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砂にかいたラヴ・レター
喜多嶋隆
目 次
彼女のウエット・スーツ
七里ヶ浜ヤドカリ食堂
砂にかいたラヴ・レター
プロローグ
1 はじまりは、海岸道路
2 サブリナ・パンツで待っていた
3 出会ったのは、ハワイ
4 12歳で、それを知った
5 口紅は淡いピンク
6 メルセデスの男
7 涙は5月の雨のように
8 夏を駆け抜けて
9 そして、初秋
エピローグ
あとがき
[#改ページ]
彼女のウエット・スーツ
プロローグ
あの午後は、陽射《ひざ》しが強く、海の上でもかなり暑かった。
彼女は、全身をおおうタイプのウエット・スーツを身につけていた。
「暑いだろう。ウエット、脱いじゃえばいいのに」
船の上で、僕は彼女に言った。彼女は、微笑《わら》いながら首を横に振った。
「ダメよ。下に何も着てないんだから」
と言った。
僕は驚いて彼女を見た。誰もみなウエット・スーツの下には水着をつけているものと思っていたからだ。
「何も着てないっていうと……」
と訊《き》く僕に、
「そう。裸なの」
彼女は言った。まっ白い歯を見せて、明るく笑った。ウエット・スーツに包まれたバストが揺れていた。
あれは、僕が19歳になったばかりの春だった……。
□
はじめて彼女を見たのは、海の上だった。
4月。鎌倉《かまくら》、材木座《ざいもくざ》海岸の沖。
よく晴れていたけれど、風の強い日だった。まだ冬を感じさせる北風が、海面を吹き渡っていた。
よく〈海の上は陸より、1カ月、季節が遅れる〉と言う。
この日が、そんな感じだった。4月の中旬だというのに、風は、肌を切るように冷たかった。
僕は、20馬力の船外機をつけた小船で海の上にいた。
やるべき作業を終えて、港に帰ろうと思った。その時だった。
視界の左端に、ウインド・サーファーの姿が見えた。
蛍光ピンクの帆《セイル》が見えた。かなりなスピードで、海面を突っ走って来る。
きょうは水曜だ。平日なので、海面にウインド・サーファーの姿はほとんどない。その蛍光ピンクのセイルは、一直線に突っ走っていた。
〈飛ばすなあ……〉
僕は、胸の中でつぶやいた。ベテランのヨット乗りでもちょっと苦労しそうな海の上。そのサーファーは、思いっきり飛ばしていた。
それが女だということに、僕は気づいた。後ろで束ねた髪が見えた。ウエット・スーツに包まれた体つきも、女のものだった。
〈女か……〉と思い、同時に〈いい度胸してるじゃないか〉とも感じていた。
その時、1隻のモーターボートが走って来るのが見えた。
20フィートぐらいのモーターボートだった。オープン・タイプのボートだった。風が冷たいので、オーニング(ビニール製のおおい)を前面にかけていた。
ウインド・サーファーのコースと、ボートのコースが接近していくのが見えた。かなり近づいていく……。
そして、モーターボートは、ウインド・サーファーの方向に舵《かじ》を切った。
たぶん、いや間違いなく、あのボートを操縦している人間は、ウインド・サーファーに気づかなかったのだ。そうでなければ、あんな無茶なコースどりをするはずはない。
潮がこびりついたオーニングのせいで、視界が悪くなり、モーターボートは、ウインドに気づかなかったのだろう。
モーターボートは、ウインドのコースを横切るかたちになった。
ウインド・サーファーは、あわてて反転《タツク》しようとした。その鼻先をモーターボートがかすめた。
接触したのかどうか、僕のいる位置からは見えなかった。
モーターボートは、走り去っていく。ウインドの帆《セイル》が、海面に倒れていた。
僕は、船の向きを変えた。エンジンの回転を上げる。ウインド・サーファーの方に急いだ。
セイルは、あい変わらず海面に倒れていた。僕は船を近づけて行った。
ボードの上。腹ばいになっているサーファーが見えた。僕は、3、4メートルまで船を近づける。
「大丈夫か!?」
と声をかけた。サーファーが顔を上げた。
「ぶつかったのか!?」
僕が訊くと、彼女は首を横に振った。
「なんとか、よけたわ」
と、言った。かなり、体力を消耗しているようだった。体全体で呼吸している。唇も蒼《あお》ざめていた。
「熱い紅茶があるけど、飲むか!?」
僕は言った。彼女は、ゆっくりとうなずいた。ボードの上に体を起こした。
□
「ああ……あったかい……」
彼女は、紅茶の入ったプラスチックのカップを両手で包み込んでつぶやいた。
紅茶に砂糖とウイスキーを少し入れてある。寒い日、海に出る時は必ず持って来るものだった。
彼女は船に上がり、紅茶を飲みはじめていた。彼女のボードは、船につないであった。
紅茶を飲みはじめて5分もすると、蒼ざめた彼女の顔に赤味がさしてきた。唇の色も良くなってきた。
彼女は、|20歳《はたち》ぐらいだろう。女らしい、ふっくらとした顔立ちをしていた。僕は少し意外な気がした。さっきの勇ましい飛ばしっぷりから、男っぽい感じの女を想像していたのだ。
彼女は、濃いグレイのウエット・スーツを身につけていた。手首から足首まで、全身を包むタイプで、フル・スーツと呼ばれるものだ。肩のところに黄色いラインが入っている。かなり使い込まれたウエット・スーツだった。
20分ほど船の上で休むと、彼女は立ち上がった。
「ありがとう。……じゃ……」
と言った。また、自分のボードを操って、材木座海岸の方向へ走り去って行った。僕は、小さくなっていく彼女の姿を、じっと見つめていた。
□
翌日は完全な荒天《シケ》で、海には出られなかった。翌々日の金曜日。気圧配置が変わって、海は凪《なぎ》になった。僕は、船を出した。
沖に出ると、無意識にピンクの帆《セイル》を捜している自分に気づいた。
作業を終えると、僕は船の錨《アンカー》をおろした。そして、釣りのしたくをはじめた。小アジを釣るためのサビキ仕掛けを海におろした。
1時間で20匹ぐらいの小アジが釣れた。あと20匹ぐらいは欲しい。僕はまた、仕掛けを海におろそうとした。その時、
「オーイ!」
という声がきこえた。釣りの仕掛けをいじっていた僕は、顔を上げた。春の陽射しが照り返している海面。あのピンクのセイルが近づいて来るのが見えた。
□
僕がすすめると、彼女はまた、船に上がりひと休みした。
「おとといは、本当にありがとう、野上《のがみ》君」
と言った。野上は僕の苗字《みようじ》だった。野上|直道《なおみち》がフルネームだ。
「どうして僕のことを?……」
「新聞で見たわよ、去年。インターハイで優勝したでしょう。あの時」
彼女は言った。確かに、ヨットのインターハイで優勝した。僕の写真は、地元の新聞にわりと大きく載《の》った。
「それに、その胸に、学校の名前がついてるわ。それでわかったの」
と彼女。僕がいま着ているクルージング・ジャケットは高校時代のものだ。胸にローマ字で学校名がプリントされている。僕がいたその高校は、地元、神奈川《かながわ》ではヨットの名門校だった。
「そんなバリバリのヨット少年が、どうして漁船に乗ってるの?」
彼女が、無邪気に訊いた。
確かに、僕が乗っているこの小船は漁師の船だった。
「あなたみたいな人だったら、大学生になってヨット部で活躍するものと思ってたけど、どうして漁船に乗って釣り竿《ざお》を握ってるの?」
「……バイトなんだ」
僕は答えた。
「バイトで漁師?」
「まあね……」
僕は言った。事情を、ぽつりぽつりと話しはじめた。
近くの小坪《こつぼ》漁港の漁師が、腰を痛めて2カ月ほど海に出られなくなった。そのかわりに海に出れば、収入の半分をくれるという。
そんなバイトの話が、僕のところに持ち込まれた。
僕は、その話にのった。3月。高校の卒業式が終わると、翌日から、この小船で海に出た。
仕事は、タコ漁だ。タコ漁には、なぜか〈カニ籠《かご》〉と呼ばれているものを使う。ナイロンで編《あ》んだ四角い籠。その中に、エサの魚を入れておく。そのエサを食べに籠に入ってきたタコは、もう出られない。そんな仕組みの籠を使うのだ。
カニ籠を、100個ほどロープでつないで海に沈めておく。1日1回、それを上げて点検する。それが僕のバイトだった。
タコが10匹以上|獲《と》れる日もあれば、2、3匹の日もある。それでも、平均すれば、かなりいい収入になる。
カニ籠を上げ、タコが獲れればそれをイケスに放り込む。タコが入っていない籠も、エサの交換だけはして、また海に沈める。
せいぜい、2時間もあれば終わる作業だった。
それ以外は、自分の自由だった。僕は、海が荒れていなければ魚を釣ることにした。
湘南《しようなん》育ちだから、魚釣りは、ごく自然に身についていた。釣れた魚は、知り合いの食堂が買ってくれた。それもまた、収入になった。
そんな話を、ぽつりぽつりと彼女にした。彼女は、うなずきながらきいていた。
「なるほどね……。でも、そんなに稼いで、何に使うの? 自分のヨットを持つとか?」
僕は、首を横に振った。
「カリフォルニアに行くために、金をためてるんだ」
「カリフォルニア?」
僕は、うなずいた。また、事情を話しはじめた。
L《ロ》・A《ス》にある世界最大のヨット・ハーバー、マリナ・デル・レイを基地にしている1艇のレーシング・クルーザーがある。その、オーナー兼艇長が日本に来た時、知り合うことができた。僕が、高校生として日本一になった直後のことだった。
そのオーナーは、日系三世のアメリカ人だった。もし僕にその気があるなら、自分の艇のクルーとして使ってあげると彼は言った。クルーとしての給料も出せると言った。
僕は迷わなかった。
大学のヨット部に入り、2人乗りのディンギー(小型艇)で腕を磨《みが》くのもいい。けれど、アメリカズ・カップに挑戦する、そんな大型レース艇のヨット乗りになるのが夢だった。そのためのトレーニングをはじめるのは、早ければ早いほどいい。そう考えた。
僕は、カリフォルニア行きの飛行機代を自分でつくることを決心した。親からもらうべきお金ではないと思った。
「そんな理由《わけ》で、こうして漁師をやってるんだ」
僕は言った。
「アメリカズ・カップか……」
彼女は、つぶやいた。
「夢が大きくていいなあ……」
と言った。まぶしそうに僕を見た。
僕はちょっと照れくさくなって、話題を変えた。彼女のことを訊きはじめた。
彼女は鎌倉育ち。僕より1つ年上の20歳。短大でウインド・サーフィン部に入っていたという。去年、就職試験も何回かうけた。けれど、試験をうけるたびに、どんどん、OLになるのが嫌《いや》になってきた。そして、就職はやめた。
いま、材木座のサーフ・ショップでバイトをしながら、週に3日は海に出ているという。
そんな話を、彼女はしてくれた。彼女の話し方は、明るく、開けっぴろげだった。いかにも湘南の娘《こ》らしく、表情も言葉も、無邪気だった。
僕は小アジを釣りながら、彼女と話をしていた。話題は、鎌倉、逗子《ずし》あたりの食べ物屋のことになった。彼女は自分のことを、
「すごい大食いなの」
と言った。笑いながら、自分のヒップをペタペタと叩いた。
「よく食べるから、ほら、お尻なんか、こんなLサイズよ」
と言った。確かに、彼女は肉づきがよかった。ウエット・スーツというのは、もろに体の線が出てしまうものだ。
彼女のヒップとバストは、かなりボリュームがあった。僕は、思わず、眼をそらせていた。ジロジロ見ていると思われたくなかった。
□
「おお、直道《ナオ》」
とミツル。鍋《なべ》を片手に振り向いた。
逗子の小坪漁港に近い小さな商店街。そのまん中にある食堂〈魚吉《うおよし》〉。
ミツルは、ここの息子だった。中学と高校で僕と同級生だった。いま、横浜《よこはま》にある大学に通いはじめている。それでも、夕方になると店の手伝いをしているのだ。
いまも、ミツルは、鍋でカサゴの煮つけをつくっていた。僕の顔を見ると、
「何か釣れたか?」
と訊いた。僕は、ビニール袋をカウンターの上に置いた。中には、釣ってきたばかりの小アジが30匹ほど入っていた。
ミツルは、それを見る。メニューを書く黒板に〈アジの唐揚げ〉と書いた。千円札を3枚、レジから出して僕にくれた。
