今度はマのつく最終兵器!
喬林知
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)超《ちょう》カッコいい
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)青葉|茂《しげ》る五月
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)人間もどき[#「もどき」に傍点]
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ジュリア、俺《おれ》はとても幸せな男だと思う。
きみを失ったとき、俺はこの世の全《すべ》てを憎《にく》み、責めた。自分自身を憎み、責めた。生き延びたことを罪と恥《は》じ、生きてゆくことに絶望した。
もう二度と、生命《いのち》をかけて守るべきものを与《あた》えられることはないのだと、老いの緩《ゆる》やかな魔族《まぞく》の血を呪《のろ》った。
だが、今は違《ちが》う。
あのとき、先に逝《い》ってしまったきみの魂《たましい》の、罪や傷を全部、俺が背負いたい。天国とかいう場所が本当にあるのなら、きみの心がそこに行けたと信じたい。
そしてもし、再びどこかできみが生まれるのなら、それが幸せな生であることを祈《いの》ってる。俺みたいな奴《やつ》と出会って、道を間違えることのないように。
ジュリア
俺は今でも生きてるよ。
きみを忘れることはできないけれど、もう一度、大切なものを見つけたんだ。
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やっぱり忘れられなくて、野球同好会を創《つく》ってしまいました。
目標は草野球日本一、合言葉は「東京ドームでモルツと握手《あくしゅ》!」だ。
「ケーブルテレビのレポーターがさ、おれにマイク向けて訊《き》くんだよ。一度は諦《あきら》めた野球を再開することになったきっかけは何ですかー? だって」
かぽーん、とケロリン桶《おけ》を鳴らしながら、おれはドアの向こうにも聞こえるように大きめの声で語りかける。
「はー、極楽《ごくらく》、極楽。しかも最後にさぁ、ありがとうございました、ダンディーライオンズのキャプテン、渋谷《しぶや》有利|原宿《はらじゅく》不利さんでしたーとか言うんだぜ? 信じられる? ケーブルとはいえ仮にもテレビのレポーターがだよ、こっちがメチャクチャ気にしてることを、全国ネットで言っていいんかっての。ちょっと、聞いてんのかよ村田《むらた》健《けん》」
かぽーん。
「ケーブルテレビはご近所くらいしか視《み》てないよ」
「だとしてもさー」
水音に消されないようにと思ったのか、叫《さけ》ぶような調子で村田は答えた。
「いいじゃないか別に、渋谷有利原宿不利だって! なんかのコンビ名みたいでさっ」
「ウッチャンナンチャンとかぁ?」
「そう、オール阪神巨人《はんしんきょじん》とか」
「うわヤメロお前それっ、おれが巨人や阪神と一緒《いっしょ》にされて喜ぶとでも思ってんのか!? おれは絶対パ・リーグ派なの、生まれたときから太平洋なの」
「その熱パの醍醐味《だいごみ》ってのを教えてやるって言ったのはそっちだろ? なのになんでまだのんびりお湯になんか浸《つ》かってんだよ、ほんとに十三時開始に間に合うのか? もう宮川大助花子《みやがわだいすけはなこ》でも瀬戸《せと》てんやわんやでも渋谷有利原宿不利でも何でもいいよ」
「……村田、お前ってホントは何歳?」
そう、おれの名前は渋谷《しぶや》有利《ゆーり》。裕里でも優梨でも悠璃でもなく。この名前のせいで生まれて十五年間、どんなに苦労したことか。
父親が銀行員だったから、利率のことばかり考えて、息子《むすこ》にまでこんな名前をつけたのかと、ずいぶん両親を恨《うら》んだりもした。結局は出産間近の母親をタクシーに相乗りさせてくれた青年が、名付親だと判《わか》ったのだが……漢字をあてたのはやっぱり親父《おやじ》だよなあ。
ここ数週間のおれはといえば、日曜は朝から草野球の練習で、市民グラウンド近くの銭湯をランチタイム特別料金で楽しんでから、ダッシュで西武《せいぶ》ドームへ応援《おうえん》に駆《か》けつけるという、さながらおっさん野球ファンのごとき生活を送っていた。パ・リーグファンを一人でも増やすべく、本日は村田も引きずって行く予定。
中二中三とクラスが一緒だった眼鏡《めがね》くん、村田健とは、ちょうど一ヵ月くらい前に、公園の便所裏という奇妙《きみょう》な場所で再会した。おれはその直後に、洋式便器から異世界へGO! なんて夢としか考えられないような事件に巻き込まれ、自分の出生に関する衝撃《しょうげき》的事実を知らされたのだ。
たとえば、盛り上がってきた合コンで、皆《みな》が割《わ》り箸《ばし》を片手にこう唱える。
「王様だーれだ」
おれ。
弱冠《じゃっかん》十五歳にして、一国一城の主《あるじ》となってしまったわけだ。
しかも王様ったって、そんじょそこらの王様ではない。世界記録保持者であるダイエーの王|監督《かんとく》にはちょっと負けるかもしれないが、おれの肩書《かたがき》もけっこうすごい。ごく普通《ふつう》の背格好《せかっこう》でごく普通の容姿、頭のレベルまで平均的な男子高校生だったはずなのに……。
おれさまは、魔王《まおう》だったのです。
いきなり異世界に呼び付けられ、超絶《ちょうぜつ》美形の皆さんに取り囲まれて、今日からあなたが魔王ですなんて言われたら、誰《だれ》でもこれは夢だと思う。おれもそう思った。ところが、目を覚ました自分の首には、あちらの世界で貰《もら》ったお守りが。
あれからずっと胸に揺《ゆ》れている、五百円玉サイズの石を握《にぎ》ってみた。銀の《ふちど》縁取りに、空より濃《こ》くて強い青。ライオンズブルーの魔石は、夢ではないのだと訴《うった》えかけてくる。
おれは魔王の魂を持って生まれ、あの国を守ると約束した。
約束したんだ。
「渋谷っ、しーぶーや、本来なら所沢《ところざわ》で乗り換《か》えしてる時間だよ」
「だーいじょーぶだって。コンビニ寄ったりしなければ、この時期のデーゲームは充分《じゅうぶん》間に合うの。試合前の練習時間から、じっくり解説してさしあげますってェ」
「先に外出て待ってるから、少しは急げよなっ」
「はいはい」
銭湯の良さが解《わか》らないなんて、あいつは日本人の風上《かざかみ》にも置けない。あと百数えたらあがろうと、おれは鼻まで湯槽《ゆぶね》に沈《しず》む。目の前を緩《ゆる》やかな流れが横切った。左から右へ、ゆっくり、ゆったりと。
ん?
何故、銭湯の浴槽《よくそう》に一定方向への流れが?
警告を発する心の声に逆らって、恐《おそ》る恐る右手に首を回す。そちら側は壁《かべ》だった。水色の正方形のタイルと白いメジが、平安京《へいあんきょう》なみに整然と広がっている。拳大《こぶしだい》の黒い円を中心にして。
「……黒い円……穴っ!?」
流れの行き先はそこだった。
数秒前より明らかに勢いを増した湯は、その穴にどんどん吸《す》い込まれてゆく。
おれは誰かに報《しら》せようと、前を隠《かく》すのも忘れて立ち上がった。真っ昼間の男湯は貸し切り状態で、子供も大人も長老もいない。
「おい、おーい村田っ! ちょっと店の人、お店の人を呼んでくれ!」
意味なく立ったりしゃがんだりを繰《く》り返しながら、いや待てこれは人にものを頼《たの》む態度じゃないぞと思いなおす。
「村田くん、どこ行っちゃったの!? 村田健さーん! 番台さん呼んでくれー、じゃなかった呼んでくださーい! 湯槽に穴があいてますー、そっからお湯が漏《も》れてますよーう」
誰も来ない。
別におれのせいじゃないんだからさ、知らん顔で脱衣所《だついしょ》に戻《もど》っちゃって、服着てから「お湯が漏れてるみたいだよ」って帰りがけに教えればいいじゃん。だってここで大騒《おおさわ》ぎして、事情|聴取《ちょうしゅ》なんかされちゃったらどうする? 試合開始に間に合わないどころか、おれが壊《こわ》したことになっちゃうかもしれない。下手《へた》をしたら豚箱《ぶたばこ》入りで臭《くさ》いメシを食わされることになる。
ふと穴に目をやると、心なしか先程《さきほど》より大きくなったような。神様、おれはどうしたらいいんでしょうか。正しいお考えをお聞かせください。もしかして魔王という立場上、神様に助言を求めるのはまずいのかもしれない。だったら日本人の心の拠《よ》り所《どころ》、霊峰富士《れいほうふじ》からお力を分けていただこうと、背後《はいご》の巨大《きょだい》な壁画《へきが》を振《ふ》り返る。
箱根《はこね》八里の半次郎《はんじろう》が、旅装束《たびしょうぞく》で微笑《ほほえ》んでいた。何を頼んでも断られそうだ。
「くそっ、最近の銭湯壁画ときたら……ッ! すいませーん、これこのままお湯が流れ出して建物の基礎《きそ》とか土台に染《し》み込んでそっから腐《くさ》って倒壊《とうかい》しちゃったらエライことになっちゃいますよー! 誰か、だーれーかー」
自分で言っていて恐《こわ》くなってきた。とにかくこの流れを止めなくては。
穴に詰《つ》められそうなものを探しても、周りにあるのは桶と椅子《いす》ばかりだ。石鹸《せっけん》ならと思いつくが、あるのはボディーシャンプーのボトルだけだ。
その時おれの頭に浮かんだのは、村を洪水《こうずい》から守ろうと、堤防《ていぼう》の穴を腕《うで》で塞《ふさ》いだ少年の話だった。自らの生命をもって人々を救った、涙《なみだ》なくしては語れないエピソードだ。
どうする? 突っ込むか? おれ。
「えーいもう、死ぬわけじゃなしっ……ええッ!?」
思い切って右手を突っ込んでみたら、その衝撃《しょうげき》でタイルが壊れ、穴は倍近くに広がってしまった。こうなるとおれが「犯人」なのか!? 慌《あわ》てて左手も押《お》し入れてみる。漏洩《ろうえい》は治まるどころか、おれの身体《からだ》が動きそうなくらいに強まっている。ザ・バキュームという勢いで、おれごと中身を吸い出しそうだ。まさかそんな、それなりに成長した平均的体格の男子高校生が、実際に風呂《ふろ》に流されるはずが……。
けどおれ、過去に一度、流されてなかったっけ?
「また!?」
両手首をぎゅっと掴《つか》まれたような状態で、おれはタイルの穴に吸い込まれる。いやそんな、物理的に無理だ、生物学的にも無理だ、グローバルに地球規模で考えても無理だ。どうサルティンバンコっても無理なのに!
予想どおり、あの日と同じスターツアーズ。
なあ、にーちゃん。
なんだ弟?
人間の身体って「ワープ」するとどういうふうになっちゃうの?
はあ!?
だってさあ、人類はそのうちすごい宇宙船を造って、他《ほか》の惑星《わくせい》にも行くんだろ? スターウォーズとかスタートレックとかレッドドワーフ号みたいに。だったらその時までに肉体を訓練しとかないと、ワープ中にゲロ吐《は》いたりしたらみっともないだろー?
ばっかじゃねーのお前!? 夢みたいなことばっか言ってんじゃないよ。そんなこと考えてるヒマがあったら、英単のひとつでも暗記しろっての。そんなんだから成績|悪《わり》ィんだよ。先週も駅で元担《もとたん》のオカムラに見つかって「実の兄弟とは思えない」って笑われたんだからな。空間移動装置なんて俺達《おれたち》が生きてるうちには開発されっこないんだから、そんな心配するだけ無駄《むだ》! ワープ訓練なんて必要なし!
とか言われても、やっぱやっとくべきだった。
だって実際に、おれはこうして何度も空間移動をしているわけだし、エチケット袋《ぶくろ》を持つ余裕《よゆう》もないから、吐瀉物《としゃぶつ》がどうなるか判《わか》らないし。
さっきまでと明らかに違《ちが》う場所で目を覚ましても、今更《いまさら》取り乱したりはしなかった。
だってまた、呼ばれちゃったんでしょう? おれ。
水に流されて異世界に来てしまうのは初めてではない。公衆便所からでないだけ今回の方がましだ。剣《けん》と魔法《まほう》の世界に迷い込んだ主人公が英雄《えいゆう》として大活躍《だいかつやく》する話はごまんとある。おれの場合はちょっと特殊《とくしゅ》だが、キャラ設定でジョブが「魔王」に変わっただけのことだ。
まだはっきりしない視界は一面の灰色で、仰向《あおむ》けに横たわった身体は海月《くらげ》みたいにゆらゆら揺《ゆ》れていた。背中はほんのりと温かいのに、逆に胸と腹は薄《うす》ら寒い。浴槽《よくそう》の穴に突っ込んだはずの両手は、人差し指だけを突き出して組まれている。忍術《にんじゅつ》か、カンチョーか。
いったい何の穴を塞《ふさ》ごうとしてたんだ……。
灰色だったのは高い天井《てんじょう》で、ゆっくりと周囲を見回すと、わざとらしい椰子《やし》の木とかジャングルがあった。昔、町内の子供会で行った、サマーランドによく似ている。どうやらおれは温水プールの中央に、気を失って浮《う》かんでいたらしかった。
慎重《しんちょう》に立ってみると、ちゃんと足の裏が底に届いた。水位は臍《へそ》よりちょっと上で、お子様専用といった深さだ。遠くで数人が身を寄せ合っている。もしかしておれの髪《かみ》の色に怯《おび》えているのだろうか。この世界では黒目黒髪は、魔族だけに生まれる希少価値で、ほとんどの人間の皆《みな》さんは縁起《えんぎ》が悪いと恐《おそ》れている。
縁起が悪いというより、不吉《ふきつ》。
不吉というより、邪悪《じゃあく》。
悲しいことにここでは種族間差別が激しくて、魔族と人間は敵対している。人間は魔族を恐れ攻撃《こうげき》し、魔族は人間を嫌《きら》い軽蔑《けいべつ》している。その状況《じょうきょう》を少しでも改善したくて、おれは王になると宣言したのだが。
「あの、大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。おれほら何にもしませんから。どっちかっていうと女の子には人畜《じんちく》無害のレッテル貼《は》られてる奴《やつ》だから」
いくら理想に燃えた王様でも、プールで全裸《ぜんら》じゃ説得力がない。
「露出《ろしゅつ》好きとか、そういうビョーキでもありませんし」
肩《かた》まで浸《つ》かっているので判らないが、恥《は》じらう様子や仕種《しぐさ》からして、先方は女性グループと思われる。五、六人のうち一番手前にいたオレンジの髪のおねーさんが、ジャズシンガー張りのハスキーボイスで問いかけてきた。
「……陛下《へいか》?」
「え?」
思わず小躍《こおど》りしてしまう。
おれの日本人的黒髪を見て「陛下」と呼べるのは魔族しかいない。つまり彼女達は魔族の一員で、ここは眞真《しんま》国内のどこかということだ。前回は国境外に落ちてしまい、人間の村人の集団に石は投げられるわ鋤《すき》鍬《くわ》はかまえられるわという、悲惨《ひさん》なウェルカムイベントだったのだ。
「良かった! 今回は場所が普通《ふつう》で! ただちょっと格好《かっこう》だけがセクシー過ぎちゃったんですけど……あのー誰《だれ》かバスタオルとか持ってたら、必ず洗濯《せんたく》して返しますんで、貸してくれたりしませんかねぇ。それか皆さん全員がしばらく目ぇ瞑《つぶ》っててくれれば、さーっとこの場を立ち去るんだけど……え!?」
「陛下ァーッ!」
妙《みょう》に肩幅《かたはば》の広い金髪《きんぱつ》の人が、野太い声で叫《さけ》んで立ち上がった。
おれだけではなく、彼女達も全裸だ。
「ええッ!?」
「陛下よーッ、本物よーッ、カーワーイーイー!」
派手な水しぶきを上げて駆《か》け寄ってくる。
「あれっ、あれ皆さん、どーして誰一人として胸が……ぎゃ……」
水中に押《お》し倒《たお》されてしまう。生まれてこのかた、こんなにモテモテだったためしはない。金髪美女がおれを取り合うなんて夢のようだ。だが大きな問題がひとつあった。
誰一人として、胸がないのだ。もちろん、バストにあたる場所には引き締《し》まった膨《ふく》らみがちゃんと存在する。するこたするんだけど、これは胸筋のような気がするんだよなあ。しかも積極的なおねーさんたちは、抱《だ》き締めて頬《ほお》ずりまでしようとする。
「ざらり……って今のヒゲ!? ヒゲの剃《そ》り跡《あと》っ!? もしかしてあんたたちって、おねーさんじゃなくておにー……がぼ……」
「陛下、お迎《むか》えに参りまし……ああっ!!」
ぱーんとドアが開いた。
あらゆる意味でいけない世界に連れていかれそうになっているおれの耳に、聞き覚えのある声が届いた。シブヤユーリを一人前の魔王にしようと一生|懸命《けんめい》な二人組が、息急《いきせ》き切って走ってくる。それはもう、ステージへの花道をゆくアイドルのように。
ただし、外見だけなら地球産のイケメンさんたちなど足元にも及《およ》ばない。あんまり綺麗《きれい》すぎて背中に花びらとか見えそうだ。
教育係のフォンクライスト卿《きょう》ギュンターは、灰色の長い髪を振《ふ》り乱し、紫の瞳を泣きそうに潤《うる》ませていて、超絶《ちょうぜつ》美形が台無しだ。それに比べてウェラー卿は、不謹慎《ふきんしん》な笑いを堪《こら》えているような、演技派|俳優《はいゆう》っぽい顔をしていた。そりゃあないよコンラッド、ついこの間の夜半には、キャッチボールした仲じゃないの?
おねーさんたち改めおにーさんたちは、おれの下半身に抱きついたりしている。
「早く助け……がぼゴ……ああでっ、でボっ、プールサイドは走るの禁……ッ」
「陛下、ご無事ですか!? その手を離《はな》しなさいお前たち! そのお方をどなたと心得る!?」
水戸《みと》黄門《こうもん》ではない。携帯《けいたい》電話でいうパールホワイトの服が濡《ぬ》れるのもかまわず、ギュンターは一団に割って入った。印籠《いんろう》とか預けておけばよかったよ。
「……ギュンターさまですって?」
おにーさんたちの顔色が変わる。
「な、なんですか、その目つきは」
教育係はたちまち彼等の視線を釘《くぎ》づけにしてしまう。
「きゃーっ陛下も可愛《かわい》らしいけどギュンターさまもステキーっ! さすが眞真国一の超絶美形、濡れるとますます美しいわーッ」
「ぎゃああああああ」
嬌声《きょうせい》というより怒号《どごう》に近い声をあげて、野郎どもは美人さんに襲《おそ》いかかる。
まったく、美しさは罪だ。
「はい、救出成功」
ラガーマンのスクラムの中央から零《こぼ》れたボールを拾うみたいに、コンラッドがおれを抱《かか》え出す。そのまま湯から引き上げられ、ホテルのバスローブらしき物をかけてもらう。
おれの貴重な野球仲間は、記憶《きおく》どおりに爽《さわ》やかに言った。
「お帰りなさい、陛下」
「……ただいま、名付親。あんたは名付親なんだから、他人|行儀《ぎょうぎ》に陛下なんて呼ぶなよ」
「そうでした」
彼こそがおれの魂《たましい》を地球にまで運び、ボストンの街角で臨月だったおふくろを相乗りさせてくれた好青年だ。従ってウェラー卿コンラートはアメリカ帰りで、おれの名前をつけた人だ。こんなに若くてかっこいい男が名付親だなんて、クラスの女子が知ったら羨望《せんぼう》の嵐《あらし》だろう。けれど二十歳《はたち》くらいに見えはしても、実際にはうちのお祖父《じい》ちゃんよりも年上だ。この世界では魔族《まぞく》の血はとても長命で、おまけに美しさも折り紙付き。コンラッドは人間とのハーフだから地味《じみ》なほうだが、それ以外の貴族達はすこぶるつきの美形ぞろい。ギュンターとまではいかなくても、人間離れした美貌《びぼう》の連中がぞろぞろいる。
ま、基本的に人間じゃないんだけどね。
顔もガタイも脳味噌《のうみそ》も十人並みのおれとしては、劣等感を刺激《しげき》されて、こんなんで本当に王様なのかと膝《ひざ》を抱《かか》えて悩《なや》むばかりだ。
「あっちの世界はどうです、母上はお元気ですか。ああそれから」
コンラッドは、銀を散らした薄茶《うすちゃ》の瞳《ひとみ》をいたずらっぽく細めて付け足した。
「レッドソックスは、今何位?」
「この時期の順位なんか参考にならないよ」
おれもニヤついた。彼との共通点はここだ。ボストンでベースボールの楽しさに目覚めちゃったコンラッドは、メジャーリーガーのサインボールも所有している。今のところ眞真国の野球人口は二人、その内訳は、彼とおれ。
「でもほら、今年は野茂《のも》が……へぶしッ」
「お大事に。大丈夫《だいじょうぶ》かユーリ、とりあえず俺《おれ》の上着で我慢《がまん》して。風邪《かぜ》でもひかれたら大変だ。ギュンターに何を言われるか判《わか》らない」
「平気、鼻に水が入っちゃっただけだから。そういえばギュンターは」
彼は温水プールの中央で、おねにーさんたちに揉《も》みくちゃにされていた。
「こん、コンラートっ、笑ってないで、助け……ッ」
「いやーっ、お逃《に》げにならないでギュンターさまぁーっ!」
というより「逃がすか!」って感じ。おれは知り合って初めて、彼の美しさに感謝した。
「ありがとうギュンター、おれなんかのために。あんたのことは一生、忘れないよ」
「陛下《へいか》!? お待ちください陛下っ! 私《わたくし》まだ死んだわけでは、私まだーっ」
日本時間で約一ヵ月前、おれはこの国の王都にある血盟城に滞在《たいざい》した。
「でもここは、あそこと違《ちが》う感じだな」
「仰《おっしゃ》るとおりでございます、陛下。この城は、偉大《いだい》なる魔王とその民《たみ》たる魔族に栄えあれああ世界の全《すべ》ては我等魔族から始まったのだということを忘れてはならない創主たちをも打ち倒した力と叡知《えいち》と勇気をもって魔族の繁栄《はんえい》は永遠なるものなり……」
うっとりと目を閉じて歌いあげるギュンター。あたかもオペラのテノールのように。上向いた指先まで決まっている。国歌かと思いきや国名である。大胆《だいたん》に略すと眞真国。
「……王国の東に位置するヴォルテール城でございます」
「ヴォルテール! てことはもしかしてグウェンダルのお城!?」
「お察しになられるのが早い。陛下のご聡明《そうめい》さには感服させられること頻《しき》りです」
通された部屋《へや》は、一流ホテルのイベントホール並みの広さだった。壁《かべ》には剣《けん》と盾《たて》が掛《か》けられていて、四隅《よすみ》には中世の騎士《きし》風の甲冑《かっちゅう》人形が立っている。
城の主人であるフォンヴォルテール卿グウェンダルの姿はない。学ランタイプの服を着せられたおれと、長い脚《あし》を組んで壁に寄り掛かっているコンラッド、それに嬉《うれ》しげに目を細めるギュンターだけが暖炉《だんろ》にあたっている。眞真国カレンダーでは春の第三月、それでも日没後《にちぼつご》には火が恋《こい》しい。
「ああ陛下、ご健勝そうでなによりです。急にお姿を消されたので、あまりのことに私、十日も泣き暮らしてしまいました」
コンラッドが後ろで、ほんと、と口だけ動かした。
「そりゃ悪かった。でもおれ魔王である前に、一人の家庭人でありたいからさ」
「なんとご立派なお言葉!」
ギュンターの頬には、巨大《きょだい》な唇《くちびる》マークがべったり残っている。つけた相手が相手なだけに、モテすぎるのも考えものだ。
「でしたら尚更《なおさら》、国家のことをお気にかけてくださらなくては。即位《そくい》なされた今となっては、民《たみ》は皆、王の子供と同じですから」
「十五歳にして、すげー子沢山《こだくさん》!」
「はい。それでは陛下、こちらの文書にご署名をお願いいたします。直轄地《ちょっかつち》の春期の税収に関する報告と雨期に向けて堤防《ていぼう》の強化を申請《しんせい》した地区への許可です。担当官の話を聞きました上で、僭越《せんえつ》ながら申し上げれば、この辺りの数字で妥当《だとう》かと存じます」
おれよりもあなたのほうがよく理解しているでしょう。なるほど、国政ってこうやって成り立っているんだな。トップに立ってる者よりも参謀役《さんぼうやく》のが頭がいい。
「ここにサインね……サイン……くーっ緊張《きんちょう》するなあ。ガキの頃《ころ》は野球選手にでもなんなくちゃ、サインなんて頼《たの》まれないと思ってたからねっ」
カードで買物すると、誰《だれ》でもサインを求められるのだと知った十二の夏。
おれの鯱張《しゃちほこば》った署名を見て、ギュンターはまたしてもベタ誉《ぼ》めモードに入った。
「素晴《すば》らしい。この優美にして勇壮《ゆうそう》な線の組み合わせ! このような芸術的な書体は目にしたこともございません。いかに手先の器用な者とて、真似《まね》ることのかなわぬ複雑さですね」
そりゃそうだ、あの有名なジャン・レノでさえ、漢字を写すのには苦労していたのだ。四字熟語のごとく並べられた渋谷有利原宿不利には、贋作家《がんさくか》だっててこずるに違《ちが》いない。
ん? 渋谷有利原宿不利って……原宿まで自分で書いちゃうことはないだろう!?
「さて」
ギュンターが急に真剣《しんけん》な表情で言った。いやな予感がする。教師がこんな顔をすると、次にくるのは大体が縁起《えんぎ》でもない発言だ。お前をベンチ入り名簿《めいぼ》から外すとか、福田《ふくだ》君の給食費が盗《ぬす》まれましたとか。銀行|振込《ふりこみ》のはずなのに。
「陛下には、重要なご決断をしていただかなければなりません」
「なっ、なにかな」
ずいっと詰《つ》め寄ってくる。特に男に弱いわけではなくても、胸の鼓動《こどう》が高まってしまう。
「人間どもに不穏《ふおん》な動きがあるのです。近いうちに一戦まじえることになるでしょう。どうか開戦のお覚悟《かくご》を」
「開戦って……戦争!? 言っただろ!? おれは絶対に戦争しないよ! 覚悟もなにも、しないったらしない。この国の王様になったときに、戦争はしないって決めただろ!?」
そう、おれが魔王《まおう》になったのは、魔族と人間の共存のため。種族が違うから殺し合っていいなんてのは間違ってる。戦争は絶対に間違ってるんだ。この世界でそれを唱える人がいないなら、おれが最初の一人になるしかない。たとえ魂《たましい》は魔王でも、日本人として生まれ育ったからには、それが異国での役割ってものだ。
「ですが陛下、我々から攻《せ》め込みはしなくても、奴等《やつら》が仕掛《しか》けてきたらどうなさいます? 戦わずして降伏《こうふく》するようなことは、我《わ》が国としてもできるはずが……」
「それでもとにかく戦争は駄目《だめ》だ! 開戦の書類にサインなんかしないかんなッ! あっまさかさっきのがそうだったんじゃないだろうな!? だいたいなんだよ不穏な動きって、具体的に言ってくんなきゃわっかんねーよッ」
背後《はいご》から、絶対無敵の重低音が答えた。
「金に任せてやたらと法術士を集めている。人間どもが我々魔族と渡《わた》り合うには、法術使いが不可欠だからな」
大きな扉《とびら》を開け放って、天使と悪魔が立っていた。ゴッドファーザー愛のテーマでご登場のこの城の主人、フォンヴォルテール卿グウェンダルと、ウィーン少年合唱団OBかという本格派美少年、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムだ。
おれのコンプレックスを刺激《しげき》してくれる美形集団が、これで全員|揃《そろ》ったわけだ。
似ていない兄弟というのは、本当に存在する。
前魔王の長男であるフォンヴォルテール卿グウェンダルは、限りなく黒に近い灰色の髪《かみ》と、どんな美女でも治せない不機嫌《ふきげん》そうな青の眼《め》で、誰よりも魔王に相応《ふさわ》しい容姿を持っている。声も腰《こし》にくる低音だ。一方、三男のフォンビーレフェルト卿ヴォルフラムは、身長体重はおれといい勝負で、天使のごとき美少年だ。彼が魔族だと知らなければ、神様が創《つく》った最高|傑作《けっさく》だと思ってしまうだろう。きらめく金髪《きんぱつ》、白い肌《はだ》、長い睫毛《まつげ》とエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》。ただし性格はクソ生意気で、きゃんきゃん吠《ほ》えるポメラニアン。
この二人が血の繋《つな》がった兄弟なのだから、遺伝ってやつは奥《おく》が深い。さらにもっと驚《おどろ》かされることに、二人の間にはコンラッドが入る。
前魔王現上王陛下フォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエ陛下こと、フェロモン女王ツェリ様が、剣以外には取り柄《え》もなく素性《すじょう》も知れない人間と恋《こい》に落ち、生まれた息子《むすこ》がウェラー卿コンラートだ。他《ほか》の魔族達の美形ぶりからすると、彼は非常に人間に近い。うまく説明できないが、ハリウッドで映画のオーディションをすると、顔がまあまあの役者はいっぱい来るだろう、その中で脚本家が一番気に入っている脇役《わきやく》として、選ばれるのがコンラッド。審査員《しんさいん》のコメントは、こうだ。
彼の演技の裏側には「真実」が見えるから。
そいつどんな奴? って誰かに訊《き》かれたら、ウェラー卿のことだけはこう答えられる。彼以外の魔族の様子ときたら、国語教師でもなければうまく言えない。美辞をどれだけ尽くしても、完全に描写《びょうしゃ》することは不可能だろう。
とにかく、グウェンダル、コンラート、ヴォルフラムの三人は、同じ母親から生まれた兄弟だが、外見も性格も考え方も、似ているところは一つもない。
「そいつが私《わたし》の城に入る許可を、与《あた》えた覚えはないのだがな」
「ユーリ! 戴冠式《たいかんしき》の最中に消えるなんてっ、まったくお前という奴は……」
おれを見下して嫌《きら》っているグウェンダルはそう言い捨て、おれにくってかかるのが趣味《しゅみ》のヴォルフラムはそう切り出した。二人が同時に歩きだして、中央のテーブルに寄ってくる。脚《あし》の長さの違いからか、グウェンダルが先におれの椅子《いす》まで来た。
高い位置から見下ろしてくる眼は、権力者の威厳《いげん》と自信に満ちている。
あんたが何と言おうとおれはもう魔王として即位《そくい》したんだから、言い包《くる》められたりビビったりしないぞ、と身構える間もなく、彼は脇を通り過ぎて、ギュンターとコンラッドの前に地図を広げた。
「カヴァルケードだ」
「カヴァルケードが? まさか」
「いや、ソンダーガードと見せかけて、カヴァルケードが金を出していた。私の間者の言葉を信じないというのなら、独自に調べてもらうしかない」
カバとゾウがどうしたっていうんだ。
地図を覗《のぞ》き見ると、眞魔国らしき土地と、海を隔《へだ》てて向かい合った大陸を指差している。色分けされた国のどれかが、カヴァルケードでソンダーガードなのだろう。グウェンダルの最初の言葉から判断すると、カヴァルケードの人間達が魔族を攻撃《こうげき》しようとしているらしい。
ギュンターは、典型的な頭のいい人口調になっている。
「しかしカヴァルケードは今、海賊《かいぞく》問題でそれどころではないはずでしょう? タウログからの便もことごとく被害《ひがい》にあっていて、ソンダーガードやヒルドヤードからも援助《えんじょ》を受けているという話では……」
「表向きはな。だが海賊被害の何割かは、自国に戻《もど》されているという情報もある」
狂言《きょうげん》!? 狂言海賊!?
