宮原安春
軽井沢物語
[#表紙(表紙.jpg)]
[#裏表紙(表紙2.jpg)]
目 次
[#小見出し] プロローグ
[#この行2字下げ]標高千メートルのリゾート/ 真夏のピーク人口は十五万人
[#小見出し] 第一章 異人たちの夏
[#この行2字下げ]一坪五厘で土地を買う/ 避暑元年の明治十九年/ 「旅行免状」携帯の宿泊/ 東西文化の出会いの場/ 維新の嵐に揺れた人生/ 「軽井沢の恩父」宣教師ショー/ ショーは何年にやって来たか/ ショー関係の土地は五万坪/ 異人にパン作りを教わる/ チップがお目当ての村人たち/ 浅間山登山や草津行き/ 女学校の教師たちの別荘/ 登山やスポーツの権威/ 英国公使の別荘
[#小見出し] 第二章 黒船、山に登る
[#この行2字下げ]「西洋人腰抜かす」/ 尾崎行雄夫人テオドラ/ 外国人に影響した不穏な政情/ 碓氷トンネルの開通/ 「万平ホテル」の誕生/ 宣教師たちの国際会議/ 第二の開国「国内雑居」/ 伊藤博文の女婿/ キリスト教教育の禁止/ スポーツや音楽を楽しむ外国人/ 九百九十九年の地上権設定/ 日露戦争下の避暑地/ 三笠ホテルの開業/ オランダ人少年の軽井沢日記/ 桂太郎らも避暑に利用
[#小見出し] 第三章 草原の円卓会議
[#この行2字下げ]娯楽を自然に求めよ/ リゾートの誕生/ 太平洋のかけ橋≠ニ新渡戸稲造/ 大洪水後に生まれた森林/ 「アマ」と呼ばれた女性たち/ 別荘族を支えたメードたち/ 「軽井沢避暑団」の結成/ シーメンス事件発覚/ キャンベル夫妻殺害事件/ リゾート開発の先駆け星野温泉/ 堤康次郎の千ケ滝開発/ 土地入手を急いだ堤の事情/ 朝吹家の軽井沢生活/ イギリス流儀の別荘ライフ/ テニスブームの始まり/ 通俗夏季大学の開校/ 北原白秋らのサマー・セミナー/ 有島武郎の別荘心中事件/ 「軽井沢ゴルフ倶楽部」オープン/ 心のふるさと
[#小見出し] 第四章 霧ときどき雷雨
[#この行2字下げ]ゴルフブームの到来/ 超エリートのソサエティー/ 軽井沢にできた飛行場/ 三井の夏季首脳会議/ 重要人物の相次ぐ死/ グルー米大使とゴルフ/ 群馬に広がる別荘地/ 宣伝に映画を利用/ 開発五十年祭パレード/ 避暑地の情報収集戦/ 五百名超すブラックリスト/ 撤退する宣教師/ ダニエル・ノーマンの追悼式/ 英米人の別荘は没収/ 厳しい特高警察の目/ 戦時中の混合ダブルス/ 皇太后の疎開/ 自殺直前に来た近衛文麿
[#小見出し] 第五章 リゾートへの道
[#この行2字下げ]戻って来たアメリカ兵/ ナチ残党を急襲逮捕/ 占領政策を立案したBIJ/ 表≠ヘ占領軍、裏≠ヘ闇取引/ 明暗分かれた外国人/ 病気で倒れた来栖三郎/ 浮世絵師≠フジャクレー/ 宣教師たちの救援活動/ バイニング夫人の避暑生活/ 駐日公使になったノーマン/ 堤が集めた三百万坪/ ゴルフクラブの再開/ マッカーシー旋風とノーマン/ マッカーサー元帥の解任/ 国際親善文化都市/ 米軍が断念した演習地計画/ カイロで自殺したノーマン/ 会社寮が急増した新時代/ 日本式リゾート
主要参考資料
文庫版あとがき
[#改ページ]
[#小見出し] プロローグ
標高千メートルのリゾート[#「標高千メートルのリゾート」はゴシック体]
初夏。
突然、夕立がやって来る。これは長野県と群馬県の県境が山稜を描いている変化に富んだ地形のために、軽井沢のなかでも部分的に降りしきる。旧軽井沢から愛宕《あたご》山、碓氷《うすい》峠にかけて集中豪雨のように降る。ところが、追分や千ケ滝の方はカラリと晴れている。
急いで近くのホテルに駆け込む。傘を持たずに歩いていた人が次から次へと走り込んで来る。ロビーやテラスはそんな人でごった返す。
気まぐれな雨である。ふつうは軽井沢に行くと言うと、清涼、冷涼な高原のイメージを抱くものだ。だが、意外と夕立が多い。雷が鳴り、稲妻が光る。軽井沢町の平均標高が千メートルのため、気象の変化が激しいのだ。
ホテルのレストランで、雨の音を聴く。屋根はあえて雨の音を消さない構造になっている。雨の音に耳を傾け、雨に濡れている樹木や野草を見ながら、一杯のコーヒーをすする。自然の美しさ、気象条件の荒々しさを、安全な空間から眺める。ちょっとリッチな気分になり、心が安らぐ。精神がリフレッシュする。
軽井沢に洋式ホテルができてすでに百年になる。その初期の避暑客は、こんな気分を味わうために、ホテルを造らせ、自分たちの別荘を造ったのだろう。それはどんな人たちだったのだろうかと考えだす。
夕立は、急にやむ。突然降りだすのと同じように、突然晴れる。そして、青空が広がる。背が高く伸びた樹木は、枝を広く伸ばしている。その枝から雫がしたたる。明るい光を浴びて、きらきらとそれが輝く。緑と光が眩しい。
ホテルを出て、旧軽井沢に向かう。晴れると同時に人々も動きだす。ベンツやBMWなど高級外車が渋滞してつらなっている。その横を、赤や白の自転車に乗った若者たちが追い越して行く。左側にユニオン・チャーチ、右手に天皇、皇后のロマンスの場として有名になったテニスコート。それを過ぎると、一挙に最先端ファッションの若者の街になる。旧軽銀座という名前の通りは、人波でごった返している。古くからの地元の商店、東京からの出張店。そして、とんねるず、宮沢りえ、ビートたけし、WINKなど人気タレントの店。それらが混在して、爆発するようなエネルギーを放っている。
その喧騒から逃げるように、愛宕山麓の別荘地に向かう。別荘地帯は旧軽銀座と一変して、サイクリングの人たちも入って来ず、森閑としている。
山に向かって伸びている傾斜道は狭い。辛うじて一台の車が通れるだけだ。本来は人力車用に造った道なのである。
その小径に立って、じっと眺める。再び顔を出した太陽の光を浴びて、樹々の幹が呼吸するように白い湯気を放出している。樹の香りがちがう。しかし、茂った大樹のために十分に日光は地面に行きわたらない。このために、小径の両側の石垣、別荘の庭には日陰植物の羊歯《しだ》類が点在している。また、青い苔が絨毯《じゆうたん》のように地面をおおっている。
木洩れ陽がその苔の上を照らしていく。緑の陰影を刻々と変える。
現地の古老が言う。
「夕立だけではない。夏は毎朝、濃霧に巻かれる。昔は、もっと霧が深かったんですよ。一寸先も見えないような濃霧が巻いてね、湿気がひどい。だから、家屋の傷みが早くて、こんなところから逃げだしたいとばかり思っていた。
冬は寒いしね。寒いから酒を飲む。深酒を繰り返すことで、早死にしてしまう。土地は火山灰地で痩せていて、ほとんど何もできない。住むにはいやなところだね。
こんな湿っぽいところのどこがよいのかね。外国の白人や都会人が来だして、いまは高級リゾートになっている。昔より霧が少なくなったのも、大勢の人間が来るようになったせいかもしれない」
霧もまた、地域ごとに発生する。気流が山肌にぶつかって、夏の朝に霧となるのだ。
霧の軽井沢はロマンチックなイメージだ。霧の発生回数は年間百五十日以上に達する。だが、そこで生まれ、育ってきた人にはいやな気象である。
住民にとっては気温の低さも暮らしにくい気象条件だ。七月の平均気温は十七・九度、八月は二十・二度。夏は確かに涼しい。その低温は冬に厳寒をもたらすのだ。二月の平均気温は零下一・二度。最低気温は零下十五度を記録することもある。
別荘地からまた市街地に戻って、軽井沢の象徴的な建物の聖パウロカトリック教会へ行く。若い観光客が群がって記念撮影をしている。教会のなかではろうそくの灯が揺れている。ミサのとき以外は、祈る人の姿は見られない。
この教会を舞台にして、遠藤周作が戯曲「薔薇の館」を書き、昭和四十四年に劇団「雲」によって初演された。その戯曲は軽井沢在住の外国人が第二次世界大戦中に体験したことを下敷にしたフィクションである。重いテーマと歴史をからませた作品だ。
だが、この教会はいま、結婚式の挙式場として有名になっている。リゾートのなかにある結婚式場は、やはりロマンチックだ。でも、教会が式場として人気が高いことは信仰とちがうことではなかろうか。
この教会のカルロス・マルティネズ神父(六十歳)に会う。彼はコロンビア人で、一九五九(昭和三十四)年から軽井沢に赴任して来た。
「結婚式で有名になった教会……これもいいことではないですか。緑に囲まれた、美しくて由緒のある教会で結婚式を挙げる……これは精神的にも、霊的にも、自然と人間が調和し、神の恵みを感じることです。
この教会では、カトリック信者でなくとも挙式できます。離婚歴がない、両親が賛成しているの二点を満たしていればよいのです。すくなくとも、ここで挙式したことによって、その二人は時には教会に行くかもしれないし、軽井沢に来れば思い出の場としてまた訪れてくれる。キリスト教の紹介に役立っていると思うのです。私が来てからすでに一万組がここで結婚しました。
私がここに来たときは、信者が極端に少なく、生活するのも大変でした。でも、こうやって続けていたおかげで、夏になれば正田家の人や皇太子妃(現在の皇后)の美智子さんなどもいらっしゃった。カトリック信者の避暑客はミサごとに集まって来る。軽井沢を発見した外国人宣教師のイメージを、この教会が保っていることになりますね」
軽井沢は外国人宣教師に発見≠ウれたと伝えられてきた。それは事実だろうか。その言い伝えは検証されたことがあるのだろうか。
確かに軽井沢には外国人が多くやって来る。代表的な写真がある。
ジョン・レノンとヨーコ・オノが軽井沢を歩いている写真だ。ジョンが不慮の死を遂げる何年か前に、レノン夫妻は小野家の別荘がある軽井沢に滞在していたのである。これはマスコミや芸能週刊誌に察知されず、ゆったりと二人だけの時間、空間を楽しんでいることがうかがえる写真で、見ているだけで心なごんでくる。そして、ジョンが作った「イマジン」「ギブ・ピース・ア・チャンス」といったメロディーが浮かんでくる。ジョン・レノンと軽井沢の雰囲気の、なんと似ていることか。
真夏のピーク人口は十五万人[#「真夏のピーク人口は十五万人」はゴシック体]
軽井沢を、旧軽銀座の周辺だけで語るのは誤解を招くことになる。長野県の軽井沢町は広い。いまは中軽井沢駅と名前を変えている旧|沓掛《くつかけ》地区、そこから北に別荘地が広がっている千ケ滝。ここにも別の歴史ドラマがある。また、文学者、学者が好んだ信濃追分。追分|分去《わかさ》れから三ツ石集落に入り、千メートル林道を大日向集落に向かうと、浅間山が間近に見え、森林も美しい。
峰の茶屋から群馬県に入ると、溶岩が奇怪な形を築いた鬼押出しがあり、さらに行くと北軽井沢別荘地になる。また、軽井沢町の隣りの長野県|御代田《みよた》町には西軽井沢別荘地と呼ぶ分譲地がある。南軽井沢は古くから軽井沢町のなかにあった。その横には発地《ほつち》集落、塩沢集落などがあり、まだ田畑も残っている。
こんな軽井沢のなかで目立つのは、テニスコートとゴルフ場である。町内にあるテニスコートは約一千面。ゴルフ場は五ヵ所で合計百九十二ホール。テニスやゴルフをする人にとって憧れの場所だ。
これを具体的な数字で見る。軽井沢町の面積は約一万五千六百ヘクタール。このうち約半分は国有林だ。課税対象土地は約六千ヘクタールであり、ゴルフ場の面積は四百六十六ヘクタール。課税対象地の約七・八パーセントになる。
そして、課税対象地の所有者は、町内の個人二五・四パーセント、法人三・七パーセント、町外の個人三八・九パーセント、法人三二パーセント。つまり、土地の七割は町外の人が所有していることになる。
軽井沢町は、約五千五百世帯、人口約一万五千人。これに対して、別荘が約一万一千五百軒、会社寮三百四十一、学校寮百十六。ホテル、ペンション、民宿などの宿泊施設の収容人員は約一万六千七百人(いずれも一九九〇年現在)。真夏のピーク人口は約十五万人に達する。通常人口の十倍のリゾート客を抱えて、グレードの高い避暑地というイメージを保っているのである。群馬県側を入れれば夏季人口はもっと多くなるだろう。
このテニス、ゴルフ場を中心としたリゾート軽井沢が改めて脚光を浴びている。それは、一九八七(昭和六十二)年に制定したリゾート法(総合保養地域整備法)によって、大型開発プロジェクトが日本全土で動きだしたからである。これはリゾートとして地域振興上有効な地域には、民間の能力を活用しつつ、国が全面的な支援を与えるというものだ。具体的には、リゾート開発業者を税制で優遇し、政府系金融機関が低金利または無利子で融資を行い、これまで規制していた農地法、自然公園法、国有林野の利用などをリゾート開発に限ってゆるめるという条件を整えている。ここから過疎に悩んでいた山村、海岸地帯は色めきたち、開発業者と地方自治体が第三セクターなどを作って、リゾート開発に乗りだした。すでに千葉県の房総リゾート地域整備構想、福島県の会津フレッシュリゾート構想、宮崎県の日南海岸リゾート構想、三重県の三重サンベルトゾーン構想など四十ヵ所の構想が承認されたその開発面積は国土の二〇パーセントに達し、総額二十兆円の日本列島再改造になるのだ。
このうち、海岸地帯はマリーナ開設を中心としている。そして、山間部はどのプランを見ても大同小異である。ゴルフ場を中心としてテニスコート、運動場、ホテルなどの宿泊施設、国際会議場という計画になっている。
つまり、軽井沢を模範とし、アウトドア・スポーツ中心のリゾートを造ろうと狙っているのである。ここでさまざまな問題が出て来る。山間部のリゾート候補地は、その地域の水源地帯だからである。ゴルフ場の農薬が危険なことはいうまでもない。開発によって自然の生態系も壊される。また、国有林を開発のために伐採してよいのか。そもそも国民ひとりあたり二十万円を投資してリゾートを造る必要があるのかという問題も生じて来る。
ここでリゾート開発の原点だった軽井沢を見直す必要が出て来る。これまで、北原白秋、堀辰雄、立原道造、室生犀星、川端康成、水上勉、中村真一郎など多くの文学者が軽井沢について書いてきた。だが、それらは軽井沢を舞台にしたフィクションやエッセーである。
リゾートの原点となった軽井沢を知ろうとするとき、その歴史や社会学的考察を描いたものは断片的なものしかない。なんとなく知っているようなつもりになって、各人の個別的体験で軽井沢を語ることに終始していたようだ。これは、別荘客は避暑ないしは休息に来たのであって、軽井沢の歴史に無関心だったこともある。また、現地の人はお客様を迎えるのに精いっぱいで、過去を振り返る余裕がなかったのだろう。
ここで、私の問いが始まる。なぜ、軽井沢は高級リゾートになりえたのか。そのグレードの高さをどうやって保ったのか。そして、この地でどんなドラマがあったのか。日本のリゾートはどういう社会学的背景のもとに発生し、どういう形で発展したのか。
きっかけは、軽井沢に外人墓地があることに気付いたことだった。それは軽井沢駅から雲場《くもば》池に向かう別荘地の一画にひっそりとならんでいる。観光客も訪れない、忘れ去られたような墓地である。十字架やロシア正教の墓に英語やロシア語の横文字が刻まれている。東京の青山外人墓地、横浜の外人墓地は有名だが、軽井沢に外人墓地があることはまったく知られていない。この外人墓地とリゾート軽井沢は密接な関係がありそうだ。
その墓碑銘を読むうちに、多くのドラマがあっただろうと推測できて来る。それをできる限り克明に発掘していけば、リゾート軽井沢の歴史もわかって来るだろう。それは、濃霧のなかから徐々に森林や別荘が浮かび上がって来るこの土地特有の光景に似ている……。
[#改ページ]
[#小見出し] 第一章 異人たちの夏
一坪五厘で土地を買う[#「一坪五厘で土地を買う」はゴシック体]
「昔の人は元気だったんですね。私の生まれは明治四十二年。父親が六十歳、母が四十四歳だった。それでも私が長男。年齢が離れた姉が六人いました。だから、父の裕二郎が軽井沢に別荘を造った頃のことを私も知っているはずないんです。父から聞いたことを、自分が見たように話すしかないですね」
軽井沢に日本人として初めて別荘を建てたのは、八田裕二郎。一八九三(明治二十六)年のことである。その長男・裕一は現在八十一歳。明治時代に別荘を持った人の子孫はほとんど孫、曽孫の世代になっている。このため、息子の八田裕一の証言は貴重である。彼には東京・五反田にある自宅で会った。
「話せば長いのですがね、父親は海外生活が長くて、日本に帰ったときに頭痛持ちになっていた……いまの言葉でいえばノイローゼですかね……そこで、海軍大佐のときに海軍を退役して、群馬県の霧積温泉に保養に来ていたのです。山のなかの一軒家なのに、夕食のときに牛肉が出て来た。当時のことだから牛肉といっても薄いものを焼いて皿に載せただけでしょうが、とにかく東京でも珍しい牛肉ですからね。で、宿屋の親父を部屋に呼んでどこで手に入れたと訊《き》いたら、その山の向こうにある軽井沢に毎年夏になると百人以上の異人さんがやって来る。肉屋も店を出す、その肉屋から今日買って来たのです、お口に合いませんでしたか……ここで、父親が聞き返したんです……いま、異人さんと言ったな、それを聞かせろ」
八田裕一は、身振り手振りを織りまぜて、熱弁をふるってくれる。このときのエピソードを何回か父親から耳にしたからだろう。
もっとも、軽井沢の研究家は長い間「八田裕次郎」と誤記してきた。明治四十五年に書かれた軽井沢案内書にそう書かれていたからである。正しくは、八田裕二郎で、一八四九年、福井県生まれ。
「そこで父親は目を輝かせて、軽井沢へ向かったんです。霧積温泉から軽井沢へは二里(約八キロ)。碓氷峠までくねくねした山道を登って、峠で熊野神社に参拝してから軽井沢へ降りて行ったのでしょう。二手橋《にてばし》を渡って旧軽井沢の宿場に入った。ところが昼間なのにひとりも歩いてない。江戸時代からの宿場町なのに極端にさびれている。万松軒《ばんしようけん》という旅籠《はたご》に飛び込んで、親父、異人さんがいるそうだがそこに案内しろ……そう言われればお連れしますが、お客さん、異人さんの言葉がわかるんですか……まあ、いいから連れて行け……こうして外国人のいるところに連れて行ってもらったそうです」
宿場町はさびれ、ゴーストタウンに近い状態になっている。その軽井沢に、英語やドイツ語、フランス語などの言葉が飛び交っていた。
八田裕二郎が、異人たちがいると聞いて軽井沢に行ったのはなぜか……この動機が重要になってくる。
「それを語るには、明治維新前までさかのぼらなければならないのです。父は福井藩の武士だった。藩主の松平|慶永《よしなが》は開明派の名君と呼ばれてますね。その藩主から呼びだされて、これからは世界を知らなければならない、裕二郎は次男だからちょっとエゲレスという国へ行って勉強して来いと命令されたのです。横浜から船に乗って英国へ向かったのは、父が十八歳のときだったと聞いてます」
松平慶永(一八二八〜九〇)は号を春嶽《しゆんがく》といい、幕末に公武合体を主張した大名である。一八六七(慶応三)年、島津久光、山内豊信、伊達宗城とともに四侯会議を開いたことでも有名だ。維新後は、議定、内国事務総督、民部卿、大蔵卿を歴任している。つまり、新政府の重要閣僚だったのである。
八田裕二郎が渡英したとき十八歳だとすれば一八六七年である。元号では慶応三年であり、この年に徳川|慶喜《よしのぶ》が大政奉還。翌年十月に年号が明治に改元されている。
「このときは藩主の費用で行ったのです。アルファベットも知らないのに、よくぞ留学したと思いますよ。天文学を学んで二年ほどで帰国。次に、明治政府の命令で海軍を勉強して来いと再渡英したのです。各藩から二名ずつ選ばれた官費留学生ですね」
明治三年、明治政府は「海外留学規則」を布告し、西洋留学を奨励した。
「おおいに遣欧学生の挙をおこし、その団体・政治・風俗・人情に通達せしめ、制度・文物・学術・技芸およびその他百科を研究せしめ、日新の民を鼓舞し、開化の道を賛助し、もって国家の隆盛をたすけ……」といい、諸藩から百十六名が送りだされている。翌年、岩倉|具視《ともみ》特命全権大使と同行して、津田梅子など五人の少女も米国へ留学した。
八田裕一は続ける。
「英国のグリニッジ海軍大学校を卒業して帰ってますから、十年近くになるでしょうね。日本人として初めての英国海軍大卒で、英国の軍艦にも乗ったわけです。父が習った英語はキングス・イングリッシュだったので下級水夫から気取ってると反発を招いて、それから庶民の英語も習ったそうです。帰国したら、海軍少佐に任命されました」
八田裕二郎は、最初の藩命による留学が二年、明治政府の官費による留学が十年ほど、合わせて十余年の海外生活を、幕末から明治初期にかけて送ったことになる。
明治政府は、明治五年二月、陸軍省と海軍省を創設した。これはそれまでの旧朝廷派の藩の官軍を解散し、天皇制を守る常備軍を持ったことになる。そして、翌年、徴兵令を布告している。
だが、この陸海軍には明治維新を成功させた大藩の藩閥色が強かった。陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥である。海軍少佐となって帰国した八田裕二郎を迎えたのは、その藩閥による海軍内の抗争であった。
「いまの言葉でいえば、いじめ≠ナしょうね」と、八田裕一は膝をポンと打つ。
「海軍の将校にとっては、外国帰りのよそものが突然に海軍少佐となって入ってくればおもしろいはずがない。ねたみ、ひがみがある。まして、福井県出身の海軍人なんてほかにいないんですから、友人もいない。かなり、いびられたと思いますよ」
日本の近代国家の創成期において、官僚制と軍制が二大支柱であった。それが確立されていく発展途上で、十年以上留学していて不在だった八田裕二郎と海軍上層部とに、いろいろなあつれきが生じたことは推察できる。英国の商船大学校に留学した体験を持つ東郷平八郎(明治四〜十一年に英国留学、日露戦争でバルチック艦隊を日本海海戦で全滅させた連合艦隊司令長官)だけが話し相手だったが、彼もまた薩摩出身であった。
「問題は三度目の渡欧です。このときは依仁《よりひと》親王のパリ留学に際してお付き武官となって随行したのです。この時点で海軍大佐。プリンスと同行しているということで、英国の同級生にも鼻が高かったし、宮様からはオヤジ、オヤジと親しく待遇されたようです」
依仁親王は明治天皇と直接の関係はない。皇族の四親王家のひとつ伏見宮邦家の末子。明治維新後に、伏見、梨本、山階、閑院、久邇、東久邇、小松、華頂、北白川、賀陽、朝香、竹田の各宮家が創設され、依仁親王も一九〇三(明治三十六)年、東伏見宮を創立した。
「この依仁親王の留学中、ずっとそばにいるはずでしたが、卒業を目前にしたところで父に帰国命令が出たのです。宮様は一緒に帰ろう、それまで遊んでいればいいとおっしゃって下さったのですが……。なぜ、突然に帰国命令が来たのかわからなかった。父には心当たりがありませんでした。そこで、ノイローゼ気味になって、毎日、頭痛に悩まされることになったのです。軽井沢に別荘を持つきっかけになったのは、言ってみれば、頭痛がとりもつ縁……まさに健康保養地にぴったりでしょう」
ちなみに「リゾート」という英語には名詞の「保養地」のほかに、動詞で「(最後の手段として)たよる、助けを求める」という意味がある。
「その頃、軽井沢に来ていた異人さんたちはほとんど知識人でした。父にすれば思いっきり英語でしゃべれて、しかも相手が紳士・淑女ですから、居心地よかったはずですよ。あちらの別荘、こちらの別荘と歩き回ってね。そのときに異人さんに言われたのですよ……ここでひと夏過ごせばきみの病気は癒《なお》ってしまうよ、と」
八田裕一の話は続く。
これまで、八田裕二郎が日本人として初めて別荘を建てたのは一八九三(明治二十六)年と伝えられてきた。彼はいつ初めて軽井沢へ行ったのか。
「異人さんたちに別荘を建てることを誘われてね、すぐに泊まっていた万松軒に戻って、親父さん、売ってくれる土地はないかと訊いたら、土地なんかいくらでもある。その辺を売ってやる、とソバ畑を譲ってもらったんです。軽井沢の土地は痩せているからね、ソバぐらいしか採れなかった。そこで、万松軒の裏を三百坪(一坪は約三・三平方メートル)ほど買って、土地の大工に頼んで別荘を造った。完成したのが明治二十六年……建物ができるまでに二、三年かかっているはずですから、最初に軽井沢へ行ったのは明治二十三年か、二十四年でしょうね。どちらにしろ、私が生まれるずっと前のことですから、はっきりしませんがね」
ここで、八田裕一はいたずらっぽく笑う。
「はっきりしていることがひとつだけあります。買ったときの土地の値段……父が亡くなったときに相続登記をするため、登記簿を見たのです。これを言っていいかなあ? 一坪あたり、いくらだと思います?」
現在、旧軽井沢の別荘地は地上げ屋攻勢に煽《あお》られて地価高騰を続けている。三年前には坪あたり三十万円が相場だったのに、いまは二百万円以上といわれている。そして、国土法に基づく地価監視区域に指定されているが、坪あたり八百万円で取引されたと噂されている土地もある。ちなみに、明治末における旧軽井沢の坪単価は三銭から五銭。明治二十六年における東京の銭湯代は大人一銭三厘、子ども一銭。
「黙っていようかと思っていたのですが……。別に私が悪いことをしているわけではないから言ってしまいましょう。父が三百坪の土地を買ったとき、坪あたり五厘。その土地の半分はのちに草津軽便鉄道に買収されたが、残りはいまでも持っています。家屋は明治二十六年に建てたまま、補修して使ってます」
八田家の別荘は旧軽銀座の裏側にひっそりと建っている。
避暑元年の明治十九年[#「避暑元年の明治十九年」はゴシック体]
こうして、八田裕二郎が初めて軽井沢に赴いたとき、そこで出会った外国人はどんな人たちだったろうか。
これまで軽井沢の歴史を語るときに底本として使用されたのは、佐藤孝一著『かるゐざわ』であった。明治四十五年四月一日にすべての原稿を書き終えて、この年の七月三十日に大正と改元されているので、大正元年八月四日発行となっている。発行所は東京の教文館。
この序文に佐藤孝一はこう記している。
「近年、軽井沢はわが国においてまれに見る避暑および療養の理想郷と言われているが、その状況を説いたものは後にも先にもただア・ガイド・ブック・トゥ・カルイザワ≠ニ題した英文の小冊子であった。幸いにも私はこの地に生まれて、地理、歴史などに詳しく、現状に通じている上に、かねがね抱いていた即ちこの地を日本人向きの避暑地として広く世に紹介し、かつ開放したいという希望が手伝って、こういうあまり例のない案内記を編むに至った。もし、この書を読んで軽井沢のいかなるものであるかを知り、こうしてぜひ一度遊んでみたいという念を起す人があるならば、私は天にも昇る心地である」
これは堂々たるノンフィクション大作である。本文が三百七十五ページにわたり、歴史、地理、気象、交通、ルポ、娯楽施設、名所旧跡、ゆかりの文学、植物に及び、さらには避暑地の未来プランまで提示している。そして、明治時代の軽井沢とその近郊の写真六十五点を入れ、巻末には四十五ページにわたる広告まで入っている。
これを書いた佐藤孝一は、外国人避暑客が来だした頃に旅籠つるやを経営していた佐藤仲右衛門の長男であった。このつるやは昭和四十六年に火災で焼失したが、宿場のたたずまいを残したイメージで再建され、現在も旧道唯一の老舗旅館として営業している。
この『かるゐざわ』の「避暑の理想郷」の項目で次のように書かれている。
「明治十九年四月、ショー、デクソンの二氏は、相前後して(内地旅行の途中)この地を過ぎ、山容野色のいかにも泰西的なるを見て、親しく土地の状況を観察して帰京し、再び同年七月上旬に、二氏いずれも家族をともなって来たり、八月下旬まで滞在した(ショー氏は高林董平の居宅、デクソン氏は佐藤萬平所有の家屋を借り受けた)。
ここにおいて、ショー氏はこの滞在によって実見したる軽井沢の風土が避暑地として好適なるを証明し、もっぱら内地在留の欧米人に紹介して来遊を勧め、遂に二十一年五月、自ら率先して避暑用の別荘を同地内大塚山の頂きに建てた。これがそもそも軽井沢における避暑別荘の嚆矢である」
そして、避暑地軽井沢発見の功は他者に譲るとしても「これを内外に証明しかつ紹介した功績は当然ショー氏に帰さねばならぬ」と記している。
これらの記述が正しいかどうかの裏付けをとらねばならない。彼がこう書いたのは明治四十五年であり、彼が生まれたのは同二十二年。外国人が来だしたのは彼が生まれる前のことである。そして、軽井沢史の研究家は佐藤孝一の著書を根拠としているから、それがまちがっていたらすべてを最初から調べ直さねばならなくなる。
当時は外国人の国内雑居が許されていなかった。外国人は、東京、大阪、横浜、神戸、長崎、函館、新潟の二府五港の居留地に住むことが定められていた。たとえば、明治二十六年に、東京の居留地では坪二十八銭を徴収し、収入が八千五百円、支出が一千八百円、警察費三千円の経費が記録されている(外務省外交史料館「在本邦外国人居留地関係雑件」)。
彼らが日本国内を旅行する際には、いまの外務省にあたる政府機関に届けて許可をもらう制度となっていた。ここに軽井沢旅行の記録が残っていれば確実な証拠となる。外務省の外交史料館、国会図書館や各国大使館などでその文書を探して歩くという途方に暮れるような作業が始まった。
そして、ついに裏付け資料を発見した。
長野県では明治初期から多くのローカル新聞が発行されていた。そのうち、明治六年に、現在の長野市周辺を対象として長野新報が発行され、長野毎週新聞、長野新聞、長野日日新聞、信濃日報と名称を変えて、明治十四年六月七日から信濃毎日新聞となった。この古い時代の新聞はいまのように縮刷版として保存されることはなかったのだが、明治六年からの全紙面がマイクロフィルムとなっている。それを読み取る作業を根気よく続けることにした。当時の紙面はほとんど見出しがなく、ベタ記事扱いで多くのニュースを並列的にならべている。そのなかから軽井沢に関連した記事を探しだすという作業は、大海のなかを探るに等しい。目を皿のようにしてマイクロフィルムを日付け順に、ページごとに追っていく。関連しそうなページを見つけると拡大コピーしてみる。コピーした記事に改めて目を通すと無縁な記事だったりする。時間と労力を極度に要する作業だった。そんな作業により、明治十九年九月二日の紙面で、小さな記事を見つけたのだ。「軽井沢人の困却」と題して、こう報道している。
「北佐久郡軽井沢村は年々夏期に至れば陸軍転地病院の設けありて賑いたるが、本年は脚気《かつけ》患者の減じたるにや転地せしものひとりもなきにより同地の人々は歎息しいたる折から、幸いにも外国人その他在京の脚気患者などが避暑かたがた陸続入り来たり続いて海軍兵四百人余来るよしにて既に宿割りの人も到着せしに、計《はか》らざりき今度本県も流行地となりたるにつき、にわかに見合わせとなりたるのみならず、これまで転地しいたるものもこれがためおいおい出発せしゆえ人々は大いに困却しおるとの通知あり」
この年、軽井沢にコレラ患者が発生し、六名が死亡。コレラは明治十五年に東京で流行し、五千人以上が死去している。明治十九年夏に再び大流行し、十万人以上の死者を出すという最悪の事態となった。それが軽井沢にも飛び火してきたのである。そのため、陸軍、海軍の脚気患者の療養者が宿泊のキャンセルをしたと嘆いているのだ。
だが、ここに「外国人の避暑」という言葉が初めて出て来ている。それ以前の新聞を探っていってもそれを示す言葉はない。当時の日本人には温泉に長く滞在する湯治の習慣はあっても、何という娯楽のない山中で長期を過ごす「避暑」という生活様式はなかったはずである。明治十九年が、避暑元年だったといえる。なお、週末レクリエーションは、明治二十一年八月十一、十二日の二日間、東京から鎌倉、江ノ島、箱根へ行楽に行った人が多かったことが新聞報道され、それ以降に市民に定着していっている。
この年に、軽井沢に避暑に来た外国人はどんな人だったのか。この具体的な人物名を探しだすことが先決になってくる。当時の外務省から長野県に調査を命令したはずである。たとえば、京都府は新島襄が同志社英学校を開いた一八七五(明治八)年から、同校の外国人教師の動静を探るよう諜者《スパイ》を潜入させている。その「探索書」四通が保存されており、給料の出所や住宅など詳細に報告されている。このような記録が長野県庁のどこかに埋もれているはずだ。百年以上前の公文書が残っているのかどうか……。
それを求めて、私は右往左往した。そして、それに近いものを信濃毎日新聞の古い号のマイクロフィルムから発見したのである。
信濃毎日新聞の明治二十二年七月二十七日付は「本県滞在の西洋人」と題して次のように報道している。
「学術研究および健康保養のため暑中本県北佐久郡地方に滞在せる各国人の詳細を取調べたるものを得たれば左に掲載す。
京都府産業学校教師米合衆国人デーエームレー氏は学術研究の為め本月二十日より九月十日迄北佐久郡東長倉村大字軽井沢佐藤萬平方に滞在。
東京英和学校教師同国人エンマ、ミーヴェール氏夫人並に男子二名女子一名は本月二十日より九月二十日まで健康保養の為め同く同人方に滞在。
文科大学教師英国人ヂクソン氏及婦人は本月二十日より九月二十日迄同く同人方に滞在」(原文のまま)
このように、二十家族の滞在先が書かれている。このうち二家族はまちがえて二重に書いているので、正確には十八家族となる。前文で「各国人の詳細を取調べたるものを得たれば」と書いてあるのだから、外務省の命令によって長野県またはその出先機関が調べたものをそのまま新聞に掲載したのだろう。
おもしろいのは、姓名がごっちゃになったり、名前の途中の変なところに読点が入ったり、誤記したものがそのまま活字になったりしていることだ。このため、誰がどういう人物かというクイズめいた謎解きの楽しさがあった。「エンマ、ミーヴェール氏夫人」と書いてあるのは「エンマ・ミルトン・ヴェイル」のこと。一八七九(明治十二)年にメソジスト監督派教会宣教師として来日し、東京英和学校(現在の青山学院)の校長をつとめたミルトン・ヴェイル(一八五三〜一九二八)の夫人である。「文科大学教師ヂクソン」は、帝国大学(いまの東京大学)教授だったジェームズ・ディクソンである。
この姓名がわかった十八家族を追跡していけば、初期避暑客の様子、そして彼ら、彼女らが明治の日本でどんな役割を果たしたかが明確となってくるのだ。
この新聞記事は歴史資料としての価値が高い。原文のままでは読みにくいので、わかる範囲で直して引用を続ける。
「東京明治法律学校教師米合衆国人ゼー・ビー・ピーアソン氏は、本月二十日より十月二十日まで、北佐久郡東長倉村大字軽井沢佐藤萬平方に滞在。
東京住英国人婦人レナ・トーマスは本月九日まで同じく同人方に滞在。
東京住同国人アール・カルビー婦人および小児四名本月九日より九月十日まで同じく同人方に滞在。
東京住米合衆国人サンドフォード夫人は本月二十日より九月十五日まで佐藤元次郎方に滞在。
第一高等中学校教師英国人イージス・トワイド・ストレンジー氏夫人および小児二名は本月二十日より九月十五日まで同じく同人方に滞在。
東京住同国人ヴェネレーブル・アーチデーコン・ショー氏夫妻ならびに小児四名および同姉人ショー氏は本月五日より九月二十日まで同じく同所佐藤仲右衛門方に滞在。
東京住同国人レウエレンド・ゼームス・ソウリヤム氏は本月十五日より九月十五日まで同じく同所佐藤忠右衛門方に滞在。
東京麻布鳥居坂町十四番地英語教師同国人マイア・エリオット女本月十七日より九月一日まで同郡同村大字峠町水沢広瀬方に滞在。
同所十三番地学校教師同国人アルレン・ゲー・イビー氏および男子一名女子二名同人方に滞在。
東京住米合衆国婦人アダビー・ジョンソン氏は同じく同人方に滞在。
帝国大学理科教師英国人シー・ジー・ノット氏および婦人小児一名本月九日より九月十日まで同村大字軽井沢佐藤六右衛門方に滞在。
東京英和学校教師米合衆国人イー・アール・フルカーソン氏夫妻および男子一名本月十二日より八月三十一日まで同村大字峠町水沢瀬織方に滞在。
東京住英国人婦人ゼウムス・ウエリヤム氏および小児五名は同村大字軽井沢佐藤忠右衛門方に滞在。
東京住同国人夫人マーガレット・ハトンア氏は本月十九日より八月二十八日まで同所小山定平方に滞在。
東京麻布本村町二百十七番地英語教師同国人ウイリアム・バレンチン・ライト氏夫妻および子供一人本月十五日より八月三十日まで同村大字峠町水沢源方に滞在」
この人たちを国別に分ければ、アメリカ人十二名、英国人(カナダを含む)三十七名。合計四十九名となる。職業として書かれているものの多くは英語教師である。職業を書いてない人……これらの人々が軽井沢避暑地特有の人たちであった。どんな人が、なぜ、軽井沢を選んで来たのだろうか。
「旅行免状」携帯の宿泊[#「「旅行免状」携帯の宿泊」はゴシック体]
さらに、明治二十二年に軽井沢に滞在していた外国人は「現に数えて百有余人、自ら家を建築せし西洋人は五人と聞く」(同年八月三日、信濃毎日新聞)と数日間で二倍以上に増えている。それまでに来ていた人が、家族や友人を誘ったのであろう。それらの人のために「浅間軒」という玉突き場、つまりビリヤードもできている。最初の娯楽施設としてビリヤードができるあたり、いまの若者風俗を重ねてみると興味深い。
その外国人を七月に調査した滞在先に最初に触れよう。江戸時代に宿場町だった軽井沢では、佐藤萬平、佐藤元次郎、佐藤仲右衛門、佐藤六右衛門、佐藤忠右衛門、小山定平の家に泊まっている。このうち、佐藤六右衛門は「京三度屋」、佐藤忠右衛門は「佐忠」という脇本陣だった。脇本陣は四軒あり、このほかは「江戸屋」「三度屋」であった。大名が泊まる本陣は佐藤市右衛門の家がつとめていた。
佐藤萬平は江戸時代から「亀屋」という屋号でやっていた旅籠、佐藤仲右衛門は「つるや」という旅籠。のちに前者が万平ホテル、後者がつるや旅館となった。
この宿泊先リストで意外なことがわかった。峠町の水沢瀬織、水沢広瀬、水沢源の家にも外国人が泊まっていたことである。峠町とは、碓氷峠にある集落だ。これまで、碓氷峠に外人避暑客が泊まっていたことはほとんど知られていなかった。
私は、碓氷峠にある熊野皇大神社の宮司をつとめる水沢|邦ロ《くにたか》(八十三歳)を訪れた。彼は、長い間軽井沢町教育委員会の委員長をつとめ、町助役のあと、いまも軽井沢町資料館の運営委員長などの要職にあり、軽井沢史の権威である。高齢だが自分で自動車を運転して走り回っている。
「私はいろいろな機会に碓氷峠に外人が泊まっていたと聞いていると言ってはみたが、証拠がなかったので強く主張できなかった。これでやっと裏付け資料が見つかったことになりますね」
碓氷峠は標高千二百メートル。長野県と群馬県の県境であり、彼の家からは奇怪な形状の妙義山、秩父連山、関東平野が一望のもとに見下ろせる。それを見ながら、彼が語る。
「水沢瀬織は私の曽祖父です。広瀬、源はどちらも分家ですよ。神社を中心とした門前町なので参拝者用の宿泊所があった。江戸時代から信州、上州、甲州、武州の四ヵ国より、信者が講を組んで交代で参拝に来た。しかし、講の人たちはほとんど農家なので夏は忙しくて参拝客がない。ガラ空きの座敷に目をつけて外国人が泊めてくれと言ったのでしょうね。
まだ、尊王攘夷の気分が残っている時代なので、毛唐《けとう》なんか泊めるなという批判が強かったようです。神社境内に毛唐の宣教師を泊めたから雨ばかり降る、とね」
水沢瀬織は一八五三(嘉永六)年生まれ。碓氷峠に外人客が来だした頃、三十五歳前後だった。そして、一八八九(明治二十二)年、市町村制施行にともなって、峠町、軽井沢村と長倉村のうちの沓掛《くつかけ》、塩沢が合併して東長倉村と称したとき、初代村長に選ばれている。若い村長である。水沢邦ロが説明を続ける。
「もともと、うちは宮司の家柄であって、江戸時代から軽井沢宿の寺子屋で教えてもいた。ここから、お師匠さん≠ニずっと呼ばれていたんです。東長倉村のなかで峠町は人口が一番少なかったけれど、このために人望があったので村長に選ばれたんでしょうね。当時は峠町は二十世帯ぐらいだったはずです」
碓氷峠の最盛期は、江戸末期にあたる文化・文政の頃。その時代には、信州側三十戸、上州側三十戸の合計六十戸の門前町となっていた。明治時代の碓氷峠の写真を見ると、まだ数多くの家が見える。それがいまでは五世帯だけの集落となってしまっている。交通の流れが変わったせいである。旧中山道そのものが消滅しようとしているのだ。
軽井沢宿の衰退とリゾート地としての復興はこの交通の変化と深くかかわっている。
「私の想像ですがね……」と水沢邦ロが推論を述べる。
「外国人が来だした頃、宿場だった軽井沢はまださびれたままで、泊まれるところが極端に少なかったのでしょう。そこで、峠町の茶屋の座敷を借りたのでしょうね。外国人は景色がよくて、高い場所が好きだし、広さも必要だったからね」
この翌日、彼は古文書を収納してある倉庫を点検し、そのなかから「外国人届」と題した文書綴りを探しだしてくれた。
「 御 届
第三二七一号
私雇外国人各地旅行免状
国籍 英吉利
姓名 ロバート・ピー・アレキサンダ氏同行妻
雇主 小方仙之助
雇主居所 南豊島郡渋谷村一番地
職務 英語教師
被雇人寄留地名 東京市
旅行趣意 病気養生」
明治二十六年八月四日、外務省が発行した「旅行免状」の写しである。この時代には、外国人はこの「旅行免状」がなければ旅行できなかった。それを持たずに旅行すると警察に逮捕されることもあった。これを全文写し取り、それに加えて宿泊した水沢瀬織から「本日より九月十五日まで避暑のため拙宅に滞在いたしたきむね依頼ありにつき」滞在させるという届けを、軽井沢分署警部あてに提出したのである。
この「旅行免状」の写しは明治二十九年の「メエフル・リカード嬢」のものも水沢家に残っていた。
つまり、宿泊した外国人の滞在許可を、宿から警察に届ける制度だったことがわかる。そして、軽井沢が避暑地となりだした初期だけでなく、明治三十年前後にも碓氷峠にこんな旅行免状を持った外国人が滞在していたことを示す。
「国道ができると、それまでの碓氷峠を通る人はいなくなると思われがちですね。しかし、そんなことはない。この碓氷峠はまだ重要幹線道路だった。多くの人が、明治時代の中頃にここを通ったと書いてますからね」
水沢邦ロは、ふだんでも元気のよい声をさらに張り上げる。
それまで碓氷峠は軽井沢宿から群馬県の坂本宿に至る間の最大の難所だった。物資の輸送がここで途切れてしまう。そこで、明治十六年八月より十七年五月にかけて、碓氷峠より南側に明治政府が国道を建設したのである。従来の中山道を長倉村離山から東へ進み、矢ケ崎に達してその山麓を北方に迂回《うかい》して、坂本へ至る。道路幅は平坦部で四間(一間は約一・八メートル)、狭いところで三間。渓谷には橋がかけられて、馬車、荷馬車、牛車も上り下りできるようになった。旧中山道が徒歩用の道路だったのに対し、新しい国道は馬車道なのだ。
これに加えて、私鉄の日本鉄道会社が明治十七年六月、上野から高崎まで開通。十八年十月にはそれが中山道幹線という名称で、横川まで延長となった。日本海側からは国鉄直江津線が明治二十一年十二月に開通。横川と軽井沢の間だけが未開通として取り残された。この区間は国道ぞいに敷設したレールの上を馬車で走るという形の鉄道馬車となっている。
これによって、交通革命・流通革命が生じたのである。大量輸送が可能になったので、長野県の物産が東京、横浜に向かった。関東からの物資が流入してくる。
だが、新しい国道は迂回した道路なので当然距離は長くなる。幸田露伴が明治二十二年刊の『酔興記』にこう書いている。
「横川にて汽車を下りしに、ある家の前に野猪、猿、野兎なんどを東京に送らんとにや以上合わせて十匹ばかり列《なら》べあり。この寒さにかの野猪めを味噌煮で食わばと思いながらも、軽井沢の一番汽車に明日は乗りて道中なるべく倹約をなし京大阪をも見て帰らんと、油屋で思い浮かべ高崎の停車場で思い定めしことなれば、碓氷峠を暮れぬ間に越えんとの覚悟に前途《ゆくて》を急ぐまま、その肉一片価|幾千《いくら》と問う間もなく碓氷の旧道を上りかけぬ。馬車路は勾配緩く旧道は急なれば八町一町などいうところありて馬車路の八町は旧道の一町に対する場所あるより、馬車には敢て後《おく》れもせざりしが、半途にして疲れたれば馬車に乗じ、日暮れてのち軽井沢に着きぬ。この夜の寒さ甚しく、碓氷ひとつ上がればこうも気候の変わるものかと、わが衣の薄きにひとしお深く驚きける」
水沢邦ロは続けた。
「日本人だけではない。外国人も何人か、昔からの碓氷峠を越えたことを書いてます。英国公使夫人なんか、峠の景色のすばらしさを絶讃してますよ。私の推測では、宣教師ショーも最初はこの碓氷峠を越えて軽井沢入りしたのでしょう」
東西文化の出会いの場[#「東西文化の出会いの場」はゴシック体]
峠――それは異文化が出会う場所である。ここでその特質が重要となる。碓氷峠は、太平洋側の文化と日本海側の文化が交わり合う接点であった。
地理的にいって、碓氷峠が分水嶺となっている。峠の西側に降った雨は矢ケ崎川となって千曲川に合流し、のちに信濃川となって日本海に到達する。峠の東側の雨は碓氷川となり、やがて利根川と合わさって関東平野を蛇行して太平洋にたどりつく。
明治時代中期、ここが西欧文化と日本文化の出会いの場となったのだ。峠の頂上にある見晴台から見ると、夕日が浅間山と離山のちょうど中間に沈む。反対側を見ると、その残照によって遠くの関東平野、近くの妙義山などが、赤から紫色、そして黒と一瞬ごとに色を変えていく。初期外国人避暑客は、この夕刻の景色を好み、この場所をサンセット・ポイントと名付けている。そして、この美しさを、海外に最初に伝えたのがヒュー・フレイザー英国公使夫人の紀行文だった。彼女はこの軽井沢紀行を一八九〇(明治二十三)年に書いた。この翻訳本は何種類も出版されている。それを群馬県|嬬恋《つまごい》村の鱗形屋《うろこがたや》から発行されている本から引用する。
「一体、どうしたら、あの日私が目のあたりにしたことをお伝えできるでしょう。天と地の間、あの尾根に立ち、沈みゆく夕日の炎が、生のぬくもりを与えることはとうていかなわぬ冷たい岩山に、むなしく口づけするのを見つめていた、あの時の光景を。
そこに長いこととどまっていようとは、あえて思いませんでした。山あいではこういう夕焼けのあとは冷え込むものだからです。
碓氷峠の頂上にある村の宿で、しばらく車夫たちを休ませました。それは貧しい、さびれた村で、夏の間そこを通るお遍路さんの張り番をする神社がありました。幅の広い石段が神社まで続いていて、そこからの眺めはみごとなものでした。美について瞑想すれば徳がいよいよ高くなるというなら、ここの宮司はとても徳の高い方に違いありません」
このようなすばらしい描写が続いている。このフレイザー夫人についてはのちに触れよう。
碓氷峠の鉄道未開通の区間を鉄道馬車で越えた外国人の記述としては、明治二十四年、ウォルター・ウェストンの手記がユーモアたっぷりでおもしろい。
彼は、東京から八時間かかって横川に着いた後、鉄道馬車に乗る。横川から軽井沢まで鉄道馬車で三時間かかっている。
「車は小さくて軽く、非常に不愉快でもあった。その上線路はかなり狭い路の上にしっかりとは敷かれていなかったので、それに乗っていくのはずいぶんはらはらさせられた。車は何度も何度も脱線するので、人夫の役《やく》をする車掌が、車輪を線路の上に押し上げるのに小さな鉄梃《かなてこ》を用意していた。毛むくじゃらで栄養の悪い二頭の馬を駆り立てた御者《ぎよしや》は、これを当り前のことのように思って、脱線するたびにそれをよい機会《しお》にして一服すうのであった。……この鉄道馬車は汽車よりもはるかにはらはらさせて面白いもので、肝臓の働きの鈍い人には特に奨めてよい。なぜなら、この鉄道馬車に乗っていくと、まるで乗馬で行く時と同じくらいに、上下運動をさせてくれるからである。ちょうどこの時は小糠雨《こぬかあめ》が絶えず降っていたので、碓氷峠のロマンチックな風景は眺められなかった。私たちが軽井沢におりて、ぬかった道をたどり、万松軒という宿屋に着いた時、夜の帳《とばり》はおりた。この宿で気持ちのよい室をとり、『洋食』を食べた」
ウェストンは英国から派遣された宣教師である。その彼がこのとき初めて浅間山に登って日本の山岳に魅せられ、続けて日本アルプス全領域を踏破していくことになる。
この碓氷峠から関東平野が見下せることは、外国人にとって心理的に安心感をもたらしたことだろう。何か急用ができたならば、半日で東京に帰ることができる……。
高度約千二百メートルのこの峠を越えて来たという心理効果も重要だ。それまでの日常空間を断ち切って、別天地に遊んでいる。都会生活を忘れて、自然のなかで暮らしている。そのために、峠越えがひとつの区切りになる。
明治日本に渡ってきた外国人にとってもっとも苦痛だったのは、日本の夏の湿度であった。英米やカナダには梅雨期がない。それだけに日本の高温多湿な大気が生理的に我慢できなかっただろう。肌にべたつく。呼吸するのも暑苦しい。日本人でさえ不快指数が高まるときである。高温多湿を知らなかった外国人は何とかしてその苦痛から逃れようとしたのだ。
この時代に、外国人たちは日光、箱根、六甲山など避暑地になりそうな土地をいくつか探した。そんな土地で夏を過ごした人もいる。だが、高温多湿を避ける場所の中心は軽井沢となっていった。八月の平均気温二十・二度というカナダに似た冷涼な気候が好まれたのだ。ただし、標高があるので、上昇気流にともなう霧の発生が激しい。
霧の高原は幻想的である。都市の猥雑さから逃げて来る人には、自然に抱かれている感じがして、むしろ歓迎すべき自然現象だったろう。また、高原特有の雷雨も多い。それも自然の変化だから悪くない。
そんな自然のなかに、改修すれば使える宿泊施設があった。サービスしてくれる人たちもいた。そんな好条件が外国人の間で噂となって広がっていった。
維新の嵐に揺れた人生[#「維新の嵐に揺れた人生」はゴシック体]
外国人が来だした頃、軽井沢の旧宿場町はどんな状態だったのか。江戸時代に軽井沢宿の本陣をつとめていたのは佐藤家である。その子孫である佐藤|芳寿《よしひさ》を訪ねた。彼は数年前までサッポロビールの副社長であり、現在は同社顧問。七十二歳。軽井沢と都内に住まいを持ち、行ったり来たりしている。
「明治二十年前後には、軽井沢は疲弊の極にあったのです。江戸時代末期に大名の参勤交代がなくなり、それまでの繁栄ぶりが嘘のように衰亡の一途を辿っていた。宿場全体がさびれてしまったのです。
明治時代になってから唯一|賑《にぎわ》ったのは、十一年の明治天皇巡幸のとき。そのときには殿様などを泊める本陣御殿がとりこわされてしまっていたため、新築するために長野県庁に借金を申し込んでますよ。
最近、古い書類を整理していましたら、貸金古証文帳というものが出て来ました。曽祖父の佐藤|織衛《おりえ》が取っておいたもので、小額のものから百円、百五十円といった金額までを貸した証文が四十枚近くあります。ふつう、貸金の証文は金を返却すれば破棄するか、相手に渡すものですから、貸しっ放しになっているのでしょう。ほとんどが明治十年から二十年代にかけてのものです。本陣のあと、官選の戸長(現在の村長役)をつとめていましたから、生活に困った人たちが次々に借りに来たのでしょうね」
中山道は、江戸を出ると最初が板橋宿になる。軽井沢宿は十八番目。次に沓掛《くつかけ》、追分になる。これらは「浅間根腰の三宿」と呼ばれた。
三宿にいくらかのちがいがある。追分宿は中山道と北国街道の分岐点。沓掛宿は草津へ行く入り口なので、草津温泉に行く湯治客が多かった。これに対して軽井沢宿は碓氷峠の山越えをするために、大名が駕籠や馬を乗り換え、荷物を整理する。
加賀百万石の大名行列は、江戸と加賀を往復するときに必ず軽井沢宿に泊まった。その行列が約二千五百人。これに現地採用の人足が二千人ほどとなる。
殿様と御側衆が本陣に、重臣が脇本陣に泊まり、そのほかは小宿に分宿した。この加賀藩が参勤交代で通行する一晩で、普通のときの二ヵ月分の水揚げがあったという。
このほかに、北陸、信越の大名はその往復に、四国、九州の大名も往復のどちらかは中山道を通った。また、幕府の御茶壺など公儀御用の荷物や役人もここを通行している。
一般の町人、農民も三宿のどれかに泊まった。彼らが泊まる旅籠には一軒あたり五、六人の飯盛《めしもり》女がいて、夜の相手をつとめている。
浅間根腰三宿はサービス業として栄えたゆえに、明治維新以降、サービスする客がまばらになると同時にさびれていった。
「それに追い打ちをかけたのが、明治政府による国道の建設だったのです。そのせいでかつての中山道の軽井沢宿は、宿泊する人が極端に減った。本陣に泊まる人もいなくなったので土地を売ってしのいだが、それにも限度がある。私の曽祖父・織衛はやむをえず上京しました」と、佐藤芳寿は説明した。
佐藤織衛が軽井沢宿の旧本陣の家督を相続したのは、一八七一(明治四)年であった。このとき、織衛は三十一歳。彼の人生は、維新前後の嵐にいやおうなく巻き込まれていった。
江戸時代の本陣は問屋《といや》も兼ねていた。幕府御用や大名のために一定の人足や馬をそろえ、荷物の運搬を担当する。また一般の荷物の輸送もする。そんな輸送業である。本陣としての職務がなくなったので、問屋を専業とせざるをえない。
ここで問屋に関係の深い、軽井沢郵便局の局長に任じられることになった。明治五年に、本陣敷地内に郵便局を開設した。この後の明治七年に、峠町、軽井沢宿、沓掛宿、借宿村、塩沢新田、追分宿の合計四百五十戸の戸長に一期だけ選任された。この月給は五円五十銭である。
だが、国道ができて、中山道の軽井沢宿が衰退すると同時に、明治十七年、軽井沢郵便局は廃局となってしまった。失業したためこの後、彼は上京する。そして、十九年九月から、日本橋区役所に勤務する。最初は臨時雇いの身分であり、日給二十五銭だった。
彼が軽井沢にいない間に、外国人避暑客が来だした。それを知った佐藤織衛は二十一年に軽井沢に帰って来る。彼は軽井沢駅前で、問屋だった経験を生かして内国通運(株)軽井沢取引店を始める。そして、長男の佐藤熊六が、再設された軽井沢郵便局長をつとめることになる。このとき、織衛は四十八歳、熊六が二十七歳。
織衛・熊六親子の動向がこのようによくわかるのは、日記や辞令などの記録文書が残っているからである。なかでもポケット・サイズの和|綴《と》じ本に、小筆で書いた明治二十年五月からの日記と、郵便局長だった明治二十二年九月からの日記は当時の生活ぶりがしのばれておもしろい。
文面そのものは出勤簿、ビジネス録といったものだが、巻末に符帳が書かれている。これはその家だけの間でとり決めてある符帳で、金銭を扱うときに他人にはわからないように使ったものだ。数字の一から十までを「コヤマクミハンジヨウ」と呼んでいる。
佐藤芳寿が説明を続ける。
「織衛はかなり進取の精神に富んでいたようです。明治二十六年には、軽井沢から小瀬を経て群馬県吾妻郡長野原に通じる草津新道を開設することを計画して、自ら委員長となって寄付金集めをしています。これに地元の人だけでなく、鹿島岩蔵など別荘族も寄付している。そして、なんと、外国人からも寄付をもらっているのです。この外国人との接触が、のちに本格的な西洋館として初めて造った軽井沢ホテル建設につながったのでしょう」
この草津新道建設に関してはマクネアが提唱者となって、二十三名の外国人から寄付を集めている。そのなかには、ミス・ショー、ウォーラー、ジョンストンといった署名が見える。本陣宿からサラリーマンに転職し、再び外国人のための本陣つまりホテル業へという軌跡を、佐藤織衛は描いたのである。
「軽井沢の恩父」宣教師ショー[#「「軽井沢の恩父」宣教師ショー」はゴシック体]
明治時代の軽井沢宿を撮影した写真が残っている。並木が茂って、道路を陸橋で結んだように見える。道路の端には縁石が埋められている。路上には、撮影中に動いてしまったのだろうか、ちょっとぼけた像の少年と、その反対側に幼女らしき姿。遠くに歩いて行く人物が二、三名。
この写真は、文献によっては「明治二十四年の軽井沢宿」と写真説明しているものもある。だが、同じ頃に撮影したらしい沓掛宿と比較すると、あまりにちがいすぎる。こんな古い写真をプリントして売っている土屋写真館(旧軽井沢)の小林幸夫(七十九歳)は、親子二代にわたって写真を撮ってきたので、郷土史家としても貴重な人材である。彼にこの写真について訊いた。
「私の父・小林治平は、日露戦争の頃に兵隊にとられて六年間軍隊にいた。そのときの小隊長が写真好きだったので、その助手みたいなことをして覚えて、その後東京で一、二年本格的に写真の修業をしたそうです。写真館を開いたのは明治三十九年からですよ。
この当時の写真は、父・治平が撮ったものかどうか、はっきりしませんね。店にあったけど、誰かにネガをもらったのかもしれない」
ここで撮影年月日があいまいになってしまう。だが、彼の父親は軽井沢の生まれである。江戸時代に白木屋という屋号で旅籠をやっていた家柄であった。
「でも、外人さんが来だした頃のことは、父親からよく聞いてますよ」と、今度は確信に満ちた口調になる。
「国道ができたときに、白木屋やほかの旅籠は国道端に店を移したのですよ。いまの新軽井沢です。だから、幕末には百軒を超していた軽井沢の宿場はわずかな戸数になってしまった。中山道の大通り(いまの旧軽銀座)にはペンペン草がはえて、子どもの鬼ごっこの遊び場になっていたそうですよ。どの家も貧しくなっちゃってね、新年を迎えても障子の張り替えもできないで古文書で穴をふさいだり、屋根に載せてある石が夜中にどかんどかんと落ちたり……ひどいものです」
そして、店内にある古い写真を説明していく。古色蒼然とした白黒写真が、レトロ趣味の若者たちに受けて、かなり売れている。明治大正の華族階級が正装してパーティーを催している写真に特に人気があるようだ。
だが、そんななかで、私は明治時代の風景写真に気付いた。現在はうっそうと森林が茂っているのに、ほとんど樹木がないのだ。
「このあたり、木が生えていなかったんですよね。天明三(一七八三)年の浅間山噴火以来、樹木が育たなくてね。モミの木がポツンポツンとあるぐらいで、それも片っ端からマキにしちゃってね」
人通りまばらで、廃屋寸前。野外は一面の草むら。人々は貧しく、飢えている。こんな荒涼とした火山灰地の高原に、外国人が来だしたのである。
一八八六(明治十九)年四月、宣教師ショーと文科大学教師ディクソンが、旅行の途中に軽井沢を気に入り、その七月に家族と一緒に滞在した……佐藤孝一の『かるゐざわ』にはこう書かれている。そして、ショーを「軽井沢の恩父」と呼んでいる。
その前の段落に書かれている文章が、その頃の雰囲気をよく表現している。
「かく運命の女神は零落の鋏と廃頽のおだまきを持って、生計の道を断たれた一古駅の住民の未来を占ったとき、この頃、しばしば民情視察のために、内地を旅行し始めた欧米の学者、宣教師、旅行家などに発見せられ、これらの人々によって開拓され、紹介されて、ついに今の避暑地の基を開いたのである。遠く異境に派遣され、また招聘せられた欧米の宣教師あるいは学者は、この広豁《こうかつ》にして雄大なる山野の景象の中に、おのれが故郷を見出して思郷病《ノスタルジア》≠忘るるところとなし、また土地高燥にして清涼なる気候は、いくたの医学者に研究されて、脳病、神経病、脚気病などの転地療養地となった。すなわちこれらの風光と気候とは軽井沢を海内有数の避暑地に育て上げた揺床《クレードル》≠ナある。而して軽井沢に足をとめた最初の外人は、ショー氏とデクソン氏であった」
この二人が避暑地・軽井沢の発見者≠ナ、なかでもアレキサンダー・ショーが人々の記憶に強く残ることになる。
現在も、旧軽銀座のはずれにあるショー記念礼拝堂の入り口左側に、ショー記念碑が建っている。これはすでに風雪にさらされて、字が読めない。だが、佐藤熊六(軽井沢ホテル)、佐藤國三郎(万平ホテル)、山口平三(山口屋)の三人を発起人として、明治四十一年に建立されたもので、漢文と英文でショーを讃《たた》える文を刻んだものだ。撰と文は当時別荘を持っていた末松謙澄である。
その漢文はこう読み下せる。
「ショー氏記念の碑
氏は英国の名士なり。久しく本邦に在って布教に従事す。始めて我が軽井沢を以って避暑地となせるは実に氏となす。氏の遺沢《いたく》を慕ってこの碑を建つるものは村民なり」
これと英文は内容がちがう。英文を訳すとこうなる。
「アーチディーコン A・C・ショー師を記念して
夏期住民として人々とともに滞在した最初の人であり、そして長年にわたり村民の誠実な友人」
前述したように、佐藤孝一が『かるゐざわ』を書いたのは明治四十五年である。この石碑が建ったばかりであり、ショーが恩人だと人々の間で語られていたのだろう。だが、ディクソンこそ恩人だという反論がすぐに出て来る。
佐藤孝一の『かるゐざわ』が出た翌年の大正二年九月号の月刊誌『太陽』に、坪谷水哉が「軽井沢の今昔」という六ページにわたる文を書いて、ディクソンを発見者としたのだ。乗馬姿の外国人などの写真六点を含んだ特集記事である。この頃の『太陽』は、権威ある総合月刊誌であった。
この文では、江戸時代の軽井沢宿、その後の衰退ぶりを書いてからこう続けている。
「ここに東京帝国大学の御雇い教師英人デクソン氏が、明治十九年四月中、長野へ旅行の道すがら、軽井沢を過ぎて、その地が碓氷峠を登りつくした高原で、平野遠く連らなり、仰げば浅間山が雲表《うんぴよう》にそびえ、四方に連峰をめぐらして、気候も地勢も格好の避暑地である上に、空家が軒を連らねて見ゆるので、夏季にその家を借りたいとて、通弁をもって申し込んだのが今の萬平ホテルの前身なる亀屋だ」
このときは亀屋主人が不在だったため、その申し出に即答できなかった。そして、亀屋主人がその後に上京し、ひと夏十二円で貸すことに合意する。これによって、ディクソンがアレキサンダー・ショーを同伴して軽井沢に来た、と書かれている。
その後に「軽井沢をして今日あらしめた功労は、第一はデクソン教授、次はショー牧師で、前者はその後本国へ帰ったが、後者はその後も年々来て、自らも別荘を設け、のちに日本で死んだので」とディクソンを最大の功労者と坪谷水哉は断言している。
このディクソンのことを調べてみる。ジェームズ・メイン・ディクソン(一八五六〜一九三三)は、英国スコットランド生まれ。エジンバラ大学などで学んだ後、一八八〇(明治十三)年に来日し、最初は工部大学校の英語教師となり、次いで明治十九年より二十五年まで文科大学に勤めた。
この学校名がいまではわかりにくいので解説する。明治四年に、明治政府が専門技術者を養成するために工部省工学寮を作り、それが明治十年に工部大学校という名称に変わった。この改称直後に、文部省の下にあった東京開成学校・東京医学校を合併して東京大学とした。そして、これに東京法学校をさらに加えて、ユニバーシティー(総合大学)としての帝国大学(現在の東京大学)が明治十九年に誕生した。カレッジ(分科大学)としては、法科大学、医科大学、工科大学、文科大学、理科大学の五分科を持っていた。
その文科大学教授のディクソンがひと夏の滞在費十二円≠申し出たのである。これは破格の値段である。たとえば、このとき軽井沢旧本陣の佐藤織衛が日本橋区役所からもらっていた日給が二十五銭であった。さびれていた軽井沢宿の人たちにとっては、目の飛びでる金額であり、それゆえに熱い思いで待ち構えたことだろう。
この金額がディクソンにとって高いのか安いのかを調べてみる。
大学の教授だから、給料はたかが知れているだろうと今日では思いやすい。だが、明治時代の外国人教授はちがう。幕末から明治中期にかけて、近代化を急ぐ明治政府が欧米の先進諸国から多くの外国人を雇用した。これを「お雇い外国人」という。政府が各分野のスペシャリストを雇ったのを「官傭《かんよう》」、民間人や私企業が雇ったのを「私傭《しよう》」と分けている。このうち官傭外国人は明治八年の五百二十七人をピークとして明治二十七年には百人を割る数に減っている。これに対して私傭外国人は明治六年に七十三人、その年以降漸増して明治三十年には七百六十五人となっている。
ディクソンは官傭の英語教師であった。工科大学校の教授として三百円の月給をもらっている。明治十九年からの文科大学教授のときが、月給三百五十円、宿料四十円、合計三百九十円の報酬を得ている。彼が工部大学校で三百円をもらっていたとき、東京大学の勅選の日本人教授職の最高月給は四百円、教諭職二百五十円であった。
軽井沢に来た年には、年俸四千六百八十円をディクソンはもらっていたのだ。この五年後の明治二十四年における内閣総理大臣の年俸が九千六百円、各省大臣六千円、各省次官四千円であった。また、第一回帝国議会が開かれた二十三年の衆議院議員の年俸は八百円である。彼は大臣に準ずる待遇を受けていたことになる。
これだけ高給優遇されていたが、文科大学全体の生徒数がたったの十数名であり、英文学科の本科生は立花政樹ひとりだった。この二年後に夏目金之助(漱石)も入学して来る。そして夏目に『方丈記』を英訳させて、ディクソンが一八九二(明治二十五)年の日本アジア協会の会合で朗読している。このほかに、正則英語学校の創立者・斎藤秀三郎、東京帝国大学教授・市河三喜、岡倉由三郎など英語学の権威となる人たちがディクソンから学んだのだ。
東京では、セントバーナード犬を従え、馬に乗って、小石川から本郷の文科大学へ通った。明治十八年にアメリカ女性クララ・リチャーズと結婚。二人の間に子どもはなかった。だから、夫婦二人だけの避暑をするためには自分の別荘を持つよりも旅籠住まいの方を好んだと思われる。
結論としていえば、高給取りのディクソンにとっては、ひと夏十二円の滞在費はたかがしれた金額である。この年、彼は三十歳。新妻を伴って、ハネムーンを兼ねて軽井沢にやって来たのだ。
なお、ディクソンは明治二十五年に明治政府との契約が切れると英国へは帰らないでアメリカへ渡った。そして南カリフォルニア大学に東洋学科を設立し、日本学の先駆者として活躍し、七十七歳で没した。
お雇い外国人のディクソンか、宣教師ショーか……軽井沢の発見者をめぐる論争は、避暑地・軽井沢の性格を象徴しているようでおもしろい。学者か、聖職者かということは、どちらも知識階級であり、極東の見知らぬ国日本へ自ら志願してきた人であることを意味する。使命感に燃えていた若きエリートたちだ。そして、当時の教師と宣教師は似たような生活を日本で送っている。
ディクソンは敬虔《けいけん》なクリスチャンとして一生を過ごした。日曜日には安息を守り、教会へ行ったことだろう。
ショーもまた教師をしていたことがある。アレキサンダー・クロフト・ショー(一八四六〜一九〇二)は、一八七三(明治六)年に来日し、その翌年四月から三年間、英語教師をしている。こちらはディクソンの「官傭外国人」とちがって、「私傭外国人」の身分であった。雇ったのは福沢諭吉で、月給二十五円だったと外務省の記録に残されている。
福沢諭吉とショーの関係やショーの生涯については、夏期滞在者によって古くから作られた財団法人・軽井沢会の服部禮次郎理事長(銀座・和光社長)が精力的に研究を続けている。日本聖公会の司祭などとショー研究会を作る一方、個人的に英国、カナダまで足を伸ばして資料を収集し、ショーの子孫とも接触を保っている。
この服部禮次郎が昭和六十一年八月に、軽井沢ロータリークラブでショーについての講演を行っている。また、別の研究者たちの論文もいくつかある。これらによって、ショーの功績、人柄がかなり鮮明に浮かび上がって来る。
ショーが生まれたのはカナダのトロント。当時のカナダは英国領だったため、古い文献ではショーを英国人、スコットランド人と書いてあるものが多い。だが、いまはカナダという国家があるのだから、ショーはカナダ人であると明確にしておきたい。
トロントのトリニティ・カレッジで神学を学び、彼はイギリス国教会の牧師となる。その後、ロンドンに渡って牧師活動をしているときに、福音伝道協会《SPG》から日本派遣宣教師にW・B・ライトと一緒に選ばれた。明治維新のとき、キリスト教はまだ解禁にならず、明治六年にようやく布教が自由化された。その第一陣の宣教師として、同年九月、日本に到着したのだ。このとき、ショーは二十七歳。
単なる一宣教師ではなく、英国公使館の公式牧師という身分と、アーチディーコン(副主教。聖公会では「大執事」と訳している)という地位にあったショーは、東京・三田に住んだ関係で福沢諭吉と知り合う。そして、福沢邸内に移り住んで、福沢の子どもに英語を教えると同時に慶応義塾で英語と倫理学を教えている。その教え子のなかに尾崎行雄もいて、何人かと一緒にショーから洗礼を受けたといわれている。
ショーは何年にやって来たか[#「ショーは何年にやって来たか」はゴシック体]
軽井沢の旧中山道通り、通称旧軽銀座≠フ一番奥にあたる地点に、日本聖公会の軽井沢ショー記念礼拝堂が建っている。その後側になる場所に、ショーの別荘を復元して建築したショーハウスがある。
このショーを記念した二つの建物を見ていると、奇妙なことに気付く。
ショーハウスの案内板にはこう書いてある。
「明治十九年、英国聖公会宣教師A・C・ショー氏は、当地の山容野色や気候の素晴らしさを発見し、避暑用に別荘を建てた。人々はこれをショーハウスと呼び親しまれた軽井沢別荘第一号である」
これは軽井沢町の有志によるショーハウス復元委員会が昭和六十一年に造ったもので、旧軽井沢区が管理して、毎年八月だけ一般に公開している。
ところが、ショー記念礼拝堂の案内板には「キリスト教布教の途にあって軽井沢を知ったのは明治十八(一八八五)年である」と明記されているのだ。ならんだ二つの建物で、ショーが軽井沢に来た年が一年ちがっている。
これまで、佐藤孝一の『かるゐざわ』をはじめとして、長野県政史などの年表では明治十九年に初めてショー、ディクソンが軽井沢に来たと書かれている。ここで、十八年説と十九年説との論争が起こっているのだ。
明治十八年説をとっている人たちの根拠は、ショーの三男ロナルド・ショーが書いた文によっているようだ。ロナルドは一九五六(昭和三十一)年に、当時の軽井沢町長の佐藤不二男あてにこう書いた。
「父の息子としては、家族のなかで一番初めに私が軽井沢に連れて行ってもらった。これは一八八七年……私が四歳のときだったと思う。父は建築中の家の進展ぶりを見に行った」
これだと明治二十年であり、別荘が建築中ということになる。この夏は、善光寺参りなどをする人々が通って行く道路(旧中山道)に面し、キリスト教会(現在のショー記念礼拝堂)の前にあった家で過ごしたと述べている。
ここで念のために書いておく。アレキサンダー・ショーは福沢諭吉宅にいる間に、婚約者メリー・アンを呼んで結婚した。二人の間に三男一女が生まれる。三男のロナルドは一八八三(明治十六)年生まれである。明治二十年に四歳ぐらいだったという記述と辻褄《つじつま》が合う。
だが、同じロナルドは、アメリカ聖公会の駐日代表部が発行する「ジャパン・ミッションズ」の一九五九(昭和三十四)年秋季号に「軽井沢とアーチディーコン・ショー」と題して書いた文章でこう述べている。
「A・C・ショー(のちの日本聖公会・南東京管区大執事)が非聖職の友人とともに、信州地方へ徒歩旅行したのは、一八八五年であった。いくつかの理由で通常の道(中山道)を碓氷峠へのぼる代わりに、彼は脇に入り他の谷を歩き、ついに軽井沢南側の和美《わみ》峠に達した」
ここで初めて一八八五(明治十八)年説となったのだ。
アレキサンダー・ショーは宣教師だった。だが、避暑地・軽井沢の発見者ということだけが有名になり、本業の宣教師としての業績はあまり知られていない。それを簡単に書いておこう。
福沢諭吉の邸内に三年間住んだ後、彼は本格的に宣教活動に入る。この福沢邸にいたということが有利に働く。当時、福沢諭吉の書いた『西洋事情』は十五万部以上、『学問のすゝめ』は毎冊二十万部以上(全十七編なので計三百四十万部以上)のベストセラーになっていた。そして、慶応義塾が英学の総本山とみなされていた。慶応義塾は明治五年に初めてアメリカ人教師カロザスなどを雇い入れ、六年から学課を改定して正則、変則の両科を新設し、翌年から卒業制度を確立している。
この福沢との関係による人脈と、英国公使館公式牧師という肩書によって、文明開化に熱心な明治初期の政府要人、知識人との関係ができていく。ショーは伊藤博文、陸奥宗光、井上馨などと親交があった。そして、本業の宣教師として、東京・芝栄町に一八七九(明治十二)年、聖アンドレ教会を設立した。また、この年に聖教社学校、翌年に聖教社分校女学校を開いている。そして、地方宣教をするために、旅行免状を持って各地を歩いていた。
この時期にショー一家は麻布今井町(現在の六本木二丁目)に住み、近所に住んでいたウイリアム・ホイットニー(商法講習所=一橋大学の前身=の開設者)、ウイリアム・G・ディクソン(明治九〜十二年、工部省工学寮の英語教師)などと親しく交際していた。このウイリアム・ディクソンはジェームズ・ディクソンの兄であり、兄弟が前後して工部省に雇われたのである。そして、ジェームズ・ディクソンが来日するとこの兄弟とショーとの交際はもっと深まったようだ。
さて、明治十八年に軽井沢に来たかどうかを調べているうちに、意外な事実を書いた論文を見つけた。建築史家の宍戸実が、昭和五十九年の「A・C・ショーの研究」でこう書いているのだ。
「当時の宣教師は十年目に一年の休暇を得て故国へ帰っているが、それによってか明治十七年晩夏家族を伴い、ロンドンのSPG本部から(カナダの)トロントに回って休暇を過ごし、明治十八年九月十三日、サンフランシスコよりシティ・オブ・トーキョー号で出帆、十月三日にはA・C・ショー夫妻と三人の子ども達とで横浜に戻って来た。このトロントにいる時に父(A・C・ショーの父)が日本に来ることを約したのか、二ヵ月後に長女(A・C・ショーの姉)が付き添って日本に来ている」(嘉悦女子短大研究論集第四十五号)
これによれば、明治十八年の夏に日本にいなかったことになる。当然、軽井沢にはこの年には来ているはずがない。
ショーかディクソンか、十八年か十九年かに結論を出そう。
避暑地・軽井沢の発見は、佐藤孝一が『かるゐざわ』に書いたように「明治十九年四月、ショーとディクソンによる」と私は推論する。十八年説の根拠となっているショーの三男ロナルドの記述は、ロナルドが七十六歳になったときに書いたものである。父アレキサンダーが初めて軽井沢に行ったときは同行していないし、その時期を記憶するには幼すぎる。どこかで記憶が混乱したと判断すべきだろう。
それでも、ロナルドの書いた文章から、別荘がいつ造られたかは明確になる。一九五六年、一九五九年の二つの文章に共通していることは、最初に住んだ家が中山道に面していた建物であることだ。前者の文章では、つるやホテル(彼らはこう呼んでいた)に泊まり、現在のショー記念礼拝堂の前にある家で夏を過ごしたとある。後者の文章ではもっと具体的になっている。