□
「あのさあ」
とミツルが言った。僕はハシを止めた。
「刺身にカラシつけるわけ?」
とミツルは言った。僕は、ハッと気づいた。マグロの刺身につけるショウユ。そこにカラシをまぜようとしていたのだ。僕はあわててワサビのチューブをとった。
「どうしたんだ。ボーッとしてるぞ」
とミツル。店の冷蔵庫からビールの大瓶《おおびん》を出す。2つのコップに注《つ》いだ。
僕は、ミツルが出してくれたマグロの刺身を口に放り込む。ビールをぐいと飲んだ。
「何かいいことあったんだろう」
とミツル。となりでビールを飲みながら言った。ミツルに言われるまでもなく、僕は、彼女のことをぼんやりと考えていたのだ。さっき、海の上での会話、彼女の表情、そして胸のふくらみ……。
そのことを、ミツルに話した。ミツルは、〈フムフム〉とつぶやきながらきいていた。きき終わると、
「そうか……直道君にもいよいよ春がやって来たのかァ……」
と言った。ミツルは、ひとをからかう時に、かならず〈直道君〉と呼ぶのだ。
そんなミツルのニヤニヤ微笑《わら》いは無視。僕は勢いよくビールを飲み干した。恋する男は強い。
□
週に2回か3回、僕は彼女と海の上で会った。そのたびに、彼女は僕の船に上がり、ひと休みしていった。紅茶やスポーツ・ドリンクを飲み、僕としゃべった。
あい変わらず、彼女の話し方は、おおらかで開けっぴろげだった。
海の上では、寒い日と暖かい日がくり返されていた。
その日は、特別に暖かい日だった。太平洋側に高気圧がはり出して、暖かい南風が相模《さがみ》湾に吹いていた。陽射しも、初夏を思わせる強さだった。
いつものように、彼女は僕の船に上がってきた。僕は、釣り竿を握ってカワハギを釣っているところだった。カワハギは、おいしい魚だった。ミツルの店でも、いい値段で買ってくれる。
船に上がってきた彼女に、僕はクーラー・ボックスからスポーツ・ドリンクを出した。
「ありがとう」
と彼女。白い歯を見せると、スポーツ・ドリンクの缶をうけ取った。陽射しが強かった。濡れていた彼女の髪も、あっという間に乾いていった。
「暑いわね」
と彼女。ボードを走らせ波しぶきをうけている間はともかく、船に上がってしまうと暑いのだろう。
僕は彼女が身につけているフル・スーツを見た。何気なく、
「それじゃ、暑いだろう。ウエット、脱いじゃえばいいのに」
と言った。彼女は微笑いながら首を横に振った。
「ダメよ。下に何も着てないんだから」
と言った。さすがに、僕も驚いた。誰もみなウエット・スーツの下には水着をつけているものと思っていたからだ。
「何も着てないっていうと……」
驚いて僕は言った。
「そう。裸なの」
あっけらかんと彼女は言った。明るく笑った。
「だって、家が海岸ぎわにあるから、ウエット・スーツのまま帰って、ウエットを脱いでシャワーを浴びるんだもの。わざわざ水着をつけてる必要ないのよ」
と彼女。
確かに一理ある。けれど、そんなこととは別に僕の心は動揺していた。いま、目の前にいる彼女のウエット・スーツ姿が、急にセクシーなものに感じられた。
頭の中がカッと熱くなっていた。ノドが乾いていた。僕は、クーラー・ボックスからスポーツ・ドリンクの缶を出し、思いきり飲んだ。
□
その日の夕方。
僕は、釣ったカワハギを持って食堂〈魚吉〉に行った。ミツルは包丁でネギを刻《きざ》んでいた。僕が持っていったカワハギを見ると、
「こっち、手が離せないんだ。ちょっとさばいてくれるかなあ」
と言った。
僕はうなずくと、出刃包丁を握った。カワハギを、まな板にのせた。
魚をさばくのは慣《な》れていた。海岸町で育ったから、子供の頃から出刃を握っていた。
僕は、1匹目のカワハギをさばきはじめた。
カワハギは、平べったく独特の形をした魚だ。なんといっても、一番の特徴は、その皮だろう。
色あいは1匹ずつ微妙にちがうけれど、グレイがかった色調の厚い皮が魚体を包んでいた。ウロコはなく、皮はザラザラとしている。
この厚い皮は、ごく簡単にはがせるのだ。魚をさばく時、皮を引く(はがす)のが、やっかいなのだけれど、カワハギは例外的に楽だ。皮の一カ所を切り、そこを持って引っぱればいい。厚い皮は、ピリピリとはがれていく。カワハギという名前も、〈皮をはぐ〉というところからきているらしい。
1匹目のカワハギ。
僕は、頭のあたりに切れ目を入れた。指で皮をつかむ。ゆっくりと引っぱった。
グレイの皮が、はがれていく。
尾ビレの部分を残して、皮ははがれた。
皮をはがされた魚体が、まな板の上にのっていた。カワハギの体は、白く、うっすらとしたツヤがあった。きれいな魚体だった。
2匹目のカワハギ。
その皮をはぎながら、僕はふと考えていた。
彼女のことだ。あのウエット・スーツの下に、何もつけていない。ということは、あのグレイのウエットを脱げば、白い肌があらわれるということだ……。
僕は、カワハギの皮をはぎながら、思わず想像してしまった。
このカワハギの皮をはぐように、彼女のウエット・スーツを脱がせている場面を、想像してしまった。
皮をむかれ、丸裸にされたカワハギの魚体……。白くつややかな魚体……。そこに、彼女のイメージが重なっていた。正確に言えば、ウエット・スーツをはぎとられた彼女の体を想像していたのだ。まな板の上のカワハギのように、船の上に横たわったまっ白い裸身を思い描いていた。
僕の頬は、カッと火照《ほて》っていた。
下腹部が、痛いほど突っぱっていた。
その時だった。
「あのさ、直道君」
とミツルの声がした。
「どうでもいいけど、ボッキしてるぜ」
とミツル。僕がはいているジーンズの前を指さして言った。
□
「言いたかぁないけどさ、魚をさばきながらボッキしてりゃ、変態だぜ」
ミツルは言った。
僕とミツルは、カウンターでビールを飲みはじめていた。
「そうじゃないんだ」
「じゃ、出刃包丁を握るとボッキするのか? それも危ないなあ」
「違うんだって」
僕は、ビールの入ったコップを握って言った。ビールをぐいと飲んだ。しかたないので、話しはじめた。
さっき、海の上での彼女とのやりとりを、話しはじめた。ミツルは、やはり〈フムフム、それで?〉と言いながらきいていた。
僕は、だいたいのことを話し終えた。
終わりの方になると、ミツルはゲラゲラと笑いはじめた。
「それで、カワハギをさばきながら、前を突っぱらせてたわけか。若いなあ、直道君も」
とミツル。笑いつづけながら言った。まあ、なんとでも言ってくれ。僕は、ムスッとしてビールを飲んだ。
「そりゃあ、挑発されてるんだぜ」
とミツル。
「挑発かあ……」
僕は、つぶやいた。ミツルは、うなずく。
「まあ、間違いないなあ。直道君がなかなかアタックして来ないんで、しびれをきらしたんだぜ」
と言った。カワハギのきもあえを口に放り込む。ビールをグビと飲んだ。
□
彼女が僕を挑発したのかどうか、本当のところは、わからなかった。
多少はその気があったのかもしれないし、ただ無邪気にああ言ったのかもしれない。どちらでもいいことだ、と僕は思った。
僕と彼女は、結局、なるようになったのだから……。
その午後。
僕は、いつものように海に出ていた。カニ籠を上げた。獲れたタコは5匹。みんな、イケスに放り込んだ。
作業を終える頃、ピンクの帆《セイル》が近づいてくるのが見えた。南西風をうけ、ウインドアビームで走って来た。僕の船のそばで、きれいに反転《ジヤイブ》した。
僕が彼女のボードを船につなぐと、彼女は船に上がって来た。
僕は、クーラー・ボックスを開け、バド・ライトを2缶とり出した。1缶を彼女にさし出した。さっきまで薄曇りだったけれど、いまは陽が射しはじめていた。カリッと熱い陽射しだった。手にした缶の冷たさが気持ち良かった。
「ビール?……珍しいわね」
と彼女が言った。
いままで、船の上で飲むのは、紅茶かスポーツ・ドリンクだった。
「今日は、ちょっと特別だから……」
僕は言った。
「特別?」
と彼女。缶ビールを開けながら訊いた。僕は、うなずいた。
「このバイトも、今日がラストなんだ」
「ラスト?……終わり?」
僕は、またうなずいた。
「飛行機のチケットは?」
「買った。今日の午前中に、横浜でディスカウント・チケットを」
「そう。出発はいつ?」
「ディスカウント・チケットだから、急なんだ。あさっての出発」
「あさって……」
と彼女。しばらく黙っていた。やがて、パッと笑顔になる。
「じゃ、とにかく、出発に乾杯しましょう」
と言った。僕らは、缶ビールをゴチッとぶつけて乾杯した。乾いたノドに、バド・ライトを流し込んだ。
缶の半分ぐらいは、一気に飲んだ。後は、少し、ゆっくりした飲み方になった。
それでも、1缶目はあっという間に飲み終えた。2缶目を飲みはじめる。彼女の頬が、薄ピンクに染まりはじめていた。
「そっか……。行っちゃうのかァ……」
と彼女。バド・ライトの缶を見つめてつぶやいた。
近くを、釣り船が走り過ぎた。30人乗りの大きな釣り船だった。港に帰るらしく、かなりなスピードで、近くを走り過ぎた。
その船の曳《ひ》き波が、僕らの乗っている小船を大きく揺らせた。クーラー・ボックスの上に腰かけていた彼女は、バランスをくずした。
「キャッ」
という悲鳴。倒れ込む彼女を、僕は抱きとめた。缶ビールを放り出して抱きとめていた。
尻もちをついた彼女を、僕が抱きしめた形になっていた。彼女の頭が、僕のアゴにくっついていた。そのまま、動かなかった。
やがて、彼女は顔を上げた。眼と眼が合った。顔が近づいていく……。
彼女が眼を閉じた。僕らは、そっとキスをしていた。キスは、しだいに、深く熱くなっていった。彼女の息が熱くなっていた。ウエット・スーツの下で、バストが大きく上下していた。
僕は、顔を上げる。あたりに船がいないことを確かめた。彼女のウエット・スーツのジッパーに手をかけた。彼女のウエットは、前開きのタイプだった。
ジッパーが、おへその下まで引き下げられた。彼女は嫌がらなかった。それから後、ウエットを脱がす僕に協力してくれた。僕は、カワハギのことをチラリと思い浮かべながら、彼女のウエットを脱がせていった。
彼女は、本当に、ウエットの下に水着をつけてはいなかった。
全裸になった彼女は、
「いやだ……」
と小声で言った。明るい陽射しの下なので、恥ずかしかったのだろう。頬を赤く染めていた。けれど、体を手でかくそうとはしなかった。
バストとヒップは大きく、白いゴムでできた浮標《ブイ》みたいにパンパンに張りつめていた。スポーツをやっているせいか、ウエストは細くくびれていた。肌は、白く、すべすべとしていた。かすかに湿っていた。カワハギの魚体などより、何倍もきれいだった。
僕は、手が震《ふる》えないように気をつけて、服を脱ぎはじめた。ぎこちない僕の初体験を、太陽だけが見ていた。
エピローグ
2日後。僕はジャンボ・ジェットの座席にいた。成田《なりた》を離陸した飛行機は、ゆっくりと大きくコースを変え、海の上に出て行った。僕は、窓ガラスに顔を近づけ、眼下を見た。はるか遠くに海が見えた。しばらくは見られない日本の海だった。
今日も、彼女はピンクの帆《セイル》を操って相模湾を走っているのだろうか……。僕は、ふと、そんなことを思った。眼を細めて、海を見つめていた。飛行機のスピーカーから、ストリングスが演奏する〈|Without You《ウイズアウト・ユー》〉が低く流れていた。
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七里ケ浜ヤドカリ食堂
□
ドスッ!
変な音が、砂浜に響いた。ビキニの水着で日光浴をしてたあたしは、眼を開けた。
なんだ、なんだ……。体を起こそうとした。
そのとたん、砂が飛んで来た。ザーッと砂が吹っ飛んで来た。砂浜に寝っ転がってたあたしの体に、ふりかかって来た。
「ウプ!」
あたしは、思わずとび起きた。
砂浜にビーチマットを敷いて、あたしは日光浴をしていた。ビキニの水着を着て、体中にサンオイルを塗っていた。その全身に、飛んで来た砂がくっついてしまった!
どこの馬鹿だ!?