大人って汚《きたな》いわ的な世界に耳をそばだてているおれの首を、ヴォルフラムが乱暴に引き戻した。湖底を思わせる緑の虹彩《こうさい》が、こちらに照準を合わせてきた。
ターゲット、ロックオン。
「この国の王になると言っておきながら、ぼくの前から姿を消すとはどういうことだ!? 戴冠式が無事に済んだら、きちんと決着をつけるつもりだったのに!」
「け、決着って、あれは引き分けでいいって……あっいやお前が気にくわないんならさ、おれの負けでもいいってことになったじゃん。そんな、終わってみれば決闘《けっとう》なんてさ、タイマン張ったらダチ! みたいなもんでさっ」
そうだった。眞魔国の礼儀《れいぎ》作法を知らなかったおれは、前回この天使のような美少年(でも実年齢《じつねんれい》は八十二)に、うっかり無礼をしてしまったのだ。ビンタが求婚《きゅうこん》で食事中に落ちたナイフを拾ったら決闘だなんて、現代日本では考えがたい。決闘なんて血なまぐさい風習は、平和ボケした高校生には無縁《むえん》だった。それ以前に、男同士でしょ、おれたち。
「お前はけっこう強かったし、おれもなかなか頑張《がんば》った。もうそれでいいじゃん、決闘とかリベンジとかいわなくてもさぁ」
「その決着じゃ……あっ、ユーリ! これはどういうことだ!? ぼくがやった金の翼《つばさ》は身につけていないのに、コンラートの魔石《ませき》だけは持っているなんて……ッ」
「え? だってあれブローチだったからさ、まさか胸にじかに針刺《はりさ》すわけにいかないだろ。なにしろ今回、全裸《ぜんら》だぜ!? 全裸でこっちに喚《よ》ばれちゃったんだから」
「服も着ずに!? まさかお前、あちらの世界の素性《すじょう》も知れぬ者と、情事の最中だったのでは」
「情……はあ!? おれが!? 十五年間モテない人生送ってきたこのおれがぁ!?」
「そう言ってごまかそうとしても無駄《むだ》だぞユーリ。だいたいお前には慎《つつし》み深さというものが足りない。まあ、少しばかり……見目いいし……誘《さそ》われるのは致《いた》し方ないにしても、だ」
「はあ、つ、慎み深さですか」
それ以前に、あんたたち独特の美的感覚で、おれをハンサム侍《ざむらい》にするのはやめてくれよ。
その時、いつもどおりのんびりとした、けれど背中には真実を隠《かく》した声で、コンラッドが討議中のギュンターとグウェンダルに言った。
「二人とも、そういうことは、まず陛下に報告するのが筋じゃないか?」
一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》の後、教育係は慌《あわ》てて自らの立場を思い出し、長男は不愉快《ふゆかい》そうに末弟と目の上のたんこぶであるおれを眺《なが》めた。
「子供は子供同士、話があるようではないか」
おれは全力で、コンラッドが靴《くつ》をはさんで開いてくれた扉の隙間《すきま》に駆《か》け込まなくてはと焦《あせ》る。彼の信頼《しんらい》に応《こた》えなくては、王と名乗るべき資格はない。
「いっ、言っただろ? 戦争はしない。おれのこの目の黒いうちは、誰《だれ》も戦争なんかで死なせたくないんだ」
案の定《じょう》、駆け込み乗車は危険だった。たちまち冷たい反撃《はんげき》にあう。
「では、どうしたいというのかね、陛下」
フォンヴォルテール卿の「陛下」にはいつも刺《とげ》があり、腕組《うでぐ》みをして冷たく見下ろしてくる視線にも険がある。二ヵ月前のおれだったらたちまち引き下がっていただろう。
「間もなく攻《せ》めてくる人間どもに、応戦もせずに国をくれてやれとでも?」
「攻めてくる相手が判《わか》ってるんなら、対策だって立てやすいじゃないか! 話し合いの場を持ちゃあいいんだよっ。そっちはうちの国の何が欲しいのって訊いて、だったらそっちの特産物のあれと交換《こうかん》しましょうとか、協定とか条約とか結べばいいんだ」
グウェンダルは呆《あき》れたように右手を振《ふ》り、部屋《へや》の外に控《ひか》えている衛兵を呼んだ。
「陛下はお疲《つか》れのご様子だ。部屋までご案内しろ」
新前《しんまい》魔王であるおれは、思わずあっさりご案内されそうになる。
「これはご親切に……じゃねーぞ!? 待てよ、話は終わってないぞっ!? 王様の命令なんだから、ちゃんと従えよッ」
一生トラウマになりそうな眼《め》で睨《にら》まれた。
「し、従ってくだサイ」
「知ったような口をきくな。話し合いに応じるような相手であれば、素人《しろうと》に言われるまでもなくそうしている」
「断られたの? まあそうだよね、アンタがえっらそーにしかも高飛車《たかびしゃ》に話し合おうって言ったって、普通は恐《こわ》くてやだって思うよ」
おれのことなど壁《かべ》の落書きくらいにしか思っていないグウェンダルが、目に見えて苛々《いらいら》し始めた。誰《だれ》だって落書きに意見されれば頭にくる。それが正しければ尚更《なおさら》だ。
「その点、おれだったら向こうも話を聞いてくれるかもしれない。だってあんたたちみたいに迫力《はくりょく》もないし、どこにでもいそうな平凡《へいぼん》な人間だし」
これには非難ごうごうだった。
「平凡な人間だって!? ユーリがか!?」
「陛下は魔族ですッ! 魔族の中でも高貴なる黒を御身《おんみ》に宿された、正真|正銘《しょうめい》の魔王ですっ」
「コンラート!」
長男は、武人としては評価している弟の名を呼んだ。苛つきが最高潮に達しているのか、卓上《たくじょう》で組まれた長い指はゲームのコントローラーを握《にぎ》ったみたいに動いている。怒《いか》りに震《ふる》えているのかもしれなかった。コンラッドには緊張《きんちょう》のかけらもない。この人が狼狽《ろうばい》するのは、いったいどんなときなんだろう。
「なにか」
「お前の気に入りの新王陛下は、我々魔族と人間どもと、どちらを勝者にするつもりだ?」
「……俺《おれ》には難しい質問だな。陛下はまれにみる大物だから。でも」
彼は勢いをつけて壁から背中を離《はな》し、おれを楽しげに横目で見てから言う。
「戦《いくさ》を回避《かいひ》する方法なら、お勧《すす》めの案がひとつある」
「どんなどんなっ!?」
「まあ落ち着いて。ギュンターが説明しますから」
教育係は、長く長く長く溜息《ためいき》をついた。明らかに不本意ながらという態度だ。心なしか豊かな髪《かみ》が艶《つや》をなくし、超絶《ちょうぜつ》美形も曇《くも》っている。
「我々魔族には、魔王陛下その人しか手にすることのできない伝説の武器があるのです。その威力《いりょく》たるや、ひとたび発動すればこの世の果てまで焼き尽《つ》くすという……実際には小都市を吹《ふ》き飛ばす程度ですが……とはいえそれが伝説の剣《けん》であることに変わりはございません。史上最強の最終兵器、その名も……」
「最終兵器《リーサル・ウェポン》! メルギブだな!?」
「いいえ陛下、モルギフです」
なんだよ、リーサル・ウェポンつったらメル・ギブソンでしょ。その紛《まぎ》らわしい名前を聞いて、グウェンダルは小さく舌打ちした。どうやらお気に召《め》さないらしい。
「最後に発動させたのは八代前のフォンロシュフォール・バシリオ陛下で、その後は杳《よう》として行方《ゆくえ》が判らなくなっておりましたが、先頃《さきごろ》、ずっ……そっ、その在処が……ずずっ」
「見付けたんだね!?」
さっきまでおれに文句をつけることに夢中だったヴォルフラムが、素直《すなお》な感想をぽろりともらした。
「なるほど、最終兵器が魔王の許《もと》に戻《もど》ったと広まれば、周辺の国々も迂闊《うかつ》に我《わ》が国に手を出せなくなるな。千年近く手にした者はいないから、王としての格も上がって畏《おそ》れられるし」
「そんなにすげーの?」
「記録では、モルギフが人間の命を吸収して最大限の力を発揮した時には、岩は割れ川は逆流し人は焼き消えて、牛が宙を舞《ま》ったらしい」
「牛が!?」
驚《おどろ》くポイントを間違《まちが》えた気がするが、とにかく凄《すご》い武器だということは判《わか》った。
「じゃあそれ、その兵器を手に入れれば、この国はどこよりも強くなるんだな? そしたら皆《みな》が畏れをなして、戦争|仕掛《しか》けてくることもなくなる、っと。いいじゃん! いいこと尽くしじゃん!? 今すぐダッシュで取りに行こーぜ? どこに行きゃいいの? 誰が行ってくれんの? メルギブ取りに」
「モルギフです」
「あそ」
ギュンターは俯《うつむ》いたまま続けた。長い睫毛《まつげ》が震《ふる》えている。
「眞魔国の東端《とうたん》であるここ、ヴォルテール地方から、船でかなりの長旅になります。シマロン領ヴァン・ダー・ヴィーア島というずっ……ずず……み、未開の野蛮《やばん》な地に……っ」
「行ったこともないのに未開だの野蛮だの言うのは良くないってェ」
「そ、そうでございますが、ああっ陛下! 私、やはりこの策には賛成いたしかねますッ! 戦で民《たみ》を傷つけたくないと仰《おっしゃ》る陛下のお優《やさ》しいお心遣《こころづか》いには、いち家臣として痛み入るあまり、涙《なみだ》の流れる思いですが」
うわ、涙どころか鼻水が。そんなんでおれに抱《だ》きつかないでください、あっおれの手をとって頬《ほお》ずりとか鼻ずりとかしないでくださいィー!
「モルギフは魔王ほ本人にしか持つことができません。人間どもの領域に陛下がお行きになるなんて、牙《きば》を剥《む》く野獣《やじゅう》の群れに最高級の肉を放り込むような無謀《むぼう》さですっ」
「肉に例えんなよ肉に」
「それ以前に、野獣の群れはどんな肉でも気にしないけどね、陛下」
「しかも陛下っ、ヴァン・ダー・ヴィーアはこれから年に一度の祭りの時期を迎《むか》えるのです。島民のみならず各地から敵がッ、陛下の全《すべ》てを我《わ》がものにせんと狙《ねら》って」
「だからそれって普通《ふつう》の観光客でしょ。ちょっと待て、何を? 何を狙うって?」
グウェンダルが呆れて部屋《へや》を出ていく。
彼の堂々とした後ろ姿を目で追いながら、自分自身に言い聞かせなくてはならなかった。確かにあいつは威厳《いげん》とか風格とか、おれにはないものを持っている。この国の行く末を真剣《しんけん》に考えてもいるだろう。けれど、あんたとおれとではやり方が違う。どちらが正しいかは今だけじゃなくて、この先ずっと判らないかもしれない。
悪いけど、グウェンダル、おれの中の日本人のDNAが、小市民的正義感を叫《さけ》ぶんだよ。
「……ですから人間の領地では魔術の効果が薄《うす》いのです。つまり魔術の練達者では、陛下をお護《まも》りすることができないのです」
よく聞いていなかったが、魔術なんかどうせ使えないから関係ないだろう。
「それはいいんだけどさ、そのモルギフだかいう武器は剣なんだよな? 王様が持つ最終兵器なんだから、ラグナロクとかエクスカリバーとかオリハルコンとか備前《びぜん》オサフネとかって、それがないとラスボスとバトルできないような、超《ちょう》難解なダンジョン奥《おく》にある聖剣なんだろ?」
ギュンターとコンラッドとヴォルフラム、全員が一様に聞き返す。
「聖剣ー?」
「せ、聖剣じゃないの?」
「陛下、またそのようなお戯《たわむ》れを」
「そうだぞユーリ、聖剣なんて有り難くも何ともないだろう」
「陛下、魔王の持つ剣なんだから……」
魔剣に決まってるじゃないですか。
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この石を耳に当てると、なんだか波の音が聞こえるような気がするんだ。きっとどこか遠い国から、海を渡《わた》って来たんだね。
「そんなもん耳に当てなくても、波の音は聞こえますよ。海の上にいるんだから。さ、陛下《へいか》、起きてください、それがいやならせめて起きるのか寝《ね》てるのかだけでも決めてください」
「ううー、揺《ゆ》れてるー」
「当然。船だから」
そうだった。
魔王にしか持つことを許されない伝説の剣、最強最悪の最終兵器モルギフが眠《ねむ》るというシマロン領ヴァン・ダー・ヴィーア島、大ざっぱに言うと人間だけの住む土地に向けて、おれたちは船上の人となっていた。
艦隊《かんたい》を出すと言ってきかないギュンターを、そんなことしたら攻撃《こうげき》される、人間のふりして目立たないように行くのが一番確実だと説得するのはそりゃあもう大変だった。怪《あや》しまれないようにとおれの髪《かみ》を黒から赤毛に染めたのだが、今度はそれを見て「私の陛下が……」と言ったきり目を潤《うる》ませて震えるばかり。いつのまに「あなたのシブヤユーリ」になったんだよ、まったく。渋谷区のキャッチフレーズじゃねーんだから。
自分が同行できないと知ったときの、嘆《なげ》きようも凄《すご》かった。狼狽《うろた》えて高級そうなカップを三つ割った。だってあんたみたいな超絶《ちょうぜつ》美形を連れて人間の国を歩いたら、女の子にチェックされちゃってどうしようもない。それに誰か賢《かしこ》い人が王都に残ってフォローしてくれないと、王様不在がバレちゃうだろと説明しても、「陛下はこのギュンターがお嫌《きら》いなのですか」とくる。慌《あわ》てて、好きとか嫌いとかそういう特別な感情は持っていないと、優秀《ゆうしゅう》な上司っぽく言ってみたが、だーっと涙《なみだ》を流された。顔と性格のギャップが、ここまで顕著《けんちょ》な奴《やつ》も珍《めずら》しい。
どうにか教育係を説得して、おれはカクさんことコンラッドだけをお供に国を出た。
カヴァルケード、ソンダーガード、ヒルドヤードの三国のうち、海を隔《へだ》てて眞魔国と向かい合っているヒルドヤードだけは国交があるので、ヴォルテール地方の港町から、商船で三日かけて異国に渡《わた》った。
隣接《りんせつ》する国々から非難されながらも、ヒルドヤードが眞魔国との往き来を続けるのは、建国時の助力への感謝ということだ。だがそれは皆《みな》に対する建前で、シカトするよりも貿易で儲《もう》けたほうが得策、というのが本当のところらしい。
計算高い国だ。
シルドクラウトはヒルドヤードの南端《なんたん》に位置する。空港でいったらハブ空港で、世界各地から船と人が集まる、貿易国家の縮図というような、活気あふれる港だった。そこの市場で人間様愛用の品々を買い揃え、ヴァン・ダー・ヴィーア島行きの豪華《ごうか》客船に乗り込む。
はずだった。
ギュンターが現地コーディネーター(色々な地域の色々な場所に、魔族《まぞく》の息のかかった者は居るらしい。ちょっとしたスパイ大作戦だ)にリザーブさせた豪華客船は、タイタニックとまではいかないまでも、代打ニックくらいにはゴージャスだった。全長はおれの足で走って十二秒だから、百メートルちょっとという規模だろう。
水色の制服の船員が、たたまれた真っ白な帆《ほ》の下で所狭《ところせま》しと働いている。乗り込んでいくお客さん達は、十八世紀くらいの紳士淑女《しんししゅくじょ》スタイルで、荷物係のガテン達に、これでもかという数の箱を運ばせている。
「すげー……おれの船旅経験って、箱根《はこね》の海賊船《かいぞくせん》とディズニーランドのマーク・トゥエイン号しかないからなー」
「前者はどうか知りませんけど、マーク・トゥエイン号とはまた、えらく短い旅でしたね」
その頃《ころ》になると人間ごっこにもかなり慣れてきて、「坊《ぼ》っちゃん」「やめろよ夏目《なつめ》漱石《そうせき》じゃないんだから」とか「じゃあ旦那《だんな》様と使用人でいきましょうか」「やだよそんなオッサンみたいな。それよりご隠居《いんきょ》とお呼びなさい、カクさんや」「ゴインキョはもっと年寄りじゃないですか?」なんて軽口も叩《たた》けるようになっていた。
結局、金持ちのどら息子《むすこ》とその世話役になりきったおれたちは、ポーターにキャビンを案内させて、この船で最高級だという部屋《へや》の扉《とびら》を開いた。開いた途端《とたん》、言葉に詰《つ》まった。
「……た、確かにゴージャスではあるけどさ……」
リビングの奥《おく》に寝室《しんしつ》が続いている。広い。壁《かべ》や床《ゆか》、窓枠《まどわく》まで装飾《そうしょく》が素晴《すば》らしい。リッツのスィートというわけにはいかないが、とても船の中とは思えない。バス、トイレ別はあたりまえ、猫脚《ねこあし》のソファーやティーテーブル、床には複雑な織りの絨毯《じゅうたん》。でも……。
「なんでダブルベッドあんの? いや、それ以前に」
「遅《おそ》いぞお前たち!」
なんでダブルベッドの上に、でーんとヴォルフラムが座《すわ》ってんの!?
コンラッドが、やられたという顔をした。彼にとっても予想外だったらしい。
「これは、新婚《しんこん》さん向けの部屋のようですね。陛……坊っちゃんたちは、まだ婚前さん……信じていいんですよね?」
「……アヤマチのおかしかたが判《わか》んないよ」
あとはひたすらヴォルフラムの船酔《ふなよ》いで、その日の午後は過ぎてゆき、豪華客船の旅二日目の朝が、やっと始まろうとしているのだ。
「さあ起きてください陛下、それとも朝食をベッドまで持ってきてほしいんですか。放っておくと給仕が来て、テーブル広げてしまいますよ」
毛布の下で、今にも死にそうな声がする。
「ぼくの前で、食物の話をするな……」
「だってさ。着替《きが》えて顔洗って食いにいくよ。おれは船酔いしてねーから」
密航まがいのことまでして押《お》し掛《か》けてきたヴォルフラムは、船が港を出てすぐに、トイレに駆《か》け込む羽目《はめ》になった。血の気のなくなった白い頬《ほお》に乱れた金髪《きんぱつ》をはりつかせて、ベッドに寝《ね》たきりで水も飲めない。おれと言い合うこともできず、薄《うす》く目を閉じたままの三男は、天使が地上に堕《お》ちてきて、帰れずに絶望してるみたいだった。
「なんかちょっとでも食ったほうがいいと思うよー? パンとかアイスとかプリンとか。喉《のど》ごしよさそうなもんルームサービスしろよ。牛乳とかオレンジジュースとかヨーグルトとか」
「うぷ」
「ごめん! ヨーグルトは逆効果だったか!?」
「ほらユーリ……じゃなかった、坊っちゃん、病人をかまってないで、コンタクト入れるからじっとして」
魔族の総力をかけて開発された、カラーコンタクトレンズ・メイド・イン眞魔国を装着すると、おれの瞳《ひとみ》は茶色になる。赤毛でヘーゼル・アイの平凡な人間、一丁あがりというわけだ。
「ヴォルフラムが船に弱いとはねえ。ちょっと可哀相《かわいそう》な気もするよな」
「だから来るなと言ったのに。あんな弱った顔されちゃ、説教する気も失《う》せますよ」
ちょうど隣《となり》のドアからも、廊下《ろうか》に出てくる人影《ひとかげ》があった。五歳くらいの小さな女の子の手を引いた、立派な身形《みなり》の中年の紳士《しんし》だ。身長は魔族《まぞく》に及《およ》ばないが、かっちりとした体つきで、まだまだ現役はれそうだ。何の現役かは不明。
紳士はベージュの口髭《くちひげ》の下に精悍《せいかん》そうな笑《え》みを浮《う》かべ、同じ色の豊かな髪と帽子《ぼうし》に右手をかけながら、ゆっくりとこちらに歩いてきた。そして。
「おはようございます」
「わあッ」
帽子と髪を同時に取った。朝日に輝《かがや》くスキンヘッド。
カツラー、いきなりのカミングアウト!?
「失礼、主人はまだカヴァルケードの方の挨拶《あいさつ》に慣れていないものですから」
思わず後ずさったおれの背中に手をやり、コンラッドはにこやかに頭を下げた。
「あ、挨拶だったんですか」
異文化との接触《せっしょく》は、いつでも驚《おどろ》きに満ちている。
おれに喋《しゃべ》らせてボロが出るよりはと、コンラッドがそつなく相手をしてくれる。こっちは示し合わせていたとおりに、内気な坊っちゃんのふりをした。
「朝食ですか。私も妻が船酔いでして、部屋でゆっくりくつろげないのです。どうです、ご一緒《いっしょ》しませんか?」
おれはできる限り可愛《かわい》らしく見えるように、コンラッドの脇《わき》に身を隠《かく》しながら、俯《うつむ》いて小さく首を振《ふ》った。自分的には気持ち悪いこと、この上なし。
「ご覧《らん》のとおり、たいへん内気な主《あるじ》でして」
「そうでしたか、それは残念。婚約者が密航の危険を冒《おか》してまで追い掛けてきたと聞きましたので、どんなに情熱的な美丈夫《びじょうぶ》かとお噂《うわさ》しておりますれば……」
ヴォルフラム、おれたちとんでもないことになってるぞ。
したり顔で中年紳士は、帽子とカツラを頭に乗せた。
「そのような可愛らしいお方とは……いや失礼、しかし、さぞやご苦労もおありでしょうなあ。……申し遅《おく》れました、私はミッシナイのヒスクライフ、これは娘《むすめ》のベアトリスです」
可愛らしいのはおれじゃなくて、男の娘のほうだった。
薄紅《うすべに》のワンピースの女の子は、親譲《おやゆず》りの白茶の髪を左右で結って、おれをじっと見つめていた。子供の前で嘘《うそ》をつくのは気が引けるが、ここはコンラッドに任せるしかない。
「主人は越後《えちご》の縮緬《ちりめん》問屋のミツエモン。わたくしは供のカクノシンと申します」
「エチゴ? エチゴ、というのは、どの辺りの」
「越中《えっちゅう》の東にあたります」
「エッチュウ……」
「飛騨《ひだ》の北です」
「と、とにかく遠いところからおいでのようだ」
混乱している。大成功だ。
おれは「め組の居候《いそうろう》」でいこうと主張したのだが、コンラッドが黄門様を気に入ってしまったのだ。チリメンドンヤという響《ひび》きが、妙《みょう》に耳に残ったらしい。
「では、やはりヴァン・ダー・ヴィーアの火祭りを……」
「そんなことも満足にできねぇのかっ!?」
近くで悪意に満ちた怒鳴《どな》り声がして、おれは反射的に走りだした。お供のカクさんことカクノシンが、ヒスクライフ氏に詫《わ》びてから追いついてくる。三つ続く特別室の扉を過ぎて一等船室の廊下を曲がり、屋根がなくなってすぐのデッキだった。
海の男そのものという船員が、見習いらしき若手を殴《なぐ》っている。この世界では仕事に就《つ》く歳《とし》なのかもしれないが、少年はおそらくおれより二つ三つ下だ。
心の内を察したのか、コンラッドは短く囁《ささや》いた。
「騒《さわ》ぎを起こさないように」
「でもまだ子供なのに」
「これ以上、殴らせなければいいんですか?」
振《ふ》り向いて覗《のぞ》き込んできた薄茶の眼は、すっかり役になりきっている。
「まったく、坊っちゃんの気紛《きまぐ》れには参りますよ」
本当にどら息子《むすこ》になった気がして、首の後ろがむずむずする。
「この船では朝っぱらから見習いを殴るのか?」
「うるせえ、下のもんをどうしようとこっちの勝……これはお客さん、どうもお見苦しいところを」
相手が一等以上の客と知ると、船員の態度はがらりと変わった。
「ですが、こいつがつまんねぇ間違《まちが》いをやらかしまして」
「耳障《みみざわ》りだ、主人が気分を害している」
「はあ、ご主人様というのは、そちらのお方で?」
コンラッドは船員に何かを握《にぎ》らせた。おそらく金だろう。男は肩越《かたご》しに首をのばし、おれの様子を窺《うかが》い見る。下品なニヤつきで顎《あご》を撫《な》でている。
「こりゃあ、さぞやご苦労の多いことでしょうなぁ。申し訳ありません、お客さま! 不愉快《ふゆかい》な思いをさせちまって」
「もういい、早く消えろ」
立ち去るようにと手で示すと、柵《さく》近くに転がっていた少年も深々と頭を下げて走って行った。アメリカのCMに起用されそうな、顔中そばかすの子供だった。
「やだやだ……なにごとも金、っつー感じ」
「正義感や良心がいたみますか? けどこれで、少なくともあの男は、金銭で動くことが判りました」
「その上、子供を殴るサイテー野郎。あーあ、おれ、なんかちょっと反省しちゃったよ」
「反省?」
「うん。おれってこっちにいる間ずーっとさあ、よりによってなんで魔王なんかにって思ってたわけ」
平凡《へいぼん》な高校生が異世界に飛ばされて、冒険の旅に繰《く》り出すとなれば、誰だって真っ先に考えるのは、勇者とか魔法使いとか王子様だろう。なのに与《あた》えられたジョブは「魔王」、探しにいく武器も「魔剣《まけん》」だという。
木目の柵に寄り掛かり、おれは暖かい海風を受けた。額を撫でる前髪《まえがみ》は、他人のもののような赤色だ。
「運が悪い、おれって不幸ぉー、って。でもそれがすごい勘違《かんちが》いだって、やっと判った気がするんだ。世の中には、おれなんかより、もっとこう、さ」
「不幸な者が存在するって?」
コンラッドは背を反《そ》らして腕《うで》を組み、演じるのをやめて『ユーリ』に言った。
「さっきの子供が不幸だというわけだ」
「だって日本じゃ多分まだ中一か、へたすりゃ育ちのいい小学生だぜ!? 児童に労働を強制しちゃいけないって、国連だってユニセフだって言ってるよ。しかもミスしたからって殴るなんてさ、子供の権利条約ってのがあるんだろうにッ」
「……だとしても」
おれの手を引っ張ってまっすぐ立たせ、人々の居るキャビンに向かって歩きだす。
「彼が不幸だと決めつけるのは、ちょっと一方的でしょう」
「そうかなぁ」
幸せな匂《にお》いが漂《ただよ》ってきた。焼きたてのパンとフライパンで溶《と》けるバターとベーコンの端《はし》っこが焦《こ》げる香《こう》ばしい匂いだ。
「それより、気掛《きが》かりなのはヒスクライフです」
名前と同時にエキセントリックな挨拶がよみがえる。ああ驚いた、世界は広い。
「市内の人だって言ってたよね、近場かなぁ、市内ってことは」
「ミッシナイはヒルドヤードの北の外れだけど……あの挨拶は確かにカヴァルケードの上流階級のものだった。一度見たら絶対に忘れませんからね」
「あれは……忘れようたって忘れらんないよな」
上流社会の皆様《みなさま》が、ごきげんよう代わりにあっちでもピカ、こっちでもペカ。若くて髪の多い男性はどうするんだろう。全員、コージー富田《とみた》状態!?
「あれ、そのカヴァルケードって、例の」
「そう、例のです。しかもあの男、かなりの使い手ですよ。マイホームパパぶって娘と手をつないでたけど、指にしっかり剣ダコが」
「剣ダコ!? できるんだータコがー。まあ使い手っていったって、コン……カクさんほどの剣豪《けんごう》じゃないだろうけど」
「いやだなぁ坊っちゃん、剣豪だなんて。照れるじゃないですか」
互《たが》いに役に戻《もど》っている。もうダイナーの入り口だった。
「ま、俺《おれ》の場合は、長いことそればっかだったから。八十年も握《にぎ》ってりゃ上達しますよ。継続《けいぞく》は力なりってとこですか」
「なるほど。剣豪一筋、八十年かぁ。吉野家《よしのや》みてーだな」
ああー、ヨシギュー食いてぇー。
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フォンクライスト卿《きょう》は、もし人間だったらオーマイゴッドと叫《さけ》びそうなくらいに動転していた。だが彼はアメリカ人でも人間でもなかったので、天を仰《あお》いでこう叫んだ。
「陛下《へいか》!」
長い脚だからこそ可能な大股《おおまた》で、広い室内をひっきりなしに歩き回る。開きっぱなしの扉《とびら》の向こうを通り掛《か》かったこの城の主《あるじ》が、怪訝《けげん》そうな顔で入ってくる。
「ギュンター、まだ王都に戻っていなかったのか」
「ああグウェンダル、それどころではないのです! 姿が見えないと思ったら、姿が見えないと思ったらたらたらたら」
「落ち着け。お前、本当にフォンクライスト卿か?」
グウェンダルは冷静に、ギュンターの横から一歩|離《はな》れた。巻き込まれてはたまらない。
「私《わたくし》のことなどいいのです!」
きっ、とばかりに睨《にら》まれる。
「大変なのは陛下です! 姿が見えないと思ったら、ヴォルフラムは陛下の後を追ったらしいのです! ああどうしましょう、万が一、陛下の御身《おんみ》に何事かあったら、私はどう償《つぐな》ったらよいのやら!」
「大げさな。ヴォルフラムだって自分の身くらいは自分で守るだろう、足手《あしで》纏《まと》いになるとも思えんが」
「邪魔《じゃま》にならないですって!? あのわがままプーが!?」
「わがままプーだと?」
一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》が訪《おとず》れた。
いくら教育係で補佐役《ほさやく》だといっても、つい先日まで王子だった人物を、プー呼ばわりとは大胆《だいたん》だ。しかも当人の兄の前で。グウェンダルが腹を立てるのも当然だが。
「……実は、私もそう思っていた」
「め、珍《めずら》しく意見の一致《いっち》をみましたね」
ここに、眞魔国・ヴォルフラムのことはずっとわがままプーだと言えずにいたんだ同盟、略してプー同盟が成立した。
「えくしッ」
「お大事に」
キャラぴったりの可愛《かわい》いくしゃみに条件反射で言葉を返しながら、おれは荷物を引っ掻《か》き回し、衣装箱《いしょうばこ》の中身をぶちまけていた。
「ああもう、ないないないないないないないーっ」
「何を探しているんだ?」
昼頃《ひるごろ》にようやく快復してきたヴォルフラムが、俯《うつぶ》せに寝転《ねころ》がって訊《き》いてくる。足をすっかり枕《まくら》に乗せていて、時々じたばたと蹴《け》ったりしている。
「このね、バンドのね、ここんとこを留める金具みたいなやつが、確かどっかに入ってたはずなんだよね」
「ふーん」
不満と失望の混ざった声。
その気持ちはよく解《わか》る。おれだって、目の前でまったくの素人《しろうと》が試合に誘《さそ》われたらこうなるだろう。野球のヤの字も知らない奴《やつ》より、おれを使うほうが賢《かしこ》いと思うよって。
これから行くのは舞踏会《ぶとうかい》、まさに元プリンスにお似合いの場所だ。
朝食時の船長の挨拶《あいさつ》から始まって、昼は甲板《かんぱん》をそぞろ歩いてはお茶に付き合わされ、夕方は遊戯室《ゆうぎしつ》でビリヤードもどきに誘われて、日が暮れればディナーのフルコース。やっと終わって風呂《ふろ》に入ると、今度は正装で社交場に集合と、豪華《ごうか》客船は気の休まる暇《ひま》がない。特別室のお客が欠席すれば、すぐに変人と噂《うわさ》になってしまう。
「こんなことなら三等船室とって、終点までずーっと閉じこもってたほうが、目立たずに島まで行けたんじゃねえ? おれ別に二段ベッドで相部屋《あいべや》でも、寝台車《しんだいしゃ》だと思えば我慢《がまん》できるし」
「ぼくはそんなこと耐《た》えられない」
「計画じゃお前は来ないはずだっただろー!?」
「その計画自体が間違っていたんだ」
いつもの調子を取り戻しつつある。だが元気になったからといって、彼を人前に出すわけにはいかない。プライドの高いお貴族様には、縮緬《ちりめん》問屋の関係者役はちょっと無理そうだ。
「その箱には何が入っているんだ」
「ん? ああこれはギュンターが、旅には絶対必要で必ず役に立ちますからって……本だな」
外側の油紙を手荒《てあら》に剥《は》がすと、緑色の山羊革《やぎがわ》の表紙をつけた高級そうな本が現れた。ハードカバー、金の箔押《はくお》し文字でタイトルがあるが、悲しいことにおれは魔族の文字が読めない。
「貸してみろ、読んでやる……春から始める夢日記」
「日記帳ぉ!? なんだあのセンセ、おれに紀貫之《きのつらゆき》にでもなれってのか」
「……本日、初めて陛下《へいか》にお会いした。陛下は私の乏《とぼ》しい想像力で思い描《えが》いていたよりも数倍も数十倍も素晴《すば》らしい方だ」
「なに?」
ヴォルフラムはページをめくり、声を大きくして読み続ける。
「黄金色の麦の穂《ほ》を背にして馬から降り立たれたユーリ様は、白く優雅《ゆうが》な指先で漆黒《しっこく》の髪《かみ》をさらりと払《はら》い、ご聡明《そうめい》そうな輝《かがや》く瞳《ひとみ》で、私《わたくし》に向かって仰《おっしゃ》った」
「わーっちょっと待て、それは何だ!? ギュンターがおれに書かせようとしてる新しい日記帳じゃないのか!?」
「忠実なる真友《とも》フォンクライスト卿よ、私が戻《もど》れたのはお前のおかげだ」
「そんなことは言ってなーいッ!」
どうしておれが、他人の日記でこんなに悶《もだ》え苦しまなければならないのか。自分の日記を朗読されているのなら、のたうち回るのも頷《うなず》けるが。
「ユーリ、用意は……ずいぶん元気になったんだな、ヴォルフ。ギュンターの『陛下ラブラブ日記』をどこで手に入れた?」
居間から覗《のぞ》いたコンラッドが、苦笑いを浮《う》かべつつタイを結ぶ。
「うう……おれにとっちゃサブサブ日記だよう」
「新品のと間違《まちが》えて包んじゃったんだろうけど。さ、いつまでも聞いていたいのでなければ、早く服を着ちゃってくださいよ」
「陛下は何よりも国の、そして民《たみ》のことをお考えになる。ああそのような、ご立派でお美しいユーリ様だからこそ、このフォンクライスト・ギュンターはいつまでもお傍《そば》にいたいのです」
「連れ出して、おれをここから連れ出してくれーっ」
超絶《ちょうぜつ》美形のインテリは、読まれてると知ったらどんな顔をするだろう。
教育係は、すごい顔になっていた。
目は血走り、青白い頬《ほお》には後《おく》れ毛《げ》がはりついて、眉間《みけん》のしわは深く複数だ。半径五メートル以内に女性がいたら、この美しく苦悩《くのう》する姿にもらい泣きを禁じえまい。
「ギュンター、雑務が山程《やまほど》あるのではなかったのか」
「それどころではありません」
カルシウムの燃える独特の匂《にお》いが、ヴォルテール城の室内に充満《じゅうまん》していた。廊下《ろうか》で誰《だれ》かが呻《うめ》いて倒《たお》れた。くさいのだ。
「見てください、この上腕《じょうわん》の関節のひび割れ具合を」
ギュンターは焼け焦《こ》げた骨を高々とかざし、とりつかれたような眼《め》をして宣言した。
「三本の縦線と短い斜《なな》めの交差が二ヵ所。これは行く手を阻《はば》む障害を意味します。つまり今、現在、私めの手の届かないところにおられる陛下に、危険が迫《せま》っているのです!」
グウェンダルの長くて節くれだった指が、無意識に小さく動いている。苛つきを表に出しているのはそこだけで、他《ほか》はいつもどおり不機嫌《ふきげん》そうな貴人のままだ。
「どうでもいいが、何の骨を焼いた?」
「牛です」
「ほう。牛ごときの骨で運命が占《うらな》えるようでは、あの小僧《こぞう》の存在もたかがしれているな」
「牛ごときって。あなたは心配ではないのですか!? 私達|魔族《まぞく》の希望の星なのですよ!? 無関心を装《よそお》うにもほどがあるでしょう!?」
「星やら月やら牛のせいで、私の城に悪臭《あくしゅう》が広がるのは耐《た》えがたい。骨を焼くなら外でやれ。牛を焼きたければ肉ごと焼け。苦情が出ているんだ、苦情が」
恨《うら》みがましく火を消して、心配性の傍用人《そばようにん》はぼそっと言う。
「……どうせアニシナに言われたんでしょうけどっ」
三秒後、フォンヴォルテール卿、心の中だけで逆ギレ。
骨。
鹿鳴館《ろくめいかん》に駆《か》り出されたエキストラよろしく、慣れない正装でぎくしゃく歩くおれを、一気に凍《こお》りつかせたのは、色とりどりきらびやかなドレスのご婦人方でも、ステージで生演奏の管弦《かんげん》楽団でもなかった。
床《ゆか》に散らばる無数の骨。食事の時も、おれたち以外の周りには、鳥や魚の骨が落ちていた気がする。そうこうしている間にも、すぐ前のテーブルで立食中だった女性が、フライドチキンの肉を食いちぎり、ぺっとばかりに骨を投げ捨てた。男らしい。
「そういうマナー……なのかな」
「としか考えられませんね」
テニスコート二面くらいは優にあるダンスホールの中央に向かうには、人間の胃袋《いぶくろ》へと消えていった小動物の屍《しかばね》を越《こ》えなければならない。足の下で物悲しい音がする。物騒《ぶっそう》な舞踏会だ。
おれはといえば美形に囲まれる生活から解放されたにもかかわらず、中途半端《ちゅうとはんぱ》な妙な気分だった。人間ばかりの場所にいるのだから、もっとリラックスできていいはずなのに、どうもびくついて落ち着かない。
誰《だれ》もが道を空け、優雅《ゆうが》に膝《ひざ》を折ってお辞儀《じぎ》をする。男性の中には握手《あくしゅ》を求めてくる者もいたりして、おれはまるで一日警察署長にでもされたみたいな、どうにでもしてくれって気になってきた。ホールの前方につく頃《ころ》には、有名人の苦労がよーく判った。今度、街でプロ野球選手を見かけても、遠くでそっと見守ろう。
近くで聞くとピアノは木琴《もっきん》の音色で、バイオリンは弦の張りすぎで超高音だ。
「ここまできたら腹を決めて、踊《おど》っていただかなくては」
「おれ!? おれが踊れるわけないじゃん! 中三の途中《とちゅう》まで野球部だったんだよ!? チアリーダーじゃなくてキャッチャーだったんだから」
「そうはいっても、ご婦人方が、誘ってもらいたそうにこっち見てるし」
うわ本当だ、おれのことを見ている。中にはよだれをたらさんばかりの、けだものめいたものまである。
「し、しかも男女で組《く》んず解《ほぐ》れつするダンスなんて、小学校の運動会どまりだよ」
「……組んず解れつは大げさだけど、ダンスなんて中学の卒業パーティーでやったでしょう」
USA文化と一緒《いっしょ》にするな。中学の卒業パーティーでは野球部の顧問《こもん》にピザを投げつけてやった。楽しい思い出はそれだけだ。
「ちなみに小学校では、どんなステップを? ワルツ? タンゴ?」
「オクラホマミキサーと秩父《ちちぶ》音頭《おんど》」
両極端《りょうきょくたん》。一緒にするなと自分で言っておきながら、日米混合。共通点は、カントリーという土地柄《とちがら》だけだ。コンラッドは僅《わず》かに首を傾《かし》げて、ちょっと悩《なや》んでから飲み物を置いた。
「じゃあオクラホマミキサーでいきましょう」
「いきましょうって、ええーっ!? やだやだやだやだ、男と組むのはいやだよーッ」
「いきなり女性と踊ってリードしきれずに恥《はじ》をかくより、まず俺《おれ》で練習しときましょうか。大丈夫《だいじょうぶ》、男同士ペアもけっこういるから。テニスでいう男子ダブルスみたいなもんだよ」
聞き捨てならない言葉があったぞ。万年ベンチウォーマーの控《ひか》え捕手《ほしゅ》とはいえ、リードのことには敏感《びんかん》だ。女性をピッチャーに例えるならば、リードしきれないなんてことはあってはならない。
「けどおれ、女子の役やるのは絶対いやだ」
「いいですよ。前々からそっちのパートも覚えたいと思ってたんです。さあ坊《ぼ》っちゃん、えーいつもと逆だから……こっちから俺の腰《こし》に手を回して」
ぎょええ。
おれはもう半泣きで眉毛《まゆげ》も八の字で、コンラッドに囁《ささや》かれるままに足を踏《ふ》み出した。左左、右右、左、右……視力検査か? 右右、左左、ターンターンストップ休み、掴《つか》んで離《はな》れて海老反《えびぞ》ってポン。
靴《くつ》の裏には砕《くだ》ける小骨、さながら地獄《じごく》の舞踏会だ。
「だっ、ダンスのパートって、男女問題じゃなくて、身長関係重視だったみたいだなっ」
「のようですね。相手がグウェンダルじゃなくてよかったでしょう?」
「かんがえっ、たくもないっ」
ホールの中央ではヒスクライフ氏が、礼儀《れいぎ》正しくカツラをとったままで、奥《おく》さんらしき細くて軽そうな女性を、プロレス技《わざ》みたいに回していた。汗と照明に輝く彼は『王様と私』を彷彿《ほうふつ》とさせる。日本では以前、松平健《まつだいらけん》夫妻が……。
「おっと」
急に演奏がスローテンポになり、周囲がみんなお互《たが》いに密着しはじめた。
「チークは、まあこうやって揺《ゆ》れてりゃなんとかなります」
「はあ、揺れてりゃねェ。あっ、すんません」
肩《かた》がぶつかったお隣《となり》さんは、船長と操舵長《そうだちょう》のカップルだった。
嗚呼《ああ》、むくつけき男ペアよ。チークというより、ヒゲダンス。
頭をちょいちょいとつつかれる。振り向くと、見事なオレンジの髪《かみ》の、大柄《おおがら》な女が微笑《ほほえ》んでいた。服の上からでも判るような、筋肉質で引き締《し》まった胴回《どうまわ》り。肘《ひじ》まで隠《かく》す絹《きぬ》の手袋《てぶくろ》。反対に剥出《むきだ》しの肩から背への曲線は、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするような外野手体形だ。
「うっわ……素晴《すば》らしい上腕《じょうわん》二頭筋ですねえ」
「ありがと。よろしければ、わたしと踊ってくださらない?」
これまたジャジーなハスキーボイスだ。ただしセクシーとは程遠《ほどとお》い。勇気をもって誘ってくれたのだろうが、おれの手には余りそうなスポーツマン、いやスポーツレディだ。
「せっかくですけど、あのー……」
「ちょっと待った!」
はい?