「一八八六年、ショー氏は軽井沢に行き、軽井沢宿通りの上のはずれに、廃れた旅籠を移築した家を手に入れた。この別荘とつるやホテルの間には、六つの氷池があった。冬に作られた氷は倉庫に貯蔵され、夏季期間に東京で売られる。ショー氏にとって不運だったのは、この別荘が大通りに面していたことである。この通りは長野へ行く巡礼が通る道筋なので、彼らは巡礼宿としばしばまちがえる。夜昼かまわず巡礼たちがドアをノックするので、土地を代えることにした。ショー氏は他の廃屋となった旅籠を買い取り、つるやホテルの反対側にある大塚《だいづか》山という、小さな丘の山に新別荘を建てたのである」
これは明治十九年のことである。ショーは旅籠を改築した家を、買うか、借りるかして、中山道沿いに住んでいた。それを善光寺参りの旅行者が旅籠とまちがえて泊めてくれということが多くてたまりかねたのだ。旅人の方も、宿と思った家から外国人が現れるのだから、驚いたことだろう。
ともあれ、この中山道沿いの家が、軽井沢の別荘第一号である。
この別荘第一号の写真が残っている。当時としては鮮明な写真である。屋根は板葺きで、壁は塗り壁と板張りの両方がある。その平屋建ての家を前にして、ひとりの外国人らしき人物が幼児を抱えて立っている。そのほかに子どもが数人。スカート姿などからみて、すべて外国人と思われる。
この別荘は、ショーが大塚山に新別荘を建てた後、他の外国人が滞在するための家屋となった。ロナルドの文によれば、ショーが東京で宣伝したことによって、理科大学のダイバーズ博士、実業家カービー、宣教師ロビンソン、フィッシャー、バーベックなどが続々と軽井沢入りする。このうちの何人かは、ショーの古い別荘に滞在した。そして、大塚山に建てたのがショーの別荘第二号であり、こちらが現在の「ショーハウス」として復元されているのである。
[#写真1(fig1.jpg、横433×縦315)]
ショー関係の土地は五万坪[#「ショー関係の土地は五万坪」はゴシック体]
別荘第一号は、中山道に面して造ったショーの家である……と私は書いた。これは佐藤孝一の『かるゐざわ』の記述とちがってくる。佐藤孝一の文では、大塚山に明治二十一年五月に建てた家を、別荘第一号としている。
たった二年の差だが、ここはいつから別荘ができたかという歴史を知る上で重要なのだから、徹底的にこだわりたい。私はまず、国会図書館に通い、明治時代に出版された書籍で軽井沢に関連したものを片っ端から借りだして点検した。次に、明治時代の雑誌に軽井沢関係の記事がないかどうかを調べる。途方に暮れるような面倒な作業である。だが、ようやく軽井沢の別荘について触れている文章を見つけることに成功した。題名に「軽井沢」とついている本はほとんどが地理や旅行案内だった。まったく関係ない題名の『現代世界思潮』という書籍に、「軽井沢」という短文が収録されていたのだ。
これは、日本女子大の成瀬仁蔵が発行していた英文隔月刊誌『ライフ・アンド・ライト』のなかから主要論文、エッセーを抜粋して翻訳したもので、明治四十五年に発行されている。そして、「軽井沢」を書いたのは日本女子大教授のエリザベス・フィリップスである。この文脈から判断していくと、彼女はこれを明治四十三年に書いている。ここには、こう書かれている。
「中山道の一駅として、すこぶる殷盛《いんせい》をきわめた軽井沢は、碓氷峠を越す人にとってもっともなつかしい休息の場所であった。しかるに鉄道架設のため、富める人は逐次去って、ただ夏の避暑地として、わずかに余喘を保つようになった。この幸運をもたらしたのは、副監督ショー氏に負うところがすこぶる多い。氏は明治七年、浅間登山のとき、ここを過ぎて、いたくその位置の卓越なのに打たれ、十一年再び軽井沢の地を訪れて、善光寺参りの常宿の古い旅館を買い受けた。のち明治十九年に二、三家族が村の家屋を借り受けてから、漸次今日の繁栄を来たしたのである」
ここに初めて「明治七年に発見」「明治十一年に別荘購入」という説が登場してきた。この裏付けがあるのかどうかを調べてみる。
こう書いたフィリップス教授は、一九〇一(明治三十四)年に来日し、最初は香蘭女学校などの教師をつとめて、その二年後から日本女子大の英文科教授に迎えられた。英国のケンブリッジ大学ニューナム・カレッジの出身で、父が牧師だったこともあって海外伝道に使命感を抱いていた女性である。ここから日本女子大の暁星寮で、朝夕に寮生とともに祈り、週一回バイブルクラスを開いていた。
彼女が最初に勤めた香蘭女学校はアレキサンダー・ショーにゆかりがある。だから、ショーと軽井沢との関係を、ショー本人またはショー夫人から聞いた可能性はあるのだが、その裏付けを示す資料はない。むしろ、フィリップス教授の文では「明治十九年に二、三家族が村の家屋を借り受けた」と書いている点を重視したい。その裏付け資料を探すことが必要となる。
次に、外務省の外交史料館に足しげく通うことにした。膨大な資料のなかから、軽井沢関係を探しだすことは容易ではない。索引目録から関連のありそうな資料を請求し、それが手元に来たところで初めて内容がわかる。期待したものと内容がまったくちがうという連続だった。それでもこの過程で、二つのことを知った。
第一は、明治時代初期の政府お雇い外国人や民間お雇い外国人が、実によく旅行していることだ。学術研究、病気療養などの名目で、全国を歩き回っている。日本に赴任した外国人はほとんどが若かった。たとえば明治七年の文部省雇い外国人七十一人のうち、二十六歳から三十歳が二十四人、三十一歳から三十五歳が二十人。つまり三十歳前後が中心世代である。そして、旅行するだけの経済的ゆとりのある高給をもらっていた。それを裏付けるおびただしい旅行免状が残っている。
第二は、ちょっと時代が下がるけれども、明治四十二年の「外国人の地上権設定地」では、長野県が飛び抜けて多いことだ。全国合計六十六万坪のうち十万六千坪が長野県である。東京は一万坪にすぎない。この長野県の外国人地上権地のほとんどが軽井沢の別荘である。
この土地に別荘をいつ建てたかを知る資料を探す。「外国人居留地外住居特許雑件」「外国人居留地外住居外国人同居取締リノ件」といったものを何冊もあたったが、それはいっこうに出て来ない。
あきらめかかったが、念のために、「外国人ニシテ日本人名義ヲモッテ土地家屋ヲ所有シ竝ニ会社ヲ設ケテ商業ヲ営ムモノノ調査」を請求した。
これが手元に届いたので、府県別の長野県のページを探す。そして、私はついに裏付け資料を発見したのである。
明治二十五年の「外国人所有土地及家屋取調表」という一覧表に、所有者ショーの家屋は、東京の今井寿道を名義人として「家屋建築年月、(明治)十九年七月」と明記されていたのである。これは長野県知事浅田徳則から榎本武揚外務大臣に提出された親展扱いの公文書である。
外務省に保存されていた公文書によると、ショーが明治十九年に建てた別荘地は、二年後に大塚山に建てた敷地と合わせて、二反六畝十五歩。坪あたり四銭で買っている。これを計算する。一反は十畝、一畝は三十歩……つまり一反は三百歩であり、歩と坪は同じだから、二反六畝十五歩は七百九十五坪となる。それに四銭をかけると三十一円八十銭。おそらく、当時のことだから、この丘とあの畑を三十円で買いたい、といった具合に交渉したものだろう。
衰退の極にいた軽井沢宿の人にとっては信じられない金額であり、言い値のまま大喜びで売ったと思われる。
これをショー側から見る。ショーはこのとき四十歳。日本に来て十三年が過ぎている。福沢諭吉のもとで英語教師をしていた以外は、宣教師として伝道に明け暮れていた。
この年に一緒に軽井沢に来た文科大学教授ディクソンは、月に三百九十円の高給取りだったと書いた。ショーの経済状態はどうだったのか。現在から考えると、宣教師という奉仕的な仕事をしている人は、経済的に恵まれず、その個人生活を犠牲にして伝道活動をしていたと考えやすい。事実、この時代にローマ法王庁からの派遣で日本に布教に来たカトリックの神父は一ヵ月三十シリングで、教会の家賃を払い、食事、衣服、交通費、布教活動費のすべてをまかなっていたという。当時の為替レートは、一円が三シリング(日本銀行「本邦経済統計」)。三十シリングの収入ならば十円である。
これに対して、プロテスタントの各教派は日本布教に大きな情熱と経済支援を注いでいた。ショーは、ロンドンに本部があるイギリス国教会の福音伝道協会から日本に派遣された。その本部に一年に何回か報告の手紙を書いている。布教報告、活動報告であり、このなかには会計報告も入っている。
一八八六(明治十九)年に、ショーが本部に送った手紙には、「一八八八年度分のご下賜《かし》金、二千二百ポンドを要求する」という趣旨が書かれている。また、それに加えて、子どもたちの教育費を別途に要求している手紙もある。
一年間の予算二千二百ポンドを要求したのに、二千ポンド弱しか送金してこないので再び苦情を述べている手紙も残っている。明治二十年頃は二千ポンド前後の送金があったのだ。これを為替レートを使って計算してみる。一ポンドは二十シリングだから、二千ポンドは四万シリングになる。この二千ポンドを円に直すと……実に一万三千三百三十三円。あまりの巨額に、私は何回も計算をし直した。当時の内閣総理大臣の年俸をはるかに超している。
もちろん、全額が彼の給料ではない。このなかから教会を建て、それを維持し、学校をつくり、日本人宣教師を育成していく。でも、一万三千円を超す予算が任されているならば、その一部をさいて軽井沢に土地を買うぐらいどうということはないのだ。
これまで買ったのか借りたのか不明だったショーの別荘地は、こんな経済的裏付けからショー自身が買っていることに気付く。この当時はまだ外国人が好きなところに住むという国内雑居≠ヘ許されていない。ここで名目上は日本人の名義にする。ショーの場合は、彼の愛弟子である今井寿道(のちの香蘭女学校創立者)の名前を使っている。
この「今井寿道」名義の土地が、明治二十年代、軽井沢で急速に増えていく。宅地二畝九歩、畑三畝十六歩、畑四反一畝二十歩、山林七町八反三畝十歩、山林五町五反、山林二町三反三畝十歩……古い土地台帳を見ると続々と彼名義の土地が現れて来る。少なくとも十六町以上の大地主となっている。これは約五万坪になる。この全土地を長野県から外務省への報告では掌握し切っていない。
すべてをショー個人が買ったのかどうかは定かでない。今井寿道名義で外国人所有者としてほかの人の名前が書かれている土地もあるが、それもショーと同じ教派のイギリス国教会による派遣宣教師である。ほかの教派は別の日本人名義にしているから、ショーが所有していたと思われる土地はショーが買って友人に分けたか、友人を誘ったのか……ともあれ、ショーの関係している土地が約五万坪に達したのだ。
一般的にいえば農家は土地を手放さないものである。先祖伝来の土地だから長男が相続し、守っていく。ところが、軽井沢の旧宿場では、明治十年代後半から転々と所有権が変わっている。
明治政府は、それまでの封建的な年貢制を改め、明治六年、地租改正条例を布告した。土地の所有者に「地券」を発行し、その地価の百分の三の税率を課した。この地券台帳が課税の基準になるのだから、永続保存と特記されて軽井沢町役場に保管されていた。それが明治二十二年の市町村制施行にともなって地券を廃止し、地租は土地台帳によって徴収されるようになっている。
この間に、相続以外による所有権の変更が相次いでいるのだ。また、軽井沢の旧家の一軒で、他人名義の地券証が数多く保管されているのを見せてもらった。これは本来の持ち主が金策のために手放したのだろう。先祖が残してくれた畑、宅地までも売ってしまった軽井沢の人々の苦境がしのばれる。
こんな土地を名義人・今井寿道、実際の買い主ショーは、いつ誰から買ったのか。これはちょうど、地券から土地台帳への変更の時期なのではっきりしない点がある。だが、明治二十年前後、軽井沢の旧宿場で土地を多く持っていたのは、小諸藩士だった稲垣正直、地元の佐藤耕平(万松軒)、佐藤仲右衛門《つるや》、佐藤萬平(亀屋)などだった。彼らが生活に困った人から土地を買ってやり、次いでショーの求めに応じて売ったことが土地台帳からわかるのである。別荘第一号の土地は、土地台帳によると佐藤仲右衛門から今井寿道に渡っている。
異人にパン作りを教わる[#「異人にパン作りを教わる」はゴシック体]
万平ホテルの佐藤邦明総支配人(五十七歳)が、創業時のことをじっくりと語る。
「私の祖父・佐藤万平は、明治元年生まれで、九十二歳まで長生きしました。だから、祖父が敬老会などで、外人が来だした頃のことを話すのを何回か聞いていますよ。
交通の流れが変化したことなどによって、軽井沢の街道筋はまったくすたれてしまっていた。そこに天から降ったように、外国人が来だした。みんなは異人さん≠ニ呼んでね、外国人はそう言われるのをいやがってましたがね……ウチにはディクソンが泊まったのです」
彼は、ディクソン文科大学教授、宣教師ショーが軽井沢に来だした頃、旧宿場町でそれを迎え入れた旅籠「亀屋」の子孫である。
亀屋は江戸末期に名主をつとめていた。曽祖父・佐藤萬平の代に苦難の時代となる。そして、明治三年生まれのひとり娘・よしの婿として、小諸町柏木から小山國三郎が明治二十年に入籍した。この國三郎がのちに改名して佐藤万平を名乗ることになる。まぎらわしいので、先代を萬平、國三郎を万平(正しくは彼も「佐藤萬平」であり、昭和十一年まで「萬平ホテル」と表記した)と書いていこう。
國三郎が結婚するまでの経歴はおもしろい。小学校を卒業するとすぐにその学校の助教師となり、次いで小諸町小学校の教師となっている。十七歳のときには、長野町(現在の長野市)の長野小学校教師になった。それが、二十歳で佐藤家に養子として入り、東長倉村役場の職員となっている。つまり、かなりの秀才だったのだろう。
外国人が来だしたのは明治十九年だから、それに対応できる人材を婿に選んだともみえる。
「外国人が来た頃のことは笑い話のように伝えられてますよ。何しろ、言葉がまったくわからないのですから……ウォーター≠ニ言われたら綿を持っていったり、グッド・モーニング≠ニ言われたのに愚問≠ニ勘ちがいしたり。耳から覚えた英語なので、ウイスキーのことを長い間ウスケ≠ニ書いてましたね」と佐藤邦明は続ける。
カルチャー・ショックであった。宣教師や大学教授は片言の日本語ができた。これには個人差があって、一概には言えない。共通していたのは、その夫人、子どもに日本語が通じないことだ。それを身振り手振りで通じさせても、生活習慣のちがいを飲み込むには時間がかかる。旅籠時代には土間で客の足を洗うことが最初の仕事だった。だが、彼らは靴のまま上がってしまう。
「宣教師、教師……どちらも生活習慣を教えてくれる先生だったのですよ。すべて、手をとって教えてくれました。パンの作り方から、牛や山羊を連れて来てバターやミルクを作る方法まで。ベッドは最初なわを編んでハンモックみたいに吊《つ》ったようです。その後に、ワラで作ったベッドが土蔵に残ってますよ」
逆にいえば、外国人は自国の風俗、習慣で、軽井沢暮らしを通したのだ。
その頃、亀屋はいまの万平ホテルとちがう場所にあった。中山道の通りに面した旅籠である。このときに客が泊まれる旅籠は亀屋のほかに、つるや、万松軒など数軒しかない。そして、英語ができる人は誰もいないから、かなりの珍問答が展開されたことだろう。
「にせ耶蘇《ヤソ》あるいはテンプラ耶蘇という言葉を知ってますか。軽井沢に来た外国人が、耶蘇つまりキリスト教の宣教師や信者だったので、軽井沢の住民も耶蘇教信者になった振りをしたのです。
でも、私の祖父・佐藤万平は、実際に牧師の学校へ行ってます。これは英語を習う近道として行ったのでしょうが、学校を出た後は福島県や静岡県沼津で数年間伝道活動をしていますよ」
万平が入学したのは、ショーが創立した聖教社学校で、聖アンドレ教会で洗礼を受けた記録も残っている。
単に営業的にクリスチャンになったのではないことは、のちに娘たちにも洗礼させているし、ひとりはショーにゆかりのある香蘭女学校に行かせたことでもわかる。
とにかく、佐藤万平は聖教社学校で英語を習ってくる。外人客が来るのは夏季だけだから、学校もその期間は夏休みで都合がよかった。接客業は言葉ができなければ不可能だ。
「軽井沢の人たちは生活するのに必死でしたから、外国人に教えられたことを懸命に覚えたのですよ。大工は、外国人が描いた図面をもとにして家具や調度品を作る。ほかの人がクリーニングを覚える。西洋野菜の栽培を農家は教えてもらって、その料理法を外国人婦人からコックが教わる。夏以外は、軽井沢にいても意味がないので、横浜の外人街に住み込んだり、外国航路の船に乗り込んで、そういう技術を身につけていったのです。いまでいえば、輸入文化の吸収でしょうな」
佐藤邦明が続ける。軽井沢の人たち全体で宿場としてのサバイバル戦略に取り組んだのである。大名の代わりに外国人をお客として接待する。その熱気が察せられる。
避暑の基本は、おいしいものを食べて、静かに暮らし、快適に眠ることにある。外国人は夜をどう過ごしたのか。この時代には電気はもちろんない。行灯《あんどん》や岐阜|提灯《ちようちん》、外国人が持って来たランターン(カンテラに似た形の前照灯)が、万平ホテルの土蔵に保存されている。そんな古いものを見せてもらっているうちに不思議なものを目にした。佐藤邦明はニコッと笑って言った。
「これが何かわかりますか……引き戸のついたナイトテーブルの下に夜置いて来て、朝になると片づけたのです。これをポー≠ニ呼んでました。水洗トイレができるまで、これがトイレだったのです」
ポー≠ニは、英語のポット(つぼ)≠ェなまったものだろう。ここでは便器を意味する。これと、水がめが各客室に置かれていたのだ。
チップがお目当ての村人たち[#「チップがお目当ての村人たち」はゴシック体]
明治二十年に、早くもショー以外の別荘が造られている。これは、これまで推測されていた年代よりも早い。ひとつは亀屋の貸し別荘≠ェ二十年に造られているのだ。その建物の写真が残っている。二階建てで、一階には宿場町の典型的な旅籠の形式である紅がら格子、二階には濡れ縁ふうの出っ張りがある。この建築様式は、愛宕山の古い別荘にまだいくつか見られる。
また、外交史料館に保管されている長野県知事から外務大臣への報告によれば、明治二十年五月に、ミス・アレキサンダー、ヴェール、カービーの三人が、佐藤万平を家屋所有名義人として、別荘を建てている。このうちの一軒は亀屋の貸し別荘≠ニ呼んでいるものと同じかもしれない。
この三人の外国人がこの年春に別荘を建てているということは、その前年に避暑に来ていたからだろう。明治十九年に、ショー、ディクソンの二家族だけでなく、何家族かが来ていたことを証拠付ける。
こんな人たちを、夏の初めに軽井沢の人たちはどう迎えたか。
「古いことなのでもう時効といえますが、やっぱり先祖のみっともないことを話すには勇気がいります。名前を伏せて下さるならばしゃべりましょう」と、旧軽井沢に住む老婦人が語ってくれた。
「異人さんが来る日がだいたいわかっていますからね、碓氷峠や国道の峠で、村の人たちが待ち構えているんです。そして、到着すると荷物を奪い合うようにして運んで……異人さんのチップが目当てなのです。あさましいというか、とにかく、なりふり構わず、異人さんに群がって」
これは容易に推察できる。外国人は労力を提供してくれた人にはチップを渡す習慣を持っている。そのチップの額が、軽井沢の人からすればケタちがいだったのだ。現在、日本企業の駐在員が発展途上国で小銭をバラまいているのと同じことが、百年前にここで展開された。
別荘ができ始めたときはどうしたか。
「その家の周りをウロウロしてね、用事を言いつけられるのを待っているんです。マキ割り、買いもの……どんな仕事でもいいんです。何かすれば結構な額のチップがもらえるんですから」と老婦人は続ける。
「そして、別荘に川から水を運ぶのが女性の仕事になったの。当時はみんな、川の水を使ってましたから、桶に汲《く》んでね、別荘まで運ぶ。男たちはね、朝、畑に行く前に別荘に寄ってポー=i便器)を取って来て、それを洗って元に戻す……これはいやな仕事だから一番いいお金になった。この水汲みとポー洗いは、大正時代まで続いたはずです。こうやって、軽井沢の人は苦労して別荘地を支えてきたんですわ」
軽井沢に上水道ができたのは、一九二八(昭和三)年になってからである。
外国人が軽井沢に来だした頃、彼らと地元の軽井沢の人たちがどうつきあったかを示す資料はほとんどない。その交友録を書いた日記が地元に残っていれば一級品の史料になる。そう思って探しているのだが、まだ見つからない。軽井沢の人にとって、外国人はあくまでも「お客様」であり、対等につきあうことはできなかったのだろう。
宣教師ショーに土地を売り、別荘を建てるのを手伝ったのは佐藤仲右衛門であった。だが、この系譜を継ぐつるや旅館は火災に遭った際に古い資料、写真を焼失してしまった。わずかに先代社長の佐藤不二男が書いた単行本『軽井沢物語』(昭和五十一年刊)に、ショーとのまじわりが書き残されている。
「ショー師は見るからに高僧を偲ばせる敬虔な牧師である。軽井沢の駅に着いて留次郎さんの車(注・人力車)にのって町に入ると、日本銀行の判の押してある晒《さらし》の袋から、五銭の白銅貨をつまみ出しては、聖句のカードを混ぜて遊んでいる子供たちにばらまいた」
佐藤不二男は一八九五(明治二十八)年生まれである。ショーが軽井沢に来だした頃は生まれていないが、彼の幼児期にショーを実際に目撃している。この記述は事実だろう。それにしても、人力車の上から金銭をばらまくとは、なんということか。しかも、五銭という額は子どもには不相応の大金だ。これに対して、誰も批判しなかったのだろうか。
ショーの名誉のために、もうひとつの事実を書こう。ショーが軽井沢に来だした頃の一八八七(明治二十)年、彼は遭難しそうになった日本人を救っている。これは助けられた牛山雪鞋(せつあい/本名・清四郎)が『キリスト教信越伝道史』に書き残している。
このとき、牛山は陸軍の軍曹であり、初めての休暇を得て友人を伴って生家の諏訪郡豊田村(現諏訪市)に帰郷していた。そして、東京の部隊に戻る前日に碓氷峠を越えようとする。軽井沢の宿場町を通りすぎて峠に登ろうとするときには夕闇が迫っていた。
「そこに小さな神社があって石の鳥居が建っている。その前の路傍に長椅子を持ち出して西洋人が婦人を混ぜて五、六名涼んでいた。我々はどこの国の毛唐だかのん気なことをしているな、と思いつつ彼らを尻目にかけつつそこを通り抜けようとした。するとその中のひとりが上手な日本語で言葉をかけた――もしもし、失礼ですがあなた方今から碓氷を越すおつもりありますか」
峠は夜に濃霧が巻くので、軽井沢に泊まって朝に峠越えをすることを勧める。だが、彼らはその警告を無視して強行する。そして、案の定、崖から転落し、懸命に助けを求めて叫ぶ破目になる。それを予期していたのか、腰に縄を用意した西洋人が助けに来てくれた。この西洋人がショーだったのである。
牛山はのちに伝道師となり新聞記者もつとめただけに、この記述には信頼をおいてよいだろう。
浅間山登山や草津行き[#「浅間山登山や草津行き」はゴシック体]
明治二十年前後の軽井沢を知る手がかりは、意外なところから手に入ってきた。避暑に来た外国人が本国へ送った手紙に、軽井沢のことが断片的に書かれているのだ。
当時の外国人避暑客の大半は宣教師であった。これがさいわいする。宣教師として派遣されたならば、その派遣した本部に対して宣教報告、活動報告を定期的に送る。そんな文書が、世界各地に散っていった仲間を激励するためにも、定期刊行物として発行され、いまでも保存されているのである。
カナダのメソジスト系クリスチャンの宣教師向け機関紙に「ミッショナリー・アウトルック」がある。この創刊号の一八八一(明治十四)年一月号から一九二二(大正十一)年十二月号までがマイクロフィルムになってそろっている。その全巻コピーのフィルムを、塩入隆・長野県短大教授がカナダのトロント大学から持ち帰った。これは当時の宣教師が日本をどう見ていたか、どうつきあったかを知る上での貴重なオリジナル史料である。もっとも、このマイクロフィルムを読むということも大変な作業である。世界各地の報告のうちから、日本からの報告を探しだし、次に軽井沢関係を拾いだす。それらしい記事をコピー・プリントして初めて読み取ることができるのだ。労多くして得るものが少ないから、これまで誰もそれをやらなかった。
その「ミッショナリー・アウトルック」に、ミセス・ラージからカナダの友人に出した私信が掲載されている。日付は一八八七(明治二十)年八月二十四日。
「この手紙を、五週間半にわたって、すばらしく楽しかった休暇を過ごした山々のことで始めましょう。ミス・カートメルにあてた前便で浅間山に登ったことは書きましたね。先週水曜日には、私たちのうちの九人で、馬に乗って三十マイル離れた草津へ行ってきました。この馬の足どりはのろく、着くまでに十二時間もかかってしまったのですが、その間これまで見たこともない美しい山道が続いたのです」
この文章そのものは、草津温泉に向かい、白根山に登り、賽の河原などで遊んだことを楽しげに書いている。残念なことに浅間山に登ったという手紙は掲載されていない。
それでも、ミセス・ラージはグループで軽井沢に避暑に行き、そこで約四十日間を過ごしたことがわかる。
このミセス・ラージとは、一八八五(明治十八)年に来日し、すぐに東洋英和女学校(現在の東洋英和女学院)の二代目校長となったイライザ・スペンサーのことである。この手紙を送った夏の初めの七月に、男子校の東洋英和学校(麻布高校の前身)の教師だったトーマス・アルフレッド・ラージと結婚した。軽井沢行きはハネムーン旅行だったのである。
この時期の東洋英和女学校は、明治政府の欧化主義政策を受けて、国際的な視野と英語力を身につけさせようとする上流階級や知識人の子女が集まり、急速に生徒数が増加していた。明治十七年の開校時に定員五十名だったのが、十八年に百七十名、十九年には二百五十名近くに急増している。イライザ・ラージはその校長であり、軽井沢に来た明治二十年、まだ三十二歳の若さだった。軽井沢からカナダの友人あてに手紙を書いたイライザ・ラージのことは、これまでに刊行された文献、資料に登場していなかった。外国から避暑地・軽井沢の姿が初めて明るみに出てくるのだ。
ここで、彼女と一緒に来ていた避暑滞在客はどういう人だったかを整理してみよう。滞在していたことがもっとも確かなのは、明治二十年に別荘を建てたといわれる(外交史料館の公文書)三人である。
まず、これまで「キルベ」「カルビー」などと書かれていた人は誰か。これは、エドワード・カービー(一八三六〜一八八三)の兄弟か子どもと推測できる。エドワードは一八六五(慶応元)年に横浜に着き、貿易商として活躍、彼が建てたバンク・ビルディングは横浜名物のひとつとなった。また、彼がつくった小野浜鉄工場はのちに日本海軍に買い取られ、呉海軍工廠支部と改称された。エドワードは明治十六年に死去している。だが、在日英国人としてもっとも成功した人物なので親族は日本にいたはずだ。
「ヴェール」と書かれている人物は、ミルトン・S・ヴェイル(一八五三〜一九二八)である。彼は一八五三年に米国ニューハンプシャー州に生まれ、ボストン大学を卒業してから一八七九(明治十二)年にメソジスト教会の宣教師として来日し、東京英和学校(青山学院の前身)の校長をつとめた。
この東京英和学校は、明治十五年に美會神学校と東京英学校が合同し、青山に三万坪の土地を購入して設立された。この学校にはR・S・マクレイ、J・ソーパー、W・C・デヴィソン、C・ビショップ、J・ブラックレッジといった外国人教師がいた。旅行免状の住所に「東京市赤坂区青山南町七丁目一番地」と書いてある人も、「東京府南豊島郡渋谷村一番地」と書かれている人も、この学校の教師である。渋谷村と呼ばれたのは明治二十二年の市町村制施行によって、東京市外に編入されてしまったためだ。
「アレキサンドル」「ミス・アレキサンダー」と書かれているのは、キャロライン・T・アレキサンダーである。男性ならばトーマス・アレキサンダーという宣教師がいて、明治二十六年より明治学院教師となっているが、ここではミス・アレキサンダーと推測する。彼女は一八五四年に米国に生まれ、一八八〇(明治十三)年に婦人宣教師として来日。しばらく家庭教師をしてから、明治十八年に開校した頌栄女学校(現在の頌栄女子学院)の教師となった。
この学校にもうひとりの米国女性教師がいた。アナベル・ウエストで、一八六二年生まれ、明治十七年に来日している。この二人は仲がよく、つねに行動をともにしていた。明治二十年に建てた別荘は二人が共有したものと考えられる。
そして、二人は明治二十二年には頌栄女学校の生徒二十余名を引率して、軽井沢で夏季合宿をしている。これが夏季林間学校の始まりといわれる。二人は頌栄女学校で英語のほか、音楽、体操も教えていた。軽井沢の高原に、二人が指導した歌声が響いたことだろう。
女学校の教師たちの別荘[#「女学校の教師たちの別荘」はゴシック体]
頌栄女学校のすぐそばに、明治二十年、明治学院が設立される。二つの学校の間には畑がいくつかあるだけで、どちらからも校舎が見透せる。ここで、明治学院に十五歳で入学した島崎春樹(のちの藤村)は、頌栄女学校のアレキサンダー、ウエスト両教師をしばしば見掛けることになる。また、頌栄女学校の生徒とも交流があった。それらの描写が作品のなかに散見できる。
「おおぜいの娘たちの集まる文学会に招かれて行き、プログラムをあける音がそこにもここにも耳に快く聞こえるところに腰掛けて、若い女学生たちのくちびるから英語の暗誦や唱歌を聞いた時には、ほとんど何もかも忘れていた」(『桜の実の熟する時』)
頌栄女学校は外国ミッション(布教本部)からの資金に頼らないで、日本人独力でクリスチャン・スクールを運営しようという岡見|清致《きよむね》によって設立された。この岡見は福沢諭吉と親しい関係にあったので、開校式などに福沢も列席している。この同じ時期に、やはり外国ミッションに頼らないということを宣言した明治女学院(明治末に廃校)が、木村熊二によって設立された。
この木村熊二は、明治三年に渡米、十二年間の留学生活を送ったのち、牧師となって帰ってきた。彼は浅草下谷教会を中心に伝道活動したのち、明治女学校を明治十八年につくったがその校長を三年で辞職し、二十一年二月から頌栄女学校の二代目校長に就任する。また、台町教会の牧師も兼職する。
この木村熊二に傾倒した島崎春樹は、木村宅に寄宿したこともある。そして、台町教会で木村からキリスト教の洗礼を明治二十一年六月に受けている。この師弟関係はのちまで続き、明治二十六年に小諸義塾を設立した木村に従って島崎もその教師となった。
ここに、福沢、岡見、木村、島崎という明治時代の代表的知識人の人脈が浮かび上がってくる。そして、明治学院の外国人教師たちは、頌栄女学校の教師と一緒に、夏を軽井沢で過ごしている。
木村熊二が頌栄女学校の校長と台町教会牧師をしていた明治二十四年に、明治学院の関係者の多数が軽井沢に別荘を建てている。同校教師だった石本三十郎を名義人にしてヘンリー・M・ランディス教授(一八五七〜一九二一)のほか二人、浅草の鈴木安三郎を名義人にしてジェームズ・M・マコーレー博士(一八四七〜一八九七)ほか二名、軽井沢の佐藤万平名義でセオドア・M・マクネア(一八五八〜一九一五)。つまり、木村熊二にゆかりがあり、島崎もよく知っている人々だけでも七軒の別荘が建ったことになる。
明治二十五年の県知事から外務大臣への報告には、前年十月に東京・麹町区の矢島たつ名義で三軒の別荘が建ったことが書かれている。実際の所有者は米国人レオナルド、テーロル、フルトンとなっている。この矢島たつは、桜井女学校と築地の新栄女学校が合併してできた女子学院の教師である。三人の米国人はその女子学院に関係の深い長老派宣教師だ。このうちのサムエル・フルトン(一八六五〜一九三八)は、この頃、明治学院神学部の教授であった。のちに神戸神学校を創立して、その校長となっている。そして、晩年まで毎夏、軽井沢にやってきて、軽井沢で死去することになる。
登山やスポーツの権威[#「登山やスポーツの権威」はゴシック体]
ここで別荘を持たないで、旅籠に滞在していた人々を調べよう。ヒントは少ない。宿帳が残っているのは、万平ホテルの明治三十七年からのみだ。そのほかの旅籠、ホテルの宿帳は焼失したり、行方不明となっている。
もう一度、信濃毎日新聞の明治二十二年七月二十七日に掲載された記事「本県滞在の西洋人」に戻る。
この記事に書かれている人物のうち三分の二がすでに判明した。これまで本文中に登場しなかった人たちを紹介していく。
宣教師では、イギリス国教会のジェームズ・ウイリアムズ。彼は一八七六(明治九)年に来日し、函館で宣教活動をし、明治二十年以降は東京・深川で伝道していた。
宣教師兼学校教師は、届け出の住所によってその人物像を探り当てる糸口となる人が多い。「東京麻布区鳥居坂十四番地」は東洋英和女学校のことであり、そこの英語教師マイア・エリオットが滞在している。同じく「鳥居坂十三番地」は、東洋英和学校であり、ここの教師もしていたアレン・イビーが家族と一緒に碓氷峠に泊まっている。この両校からは前述したように、明治二十年にラージ夫妻が来ているほか、サンビー夫妻と女学生五名が滞在していたことが中島松樹編『軽井沢避暑地一〇〇年』所収のハガキによってわかった。
明治学院の教師だったジョージ・ピアスン宣教師、東京英和学校の教師だったイパーソン・フルカーソン一家も軽井沢に来ている。
文部省のお雇い外国人はここでも重要な役割を果たしている。
帝国大学の理科教授カーギル・ノットは、文科大学教授ディクソンの妹メアリーと結婚した男性であり、物理学、電気学、音響学などを教えた。地震の研究、火山の調査もしていたため、浅間山に登る外国人の案内役をつとめたと思われる。メアリー夫人と子どもを連れて軽井沢に滞在していた。つまり、浅間山登山が軽井沢避暑客の間に定着していくことになるのは、ノットのような学者が専門知識を与えたからだといえる。
同じことは、スポーツ学の権威だったフレデリック・ストレンジが初期避暑客のなかにいたことによって、軽井沢のアウトドア・スポーツが発展したと推測できる。彼は英国のイートン・カレッジを卒業したのち、一八七五(明治八)年、東京英語学校(二年後に東京大学予備門、明治十九年より第一高等中学校と改称)の教師として来日した。彼によって陸上運動会、隅田川の学校対抗ボートレース、一高野球部などが開始、開設されている。
ただし、ストレンジは明治二十二年七月五日、三十五歳の年齢で心臓麻痺で死去。この夏に、夫人と子ども二人が軽井沢に来ているのだから、彼女らにとっては傷心の夏であり、日本最後の思い出となったことであろう。
ディクソンの義弟となった帝大理科教師カーギル・ノットは、文部省お雇い外国人なのでやはり高給取りであった。この頃、月給三百七十円、宿料三十円、合計四百円の月収を得ている。これは官傭外国人の月収平均よりも少し上である。
地方官庁が雇った外国人教師の給料はもっと安い。長野県の学校が最初に採用した外国人教師はジョージ・エルマー夫妻である。明治二十年に夫のジョージ月給八十円、妻エンマ三十円で、松本町の長野県尋常中学校(松本深志高校の前身)に雇われた。日本帝国統計年鑑によれば、明治二十一年から四年間、長野県が外国人一名を雇っている。これもエルマーのことだろうか。この長野県尋常中学のときに、エルマーは校長よりも高給をもらっているのに、生徒をないがしろにしていると国粋派生徒からボイコット運動があった。確かに、このときの小林有也校長は年俸千円であり、夫妻がもらっていた年俸は合計すればそれを上回っている。
この頃の尋常小学校の校長は月給四十五円、教員が十一円から二十五円であった。文部省雇いの外国人教師は小学校長の十倍近い月収を得ていたことになる。
もっとも、これが私傭外国人と呼ばれる私立学校教師になると、事情はちがってくる。東京英和学校の教師をつとめたミルトン・S・ヴェイルは、月給五十円である。外務省の記録によれば、同じ住所のJ・ヴェイルも月給五十円をもらっていることを示している。これは妹のジェニー・ヴェイルのことだ。兄妹で月給百円となり、地方官庁雇いの外国人教師とほぼ同額になる。私傭外国人の平均月収はこんなものであった。
この異常に高い政府お雇い外国人が、明治二十年前後に問題となってくる。
明治政府は維新後、多くの留学生を海外に送った。その留学生にいくら送っていたかを調べてみる。一八七一(明治四)年、パリ・コミューンのさなかにフランス留学した西園寺公望が自伝にこう書いている。
「学費として官給されたのは、普通千円、わたしは千四百円であったが、結構それで足りた。わたしは外のものと差別待遇を受けるのがいやで心苦しかったから余分の四百円だけ返したが、つまらぬことだという者もあり、ほめる人もあった。後には全部辞退して、家から取り寄せたり、公使館へ傭われて月給をもらったりして、不自由はしなかった」
明治初めは、ひとり千円の留学費用を出すよりはその金額で外国人スペシャリストを雇った方が効率よく思われた。だが、外国人に高等教育を任せることは学問の植民地化になりかねない。留学した俊英たちが次々にテクノクラートとして帰って来るとその人たちが明治政府の要職につく。また、自前の大学教授を養成するために、帝大卒業生を海外留学させる方向に進んだ。官傭外国人は次第に語学教師のみになっていった。
英国公使の別荘[#「英国公使の別荘」はゴシック体]
この時代背景をもっと見なければならない。
一八八九(明治二十二)年二月十一日、帝国憲法発布。その第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めた天皇制を中心に近代国家としての形を整えたのである。
この帝国憲法制定の中心となったのは伊藤博文であった。彼は幕末の一八六三(文久三)年に井上馨などとひそかに英国に渡ったのをはじめとして、明治四年の岩倉具視遣外使節団では副使をつとめて欧米に渡り、同十四年には政敵の大隈重信を政府から追放して、実質上の最高責任者となっていた。そして、明治十五年から十六年にかけて、ビスマルクの支配するドイツ帝国へ、憲法とその運用を学ぶために渡った。それから五年をかけて憲法審議をする責任者となったのだ。
この憲法発布を前にして、天皇制の支配体制が着々と進められた。帝国議会に衆議院を設置するのだから、それと対抗する機能を持つ貴族院を設けるために明治十七年、華族制度を実施して約五百名を華族とした。そして、宮廷と華族が憲法に拘束されないよう皇室典範を起草し、宮内省を設置する。
内政関係では、内閣制を制定し、明治十八年、伊藤博文が初代の内閣総理大臣となった。それを支える官僚制度確立のために、帝国大学法科の卒業生を無試験で高等官に採用。また、府県制、市町村制を完成した。
これらは、天皇制の確立と同時に、当時大衆の間に勢いを持っていた自由民権運動を圧迫することを狙っていた。この過程で、秩父困民党の蜂起とその壊滅などが起こっている。
在日外国人は、この帝国憲法発布をアジアにおける近代国家の成立として興味深く眺めていた。
憲法発布の式典は、宮中正殿の大広間で挙行されて、政府高官、華族のほかに諸外国の外交団、要人も招待されていた。式の最後に外交団は帝国憲法、皇室典範、衆議院議員選挙法などの英訳文を受け取った。ここで初めて憲法の内容を知ったのである。この夜、首相官邸で外国人と日本の華族、政府高官を集めて、シャンデリアの下でシャンパンを飲み、華麗なダンスを踊る祝賀パーティーが催された。
明治十六年に井上馨を中心としてつくった鹿鳴館は、急速に西欧を模倣しようとする上流階級と在日外国人の社交の場であった。この鹿鳴館の饗宴は二十年まで続いて憲法発布の頃は下火になりかかっていたが、まだ西欧王室の公式パーティーを模倣したパーティーはひんぱんに開かれていた。そんなパーティーで外国からのメーン・ゲストとして招待されたのは、当時世界でもっとも超大国だった英国の公使夫妻である。
憲法発布の三ヵ月後、英国公使ヒュー・フレイザーが赴任して来た。その夫人メアリー・フレイザーが社交界において、そして軽井沢にとっても重要な人物となるのである。
「このあいだ私は伊藤博文伯爵の園遊会に出かけました。これは、彼の娘が新進の政治家末松謙澄氏に嫁いだおりに開かれたものです。……群れ集う人々は、明るい色調の衣装を着けていましたが、日本の服装はほとんど見当たりませんでした。伊藤伯爵夫人の最年少のお嬢さんでさえ、西洋服でした。どの方々も、この種の集まりでは言葉少なになるようです。とにかくたいへんなご馳走で、私たちは皆、厳密な席次にしたがって座にすえられ、午後の四時ではなく宵の八時であるかのごとく、食べかつ飲むよう期待されているのです」
メアリー・フレイザーは、赴任した一八八九(明治二十二)年から一八九四(明治二十七)年に夫のヒュー・フレイザーが東京で脳出血で死去したためヨーロッパに帰るまで、克明な手紙を書いている。これは一八九九年に『日本における一外交官の妻――故郷から故郷への手紙』と題してロンドンで出版され、版を重ねた。明治時代の日本を紹介した名著のひとつとして評価が高い。ここでは、『英国公使夫人の見た明治日本』と改題されて出版された横山俊夫訳から引用する。
メアリー・フレイザーは一八五一年四月生まれ。二十三歳のときにヒュー・フレイザーと結婚し、北京、ウィーンの公使館書記官、チリ駐在公使などをつとめた夫と一緒に、日本にやって来たのである。このとき、彼女は三十七歳だった。
彼女が日本に滞在した時期は、明治政府の政治、外交がもっとも激しく動いたときであった。帝国憲法発布の後、議会開設、条約改定、そして日清戦争……彼女は自分の目で見たこれらをつぶさに描き、その時代の人々の暮らし、日本の風景をリアルにとらえている。
そして、「耐えがたいほど暑く、湿度が高い」東京の夏を避けて、軽井沢の別荘に一八九〇(明治二十三)年にやって来る個所はひときわ精彩を放っている。もっとも、日本語を話すことができないので、すべてを公使館付きの通訳を使って話を聞いているため、ごく小さなまちがいはある。だが、全体として明治二十年代前半の日本、そして軽井沢を知る上で貴重な叙述である。
彼女は軽井沢の美しい風景を詳細に書いた後、こう記している。
「私たちが今いる夏の家を平和の宮殿≠ニ名付けましたが、そのわけは、この家が峠へと続くただ一本の道に近いところにあるとはいえ、緑にすっぽりとつつまれて孤絶しているからです。村は――たしかに村があるのですが――この庭のふもとを過ぎ、門を守るカラマツの木々のあいだを通り、幾分ぐらぐらする橋のかかったふたつの小川を渡り、曲りくねった山の側面に沿った道を少し下ると、ようやく目に入るのです」
「到着した晩、私たちが広縁に坐《すわ》って快適な休息を取っておりますと、庭の遠くの端のところに踊るような光があらわれ、ゆっくりと近づいて揺れる提灯《ちようちん》になりました。私たちの五匹の犬はいっせいに吠えたてました。提灯を手にした人は立ち止まり、それから勇を鼓して近づいてきました。白い制服を着け、白い手袋をはめ、金のものをかなり身にまとってきらびやかな人物で、驚いている私たちの前にゆっくりと姿をあらわし、広縁の段のところで立ち止まり、軍隊式の礼をしたのです」
彼女は、最初に軽井沢に着いた夜のことをこう書いている。ここに書かれている人物とは、長野県警が英国公使別荘を警備するために派遣した警察官で、片言ながら英語を話したのである。
逆にいえば、英語をしゃべれる人材を長野県警が抱えていたことを示す。長野県がようやく外国人教師を一名雇っただけの時代である。これは、軽井沢に来だした外国人避暑客に神経をとがらせていた表れだろう。
このことが外国人所有の別荘の把握にも役立っている。警備という名前で監視もしていたのだろう。これが県知事から外務大臣への「外国人所有土地及家屋取調表」の報告につながってくるのだ。その報告によれば、二手橋そばに建てられた英国公使の別荘は、公使館勤務の日本人・岡本純を名義人として明治二十三年四月に建てられている。所有者名は、英国公使館のガビンス書記官である。
このジョン・ガビンス(一八五二〜一九二九)は、一八七一(明治四)年、十九歳のときに来日してからずっと英国公使館に勤務していたため、フレイザー公使着任の頃は流暢な日本語をしゃべっている。条約改正で日英外交がぎくしゃくしているとき、実際の英国側折衝役として活躍したのだ。
そして、岡本純名義、ガビンス所有の英国公使別荘を土地台帳で見ると、明治二十三年に一町(約一ヘクタール)以上の敷地があり、二十八年にはさらに六町を買い足している。
この時代の軽井沢をメアリー・フレイザーはどう見たか。
「私たちの村といえば、家は残らず朽ちかけており、障子はいずれも破れ、私たちが犬を連れて通りすぎると子供や猫があわててあばら家に逃げ込む、といったところです。……今年私たちがここに来て以来、得意の肉屋や米屋、それに私たちのところの洗濯人までがそろって村に看板を出し、自分たちは英国公使館御用達に特別に任じられていると書き立てています。ここは人数の多いカナダ系宣教師たちのお気に入りの土地でもあります。彼らがこの町をひいきにすれば、私たちや友人たちの引き立ても手伝って、この町が少しはうるおうのではないでしょうか」
ここに避暑地としてのステイタスが確立されたのである――明治外交のかなめである、超大国の英国公使が軽井沢に別荘を建てたことによって。
[#改ページ]
[#小見出し] 第二章 黒船、山に登る
「西洋人腰抜かす」[#「「西洋人腰抜かす」」はゴシック体]
外国人が東京・横浜など五ヵ所の居留地に住むことを定められていたにもかかわらず、初夏になると彼らは続々と軽井沢にやって来た。これは思っていた以上に急激なブームとなっていることが、古い資料からわかってくる。
一八九一(明治二十四)年二月二十日、二十四日の二回にわたって、信濃毎日新聞に「軽井沢の地を奈何《いかん》」と題した社説が掲載された。ここに軽井沢滞在の外国人の人数が書かれている。
明治二十一年、百五十八人。二十二年、百七十三人。二十三年、二百三十九人。これを明治二十三年でこまかく見ると、イギリス人が百三十名、アメリカ人が七十一名と多く、それにドイツ、フランス、オランダ人などが少しずつまじっている。
この明治二十三年における官傭外国人は二百名、私傭外国人は六百二十三名である(「日本帝国統計年鑑」による)。このほかに、各国公使館員・外国商人などが日本に滞在している。独身者が多いけれど、既婚者は子どもが生まれている年齢だ。これらの人のうち、暑中休暇がとれる職種の人たちが、家族を連れ、友人を誘って、軽井沢に向かったのだ。
これを信濃毎日新聞の社説は、こう論じている。
「軽井沢の地は広し。数十戸の洋館、数百人の外国人、かの地のおいて何あらん。軽井沢の地は荒ぶせる広原なり。……新道開通により廃宿に帰したる深村寒|邑《ゆう》、これら紳士の寵顧《ちようこ》を受け、再び旧時の繁栄を現するに至りたるは廃物利用の極点としてただ喜ぶのほかなきに似たり」
だが、この軽井沢が「緑眼朱|髯《ぜん》漢」の外国人の居留地になっている傾向を指摘。また、その外国人が尊大横柄なのに、土地の人はそれに屈従しているありさまを嘆いている。地理的にいって長野県ののど部にあたる部分を西洋人村にしてよいのかという愛郷心まで説いた上で、こう続ける。
「しかれども吾生はあながち自然的経済の作用を押さえんとするものにあらず。外人の来住を拒まんとする鎖港主義を持せるものにあらず。農桑に無経験たる未墾地が、これら外人の需要により地価を増し土地を高むるに至りたるは該地にとり賀なるべく、一国の上にとりてもよみすべきことなりといえども、翻ってよく事態の如何《いかん》を考察するときは果して外国人との売買において若干の価《あたい》を有する地位なりせば、内国人においても同額の価を有するものと見ざるべからず」
ここに地価高騰を憂えている。事実、日本人の別荘第一号だった八田裕二郎には一坪あたり五厘で売っているのに、外国人の宣教師ショーには坪あたり四銭、ほかの外国人には坪あたり五銭から十五銭(外務大臣への県知事報告)でこの時代に売っている。不毛の荒地を、一挙に十倍から三十倍の高値で売り払っているのだ。
ともあれ、鎖国主義を排し、積極的開国へ。つまり、初期避暑客の外国人は、軽井沢にとってペリー提督が率いてきた黒船に似ていた。明治二十年前後、その黒船が峠を越えて、山に登ったのである。
そして、この明治二十四年夏。
軽井沢で画期的な議決がなされた。旧道(現在の旧軽銀座)にあった旅籠、芸者屋で九月三十日まで歌舞音曲を慎もうということになったのである。
このとき、芸者屋は万松軒、浅間館、新中村、つるやの四軒で、芸妓は十名ほど。その客筋として、すでに建設開始していた碓氷峠トンネル工事のために、鉄道工事従業員が二千名前後、国道、旧道沿いの宿に泊まっていた。彼らを相手にする娼婦も五、六十名いる。
この芸者の問題はこう報道されている。
「同地へは近年以来夏(時)分に到れば避暑客の来ること年一年に多く、ために土地の利潤も少なからざるよしあるに、本年は例の芸者衆が毎夜、甚句《じんく》、カッポレ、二上がり三下りの囃《はやし》立てにて暁まで眠ることのできぬ旅客もあり。特に西洋人は目玉を回し、脳病をひきおこし、たまには腰を抜かしたるもありとかや。とにかく九月三十日まではお座敷一般太鼓中止と過日評議実施せられたり」(信濃毎日新聞、明治二十四年七月二十七日付)
当時の旅籠の家屋構造は、部屋を障子または襖で仕切っているだけである。一ヵ所で芸者をあげて大騒ぎすれば、ほかの部屋にまで筒抜けに鳴り響く。このため、長期滞在のつもりで来た外国人客が苦情を言い、あるいは引き払って帰ると主張したのだろう。だからこの記事には「遊蕩《ゆうとう》子のためには第二番目(一番目は鳴物のほかにありとか)の快楽を奪われたる一大凶荒という」と、ユーモアをまじえて書いている。
こんな旅籠の騒音公害に悩まされたもうひとつの体験を、外国人側が書き残している。一八九〇(明治二十三)年頃、軽井沢に泊まった様子をアルバート・トレイシーはこう書いた。
「夕方頃になると、旅館は客で混みはじめた。私の部屋にとなりあわせた大広間は、ひとりかふたりの僧に引率された巡礼の一団にあてがわれたが、かれらは到着するとすぐに、床の間の壁に絹地の掛軸を吊して祈祷をはじめたのである。
私が見たかぎりでは、その掛軸はどこかの霊場を描いた単なる風景画にすぎなかった。巡礼者たちはこの掛軸に向かってひざまずき、床に頭がつくほど敬虔な祈拝をくりかえし、それから声をそろえて低音の抑揚のない詠唱をとなえだした。……私はいたたまれずに旅館の玄関に出た。入口にはたくさんの提灯がゆらゆらと揺れていた。そしてその戸口に立って、到着する客を待ち受けているのは旅館の主人であった」(ヒュー・コータッツィ著『維新の港の英人たち』)
この巡礼とは、善光寺参りの人々である。芸者の三味線の音はやめさせても、お祈りの念仏までを禁止するわけにはいかない。ここに信仰心が強かった外国人避暑客のジレンマが出て来る。
尾崎行雄夫人テオドラ[#「尾崎行雄夫人テオドラ」はゴシック体]
明治二十年代前半に、外国人避暑客と日本人の間で重要な役割を果たしていた女性が軽井沢に来ていたことに、私は気付いた。
テオドラ尾崎(日本名・英子)である。そのテオドラの娘である相馬|雪香《ゆきか》(七十八歳)を、軽井沢の別荘に訪ねた。
この相馬家の別荘は、旧道の二手橋を渡り、碓氷峠に向かう右側にある。ちょうどかつて英国公使別荘があった向かい側に位置する。その相馬家の別荘が旧道ではかなり上になり、その奥には森林があるだけ。門を入ると小川が流れ、庭には野生の高山植物が生い茂っている。自然を大事に保護している姿勢がうかがえる。
小川のせせらぎを耳にしながら、別荘のベランダで語る。
「この別荘に、生まれてからずっと来ているんですよ。こんな山のなかにどうして住んでいるのと、友達によく言われたものですわ」と相馬雪香は笑う。
父が憲政の父と呼ばれる政治家尾崎行雄、母がテオドラなのである。ここに尾崎行雄が別荘を建てたのは、大正三年になってからだ。二人の結婚は明治三十八年で、結婚と同時に軽井沢に来だして自分の別荘を建てるまではほかの人の別荘を借りて住んでいた。これはのちに触れる。
「二人が結婚するずっと前に、母は軽井沢に来ているんですよ。まだ碓氷トンネルが開通する前ですから、横川から碓氷峠を荷車に乗って越したと言ってました。人力車じゃないですよ。荷車と聞いてます」
横川と軽井沢間を鉄道馬車が走っていたにもかかわらず、それを使わなかったのだ。急坂の碓氷峠を荷車に乗って越したことになる。これは重大なヒントになる。駕籠《かご》や荷車で峠越えをするためにはかなりの大金が必要だった。それを支払えるだけの外国人とテオドラは一緒にやって来たことになる。それは誰なのか。
「アレキサンダー・ショーと聞いてますが、正確なことはわかりません。この頃、母は公使夫人のメアリー・フレイザーの秘書になっているから、公使一行の一員だったのかもしれませんね。メアリー・フレイザーが日本を離れてイタリアへ渡ったときに一緒に行って、二年間をそこで過ごし、そこで母は日本の童話を英訳して本を出しています……これは確かなことです」
英国公使か、公使館付き牧師のショーか、このどちらかに同行して来たことになる。明治二十三年にフレイザー夫人が軽井沢に来たとき、「木の生い茂る斜面を、木陰の道を通って椅子にゆられてのぼるという快い贅沢がありました」と椅子駕籠で碓氷峠を越えたと書いている。公使夫人は椅子駕籠に乗り、テオドラは荷車で運ばれたのだろうか。
「父はさらにもっと早く軽井沢を通ってます。明治十二年、新潟新聞の主筆となったとき、人力車で通ったそうです」
尾崎行雄とテオドラは結婚前から同姓だったが親類ではなく、明治なかばにはまったく関係なかった。この明治時代を象徴する二人のドラマを掘り下げて追跡してみよう。
「母のテオドラは妹たちと一緒に三人で日本に来た、と聞いてます。これは、古い話なので、はっきりしませんわ。あなたの方で調べてくださいね」
相馬雪香は、一九一二(明治四十五)年生まれ。父の尾崎行雄と母のテオドラ尾崎が結婚したのは一九〇五(明治三十八)年。そして、テオドラが初めて日本に来たのは結婚よりも二十年ほど前のことである。
相馬雪香と話しているうちに、そのテオドラ初来日のことを調べてくれるように頼まれてしまった。これは難問である。尾崎行雄に関しては全集や伝記があるので容易に調査できるが、テオドラについて書かれたものはほとんどない。
だが、調べていくうちに、彼女ほど明治時代の維新から欧化対策、その後の歴史を体現している人物はいないことがわかった。時代の波に揉まれて、しかも自立して生きてきた女性である。
テオドラは、尾崎|三良《さぶろう》(一八四二〜一九一八)と英国女性バサイア・モリソンの間に生まれている。
この誕生に至るいきさつは、万朝報《よろずちようほう》に明治三十八年七月二十九日から八月一日にかけて掲載されている。
「尾崎三良は……維新の際王事に奔走し後、三条|実美《さねとみ》の隷属たり。三条公の長子|公恭《きみやす》、明治元年をもって留学するにあたり伊藤博文の慫慂《しようよう》により尾崎三良をもってその伝たらしめたり。公恭はバッチャラー・オブ・ロー(法学士)の学位を得たるより明治六年をもって帰朝せしかば、尾崎もまた扈従《こじゆう》して帰朝せしが、尾崎は英国留学中わが政府よりして留学生総代の地位を与えられ、日本の青年としては俊秀の誉《ほま》れ高かりしかば、モリソン博士も深く彼を愛し、ついに一女バチアをその妻に与え同棲を許すにいたりしなり。テオドラ嬢は二人の仲に生まれたる長女にして次はモード、三女は母の名をつぎてバチアという」
厳密にいえば、明治元年に元号が変わる前の慶応四年三月に、三条公恭など八名が英国に渡った。そのなかで頭角を現した尾崎三良が当時五十名ほどいた日本留学生の代表格になったのである。このとき、二十六歳。そして、親日派のモリソン教授のひとり娘と結婚、三女をもうけた。男子も生まれたがこれは死産だったらしい。
この親子で帰国すれば問題はなかった。尾崎三良は単身で帰国したのち、翌年の明治七年に親族が決めていた女性と結婚してしまうのである。
このバサイアとの結婚に関して尾崎がのちになって書いた『尾崎三良自叙略伝』には一言も触れていない。そして、明治二十年に突然こういう文が出て来る。
「五月二十九日、英国にて生まれし長女英子(後に尾崎行雄に嫁せしもの)来着。翌日、同人を携え、白銀猿町にて米国教師ミス・アレキサンダーに至り、暫く同人方に寄宿せしむ。一ヵ月二十五円の約、これは前もって協定しおきたり」
尾崎三良はテオドラの来日に、かなりあわてたようだ。その頃、彼は本妻のほかに愛人もあり、両方に子どもを生ませている。
頌栄女学校教師のキャロライン・アレキサンダーにテオドラを預けた後、続けてほかの日本人宅に預けている。
「七月八日、英子を桜井家に預ける。時に年十七歳。これは桜井の望みにより、米国女教師の家より一旦うちへ引き取り、桜井へ移住せしむるなり。この頃は英語に、舞踏に、もっぱら英国流を模倣することが流行となり、桜井はその便利を得んがためなりと推察せられたり」
このときテオドラは十七歳。当時は年齢をかぞえで書いているため、満でいえば十六歳である。その年齢で、英国から日本に渡って来たテオドラの心境を思うとき、三良の仕打ちが冷たく思える。自宅に入れずに知人宅をたらい回しにしているのだ。日英混血児で、ロンドン育ちだったため日本語はほとんど知らなかったろう。
この明治二十年の『尾崎三良自叙略伝』には英子のことしか書かれていない。姉妹はテオドラ、モード(日本名・政子)、バサイア(日本名・君子)で、このうちバサイアは三良が帰国した直後に生まれている。明治二十年にはそれぞれ十四歳から十六歳だった。この三人がそろって日本に来たならば、三良の自伝に登場するだろうから、このときはテオドラだけが来日したのである。
テオドラは桜井家の住み込み家庭教師となった。これは当時の上流階級で行われたパターンだ。そしてフレンド女学校(普連土学園の前身)の教師をしているうちに英国公使夫人メアリー・フレイザーと知り合い、その秘書となった。
テオドラの母方は、学者一族であった。特に祖父のモリソン教授は伊藤博文、井上馨、末松謙澄など、明治初期に英国留学した日本人学生の面倒を見ていた。三良が帰国したのちは夫人が日本人留学生の下宿を営んで三人の娘を育てたという。とすれば、三良が明治政府に登用されて出世していき、しかも重婚であることはロンドンにもスキャンダルとして伝わったことだろう。
この尾崎三良とモリソン教授令嬢の結婚は、ひょっとすると、近代日本の国際結婚第一号になるのではないか。私はそう直観した。それが立証できればおもしろい。
国際結婚として有名なシーボルトは、日本人女性を現地妻と考えていて、本国に帰ると同国人と結婚してしまった。幕末に来日した外国人も正規の結婚をしていない。幕末に英、米、仏、オランダなどに留学した日本人は百五十五名。留学生たちは若かったので、ラブロマンスはあっただろうが、武士の家柄のためか結婚をしていない。
明治政府が外国人との結婚を許可したのは一八七三(明治六)年である。横浜英国領事から問い合わせがあったのをきっかけに、太政官布告として「日本人、外国人と婚嫁せんとするものは、日本政府の允許を受くべし」と定めている。
これによって結婚申請を出した記録が、外交史料館に保存されている。この記録では、ロンドンにいた南貞助(のちに香港総領事)が明治五年に英国女性エリーザ・ピットマンと結婚したことを届けているので、これまで南が国際結婚一号とされていた。
この外交史料館で国際結婚の書類を探しているうちに、不思議なものを見つけた。明治十三年になって、尾崎三良から井上馨外務卿に「英国人ウイリアム・モリソンの娘バサイアとの結婚願」が提出されていたのだ。そして、同年七月二十六日に、バサイアと尾崎三良の署名の入った婚姻届がある。
だが、翌年七月、ロシア公使館の一等書記官の任期を終えて帰国途中に、尾崎三良はロンドンに立ち寄り、バサイアと協議離婚している。このくだりは『尾崎三良日記』にこう書かれている。
「モリソンならびにバサヤ来る。離縁談あり。協議整い子供は皆|遺《のこ》し、金五百五十|封度《ポンド》を以《もつ》て手切れとす」
これは重婚スキャンダルを井上馨などに指摘されて、離婚するために日本の法律上も結婚したのである。
最初の結婚を裏付ける史料はないかと、英国に出かけた折に探し続けた。そんなころ、耳寄りな話を聞いた。英国では二百年ほど前からの出生届や婚姻届がロンドンのゼネラル・レジスター・オフィスに保管され、人名と年代がわかっていれば探しだせるというのだ。これをケンブリッジ大学の図書館員に頼んだところ、決定的な文書が届いた。
尾崎三良とバサイアの結婚証明書である。日付は一八六九(明治二)年三月四日、挙式の場所はロンドンのパリッシュ教会。これが正式な国際結婚第一号を示しているのだ。
そして、テオドラの出生証明書も入手できた。これによると、一八七〇年十二月十四日に「オエイ・イブリン・テオドラ・トダ」が生まれている。「オエイ」は「お英」であり、日本に来てから「英子」と表記するようになる。トダ姓なのは、尾崎三良は当時、戸田家の養子になっていたためだ。
この出生証明書によると、次女モードは一八七二年、三女バサイアは七三年に生まれている。
さらに、テオドラが単身で来日するまでのいきさつも調べてみた。協議離婚したバサイアは三人の娘を育てていたが、モリソン教授が八五年に死去。尾崎三良が分割払いするという約束だった慰謝料は未払いになっていた。この苦境をバサイアはロンドンの日本領事に訴え、領事は井上馨外務卿に報告する。井上からすれば恩師の娘の危機だから尾崎三良を責める。このため、テオドラが船賃を着払いの形で、ロンドンから日本に渡ってきたのである。
この娘たちが『尾崎三良自叙略伝』に再登場するのは、明治三十二年になってからである。
「八月五日、経済研究会の催しにて帝国ホテルにおいて条約実施祝賀会を開き、外国公使、領事、内外貴紳を招待したり。一同燕尾服を用い、予もまた燕尾服勲章を佩用《はいよう》して、ホテルより馬車を廻させ、英子、政子の二人を伴い出席したり」
また、この年の明治天皇による観菊会には英子を伴って参内している。
この年の夏に、テオドラ、モードの二人は軽井沢に滞在していた。二人を撮影した写真が万平ホテルに残っている。テオドラの娘の相馬雪香が「姉妹三人そろって来日した」と聞いていたのは、テオドラ二度目の来日のときと推察できる。
のちに軽井沢と縁の深くなる尾崎行雄が、この時代に何をしていたかをみておこう。
「母は日本に来てから、毎年夏になると軽井沢に行っていたようです。父は、何度か軽井沢を通ったけど、その良さに気付かなかったみたいですね。父が代議士になった頃、母の父つまり私の祖父である尾崎三良とは政治的に反対の立場にいたんですよ。不思議な縁ですね」
相馬雪香は、両親をしのぶ目つきになる。
テオドラが初めて軽井沢に来た一八九〇(明治二十三)年、尾崎行雄はわが国最初の総選挙によって、帝国議会の衆議院議員となっていた。この当時は選挙権が直接国税十五円以上を納めた戸主である男子に限られていた。このため、大地主か、地方の名士が当選している。尾崎行雄は三重県選出議員である。ちなみに、このときの長野県選出議員は小坂善之助、島津忠貞、堀内賢郎、小里頼永、江橋厚、箕輪鼎、中村弥六、伊藤大八の八名であった。
尾崎行雄は外国帰りの論客としてすでに有名であることが、代議士になる上で役に立っていた。彼は一八五八(安政五)年、現在の神奈川県津久井町に生まれ、十四歳のときに父に従って現在の三重県伊勢市に移った。その二年後上京し、福沢諭吉の慶応義塾に入ったが一年半で中退し、アレキサンダー・ショーの紹介で工学寮(のちの工部大学校、東大工学部の前身)に入ったもののここも一年足らずで退学した。相馬雪香によれば「父はろくに学校へ行かなかったんですよ」と言う。
学生時代から新聞に投稿してその才能が認められ、明治十二年に福沢諭吉の紹介で新潟新聞の主筆となった。このとき満二十一歳にすぎない。しかも十六歳の田中繁子と結婚したばかりで二人があまりに若かったため、新潟に着任したときは書生にまちがえられたというエピソードがある。
新潟に二年いたのち、明治政府の役人になるため帰京。だが、大隈重信一派とみなされた彼は二ヵ月で辞職させられ、これ以降「郵便報知」の論説記者、改進党の代表的な論客として知られていく。
この尾崎行雄が外国旅行をするきっかけを作ったのが尾崎三良である。二人は当時、相馬雪香が言ったように政敵であった。伊藤博文は明治政府の反対勢力を抑えるために、内乱を陰謀したり、治安を妨害したりするおそれのあるものを厳罰に処する「保安条例」を明治二十年暮れに制定した。それを起草したのが尾崎三良であり、明治二十三年には法制局部長、貴族院議員となっている。
この「保安条例」によって尾崎行雄は東京退去命令を受けた。このとき、彼は二十九歳。国内で動きがとれないならばと、アメリカ、イギリスを一年九ヵ月かけて巡遊した。その帰国直後に、アジアで初の議会が開かれて尾崎は衆議院議員に当選したのである。
「父の尾崎行雄は、日本人として初めて軽井沢に別荘を造った八田裕二郎さんと同じように、頭痛持ちだったのです。本人はちょっとユーモアをまじえて、私は生来頭脳が弱くて少し使いすぎるとすぐ頭が重くなったり、眠れなくなったりして、激しい神経衰弱にかかっていた≠ニ書いていますが、当時のことなので幼児期から栄養失調だったのでしょう。だけど、テオドラと結婚したのち軽井沢に来ると頭痛も軽くなったようです」
相馬雪香は、憲政の神様と呼ばれた政治家尾崎行雄のウイークポイントをあっさりと言った。尾崎の名演説がいくつかの政府を倒し、また戦時中には軍部を批判して国賊≠ニ罵倒《ばとう》された。そんな彼が頭痛に悩んでいたのである。
この尾崎は一八九〇(明治二十三)年の国会開設で衆議院議員になって以来、連続当選して、政界のなかの重要人物となっていた。明治三十一年の大隈重信内閣では三十九歳の若さで文相として入閣、三十六年には衆議院議員のまま東京市長となっていた。しかし、私生活では三男一女をもうけた繁子夫人が三十七年九月に死去している。日露戦争のさなかに衆議院議員、東京市長という激務をつとめていた上に妻を失ったのだから、頭も痛かったことだろう。
この直後に彼はテオドラ尾崎と知り合う。この契機となったエピソードが万朝報に載っている。
「今年の一月の頃なりき。外国より尾崎市長の手に落ちたる幾通かの書状のなか、尾崎市長が一向に知らぬ人より来たりしものありき。不思議に思いてよくよくみれば実はミスター・オザキへの手紙ならでミス・オザキへのものなりし。他人の、ことに婦人の手紙を開封したる尾崎市長は一時その始末に当惑し、折しも来たり訪れたる友人にそのことを語り、なおわれと同姓にかく西洋人と交際しおる婦人あるを知れるかと尋ねたるに、その友人はハタと手を打ち、それこそはわがよく知れる婦人にしてかくかくの経歴の人なりと語り、なお君の後妻として彼女をいるる心なきやと斬込みたり」
このときテオドラは慶応義塾幼稚舎の教師とジャパン・ヘラルド紙特派員などをしていた。これをきっかけにして二人の交際が始まり、その秋になって結婚。行雄四十六歳、テオドラ三十四歳であった。
「母は古くから軽井沢に来ていたので、結婚した翌年から父を誘って来たわけです。最初の数年は誰の別荘を借りたのか知りません。私の生まれる前ですもの」と相馬雪香は笑う。
調べてみると、尾崎夫妻は外国人避暑客の中心人物だったセオドア・マクネア(明治学院教師)の別荘を大正二年まで借りて滞在していたことが判明した。
「子どもの頃、私たちは父に言われてよく歩かされました。歩かなければ足が駄目になってしまう、足が弱ったら死んでしまうとね。また、父は乗馬をしていましたから、そのお供であちこちへ行きました。毎朝ですよ。乗馬だと必要な運動が短い時間でできると一番好んでいました。
ここをとっても愛してましたね。電話線が町に入ってもずっと引かないでね、どうしても用がある人はそちらから来い、と。……静かに暮らすことを趣旨にしていたのです」
尾崎行雄とテオドラが馬に乗り、その横を歩くかポニーに乗るかして二人の子どもがついて行った……軽井沢の古い人たちが必ず目撃していた情景が、相馬雪香の口から語られる。これは想像するだけでもうれしくなる情景だ。
尾崎行雄は一九一四(大正三)年に二手橋から碓氷峠に向かった場所に四反六畝ほどの土地を買い、別荘を建てた。そして、この別荘に莫哀《ばくあい》山荘と名づけた。哀しみのない山荘という意味だ。この莫哀山荘という横書きの別荘看板は少し欠けているがいまでも相馬家の別荘にかけられている。
尾崎行雄は自分で「軽井沢が好きなわけ」という随筆を書いている。
「高原はどこでも湿気が強いが、軽井沢は各地のなかで湿気がもっとも少ない。地質と浅間の噴煙のためでもあろうか。
東京付近の高地は、いずれも散歩区域が狭隘《きようあい》で、毎日毎日同じところを往復しなければならぬ。特に私のごとく乗馬運動を好むものには、地域が狭いと愉快が少ない。しかるに軽井沢一帯の原野は甚だ広い」
このように、六項目の理由を挙げ、「世人は多く避暑地として軽井沢に遊ぶが、私は盛夏よりも、むしろその春光、秋色および初夏の風光を愛する。また紅葉上の初雪も捨てがたい趣きがある」(『山荘閑話』)と結論している。
ここに軽井沢の自然を愛している彼の心情がうかがえる。それを相馬雪香に指摘すると彼女はうなずいた。
「そうなのです。母は庭によく草花を植えました。すると、父が落葉をはくとか雑草をとるといった形の手入れをしていたものです。ここから、いまでも別荘の庭は美しい苔が生えているし、野草の宝庫になってます。雑草を抜かないと、苔や野草は死んでしまうんですよ」
莫哀山荘の庭には池が作られ、浅間高原特有の野草が茂っている。その庭にはキツネ、タヌキ、リス、時には熊まで遊びに来るという。
相馬雪香は続けた。
「軽井沢のよかった点は、家族連れで安心して来れる清潔な避暑地だったところです。でも、宣教師たちが作り上げたその清らかな精神性がいまは失われだしている。……それが一番残念に思いますね」
外国人に影響した不穏な政情[#「外国人に影響した不穏な政情」はゴシック体]
第一回の衆議院選挙は、定数三百だった。これが政府側にとっては大誤算の結果を招いた。選挙によって選ばれた党派別勢力は、かつて自由民権運動を展開した人たちが作った立憲自由党百三十名、立憲改進党四十一名と野党勢力が百七十一名の絶対多数を占めたのである。中江兆民は野党勢力を「民党」、伊藤博文派を「吏党」と区別して呼び、それが流行語となっている。
政府を支持する与党、つまり吏党は少数派にすぎない。ここで政府側は予算案を通過させるために四苦八苦することになる。そして、その与野党逆転を狙って、明治二十五年二月、警官などが極度に干渉した総選挙を行った。選挙戦のさなかに流血事件を起こすほどのあくどい不正行為が行われたにもかかわらず、与党側約百三十名、野党勢力約百七十名で、民党派の勝利に終わった。
これらの国内政治の動きが、在日外国人の立場に影響を及ぼしてくる。帝国憲法発布、帝国議会開設という近代国家としての制度の確立を、彼らは当初歓迎していた。
大日本帝国憲法の第二十八条にこう明記されていたからである。
「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」
キリスト教が解禁されたのは明治六年になってからであった。それまでは禁教であって江戸時代からのキリシタン弾圧が続いていたのだし、解禁になったといわれても宣教を黙認するにとどまり、いつまた禁止されるかわからなかった。ここに、初めて憲法で信教の自由が保障されたのである。
キリスト教は事実、明治十年代に急速に信者を獲得していた。教会の数は明治十一年の四十四から十八年の百六十八に、信者数は十一年の千六百人から十八年の一万一千人へと激増している。明治二十一年には一年間で約七千四百名が洗礼を受け、キリスト教信者は約二万四千名になった(「トーキョー・ミッショナリー・コンファレンス」)という。
だが、明治二十三年に発布した教育勅語によって天皇制イデオロギーが明確となり、翌年一月、第一高等中学校教師の内村鑑三が教育勅語の謄本に礼拝しなかった「不敬事件」が発生すると、世論は急速に反キリスト教に走っていった。これと同時に、伊藤博文、井上馨など政府実力者の欧化政策への批判として、民党勢力が国粋主義的に流れる傾向も呼んだ。
この時代における外国人の立場を、婦人宣教師マイラ・A・ビージーは一八九三(明治二十六)年の夏、軽井沢からこう書き送っている。
「ここでは……ご注意を……これまで外国人は異邦人≠ネがら人間≠ニ扱われていたことを存じていましたが、アメリカ人が堂々と通りを歩いていると、若い日本人より日毎に毛唐≠ワたは夷狄《いてき》≠ニいう名称で蔑視する風潮が強くなっていることを感じるのです」
毛唐も夷狄も野蛮な異民族を示す差別用語である。壮士たちがそう呼ぶことで強がった虚勢を見せ、それが一般的風潮になっていった。
政府が近代的西欧文明を模倣した革新派だったのに対し、野党勢力は保守的国家主義を主張するという現象が明治時代なかばに存在したのである。そこで、政府は権力を維持するために反動政策を実施せざるをえなくなる。国家主義、帝国主義への道を全体として進んでいったのである。
この時期に、外国から派遣された宣教師たちは苦境に陥った。直接伝道が困難なため、ミッション・スクールを作ってその生徒にキリスト教主義に基づいた教育をするという迂回した戦術がとられていたが、そのミッション・スクールに入学して来る生徒がこのときに激減したのである。たとえば、欧化政策のときに上流階級令嬢が競って入学した東洋英和女学校は、一八八九(明治二十二)年、二百二十五名の在校生がいたのに、一八九二(明治二十五)年には七十名になってしまっている。地方にあったキリスト教系の英語学校の熊本英学校、北越英学校(新潟)、東華英学校(仙台)などは相次いで廃校となった。代わりに、明治十八年に設立された華族女学校(女子学習院の前身)に入学する上流階級の子女が増えていく。
こんな風潮の時代に、夏になると軽井沢に来る外国人が増えていく。東洋英和女学校の教師もつとめていたマイラ・A・ビージーは前便に続けて同年九月の「ミッショナリー・アウトルック」にこう書いている。