あたしは、あたりを見回した。いた! すぐそこにいた。ゴルフのクラブを持った若い男が、突っ立っていた。
そいつが、きっと、クラブで砂を叩き上げたんだろう。あたしは、その若い男をにらみつけた。
相手も、自分が巻き上げた砂が、あたしにふりかかったのに気づいたらしい。
「どうもすいません!」
と、叫びながら、こっちに早足でやって来た。がっしりと体の大きな男だった。年齢《とし》は、20代の中頃だろう。髪は短く刈って、陽に灼《や》けていた。Tシャツにコットンパンツをはいていた。
「どうしてくれるのよ」
あたしは言った。砂だらけの全身をながめた。
「ほ、本当にすいません! 急に風が吹いたもんで、砂がこっちに飛ぶとは思わずに……。本当にすいません!」
とその男。ペコペコとあやまった。大きな体を、精一杯小さくして頭を下げている。あんまり懸命にあやまるんで、逆に、可哀そうになってきた。
「まあ、しょうがないわ」
あたしは言った。相手の男は、
「本当にすいませんでした。もう、絶対に、ご迷惑をかけませんから!」
と言った。思いきり頭を下げると回れ右した。〈なんか、体育会系っぽいやつだなあ……〉と、あたしは胸の中でつぶやいた。
その男は、30メートルぐらい先に行く。周囲に人のいないところで、クラブを振りはじめた。
たぶん、それはサンド・ウェッジなんだろう。男は、砂浜にゴルフ・ボールを置く。サンド・ウェッジを振っている。どうやら、バンカー・ショットの練習をしているらしかった。
ここは鎌倉・七里ヶ浜。あたりには、金持ちの屋敷や別荘もある。ときどき、砂浜でゴルフのクラブを振ってる人の姿も見かける。けど、いまの男は、別荘の坊っちゃんという感じじゃない。坊っちゃんにしては、ごつ過ぎる。なんだろう……。
〈まあいいや〉と、あたしはつぶやいた。そろそろ、仕事をはじめる時間だった。あたしは、立ち上がった。
全身砂だらけだったけど、どうせ、うちはすぐそこだ。あたしは、ビーチマットをたたむ。持ってきたバスケットに入れた。バスケットを肩にかけ、歩きはじめた。
七里ケ浜の砂浜から、海岸道路134号線に上がる。134号線を渡る。道路から山側にちょっと入る。細い裏通りに、あたしがやっている店〈ヤドカリ食堂〉があった。
それは、2階家だ。1階が食堂になっていて、2階は、あたしが寝泊まりする部屋になっている。
あたしは、2階に上がる。バス・ルームに入るとビキニを脱いだ。まだ夏のはじめだけど、あたしはかなり陽灼けしていた。ビキニを脱いでも、そこに白い水着をつけているみたいだった。手足は細く、バストとヒップは大きい。われながら、いい体をしていると思う。あたしは、砂だらけの体に、シャワーを浴びはじめた。
□
その男が店に来たのは、2日後だった。
夕方の6時。店を開けてすぐだ。まだ、客はいない。ガラガラと扉が開いた。入って来たのは、あの男。サンド・ウェッジ男だった。相手は、
「あっ……」
と言った。カウンターの中にいるあたしを見た。あたしも、あいつだとすぐに気づいた。相手は、足を止めてしまっている。
「何か食べに来たんなら、どうぞ。お客さんは歓迎よ。別に、毒をもったりしないから、どうぞ」
微笑《わら》いながら、あたしは言った。相手も、ほっとした様子で、カウンターの方に歩いて来る。イスに腰かけた。
「この前は、本当にどうも……」
「いいのよ。それより、何にするの?」
あたしは言った。男は、壁に貼ってあるメニューを見た。魚の仕入れによってメニューは毎日変わるんで、1つずつ紙に書いて貼ってある。
「あの……何がおすすめですか?」
「そうねえ……。今日は、いい鯵《アジ》が入ってるから、鯵の刺身、塩焼き、それに鯵のハンバーグってところが、おすすめね。それと、ご飯は、そこに書いてある〈タコ飯《めし》〉がおいしいわよ」
「〈タコ飯〉?……」
「そう。蛸《タコ》をご飯に炊き込んだものよ。ためしてみるだけのことはあると思うわ」
あたしは言った。
男は、しばらく考え、結局、鯵の塩焼きとタコ飯を注文した。あたしは、カウンターの中で、手を動かしはじめた。男は、店の中を見回している。
「うちに来たの、初めてよねえ……」
手を動かしながら、あたしは訊《き》いた。
「ええ。たまたま、前を通りかかって……ノレンに書いてある〈ヤドカリ食堂〉っていう名前が面白かったんで……」
男は言った。あたしは苦笑した。
「この店、本当にヤドカリ食堂なのよ」
と言った。ぽつりぽつりと、事情《わけ》を話しはじめた。
□
あたしは、この七里ヶ浜の近くの腰越《こしごえ》で生まれ育った。家は、普通のサラリーマン家庭だった。
もともと活発なオテンバ娘だった。中学生になると、ブギー・ボードに熱中しはじめた。毎日のように、海に出ていた。1年中、チョコレート色に灼けていた。
そんなあたしに、しょっちゅう、両親の小言が浴びせられた。2つ年上の姉は、あたしと対照的におしとやかなお嬢だった。
〈なんで姉さんみたいにできないんだ〉
そんな言葉が、毎日のように飛んできた。けど、あたしはめげなかった。やりたいようにやらせてもらうことにした。高校を卒業すると、家から独立しようと思った。
高校時代、よく腰越の漁港でアルバイトをした。そこで貯《た》めたお金がかなりあった。漁港の食堂でバイトをしていたんで、魚料理なら、かなりできる自信があった。ごく自然に、食堂をやろうと思った。
あたしが高校を卒業した春。貸し店舗が出るというウワサが耳に入った。七里ケ浜にある定食屋だという。よくきけば、ブギー・ボードに乗った帰りに、何回か行ったことのある定食屋だった。海岸通りから、ちょっと入ったところにある小さな店だった。
その定食屋は、店が狭くなったので、となりの稲村ヶ崎に移って、新装開店するのだという。
結局、あたしは、そのお店を借りて、魚料理の食堂をはじめることにした。
店の内装も外装も、ほとんど変える必要がなかった。ノレンを変えただけだ。
店の名前を決めるのも、簡単だった。狭くなったんで前の人が出て行った、その店をそのまま借りて使う。それは、まるでヤドカリだった。
「それで、〈ヤドカリ食堂〉ってつけたの」
あたしは言った。男は、うなずきながら笑った。案外、人のよさそうな顔をしていた。体は大きいけれど、優しそうだった。
「じゃ、店は、開店したばかりですか?」
「ちょうど、1年を過ぎたところね」
あたしは言った。店は、この前、満1歳の誕生日をむかえ、あたしも同じ頃、19歳の誕生日をむかえた。
男は、林勇太郎と自己紹介をし、近くのゴルフ練習場で仕事をしていると言った。あたしは、うなずいた。七里ヶ浜の高台に、大きなゴルフ練習場がある。
□
食事ができた。
あたしは、勇太郎の前に置いた。腰越の漁港で今朝揚がった鯵《アジ》の塩焼き。つけ合わせに、ヒジキの煮物。石鯛の皮を湯通しし、キュウリと一緒に酢のものにしたもの。ワタリガニの味噌汁。
そして、タコ飯だ。
タコ飯は、ほんのりと淡い紫色をしている。たちのぼる湯気の中、かすかな潮の香りがする。けっして生臭くも磯臭くもない。
上品な薄紫色のタコ飯に、刻んだ浅葱《あさつき》が散らしてある。
「こりゃうまそうだ……」
と勇太郎。おハシを持った。食べはじめた。
ガシガシと、すごい勢いで食べはじめた。それは、みごとな食べっぷりだった。あたしは、思わず見とれてしまった。
あたしは、ちまちまとご飯を食べる男は、あまり好きになれなかった。この湘南には、洒落《しやれ》たフランス料理屋や地中海レストランも多い。そういう店じゃ、よく、東京から来たカップル客が食事をしている。そんな男たちの多くが、いかにも高級な美容院でカットしてもらった髪形をして、ヴィトンのポーチなんか持ってる。そして、ちまちまと、小鳥のエサみたいな量のおフランス料理を突っついているのだ。
あたしは、そういう気どった店も、気どった客も大嫌いだった。
特に男なら、とにかくおいしそうに、豪快に食べてほしいと思う。この勇太郎のように……。
「いやあ、うまかった!」
と勇太郎。最後のタコ飯をかき込むと、丼を置いた。
勇太郎が大きな男なんで、タコ飯は、少し大盛りにしてあった。けど、その丼は、きれいに片づけられていた。ご飯粒ひとつ、タコひと切れ、残っていない。
「いやあ……このタコ飯、本当にうまかったです」
勇太郎は言った。
「いろいろな炊き込みご飯を食べたことあるけど、タコってのは初めてだった……。この湘南独特の料理ですか?」
「さあ……。このあたり独特かどうかは、よくわからないけど……まあ、早い話、漁師料理ね」
あたしは言った。このタコ飯をあたしに教えてくれたのは、漁師のおかみさんだった。
つくり方は、難しくない。生のタコを丸ごと1匹使うなら、まず、タコの頭を引っくり返して内臓を取り去る。頭をもとに戻したタコをボウルに入れ、荒塩をふる。荒塩をふったタコを、もみほぐすのだ。
この塩もみが、タコ料理のポイントだ。荒塩をつけ、もむことで、タコの表面のヌメリが取れる。よくヌメリを取れば、タコはまったく生臭くない。ヌメリに、生臭さがあるらしい。
だから、この塩もみに時間と労力をかけることが、タコ料理をうまくやるコツなのだ。ゾウキンをていねいにもみ洗いするように、ていねいにタコをもみほぐす……。そして、水で洗い流す。
表面のヌメリが取れたら、熱湯に入れ茹《ゆ》でる。これを切れば、タコ刺しになる。細かめにブツ切りにしたものをご飯に炊き込めば、タコ飯になる。
炊き込むときの味つけは、ショウユを少しとお酒だけで充分だ。もともと、タコの風味は淡いものだ。あまり濃い味つけをすると、タコの味が死んでしまう。
炊き上がったタコ飯にも、万能ネギではなく、香りの淡い浅葱《あさつき》を散らす方がいい。
「まあ、ごく素朴な漁港の料理ね」
あたしは言った。勇太郎はうなずいた。
「自分は、長野県で育ったんで、こういう料理があるとは知りませんでした」
と言った。自分のことを〈自分は〉と言うところは、運動部の学生みたいだった。最初会った時は20代のまん中辺と思ったけど、もう少し若いみたいだった。22とか23とか、そのあたりだろう。
「こんなものでよかったら、いつでも食べに来れば」
微笑《ほほえ》みながら、あたしは言った。
□
その3日後。
店の仕入れを終えたあたしは、ビキニに着がえた。ビーチマット、サンオイル、タオルなんかを持って家を出た。
遅い午後の七里ヶ浜。沖には、ウインド・サーファーの帆《セイル》がいくつか見えた。風がおだやかなんで、ウインドはトロトロと走っていた。
砂浜に、勇太郎がいた。今日も、サンド・ウェッジを振っていた。あたしの姿を見ると、やって来た。
「この前は、どうも、ごちそうさまでした!」
と礼儀正しく頭を下げた。
「なんのなんの……」
笑いながら、あたしは言った。砂浜にビーチマットを敷いた。
勇太郎は、もうかなりバンカー・ショットの練習をしているらしく、額に汗をかいていた。
「練習熱心ねえ……。プロにでもなるつもりなの?」
あたしが訊くと、
「いえ。自分は、もう、プロなんです」
と勇太郎は言った。
□
「プロ?……じゃ、プロ・ゴルファーなの?……」
「ええ、いちおう……」
と勇太郎。あたしが、事情を訊きたそうな顔をしていたんだろう。並んで座ると、自分のことを、ぽつりぽつりと話しはじめた。
勇太郎は、長野で生まれ育ったという。もともと体格が良く、高校時代は野球部のピッチャーとして活躍したという。
高校を卒業し、東京の大学に進学した。たまたま、体格の良さに目をつけられて、体育会のゴルフ部に誘われて入った。
「なるほどね……。体育会のゴルフ部か……」
あたしは、つぶやいていた。勇太郎の持ってる体育会系っぽいところも、それで納得できた。上下関係の厳しい運動部できたえられたせいだろう。
ゴルフ部に入った勇太郎は、どんどんゴルフというスポーツにのめり込んでいったという。
大学2年の時、学生選手権で、上位入賞し、大学3年の大会では優勝した。その時、プロ・ゴルファーになろうと決心した。
大学4年になりゴルフ部の現役から退くと同時に、大学を中退し、プロ・テストをうけた。それが去年のことだという。
プロ・テストは一発でうかった。けれど、大学を中退したことを知った長野の親が怒って、一切の仕送りをストップしてしまった。
「とりあえずの生活費を稼ぐために、七里ヶ浜練習場にレッスン・プロとして入れてもらったんです」
と勇太郎。
「レッスン・プロか……」
「まあ、収入はたいしたことないんですけど、自分の時間がけっこうとれるから、こうして練習もできるし、トーナメントに参加もできるし……」
勇太郎は言った。
「へえ……。それじゃ、まずまずじゃない」
あたしは言った。
「後は、がんばってトーナメントで勝つことか……」
と言った。
「まあ……それはそうなんですけど……」
と勇太郎はつぶやいた。その表情が、急に曇った。
「どうしたの?……」
体にサンオイルを塗る手を止めて、あたしは訊いた。勇太郎は、しばらく無言。砂浜を見つめている。やがて、
「じつは……絶不調なんです」
と言った。
□
「絶不調?……」
