『メフィストの魔弾』 嬉野秋彦
徳間書店 2005年6月30日初版
登場人物
明神ひさぎ 正業は有能なBL文庫編集者。
副業の殺し屋に変貌する際には女装となる。
恐怖を感じぬ精神を持つ。
ボイス 現世の均衡を保つため、万魔殿《バンデモニウム》から派遣されてきた悪魔=B
美少年か美女、いずれかの姿で現れる。
ジャグルヤ 人間を解脱≠ウせ、使徒≠ノ変えることで、現世を〈時の神〉の支配下に置こうとしている悪魔=B
用語説明
魔弾 装飾の多いフリントロック式に酷似した、空間から突如現れる漆黒の拳銃。
特殊な人間にしか扱えず、悪魔≠ノ対し効果を持つ
第一章
春の宵を浮かれて騒ぐには、まだ夜気は少し肌寒く、今夜は風も強かった。
地下のパーキングに降りてきたところで、その男はひとつ盛大にくしゃみをし、コートの前をかきしは合わせた。
「アレだね、いかんね、異常気象だよ」
半分寝ぼけたような間延びしかかった声に、アルコールの匂いが染みついている。
たるみを隠しきれない頬を酔いに火照らせた男は、ずずっと鼻をすすって何度もうなずいた。
「――もうすぐ四月だっていうのにこうも冷え込むんじゃ、私のようなオジサンにはたまったもんじゃないね」
綺麗に禿げ上がったその顔のてっぺんからは、ほんのりと湯気さえ立っているようにみえる。
すでにかなり飲んでいるようだ。
「しかしまあ、きょうまでいろいろとガマンしてきた甲斐《かい》もあるってもんだ。そうだろう?」
「はあ」
「嶺崎《みねざき》のオヤジも、昔はこう……気風《きっぷ》のいい、鷹揚《おうよう》な男だったんだが――ありゃもうダメだな。さすがに寄る年波には勝てんだろ。さっさと二代目に乗り換えて正解だったな。これでようやく私にも遅い春が……っととと」
「大丈夫ですか、社長?」
「少し飲みすぎなんじゃありませんか?」
足元と呂律《ろれつ》の怪しい社長≠両脇からささえていた男たちが、苦笑混じりにそうたしなめた。
「――この前だって、ご自分でもう酒はやめるとおっしゃったじゃないですか」
「なぁに、このくらいどうってこたぁない。それよりほら、次の店に行くぞ。次は、あ―……あそこだ、あそこがいいな、銀座の――」
「〈あざみ〉ですか?」
「そう、そこだ! わはははは!」
いったい何が面白いのか。酒臭い下卑《げび》た笑い声をあげ、社長≠ヘかたわらの黒服の背中を無造作にぱんぱんとはたいた。
だが、仕立てのいいスーツの下にはみっしりとした筋肉の束が隠されているようで、男は痛くもかゆくもないといった涼しげな顔をしている。
ずいぶんとこわもての取り巻きを引きつれた社長≠ウんである。
「夕方、あそこのママから電話があってな。きょうはぜひウチの店に来てくれというんだよ。……私の誕生日が近いということを覚えていてくれたんだな、うん」
「お誕生日ならなおさら、奥様がご自宅でお待ちでしょう? お帰りにならなくていいんですか?」
「アレはきょうが何の日かなんてことはまったく覚えておらんだろうよ。……あの女のハナシはよせ。せっかくの酔いが醒《さ》める」
うんざりしたように眉をひそめ、社長≠ェ大袈裟にかぶりを振った。
「〈あざみ〉はなあ、ママはケチだがいい子が揃っとる! 次はあそこで決まりだ、決まり! いいから早く行くぞ!」
「はい」
男たちは顔を見合わせ、ほとんど左右から抱きかかえるようにして社長を運んだ。
「おい」
一団の先頭を歩いていた男が、何かに気づいたように片手をあげた。
「どうした?」
同僚の問いに、無言で前方の暗がりを顎でしゃくる。
少し触れただけで指紋がくっきりと残りそうな、艶《つや》光る黒いSクラスのベンツが二台、並んで停まっている。
このくらいの大型車なら、体格のいい大男が数人乗り合わせても、さして窮屈さを感じることはないだろう。
だが、なぜかそのルーフの位置がやけに低い。
やたらと低い。
ふと見ると、二トンの車体をささえるべきタイヤが八本とも無様にしぼんでいた。
「ふざけた真似しやがって――」
喉の奥に怒りが絡まったような声をもらし、男はその場にしゃがみ込んだ。
鋭利なナイフが何かでえぐられたのだろう、どのタイヤも完全に空気が抜けている。
いずれも一刺しでチューブまで貫通していた。
「ガキのイタズラにしては妙だが……中のほうはどうだ?」
「荒らされた様子はないな」
ドアのロックをはずして車内を調べていた男が、同僚を振り返って答える。
「そっちは?」
「こっちも……ああ、タイヤだけだな」
もう一台のベンツを見ていた男が、忌々《いまいま》しげに舌打ちして顔を上げた。
「ウチのだけじゃねえ、あたりのクルマ、みんなやられてるぜ」
「ったく、どこのクソガキの仕業だ?」
「どうします、社長?」
男たちが雇用主を振り返ってその判断を仰ごうとしたが、肝心の社長≠ヘ自分の足で立っていることもできないほどのていたらくで、ぶつぶつと寝ぼけたようなことばかりいっている。
「特にあの、さやかちゃんがなぁ……アタマは悪いが、実に、実にいいカラダをしている。アレはいい子だ。胸が大きいのが特にいいな、うん……」
「やれやれ……」
男たちはたがいに顔を見合わせて苦笑した。
「……とにかく、〈あざみ〉に行くにしろ、ご自宅までお連れするにしろ、クルマがなけりゃハナシにならん。誰か上へ行って、ハイヤーか何か手配してこい」
「判った」
懐《ふところ》から携帯電話を引き抜き、男がふたりばかり、スロープを登っていく。
残った男たちはベンツのヒーターをガンガンに利かせて車内の空気をあたため、
「社長、すぐに代わりのクルマをご用意いたしますので、それまで中でお待ちになってください。このままではお風邪を召します」
「いやぁ、その前に……う―、便所だ、便所」
「とおっしゃられましても……」
広い駐車場を見渡してみても、都合よくトイレなどあるわけがない。
「あ―、構わん構わん、気にするな。そのへんでテキトーにすませるから……っくし」
もうひとつ大きなくしゃみをした社長≠ヘおぼつかない足取りでベンツの側をふらふらと離れ、駐車場の隣のほうへと歩いていく。
「おい」
「はい」
メンツの中では一番若そうな男が、ふらつく社長≠ささえて暗がりのほうへ消えていった。
「酒を飲んで暴れないだけ、まだマシか……」
男はベンツのルーフに寄りかかり、タバコに火をつけた。
深い溜息に、白い煙が溶けて流れた。
その男はどういう生い立ちを持ち、どういう生き方をしてきて、そして、なぜに人から命を狙われなければならなくなったのか――そうした瑣末《さまつ》なことに興味はない。
そう――瑣末なことだ。
ひさぎが仕事≠請け負う時に注意する点はわずかに三つ。
――充分な報酬が約束されているか?
――その対象がこの世界から消えることで、自分の暮らしに悪影響を与えたりはしないか?
――自分の能力に照らして実行可能な依頼か?
これら三つの問題のすべてに明確にイエスと答えられるなら、ひさぎは仕事≠請け負うことをためらいはしない。
何十年も生きていれば、人間なら誰しもひとりやふたり、殺したいほど憎い相手がいたとしてもおかしくない。
ただ、殺してやりたいと思うことはあっても、実際に手を下す人間は稀だ。
そこまでの勇気がない、腕がない、運がない、理由はさまざまだろう。
だから――。
ひさぎのような人間が必要とされるのだ。
「春は名のみの風の寒さや……とはよくいったもんだ。こんな調子でホントに桜が咲くのかねえ」
じょぼじょぼと、未練がましい水音がさっきから続いている。
年齢のせいか、社長≠フモノはいささかだらしがない。
つき添いの男は、少し離れたところで社長≠ノ背を向け、人知れず溜息に乗せてタバコの煙を吐き出している。
もっとも、当の社長≠ヘいたくご機嫌のようで、調子はずれの鼻歌まで口ずさんでいた。
だから、おそらく社長≠ヘ、最期の瞬間まで何が起こったのか理解できなかっただろう。
ことさら気配を押し殺すこともなく、むしろ小気味よいブーツの足音を響かせて歩いてきたひさぎは、社長≠フ背後で立ち止まると、コートの内側からサプレッサーつきの銃を引き抜いた。
ぱすん――。
と、空気の抜けるような去勢された銃声よりも、社長≠フ頭の中身が噴き出し、正面の壁に生臭い抽象画を一瞬で描く音のほうが派手だった。
血と脳漿《のうしょう》をぶちまけた脂肪のカタマリ――元社長≠セったものは、コンクリートキャンバスに顔面を押しつけ、自分が作った熱い湯気の立つ池の中に崩れ落ちていった。
それまでもまだ、ちぢこまった陰茎の先から小水をちょろちょろともらしているのが、ひさぎはひどく滑稽《こっけい》に思えた。
「――社長?」
どさりと崩れ落ちる音を聞きつけたのか、よそさまのクルマのバンパーに腰かけてタバコをふかしていた男が、いぶかしげな表情でクルマの陰から顔を覗かせた。
「―――」
大きく見開かれたその視線が、変わり果てた姿となった雇用主と、そのかたわらに立つひさぎとを交互に見やっていた。
「おま……あぁ!?」
驚愕《きょうがく》と憤怒《ふんぬ》の声がようやく男の口から出てきた時、すでにひさぎの右手はワルサーを構え直し、男の急所に狙いをさだめていた。
「がっ……」
まず胸に一発、それから動きが止まったところを頭部に一発。
若い男はそれで静かになった。
短時間でふたりの人間をただの死体に変えたひさぎは、ドアミラーに映った自分の姿を見つめた。
ガンメタリックの光沢を帯びたミンクのコートにサングラス、漆黒《しっこく》の長い髪に白い肌――。
サングラスのために顔ははっきりと見えないが、もし繁華街をひとりで歩いていれば、まず間違いなく男たちから声をかけられるだろう。
――と、ひさぎがうぬぼれる冷たい美貌が、赤い唇をゆがめて薄く笑っていた。
最高級のミンクの毛皮に返り血の一滴も飛び散っていないことを確かめ、ひさぎは歩き出した。
黒いローカットブーツが向かった先には、タイヤを奪われた二台のベンツが待っていた。
とても走れる状態ではないが、エンジンは動いて、車内で男たちが暖を取っている。
駐車場の片隅で起こった瞬殺劇に気づいた様子はない。
ひさぎはベンツに歩み寄ると、運転席側のサイドウィンドウを手袋をはめた指先で軽く叩いた。
すぐにパワーウィンドウが開き、こわもての男が顔を出した。
「――何か用かい、ねえちゃん?」
値踏みするような視線がひさぎを見上げる。
だが、ひさぎは男の問いを無視して車内をざっと一瞥《いちべつ》すると、タバコでも取り出すかのようなさりげない動きで銃を抜き、男の眉間《みけん》に銃口を押しつけてトリガーを引いた。
「てめえ!?――」
激しい怒気をはらんだ男たちの声を単純で冷徹なひさぎの作業が断ち切っていく。
逃げ場のない閉鎖空間の中で、男たちが物言わぬ肉色のオブジェに変わるのに、十秒とかからなかった。
閉じられたままのドアの隙間からぽたりぽたりと赤い雫《しずく》がしたたり落ちていく。
車内の誰ひとりとしてすでに息をしていないことを確認すると、ひさぎは何ごともなかったかように歩き出した。
確かに何ごともない。
ひさぎにとっては何でもないことだ。
サングラスをはずしてエレベーターに向かおうとした時、スロープのほうから肩をすぼめて男たちが歩いてくるのが見えた。
ああ、そうだ――。
やり残していた仕事がまだあったことを思い出したひさぎは、サングラスをかけ直して男たちの方に歩いていった。
寒い寒いと愚痴《ぐち》る男たちとすれ違った直後、ひさぎはみたび銃を引き抜き、振り向きざまに二度、引鉄《ひきがね》を引いた。
なぜあの男が殺されなければならなかったのか、ひさぎがそれを知ることはついになかったし、知りたくもなかった。
ただひとつ、最後に始末した男の返り血がサマールグラブにはねて、おそらく完全には落ちない染みになってしまったことだけが不満だった。
今夜の仕事≠終えてひさぎがいだいた感想らしきものといえば、せいぜいそのくらいだった。
※
薄闇の中で、白く丸い尻がはずんでいる。
ひんやりとした夜気には、微熱を帯びた女の甘い息と、低く押し殺したような男の唸り声が混じっていた。
ぬちぬちと、湿った音――。
それに、肉と肉とがぶつかり合う小気味のよい音が、薄暗い納戸に響いていた。
「あ……ふぅ――」
ひときわ長く、なまめいた、まだ若い女の吐息が流れた。
窓から射し込む月の光にきらめく汗が、女の背中のくぼみに溜まって流れ落ち、尻の谷間へとしたたっていく。
そこを出入りしている男根は、汗とは違う体液にまみれて湯気を立ち昇らせていた。
納戸の片隅で、女を立ったまま後ろから責めているのは、素肌に派手なアロハを引っかけたなりの、貧相な男だった。
男は、ジーンズを膝まで下ろし、裸の腰を女の尻に叩きつけていた。
「た……たまんねぇ――」
一見、苦行に耐える僧侶のように眉間に深くしわを刻んでいた男が、薄く目を開け、ひどくかすれた声をもらした。
脂でぬめ光る丸い尻を掴んでいた手を伸ばし、女の髪を鷲掴《わしづか》む。
「――よう」
壁に手をついていた女の身体が、ぐいんとそり返った。
その間も男の腰は休みなく動き続け、それに合わせて、女の乳房がゆさゆさと揺れた。
「ねえちゃんよ、何とかいえって――」
馬の手綱を操るかのごとく、男は思い切り女の髪を引っ張った。
しかし、女は特に痛がる素振りもなく、ただ熱に浮かされたように、悦楽の喘ぎをもらすばかりだった。
幾度か男の精を浴びて汚れきった女の顔には、すでに理性の色はかけらもない。
その瞳は明らかに焦点を失い、もはや何も見ていなかった。
男は女の上半身を引き起こして腕を回し、たわわにみのった乳房を掴んで握り締めた。
心地よい重みのある肉の塊をねっちりと味わいながら、腰の回転をさらに上げていく。
その時、つながり合ったふたりの背後から、細く光が射してきた。
「……!」
目に光が入ったのか、納戸の引き戸が音もなく開かれていくのに気づいた男は、ひくりと喉を鳴らして振り返った。
「……物覚えの悪い人間には、ほとほと手を焼かされるよ」
溜息混じりに戸口に現れたのは、二本足で立つ獅子《しし》だった。
獅子のごとき双眸《そうぼう》と、獅子のたてがみを思わせるワイルドなシルバーブロンドが強い印象をあたえる、背の高い男だった。
一歩間違えれば趣味の悪いコスプレと受け取られかねない、真っ青なスタンドカラーのスーツを着込んだ男は、腰の後ろで両手を組んだまま、下半身丸出しで硬直しているアロハを見据《みす》えた。
「確かあなたには、以前も同じ注意をしたことがあったはずだ。……彼女たちに手を出すなと」
翡翠《ひすい》のような異様な輝きをたたえた男の瞳が、勢いを失って女陰からこぼれ出たアロハの男根と、その足元に崩れ落ちてかぼそく喘いでいる女の間を往復した。
「会長のために集めたコンパニオンにたびたび手を出すとは、本当に困った人だ。仁義≠欠く――と、いうのかな、あなたたちの業界では? あるいは、それ以前の話なのかもしれないが」
「ま、待ってくれ!」
アロハの男は慌ててジーンズを引きずり上げた。
「アンタのハナシは判らなくもねえが、こんないい女をぶら下げられてたんじゃ、こっちだって――」
「女が欲しくなったら外に買いにいけ、そのための小遣いはくれてやる。――確かそういう話になっていたはずだ。もう忘れたのかな?」
「そっ、そうじゃねえ! オレは――」
「忘れていたというでなければ確信犯か? ますますたちが悪い」
アロハの弁明を淡々と断ち切り、男は納戸の中に足を踏み入れた。
その刹那《せつな》、空気が大きく動いた。
ごく自然に、どちらかといえばおだやかに歩を進めているだけなのに、男の周囲に風が巻いた。
「っぷ!」
舞い上がったほこりが目に入ったのか、アロハは顔を押さえて無様に尻餅をついた。
「獣は鞭でしつけることができるが、あなたはどうやら獣以下のようだ」
男はぐったりとしている女を軽々と抱きあげ、きびすを返した。
「クナンサティ」
「ここにいるよ、ジャグルヤ」
男の声に、ハスキーな女の声が応じた。
いつの間にか、戸口のところに、女が腕組みをして寄りかかっていた。
それを見たアロハが、ふたたび大きく目を見開いた。
目を見開いて、そしてジーンズの股間をふたたび熱く張り詰めさせた。
豊満なバストを革のビスチェに押し込み、それをことさら強調するかのように腕を組んだ赤毛の美女――クナンサティは、青いルージュに濡れ光る唇を長い舌でひょろりとなめた。
その全身から放たれるむせ返るような色香は、さっきまでここで喘いでいた女のそれとは、まったく別次元のものだった。
一度は萎えきったはずのアロハの股間がデニムの生地を突き破りそうなほど屹立《きつりつ》している事実が、何よりも雄弁にそれを物語っている。
「――どこまでやっていい?」
すれ違いざまに、クナンサティが尋ねた。
「神の慈悲を」
男――ジャグルヤが淡々と答える。
「解脱≠ウせてやるがいい」
「させても役に立つかどうか判らないよ?」
「どうせ代わりはいくらでもいる。……見せしめにはちょうどいいだろう」
「まあ、アンタがそうしろっていうならそうするけどさ。……でもその前に、ちょこっと楽しんでいいかな?」
「好きにするがいい」
「サンキュ」
ひょろりと舌なめずりしたクナンサティは、肩越しにジャグルヤを見送って納戸の戸を閉めた。
「お客人」
納戸から裸の女を抱いて出てきたジャグルヤを、目つきの鋭い男が出迎えた。
背の高いジャグルヤより、さらに頭ひとつほど大きい。
優に二メートルはあるだろう。
そして、それに見合うだけの厚みのある体躯《たいく》の持ち主だった。
日本人離れした体格――すでにこの肉体そのものが、凶器といっていいかもしれない。
そんな大男が、同じような黒いスーツ姿の男たちをしたがえ、ジャグルヤに頭を下げた。
「申し訳ありません。ウチの伊崎が、懲りずにまた不始末をやらかしたようで……」
「構いませんよ、梓沢《あずさわ》さん」
慇懃《いんぎん》に頭を下げる大男を制し、ジャグルヤは小さく嘆息した。
「――まるで予想できなかったことではありませんし、今の伊崎さんとやらの言い分も、もっともといえばもっともだ」
「いや、あいつは特に女に眼がないヤツで――」
「そうであることを祈りますよ」
したり顔でうなずいたジャグルヤは、梓沢と呼びかけた大男と、その背後に居並ぶ連中をざっと見渡したあと、自分がたった今出てきた納戸のほうを振り返った。
「――ほかにもああいう人がいると、そのうちとても困ったことになりますから」
どこかのんびりとしたジャグルヤのそのセリフが終わらぬうちに、納戸の中から、すさまじい吠え声のようなものが聞こえてきた。
「!?」
ジャグルヤ以外の男たちの目が、閉ざされたままの引き戸に向けられた。
がたがたと引き戸が鳴っている。
その向こうで何が起こっているのか、激しく戸が震動し、酷《ひど》く耳障りな、居心地の悪い雑音を響かせていた。
いかつい男たちに顔色を失わせ、紙のように青ざめさせた不気味な吠え声が、やがて長く尾を引いて消え入り、引き戸の震えもいつの間にか収まっていた。
スーツの懐に右手を差し入れていた梓沢が、わずかに視線を動かしてジャグルヤを見やった。
「……何です、今のは?」
「さて、何でしょう? しつけのなっていない野良犬が、クナンサティに尻でも蹴飛ばされたのかもしれませんね」
ジャグルヤははぐらかすようにかぶりを振った。
だが、日本はおろか世界中のどこの動物園に行っても、あんな咆哮《ほうこう》を放つ猛獣にお目にかかることはできないだろう。
あれはいったい何の声だったのか――誰もがその疑問を抱いていたはずだ。
にもかかわらず、誰ひとりとして納戸に近づこうとしなかったのは、その向こうにあるものを本能的に恐れていたからだろうか。
しかし、ジャグルヤひとりはうっすらと笑みさえ浮かべ、すべてを置き去りにして歩き出した。
「お客人!」
「足が腐るそうですよ」
「は……?」
「日本ではそういういいつたえがあると聞きましたが、違いましたか?」
振り返ったジャグルヤが、畳の縁を踏む梓沢の足元を一瞥した。
「……よくご存じで」
「いえ」
「ところで、伊崎は……」
「大丈夫です。ひとつやふたつ不始末をしでかしたからといって、簡単に殺したりはしませんよ。……ただちょっと、お仕置きをしているだけです」
足早に追いすがってきた梓沢に、ジャグルヤがこともなげにいった。
「――それより、会長が私をお呼びなのでしょう?」
「はい。……まだお身体が痛むとのことです。最近は医者の薬もロクに効かないようで――」
「判りました。急ぎましょう」
ジャグルヤは抱いていた女を立たせると、その鼻先で軽く指を鳴らした。
「――あなたもいっしょに来てください。手伝ってもらいたいことがあります」
「……」
ぐったりとしてなかば意識を失っていたはずの女は、ジャグルヤのささやきに、虚ろなまなざしを伏せてぎこちなくうなずいた。
「よろしい」
広い屋敷の部屋を出たジャグルヤは、白木造りの板張りの廊下を歩き出した。
そのすぐ後ろを、夢遊病者のような足取りで裸の女が続き、さらにその後ろから、目の前の女体に顔色ひとつ変えない梓沢が歩いていく。
納戸に接していた和室の広さからもおのずと知れるように、かなり大きな屋敷だった。
だが、その広さとくらべると、廊下の幅がやけにせまい。
しかも、屋敷の奥まったほうへ行くにしたがって、その幅はどんどんせまくなっていく。
「それにしても、バリアフリーという言葉を真っ向から否定するような造りですね」
すでに廊下は、人が二人並んで歩ける幅を失っていた。
庭に面しているサッシには二重の防弾ガラスがはめ込まれ、足元にはさして意味があるとも思えない高低差が存在している。
さらに、廊下自体が複雑な九十九《つづら》折りになっていて、この先どこへ向かうのかもはっきりとしない。
ジャグルヤがその呟《つぶや》くのも、ある意味では当然といえた。
「おまけに……民家とは思えない頑丈さだ」
「何があるか判りませんから」
梓沢が言葉少なに答える。
その時、奥のほうから、しわがれた老人の悲鳴が聞こえてきた。
「――帰れ!」
いや、それは悲鳴ではなく、怒声だった。
弱々しい声が無様に裏返ったために、ただ滑稽に響いただけの、れっきとした怒りの叫びだった。
「か、会長……」
老人をなだめる男の声が聞こえてきた。
「そのようにお怒りになってはお身体に障ります。今はとにかく大事をお取りになって……僭越《せんえつ》ながら、あとのことは我々がすべてお引き受けしますので、会長にはどうかご自愛くださるようにと――」
足を止め、神経質そうな男の声に聞き入っていたジャグルヤは、梓沢を振り返って尋ねた。
「ご来客のようですが……どなたです?」
「たぶん、二代目の――恭悟《きょうご》さんのところの秘書か何かでしょう。このところ、三日とあけずにここへ来ますよ」
梓沢は細かい傷の残る頬をひくつかせた。
それは皮肉っぽい笑みだったのかもしれない。
「――今の嶺崎グループは、実質的にはもう二代目が仕切っているも同然なんでしょうが、ああして臥せっておられても、会長がグループの大株主であることには変わりませんからね。これからグループを動かしていくためには、実の親ながら、いろいろと煙たいんでしょう」
「不謹慎な話ですが……もし会長がお亡くなりなれば、相続税だけでもたいへんな額になるでしょうね」
「それもあるでしょうが、要は会長の院政に嫌気が差したってことでしょう。……院政といって通じますか?」
「中世期の日本に独特の政治形態ですね。ええ、何となく判ります」
「……本当にいろいろとご存じでいらっしゃる」
感心したように梓沢が唇をゆがめていると、ガラスが割れる音がして、メガネの男が廊下の奥のほうの襖を開けて慌てて飛び出してきた。
「ひっ――」
「帰って恭悟に伝えろ!」
老人の声と中身の入った吸い呑みが、男を追いかけるようにして飛んできた。
「貴様らのような若輩どもに、ワシは、まだ……まだ、グループを任せるつもりなぞないと――」
「ですが、かか、かっ、会長……!」
「申し訳ありません」
廊下にへたり込んでいるメガネの男に、梓沢がうっそりと声をかけた。
「会長はご気分がすぐれないそうですので」
「あ――」
梓沢の手が、やんわりと、しかし有無をいわせない力強さでメガネの男をかかえ起こす。
「きょうのところはお引き取りを」
「し、しかし私は、ぼっちゃまの――」
「申し訳ありません」
神経質そうな甲高い声でいいかけた男の口を、梓沢の大きな手が無遠慮に押さえた。
「……!」
男の目が恐怖と驚愕に見開かれる。
この梓沢なら、このままもう少し力を込めさえすれば、男の顎を平然とはずし、あるいは顎関節を粉砕することさえできるのではないだろうか。
しかし、梓沢はそれ以上のことはせず、自分たちが歩いてきたほうへと、男を乱暴に突き放しただけだった。
「お帰りはあちらです」
取ってつけたようにいうと梓沢と、異様な風貌のジャグルヤ、そして茫洋《ぼうよう》とした表情の裸の女を見くらべた男は、取り落としたカバンを慌てて拾い上げると、そのまま逃げるようにして去っていった。
「おい、誰か秘書長さんを門の外までお見送りしてこい」
梓沢さんがそう声をかけると、部屋の中から数人の男が出てきて、そのメガネの男を追っていった。
「――お待たせしました。さあ、どうぞ奥へ」
あらためて梓沢に案内され、ジャグルヤは敷居をまたいだ。
そこはふた間続きの広い座敷だった。
江戸城の大広間のような、何百畳という広さはないが、いずれにしても時代がかった広さの座敷には違いない。
手前のほうの部屋には梓沢と似たような格好の男たちが四、五人ばかり控えている。
その視線は自然と裸の女に吸い寄せられたが、すぐそばにいるジャグルヤと目が合いそうになると、全員が全員、慌てて視線を逸《そ》らそうとするのが奇妙であった。
そして、その男たちに守られるようにして、奥の間に敷かれた大きな布団の上に、老人がひとり、丹前を肩からはおって身を起こしていた。
「灰と瓦礫《がれき》の中から、誰がここまで、グループを大きくしてきたと――」
恨みがましい呟きが、厭な咳《せき》でかき消えた。
素人にも、一見しただけでそれと判るほど、ひどく病み疲れ、死が間近に迫っていると知れるすえた臭いをまとって、老人はそこにいるのだった。
その肌は染みが浮いてかさかさに乾ききり、手も足もぞっとするほどに痩せ細っていた。
そのくせ、ぎょろりと飛び出た黄色く濁った目玉には、生への執着をしめすかのように、異様ともいえる輝きが宿っている。
その瞳が、やってきたジャグルヤたちを捉《とら》えてさらに輝いた。
「会長」
敷居の手前で足を止め、その場に折り目正しく正座した梓沢が、老人に声をかけた。
「お客人をお連れしました」
「おお……」
胸を押さえていた手を伸ばし、老人は苦しげに笑った。
「……つまらんものを見せたな」
「いえ」
ジャグルヤは梓沢にちらりと目配せすると、女をともなって奥の間に入り、幽鬼のごとき老人の枕元に腰を降ろした。
「どうですか。ご気分は」
「判るじゃろ? よかぁないわ」
落ちくぼんだ目でジャグルヤを見やった老人は、その視線を夢見る裸婦へとそそいだ。
「その……そっちのねえちゃんは、アレかい、例の――」
老人の言葉が途切れ、代わりに、細かい喉がぐびりと上下した。
「そのつもりでともなってまいりました」
「なら、神父さん……すぐに、頼むわ……」
荒い息を吐く老人が、聞き取りにくいかすれきった声でそうもらした。
もごもごと動く口もとには、もうほとんど歯が残っていない。
ゆったりとあぐらをかいたジャグルヤは、おだやかな笑みをたたえて老人を見つめた。
「私は神父ではありませんよ。同じく神に仕えるものではありますが、彼らの神と我らの神はまったく違う」
「……んなことは、どうでもいい……」
顔のしわを数を倍に増やし、老人は弱々しくかぶりを振った、気味が悪いくらいに肋骨の浮いた懐を震える手で押さえ、ジャグルヤを見上げて呻《うめ》く。
「とにかく、この痛みを、どうにか――」
「確かに……かなりの激痛のはずですが、それでも無様に悲鳴をあげないのはさすがです。ほとほと感心させられますね」
「お客人」
次の間から、梓沢が声をかける。
その目が何かをうながしていた。
「……そうですね。感心している場合ではなかった」
肩をすくめ、ジャグルヤは片手をあげた。
「――では、申し訳ありませんが、そこを閉めてみなさん廊下のほうでしばらくお待ちいただけますか? 少しの間、私たちだけにしていただきたいのですが」
私たちだけ――老人と、ジャグルヤと、それに裸の女の三人だけという意味なのだろう、その三人が一室に籠《こ》もって何をするのか、そうした疑問を口にすることは、梓沢には許されていなかった。
梓沢は老人に深々と一礼すると、奥の間に通じる襖を閉め、男たちを連れて廊下に出ると、さらにそこの襖も閉めて嘆息した。
ほどなくして、襖の向こうから、低く押し殺したジャグルヤの声が聞こえてきた。
しかし、何をいっているのかは判らない。
襖越しに聞き取りにくいのは事実だが、それ以前に、ジャグルヤがつむぐ言葉の意味そのものが、梓沢にはまったく理解できないのである。
少なくともそれは、日本人にとってはまったく馴染みのない、異国の言葉だった。
エキゾチックといえば、聞こえがいいが、聞く者をわけもなく不安にさせるその響きに、梓沢だけでなく、ほかの男たちも顔をしかめていた。
いっしょに締め出された男が、同じような不安をかかえているのか、ネクタイの襟もとで指でくつろげながら、梓沢にそっと尋ねた。
「梓沢さん――今の女も、また、その……消えちまうんですかね?」
「さあな」
「会長とあの男は、この奥で、いったい何を――」
「余計なことは考えるな」
顔色の悪い部下に、梓沢は淡々といった。
「あの客人が何者だろうと、この奥で何をしていようと、俺たちが口を出すべきことじゃあない」
「ですが――」
「すべて会長がお決めになられたことだ」
なおも何かいいたげな男を制し、梓沢はわずかに首を振った。
「――あの人に、誰が何をいえる?」
※
手を洗って化粧室から出ると、通路の突き当たりに明智涼子《あけちりょうこ》が待ち受けていた。
壁に寄りかかり、少し酔いの回ったとろんとした顔つきで、まっすぐにひさぎを見つめてカプリのメンソールを吸っている。
「どうしたんです、編集長?」
ネクタイを締め直し、ひさぎは涼子に歩み寄った。
今夜はすでに飲まされたが、酔ったという感覚はほとんどない。
それは、しっかりとしたひさぎの足取りにも現れていた。
アルコール臭の混じった煙を静かに吐き出した涼子は、ひさぎの顔を見上げ、どこか困惑気味に切り出した。
「明神、さ……」
「はい?」
答えながら、ひさぎは腕時計を一瞥した。
時刻は午前三時過ぎ――宵の口から店を何軒もハシゴしてきたが、宴もそろそろお開きの時間だ。
「タクシーの手配ですか?」
「そっちはマスターに頼んだから」
「はぁ。それじゃ何です?」
「……」
涼子は答えなかった。
吸いかけのタバコを携帯灰皿にねじ込み、大きく深呼吸してうつむく。
シンプルなシルバーのネックレスが、かすかに火照った白い胸元できらめいていた。
「……大丈夫ですか、編集長?」
ひさぎは涼子の顔を覗き込んで尋ねた。
「かなり飲んでたみたいですけど、気分でも悪いんですか?」
言葉にして答える代わりに、涼子は額に手を当てて大きく首を振り、しばらくそのポーズのままでかたまった。
「――紫藤《しどう》先生がね」
涼子が顔を上げたのは、たっぷり一分ほどしてからのことだった。
ひさぎはわずかに目を細めた。
「まさか……もう一軒行こうなんておっしゃったんじゃないでしょうね? 先生もかなり飲んでらっしゃいますよ?」
「違うわよ。さすがに今夜は帰るって」
「じゃ、何なんです?」
「家まであんたに送って欲しいって」
「紫藤先生が……ですか?」
「そう」
「先生がそうおっしゃるんでしたら、ぼくのほうは別に構いませんけど? 先生のあのご様子じゃ、どのみちぼくか編集長が送っていかないとダメでしょう? おひとりじゃマンションまでたどり着けませんよ、たぶん」
涼子は眉間を押さえて嘆息した。
「下心が見え見えっていうか……彼女、あんたみたいな年下の美形に目がないのよ。おまけに、惚れっぽい上に手が早くて――」
「ああ、そういうことですか」
涼子が渋い顔をしている理由に思いいたり、ひさぎは大仰にうなずいた。
「要するに、マンションまで送るのはいいけど、ややこしいことになるなってことですか?」
「別にあんたとあの子がややしいことになったって構わないのよ。わたしとしては」
ぷいっとそっぽを向いた涼子は、ところどころルージュの剥げた唇に新しいタバコをくわえ、ぶっきらぼうにいった。
「――問題は、あんたがあの子を怒らせて、のちのち面倒なことにならないかってこと。あの子の原稿がもらえなくなったら困るわ」
「なら、ウチの仕事をサボタージュされない程度に、せいぜいご機嫌を窺《うかが》ってきますよ」
「できるの?」
「まあ、何とか」
「……あなた、ホストでもやったほうがよかったんじゃない?」
「よくいわれます」
上司のタバコにライターで火をつけ、ひさぎは席へと戻った。
さほど広くない地下のバーは、夜も更けてきたからか、ほかの客の姿はすでになく、ひさぎたちの貸切のようになっていた。
涼子の昔からの知り合いだというマスターも気を利かせてくれているのか、暗に早く帰れと急かすようなこともなく、カウンターの内側で静かにグラスを磨いている。
そうした気安い空気があったからだろう、ひさぎと涼子が立ち話をしている間に、今夜の主賓は、ソファに腰かけたまま、壁にもたれて居眠りを始めていた。
ひさぎは肩越しに涼子を振り返って苦笑した。
「とってもしあわせそうに寝てるんで、起こすのがためらわれるんですが」
「起こして」
もはや誰の飲み残しかも判然としないワイングラスを掴んでひと息にあおり、涼子はタバコをふかした。
「……はい」
肩をすくめ、ひさぎは眠り続ける女の肩をそっと揺すった。
「先生、紫藤先生。そろそろタクシーが来ますよ。起きてください」
「んぁ――」
あやうく涎《よだれ》まで垂らしかけていた紫藤カンナは、目を醒ますのと同時に襟元を正し、それからようやく口もとをおしぼりでぬぐった。
涼子と同い年というから、もう三十なかばのはずだが、どうにもこの女性作家には、いつまでたっても小娘のような脇の甘さというか、ふるまいの舌足らずさというか――妙ないい方をすれば――年甲斐もないあどけさがある。
涼子がいうような、面食いで手が早い女というイメージは、少なくともひさぎは感じなかった。
「あは――……ちょっと飲みすぎちゃった……」
ひさぎを見上げるその笑顔は、確かに無邪気といえなくもない。
職業柄というより、これは単に本人の趣味だろうが、いつも若やいだ格好をしているせいもあって、二十代といってもまだまだ通用するだろう。
マスターから水をもらってきたひさぎが、カンナにコップを手渡した。
「どうぞ」
「うん……ありがと」
冷たい水を飲み干し、カンナは何度か深呼吸してから立ち上がった。
しかし、どうにも足元がおぼつかない。
「明神」
「はい」
涼子にうながされ、ひさぎはほとんどカンナをかかえるようにして店を出た。
もし今夜の接待役が涼子ひとりだったら、マスターの手まで借りることになっていただろう。
階段を上がった先の路地で待っていたタクシーにカンナを乗せ、ひさぎは涼子を振り返った。
「編集長はどうします?」
「わたしもテキトーにタクシーを拾って帰るわ」
『早春賦』の一節ではないが、春とは名ばかりの冷たい夜風が吹くアスファルトの上で、明智涼子は肩をすぼめて答えた。
「――それより明神、紫藤先生のこと、くれぐれも頼んだわよ?」
「はい、判ってます」
「それでは先生、わたしはこれで」
酔いを感じさせない事務的な口調で涼子がそういうと、タクシーの中で早くもうつらうつらしていたカンナは、判っているのかいないのか、何度もうなずきながら、ひらひらと手を振って応えた。
「それじゃ編集長、お先に失礼します」
「ええ」
上司の見送りを受けて、ひさぎはタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで?」
初老の運転手の問いに、ひさぎはカンナからもらった名刺を引っ張り出してきて、彼女の住所を確認した。
「えーと……世田谷の用賀でひとり降りて――」
「いえ、そこまででいいです。そこでふたりとも降りますから」
ふと隣を見ると、半分寝こけていたはずのカンナが、いつの間にかぱっちりと目を開けていた。
ひさぎの視線を感じたのか、ちらりとこちらを向いた彼女の瞳は、少ない光をよく跳ね返して輝いている。
さっきまでの眠たげな表情は、すでにどこかに消えていた。
走り出したタクシーのシートに背中を預け、ひさぎは苦笑した。
「まあ、いいですけど」
「ねえ」
すぐにカンナが、嬉々《きき》としてひさぎの腕に抱きついてきた。
「明神君の名前って、それ本名?」
「本名ですが……それが何か?」
「だってぇ、明神ひさぎだなんて、本名にしてはカッコよすぎない? それこそペンネームみたいなんだもん」
「どうもありがとうございます。先生のお名前も素敵ですよ」
「うふ」
カンナはひさぎの肩に頬を預け、しっかりと手を握ってきた。
涼子がいっていたことが、何となくひさぎにも理解できてきた。
確かに紫藤カンナは――自分でもいうのも何だが――面食いで惚れっぽい女らしい。
ひさぎとカンナはきょうが初対面だった。
これまで電話で話したことは何度かあったが、カンナの担当を涼子から引き継ぐことになって、それで初めて対面したのが八時間ほど前。
どうやらその八時間のうちに、ひさぎはずいぶんとカンナに気に入られたようだ。
あくまで担当編集者としてのていねいな口調で、ひさぎは尋ねた。
「そういえば先生は、ウチの明智と大学が同じだとお聞きしましたが」
「うん。同い年だけど涼子さんのほうが学年は一コ上。わたし一浪してるから」
「そうでしたか」
「それよりさ」
ひさぎの肩に顔をうずめていたカンナが、いぶかしげに呟いた。
「……明神くん、なんだか女物の香水の匂いがするんだけど」
「そうですか?」
心当たりがないではないが、正直に答える義務があるわけでもないので、適当にごまかしておくことにする。
「香水といわれても……あまり詳しくないので、ぼくにはよく判りませんが」
「涼子さんのとは違うみたいだし……」
「いや、でもほら、ウチの編集部は女性ばかりですから。男はぼくだけですし」
自然と香水臭くもなるのかもしれないと、これは本当のことをいっておいた。
「そうかしら……」
「そうですよ、たぶん。……先生はあまり編集部にはいらっしゃらないようですけど、今度一度遊びに来てください」
「そんなのいいわよ、行くのメンドくさいし」
カンナはひさぎの手をぎゅっと握り締め、さらに身を寄せてきた。
「――ところで明神くん、涼子さんとはどうなの?」
「は?」
「一回ぐらいは寝た?」
あまりにダイレクトなその質問に、ひさぎは心中ひそかに肩をすくめないでもなかったが、それでも営業用の笑顔は忘れることなく即座に答えた。
「いっしょに編集部で徹夜をしたことなら何度もありますが、先生がおっしゃるようなうらやましい経験は、あいにく、まだ一度もありませんよ。……そもそも、編集長にはちゃんと旦那さんがいるじゃないですか」
「あれ? 明神くん知らないの?」
「何をです?」
「涼子さん、もう長いこと旦那さんと別居してるのよ?」
それはひさぎも初耳だった。
「編集部の人間は、おたがい。あまりプライベートな話はしませんから……」
「そうなの? でも、だったら気を遣う必要ないわよね」
白い手がひさぎのネクタイを無造作に掴み、くいっと引っ張った。
まだわずかにワインの香りが残る熱い唇が、ひさぎの唇に吸いついてきた。
ふたりの距離を探り合うような軽い触れ方ではない。
人によってはただ面倒くさいと感じるだけの、甘ったるい儀式≠端折って、いきなりむさぼるように吸いついてきたところに、ひさぎは、紫藤カンナという女の貪婪《どんらん》さを見た気がした。
確かに彼女は涼子がいっていた通りの女なのかもしれないと、ひさぎはカンナに唇をあずけたまま、ちらりと前のほうを見やった。
車内でキスするような客は珍しくもないのか、運転手はことさら出刃亀根性を発揮するでもなく、我関せずといった様子で午前三時過ぎの闇を見つめている。
後ろを気にせずに安全運転に徹してくれるのは、何にせよありがたいことだ。
ひさぎがそんな気を回している間に、女はさらに大胆になっていった。
「んふ――」
鼻にかかったような吐息をもらし、カンナはひさぎの首に腕を回した。
ひさぎの唇を割って、恥じらいもなくよく動く舌が侵入してくる。
と同時にカンナの右手がひさぎの股間のほうへと降りてきた。
だが、あいにくとひさぎは、カンナよりはまだずっと冷静だった。
それに、タクシーの中でスラックスのジッパーを下げるような露出趣味の持ち主でもない。
カンナの手をそっと掴んで引き剥がし、キスを中断して、
「――すいません、次の信号を左に入って、少し行ったところで停めてください。たぶん、そのあたりなんで」
と、これはよそ行きの声で運転手に告げる。
「もうすぐマンションですよ、先生」
激しいキスのせいでルージュのはみ出たカンナの口もとを、そっと指でぬぐってやりながら、ひさぎは努めてしっかりした口調で言った。
「明智からいわれていますから」
しばしば素で無礼な男と明智涼子に嫌味をいわれるひさぎは、にっこり笑ってカンナの肩に手を回した。
「先生はひどく酔ってらっしゃるから、きちんと最後まで面倒を見てこいって。……ひとりで歩けないようでしたら、また肩をお貸ししますよ?」
「……うん、お願い」
一瞬戸惑いの色を浮かべたカンナの瞳に、ふたたびねっとりとした情欲の靄《もや》がかかった。
コート越に感じるカンナの身体が、さっきよりもずっと熱くなっていた。
男性同士の恋愛を描いたボーイズラブというジャンルは――過去に衆道という非壮美に満ちた文化を持っていたこの日本においても――おそらくは、永遠にメジャーとなりうるものではない。
その手の小説に熱狂する女性読者が少なからず存在するのは事実で、ひさぎ自身、そういう小説を世に送り出す仕事にたずさわっているが、だからといって、現代人の倫理観に大規模な地殻変動でも起こらないかぎり、それが小説界の奔流《ほんりゅう》になることは決してないだろう。
しかし、どうやってもメジャーたりえないジャンルではあっても、売れるものは売れる。
そのいい見本がここにいた。
「いいところにお住まいなんですね」
カンナに代わって彼女のバッグの中を探りながら、ひさぎはいった。
紫藤カンナの住まいは、用賀駅からほど遠くないところにある、セキュリティのしっかりしたデザイナーズマンションだった。
分譲か、賃貸か、いずれにしても安くはないだろう。
同年代の未婚女性の平均年収がどのくらいなのかは判らないが、それとくらべると、かなり贅沢な住まいであることには違いない。
「だって、毎日仕事ばっかりだもん」
ひさぎといわんとするところを察したのか、玄関の鍵を開ける年下の編集者の背中に馴れ馴れしく寄りかかり、カンナは溜め息をついた。
「――遊ぶヒマもないほど忙しいのに、これでロクに印税が出なかったりしたら、原稿なんか書かないわよ、わたし」
ひょっとするとカンナにとっては、たまの接待で外に飲みに出ることが、数少ないストレス発散の機会なのかも知れない。
「先生にはこれからもがんばって書いていただかないと、こちらも食べていけなくなりますからね。たまにはきょうのように息抜きをされるのもいいでしょう。――さ、先生」
「ん」
ひさぎはドアを開け、カンナをささえて部屋に入った。
「どうぞ、遠慮なく上がってちょーだい」
そういいながら、カンナは上がりかまちのところに座り込み、何かいいたげなまなざしでひさぎを見上げている。
「どうしました?」
「靴」
「……はいはい」