「軽井沢は宣教師たちのリトリート≠ノ不可欠のところです。ここには現在、約四十家族が滞在してます。小さな村の人口は二百人に満たないのですが、クリスチャン・コミュニティーの影響が強く感じられ、それがより濃厚になっていくようです。初期には、各自が椅子を持って宣教師の家に集まり、日曜礼拝をしたものでした。いまでは、コレラ流行のときに救護隊員たちのビリヤード場だった建物を改造した本当の教会≠確保しています」
この教会では、日曜日の朝と夕方に礼拝が行われ、水曜日夜にも祈祷集会が開かれた。これは英語で行われている。日本語の礼拝はそれと別に日曜日午後と木曜日夕方に行われた。また、彼女らと同行して来た二人の女学生によって子どものための日曜学校も開かれ、三十人ほどの児童が集まっている。
彼女が書いたリトリート≠ニいう言葉はいまでもいくつかの大学によって使われているもので、一時退却≠意味する。次への飛躍のためにしばらく静養するのである。
だが、その単なる避難所ではなかった。ビージーはこうも書いている。
「この夏、日本に残っている(同じ布教本部から派遣された)九人の宣教師が集まり、七月十七、十八日に年次総会を開きました。一年間に起こったいろいろな問題を討議し、各地の活動報告を聞き、翌年の方針を決める季節なのです」
すでに単なる避暑ではなく、宣教師による日本布教の作戦会議の場となっていたのである。
碓氷トンネルの開通[#「碓氷トンネルの開通」はゴシック体]
軽井沢で宣教師たちが年次総会を開いていた一八九三(明治二十六)年、軽井沢は新たな交通革命を迎えていた。この年四月一日、横川―軽井沢間の碓氷トンネルが開通し、アプト式軌道と新型機関車によって列車が走ったのである。一年九ヵ月で完成という急ピッチの工事で、建設費は実に十九万二千円。これによって、太平洋側と日本海側が初めて線路でつながったのである。
これほど急いで建設したのは、国家としての形を整えた明治政府の軍事目的にあった。帝国議会の野党やジャーナリズムは、政府がすすめている条約改正交渉はなまぬるく、「朝鮮・支那の傲慢をくじくべし」と対外強硬政策を迫っていた。何か事件が発生したときに兵力、軍需物資をすみやかに輸送できる日本列島横断鉄道の建設は急務だったのである。
もちろん、それは民間にも朗報だった。横川から軽井沢までこの汽車でも一時間十五分かかったが、ともかく朝に東京を出発すると夕方までには軽井沢に着いたのである。このため、夏には外国人避暑客も激増している。
「目下来遊の西洋人無慮百七十名に達したり。来月に至らば三百人の来遊を見るべし」と信濃毎日新聞(明治二十六年七月三十日付)は報道している。このうち八割ぐらいは旧軽井沢に滞在し、二割が碓氷峠に泊まっている。この年、日本人名義にした外国人別荘は二十一戸に達していた。
この記事に、西洋人相手の食品供給状況が載っている。
「牛肉は上州富岡地方より毎日|屠肉《とにく》を運搬す。牛乳平均一日の配達高二斗八升。東京より出店せる亀屋支店はなかなか繁昌せり。果物は小県、埴科、水内より輸送にかかる杏《あんず》、桃の類多く、西洋りんごはいまだ出物少なし、その代価は一貫目六十銭ないし八十銭。毎年、長野・松代地方より持ち来たりて販売するものあり」
すでに牛乳のための酪農牧場は、雨宮敬次郎、稲垣正直などによって始められていた。そして、玉菜または甘藍《かんらん》と呼んだキャベツがこの年から栽培されだしている。
このように、外国人に対応した産業が振興し始めた時期である。
避暑外国人のなかでも変化が起きている。ディクソン夫妻、ラージ夫妻などはハネムーン旅行として最初に軽井沢に来たのだが、こんな外国人の間に子どもが生まれている。外国人は戸籍制度ではなく、教会などへ届ける出生届に生まれた日と場所を明記する。
月給四百五十円だったオランダ人のお雇い土木技師ヨハネス・デレーケ(一八四二〜一九一三)の子どもヘレヌスは「一八九三年八月二十日、軽井沢で出生」と書かれている。これは、当時の軽井沢に出産を安心してゆだねられる外国人医師と看護婦がいたことを証拠づける。
軽井沢に来る外国人は多岐に渡っていた。英国公使、政府お雇いの外国人技師、大学教師、宣教師……。在日外国人のほとんどであり、経済的にも恵まれている。
これらの人たちのなかで、主導権を握っていたのは誰だろうか。その初期にはアレキサンダー・ショーだったことが、聖公会の会報「日曜叢誌」(明治二十三年九月一日号)でうかがえる。
「毎週金・日の両曜日、説教会を開き、あるいは説教にあるいは訪問に福音伝播に尽力せり。小生らの尽力空しからず、八月上旬受洗志願者男女合わせて五名を出せり。目下ショー氏は各週水・土両日佐藤國三郎君の宅に出張して前記志願者受洗準備のため彼らを教訓せらるる」
亀屋主人の佐藤万平(國三郎)が地元の仲介役となり、ショーやその弟子と一緒に、沓掛、小諸、田中、中込まで伝道に歩いている。
だが、ショーの宗派は、カトリックとプロテスタントの中間に位置するようなイギリス国教会(聖公会)である。牧師職を司祭≠ニ呼び、礼拝も儀式ばっている。
これに対し、ほかのプロテスタント(新教)は、形骸化したカトリックを批判して生まれただけに、形式にこだわらず、神と個人の問題としてとらえる。それゆえに、自律的であり、勤勉、自助、倹約といった精神性を備えている。もっともここに解釈のちがいが出て来て、いろいろな小セクトが出て来る。
この頃、軽井沢に来ていた宣教師の多くはプロテスタントだが、長老派、メソジスト、フレンド派、組合派など各自が派遣された布教本部の勢力を拡大することも狙っていた。この小セクトによる論争が、明治日本の人たちにとってわかりにくかったこともあって、国家主義台頭の時期に信者が減っていったのだ。
そして、明治二十六年には、軽井沢で聖公会とプロテスタント諸派による対立が起こっている。
「目下当地にある宣教師マクネア氏とショー氏の間に葛藤生ぜり。原因はマクネア氏が昨年来岐阜震災(注・明治二十四年の濃尾大地震で死者七千名以上)の貧民を救助しつつありしが春来にいたり該貧民の疥癬《かいせん》病すこぶる流行伝播するより同地にひとつの避難病院ようのものの建築をなさんとすでに工事の準備まったくなれるより、ショー氏は避暑好適の仙境にかかる建築物は見あわすべしと故障を申し出しより、ひとつの葛藤を生じ、来遊外人もかれこれ両派にその意見を通じ、佐藤万平氏のごときもかれこれの間に板ばさみになり当惑しおれり」(信濃毎日新聞、明治二十六年七月三十日付)
マクネアは明治学院の教師であり、この当時、頌栄女学校教師のキャロライン・アレキサンダーと再婚していた。長老派宣教師だったが、比較的セクト色は薄く、賛美歌の編集に力を注いでいた。このマクネアが次第に軽井沢避暑外国人の中心になっていく。
「万平ホテル」の誕生[#「「万平ホテル」の誕生」はゴシック体]
この時代の国際情勢を見ておかねばならない。憲法発布、国会設立という近代国家の形を整えて西欧先進国とならぼうとしたときに世論が反動的になっていったのは、天皇制イデオロギーの確立と同時に、外交関係の緊張があったからである。
産業革命によって世界の工場≠ニ呼ばれるほど超大国となっていた英国は、イギリス本国の人口と商品をさばくために新領土を必要とし、大英帝国として膨張を続けていた。オーストラリア、カナダといった広大な領土のほかに、エジプト、インド、英領マレー連邦などを掌中におさめている。アフリカ、アジアはこれら英仏独蘭など西欧列強の植民地として分割されていた。新興工業国のアメリカも目を外に向けだしている。未開の諸民族を文明化することが、「神によって白人に与えられた責務である」という考え方が西欧人のなかに定着している。この文明化論とナショナリズムが統合されて、対外進出を正当化していた。
このときに、日本国内で沸騰していた議論は各国との条約改正問題であった。明治維新前に各国と結んだ条約は治外法権などきわめて不平等なものであり、明治政府はこれを改正するために苦労を重ねることになる。そして、明治十九年から列国共同の条約改正会議がようやく開かれだした。そして、二十一年に日本=メキシコ通商航海条約を調印したのを皮切りに、日米、日独、日露の新条約が調印されている。この改正によって、治外法権も税法上の特権もなく、両国とも内地を開放することを約束した対等なものとなった。残るのは大国相手の日英条約であった。
大隈重信が外務大臣としてこの交渉にあたったが、外人の裁判は外人判事が行うなどの条項があったため、国粋主義者たちによってその軟弱外交の非難の声が高まった。そして、大隈は明治二十二年十月十八日、爆弾を投げられて負傷、日英交渉も中断してしまったのである。
西欧列強の帝国主義への道と、国内のナショナリズムの台頭は、表裏一体となっていたといえる。また、この時代に日本の第一次産業革命が発生している。日本の人口は約四千万人になり、東京市は百三十七万人(明治二十二年)と都市化が進んでいた。
軽井沢の旧宿場町は、住民たちが知らないうちに地元以外の資本で動きだしていた。碓氷トンネルの工事にあたった鹿島組の鹿島岩蔵がホテル建設の必要を説くなど、都会人が軽井沢の経済、行政に口をはさみだす。
また、これまで明治三十七年に三笠山のふもとの湯沢一帯の二十五万坪を買ったと伝えられてきた東京の銀行家・山本直良(十五銀行役員)は、実際には明治二十六年に十万坪を買い取っていたことが土地台帳を見ると判明した。これは新発見である。このとき、山本直良は二十三歳。「彼の父・山本|直成《なおしげ》が抵当流れになった土地を直良に与えたと聞いています」と山本家の子孫は語っている。
日英条約の改正問題が切迫していた一八九四(明治二十七)年、急激な変化がいくつか発生した。まず、その折衝に苦労を重ねていた駐日英国公使ヒュー・フレイザーが五月九日、東京で急死したのである。その葬儀の様子を、ベルギー公使ド・アネタン夫人はこう書いている。
「衛兵に先導され、また六十台を超す馬車と大群衆につきしたがわれ、フレイザー氏は青山墓地に永眠しました。夫と私も葬儀に参列しました。大変痛ましく、あまりにも悲しい葬儀でした。フレイザー夫人の胸中が思いやられました」
この初夏にメアリー・フレイザーは悲しみを抱いて日本を離れる。だが、英国人の彼女が「私のふたつの本当の故郷、日本と南イタリア」と呼ぶように、日本の印象は美しい思い出としていつまでも残ることになる。この離日にあたってテオドラ尾崎を同行していったのである。
その英国公使の死と関係なく、対外強硬派の政治家たちは政府の外交政策を糾弾する国民運動を展開し、第六議会が開かれると政府弾劾上奏案を五月三十一日、百六十対百三十二の大差で衆議院を通過させてしまった。伊藤博文首相、陸奥宗光外相は顔色を失った。折しもロンドンで日英通商航海条約の改正案調印の寸前になっていたのだ。
政府は苦境に立った。しかし、そのとき、朝鮮半島に戦火が上がった。世論は急転回する。日清戦争へと官民すべてがなだれ込んでいったのだ。伊藤博文首相は六月二日、衆議院を解散し、四日、アジア大陸への出兵が開始された。その後の日本国家の政治、経済、社会すべてに深刻な影響を及ぼすことになる最初の戦争が始まったのである。
日英新条約は七月十六日、ロンドン駐在の青木周蔵公使と英国のキンバーレー外相によって調印された。これによって、治外法権が撤廃され、五年後の明治三十二年から外国人が好きなところに住める国内雑居≠燒セ文化されたのである。
こんな外交上の動きによって、軽井沢の外国人の動きも徐々に変化していく。外国人が次々と日本人名義で土地を買いだしている。翌年(明治二十八年)に長野県知事から西園寺公望外務大臣臨時代理に報告された文書では、それまで別荘を持っていたセオドア・M・マクネアが新たに一万三千坪を買い取って三軒の別荘を建てている。
また、軽井沢の住民にとって画期的なことは、旧道通りの「亀屋」が「万平ホテル」と改名し、横文字の看板を掲げたことにある。亀屋という言葉は外国人に発音しにくい。そこで亀屋主人の名前をつけたのである。また、当時の写真を見ると佐藤万平(國三郎)ほか何人かは洋服を着ている。古い紅がら格子の窓とガラス窓の両方を使った和洋折衷の建物だが……文明開化が浅間山麓でも本格的になりだしたのである。
宣教師たちの国際会議[#「宣教師たちの国際会議」はゴシック体]
外国人向けのホテルができ、別荘が増える……これには何らかの積極的な理由がなければおかしい。私はここに疑問を抱いていた。確かに、外国育ちの人には東京は「耐えがたいほど暑く、湿度が高い」(英国公使夫人メアリー・フレイザー)のだが、それだけの理由では軽井沢が発展していく理由にならない。明治時代の外国人はしきりに旅行し、高温多湿の夏の東京から逃げだしていた。日光、箱根、宮ノ下、熱海、伊香保、鎌倉などで、涼を求め、温泉に入り、くつろいでいる。特に箱根、日光は早くから避暑地として知れわたっていた。そちらに行く外国人もいただろうが、なぜ軽井沢に集中して来たのか。
この疑問に明快に答えてくれたのは、外国の資料による文書であった。一八九四(明治二十七)年、「ミッショナリー・アウトルック」(同年十一月号)に「軽井沢会議」という報告が載っている。
「軽井沢は標高三千フィート。日本のなかでもっとも富みかつ広大な地方・信州の東側県境に位置し……」と地理的な説明から始まっている。ここに、峠を越えて、辺境の地に来たという気配を感じる。都会の日常性を断ち切り、高原に遊ぶ。そのために、ほどよい距離だったのだ。もっとくだけていえば「ひとやま越えた別天地」という実感があったのだろう。
そこで日常生活のストレスを解消する。リラックスした時間を共有することで、独身者や未亡人たちの間でロマンスも芽生える。そんな甘い雰囲気も書かれている。
そして、明治二十七年に開催された「軽井沢会議」の持つ意味が重要である。それまで派遣された布教本部の宗派ごとに年次総会を開いていたプロテスタント宣教師たちが、超教派で、しかも中国大陸への赴任者も駆けつけて、国際会議を開いたのである。中国大陸沿岸の厦門《アモイ》、蘇州《スーチヨウ》だけでなく、内陸奥部の重慶《チヨンチン》からも参加している。日本全土にいる宣教師も集まった。
彼らは八月十二日から十九日にかけて、早朝から深夜まで、礼拝し、現地報告をし、研究論文の発表などを行った。参加外国人は約二百名。
ここで彼らが軽井沢にやって来た理由は、個人的な夏季休暇でなくなっていることに気付いた。宣教師たちが本国へ帰ろうとすると船しかない時代なので片道だけで一ヵ月近くかかる。その代わりに、軽井沢に集まってアジア会議を開いたのだ。言い換えれば、宣教師が軽井沢に行くことは公務≠ニなっている。その経費は本部から支給されるから、必要経費として計上できる。いくらかかってもかまわないのだ。
こんな公務だから、はるばると重慶や厦門から船に乗ってやって来る。当然、滞在期間が約二ヵ月と長くなる。その期間を快適に暮らすために、西洋式ホテルや別荘が必要だった。宣教師がひとりで何軒もの別荘を建てたのは、これらの遠来の客を泊めるためだったと、ここで初めてわかったのである。
こんな時代を、軽井沢の人たちはどう見ていたか。その資料は皆無に等しい。万平ホテルさえも、その屋号で横文字の看板を掲げてホテルに転身した年を長い間明治二十八年と書いていた。数年前に、旧本陣の家を継いだ佐藤芳信(熊六の長男)の日記から、ホテル開業は明治二十七年とわかったばかりである。
だが、日清戦争が始まった年であり、日英新条約が結ばれ、アジア地域の宣教師による「軽井沢会議」がスタートした明治二十七年に、万平ホテルが開業したということがわかるとすべてはしっくりと納得できる。日本がアジアに目を向け始めた時期であり、これ以降、富国強兵政策が急ピッチで進められていく。
逆にいえば、日本在住の外国人の立場が微妙に揺れ動いていた。彼らにすれば、日本情勢、アジア情勢、そして世界情勢に目を配っていなければならず、そのための情報交換が必要だったのである。
初期避暑客と軽井沢の住民が交流した光景を象徴した 写真が残っている。旧道通りのはずれにある芭蕉句碑の前で、中央に自転車を持った外国人女性が立っている。その背後に女性と子どもたち。そんなモダンな装いと対照的に、左側にはマキを積んだ荷車と素朴な表情の村人が写っている。
これは多くの資料で「明治二十四、五年頃撮影」と書かれている。それが正しいかを点検してみる。
撮影したのは、聖公会中部教区の宣教師ジョン・C・ロビンソンである。彼は一八八八(明治二十一)年九月、カナダのトロントにあるウイクリフ伝道協会から日本へ派遣された。出身地はアレキサンダー・ショーと同じであり、ともにイギリス国教会だから最初はショーの助言を受けたが、名古屋地区で独自の布教活動をすることになる。
このロビンソンが当時としては珍しい写真技術を持っていた。写真は一八三〇年代に発明され、ビクトリア朝時代の英国ブルジョワジーが愛好したことで急速に発展した。ヨーロッパ、米国でも上流階級が使った。それを宣教師が趣味としてと同時に伝道の記録として使ったのである。これが軽井沢にとってさいわいとなる。避暑客が来だした明治二十年代から三十年代に撮影された軽井沢の写真はほとんどロビンソンが撮ったもので、後になってロビンソンの娘が持参したアルバムを複写したことで、記録として残ったのである。
さて、芭蕉句碑前の写真に写っているのは誰か。手前中央にいるロングドレスの女性は、明治三十二年より、名古屋で柳城幼稚園、柳城保姆養成所(現在の柳城女子短大)を創立したマーガレット・M・ヤングである。芭蕉句碑のすぐ横にいるのがロビンソン夫人。聖公会の歴史研究会員であり、柳城女子短大指導牧師である大江真道はこう断言する。
「中央にいる女性はマーガレット・ヤングにまちがいない。でも彼女がカナダから日本に派遣されたのは一八九五(明治二十八)年。だから、早くて明治二十九年か三十年の撮影でしょう。それより遅いことはあっても、明治二十四、五年ということはありえません」
[#写真2(fig2.jpg、横440×縦319)]
第二の開国「国内雑居」[#「第二の開国「国内雑居」」はゴシック体]
ホテル創立の年を、万平ホテルだけでなく、旧本陣だった佐藤熊六が始めた軽井沢ホテルも一年ずれて記録されていることに気付く。その子孫である佐藤芳寿が『先祖を想う―続篇』という私家本を出版している。そのなかに軽井沢ホテル創業をこう書いている。
「明治三十二年十二月二十七日、本陣建物を取りこわしてその跡に建てられた洋式ホテルが竣工し、翌三十三年のシーズンから開業するにあたって、織衛は家督を熊六に譲り、軽井沢ホテルは熊六の手によって営業を開始した。その時、織衛の齢六十一歳、熊六は四十歳、芳信は十一歳であった」
この佐藤織衛が筆まめな人物であることは以前に紹介した。彼の記録にそう書かれているというし、また、明治三十三年七月十二日開業として税務署に届け出した文書も佐藤家に保存されている。
だが、信濃毎日新聞の明治三十二年七月十六日に次の記事が載っている。
「外人避暑地なる軽井沢には従来洋風旅舎は万平ホテルのみなりしが、昨年来同地有力家共同して軽井沢ホテルなるものを設け、数日前開店したるが広く内外人の宿泊に応ずる由」
ここで、実際には三十二年に開業し、税務署への届けは一年ずらしていたことがわかる。資本金三万円と書かれているから、当時のお金ではかなりの額である。資金繰りが大変なので税務署は一年間、目をつむっていてくれたのであろうか。それとも未完成の部分を残したまま、客を泊めたのだろうか。
この軽井沢ホテルはすでにない。現在の旧軽井沢の聖パウロ教会あたりで、昭和十三年まで営業していた。これが軽井沢における純洋式のホテルの最初であった。
旧本陣時代の日本庭園を残しながら、建物は美しい二階建て。玄関を入ってすぐ左手にフロントがあり、その前は広いホールとなっていた。ホールの奥にレストランと娯楽室がある。客室は一階十一室、二階十九室。全室ベッドを使っている。のちに、ここのレストランは青い応接室≠ニ呼ばれて、多くの文学者や政財界人に愛されるようになる。
たった一年のちがいだが、この明治三十二年創業という意味は大きい。この年が、外国人が待ち望んでいた国内雑居≠フ始まった一八九九年なのだ。そして、アジア地区の宣教師による「軽井沢会議」のために、一挙に九百人の外国人避暑客(信濃毎日新聞、同年七月二十六日付)となっている。
そして、外国人に交じって、日本人避暑客は「毛利公爵、松平侯爵、末松男爵、八田海軍大佐、原六郎氏、西川農学士、桂子爵令嬢、尾崎三良男爵の令嬢、川田男爵令息令嬢」(同、八月二十二日付)と報道されている。このうち尾崎三良の令嬢はテオドラたちのことである。華族、ブルジョワジー、学者など、日本のトップクラスが集まりだした。軽井沢は新しい雰囲気に包まれ、一段と活気をおびていた。
国内雑居……これは第二の開国であった。
この時期に、日本の言論界はそれをめぐって大論争が起こっている。明治時代に出版された外交関係の書籍で国立国会図書館に所蔵されているものは「内地雑居後之日本」といった類書がとび抜けて多いことでもわかる。
徳川時代の長い鎖国の後、幕末に日本は開国した。だが、このときは居留地と定めたところにしか外国人は住めなかった。
それが、日英新条約によって、明治三十二年から外国人はどこにでも住めるようになったのである。
改正条約の第一条にこう定めている。
「両締盟国ノ一方ノ臣民ハ他ノ一方ノ版図《はんと》内ニ於テ其ノ国ノ法律ニ遵由《じゆんゆう》シ、何《いず》レノ所ニ至リ、旅行シ或ハ居住スルモ全ク随意タルヘク、而シテ其ノ身体及財産ニ対シテハ完全ナル保護ヲ享受スヘシ」
条約は対等だから、日本人が英国へ行く場合には都合がよい。旅行の自由、居住の自由を獲得したことになる。問題は日本国内であった。習慣はちがい、思想もちがう外国人が自由気ままに旅行し、好きなところに住む。外国人に慣れていない日本人社会に、恐慌状態に似た心理が働いた。また、当時の外国人はけたちがいの経済力を持っている。その営業の自由も認めているから、外国資本によって植民地化されかねない。日本はまだ発展途上国であった。
つまり、維新前の開国は玄関を開けたにすぎない。今度は奥座敷まで上がり込んでよいことになる。
この国内雑居が正式に実施されたのは、明治三十二年七月からである。その直前の四月十日に、政府の最高実力者である伊藤博文が長野市にやって来た。一行約二十名。この伊藤博文を一目見ようと長野の沿道は人波で埋まっている。
この日、城山館で開かれた歓迎懇親会で、伊藤博文は、外国人の国内雑居問題についてこう述べている。
「すでに改正条約により、一国の権力もしくは権利を得たるについては、これに附帯する義務なかるべからず。即ち日本における各国人の生命財産を日本帝国のもとに支配するについては、内外人の区別なく、完全なる保証を与えざるべからず。この事を完全に行うことはもっとも大切なれば、この準備をなすことは今日の急務なり。……進歩とは文明国と同様にすることにして、条約に規定せるごとく土地所有は許さざるも商業の自由、移転の自由等のこと、いずれも内外人の差別なく、伯仲の間を保たしめざるべからず」(信濃毎日新聞、同年四月十二日付)
伊藤博文は前年六月まで第三次伊藤内閣を率いていた。このときの首相は山県有朋だったが、明治三十三年十月から第四次伊藤内閣を組閣することになる。
伊藤博文の女婿[#「伊藤博文の女婿」はゴシック体]
伊藤博文が長野に来たとき、その一行のなかで伊藤の側近役は尾崎三良であった。歓迎祝宴などでは、尾崎が一行を代表して挨拶をしている。
これが『尾崎三良自叙略伝』に書かれていて、彼らは長野市に来る前日、軽井沢に一泊していたことがわかった。これが当時の軽井沢の様子をしのばせる。彼らは四月九日午前八時四十五分に上野を出発した。
「午後三時、軽井沢に着す。雨宮敬次郎別荘に入る。停車場より約二十|丁《ちよう》、荘構造随分広し。長野より警部及び小坂善之助(銀行頭取)等迎えとして来る。酒飯中余興、義太夫、横山、杉田歌舞。(伊藤)侯初め賓主とも大声放歌、共に興に入る。夜十一時寝に就く。寒気甚だし。
翌十日朝、庭前に於て侯以下一同十六、七名記念撮影をなし、庭後の丘山に登り雨宮開墾地を瞰《かん》下す。一望|茫《ぼう》然、所々|落葉松《からまつ》を植ゆ。地味|瘠鹵《せきろ》にして植物甚だ鈍し。穀物、蔬菜に適せず。これ天明度浅間嶽噴火併発、焼石堆積、青草木| 悉《ことごと》く枯る。爾来百数十年数々開墾を試みたる者ありといえども、瘠地なるを以て未だ之を果さず。雨宮氏数千町歩を官より得て、落葉赤松等を移植すること数千本、猶|孜々《しし》として怠らず」
山梨県生まれの雨宮敬次郎(一八四六〜一九一一)が軽井沢開発に乗りだしたときに造った豪邸に、彼らは泊まったのだ。これはいまでも雨宮御殿≠ニ呼ばれて現存している。雨宮は明治初めに横浜で蚕種紙貿易、為替、株相場などで財産を築き、この頃は武相鉄道、東京市街鉄道などを経営していた。
尾崎が「数千町歩を官より得て」と書いている雨宮敬次郎の開墾地は地元で「官有地五百町、民有地六百町を明治十六年に十七万円で買収した」と伝えられていた。だが、実際にはともに誇張した数字で、古い土地台帳を調べてみると合計約八百四十町である。坪数にすれば約二百五十二万坪。雨宮自身が大げさに吹聴したのかもしれない。でも、軽井沢で最大の大地主になっていたことは事実である。そして、この時代にすでに落葉松を植林していたことがわかる。
伊藤博文一行は、四月十日から十二日を長野で過ごした。その後の『尾崎三良自叙略伝』に不思議な記述がある。
「十三日、本日午前九時出発して帰京せんとするに、早朝より来訪者|揮毫《きごう》を乞うもの多く、腕の続く限りこれを揮《ふる》いたるも、出発の時刻に迫りたるゆえ数十枚を遺し出立す。旅店の支払いをせねばならず、荷物を結束する等なかなか多忙なりし。荷物等は洵若《のぶわか》(長男)もこれを斡旋し、九時一同腕車(人力車)にて旅店を出、九時三十分汽車発し東京に向かう。送るもの堵《かき》のごとし。伊侯は軽井沢に下車し、予は予期のごとく七時上野に着す」
伊藤博文だけが、帰りも軽井沢で下車してしまったのである。ここで何があったのかを探らなければならない。
そのヒントは伊藤博文が長野に到着したことを報道した信濃毎日新聞の別のページに載っていた。
「四月十日午後四時九分東京特電
末松謙澄氏の一行は明朝出発信越巡回の途に就くはずなり」
憲政党の遊説会が十八日上諏訪、二十六日中野で開かれ、そこで末松が演説する予定になっていることもベタ記事で書かれている。つまり、十一日に東京を出て、十八日に上諏訪に行くとすれば、その間が空きすぎていることになる。
ここで、末松謙澄は十一日に軽井沢に入り、別荘に滞在。その別荘を訪ねるために伊藤博文が十三日に軽井沢で途中下車したと推察できる。末松謙澄は、明治二十二年に伊藤博文の次女、生子《しようこ》と結婚している。伊藤の方からすれば女婿である。
ここで補足する。伊藤博文には男の子どもがなかった。長女・貞子は伊藤が兵庫県知事をしていた明治二年に死去している。このため、次女・生子をかわいがって育てたという。その愛娘を、維新前には敵対関係にあった小倉藩の豊前人である末松謙澄に嫁がせたのだ。末松の才能を高く評価していたのだろう。末松は伊藤から養子になることを要請されたがついにそれに同意しなかったと伝えられている。
その末松謙澄が、明治三十年九月に旧軽井沢の二手橋そばに二反五畝二十歩と一畝九歩の土地を買っている。その翌年の三十一年に、「泉源亭」と名づけた別荘を建てたのである。三十二年にはアレキサンダー・ショーが持っていた土地七町八反三畝も買い取っている。この建物は改修された部分もあるが、いろいろな歴史ドラマの舞台となりながら、いまでも使われている。
末松謙澄がこの時期に別荘を建てたという意味は大きい。
彼は一八五五(安政二)年、現在の福岡県行橋市に生まれ、東京の師表学校(のちの東京師範学校)に入学したが中退して東京日日新聞(毎日新聞の前身)の記者をしているときに伊藤博文と知り合った。そして、明治十一年に、在英日本公使館一等書記生見習いの資格で渡英、ケンブリッジ大学で文学と法学を学んだ。このときに『源氏物語』を初英訳して世界に紹介している。これにはテオドラ尾崎の祖父モリソン教授の強い支援があったといわれる。
一八八六(明治十九)年に彼は帰国し、伊藤博文の娘と結婚したのち、第一回衆議院議員選に当選。男爵となり、貴族院議員となっていた明治三十一年には、第三次伊藤内閣の逓信大臣に任命されている。
伊藤博文からすれば、彼の欧化政策を象徴するホープが末松謙澄だったのだろう。その末松が、在英時代の経歴と人脈をいかして、軽井沢に豪華な別荘を建てた。女婿であり、子飼いの政治家でもある末松の別荘を訪れるのは自然の情である。また、国内雑居を目前にして、外国人が日本人名義で続々と別荘を建てていた軽井沢を自分の目で見ておく必然性もあったと判断できる。つまり、ここでは国内雑居が実質的に進行していて、そのモデルケースとなっていたのだ。
キリスト教教育の禁止[#「キリスト教教育の禁止」はゴシック体]
外国人からすれば、国内雑居が許されたことは朗報と思えただろう。だが、それが許された明治三十二年七月を迎えて喜んだのはつかの間のことで、翌八月にはキリスト教系私立学校を震え上がらせる事態が発生した。八月三日に文部省訓令第十二号が全国に発令されたのである。
「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムルハ学政上最モ必要トス。ヨッテ官立公立学校及ビ学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行ウコトヲ許サザルベシ」
この狙いは、私立学校におけるキリスト教教育の禁止にある。この訓令を拒否するならば、尋常中学校の特典が奪われ、それまで免除されていた兵役につかざるをえなくなり、高等学校入試を受ける資格もなくなり、このため学生も集まらなくなる。中学校として存立するか、それとも宗教教育を貫き通すか……二者択一を迫られたのである。
この訓令が発せられたとき、ほとんどの宣教師兼私立学校教師は軽井沢に集まっていた。そこにニュースが飛び込んだのである。明治女学校、女子学院、頌栄女学校などごく少数の日本人によって作られたキリスト教学校を除いて、多くのミッション・スクールは海外の布教本部の資金と熱心な外国の信者の寄付によって創立されており、運営費や教師の給料の仕送りも受けていた。これらはキリスト教布教という大前提の上に立っている。その聖書教育や礼拝が許されないならば、学校として続ける意味もなくなってしまう。日本派遣の宣教師の立場が根本から揺らぐ。
この日本政府の訓令とその対策を長文で綿密にカナダに書き送ったのは、ダニエル・ノーマンであった。
「この訓令が発令される以前に、文部省の高等教育会議で審議されて、三人は強く反対した……このうちのひとりは長老派クリスチャンの島田三郎、もうひとりはメソジスト信者の江原素六です。この会議には明治天皇が臨席していたことを最近知りました」
この島田三郎は第一回の衆議院選挙以来、連続当選していた政治家で、木下尚江らと廃娼運動、田中正造らと足尾鉱毒事件などにかかわった自由主義者である。江原素六もやはり第一回議会より衆議院議員となり、この当時は憲政党の領袖《りようしゆう》であり、東洋英和学校の校長をつとめていた。
「明治学院は訓令を拒否し、尋常中学校としての特典を返上しました。でも、麻布にある私たちの学校は通常のように続いてます。ただし、二つのことを除いて……礼拝が正規授業中になくなったこと、宣教師の授業が実用的なものに変わったことです」(「ミッショナリー・アウトルック」一九〇〇年二月号)
ノーマンの報告はこういうさりげない結論で終わっている。これは、東洋英和学校(麻布高校の前身)がキリスト教教育を放棄したことを意味しているのだ。これを書いたノーマンは、一八九七(明治三十)年にカナダより来日、金沢に赴任した後、このときは東京にいた。そして、明治三十五年に長野に赴任することになる。
この一八九九(明治三十二)年、軽井沢の外国人は約九百人にのぼり、それにまじって上流階級の日本人も来だしている。ここでリゾートとして急成長しだしたのだ。彼らがどんな生活を送り、どんなドラマがあったのか。興味はそこに行くのだが、やはり史料が極端に少ない。
その前年の明治三十一年七月三十日に、長野県知事園山勇から大隈重信外務大臣に提出された外国人所有の土地家屋調査表が残っている。この後、国内雑居が許されたため、翌年からこの報告はなくなっている。ここには、土地家屋の所有者二十五名、家屋のみの所有者十九名、旅館営業者一名の合計四十五名の外国人氏名が明記されている。
このほかに、万平ホテルは明治三十一年に洋館を新築しているし、鹿島岩蔵は明治二十六年に約一万坪の土地を長野県から払い下げを受けたのだが、この頃そこに外国人向け貸別荘を五棟建てている。こんな宿泊施設を利用して、人々は夏を過ごしたのだ。
もっとも、最初に避暑に来だした人の立場で数えればすでに十年以上過ぎている。この間にいくつかのドラマはあった。
まず、初期避暑客の代表的カップルだったラージ夫妻の身の上に事件が起きた。東洋英和女学校の女性校長だったイライザ・ラージが構内にあった校長宅で就寝中、強盗に襲われたのである。夫のトーマス・アルフレッド・ラージは日本刀で十数ヵ所を切られて即死、ラージ夫人も左の額と右指を切られた。これは一八九〇(明治二十三)年四月のことである。イライザ・ラージはその後もカナダ、日本を往復し、一九〇一(明治三十四)年まで日本で伝道し、婦人矯風会の運動にも協力している。
また、軽井沢で明治二十九年、赤痢が発生し、外国人避暑客にも感染者を出している。当時の報道記事によれば少なくとも三人の外国人が赤痢患者となり、イギリス人の子どもが死去している。また、慶応義塾大学理財科(現在の経済学部)教授だった米国人ギャレット・ドロッパーズの夫人はこの年に軽井沢で病死≠オたと伝えられていたが、実際には赤痢で死亡したと推測できる。軽井沢の外人墓地に、一八六一年十一月十二日生まれ、一八九六年八月十七日死去と刻まれた墓が残っている。ドロッパーズ自身はその二年後まで慶応義塾に在職し、帰国してからはサウスダコタ州立大学総長に就任した。
こんな時代の軽井沢を報道した記事のいくつかを集約してみると、「室内の遊びよりも室外の快楽を好み」、乗馬で走り、「自転車を駆りてその技を競い」、野原で読書を楽しみ、「男女の群れをなして行き交い」、樹陰に楽器を置いて演奏し、「老若男女入りまじって玉投げにふけり」といった具合である。これらの描写から受ける印象は、若々しく、活発で華やかで、ロマンチック……甘酸っぱい青春の香りが漂っている。
スポーツや音楽を楽しむ外国人[#「スポーツや音楽を楽しむ外国人」はゴシック体]
「あの頃、外国人は日本に少なかったんですよ。東京に住んでいても、ふだんは会うことがないでしょ……だから、軽井沢に来るのが楽しみでした。みんな寂しかったのです。特に子どもたちは大喜び。日本だけでなく、アジア全域から外国人家族が集合したのです。他国にはこんなユニークな避暑地がないと思いますよ」
明治時代から軽井沢で避暑をしていた外国人を、私は長い間探していた。残っている資料をあさるという作業は歴史の傍証ではあるがリアリティーに欠ける。ナマの証言がぜひ欲しかったのである。ところが、困ったことに現在の軽井沢には外国人別荘がほとんどない。なぜそうなったのか……それはこのドキュメントの骨格の一部になるのでゆっくり解きほぐしていくつもりである。
だが、ついに明治時代から来ていた外国人に出会うことができた。エロイーズ・カニングハム(青少年音楽協会会長)である。一八九九(明治三十二)年生まれだから、現在九十一歳。旧軽井沢の愛宕山中腹にある別荘に、妹のドリス(八十八歳)と滞在していた。
「私が三歳だった明治三十五年に、両親は軽井沢に来だしたのです。それ以来、日本にいる間は毎夏、来ています。妹のドリスはその最初の年に軽井沢で生まれたのですよ」
その言葉に、エロイーズの傍らでドリスが笑う。老婦人二人の別荘生活である。暖炉のある広いリビングルームはきれいに整頓され、アンティークな家具がさりげなく置かれている。音楽家としてのセンスのよさがうかがえる。
「最初の二、三年は別荘ではなく、旅籠に泊まりました。これ、軽井沢の人たちも忘れていることですから、ぜひ言っておきたいですわ。泊まった旅籠は『佐忠』という名前のすばらしい建物でした。いまでもよく覚えています」
「佐忠」は厳密にいうと旅籠ではない。軽井沢宿の脇本陣のひとつだったが、この頃は外国人を泊めていたことがわかった。
「表と裏にきれいな日本庭園がありました。また、小さな庭がほかにもいくつかあって、小川が敷地のなかを流れていたのです。私たちの家族が泊まった部屋は、江戸時代に大名が泊まった部屋でした。ほかの部屋より少し高く造ってあってその周囲に廊下……この廊下を歩くとギッギッギッと鳴って、警備の武士たちが見張っていたそうです。襖《ふすま》は絵柄入りの木製、欄間などには美しい細工がされていました。こんなすばらしい建物がどうして保存されていないのか、残念ですわ」
この「佐忠」の敷地を調べてみると、明治三十八年に他人に譲り渡されている。その後ここに軽井沢郵便局の建物が建てられ、その建物を活用して現在の町営観光会館となっている。
それにしても、エロイーズ・カニングハムの記憶の鮮明さに驚く。彼女が「佐忠」に泊まったのは、八十六年から八十八年前のことである。
彼女の両親はどんな人だったのだろうか。
「父はウイリアム・カニングハム、母はエミリーです。二人は一九〇一年十月に来日しました。このとき、父は二つの仕事を持っています。ひとつはプロテスタントの宣教師。もうひとつは学校教師……こちらは学習院とさらに別の私立学校で英語を教えていたはずです」とエロイーズは言う。
このウイリアム・カニングハム(一八六四〜一九三六)は、米国ペンシルベニア州生まれ。ディサイプルス教会の宣教師として日本布教を願っていたが左手足が不自由だったため何回も断られた。そこで、ついに自給伝道師として、つまり布教本部の支援なしの宣教師として来日する。当初は英語教師で生計を営んだようだ。その後、東京の四谷教会を任され、のちには教会二十六を組織し、日本、朝鮮、中国、台湾にまで伝道して約五千名の信者の先頭に立つことになる。
エロイーズが子どものときに見た軽井沢の外国人の生活ぶりはどうだったのか。
「東京では周囲に英語で話せる友だちがいないので、子どもたちは軽井沢に来ると夢中になって遊びました。いろいろなゲームをしたし、お弁当を持って山登りをしたり。飽きることはなかったですね。
ここには外国人のコミュニティーができていたのです。スポーツも盛んでした。テニス・トーナメントをするときには奥さんたちが交代でサンドイッチやケーキを作って来て、みんなにごちそうしたのですよ。とっても楽しい雰囲気でした」
ここに、軽井沢の夏は社交の季節≠ニなっていたことがわかる。リゾートが発達するためには、そこに来る人々の社交の場がなくてはならない。軽井沢避暑客のほとんどは英米人だったので、彼らは十八世紀英国のリゾートであったバース、十九世紀なかばに発展したリゾートのブライトンの二都市の栄枯盛衰ぶりを知っていたのだろう。この二都市はリゾートを語る上で重要な社会学の研究テーマである。それは別の機会に述べよう。
エロイーズは続けた。
「日曜日ごとに教会に、外国人全員が集まりました。そこには、パイプオルガンがあったのですよ。手作りだったので、後から日本人が空気を送らないと鳴らない……ところがある日、その空気送りの人が途中で眠ってしまって。
夜の礼拝は歌が中心でした。ソプラノ、アルト、テナー、バスのコーラスでハーモニーがすばらしかった。みんな、音楽が好きでした。私の家にはピアノがあって……父が駅から家まで馬車を使って運んで来たのを覚えてます……夜になると大勢の人が集まって合唱していました。私の両親が音楽教育の指導者だったのです」
エロイーズはその両親を記念した「ハーモニーハウス」を軽井沢町南ケ丘に造り、若者が利用できるようにしている。
「あの頃の軽井沢は、きれいな町でした。いまとは大ちがいです。商店は外国人向きの店ばかりで、売っているものは高級なシルク製品とか、うっとりするようなレース。外国婦人たちはここで一年間分のドレスやアクセサリーを買ったのです。横浜、神戸よりも軽井沢が最新流行ファッションの中心地になってました。それを学ぶために、アジア各地のファッション関係者も修業に来たのです」
エロイーズは幼児期から少女期にかけて、夏の軽井沢で過ごした。その時代を女性の視点で語る。
軽井沢の外国人避暑客を男女別にみると、三対二ぐらいの割合で女性の方が多い。これは明治時代の外国人が単身で赴任したことによる。男性は本国に帰って花嫁を連れて来ることもあるが、婦人宣教師はそれをせず、日本滞在の同国人からプロポーズされることを待つだけになる。これによって結婚できないままの独身女性が増えていくのである。
そのロマンスが生まれる可能性があった唯一の場所が軽井沢である。人々と社交するときに、ある程度のおしゃれをしたい。また、三十歳前後の女性だから、日常生活を送るためにも洋服をそろえておかなければならない。本国の友人から多少は送ってもらうにしても絶対数が足りない。ここで、軽井沢がファッション流行の発信地となったのである。
この時代にできていた商店を調べると、外国雑貨店、洋服裁縫店、西洋野菜店、牛肉店、パン店、煙草店、西洋家具店、写真店などである。このほとんどは横浜、神戸からの出張店であった。
「特に中国大陸や日本国内の地方都市から来た外国人は、ここで買わないと買う機会を失ってしまうのです。七月に来て最初にやることは、ドレスを何着もオーダーすること。その女性の身長や個性に合わせたドレスを洋服店が作ってくれます。つまり、オーダーメードですね。それが軽井沢から帰るまでにでき上がってくるのです」
軽井沢のイメージが、なんとなくしゃれていて優しい感じなのは、こういう女性中心の文化だったせいだろうか。それを尋ねる。
「そうですね。ビジネスの第一線で働いている外国人は二ヵ月も続けて避暑をしている余裕がないですから、来ているのはその奥さんと子どもたち。そして、宣教師、教師でしょ。男性だからと威張る人はあまりいなかったんですね。だから、女性が好きな音楽会や演劇会が行われたのです。
私が三井家別荘の庭園でお芝居をやったこともあります。そのとき、私は十二歳でした」
エロイーズはちょっと得意そうに笑う。野外劇を外国人避暑客が上演し、非常に好評だったという。そのためにはかなり練習を重ねたことだろう。演じたのはブラウニングの『ザ・パイパーズ・パイプ』。このページェントは毎夏恒例になって避暑客の娯楽のひとつとなった。ここに芸術を好む文化的成熟がうかがえる。
九百九十九年の地上権設定[#「九百九十九年の地上権設定」はゴシック体]
エロイーズ・カニングハムの証言から、軽井沢は音楽を中心とした芸術が盛んだったことがわかった。これには外国人避暑客の中心人物となっていたマクネア夫妻が讃美歌編集にたずさわっていたことからもうなずけることである。異境の地にあって、英語を母国語とする人々が英語で語り、文化芸術を楽しんだ。ここで軽井沢が心の安らぎの場になっていることに気付く。
一八九九(明治三十二)年に国内雑居が許されて以降、彼らは続々と別荘を建てていった。だが、伊藤博文が長野市での演説で語ったように、土地所有は許されていなかった。その土地をどうするか。
それを探っているうちに、おもしろい事実を発見した。国内雑居が許された翌年、それまで日本人名義にしていた土地を「九百年間地上権設定」「九百九十九年間地上権設定」としたのである。たとえば、頌栄女学校の岡見清致校長の名義だった土地六反四畝十二歩は「明治三十三年八月二十五日より向こう九百年間地上権設定、所有者名テーエム・マクネヤ」と土地台帳に記録されている。これは明治学院教師のセオドア・マクネアのことである。彼がこの時代に地上権を設定した土地は、わかっただけでも七ヵ所、合計約二町六反にのぼる。九百年とか九百九十九年の借地権といえば、実質的に所有したことと同じである。法律で土地所有を禁じられていたから、この方法をとったのだ。
もっともアレキサンダー・ショーの地上権設定地はない。彼は約五万坪の土地を今井寿道名義で所有していたのだが、一九〇二(明治三十五)年三月に東京で死去した。その翌年、彼が所有していた大塚山の別荘は長野県選出の衆議院議員の小坂善之助に買い取られた。すぐそばに別荘を造った末松謙澄が政界における親友であったため、末松の勧めで買ったといわれる。
ここで長野県でこの時代に軽井沢の外国人と接触を持った人を調べてみる。
明治三十二年から三十七年まで信濃毎日新聞主筆として招かれた山路愛山はすでに文筆家として有名だったが、それ以前に東洋英和学校を卒業したのち伝道をしていた時期があった。彼と小諸義塾を始めた木村熊二は親しい関係にあり、ここからマクネアともつながる線が見えてくる。
また、軽井沢では、明治二十二年より八年間渡米してクリスチャンになって帰って来た稲垣虎次郎が旧道に洋風の稲垣商店を開いた。岩村田の医師であった菊池音之助は、旧道にあった木曽屋を入手し、三十年から軽井沢病院を開業している。こんな知識人たちが村人と外国人の仲介役となり外国人の別荘入手に協力していく。だから、明治三十六年に軽井沢で全国新聞記者会の紅葉狩りが行われた席上で、菊池音之助が「外人に対し軽井沢に賤業婦を置くことを廃し」たことを語っている。外国人避暑客の激増によって、かつて飯盛女を置いた宿場町は、これらの人の協力で健康なリゾートに変身していたのである。
この時代は外交関係が急激に変化している。一八九四 (明治二十七) 年の日清戦争で日本が勝って翌年の下関条約で遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本領土とすることになった。だが、独・仏・露の三国干渉によって遼東半島を放棄せざるをえなくなる。ここで、国民の間で対露感情が悪くなり、一九〇二(明治三十五)年、露仏同盟に対抗して、日英同盟を締結して日露戦争に備えていた。これを『原敬日記』は「清韓に関する日英連合」と書いている。西欧列強による中国大陸侵略合戦に日本も加わっていったのだ。
この明治三十五年に、旧中山道にあった万平ホテルは桜の沢へ移転した。それまでの万平ホテルは和洋折衷だったため、部屋の仕切りはふすまで、プライバシーが保てなかった。新築されたホテルは完全な洋式で、部屋数二十二。
「桜の沢は、水に恵まれていたことから、ここに移ったのでしょうね。それと、外国人はなぜか高い場所が好きなのです。桜の沢から当時は浅間山も見えた。景色のよいところでのんびりするには最適だったのでしょう」と現在の総支配人である佐藤邦明は語る。
この万平ホテルには、一九〇四(明治三十七)年からの宿帳が保存されている。その最初の年の滞在客を調べてみると、合計約八十家族。このうちほとんどが英米人である。英国人二十四、米国人二十八。ハンガリー、スウェーデン、ノルウェーといった国の人名も見える。日本人の滞在客は七人のみ。
その滞在客の住所を見ると、国内各地のほかにニューヨーク、ワシントンD.C.と書いている人もいる。そして、改めて驚くのは中国の厦門《アモイ》、上海、汕頭《スワトウ》からの宿泊客がいるだけでなく、インドのボンベイからも来ていることだ。ボンベイだったらヨーロッパに行った方が快適だろうと思えるのに、軽井沢に来ているのである。
この宿泊客は七月十六日から泊まりだし、一番最後の客がホテルを引き払ったのは十月十六日。その翌年の宿帳を見ると、四月からちらほら客が来だし、十月二十一日まで泊まり客がある。満室になっているのは七月から九月初旬までの盛夏シーズンにすぎない。
ここで万平ホテルの宿泊料金を見ると、異常なほど高かった。料金がはっきりと書かれている明治末年の資料で見ると、一等八円、二等六円、三等四円である。同じ時期につるや旅館は一等二円、二等一円五十銭、三等一円。学生や一般向けの富士屋旅館は三食つきで五十銭から一円で泊めている。外国人向けの万平ホテルは日本人向けの一般旅館のほぼ十倍の値段だったといえる。
それでも夏の宿泊客が後を絶たなかった。高くても、プライバシーが保てて、サービスがよく、快適に過ごせるならば、別荘を建てるよりは安いからである。
日露戦争下の避暑地[#「日露戦争下の避暑地」はゴシック体]
この明治三十七年には日露戦争が始まった。その戦争費用を捻出《ねんしゆつ》するための外債を引き受けてくれたのが英国、米国だった。
日清戦争のときの戦争経費は約二億円。日露戦争が起これば約五億円の戦費がかかるだろうと予測されていた。日清戦争の後の下関条約で得た賠償金約三億六千万円のうち、八四・五パーセントは軍事拡充費にあてられていた。そして、この約半分は海外支払い基金にあてられて、主に英国からの軍艦、兵器購入に使われている。実際に日清戦争から日露開戦までに進水した艦艇四十四隻十九万トンのうち二十七隻十三万トンはイギリス建造艇であった。
ロシアの中国大陸、朝鮮半島へという南下政策に対抗して、英国は軍事力で手薄になっている極東で日本軍に肩代わりさせることを選んで日英同盟を結んだのだ。列強による中国大陸むしりとり競争に出遅れたアメリカも、日本に賭けることで利権を獲得しようと狙った。ここで、フランスの支援を受けている超大国ロシアと、英米の支援を受けた極東の新興国日本との日露戦争が一九〇四(明治三十七)年二月十日、開戦したのである。
日本政府の事前の予測とちがって、実際には約二十億円の戦費がかかった。増税と国債によって財源確保を図ったが、絶対額が足りない。そこで、ロンドン、ニューヨークで外債をつのり約七億円を調達した。全戦費の約三分の一の金額を英米から得たことになる。
この日露戦争が、避暑地の軽井沢にどう影響したか。信濃毎日新聞(明治三十七年九月二日付)はこう報道している。
「避暑地としての軽井沢はほとんど時局の打撃をこうむらず候。来客人はさる二十日現在外人別荘在住四百八十一名、『軽井沢』『カメヤ』『万平』三ホテル在宿三十一名、この他邦人二百六十余名。今日もこれと大差なかるべく、このうち知名の外国人としてはフランス公使ハルマン君ありオランダ公使スエルツ君ありオーストリア公使あり……各旅舎はさらに空室なきの大繁盛に候。二十九日半日の軽井沢郵便局の為替払渡高金一千百余円に達し候由」
戦火から遠く、平和に避暑を楽しんでいるようにみえる。なお、この記事から旧道にあった和洋折衷の万平ホテル(亀屋)と桜の沢に移転新築した万平ホテルの両方が営業していたことがわかる。
だが、避暑客の客筋が微妙に変化しだしている。報道記事にあるように西欧列強の公使も避暑に来ている。また、桜の沢の万平ホテルに残っている宿帳を調べると、避暑客の記事に載っていなかったノルウェー公使やスウェーデン、スイス、ドイツの外交官も泊まっている。そして、注目しなければならないのはニューヨーク、ロンドンからの経済人が増えていることだ。軍需物資の売り込みにやって来た人たちだろうか。さらに、この年に宿帳の職業欄に「アメリカ陸軍」、その翌年には「アメリカ海軍」「英国海軍」と書いた人が泊まっている。時局の打撃をこうむらず≠ナはなく、時局の恩恵をこうむって大繁盛していたのである。
この年に、軽井沢で何があったかを探る資料は別のところからも入手できた。
まず、米国フィラデルフィアのC・E・バートン夫人あてのハガキがある。この裏に、「一九〇四年、YMCA夏季会議」の知らせが印刷されている。この英語部会の会議は、八月二十四日から二十八日にかけて軽井沢で行われているのだ。ここには演題と講演者名が「キリスト教会史の転換点――B・チャペル牧師」といった具合にいくつか書かれている。特別ゲストとして、登山で有名になったウォルター・ウェストン牧師が参加することも明記されている。
次に、英字新聞である。在日外国人を対象とした英字新聞「ザ・ジャパン・ウィークリー・メイル」の一九〇四年九月十日号に、一ページ以上の「カルイザワ・ノーツ」という記事が載っている。
「一年ごとに軽井沢は成長しているように見える。夏の季節になるとまた新しい家屋が建てられているのが目に入る。戦争のため旅行者は減少しているのにもかかわらず、軽井沢の魅力によって、掌握した情報によれば、七百名以上の滞在者がいる。
八月のほとんどの日は、晴天だった。気温は夜に華氏五十六度から六十度。日中でも日陰ならば七十五度に上がらない。
テニス・トーナメントが三週間にわたって行われ、外国人コミュニティーの全員を熱狂させた。ここには四面のテニスコートがあり、試合を観戦するために椅子をならべた二ヵ所の観覧席が設置されている。毎日、午後にはトーナメントの間に淑女たちによって、紅茶が配られる」
このトーナメントは八月六日から始まり、二十七日まで続いた。その熱戦の模様が書かれているし、混合ダブルス、男子ダブルス、男女各シングルの一回戦から決勝までの対戦者とそのスコアも書かれている。
エロイーズ・カニングハムが語った証言がこの記事でも裏付けられる。
この記事は、文化イベントも報道している。
「八月十九日、金曜日。ユニオン・チャーチで文学と音楽の夕べが開かれた。すばらしい舞台だったプログラムは次のとおり。
オルガン独奏 クラーク夫人。独唱 ベネット。独唱 アーウィン夫人。朗読 ケアリー。四重奏 ハワース夫人ほか。
公益委員会の報告。
吟誦 スイート夫人。独唱 エルウィン。独唱 デニング。朗読 ベイツ夫人。独唱 ペドリー。吟誦 アーウィン。独唱 アーウィン夫人。四重奏 ハワース夫人ほか」
このステージの間にはさまっている「公益委員会の報告」というのが重要である。避暑に来た外国人たちが作った自治組織なのだ。この委員会が村役場に道路改修を頼んだり、夏の間の人力車の増加を要求したりしていた。また、日露戦争の前線に送られた軽井沢の住民の留守家族に寄付を集めて贈るといった活動もしている。
日露戦争は、さらに軽井沢に大きな影響をもたらすことになる。日露戦争に動員された日本軍の兵力は総数二十五万名で、十万名を超す死傷者を出した。このうちの負傷者を収容する傷病兵転地療養所が、軽井沢、沓掛、追分の旧浅間三宿に造られたのである。軽井沢に千五百余名、追分に千三百余名、沓掛に約三百名が収容されている。
このうち、追分、沓掛はそれまで極度の衰退状態にあった。その前年の状況がこう書かれている。
「追分宿は、いにしえ三百軒と称せしところなるが今はわずかに七十戸ばかりとなり、頽廃《たいはい》の状、見るからに寂莫荒涼を極む。ことにもと妓楼たりし大厦《たいか》高楼の多くは壁落ち、柱傾き、わずかに木にて支えられたるさえみすぼらしきになかにはすでに空家となりて燕《つばめ》のみ古巣を忘れずして飛び交わすさま、そのあわれさ限りなし」(信濃毎日新聞、明治三十六年四月十七日付)
この記事は、そば屋に入ったところ売るそばも酒もなかったと続けている。追分、沓掛は明治維新以降三十年以上もさびれる一方だったのである。そんな惨状の旧宿場に、多くの傷病兵と医療チームがやって来たのだ。
この傷病兵たちが旧浅間三宿に送られて来たとき、まだ外国人避暑客は滞在していた。その人たちの動きも始まる。まず、日英同盟によって支援国となったイギリス公使館別荘が傷病兵を慰問している。
「軽井沢に避暑中の英国公使館一等書記官ガビンス氏は大いに傷病兵に同情を寄せ、十二日より初めて兵士百名二百名ずつ順次に自邸に招き、国旗を交叉し美々しく飾り立った広庭に席をしつらえ、紅茶、牛乳、水菓子などを供応し、ガビンス君と夫人とその間を斡旋せらるるなど、単に人間としての同情のみでなく、同盟国の勇士としての待遇も含まれておるらしく、兵士諸氏も大いに感動されたようである」(信濃毎日新聞、明治三十七年九月十五日付)
このガビンス書記官は日本語をなめらかにしゃべれる人物なので、英国公使館を代表して接待にあたったことがわかる。
そして、この夏に軽井沢に来ていた宣教師たちはどうしたか。中国大陸に渡った日本軍のチャプレン(従軍牧師)として十二人の宣教師が前線に赴くことが政府から認められていたが、それは最終的に許可にならなかった。その代わりに、転地療養所で伝道することが許された。そのひとり、ダニエル・ノーマンはカナダの布教本部にこう書き送っている。
「私はチャプレンとして行かなくても兵隊の中で働くすばらしい機会を得ました。今、軽井沢やその近くには約二千名の傷病兵がおります。……八月末に避暑外国人がいなくなるのと交代したように兵隊たちが着き始めました。八月二十五日には軽井沢から九キロの追分という村に六百五十名がいます。私たちは将校と軍医から許可を得て、彼らの中で仕事を始めました」(「ミッショナリー・アウトルック」一九〇五年一月号)
彼は、続けてこう書いている。
「(追分では)他の宣教師と協力して、調子を合わせて一緒に働きました。図書室が開かれ、ゲームや写真が備えられて、時々お茶と菓子が出されました。また、キリスト教のパンフレット、聖書の抄訳もそれを希望する兵舎に配られました。その上に、毎日の礼拝と聖書研究のクラスもここに作られたのです。兵士たちは熱心で真剣にとりくんでいます」
ここに意外性を感じる。
富国強兵の掛け声と、ロシア討つべしという大合唱によって日露戦争に従軍した兵士の間で、キリスト教の勉強も熱心に行われているのだ。天皇制イデオロギーによる神道はこの頃さほどパワーを持っていなかったのだろう。
これを書いたダニエル・ノーマンは、カナダのビクトリア・カレッジで神学を学んでメソジスト教会の牧師となり、ブラッドフォーク地方教区によって一八九七(明治三十)年に日本への宣教師に選ばれて来日した。このとき、彼は三十三歳だった。
その初年度の年俸は五百五十ドルである。この最初の年の手紙に避暑地軽井沢における宣教師会議のことが書かれているから、すでに軽井沢に来ていたようだ。一九〇〇(明治三十三)年には姉のルーシーを日本に呼び寄せ、翌年夏にカナダに戻ってカレッジの同級生だったキャサリンと結婚して彼女を連れて再来日した。そして、明治三十五年に長野市に赴任したのである。
ここでおもしろいことに気付いた。長野市での伝道を始めた年に、軽井沢に土地を買い、すぐに別荘を建てているのである。これは北佐久郡高瀬村(現在の佐久市)の上原九市が所有していた土地など四ヵ所七畝十二歩を「明治三十五年十月二十九日より向う九百九十九年間地上権設定」と登記されていることでわかった。
そして、ノーマンが旧浅間三宿の転地療養所で伝道にあたった明治三十七年には、軽井沢病院の菊池音之助が買ったことにして、その地上権をノーマンともうひとりの宣教師の共有名義で設定した。この土地は二反二畝十九歩。これが超教派の教会ユニオン・チャーチなのである。これは碓氷トンネル工事のときに鉄道技師のクラブハウスとして使われてその後、空家となっていた建物を買い取ったといわれている。大きな建物なのでオーディトリアム≠ニ呼ばれ、音楽会や各種集会の会場にもなった。
ダニエル・ノーマンの手紙は続いている。
「私は軽井沢で伝道を続けていますが、妻と姉は長野に帰りました。彼女たちは夜間英語学校を継続し、女性のための料理教室も持っているからです。日本に私が来てから七年になりますがすでに六回引っ越しをしました。このクリスマス前に初めて新築した自分の家に住むことができそうです」
彼は別荘を建てた二年後に、初めて自宅を長野市内に持ったのである。
さらに、この日露戦争で、軽井沢の別荘族が重要な役割を果たしていることに気付く。国際避暑地だから、外国人、日本人の交流の場であり、同時に戦争といった外交関係の緊張の時にはそこで敵味方に分かれた外交戦略が生じてくる。その後の軽井沢の歴史を暗示する動きが、日露戦争で早くも始まっていたのだ。
英米の宣教師たちが本部へ送った報告を読むと、日本軍の戦況に一喜一憂している感情が読み取れる。これらのレポートが国際的な親日世論を形成する役割を果たすのである。
それをもっと積極的に展開したのが、二手橋そばに別荘を持っていた末松謙澄であった。彼は、ロシアに宣戦布告する直前に政府首脳から極秘使命を命じられてヨーロッパに渡った。ヨーロッパ諸国がキリスト教国対異教徒戦争ととらえることによってロシア側につき共同戦線を張ることを防ぐ必要があった。つまり、日露戦争において、ヨーロッパの世論を親日派にする広報活動である。いまの言葉でいえばパブリシティー戦略である。このために、ヨーロッパに末松謙澄、アメリカにハーバード大学出身の貴族院議員である金子堅太郎が派遣されたのだ。
この特命任務は、駐英日本公使の頭越しに、小村寿太郎外相と末松謙澄の間で直接やりとりされた。彼はロンドンに渡ると、ケンブリッジ大学時代に親友として交際していたオースチン・チェンバレン(当時、英国政府蔵相)を訪ね、彼から全面的な協力を得る。そして、ヨーロッパの新聞に多くの記事を書き、各地で演説をして、日本理解に導いていった。このときに英文の著書『昇天旭日』『夏の夢 日本の面影』を出版している。彼が明治三十七年二月から約二年にわたって行ったパブリシティー戦略に使用した金額は、英貨七千二百ポンド(当時の為替レートでは七万二千円)と邦貨二万円と推定されている。巨額な資金が国際世論工作に使われたのである。
旅順陥落、奉天入城、日本海海戦のバルチック艦隊壊滅と日本側が勝利をおさめた一九〇五(明治三十八)年の夏には、軽井沢が一気に好況を迎える。その旧道通りは、旧宿場町の街並みのために間口は狭く、奥行きの深い家屋がならんでいた。そこに、横浜、神戸などからの出張店が入り込んで来たのである。
「各地より貸屋を求めて商業、飲食店などを営まんと入り込むものすこぶる多く、すでに一月以前より表通りの貸屋は一軒もなきありさまにて、価格は二十畳敷の表八、九十円、裏にて五、六十円(夏季三、四ヵ月だけなり)の高価をもって契約されつつあり」(信濃毎日新聞、明治三十八年七月十三日付)
この年には別荘建築ブームにもなっていることが同じ記事からわかる。
「昨冬より今日へかけ新築増築の内外人家屋五十余戸に及び目下湯の沢なる三笠ホテルおよびその他の工事人足国境山林伐採の杣《そま》などを合算せば職工のみにて実に七百人の上に出ずる由」
宣教師が平和な避暑をするために見つけた軽井沢は、皮肉なことに日露戦争によって飛躍的に繁栄しだしたのである。
三笠ホテルの開業[#「三笠ホテルの開業」はゴシック体]
「父の山本直良は、最初からホテルを経営するつもりではなかったようです。私の祖父の直成《なおしげ》に、この土地をくれるから好きなように使えと言われて、酪農を中心とした農場を考えていたのでしょう。父は学習院から農科大学(東大農学部の前身)で学んでいたのです。だけど、軽井沢の土地は火山灰地なので農業に適さない。そこで、農場だけでなく、ホテルも始めたのです」
山本直良(一八七〇〜一九四五)の次男である山本直光が語る。彼は一九〇〇(明治三十三)年生まれなので、三笠ホテル開業の頃を知っている貴重な証言者である。
三笠ホテルは一九〇五年の秋に落成式を行い、翌年の五月から開業した。木造建築ながらゴシックふうの重厚さを加えた建物で、その貴族趣味的な豪華さで当時の人々の目を奪った。
外国人にまじって、トップクラスの日本人も避暑に来だしていた。そのニーズに応じてホテル経営に乗りだしたのだろう。
山本直良の父である山本直成は、明治維新直後に、岩倉具視に頼まれて丁酉《ていゆう》銀行を設立、これが明治九年に第十五国立銀行となった。旧大名、公卿などの財産管理を任された銀行である。このため華族令が発令されてからの明治時代上流階級に絶大な信頼を持たれていたと推測できる。
山本直良は明治三十一年に有島愛子と結婚した。愛子の兄が有島武郎(作家)、弟に有島生馬(画家)、里見ク(作家)などがいる。また、直良の子どもも直正(作家)、直光(建築家)、直忠(音楽家)、直武(画家)など。孫に山本直純(指揮者)など。有島武郎の子どもが森雅之(俳優)。芸術に秀《すぐ》れた華麗なる一族である。
こんな芸術への理解が、三笠ホテルのインテリアや調度品にも示されている。カーテン・ボックスに有島生馬デザインの浮き彫りがあり、食堂で使用した洋食器にも生馬が絵付けをした。
それまで旧宿場の住民が造った万平ホテル、軽井沢ホテルだけだったところに、東京の大資本が入り込み、最新モダンな三笠ホテルを造ったのである。その資本金は十万円を超した。同時に、窯を築いて京都から宮川香山を招いて三笠焼を作り、あけび細工などを考案して三笠商店で販売している。
開業したときまだ六歳だった山本直光は、当時のことをこう述懐する。
「私は子どもでしたからね、一番驚いたのはトイレでひもを引っ張ったら水が激しく流れて来ていつまでも止まらなかったことです。壊してしまったのかと青ざめてフロントに駆けて行きました。まだ水洗トイレなんてほかになかった時代で、三笠は水が豊富でしたから水洗トイレを使用したのでしょうね。
また、窓から軽井沢駅に入って来る汽車がよく見えました。当時は三笠から駅まで、視界をさえぎるものが何もなかったのです」
三笠ホテルは、軽井沢駅から二キロ以上離れている。旧軽銀座からも約〇・五キロ。そもそも山のなかにポツンと建てたホテルであった。そこまで行くのがかなり大変だ。その駅とホテルの間をどうしたか。
山本直光が説明する。
「一番遠いから、馬車で駅まで迎えに行く。お客が帰るときはやはり馬車で送って行く。全体的にサービスや料理はよかったはずです。だが、ホテルとしては部屋数が少なすぎた。まして、夏の二ヵ月だけのビジネスですから何年やっても黒字経営にならなかったようです」
この馬車の出迎えを受けた体験を、新聞記者はこう書いている。
「停車場に着けば、出迎えの馬車あり。陋巷《ろうこう》の一書生、特別仕立ての黒塗り馬車にて送迎さるるなぞは少々恐縮の次第にてなんとなく気恥かしく感じ候。……一百余間の一大水泳場を特設しあり、着物の脱ぎ場まで別々に、さらに男女を分ける等、文明的、ハイカラ式のやり方、どこまでもいたれりつくせりと申すべく候」(信濃毎日新聞、明治三十九年七月二十六日付)
ここでプールを備えていたことがわかる。開業当初は外国人宿泊客が中心だったから、リゾート・ホテルとしての特色を狙ったと思われる。宿泊代は一等十二円、二等八円、三等五円(明治末年)と万平ホテルよりも五割高い。客室三十、定員四十名。最近流行しだしている高級小規模ホテルの先鞭のようだ。
華やかで貴族趣味的な軽井沢を象徴している写真がある。軽井沢の写真店ではブロマイドふうに人気を集めている写真だ。豪華なシャンデリアが照らしている三笠ホテルのレストラン。和服、洋服の正装で、十二人の紳士、淑女がテーブルについている。
この写真は、三笠ホテル開業当時の記念パーティー、または明治末頃と文献に書かれている。この写真の撮影年月がわかるかどうかを山本直光に尋ねる。
「この写真は私の家にないのです。というのは、金融恐慌(一九二七年)のときに十五銀行役員だった父は、その倒産の責任をとって辞任しました。その直前に三笠ホテルを手放し、明治屋に買い取ってもらったのです。この当時、父は十五銀行、日本郵船、明治製菓など数社の役員でした。ホテル以外の三笠に持っていた土地も戦中戦後の混乱期にすべて売り払い、いまはまったく軽井沢と関係がなくなりました。
残念ながら、写真を撮影した年度はわかりません」
写っている人物は、左から山本愛子(直良夫人)、近衛文麿、黒田夫人、黒田長和、山本直良、徳川義親、毛利夫人(近衛夫人、黒田夫人の母)、有島武郎、里見ク、徳川実枝子(慶久夫人)、近衛千代子(文麿夫人)、西尾忠方といわれる。近衛文麿が毛利千代子を見そめて結婚したのが一九一三(大正二)年だから、それ以降に撮った写真であることがわかる。ともあれ、明治、大正のハイカラ上流階級の社交サロンに三笠ホテルがなっていたことを証明している。
オランダ人少年の軽井沢日記[#「オランダ人少年の軽井沢日記」はゴシック体]
思ってもみなかった方向から、一九〇七(明治四十)年の軽井沢の様子が初めて明るみに出て来た。オランダの十七歳の少年が、上海から軽井沢に避暑に来た日記を書き残していたのである。
この少年は、ヘンドリック・デレーケ。日本政府お雇い土木技師ヨハネス・デレーケがマリア・スザンナと再婚してすぐにもうけた子どもであった。一八九〇(明治二十三)年、東京・築地に生まれ、十歳まで日本で過ごした。
父のヨハネスは一八七三(明治六)年から三十年間日本政府のために働き、木曽川下流改修工事など多くの河川、港湾工事にたずさわった。ほかの土木技師は数年で帰国してしまったから、明治時代の土木工事はほとんどがデレーケの業績といってよさそうだ。日本政府との契約が切れた後一度オランダに帰るが、一九〇六年に上海の港湾工事の責任者に任命されて再びアジアに戻って来た。
このデレーケの業績を研究している井口昌平(東大名誉教授・工学博士)が、オランダでデレーケの子孫からヘンドリックの日記のコピーを譲り受けたのである。オランダ語の手書きの日記で、なかにヘンドリックが撮影した写真約六十枚と簡単なスケッチなども収録されている。
日記を書いたヘンドリックは、このときが初めての軽井沢来訪ではない。十歳まで日本にいた時期に両親に連れられて何回か軽井沢に来ていたようだ。弟のヘレヌスは軽井沢で生まれているし、長野県知事から外務大臣に提出された外国人の土地家屋調査表では明治三十一年にデレーケの別荘が記録されている。
この日記は、七月二十七日に上海港を出航し、三十一日に神戸港に着き、東京を回って軽井沢に八月六日着いたことが詳しく書かれている。上海から神戸まで四日かかっている。帰りは横浜から船に乗り、神戸に寄港して上海へ。九月十九日に上海に着いたところで日記は終わっている。
その本文に入る前に、まず目についたものがある。百十五ページに及ぶ日記のなかに、英語の地図が二枚はさみこまれていたのだ。ひとつは軽井沢周辺地図。これには長野県は「シナノ」、群馬県は「コーツケ」と書かれている。もう一枚は軽井沢地図《マップ・オブ・カルイザワ》である。はさみ込んだときに中央部がよじれたらしく少しゆがんでいるが、地図はクリアに読める。
旧軽井沢の中山道の家並みを中心にして、東西南北の四区画に分けて別荘の番号が書かれている。北が四十番までと一番多く、これは現在のショー記念礼拝堂の裏手になるあたりだ。東は万平ホテル、末松邸などを含む一画で、このなかにユニオン・チャーチ、テニスコートもある。別荘は三十七戸。南は旧軽から軽井沢駅に向かった左側で別荘二十二戸。西は残りの広い区域で、離山から三笠ホテルまで含んでいて別荘二十一戸。合計百二十戸の別荘があることを示している。
八月六日、ヘンドリック・デレーケは朝八時三十分に横浜から電車に乗り、品川で山手線に乗り換えて、田端発十時二十五分の汽車で軽井沢に午後四時五十一分に到着した。この頃は田端駅から乗れたのだ。
「駅にはランディス夫人とジョージ(十二歳)、プリンス(犬)が待っていた。ランディス夫人は、アルテス夫人のためには軽井沢ホテルに部屋がとってあると言った。私たちが電報で伝えてあったから、ランディス夫人はアルテス夫人が来るのを知っていたわけだ。ランディス夫人はまた、この二週間ずっとよい天気だったのに、今日は雨で本当にお気の毒ですと言った。彼女の家族は万平ホテルのすぐそばの新築の家に住んでいて、私たち二人はそこに泊めてもらうことができる。私たちは人力車に乗ってその家に行った」
このヘンドリック・デレーケの日記は、当時の避暑客の生活ぶりと軽井沢住民との対応がうかがえて非常に参考になる。
デレーケ父子を迎えに来たランディス夫人とは、明治学院教師ヘンリー・ランディス(一八五七〜一九二一)と結婚して一八八八(明治二十一)年に来日した女性である。夫のランディスは米国プリンストン大学で神学を学んだときにドイツのベルリン大学に一年間留学した体験を持っていたため、オランダ人のデレーケと日本で親しくつきあっていたのだろう。明治二十四年からこのランディスが別荘を所有していたという公文書があるので避暑客草分けのひとりといえる。
そして、デレーケ一家がオランダに帰っていた明治三十七年に、ランディスは建築中の明治学院ミラー記念講堂の屋根から転落し、重傷を負った。これにより彼は治療のためにドイツに渡っている。彼が静養していたドレスデンに、デレーケ一家は何回も見舞いに訪れたと考えられる。
この夏、ランディス一家が軽井沢に来ていた。その別荘にデレーケ父子も泊めてもらったのだ。この別荘は、二階建て。初期別荘に共通の、二階の軒下に張り出し手すりがついている構造であることがヘンドリック撮影の写真でわかる。この建物は万平ホテルの隣に、一部改修されて現存している。
ヘンドリックは軽井沢に着いた翌日は、買い物と散歩。次の日には午前中に離山まで歩き、午後は勉強。かなりまじめに勉強し、日記や手紙を書いている。
最初の日曜日である八月十一日。
「先週はほとんど毎晩、雨が降って、日中はやんでいた。今日は一日中、雨が降っていた。今朝、私は教会に行った。午後は先日買った本を読んだ。父は夕方にも教会に行った」
月曜日は馬に乗って沓掛まで往復したのち勉強と散歩。
八月十三日、火曜日。
「午前中はずっと勉強をした。昼食のあと、オランダの何人かと初心者コートに行ってテニスをした。ほかのコートはみなとても混んでいたので。晩には音楽会があった。みんなでそこに行く。父も来た。アルテス夫人も」
こんな調子で、天気のよい日は必ずテニスをし、日曜日に教会へ行き、火曜日夜の音楽会を聴きに行く。また、小探検にも率先して行く。好奇心旺盛な行動派の少年だった。
ヘンドリック・デレーケが、軽井沢にいた期間は三十四日間である。この時代にいくらぐらいの旅行経費がかかったのかを、彼の日記からうかがうことができる。
「八月十八日、日曜日。
朝、教会に行く。アルテス夫人も来ていた。
父は金のことでブランデル氏にあてて手紙を書いた。それは、神戸で受け取った二百円のうち残りが三円になっていたからである。水曜日に私たちは新たに三百円の為替を受けとっていた。それと同時に、上海からの手紙と新聞の束も届いた」
往復の船賃は前払いしてあったはずだから、日本国内の実費が約五百円かかったことになる。この頃の小学校教員の月給は十六円から二十四円。そして、この年に日本からアメリカへ移民することがブームとなったのだが、その渡航費用二百五十円を工面するために渡米希望者は苦労していた。その二倍の額をたった一夏のために使っているのだ。
もっともヘンドリックは金銭面でもしっかりしている。「乗馬の貸馬代の値段は一時間三十五銭、一日で二円五十銭」「軽井沢と御代田間の汽車賃十五銭」といった詳しい記述がある。そして、おもしろいのは、浅間山に登るために追分の山案内人と交渉するところだ。