「ええ……。自分みたいなプロの1年生が好調だの不調だの言うのはおこがましいんですが……でも、やっぱり、ひどい不調で……。トーナメントに出ても、予選落ちばかりなんです」
「…………」
「プロとしてトーナメントに参加して、まだ1度も、予選を通過したことがないんです。もう、7回もつづけて予選落ちしてるんです」
と、勇太郎はつぶやいた。
あたしには、ゴルフの世界はわからない。でも、7回つづけて予選落ちっていうのは、やっぱりひどく不調なんだろう。
「予選落ちばっかりだと、経済的にも苦しくなるし、それ以上に、ゴルファーとしての自信がなくなっちゃって……」
と勇太郎。体に似合わない小さな声で言った。元気だけが取り柄の湘南ガールとしては、ドンと背中を叩いてやりたいところだ。けれど、それさえ可哀そうで出来ないほど、勇太郎は落ち込んでいた。
「でも……何が原因で、そんなに不調なの?」
あたしは訊いた。
「……バンカー・ショットなんです……」
「バンカーか……」
あたしは、うなずいていた。それで、この砂浜でサンド・ウェッジを振ってたわけがわかった。
「バンカー・ショットのどっかが狂っちゃったらしくて、バンカーに入ると、もうダメなんです。ボールがバンカーから出なくて、何発も叩いちゃって、スコアがガタガタになってしまうんです」
「…………」
「おまけに、そうなると、バンカーにつかまるのが怖いもので、普通のショットまで畏縮《いしゆく》してしまって、やることなすことすべてダメになっちゃって……」
と勇太郎。しばらく、じっと砂浜を見つめている。やがて、勇太郎は、顔を上げた。
「……といって落ち込んでるだけじゃ、何も解決しないんですよね……。とにかく練習しなくちゃ」
と言った。立ち上がる。30メートルぐらい先の砂浜で、バンカー・ショットの練習をはじめた。
あたしは、日光浴をしながら、それをながめていた。確かに、素人のあたしから見ても、バンカー・ショットの調子が悪いのがわかる。
ドスンッと、勢いよくサンド・ウェッジを振りおろす。けど、ゴルフ・ボールは、あまり上がらない。せいぜい1、2メートル飛んで、ボトッと砂浜に落ちてしまう。そのくり返しだった。
勇太郎は、額に汗をかいて、サンド・ウェッジを振りつづけていた。
そろそろ、陽が傾いて来た。あたしは、勇太郎に声をかけた。
「お腹すいてきたでしょう。晩ご飯は、どこに行くの?」
「自分は、練習場の近くのアパートで暮らしてますから、どっちみち、外食です」
と勇太郎。額の汗を拭きながら言った。
「どうせ外食なら、うちに来なさいよ。またサービスで大盛りにしてあげるから」
「そうですか?……また、あのタコ飯、いただけるんですか?」
「もちろん。あれは、うちの定番メニューだもの」
あたしは言った。
「じゃ……お言葉に甘えて、寄らせてもらおうかな……。いいですか?」
「もちろん」
あたしは笑顔を見せて言った。勇太郎にいっぱい食べさせて元気づけてやるつもりだった。
「大サービスで大盛りにしてあげるから、そのかわり、店の仕込みを手伝ってくれない?」
「もちろん。いいですとも」
□
あたしと勇太郎は、一緒に〈ヤドカリ食堂〉へ帰った。
今夜使う魚介類の仕入れはしてある。けど、まだ、下ごしらえも何もしていない。
あたしは、水着の上にTシャツをかぶった。その上にエプロンをかけた。
「何を手伝ってもらおうかな……」
あたしは、冷蔵庫を開けてつぶやいた。勇太郎は、力はあるけれど、あまり器用そうじゃない。魚をさばくのは難しいかもしれない。
「そうだ。タコ飯の下ごしらえを、やってもらおうか……」
あたしは言った。タコを取り出した。タコはとっくに死んでいた。
タコの頭のところを引っくり返し、内臓を取った。頭をもとに戻す。そのタコをボウルに入れた。そして、荒塩をふりかけた。
「これを、根気よくもんでくれない?」
あたしは言った。これなら、多少、不器用な人間にでもできる仕事だろう。
「はい! わかりました」
と勇太郎。まじめにうなずく。塩をふりかけたタコを、もみはじめた。
□
「ねえ、ちょっとちょっと……」
あたしは言った。となりでタコをもんでいる勇太郎に声をかけた。
「そんなに力いっぱいもまなくてもいいのよ」
と、苦笑しながら言った。勇太郎は、全力を込めてタコをもんでいるみたいだった。あたしは、鯵をおろしている手を止め、苦笑した。
「そこまで、ギュウギュウともまなくてもいいのよ。こう……ゾウキンを軽く絞るぐらいのつもりでもめばいいのよ」
あたしは言った。
「はい」
と勇太郎はうなずいた。少し力を抜いて、タコをもみはじめた。
「ゾウキンを軽く絞るように、ですね……」
とつぶやきながら、タコをもみはじめた。
そうして2、3分もみつづけた、その時だった。
「あっ!……」
と勇太郎が声を上げた。
「どうかしたの? まさか、タコに噛みつかれたとか?」
あたしは冗談半分に訊いた。
「そ、そうじゃなくて……わかったんです!」
と勇太郎は叫んだ。
「わかったって……何がわかったの?」
「グリップです!」
「グリップ?……」
勇太郎は、タコをつかんだまま、激しくうなずいた。
「軽くゾウキンを絞るようにって言われて、そうやってタコをもんでたら、気づいたんです! いままで、サンド・ウェッジを握るときの自分のグリップは、きつく握りすぎてたんです!」
「…………」
「バンカーからボールを出そうと一生懸命で、やたらにきつくクラブを握って、ガチガチのフォームで振ってたんです。そのことに、いま気づいたんです!」
「…………」
「いくらバンカー・ショットでも、あんまりギュウギュウにグリップを握っちゃうと、手首も体全体もガチガチになっちゃって、ダメなんです。いま、軽く絞るようにって言われて、それに気づいたんです!」
「…………」
「自分は、なまじ握力が強いもんで、そうなりがちなんです……。特に苦手なショットだと、グリップをきつく握りすぎて、フォームがきゅうくつになって、かえってヘッドのスピードが落ちてしまって……」
と勇太郎。熱にうかされたように、つぶやいている。
やがて、
「ちょっと行って来ます!」
と言った。手を洗う。そばに置いてあったサンド・ウェッジをつかむ。店を飛び出して行った。あたしも、追いかけた。
□
たそがれの七里ヶ浜。
勇太郎は、ポケットからゴルフ・ボールを出した。足もとに落とした。そして、サンド・ウェッジを持った。
両ヒザを曲げ、足もとをかためた。クラブを握り、かまえた。そのまま、しばらく、グリップを確かめている。
やがて、ゆっくりと、クラブを振り上げた。
ゴルフには素人のあたしから見ても、フォームがリラックスしているのがわかった。手首が、やわらかく曲がっている。
ガチガチだったさっきまでとは、えらい違いだ。
勇太郎は、手首が肩の高さにくるぐらいまで、クラブを振り上げた。そして、振りおろした。
ドスッ! という音。そして、砂がパッと舞い上がった。その砂の中から、白いボールが、飛び出した。ボールは、大きなカーブを描いて、10メートルぐらい先まで飛んで行った。
「ナイス・ショット!」
あたしは声をかけた。勇太郎は、あたしの方を見た。たそがれの中で、彼の歯が白く光った。
□
翌週の火曜日。
ガラガラッと、店の扉が開いた。サバを三枚におろしていたあたしは、顔を上げた。勇太郎だった。きょうは、ポロシャツを着ている。ゴルフ・バッグを背負い、片手にボストン・バッグを持っている。
まるで別人みたいに、表情が晴れていた。
「トーナメント?」
あたしは、包丁を握ったまま訊いた。
「ええ。神戸の方で明後日から……。今夜中に現地入りして、木曜からいよいよです」
と勇太郎。
「がんばって、予選を通過して」
あたしは言った。
「はい! それで……」
「何?」
「もし予選を通過できたら、あの……自分とデートしてほしいんですけど……」
「デート?」
「ええ……。新しくできた八景島のシーパラダイスでも、どうでしょうか……」
「……いいわよ」
あたしはニコリと答えた。
「ホントですか?」
「もちろん。……ただし、また予選落ちして帰って来たりしたら……」
あたしは、持っていた出刃包丁を勇太郎に見せると、
「これでムスコをチョン切ってあげるからね」
と言った。
「まいったなあ!……チョン切るのは、ちょっとカンベンしてくださいよ。どうせなら、塩でもむとか……」
「バカね。そんなエッチなこと考えてると、予選落ちするわよ。行った行った!」
「はい! がんばって来ます!」
と勇太郎。大きく一礼した。店から出て行った。あたしは、ちょっと苦笑い。勇太郎とのデートには何を着ていこうか、考えながら、また、サバをおろしはじめた。店のラジカセから、M《マライア》・キャリーの曲が流れはじめた。味噌汁のダシをとる匂いが漂っていた。そろそろ、〈ヤドカリ食堂〉の開店時間が近づいていた。
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砂にかいたラヴ・レター
プロローグ
□
世界で、ただ1匹しかいない魚を、僕はいま手にしている。
体長は、約10センチ。
全身、にぶい銀色に光っている。
そして、叩くと、コンコンと音がする。
そう……それは、本物の魚というわけではない。金属でつくられた魚……。海釣りのためのルアーなのだ。
いまは、朝の5時30分。
僕は、自分の部屋の窓辺で、この金属の魚を手にしている。仕事の手を休めて、魚の形をしたルアーを手にとっている。
窓からは、淡い朝の光が入って来る。その光に、ルアーは美しく輝いていた。
それをながめながら、僕は、思い出していた。彼女が、僕のために、このルアーをつくってくれた夏のことを……。
ついこの前のような気がする。けれど、あれからもう、10年が過ぎているのだ。
陽射しの中に、僕がいた。陽射しの中に、彼女がいた。
僕は、彼女を船に乗せて海へ出た。彼女は、僕のために、世界でただ1個のルアーをつくってくれた。
あの、胸をしめつけるような切ない夏……。
僕はいま、夜明けの窓辺でゆっくりと思い出していた。10年前の、あの夏の出来事を……。
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1 はじまりは、海岸道路
□
「あの……」
という声がした。
ピックアップ・トラックの荷台から物をおろしていた僕は、手をとめた。声のした方に、ふり向いた。
女の子が、立っていた。
女の子と言っても、おかしくない。女の人と言っても、おかしくない。そんな年頃の人だった。
「……このトラック……あなたの?」
彼女が訊《き》いた。
「ああ、そうだけど」
僕は答えた。
□
午前9時過ぎ。
湘南・葉山。
砂山に面した海岸道路に、僕はいた。
海岸道路にピックアップ・トラックを駐め、荷物をおろしていた。荷物は、これから船で海に出るためのものだった。
持ち運びのできる燃料タンク。20リットルのクーラー・ボックス。|釣り竿《ロツド》。ルアーのたくさん入った道具《タツクル》ケース……そんな物たちを、トラックの荷台からおろしているところだった。
「あの……ちょっと、いいかしら」
彼女が言った。まぶしい陽射しに眼を細めて言った。
僕は、彼女を見た。
年齢は、20代の前半だと思った。大学3年生の僕より、少し年上かもしれない。
だぶっとした白いTシャツを着ていた。サブリナ・パンツと言うのだろうか、ヒザ下までのぴっちりと細いパンツをはいていた。パンツは、花柄だった。足には、キャンバス地のスニーカーをはいていた。
ストレートな髪は、まん中で分けている。
全体に、よく陽灼けしていた。顔。Tシャツから出ている腕。サブリナ・パンツからのぞいている脚。どこも、むらなく陽灼けしていた。
地元の娘《こ》かな、と僕は思った。
夏といっても、いまはまだ7月の20日。関東地方は、やっと梅雨明けしたばかりだった。
このシーズンに、これだけ陽灼けしているのは、どう見ても、地元の娘《こ》だろうと思えた。
「ちょっと、相談があるんだけど……」
と彼女は言った。
「オレに、相談?」
「そう……。このトラックのことで、ちょっと……」
と彼女。僕は、3秒、考えた。そして、
「悪いんだけど、話なら、後にしてくれないかな」
と言った。1分1秒でも早く、船を出したかったのだ。
「後?」
「ああ……。待ってる相手がいるんで、行かなきゃならないんだ」
「待ち合わせ?」
「そう。沖で、魚とね」
僕は言った。右手に持っている|釣り竿《ロツド》を、ちょっと持ち上げて見せた。
「魚釣り?」
「ああ」
僕は、うなずいた。すぐ近くの海面に浮いている自分の小船《ボート》を、眼でさして見せた。
「そう……」
と彼女。
「何時頃、帰って来るの?」
と訊いた。
「3時か……4時頃」
僕は答えた。
「じゃ、その頃、また来るわ」
「でも……海が相手だから、はっきりしないぜ。もっと遅くなるかもしれない」
「いいわ。待ってるから」
彼女は言った。
「そうか……」
僕は、うなずいた。それ以上、押し問答をしてもしかたないと思えた。
僕は、また、手を動かしはじめた。トラックの荷台から、荷物をすべておろした。