肩をすくめてしゃがみ込んだひさぎは、ぷらぷらと揺れているカンナの足を取り、ハイヒールのストラップをはずしにかかった。
「先生、綺麗な脚をしてらっしゃいますね」
「あらそぉ?」
「ええ」
別にお世辞でいったわけではない。
確かにカンナの脚は見事な曲線を描いているし、ストッキング越しに見えただけだが、肌も白くてまだまだ張りがありそうだ。
「……まあ、ぼくもそんなにたくさんの女性の脚を見てきたわけじゃありませんけどね」
「ウソよ」
ハイヒールを脱がせてもらったカンナは、ひさぎの手にすがって立ち上がり、気安げにひさぎの頬を撫でた。
「だって、明神くんみたいな美形がモテないはずないじゃない?」
「それは先生と同じですよ。仕事が忙しすぎて、ほとんど毎日、自分の家と会社の往復です。……モテる以前に、そもそも出会いがありませんから」
「ああ、そゆこうとね……」
納得がいったようにうなずき、カンナはひさぎにもたれかかった。
「リビング、そっちだから――」
「はい」
カンナのマンションは――今夜の彼女のキッチュなファッションから、ひさぎが勝手に想像していたよりも――ずっとシンプルなトーンで統一されていた。
おそらく、家具や家電の大半が、無駄な機能や装飾を削ぎ落とした外国産のもので揃えられているせいだろう。
「――けっこう片付いてるでしょ?」
物珍しげにリビングを見回すひさぎに、カンナがくすっと笑いかけた。
「けっこうどころじゃありませんよ。モデルルームみたいじゃないですか」
「それを聞いたらウチの母が喜ぶわ」
「は?」
「月に一回か二回、実家の母親が来て掃除してってくれるの。それでも間に合わない時はハウスキーパーも呼ぶし。……三十半ばにもなって恥ずかしいハナシだけど、生活能力はほとんどゼロなのよ、わたし」
「なるほど……何となく納得できます」
さっきちらりと覗きこんだキッチンのレンジ周りは、不自然なほどに清潔すぎて、ほとんど使われていないようだった。
確かにあれは、きちんと自炊できる女のキッチンではない。
まだひさぎのマンションのキッチンのほうが、そういう意味での生活感がある。
「奥の……そっちのドア」
「はい」
いわれるままに、ひさぎはカンナをベッドルームへと運んだ。
玄関やリビングと同様、ベッドルームもいたってシンプルで、造りつけのクローゼットがあるために余計な家具がないぶんかなり広く見える。
そして、この部屋でほとんど唯一の調度といってもいいベッドは、小柄な女性のひとり暮らしには少し大きすぎるクイーンサイズだった。
「別に同居人はいないわよ?」
ベッドサイズの言い訳をするかのように、カンナがいった。
別にカンナに男の同居人がいたところで、ひさぎには「ああそうですか」くらいの感想しか持てないが、少なくとも、男の同居人がいないのは本当なのだろう。
ここにはほかの男の臭いのようなものがまったく感じられなかった。
「明神君も上着くらい脱いだら?」
コートとその下のベストをいっしょくたにして脱ぎ捨てたカンナは、肌が大きく露出するドレスの背中をひさぎに向けた。
「――後ろの紐、ほどいてくれる?」
「はい」
伊達眼鏡を胸のポケットにしまい、ジャケットを椅子の背にかけ、ひさぎはカンナの背後にたった。
「エミリオ・プッチですか。そういえば先生のバッグもプッチ柄でしたね」
「あら、そういうの詳しいの?」
「実は女装趣味がありまして。さっきのアイグナー靴なんか、持って帰りたいくらいでした」
「冗談でしょ?」
「冗談です」
肩越しに振り返ったカンナにウインクし、ひさぎは生白い肌の上を横切る紐を順繰りにほどいていった。
「明神くん――」
ささえをなくしたドレスが床に落ちるのさえ待ちきれなかったのか、カンナはひさぎを振り返り、熱を帯びた身体を預けてきた。
いくぶん背伸びしながらひさぎの首を抱き寄せ、ねっちりと唇をかさねてくる。
「ん……」
ひさぎが自分から舌を差し入れていくと、カンナはすぐさま貪欲にそれに吸いついてきた。
あえて下世話ないい方をすれば、男に餓えているのかもしれない。
外出することも稀な仕事漬けの毎日ではそれも無理からぬことだろう。
首からネクタイを引き抜き、ワイシャツのボタンを手早くはずしたひさぎは、カンナの身体を横抱きにかかえ上げた。
「失礼しますよ、先生」
少し乱暴にカンナをベッドの上に放り出したひさぎは、ワイシャツを脱いでみずからもベッドに上がった。
「明神くんって……」
あらわになってひさぎの上半身を見て、カンナは目を細めた。
「けっこう、その――着痩せ、するのね……?」
カンナの手が、綺麗に引き締まったひさぎの胸板に触れてくる。
さっきのキスとは大違いの戸惑いの感じられる触れ方だった。
「なんだかイメージとは違うわ……」
「もっと貧弱な、なよっとしたカラダをしていると思いましたか?」
「え、ええ。もっと中性的な、それこそマンガか小説の中にしかいないような、線の細い美青年みたいに思ってたから……」
「やっぱりそんなこと考えてらしたんですか。……でも、セックスするには体力がいりますよ?」
カンナの手を掴んでベッドに押し倒し、ひさぎは彼女の首筋に顔を埋めた。
「ちょっ……!」
カンナがわずかにあらがうそぶりを見せたが、ひさぎはそれを腕力でねじ伏せた。
女の甘い汗に混じってかすかに昇り立つ、何とも言えない香りを堪能《たんのう》しながら、カンナの白い肌に舌を這《は》わせる。
そのままうっすらと汗の浮いた胸の谷間へと舌をすべらせたひさぎは、上目遣いにカンナの顔を見上げ、意地の悪い口ぶりで尋ねた。
「ひょっとして先生、年下の線の細い美青年をリードしてあげようかと思ってませんでした? だとしたらあいにくでしたね」
「明神くん、きみ――」
首をもたげたカンナが、驚きの表情でひさぎを凝視している。
しかし、その目もとはムードランプの光の下でもはっきりと判るくらいに欲情の色に染まっていた。
「どちらかといえばぼくは攻めキャラですから。受けのタイプじゃない」
そういいながら、左手でブラジャーを無造作に押し上げる。
ふるんとやわらかそうにこぼれ出てきた乳房は、横になっているのにほとんど形を崩すことなく、見事な盛り上がりを見せていた。
その頂上にほのめく赤い蕾《つぼみ》を舌先でつつくと、そのたびにカンナのヒップが淫らにくねった。
「あふっ、んんっ……!」
わざと音を立てて乳首をついばみ、カンナの太腿に手を添える。
手に吸いつくようなしっとりとした肌は、触れているだけで心地よかった。
「わたし……みっともなくない?」
熱く喘ぎながら、カンナが今にも泣きそうな瞳でひさぎを見つめた。
「何がみっともないんです?」
「だってわたし、きみよりずっと年上だし……きみがつき合ってきたような若い子たちとくらべたら、カラダだって――」
「先生は本当にお綺麗ですよ。身体の線も崩れてないし、肌も白くて、それに感度もいい」
「あっ……! あんっ」
ひさぎの右手がむっちりしたヒップに触れ、桃の皮を剥くようにセミビキニのショーツを引き下ろすと、カンナがまた悩ましげに身体をくねらせた。
「先生とは逆に、ぼくは年上の女性をいじめるのが好きなんです。もし先生がぼくより年下だったら、どんなに誘われたってこんなことしませんよ」
カンナの耳たぶに軽く歯を立て、そうささやきながら、ひさぎは彼女の股間に手を伸ばした。
「くっ……」
押し殺したような呻きをもらすカンナの媚肉《びにく》は、すでに熱く湿っていた。
そこに指を突き立て、容赦なくかき混ぜる。
「あふっ、ぅくっ、あはぁ……!」
ひさぎの胸にしがみつき、カンナは鼻にかかったような声をあげた。
自分が好きなようにリードできると思っていた年下美形編集者に、逆にこうして好き勝手にされているというシチュエーションがカンナの性感を刺激しているのかもしれない。
その乱れようをじっと見つめていたひさぎは、空いている手でスラックスのベルトをはずし始めた。
タクシーの中では自制したが、ここまで来れば遠慮する理由は何ひとつない。
「さて、と――」
ひさぎはカンナの膝裏に手を当ててすくい上げた。
たっぷりとした量感のある尻がベッドから浮き上がり、しとどに濡れそぼった媚肉のすべてがひさぎの眼前にあらわになる。
「いやっ――」
カンナは甲高い悲鳴をあげたが、彼女が隠したのは秘しておくべき隠しどころではなく、これ以上はないくらいに紅潮した自分の顔だった。
何かを期待するかのように細かくわななく女の扉に狙いをさだめ、ひさぎは熱く硬化したペニスを沈めていった。
「い、いっ……ひっ!」
身体をほどんどふたつ折りに曲げられた体位でひさぎを受け入れ、カンナは息が詰まったような歓喜の声をもらした。
「……燃えてますね、先生。すごく熱くなっていますよ、せんせいのあそこ」
深々と挿入したまま、ひさぎはカンナの耳元でささやいた。
「だ、だめっ! みょ、明神くんは、そんな……遊び慣れた男みたいな、そういうこと、いっちゃ、ダメなの……っ!」
「先生の中のぼくはそういう設定になっているわけですか。……でも先生が濡れ濡れなのは本当のことですからねえ」
根元まで突き刺した怒張をゆっくりと引き抜き、いきおいをつけてもう一度うがち込む。
「あひっ!」
カンナの脚がぴくっと跳ね上がった。
これを二度三度繰り返す。
「あっ! はっ、あっ……あんっ!」
どろどろに溶けたクレヴァスにひさぎのペニスが出入りするたびに、カンナは短い切れ切れの悲鳴をあげ、何度も細かく身体を痙攣《けいれん》させた。
そのまま激しく腰を律動させながら、ひさぎはまた意地悪く尋ねてみた。
「――どうです? たまにはこういうのもいいんじゃありませんか?」
しかし、カンナはギュッと目をつぶったまま、もれ出る喘ぎを唇ごと噛み締めているだけだった。
「あれ? あまりよくありませんか? それは困ったな。あとで編集長に告げ口されて叱られるのもイヤだし――」
呑気《のんき》に呟きながら、ひさぎはカンナの背中に腕を回し、彼女の体を引き起こした。
「――じゃ、これならどうです?」
カンナの小柄の身体を膝の上に乗せ、ひさぎは下からリズミカルに突き上げた。
「あはんっ!」
さっきよりもはっきりとしたよがり声が、わずかにほころんだカンナの唇からこぼれ出た。
ふたりがつながり合ったところから、じゅぷりじゅぷりと淫《みだ》らな音がする。
あふれ出た愛液は、すでにシーツの上にまで染みを作っているはずだ。
「明神、くん……っ」
カンナがひさぎの頭を抱きしめた。
「も、もっと……もっと、は、激しくして……! きょうは、大丈夫な、日、だから――このまま、きみも……っ」
「ええ」
カンナの唇を荒々しく奪い、ひさぎはペースを上げた。
「ん、ふー、うん、んぁ……っ!」
夢中で舌を絡ませてくるカンナに応え、女の尻肉を鷲掴み、上下する腰の動きを手伝ってやる。
「っふぁ!」
鼻からの呼吸だけでは息苦しくなったのか、カンナはひさぎのキスから逃れて首をのけぞらせると、ほどけた髪を振りたくって狂ったようにわめき出した。
「ああんっ! ひあっ! あっ、い、いい……っ! い、いく、いくいく、あ、あいっ――」
ひさぎの突き上げに合わせて弾んでいたカンナの身体に震えが走り甲高い叫びがふっつりと途切れた。
ぐったりともたれかかってきたカンナを抱きとめたひさぎは、額に浮いた汗をぬぐい、その耳元で冷ややかにいい放った。
「ぼく、いったんその気になるとけっこうしつこいですからね。責任は取ってもらいますよ、先生」
まだ全身に力の入らないカンナをうつ伏せに転がし、ひさぎは今度は尻からつながった。
「あ、はぁ……」
そのままおだやかな余韻にひたることも許されず、カンナはふたたび熱い喘ぎを口にした。
ひさぎが上体を倒してカンナの肩口に唇を寄せる。
カンナは首をねじってひさぎを振り返り、キスをせがんだ。
「んむ……う、ふぅ」
カンナの唇をむさぼりながら、ひさぎは激しく腰を使った。
右腕で身体をささえ、左手はカンナの股間にもぐり込ませる。
ひさぎの指が的確にクリトリスを捕らえると、カンナの身体がびくびくとはじけるように震えた。
「――んあっ!」
カンナがまた軽くイッたらしかった。
だが、熟れざかりの女の身体にともった淫欲の炎は、そう簡単には消えないだろう。
ペニスの根元に射精への心地よい予感がくすぶり始めていたが、ひさぎも一度や二度の放出で終わらせるつもりはない。
ひと仕事すませる前に、存分に愉しませてもらうつもりだった。
第二章
朝霧の立つ交差点に、耳障りなブレーキ音が鳴り響いた。
早朝と呼ぶにはまだ少し抵抗のある、ようやく始発が走り始めるくらいの時間帯。
道路交通法を守らなかったのは、明神ひさぎのほうだった。
正面の信号を無視して無造作に歩を進めていたら、コンビニに届ける商品を積載したトラックが横から突っ込んできた。
だが、ひさぎはそれを一瞥しただけで、特に慌てたりはしなかった。
トラックとの距離はまだ充分あったし、それまでのスピードとブレーキをかけてたタイミングを考えれば、激突する前に停止できるのは判っていた。
一瞬のうちにそこまで計算できる頭の回転の速さと、何よりも、そんな状況にあっても全く動じることのない胆力が、ひさぎにはある。
その予想通り、トラックはひさぎの手前数メートルのところで停止した。
その前を悠然と横切っていくひさぎに、癇癪《かんしゃく》を起こしたように何度もクラクションが鳴らされる。
しかし、配達を急ぐドライバーが、わざわざトラックを降りてひさぎに殴りかかってくるようなことはなかった。
それもまた、ひさぎが予想してことではあった。
罵詈雑言《ばりぞうごん》のようなクラクションを涼しい顔で聞き流し、ひさぎは駅前に向かった。
胆力がある――という表現は、少し間違っているかもしれない。
正確には、ただ鈍感なだけなのだ。
トラックが自分に向かって突っ込んでくるのを見ても、ひさぎがそれを怖いと感じることはない。
だから冷静に、「ブレーキが間に合うだろう」とか、「避けないと死ぬな」とか、それこそ他人《ひと》ごとのように淡々と考えをめぐらせて、それに沿って行動できるだけなのである。
明神ひさぎには、恐れを感じる心が根本的に欠如している。
広い意味で何かを怖いと感じることがない。
さっきの紫藤カンナの件にしてもそうだ。
結局ひさぎは、一時間以上、好き放題にカンナをもてあそび続けた。
後ろから前から、そして最後は胸の谷間で、ひさぎが三回果てるまでに、カンナがどれだけ絶頂を決めたか判らない。
カンナは途中で何度も失神し、そのたびに快感を掘り起こされて目を醒まし、最後には声も出ないくらいに憔悴《しょうすい》しきっていた。
最初のうちはともかく、後半はほとんどひさぎのおもちゃにされたようなものだった。
もしかしたら、カンナがあとになって編集部にねじ込んでくるかもしれない。
おぼこい若造をつまみ食いするつもりで誘ったら、逆にひどい目に遭わされた――とはさすがにいわないだろうが、明智涼子を通してなにかいってくる可能性はある。
カンナにへそを曲げられて、もし原稿がもらえないような事態になったら、編集部としてはかなり困ったことになるだろう。
その責任を取らされてひさぎがクビにされるようなことはないにしても、ただでさえ少ないボーナスの査定くらいには響いてくるかもしれない。
だが、それもひさぎにとってはどうでもいいことだった。
立体駐車場に入ったところで、ひさぎはふと、カーブミラーに映るゴージャスな毛皮の美女と目を合わせた。
ひさぎとはもう十年以上のつき合いになる、ひさぎが決して手を触れることのできない鏡の中の女――もうひとりの自分。
ルージュの乗りを確かめたひさぎは、夜風のせいでわずかに乱れたウィッグを直し、サングラスをかけた。
これでもう、ひさぎが男だとひと目で判る人間はいなくなる。
背が高すぎることに目をつぶれば、冷たい美貌の女として――顔の半分はサングラスで見えないが――通るだろう。
今夜のコーディネイトは、ユニセックスな上下揃いのジャケットに、いつものガンメタリックのミンクのコート。
カンナの自宅で予想外に時間を食ってしまったおかげで、あまりお洒落に手間をかけられなくなったが、仕事≠フために頭を切り替えるのには充分だった。
ひさぎはバックの中にひそませた銃の感触を確かめ、エレベーターに乗り込んだ。
ひさぎがこうした駐車場を仕事場に選ぶことが多いのは、比較的薄暗く、障害物が多いため、何かと人目につきにくいからだ。
最近は防犯カメラの数が増えたせいでやりにくくなっているが、事前に調べておけば、カメラに映らない場所などいくらでも見つかる。
こうした都会の中の過疎地に縁のないターゲットを始末しなければならないケースとくらべれば、その程度の手間は何でもなかった。
立体駐車場の三階に上がったひさぎは、あたりをぐるりとひと回りしたあと、カメラの死角になる位置を選ぶと、タバコをくわえて壁にもたれた。
冷ややかな空気に支配された駐車場には、クルマの数もまばらなら、警備員の姿も見えなかった。
その男が、週末ごとにこの近くのクラブに顔を出しているということは判っている。
男のクルマがここにあることもさっき確認した。
クラブでひどく酔っていたりしなければ、ほどなくここまでクルマを取りにくるだろう。
男に連れがいなければ、話はいたって単純だ。
引鉄《ひきがね》を一度引くだけで今夜の――あるいは今朝の――仕事≠ヘ終わる。
もし男に連れがいたとしたら、ケースバイケースで考える必要があるだろうが、それもさして深刻な障害にはならないはずだ。
火をつけず、ただ吸い口にうっすらとルージュの跡をつけただけのタバコを揺らしながら、ひさぎはシルクの手袋をはめた。
上昇してきたエレベーターが停まり、誰かが降りてくる気配があった。
三十前後の、若い女たちに騒がれそうな精悍《せいかん》なルックスを持った浅黒い肌の男だった。
一見してそれと判る遊び人風の男で、ひさぎとは趣味の方向性が大きくくずれているが、さすがにファッションのセンスも悪くはない。
身につけているものはすべて高級品だ。
この前の頭の禿げた社長サン≠謔閧ヘ、よほど判りやすいターゲットだと、ひさぎは思った。
今回の依頼人は、まだ若い女だった。
あの男にさんざん食い物にされて捨てられた女とか、どうせそんなところだろう。
あの手の男は色恋絡みでの恨みを買いやすい。
いずれにしろ、男が殺されなければならない理由など、ひさぎにはどうでもいいことだ。
クルマのキーをちゃらちゃら鳴らしてエレベーターから出てきた男は、柱の陰に立っているひさぎに気づいて足を止めた。
クラブの帰りで素面《しらふ》ということはありえないが、みずからクルマを運転して帰れると考えるくらいの酔い方ではあるのだろう。
そんな男の目には、たぶん、今のひさぎが、思わせぶりな視線を投げかける長身の美女に見えるに違いない。
男はポケットからライターを取り出し、にやついた笑みを浮かべてひさぎのほうへ歩いてきた。
ひさぎが揺らしている火のついていないタバコを、女のほうからの誘いのサインだとでも思ったのかも知れない。
実際、男を誘うつもりでひさぎがタバコを揺らしていたのは事実だが、その目的は、男の下卑た想像とは大きくかけ離れていた。
それをこの男に、今すぐ思い知らせてやる必要があった。
ライター片手に、第一声を何にしようか薄い笑みとともに考えている男の胸へと、ひさぎは無造作にコルト・パイソンを差し向けた。
「……え?」
至近距離から突き付けられた銃口と、半分近くがサングラスで隠されている無表情なひさぎの顔とを、男は交互に見くらべた。
どうしてここでそんなものが出てくるのか判らない――そういいたげな、いきなり非日常に放置込まれた人間がときおり見せる、滑稽で間の抜けた顔だった。
そして、男がいつもの日常に戻ってくることは、永久になかった。
無造作に突きつけた銃の引鉄をさらに無造作に引き、ひさぎは作業を終えた。
ひさぎにとっては、これこそが本業だった。
労働時間は編集者としての仕事のほうが圧倒的に長かったが、それでも、この非日常的な仕事≠フほうが、自分には向いていると思う。
ひさぎは銃の重さにも発砲の衝撃にも、自分の手で人を殺すという行為にも、まったく心を揺らさない。
もしかしたら――逆に自分が殺されるかもしれないということを考えても、ひさぎの心は微塵《みじん》も揺らがない。
ひさぎには、何も怖いものがないからだ。
何かを怖いと感じる心を、ひさぎはとうの昔に失ってしまっている。
ひさぎが人知れずこの仕事をしているのは、重ねていく罪の重さによって、麻痺しきってしまった自分の恐れの心がふたたびよみがえってくれるかもしれないと、そんな身勝手で淡い期待をいだいているからだった。
ひさぎは、死ぬ前にせめてもう一度、心底怖いという感覚を味わってみたかった。
そのためにひさぎは人を殺し続けている。
もし逮捕されれば死罪はまぬがれないだろうし、もし地獄というものがあるのだとすれば、ひさぎはきっと地獄に落ちるだろう。
だが、自分が捕まった時のことを考えても、ひさぎは少しもそれが恐ろしくないのだ。
やはり自分は狂っているのかもしれない。
弾丸を吐き出したばかりの銃をハンカチに包んでコートのポケットにしまい、ひさぎは思った。
だから、ひさぎは最初、それは幻に違いないと考えた。
少しおかしい自分の頭が、ついに幻覚まで見せてくれるようになったのだと、焦燥感や不安感とはまるで無縁の冷静さとともに――そう、それだって少しも怖いとは思わない――ひさぎはそう思った。
心臓に拳銃弾を浴びて倒れた男の向こうに、少年が立っていた。
人気のない黎明《れいめい》の立体駐車場、血まみれの死体のかたわらに、半ズボン姿の美少年――。
シュールともいえるその光景を、ひさぎが現実のものとは思えなかったのは、ある意味では当然のことだったかもしれない。
「――」
足元に転がる男の骸《むくろ》を一瞥した少年はひどく冷たい双眸でひさぎを見つめた。
それを見て、やはり幻だとひさぎは思った。
コドモであれ、オトナであれ、こんな悲劇を目の当たりにすれば、驚くなり呆然とするなり、そういった反応を見せるのが普通だろうに、その少年は、無惨な死体を前にして取り乱すどころか、うっすらと笑みさえ浮かべていたのである。
顔の造作はひどく愛らしいのに、そこに浮かんだ表情はあまりにも悪魔的で、とても普通の少年のそれとは思えなかった。
今にも声をあげて笑い出しそうな少年をまじまじと凝視していたひさぎは、一度はしまったはずの銃をふたたび取り出した。
幻ならばよし――しかしもし少年が現実のものなら、目撃者の口は封じなければならない。
ひさぎは少年の顔面に狙いをつけ、躊躇することなく引鉄を引いた。
だが――。
「……?」
発砲の衝撃が手に伝わったのが先だったか、それともあとだったか。
サプレッサーを通して熱い弾丸が吐き出されるのと前後して、少年の姿はかき消えた。
ひさぎは銃を降ろし。あたりを見回した。
ひんやりとした空気に、硝煙の臭いがわずかに混じっている。
しかし、少年の姿はすでにどこにもない。
一分前と変わっている点をしいて捜すとすれば、少年を狙って撃ったはずの弾丸が、その向こうに停まっていたクルマのドアに穴を開けていたということぐらいだろう。
まぶた越しに眼球を軽くマッサージしたひさぎは、大きく嘆息してエレベーターに向かった。
死体を残さずに消えたのなら、やはりあの少年は幻だったのだろう。
自分が見たものを、ひさぎは最近の疲れのせいにした。
現にもう少年はいないのだ。
この場であれこれ悩んでいるのを誰かに見られでもしたら、もっと面倒なことになる。
エレベーターの中で、ひさぎは少しだけ香水を噴いた。
薔薇の香りがほのかに広がり、身体にまとわりついていた硝煙の臭いを、上からそっと塗り潰していく。
ようやく日が昇り始めた地上に戻ってきた時、ひさぎはあの少年の目を思い出した。
何を考えているのか読めない、大人を馬鹿にしたようなあの冷たい輝き――あれは、確かどこかで見たことがあるような気がする。
乗客の少ない始発直後の電車で別の駅まで移動し、そこでタクシーを拾って家路についたひさぎは、窓ガラスに映り込んだ自分の顔を見た時、卒然と気づいた。
あの少年の目が、子供の頃の自分の目にそっくりだったということに。
※
贅沢な犬だ。
そのへんの貧乏人よりよほどいいものを食べ、よほどいい寝床で眠り、よほど質のいい服まで着ている。
広い芝生の庭をよたよたと歩いている牝のマスチフ犬を見つめ、梓沢は苦い煙を吐き出した。
美食と、何よりも年老いたせいで、美幸は――それが彼女≠フ名前だ――たるんだ皮膚をぶるぶると重そうに揺らしながら、日課の散歩をこなしている。
足腰が弱って俊敏さを失っただけでなく、かつての獰猛《どうもう》さも影をひそめて久しい。
以前、美幸にエサをやろうとした若い衆がいきなり噛みつかれて、右手の指を二本ばかり失ったことがあったが、あれももう遠い昔の話だ。
今はこうして庭で放し飼いにしても、誰も怯えたりはしない。
「……一日でも長生きしたいと、犬でもそう思うのかね?」
溜息混じりに自問した梓沢は、テーブルの上の灰皿でタバコをすり潰した。
「――おや、梓沢サン」
かすれた笑い声に梓沢が振り向くと、あのショートカットのボンデージ女が柱に寄りかかって笑っていた。
クナンサティ――確かそんな奇妙な響きの名前だった。
天然の真っ赤な髪とその顔立ちは、やはりどう考えても日本人のそれとは思えなかったが、とにかく得体が知れない。
そも梓沢には、こうして自分に気配を悟らせることなくここまで接近できたということ自体、彼女がただ者ではないということの証明のように思えてならなかった。
クナンサティは足音を忍ばせて歩み寄り、挑むようなまなざしで梓沢を見上げた。
「嶺崎の親分サンのご機嫌伺いはいいわけ?」
「親分じゃない。……嶺崎会長だ」
何度指摘しても、クナンサティは同じ間違いを繰り返す。
たぶん、梓沢の反応を見るためにわざとやっているのだろう。
サンルームのように日当たりのいい、長くて幅の広い廊下に、今は梓沢とクナンサティのふたりしかいない。
梓沢は自分より頭ひとつ背の低いクナンサティを見下ろし、傷のある頬をひくつかせた。
良くも悪くもクナンサティは個性的な美女だったが、とりわけ男たちの目をまず惹くのは、ぴったりとしたビスチェで締め上げられ、見事にまで大きく張り出した胸だろう。
黒革から半分近くはみ出した女の果実はいかにもうまそうに実っていて、おまけに、下から押し上げるかのように腕を組んでいるせいで、その大きさがさらに強調されている。
「ドコ見てんのよ?」
不躾《ぶしつけ》な梓沢の視線に、クナンサティが低い声でいった。
だが、怒っているふうではない。
「結局、おまえらはいったい何なんだ?」
クナンサティの深い胸の谷間を無感動に見つめたまま、梓沢は尋ねた。
「会長がお元気になられたのはいいが、いったいどんな魔法を使った? どこの医者も手遅れだと見放していたものを――」
「奇跡が起きたんだろ?」
「便利な言葉だな」
「まあ、その奇跡を呼び込んだのは、ジャグルヤと――ま、コンパニオンのみなさんのおかげなんだけどさあ」
皮肉っぽく笑って肩をすくめるクナンサティから視線を逸らし、梓沢は顔をしかめた。
この屋敷に集められたコンパニオンたちの姿が、ここ二、三日ほどでずいぶんと減っている。
梓沢はいっさいそのことに口出ししていないが、口止め料込みの破格のギャラを持ってひそかに帰宅したといわれる彼女たちが、本当はどうなったのか――それを考えると、あまりいい気はしない。
あの夜、ジャグルヤの催眠術にかかったかのように裸のままで奥座敷にみちびかれていった女も、あれ以来ここで見かけることはなくなった。
部下たちにはそうしたことを詮索するなと釘を刺してはいるが、梓沢自身がそうであるように、気にするなというのが無理な話だった。
梓沢のかたく引き締まった尻を軽く叩き、クナンサティはいった。
「で、そういうアンタは何してるわけ? 何だかヒマそうにしてるけど」
「オレの出番がそうそうあってたまるか」
身長二メートルを超えるその体躯が物語るように、梓沢はここで事務方をやっているわけではない。
梓沢の仕事は、この広い屋敷の主人――嶺崎グループ会長、嶺崎|剛三《ごうぞう》の身辺警護である。
実際には警護という受け身な仕事だけにとどまらず、時にはもっと剣呑《けんのん》な、それこそ法に触れるような仕事に駆り出されることもしばしばだった。
要するに、荒事専門の裏方である。
この屋敷にはほかにもそうした男たちが数多くいるが、それらを束ねる立場にいるのが、この梓沢|比呂雄《ひろお》という男だった。
「――」
早くも息が上がってきたのか、可憐な名前の老醜マスチフは、青い芝生の上に寝そべり、昼寝を始めている。
一度は庭先に転じた視線を、梓沢はふたたびクナンサティに戻した。
梓沢にも上手く言葉で説明することはできなかったが、このクナンサティという女は、ただそこにいるだけで、周囲の男をその気にさせてしまう淫蕩《いんとう》なフェロモンを、四六時中まき散らしているのかもしれない。
我ながら克己《こっき》心があると自負している梓沢でさえ、この女とふたりきりでいることを自覚すると、次第に妙な気分になってくる。
悪目立ちするそのバストをゆったりとした衣装でつつみ隠したとしても、おそらくそれさえもつらぬいて男の股間を直撃するであろう蠱惑《こわく》が、クナンサティにはあった。
そんなことをぼんやりと考えていると、クナンサティと目があった。
「――どうする?」
一瞬ぎくりとして息を呑んだ梓沢に、クナンサティが意味深な質問を投げかけてきた。
「どういう意味だ?」
「とぼけんなって」
クナンサティの胸のふくらみが、梓沢の二の腕にぐっと押しつけられる。
やわらかく形を変えた乳房の感触に梓沢は目を細めた。
梓沢にぴったりと寄り添ったクナンサティは、いきなり梓沢の股間へと手を伸ばした。
「わたしを見た男はたいていこうなるんだ。……ほら、ここは正直だし」
腕にクナンサティの胸を感じる前から――間近にこの女を見下ろした時から、すでに梓沢スラックスは窮屈そうにテントを張っていた。
それを布地越しにきゅっと握り締め、クナンサティは舌なめずりをした。
「本番はさせてあげられないけど、どうする?」
「親分と会長の区別がつかないくせに、そういう妙な日本語は知ってるんだな」
「別にいいじゃん」
クナンサティは梓沢の耳もとにそっと息を吹きかけ、スラックス越しに熱く屹立を刺激した。
裏筋に沿ってそっとなぞり上げ、先端のあたりを指先でつまんで揉みほぐすようにいじくる。
そのたびに、梓沢の意志とは関係なく、剛直がぴくぴくと反応した。
「わたし、うまいよ?」
クナンサティの手がスラックスのジッパーを下ろし、梓沢のものを掴み出した。
すでに鋼鉄のように硬くいきり立ち、たくましい鎌首をもたげた図太い男根に、指の長い白い手を絡ませて上下にしごく。
自分でいうだけあって確かにうまい。
背筋を這い登ってくる快感に、梓沢は軽く身震いした。
「――アンタ、中東帰りなんだって?」
「……誰から聞いた?」
「別に。ウワサを聞いただけだよ」
噂を聞いたというが、梓沢は信じなかった。
こうして梓沢にしているようなことを、屋敷のほかの男にしてやりながら、睦言《むつごと》のように聞き出したに違いない。
そう思うと、急に妬《ねた》ましくなってきた。
「向こうで何やってたの?」
「ボランティアだ」
「冗談ばっかり」
クナンサティはその場にひざまずくと、梓沢の剛直に顔を寄せていった。
「あ、は……」
青いルージュにいろどられた唇を割り、ぬるりと現れた長い舌が、熱い肉塊を丹念に舐《な》め上げる。
その瞬間、あらたなタバコに火をつけようとしていた梓沢が、短く呻いてライターを取り落としていた。
「おうっ……」
確かにうまい――どころの話ではない。
しびれるような快感が突き上げてきて、思わず短い呻きをもらした梓沢は自分の股間に貼りついた女の顔を凝視した。
「んふ」
長大な梓沢のものをかっぽりとくわえ込んだクナンサティは、鼻にかかったような吐息をもらし、上目遣いに梓沢を見上げた。
あの、挑むような視線に、今は淫らな霧がかかっているようだった。
そして、女の口淫が本格的に始まった。
じゅるじゅると湿った音を立てて、クナンサティの頭がスライドする。
唾液にまみれて、うっすらと湯気を立ち昇らせるグロテスクな巨根が、青い唇に出入りしているのを見ると。
その快感にめまいさえもよおすほどだった。
どこの風俗に行っても、ここまでの女にはなかなか出会えないだろう。
自分でも小刻みに腰を動かしながら、梓沢は眉間に深いしわを寄せ、まるで苦行層のような表情を見せていた。
唇を噛み締めてでもいなければ、あっさりと自失してしまいそうだった。
「――どうよ?」
どこか陶然とした顔つきで奉仕を続けていたクナンサティが肉塊を吐き出して尋ねた。
「続けろよ」
梓沢は赤毛を掴んで催促したが、クナンサティはその手をやんわりと振りほどき、胸を締め上げていたビスチェのホックをはずし始めた。
「そう焦んなって。……すぐにもっと気持ちよくしてあげるよ」
たちまちあらわになったクナンサティの胸に、梓沢はあらためて唾を呑み込んだ。
クナンサティの乳房は、ただ大きいだけでなく、素晴らしい形をしていた。
男なら誰でも鷲掴み、あるいはむしゃぶりつきたくなるような、そんな肉の房を女は黒革の下に隠していた。
「このおっぱい、味わってみたかったんだろ?」
見透かしたようにいって、クナンサティは梓沢のペニスを谷間にはさみ込んだ。
「む……」
梓沢の口から喘ぎにも似た吐息がもれた。
クナンサティの乳房はどこかひんやりとしていて、唾液と先走りでぬるつく熱い肉棒には、それがまたあらたな快美感となった。
「ガマンできなくなったらいいなよ、梓沢サン」
くすりと小さく笑ったクナンサティは、今度は手と唇ではなく淫猥《いんわい》なふたつの乳房で、ふたたび梓沢の剛直をもてあそび始めた。
唇をすぼめて唾液を垂らし、それをローションの代わりにして、やわらかな肉ではさんだ怒張を揉み立てる。
クナンサティの胸を見て、このプレイを夢想しない男はおそらくいないだろう。
クナンサティが上半身をくねらせるように大胆に動かすのに合わせ、形のよい乳房がぐねぐねとゆがみ、その谷間から自分の分身が見え隠れする光景が、男としての欲望を刺激する。
しかもクナンサティは、人並み以上に長い舌を伸ばして、肉の狭間を出入りする亀頭をちろちろと舐めくすぐることまでするのである。
日当たりのいい庭に面した廊下で、股間をさらして美女に濃厚な奉仕をさせているという事実が、梓沢の快感を加速させた。
ちょうどそんな時だった。
視界の隅に不意に青いものが現れたような気がして、梓沢は細めていた目を開いた。
怠惰に昼寝を続ける美幸の傍らに、青いスタンドカラーの男が立っていた。
「くっ……」
ジャグルヤという名の得体の知れない客人と目が合った梓沢は、股間に張りついていたクナンサティを慌てて引き剥がそうとしたが、できなかった。
梓沢の限界が近いことを察したのか、クナンサティはふたたび肉棒全体をぱっくりとくわえ込み、激しく首を振りたくった。
「よせっ、おい……!」
冷ややかな笑みを含んだジャグルヤの視線を感じながら、梓沢は押し殺した声でそういったが、クナンサティの頭を掴んだその手は、彼の意志とは正反対に、女の淫らな前後運動を手助けするかのように動いていた。
やがて梓沢は、ジャグルヤから視線を逸らし、天井を見上げてひとつ大きく腰を突き出した。
「んっ――」
その瞬間、女は悲鳴にも似たくぐもった声をかすかにもらしたが、断続的に痙攣する剛直を吐き出そうとはしなかった。
梓沢が達したのが判ったのか、それまで後ろ手に手を組んでじっと立ち尽くしていたジャグルヤが、ゆっくりと梓沢のほうへ歩いてきた。
「――お愉しみのところを申し訳ありません、梓沢さん」
何ごともなかったかのように、男の口調は淡々としている。
「どうやら今夜あたり、嵐になりそうです。会長をお散歩にお連れしたいのですが、お手伝いをお願いしてもよろしいですか?」
「さ、散歩!?」
性戯にふけっていたところを見られたということより、まずそのジャグルヤの申し出に声をうわずらせた。
「ですが、会長は――」
「あまり横になってばかりいるのもどうかと思いますし、何より会長ご自身が久しぶりに外に出てみたいとおっしゃっていますので」
「か、会長が……?」
梓沢の知るかぎり、嶺崎翁の病はすでに膏肓《こうこう》に入り、もはや手の打ちようがないはずだった。
それがこの短期間で、何をどうすれば自力で立って歩けるほどに回復するのか――。
「先日来の祈祷≠ェ功を奏したようです」
梓沢の当然の疑問に答えるかのように、ジャグルヤは自分の胸を軽く押さえて瞳を伏せた。
「――これも我らが神のご加護でしょう」
そんな馬鹿な――という言葉はついに口にできなかった。
ただ梓沢は、この得体の知れない男ならば、そうしたことをやってのけるのかもしれないと、漠然とそう感じただけだった。
「とにかく、会長がそうお望みなのです。お手伝いいただけますか、梓沢さん」
「あ、ああ……」
ぎこちなくうなずいた梓沢のものは、まだクナンサティの口の中にあった。
ガラス戸を一枚へだてたすぐそこにジャグルヤがいるというのに、クナンサティは恥じらいもなく、射精直後のゆっくりとしおれていくペニスを、名残惜しげに音を立てて舐めしゃぶっている。
梓沢の快諾に、ジャグルヤは大仰にうなずいてきびすを返した。
「それではまたのちほど。それとクナンサティ、私の部屋まで来なさい」
「――はいよ」
じゅぽっとひときわ大きな音をさせて男根を吐き出したクナンサティは、見ているだけですぐさまあらたな欲望を喚起させかねないあの胸をビスチェの中に押し込み、立ち上がった。
「アフターサービスで綺麗にしといてやったよ。いつまでも放り出してないで、いい加減にしまったらどう?」
しなびた先端を指で軽くはじき、クナンサティは舌なめずりをした。
すべて呑みきれずにわずかにこぼれた梓沢の白濁を、ピンクの舌があらかた舐め取り、その唇は青い艶をいや増すようだった。
「次はこっちでイカせてあげるよ」
革のミニスカートに包まれた自分の股間を指差し、クナンサティは歩き出した。
「……おい」
現れた時と同じく、足音を立てずに板張りの廊下を歩いていくクナンサティの背に、梓沢が声をかけた。
「ウチの若い連中には、向こうから迫られても絶対に今みたいな真似はするなよ?」
「あれ? それってヤキモチ? 一度しゃぶってもらっただけなのに、ずいぶん惚れっぽいんだね、梓沢サン?」
「馬鹿をいえ」
ジッパーを上げながら、一抹のばつの悪さを奥歯で噛み砕いて吐き捨てる。
「――おまえを取り合って人死にが出たら面倒なことになると思っただけだ」
梓沢は本気でいったつもりだったが、女は冗談だと思ったらしい。
「あはははは……大丈夫だよ、わたしはアンタみたいなガタイのいいヤツが好みなんだ! ほかの奴らときたら、みんな細っこいのばっかりじゃん! 食指も動かないってば!」
ひらひらと手を振り、ついでに尻も振りながら、クナンサティは歩いていった、気がつくと、美幸の姿も庭先から消えていた。
ジャグルヤにくっついてどこかへ行ったのかもしれないが、だとすれば珍しいこともあるものだと、梓沢はぼんやりとそう思った。
若かった頃も年老いた今も、美幸は滅多に人になつかない、気難しい犬なのである。
※
作家には締切という忌まわしいデッドラインがあるが、編集者にも似たようなものはある。
この日までにひと通りの作業を終えておかなければ、刊行予定日に本が出ない――そういう最終的な作業のことを校了といい、その日のことを校了日という。
多少の融通が利く場合もないわけではないが、基本的に、編集者はこの天王山を目指して日々の仕事をこなしている。
だから、月ごとの新刊をスケジュール通りに書店に並べなければならない文庫編集部は、校了日直前ともなれば、文字通りの戦場と化す。
徹夜はもちろん、数日にわたって会社に泊まり込んで作業に没頭する者も出てくる。
その校了日を数日前に乗り切った週末、だから、明神ひさぎがわざわざ休日に出社してくる必要は、本来ならどこにもない。
しかし、明け方の仕事≠すませて自宅に戻ったひさぎは、数時間ほど仮眠を取ったあと、平素と同じ定時に出社した。
土曜日の編集部には同僚たちの姿はなく、ただ編集長の明智涼子だけがいて、火のついたタバコを片手に何やら作業をしていた。
「編集部は禁煙ですよ、編集長。タバコなら喫煙室でどうぞ」
そう声をかけられて、初めて涼子はひさぎが現れたことに気づいたようだった。
「ゆうべはお疲れさま」
原稿の束から顔を上げ、涼子は苦笑混じりにひさぎにいった。
たぶん、紫藤カンナのご機嫌取りのことをいっているのだろう。
しかし、ひさぎは特に恥じ入ったりうろたえたりすることなく、平然と自分の席のパソコンを立ち上げた。
「まあ、紫藤先生とも何とかうまくやっていけそうです」
「わたしは最初から心配してないわよ。あなた、そういうところはソツがないし」
タバコを携帯灰皿に押し込み、涼子は机の上の缶コーヒーに手を伸ばした。
「――で、きょうは何なの? きのうのきょうなんだから、ゆっくり休んでいたらいいのに」
「いや、神崎先生からいただいた原稿を打ち出しておくのを忘れたもので――これ、あした中に読んでおきたいんです」
プリンタが動き出し、テキストデータとして送られてきた原稿を高速で印刷していく。
文庫一冊分の原稿を打ち出しが終わるまでの間、ひさぎは喫煙室の脇にある自販機でウーロン茶を買ってくると、空いている同僚の席に座って大きく嘆息した。
「――編集長だって休日出勤じゃないですか。どうしたんです?」
「あなたと同じよ。あしたまでに読まなきゃいけない原稿があと三本あるの」
机の端に積まれた紙の束を指で叩いた涼子は、家じゃ落ち着いて読めないから、とつけ足した。
よく見ると、涼子の服装はきのうと同じだった。
ゆうべ、ひさぎとカンナを見送ったあと、帰宅せずにまた編集部へ戻ってきて、そのまま夜明かしをしていたのかもしれない。
明智家の夫婦仲があまりうまくいっていないというカンナの話を思い出し、ひさぎはただしたり顔でうなずいた。
その表情を見とがめたのか、涼子は、
「何なの、明神くん? 何かいいたいことでもあるわけ?」
「いえ、新人作家を育てるのも大変そうだなって思ったもので」
「他人《ひと》ごとじゃないわよ? そろそろあなたにも、手のかかりそうな新人を受け持ってもらわないといけないんだから」
「覚悟しておきますよ」
印刷されたばかりの原稿をクリップでまとめ、ひさぎはすぐに帰り支度を始めた。
「明神」
「はい?」
「あの子、ときどき鬱が入ってぜんぜん仕事が手につかなくことがあるから、そういう時はちょっと気を遣ってやってもらえる?」
「紫藤先生のことですか?」
「そう」
すでに涼子は原稿に集中していて、ひさぎのほうを見もしない。
プライベートはともかく、仕事に関していえば、明智涼子は編集部の誰よりも真摯《しんし》で、他人に対するよりもまず自分に厳しい。
世の中のすべてをひねくれた視点から見る癖のあるひさぎにとっても、純粋に尊敬できる数少ない人間だった。
「それじゃ、お先に失礼します」
服装はきのうと同じだったが、きちんとメイクのほどこされた涼子の横顔は凛《りん》として美しい。
他人にあまり興味を持てないひさぎも、この上司のことはわりと好きなほうだった。
後ろ手にドアを閉めながら、ひさぎは、ゆうべのカンナの痴態を思い返してみた、それだけではもうさほど興奮はできなかったが、カンナを涼子に置き換えてみると、背中に甘い疼《うず》きのようなものがぞくりと走るのを感じた。
どうやら自分はカンナよりは涼子のほうが好みのタイプらしいと、いまさらながらにひさぎはそう気づいた。
きょうは本当に原稿を取りに編集部へ顔を出しただけで、その後の予定は特になかった。
今のところ、ひさぎには特定の恋人というものはいなかったし、休日に会って遊ぶような仲のいい友人もいない。