「宿屋の主人と番頭はしきりに案内人になりたがった。代金としてひとり七十五銭にしてくれと言う。しかし、彼らは(私たちをだまそうと思って)、実は喜んでいくわけではない、あの山の上の方では空に大きな石が飛んでいるし、たちの悪い熊もいるからだと言った。七十五銭のうちには、私たちの荷物を全部担いでいく分もはいっていると言う。それで話は決まった」
もう一度、当時の労賃を書くと、農作業が一日で四十銭、大工、左官などで七十銭。外国人の浅間山ガイドということで、代金を吹っかけていることがよくわかる。
ところが、この案内人は夜十時出発のときには足がふらつくほど酔っ払っていて、実際に登りだすと道に迷ってしまい、頂上にはヘンドリックたちに四十五分も遅れて着いた。
この浅間山の頂上までは現在登ることができない。噴火口から四キロ以内に近づくことは規制されているのだ。ヘンドリックはこの夏、二度も火口まで登っている。
「突然、私たちは頂上に立っていることがわかった。……ときどきドーといううなるような響きも耳に聞こえた。上にあがると、私たちは火口の中をはっきりのぞき込むことができた。ランディス氏は、これまでにこんなによく見えたことはないと言った。近づくと、ものが煮えたつような様子が見えた。そこでは、方々の穴から大変大きな火焔《かえん》が噴き出ていた。うなりが大きくなると、次にまた静かになる。すべてがすばらしい」
ヘンドリックが軽井沢に滞在していた八月に、強い台風が襲って来た。二十三日から風雨が強まり、二十七日まで吹き荒れた。碓氷トンネルの第二十六号が破壊され、高崎と軽井沢の間の鉄橋が流失したため鉄道は不通となっている。野次馬精神の強いヘンドリックはその破壊されたトンネルや氾濫した河川を見に行き、その数日後には台風被害が残っているのに小諸の布引観音までピクニックに行っている。
この台風に関しての手紙は外国にいくつか残っている。ミス・ハートは母国カナダにこう書き送った。
「日本全土を襲った大型台風のことで、私たちの安否をご心配のことと思います。さいわいにも軽井沢滞在の私たちの間に死傷者はありません。いくつかの家は暴風雨に破壊され、洪水の危険にあいました。ミス・ビージー、ロバートソン、デオルフの家の屋根は吹き飛ばされ、床にまで水が溢れてきたので高台に避難しました。でも、一軒が倒壊し、もう一軒が危険な状態になっただけです」
暴風雨の五日間を不安な心理で過ごした彼女たちの姿と、嵐に弱い地形だった軽井沢の様子がここに浮かび上がってくる。
これを書いたハートは、エリザベス・ハートのことであり、このときは上田に赴任していた。一九〇五(明治三十八)年にカナダ婦人伝道会社が作った上田|保姆《ほぼ》伝習所の設立者となっていたのである。
ここに重要な点がある。英・米・カナダから多くの婦人宣教師が日本に派遣されて来ていた。ミッション・スクールが許されていた時期にはその学校教師となった。だが、明治三十二年の文部省訓令第十二号によって、学校内における礼拝、聖書の時間は禁じられた。また、同じ年に発令した高等女学校令によって規定に該当しない女子校は女学校と名乗れなくなっていた。男性宣教師の多くはここから全国に散り、農村伝道に赴いて行った。では、婦人宣教師はどうすればよいか。
ここで彼女たちは活路を見つける。日本でまだ未発達だった幼児教育に目を向け、幼稚園を経営しだしたのである。特にカナダ婦人伝道会社は東京、静岡、山梨に英和女学校を作り、次に長野に女学校を作ろうとしたが果たせなかったため、メソジスト長野教会に旭幼稚園を作って一九〇三(明治三十六)年に県の認可を受けた。そして、上田に梅花幼稚園を設立。ミッション・スクールには子どもを通わせない親が、幼稚園には通わせて来た。ほかのプロテスタント婦人宣教師も全国各地で次々に幼稚園を開園した。
そのためには幼稚園の教師養成が急務となる。修業年限二ヵ年の上田保姆伝習所を作って、東京、山梨、静岡の英和女学校卒業生に幼児教育を教え始めた。
この年、軽井沢で幼児教育にたずさわる幼稚園連合会の会議が開かれていることが、ハートの文章と一緒に「ミッショナリー・アウトルック」(一九〇七年十一月号)に載っている。
桂太郎らも避暑に利用[#「桂太郎らも避暑に利用」はゴシック体]
一九〇七(明治四十)年の英文別荘地図にもう一度戻る。別荘が百二十軒造られている。そのなかに、万平ホテル、軽井沢ホテル、三笠ホテルの位置も書かれている。そして、さらに日本人別荘がいくつか点在する。
この時点でどんな日本人が別荘を造っていたかを、地図と報道記事で整理してみる。
日本人として最初に別荘を造ったのは八田裕二郎だった。その直後に鹿島組の鹿島岩蔵が外国人向け貸し別荘五棟と一緒に自分の別荘を造っている。鹿島岩蔵は坪あたり五厘で土地を買ったといわれる。そして、末松謙澄、小坂善之助といった政治家が相次いで別荘を建てた。
英文地図には「カワダ」「ワタナベ」という人名が書かれている。前者は川田龍吉が始めた米国式農牧場、後者は小県郡出身の渡辺半太左衛門が経営する渡辺組の貸し別荘である。
明治三十七年には近衛文麿(のちに首相)が来ているという報道記事があるけれども、このとき彼はまだ十三歳。誰が連れて来たか興味のあるところだ。泊まったのは別荘ではなく、学習院の定宿となっていたつるや旅館と思われる。
明治三十年代に別荘を建てた学者では、最初に江木衷《えぎまこと》(一八五八〜一九二五)がいる。彼は英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者のひとりで、明治三十六年に軽井沢に別荘を建てた頃は東京弁護士会会長だった。妻の江木|欣々《きんきん》はもと新橋の芸者だったが才媛として知られ、社交界で有名な存在である。佐藤孝一著の『かるゐざわ』には「霞に匂う日、博士は窓深く籠《こ》めて読書三昧に入り、婦人は馬に鞭打って山野を駆け」と書かれている。
また、医科大学(のちの東大医学部)の学長であった青山|胤通《たねみち》(一八五九〜一九一七)や佐々木政吉医博も明治三十七年に別荘を建てている。
財界人では、明治十年代に雨宮敬次郎が別荘を造ったのにかなり遅れて、三井財閥の三井三郎助が明治三十二年に土地を購入した。
「『広い別荘ですな、何千坪あるでしょう』と坂の途中でひとりがつぶやく。
『何千ではききますまい。少なくとも万や二万はあったはずです』と他のひとりが答える。通りがかりの作男にたずねれば十万坪だという。さらに後で別荘守に問えば十五万坪じゃとのこと。聞けば聞くほど大きくなる。よい加減にしておかぬと何十万坪になるかわからぬ」
このように、佐藤孝一の『かるゐざわ』のルポでは十五万坪と推定されたことから、それが地元で伝えられる面積になってしまった。古い土地台帳で調べてみると実際には明治三十二年に三千二百坪を買い、のちに買い足して合計約二万五千坪となる。このうち約五千七百坪を、明治三十九年に日本女子大に寄付して三泉寮となった。
これは明治三十四年に日本女子大として発足してから学長をつとめていた成瀬仁蔵が、過労をいやすために三井家別荘で静養し、それが発展して夏季寮となったのである。これ以降三年生が夏季の二週間ほどを三泉寮で過ごすのが恒例化していく。
そして、一九〇九(明治四十二)年になると、日本人避暑客がぐっと多くなる。信濃毎日新聞(同年八月六日付)でこう報道している。
「主なる避暑客
桂首相、西園寺侯爵、江木・佐々木・新渡戸・青山の四博士、大河内子爵夫人、徳大寺侍従長第六の令嬢伊楚子、内田ドイツ大使の令息千束氏等。外国人ではスイス公使館書記のヘンリー・ストロング氏、米国大使マグノナルド夫人、英国大使館書記ホート氏、スイス公使サクース氏、米国大佐レーアース氏。これに女子大学生が四十五名、東洋英和女学校生徒が二十名。統計的に調べてみると華族が六名、日本人男子三百六十一名、女子が四百八十七名。外国人男子が三百三十三名、女子が四百六十二名。いま続々増加する見込みなり」
外国人と日本人の避暑客数がほぼ同じになってきている。そして、注目すべきことは、桂太郎首相、西園寺公望前首相という政界実力者の二人がそろっていることである。これは明治三十四年六月二日に第四次伊藤博文内閣を桂太郎が引き継いで以来、三十九年に西園寺内閣となり、四十一年に再び桂内閣、四十四年よりまた西園寺内閣、大正元年より三度目の桂内閣と二人の間で激動の十二年間を交代で首相をつとめるという異例な権力集中を生んでくるのだ。
もっとも、西園寺と桂とでは軽井沢に対する思い入れがいくぶんちがう。西園寺公望は、彼の秘書である原田熊雄が三笠ホテル創業者の山本直良の親戚(有島生馬の義兄)であることから三笠に別荘を造っている。彼は首相当時に大磯にも別荘を持っていた。日清戦争から明治四十年頃までは、大磯が政界の奥座敷であったのである。伊藤博文が別荘滄浪閣《そうろうかく》≠持っていたし、西園寺は伊藤から隣壮≠ニ名づけてもらった別荘を持ち、さらに近くに陸奥宗光、山県有朋の別荘もあった。
この西園寺が秘書の原田熊雄の勧めで三笠ホテルに泊まり、翌年から別荘を建てたのである。西園寺がなぜ軽井沢を気に入ったかという理由が伝記のなかに出て来る。
「東京にいると、白足袋を一日はくと汚れてしまうが、ここでは三日はいても汚れない。それが何よりも気に入った」
桂太郎は最初の年を雨宮敬次郎の別荘で過ごしている。このときの同行者がおもしろい。
「桂首相は七日正午軽井沢に到着し、離山なる雨宮敬次郎氏の別荘に入りたり。首相は東京よりすこぶる的の阿嬌《あきよう》二人を伴ない来たれり。今日は阿嬌及び二、三の人とともに夏知らぬ山間の清風に吹かれつつ歩みにまかせて旧軽井沢を見物せり」(信濃毎日新聞、明治四十二年八月九日付)
阿嬌は美人を意味する。愛人の芸妓を連れて来ていたのだ。そして、この翌年から離山の麓に別荘を建てている。ここにおいて、実力者二人の別荘が同じ年にでき、政界の夏季の奥座敷は軽井沢に変わったのである。
桂太郎、西園寺公望が軽井沢に来だした年に、伊藤博文の娘である末松生子は歌集『軽井沢百首』を発表した。
「夫の君に従いて軽井沢なる泉源亭に暑さを避けぬること年かさなりぬ。時としては夏の初めにものし、さまざまの春の花の一時に咲きぬるに目をそそぎ、滴るばかりなる新緑に心を慰め、時としては秋の末におとずれて、紅葉のにしきを見て浅間嶽の初雪をのぞみ、あるは近きあたりの名所旧蹟をさぐり、その折々興にふれて口すさみし言葉、今はその数百首となりにけり。
五月の頃浅間をのぞみて
夏あさき浅間のたけの峰の雪にほふ夕日にとけそめにけり」
この後に彼女の短歌が続いていく。
父の伊藤博文はこのとき、朝鮮統監であった。四次にわたって伊藤内閣を組閣し、明治三十四年に桂太郎に首相の座を譲っても、枢密院議長の職にあり、明治政府の元老の地位を保っていた。また、明治天皇のもっとも信頼の厚い政治家であった。その伊藤が初代朝鮮統監となっていたのである。
日本は、日露戦争のさなかに、第一次日韓協約を結び、国防、財政、外交の実権を掌握した。そして、日露講和条約のポーツマス会議で、ロシアが樺太の南半分を割譲することと同時に、日本が韓国で「指導保護及ビ監理ノ措置ヲ執ル」ことを承認させた。このときポーツマス会議の仲介役であるセオドア・ルーズベルト米国大統領も日本が韓国に宗主権を持つことを認めている。つまり、韓国を植民地とすることが国際的に認知されたのだ。これによって明治三十八年十一月、第二次日韓協約が調印され、翌月に伊藤博文が統監として京城に赴任した。
この統監は、事実上の最高権力者であった。形式的に韓国の閣議を開いてもつねに議長は伊藤であり、日本政府の決定を押しつけて追認させるためのものであった。そして、伊藤統監の時代に、韓国皇帝李煕を退位させ、李拓を新皇帝に即位させている。
伊藤博文は第二次日韓協約の直後に、皇太子の李垠を日本留学のために連れて来る。このときに撮影した記念写真が両国を象徴している。伊藤は勲章をさげた洋服の正装であるのに対し、李垠皇太子は羽織、袴の和服を着せられている。
この李垠の日本での教育を任されたのが伊藤の女婿の末松謙澄夫妻である。彼らは李垠を明治四十二年十月に軽井沢にも連れて来て、紅葉狩りをしている。このとき当然のように彼の別荘である泉源亭に泊まった。
だが、国家の主権を奪われ、軍隊を解散させられ、皇帝さえも譲位させられた韓国民からすれば、伊藤博文はもっとも憎むべき人物であった。ここから李垠が軽井沢に来た十日後の十月二十六日、伊藤博文はハルビン駅で韓国人の安重根によって狙撃されて死去した。伊藤が最期に所持していた鞄のなかには、末松生子の歌集も入っていた。
[#改ページ]
[#小見出し] 第三章 草原の円卓会議
娯楽を自然に求めよ[#「娯楽を自然に求めよ」はゴシック体]
軽井沢がリゾートとして発見され=A次いでそこに人々が訪れ始め、高級リゾートに飛躍、発展していく……このターニングポイントの年を、私は一九〇九(明治四十二)年と判断する。この頃、各地方にローカルな日刊新聞があったのだが、軽井沢を含む地元の信濃佐久新聞は明治四十二年八月九日付で「軽井沢の繁昌」と題してこう報道している。
「当地の繁昌は非常なるものにて停車場なる二十七台の人力車は一列車ごとに降下する客を運びきれず。定員七十五名の万平ホテルなどは廊下まで仮部屋となし目下百三十余人を収容し、平素ガランドウをもって聞こえたる三笠ホテルさえ満員の盛況なり。その他いずれの旅舎も充満し、一寸一泊ぐらいの客は謝絶のありさまにて現に千八百余人滞在せり。他の別荘等にある者も毎日の散歩にてその盛んなるは驚くほどなりき」
ホテルは定員の二倍を泊めても宿泊客をさばき切れない。日本式旅館さえ満員となっている。二十年前には廃村寸前だった軽井沢が、奇跡的によみがえり、大繁盛している。
これを佐藤孝一著『かるゐざわ』の避暑客宿泊人員調査表で見る。明治三十九年に外国人八百五十二名、日本人千百四十名。四十年、外国人七百二十五名、日本人八百六十八名。四十一年、外国人九百二十四名、日本人二千八百九十六名。四十二年、外国人千百七十二名、日本人三千九百九十四名。つまり、明治四十二年には、外国人が千名を超し、日本人は三十四名の華族も含んで約四千名の避暑客に達している。それらを合計した宿泊延べ人数は約十二万人となる。
この一九〇九年の外国人滞在客を国別にみると、英国人四百九十六名、米国人五百四十二名、ドイツ人五十名、中国人二十三名、スイス人十九名、フランス人十三名など十五ヵ国にのぼる。だが、圧倒的に英米人が多い。ここにリゾートとしての特徴が出て来るのだ。
佐藤孝一の『かるゐざわ』がそれを明快に述べている。
「『娯楽を人に求めずして自然に求めよ』とこれが軽井沢のいたるところにおいて叫ばるる言葉であって、唯一の主張また方針である。ゆえに、この主張と方針のもとに、避暑地として世に知られてより今日に至るもなお芸娼妓を許さずまたこの種の婦人をいれずして、あくまでも善良なる風習を保つに腐心するは、これ他の避暑地に誇るべきゆえんの第一である。次にこの地に遊ぶものは万事平民的にふるまうことである。即ち、他の避暑地におけるがごとく、衣服の選択また携帯品の取捨に意を用いるのわずらいはいらず、滞在中はすべての人種と階級の埒《らち》を打ち破って、自由に平等に自然に親しみ人生を楽しまねばならぬ。これ他の避暑地に誇るべきゆえんの第二である」
この考え方は当時として画期的なものである。最近の用語でいえばエコトピア≠ニなる。アメリカの作家カレンバックが一九七五年に出版した近未来小説『エコトピア・レポート』で知られたもので、エコロジー(生態学)とユートピア(理想郷)の合成語。そんな言葉がなかった時代に、その概念はすでに、軽井沢のスローガンとなっていたのだ。そして、この思想はいまの軽井沢憲章≠ノ継承されている。
娯楽を人に求めずして自然に求めよ……このリゾート哲学はどこから生まれ、どう変化したのかをみる必要がある。
一般的には男性向けの夜の歓楽街を作らなかったことが「娯楽を人に求めずして」の意味として知られている。明治時代の行楽地には、飲食街や売春街が存在した。それが軽井沢にはなかったのである。宿場時代にあった遊廓は客がいなくなったために岩村田に移転した。碓氷トンネル工事のときには作業員目当ての娼婦が入り込んだが、その後は入れていない。
バーや飲み屋もなかったことが、軽井沢ルポ記事でわかる。
「この地へ避暑する客は宗教家が多い。外国人の七、八分は宣教師で日本人でも教会に関係ある人々がたくさんのようだ。そして、この宣教師の避暑費というものは毎年一定の予算がある。予算範囲の活動が軽井沢の避暑であるからこの避暑客から金を絞ろうなどということは神に対しても恐れ多い話である。だから万平ホテルや軽井沢ホテルでバーを造っても駄目。シャンパンだのウイスキーだのはこっそり別荘に運ばせて飲む連中が多いと聞く。それでもこの土地に落ちる金額は二十万円である」(信濃毎日新聞、明治四十二年八月七日付)
言い換えれば、酒もなし、女もなし……男たちが喜ぶ従来のエンターテインメントはなかったのである。それでもひと夏三ヵ月で二十万円のお金が軽井沢に入った。この金額が売り上げなのか、純益なのかが記事ではわかりにくい。でも、外国人の避暑生活費は一ヵ月約百五十円と書いてある別の報道記事から計算していくと、人件費を含んだ粗利益のようだ。
これがいかに巨額だったことか。明治四十三年の桂太郎首相の年俸が一万二千円、東京府知事の年俸は四千五百円である。この頃の東長倉村は約六百世帯。単純計算して一世帯あたり約三百三十円の粗利益となる。小学校教員の初任年俸が百五十円ぐらいのときだから、その二倍の年間収入を夏の三ヵ月で得たといえる。ただし、この収入金額は世帯によって極端にちがっている。
外国人避暑客の大半が宣教師とその夫人と子どもたちであった。ここで、いかがわしい職業の女性や店はなくした。もっといえば、禁欲的なリゾートとなった。それが逆に付加価値となってリゾートとして高度成長するのだ。
娯楽を自然に求めよ……ここに初期避暑客の外国人の考え方が色濃く出て来る。自然のなかを散歩し、野外でゲームをし、汗を流す。そして、明治四十一年には外国人避暑客が自治組織の軽井沢体育協会≠作って、テニスクラブ、野球部などスポーツを奨励するとともに社交のあり方も決定している。全体にアウトドアスポーツで肉体を動かすことを勧めている。いまでこそこれは常識だが、明治日本にはなかった思想なのである。それがなぜ、軽井沢に定着したかを深めていこう。
リゾートの誕生[#「リゾートの誕生」はゴシック体]
明治日本は、富国強兵のスローガンのもとに帝国主義への道を走っていた。日清戦争、日露戦争の間に産業革命が起き、農村から都会へと労働者が流入している。ここで国民に要求された価値観は勤勉実直である。権力にとって怠惰は絶対に許してはならないものであった。
桂太郎首相は明治四十一年十月、天皇の詔勅という形をとった「戊申《ぼしん》詔書」を出した。これは教育勅語につぐ重要な詔書として、祝祭日の儀式ごとに奉読され、国民が暗誦することを強制された。そのなかに、こういう一節がある。
「宜《よろし》ク上下心ヲ一ニシ忠実業ニ服シ勤検産ヲ治メ惟《こ》レ信惟レ義醇厚俗ヲ成シ華ヲ去リ実ニ就キ荒怠相|戒《いまし》メ自彊息《じきようや》マサルヘシ」
だが、避暑というのは無為に過ごす時間である。怠けることである。ここで国民全体に生活の規範を示した戊申詔書と対立した思想となってくる。
それでも、軽井沢の避暑は容認されていた。主な避暑客が外国人であり、日本人は上流階級に限られていたからである。
このリゾート(健康保養地)が英国人の間で一般的になりだしたのは、十八世紀のバースからであった。地方の広大な領地を持つ貴族や上流階級の人たちの間で、ロンドンから馬車で三日行程の温泉都市バースへ行くことが流行となった。これが、近代のリゾートブームの発端である。
「十八世紀に入った頃から特に大きな賑《にぎわ》いを見せ始めたバースは、やがてあるひとりの異才の手によってイギリス随一の温泉観光都市として、イギリスはおろかヨーロッパ中にその名をとどろかせることになる。そして冬の社交季節を迎えると、多くの貴顕紳士淑女で溢《あふ》れんばかりの活況を呈するのである。バース詣《もうで》≠ヘファッショナブルな人々の欠くべからざる年中行事となって、冬のバースには華やかなロンドンの生活がそっくりそのまま移ってきたのである」(小林章夫『地上楽園バース』)
この賑わいを作りだしたのがリチャード・ナッシュで、ナッシュの憲法といわれる規則を制定し、一万人前後の来訪者のすべてに挨拶をし、滞在者を掌握していたという。だが、ここに押しかける人々が、中流階級にも広まり、掌握できないほど大勢となると同時に急速に衰微した。
それと交代してリゾートとなったのは海岸都市ブライトンである。バースでは温泉に入り、鉱泉を服用することが健康によいとされていた。海岸都市ブライトンでは冷水に体を沈めることが病気を癒《いや》す効果があると信じられていた。健康によいこと、日常的な都市環境を忘れること……これがリゾートの必須条件だが、それは同時に都市化した社会の副産物であることを意味する。
軽井沢の初期避暑客は、ビクトリア朝時代(一八三七〜一九〇一)のイギリス的な価値観を持っていた。産業革命によって高度成長し、世界の工場となり、大英帝国として世界に君臨していた時代である。その時代のイギリス人は楽天的で、自由と進歩を信じていたし、清らかな精神性を持っていた。軽井沢の避暑客の中心だったカナダ系宣教師たちには、さらに理想主義を加えてよいだろう。
宣教師は、上流階級ではない。貴族、地主階級によって庇護《ひご》されていた人々である。たぶんミドルクラスかそれ以下の階層ながら、上流階級とつきあうことでそのライフスタイルを模倣していったのだろう。発展途上国の日本で彼らは自分たちが上流階級扱いされることを知り、その生活様式を日本人に教える役割も果たす。
彼らは産業革命と同時に発生した社会現象も知っていた。工場労働者が都市に集中し、劣悪な住宅条件のなかで暮らす。ここから労働運動も発生してくる。彼らがイギリスの歴史で知っていたことが、明治の日本でも起こりだしていた。
ビクトリア朝時代のイギリスでもっとも重要な問題は、アルコール中毒者の救済であった。当時のイギリス人は大酒飲みであった。一八七六年には、ひとりあたり年間ビール百五十五リットル、ジンなど強いスピリット七リットルを飲んでいる。これは家計費の一五パーセントを占めている。
この禁酒運動と宗教活動が重なりあって、新しいレジャーを作りだしてくる。酒を飲む共通空間パブに代わる娯楽が必要である。ここでまず公園が造られる。イギリスの公園の多くは、この頃の絶対禁酒論者が私有地を寄贈することで誕生したのである。これは自然保護運動にも発展する。次に旅行が奨励された。鉄道の完成によって、旅行する楽しみが増した。有名な旅行会社トーマス・クックの創立者も禁酒論者であった。
さらにアウトドアスポーツである。この時代にクリケットが英国のナショナルスポーツになり、ルールが定まってその専門コーチが学校でも教えた。これは英国の伝統的なスポーツで、上流階級に好まれていた。軽井沢では三笠ホテル創業のときにクリケット場も造っている。
テニスのウインブルドン・トーナメントは一八七七年、デビスカップは一九〇〇年から始まった。これも上流階級からミドルクラスに広がることで人気を持っていく。サッカー、ラグビーもこの時代に盛んになる。
アメリカで発達した野球は、明治三十七年の早慶戦が話題となって以来、日本でも定着した。外国人の軽井沢体育協会の野球チームと、日本チームや早稲田チーム、慶応チームとの試合が軽井沢でも行われだす。
禁酒して、その代わりにアウトドアスポーツで汗を流す……宣教師たちは軽井沢を理想の地にしようと考えていたのである。
太平洋のかけ橋≠ニ新渡戸稲造[#「太平洋のかけ橋≠ニ新渡戸稲造」はゴシック体]
一九〇九(明治四十二)年九月一日。この日付に私は特別な思いを抱く。ダニエルとキャサリンのノーマン夫妻の間に、第三子のハーバートが生まれたのである。それも軽井沢においてであった。このとき、姉のグレース六歳、兄のハワード四歳。一家は長野市の県町に「ノルマン館」と呼ばれる宣教師館を持っていたのだが、夏は例年軽井沢で過ごしていた。
ここでのちにハーバート・ノーマンは自ら「軽井沢生まれ」の「長野県人」であることを得意になってしゃべることになる。
彼の誕生日の日付の信濃毎日新聞に、軽井沢風景を象徴する記事が載っている。
「目下、北佐久郡東長倉村軽井沢に別荘を構える内外人は約百五十戸にのぼれり。これに対する同村の戸別等級割は年々歳々増加して、今年のごとき実に三千円以上に達せり。避暑客の多き頂点に達せる昨今のことなり、誅求《ちゆうきゆう》の甚しきを憤がいせる数百の内外人は、八月三十日、万国大会議ともいうべき会議を開きぬ。徴税の過多なるは内外人の等しく認むところなり、議はただちに一決してここに本邦人よりは二名すなわち新渡戸・青山両博士を、また外国人側よりは三名をいずれも委員にあげ、あくまで戸別等級割引き下げの実行をその筋に迫るに決せり」
この戸別等級割というのは、国の所得税ではなく、土地や資産に対して課税した県税である。東長倉村の歳費が七千円の頃に三千円も避暑客に課税したのだ。
彼らはここから長野市に赴き、県知事に陳情する。記事に外国人の代表者名が書かれていないが、「軽井沢の村長さん」と呼ばれたダニエル・ノーマンもそのひとりだったろうと推測できる。
それまで公式な交流がなかった外国人避暑客と日本人避暑客とが、税金という共通の問題で歩調を合わせたのである。身近なことがらで、対等な国際交流の第一歩を踏みだしたといえる。
そして、重要なことは、来日していた宣教師たちの間に子どもが生まれ、彼らが国際間の橋渡しの役割を生まれながらにして担っていったことにある。ハーバート・ノーマンはのちに駐日カナダ代表部主席となった。
ハーバートより一年遅れて、東京の明治学院キャンパスで生まれたエドウィン・ライシャワーはのちにアメリカ大使となっている。彼の父親のオーガスト・ライシャワーは長老派宣教師として一九〇五年に来日した人である。
このエドウィン・ライシャワーが自伝の冒頭にこう書いている。
「私の子ども時代には日本生まれのアメリカ人、特に宣教師の子はBIJ(ボーン・イン・ジャパンの頭文字)と呼ばれた。私たちはその呼び名が自慢で、そうでない友達に対しては優越感を持った。彼らより日本の暮らしについてはるかによく知り、日本語も上手だった」
ライシャワー一家も来日した年から軽井沢避暑客の常連であった。
日本人代表者二名のひとりは東京帝国大学医科大(のちの東大医学部)学長であった青山胤通、もうひとりは新渡戸稲造である。この新渡戸が軽井沢別荘族の代表になっている点を重視したい。
新渡戸稲造は一八六二(文久二)年に盛岡に生まれ、札幌農学校に在学中に内村鑑三、宮部金吾らとクリスチャンになった。一八八四(明治十七)年に米国に渡り、ジョンズ・ホプキンズ大学に学んだ。そして、在米中に札幌農学校の教師に任命されて、そのままドイツに三年留学する。
帰国してからは札幌農学校に勤務したのち、後藤新平のもとで台湾総督府糖務局長に就任。これは日清戦争によって日本の植民地となった台湾を日本政府はうまく統治できないでいたため、後藤新平が総督府民政局長となって島民の反乱を防ぎつつ、産業の振興、鉄道敷設などに腕をふるいだしていた。その産業振興部門を新渡戸が任されたのである。このとき以降、後藤新平、新渡戸稲造というコンビができていく。
彼が軽井沢別荘族の代表者になった明治四十二年には、東京帝国大学農科大学(のちの東大農学部)の教授と第一高等学校長を兼任していた。また、この年から東京帝国大学法科大学(のちの東大法学部)の教授にも任命されている。すでに農学博士、法学博士の二つの博士号を持っていた。
この新渡戸がユニークなのは、当時としては珍しくアメリカ女性のメリー・エルキントンと恋愛結婚し、日本に伴って来たことにある。明治初期に英国女性と結婚した尾崎三良は、妻を日本に連れて来なかった。また、米国留学中にアメリカ女性と結婚した何人かの人はそのままアメリカにとどまっていた。日本に赴任した外国人宣教師が日本女性と結婚するケースはあるが、日本人が外国女性と結婚する例はきわめてまれだったのである。
彼は台湾に赴任する前に、米国のリゾートとして有名なカリフォルニア州モンタレーで二年間過ごし、そこで英文の著書「武士道」を書いて国際的な絶賛を浴びていた。在日外国人のなかでもそれは評判となっている。
この新渡戸がいつから軽井沢に来だしたかを調べてみると、台湾総督府については嘱託の身分にしてもらい、京都帝国大学法科大学(のちの京大法学部)教授に就任していた一九〇五(明治三十八)年である。この年にメリー夫人が弟あてに出した手紙に、軽井沢で「山の空気を思いっ切り吸ってバケーションを過ごす」ことを書いている。リゾート軽井沢が太平洋のかけ橋≠フ第一歩となっていたのである。
大洪水後に生まれた森林[#「大洪水後に生まれた森林」はゴシック体]
娯楽を自然に求めよ……このスローガンが主張されだしていた一九一〇(明治四十三)年に、軽井沢は自然の脅威にさらされた。本土に上陸した大型台風が、明治四十年に続いて長野県を直撃したのである。この体験談は数多い。そのなかからダニエル・ノーマンの長男であるハワード・ノーマンの文を引用する。
「小川の岸に建ててあったわれわれの夏の別荘まで大水が迫ってきて危険になってきた。チョコレート色の濁水が渦巻いて打ち寄せてくるのを見て姉のグレースと私はふるえあがっていた。ハーバートはまだ幼少で何もわからないので嬉《うれ》しそうに声をあげて走りまわっていた。父はともかく母とわれわれ兄弟三人を安全な場所に避難させておいて、その晩はひとりで家を守っていた」
これは記憶に基づいて書いたので割とクールに描かれている。実際にはもっと恐怖におののいたはずである。
八月九日から集中豪雨のように降りだした雨で大洪水となったのである。旧軽井沢では川越石川(現在の矢ケ崎川)が氾濫《はんらん》し、旧中山道を川のように濁流が走った。三笠ホテルは日本館二棟が流失。碓氷峠では各所が山崩れを起こし、トンネルも崩れて鉄道不通に。沓掛方面でも湯川が氾濫した。このため、十一日までに死者一、行方不明二、外国人別荘二戸流失、民家六戸流失、家屋浸水二百五十戸という被害となっている。
ちょうど避暑のピーク時期だったので「目下軽井沢には西洋人九百二十名、日本人八百九十四名あり」(信濃毎日新聞、同年八月十四日付)という状態。この雨は十七日になってもまだ降り続いていた。
このときに西園寺公望、桂太郎は軽井沢で足止めをくってしまっている。特に桂太郎首相は重要な外交問題を抱えていた。
ここで桂首相は氾濫している湯川に仮設したつり橋を渡って、沓掛駅から汽車に乗り、篠ノ井線を回って帰京した。そして、八月二十二日、「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ安全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与」という韓国併合条約を調印したのである。
大洪水に対する外国人の動きは素早かった。米国大使館付武官ストロングが指揮して復旧作業にあたる一方、海外からの寄付も含めてたちまち千六百円ほどの救援金を集めている。
さらに、この洪水を教訓として二つのことが変化した。ひとつは旧宿場町を囲む形で別荘を造っていたが、愛宕山の南斜面に別荘を移築したことである。山の中腹ならば水害で浸水することはない。もうひとつは、火山灰地の草原だから豪雨になると雨水が川のように流れてしまうのを防ぐために保水能力のある樹木を植えだしたことである。現在うっそうと茂っている軽井沢の森林は、これ以降に植林されたのがほとんどだ。洪水によって、緑のユートピアづくりが本格化したのである。
理想はあくまでも理想である。現実がそうではないから、理想としてのスローガンが掲げられる。外国人のリゾートとして定着した明治時代末、軽井沢住民の状況はどうだったのだろうか。この客観的な描写が外国人宣教師のリポートから読みとれる。
「この村人たちは、深酒をし、とばくをし、他の罪をおかすといった泥沼状態に陥ってます。これらの人々のなかに一ヵ月に二回行って活動することは、未信者があまりに多いゆえに、まったく絶望的に感じます。でも、軽井沢の人たちは他の人々より知性的であり、賢いのです」(『ジャパン・イバンジェリスト』一九一〇年十月号)
大酒を飲み、とばくをする。ほかの罪というのは女遊びのことだろう。「飲む、打つ、買う」は徳川時代から権力が寛容だった娯楽である。宿場町の頃はこの三大娯楽があったゆえに繁栄したのだから、軽井沢の男たちの間には強い願望として残っていた。まして、それまで極貧にあえいでいたのに夏の三ヵ月を働くだけで大金が転がり込んでくる。彼らが一挙にはしゃいでしまったのも納得できる。
冬は厳寒の地である。酒で寒さをまぎらすことはやむをえない。「打つ、買う」の方はどうだったかを調べてみると……かなり派手にやっている。地元に伝えられる話では、とばくで何回も逮捕された人や、ばくちですって山や家を手放してしまった人のことなどがリアルだ。また、外国人客の前では清潔そうに振る舞っている人が芸妓狂いに走って財産を傾けてしまった話などはごろごろしている。ただし、これらのなまぐさい話はプライバシー侵害になってしまうので書くことは遠慮しよう。
「それでも……」と、この『ジャパン・イバンジェリスト』のリポートは続けている。
「夏に外国人宣教師たちが伝道してクリスチャンに導いたし、その信者を継続して導いていってくれる日本人牧師が軽井沢にいることによって、キリスト教的雰囲気は保たれています」
これはプロテスタント超教派のユニオン・チャーチが外国人専用だったので、日本人向けに軽井沢合同教会(現在の軽井沢教会)を一九〇四年に造り、メソジスト派が日本人牧師を一年中軽井沢に常駐させたのである。ここから一九一〇(明治四十三)年には洗礼を受けたキリスト教信者が二十四名、日曜礼拝の平均出席者二十五名、子どものための日曜学校の平均出席者二百二十四名。人口から考えるとかなり高いキリスト教信者の比率になる。
こんなキリスト教精神によって、住民の生活も大きく変わる。日曜日は安息日としていっさいの店が休業したのである。また、テニスコートなどスポーツ施設も日曜日には閉鎖された。この日曜休業という習慣は、外国人宣教師が少なくなっても長い間続いた。旧軽井沢の商店街が日曜開業に踏み切ったのは、避暑客の階層が変化した昭和三十年頃になってからである。
「アマ」と呼ばれた女性たち[#「「アマ」と呼ばれた女性たち」はゴシック体]
「その頃、旧軽井沢にいた子どもたちはほとんど教会の日曜学校へ通ったものです。行くときれいなカードがもらえましたね。それが楽しみでした。また、日曜学校では別荘に来ている外国人や日本人の子どもと地元の子どもは対等でした。華族も同じですよ。私は小学校卒業まで通いました。この幼児期に教わった、人を愛すること、平和を守ることの大切さなどはいまでも心の支えになっています」
旧軽銀座で薬局を営む一條香代(八十歳)が幼児期に体験したことを語る。彼女は江戸時代に中山道で旅籠「土屋」を経営していた子孫である。その当主は代々武助を名乗り、二百三十年ほど前から書き継がれた「武助日記」が仏壇奥から発見されて、近世史を解きほぐす貴重な資料となっている。
外人避暑客が来だした頃、この家はすでに旅籠はやめていた。明治時代中期には鉄道技師となって働くなどの苦労も重ねたようだ。そして、外人客が多くなるとともに、街道に面した座敷を都会から来た商人に賃貸しすることになる。
「貸したのは、横浜から来た仕立て屋さん。職人を数人使って、婦人ものの洋服を作ってました。すべてオーダーメードでね、仕立て屋さんが別荘まで仮縫いに出張して作っていました。ロンドン製の最高生地を使ってますから、七十年前に私が作ってもらったオーバーはまだ着れますよ。貸し座敷代はひと夏八十円から百円だったと思います。一月の家計費が十円の頃ですね」
旧宿場町なので、当時の地図を見ると間口は狭くても奥行きはその十倍以上あるうなぎの寝床ふうの家屋が軒をつらねている。その表通りはほとんどが都会から来た出張店に貸しだされたのだ。中国人経営の商店がかなり多かったという。外国人向けの貴金属店、キッチン用品店、フードストアなどである。
家賃収入のほかに、別荘族の増加は雇用も促した。一條香代の呼びかけで集まってくれた今井しよう(八十二歳)、長岡きよ(八十二歳)、渡辺茂子(七十八歳)など旧軽井沢で生まれた人たちが当時の女性の働きぶりを語ってくれる。
「軽井沢の女性は、みんな別荘へ働きに行ったのです。一番大変だったのは水汲み。愛宕山中腹にできた別荘では、洗濯などは天水を使ったけど、飲み水は下の井戸から運ばなければならない。急坂を水をかついで上がるのがつらい仕事でした」
「朝早くから暗くなるまで働きましたから、往復に苦労しました。私たちは下駄ばきなので雨になると坂道で滑る。また嵐のときは提灯の火が消えるとつかなくてね……暗い道をひとり歩きしていると泣きたくなって」
「一軒の別荘に、コックさん、アマさんのほかに、子どもの面倒を見るベビーアマ、ウエートレスのようなテーブルアマがいたものです。ところで、どうしてアマと呼んだのでしょうね」
アマとは「阿媽」という中国語からきたものでお手伝いさんを示す東洋英語である。
外国人や上流階級の避暑客は、自分の家で雇っている使用人を連れて来る。でも、それだけでは足りない。本宅使用人の下働きとして現地の女性を雇っている。ここで、軽井沢の旧宿場町に住む健康な女性はすべて、何らかの形で別荘やホテルなどで働くことになった。ひと夏の外国人滞在客は千人を超しているのだから、一軒が、三、四人を雇用すれば人手不足となる。近隣の村落にも応援を頼んで、夏の労働力を補ったようだ。このなかから、プロのコックやメードも育ち、都会の本宅にも雇用されるようになる。
男たちはどうしたか。明治時代から旧道通りに開業していた槌屋《つちや》百貨店の現社長・土屋重信(七十一歳)は商業の立場から語る。
「私の父が、明治三十年頃からここで店を開いたそうです。大塚山に残されている石碑で、鎌倉時代にここに先祖が住みついたことがわかってます。
明治末から大正初めのことでいうと、外国人が軽井沢駅に着くのを各商店は待ち構えているのです。荷車や自転車を店員たちがならべていて、着いた客の荷物をどんどん積んでしまう。ほかの店と競争ですよ。それで、その外国人のひと夏の出入り商人という地位をもらう。こうやって、四、五軒の別荘を獲得すれば商売がやっていけた。別荘客を獲得するごとに、店員にはいまのボーナスにあたる特別金を払ったそうです」
鉄道が通る前は峠で待ち構えていた人々が、鉄道時代には軽井沢駅で顧客の争奪戦をしたことになる。当時の商店、職人は徒弟制度だったため、夏には若い労働力を何人も抱えていたのだろう。こうやって注文を受けた商品は重いものは二人がかりの荷車で愛宕山の中腹まで押し上げていった。
この時代に技術を身につける男性も出て来る。別荘の建築業、軽井沢彫りの家具製造業、クリーニング業などである。
現在の旧軽銀座の中央部に東京のベルコモンズが店を出しているのだが、そのビルのオーナーは旧軽井沢区の区長をつとめる佐藤重二(六十六歳)。彼の父である佐藤五三郎は靴店を経営しだした。そのいきさつを佐藤重二が話す。
「父の五三郎は明治二十二年生まれ。子どもの頃から、外国人の別荘でマキ割りや雑用をやったそうです。そして、宣教師から英国に連れて行ってやると言われて、十五歳頃に横浜まで行って……結局、だまされたんでしょうね。外国へは行かないで、銀座の靴店ヨシノヤに住み込んで靴の製造法を習ったのです」
銀座ヨシノヤは創業が明治四十年。佐藤五三郎が靴製造という自分の店の広告を明治四十五年には出しているから、この五年の間に開業したとわかる。もっともその靴店の写真を探してくれと頼んだら、佐藤重二は困惑した表情となった。
「その頃は靴はすべてオーダーメードなんです。客が注文に来て、サイズを計って、靴を作る。展示する必要がないから写真は撮ってない。大正初めにドイツから輸入したミシン二台は残ってましたがね。当時のお金で一台二十五円したそうです」
当時の写真を見ると、旧中山道の軽井沢は英語の看板で溢《あふ》れている。日本で唯一夏の外人村≠ニなっていたのである。
別荘族を支えたメードたち[#「別荘族を支えたメードたち」はゴシック体]
地味な仕事ながら、別荘に不可欠な仕事がある。別荘を管理する別荘番である。これを父子二代にわたってやってきた中塚金(九十歳)は、幼児期の記憶をこう語る。
「父の代吉が、英国人のチャペルさんの別荘番を明治三十年頃からやっていた。叔母もその家で住み込みのコックをしていたんでね、私も四歳の明治三十七年からチャペルさんの家で一緒に暮らしたんだ。子どもが四人いて、食事のときもその子どもたちと一緒に食べましたよ。奥さんがいい人でね、私が小学校に入る頃には、英語も教えてくれて……チャペルさんも奥さんも日本語がペラペラでしたよ」
このジェームズ・チャペル(一八六八〜一九五四)は、一八八七(明治二十)年にイギリス国教会から日本に派遣された宣教師である。青森、弘前、八戸、前橋を伝道した後、水戸を本拠に活動していた。
芭蕉句碑の前で明治三十年頃に撮影した有名な 写真の村人の背後にいるのがチャペル夫人とその子ども。村人のひとりが、中塚金の父である代吉だ。
中塚金が続ける。
「私が子どもの頃にうちの父が、ほかの人と一緒にチャペルさんに言われて、この敷地のなかにテニスコートを造ったんです。個人の庭にコートを造ったのはここが一番古い。このコートを真似してユニオン・チャーチ前のコートも造られたんですよ」
こんな形で軽井沢の旧宿場町の人たちが、外国人別荘族の生活を支えた。その努力は涙ぐましいほどである。
その関係が深いだけに、外国人が現地の人をどう見ていたかに興味がいくので探ってみた。ところが、宣教師が本国へ送ったリポートなどには現地の人に関する叙述は皆無なのだ。
ようやく見つけたのは、山口県で発行されていた防長新聞が掲載していた英文和訳のコラム「新外郎」である。書いていたのは大阪外国語学校の教師である米国人グレン・W・ショー。大正十年の夏に、軽井沢の記事を掲載している。和訳文は少し古めかしいが、当時の雰囲気が伝わるのでそのまま引用しよう。
「八月十一日。今日は召使いデーだった。軽井沢の外人に雇われている残らずの厨人《コック》と女中とボーイとが二十四時間の暇を与えられた。いずれも善光寺や小諸やもっと近まの諸所へと出かけて、外人天地は拭き掃除、床ごしらえ、料理から皿砕きの芸当まで一切合切自分の仕事を自分でさせられた。明日は召使い様が昨日に増してしみじみありがたがられるだろう」
このうち「召使い」と訳している言葉は英語で「サーバント」と書かれている。軽井沢では身分のちがいを忘れて避暑を楽しむといわれたが、それはあくまでも避暑客同士のことであった。使用人はどこまでも使用人だった。そして、このコラムによって、避暑シーズンの間は別荘使用人に盆休みもなく、日曜休日もなく、八月十一日だけが休みとなっていたことを知ることができる。
宣教師たちは快適な避暑生活をするためにコック、メード、雑用係などを雇った。このことが意味することを考えてみる。彼らは先進国から大金を持って発展途上国の日本に赴任して来ていた。いまの日本の海外駐在員が南アジアやアフリカなどの発展途上国で、一等地の高級住宅地に住み、数人のメードや運転手を抱えて生活していることと同じである。軽井沢では経済的な力関係によって、外国人、日本の上流階級、現地の人という三つの層に分かれていたのである。
だが、メードを使うことは一見当たり前のように見えるが、これもこの時代の産物である。メードが職業として定着したのは、ビクトリア朝時代の英国であった。産業革命によって所得が急速に上昇したミドルクラスは、古くからの貴族や地主階級の行動を模倣した。家庭で頻繁にディナーパーティーを催し、リゾートへ定期的に行く。そして、そんな家柄の主婦は家事労働から解放され、洗練された文化を享受した。ここで、最低ひとりのメードを雇うことがミドルクラスのステータス・シンボルとなった。余裕のある家ではさらにコック、馬車の御者を雇い、また子どもの教育のためにガバネスと呼ぶ住み込みの女性家庭教師を雇う。逆にいえば、家事使用人を雇っているかいないかが、ミドルクラスと労働者階級とを区別する尺度となった。
来日していた宣教師は自分が労働者階級でないことを示すためにもメードを雇う。そして当時の家事使用人の人件費は極端に安かった。彼らは日本全体がまだ貧しいときに、広い土地を持ち、芝生を植え、豪邸のような洋館を建て、メードを何人も使い、本国のミドルクラス以上の生活を送ったのである。
もちろん、宣教師だから派遣された布教本部に報告を送らなければならない。その教派ごとの年次総会、超教派の集会、幼稚園経営者会議などはすべて軽井沢で開かれた。各教派の本部に送るために撮影したと思われる写真がいくつか残っている。撮影年月が古いので全員の名前を割りだすのはむずかしい。それでもカナダ聖公会の宣教師団が一九一三(大正二)年に軽井沢で撮った人物名は、大江真道(柳城女子短大指導牧師)によって判明している。
ジョン・C・ロビンソン、ミス・クック、ミス・アーチャー、W・H・ゲール、ミス・メーカム、F・W・ケネディ、ミス・レノックス、J・M・ボールドウィン、C・H・ショオート、ロビンソン夫人、ミス・ロレッタ・ショー、ハミルトン夫人、ミス・ヒルダ・ロビンソン、ハミルトン主教、ミス・トレント、ケネディ夫人、ミス・マーガレット・ヤング、R・M・ミルマン。合計十八名の宣教師の名がわかったのだ。
このなかのロビンソンは軽井沢を撮影し続けた宣教師である。この前年に「東方の帝国の島」と題した長文の報告をカナダに送っている。そして、この年に重要な組織の中心人物のひとりとなるのだ。
「軽井沢避暑団」の結成[#「「軽井沢避暑団」の結成」はゴシック体]
日本に赴任していた宣教師グループのなかでイギリス国教会(聖公会)の動きはわかりにくい。イギリス本国の英国聖公会がアレキサンダー・ショーなどを日本に送ったし、アメリカ聖公会が独自に宣教師たちを送って立教学院などを創立した。さらに別に、カナダ聖公会が内外伝道協会、婦人伝道補助会、カナダ教会伝道協会の三組織によって日本へ宣教師を送り込んだ。さすがにこれだけ複雑だと困ることも出て来るので、カナダの三組織は一九〇二年に、カナダ聖公会伝道協会を結成することで統一した。その時点で十三人の男性と十六人の女性宣教師が日本に派遣されていて、名古屋を中心に愛知県、岐阜県、長野県、新潟県を伝道区域としていた。中部地方に限ったのは、そのほかの区域を英国聖公会、アメリカ聖公会の管轄として区分したからだ。
ジョン・ロビンソンが名古屋に赴任したのは一八八八(明治二十一)年だった。ここから彼がカナダ聖公会の指導的役割を果たすことになる。その三年後に内外伝道協会から派遣されたジョン・G・ウォーラーが来日し、長野市に赴任した。彼は明治三十年に聖救主教会を建設する。彼とは別に一八九二(明治二十五)年、婦人伝道補助会によって医療伝道のために看護婦のミス・ジェニー・スミスが長野で病院を建設し、彼女が病気で帰国してからはミス・スペンサー、ミス・アーチャーによって運営されていた。
また、松本ではミス・パターソンが自分の資産で私立女子校の聖マリア館を建設。パターソンが帰国してからはミス・メーカムが引き継いだ。上田では、一九〇一(明治三十四)年からマギニス夫妻が伝道している。
カナダ聖公会は軽井沢を長野のウォーラーの伝道区域に入れていた。その軽井沢で、一九一三(大正二)年、重要な会議がなされている。カナダ聖公会を代表して出席したのは、ジョン・ロビンソンである。長身で白髪、口ひげを生やした彼の写真から威厳も感じられる。その会議で次の決議が決せられた。
「年々避暑客ノ増加ニ伴ヒ、地方官庁トノ交渉関係ノ頻繁ヲ加フルヲ以テ、大正二年ノ総会ニ於テ一層永久的団体ヲ組織スルノ得策ナルヲ認メテ、ココニ『軽井沢避暑団』ノ名義ヲ以テ一団ヲ組織スルコトヲ決議シ、毎年一円ヲ支出スルモノハ内外人ノ区別ナク、総テ本団員タルコトヲ得ルコトトセリ」
軽井沢避暑客がそれまでの「軽井沢体育協会」「公益委員会」といったゆるやかな社交団体から、もっと社会性を持った「軽井沢避暑団」を組織したのである。これは大正五年には正式に財団法人と認可された。理事は、ジョン・ロビンソン、F・A・ロンバード、藤島太麻夫、ダニエル・ノーマン、島田三郎、八田裕二郎、R・A・トンプソン、J・J・チャップマン、C・W・アイグルハートの九名。外国人と日本人が対等に理事を出して、快適な避暑生活を守るために団結したのである。
その理事にメソジスト派を代表してなったのが、ダニエル・ノーマンである。
「軽井沢はいつともなく父の伝道教区の一部になっていた。私自身もほんの少年時代に、町はずれの小さい集落で野外日曜学校を開くから出席するようにいわれ、いやいやながら行ったことを覚えている」
ダニエル・ノーマンの長男ハワードは『長野のノルマン』でこう書いた後、軽井沢避暑団が結成されたいきさつに触れている。
「軽井沢はもともとほんの一小山村にすぎなかったものが、年々夏期の避暑客が増加するにつれて人口も数千人を数えるようになった。そのためにいろいろな困難な問題が持ち上がるようになったので、『軽井沢避暑団』が結成された。新しい道路敷設の要望があるにもかかわらず、土地の古老たちからは手痛い抗議があった。軽井沢は海抜約千メートルの高原にあって、その冷澄な空気は結核患者の療養には最適な土地である。父は結核療養病院を設立する計画を持っていた。それによると夏期の滞在者ばかりでなく一年を通じてこの地方の住民たちのためにも医師と協力して病人の世話をするようにしたいといっていた。またにわかに多数の若い名士たちが集まって来るのを目当てに、うまい金もうけをしようとしてやっきになる傾向があるので、その対策についても土地の古老や警察当局との交渉にあたらなければならない難問題が少なくなかった。そのほか雑多な問題が百出して、『軽井沢避暑団』が解決するために各種の委員会が生まれるようになった。父はずっとその会長に推されていたが、おそらくその世話をしていた期間は二十年を越えたかと思う」
ここからダニエル・ノーマンが、軽井沢の村長さん≠ニ呼ばれるようになるのである。この文章からわかることは、避暑外国人と現地の人との間にいろいろな摩擦があったことだ。なかでも経済摩擦が一番の重要問題だったろう。
財源のとぼしい東長倉村は、一九一二(明治四十五)年に、別荘所有者に村税を課そうとした。その三年前に県税の戸別等級割に反対した別荘族は再び立ち上がって反対集会を開き、それが軽井沢避暑団の結成となったことが推測できる。
これを調べているうちに、私は不思議な発見をした。ユニオン・チャーチ前のテニスコートは明治時代からあったことが写真などで裏付けられている。土地台帳で調べると、これは明治四十二年に英国人W・G・カナレーが一反八畝二歩の地上権を買ったものだ。それ以前は現地の人が貸していたのだろう。そして避暑団結成直後に米国人ハーベ・ブロカ、D・C・ライクが約四反を買い取った。この三人が大正六年にコートを軽井沢避暑団に寄付していたのである。また、のちに軽井沢集会堂が建築されることになる土地一反六畝はダニエル・ノーマンが大正三年に買い取り、やはり大正六年に避暑団に寄付している。私有地をパブリック(公共)用に寄付するという当時の英国流儀がここに活用されたのである。
シーメンス事件発覚[#「シーメンス事件発覚」はゴシック体]
軽井沢避暑団の日本人理事は、藤島太麻夫、島田三郎、八田裕二郎の三名である。このうち藤島太麻夫は医師だったらしいと伝えられるだけで、正確なことはわかっていない。
八田裕二郎の長男である八田裕一は、避暑団成立の時代に少年だったのでその頃の記憶が鮮明である。
「私の父の裕二郎が日本人として初めて別荘を造ったこともありますが、軽井沢に日本人で英会話をできる人はほとんどいなかった。ここで、父が通訳として雑用を押しつけられたんです。あの時代の外国人は日本語がペラペラな人でも、軽井沢に来ると英語で通した。彼らとすれば一年のうち母国語でしゃべれる唯一の期間だったので、英語で社交することを楽しんでいたのでしょう。
私が小学一年の頃、父のおともでジョン・ロビンソンの別荘に行ったことがあります。そこでカナリアを飼っていた。それを見て、私が英語でキャナリーと言ったら、発音がいいと頭をなでてくれたのを覚えてます」
八田裕二郎は、海軍を退職した後、有事に備えて民間輸送船をチャーターする組織を任されていた。また、明治初期にお付き武官として欧州に随行した華族が東伏見宮家を創設したこともあって、皇族とのつながりが強かった。この宮家との関係から、学習院の生徒を軽井沢のつるや旅館に連れて来たり、華族に別荘を紹介する仲介役となっている。
大正三年に旧軽井沢に初めて電気が通じた。
「それまでランプ生活でしたからね、電気が通じて急に明るくなった。でもね、当時は二十五|燭《しよく》(光度単位)の電球が一個だけだからいまから考えれば暗いもんです。それよりも、夜になるとパーティー帰りの外国人が提灯をさげて愛宕山の別荘に登って行く。その灯が点々とゆらめいて、きれいでしたね」
「外国人の子どもとはあまりつきあわなかったですね。むしろ仲が悪かったといった方がふさわしい。というのは、彼らはピカピカのスマートな自転車を乗り回していた。私たちはせいぜい商店が使うような不細工な自転車。彼らがさっそうとスポーツ・サイクルを走らせているのを見ると、くやしくて、くやしくて……彼らは日本人を見下してましたよ」
発展途上国と先進国の経済格差を八田裕一らは肌で痛感したように身振り入りで語る。
この八田裕一が知られざる政治舞台裏を思いがけず口にした。
「大正三年にシーメンス事件というのがありましたね。これは衆議院で島田三郎が追及して一気に政界を揺るがす大事件となった。でも、海軍の疑獄事件なので島田三郎は最初知らなかった。父の裕二郎がこの内幕を知って、島田に教えたのです。火をつけたのは私の父親ですよ。薩摩閥だった海軍からはみだしていた父にとっては、山本権兵衛内閣がおもしろいはずはないですよ」
大正三年のシーメンス事件は、明治から大正にかけての最大の疑獄事件であった。昭和四十年代のロッキード事件に匹敵する国際的な疑獄である。ドイツのシーメンス・シュッケルト電気会社の東京支社員カール・リヒテルが、東京支社から日本海軍に贈賄したことを示す書類を盗みだして恐喝したことで本国で有罪となった。この法廷で日本での贈収賄が明るみに出たのである。
そして外電としてドイツから事件の真相が伝えられると、その新聞をかざして島田三郎衆議院議員が激しく内閣を追及した。
この事件は前年十一月にすでに山本権兵衛首相など重要閣僚は知っていた。国民に隠して通そうとしたことを、八田裕二郎(当時、衆議院議員)はいち早く知っていたのだろう。シーメンス社が海軍の無線電信設備の売り込みに際して、海軍大佐と海軍機関少将に贈賄したのである。また、これとは別件なのだが、同時に英国のビッカース社から三井物産を仲介として軍艦「金剛」を購入した際に海軍中将に贈賄した事件も発覚した。
このときの山本権兵衛首相は「薩の海軍」の大御所であり、海軍とその御用商人とに君臨していた。そして、絶対多数派の政友会を率いていた。
島田三郎は野党である同志会の幹部であった。彼の演説ぶりは尾崎行雄とならんで有名だったものである。その尾崎も小会派の中正会を組織して野党となっていた。この同志会、中正会と国民党の三野党が連合して、山本内閣弾劾決議案を上程。だが、多数派の政友会によって否決された。
おもしろいことに、シーメンス事件をめぐる政治的攻防に軽井沢にゆかりのある人が多数からんでいる。これは海軍というものが英国海軍を模倣して作られ、先端科学技術は西欧直輸入だったことにもよっている。当時、親西欧派の政治家、知識人が軽井沢の日本人避暑客の中心だったのである。
八田裕二郎がなぜ、その事件をいち早く知っていたかも軽井沢に関係がある。外国人避暑客のなかに、外国人ジャーナリストが混じっていたからである。そして、糾弾すべき政治家の山本権兵衛は三笠ホテルの常連客だったし、外国企業から秘密コミッションを受け取っていた三井物産幹部も軽井沢避暑客だった。外国人ジャーナリストが海軍のなかで非主流派にいた八田裕二郎に、外電として伝えられる以前に事件の概要を語ったのだろう。その八田裕二郎は中正会の代議士だったが、島田三郎にその情報を流したのである。
島田三郎は、新聞記者から明治二十三年の第一回衆議院選に当選。クリスチャンだったことから、宣教師と一緒に軽井沢に来ることが恒例化していたようだ。一九一一(明治四十四)年には新渡戸稲造と一緒に渡米している。
シーメンス事件を多数派の政友会勢力によって乗り切ろうとした山本内閣は、貴族院で予算案が通過せず、海軍の戦艦建造費七千万円を削除されてしまう。明治憲法のもとでは予算案が否決された場合には前年度の予算で行政を行うことが認められていたが、それでは海軍に対して責任が持てない。ここで、山本内閣は退陣せざるをえなくなった。
政局は混沌とした。次の首相になりたがる人がいなかったのである。苦境に立った元老会議は、一転して藩閥政治を糾弾していた改進党以来の政党政治家である大隈重信を指名した。このときに、同志会の加藤高明、中正会の尾崎行雄などが入閣した。また、島田三郎は大正四年に衆議院議長に就任する。
大隈内閣になってからシーメンス事件に軍法会議で判決が下った。松本和中将は懲役三年、追徴金四十万九千八百円、藤井光五郎機関少将は懲役四年六ヵ月、追徴金三十六万円強といった厳しいものだった。
そして、政治的基盤の弱かった大隈首相にとって幸運だったのは、この年七月に第一次世界大戦が始まり、日本がドイツに宣戦布告することで、挙国一致的な雰囲気に包まれていったのである。
キャンベル夫妻殺害事件[#「キャンベル夫妻殺害事件」はゴシック体]
大隈重信首相、尾崎行雄法相の時代に、外国人避暑客をふるえ上がらせる事件が軽井沢で発生した。
一九一六(大正五)年七月十六日、旧軽井沢の別荘五百六十三番に滞在していたウィリアム・A・キャンベル夫妻が就寝中に強盗に押し入られ、殺害されたのである。
このとき、コックの日本女性がこの別荘に住み込んでいた。彼女は危害を加えられなかったので、その目撃した惨状は新聞で報道されている。
「コックのハナの語るところによればキャンベル夫妻の寝室は二階十畳の間にて、ベッドに南向きとなりて伏し居たるものなるが、ハナのかけ上がりたるときは主人はベッドより転げ落ちうつむきとなり、そのまま即死しおり。夫人は滅茶滅茶に斬りつけられ、ベッドの上にあおむきとなり虫の息にてありし」(信濃毎日新聞、同年七月十七日付)
その重傷の夫人も、かけつけた外国人医師の治療も及ばず、三時間後に死亡した。
この事件の通報を受けて、管轄の岩村田署は総出で捜査にあたり、長野県警からは警察部長、地検から検事正なども急行した。被害者が外国人のために国際問題になることをおそれて、県知事も談話を発表した。さらに、尾崎法相も避暑のために軽井沢に到着した七月二十二日に特別談話を出している。
犯人の遺留品はいくつかあったし、コックが犯人を目撃している。犯人逮捕に警察の威信がかかっていたのである。だが、容疑者らしい人物を何人か取り調べても容易に犯人逮捕に至らなかった。法相が滞在しているのに事件が解決しないのでは、警察の面目が失われる。警察犬を長野県で初めて使い、近隣署員も応援して懸命に捜査にあたった。
殺害されたキャンベル牧師はカナダのトロントの生まれで、メソジスト派の宣教師として二年前に来日したばかりだった。夫人は声楽家として有名だったという。キャンベル三十三歳、夫人三十一歳の若さであった。
この事件の直後である七月二十日、軽井沢避暑団は団長ロビンソン、副団長八田裕二郎など八名の連名で緊急決議をした。それは三ヵ条から成り、第一条でキャンベル夫妻に哀悼の意を表し、第二条で犯人逮捕と今後の防犯を呼びかけた。その第三条にいかにも避暑団らしい声明が盛り込まれている。
「当軽井沢避暑団は該《がい》事件の発生につき非常の驚愕《きようがく》を感ずるといえども、該事件はひとり軽井沢にのみ起こるにあらずして他の日本国内においても欧州内地においても時として起こるべくなるものなることをしかく信ずるがゆえに、該事件の関する公開演説および新聞紙上においてなんら人種的あるいは地方的悪評を下さざることを希望す」
日本人への人種的偏見や軽井沢の風土に対する批判となることを戒めていたのである。
キャンベル夫妻の葬儀は、まず軽井沢で七月十七日に行われた。カナダ・メソジスト教会の宣教師たちがひとつの棺に六人ずつ従ってユニオン・チャーチに到着、賛美歌を歌って告別式をした。会葬者は三百名以上だったという。この後、列車に特別車両を二両連結して東京に向かった。十八日に東京で改めて約百五十名の会葬者によって葬儀が営まれ、青山外人墓地に埋葬されている。
この間に、事件の捜査は遅々として進まなかった。この時代の新聞はようやく報道写真を使いだしているので捜査にあたっている検事正や刑事の姿がわかる。検事正は洋服にハット姿で人力車を乗り回している。角袖《かくそで》と呼ばれた刑事はハットをかぶっているが和装姿で歩いている。自転車も使っていないのだから機動力がなかったことだろう。
この警察に対して外国人の不満が噴出したようだ。自衛のためにピストルや番犬を東京から送らせ、住み込みのコックに寝室も警備させている。また、郵便局は旧軽井沢にあるのに、軽井沢警察分署が駅前の新軽井沢にあったことから外国人の多い旧軽井沢は手薄になっていたと批判している。
「位置問題につきては避暑団の間に盛んに論議されつつあり。また平素軽井沢署の巡査間には悪風あり。夏期のごときは避暑にでも来てる気にてろくろく巡邏もせず、まれに賭博の手入れ等をするも酒でも飲まさるればそのまま見逃すという調子にてはなはだしく外人間等には不愉快の念をいだかしめおれり」(信濃毎日新聞、大正五年七月二十三日付)
こんなように警察に対する不信感がいろいろと取りざたされることになる。
警察が犯人を逮捕したのは、避暑客がいなくなった九月二十日になってからであった。犯人は巡査をつとめたこともある砲兵軍曹の川上瞳で、神奈川県に潜伏中に長野県警の刑事が逮捕した。この川上は、長野県佐久地方の養蚕農家に臨時雇いされたのち、七月十五日に軽井沢に入って金のありそうな別荘を物色、戸締りをしてなかったキャンベル宅に侵入したと自供している。室内を探っているうちにキャンベル牧師が目をさまして英語で叫んだため一突きに刺殺、また騒ぐ夫人を何回も刺して、階下にいたコックを脅迫して金を奪って逃走した。奪った金は十六円だった。
このキャンベル事件には後日談がある。宣教師キャンベルの石碑がなぜか関係のない岩村田の円満寺に建てられているのだ。これに関して地元では、追分から岩村田に移転していた遊廓から楽隊がくりだし、大勢の人々が讃美歌を歌いながら円満寺まで葬列をつくったと伝えられている。
これは犯人の川上が軽井沢入りする前に岩村田遊廓で豪遊していた事実が自供で判明したので、厄落としのためにキャンベル追悼碑を建てたと考えられる。
リゾート開発の先駆け星野温泉[#「リゾート開発の先駆け星野温泉」はゴシック体]
浅間根腰の旧三宿のうち、軽井沢だけが発展していくのを見て、沓掛、追分の住民たちは羨望の念を抱いたことだろう。
衰退していた旧宿場を復活させるために鉄道の駅の設置を陳情していた。ここから、一九〇九(明治四十二)年、追分に夏三ヵ月間だけの臨時停車場ができた。翌年に沓掛駅(現在の中軽井沢駅)が設置された。この二駅を中心に、学生を相手とした旅館が営業を始め、少数の別荘も建てられ始めた。リゾートへの入り口がこれで三ヵ所となったのである。
「当時は一面の原野でしたからね、草原ばかり……この土地に住みつくとは二代目嘉助(国次)は夢にも思っていなかったそうです。だけど、他人の借金の保証人になって、その抵当流れでこの土地をもらった。来てみると気に入ったので、わらじばきで歩いて、あの山とこの川をといったかんじで買い足して、まず製材所を始めたのです」
旧沓掛宿から小瀬温泉に向かった地点にある星野温泉の社長・星野嘉助(四代目・晃良、五十七歳)が、ホテルの一室で温泉の誕生に至るまでの過程を語る。この星野家の当主は代々、嘉助を襲名している。その初代が明治時代に財産を築いた人物である。岩村田宿の魚商の家に生まれたが、時代の動きを見て生糸商に転じて、その一族が横浜に日米生糸という会社を設立して大成功したのである。米国ニューヨークに支店まで作っている。明治、大正時代に輸出の花形商品だったシルクを扱ってドルを稼いだことになる。
二代目嘉助の代になって、旧沓掛宿から二キロ離れた原野を手に入れたのだ。これが一九〇四(明治三十七)年。
「そこに川があったことがすべてですね。浅間山に降った雨は白糸の滝を源泉として毎秒二・五トンの水が三百メートルごとに十メートルの落差のある湯川となって流れる。激流ではないがつねに水量は一定している。この流れを利用して水かけ水車という動力が得られた。そこで製材業をやることになって、五十人ほどの従業員を使っていたそうです。
そして、湯川という川の名前が二番目に重要です。川にはイワナやカジカがいる。これを捕ろうとすると、ふっと温かく感じることがある。ここで、温泉が出るのだろうと十一本の井戸を掘さくしてみたのです」と四代目嘉助の説明が続く。
この創業期には二代目嘉助が、岩村田の生糸のもうけを軽井沢の温泉の開発につぎ込むという形となった。明治末に赤岩鉱泉の塩坪の湯を買収し、大正二年に神社ふうの浴場を建てて星野温泉と改名した。その翌年に、部屋数十五の旅館を開業する。温泉はまだぬるく、三十六度ほど、それを入浴できる温度までわかす。現在は五十度の温泉が毎分六百リットル出ているのだが、掘さく技術の幼稚な時代に温泉を掘ることはバクチに似ていただろう。言い換えれば、輸出で稼いだドルが軽井沢の山中に投入されていったのだ。
なお、星野温泉の隣りにある塩壺温泉は、二代目嘉助が買収した塩坪の湯と異なる。塩壺温泉は昭和十一年に星野正三郎によって開業され、野鳥がつねに群がる、自然のなかのホテルとして存続してきた。
星野温泉の創業期の投資ぶりは、第一次世界大戦がもたらした日本経済と重ね合わせるとわかりやすい。
一九一四(大正三)年六月二十八日、オーストリア皇太子夫妻がセルビアの民族主義者によって暗殺されたことをきっかけにして、七月二十八日、欧州で大戦が始まった。オーストリア=ハンガリー、ドイツ、イタリアの三国同盟とイギリス、フランス、ロシアの三国協商の陣営とが真っ向からぶつかったのである。
大隈内閣の加藤高明外相は、八月七日に早稲田の大隈私邸で開かれた緊急閣議の席上で、日英同盟によってイギリスがドイツの艦船を撃破するために対独参戦を求めてきたことを発表したのちにこう述べた。
「日本は今日、同盟条約の義務によって参戦せねばならぬ立場にない。条文の規定が日本の参戦を命令するような事態は、今日のところまだ発生していない。ただ一は、英国からの情誼《じようぎ》と、一は帝国がこの機会にドイツの根拠地を東洋から一掃して国際上に一段の地位を高める利益と、この二点から参戦を断行するのが、機宜《きぎ》の良策と信ずる」
欧州の戦乱に乗じて、中国大陸のドイツ租借地と南太平洋のドイツ領の占領を狙ったのだ。日本政府は八月二十三日にドイツに宣戦布告し、青島《チンタオ》を占領するなど漁夫の利を得たのである。日独戦は短期間で終わったが、第一次世界大戦は長びき、四年半にわたった。
この間に、日本経済は一気に好景気となったのである。大正四年からロシアとイギリスに対する軍需品輸出が激増、また好況を迎えているアメリカに向けて生糸などの輸出が極端に増えた。日露戦争以降、大幅な貿易赤字に悩んでいた日本はここで貿易黒字に転換する。大正六年には実に五億六千七百万円の黒字となっている。世界経済の中心だったヨーロッパが戦争で経済の麻痺状態となったときに、戦場から遠いアメリカと日本は高度成長を遂げるのだ。
これを三代目星野嘉助(国次の長男・嘉政)はこう書いた。
「明治、大正を通じ、星野の一族一門はことごとく繭や生糸の事業に携わっていたので、大正年代中期まではいずれも旭《あさひ》の昇るような景気のよいものであった。特に大正三年、ヨーロッパに第一次世界戦争が始まると、戦火の外にあったわが国は、あらゆる事業が沸騰し、産業は自立を求めて活動を始めるとともに、海外からの輸入が停止し、たちまち物資の不足を告げ、何でも彼でも天井知らずの値上がりを来たした。誰でも彼でも酒に酔っているようなもので、他国が戦火に苦しんでいる時、ただ浮き浮きしてしまったのである」(「やまぼうし」)
この好況を反映して、星野温泉は大正七年までに十軒の別荘を造っている。
「岩村田製糸が本業だったので、二代目嘉助は星野温泉に単身赴任で来てたんですよ。その初期にやったことでえらいと思うのは、原野だった山林に植林をしたことですね。明治四十三年の大洪水のときに湯川も氾濫した。それを防ぐためには山に樹木を育てなければならないと、最初は北海道から持ってきた落葉松を植えた。でも、落葉松は育つのは早いが根を張らないので台風に弱いし、保水能力も劣る。そこで広葉樹を植えだした。ニレ、ナラ、モミジ、ドングリ、カシなどです。この広葉樹木がいま星野温泉一帯に茂っているわけです」
星野温泉の現社長である四代目星野嘉助が言う。製材のための原木は付近の山だけでなく、群馬県からも購入していた。製品は深川の木場や柏崎の日本石油に石油箱を作って出荷した。その製材用の植林と別途に、治水のための植林を始めた。
ここで気付いたことがある。北原白秋が大正十年に星野温泉に来て、有名な詩「落葉松」を作ったのだが、その六節目はこうだ。
「からまつの林を出でて、
浅間|嶺《ね》にけぶり立つ見つ、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに」
いまはいろいろな樹木が茂って、浅間山の頂上が見えるところはかぎられている。白秋が詩作した頃、落葉松はまだ樹齢十年ぐらいでひょろひょろしていたのだろう。詩から受ける印象は、荒れ果てた原野に落葉松林が続いていて、だからこそ「からまつはさびしかりけり。たびゆくはさびしかりけり」と歌ったとわかる。当時の沓掛地区、星野温泉などはかなりわびしい情景だったのだ。
この北原白秋ら文化人が訪れ始めたことはもっと後で述べよう。リゾート開発としての星野温泉はどう展開していったのか。
「二代目嘉助は、岩村田と星野温泉を行ったり来たりしていたんです。生糸で稼いでは、土地に肥料をやるように星野温泉にお金をつぎ込んだ。当時のお金で五十万円はたたき込んでいますよ」
と四代目星野嘉助。
この時代の五十万円は現在のいくらぐらいになるのか。米の値段は変動が激しくてそれで比較するのはむずかしい。教員の初任給などから、一応の目安として一万倍ぐらいと考えよう。すると、五十億円になる。
星野嘉助社長は続けた。
「森林を育てるには長い年月がかかる。リゾート開発にしても短期間にできるはずがない。星野温泉の場合には、生糸による資産があった。この生糸業の方は金融恐慌のあおりで倒産するのですが、ラッキーなことにそれ以前に資本を投下することができた。この仕事に昔は銀行が金を貸さなかったからすべて自己資本です。その投下資本で黒字になるまでに五十年かかってますよ。リゾート開発というのは五十年先を見通す能力とその期間を持ちこたえる資本力がないと不可能なのです」
堤康次郎の千ケ滝開発[#「堤康次郎の千ケ滝開発」はゴシック体]
第一次大戦がもたらした日本の好景気は、軽井沢に大きな変化を生じさせた。外部資本が本格的に入り込み、別荘地分譲や貸し別荘を始めたのである。酒に酔ったような浮かれ気分の経済が、デベロッパーの進出を招いたのだ。
明治末頃から軽井沢の山を買い取っていたのは、群馬県原市町(現在の安中市)の半田善四郎であった。彼はクリスチャンだったといわれているので避暑外国人との関係で土地を買いだしたのだろう。大正初めには約十一万五千坪を取得している。
明治時代中期から広い土地を持っていた雨宮敬次郎は明治四十四年に死去。彼の死後は事業がふるわず、次第に雨宮邸に来る政界要人は減っていく。
代わりに進出して来たのは、東京の実業家の野沢源次郎であった。彼は一九一四(大正三)年に、二手橋近くにある旧英国公使別荘を買い取った。英国公使はすでに日光の中禅寺湖畔に別荘を持っていたし、実際に使っていたジョン・ガビンス書記官は英国に帰国して一九〇九年にオックスフォード大学で日本に関する特別講義を行っている。このガビンスは一九一一年に幕末から明治維新後の近代化を書いた『日本の進歩』を本国で出版した。
野沢源次郎はさらに大正四年、川田龍吉、肥田濱五郎などの所有地約百六十万坪を買収した。これは離山から三度山にかけての広い領域で、彼の姓をとって野沢原と呼ばれることになる。
その野沢源次郎と親せきにあたる名古屋の近藤友右衛門が、大正五年、旧軽井沢宿から碓氷峠に至る原野など二十二万坪を買収。彼は碓氷峠に至る道路を整備し、峠の頂上に見晴らし台をつくり、観光地としての形態を整えていった。そして、大正八年には、泉源亭と名づけられた末松謙澄別荘も買い取った。末松は義父の伊藤博文が暗殺されたのち政治的勢力を失い、枢密顧問官をつとめていたが、十数年手がけていた歴史研究に専念し、長州藩史の「防長回天史」(全十二巻)を一九一一年に完成している。
こうして、英国公使別荘、末松謙澄別荘という明治時代の象徴的な二つの別荘が、他人の手に渡ったのである。それも開発業者の所有になったのだ。
その業者から土地を買って、新しい別荘族が生まれてくる。この時期の典型は大隈重信である。彼は第一次世界大戦が始まった翌年の総選挙で強引な選挙干渉をして圧勝、外交的には中国に対華二十一ヵ条要求をつきつけた。だが、その後次第にマスコミと大衆の支持を失い、元老たちとも疎遠となって、大正五年十月、首相を辞任した。
その翌年の大正六年五月、大隈重信は離山ふもとに三千坪の土地を買っている。売り主は野沢源次郎。この別荘は前首相の実力を誇示するように、豪華な邸宅であった。
大隈重信が軽井沢に別荘を建てたのと歩調を合わせるように、早稲田大学関係者の進出も盛んになる。そして、一九一八(大正七)年、堤康次郎の千ケ滝開発が始まった。
この堤康次郎が千ケ滝に目をつけたことは地元でこう語り継がれている。
「大隈別荘に遊びに来ていた堤は、まだ学生だった。学生服にゲートルを巻きつけて土地を探し回り、原野だった沓掛区有地を気に入って、六十万坪を三万円で買った。札束をドンと積み上げて売ることを迫ったのだ」
これは話としておもしろいが、かなり虚実入りまじっている。どこかで話に尾ひれがついてこういう話に作り上げられたのだ。