海岸道路から2メートルぐらい下がったところに砂浜があった。砂浜におりられるように、石段がつくってある。
石段をおりたところが、入江になっていた。
葉山の森戸海岸と一色海岸の間にある、小さな入江だ。砂浜は、そう広くない。
波打ちぎわから20メートルぐらい先の海面に、小船《ボート》が1|艘《そう》、浮かんでいた。僕のボートだった。
長さは、約5メートル。白い船体は、FRP製。20馬力の船外機《エンジン》がついている。船名は、
MA《マ》HI《ヒ》MA《マ》HI《ヒ》だ。
僕は、荷物をMA《マ》HI《ヒ》MA《マ》HI《ヒ》I号に運びはじめた。ザブザブと海に入って、荷物をボートに運んでいく。
ショートパンツが水に濡れるけれど、かまわず荷物を運ぶ。陽射しは、もう、真夏のものだった。すぐに乾いてしまうだろう。
荷物を、ボートに運び終わった。船を出すことにした。
燃料タンクからのパイプを、船外機につなぐ。コードを思いきり引いて、船外機を始動させた。
20馬力のエンジンは、軽快な音をたてて回転しはじめる。
僕は、ブイにつないである舫《もや》い綱をほどいた。
ギアを前進《フオアード》に入れる。ゆっくりと、スロットルを開いていく……。ボートは、動きはじめた。
ボートの船首を沖に向け、僕は、1度、ふり向いて見た。砂浜より少し高いところにある海岸道路。彼女の姿が見えた。
彼女は、さっきの場所に、そのまま、たたずんでいた。たたずんだまま、こっちを見ていた。
船首が、完全に沖を向いた。僕は、ゆっくりとスピードを上げていく。
彼女の姿が、遠ざかっていく……。
□
防波堤の先端をかわして、入江を出た。
南へ、ボートを向けた。波はほとんどなく、海は凪いでいた。まぶしい陽射しが、海面にはじけていた。
目的の方向は、わかっていた。南南西。航海用語でいえば〈210度〉の方向だ。
ボートを操船しながら、僕は、ふと思い出していた。さっきの彼女のことを、思い出していた。
クルマのことでちょっと相談がある、と言っていた。
なんだろう……。クルマを売ってくれという相談だろうか……。まさか、と僕は心の中で苦笑していた。
あの、錆《さ》びだらけの古びたピックアップ・トラックを欲しがる人間がいるとは、思えなかった。12年前の年式。15万キロ以上走っている。人間でいえば、養老院に入るのがふさわしいような古いピックアップ・トラックだった。
あのクルマが欲しいというのでなければ、なんの用だろう……。まあ、考えてもはじまらないことだ。考えないことにした。
それより、海だ。沖で僕を待っている魚のことが気になる。
梅雨が明けて、今日、はじめて船を出すのだ。気持ちは、もう、沖に向かっている。僕は、スロットルをまた少し開いた。船のスピードが上がった。
南南西に、ひたすら走る。
□
着いた。
葉山から、南南西に約4|海浬《マイル》。
広い海に、ブイが1つ、ぽつんと浮いている。直径1メートル近い、大きなブイだった。
ブイは、太いロープで海底につながれている。動くことは、ない。
もともと、このブイは、漁師のためのものだ。けれど、僕らルアー・フィッシングをする者にとっては、大切な目標になる。
というのも、ルアー・フィッシングの対象魚《ターゲツト》であるシイラという魚が、こういうブイのまわりに集まっているからだ。
シイラは、何か海面に浮いている物があると、そのまわりに集まる習性を持っている。
こういう大型のブイなどは、一番いい目標になるのだ。
僕は、ブイの近くまでボートを寄せ、ギアを中立《ニユートラル》にした。ボートのスピードが落ち、止まった。
僕は、ブイのまわりの海面を見渡した。
今年も、シイラは、やって来ているだろうか……。
シイラは、毎年、夏になると、南方からこの相模湾にやって来る。ひと夏、いくつかあるブイのまわりを泳ぎ回り、秋になると、また、暖かい南の海に帰って行くのだ。
僕は、はやる気持ちを押さえて、道具《タツクル》ケースを開けた。ルアーを選びはじめた。ボックスには、100個以上のルアーが入っている。
結局、グリーン系のルアーを選んだ。水に落とすとゆっくり沈む、シンキングと呼ばれるタイプだ。
ルアーを、釣り糸の先端に結びつける。
ボートはいま、ブイから20メートルぐらいのところを漂っている。
僕は、ボートの上に立ち上がった。
軽く、|釣り竿《ロツド》をひと振り。
ルアーは、きれいな弧を描いて飛んで行く……。ブイの左側に、落ちた。
僕は、リールを巻きはじめた。遅すぎず、早すぎず、一定のスピードで巻いていく……。
けれど、当たりはなかった。
ルアーは、ボートに近寄って来る。魚の形をしたルアーが、泳ぐような姿で、水面の少し下を近づいて来る……。
僕は、リールをさらに巻き、ルアーを足もとの海面から上げた。
つづいて二投目。やはり、当たりはなし。
三投目も、当たりはなし。
そして、四投目。
ルアーを少し早目に巻いた。巻きはじめてすぐに、当たりがあった!
スムーズに海中を泳いでいたルアーが、ガツンッと何かに引っかかった! 引っかかったのではない。魚が、ルアーにかかったのだ。泳いでいるルアーを小魚だと思って、呑み込んだのだ。
|当たり《ストライク》!
僕は、心の中でそう叫んでいた。ぐっと、体重を下げた。
|釣り竿《ロツド》が、ブルブルと震えている。
僕は、そのロッドを立て、リールを巻きはじめた。
そう重くはない。小型のシイラだろう。
リールを巻きはじめて5秒後。海面から、シイラが飛び出した!
ルアーにかかったシイラは、よく、こうしてジャンプする。
いま、水面が爆発した。魚が、空中に飛び出した。
シイラは、美しい魚だ。背中は、濃いグリーン。腹の方は、金色をしている。その体をひねるようにして、シイラは空中にジャンプした。
水しぶきが、陽射しにキラキラと光った。
□
結局、その日、10回以上の当たりがあった。
4回は、ジャンプした瞬間に、ルアーの鉤《はり》が魚の口からはずれて、逃げられた。
7匹を、キャッチした。
けれど、6匹は、すぐに逃がしてやった。1匹だけ、食べるためにキープした。クーラー・ボックスに入れた。
午後4時40分。
僕は、ボートで入江に帰って来た。
ボートを、しっかりと舫《もや》った。|釣り竿《ロツド》やクーラー・ボックスを、ボートからおろした。
僕は、右手にロッドを持ち、左手に道具《タツクル》ケースを持ち、砂浜を歩く。石段を登り、海岸道路に上がろうとした。
石段を、3段ほど上がりかけたところで、
「お帰りなさい」
という声がした。
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2 サブリナ・パンツで待っていた
□
僕は、足を止めた。視線を上げた。
最初に目に入ったのは、足首だった。白いスニーカーをはいている、よく陽灼けした足首だった。
そして、花柄のサブリナ・パンツ。白い、だぶっと大きなTシャツ。足首と同じように陽灼けした顔が、僕を見おろしていた。
彼女だった。
朝、ここで声をかけてきた彼女だった。
僕は、完全に彼女のことを忘れていた自分に気づいた。
彼女は、また、
「お帰りなさい」
と言った。微笑みながら言った。ごく自然な微笑だった。
僕も、つられて微笑んでいた。石段を、5、6段上がった。彼女と向かい合った。
「釣れた? お魚さんは」
と彼女が訊いた。
「まずまずかな」
と僕は答えた。そばに駐めてあるピックアップ・トラックに歩きはじめた。
□
「運んでほしい物?」
僕は、訊きなおした。クーラー・ボックスをトラックの荷台に置いて、彼女の方をふり向いた。
「そう……。このトラックで運んでほしい物があるの」
と彼女。
「朝、相談があるって言ったのは、そのことだったの」
と言った。
「引っ越しか何か?」
僕は訊いた。
「そういうわけじゃないんだけど……」
と彼女。
「説明するの、ちょっと難しいの……。実物を見てもらうのが一番いいんだけど……」
と言った。
「実物?」
「そう。家にあるの」
「家は近い?」
「歩いて10分ぐらい」
「じゃ、クルマならすぐだな。見に行こうか」
僕は言った。
「いいの? 忙しいんじゃないの?」
僕は、首を横に振った。
「もう、暇さ。時間は、いくらでもある」
僕は、微笑みながら言った。トラックの運転席のドアを開けた。乗り込む。トラックの中は、ムッと暑かった。窓ガラスを下げた。
「乗れよ」
僕は言った。助手席のドアを開けた。
□
「あ、そこを左」
と彼女。助手席で言った。曲がり角を指さした。
海岸道路を、一色海岸の方向へ少し走ったところだった。僕は、ステアリングを左へ切った。彼女が指さした曲がり角を左折。海岸道路から、山側のわき道に入った。
このあたりは、別荘地だった。個人の別荘や、会社の海の家が多くある。松林のある静かな一帯だった。
「その右側の古ぼけた家」
しばらく走ったところで彼女は言った。僕は、トラックのブレーキを踏んだ。右側に、石づくりの門があった。扉はない。
「入っちゃって」
彼女が言った。僕は、門の中へトラックを入れた。門柱にある表札。〈木下〉とだけ書かれている表札を、ちらりと見た。
門の中に、別荘らしい建物があった。
二階建ての洋館。かなり古い建物だった。もしかしたら、戦前につくられた別荘かもしれないと、僕は思った。
和洋折衷というのだろうか。建物全体としては洋風なのに、ところどころ、部分《デイテイール》が和風だった。
玄関のあたりに植えられているのは、紫陽花《あじさい》だった。もう、花のシーズンは終わっている。しおれた、枯れた花が、紫陽花の枝についていた。
僕は、玄関の前にクルマを駐め、おりた。
あたり一面、セミの鳴き声がしていた。頭上からふりそそぐシャワーのように、セミの鳴き声が、僕らをつつんでいた。
「これ……君の家の別荘?」
クルマのドアを閉めながら、僕は訊いた。彼女は、うなずいた。
「そうなの。でも、最近、家族は誰も来ないわ」
と言った。
「来ない?」
「ええ……。ほら、建物がこんなに古くてボロっちいでしょう。だから、お化け屋敷みたいだって言って、家族も親戚も、誰も来ないのよ」
と彼女。ちょっと笑いながら言った。
「こっちよ」
彼女は言った。僕を手招きした。僕らは、家の玄関に入らず、家のわきを回り込んだ。そこは、庭になっていた。
それほど広い庭ではない。せいぜい、テニスコートの半面ぐらいだ。和風の松の木が、庭の周囲を囲んでいた。
庭は一面に芝生なのだけれど、芝は、あちこちがはげていた。すみには、雑草が生えている。
庭のすみ。ブランコが、ぽつりと置き忘れられていた。ブランコは、赤錆びだらけだった。
「ここよ」
と彼女。
庭に面して、洋間があった。部屋は、庭に向かって開け放たれていた。その洋間に、不思議な物があった。
□
「…………」
僕は、しばらく無言。その洋間を、ながめていた。その洋間に置かれているものを、じっと、ながめていた。
それが、彫刻らしいとわかったのは、30秒ほどしてからだった。
どうやら、それは、金属でつくられた彫刻らしかった。
どれもこれも、抽象的な形をしていた。曲線的なものもあり、直線的なものも、あった。
花びらのように見える曲線的なもの。ビルのように見える直線的なもの。それが、入り混ざっていた。
大きいものは、人間の背たけぐらいあった。小さなものは、せいぜい30センチぐらいのものだった。
そんな彫刻が、10個か15個、洋間に置かれていた。
「上がって」
と彼女。スニーカーを脱ぐと、庭から洋間に上がった。僕も、ゴムゾウリを脱いで、部屋に上がった。床は板張りだった。素足に、木の床はひんやりと気持ち良かった。
「運んでほしい物っていうのは、これなの」
彼女は言った。彫刻たちを、見回しながら言った。
「これ……君がつくったもの?……」
僕は訊いた。彼女は、うなずいた。
「そうなの。あ、まだ、自己紹介もしてなかったのね」
と言った。
彼女は、部屋のすみにあるテーブルから、1枚のカードを取った。
「はい。これ、名刺がわりに」
と言って、それを僕にさし出した。
それは、ポストカードだった。片面は、まっ白。そして、片面は濃いブルー。ブルーの中に、白ヌキで文字が並んでいた。
〈木下由紀子 個展 オブジェたちの実験〉
という文字が見えた。
どうやら、そのカードは、個展の案内状になっているらしかった。
僕は、そのカードにある文字を読んだ。
個展は、あと1週間ではじまる。約10日間の期間だった。会場は、葉山マリーナの2階にあるギャラリーだった。
「へえ……」
僕は、つぶやいた。
「この、木下由紀子って、君?」
と彼女に訊いた。彼女は、微笑みながら、うなずいた。
「へえ……。個展をやるんだ……」
「そう。はじめての個展なの」
彼女は言った。
「それで……会場まで、この作品を運び込むのに、あなたのトラックを使わせてもらえないかと思ったの」
と彼女。
「もちろん、お礼はちゃんとするわよ」
と言った。
僕は、なんとなくうなずいた。やっと、事情がわかった。
確かに、この彫刻たちを運ぶのは、普通のクルマでは無理だ。トラックのようなクルマが必要だろう。
僕のピックアップは、いってみれば小型トラックだ。けれど、2往復もすれば、この彫刻をすべて葉山マリーナまで運べるだろう。