だからひさぎは、そのまま家に帰ることにした。
ひさぎが乗り込んだ車両には、サラリーマン風の乗客の姿はちらほらと散見できるほどだったが、土曜日の日中ということで、子供連れや若いカップルの姿が目立つ。
シートに腰を落ち着け、ケータイであちこちのニュースサイトを読んでいくと、ゆうべの仕事≠ェ記事になっているのを見つけた。
いわく、無職の三十男が立体駐車場で殺されていた、うんぬん。
男は軽佻浮薄《けいちょうふはく》なその見た目通り、女性関係でのトラブルをいろいろかかえていたようで、警察もその線で捜査を進めているらしいが、それだけ判ればもう充分だった。
ひさぎは自分にあの男を殺すように依頼してきた女の名前さえ知らないし、向こうもひさぎの素性はいっさい知らない。
いつ閉鎖されるかも判らないアングラサイトの掲示板で知り合っただけで、実際には会ったこともない。
どこをどうたどっていったところで、捜査の手がひさぎのところまで伸びてくる可能性はかぎりなく低いはずだ。
これまでずっとこのやり方でやってきたし、これからも同じやり方でやっていけるだろう。
自分の仕事の顛末《てんまつ》を紙面で確認したひさぎは、ケータイをバッグの中に放り込み、ついもれてきたあくびを噛み殺した。
ゆうべの接待からカンナの相手、それに明け方の仕事≠ニ続いて、さすがに疲れが溜まっている。
度の入っていない眼鏡をはずして胸のポケットに押し込み、ひと眠りしようと思ったひさぎは、しかしその瞬間、目を見開いて凍りついた。
吊り革にぶら下がった乗客たちの向こうに、あの冷ややかなまなざしがあった。
「――」
こっくりこっくりやっている老婆と大学生風の男にはさまれて、シートにちょこんと腰かけた美少年が、じっとひさぎを見つめていた。
間違いない、ゆうべあの男を殺した現場でひさぎが目にした幻の少年だった。
しかし、今ひさぎが目にしている少年は、確かにそこに存在していた。
ひさぎだけが見ているのではなく、ほかの乗客たちも、そこにその少年がいるということを明らかに認識している。
だとすれば、ひさぎがゆうべ見た少年はいったい何だったのか。
ゆうべの少年は幻で、その幻と偶然そっくりの顔をした現実の少年が、これもまた偶然にひさぎの正面に座っていた――というのは、絶対にありえないことではないが、あまり都合がよすぎる。
何がどうなっているのかよく判らなかったが、とにかくひさぎは少年を注視することは避けた。
たとえ今そこにいる少年がゆうべの事件の目撃者だったにせよ、その犯人と今のひさぎを結びつけることはできないはずだ。
ゆうべのひさぎは毛皮のコートをまとった美女にうまく化けていたし、よほどじっくりと観察しなければ、あれがひさぎの女装だったと気づくはずがない。
そうと思えば、一時の動揺もすぐに消えてなくなる。
ここでもまた、恐怖心の欠落から生じる鈍感さが、ひさぎに完璧な無関心さをよそおわせることに成功していた。
混み合う電車が減速し、空気が抜けるようなドアが開く音を聞いたところで、ひさぎは目を開けて立ち上がった。
相変わらずあの少年は同じ席に座っていたが、ひさぎは視界の隅でそれを確認しただけで、特に一瞥するでもなく電車を降りた。
降りる間際、少年がひさぎを見て笑ったような気がしたが、ひさぎはそれも無視した。
紫藤カンナの住まいほどではないが、ひさぎも、ひとり暮らしとしては充分な広さのマンションに住んでいる。
もとからの貯金と仕事≠ナ稼いだ金、それに編集者としてのサラリーをつぎ込んで購入した、新築のマンションだ。
ひさぎはすでに親兄弟もなく、結婚してあらたに家族を増やすつもりもない。
だから、世の中の一部のOLたちが、二十代三十代のうちから終《つい》の棲家を手に入れてしまうのと同じような感覚で、ひさぎもあっさりとここに住まいをさだめてしまったが、今のところ、その大胆な決断が間違っていたと感じる瞬間はない。
カンナのところよりもさらにシンプルな、飾り気がないというより殺風景といってもいい我が家に戻ってきたひさぎは、ジャケットを脱ぎ、ソファに腰を降ろした。
ほっとひと息つくと、あの少年のことが自然と思い出されてくる。
あの時は、女装していた自分に気づくはずはないと思って無視を決め込んだが、電車を降りる刹那に少年が見せたまなざしは、まるですべてを見抜いているかのように、子供らしからぬ邪悪を包んだ冷たい光を宿してひさぎを見つめていた。
電車の中で遭遇した少年が、もしゆうべのひさぎが出会ったあの少年と同一人物で、しかもひさぎが女装の殺し屋だということに気づいているのだとしたら――。
「……」
そんなことがあるはずはないと、ひさぎはかぶりを振って立ち上がった。
それを今ここで思い悩んでも仕方がない。
ひさぎは無駄なことで時間を潰したりしない主義だ。
実際に問題が生じる前からあれこれ懊悩《おうのう》するより、今はほかにやるべきことがある。
さしあたってはもう少し睡眠を取って、目が醒めたらシャワーを浴び、編集部から持ってきた原稿を読んで――。
そう考えながら、ひさぎがワイシャツのボタンをはずしていると、パソコンの前に置いた携帯電話が震え始めた。
液晶画面には非通知の表示が出ていたが、もしかすると、作家からの緊急の連絡かもしれない。
ひさぎはふたたびソファに腰を降ろし、電話に出た。
「もしもし?」
『明神……ひさぎさん?』
「はい、そうですが――」
聞いた瞬間、わけもなく胸がざわめいた。
いきなり男の股間を鷲掴みにするような、ひどく艶っぽい女の声だった。
幸か不幸か、ひさぎが担当している作家の中に、ここまでそそる声の持ち主はひとりもいない。
首からネクタイを引き抜き、ひさぎはいぶかしげに聞き返した。
「……どちらさまでしょう?」
『あなたのあのミンクのコート』
かさねて尋ねようとするひさぎの声をさえぎり、女は回線の向こうでくすりと笑った。
『……とってもよく似合ってるわ。でも、わたしのほうがもっと似合うと思うんだけど』
その言葉に、ひさぎは閉口した。
ひさぎがミンクのコートを着るのは、美女を装って仕事≠ノかかる時だけだ。
会社の同僚や数少ない知人の中に、ひさぎがあんなコートを持っているということを知っている人間はいない。
その、ひさぎのコートのことを、この女は知っているというのである。
「どなたかとお間違えでは?」
動揺を即座に抑え込み、ひさぎは淡々とした口調で切り返した。
だが、女は引き下がらなかった。
『隠さなくてもいいわ。あなたがそのへんの女なんかよりずっと綺麗な男だってことは判っているし、わたしだって、あなたのシュミをどうこういうつもりはないから』
そんなに悪いシュミじゃないわ――。
女は含みを持たせた口ぶりでつけ足し、また喉を鳴らして笑った。
ソファにうずめていた身体を起こし、ひさぎは唇を噛んだ。
どうやらこの女は、ひさぎの仕事≠フことをよく知っているらしい。
どこでどう突き止めてきたのか、それともひさぎも気づかないうちに目撃されていたのか、そこまで判らないが、いずれにしろこの女は、ひさぎが女装の殺し屋だということを知っている。
『――ねえ、電話じゃなくて、直接会って話ができない?』
思案顔で押し黙ったひさぎに、女が魅惑的な誘いをかけてきた。
「……ああ」
どうすべきか考え込んでいたのは本当に一瞬だった。
「あんたはとても色っぽい声をしている。どんな女なのか、大いに想像力をかき立てられるよ」
編集部にいる時とは大違いの、人当たりのよさなどかけらもない口調で応じながら、ひさぎはソファの下に左手を突っ込み、頑丈なジュラルミンのケースを引きずり出した。
ダイヤル式のロックをはずしてケースを開け、中から油紙に包まれた鉄の塊を取り出す。
「できれば無粋な邪魔の入らない、ムードのあるところで会いたいんだが……もちろん、俺とあんたのふたりきりで」
『それはいいけど、待ち合わせ場所はわたしに決めさせてもらうわ。構わないでしょう?』
「いいだろう」
包みの中から現れた黒鉄《くろがね》色の輝きを見つめ、ひさぎはうなずいた。
『どうせなら早いほうがいいわね。……今夜、新宿でどう?』
「新宿のどこで? 何時に?」
『詳しい場所は直前になったらまた連絡するわ。とにかく、今夜十二時に新宿駅周辺にいて。……あなたの艶姿《あですがた》、期待しているわ』
「……」
ひさぎは携帯電話をテーブルの上に放り出し、ガバメントのスライドカバーをすべらせた。
ひさぎはつねに何丁かの銃を所持している。
基本的に、一度仕事≠ノ使った銃は、別の仕事≠ノは絶対に使わない。
ゆうべ使ったコルト・パイソンもまだ手もとにあるが、いずれ何らかの手段で処分するつもりだ。
このガバメントも、今夜の仕事≠ェすめば、そのまま使い捨てる。
複数の殺人に同じ銃を使うような、警察にわざわざ手がかりをくれてやるような真似はしない。
「やれやれ……」
誰から依頼されたわけでもない、完全にイレギュラーな仕事≠セが、ひさぎも今のこの暮らしをふいにするつもりはない。
相手が誰であろうと、ひさぎの夜の顔を知られた以上、このままにはしておけなかった。
銃の手入れを簡単にすませたひさぎは、打ち出してきた原稿を持ってベッドルームに向かった。
※
新都心のビル群の上に、鈍色《にびいろ》の雨雲が重く横たわっている。
日が暮れた頃から降り出した雨は、ようやくふくらんできた桜の蕾を無情に打って、その雨足は夜半を過ぎても衰えるどころか、むしろ次第に激しさを増す一方だった。
雲にさえぎられて、夜空には月も星もなく、なおのこと地上には闇が濃い。
女は、その濃密な雨の降りしきる闇の中を傘もささずに走り続けていた。
雨に濡れたアスファルトを蹴る足は、ストッキングを穿《は》いただけの裸足だった。
ハイヒールはかなり前に脱ぎ捨てていて、お気に入りの傘もハンドバッグも、もうどこで落としたのか女自身もよく覚えていない。
ぐっしょりと濡れそぼった髪は顔に貼りつき、ブラウスは肌に張りついて、豊満なバストのラインをあらわに浮き立たせていたが、そんなことに頓着している余裕は女にはなかった。
そうまでして走り続けなければならない理由が、女にはあった。
何度か肩越しに後ろを振り返ったが、闇のほかには何も見えない。
雨と風の音よりほかには聞こえるものもない。
だが、それでも女は、自分が何かに追われているということを感じていた。
痴漢やひったくりのたぐいとは違う。
そんな生やさしい相手ではないということも、女にはなぜか判っていた。
とりわけ勘が鋭いということもなかったし、たとえば霊感が強いといわれたこともないが、たとえるならもっと本能的な部分で――捕食者に接した小動物のように――女は、自分を狙う存在を感じ取っていた。
何ともいいようのない根源的な恐怖が胸のうちから突き上げてきて、女は甲高い悲鳴をあげた。
しかし、意地悪な嵐が女の叫びに合わせるかのようにいきおいを増し、激しい風雨の音でそれをかき消していた。
通い慣れた駅からアパートまでの道が、これほど遠く感じられたことなどない。
雨にけぶるビル街の明かりが、まるで蜃気楼のようだった。
「ひっ――」
足をすべらせ、女は濡れたアスファルトの上に濡れ髪を広げて無様に転んだ。
すぐに起き上がり、後ろを振り返る。
やはりそこには、暗闇と、ぽつんぽつんとともる街灯のほかに何もない。
女を追う者の影など見えなかった。
一瞬、すべてが自分の思い込みだったのではないかと、女にはそうは思えた。
時ならぬ、嵐が荒れ狂う春の闇夜に子供じみた恐怖心をあおられて、いもしない追跡者の影を作り上げて、滑稽にもひとりで勝手に怯えていたのではないか――。
激しい雨に打たれながら、冷たい路上にへたり込んで呆然としていた女は、その時、風が吹く中でもはっきりそれと判るきつい獣臭を感じ、ふと顔を上げた。
妖しい赤光《しゃっこう》と目が合った。
いつの間にかすさまじい大男が自分の背後に立ち、真上から自分を見下ろしていた――と、そう気づいた瞬間、女の頸骨が魚の小骨のようにあっさりと折れた。
※
風に吹かれた白い花びらが一枚、どこからか飛んできて、クナンサティの白い胸元にぺたりと張りついた。
桜の花びらではない。
まだ早すぎる。
辛夷《こぶし》の花びらのようだった。
「どうだろ?」
「どういう意味だね?」
長身のジャグルヤが、後ろ手のままクナンサティを見下ろす。
「デキとしてはどうだってことだよ」
「悪くない」
「あら珍しい。慎重居士《しんちょうこじ》のジャグルヤさまが、控えめにとはいえそうやってホメるなんて」
「でなければ意味がないだろう? 何のためこんな極東の島国まで来たと思っている?」
「ま、そうだけどさ」
花びらをつまみ取ったクナンサティは、それを唇にそっと押しつけた。
「――じゃあ、久々に?」
「ああ。いずれ名前をあたえることも考えている」
「そうだよねえ。名なし≠いくら増やしても、あんまり意味ないだろうし」
呟くクナンサティの唇から、青く染まった花びらがこぼれ落ちた。
束の間、ふたりの会話が途切れる。
やかましい音を立ててふたりの頭上を通過していくのは、時間的に見て、おそらく上りの最終電車だろう。
終電が遠く去り、かすかな震動がやむと、深夜の高架下のパーキングには、ふたたび単調な雨音だけの静寂が戻ってきた。
ロクに照明のないパーキングに、立ち尽くす影は三つ――ジャグルヤとクナンサティと、そしてかたわらに無言でひかえた、伊崎とかいう男の三人だった。
「お客人」
三人の背後に停まっていた黒塗りのリムジンの窓が開き、梓沢が顔を出した。
「クルマの中でお待ちになったらどうです? 春とはいえ、この雨じゃお寒いでしょう?」
「ここで構いませんよ」
梓沢をかえりみたジャグルヤは、悠揚《ゆうよう》迫《せま》らずといった風情でかぶりを振った。
「ですが、会長がいつお戻りになるか……」
「いいんです。こういう機会に思うさま羽を伸ばしていただかないと、我々のほうが困ったことになりますから」
「はぁ……?」
ジャグルヤのいっていることが理解できなかったのか、梓沢はいぶかしげに首をひねり、それから伊崎を見やった。
もともと伊崎は、嶺崎家に使用人として雇われた男だった。
もちろん、使用人といっても、その実体は嶺崎剛三の私兵で、そうした連中をとりまとめるのも梓沢の仕事のひとつだったが、最近の伊崎は、以前とはまるで別人だった。
短気で喧嘩っ早く、時には梓沢にさえ突っかかってきた悍馬《かんば》のような男が、今は逆に、不気味なくらいにおとなしくなってしまっていた。
ひどく青ざめた顔は鑿《のみ》で削いだようにやつれ、瞳にも生気がなく、梓沢が呼んでも返事すらしない。
あの日――屋敷に呼んだコンパニオンを納戸に連れ込んで犯していたあの日、クナンサティにお仕置き≠ウれたのを境に、伊崎は人間が変わってしまったのだった。
梓沢が眉をひそめて伊崎の背中を見上げていると、クナンサティが、
「どうしたの? 気になる?」
「……ずいぶんおとなしくなったもんだ」
「いやなに、ちょこっとお尻に注射をね」
「クスリを使ったのか?」
「たぶんあなたの想像しているクスリとはぜんぜん違うもんだよ。……まあ、魔法って思ってもらってもいいけど」
本気とも冗談ともつかない口ぶりではぐらかし、クナンサティはウインクした。
「会長がお元気になられたのと同じような理屈ってことか」
「いえ、あれは奇跡ですよ」
クナンサティに代わってジャグルヤが答える。
「我が神のご加護です。……そういうことにしおいてください」
やんわりと――だが、それ以上の詮索をきっぱりと拒むようなジャグルヤの言葉に、梓沢は憮然と押し黙った。
心なしか、雨のいきおいが弱くなってきたような気がする。
ジャグルヤは冷たい闇を見据え、静かに唇を吊り上げた。
第三章
その日、ひさぎはミンクのコートをはおって新宿に出た。
といっても、艶姿に期待しているといった電話の女と要望に応えたわけでなない。
ひさぎにとって、このコートと銃とは、精神的に不可分なものなのである。
いい換えれば、それは一種のスイッチだった。
子供の頃、つらい現実から逃げ出すために、ひさぎはもうひとりの自分を作った。
世界のすべてを醒めた瞳で見つめる、厭世《えんせい》的で刹那的で、そして冷酷な、鏡の中のもうひとりの自分――女としての明神さひぎ。
現在のひさぎの中では、ふたりのひさぎはすでにひとつの人格として統合されている。
ひさぎが仕事≠ノ際してこうして女装するのは、素性を隠すためというよりも、むしろその時の名残のようなものだった。
女装し、伊達眼鏡をサングラスと取り替え、このガンメタリックのミンクのコートをはおることで、ひさぎはより冷静に仕事≠遂行できる自分と入れ替われる。
少なくともひさぎはそう信じている。
だからひさぎは、電話のあの女を確実に始末するために、女になって家を出た。
日が暮れた頃から雨が降り始めていたが、それをひさぎは僥倖《ぎょうこう》だと捉えた。
つねに大胆に仕事≠こなすひさぎだが、それでも、こうして人の目を下に向けさせてくれる夜の雨はありがたい。
こんな冷たい夜は、傘を目深にさして駅前にたたずむ女を見ても、あえて声をかけようとする男は少ないからだ。
ただ、そろそろ電車もなくなろうかという時間まで待っても、あの女からの連絡がない。
あるいは、こうして連絡を待っている自分を、どこからか見張っているのかもしれないと、さりげなくあたりに注意を向けてもみたが、それらしい人間も近くにはいない。
いまさらながらに女の狙いが掴めず、ひさぎがまたひとつ大きく溜め息をついた時、それは彼の前に姿を現した。
「――」
大通りの向こう側の、点滅している歩行者用の信号の真下に、青白い肌をした冷たい目の少年が立っていた。
キャラクターものの靴に白いソックス、黒い半ズボンに白いシャツ、真っ黒な髪――そして血の色の女物の傘。
ひさぎが彼を目にするのは、これでもう三度目になる。
さすがにひさぎも、これでもなおこの邂逅《かいこう》が偶然なのだと思い込めるほど、かたくなでもなければ馬鹿でもなかった。
ひさぎが咄嗟《とっさ》に横断歩道を渡ろうとした時には、もう信号は赤に変わっていた。
目の前を動き始めたクルマの流れに舌打ちしたひさぎは、少年が歩き出したのを見て、同じ方向へと歩き出した。
ときおりひさぎのほうをちらちらと振り返り、目を細めて意味ありげに微笑む少年の表情が、憎らしくて仕方がなかった。
明らかに少年は、ひさぎを挑発していた。
おそらくあの少年も、ひさぎがどういう人間なのかということを知っているのだろう。
あの電話の女のことが気にならないでもなかったが、さしあたって、ひさぎは少年のほうを優先させることにした。
あるいは、あの少年と電話の女との間に、何かしらのつながりがあるという可能性も、ありえなくはない。
これまでの何のトラブルもなく仕事≠続けてきたひさぎの前に、その立場をあやうくする人間が、ほとんど同時にふたりも現れるなど、それこそありえないほどの偶然だ。
タイミングよく信号が変わったところで、ひさぎは波紋にいろどられた歩道を渡って向こう側に移動した。
ひさぎのほんの十メートルほど先を、少年が歩いている。
しかし、ひさぎはそのただ後ろをついていくだけで、何をするわけでもなかった。
深夜とはいえ、駅の近くにはまだ人通りがあり、手出しがはばかれたのである。
――と、そこまで考えて、ひさぎはふと違和感に捕らわれた。
小学生にしか見えない年頃の少年が、終電も間近いこんな夜更けにこんな場所をうろついているのは、どう考えても不自然だった。
ひさぎだけでなく、周囲の人間も当然そう感じるだろうに、なぜかひさぎ以外の人間は、悪目立ちするカラーリングのその少年を見ても、まるで無関心だった。
少年の姿が見えているのは、やはりひさぎだけのようだった。
最初に会ったあの時に感じたように、ひさぎの病みかけた心が生み出した、中途半端にリアルで、その一方ではひどくシュールな、たちの悪い幻覚を見ているのだろうか。
だが、ひさぎは足を止めなかった。
このままあとをつけていったらどうなるのか――興味が湧いた。
ひょっとしたら、幻覚との対話が待っているかもしれない。
人気がなくなったところで少年に声をかけてみようと、ひさぎはそのまま歩を進めた。
少年のほうも、それを期待しているかのように、肩越しにひさぎを振り返って笑っていた。
やはり少年のまなざしは、昔のひさぎのそれにそっくりだった。
ひさぎの中にもうひとりのひさぎが生まれてしばらくたった頃――中学生なるかならないかの頃のひさぎは、自分を取り巻く世界をああした目で見ていて、周囲の大人たちにうとまれたり気味悪がられたりしていた。
ちょうど、ひさぎが今こうして少年を前にして感じる苛立ちや怒りを、おそらくあの時の大人たちも感じていたのだろう。
客観的に思い返してみれば、なんと嫌なガキだったのだろうと、ひさぎは赤い唇をゆるめた。
いつしか少年は、人通りの少ない道へと入っていた。
春雨と呼ぶにはいささか激しい雨が降る夜、幻の少年を追って、ひさぎもまた濃い闇の中へと漕ぎ入っていく。
人の気配がいよいよなくなってくると、ひさぎはコートの懐に右手を差し入れ、歩調を速めた。
高架線の上を、電車が走っていく。
窓からもれる無機質な光がアスファルトの上に降りそそぎ、その光の帯を横切って歩く少年の姿を、束の間照らし出した。
白と黒が断続的に入れ替わる中で、少年はひさぎを振り返り、何かいっているようだった。
「――ようこそ」
走り去る列車の騒音と雨音にさえぎられ、その声はひさぎの耳には届かない。
だが、少年の口の動きは、ひさぎにそう告げていたようだった。
そのまま少年は、高架下の影の中へと溶け込んでいった。
「――」
ここまで来て少年を見失うわけにはいかない。
ひさぎは傘を捨てて走り出した。
街灯のない高架下には、夜の闇よりもなお暗い影が澱《おり》のようにわだかまっている。
サングラスをはずしたひさぎは、眉をひそめてあたりを見回した。
あの少年の白々しいなりならば、光の少ない闇の中でも目につくはずなのに、いったいどこに身をひそめたのか、その姿が見当たらない。
また煙のように消え失せたのか――?
その時、何かがアスファルトを打つ音がかすかに響いてきた。
「……?」
どうやらそれは、硬いヒールがコンクリートとすれ合って立てる足音のようだった。
神経を研ぎ澄ませてみれば、ほかにもいくつかの足音があるのが判る。
そして、その足音の上から、高架下の空間に反響する重いいエンジン音がかぶさってきた。
いつでも銃を抜けるよう、右手をコートの内側に差し入れたまま、ひさぎは深夜の駐車場に足を踏み入れた。
高架をささえる巨大なコンクリートの柱とフェンスによって囲まれた駐車場は、停められているクルマの数も少なく、やけにがらんとしていた。
照明は精算機の真上にぽつんとひとつあるだけで、とても全体を照らし出すほどの明るさはない。
ひさぎは足音を忍ばせ、停まっていたミニバンの陰からわずかに顔を覗かせた。
向こうのフェンス際に、二十分二百円のコインパーキングにはあまりに不釣り合いな、黒塗りの高級大型車が二台、どちらもアイドリング状態で停まっていた。
一方のクルマの中は確かめられなかったが、もう一台のほうは後部座席のドアが開いていて、車内灯の光があたりにあふれていた。
その光にかすかに照らし出されていたのは――これがさっき聞こえた足音の主なのだろう――数人の男女だった。
ボンテージ系のコスチュームに身を包んだグラマラスな女と、青いスタンドカラーの銀髪の男が、ナイトガウンをはおった小柄な老人をクルマに乗せようとしている。
どういう素性かは判らなかったが、少なくとも、まっとうな人種ではないだろうということは直感的に理解できた。
何か――後ろ暗い――ワケアリの連中に違いない。
いずれにしろ、関わり合いにならないほうが無難と思える手合いだった。
また少年を逃がしたことに舌打ちしながら、ひさぎがきびすを返そうとしたその時、男と女がはかったように同時にひさぎのほうを振り返った。
「!」
ひさぎは反射的にミニバンの陰に身を隠したが、低い男の声がすぐにまとわりついてきた。
「先刻から妙な気配を感じていたが……誰かいるようだ」
そのセリフに剣呑なものを感じ取り、ひさぎはその場から逃げ出した。
とりあえずこの場を離れれば、あとは闇と風雨にまぎれてどうにかやりすごせるだろう。
――その考えが安直で甘すぎたということを、その直後、ひさぎは喉もとにかかった強烈な力によって思い知らされた。
「っ――」
ほんの二、三歩走ったところで、ひさぎのブーツの底がアスファルトを離れた。
後ろ襟を掴まれ、そのまま投げ飛ばされたのだと気づいた時には、天地が逆転していた。
「がっ……!」
ひさぎの身体がすさまじい勢いでミニバンのボディに激突した。
衝撃のせいで息が詰まり、崩れ落ちる身体をささえられない。
「――伊崎さん、あとは任せましたよ」
スタンドカラーの男がそんなことをいっているのを、ひさぎは朦朧《もうろう》としかけた意識の片隅で聞いた。
わずかに首をねじって視線を上げる。
ひさぎの目の前に、下品なアロハを着たチンピラ風の男が立っている。
死んだ魚のようなどろんとした目の、覇気のない男だった。
どう見ても力自慢のタイプではなかったが、状況から見て、ひさぎを放り投げたのはこの男に違いない。
ひさぎがどうにか立ち上がった時、男たちを乗せたクルマはすでに駐車場をあとにしていた。
深夜の高架下に、ひさぎとアロハの――伊崎という男がふたりだけ取り残された。
もはやためらう必要などない。
ゆらりと柳の葉がゆれるような動きで間合いを詰めてきた伊崎に対し、ひさぎはガバメントを引き抜いた。
ひさぎが銃を抜いたのが目に入らなかったのか、伊崎は右腕を大きく振りかぶって真正面から突っ込んでくる。
ちょっとケンカ慣れした人間なら絶対に食らわない、あまりに隙の大きすぎるテレホンパンチだった。
よけるのは簡単だったが、わざわざかわすまでもない。
素手のチンピラを相手に、ひさぎは迷うことなくトリガーを引いた。
が――。
ガバメントの弾丸が二発、胸の真ん中に命中したというのに、伊崎の動きは止まらなかった。
「!?」
たとえ伊崎のアロハが性能のいいボディアーマーであったとしても、この至近距離から二発も食らえばただではすまない。
少なくとも、立っていられずに吹っ飛ぶくらいはするはずだ。
しかし、この伊崎は平然とひさぎに肉薄し、筋張った拳を繰り出してきた。
「こいつ――!?」
ひさぎが咄嗟に身を沈めたために、伊崎の拳は空を切り、ミニバンのサイドウインドウをあっさりとぶち抜いた。
アスファルトの上に転がって伊崎とミニバンの間から抜け出したひさぎは、すぐさま立ち上がって銃を構え直した。
「……馬鹿力め」
髪を短く刈り込んだ伊崎の後頭部にガバメントの銃口を押しつけ、忌々しげに吐き捨てながらトリガーを絞る。
今度はさすがに伊崎の頭ががくんと揺れた。
そして、すぐ血まみれの裏拳が飛んできた。
「ばっ……!?」
伊崎のバックブローを二の腕に受けたひさぎは、たたらを踏むように大きくよろめき、足をもつれさせて倒れた。
無様だった。
が、無様な自分の姿を想像して腹を立てるより、ひさぎはまず驚いていた。
一発でひさぎの右腕をへし折った、伊崎の振り向きざまのバックブローの威力に――ではなく、伊崎がそうして生きているということにだ。
ひさぎは左手に銃を持ち替えて立ち上がった。
「おまえ……人間、か……?」
非合法なクスリを何種類か並行して投与し続ければ、異常に筋力の増大した、痛みを感じない人間を造ることもできないわけではない。
しかし、痛みを感じないということと不死身であるということは、まるで意味が違う。
のろりと振り返った伊崎は、口や鼻の穴から赤い血を垂らしながらも、胸にふたつ後頭部にひとつ、四十五口径の盲管銃創をかかえたまま、そのうつろなまなざしをひさぎに向けた。
これこそたちの悪い夢か幻だ――。
ひさぎは左手で銃を構え、引鉄を引いた。
さらに二発、すでに血で真っ赤に染まったアロハの胸もとへと、狙いあやまたずに鉛の弾が吸い込まれる。
それでも、伊崎は倒れなかった。
「ちょっと待て――」
とうてい尋常の人間とは思われないチンピラを前にしても、ひさぎは恐怖を感じなかった。
最初に感じた驚きに取って代わりつつあったのは、この不条理な現実に対する怒りと苛立ちだった。
これが映画かゲームの世界であったなら、たとえ不死身のゾンビが相手でも、何かしらの打つ手は用意されているだろうが、今のひさぎにはそんなものはない。
ひさぎにあるのは、恐怖に対してひどく鈍感な精神と残弾数二のガバメントが一丁。
――それだけだった。
冗談じゃあない。
明神ひさぎは、ただの――そう、タダの殺し屋なのだ。
ピカレスクロマンの主人公のような、ご大層なポリシーだの美学だのといったものとは縁遠い、素人と判っている人間だけをターゲットに、夜の闇にまぎれてこっそり始末しているような、そんな安い殺し屋なのだ。
ガバメントの弾をいくら食っても死なないバケモノとやり合うなんて、明神ひさぎの守備範囲じゃあない。
「……くそっ!」
もしこの世に、疫病神だとか、死神だとか、とにかくそういうものが存在するのだとしたら、ひさぎの場合、それは半ズボンの美少年の姿をしているのかもしれない。
おそらくあの少年は、この怪物と引き合わせるために、わざわざこんなところまでひさぎをみちびいてきたのだ。
そう考えるとさらに腹が立ってきて、ひさぎは立て続けに引鉄を引いた。
しかし、残弾数がついにゼロになっても、グロテスクな銃創が少し増えただけで、伊崎がその動きを止めることはなかった。
「ぐあ――っ」
伊崎の右手がひさぎの左手を掴んで振り回し、コンクリートの橋脚へと叩きつけた。
「……っ」
ミニバンのボディにのめり込んだ時の比ではない。
全身の骨が粉々になったような衝撃だった。
実際、あちこちの骨に無数のひびが入っていただろう。
ガバメントを取り落として崩れ落ちていくひさぎの身体が、すぐさま高々と持ち上げられた。
左腕一本でひさぎの首を喉輪に捕らえ、橋脚に押しつけた伊崎は、血塗れたガラス玉のような目で獲物を見据えたまま、右手を静かに後ろに引いた。
伊崎の右手が、貫手《ぬきて》の形に揃えられていた。
この男の怪力なら、人間の身体に貫手で大穴を開けるくらい造作もない。
伊崎はそれを即座に証明した。
「がっ――」
ひさぎがもらしかけた呻きは、喉の奥からあふれ出てきた熱い鮮血によって押し流された。
伊崎の貫手はひさぎの皮膚と肉とをたやすくつらぬき、完全に腹腔内へと達していた。
今度こそ致命傷だった。
それでもまだ足りないと思ったのか、伊崎はひさぎのはらわたを鷲掴み、そのまま振り回した。
ぶぢぶぢぶぢっ――と、世にも忌まわしい音がひさぎの腹のあたりでした。
「ぉ、あ……」
アスファルトの上に転がったひさぎは、ろくに動かなくなった右腕で身体を起こそうとした。
その時、自分の腹に開いた大穴から、焼肉屋でしばしばめにするものがでろりとはみ出していることに気づいた。
激痛に身を震わせながらかえりみれば、たった今ひさぎの腹からちぎりとられたそれを、にちゃりにちゃりと無感動に咀嚼《そしゃく》している不死身のチンピラがいる。
「この……やろ、ぉ――」
いつものひさぎなら絶対に口にしない、それこそチンピラのような口調で呻き、ひさぎは身体を仰向けに転がした。
こんな状況になっても、ひさぎの心は相変わらず凪《な》いでいた。
ここまで不条理で理不尽な展開は完全に予想外だったが、いずれにせよ、すぐそこに避けがたい死が追っているというのに、ひさぎはあくまで冷静だった。
じきに自分は、このバケモノに無惨な方法でとどめを刺されるだろう。
しかし、そうと判っていても、ひさぎはそれを怖いとは感じなかった。
ひさぎはただ、目の前のチンピラに対して、燃えるような――静かに燃える熾火《おきび》のような怒りを感じるだけだった。
こいつに食われる――という恐怖など微塵も感じない。
こいつ、食いやがったな――という怒りが、ひさぎにはあった。
そして、このムカつくチンピラを冷たい肉のカタマリに変えてやる術が今の自分にないことに、それ以上の怒りを覚えた。
「こ、のっ……う、ぐぉ――」
レバーかミノかホルモンか、とにかく、ひさぎの身体の一部には違いないものを嚥下した伊崎は、おびただしい出血のためにほとんど動けなくなったひさぎにのしかかってきた。
内臓が露出した腹に尻を落ち着け、あらたな痛みに呻いたひさぎの口に、無造作に手を突っ込む。
「……!」
ひさぎの上顎と下顎に、伊崎の手がかかった。
大量の出血のために、あとはただ静かに失われていくはずの意識が、顎関節のきしみによって現実に引き戻され、否応なく激痛を自覚させられた。
どうやら伊崎は、ひさぎの口を上下に引き裂くつもりらしい。
この野郎――!
伊崎の意図を理解してもなお、ひさぎが感じたのは怒りだけで、ついに恐怖というものを思い出すことはなかった。
その、刹那――。
ひさぎの頭のすぐ横に、ごとんと思い音を立てて、何か真っ黒なものが落ちてきた。
ひさぎは目線だけを動かし、それが何なのかを瞬時に悟った。
悟ると同時に、折れた右手でそれを掴んでいた。
恐怖にこわばるということを知らないひさぎの心がなさしめた、それは小さな奇跡だったのかもしれない。
初めて手にするものだったが、使い方は身体が覚えている。
いきなり虚空から落ちてきた、見慣れない漆黒の銃を握り締めたひさぎは、伊崎の腹に銃口をめり込ませ、トリガーを引いた。
その瞬間、ひさぎの腕にすべての痛みを忘れさせてくれる心地よいしびれが走り、それよりももっと心地よい叫びが耳朶《じだ》を打った。
漆黒の銃から吐き出された弾丸は、四十五口径を受け止めて小揺るぎもしなかった伊崎の身体を大きく吹き飛ばし、そして、終始無言だった不死身のチンピラに、初めて悲鳴らしき声をあげさせていた。
それは――たとえば野生の猛獣の唸り声のようで――決して人間が出すようなたぐいの声ではなかった。
しかし、すでにひさぎは、伊崎が人間だとは思っていない。
伊崎が人間離れした声でわめこうと、いまさら驚きはしなかった。
さらにいうなら、錆の浮いたフェンスに背中から激突した伊崎が、はじかれたように飛び起き、四つん這いで地を蹴って逆襲に転じたとしても、ひさぎはもはや眉ひとつ動かさなかった。
代わりにひさぎは、首をもたげて伊崎を見据え、唇の端を吊り上げた。
――どうやらこの銃でなら、そっちに傾ききった天秤をひっくり返せるらしい。
そんな確信とともに、ひさぎはもう一度引鉄を引いた。
※
雨に潤う漆黒の闇の中を、巨大なリムジンが走っていく。
その威容を恐れてか、あえて併走しようとする車影もなく、それはまるで、深い海の中を悠然と泳ぐ鯨のようだった。
「――梓沢よ」
その鯨の腹の中で静かに目を閉じている老人が、ハンドルを握る梓沢に声をかけた。
「は」
「おまえから見て、どうじゃ、ワシは?」
「はあ」
ミラー越しに老人を一瞥し、梓沢は慎重に言葉を選んで続けた。
「その……ずいぶんとお元気になられたように見えますが」
「そうかそうか……うむ」
満足げにうなずいた老人は、隣りに座ったジャグルヤに何ごとかささやくと、小柄な身体をシートにうずめて目を閉じた。
「梓沢」
「はい?」
「おぬし、狩りはしたことはあるか?」
「狩り……ですか?」
「あれはなあ……いいモノだ」
「……そうですか」
「近いうちに、ワシの快気祝いをしなければならんな」
老人のいうことには今ひとつ脈絡がない。
これもハイになっているというのか、数年ぶりに聞くはずむような声で、老人はそういった。
「よろしいのではありませんか」
ジャグルヤがうなずいた。
「会長がご健在だということを知らしめておくのは、そう悪いことでもないでしょう」
「その時には、ヤツも呼んでやるとするか」
「誰です?」
「会長補佐……ワシの息子じゃよ」
薄く目を開け、老人は獰猛に笑った。
獰猛に――そう表現する以外にない、どこか血の臭いのただよう笑みだった。
梓沢は小さく咳払いをしていった。
「……二代目なら、今は確か商用でアメリカにいらっしゃるはずですが」
「そうじゃったか? そういえばあの細っこい秘書長がいっておったやもしれんが……なら、もう少し待つとしようか」
「はい」
「そう、銀座と赤坂と、それに六本木の――あれらも呼んでおけ」
それを聞いて、梓沢は少し困った顔をした。
「赤坂と六本木はともかく、〈あざみ〉のママは……」
「何じゃ? 恭悟に乗り換えでもしたか?」
「はあ……どうやらそのようで――」
「機を見るに敏とはいかにもあざみらしいの。じゃが、このたびばかりはそれが早まった考えであったことを教えてやらねばな。――梓沢、何があっても連れてこい」
「は……」
「ふん、ワシがもうおしまいじゃとほざいておった馬鹿どもめ……ぬるま湯育ちの恭悟なぞに尻尾を振った社の連中にも、誰が本当の主人なのかということを思い出させてやる」
「ならば会長、今はしばしお休みください。峠を越えたとはいえ、まだ本調子ではいらっしゃらないのですから」
ジャグルヤが薄い笑みでいうと、クナンサティも調子を合わせるみたいに、老人の顎をさわりと撫でながら呑気に笑った。
「そーそー、お愉しみコレからじゃん、親分?」
「そうだの……では、いま少し眠るとするか。狩りのおかげで、今宵はよく眠れそうじゃ――」
意味深にそういって、ふたたび目を閉じた老人は、すぐにおだやかな寝息を立て始めた。
重苦しい溜息をひとつ、梓沢は老人の両脇をかためる客人たちに尋ねた。
「本当に、会長は……回復したんですか?」
「ご覧の通りです」
誇るふうでもなく、ジャグルヤが答える。
「回復したというより、少しずつ壮健に、若返っておられるといったほうが正しいかもしれません」
普通なら、そんなことをいわれても信じる気にはなれなかっただろう。
だが、梓沢の前に、ジャグルヤという神の奇跡を体現した老人が眠っている以上、信じないわけにはいかなかった。
窓の外を眺めているクナンサティが、くすくすと笑った。
「これで判っただろ、梓沢サン? わたしらが口先だけで取り入ってただ飯を食らうような、そんなインチキ宗教家じゃないってさ?」
「……」
梓沢は口をつぐみ、前方の闇を見つめた。
あの駐車場に残った伊崎がどうなったのか、聞いてみたい気もしたが、それを聞ける雰囲気ではなかった。
これまでの人生で梓沢がつちかってきた価値観や常識が、この客人たちの登場によって、少しずつ崩れ始めている。
車内に満ちるその空気には、梓沢にも馴染みの深い、死の臭いが染みついているようだった。
※
雨はまだ降り続けている。
ひさぎの出血も止まらない。
大の字に倒れたまま、ひさぎはコンクリートの天井を見上げていた。
ひさぎが最後に撃ち込んだ眉間への一発で、伊崎は今度こそ本当に、完全な死体に変わったようだった。
ようだった――というのは、ひさぎ自身、すでに首を持ち上げる力すらなく、派手に吹っ飛んでいった伊崎がどうなったのか、それを確認することができないからだった。
だが、逃げるに逃げられない今のひさぎに、あのチンピラゾンビがいっかなとどめを刺そうともしないところを見ると、やはりひと足先にあの世に行ったのだろう。
そのことにかすかな満足感を覚え、ひさぎは嘆息した。
案外、人間というイキモノもしぶといものだ。
自分がこうしてまだ生きているということが、ひさぎにはちょっと信じられなかった。
もっとも、それもあと少しのことだろう。
すでに痛みすら感じなくなっている。
やたらと寒く、眠いだけだった。
「……」
ひさぎのまぶたが静かに落ちようとしていた時、遠い雨音に混じって、どこからか硬質な足音が聞こえてきた。
わずかに首を動かし、足音が近づいてくるほうを見やる。
今になって、あの少年がまた現れたのか――そう思わないでもなかったが、ひさぎはすぐに、その足音がハイヒールのものだと気づいた。
ほどなくして、闇の向こうから赤いシルエットが悠然と歩いてきた。
ひさぎとそう変わらない年頃の、髪の長い女だった。
身体にぴったりと張りついた赤いエナメルのワンピースが、抜群のプロポーションを悩ましげに浮き立たせている。
雨の夜にはまだ少し寒そうな、生白い脚線が、太腿のつけ根のあたりから剥き出しになっていた。
赤いハイヒールを鳴らして立ち止まった女は、細い腰に手を当ててひさぎを見下ろした。
普通の女なら、今のひさぎを前にすれば顔をそむけるだろう。
あるいは、ひと目見るなり悲鳴をあげて逃げ出すかもしれない。
そういう反応が当たり前のはずなのに、しかしその女は、湯気の立つ内臓をはみ出させた血まみれのひさぎを目の当たりにして、顔をそむけもしなければ逃げもせず、それどころか驚いた気配すら見せなかった。
「あらあら」
いっそどこか楽しげに、女は小さく笑った。
「これはまたハデにやったわね」
「……」
自分のかたわらにしゃがみ込んだ女を、ひさぎは怪訝《けげん》な顔で見つめた。
どこか醒めた目をした冷たい美貌は、女装している時のひさぎに通じるものがないわけではない。
だが、この女は掛け値なしにホンモノの美女だった。
その素性をいぶかるより先に、つい見とれてしまうほどの、いい女だ。
脂をはじくような見事な女の脚が、しゃがんだためにむっちりと量感を増し、ひさぎのすぐ目の前にある。
そこからゆっくりと視線を上げたひさぎは、今の女の声をどこかで聞いたことがあると思った。
「もうダメね、これ」
たっぷりと血を吸ったミンクのコートの裾を指でつまみ、女は肩をすくめた。
それでひさぎは確信した。
家に電話をかけてきた、あの女だ。
「おまえ、だったの、か……?」
いまさら無益なことをしているという考えが頭をよぎらないでもなかったが、それでもひさぎは、右手の銃を女に向けようとした。
そもそもひさぎは、この女の口を封じるために街へ出てきた。
そのせいであんなゾンビとやり合うはめになったのだと思えば、憎さもいや増すというものである。
だが、ひさぎの腕はもう動かなかった。
「わたしに会うためにわざわざおめかししてきてくれたのに、災難だったわね、こんな目に遭っちゃうなんて……」
ひさぎの手から銃を奪った女は、何を考えているのか、いきなりひさぎのスリムパンツのベルトに手を伸ばしてきた。
「誰だか知らないが……おまえ、正気か……?」
女が何をしよとしているのか、朦朧としたひさぎの頭でも理解できた。
横になった男の下半身を脱がせて女がすることといえばアレくらいものだろう。
だが、このシチュエーションでその気になる女の精神構造は理解できなかった。
どういうスイッチで発情期に突入しようがそいつの勝手だが、よりによって、腹に大穴が開いてもうすぐ死ぬ男を相手に欲情するとは、あまり趣味がいいとはいえない。
そもそも、ここまで大量に出血していては、勃《た》つモノも勃たないだろう。
ひさぎが苦しげに荒い息をついていると、血に濡れて重くなったパンツの前を鼻歌混じりに広げていた女は、その胸中を読み取ったかのように、
「いいから大丈夫、わたしに任せて」
「……何をだ?」
ひさぎが投げやりに尋ねると、女の手が下着の中に――女装はしていてもこれはさすがに男物だ――入ってきた。
「ここさえ無事なら勃つわよ。腹に大穴が開いていようと首がなかろうとね。わたしが勃たせてみせるわ」
勃つかよ――と吐き捨てかけたひさぎは、死に瀕して失われかけていた全身の感覚が、不意に戻ってきたのを知った。
まずは無惨に引きちぎられた腹の痛みと、全身の亀裂骨折の痛み――。
その激痛に思わずもれかけた悲鳴が、そのままくぐもった呻きに変わったのは、痛みのあとから襲ってきた快感のせいだった。
「うっ……」
「あなたは運がいいわ」
ひさぎの耳もとに唇を寄せ、女はささやいた。
「内臓はぐちゃぐちゃになっちゃったけど、ここは無傷だもの。ここがダメになってたら、わたしにもお手上げだったわね」
睦言のようにささやきながらも、女の手は妖しく動き続けていた。
ひんやりと縮こまっていたひさぎのペニスに鮮血のぬめりを塗りたくり、てのひらで包み込むようにして、そっと刺激をあたえる。