まず、堤が大隈別荘に遊びに来ていたという事実からおかしい。大隈別荘は大正六年五月に土地を入手し、豪邸を建て始めたばかりだから、その年の夏を過ごすには間に合わなかっただろう。
次に、堤康次郎はすでに学生ではなかった。滋賀県の農家に生まれた彼は、四歳のときに父親の猶次郎が病死、母のみをは実家に帰され、祖父母に育てられた。その祖父母が死去した二十歳のときに、郷里の田畑を売り払って五千円の資金を作り、妹を連れて上京、早大政治経済学部に入学したのである。この学生時代にすでに株式取引で六万円を儲けたりしている。
二十四歳で大学を卒業した彼は、大隈重信が主宰する政治評論誌「新日本」の社長となった。主筆が早大教授の永井柳太郎。この時代に堤の人脈が形成されていく。桂太郎の立憲同志会の結成に参加し、桂の紹介で後藤新平、藤田謙一(鈴木商店代表者、のちに東京商工会議所会頭)と知り合い、かわいがられている。この藤田謙一の勧めで、千代田ゴム専務、東京ゴム社長をつとめていた。また、炭鉱にも手を出し、長野県八坂村の山清路で十万円を投下して石炭掘りの会社を作ったという。三重県で真珠の養殖、名古屋で造船も始めた。これらのベンチャー・ビジネスは失敗に終わっているが、青年実業家として政財界に名前は売れていった。
その堤康次郎が、軽井沢に土地を買うことになったのは、大隈重信の関係ではなく、早大教授の永井柳太郎の推薦だったようだ。彼の自伝『叱る』にこう書いている。
「永井柳太郎さんから、軽井沢にいい土地がある、買わないかといわれたのは、大正七年、私が三十歳になったときである。さっそく見に行ったところが、わずか五万坪たらずのせまい土地であった。いまの星野温泉のところである。そんなにせまいのではどうにもならんので、村の人にもっと広いところはないかと聞いた。すると、七十万坪の村有地がすぐうしろにあるという」
これが沓掛区有地の坂下、獅子岩六十万坪(実測は約七十万坪)を取得したきっかけである。文中では年齢を数えで書いているので満ならば二十八歳九ヵ月。ここが巨大な企業となる西武グループの原点となったのだ。
土地入手を急いだ堤の事情[#「土地入手を急いだ堤の事情」はゴシック体]
堤康次郎が千ケ滝の土地六十万坪を三万円で買った……これを掘り下げる。この土地は沓掛地区の入会地で、牛馬のための草刈り場であり、燃料のためのマキを調達する場所であった。もっといえば、それまで誰も住もうとしなかった荒地である。
念のために土地台帳を調べてみる。
「所有権移転 大正七年一月一日売買 取得者 堤康次郎」と登記されている。これは大正七年に千ケ滝開発に着工したという堤康次郎の自伝と合致する。
だが、この土地登記はおかしなことになる。
沓掛区の人たちが区有地を堤康次郎に売るかどうかを決定したのは、大正六年十二月二十三日。この席でこう決議されている。
「区有地獅子岩、坂下を別荘地解放目的で金参万円にて売り渡す。
売り渡し交渉成立の上は、契約手付金若干金受取ること。
所有権移転は、最低限度二ヵ年とし、二ヵ年間に相当の設備をなし、別荘五十戸以上建設をなしたる時移転すること。
もし、二ヵ年経過するも設備なさざるなど、なおざりに付するときは、本契約は無効とし、手付きは返さざること」
この二ヵ年後に所有権移転という契約にもかかわらず、たった九日後に売買契約をして所有権を移転してしまっているのだ。
この土地買収に至るまでの思い出として、堤康次郎は『叱る』でこう書いている。
「この村有地(注・区有地のまちがい)買収には、苦心した。村有地を手に入れるには、当時郡長の許可が必要であった。ところが、郡長は誰が村有地を買うんだと村長に訊いた。村長が堤康次郎だと答えると、有名な実業家でもない、そんな若者に村有地を売るのはけしからん。それより、野沢源次郎という天下の実業家に買ってもらえという。
なるほど、野沢源次郎といえば、野沢組の経営者であり、有名な貿易商で、人格も高いりっぱな人である。しかし野沢にはたして土地開発をやる情熱があるかどうかは疑問である。情熱のない人に売ってもしかたがないではないか。土地開発には非常な情熱がいる。その点では、野沢より私の方が熱心である。村長も私も困ってしまった」
ここから、堤康次郎は、大隈内閣の後に生まれた寺内正毅内閣で、内務大臣をつとめていた後藤新平に相談にいく。政治的圧力を県知事、郡長にかけてもらおうと狙ったのだが、後藤は別のことを示唆した。契約書にほかの人には売らないという一言を入れればよいというわけだ。これで即座に契約書に「貴殿との契約が、もし監督官庁の許可を得ない場合には、いっさい他の者には土地を売り渡さない」という一行が加わった。これでほかの人には売れないのだから堤に売らざるをえなくなる。売買登記を急いだのはこのゆえんであり、地元には大正六年の暮れのうちに手付金を払ったのであろう。
広大な土地を買収するためには、それに至るまでの調査や選んだ動機、そして買収資金が必要である。では実際にいつから堤康次郎は軽井沢の千ケ滝に目をつけたのか。
これを証言できる人にインタビューし、手紙でも疑問点に答えてもらった。堤康次郎の従兄弟《いとこ》にあたる上林國雄(八十八歳)である。
「私の父は北海道で大農場を経営していました。そこに大正二年、堤康次郎がやって来たのです。私はそのとき十一歳。一週間にわたって農場を案内することになりました。その後に、彼は私の父に言ったのです……『土地を持つということはいいものですなぁ、でも、不凶続きだったらどうしますか、私だったら土地を加工して金儲けをするなぁ』。オヤジさんが土地開発に開眼するきっかけはこれだったんですよ」
上林國雄は堤康次郎のことを「オヤジさん」「御大《おんたい》」「先代」などと呼ぶ。彼は十三歳で上京し、それ以降一貫して堤の旗本格≠ニして働いてきたからである。
この上林の叔母が堤康次郎の母だったみを≠ナある。つまり、堤は母の兄が経営する大農場を見て、広大な土地を自分のものにする夢を抱いたのだ。この上林一族は滋賀県の大地主だった。上林國雄の父が北海道に開拓民として移住し、一村全体を持つ大農場主となっていた。
これで堤康次郎が沓掛地区に目星をつけた理由もわかってくる。高冷地であり、広い原野だった浅間山麓は北海道に似ている……。
「オヤジさんは大正四年から千ケ滝の土地買収に動きだしたはずです。この年に二度目の妻である川崎文と結婚した。私はその直後にオヤジさんが社長だった出版社『新日本』に住み込みで勤めることになったんです」
堤康次郎の戸籍上の二回目の夫人となった川崎文は、インテリ女性で日本女子大を卒業後婦人記者をし、次いで大隈重信の秘書となった。大隈重信が仲介して、二人を結婚させたという。堤の大学卒業論文は、この文夫人が代作したと伝えられる。
上林國雄は、これまで推測で諸説が書かれていた千ケ滝の買収資金の出どころを、はじめて明るみに出した。
「軽井沢の土地の資金はすべて文夫人が調達したのです。オヤジさんはいろいろと事業に手を出していたがすべて失敗。フトコロは空っぽだった。そこで、文夫人が素封家だった実家から借りてきたのです。それでも足りなくて日本女子大の卒業記念の時計まで質入れしてね。文夫人が金策もしたし、おまけに才女……野人《やじん》だったオヤジさんは頭が上がらなかったんですよ」
千ケ滝開発の資金の出どころはわかった。では、この買収金はどういう形で、いつ支払われたのか。それを明確にした報道記事がある。一九一八(大正七)年一月八日の信濃毎日新聞は「一躍して成金村」という見出しでこう書いている。
「北佐久郡東長倉村は同郡随一の寒村で、三井村、御代田村などと併称されて常に滞納山をなしている村である。その東長倉村大字沓掛は、公有林野六十万坪を堤康次郎の大避暑地計画のために、同氏に売却するに決し、去る四日登記ずみとなってその代金三万六千円の現金は堤氏から沓掛区の代表者土屋三郎氏に渡され、そのうち金三万円は即日農工銀行へ預け入れられた。
さらに堤氏はそのほかに公有林野中にある植林組合のために金六千円を支出した。この六千円は去る四日から五日にわたり、沓掛区民より成る十四植林組合、一青年会に対して金四百円ずつ配当された」
実際の売買金額三万円は預金され、六千円が現金で分配されている。それ以前の沓掛住民は草津温泉へ行く人の馬ひきなどで細々と生計をたてていた人が多い。それが一挙に金持ちの世帯となったのである。そして、とりあえず現金で入ったうちからそれまで滞納していた税金を納めていることが報道されている。
堤康次郎は沓掛区との売買契約に従って、直ちに別荘造成に着手した。大正八年には千ケ瀧遊園地株式会社を作って、その会社名義で別荘を売りだしている。この会社の社長は、のちに金融恐慌で倒産するがこの頃は飛ぶ鳥も落とす勢いだった木下商店役員の藤田謙一である。また、この年に堤康次郎は箱根の開発を始めたため、社名をさらに箱根土地株式会社に変えている。この創業時には別荘地造成に大金がかかるので、銀行からの借入金でまかなっていった。大正十二年以降に日本勧業銀行が年利八分八厘で土地取得金額の十倍以上の巨額の融資を行っている。
この時期のことを、上林國雄は、こう述懐する。
「大正七年に千ケ滝を開発しだしたとき、落葉松はまだひょろひょろしていましたね。一メートル五十センチぐらいのものです。樹《き》が生えていないところはまだ一面の野原でした」
そこに道路を造り、水道を敷設し、客寄せのために温泉も掘っている。千ケ滝マーケットも建築、湯川第一発電所を建設して別荘に送電も始めた。大正九年のものと推測できる広告のハガキによると、土地百坪に建坪七坪の別荘が五百円、十一坪の建坪の別荘が八百円で売りだされている。
これが売れたのかどうか……上林國雄が語った。
「最初はほとんど売れなかったんですよ。こんな寂しいところはいやだと。周囲に何もなかったし、別荘に住む人もいなかった。売れるようになったのは昭和に入ってからです。それまではやむをえずかなりの家を貸し別荘にしてましたよ」
朝吹家の軽井沢生活[#「朝吹家の軽井沢生活」はゴシック体]
リゾート軽井沢が沓掛、追分へと広がりをみせた時期に、旧軽井沢は深いところで変化しだしていた。外国人宣教師とその友人の日本上流階級のなかに、日本資本主義の発達で力をつけたブルジョアたちが加わってきたのである。その典型として挙げるべき家族が三井財閥の重要人物の朝吹常吉(当時は三越常務、のちに帝国生命社長)であった。
朝吹常吉夫人の朝吹磯子が初めて軽井沢に来たときのことをこう書いている。
「ちょうどその年は、小坂順造氏の母堂が来られないというので、町はずれの小坂順造氏の別邸を拝借し、私は五人の子供とひと夏を過ごした。応接間に十燭光の電灯がひとつあっただけで、座敷や居間はみんなランプをともした。そのころは日本人の避暑客は少なくて外人の宣教師が多く、町は昔の中山道の宿場の名残をとどめた家造りもあって、田舎そのもののごく質素なよい町であった」(『八十年を生きる』)
これは一九一七(大正六)年である。朝吹常吉と小坂順造は、日本銀行勤務のときに監査局で机をならべて仕事をした同僚で仲がよかった。朝吹が別荘を借りた年には、小坂順造は三期連続で衆議院議員に当選していた。仲のよい友人が別荘を貸すことはよくあることだ。
小坂順造の父である小坂善之助は、末松謙澄の勧めでアレキサンダー・ショーの別荘を買い取っていた。そして、その別荘を保持してきたもう一つの要素に私はふっと気付いた。小坂順造と結婚した花子夫人の存在である。二人は山路愛山夫人の紹介で会い、明治四十一年、徳富蘇峰の媒酌で結婚した。
この花子夫人の両親が明治プロテスタントの代表的人物である。父の渡瀬寅次郎は札幌農学校第一期卒業生でクラーク博士に学び、東洋英和学校の教頭などをつとめた。母の香芽子は、明治七年から築地に宣教師カロゾルス夫妻が開いた学校に男装して通い、女性も教育を受けるべきだという教師の言葉を聞いてはじめて黒板に「アイ・アム・ア・ガール」と書いて女性であることを公表したという有名なエピソードの主人公である。この学校がキリスト教の女子教育でトップ級の女子学院になったのだ。
ここから、花子夫人は外国人宣教師と交際が深い両親に連れられて幼児期から軽井沢に来ていたと考えられる。
小坂順造の長男である小坂善太郎(元外相)が言う。
「母は女子学院卒で敬虔なクリスチャンでした。その関係で、ウチの別荘によく宣教師の奥さんたちが手作りケーキを持って来ていました。母が紅茶を出してね……。ハーバート・ノーマン、エドウィン・ライシャワーなどは子どものときから知ってますよ。私が外相になるルーツは軽井沢にあったという感慨が強いですね。朝吹さんに別荘をお貸ししたのは、父が代議士活動で忙しかった年でしょう」
朝吹磯子の『八十年を生きる』には続けてこう書かれている。
「忙しい主人は、伊香保に転地していた母を訪《と》う途次、ほんの一時間ぐらいをこの軽井沢に立ち寄り、酒屋や煙草屋の看板のない質素な町の様子がすっかり気に入り、子供を育てるのにこんなよい土地はないと言って、翌年、立教大学総長であられたライフスナイダー氏の別荘を譲り受け、またその翌年に、隣の敷地を宣教師チャペル氏が売るというので買うことにした」
たった一時間いただけでポンと別荘を買ってしまった朝吹常吉の豪快さに感心する。
もっとも、これはブルジョアだから軽井沢に別荘を買ったのではない。息子四人、娘ひとりの家族が夏を過ごすのに最適の教育環境だと気に入ったと磯子夫人は書いているし、さらにその背景もある。
朝吹常吉は一八七七(明治十)年に、福沢諭吉の邸内で生まれている。父の朝吹英二が福沢の忠実無比な弟子となり、福沢の勧めでそのめいと結婚。三井財閥の重鎮となってからは福沢門下生の政財界人や大隈重信、尾崎行雄などに資金援助をしていた。この福沢諭吉の影響もあって、朝吹常吉は十八歳でロンドンに留学した。途中で病気になり、留学は二年でやめて帰ることになるのだが、英語で冗談や機智を巧みにしゃべったというから、天才的な語学能力を備えていたのだろう。また頭の回転が早く、豪放|磊落《らいらく》な性格。おしゃれで、遊び人で、英国式のスタイルを好んだ。さらに、当時としては珍しくフェミニストだった。
磯子夫人は、長岡外史陸軍中将の娘である。
この長岡外史は、明治四十三年の軽井沢大洪水のとき、高田師団長だったので軽井沢に工兵隊を送って現在の矢ケ崎川の石垣を造らせている。また、高田でスキーの発展につとめ、予備役編入後は、航空機の発達に情熱を注いでいた。この長岡外史は明治三十二年から四年間ドイツに留学している。
ここから朝吹夫妻は時代をつねに先取りするしなやかな精神を持っていた。そして、何よりも自由主義者だった。これがリゾート軽井沢において水を得た魚のように生き生きと活動することにつながる。
朝吹磯子の回想記はこう続いている。
「そのころ尾崎行雄夫人テオドラさんが洋装で、江木翼(衷)夫人|欣々《きんきん》女史が桔梗《ききよう》紫の袴に編み笠でよく乗馬されていたが、私たちは高原の散歩や山登りが日課であった。町で往き逢う宣教師などから、ホッグスバッグ(一文字山)へ行ったかとか、ジャイアントチェア(かまど岩)に登ったかと尋ねられたりした。愛宕山のオルガンロックや峠のサンセットポイントなどは、みんな外人によって名づけられていた」
軽井沢の内部に外国人がつけたハッピーバレー(幸福の谷)、クールレーン(静寂の小道)などはしゃれた命名だ。ただし、当時の英国人はアジア・アフリカなどの植民地においても、各地に同じような名前をつけていたことを知っておいた方がよいだろう。
イギリス流儀の別荘ライフ[#「イギリス流儀の別荘ライフ」はゴシック体]
「私が初めて軽井沢に来たのは生まれて六ヵ月のとき。そのときのことは覚えているはずないでしょう。でも、父が最初に買った家は覚えてます。立教学院のライフスナイダー総長の仲介でカナダの宣教師エバンスから大正九年に買ったのです。紅殻《べんがら》色の小さな家で、風が吹くとガタガタなるような簡素な建物でした。家族が多くて狭すぎるので、その翌年にイギリス人宣教師チャペルから、地続きの土地と別荘を買いました」
朝吹常吉と磯子の長女である朝吹|登水子《とみこ》(七十四歳・仏文学者)が、軽井沢の別荘で語る。この別荘に行く途中、矢ケ崎川にかかった橋を渡る。敷地の反対側には愛宕山から流れる深い谷川がある。その二つの川にはさまれた島のような土地だ。
私がこの別荘に入って最初に気付いたのはその川の流れの音である。切れ間なしに聞こえて来る川の音。そして、木々を揺らす風の音、小鳥の声。都会では忘れていた自然の音がここにあふれている。それに息を飲む思いになって感動を言うと、彼女は微笑した。
「川の音は同じですが、昔は樹木が茂っていなかったんですよ。ここから浅間山も見えたんですもの。でも、霧や白樺、ひんやりとした空気、鳥の声……こういう感覚はいつの時代でも同じ。私がいま住んでいるフランスのベルサイユもよく似ている。だから、どこにいても軽井沢をなつかしく思い出すんです」
母の朝吹磯子が書いた『八十年を生きる』と、朝吹登水子が美しい装本で出版した『私の軽井沢物語』では別荘取得年などにちがいがある。これは磯子は記憶に基づいて書いたのに比し、登水子は友人たちの証言も集め、史実を踏まえたことのちがいだろう。ともかく、宣教師の別荘を二軒買い取り、そこで夏を過ごしたのだ。
登水子には四人の兄がいる。家族全員で七人になるのだが、当時としては大家族といえないのになぜ二軒を必要としたのか……これを考えていて時代のちがいを悟った。この時代には何人も住み込みのお手伝いさんを使っていたのである。二人の本に共通して「お女中たち」という言葉がさりげなく出てくる。
これはちょうどリゾートがブームになった英国ビクトリア朝時代と類似している。ミドルクラス家庭の主婦は家事労働をメードに任せ、文化的生活を楽しんだ。そして、子どもの教育のためにガバネスと呼ぶ住み込みの家庭教師を雇う。ここから英国流儀を好んだ朝吹常吉は、イギリス人女性をガバネスとして雇っている。
朝吹登水子は続ける。
「私が三歳のときに、ロンドンで小学校教師をしていたミス・デイジー・リーを雇ったのです。たまたま、その年に母は旅行先のロンドンで大手術をうけて英語が通じなくて困った……外国語は幼いときから覚えた方がよいと考えてのこと。それ以降、私たちの生活はすべて英国流に変わったのです。ミス・リーは英国プロテスタント風の思考を持ち込み、それが軽井沢の雰囲気とぴったり合ったのね」
ガバネスを雇ったことがどう作用したか。
「ミス・リーはいろいろなことを教えました。子どもたちはすぐに英語を覚えて、日本語でけんかしているうちに英語でやりあうようになったほど。そういう教育よりも一番変わったのはライフスタイル。なかでも、洋服に変わったのが大きいですね。兄たちはそれまで慶応義塾の制服に坊主頭、私は振りそで姿におかっぱ頭……それがミス・リーが来てからは兄たちは髪を伸ばしてネクタイにブレザー姿、私はカールした髪にパーティー・ドレス。
レディーは一日中同じ服装をしているのではないと言われて、母は朝、昼、晩の三回、ドレスを着替えるようになったのです。その頃の母の姿はとっても美しかったですわ」
この時代に、女性の洋装は一般化していなかった。モガ(モダンガールの略)と呼ばれる断髪女性が現れるのは大正十五年になってからだ。それ以前の時代に、パリ・オートクチュールの最新ファッションを朝吹磯子は見事に着こなしている。五人の子どもを産んだが、まだ三十歳になったばかり。残されている写真からにおうような色香も感じられる。
それまでの軽井沢避暑客は、宣教師を中心とした外国人が主体であった。日本人客も激増していたが、外国人と対等につきあえる人は留学経験のある上流階級の男性に限られていた。ここに、ミス・リーに英国流儀を教わった朝吹磯子が、女性的雰囲気の軽井沢で、日本人と外国人の社交のかなめ役になっていく。
子どもたちや周囲の人から「マミー」と呼ばれた朝吹磯子は、別荘のベランダで外国人客を招いてしばしばティー・パーティーを開いた。夫の朝吹常吉は週末ごとに軽井沢に来て、友人たちとブリッジを楽しんでいる。逆にいえば、週末以外は母子だけの空間であった。
ここで朝吹磯子とミス・リーが相談して、毎夏、子どもたちのためのティー・パーティーを開いている。外国人の子どもと一緒にイギリス風の野外遊戯を楽しんだ。この情景は想像するだけでもほほえましい。
また、ミス・リーの影響で、日曜日にはサンデー・ドレスを着て、教会へ通った。
そのミス・リーがどんな本を登水子たちに読んでくれたのか。
「私たちを膝もとに置いて、イギリスの絵本や童話をたくさん読んでくれました。なかでも、ビアトリクス・ポターの『ピーター・ラビット』が大好きだった。うさぎや狐、小ねずみたち……ちょうど軽井沢の自然にそっくり。いまにも庭先や森の奥からそんな小動物が飛びだして来るようで、楽しかったですわ」
ここにビアトリクス・ポターの名前が出て来ることを私は重視する。ポターは自然主義者であり、その莫大な印税をすべて自然保護運動のナショナル・トラストに寄付した女性だ。それを朝吹登水子に告げると彼女は答えた。
「そうです。当時の軽井沢はとってもリベラルでした。そのリベラルさが明るい雰囲気をかもしだしたのです」
テニスブームの始まり[#「テニスブームの始まり」はゴシック体]
朝吹家の英国ふうライフスタイルが軽井沢で定着しだした頃、若者たちの間で花形スター扱いされる少女がやって来た。徳川幕府の最後の将軍慶喜の孫である。江戸時代ならばお姫さま扱いされるこの少女は、自分の馬を持ち、それを駆って軽井沢を走り回ったのだ。
その徳川喜和子(八十歳・東京乗馬クラブ理事)は、背筋を伸ばした姿勢で昔を回想する。
「初めて軽井沢へ行ったのは大正十二年でしょうか。私が十三歳のときですね。父(慶喜の嗣子・厚)はどこへも行きたがらないんで、母と兄と私の三人で行くのです。お手伝いの女性を二、三人連れてね。父は別荘を持っていなかったから、叔父やいとこの別荘を借りたの。私たちは子ども同士で遊び回っていたからよいけど、母はさびしかったでしょうね」
叔父の徳川慶久は大正五年に野沢源次郎から約九千坪の土地を買い、別荘を建てていた。尾張徳川家の後継者である徳川|義親《よしちか》は大正十三年に、アレキサンダー・ショーから宣教師団に渡っていた土地など約五千坪を買って別荘を建てる。これらの徳川一族の別荘に泊まらないときは、お手伝いの女性を東京に帰して万平ホテルに泊まった。
「古き良き時代というのは、ああいうのを言うんでしょうね。素朴な建物の外国人別荘では、木で造った広いベランダで奥さんが編みものなんかしている。敷地には塀がないし、広々としていてね。そして、日曜日にはみんな着飾って教会へ行く……普段はにぎやかな町がシーンと静まり返ったものです。日曜日のユニオン・チャーチ前はまるで絵に描いた風景のようでした」
彼女は日本人避暑客だけでなく、外国人からもあこがれの的だったらしい。東京のアメリカン・スクールや神戸のカナディアン・アカデミーの外国人生徒たちが軽井沢をのし歩いていたが、彼女を「キワ」と親しみを込めて呼んでいた。ハーバート・ノーマンも彼女を崇拝しているひとりだったという。
これは乗馬姿の徳川喜和子に、それまでの日本女性にない合理主義、行動性を見いだしたからだろう。背が高く、スタイルもよかった。三歳から馬好きだった彼女は、少女時代から陸軍騎兵学校で特別にスパルタ式の馬術訓練を受け、大障害に優勝している。また、のちに女子学習院にあきたらず、アメリカン・スクールに転校する。
「おてんばだったんですよ」と彼女は笑って続ける。
「無茶なことを平気でしました。追分まで馬に乗って行ったら、急に夕立にあって……雷はごろごろ、ずぶぬれ……そのまま一気に軽井沢まで馬をはしらせて帰って来たら、こっちはパーッと晴れていてね、みっともなかったですわ。また、万平ホテルに泊まっているときに、帰りが遅くなったら、佐藤万平さん(万平ホテル社長)から良家の娘は夜遊びするものではないとひどくしかられました」
徳川家の子孫もここでは古い殻を破って、自由に活動しだしていたのである。
外国人避暑客が来だした頃から、軽井沢では草津へ行くときや浅間山登山のときに人がくつわを押さえて乗せて行く貸馬は盛んだった。これが一歩進み、自分で乗馬をする人が増え、徳川喜和子のように高等馬術をこなす女性も出て来たのだ。
「馬に乗るといっても、乗り方によってまったくちがいます。馬術として乗るか、散歩代わりに乗るか……。あの頃、自分の馬を軽井沢へ持って行って乗っていたのは、尾崎行雄さんと貿易商のアンドリュースさんぐらいでしょう。その馬を運ぶのが大変でね……使用人と一緒に馬は貨物列車で一日早く東京を出発させる、すると途中で私が乗った列車が追い越して行ったものです。……私はいつもひとりで馬を乗り回していましたね」と徳川喜和子は言う。
英国貴族の伝統スポーツだった乗馬が、日本でも上流階級によって移入されたのだ。
これと同じように、それまで外国人と少数の日本人男性によって行われていたテニスにも女性プレーヤーが加わりだす。その先頭に立ったのは朝吹磯子だった。
夫の朝吹常吉がロンドン留学時代にテニスを習い、帰国してからもゲームを楽しんでいた。彼は大正二年にマニラでの国際試合にも出場している。そして、大正九年の欧米旅行の際に日本がデビスカップに出場できるように働きかけて、帰国後日本庭球協会を設立して初代会長となっている。これによって、一九二一(大正十)年、熊谷一弥と清水善造が初出場する。この頃に慶応大学の原田武一が全米ランキング三位、世界十位の活躍をして、テニスブームを巻き起こすのだ。
朝吹家の別荘はチャペル牧師から譲り受けたので、すでに敷地内にテニスコートがあった。このプライベート・コートを使って、熊谷一弥が皇族にテニス指導をしていた。
当時はまだテニス人口が少なく、コートは東京ローンテニス倶楽部、軽井沢避暑団所有のパブリック・コートなど数えるほどしかなかったのである。当然のように夏の軽井沢は、そんなトップ級選手たちのテニスのメッカとなっていた。
朝吹磯子は大正十二年にテニスを始めている。
「デビスカップ選手の原田武一さんが軽井沢に来て、奥さん、お庭にコートがあるのにテニスをしないって法はありませんよとおっしゃって、ラケットの持ち方から打ち方を教えてくださり、二、三日コーチに来てくださった。それから間もなく原田さんはデビスカップ戦に出場のためアメリカへ行かれたので、留守のコーチにパートナーの青木岩雄さんを紹介してくださった。東京へ帰ってからは、高輪の自宅に新しく造ったテニスコートで盛んに練習するようになった」(『八十年を生きる』)
このとき、朝吹磯子は三十四歳である。日曜日にはスポーツもしないで安息を守る宣教師たちによって造られたパブリック・コートは閉鎖される。このため、日曜日にテニス好きは朝吹家コートに集まりだし、ここが新しい社交サロンのひとつになっていった。
通俗夏季大学の開校[#「通俗夏季大学の開校」はゴシック体]
軽井沢では女性たちが元気だった。ティー・パーティー、音楽会、野外劇、アウトドアスポーツ……明治時代の宣教師たちが作り上げた女性的雰囲気の文化を日本人避暑客は踏襲していく。
では男たちはどうしたのか。彼らは最高の娯楽を見つけた……学問である。一九一八(大正七)年、後藤新平総裁、新渡戸稲造学長によって、軽井沢通俗夏季大学が開校したのだ。
この通俗夏季大学≠ニいう言葉がおもしろい。戦後に再開されたときは単に軽井沢夏期大学という名称になってしまったが、その当初にあえて通俗夏季大学と呼んだのには意味があったのである。
その発端のいきさつが、鶴見祐輔編著の伝記『後藤新平』に書かれている。
「この隠忍雌伏時代(注・第三次桂内閣が倒れたのち)に、(後藤)伯のなしつつあったことは、無党派連盟の計画であった。これは一方には地方自治団体を政党的闘争より擁護せんとする企てであり、また一つには、大新聞の連合により、公平なる輿論を指導せんとすることであった。
これが為に伯は、あるいはドイツ中世のハンザ同盟の歴史を翻訳せしめて小冊子としてこれを同志に頒布し、あるいは通俗大学会を作ってユニバーシティ・エキシテンションの実現を試み、または大学教授を集めて実際派と会合せしめ、学俗接近を試みた」
ここに書かれているように、単なるカルチャー講座や大学の社会人向け公開講座ではなく、アカデミズムと実業とを結びつけることを狙ったのだ。そのために大正五年に夏季大学の必要を説いて長野県を回り、ついに軽井沢と木崎湖に通俗夏季大学が誕生するのである。
後藤新平は、台湾総督府民生局長の後、南満州鉄道の初代総裁となって満州経営に尽力した。帰国してから第二次桂内閣、第三次桂内閣の逓相と鉄道院総裁、拓殖局副総裁をつとめた。つまり開拓行政の第一人者だったのである。その後藤が第三次桂内閣の倒壊によって下野したときに、通俗夏季大学を計画したのである。
だが、大隈重信ののちに寺内正毅内閣になると、内相として入閣、のちに外相に転じた。このとき、社会が激しく動いている。大正六年十一月、ロシア革命によってソビエト政権樹立。弱体化したロシアを眺めて日本はシベリア出兵の機会をうかがっていた。国内では六年一月から米の値段が上がりだし、七年八月、米騒動が全国で発生した。
この後藤新平がいつから軽井沢に来るようになったかを調べているうちに、知られざる事実を発見した。土地台帳に残っている記録によれば、彼は大正二年七月に、軽井沢の筒井の土地約四万六千坪を買い取っている。これは野沢源次郎、堤康次郎より以前に買収していたことを証拠づける。ここで、二人のデベロッパーに軽井沢の土地を買うことを勧めたのは後藤新平だったという推理が成り立ってくるのだ。
軽井沢通俗夏季大学の開校式は、大正七年の夏に行われた。これに出席した聴講生の市川信次がその日の様子を回想した文を書いている。
「何よりも後藤(新平)伯自身の学問の普及を力説されたのは熱弁だった。それもシベリア出兵問題が高潮の最中というときで後藤伯は外相の要職にあって激務をおして臨席されたその熱意には、いま回想しても感嘆してしまう。帰京後両三日してチェコスロバキア援助出兵が世界各国へ宣言される緊迫した劇的な日だった」
これはソビエト政府に対抗して、移動中だったチェコ軍が西シベリアを占領して反ボルシェビキ政権を樹立。これをソビエト政府攻略の口実として利用し、日米英仏が軍事介入に乗りだしたのである。
そのシベリア出兵を決定した閣議が八月一日、出兵宣言が二日に発表された。後藤新平の伝記によれば、七月三十日から出兵問題で閣議が重ねられている。その少し前の七月二十二日に夏季大学の開校式が行われた。
このときの市川信次の目に映った新渡戸稲造学長とメリー夫人との描写はリアルだ。新渡戸はこの年四月に、東京女子大を創立し、初代学長に就任したばかりでもあった。
「新渡戸先生はテーブルの正面よりやや右へからだを向けて遠くへ目をやるように、静かな語調で話された。ところがその話の終始先生のうしろの椅子にただひとり夫人がかけられている。来賓も主催者側も左右に居ならび、後藤伯もそのはしにおられるというしつらえのなかで、夫人がひとりだけ先生のまうしろで、先生の話に聴きいっていられるのは異様だったが、とても面白そうに笑顔になられたり、共鳴されると誰も手をたたかぬのに自分だけで拍手されたのには、当時の私は高い教育を持つ外国の婦人はこんなに自由なものかと感心してしまった」
大正七年の夏季大学は、七月に七日間、八月に十四日間の講義を行った。八年は十三日間、九年は十二日間、十年は十三日間。主な講義としては、吉野作造「デモクラシー」、河合栄治郎「宗教運動の社会的意義」、小山内薫「歌舞伎劇の本質」、有島武郎「ホイットマン」など。
このほかに英語の講義があって、新渡戸稲造が十日間連続でカーライルの「サーター・レザータス」を講義したり、市河三喜、岡倉由三郎、厨川白村、野口米次郎など英文学の権威たちが教壇に立っている。また、外国人教師による英語授業も多かったようだ。大阪外国語学校の教師だったグレン・W・ショーが、大正十年の講義をこう記している。
「学校は外国人居住の旧軽井沢から平地を隔てて一群の松におおわれた劇場様の建物を用いている。生徒はたいてい全国各地の中小学校教師と高校程度の学生である。英語科は二週間でその後なお二週間日本語で講演がある」(「新外郎」)
ハイレベルな専門教育、英語講義が行われ、これらが大正デモクラシーの牽引車となったのである。
北原白秋らのサマー・セミナー[#「北原白秋らのサマー・セミナー」はゴシック体]
軽井沢通俗夏季大学の開校に少し遅れて、一九二一(大正十)年、星野温泉で芸術教育夏季講習会が開かれた。これはフランス、ロシアに留学した画家山本|鼎《かなえ》が、北原白秋、弘田龍太郎(作曲家)などと設立した自由教育協会の主催であった。
山本鼎は、ロシアで児童画と農民芸術を学んできたため、それまでの学校の美術教育が模写にとどまっていたのを批判し、子どもたちに自由な想像力、記憶などで創造させることを提唱した。そして、大正八年、長野県小県郡神川村小学校で最初の児童自由画展覧会を開き、翌年に東京・三越で展覧会を開いて衝撃を与えた。
子どものいたずら書きが美術と言えるかという反論が出るなかで、白樺派の影響を受けた長野県の小学校教師が彼に賛同して自由画を描かせる方向に進んだ。これは単に美術に限らず、音楽、文学など芸術全般に通じ、さらには白樺派教師は国定修身教科書を拒否して各人の個性を伸ばすことを主張するようになる。
その山本鼎が大正七年から星野温泉にアトリエを持っていたので、ここで講習会が開かれることになったのだ。八月一日から七日までの一週間で、約百五十名が参加。講師は山本、北原、弘田のほかに、巌谷小波、内村鑑三、沖野岩三郎、鈴木三重吉、島崎藤村など。この模様を北原白秋はこう書いている。
「このたびの星野温泉の講演会はまったく楽しかった。非常に楽しくて飾り気がなくて、いきいきとしていて面白かった。何より第一気に入ったのは、あの材木小屋の会場で挽きっ放しの無造作にこしらえた講壇やテーブル、それから土間一面に鋸屑が敷いてあったことだ。講壇に上がって見ると、左手の窓に新鮮なキャベツ畑が目に入ったのもうれしかった。右手の落葉松山もよかったが、何にしても明けっ放しで日光は明るいし、風は吹き通すし、渓川の音、蝉《せみ》しぐれ、時たまにはがらがらと通る幌馬車の軋《きし》りなど、さすがは山の中の温泉地らしくてよかった」
この後の十月になって、北原白秋の「落葉松」が詩作されたのだ。一時的に詩から離れていた北原はこれによって再び詩作に戻っている。大正十二年にはもう一度沓掛、追分に行き、「信濃高原の歌」を作った。
講習会が開かれた会場は、二代目星野嘉助経営の製材所の材木小屋だった。この会場はこの後、内村鑑三によって星野遊学堂と名づけられて無教会の集会に使われる。内村鑑三の聖書研究は、日曜日ごとに彼が滞在していた星野温泉五号別荘で行われていた。
当時はそんなことを意識する人はいなかっただろうが、軽井沢通俗夏季大学、芸術教育夏季講習会という二つのサマー・セミナーは結果として軽井沢の名前を都会の知識人に教えるパブリシティー広告となった。イベント効果、パフォーマンス効果である。この後、続々と文化人、知識人が旧軽井沢、沓掛に来るようになるのだ。
もうひとつのイベントも無視できない。
大正九年に、軽井沢で画期的なコンサートが開かれたのだ。関西学院グリークラブが、六月二十七日、軽井沢日本人教会の讃美歌礼拝に出演し、二十八日夜、ユニオン・チャーチでコンサートを催したのである。
関西学院は、米国の南メソジスト教会のウォルター・R・ランバス(一八五四〜一九二一)によって一八八九(明治二十二)年に創立されたキリスト教系私立校である。これにカナダ・メソジストも協力し、この頃は生徒数八百名となっていた。
軽井沢の初期避暑客たちが合唱を好んだのは、こういうメソジストを中心としたプロテスタント宣教師が多かったからである。イギリス国教会は詩篇に基づく聖歌集以外ほとんど音楽を奏でなかったが、非国教会のプロテスタントはその信者が労働者階級であることもあって誰でもすぐに覚えて歌うことができ、信仰心を奮起させられる讃美歌を作り、人々に歌わせていった。
これは日本の音楽教育ともからんでくる。明治政府は一八七九(明治十二)年に文部省のなかに音楽取調掛を設置し、米国からのお雇い外国人ルーサー・W・メーソンと三年間米国に留学させた伊沢修二を指導者とした。ここから、それまでの日本音楽は捨てられ、クラシック中心の洋楽教育となる。明治十四年から小学唱歌として発刊された歌集は、スコットランド民謡の「蛍の光」「故郷の空」、アイルランド民謡の「庭の千草」など外国曲に日本語歌詞をつけたものが圧倒的に多い。
これと並立する形で、宣教師に指導された讃美歌が歌われたのである。これは教会で歌われると同時に、学生の間で独自な発展をしていった。関西学院では明治三十二年に男性四部合唱が生まれ、その翌年にグリークラブとなった。山田耕筰、今東光もこの部員であった。同じ頃に慶応大学ワグネル・ソサエティー、早稲田大学音楽会、同志社グリークラブなどが誕生している。
関西学院グリークラブの軽井沢公演は、彼らの初めての全国リサイタル旅行であった。六月二十五日に神戸を出発し、二十六日に金沢のメソジスト教会でコンサートをしたのちに、軽井沢に入った。この様子は大阪毎日新聞(同年七月五日付など)に連載されている。
「歌の旅――第二信――六月二十八日。私達が軽井沢で音楽会を開いたのは、街の灯が怖ろしく降りしきる夜霧の中でふるえている二十八日の夜でありました。定刻の八時に私達が最初の合唱『希望の島』を歌ったときに、溢れるばかりの聴衆の上から、あらゆる雑音が煙の消えるよりも速かになくなるのを私達は見ないわけにはまいりませんでした。そして同時に、ラタマ樹の花咲く花瓶のそばにある外人席に満てる多数の薔薇色の頬に晴々しく熱心の色が輝いているのを意識したとき、私達はいやおうなしに一種の緊張に似た感じを経験させられたのでありました」
この公演旅行記から六月末の梅雨期なのにすでに多くの外国人避暑客が来ていることがわかる。
このときのプログラムが残っている。それを見ると、マンドリン合奏やギター・ソロを入れて変化をつけた上で、男性四部コーラスの醍醐味が楽しめる構成になっている。そして、注目すべきことはセルビア戦歌「ウ・ボイ」が歌われていることだ。これは、日本がチェコ軍を支援するという名目でシベリア出兵したのち撤退したのだが、そのチェコ軍がソビエト軍に敗れて本国に帰る途中、神戸にしばらく滞在した。そのチェコ軍を慰問した関西学院グリークラブとチェコ軍合唱隊が交流しているうちに、「ウ・ボイ」を教えてもらい、同グリークラブのテーマ曲のように歌い継がれることになった曲である。これはいまでも各大学のグリークラブが必ずマスターする曲として歌われている。
ここで、ふと気付く。京阪神に住むブルジョア、知識人たちが東京人以上に軽井沢に対して強い憧憬を持っていた理由である。彼らから見れば、軽井沢は旧公卿の華族が避暑するところであり、そこに同志社、関西学院などの外国人教師も行っていた。つまり、神戸の舶来趣味にロイヤル性を加味した空間なのである。だから、金沢経由で、または東京経由で、夏を過ごしに行ったのだ。長期に滞在するならば、旅行が多少長くかかってもよいのである。万平ホテルの古い宿帳には、神戸や京都在住者の名前が何人も記されている。
有島武郎の別荘心中事件[#「有島武郎の別荘心中事件」はゴシック体]
少し不謹慎な言い方をすれば、ひとつのことを大衆化させるにはそこにゴシップやスキャンダルがあれば早い。白樺派文化人によって軽井沢の地名は都会人に知られだしたが、それを大衆にまで浸透させることになったのも白樺派文化人のスキャンダルによってであった。
雑誌「白樺」は、一九一〇(明治四十三)年に武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、有島生馬、里見ク、柳宗悦、郡虎彦などを同人として発刊され、人間性を積極的に肯定する思想で日本文化全体に強い影響を与えていた。これらの同人は、ほとんどが学習院出身の仲間であった。言い換えれば、華族やブルジョアなど上流階級の子弟であり、西欧知識をいち早く吸収し、近代的で自由な生活を送ることが可能な人たちだった。
この人たちは夏になると、山本直良が経営する三笠ホテルに来ていた。有島兄弟が山本家の親せきだったので、白樺派のサロンとして利用されたのである。
その中心人物のひとり、有島武郎が軽井沢で事件を起こしたのだ。大正十二年七月八日の東京朝日新聞は社会面トップ記事で「軽井沢の別荘で有島武郎氏心中 愛人たる若い女性と別荘階下の応接室で縊死」と報道している。
翌日の信濃毎日新聞は社会面七段を使ってその事件を詳しく述べている。「決行したのは約一ヵ月前のこと 全身腐爛して顔も定かならず」「相手の婦人は婦人公論の記者波多野秋子と判明」「秋子は人妻 実業家出の娘」といった見出しである。
このとき、有島武郎は作家として「カインの末裔」「クララの出家」「生れ出づる悩み」などで広く知れわたっていた。また、大正十一年八月には北海道|狩太《かりぶと》にある有島農場四百五十町歩を六十九戸の小作人に無償で譲渡して、世間に衝撃を与えていた。
ブルジョアの家柄に生まれながら、その特権を放棄した。その翌年に、人妻である波多野秋子と心中したのだ。この劇的な行動が、ジャーナリズムからすればトップ記事に値するニュースバリューを持ったといえる。
彼が心中したのは、三笠ホテルの近くにある有島家別荘の浄月庵であった。その年の六月八日に、婦人公論記者の波多野秋子と新橋で落ち合い、軽井沢に向かった。そして、九日未明に死去している。二人の死体を発見したのは有島家の別荘管理人で、七月六日になって例年のように別荘を開けに来て初めてそれを知ったのだ。これはいままでの文壇史などに書かれてきた七日と一日ちがっている。また、この間、有島家が行方不明になっていた二人を捜すために、なぜ別荘を点検させなかったかというなぞは残っている。
有島武郎は死去したとき四十五歳。相手の波多野秋子もインテリ女性だった。その二人がほかに解決の方法はあっただろうに心中を選んだ。それが大正デモクラシーの甘さ、ナイーブさでもあっただろう。だが結果として、軽井沢は人気作家のロマンチックなあいびきの場所、というイメージが大衆に植えつけられたのである。
「軽井沢ゴルフ倶楽部」オープン[#「「軽井沢ゴルフ倶楽部」オープン」はゴシック体]
第一次世界大戦は一九一八(大正七)年十一月に終わった。その結末をつけるためのパリ講和会議が翌年一月から始まり、日本はここで初めて世界の外交の檜《ひのき》舞台に登場した。日本の首席全権は西園寺公望、随員には珍田捨巳駐英大使、松井慶四郎駐仏大使のほか、松岡洋右、吉田茂、有田八郎、重光葵、近衛文麿など。国内ではリベラルな政治家、外交官とみなされていた、錚々《そうそう》たるメンバーがならんでいる。日本が一等国≠ニみなされたので最高スタッフを送り込んだといえる。このとき、アメリカはウィルソン大統領、イギリスはロイド・ジョージ首相、フランスはクレマンソー首相が代表として参加した。
この会議の結果は、一九一九年六月のベルサイユ条約で調印され、大戦後の平和を守る機構として国際連盟の設立が定められた。そして、五大国のひとつとなった日本は国際連盟の常任理事国に選ばれたのだ。
これが決定した時期に、後藤新平と新渡戸稲造夫妻はアメリカ旅行ののちパリに立ち寄った。たまたま後藤、新渡戸一行がパリの日本大使館に顔を出した日、西園寺公望たちは国際連盟事務局に送り込む日本代表の人選に悩んでいるさなかで、新渡戸の姿を見ると全員が異口同音に適任者として承諾を迫ったという。ここで新渡戸稲造はそれから七年間、国際連盟事務局次長として活躍することになる。スイスのジュネーブに国際連盟の本部が置かれ、年一回の連盟総会のほか各種の政治外交、文化交流の場となった。ジュネーブ郊外レマン湖畔にある新渡戸稲造宅では、メリー夫人が各国の外交官、研究者の接待をそつなくこなしていた。
こんな時代に、軽井沢の外国人と日本人避暑客も対等な立場で会議を重ねていた。
まず、大正八年八月、ゴルフ場設立の動きが始まった。野沢源次郎が野沢原の土地六万坪を提供することで具体化し、翌年に英国人プロゴルファーのトム・ニコルがコース設計にあたった。この設計料は百円だったといわれている。
こうして、「軽井沢ゴルフ倶楽部」が発足した。会長徳川慶久、副会長モーガー、川崎肇、名誉書記アルトマンス、名誉会計山本直良、総務委員高木喜寛、西邑清、ライフスナイダーほか。大正十年に会員勧誘状が英文で発送されているが、それによると十七名の役員中九名は外国人。会員は六十名で外国人が多かったという。
このゴルフ場は、神戸・六甲、横浜・根岸、長崎・雲仙、東京ゴルフ倶楽部の駒沢、箱根・仙石などに続いて国内で七番目に造られた。ただし、この軽井沢ゴルフ倶楽部のコースは九ホールであり、当初のフェアウエーは野芝、グリーンはサンド(砂)グリーンでスタートして、大正十二年に高麗芝を植えている。この完成した直後に、摂政宮だった昭和天皇がこのゴルフ場でプレーしている。ともあれ、外国人、日本人が共同して造ったことで、英国貴族の伝統スポーツだったゴルフが軽井沢でプレーされだしたのである。
「父は初めて日本に来たときにはテニスをしたという話を聞かせてくれたし、軽井沢に来ている多くの宣教師たちはテニスをする時間が多かった。だが、わたしは父がテニスをしているのを見た覚えがない。軽井沢でゴルフ倶楽部ができたとき、父は発起人のひとりであったと思うが、ゴルフをしたことは一度も見たことがない。たぶん父はあまりにも忙しかったようだ」
軽井沢避暑団の世話役として活動したダニエル・ノーマンのことを、長男ハワードはこう書いている。ここからノーマンはゴルフ倶楽部設立にも関係していたことがうかがえる。
そして、ノーマンは以前から計画していた結核療養所病院を軽井沢に設立するために奔走していた。これは一九二一(大正十)年、避暑団夏季診療所としてオープンし、三年後に軽井沢サナトリウムとなった。院長はスコットランド生まれの医師ニール・ゴードン・マンロー。夏季三ヵ月は避暑団経営、それ以外の期間はマンロー個人の経営という変則的な形となっていたのでつねに赤字だったらしい。マンローが貧しい地元の人からはほとんど診療費を取らないで治療にあたったことも作用している。
だが、このマンローは外国人の間で評判が悪かった。彼はスイス人貿易商の娘アデールと結婚していたが、軽井沢で診療を始めたときに神戸から招いた木村チヨ婦長と恋愛関係になったのだ。貞節を尊ぶ宣教師やその夫人たちの間で、この不義は許されないものと受けとめられた。そんなマンローを院長にしたダニエル・ノーマンは非難の矢面に立って、関係を良好に保つ努力を重ねている。
そして、再び避暑客と地元行政との対立が発生した。大正十年に東長倉村が「別荘所有不在者税」の徴収を決定し、一方的に通告してきたのである。当然、別荘所有者は大反対。かなりの人は村税不払いで通そうとする。それに対して、数年のちには軽井沢町(大正十二年に改称)が町税滞納者の不動産を差し押さえるという強硬策をとってくる。
ダニエル・ノーマン、ジョン・ロビンソンなど外国人と八田裕二郎など日本人による軽井沢避暑団理事たちは獅子奮迅の活躍をせざるをえない。こんな避暑団の会議の様子を尾崎行雄が大正十四年にこう書いた。
「避暑団は最初西洋人のみでやっていたが、日本人も仲間に入るようになり、私なども仲間になっていた。会議は公会堂の庭の木の下へ各自が手近なところから椅子を持ち出してきて開くのである。それがなかなか趣があって昔の会議もこんなものではないかと思われる。西洋人が公共のことに熱心なのは実に感心である。私などは口ではずい分やかましく言う方であるが、実行となるととても西洋人のまねはできない」(『聴渓閑話』)
庭の木陰で国際会議……人種を超えた円卓会議が盛んに行われていた。これと、国際連盟で活躍中だった新渡戸稲造のイメージを重ねてみる。そこに吹いていたさわやかな風まで感じられる……。
心のふるさと[#「心のふるさと」はゴシック体]
第一次大戦で日本の資本主義は飛躍的に発展した。農林水産鉱工業の生産総額は、大正三年の三十一億円から八年に百十八億円へと四倍近くに増加。特に工業生産額の増加が激しく、その大戦景気によって成り金が数多く誕生した。もっとも、物価も暴騰し、大正八年には大正三年の二・五倍ぐらいに上昇している。
この成り金誕生とインフレが軽井沢にも強く影響した。大正十二年に出版された春原平八郎の『維新以後の軽井沢小観』にこう書かれている。
「戦争の結果として内地人の間にもいわゆるにわか富豪(成り金)を生ずるに至り、これらの人々は競って軽井沢に土地を求め、また別荘を建築せんとし、これがために内地人の避暑客急増の情勢を醸せり。土地を得んとするものの数は多く、これが供給は限られたる少数の人々より受くるのやむなき状態となり、これがために地価は著しく高騰し、最初外人の手に入るに当りては一坪わずかに三、四銭ないしは十一、二銭くらいにて得たる土地も、今は十円をもって普通相場とし、便利衛生風景等の好みにより位置を選ぶにおいては三十円、五十円の売買を見るに至れり」
八田裕二郎が明治二十六年に土地購入したときには坪五厘だった。また、「明治末に八田家の親せきが入手したときに十倍の五銭だった」と八田裕一は証言している。明治時代に外国人には日本人の十倍で売っていたことがわかっている。これが大正十年頃に内外人の区別なく、一坪十円から五十円になったのだ。大正初めから計算しても、実に二百倍から一千倍の地価に暴騰している。
地価だけではない。華族、大ブルジョア、成り金という金に困らない人たちが激増したことによって、「軽井沢相場」と呼ばれる物価高も生じた。
こんな土地高騰、物価高に反発して、別の避暑地に移転する外国人が出現した。一九二〇(大正九)年、ウィルバート・マックウィリアムス、アーサー・マッケンジーなど宣教師や英語教師によって野尻湖移転が企画され、合資会社を作って、翌年三月、五万二千坪を三万二千円で買収した。このとき六十七名が均等に二百五十円ずつ出資し、不足分は銀行や友人からの借入金で補っている。そして早くもその夏に十二軒の別荘が造られ、湖水でボートや水泳が楽しめることを友人たちに宣伝して勧誘していた。
一九二〇年頃の宣教師夫妻が本国の布教本部から送ってもらう年俸は千八百円から二千二百円であった(ロイド・ニーベ著『ザ・ノジリ・エクスペリエンス』)。東京の小学校教員、銀行員の初任給年俸はこの時代に六百円ぐらいだから、その三倍程度である。明治時代のお雇い外国人とちがって、すでに外国人宣教師は日本における特権階級ではなくなっていたのだ。また、野尻湖に移った人の多くはマックウィリアムスが三十三歳というように最初に軽井沢を避暑地にした宣教師たちと同じように若く、理想に燃えている年齢であった。
しかし、軽井沢の別荘を売り払って野尻湖に移転した人はごく少数にとどまった。これは大正十二年九月一日に関東大震災となった地震に対する恐怖心が外国人に強かったことも影響している。本国では地震を体験していなかった彼らが大震災のときに孤立して何人も死去した同国人の悲報を知っていた。せめて夏の間は言葉が通じる同国人と過ごそうという心理になっていったのだろう。
「淡紅色、水色、純白、それぞれ軽やかな扮装でゴルフに興じる外国婦人、愛人を擁して自動車を飛ばす若者、緑樹を縫って馬を駆る学生、華美な絵日傘やパラソルの陰に嬉々《きき》として談笑しつつ軽快な足取りで歩を運ぶモダン・ガール。どこを見ても軽井沢は夏の歓楽境、植民地気分の豊かな、ブル《ブルジョア》と貴族と政治家の夏の息抜き場と言った感じです」(信濃毎日新聞、大正十五年八月八日付)
大正時代の末期から昭和初めにかけて、軽井沢は華やかさを増していた。旧中山道の通りには英語の看板がならび、おしゃれをした外国人たちが胸を張って歩いている。
一九二七(昭和二)年の夏、外国人避暑客を国別にみると、アメリカ人五百十八名、イギリス人二百八十五名、ドイツ人百二十二名、中国人九十三名、カナダ人二十一名、ロシア人十九名など合計二十ヵ国千百十名となっている。別荘数は二百十七戸。
これに対して、日本人の別荘は三百六十七戸。避暑客約三千二百五十名。数の上では日本人の方が多くなっている。だが、この日本人は限られた階層にとどまっていた。
その前年の大正十五年に、避暑した国内著名人のリストが長野県庁に保存されている。皇族は伏見宮、朝香宮、賀陽宮、北白川宮、東伏見宮、竹田宮。華族が近衛文麿、徳川慶光、徳川義親など二十三名。政治家は尾崎行雄、後藤新平、望月小太郎など。実業家は三井弁蔵、朝吹常吉、正田貞一郎、根津嘉一郎など。学者、文化人では安部磯雄、河合栄治郎、沖野岩三郎、内村鑑三、山室軍平、正宗白鳥、土井晩翠など。
合計百五十名ほどの到着した日付けと引き揚げた日付け、滞在していた別荘またはホテルが明記されている。もっとも長く滞在していたのは尾崎行雄で、六月三日から十一月五日までを軽井沢で過ごした。ただしこれらは本人のことなのか、家族のことか定かでない。
こんなリストの外国人版が存在すれば興味深いのだが、まだ見つかっていない。外国人による当時の軽井沢への思いは、伝記などでうかがうしかない。エドウィン・ライシャワーは自伝のなかでこう書いている。
「夏の軽井沢は単なる休暇ではなく、それ自体としてひとつの生活のようにさえ思えた。東京にずっと長く住んだはずなのに、細部の記憶は軽井沢のほうがはるかに多い。……今日に至るまで、私は杉皮の屋根を打つあの雨音よりやさしい音を聞いたことがない。わが家の山荘はいまも残っているが、私にとって『ふるさとは遠きにありて思うもの』は、どこよりも軽井沢において真実なのである」
[#改ページ]
[#小見出し] 第四章 霧ときどき雷雨
ゴルフブームの到来[#「ゴルフブームの到来」はゴシック体]
「いまの旧軽井沢ゴルフクラブができた頃、キャディーは男たちでした。それも少年ですよ。小学校から帰って来ると、そのままゴルフ場へ行ってね……いいお小遣いになったそうです」
軽井沢で生まれた一條香代が語った。ゴルフ場のキャディーは現在、多くは女性になっている。それが大正から昭和初めにかけては尋常小学校の高学年の子どもたちがする格好のアルバイトだったのである。
これがいくらぐらいの小遣いになったのか。また、ゴルフをするのにいくらかかったのか。それを調べてみる。
一九三三(昭和八)年に発行された「軽井沢ゴルフ倶楽部案内」という小冊子に、期間メンバーフィー、一シーズン二十五円、一週間八円、グリーンフィーはメンバーが一日八十銭、ビジター二円七十銭、キャディーフィー、九ホールにつき三十銭と書かれている。
この時代、日雇い労働者の一日あたりの賃金が一円三十銭(帝国統計年鑑)。現金収入がほとんどない頃だったし、子どもも重要な労働力とみなされていた。そんな子どもの臨時収入にすれば悪くない。そのキャディー料のほかに人によってはチップもくれただろう。また昭和初期に万平ホテルのボーイは月給が二十円ぐらいのときに、一夏で八百円ほどのチップ収入があったという。
ゴルフのグリーンフィーは、兵庫県三木市の広野ゴルフ倶楽部でビジター平日三円、日曜祭日五円。それと軽井沢ゴルフ倶楽部はほぼ同じ料金である。いまのゴルフ料金ほど異常な値段ではないが、ブルジョアのスポーツであることは確かだった。
この軽井沢ゴルフ倶楽部の一九三〇(昭和五)年の会員名簿が残っている。会長が徳川|圀順《くにゆき》、名誉会員に朝香宮、東久邇宮、伏見宮など十二名の皇族。外国人会員はジェームズ・チャペル、チャールズ・S・ライフスナイダー、ダニエル・ノーマンなど三十七名。日本人会員は細川護立、近衛文麿、前田利為、三井弁蔵、岩崎小弥太、田中実、鹿島精一、尾崎行雄、鳩山秀夫、伊沢多喜男など百六十一名。合計二百十名である。ノーマン、尾崎行雄などゴルフをしない人も加わっているのは、大正九年のゴルフ倶楽部創立時にメンバーになったまま継続していたからだろう。
この昭和五年、軽井沢ゴルフ倶楽部の会員あてに、細川護立、近衛文麿、三井弁蔵など八名の発起人連名で「新ゴルフ場建設と別荘地分譲に就て」という文書が送られた。
「本邦におけるゴルフ熱もようやく民衆化の曙光《しよこう》を認め、プレイヤーの増加にともないいたるところリンクの新設を見るに至ったことは吾々ゴルファーにとりよろこばしい次第であります。わが軽井沢のリンクにおいてもまた同好者の数が年々増加し、わずか九ホールにては規模あまりに狭小なりとの感迫り、いよいよコースを拡張するの機が熟したのであります」
このために約五十万坪の土地を買い取り、本格的な十八ホール造成に乗りだしたのである。造成費は三年間で四十三万三千円。ちなみに昭和五年の軽井沢町の歳入は八万三千円だった。このゴルフ場(通称「新ゴルフ」)建設の大プロジェクトに、リゾート軽井沢の特徴を生かした方法がとられることになる。それは零からの出発であり、まさに錬金術である。
一九二〇(大正九)年に創立した軽井沢ゴルフ倶楽部のコース(現在の旧軽井沢ゴルフクラブ)は九ホールであった。この九ホールというコース数は、古典的なコースを示している。ゴルフの発祥の地である英国セントアンドリュースのコースは、一七六四年に九ホールを造った。そして、ひとつのグリーンに二つのホール《カップ》を設けて往路と帰路とを使いわける方式で十八ホールをプレーするようになった。クラブハウスから出て行く《ゴーイング・アウト》コースをアウト、帰って来る《カミング・イン》コースをインと呼ぶのはこのためである。
だが、大正末から昭和初めに十八ホールの優秀コースがいくつも国内に造られ、正式競技はそんなコースで行われるようになる。軽井沢ゴルフ倶楽部の九コースでは会員たちは満足できなくなっていた。このゴルフ場は面積、地形の関係で十八ホールに拡張することが不可能だった。
そして、経済状況がこれに作用した。一九二七(昭和二)年に渡辺銀行、十五銀行などの取り付け騒ぎという金融恐慌が発生。二年後の一九二九年十月にはニューヨーク株式市場大暴落による世界恐慌が始まった。このあおりで、三笠ホテルの経営は山本直良(十五銀行役員)の手を離れて明治屋に移るなど、軽井沢は大きな変化をとげていた。
この時期に軽井沢ゴルフ倶楽部の土地は、紅屋銀行(のちに神田銀行)の創立者である神田|※[#「金+雷」、unicode9433]蔵《らいぞう》個人の所有となっていた。この神田も金融恐慌で打撃を受けていたので、その土地はすでに日本銀行の抵当となっていたし、処分することもありえた。倶楽部の会員は安心してプレーできるゴルフ場が欲しかったところに、雨宮敬次郎の資産を継いだ遺族が軽井沢駅の南側にある成沢一帯の土地約五十万坪を売りたがっているという情報を得たのだ。
ここで、成沢の雨宮所有地を一括購入することになり、ゴルフ倶楽部側は三井財閥の三井弁蔵を代表として、雨宮家の代理人市村今朝蔵との間で交渉を進めた。
この際に、ゴルフ倶楽部は万一赤字になったら有志が穴埋めし、黒字になればそれを倶楽部に寄付するという公益法人として発足することが決めてあった。
この買収資金とゴルフ場造成費を次のようにまかなったのである。
「買収土地の面積は四十六万坪に達し、うち二十万坪は別荘地として分譲するに絶好の場所であります。買収価格二十三万円なるがゆえに、ゴルフ場敷地の原価施工費など一切を分譲地に割り当て、売ることに致しましたから、分譲事務の進行とともに、ゴルフ場敷地の原価は消却されるのであります」(軽井沢ゴルフ倶楽部会員あて文書)
つまり、買収地の約半分を別荘分譲地として売り、それですべてをまかなおうという計画だった。坪あたり五十銭で買った雨宮所有地を、分譲地としては一坪二〜三円で売ることにしたのである。
超エリートのソサエティー[#「超エリートのソサエティー」はゴシック体]
一九三〇(昭和五)年三月十一日、雨宮家所有の四十九万坪とその隣接地を合わせて合計五十六万八千坪の売買契約が成立した。その代金約三十二万二千円。これは三井弁蔵の関係で三井信託会社が融資し、分譲の実務も三井信託が行うことになった。
問題は、計画どおりに分譲地が売れるかどうかにあった。この年のうちに約二十二万坪が売りだされた。その結果、七年八月の分譲地引受人名簿には百十二名の名前が載っている。軽井沢ゴルフ倶楽部の会員、名誉会員が六十二名、残りが非会員。外国人は立教大学総長のチャールズ・S・ライフスナイダー、建築家のアントニン・レイモンドの二名のみ。
計画は大成功だったのである。昭和八年二月の報告を見ると、ゴルフ場建設費、分譲地造成費、土地買収費などの支出が五十七万円、収入が約四十五万四千円。まだ十二万円の赤字が残っているけれども、売ってない分譲地六万四千坪、二十三万四千円相当を保有していた。これは昭和十五年までに売却し、借入金と銀行利子の全額を償還している。
こうして、昭和七年に財団法人軽井沢南ケ丘会を設立し、造成したゴルフ場をその財団に寄付する形で新しい軽井沢ゴルフ倶楽部はスタートした。このときの会員数二百九名。
軽井沢ゴルフ倶楽部の入会金は百円、年会費四十円、コース使用料は会員一日一円、ビジター三円だった。
このゴルフ倶楽部が意味することを別の角度からみる。それまでリゾート軽井沢のアウトドアスポーツ、集会、コンサートなどは外国人中心に進んでいた。ここで初めて日本人中心のゴルフ場ができたのである。しかも、軽井沢ゴルフ倶楽部の会員とその分譲地を買った人は、皇族、華族、政財界人に限られていた。ひとつの超エリート・ソサエティーが作られ、その会員であることはステータスシンボルとなったのである。
これを軽井沢避暑団が造ったテニスコートと比較してみる。コート敷地は外国人が寄付し、財団法人軽井沢避暑団が運営にあたった。いちおうは会員制だが、パブリックコートと呼ぶように安い会費で公共に提供されていた。これに比し、軽井沢ゴルフ倶楽部は会費が高く、会員の数は限定されている。テニスコートがオープン・ソサエティーなのにゴルフ倶楽部はクローズド・ソサエティーである。この開かれた組織か閉ざされた組織かのちがいは大きい。このゆえか、昭和七年の新ゴルフ場開場時に、古くからのゴルフ倶楽部会員二十一名が退会している。十一年までに合計九十八名が入会し、六十六名が退会した。
ここで古いゴルフ場のことに触れる。新ゴルフ場ができたので、その土地は管理していた野沢組に昭和六年十一月に返還された。その際にゴルフ場の機能はそのままの状態だったので、野沢組によってパブリックな「旧軽井沢コース」の名称で営業が続けられた。古くからのゴルフ場は「旧ゴルフ」、南ケ丘のゴルフ場が「新ゴルフ」と通称されていた。つまり、この時点で軽井沢に二つのゴルフ場が存在したのである。
「旧ゴルフでプレーしていた人の三分の二は外国人でしたね。残りの三分の一が日本人で、細川さん、徳川さんなど新ゴルフ場を造った人たちがこちらでもプレーしたのです。外国人はチップをくれましたが、日本人プレーヤーは昔の殿様ですから現金を持ってない……チップをもらった記憶がありませんよ」
軽井沢生まれのプロゴルファーである内田|棟《むなぎ》(七十五歳)が回想する。彼は尋常小学校四年のときからキャディーをやりだし、昭和六年に旧軽井沢ゴルフコースの正社員となって、キャディーの手配や教育をするキャディーマスターをつとめた。
旧ゴルフで昭和初めにプレーしている写真を見ると、学生服を着たまま足にゲートルを巻いてゴルフバッグをかついでいる少年たちの姿が写っている。この小学生アルバイトを学校側は禁止し、夏休み前に小学校長が必ず禁止する訓示を与えたという。だが、子どもたちにとってこれほど収入の多いアルバイトはない。学校の禁止令を無視して、続々とキャディーになった。旧ゴルフだけで約五十人のキャディーがいたという。新ゴルフにはそれ以上のキャディーがいたことだろう。
キャディーの収入は三ランクに分かれていて、九ホールを回ると二十銭、二十五銭、三十銭。アウトとインの十八ホールを回るから、四十銭から六十銭になったのだ。そして、ゴルフボールを池などに落としてしまったのを捜しだすと、ボールの値段の十倍ぐらいのチップをくれる人もいた。
「キャディーと別に、ゴルフ場を管理する人が十二名働いていました。軽井沢の冬の寒さは特別ですからね、高麗芝が育たなくて苦労しました。冬は芝の上にカヤを敷いて越す。四月頃から芝の手入れを始める。当時はすべて人力ですから、モッコをかついで、シャベルを使って、馬を使う場合は芝を傷めないように馬の脚にわらじをはかせましてね」
すべて素朴な形でやってきたと内田プロは言う。ゴルフ人口がまだ少なかったので、それですんでいたのだ。ゴルフは外国人、そして英国留学帰りの華族、ブルジョアたちへという形で普及していったのである。
新ゴルフ場を造った軽井沢ゴルフ倶楽部の会員は、この新しいスポーツに熱中して、新旧の両ゴルフ場に人力車で乗りつけてプレーしていたのだ。内田プロはそんな人たちをこう感じていた。
「外国人は紳士が多かったけれど、日本人客には身分格差をまざまざと感じましたね。尊大で傲慢《ごうまん》。『シモジモのものは』なんて平気で言う人がいましたからね。
おもしろかったのは、細川護立さん。打ったボールが変なところに行くとその位置を手で動かしてしまう。一緒にプレーしている人は、『また、お殿様がやっている』と後を向いて見ない振り。細川式プレーというので有名でしたよ」
この内田棟のように軽井沢生まれでプロゴルファーになった人は十五名ほどにのぼる。
軽井沢にできた飛行場[#「軽井沢にできた飛行場」はゴシック体]
軽井沢駅の南側に南ケ丘別荘分譲地ができたことで、この一帯が急速に脚光を浴びだした。もっとも南軽井沢はすでに堤康次郎が一九二〇(大正九)年に大規模な別荘用地を買い占め、道路を整備していた。
この堤の買収は、千ケ滝に続いて、沓掛から万座温泉へ向かった途中にある鬼押出しの奇岩に注目したことにより、その天然記念物保護の名目で八十万坪の払い下げを前橋営林署より受けることに進んだ。この土地は溶岩地帯なので、別荘造成は不可能だった。地元の人はあんな土地を買って何をするのかと堤の見識を疑ったようだ。これは観光客が増えたときの名所にすればいいという加藤高明(大正十三年〜十五年に首相)の助言で、現地を見ないで買ったという。
そして、堤の視線は次に誰も注目していなかった南軽井沢に向いた。西長倉村|発地《ほつち》区と箱根土地が大正九年十一月十四日に結んだ売買契約書が保存されている。これによると、売買面積は四百二十一町(百二十六万四千坪)であり、代金六万三千二百円。坪あたり五銭だ。この一坪の金額は千ケ滝と同じである。このあたりは地蔵ケ原と呼ばれた湿原と草原で、発地区住民が採草地として利用してきた入会地であった。
この南軽井沢で、堤は当時の人があきれるような工事を始めた。軽井沢駅付近から買収した別荘用地まで二十間道路を建設したのである。二十間といえば約三十六メートル。その幅の道路が走ったのだ。まだ自動車が一般化していない時代である。この頃、お抱え運転手つきの自動車で軽井沢に来た人は、三井財閥の三井弁蔵、水戸徳川家の子孫である徳川圀順の二人だけだったといわれる。
この二十間道路のことは、堤康次郎の自伝的回想録『叱る』にこう書かれている。
「当時の乗物は人力車が主だったので、道路はせいぜい二間幅もあれば十分であったが、私は思いきって七間幅にした。すると地元の人たちは『こんなデッカイ道をなにするだァ、堤さんは山師でないかァ』と不思議がったが、いまになってみれば、これでも狭いぐらいである。ある日、この七間幅の道路を造ったのを得意気に後藤新平さんに話したら、なんと開口一番『七間は狭いよ、二十間にしたらどうか』といわれたのには恐れいった。その後南軽井沢を開発するときは後藤さんの忠告を聞いて二十間道路を造ったが、いまにして思えば、後藤さんの先見の明はそのスケールの大きい政治的手腕とともに敬服にあたいする」
千ケ滝に七間幅の道路、南軽井沢に二十間幅の道路を造った。ここに南満州鉄道総裁などをつとめ、何回も外国を視察していた後藤新平のスケールの大きな都市計画がヒントになっていることがわかる。後藤新平は関東大震災の後、内相兼帝都復興院総裁として徹底的な東京改造案を作っている。
これまで南軽井沢の開発ぶりはほとんど知られていなかった。千ケ滝の二倍以上の土地をどう入手し、どのように開発したのか探ってみる。
「二十間道路の建設には、いまの人は知らないエピソードがあるんですよ」と上林國雄が言う。彼は堤康次郎の側近として、その頃、東京、箱根、軽井沢を飛び回っていた。
「道路を造りだしたのは大正十三年。二十間幅の道路を南軽井沢と国道に至る区間に造成した。道路の両側には一間幅の下水道も造った。このとき、堤が買収した土地は日本人労働者で工事をしたのですが、途中から他人の土地にぶつかる……ここでは朝鮮人労働者を五十人ほど使って突貫工事でやってしまった。驚いた村人が巡査を連れてきてやめさせようとするけれども彼らには言葉が通じなくて、どんどん掘り進めてしまってね」
南軽井沢別荘地から国道の間には、根津財閥の根津嘉一郎(東武鉄道などの創業者)の広大な所有地があった。そのなかを強引に二十間道路を走らせてしまったのである。いかにも堤らしいやり方だ。もっとも、これがきっかけで根津と堤は会談することになり、のちに根津所有地を堤が譲り受けることになる。
だが、南軽井沢に百二十六万坪の土地を買収するには地元に協力者がいなければ不可能だ。そんな人がいたのだろうか。上林國雄がその疑問に答えた。
「下発地の依田さんという実力者が、地元をまとめてくれたのです。この人はずっと堤のために働いてくれましたよ」
大正九年の売買契約書には、立会人として依田定三ほか六名の署名がある。このときの売却金は住民が分配せずにすべて西長倉村に寄付して発地小学校の増改築などに使っている。
そして、堤は地蔵ケ原という平原の特長を活用して飛行場を造り、昭和三年から東京と軽井沢間を航空路で結んだ。
地元と堤の間はうまく行っているように見えた。ところが、昭和七年になって紛糾する。ちょうど南ケ丘に新ゴルフ場ができた年である。依田定三が自分名義の土地約一万四千五百坪を、箱根土地の姉妹会社である東京土木に売ろうとした。このときに箱根土地に売却した区有地のうち百三十三町(約四十万坪)が依田定三名義になっていることを、発地区の住民は知ったのである。これは売却地の約三分の一にあたる。しかも売却してすぐの大正十二年には依田定三名義に変更してあったのだ。
依田定三の孫である依田竜治(六十歳)はこのいきさつを調べていて、「どうしてそうなったのか、はっきりとはわかりません」と不思議そうに語る。
「祖父は堤を大将≠ニ呼んでましてね。堤にごく親しい関係で、祖父が昭和二十六年に死ぬまで堤との交際は続いてました。そんな関係だから、何らかの理由で堤が三分の一の土地を祖父の名義にしたのでしょう……この昭和七年のときには近所の人から家に石を投げられたこともあったそうです」
これは和解が成立し、依田定三名義になっていた百三十三町はこのとき箱根土地から発地区に無償で返還された。そして箱根土地は依田定三に対して五百円の功労金を払っている。
南軽井沢別荘地として百二十六万坪を買いながら、その三分の一を無償で地元に返還してしまう……堤康次郎のこの行動は不可解である。なぜ、そんなことがあったのかを依田竜治の協力で探っていくうちに知られざる事実を発掘した。
発地区の土地は大正十年六月三日に箱根土地に移転登記されている。登記簿を調べてみると、この二年後に三分の一の約四十万坪は依田定三名義になっている。そして、大正十三年に箱根土地所有の土地は共同担保のひとつとして二百万円の抵当権が設定されているのだ。さらに大正十五年三月には再び二百万円の抵当権を設定している。権利者は、旧ゴルフ場の土地所有者である神田※[#「金+雷」、unicode9433]蔵が経営する神田銀行である。
ここで推理が成り立つ。資金繰りのために堤康次郎は土地を担保にして銀行から借り入れる。その際に全土地を担保にしてしまうと返却できないときにはすべてを失う。それを避けるために三分の一を、信頼の厚い依田定三名義にしたのではないだろうか。
南軽井沢の土地の買収金は約六万円だった。これに対して合計四百万円の融資というのはあまりに巨額すぎる。それまでに至った経過を追ってみる。
大正十三年は堤康次郎が各地で土地開発を始めて成功のめどがついてきた頃である。大正七年に千ケ滝の土地を買収したのに続いて、翌年に箱根の開発に着手。東京では目白文化村、渋谷百軒店、大泉学園都市、国立などの大プロジェクトを展開。そして、この年五月に衆議院議員に初当選している。
この直後に資本金二千万円の箱根土地は初めて不渡り手形を出すことになる。この因縁は筑井正義著『堤康次郎傳』にこう書かれている。
「箱根土地は一千万坪の土地を担保にして二百万円の社債を、神田銀行を受託銀行として発行した。期限は三ヵ年、一年半で切替えという条件であった。ところが、その一年半後の切替期間がまぢかに迫ったある日のこと、神田銀行の経営者の神田※[#「金+雷」、unicode9433]蔵から、切替えはお断りする、どこかほかの銀行へでも頼んで私の方へはお返し願いたいといってきた。しかし、その時はもうどうにも間に合わず、とうとう不渡りとなった。神田はひどいやつだ、ワシをつぶす気か、それとも担保に入れた一千万坪の土地が欲しいのか。どうも土地がお目当てらしい。そう知った堤は激怒した」
南軽井沢の抵当権は、大正十五年の二百万円分が昭和三年に解除、大正十三年の二百万円分は昭和六年に神田銀行を吸収した日本興業銀行に移ったのち抵当権抹消している。
そんな大金を動かしていた箱根土地なのに、昭和五年から八年にかけて、村税千四百円滞納、県税千五百円滞納で、西長倉村と長野県の両方から南軽井沢別荘地が差し押さえとなっている。千ケ滝の土地は昭和五年から十年の間、約二千円の町税滞納で軽井沢町から差し押さえを受けている。箱根土地は地方税を納入していなかったのである。
「昭和六年頃の堤さんは、経済的にかなり苦しかったのではないでしょうか。ちょうどこの年に私は嫁に来たのですが、千ケ滝に別荘をいくつも建てたのにその建築費がもらえない、困った、困ったと義父は嘆いていましたね」
旧軽井沢で営業していた後藤工務所の後藤|光《てる》に嫁いで来た後藤トミ(七十九歳)は、その時代を語る。
この後藤工務所が、戦前において軽井沢唯一の工務店であった。それはリゾート軽井沢の歴史とぴたりと重なってくる。初代は後藤朝吉で、新潟県出身の鉄道大工だった。軽井沢に鉄道が敷設されたとき、その駅舎建築のために軽井沢に来て住みついた。二手橋そばに造られた英国公使別荘を建てたのに続いて、ほとんどの別荘を彼が請け負って建てている。