「なるほどね……。そういう事情だったのか……」
僕は、つぶやいた。あらためて、洋間に置いてある彫刻を見回した。
その洋間は、彼女の仕事場になっているらしかった。いろいろな工具が置いてあった。金属を溶接するためのバーナーみたいなものもある。
がっしりとした作業机もある。その上では、細かい作業をするらしい。こまごまとした道具が置いてあった。
そこはもともと、ダイニング・キッチンだったらしく、すみはキッチンになっていた。いちおうの台所用品があった。
「ここは、仕事場兼ダイニング・キッチンなの」
と彼女。
「寝室は2階だけど、1日のほとんどは、ここで過ごしているの」
と言った。
「あっ、何か冷たいもの、飲まない?」
彼女はそう言うと、キッチンのすみにある冷蔵庫に歩いて行った。
「麦茶? それともビール?」
僕は、5秒考えた。
「ビールが、ありがたいな」
□
「そうか……。彫刻家なのか……」
僕は、ビールの入ったグラスを手に、つぶやいた。
「いまは、彫刻家の卵よ」
彼女は、苦笑まじりに言った。彼女も、ビールのグラスを手にしていた。
僕らは、古ぼけたソファーに座って、ビールを飲んでいた。もう、夕方だ。松林ごしの夕陽が、洋間にさし込んでいた。グラスのビールに、陽射しが揺れていた。セミの声は、あい変わらず、シャワーのようにふりそそいでいた。
「大学は、美術大学?」
僕は訊いた。彼女は、うなずいた。
「今年の春、卒業したの」
と彼女。
ということは、いま23歳ぐらいか……。僕は、胸の中で計算していた。23歳だとすると、21歳の僕より、2つ年上ということになる。
「ずっとこの家に住んでるの?」
僕は訊いた。
「木曜から日曜日までね」
「木曜から?」
「そう……。月曜から水曜までは、東京でバイトしてるの」
「バイト?」
「そうよ」
「どんなバイト?」
「技術を生かして、建設現場で鉄骨の溶接をしてるの。ヘルメットをかぶってね」
「え!? 」
僕は思わず言葉を失なっていた。
「……建設現場で?……」
そのとたん、
「冗談よ、冗談」
と彼女。はじけたように笑いはじめた。
□
それから2、3分の間、彼女は笑いつづけていた。
「そんなに、おかしいかい?」
ちょっとムッとして、僕は言った。
「ごめんなさい。だって……あんまり簡単に本気にするから……」
と彼女。
「どうせオレは単純な人間ですよ」
「ごめんなさいって言ってるじゃない」
彼女は、笑いながら言った。彼女の笑顔はひどく開けっ広げで、無邪気だった。まるで女子中学生か何かのように笑う。
やがて僕も、つられて笑いはじめていた。笑いながら、ビールを飲んだ。
「本当のバイトはね、デザイン会社の仕事なの」
と彼女。
「デザイン会社?」
「そう……。店舗の内外装、つまりお店の内装や外装をデザインする、まあ、そんな仕事なの」
「なんか……デザイナーなんて、かっこいいな」
「あんまりかっこよくないわよ。ラーメン屋のチェーン店の外装とか、コンビニの内装とか、そんな仕事が多いんですもの」
彼女は言った。ビールをひと口飲んだ。
「でも、とにかく、月曜から水曜までは、その内外装の仕事をして、木曜から、ここに来るの」
「そうか……。木曜からの週末は、ここにこもって、作品づくりをするわけか……」
「そうね……。気が向くと、海に行って、泳いだり、本を読んだり、ただボーとしてたり……」
と彼女。
なるほど。僕は、胸の中でうなずいていた。彼女がきれいに陽灼けをしている理由がわかった。
会話が、とぎれた。部屋のすみにあるCDラジカセからは、ケニー・Gの曲がゆったりと流れていた。
「あなたの家は、この近く?」
彼女が訊いた。僕は、うなずいた。
山中達也という自分の名前と、家の場所を言った。
僕の家は、和菓子屋だった。かなり古い店だ。御用邸に納めたこともある。地元の人間なら、たいていは名前を知っている店だった。
彼女も、
「ああ、あのお店……」
と言った。
「昔、家族みんなで葉山に来ていた頃、祖母が好きだったわ、あなたの家のお菓子」
と言った。
「それじゃ、あなたは、あのお店の後継ぎ?」
僕は、首を横に振った。
「兄貴がいるんだ。3つ上の。その兄貴が、店を継ぐことになってる」
「そうか……。じゃ、あなたは気楽な次男坊ってわけ?」
「まあね……」
僕は、微笑いながら答えた。その時だった。腹が、ググッと鳴った。
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3 出会ったのは、ハワイ
□
空腹だった。
腕のダイバーズ・ウォッチを見れば、もう6時を過ぎている。彼女とごく自然な話をかわしているうちに、もう1時間以上が過ぎていた。
おまけに、僕は、昼食をあまり食べていなかった。ひさびさのルアー・フィッシングに夢中で、オニギリを2個かじっただけだった。
空腹になって当然だろう。
「そうだ……」
と僕は、つぶやいた。クーラー・ボックスにシイラが1匹入っていることを思い出していた。
「あの……魚、好き?」
僕は、彼女に訊いた。
「好きよ。大好き」
彼女は、無邪気な声で言った。
「今日、釣ってきた魚があるんだけど、それで夕食にするっていうのはどうかな?」
僕は言った。
「大賛成。異議なし」
彼女が言った。
□
「へえ……。これが、シイラっていう魚なの……」
と彼女。
僕は、トラックの荷台からクーラー・ボックスをおろしてきた。キッチンに運び込んだ。クーラーを開け、シイラをとり出したところだった。
彼女は、シイラをながめている。
「はじめて見た?」
「たぶん、ね……」
「日本じゃシイラって呼ばれているけど、ハワイじゃマヒマヒって呼ばれてるんだ」
僕は言った。
「あっ……それなら知ってる。食べたこと、あるわ」
彼女は言った。
「今年の春、大学の仲間とハワイに行ったのよ」
「卒業旅行?」
「まあ、そんなところ」
「……なんか、イメージが合わないなあ……」
「イメージって?」
「美術大学の学生とハワイっていうのが、あんまり似合わないような気がするんだけどな……」
僕は言った。彼女は、ちょっと苦笑した。
「仲間の1人の家が、ハワイにコンドミニアムを持っていたんで、そこに泊まったの。楽しかったわ……」
と言った。
「で、そのハワイ旅行の時に、マヒマヒ、食べたわ。レストランのメニューにのってたんで、オーダーしたの」
「うまかった?」
彼女は、うなずいた。
「おいしかったわ、上品な白身で……」
と彼女。思い出すような口調でつぶやいた。
「あっ……そういえば、あなたのボート、マヒマヒっていう名前ついてなかったっけ?」
僕は、うなずいた。
「そう……。マヒマヒ釣りのためにあるようなボートだからね。〈MA《マ》HI《ヒ》MA《マ》HI《ヒ》号〉ってつけたわけ」
「そうだったのか……」
「ということ。じゃ、さっそく、マヒマヒの料理をはじめようか。出刃包丁、ある」
「あるわよ」
と彼女。キッチンの片すみから、出刃包丁をとり出してきた。僕は出刃を握った。
「魚、さばけるの?」
僕は、無言でうなずいた。
「まかせておけよ。これでも、葉山育ちだからな」
と言った。まな板に、マヒマヒをのせた。
□
「あ……おいしい……」
彼女は、マヒマヒをひと口食べると、つぶやいた。
切り身にしたマヒマヒに、小麦粉をつけ、フライパンでムニエルにしたものが、僕らの夕食だった。
熱いムニエルに、たっぷりとレモンを絞り、口に運んだ。ひと口、マヒマヒを食べては、冷蔵庫にあった白ワインを、ひと口飲む。
「これは、いけるわね」
彼女は、つぶやいた。そしてまた、フォークを動かした。
「でも……ちょっと不思議な気分ね」
「何が?」
「だって……今朝はじめて会った人と……こうして晩ご飯を食べてるなんて……なんか、不思議……」
「いいのさ、夏だもの」
僕は言った。われながら、理屈になってないと思った。ワインの酔いが少し回っているのかもしれない。
ワインを飲むと、彼女は、少しだけ冗舌になった。
僕らは、いろいろな話をした。
彼女が、小学生の頃、一色の海水浴場でひどくクラゲに刺されたこと。それでも、葉山に来るのが楽しみでしかたなかったこと。などなど、彼女は、独特の、おっとりした口調で話した。僕は、主に聞き役をしていた。
彼女の話し方は、一種、独特の雰囲気を持っていた。おっとりとしているのだけれど、どこか、ユーモラスなのだ。
ごく平凡なことでも、彼女が話すと、とても愉快な話に感じられる。不思議なことに……。
結局、彼女は、他人《ひと》を面白がらせようとして話しているのではなく、自分が面白がっているらしい。
だから、ごく自然に、ユーモラスな口調になるのだろう。
やがて、僕らは食事を終えた。彼女は、骨だけになった皿に向かって、手を合わせ、
「ごちそうさまでした、マヒマヒさん」
と言った。
□
それからしばらく話して、僕は彼女の別荘を後にした。明日も、マヒマヒが釣れたら、それをフライにする約束をした。
「夕方、また、海岸にいくわ」
と、彼女は別れぎわに言った。
□
翌日。やはり、晴天だった。
僕は、朝の9時前にマヒマヒ号を出した。
その日は、前日ほどの数は釣れなかったけれど、大きめのサイズのマヒマヒが釣れた。
全部で5匹のマヒマヒが釣れた。その中の1匹だけをキープして、あとは逃がしてやった。
彼女と2人の夕食なら、1匹で充分だった。
4時過ぎ。
僕は、船を入江に入れた。
船が、ゆっくりと入江に入って行く時、僕は思わず海岸道路の方を見ていた。彼女の姿をさがしていた。
海の上から見る海岸道路。いまは夕方だから、海水浴を終えた人たちが歩いている。これから、自分たちの別荘や海の家に帰るのだろう。
そんな海岸道路に、彼女の姿は、あった。
今日も、だぶっと大きなTシャツを着ている。Tシャツは、ブルーだった。そして、きのうと同じサブリナ・パンツをはいていた。
彼女の顔に、夕陽が当たっている。彼女は、ちょっとまぶしそうに眼を細め、沖の方を見ていた。
入江に入って行く僕の姿を見つけると、彼女は右手を振った。
僕も、片手で船を操りながら、片手を振って、それにこたえた。
僕は、マヒマヒ号を浅瀬に舫《もや》った。エンジンを切る。荷物をおろしはじめた。
まず、|釣り竿《ロツド》と道具《タツクル》ケースを持って、ザブザブと海の中を歩く。砂浜に向かって歩いていく。
彼女は、海岸道路から砂浜におりてきていた。砂浜に上がった僕に向かって、ニッコリと微笑った。
「お帰りなさい。マヒマヒさんは、釣れた?」
と彼女。
「まあね」
つとめてさりげなく、僕は答えた。
彼女に手伝ってもらって、僕は荷物をピックアップ・トラックに積み込んだ。すぐに終わった。僕らは、トラックに乗り込んだ。
「フライをするのなら、材料がたりないわ。パン粉や何か」
と彼女が言った。
「じゃ、スーパーに行こう」
僕は言った。クルマのギアを入れた。走り出す。クルマの燃料が残り少なくなっていることに気づいた。
「ちょっと、スタンドに寄っていく」
僕は言い、ステアリングを左に切った。いつものスタンドにクルマを入れた。店員に、
「レギュラー、満タン」
と言った。その時だった。
「よお、達っちゃん」
という声がした。
□
クルマのそばに、啓介が立っていた。
啓介は、このスタンドの経営者の息子だ。そして、僕とは幼ななじみだった。小学校から高校まで、同じ学校に通った。大学は、それぞれちがう学校に通っている。
啓介は、僕の耳もとに口を近づける。
「女連れとは珍しいなァ」
と言った。助手席の彼女を見て、なんとなくニヤニヤとしている。
「海釣りだけじゃなく、オカ釣りも得意だったとは知らなかったぜ」
啓介は小声で言った。
「ほっといてくれ」
僕は言った。やがて、店員がガソリンを入れ終わった。ガソリン代はツケなので、僕は伝票だけ受け取る。まだニヤニヤしている啓介には知らん顔。クルマを出した。
□
「あっ……おいしい……」
と彼女。フライをひと口食べて、声に出した。
夜7時。彼女の別荘のダイニング・キッチン。
僕らは、マヒマヒのフライを食べはじめたところだった。今日、料理のほとんどは彼女がやった。
マヒマヒをフライにする彼女の手ぎわは、かなり良かった。
「料理、うまいんだな」
僕は言った。
「意外?」
「……別に、そういうわけじゃないけど……」
ちょっと、僕は口ごもった。
「そういうわけじゃあるって顔してるわよ」
と彼女。微笑いながら言った。
「だって……芸術家の女の人と、料理ってのは、なんとなく、しっくりこないような気がしてさ……」
と僕。
「わたしが芸術家かどうかは置いといて、お料理は、子供の頃からよくやってたわ……。母が病弱だったもんで……」
彼女は言った。
「へえ……お母さんが病弱か……。それで、いまはもう大丈夫なの?」
「母は、死んだわ。わたしが高校生だった時にね」
彼女は、サラリと言った。
「でも、父がすぐに再婚したから、家族のめんどうは、新しいお母さんがみてるの。いまは問題なしよ」
微笑しながら、彼女は言った。
いかにもおっとりしたお嬢さん育ち……。そんな彼女のイメージが、僕の中で少し変わっていくのがわかった。
