一変した。このように直接鋼を生産して兵器や利器を製作することは、同じ意味を持っていたのである。一振りで相手を斃《たお》せる剣、一突きで刺し殺せる槍、鉄の重さで射程距離がのびた鋭利なヤジリ、これらの武器を多量に生産して進撃を開始する集団に、どの部族が対抗し得ただろうか。彼らはまた多量の鋭利な工具によって、多量の大型軍船を急造することができた。船は刳《く》り船から構造船に変わったのである。そして海上から次々に周辺の国々を威嚇し、邪馬台連合が組織されていった。この原動力の背景をなすものが、すなわち鋼の生産であったのだと、私は今結論づけている。それではなぜ邪馬台国にその技術が生まれたのか、詳しいことは、あとの「石鍋の秘密」で述べることとし、ここではひとまず「予期せざる傍証」の項を終わることにしたい。
二 黄海北路、黄海南路
大陸との三つの航路
邪馬台国が伊都に駐留府を設け、なぜ問題の邪馬台国と隔絶した場所を選んで魏と折衝していたのだろうか。この問題も倭人伝にとって重要なので、少々私の考えを述べておきたい。
もともと古代の九州と大陸との交渉には、渡洋の航路として、基本的に三つの航路が選ばれてきた。自然条件から、この航路は遣隋使船、遣唐使船へと引き継がれ、八幡船《ばはんせん》の活動から鎖国時代を通じて伝統的に現在まで生きている。それは船舶建造の技術の変遷や、航海術の進歩はあっても、自然条件が変わっていないから、大きな基本的変化はないといってもよい。
たとえば現在の農業と古代の農業を比較してみた場合、農薬や化学肥料、ビニールハウスなどの出現や、農機具の進歩などによって、外見上は大きく変わっているかのように見えるけれども、その本質はほとんど変わっていないのと同じである。ではその航路とはどんな航路だろうか。
一つは博多湾沿岸(玄海)から壱岐、対馬を通り、朝鮮半島の西岸を経て黄海の北部を航行し、遼東半島あるいは山東半島北岸方面へ達する、倭人伝にも記載されている、きわめて常識的なだれもが知る航路である。他の一つは、平戸、長崎、五島、天草(有明海沿岸)方面の西九州外帯地帯から黄海の南部を通り、直接、東シナ海を横切って大陸へ往来した航路である。私はこの航路を中国の天山北路と南路になぞらえて、前者を黄海北路、後者を黄海南路と呼んでいる。私があえて黄海と呼んだのは、横切る海の名称がそうであるばかりでなく、黄海の原因を作る黄河が、大陸の権力者によって支配された時期にしたがって、この航路もまた北路と南路に選ばれたことを考えるからである(黄海北路と黄海南路は、私が意見を発表して以来、多くの人に支持され、現在は常識化されるに至った)。
この二者が確たる渡洋の意志と、目的をもってひらかれたのに対し、もう一つ、ごく自然発生的に、沿岸を島伝いに往来した航路が延長され、一つの確立された航路となったものに、わが命名する沿島南路がある。薩南諸島から島伝いに琉球を経て華中、華南(江南)へ達した航路であるが、大陸の雲南ビルマ路に匹敵するものとでもいっておこうか。これは、いずれ発刊したいと思っている「雨と米の道」でもある。
この三つの航路を政治上からも実際上からも、はっきりと使いわけた実例として、後代の遣隋使、遣唐使船をあげることができる。十七回の派遣船のうち、前期の黄海北路に対し、中期は沿島南路をとり、後期は黄海南路を選んでいるのである。
従来の歴史家たちは単純に、この三航路を渡洋の技術的な問題としてしかとらえていない。実際は大陸の政治的事情、航海に当たった海上部族の交替によって、その部族の持つ特徴的な航海術で明らかに区分されているのである。だから遣唐使船の航路の変遷は、断続的ではなく、区分された比較的長期なものにわたっているのである。
ところでこの三航路は、時代的に逐次開拓されたのではなく、いずれも古代から同じように利用されていた形跡がある。魏志倭人伝に記載された当時は、中国が魏、呉、蜀の三国に分割され、南路と沿島南路は、呉の勢力圏にあったから、魏との交渉には北路を利用するほかなかったのである。もちろん朝鮮には帯方郡もあることだし、むしろ当然といわなければならない。だがこの安定した航路が開拓されていたということは、すでに漢時代から、この航路が北九州との常識的な航路にもなっていたことを物語っており、伊都や奴国が、邪馬台国によって接収された国であることも意味している。邪馬台国は、この航路の実権を握ることによって、北九州の伊国群と奴国群が、直接、大陸と交渉することを遮断する目的があったことも、うかがえる。
南路があまり取り上げられない理由は、北九州の地理的利便さと優位のほかに、畿内の王朝が国内を統一した結果、大陸との交渉の本体が瀬戸内海の奥に後退したためである。任那《ミマナ》府を喪失した理由も、実にこの点にあるように思う。
一方では邪馬台国や狗奴国は、もっぱらこの南路や沿島路を利用し、呉とも交渉していたことが充分に考えられる。大陸の政治情勢は、呉の孫権が遼東半島の公孫氏と遠交近攻の盟を結んで、魏に対抗し、そのため魏の宰相|司馬懿《しばい》によって公孫氏が滅ぼされたその時であった。卑弥呼が使を魏に送ったのは、こうしたおりもおりだったから、大いに喜んで、親魏倭王の称号を贈ったのだといっても過言ではない。へんてこな木製の弓矢を献じたというのは、一見、彼我の文化の違いにわびしさを感じさせるような観もあるが、鉄利器がないのではなく、盟約の証として受けとるべきであろう。また邪馬台連合に属しない、後述する狗奴国の反抗の理由も、あるいは狗奴国が呉と結んでいたからではなかろうか。
北路と南路による大陸との交渉は、鉄と銅の文化や、肥後形式の装飾古墳と、筑後形式の装飾古墳の差にみられるような、わが国の天ツ神系文化と、国ツ神系の文化といったところにまで影響を及ぼしているように思われる。
以上のような観点から、北路の実権をにぎった邪馬台国は、当然の帰着として、従来北路を利用していた、北九州の伊都、奴国群の一つであった狗邪韓も同時に手中に収めることができた。ここに伊都の駐留府設置の理由も生まれてくるのである。
ところで邪馬台国のことばかり述べてきたが、ここらで当時のアジア情勢についても概括しておく必要があろう。
金印は御祝儀か
紀元前四世紀ごろ、燕をして「驕虐……」といわしめるほど強大になっていた、鮮満国境地帯に興った古朝鮮は、紀元前一九四年、秦漢交替の混乱期に乗じて衛満にとって代わられたが、この衛氏朝鮮も、やがて漢の武帝によって滅される(前一〇八年)。漢は衛氏の支配地であった半島北部に、楽浪《らくろう》、真番《しんばん》、臨屯《りんとん》、玄菟《げんと》の四郡を置いて統治しようとした。しかし激しい朝鮮民族の抵抗にあって、そのうち楽浪郡(いまの平壌地方)のほかは、次第に支配権を失っていった。その後、後漢の時代になると、楽浪郡は、魏の麾下にあった遼東の豪族、公孫氏に引き継がれ、郡を二分して、その南部を帯方郡(京畿道の漢江以北、黄海道慈悲山以南の地で、もと楽浪郡の帯方県であった)と称した。この公孫氏だが、公孫氏を興した公孫度の孫に当たる公孫淵は、魏と対立する呉の孫権と、遠交近攻の盟を結んで、魏の支配から独立しようとしたが果たさず、のち燕王と称して魏にそむいたため、遂に景初二年(二三八年)魏の権臣|司馬懿《しばい》の征討軍によって滅される。
大いにここで注目すべきことは、景初二年という年である。倭人伝に「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣し、天子に詣りて朝献せんことを求む」とある。その景初二年である。
三国志魏の列伝によれば、司馬懿が遼東に攻め入ったのは、同年六月で、淵を斬って公孫氏を潰滅せしめたのが八月と記されている。してみると、邪馬台国の卑弥呼の使者が、帯方郡へ着いた頃、すでに遼東では戦いが始まっていたのである。卑弥呼の使者たちは、春さきに倭国を出発したのだろうが、事前にこの雲行きを知っていたのだろうか。ここらあたりが問題なのだ。「親魏倭王」の金印を卑弥呼がもらったのも、同年十二月となっているから、洛陽では、公孫氏を鎮圧して帰還した将兵が凱旋の喜びに沸きかえっていた時であった。
魏の明帝も喜色満面、大いに悦に入ってこの称号を与えたことであろう。考えようによっては、御祝儀相場といえないこともないのである。わざわざ倭人伝には金印を「仮授せしむ」とある。遼東から朝鮮を支配した公孫氏でさえ太守だったのに、気前よく王という称号を、よくも卑弥呼に贈ったものだ。その裏には何かいわくがありそうに思えてならない。魏の最大の権力者、司馬懿を宣王といったが、王の称号とは、そんなに当時は貴重で権威あるものであった。金印を仮授したという裏を、もう一度ここで考えてみよう。私は前記した黄海南路や沿島路(「又、侏儒国有り、其の南に在り、人長三、四尺、女王を去る四千余里」の記事から、すでに邪馬台国がこの沿島路を開拓していたことを示唆している)によって、邪馬台国は呉と修好していたものと思う。その結果、当然、遼東の公孫淵にくみしなければならなかった邪馬台国が、これらの国を裏切って魏に統属し、その盟約のために使を送ったのが景初二年の朝貢ではなかったろうか(景初三年が正しいという説もあるが、私はどちらでもいいと思う)。それが、たまたま戦勝と重なり、金印仮授の原因となったものと考えられる。そうでなければ単に朝貢しただけで、親魏倭王とは過大な評価といわなければならない。
話をもとへ戻そう。「郡より倭に至るには――」という郡、すなわち帯方郡を、単純に魏が直接支配していたものと考えている人が多い。実は以上のようなことから、公孫氏が滅ぶまでは、朝鮮は魏の直接支配ではなく、いわば公孫氏の下請け的な役割によって、間接に支配されていたのである。後漢書でいう所の「内属」であった。
公孫氏が滅んだ後、帯方郡ならびに楽浪郡は、直接魏に継承されるけれども、魏もまた間もなく滅んでしまう(二六五年)。いろいろの史話に富んで、一見、華やかそうに考えられる魏、呉、蜀の三国時代は、後漢の後をうけて、五胡十六国の戦乱時代に突入するまでの、ほんの束の間(約六十年間)の国国であった。倭人伝は、三国志の中で、この魏の勢力に関する一部の消息を伝えたものにすぎない。