そこから、これまで体験したことのない種類の心地よさがさざ波のように全身へと広がり始め、よみがえったばかりの激痛を麻痺させたのだった。
「ほら」
ちろり――。
と、女の舌が、すっかり熱を失ったひさぎの唇をなめた。
「――わたしに任せておけば大丈夫っていったでしょう?」
冗談だと思った。
女の手に弄《いら》われているうちに、ひさぎのものが少しずつ大きくなり始めていた。
たくみに動く女の手指に翻弄されるように股間がひくつき、そのたびに、残り少ない血液がそこに吸い上げられていくのがひさぎにも判る。
あとはもう、あっという間だった。
「ほらほら……ホント、おっきくなってきた」
女の血まみれの手によって、二、三度激しくこすり立てられたひさぎの男根は、いつもと同じかそれ以上に硬く、熱くそそり立った。
「くっ……!」
ひさぎの息遣いがさっきよりも荒くなっていたが、それが怪我によるものなのか、それとも急激に突き上げてきた欲望によるものなのか、もうひさぎ自身にも判らなかった。
「もうすぐ楽にしてあげるから……ね」
ひさぎの先端を軽く指ではじいた女は、脚を大胆に開いてひさぎの身体をまたいだ。
その刹那、捕らえたネズミをオモチャにするネコの残酷さに似通ったものが、女の笑顔の中にきざしたような気がした。
「ふふ――」
下着を身に着けていなかったのか、ひさぎのペニスが、いきなり熱い潤《うる》みに触れた。
それだけで、あやうく達しそうになった。
すでに射精への欲望はのっぴきならないところまで高まっている。
そんなひさぎを焦らすように、女はゆっくりと腰を沈めてきた。
「く、ぉ……!」
じっくりと時間をかけ、根元までひさぎを深くくわえ込んだ女は、形のいい鼻梁《びりょう》を震わせ、かすかに熱い吐息をもらした。
「んふ――」
ひさぎの胸に手をつき、背中を弓のようにのけぞらせた女は、白い美貌にかすかな朱の色を立ち昇らせ、うっとりと目を細めた。
「ホント……運がいいわ……」
女はいくぶんかすかれた声で呟いた。
「いいカンジ……ねえ、相性いいと思わない、わたしたち?」
豊満な胸を押しつけるかのように身体を伏せた女が、ひさぎの鼻先を指でくすぐりながら意見を求めてきた。
しかし、それにいちいち答えている余裕はひさぎにはない。
まだ挿入しただけでろくに動いてもいないのに、気を抜いた途端、あっさりと果ててしまいそうだった。
そのくらい気持ちいい。
これまで抱いてきた女たちが一気に色あせて感じられるほどに――というより、これまでの女たちとくらべること自体が馬鹿らしく思えるほどに、この女があたえてくれる快感は圧倒的だった。
「ねえ、ひさぎ」
眉間にシワを寄せてこらえているひさぎに、女がささやいた。
「ぜんぜんガマンしなくていいのよ? イキらかったらすぐにイッて。……死ぬ前に、ぜったい一度はイクの。いい?」
「無茶な……女だ、な――」
「ボイスよ」
ひさぎの唇に吸いついた女が、ゆっくりと腰を動かし始めた。
女が流し込んでくる唾液は甘かった。
口移しにシロップを飲まされているのかと思うほど甘い唾液を、ひさぎは喉を鳴らして呑み下した。
「わたしはボイス」
長いキスのあと、女はそう繰り返した。
妙な名前だと毒づく間もなく、ひさぎは呻いた。
ボイスと名乗る女の尻が、ひさぎの腰の上でリズミカルに跳ねる。
そして、その時はすぐにやってきた。
気が遠くなるほどの快感に翻弄されて、女が本格的に抽送《ちゅうそう》を始めて十秒とたたずに、ひさぎは盛大に射精した。
熱い媚肉に包まれて激しい脈打ち、ひさぎのペニスはおびただしい量の精液を吐き出し続けた。
「――ねえ、生きてる?」
変わらず腰を動かしながら、女が唇を離してひさぎにささやいた。
「普通は、死んで、る、だろ……?」
息も絶え絶えにひさぎが答えると、女は情欲にとろけた微笑みを浮かべてひさぎの耳朶をなめた。
「じゃ、もう少しがんばって。わたしもイキたいから」
そんな身勝手なことをいって、女はより激しく腰を使い始めた。
それが男の性――というには非常識すぎる反応を見せて、一度は力を失いかけていたはずのひさぎの男根に、ふたたび芯が通り始めた。
決してひさぎが絶倫なわけではない。
この女が、その生白い脚の間に、死にかけた男さえそそのかさずにはおかないモノを隠し持っているだけの話だ。
ほどなくして、ひさぎはまた女の中に放った。
だが、すぐにまた、ひさぎは回復した。
「……好きにするがいいさ」
しびれるような快感の余韻に身を任せ、ひさぎは目を閉じた。
このぶんだと、女が満足するには、まだまだ時間がかかるに違いない。
だが、さすがにひさぎのほうが限界だった。
意識が遠くなり、股間から際限なく湧き上がってくる快感以外に、すでに何も感じない。
そしてその快感さえも、まるで淫夢の中の夢精ようにしか思えなくなっていた。
ぼんやりと消えゆく意識の中で、ひさぎは冷ややかに笑った。
自分のこの死にざまが新聞記事になったら、いったいどんな見出しがつくのかということを考えたら、つい笑いがこみ上げてきた。
はらわたをほじくり出された女装の編集者が、陰部を露出したまま血と精液にまみれた変死体で発見される――三流タブロイド紙でもなければ、なかなかお目にかかれない記事になるだろう。
そして、もはや何度目かも判らない射精と同時に魂まで引っこ抜かれるような快感を覚えて、ひさぎの意識はそのままホワイトアウトした。
※
ちょうど会社を出ようとしたところで、明智涼子の携帯に、大学時代の後輩の須藤加奈子《すどうかなこ》からメールが入った。
これからウチに来て、ふたりでちょっと飲まないかという。
きのうのきょうでまた飲むのかという思いが頭をよぎらないでもなかったが、このまま自宅に戻っても特に面白いことがあるわけでなし、自分より稼ぎの多い後輩にたまにはたかってやるつもりで、涼子は加奈子のマンションへ向かった。
「――あ、やっときた」
日付が変わった頃、タクシーを飛ばしてやってきた涼子を、加奈子はすでにアルコールの入った赤い顔で出迎えた。
「あなた、ひとりで先に飲んでたの?」
「それがね、夕方目が醒めたら頭がガンガンして、迎え酒って効くのかどうか判らなかったけど、とりあえず試してみようと思って――」
「まったく……」
途中で買ってきたワインを押しつけ、涼子は呆れ顔で嘆息した。
「――いっておくけど、酒の飲みすぎで手が震えて原稿がかけないなんて言い訳は聞かないわよ。紫藤センセ?」
「そこはまあ、えへへ」
曖昧に笑った須藤加奈子は、今は紫藤カンナというペンネームで作家をやっている。
きのう、涼子と明神ひさぎが接待したばかりの、レーベルの稼ぎ頭のひとりだ。
今でこそ編集者と作家という立場になっているが、昔から涼子とカンナ――加奈子は仲がよかった。
ときどきこうして仕事上でのおたがいの立場を離れ、同い年の先輩後輩としてふたりで飲むことも少なくない。
「――涼子さんは何飲む?」
「何でもいいわよ。食べるものさえあれば」
リビングのクッションの上に腰を降ろした涼子は、そこに転がる無数の空き缶を見て、もうひとつ溜息をついた。
「夕方起きてからずっと飲んでたの?」
「ん――、お風呂入った」
「こっちは昼間から編集部に詰めたっていうのに……自由業はうらやましいわね」
「もしかして、ずっと家に帰ってないの?」
ガラス製のローテーブルにグラスを置いた加奈子が何かに気づいたように首をかしげた。
「――そういえば涼子さんの服、きのうと同じじゃん」
「そのくらいのことは覚えてるわけね」
「じゃ、乾杯する前にお風呂にでも入ってきたら? その間に食べるものでも用意しとくし」
「それじゃお言葉に甘えてシャワー借りるわね」
ジャケットを脱ぎ、涼子はバスルームに向かった。
プライベートではもちろん、紫藤カンナの担当編集としても、涼子はこのマンションを何度となく訪れていたから、いまさら案内の必要はない。
真っ白なバスルームで二日ぶりに熱いシャワーを浴びていると、加奈子がバスロープを持ってやってきた。
「これ、使って」
「ありがと」
「でも涼子さん、ホントにそれでいいわけ?」
「何が?」
「ご主人のことよ」
ここはバスルームとパウダールームの間が透明なガラスの壁で仕切られていて、加奈子からはシャワーを浴びる涼子の姿が丸見えだったが、涼子はさして気恥ずかしいとは思わなかった。
大学時代からたびたびいっしょに温泉旅行に行く仲だったから、おたがいの裸など見飽きている。
加奈子のほうも、洗面台の前の小さな椅子に腰を降ろし、涼子には一瞥もくれずに自分の爪ばかり見ている。
「――もう半年くらい、家に戻ってきてないんでしょう?」
「少なくとも死んではいないわよ。ときどきメールで連絡が来るし。……まあ、おたがい自分で稼いで暮らしてるんだから、いいんじゃない?」
「いっそすぱっと別れて身軽になっちゃえば? 子供だっていないんだし」
「わたしのことはいいのよ」
ざっと身体を洗ってシャワーのコックを閉めた涼子は、熱い溜息をもらしてバスルームを出た。
「――そういうあなたはどうなの?」
濡れた髪をタオルで包み込んだ涼子は、バスローブをはおって振り返った。
「このままずっと独身で行くわけ? 別に仕事やめて主婦になれとはいわないけど」
「ほら、わたしって自己中心的で身勝手だから、男と暮らしてもたぶん長続きしないと思うのよ」
そういう自覚があるなら少しあらためればいいのにと、口でいうのは簡単だが、涼子があれこれアドバイスした程度でどうにかなるものなら、加奈子に結婚するチャンスは幾度となくあった。
そのことごとくにしくじってきたというのは、加奈子自身が自嘲するように、やはり彼女の性格が異性との共同生活に不向きだということなのだろう。
それに、現在進行形で夫と別居状態にある涼子が何をいっても、説得力はないにひとしい。
「ていうか、それで思い出したんだけど」
リビングに戻ってさっそく缶ビールを空けた加奈子が、テーブルの上に身を乗り出してきた。
「――涼子さん、あれから明神くんと何か話したりした?」
「明神? あの子だったら、昼間、編集部にちらっと顔を出したけど」
「じゃ、わたしのこと何かいってた?」
かさねてそう尋ねる加奈子の瞳が輝いている。
涼子は冷たいビールをあおって苦笑した。
「紫藤先生とはうまくやっていけそうだっていってたわよ。……どういう意味かは知らないけど」
「へー、そう。そうなんだー。……ふふ」
「何なの? そのいやらしい意味深な笑いは?」
「いやぁ、ちょっとね。……聞きたい?」
「聞きたいって、何を?」
「ヤだなー。すごく聞きたいって顔してるよ。涼子さん」
「わたしが聞きたいんじゃなくて、あなたがしゃべりたくてうずうずしてるんでしょう? あなた、昔っからそうなんだから」
「え? そうだっけ?」
加奈子は大学の頃から年下趣味があって、ナンパされるにしろ、するにしろ、相手にするのは自分より若い美少年タイプにほぼかぎられてきた。
そして涼子は、加奈子に新しい彼氏ができるたびに、彼女がふたりの馴れ初めを嬉々として語るのを、こういう酒の席でいつも聞かされるのである。
もっとも、加奈子が涼子の部下に手を出したのは初めてのことだったし、そういう意味でいえば、涼子にも下世話な興味がないわけではない。
それでも涼子が表向きは興味のなさそうな顔をしていると、どうしても誰かに聞いてもらいたくて仕方がなかったのか、加奈子がわざわざ涼子の隣りに移動してきて、
「いいからいいから、ホント、ちょっと聞いてよ、ねえ!」
と、ふたりしかいないのに、ほとんど耳打ちするように話し始めた。
「ふぅん――」
きのうの夜、紫藤カンナと明神ひさぎの間に何があったのか、かなりきわどい表現で細かいところまで説明された涼子は、人知れず喉を鳴らし、いつの間にか乾いていた唇をアルコールで湿した。
「――あれ? もしかして涼子さん、あんまり驚いてない?」
「驚いているわよ。線が細くておっとりしてそうな、あの明神がねえって。……だけど妙に納得できるところもあって」
「どういうこと?」
「あの子、ウチのところに来る前は、隣の編集部でマンガの原稿取りをやってたのよ」
「へー、少女マンガ作ってたんだ」
「だけど、そこでちょっと問題起こしてウチに回されてきて」
「問題って?」
涼子が買ってきたワインにコルク抜きをねじ込みながら、加奈子が聞き返す。
「だから、そういう雑誌で原稿書いている作家さんの中には、高校出るか出ないかのうちからずっとマンガひとすじって子もいるわけでしょ? ありていにいえば、実際には男の子とロクにつき合ったことのないようなウブな子とか」
「まあ……昔よりは少ないと思うけど、確実にいるわよね、きっと」
「で、明神がそういう新人を担当してた時に、いろいろとね……」
「明神くんが新人の子に手を出したとか?」
人目を気にする必要がないからか、加奈子がバルバレスコ赤を、はしたないほどグラスになみなみとついでいく。
溜息混じりにそれを見つめ、涼子はかぶりを振った。
「結局は男と女の間のことだし、プライベートだっていわれればそれまでだから、本当のところは判らないわよ? でも、当時の上司から聞いた話だと、明神のほうにはその気がなくても、女の子のほうが一方的に熱を上げちゃって、中にはけっこう思いつめちゃう子もいたみたい」
「へえ」
「そういう経緯で異動してきて、あちこちで噂になってたんだけど、ふてぶてしいっていうのかしら、本人はぜんぜん悪びれてないのよね」
「もしかして、明神くんってけっこうワル?」
「どうかな? ウチの部員は、みんなそういう話はあんまりしないから」
「明神くんもそういってた。涼子さんがダンナと別居してるって聞いて驚いてたし」
「あなた……そんなことまで話したの?」
涼子は軽く加奈子を睨《にら》んだ。
別居のことは、しいて隠そうと思っていたわけではないし、明神ひさぎに知られて困ることでもないが、だからといって、誇らしげに吹聴《ふいちょう》して回るような話題でもない。
「あ、でも、それだけよ、ホント?」
「当たり前でしょ。これ以上余計なことしゃべったら、あなたの恥ずかしい過去を全部あの子にバラすわよ?」
「いやー、でももう、明神くんにはこれ以上ないってくらい恥ずかしいところを見られまくってるんで、いまさら何をいわれても……」
「あー、はいはい」
少女のように照れる加奈子から視線を逸らし、涼子はピザに手を伸ばした。
「あ、そういえば涼子さん、明神くんのケータイの番号とか知らない?」
「聞いてないの?」
「聞くの忘れちゃってて……目が醒めたら書き置きだけ残してもう帰っちゃってたし」
「あなたが年甲斐もなくヤリまくりすぎたから、呆れちゃったんじゃないの?」
いってから、涼子は、自分らしからぬ下卑たいい回しだと思った。
少しずつ、酔いに侵され始めているのかもしれない。
「逆よ、逆! 誘ったのはわたしのほうだけど、わたしはもういいようにヤリまくられただけだもん。……夕方まで目が醒めなかったのって、きっとそのせいよ」
「ま、どっちでもいいわよ、そんなの」
ピザをイタリアンワインで胃の中に押し込んだ涼子は、バッグの中から携帯電話を引っ張り出し、アドレス帳を開いた。
「――あなたがウチの締め切りを守って、明神が自分の仕事をきちんと仕上げてくれさえすれば、あなたたちがくっつこうが切れようが……」
「誤解しないでよ、涼子さん。別にわたし、明神くんとつき合いたいなんて思ってないし」
「それが無難ね。明神はたぶん――まあ、わたしにもうまくいえないけど、恋人にするには向かない男なのよ」
ひさぎは携帯の番号をメモリーに打ち込む加奈子を見ながら、涼子はボルドー色の溜息をついた。
「あれはねえ――きっと、この世で一番自分が可愛いってタイプの男よ。本気で好きになっても女の方が泣きを見るだけだわ」
※
雨のそぼ降る夜の窓辺に、厚みのある本が小山となって積み上がっていた。
古今の哲人たちの著作を集めた膨大な全集は、たいがいの人間を殴り殺せそうなくらいの威圧感があり、おまけに、そこに記された細かいアルファベットの洪水によって、人を狂死させることさえできそうだった。
少なくとも、ごく普通の人間がごく普通に生きていく上では、これらの哲学書が特に何かに役立つということはほとんどないだろう。
せいぜいドアストッパーの代役くらいにしか使えない書物を、こうして何時間にもわたって一心不乱に読み続けられるということは、あるいはこのジャグルヤという男は、精神的なマゾヒストなのかもしれない。
真夜中の外出をはさんで、日暮れ前からずっと、ジャグルヤは読書に没頭している。
文字を目で追い、ページをめくり、とこどき思い出したようにテーブルの上の砂時計をひっくり返す――ジャグルヤがしていることといえばただそれだけだ。
一時期のいきおいはなくなったものの、雨はまだ未練がましく降り続けている。
桜の季節に似つかわしくない陰雨だった。
またあらたな三分が経過し、テーブルの上の砂時計を反転させたジャグルヤは、籐《とう》細工のソファから立つことなく、低い声でいった。
「――無闇に、解脱≠おこなっているわけではないだろうね、クナンサティ?」
「してないよ」
ジャグルヤにあたえられた離れの一室へと、音もなくドアを開けて入ってきたのは、レザーのショートジャケットをたたんで肩に引っかけたなりのクナンサティだった。
いったいどこで何をしていたのか、ビスチェのカップがだらしなくめくれ返り、豊満なバストが剥き出しになっている。
胸の谷間にこびりついた白い粘液を指ですくって口もとに運び、クナンサティはジャグルヤの背後に歩み寄った。
「ずいぶんと愉しんでいるようだね」
相変わらずジャグルヤは本だけに集中していて、クナンサティのほうを振り返りもしない。
にもかかわらず、ジャグルヤにはクナンサティの淫らな艶姿も乱行の残り香も、すべて見通しているかのようだった。
「――快楽もまた、人間の根源的な感情のひとつには違いない。やりすぎなければそれもまた我が神へのささやかな供物となるだろうが」
「いや、それはいいんだけどさ」
蓮っ葉な口調で応じたクナンサティは、笑みにゆがめていた唇を結び、いくぶん眉をひそめてあらめて呟いた。
「……あの男がやられたみたいなんだ」
「――」
ジャグルヤのまなざしが、いっそう強い光を帯びて、哲学書の文面から数時間ぶりに離れた。
「伊崎さんのことかな?」
ジャグルヤが振り返って尋ねると、ビスチェをもとに戻しながら、クナンサティは神妙な表情でうなずいた。
「いわれてみれば、確かに戻ってきていないようだが――」
「ちょっと前から何も感じなくなったんだ。……どう思う?」
「いかにもとの素材のできがよくないとはいえ、解脱≠とげた今の伊崎さんが、ただの人間に倒されるはずはないが――」
「あれが実は人間≠カゃなかったってこと?」
「いや、あれは確かにただの人間だった。――しかし、こうして我々がこの国に入ってきている以上、向こうもこの国でのこの布教を強化していたとしてもおかしくはない」
ジャグルヤはソファから立ち上がり、携帯電話を手に取った。
「どうすんの?」
「どのみち処分しなければならないものもある」
そういって唇に人差し指を添えたジャグルヤは、どこかへと電話をかけ始めた。
「――もしもし、梓沢さんですか? 大至急、朝までに用意してもらいたいものがあるのですが」
いつものおだやかな口調で話すジャグルヤの足元に、なぜか、美幸という名のあのマスチフが、悠然と寝そべっていた。
第四章
目が醒めてまず困惑したというのは、明神ひさぎにとっても初めての経験だった。
ひどく長く感じられた眠りから覚醒し、自分が見慣れた天井を見上げていることに気づいたひさぎは、毛布をはねのけて慌てて身を起こした。
「――」
いつもひさぎが寝起きしている愛想のないベッドルームだった。
ほとんど開け放たれることのないカーテンの隙間からは、鮮烈な陽射しが細かく射し込んできている。
ベッドサイドに置かれていた腕時計を見ると、すでに朝の九時を回っていた。
ぼんやりと時計の文字盤を見つめながら、ひさぎはそっと自分の腹に触れてみた。
そこにはただ引き締まった腹筋があるだけで、無惨な傷口など開いていない。
昨夜、確かにひさぎは、人間離れしたゾンビまがいのアロハと高架下でやり合って、腹に大穴を開けられたはずだ。
右腕は上腕骨がへし折られ、左腕は尺骨というのか何かというのか、とにかく手首のあたりの骨を粉々にされた。
激しい衝撃で、あちこちの骨に無数のひびも入っていた。
なのに、腹に穴はなく両腕はごく普通に動き、痛みはまったくない。
ただわずかに、居心地の悪い夢を見たあとのような倦怠感があるだけだった。
夢――。
あるいはあれも、たちの悪い幻か何かだったのだろうか。
あれもまた幻覚だったのだとしたら、自分はゆうべ、どこで何をしていたのか。
そういうことを考え始めると、もう、何が現実で何が虚構なのか、ひさぎにもよく判らなくなってきた。
とにかく、まだ靄がかかっているようなこの頭をすっきりさせようと、ひさぎはバスルームへ足を向けた。
考えてみれば、こうして自宅で何ごともなく目を醒ました以上、昨夜のできごとが現実であったはずがない。
もしあれが現実だったとしたら、今頃ひさぎは、こうして頭から熱い湯を浴びることもなく、いかにもワイドショーの好きそうな猟奇殺人事件の被害者として、マスコミをにぎわせていたに違いないのだから。
「……」
記憶がうまくつながらなくなるところが出てくるが、とにかく、あれは夢だったのだと考えるのがもっとも自然で、そしてひさぎ自身も納得のいく答えだった。
シャワーを止め、頭にタオルをかぶって大きくひと息ついた時、そんなひさぎの思考を読み取ったかのように、
「違うよ」
不意に背後からかけられた無邪気な声に、ひさぎはぎょっとして振り返った。
「やあ、おはよう、ひさぎ」
すりガラスの引き戸を開けて、あの少年が笑っていた。
「おまえ……」
「残念だけど、あれは夢でも幻覚でもないよ」
白いハイソックスを脱ぎ、少年はバスルームに入ってきた。
「――まあ、そう思いたいひさぎの気持ちは判らないでもないけどね」
「――」
すぐ目の前に立つ少年を見下ろし、ひさぎは目を細めた。
どうしてここにこの少年が現れるのか――ここでこうしていること自体がリアルな幻覚で、ひょっとしたら、自分はもうずっと以前から、幾重にもかさなり合った幻の入れ子の中に捕らわれているのかもしれない。
ひさぎがそう考えた矢先、少年はにっこりと笑って首を振った。
「だから違うっていってるじゃないか。……人間っていうのは、自分たちの常識とかではかれない現実に直面すると、すぐそれをたちの悪い夢だとか幻だとかのせいにするよね」
「現実……だと?」
「うん、全部ね。ここにいるぼくも、ひさぎがきのう見たものも、ぜーんぶだ」
「――だったらハナシは簡単だ」
ひさぎはタオルで両手をよく拭くと、唐突に少年の首を掴んだ。
「どこの誰だか知らないが、おまえは余計なことを知りすぎている」
威しのつもりはひさぎにはまったくなかった。
最初から殺すつもりで、ひさぎは少年の首を一気に締め上げた。
「……おれのことをあちこちで吹聴されるのも厄介だからな」
「ひさぎって……」
白い顔を赤く、それから今度は急激に青ざめさせながら、それでも少年は、冷ややかな瞳でひさぎを見つめたまま、苦しげに笑っていた。
「けっこう……人でなし、だよ、ね――」
ひさぎに首を締められても、少年はなぜか抵抗しなかった。
「……!」
両手の力をゆるめることなく、血の気を失っていく少年の整った顔立ちを見つめていたひさぎは、卒然と不愉快なデジャヴュに襲われた。
より正確には、デジャヴュというより、これも幻といったほうがいいのかもしれない。
死に瀕した少年と、少年を縊死《いし》に追い込もうとする自分の姿を、ひさぎは、いつしか天井近くから客観的に見下ろしていた。
その少年の姿がかつての自分に変わり、その首を締めているのは、大人になった今の自分ではなく、あの頃はまだ生きていた、ひさぎの母親に変わっていた。
母親にくびり殺されそうになっていた子供の頃の自分の姿を思い出し、身震いした。
身体が冷えて鳥肌が立ったのか、それとも、おぞましい過去といっしょに長く忘れていた恐怖という感情がよみがえってきたからか、ひさぎにはよく判らなかった。
「……ママのことでも思い出した?」
少年がかぼそい声であざわらった直後、腹の底からこみ上げてくる怒りに後押しされて、ひさぎの手にそれまで以上の力がこもった。
そして、日常生活ではあまり聞くことのないくぐもった音がして、少年の首ががくんと垂れた。
「――」
ひさぎはゆっくりと両手を開いた。
首の骨を折られた少年の身体が崩れ落ち、濡れたタイルの上に横たわる。
依頼されていろいろな人間を殺してきたひさぎだが、こんな小さな少年を始末したのはさすがに初めてだった。
「まったく……」
うつ伏せに倒れて動かなくなった少年を見つめ、ひさぎは顔をぬぐった。
呼吸を荒くした全裸の男が、浴室で美少年の死体を見下ろしている――性的悪戯が目的で自宅に少年を連れ込んだ男が、抵抗されたためについカッとなって少年を絞殺したと、そう誤解されても仕方ないシチュエーションだろう。
ひどくこわばってしまった両手をほぐし、ひさぎは大きく深呼吸してバスルームを出た。
最初は純粋に口封じのため、そして途中からは何ともいい表せない衝動につき動かされて、ひさぎは少年を絞殺してしまった。
とりあえず、死体を処理する方法を考えなければならない。
夜中にどこか山奥に運んでいって埋めるか、それともパーツごとに分解してから少しずつ処分するか。
コマギレにして料理に使うという選択肢もないわけではないが、あいにく、ひさぎにカニバリズムの趣味はない。
あれこれ考えをめぐらせながらリビングに戻ってきたひさぎを、今度はまた聞き覚えのある女の声が出迎えた。
「容赦ないわね、ひさぎ」
「――」
あの女がソファに悠然と腰かけていた。
「――もっとも、わたしが必要としているのはそういうあなたなんだけど」
「おまえは……」
「すべて現実だっていったでしょう?」
ゆうべ、瀕死のひさぎにまたがって腰を振っていた赤いワンピースの女が、白い脚をこれ見よがしに組み替え、ソファの肘掛けに頬杖をついてひさぎを見つめている。
バスローブの上から腹のあたりをなで、ひさぎはいぶかしげに尋ねた。
「おまえはいったい……何なんだ?」
「ボイスよ」
女は高く上げた脚を振り下ろし、その反動でソファから立ち上がると、勝手にキッチンの冷蔵庫を開けた。
ひさぎは肩越しにバスルームのほうを振り返り、
「あのガキはおまえの知り合いか何かか?」
「ガキっていいかたはないんじゃない? あなた、普段はもっと礼儀正しいのに」
「いいから答えろ」
「だから、あれはわたしよ」
「? どういう意味だ?」
「あれもわたし。見え方が違うだけで、どっちもわたしよ。名前はボイス」
そういいながら、女は冷蔵庫の中を物色し、缶ビールを取り出した。
「あのガキとおまえが同一人物……だと?」
「そう」
冷蔵庫に寄りかかり、よく冷えたビールに口をつける美女ボイス。
その赤い唇や、ワンピースを張り詰めさせるグラマラスな肢体から視線を逸らし、ひさぎは、さっきまで女が座っていたソファに歩み寄った。
「……ふざけたことをいう女だ」
ソファの下から大きなケースを引きずり出し、その中に納めてあったリボルバーを手に取る。
これが幻ではなく現実だとしたら、狂っているのはひさぎではなくこの女のほうだ。
保身のために頭のおかしい女を始末するくらい、ひさぎにとっては何ほどのこともない。
ひさぎはリボルバーの撃鉄を起こしてキッチンを覗きこんだ。
しかし、さっきまで冷蔵庫の前にいたはずの女の姿はどこにもなく、入れ代わりに、またリビングのほうから艶のある色めいた声が聞こえてきた。
「別にふざけてなんかいないわよ。本当よ」
「ちっ……」
どうやって自分に見つからずキッチンからリビングに移動したのか――それを疑問に思うより、この女は自分をからかっているのだという思いの方が強くて、ひさぎはまた軽い怒りを感じた。
そして、ひさぎがリビングに引き返してみると、そこに待っていたのはボイスと名乗る女ではなく、さっき絞め殺したはずの、あの少年だった。
「ほらね」
ソファのかたわらに立ち、ビールの空き缶を揺らしながら、少年は鈴のなるような声で笑っている。
きゅっと細められた冷たい瞳が癪《しゃく》に障った。
「――」
少年に銃を向けたまま、ひさぎは落ち着いて状況を整理しようとした。
だが、合理的な説明がまったくつかない。
少年を絞め殺した時の感触は、ひさぎの両手にまだかすかに残っている。
にもかかわらず、首に締められた痣《あざ》さえない少年が、すぐそこで自分を小馬鹿にするかのように笑っている。
ふと思いついてバスルームにとって返してみたが、そこにあるはずの少年の死体は消えていた。
少年は、首の骨を折られても死ななかったということか。
「……どういうことだ?」
得体の知れない少年に対する恐れはない。
ひさぎはただ、困惑していた。
「おい――」
そう問いただそうと思ってひさぎが舞い戻ったリビングには、少年に代わって、ふたたびあの女の姿があった。
「難しく考えることはないわ。単純な話よ」
ソファの背もたれに魅力的なヒップを乗せ、ボイスはひさぎに微笑みかけた。
「わたしはいろんな姿に変身できる。絶世の美女にも、花を欺く美少年にもね。どっちが本当の姿なのか、それともほかに真の姿があるのか、それはナイショだけど」
「ふざけるなといっただろう?」
ひさぎはボイスに銃を向けた。
「――さっさと本当のことをいえ。あのガキはどこにいる? いや、それもどうでもいい。どのみちふたりとも始末するだけだ」
「あら、薄情なことをいうのね」
ゆるくウェーブのかかった髪を軽く払い、ボイスは心外そうに頬をふくらませた。
「――ゆうべ死にかけてたあなたを助けてあげたのはだぁれ?」
「少なくともおまえだけじゃないことだけは確かだな。おまえはただ、あの世に片足を突っ込んでいた俺に馬乗りになって尻を振るような、屍姦趣味のあるただの変態女だろう?」
「判ってないのね」
ひさぎに歩み寄ったボイスは、いきなりひさぎの胸板に爪を立ててがりっとひっかいた。
「つ……」
わずかに顔をしかめただけで苦痛の声をあげることもなく、ひさぎはボイスのみぞおちに銃口を押し当てた。
「引鉄を引くのはちょっと待ってよ」
ボイスは自分で作った傷口に唇を寄せ、うっすらとにじんだ血の珠《たま》を舌で舐め取った。
「……?」
肌の上を淡い快感がよぎっていった直後、傷の痛みが嘘のように消え去った。
見れば、白い肌に刻まれた四条の傷が跡形もなく消えている。
あるのはただ、ボイスが舌を這わせた唾液の跡だけだった。
「――ほら」
ひさぎの首に手を回し、ボイスは艶然と笑った。
鬱勃《うつぼつ》した劣情がこみ上げてくるのを感じながら、ひさぎはボイスをソファに突き倒した。
「どんな手品だ?」
「手品じゃないわ。わたしにはそういう力があるのよ。今くらいの傷なら一瞬で治せるし、ゆうべのあなたくらいの半死人でも、何とか蘇生させられるような力がわたしにはあるの」
ボイスはこともなげにそういったが、ひさぎはいまだに半信半疑だった。
が、現に今、ボイスはひさぎの胸につけた傷を一瞬で治して見せた。
あれが単なるまやかしでないことは、実際に鋭い痛みを感じたひさぎ自身が一番よく知っている。
ひさぎはゆっくりと銃を降ろし、ボイスと向かい合うソファにのろのろと腰を降ろした。
「おまえは……結局、いったい何なんだ?」
「そうだなあ」
ひさぎが背を向けたほんのわずかな間に、美女ボイスは少年ボイスと入れ替わっていた。
「――まあ、きみたちがいうところの悪魔≠チてヤツかな」
「何……?」
目線だけを動かして女の姿を捜しながら、ひさぎは聞き返した。
「ひさぎはそうやって、すべてを人間の常識の範疇《はんちゅう》で捉えようとしてるけど、それってホントはぜんぜん合理的な考え方じゃないんだよ。少なくとも、楽な方法じゃないよね」
まるで年下の人間に説教でもするかのように、少年ボイスは得意げにいった。
「ぼくが悪魔なんだってことをまず最初に認めてしまえば、ここ何日もきみが悩まされていることのすべては氷解するんだ。きみがなぜそうかたくなに目の前の現実を否定しようとするのか、ぼくには判らないよ」
「悪魔だか何だか知らないが、確かにおまえが人間にない力を持ったバケモノだと考えれば、これまでのことはだいたい説明がつくな」
「でしょ? ほらほら、認めちゃいなよ」
面白そうに細められた少年の瞳が妖しい輝きを帯びる。
しかしひさぎは、冷ややかに唇をゆがめてかぶりを振った。
「――だが、おまえを悪魔だと認めるより、俺が見ているものすべてが幻覚だと考える方がはるかに現実的だ」
「あれ? そう考えちゃうの?」
大袈裟に肩をすくめ、少年は立ち上がった。
「――やれやれ、ひさぎは強情だな。ぼくを含めたすべての世界が幻覚だっていうんなら、ここでぼくを悪魔と認めようと認めまいと、どっちだっていいってことじゃないか。現実じゃないんだから」
「そうだな。この会話さえ幻の中のことだというなら、認めようと認めまいとどっちだっていい。……が、どちらかを取れといわれたら、俺はおまえを認めないほうを取る」
「どうしてそんな意地悪なこというのさ?」
「おまえはナマイキだ」
銃口を振り、ひさぎは鼻を鳴らした。
ここから出ていけといったつもりだった。
幻覚に対して出ていけと命じるのも妙な話だが、それ以外に、この馬鹿馬鹿しい問答を終わらせる方法を、ひさぎはほかに思いつかなかった。
「仕方ないね」
少年ボイスは半ズボンから伸びた細い脚を小気味よく運び、リビングから出ていった。
「――出直すよ」
「何度現れても無駄だ」
「あら、そのうちそんなこといってられなくなると思うわよ?」
「何……?」
意味深な美女ボイスの言葉に、ひさぎはソファを立って振り返った。
「あなたがきのう出くわした連中――あいつらが、あなたをこのままにしておくかしら? あなたなら、確実に口封じに動くわよね?」
女は玄関のところで腰を屈め、ハイヒールを履いていた。
そのポーズのせいで、真っ赤なワンピースに包まれた丸い尻が、ひさぎに向かって挑発的に揺れている。
男の克己心をためすような、そんな淫らがましい姿態だった。
「あの連中もわたしと同じように、あなたの狂った頭が生み出した幻覚だと考えているなら、それはそれでいいわ」
ハイヒールを履いた女は、ひさぎをかえりみてうなずいた。
「幻覚だとたかをくくっているところを闇討ちされて、夢と現《うつつ》の区別がつかないままで殺されてみるといいわ。ただし、次もわたしがあやういところで助けてあげられるとはかぎらないけど」
淡々とした女の言葉に、ひさぎは反射的に腹を押さえていた。
腹をぶち抜かれ、内臓を引きちぎられた時の、あの焼けるような激しい痛みがよみがえってきたような気がした。
「――じゃあね、ひさぎ」
女は愛嬌のあるウインクを飛ばしてマンションを出ていった。
束の間開いたドアの向こうから、ひさぎが住む夜の世界とは縁遠い、あたたかな陽光がやわらかく射し込んできて、それが、しっかりとした現実の上に立とうと努めるひさぎの足元を、かえってあやうくした。
ボイスと名乗る少年、もしくは美女がいなくなった今のこの空間は、果たしてこれは現実なのか、それとも幻覚なのか。
ああはいったが、ひさぎ自身、すでに現実と幻覚の境界線を明確に引くことができなくなっていた。
それどころか、そんなものが実在するのかどうかという根本的な部分に目をつぶって、あの少年と美女が本物の悪魔なのだと考えてしまえば、いろいろと辻褄《つじつま》は合うし面倒もないだろうと、そう考え始めている。
要するにひさぎは、あのボイスと名乗る少年やら美女やらのペースに、少しずつだが確実に、巻き込まれつつあった。
「くそ――」
ひさぎはベッドルームに向かい、着替えに取りかかった。
基本的に、ひさぎはいろいろと面倒なことを考えるのが嫌いなたちだ。
だからこれまでは、すべてを幻覚として大雑把に切り捨てようとしてきた。
しかし、もしそれよりももっと簡単に、目の前の現象を説明できる概念があるのだとしたら、そちらになびくのもやぶさかではない。
薄手のセーターに地味なジャケットを合わせ、髪型を整えて伊達眼鏡をかけ、ひさぎは部屋をあとにした。
春の陽気に誘われたわけではないが、あのまま殺風景な部屋で仕事をする気分にはなれなかったのである。
特にあてもなく、春色の香りの風が吹く街をぶらつこうと思ってエレベーターに乗り込んだひさぎは、そこに真っ赤なワンピースの美女がいるのを知り、途端に憮然とした表情になった。
「どうしたの、ひさぎ?」
二メートル四方にも満たない密室の中で、ボイスが甘やかな吐息を交えて呟いた。
「……退散したんじゃなかったのか?」
「出直すっていったはずよ」
「十分もたたないうちにか?」
「善は急げっていうんでしょ?」
「悪魔のセリフとは思えないな」
「あら嬉しい、やっとわたしを悪魔だって認めてくれたのね」
「たとえおまえが幻覚ではなく実在する女だとしても、何しろ木の芽時だからな。悪魔を自称する頭のおかしい女のひとりやふたり現れたとしても、別におかしいことじゃない」
「見かけによらずガンコねえ……何をどうしたら信じてくれるのかしら?」
「さあな。……俺の願いでもかなえてくれたら、ひょっとしたら信じる気になるかもしれないが」
「あなたの願い? 何なの、それ?」
「それを当てるところから始めるんだな。悪魔なら俺の心を読むくらいわけもないだろう?」
気安げに寄りかかってこようとするボイスの手を振りほどき、ひさぎはエレベーターを降りた。
幸か不幸か、マンションを出るまでひさぎは誰とも行き会わなかった。
整った顔立ちのおかげでただでさえ目立つひさぎが、扇情的ないでたちの妖艶な美女と並んで歩いているところを同じマンションの住人に見られでもしたら、たちまちあらぬ噂をたてられていただろう。
正面エントランスを出て歩き出したひさぎに、ボイスが小走りにおいついてきて、ことわりもせずにその左腕に絡みついてきた。
「お天気もいいことだし、話の続きは歩きながらにしない?」
「勝手に決めるな」
ひさぎは眉をひそめて舌打ちした。
「おまえといっしょにいると、俺まで人目を集めて居心地の悪い思いをする。散歩がしたければひとりでどこへでも行け。おまえと並んで歩くのはごめんだ」
「大丈夫よ。わたしはあなた以外の人間には見えないから。……あなたがそう望むのなら、目に見えるようにもできるけど」
ひさぎの唇をくすぐるように撫でながら、ボイスはうっとりと目を細めた。
「――ゆうべだって、自分以外の人間がまったくわたしに反応しなかったから、やっぱりこれは幻覚だって思ったんじゃない?」
「今も幻覚だと思っている。……クスリも入れていないのに、軽くバッドトリップをしている気分だ」
そうぼやいたひさぎは、ふと気づいて口を閉ざした。
もし本当にボイスの姿が自分以外の人間に見えないのだとしたら、今のひさぎは、周りに誰もいないのにぶつぶつぼやき続けている可哀相な男と見えるに違いない。
まして、同じマンションの住人に妙なところを見られでもしたらまた面倒なことになるだろう。
そう懸念すること自体が、ボイスが悪魔だと認めるようでむかついたが、ひさぎは他人から不自然に見られないよう、ボイスを引き剥がすこともせず、いかにも不機嫌そうに歩き出した。
※
何度繰り返して再生してみても、どういうカラクリになっているのか理解できなかった。
粒子の粗いモノクロの映像を凝視したまま、梓沢は低い声で唸った。
「どうしたのさ、梓沢サン?」
壁に寄りかかっていたクナンサティが、それを聞きつけて尋ねる。
「お客人」
クナンサティに応える代わりに、梓沢はジャグルヤを見やって口を開いた。
「――いったいどんな魔法を使ったんです?」
「ですから魔法ではありません。奇跡ですよ。……前にもいいましたが」
ジャグルヤはリモコンを手に取り、問題のビデオをふたたび頭から再生した。
それは、真夜中の駐車場を撮影した、監視カメラの映像だった。
そこに、梓沢の部下の伊崎が映っていた。
だが、梓沢が知っている伊崎とはかなり違う。
ひょろりとした細かい身体に派手なアロハをはおった姿は同じだが、少なくとも、梓沢に馴染みのある伊崎は、四十五口径の弾丸を食らっても微動だにしないような怪物ではない。
ビデオの中で、伊崎は、毛皮のコートの女と戦っていた。
女は懐からごついガバメントを引き抜き、流れるような動きで伊崎の胸にポイントし、トリガーを二回引いた。
しかし伊崎は仰向けに倒れなかった。
まず梓沢が驚いたのは、明らかに素人とは思えない女の手並みにではなく、伊崎のその常識はずれのタフさにだった。
さらに伊崎は後頭部にも弾丸を食らったが、やはり倒れることなく、逆に女の右腕をやすやすとへし折り、貫手で腹に大穴を開け、無造作に内臓を引きちぎっていた。
モノクロのこの映像からでさえ血臭はただよってきそうな、凄惨《せいさん》な戦いだった。
「――あんたがたの神≠ニやらに祈ると、あの伊崎がこうなるってわけですか?」
「単純にいえばそうです。……ああ、ここだ」
ジャグルヤは映像を一時停止させ、スロー再生に切り替えた。
伊崎は女の上に馬乗りになり、その口に両手をかけていた。
ここまで見てきた伊崎の怪力ならば、人体をまっぷたつに裂くことも充分に可能だったかもしれない。
しかし実際には、伊崎はこの直後、女に撃たれて大きく吹っ飛ぶ。
ガバメントであれだけ撃たれてもびくともしなかった、まさに不死者と化していた伊崎が、唐突に女のかたわらに落ちてきて黒光りする拳銃の前には、まるで案山子も同然だった。
「この銃は」
目を細め、ジャグルヤは呟いた。
「……何もない空間から突如出現しているように見える」
「確かにそうかも」
中東で数々の修羅場をくぐり抜けてきた梓沢でさえ、初めて見た時にはひそめたほどの映像を、ジャグルヤもクナンサティも、当たり前のように見つめている。
彼らにとっての関心事は、怪物と化した伊崎を倒した女――そしてその銃の二点にのみ向けられているようだった。
伊崎がモンスターと化した事実をまず受け入れがたく思っている梓沢と、目をつけている場所がまるで違う。
食い入るようにビデオに見入っていたジャグルヤは、ソファに座り直し、梓沢にいった。
「――このビデオの映像は、伊崎さんが倒れたところで切れていますが、ほかのカメラの映像はないのですか?」
「ほかのカメラも同じところで砂嵐に変わっているそうです。これはまだ一番マトモに映っているものらしいですが」
「現場には何か残っていましたか?」
「あったのは血痕と伊崎の服だけです。さいわい、大きな騒ぎになるまえに処理できましたが――いや、とりあえずそんな話はどうでもいいでしょう」
梓沢は大きく息を吸い込み、小山のような身体を揺らして立ち上がった。
「――それより、まず伊崎のことを説明してもらえませんかね? あれはいったい何なんです?」
「だからさあ、あの困ったちゃんは解脱≠オたんだよ」
いきどおりを隠せない梓沢を笑うように、クナンサティが答えた。
「わたしがさせてやったっていったほうが、より正確かもしんないけど」
「解脱=c…? どういうことだ?」
「人間は罪深い宿業の円環の中を永遠にめぐる哀れなイキモノです」
テーブルの上に砂時計を置き、その砂が静かに流れ落ちていくさまを見つめながら、ジャグルヤはいった。
「そのサイクルから抜け出すために、人は解脱≠キる必要があるのです」
「あんたらの宗教の教義とやらに興味はありませんよ。俺が知りたいのは、その解脱とかいうもので、伊崎がいったい何に変わったのかってことです」
「伊崎さんは我々と同じ〈使徒〉に生まれ変わったのですよ」
「〈使徒〉……?」
「わたしやクナンサティと同じ、我らが〈時の神〉に仕えるしもべです」
「なら、あんたらは、今度はウチの会長をそのしもべとやらにするつもりなのか?」