一見おおらかで無邪気な笑顔の向こうには、それなりの苦労がかくされているのかもしれない。僕は、そんなことを感じていた。
「わたしのことなんかより、あなたのことをきかせてよ」
彼女は言った。
「どうして、ルアー・フィッシングに熱中してるの?」
と僕に訊いた。僕は、しばらく考えた。別に出しおしみするような話でもない。ビールを飲み、マヒマヒのフライを食べながら、僕は、ぽつりぽつりと話しはじめた。
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4 12歳で、それを知った
□
僕は、ここ、湘南の葉山で生まれ育った。当然、遊び相手は海だった。
小さな頃から、いろいろなことをやった。海に潜って、アワビやサザエを獲《と》る。港の中にカニ籠《かご》をしかけて、ワタリガニを獲る。そして、魚釣りだ。
防波堤での小物釣り。小船に乗っての、キスやカワハギ釣り。いろんな釣りを、小さな頃からやっていた。
徳さんという人が、うちに来たのは、僕が10歳の頃だった。
徳さんは、父の知人の紹介で、うちで働くことになったのだという。徳次郎という名前だった。その頃、もう50歳に近かっただろう。子供の僕から見ると、おじいさんって感じだった。
けれど、徳さんは、がっしりと骨太の体つきをしていて、よく陽灼けしていた。醤油《しようゆ》で煮込んだような、肌の色をしていた。
徳さんは、それまでハワイで暮らしていた日系二世だった。ハワイでは、サトウキビ畑の仕事をやっていたという。
サトウキビ畑の仕事が、何かの事情でダメになって、日本に帰ってきたらしい。サトウキビ畑で仕事をしていたせいで、よく陽灼けしているのだろう。
うちの店には、3人の従業員がいた。3人とも、和菓子づくりの職人だった。
徳さんは、和菓子づくりの技術を持っているわけではない。結局、材料の仕入れや、品物の納品などの仕事をすることになった。
徳さんは、日本に身寄りがないということだった。うちの裏手にあるアパートに住んで、うちの店に通いはじめた。
父に言わせると、徳さんは働き者だということだった。けれど、僕にとって嬉しかったのは、徳さんが釣りの名人だということだった。
仕事が休みの日になると、
「坊っちゃん、釣りに行きましょう」
といって、徳さんは僕と一緒に海に出た。主に、手漕《てこ》ぎのボートを借りては、キスやマゴチを釣った。
そんなことがつづいたある日だった。
「坊っちゃん、いい物を見せてあげます」
と徳さんが言った。12歳の夏だった。
□
休日の午後。あまり広くない徳さんの部屋だった。
徳さんは、1個の釣り道具入れを出してきた。それを、僕の前でゆっくりと開けてみせた。
そこには、不思議なものが入っていた。
いま思えば、それは、釣りに使うルアーなのだけれど、当時の僕には、それが何なのか、わからなかった。
プラスチックでつくったもの。金属でつくったもの。魚の形をしたもの。そうでないもの。
いろいろな形のものが、道具箱にぎっしりと入っていた。それは、徳さんがハワイから持ってきたものらしかった。
「これ、何?……」
と訊《き》く僕に、
「これは、ルアーってもんです」
と徳さんは言った。その1個を、大事そうに手にとった。
「ハワイでは、こういうもんで魚を釣るんです」
と徳さん。
「へえ……」
僕は、思わず、身をのり出していた。おそるおそる、ルアーの1個を手にとった。魚の形をしたやつだった。魚の腹のところと、尾ビレのところに、2本の釣り鉤《ばり》がついていた。
「これで、魚が釣れるの?」
僕は、徳さんに訊いた。徳さんは、うなずいた。
「これを水の中で引っぱると、大きな魚がこれを小魚だと思って、喰《く》いつくんです」
と言った。
「エサを使えば、魚が釣れるのは当たり前ですたい。けども、こういうルアーでやる釣りこそ、魚との勝負なんですたい」
と徳さんは言った。
徳さんの言葉には、九州地方のものらしいなまりがあった。九州なまりと標準語と、ときには英語が、奇妙にごちゃまぜになっているのだった。
「論より証拠ですばい。さあ、釣りにいきましょう。レッツ・ゴッ」
と徳さん。僕らは、釣り竿をかついで、近くにある森戸川の河口に歩いて行った。
徳さんは、手なれた動作で、ルアーを投げた。突堤の先端から、30メートルぐらい先の海面に、ルアーをキャスティングした。
そして、その日、驚いたことに、徳さんは50センチ近いスズキを釣り上げた。
「まあ、こんなものですばい」
と徳さん。特に自慢げでもない口調で言った。
「坊っちゃんも、釣ってみんしゃい」
と徳さん。僕に、釣り竿を渡した。僕は、なれない動作で、ルアーをキャスティングしはじめた。
結局、その日、僕には何も釣れなかった。けれど、興奮は、さめなかった。
徳さんが休みの日には、必ず、ルアー・フィッシングに出かけた。あちこちの河口でルアーを投げては、スズキを狙った。
僕にも、やっと、スズキが釣れるようになっていた。
横浜の釣り道具屋まで行っては、ルアーを買ってきたりした。
僕は、確実に、このルアー・フィッシングにのめり込んでいった。小遣いのほとんどは、ルアー・フィッシングのために使っていた。後悔は、なかった。
徳さんから教えてもらったことは、ルアー・フィッシングだけではなかった。
徳さんはもう初老だったけれど、男らしい気性は、おとろえていなかった。ハワイに移民したものの仕事に失敗して日本に帰ってきた。そんな経歴に関係なく、どこか、毅然《きぜん》としたところがあった。
九州の人間だからなのか、生まれつきの性格なのか、僕には、わからなかった。けれど、いつも、ピンと背筋をのばして生きているような感じがした。
僕が何かで落ち込んでいると、
「元気を出しんしゃい。Don't《ドン・》 Worry《ウオリー》よ、達也さん」
と、背中を叩《たた》いてくれた。
釣りをしていても、ダメなときは、あきらめが良かった。潔くあきらめ、道具を片づけた。
「ま、しょうがないですばい。また、釣れる日もあるっしょう」
と言って道具を片づけるのだった。僕は、そんな徳さんに、男というものを見ていた。男の生き方などというと大げさだけれど、男としての生きる姿のようなものを、徳さんの姿勢から感じとっていたのかもしれない。
そんな風に、僕は成長していった。
僕の10代は、徳さんと、ルアー・フィッシングとともにあった。
□
「ボートがあると、いいですねえ」
と徳さんが言ったのは、僕が高校2年の時だった。
「ボート?」
「ええ。沖に出ると、ルアーでマヒマヒが釣れるんです」
と徳さんは言った。ハワイでは、ルアーやトローリングで、マヒマヒをよく釣っていたという。
「ここ相模湾でも、夏になると、マヒマヒが回遊して来るらしいです。でも、かなり沖に出ないと釣れないでしょうね」
徳さんは言った。
マヒマヒが、ルアーにかかった時の、ファイトのしかた、ジャンプのしかたなどを、熱っぽく話しはじめた。僕は、眼を輝かせて、その話をきいていた。
翌週から、僕と徳さんは、ボートさがしをはじめた。
さがしはじめて1カ月後。いい話が、持ち込まれた。船を売りたがっている人がいるという話だった。
さっそく、僕と徳さんは、船を見に行った。
船は、入江に舫《もや》われていた。全長約5メートルの小船《ボート》だった。20馬力の船外機《エンジン》がついていた。
値段も、手頃だった。徳さんが、3分の1。僕がバイトで稼いだ分で、3分の1。残りの3分の1は、父が出してくれた。
僕と徳さんは、小船《ボート》に、〈MA《マ》HI《ヒ》MA《マ》HI《ヒ》〉という名前をつけた。
その夏、はじめてボートで沖へ出た。そして、マヒマヒを釣り上げることができた。
マヒマヒは、徳さんの言ったとおり、空中にジャンプし、果敢にファイトした。
その日、僕らは、ブイのまわりで、10匹以上のマヒマヒを鉤《はり》にかけ、6匹をキャッチした。
5匹は放してやり、1匹だけ持ち帰った。持ち帰った1匹は、フライにして食べた。マヒマヒのフライを口に入れた徳さんは、
「ああ……ハワイの味ですたい……」
と言った。ハワイでの暮らしを思い出しているらしかった。ビールを飲み、マヒマヒのフライを食べた。
そして、ハワイの歌を唄ってくれた。それは、きいたこともない歌だったけれど、おおらかなメロディーの、いい歌だった。
僕も、マヒマヒのフライを口に運びながら、徳さんの歌声に耳をかたむけていた。
そんな僕らの前に、あのシイラがあらわれたのは、一昨年《おととし》だった。
□
その夏も、僕と徳さんは、毎週のようにマヒマヒ号を沖に出しては、釣りをしていた。
8月のはじめだった。
僕らは、沖のブイのそばにボートを止め、ルアーをキャスティングしはじめた。釣りをはじめて30分ぐらいたった時だった。
「あっ」
と徳さんが声を上げた。僕も、そっちの海面を見た。
海面のすぐ下、何匹かのシイラが群れをなして泳いでいるのが見えた。シイラは、ボートの影など恐れず、すぐ近くまで回遊してくるのだ。
そのシイラの群れの先頭に、大きな1匹がいた。
ほかのシイラは、せいぜい、60センチから70センチぐらいのものだろう。けれど、先頭のその1匹は、軽く1メートルを超えていそうだった。
泳いでいるシイラの姿は、美しい。金色の光の帯になって、水の中できらめいている。
その大きな1匹は、とりわけ、美しい金色をしていた。金色が、真夏の陽射《ひざ》しをうけて輝いていた。
そいつは、ゆったりと、けれど力をみなぎらせたフォームで、海面のすぐ下を泳いでいた。
「大物だな」
「釣りましょう」
と徳さん。僕らは、ルアーを大型のものに変え、キャスティングしはじめた。
何回も何回も、キャスティングした。けれど、ダメだった。ほかのシイラはかかるのに、大物の、その1匹は、どういうわけか、ルアーに喰いつかないのだった。
「たぶん、賢いんですね……。だから、あそこまで大きくなれたんでしょう」
徳さんは、つぶやいた。
そして、僕らは、その魚のことを〈ゴールデン・ボス〉と名づけた。金色に輝く大魚という意味で名づけたのだ。
その夏、僕らは、ゴールデン・ボスと10回近く出会った。けれど、1度も鉤《はり》にかけることはできなかった。
つぎの夏。
ゴールデン・ボスは、また、相模湾に姿をあらわした。その金色に輝く姿を、僕らの前にあらわした。
僕らは、できる限りのことをして、ゴールデン・ボスを釣り上げようとした。さまざまなルアーを、ボスの鼻先に投げてみた。
けれど、結果は、前の年と同じだった。ほかのシイラはかかるのに、ボスだけは、ルアーにかからないのだ。
「あの魚、ルアーを見破ってるんですね……」
と徳さんはつぶやいた。
「ルアーが本物の魚じゃないことを、見破ってしまっているから、かかってこないんでしょう、たぶん……」
徳さんは言った。僕も、そう思った。
「くやしいですね……。来年こそ、何か特別なルアーを用意して、やつを釣り上げてやりましょう」
徳さんは、夏の終わりに言った。
けれど、それから5カ月後に、徳さんは死んでしまった。
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5 口紅は淡いピンク
□
事故だった。
2月はじめの寒い朝だった。徳さんは、店の配達でスクーターを走らせていた。森戸から逗子《ずし》にいく途中のカーブで、スクーターが転倒したのだった。路面が凍っていたらしい。
転倒したところへ、トラックが走って来た。徳さんは、トラックにはねられ、即死した。
知らせをきいた僕は、茫然としてしまった。しばらくは、ただ、茫然としていた。
悲しみが実感としてやって来たのは、徳さんの死から1週間ほどたってからだった。
涙が流れた。けれど、どこからか、徳さんの声がきこえるような気がした。
〈泣くもんじゃないです、坊っちゃん〉
〈男ですばい〉
そんな徳さんの声が、空の上からきこえてくるような気がして、僕は、必死で涙をこらえていた。
半年たったいまも、悲しみは、薄れることはない。胸の中に、徳さんの姿があった。いつも、ピンと背筋をのばしていた、そんな徳さんの後ろ姿が、いつも、僕の心の中にあった。変わることなく……。
□
「へえ……。そんなことがあったんだ……」
と彼女。つぶやくように言った。しばらくの間、何も言わなかった。
変に同情したようなことを言わないのが、僕にとっては、ありがたかった。
僕らは、しばらく、黙っていた。無言でフライを口に運び、ビールを飲んだ。部屋のオーディオから、M《マライア》・キャリーのバラードが低く流れていた。庭では、蒼白《あおじろ》い誘蛾灯《ゆうがとう》が光っていた。昼間の暑さは少しやわらいで、ひんやりとした風が、部屋に流れ込んでいた。
「それで……その大物のシイラは、今年は姿を現したの?」
彼女が訊《き》いた。僕は、首を横に振った。
「まだ、現れていない。でも……」
「でも?」
「もし、やつがまだ生きているなら……きっと現れるはずだと思うんだ」
僕は言った。
「もし、現れたら?」
「なんとかして、釣り上げる。あいつを釣り上げるのが、オレと徳さんの夢だったんだから」