三国時代といえば、三国志演義によってだれの頭にも魏の曹操、および司馬仲達(懿)、呉の孫権、蜀の劉備と諸葛孔明といった人物の名が、すぐに浮かんでくるだろう。
魏は、司馬懿の孫、司馬炎に禅譲され西晋となる。したがって朝鮮の支配権も西晋に移るが、西晋は五胡の跳梁によって三一六年江南に移って東晋に衣替えする。この頃大陸の虚に乗じて、楽浪郡は高句麗に、帯方郡は韓※諸族によって滅され、半島ではいよいよ朝鮮民族自身の手による高句麗、百済、新羅が相次いで建国されることになるのである。
我が国はどうだったか、ということになるが、残念ながらこの頃の記録が、いわゆる倭の五王まで海外にも存しないので、この間を謎の四世紀とか欠史時代と呼んでいる。
南船北馬と日本
さて、古来中国は南船北馬といって、南部は船に頼り、北部は馬に頼ってきた。この南船北馬は、その意味する文化的内容の上から、同時に我が国の黄海南路と北路におきかえることができる。しかも我が国は海国である。だから必然的に我が国が一般的な風俗文化の影響を大陸から受け易いのも、北馬の華北より、南船の華中華南にあったことは、まぎれもない事実である。だから倭人伝文中にも「男子は大小と無く皆黥面文身す……中略……其の道里を計るに当に会稽東冶の東にあるべし……中略……有無する所、※耳・朱崖と同じ」と記されている。
それが残念なことに現在まで誤認されているのは、歴史その他の文献記録がほとんど北馬の漢書に限られ、その内容を鵜呑みにし、一方華中華南の呉の文献や記録が乏しいからである。しかし実際的には、奈良朝以降、唐の影響を受けて真の漢書による漢文が公式に使用されるまでは、古事記も、平城京その他の木簡文書も仏典も、みな呉音がもっぱら使用されている。これはいったいどうしたわけだろうか。
このことから黄海北路と黄海南路はまた漢音北路と呉音南路と呼びかえてもいいのである。九州の西岸に立って東シナ海の潮風に直接当たってもらえば、このことがすぐわかるのだが。西九州から直接大陸へ渡るのに、遠いそして風向きの悪い朝鮮半島まわりで航行する必要があろうか。三角形の二辺の和は他の一辺より大なりといった論理は、公式はわからなくても、実際には古代人もよくわかっていたはずである。
なお中世時代には、平清盛をはじめ、有明海沿岸を基地として、対宋貿易がさかんに行なわれており、その伝統が室町幕府の勘合船に生かされ、やがて戦国時代の自由貿易から長崎を基地とする南蛮貿易へと移行していることは、改めて説明の必要もあるまい。また黄海北路にしても、出発点が玄海沿岸に限ったわけではなく、この有明海沿岸や、長崎方面から平戸を経て、壱岐、対馬へと航海した実績も多い。むしろその方が風向きによっては捷路となるのである。邪馬台国時代にも、公式以外にはこの航路が大いに利用されたことも考えられる。
要するに、古代といえども、以上述べた固定した航路だけに頼ったわけではなく、時代により、また季節風によって、有機的に複合的に使い分けたことも、十分考慮に入れておかねばならないのである。そして倭人伝を読むに当たっては、単なる字句の解釈だけにとどまらず、こうした航海の問題や、大陸の政治的情勢、文化的傾向なども常に配慮しながら、東アジア全般にわたる観点に立って考えなければならない。
三 神話と史実
天降らなかった天孫
先に述べた大山津見神が、邪馬台国の大王であったことや、高御産巣日《たかみむすひ》神の本地が、別名高木神と称せられることでもわかるように、高来《たかき》郡すなわち吾田勝《あたかつ》国の省略であることによって、いままで漠然と考えられてきた神話や神々が、意外に我々の身近なものとして、かつ歴史的な事実として受け取れることを、この際、特に読者も注目してもらいたいのである。いままで日本の神話を人々が軽く見過ごし、まったく架空の物語として受け取ってきたが、それは「高天原《たかまがはら》」の大誤訳によって、天の一角のように錯覚し、あるいは想像したがためである。
古事記や日本書紀を熟読してみると、神々が天から天降《あまくだ》ってきたとか、高天原が天の一角にあったなどとは、どこにも書いてないのである。絶対に書いてないのである。少なくとも五十回以上、精読してもらえば、このことがよくわかる。神話の解釈に当たって、これほど重大なことを、本居宣長以来、今日まで多くの学者達が、なぜ気づかなかったのだろうか。既成観念に捉われ、あるいは勿体をつけすぎて、一途に神々が天から降りて来られたものときめこんできたから、こんなナンセンスが起きたのである。そしてあげくのはては、葦原の中ツ国と豊葦原水穂《とよあしはらのみずほの》国が別々の国であるのに、一つの国であるかのように混同したり、皇孫降臨でなければならないのを天孫降臨とまちがったりするなど、神話解釈のスタートから、滅茶滅茶にしてしまっているのである。これは国文学者や神道家達の責任ばかりではなく、明治維新政府の、国体造りにいそしんだ官僚の罪の方が深いように思われる。
さて、この誤解誤訳の大原因は、「天降」の二字にある。これをいままで習慣的に「アマクダリ」と読んできたが、前後の事情をよくよく考えて読めば「アマクダシ」と読まなければならないのである。アマクダリをアマクダシと読めば、記事の内容は一変する。しかも架空の物語のように考えられてきた内容が実在性を帯びてくるのである。これをわかりやすく実例をもって説明すると、皇孫系である邇邇藝命《ににぎのみこと》が、どこかの峰に天のかなたからまい降《お》りてこられたのではなく、天孫系である腹違いの兄の饒速日命《にぎはやひのみこと》を殺し、王位につかれたいきさつを伝えているのであって、つまり天《あま》ツ族の統領を降服させたという意味で、天降《あまくだ》しましぬと書かれているのである。
このことがわかれば曖昧模糊とした豊葦原水穂国が根《ね》の国で、皇孫方の肥後の国を指し、葦原の中ツ国はもと国ツ神の領土で天孫方に奪われた筑前、筑後を指していることを了解されると思う。そしてさらに、何度も何度も記紀を読み返してみると、神話の内容は崇神《すじん》、垂仁《すいにん》王朝から仲哀天皇に至るまでの内容をぼかして神話化したものであり、倭人伝を意識しながら、邪馬台国時代に対応するように書かれていることがわかってくる。
須佐之男命の正体
では疑念の晴れたところでもう一度神話を振り返ってみよう。
まずだれもが知っている建速須佐之男命《たけはやすさのおのみこと》(書紀では素戔嗚尊《すさのおのみこと》)であるが、習慣的にスサノオノミコトと読んでいるけれども、正しくはタケハヤソのサヌのオオミコトである。
前にも説明したが、建速とはタケの国、すなわち肥前国の東半部を指し、ハヤは速日別の略で有明海のことである。神や王の頭にくっついた文字は、その領土を指すから素《そ》は蘇《そ》の国の意味として受け取れば、有明海沿岸の肥前国の一部をも制圧して肥後国に君臨された大王ということになる。ここまでわかれば命《みこと》に関する記事の内容がさらに面白くなってくる。
記紀の伝えるところによれば、須佐之男命は、激しい息づかいでいつも泣きわめいておられた。そのために沢山の人々を一時に殺し、また青山をあかはだかになるまで枯らされた、それも髭《ひげ》がのびて胸につくまで泣き続けられたので、父母の二神は天の下にお前を置くわけにはいかないと、遠く根の国に追いやられたということから、この神の物語が始まっているのである。読みすごすと何でもないようだが、このことは須佐之男命が君臨されたこの時期に、阿蘇山がたびたび大爆発を起こし、長期にわたって人々が苦しんだということを明らかに伝えているのである。
このように一つのカギがわかれば、神話は次々に面白いほど実在の物語として解《と》けてゆく。
乱暴な須佐之男命が、溝埋《みぞう》め、畔毀《あはな》ち、糞《くそ》まきなど悪態の限りをつくし、あげくの果ては生《い》き馬《うま》を逆剥ぎにして天照大神の機殿《はたや》に投げ込まれたというふうに、一方的に悪者にされ、そのように伝えられているが、実はよく読んでみると、悪いのは天照大神側で、もともと須佐之男勢に攻撃を加えたのは天照勢である。
有名な天安川《あまのやすかわ》の誓約《うけひ》も、単なる誓約ではなく、両軍が川をはさんで対峙された戦況を伝えているのである。天安川とは、おそらく筑後川のことであろう。そしてこの戦いで、天照軍は敗戦のうきめに会い、天照大神は戦死されるのである。世に伝えられる天岩屋《あまのいわや》の岩戸隠れは、戦死された大神の遺体を古墳に埋葬した様子や、鏡に魂入れをされる有様が伝えられているのである。
いままで多くの人が信じてきた神話の内容を、私の考えを押しつけるためにまったく逆な立場で解説していうのではなく、虚心坦懐な気持で正確に読めば、記紀にはそう書いてあるのである。私の作り話ではないことを特にことわっておく。
倭人伝の一節に「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭、載斯烏越《さいしうえつ》等を遣わして郡に詣《いた》らしめ、相攻撃する状《さま》を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書|黄幢《こうとう》を齎《もたら》し難升米に拝仮せしめ檄を為《つく》りて之を告喩す。卑弥呼以て死す………(後略)」とあるのは、たとえ天照大神が架空の神で、卑弥呼になぞらえてあったとしても、また須佐之男命が狗奴国王ではなかったにしても、物語の筋として、この間の事情を伝えているのではなかろうか。須佐之男命は、まさに悲劇の勝利者であった。いま、目をつむって、阿蘇の大爆発を背景に、肥筑の山野をかけめぐったこの大王のことを思うと、古代の風景の中でむき出しにされた孤独な表情が胸をうつ。
高天原と建御雷神
高天原の場合も、文字の組合せで、いかにも天の一角であるかのように受け取れるが、高は、高御産巣日神《たかみむすひのかみ》の高を意味する語で、天は天照大神の天に当たり、この二字をうまくくっつけてあるのである。だから高御産巣日神の統治された領土と、天照大神の領土とが合体してできた連合国を意味している。