レースてんこもりのドレスの女性が、人垣《ひとがき》を掻《か》き分けて進み出る。
「あたしが先に目を付けていたのよ。踊ってもらうならあたしだわ」
すると萌黄《もえぎ》色《いろ》の民族|衣装《いしょう》のご婦人が。
「最初に目が合ったのはわたくしですわ。だったら、わたくしがお相手できるはず」
「お待ちなさい、私なんか真っ先に狙《ねら》いをつけたんだから。お願いするなら私が先でしょ」
あの、骨を投げ捨てたワイルドな人だ。他《ほか》にも皆《みな》さん勇気でてきちゃったらしく、次々とちょっと待ったコールがかけられる。大変なことになってきた。
「第一印象から決めてましたの。どうか一曲」
「あーらそんなこといったら、こっちだって心の中で念じてたのよっ」
「やァだァ、マミリンだって電波送ったんだからァ」
「てゆーかマジあたしチョー気に入ったんだけど」
「夢にまで見た妾《わらわ》の運命の人なのじゃ」
「拙者《せっしゃ》は最後でもかまわぬでござるよ」
ちょっと何か違《ちが》う方も混ざっている。
「いやーすごい、さすがミツエモン坊《ぼ》っちゃん。羨《うらや》ましいかぎりです」
「なにいってんだよコン、えーとカクさんっ、まさかこのまま見殺しにするつもりじゃ……」
「ええ? 自分の主人がモテモテなのは、見てて楽しいもんですよ?」
内心|面白《おもしろ》がっているくせに、浮《う》かべる笑《え》みはあくまで爽《さわ》やかだ。
コンラッドが、しょうがないですねと口にする直前だった。野心家なら武器にしそうなバリトンが、女性の背後《はいご》からおれを狙った。
「決めかねておられるようですな」
「ぴっかりくん! あー、じゃなかった、ヒスクライフさん!」
「これだけ魅力的《みりょくてき》なお方ならば、胸を焦《こ》がす者もさぞや多いことでしょう」
はいはい、こんな野球|小僧《こぞう》がミリョクテキなら、甲子園《こうしえん》行ったら失神だね。
「だがミツエモン殿《どの》はまだお若い。このような光栄に慣れておられまい。ではこういう案はいかがかな」
オーバーに両手を広げ、壁《かべ》ぎわの椅子《いす》でグラスを傾《かたむ》ける、彼の妻を目で示した。
「あれと踊ってやってはもらえませぬか」
妻の横に座《すわ》って退屈《たいくつ》そうな、夜更《よふ》かし体験中の小さな淑女《しゅくじょ》を。
桜色のワンピースからのぞく両足を、交互《こうご》にぶらぶら振《ふ》っている。ほどいた髪《かみ》に貝の飾《かざ》り。
「ベアトリスは、今夜が初めての夜会なのですよ。あの子ももう六歳だ、私の故国では六の倍数の春に初めて夜会で踊ると、その者は情熱的な一生を送るという。かくいう私がその例で」
ユル・ブリナーよりも胸を張って、ヒスクライフは誇《ほこ》らしげに笑った。
「密航まがいのことをしてまで、婚約者《こんやくしゃ》は貴方《あなた》を追い掛《か》けてきた。これは燃えるような恋の結果でしょう。娘《むすめ》にもそんな人生を送らせたい。だからこそ最初の相手になってやってほしいのです」
普通《ふつう》の父親は、なるべく男を遠ざけようとするものじゃないだろうか。外国人の考えることは判らない、というより、異世界の人って難しい。
「いいですか坊っちゃん、彼女の前に行って、一曲踊っていただけませんかとか、お嬢様《じょうさま》お手をどうぞとか、ダンディーにかっこよく誘うんですよ」
「わ、わかった」
少女の席に足を向けると、女性達は気を悪くして散っていった。中には聞こえよがしに舌打ちして、「幼女|趣味《しゅみ》かよ」と捨て台詞《ぜりふ》を残す者もいた。断じてそのようなことはございません。ベアトリスの前にひざまずいて、おれは可能なかぎり男前な声をつくる。
「お嬢さん、お手を拝借《はいしゃく》」
しまった! それでは三本|締《じ》めだ……。
彼女はぴょんと椅子を飛び降りて、自分からフロアの中央へ。積極的だ、きっと父親に似たのだろう。曲は踊りやすいスローテンポのワルツだったが、おれは背中を丸めるために、腰《こし》の引けたみっともないステップになってしまった。
「髪を染めてるの?」
大きな目は、懐《なつ》かしいラムネの壜《びん》のビー玉色で、悪意のかけらも存在しない。そんな澄《す》んだ瞳《ひとみ》で見上げられたら、平然と嘘《うそ》をつける男はいないよ。
「そうだよ、どうしてわかったの?」
「似合わないから」
子供はとても残酷《ざんこく》だ。
「お父さんのことを聞かせて。ベアトリス、きみのお父さんてどんな人?」
「こいのためならなにもかもすてられるひと」
「……なるほど、そりゃあ、かっこいいな」
毎日そう言い聞かされているのだろう。この親子、お受験面接には向いていない。ベアトリスがはにかんだ。ビー玉の真ん中に輝《かがや》きがさし、スターサファイアの色になる。
「あなたも、ちょっとかっこいい」
「おれが?」
三|拍子《びょうし》が終わると彼女は手を離《はな》し、父親の膝《ひざ》に力|一杯《いっぱい》抱《だ》きついた。ぴっかりくんは娘を高々と抱き上げて、日本人なら歯が浮きそうな賛辞を次々と並べる。
「素晴《すば》らしかったよベアトリス、さすがは私のお姫《ひめ》さまだ。とても優雅《ゆうが》に踊れたな」
「王女さまみたいだった?」
「もちろん、お前はいつでも王女さまだよ。お前とお母さまは私の誇りだ」
聞いてるおれのほうが恥《は》ずかしくなってきて、顔にも首にも汗《あせ》がにじむ。無意識に拳《こぶし》で拭《ぬぐ》ったのが悪かった。
「……あ」
右目のどこかで、コンタクトがぐるりと動いた。
やばい。
こんなところで魔族《まぞく》だとばれたら、フクロにされて夜の海に投げられてしまう。お正月っぽいメロディーが浮《う》かんだ。それはかの有名な「春の海」だ。
「コンラッ……ああもう、こんなときに」
ピアノの近くのテーブルで、ウェラー卿は誰《だれ》かと歓談《かんだん》中だ。
よりによって相手はおれにモーションかけてきた女、理想的外野手体形のミス・上腕二頭筋だ。割と、いやかなりマニアックな趣味だとは思う。けれど異性の好みは千差万別。それとももしかして眞魔国では、ああいう女性がもてはやされるのかもしれない。考えてもみろ、おれのことを美しいとか言い切っちゃう国だぞ。イチローか新庄《しんじょう》かというナイスボディが、エキゾチックと評されてもおかしくない。おれはまあ、ツェリ様のがタイプだけどね。
肩なんか抱いちゃって親密そうだ。
「応援《おうえん》してるぜ、コン……カクさん」
彼等二人に、心|密《ひそ》かにエールを送って、おれは独りでホールを抜《ぬ》け出した。
チームメイトの恋愛《れんあい》は、成就《じょうじゅ》を願うのが友情ってもんだ。
使い慣れた二十四時間制で計算すると、時刻は夜の十時過ぎ。闇《やみ》に沈《しず》んだデッキを歩くうちに、少しずつ全身の緊張《きんちょう》がとけてきた。波は緩《ゆる》やかな黒いうねりで船腹を撫《な》でたり叩《たた》いたりしている。真っ黒な海面を見ていると、何故《なぜ》か心が静かになった。
そういえば華《はな》やかで眩《まぶ》しいあの部屋には、足元に縮こまる影《かげ》以外に、黒と呼べるような色がどこにもなかったのだ。
遠くで炎《ほのお》がちらりと揺《ゆ》れる。シルドクラウトからずっとついて来ていた護衛船だろう。
右目の痛みが強くなる。早く戻《もど》って外したくて、おれは小走りに角を曲がった。
「あっすみませんっ」
薄明《うすあか》るい廊下《ろうか》に入ろうとした時に、思い切り誰かとぶつかった。その衝撃《しょうげき》が決定打だった。
「あーっ! 目から鱗《うろこ》が、目からウロコがーっ!」
落ちた。
「申し訳ありませんお客さまッ、どこかお怪我《けが》でもされましたか!?」
「動くな!」
条件反射で相手が止まる。
「おれは生まれて初めてコンタクトを落とした。そして今、生まれて初めてコンタクトを探そうとしている。ランプは床《ゆか》を照らしてくれ。足元に無いことを確認《かくにん》したら、そーっと膝《ひざ》をついて手で探せ」
「は、はい。でもコンタクトって、どんな物なのか……」
おれは冷静に右目を覆《おお》って、左手だけで床を撫でた。
「あのー……顔を怪我されたんですか?」
「そうじゃないよ、あれ、そばかすくんじゃん」
おれに不意打ち食らわせたのは、ピーナッツバターのCMに起用されそうな、満面そばかすの船員見習いだった。心から申し訳なさそうに頭を掻《か》き、一緒《いっしょ》に地面を探しだす。
「朝も変なとこ見せちゃって、夜もまたこんな……ほんとにすみません。仕事で見回りだったんですけど、誰かいるとは思わなくて」
「んー、まあいいよ、コンタクト落として探すのは、少女|漫画《まんが》なんかじゃよくあるらしいし」
遅刻覚悟《ちこくかくご》で一緒に探してくれた相手と、恋に落ちることもしばしばあるようだ。今日が入学式じゃなくて本当によかった。こんなとこでフォーリンラブりたくないですから。
「こんな夜に独りで巡回《じゅんかい》だなんて、見習いさんも大変だねぇ。なのに上司があんな乱暴者じゃ、頑張《がんば》ってんのに割に合わないよな」
「でも、あの時はオレがうっかり梯子《はしご》を降ろしちゃって。あ、乗り降りする梯子の出し方を教わってたんですけどね。だから怒《おこ》られても仕方ないんです。覚えることはたくさんあるのに、オレって頭が悪いから」
顔を上げると、少年は笑っていた。おれはちょっと意外な気がして、左手を休めて膝で立つ。
「仕方ないって? あんなに殴《なぐ》られて?」
「見習いの頃《ころ》は、みんなそうですから。船乗りは誰でも同じです。オレなんか最初の航海から、こんなすごい船に乗れて幸せです」
「……幸せ……なの?」
「ええ!」
ほんの半日前、おれは彼のことを不幸だなんて思った。可哀相《かわいそう》だと決めてかかった。急にそれが自分の中で恥ずかしくなって、慌《あわ》てて下を向いて表情を隠《かく》す。
「いつかこれくらい大きな船を、自分の手で動かすのが夢なんで……あっお客さん、胸に何か光る物がありますよ!」
本当だ、茶色くて小さいガラス片が、ボタンの脇《わき》にしがみついている。ということは今までのおれは、眼鏡《めがね》を頭に乗せたまま「メガネメガネ」言ってたのと同レベルか!?
恥ずかしさ倍増。
誤魔化《ごまか》すように咳払《せきばら》いをして、短く礼を言って立ち上がる。
「では見習いくん」
「リックです、お客さん」
「ではリックくん。見回りご苦労であった。今後もその意気で頑張るようになっ」
返事も聞かずに猛《もう》ダッシュし、自分達の部屋に飛び込んだ。
どうしておれはこう短絡的《たんらくてき》なんだろう。黙《だま》ってじっくり観察するとか、熟慮《じゅくりょ》するってことを知らない。相手チームの隠しだまを、たった一回の打席だけで、ヘボバッターと断定してしまうようなものだ。これではいい捕手《ほしゅ》になれるはずがないし、偉大《いだい》な王様にだってなれっこない。野球の方は……まあ、もうかなり挫折《ざせつ》しているんだけど、王様への道は始まったばかりだ。
おれのキャリアはまだ仮免《かりめん》魔王《まおう》くらい、いや、仮仮免魔王くらいかな。
どっかの中華《ちゅうか》まんのスペシャルみたい。
「聞いてくれよーヴォルフラム。コンタクトすっとんじゃって、もうびっくりでさ」
「踊《おど》ったのか?」
寝室《しんしつ》から出てきた元プリンスは、生成《きな》りのふかふかしたバスローブを羽織《はお》り、ターバンみたいに頭を包んでいる。
「……お前、なに風呂上《ふろあ》がりのマダムみたいな格好《かっこう》してんだよ」
「踊ったのかと訊《き》いているんだ」
険のある声、眉間《みけん》のしわ、腕組《うでぐ》みしたまま仁王立《におうだ》ち。わがまま注意報発令中だ。
「そりゃ踊りますよ、踊りに行ったんですからね。お料理教室に行ったわけでも、映画の試写会に行ったわけでもないんだからさ。それがどーしたの、なんでそんな刺々《とげとげ》しい言い方なの」
「この尻軽《しりがる》!」
「はあ!?」
男に向かって尻軽とはどういうことだ!? おれは脳味噌内《のうみそない》のエンサイクロペディアをサーチして、該当《がいとう》する項目《こうもく》を探そうとした。だがどうにも回転が遅《おそ》い、百科事典をめくるのと大差なかった。しりがい、しりからげ、しりがる……尻軽。
「ああ、フットワークが軽いってこと!?」
すぐ前の「尻からげ」も、ちょっと気になる。
「なーんだ、おれのこと誉《ほ》めてんのか。そうそう、尻は軽いにこしたことないよ、セカンドへの送球も早くなるし」
「裏切り者と言ったんだ!」
「またまた、はあ!? いつどこでだれがだれをどのようにして裏切った!? 何時何分何秒!? おれはだーれも裏切らないし、この先も多分、裏切りません! 裏切るときは信念が折れるときだし、裏切ればどうなるかも判《わか》ってる! それでもお前は裏切れっていうのか!?」
あともう少しで五段活用!
「いいか!? 確かにお前は外見だけは上等だ。中身はといえばとんでもない、へなちょこだがな。目をつける輩《やから》も多いだろう。しかしいちいち取り合っていてどうする!? いくら可愛《かわい》いからって貞節《ていせつ》もなにもなしでは、貴族の伴侶《はんりょ》として認められないぞ!?」
「ちょっと待て! 可愛いのはお前だろ!? それとその貞節ってのはなん……」
突《つ》き上げるような衝撃がきたのは、重要な質問の途中《とちゅう》だった。
[#改ページ]
自分の城の厨房《ちゅうぼう》に入るのは、およそ六年ぶりだった。
グウェンダルは入り口で足を止めた。なるべくならこれ以上、かかわりたくない。
「ギュンター! 他人の厨《くりや》で何をしている!?」
イっちゃった眼《め》をしたフォンクライスト卿《きょう》の前には、煮《に》えたぎる油の満ちた大鍋《おおなべ》がある。
「また占《うらな》いか」
「そうです。少しでも危険を察知して、陛下《へいか》のお役に立ちたいのです」
「無駄《むだ》なことを」
ここで危険を予知したところで、助ける手段が見つかるまい。彼等は魔力《まりょく》の及《およ》ばない海上にいるのだ。しかし額のはちまきと、新たにできた青黒い隈《くま》に、事実を突き付ける気力もなくして、グウェンダルは油に視線を落とした。
「……どうするつもりだ?」
「この煮えたぎった油の鍋に、生きた子ネズミを落とすのです」
知的で美しく気品ある容貌《ようぼう》だった教育係は、哀《あわ》れな白いネズミを持ち上げた。尻尾《しっぽ》の先を摘《つま》んでいる。その凄絶《せいぜつ》な笑《え》みの中に、真の魔族の姿がかいま見えた。人々を虜《とりこ》にし、迷わせる、魔性《ましょう》の美とでもいうべきか。
グウェンダルにとっては、そんなことはどうでもいい。
彼は耳にした全《すべ》ての者がひれふしそうな、威圧感《いあつかん》たっぷりの低音で皮肉《ひにく》げに言う。
「なるほど、相手があの陛下なら、下等動物で充分《じゅうぶん》だろうな」
口元はシニカルに上がっている。
「そうでした! この私《わたくし》としたことが、なんと愚《おろ》かな過《あやま》ちを! 気高く偉大な陛下の旅を、ネズミごときで占えるはずがない! ああどうしましょう、グウェンダル!? ではせめて」
ギュンターは、逆の腕《うで》を勢いよく持ち上げた。
「子猫《こねこ》なら」
ペット本に悪い例として載《の》っているような掴《つか》み方をされて、まだらの猫が震《ふる》えていた。
冷徹《れいてつ》で皮肉屋な美丈夫《びじょうぶ》(女性達・談)の、思わぬ部分のテグスが切れる。
「やっ、やめろッ!! 貴様これは虐待《ぎゃくたい》だぞ!? ほら恐《こわ》がってめえめえ鳴いているではないか! 可哀相に、もう大丈夫《だいじょうぶ》でちゅよー、そんな酷《ひど》いことはさせましぇんからにぇー」
「……グウェン……あなた……」
「ギュンター……貴様……」
地の底から響《ひび》くような声に、教育係の血の気が引いてゆく。
「私の目の黒いうちは、二度と子猫の虐待は許さん」
フォンヴォルテール卿の瞳《ひとみ》は、青だ。
裏切り五段活用どころではない。救命|胴衣《どうい》はどこだっけ!?
おれはベッドの下を覗《のぞ》き込む。揺《ゆ》れは一回だけで終わったようだ。
「ほらみろ、やっぱりタイタニックだ! きっと氷山にぶつかったんだ!」
「航路は暖流だぞ?」
「暖流でも氷山に当たったんだーっ」
ホールやダイナーの方角から、悲鳴と大勢の足音が聞こえる。早くもパニックになっているのだろうか。沈《しず》むとしたらあの楽団は、最後に賛美歌を弾《ひ》いてくれるかな。
「ぼーっとしてんなよヴォルフラムっ、ズボンとコート持って逃《に》げるんだよ! くっそ、こんなときに限ってコンラッドはいねーし……」
「ユーリ!」
壊《こわ》れるくらい乱暴にドアを開けて、コンラッドが部屋《へや》に駆《か》け込んできた。彼らしくなく表情が強《こわ》ばり、袖《そで》には酒をこぼした染《し》みまである。
「よかった、無事に戻《もど》ってたんだな。ヨザが大丈夫とは言ってたけど」
「ヨザ? ヨザってあのセンターでゴールデングラブとれそうな女性? あのねぇ悪いんだけどコンラッド、ミス・上腕《じょうわん》二頭筋とうまくいったか聞いてる余裕《よゆう》はないんだよな、おれ。なあ、この船沈む!? もう半分くらい沈んでる!?」
何のことかという顔をした。どうやら氷山ではないらしい。だとしたら座礁《ざしょう》? それとも漁師を十人|喰《くら》った、憎《にく》き幻《まぼろし》の巨大《きょだい》イカ?
「沈没《ちんぼつ》することはないと思う、けどそれ以上にまずいことになった。ヴォルフラム!」
「なんだ」
「剣《けん》はあるか?」
「ある!」
船酔《ふなよ》いと不機嫌《ふきげん》で青白かった頬《ほお》が、目に見えて興奮の朱《しゅ》に変わる。剣を振《ふ》るえるのが嬉《うれ》しいのだろうか。斬《き》り合いがそんなに楽しいか?
「よし。じゃあ二人とも、ここに隠《かく》れて」
「何すんだよっ」
コンラッドはおれたちをクローゼットに押《お》し込み、自分は道中ずっと持ち歩いていた杖《つえ》を手にした。すらりと抜《ぬ》き放つと、鋼《はがね》の輝《かがや》き。仕込み杖だとは知らなかった。刃《やいば》を背に回して片膝《かたひざ》をつき、顔を近付けて低く言う。
「冷静に聞いてください。この船は賊《ぞく》の襲撃《しゅうげき》を受けています」
「海賊!?」
「そう、もうかなりの数が突入《とつにゅう》してきてる」
「じゃ、コンラッドも早く隠れろよ!」
「なに言ってるんですか」
ウェラー卿は、こっちの息がつまりそうな笑みを見せる。
「こういうときのために、俺《おれ》がいるんだ」
一瞬《いっしゅん》で切り替《か》え、扉《とびら》に手を掛《か》けた。
「できる限りデッキで食い止めます。この部屋は逃げた後だと見せかけるから、足音がしなくなるまで我慢《がまん》してください。決して短気を起こさないように。あなたに万一のことがあれば、ギュンターも国民も泣きますからね」
「あんたは?」
「俺?」
「泣いてくれるんだろ」
少しだけ目尻《めじり》を下げる。
「そのときは違《ちが》う場所で再会してるよ」
それどういうこと、と訊《き》く暇《ひま》はない。ヴォルフラムは細身《ほそみ》の剣を握《にぎ》り、自分も外に行こうとやっきになっていた。
「ぼくも外で戦うぞ! ぼくの腕を信じていないのか!?」
「信じてるさ。だからこそヴォルフ、陛下のことを」
気の強い美少年は言葉に詰《つ》まった。そう頼《たの》まれては反論できない。おれは堅苦《かたくる》しいジャケットを脱《ぬ》ぎ捨て、腕をまくって三男と肩《かた》を組む。
「よーし、じゃ、弟さんのことはおれに任せろ!」
「頼もしいね……ユーリ」
ヴォルフラムが目を離《はな》したすきに、彼はおれの首に腕を回し、引き寄せて短く囁《ささや》いた。
「俺が戻れなくても、許してくれ」
「なん……」
両開きの扉が閉められて、コンラッドは足早に行ってしまった。甲板《かんぱん》へと遠ざかる靴音《くつおと》は、あっという間に周囲に呑《の》み込まれる。
意味深く不安な台詞《せりふ》を残して、彼は戦場へと去ってしまった。
それからしばらくは、剣のぶつかり合う金属音や、花瓶《かびん》や皿の割れる音、耳を覆《おお》いたくなるような悲鳴と泣き声、慌《あわ》ただしく走る靴音が続いた。
おれとヴォルフラムは息をひそめて、外部の状態を耳だけで予想していた。
そのうちに段々と静かになり、悲鳴と怒号《どごう》はなくなった。
おれは半年前の受験直前に、テレビで見た洋画を思い出した。隠れていた子供が外に出ると、そこには誰《だれ》も残っていない。あんなに騒《さわ》がしく激しかったのに、敵も父親ももういない。
気持ちが通じたわけでもないだろうが、ヴォルフラムが指を重ねてきた。ウォークインじゃない狭苦《せまくる》しいクローゼットで、おれたちは身を寄せ合って震《ふる》えている。
いや、震えているのはおれだけだ。
ヴォルフラムだって一応は軍人階級だ。この程度の危なさの隠れんぼは、慣れているとまではいかなくても、初めてということはありえない。
「……大丈夫かユーリ」
「あっ、あたりまえ、だろっ」
触《ふ》れていた指をきゅっと握ってしまい、おれは目を閉じて俯《うつむ》いた。
「ごめん」
「かまわない」
笑われているんじゃないだろうか。
おれはただ、怖《こわ》いとかビビってるとかじゃなくて、この沈黙《ちんもく》と緊張感《きんちょうかん》が、堪《た》えられないほど苦しいだけで……見透《みす》かしたようなルームメイトの小声。
「コンラートが言っていたように、見つかっても無闇《むやみ》に抵抗《ていこう》するな。そうすれば奴等《やつら》は命まではとらない。お前は見目がいいからな」
「そんじゃお前も手ェ出すなよ。お前のがおれより数段カワイイもん。これだけの美少年つかまえて、斬《き》っちゃえって奴はそうそういないぜ?」
「駄目だ。ぼくは魔族《まぞく》の武人として、戦わずして生き延びることは許されない」
「そんなばかな」
「しっ!」
鍵《かぎ》をガチャガチャやる音がしてから、それを強引《ごういん》に叩《たた》き壊し、誰かが部屋に踏《ふ》み込んできた。
「貴重品だけ持ち出されてやがんな。もう逃げたんじゃねーのか?」
「そんなはずぁねぇよ。甲板で特別室の客が一組いないって確認《かくにん》したんだからな。あいつはこの船の乗客に詳《くわ》しい。海にでも飛び込んだなら話は別だが、金持ちの物見遊山《ものみゆさん》の旅行客に、そんな度胸のある奴ぁいねえさ」
二人だ。
声の特徴《とくちょう》で区別すると、喉《のど》の奥《おく》でキャタピラが回ってそうな戦車ボイスと、きーんとくる高音で耳障《みみざわ》りな戦闘機《せんとうき》ボイスだ。
「それにしても、こいつら本当に金持ちなのかァ? たいしていいもん持ってねーなぁ」戦車
「けどよ、この特別室一|泊《ぱく》の料金で、三等船室で一年は暮らせるっていうぜ」戦闘機
「ひゃー、あやかりてェー」戦車
「馬鹿《ばか》言ってんな。寝室《しんしつ》も探せ」戦闘機……だんだん軍人|将棋《しょうぎ》みたいな気がしてきた。
ベッド前の床板《ゆかいた》が一枚|軋《きし》むので、二人がそばまで来ていることが判《わか》る。
「そーいや、あの勇敢《ゆうかん》な連中はどうしたよ」
コンラッドのことだ!
無意識に身を乗り出してしまったのか、爪先《つまさき》が扉にぶつかった。
「おい! あの中に何かいるぞ!?」
しまった!
おれたちは今まさに、時代劇の忍者《にんじゃ》の状況《じょうきょう》だ。天井裏《てんじょううら》や床下で密談を盗《ぬす》み聞きするが、ばれると槍《やり》で刺《さ》されてしまう。「越後屋《えちごや》、今なんぞ物音がせなんだか?」
「ネズミでございましょう、お代官様」そうか、その手があった。
聞こえるか聞こえないかという囁き声で、おれはヴォルフラムに意見を求める。
「動物の鳴き声で誤魔化《ごまか》せないかな」
「そうだな、ネグロシノヤマキシーなんかどうだ」
ネグ……なんですかそいつは!? 子供の頃《ころ》によくかけていた鳴き声CDには、そんな難しいのはいなかった。というよりそいつは地球種ではないのでは。
どんな動物なのか想像している場合ではない。おれたちはネズミにしては大き過ぎるし、かといってクローゼットに牛がいるのも妙《みょう》だ。残るレパートリーはあと一つ、とりあえずこの場は、猫《ねこ》でしのごう。
「に、にゃーあ」
戦車と戦闘機が色めきたつ。
「ゾモサゴリ竜《りゅう》だ!」
「ゾモサゴリ竜は幼獣《ようじゅう》でも人間を食うぞ!? 二人だけじゃ危ねえ、もっと人を呼べ!」
竜だって!? 竜っていうとダイナソーの親戚《しんせき》ですか!?
ヴォルフラムが、がっくりと掌《てのひら》で顔を覆った。
「まずいぞ、あいつら誤解しちゃったよ! おれがいつ竜の鳴き真似《まね》なんかしたってんだ!? おれは可愛《かわい》い猫ちゃんを……」
「猫は、めえめえだろ」
「めえめえは羊だろ!?」
事態は悪い方へと進み、おれたちは推定八人に取り囲まれていた。
「開けるぞ、いいか!?」
よくないです。
隣《となり》で銀がきらめいた。
「ヴォルフラム、駄《だ》……」
全開にされた扉から、光がなだれ込んでくる。おれの目が眩《くら》んでいるうちにヴォルフラムは、一人の腕《うで》を斬り二人目の腹を掠《かす》めていたが、残る六人は彼の背を狙《ねら》って、巨大《きょだい》な刃《やいば》を振《ふ》りかざしている。
「ヴォルフラム! 駄目《だめ》だ、多すぎるっ」
「うるさいッ」
「頼《たの》むからヴォルフ! やめてくれっ……命令だ!」
彼は凍《こお》りついたように動きを止め、おれを見もせずに剣を放した。
金属が落ちる高い音が、いやに虚《むな》しくその場に響《ひび》く。
至る所に松明《たいまつ》がかかげられ、一足先に火祭りといった様子だ。真昼のような明るさで、横付けされた海賊船《かいぞくせん》まで照らしている。
ほとんどの乗客と乗員が集められた甲板は、鮪《まぐろ》の解体ショーの匂《にお》いがした。どちらのサイドのものであれ、血が流れたということだ。
木箱を重ねた壇上《だんじょう》で、海賊の親分は上機嫌《じょうきげん》だった。
「皆《みな》さーん、元気じゃったかのーォ」
小指を立てた持ち方のまま、メガホンを乗客に向ける。マイクパフォーマンスだ。
おれたちは八人の男に囲まれて、捕虜《ほりょ》の一団に加わった。ヴォルフラムは湯上がりマダムのままだったし、おれも上着を置いてきてしまった。春とはいえ、海上を渡《わた》る風は冷たい。
船員と男性客の集団に、コンラッドとヒスクライフの姿がある。それと何故《なぜ》かミス・上腕《じょうわん》二頭筋も。きっと男なみに勇敢だったのだろう。三人とも自分の足で立っているということは、大きな怪我《けが》はなさそうだ。
ごめんなコンラッド、せっかく隠《かく》してくれたのに。おれは心の中で謝《あやま》り続ける。
弟さんに非はありません、悪いのは百パーセントこのおれです。あ、でもいい報告もあるんだよ、物真似のレパートリーが一つ増えたんだ。ゾモサゴリ竜。江戸屋《えどや》猫八《ねこはち》もびっくり。
そっちに行こうともがくのだが、両腕と奥衿《おくえり》を掴《つか》まれて親玉の足元に連れていかれる。
「これが特別室のお客さんかの?」
「そうです、親分」
おれは木箱の上を見て、あいた口が塞《ふさ》がらなくなってしまった。初海賊なので物珍《ものめずら》しいのもあるが、幼児期から思い描《えが》いていた海賊とは、あまりにかけ離《はな》れていたからだ。彼等は横縞《よこじま》のシャツを着ていなかった。ピーターパンともカリブの海賊とも違《ちが》うし、手足がゴム状に伸《の》びることもなさそうだ。
背は低めだが、肩幅《かたはば》が広く胸板も厚い。ほとんど白に近いシルバーブロンドは、もみあげと顎髭《あごひげ》が繋《つな》がっている。古い傷が頬《ほお》に残る赤ら顔は、見事な海の男の面構《つらがま》えだ。
だが、着ているのは……どの角度から見ても、セーラー服。
どうしてセーラー服!? そりゃ海賊だってある種の水兵さんには違いないけど、けどまたどうしてギャザースカート!? 白と水色のセーラー服!?