そして、後藤朝吉の息子である仙八、良造兄弟が後を継いだ明治三十二年から、別荘建築、宅地造成を独占的にこなすようになる。愛宕山への外国人別荘の移築、野沢組別荘、通俗夏季大学講堂、千ケ滝の文化村、南ケ丘分譲地、南原の友だちの村……。
「なぜ独占企業だったかといいますと、ほかに大きな工務店がなかったからです。ウチがやらなかったのを挙げれば、昭和十一年に改築した万平ホテル……これは高崎の業者がやりましたね。それ以外はすべて請け負ってきたのです。堤康次郎が二十間道路を根津嘉一郎敷地内を通してしまったときも、後藤良造が仲介して話をつけたのですよ」と後藤トミは証言する。
後藤仙八は大正なかばに死去。その後を後藤良造が仕切ってやってきている。後藤工務所のなかに製材所、工務部、製氷部、ガラス部、運送部、雑貨部、養狐部などを作っていた。従業員を抱えていると仕事の激減する冬をどう乗り切るかが問題となってくる。ここで製氷部をやり、女性のえりまき用の銀狐の養殖といった多角経営をしていたのである。そして、後藤工務所の下請けをする棟梁が二十八名。棟梁の下に必ず職人がいるし、ほかの職種の労働者もいるから、後藤工務所の号令で働く人数は数百名になっていく。
昭和初めは極端に景気が悪い時代だった。金融恐慌、世界恐慌のあおりで昭和元年(大正十五年)に比べて国民所得や株価は昭和六年に三〇パーセントも下がり、物価も三五パーセント下落した。「大学は出たけれど」という流行語が生まれたように、東大卒の学生も三〇パーセントしか就職できなかった。それに加えて主要農産物であるまゆは三分の一、米は半値に暴落。各地で、市町村税の滞納が増えたことで小学校教員の給料が遅配になるという事態を招いていた。
こんな時代にもかかわらず、別荘建築は減らなかった。昭和二年に六百九十六戸だったのが六年には合計八百四十四戸に増えている。
「この頃は後藤工務所のところに行けば銭になると言われまして、大した羽振りでしたね。でも、真夏は建築工事をしてはいけないんですよ。お客さまを静かに過ごさせる……これは伝統となっていまでも守られてます」と後藤トミは微笑した。
三井の夏季首脳会議[#「三井の夏季首脳会議」はゴシック体]
金融恐慌、世界大恐慌という史上初の大不況の折に、軽井沢だけ別世界であり、続々と別荘が増えていった。これはなぜなのか。
「だって、当時の軽井沢は貴族院の議員が多かった。夏になると貴族院は長い休みをとる。働かなくても収入は安定している。そういう貴族院議員を中心にして、日本の有閑階級の社交の場になったのでしょうね」
徳川慶喜の孫である徳川喜和子はこう言う。確かに旧華族の視点から見れば、徳川慶光(慶久の長男)、徳川義親など親せきや知人が数多く軽井沢に別荘を持つか、ホテルに宿泊していた。彼らは華族銀行と呼ばれた十五銀行の破綻で打撃を受けたが、不要屋敷を解放(実際上の売却)することなどで苦境を切り抜けている。
それ以上に、不況だからこそ、それによって肥大化した人たちがいたことに注目しなければならない。第一次世界大戦で高度成長した財閥が、恐慌時に倒産企業を吸収し、日本経済の支配力を広げていったのである。たとえば第一次大戦前に直系五会社、傍系六会社だった三井財閥は、昭和六年には直系会社に三井物産、三井生命、三井銀行、三井信託、三井鉱山、東神倉庫の六社、傍系会社に王子製紙など九社、その子会社は少なくとも二十五社以上にのぼった。この全体を支配するのが持株会社三井合名会社で公称資本金三億円。さらに昭和十二年には約百社を支配し、合計資本金は約十二億円に膨張している。
この三井財閥が軽井沢に強い影響力を持っていた。最初に別荘を造ったのは、既述したように三井三郎助で明治三十二年。彼の敷地のなかに日本女子大三泉寮が造られた。三井一族がやってくれば、その傘下の社長もやって来る。三井物産を一八七六(明治九)年に創業して三井財閥の運営者となった益田孝(一八四八〜一九三八)の『自叙益田孝翁伝』にこんな文章が出て来る。
「加藤高明伯(爵)はまことに気の毒なことであった。昨年(大正十四年)の夏軽井沢で、大変弱っておられるように見受けたが、近頃新聞の議会記事を見ると、加藤首相の声が低いので議場から聞こえぬ聞こえぬということをよく言うていたようである」
加藤高明が首相在任中の大正十五年に死去したことを追悼した文である。この加藤高明は三菱財閥の岩崎弥太郎の長女と結婚している。三井、三菱、安田財閥などの関係者が、不況時に避暑を楽しんでいたのだ。
ここで益田孝がいつ別荘を入手したかを調べてみる。彼は旧軽井沢に十軒ほどの別荘を一九一九(大正八)年から持っていた。そのうち六軒は、明治学院教師だったセオドア・M・マクネアが一九一五(大正四)年に死去したため、買い取ったのである。それにしても益田孝だけで約二万坪に十軒の別荘を持ち、三井合名理事の福井菊三郎も早くから別荘を建て、さらに三井家、朝吹家の別荘があった。第一次大戦から第二次大戦の間、三井財閥の夏の首脳会議はこの別荘群で行われていたのである。
こんな世界大恐慌や金融恐慌など社会の景気に左右されない別の一群の避暑客が存在した。外国の外交団である。その外国人のなかに、一九三一(昭和六)年、スターがやって来た。その四年前に世界最初のノンストップ大西洋横断飛行をしたリチャード・リンドバーグである。彼の単独飛行成功にアメリカ人は狂喜し、その帰還パレードでニューヨークの街は麻痺したものである。
このリンドバーグが軽井沢に来たときの様子を、石井満著『新渡戸稲造傳』(昭和九年刊)でうかがうことができる。
「九月四日の午後には軽井沢ホテルでリンデー(リンドバーグの愛称)夫妻の歓迎会があるというので、主に西洋人や、西洋人と交際のある連中はいそいそとしたくをして出て行った。こうした社交場で、こんな晴れの会合に出席することのできる人達はいうまでもなく得意だった。僕たちはもちろんそんな会合には縁はなかった。それでも誰いうとなしに、散歩しながら莫哀山荘の入口に行って、リンデー夫妻の自動車を眺めて来ようと言ってゾロゾロと出かけて行った。
僕たちがものの十分も待たぬ間にアメリカ大使館の自動車が表門のところにピタリと横づけになった。するとやがて山荘の玄関の方から、高らかな話声とアメリカ大使とリンデー夫妻の姿があらわれた」
ここから二つのことがわかる。まず、リンドバーグ夫妻が泊まったのは、尾崎行雄の別荘である莫哀山荘だったこと。この年、尾崎はカーネギー財団に招かれて渡米中だったので、別荘をアメリカ大使館に貸していたのである。これに関連して、もっと重要なことはアメリカ大使と大使館員がこの時期の夏を軽井沢で過ごしていたことにある。
リンドバーグ夫妻の歓迎パーティーはアメリカ大使が主催し、軽井沢に避暑中の主な外国人と日本人を招待した。大半が外交官を中心とした外国人で、日本人は新渡戸稲造とメリー夫人など少数の親米派知識人だった。折よく快晴の日だったので、軽井沢ホテルの裏庭で開かれたティーパーティーは華やかに、賑やかに行われた。このホテルの裏庭は旧本陣が江戸時代からそのたたずまいを残していた美庭であった。
日米関係はこの頃、経済的にきわめて緊密になっていた。世界主要国が大恐慌に続く不況で輸出額を三分の一から二分の一に減らしたのに、日本からの輸出の立ち直りは早かった。昭和六年の日本の輸出総額は約十一億五千万円。そのうち四億二千五百万円が対米輸出であった。これは全輸出額の三七パーセントにあたる。
そのアメリカ大使が軽井沢で過ごすことから、ほかの駐日大使、公使もやってくる。フランス、イタリア、ベルギー、トルコの大使、スイス、スペイン、オランダ、アルゼンチンの公使ほか、主な外交官はほとんどが軽井沢に避暑した。彼らは別荘のほか、万平ホテル、三笠ホテル、軽井沢ホテルなどに家族同伴で長期滞在している。ホテルのロビーは外交の場になっていた。
重要人物の相次ぐ死[#「重要人物の相次ぐ死」はゴシック体]
この年は、日本の外交がむずかしくなった年である。秋に入った九月十八日、柳条湖(当時は柳条溝とされた)の満鉄線路爆破事件をきっかけに満州事変が勃発した。これが日中戦争、太平洋戦争と発展していく十五年戦争の発端であった。そして、翌年に国際連盟からリットン調査団が満州、日本を調査。そのさなかに日本は満州国を建国した。リットン調査団の報告を受けた国際連盟総会が満州の現状を承認できないという決議案を採択すると、昭和八年三月二十八日、日本は国際連盟を脱退。ここから日本は孤立外交を進むことになる。
この時期に、軽井沢のホテルは外交団を迎えて賑わっていた。表面的には彼らはなごやかだった。
軽井沢ホテルでは外国人避暑客を集めて「東方文化交流研究会」が開かれていた。これはホテルの青い応接室と呼ばれる広い部屋を満員にして、三年ほど定期的に続いた。ただし、この資料は残っていない。
雲場《くもば》池のほとりには、横浜ニューグランドホテルが軽井沢ニューグランドロッジを建設して、主に外国人客を泊めていた。三笠ホテルも営業を続けていた。千ケ滝には大正十二年から箱根土地経営のグリーンホテルがあった。
もっと繁盛していたのは、万平ホテルであった。経営者の佐藤万平はそれまでに三回外国のホテル視察旅行に出かけている。特に昭和三年の訪米旅行は、東京・帝国ホテル、日光・金谷ホテルなど一流ホテルの経営者二十名がアメリカのホテル業界から招待されたものだった。
外国人避暑客によってホテル経営のノウハウを教えられた佐藤万平は、オーナーである彼が英語をしゃべれることで有利だった。また、佐藤万平の長男である佐藤太郎は、大正四年に野沢組に入社してすぐにロンドン支店勤務となり、その後ヨーロッパ、アメリカで七年間過ごしたので英語は堪能であった。帰国後、佐藤太郎も万平ホテルで働いた。ここから、富裕外国人が万平ホテルを定宿とし、満室の盛況となっていたのである。
そして、佐藤万平は真夏以外がオフシーズンになってしまうため、昭和二年に熱海万平ホテルを開業して冬に従業員をそちらに送った。さらに、昭和六年に東京・万平ホテル、七年に東京・八洲ホテル、八年に名古屋・万平ホテルと多角経営に乗りだしている。
これらのホテルは別荘と共存共栄していた。別荘族は軽井沢に来ると一、二泊ホテルに泊まり、別荘生活の準備ができてから別荘に移った。また、娯楽の少ない軽井沢ではホテルで開かれるディナーパーティー、ダンスパーティーが大人の社交場であった。この時代の国際緊張と関係なく、外国人と日本人は親しく踊り、楽しく語り合っていた。
しかし、その一方で、リゾート軽井沢で重要な役割を果していた人物がこの時代に相次いで亡くなった。
まず、軽井沢避暑団の日本人世話役として活躍していた八田裕二郎が一九三〇(昭和五)年に死去。八十一歳だった。彼は日本人として初めて軽井沢に避暑した一八九〇年頃から、一年も欠かさず夏をそこで過ごしていた。その期間は四十年にわたった。彼が明治維新前に英国留学したことは、結果として英国流のリゾートを軽井沢に発展させることになったのだ。その功績は大きい。
次に、日英混血だったテオドラ尾崎が一九三二(昭和七)年、ロンドンに滞在中に肺がんで没した。
「日本に帰りたい、軽井沢に行きたいと最期まで言っていました。つらかったでしょうね。父はテオドラを『桔梗《ききよう》』と呼び、母が行雄を『ナイト(騎士)』と呼び合っていたラブレターが残っていたのに、逗子の自宅の火事で焼いてしまって……惜しいことをしました」
尾崎行雄とテオドラの間に生まれた相馬雪香が言う。テオドラは死去したとき六十一歳。カーネギー財団の招待で渡米中だった尾崎行雄は英国に渡って病床のテオドラの傍らについていた。そして、尾崎行雄がテオドラの遺骨を抱いて神戸港に着くと、右翼から仕込み杖で切りつけられるという事件も起こった。
外交的孤立にもっとも心を痛めていたのは新渡戸稲造であった。彼は一九二六(大正十五)年まで七年間にわたって国際連盟事務局次長をつとめていたから、日本が昭和八年に国際連盟脱退を通告したとき、耐えられぬ思いだったろう。彼は満州事変が始まった直後に渡米し、全米各地で百回ほどの講演を行った。そして、一九三三(昭和八)年、カナダのバンフで開かれた第五回太平洋会議(太平洋問題調査会の国際会議)に出席するため、再び太平洋を渡った。
この太平洋会議が、ここでは重要である。ちょうど軽井沢避暑団の会議を大型かつ本格的にしたものに似ている。そして、この太平洋会議には軽井沢にゆかりのある人が何人もかかわってくるのだ。
太平洋会議は一九二五年に、太平洋に面した九ヵ国の代表が集まって作った民間研究団体である。その第一回会議がその年にホノルルで開かれたのち、二年ごとに会場を変えて開催された。その第三回会議から新渡戸が日本代表団の団長をつとめている。
第五回太平洋会議は、八月十四日から二十八日まで続いた。参加国は、日、米、加、英、仏、中、豪、ニュージーランド、オランダ、フィリピンの十ヵ国で総計百三十五人。これが無事に終わった後、新渡戸はカナダのビクトリアで倒れた。享年七十一歳。
死の直前に、新渡戸がメリー夫人に語った言葉はこうだった……「軽井沢のせせらぎの音を聴きたい」。アメリカ女性と結婚したクリスチャン新渡戸にとって、人種や国籍で差別しない軽井沢こそ、心の平安が保たれる空間だったのだろう。
グルー米大使とゴルフ[#「グルー米大使とゴルフ」はゴシック体]
一九三二(昭和七)年に、駐日アメリカ大使としてジョセフ・グルーが赴任してきた。彼はそれから十年、太平洋戦争が始まるまで駐日大使をつとめ、日米関係の調整、平和への努力を積み重ねることになる。このグルー大使が軽井沢で果たした役割も大きい。その言動はあまり知られていないのでここで調べてみる。
それを解きほぐす手がかりは、彼自身が書き残していた。駐日大使時代に詳細な日記を書いていて、戦時中の一九四四(昭和十九)年一月に、その日記を抜粋した単行本『滞日十年』を米国で出版したのである。その日本語版は昭和二十三年に石川欣一訳で出版された。
その日記に、赴任して来た最初の夏の九月十一日にこう書かれている。
「この夏の最後の数日を軽井沢で愉快に過ごした。ダグラス・フェアバンクスはまったくこの上もない客人でとても面白く、生まれつき人を楽しませることを心得ていて、しかも驚くほど謙譲で、また人の好意を心から感謝する男である。彼が東京に着いたとき、私は手紙を書いて彼を軽井沢に招待した。
さて、この日曜日に、まず氷のようにつめたいプールで泳いだことに始まり、どしゃ降りの中で三十六ホールのゴルフをやった。彼は首尾一貫四十三というゴルフの名手で、イングランドではスクラッチ(ハンディなし)を競技する。月曜日には午後東京へ帰ったが、その前に十八ホールをやった」
このダグラスは、当時もっとも人気の高かったハリウッドの映画俳優である。軽井沢でもサイン攻勢にあったがそれに愛想よく応じていた。ダグラスとグルー大使がプレーした旧ゴルフコースはギャラリーでいっぱいだったという。
このようにグルー大使がゴルフを好んだことに注目すべきである。彼は赴任直後に、各ゴルフ倶楽部の主要メンバー約八十人を米国大使館に招いて、米国トッププロのゴルフ映画を上映して交歓した。そして、時間をやりくりして週に最低一回はゴルフに行っている。三日間に六十三ホールを回ったという日記もある。
ゴルフは彼にとって健康保持、ストレス解消のスポーツであると同時に、親善と外交の場でもあった。このゴルフ外交に対応するために、日本の親米派上流階級が競ってゴルフを習いだしたのである。
グルー大使の昭和九年一月二十日の日記に別の楽しげな記述がある。
「朝吹家で晩食。何事でも実に見事にやる人達。きれいな食卓、美しい古皿、完全に美味な食事。日本中のどこの家庭よりもよかった。食事が終わると令息のひとりがシロフォンをやり、池田フミ子嬢がピアノで伴奏した。子供が七人いてそれぞれちがった楽器を演奏するので、家族オーケストラを構成している。私は軽井沢で、ネヴィルの家に近い朝吹の大きな家の横を通りながら、よく彼らが演奏するのを聞いた。七人の子供の母親としては、朝吹夫人の若さと美しさは驚くべきである」
朝吹常吉と磯子の子どもは正確には五人だ。そのまちがいをのぞけば、グルー大使と朝吹家の交流ぶりが浮かび上がってくる。この頃からテニス一家だった朝吹家は家族全員がゴルフもやりだすのだ。
古くから避暑に来ていた宣教師たちはどうしていたかを調べてみる。彼らは相変わらず、極東地区の宣教師会議、幼稚園経営者会議、各教派の年次総会を夏の軽井沢で開いていた。中国大陸各地、インド、フィリピン、インドネシア、オーストラリアからもその会議に出席するためにやって来ている。
だが、長い間布教活動をしていると、当然老いてくる。日本で育った子どもたちも成人してくる。
ここで、軽井沢避暑団の創立者のひとりであり、その世話役をつとめていたダニエル・ノーマンの例をみよう。彼は一八九七(明治三十)年に来日したので、一九三四(昭和九)年には三十七年間、長野を中心に布教活動をしていたことになる。このとき、すでに七十歳だった。
彼を語る上で有名なエピソードがある。ふたりの少年が道路で遊んでいて、前方から洋服を着た人が来るのを見てひとりが「あっ、異人が来た」と言うと、もうひとりが「ちがうよ、異人なんかじゃない。あれはノルマン先生だ」と言ったという。
当時の日本では有名な童謡「赤い靴」でも歌われているように、外国人を「異人」と呼んだ。日本人ではないから「異人」と言うのだが、これをもっと考えてみると「エイリアン」を意味することになってしまう。差別的ニュアンスも含まれる用語の一種だ。
それが「ノルマン」という固有名詞で親しまれるほど市民のなかでなじまれる存在になっていたのだ。彼の活躍ぶりは長野県北部の知識人たちのなかで語り継がれている。各地で教会の設立を援助し、禁酒運動、廃娼運動も行い、一九二九(昭和四)年からは「信州農民福音学校」も開校して農村伝道に力を注いでいた。また、自転車、自動車を早くから伝道の足として使い、スライドやフィルム上映などを利用したことも地域社会の文化に貢献したことになる。
一九三二年にノーマンは長野伝道を、若いアルフレッド・R・ストーンに譲り、引退した。普通の外国人宣教師は引退すると母国へ帰還する。だが、ダニエル・ノーマンは帰国せずに、軽井沢で余生を送ることを選んだ。それは長男ハワードは宣教師として、長女グレースは宣教師夫人として日本に赴任して来ていたからであった。次男ハーバードはカナダのトロント大学に留学中だった。
軽井沢で過ごした冬の生活を妻のキャサリンはこう書いている。
「冬の軽井沢もまた格別のよさがあるものです。霜の深い、身のしまる気候は私達のカナダの冬を思い起こさせました。しかし孤独というものはさほど耐えがたいものではありませんでした。といいますのは一年を通じて町では礼拝が続けられており、教会の幼稚園――それに岩村田や小諸の幼稚園もあって、私達がすっかり仕事をなくさないようにしてくれました。そのほか私達は他の土地の知人を訪ねたり、読書を楽しむことができたのです」(『開拓者精神の流れ』)
群馬に広がる別荘地[#「群馬に広がる別荘地」はゴシック体]
こんな時代に、日本の不況は長引いていた。昭和七年に長野県当局はこう発表している。
「現下の経済不況は、県下局部の大衆を動物的生活に低下せしめ、ついに飢餓線上に追いやり、人間の魂を破壊し、あるいは破壊せしめ、農村社会の温情を破り、犯罪を簇生し、等々の社会問題を惹起せしめ、前途真に憂慮せらるるの実情にあり」
経済面だけでなく、貧困がもたらす犯罪の増加から、さらに精神の荒廃までもたらしていたのだ。この不況は昭和十二年まで続くことになる。金融恐慌から数えれば十年間どん底不況が続いたのである。
だが、この期間に軽井沢では別荘が急増していく。昭和六年に八百四十四戸だったが、八年には合計九百三戸となり、十年には千百九十四戸、十二年には千四百五十四戸となっている。どこに、誰が造ったのか。それを昭和九年に発行された稲垣虎次郎著『大軽井沢の誇り 草津温泉の誉れ』を基本にして調べてみる。
旧軽井沢周辺にはすでに七百戸以上の別荘があり、旧道通りや旧ゴルフコース隣には約二百軒の夏季出張店がならんだ。この出張店は東京、横浜、神戸などからの有名店が多かった。料理店は東京・山谷の鰻店「重箱」、新橋の料亭「花月」、四谷の蕎麦店「地久庵」、浅草のすし店「美家古寿司」……。これらの店は夏の三ヵ月で、東京の一年分を稼いだという。
泉の里には「政友村」が造られている。これを「鈴木政友会総裁が離山下に宏壮なる別荘を新築せられ、さらにこれを中心に約三万三千坪を一括買収して、同僚の別邸三十余戸を建築し、都塵《とじん》を避けて清涼の高台に集まり、政界の動揺を静観し、党の拡大強化を計らんとしておる」と稲垣虎次郎は書いている。これは当時の二大政党のひとつ政友会が避暑村を造ろうと狙ったものだ。稲垣の文章によると鈴木喜三郎政友会総裁を村長として、芳沢謙吉、内田信也、砂田重政、松野鶴平など二十四名の村民がいたことになる。この裏付けをとるために土地台帳にあたった。鈴木喜三郎名義の土地はなく、内田信也が野沢源次郎から昭和八年に買った土地はかなりある。内田信也は三井物産に勤めたことがある政治家で、昭和九年に発足した岡田啓介内閣に鉄道相として入閣している。このとき政友会の党議は岡田内閣への協力を拒否していたので、内田は党から除名されている。その内田の土地に政友会代議士たちが別荘を建てるという結果となったのだ。
昭和八年には、三笠ホテルの西側に「前田郷」が造られた。これは加賀百万石大名の前田家と混同されやすいが「迷惑しています。ここは加賀とは何の関係もありません。父の前田栄次郎が建設業者の親睦のために造ったメンバーシップ制の貸別荘です」と、前田栄次郎の長男である前田朝成(七十七歳)が言う。二万四千坪の敷地の中心に丸太造りの本館を置き、二十五軒の貸別荘が囲んだ。つまり、政友村も前田郷も、友人たちのサロンとして造成されたのだ。
自然が豊かならばそれがリゾートになるとは限らない。リゾート開発業者が見落としている重要な点がここにある。それを利用する人たちのこころの交流がなければ存続できないのだ。
その意味で、昭和七年頃から軽井沢町南原で造られだした「友だちの村」が見逃せない。これは軽井沢出身の政治学者だった市村今朝蔵(のちに日本女子大、早大教授)が自分の所有地に友人たちを招いて別荘を建てていったものである。市村今朝蔵と、彼の親族が経営する市村合名会社の二つの名義で約四万七千坪となる。ここに当時の若手学者だった我妻栄、蝋山政道(ともに東京帝大教授)などが別荘を建てた。この伝統はいまでも続き、南原には大学教授、文化人の別荘が多く、別荘族の結束は固い。
同じように学者、研究者の別荘地帯が昭和初めに県境を越えて群馬県側にできている。これはすでに「北軽井沢避暑地」と呼ばれていた。稲垣虎次郎の『大軽井沢の誇り 草津温泉の誉れ』にこう書かれている。
「北軽井沢避暑地は大屋原にあり。法政大学総長松室|致《いたす》氏所有土地を同校の教職員および関係者に分譲して避暑別荘に新築を慫慂《しようよう》せられ、法政大学村建設事務所を建てて工事をあっせんし、税金代納および家屋管理の世話をなして諸般の便利を寄与したるにより長足の進歩をなして現今は二百余戸に達し、法政大学村と名づけ松室氏が村長である」
また、草津電鉄の北軽井沢駅の東方には「嬬恋《つまごい》避暑地」ができた。これを稲垣はこう紹介している。
「中外植拓会社これを開拓し、嬬恋ホテルを経営して避暑客を誘致しもっぱら土地の分譲に努む。地蔵川は庭園内において絶壁にあい、急転直下して石に砕け古瀧《こたき》と称する勝景をあらわし、樹木繁茂して涼味四面を圧し夏なお寒く、風致幽逸にして避暑家屋の所々に点在するを見る。数百歩をへだてて文化村あり、東京医学者流の集団にして、一匡《いつきよう》村と称し、戸数十余棟あり、閑静の勝地である」
その近くには「吾妻《あがつま》避暑地」も造られ、分譲地所有者は数百名に達した。
このように、旧軽井沢から発生したリゾート軽井沢は、千ケ滝、南軽井沢から群馬県にまで広がっていたのである。この時代に、いろいろなデベロッパーが競争で別荘を分譲していったのだ。
ここで留意すべき点はもうひとつある。日本全体が不況であえいでいるときに、なぜ、学者、医者などは別荘を造れたかということだ。第一次大戦後のインフレのときにエリートサラリーマンの給料は上がった。不況になってから政府は公務員給料の引き下げを計ったが猛反対を受けてそのまま据え置きとなった。昭和初め、三井・三菱などに勤続十年のサラリーマンは帝大卒が月給二百円から三百円、私大卒は百円から二百円、中卒は七十円。月給百円以上ならば住み込みのお手伝いさんが使えた時代である。大学教授、銀行員などが初めて日本のミドルクラスを形成しだしていたのである。
宣伝に映画を利用[#「宣伝に映画を利用」はゴシック体]
昭和ひとけた時代に沓掛地区も発展している。湯川に沿った星野温泉は、『大軽井沢の誇り 草津温泉の誉れ』ではこう書かれている。
「所有地の面積は二十七万坪あり。広大なる本館と別館および別荘五十有余棟を建築し、自家用発電所を設けて電気を灯力熱力動力に応用し、諸般の設備がよく整頓されている」
昭和八年に、星野温泉の経営者の長男である星野嘉政(三代目嘉助)は中村禮子と結婚した。この禮子夫人は帝国女子医学専門学校(現在の東邦大学医学部)の第一回卒業生で、インターン中に千ケ滝に遊びにきているとき星野嘉助と知り合って恋愛結婚した。ドイツ語、イタリア語、フランス語、エスペラント語ができる才女だったので、外国人と対等につきあい、マンローが北海道へ移転した後の軽井沢サナトリウムも彼女がとりしきった。それまで岩村田出身の一族だけで経営していた星野温泉に、東京・神田生まれの女医が加わったのだ。ここから広い視野と科学への視点が培われることになる。
星野温泉の奥には、箱根土地の千ケ滝分譲地が広がっていた。『大軽井沢の誇り 草津温泉の誉れ』には「廉価《れんか》なる土地の分譲によりて、別荘を建築するもの年々増加し、現今は二百棟になんなんとす」と書かれている。大正七年に別荘分譲を始め、グリーンホテルを造り、日本旅館の観翠楼を建てて本格的に別荘を売りだしたわりには、別荘増加のテンポがのろい。さらに地方税も滞納していた。どんな状況だったのか……箱根土地の軽井沢出張所の営業責任者として赴任していた上林國雄が語る。
「私が赴任したのは昭和八年。その頃は会社の経費が思うように払えなかった時代です。グリーンホテル横から峰の茶屋を抜けて草津へ行く自動車道を建設していたのですが、土木労働者の食生活が貧しかったこともあって彼らはヘタバッてしまうし、その給料もちゃんと払えない……このありさまを先代(堤康次郎)に連絡したら、『金は銀行にうなっている、これから用意するから工事を続けろ』と言われましてね。お金は本当に翌日に届いたので、草津まで開通することができたのです」
推測すればそれまで軽井沢出張所の責任者は資金繰りに困っても堤康次郎に連絡しなかったようだ。ここで、堤の側近の上林國雄が滞納していた地方税を払い、工務店への未払い金も精算していったのだ。
千ケ滝別荘地に関しては、箱根、東京、南軽井沢などの事業とは一線を画して、ここだけで独自の銀行融資を得ている。まず、大正十二年に日本勧業銀行から三十五万円の融資、次いで大正十四年に四万円。昭和四年と五年に長野農工銀行から合計五万円。昭和十年から十四年までは日本不動産(株)が融資。その融資総額は百万円に達する。ところがその抵当権は放棄されたものがかなりあり、実際に返済されたのも戦時下の統制経済だった昭和十九年である。三万円で買った土地に銀行などが合計百万円の融資をしたことになり、それを返すときには貨幣価値が変わってしまっていたのだ。
堤康次郎の指令で別荘を売っていた上林國雄が続ける。
「昭和八年にグリーンホテル裏の土地(千ケ滝東区)を造成して簡易別荘を八軒建てたのですが、まったく売れませんでした。その翌年にひとりのお客を説得して一番奥の別荘を買ってもらったら、それが口火となって次々と売れたのです。これにびっくりして先代に報告したところ、『よし、来年の夏までには百軒の別荘を造って売りだそう』ということになりました」
何もない荒野に別荘を造る。それをいかに売るか。別荘はもちろん人間が住むところだから、人間の交流がなければ買い手もつかない。そこで一種のおとり作戦で一番奥の別荘を値引きして売ったのである。それに連られてほかの人も買いだす。
それにしても、一挙に百軒の別荘を造ろうと言うだけでなく、実際に着工したのだ。昭和十年春、雪解けと同時に建築労働者数百人が山に入った。まだ景気が回復していない時代である。
山に入るといっても、現在とはちがう。トラックやブルドーザーはないのだから、荷車と人力が頼りだ。これに従事した人の話ではつらい重労働だったという。突貫工事で夏までに五十戸以上の別荘が完成、そのうち四十戸近くがその年に売れた。堤康次郎の別荘分譲作戦は成功したのである。
このときの分譲価格は「土地百坪に、造作水道つき二十五坪のすぐ住める別荘がついてわずか二千二百円です」という宣伝文が残っているから、二千円前後だったのだろう。その価格で百軒を売れば合計二十万円になる。六十万坪を三万円で買収した千ケ滝分譲地が、造成費を差し引いても大金を産む土地に化けたのである。
もっとも売るためには宣伝が必要である。箱根土地という会社名は東京の市街地造成で信頼を得ていた。次は軽井沢千ケ滝という避暑地を高級イメージで浸透させることである。ここで当時の娯楽のトップだった映画のロケ地に、千ケ滝や鬼押出しを使ってもらう方法をとった。島津保次郎監督の「彼女は嫌といいました」では高杉早苗、小桜葉子などの人気女優がやって来た。五所平之助監督の「新道」では佐野周二、田中絹代、高峰秀子などが出演。どちらも完成すると、千ケ滝の講堂で上映して別荘族をバスで送迎した。自分たちの別荘地が映画のなかに映しだされることで優越心をくすぐる……それが別荘族から別荘所有願望派への強力なクチコミ効果となったのである。
上林國雄がさらに続ける。
「昭和九年の夏から十三年の夏までは、夏休み中の大学生を使って別荘の管理をさせました。まさに戦場みたいな騒ぎでしたね。そして十三年までには百軒の別荘を完売しました。その慰労のために、軽井沢に遊ぶところがないので私たち営業畑の人間は戸倉上山田温泉まで行って芸妓を揚げて遊びまくったものです」
開発五十年祭パレード[#「開発五十年祭パレード」はゴシック体]
一九三六(昭和十一)年。
この年に世界の動きが激しくなりだした。その二年前にアドルフ・ヒトラーがナチス総統となって全権力を握ったドイツは、ベルサイユ条約、ロカルノ条約の禁を破ってこの年三月、ラインラントに進駐した。五月にはムソリーニのイタリア軍がエチオピアを占領して併合した。七月にはスペイン内戦が始まっている。
国内では、皇道派将兵による二・二六事件が発生。斎藤|実《まこと》内相、高橋是清蔵相などが殺害され、二十九日の鎮圧の日までこのクーデター軍が日本の中心部を占拠した。
こんな内外の激動の時代に、夏の軽井沢では平和な祭典が行われた。八月八日から十三日にわたって、軽井沢開発五十周年祭が開かれたのだ。主催したのは、外国人避暑客が中心となって作った財団法人・軽井沢避暑団と、日本人避暑客が作った財団法人・軽井沢集会堂、そして軽井沢町。宣教師アレキサンダー・ショーと英語教師ジェームズ・ディクソンなどが初めて軽井沢で避暑生活したのが一八八六(明治十九)年だった。それからちょうど五十年となり、避暑地として繁栄している。一時は衰退の極にいた軽井沢住民にとって感慨が深かったことだろう。
五十周年祭を記念して同年八月八日付の信濃毎日新聞は、軽井沢避暑団の団長ローリン・マコイを囲んだ座談会を掲載している。ここでマコイは軽井沢の魅力をこう語っている。
「空気がいいと思います。東京におって暑くなると空気がジメジメしてたまりませんけれど、こちらへ来ると空気が乾燥していて国へ帰ったような気がします。そして健康のために非常にいいと思います」
もう一ヵ所、彼の発言で重要なところがある。宣教師ショーが初めて軽井沢に来た頃を語っているのだ。
「(ショーは)方々を旅して歩くうちに軽井沢に気がついて荷物をもって視察に来られて、その夏家族を連れて避暑に来られたのです。だが、このときもうノックス氏とかキャプテン・ジェームズさんなどという外国人が十二、三人滞在しておりました。ショーさん、ディクソンさんのほかはみんな家を持たないで宿屋に滞在していたのです」
明治十九年にほかの外国人も滞在していたという事実をこれが裏付けてくれる。もっともローリン・マコイ(一八七八〜一九五九)は米国イリノイ州生まれで、来日したのが一九〇四(明治三十七)年。聖学院神学校、青山学院神学部の教授を歴任した宣教師だ。初期避暑客ではないので、宣教師たちの間で語り継がれていた由来をここで述べたのだろう。
八月八日、午前九時から旧軽井沢の中央部にある諏訪の森で式典が始まり、名誉総裁尾崎行雄の演説などの後、ショー記念碑までパレード。午後には記念のテニス試合、夜には万平ホテルでの祝賀晩餐会、駅から旧道までの提灯行列、打ち上げ花火が行われた。
この祝賀パレードで、主賓として扱われたのは誰か……これをみると当時の尊敬されていた人間関係が浮かび上がってくる。
すでに別荘族の多くの人は自動車を使っていたのだが、パレードの先頭には数台の人力車を使っている。人力車はオープンカーであるし、その前後を歩く人と歩調を合わせやすい。明治時代中期をしのぶためにそれを苦心して借り集めたという。
ここに掲載する写真から判断する。先頭の人力車に乗っているのは、ジョージ・ガントレット(一八六八〜一九五六)である。彼は英国ウエールズ生まれ。一八九〇(明治二十三)年に来日し、東京高等商業(一橋大の前身)や六高、四高などの英語教師をつとめた。このパレードのときには立教学院の教師であると同時に、聖歌隊の指導者として有名だった。パイプオルガン奏者でもあった。
このガントレットの夫人は日本女性である。キリスト教系私立校の女子学院を卒業した山田|恒《つね》で、一八九八(明治三十一)年にガントレットと結婚して、英国籍を取得した初めての日本女性となった。この恒夫人は作曲家・山田耕筰の姉である。ガントレットは来日した年から軽井沢に来ていたはずだからこの時点で外国人避暑客の草分けのひとりだったろう。
三台目の人力車に乗っているのは、ジェームズ・チャペル(一八六八〜一九五四)。水戸の聖公会の宣教師だった。彼は一八八七(明治二十)年に来日。アレキサンダー・ショーと関係が深いし、旧軽井沢に広い土地を所有していたので軽井沢とのつきあいは長い。
二台目と四台目の人力車に乗っている人物は現在のところ確認できていない。
人力車の横について歩いている人物(右端)が重要である。彼はウイリアム・M・ボーリス(一八八〇〜一九六四)で、米国コロラド大学を卒業したのち、自給伝道師として一九〇五(明治三十八)年に来日。最初は滋賀県の八幡商業学校で英語を教え、夜間にバイブルクラスを開いて八幡YMCAを建設した。だが、保守的な土地柄だったことからキリスト教伝道は反発を招き、二年余でその学校を追われた。このため、ボーリスは建築設計をやりだし、大阪の大同生命ビル、関西学院、神戸女学院など数多く手がけている。軽井沢には来日した年の夏に来だし、明治末から多くの建築物の設計をしている。軽井沢集会堂、避暑団テニスコートのクラブハウス、軽井沢サナトリウム、朝吹家別荘などだ。また、米国のメンソレータムの販売権を譲り受けて近江セールズ(株)を設立した。さらに本来の仕事であるキリスト教伝道のために近江ミッション(のちに近江兄弟社)を起こした。このボーリスも日本女性と結婚した。江戸時代に一万石の大名だった家系の一柳《ひとつやなぎ》満喜子と一九一九(大正八)年に結婚。彼女は長く米国留学した女性である。
軽井沢避暑客の中心にいたのは、華族ではなく、日本の女性と国際結婚した外国人宣教師であった……昭和十一年はそういう年だったことを覚えておきたい。
避暑地の情報収集戦[#「避暑地の情報収集戦」はゴシック体]
この昭和十一年、軽井沢の万平ホテルは近代的設備を持ったホテルに改築された。収容人員百六十五名。これらの客室は現在も使用しており、各室ともかなり広く、いまのスイートルームと呼ぶ構造になっている。ベッドルームにはアンティークな感じの軽井沢彫の箪笥が使われている。また、クローゼットを大きく作ってあるのが特徴だ。これは船旅で中国大陸などから来る客は、二ヵ月間を過ごすためのドレスや身の回り品をたくさん運んで来るので、それを収納できるようにしたのだ。
この年の七月、八月に宿泊した滞在客を宿帳で調べてみる。一泊だけの宿泊客から二ヵ月間滞在した長期客までいるので、厳密には旅行客と避暑客の区別はつかない。単純に宿帳に載っている人数を国別に分けてみた。日本人二百八十八名、英国人五十八名、米国人四十一名、ドイツ人二十三名、フランス人十名、そのほか七十五名(スウェーデン、スイス、オーストリア、ルーマニア、ソ連、ブラジル、チリ、アルゼンチンなど)。合計数は四百九十五名となる。このうち日本人はほとんど一、二泊だから、そのほかが避暑客とみてよいだろう。
肩書を明記してある人で目立ったのは、英国大使、中華民国大使、ポーランド大使など。住所として記載されているのでは、中国大陸の大連、香港、上海、厦門《アモイ》、インドのボンベイなど。
これらを見ているうちに、私はふと、おもしろいことに気付いた。アメリカ大使館のネヴィルが長期滞在していたのだ。
このエドウィン・ネヴィルはアメリカ大使館の参事官である。グルー駐日米国大使の手記『滞日十年』に、「ネヴィルの家に近い朝吹の大きな家」と出て来る。そうすると、朝吹家別荘の近くにそのネヴィルの別荘があったはずだ。今度はそれを、朝吹磯子の『八十年を生きる』で探してみる。
「グルーさんは軽井沢で私どもの隣の別荘を借りて避暑に毎年来ていらっしゃった」と書かれている。
これをヒントに、土地台帳をあたってみる。これで事実関係はあっさりとわかった。朝吹家の別荘地の隣に、二百五十九反(七万七千余坪)を昭和二年にエドウィン・ネヴィルが買い取った土地があるのだ。ちなみに昭和十七年から志賀直哉がここに住んだ。
つまり、ネヴィルが万平ホテルに泊まり、グルー大使一家がネヴィルの別荘に泊まっていたのである。これはちょうど、明治二十年代にフレイザー駐日英国公使がガビンス書記官の名義の別荘に避暑したのと同じ方法である。大使、公使は任期が切れると帰国するけれども、日本語ができる参事官、書記官は長く滞在するからである。
そして、万平ホテルの宿泊客にはこの時期、各国大使館の駐在武官が多くなっている。国際情勢の緊張が高まり、大使級が避暑に行けば、情報戦にしのぎを削る駐在武官も避暑地で情報収集にあたるのである。
一九三七(昭和十二)年二月一日のグルー駐日米国大使の日記に、これまで一般的に知られていなかった重要な記述がある。
「昨夜フィリピン連邦のケソン大統領が、訪米の途中、東京に立ち寄った。私は東京駅に彼を出迎え、マッカーサー将軍と二人を自動車で大使館へ案内し、二人は一泊した。われわれは非公式な晩餐会でケソンとマッカーサーを歓迎した。
今朝私はケソン大統領を天皇に紹介し、謁見後午餐会に連なったが、高松宮、両松平その他の著名人が出席した。天皇はダバオ土地問題その他について、ケソンと自由に議論を交わされた。私自身は午餐の席上、天皇にハーバード大学三百年祭とボストンの日本美術展覧会のことを、だいぶんおしゃべりしたが、天皇はいかにも興味ありげに見えた。われわれはまたゴルフを徹底的に語り、私が日本で二十四のちがうゴルフ場を回ったが、まったく日本はゴルファーの天国ですというと、天皇は非常に感心されたらしかった。私は天皇がこんなにも角がとれて気楽そうだったのをめったに見たことがない」
ゴルフに熱中していたグルー大使がすでに二十四のゴルフ場を回ったということはそれ以上のゴルフ場が存在したことになる。そして当時の皇族、華族は英国貴族のスポーツであるゴルフを好んだ。昭和天皇は皇太子時代に訪欧旅行した頃からゴルフを覚え、吹上御苑の九ホールのコースで週二、三回プレーを楽しんでいた。かなりのゴルフ・マニアだったのである。皇室専用のゴルフ場も新宿御苑のなかに造られていた。
このようなゴルファー天国ぶりは軽井沢でも続いていた。竹田宮、北白川宮、朝香宮などの皇族と近衛文麿、細川護立などの華族が二つのゴルフ場でプレーを楽しんでいた。
このうちの近衛文麿のスイングがおもしろいので有名である。振り上げる瞬間に手と一緒に顔も右へ上がってしまう。つまり、ボールを見ないで打ってしまうのだ。
ここで問題は、グルー大使の交際範囲が上流階級に限定されていたことにある。アメリカの外交研究学者は、グルー大使の交遊関係を、宮中側近グループ、財閥のリーダーたち、海軍将官の三種に分類している。なかでも宮中側近グループが彼の情報源であった。これは、グルー自身がアメリカ東部の白人上流階級の出身というエリート意識を持っていたことによる。また、宮中側近グループは英米生活の体験を持ち、知性と品位があり、政治的には自由主義的もしくは穏健派だった。彼の日記などから交際がわかる人物は、新渡戸稲造、牧野伸顕、樺山愛輔、近衛文麿、広田弘毅、吉田茂、幣原喜重郎、重光葵……これらの人たちが、軍国主義者、右翼反動派に対抗できる勢力になるとグルー大使は希望を抱いていたのだ。
現実はグルー大使の予想以上に急激に動いた。昭和十二年七月七日、盧溝橋で日中の軍が衝突、日中戦争が始まったのである。六月四日に四十六歳の若さで首相となった近衛文麿は不拡大、現地解決の方針をとったが、八月には全面戦争へと発展した。そして、十二月には南京大虐殺を起こすことになる。
こんな時代を象徴するような一群の若者たちが昭和十三年八月二十三日、軽井沢にやって来た。ドイツのヒトラー・ユーゲントの一行三十一名である。十一年の十一月に、コミンテルンに対して相互防衛措置の協議を決定した日独防共協定が成立。その日独交流のために昭和十三年八月十七日にヒトラー・ユーゲントが来日し、東京での公式行事が終わった後、近衛文麿首相の招待で軽井沢にやって来たのである。
その模様を信濃毎日新聞は「歓迎の子供に頬《ほお》ずり、母親達をうれしがらす ヒトラー・ユーゲント愛想たっぷり」という見出しで報道している。
「軽井沢駅頭には一般内外人広場を埋めつくして日独両国旗を打ちふるって待ちあぐむ中に一行が現れるや、浅間山の爆発にも劣らぬ歓呼があがる。感激のるつぼだ。旧友を迎える懐かしさがお互いの胸を打ちふるわせるごとく……」(昭和十三年八月二十四日付)
新聞記者が興奮しているらしく、形容詞をふんだんに使って書いている。掲載されている写真を見ると、ナチス・ドイツの旗であるカギ十字旗を子どもや老人たちが振っている。町民が歓迎に動員されたのだろう。
ヒトラー・ユーゲント一行は万平ホテルに滞在し、軽井沢各地を集団で行進した。八月二十七日には近衛首相主催のガーデンパーティーに出席している。
このパーティーは加賀百万石の家柄を継いだ前田利為の別荘で行われている。この別荘は大正十五年頃に建てられた豪邸で、当時としては破格の三十五万円ほどの建築費を使ったという。また、別荘の従業員も四十名にのぼっていた。その前田家で「お姫《ひい》さま」と呼ばれた長女の酒井美意子が、その体験を書いている。
「彼らはオープンカーに分乗して華々しく乗り込んだ。濃紺のユニフォームに白いベルトをしめ小粋な帽子をかぶり長靴姿もスマートな団員達は、いずれも目もさめるように美しく、サロンに整列すると『双頭の鷲』や『ドイツは世界に冠たる国』を高らかに合唱して、日本娘を泣かんばかりに感激させた。そして彼らは婦人達を騎士のようにエスコートして庭園を散歩した。私は、ハインリッヒと名乗るミケランジェロのダビデの彫像のような青年と手をつないで白樺の林を抜け、芝生のスロープを降りて小川のほとりを歩いた」(『ある華族の昭和史』)
このとき彼女は十二歳の少女だった。見た目の美しさに感激して、その政治的意味を知らなかったのもやむをえないだろう。
五百名超すブラックリスト[#「五百名超すブラックリスト」はゴシック体]
その年三月、国家総動員法が議会を通過していた。これによって、戦争に向かって国民が一丸となって突き進むことになった。政府が命令一本で強制的に経済のあらゆる分野を統制し、言論の統制、労働争議の禁止もできる権限を掌握したのだ。
こんな時代に軽井沢の避暑外国人に対する警察の監視が続いていたと私は推測し、それを裏付ける資料を探し続けた。そして、ついに入手したのである。昭和十五年の「長野県特高警察概況書」が東大法学部図書館に保存されていた。これまで一般に知られなかった決定的な史料である。
「避暑地は年々大公使以下各国公館員の滞留するもの百十数名三十ヵ国に重《かさね》んとし、要視察、要注意外国人は五百名を下らず、これに加えて軽井沢は同時に我が知名士の踵《きびす》を接して蝟集《いしゆう》する政治、外交、経済の一時的|淵叢《えんそう》地なるをもって、国の機密の相寄るところと外諜謀略の首脳相集まるところと時と場所を同じくするをもって視察内偵の強化に至り……」
そして、昭和十四年の「普通外国人来往者国籍別人員調」がついている。これによると、米国人七百六十六名、英国人三百四十八名、カナダ人九十五名、ドイツ人六百八十六名、フランス人六十四名、イタリア人九名、そのほか(満州国を含む)千二百八十六名。
この文書と同時に、大正十五年の軽井沢避暑外国人を調べた資料も手に入って来た。これらには避暑客人数だけでなく、滞在大公使館の人名と滞在先も書かれている。また、「要視察要注意外国人」の人名もある。これがまさしく特高によるブラックリスト≠セ。
そのブラックリストで「要視察」とされているのが、ソ連のタス通信特派員セミオン・スレパック、宣教師ジャーター・バークマン、英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」社長B・W・フライシャーの三名。「要注意」とされているのがオーガスト・ライシャワー牧師、立教学院のチャールズ・S・ライフスナイダー、明治学院のオルトマンス教師、貿易商のR・M・アンドリュースなど二十八名。これらの人たちはそれ以来ずっと監視されていたことになる。
特高警察は、大正十三年に警察部のなかに特別高等警察課として設置された。
これは県知事の管轄下にありながら、実際は政府の内務省警保局保安課長の直轄で膨大な機密費を使っていた。特高課のなかに外事警察があり、避暑地軽井沢や朝鮮人関係を視察取り締まっていたのである。
この特高警察は毎年内務省に調査報告書を提出していたのだろうが、昭和二年、六年、十五年の報告しか入手できなかった。それでも、特高警察が長野県内のキリスト教会、宣教師経営の幼稚園をすべて調べており、軽井沢避暑客の要視察・要注意人物を見張っていたことを裏付ける。それにしても、大正十五年に三十一名だったブラックリストの人数は、昭和十五年には五百名を超した……逆にいえばそれを監視する特高警察が軽井沢各地でうごめいていたことになる。
そして、隣接した岩村田町役場に「岩村田防諜委員会」が設置されている。これは昭和十三年から長野県内二十四ヵ所に作られた防諜関係団体のなかで重要な拠点となっている。特高警察の報告書はそれに関してこう書いている。
「特に諜略活動の警戒に関しては、一般外国人、左翼分子、在留朝鮮人など外諜発見対象人物に対する視察取締まりを強化し、不穏策動の余地なからしむるとともに重要施設付近の警戒人物の出入りしやすき場所に対する査察を厳行し、これの発見に努めつつあり。一方、今次欧州大戦勃発以後における英独の宣伝活動についてはその影響重大なるにかんがみ、その状況視察中」
こんな具合に、特別高等警察に見張られていた側は、当然のごとく不愉快である。その証言を拾ってみる。ここでは一年中を軽井沢で過ごしていたダニエル・ノーマンの体験がよいだろう。長男のハワード・ノーマンがこう書いている。
「父《ダニエル》は視聴覚伝道については実に豊富な体験をもっていた。ポスター、スライド、映画、絵入りの解説書、雑誌などがふんだんに利用されていた。ところがおそろしくもてあました器具がひとつあった。これは父が隠退後わたしに聞かせてくれた話であるが、一時警察当局では父のフィルムのことをやかましく言うようになり、税関や郵便局でも検閲のためだという理由で検査をしだした。集会をしようとすれば、どんな小さな町村でもその都度同じことをくりかえさせられる。父はその煩雑な手続きに悩まされてとうとう映写機を売り払ってしまった。……日本はもうその頃からファッショ化していたのであった」
軽井沢で隠退生活に入る前に、すでに警察から検閲を受けていたのである。だから、日中戦争が始まってからはもっといやがらせを受けることになる。ヒトラー・ユーゲントが軽井沢に来た十三年に、ダニエル・ノーマンが関係した岩村田教会の献堂式が行われた。「キリスト教の牧師といえばスパイとみなされていた」ときに、ノーマンは献堂礼拝の説教でこう述べている。
「ここにわたくしの最終の仕事であり、最後の祈りをもって建てられた教会の献堂が行われるのであります」
布教が困難となってきた時代の切迫感がこの言葉からひしひしと感じられる。
この夏に、ノーマン一家は久し振りに軽井沢で再会した。次男のハーバートが博士論文を書く研究のために日本に一時帰国したのである。それを裏付ける写真が残っていることを覚えておきたい。
ハーバートはカナダのトロント大学ビクトリア・カレッジで学んだ後、英国のケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。このロンドン時代にラディカルな学生と交流し、反ファシズム、反戦の運動に加わっていった。そして、カナダに戻るとアイリーン・クラークと結婚。一九三六年からは米国のハーバード大学院|燕京《エンチン》研究所、続いてコロンビア大学で日本史、中国史を学び、博士論文「日本における近代国家の成立」の研究生活を送った。
彼の研究生活の時代に、日本は急速に軍国主義化し、中国侵略を開始したのである。軽井沢生まれで、長野で育ったハーバートにとって、そんな日本の政治状況は耐えられない思いだったろう。彼は太平洋を「平和の海」にしようとするIPR(太平洋問題調査会)の在ニューヨーク国際事務局の研究員としての活動もするようになる。五年前にはカナダのバンフで開かれた太平洋会議の直後に新渡戸稲造が死去した。新渡戸と同じような理想を抱いたハーバートが、アメリカ側から参加しだしたのである。
撤退する宣教師[#「撤退する宣教師」はゴシック体]
日中戦争が拡大し、泥沼化した状態のなかで、陸軍を中心にして国民の間に反英気分を高める工作が行われていた。中国が日本に屈伏しないのはその背後に英国の支援があるためだとされ、昭和十四年七月にはデモ隊が英国大使館を包囲したり、日比谷公会堂で排英国民大会が開かれたりしている。
陸軍内部に反英米感情が強く、その反対に海軍首脳部は親英米派であった。また、宮中側近グループも親英米派で、十四年八月に発足した阿部信行内閣に対して、天皇が「外交方針は英米と協調の方針を取ること」と異例の指示を自ら下している。
だが、阿部内閣が発足した二日後の九月一日、ドイツ軍がポーランドに進攻、三日には英・仏がドイツに宣戦布告した。ここに第二次世界大戦が勃発したのである。この欧州戦線に不介入・中立維持を声明した日本政府は、アメリカとの関係修復に努力する。アメリカはすでに同年七月二十六日に日米通商航海条約の廃棄を通告していた。それでも日本は日中戦争を遂行する上で、鉄鋼、石油など必需物資の多くをアメリカに依存しなければならない。グルー駐日米大使は日本にかなり好意的に動いたが、アメリカ政府の政策はついに変わらなかった。日米通商航海条約は一九四〇年一月二十六日に失効。そして、この年九月二十七日、日独伊三国軍事同盟が調印されたのである。
つまり、宮中側近派や海軍など親英米派は政治的に無力となり、枢軸外交を主張する陸軍が独走していくことになる。
ここで苦境に立ったのは、外国人宣教師であった。アメリカ政府は一九四〇年十月に、極東在住のアメリカ人に本国引き揚げを勧告したのである。英国もそれを勧告した。
この当時、日本にいた外国人宣教師、神父は総計六百十名であった。カトリック(天主公教会)が二百七名、聖公会が九十七名。プロテスタントでは、日本メソジスト教会が百二十九名、日本基督教会三十名、日本組合教会二十四名、日本バプテスト教会十四名……。これらの宣教師の家族もいる。また、大学やキリスト教系学校の教師もいる。枢軸国の宗教であるローマ・カトリックの神父を除いて、本国引き揚げか否かの難問を突きつけられたのだ。
偶然にも、彼らが楽園≠ニ考えて夏に宣教師会議を開いていた旧軽井沢の商店街で、昭和十五年四月二十二日、大火が発生した。家具店から出火し、全焼二十五棟、半焼もしくは全壊は十七棟にのぼった。この大火に対する見舞い寄付金の人名が軽井沢町報に載っている。このなかから外国人関係を拾いだすと、近江兄弟社百円、聖公会のウォーラー百円、ノーマン二十五円(翌月にさらに五十円)、マッケンジー二十五円、コールほか一同の名前で二百円。つまり、この時点では帰国を考えず、軽井沢住民のために寄付し、祈ってくれていたのである。
この頃の状況を、ダニエル・ノーマンの長男ハワードはこう書いた。
「そのころは絶えず私服警官が影のように私どもにつきまとっていて、定期的に少なくとも一ヵ月に一度は各人の家にやってきては訊問調査をするようになった。ちょっと汽車にでも乗ろうものなら、すぐにつけてきて、氏名、旅行目的、行先をただして書きとられるばかりでなく、ほかの外国人のだれかれについてまでうるさく聞きただされるのであった。日本人の牧師で頻繁に宣教師の家に出入りするものがあれば、それだけでスパイと思われて、警戒するのは警察人だけでなく、周囲の人々からも白い眼で見られていた。……このような情勢のもとでは、むしろ我々はカナダに引揚げる方が適当であるように感じてきた。我々はどこまでも恐怖心におびえて逃げだすような汚名を浴びたくなかった。そこで各個の都合で徐々に撤退することに決定した」
宣教師たちは、本国からの莫大な資金援助を受けながら布教につとめ、教会を築き、デモクラシーを教え、日本の近代化に貢献した。それがスパイとして監視され、周囲から白い眼で見られ、老いて本国へ帰る破目になったのだ。
そんな苦痛な視線だけならば彼らは一種の殉教精神で耐えただろう。問題は日本のキリスト教徒が外国人宣教師との関係を断ち切り、天皇制イデオロギーに自ら飲み込まれていったことであった。
最初に、宣教師たちが設立したキリスト教系学校をみよう。まず、文部省の圧力でキリスト教私立校にも一九三〇年代後半には「御真影」が掲げられ、その奉安殿を通るときは拝礼することが義務づけられた。さらに教育勅語の趣旨が教育理念のなかに盛り込まれた。たとえば明治学院は一九三八(昭和十三)年、「本法人の目的は教育に関する勅語の趣旨を奉戴し基督教主義の教育を施すため」とその教育方針を改訂している。東洋英和女学校はそれまでの外国人校長から昭和十三年に日本人校長とし、十五年からは毎日の礼拝の前に宮城|遥拝《ようはい》も行うことになった。
そして、昭和十五年九月六日のキリスト教主義学校の校長会議で、学校長、部科長は日本人、学校を財団法人としてその理事長が日本人、理事の過半数も日本人と決定した。同時に、財政を外国布教本部(ミッション)から独立すると定められた。
外国人教師を責任者の立場から身をひかせ、外国からの経済的支援を断ることにしたのである。これはキリスト教系学校に流れていた自由主義的な理想を放棄し、文部省通達のもとで教育勅語に沿った教育をすることを意味した。これを言い換えると、伝道の手段として創立したキリスト教学校が、天皇制の思想統制に屈して、学校の存立そのものを自己目的化してしまったのである。ここにおいて外国人宣教師は邪魔で厄介な存在でしかなくなっていた。
ダニエル・ノーマンの追悼式[#「ダニエル・ノーマンの追悼式」はゴシック体]
次にプロテスタント全体の問題をみる。
一九三九(昭和十四)年三月、宗教団体法が成立し、翌年四月より施行されることになった。これは政府が宗教団体を統制し、国策に奉仕させる形で掌握することを意図していた。これを管轄する文部省は、教団認可の基準を教会数五十以上、信徒数五千名以上と表明した。それまでプロテスタント各教派は、独自の教会を持ち、独自の神学論で信者獲得にしのぎを削っていたのだが、ここにおいて大同団結せざるをえなくなる。
主要な教派はこの宗教団体法を歓迎した。それまで外来宗教として蔑視されていたし、大衆のなかには強い反発が渦巻いていた。それが、神道、仏教とならんで初めて宗教として法的に認知され、国家の保護・助成を受けられることになったと判断したのだ。
また、合同を急ぐ理由もあった。世論が反英感情に流れていくなかで本国布教本部から資金援助を受けている教派はスパイの温床という疑惑を持たれていた。一九四〇年七月にはロンドンに本部がある救世軍の幹部が憲兵によってスパイ容疑で取り調べられた。この救世軍は文部省によって、ロンドン本部からの離脱、軍隊を模倣した呼称の廃止という行政措置を受けている。
この年八月に日本のプロテスタント諸教派の指導者は会合を重ね、ミッションとの関係を即時断つこと、全教派が合同した日本基督教団の結成を決めたのである。これに加わることをめぐって聖公会は分裂し、日本基督教団に加わらない人たちは憲兵から弾圧を受けている。そして十月十七日、青山学院で「皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会」が開かれて、「国家は体制を新たにし大東亜新秩序の建設に邁進《まいしん》しつつあり、吾等基督信徒も亦《また》之に応じ」と宣言した。
逆にいえば、昭和十五年夏の軽井沢で、そんな微妙な立場に陥った宣教師たちが最後の会議を開いたはずである。だが、それを裏付ける資料は見つからない。
軽井沢に住んでいたダニエル・ノーマン夫妻が、ついに日本を離れる決心をした記事は十五年十二月十五日の信濃毎日新聞に写真つき三段見出しで掲載されている。
「若きノルマンは来朝四十余年の布教と伝道の多難な生活ですっかり白髪の老翁となり、『日本の土となる覚悟で日本に墓石を建てた私は母国に帰るというのにまったく好まざる他国へ行くと同様な哀しい気持ちである。英国と日本がこのような悲しむべき事態にたちいたり、このために帰国せねばならぬ事が残念でならない』と涙をたたえ、さらに『私どもはキリスト(者)として平和を求めます。両国間に再び平和がめぐり来たることを信じます。帰国してからの生活は静かな生活をしたいと思います。そして神のごとき純潔な日本の人々の心を紹介し、親善のために戦うつもりです。最後に聖戦下日出ずる国日本の万歳を叫んで皆さんにお別れします』と固き握手を結んだ」
彼らは実際に軽井沢外人墓地の一画を入手してそこに埋葬されるつもりでいた。だが、その土地も無駄になった。また、彼が買った土地のうち教会用地は軽井沢メソジスト教会(現在の軽井沢教会)に寄付し、宣教師館はカナダ・メソジスト社団名義のまま残し、最後に住んでいた家の敷地は地元の人に買い取ってもらっている。
この年の夏は、ノーマン一家にとって家族が顔を合わせた最後のときとなってしまった。次男のハーバートがこの年、駐日カナダ公使館の書記官として赴任して来たのである。旧軽井沢の大火にノーマン名義の見舞金が二度にわたっているのは、二回目がハーバートの寄付金だったと推測できる。六月に日本に着いているから、すぐに両親が住んでいる軽井沢に足を運んだことだろう。そして、ここは彼の生地でもあるのだから、大火に見舞金を出したことは十分考えられる。
そして、この後、両親のダニエル、キャサリン、兄のハワード一家、姉のグレースと二人の子どもは、一九四〇年十二月三十一日、カナディアン・パシフィック社の船で横浜を出航した。この年に、ダニエルは二度にわたって脳卒中をわずらっていた。そして、カナダのトロントに着くと再び入院し、帰国半年後の六月二十日に死去してしまったのである。七十七歳だった。
このダニエルの訃報に接して、軽井沢で八月十九日、「ダニエル・ノルマン氏追悼記念会」が開かれた。戦時色の濃くなっていた時代に、外国人、日本人が一堂に会した写真が残っている。ダニエルの遺影を持ったハーバートを中心にして、タッピング夫妻、アームストロング(女性宣教師)、ボーリス、羽仁五郎、市村桂一、小坂花子、後藤良造、星野嘉助などがならんでいる。写真からこの年にはかなりの外国人宣教師が残っていたことがわかる。また、日本人男性もほとんどがスーツ姿で、まだ国民服になっていない。
この夏をハーバートは寸暇を惜しむように軽井沢で勉強に費やしていた。日本に赴任する前に、米国のハーバード大学より博士号を受けていたが、その延長上の日本史研究を続行したのである。アイリーン夫人を五月にカナダに帰国させ、友人と別荘を借りて過ごした。彼の教師になったのが羽仁五郎である。
羽仁五郎は、一九三三(昭和八)年に治安維持法違反で逮捕されたが、出獄後に『明治維新』などの名著を発表していた。その『明治維新』をハーバートのために毎日音読し、教師ひとり生徒ひとりの学究生活を送ったのだ。もっとも、羽仁五郎が特高警察の監視下にあったため、その授業は午前中のみ行われた。
ハーバートは、ハーバード大学院で都留重人と知り合っていた。また、IPR(太平洋問題調査会)国際事務局の研究員だったので来日すると日本太平洋調査会事務局にも顔を出し、そこで高木八尺、丸山真男、大窪|愿二《げんじ》などと交流を持っていく。
若くてラディカルな歴史学者、政治学者の国際交流がここで始まっていたのだ。特高警察がつねに周囲にいたにもかかわらず、少なくとも学問の自由は保てていたのである。こんななかで、ハーバート・ノーマンは「単に歴史を書くのではなく、歴史を作ることを助ける仕事をしたい」と決意していく。
こんな形で徐々に緊張が高まっていった。昭和十六年、それまで避暑客の自治組織として活動してきた軽井沢避暑団に変化が発生した。
八月二十六日に会員総会を開き、軽井沢避暑団と軽井沢集会堂が合体し、財団法人軽井沢会となることを決定したのだ。この変更理由はこうである。
「軽井沢避暑団が英米人を主とし邦人これに協力せるに対し、軽井沢集会堂は邦人を主とし欧人これに協力せる傾向なきにしも非ず、しかるに今次事変に際しすべてを一元的新体制たらしめる気運|澎湃《ほうはい》としておこり、永年夏期軽井沢に来住せし外国人も本邦も去るもの続出しすべてにわたって事態一新の気運みつるに至れり……従来の軽井沢避暑団の名称がきわめて不適当なるを痛感し、これを財団法人軽井沢会とし、もって新気運に添わんとするものなり」
文中にあるように英米人が大使館の勧告で帰国しつつあった。彼らを中心とした避暑団のままにしておくには不都合が生じていた。
そして、避暑団という名称を使わないことに決定したのは、社会的な圧力によってである。前年七月に第二次近衛文麿内閣が発足すると、強力な戦時体制を作るために十月に大政翼賛会を成立させた。政党は次々に解党、経済統制も強化された。十六年四月には生活必需物価統制令が公布され、米は大人一日分二合三勺の配給制となった。「ぜいたくは敵だ」「パーマネントはやめましょう」といったスローガンが叫ばれ、ダンスホールは禁止され、ジャズは敵性音楽のレッテルが貼られた。物資欠乏時代に突入したのだ。
そんな時代に避暑をするというのは、ぜいたくという非難を浴びかねない。そこで改称することにしたのである。
この軽井沢避暑団の最後の団長となったのは、米国人ウイリアム・ボーリスである。彼は一九二九(昭和四)年と一九四〇(昭和十五)年に団長となった。ほぼ一年ごとに団長が改選されているが、二回選ばれたのはダニエル・ノーマンとボーリスだけである。
このボーリスは、厳密にいえば牧師の資格を持っていない宣教師だった。それでも軽井沢における在日宣教師会議の議長に選ばれている。伝道に熱心だったのが認められたのだろう。
多くの宣教師が帰国するなかで、彼は日本にとどまることを選んだ。そのためにどうすればよいか……日本に帰化し、日本人になることである。ここで昭和十六年一月、ボーリスは滋賀県近江八幡の八幡神社で日本帰化の宣誓式をし、妻の姓をとって一柳米来留《ひとつやなぎめれる》と名乗った。彼の近江セールズが販売するメンソレータムは日本軍の兵士の必携品のひとつになっていた。軍需物資を生産する日本人……これで堂々と伝道できる立場となったはずであった。
英米人の別荘は没収[#「英米人の別荘は没収」はゴシック体]
軽井沢の別荘に食料保存用の氷を配達していた渡辺茂子(七十九歳)が回想する。
「別荘に英字新聞『ジャパン・アドバタイザー』を配達する仕事もしていたのですが、英米人は顔を合わせると近いうちに本国に帰ることになりましたと言ってね……みんな寂しそうでした。そうやって英米人の姿が減っていったのです」
これは一九四一(昭和十六)年夏のことだろう。
英米人には本国から帰国勧告が出されていた。日本人にしても緊張が高まっていたのだから、避暑のような優雅なことをやっていられなかったと考えやすい。だが、この年には軽井沢はまだ賑わっていたのである。この夏に二万人の避暑客で別荘やホテル、旅館は満員だったという。こんな模様を「変貌する軽井沢」という報道記事で見る。
「落葉松林の細道をステップでゆくパーマネントのお嬢さん。自転車の曲乗りに開放気分を満喫する若いマダム」といった甘い情景の描写がある後に、こう続いている。
「ここでちょっと軽井沢の山荘はどのくらいでできあがるのかを今年の統制の値段からのぞいてみると、土地坪当り最低二、三円から始まって最高価格十五円まで、家屋は坪当り百五十円というところ。仮に二十五坪の山荘を持つには三千七百五十円、これに百坪見当の地所つきになると坪十円のところで千円、まあ、ざっと五千円という算盤《そろばん》が弾きだされる。普通、都市で建築する場合と比較してもさほど高値とはいわれぬだろう。それかあらぬか建築統制範囲内の山荘が今春からすでに二百戸近く新築された」(信濃毎日新聞、十六年七月十三日付)
この時期に別荘を造り続けていたのは、堤康次郎が経営する箱根土地であった。統制令に触れない百坪単位の土地に二十五坪ほどの別荘を建てていた。
そして、この年に軽井沢滞在の外国人の国籍が代わっている。英米人に代わって、ドイツ人が中心となるのだ。このドイツ人たちは避暑のためにやって来たわけではない。米国領、英国領、オランダ領のアジア、オセアニア地区にいた枢軸国人が日本に避難し、その疎開地が軽井沢になったのである。
そして、米国は日本軍のフランス領インドシナ南部占領に抗議して、七月二十五日、米国領内の日本資産を凍結。それに対応して日本も米国資産を凍結した。
その凍結資産に軽井沢の英米人別荘も該当したのである。さらに五ヵ月後には「敵産管理法」を制定して、英米人別荘を敵国人財産とみなして没収し大蔵省管轄下に置いた。そして、それを希望者に競売に付すために東京の不動産業者を連れてきて見て回った。志賀直哉が広大なネヴィル別荘を手に入れたのはこれによってである。
英米人は帰国を考えていなかったか、すぐに戻れると予測していたのか、箪笥のなかには衣類やシーツ類をぎっしりと残し、食料保存室には数年間生活できるほどの缶詰やビン詰、ワインなどが備蓄されていた。
このときの近衛文麿首相は、ルーズベルト米国大統領にメッセージを送り、グルー駐日米国大使と会談し、日米戦争回避の努力を重ねていた。だが、陸軍は対米開戦を主張。この和戦両論のなかで、近衛はついに内閣を投げだし、一九四一(昭和十六)年十月十八日に東条英機内閣が成立した。東条は首相と陸相、内相とを兼任する。そして、開戦準備を進めながら来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐米大使に日米交渉の最後の交渉をさせていた。
こうして、十二月八日、日本軍の真珠湾奇襲によって、太平洋戦争が始まった。それまで欧州戦線を傍観していた米国はこれによって戦争に突入。日本が米英に宣戦布告したのに続いて独・伊も米国に宣戦布告。ついに史上空前の世界大戦に発展したのである。
開戦と同時に、両国の大使館、領事館の機能は停止され、大使館内やホテルに軟禁された。このなかで、彼らはクリスマスや正月を祝った。グルー大使はアメリカ大使館の敷地のなかの九ホールのゴルフ場でホール・イン・ワンを生まれて初めてやっている。
日米両国の在留外交官、民間人の交換は、かなり遅れた。米国の権益代表となったのは中立国スイスのゴルジェ公使だった。彼の奮闘によって最終的に日米の交換船は、南アフリカのロレンソマルケス港(当時はポルトガル領、現在はモザンビーク)で落ち合い、そこで双方の乗客・捕虜が乗り換えることになった。
米国からは六月十八日、スウェーデン船グリプスホルム号に約千五百名の日本人が乗り、七月二十日にロレンソマルケスに着いた。このなかには、来栖全権大使、野村大使などの外交官のほか留学生だった鶴見和子、武田清子、都留重人などがいた。
日本からは六月二十五日に浅間丸が横浜を出航。アメリカ、カナダなどの大使館員や民間人約千百名が乗っていた。この浅間丸は七月二十二日にロレンソマルケスに入港する。
この浅間丸に乗っていた民間人の多くは、最後まで伝道しようと考えていた宣教師だった。そのなかに、これまで触れてきた人物が何人もいる。軽井沢五十周年祭のとき避暑団長だったローリン・マコイ。明治時代から現在も軽井沢で避暑を続けているエロイーズ・カニングハムの母親であり、夫の死後その教派の主管者となったエミリー・カニングハム。長野県小布施に結核患者のための新生療養所を設立したジョン・G・ウォーラー。
南アフリカの港で、人々は紳士的だった。
「浅間丸の入港後、一日、町の方から船に帰って来つつあった野村大使と自分とは、ちょうど下船して町の方に向かいつつあったグルー大使と埠頭で相当な距離を隔てて行き違って、互いに帽子をとって挨拶を交わしたが、自分としては東京出発前夜の会見のことまで思い出されて、まことに感慨無量の一瞬であった」(来栖三郎『泡沫の三十五年』)
また、カナダ公使館のハーバート・ノーマン書記官と米国に留学していた都留重人もすれちがう瞬間に言葉を交わした。この二人の会話は、のちに重大な意味をおびてくる。
厳しい特高警察の目[#「厳しい特高警察の目」はゴシック体]
アメリカに帰国したグルー大使は、一九四二年八月三十日、CBSラジオを通じて全米放送を行った。
「私たちは交換船の交渉の完成を待っていたのですが、それが成功するかどうか知らず、またもし成功しなかったら再び全員が日本国内での監禁に引き戻されるのかどうかも知りませんでした。われわれのなかにはそれまでの六ヵ月を狭い、ひどく寒い独房に入れられ、衣服も食糧も不十分なばかりか、時にはこの上なく残酷で野蛮な拷問を受けた宣教師、先生、新聞特派員、実業家など、多数の米国人がいました」
ここで彼は何人かの宣教師に特高警察が加えた残虐行為を具体的に述べている。両手を背後で縛られ、両膝も縛られてロープでがんじがらめにされた老宣教師が、鼻と口に水を注がれ、意識を失うごとにバケツの水をかけられた。アメリカ人にとって宣教師が拷問にあうということは絶対に許せないことである。それを放送で語ったことはもっとも効果的な反日キャンペーンの演説となったといえる。
では、日本に残る方策を講じた米国人宣教師はどうなったのか。メンソレータムを販売し、建築設計家としても成功していたウイリアム・ボーリスの例をみる。
「日本に帰化して一柳米来留と名乗っていても、やっぱり顔つきはアメリカ人でしょ。特高警察がしょっちゅうやって来たし、家のなかのいろりにかかっている自在鉤がラジオのアンテナになっているのではないかと切られたり。メンソレータムの会社経営陣からは商売の邪魔になると追放された。そこで、十七年六月に軽井沢の別荘に引っ越したのです」
昭和七年から内弟子兼お手伝いさんとしてボーリス夫妻と同居していた浦谷たま(七十四歳)が語る。のちに結婚することになる夫の浦谷道三牧師(八十一歳)はその頃米国中部に留学中だった。二人は戦後に結婚し、ボーリスの遺志を継いで滋賀県近江八幡市で伝道の日々を送っている。
軽井沢に来ると、ボーリス夫人の一柳満喜子がそれまで幼稚園経営をしていた体験から軽井沢幼稚園、軽井沢保育園の園長を兼任した。この両施設はダニエル・ノーマンが昭和六年に設立したもので、ノーマンが帰国する際に彼女に委任したようだ。一柳米来留ことボーリスは十七年十月から、東京帝国大学の英語講師に年俸千円で任命され、週一回、東京へ通った。
「ボーリスの母もいたので、……彼女はアメリカ人なので一歩も外へ出なかったのですよ……家のなかの会話は英語。お祈りも毎日していました。教会の礼拝にも毎日曜日に行ってました。だから、いつも特高警察が見張ってましたね。
問題は食糧不足だったこと。戦争が激しくなると一軒に十人が住んだのです。満喜子夫人は華族のお姫さまだった人だから買い出しなんか行くものですか。私がすべてをしました。つらい時代でしたね」
浦谷たまはそれを昨日のように思い出す。二人が保管していたボーリスのゲスト・ブックには、富山青葉幼稚園を設立したマーガレット・アームストロング(帰化名・亜武巣)などの外国人名がこの時期に記されている。ここから何人かの英米人は軽井沢でひっそりと暮らしていたことが判明した。
戦時中の混合ダブルス[#「戦時中の混合ダブルス」はゴシック体]
太平洋戦争が始まって半年。その初期には破竹の勢いで勝利を収めていた日本軍は、一九四二(昭和十七)年六月五日のミッドウェー海戦で四隻の空母を失う惨敗を喫し、これが戦局の転機となっていった。だが、これらは大本営発表の「赫々《かくかく》たる大戦果」という言葉で国民をだまし続けることになる。
こんな戦時中の軽井沢の状況を知ろうとするとき、私はいくつかの難問にぶつかった。ひとつは、軽井沢住民のうち男性のほとんどが兵士として召集されるか、軍事関連産業に徴用されて地元にいなかったことである。次に、町役場などの公用文書は終戦と同時に長野県の命令で焼却してしまったのだ。この文書を燃やすのに三日かかったという。いろいろなことが軽井沢であったはずなのに、ここに歴史の空白部分が生じてしまう。
避暑地として存続しえたのか。それとも食糧難、物資欠乏の困窮生活をしたほかの農村と同じ状態に陥ったのか。
避暑客として赤ん坊のときから来ていた朝吹登水子(仏文学者)に訊ねる。彼女は昭和十一年から十四年にフランスに留学したのち、夏の軽井沢に帰って来た。
「戦争が始まるまでは、外交官と日本人が一緒にテニスを楽しんでましたね。太平洋戦争に入ると、テニスだけがいやな時代を忘れさせてくれるということで私たちは熱中しました。私はその頃、男物の長袖シャツを腕まくりしてフラノのショートパンツでプレーをしたものです」