もう少し細かく説明すると、天《あま》は邪馬台国の邪馬が入り江にのぞんだ耕地であるのに対し、阿馬《あば》(バがのちにマに転音する)は単に広い海浜の耕地を意味し、原はハル、ハリなどの新しく開墾された畑のことである。したがってこれを地理的にあてはめてみると、肥前国の東半部が建《たけ》であるのに対し、西半部が阿多《あた》、すなわち邪馬台国で、その中間に当たる斯馬国に比定した杵島、藤津の海岸一帯が阿馬となりはすまいか。
突飛な話のようだが、追求してゆくとこうなるのである。しかもこう考えると、記紀の内容が、きわめてわかりやすく、地理的にもピッタリあてはまる。たとえば、建御雷神《たけみかずちのかみ》(紀では武甕槌神)を例にとってみると、雷の字を見れば稲妻を連想し、甕の字を見れば、甕《かめ》と木槌と何か関係がありそうに思えるが、文字そのものの意味にはなんら関係がないのである。
建とはたびたび述べているように肥前の東半部のことであり、ミカとは他の神々の名にも数多くみえるが、ミは海のことで、カは河のことであるから、潮の満ちてくる河口の津を本拠として近隣に君臨された王ということになる。佐賀県の小城《おぎ》町に隣り合って、三日月《みかつき》という派手な名前の小さな町があるが、ここは比較的に大きな川の合流点で、近年まで有明海の海岸であった。古くは日本書紀の武甕槌神の甕の字を使用した甕調《みかつき》と記されている。上古からこの地方の中心をなしていたらしく、太宰府からの古道もここを通り、広汎な条里の遺構がのこっており、四条、五条などの部落名にその名残を留めている。またこの付近には遺跡や大型の前方後円墳も多く、先の国々の比定で、私が特に郡支国にあてた所である。
このような背景をふまえて建御雷神が、この地の王ではなかったかという想像は飛躍しているだろうか。だがこのように考えてこの神が登場されるあたりの記事を読めば、まことに実状に合致するのである。
高来の神と峯の湯
話を本論にもどそう。肥前風土記を開いてみると、邪馬台国に当てたこの付近のことが、こと細かく記されている。かつて景行天皇が、玉名の長洲から対岸の島原半島を見て、島なのか陸に続いた土地なのか、それが知りたい、というので、大野宿禰《おおののすくね》をつかわされると、一人の人が現われて、「僕《あ》は此の山の神、名は高来津座《たかくつくら》ともうす」といわれたので、それから高来郡《たかくのこほり》というようになったと記されている。
単純な地名縁起の逸話のようであるが、風土記として特異なのは、「僕《あ》はこの山の神」と記していることである。風土記には、その土地の首長や支配者に対して、×猴《さる》とか、○蜘蛛《くも》とか、動物めいたいかがわしい名をつけるのが通例だが、ここだけ特に神と記しているのである。これは高御産巣日神(高木神)の本地であることを知っていたればこそ、遠慮して似かよった高来津座とし、神の称号を奉ったのであろう。
これまでたいていの人が高来津座をタカク、ツクラとか、タク、ツクラあるいはタクツザなどと読んできたが、タカ、クツ、クラと読むべきだと思う。本来なら風土記の編者は、阿多《あた》、勝《かつ》、座《くら》と記したかったのだろうが、和銅の改名令で二字名に郡名をするために、阿(大の意)を除き、多勝をとってそれに高御産巣日神の高の字をあて、高来としているように思われる。
また「僕《あ》はこの山の神」とある山も、大山津見神の場合と同じく、邪馬台国の邪馬の意をとって「この山の神」と記したのではなかろうか。肥前風土記は、さらにつぎのような記事をのせている。
「峯の湯の泉郡の南にあり。此の湯の泉の源は、郡《こおり》の南の高来《たかく》の峯の西南のかたの峯より出でて東に流る。流るる勢は甚多《いとさわ》に、熱きこと余《ほか》の湯に異《こと》なれり。但《ただ》、冷き水を和《まじ》えて、乃《すなわ》ち沐浴することを得、其の味は酸し」
これは現在の雲仙のことを述べているのだが、現状も、この記事と少しも変わっていない。けだし、日本最古の適確な記事による温泉の紹介であろう。
観光宣伝はさておき、なぜこの記事を引用したかというと、山とは書かないで、明らかに峯と書いてあることに注意してもらいたかったからである。山の神に対する私の解釈がこじつけでない証拠に、いまでいう山に対しては、当時はこのようにみな峯《みね》、または嶽《たけ》の文字を使っているのである。
そなひ玉の国
また肥前風土記には、高来郡に隣接した彼杵郡《そのきのこほり》の郡名の由来について、つぎのように記している。
景行天皇の世に神代直《カミシロノアタヒ》が、この地方の王や女王から真珠と美しい玉を取り上げて天皇に献上した。それで玉を備えた国だから、「そなひ玉の国といふべし」「今、彼杵郡《そのぎのこほり》といふは訛《よこなま》れるものなり」とある。このこじつけともとれる一文はひじょうに重要である。文中の神代直の神代は、いまも邪馬台国の中心と思われる近くに神代町として現存しており、この話の内容が真実性に富んでいることを示唆する。またソノキとは、磯と岬の国というきわめて単純な意味であるのに、なぜ玉を備えた国だからとこじつけなければならないのだろうか。サがソに転音することはあっても、ソナヒがソノキには転音しないのである。そして彼杵のキは、この彼杵郡に接する小城《おぎ》、杵島《きしま》、高来《たかき》などのキとたがいに関係を持ち合っているキであって、突如として彼杵郡のキだけがソナヒという言葉を訛《よこなま》らせるために、横合いから飛び出したものではない。
真珠の首飾り
さて、ここで倭人伝を読んでみると、「……(前略)……壱与、倭の大夫|率善中郎将掖邪狗《そつぜんちゆうろうしようえきやく》等二十人を遣《つか》わし、政等の還《かえ》るを送らしむ。よって台に詣《いた》り、男女|生口《せいこう》(どれい)三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二枚、異文雑錦《いもんざつきん》二十匹を貢す」とむすばれている。
右の記事は、卑弥呼が死んで国内に内乱が起き、それを魏の力を借りて鎮定してもらい、壱与が代わってつぎの女王になったので、そのお礼に、はるばると魏の皇帝のいる洛陽《らくよう》まで使者を送ってよこした、このときの献上品は、かくかくの品物であった、というのがだいたいの意味であるが、ここに、きわめて重要な邪馬台国の手がかりをつかむことができる。
白珠(真珠)が五千孔と青い大きな勾玉《まがたま》が二つと明記されている。学者によっては、五千は数が多いから五十の誤りだろうという人もいる。それでもいい。また読み方についても、白珠五千、と切って、孔青大と孔を下につけて読むべきだといわれる人もいるが、他の品物にもかならず数字の下に人、枚、匹などと称呼されているので、白珠だけいいっぱなしにするわけはない。孔は採取したままの真珠ではなく、丹念に一つずつ孔をあけて磨きあげた珠だったと解した方が妥当のようである。
問題は、相当量の真珠と青い大きな勾玉にある。わが国で往古から、この真珠の玉を産した海はどこだったのか。このことについては已百支国のところで述べておいたが、くり返して強調しておく。古記録その他によっても証明されるように、天然真珠の産地は、大村湾と佐世保湾だったのである。また後でふれるが、勾玉《まがたま》の材料となったヒスイも長崎県の西彼杵《にしそのき》半島に産するのである。
ここで読者にも考えてもらいたいのは、魏の皇帝へ莫大な真珠の玉を献上したと、倭人伝に明記されている邪馬台国は、それらの真珠を容易に入手し得る産地なり海を、自己の勢力圏内に持っていなければならなかったという事実である。あるいはその海から程遠からぬ所に邪馬台国がなければならなかったという前提条件をぬきにしては考えられないのである。
また青大勾珠二枚についても、風土記の、真珠と共に石上神《いそのかみのかみ》の木蓮子《いたび》玉と、別に美しい玉を献上したとある物語が、ぴたりと合うのである。「備《そな》ひ玉の国」というのも、ここではじめて意味を持ってくるし、従来、新潟県にしか産しないといわれてきたヒスイが、長崎県に産することも、大いにこの物語の史実を裏づけている。そして倭人伝解明の手がかりとして、特にこの物語が組み込まれていたのではないかと、私には思われてならない。何となれば、当然伝えなければならない邪馬台国と神々の関係を抹殺した日本書紀や古事記に対して、風土記の編者が試みたささやかな抵抗ではなかったろうかと想像されるからである。
邪馬台国を捜す手がかりとして、百歩の冢《つか》と、そこから親魏倭王の金印が捜し出されない限り、物的証拠は何もない。あるとすれば、この記載された真珠と、青い玉だけが唯一の手がかりといわなければならないのである。
いま、この真珠の首飾をかけ、汐風に吹かれて露台に立った大女王の姿を想像するとき、清々《すがすが》しくもあり、また天照大神の五百箇御統《いほつみすまる》の玉も、絶対に真珠の首飾りでなければならなかったと思う。海に取り巻かれ、海の匂いに育ち、海と共に生きてきた私は、この大女王にむしろ親しみさえおぼえるのである。
四 石鍋の秘密
製鉄工房の跡を発見
十年ほど前のある日だった。親父の代からの取り引きで、私の非常な後援者でもある親和《しんわ》銀行の坂田頭取から、「ぜひ見てもらいたいものがあるので、いまからお訪ねしてもいいか」との電話があった。この方は文化的な諸問題にも非常に理解がふかく、すでに数多くの仕事をのこされている。何ごとならんかと待ち受けていると、「こんなものが、うちの飯盛山牧場で牛小屋の工事をしていたら、沢山出てきたんだが――」……これはいったい何ですか、考古学的に保管する必要がありますか、などといった質問と共に、重いダンボールの箱が差し出された。中には平べったい大きな石のかけらが、いっぱい入っていた。さわってみて、私にはそれが滑石《かつせき》製の石鍋のかけらだということがすぐにわかった。