あまりのショックに膝《ひざ》の力が抜《ぬ》けて、おれはそのまま座《すわ》り込みそうになる。メガホンを持っていない左手で、幅広の鋼《はがね》がぎらりと光った。
セーラー服と……半月刀。
「気の毒になあ、お客さん、そんなに怯《おび》えることはありゃせんよ。わしらは由緒《ゆいしょ》正しい海賊じゃけん、客を殺すようなことはないけんのう」
語尾が中国・四国地方風?
「ただし刃向かう奴等は別じゃ。喚《わめ》こうが死のうが関係ない。まあこの船にいた勇敢な皆《みな》さんは、ご婦人方の前では静かじゃがの」
要約すると、女子供を人質にとったということか。
「聞けばお二人は新婚《しんこん》ちゅーことじゃが、同じ場所に買われることを祈《いの》っとるよ」
ヴォルフラムが頭のターバンを取りながら、セーラー服ショックが抜けないおれに訊《き》く。
「新婚なのか?」
「もう知りませんよそんなこと」
相変わらず小指を立てたままで、親分はメガホンを口に当てた。
「さあそいじゃご婦人方は隣に移ってもらおうかのう! 新しいご主人と出会うまで、わしらの船で働いてもらうけん」
新しい出会いって、サイドビジネスで結婚相談所でもやっているのだろうか。だがこの世は雇用機会均等時代だ、男女は同じ職に就く権利があるんだぞ。女性達がさめざめと泣きながら、追い立てられてタラップを渡り始める。
「んー? 特別室のお客さんは、なんか言いたいことがありそうじゃの」
「……由緒正しい海賊ってッ……!」
おれの様子に気付いたのか、十メートルくらい離れているコンラッドが、両手を下に向けたジェスチャーをした。低め低め?
あ、抑《おさ》えて抑えて、か。
おれは、ぐっと言葉を呑《の》み込んだ。
「……海賊って……朝食はやっぱバイキングなんですカ……」
「わしら朝食は食べない派じゃ」
くそ。
コンラッドの言うとおりだ。ここは抑えておかなくては。おれ一人が文句をつけたところで、形勢は逆転するわけじゃない。へたに逆らって海に投げ込まれでもしたら、尻拭《しりぬぐ》いをする彼等が大変だ。それに他《ほか》の乗客のこともある。
大きな犠牲《ぎせい》を払《はら》ってまで、小さな正義感を貫《つらぬ》くわけにはいかない。いかないけど……。
親分は、ギャザーの裾《すそ》を風になびかせ、樽《たる》に片手をついて言った。
「そんじゃ続いて、高く売れそうな子供ももらっておこうかの!」
「売るだとォ!?」
母親から引き離された幼い女の子が、壊《こわ》れたアラームみたいに泣き叫《さけ》ぶ。
「ババァー!」
おれは反射的にお婆《ばあ》さんを探した。いない。
「クソババーぁ!」
まさか、お母さんに対してその暴言!? お嬢《じょう》さん、ちょっとお品が悪いぞ。ヴォルフラムが軽蔑《けいべつ》をこめて鼻を鳴らした。
「ふん、人間の幼児語は耳障《みみざわ》りだ」
「幼児語?」
「あれは、愛してるお母さま、と言ってるんだ」
ははあ、ディアマミー、みたいなもんなのか。
他の子供も連鎖《れんさ》して叫びだした。
月もなく濁《にご》った曇《くも》り空《ぞら》を、人間の燃やす松明の光と、人間のあげる嘆《なげ》きの声が昇《のぼ》ってゆく。
こんな光景をどこかで見た。やっぱり受験前の深夜映画で、おれは炬燵《こたつ》に参考書を広げたままで、テレビの前に座って独りで泣いた。
人が人を殺してゆく理不尽《りふじん》さに、父親が起きてくるくらい泣き続けた。
濡れて丸まったポケットティッシュで、涙《なみだ》と鼻水を拭《ふ》きながら、さすがにアカデミー賞だなんてうそぶくおれに、親父《おやじ》はさらりと訊いてきた。
「お前だったらどうする?」
マックとソーサどっち好き? くらいの気軽さで。
お前だったらどうする? ちゃんとやるべきことをやれる?
やれるさ。
「……ちょっと待て、おまえら……」
コンラッドが、こうなると思ったという顔をした。
噴火口《ふんかこう》のすぐ下で、辛《かろ》うじて押《お》さえられていたマグマは、それだけ勢いも増している。せっかく数分前にこらえたのに、爆発《ばくはつ》しちゃっていいのか、おれ!?
だがもうトルコ行進曲は中盤《ちゅうばん》を過ぎ、鍵盤《けんばん》連打目前だ。
「おまえら、聞けーッ!!」
親分は斜《なな》めにおれを見下ろしたが、すぐに部下達に視線を戻す。おれなど所詮《しょせん》、捕虜《ほりょ》の一人だ、真面目《まじめ》に取り合ってくれそうにない。
「ちょっと待てよアンタ、あっちの船に移すって、女性と子供をどーする気だ!? そもそも由緒正しい盗賊《とうぞく》っつーのは、金品だけ頂いてトンズラだろっ!? 女や子供を売り飛ばすのは、畜生《ちくしょう》ばたらきこの上ないぞ!?」
「わしら、盗賊じゃなくて、海賊じゃけん」
「そーゆーことを言ってんじゃねぇよッ」
頬《ほお》と耳に血液が昇って顎《あご》が震《ふる》えた。震えは指先まで伝わって、腿《もも》の脇《わき》をモールス信号調に打つ。目が充血《じゅうけつ》して熱くなり、眼圧も上がって奥《おく》まで痛む。
おれは殺されるかもしれない。あの幅広《はばひろ》の半月刀で斬りつけられて。あるいは一撃《いちげき》では死ねずに、傷を押さえてのたうち回るかもしれない。
でも。
「いいか!? 人身売買は国際法で禁止って、そんなの小学生だって知ってんだろ!? たとえ聞いたことなくっても、ちょっとだけ考えりゃ判《わか》ることじゃねーか。あんたは確かに親分で、他の連中より偉《えら》いかもしれない、けどそれは仕事上の地位であって、人間としての存在の問題じゃないだろ!? 全《すべ》ての人間は平等で、あんたもあの人たちもおんなじなんだ。つまりいくらこの船を占拠《せんきょ》したからって、あんたたちに女性を売り飛ばす権利はない! 天は人の上に人をつくらずって、いい言葉だから覚えとけ! 福沢諭吉《ふくざわゆきち》って先生は、日本じゃ万札になった偉い人だぜ!」
親分はメガホンを振《ふ》って、手下を四人呼び付けた。
「なあ、親分、おれはこの辺りに詳《くわ》しくないけど、もしかして他の海賊もみんなこんなことしてんの? みんなやってるから自分もいいって、ホントにそんなふうに考えてんの? だったらそれは間違《まちが》ってる。金品だけ奪《うば》って危害は加えない、そういう男気のある海賊に、義のある海の男になってくれよ。敵ながら天晴《あっぱ》れな海の義賊に、あんたが最初に変わろうよ!」
「連れてけ、こいつは高く売れるぞ。片目だけじゃが、黒に近い」
「話を聞かない男だなぁ、もうッ!」
奥さんは、地図が読めない女かもしれない。
その時、大半の女子供が隣《となり》の船に移されてかなり広くなったデッキの端《はし》の方へと、見覚えのあるベージュの髪《かみ》が連れていかれた。子供の列の最後尾《さいこうび》に、おれと踊《おど》ったお姫《ひめ》さまの、ラムネのビー玉色の瞳《ひとみ》がある。
少女は肩《かた》に置かれた賊の手を、まるで汚《けが》れを拒否《きょひ》するように、強く素早《すばや》く払い除《の》けた。
男の頭に血が昇り、小さな身体《からだ》を突《つ》き飛ばす。
「ベアトリス!」
ヒスクライフが叫んだ。
ワルツを踊ったときのままの、桜色のふんわりしたワンピース。貝の髪飾《かみかざ》りがちらっと光って、彼女は大きくバランスを崩《くず》し、低い木の柵《さく》を越《こ》えてしまう。
「危な……っ」
すぐそこは海。黒く口を開けて待ち受ける海だ。
何人かが走りだしたが、おれが一番先に着いた。落ちかける少女の腕《うで》を掴《つか》み、自分も引きずり込まれながら、身を乗り出して持ち堪《こた》えた。コンラッドとヴォルフラム、それとおそらくヒスクライフが駆《か》け寄る。
「しっかり……ベアトリス……手を掴んでっ」
腕一本で繋《つな》がったまま、ベアトリスはあの眼《め》でおれを見上げた。スターサファイアになりきらない、おれを少しだけ誉《ほ》めてくれた少女の眼だ。
「いいの」
「……なにが、いい、の」
おれの服とベルトと腰《こし》が掴まれる。
「お父さまやお母さまと会えなくなるくらいなら、落ちてもいいの」
「……そんな、こと」
そんなこと言っちゃだめだ。
これから何人もの素敵《すてき》な男性と踊り、情熱的な恋をして、幸せをつかむはずの女の子が、そんなことを澄《す》んだ瞳で言っちゃだめだ。
そんなことを、言わせては、駄目だ。
力強い数本の腕が二人を引き上げ、ベアトリスは父親に抱《かか》えられる。おれは不様に尻餅《しりもち》をついて、板の上に仰向《あおむ》けに転がった。雲の流れる夜空を凝視した。
脳天に長くて太い針《はり》を刺《さ》し、それを避雷針《ひらいしん》にして雷《かみなり》が……おれの全身に電流を送っているような、痺《しび》れと熱と恍惚感《こうこつかん》。
心臓は倍速で血を送り、鼓動《こどう》の位置がはっきりしなくなる。
海馬《かいば》が警告を発するが、アドレナリンもシャンパンみたいに栓《せん》を飛ばす。
三半規管のもっと奥で、懐《なつ》かしい歌が一節だけ聞きとれた。
呼んで……。
呼んで、誰《だれ》を?
その先は、わからない。
[#改ページ]
船では起こりえないような震動《しんどう》が、甲板《かんぱん》にいる者たちを襲《おそ》った。
ぞぞ。
地響《じひび》き? しかしここは大地ではなく、緩《ゆる》やかで規則的な揺《ゆ》れを繰《く》り返す波の上だ。
皆《みな》が原因を求めて周囲を見回し始める頃《ころ》、ユーリはコンラッドの手も借りず、覚束無《おぼつかな》い足どりで歩きだす。
デッキのほぼ中央まで行くと、俯《うつむ》いていた顔を上げ、コンタクトが外れて片側だけ黒い眼で、正面の男を鋭《するど》く見据《みす》えた。
「……ユーリ?」
ヴォルフラムが、偽名《ぎめい》も忘れて声をかけるが、耳に届いた気配はない。
はっとして彼はユーリの手を握《にぎ》る。人差し指以外は氷のようだ。
「コンラート、こいつ……」
「わかってる。でも俺達《おれたち》にはどうすることもできない」
おそらくユーリ自身にも、抑《おさ》えることはできないだろう。
「……力を持たぬ船に限って襲い、壊《こわ》し奪うの悪行|三昧《ざんまい》」
声も口調も変わっている。ちょんまげがないのは残念だ。
「正々堂々、勝負もせず、卑怯《ひきょう》な手段で押し込めては、か弱き者まで刃《やいば》で脅《おど》しおのれの所有と言い立てる」
ぞぞぞぞぞぞ。
今や震動は音も伴《ともな》い、大きく、というより迫《せま》ってきていた。
年若い捕虜《ほりょ》の変貌《へんぼう》ぶりに呆気《あっけ》にとられた海賊《かいぞく》は、おろおろと親玉の許《もと》へと集まってきた。セーラー服のヒゲオヤジを、熱いままの食指でビシッと狙《ねら》う。
「盗人猛々《ぬすっとたけだけ》しいとはこのことであるッ!」
平素の驚《おどろ》いてばかりいる彼からすると、この物言いはまるで別人だ。これなら一国の王として、グウェンダルと比べても遜色《そんしょく》がない。
足元からしてモデル立ち。
「海に生きる誇《ほこ》りもなくした愚《おろ》かな者どもめ! 命を奪うことが本意ではないが、やむをえぬ、おぬしを斬《き》るッ!」
ヴォルフラムが苦い顔になった。彼にとっては屈辱《くつじょく》の記憶《きおく》だ。
「ぼくもあれをやられた」
「手厳《てきび》しかったな」
「だが、あの時と今とでは状況《じょうきょう》が違《ちが》う。ここは人間の領域だ、要素に制限があるだろう」
「俺もそれが気掛《きが》かりなんだが……」
魔力《まりょく》は魂《たましい》の持つ資質。それを持ち合わせた者だけが、自然界の要素と盟約を結び、命令し操《あやつ》ることで魔術が使えるのだ。しかしここは神を崇《あが》める人間達の領域だ、魔族に従う粒子《りゅうし》は極端《きょくたん》に薄《うす》い。
斬ると断じた言葉どおりに、剣《けん》を使えば問題はないのだが。
「成敗ッ!」
ぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ。
キャビンの入り口付近にいた部下が、恐怖《きょうふ》に満ちた悲鳴をあげる。
震動と音の原因が判明したのだ。
そいつらは猛《もう》スピードで甲板に進出し、過《あやま》たず賊を選んで身体《からだ》を這《は》い登る。
這い登る!? 辺りが絶叫《ぜっきょう》につつまれた。
パーツもばらばらの動物の骨が、虫かネズミかヤドカリのように床《ゆか》一面を埋《う》め尽《つ》くしてゆく。客達が食い散らかして落としたものも、厨房《ちゅうぼう》に捨てられたものもある。鳥や魚の小骨から、カルビのこり骨、スペアリブの骨だけ、巨大《きょだい》な牛の頭蓋骨《ずがいこつ》まで、ありとあらゆる食肉の骨が、復讐《ふくしゅう》とばかりに襲いかかる。
「うわ……こ、こんな悪趣味《あくしゅみ》な魔術は初めてだ……」
「ぎゃーこっちにくる! コンラートくるぞ!? なんとかしろ、なんとかッ」
あまりのグロテスクさに、ヴォルフラムはホットプレートの上の海老《えび》みたいに跳《は》ね回った。うっかり踏《ふ》むと足下で砕《くだ》け、尖《とが》った破片で怪我《けが》をしそうだ。
「動かないでじっとしてるんだ。蠍《さそり》や毒グモをやり過ごす要領で」
「あーっ、のっ、のっ、登ってくる!」
「騒《さわ》ぐな」
よほど肝《きも》が据《す》わった人物でなければ、これをやり過ごすのは難しい。
乗客や乗員が静かなのは、ほとんどが気を失っているからだ。襲撃《しゅうげき》を受けている海賊達は、涙《なみだ》を流して阿鼻叫喚《あびきょうかん》状態。刺《さ》されたり噛《か》まれたり引っ掻かれたり、他人の食べかすが口に入ったり。
木箱の壇《だん》から転げ落ち、耳と鼻にチキンボーンを突《つ》っ立てた親分は、恐怖に腰を抜かしたまま、ユーリから逃《のが》れようと這いずった。
「こっ、こいつ悪魔《あくま》だ、悪魔だーっ!」
「悪魔だと!? 余《よ》の顔を見忘れたか」
彼の前には漢字で『正義』、人文字ならぬ骨文字だ。
悪魔ではなくて、魔王である。
海賊船のデッキでことを見守っていた女達が、投げられた光に歓声《かんせい》をあげる。
「船よっ、シマロンの巡視船《じゅんしせん》よーっ」
ユーリの爛々《らんらん》と輝《かがや》く右目が、海上の灯《あか》りを確認《かくにん》した。
あちこちで乾《かわ》いた軽い破裂音《はれつおん》がし、骨軍団は意思を失って動かなくなる。
魔王は、相応《ふさわ》しい威厳《いげん》をもって、海賊達に向かって言い放った。
「おのれの行いを悔《く》い、極刑《きょっけい》をもって償《つぐな》う覚悟《かくご》をいたせ!」
ゆらりと彼が前のめりになる。
「……追って沙汰《さた》を、申し渡《わた》す」
今夜は絶対に、うなされる。その場の誰《だれ》もがそう思った。
[#改ページ]
おれの中ではその間ずっと、ポーリュシカポーレが流れていた。
それも幼稚園《ようちえん》の運動会用ではなく、ロシアのごついおっさんが、ウォッカ片手に唄《うた》いあげる、名付けてゴーリキーパーク合唱団バージョンだ。
そんなコーラス集団はいないだろうけど。
夢と現《うつ》つの境目あたりで、身体《からだ》は心地《ここち》よく暖かかった。降り注ぐ日光が当たっていて、まぶたの裏まで真っ白い闇《やみ》だ。
やがて陽光も翳《かげ》ってゆき、再び夜が訪《おとず》れる頃《ころ》、おれはようやく目を覚まし、コンラッドの胸から頬《ほお》を離《はな》した。
「……ロシア民謡《みんよう》が……」
「なんですか、東西冷戦問題ですか?」
「違《ちが》う、それはもう、終わったよ」
十五年前に合衆国を出ちゃった次男は、へえ本当にと感心している。戸口に立っていた三男|坊《ぼう》は、バスローブ姿のままだった。
綺麗《きれい》な眉《まゆ》を大げさにひそめてみせる。
「うなされたぞ」
「誰が? おれが?」
「違う、ぼくがだ」
「ヴォルフラム、何をそんな怒《おこ》って……ああ、またおれなんか凄《すご》いことやっちゃったの?」
「やっちゃったって、覚えていないのか!? あれを、まったく!?」
ヴォルフラムは戸に寄り掛《か》かってずるずると座《すわ》り込み、首を晒《さら》してのけ反《ぞ》った。
「幸せ者」
「ええっ!? おっ覚えてないほうが幸せっていうほど酷《ひど》いことやっちゃったの、おれ!? てゆーか、ここどこ!? わたしは誰、じゃなくて……」
特別室とは雲泥《うんでい》の差の、三|畳程《じょうほど》の薄暗《うすぐら》い小部屋《こべや》だった。この規則的な揺《ゆ》れは、海上だ。三等船室だって二段ベッドくらいはあるだろうに、この部屋には家具類が何ひとつなかった。窓には格子《こうし》がはめられて、床《ゆか》も壁《かべ》も剥出《むきだ》しの木のままだ。
「なんで鉄格子……おれなにやって、どれくらい寝《ね》てた? 確かセーラー服に説教かまして、誰かが海へ落ちそうに……ベアトリス、ベアトリスだよ! どうなった!?」
おれはコンラッドの服を掴《つか》み、彼が夜会|衣装《いしょう》なのに気がついた。所々にある赤茶の乾《かわ》いた染《し》みは、斬《き》り合いの激しさをものがたっている。
「ひとつずつ順に答えますよ。まず、ベアトリスは元気だし両親と一緒《いっしょ》です。あなたは彼女を助けた後に、この世のものとは思えない強力で恐《おそ》ろしい術を披露《ひろう》し、海賊《かいぞく》どもを懲《こ》らしめました。俺《おれ》が思うにこの船はヒルドヤード船籍《せんせき》なので、仕入れていた食肉の大半が、うちの国の輸出した飼料からカルシウムを摂取《せっしゅ》してたんじゃないですかね。だから結果としてああいうことに」
……どういうことに?
「で、陛下《へいか》のおかげでほとんど鎮圧《ちんあつ》されたところへ、シマロンの巡視船が駆《か》け付け、賊を全員、拘束《こうそく》しました。あなたはそのまま寝込んでしまって、もうすぐ二日がたとうとしている。窓《まど》の外の紫《むらさき》が紺《こん》に変わると、また新しい夜が訪れ、恐ろしい体験を酒の肴《さかな》にパーティーが始まるというわけです。ひとつお願いがあるんですけど」
おれの頬《ほお》をつまんで軽くひっぱる。
「コンタクトは外してから眠《ねむ》ってくれ」
保育士になれそうなスマイル0円。
「けど、どうしておれたちは閉じ込められてんの? あー、えーと自分で言うのもなんだけどさあ、おれは皆《みな》さんを助けたわけだろ? そりゃちょっと怖《こわ》がらせたのかもしんねーけど、おれがいなけりゃ巡視船だかも間に合わずに、海賊に逃《に》げられてたかもしんないよね」
人身売買の「商品」を乗せて。含《ふく》む、おれとヴォルフラム。
「そればかりじゃない。護衛船も大きなダメージだったし、この船の救命|艇《てい》は全《すべ》て壊《こわ》されていました。おそらく去りぎわに火を放って、船ごと沈《しず》める計画だったろうね。皆殺しだ」
含む、コンラッド。
まるで他人《ひと》ごとのように淡々《たんたん》と説明する。自分だって殺されてたかもしれないのに、どうしてそんなに平静でいられるんだろう。
いやそれよりも、せっかく大惨事《だいさんじ》を防いだのに、何故《なぜ》おれたちがこんな目に遭《あ》っているのだろうか。
「ばれたからですよ、魔族《まぞく》だと」
コンラッドは、慣れた様子で肩《かた》をすくめた。
「シマロン領は俺達魔族にとって、旅を楽しめる地域じゃないんです」
「そんなばかな」
そんな理不尽《りふじん》な話ってアリか!?
小市民的で規模の小さい正義感だけど、おれはどうにかして助けようとしたんだ。魔族だからとか人間だからとか関係なしに、みんなを助けようとしたはずなのに。
やっぱり余計なことだったのだろうか。
「……ごめん……」
「なにがです?」
「軽はずみなことしちゃって」
おれは体育|座《ずわ》りで膝《ひざ》を抱《かか》え、コンラッドの肩にこめかみを押《お》しつけた。
「おれが爆発《ばくはつ》を我慢《がまん》できてりゃ、今頃《いまごろ》はディナーテーブルでメインディッシュだ」
両脚を投げ出し、おれに喉《のど》を向けた無防備な姿勢で、ヴォルフラムが言った。
「ユーリが謝《あやま》ることはない」
「ヴォルフ……」
「愚《おろ》かなのは人間どもだ」
目尻《めじり》に触《ふ》れているコンラッドの身体《からだ》が、困惑《こんわく》を示してわずかに揺れた。彼の父親は人間で、彼自身にも人間の血が流れている。だいたい魔王なんて持ち上げられているおれだって、人間と何ら変わりがない。
この話はここまでで終わりにしよう。どうしてこんなことになったのかより、この先どうするかのほうがずっと重要だ。
おれは、四角く切り取られた薄紫《うすむらさき》の雲と空を存分に眺《なが》めた。
「今日の日暮れは縦縞《たてじま》だよ。窓から外は見えるのに、決して行けない不自由さ!」
「お前、魔王だというのなら、何か飛べるものに姿を変えてあそこから脱出《だっしゅつ》してみせろ」
「無茶言うなよー、バットマンじゃねーんだからさぁ」
あの人だって、変身はしない。
「バットマン! 俺それ知ってますよ。全身黒ずくめで、胸に黄色で蝶《ちょう》が描《か》いてあるやつ」
「……それじゃバタフライマンじゃん」
「二人でぼくの知らないことを話すな!」
おれの寝起《ねお》きの腹が、山鳩《やまばと》のような呻《うめ》きを発した。一日半飲まず食わずでいれば、胃腸も苦情を訴《うった》える。
「豪華《ごうか》ディナーは無理だとしてもさ、とりあえず脳味噌《のうみそ》に燃料やんないと、今後の計画も立てられないよ」
「ちゃッらーんッ!」
こん平師匠《ぺいししょう》の掛け声で勢いよく扉《とびら》が開かれて、寄り掛かっていたヴォルフラムが弾《はじ》かれた。そこにはオレンジの髪《かみ》を緩《ゆる》くまとめ、大きな銀の盆《ぼん》を捧《ささ》げ持った、笑顔《えがお》の男が立っていた。
「お待たせ、豪華夕メシよんっ」
皿からの湯気と食欲をそそる匂《にお》いが、部屋の隅々《すみずみ》まで広がった。
最初おれは男を見張りと思い込み、ふざけた人選をしたものだとあきれた。
だが彼はすぐそばまで近付いて、おれの脇に盆を置き跪《ひざまず》く。
「お目覚めのようですな陛下。大事にいたらず何よりです。さ、これは他《ほか》の客と寸分|違《たが》わぬ献立《こんだて》ですが、陛下のお口にあいますかどうか……」
「ななななんでおれのこと陛下なんて呼ぶの!? 確かに魔族だってのはバレちゃったけど、おれ平凡《へいぼん》な旅の魔族で、もっと正確にいうと身体は人間で……」
奴《やつ》はしなやかな上半身を起こし、ロジャーラビットが跳《は》ねるみたいな笑い方で、おれの両肩をどついてきた。
「いーねぇ! ほんとだ、聞いてたとおりだ。素《す》だと相当かわいいねーェ」
コンラッドの口元は、複雑だがリラックスした緩《ゆる》み具合だ。敵対勢力ではないらしい。
「おい、陛下に失礼だろう」
「だぁねェー。けどそりゃ国内なら無礼だけど、ここは遠い海の上、オレのこと忘れてるつれない男を、ちょっとくらい困らせてもいいんじゃねぇかぁ?」
「忘れてる、ということは、おれはどっかでアナタにお会いしてるわけですか?」
やや吊《つ》り気味の切れ長の目は、現在はいたずらっぽく笑っている。だがそれは簡単なスイッチで、どんなに冷酷《れいこく》にもなれそうなブルーだ。
「……すいません、お顔に覚えが……」
「これといって特徴《とくちょう》もない顔だしね」
古いジャズレコードで聞けそうな嗄《しゃが》れ声。太く安定した首と、肩から背中への絶妙《ぜつみょう》な曲線、服の上からでも断言できる惚《ほ》れ惚《ぼ》れするような外野手体形。
「あっ、みっ、ミス・上腕《じょうわん》二頭筋!?」
「ご名答ーぅ」
「えっ、あれっ、でもなんで男性になっちゃったんですか!?」
「変なこと仰《おっしゃ》いますな、オレは元から男だよ。女装《じょそう》は仕事、仕事上の都合」
男性だと教えられてから聞けば、ハスキーな声も魅力的《みりょくてき》だ。理想的外野手体形も、ミスター・上腕二頭筋なら納得《なっとく》がいく。
「じゃあなんでコンラッドにナンパされてたんだよ」
「オレが隊長になんだって? 仲がいいってこと? そーりゃ当然ですよ、ガキの頃《ころ》から一緒《いっしょ》なんだから」
ガキの頃から!? 待てよ、ということは、また新たなファミリー出現なのか!? グウェンとコンラッドとヴォルフが兄弟で、こいつとコンラッドの父親が同じだったりすると……。
「違《ちが》いますよ、兄弟じゃありません」
次男本人が早めに否定してくれた。
「てっとり早くいうと、幼なじみです。二人とも片親が人間だったので、子供の頃、同じ場所で育ったんです。成長してからは同じ隊に所属し、戦友として生死を共にしたわけ。彼の名前はグリエ・ヨザック。非常時に俺達を支援《しえん》するようにと、シルドクラウトからずっとついてた護衛です」
「よろしこー」
陽気でふざけたボディーガードは、耳の横でひらひら手を振《ふ》った。
「無礼な奴だけど腕《うで》は立つんで、旅の間だけ目をつぶってください」
「ホントいうと乗船する前に、国内で裸《はだか》の付き合いしてんだけどね」
「裸の……あっもしかして、ニューハーフ風呂《ぶろ》にいた!? じゃああの時おれの、こっ、こっ」
「息子《むすこ》さん? 拝《おが》ませていただきやしたよーォ」
「ぎゃああああああ」
「なんだと!? ユーリ、ぼくに内緒《ないしょ》で子供なんか生んだのか!?」
「生むかボケっ!」
ヨザック、与作《よさく》、武器は斧《おの》。
車のCMのメロディーで歌ってみたが、見られたショックは拭《ぬぐ》えない。
「……とにかく、冷める前にこれを腹に詰《つ》め込んでしまおう。陛下、いきなり普通《ふつう》の食事して大丈夫《だいじょうぶ》ですか? もっとこう、病人食から試《ため》したほうが」
「いや、食う、食いますとも!」
愚《おろ》かにも意地汚《いじぎたな》くおれは言った。自分の内蔵を過信していたのだ。
「いいねえ、そうこなくっちゃいけねぇや。こいつは厨房長《ちゅうぼうちょう》がお前さんたちの行為《こうい》を意気に感じて、こそっと持たせてくれたんだぜ。普段《ふだん》、何気なく捨てちまってる物で、あんな芸術見せてもらったのぁ初めてだって」
「へえ、芸術だってさ。コンラッド、リサイクル品でなんか作ったの?」
兄弟の視線はおれに注がれている。
「……おれ?」
「まあ気にしなさんな」
ヨザックが、含《ふく》み笑いで胡座《あぐら》をかいた。食卓《しょくたく》がないから盆《ぼん》を床《ゆか》に置き、アジアご飯っぽく車座で食べた。
子羊の骨つき肉ハーブソース添《ぞ》えには、誰《だれ》一人手をつけようとしなかった。
おいしそうなのに、何故《なぜ》だろう。
夜明け前にヨザックが戻《もど》ってきて、脱出《だっしゅつ》するからと起こされた。
おれたちは身を寄せ合って眠《ねむ》っていて、おれはキャリアウーマンと女子高生に足を絡《から》められる夢をみていた。現実はどうだったのか考えたくない。
「こっからは救命|艇《てい》で手漕《てこ》ぎでも、本船より先に上陸できるだろ。海の真ん中で逃《に》げ出したって、漂流《ひょうりゅう》すんのが精々《せいぜい》だもんな。さ、陛下も隊長も起きてくれ。閣下《かっか》はまだまだおねむらしーけどな」
美女と美少年には低血圧が似合う。可愛《かわい》らしく目を擦《こす》ったヴォルフラムは、粗末《そまつ》な毛布を手繰《たぐ》り寄せた。
「ヴォルフラム、二度寝は遅刻《ちこく》の元だぞ。一限の数学、寝ていいから」
おれもどこかがズレてるようだ。
「荷物が半分しか取り戻せなくてよォ。要《い》るもんが揃《そろ》ってりゃいいんだが」
「船はどうしたんだ? この船の救命艇は、海賊どもに壊《こわ》されていただろう」
「おう、直させといた。そいつが見張りも誤魔化《ごまか》して、うまく脱出させてくれるって手筈《てはず》よ」
ヨザックは抱《かか》えてきた袋から、三人分の服と薄黄色いゴム風船を取り出した。自分もひとつに口をつけ、息を吹《ふ》き込んで膨《ふく》らませる。
「ぼーっと見てないで、早く脱いでそれ着て、これ膨らまして」
「なにそれ」
「水難救助訓練用人形、救命くん」
溺《おぼ》れ役のエキスパートか。
「こいつに、ふーっ、服着せて、ふーっ、ここに残してけば、ふーっ、あんたたちがこいつに化けたってんで、ふーっ、相手は魔族だ何をしてくるか判《わか》らんぞって、この救命くんを幽閉《ゆうへい》したりするわけよ、ひゃはは、考えるだけで楽しーねェ」
「……そういうことするから、魔族に関してでたらめな噂《うわさ》ばっか流れてるんじゃねーの?」
「まあ確かに、時間|稼《かせ》ぐ身代わりは必要ですよ陛下」
言い包《くる》められてるような気がする。
おれたちはボートデッキまで忍者走《にんじゃばし》りで行き、準備|万端《ばんたん》で繋《つな》がれていた救命艇に乗り込んだ。ニヤリと笑って葉巻をくわえ、親指を突き出して送ってくれたのは、そばかすの見習いくん、リック……ではなく、彼を殴《なぐ》っていた船員だった。金銭で動くのは確認《かくにん》済みだ。
「大丈夫かな、あいつすぐチクったりしないかな」
斜《なな》め横でオールを握《にぎ》りながら、コンラッドは遠くなる客船に視線を向ける。
「金を受け取る者には、二通りあります。小銭で動いて裏切る者と、大金でしか動かず裏切らない者と。あいつは金には汚いけれど、貰《もら》ったからには裏切りませんよ」
「なるほど。あ、じゃあ大金を貰っといて裏切るパターンは?」
「それは金銭じゃなくて、損得で動いてるんでしょう」
「あんたら喋《しゃべ》ってねーでどんどん漕げ! 本船に追い付かれちゃ元も子もねーだろ!?」
わずかにボートが曲がっている。隣《となり》でヴォルフラムが居眠《いねむ》りしていた。
「わーっヴォルフ、寝るな! 回る、回っちまうー」
「はへ」
「はへじゃなーい! 漕げっ、漕げってほら、引いてェ戻す、引いてェ戻す、ヒーヒーフー、ヒーヒーフー」
「……陛下それ、ラマーズ法なんじゃないかなぁ……」
どうしてそんなこと知ってるんだろう。おれ以前に、コンラッドさんが。
四人の逃亡者《とうぼうしゃ》は白み始めた夜明けの海を、揺《ゆ》れる島の灯《ひ》めざして必死で漕いだ。
さようなら、最初で最後の豪華《ごうか》客船の旅。思い残すことはあまりない。
櫂《かい》の雫《しずく》が頬《ほお》に跳《は》ね、舐《な》めると塩が舌にしみた。
今はまだ、ヴァン・ダー・ヴィーアは静まり返っている。祭りが始まれば賑《にぎ》わうのだろう。
あの島に眞魔国の宝が眠《ねむ》っている。最凶《さいきょう》最悪の……いや、悪と決め付けてはいけない。魔王にしか持てないという最強の最終兵器。おれはそいつを取りにきたんだ。
海賊に襲《おそ》われに来たわけじゃないんだぜ。
「よーし、待ってろよ、魔剣《まけん》メルギブ!」
「モルギフ」
あっという間に訂正《ていせい》された。
小さく遠ざかる帆船《はんせん》を尻目《しりめ》に、おれたちは陸へと近付いてゆく。
おれは日本語で、コンラッドは聞きかじりの英語で、なんとなくマイケルさんの歌を口ずさんでいた。ご一緒に。
「はーれーるーや」
ついつい神を讃《たた》えちゃう魔王ってのも、珍しい。
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島の乙女《おとめ》に恋《こい》をすりゃ
ヴァン・ダー火山も大噴火《だいふんか》
ともに海は渡《わた》れねど
見上げる空に同じ月
あコリャ、ヴァン、ヴァン、ヴァンダヴィーア、夢の島
一度来たなら忘られぬ(手拍子《てびょうし》)
以上、ヴァン・ダー・ヴィーア音頭《おんど》、一番でした。
おれとしてはこの、夢の島ってのはどうだろうかと思うのだが。だって埋立地《うめたてち》みたいなイメージがあるし、
「ぜーんぜん、夢の島なんかじゃねーしーィ!」
息が弾《はず》むし足が重い。
だが登山道は果てしなく続き、ごねても叫《さけ》んでも変わらない。
かれこれ四時間半前に、汗《あせ》と塩水と名も知れぬ海草でずぶ濡《ぬ》れになりながら、おれたちは半魚人よろしく上陸した。ドックでもマリーナでもない普通《ふつう》の砂浜に。そのままの格好《かっこう》ではあまりにも怪《あや》しいだろうということで、使われていない海の家で身形《みなり》を整え、ほんのちょっと仮眠《かみん》をとってから、すぐさま山登りを開始した。
道は舗装《ほそう》されてますから、子供でも楽に山頂まで行けますよなんてコンラッドの知ったかぶった言葉に騙《だま》されて、スタートしたのが運のつきだった。
「楽に登れる子供がいたら、世界スーパーチルド連に入れるよッ」
「なにいってるんですか、こんな坂道。登攀《とうはん》訓練にもなりゃしない」
登攀訓練なるものは、いち高校生には縁がない。
「昼前になんとか登り切れば、時間に余裕《よゆう》がもてますよ」
「けどおれさっき胃の中のもん全部|吐《は》いた病人だぜ!? なのにこれじゃ苛酷《かこく》すぎるよ」
「それは陛下《へいか》が意地汚《いじきたな》く、急にフルコース食ったから」
二日近く眠っていた空っぽの腹は、いきなりのご馳走《ちそう》に驚《おどろ》いて胃痙攣《いけいれん》を起こした。豪華《ごうか》客船の下層の監禁室《かんきんしつ》には、身代わり人形と一緒《いっしょ》におれの吐瀉物《としゃぶつ》が残された。
高くなってきた太陽に髪《かみ》を焼かれ、後頭部が熱をもってズキズキする。靴底《くつぞこ》に当たる石畳《いしだたみ》は、平らというには程遠《ほどとお》い。
「信じらんない、も、箱根《はこね》の旧街道《きゅうかいどう》歩かされた時みたい。あれも嘘《うそ》だろってくらい険しくてさぁ、けものみちなんじゃねーかと疑ったよ」
ただし、ここは気候温暖の夢の島、脇《わき》に立つのは広葉樹林。
ヴァン・ダー・ヴィーアは周囲百キロメートルくらいの火山島で、数多くの温泉に恵《めぐ》まれている。海の幸も豊富なので、収入は観光資源に頼《たよ》っている。おれが地図帳で覚えた島といえば、バヌアツ共和国エロマンガ島くらいのものだから、百キロの島が大きいのか小さいのか判《わか》らないが、リゾート地としては手頃《てごろ》だろう。
後続を引き離《はな》して一人旅をしていたヨザックが、振《ふ》り向いて大きく手を振った。
「もうちょっとで休憩所《きゅうけいじょ》があるよーん!」
「ちょっとってどれくらい!?」
女装していないときのヨザックは本当にパワフルで、さすが理想的外野手体形の持ち主だった。しなやかで素早《すばや》い身のこなしは、どんな打球でもシングルヒットにしてしまいそうだ。仕事と称《しょう》して女性に交ざっていたときも、もしかしてパワフルだったのかもしれない。お相手しなくて賢明《けんめい》だった。
いやに長い「ちょっと」を登り切ると、確かに休憩所はそこにあった。
「……ちゃ、茶店……?」
営業中。
緋毛氈《ひもうせん》を多用した店の造りは、上様がよくお茶と団子を召《め》し上がる、時代劇の茶店にそっくりだった。
おれはへなへなと座《すわ》り込み、メニューも見ずに注文した。
「おかみ、団子と茶を」
「へえ」
出てきたのは金髪碧眼《きんぱつへきがん》の美人|女将《おかみ》で、出された物はクッキーと紅茶だった。
「……こんなはずじゃ……」
コンラッドとヨザックは涼《すず》しい顔で白磁のティーカップを口元に運んでいるが、おれとヴォルフラムは指先も震《ふる》え、飲み物をすすり込む気力もない。
盆《ぼん》を抱《かか》えて立ったままの美人女将は、お元気さん二人とぐったりさん二人という妙《みょう》な団体に興味|津々《しんしん》で、一番声のかけやすそうなおれに尋《たず》ねた。
「あのね、お客さん、ご存じだとは思うんだけどもね。祭りの神輿《みこし》が出発すんのは、ここじゃなぐって隣《となり》の山なんだけどもね」
「えっ!? ここは祭りと関係ないの!?」
「休火山はお隣の山だよ。ここは温泉宿が四、五軒あっだけで、それだってうちんとこでおしまいだけども」
店から数十メートル離れた奥《おく》に、ひなびた感じの建物がある。
「ちょっとォ、おれたち間違《まちが》えたらしいよ!? 下山してもう一度チャレンジなんて、おれはまだしも……」
茶わんを両手で握《にぎ》ったきりのヴォルフラムは、虚《うつ》ろな目をして動かない。
「……こいつなんかもう別の世界にイッちゃってるし」
「間違えてませんよ。用があるのは隣の神殿《しんでん》じゃない」
「え、じゃあ観光協会で配ってたパンフの、パルテノン神殿みたいなとこには行かないの?」
「見たかったんですか? それは申し訳ないことを」
コンラッドはカップをソーサーに戻《もど》した。ヨザックは幼なじみの言葉に頷《うなず》きながらも、焦《こ》げ気味のクッキーを前歯でかじり、熱量の補給に余念がない。
「休火山から駆《か》け降りる炎《ほのお》の神輿なんかに興味があると思わなかったんで。俺達《おれたち》が用があるのはこの山の頂上。勇壮《ゆうそう》な火祭りじゃないんです」
炎の神輿……なんかちょっとそっちも見たくなってきた。
「お客さん、山の上に行ってもどうしよっもないよ!」
女将が色を失った。
「頂の泉はあれ以来、閉鎖《へいさ》されてっし、他《ほか》に見るよなもんもなんもないし! 確かまだ釣《つ》り堀《ぼり》は残ってるけどもね」
「あれ以来ってなに? 何かあったのか」
彼女はちらっとコンラッドの方を窺《うかが》った。あちらが保護者だと判断したらしい。
「十五、六年前の夏の夜に、天から赤い光が降ってきたんだけども、そいづが頂の泉に落っこって、泉は三日三晩も煮《に》え立ったんっす」
「隕石《いんせき》だったんだ!?」
女は大げさに首を振り、意味もなく声をひそめて効果を上げた。
「……魔物《まもの》だったんっす」
「魔物?」
「そう。それから泉にはだーれも入れなくなって。入るとビビビっと痺《しび》れちゃうんだけども。ひどい人は心臓止まっちまったり、大火傷《おおやけど》したりで大変なんっす。湯に触《さわ》らずに奥の泉まで行って、魔物を見た人が一人だけいるんだけどもね、なんか銀色でビカビカしてって、掴《つか》もうとしたらあまりのことに気ィ失っちゃったんっす」
銀色でビカビカしてて、掴もうとしたら気絶させられた!?