すでになっているのかもしれない――とは、梓沢は考えたくなかった。
「梓沢さんもご覧になったはずだ。あの伊崎さんの力を。……解脱≠へて〈使徒〉となった者は、人間を超越した存在となる」
「俺にはゾンビになったようにしか見えませんでしたがね」
梓沢は射殺するようなまなざしでジャグルヤを睨めつけた。
別に梓沢は伊崎を可愛がっていたわけではない。
だが、自分の部下だったことは確かだ。
その部下を勝手に妙な怪物にされ、おまけに使い捨ての駒のようにあつかわれて、梓沢の腹中にジャグルヤへの怒りが込み上げてきた。
しかし、ジャグルヤは梓沢の眼光を平然と受け流し、淡々といった。
「それは伊崎さんの魂がその程度のものだったからですよ。哀しいことですが」
「その程度……だと?」
「小さな人間は、いかに我々の手で解脱≠果たそうと、しょせんあの程度でしかない。だが、器の大きな人間ならば、解脱≠ノよって真の使徒となることができる。……嶺崎会長には、そうした存在になっていただきたいと考えています」
「あんたらに……そんなことをして、いったい何の得がある? 金か?」
「我々が俗世の富みに心を動かされることはありませんが、俗世の人々を動かすのに金が必要なこともまた事実です。 嶺崎会長に真の〈使徒〉へと解脱≠オていただければ、我々の教えを広めるのに大いにご協力いただけるでしょう」
「日本中をあんなゾンビだらけにするのがあんたらの目的なのか?」
「いいえ。我らが神のもとでは、世界はもっと清浄でおだやかなものとなるはずです」
「……どうにも退屈そうな世界だな」
「そんなことはないさ。アンタは知らないだけだよ。……そう、梓沢サンもさ、いっそこっちに来ちゃえばいいんだ」
「何だと?」
「アンタも解脱≠オて〈使徒〉になればいいんだよ。……そうすれば、死ぬことなんか恐れずに思いっきり好きなだけ戦える。伊崎程度であの程度だったんだ、アンタならもっと強くてレベルの高い〈使徒〉になれるはずだよ」
クナンサティは梓沢のネクタイを締め直し、あの笑みを浮かべた。
「――もしその気があるならいつでもわたしにいいなって」
「ふざけるな。誰が――」
クナンサティの手を振り払い、梓沢は傷のある頬をひくつかせた。
「そう声を荒げるなや。梓沢」
拳を握り締めて吐き捨てる梓沢を、しわがれた老人の声がたしなめた。
「会長――」
この間まで屋敷の一番奥の部屋で臥せったいたはずの嶺崎剛三が、杖もつかず供回りもつけず、AVルームの戸口に立っていた。
「お、お身体のほうはよろしいので?」
「そう心配せんでもよい。ゆうべもワシひとりで歩いておったじゃろうが」
ウインクして軽く手を振るクナンサティに笑いかけ、嶺崎翁はソファに腰を降ろした。
老齢から来る体調不良で表舞台から姿を消したとはいえ、日本の政財界にいまだに隠然とした力を持ち続ける嶺崎剛三の逝去《せいきょ》は、さまざまな方面に大きな影響をあたえるだろう。
事実、この老人は、少し前までは自力で立つこともできず、床ずれを背負って死を待つばかりであったのだ。
その病床にあったはずの嶺崎翁が、こうして矍鑠《かくしゃく》とした風情でいるのを見れば、梓沢でもなくとも、ジャグルヤたちのいう奇跡≠ニやらの力を信じざるをえないだろう。
事実、あすをも知れぬ身だった嶺崎翁が目に見えて回復してきたのは、ジャグルヤがここに来てからなのだから。
「ところで梓沢よ」
肘掛けに寄りかかり、嶺崎翁は梓沢に声をかけた。
「いったい何の話をしておる?」
「は……実は、その――」
「これをご覧ください」
言葉に詰まった梓沢に代わり、ジャグルヤがビデオの映像を老人にしめす。
それをひと通り眺め、嶺崎翁はしわだらけの顔に冷ややかな笑みを浮かべた。
「伊崎も……存外にだらしがないの」
「会長――」
怪物化した伊崎を目の当たりにしてのそのセリフに、梓沢は絶句した。
このビデオを見てそういえる嶺崎翁は、やはりもう、梓沢が以前から仕えていた老人とは別人なのかもしれない。
ここに居合わせた人間の中でもっとも常識的な思考の持ち主は――皮肉にも――若い頃から銃を取って人を殺してきた自分なのではないかと、梓沢はそう思った。
「それにしても……何者かの、この女? 人の身で伊崎を仕留めるとは、ワシにとっても他人《ひと》ごとではないが……」
いつの間にか冒頭に戻っていたビデオの映像を前に、老人は砂時計をひっくり返した。
「女――ではないでしょう」
「何?」
「梓沢さんもお気づきになりませんでしたか?」
驚きの声をあげた梓沢に、ジャグルヤはしたり顔で続けた。
「伊崎さんと戦っているこの人物――わたしの見たところ、女ではないようです」
「わたしにもそう見えるよ。女装趣味のグッドルッキング……いい男だね」
クナンサティはかぶりつくようにしてモノクロの画像に見入った。
ピンク色の舌が覗き、淫猥なものを思わせる動きで青い唇を舐めていく。
「これが……男?」
「ふむ」
白いヒゲを撫でつけ、嶺崎翁はちろりと梓沢を横目に見やった。
「――ずいぶんと洗い画像だが、これを手がかりにその男を捜せるか、梓沢?」
「それは――」
梓沢は困惑を隠せなかった。
この男が、同じような格好で街をうろついているのなら、人手をかけさえすれば、いずれは見つけることも可能かもしれない。
しかし、嶺崎翁がそんな消極的な回答を望んでいるわけではないということは、これまでの経験でよく判っている。
梓沢が渋い顔をしていると、
「そうだねえ――」
じっと画面を凝視していたクナンサティは、やがて腰に手を当てて身を起こし、
「――まあ、こんないい男なら街中でも目立つだろうし、何とかなるんじゃない?」
どんな根拠があるのか、クナンサティは自信たっぷりにそう断言した。
「なら、すぐに捜し出してもらえるかな」
伊崎が撃たれるシーンで映像を静止さえ、老人はいった。
「そりゃかまいませんけど、そのためにはアシが必要なんですよねえ」
「梓沢」
まるで使い走りでも命じるかのように、老人は軽く手を振って梓沢に伝えた。
「役得だな。こちらのお嬢ちゃんといっしょにこの男を捜し出し、きちんと口を封じておけ。……ワシは、妙な噂が立つのは好まん」
「は……」
梓沢は戸惑いを隠せずにクナンサティを見やった。
「よろしくな。梓沢サン。さっそく今夜から行こうぜ?」
レザーのミニスカートに包まれた尻をぽんと叩き、見事なバストの妖女が不敵に微笑む。
「――なぁに、これでもわたしは捜し物が得意なんだ、すぐに見つけてやるさ。そしたらあとはアンタにお任せだ」
「……」
憤然と鼻を鳴らした梓沢は、嶺崎翁に深々と一礼すると、薄暗い部屋から姿を消した。
「ほ……ずいぶんとまあ、腹の虫の居所が悪そうじゃな、あれは」
老人が薄い肩を揺らして笑う。
「梓沢さんは、生きるか死ぬかの修羅場をいくつもくぐり抜けてきたかたですから」
ジャグルヤは梓沢を弁護するようにいった。
「冷徹な現実だけを見つめて生き延びてきたわけですから、我々のような胡散《うさん》臭い連中を今ひとつ信じきれないのも無理はありません」
「やれやれ……」
「まあ、そういうかただからこそ役に立ってもらえることもあるわけですが」
そこでジャグルヤはクナンサティにまなざしを移した。
「判っているとは思うが、いかに名なし≠ニはいえ、〈使徒〉を普通の人間の手で倒せるはずがない。この銃は、明らかに〈魔弾〉だ」
クナンサティは無言でうなずいた。
「そしての男は、〈魔弾〉をあつかえる人間だということになる」
「たしかにこのまま放置しとくのは危険だよねえ。わたしたちにとっても、親分にとってもさ?」
嶺崎老人のソファの背に寄りかかったクナンサティは、馴れ馴れしげにその肩に手を添え、低い声で悪戯っぽく笑った。
「始末をつけるのは無論だが――誰から〈魔弾〉を入手したのか、それも調べてきてくれ。ただし、向こうには〈魔弾〉があるということを忘れてはけない」
「OKOK、死なない程度にがんばってくるよ」
独特の体臭だけを残して、クナンサティは梓沢を追って部屋を出ていった。
「面白いお嬢ちゃんじゃな」
クナンサティの尻を見送った老人は、ジャグルヤに向き直ってあらためて切り出した。
「それはそうとお客人、身体の具合がよくなってきたところで、久しぶりに行ってみたいところがあるんじゃが、よいかな?」
「どちらへでしょう? さしつかえなければお教えいただきたいのですが」
「いや、昔よく通っておった店で、メシが食いたくなってな。……お客人もどうだね?」
そういって、老人は健康そうに輝く白い歯を覗かせた。
※
「――ぼくたち、周りの人間からはどう見えるのかなあ?」
「少なくとも恋人同士には見えないな」
吐き捨てるように答え、明神ひさぎはそっぽを向いた。
春――。
いかにも春めいた池の周囲は無数の桜の蕾によって淡く縁取られ、水面を吹き渡る風にまさに薫風《くんぷう》となって鼻孔をくすぐった。
陽光を跳ね返して銀色の魚鱗のように輝く池の上にはいくつものボートが浮かんでいたが、そのほとんどは、デートを楽しむ若いカップルか、さもなければ家族連れだった。
もともとボートになぞ乗りたくもなかったのに、その上この状況である。
ひさぎがむっつりと不機嫌になるもの当然だった。
もし手もとに銃があれば、発作的に引鉄を引いていたかもしれない。
しかし、少年はあくまで無邪気だった。
少なくとも周囲の人々の目には、ボート遊びに無邪気に喜ぶ少年として映っていることだろう。
少年ボイスのはしゃぎっぷりを冷ややかに一瞥し、ひさぎはまたひとつ溜息をついた。
「……嫌がらせにもほどがある」
「え? どうしてさ?」
「おまえの姿は他人には見えないんだろう? それをわざわざ人目につくようにしたのが、俺に対する嫌がらせでなくて何なんだ?」
「ひさぎがひとりでボートに乗るのは不自然じゃないか。その点、子供連れだったら別におかしくないからさ」
「おまえが俺の袖を引っ張ってわめき出すような真似さえしなければ、俺がボートに乗るような事態にすらならなかったはずだが」
「うふふ……けっこう人目を気にするんだね、ひさぎは」
「……絞め殺すぞ」
たとえ絞め殺してもすぐに復活してくると判っていながら、ひさぎはそう毒づかずにはいられなかった。
せめてこれが美女のほうのボイスであったなら、ひさぎの精神衛生的にはまだましだっただろう。
こちらの胸の内を見透かしたような言動が癪に障るという点ではどちらも同じだが、このガキのほうは、とにかくその目が我慢ならなかった。
わざわざ少年の姿でボートに乗ろうとわがままをいい出したあたりが、だから、ひさぎに対する嫌がらせとしか思えないのである。
不機嫌さを隠そうともしないひさぎをよそに、ボイスはあっけらかんとしていった。
「――どのみちこの状況じゃ、ぼくの話を聞くしかないね、ひさぎ」
「おまえを池に突き落としてさっさと岸に戻るという選択肢もある」
「人目を気にせずにそんなコトができるなら、そもそもきみはぼくのワガママに押し切られてボートに乗ったりなんかしなかったよ」
池の水の中に突っ込んでいた手を引き抜いたボイスは、船底にごろりと横たわったひさぎをじっと見つめた。
「――何だかんだできみって保守的なのさ」
「俺が?」
「昼と夜とでまるで違う顔を持っていて、その二重生活がとっても心地いいからそれを壊したくない。だから普段は些細なトラブルも避けて波風を立てないようにすごしたい。……そうでしょ?」
「ふん」
確かにその通りかも知れない。
ひさぎはボイスの言葉を鼻で笑って静かに目を閉じた。
降りそそぐ陽射しがあたたかい。
たっぷりと睡眠は取ったはずだが、ともすればこのままうたたねをしてしまいかねない、そんな心地よさだった。
「――ぼくはね、万魔殿《バンデモニウム》の頭領ベルゼビュート閣下直属のエージェントなんだ」
少しの間をおいて、ボイスがまた口を開いた。
「ぼくがこっちの世界に来たのも閣下のご命令があったからなんだよ」
また妙なことをいい出したと思ってひさぎが片目を薄く開けると、そこにいたはずの少年の姿はすでになく、代わりに、赤いワンピースの美女が、まさに凝脂という言葉がふさわしい白い美脚を崩し、じっとひさぎを見つめていた。
ひさぎはすばやく身を起こし、あたりを見回した。
「大丈夫よ。誰にも見られてないから。あなただって、わたしの姿が入れ替わる瞬間を見たことはないでしょう?」
ひさぎの懸念を見抜き、美女ボイスが屈託なく微笑する。
「この姿の方が、あなたが真剣に話を聞いてくれそうだし」
「……同じことだ」
ひさぎはふたたび寝転がろうとしたが、ボイスはその手を引いて押しとどめた。
「わたしの膝を貸してあげるわ。ほら、頭をこっちに向けて」
「……?」
「そんな警戒心剥き出しの目で見なくてもいいじゃないの。別に何もたくらんでいないわよ。……それとも、何をされるか判らないから怖い?」
「俺が警戒しているのは、おまえがまた、いきなり俺のジーンズを脱がせにかかるんじゃないかってことぐらいだ」
「安心して。あなたが今の社会で普通に生きていけないようになったらわたしだって困るもの。公序良俗に反するような真似はしないわ。少なくとも、人目があるところではね」
「人目がなかったら平気でやるといわんばかりだな。……だいたい、俺がどうにかなると、どうしておまえが困ることになる?」
「わたしの話を聞く気になった?」
「しゃべりたければ勝手にしゃべればいい。つまらない話だったら本当に寝るだけのことだ」
冷たい笑みを唇にとどめ、ひさぎはふたたび横になった。
枕代わりに頭の下に敷いた女の太腿は夢のようにやわらかく、それでいて弾力があり、肌触りも最高だった。
鼻先をかすめていく桜のそれとはまた違う香りは、女がその身に吹いたフレグランスか、あるいは女自身の体臭なのか。
汗が香水のように香る女が稀にいるという話を、ひさぎはふと思い出していた。
「どこまで話したかしら?」
「俺に聞くな。……万魔殿《バンデモニウム》がどうのというところだろう」
女の指が自分の髪をいじるに任せ、ひさぎは大きく深呼吸して目を閉じた。
「確か万魔殿《バンデモニウム》というのは、あれだったな、ミルトンの――」
「『失楽園』ね。地獄に落とされた悪魔たちがつどう奈落の宮殿。……読んだことがある?」
「ぱらぱらめくる程度にはな。だが、地獄で一番偉いのはサタンとかいうヤツじゃないのか?」
「少し前に政権交代があったの。サタンは今では野党第一党を率いる反主流派のリーダーよ」
まるで人間の世界のコピーだと、ひさぎは思わず苦笑した。
こんな他愛のない作り話、真剣に聞くだけ無駄だろう。
だが、そう感じながらもひさぎが眠りの淵に転げ落ちていかなかったのは、ひさぎを陶然とさせる心地よさのせいだったのかもしれない。
「――とにかく、今の万魔殿《バンデモニウム》のトップはベルゼビュート閣下で、わたしはその司令を受けて動くエージェントのひとりなの」
「それが何をしにやってきた? 花でも見にか?」
「商売敵をこの国から締め出すためよ」
ひさぎはちらりと女の顔を見上げた。
「悪魔に商売敵がいるとは思わなかったな。地獄に叩き落とされただけじゃ飽き足らず、また神サマとケンカをやらかすつもりなのか?」
「あのね、ひさぎ。この世の中に神サマなんていないのよ?」
「悪魔は実在するのに神は存在しない? それはそれでひどく身勝手な主張だな」
「全知全能、絶対善の造物主としての神は存在しないという意味よ。勝てば官軍ていうでしょ? 今あなたたちが神と呼んでいるものは、もとを正せばわたしたち悪魔とそう変わらないモノなのに、イメージ戦略に成功して、勝手に神サマって名乗ってるだけの連中なの」
確かに、真に善なる全知全能の神とやらが存在するのなら、神が造りたもうたこの世界に、悪徳や不幸が蔓延《まんえん》する余地などあるはずがない。
悪徳を消し去れない時点で、すでにその神は全能とはいえないし、あえて悪徳の存在を許しているのだとすれば、真の善だともいえないだろう。
それよりは、全能でもなく善でもない悪魔が、外面だけをつくろって神と名乗っていると考える方が、もともと神など信じないひさぎにとっては、よほど受け入れやすい考え方だった。
自分の頭上で呼吸に合わせて静かに揺れている女の胸を見つめ、ひさぎは我知らず尋ねていた。
「――だったら、いったい誰がおまえたちの商売敵なんだ?」
「あなたがゆべ出くわした連中」
「……何?」
「彼らは〈時の神〉というものを信奉しているわ。……もちろん、神というのは自称で、本質的にはわたしたちと変わらないけど」
「あのゾンビ風チンピラがか?」
「あれは人間よ。彼らの力で人間でなくなっただけのね。……いっしょにいたでしょ、妙な格好をした男と女が?」
「あいつらか……」
ひさぎの脳裏に、青いスタンドカラーの男とボンデージ系の赤毛の女の姿がよぎった。
おそらくボイスがいっているのは、隠れていたひさぎの気配に真っ先に気づいたあのふたりのことだろう。
「わたしは、彼らをこの国から追い出すためにやってきたの」
「そうか……ま、せいぜいがんばれ」
「他人《ひと》ごとみたいにいうのね」
「他人ごとだからな」
「そうかしら?」
「ああ。おまえのいうことがすべて真実だとして、それが俺とどうかかわってくる?」
腹の上で手を組み、ひさぎは溜息混じりに笑った。
「――俺はもう、あんな人間離れした連中とお近づきになるのはごめんだ。いったい何のために縄張り争いなんぞしているのか知らないが、やるならやるで、誰にも迷惑のかからないところで勝手にやっていろ」
「……怖いものが何もないというのも、それはそれで厄介なものね。危機感てものがまるでないんだから」
「どういう意味だ?」
「あなた、いってたわよね」
ボイスはひさぎの頬を両手で押さえ、真上から覗きこんだ。
「――あなたの望みをかなえてあげたら、わたしの話を信じてくれるって」
「ああ」
「今夜にでも信じさせてあげるわ」
そう断言する美女のまなざしを正面から受け止めたひさぎは、一瞬、夢うつつの陶酔感を根こそぎ吹き飛ばすような寒気を感じ、妖しくきらめく女の瞳を呆然と見返した。
今のはかなり、恐怖に似た衝動だったような気がする。
そうした片鱗を感じさせるこの女は、やはり人間ではなく悪魔なのかと、よく晴れた春の日の昼下がりだというのに、ひさぎはかすかにきざした悪寒に身震いした。
※
つい先日まで、老人の食事は点滴と流動食がメインだった。
しかし今、老人の目の前に置かれているのは、熱い音をはじけさせる極上のステーキだった。
その血のしたたり具合はレアもレア、ステーキというよりストレートに肉と表現したほうがふさわしく思えるほどで、少なく見積もっても一ポンドはあるだろう。
頼もしげなその厚みは、十代や二十代の健啖《けんたん》な若者でさえもてあますかもしれない。
それが、すでに小柄の老人の胃袋の中に、五、六枚ほどが消えていた。
「――お客人、あんた、いくつだね?」
フォークとナイフで今日にステーキを切り分け、嶺崎剛三は尋ねた。
「忘れました」
答えたのは、蒔絵仕立ての座卓の対面に座っていたジャグルヤだった。
「ワシほどの年ではなかろう?」
「だと思いますが」
「そうかい」
ひと口大に切った肉を、塗りの箸で口もとへと運ぶ。
肉を咀嚼する老人の歯は、入れ歯ではなく自前のものだとすれば、年のわりにしっかりと生え揃っていて、おまけに少しばかり鋭かった。
「ワシが若い頃は、戦争のおかげでまともなものが食えんかったが……犬はよく食った」
「犬ですか」
「特に赤犬がうまかったのを覚えておるよ。……まあ、人間ですら餓えて死ぬのが珍しくないご時世だったからの。犬もろくにエサを食っておらなんで、たいがい筋張っておったが、あの頃のワシの口に入る肉といったら犬くらいだった」
奥歯にはさまった肉片を枯れ枝のような指で引っこ抜き、老人はふたたび口の中に放り込んだ。
くちゃりくちゃりと音が鳴る。
お世辞にも、あまり品のいい食べ方とはいえなかった。
「――そのせいか、サイフを気にせずものが食えるようになってからも、ワシは肉ばかり食ってきた。あれこれ手の込んだ懐石料理だのフランス料理だの、あんなもん、作法がどうのと面倒なことばかりいいおって、ワシはうまいとも何とも思わん」
そういって、嶺崎老人はふたたび肉を口もとに運んだ。
決してがつがつしているわけではない。
少しばかりはしたない音を立てるところに目をつぶれば、老人の食べっぷりは淡々としていて、いわゆる健啖家のそれとは大きく違う。
だが、その淡々としてペースで、老人はずっと肉ばかりを食べ続けていた。
さながら牛が牧草を食《は》むように、孜々《しし》として肉を食らい続ける老人の姿からは、静かでおだやかな狂気のようなものさえ感じられた。
「……一時は、その肉も噛めんほどになったが」
ふと箸を置き、嶺崎老人はひと息ついた。
まるで、肉食獣のような吐息だった。
「またこうして肉を食えるようになったのはありがたいことじゃ。それもこれも、あんたらの何たらいう神サマのご加護か」
「会長の信心あればこそです」
ひしひしと肉を食い続ける老人に対し、ジャグルヤの前には小さな猪口《ちょこ》がひとつ置かれているばかりで、そこに満たされた酒もさっきからまったく減っていない。
老人とは対照的に、ジャグルヤにはそも食欲というものがないかのようだった。
「――我らが神は、恐怖や欲望といった、人間が持つ原始的な感情の揺らぎを好まれます。そうしたもの自体が、我らが神への最高の供養なのですよ」
「食いたいもんをただ食いたいと思うままに食うだけで、あんたらの神サマは人を助けてくれるというわけかね?」
「誰もが神の救済を受けられるわけではありませんが……まあ、神に愛されるのはそういう素直な人間だということですよ」
「そういうものかね」
「そういうものです」
老人とジャグルヤだけの静かな座敷に、またうまそうに肉を食う音がし始めた。
「――こういう肉もいいが」
飽きもせずに肉だけを食べながら、老人はふと思いだしたようにいった。
「あれだな、ゆうべのアレは、うまかったな。……あんたが病みつきになるといっておった意味がよく判った。フランス人なら、ジビエといかいうのじゃろうが」
「そうですか」
「ちとうるさいのが玉に瑕《きず》だが、暴れるのをうまく御してかぶりつくのがまたうまい。それ以前の、獲物を仕留めるまでの手間がまた、食事をうまくさせるスパイスなのかもしれん」
唇の端から溢れ出した肉汁を、老人は手の甲で無造作にぬぐった。
一滴二滴、袴《はかま》の膝に飛び散る赤いものがあったが、老人は気にしなかった。
「血をすすり、肉を食らうたびに、少しずつ若返っておるのが実感できる。……どうかね、あんたにもそう見えておるかね?」
「ええ。……そのうち、食べる方だけではなく、下のほうももっとお元気になられるはずです」
「ほう、それはまた愉しみが増えた。そっちはもう二十年近くも無沙汰じゃったが――」
猪口ではなく、銚子から直接酒をあおってひと息ついた老人は、口もとを隠すことなく奥歯を掃除しながら、
「その時は、あんたが連れとる、えー……何だったかな、妙な名前の娘っ子の――」
「クナンサティですか?」
「それだ、それ。いの一番にあのお嬢ちゃんを貸してもらってもよかろうか? あの子はワシの死んだばあさんの若い頃によう似とる」
「そう……ですか」
大真面目な老人の言葉に、ジャグルヤは唇を吊り上げて苦笑した。
「あれは少し変わった趣味の持ち主なのですが――まあ、会長がお気に召されたというのであれば、私のほうからよくいい含めておきます」
「そうか。すりゃせいぜい肉を食って今のうちから精をつけておこうか」
「ですが会長、クナンサティは――」
「ああ、ああ、いわれんでも判っとる」
口の中に突っ込んでいた指をちゅぽんと引き抜き、老人は首を振った。
唾液にまみれたその指先に、猛獣を思わせる鋭い爪が伸びている。
「あの子には噛み傷ひとつつけんよ。そのくらいの分別はワシにもある。……でなくばワシは、とうの昔に美幸を食っておるさ」
意味深なセリフを吐いた老人は、軽く手を叩いて女将を呼びつけ、さらにまたステーキを持ってくるように命じた。
内心では驚き呆れているだろうに、それをおくびにも出さず、空いた皿を下げて楚々として座敷から出ていく女将を見送った老人は、肉の脂でぬめった唇をひょろりとひと舐めした。
「以前から見知っておった女将のはずだが、今夜はなぜか特にいい女に見えたな。ところどころたるんでいそうだが、むっちりと脂がのっておって、いかにもうまそうな……」
四十をすぎた熟女を評する言葉としては、それは少し不適切だったかもしれない。
その時老人の目に浮かんでいたのは、男がいい女を見てうまそうだと表現する時にありがちな、好色そうな輝きでは断じてなかった。
少しぎょろついた瞳に炯々《けいけい》とした眼光をともし、老人はジャグルヤに向き直った。
「――どう思うかね、お客人」
「どう思うかとおっしゃると……今の女将をお気に召されたので?」
「うむ」
大きくうなずき、嶺崎剛三ははっきりといった。
「――食いたいな」
「なら、梓沢さんとはかってどうにかやってみましょう。そのへんのOLや水商売の女たちと違って、有名な料亭の女将がいきなり行方不明となると、それなりに事件になるでしょうが」
「どうにでもなる」
傲然《ごうぜん》――というより、それがとても当たり前のことであるかのように、老人は箸を動かしながらぼそりと呟いた。
「――ところで、犬の歯というものは、一度抜けたあとにまた生えてきたりするものかな」
「生えませんね、普通は」
「人間の歯も、普通は生え替わらんな?」
「乳歯が永久歯になるだけでしょうね」
「なら、ワシや美幸の歯が生え替わったのも、神サマのおかげということか。……いや、まったくありがたい神サマだわ」
みっしりと生えた歯を剥き出しにして、嶺崎剛三は嬉しげに笑った。
第五章
荒れ模様だった昨夜とは打って変わって、今宵の闇はおだやかに匂い、肌に触れる夜気にもどことなし艶を含んでいるようだった。
助手席の窓から車内に吹き込んでくる夜風にも、春の宵の喧騒《けんそう》と桜の香りが混じっていて、それがクナンサティの赤毛をさわさわと揺らした。
ハンドルを握っていた梓沢は、ちらりとクナンサティを一瞥した。
女はシートを大きくリクライニングさせ、気持ちよさげに目を閉じていた。
「――呑気なもんだ」
梓沢は頬をひくつかせた。
そこに走る古傷は、梓沢が中東にいた頃についたものだ。
「この前の話、ホント?」
出し抜けに飛んできた言葉に、梓沢はふたたび隣を見やった。
「寝てたんじゃないのか?」
「起きてたよ」
片目を薄く開け、クナンサティは梓沢を見返した。
「――で、ホントなの?」
「何がだ?」
「だからさ、梓沢さんがボランティアで中東に行ったって話」
「ああ……」
「冗談だよね?」
「俺が冗談をいう男に見えるのか?」
「見えないけど」
「だったらとういうことだ」
「じゃ、ホントにボランティアで行ったわけ?」
「最初はな」
若かった頃を思い出し、梓沢はいかめしい顔を苦笑にゆるめた。
「――あのあたりには、その時代ごとの大国の都合に翻弄されて、ずっと虐げられる少数民族がたくさんいる」
「いるねえ」
「最初はただ、食いモンを配るとか薬を配るとか、そういうことをやってるだけで、俺はいいことをしているって満足できていたんだがな」
「そんなことをしてたんだ」
「ああ。……ボランティアで日本から中東くんだりまで行くくらいだから、昔の俺にはそれなりに正義感というものがあったんだろう。そのせいか、そういうヤツらを見ていて、そのうち義憤に駆られるようになった」
「あんたが?」
「意外か?」
「ちょっとね」
自分でもそう思うと、梓沢はまた苦笑した。
だが、その当時の梓沢は本気だった。
向こう見ずな若者らしい、なかばいきおいでのこととはいえ、気づいた時には民族紛争を続ける武装組織に身を投じていた。
「そっか……ゲリラ上がりなんだ」
最後の紛争から六十年も遠ざかってしまった現代の日本に、ガンマニアやミリタリーマニアならいくらでもいるだろうが、実銃を手にして戦場を駆け回り、死と隣り合わせの日々を過ごしてきたような人間は、ほとんどいないと いっていいはずだ。
だが、梓沢がその身に刻んできた傷は、すべて伊達ではない。
「もっとも、どこまでいっても俺は日本人で、連中のような当事者にはなれなかった。連中の主張をすべて理解した上で賛同したわけでもなかったしな。だから、革命の闘士からただのテロリストに落ちるのも早かった。あちこちの組織に出たり入ったり、尻の軽い男だったな」
「それから日本へ戻ってきたわけ?」
「ああ。会長に拾っていただけたのは運が良かった。何しろほかに能がないからな、俺は」
「そうでもないじゃん」
軽くかぶりを振ったクナンサティは、ひょいと手を伸ばして梓沢の股間を掴んだ。
「おい」
運転中だといいかけて、梓沢は口を閉ざした。
梓沢の股間に指を這わせるクナンサティの瞳に、あの淫蕩な輝きがともっていた。
「相変わらず元気いいじゃん」
早くも反応をしめし始めた梓沢をそう揶揄《やゆ》し、クナンサティはすぐに手を引っ込めた。
「――あんたなら立派にサオ師でやっていけると思うけど」
「あれはただの見世物だ。あんなもんは男の仕事じゃあない」
「マッチョな梓沢サンらしいご意見だこと。……肉体労働って点じゃ同じだと思うけどね?」
「ふん」
砲火の下をかいくぐる兵士とAV男優をひとくくりにされるのは腹立たしいが、梓沢は憤然と鼻を鳴らしただけだった。
この女が相手では、何をいったところで茶化されるだけに決まっている。
ふたりを乗せたリムジンは、新宿駅前の渋滞を抜け、とあるビルの地下へと入っていった。
「このビルもゆうべの駐車場と同じで、親分のグループが経営しているわけ?」
「親分じゃない、会長だ」
律儀に訂正し、梓沢は空いている駐車スペースにリムジンを停めた。
このビルに入っているのは、嶺崎グループの傘下の警備会社で、梓沢はそこの役員ということになっている。
もちろん、実際には会長のボディーガードと裏方の荒事が専門の梓沢が、ここでデスクワークをすることはない。
いわばそれは、梓沢に合法的に報酬を支払うために用意されたポストだった。
梓沢以下、その警備会社の社員の大半が、嶺崎剛三の私兵といってもいい。
「――で、どうするんだ、これから?」
リムジンを降りた梓沢は、ドアに寄りかかってタバコを取り出し、クナンサティを見やった。
「捜すんだよ」
「何を」
「伊崎を倒したあいつ。……うまく女に化けてた、あの男をさ」
「……本当に男なのか、あれが?」
薄い煙を吐き出し、梓沢は首をかしげた。
「まだ信じられないわけ?」
「あの洗い画像で何が判る? 専門家に任せて画像処理させても、人相が判るほどには鮮明にならないんだぞ?」
「それでもあれは男だよ。……意外と人を見る目がないんだね、梓沢サン」
クナンサティは乾いた笑い声をあげた。
「――男と女を見間違うようじゃ、いずれ痛い目を見るよ?」
梓沢はクナンサティをじろりと睨んだが、何もいわなかった。
中東にいた頃から、梓沢は、自分に銃を向ける相手に対しては、男女の区別なく同じ反応を取ってきた。
生きて日本に戻ってこられたのはそのおかげだという自負もある。
だから、監視カメラの記録に残っていたのが男だろうと女だろうと、そんなことは梓沢にとってはどうでもいいことだった。
問題なのは、その女装の男が、解脱≠ニやらでバケモノと化した伊崎を倒した――それだけの実力を持っているという事実だけだ。
吸殻を足元に落とし、梓沢はあらためて口を開いた。
「男でも女でもどっちでもいい。……問題は、どうやってそいつを捜すかだ」
すでに梓沢の部下たちが、伊崎を倒した男を見つけるために動き出しているが、その手がかりが監視カメラの荒い画像を引き延ばしたデジタルプリント程度では、正直いって何の役にも立つまい。
「別にアンタの舎弟どもには期待してないよ。……しょせんは伊崎の同類でしょ? 品性はともかく、お役立ち度としてはさ?」
クナンサティのその物言いに、梓沢はふたたび彼女を睨みつけた。
「いいからここはわたしに任せときなよ。自慢じゃないけど、わたしは鼻が利くんだ」
「犬じゃあるまいし、それであいつの居場所を突き止められるのか?」
「トーゼン。……あいつ、けっこうこの近くにいるよ」
「……本当か?」
「ホントだよ。だからわざわざアンタに運転させてこんなとこまで来たんじゃないか」
「なら案内しろ」
梓沢はスーツの内側に手を差し入れた。
夜とはいえ人目の多い新宿の街中では、部下たちを集めて大掛かりにやるより、自分ひとりで始末をつけるほうがよほど目立たないし、ずっと身軽に動ける。
だが、クナンサティは梓沢の性急さをけらけらと笑い飛ばした。
「まあ落ち着きなよ。確かに始末するのはアンタに任せるっていったけど、何も今すぐじゃなくていいじゃん。
もう少し人目が減ってからでもさ?」
「その間に逃げられたらどうする?」
「その時はまたわたしが見つけるよ」
クナンサティは自信たっぷりにそういった。
このクナンサティという女の正体が、梓沢にはまだ判らない。
彼女だけでなく、やたらと嶺崎会長に気に入られているジャグルヤも、梓沢からすれば得体が知れない人間だった。
天下の嶺崎グループを築き上げた一代の傑物が、八十もなかばをすぎた今になって老醜に囚われ、いまさら死にたくないといい出す気持ちは、同調はできないが、理解はできる。
死を間近に控えた老人が、回春と不老不死を謳《うた》い文句にした怪しげな宗教家に捕まるというのも、だから、判らないことではない。
そこまでは梓沢にも理解できたが、ただ、さらに理解しがたかったのは、ジャグルヤたちのささやく不老不死とやらが、教義上の単なる観念的なものでも単なるインチキでもなく、ある程度の真実味を帯びていたということだった。
本当にジャグルヤたちに人を不老不死とする力があるのかどうかは疑問だと、今も梓沢は思っている。
だが、ジャグルヤのアシスタントを自称するクナンサティは、実際に梓沢の部下の伊崎を人間離れした怪物にしてみせた。
そして梓沢の雇用主である嶺崎翁ですら、ジャグルヤによって、人間とは少し違う別の存在へと、日々少しずつ変わりつつあるように思える。
昼間のあの、自分を見やった老人のまなざしを思い出すだけで、梓沢の中に何ともいえない不安と苛立ちがつのってくる。
嶺崎翁が、もし伊崎のようになってしまえば――おそらく、ボディーガードとしての梓沢はお払い箱になるだろう。
しかし、梓沢の苛立ちはそんな失業の不安から来るものではなかった。
「――怖いんだろう、梓沢サン?」
あらたなタバコに火をつけようとしていた梓沢は、不意に間近でささやかれ、慌ててライターを落としそうになった。
さっきまで反対側のドアに寄りかかっていたクナンサティが、いつの間にか梓沢のかたわらに立っていた。
内心の驚きを外に出さないよう、低く落ち着いたトーンで切り返す。
「……そいつを捜しにいかないのか? 近くにいるんだろう?」
「ちょっと下ごしらえをね」
意味ありげな仕草で自分の指をねぶり、クナンサティはうなずいた。
「ま、そう焦らなくたっていいじゃない」
クナンサティは梓沢からタバコを拝借し、唇の端にくわえた。
「――あんたの気持ちは判るよ」
催促するかのようにクナンサティが揺らすくわえタバコ火をつけ、梓沢は尋ねた。
「俺の何が判る?」
「あんた、怖いんだろう?」
「だから何がだ?」
「わたしらのいう、神の御業《みわざ》がさ」
大きく息を吸い込み、クナンサティはにやりと笑った。
「貧弱なチンピラを一夜で超人に変え、老い先短い老人を若返らせる――そんな真似のできるわたしらの奇跡≠ェさ、怖いんだろ?」
「バカをいうな」
がらんとした地下駐車場に、梓沢の声が響く。
もしほかに誰かいたなら、すぐに女の口をふさいでいたところだ。
「怖いんじゃなければ、だったら、ムカつくっていい換えたほうがいいかもね」
「――」
不躾に煙を吐きかけてくるクナンサティを見つめ、梓沢は目を細めた。
確かにそうかもしれない――クナンサティの言葉に、梓沢はそう自覚した。
「――若い頃から戦場を駆けずり回って経験を積んで、身を削るような思いをして強くなってきたあんたにはさ、結局、伊崎みたいなチンピラが簡単に常識はずれの超人になっちゃったっていうのが納得できないんだろ?」
「……かもしれん」
梓沢は素直にうなずいていた。
「俺は神なんぞ恐れもしないし、そもそも信じてさえいない。おまえらの奇跡≠ノしたところで、まだ知られていない薬物でどうにか説明のつくことかもしれん」
「疑り深いねえ」
「だが、いずれにしろ、そんな簡単に人間を越える力を手に入れられるということが、何よりも俺には納得がいかん。……そういう意味では、確かにムカつく話だ」
「やっぱそうか」
クナンサティは吸いかけのタバコを梓沢の口にくわえさせ、はおっていたレザーのジャケットを脱ぎ始めた。
「――梓沢サンも、見てみる?」
「何?」
「わたしらが見ている世界≠さ」
脱いだジャケットを無造作に投げ捨て、ビスチェのホックをヘソのほうから順繰りにはずしていく。
その間も、クナンサティの妖しくきらめく瞳は、その胸のうちを覗きこむかのように、じっと梓沢を見つめていた。
「あの伊崎ってチンピラはちょっと弱すぎたよね。わたしがせっかく力をあたえてやったのに、あっさりとやられやがってさあ。……だけど、アンタは違うだろう? 前にもいったけど、アンタならもっと強くなるはずなんだよね」
「――」
白い胸を剥き出しにしたクナンサティが、乳房を揺らして手を伸ばしてくる前に、すでに梓沢の股間は熱く充血していた。
「……こんなことをするために、俺にここまでクルマを出させたのか?」
そう問いただす梓沢の声がかすれていた。
「違うよ。……あいつを捜すためっていったじゃないか」
そう答えたクナンサティの声は、もっと熱っぽくかすれていた。
「これがか?」
硬く勃起したものをスラックスの生地越しにいじくらせながら、梓沢はクナンサティの乳房をいきなり手の中に収めた。
吸いついてくるような肌触りと驚くほどのやわらかさの下から、この女ならではといってもいい弾力が、梓沢の手指を押し返してくる。
「ぁふン」
クナンサティが頬を染めて軽く喘ぐのを聞いた梓沢は、もう一方の乳房にも手を添え、力を込めて揉みしだいた。
赤く手形が残るほどに強く掴み、時にその頂上に尖る乳首をつねり、淫猥に形を変えていく白い肉を見ていると、それだけで射精してしまいそうな興奮が突き上げてくる。
この瞬間にも、顔見知りがこの駐車場へ降りてくるかもしれないということは、あえて忘れた。
「あは……ぁ」
クナンサティが長い舌をべろんと垂らした。
その先端から、少し泡だった唾液が細い糸となって流れ落ち、ジッパーの間から突き出た梓沢の剛直を濡らしていた。
唾液にまみれたペニスをクナンサティにしごかせながら、梓沢は長身をかがめて女の乳房にむしゃぶりついた。
薄暗い空間に反響するほど、わざと大きな音を立てて吸いつき、舌を這わせて舐めしゃぶり、乳首を前歯で噛む。
そのいちいちにクナンサティがもらす喘ぎ声が、この不遜な女を屈服させているような錯覚を梓沢にあたえ、さらに欲情させた。
「おい」
さんざん乳房をしゃぶったあと、梓沢は、軽く身震いしながら股間にまとわりつくクナンサティの手を振りほどいた。
昴《たかぶ》った性感は、行くところまで行かなければ収まりがつきそうにない。
梓沢はクナンサティをリムジンのボンネットにうつぶせに押さえつけ、尻に張りついていたミニスカートをめくり上げた。
暗がりの中に浮かび上がった白い尻は、その谷間に黒い紐も同然の布地を渡しているだけで、ほとんど剥き出しだった。
見事な胸と同じく、思わず歯を立てたくなる桃のような尻だったが、今はそれよりも、この尻にぶち込んで思いっ切りぶちまけたかった。
童貞の餓鬼のような性急さで、梓沢が女の下着をむしり取ろうとすると、クナンサティが首を捩って振り返り、ひゅるりと舌なめずりをした。
「ちょっと待ちなよ、梓沢サン」
何をいまさら――。
そういいかけた梓沢の目の前から、悩ましげな凹凸を描くクナンサティの女体が消え失せた。
梓沢の股下をくぐって背後に回り込んだクナンサティは、逆に男の身体をボンネットに押さえ付け、物欲しげにひくつく抜き身の勃起を掴んだ。
「おい――」
「そういや、以前あんたと約束したっけねえ」
梓沢のペニスをしごき立てながら、クナンサティはその背後に覆いかぶさるようにして、意味深にひそめた声でささやいた。
「――次は下のほうでイカせてやるって」
「判ってるならいまさらもったいをつけるな」
いくぶんかの苛立たしさを込め、梓沢はクナンサティをはねのけようとした。
だが、できなかった。
自分の半分も体重がないような女に押さえつけられて、梓沢はまったく動けなくなっていた。
「な……に?」
「OKOK、みなまでいうなよ、梓沢サン」
押し殺すような声で笑ったクナンサティは、梓沢の両手を掴み、腕を左右に広げた形で押さえつけた。
その時、梓沢は初めて、その異様さに気づいた。
自分を押さえつけたクナンサティの、見た目をたばかる剛力にではなく――それも大きな驚きではあったが――自分を押さえつけるクナンサティの、その手数の多さにであった。
梓沢の左右の手は、クナンサティの左右の手によって、エンジンの熱さをわずかに残すボンネットの上にしっかりと固定されている。
だが、それと同時に、梓沢の頭を押さえる手の感触が確かにあり、それ以上に、梓沢の巨根を弄《いら》う女の手も確かにまだそこにあった。
いつの間にか、クナンサティの腕は四本に増えていた。
「おまえっ……!?」
梓沢がどうにか首をひねって背後のクナンサティを振り返ろうとした時、五本目と六本目の手が、梓沢のスラックスのベルトをはずし始めた。
この駐車場のどこかに隠れていた人間が、クナンサティを手伝っているのかとも思ったが、それも違った。
ここには変わらず梓沢とクナンサティだけしかいない。
「おいっ、よ、よせ!」
「イヤだね」
スラックスがすとんと落ち、梓沢の下半身が丸出しになった。
梓沢のように恰幅のいい男が、犯される直前の女のように、剥き出しの尻を突き出している姿は、ひどく滑稽であると同時に、男としては耐えがたい屈辱のはずだった。
しかし、若い頃からいくつもの修羅場をくぐり抜けてきたはずの梓沢は、その屈辱から逃れることもできず、ただわずかに腰をふることしかできなかった。
「わたしはあんたみたいなガタイのいい男が好きなんだよ。……って、これも前にいったっけか」
ねっとりとした響きを帯びたそのセリフに、梓沢は総毛立った。
クナンサティが何をしようとしているのか――おぼろげながらに見えてきて、ますます激しく身もだえしたが、男を押さえつける女の細腕はいささかも揺るがない。
「力を抜きなって、梓沢サン」
ベルトをはずした手が梓沢のかたい肉尻を左右に広げ、ひんやりとして夜気に触れた梓沢の肛門に、すぐに熱い粘膜が押しつけられた。
それが、自分の股間で隆々とそそり立っているものと同じ、男だけが持つ生殖器官だと察して、梓沢は唸り声をあげた。
「てめえ……くそっ、男だったのか!?」
「そんなこと聞くなんてナンセンスじゃない? わたしが男だろうと女だろうと、どっちだっていいじゃんか。――これでアンタは、解脱≠ナきるんだからさあ」
「ふぅ、ふ、ふざけんじゃねえ!」
梓沢の絶叫は無様に裏返っていた。
絶対に嫌だった。
特にきっかけとなった何かがあったわけではないが、梓沢は極端なホモフォビアで、それは単なる嫌悪というものを超え、いっそ憎悪といってもいいほどだった。
そしてそれが自分の身におよんだ時、その憎悪は逆転し、たとえようもない恐怖となった。
これまで経験してきたどんな戦場よりも、自分の尻を犯そうとしている肉の凶器の方が、梓沢には恐ろしく思えた。
尻の谷間に、ローション代わりにクナンサティの生ぬるい唾液が垂れ落ちてきた。
「大丈夫、わたしに任せときなって。……けっこう病みつきになるかもよ?」
やめろ!