「これは奈良朝か平安朝ごろまで煮炊きに使っていた石鍋のかけらです。石鍋について、多少疑問はありますが、考古学界ではそういっています。西彼杵半島では、他にもあちこちからたくさん掘り出されていますよ」などと説明しながら、そのかけらを指先でまさぐっているうちに、私は電気にうたれたようにハッとした。
まったく私は運のいい男である。少なくとも、これが高校生か単なる知りあいの質問だったら、正直にいって、さきのような応答程度でお茶をにごしていただろう。が、何分にも相手が相手である。もったいをつけるようなしぐさで、私はそのかけらを丹念になでまわした。するといままで単なる、のみ跡と思っていた内側の凹凸が、規則正しく刻まれたみぞであることに気付いたのである。
「これはドラフトだ!」と一瞬、声に出すところだったが、私は平静をよそおって、後日調査に行きます、とにかく、かけらも現場もそのままにしておいてください、といって別れた。それから八年、私の石鍋に対する研究は続くのである。
西彼杵半島にある親和銀行の飯盛山牧場へ行ってみると、滑石製石鍋のかけらが多量に出土した場所は、工房《マブ》の跡であった。他にもあるだろうと周辺を捜してみると、トンネルのように掘進した入口を流土と草で覆われた、かなりのものが二ヵ所も発見された。これらの工房跡は、現在同銀行の手によって、きれいに整備され、見学者のために供されている。
その後、同地、大西海《だいさいかい》農協長の木下昌治氏や、七ツ釜中学校の服部栄子先生、生徒、その他、知り合いの農村青年たちの協力を得て、谷間の奥や林の中で発見したもの、すでにわかっていたものなど、それらはすべて標高二百メートル以上の高地にあり、滑石層が露出した場所である。
ある夏の日であった。木下氏の案内で白岳のマブの跡を調査に行ったとき、洞窟内の水溜りに、たくさんのサンショウウオが泳いでいるのを発見した。まだだれも学界に発表していないが、西彼杵半島にはサンショウウオもいるのである。
参考までに私の調べてまわった中で、他にも数ヵ所あるが、地名がはっきりしている工房跡だけを記しておこう。
前記飯盛山牧場のほか、西彼杵郡大瀬戸町雪の浦上郷、原山。同町雪の浦河通郷古田。西海町七ツ釜郷大平。同町中浦南郷白野。同鍋戸。同白岳。同町横瀬郷ケイマン。西彼《せいひ》町|喰場《じきば》郷温泉原などである。捜せば他にもまだたくさんあると思う。
なおマブの跡が比較的高地にしかないのは、滑石の鉱脈に関係していることはいうまでもないが、その鉱脈は、ホモーテと称する釣鐘状火山の周辺に集中しているからである。これは地質学的に、古代層にマグマが噴き出したとき、周辺のアルカリ性物質が熱変化を受けて生成されるからだそうである。
黒曜石もヒスイも日本全国にある
ついでだが、硬玉のヒスイも、この場合、同じように生成されるのだそうである。かつて考古学では周防灘の姫島に黒曜石が多量に産するところから、だれがいい出したのか、全国の黒曜石のヤジリはここから供給されたのだと、戦後間もない頃まで信じられてきた。黒曜石は一般的な火山岩なのに、そんな馬鹿なことがあるものかと学者を冷やかして、私は顰蹙《ひんしゆく》をかったことがある。その後、壱岐島から黒曜石がたくさん発見されると、今度は北九州の一部や西九州のものは壱岐島から供給されたように訂正された。やがて同じ長崎県の北松浦郡小佐々町方面の炭坑から巨塊が発見されると、もはやどうすることもできず、黒曜石は火山岩であるから、どこでもその現地で調達されたということに、やっと落ち着いたのである。
ヒスイの勾玉《まがたま》も同じように、戦前には、日本に産しないから、原石を遠く大陸から運んできたと信じる人が多かった。そのうち新潟県の糸魚川《いといがわ》地方でヒスイが発見されると、全国の勾玉の原料は、みなこの越後から運ばれたようにいまも信じられ、考古学の半ば定説となっている。だが各地の古墳から発掘された量や、盗掘されたもの、いまだに眠っているものを概算して推定してみると、おそらくトラック何台分にもなるだろう。この莫大な量を古代にどうすれば越後から全国の隅々まで運び得ただろうか。ヒスイも黒曜石と同じように、全国の各地に産するはずである。特に糸魚川にはじまる日本フォッサマグナの火山の周辺、滑石を産するホモーテの周辺には、絶対にヒスイがなければならないのである。それが、まだ発見されていないか、古代の産地を忘れられてしまったがゆえに、ないものと信じられているのではないのか。
私がもしも目が見えていたら、川に流れ出た黒灰色のヒスイの原石をかならずこの西彼杵半島で拾ってみせる、と、十年ほど前、ある新聞に発表したことがある。すると多くの人から、お前が目が見えないからそんなことが平気でいえるのだと笑われたが、果たせるかな、一昨年(昭和五十二年)の秋、ある大学院の地質学を専攻している学生によって、西彼杵半島の某所でヒスイの巨石が発見され、大騒動となった。連日ピッケルを持った一発屋たちが、あてもなく山野を右往左往し、今も猪の数ほどうろついているのである。黒曜石と同じようにヒスイもきっと近い将来、全国のあちこちから発見されるだろう。
私がこんなことまで書いたのは、ヒスイの原石を判別できた古代人に対して、現在の我々がいかに無能力であるかを実はいいたかったのである。石鍋の秘密も、いままで何もわからないから、かれこれ取り沙汰されてきたのだが、我々も古代人に学び、未知の世界に挑まなければならないと思う。この気持が私をかりたて、八年もの長い間、西彼杵半島の山野を跋渉させたのであった。
石鍋は坩堝《るつぼ》
ところで、私がドラフトではないかと直観したのは、単なる煮炊用の石鍋ならば、外面と同じようにきれいに磨いてあってもいいはずである。むしろその方が常識的なのに、どのかけらも規則正しく、しかも意識的にきざまれており、大きな鍋の底と思われる所には孔さえもうがたれており、どう考えても炊事用の鍋には似つかわしくない。また鍋が必要なら、こんな手間のかかる石鍋を作るより、土鍋を焼いた方が、はるかに簡便なのにと考えた。
これはきっと古代の坩堝《るつぼ》ではないのか。だとすれば溝は通気孔としてのドラフトで、底の孔は送風口か、はじめ粘土を貼りつけておいて後で湯を抜くための孔のようにも考えられる。こういったことが矢つぎ早に私の脳裏をかすめたのであった。
そこで石鍋を採掘した状態や、かけらや製品の検討はもとより、実際に使用されたと目される石鍋を収集して、真の使用の目的を究明しようと、現地におもむいて研究することにした。
鍋は大小あって、把手《とつて》のあるもの、ないもの、孔があいているもの、いないものなど、多種多様であるが、内部にはすべて一センチから三センチ幅の間隔で、浅い溝が底に向かって先細りに刻まれている。また大きいものには概して底の斜め横に孔があいているが、小さいものにはない。大きさは直径二十センチ深さ十センチのものから、直径七十センチ深さ四十センチに達するものもある。厚さは大きさに応じてさまざまだが、三センチから十センチ程度である。
感心させられることは、鍋を作る工程として、一定の祖型から仕上げたものではなく、滑石の大きな原石面に向かって、直接、鍋となる外部の形を彫りつけ、そのすき間に乾いた布などを叩き込んで水をぶっかけ、その膨張する力を利用して弾《は》ね出させたものと判断される。そのようにしてえぐり出した跡や工作中のものが、はっきり読み取れるように、いくつも工房の壁面に残っている。
根気よく何年もかかって現地をうろつくうちに、私は内部が焼けただれたような石鍋の完形品とかけらを遂に発見した。早速これを九州大学の工学部に送り、坂田先生に鑑定を乞うと、石鍋の内部に珪酸鉄の痕跡があることがわかった。珪酸鉄、これはまさに製鉄に使用した証拠中の証拠である。勇気づいた私は、ではどの付近でこの鍋を使用して製鉄がなされたのだろうか、そのためには鉄滓《かなくそ》と木炭の屑《くず》と、最も重要な火口《ほくち》が残っていないか、それを捜さねばならない。盲目の私が妻に手をひかれ、好意を寄せてくれる人達の協力で、広い土地を捜しまわることの苦しさは筆舌につくしがたいものであった。
邪馬台国時代の製鉄の跡
私はその苦しさに耐え、失望せず、暇をみては西彼杵半島に出かけ、ここぞという場所を五年もほじくり続けたのであった。しかし遂に報いられる日は来た。ある日、木下昌治氏から電話がかかってきて、「新しく道路工事をしているところで、捜しておられたような木炭や鉄滓らしいものがちらばっている所をみかけました」との連絡を受けた。私は取るものも取りあえず現地へとんだ。そして、そこで、天の助けか、火口と鉄滓と木炭くずを採集することができたのである。
私は矢も楯もたまらず、これらのものと、付近で採取した山砂鉄らしい赤茶けた土とを携えて坂田先生を訪ねた。山砂鉄は分析の結果四〇パーセントほどの鉄を含有した優秀なものであることがわかった。木炭はその後、ラジオカーボンの判定で、千七百年|±《プラスマイナス》百年前の価が出たことを知らされた。私はこの連絡を受けたとき、狂喜せんばかりに、こおどりして万歳と叫んだ。千七百年前とは、まさに卑弥呼が君臨した邪馬台国時代ではないか。
その後私は、真鍋先生や坂田先生にも現地へ来てもらい、製鉄が行なわれた状況判断を仰いで、その妥当性を確かめ、ますます自信を深めるに至った(いまでも長崎県の文化課では、この石鍋を炊事用の鍋だと頑《かたく》なに固執している。しかも文化庁からまで人をよんで権威づけようとしているが、私が石鍋の研究を長年やっていることを知っていながらなんら意見を徴しようともしない。埋蔵文化財は文化財関係の役人のものではないのだ。底に孔があいていたり、内部に邪魔っけな溝が切ってあったり、火にかけて外部から中を温めるのには最も効率の悪いこの石鍋を、どこを押せば炊事用の鍋と考えられるのだろうか。おまけに精錬のため内部が窯変《ようへん》した鍋がいくつも残っているのに、しかもどの鍋にも外部から火を当てた煤のあとは全然のこっていないのである)。