「そいづは半死半生で発見されって、今でも意味わがんねっことぶつぶつ言うらしんっすけどもね。顔の火傷はとうに治ってっのに、顔が顔がって喚《わめ》くんですってさ」
稲川淳二《いながわじゅんじ》調で語られたら数倍|怖《こわ》い。けど、おれの頭脳が導きだした推測では、そいつは魔物ではなくて魔剣《まけん》じゃないかな。ということは魔剣をゲットして持ち帰れば、閉鎖された泉も元通りになる。
眞魔国の強さもアップして、他国に侵攻《しんこう》される心配もなくなる。おまけに王様としての権威《けんい》も増し、すべてにおいて万万歳《ばんばんざい》だ。
「安心せい、おかみ。我々はその魔物を退治するために参ったのだ。じきに泉にも平穏《へいおん》が訪《おとず》れるであろう」
「……銀のビカビカを掴めりゃぁな」
「ヨザ!」
「だってそーだろ? これまで何十人もが被害《ひがい》にあってるんだぜ? 坊《ぼ》っちゃんだけが無事って保証はねーじゃん」
お庭番が縁起《えんぎ》でもないことを言う。ディズニーの兎《うさぎ》みたいな笑い声を軋《きし》ませて。
「ま、心配しなさんな。もしそうなってもオレたちが、縄《なわ》で吊《つ》ってまたお船で連れて帰ってあげっからよ」
「ヨザ! 無礼が過ぎる」
おれは咄嗟《とっさ》に手を叩《たた》いていた。
そうだよ、船じゃん!?
幸いなことに、山頂の釣り堀には、白い塗装《とそう》が所々はげたイカすボートが放置されていた。
「……まあ、底さえ抜《ぬ》けなければ、それで」
「そーだよ! ちょっとボロくたって、泥《どろ》の船よりずっとましだよ」
「柄杓《ひしゃく》、どっかに柄杓ねーか? 溜《た》まった水をすくいだす柄杓!」
このお庭番ときたら、女装しててくれるほうが静かでありがたい。お銀と飛猿《とびざる》の一人二役で便利だし。
釣り堀の濁った水面を、巨大《きょだい》な魚がダボンと跳《は》ねた。宿敵がいなくなった呑気《のんき》な生活は、鮒《ふな》を鮪《まぐろ》に進化させたようだ。
お粗末《そまつ》なバリケードを乗り越えて、頂の泉のほとりに立つ。入り口の壁《かべ》には数え切れない落書きがあった。赤や黄色の様々な線は、おれの目にはまったく意味をなさない。
「なんて書いてあんの?」
ヨザックが棒読みする。
「オレたちゃここに来たぜヘイヘイヘイ、命知らずだぜイエーイ」
「度胸|試《だめ》しかい」
入り口からすぐに洞穴《ほらあな》になっていて、壁も天井《てんじょう》も剥出《むきだ》しの岩だ。広いし高いから圧迫感《あっぱくかん》はないが、外の光が届かないので薄気味《うすきみ》悪さは格別だ。それぞれカンテラで別方向を照らす。
水温が高いのか湯気もうもうだ。
「俗《ぞく》に言う、洞窟風呂《どうくつぶろ》の大規模なやつだな。温泉テーマパークにあったりする……」
「ちっ」
オールから湯が跳ねたのか、コンラッドが手の甲《こう》を押《お》さえた。
「そんなに熱いの? まさか熱湯風呂!?」
「陛下、危な……」
ボートから指を浸《ひた》してみる。適温だ、いい湯加減という感じ。
「ほどほどじゃん」
「平気なんですか?」
おれは元々、気が短いから、風呂は熱めが好みなのだ。
「平気も何も……ぁいてッ!」
太股《ふともも》に百足《むかで》に刺《さ》されたような、激痛と痺れが同時に走る。濡れた指を振った拍子に、雫《しずく》が落ちてかかったらしい。
「うわぁやばっ! あつ、あつつ、ビリビリすんぞ!? 海月《くらげ》、海月に刺されて、それも電気クラゲ、電気クラゲっ! けどなんで手は? なんで素手《すで》で触《さわ》って熱くなかったんだ?」
服の上から濡れた太股が大惨事《だいさんじ》なのに、直接浸した指はどうして何ともないのか。
「俺は手も痺れましたよ。ほら、腫《は》れてきてる」
「ほんとだ! これはつまり泉質が酸性だってことかな」
弱酸性ならお肌《はだ》にいいのだが。うまい説明にはなっていない。
試しに靴《くつ》も靴下も脱《ぬ》いで、裸足《はだし》の親指を下ろしてみる。
「……大丈夫《だいじょうぶ》だ……」
「まずいな」
「どして?」
おれは両足とも浸してみた。熱めという他に感想はない。
「俺達は魔剣モルギフが山頂にあるって情報を得て、ここに来ました。地元の話と照らし合わせても、どうやらこの泉の魔物がモルギフらしい。湯が特殊《とくしゅ》な変化を起こしているのも、恐《おそ》らくあいつの仕業《しわざ》でしょう」
「へえ、そんなことできるんだぁ。さすが魔剣」
「感心してる場合じゃないですよ。モルギフを持てるのは魔王陛下だけだと言ったでしょう? だからこそ湯に触《ふ》れても平気なんですよ。服の部分は陛下じゃないから、攻撃《こうげき》を受けて熱いってわけです」
「いやな予感がしてきた」
慎重《しんちょう》に漕《こ》ぎ進んでいたヨザックが、左手の照明を高くかかげる。
「銀のビカビカが見えてきたぜ!」
地元民の恐れる泉の魔物は、洞窟の最奥《さいおう》の岩壁に、寄り掛《か》かるように沈《しず》んでいた。明かりを反射して輝《かがや》くさまは、きらきらというよりギラギラだ。おれの信頼《しんらい》する野球仲間は、申し訳ないがと前置きしてから、言った。
「服を脱《ぬ》いでください」
「ええええええっ!?」
「いや、そうじゃなく、湯に入ってもらわないとならないので。ボートではこれ以上進めないし、服を着てるとさっきのように逆に被害《ひがい》が」
「ああ、そ、そーゆーこと」
おれはまた、前回ヴォルフを引っ掛けたように、相撲《すもう》でどうにかするのかと思っちゃったよ。
「OK、OK、あそこまで歩いて行ってメルギブとってくりゃそれでいいのね」
「気をつけて。足を滑《すべ》らせたりしないように」
よーし、男は思い切りが肝心《かんじん》だ。どうせ今回こっちに来たのだって、銭湯で流されたのが原因じゃないか。見た感じも聞いた感じも流された感じも、トイレの水よりゃずっといい。しかもここは休火山島の温泉地、身体《からだ》にいいことお墨《すみ》付きだ。
おれは二人に背を向けて、用心深く足を下ろした。ボートが止まっているのは浅瀬《あさせ》で膝《ひざ》までの水位だが、その先は急に深くなる。
「大丈夫ですか? 痺れるとか、そういうのは」
「ちょい熱めでいい感じ。血圧の高い人は要注意ィ」
コンラッドは苦笑して、いつもの耳に心地《ここち》いい声で言った。
「しばらく温まっていきますか?」
「仕事しちゃってからにしよ」
問題の物が沈んでいる付近は、鳩尾《みぞおち》も濡れるくらいの水深だ。これは風呂でなくプールだろう。膝を曲げてゆーっくりと手を伸《の》ばし、指先が硬《かた》い金属に触れるか触れないか……という時だった。
「ぎゃ!」
「どうした!?」
気のせいかもしれない。もう一度、恐る恐る指を伸ばす。そちらをなるべく見ないようにして。だが。
「うぎゃ! 咬《か》んだ咬んだ、なんか魚みたいな口がおれの指を咬んだ、絶対咬んだッ」
飛びすさって水中を覗き込む。波が静まるのを待って目を凝《こ》らすと、そこにいたものは銀色に輝く剣……についた……。
「ぎゃー顔が! 顔が顔がぁぁぁ!」
これだったのか!
魔物を直接見た若者が、顔が顔がと喚いたのはこのことだったのだ。
そこにいたのは、顔を持つ剣だった。
いくら野球に明け暮れていたとはいえ、おれだってゲームくらいやっている。パワプロもやきゅつくもやり込んだし、村田に押し付けられてサカツクもやった。もちろんドラクエ、FFというビッグタイトルのRPGも人並みにプレイした。だからキャラクター限定の特殊な武器として、顔のある剣ぐらいは何度も見ている。多くが不気味な彫刻《ちょうこく》で、柄《つか》の部分の装飾が鬼面《きめん》になっている。魔王になる前の話だが、その武器でヴァンパイアと闘《たたか》ったこともある。ああ、それは昔の|PS《プレステ》でね。
だが、こいつときたら。
「聞いてねーぞ!? おれこんなヤバイやつだなんて全然聞いてねーかんなッ! これ絶対に呪《のろ》われる! 触《さわ》ったら誰《だれ》でも呪われる!」
柄の部分ではなく、刃《は》の根元に、彫《ほ》ったものではないようなリアルな顔が浮《う》かんでいるのだ。そいつはよくある鬼《おに》とかモンスターとかの険しく強そうな表情ではない。ムンクの叫《さけ》びに悪意を持たせたような、おどろおどろしくもどこか情けない、いやーな顔つきだ。
「やだよーこんなスクリームの悪役みたいな奴《やつ》ぅー! しかも困った系も入ってるぅー」
おれも泣きが入っている。
「しっかり、陛下、落ち着いて」
「だって咬んだんだぜ!? こいつこんな、ヒトに見える壁《かべ》のしみみたいな顔しててからにさ、おれの人差し指を咬んだんだぜ!? ああおれもう絶対に呪われたっ、もう恋愛《れんあい》も結婚《けっこん》もできないんだーぁ! こんなヤツ触れるわけねぇじゃん、こんなヤツ持てる勇者いるわけないよ」
「判《わか》った、ユーリ。無理ならいいんだ、他《ほか》の手を考えよう。落ち着いて、ゆっくり歩いて、戻《もど》って来るんだ」
おれは呼吸を整えようと、胸の石を掴《つか》んで唾《つば》を飲んだ。
ヨザックが、どこか歌うように手招いている。
「戻っておいで陛下、危険なことはしなくていい。戻っておいで早く、危ない橋は兵隊が渡《わた》るから」
噛《か》みすぎて固くなったガムが、喉《のど》につかえて邪魔《じゃま》してるみたいだ。抑《おさ》えておくべき厄介《やっかい》な感情が、飲み下せなくて苦しくなる。
「……無責任だ、っていいたいのか?」
「ユーリ、いいから」
「おれが無責任だっていいたいのか!?」
ヨザックは小舟《こぶね》のへりに腰《こし》を掛《か》けたまま、オレンジの髪を掻《か》き上げてはおろしていた。おれの護衛にきたはずの男は、頭のいい動物特有の笑《え》みを浮かべた。
賢《かしこ》くて強い、けれど優《やさ》しくない獣《けもの》の笑いだ。
「オレぁそんなこと言ってやしませんよ、陛下。早く戻ってきてくださいよ。こんなとこさっさとおさらばしましょーよ」
「……あんたに何が解《わか》る……」
「ユーリ、こっちに……」
「あんたに何がわかるってんだ!?」
おれは幼稚《ようち》だといつも思う。もっと大人になれとも思う。ここで微笑《ほほえ》んで受け流しておければ、これまでの人生ももっと楽だった。
自分の肌《はだ》と同じ温かさのライオンズブルーの石を握《にぎ》り、まるで水中に敵がいるように、俯《うつむ》き加減で言葉を吐《は》く。
「おれはごく普通《ふつう》の高校生で、当たり前の十五年しか送ってないんだ。それを夢みたいな世界に呼び寄せて、いきなり魔王になれなんて押《お》し付けたんじゃないか! 魔剣《まけん》なんか幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》みたいなもんで、今まであるなんて思ったこともない! なのに怖気《おじけ》づいたからって責められんのか!? 誰だってあんなの見たらビビるだろがっ! この剣すっごい攻撃力《こうげきりょく》なんですって、勇者とか英雄《えいゆう》にでも渡《わた》してみろよッ。それだってだーれも使いやしねーよ! あんな気持ち悪くできてんだぜ!? そいつをおれにっ」
石がまるで、心臓みたいに脈打っている。もちろんそんなはずはない。
「刀なんて博物館でしか見たこともない、このおれに持てって!? おれがどんな気分かなんてあんたに解るはずないだろうがッ!?」
コンラッドが、精一杯《せいいっぱい》おれに手を差し出している。もう一人の男は肩《かた》をすくめた。
「解りませんね。オレには陛下がどんな幼年時代を過ごされたのか、どんなお人柄《ひとがら》なのか全然わからない。陛下がどんなお気持ちなのか、どんなお考えなのかも皆目《かいもく》わからねぇ。たとえどんなお方が魔王になられても、オレたちは黙《だま》って従うだけだ。兵士も民《たみ》も子供もみんな、王を信じて従うだけなんですよ」
これ以上待たせると、コンラッドは飛び込んで来てしまいそうだった。おれは自分の爪先《つまさき》を見詰めたまま、ゆっくりとボートまで歩いていった。
ヴォルフラムを残してきた店に戻るまで、誰一人、口を開こうとはしなかった。
「なんだ、取ってこなかったのか?」
午後中ずっと休憩《きゅうけい》して、温泉宿に部屋《へや》までとっていたヴォルフラムは、開口一番そう言った。正直おれはかなりへこんでいて、申し開きする気にはなれなかった。
「……とてもじゃないけど、おれの手には負えねーや」
観光客でごった返した街に戻るよりも、ここに泊《と》まるほうが何かと楽だろうと、もう一部屋ツインでおさえるために、コンラッドとヨザックは出ていった。眞魔国を発《た》つときの予定では、ヴァン・ダー・ヴィーアでは最高級のホテルにご宿泊《しゅくはく》のはずだった。
途中《とちゅう》で海賊などに遭遇《そうぐう》しなければ、今もまだミツエモン坊っちゃんの豪遊《ごうゆう》だったのに。
ヴォルフラムは木枠《きわく》の寝台《しんだい》に座《すわ》り込み、ログハウス風の丸太|壁《かべ》に寄り掛かっていた。手には、ギュンターの日記がある。
「どんなものだったんだ? 幅《はば》は、刃渡《はわた》りは? 優美で雄々《おお》しく気高《けだか》い輝《かがや》きだったか?」
おれはモルギフの映像を、頭の中で再生した。
「……正反対」
「正反対? だって魔王にのみ従う最強の剣だぞ!? ほら読んでみろ、ギュンターがここに書いている」
「いいよ、どうせおれ字が読めないんだから」
「あ、そうか。早く覚えろ、不便だぞ」
おれは、並んだベッドに転がって、大の字状態で天井《てんじょう》を見た。
「おれだってさ、仮にも王様のツルギなんだから、きんきらゴールドとか細工もんのプラチナの柄、職人泣かせの透《す》かし彫《ぼ》りの鍔《つば》、何ていうの? ケツんとこ、グリップエンドにはさ、大きな宝石でも填《は》めてあるっつー、典型的な王様の刀を想像してたわけよ」
しかも切れ味は最高で、イカ素麺《そうめん》から河豚《ふぐ》の薄《うす》づくりまでお任せあれってな名刀だ。
「それが実際は、顔が……思い出すのも恐《おそ》ろしい顔があって、しかも持ち主でありご主人さまになろうっていうおれの指をか、か、か、咬《か》んでっ」
「咬んだ? 妙《みょう》だな。魔剣モルギフは魔王に絶対服従なのに……ひょっとして、腹が減っていたんじゃないのか」
「腹がぁ!? 金属なのにィ!?」
金属なのに口があるのだから、もう変とか言ってもいられない。
「いいか、よく聞け。モルギフは人間の命を吸収して力とするので、発動するには精力補給の必要がある。公式な資料とは言い難いが、若い女性を好むという史書もある……ギュンター詳《くわ》しく調べているな」
「それはさ、人を、こっ……殺せってことなの!? それじゃメルギブって妖刀《ようとう》じゃん!?」
「城での説明を聞いていなかったのか? 必ずしも殺せということではないだろうが……何を狼狽《うろた》えてるんだユーリ? 人間ごときに情けをかけようというんじゃなかろうな。お前だってあいつらがどんな連中か判《わか》ったろう。命を救ってやったぼくらを、魔族だからと監禁《かんきん》したんだぞ。ああ思い出すだけでも腹が立つッ」
「……あの恩知らずぶりには、返す言葉もございませんです」
日本で育った人間代表としては猛省頻《もうせいしき》り、第二十七代魔王としては言語道断だ。
ヴォルフラムが、ぱん、と山羊革《やぎがわ》の日記を閉じた。
「なんにせよモルギフを取ってこなければ話にならない」
「そうでした」
「明日はぼくが一緒《いっしょ》に行ってやる」
「へ?」
彼が加勢してくれたところで、特に助けにもならないだろう。剣豪《けんごう》くんと呼んでも差し支《つか》えないコンラッドでさえ手も足もでないのだから。だが、おれの密《ひそ》かな困惑《こんわく》をよそに、ヴォルフラムは腕組《うでぐ》みをして嬉《うれ》しそうだ。
「なにしろユーリはへなちょこだからな」
「へなちょこ言うな」
ああ。
湖底を思わせるエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》、天使の容貌《ようぼう》の我儘《わがまま》なプリンス。やっかみ半分で略すと、わがままプー。
ヴォルフラムはいつでも単刀直入だ。ストレート勝負で投げ込んでくる。
おれのミットも胸も抉《えぐ》るけれど、嘘《うそ》よりも優しく親切だ。
「どうした、何をにやけている?」
「……なんか、久しぶりだなーと思って」
「なにが」
「お前に、へなちょこって言われるの」
「それはお前が国を空けるからだ。民も土地も他人に任せきりで、まったく王としての自覚に欠けている。へなちょこをへなちょこと言って何が悪い?」
「悪くないよ」
そうだよ、どうせおれへなちょこなんだから、一度し損じただけでへこむことないんだ。
板張の天井のしみを眺《なが》めると、メルギブに似ていて、ちょっと可笑《おか》しくなった。
「そうだよなぁ。おれみたいな、なりたての新前《しんまい》陛下《へいか》が、最初から完璧《かんぺき》なわけないよな。初めて対戦するバッターを初打席でがっちり三振《さんしん》とろうったって、癖《くせ》もタイプも知らないんじゃどう攻《せ》めたもんだか迷うもんな」
迷ったあげく、内野安打を打たれた。
でもそれだけ。
「ヴォルフ」
「なんだ」
おれは勢いよく両足を振《ふ》り上げて、反動でマットに起き上がった。
「ありがとな」
「なにが?」
「理由は判らないけど、ついてきてくれて」
しまったと思ったときにはもう遅《おそ》かった。天使の起爆《きばく》装置を踏《ふ》んでしまったらしい。彼は白い頬《ほお》を紅潮させ、癇《かん》に障《さわ》るアルトでまくしたてる。
「なんだその誠意のなさそうな物言いは! そもそも何故《なぜ》ぼくがこんなひどい旅に同行しなくちゃならないか、お前きちんと考えているのか!? お前がぼくに求婚《きゅうこん》なんかしたから、ぼくはユーリが旅先で、どうにかなってしまわないように、目を光らせなくてはならないんだぞ! その……旅先でよからぬ輩《やから》にだな、分不相応な感情を持たれないようにだ!」
「あ? あ、あーそっか! そうか忘れてた、思いつきもしなかったよそんなこと! まだそれ解決してなかったんだっけ」
「忘れてただとー!?」
無意識に両腕《りょううで》で頭を庇《かば》うおれ。
「じゃあさ、おれが取り下げればいいんだろ? ごめんなさいなかったことにしてくださいって」
「やめろ! そんなことされたら、ぼくの自尊心に傷がつくだろうが!」
「あ、あーじゃ、それじゃそっちから断りゃいーじゃん。このお話はお断りしますって。おれのプライドはこの際どうでもいいや。自分が間違《まちが》えちゃったんだからしゃーねーや」
「そんなことは、できないっ」
「なんで? そういうルールがあんの? 宗教上の理由とかそーいう?」
「うるさいっ」
ヴォルフラムはすっくと立ち上がり、無言で部屋の隅《すみ》の戸を開けた。
「あーっ、ヴォルフ! ごめんごめんっおれが悪かった! 謝《あやま》るからクローゼットに籠《こ》もるのはやめてくれーッ」
「黙《だま》れ尻軽《しりがる》ッ」
だからそれは、フットワークが軽いってこと!?
炭水化物中心の夕食を終えると、美人|女将《おかみ》に祭りのことを聞かされた。
この宿から、隣《となり》の山を炎《ほのお》の神輿《みこし》が駆《か》け降りる様子はとてもよく見えるが、横から見物するのは縁起《えんぎ》が悪いとかで、あまりお薦《すす》めできないこと。明日の夕方、港近くの闘技場《とうぎじょう》でグランドフィナーレがあり、それを見逃《みのが》すと後悔《こうかい》すること。今年は参加者が直前に追加されたから、例年になく大規模なイベントになりそうなこと。
イッツ、エキサイティング!
人間の祭りになど興味のないヴォルフラムは、ワインを飲んでさっさと寝《ね》てしまった。
こちらこそ酔《よ》っ払《ぱら》って弱音を吐きたい気分だが、身長の伸《の》びる可能性が残されている限り、飲酒も喫煙《きつえん》もしないおれは、ベッドで月の行方《ゆくえ》を辿《たど》っていた。
夜半に喉《のど》が渇《かわ》いたのだが、水差しの中身は底をついていた。上着だけ羽織《はお》ってくみにいこうと、クローゼットの戸を開ける。
「……してるわけじゃねーって」
収納の薄《うす》い壁越《かべご》しに、隣室《りんしつ》の声が聞こえてきた。
「結局オレは、お国に忠実。どんな理不尽《りふじん》なものだって陛下の命令には従うさ。そんなのはお前が一番、知ってるだろ。ただ新しい陛下はどんなお人かなーって、そこんとこちょっと知りたくなっただけよ」
「それを試《ため》すというんだ」
コンラッドだ。グラスをテーブルに置く音がする。
「そんな大げさなことじゃねぇよ。ちょっと準備がしたかっただけさ。もしあの坊《ぼう》やが前王と同じなら、オレたち兵隊は覚悟《かくご》を決めなきゃならん。黙《だま》って死ににいく覚悟をな。誤解すんなよ、オレはツェリ様をこれっぽっちも恨《うら》んだことはないし、それどころか実の親以上に慕《した》ってるつもりだ。けど、あの方は間違えた。ご自分の眼《め》で全《すべ》てを見ようとはしなかったんだ。だから次はどういう時代になるのかを、ココロの準備として知りてぇんだよ」
「だからといって」
「お前だってそうだろ? 何人の部下を失った? どれだけの友を奪《うば》われた? シュトッフェルなんかに任せずに、ツェリ様がご自分で判断されていたら、ジュリアだって今頃《いまごろ》は……」
「ヨザック!」
滅多《めった》に声を荒《あら》げることのないコンラッドが、苛立《いらだ》ちもあらわに机を叩《たた》いた。
「……今後、陛下を惑《まど》わすような言動があれば、お前をこの任から外すことになる」
「悪いけどウェラー卿《きょう》、閣下にその権限はないぜ。命令したいなら早く復帰しろ、まさか新王陛下のお守《も》りして、一生を過ごすわけじゃねーだろな」
「陛下のお許しがいただければ、そうするつもりだよ」
「嘘だろ!? どうしたらそこまで入れ込めるんだ!? 可愛《かわい》さだけに騙《だま》されてねぇか!? ルッテンベルクの獅子《しし》とも呼ばれた男が、どこで牙《きば》を抜《ぬ》かれて……」
いつでも思い出せる爽《さわ》やかな笑いで、コンラッドはヨザックの言葉を切る。
「ずいぶん昔の話を持ち出してきたな」
「またまたご謙遜《けんそん》をォ。そーいや、あれ、坊っちゃんにあげちまったんだな。グランツの若大将に知られたら、脳ミソ沸騰《ふっとう》させ……」
おれはそっと壁から離《はな》れ、上着をとってクローゼットの戸を閉めた。
ヴォルフラムは美少年らしい寝息《ねいき》だが、まぶたがひくついて白目が出ている。夢の真っ最中だろう。起こさないように用心深く部屋を出て、フロントのカウンターからランプを失敬する。山道からは、ライトアップされたパルテノン神殿《しんでん》がよく見えた。赤くゆらいで美しかった。
轟《とどろ》くような鯨波《げいは》の声があがり、燃え盛《さか》る神輿とそれに続く松明《たいまつ》の行列が走り始めた。二百年前の噴火《ふんか》を模した行事なのだという。こうして年に一度、祭りとして再現することで、神の怒《いか》りを鎮《しず》め火山活動を抑《おさ》えようという趣旨《しゅみ》だ。百年前までは罪もない女の子が、生贄《いけにえ》として何人も命を捧《ささ》げていたらしい。
隣の山は大騒《おおさわ》ぎだが、おれは独りきりで頂にいた。深夜の洞窟風呂《どうくつぶろ》と洒落込《しゃれこ》もう。
落書きだけが迎《むか》えてくれる。
オレたちゃここに来たぜヘイヘイヘイ。おれも来たぜ、おれなんか二回目だぜ、おれなんかひとりきりだぜ。誰か誉《ほ》めてイェーイ。
「……だってルッテンベルクの獅子なんだろ?」
そんな人が、おれを信じてくれてるんだろ。
おれはへなちょこ陛下だけど、少しでも相応《ふさわ》しい男になるように、進化するへなちょこでありたいんだ。
昼間と同じくやや熱めで、皮膚《ひふ》にぴりっとくる泉質だった。モルギフがいる位置は判《わか》っている。足をしっかりと踏《ふ》みしめて、腰《こし》までくる湯の中をゆっくり進む。
「よう、魔剣《まけん》」
水中で刃《やいば》が光を放った。
たちまちおれの空《から》元気はなりをひそめ、小心な本性があらわれる。気が強いくせに、気が小さい。
「なあ、メルギブ、じゃなかったモルギフ。初めましてじゃないよな、昼も会ったよな、覚えててくれた? おれ、ユーリ」
ぼくドラえもん、わたしリカちゃん。一人称的《いちにんしょうてき》自己|紹介《しょうかい》。
「お前を……いーえ、あなたを誘《さそ》いにきたわけよ。もう十五年も浸《つ》かってるんだろ? 湯治《とうじ》にしたってもう傷も治っただろ。どんなに無類の温泉好きだって、こんなに長いこと入ってたら、身体《からだ》がふやけて溶《と》けちゃうって。だからそろそろあがらない? 外もいろいろ楽しいよー? 自分であがる踏《ふ》ん切りがつかないんだったら、おれがちょちょいと手ェ貸すから、咬《か》まないって約束してくれる?」
中腰《ちゅうごし》で恐《おそ》る恐る手を伸ばす。
「ぎゃ!」
思わずランプを取り落とす。明かりがなくなって周囲に闇《やみ》が広がった。だが息を凝《こ》らしてじっと待つと、入り口から斜《なな》めに差し込む月の光が、洞内《どうない》をやわらかく照らしてくれた。
「……どうして咬むんだよ、剣のくせに。刀って普通《ふつう》、顔ないだろ!? 顔があっても生き物じゃないから、咬まねえだろ!?」
自分で口にだして言ってみたら、一瞬《いっしゅん》にして答えが浮《う》かんだ。
普通じゃないんだよ。なにしろこいつは魔剣なのだ、普通じゃないのが当たり前。何故《なぜ》咬むのかそれは口があるから、何故咬むのかきっと生きてるから。生きているからだ。
咬むはずのないものを掴《つか》むんじゃなくて、咬むと決まってる生き物を捕《つか》まえるんだ。そう、咬み癖《ぐせ》のある子犬とか……可愛《かわい》さに雲泥《うんでい》の差があるなあ。関係ないけど「咬む」って何度言ったでしょう。
よーし、データも度胸もそろってきたぞ。こいつとの対戦は二回目だ、もうリードの仕方が判《わか》らないじゃ済まされない。おれは記憶《きおく》を総動員し、あの時の感触《かんしょく》を思い出そうとした。
生まれて初めてプロの球を捕《と》ったときの、勇気のかけらを。
「生きてんなら生きてるって最初から言えーっ! もうテメーを剣だなんて思ってやんねーかんなッ! お前は犬! 犬じゃなきゃネグロシノマヤキシー!」
叫《さけ》びつつじりじりと正面に回る。渋谷、キャッチングは正確さが大切だ。常に正面で受けるようにしろ。モルギフの柄《つか》がおれの真ん前にくるよう立ち、両手を揃《そろ》えて中腰になる。待てよ、重いものはしゃがんでから持ち上げないと。腰をやられたら選手生命にかかわるもんな。
顔まですっかり沈《しず》んでしまう。湯の中で見たモルギフは、水の屈折《くっせつ》のせいか歪《ゆが》んでゆれて、折り曲げた紙幣の漱石《そうせき》みたいに、目尻《めじり》を下げて笑っていた。
「ゴボっじゃ、べるびぶびっじょでぃびごーで!」
鼻と口に温泉が流れ込む。刀身の割に細い柄を両手で握《にぎ》り、膝《ひざ》の力で一気に立ち上がった。モルギフはしばらく抵抗《ていこう》したが、やがて引き揚げられて姿を現す。
十五年ぶりに空気に触《ふ》れて、刃が風を切って音をたてる。
『あー』
「……あー?」
『うー』
「……てゆーか……風ないじゃん……」
『はーうー』
まさか、鳴くの!? こいつ!?