――そう叫ぼうとしたが、体内に熱の塊がぬるりと侵入してきて、瞬間的に息が詰まって声にならなかった。
焼けつくような痛みは、すぐに屈辱的な快感に押し流されてしまった。
クナンサティが何度か往復しただけで、梓沢は絶叫の代わりにおびただしい白濁液を吐き出していた。
「……やっぱり締まりが違うねえ」
腰からたくましい男根を生やした女は、梓沢を組み敷いたまま、うっとりと目を細め、自分が満足するまで腰を振り続けた。
※
懐で携帯電話が震えていることに気づき、ひさぎは立ち止まった。
液晶を確認してみると、見覚えのない番号が並んでいる。
大通りは日曜日の夜ならではの喧騒にあふれ返っている。
空いている電話ボックスをみつけたひさぎは、その中に入って電話に出た。
「もしもし……?」
『あっ、明神くん?』
やけにテンションの高いその声には聞き覚えがあった。
「紫藤先生……」
『この前はご苦労さま』
ひさぎはただ思うまま紫藤カンナを嬲っただけだったが、それがご苦労と感謝されるのであれば、どうやらカンナはあの晩のひさぎのふるまいに腹は立ててはいないらしい。
ガラスに寄りかかり、特に意味もなくピンクチラシを剥がしては捨て剥がしては捨てを繰り返しながら、ひさぎはカンナの貪婪《どんらん》さを思い返して小さく笑った。
「いえいえ、苦労なんてとんでもありません。明智とくらべればまだ未熟な担当ですが、どうか今後ともよろしくお願いします」
『うん、それでさっそくなんだけどさ』
「はい?」
『近いうちにお花見しない?』
「花見……ですか?」
昼間見た公園の風景を思い出し、ひさぎは反芻した。
確かにもう間もなく花見にふさわしい時期になるが、売れっ子作家と編集者が花見をするとなれば、当然、それは接待のひとつということになる。
ひさぎが口を閉ざして考え込んでいると、
『――ああ、いっとくけど接待してくれなくていいよ? 今度はわたしが奢《おご》っちゃう。涼子さん厳しいでしょ、そのへん』
「ええ、まあ」
さすがに大学時代からのつき合いだけあって、涼子の性格をよく知っている。
とはいえ、別にひさぎも、どちらが領収書を切ってもらうかというようなことで躊躇していたわけではない。
いざとなれば自腹で接待するくらいのつもりはいる。
この時ひさぎが考えたのは、カンナの真意がどこにあるかということだった。
もしカンナがこの前の夜のようなことを期待しているのなら、少し厄介なことになる。
担当した女性作家が自分に入れ揚げて仕事が手につかないなどということになれば、実際に手を出そうが出すまいが、また上の人間から睨まれてしまう。
「紫藤先生、花見もいいんですが、その前にですね――」
そういいかけたところで、横から余計な声が割り込んできた」
「パパー、おなか空いた〜」
「――」
ひさぎは携帯のマイク部分を手で押さえ、電話ボックスの中に首を突っ込んで笑っているボイスを睨みつけた。
『……明神くん? 今の声、誰?』
「いえ、どこかの子供です。今ちょっと屋外に出てるんですけど、親子連れが多くて」
少年ボイスを押しのけ、ひさぎはボックスを出て歩き出した。
「すいません。少し用事がありますので、この件については後日こちらからご連絡さしあげるということで……」
『あ、ちょっと、みょっ、ひさぎくん――』
「それでは失礼します」
作家に対するものとしてはいささか失礼な切り上げ方をして、ひさぎは振り返った。
「このガキ……!」
「だってひさぎ、ぼくを置いてさっさと行っちゃったんだもん」
「勝手なことをいうな」
そもそもひさぎがついさっきまでひとりでいたのは、途中までいっしょだった美女ボイスが、ちょっと目を放した隙に姿をくらませていたからだ。
「あの女とおまえが本当に同一人物なら、置いてかれたのは俺のほうだ。どうせならそのまま永遠に消えたままでいればいいものを――」
携帯の電源を切って内ポケットに戻し、ひさぎは吐き捨てた。
「そんなに怒ることないじゃない。ねえ? ちょっとしたジョークだよ」
電話回線の向こうのカンナは、おそらくそうは受け取らなかっただろう。
誤解はいずれ解けるだろうが、あしたはいろいろとフォローの電話で忙しくなりそうだった。
しかし、忌々しげに舌打ちしているひさぎの神経を逆撫でするかのように、ボイスは、
「そんなことよりさ、ぼくたちにとってもっと有意義な話をしようよ」
「おまえの話が俺にとって有意義なものになるとは思えないな。……どれもこれも、自称悪魔の頭のおかしいガキと女が、交互に入れ替わってひけらかすくだらん戯言《ざれごと》だ」
「まだそんなこといってるの?」
やれやれ……と、ボイスは子供らしからぬシニカルな苦笑とともに肩をすくめた。
いちいち反応するのが大人気なく感じられたので、何もいわずにひと睨みしただけだが、こういうところが本当にムカつくガキだと、ひさぎは心底そう思った。
「――じゃ、そろそろきみに信じさせてあげようかな」
「何をだ?」
「きみの望みをかなえてあげたら、ぼくのいうことを信じてもいいって、確かにそういったよね?」
「ああ」
「その望みを、ほんの少し、かなえてあげるよ」
ボイスは軽くひさぎを手招きして歩き出した。
買い物帰りの家族連れやカップルが目立つ雑踏の中を縫い、とある雑居ビルの中に入った。
いくつかのオフィスが入ったビルの中には、日曜日の夜ということもあってか、人がいる気配はほとんどなく、ただ表の喧騒が遠くに聞こえるだけの、うっそりとした静けさに満ちている。
「――要するにひさぎはさ、怖い目に遭ってみたいんだろう?」
上に向かって階段を登りながら、ボイスはひさぎに問いただした。
ひさぎはうなずかなかったが、図星だった。
誰に話したこともないひさぎの切なる望みをどうしてこの少年が知っているのか――そのことに驚くより、ひさぎはその言葉に耳を傾けた。
「そんなねえ、きみみたいに精神を病んだ男が、いくら普通の人間を殺してみたって、罪の意識で恐れおののくなんてことあるわけないじゃない」
「……判ったような口を叩くガキだ」
「少なくとも、ぼくはきみよりはたくさんの人間を見てきているからね。三百年以上も生きていれば、きみみたいな男に会うのも初めてじゃない」
ボイスはちらりとひさぎをかえりみた。
白いシャツと半ズボンというスタイルの少年は、戦前の日本の品のいいお坊ちゃん風で、それがまた肌や髪の燐光を放つような白さとあいまって、どこか幻想的な――ぶっちゃけていえば、幽霊っぽいものを思わせる――風情があった。
「けど、ゆうべみたいな連中が相手だったらどうかな?」
「あのチンピラゾンビか?」
「あれもそうだけど、人をそういうものに変えてしまう連中と――ってことだよ」
相槌を打ちながら、ボイスは屋上に通じるスチールドアの前に立った。
すぐに、がちりと音がして、開いたドアの隙間から排気ガスの臭いにくすんだ都会の夜気が流れ込んできた。
この不思議な少年にかかっては、古ぼけたビルのカギなどないも同然らしい。
「おまえがいっているのは、おまえの商売敵とかいう連中のことだろう?」
「うん」
「ずいぶんと調子のいい話だ。自分の手は汚さず、俺をそそのかして矢面に立たせる気か? そいつらは本来、おまえが相手をすべき連中だろう?」
「でもさ、なるたけ楽をしたいって思うのは人間だけじゃないんだよ。悪魔だって――」
「いい加減にしろ」
ひさぎは押し殺した声でボイスの言葉をさえぎった。
「おまえらが事実何者なのかは知らないが、その揉め事に俺を巻き込むな、俺はおまえの思惑通りに動くのはごめんだ」
「まあ、きみならそういうと思ったけどね」
ボイスはビルの屋上へと足を踏み出し、大きく伸びをした。
築何十年とも知れない古いビルの屋上である。
一面に敷き詰められたコンクリートタイルの合わせ目からは、苔のような雑草がちょろちょろと生え、ここが閲《けみ》してきた時間の長さを物語っている。
四方を錆だらけのフェンスに囲まれ、ほかに目のつくものといえば大きな給水塔くらいだった。
ちょうどこのあたりのビルがみんな同じくらいの高さで、少し目を転じると、もっと背の高いビルが林立しているために、何とはなし、ここが都会の中に出現した盆地のように感じられる。
その盆地の底で、遠くからのネオンサインに照らされ、妖しい輝きを増した美少年の瞳が、ひさぎを見つめていた。
「――だけど、きみの意志とは関係なく、きみはもう、戦わなきゃいけないんだよね」
「何?」
「きみがゆうべあの連中と出くわしたの、偶然だと思う?」
「――」
「きみがぼくのあとをつけてくるのを承知で、ぼくはあそこまできみを誘導していったんだよ。最初からきみを巻き込むつもりだったのさ。……だから、ほら」
ボイスの指が、ひさぎの背後を指し示した。
何者かの視線を感じて振り返ると、間に通りを一本挟んだ対岸のビルの屋上に、黒いスーツをだらしなく着崩した男が佇立《ちょりつ》していた。
遠目にも、かなり立派な体躯をしているのが判る。
無意識のうちにフェンスから離れ、ひさぎはその男をいぶかしげにみつめた。
「誰だ……?」
ひさぎが見守る前で、男は不意にその場にしゃがみ込むと、次の瞬間、伸び上がるようにしてタイルを蹴り、それなりに幅のある通りをやすやすと飛び越えてきた。
「!」
男を見た瞬間にひさぎの脳裏をよぎった悪い予感が、その人間離れした跳躍を目の当たりにして、いきなり現実味を帯びて迫ってきた。
「……俺は、もう駄目だ」
軽い地響きを立ててひさぎの眼前に着地した大男は、どこかうつろな目をして、何かぶつぶつと呟き続けている。
「あんな……ちくしょう。俺は、もう……男じゃなくなっちまった――」
意味不明の呟きを垂れ流し続ける男は、生気のない双眸でひさぎを見つめた。
「まさか、こいつ――?」
ひさぎは確信した。
この大男は、ゆうべのあのチンピラと同じだ。
見た目はまるで違うが、その全身を覆った空気がそっくりだった、生きている人間と対峙《たいじ》した気がまったくしない。
ただ、ひどく投げやりな敵意だけは痛いほどに感じた。
「その人、ゆうべのリムジンに乗ってた人だよ」
ひさぎの後ろのほうで、ボイスがのんびりとした口調でいった。
「――自分たちの姿を目撃したきみを、生かしておくつもりはないみたいだね」
「ちっ……」
ひさぎは反射的に右腕をジャケットの懐に差し入れたが、携帯電話や財布で張り合えるような相手ではない。
仕事≠フ時にしか銃を持ち歩かないようにしていたことを、ひさぎは激しく後悔した。
もっとも、この大男がゆうべのチンピラと同類なら、ひさぎが使っているような銃では、どのみち蚊ほどにもきかないだろう。
「おい――」
ひさぎがボイスに声をかけるのとほとんど同時に、男が飛びかかってきた。
長身のひさぎよりもさらに頭ひとつは大きく、何十キロも重そうな巨体が、ムササビのように四肢を広げ、かぐろい影を引きずるほどの速さでひさぎの頭上を急襲する。
その後つい指の先端には、ぞろりと爪が生え揃っていた。
「……おい、ガキ!」
あやういところで十本の凶刃をやりすごし、ひさぎはボイスを振り返った。
「ガキじゃないよ」
いつの間にか、ボイスは給水塔の上に移動していた。
梯子の上端に腰を降ろし、半ズボンの脚をぷらぷら揺らして、化け物めいた男と相対したひさぎを面白そうに見下ろしている。
「ぼくはボイスだよ」
「どうだっていい!」
かすっただけで肉を削ぎ落とされそうな男の拳をかわし、ひさぎはボイスを一瞥した。
「おまえは……おまえも! それにあの女もだ!」
刹那、ひさぎの顔がゆがんだ。
「くぉ……!」
男の爪に深々とえぐられた左肩から、間欠泉のように鮮血がしぶく。
たちまち左手の感覚が失せ、ただ重いものがぶら下がっているようにしか感じられなくなったのは、大事な腱や神経を引き裂かれたせいかもしれない。
だが、ひさぎはわずかによろめいただけで、続く男の攻撃はかわしていた。
男の爪はコンクリートタイルを無造作に貫通し、建材を剥き出しにする。
まともに食らえば、ゆうべと同じく、激痛とともにはらわたをぶちまけることになるだろう。
見慣れた繁華街のネオンの光と、怪物めいた大男が戦っているという状況のギャップの大きさに、ひさぎは軽いめまいと惑乱を覚えたが、それはすぐに鋭い痛みによってかき消された。
「――おまえらは確かに悪魔だ! 俺を破滅させるためにわざわざ地獄からやってくるような、とびきりヒマな!」
苦痛の呻きを噛み殺し、ひさぎは叫んだ。
そうとでも思わなければ、連夜のこの不条理な展開に納得がいかなかった。
いや、どんなに説得をされても納得はいかなかったが、それでもひさぎは、そうわめかずにはいられなかった。
「俺を破滅させて、いったいおまえらにどんなメリットが――」
絶叫したひさぎの身体が軽々と宙に浮いた。
「し――」
真っ赤な肉の丸太同然の左腕をかかえながら、みぞおちへと飛んできた男の貫手を紙一重でかわしたひさぎだったが、その直後、風に流れたジャケットの裾を掴まれていた。
血でべっとりと貼りついたジャケットを咄嗟に脱ぎ捨てる暇などない。
男の怪力に強引に振り回されて高々と投げ上げられ、気づいた時には、ひさぎは仰向けに落下していた。
「誰もきみを破滅させたくなんかないよ。むしろ、きみの破滅はぼくらにとってのデメリットなんだからね」
硬いタイルの上に背中から落ち、呼吸が止まるほどの衝撃と痛みに全身を硬直させたひさぎは、夜空を捉えた視界の中で、給水塔に座ったボイスがにこにこ笑っているのを見た。
「……こ、の、野郎……」
その怨嗟《えんさ》の呟きは声にならず、ただ苛烈な憎悪の眼差しとなってボイスを射ただけだった。
わずかに首をもたげると、男はのろのろとした動きで、黒いスーツの懐から、無骨な銃を引き抜こうとしているところだった。
銀色に輝く、どこか近未来的なラインの大型リボルバー、スミス&ウェッソンM500ハンター<}グナムリボルバー――。
プロのハンターたちが、大型の猛獣の不意打ちに備えてライフルとともに携帯する、真に地上最強のハンドガンだった。
距離にもよるが、熊を一撃で倒すといわれるその銃ならば、人の頭など平然とふっ飛ばすだろう。
その威力の代償ともいえる強すぎる反動は、引鉄を引く人間の腕を折ることすらあるという。
だが、虎と肉弾戦をしても勝てそうな、人ならざるものとなり果てたこの大男なら、M500をジョン・ウーよろしく二丁構えて同時に連射することも可能のはずだ。
話に聞く大型拳銃の現物を初めて目にしたひさぎは、そのバカげたサイズについ笑ってしまった。
「おまえ……いい加減にしろよ。そいつが俺の手にあったとしても、まだハンデが必要なくらいだろうに――」
「だったらイーブンにしてあげるよ、ひさぎ」
二十センチを超える長大な銃身が、轟音と共に五十口径マグナム弾を吐き出した刹那、どうにか身体を裏返したばかりのひさぎの目の前にボイスが降りてきた。
M500なら、少年の薄っぺらな身体を粉砕しながら貫通し、その背後のひさぎにとどめを刺すことも可能だっただろう。
しかし、その巨大な弾丸は、ボイスの小柄な身体を無惨な肉の残骸にすることはおろか、一ミリたりとて浮き上がらせることもできなかった。
テニスのラケットをひと振りしたようなポーズのまま、ボイスは肩越しにひさぎを見やった。
その時ひさぎは察した。
ボイスが握っていた黒い金属の塊が、地上最強の五十口径弾をいずこかへと跳ね返したのだと。
「――さあ」
ボイスはひさぎを振り返り、手にしていたものを――漆黒の美しい艶に傷ひとつない、古式ゆかしい拳銃を差し出した。
「これは〈魔弾〉だよ」
「〈魔弾〉――?」
「きみみたいな、怖いもの知らずで人でなしの、人面獣心の殺人鬼が持つにふさわしい、ぼくたち悪魔が丹精込めて造り上げた拳銃だよ。普通の人間には高尚すぎて、とてもふれさせられやしない」
「ミルトンの次はウェーバーか。……それにしてもずいぶんと褒めてくれたな」
「それほどでもないよ」
ひさぎがその銃に魅入られたかのようにぼっとしていたのは、おそらくほんの一瞬にすら満たない短い間のことだったのだろう。
「……道具に高尚も卑俗もない。使えるか、使えないか、ただそれだけだ」
ぶっきらぼうな言葉とともに銃を握り締めたひさぎは、すぐさまボイスを乱暴に脇へ押しやると、片膝立ちのままでトリガーを引いた。
同時に、男もあらためてひさぎに狙いをつけ、トリガーを引いていた。
「――!」
男のリボルバーが火を噴き、熊殺しの弾丸がひさぎの耳もとをかすめて駆け抜けていく。
横っ面を思い切り張られたような衝撃に目がくらんだ。
そこをあえて踏ん張り、ひさぎは立ち上がると同時に走り出した。
この〈魔弾〉とやらは、確かに普通の銃とは違うようだった。
手に持った時の重量感、撃った瞬間の衝撃は、決して大型拳銃のそれとくらべられるようなものではない。
そのへんのモデルガンよりも軽く、射撃の反動もほとんど感じられなかった。
だが、現実にその弾丸を受けたあの大男は、派手に四、五メートルも吹っ飛び、腹を押さえて膝をついている。
「よく判らんが……こいつはいい」
男に確実にとどめを刺しに走ったひさぎは、我知らず笑っていた。
昨夜のチンピラを撃った時には、出血と疲労で全身が麻痺しかけていたために気づかなかったが、この銃を撃つのは、ひさぎにとって、ある種の快楽をともなう行為だった。
とても原始的な――セックスの快感とはまた別の――破壊衝動とか獣性とかいわれるものを満たしてくれるような、そんな快感につき動かされて、ひさぎは男との距離を詰めた。
「……くたばれ」
腹に大穴を開けて膝から崩れ落ちた男は、それでもリボルバーを構えようとしていた。
その右手を狙って引鉄を引くと、大男の腕がリボルバーごと吹っ飛んだ。
タイルの上に血まみれの手首と銃が、ごとんと大きく音を立てて転がる。
間髪を入れず、接近しながらさらに二発撃った。
撃つたびに、ひさぎは声を立てて笑った。
わけもなくおかしくて、軽い衝撃に合わせてくすくす笑ってしまった。
「――もうそのくらいにしたら?」
さらに引鉄を引こうとするひさぎを、女の声がたしなめた。
気づけば、男はうつぶせに倒れたまま、ぴくりとも動かなくなっていた。
「……」
戦いの緊張感が夜風に流れて溶けて消え去ると、今になって左肩がずきずきと痛み出した。
おそらくこの左手は、もう二度と以前のようには動かないに違いない。
ゆうべのチンピラを倒すのに内臓の大半を犠牲にしたことを考えれば、今夜の相手に左腕一本なら安いものだ。
だいたいゆうべは、この銃を手にする前にぼろぼろにされすぎた。
右手の〈魔弾〉をしげしげと見つめていたひさぎは、近づいてくるハイヒールの足音に振り返った。
「ご苦労さま、ひさぎ」
またいつの間に入れ替わったのか、少年ボイスの代わりに、あの美女ボイスが白々しい拍手といっしょにやってきた。
その額に、ひさぎは〈魔弾〉を突きつけた。
静かに呼吸を整えながら、トリガーに指をかける。
「あら」
特に驚いた様子もなく、ボイスは色っぽい顔立ちに愛嬌のある表情を浮かべ、上目遣いにひさぎを見つめた。
「いったい何なの?」
「あんなバケモノを始末できるくらいだ、この銃なら自称悪魔≠フ頭を吹っ飛ばすくらいわけはないかと思ってな」
四十五口径の弾丸を何発撃ち込んでも倒れないバケモノが、なぜこの〈魔弾〉とやらを使うとあっさり吹っ飛ぶのか、それはひさぎにも判らない。
はっきりしているのは、もしまたこの手のバケモノに襲われたとしても。この銃さえあればなんとかなるだろうということだった。
となれば、ひさぎの秘密をいろいろと知ってしまった女をこれ以上生かしておく必要はない。
「あなたのそういう容赦のなさとか、わたし、けっこう好きなだけど」
ワンピースからこぼれ出るような白い胸もとに手を添え、ボイスは赤い唇を吊り上げた。
「――でも、もったいないとは思わないの? わたしみたいないい女を撃つなんて」
「惜しくないとはいわない。……が、俺が一番大事なのは俺自身だ」
「いうと思った。……でも、だったらその左腕はどうするつもり?」
ボイスが軽く顎をしゃくった。
「――その傷、ご近所の病院で元通りに治してもらえると思う?」
「さあな。……だが、少なくとも右腕は無事だ。人差し指さえ動けばトリガーが引ける」
「自分が一番大事っていうなら、もう少し身体のほうもいたわったら? せっかく綺麗な肌をしてるんだから……」
「動くな」
ボイスが自分に近寄ろうとする気配を察し、ひさぎはトリガーにかけた指に力を込めた。
もとより脅しのつもりはない。
実際には撃てないだろうと、ボイスが自分をあなどっているように思えて、ひさぎは即座に引鉄を引いた。
しかし、不死身の怪物を沈黙させうるはずの魔的銃は、なよやかな美女ひとりの動きすら止めることはできなかった。
「――!?」
さっきまでとは違うトリガーの軽さに、ひさぎははっとしてもう一度指を引いた。
が、やはり弾は出ない。
「弾切れ? 残念ね。癪に障る自称悪魔≠フ頭を木っ端微塵にできなくて」
ボイスは驚くひさぎの手から素早く銃を奪い取ると、それを宙に投げ上げた。
「何を――」
ひさぎは右手を伸ばして銃を掴もうとしたが、闇の空に舞った銃は煙のように消え失せ、落ちてくることはなかった。
ひさぎは目を細めてあたりを見回した。
「――どこへやった?」
「さあ? どこかしらね」
軽く肩をすくめたボイスは、少し背伸びをしてひさぎの首に手を回し、おもむろにくちづけた。
すぐにボイスの舌が唇を割り、甘い唾液といっしょにひさぎの口の中に侵入してくる。
「――」
送り込まれるままに女のシロップを飲み下すと、ひさぎの左腕の熱が嘘のように引いていった。
「――あなたがあいつらと戦う時にだけ貸してあげるわ」
ねっとりとしたキスを中断し、ボイスは目もとを上気させてささやいた。
「それに。あなたがどんなひどい怪我をしても、わたしが治してあげる」
「……どうあっても俺を巻き込むつもりか?」
少しずつ感覚が戻ってきた左手を静かに握り締め、ひさぎは呟いた。
「もうとっくに巻き込まれてるのよ。……さっきいったでしょ? わたしは最初からあなたを巻き込むつもりだったって。恐怖を知らないあなたの力が必要なの」
「悪魔が人間に頼みごとか?」
「頼みごとじゃないわ。――これはわたしとあなたとの契約=v
ボイスはひさぎの唇をそっと撫で、軽く手招きしながら給水塔の陰へと歩いていった。
先刻のM500の銃声に、普通なら、下の通りを行き交う人々が騒ぎ始めていてもよさそうなのに、それもまた悪魔≠フ小細工のひとつなのか、あたりは相変わらずポジティブな喧騒に満ちている。
ぎしりときしむフェンスに背中を預けたボイスは、やにわに丈の短いワンピースの裾に両手を突っ込んだ。
「あなたは〈時の神〉の〈使徒〉と戦い、その代償として、ずっと忘れていた恐怖という感情を取り戻す――そんな感じでいいんじゃない? ギブ&テイクで行きましょう」
足首から引き抜いた黒のタンガをつまんで放り出し、ボイスはいった。
「それとも、今みたいな刺激でもまだ足りない?」
「せいぜいスリルがあったという程度だな。どうやら俺は、そっちのほうはとことん不能にできているらしい」
左腕をだらりとたらしたまま、ひさぎはボイスに歩み寄った。
「――それに俺は、いまだにおまえが、手品が得意でひどい妄想癖のある、ついでにネクロフィリア気味の救いがたい色情狂の、自称悪魔≠ニいう可能性を捨てきってないしな」
「何それ?」
「ふん……」
据え膳なら何でも食いつくほど節操のない男ではないつもりだが、相手がこの女なら別だった。
ひさぎがボイスのワンピースの胸もとをずり下げると、素晴らしい形を見せる乳房がいきなりこぼれ出てきて、ふるんとうまそうに揺れた。
思えばゆうべは、死にかけていたところに一方的にのしかかられただけで、ボイスの胸を見るのも触るのも、これが初めてということになる。
ひさぎは右手でボイスの乳房を掴み、もう一方の乳房に吸いついた。
直接みていないからはっきりとは判らなかったが、左肩に受けた傷はかなり深い。
しかし、その出血はすでにほとんど止まり、痛みも消えつつある。
やはりこのあやかしの女は、その身体の中に、どんな怪我もたちどころに治すルルドの泉をたたえているのかもしれない。
ひさぎは女の前にしゃがみ込み、女の両脚を大きく開かせて、その奥に息づく熱いぬめりに唇を寄せた。
「うふ……ン――」
ボイスの身体にぴくんと震えが走り、その喉がのけぞった。
胸を剥き出しにされ、さらにひさぎの手で裾もまくり上げられたワンピースは、ボイスの細いウエストのあたりで小さく丸まっている。
もはや服とは呼べない真っ赤な布を腰にまとわりつかせただけの、白い半裸の痴態を屋外にさらしたボイスは、ひさぎの髪を両手でやさしく撫でつけた。
噛み締めた唇の代わりに、断続的に鼻から漏れる不規則な吐息は、女もまた今の状況に激しく興奮していることをしめしている。
「あなたが怪我をした時だけじゃなくてもいいから……ね?」
しっとりと潤み、輝きを増して瞳が、意味ありげにひさぎを見下ろす。
その肌は汗の薄膜をかぶり、無数のベビーパールでいろどられているかのようだった。
「ひさぎがしたかったら、いつでも……わたしどんなタイプの女にも変身できるし、もしそうしたければ男の子の姿で、サービスしてあげても、いいから――」
「とんだメフィストフェレスだな」
さまざまな美女に変じてファウスト博士と閨《ねや》をともにした悪魔を引き合いに出し、ひさぎは笑った。
ファウスト博士には稚児《ちご》趣味はなかったはずだし、ひさぎもそうした趣味はない。
「――別にこのままでいい。性格はともかく、顔や身体はけっこう俺の好みだ」
「あら嬉しい……でも、そのうち飽きてくるんじゃない?」
「その時はその時だ」
女の粘膜に深々と指を出し入れし、そのすぐ上でひくつく肉の芽を舌でもてあそびながら、とめどなくあふれる蜜をすすり続けていたひさぎは、力なくたらしていた左腕をゆっくりと持ち上げてみた。
さっきまでは手首の先くらいしか動かさなかった手が、今は肘も動かせるほどに回復している。
ひさぎは口もとをぬぐって立ち上がると、ジーンズのベルトをはずしてジッパーを下げた。
「ふふ……」
すぐにボイスの手が伸びてきて、硬く屹立したひさぎのペニスを引きずり出した。
「肩、大丈夫? わたしが上になったほうがよくない?」
頼もしい剛直をそごきながら、ボイスがひさぎの目を覗きこんで尋ねる。
「いまさら気遣うくらいなら、最初から俺を巻き込むな。そもそも誰のせいで怪我をしたと思ってるんだ?」
「それはそれ、これはこれよ」
「ふざけるな。だいたい、俺は女に主導権を握られるのが好きじゃないんだ。……よく覚えておけ」
ひさぎはボイスのむっちりとした脚を右肩にかかえ上げると、がしゃりとなるフェンスに女体を押しつけ、獰猛に首を振るそそり立ちを女の中心に埋め込んでいった。
「ん……」
ゆっくりと侵入してきたものを堪能するかのように、ボイスは瞳を伏せ、静かに深呼吸した。
だが、それも最初のうちだけだった。
ひさぎの腰が激しく動き出すと、ボイスはひさぎの背中に腕を回し、下から突き上げられるのに合わせてヒップをくねらせながら、熱っぽい喘ぎ声をあげ始めた。
真っ赤なその唇を荒々しいキスで封じ、ひさぎは目を閉じた。
やはりこの女の中は最高だった。
夢とも現実ともつかないままの交合だったゆうべと違って、今はそれがはっきりと判る。
あっという間に絶頂に向かってヒートアップしていく脳内の片隅に、そこだけが冷ややかに残された冷静な思考で、ひさぎは思った。
この女に飽きるということがありえるのかと。
激しく腰を出し入れするたびに、ひさぎのものが女の媚肉にしごかれ、めまいがするような快感が生じる。
快感を少しでも長引かせるために腰の動きをセーブしようという意志すらはたらかない。
切れ切れの吐息混じりに、ボイスは淫色に濡れた瞳を細めて笑った。
「そろそろ――ね、来て、ひさぎ……」
アクメを間近に控えた女は、ひさぎの首筋に吸いつき、ぎゅっとしがみついた。
「悪魔のくせに、こういうところは人間なみなんだな――」
身体の奥底からこみ上げてくる射精感にそそのかされるまま、ボイスの中にひときわ強く、そして深く、ひさぎは肉の楔を打ち込んだ。
「いいっ……」
小さな喜悦の声をあげたボイスの全身が細かく震え、同時にひさぎも熱化した欲望を悪魔の子宮の中に解き放った。
「――」
未練がましく痙攣を繰り返す肉棒を埋め込んだまま、ひさぎはボイスの髪を掴み、その顔を強引に引き起こした。
どんなに心地よい快楽の最中にあっても、どこかそれに耽溺《たんでき》しきれない醒めた部分がひさぎにはあって、それもまた自分の精神が病んでいる証拠かと思わないでもなかったが、こうして女悪魔のアクメの表情をじっくり観察できるのであれば、それも悪くはない。
「趣味が悪いわね……あなた、いつもそんなことをしているの?」
短い死の淵からようやく這い上がってきたボイスは、ひさぎを見つめて力なく笑った。
「この前は俺が先にのされたからな。これでおあいこだろう?」
ボイスの髪を放し、その手でひたひたと女の頬をはたく。
腱と神経が断裂していたはずの肩の傷は、完全にふさがっていた。
ひさぎに抱きついたまま、乱れた呼吸を静かに整えていたボイスは、たっぷりとした髪を払い、ようやく身体を離した。
「――まあ、そのくらいふてぶてしいほうが頼もしいけど」
ボイスはひさぎの足元にひざまずくと、ついさっきまで自分の股間を出入りしていた肉棒を口に含み、よく動く舌で清め始めた。
「……」
ボイスが立てるいやらしい音を聞きながら、ひさぎはフェンス越しの夜景に見入った。
「――そいつらを始末すれば、それで厄介な連中との縁が切れるんだな?」
「厄介な連中って、ひょっとしてわたしのこと?」
淫水と精液にまみれたものを清めて下着の中に押し込み、ボイスは少し不満そうにひさぎを見上げた。
「おまえも含めてだ」
無愛想につけ足し、すぐにひさぎは苦笑した。
あれほどかたくなに拒否していたはずなのに、いつの間にか、ボイスの話が真実だと信じている自分がここにいる。
確かに、ひさぎがこの数日のうちに経験した怪異を説明するには、そういう大前提を作ってしまうほうが圧倒的に楽なのは確かで、そうした楽なほうへとあっさり転がってしまう自分がひどく現金に思えて、つい笑ってしまった。
「何がおかしいのよ?」
脱ぎ捨ててあったタンガを穿いてワンピースの乱れを直したボイスは、苦笑するひさぎを軽く肘で小突き、すねたような表情で尋ねた。
「いや……腹が減ったなと思ってな」
もちろん咄嗟に口をついて出た言葉だが、空腹なのは本当だった。
最後にまともな食事をしたのはきのうの夕刻仕事≠ノ出る前だったから、かれこれ二十四時間は何も口にしていない。
「その間に二度も死にかけて、そのたびにおまえに精気を吸い取られれば、腹くらい減るのも当然だろうさ」
「やぁね、わたしは男をひからびさせるような淫魔じゃないわ」
「どうかな」
男を誘惑する女淫魔《サキユパス》も女を襲う男淫魔《インキユパス》も、実はどちらも同じもので、ただその現れようが違うだけにすぎないと、中世ヨーロッパの碩学《せきがく》トマス・アクィナスは大真面目でのたまった。
だが、美女と美少年の間を気まぐれに行き来するボイスを見ていると、案外この自称悪魔≠アそがそれなのではないかと思えないこともない。
「――確かにセックスは好きだけど、あそこまで見境ナシじゃないわ。わたしだって相手は選ぶし」
「それはいいんだがな」
血にまみれてぼろぼろになったジャケットを脱ぎ捨て、ひさぎは嘆息した。
さすがにこれを着たままで、人通りの絶えない新宿界隈をうろつくわけにはいくまい。
ひさぎは財布の中から数枚の万札を引き抜き、ボイスに押しつけた。
「あら、あなたならタダでいいのに」
「ふざけるな。……今の時間ならぎりぎりまだ開いている店があるだろう。このままじゃ俺が家に帰れん」
「わたしをそう簡単に信じちゃっていいの?」
どこからか取り出したクリップで紙幣を束ね、ボイスは悪戯っぽく笑った。
「このままわたしがお金だけもらってどこかに行っちゃうとか考えないの?」
「わたしを信じてくれとしつこかったのはどこのどいつだ?」
ひさぎはうんざりとして手を振った。
「その金を持って逐電したければ勝手にしろ、おまえを厄介払いできるなら安いもんだ」
「可愛くないわよ、ひさぎ」
唇を尖らせ、それでもボイスは階段の方へと歩き出した。
「――すぐ戻るわ。いい子にして待っててちょうだい」
「ああ」
「それと――」
ぷつんと途切れたボイスの言葉にひさぎが顔を上げると、目の前に、あの銃が飛んできた。
「万一のために、あなたが持ってて」
「気前がいいな。俺のほうこそこれを持って逐電《ちくでん》するかもしれないだろうに」
「わたしはあなたを百パーセント信じてるもの。それに、あなたがわたしから逃げられないってことは、嫌というほど思い知ってるでしょう?」
「ふん」
無言でボイスを見送ったあと、ひさぎはフェンスにもたれて座り込み、あらためて〈魔弾〉に見入った。
いろいろな角度からためつすがめつしてみたが、回転式の弾倉もなければスライドカバーもない、本当に古い時代の銃としか思えなかった。
いちいち前から弾を装填するタイプの、装飾の多いフリントロック式の拳銃に酷似しているが、それでオートマチックのように連射できるというのも不思議な話だ。
そこが人ならぬものによって造られた〈魔弾〉たるゆえんかと強引に自分を納得させ、ひさぎは空に向かって引鉄を引いてみた。
「……肝心の弾が入ってないだろうが」
トリガーのあまりの軽さに、ひさぎは思わずこの場にいないボイスに毒づいた。
第六章
明神ひさぎにとってははなはだ皮肉なことに、自称悪魔のボイスの言葉を信じてみる気になった直後から、ひさぎの日常は、ボイスと出会う以前の、特にこれといった変化もない、退屈なものへと戻ってしまった。
新宿の夜の遭遇を最後に、ひさぎの前に〈時の神〉の〈使徒〉とやらが現れることはなく、何ごともなく数日が過ぎて、ただ以前と決定的に違っていたのは、ひさぎに奇妙な同居人ができたということくらいだった。
もっとも、その同居人がいなかったなら、あれはすべてほころび始めた桜の香りが見させた幻覚だったのではないかと、ひさぎも考えをあらためていたかもしれない。
洗面台の鏡に向かって、ひさぎがネクタイを締めていると、バスルームの扉が開いて、漆黒の髪を白い肌に張りつかせた全裸の女が出てきた。
「――きょうも早いのね」
勝手知ったる我が家のごとく、ボイスはバスローブをはおって濡れ髪をタオルで拭きながら、鏡越しにひさぎを見つめた。
「別に早くはないだろう」
鏡に映るボイスの姿からあえて視線を逸らし、ひさぎは腕時計を一瞥した。
午前十時過ぎ、普通のサラリーマンなら遅刻もいいところだ。
「編集者とかって、もっと不規則な生活をしてるんだと思ってたわ」
「確かにそういう編集者も多いが、俺は俺だ。――第一、周りに合わせていたら自分の時間を確保できなくなる」
きっりちとネクタイを締め、ひさぎはリビングに取って返した。
その間、ひさぎが一度としてボイスの姿を直視しようとしなかったのは、出社前の忙しい時間帯に自分の克己心をためす気になれなかったからだ。
湯上がりのボイスの姿はそれほどまでに魅力的で、その身体を一度ならず抱いたことのあるひさぎでさえ――ひと目見ればめくるめく快楽を思い返し、劣情が突き上げてくるのを抑えがたくなってしまうのである。
事実、ひさぎの股間はすでに反応し始めていた。
ゆうべもボイスの中にたっぷりとそそぎ込んだばかりだというのに、だ。
ひさぎは大きく深呼吸して欲望を沈め、スーツに袖を通した。
「――それより、まだ連中の居場所は突き止められないのか?」
「もうちょっと待って。もうすぐだから」
ドライヤーの音にまぎれて、緊張感のないボイスの声が聞こえてくる。
バッグの中にゲラを放り込み、ひさぎは嘆息した。
「人を巻き込んでおきながら、当のおまえにやる気が見られないのはどういうわけだ?」
「やる気はあるわよ? ただ、やる気と結果がダイレクトに結びつかないだけ。……向こうだってそれなりの力を持った〈使徒〉だもの、そう簡単に尻尾を掴ませてくれないのよ」
「いっそこの前と同じように、向こうのほうで俺を見つけてくれたほうが楽かもな」
「でも、今のこの生活は壊したくないんでしょ?」
そういいながらリビングに戻ってきたボイスは、伊達眼鏡をかけたひさぎの前で平然とローブを脱ぎ、ソファの上に脱ぎ散らされていた下着を身につけ始めた。
「おまえが出入りするようになっただけで、充分に俺の生活はメチャクチャだ」
「そうかしら? これでもわりと役に立ってると思うけど?――特に夜の生活のほうで」
「それだけだろうが」
「あら、人間の男は定期的にセックスしないとダメよ。積極的に出すもの出さないと、前立腺ガンにかかりやすくなるっていうじゃない?」
「知るか」
ビジネスバッグの口を閉じ、ひさぎはボイスに背を向けた。
一度は鎮まりかけた股間が、下着姿のボイスを見て、また頭をもたげかけている。
「――留守中ここにいるのはいいが、仕事関係のものだけは荒らすな」
「判ってるわよ」
「それと、悪魔のくせに尋常に玄関から出入りするなよ? 近所の住人に迂闊《うかつ》に見られでもしたら、また面倒なことになる」
「それも判ってる。外に出る時はちゃんと姿を消すから」
「判った上でわざわざやりかねなさそうだからな、おまえは」
ことさら不機嫌そうにまぜ返し、ひさぎは自宅を出た。
あの日以来、しばしばボイスはひさぎのマンションに唐突に姿を現すようになった。
最初はひさぎも、こっちの都合に関係なく現れるボイスに苛立ちをあらわにしたが、玄関やベランダの窓に厳重に鍵をかけてもその侵入を防ぐことができないと知った途端、いっさいの抵抗を放棄した。
ひさぎがいくらわめこうが、天《あま》の邪鬼《じゃく》な自称悪魔は悪びれずににやにや笑うだけだろう。
それなら怒るだけ無駄というものである。
これでボイスがひさぎの生活にあれこれ干渉してくるようであれば、ひさぎももっと抵抗抗戦したところだが、ボイスはそのあたりの匙《さじ》加減をよく心得ていた。
ボイスがひさぎのマンションに現れてやらかすことといえば、せいぜい勝手に冷蔵庫を開けてビールを飲み散らすとか、勝手にバスルームを使うとか、あるいはテレビを見るとか、本当にこれが悪魔のすることなのかと首をかしげたくなるくらい他愛のない、その程度のことだった。
ひさぎが自宅に原稿を持ち帰って作業しているのを邪魔することもなかったし、視界の中をうろつくような真似もしない。
そして、ひさぎがそれを望めば、ボイスはいつでもひさぎの欲望に応えてくれた。
ひさぎが這えといえば喜んで四つん這いになり、ささやかれるままに淫らな言葉を吐き、普通の女なら躊躇するような要求にも応じ、ひさぎといっしょに貪欲に性をむさぼった。
まっとうな男であれば、あの美女を自分の好きにできると聞かされて、それに文句をつける奴はまずいないだろう。
ひさぎにとっても、これはこれで悪い話ではない。
だから、ひさぎはボイスのすることにケチをつけるのをやめた。
これもまた皮肉なことに、人間と同棲するよりも、悪魔相手の半同棲の方が、ずっと気楽に構えていられるのも事実だった。
開花宣言が出た直後にまた気温の低い日が続き、東京で桜が満開になるのは今週末になるという予報がでていた。
だが、すでにこのあたりでは七、八分咲きというところで、窓越しの陽射しもどことなしに薄紅色に色づいているように見える。
そういえば、紫藤カンナが催促していた花見の件も、きょうあすにはどうにかしなければならないだろう。
夜桜が見えるレストランを今から捜して予約するのは無理としても、それなりの店を押さえておかなければなるまい。
そんな現実的な仕事のことであれこれ忙しい一方、〈時の神〉がどうのという非現実的なことに思いを馳《は》せている自分が、ひさぎには何とも滑稽で、ついつい笑みがこぼれてくる。
少なくとも、退屈はしなくなった。
「明神くん、何かいいことでもあったの?」
出社し、編集部の自分の席に着くなり、隣の席の先輩編集者からそう声をかけられた。
「いえ、別に。――そんなふうに見えますか?」
「何だか浮かれているみたいに見えたから」
入社以来この編集部ひとすじの小日向由香里《こひなたゆかり》は、打ち出しの原稿に赤ペンでチェックを入れながら、怪訝そうな顔つきでそう答えた。
「――いつもそんなに無愛想な顔をしてますか、ぼく?」
「無愛想っていうんじゃなくて……まあ、淡々としてるっていうか、そんなカンジ」
「あまりそういう意識はないんですけどね」
知らず知らずのうちに思い出し笑いでもしていたのかと、ひさぎはネクタイを締め直すと同時に表情をあらためた。
時期的には四月の新刊が書店に並び始めたばかりだが、編集部はすでに、五月売りの新刊の追い込みに入りつつあった。
世間の人々にとっては待ち遠しく思えるゴールデンウィークというもののために、五月の新刊はいつもよりも早めの発売となり、そのぶん、編集作業も前倒しでおこなわなければならないのである。
とはいえ、ひさぎはおおむねいつも優良進行だったから、ゴールデンウィークをひかえても、さほど慌てる必要はなかった。
それはたぶん、ひさぎの編集者としての能力もさることながら、そのルックスによるところが大きいのだろう。
目もと涼しげな笑顔とともに、
「原稿が上がったら打ち上げやりましょう」とでもいっておけば、若手の女性作家たちのほとんどは、締め切り日までにはきっちりと原稿をあげてくる。
彼女たちが自分に向ける好意を敏感に察し、それを逆手に取って締め切りを厳守させるやり方は、少女マンガの原稿取りをしていた頃に、自然と身に付ついたものだ。
イラストレーターにスケジュール確認の電話を何本か入れ、デザイナーとの打ち合わせをすませたところで、携帯のほうに着信があった。
カンナからの催促の電話かと思ったが、液晶に表示されている番号には見覚えがない。
雑然とした空気にざわめく編集部からエレベーターホールに移動し、ひさぎは電話に出た。
「もしもし?」
『明神ひさぎさん――ですか?』
落ち着きのある男の声が、念を押すかのように問いただしてきた。
初めて耳にする声だが、その一方で、どこかで聞いたことがあるような気がしないでもない。
マイク部分を手で押さえ、ひさぎがいぶかしげに眉根を寄せていると、男はひさぎの返事を持たずに続けた。
『明神ひさぎさん……ですよね? 黙っていても判りますよ。いろいろと調べさせていただきましたから』
そこまで聞いて、ひさぎにも何となく判った。
たぶんこれは、例の〈使徒〉とやらからの電話に違いない。
男の声をどこかで聞いたことがあるように錯覚したのは、おそらく、初めてボイスからの電話を受けた時と同じ、得体のしれなさがそう感じさせたのだろう。
〈使徒〉も悪魔も、人間でないという意味では同類なのだから、その身にまとった雰囲気も似ているのかもしれない。
『私は干魃《かんばつ》の獅子<Wャグルヤといいます』
「……ごたいそうな名前だな」
まず不遜《ふそん》な第一声を吐き捨て、ひさぎは非常ドアに手をかけた。
周りに誰もいないことを確認し、脱出シュートの置かれたバルコニーへと出る。
ジャグルヤとかいう男が何のつもりで電話してきたのかは判らないが、同僚にはとても聞かせられない剣呑な会話になるのは目に見えていた。
『どうやらずいぶんと胆力がおありのようですが、ひょっとすると、あの女と正式に契約≠オたのですか?』
「何の話だ?」
表の通りをバルコニーから見下ろし、ひさぎは空とぼけた。
男がボイスのことをいっているのは明白だったが、正直に答えてやる必要はない。
『ふむ』
にべもないひさぎの対応にも、ジャグルヤが腹を立てた様子はなかった。
『もしあなたが契約≠交わしてしまったのだとすれば――いや、あれだけの傷を負って、それでもこうして生きている以上、性悪な悪魔どもの手を借りて蘇生したのでしょうから、すでに契約≠ヘ交わされているのでしょうが――だとすれば、いささか残念なことになりますね』
「何がどう残念なことになるんだ?」
『先日あなたがであったような我々の同士が、またあなたの前に現れるでしょう』
「あのチンピラか? それとも黒服のほうか?」
『あるいは、それよりもっと恐ろしい相手かもしれませんよ』
「なるほど。それは怖いな」
眼鏡を胸ポケットに押し込み、ひさぎは風に流れる前髪をかき上げた。
もちろん、本気で怖いなどとは思っていない。
あの不死身の怪物たちを前にして恐怖に震えあがるのは、まっとうな神経の持ち主だけだろう。
『――もちろん、我々もそうした手段にはうったえたくはありません。すべてはあなたのお心ひとつですよ』
「どういうことだ?」
『つまり――明神さんが彼らと手を切り、〈魔弾〉をこちらに渡してくれるのであれば、以降、我々はあなたにいっさい手出しをしません』
「〈魔弾〉か」
『ただ渡してくれとはいいません。あなたのいい値で買い取りましょう。――いかがです?』
「ほう」
手摺《てす》りに寄りかかっていたひさぎがふとかたわらに目をやると、いつの間にか、そこに半ズボン姿の少年がしゃがみ込んでいた。
ものいいたげな瞳を輝かせ、じっとひさぎを見上げている。
「それはたとえば、一億とか二億とか、そういう値をつけても構わないわけか?」
『ええ。そのくらいなら大丈夫です』
「気前のいい話だな。俺にまとわりついてくる悪魔とは大違いだ」
少年ボイスを見下ろし、ひさぎは皮肉っぽく唇を吊り上げた。
『では、我々とあらたに契約≠結んでいただけると考えてよろしいでしょうか?』
「何か勘違いしているらしいが、俺は基本的に他人を信用しないことにしている。それが人間以外のバケモノならなおさらだ。……おまえらと取り引きするつもりはない」
人の命がいかに安いか、それを刈り取ることを夜の仕事≠ニしてきたひさぎにはよく判っている。
たかが若僧ひとりと取り引きするのに億単位の金を実際に支払うよりは、永遠に物言わぬ死体になってもらうほうがはるかに安上がりだ。
ひさぎが相手の立場にあれば、間違いなくそうする。
さらにひさぎは、ボイスにいい聞かせるつもりで続けた。
「俺はおまえを信じるつもりはこれっぽっちもないが、だからといって、あいつらのことを信用しているわけでもない。たまたま今は利害が一致しているだけの話だ。自分に都合が悪くなれば俺はいつもであいつらを裏切るだろうし、あいつらが俺を見限ることもあるだろう。――それだけのことだ」
『そこまでの覚悟がおありなのはご立派ですが……後悔しますよ、明神さん?』