しかし、この石鍋を使って実際にどのようにして鉄を作ったのだろうか。鉄は銑鉄なのか鋼《はがね》なのか。なおそうした疑問が私には残った。そこで熊本県八代市に砂鉄から自分で鋼塊《ケラ》を作り、すばらしい刀をうたれる日本でも屈指の刀匠がおられるということを聞いていたので、同市に住む、早稲田の学友で剣道八段の緒方敬夫君に頼んで、その人を紹介してもらい、精錬の手ほどきを受けることになった。
幸いその人、盛高靖博氏は、同市の史談会長もされ、古代史にも詳しく、私はたびたび八代に出向いては、きわめて親切な教示を受けることができた。その結果、石鍋は古代|竪型甑炉《たてがたこしきろ》の底部に利用され、他の地方が、いまだ登り窯によって海綿鉄を作り、ふたたび鍛えなおして鋼を作っていた時代に先んじて、無尽蔵にこの地に産する滑石を利用して初めから直ちに鋼を作っていたことを確かめることができたのである(これらのことは別著で詳記する。なおこの研究のため、たくさんの方々に御協力や御援助をいただいたが、この紙上で改めて厚くお礼を申し上げたい)。
かくしてさきに述べたように、邪馬台国は、この製鉄法によって多量の鋼を生産し、新鋭の武器によって近隣の諸国を打ち従え、小国家連合の盟主となり得たのではないかと想像されるのである。
製鉄部族の遺風――鬼道とお祓《はら》い
ある日私が肥前風土記の記事から、「表麻呂《おまろ》の広場」と名づけた飯盛山牧場の展望台に立って、五島灘に沈んでゆく夕陽を追慕していた時であった。次のハタと胸をうつ祝詞《のりと》の一句が浮かんだ。「筑紫の日向《ひむか》の橘《たちばな》の小戸《おど》の阿波岐《あはき》原に御禊祓《みそぎはらい》給える時に生《な》りませる祓戸《はらへど》の大神たち……」と。
ツクシのヒムカとは筑紫の対岸である肥前国のことである。タチハナとはさい果ての意味である。オドのアハキ原とは西海橋のある伊浦《いのうら》の瀬戸と、アハすなわち大きなホである大村湾を意味し、その近くの岬の台地ということであるから、西彼杵半島を指しているのではないか。すると祓戸《はらいと》の大神たちとは、この台地で製鉄に従事されていた神々のことではなかろうか。そうすれば、この一句は生き生きと現実的に我々の身近なものとなってくる。
何となれば、あの神官さん達の御幣を振るときの所作と、炭焼きたちが一酸化炭素を除くために榊《さかき》や椿の小枝であたりを払うさまが、まったく一致しているからである。お祓いをするということは、もともと一酸化炭素を払うための製鉄部族の遺風ではなかったろうか。
間断なく炭を投げ込み、製鉄に従事する彼らの周囲には一酸化炭素がたちこめ、人々はあっという間もなく倒れて死んでいったことだろう。そこにはだれもいない、彼らを倒すような何者も見えない。しかし殺されるのである。きっとそこには目に見えない鬼がいるに違いない。だがその鬼は、榊の枝をもって払えば雲散霧消して助かるのである。こうした体験による絶対的な科学的動作が、おそらくお祓いという宗教的な形式を作りあげたのではなかろうか。されば、このような発見によって、多くの人を一酸化炭素中毒から救い、やがて宗教的な形態を整えつつあった過程で、はらいのしぐさを祭りの形式にとり入れ、かつは豊富な知識が予言となって、救世主のようにあがめられた稀有の女の教祖、それが卑弥呼ではなかったろうか。また倭人伝に「鬼道に事《つか》え能く衆を惑わす」とある、この記事も、あるいは石鍋から立ちのぼる妖しげな煙に関連があるのではないかと考えさせられるのである。
おことわり
以上をもって残念ながら今回の稿を終わるわけだが、初めの予定では「倭人伝攷」として、残された問題の諸点を要約して最後にのせるつもりでいた。しかし紙数の都合上、割愛せざるを得なかった。したがって今回の内容が、邪馬台国の所在を探るという点だけにとどまったことをお許しねがいたい。なお、倭人伝に記載された風土や産物の記事など、すべてわが比定する邪馬台国に適応し、他の地方ではそのすべてが同時に受け入れられないことだけでも述べておきたかったが、それさえもできず、続篇にゆずることにした。すでに続篇の原稿も書き上げているので、追って出版するつもりでいるが、何分にも、百姓をしているので、諸事にかまけることが多く、かつ失明の身なるがゆえに、さて出版となると、小さいところまで気を配って文章をなおしたり、項目を分けて整理しなければならない煩わしさも手伝って、ついおくれがちとなり、読者諸賢のご期待にそえないことも多々あると思う。しかし私としては精いっぱいの努力を傾け、次著を急ぎたいと思っているので、前もって御了承を得ておきたい。
付録
三国志魏書巻三〇烏丸鮮卑東夷伝倭人の条(通称、魏志倭人伝)
訳文 宮崎康平
倭人在帯方東南大海之中。依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。
倭人は帯方の東南大海の中に在り。山島に依りて国邑を為す。もと百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所、三十国。
従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国。七千余里。
郡より倭に至るには、海岸に循《したが》いて水行して、韓国を歴《すぐ》るに、乍《しばら》く南し乍く東して、其の北岸狗邪韓国に到る。七千余里。
始度一海千余里、至対馬国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。土地山険多深林。道路如禽鹿径。有千余戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。
始めて一海を度《わた》る千余里。対馬国に至る。其の大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居る所は絶島、方《ほう》四百余里|可《ばか》り。土地は山|険《けわ》しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大(「支」の誤)国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
又、南に一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一支国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里|可《ばか》り。竹木叢林多く、三千|許《ばか》りの家有り。やや田地有り、田を耕すもなお食するに足らず、また南北に市糴す。
又渡一海千余里、至末盧国。有四千余戸。浜山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅、皆沈没取之。
又、一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜《そ》いて居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好く魚鰒を捕《とら》え、水に深浅なく、皆沈没してこれを取る。
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千余戸。世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
東南に陸行して五百里、伊都国に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚、柄渠觚という。千余戸有り。世々王有りて、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり。
東南至奴国百里。官曰※馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。東行至不弥国百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千余家。
東南は奴国に至る、百里。官を※馬觚といい、副を卑奴母離という。二万余戸有り。東行すれば不弥国に至る、百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余家有り。
南至投馬国水行二十日。官曰弥弥、副曰弥弥那利。可五万余戸。南至邪馬壹(「臺」の誤)国。女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳※。可七万余戸。自女王国以北其戸数道里可得略載、其余旁国遠絶不可得詳。
南は投馬国に至る、水行して二十日。官を弥弥といい、副を弥弥那利という。五万余戸ばかり。
南は邪馬台国に至る。女王の都する所。水行して十日、陸行すれば一月。官に伊支馬有り。次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳※という。七万余戸ばかり。女王国より以北は其の戸数道里を略載し得るも、その余の傍国は遠絶にして詳《つまび》らかにするを得ず。
次有斯馬国。次有已百支国。次有伊邪国。次有都(「郡」の誤)支国。次有弥奴国。次有好古都国。次有不呼国。次有姐奴国。次有対蘇国。次有蘇奴国。次有呼邑国。次有華奴蘇奴国。次有鬼国。次有為吾国。次有鬼奴国。次有邪馬国。次有躬臣国。次有巴利国。次有支惟国。次有烏奴国。次有奴国。此女王境界所尽。其南有狗奴国。男子為王。其官有狗古智卑狗。不属女王。自郡至女王国万二千余里。
次に斯馬国有り。次に已百支国有り。次に伊邪国有り。次に郡支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。これ女王の境界の尽《つ》くる所なり。
其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。
郡より女王国に至る万二千余里。