「ま、まあ、生きてりゃ鳴く。生きてりゃ子犬だって子猫《こねこ》だって鳴くさっ」
ちなみに子猫は、めえめえだ。
それにしてもどういう剣だろう。宝石や彫刻《ちょうこく》の代わりに顔があり、自己主張して唸《うな》るやら呻《うめ》くやら。けれど柄は握りやすく、おれの手にしっくりと馴染《なじ》んでいる。振《ふ》り慣れたバットのグリップみたいに。
魔剣の唸りを聞かないようにして、落書きの横を通り過ぎた。おれも命知らずだぜ。
月の明るい外に出ると、コンラッドが手を腰に当てて待っていた。
逆光で表情は見えない。
「笑ってるだろ」
「どうして判るんです?」
「あんたがどんな顔してるのか、おれは見なくてもちゃんと判んの」
ほら、こうなると思ったって顔だ。
彼は盛大に両腕《りょううで》を広げて迎《むか》え、おれをバスタオルで巻いてしまう。
「やりましたね」
「やったぜ。どーよ? 王サマのツルギ」
「素晴《すば》らしい」
「素晴らしいだー? 見ろよこいつ、この不気味な顔。しかも声まででるんだぜ!? あっ大仏と同じ場所に黒子《ほくろ》がある」
金ピカでも宝剣でも特殊《とくしゅ》合金でもなかったが、小粒納豆《こつぶなっとう》くらいの黒い石が、額の中央にポツンとあった。
「ふーん、これが素晴らしいかねえ」
「モルギフじゃなくて、あなたがです」
「おれ?」
「そう、ユーリが」
またまたそんな歯の浮くようなことをさらりと言う。おれは照れを隠《かく》すために、魔剣《まけん》で素振《すぶ》りをしなくてはならなかった。左足を一瞬引いて振り子打法。バットが唸る音じゃなくて、不満げな呻きが耳障《みみざわ》りだ。
「……これで、少しは支持率上がるかな」
「支持率?」
打撃《だげき》コーチよろしく見守っていたコンラッドは、意外な単語だったのか、軽く顎《あご》を上げて続きを促《うなが》す。
「そう、王様支持率。だっておれ今んとこ支持率すごく悪いだろ? 国民の皆《みな》さんに問うまでもなく、元王子やお庭番にまで嫌《きら》われてる」
「ヨザックは任務に忠実なだけで、陛下《へいか》を評価するような感情は持ちません。それにグウェンダルのことだったら……」
誰《だれ》もいないのに声のボリュームを下げる。
「グウェンがユーリを嫌うはずがない」
「なんでー?」
「彼は、小さくて可愛らしいものを愛してるから」
なに!?
「子猫とか、リスとか、地球でよく見たハムスターとかね」
「えーっ!?」
腰のタオルが、はらりと地面に広がった。ギュンターがいたら、鼻血もんだ。
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またしても厨房《ちゅうぼう》に嗅《か》いだことのない異臭《いしゅう》が充満《じゅうまん》して、フォンヴォルテール卿《きょう》は衛士に泣き付かれた。
諸悪の根源である男の名前と呪《のろ》いの言葉を吐《は》きながら、石の床《ゆか》を蹴《け》って厨《くりや》に踏《ふ》み込む。
「ギュンタ……ぐ……ごほ……げェっ……」
朱色《しゅいろ》の煙《けむり》がもうもうとあがっている。グウェンダルは顔を押《お》さえて腰《こし》を折った。目にきている、涙《なみだ》が止まらない。
「貴様、こっ、これは何事だ!?」
息を吸うと鼻と喉《のど》に刺《さ》すような痛みが。喋《しゃべ》るのと咳《せき》はほとんど一緒《いっしょ》だ。
「ギュンターっ、ここで、げほッ、何をしていゴふッ」
「グウェンダル、あなたですかーぁ?」
デスカもないもんだ。毒ガス発生の張本人は、ちゃっかりマスクと眼鏡《めがね》を着けて、たちのぼる煙の真ん中にいる。
「なっ、なんだこの、すごい気体は」
「小動物を煮《に》えたぎった油に落とすのを禁じられたから、とりあえず植物で代用したのです。ほーらこの赤唐辛子《あかとうがらし》の大ぶりの実、よく見ると子ネズミに似ていませんか?」
「赤、唐辛子を、油に入れたのか?」
「そうです」
「しかも大量に?」
「そうです!」
こうして眞魔国にラー油が誕生した。
グウェンダルはギュンターの腕《うで》を掴《つか》み、どうにか厨房から連れ出した。涙はまだ止まりそうにない。
「もう占《うらな》いはやめるんだ」
「何故《なぜ》ですか? 陛下《へいか》のご無事を祈《いの》る気持ちが、あなたにはないというのですか!?」
「そうは言っていない。何事もなく戻《もど》るようにとは思っている。国外で死なれると面倒《めんどう》だからな」
「死……よくもそんな恐《おそ》ろしいことを口にできるものですねッ! この鬼《おに》、悪魔《あくま》、冷血漢!」
「悪魔、といわれてもな」
二人とも魔族だし。
美しすぎて女性に敬遠され、抱《だ》かれたい男ナンバーワンは逃《のが》しているギュンターだが、眞魔国一の美形の座は五十年近く不動のままだ。その彼にここまで鬼気《きき》迫《せま》る表情をさせるとは、新王の力も侮《あなど》れない。もっともユーリが来たことで、国内ランキングにも変化があるだろうが。
「それともまさか……」
いまや見る影《かげ》もなくやつれた顔に、恐怖《きょうふ》の色をにじませる。
「陛下への身のほどをわきまえぬ邪《よこしま》な感情を、押《お》し隠すためにわざと無関心を装《よそお》っているのでは!?」
「身のほどをわきまえないのは貴様だろう」
「きーっ悔《くや》しいィーッ! やはりそうだったのですねーッ!?」
何がそうだったというのだ!?
なんだか、おすぎとピーコに絡《から》まれているようで目眩《めまい》がする。ファッションチェックお願いします。
「うすうす勘付《かんづ》いてはいたのです。陛下はあのようにご聡明《そうめい》で、お美しく、高貴な黒を御身《おんみ》に宿し、正義感がお強くて国民|想《おも》い、何事にも新鮮《しんせん》な驚《おどろ》きをもって接し、ちょっとお気が小さくてちょっとお気が強い、世が世であれば眞王のご寵愛《ちょうあい》をも……グウェンダル!」
こっそり抜《ぬ》け出そうとしていたフォンヴォルテール卿は、ギュンターの思いの外強い力で奥衿《おくえり》を掴まれる。
「考えてみれば、そうでした。あなたがた兄弟三人とも、過去の恋愛遍歴《れんあいへんれき》をひもとけば、気の強い相手ばかりと恋《こい》に落ちていましたね……」
「そんなものをひもとくな!」
ギュンターの目の光が尋常《じんじょう》ではない。背後《はいご》から効果音も聞こえそうだ。
「……ヴォルフラムのみならず……もしやあなたまで……」
「とてつもなく不愉快《ふゆかい》な誤解だ」
「誤解などであるものですかーッ! ああああーっ、もう誰もかれもが陛下にメロメロで、陛下に骨抜《ほねぬ》きなんでしょーッ!?」
「誰か手を貸せっ! 乱心だ、フォンクライスト卿が乱心したぞ!?」
もう人を呼ぶしかない。
西|病棟《びょうとう》に助けてくれの声あれば、走って行って脈をとり、東|治療棟《ちりょうとう》に死なないでの声あれば、全速力で駆《か》けつけて呼吸を確かめる。
おれたちは精彩《せいさい》を欠いたモルギフをかついで、ヴァン・ダー・ヴィーア総合病院を駆けずり回っていた。魔剣《まけん》に人間の命を吸わせるために、重病|患者《かんじゃ》が一人くらい亡《な》くなりはしないかと、不謹慎《ふきんしん》な期待をしての右往左往だ。
「どっ、どうしてこの病院は、生存率が異様に高いんだろ。いや、あのね、患者さんのご家族にとっては、いいことなんだよ? いいことなんだけど」
悪いことはできないもので、朝から誰一人としてご臨終しない。三ツ星クラスの病院だ。先程《さきほど》も意識のなくなった老人が、心音を確かめようとしたヴォルフラムの手を掴み、かっと両目を見開いて女性の名前を叫《さけ》んだ。娘《むすめ》と孫は大喜び、四年ぶりにお爺《じい》ちゃんが喋《しゃべ》ったと泣くわ泣くわ。
ダメージが大きかったのはヴォルフラムで、額に冷たい汗《あせ》を浮《う》かべ、手首を握って何事か呟《つぶや》いていた。魔《ま》よけの言葉だったらしい。魔族が魔よけって、妙《みょう》な気もするが。
おれたちが病院レースをするはめになったのは、モルギフにエネルギーを充填《じゅうてん》するためだった。温泉からあがってしばらくすると、奴《やつ》は輝《かがや》きも硬《かた》さもなくなり、弱々しく『はう……』と吐息《といき》をついたきり、うんともすんともいわなくなってしまった。
普通《ふつう》、剣はうんともすんともいわないものだが、こいつの場合は話が別だ。心なしか肌《はだ》までかさついて、ダイエット中の女性みたいな元気のなさだ。
きっと温泉の効能は、錆《さび》止《ど》めだったのだろう。
「ギュンターが日記に書いていたとおり、人間の命を吸収させないと、魔剣として使いものにならないんじゃないのか?」
「命ったってお前ねえ、そう簡単に言うけど……どうやって人間の命を吸わせりゃいいんだよ。コンビニで売ってるもんじゃないんだぜ?」
「てっとり早くて数を稼《かせ》げるのが村の焼き討ちだなぁ。ちょっと頭数が減るけど一家|惨殺《ざんさつ》も有効じゃねえ?」
「ヨザック、陛下がそんな恐《おそ》ろしいことなさるわけがないだろう。かろうじて闇討《やみう》ちか辻斬《つじぎ》りなら、ニッポンのサムライも昔やってましたよね」
「だーっもう、お前等ッ! 倫理感|喪失《そうしつ》もたいがいにしろよ!? 罪もない人の命を奪《うば》うなんて、おれにそんなことできるわけないっしょ!? おれじゃなくてもヒトとして駄目《だめ》だし!」
その結果、一行は病院におもむき、東西南北を駆けめぐることとなった。
だが、昼まで頑張《がんば》っても誰も旅立たず、逆に三人ばかり生き返らせてしまった。感謝されることしきりだし、ヴォルフラムなんか愛の天使なんて異名までもらったのだが、おれたちとしては複雑だ。
「……なんか、作戦として、駄目だったのかもしれない」
病院の食堂で昼食をとりながら、おれはぐったりとテーブルに頬《ほお》をつけた。
周囲に人は少ない。そりゃそうだ、本日は祭りの最終日、夕方にはグランドフィナーレがひかえている。島の住人は商売で忙《いそが》しいし、客は観光で忙しい。こんなときに病院で悩《なや》んでいるのは、患者と関係者と職員くらいだ。
モルギフは鞘《さや》がないので布でぐるぐる巻きにして、ハムナプトラの刀版という情けない姿だ。もちろん顔は見えないが、そんなこと今更《いまさら》どうでもよかった。
あれだけ大騒《おおさわ》ぎしたモルギフの顔が、不思議とまったく怖《こわ》くない。スプラッタ映画三巻組を一晩で見たら、夜が明ける頃《ころ》には笑えるようになっちゃってたという、俗《ぞく》にいうスクリーム1・2・3現象だろう。
「慰問団《いもんだん》を装《よそお》って尋ねたんだけど、この病院にはもう重態の患者はいないそうです。となると島の東の療養所《りょうようじょ》と、西の老人|施設《しせつ》のどちらかに向かうしかないな」
「やだなあ、いくらモルギフのためとはいえ、こんな、誰かが亡くなるのを待ってる生活」
「生活ったってまだ半日しか過ぎてねーじゃんよ、陛……おっと、お坊《ぼ》っちゃん」
コンラッドはおれの皿を確かめて、自分のデザートをこちらに押してきた。
「本来の食欲とは程遠《ほどとお》いな。どうしました? 朝はそれなりに食べていたのに。病人食で口に合わないんですか」
「そうじゃねーよ、そうじゃないけど……」
「他《ほか》に食べたいものがあるなら、言ってくれれば探しますよ。この島は観光で成り立ってるんだから、客が所望するほとんどのものは、用意できるようになってるんです」
「ぼくはネグロシノマヤキシーが食べたい」
そいつは食用だったのか。ヴォルフラムの注文は無視された。
「おれは……そうだな、舟盛《ふなも》りかな」
「フナモリ? それはどんな」
「舟の上にね、新鮮《しんせん》な魚の刺身《さしみ》とか貝とかが載ってんの。外国人は生魚いやがるけどね。日本人はやっぱ刺身なのね。鰤《ぶり》とかハマチとかイナダとかさぁ……ごめんこれ全部同じ魚だった」
本当は、そうじゃなかった。
誰かの死を待つような状態がいやで、ストレスを感じているのだと思う。祖父母も四人とも健在なおれにとって、死はまだまだ遠い存在だったので。
コンラッドはおれを覗《のぞ》き込み、額に触《ふ》れて、母親が熱を測るように額をくっつけた。
「よせって、ガキじゃねぇんだから!」
「熱はないけど、顔色がいいとはいえないな。多分、昨夜の疲《つか》れも残ってるんでしょう。よし、じゃ、午後は俺《おれ》とヨザがそれぞれ西と東の施設へ行ってみます。あなたはヴォルフと街に残って。民家の二階を借りたから、宿屋よりは人目に触《ふ》れずに過ごせるはずだ」
「ちょっと待てよ、メルギブはおれにしか持てないんだぞ!? おれが行かなきゃ始まんねーじゃん!?」
「無駄足《むだあし》になる可能性も高い。それに俺だけなら馬を借りて片道二時間てとこですが、坊っちゃんがご一緒だと倍かかります。様子を見て、ことが起こりそうだったらすぐ戻《もど》りますよ」
おれは渋々《しぶしぶ》うなずいて、いやに重いモルギフに手を掛《か》けた。
剣《けん》として構えるととても軽く、グリップも掌《てのひら》に吸い付くように握《にぎ》りやすいのに。通常の荷物として持ち運ぶと、見た目以上にずっしりくるのだ。しかもどんなに布を巻いても、おれ以外の誰にも触《さわ》れない。指先が接した途端《とたん》に電気が走り、雷《かみなり》にうたれたような衝撃《しょうげき》を受ける。
「よいしょっと」
「なんだユーリ、年寄りくさいな」
八十二歳に言われたくない。
街は人込みであふれていて、みんな晴れ晴れしい顔つきだった。祭りを心から楽しんでいて、今日ばかりは悩み事も忘れているのだろう。女達は裾《すそ》の長いワンピースをまとい、大きな花柄《はながら》は風に広がった。本物のように美しかった。
島は色に満ちていた。目が痛くなるくらい華《はな》やかだった。
借り切った民家の二階から、おれは彼等を眺《なが》めていた。モルギフは唸《うな》りも呻《うめ》きもせず、おれの脇《わき》に黙って横たわっていた。
「なあヴォルフ」
「なんだ?」
「ルッテンベルクの獅子《しし》ってなに?」
ヴォルフラムは宙を見て少し考え、日記に視線を戻してからやっと言った。
「そういえば昔、コンラートがそう呼ばれているのを聞いた。もう少し髪《かみ》が長かったからな。ルッテンベルクはあいつの生まれた土地の名だ」
「じゃあ、ジュリアって誰」
「ぼくではなく母上に訊《き》くといい。ジュリアと親しかったはずだから」
「親しかったって、どういうことだ?」
「つまり……眞魔国には三人の桁外《けたはず》れの魔力《まりょく》を持つ女性がいたんだ。一人は黄金のツェリ、ぼくらの母上だ。もう一人は赤のアニシナ、彼女は兄上……グウェンダルと事情のある、燃えるような赤毛の小柄《こがら》なご婦人だが」
「グウェンダルと事情があるって……事情ってどんな危険な事情……」
「ぼくに訊くな! 最後の一人が白のジュリア。ジュリアは亡《な》くなった。二十年近く前にな。眞魔国の三大魔女だったんだが、彼女は生まれつき目が見えなくて……」
おれの胸で魔石が熱を増した。これの元の持ち主が、きっと。
「気の毒に……コンラッド……恋人《こいびと》を亡くしてるんだ……」
ヴォルフラムが、すっ頓狂《とんきょう》な声をあげた。いつもならコンラッドの話をすると怒《おこ》るのだが、おれがあまりに馬鹿《ばか》げたことを言い出したので、爆発《ばくはつ》のタイミングを外したようだ。
「ジュリアが!? ジュリアがコンラートの恋人だって!? そんな話は聞いたこともない!」
「なんだよ、コンラッドの元彼女じゃねーの!? あれー? おれどこで間違《まちが》えちゃったかな。じゃああとひとつだけ、ヴォルフ。グランツの若大将ってのは?」
表情が固くなる。ささくれだった机の上で、白い指がきゅっと握《にぎ》られた。開いたままの日記のページが、流れる風で僅《わず》かに動いた。
「グランツは眞魔国の北の端《はし》。アーダルベルトの生まれ故郷だ」
フォングランツ・アーダルベルト。
背筋を冷たい汗《あせ》が落ちる。
おれがこの世界で最初に接触《せっしょく》した魔族。おれの脳味噌《のうみそ》をいじった男、おれを殺そうとした男。
「あいつは婚約者《こんやくしゃ》が死んですぐに国を捨てた。魔族に復讐《ふくしゅう》するために。アーダルベルトと婚約していたのが……」
どういうことだ? コンラッド。
「白のジュリア……フォンウィンコット卿スザナ・ジュリアだ」
どういうことだ!?
昨夜、盗《ぬす》み聞いた会話の様子からは、ジュリアという女性を単なる友人とは考えづらい。となると結婚の決まった彼女と、不倫《ふりん》寸前の三角関係を続けていたことに!? いやーっ、不潔よコンラッドったらーッ! 母親の性格をしっかり受け継《つ》いでいる。
「ユーリ」
ヴォルフラムが冷たい声でおれを呼んだ。
「あ、はい」
「お前、どうしてそんな顔をしているんだ」
「おれどんな顔してます?」
昼の連ドラ視てる母親と同じ顔だろう。
「何故《なぜ》お前が、アーダルベルトとジュリアのことでそんな期待した顔するんだ? なにか段々腹が立ってきたぞ。よーし、またこの日記を読み上げてやる!」
「うわ、それを朗読するのだけはヤメテ」
「戴冠式《たいかんしき》に臨まれる陛下《へいか》のご様子は気丈《きじょう》にふるまわれながらもどこか不安げで」
「やーめーろーっ!」
それもうほとんど小説じゃんか!? 日記帳を取り上げようと手を伸ばすが、彼は身を反《そ》らしベッドに逃《のが》れた。
「……触《ふ》れれば倒《たお》れてしまわれそうな儚《はかな》さは、まだ少年と青年の境を越《こ》えぬ者だけが持……」
「いっそそいつを燃やしてくれー!」
どうにかして奪《うば》おうと飛び掛《か》かり、ヴォルフラムの上に乗っかった時だった。
「ちょっと聞いてくださいよ坊っちゃん方《がた》……っと」
「……」
「ひょっとして、お楽しみ中だったかな?」
ヨザックは、開けたドアをそのまま閉めかけた。
「ちがう違《ちが》うちっがーう! お楽しんでないお楽しんでない、誤解誤解、五回五階ごかイテ」
舌を噛《か》んだ。
「昼間なんだから、いちゃつくなら鍵《かぎ》かけてくれねーと。おにーさん目の毒で困っちゃうわ」
ニューハーフ訛《なま》りで茶化しつつ、ヨザックは部屋に入ってきた。右手の黄色い紙をひらつかせ、卓上《たくじょう》に掌《てのひら》で叩《たた》きつける。
「あんた老人|施設《しせつ》へ行ったんじゃなかったの?」
「行こうとしましたとも。けどオレちょっとだけ頭使って、まず役所で施設入所者を調べたのよ。だって着いてみて空だったら骨折り損でしょー? そしたら予想どおり祭りの期間中は、年寄り全員帰省中だって。事前に判《わか》ってホントよかった……で、何の気なく貰《もら》ったこのチラシなんですけど」
黄色に赤い文字で、大きく一行、小さく三行、もっと細かく二、三行。中央には肩《かた》を組んで太陽を指差す少年達が、ヘタうまタッチで描《か》かれている。
「だからおれには読めないんだってば」
「急募! 命の最後に立ち会う仕事。死を目前にした同年代の少年を励《はげ》ましてみませんか? 十代の容姿|端麗《たんれい》な少年求む。剣《けん》持参|歓迎《かんげい》、賃金破格、面接|随時《ずいじ》……細かい文字の部分は、ぼくにも読めない」
ヴォルフラムは、いまいましそうに紙を弾《はじ》いた。
「人間どもの筆記体は崩《くず》し方が変だ。美しさとか流麗《りゅうれい》さをまったく考慮《こうりょ》していない。我々の文字とは芸術性が違《ちが》いすぎる」
「けど、どういう仕事だよ、命の最後に立ち会うって。そんなの医者か看護婦《かんごふ》しか……あ、葬儀屋《そうぎや》さんも立ち会うかな」
それは亡《な》くなった後だろう。もしかしたら宗教家も含《ふく》まれるかもしれない。懺悔《ざんげ》を聞いたり祈《いの》ったりで。だとしたらなにゆえ、剣持参歓迎? 僧侶《そうりょ》が剣を持てば僧兵《そうへい》だ、信長《のぶなが》に弾圧《だんあつ》されてしまう。
「わっかんないなあ、この島の文化は」
「要するに、その魔剣《まけん》と一緒《いっしょ》に命の最後に居合わせりゃいーんだろ?」
ヨザックが、ぱんと両手を打ち鳴らした。
「ものは試《ため》しだ。面接、行ってみましょーや」
「えー? おれ容姿に自信がないしィー」
魔族二人で異口同音。
「容姿は絶対|大丈夫《だいじょうぶ》!」
あんたたちの美的感覚は、言っちゃ悪いがマニア気味だ。
「ちっとばかし貧相《ひんそう》な剣だけどもねえ」
カーネル・サンダースそっくりの面接官は、モルギフをねめまわして呟《つぶや》いた。
「いやー、昨日になって急に十代の子供が送られてきて、こっちとしても困ってたんだけども。やっぱ若者には若者相手でねっと、客も満足しないっからねえ」
客? ああ、依頼人《いらいにん》ということか。
面接会場には、おれを含めて六人が来ていたが、いずれも劣《おと》らぬ格好《かっこ》いい美少年ぞろいだった。魔族特有の美貌《びぼう》とはタイプが異なるが、地球でいったらブラピとジュード・ロウとユアン・マクレガーとイーサン・ホークとレオさまを若くした感じだ。後半二人はパ・リーグ球団のマスコットキャラクターの名前ではない。
そんな中に、三丁目の野球|小僧《こぞう》が放り込まれたのだ。百メートル走とか遠投とか反復|横跳《よこと》びならまだしも、外見勝負でいけるはずがない。ない……のに。
「容姿だったら、ちみが一番カワイイんだけどもねぇ」
「はあ!? あっすいません、そのー、自分に自信がないもんで」
おい待てよヴァン・ダー・ヴィーア島お祭り実行委員会委員長代理。美的感覚がずれてるのは、魔族だけではなく世界的な問題なのか!?
「ちみ、職業は何だったんっけ?」
「自由業です」
「自由業は、どんな?」
やばい、全く考えてなかった。
「ぼ、冒険野郎ですっ」とくると
「名前は?」
「……マクガイバーです……」
冒険野郎はマクガイバーで、特攻《とっこう》野郎はAチームだ。それしか頭に浮かばなかった。
「んっじゃあ、ちみにやってもらおっかね」
「おれが!?」
「うんそう、名誉職《めいよしょく》っだから全力で頑張《がんば》ってねっす」
なみいる容姿端麗を蹴散《けち》らして、野球小僧が当選ということだ。
これでモルギフに人間の命とやらを吸わせてやれる。とはいえ、そのためには同年代の少年の臨終の瞬間《しゅんかん》に立ち会わなければならない。後ろめたいし、気が重い。おそらく少年は重病|患者《かんじゃ》だ。残り少ない彼の時間を、悔《く》いなく有意義に送れるように、誠心誠意、話相手になろう。
おれは密《ひそ》かに決意を固め、控《ひか》え室《しつ》のヴォルフラムとヨザックに報告に行こうとした。
「どこいぐの、付き添《そ》いの方はもう会場に行ってもらってっすから、ちみも早く馬車の中で服を着替《きか》えて」
「そんなに急ぐの」
「お客さん待だしたら失礼でっしょ」
あれよあれよという間に馬車に押《お》し込まれて、白い上着を手渡《てわた》された。委員長代理は嬉《うれ》しそうに座席に落ち着き、おれとの間隔《かんかく》を詰《つ》めてきた。
「昨日になって急に対象者が十人も増えたんだけどもね、今年の祭りはこら大盛況《だいせいきょう》だ。例年は多くても五人だがら、十二人も見られればお客さんも大満足だっし」
「はあ」
なんのことやらさっぱりだが、おれの腿《もも》を撫《な》でくりまわすのは気色悪いからやめろ。どうやらセクハラされているらしい。素知らぬ顔でモルギフの柄《つか》をくっつけてやった。
おっさんは悲鳴をあげて飛びすさった。
「すいません、おれって静電気体質でぇー」
送り届けられた会場は港の近くで、煉瓦《れんが》を積み上げた壁《かべ》に囲まれていた。ちょっと見どこかのスタジアムみたいで、蔦《つた》の絡《から》まり方なんか、高校球児|憧《あこが》れの聖地に似ていた。
甲子園《こうしえん》に縁《えん》のないこのおれに、こんな場所で何をしろというのだろう。トークバトル?
瀕死《ひんし》の少年とォ?
係員に連れられて長い廊下《ろうか》を進む。途中《とちゅう》、何《なん》ヵ所《しょ》かで外の音が聞こえた。地下鉄のホームにいるようだった。
案内された部屋《へや》には先客がいた。
広い室内は汚《よご》れた浅黄色で、何本かのベンチが並べられている。十人近くの男達が、それぞれ離《はな》れて座《すわ》っていた。壁《かべ》に寄り掛《か》かって天井《てんじょう》を仰《あお》ぐ者も、宙を見つめてまじないを呟く者もいる。中には何が嬉しいのか、残忍《ざんにん》そうな笑《え》みを浮かべた奴《やつ》もいる。全員、渡された白い服を着て、各々《おのおの》の武器を抱《かか》えたり立て掛けたりしている。
隅《すみ》の方に一人だけ女性がいた。
他の連中の殺気に気圧《けお》されて、自然とおれの足はそちらに向いた。二十代後半の痩《や》せた女で、くすんだブロンドは肩《かた》までしかない。薄《うす》い唇《くちびる》を引き結び、両腕で自分の身体《からだ》を抱《だ》くようにして、じっと壁ぎわに立っている。
名誉職に選ばれて光栄だ、そういう態度の者はあまりいなかった。
不意に喉《のど》の渇《かわ》きを意識して、おれは部屋中を見回した。お茶の用意はありそうにない。小銭を探してズボンのポケットを掻《か》き回すが、数枚の紙幣があるだけだ。
「おねーさ……えーと奥《おく》さん? 細かいのあったら両替《りょうがえ》して……」
女は弾《はじ》かれたように顔を上げ、おれの顔と紙幣を見比べた。黄色がかった薄茶の細い目は、疲労《ひろう》と恐《おそ》れで充血《じゅうけつ》している。
「そんな大金持ってるのに、どうしてあんたみたいな子が、こんなこと……」
言ってしまってから口を押《お》さえるが、他の奴等《やつら》は誰《だれ》も聞いていない。
「あたしの末の弟と同じくらいだろ、弟は今年で十四なの。ねえ、金に困ってないのなら、こんな仕事引き受けちゃいけないよ。名誉職だとか言われて騙《だま》されたんだろ? そりゃ客として観《み》てる分には勇ましくてかっこいいかもしんないけど、やるとなったら話は別だ。こんなのは正義でも神の使者でもない、ただの汚《きたな》い人殺しだよ!」
人殺し!?
女は一方的にまくしたてると、おれの肩を掴《つか》んで揺《ゆ》さぶった。
「悪いことはいわない、今すぐここを出て家にお帰り。家がないなら親方んとこにお帰り! あたしだって息子《むすこ》が病気でなけりゃ、こんな恐ろしいことに手を染めやしない。どうしても金が入り用だってんじゃないんなら、若いうちからこんなことを覚えちゃいけない」
「待ってください、ちょっと待って。こんなことって何? だってチラシを読んでもらったら、命の最後に立ち会う仕事、死を目前にした少年を励《はげ》ませって……待てよ、人殺しってどういうことだよ。客として観る分にはかっこいいって」
「あんた自分で字が読めなかったんだね!? そういう子はいくらでもいる、そういう子がみんな騙されるんだよ。これは相手を励ます仕事なんかじゃないよ、これはね、処刑《しょけい》なんだよ。祭りの最後に客を喜ばせる、残酷《ざんこく》な見せ物の殺し合いなんだよっ」
祭りの最終日には、港近くの闘技場《とうぎじょう》でグランドフィナーレがあって、それを見逃《みのが》すと後悔《こうかい》すると宿の女将《おかみ》は力説していた。
それが、ここなのか? それを、おれが!?
「どういうこと!? 処刑って、殺し合いってどういうことだ!?」
「毎年一人は、必ずこういう奴がいやがるんだよなあ」
動転しているおれの質問を聞きつけて、男がからかうように近寄ってきた。残酷な笑みを浮《う》かべた髭面《ひげづら》の中年で、巨大《きょだい》な斧《おの》を脇《わき》に置いている。モルギフを握《にぎ》る手に力が入った。薄《うす》ら笑いがいっそう楽しげになる。
「そんなにビクつくなよ。ここで騒《さわ》ぎを起こしゃあしねぇさ。言ってみりゃ俺《おれ》たちゃ仲間同士だろ? 俺だってぶっ殺す相手くらい心得てらぁ。だがお前さんは全然わかっちゃいねーようだよな。毎年必ずこういうガキがいるんだ、俺ぁ四回目だから詳《くわ》しいけどよ」
「詳しいって……じゃあ教えてくれよ。あんたが三度もしたことをさ」
自棄《やけ》気味の強がりで言うと、男は胸を反《そ》らせて立ち上がった。この場では味方はモルギフだけで、おれは右手の相棒をおそろしく意識していた。頼《たよ》りにしてるといってもいい。
低い唸《うな》りが指に伝わる。
「教えてやるよ。これからお前は闘技場に行って、反対側から引き出されてきた罪人と闘《たたか》うのさ。剣《けん》でも槍《やり》でもナイフでも、好きなエモノで相手を切り刻むんだ。なぁに容赦《ようしゃ》するこたぁねえ。向こうは死刑にされる罪人だ。いたぶればそれだけ観客は喜ぶ。客を喜ばせりゃこっちのもんだ、来年もこの仕事にありつけるぜ。罪人に同情するやつぁいやしねえ。誰にも責められずに人が殺せる。なんせこいつは、名誉職だからよう」
女がおれに囁《ささや》いた。
「あんなふうになる前にここから消えなよ。あいつ人殺しが癖《くせ》になっちまってるんだ。もう殺さなきゃ渇いちまって生きてけないのさ」
冗談《じょうだん》じゃない、そんなことを癖にしてたまるか。趣味《しゅみ》でも特技でもチャームポイントでもまずい。入ってきたドアに駆け寄って、ノブを掴んで引いてみる。
「くそ、鍵かけやがった」
「貧相《ひんそう》な武器だな、ろくに研《と》いでもないじゃねーか」
男が、立て掛けておいたモルギフに手を伸ばす。
「危なっ……」
不様な悲鳴で尻《しり》から倒《たお》れる。少しでも冷たいところを探して、左手を床《ゆか》に擦りつけた。
「なんだ!? なんだこいつっ!? こいつ普通の剣じゃねぇぞ!? おいガキ、おめーこいつをいったいどこで……」
入り口とは反対の壁が、鉄の軋《きし》みを響《ひび》かせて開いた。続く廊下《ろうか》の向こうから、歓声《かんせい》と光が流れ込む。
「二人、準備しろ」
完全武装した兵士が三人、おれと女性を手招いた。
おれがトップバッターで奥さんが二番手だ。
兵士達を振《ふ》り切って、全速力で走ろうとも考えたが、闘技場の中央に出てしまうだけだ。事態は何も変わらない。
薄暗《うすぐら》い通路を追い立てられながら、彼女はおれに教えてくれた。
「いいかい、こうなったらもう逃《に》げられないけど、それでも絶対に自棄になっちゃ駄目《だめ》だよ。あんたみたいな子が人殺しなんてしちゃいけない。とにかく時間を稼《かせ》ぐんだ。相手はあたしたちに勝てば死刑を免《まぬが》れるって聞かされてるから、必死になってかかってくるけど、逃げたり避《よ》けたりでやり過ごしな」
「おれたちに勝てば死刑を免れるって、じゃ、こっちが負けることもあんの!?」
「そういうことは滅多《めった》にない。あたしは子供の頃《ころ》からこの祭りを観て育ったけど、罪人が生き残ることは滅多にないんだ」
ごくまれに、名誉職側《めいよしょくがわ》が負けることもアリ。
「時間を稼ぎな、時間をね。観客が焦《じ》れてくればなんとかなる。あんたの手で息の根を止めなくて済むからね」
「けど……」
不意に屋根がなくなって、歓声が、わんと耳に飛び込んでくる。円形の場内には大量の松明《たいまつ》がかかげられ、昼間以上の明るさだ。まるでナイターの開始時刻だが。
だが、ここは、スタジアムじゃない。ベンチもベースも芝《しば》もない、ざらつく石畳《いしだたみ》と潮風だけだ。ここで行われるのは試合ではなく、人と人との殺し合いだ。
「コロシアム……一字|違《ちが》いか」
観客全員が立ち上がる。管楽器の高らかな旋律《せんりつ》が流れ、人々は胸に手を当てて歌いだす。ポールに二枚の旗が並んだ。シマロン国旗とヴァン・ダー・ヴィーア島旗だろう。
皆《みな》が高揚《こうよう》してゆく中、おれだけが茫然《ぼうぜん》と突《つ》っ立っていた。
生まれて初めて直面する事態に、身体が硬直《こうちょく》して動けなかった。
この世界に喚《よ》ばれるようになってから、現代日本の高校生では一生体験しないような様々な危機にさらされてきた。襲撃《しゅうげき》も受けたし決闘《けっとう》もした、暗殺と誘拐《ゆうかい》もされかけた。けれど、いつでもおれは一人じゃなかったし、必ず誰《だれ》かが助けてくれた。
そうだ、コンラッド!