「後悔しようがしまいが俺の勝手だ。……それに、おまえがそこまで〈魔弾〉にこだわるということは、それだけおまえたちがアレを警戒しているということだろう? おまえらを地獄に逆戻りさせる切り札が手の内にあるのに、それをわざわざ手放すバカがどこにいる?」
『……悪魔の提案にあっさり乗った意志の弱い人間かと思っていましたが、あなたは妙なところで頑固なようだ』
電話の向こうでジャグルヤが苦笑混じりに嘆息したようだった。
『――よろしい、ならばお好きになさい。我らが〈時の神〉の〈使徒〉がいつあなたをおとなうか……その影に怯えながら暮らすのも、あなたがみずから望んだことだ』
「いいたいことはそれだけか? こっちは仕事中なんだが、そろそろ切っていいか?」
あくまで自分のペースを崩すことなくひさぎが告げると、電話は向こうからぶつりと切られた。
「――どうやら連中、ひさぎがスゴく鈍感だってことに気づいてないみたいだね」
携帯を折りたたんだひさぎに、ボイスが笑み混じりにいった。
「鈍感はやめろ。……というか、どうしておまえがここにいる?」
「いや、どうもマンションの周りが騒がしかったからさ。それとなく様子を窺《うかが》ってみたら、何だか妙な連中が監視してるみたいだったんで、一応ひさぎに教えとこうと思って」
「ふん」
こうしてひさぎの携帯に直接連絡してきたということは、すでに連中は、ひさぎのことをかなりのところまで調べ上げているに違いない。
自宅マンション周辺に監視がついたと聞かされても、いまさら特に驚きはしなかった。
「しかし、わざわざ電話であんな話を持ちかけてきたのはどういうわけだ? まさか俺が取引に応じると本気で思っていたわけじゃないだろうに――」
「それはアレだよ、たぶん、ひさぎを怖がらせるためじゃないかな」
「はぁ?」
ひさぎは思わず間の抜けた声をあげてしまった。
「人を脅かしてビビらせるのが趣味なのか、あいつらは?」
「シュミっていうより――それが彼らの〈時の神〉への貢《みつ》ぎ物なんだよ」
「何を貢ぐって?」
「何かを恐れる人の心さ」
剥き出しの膝小僧をかかえて座り込んでいたボイスは、お尻をはたきながら立ち上がり、少し背伸びをしてバルコニーからの風景に見入った。
四月の陽光を跳ね返し、ぎらぎらと輝く新宿の高層ビル群が、はるか遠くに見える。
オカルトめいた話題とは縁遠い眺めだった。
「――蒙が啓《ひら》かれていなかった大昔の人間たちはさ、夜の闇とか、森に住む猛獣とか、荒れ狂う海とか、そういうものを無条件に恐れてた。そこに神が棲むと信じて、それを畏れてきた。人間が長い歴史の間に生み出してきた信仰っていうのは、要するに、そういう神々への畏怖の裏返しなんだよ。本来は無慈悲で恐ろしいものであるはずの神を、帰依《きえ》し、崇め奉ることで、自分たちを守護してくれるモノへと逆転させちゃうのが、宗教とか信仰とかいうシステムなわけで」
ボイスは子供らしからぬ仕草でかたをすくめた。
「で、連中の親玉の〈時の神〉っていうのは、高度に理性的な人々の信仰心よりも、そういう原始的な素の感情が大好きなんだよ。そういうものを吸収して、自分の力にすることができるんだ。――って、ぼくは上のほうからそう聞いてるけどね。まあ、詳しいことはぼくも知らないけど」
「無責任な話だな」
「とにかく、〈時の神〉とその眷属《けんぞく》は、人間の恐怖心が大好きってことさ。だから、他人の恐怖心を自分の力に変換できる彼らにとって、〈魔弾〉をもつ人間を恐怖で縛りつけておくっていうのは、とっても意味のあることなの」
「……ひょっとして、おまえ」
ひさぎは目を細めてボイスを見下ろした。
「そゆこと。……ぼくがきみに目をつけたのは、きみなら連中を前にしても絶対に恐れたり萎縮したりしないって思ったからさ。もしきみがそのへんの凡人と同じく〈使徒〉を前にして怯えるような人間なら、〈魔弾〉はその真価を発揮せず、きみはあの駐車場であいつに食われて死んでいたはずだよ」
「なるほどな」
ひさぎは眼鏡をかけ直し、きびすを返した。
「――おまえを信用するのはバカらしいが、あいつらはおまえ以上に信用がならん。さっさと片づけて縁を切るにかぎる」
「やる気が出てきたようで頼もしいね」
ボイスはふたたび手摺りを背負ってしゃがみ込み、仕事に戻ろうとするひさぎを手を振って見送った。
ひさぎが無人のエレベーターホールに戻り、後ろ手に非常ドアを閉めた時、すでにボイスの姿はバルコニーから消えていた。
あの神出鬼没な美女とも美少年ともつかない悪魔に昼間の仕事場までうろつかれたら、ひさぎがこれまでに築き上げてきた編集者としての立場が一瞬で崩壊しかねない。
編集者家業に拘泥するつもりはないとはいえ、今までと同じ昼と夜の二重生活を送っていくためには、それなりにしっかりした昼間の顔も必要だった。
「――今の電話、紫藤先生から?」
編集部に戻ってきたひさぎに、明智涼子が声をかけた。
「いえ、そういうわけじゃありませんが――」
そう答えながら、編集長の机に歩み寄る。
「あの、実は」
「何かあったの?」
切れ長の目を持つ理知的な明智涼子の美貌には、いかにもデキる女といった感じのマニッシュなファッションがよく似合う。
ひさぎを見上げてかすかに小首をかしげると、耳もとを控えめに飾るディオールのシルバーのイヤリングが、窓から射す光にきらりと輝いた。
「――紫藤先生が、お花見をしたいとおっしゃいまして」
「花見?」
「はい。今度は自分が奢るからとおっしゃっているんですけど」
「それはつまり、そのへんの桜の下にシートを広げてお団子を食べるとかいう花見ではなくて、あなたと差し向かいでってことよね?」
「はっきりと確認してはいませんけど、まあ、おそらくは……」
ひさぎはそう答えて苦笑した。
「でも、だからといって先生にご馳走になるわけにはいきませんし、最終的には経費で落とすなり、ぼくが自腹を切るなりすることになるとは思うんですが、ただ、ほかの作家さんの手前、紫藤先生ばかり待遇をよくするというのも――」
「そっちはまたあとでフォローすればいいんじゃないの? いずれにしろほかの先生がたは、今は花見どころじゃないでしょう?」
「はあ」
「まあ、たぶんあなたはアメとムチの使い分けを知ってるから、そんなに心配してはいないけど」
刊行計画表を一瞥し、涼子は目を細めた。
「――紫藤先生の新刊は夏のフェアの目玉なんだから、絶対に落とせないのよ。それはちゃんと判ってるわね?」
「はい」
「じゃあいいわ。あの子が奢ってくれるっていうんだから、遠慮なくご馳走になってきなさい」
「いいんですか?」
「そのぶんあなたもサービスさせられるんでしょ、そのあとで?」
悪戯っぽくそんなことをいう涼子に、ひさぎは肩をすくめて皮肉っぽく応じた。
「紫藤先生から聞いたんですか? これからはそういことも報告しましょうか?」
「必要ないわ。……ただし、ほかの先生がたには絶対にばれないようにね」
「何をです?」
「……あなたがあの子にご馳走してもらったとか、そういうことよ」
涼子は編集部の中をひと渡り見回し、声を細めて呟いた。
どうやらこの様子だと、ひさぎとカンナの一夜については、涼子が個人的にカンナから聞かされただけで、ほかの編集者たちはまったく知らないらしい。
「ほかの先生がたの耳に入ったらまずいでしょう? 自腹を切ればあなたとデートできるなんて、そんなウワサがたったらどうするつもり?」
「それは困ります」
そんな出張ホストの真似事みたいなことをさせられるのはごめんだった。
ボイスにもいったが、ひさぎは女に主導権を握られるのが嫌いなのである。
「――いっておくけど」
手もとの原稿に視線を落とした涼子が、自分の席に戻ろうとするひさぎにいった。
「わたしがムリヤリ聞き出したわけじゃないわ。あの子が勝手にしゃべったのよ?」
「でしょうね」
「心配なら、あなたのほうからきちんとあの子に口止めしておいたほうがいいわ。でないと、そのうちどこの誰にしゃべるか判らないわよ?」
「そういうことをするひとですか、紫藤先生は?」
「断言はできないけど……あの子、大学の頃から、年下の彼氏を周りの女友達に自慢したがるところはあったわね」
「それはまた……」
魅力的な異性をはべらせて優越感にひたりたいと思うのは、ひさぎには今ひとつよく判らないが、どうやら男も女も同じらしい。
ひょっとするとカンナにとってのひさぎは、自分を飾るとびきり上等なアクセサリーのひとつなのかもしれなかった。
「もし同業者にばれたら、あなたをまた別の部署に異動させなきゃならなくなるわ。少なくとも、担当換えは確実ね」
「なら、そういって釘を刺しておきますよ」
涼子に軽く頭を下げ、ひさぎは自分の席に戻った。
「紫藤カンナっていうのはそんなに美人なの?」
椅子に腰を落ち着けた途端、低く抑えたそんな声が聞こえてきて、さすがのひさぎも一瞬ぎくりと身体を硬直させた。
よりによってひさぎの机の下に、ボイスが身体を縮こまらせて隠れていた。
「……帰ったんじゃなかったのか?」
「いいじゃない、ひさぎがどういうところではたらいているのか、見たくなったんだよ。……どうせ周りの人間にはぼくの姿は見えないし」
そういいながら、ボイスはひさぎの両脚の間に割り込んできた。
「だからさ、その女、ぼくよりいい女なの?」
「そもそもくらべるのが間違いだ」
「いつもあんなインモラルな本ばっかり出してくるくせに、意外と頭がカタいよね、ひさぎって。……だったら一度ためしてみなよ。ぼく、このままでも、そのへんの女には負けないよ?」
「邪魔だ。蹴り殺すぞ」
美少年の手が自分の股間に感じたひさぎは、机の上では平然と作業を続けたまま、右脚を引いてボイスを蹴り剥がそうとした。
「ひどいや」
無造作に脚を繰り出す寸前、そんな恨みがましい声とともに、ボイスの気配が消えていった。
「ふん」
小さく鼻を鳴らし、ひさぎは昨日持ち込まれたばかりのアマチュアの原稿を読み始めた。
とりあえず、ジャグルヤと名乗る男からの電話の件は、すでに頭の中から綺麗に消えていた。
間近に迫った危機に対する鈍感さこそが、明神ひさぎの長所でもあり、また短所でもあるのかもしれない。
※
広い奥座敷に、エキゾチックな香りがただよう。
香炉から立ち昇る薄い煙は没薬《もつやく》か沈香か。
だが、今はそれよりも、濃密な性の匂いと女の吐息が濃い。
「もう……か、かんにんして、ください――」
布団に突っ伏し、裸の尻を高々とかかげた辱めのポーズで、女が途切れがちのよがり声に喘いだ。
四十をいくつかすぎていると見える女は、さすがに身体の線もゆるみかけているようだったが、そのぶん、若い女にはありえない脂が乗って、何ともいえないような匂い立つような色香がある。
「あざみよ」
甘い汁の珠の浮いた尻を骨張った手でかかえ込み、リズミカルに腰を叩きつけているのは、女よりも痩せて小柄にさえ見える老人だった。
「おまえにあの店を持たせてやったのは誰だったか――そもそもおまえは誰の女であったか、思い出してみろや」
「かっ、かんにん……かんにんですぅっ――」
うわごとのように赦しを求め続ける女を冷ややかに見下ろし、老人は倦《う》むことを知らずに腰を動かし続けている。
その股間にそびえているものは、老人のそれとは思えないほどにたくましく、いっそ猛々しいとさえ見えて、女の尻を陵辱していた。
嶺崎剛三と女のその交合を、少し離れたところから静かに見つめていたジャグルヤは、わずかに首をかしげて呟いた。
「――では、それでよろしいので?」
「梓沢は死んだのだろう?」
「はい」
「ひぐっ」
老練な腰使いで責め立てられ、女は布団を噛んで呻いた。
「ならよいわ」
ひび割れた唇の隙間から鋭い犬歯を覗かせ、翁はうなずいた。
「――あの男だけが、事実ワシに忠実であった」
「それ以外はそうではないと?」
「全部が全部そうとはいえまいが――残った連中の中には恭悟の息のかかった者も少なからず混じっておろう。それをいちいちふるいにかけてより分けるのも面倒な話よな」
「確かに……」
「きょうはワシの快気祝いじゃ。恭悟の奴を呼べなんだが心残りじゃが、彼奴《きやつ》に思い知らせるのはまた後日でよい。それより、まずは宴が先じゃろう、お客人?」
「はい」
「なら、せいぜい派手にやらねばな。……そのために、女たちも集めさせた」
「あっ、あふっ、うんっ、んっ――」
嶺崎翁は女の背中に覆いかぶさり、獣のようにさらに激しく腰を振り出した。
ふたりの体液が混じり合い、飛沫となって布団に飛び散る淫らな音が、女の声にかぶさって響く。
最後までそれを冷徹に見つめていたジャグルヤは、軽く一礼して立ち上がった。
「では、これがすみましたら――」
「承知しておる。……ほかの女どもも待っておろうしな」
「あいぃっ――」
血がにじむほどに強く、重たげに揺れる乳房を握り締めた嶺崎翁は、女の肩にそっと歯を立て、粗野な笑みでジャグルヤを見送った。
「――待たせたな」
奥座敷の襖を後ろ手に閉めて出てきたジャグルヤは、ひたひたと足元に寄ってきたマスチフを見下ろした。
「コンパニオンたちは?」
廊下にあぐらをかいて座り込んでいたクナンサティが、面白そうに目を細めてジャグルヤに尋ねた。
「――もうあらかた親分のお手つきになっちまったのかな?」
「まだまだこれからだ。コンパニオンも、それに屋敷ではたらく女たちも、今は下で宴が始まるのを待っている」
「ここではたらいていた女たちって……台所を切り盛りしていたあのばあさんも?」
「無論だ。会長がそれをお望みなのだから」
「そりゃまたおさかんなことで……」
「今は先付けを召し上がっておられるというところかな」
閉ざされた背後の襖を一瞥し、ジャグルヤはその場にしゃがみ込んだ。
美幸の頭をそっと撫で、それからクナンサティを見据える。
「……会長が解脱≠ネされれば、どのみちこの屋敷はこのままにしておけない。そろそろ潮時だろう」
「で、どうすんの?」
「今夜あたり、例の男が乗り込んで来るはずだ」
「来るかな?」
「逃げられないということくらいは判っているだろう。あえてこちらからアプローチもしてみたが、実際にしゃべってみて判った。……あれは絶望してみずから命を絶ったり、恐怖に錯乱するような男ではない。――なにより、月と星の並びがそれを私に告げている」
「へえ……」
クナンサティは鼻の頭をかいて立ち上がった。
「そういうわけだ。あの男にも、今宵の宴に加わってもらおう」
ジャグルヤがそっと尻を叩くと、美幸は尻尾を振りながらクナンサティのほうへと小走りに駆けていった。
「――じゃあ、もう始めていいのかい?」
「任せる」
「残す人数は?」
「……ゼロだ」
言葉少なに答えて、ジャグルヤはふたたび襖の向こうへと姿を消した。
「ゼロだって。……ひとりも解脱≠ウせる必要はないってさ。ほかの連中はみんなおまえ以下ってことかな?」
ショートジャケットをはおり、クナンサティは美幸を見下ろした。
「――さて、それじゃさっそく取りかかるとしようか」
さかんに揉み手をしながら歩き出したクナンサティは、長い舌で青い唇をひょろりとなめた。
「――わたしは戸締まりをしてくる。まずはあんたが好きにやんな。最高のデビュタントだよ」
わん――。
そこで初めて、牝犬は心底嬉しそうに吠え、ちぎれんばかりにふさふさの尻尾を振りたくった。
薄闇の中で、ひとりと一匹の瞳が、妖しくかがようた。
※
自分自身も含めて――絶対に失いたくないと強く思える存在が、ひさぎには何ひとつなかった。
母親からの虐待に怯え、その恐怖から逃れるために作りあげた恐怖を知らない女としてのひさぎが、本来のひさぎとゆっくりと混じり合い、不可分なまでに絡み合って、そして思春期が終わる前に生まれた新しい明神ひさぎは、ふたつの心のロクでもない部分ばかりを持ち合わせていた。
もしひさぎに家族がいたなら――。
あるいは仲のいい親戚、親しい友人や恋人といった人間が、ひとりかふたりでもいたのなら、おそらくひさぎは、もう少しまともな大人に成長していただろう。
だが、いまさらそんな可能性についてとやかくいったところで意味はない。
いまさら自分が今の自分以外の何物にもなれないということを、ひさぎは知悉《ちしつ》している。
罪の意識が心の琴線を震わせてくれるかもしれないと、そんな身勝手な考えで人を殺してきたが、たぶん、その行為はまったくの無駄なのだ。
薄々そう感づいていたが、さりとて絶望するのも億劫だったし、それ以前に、絶望できるほど自分の周りが明るいとも思っていなかったから、ひさぎはほとんど惰性で人を殺してきた。
その相手が、人から人でないもに変わったところで、さほど大きな違いはない。
問題は、それがひさぎの心に何らかの変化をもたらせるかどうかということだった。
「――まあ、あなたのことだからいわずもがなのアドバイスだと思うけど」
「何だ?」
「向こうはわたしたちがこれから乗り込んでいくってことをとっくに承知しているはずよ」
「判ってる」
「それにもうひとつ、あそこで出会う人間は、ほぼ全員が〈使徒〉だと思ったほうがいいわ。誰かと顔を合わせたら、迷わず引鉄を引くのが賢明よ」
「どのみちそのつもりだが――」
ウインドウ越しに高台の上に建つ屋敷を見上げ、ひさぎは呟いた。
「おまえはあそこがどういうところか判っているのか?」
「人間たちの世界の話はわたしには関係ないわ」
「だからといって無視できるものでもないんだがな、俺にとっては」
〈魔弾〉を膝の上に置き、バックミラーの角度を変える。
ひさぎが久しぶりに見る鏡の中のもうひとりのひさぎは、ボイスがどこからか調達してきた、真新しいファーコートをはおっていた。
ボイスいわく、最上級のロシアンセーブルだそうだが、もしそれが本当なら、千万はくだらないだろう。
「――あそこは嶺崎剛三の別宅だそうだ」
「誰それ? 有名な人?」
「有名といえば有名だな。戦後一代で嶺崎グループを築き上げた財界きっての大立者だ。今は息子だか甥っ子だかにグループを任せて、本人は楽隠居しているとかいう話だが……本当にあそこで間違いないんだな?」
日本の政財界に大きな影響力を持つ立志伝中の傑物と、〈時の神〉を信奉する異形の〈使徒〉たちという組み合わせに、今ひとつ現実味が感じられなくて、ひさぎは何度も口にしている疑問をまた繰り返した。
「わたしを信用してとはいわないけど、いまさらごちゃごちゃいうなんて、男らしくないわよ? それともやめる?」
助手席に座ったボイスは、いつもの真っ赤なワンピース姿で、長い黒髪をひと房つまんでいじっている。
「いや。……おまえの言葉を疑い出したら何も前に進まなくなる。今はそれが正しいとしておくさ」
ひさぎはボイスから視線を逸らし、バックミラーを覗いてルージュを刷《は》こうとした。
「ああ、貸して。わたしがやってあげる」
ひさぎのポーチの中身を勝手にかき混ぜ、ソフトオレンジのリップペンシルを引っ張り出してきたボイスは、何がおかしいのか、不意に小さく笑った。
「あなた、こういうものって自分で買ってるの?」
「それ以外にどうしろと?」
「だって、あなたがどの色にしようかと売り場で悩んでる姿を想像すると、ちょっと笑っちゃうわ。まさかあなた、どの色がぼくに合うでしょうなんて聞いたりしてないわよね?」
「幸か不幸かそういうことで悩んだことはない。もし悩むことがあっても、おまえにだけはアドバイスを求めることはありえないから安心しろ」
美しく色づいていく自分の唇を見つめ、ひさぎは鼻を鳴らした。
それに合わせて、自分の心が硬く冷めていくのが判った。
すべてに無感動だった頃の、女としての明神ひさぎの一面が、あざやかなメイクによってくっきりと強調されていく。
「すべてを手に入れた権力者が最終的に欲するものは、自分が失った若さと永遠の命――今も昔も、洋の東西を問わず、それは紋切り型といってもいいくらいに決まりきったことだわ」
ひさぎの唇をそっと撫で、ボイスはリップペンシルをしまった。
「そのために、嶺崎剛三がバケモノどもと手を組んだと?」
「よくある話よ。わたしたちもときどきやるわ」
ひさぎは〈魔弾〉をコートの懐に差し入れ、クルマを降りた。
まるで下界のすべてを睥睨《へいげい》するかのように、その屋敷は高台の上に鎮座していた。
そこへと通じる道は一本だけで、屋敷の周りはしっかりとした堀がめぐらせてある。
さながら中世の城のようなおもむきがあった。
わずかに花びらの散るゆるやかな坂道を歩いていたひさぎは、月のない夜空を見上げてふと足を止めた。
冷ややかな夜気が、ひさぎの嗅ぎ慣れたある臭いを含んでいる。
臭いといっても、それは鼻腔で感じたり、何かの機械で検知できるたぐいの臭いではなく、どちらかといえば、ひさぎのように殺伐とした人間だけが五感に以外の感覚器官で感じ取ることのできる、死の臭いともいうべき気配だった。
「ほら」
かたわらを歩いてきたボイスが、ひさぎの顔を覗き込んで薄く笑った。
「あなたにも判るでしょ?」
「……確かに、あそこはまっとうな人間が住む場所じゃないらしいな」
そううなずいた時、高台の上のほうから風が吹きつけてきて、こちらはもっと直接的な――死という言葉に直結する――血の臭いが混じっていた。
「風向きのせいか……だが、この距離でこれだけ臭うというのもよほどのことだな。いったい何をやらかしているのか知らないが」
「きっとあなたを歓迎してくれるのよ」
「他人《ひと》ごとのようにいうな」
ふたたび歩き出したひさぎが肩越しに振り返った時、すでにボイスの姿はどこにも見えなくなっていた。
「……やはり俺を破滅させるために現れたとしか思えないがな」
敵の居場所だけを教えてさっさと姿を消した妖女の現金さに、ひさぎは腹を立てるより先に苦笑してしまった。
とはいえ、ひさぎもボイスを戦力として恃《たの》んでいたわけではない。
おたがい相手を利用しているだけだと公言する関係だし、たとえ共闘していたにしても、あのボイスのことだから、もし旗色が悪くなれば、さっさとひとりだけ姿をくらませることくらいのことはやりかねないだろう。
「ま、途中でいなくなるくらいなら、最初からいないほうがマシか……」
「失礼ね。あなたひとりに戦わせるなんて、そんな薄情な真似しないわよ」
どこからかボイスの不服そうな声が聞こえてきた。
「わたしだってきちんとはたらくんだから。……まあ、あなたを囮《おとり》にさせてもらうくらいのことはするけど」
「威張るようなことでもないだろう? それより、また肝心なところで弾切れを起こしたりするんじゃないだろな?」
懐にある〈魔弾〉の感触を確かめ、ひさぎは目に見えないボイスに問いただした。
「それは大丈夫よ。本来その銃に弾切れなんてないんだから」
「何?」
「その銃を撃てなくなるのは、わたしがそう念じた時だけよ。……だからあなたも、もう二度とその銃をわたしに向けたりしないでちょうだい」
「要するに、いくら魔を撃つ銃とはいっても、これでおまえを始末することはできないということか。一応、そんへんは考えてあるんだな」
肩にかかる髪を払い、ひさぎは自嘲の笑みを浮かべた。
もし本格的にボイスを始末したくなったら、今度は逆に〈使徒〉とやらと契約するしかないのかもしれない。
「何を考えてるの、ひさぎ?」
「何も。仕事の前にはあれこれ余計なことは考えないようにしている」
「ふうん。……じゃ、わたし先に行くわ」
それを最後に、艶めく声は聞こえなくなった。
ひさぎはそのまま無言で歩を進め、嶺崎邸の質実剛健な構えの正門を見上げる位置に立った。
ここまで来ると、血臭はかなりあからさまなものになっていた。
もしここが高台でなく、世田谷あたりの高級住宅地のど真ん中であったなら、とうの昔に警察に通報されていただろう。
だが、麓《ふもと》の住人たちが今宵の異変に気づいた様子はまったくなく、それどころか、高い塀に囲まれた屋敷の内部も、こうして耳をそばだてている限りでは、特に騒がしいということもない。
サングラスをかけた顔を上げ、ひさぎは門の上のほうを一瞥した。
稼働中の防犯カメラのレンズが目に入ったが、それを無視して門に手を添える。
わずかに力をかけると、重々しい門扉がゆっくりと奥へ開いていった。
「……ずいぶん無用心だな」
やはり罠か――。
そう思いはしたが、ひさぎはためらうことなく中へ入った。
いつもの仕事≠ナは味わえない緊張感が、いっそ心地よく感じられる。
いつだったか、この屋敷が何かのテレビ番組で空撮されていたのをひさぎもみたことがあったが、とにかく呆れるほどに広い。
正門を入ったところに西洋風の噴水を中央に据えたアプローチがあり、正面には瀟洒《しょうしゃ》な洋館がそびえ、そしてその向こうには、これもまた無闇と広い和風の離れが続いていたはずだ。
しかし、その広さを確認するより先に、ひさぎはまず、先ほどからただよっている異臭の源を確認してしまった。
「――」
門からの視線をさえぎるゆるやかな砂利道を少し行くと、水銀灯の光によって照らし出される噴水前のアプローチが視界いっぱいに広がった。
そして、彼らはそこにいた。
累々と――。
そういう形容詞が必要となる光景を、まさかこの現代日本でじかに目にするとは、ひさぎもまったく予想していなかった。
累々と――折りかさなるようにして倒れていたのは、いずれも体格のいい男たちだった。
この前、夜の新宿で襲ってきた大男と同じ、ピンクストライプの黒スーツを着込んだ連中が大半だが、中には、もっとラフな、チンピラ風の若い男たちも少なくない。
合わせると、全部で十人以上はいるだろうか。
そのすべてが絶命していた。
ちょろちょろと、控えめな噴水の音がする。
音といえばわずかにそれだけで、呻き声も、荒い息遣いも、心臓の鼓動も聞こえてはこない。
男たちは、おびただしい血でアプローチの石畳を赤く染め、ひとり残らず死んでいた。
「……臭うわけだ」
敷き詰められた白い石の隙間を、男たちの血が静かに流れてくる。
そのどきついコントラストをじっと見つめていたひさぎは、視線を転じてあたりを見回した。
確かにこの屋敷には、芬々《ふんぶん》たる死の臭いが満ちていた。
こうして正面から乗り込んできたひさぎを出迎えるどころか、生きて動くものの気配すら感じられない。
いったいここで何があったのか、それはひさぎにも判らない。
しかし、重なり合って倒れている男たちは、いずれも尋常でない死にざまをさらしていた。
五体満足で死んでいる男は皆無で、たいていは身体の一部が欠けている。
鋭い牙や爪で食いちぎられたかのように、腕や脚の数が足りない。
そして、ひとりの例外もなく恐怖にゆがみきった表情を浮かべて死んでいた。
「体のいい生贄か……まあ、こちらとしては余計な邪魔が入らなくて助かるが」
ひさぎはコートやスリムパンツの裾が血で汚れないよう、それだけを気をつけて血河を渡った。
「……?」
玄関には鍵がかかっていなかったが、引き開けた途端、死臭がさらに色濃くなった。
屋敷の中から、夜風に薄められていない濃い血臭がどっとあふれ出てきた。
噴水前の死体の山は単なる前座だったのではないかと思えるような、赤く無惨な肉のオブジェ群が、明々とともされた照明の下、玄関ホールから奥のほうに向かって、転々と飾られていた。
いまさら血の臭いにたじろぐひさぎではなかったが、さすがにこれにはむせ返った。
臭いがどうのというより、空気が悪い。
ハンカチを口もとに当て、顔をしかめて奥へと進もうとしたひさぎは、自分以外の人間のかすかな息遣いを感じて足を止めた。
「おい」
ひさぎは〈魔弾〉を引き抜き、足元を見つめて横柄に声をかけた。
ほかの連中はあらかた三途の川を渡りきっていたようだが、ひとりだけ、かろうじて息をしている男がいる。
「おい」
繰り返し、うつ伏せになっていた男の身体を乱暴に足でひっくり返す。
「ぐぶっ……っ」
その拍子におびただしく血を吐いた男は、腹に大きな裂け目をかかえていた。
あの夜のひさぎほどではないが、かなりの傷だ。
このままなら遠からず失血死するだろう。
男はうっすらと目を開け、青ざめた顔をひさぎに向けた。
「どうした? 何があった?」
「み……」
こわばりきった唇を弱々しく震わせ、男は何か言おうとしていた。
「み、ゆ――が、やっ……」
「――」
男はありふれた女の名前を口にしようとしているらしかったが、ひさぎの意識はすでに別の場所にあった。
足音が聞こえる。
大量の血を吸った絨毯を踏む、じくじくと湿った足音が、遠くのほうから近づいてくる。
ひさぎは〈魔弾〉の引鉄に指をかけ、正面を見据えた。
そのへんのドアを開けて身を隠すつもりはない。
突き当たりに相手の姿が見えた瞬間、ためらわずに撃とうと思った。
そのひさぎの反応が一瞬遅れたのは、実際に目にしたその異様な姿に驚いたからだった。
「!」
サングラスをずらして目を見張り、そしてひさぎはトリガーを引いた。
そのわずかなラグの間に、それは――一気に間合いを詰めてきた。
「まさか――」
すざまじい速さで初弾をかわしたそいつの爪の下をかいくぐり、ひさぎはすぐに振り返った。
ひさぎの肩口に浅い傷を刻んで数メートル離れた位置にべしゃりと着地したもの――。
それは、虎のような体躯をもつ巨大な獣だった。
第七章
サイズが常識はずれだということを除けば、その獣はマスチフ犬によく似ていた。
逆にいえば、似ているのは見た目だけで、その体躯から来る威圧感も、狂暴さ獰猛さも、普通のマスチフの比ではない。
「ぐご――」
マスチフ特有の、たるんで垂れ下がった口もとの肉の隙間から鋭い牙を覗かせた獣は、あの生き残りの男の胸を無造作に踏み抜いてひさぎを振り返り、遠雷のような唸り声をもらした。
その巨体には無数の銃弾が残っていたが、この獣にとっては、蚊に刺されるようなものだろう。
おそらく表で死んでいた男たちも、この獣の爪と牙にかけられたのに違いない。
ひさぎは目を細めて銃を構え直し、
「ひょっとして――みゆきっていうのはおまえのことなのか?」
ひとり言にも似たひさぎの問いに、美幸は暴虐な咆哮で応えた。
ごああああああっ――!
血なまぐさい夜気が震え、次いで美幸の巨体がひさぎに向かって突っ込んでくる。
体長は目測で三メートル以上、体重は百キロや二百キロではすむまい。
まともにこのタックルを食らったら、爪だ牙だという以前に、一発で動けなくなってしまうだろう。
だが、ひさぎは一歩も引くことなく、美幸に向けてふたたび引鉄を引いた。
ひさぎの右腕に快楽神経に直結する媚震動が走り、美幸の巨体がびくんと跳ねる。
「――やはりそうか」
軽い地響きとともに床に落ちた美幸を見据え、ひさぎは〈魔弾〉を握り締めた。
どんなに銃弾をその身に受けても平然としていた獣が、今の一発で巨体をかしげさせたのは、それが魔に属するものだからにほかなるまい。
のそりと起き上がってきた獣は、血風を巻き起こすかのごとき吠え声を放つと、床を蹴ってふたたび跳躍した。
「ちっ――」
もとが四つ足の獣だからか、美幸の動きはひさぎがこれまで相手にしてきた〈使徒〉たちよりも俊敏だった。
頭は悪そうだが、侵入者を爪と牙でもてなすホストとしては、これ以上の適任者はいないかもしれない。
〈魔弾〉の弾丸をことごとく紙一重でかわし、美幸はひさぎの頭上を飛び越えざま、その肩口へと鋭い爪の一撃を加えた。
「がっ……」
爪で引っかかれるというより、重い斧でぶっ叩かれたような気がした。
肉を裂かれる痛みと、骨をうち割られる痛み――そのふたつを同時に肩甲骨のあたりに感じ、ひさぎは思わず呻いた。
すかさずそこへ迫撃に来るのを、左手に持ち替えた〈魔弾〉の連射で追い払う。
「そうか……」
右肩の痛みをこらえ、ひさぎは美幸を見据えた。
「――おまえも、解脱≠ニやらで生まれ変わった口か……」
口の周りを男たちの血で赤く染めた獣が、誇らしげに吠えた。
まるでそうだといわんばかりに、無数の骸《むくろ》を太い四肢で踏み締め、爛々《らんらん》と燃える瞳でひさぎを見返している。
「……こんなペットがそこらにあふれ返りでもしたら大問題だな」
心地よい緊張感がこみ上げてくる。
グリップを握る手に、じわりと汗が浮いてきた。
「たまには社会貢献でもしてみるか」
皮肉っぽくひとりごちたひさぎは、〈魔弾〉の銃口を美幸に差し向け、トリガーを引いた。
同時に、獣が血潮を蹴立ててひさぎに飛びかかってきた。
※
レースのカーテンが夜風に揺れ、畳の上に淡い影が落ちた。
みしり、と。
畳にヒールが食い込む。
美女ボイスは静かに立ち上がり、息をひそめてあたりを見回した。
雲の向こうに隠れていた月が顔を出し、青く冴えた光が部屋の中に射している。
遠くに断続的な銃声が聞こえたが、この離れのほうはいたって静かで、今のところは血の臭いとも無縁だった。
青ざめた月光に横顔を照らし出されたボイスは、何かの気配を探るかのように、慎重な足取りで歩き出した。
畳廊下を爪先立ちで進み、屋敷の奥へと向かう。
と――。
何かに気づいて振り返ったボイスの目の前に、天井からかぐろい影が落ちてきた。
「ごくろーさん」
不敵なまなざしの赤毛の女――クナンサティが、青い唇を吊り上げて笑っていた。
「!」
至近距離でクナンサティと相対したボイスは、開いた右手を女の顔に押し当てようとしたが、クナンサティの手の動きのほうが速かった。
「――はん!」
ボイスの手を弾いて逸らしたクナンサティは、彼女の長い髪を両手で掴み、そのまま力任せに振り回した。
「きゃっ――!」
軽々と放り投げられたボイスの身体が障子をぶち抜き、部屋の奥の床柱に背中から激突する。
「この……髪が、乱れたじゃないの――」
痛打した背中を押さえ、ボイスはのろのろと立ちあがった。
これが普通の女なら、今の衝撃で失神するか、さもなければしばらく身動きが取れなくなっているところだ。
さすがは万魔殿《バンデモニウム》から派遣された腕利きエージェントというべきか。
だが、そのボイスの不意をついたクナンサティもまた、普通の女ではない。
あの梓沢比呂雄を強引にねじ伏せるパワーを持った、淫蕩な魔性のアンドロギュノス――それがクナンサティなのである。
「どうせなら、あっちのグッドルッキングのほうが来れば面白かったのにさあ!」
レザージャケットを脱ぎ捨て、クナンサティはボイスに躍りかかった。
「それはまた――」
片膝をついたままのボイスが、右手でそっと畳を叩く。
「――おあいにくさま!」
卒然、畳から鮮血が噴き出した。
ボイスの手が触れたところを中心として、扇状にいくつもの真紅の間欠泉が吹き上がり、そのひとつひとつが瞬時に硬化して鋭利な杭と化していく。
「女は嫌いなんだよね、わたし!」
下から逆向きに生えた赤い氷柱をかわし、クナンサティは天井に飛んだ。
いつの間にかそのほっそりした両肩からは、阿修羅像を思わせる二対の腕が伸びている。
「その腕!――六本腕!?」
「おいおい、いくらなんでもそのまますぎるじゃん、そのアダ名!」
六本に増えた腕で蜘蛛のように天井に張りつき、さらにそこから壁へと飛んで、クナンサティはボイスに組みついた。
男にとってはそれぞれにあらがいがたい蠱惑の詰まったふたつの女体が、白い肌をあらわにしてもつれ合い、畳の上に転がった。
「くっ……!」
乱闘の中、ボイスの手がクナンサティの顔と胸に伸びる。
「――おっと」
クナンサティはボイスの両手を四本の腕で押さえ込み、馬乗りになってのしかかった。
「ぐ、ぅ――」
「物騒だけど、綺麗な腕だね」
触れた物体から鮮血の槍を生じさせるボイスの両手を封じ込め、クナンサティは目を細めた。
「指が長くて形がよくて……それに、肌も白くてツヤツヤしてる」
「……ありがと」
憮然とした表情で呟いたボイスは、両腕に力をこめてクナンサティをはねのけようとした。
だが、腕力ではクナンサティのほうが上なのか、ボイスの両腕は大の字に押さえつけられたまま動かすことができなかった。
「それにしてもさ」
剥き出しになったボイスの腋の下に顔を近づけ、くんくん鼻を鳴らしながら、クナンサティは低くかすれた声で笑った。
「――何ていったっけ、あの二枚目。せっかく〈魔弾〉まで貸し与えたってのに、捨て駒っぽく囮に使っちゃっていいわけ?」
「わたしがひさぎをどうしようとあなたには関係ないと思うけど。……それに、わたしのほうが囮って可能性もあるじゃない?」
「そうそう、明神ひさぎ、そんな名前だっけ。……けど、どっちみち今頃は死んでるよ。最近の美幸は欲求不満だったからね」
青い唇の間から姿を現したピンク色の蛭《ひる》が、かすかに泡立つ唾液の跡を引きずって、ボイスの腋の下から鎖骨のほうへと移動していく。
ビスチェに包まれたクナンサティの胸と、ワンピースの下のボイスの胸が、上下から押し合って淫猥な熱を発し、甘い汗の香りを放ち始めた。
嫌悪感か、それとも淡い性感からか、ボイスは首をすくめて身震いした。
「……あなたさっき、女は嫌いっていわなかったかしら?」
「ああ、嫌いだよ」
鳥肌の立ったボイスの喉に強く吸いつき、赤いキスマークを捺したクナンサティは、身体を起こして憎々しげにいった。
「――特に、おまえみたいないい女はね」
「あら、わたしの美貌に嫉妬してるの?」
「そういうことをいうあたりがムカつくなあ」
ボイスの頬が乾いた音を立てた。
「……」
平手で頬を打たれたボイスは、唇の端ににじんだ血を舐め取り、冷ややかなまなざしで呟いた。
「……ぶったわね?」
「なんだよ、その反抗的な目は?」
第三の左手でもうひとつのボイスの横っ面を張り飛ばし、クナンサティはせせら笑った。
「――まあ、すぐにそんなおしゃべりもできなくなるだろうけど」
そういいながら、クナンサティはレザーのタイトミニをむしり取った。
妖女の股間に張りついていたのは総レースの黒いタンガで、すでにその上端からは、隆々といきり立った長大な男根がはみ出していた。
首をもたげてそれを一瞥したボイスは、特に慌てた様子もなく、
「ああ……六本腕のクナンサティ≠フウワサは聞いていたけど、それがあなたの秘密なのね」
「そういうこと。わたしの専門はこっちなんだ」
下着を引きちぎり、青黒い血管をくっきりと立たせた剛直をしごきつつ、クナンサティはうっとりとした表情で微笑んだ。
「――おまえはこれからコイツでヤラれまくるんだ。悪魔≠フおまえが、〈使徒〉のわたしにね。……悔しいだろう?」
「さあ、どうかしら? 〈使徒〉にレイプされたことないから判らないわ」
「わたしもだよ」
クナンサティはボイスの両足の間に身体を割り込ませると、膝裏を掴んでかかえ上げた。
「〈魔弾〉を持つ悪魔をヤルなんて、わたしも初めてだからさ、らしくもなく胸がドキドキいってるよ。ホント、たまんないね」
「わたしは不愉快だわ」
屈曲位で大きく脚を割り開かれた恥辱のポーズのまま、ボイスは淡々といった。
「――それ、けっこうお気に入りだったのに」
「はぁ?」
ボイスの股間からちぎり取った下着の残骸を見て、クナンサティは頓狂な声をあげた。
「いまさら何いってんの、おまえ? パンツの心配するより自分の立場判れっての」
「あなたもね」
ボイスの手足を拘束していたクナンサティの六本の腕が、不意にボイスの柔肌の感触を見失って空気を掴んだ。
「!?」
クナンサティの身体の下から、美女ボイスよりもひと回り小さな白い影がするりと抜け出す。
それは、どこか茫洋としたおだやかな笑みをたたえた――しかしかえってそれが不気味にすら思える――半ズボン姿の美少年だった。
「――そろそろぼくの番だ」
美女から美少年へ――ダウンサイジングしながらクナンサティの手の中から抜け出したボイスは、クナンサティが八本の手足でもって跳躍するよりも早く、青い畳の表面をさっと撫でた。
「いぎっ――」
数秒前まで勝ち誇ったように笑っていたクナンサティが、獣じみた苦痛の悲鳴を発してその身をくねらせた。
「おっ……こ、き、おまえ……っ!」
六つのてのひらと両の太腿を真紅の槍によって貫かれ、昆虫標本のように畳に縫い止められたクナンサティは、かろうじて動かせる首をねじってボイスと見上げた。
「もうきみたちの出る幕じゃないってことが、まだ判ってないのかな?」
関節をほぐすように手首をぷらぷらと揺らし、ボイスは冷たく笑った。
「く……!」
クナンサティは身体をよじってどうにか自由を取り戻そうとしていたが、畳から伸びた八本の鮮血の氷柱は、彼女の八本の手足を貫くと同時に鏃《やじり》のような形で硬化していた。
この縛《いましめ》から強引に抜け出そうとすれば、手足を引きちぎっていくくらいの覚悟が必要だろう。
「――三百年も前に死に絶えた〈時の神〉なんてものにすがってさ、きみらバカじゃないの? いまさらこんなちっぽけな島国でイニシアチブ取ったってさ、肝心のホームグランドじゃとっくの昔にアッラーにシェアを奪われて、もうどうやったって巻き返せっこないじゃないか」
「お、おまえらがそれをいうわけ……? おまえらだって、万魔殿《バンデモニウム》とやらに押し込まれたっきりの、負け犬のくせに――」
「ぼくたち悪魔が神との争いに敗れて地獄に落とされたって? 異教徒≠フきみらが、そんな抹香臭い聖書の教えを信じてるなんて意外だね。――ぼくたちは好きであそこにいるんだどな」
剥き出しになったクナンサティの尻を子供っぽいズックの足で小突き、くすくすと笑った。
「――そしてぼくたちは、人間たちのことが大好きなんだ。だから、片っ端から人間を人間でないものに変えようとするきみたちは、ホントに邪魔で目障りなんだよ。……って、ベルゼビュート閣下もそうおっしゃってるしね」
白く丸い尻に鬱血したような足跡を無数に捺《お》したボイスは、目の前で合わせた手を軽くこすった。
「さて――それじゃそろそろ消えてもらおうかな」
「この、小僧が――」
その刹那、ぼきんと気味の悪い音がして、クナンサティの右手が一本、畳から持ち上がった。
「!」
てのひらにはぽっかりと大穴の開いた右腕が倍ほどの長さに伸び、ボイスの首を掴んだ。
「次は殺す! 絶対に!」
怨嗟の叫びとともにボイスの身体を壁際へと投げつけ、クナンサティは縫い止められた手足を強引に引き剥がしにかかった。
皮膚が裂け、肉がこそげ、骨が削れ、それだけは人と変わらない真っ赤な血がほとばしり、それでも、いつしか牙が生えていた口もとを硬く噛み締めて、クナンサティは立ち上がった。
「――覚えときな!」
「面倒だよ、そんなの」
壁にめり込むほどの勢いで叩きつけられたボイスは、眉間に小さなしわを寄せながらも、何かしらの意志の込められた動きで、その手をかたわらの壁に触れさせた。
直後、二十畳近くあろうかという和室の壁という壁、天井、そして畳の床――そのすべての面から、激しい血流が噴き出した。
「――」
この場から逃走しようとしていたクナンサティの姿も、そしてボイス自身の姿も、すべてが一瞬で赤く染まって見えなくなり、そしてその血の噴水は、時を置かずに数千本の赤い針と化した。
「……食洗機の中に放り込まれるって、こんな感じなのかしら」
数瞬の静寂のあと、溜息混じりの女の声がして、広い部屋の中を埋め尽くした膨大な数の針が、いっせいにもとの鮮血に戻った。
「……ふぅ」
形を失った血が畳の上に降りそそぎ、その真っ赤にぬめる瀧の中にゆっくりと立ち上がるのは、妖艶美麗の女悪魔ボイスであった。
その大量の血も、畳に染み込み、あるいは廊下へと流れ出て、あっという間に引いていく。
「人間ほどいじっていて面白いものもないでしょうに……」
ひとりごちするボイスの視線の先に――あたかもそれがかの妖女が生きていた証であるかのように――クナンサティが着ていたビスチェと、虚ろに天井を見据える眼球がふたつ、それに無数の白い歯だけが落ちていた。
「それを意志薄弱な肉人形に変えるなんて、つまらないとは思わないのかしら」
ぶちゅり――と。
細いヒールで突き刺すように眼球を踏み潰し、ボイスは歩き出した。
※
せっかく新調したコートも、袖を通して数時間でもう駄目になってしまった。
あちこちに大きな裂け目ができ、ひさぎ自身の血と、大量の返り血にまみれて、本来のゴージャスな毛艶《けづや》などもはやどこにも残っていない。
ひさぎのモードを切り替えるためのスイッチとしては、いささか高くついたかもしれない。
もっとも、ボイスがどこからか調達してきたものだから、ひさぎの懐は少しも痛まなかったが。
「……」
不規則によれた赤い足跡と、何かを引きずったような線が、板張りの廊下をきしませて歩くひさぎのうしろをぴったりとついてきていた。
右の鎖骨と肩甲骨に肋骨が五、六本――ひさぎが自覚しているだけでも、そのくらいは折れている。
ほかにも骨に達するような裂傷は無数にあり、血を吐いたところを見ると、内臓のひとつやふたつは破裂しているはずだ。
ひさぎが四つ足の下級〈使徒〉と戦って、そして勝利の代価に差し出したものが、つまりはこれらだった。
「……考えてみれば、そうそううまい話が転がっているわけもない、か……」
足を引きずって歩いていたひさぎは、常人ならば耐えがたいはずの痛みを苦笑いでごまかし、ひとりごちた。
「死にさえしなければ、どんな傷でけっこう簡単に癒せると思っていたが……」
肝心のあの女がいなければ、癒すも何もあったものじゃない。
――そう続く言葉をこみ上げてきた生ぬるい血とともに吐き出し、ひさぎは庭に面したガラス戸に寄りかかった。
正面の洋館のほうには、あの犬に噛み殺された死にぞこないを除いて、ただのひとりも生きた人間はいなかった。
この和風の離れにも、今のところ、生きた人間の気配はない。
静かだった。
屋内の照明はすべて消されていて、明かりといえば、窓から差し込むさやかな月の光か、さもなければ青々とした芝生を照らす水銀灯の光くらいのものだった。
普通の人間なら、ここで引き返す。
わけの判らない〈使徒〉だの悪魔だの、そうしたいっさいのもに背を向けて、どこか遠くへ逃げ出してしまうのが賢いやり口なのかもしれない。
だが、ひさぎはそうしよとは思わなかった。
ひと息ついて、それでもまた歩き出した自分をひさぎは、マゾなんじゃないかと思った。
みずから進んでバケモノたちとの戦いに臨み、これほどの手傷を負ってでもなお先に進もうとしているその動機が、金でも名誉でもなく、ただ単に――そう、ただ単に、単純に――怖い思いをしたいからという男を指して、それ以外の言葉はなかなか出てこないだろう。
救いようのないバカでなければ、精神的なマゾしかない。
「誰にでもひとつやふたつ、人にいえない趣味みたいなものくらいあるさ――」
自嘲的な笑みをこわばらせ、ひさぎは屋敷の奥へと向かった。
「――何がおかしいの?」
無駄に段差の多い廊下に足を取られてよろけたひさぎの身体を、横から伸びてきた細い女の腕が咄嗟にささえた。
「……おまえ、まだこんなところをうろちょろしていたのか?」
「心外ね」
ボイスはひさぎの首筋にできた傷口に吸いつき、血をすするように剥き身の肉を舐めた。
「これでもふたつ名≠フついた〈使徒〉を一匹仕留めてきたのよ」