彼女は十七年夏の軽井沢トーナメントに強い思い出を持っている。女子シングルスでは、セミ・ファイナルでランキング上位の宮城明子と対戦し、互いに一セットずつとって三セット目の五対五のときに身体が動かなくなって棄権した。女子ダブルスでは母の朝吹磯子と組んで、ファイナルで宮城明子・近藤たま子と対戦して大接戦の末負けてしまった。これに勝っていれば、母娘組が女子ダブルスで優勝するという珍しい記録となったのだ。
「午前中はパブリック・コートで練習し、午後は別荘の庭にあるコートでテニスをしたものです。特にわが家のコートは全日本の一流プレーヤーが集まって、ひとつの社交場になったのです。東京では混合ダブルスは非愛国的、非道徳的といわれて中止になっていましたが、軽井沢ではそれは許されていました」
彼女の父である朝吹常吉は、太平洋戦争開始直後に帝国生命社長を自ら辞任し、引退生活に入っていた。親英米派の彼にとって、英米との戦争は不本意であり、軍人の機嫌をとりながら会社役員を続けるのがいやだったのだろう。
パブリック・コート(現在の軽井沢会コート)は戦争中に閉鎖されたのだろうか。
「いいえ」と朝吹登水子はきっぱり否定した。
「一度も閉鎖されなかったのです。終戦の年まで開いていましたし、テニスをする人も後を絶ちませんでした。東条英機や軍部に反発する人が多かったのです」
彼女は太平洋戦争の初期に軽井沢の朝吹家コートでテニスをしていた友人達を、『私の軽井沢物語』のなかに書いている。テニスのプロ選手を別にしてその名前を列挙してみる。
大倉百代、坂本寿美、中上川健一郎、西園寺公一、近衛通隆、細川護貞、原田敬策、松村敬一、朝長慶子、有島兄弟、鍵富兄弟、御木本真珠の孫の西川夫妻……。
また、同じ本に書かれている軽井沢のゴルフ仲間は、三井|栄子《さきこ》(弁蔵夫人)、鍋島直泰、近衛文隆、細川護貞……。
この人名だけでも、華族、ブルジョアたちは戦争に関係なく、避暑をし、テニスやゴルフを楽しんでいたことがわかる。若い男性は召集されて徐々に姿を消していったが、政治状況を超越した特権階級が相変わらず何人ものお手伝いさんを従えて避暑を楽しんでいたのだ。
これに、台湾総督、東京市長、貴族院議員などを歴任した政治家伊沢多喜男の伝記(昭和二十六年刊)に書かれている昭和十七年夏の別荘招待客を重ねてみる。
近衛文麿、原嘉道、安倍能成、岩波茂雄、宇垣一成、石井菊次郎、福井菊三郎、青木一男、石渡荘太郎、細川護立、原田熊雄……。このほか名前は書いてないが約六十名の避暑客を招待し、「痛飲して、大いに時局を論じた」という。鳩山一郎が戦時中を軽井沢にこもって過ごしたことは有名だから、彼も伊沢多喜男の客になったことだろう。
さらにゴルフ場を調べてみる。旧ゴルフ(現在の旧軽井沢ゴルフクラブ)は記録が残っていない。新ゴルフ(現在の軽井沢ゴルフ倶楽部)は、十六年に三百二十二名の会員がいたのだがこの年に二十三名を除名している。除名されたのは英米人会員だったろう。翌年には会員二百九十七名で、入場者数三千三百六十人。つまり、十七年の時点ではかなりの人がゴルフをしていたのだ。そして、十八年には英米語禁止の命令に対応して、「軽井沢ゴルフ倶楽部」を「軽井沢打球会」、ゴルフ場を「打球場」と改めた。また、ゴルフコースを閉鎖するかどうかを検討する特別委員会も十九年に作った。この委員には鹿島精一、小寺酉二、渡辺一雄、嶋中雄作、鶴見祐輔、三井高維、蝋山政道、芳沢謙吉、川口松太郎などが選ばれている。この年の役員は会長が近衛文麿、副会長が細川護立、前田利為、名誉書記は鶴見祐輔、名誉会計は古沢丈作。
そして、この新ゴルフの記録によって、私は瞠目に値する事実を知った。食糧難によって各地のゴルフ場は閉鎖されて畑と化したのに、新ゴルフはインの九ホールでプレーを続けていたのだ。アウトの九ホールは陸軍の飛行学校と食糧増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸していた。
残っていたイン九ホールを閉鎖したのは、終戦半月前の二十年八月一日であった。これは敗戦が決定的であり、国民すべてが極限状況にいたにもかかわらず、ゴルフを楽しんでいる優雅な人たちがいたことを裏付ける。
このように特権階級が軽井沢でぬくぬくと暮らしているのをもっとも不快に思ったのは、憲兵隊であった。憲兵制度は本来、陸軍のなかにあった軍人の規律を保つために明治十四年に創設されたものであった。だから、陸軍大臣の管轄下にあり、軍事警察に専念しているべき性格のものといえた。だが、治安維持法制定以来、思想犯取り締まり、防諜活動にも手を広げている。そして、東条英機が首相兼陸相になると、東条独裁政治に奉仕する私兵的役割を果たすことになったのだ。
戦時中、軽井沢にはその憲兵と特高警察の両者が、反東条の動きをしそうな政治家や財閥の経営陣を監視し続けていた。
その治安機関がさらに神経をとがらす事態を迎えた。同盟国、中立国の大公使館が一九四三(昭和十八)年から、軽井沢に疎開しだしたのである。
万平ホテルにソ連大使館、フィリピン大使館、トルコ大使館、スペイン公使館、ポルトガル公使館などが置かれた(宿帳による)。万平ホテルの近くにドイツ大使館、アフガニスタン大使館。旧道通りにチェコスロバキア大使館、フランス大使館、中華民国大使館。前田郷の深山《みやま》荘にスイス公使館。尾崎行雄別荘の莫哀山荘にイタリア大使館が入った。このほかにアルゼンチン、ルーマニア、デンマーク、スウェーデン、国際赤十字代表部の公館が置かれ、最終的に約三百名の外交官が滞在している(外交史料館所蔵「軽井沢在住外交官員現在数」による)。
軽井沢が一挙に外交の中心となったのである。このため、外務省は軽井沢出張事務所を設けて、ハンガリー駐在大使だった大久保利隆を所長兼公使として派遣した。
「(二十年)四月中旬、軽井沢に着任した。事務所は三笠ホテルで、スタッフは工藤参事官以下四、五名であった。先に次官会議で沢田次官から大久保を出張事務所長として軽井沢に派遣する旨披露された結果かどうかわからないが、軽井沢駅前の油屋旅館は憲兵隊の宿舎となって憲兵二、三十名が私の赴任を待っていたかのようだった。表面上の理由は軽井沢の外人の活動を取り締まるというのであるが、その後の彼らの行動から私らの行動を監視するためであったのは明らかであった」(大久保利隆『回想・欧州の一角より見た第二次世界大戦と日本の外交』)
この大久保は軽井沢に来るとすぐに来栖三郎に会いに行く。そして、その足で近衛文麿を訪問する。
これは大久保が自分で書いているように、憲兵、特高警察がもっともマークしていた人脈である。宮中側近の近衛文麿を中心に、親英米派の政治家、ブルジョアが軽井沢で接触を保っている。彼らは重臣会議によって東条内閣を昭和十九年七月十七日に倒した後、中立国を使って和平交渉に乗りだそうとひそかに動き回っていた。本土決戦を叫ぶ軍部は憲兵を使ってその動きを阻止しようと懸命になっていたのだ。
皇太后の疎開[#「皇太后の疎開」はゴシック体]
外国大公使館だけではない。枢軸国と中立国の在留外国人もこの時期に軽井沢に疎開して来ている。それに関しては大久保利隆公使から外務省にあてた公文書「外国人疎開問題に関する件」(昭和二十年六月二十日)が外交史料館に保存されていた。
「本件に関しては御訓令に従い、中立国公使に自国人ならびに利益代表国人の疎開方を依頼し、さらに本二十日、工藤参事官よりスペイン参事官、フランス大使館にも政府の意向を伝えたり。西・仏両参事官は保護の趣旨を多とし、直ちに居留民に電報を発し、疎開を勧奨すべきも、宿舎および食糧、燃料につき危惧の念を抱きおりたるにつき、右に関しては政府において慎重研究対策を練りつつあるにつき安心ありたしむね説明しおきたり」
この時代は再び軽井沢に外国人が激増している。六月六日付の大久保公使から東郷茂徳外相あての文書で、二千数百人の外国人が滞在していたことがわかる。そして、その人たち向けの食糧の配給が不足したり、遅延したりすることが大久保公使を悩ませていたのだ。
こんな疎開者のなかには、フランス人新聞記者ロベール・ギラン、プロ野球のスタルヒン投手などもまじっている。
三国同盟のうち、イタリアは十八年九月八日に無条件降伏、二十年五月七日にドイツも無条件降伏していた。日本軍は沖縄に上陸した米軍に対して戦艦「大和」を中心にして戦ったが四月七日に米軍機三百機の集中攻撃を受けて主力を失い、六月二十三日には沖縄守備隊が全滅した。
米軍の爆撃機による本土空襲は、マリアナ基地ができた十九年秋から本格化した。最初は軍事施設を集中爆撃していたが、次には一般大衆の戦意喪失を狙った都市攻撃に変わった。二十年三月九日の東京大空襲で、東京の四割は一夜にして焼失。さらに四月十三日、五月二十五日と大空襲が続いた。
日本軍は孤立し、国民は悲惨な生活に追いやられていた。
このため、別荘を持っていた人やその縁故者たちは急いで軽井沢に疎開することになった。家を買う資金のある人は競って購入した。江戸英雄は『軽井沢回顧』にこう書いている。
「昭和十九年末、私は星野温泉の奥、春日とよさんのお隣に土地と建物を買い受け、女房子どもを疎開させました。私は日本の敗戦必至という悲壮な考えから、家の周辺二千平方メートルにおよぶから松を全部切り倒し、開墾、鶏、山羊、蜜蜂を飼い、敵の東京占領に備え、家族の生き延びる態勢を整えたのでした」
また、政府の指導で集団疎開も始まった。南軽井沢にあった大観楼と前面馬蹄型のアパートは八丈島島民約千八百人を収容し、箱根土地が造った国策会社の食糧増産(株)によって北海道式農業を行った。学童疎開も始まり、日本女子大付属校、暁星初等学校、啓明学園などがやって来た。戦前の真夏人口よりもさらに膨張し、寒く、空腹の冬を過ごしていたのである。
疎開は外国人や民間人だけでなかった。二十年五月二十五日の大空襲によって宮城に大量の焼夷弾が投下され、天皇がつねに住んでいる奥宮殿、皇太后の大宮御所などを焼失した。それまでに皇太子、義宮は日光に、皇女たちは伊香保と塩原に疎開した。本土決戦の際に天皇が松代大本営に移る準備は急ピッチで進んでいる。
疎開を嫌っていた皇太后(大正天皇の貞明皇后)を説得しつつ、その疎開先として軽井沢の近藤友右衛門別荘(かつての末松謙澄の泉源亭)が選ばれ、御所にふさわしいように改修工事をすることになった。
その改修工事を命じられたのは軽井沢で工務店をしていた山浦春太(九十一歳)だった。彼はその秘史を初めて公表してくれた。
「最初は長野県からの依頼でした。近く当地に高貴なお方がお見えになるのでその御泊所の改築を請け負ってくれませんか、と。言われたのが七月五日。しかも一ヵ月で完成してくれという。当時は軽井沢に働ける建築業者がいませんでしたから、長野県全域から六十人ほどを徴用して集めたのです。木曽地方の人が多かったですね」
建築資材は宮内省の仕事なので最優先で送られて来た。工事期間が一ヵ月と短いため、大規模な改築はせず、一部改修や車庫新設などにとどまっている。山浦春太が所有している見積書によれば「御湯殿その他」二千四百三十五円、「御薬室その他」四千三百八円などで合計二万五百四十二円。この建築中に、彼らが手がけている工事が、皇太后の大宮御所であることを知った。七月十三日に工事を開始し、八月十日に完成している。
この大宮御所の存在は軽井沢住民のなかにもいくぶん知られていた。だが、極秘に進行した事柄もあった。この大宮御所の地下に「御座所」が造られていたのである。地下防空壕の大きな居室である。
「地下御座所は私どもに関係なく造られたのです。近衛師団工兵隊が約三百人やって来て、夜も交代で地下壕を掘り続けた。入り口は幅三メートル、高さ二メートル、二ヵ所に入り口がありましたね。私たちがそれに近づくと近衛兵に阻止されましたよ」
この大宮御所疎開は、皇族と軍部の間にあつれきを生んでいる。八月一日の細川護貞の日記には高松宮の言葉としてこう書いている。
「軽井沢に大宮様が御出遊ばすについても、スイスの公使が米国に軽井沢を爆撃しないようにたのんだということがわかったので、陸軍のものが三笠宮のところへ押しかけて、大宮様が爆撃をお逃げになるようではおもしろくないといってきた由だ。実につまらぬことに気が回るものだが注意すべきことではある」
実際に皇太后が軽井沢に疎開して来たのは終戦五日後の八月二十日。そして十二月五日まで滞在した。山浦春太が続ける。
「だから、最初は大宮御所の警備詰所に近衛兵が立っていたのに、途中から連合軍のMPなどに代わった。地下壕は終戦と同時にこわされましたよ」
自殺直前に来た近衛文麿[#「自殺直前に来た近衛文麿」はゴシック体]
細川護貞は、細川護立の長男であり、近衛文麿の二女|温子《よしこ》と結婚した。ここから近衛の秘書となり、日本軍の敗北の色が濃くなりだした昭和十八年十月三十日より高松宮に報告するための日記を書きだした。これが「細川日記」と呼ばれる第一級史料で、昭和二十八年になって『情報天皇に達せず』という題名で出版された。
この細川日記を読んでいくと、終戦に至るまでの政界の動き、皇室の動きが手にとるようによくわかる。そして、戦時中に一般市民は汽車の切符が入手できずに困っていたのに、近衛文麿は四季を通して軽井沢に往復していたことも浮かび上がってくる。
近衛文麿は二十年七月二十四日に、軽井沢の内田信也別荘で、来栖三郎、鳩山一郎などと夕食をともにしている。これは講和の仲介をソ連にしてもらうために天皇の親書を持って近衛が特使として訪ソをすることが決定し、その情勢分析をするためであった。だが、近衛訪ソの意向を打電してもソ連から回答はなかった。この時期に、スターリンは英米の首脳と会談するためにポツダムに向かっていたのだ。
そして、七月二十六日、日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言が発表された。
近衛文麿は八月四日まで軽井沢に滞在したのち、小田原に帰り、ソ連の回答をひたすら待っていた。そして、八月六日に広島に原子爆弾が投下された。八日にソ連から初めて日本に向かって声明が発せられたが、それは和平仲介ではなく、日本に対する宣戦布告であった。九日未明からソ連軍は満州に進入。また同じ日、長崎に原爆が投下された。
ソ連の仲介による和平の希望は消滅した。九日午前十一時より、最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言受諾かいなかの論争は結論が出ないまま夜の御前会議にもつれ込んだ。
これを「細川日記」はこう書いている。
「八月十日
前夜首相は閣議の意見対立のまま、午前一時最高六人会議を御前に開催、論議は再び条件を附加するや否やを廻《めぐ》って展開され、条件を附することには陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部長等賛し、無条件には首相、東郷外相、海相が賛した。ここに御聖断を仰ぎ、左の了解事項を附してポツダム宣言を受諾することに決定した。
ポツダム宣言の条項はこれを受諾するも右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることと了解す。右了解にして誤り無きや否や明確なる返答を望む」
このポツダム宣言受諾の電報は、米国、中国に対してはスイス公使館を通して、英国、ソ連に対してはスウェーデン公使館を通して八月十日午前二時半に打電した。この両国の公使館は軽井沢にあった。この日の朝には早くも、終戦の情報が軽井沢在住の外国人と一部の日本人に知られていったのである。
「一九四五年八月十五日、正午。ラジオで天皇の声を聴く……この放送は戦争の終わりを告げるものだ。私たちは天皇の言葉とその精神をおしいただき、無言のまま、身じろぎもせず、涙のあふれるのを抑えることができなかった」
踊るような字で、ウイリアム・ボーリスは彼の日記にこう書いた。戦時中を軽井沢で過ごしたこのアメリカ人宣教師は「天皇陛下万歳」とまで書いている。これは終戦の聖断に感激したとも、日本をキリスト教化するチャンスが到来したと喜んだせいともいわれている。
このボーリスは、九月六日に、近衛文麿の側近だった井川忠雄(共栄火災海上保険社長)の来訪を受け、近衛とマッカーサー会談実現のために奔走する。もっとも、近衛は前年十月にボーリスと軽井沢で会っているし、終戦直後の九月九日には軽井沢でフランス人記者の会見に応じているから、直接二人が話し合った可能性もある。近衛がボーリスに依頼したのは、天皇制の存続であり、そのために天皇がなんらかの宣言または詔勅を世界に示すための方策を講じることであった。こうして、九月十三日に第一回の近衛・マッカーサー会談が行われた。
近衛文麿は自分の立場を楽観視していた。終戦直後の東久邇宮内閣に副首相格で入閣し、二回目のマッカーサー会談で憲法改正の意向を示唆されるとそれを自らに下された命令と受けとって憲法調査に取り組んでいた。彼にすれば、天皇の藩屏《はんぺい》たる華族のトップに位置するのだから天皇の地位を守ることを自分の任務と考えてそのために戦前からつとめ、また日米開戦を避ける努力を最後まで行い、軍部に対抗してきたという自負があったのだろう。
だが、マスコミの論調は逆転した。三国同盟を結んだ首相が、敗戦後も副首相格で活動しているのはおかしい。かつての関白政治と同じつもりではないか……。マッカーサーは近衛個人に憲法改正を指示したのではないと否定し、政府がすべきことと命令し直した。
十一月二十七日、近衛文麿は軽井沢に向かった。この季節、軽井沢はすでに冬である。彼は覚悟を決めていたようだ。「自分の政治的遺書」として、それまで書きとめていたメモをもとにして口述筆記させた「近衛公手記」をまとめている。この間の十二月六日に、近衛文麿、木戸幸一など九名に逮捕令が出た。彼は十二月十一日に軽井沢を下りて東京に戻り、巣鴨刑務所に出頭すべき十六日未明、青酸カリを飲んで自殺。
細川護貞の「細川日記」は、この年の十二月三十一日、こんな文章で終わっている。
「顧みれば、今年は悲劇の年なりき。八月十五日、我国の敗戦確定せるは、最大の悲劇なり。近衛公の自殺は、余にとりて大なる悲劇なり。嗚呼。
凶年よ早く去れ、而して新年こそ、我国にとりても、我々にとりても、洋々たる希望の年たれ」
近衛文麿の死は、また、特権階級のリゾート軽井沢の終焉を告げるものでもあった。
[#改ページ]
[#小見出し] 第五章 リゾートへの道
戻って来たアメリカ兵[#「戻って来たアメリカ兵」はゴシック体]
軽井沢を文学者の多くの人が好んだ。戦前から何人も軽井沢に住み、戦時中に軽井沢に疎開する作家が激増した。その人たちが書いた、焼け跡から再生した日本の洞察も多い。
だが、あえて私は精神医学者の日記をここに引用する。神谷美恵子が一九四六(昭和二十一)年五月三十日にこう書いている。
「新緑輝くばかりの野と林の中を今日は大分さまよい歩いた。まだ山桜が満開である。柔かい、赤味をおびた芽、芽、芽。土からのびあがったばかりの丸まった葉。白すみれ、うすいろすみれ、濃紫すみれ。この中に身をよこたえれば自分もまたこの自然の一部であること、この大地と呼吸を共にして地上のあらゆる生物と同じ生命を共有しその生命の法則にしたがって今結婚せんとしていることが感じられる。『自然に従うことはよいことですよ』というNの声がきこえるようだ。そう、神と人の許しのもとに自然に従うことは最善のことであり恩恵なのだろう。素直になれ、素直になれ、そう野花もささやいているようだった。ああ神様、素直にして下さい。Nさんよろしくお願いします、とそう私は他力本願な返事をした」(『日記・書簡集』)
短い文のなかに、軽井沢が持つ魅力をこれほど見事に描いたものはない。息のつまるような新緑の美しさ、それが放つ生命力、そして自分のなかにその感動を取り入れ、神の恩恵と感じること。
神谷美恵子は、このとき結婚直前であった。また、文部大臣嘱託を辞任したばかりである。この文部大臣嘱託の肩書は、終戦直後の東久邇宮内閣に彼女の父である前田多門が文相として入閣したため、文部省とGHQ(連合国軍総司令部)との間で通訳をつとめていたことによる。前田多門は、国際連盟の外郭団体である国際労働機関《ILO》理事会の日本代表として一九二三年から三年余赴任、ジュネーブで新渡戸稲造と一緒に活躍した。そして太平洋戦争開始まではニューヨークにある日本文化会館に勤め、開戦になってから第一次交換船で帰国した。東久邇宮内閣の文相に任じられると、自由主義、民主主義教育のために田中耕太郎、山崎匡輔、関口泰など強力な人材を文部省に揃えた。彼は次の幣原喜重郎内閣でも文相留任。公職追放令によって辞職すると後任として安倍能成を文相に推した。
この前田多門文相、安倍能成文相の二代にわたって、神谷は通訳をつとめたのだ。彼女は幼児のときに両親と一緒にスイスに渡り、帰国したのち津田英学塾を卒業し、次には渡米してコロンビア大学で医学を学び、終戦時には東京帝大医学部の医局員であった。
前田多門は昭和初めに軽井沢に別荘を建て、終戦直前にはそこに疎開していた。その別荘でハネムーンを過ごす準備のために来たときの文章が「新緑輝くばかりの……」となったのだ。これを言い換える。神谷の日記文には避暑地軽井沢に明治時代から流れていた精神性があり、それが戦後民主主義教育のバックボーンになったのである。
昭和二十年八月三十日、連合国最高司令官兼アメリカ太平洋陸軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、バターン号で厚木に到着した。そして、九月二日、東京湾のアメリカ戦艦ミズーリ号艦上で、マッカーサーをはじめ交戦国九ヵ国の代表と、日本政府・日本軍との間で降伏文書の調印がされた。このとき、マッカーサーは次のような声明を発表した。
「われわれは相互不信や悪意あるいは憎悪の精神をもってここに集まったのではない。むしろ戦勝国も敗戦国も共にわれわれが果たさんとしている神聖なる目的にそい得る、唯一の崇高な理念に向かって立ち上がるために集まったのである……この厳粛な決意により、過去の流血や蛮行に終止符を打ち、人間の尊厳に献身し、自由、寛容、正義という人類多数の願望を達成するようなよりよい世界が出現することは、私の希望であり、また全人類の希望である」
人間の尊厳を高らかに謳い上げている。これが連合国軍の占領政策の根本理念となるのだ。
マッカーサーは九月十七日に、東京・日比谷の第一生命ビルに入り、そこを総司令部《GHQ》とした。厳密にいうと、マッカーサーは連合国軍のひとつであるアメリカの太平洋陸軍司令官であった。占領政策全体は米・英・ソなど十一ヵ国(のちに十三ヵ国)からなる極東委員会が占領政策を決定し、それを受けたアメリカ政府がマッカーサーに命令を出す形となっている。だが、日本に進駐した戦勝国軍は約三万九千人のイギリス連邦軍(オーストラリアのノースコット中将を司令官としたイギリス、インド、オーストラリア、ニュージーランド軍)と約四十万人のアメリカ軍であった。つまり日本の占領行政をアメリカ軍が独占し、実質上それをマッカーサーが支配したのだ。そのアメリカ軍は陸軍の第八軍、第五空軍、在日海軍部隊で、当初は太平洋陸軍司令官だったマッカーサー元帥が一九四七年一月から極東軍最高司令官となり、陸・海・空軍も統轄した。また、進駐当初に短期間第六軍も日本にいたが、このうち第一騎兵師団は第八軍に編入されて日本に残り、主力は朝鮮半島に移動している。
この占領軍は九月から十月にかけて、日本全土に展開した。各都道府県に軍政部を設置し、占領行政を監視したのである。
軽井沢には九月十五日すぎにアメリカ軍が入って来た。軽井沢に疎開していた朝吹登水子がその頃のことを思い出す。
「テニスコートの見物席に、二、三人のアメリカ兵がいたのです。カーキ色の軍服を着ていましたが、ピストルはつけていなかったですね。そのうちのひとりと視線が合うと、にこっと笑って……。平和が戻ったんだわと目頭がじーんと熱くなりました。
なかに日本語ができるアメリカ兵がいましてね、その人は軽井沢に子どものときから来ていたヒギンズという青年でした。夏の軽井沢で少年時代を過ごしたアメリカ兵たちが、上陸すると一目散に思い出の地にやって来たのです」
ナチ残党を急襲逮捕[#「ナチ残党を急襲逮捕」はゴシック体]
最初に軽井沢入りしたアメリカ軍は、昭和二十年九月十五日、ベンデゾム中佐ほか十六名の将兵で、五台のジープで到着。その日はつるや旅館に泊まった。これは長野県、新潟県などの状況を把握するだけの先遣隊であった。
その後、熊谷に本部を置いた第九十七師団司令部の管轄下に置かれ、長野県には千三十人の連合国軍兵士が進駐した。
この年に軽井沢町の人口は大きく膨れ上がっていた。八丈島の人たちが南軽井沢に集団疎開していたし、焼け野原となった東京からの疎開者は別荘に泊まれるだけぎっしり入っていた。別荘やホテルにはまだ在日大公使館が残っていたし、東京の本社が焼かれた企業も町の各地に会社を移して営業を続けていた。そこに復員軍人や海外引き揚げ者も相次いだ。町役場が掌握していた住民だけでも一万五千余人。昭和十五年の一・七倍となっている。
進駐した連合国軍が最初に接収したのは、旧日本軍の軍事施設であった。地元でも極秘にされていたが、十九年末から海軍技術研究所が四百余名で地対空ミサイルに似た「奮竜」の開発を千ケ滝地区と浅間山麓で行っていたのである。この地が国有林と千ケ滝一帯のため、営林署と国土計画興業(昭和十九年、箱根土地が改称)が協力をしていた。この工場となっていた千ケ滝音楽堂と海軍宿舎になっていたグリーンホテルが接収されたのだ。
この時点でほかのホテルなども接収されたのか。朝吹登水子が証言する。
「いいえ、ほかのホテルが接収されたのはその翌年だと思います。二十年にはまだ自由営業をしていたはずですよ。アメリカ兵は何人かずつバラバラに来ていましたからね」
この証言を裏付ける新聞記事が、泉喜太郎編『町誌軽井沢』(昭和二十八年刊)に収録されている。掲載された新聞は極東米軍の「スターズ・アンド・ストライプス」である。
「最近軽井沢でナチの再建をはかるドイツ人三十一名が米軍の手につかまり、四日発表された。在日ドイツ人の一部がナチ組織を残そうとしているのを探りあてた米軍の第六地区防諜班はじっくり一味の陰謀を叩きつぶす計画をたて、各班は防諜班の係員と第九十七師団の歩兵からなる検索隊をつくった。
そしてある土曜日の夜、防諜班の将校五名はひそかに軽井沢の万平ホテルに潜入、翌朝早く他の検索隊員と一緒になり、打ち合わせをしたうえ、暁の攻撃に移った。検索隊はドイツ人間の連絡を絶ち、いずれもナチ党員だったドイツ人三十一名を逮捕拘禁した。また、一味が組織の費用として使用するつもりだった百万円の現金も手に入れることができた」
残念ながらこの掲載日がわからない。それでも、万平ホテルに米軍兵士以外が泊まれたのは二十一年四月までだから、それ以前のこととわかる。米軍の防諜機関は、旧日本軍、ナチ党員などの動向を正確につかんでいたのだ。
連合国軍はどうやって正確な情報を入手したのか……ここに日本で育ち、占領軍兵士として帰ってきた人たちの活躍があった。
なかでも、ダニエル・ノーマンの次男であるハーバート・ノーマンの存在が大きい。彼は一九四五年九月に、カナダ外務省からGHQに出向を命じられ、対敵調査情報局(「防諜局」とも訳すCIS)の調査分析課長となった。文官もこのときは軍人扱いされたので、約三十人の部下を持つ陸軍少佐待遇だった。
ハーバート・ノーマンのGHQ勤務はその年十二月までの四ヵ月間だったが、重要な任務を二件こなしている。
ひとつは、政治犯の釈放であった。彼は対敵調査情報局長であるソープ准将の命令で、東京・府中刑務所に収容されていた志賀義雄、徳田球一の共産党幹部などを訪ねて釈放した。そして、一緒に刑務所を訪れたJ・K・エマソン(アメリカ国務省派遣のGHQ政治顧問)と、志賀義雄、徳田球一に対して釈放数日後に事情聴取を行い、報告書をソープ准将に提出する。政治犯がなぜ逮捕され、長期間拘留されていたかを知ることは、戦時中の思想弾圧や軍部、特高警察の情報を得ることであり、戦後指導者層の発掘にもつながるのだ。
ノーマンのもうひとつの任務は、政治家の戦争責任の追及であった。彼が近衛文麿、木戸幸一、伊沢多喜男について書いた覚書が保存されている。この三人とも軽井沢に関係が深いだけに、軽井沢生まれのノーマンがその戦争責任を論じたのは偶然とは思えない。
このうち、近衛文麿に関する覚書は十一月五日に、来日中のジョージ・アチソンGHQ政治顧問に提出された。このなかで、ノーマンはこう書いている。
「近衛の公職記録を見れば、戦争犯罪人にあたるという強い印象を述べることができる。しかし、それ以上に、かれが公務にでしゃばり、よく仕込まれた政治専門家の一団を使って策略をめぐらし、もっと権力を得ようとたくらみ、中枢の要職に入り込み、総司令官に対し自分が現状勢において不可欠の人間であるようにほのめかすことで、逃げ道を求めようとしているのは我慢がならない。
ひとつたしかなのは、かれが何らか重要な地位を占めることを許されるかぎり、潜在的に可能な自由主義的、民主主義的運動を阻止し挫折させてしまうことである。かれが憲法起草委員会を支配するかぎり、民主的な憲法を作成しようとするまじめな試みをすべて愚弄することになるであろう。かれが手を触れるものはみな形骸と化す」
これは終戦直後に近衛文麿がマッカーサーから憲法改正を任されたと思い込んだ後に出された報告である。すでに日本のマスコミも近衛批判をしていたが、これによって、マッカーサーは近衛に依頼したのではないと声明、十二月六日に逮捕状を出したのである。木戸幸一に関しても「将来はいかなる公職をも占めないよう禁止」、伊沢多喜男に対しては内務官僚を支配している黒幕政治家と断じている。
占領政策を立案したBIJ[#「占領政策を立案したBIJ」はゴシック体]
実際には米軍による日本占領政策は、終戦になるかなり以前に準備されていた。ミッドウェー海戦でアメリカが勝利した一九四二年からその準備は始められ、国務省内に東アジア研究班ができている。それと別に陸軍、海軍も占領政策の検討に入ると同時に、その要員訓練を行っていた。
敵国を占領するためには、その国を知っている人材が不可欠である。ここで、日本生まれの人々(BIJ)が脚光を浴びてくる。
ハーバート・ノーマンは、カナダ代表として民間団体のIPR(太平洋問題調査会)の第八回国際会議(一九四二年十二月)、第九回国際会議(一九四五年一月)に出席している。この第九回の統一テーマは「太平洋における安全保障」であり、テーマ別の第一円卓会議は「日本の将来」であった。米・英・カナダなど十二ヵ国から約百六十名が参加したが、そのうち四割近くを外務官僚と軍人が占めていた。そして、このIPRの会員が、占領政策の立案、実行の責任者に活用されていく。
宣教師という聖職にある人も例外ではなかった。ハーバートの兄であるハワード・ノーマンは、開戦時頃に日系カナダ人の信者が多かったバンクーバーのセントジョージ合同教会の牧師をつとめていたが、一九四三年からカナダ陸軍の日本語学校教師に任命された。
ハーバード大学で日本語を教えていたエドウィン・ライシャワーは、もっと転々と要職についていく。まず、一九四一年にアメリカ国務省の極東課に勤務。翌年夏には陸軍語学校で日本軍の暗号を解読する方法を教え、次いで陸軍参謀部の情報部(G2)に勤めた。このときに少佐(のちに中佐)として軍服を着ている。
このG2に勤務した女性エロイーズ・カニングハムはいまも軽井沢で夏を過ごしているのだが、彼女はその別荘で証言した。
「私たちの仕事は極秘の部署で、首都ワシントンにあってスペシャル・ブランチと呼ばれていました。日本軍が発している暗号電報を傍受して、それを解読し、重要なものを選んで大統領や軍首脳部に報告するのです。ここにライシャワーやリチャード・マキノンや私といった日本で育った人たちが抜擢されたのね。一九四四年一月にニューギニアで日本軍の暗号簿を入手したのでそれ以降、暗号の解読は簡単になったのです。
日本に早く平和が来るように祈って、私はG2で働いていました。でも、米国が広島に原爆を投下したことにショックを受け、私はきっぱりと辞任しました」
ライシャワーは戦後、再び国務省に入り、日本占領政策を監督する極東委員会の会議を開くための進行役となる。そして、彼がこなした重要な事項は、天皇制の問題であった。ポツダム宣言が発せられたときには、開戦前の駐日米国大使グルーなどの努力で天皇制廃止かどうかあいまいな形で残された。戦後に米・英・豪などで天皇を戦争犯罪人として裁けという世論が盛り上がっていた。これに対して、ライシャワーは象徴天皇としての存続を一九四五年十二月十八日に立案して提出、それがアメリカの政策として決定し、のちに極東委員会で採択されたのである。
こんな戦時中の活動をしたのち、軽井沢に来た占領軍兵士のうち戦前から避暑に来たことのある人たちは、不快なことを発見した。両親や友人が所有していた別荘に他人が住みついていたのである。これは太平洋戦争が始まると同時に日本政府が敵国人財産とみなして没収し、競売処分にしたのだ。
だが、アメリカ人の多くは、その別荘を売却したわけではない。やむをえず、別荘をそのままにして交換船で帰国して行ったのだ。ここで、本来の所有者に返却するようにGHQの命令が出た。ことは単純ではない。その別荘を買った人からすれば大蔵省の依頼に応じて買ったのである。その別荘に残されていたシーツ類や備蓄食糧を当然のこととして消費してしまっていた。これが横領とみなされて、何人かは占領軍に逮捕され、沖縄の米軍刑務所へ送られた。戦勝国と敗戦国との明暗がここに如実に現れたのである。
彼らは次に、軽井沢に疎開していた英米人を訪ねてその人たちを占領政策の遂行者に任命すると同時に、戦前に交際していた日本の友人たちの消息を探った。
尾崎行雄の娘である相馬雪香が言う。
「戦前につきあっていたアメリカ人が、マッカーサー元帥の副官として赴任して来たのです。そして、私たちが軽井沢に疎開していることを知ると、ジープに食糧を満載して訪ねて来てくれました。ほかの友人もリュックにいっぱい食べものを持ってかけつけましてね。
それまで買い出しに行っても『国賊・尾崎の娘に売るものはない』と断わられたことがあったりして、四人の子どもを抱えて私は切ない思いをしていたのです」
尾崎行雄は昭和十八年に翼賛選挙を批判する演説で「売家と唐様で書く三代目」という川柳を引用した。それが天皇を誹謗したとみなされ、不敬罪で逮捕された。
娘の雪香は、軽井沢で知り合った相馬藩主の子孫の相馬|恵胤《やすたね》と昭和十二年に結婚。軍人だった夫の任地である満州・牡丹江から二十年四月に帰り、軽井沢に疎開していた。もっとも別荘の母家はイタリア大使が使っていたため、その隣にある物置小屋で姉の品江と相馬母子が暮らしていた。
米軍が戦争末期に飛行機から東京・名古屋などの都市部に投下したビラが残っている。「日本の偉人よ何処にありや」と題し、尾崎行雄の似顔絵を入れ、自由主義者の代表人物として扱っている。アメリカ側には尾崎を戦後日本の指導者にしようという意図もあったようだ。だが、尾崎は終戦の年にすでに八十六歳、耳が遠くなっていて近親者の言うことしか聴きとれなかった。そして彼にインタビューしたGHQ関係者や米国マスコミは第一線に立たせることを断念する。
相馬雪香は続ける。
「占領軍にいた友人は、私たちの別荘からイタリア大使を追いだしてくれました。私たちはやっと自分の別荘に入れたのです。その軽井沢から私は二年間東京へ働きに通いました。月曜日に出て、金曜日に帰ってくる……二冬を厳寒の軽井沢で過ごしたのです」
表≠ヘ占領軍、裏≠ヘ闇取引[#「表≠ヘ占領軍、裏≠ヘ闇取引」はゴシック体]
一九四六(昭和二十一)年一月一日、天皇、神格化否定の詔書(人間宣言)。二月十七日、旧円預貯金を封鎖し、新円を発行する金融緊急措置令。二月十九日、天皇巡幸。四月十日、戦後初の総選挙。四月二十日、財閥解体の本格的開始。五月一日、十一年ぶりに復活のメーデー。五月三日、極東国際軍事裁判始まる。五月十九日、食糧メーデー。五月二十二日、選挙後四十二日目にようやく吉田茂内閣成立。
この年は社会情勢がめまぐるしく動いた。庶民を直撃したのは何よりも食糧不足、モノ不足と、それにともなうインフレであった。その時代に生きた人は、空腹感を共通体験として持っているはずだ。米国の新聞は日本人の「一千万人餓死説」を報道している。当時の人口は約七千万人だったから、七人にひとりは飢餓線上にあったのだ。
この時代に軽井沢は表と裏で激しく動いている。最初に裏側をみる。闇取引の中心地となったのだ。戦前からの別荘族は華族、ブルジョアなど特権階級だったが、この人たちを預金封鎖が直撃した。預金の引きだしは世帯主が月三百円、家族はひとり百円。月給の現金の支払いは五百円を限度とした。それまで殿様暮らしをしていた人々はたちまち窮したのである。そこで所有している衣類、家具、調度品などを、都会で売り払うと目立つため軽井沢に持って来て食糧などと交換したのだ。名家伝来の家宝まで、このときに食べものに化けたといわれる。その闇取引をする商人たちが軽井沢に出没した。
表の変化は、占領軍の滞在である。長野県庁の渉外課職員だった青沼茂幸(七十三歳・軽井沢物産館会長)が証言する。
「昭和二十一年四月十八日に、県知事の案内で第八軍司令官アイケルバーガー中将が軽井沢視察に来たのです。町内をあちこち案内した後、前田利為別荘で会食。この席上でアイケルバーガー中将が、ここはいいところだ、占領軍のレストセンターにしようと言ったのです」
これまで数多くのGHQ研究や占領軍行政の書籍が刊行されているのだが、このレストセンターに触れているものはない。占領行政と直接関係ないから、誰も関心も持たなかったのだろう。その知られざる実態が明るみに出て来た。GHQの命令に応じて県は急いで長野県軽井沢事務所を開設し、十二名の職員を常駐させた。青沼はその一員となる。
「最初の命令は、別荘百軒、自転車百台、馬十頭を用意せよというものでした。馬はどうにか六、七頭集められましたが、自転車はない。調達に苦労しましたよ。別荘は軽井沢に疎開中の学生を使って一軒ごとを調べ、洋式トイレがあることを基準にリストアップしました」
実際に使った別荘は四十六軒。前田利為別荘(マッカーサー元帥)、川崎肇別荘(アイケルバーガー中将)、古沢丈作別荘(第一騎兵師団司令官)、アンドリュース別荘(第九十七師団司令官)といった最高幹部用のほか、近衛文麿、細川護貞、石橋正二郎、小寺酉二などの別荘が高級将校用別荘となった。一般兵士向けにはニューグランドロッジ、三笠ホテルがあてられた。これらの接収した別荘、ホテルを管轄する本部は、やはり接収した万平ホテルに置かれている。
日本を占領した連合国軍の主力は、そもそも戦闘部隊であった。長期間にわたって実践部隊を第一線に送っておくと兵士の士気が低下する。この頃の飛行機はプロペラ機なので米国本土まで時間がかかるし、その輸送経費も高くつく。そのために、将兵を休養させるレストセンターを軽井沢に造ったのだろう。日本駐在の米軍兵力は、昭和二十年に約四十万人、二十一年に約二十万人、二十二年約十二万人、二十三年十万二千人。ちなみに二十三年の占領米軍の駐留費は約六億ドルにのぼった。
「米軍の命令には絶対に従わなければなりませんから、無理難題と思っても『イエス・サー』の繰り返し。接収した別荘を使う将校が来てつまりは修繕を要求したのですが、当時は資材がないし、専門職がいない、おまけに県軽井沢事務所はお役所ですから何にでも印鑑がいる……これを怒った将校が銃を抱えた兵隊を何人も連れて来て、事務所の机の上にドカッと腰を下して『ハバ、ハバ』と喚く。この言葉が最初はわからない。ようやく『早く、早く』と叫んでいるのだとわかった。こわくて不気味でしたね。
この殺気だった雰囲気は、三人の女性通訳が事務所に詰めるようになってようやくなごやかになりました」
米軍との渉外を担当した青沼茂幸が回想する。
通訳として勤務した女性は三人だが、このなかで来栖輝の存在が大きい。若くて知性的な美女なので、事務所に彼女らがいるようになってからは、米軍将兵は入り口で服装の乱れをなおし、きちんと挨拶してから入るようになった。
米軍兵士たちは三日から一週間の休暇を与えられて、軽井沢にやって来る。常時三百名ほどが交代で滞在したようだ。将校たちは、家族を連れて週末ごとにやって来た。アイケルバーガー中将など幹部はセスナ機でやって来るため、堤康次郎が造った二十間道路を滑走路として使用し、次には戦前に堤が造った南軽井沢飛行場を再建している。
彼らは何をして休養したのか。テニスは戦前の別荘族ほどの熱心さではやらなかったようだ。乗馬は騎兵隊員もいるので盛んだった。そのために旧ゴルフ場を放牧場として接収した。ゴルフは新ゴルフ場を接収してプレーしている。夏には軽井沢の冷たすぎる水を野戦用バーナーで温めて入れるようにしたプールで水泳を楽しむ。
問題は冬だった。厳寒の地で休暇が過ごせるか。「それをやってしまったのです」と青沼茂幸は苦笑した。
「いやがる佐藤万平を説得して、万平ホテルを改造したのです。二重窓にし、井戸を掘り、野戦用暖房器具を取りつけ、専用の変電所も造った。また、軽井沢会のテニスコートに水を張ってスケート場にした。これで、冬の軽井沢も楽しめるようになったのです」
それまで避暑地でしかなかった軽井沢が、米軍の手によってオールシーズン型リゾートに変貌したのである。
明暗分かれた外国人[#「明暗分かれた外国人」はゴシック体]
米軍が軽井沢にレストセンターを置いたことは、関係者以外に知らされていなかった。当時の信濃毎日新聞のマイクロフィルムを検索しても、それらしい記事は見つからない。GHQは新聞記事の事前検閲をしていたため、軍の動向に関連したことは書かせなかったのである。
もっとも、アメリカの新聞は自由に報道していた。「シカゴ・サン」紙の記者マーク・ゲインが書いた『ニッポン日記』の一九四六(昭和二十一)年六月十四日の項にこう書かれている。
「ウォーカーとその助手の松方ハル女史と私の三人は今朝東京を立ってこの山間の避暑地軽井沢に家具をさがしにやって来た。もし運よく適当なものが見つかった時の用意に、ジープの後にはトレーラーまでつけていた」
「いつか私は無の世界に入りこんだ。そして固い手でゆり起こされるまで何も知らなかった。間ちがいもないアメリカ人の声が『起きて下さい』といっていた。二人のMPで、この宿屋は連合国軍関係者の立入り禁止だから出て行くようにと要求した。私たちは民間人だといい張った。論争は無勝負だった。MPたちは、将校にきいてみるといって出て行った。晩飯時、私たちが缶詰のコンビーフと豆のシチューを箸で食べているところへ若い中尉がやってきた。彼は上官から民間人といえども日本の宿屋に宿泊せしめてはならないという命令をいま受け取ったといった」
このマーク・ゲインたちは日本旅館に泊まったのである。それがMPによって禁じられたのだ。GHQは占領当初、日本人とアメリカ兵との接触を正式なルート以外禁じていた。占領軍と被占領国民の間にどんなトラブルが発生するかわからない。少し下世話なことでいえば米軍がもっとも悩んだのは、兵士の間に蔓延した性病だった。それとは別に、軍人でない場合にはコントロールすることがさらに厄介となる。マスコミは好奇心のかたまりだからどんなところにも入り込んでいこうとする。GHQ指導部とすれば正式発表以外の記事や、GHQ批判の記事が米国の新聞に出たのでマスコミを煙たく感じていた。それでも新聞記者たちは言論の自由のために貪欲に取材していく。
彼の日記から、軽井沢のホテルはすべて米軍によって接収されていたことがわかる。そのホテルには軍人しか泊まれない。そして、従軍記者であるゲインたちは日本旅館に泊まることができない。彼らはどうしたか。
「その晩は結局、松方女史の家に泊めてもらった。その家は戦争中から板づけになったままだった。深夜の静けさの中で、男の子のかぼそい声がドイツ語で話しているのがきこえてきた。『ママ、あの空家に誰かいるよ、何をしているんだろう』」
米軍が別荘やホテルを接収した後も、かなりのドイツ人家族が残っていたのである。そのドイツ人経営の下宿屋の隣が、松方ハルの別荘であった。彼女は、明治時代に二度にわたって首相をつとめた松方正義の孫であり、のちにエドウィン・ライシャワーと結婚することになる。
だが、戦後に残っていたドイツ人はどうしていたのだろうか。
「残っていた親ナチス派ドイツ人は、好ましからざる人物として昭和二十二年に強制送還されました。三百五十名ぐらいがいたでしょうか、二回に分かれて送られましたね。そのとき、貴金属類は没収され、ひとりが持てる荷物は身につけているもの以外二十キロに制限されていました。だから、オーバーを何枚も着こんで汗をかいている人もいましたよ」
軽井沢警察署の巡査として戦後数年間つとめた中島つとむ(六十五歳・画家)が当時を回想する。戦時中に軽井沢に疎開した枢軸国人が、二十二年になってようやく集団送還させられたのだ。もっともドイツ人でも反ナチス派の人は帰国させられなかった。
「もっと悲惨だったのは、疎開していた小国の人たちでした。トルコやアフガニスタンなどの人たちが残ってましたが、本国から仕送りはとだえ、占領軍からの援助もなかったようです。特に亡命ロシア人など無国籍の人が何人もいた。そんな人たちが戦後の混乱期をどう生きのびたのか不思議なほどです」
戦時中に二千数百人の外国人が軽井沢にいたのだが、その人たちの明暗は逆転したのである。英米人は優遇され、ドイツ人たちは送還された。中立国人は自国からの支援を受けるべきだが、大戦直後は各国とも経済不況にあえいでいた。ましてロシア革命を逃れて日本に亡命したロシア人は、自国からの支援もなく、疎開した軽井沢で老い、死去していった。軽井沢の外人墓地には彼らを葬ったロシア正教独特の墓がいくつもある。
では、新しく入り込んできた米軍兵士たちは軽井沢の高級リゾートのイメージを保ったのか。中島つとむはその風紀面も見ていた。
「米軍のMPがいたので、さほど乱れることはなかったですね。もっとも、それまで酒場がなかった軽井沢に女性がいる飲食店が十軒以上できた。米軍兵士は若いですからね、酒を飲むなというわけにいかないでしょう」
米軍兵士用のPX(酒保)も造られた。それまで軽井沢の伝統となっていたことが「飲む」から崩れたのだ。
そして、華やかなダンスパーティーが盛んになった。ニューグランドロッジと軽井沢集会堂で毎週土曜日の夜、ダンスパーティーが開かれた。ここには英語をしゃべれる若い日本女性が動員された。軽井沢に疎開していた上流家庭令嬢に声がかかったのである。
「その女性たちと米兵との関係はあまりなかったようです。ダンスが終わるときちんと米兵が別荘に送って行きましたからね。レディーに対しては彼らも紳士的に振る舞ったわけです」と中島つとむ。
この裏側に詳しいのは、県の軽井沢事務所で渉外を担当していた青沼茂幸だ。
「レストセンターができてしばらくしたとき、米兵が事務所に来て、股間を押さえて『こっちの方はどうしてくれる?』と要求したんです。『軽井沢は飲む、打つ、買うは禁止のところだ』と説明しても駄目。困りましたね。そこで小諸に特別配給を出して頼んだけど一週間と持たなかった。次に戸倉上山田温泉に頼んでやっと解決しました。米兵たちをバスで送り込んだものです」
病気で倒れた来栖三郎[#「病気で倒れた来栖三郎」はゴシック体]
米国の新聞記者マーク・ゲインが軽井沢に来た理由は何だったのか。ひとつは、外国人向きの家具探しだった。東京は焼け野原でようやくバラック建ての家が点々と建築され始めた時期で、洋風家具は軽井沢などに疎開した外国人やブルジョアしか持っていなかった。この家具探しは明らかに私用にすぎない。
本当の理由はジャーナリストとしての仕事であった。それが彼の『ニッポン日記』に書かれている。
「軽井沢を出発する前、開戦前夜のワシントン特派大使来栖三郎を訪ねた。来栖が回顧録を『シカゴ・サン』シンジケートに売る意思はないか知りたかったからである。彼は痩せていたがなかなかの好男子でしっかりした男だった。彼はまだ『すべてを語る心境にはなっていない』といった。美しい二人の令嬢も加わって一時間ばかり雑談した、誰も政治などにはまったく興味がないような顔つきをして」
ここから終戦直後の軽井沢では、この来栖三郎一家が米国人と日本人とのかなめ役を果たしていたことに、私は気付いた。
来栖はニューヨーク総領事だった一九一五年に米国女性アリスと結婚した。その後ペルー公使、ベルギー大使、ドイツ大使を歴任し、太平洋戦争開始直前に日本政府から特命全権大使に任命されて渡米したのち交換船で帰国したのだ。軽井沢には来栖一家が終戦直後に日米の橋渡し役として活躍している写真が何枚も残っている。
マーク・ゲインが「美しい二人の令嬢」と書いたのは、長野県軽井沢事務所の通訳をしていた輝と、その姉の寿永《ジュエイ》である。
マーク・ゲインだけでなく、米国マスコミが来栖三郎インタビューを狙ったのは、来栖が昭和二十三年に出版した『泡沫の三十五年』のはしがきにも書かれている。
「敗戦以来、ずいぶん多数の米国新聞記者が、軽井沢のこの粗末な山荘に自分を訪問してきた。最初のうちは、終戦直後の治安を気遣って、ものものしくも拳銃に身を固めて乗り込んでくるものもある有様であったが、これらの記者のほとんどすべてが真っ先に質問した点は、自分が真珠湾の攻撃を予知していたかということであった」
その元全権大使という要職からマスコミの注目を集めながらも、かなり好意的に受けとめられている。当時の米国マスコミの力は強く、戦後初の総選挙で第一党となった自由党の鳩山一郎総裁をヒトラー礼賛者だったと公開席上でつるし上げたのち、公職追放にすることをGHQに働きかけた。このため、鳩山は自分の身代わりとして吉田茂を自由党総裁にし、ここで第一次吉田茂内閣が誕生したのである。
来栖三郎の姪である小川八重子(七十六歳)は軽井沢駅前の油屋旅館の女将であった。その油屋旅館へ吉田茂から来栖あての電話がかかってきた。小川が回想する。
「外務大臣に就任してくれという要請で、長い時間電話で話していました。だが、来栖は、おれはいやだと断りました。詳しいいきさつは私どもにはわかりませんわ」
このために、吉田茂首相は来栖の外相起用を諦めて自ら外相を兼任した。
来栖三郎が吉田内閣の外相就任を断ったのは、自らが戦争犯罪人として裁かれるかもしれないという不安を抱いていたためだろう。国際検事局《IPS》のキーナン首席検事は万平ホテルに出向いて、彼を訊問した。そして、キーナンは極東国際軍事裁判所に一九四六(昭和二十一)年四月二十九日、東条英機以下二十八名を起訴した。この戦犯に来栖はならなかった。第一次吉田内閣が組閣に難航したのはこの時期が戦犯起訴、公職追放のピークだったこともある。
来栖のキャリアとGHQから好まれた人柄からみて、再び第一線に返り咲くこともありえたはずだ。だが、その後の活動を示す資料がない。親せきの話もあいまいだ。彼に何が起こったのか。この謎を解くために私は次女の輝(六十五歳)に直接尋ねることにした。彼女は米国ミシガン州グランドラピッズ市で不動産管理会社ウイシンスキーの副社長をつとめている。
「父は軽井沢に疎開したとき、すでに外務省を退職していました。軽井沢の山荘は、一九三六年にベルギー大使として赴任する以前に建てたと思います。その家で、家族全員が昭和十九年から終戦直後を過ごしました。
戦争が終わると、米軍将兵が来る前に米国の新聞記者が父を訪ねて来ました。INS通信の記者で、すごく背が高かったのでよく覚えています」
国際電話の向こう側で、彼女はゆっくりと、ていねいに語ってくれた。日本からの取材に応じるのは初めてだという。
戦時中から敗戦までの間、彼女は軽井沢警察署の通訳を命じられていた。疎開外国人は軽井沢に来ると警察に届ける。そんな事務手続きをするために通訳を必要としたのだ。そして、連合国軍の命令で軽井沢がレストセンターになると、長野県軽井沢事務所の通訳に雇用された。このとき、彼女はちょうど二十歳だった。将校を別にすれば、米軍兵士たちは十八歳から二十歳すぎだったから、一躍彼らの間のアイドルになったことだろう。
問題はなぜ、来栖三郎が軽井沢での活躍以降人々の前から姿を消したかにある。外相就任を断った理由も明確ではない。
「吉田茂が駐英大使だったとき、父はベルギー大使でした。当時からつきあいがあって、きわめて親しくしていたのは事実です。でも、外相就任を断った理由は当時の政治が混乱していたのではっきりしません」
「父は一九四八(昭和二十三)年に上京中、脳溢血で倒れたのです。夏の初め頃だったから六月でしょうか。その後、病床にいて外務省の役人などの相談には乗っていましたが、現役に復帰することはありませんでした」
これから彼の出番だというときに、来栖三郎は病気で倒れてしまったのである。そして、彼が死去したのは一九五四(昭和二十九)年、六十八歳だった。
「私は一九四七年八月に、GHQに勤務していた米国人フランク・ホワイトと結婚しました。結婚式は軽井沢でしたのですよ。そして、四八年十二月にアメリカに渡ったのです」
彼女はアメリカに帰化してピア・ホワイトという名前となり、いま、三人の子ども、二人の孫がいる。彼女の人生ドラマは日米交流の歴史と重なってくるのだ。
浮世絵師≠フジャクレー[#「浮世絵師≠フジャクレー」はゴシック体]
この時期に、軽井沢から国際的スターが出現した。画家のポール・ジャクレーである。米国の週刊誌『タイム』は、一九四六年五月二十日号でこう報道している。
「東京の芸術の季節における最大ヒットは、四歳から日本に住んでいたフランス人の個展である。先週、米国第五空軍の支援で彼の展覧会が催された。浮世絵の手法を使った六十七点の木版画と五十点の油彩は、まさに東洋と西洋の融合である」
この記事と同じ頃に、米軍の新聞「スターズ・アンド・ストライプス」も彼の紹介記事を掲載している。こちらにはウィロビー参謀第二部(G2)長、ハートネット第五空軍司令官などがジャクレーの木版画に見入っている写真がついている。
ジャクレーの展覧会が、昭和二十一年五月に、GHQの法務局、国際検事局が入っていた明治生命ビルで開かれたのだ。戦争直後の日本が極端な食糧危機に陥り、社会は騒然としていた時代に、アートの世界に目を向けているGHQ将校の余裕ぶりをここに示している。
もっとも、フランス人画家ポール・ジャクレーの作品は、戦前から欧米の美術収集家に知られていた。女優のグレタ・ガルボやグルー駐日米国大使の夫人などが彼の作品を買い集めていた。そのジャクレーが軽井沢の万平ホテルのすぐ前に疎開していたため、レストセンター本部の万平ホテルに赴いた米軍将校は彼の存在に気付いたのである。
脚光を浴びるまでの過程を、ジャクレーの内弟子として行動をともにしていた富田寛(七十七歳)が語る。
「戦争が激しくなった頃、どこに疎開しようかといろいろ調べて、昭和十八年暮れに軽井沢に移ったのです。とにかく生きのびなければならないので、畑を耕して自給自足の生活を戦争の終わりまでつづけましたね。そして、米軍が軽井沢に入ってくるとすぐに、戦前からジャクレーの絵を知っていた将校が来て、芸術に国境はないとあちこちに紹介してくれたのです」
ポール・ジャクレーは、東京外国語学校(東京外語大の前身)のフランス語教師だったフレデリック・ジャクレーと母ジャンヌに連れられて来日。東京で公立小学校に入ったため、日本語を自然に話し、和服姿で、三味線を弾きつつ義太夫も語った。そして、黒田清輝などに師事して美術を学び、春信、清長、歌麿などの浮世絵に影響を受けていった。
だが、手法は浮世絵だがその描き方とテーマはいかにもフランス的だ。彼が旅行した太平洋の島サイパン、ヤップ、トラックなどの少女を、エロチックな線を使い、むせ返るようになまなましく描いた。それはゴーギャンのタヒチの女に匹敵する。
「だから人気を得たんでしょうかね」と富田寛は言う。「米軍将兵に受けて、一枚十五ドルの版画が飛ぶように売れた。門のところには行列までできたし、まだ完成してない作品にも予約がたくさんついていたのです」
戦前の軽井沢避暑客は、音楽、演劇や文学など芸術を好んだ。その伝統は戦後になっても継承され、フランス人画家ポール・ジャクレーの人気につながったのだ。彼の木版画をマッカーサー元帥の夫人ジーンも好み、その宿舎だったアメリカ大使館の壁面を飾っていた。
ポール・ジャクレーは浮世絵と同じ手法を使ったため、彫り師、刷り師が必要となる。一点の絵が、百五十枚から三百五十枚の木版画となっていき、それは刷りによって微妙に異なった色彩となっていく。ジャクレーの作品には「前田謙太郎刀 本田鉄之助摺」といった具合にそんな彫り師、刷り師の名前が明記されている。
「その頃はみんな食べることがむずかしい時代でしたから、浮世絵の技術を持っている一流の人たちを集めることは容易でした。その人たちを集めてジャクレーの敷地のなかに別棟を建てて住んでもらい、浮世絵工房にしたのです」と富田寛は説明する。この工房があったことをしのばせる面影として、敷地入り口に「若禮」と刻んだ石の門柱がいまも残っている。何人かの浮世絵技術者が住み込んで仕事に励んだのだ。この人たちがいることによって富田寛は全体を取りしきるマネジャー役に徹していくことになる。
そして、ジャクレーの浮世絵を一枚十五ドルというドル払い価格にしたのが経済的にうるおう結果となった。日本経済は超インフレを続け、戦前に一ドルが二円五十銭だった為替レートは大混乱となり、一九四九(昭和二十四)年にGHQが一ドル三百六十円の単一為替レートを設定するまで混乱は続いたのだ。
ここでポール・ジャクレーがどれほどの収入になったかを計算してみる。一点の絵を仮に二百枚の木版画にしたとする。それが米軍が来たときに約六十点あった。全部で一万二千枚となる。それを三百六十円レートで計算する。なんと、六千四百八十万円となる。軽井沢の住民がまだ飢えと戦っていた時代である。彼だけが一挙に大富豪になったのだ。
芸術作品を貨幣価値で語るおろかさを承知の上で、この時代に軽井沢から大金を得た芸術家が登場したことを知っておきたい。そして、このポール・ジャクレーの作品は現在ジャパニズム・アートの波に乗って再評価の声が高くなり、コレクターの間で作品によっては一枚三百万円の相場も呼んでいる。国際的にはフィンランド、バチカン、英、米の美術館にコレクションがある。
こんな大金をどうしたのかを富田寛に尋ねる。
「ポールは生涯独身だったし、ハンサムだったので女性にはもてました。でも、それにはお金も使いませんでした。熱心なカトリック信者なのでカトリック教会によく寄付してましたね。当時の聖パウロ教会は信者数も少なく、寄付も少なかった。そんなカトリックの教会、幼稚園などの建築、維持には人と金の援助を惜しみませんでしたよ」
この聖パウロ教会は、軽井沢避暑客のうちのカトリック信者のフランス人、スペイン人などの努力で昭和十年に建築されたものである。設計したのは、帝国ホテルを建築したフランク・ライトの弟子であるアントニン・レイモンドである。教会の前に立っているマリア像はレイモンド夫人が造った。
宣教師たちの救援活動[#「宣教師たちの救援活動」はゴシック体]
ダグラス・マッカーサーは「軍服を着た法王」と呼ばれるほどの熱心なクリスチャンであった。彼は米国の占領政策に従って日本を民主化するにあたって、その精神的な核としてキリスト教を注入しようとした。もっといえば、日本をキリスト教国にする使命感に燃えていたのである。
これは一九四七(昭和二十二)年六月に、初の社会党連立首班で片山哲内閣が誕生したときに、それを大喜びで讃えたマッカーサー声明によく表れている。
「片山氏が日本の首相として出てきたことの政治的な意味に劣らず、重要な点は精神的な意義である。歴史上、実にはじめて日本はキリスト教徒たる全生涯を通じ、長老教会派の教徒としてすごした指導者によって指導される。それはとりもなおさず完全な宗教的寛容がいまや日本人の精神を支配し、そして完全な信仰の自由が日本にあることを反映する。
それは東洋の三大国がいずれも政府の首班にキリスト教の信仰者……中国では蒋介石、フィリピンではマニュエル・ロハス、日本では片山哲を持つことに至ったことである。これはキリスト教の神聖な観念の確実な前進を意味し、洋の東西を問わず、人類は精神的に共鳴するものを見出し得るとの確信をはっきりと深めさせる」
GHQの宗教基本政策は、神道の国家権力からの分離、信教の自由の確立およびその維持にあった。信教の自由という建前からすればキリスト教だけに肩入れするのはおかしいと、GHQ民間情報教育局《CIE》宗教課はかなり抵抗したといわれる。だが、特定の宗教を弾圧しない限り信仰の自由は保たれるのであり、占領軍がキリスト教の布教にあらゆる援助を与えるのは自由であるとマッカーサーは主張した。
彼はイギリス国教会(聖公会)の信者である。ここで、敗戦の年十月に米国からプロテスタント教会の代表的指導者四名が来日した際に「日本の精神的真空を満たせ。ただちに千人の宣教師を私のもとに送りこむのだ」とせきたてた。また、カトリックのポール・マレラ大司教に対しても、ローマ法王庁から大勢の神父を派遣するよう求めた。そして、ワシントンに長文の電報を送り、「宣教師の日本復帰を最大限許可するのが、私の方針である」と通告した。
この結果、戦前に日本で布教にあたっていた宣教師は、所属教派が住宅と食糧の提供を保証する申請書を添えるだけで日本赴任が許可された。このなかにジェームズ・チャペル、エミリー・カニングハム、ハワード・ノーマンなど軽井沢ゆかりの人も入っている。この年には約三百名の宣教師が日本に帰ってきた。そして、戦前の布教体験者だけだと中年以上になってしまうため、翌年から若手も派遣された。一九四七年に三百十名、四八年に七百七名、四九年には九百八十名……五年間で計約二千五百名が日本に送り込まれている。
この時期、米国政府は日本の食糧危機を救うために、昭和二十一年十一月からの一年間だけでも主食とその代替品(小麦と小麦粉、とうもろこし粉など)を約百六十一万トン、かんづめ類四万トンを放出した。まず、飢えからの脱出が先決だったのである。
これと連動する形で、宣教師たちによる救援活動が始まった。アメリカ、カナダなどの長老派、メソジスト派、組合派、聖公会などが連合した世界教会奉仕団が、ララ(LARA・アジア救済連盟)を窓口として社会事業施設、学校などに食糧、衣料、医薬品などを送って来たのだ。これは一般的にララ物資と呼ばれている。このララ物資は昭和二十一年から二十六年まで続き、その恩恵に浴した日本人は千四百万人といわれる。アメリカ政府の主食放出とこのララ物資が両輪となって、飢えてモノ不足にあえいでいた日本を救っていったのである。
このララ物資の配布を任されたのは、陸軍大佐待遇のバット牧師、フレンド派のローズ女性宣教師、カトリックのマッキロップ神父の三人である。バットがその委員長をつとめた。
このバットは、カナダ合同教会の日本における代表だったので、東洋永和(戦時中に「英和」から「永和」に改名、現在「英和」)女学院の理事となった。そして、彼を助ける立場となったのが、長野でダニエル・ノーマンの後任として牧師をつとめていたアルフレッド・ストーンであった。
ストーンは昭和十六年三月に外国人引き揚げの勧告を受けてカナダに帰国、二十一年十月に再び日本にやって来た。最初はバット夫妻や米国のアイグルハートなどと、東京・鳥居坂の婦人宣教師館に住んだ。そして、その年十一月には軽井沢と長野市に向かった。十一月四日に軽井沢に到着し、信濃追分で婦人宣教師団が経営している戦災孤児収容施設「愛生館」を訪ねている。この年にすでにこういう社会福祉施設が造られていたことに注目すべきである。
こんな孤児救済の動きは、軽井沢在住の旧上流階級の女性たちも始めていた。渋沢多歌子、相馬雪香、朝吹登水子、伊東春子、加藤多美子、西邑敦子、森春子などが「タカラ・クラブ」を作り、二十一年夏、万平ホテルで米兵相手にバザーを開いている。
ストーンは次に長野市に向かい、戦前の信者たちと再会した。同時に、このときに一牧師の立場なのに県知事、長野市長などを訪問したと記録に残っている。戦勝国の牧師であり、GHQにも顔がきくストーンに、知事や市長はすがる思いで会ったのだろう。
マッカーサーは、アメリカ聖書教会が日本向けの聖書の数を減らす計画だと知ると、「聖書の需要は満たしきれないほどある」と電報を打ち、一千万部を配布するよう要請した。この聖書は最終的に三千万部にのぼり、そのうちのかなりは米軍の輸送船で日本に送られた。
バイニング夫人の避暑生活[#「バイニング夫人の避暑生活」はゴシック体]
日本が連合国軍に占領された時代に、皇室はもっともキリスト教に接近した。米国の歴史学者レイ・ムーアは『神の兵士』のなかでこう書いている。
「一九四六年一月、天皇が『キリスト教について勉強するため』に、賀川豊彦を宮中に招いた。約二時間にわたる会見の中で、天皇はキリスト教について多くの質問をし、賀川が聖書の一節を読むと注意深く聞きいっていた。こうして、天皇が近くキリスト教に改宗するという記事が、新聞に出はじめるようになった」
また、女性宣教師の植村環が、皇后、皇女たちに教えるバイブルクラスを毎週行った。これに三ヵ月に一度くらいは昭和天皇も臨席した。
なかでも画期的だったのは、皇太子(現在の天皇)の家庭教師として米国女性エリザベス・バイニングが選ばれたことである。これは、米国の対日教育使節団長のジョージ・ストッダード博士を昭和天皇が引見した際に、側近に何の相談もなく、皇太子に家庭教師を見つけてもらえないかと依頼されたことによる。
その条件として、アメリカ女性であること、クリスチャンであって欲しいが狂信的ではないこと、昔から日本を知っている日本ずれした人物ではないことの三点であった。
ここからクエーカー教徒(プロテスタントのフレンド派の別名)で、作家でもあったバイニングが選ばれることになる。彼女は昭和二十一年十月十五日に、日本にやって来て、四年間、皇太子の家庭教師をつとめた。住宅、自動車、秘書、使用人があてがわれ、年俸二千ドルだった。
彼女は日本滞在中に体験したことを『皇太子の窓』という本に書いた。そのなかに、日本に来た翌年の夏から軽井沢で避暑生活を送ったことが書かれている。
「日本滞在中、毎年夏になると、皇室は、夏休みの間、軽井沢に私の別荘を用意してくれた。……私たちの家は、村を見おろす小山の上にある住み心地のよい家で、大きなかぐわしい樅《もみ》の樹にかこまれ、その樹の間から遠い山々を望むことができた。オレンジ色と白と黒のまじった羽色の小鳥たちが、テラスの傍の樅の樹からひらりと飛び出して、また姿を消したり、時には私たちの椅子やテーブルにとまったりした」
これは旧軽井沢にある三井家の別荘を宮内庁が借りて、バイニングに提供したのである。この別荘で彼女たちは毎朝食後に聖書を読む習慣を保っていた。それは皇族が訪ねて来ても同じ形で続けられていた。
昭和二十四年には、皇太子がこのバイニングの別荘に宿泊している。侍従たちは旅館に泊まり、皇太子ひとりであった。そして、朝には皇太子も聖書を読んだ。バイニングはこう書いている。
「次の日も陽の照りつける暑い日だった。八時に朝食を食べ、朝食後いつものように正子さんと道子さんが食卓に加わって、私たちは英語と日本語で聖書を読んだ。私は山上の垂訓を選び、それから三日間毎朝つづけてこの個所を読むことにした」
駐日公使になったノーマン[#「駐日公使になったノーマン」はゴシック体]
GHQのなかで、占領初期の憲法改正、警察制度の改革、地方自治権の拡大、選挙制度の改革などを担当したのが、民政局《GS》であった。この部署が中心となって、戦後の日本民主化を進めていく。局長はホイットニー准将、次長はチャールズ・ケーディス大佐。
職業軍人というのはおおむね保守的である。だが、日本占領政策を実施したGHQ内部には、日本の民主主義化という理想を抱いている一群の人々がまじっていた。これは、大恐慌の後に米国大統領フランクリン・ルーズベルトが実施したニューディール政策に関与または影響された人々である。マーク・ゲインは『ニッポン日記』にその人たちをこう書いた。
「東京はいまや歴史の焦点に立つ都会だ。総司令部の各部局を一めぐりしてみたが、私と話し合った人は、歴史上最大の実験と称されるであろう仕事、すなわち敗戦国の再形成という仕事にみんな没頭していた。……いま、彼らは自分自身を、そして敵をも洗い清めつつある様な感じを抱いている。『改革者』は総司令部に充満している。新しい民主日本の設計図の作成に若い人たちが働いている各ビルディングは、いずれも夜おそくまで電灯をあかあかとともしている」
民政局のケーディス大佐はその「改革者」の典型であった。彼はハーバード大学の法律学校を卒業したのち、米国政府の内務省や財務省でニューディール政策に従事していた。日本に派遣されたとき三十九歳である。理想に燃えてその実現のために精魂傾けるのにふさわしい年齢である。
このほかに、民間情報教育局《CIE》局長のケネス・ダイク准将、経済科学局《ESS》の反トラスト・カルテル課長ウォルシュ、労働課長コーエンなどが、そんなニューディーラーであった。また、戦時中から日本占領政策立案にかかわっていた米国IPR(太平洋問題調査会)からは、トーマス・ビッソンなど多くの会員がGHQに加わった。
マッカーサーは保守派の人物なのだが、日本占領に関してはきわめて革新的な政策をとった。これにはその政策理論を、ずっと年下の歴史家ハーバート・ノーマンの著書に求めたからだといわれる。
そのハーバート・ノーマンは、GHQに四ヵ月勤めたのちカナダに一度渡り、極東委員会カナダ次席代表をつとめてから、一九四六(昭和二十一)年八月、駐日カナダ代表部首席として赴任してきた。今度はGHQの一員ではなく、カナダの国家の代表者である。
そして、マッカーサーとノーマンはごく親しい関係を保った。マッカーサーからの要請で年に数回は会っている。そんなマッカーサーの改革をノーマンは高く評価する次のような講演も行っている。
「一部の人々は最高司令官が困惑し虚脱した日本人を目の前にしてあまりに速く行動するという意見を表明しているが、また他の人々は改革はのろすぎるという。だが、私は反対に、できるだけ多くの事情を考慮に入れたうえで、最高司令官の時機決定、判断はすばらしいものであると言いたい」
軽井沢で生まれ、長野市で育ったハーバート・ノーマンが、カナダ国家を代表する立場で帰って来たのである。長野市の人たちは、「ノルマンさんのせがれがえらくなって来た」と驚きの声で迎えたという。
彼は戦後すぐの昭和二十年十一月に、GHQ政治顧問のJ・K・エマソンと長野視察旅行に出かけている。これは戦犯指定の報告などを提出する超多忙な時期だっただけに、短期間の休暇を兼ねた旅行だった。
次に長野入りしたのは、二十二年六月。ここで父ダニエルの追悼集会が六月二十二日にもう一度開かれ、その席上で初めて日本での講演を行った。「封建制下の日本人民」と題した講演で、満員の聴衆を前にして日本語でしゃべっている。彼の日本語能力を知る上でも重要なので、その冒頭部分を引用する。
「今日ここに私の父の追悼会に当たりまして会の主催者ならびに長野市民の皆さんから大変御親切なお招きをいただき、この集まりに出ることができましたことを心からお礼申し上げます。この長野市は私が少年時代をすごしたところでありますが、二十年ぶりにここへまた帰って来て皆さんにお話しできようなどとは本当に夢にも思っていなかったことであります。私は元来公開の席上で講演することは好まない方ですけれども、この機会に皆さんにお目にかかり、お話しいたしますのは非常に光栄でもあり、また大変愉快なことに存じているのであります」
この講演の英文は同年八月十六日、マッカーサーに送られている。
彼は太平洋戦争前夜の夏を、特高警察に見張られながらも軽井沢で過ごし、日本の歴史を羽仁五郎などから学んでいた。その蓄積が戦後になって開花していく。まず、ハーバード大学の博士論文であった『日本における近代国家の成立』が昭和二十二年八月、大窪愿二訳で日本で出版。次に同年十一月、『日本における兵士と農民』の日本語訳を出版。二十四年にマッカーサーの公認、奨励を受けて『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』を完成した。この期間に、マッカーサーのカナダ外務省に対する要請により、駐日カナダ公使に任命されている。それまではカナダ代表部首席ながら一等書記官、参事官待遇だったのである。
では、戦後は生地の軽井沢とどうかかわったのか。彼の資料のなかになかなか出て来ない。それを探していると朝吹登水子に告げたら、彼女はあっさりと教えてくれた。
「戦前にも私のところに、ノーマン夫妻からのディナーパーティーの招待状が来ました。でも、親しく交際したのは戦後になってからです。ハーバートが父の朝吹常吉とブリッジをしたり、私たち母娘とノーマン夫妻でテニスをしたり」
「二十四年とその翌年の二夏、ノーマン夫妻に私たちの軽井沢の別荘の母家をお貸ししました。ちょうど、私は二十四年に民間人として戦後初めてパリに留学するのでノーマンに保証人になってもらったのです。占領下の日本人はGHQの許可がなければ海外に出られなかったのよ」
彼はカナダ公使として生地でまた夏を過ごしていたのである。
堤が集めた三百万坪[#「堤が集めた三百万坪」はゴシック体]
軽井沢の町民が知らない間に、戦後の混乱期、軽井沢の土地の所有者が大きく替わっている。
それに関係した人の証言から始めよう。戦時中に国策会社の食糧増産株式会社南軽井沢農場長だった上林國雄が言う。
「北海道からトラクターを運んで来て、寒冷地向きのじゃがいもなどを作った。終戦後も食糧危機を乗り切るために耕作に努力してました。でも、土地が痩せている。東京から乾フンなどを貨物列車で送ってもらい、施肥したのですが、収穫はたかが知れている。おまけに、昭和二十二年に労働者が争議を起こしたので、ここで農場を諦めたのです。その後は千ケ滝の別荘分譲を手がけました」
この食糧増産は堤康次郎が経営する会社である。昭和二十年九月、食糧増産、武蔵野鉄道、西武鉄道の三社が合併して西武農業鉄道となり、翌年西武鉄道に改称した。
堤康次郎はこの当時、前立腺肥大に罹っており、あまり動けなかった。また、二十一年一月にGHQによって公職追放となっている。この逆境のときに、彼は焼け跡だった東京の土地を買いまくった。まず、池袋で根津育英会が所有していた土地など約一万六千坪を買収。そのうち一万坪を翌年に二倍から三倍の値段で売り払った。残った土地が現在の西武デパートの敷地である。
次に、臣籍降下した宮家の土地を買い漁った。戦前に十四宮家があったのだが、GHQは秩父、高松、三笠の直宮家の存続だけ許し、十一宮家を廃止し、あわせて財産税を徴収した。このため、各宮家の経理を任されていた使用人がその土地を手放すことで急場をしのいだのである。軽井沢にあった朝香宮別荘は、二十二年八月十四日、堤康次郎の手に渡った。宅地七百三坪、山林約九千六百坪である。この別荘を、堤は千ケ滝プリンスホテルにしたのである。