男子無大小皆黥面文身。自古以来其使詣中国、皆自称大夫。夏后少康之子、封於会稽、断髪文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽。後稍以為飾。諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、当在会稽東治(「冶」の誤)之東。
男子は大小となく、皆黥面文身す。古《いにしえ》より以来、その使、中国に詣《いた》るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられて、断髪文身し、もって蛟龍の害を避《さ》く。今、倭の水人は好く沈没して魚蛤を捕え、文身して、亦《また》以て大魚水禽を厭《はら》う。後に稍《やや》以て飾りとなす。諸国の文身は各※異なり、或いは左に或いは右に、或いは大に或いは小に、尊卑に差有り。其の道里を計るに、当《まさ》に会稽の東冶の東に在り。
其風俗不淫。男子皆露※以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈※、作衣如単被、穿其中央貫頭衣之。
其の風俗は淫ならず。男子は皆、露※にし(髪を結い)木緜をもって頭に招《か》く。その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は被髪屈※(髪をたらしたり束ねたり)し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きて之を衣《き》る。
種禾稲紵麻、蚕桑緝績、出細紵※緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛楯木弓。木弓短下長上、竹箭或鉄鏃、或骨鏃。所有無与※耳朱崖同。
禾稲《かとう》、紵麻《ちよま》を種《う》え、蚕桑|緝績《しゆうせき》し、細紵|※緜《けんめん》を出す。其の地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し。兵には矛、楯、木弓を用う。木弓は下が短く上は長く、竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は※耳朱崖と同じ。
倭地温暖、冬夏食生菜。皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異処。以朱丹塗其身体。如中国用粉也。食飲用※豆手食。
倭の地は温暖にして、冬夏、生菜を食す。皆|徒跣《とせん》(はだし)。屋室有り、父母兄弟は臥息処《ところ》を異にす。朱丹を以て其の身体に塗るは、中国の粉を用うるが如きなり。食飲には|※豆《へんとう》(たかつき)を用い手食す。
其死有棺無槨。封土作冢。始死停喪十余日、当時不食肉。喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、挙家詣水中澡浴、以如練沐。其行来渡海詣中国、恒使一人不梳頭、不去※蝨、衣服垢汚、不食肉不近婦人、如喪人。名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。
其の死には棺有るも槨無し。土を封じて冢《つか》を作る。始め死するや停喪すること十余日、時に当りて肉を食わず。喪主哭泣し、他人は歌舞飲食に就く。已《すで》に葬れば、家を挙げて水中に詣《いた》りて澡浴し、以て練沐の如くす。其の行来、渡海して中国に詣《いた》るや、恒に一人をして頭を梳《くしけず》らず、|※蝨《きしつ》(しらみ)を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰《じさい》となす。若し行く者吉善ならば、共に其生口財物を顧し、若し疾病有るか暴害に遭《あ》えば、便《すなわ》ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹まずと謂《い》えばなり。
出真珠青玉。其山有丹。其木有※抒予樟※櫪投橿烏号楓香。其竹篠※桃支。有薑橘椒※荷、不知以為滋味。有※猴黒雉。
真珠、青玉を出す。其の山には丹有り。其の木には|※《だん》(梅の一種、またはくすの属)・杼《ちよ》(どんぐり)・予樟《よしよう》(楠)・|※《ぼう》(ぼけ)・櫪《れき》(くぬぎ)投・橿《きよう》・烏号《うごう》(やまぐわ)・楓香《ふうこう》有り。其の竹は篠、※、桃支。薑《きよう》、橘・椒・|※荷《じようか》(みょうが)有るも、以て滋味と為すを知らず。|※猴《びこう》(大猿)・黒雉有り。
其俗、挙事行来、有所云為、輙灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜。其辞如令亀法、視火※占兆。
其会同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以当跪拝。其人寿考、或百年、或八九十年。
其の俗は挙事行来に、云為する所有れば、輙《すなわ》ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先《ま》ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、|火※《かたく》を視て兆を占う。
其の会同坐起には父子男女の別無し。人の性、酒を嗜《この》む。大人の敬する所を見れば、但《ただ》、手を搏《う》ち、以て跪拝に当つ。其の人寿考、或いは百年、或いは八九十年なり。
其俗、国大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不※忌、不盗竊、少諍訟。其犯法、軽者没其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。収租賦、有邸閣。国国有市、交易有無、使大倭監之。
その俗、国の大人は皆、四、五婦、下戸も或いは二、三婦。婦人は淫せず、※忌せず。盗竊せず、諍訟は少《すくな》し。其の法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者は其の門戸及び宗族を滅す。尊卑各※差序有り、相臣服するに足る。
租賦を収む。邸閣有り。国国には市有り、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。
自女王国以北特置一大率、検察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国。於国中有如刺史。王遣使詣京都帯方郡。諸韓国及郡使倭国、皆臨津捜露、伝送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
女王国より以北には特に一大率を置き、諸国を検察し、諸国は之《これ》を畏《おそ》れ憚《はばか》る。常に伊都国に治す。国中に於て刺史の如く有り。
王は使を遣して、京都、帯方郡に詣らしむ。諸韓国及び郡の倭国に使するや、皆、津に臨みて捜露し、文書賜遺の物を伝送して女王に詣《いた》らしめ差錯するを得ず。
下戸与大人相逢道路、逡巡入草、伝辞説事、或蹲或跪、両手拠地為之恭敬。対応声曰噫。比如然諾。
下戸、大人と道路に相|逢《あ》えば、逡巡して草に入り、辞を伝え、事を説くに、或いは蹲《うずくま》り或いは跪き、両手は地に拠り、之《これ》を恭敬となす。対応の声を噫《あい》という。比するに然諾の如し。
其国、本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国。自為王以来、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食伝辞、出入居処。宮室楼観城柵厳設、常有人、持兵守衛。
其の国、本亦《もとまた》男子を以て王と為す。住《とど》まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐し年を歴《へ》たり。乃《すなわ》ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年|已《すで》に長大なれど、夫|壻《せい》無し。男弟有り、佐《たす》けて国を治む。王となりてより以来、見る有る者少なく、婢千人を以て侍《はべ》らしむ。唯《ただ》男子一人有りて、飲食を給し辞を伝え、居処に出入りす。宮室、楼観、城柵、厳に設け、常に人有り、兵を持して守衛す。
女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。又有侏儒国在其南。人長三四尺。去女王四千余里。又有裸国黒歯国。復在其東南。船行一年可至。参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千余里。
女王国の東の海を渡ること千余里、復《ま》た国有り、皆倭種なり。又侏儒国有り、其の南に在り。人の長《たけ》三、四尺。女王を去ること四千余里、又裸国黒歯国有り、復《ま》た其の東南に在り。船行一年にして至る可《べ》し。
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連《つら》なり、周旋五千余里可りなり。
景初二(「三」の誤とも)年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏、将送詣京都。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣《いた》らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将《も》って送りて京都に詣らしむ。