見回しても彼の姿はない。片道二時間の遠出の途中《とちゅう》だ。
これまでにも増して、どピンチだ。言ってみれば、レオナルド・ど・ピンチというくらいの危機的|状況《じょうきょう》。
兵士が鉄の格子戸《こうしど》を閉め、おれたちが戻《もど》れないように鍵をかけた。
「お前はツイてるぜ。昨日追加した罪人連中は海賊《かいぞく》だが、大物はほとんど本国送りだ。残ったのは下《した》っ端《ぱ》の小物ばかり。剣《けん》の腕《うで》だってたかが知れてる」
「海賊って、一昨々日《さきおととい》かその前に、豪華《ごうか》客船を襲《おそ》ったあれか!?」
「そうだ。驚《おどろ》いたことにその船には、客になりすました魔族《まぞく》が乗ってたらしいが」
なりすました、って。れっきとした客ですよ、支払《しはら》いしたんだから。
「ところがそいつら、船が港に入る頃《ころ》にゃ、風船人形に姿を変えちまったらしい。この祭りに加えるつもりだったが、生きてるか死んでるかも判《わか》らねーようじゃ……」
その対戦が実現すれば、おれ対おれ(水難救助訓練用人形、救命くん)のドリームマッチだったのに。しかも、おれ圧勝。おれ秒殺。
トランペットらしき楽器がファンファーレを鳴らす。客が|G1《ジーワン》の期待にどよめいた。
向かい合ったゲートから罪人が曳《ひ》かれ、双方、出走間近となる。
遠目ではっきりとは見えないが、十二、三歳の少年だ。
「まだ子供だぞ!?」
「ガキでも立派な悪党だ。護衛船や客船の見張りに一服盛って、賊をやすやすと引き込みやがった」
「子供は殺せねーよ!? ってより大人も老人も殺せないけどさッ」
本当は羊も豚《ぶた》も殺せない。わんこに石を投げることもできない。
「あたしの言ったことを忘れないで。時間を稼ぐんだ、客を焦らして」
「そっ、そうだった。そうすりゃ殺さずに済むんだったな。よーし、おれ頑張《がんば》って塁《るい》に出るから、奥《おく》さんバントで送ってな!」
混乱している。
おれは兵士に腕《うで》を掴《つか》まれ、闘技場《とうぎじょう》の中央に運ばれた。
独りだ。ひとりきりで、どうにか切り抜《ぬ》けなければならない。どうする!?
どうする、渋谷ユーリ。
指先に低い振動《しんどう》が伝わった。相棒が呻《うめ》いておれを呼ぶ。
「……モルギフ」
そうだった。
こいつは最強の魔剣《まけん》、モルギフ。
魔王の忠実なるしもべ。
おれが正真|正銘《しょうめい》、本物の魔王だというのなら、お前はおれを独りにしないはずだよな。
「なんだよ相方《あいかた》、武者震《むしゃぶる》いか?」
相方って言うな(自己ツッコミ)。
敵は大ぶりの両手剣を握《にぎ》っている。手入れの行き届いた輝《かがや》きだ。
遠く波の上を渡《わた》ってきた、潮風がコロシアムを吹《ふ》き抜《ぬ》ける。おれは黄ばんだ布をほどき、風の思うままになびかせる。
魔剣が姿を現した。
「きっと皆お前のことを、すげー剣だって噂《うわさ》してるぜ」
「なんだあの情けない顔の彫刻《ちょうこく》は」
「あんななまくらで人が斬《き》れるのか」
「キモーイ」
キモイはねえだろ!? キモイは! 予想外の大不評だ。
中央に辿《たど》り着く前に、相手が奇声《きせい》を発して走りだす。銀の刃《やいば》を上段から、おれに向かって振《ふ》りおろした。
「……おォっと!」
『うー』
すんでのところで受けとめて、両腕に衝撃《しょうげき》が走るのを堪《こら》える。金属がぶつかり合う瞬間《しゅんかん》に、モルギフは空腹そうに短く呻いた。
「まだ審判《しんぱん》がコールしてねぇだろっ!? 危険球で退場くらわすかんなッ」
すぐ近くに、興奮した相手の息遣《いきづか》いがあった。跳《と》びすさり間を取って、ようやく互《たが》いの顔を見た。やはりまだ子供だ、おれより三つは年下だろう。顔全面に散らばった見事なそばかす、ピーナッツバターのCMに使われそうな……。
「リック!?」
まさか。
少年もこちらに気付いたのか、ぎょっとして剣先が下を向く。
「なんできみがこんなとこに……何かの間違《まちが》いだろ? きみはちゃんとした船員だもんな、見習いとはいえ罪人|扱《あつか》いされる筋合いはないよ」
「あんたこそどうして、こんなこと……」
「おれのことはいいんだよ! 冗談《じょうだん》じゃない、こんなの誤解だ、おれから役人に言ってやるよ。ちょっとー、この子は海賊なんかじゃないよ! おれが身元を保証するから……」
客が叫《さけ》んだ。モルギフに強く引っ張られて、おれは前のめりにバランスを崩《くず》す。
「……っ」
肩が細く浅く焼けた気がする。
「リック……お前……」
少年が背後《はいご》から斬りかかったのだ。血走った眼《め》と歪《ゆが》んだ口元、頬《ほお》にさした朱で、もはやそばかすは見えない。
「相変わらずお人好《ひとよ》しだね、お客さん」
白い服を着せられた理由が判った。赤が美しく映《は》えるからだ。
「おれを倒《たお》そうとしてるのか?」
「あんたを殺せば無罪になるってきまりだからね」
「騙《だま》されてるんだろ? なあリック、きみ騙されてんだよ。殴《なぐ》られたり脅《おど》されたり恐《こわ》い思いして、海賊ですって言わされたんだろ? あのねえ、そんな自供は無効だよ。ちゃんと弁護士に助けてもらおうよ。なんだったらおれも力になるって」
リックは少しだけ顎《あご》を上げ、それから渇《かわ》いた声で長く笑った。狂気《きょうき》に支配される寸前の、自分では止められない嘲笑《ちょうしょう》だ。
「騙されてんのはそっちだろ!? 見習い船員として潜《もぐ》り込んで、見張りを眠《ねむ》らせるのがオレの仕事さ。それから仲間が乗り移りやすいように、梯子《はしご》を降ろすのもオレの役目だ。ああ、特別室の客が部屋《へや》に居るはずだって、甲板《かんぱん》で報告したのもこのオレだよ。決行直前にあんたと出交《でく》わした時は、正直いって肝《きも》を冷やしたね。なのにあんたときたらどこまでも間抜《まぬ》けで、見回りを励《はげ》まして行っちまいやがった!」
後頭部を殴られたようなショックと自己|嫌悪《けんお》。穴があったら入りたい。信じてはいけない彼を信じ、信用していい船員を軽蔑《けいべつ》していたなんて。
「なんで、そんな……だって船乗りになるんだろ!? 大きな船を操《あやつ》るんだろ!?」
「そうだよ、お客さん。大きな船の船長になるはずだった。あんたたちがあの時、邪魔《じゃま》をしなかったらね」
「船長って……海賊船のか?」
「それ以外にどんな道があるってんだよ。物心ついたときから賊の中にいた、オレみたいなガキに、どんな道がよぉ!?」
悪魔に憑《つ》かれたような茶色の瞳《ひとみ》は、瞳孔《どうこう》を収縮させておれを狙《ねら》う。
ガキと平凡《へいぼん》な高校生だ、剣の腕もなにもあったもんじゃない。ただどちらがより多く修羅場《しゅらば》をくぐっているかといえば、生まれついての海賊のリックだろう。おれはこの世界での経験も浅い。本気の殺し合いに慣れていない。
『はうー!』
モルギフが、かろうじて鍔《つば》で切っ先を跳《は》ねのけて唸《うな》った。
「そりゃあお前は経験豊富、百戦|錬磨《れんま》かもしれないけどさ! おれはバットしか握《にぎ》ったことねーの! ついでに言うとほとんど代打要員で、スタメン経験まったくなし!」
「あんた余裕《よゆう》だね! 誰と喋《しゃべ》ってんの!?」
「剣と!」
なんだかスーパー腹話術師みたいな気持ちになってきた。
『ばぶー』
「いくらちゃん、じゃ、ねーんだからッ」
まだ人間の命とやらを吸収していないから、能力を発揮できないのは解《わか》る。だからといってこのまま防戦一方では、相手に主導権を握られたままだ。どうにかしてモルギフにも戦ってもらわないと。
必殺|技《わざ》の名前を叫んでみるってのはどうかな?
「メルギブ、じゃなかったモルギフ、パンチョ!」
パンチョは伊東《いとう》。
「ちがーう、モルギフ、パーンチ!」
パンチは佐藤《さとう》。落ち着け、パンチとかキックとかは剣の必殺技ではないだろう。やはりここは袈裟《けさ》がけとか、唐竹割《からたけわ》りとか、真剣白羽《しんけんしらは》どりとか。
どれも日本刀の得意技だ……。
できることをしよう。
「え?」
頭の中にいきなり文字が閃《ひらめ》いた。声ではなく、文字だ。
高音域の打楽器みたいに、鋼《はがね》はさかんにぶつかり合う。上にある右手の指が痺《しび》れる。人差し指が鍔《つば》の裏にかかった。
できる限りのことを。
「あんたを殺せば自由になれるんだ! オレは殺せるよ!? そっちは怖《こわ》いみたいだけどねっ! だってあんた、魔族《まぞく》だって話じゃないか! 魔族を倒《たお》せば箔《はく》が付く! こんなオレでも生きてく道が、悪党以外に開けるかもしれない!」
「できることを、するだけだ」
落ちてくる銀の弧《こ》を下から弾《はじ》き、切っ先を反《そ》らしてよろめかせる。再び振りかぶるのを斜《なな》めに避けて、おれはモルギフを思いきり引いた。テイクバック。
リックの刃先が地面に叩《たた》きつけられ、青い火花が四散する。グリップエンドを臍《へそ》それすれに掠《かす》め、前かがみの腰《こし》を目掛《めが》けて振りぬいた。
軸足《じくあし》の親指から体重が移動し、左腕一本で持っていく。勢い余って膝《ひざ》を突《つ》いた。中村《なかむら》ノリのフルスイングだが、どう見ても変化球に合わせただけだから、よくて精々《せいぜい》ファウルチップ。
「……ぐっ」
リックは、ぐらりと傾《かたむ》いて、腹を押《お》さえてうずくまった。口からは血の混ざった泡《あわ》が滴《た》れている。
おれはモルギフをぶら下げたまま、やっとのことで息を吐《つ》く。
「ごめん。手加減できるほど、剣豪《けんごう》じゃないんだ」
「……こっ……」
「内蔵やっちゃったかもしれないけど、上半身と下半身真っ二つよりはましだろ? こいつ見かけどおりのなまくらでね。気合い入れて研《と》がないと斬れないんだ」
リックは、おれの足首を掴《つか》んだ。うずくまったままひどい眼で見上げてくる。ひどい眼だ、おれを憎《にく》んでる。きっとこんな仕打ちをしたおれを、憎悪《ぞうお》している。
「……ころ……せ……」
「殺さないよ。さっき聞いた。時間|稼《かせ》ぎすれば、殺さずに済むって。観客を焦《じ》らせば、なんとかなるって」
『うー』
モルギフが警告を発している。お前は魔剣だから、早く彼の命を吸いたいのかもしれないけど、そう簡単な問題じゃないんだよ。
「殺さないよっ、きみはきちんと裁かれるべきだ。もちろん、幼い頃から海賊の世界しか知らなかったこととか、正しい教育を受けてないから、善悪の判断ができないこととか、そういう事情を考慮《こうりょ》してね。それからやり直したって遅《おそ》くはない。きっと船乗りにもなれる」
二人の動きがなくなったので、会場からは非難の声があがる。観衆は総立ちでギルティーコールだ。男も女も、耳を覆《おお》いたくなるような言葉を吐《は》いて、勝負の決着をつけたがる。
「お前等、どうなってんだよ。こんなのどこが、楽しいんだよ……」
汗《あせ》と砂で汚《よご》れた指が、おれの膝を這《は》い上る。
必死で立とうとする肩に手を置いて、口角の血を拭《ぬぐ》ってやろうとした。
「フルスイングされたんだ、無理すんなって」
視界のはじを、一閃《いっせん》の風が横切った。
びくんと大きく痙攣《けいれん》して、少年の身体《からだ》が倒れ込んできた。おれは片腕で支え切れず、湿《しめ》った石畳《いしだたみ》に尻《しり》をつく。
「リック?」
両足の間にある彼の背には、じわりと深紅《しんく》が広がっている。重い鈍色《にびいろ》の鉄の矢が、白い服に突き立っていた。
「……リック……なんで?」
観客が凄《すさ》まじい嬌声《きょうせい》を上げる。肩を組み、踊《おど》りだす者までいる。うねる拍手《はくしゅ》と喜びの歌で、息をするのも苦しくなる。
「なんでだよ!? なんでスタンディングオベーションだよ!? もう闘《たたか》えなかったじゃねぇか! ここまでする必要ないじゃんか! 誰《だれ》だ!? 誰がこの矢を射った!? 降りて来いよ、おれの前に出てこいよッ!!」
時間を稼いで観客を焦らせば、おれの代わりに射手が息の根を止めてくれる。そういう仕組みだったのか。罪人が生き残ることは滅多《めった》にない。
そういうことだったのか。
「畜生《ちくしょう》ーッ! 降りて来い、姿みせろよッ! きたねぇだろこんなの、卑怯《ひきょう》じゃねーかよっ! 誰だ、誰がこんなこと考えた!? そいつを出せ! そいつを、おれが……おれが、こっ、殺して、やる……ッ、こ、ろし……」
駄目《だめ》だ!
真っ白になりかける頭の中で、おれの日本人のDNAが魔王の魂《たましい》をくいとめる。
そんなことするために、この世界にいるわけじゃない。
そんなことさせるために、おれを選んだわけじゃないんだろ?
『ううううう……うう……うう……』
「モルギフ?」
魔剣が断続的に唸《うな》った。大仏様と同じ位置の、額の黒曜石《こくようせき》が強く光る。
客席の最前列で、何か騒《さわ》ぎが起こっていた。そこから薄青《うすあお》いぼやけた球が、正確な放物線で落ちてくる。ピンポン玉程度の大きさで、まるで引き寄せられるように、モルギフの口にダイレクトで入った。
「ちょっと、モルギフ、今のなに!? 変なもん拾って食っちゃいけません、ぺっしなさい、ぺって!」
動転している飼い主は、犬の拾い食いなみの反応。
「大変だ、爺《じい》さんの心臓が止まってっぞ!?」
「言わんこっちゃない、もう百十二歳なのに、最前列で処刑《しょけい》なんか観てっからだ」
「二番目の若いおねーちゃんを観たがってたのに、最初ので死んじまうなんて気の毒すぎる」
「だけど、ごらんよ。この満足そうな顔」
「ほんとだ。女に生き女に斃《たお》れの人生だったけど、最後の最後で可愛《かわい》い少年にも目覚めっちゃったんかもねぇ」
どういう感想を持ったものか……。
魔剣が手の中で震え始めた。おれはリックをそっと下ろし、慌《あわ》ててグリップを両手で持ちなおした。額の石の光は強まって、天を目差して駆《か》け昇《のぼ》る。
「待てよ。まさか、まさかお前、あのお年寄りの命を吸って、こんな所で発動しちゃおうってんじゃ……」
だが悲しいかなおれには知識がない。魔剣《まけん》が発動とやらをすると、どういったことになるのか、VTRはおろか図解でも教えられていないのだ。えーと確か、牛が宙を飛び、牛が宙を飛び……無理だ、そのインパクトが強烈《きょうれつ》すぎて、他《ほか》の部分が思い出せない。
その間もモルギフは震《ふる》え続け、さすがに観客も浮《う》かれてばかりはいられなくなった。二人目の処刑どころではない。あの剣は何だとざわめきが走る。
と、モルギフが吐いた。
「うわぁ、お前っ、口から何を!?」
どう見ても黄色いゲロ状の物を、おれを咬《か》んだ口から流れさせている。液体、とは言い難い。うっかり身体にかかっても、濡《ぬ》れた感じはしないからだ。
黄色い吐瀉物《としゃぶつ》はやがて太い帯になり、ものすごいパワーでおれを引っ張り始める。放せばモルギフは遠心力実験のバケツみたいに、どことも知れず飛んでいってしまうだろう。せっかく手に入れた最終兵器を、ここで失うわけにはいかなかった。
『おえーおえー』
「ぎゃーお前、もしかして、十五年近く空っぽだった腹に」
いきなり食ったから胃痙攣《いけいれん》!?
飼い主が飼い主なら、剣も剣だ。似たもの同士でうまくやれそう。
客の一人が気付いて叫《さけ》んだ。
あれは魔剣だ。
「あれは魔剣だ、ここは焼き払われる、俺達《おれたち》みんな、殺されるぞ!」
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自ら猛省《もうせい》したフォンクライスト卿《きょう》は、これまでの奇行《きこう》を謝罪しようと、フォンヴォルテール卿の私室に向かっていた。
手にした苺《いちご》はお詫《わ》びのしるしである。
随分《ずいぶん》と長い付き合いなのに、居室を訪ねるのは初めてだった。ギュンターは派手な溜息《ためいき》をつく。何人もの美女を侍《はべ》らせていたりしたらどうしよう。
「……グウェンダルに限って、そのようなことは……」
うなだれて階段を登る様子は、悲壮感《ひそうかん》が漂《ただよ》ってたいへん美しい。本人には失礼な話だが、巨匠《きょしょう》の名画になりそうだ。
来訪を告げるノッカーを手早く叩《たた》いて、重い扉《とびら》を押《お》し開く。
「グウェンダル、一言、お詫びをしに……うっ……」
あまりにも意外な光景に、言葉も動きも止まってしまった。
美女もしくは美男を侍らせていたわけでも、倒錯的《とうさくてき》な趣味《しゅみ》に興じていたわけでもなかった。
城主の居間に相応《ふさわ》しい調度品と、磨《みが》き上げられた装飾用のきらめく武具。額《がく》には先代城主とその妻女。この部屋《へや》に足りないのは鹿《しか》の首だけだろう。だが、部屋の一角に妙《みょう》なものが。
フォンヴォルテール卿は窓《まど》ぎわの椅子《いす》で、長い両脚を組んでいる。
「入っていいと言ったか」
「ああ、あの、えーと、本当に、申し訳ありません。あのーグウェンダル、そのぉ」
暖炉《だんろ》から離《はな》れた隅《すみ》に、山と積まれた毛糸の産物。
下の方にあるのはたたまれた布状の物だが、上にいくほど複雑な品になっている。今にも転げ落ちそうに重なっているのは、数え切れないほどの、あみぐるみだった……。
「編み物が……趣味だったんですか……」
「趣味ではない」
それじゃああの、うさちゃんやねこちゃんやわんちゃんは何なんだ!? おまけにあなたが手にしている、制作中の新作は何なんだ!?
「精神統一だ」
「せ……」
「こうして毛糸を編んでいると、邪念《じゃねん》を払《はら》って無心になれる」
無心になって可愛い動物達を作り上げているというわけか。ろくに表情も変えずに、グウェンダルは膝《ひざ》の上で指を動かしている。
ああなるほど、と教育係は合点《がてん》がいった。彼が苛《いら》ついているときに、指が動くのはこれだったのだ。平常心を保とうと、無意識に空想編み物をしているのだろう。
いけない事実を知ってしまった。できることなら知りたくなかった。
「だが、ここのところ不快な出来事が多くてな。作品が次々と完成してしまう。部下や使用人たちにも持たせたのだが、正直、里親が不足気味だ」
「さ、里親ですか」
「持っていくか?」
投げてよこされた黒っぽいあみぐるみを、ギュンターは慌《あわ》てて受け取った。
「か、かわいいクロブタちゃんですね」
ぴくりと眉《まゆ》が上がる。グウェンダルの冷徹《れいてつ》無比な氷の瞳《ひとみ》が、青く恐《おそ》ろしい光を放つ。
「……それは、くまちゃんだ」
黄色い帯はコロシアムを薙《な》ぎ払った。
場内は混乱し、逃《に》げ惑《まど》う人々の悲鳴と怒号《どごう》で満たされる。
おれはなんとかしてモルギフを治めようと、宥《なだ》めたりすかしたりしたのだが、十五年ぶりに人間の命を吸収した魔剣《まけん》は、とどまるところをしらない様子だ。
彼が口から吐《は》いた液がかかったところで、人体に特に影響《えいきょう》はない。それはおれの身体《からだ》で実証済み。だが、パニックに陥《おちい》った人間達は、我先にと逃げ出して将棋倒《しょうぎだお》しになる。
「とめろモルギフ、とめろって!」
「ユーリ!」
聞き慣れた声で名前を呼ばれ、思わず涙《なみだ》が浮かんでしまう。
柵《さく》を乗り越《こ》えて客席から飛び降りる。彼は珍《めずら》しく血相を変えてこちらに走ってきた。
「コンラッド!」
「陛下《へいか》、どうしてこんなことに」
「近付くと、危ない、ゲロには触《ふ》れても、大丈夫《だいじょうぶ》」
「剣を下げて。下を向けるんだ、刃先《はさき》を下に」
あまりの力にコントロールできない。コンラッドは躊躇《ためら》わずおれの背後《はいご》に回り、両手を重ねて剣の柄《つか》を握った。
「そんなことしたら、手がっ」
「……平気です。いいですか、ゆっくりと下に、そう」
名を呼べ。
「なに!? なんか言った!?」
「俺《おれ》じゃない」
花火を見た直後の残像のように、文字が脳裏《のうり》に閃《ひらめ》いた。文字だ。誰かの声ではなく。
わたしの名を呼べば、できる限りのことをしよう。わたしの名は……。
「ウィレムデュソイエイーライドモルギフ!」
「ユーリ!?」
「吐くならエチケット袋《ぶくろ》の中にしろーッ!!」
どひゃん。
どひゃあでもうひょうでもどかんでもなく、どひゃん、と切れのいい擬音《ぎおん》とともに、モルギフは胃痙攣《いけいれん》を必死に止める。開きっぱなしだった口が一文字に結ばれ、眉間《みけん》にしわまで寄せていじましい。
「どんな魔術を使ったんですか」
「おれがエセ魔術師なのを知ってるだろ? 魔法なんか使えないの。どんな魔術も使ってねえの。ただ脳味噌《のうみそ》に送られてきた電波のとおりに、文字を声にだして読んだだけ」
「文字? 字が読めるようになったんですか!? ああすいません、その話は後でゆっくり。ヴォルフとヨザックが道を確保しているはず。今のうちにここから脱出《だっしゅつ》しないと」
「でもリックが」
ちらりと見えたコンラッドの掌《てのひら》は、見るだけで痛そうな色になっていた。かまわず彼は少年を抱《かか》え上げ、陛下はモルギフを、と念を押《お》して先に立つ。
入場ゲートの脇《わき》には、おれに親切にしてくれた女性が、駆《か》けずり回る群衆を眺《なが》めながら、独り途方《とほう》に暮れていた。彼女は息子《むすこ》を治療《ちりょう》する金を、ふいにしてしまったのだ。
「あの……奥《おく》さん」
はっとしておれを睨《にら》むが、細い目の中には怯《おび》えと怒《いか》りの絡《から》み合った彩《いろ》がある。ポケットを探《さぐ》って摘《つま》み出した紙幣を、彼女の痩《や》せた指に握《にぎ》らせようとする。
「これ……」
「あんた魔族だったんだね!?」
女は素早《すばや》く身を引いた。汚《けが》れたものにでも触《ふ》れたみたいに。
「普通《ふつう》の子供だと思ったら、あんな、あんな恐《おそ》ろしい魔剣を! あんた、あたしたち人間を殺しに、滅《ほろ》ぼしに来た魔族だったんだねっ!? 触《さわ》らないで!」
「わかった触らないよ、これ、お金、ここに置くから」
「あたしがそんなもん拾いにいくと思うかい!? あたしが金につられて近寄るのを待って、その魔剣の餌食《えじき》にしようって腹なんだろ!? 畜生《ちくしょう》ッ、そんな武器がなんだっていうんだ、今にあたしたち人間にだって、神様がもっと強い武器をお与《あた》えくださる! 今にあたしたち人間だって、そんな剣よりずっと凄《すご》い兵器を造って……」
「どうでもいいよそんなこと!」
おれはドラ坊《ぼ》っちゃん風に手を突《つ》き出し、コンラッドから財布を巻き上げた。革《かわ》の札入れの分厚さに、女は無意識に半歩よろめく。
「この金で息子さんの病気、治しなよ」
「魔族の金なんかで医者にかかったら、息子が呪《のろ》われる」
どうして!? なんで!? 金は金じゃん! 誰が使ったって変わらない、この島の貨幣だ。
財布も札も地面に置いた。コンラッドは女を見もせずに、おれに向かって笑いながら言った。
「俺《おれ》の父親は、魔族の女との間に子までつくったけど」
「呪われた?」
絶対優位のわけ知り顔。
「いや、八十九まで気ままに生きたよ」
走って控《ひか》え室《しつ》まで戻《もど》る。モルギフは重く、女のことは気掛《きが》かりだった。彼女が本当に母親ならば、きっと意を決して拾ってくれるだろう。
兵士から奪《うば》った制服を持って、ヴォルフラムとヨザックが待ち兼《か》ねていた。二人とも何事か言いたそうだったが、喋っていられる雰囲気《ふんいき》ではない。
「これを着て、早く。この混雑で馬は使えない。港ではなくマリーナまで兵士らしくしててください」
モルギフを包むのに手間取っていると、見兼ねてコンラッドが手伝ってくれる。リックはどうしたのかと探したら、見慣れぬ金髪《きんぱつ》の男が抱《かか》えていた。
「陛下、お早く」
「あ、ああ」
マリーナまではそう遠くなかったが、我先に闘技場《とうぎじょう》から逃《に》げ出した人々で、道の密度は高まっている。そんなときのための変装だ。制服の威力《いりょく》は抜群《ばつぐん》で、皆《みな》いやな顔をしつつも避《よ》けてくれた。
数々の豪華《ごうか》クルーザーが停泊《ていはく》する中、ひときわきらびやかで優雅《ゆうが》な船がある。純白のボディに銀の星、下ろされたセイルは深いアクアブルーだ。デッキで女性が手を振《ふ》っている。
腰《こし》まである金色の巻毛、犯罪すれすれの扇情的《せんじょうてき》な服……いや、服というより布。もしも彼女がアイドルだったら、事務所がダメ出ししてるだろう。三男そっくりの白い肌《はだ》を、惜し気もなくさらした脚線美。
ああ、もう、ツェリ様、勘弁《かんべん》してください。
お手を振られるたびに、胸がお揺《ゆ》れになるんですー。
お久しぶり、の情熱的で腰《こし》にくる挨拶《あいさつ》をやり過ごしてから、おれたちはクルーザー内に入れてもらった。海外の大富豪《だいふごう》か加山雄三《かやまゆうぞう》しか所有できそうにない大きさで、こんなとこ鉄でいいだろ!? と思うような部分まで、金やら銀やら宝石やらだ。例、便器。
「シマロンで懇意《こんい》になった殿方《とのがた》が、是非にと仰《おっしゃ》るから使ってさしあげてるの。だって膝《ひざ》をついて頼《たの》まれては、むげにするわけにもいかないでしょう?」
セクシークィーン、世界各地でご活躍《かつやく》だ。今年のフェロモン注意報は、シマロン本国で発令したらしい。
フォンシュピッツヴェーグ卿《きょう》ツェツィーリエ様は、前魔王現上王陛下であるとともに、グウェンダル、コンラート、ヴォルフラムの魔族似てねえ三兄弟のおっかさんでもある。三児の母とはいえ三十そこそこにしか見えず、しかも人呼んで愛の狩人《かりゅうど》。おれのお陰《かげ》で現役を引退できてからは、自由|恋愛《れんあい》旅行中で国にはいない。
「有名なヴァン・ダー・ヴィーアの火祭りを観《み》に寄ったら、魔族《まぞく》が捕《とら》えられたって噂《うわさ》が耳に入ったの。それでシュバリエに調べさせていたら、ヴォルフと接触《せっしょく》できたのよ」
シュバリエはリックを運んでくれた金髪《きんぱつ》の男で、ツェリ様が連れているお供だという。驚《おどろ》いたことに彼とは初対面ではなかった。先月、風呂《ふろ》で会った、三助《さんすけ》さんだ。
「陛下ったら相変わらず可愛《かわい》らしくていらっしゃるのね。あたくしの息子と進展はあって?」
「ししし進展はないデス」
「あら残念。せっかくいろいろ想像していたのに」
何を!? ねえ、ナニを!?