さらに堤は、軽井沢の三度山、矢ケ崎山の根津嘉一郎所有地約百十万坪を買収し、二十三年から開発を始めた。ただし、根津コンツェルンを築いた根津嘉一郎は昭和十五年に死去している。この根津所有地を二代目根津嘉一郎が家督相続登記したのは二十五年二月八日。その土地を売買によって国土計画興業(昭和四十年、国土計画に改称)に所有権移転したのは二十六年九月五日である。
こうして、千ケ滝、南軽井沢、根津所有地を合わせて、堤康次郎は軽井沢に約三百万坪(約千ヘクタール)の土地を所有もしくは開発したことになる。軽井沢町の総面積は約一万五千六百ヘクタール。その約六・四パーセントが堤康次郎の手中に収まったのだ。この比率はいまでも似たもので、国土計画の関連会社が総面積のうち六・六八パーセントを所有している。それを原野などを除いた課税対象地全体でみると、実に一七・三パーセントにのぼる。
ゴルフクラブの再開[#「ゴルフクラブの再開」はゴシック体]
終戦直後における大型土地の所有者移転はもう一ヵ所あった。旧ゴルフ(現在の旧軽井沢ゴルフクラブ)の敷地約六万五千坪が、神田清から鹿島守之助ほか二名に移転している。この時期が微妙である。移転登記の日付けは昭和二十二年七月九日。
この旧ゴルフは米軍が接収して、第一騎兵師団の放牧場となっていた。クラブハウスは馬小屋として使用され、グリーンは荒れ果てている。いつ接収解除になるかわからないのに、とにかく鹿島守之助などが買い取ってしまったのだ。
この頃に米軍将校たちがゴルフを楽しんでいたのは新ゴルフ(現在の軽井沢ゴルフ倶楽部)である。第八軍司令官だったアイケルバーガー中将がかなりのゴルフマニアだったのは有名だ。そんな将校のほかに日本人も交じってプレーしていた。戦前から米軍接収中の期間、新ゴルフの支配人をつとめた池田忠彦の妻コシナ(八十六歳)が語る。
「米軍が接収したときは草ぼうぼうのありさま。それを米兵が火炎放射器を使って焼き払い、ゴルフ場に整備したのです。主人は引き続いて支配人をしていましたが、米兵と一緒に英語ができる地主延之助、白洲次郎といった人たちがプレーしていました。この頃にまだ戦前の会員はプレーできなかったのです。主人は二十四年に病気で倒れ、地主延之助が支配人となりました」
新ゴルフは接収されても従業員は以前と同じ人を雇用し、また英語がしゃべれる日本人ゴルファーは米軍将校と一緒にプレーできたのである。白洲次郎は吉田茂と親しく、戦後、GHQと日本政府の中介役の終戦連絡局次長をつとめていた。地主延之助は、昭和十四年から鳩山秀夫の後任として軽井沢ゴルフ倶楽部の名誉書記となっていた人物である。
放牧場だった旧ゴルフは、いつから再開できたか。二十三年九月に接収解除となった。鹿島守之助らの読みがあたったのである。買い取って約一年でゴルフ場が再開できるようになったのだ。ここで彼らは新しい組織形態を選んだ。
資本金百万円の株式会社とし、百名から一万円ずつ出資を募った。発起人総代が五島慶太で、発起人は細川護貞、鶴見祐輔、山崎匡輔、鹿島守之助など。この資金で、コースや諸設備の修復を行っている。つまり、ふつうのゴルフクラブと異なり、株主会員だけで発足したのである。
そして、その後入会希望者が相次いだので、入会金を返還しないことと会員権は譲渡できないことを条件にして一般会員を受け付けた。これによって、会員が死去したならばその権利は相続できずに自然消滅するという厳しい会員権となった。この会員たちが任意団体として「旧軽井沢ゴルフクラブ」を作り、直接経営にあたるというシステムとなっている。
別の角度からみれば、米軍接収の新ゴルフに対抗して、旧ゴルフは日本人会員だけであった。これは新ゴルフができたときとちょうど逆になったことを意味する。このゴルフコースでプレーしだしたのは二十四年六月二十日。敗戦から四年目の夏に、早くもゴルフを楽しむ一握りの人たちがいたのだ。
マッカーシー旋風とノーマン[#「マッカーシー旋風とノーマン」はゴシック体]
第二次大戦後、経済的に苦しかったのは日本だけではない。戦場となったヨーロッパ、アジアは各国とも生活難にあえいでいた。そんななかで唯一繁栄を謳歌した国がアメリカであった。アメリカも第二次世界大戦で二十九万六千人の兵士を犠牲にしたが、戦場が遠く離れていたこともあって、戦後の世界経済で飛びぬけて強力な大国となっていた。
その強大なアメリカに対抗できるのは、ソ連であった。ソ連は東欧諸国に勢力範囲を広げると同時に、西欧にも浸透しようと図っていた。ここで、米ソ両国による世界新秩序の形成が始まろうとしていた。ドイツは東西に分割され、朝鮮半島も南北に分断された。
戦前における世界の中心地ヨーロッパがソ連の影響下になることを怖れた米国は、一九四八年四月から五一年までにマーシャル・プランによって百二億六千万ドルを欧州各国に援助した。英国二十六億ドル、フランス二十億ドル、ドイツ十一億ドルといった具合に、各国の経済立て直しと反共政府の確立を狙ったのだ。これが、冷戦の始まりであった。
日本、中国、朝鮮半島、フィリピンなどアジア諸国に対する米国援助も、冷戦によるソ連封じ込め政策の一環であった。中国に対しては戦後だけで二十億ドルを蒋介石の国民政府に援助した。だが、蒋介石は一九四九年六月台湾に亡命、十月一日、毛沢東が指導する中華人民共和国が成立した。この年に大量の外国人宣教師が中国本土から日本に脱出して来ている。
そして、一九五〇年六月二十五日、朝鮮戦争が始まった。
この世界情勢によってGHQの占領政策が転換する。マスコミ、公務員のなかから共産党員とその同調者を追放するレッドパージ。七万五千人の警察予備隊の創設。マッカーサーの指令は相次いだ。
こんな時期にエリザベス・バイニングが帰国する。その動機が最近出版された『天皇とわたし』で初めて公表されている。
「最後の夏を軽井沢で過ごしたときには契約の更新には応じない、というむずかしい決心をしなければならなかった。田島氏や小泉博士からはぜひ更新するようにと懇望されていたが、バイオレットが帰国を望んでいたこともあって帰国することにした。……朝鮮戦争が勃発し、家の上空では爆撃機が飛行する音が聞こえて、負傷兵が横浜に運び込まれるのを見たり聞いたりするごとに、バイオレットの不安はひどく募った。第三次世界大戦はわたしたちの頭の上で勃発するとばかりに思い込んでいた」
皇太子の家庭教師をつとめていた彼女は、呼び寄せた姉バイオレットとともに戦争の不安におびえ、一九五〇年十二月七日、帰国した。後任の家庭教師には、バイニングと同じくフレンド派の信徒であり、ララ物資配布の責任者のひとりだったエスター・ローズが選ばれた。なおバイニングの名誉のために付記すれば、一九六九年にベトナム反戦デモに参加してホワイトハウス前で逮捕されている。フレンド派(クエーカー教徒)は熱烈な反戦主義なのである。
こんなレッドパージや報道規制など占領政策の転換を、批判する勢力もあった。
「朝鮮で戦争が始まったうえ、日本はまだ占領中であるだけに、共産党の新聞を規制しなければならないのは当然であろうし、それどころか共産党機関紙はもはや完全に禁止されている。しかし、代表的な商業新聞にまで容赦なく圧力をかけるのは……まったく別問題だと私は考える」
駐日カナダ公使ハーバート・ノーマンは一九五〇年八月一日付本国外相あての極秘電報で、マッカーサーの占領政策転換を批判する報告を送っている。
GHQの初期占領政策は日本の民主化にあった。その理想に燃えるニューディーラーと、日本を反共の砦にしようとする二つの勢力が最初から対立し合っていた。前者はホイットニー民政局長、ケーディス民政局次長、後者がウィロビー参謀第二部長を中心としている。特にウィロビーはドイツ生まれの反共主義者で、自ら「小ヒトラー」と呼ばれることを好んだナチス賛美者だった。彼はGHQ内部にいるニューディーラーやリベラル派を徹底的にマークして追跡調査していた。また、日本人の共産主義者、進歩派もマークしていた。ニューディーラーのうち、ケーディス民政局次長は日本の旧華族夫人とのスキャンダルをウィロビーに握られ、四八年十一月に帰国、GHQを辞職する破目に陥った。
この時代の占領政策転換を、日本のマスコミは「逆コース」と呼んだ。だが、ことがらは日本だけの問題ではなかった。一九五〇年二月九日、ウィスコンシン州選出のジョセフ・マッカーシー上院議員が「国務省のなかに二百五人の共産党員がいる」と演説したことから、左翼または進歩派知識人を弾圧するマッカーシー旋風が吹き荒れたのである。それは冷戦時代のアメリカ市民に強くアピールし、共産主義者はソ連のスパイであるという短絡思考の狂信的な赤狩り≠ニなっていった。議会に特別小委員会が設置され、その容疑者とみなされる人たちをFBIが厳しく捜査する。チャーリー・チャプリンもその標的となり、彼はアメリカから亡命した。
なかでも戦前からアジア問題を研究していた米国IPR(太平洋問題調査会)の主要メンバーの多くがその嫌疑で調べられた。オーエン・ラティモアは、「アジアでナショナリズムと革命勢力が台頭している」という分析をしたことから、米国の中国政策を批判したソ連のスパイとマッカーシーに名指しで非難されている。
GHQ内の反共派はこの米国での動きで勢いづいた。ウィロビーは五人のスタッフを使ってハーバート・ノーマンを尾行、監視した。八月一日付のノーマンから外相あての極秘電文もウィロビーに盗み読みされたようだ。
ノーマンはカナダ外交官である。それがソ連のスパイであるとすれば大スキャンダルになる。カナダ外務省は急遽《きゆうきよ》ノーマンの本国召還を決定した。安倍能成、西園寺公一、南原繁、竹内好、渡辺一夫、丸山真男など百人が集まった送別会の後、一九五〇年十月二十日、ノーマンはカナダに向かった。
マッカーサー元帥の解任[#「マッカーサー元帥の解任」はゴシック体]
朝鮮戦争が始まると、マッカーサー元帥は連合国最高司令官と同時に国連軍最高司令官となった。一九五〇年六月二十七日、米軍は韓国援助のために直接軍事介入をトルーマン大統領から命令されたのだが、侵略者と呼ばれないための工作が必要である。そのために開いた国連の安全保障理事会に、ソ連は欠席していた。中国を当時代表していた台湾は軍事介入を望んでいたし、英国、フランスはマーシャル・プランによる経済援助をアメリカから受けていた。こうして、拒否権を行使する理事国がいなかったため、安保理事会は国連軍の設置を七月五日承認し、その名前の米軍が朝鮮半島の戦闘に投入されたのである。
朝鮮半島の二つの国家の戦闘は、大国の介入がなければ内戦として終わったことだろう。だが、冷戦の時代であった。マッカーサーはこのときのことを『回想記』でこう書いた。
「朝鮮を舞台にして、共産主義はついに自由世界に戦争を挑んできたのだ。これこそ、決断の時だった。これが共産帝国主義との撃ち合いだということは、疑問の余地なく明らかだった」
彼は職業軍人である。戦場においてもっとも生き生きとしてくる。そして、朝鮮では国連軍という名称と、反共の聖戦という大義を手にしていた。
だが、この朝鮮戦争に中国が「義勇軍」十八万人をもって対抗して来ることを予測できずに中国国境を攻撃したのがマッカーサーの誤算だった。その攻撃は国連決議違反であり、トルーマン米国大統領の命令無視であった。ここでアメリカ政府はシビリアン・コントロールの原則によって、マッカーサーを翌年四月十一日、連合国最高司令官、国連軍最高司令官の両職から解任した。
マッカーサーが自らの使命と考えたもうひとつのこと……日本をキリスト教国にするという狙いはどうなったか。戦前の日本におけるプロテスタント信者は約十万人。これが戦後になっても十万人にとどまっていた。カトリック信者は戦前の十万人から一九五一年には十五万七千人と増えている。それにしても二千五百人の外国人宣教師を投入したにもかかわらず、合計約二十五万人と微増したにすぎない。
GHQのなかの民間情報局のキリスト教担当者は、戦前に二十万人の信者がいたはずなのに、戦後は実数をいくら計算しても二万人という信者数しか発見できなかった。マッカーサーから信者数を知らせよという命令が来たとき、キリスト教担当者は怒り狂ってゼロをいくつかつけ加えて提出する。その二、三週間後、マッカーサーは「民主主義は日本国中に広まっている。キリスト教は日本の国中に広まっている。戦前には二十万人しかいなかったキリスト教徒が、いまや二千万人もいるのだ」と演説した。
マッカーサーは解任された直後の四月十六日に帰国した。そして、マッカーサー用に用意された軽井沢の別荘は、ジーン夫人、息子アーサーだけが利用し、ついに彼は一度も足を運ばなかった。
なぜ占領下の日本でキリスト教信者が増えなかったのか。また、戦前の軽井沢で外国人宣教師たちは超教派の集会を開いていたが、それは戦後開かれなかったのか。その疑問を軽井沢に住んでいる女性宣教師フィリス・チェンバレン(六十六歳)にぶつけてみた。
「私が日本に来たのは一九五〇年十一月。そして、十二月七日には軽井沢に来たのです。なぜかといえば、ここに外国から来た宣教師のための日本語学校があったからです」
これはいまでも続いており、チーム・センターという名前の外国人向け家屋が軽井沢町浅間隠しの一角にならんでいる。チェンバレンは米国カリフォルニア州生まれ、ホイットン・カレッジで神学を学び、プロテスタントの組合派宣教師として来日した。
「私たちの教派は必ずここで日本語を身につけてから各地の教会に赴任して行きます。私はまず二年、ここで勉強しました。それから伊那にある伊那聖書教会に行ったのです。当時の伊那には外国女性がほかにいませんから、珍しがって子どもたちがくっついて来たり、宣教師館をのぞき込んだりしましたわ」
彼女はマッカーサーの宣教師派遣の要請に応じて来日したことがわかる。質問をぐっと具体的にしよう。来日したときの月給はいくらだったのか。
「本国からの送金は最初が百二十ドルでした。少ないですね。いまでも生活がギリギリですよ」
と笑う。
だが、百二十ドルを三百六十円レートで計算すると四万三千二百円になる。一九五二(昭和二十七)年に公務員給与ベース一万三千五百円という人事院勧告が出ている。その三倍以上の月給を二十歳代の彼女が本国からもらっていた。キリスト教全体でみると、その教派によって宣教師の収入や布教費が極端に異なっていたのだ。日本基督教団の牧師の月給は平均三千七百円、日本聖公会が平均二千二百円、日本福音ルーテル教会は八千五百円、日本バプテスト連盟は一万三千円となっていた(『基督教年鑑』一九五二年版)。
ここに問題があったのだ。戦後のキリスト教界は外国からの援助を受けるミッション系と、それを受けない独立派に分かれた。また、戦時中に日本基督教団に統一されたプロテスタントはその経済的問題と神学上の意見対立で分裂していった。それに加えて新しい教派が続々と外国から乗り込んだ。約七十の教派が日本の信者を獲得するためにしのぎを削った。
だから、超教派の集会を開く必然性がなかったのだ。各派の年度総会、修養会はそれぞれ異なった場所で開かれている。この頃に軽井沢で宣教師会議を開いた教派を基督教年鑑で調べると、日本アッセンブリー教団だけである。
「私たちの教派は、軽井沢の雲場池そばにクリスチャン・センターを造り、毎夏、修養会を開いてます。そのときに宣教師も集まって来る。日本布教の第一歩をここの日本語学習から始めているので、みんな、第二のふるさととなつかしがってます」とチェンバレンは目を細めた。
このチェンバレンは独身のまま老いていった。なぜ、結婚しなかったのか。英語ができる日本人牧師、信者も多いではないか。そう訊くと彼女は不思議そうな顔で答える。
「あら、日本人と結婚するなんて考えたこともなかったわ。あまりにカルチャー・ギャップがありすぎますもの」
彼女の無意識のなかに、日本人をキリスト教化してやるという優越感がある。豊富な物資とともに、高みから日本人を救済してやろうという、宣教師独得の習性を感じる。こんな姿勢が日本人への同化も拒むことになり、キリスト教が伸びなかった理由にもなる。
国際親善文化都市[#「国際親善文化都市」はゴシック体]
マッカーサー解任の後任としてリッジウェイ中将が就任。七月十日、朝鮮休戦会議が開城で始まる。九月四日、サンフランシスコ講和会議開催。同月八日、対日講和条約が四十九ヵ国と調印。同時に日米安全保障条約調印。この一九五一(昭和二十六)年は、国際状勢がめまぐるしく動いた。日本からすれば、被占領国でなくなり、ようやく世界のなかの独立したひとつの国家として再び歩み始めた年である。
そのサンフランシスコ講和条約に、カナダ代表団首席随行員としてハーバート・ノーマンが出席している。カナダ外務省は彼を本国に呼んで調べたのち、その潔白を信頼し、国連カナダ代表代理に任命し、次にサンフランシスコ講和会議の首席随行員に任命したのである。連合国の主要国のひとつだったカナダのピアソン外相は対日講和条約にサインすると、そのペンを「この日のために尽力したこの人物に贈呈する」と人々の前でノーマンに渡した。
講和条約は、そのハーバート・ノーマンが生まれた軽井沢に複雑な影響をもたらした。まず、講和会議目前の八月十五日、国会において「軽井沢国際親善文化観光都市建設法」が制定された。ひとつの町が、衆議院、参議院の審議を経て、国家によって国際親善文化都市と定められた珍しい例である。
その第一条はこう定めている。
「この法律は、軽井沢町が世界において稀にみる高原美を有し、すぐれた保健地であり、国際親善に貢献した歴史的実績を有するにかんがみ、国際親善と国際文化の交流を盛んにして世界恒久平和の理想の達成に資すると共に、文化観光施設を整備充実して外客の誘致を図り、わが国の経済復興に寄与するため、同町を国際親善文化観光都市として建設することを目的とする」
全部で七条からなる法律である。国際文化都市にすることで外資を獲得しようという狙いであった。その理念はもっともである。しかし、問題は法律の第三条によってその事業の執行が町長に一任されたことであった。これによって軽井沢町は十五ヵ年計画で、国際会議施設、国際親善文化施設(国際図書館、ユネスコハウス、国際放送局など)、国際観光施設(鉄道、国道、ドライブウエーの整備など)、国際文教施設(国際キリスト教大学、国際青少年会館、国際総合競技場など)を建設するプランを作成した。予算総額百三十九億円の巨大プロジェクトである。
だが、その財源がなかった。机上の空論にすぎなかったのだ。そして、逆にお尻に火がついた。講和条約によって、占領軍の撤退が決まり、米軍の駐留地は日米行政協定にゆだねられた。この際に、軽井沢に造られた米軍レストセンターの廃止が決まり、接収していた別荘、ゴルフ場などは続々と返還されたのだ。万平ホテル、三笠ホテル、ニューグランドロッジは自由営業となり、堤康次郎がオーナーとなっていた晴山ホテルだけが米国第八軍のレストハウスとなった。
新ゴルフ(軽井沢ゴルフ倶楽部)は、昭和二十六年十月三十日に米軍の接収が解除となり、翌年四月一日より同倶楽部に引き継がれた。「コースは六年間の接収中、進駐軍において相当の手入れをなし居たため、引き継ぎの際は戦争直前に比するも満足なものでありました」と会員総会で報告している。米軍が管理、維持をきちんと保ってくれていたので一流のゴルフコースとなっていたのである。
再開したときの役員は、理事長が古沢丈作、理事に柏原孫左衛門、小寺酉二、三井栄子、アントニン・レイモンド、白洲次郎など。監事が鶴見祐輔、田中徳次郎。東京女子大の礼拝堂や軽井沢の聖パウロ教会などを設計した建築家レイモンドが名前を連ねていることは注目に値する。彼は軽井沢ゴルフ倶楽部がゴルフ場の隣接地を別荘分譲したとき南ケ丘に別荘を造った数少ない外国人のひとりである。このとき、戦前からの会員は百八十三名に減っていた。そこで新会員二百五名、家族会員四十三名を加えて合計四百三十一名でスタートしている。その昭和二十七年の入場者数は合計約八千五百名。
このように、ゴルフコースやホテルが米軍から本来の所有者に返還されたことで、町は豊かになったのだろうか。この当時の軽井沢町の予算額は昭和二十五年が約五千万円、二十六年が約一億円。歳入の四割は町税であり、残りは国・県の支出金、地方財政平衡交付金、町債などである。その中心になる町税のうち二十五年に約二割、二十六年に約三割が滞納となっている(泉喜太郎編『町誌軽井沢』)。つまり、町財政は国や県からの交付金を受けなければやっていけない赤字財政であり、住民は税金も払えないほど貧しかったのだ。
終戦直後の軽井沢は闇取引の中心地だった。これは資産のある別荘族ならば我慢のできることであった。だが、交換できる物資を持たない町民には闇取引による物価高だけが直撃する。人々はこの混乱期に一段と生活難となり、そこから脱出できないでいた。
米軍が断念した演習地計画[#「米軍が断念した演習地計画」はゴシック体]
こんな町に、サンフランシスコ講和会議の余波が押し寄せてきた。同時に調印した日米安全保障条約に基づき、日米行政協定合同委員会が二十八年四月二日、軽井沢町役場を訪ねて「米軍山岳冬期学校に関する覚書」を町長に手渡したのである。町民たちはそのニュースを翌日の信濃毎日新聞で知った。
名称こそ「山岳冬期学校」となっているが、これが米軍による演習地であることは明らかだった。この年に行政協定によって全国で七百三十三ヵ所、国土面積の〇・三八パーセントにあたる十四万ヘクタール(沖縄を除く)を米軍は演習地や軍事施設として使用していた。石川県内灘では激しい反対運動が起こっている。
町議会は数名の視察員を富士山麓の米軍演習地と外務省に送った。その外務省で彼らは意外なことを知った。前年二月二十二日に、町長と町議会議長などが「軽井沢を米軍駐屯地として御指定願いたく、ここに懇願する次第です」という陳情書を提出していたのである。
この米軍演習地計画に対して、軽井沢住民の反応は素早かった。二十八年四月十七日に町議会は満場一致で反対決議をしたが、それ以上の動きはなかった。そして町長が演習地誘致の陳情書を提出していたことが知れわたり、町行政に対する不信を招いていた。ここで、町議会と別に各集落の代表者による会議が開かれ、市民運動として反対活動を広げることが決定した。なかでも緊張感を持っていたのは満州(中国東北部)から引き揚げて浅間山麓を開拓した三ツ石と大日向の人たちで浅間山が演習地になれば生活の基盤を失うと声を震わせて叫んだ。
こうして、外務省や長野県に反対陳情をすると同時に、軽井沢に別荘を持つ人たちや林間学校を持つ東京の大学に反対の呼びかけを精力的に行った。また、五月三日、初めて「町民大会」が軽井沢中学の体育館で開かれた。町長など町の幹部が欠席したけれども、これには全町から住民がムシロ旗などを立ててつめかけて来た。この大会は、峠町の水沢邦ロ(町教育委員会委員長=当時)を議長として始まり、演習地反対全町協議会の設置を決議し、その本部役員として田部井健次委員長(千ケ滝西区)、副委員長に一條重美(旧軽井沢)、飯島喜文太(中軽井沢)、寺島乾三(三ツ石)の三名が選出された。
この役員のうち、軽井沢で政治にかかわっていた人は飯島喜文太だけである。寺島乾三は満州帰りの農民、田部井と一條は戦時中に軽井沢に疎開してそのまま住みついていた知識人。
田部井健次は十八年に軽井沢町南原に疎開した画家だが、明治大学の学生の頃から労農党の大山郁夫のもとで労働運動を指導していた人物である。一條重美は東京帝大を卒業後に音楽評論家となり、同盟通信社に勤務、十九年に旧軽井沢の妻の実家に疎開した。つまり、ここで古くからの住民、疎開者、引き揚げ者の連帯が成立し、それぞれの人脈を生かして別荘を持つ学者・知識人にも反対運動を広げていったのである。GHQの戦後占領政策の中心課題だった日本の民主化が、演習地反対運動を通して実を結んだともいえる。
もっといえば、戦前の別荘族と住民との関係は主人対使用人という主従関係にすぎなかった。ここに初めて対等に話し合う関係が成立したのだ。だから、六月七日に軽井沢中学で開かれた長野県民大会の壇上には、別荘族である中西悟堂(日本野鳥の会会長)もかけのぼっている。
この浅間山演習地の是非のきめ手となったのは、一九三四(昭和九)年から浅間山爆発の予知研究などを行っていた東京大学地震研究所の存在であった。ここでも別荘族の仲介役が存在した。南原に別荘を持つ松田智雄東大教授が、地元でもあまり知られていなかった地震研究所を町民や米軍に教えたのである。そして、米軍による発射実験などによって、銃の発射、軍隊の移動などが地震計に障害を発生させることが実証されたのである。
この結果、七月十一日の日米合同委員会で浅間山演習地を正式に取り消した。米軍はこう声明した。「われわれは浅間山を演習地とするためあらゆる努力を続けてきたが、使用はついに不可能になった。われわれは演習地問題に対する討議において東大側の寄せられた努力にたいしては深く感謝するところである」
米軍が狙っていたのは、休戦交渉をしながらも戦闘が続いていた朝鮮半島において冬の山岳地帯で活躍する特別レインジャー部隊を訓練することだった。その朝鮮休戦協定がようやく同年七月二十七日に調印された。結果からみれば冬山訓練は必要なくなったことになる。だが、市民運動によって米軍基地反対が成功した珍しい例であることを特記しておきたい。
カイロで自殺したノーマン[#「カイロで自殺したノーマン」はゴシック体]
東西の冷戦は、ひとりの外交官を窮地に陥れていった。軽井沢生まれのハーバート・ノーマンである。
一九五〇(昭和二十五)年にカナダに呼び戻された彼は、四週間にわたってカナダ国家警察の特別調査部によって尋問された。マッカーシー旋風によって、IPR(太平洋問題調査会)は危険な団体とされ、米国上院の公聴会でIPRとオーエン・ラティモア告発のときにノーマンの名前も登場したのである。カナダ政府はノーマンを審問せざるをえない。その結果、彼に関する疑惑は一掃された。だが、その調査以前のカナダ国家警察から米国FBIにあてたあいまいなレポートがひとり歩きを始めていた。
そして、翌年八月、米国上院司法委員会治安小委員会で、ワシントン大学教授ウィットフォーゲルが、ノーマンは一九三八年夏に共産主義の研究グループに加わっていて共産主義者だったと証言した。この証言は米国、カナダのマスコミのトップ記事となった。ただしカナダのマスコミは、ノーマンが国家警察の調査で潔白を保証されていると米国を痛烈に非難している。
このウィットフォーゲル証言は明らかに虚偽である。一九三八(昭和十三)年夏といえば、前章で述べたようにノーマンは軽井沢の両親を訪ねて、博士論文の研究をしていたのだ。しかし米国議会で証言され、すでに新聞報道されたことをどう覆すことができようか。赤狩り≠ヘ、赤またはピンクのレッテルを貼り、その標的を公の場からひきずりおろすことで目的を達するのである。
次には、事実の意図的な歪曲が行われた。九月十一日に、上院同委員会で、国務省の外交官ユージン・ドゥーマンが証言に立って言った。
「一九四五年十月十日、ノーマンとJ・K・エマソンは日本共産党幹部の志賀義雄、徳田球一の二人を軍の将校用自動車に乗せて走り回ることにより、十万人の共産党員を増やす効果をもたらしたとある日本人は言っている……」
東京・府中刑務所に収容されていた政治犯の釈放は、GHQの方針であり、ノーマンは対敵調査情報局のソープ准将の命令に従ったにすぎない。こうして、ノーマンにとって不快な虚偽、歪曲のデマゴギーが形成されていく。
そして、日米交換船が寄港したアフリカのロレンソマルケス港での都留重人とのほんの一言が重大な問題となった。都留は「君が欲しがっていた日本語の書籍を預けてある。君にあげるよ」と言った。そこで、カナダに帰国したノーマンは、ボストンの都留が下宿していた部屋を訪ねた。都留の私物を渡してもらうために下宿の主人にカナダ外務省職員と名乗り、自分の身分証明をFBIに照会するよう求めた。翌日、FBIの係員二名が彼を待っていて私物の受け渡しを拒否した。この記録は保存されており、米国FBIはノーマンが都留の所有物であるマルクス主義関係の書籍とアメリカ国家を裏切る書類を隠匿するつもりだったと主張したのである。
カナダのピアソン外相は、ハーバート・ノーマンの外交官としての能力を高く評価しており、米国議会で疑惑証言が相次いでも一貫してノーマンの無実を信じていた。そこで、一九五三年にニュージーランド駐在高等弁務官(大使)に任命し、その三年後にはエジプト駐在大使兼レバノン公使に任命した。
エジプトはこのとき、国際紛争の火薬庫であった。一九五六年七月二十六日、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言したのである。これに対して、イスラエル軍が十月二十九日、エジプトに進入。翌日、英・仏両国の軍隊もスエズ運河を攻撃した。これはスエズ戦争と呼ばれた。
このエジプトと英・仏・イスラエルの中間点に立って、平和解決に動いたのがカナダだった。ピアソン外相はそれまで超大国の間ですべてが決められていたのに対して、ミドルパワーという言葉を使って中堅国が国際紛争の解決にあたる必要を説いた。それは東西冷戦の論理ではなく、中小国の民族自決を認めることであった。そのために、カナダは平和監視の国連緊急軍の創設と派遣を提唱し、実行した。これで初めて米ソ以外の中小国が外交上のイニシアチブを握ったのだ。そのピアソン外相の指示のもとに、現場の第一線でノーマンは獅子奮迅の活躍の日々を送った。のちにピアソンはこの平和努力によってノーベル平和賞を授与された。
客観的にみてノーマンの活躍は外交官として輝かしい功績である。だが、そのノーマンが突然、世を去る。一九五七年四月四日、カイロのビル屋上から投身自殺したのである。ニュースは世界中に流れた。
そのニュースを知った日を、長野市で「ノーマンを記念する会」を主宰している竹内昭子(四十八歳)は昨日のように覚えている。
「中学の社会科教師が、ノーマンの父が造った県町《あがたまち》教会の方を指さして、カイロでノーマンが自殺したと教えてくれたのです。長野市の人たちのほとんどはハーバート・ノーマンがここで育ったことを知らなかったでしょう。私は県町教会へ通っていたこともあって、彼の死にショックを受け、なぜそうなったのか強い疑問を持ったのです」
ノーマンがカイロで不眠不休で平和解決の努力をしていたとき、米国の上院治安小委員会は再びノーマン問題を蒸し返していたのだ。しかも、ベイルートに参事官として赴任していたJ・K・エマソン(GHQ時代の同僚)と再会したことも、「西側諸国がエジプトを失うためのソ連側スパイによる謀議」とみなされたのである。
ノーマンは遺書のひとつにこう書いている。
「あまりにも多くの言葉が飛び交います――私は疲れはてました。
幻想が、私につきまとった弱さ、ナイーブすぎたのが私の最たる欠点でした。私は、国家の安全を侵すような行為について潔白であれば充分だと思っていました。なんというナイーブさ!」
国家に対する反逆に関して、無実だけでは不十分だったと嘆いている。FBIと米国議会の小委員会はしつように彼を追いつめていったのだ。赤狩り≠ニいうヒステリックな運動は虚構に虚構を重ねていくだけにとどまるところがなくなっていく。
では、ノーマンにとって何がまずかったのか。英国留学中にマルクス主義に接近し、ラディカルな活動をしたことである。当時のケンブリッジ大学の学生にはトロキスト系共産主義者がいた。その人たちと彼は真剣に討論し、反戦デモにも加わった。その親友の何人かはスペイン市民戦争に義勇兵として参加し、戦死している。そして、このようなラディカルな雰囲気は、理想主義の外国人宣教師や新渡戸稲造、前田多門などの親英米派知識人がリゾート軽井沢で作り上げていったものであった。ノーマンに罪があったとすれば、そんな開放的環境で生まれて育ったことに遠因があることになる。
会社寮が急増した新時代[#「会社寮が急増した新時代」はゴシック体]
もはや戦後ではない……昭和三十一年に発表された経済企画庁の「経済白書」はこう断言している。戦後の復興期は通りすぎ、世界の技術革新の波に遅れないように日本経済を改造していくという方針を示した。これが高度成長の端緒であった。
この時代に軽井沢はどんな状況だったか。いくつかの資料を重ねてみると、避暑客の中心が戦前の特権階級と明らかに異なっていることに気付く。
まず、外国人客はどうだったか。これは約一千戸の別荘のうち二百戸ほどが外国人名義なので、その家族、友人たちでつねに千人ぐらいの外国人がいたことになる。その半数は宣教師などのキリスト教関係者、残りが在日米軍将校と外交官・商人など。
これらの外国人別荘のうち、アメリカ合衆国名義のものが二軒、オーストラリア名義のものが一軒ある。これは両国の大使館が使用したようだ。
また、ボーリスが創立した近江兄弟社が十軒の別荘を所有しているほか、YMCA、同志社などキリスト教関係の名義となっている別荘は三十軒ほどになる。宣教師個人の別荘と、その所属する教団所有のものとに分離してきたのだ。
だが、この頃に外国人宣教師は徐々に減っていった。ひとつには、古くから赴任して戦後に再来日した宣教師は高齢化が進んだことにある。軽井沢に多くの別荘を持っていたエミリー・カニングハムは、戦後自らが主管となった基督教会カニングハム・ミッションを率いていたが、一九五三年、八十歳で死去した。
一八八七(明治二十)年に十九歳で日本に赴任したジェームズ・チャペルは軽井沢の中心人物のひとりだったが、一九五四(昭和二十九)年九月十六日、軽井沢で死去した。享年八十六歳。彼は軽井沢外人墓地に埋葬されている。
ダニエル・ノーマンの後継者として長野市で伝道し、戦後にララ物資の配布をしたのち農村伝道に明け暮れていたアルフレッド・ストーンは、チャペルの死の十日後に遭難死した。北海道伝道の帰りに、乗っていた青函連絡船の洞爺丸が転覆、合計千百八十三名の犠牲者のひとりとなった。彼は洞爺丸が沈み始める前に、自分の救命胴衣をそれをつけていない日本人に渡して、祈りながら波にさらわれて行ったという。
そして、戦後に来日した約二千五百名の宣教師のうちかなりは再び未開拓の発展途上国へ散っていった。布教本部からすれば、経済復興してきた日本は日本人宣教師に任せて、もっと別の国で布教させるよう方向転換した方が得策に思えたのだろう。
外国人宣教師は、夏の軽井沢に集まる理由がなくなった上に、長期の避暑をする必要もなくなった。宣教師には、大学教授と同じようにサバティカルという制度があった。これは七年ごとに一年の長期休暇(教派によっては十年に一年)を与えられて本国に帰って行く制度である。明治時代から戦前の宣教師たちはそのとき以外は本国に帰れないため、母国の人たちと語り合うために軽井沢に集まった。だが、戦後における交通機関の発達で、サバティカルをもっと簡単にとれるようになったのだ。
軽井沢在住のフィリス・チェンバレン女性宣教師は自分の例をこう語る。
「昔だったら船旅ですから、簡単に日本とアメリカを往復できなかったでしょう。でも、私が日本に来てからしばらくしてジェット機の時代になりましたから……四年ごとに半年間のサバティカルをとるようになりました。その都度、私はカリフォルニアへ帰りましたわ」
これらの複合理由によって、外国人別荘には「フォー・レント(貸家)」の看板が目立つようになる。そして、長い間、旧軽井沢で守られていた商店の日曜日休業が、この時代に崩れた。日曜日は安息を守りなさいと強く言う人が少なくなったので、稼ぎどきの週末の営業を始めたのである。
この頃の避暑人口は約三万五千人。軽井沢は外国人から日本人避暑客中心に変わりだしたのだ。
ここで日本人避暑客をみる。
政治家では鳩山一郎が中心になっている。彼は戦時中を軽井沢で過ごしたのだが、戦後も公職追放になると軽井沢にこもってしまった。これは一時的に自由党総裁の座を渡したはずの吉田茂が彼に戻さず、長期政権を維持していたことに対する不快さもあった。また、病気で一度倒れたので、そのリハビリテーションに取り組む必要もあった。
そして、二十九年十一月、鳩山は反吉田茂のスローガンのもとに日本民主党を結成。総裁が鳩山、幹事長岸信介、総務会長三木武吉で、衆議院議員百二十一名を結集させた。その翌月、自由党の緒方竹虎と民主党の鳩山一郎が首相の座をめぐって対立、左右社会党が鳩山を支持したため第一次鳩山内閣は成立した。さらに第二次鳩山内閣の後、自由党と民主党の保守合同で自由民主党となり、その総裁に鳩山が就任した。
この時代を象徴する写真が軽井沢に残っている。鳩山一郎の別荘に、大野伴睦、石橋湛山、岸信介、石井光次郎、河野一郎、三木武夫、前尾繁三郎が集まって談笑している写真だ。また、佐藤栄作がこの頃に別荘を持ち、のちに大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘など歴代の首相がその別荘を借りて避暑をするようになる。田中角栄はのちに徳川家の別荘を買収する。
こうして保守合同の後、保守政治家の夏の拠点に軽井沢がなったのである。彼らはゴルフをしながら、日本の政治や自民党内の派閥の人事などを決めていく。
ゴルフ場ではもうひとつの変化があった。戦後の復興と同時に文化的な渇きを求めるように人々は書籍を買ったのだが、これによってベストセラー作家が登場し、その人たちによって文壇ゴルフも盛んになった。石坂洋次郎、川口松太郎、川端康成、吉川英治、吉屋信子、野村胡堂、野上彰、小山いと子、円地文子、阿部知二などがこの時期に別荘や旅館に滞在している。菊田一夫、舟橋聖一、今日出海、三島由紀夫などが記した宿帳もホテルに残っている。これらのうち、出版社や新聞社の幹部が同行してグループでやって来たのが、文壇ゴルフのためだったとわかる。
それに加えて、戦後の混乱期を乗り切った古くからの別荘族も再びやって来ている。二十九年に軽井沢郵便局が造った「夏期滞在知名士名簿」から拾い出すと、細川護立、鍋島直泰、三井高維、鶴見祐輔、前田多門など。財界人では、一万田尚登、石橋正二郎、石坂泰三、石川一郎、出光佐三、大屋晋三、鹿島守之助、小林中、小坂順造、正田貞一郎、白洲次郎、御木本隆三、水野成夫、山下太郎など。
このうち、石川一郎は経団連会長、石坂泰三は日本生産性本部会長であった。ここで政界、財界、知識人のトップ・グループが夏には軽井沢に集団移動したことになる。
また、皇室では皇太子と義宮が千ケ滝プリンスホテルに毎夏滞在、清宮は二四八五別荘に、三笠宮は二一七七別荘に滞在していた。
こうして日本のトップたちが集まれば、それと一緒にマスコミもやって来る。ここで改めてリゾート軽井沢のイメージが構築されていく。緑溢れる高原、広い別荘、テニスコートやゴルフ場でのつきあい。明るく、開放的な雰囲気で、ロイヤル性もある。だが、すでに特権階級のものではない。誰でも努力すればそれが入手可能なリゾートだ。これは戦後民主主義と一緒に入り込んだアメリカ式サクセス・ストーリーと結びつく。
それはリゾートが上流からミドルクラスへ、そして大衆化へ進む前兆であった。だから、この時代に軽井沢で一番変わったのは、戦後に急成長した企業のトップの地位にいる人の別荘が増えたことである。軽井沢に別荘を持つことは一流企業の象徴となったのだ。また、万平ホテルやつるや旅館には証券会社、広告代理店、貿易商社、製糖、運輸、薬品、石油などの業界のトップたちがグループで泊まっている。これは朝鮮戦争特需で急成長した業界が接待ゴルフをしだしたからである。社用族という言葉がこの時代に生まれた。つまり、企業トップの社交場となったのだ。ここから、日本生産性本部の「トップセミナー」が主要企業の経営者を集めて三十三年夏より毎年軽井沢で行われだした。
ブルジョワジーの夏の休息所から、組織人間の仕事の延長であるつきあいの場へと転換したことを意味する。それでも政財界のトップが集まることから、グレードの高いリゾートの地位を保った。それがさらに付加価値となって上昇志向を持つ人たちをひきつける。
このためもあってか、会社寮が急増している。この時期に、三菱商事などの商社、八幡製鉄などの鉄鋼業、富士銀行など金融証券業界などの寮が三十軒ほどになった。学校寮も増えている。これらは斜陽となった旧華族、戦前ブルジョアの別荘を買い取り、法人所有にしたのである。
では、戦前の別荘族の自治組織だった財団法人軽井沢会はどうなったのか。この二十九年の「ハンドブック」のはしがきにこう書かれている。
「戦時中ながい間廃刊されていた本書は、戦後本会の活発な覚醒にともなって再び刊行が復活されました。種々な悪条件にもかかわらず不充分ながら再発足をしましたが、その内容の貧弱と数多くの誤謬が後になってわかりました。本年こそはと諸賢のご声援とご協力とに応えるために、編集に一層の念を入れてみましたがまだまだ化粧直しの程度を超えない慨があるようで申し訳ありません」
会員名簿である「ハンドブック」が戦後九年すぎてもまだ万全とはいえなかったのである。これは別荘の持ち主が戦中、戦後の混乱でかなり不明となっており、軽井沢会の会費も未納だった人が多かったせいだろう。
それでも、役員名がこの会の性格をよく表している。理事長が一柳米来留。つまり、日本に帰化した米国人ウイリアム・ボーリスである。副理事長にO・D・ビックスラーと武富敏彦。軽井沢会テニスコートはその庭球部が管理・運営していたのだが、その委員長は朝吹磯子。また、三十年前にダニエル・ノーマンなどの努力で造られた軽井沢会診療所には慶応大学病院の葉山新蔵を迎えて、一年を通して開業していた。この病院の運営委員は日本人六名、外国人四名。この役員は三十一年に理事長が柏原孫左衛門になるなどいくつかの変更はあるものの、外国人を加えて組織している点では変わりがない。
日本式リゾート[#「日本式リゾート」はゴシック体]
内外人のトップクラスばかりだと老化した避暑地に見えてしまう。だが、実際には若々しい雰囲気に包まれていた。
そんな情景を浦松佐美太郎のルポ記事「日本拝見・軽井沢」(週刊朝日・二十九年八月二十二日号)で見て取れる。
「宣教師の至って粗末で地味な服装に比べて、派手で目につく洋装は、別荘人種の洋装である。まず女は、ここではペダル・プッシャーズ(スラックスをひざの下あたりで切ったようなもの)をはかないといけないらしい。わざわざ軽井沢ではくために作ってきたのだろう、仕立ておろしといったペダル・プッシャーズにいくらもお目にかかる。……その次は、後から見たら上は半そでのジャケットを着て、下は何もはかないで歩いているような若い女性の風俗である。下は何もはかないのではなく、ごくごく短いパンツをはいているのだが、あまり短いので後からは上衣に隠れて何も見えないのだ。そして上衣は赤が軽井沢の流行色らしい」
サイクリングをするために、素足にホットパンツをはき、明るい色のジャケットを着ていたものらしい。当時の最先端のリゾート・ファッションである。大胆で、刺激的だ。誰でも開放的な空間に来れば思い切りくつろぎ、身軽な服装になりたいものだ。
だが、ほかのリゾートと軽井沢はどうちがったのか。それを古くから別荘を持っている渡辺正廣(七十五歳、洋販会長)に訊いた。彼は田安徳川家の系譜につらなる雅子《のりこ》夫人と、二ヵ月たっぷり軽井沢で夏を過ごすというライフスタイルを保っている。忙しい現代ではこんな長期滞在が珍しいことになってしまった。
「この別荘は昭和八年に父(渡辺水太郎・日本郵船副社長)が買ったもので、新渡戸稲造別荘(現存せず)から流れる小川が敷地のなかを流れている。その小川には天然の鱒《ます》が泳ぐ。こういう自然はほかでは手に入りませんね。
また、別荘の人と地元の人が親類のように仲よくつきあっている。夏祭りの日にはつきあいのある地元の人からいくつも花豆おこわが届く。こういう心の触れ合いがあるから高級リゾートになりえた。これこそが軽井沢の財産ですよ」
八月二十日が軽井沢の諏訪神社の祭りの日である。この日に地元では、赤飯の代わりに花豆(花ささげ)を使ったおこわをたいて親しい人や隣近所に配る風習がいまも続いている。「そして、老若男女共存している点がいい」と渡辺は四千坪の敷地のなかを歩きながら笑って続けた。
「老人ばかりだと寂しい空間になってしまいますよ。でも、ここの旧軽銀座へ行けば若者が溢《あふ》れている。若い人たちはこういう自然のなかで、テニスをし、語らい、ロマンスを芽生えさせる。そんなロマンスを見て、私たちはほほえましく感じ、人生の楽しさを味わうのです」
こういう別荘客の声に応えるように、三十年頃から老舗のつるや旅館のフロントに立ってきた佐藤太郎(六十八歳)は語る。
「避暑に来るお客さんに、いかに安い料金でくつろいで過ごしていただけるかを経営のポリシーにしてきました。ですから、まだ売れない作家たちは好んでウチに泊まりました。こんな人たちが、売れっ子作家になって、やっと自分の別荘が買えたよ、と大喜びで報告に来たものです。そんな作家は、おれはつるや卒業生≠セと名乗りましてね。
親が子どもを連れて来る。その子どもが大きくなって、さらに自分の子どもを連れて来る。そんな二代、三代と続いている常連客で夏は毎年満員です。春や秋も週末や祝日は満員になる。リピーター(常連客)の年齢層が各世代にわたっているので、このリゾートの老化を防いでいるのでしょう。
問題は高度成長期以降に発生した別荘ブーム、リゾート・ブームにあるのです。私どもは、どん底の冬の時代を知ってますが、若い人はそれを知らない。土地の値段が高騰すると浮き足だってしまう……リゾートとして本当によかったのは昭和三十年前後までですよ」
三十三年に約二千軒だった別荘は、三十九年に三千軒を超し、四十三年に四千軒を突破する。皇太子(当時)と正田美智子のテニスコートのロマンス≠ニして婚約が発表されたのは三十三年であった。
「三十年頃に、戦後民主主義のモデルが軽井沢で形作られていったんです。皇太子のお妃選びにあたった小泉信三がウチに泊まって、開かれた皇室になるように学友と一般市民の生活・習慣を殿下が身につける教育をしてましたね」と、もう一軒の老舗、万平ホテルの佐藤邦明総支配人は言う。
「また、軽井沢のリゾート客の層をみていくと、世界のパワー・ポリティックスがよくわかる。万平ホテル創業の頃はイギリス人が中心だった。それが、戦前のアメリカ人、戦時中のドイツ人と変わった。戦後は再びアメリカ人になり、次いで日本企業のトップの人たち。つまり、戦後の軽井沢の発展は、日本株式会社が世界経済のなかで高度成長していったのと歩調を合わせていたのです」
社用族による接待ゴルフ、会社寮、そしてトップ企業の経営者たちの別荘……こうやって考察していくと、戦後の軽井沢にはエコノミック・アニマルと呼ばれた日本経済のバイタリティに似たものを感じる。個よりも集団重視であり、休息の場もまた仕事の延長にしてしまうのだ。日本式経済がもたらした日本式リゾートといえる。
サイクリングの若者もやって来ない軽井沢外人墓地を、夏の喧騒が終わった季節に私は再び訪れる。その墓地に眠る外国人は、明治時代から、日本の近代化、国際化、民主化につとめた。だが、それ以上に、彼らは避暑、リゾートというライフスタイルを教えたのだ。彼らにとってリゾート軽井沢に来ることは、個に返ることであり、自分自身を見つめ直す時間であった。生産や労働から解放され、人間らしさを取り戻す空間だったろう。開かれた時間、空間である。
楓《かえで》、ナナカマド、モミジなどが墓地の周囲で鮮やかな色を描いている。自動車で移動する人が多くなり、そんな豊饒な彩りを見ることなく通り過ぎて行く。自分の足で歩いてこそ、モミジなどのそれぞれの色合いを楽しむことができる。
約八十年前に、イギリス女性のエリザベス・フィリップス(日本女子大教授)はこう書いた。
「軽井沢と呼ぶ名は、平和と休養と信仰の思い出を語るのである。偶然に二、三日軽井沢に泊まる人は、ただ稠密《ちゆうみつ》した村の街道を瞥見しただけで、何の印象もなく通り越してしまう。
しかし軽井沢が、学生や教師そのほか繁忙なビジネスマンにとって、一種独特の吸引力をもっているのは非常なものである。なぜかといえば、『吾々は調和の力で静かになった眼を開き、喜びの深い力をもって、すべてのものの命まで見ることができる』からである」
精神を落ち着ける空間であり、それゆえにすべての生あるものの尊さを知る洞察まで身につくと言い切っているのだ。これは明治日本に在留していた外国人の共通認識だったろう。そして、それが「娯楽を人に求めずして自然に求めよ」というスローガンになったのだ。
フィリップス教授自身は、日本女子大創立から長期間教えていたが第二次世界大戦開始によって本国へ帰国して行った。戦後は高齢のためついに再来日できなかった。
だが、彼女と一緒に軽井沢の夏を過ごした外国人の友人たちは、異境の地で没した。自然と対峙《たいじ》して、神の恩寵《おんちよう》を感じ、生の躍動を享受したように、四季の彩りに満ちた軽井沢の墓地に葬られている。
そんな外国人墓地に眠る人たちは、日本式リゾートに変化した軽井沢をどう見ているのだろうか。十字架の上を、音もなく、落葉が舞っている。
[#地付き]完
[#地付き](引用文の一部を現代かな遣いに改めました。)
[#改ページ]
主要参考資料[#「主要参考資料」はゴシック体]
●軽井沢史関係[#「軽井沢史関係」はゴシック体]
『かるゐざわ』佐藤孝一(初版/教文館、再版/丸善、復刻版/国書刊行会)
『軽井沢別荘史――避暑地百年の歩み』宍戸実(住まいの図書館出版局)
『現代世界思潮』(警醒社)
『軽井沢の今昔』坪谷水哉(「太陽」大正二年九月号)
『軽井澤今昔物語』(旅と信濃社)
『かるいさわ 郷の華一〜六集』土屋長平(私家本)
『文壇資料 軽井沢』小川和佑(講談社)
『火の山の物語』中村真一郎(筑摩書房)
『佐藤万平八十年記念誌』(私家本)
『先祖を想う―続篇』佐藤芳寿(私家本)
『軽井沢物語』佐藤不二男(軽井沢書房)
『やまぼうし 星野温泉のあゆみ』星野嘉助(星野温泉)
『碓氷峠 歴史と観光』水沢邦ロ(私家本)
『明治以後の軽井沢小観』春原平八郎(長野県)
『軽井沢百年の歩み』島崎清(私家本)
『軽井沢と附近の名所』泉寅夫(中信毎日新聞社)
『大軽井沢の誇り 草津温泉の誉れ』稲垣虎次郎(軽井沢町)
『町誌軽井沢』泉喜太郎(軽井沢町誌編纂会)
『軽井沢避暑地一〇〇年』中島松樹編(国書刊行会)
『ハンドブック』(軽井沢会)
『軽井沢町誌・歴史編』『同・民俗編』(軽井沢町誌刊行委員会)
●お雇い外国人、宣教師関係[#「お雇い外国人、宣教師関係」はゴシック体]
『ディクソン特集』(「英語青年」昭和八年十二月号)
『夏目漱石全集』(岩波書店)
『A・C・ショーの来歴とその建築の研究』宍戸実(T/日本女子経済短大研究論集第42号、U/嘉悦女子短大研究論集第43号)
『A・C・ショオの研究(出自と日本赴任)』宍戸実(嘉悦女子短大研究論集第45号)
『A・C・ショー先生の生涯』服部禮次郎講演(軽井沢ロータリークラブ)
『英国公使夫人の見た明治日本』メアリー・フレイザー、横山俊夫訳(淡交社)
『霧と幻』メアリー・フレイザー、瀧澤恵美子訳(鱗形屋)
『維新の港の英人たち』ヒュー・コータッツィ、中須賀哲朗訳(中央公論社)
『ザ・ヤトイ――お雇い外国人の総合的研究』(思文閣出版)
『お雇い外国人 概説』梅渓昇(鹿島出版会)
『お雇い外国人 教育・宗教』重久篤太郎(鹿島出版会)
『資料御雇外国人』ユネスコ東アジア文化研究センター編(小学館)
『日本海軍お雇い外国人』篠原宏(中公新書)
『日曜叢誌』(明治二十三年九月一日号)
『キリスト教信越伝道史――ウォーラー長老、伝道の軌跡』牛山雪鞋(銀河書房)
『日本アルプス――登山と探検』ウェストン、岡村精一訳(角川文庫)
『デレーケ研究』4号、5号(デレーケ研究会)
『台町教会報・高輪教会月報』明治三十九年〜昭和二年(高輪教会)
『カナダ聖公会・宣教団の伝道――東方の帝国の島』J・C・ロビンソン、大江真道訳(日本聖公会中部教区)
『先達たちのあしあと』(日本聖公会中部教区)
『日本キリスト教史』海老沢有道・大内三郎(日本基督教団出版局)
『日本プロテスタント・キリスト教史』土肥昭夫(新教出版社)
『明治人物拾遺物語』秋山繁雄(新教出版社)
『外人墓地に眠る人びと』太田愛人編著(キリスト新聞社)
『信州教育とキリスト教』塩入隆(キリスト新聞社)
『キリスト教保育に捧げた人々』(キリスト教保育連盟)
『明治キリスト教の流域』太田愛人(築地書館)
●学校史[#「学校史」はゴシック体]
『小諸義塾の研究』高塚暁(三一書房)
『東洋英和女学院百年史』(東洋英和女学院)
『図説・日本女子大学の八十年』(日本女子大)
『日本女子大英文学科70年史』(同編集委員会)
『立教学院百年史』(立教学院)
『明治学院九十年史』(明治学院)
『青山学院九十年史』(青山学院)
『頌栄女子学院百年史』(頌栄女子学院)
『女子学院の歴史』(女子学院)
『中央大学七十年史』(中央大学)
『関西学院グリークラブ史』(関西学院)
●歴史事項関係[#「歴史事項関係」はゴシック体]
『日英同盟の軌跡』黒羽茂(文化書房博文社)
『イギリスとアジア』加藤祐三(岩波新書)
『帝国大学の誕生』中山茂(中公新書)
『福沢諭吉』会田倉吉(吉川弘文館)
『夏の夢 日本の面影』末松謙澄(育英堂)
『ポーツマスへの道――黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』松村正義(原書房)
『尾崎三良自叙略伝』尾崎三良(中公文庫)
『尾崎三良日記』尾崎三良(中央公論社)
『伊藤博文』中村菊男(時事通信社)
『西園寺公望自傳』木村毅(大日本雄辯会講談社)
『桂太郎と日露戦争将軍たち』豊田穣(講談社)
『尾崎咢堂全集』(公論社)
『尾崎行雄』伊佐秀雄(吉川弘文館)
『鹿島建設の歩み――人が事業であった頃』小野一成(鹿島出版会)
『大隈重信』渡辺幾治郎(時事通信社)
『新渡戸稲造』蝦名賢造(新評論)
『新渡戸稲造傳』石井満(関谷書房)
『新渡戸稲造研究』東京女子大新渡戸稲造研究会(春秋社)
『後藤新平』鶴見祐輔編著(後藤新平伯傳記編纂会)
『島田三郎伝』高橋昌郎(まほろば書房)
『小原直回顧録』小原直(中公文庫)
『テニス明治誌』鳴海正泰(中央公論社)
『わがマンロー伝』桑原千代子(新宿書房)
『海のレクイエム 宣教師A・R・ストーンの生涯』新堀邦司(日本基督教団出版局)
『失敗者の自叙伝』一柳米来留(近江兄弟社)
『ヴォーリズの建築』山形政昭(創元社)
『長野のノルマン』ハワード・ノーマン(福音館書店)
『開拓者精神の流れ』カサリン・ノルマン(長野中央教会)
『ハーバート・ノーマン全集』(岩波書店)
『H・ノーマン』中野利子《リブロポート》
『オリンポスの柱の蔭に――ある外交官の戦い』中薗英助(毎日新聞社)
『未完の占領改革』油井大三郎(東大出版会)
『新外郎』グレン・W・ショー、奈倉次郎(三省堂)
『三井財閥史』拇井義雄(教育社)
『自叙益田孝翁伝』長井実編(中公文庫)
『華族制度の研究』酒巻芳男(霞会館)
『華族譜要』(大原新生社)
『徳川義親の十五年戦争』小田部雄次(青木書店)
『外交五十年』幣原喜重郎(中公文庫)
『ある華族の昭和史』酒井美意子(講談社文庫)
『八十年を生きる』朝吹磯子(読売新聞社)
『私の軽井沢物語』朝吹登水子(文化出版局)
『わが心の軽井沢』朝吹登水子編(軽井沢を語る会)
『近衛文麿』矢部貞治(時事通信社)
『近衛内閣』風見章(中公文庫)
『近衛日記』(共同通信社)
『情報天皇に達せず』細川護貞(同光社磯部書房、復刻版「細川日記」中公文庫)
『木戸幸一日記』木戸幸一(東京大学出版会)
『明治・大正・昭和政界秘史』若槻禮次郎(講談社学術文庫)
『伊沢多喜男』(羽田書店)
『小坂順造』(小坂順造先生伝記編纂委員会)
『想い出・小坂花子』(私家本)
『回想――欧州の一角より見た第二次世界大戦と日本の外交』大久保利隆(私家本)
『暗黒日記』清沢洌(評論社)
『原寛博士追悼の記』(私家本)
『機密兵器奮竜』内藤初穂(図書出版社)
『軽井沢夏期大学30周年記念誌』(軽井沢町教育委員会)
『軽井沢ゴルフ倶楽部60年史』(軽井沢ゴルフ倶楽部)
『旧軽井沢ゴルフクラブ開場60年記念』(旧軽井沢ゴルフクラブ)
『昭和憲兵史』大谷敬二郎(みすず書房)
『特高警察体制史』荻野富士夫(せきた書房)
『滞日十年』ジョセフ・グルー、石川欣一訳(毎日新聞社)
『叱る』堤康次郎(有紀書房)
『苦闘三十年』堤康次郎(三康文化研究所)
『堤康次郎傳』筑井正義(東洋書館)
『西武王国』上之郷利昭(講談社文庫)
『ミカドの肖像』猪瀬直樹(小学館)
『マッカーサーの二千日』袖井林二郎(中公文庫)
『日本占領』児島襄(文春文庫)
『象徴天皇制への道』中村政則(岩波新書)
『天皇がバイブルを読んだ日』レイ・ムーア編(講談社)
『皇太子の窓』エリザベス・グレイ・ヴァイニング、小泉一郎訳(文芸春秋)
『天皇とわたし』エリザベス・グレイ・ヴァイニング、秦剛平・和子訳(山本書店)
『ノンフィクション皇太子明仁』牛島秀彦(朝日新聞社)
『ニッポン日記』マーク・ゲイン、井本威夫訳(筑摩書房)
『ライシャワー自伝』エドウィン・O・ライシャワー、徳岡孝夫訳(文芸春秋)
『絹と武士』ハル・松方・ライシャワー、広中和歌子訳(文芸春秋)
『日本占領の研究』坂本義和、R・E・ウォード編(東大出版会)
『吉田茂』細川隆元(時事通信社)
『鳩山一郎』宮崎吉政(時事通信社)
『泡沫の三十五年』来栖三郎(中公文庫)
『神谷美恵子著作集』(みすず書房)
『二百万人の勝利』(浅間山演習地化反対期成同盟)
『軽井沢を守った人々』田部井健次(三芳屋)
『思い出のアルバム 軽井沢』幅北光(郷土出版)
『軽井沢ものがたり』幅北光(信濃路)
●リゾート関係[#「リゾート関係」はゴシック体]
『リゾート列島』佐藤誠(岩波新書)
『地上楽園バース』小林章夫(岩波書店)
『貴族の風景』水谷三公(平凡社)
『路地裏の大英帝国』角山栄・川北稔編(平凡社)
『フランス人民戦線』ジャック・ダノス、マルセル・ジブラン、吉田八重子訳(柘植書房)
『ブルジョワ・ユートピア』ロバート・フィッシュマン、小池和子訳(勁草書房)
『開かれた時間』ジャン・フラスチェ、小関藤一郎訳(川島書店)
『余暇と祝祭』ヨゼフ・ピーパー、稲垣良典訳(講談社学術文庫)
●年表等[#「年表等」はゴシック体]
『信濃毎日新聞』マイクロフィルム
『明治ニュース事典』(毎日コミュニケーションズ出版部)
『日本キリスト教歴史大事典』(教文館)
『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ)
『基督教年鑑』(キリスト新聞社)
『講座日本歴史』第七〜十二巻(東大出版会)
『日本の歴史』第二十〜二十六巻(中公文庫)
『近代日本総合年表』(岩波書店)
『長野県政史』(長野県)
『長野県史』(長野県)
●英文参考資料[#「英文参考資料」はゴシック体]
「Missionary Outlook」1881〜1921《マイクロフィルム》
「South Tokyo Diocesan Magazine」
「The Japan Evangelist」
「The Japan Weekly Mail」
「Innocence Is Not Enough――The Life and Death of HERBERT NORMAN」Roger W. Bowen, Douglas & Mcintyre.
「E. H. Norman――His Life and Scholarship」Roger W. Bowen, University of Tronto Press.
「The Nojiri Experience 1920〜1985」Lloyd Neve.(私家本)
「The Prints of PAUL JACOULET」Richard Miles, Robert G. Sawens Publishing.
▽写真提供者(敬称略)
土屋写真館。中島松樹。りんどう文庫。井口昌平。万平ホテル。佐藤芳寿。塩入隆。竹内昭子。山本直光。相馬雪香。朝吹登水子。徳川喜和子。実吉利恵子。大江真道。浦谷道三。上林國雄。星野温泉。前田郷。山浦春太。青沼茂幸。田中充※[#「白+令」、unicode768a]子。小川道彦。池田哲夫。つるや旅館。世界文化フォトサービス。
[#改ページ]
文庫版あとがき
軽井沢は、いま、リゾートとして存続するか、東京の通勤圏にある一都市になるのか――重大な岐路に立っている。
交通網の発達が、その変化を迫っているのだ。一九九三年三月、上信越自動車道が東京から軽井沢に延びた。これによって渋滞に巻き込まれなければ、都心から一時間半ほどで軽井沢に行けるようになった。
そして、長野五輪が開かれる九八年までには、北陸新幹線が東京―長野を開通する見通しだ。これによって、軽井沢まで一時間で行けるようになるので東京へ通勤することも不可能ではなくなる。
交通の便はよくなる。通信は電話料金の引き下げ、ファクシミリの普及によって、どこにいてもあまり変わらなくなる。
こうなれば、かつて「高度千二百メートルの碓氷峠を越えて、冷涼な高原にやってきた」という別天地の感動はなくなる。東京からほんのちょっとのところにある涼しい都市というイメージになってしまう。
それを象徴するようなできごとが進行している。明治時代に造られた洋館二棟が相次いで取り壊されようとしている。まず、旧軽銀座にあった軽井沢郵便局(現・軽井沢町観光会館)が老朽化のために、新しい建物にすることに決定した。次に、明治政府の要人たちを迎えるために二階に貴賓室を持っていた軽井沢駅舎が、老朽化と新幹線にふさわしい駅舎にという方針で取り壊される予定だ。どちらもリゾート文化の象徴的建造物なので保存すべしという市民の声もあって、前者は民間人が払い下げてもらって移築することになったが、後者の保存運動は成功していない。古い木造洋館を外観そのままに改築するためには、新築するよりも経費がかかってしまうためだ。
それでも軽井沢町が、自然と景観を残すことに努力していることを評価するべきだろう。北軽井沢と呼ばれる群馬県側の浅間山麓では規制がないため、高層マンションが造られている。これに比し、軽井沢町には三階以上の建物は少ない。町が七二年に独自に制定した自然保護要綱によって、商業地区でも別荘地区でも建蔽率《けんぺいりつ》と高さ制限をきびしくしている。わかりやすくいえば、これによって森林の樹木に家屋が隠されることになる。これは行政指導だが、それに逆らって高層建築をする人はいない。
だが、目に見えないところで、リゾート喪失への道を辿っている気配もある。
バブル経済の崩壊後、別荘地売買がとまってしまった。バブル華やかなりしときには一坪八百万円で売ったと噂された土地もある。だが、いまは遺産相続などによって売りたいと思う人は多いものの、景気低迷のため、買い手がつかない。これまで、最終的に銀行、証券会社などが買っていたのに、そういう金融関係も手が出せなくなっている。
このリゾート喪失を暗示するような水面下の動きが、現実にわかってくる例もある。歴代の首相の多くは、軽井沢に別荘を持った。土地の登記謄本から拾っていくと、鳩山一郎、佐藤栄作、田中角栄、中曽根康弘、宮沢喜一、細川護煕の別荘地が探しだせる。
このうち、田中角栄の場合がおもしろい。彼は自民党幹事長の当時、軽井沢ゴルフクラブに行ってゴルフしようとしたとき、「会員ではありませんから」と断わられて怒り狂ったというエピソードがある。長い間、軽井沢に憧れていたのだ。七一年に、水戸徳川家の別荘地約六千二百坪を取得。その翌年に首相になっている。
だが、七六年にロッキード事件で逮捕された。このとき、四億円の所得税滞納のために別荘地は「差し押えをしないことの求めにより」、大蔵省が抵当権を設定したのである。
これは田中元首相がロッキード社から賄賂を受け取っていないと主張し、ゆえにその分の所得税は払う必要がないと申し立てていたことによるものだ。その所得税を払う代わりに、大蔵省に抵当として別荘地を差しだした形になる。
この別荘地は軽井沢でも一等地である。実際に売買すれば百億円前後の金額になるといわれる。このため、田中角栄の死後、遺産を相続した田中真紀子は、ロッキードからの授受を認めるわけではないが放っておくと延滞税が増えるので本税分だけ納付すると、四億円を九四年三月に納付した。
もうひとり、別荘地を政界再編成の錬金術に使った人がいる。細川護煕である。祖父の細川護立が大正時代に買った約一万坪の別荘地を細川護貞などが相続。それを、八五年に細川護煕が買いとった。ここまでは不思議なことはない。
しかし、この土地を抵当にして、九二年六月、富士銀行から五億円、翌年三月にノンバンクのオリックスから二億円を借りた。この合計七億円が、日本新党に旗上げ資金として貸しつけられている。
細川護煕は、首相に就任した直後、軽井沢の別荘で記者会見に応じていた。このときの別荘は七億円の抵当に入っているものとちがうのである。千ケ滝にある約六百坪の別荘で、八六年に国土計画から買い、ホソカワ&アソシエイツ名義にしている。この購入価格が相場より安すぎるという疑惑も呼んでいる。
このように、緑におおわれた別荘地が一挙になまぐさい政治とからんできているのだ。億単位の金額の抵当に入れるということは、それだけの資産価値があることを示すとともに、場合によっては抵当流れになってもよいという認識を持っていることを裏付ける。住んでいる土地ならありえないが、別荘地は手放しても困らない。うまく行けば、抵当に入れた以上の値段で買いたいと申し出る人が現われるかもしれないから、そのときに売ればよいという計算が働くはずだ。
ここには資産としての価値基準が働き、リゾートに対する愛着は感じられない。別荘所有者からリゾート思想の崩壊が始まっている。
リゾート軽井沢の歴史を改めて振り返ってみる。初期の外国人避暑客は「平和の理想郷」を意図したのだが、奇妙なことに戦争ごとを節目としてこの地は大きく発展して来ている。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦でそれぞれ成長し、第二次世界大戦で大きく変容した。これは戦争が日本の近現代史の節目になっていることと、日本資本主義の発達と密接に関連しているからであろう。
もっとも、この著書で書き進めるのをあえてやめた日本経済の高度成長期以降は、戦争に関係ない。戦後の平和憲法のもとで、富を蓄積し、消費経済を発展させ、ミドルクラス意識を人々が持つことによって、アメニティー(快適さ)を求める空間として軽井沢は発展して来たのだ。
だが、世界的にみても近代リゾートの発展は戦争とからんでいる。一般的にリゾートとして直ちに連想するアメリカのマイアミは、第一次大戦の好景気によって造成された。また、自然のなかでその恩恵に浴しながら休暇を過ごすためのアメリカの国立公園サービス法(世界最初の国立公園法)は一九一六年に制定されている。
そして、地中海のリゾートは、第一次大戦の終わりにアメリカ兵約六万五千人が療養と休養のためにリビエラに派遣されたことで一躍脚光を浴びた。それまで貴族とブルジョワジーの保養地にすぎなかった空間が、ヨーロッパ的中流階級のライフスタイルに憧憬を持つアメリカ人によって再発見されたのだ。
この地中海型リゾートは、大恐慌によって一時的に停滞するが、一九三六年のフランスの人民戦線政府によって一挙に大衆化した。レオン・ブルム内閣は、政策の目玉として週四十時間労働と、年間二週間の有給休暇の「バカンス法」を制定した。
この一九三六年夏に、初めて何百万人の労働者が工場やオフィスを離れて、太陽がいっぱいの地中海へ向かったのだ。このときの感慨をレオン・ブルムはこう書いている。
「私は在職中に、大臣室からあまり外に出なかったが、外出したり、パリの大通りを横切ったりするたびに、おんぼろ車やオートバイが通りをびっしり埋めているのを見るたびに、また余暇という観念が自然で単純な一種の気取りをめざめさせたことを示すおそろいのコートを着た労働者のカップルが乗る相乗り自転車を見るたびに、私はこの困難で暗い人生に、何はともあれ、つややかさと明りをもたらしたという感じを受けた。われわれは彼らをキャバレーから引き離したばかりではなく、また彼らの家庭生活を容易にしただけではなく、未来への展望を開いてやり、彼らに希望を作りだしたのだ」
この「バカンス法」は人民戦線政府が倒れても継続し、フランス人に夏は地中海でバカンスを過ごすというライフスタイルを定着させた。これは一九七九年に四週間のバカンスになり、八七年から五週間に拡大された。
ヨーロッパ各国はこの「バカンス法」を相次いで制定した。現在のヨーロッパ各国をみると、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、オーストリアが年間五週間、イタリア、ベルギーなどは四週間、ドイツなどは三週間の年次休暇が法律または労働協約によって認められている。イギリスは法的規定をしていないが、八〇パーセントの労働者が四週間以上の年次休暇を過ごしている。彼らはこの長期休暇を真夏にまとめてとる。
この一方、日本政府はようやく「バカンス法」を検討しだしたところである。日本人は働きすぎという国際的な批判に対応して、夏に有給の長期休暇をとることを制度化しようとしている。
こんな時代にリゾート法による大規模プロジェクトが展開しだしている。リゾートという言葉が、開発業者による投機目的に使用されている。バブル崩壊後、このリゾート・ブームは失速し、いくつかのプロジェクトは失敗した。でも、リゾート幻想は残っている。あえて極論すれば、リゾート法とバカンス法は拮抗する。リゾート法はハード志向の発想である。モノや分譲地を造ることを狙っている。これに対してバカンス法は長期休暇を保証するものである。こちらはソフト志向の発想である。リゾートに行かないで、自分のための勉強や休養に使ってもよいのだ。バカンスは人間らしさを獲得する時間として各人が自由に使えばよいのである。
リゾート軽井沢の歴史をノンフィクションとして書こうと企画したとき、そこに避暑客のドラマと地元の反応があったはずだと予測していた。これは最初あいまいな予感にすぎなかった。それを調べていくうちに、実に多くのドラマがあることを知った。その眩しさにめまいを感じるほどだ。明治二十年頃にやって来た若い外国人カップルたち。その人たちが感じた真夏の草いきれ。風の音。小川のせせらぎ。そこから始まって、百年を超す歴史のなかに数々の感動とドラマがあり、それに関係した人々の思いが蓄積していった。
そして、軽井沢は日本の近代化と国際化に直接かかわっていた。これも避暑地という土地柄からある程度の関係は予想していたのだが、これほどダイレクトに近現代史とからみあっているとは知らなかった。かつての寒村が、夏という時期に日本近代化の縮図となっていたのだ。
ここには、高度千メートルという標高の利点がある。千メートルの高みにいて、その空をあおぐ。夜ならば手が届くような高さに満天の星。それが空の果てしない広がりを感じさせ、地球規模の発想を生じさせる。自然保護、平和主義、国際性、女性中心の文化……軽井沢の雰囲気はこうしてかもしだされたのだ。
この歴史発掘作業はいくつかの幸運と数多くの支援によって進められた。まず、長野県で圧倒的シェアを持つ信濃毎日新聞の朝刊文化欄で、一九八九年八月一日より九〇年十二月末日まで、百九十回の断続連載ができたこと。人名を挙げていく。「後にペンペン草も生えないほど徹底的にやりましょう」と全面的にバックアップして下さった瀬木潔取締役編集局長。企画を強力に推して下さった柄沢幸宣文化部長。実際に担当して毎回細かく電話でチェックして下さった三島利徳文化部次長。また、写真撮影や大量の古い写真の複写をやって下さった写真部員と、終始励まして下さった小松紀基写真部長。調査部、東京支社報道部、佐久支社、軽井沢支局の協力もあおいだ。
次の幸運は、信濃毎日新聞の明治六年からのマイクロフィルムを丁寧に検索できたことである。これは塩入隆教授(長野県短大)が所有する「ミッショナリー・アウトルック」のマイクロフィルムについてもいえる。塩入隆教授の助言と、そのマイクロフィルム検索という面倒な作業を手伝ってくれた北原芳恵さんの熱意がうれしかった。
さらに、新聞連載という形態によって数多くの読者の反響や資料提供が得られたことだ。このなかで、特に五名の強力な援軍を得た。故一条重美が収集した膨大な史料を提供して下さった一色文枝さん。個人的コレクションを借用させてくれた中島松樹氏とりんどう文庫の大久保保氏。古い土地台帳から別荘所有者を拾いだすという大変な労をつとめてくれた依田竜治氏。関係文書をあちこちから集めてくれた岡部忠英氏。
タイミングもよかった。明治時代、両親と一緒に幼児期に避暑した人たちが証言者として健在だった。すでに高齢になっているため、取材した後に病に倒れた方が何人もいる。辛うじて証言を集めることが間に合ったのだ。なお、本文中の登場人物の肩書き、年齢は九一年三月のままにさせて頂いた。
また、多忙のなかを取材に協力し、資料を呈示し、古い写真を貸して下さった人たちに心よりお礼を言いたい。特にコメントや資料を頂きながら本文中に書く機会を失した人たちに、おわびすると同時にここに名前を列記することで謝意を表したい(敬称略)。
秋山繁雄、佐渡谷重信、小坂健介、実吉利恵子、山本直久、松田智雄、英修道、柏倉達夫、垣内茂、稲垣守臣、森本ヤス子、佐藤次郎、佐藤信衛、田中巌、柳澤廣、藤巻進、池田哲夫、小川道彦、北沢英雄、田中充※[#「白+令」、unicode768a]子、渡辺重義、関口朝司、サカエ・スタンジ、小山騰、開發秀三、国土計画、ホテル鹿島ノ森、塩壺温泉ホテル。また、軽井沢町の教育委員会、観光商工課、税務課、総務課、図書館、資料館、植物園などや数多くの町の人々の協力も受けている。
単行本化にあたっては、講談社の田代忠之学芸局長、担当編集者の松岡淳一郎学芸第二出版部副部長のご尽力に深く感謝する。
文庫版では、生越孝文庫出版部副部長に大変お世話になった。心より謝意を表したい。
一九九四年六月一日
[#地付き]宮原安春
(写真の多くを省略しました。)
この作品は一九九一年四月、講談社より刊行されたものです。本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九四年七月刊)を底本としました。
*
[著者]宮原安春
一九四二年長野県戸倉町生まれ。早稲田大学露文科中退。ノンフィクション作家として週刊誌、新聞などに寄稿、音楽評論でも活躍している。主な著書に『誇りて在り――「研成義塾」アメリカへ渡る』『エッジを疾る――異文化を拓く人びと』『神谷美恵子 聖なる声』『祈り 美智子皇后』『信濃に生きる――長寿の里を訪ねて』などがある。