其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑弥呼。帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利、奉汝所献男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到。汝所在踰遠。乃遣使貢献、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝為親魏倭王、仮金印紫綬、装封付帯方太守仮授。汝其綏撫種人勉為孝順。汝来使難升米牛利、渉遠道路勤労。今以難升米為率善中郎将、牛利為率善校尉、仮銀印青綬引見労賜遣還。今以絳地交龍錦五匹絳地※粟※十張※絳五十匹紺青五十匹、答汝所献貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹細班華※五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤、皆装封付難升米牛利。還到録受、悉可以示汝国中人使知国家哀汝。故鄭重賜汝好物也。
その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰《いわ》く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし、汝の大夫難升米、次使都市牛利を送り、汝の献ずるところの男生口四人、女生口六人、班布《はんぷ》(雑色の布)二匹二丈を奉じてもって到る。汝の在る所|踰《はるか》に遠し。すなわち使を遣わして貢献するは、是れ汝の忠孝、我れはなはだ汝を哀れむ。今汝をもって親魏倭王となし、金印紫綬《きんいんしじゆ》を仮《か》し、装封して帯方の太守に付し、仮授せしむ。汝それ種人(異族=倭人)を綏撫《すいぶ》し、勉めて孝順を為せ。汝の来使難升米・牛利、遠きを渉《わた》り、道路勤労す。今、難升米をもって率善中郎将《そつぜんちゆうろうしよう》となし、牛利を率善|校尉《こうい》となし、銀印青綬を仮し、引見し労賜して遣わし還《かえ》す。
今、絳地交龍錦《こうちこうりゆうきん》(濃赤地の双龍の錦《にしき》)五匹・絳地|※粟※《すうぞくけい》(縮毛のもうせん)十張・|※絳《せんこう》(あかね色の布)五十匹・紺青《こんじよう》五十匹をもって、汝の献ずるところの貢直《こうち》(貢物《みつぎもの》の価値)に答う。また、特に汝に紺地句文錦《くもんきん》三匹・|細班華※《さいはんかけい》五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二|口《ふり》・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還《かえ》り到らば録受し、悉《ことごと》くもって汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重《ていちよう》に汝に好物を賜うなり」と。
正始元年、太守弓※遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝仮倭王井齎詔、賜金帛錦※刀鏡采物。倭王因使上表、答謝詔恩。其四年倭王復遣使大夫伊声耆掖邪狗等八人、上献生口倭錦絳青※緜衣帛布丹木短弓矢。掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬。其六年詔賜倭難升米黄幢、付郡仮授。其八年太守王※到官
正始元年(二四〇年)、太守|弓※《きゆうじゆん》、建中校尉|梯儁《ていしゆん》等を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮し、并《なら》びに詔を齎《もたら》し、金帛《きんぱく》・錦※(錦と毛織物)・刀・鏡・采物《さいもつ》を賜う。倭王、使に因《よ》って上表し、詔恩にに答謝す。
その四年(正始四年=二四三年)、倭王、復《ま》た使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・|絳青※《こうせいけん》・緜衣《めんい》・帛布《はくふ》・丹・木《もくふ》・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。
その六年(二四五年)、詔して倭の難升米に黄幢《こうとう》(黄色のはた)を賜い、郡に付して仮授せしむ。
その八年、太守|王※《おうき》官に到る。
倭女王卑弥呼、与狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拝仮難升米、為檄告喩之。卑弥呼以死。大作冢。径百余歩、徇葬者奴婢百余人。更立男王国中不服。更相誅殺、当時殺千余人。復立卑弥呼宗女壹與年十三、為王、国中遂定。政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人、送政等還。因詣臺献上男女生口三十人、貢白珠五千孔青大句(「勾」の誤)珠二枚異文雑錦二十匹。
倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素《もと》より和せず。倭、載斯烏越《さいしうえつ》等を遣わして郡に詣《いた》らしめ、相攻撃するの状を説く。塞曹掾史《さいそうえんし》張政《ちようせい》等を遣わし、因《よ》って詔書・黄幢を齎《もたら》し、難升米に拝仮せしめ、檄《げき》を為《つく》りてこれを告喩す。
卑弥呼もって死す。大いに冢《ちよう》を作る。径《けい》百余歩、徇葬《じゆんそう》する者、奴婢百余人。
更に男王を立てしも、国中服さず。|更※《こもごも》相|誅殺《ちゆうさつ》し、当時千余人を殺す。復《ま》た卑弥呼の宗女|壱与《イヨ》、年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。政等檄をもって壱与を告喩す。
壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺《だい》に詣りて男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦《いもんざつきん》(異国文様の種々の錦)二十匹を貢《こう》す。
(写植文字の都合上、原文も、ごく一部を除き、新字体とした=電子文庫版でも同様)
長崎県の弥生遺跡
長崎市 城山小学校遺跡、竹の久保貝塚、山里町貝塚、福田町崎山遺跡(箱式石棺)、深堀町中屋敷貝塚、深堀中学校遺跡、家野、西北、東北、川平、西山、矢ノ平、式見相川、大浦台地、小島町、牧島町平床、宮摺《みやずり》、田上、飯香浦《いかのうら》、日見、蠣道《かまどう》、戸石《といす》、清水山。
西彼杵《にしそのぎ》郡 時津町――長券寺遺跡、時津遺跡、北小学校遺跡、佐底、中通、前島遺跡。 琴海《きんかい》町――村松遺跡、戸根原、手崎。 西彼《せいひ》町――亀浦貝塚、大江。 西海町――横瀬中屋敷河内、面高小学校。 大瀬戸町――雪浦《ゆきのうら》貝塚、谷合貝塚、狐岩貝塚、岩崎遺跡。 長与《ながよ》町――斎藤郷遺跡、白津遺跡。 多良見《たらみ》町――化屋《けや》大島石棺群、中里。
諫早《いさはや》市 有喜《うき》貝塚、長野、川床、宗方、黒崎、赤崎、金谷町、永昌町遺跡、福田、川床余木貝塚、六本木貝塚、貝津横島遺跡、船越町農業高校遺跡、小豆《あずき》崎《さき》、西長田貝塚、川頭《こうがしら》遺跡、本村遺跡、中島遺跡、本野町大野、柳谷遺跡、風観岳支石墓群、西輪久道生活遺跡、淀姫神社遺跡。
北|高来《たかき》郡 小長井町――井崎下影平、横見川遺跡、井崎支石墓、筑切遺跡。 高来町――小江《おえ》峰遺跡、十郎丸遺跡、深海《ふかのみ》川内。 飯盛《いいもり》町――田結《たえ》貝塚、築崎遺跡、田結役場付近貝塚、江の浦、中山、野中。 森山町――慶師野、釜の鼻、田尻杉崎、備後崎、唐津、唐比《からこ》、杉谷、上井牟田《かみいむた》。
南高来郡 愛野町――火箱《ひばこ》、矢櫃、山之田、葉山、山王《さんおう》、寺尾原、姥ケ谷、城ノ尾原、中嶋、馬下路《うまおりじ》、栗山、中尾、葉山、宮崎、原、鬼塚、西平、相原、上重尾、西頭。 吾妻《あづま》町――大熊貝塚、大熊台地遺跡、阿母崎《あぼざき》、熊、古河内、隠田《かくしだ》、熊崎、尾崎、永中《えいちゆう》、東平、中熊、吹原、川床《かわとこ》、前原、保立目《ほたちめ》、大久保原、分《わ》ケ木、焼森、馬場、栗林、柿田平、馬場名《ばばみよう》前田、高辻、広間、江頭、桑原、大高野《おおごうや》、珍在手《ちんざいで》、山の上、田中、寺の前、大塚、矢坂、口ノ坪、西光寺、原口、杉山、畑田、前田、小園、大園、横山、谷頭。 瑞穂《みずほ》町――永尾、夏峯、古路《こべ》山、道祖尾《さやのお》、椎ケ谷、堤河内、平野高野《ひらのこうや》、山の神、岡河内、天神田、七田《ひつた》、畑田《はたきび》、箱田、火ノ熊、ゼイ谷、庄司屋敷、柳田、小《お》河内《ごうち》、深迫《ふかさこ》、中島、角戸《すみと》、川原田、高田、姥田《うばた》、館石《やかたいし》、亀ノ甲、一丁田、室田、通り山、中山、東郷、戸古野《とごうの》。 国見町――多比良《たいら》馬場遺跡、小ケ倉遺跡、篠原遺跡、神代《こうじろ》釜蓋、大茶園《おおちやえん》、能仁寺、古賀平、片田原、松田、次郎代、駄飼石《だがいし》、権現山、通禅寺《つうでじ》、弥満田、久保園《くぼのその》、馬渡、太田、筏《いかだ》、渕の上、烏兎《うと》、上篠原《かみしのはら》、吉岡、倉地川《くらじご》、矢房、瀬越、杉の元、小中野、岩名、槻の木、西高下、十園、田久保、星原。 有明町――一野《ひとの》遺跡、道祖御前《さやごぜん》遺跡、松崎、戸田原《とだばる》、久原《くばる》、平山、甘木、川床《かわとこ》、苅木《かりき》、松尾。 深江町――立馬場《たてんばば》、板首《いたくび》、大野木場遺跡、中原遺跡、瀬野遺跡、深江貝塚。 布津《ふつ》町――木場《こば》遺跡、貝崎、一本松、中通《なかどおり》、八重坂。 有家《ありえ》町――堤遺跡、隈田、原尾|高原《たかはる》遺跡、石田谷、貝森貝塚。 西有家町――尾崎貝塚、引無田遺跡、見岳《みだけ》、長野。 北有馬町――今福遺跡、原山支石墓群、西正寺、北谷、八良尾。 南有馬町――梅谷《うめだん》、金比羅神社遺跡、白木野《しらきの》。 口之津《くちのつ》町――三軒屋貝塚、薬研谷《やげんだん》、向平、夏吉《なつよし》。加津佐《かづさ》町――梅檀《せんだん》貝塚、内野貝塚、登龍《とうりゆう》、陣床《じんどこ》。 南串山町――鬼塚原、郷蔵山《ごうぐらやま》、長田平、塚の山。 小浜町――山畑《やまはた》、諏訪池遺跡、鬢串《びんぐし》遺跡、水汲谷《みずくみだん》、広河原《ひろごうら》、羽毛合《はけあい》。 千々石《ちぢわ》町――苅水、巳《み》の鍔《つば》、田川原。