「俺を囮に使ってそれだけか。……地獄から増援を派遣してもらったほうがいいんじゃないか?」
「別に囮になんかしてないわ。あなたはあなたで別口と戦っていたんでしょう? 息の合った両面作戦じゃない」
「よくいう――」
しくりとあらたな痛みが走ったのは最初のうちだけだった。
それ自体がまったく別の生き物のようによく動くボイスの舌が、首から胸にかけて無惨に走った傷口をなぞっていくにつれて、熱く疼いていた痛みが静かに引いていく。
「――内臓をやられてるわね」
ひさぎの胸板に手を触れ、ボイスが呟く。
「ちょっとそこに座って」
「何だ? ここでヤルのか、また?」
「まだ大物が残ってるのよ。……それとも今夜はここで引き返す?」
「それも……面倒な話だな」
ボイスにうながされるまま、ひさぎは防弾ガラスを背負ってへたり込んだ。
骨折のせいか、全身が微熱を帯びている。
喉が渇いて仕方がなかった。
「だったら応急処置だけでもしなきゃ」
ボイスはひさぎの身体を跨いで膝立ちになると、その頬を両手で押さえて上を向かせた。
「飲んで」
キスをせがむように細められた赤い唇から、とろりとした唾液の糸がしたたり落ちてくる。
それをひさぎは、みずからの口で受け止めた。
垂れ落ちてくる間に冷えたボイスの唾液は、本当に甘いシロップのようで、熱と乾きにうんざりしていたひさぎの身体を心地よく潤していった。
「……血の味がする」
「だからいったでしょう? わたしだって遊んでたわけじゃないのよ」
濃厚なキスを繰り返しながら、ボイスはスリムパンツの中からひさぎのペニスを取り出した。
すでに熱く屹立していたそれを二、三度こすり立て、ゆっくりと上から呑み込んでいく。
「あ……は」
形のよいボイスの鼻から艶めいた吐息がもれる。
ひさぎは手にしていた〈魔弾〉を握り締め、弱々しく笑った。
「……こんなところを襲われたら、目も当てられないな」
「誰か、来ると思う……?」
上下に腰をはずませ始めたボイスが興奮しきったかすれがちの声で尋ねる。
「いや――」
おそらくこの屋敷の人間は、〈時の神〉とやらへの供養にされたのだろう。
断末魔の刹那にその身に渦巻いた、唐突な死への恐怖を。
内向きの用をこなす人間がまったく見当たらないのが奇妙だったが、いかにも荒っぽい仕事が得意そうな連中は、みな引きつった表情のままで死んでいた。
いずれも、今夜ここで自分が死ぬなどとは想像だにしていなかったに違いない、予想外の恐怖と戦慄に歪みきった顔の黒服たちの死にざまを思い返し、ひさぎは溜息混じりに首を振った。
「……」
むずかゆいような感覚がひさぎの背筋を震わせ、それを追いかけるように、圧倒的な快感が突き上げてきた。
射精の瞬間、ひさぎはボイスの髪を掴んで引き寄せ、その唇にむさぼりついた。
「んふ――」
ボイスの甘い喘ぎが、シロップといっしょにひさぎの口中に次々に送り込まれてくる。
ひさぎが放ったものが、ボイスの体内で錬金術的な変性を起こし、それが媚薬にも似たエリクサーとなって、ふたたびひさぎの中へと還っていく――この女悪魔との悦楽には、そんな意味があるのかもしれない。
「……」
荒い呼吸を整えながら、ひさぎは素早く体調をチェックした。
両腕は違和感なく動く。
骨折の痛みは消え、あちこちに刻まれた裂傷からの出血も、ほとんど止まっていた。
「ホントに深いところの傷までは治しきれてないけど……本格的に治そうとすると、朝までかかっちゃいそうだから、ここでやめておくわね」
「そこまでの傷が? 最初の夜よりはまだ軽いと思うが」
「違うわ。そういう意味じゃないのよ」
まだ硬さを失わずにそそり立っているひさぎのペニスをパンツの中に押し込み、ボイスは悪戯っぽく笑った。
「これ以上続けると、わたしのほうがイキっぱなしでやめられなくなりそうだってこと」
「ああ……」
ひさぎはしたり顔でうなずき、ゆっくりと立ち上がった。
出血のせいか、少し頭がくらくらするが、それでもさっきよりはましだった。
「そういうリビドーがあるなら、メインイベントのあとまで取っておけ」
〈魔弾〉を右手に持ち替えたひさぎは、ボイスの肩を叩いて歩き出した。
「――残っているのはあのジャグルヤとかいう男ぐらいだろう? そいつが片づいたらいくらでもつき合ってやるさ」
「それプラス、彼が解脱≠ウせた〈使徒〉の何人かはいると思うけど」
「判ってる」
ひさぎも、この先を無傷で切り抜けられるとは思っていない。
朝を迎える前に、あと一度や二度は死にかけるだろう。
そうなれば、傷を癒すために否応なくボイスの世話にならなければならない。
「――それにしても、そもそも奴はここで何をしている?」
いよいよ細く九十九《つづら》折りになってきた廊下を進み、ひさぎは呟いた。
「その何とかいう老人を解脱≠ウせようとしてるんじゃない? 金も権力もあるそういう人間が〈使徒〉になれば、この先この国でいろいろやらかすのも楽になるでしょうし」
「非常識な力を持ってる悪魔だの〈使徒〉だのいう連中に、そんなものが必要なのか?」
「わたしたちが戦う時にものをいうのは、確かにわたしたちが持つ力――あなたたちから見れば非常識に思える力でしょうね。だけど、この世界全体を動かしていくことはできない。この世界と大多数の人間を動かすには、やっぱりこの世界での大きな力が必要なのよ」
少なくとも、今はまだね――。
そうつけ足し、ボイスはひさぎの袖を掴んで引き止めた。
ふたりの前に広がっているのは、時代劇の中でしかお目にかかれないような、何十畳もあるようなふた間続きの座敷だった。
おそらく屋敷の一番奥まった場所に位置しているはずだが、ここもやはり人の気配はない。
しかし、この静まり返った薄闇の中に何を嗅ぎ取ったのか、ボイスは鼻の頭に小さなしわを寄せている。
「――」
ボイスの視線を追いかけたひさぎは、奥の床の間の、本来なら掛け軸のひとつもぶら下がっているべき場所に四角い穴が開いているのに気づいた。
「隠し扉か……最初に見た時は江戸城の大広間かと思ったが、まるで忍者屋敷だな」
ひさぎの背丈で頭がつかえるほどではないが、さして広いとはいえない階段が、そこから地下に向かって伸びている。
ところどころにぼんやりとともる非常灯に照らされて、その階段は、地の底へと続いているようにさえ見えた。
「どうぞいらっしゃいって感じね」
「この先に確かにいるのか?」
「ええ」
「ならいいさ」
ひさぎは先に立って階段を降り始めた。
ボイスが後ろからついてくるからといって、ひさぎは背後への注意もおこたりはしなかった。
その気になれば、ボイスは一瞬で姿を消してこの場から逃げ出すこともできるのである。
自分の背中を任せきりにするほど、ひさぎはまだボイスを信用してはいなかった。
数十メートルほどももぐっただろうか。
冷ややかだったはずの空気が、熱く生臭く、澱んできた。
我知らず、銃を握る手に力がこもる。
「上がやけに綺麗だったのはこういうわけか……」
階段を下りきった先に広がっていたのは、四方をコンクリートで固められた広大な地下室――いや、礼拝所か神殿とでもいうべき場所だった。
だが、そこには十字架もなければ荘厳なオルガンの旋律もなく、あるのはただ、一面の赤い血の池にたゆたう肉色の群れと、激しく燃えさかる無数の篝火だけだった。
ぴちゃりぴちゃりと濡れた足音を引きずり、武骨な柱が林立する地下礼拝所に足を踏み入れたひさぎは、いたるところに転がる人間の下半身を見つめ、静かに嘆息した。
打ちっぱなしの床の上で硬直し、たらたらと緩慢に血を流し続けている裸の下肢は、すべて女のものだった。
いちいち脚を開いて確認するまでもない。
それと同じ数の女の上半身が、すぐそばの柱や壁に、無慈悲な鎖でもって吊され、その無惨な傷口から内臓をぶら下げているのである。
まだ中学生くらいにしか見えない少女もいれば、豊満な肢体の美女や、身体の線の崩れきった中年女もいる。
共通項はただふたつ、全員が女であるということと、その死に顔だった。
生きたまま磔にされ、生きたまま吊るし斬りにされ、想像を絶する苦悶のうちに死んでいったであろうことは、女たちのその表情を見ればよく判る。
「やれやれ……」
趣味の悪さに嫌悪感は沸く。
だが、この凄惨な光景を見ても、やはりひさぎの心に恐怖が呼び起こされることはなかった。
そんなひさぎに、ボイスがそっとささやく。
「頼もしいわね、ひさぎ?」
「そうでもない」
ひさぎは軽く顎をしゃくって奥のほうをしめした。
「――明らかに俺よりも神経の図太い人間があそこにいる。あっちのほうがもっと頼もしい」
篝火の焚かれた凄惨な空間の一番奥、周囲より数段高くなった祭壇めいた場所に、あたりの惨状も意に介さず、ひとりひしひしと食事を続ける人影があった。
ボイスはそれを見て肩をすくめた。
「ああいうの、図太いっていうわけ?」
確かに、図太い――というのとは少し違うかもしれない。
「――それ以前に、人間≠ネのかしら?」
それは、一心不乱に食事を続ける痩せこけた老人だった。
やってきたひさぎやボイスに気づいている様子はない。
一瞬たりとてそちらに意識をやるのも惜しいといったところか。
「……嶺崎剛三か」
老人に問うわけでもなく、ひさぎはぽつりとひとりごちた。
寄る年波に勝てず、病がちになって表舞台から姿を消した近年はともかく、数年前までは、経済誌などではよく見かけた顔だった。
それが、口の周りを真っ赤にして、生というのもおこがましい肉の塊を食らっていた。
いわずもがな、あたりで死んでいる女たちの肉だろう。
くちゃりくちゃりと、湿った咀嚼音や何かをすする音が聞こえてくる。
食べているメニューの異常さに目をつぶるとしても、あまり品のいい食べ方ではない。
むしろひさぎの嫌悪感のみなもとは、老人が人肉|嗜食《ししょく》に走ったという非現実的な事実にではなく、そのテーブルマナーの悪さにあるといってもいいかもしれなかった。
「老人がそんな大食したら身体に毒だ。このへんで止めてやったほうが本人のためだろうな」
忌々しげに舌打ちし、ひさぎは〈魔弾〉を構えた。
だが、
「ひさぎ!」
ボイスがいつになく緊張した声を発し、ひさぎを軽々とかかえて真横へと飛んだ。
「!?」
さだかに見えないくらいに高い天井から、つい先刻までひさぎが立っていた場所へと、まばゆいオレンジ色の光が振ってきた。
「――嶺崎翁は空腹なのだ」
篝火の炎よりはお熱い、明るい光の柱の中から、おだやかな声が聞こえてきた。
「一生に一度の大仕事を終えられたばかりで、ひどく餓《かつ》えておられる。おそらくここに用意した贄《にえ》をすべて食らい尽くしても、それでもまだ癒えないほどの飢えなのだ」
「ジャグルヤ……だったか?」
「いかにも」
血塗れた床を一瞬で乾かしたほどの光の柱が消え去ったあと、そこに悠然と立ち尽くしていたのは、青い衣の鷹視《ようし》の男――みずから旱魃《かんばつ》の獅子≠ニ名乗る〈時の神〉の使徒、ジャグルヤだった。
「……確かに人間じゃないみたいだな」
ジャグルヤの爪先が床からわずかに浮かんでいるのに気づき、ひさぎは呟いた。
後ろ手に手を組んだまま、ジャグルヤはひさぎとボイスを見つめた。
「……クナンサティを退けてここまで来たということは、万魔殿《バンデモニウム》もまんざら無能なエージェントを送り込んできたわけではないらしい」
「それはどうも」
ボイスがにっこり微笑んで軽く会釈する。
「――だが、そんなきみたちだからこそ、ここで死ぬ価値がある」
「まるで最初からここで俺たちを始末する予定だったようないい方だな?」
「きみが私の提案を蹴った時からね」
ジャグルヤは深々とうなずいた。
「――きみがそちらの女悪魔からどこまで聞かされているかは知らないが、我々とて、〈魔弾〉の持ち主と出会うのは初めてではない。たやすく恐怖に身をすくませる惰弱《だじゃく》な精神の持ち主では、〈魔弾〉が何の力も発揮しないことは知っている」
ぼとぼとぼと。
――そんな湿った音を立てて、何かがジャグルヤの周囲に落ちてきた。
「逆に、どんな恐怖も克服できる強靱な精神の持ち主であれば、その手にある〈魔弾〉は、我々にとっては大きな脅威となる」
白と赤のまだらに染まった、女の形をした虚ろな肉だった。
「下級の〈使徒〉だわ」
ジャグルヤを守るようにのろのろと立ち上がる血まみれの裸の女たちを見据え、ボイスがひさぎにささやく。
「そんなに強くはなさそうだけど、気をつけて」
「おまえのいう強い弱いはアテにならないんだが」
「あなたが最初に出会ったアロハよりは弱いわよ……だぶん」
「判りやすいたとえだ」
そんなひさぎとボイスのやり取りをよそに、ジャグルヤは続けた。
「――明神くん。きみは電話で私にいったね? 私がきみを懐柔しようとするのは、我々が〈魔弾〉を恐れているからだと? ある意味ではその通りだよ。確かに我々は〈魔弾〉を忌み嫌っている。それによって我々の大望が妨げられることを恐れている」
だが、だからこそ――。
大仰に両手をかかげ、ジャグルヤはいった。
「――きみはここで死ななければならない。〈時の神〉の愛《めぐ》し児《ご》、死の呪縛から解放された不死者たるはずの我々〈使徒〉を、たやすく滅ぼすことのできる恐るべき〈魔弾〉の射手は。同時に我が神への格好の供養ともなるだろう」
「……何?」
「なんとなれば、きみほどの射手が真に恐怖することがあるのなら、その魂のおののきは、我が神にとって最高の美味となるのだから」
「要するに」
ひさぎは唇をゆがめてボイスにいった。
「――いつも不感症ヅラしている取り澄ました女ほど、堰《せき》が切れた時の乱れようが尋常じゃないといいたいわけだな、あの御仁は」
「下品なたとえだけど、あながち間違っていないわね。……確かに、あなたがもし恐怖に怯えることがあるとすれば、それは百万人の凡人たちの恐怖にもまさる珍味みたいなものでしょ」
「そういうコワい思いをさせてくれるのなら、それはそれで楽しみなんだが――」
だからといって、このままみすみす死の顎《あぎと》の間に首を差し出すつもりはない。
ひさぎは〈魔弾〉を構え直し、立て続けに引鉄を引いた。
「これがきみの〈魔弾〉か――!」
女たちが弾丸をかわしていっせいに四方に散る中、ジャグルヤはすべるようにして後方に退きながら、右手を前に突きだした。
「!?」
硬質な音とともに弾丸が弾かれたのを知って、ひさぎは頬をひくつかせた。
「たぶん、私にとって、きみを殺すのは簡単なことだろう」
ジャグルヤは軽く床を蹴ってふわりと宙に舞い上がった。
「――だが、ただ殺すのでは意味がない。きみが恐怖と絶望のうちに放つ断末魔こそが、我が神の復活を高らかに告げる福音となるだろう」
「期待するのはそちらの勝手だが、それに添えるかどうかは判らんな」
「我々は長い間試行錯誤を繰り返してきた。これもそのひとつだと思えばいいだけのことだ。駄目でもともと――日本語に、確かそんな言葉があったはずだが?」
「ダメモトで殺されるほうはいい迷惑だ」
ひさぎはジャグルヤの眉間を狙って銃を撃ったが、虚空を自在に泳ぐ獅子面の男は、それをたやすくかわしてさらに上昇していった。
「解脱≠ノよって古き肉体を捨て、あらたに我が神のしもべとなった〈使徒〉――餓えたる獅子<Uリチェが、きみをもてなしてくれる。ゆっくりしていきたまえ。そしてもし、きみがここから生きて帰れるようなことがあれば、その時こそ――」
あくまでおだやかにそう告げたジャグルヤの姿が、不意にかき消すように見えなくなった。
「いいたいことがあるならきっちり最後までいえ。途中で放り出されると、続きが気になって居心地が悪すぎる」
ジャグルヤが消えたあたりへと〈魔弾〉を撃ち込んでみたが、虚しく銃声がこだまするだけで、まったく手応えはない。
「ひさぎ!」
ボイスのその声に、ひさぎは反射的に身を伏せた。
横合いから、女のひとりがすさまじい速さで突っ込んできたのである。
血溜まりに転がったひさぎは、濡れて重くなったコートを脱ぎ捨て、人外のものとなり果てた女たちをみやった。
だが、ひさぎが手にした〈魔弾〉の銃身を、かたわらへとやってきたボイスがそっと押さえる。
「無駄うちはよして」
「どうせあの女たちも始末するんだろう?」
「こんな名なし≠フ四、五人くらいなら、わたしひとりでも充分よ。それよりあなたは、あの新しい使徒≠」
ボイスの細い顎が、周囲の雑音をよそに孜々《しし》として食事を続ける老人を指ししめした。
「――あのジャグルヤがじきじきに名をあたえたということは、あの老人、かなりの大物に解脱≠オたと見たほうがいいわ」
「そういうものなのか?」
「ええ。あなたがこれまで倒してきたのは、しょせん名前も与えられていない小物ばかりよ。……でも、あれは違う。
少なくとも、わたしが倒したクナンサティより弱いということはないわね」
「それは楽しみだ」
ボイスがまだ何かいっていたが、ひさぎはもう、しゃぶり尽くした骨で山を作っている老人しか見ていなかった。
みずからの意志とは無関係に〈使徒〉にされてしまった女たちの姿も、もはや目に入らない。
これまでひさぎは、自分を殺人狂だと思ったことはないし、殺人という行為に何らかの快楽を見出したこともない。
夜な夜なもうひとりの自分と入れ替わり、何度トリガーを引こうと、ひさぎの心が――喜びにであれ恐れにであれ――満たされることはなかった。
だが、今は違う。
〈使徒〉を相手に〈魔弾〉のトリガーを引くという行為は、これまでひさぎが続けてきた単純な作業とはまるで違う。
手から全身へと伝わるしびれは一種の陶酔をともない、何より彼が相対する異形の住人たちは、ひさぎが遠い昔に忘れ去ってしまったはずの恐怖という感情を、その片鱗だけとはいえ、呼び起こしてくれるのだから。
胸がドキドキしている。
じっとりと汗ばんだ手で〈魔弾〉を握り締め、ひさぎは嶺崎剛三だったものへと足早に歩み寄った。
歩きながら、我慢できずに引鉄を引く。
ロクに狙いをつけずに撃った最初の一発が、ますかに湯気を立てる白骨の山を直撃した。
「――」
三十すぎの女のものではないかと思わせる、ふるんとやわらかく揺れる白い乳房をかじっていた嶺崎翁が、骨の山が崩れる音を聞いて、ようやくひさぎを振り返った。
おそらく――と、ひさぎは思う。
おそらくその双眸に射すくめられれば、普通の人間はたちまち息もできないほどの戦慄に呪縛されるのだろう。
生きてその前に立ってしまったことを後悔しないではいられないほどの、我が身に向けられた悪意と敵意と、それ以上にはっきりとした食欲――何もいわずとも雄弁にそれを物語る、それほどまでに異様な輝きが、老人の瞳にはあった。
しかし、ひさぎがそれで足を止めることはない。
その時ひさぎの全身に走り抜けたのは、心地よいおののきであった。
「絶叫マシンに乗る人間の心理が、何となく判ってきた――」
ひさぎは笑った。
恐怖を忘れたひさぎにとって、心理的な揺らめきからこうしたおののきを感じるのは本当に久しぶりのことだった。
それこそ普通の人間にとっての絶叫マシン程度でしかないとはいえ、それは胸のすくような、変わり映えのしない日常では決して味わえない震えだった。
「――病みつきになりそうだ」
低い笑みといっしょに、二発目もはずれた。
ひさぎの狙いがさだまらなかったのではなく、食べかけの肉を放り出した老人が、大きく跳躍してそれをかわしたのである。
「がぇあっ!」
乱杭歯《らんぐいば》の伸びた大きく開いてわめきながら、老人はコンクリートの壁に張りついた。
血染めの丹前の袖から伸びた細い腕が、コンクリートに深々とめり込み、その小柄な身体をささえている。
あ、いや――。
コンクリートに爪を立て、無造作に壁を掴んでいた嶺崎剛三の腕が、見る間に怒張していった。
「!」
驚くより先に、ひさぎの手がそれをポイントしていた。
立て続けに二発、破魔の弾丸が澱んだ熱気を切り裂いて飛んだが、老人の動きのほうが一瞬だけ早い。
壁を蹴ってひさぎの眼前へと降りてきた時、すでに嶺崎剛三は、生前の――という表現が正しいかどうかは判らなかったが――面影をほとんど失っていた。
「ぐふるぉ……」
瘴気《しょうき》を吐き出す口に女の脚をくわえ、ぼきりばきりと骨すら噛み砕いて嚥下していくその姿は、もはや人間というより、獅子のそれに近かった。
類人猿めいた腕の長い巨大なボディに、獰猛な獅子の首とナイフのような鉤爪を持った、餓えたる獅子<Uリチェと名づけられた――完全に人間以外の何かだった。
「このまま天寿をまっとうすれば、歴史の教科書に名前が載ったかもしれないほどの傑物が、死に際を間違えた畜生に堕したか……まあ、それがあんたの選んだ道なら俺がとやかくいうことじゃないんだろうが――」
「……ああ、そうとも」
ひさぎの独白をさえぎり、白銀のたてがみを持つ獅子の顔が、その口をにゅいんと吊り上げた。
「貴様のような若僧に、とやかくいわれるすじあいはない……」
「あんた、しゃべれるのか……?」
「言葉を忘れるほど耄碌《もうろく》はしておらんよ」
牙を剥いて笑った獅子は、そばに転がっていた女の下半身を強靱な両腕で掴んで引き裂き、ばりばりと食らった。
「……実際、解脱≠ニやらがどんなもんかよう判らんで、不安に思っておった頃もあったが――ああ、これはいい……これほどいい気分になったのは何十年ぶりか――」
「そうか。解脱≠ニいうのは、人間をやめてもおつりが来るほどいいものらしいな」
「うむ」
太い首がごくりと上下し、血臭|芬々《ふんぷん》たる生肉を呑み込んでいく。
燃えるような瞳をひさぎに向け、ザリチェは大きくうなずいた。
「……だが、貴様はここでワシに食われて死ぬる。我が神がそれをお望みなのでな」
「……!」
申し訳程度に張りついていた丹前の生地がはじけ飛び、ザリチェの背中にたくましい猛禽の翼が生えるのを見たひさぎは、殺気とも食欲ともつかない獣臭い魔風が吹きつけてくるのを感じ、咄嗟に横っ飛びにジャンプした。
「思えばまだ男は食ったことがない! 貴様で味見するのもよかろう!」
翼をはばたかせたザリチェが低空飛行で突っ込んでくるのを避け、ひさぎはその後ろから〈魔弾〉を連射した。
「くははは……!」
ザリチェは石柱を盾にして弾丸をかわすと、打ちつけられていた鎖を引き抜いた。
「ワシのこの屋敷は貴様にくれてやる! 貴様の墓場としてな!」
ザリチェの豪腕が、女の上半身に絡みついたままの鎖を振り回し、ひさぎに投げつけた。
「くそ……!」
あらかた内臓が垂れ流れたあととはいえ、人ひとりの上半身に鎖の重さを加えれば、それは充分な破壊力を持った投擲《とうてき》武器となる。
血と脊髄液を撒き散らして飛んできた女体を三連射で吹っ飛ばし、ひさぎは片膝をついた。
「ぐ……!」
最初にザリチェと交錯した時に刻まれたのか、ひさぎの脇腹に、大きな傷口が開いていた。
手で押さえたところで止めようのない激しい出血に、ひさぎは歯を食いしばって立ち上がった。
そこに、ふたたびザリチェが肉薄してくる。
「かぁ!」
「っ――!?」
血盆のごとき口に並んだザリチェの牙をかわし、その脇腹に報復の弾丸を叩き込んでやろうとしたひさぎの身体が、まるでダンプにでも追突されたかのように派手に吹っ飛んだ。
ひさぎに身をかわされたザリチェが、その長い尾をひさぎの足首に絡みつかせ、力任せに振り回して投げ出したのである。
「ぐ、お――っ……!」
石柱に叩きつけられ、そのまま床に落ちていくはずだったひさぎを、間髪入れることなく白銀の颶風《ぐふう》が襲った。
「っ……!」
それこそ小型のトラックほどの体躯を誇るザリチェが、大きく旋回してきたいきおいのまま、ひさぎに激突した。
「ひさぎ!?」
鮮血の剣山でもって裸の女たちをズタズタに引き裂いていたボイスが、悲鳴にも似た声をあげた。
「男の肉はいささか硬そうだが……これで少しはやわこくなったかのう?」
みずからの巨体と石柱の間でプレスしたひさぎの身体を、ザリチェが異様に肥大化したパワーショベルのような手で鷲掴みに捕らえた。
みしり――。
ボイスとの甘美な治療行為でつながったばかりの骨が、嫌なきしみをあげて折れ始めたのを、ひさぎはまざまざと感じた。
「――」
どんな力自慢の大男でも、この怪物の膂力《りょりょく》には太刀打ちできないだろう。
全身の骨がきしみ、満足に呼吸もできない苦悶の中で、ひさぎは、すぐ目の前にあるザリチェの獅子面を睨めつけた。
「かかか……! なるほど、女のような顔をしていても、確かに貴様は肝の据わった男と見た。無様に泣き叫ばんだけでも、ここにワシに食われていった女どもとは大違いじゃ」
「……そりゃどうも」
ふてぶてしく答える声も、さすがに途切れがちだった。
両手もろとも掴まれているために、〈魔弾〉の銃口を向けることもできない。
「――が、このままボロ雑巾のように絞られて、それでもまだ気丈にワシを睨んでいられるか? それともその目玉からくり抜いてやるか? ワシは鯛の目玉が大好きでな」
すでに血で汚れている鼻面をべろりと舌で舐め、ザリチェはおもむろに口を開けた。
「がっ……!」
ザリチェの牙がひさぎの右肩に突き立ち、あらたな血をしぶかせた。
肩の肉が百グラムばかりこそげ取られ、ザリチェの口の中へと消えていく。
「……まだ少し硬いな」
いっしょにちぎり取った、ジャケットの生地だけを器用に吐き捨て、ザリチェは笑った。
そのつもりさえあれば、ザリチェは一瞬でひさぎを殺すこともできるはずだった。
今のひとかじりは本当にささやかな――それこそつまみ食いのようなもので、この怪物なら、ひさぎの肩の肉はおろか。
その頭を丸ごと人呑みにして、ぼりんと噛み砕くことも可能だろう。
ザリチェがそうしないのは、ひさぎの苦しみを少しでも長引かせ、その木石のごとき心から絶望と恐怖を引き出そうと考えているに違いない。
その時、ザリチェの真下の床から、太い血の柱が突如として生えてきた。
「おう」
翼を打ってそれをかわしたザリチェは、舌なめずりをしながら首をめぐらせた。
「……やはり名なし≠ナは足止めにならんか」
金色に燃える獣の視線の先に、床に手をついたボイスがいた。
その周囲には、鮮血の槍よって五体をばらばらにされた女たちの死体が転がっている。
対するボイスには傷ひとつない。
「だらしないわよ、ひさぎ」
冷ややかに呟いたボイスが、もう一方の手で床を叩く。
卒然、ボイスの眼前からザリチェに向かって真っ赤な間欠泉が無数に走り出した。
「なんとも薄情な女じゃわ。……我が神に供されるよりはいっそ、ワシもろともこの男を殺すつもりか?」
そびえ立つ血の剣山よりも高く舞い上がり、ザリチェは笑った。
しかしボイスは答えず、さらに撫でるような動きで床からかたわらの石柱へと手をすべらせた。
女悪魔の愛撫によって、陸続《りくぞく》と床から生え続ける血の針に加え、今度は石柱の側面からもあたたな血潮が噴出し、それが即座に鋭く硬化して次々にザリチェを襲った。
それは確かに、ザリチェといっしょにひさぎを串刺しにするのもやむなしと思える、徹底したやり口だった。
四方八方から伸びてくる鮮血の槍をたくみにかわし、あるいは力強い翼で折り砕きながら、ザリチェは吠えた。
「小賢しいな、女! かかかかか!」
折っても砕いても次々に伸びてくる血槍は、ザリチェの身体に無数の傷を負わせていたが、そのいずれも、この魔獣にとっては致命傷たりえなかった。
しかもその傷は、開いたそばから見る見るうちにふさがっていくのである。
「……!」
それを見上げるボイスの表情に、ありありと疲労の色が浮かんできた。
その手で触れた物質からしぶかせる血があたかも彼女自身の血であるかのように、その血槍を抜けば抜くほど、ボイスの顔は屍蝋《しろう》のように青ざめていく。
「我らをおびやかす〈魔弾〉の秘密、とくと聞かせてもらいたいところではあるが――」
天井近くにふみとどまったザリチェが、ボイスを見下ろして笑った。
「くかかか……ひとまずそれはあと回しじゃ! ぬしの相手はあとでゆるりとしてやろうほどに、今しばらくそこで待っておれ!」
「わたしを待たせるって……ねえちょっと、それオカシイでしょ?」
大きく肩を揺らめかせていたボイスは、上目遣いでザリチェを睨んで不敵に微笑み、両手で床を叩いた。
直後、ザリチェの真上の天井から真っ赤な氷柱が伸びた。
「ぐおぉ――」
その先端がザリチェの片翼を貫通し、その巨体をかしがせる。
同時に上がった巨大な血の氷柱が、ボイスを呑み込んで天井近くまでそそり立った。
「ぐふ、ぬ……!」
ザリチェは左の拳をふるって翼に突き立った氷柱をへし折り、すぐさま真下から突き上げてきた血柱をかわした。
その血柱の中から、小柄な少年が不意に飛び出してきた。
「いい加減ケリをつけようよ、ひさぎ」
ザリチェの一瞬の隙をついて接近した少年ボイスは、その細い手を伸ばし、ザリチェに捕らえられたままのひさぎの背中に触れた。
「貴様――」
触れていたのはほんの一瞬――だが、それで充分だった。
「――!」
ひさぎの身体ががくんと震え、その左胸のあたりからザリチェの顔面へと血槍が伸びた。
「がぶぁ――っ!」
右目を潰されたザリチェは、さすがにこれはこたえたのか、ひさぎを放り出して顔を押さえ、身をよじって苦しげな咆哮を放った。
「ひさぎ!」
無防備のままで落ちてきたひさぎを、みずからをクッション代わりにして、ボイスがその小さな身体で受け止めた。
「……」
朦朧としかけた意識の中で、ひさぎは自分の胸を見下ろした。
あの瞬間、ひさぎの肩甲骨から心臓へと、何らかの力が貫通していったのは間違いない。
ひさぎもそれは確かに感じていた。
だが、ひさぎの胸にはそれによる傷はなく、ただひさぎが着ていた女物のブラウスとジャケットに、ぽっかりと大きな穴が開いているだけだった。
「……器用な真似をする」
「褒めてくれてありがと」
ひさぎをかかえ起こしたボイスが、どさくさにまぎれるようにしてひさぎにキスをした。
「……そっちの趣味はないといったはずだが?」
「でも、効き目は充分でしょ?」
美少年のキスに、不覚にも陶然となりかけだひさぎは、乱暴に唇をぬぐって立ち上がった。
なるほど、効き目は充分にある。
少なくとも、自力で立って銃を構えられるようになるほどには。
ボイスへの苦情はひとまず忘れ、ひさぎは〈魔弾〉の引鉄を引いた。
乾いた銃声が響き渡り、隻眼《せきがん》の魔獣が虚空でたたらを踏む。
「ぐぼ……ほ」
顔を真っ赤に染めたザリチェが、あらたにその腹から激しく血を噴いていた。
ボイスの血槍によって与えられた傷は驚異的なスピードで癒せても、どうやら〈魔弾〉によって与えられた傷は、そうはいかないらしかった。
「それが〈魔弾〉の〈魔弾〉たるゆえんか――」
額を狙ったはずの弾丸がわずかに逸れたのを見て、ひさぎは〈魔弾〉を両手で持ち直した。
「おい」
「判ってるよ。……ぼくのほうは、これでほとんど打ち止めだからね?」
ひさぎのいわんとするところを察したのか、ボイスは大きく深呼吸して床に両手を押し当てた。
その瞬間、天井と床から無数の血槍が長く伸び、ザリチェの身体を空中に縫い止めた。
「ぐがっ――ぎ、ぃ、き、貴様、貴様らっ――」
「人間と獣じゃハンデがありすぎる。遠くから飛び道具で仕留めるくらいでちょうどいい」
冷ややかに呟き、ひさぎは立て続けにトリガーを引いた。
全身をつらぬいた槍を砕いてその場から逃げようとするザリチェに、すべての弾丸が狙いあやまたずに吸い込まれていく。
「があぁ――っ! わ、わじはっ……!」
ごぼごぼと泡立つ血を吐きながら、ボイスの槍を力任せにへし折ったザリチェは、ほとんど落下するようないきおいで、ひさぎに向かって突っ込んできた。
「まだ……っ! じ、し、死ぬっ、死に、死なぬ、死にだぐ、ないっ――!」
「いや、死んだほうがましだろう」
左目を細め、ひさぎはザリチェを見据えた。
「冷静になって今の自分の姿をよく見てみろ。……動物園にもあんたの居場所はもうないはずだ」
そこまで浅ましい姿となり果てても、それでもなお生きながらえようとする老人の妄執を冷淡に笑って、ひさぎは最後の引鉄を引いた。
空間を埋め尽くすほどに縦横無尽に伸びた血槍が形を失い、赤い驟雨《しゅうう》となって降りそそぐ。
無数の波紋が広がる血の海の中に、干からびた老人の骸が突っ伏していた。
日乾しになったカエルのミイラのような、浅黒い無様な老人の裸体には、いくつもの弾痕が残っていたが、結果的に致命傷となったのは、額の真ん中に残るただひとつの小さな穴だった。
嶺崎剛三の骸を爪先で蹴り転がし、もはやぴくりとも動かないことを確認したひさぎは、血に濡れた前髪をかき上げ、〈魔弾〉を放り出した。
「お疲れさま」
宙に浮いた〈魔弾〉を引っ掴み、もう一度宙に投げ上げて魔法のように消し去った少年ボイスは、よろめくひさぎに寄り添った。
傷つき疲れきった互いの身体をささえ合うようにして、ふたりは歩き出した。
少年悪魔の歩みを追いかけるかのように、その背後で青白い炎が静かに燃え上がった。
あたりを濡らす鮮血が、まるで油のごとく炎を噴き上げ、異形神の神殿を熱でもって浄化していく。
「――本当のところはどうなんだ?」
炎の青さに足元の影をちらつけせたひさぎは、虚ろなまなざしを正面に向けたまま、かすれた声で呟いた。
「何が?」
「もし俺が……あの時、俺が恐怖というものを思い出していたら、おまえはどうしていた?」
「いわなくても判るだろ?」
ボイスは悪びれることなく笑った。
「ぼくの任務はこの国で〈使徒〉がやろうとしていることを邪魔して、そして追い出すことなんだ。それがどんな種類の行為であれ、連中の神が喜ぶようなことは絶対に阻止しなきゃならない」
たとえそのために、ふたりと得がたい〈魔弾〉の射手をみずから殺すことになろうとも――。
はっきりとした言葉にこそ出さなかったが、ボイスの言葉の裏にそうした意志が隠れていたことは疑いない。
長い長い階段を上がり、和風の離れへと戻ってきたひさぎは、ボイスを軽く突き放して大きく息を吸い込んだ。
さっきまでの澱んだ空気よりははるかにましだが、血の臭いが染みついた夜気であることは変わりはない。
しかし、それもすぐに火の粉混じりのむせ返るような熱風に取って代わられるのだろう。
ひさぎの少し後ろをちょこちょことついてくる少年悪魔の赤く湿った足跡が、ここでも青い炎を噴き上げ、真新しい畳や床柱をなめ始めていた。
「……どうなる、この先?」
炎を背負って無邪気に笑っている美少年を肩越しにかえりみて、ひさぎはかぼそい声でもらした。
「おまえたち悪魔があの〈使徒〉どもを駆逐した時、俺たちはどうなる?」
「きみがどんなに腕のいい射手でも、きみが生きている間にあいつらを滅ぼすことは無理だよ。……だってぼくたちは、何千年もあいつらと戦ってきたんだし、それがこの先の数十年であっさり片づくものじゃないってことも判ってる」
ボイスの指先になぞられた障子の桟が、たちまち炎を噴き上げて灰に変わっていく。
「俺がどうのじゃない。……俺が聞いているのは、悪魔が勝った時、人間がどうなっているのかということだ」
「あれ? きみが自分以外の――それも、何百年、何千年も先の人間たちのことを心配するなんて珍しいじゃない。どういう心境の変化?」
「ただ興味があるだけだ。どうやらこの世には、悪魔や魔物はうじゃうじゃいても、神はひとりもいないらしいからな」
「別に何も変わらないさ」
にんまりと唇を吊り上げた少年の身体が、一瞬、青い炎に包まれ、ひさぎは手をかざして顔をかばった。
「わたしたちが〈使徒〉を滅ぼしたとしても、何も変わらないのよ」
蒼炎を振り払ってふたたびひさぎの目の前に現れたボイスは、ひさぎの耳をちろりと舐めるように小さな声でささやいた。
「ほとんどの人間は、悪魔が勝って、〈使徒〉が敗れたということさえ知らないまま――そうしたモノが実在し相争ってきたということさえ気づかないままに、うじゃうじゃと生まれてばたばたと死んでいくのよ。だって、あなたたち人間は、これまでだってずっとそうやって、わたしたち悪魔といっしょに歩き続けてきたんだから」
だから何も変わらないのだと、ボイスは笑った。
つられてひさぎも笑った。
この先、いかにひさぎが血まみれになりながら〈使徒〉と倒そうと、ひさぎを取り巻く世界は今と何ひとつ変わらないのだと――そうと知っても、ひさぎは落胆も失望もしなかった。
もとより崇高な使命感とはほど遠い、身勝手な男だ。
馬手《めて》に〈魔弾〉を、かたわらには冷笑の悪魔を連れ、〈使徒〉を相手に刹那的な、心地よい震えを味わうことができればそれでいい。
「ふふ……」
こみ上げてくる笑いを隠そうともせず、ひさぎは嶺崎邸をあとにした。
人知れず〈使徒〉の巣窟と化していた屋敷は、数十人か、あるいは百人を超える人間たちの骸をかかえ込んだまま、静かに燃え落ちていく。
最後に一度だけ、ひさぎが屋敷を振り返った時、夜空を幻想的に照らし出す火宴のその上に、白い翼を広げた青い服の男の姿が浮かび立っていたような気がしたが、季節はずれの蛍を思わせる火の粉が舞い散るのに目を細めた隙に、それもふと見えなくなってしまった。
終章
携帯電話がガラステーブルの上で震えるその音で、ひさぎはようやく目を醒ました。
ベッドの上に身を起こそうとして伸ばした手が、肌に吸いつくような柔らかいものに触れる。
「――」
ひさぎのすぐ隣に、大きな枕を抱きかかえるように身体を丸めて、裸の女が呑気に眠っている。
シーツの上に広がった艶やかな黒髪と、自分の手が触れた丸い尻とを交互に見やってから、ひさぎは嘆息混じりに起きあがった。
「ん……」
かすかにベッドがきしんだのを感じてか、女が鼻にかかったような寝息をもらし寝返りを打った。
しどけないその寝姿を見ていると、ひさぎの胸の内に勃然《ぼつぜん》と沸き上がってくるものがないではなかったが、さすがに今すぐどうこうという気にはなれない。
ゆうべからはめっぱなしのニューマンの腕時計は、午前十一時すぎをしめしている。
いつものひさぎならすでに仕事をしている時間だが、眠りに就いたのが確か朝の八時すぎだったから、それも仕方のないとろころだろう。
ましてひさぎは、ゆうべ傷だらけでここへ帰ってきてから朝日が昇るまで、ボイスと互いの肉体をむさぼり合っていたのだから。
おかげでひさぎが負った傷はすっかり癒えていたが、代わりに部屋の中はひどいありさまだった。
ベッドやフローリングの床の上、それと白い壁にも赤い手形らしきものが点々と捺《お》されていたし、血を吸ってごわごわに乾いた女物の服が、そこらじゅうに無造作に脱ぎ散らされている。
誰かに見られでもしたら厄介なことになりかねない惨状だ。
が、さしあたって、そういう事後処理は後回しにするしかない。
ひさぎはすでに震動の収まった携帯の画面を一瞥すると、バスルームで熱いシャワーを浴びた。
さっきの着信は紫藤カンナのものだった。
おそらく花見がどうのという話だろう。
しばらくしたら、またかかってくるに違いない。
万が一にも血の臭いなどしないよう、髪と身体を念入りに洗ってリビングに戻ってくると、寝ていたはずのボイスがベッドの上でシーツにくるまり、また勝手にビールを飲んでいた。
「きょうは遅いのね」
「何時に寝たか考えてみろ」
たぶん悪魔は、本当なら眠る必要などないのだろう。
だからそんな無責任なことがいえるのだと、ひさぎは鼻を鳴らして身支度に取りかかった。
「きのうのきょうでまた会社?」
「ゆうべバケモノと殺し合いをしたからきょうは休みますなんていえるか?」
「ダメモトでいってみれば? 案外お休みがもらえるかもよ」
「ああ、一生分のな」
髪を整え、真新しいシャツに袖を通し、ネクタイを締めようとしたところで、ふたたび携帯電話が震え出した。
ベッドを降りてきたボイスに、何もしゃべるなと目線で伝え、ソファに腰を降ろす。
「――もしもし?」
『あ、ひさぎくん?』
カンナの声を聞くのも久しぶりのような気がする。
実際にはきのうも電話で話したばかりだが、それだけ、ひさぎが長い一夜を過ごしたということなのかもしれない。
『この前のお花見の件なんだけどさ』
「ああ、はい、判ってます。お店のほうはもう決めてあるんですよ――」
編集者用の口調で受け答えをするひさぎの前に、ボイスが無言でシステム手帳を差し出した。
窓から差し込む陽光の中、恥ずかしげもなく白い裸体をさらし、むしろ誇らしげに笑っている。
ひさぎは軽くうなずいてスケジュールのページを開いた。
「――その前に、ひとつご相談がありまして」
『相談?』
「はい。……先生にお願いしている原稿のことなんですが」
びっしりと書き込みのあるページをめくりながら、ひさぎはふと眉をひそめた。
ソファに座ったひさぎの両足の間に、ボイスが艶めかしい身体を割り込ませてきたのである。
「――」
一瞬、蹴飛ばしてやろうかとも思ったが、迂闊に声を荒げたりできないのはひさぎも同じである。
それを承知しているのか、口もとに人差し指を押し当てた悪戯っぽい表情でひさぎを見上げるボイスは、ひさぎのスラックスのジッパーを下げ、迷うことなくその中に手を差し入れてきた。
『そっちの原稿だったらちゃんとやってるわよ。ねえ、聞いてる、ひさぎくん?』
「え? ああ、はい、もちろんそれは判ってます」
ひさぎがわずかに逡巡を見せていた隙に、ボイスはひさぎのペニスを引っ張り出し、手と唇と舌で嬲り始めた。
「――ただですね、天華社《てんかしゃ》さんのほうで先生がつづけてらっしゃるシリーズ、アレの次の新刊って、ウチの新刊と同時期に出ますよね?」
ひさぎもボイスを止めようとは思わなかった。
行くところまで行かなければ、身支度を整えることもできそうにない。
そう居直ったひさぎは、硬く勃起した自分のものがボイスの赤い唇を出入りし、ピンクの舌にあやされるのを眺めながら、情事の匂いを感じさせない落ち着いた声で続けた。
「発売日が一週間違いってことは、締切も同じくらいじゃないですか?」
『えっと……ああ、うん、たぶん。でも、どっちも間に合うように並行して進めてるから――』
「それ、ウチのほうを先に上げてもらいたいんですけど」
『え〜? あっちのが一週間も早いんだよ?』
「こっちはそのぶんイラストレーターの手が遅いんです」
たくみに動く手と唇と舌にもてあそばれて、ひさぎは射精が近づいてきたことを感じた。
法悦のひとときを堪能しようと、ソファにゆったりと背中を預け、天井を見上げる。
「先生に早く原稿を上げていただければ、そのぶんイラストレーターの作業期間も長く取れますし……。それに今度の新刊は夏のフェアの目玉ですから、ポスターや販売促物も用意しなきゃいけません。とにかくカバーだけでも早めに入稿しないと、そういうものが全部遅れちゃんですよ」
『でも……』
「天華社の編集さんには悪いんですけど、そのあたり、先生にご了承いただけるのなら、うちの明智もいいといってくれてます。……裏を返せば、先生の原稿が早めにいただけないのなら、そんな花見になんか行ってる場合じゃないだろ、と……」
『古いつき合いなんだから、そのくらい融通利かせてくれたっていいのに――』
涼子への恨み節を聞きながら、ひさぎは空いている手をボイスに添えた。
より強い快感を得るために、射精の瞬間に合わせて、その喉の奥まで肉棒を深く突き立てようと――。
「!」
だが、その時ひさぎは、〈使徒〉たちとの戦いにおいてさえ味わったことのない驚愕に身を震わせた。
あっと思った時にはもう遅い。
『ひさぎくん――?』
電話越しにカンナのいぶかしげな声が聞こえてきたが、ひさぎは咄嗟に返す言葉もなく、断続的に続く快感に唇を噛み締めるだけだった。
『ひさぎくん? どうかした?』
「……あ、いえ」
ようやく人心地ついたひさぎは、何ごともなかったかのようにカンナに尋ねた。
「それで、どうなんでしょう、先生? 原稿のほうはいつ頃いただけます?」
『う〜』
カンナはしばらく渋い声で唸っていたが、やがて大仰に溜め息をつき、
『……判った、判ったわよ。そっちから先に上げるから。連休明けくらいでいいでしょ?』
「来月の……はい、十日までにあがれば充分です」
『その代わり――』
「もちろんです。あしたはたっぷりとおもてなししますよ」
紫藤カンナから言質をとったひさぎは、これから出社するという口実で電話を切り、途端に携帯を放り出した。
「おまえなあ……!」
「どうして怒るのさ、ひさぎ?」
射精直後のペニスを未練たらしくしゃぶっていたボイスは、口もとをぬぐって立ち上がった。
ひさぎはスラックスのベルトを締め直した。
「俺にそっちの趣味はないと――」
「やれやれ……下はともかく、こっちの構造は男も女も変わらないじゃないか」
ぺろんと舌を垂らして笑った少年ボイスは、ベッドの端に腰を降ろし、大袈裟に肩をすくめた。
「――もしボクがめちゃくちゃヘタだったっていうなら怒られても仕方がないけど、キモチよかったんでしょ?」
「む……」
確かに少年ボイスは――美女ボイスと変わらず、凡百《ぼんぴゃく》の女など寄せつけない手管を見せて、ひさぎの芯をとろかした。
その口中の心地よさに、あっという間に絶頂に上り詰めてしまったひさぎに、いまさらそれを否定する言葉などあろうはずがない。
「前にもいったろ? ひさぎさえよければ、この姿でいくらでも相手をしてあげるって。……えーと、キミが攻めでボクが受け? っていうのかな、キミの業界では? いや、別のボクは逆でもいいんだけどさ」
「お断りだ」
伊達眼鏡をかけ、ひさぎはカバンを片手に玄関へと急いだ。
「――きのうみたいに会社まで来るなよ」
「え〜? ここにいても退屈なんだよ」
「部屋の掃除でも洗濯でも、やることはいくらでもあるだろう? 俺につきまとうなら、せめてそのくらいはやれ」
「ああ、ひさぎ」
ビジネスシューズに足を突っ込み、玄関を出ていこうとしたひさぎに、ボイスが声をかけた。
「――判ってると思うけど、気をつけなよ?」
「ああ」
まだ新聞もテレビもみてないが、おそらくきょうのトップニュースは、嶺崎剛三邸の火災とその死に関するものになるだろう。
あの焼け跡から何が見つかり、どんな騒動に発展するか――あるいは何らかの圧力によって当たり障りのない事件として処理されていくのか――それはひさぎにも判らなかったし、さして興味もない。
ひさぎにとって重要なのは、〈使徒〉との戦いが、あれで終わったわけではないということだけだ。
それ以外は、特に何が変わったわけでもない。
依頼があって、そしてやってもいいと思えるのなら――それで満たされることはないししても――ひさぎはこれからも仕事≠続けるだろう。
「……その格好で外をうろついたら殺すからな」
裸にエプロンをつけて部屋の掃除を始めた少年ボイスにそう釘を刺し、ひさぎはマンションをあとにした。
気の早い桜はすでに散り始め、そよ風に乗ってはかない雪のように飛んでいく。
川面に反射した陽光のまぶしさに目を細め、ひさぎは駅に向かって歩き出した。