「でも、ということはまだあたくしにも希望が残されてるのね? んふ、こんなに震《ふる》えちゃって。この『愛の虜《とりこ》』号は治外法権だし、どの海をゆくのも自由だから、不粋《ぶすい》な者たちが邪魔《じゃま》しにくる心配はなくてよ」
だったら最初からこの船で旅をさせてよ。それにしてもまた、気恥《きは》ずかしい名前をお付けになったものだ。
「母上、そんなことより早く船を出してください。怪我人《けがにん》もいるし、陛下もお疲《つか》れです。癒《いや》しの手の一族を連れていますか」
どんなに完璧《かんぺき》な色気でも、息子には通用しないらしい。こういうとこは万国共通だ。
「そんなことシュバリエに言ってちょうだい。怪我人がいるの? あらまあ」
瀕死《ひんし》の状態のリックを見て、ツェリ様は可愛らしく唇《くちびる》に指を当てた。おれは頭がくらくらした。モテない高校生には天女に見える。
「……矢人間ね」
矢ガモじゃないんだから。
「ちょうどよかった。癒し系美中年を乗せていてよ。でもあたくしの美容専任だから、怪我の治療《ちりょう》はどうかしら……」
「癒し系、美中年とは……ううーん」
「それより陛下っ、魔剣《まけん》を手に入れてらしたんでしょう? ねえあたくしにも見せてくださらない?」
まさか断るわけにもいかず、おれはモルギフの布を剥《は》ぐ。彼を見たツェリ様の喜びようったらなかった。喜色満面で訊《き》いてきた。
「すごいわ、こんな不細工な剣は初めて! ねえ陛下、あたくしの部屋《へや》に飾《かざ》ってはだめ?」
「そういうことは城に帰ってからギュンターに訊いてくださいよー」
でも多分、飾ったら毎晩うなされると思うな。
コンラッドがキャビンから出てゆくのを目にして、何の気なしに後を追った。デッキでは、ヨザック一人が島を眺《なが》めている。おれがまだ階段を登り切る前に、コンラッドは友人の胸ぐらを掴《つか》んでいた。
「どういうつもりだ!?」
「なにが」
お庭番が、壁《かべ》に叩《たた》きつけられる音がした。
「ヴォルフラムが祭りについて知らないのは本当だ。あいつは人間に興味がないからな。だがお前は十二を過ぎるまでシマロン本国で育ったんだ。文字が読めないはずはない! よからぬ行事に関しても、聞いていないわけがないだろう!」
ヨザックは壁に強く押しつけられながらも、ロジャーラビットみたいな笑いを失わない。
「うまくいきそうだったじゃねーか。いざって時に陛下が怖気《おじけ》づきさえしなけりゃ、あのガキの命を吸ってモルギフも満足だ。ま、結果的に爺《じい》さんので我慢《がまん》したみてえだが。これで魔剣をいつでも使える状態にして、国に持って帰れるだろ。使えねぇもん持ってたところで、敵国は恐《こわ》がっちゃくれないかんな」
「……お前たちのやり方は、間違《まちが》ってる」
「どこが? だってあんなお子様みたいな陛下に任せといたら、この国はどうなるか判《わか》んねーぞ!? 背後《はいご》からうまーく舵《かじ》とりゃいいんだよ。陛下だってそのほうが楽なはずだ」
出ていくわけにもいかなくなって、おれは手摺《てす》りをぎゅっと握《にぎ》った。張本人に聞かれているとはつゆ知らず、彼等の口論はエスカレートする。滅多《めった》なことでは怒《おこ》らないコンラッドなのに。
「王をないがしろにして国政を操《あやつ》るのは、謀反《むほん》と同じだ!」
「ないがしろに? してねーだろ。陛下が戦争したくないと仰るから、オレたちは魔剣を取りにきたんじゃねぇか。確かに強い武器を持つのは悪いことじゃない。だったらいっそ、最強の兵器を手に入れて、どこよりも強くなっちまえばいい。そうすりゃ隣国《りんごく》も攻《せ》められない。なるほど、陛下のお考えにも一理ある。だからこうやってちゃんと協力したさ。このまま陛下がモルギフを持って帰国すりゃあ、歴代魔王の中での地位も高くなる。強き王として民《たみ》にも支持される。オレたちのどこが間違ってるって!? どこがないがしろにしてるって?」
「あんな危険な目に遭わせることはないだろう!? あんな、へたをしたら怪我だけでは済まなかったかもしれない……ましてや陛下に人を殺させるなんて、そんな」
全《すべ》ての言葉が思考に刺《さ》さり、目眩《めまい》がして立っていられない。
おれは何かを忘れてる。おれも何かを間違えてる。
でも、それをうまく形にできない。
「結局お前はさぁ」
世間話でもするような調子で、ヨザックは友人の腕《うで》を外した。
「あの坊《ぼ》っちゃんが大事なわけだろ? 表向きは人間との共存のためなんて言ってっけど、新しい王サマを傷つけたくないから、一生|懸命《けんめい》、誉《ほ》めて守って持ち上げてるんだろ」
「お前は何も判っていない」
「判ってるってェ。そんなに大切な王サマなら、箱に入れて城の奥《おく》にしまっておけばいい。部屋に閉じ込めて出さなけりゃいいのに」
「ヨザック!」
「高価な石でもかけてやって、なあ」
胸で魔石が、熱を増した。
彼がまだルッテンベルクの獅子《しし》と呼ばれていた頃《ころ》、この石は誰の物だったんだろう。その人はおれよりもずっと賢《かしこ》くて、操られることなどなかったんだろうな。
ほらね、コンラッド、おれの支持率はサイテーだ。
「お前達は、あれだけ軽蔑《けいべつ》していたシュトッフェルと同じことをしようとしているんだぞ。前王ツェツィーリエ陛下と同じ過《あやま》ちを、新王陛下に犯《おか》させようとしている」
「違うね、ウェラー卿、コンラート閣下。ツェリ様の間違いは、ご自分で統治なさらなかったことじゃない。あの方は、誰に任せるかを間違われたんだ。選ぶ人物を間違えたのさ」
「……フォンヴォルテール卿に任せるべきだったと?」
「いや」
ヨザックは、ふと口を噤《つぐ》む。
おれは人差し指で、銀の縁取《ふちど》りをゆっくりなぞった。細かな溝《みぞ》のひとつひとつに、持ち主の記憶《きおく》が刻まれている。祖父のコレクションのレコードのように、針で辿《たど》って再現できればいいのに。
「……今となっては全てが手遅《ておく》れだ。二度とあんなことにならないように、今度はしくじるわけにいかねぇよな」
「お前達がどんな謀略《ぼうりゃく》を巡《めぐ》らせようと、陛下を傀儡《かいらい》にはできはしない」
「わっかんねーかなぁ、傀儡じゃねーって。愛があんのよ、ちゃんと愛が」
「だとしてもだ! 再びこのようなことが起こり、ユーリに危険が及《およ》んだときには」
妙《みょう》に長く重い沈黙《ちんもく》。
「……その生命《いのち》、ないものと思え」
押《お》し殺した、聞いたこともないようなコンラッドの声。すぐに踵《きびす》を返し、足音が近付いてきたので、おれは慌てて階段を下りた。
「グウェンダルには俺《おれ》が直接話す! お前達のやり方は、陛下を傷つけるだけだ」
「ご自由に」
声が遠くなって聞きづらい。
「けど、ああ見えて……坊っちゃんの……た……だぜ?……気……い、手に……から……」
「そんなことは本人以外、皆《みな》、承知しているよ」
豪華《ごうか》クルーザーでの帰国は、一斉《いっせい》に観光客が発《た》つ明朝スタートがいいだろうということで、おれたちは島の反対側に停泊《ていはく》し、一夜を船内で過ごすことになった。もちろん部屋数に不足はない。ベッドもきちんと人数分ある。
先程《さきほど》までの喧騒《けんそう》が嘘《うそ》のように、北側はひっそりと静まり返っていた。祭りのマの字も感じられない。同じ島内だとは信じられないくらい、音も明かりも賑《にぎ》わいもない。
おれはわがままを言って浜に下りた。一週間ぶりにロードワークしたかったのだ。
身体《からだ》をいつものペースに戻《もど》したい。でないと頭も働かない。足を動かせば血液が循環《じゅんかん》し、脳味噌《のうみそ》に酸素も行き渡《わた》る。もっと走れば脳内|麻薬《まやく》が分泌《ぶんぴつ》され、普段《ふだん》じゃ思いつかない名案も浮《う》かぶかも。
それは話がうますぎる。
船の明かりだけが頼りの砂浜で、波打ちぎわを裸足《はだし》で走った。
暖かく濡《ぬ》れた砂が踵《かかと》を包み、衝撃《しょうげき》を吸収してペタペタ鳴った。
もちろん一人では走らせてもらえない。コンラッドが黙《だま》って後ろをついてきている。合衆国大統領だってボディーガードとジョギングだ。王様でいるためには仕方がない。
走り始めてすぐ、汗《あせ》が吹《ふ》き出した。基礎《きそ》体力が落ちている証拠《しょうこ》だ。
「中学で、野球部だった頃《ころ》は、毎日ランニング、させられたからさ、それが当たり前と、思ってたけど」
「今は?」
「部活|辞《や》めてから、ホント身体が、なまっちゃって、最近また、野球始めたけど、前みたいにいかないんだ」
「なるほど」
にくたらしいことに、彼はほとんど息が乱れていない。剣豪《けんごう》でいるために毎日ジョギングとかしているのだろうか。
「あーあ、やっぱ辞めなきゃ、よかったのかな、部活、高校でも野球部、入るべきかね」
「確か監督《かんとく》殴《なぐ》ってクビって言ってましたよね」
「そう」
膝《ひざ》に両手を置き屈伸《くっしん》して、砂の乾《かわ》いた所に座《すわ》った。
「押して。柔軟《じゅうなん》すっから」
「柔軟?」
「そうだよ。夜の浜辺で柔軟。うー、ロマンチック」
男相手でなければね。
「監督殴るとは、また、思い切ったことしたもんだ」
「うん、いち、に、ひどいこと、言いやがったから。さん、言っちゃいけない、ようなこと」
懐《なつ》かしい記憶《きおく》。今となっては腹もたたない、けれど微《かす》かに胸の痛む記憶だ。
もうすぐちょうど一年になる。夏の始まる前だった。
リトルリーグで全国ベスト4まで勝ち進んだピッチャーが、隣《となり》の学区の中学に入った。一方でうちの部の新人は、お世辞にもうまいとはいえないような初心者レベルの者ばかり。走攻守《そうこうしゅ》全《すべ》て基礎から教えることになり、監督は毎日|怒鳴《どな》っていた。
ある日の練習試合で一人の一年生が、怪我《けが》をした三年の代わりにライトに入った。カットオフしなければ届かないのに、外野からホームまでダイレクトで返した。ボールは捕手《ほしゅ》にも中継《ちゅうけい》にも渡らず、逆転のランナーがホームを踏《ふ》んだ。
「試合後、監督は彼一人に向かって、あんなこともできねーならやめちまえって言ったんだ。……違《ちが》うな、確か、退部届けを書けって言ったんだな。お前には野球やる資格がない、ただでさえ三中は強くなってて、うちだってもっといい部員を入れないと勝てねーんだって。お前みたいな役立たずに使ってる時間はない、他《ほか》の部活に行ってくれって言ったんだ」
敵チームが残っているグラウンドで、皆《みな》に聞こえるように大声で。
「それで、ガツーンですか?」
「うん? そう。資格がねぇのはテメーのほうだー! ってんで、ガーン!」
我ながら短気だ、お恥《は》ずかしい。
「もちろん、奮起させるためにはっばをかけるんならいいと思うよ。だけどおれは補欠人生を歩いてたからね、言葉の裏には敏感《びんかん》だった。とっととやめちまえ、と、できるまでやれの違いには、子供も勘付《かんづ》くものなんだ。もっと力入れて押していいよ、おれ身体かたいから」
「じゃあ、ご自分のためではなく、後輩《こうはい》の名誉《めいよ》のために部活をクビになったんですね」
「そんな美談になっちゃうかなぁ」
海は黒かった。空も黒く、雲は灰色で、月と星だけが白く、あるいは青く赤く黄色く輝《かがや》いていた。もしかして夜は、月と星を際立《きわだ》たせるために黒いのかもしれない。そして星は、夜の黒さを引立てるために燃えているのかもしれないと思った。
寄せては引く波の音が、まばらな拍手《はくしゅ》にも似て聞こえる。
「……本当にそうだったのかな」
「ええ?」
「最近になって、思うんだ。おれは本当に後輩の名誉のために……チームのために抗議《こうぎ》しようとして、監督を殴ったりしたんだろうかって。聞いた話じゃ、あれから監督は、ちょっとは態度を改めて、他校の生徒の前でけなしたり、無神経なこと言ったりはしなくなったらしい。けど、結果はどうあれ、おれ自身はどうだったんだろう。本当にチームのためにそれをやったのか、って」
背中を押す力が弱まった。
「……全然芽の出ない自分の才能のなさに嫌気《いやけ》がさして、やめる機会を窺っていなかったか。負け犬としてじゃなく、かっこよく部活を去れるチャンスを、知らず知らず狙ってなかったかって……今になって自分に尋ねてるんだ。ユーリ、あれは本当にフォア・ザ・チームだったのか? ってね」
答えは永久に出ないだろう。
後ろから腕《うで》を回して、野球仲間が肩越《かたご》しに言った。首位打者の名前でも訊《き》くように。
「俺《おれ》に言いたいことがあるんだな」
「そうなんだ」
砂のこすれる音が近付いてくる。
「……モルギフを、この島に置いて行こうと思う」
どう説明したらこの身勝手な決意を理解してもらえるのか、おれには見当もつかなかった。そもそも戦争に反対して、回避《かいひ》のために魔剣《まけん》を取りに来たのだって、元はといえばおれのわがままだ。首尾《しゅび》よくとまではいかないが、なんとか目的を果たした晩に、せっかくのお宝を放棄《ほうき》するなんて宣言されたら……逆の立場なら靴底《くつぞこ》で殴ってる。
「どっ、どう言ったら解《わか》ってもらえるのか、困ってるんだけどさ! あの、あの奥《おく》さんの言葉が引っ掛《か》かってるんだ。人間だってもっと強い武器をっていう、神様が与《あた》えてくださるとかいう。神様はまさかそんなことしないと思うんだけどさ、あー、でももしそういうことになったら、超《ちょう》強力な兵器が開発されちゃったりしたら」
「考えられますね」
ああやっぱり、怒《おこ》ってる。
「そしたら他《ほか》の国もそれを持ちたくなる。今まで戦争なんかとは無縁《むえん》だった国や土地も、不安になって兵力を増やしたくなるだろ。おれたちがモルギフを手に入れたことで、世界中がどんどん武装し始めたら……核の抑止力《よくしりょく》か、それとも非核《ひかく》三原則かっていう……」
新聞はプロ野球のためだけにあるのではない。もっときちんと目を通そう。だが、こんな問題を簡潔に説明できる十五歳は、進学校にしかいないだろう。
「どこよりも強い国にしたいわけじゃないんだ。いい国と強い国は同じじゃないんだよ」
モルギフを携《たずさ》えて凱旋《がいせん》すれば、おれの魔王としての評価は上がる。国民の皆さんの支持率も、強い王と認知《にんち》されれば高くなるだろう。けれどユーリ、それは本当に皆のためなのか?
おれの自己満足になっていないか?
師匠《ししょう》に訊いたら、きっとこう言われる。
「フォアザチームだろ、シブヤユーリ」
どっかの哲学者の書いた散文みたいな、こんな抽象的《ちゅうしょうてき》な説明で、納得《なっとく》してもらえるとは思えない。ところが耳の横でコンラッドは、感心したように呟《つぶや》いた。
「なるほど、ゲティスバーグですね」
「お前等、そこで何をしているーっ!?」
突《つ》っ走ってきたヴォルフラムは息を荒《あら》げている。こちらに向けた人差し指は、月明かりでも判るほど戦慄《おのの》いていた。
「帰ってこないと思ったら、砂浜でくっついて何してるんだ!?」
「なにって、柔軟」
立ち上がる気配がして、背中から体温が離《はな》れていった。
「お前こそどうした息急《いきせ》き切って。わざわざ陛下を監視《かんし》するために?」
「ああそうだった、それどころじゃなかった。大変だぞ、ユーリ。お前の剣が」
「モルギフが?」
「……壊《こわ》れた」
どうして、というより、どうやって!?
目のやり場に困ってしまうネグリジェ姿で、ツェリ様はおれの腕を抱《かか》え込んだ。
「ごめんなさい陛下、そんなつもりはなかったのよ。壊れるなんて思ってもみなくて」
不粋《ぶすい》な下着をつけない胸が、肘《ひじ》に当たって夢心地《ゆめごこち》。なんだか花畑で迷うような、甘《あま》い匂《にお》いも漂《ただよ》っている。
魔剣は船室の中央に、どす黒い塊《かたまり》となって横たわっていた。餌《えさ》をもらってピカピカの太刀魚《たちうお》だったのに、瀕死《ひんし》の巨大鰻《きょだいうなぎ》になってしまった。
「モルギフ」
『……うー……』
生きてる。剣に対して生きているという表現が正しいのかどうかは置いておくとしてだ。
「あまりにも不細工で変わっているから、せめて船旅の間だけでもあたくしのお部屋に飾《かざ》ろうと思ったの。運ぼうと手をかけたら……この子が……」
ペットショップの店員さんみたいに、ツェリ様は魔剣を「この子」なんて呼んでいる。まったく、おふくろさんにはかなわない。彼女を責められる奴《やつ》など、この世にいないだろう。
「この子が咬《か》んだのよ」
「ビビビってなったりはしなかったんですか?」
「いいえ、それは大丈夫《だいじょうぶ》。でも、あたくしびっくりしてこの子を落としてしまって、そうしたら元気がなくなってしまったの。多分……」
白くて細い指、優雅《ゆうが》に伸《の》ばした桜色の爪《つめ》で、小粒納豆《こつぶなっとう》を摘《つま》んでいる。
「これが取れてしまったせいじゃないかしら」
おれの指は爪が丸くて短くて、他人と違《ちが》う場所にタコがある。黄ばんでけば立った布みたいな手で、モルギフの柄《つか》をぎっちり握《にぎ》りしめる。指の全《すべ》ての関節が、ぴたりと馴染《なじ》んでくっついた。素振《すぶ》り前にバットをかざすよう、右手の親指を鍔《つば》にかけ、裏側を人差し指でそっと撫《な》でた。
もしも額の石を失って……。
「何!? 今だれかなんか喋《しゃべ》った?」
あの時と同じだ。闘技場《とうぎじょう》でモルギフの名を叫《さけ》んだ時のように、脳に直接、文字が閃《ひらめ》く。声ではなくて、残像だ。細かい記号が一瞬《いっしゅん》だけ浮《う》かぶ。
もしも額の石を失って、私がただの剣と成り果てても、魔王の忠実なる家来として、お傍《そば》においてほしいのよ。
「なぜ、女言葉!?」
「誰と話しているんだ、ユーリ」
「モ、モルギフと」
そう、ウィレムデュソイエイーライドモルギフ。お傍においてあげる。
「ヨザック!」
隅《すみ》で傍観《ぼうかん》していたヨザックは、不意をつかれて背筋を正した。オレンジの髪《かみ》が濡《ぬ》れて額にはりついている。悠長《ゆうちょう》にシャワーなんか浴びていたわけだ。
「なんです、陛下」
「この黒曜石をお前に預けることにする」
「はあ!?」
その場の全員が唖然《あぜん》とした。コンラッドだけはすぐに平静さを取り戻《もど》し、次のフレーズを興味|津々《しんしん》で待ち受けている。
「ツェリ様が持ってるその石を、誰も思いつかないような所に捨ててほしい」
「捨て……」
「なんでだ!? ユーリ!? せっかく手に入れた魔剣の一部を、どうして捨てようなんてバカな真似《まね》を」
「そうよ、陛下、いい耳飾《みみかざ》りになると思うわ。陛下の髪と瞳《ひとみ》によく似合ってよ」
「母上、陛下の御意志ですよ」
次男はツェリ様の指から石をとり、お庭番の掌《てのひら》に押《お》しつける。
「……オレがこれを持って姿を消して、他国の王に売りつけちまったらどうすんの? それとも逆にこいつを国に持ち帰って、陛下以外の人物に渡《わた》したら?」
「グウェンダルに?」
意外そうな顔をした。でもこれは明晰《めいせき》な頭脳による判断ではなく、こそっと盗《ぬす》み聞きした情報だ。
「それが眞魔国のためであると思うのなら、そうするがいい。ただし……」
ようやくコンタクトを外せた眼《め》に、力がこもっていますように。
「おれはお前を選んだんだ。この人選を間違《まちが》いにしないでくれ」
ヨザックは、獣《けもの》の笑《え》みを見せた。
「拝命《はいめい》つかまつります、ユーリ陛下」
賢《かしこ》い獣の笑みだった。
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「こんな細かい文字に、よくお気がつかれましたね!」
モルギフをスタンドに立て掛《か》けて、鍔《つば》の裏を下から覗《のぞ》きながら、ギュンターは感嘆《かんたん》の声を上げた。オフホワイトの僧衣姿《そういすがた》の教育係は、灰色の髪《かみ》を後ろできっちりまとめ、縁《ふち》の細い眼鏡《めがね》をかけている。これがまた実に、麗《うるわ》しい。
こんな科学者になら改造人間にされてもかまわないと、悪の組織の前に女性達が列を作りそう。だが騙《だま》されるな、お嬢《じょう》さん方。百五十過ぎという年齢《ねんれい》から考えて、あれはおそらく老眼鏡だ。
「確かに鍔の裏に文章が刻まれております。我《わ》が名を呼べ、さすれば限界を超《こ》えよう。我が名はウィレム・デュソイエ・イーライ・ド・モルギフ。もし額石を喪失《そうしつ》し我が身が凡剣《ぼんけん》と成り果てども、魔王《まおう》の忠実な下僕《しもべ》であり、戦場で共に討ち果てん」
「そ、そーいうふうに読むもんだったの?」
おれはすごく子供向けに要約していた。
「しかし文字を解されなかった陛下が、触《ふ》れられただけで頭に閃《ひらめ》くというのは興味深いですね。やはり下々の魔族とは異なり、高貴な御力《おちから》を授《さず》かってらっしゃる」
「もしかして、おれってサイコメトラーなんじゃない!? 触《さわ》っただけで事件解決する超能力」
「サイコメ……なんですかそれは。新種の米の名称《めいしょう》ですか?」
すっかり普通《ふつう》の剣に成り下がったモルギフを手土産《てみやげ》に、豪華《ごうか》クルーザーで帰国したおれを迎《むか》えたのは、ちぎれんばかりに手を振《ふ》るギュンターと、げっそりと目の下に隈《くま》までつくったグウェンダルだった。おれが不在だった十日あまりで、彼等の身にどんなことが起こったのだろう。
ヨザックは魔剣《まけん》の心臓ともいえる黒曜石《こくようせき》を持って、シルドクラウトで船を降りた。どの方角へ向かうのか、おれにもコンラッドにも告げなかった。
そういえばツェリ様はモルギフの代わりに、矢人間リックを乗せたままで、また旅に出てしまった。癒《いや》し系美中年の治療《ちりょう》が済んだら、少年は船乗りへと一歩近付く。豪華クルーザーの見習い船員だ。シュバリエがきっちり指導してくれるだろう。
ごめんなリック、巨大帆船《きょだいはんせん》に乗せてやれなくて。でも海賊船《かいぞくせん》よりはずっといいと思うよ。
せっかくの最終兵器を無効にしたというのに、ギュンターはそんなこと責めもしない。陛下さえご無事ならそれだけで幸せですなんて、真珠《しんじゅ》の涙《なみだ》を流すばかりだ。過保護な母親みたいな人だと思ってきたが、今回で考えが改まった。
孫に目のない祖母みたいな人だ。
だが、王佐《おうさ》としての職務に関しては、非のうちどころがない。
旅の顛末《てんまつ》とおれの考えを伝えると、彼はすぐさま行動した。
魔族が魔剣を手に入れ損ねたという情報を「漏洩《ろうえい》」させたのだ。公然と発表すれば策略と疑われるが、弱点という形で漏洩させれば、人間達はあっさり信じるという。トップより周囲のほうが頭がいい。国政とはこういう仕組みになっている。
おれは、ヴォルテール城の厨師《ちゅうし》が腕《うで》を振《ふ》るった歓迎《かんげい》料理に度肝《どぎも》をぬかれ、椅子《いす》の上でどうしたものかとうなだれていた。
「……なんでこんなことに」
「俺《おれ》が教えたんですよ、陛下がフナモリを食べたがってたって」
「いくら舟盛《ふなも》りだからってさ」
部屋を占拠《せんきょ》した白いボートに、山と積まれた丸ごとの鮮魚《せんぎょ》。大小取り混ぜた海の幸は、元気に尻尾《しっぽ》をばたつかせている。ピチピチと。
「言ってたでしょう、生の魚って」
「生きた魚とは言わなかったぞ!?」
カヴァルケードの件も考えなければならなかった。
この国が戦争を仕掛《しか》けてきそうだというのが、元々の懸案《けんあん》事項《じこう》だったはずだ。魔剣の抑止力《よくしりょく》が期待できなくなった以上、他《ほか》の逃《に》げ道を探さなければならない。
いっそおれが出向いて頭下げて、仲良くしようって持ち掛けてこようかと、本気で悩《なや》んでみたりもした。
ところが、外交とは予想もつかないもので、解決策は先方から飛び込んできたのだ。
「陛下……カヴァルケードから訪国、拝謁《はいえつ》の打診《だしん》がございましたが……かねてよりカ船団を脅《おびや》かしていた海賊の一部を、旅の魔族が討ち倒《たお》し、元王太子とその妻女、ご息女の命を救ったことに対する感謝の意を……そのようなことをなさいましたか?」
「海賊はひどい目に遭《あ》わせたらしいけど。ま、例によっておれ自身は覚えてないんだ。コンラッドかヴォルフに訊《き》いてくれる?」
「どうもヒスクライフなる人物らしいのですが……」
「ヒスクライフ!?」
ぴっかりくんと、その家族じゃん。
「どうやら現カヴァルケード王の長男、ヒスクライフは、ヒルドヤードの商人の娘《むすめ》と道ならぬ恋《こい》に落ち、王室を出奔《しゅっぽん》して野に下ったようなのです。ところが現王の次男が病《やまい》で亡《な》くなり、子を生《な》していなかったために跡継《あとつ》ぎがなく、カヴァルケード王室|典範《てんぱん》によりヒスクライフの息女に継承権が生じたということで、近々彼等を呼び戻《もど》すとか……」
「なんてこったい! それじゃベアトリスは本物の王女様だったんだ!」
情熱的なのはおれじゃなくて、ヒスクライフ本人だったわけだ。
コンラッドが、したり顔で脇腹《わきばら》を小突《こづ》いてくる。
「ということは陛下は、女王候補の夜会デビューのお相手ということになりますね。どうします? 一目|惚《ぼ》れされててカヴァルケード王室から求婚《きゅうこん》されたら」
「縁起《えんぎ》でもないことをコンラート! 私達の陛下の唇《くちびる》を、人間ごときに奪《うば》われてなるものですか!」
唇程度で済む問題か?
「あ、でもおれたち人形のまま、シマロン本国で尋問《じんもん》されてるはずだよ」
「このままでは国際規模の恩知らずになってしまいますからね、カヴァルケードは国を挙げて救出するでしょう……その、人形を……」
想像するだけでも面白《おもしろ》い。救命くんの空気が抜《ぬ》けたりしたらもっと可笑《おか》しい。これには生真面目《きまじめ》なギュンターも、目尻《めじり》を下げて笑いを堪《こら》えた。
とにもかくにもこれで、戦争は回避《かいひ》されるだろう。おれは背もたれに身体《からだ》を預け、ヴォルテール城の天井《てんじょう》を見上げて溜息《ためいき》をついた。
「偶然《ぐうぜん》って恐《おそ》ろしいなあ」
「どうして」
「だって偶然、同じ船に乗り合わせて、偶然、海賊に襲《おそ》われて、偶然、ベアトリスを助けたから、今になって平和的解決できたわけだろ?」
「全部が全部、偶然というわけじゃないですよ」
手を伸《の》ばしておれの衿《えり》を真っすぐにする。
「あの船に誰《だれ》が乗っていようとも、あなたは同じことをしたはずだ。そこだけは必然であって偶然じゃない。もしこれが誰かの筋書きだとしたら、成功の可能性は極《きわ》めて高い」
「筋書き!? こんなこと企画《きかく》たててやるやついるー!?」
「いないでしょうね、この世には」
そんな人の好《い》い笑顔《えがお》を見せられてしまうと、問い詰《つ》めようとしていた気持ちが萎《な》えてしまう。彼に訊きたいことは山程《やまほど》あったが、おれが言えたのはこれだけだった。
「コンラッド、虎《とら》とライオンとどっちが強いと思う?」
「……ライオンかな」
「だよな、おれも」
おれもそう思う。獅子《しし》が強いにこしたことはない。
久々に揺《ゆ》れないベッドで眠《ねむ》るために、用意された部屋《へや》にやっと辿《たど》り着いた。王城の寝室《しんしつ》よりはずっと狭《せま》いが、ここもベッドは超《ちょう》キングサイズ。いや、魔王サイズだ。百人乗ってもダイジョーブ。
一人でゆっくりしたかったので、世話係の女性を追い払《はら》う。
それなりなバスルームがついているのを確認《かくにん》し、角が五本の牛の口から湯を出した。溜《たま》るまで手足をのばそうと、ベッドに戻って服を脱《ぬ》ぐ。
「……あーあ、疲《つか》れ……だっ、誰っ!?」
シーツの中に誰かが潜《ひそ》んでいる。
思い切ってめくると、
「ヴォルフ……こんなとこで何やってんの!?」
「なにって」
湯上がりマダム姿のヴォルフラムが、寝転《ねころ》がって四肢をばたばたさせている。
「夜這《よば》いだ」
「夜這い!? よっ、夜這いというものはダな、おおお男が相手のお布団にこっそり……」
「あってるじゃないか」
「あってるな……そうじゃないそうじゃないそうじゃない! 男が女のお布団にっ」
相手のペースに乗せられてどうする。
ヴォルフラムは偉《えら》そうに腰《こし》に手をやって、上半身を起こして眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。そういう趣味《しゅみ》のある人だったら、ノックダウンされてるような美少年だ。
「ユーリ任せにしておいたら、いつまで経《た》っても決着がつかないだろう」
「ちなみに、どのような決着をお望みで……?」
腰が引けている。従って言葉|遣《づか》いも下手《したて》になる。
魔族の元プリンスは、ぱっと顔を明るくし、おれの腕《うで》を掴《つか》んで引き倒《たお》した。
「うわ!」
「決着つける気になったのか!?」
「なっていませんッ」
それがどのような決着なのか、考えるだけで恐ろしい。命を落とすようなことにはなるまいが、別の何かを失いそうだ。おれは全力で彼から逃《のが》れ、バスルームに飛び込んで鍵《かぎ》を掛《か》ける。
「ユーリ!」
「待て待て待て! とりあえず風呂《ふろ》だろ!? お前だって汗《あせ》くさい野郎となんかヤリたくねーだろがっ」
やり……自分の言葉に自分で引いてしまう。血液が一気に下がってゆく。
頭と鼻がつんとして、立ち眩《くら》みをおぼえてふらついた。
「ユーリ! おい、開けろ」
「やだっ」
おれは目眩《めまい》を我慢《がまん》できず、バスタブの縁《ふち》に腰《こし》をかけた。
「がぷ」
ダイバー風に背中から落ちて、頭を下にして沈《しず》んでしまう。風呂までキングサイズなので、底につくまで時間がかかる……わけねーじゃん!?
「ちょボっ、だビれベかバ、せん、ぬブいビたバ……がボご」
バーチャルリアリティー、鳴門《なると》の渦潮《うずしお》。バーチャルというより実体験だ。渦巻く湯の流れに吸い込まれつつ、おれは我《わ》が身の愚《おろ》かさを呪《のろ》った。
下着を着けっぱなしだったのだ。それもよりによって、あのパンツ。
通い慣れたスターツアーズの道中で、おれは涙《なみだ》を流して考えていた。
まし。あのまま決着つけちゃう(あるいはつけられちゃう)よりは、このパンツのまま日本に戻るほうがまだ、ましだーっ!
濡《ぬ》れた身体を空気が撫《な》でて、薄《うす》ら寒い。
濁《にご》った視界は水色だ。
水色は、水色は、水色は、海賊の制服の衿《えり》の色だった。
「……セーラー服……っ!?」
隣《となり》にしゃがんで顔を覗き込んでいた影《かげ》が、呆《あき》れた様子で呟《つぶや》いた。
「目を覚ましていきなり、セーラー服! かよ……」
そういえば彼の服もウォーターブルーだ。せっかく内野指定席なんだから、チームカラーである青系の服で来るようにと、おれが自分で念押《ねんお》しした。
「いつまでたってもあがってこないと思ったら、湯槽《ゆぶね》ん中で眠《ねむ》りほうけて沈みかけてるんだもんなぁ。試合開始に間に合わないって、あれだけ大声で呼んだのに」
見回すと、そこは地元の銭湯のままで、壁《かべ》には半次郎が微笑《ほほえ》んでいる。おれの浸《つ》かっていた湯槽は空っぽだ。だが、どこにも穴は見つからない。
「オランダの英雄《えいゆう》になるはずだったのに」
「渋谷、オランダの英雄って誰? クライファート? さまよえるオランダ人?」
「ちぇ、サッカー好きめ……って、サッカーじゃないでしょサッカーじゃ! 村田、今何時!? 試合もう始まってる!?」
「多分まだだと思うけど……もう行くのやめたと思ってたよ」
「やめるわけねーじゃん!? 今日は師匠の日よ、伊東さまがスタメンのはずの日だぜ!? 応援《おうえん》しないわけにいかないでしょーぅ!」
痛む身体を堪《こら》えて起き上がり、自分の下半身を見て絶句した。
「……しまった」
「渋谷、今日のところは店の人に言わないでおくけど、今度からパンツは脱《ぬ》いで入らなきゃだめだぞ? 銭湯にはルールというものがあって、たとえ珍《めずら》しい紐《ひも》パンといえど……」
村田健は目を逸《そ》らした。おれの紐パン(黒)から。
「あのなあ、このパンツにはわけがあんの。話せば長いことながら、おれの国ではこいつが普段着《ふだんぎ》なの」
「誰の国? どこの話?」
「そりゃ、おれの国の話だよ……」
「なにそれ渋谷。きみは日本人だろ、他《ほか》にきみの国があるの?」
おれはぼんやりと思った。
スタジアムで試合が始まっちゃう。
それから、轟《とどろ》くような歓声《かんせい》のコロシアムでの、少年との死闘《しとう》を思い出した。この両掌《りょうてのひら》にしっくりくる、モルギフのグリップを思い出した。全ての理由はたったひとつの、扇《おうぎ》の要《かなめ》へと向かっている。
日本人的DNAと、新前《しんまい》魔王の魂《スピリット》。
「……決めたんだ、永世平和主義だって」
呟くおれを前にしたら、誰だって一歩、後ずさるだろう。
けれど村田健は、曖昧《あいまい》な笑顔《えがお》でこう言った。
「またいきなり、どうしたんだよ。男前なコメントを……」
あたりまえだろ?
魔王が男前じゃなくて、どうするってんだ。
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あとがき
ごきげんですか、喬林《たかばやし》です。
突然ですが、この本が出されるレーベルが、何故ビーンズ文庫という名前なのか考えてみました。@やっぱビールには枝豆《えだまめ》だから。Aやっぱジャックには豆の木だから。Bやっぱ女の子にモテるのは、硬派《こうは》でもバンカラでもなくマメな男だから。ま、渋谷有利に言わせれば、「……喬林、お前ってホントは何歳?」ってとこですか。
ただ今ご紹介《しょうかい》いたしました渋谷有利が、この小説の主人公です。どんな外見なのかは、巻頭の登場人物紹介にて。そしてどんな内容なのかは、裏表紙の七行一発勝負あらすじにて。私が申し上げておくべきことはたったひとつ。これは『今日からマのつく自由業!』(略して『今日マ』全国書店で渋々《しぶしぶ》発売中、のはず)の続編だということだけです。
「ええ!? 続編ですか!?」「そうです」「てことはまたファンタジー(超《ちょう》苦手)で一人称《いちにんしょう》(激苦手)で主人公以外ほとんど美形(泣くほど苦手)ですか!?」「そうですね」「するってェとまたしてもギャグですか!?」「そうですよ」「おやつはバナナに入るんですか!?」「質問自体が間違《まちが》ってるにょ」という会話があったかどうかはさておき、皆様《みなさま》の清き一票のおかげで、陛下と愉快《ゆかい》な仲間達を再び書くことができました。彼等を受け入れてくれてありがとう。気に入ってくれてほんとにありがとう。声を聞かせてくれた方々に、お返事ペーパーは届いたかな。
今回の陛下は、お供のスケサン(ユー・スケサン・タマリア?)とカクサン(デオキシリボ……やめとこ)を連れて、ちょっとした冒険《ぼうけん》の旅に出ています。もちろん前作を読んでいなくても大丈夫《だいじょうぶ》、一冊完結にしようと努力しました。けれど、もし彼等の出会いなんかに興味を持たれたら、書店チェックしてもらえると嬉《うれ》しいです。うちの近所にはないんだけどね……。
書店チェックといえば『今日マ』が発売された時、私も歩き回りました。一般《いっぱん》書店の陽《ひ》のあたるコーナーに自分の文庫本が並ぶなんて、生まれて初めてのことなので、そっと数を確認してみたり、棚《たな》に一冊だけある場合はこそっと平積みにしてみたりと、奇異《きい》な行動に出るわけですよ。中でも怪《あや》しかったのは、誰《だれ》か買ってってくれないかなーと延々二十分も観察し続けていたときでしょう。微妙《びみょう》に離《はな》れた通路からジュブナイルコーナーの様子をうかがっていたのですが、店員さんが背後を通るたびに、目の前の本を掴《つか》んで立ち読みのフリ。ところがそこは男性向けH小説コーナーで、開いたノベルスも官能小説。ぎゃー、巨乳《きょにゅう》! ぎゃー、女教師!
またあるときは「新刊コーナーに平積みされることなんか今後一生ないかもしれない。どうにかして証拠《しょうこ》を残さなくては!」と思い立ち、コンパクトカメラを手に現場に参上。しかしここでいきなり写真など撮《と》って産業スパイと疑われても困るし、かといってその辺の彼氏彼女達に「二人で本屋なんてアカデミックだねぇ。おじさんが一枚撮ってあげよう。ああその本が真ん中に入るように立つといい感じだ、じゃあ撮るよ、マルチーズ(犬好き)」ってわけにもいかないじゃないですか。で、結局、読者様の姿を見ることも、発行記念証拠写真|撮影《さつえい》もできないまま、無情にも月日は過ぎてしまいました。
ところが、そんな私にセカンドチャンスが! それがこの本、というわけです。人生って、たとえ九回裏ツーアウトになっても予想がつかないもんですね。今ここを読んでくれているあなたが、喬林とファーストコンタクトなのかセカンドコンタクトなのかは判《わか》りません。けれどもし、この本のどこかに興味を持ってくれたら、それだけでもとても嬉しいです。
どこか、はイラストかもしれない。描いてくれたのは松本テマリさんです。松本さん、「イラストに惹《ひ》かれて」ってお言葉、たくさんいただいてますよ。鼻血キャラなんか描かせて申し訳ない。また、どこか、は「あらすじ」かもしれない。あらすじ書いてるのはGEG(グレートエディターごとちん)です。今回の彼女の名言は、溜息《ためいき》混じりの「……まともな人はいないんですか?」でした。まともじゃん、長男。
そして、どこか、が本文中の「何処《どこ》か」だったら、そこを書いたのは私です。「何処か」に「何か」を感じたら、それを是非《ぜひ》、私に聞かせてください。
渋谷ユーリが歩いてゆくために、あなたの言葉が必要なんです。
[#地から2字上げ]喬林 知
底本:「今度はマのつく最終兵器!」角川ビーンズ文庫、角川書店
平成13年10月1日初版発行
平成16年10月30日18版発行