島原市 三会《みえ》畑中遺跡、|出ノ川《いでんこ》、三会下町海中遺跡、堂の坂、西川遺跡、景花園、礫石原《くれいしばる》、中野川遺跡、上の原遺跡、北原、柏野《かしわの》、焼野、門内《かどうち》、天神元《てんじんもと》、中南《なかみなみ》遺跡、杉谷道田遺跡、宇土《うと》出口遺跡、恵里《えり》、山崎、中尾。
長崎県の古墳
長崎市 高鉾島、深堀町中屋敷、深堀中学校遺跡。牧島町曲崎古墳群。
西彼杵郡 琴海町――大石。 西彼町――中島、白似田、イザリ神。 大瀬戸町――奉還、久良木、小松郷。 時津町――前島。
諫早市 上山《じようやま》古墳、小野古墳、久山《くやま》古墳、諫早小学校石棺群、木秀古墳、六本町、長田向浜名。
北高来郡 小長井町――竹崎古墳群。帆崎鬼塚、帆崎古墳群。大崎、金比羅、角谷《たりかど》各古墳。淀姫神社。 高来町――平原、宇良溝、善神さん、田渕各古墳。 飯盛町――池下《いけしも》、清水、後田《うしろだ》。 森山町――備後崎、鋤崎、上井牟田《かみいむた》古墳群。
南高来郡 愛野町――野井《のい》権現山古墳群。今木場、白塚、鬼塚一本松、中島、首塚各古墳。丸山、汐塚、城の前、立山、払山、愛津鬼塚。 吾妻町――焼森、倉子、杉山、丸塚、荒神、東原、塚本、布江《ぬのえ》、布江鬼塚、院の墓、古城《フツジヨ》、玉の端、馬場蒐塚《かけづか》、大塚、長塚、畑島、阿母大熊各古墳。横山、釜蓋、古杜、長深、堀の内、大石、城、松山、椎山、岩倉、三枚石、払《はらい》山、琵琶ノ首長山、瓢箪河内。 瑞穂町――コロ松塚古墳、古城、室田、重石《かさねいし》、岩穴、城、城ノ尾。 国見町――筏《いかだ》、金山各古墳、高下《こうげ》古墳群、払山、丸尾、弥満田《やまんだ》、塚原、釜蓋、琵琶ノ首、横塚。 有明町――平山、道祖御前《さやごぜん》、山之内、三之沢、一野《ひとの》、妙法塚、釘崎、オクビ、久原、前久原、松尾各古墳。松尾遺跡。鬼塚、横山、石塚、琵琶首、妙法塚、平山、払山、笠山、城の尾、茶臼田。 深江町――京塚古墳、古城《ふるしろ》、丸尾。 布津町――鬼塚、天ケ瀬、潮入崎、丸山各古墳。奈良山、鬼山、城山、鞍山、亀之首。 有家町――称名寺、汐塚、六郎木、大平、蒲河《かまが》鬼塚、原尾各古墳。堂崎古墳群。尾上丸尾、尾首、古城、本城、原尾丸山、中須川前田。 西有家町――平松、慈恩寺、尾崎。 北有馬町――塚田古墳、大丸古墳、坂上下丸尾、西正寺《さいしようじ》丸尾、今福名丸尾、丸山、城山。 南有馬町――大塚古墳、吉川名丸山、丸尾、稲荷山、釜蓋、茶臼山、石臼山、大江丸山、浦田古墳、白木野《しらきの》名丸尾、古園《ふるぞの》名稲荷山、大丸尾、琵琶ノ首。 口之津町――波止の上石塚、烽火山古墳、 丸尾、長山、塚下。 加津佐町――犬塚、長塚、塚原各古墳。下丸尾、一本松、小山。 南串山町――西念坊古墳、遠目塚古墳、塚の山古墳、鬼塚古墳、丸山、鬼塚原、一本松。 小浜町――鬼塚古墳、諏訪池下遺跡、丸尾、塚太郎、鬼石、上裏塚、茶臼、木指《きさし》名丸尾、柏塚古墳、塚畑古墳、筑石原、一本松。 千々石町――犬丸古墳、千々石小学校古墳、木場《こば》古墳、橘神社古墳、鬼穴、鬼山、丸尾、柏塚。
島原市 長塚、江川、大塚、鬼の家、人塚、小塚、笹塚各古墳。三会、二本木、大手浜、礫石原《くれいしばる》各遺跡。小山、丸山、稲荷山。
年 譜
大正六年 一九一七年
五月七日、長崎県南高来郡杉谷村甲一〇七三番地(現・島原市六ツ木)に生れた。父徳一、母秀子の二男で、懋《つとむ》と名付けられた。父徳一は苦学し、島原鉄道、国鉄などを経て、当時土木技師として、スマトラ横断鉄道建設に従事していた。
大正七年 一九一八年  一歳
第一次大戦の情勢悪化に伴い、家族四人日本へ引き揚げる。父が細々と始めた土木請負業が、地方鉄道建設のブームにのり成功。後、県議、島原鉄道重役を務める。
大正十三年 一九二四年  七歳
四月、島原市立第一小学校へ入学。
昭和五年 一九三〇年  十三歳
四月、県立島原中学校に入学。父親の影響の下で、早くから車に興味を持ち、中学時代は、オートバイ、ゴルフ、ハンティングに,熱中。殊に植物に関心が強かった。一方、中学三、四年頃から文学に親しむ。横光利一に傾倒。
昭和十年 一九三五年  十八歳
三月、島原中学校を卒業。四月、技術屋にしたかった親の意志に逆い、文学を志し、早稲田第二高等学院入学。アルバイトで学資をまかない苦学。
昭和十二年 一九三七年  二十歳
二月、詩集『荼毘の唄』をボン書房より刊行。四月、早稲田大学文学部国文科に入学。演劇研究会に入り演劇活動を始める。三好十郎に師事。この頃の仲間に北条誠、森繁久弥などがいた。又、津田左右吉の講義をうけ古代史に興味をもつ。
昭和十四年 一九三九年  二十二歳
一月、長編叙事詩「大戦序曲」を、詩誌「詩洋」に連載。尊崇する日夏耿之介の一字を貰い、耿平《こうへい》の筆名を用いる。六月、演劇誌「劇評」の編集・発行人となる。
昭和十五年 一九四〇年  二十三歳
三月、早稲田大学卒業。在学中から籍をおいていた東宝文芸課に入社。十月、兄の戦死により帰郷、家業を継ぐ。(株式会社)宮崎組取締役となる。
昭和十六年 一九四一年  二十四歳
五月、火野葦平を知り、交遊がはじまる。
昭和十七年 一九四二年  二十五歳
十二月、田中アツ子と結婚。
昭和二十一年 一九四六年  二十九歳
一月、火野葦平の主宰する「九州文学」に参加し、同人となる。二月、南旺土木(株式会社)を創立、社長となる。十月、長編叙事詩「肥後路に寄す」を「九州詩人」に発表。十一月、父の死により、その仕事の後を継ぎ、島原鉄道(株式会社)取締役となる。
昭和二十二年 一九四七年  三十歳
八月、詩「潮騒への思慕」を「九州文学」に発表。十月、島原鉄道常務取締役となる。
昭和二十三年 一九四八年  三十一歳
翌年春の天皇陛下九州巡幸のお召列車、島原鉄道乗り入れを懇請し決定。この機に鉄道の近代化に精魂を傾ける。三月、島原市公安委員会委員長に就く。この間、家業の土木事業の経営が悪化、負債を負う。八月、南旺土木社長を辞任。この頃より極度の過労から眼底網膜炎が悪化し、次第に視力を失ってゆくが、詩誌「岬」を中心に盛んに詩を発表。この年の三月頃、二人の子を残し妻出奔。
昭和二十四年 一九四九年  三十二歳
四月、一年足らずの突貫工事で、お召列車乗り入れ、無事にしとげる。この頃ほぼ完全に失明。
昭和二十五年 一九五〇年  三十三歳
三月、公安委員長、島原鉄道常務取締役を辞任。酪農運動に専念。
昭和二十七年 一九五二年  三十五歳
三月、椿酪農農協連合会を結成。八月、濠州より乳牛イラワラショートホーン種百頭を導入、神戸に揚陸、花々しく特別列車を仕立てて島原半島へ送り込む。この年、戸籍名を、一章と改名。
昭和二十九年 一九五四年  三十七歳
四月、小説「花環」を、「九州文学」に発表。十二月、小説「てふてふ」を同誌に発表。
昭和三十一年 一九五六年  三十九歳
二月、島原鉄道常務取締役に復帰。六月に入社した長濱和子に仕事を手伝って貰うようになる。
昭和三十二年 一九五七年  四十歳
四月、退社した長濱和子と事実上の結婚生活に入る。七月、諫早大水害により鉄道潰滅。その復旧作業に当る。九月、鉄道が開通。この夏、裏庭に小温室を設け、バナナ、パパイヤなどの栽培研究をはじめる。十二月、『島原の子守唄』がはじめてコロムビアからレコードになる(歌、島倉千代子)。
昭和三十三年 一九五八年  四十一歳
五月、友人による会費制の結婚披露を行う。十月、長崎県酪農農協連合会顧問となる。
昭和三十四年 一九五九年  四十二歳
四月、(株式会社)島原ガーデン代表取締役社長となる。バナナ、パパイヤ、マンゴー、チェリモヤ、アボガドなどを栽培。
昭和三十五年 一九六〇年  四十三歳
島原鉄道常務取締役を辞任。
昭和三十七年 一九六二年  四十五歳
十月、『島原半島の古代文化』(共著)を島鉄観光社より出版。
昭和三十八年 一九六三年  四十六歳
一月、筆名を「康平」とする。
昭和三十九年 一九六四年  四十七歳
三月、島原ガーデン社長を辞任。
昭和四十年 一九六五年  四十八歳
五月、「まぼろしの邪馬台国」を「九州文学」に連載はじめる。
昭和四十一年 一九六六年  四十九歳
二月、「まぼろしの邪馬台国」の連載終る。三月、深江町に一町余の農地を購入、西海風土農学研究所を創設。
昭和四十二年 一九六七年  五十歳
一月、『まぼろしの邪馬台国』を講談社から刊行。四月、同書で第一回吉川英治賞を、夫婦で受賞。
昭和四十三年 一九六八年  五十一歳
二月、二五〇〇平方メートルの大温室完成、本格的にバナナ、パパイヤ、マンゴーなどの熱帯果樹の栽培をはじめる。露地に、ザボンを植え、無農薬栽培を実践。遺跡の探索、実地踏査の傍、各地で婦人団体、農協、青年の集会に無農薬堆肥栽培を講演。(四十五年頃から家の光協会の講師として西日本各地の講演が多くなる)。八月、島原鉄道代表取締役として復帰、十二月、辞任。
昭和四十七年 一九七二年  五十五歳
九月、島原歴史懇話会を発足させ、会長となる。
昭和五十二年 一九七七年  六十歳
長崎・土と文化の会会長となる。
昭和五十五年 一九八〇年
一月、『新版まぼろしの邪馬臺國』を講談社から刊行。三月十六日午後九時二十分、島原市の県立温泉病院で、脳出血のため死去。享年六十二歳。菩提寺は島原市折橋町曹洞宗本光寺。戒名は「天真院博道公平居士」。
昭和五十六年 一九八一年
三月、宮崎康平歴史遺稿集『神々のふるさと』を、五月、遺稿の自伝的エッセイ集、『言いたか放題』を、講談社より刊行。
宮崎和子編
(昭和56・11)
本書は、一九八〇年一月小社刊の『新版まぼろしの邪馬臺國』を改題し、一九八二年一月、講談社文庫として刊行したものです。