僕は言った。あまり力んだ口調にならないように注意しながら、平静な声で言った。
「夢、か……」
やがて、彼女がつぶやいた。
「1年に1度しかやって来ない大物を釣り上げる、か……。いいなあー、男の人って……」
と言った。
「そんなにかっこいいもんじゃないよ」
僕は、ちょっと照れて言った。
「根が単純なんだよ」
と言った。
「でも、なんとかして、その大物を釣り上げるんでしょう?」
と彼女。僕は、うなずいた。
「なんとかして、釣り上げる。いや……釣り上げようと思う」
僕は言った。
□
「よお、この色男」
という声がした。燃料タンクにガソリンを入れていた僕は、顔を上げた。
啓介が立っていた。
啓介の家が経営しているガソリン・スタンド。僕は、ボートのための燃料を買いに来たところだった。
10リットル入りの燃料タンクを、トラックの荷台からおろした。若いニキビ面《づら》の店員に手伝ってもらって、タンクにガソリンを注いでいた。
気がつくと、啓介が立っていた。この前と同じように、ニヤニヤしている。
「オレがクルマに女を乗せてたのが、そんなに珍しいか?」
と僕は訊いた。
「ああ、珍しいね。しかも、あんなに美人とはね」
啓介は言った。
「どこで見つけてきたんだよ。彼女、ほかに女の友達いないのか? いたらオレにも紹介しろよ。ガソリン代、まけてやるぜ」
と啓介。ぺらぺらとしゃべりまくる。
美人……。啓介にそう言われて、僕は、あらためて気づいた。そうだ……。彼女は、きれいな顔立ちをしていたのだ。
洗いざらしのTシャツに、素顔。そんなイメージが、とりあえず目につくけれど、よく思い返せば、彼女は、かなり美人だと言えるだろう。
僕は、もう1度、彼女の顔立ちを思い浮かべていた。
そして、ちょっと、ドキリとしていた。
最初に出会った日、彼女は、まるで素顔だった。なんの化粧もしていなかった。
けれど、翌日。彼女は、うっすらとだけど、口紅をつけていた。淡いピンク系の口紅をつけていた。
そのことを、僕は思い出していた。
出会って2日目。彼女は、それまでつけていなかった口紅をつけて、入江まで僕を出迎えに来たのだ。
ということは、僕を、男として意識しているということだろうか……。いや、たぶん、まちがいなくそうだろう。
僕は、それについて、あれこれと考えていた。ふいに、啓介の声がした。
「あのさあ……達也。どうでもいいけど、そのニタニタした笑いは、やめてくれないかなあ」
と啓介。僕は、ハッとして、顔を引きしめた。
□
つぎの木曜。3日ぶりに、彼女が東京から葉山にやって来る日だった。朝から、僕はなんとなく落ち着かなかった。
それでも、海は凪いで絶好の釣り日和《びより》だった。僕は、マヒマヒ号を出した。沖のブイをめざして走った。
ゴールデン・ボスの姿はまだ見えなかった。けれど、6匹のマヒマヒを釣り上げることができた。
僕は、マヒマヒを2匹、キープして入江に帰った。
彼女は、入江には迎えに来ていなかった。個展が近いので、作業が追い込みに入っているのだろう。
僕は、マヒマヒを入れたクーラー・ボックスをトラックに積んで、彼女の別荘に向かった。
門の中にトラックを入れ、おりた。庭の方に回って行った。
予想どおり、彼女は、作業のまっ最中だった。30センチぐらいの高さの彫刻に取り組んでいた。僕に気づくと顔を上げ、
「あっ」
と言って、笑顔を見せた。その頬に、油のような汚れがついていた。彼女は、何か、工具を持っていた。まるで、作業中の工員さんという感じだった。
「ごめんなさい、作業中なの」
と彼女。
「ああ、いいよ。後で、マヒマヒ食うだろう?」
「うん。あと2時間ぐらいしたら」
「了解。じゃ、のんびり料理をはじめるよ」
僕は言った。クーラー・ボックスを部屋に運び込んだ。マヒマヒをさばきはじめた。
僕は男だから、複雑な料理は得意ではない。けれど、マヒマヒはもともと上質な白身だし、新鮮だから、どう料理しても、まずいはずはない。
今日は、1匹を刺身にして、1匹はホイル焼きにすることにした。両方とも手のかからない、どちらかといえば男の料理だろう。僕は、包丁を使いはじめた。たそがれ近いキッチン。窓からは松林ごしの夕陽とセミの声が入って来る。
□
1時間半ほどして、
「やれやれ」
と彼女の声がした。彼女は、工具を置くと、立ち上がった。
「お腹すいちゃった」
と言った。
「いつでも食えるぜ」
僕は言った。
「ありがとう。でも、その前に、シャワーを浴びてくるわね」
彼女は言った。そして、奥へ入って行った。
20分ぐらいして、彼女は戻ってきた。汚れていた顔は、きれいに薄くお化粧をしていた。この前と同じ、淡いピンク系の口紅だった。陽灼けしている彼女には、それが、よく似合っていた。さっきまで着ていた汚れたTシャツも、シンプルなサマー・ドレスに着替えていた。トロピカルな花柄のコットン・ドレスだった。肩と胸が、大胆に見えていた。すれちがうと、かすかにいい匂いのコロンが香った。
僕の胸は、ドキドキと高鳴っていた。どこか上の方から、徳さんの声がきこえてくるような気がした。
〈落ち着きなさい、達也しゃん〉
と、九州なまりで言う、徳さんの声がきこえてくるような気がした。
〈男だったら、下腹に力を入れて、落ち着きんしゃい〉
と、徳さんが言っている。僕は、腹にぐっと力を入れる、大きく、深呼吸をした。冷蔵庫で冷やしておいた、マヒマヒの刺身を出した。
「へえ……マヒマヒって、お刺身で食べられるんだァ……」
彼女は、ちょっと驚いたような声を出した。
「ああ、けっこういけるよ」
僕は言った。自分の声が落ち着いているので、安心した。
「お疲れさま」
のビールで、僕らの夕食は、はじまった。彼女は、マヒマヒの刺身を口に運ぶと、
「……おいしい……」
と、つぶやいた。お世辞じゃないことは、口調でわかった。
□
「たぶん、今夜は徹夜になるわ……」
食事をしながら、彼女は言った。
「大変だなあ」
「でも……がんばらなくちゃ……。個展のできるチャンスなんて、そうそうめぐってこないしね……。成功させたいわ……」
彼女は言った。
「けっこう、切実な感じなんだなァ……」
「そうねえ……」
うなずきながら、彼女は、つぶやいた。
「周囲からのプレッシャーが、かなりあるのよねえ……」
「プレッシャー?……」
「そう……。彫刻なんかで食えるわけないんだし、早くあきらめろっていうプレッシャーね」
「そうか……」
僕も、うなずきながら言った。
「月曜から水曜まで仕事に行ってるデザイン会社の社長さんも、正社員になれって言うしねえ……」
「正社員に?」
「そう。週3日のバイトじゃなくて、完全な正社員になれって、すすめてくれるのよ。それはいいけど」
「いいけど?」
「その会社の正社員になったら、もう、彫刻をやる時間なんてなくなっちゃうしね……。ただの店舗デザイナーとしてずっと仕事をすることになっちゃうのよね」
「そこで、夢は、打ち切り?」
「……まあ、そういうことね。毎日、ラーメン屋の内装を考えたりする生活になるわけ」
「つまらないな……」
「でも……彫刻の方がどうしてもダメなら、しかたないのかもしれないしねえ……」
と彼女。軽く、ため息をついた。
僕は、ビールを彼女のグラスに注いだ。
「まあ、そんな心配をするより、個展が成功するようにがんばれよ」
僕は言った。
「ありがとう。がんばるわ」
彼女は言った。ビールのグラスを口に運んだ。オーディオからは、今井美樹の曲が低く流れていた。庭に向かって開け放したガラス扉から、風が入って来た。昼間の熱をかすかに含んだ夜の風だった。髪を束ねるために彼女が巻いているバンダナの端が、かすかな風に揺れた。
彼女が夢を賭けた個展が、3日後に迫っていた。
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6 メルセデスの男
□
「いよいよだな……」
会場を見回して、僕はつぶやいた。彼女は、無言で、うなずいた。
2日後。夜。
個展の会場である葉山マリーナ2階のギャラリー。
僕らは、トラックを使って作品の運び込みを終えたところだった。彼女の女友達も手伝って、作品は、きちんと展示されていた。
あとは、お客が来るだけ。そんな状態になっていた。作品たちは、息を止めて、明日のオープンを待っているような感じだった。
僕は、準備のととのった会場の中を、ゆっくりと歩きはじめた。ゆっくりと歩きながら、作品を1つずつながめていく……。
それぞれの作品には、タイトルがつけられていた。そして、展示即売するらしく、値段もつけられていた。
背の高さほどもある直線的な作品には、〈作品C――青銅の塔〉という作品タイトルがついている。
そのタイトルの下に、副題《サブ・タイトル》がついている。作品Cのサブ・タイトルは、〈直線は、無限の空間への飛翔をめざす〉というものだった。
この作品には、55万円の値段がつけられていた。
高さ50センチぐらいの曲線的な作品には、〈作品G――光の花冠〉という作品タイトルがついている。
その作品Gのサブ・タイトルは、〈双曲線は、生命の輝きを謳《うた》う〉となっている。
24万円の値段がつけられていた。
目覚まし時計ぐらいの小さな作品には、〈作品J――内包する四角形〉というタイトルがついている。
サブ・タイトルは、〈小箱は、未知へのエネルギーを内在させる〉。
4万8千円の値段がつけられていた。
□
その夜、彼女と別れ家に帰りながら、ふと考えていた。
彼女の作品と、タイトル、そして、サブ・タイトルのことだ。どこかで見たような感じがしていた。
しばらく考えて、思いついた。
そうだ。学園祭なのだ。学園祭のときにかかげられるテーマ……。その雰囲気が、彼女の作品のタイトルやサブ・タイトルに共通しているのだ。
そう考えると、彼女のことも、さらにはっきりとわかるような気がしてきた。
学生っぽさ……。それが、彼女のキャラクターの中心にある……。そのことを、僕は気づいていた。
はじめて会った時から、感じていた彼女の持っている空気感……。はっきりとは言えないけれど、なんとなく感じていた彼女のキャラクター。
それが、学生っぽさであることに、僕はいま、はっきりと気づいていた。
だから、2つ年下の僕から見ても、あまり、年上のお姉さんという感じがしない。
そういうことらしかった……。
僕は、ひとり、うなずきながら、ステアリングを握っていた。
□
翌日。昼過ぎ。
僕は、個展の会場に行った。彼女が昼食の休憩をとる間、僕がかわりに受付をすることになっていた。
葉山マリーナ。その建物の2階が会場だ。階段の登り口に〈木下由紀子 個展 オブジェたちの実験〉という文字が見えた。
階段を上がると、そこがもう、会場の入口だった。僕は、早足で階段を上がって行った。いつものショートパンツ、ビーチサンダル姿よりは、ましなかっこうをしていた。ジーンズをはき、K・スイスの白いスニーカーをはいていた。
2階に上がった。
入口に近いところに受付の机があり、彼女が座っていた。彼女は、半袖《はんそで》のブラウスに、細かい花模様のスカートをはいていた。
会場は、ガランとしていた。
客の姿は、ない。作品たちは、ひっそりと息をひそめている、そんな雰囲気が漂っていた。
彼女は、読んでいた文庫本から顔を上げた。
「客……まだみたいだな……」
僕は言った。彼女は、うなずいた。
「はじまったばっかりだもんな」
僕は言い、彼女と受付を替わった。彼女は、昼の休憩に行った。
僕が受付にいる1時間の間、会場に入ってきたお客は、3人だけだった。
その1人は、初老の男の人だった。ちょっと入ってみたという感じだった。あまり興味なさそうに、会場をひとまわりする。作品Cの前で、首をひねった。そして、出て行った。
あとの2人は、カップル客だった。湘南デートの途中で、ブラリと寄ってみたらしかった。
カップル客は、作品を見ることより、自分たちのおしゃべりの方に熱心だった。キャッキャとおしゃべりをしながら、会場をひと回りすると、出て行った。
□
翌日も、翌々日も、そんな感じだった。
まともに作品を見ていく客は、ほとんどいなかった。暇つぶしに会場をひと回りしていく客か、湘南デートの途中に寄ったカップル客が、ほとんどだった。
当然、〈売約済〉の札は、1枚も使われていなかった。10枚以上用意されていた赤い札は、1枚も使われずにいた。
□
3日目。啓介が、会場にやって来た。僕がいる時間だった。
「まあ、ゆっくり見ていけよ」
僕は言った。啓介と一緒に会場を回りはじめた。
啓介は、〈作品J――内包する四角形〉の前で立ち止まった。
「どうだ」
僕は訊《き》いた。
「うーむ……」
と啓介。腕組みをして、〈内包する四角形〉を見ている。
「どう感じた?」
僕は訊いた。
「うーむ……」
と啓介。あい変わらず、腕組みしたままだ。
「うーむ、だけじゃわからないぜ。どうなんだよ」
「うーむ……」
啓介の返事は、あい変わらずだった。
「芸術は、難しいな……」
啓介は、つぶやいた。そして最後にもう1度、
「うーむ……」
と言った。
□
その客が来たのは、個展がはじまって6日目だった。
その日の夕方、僕は、会場に行ってみた。そろそろ、終わる時間だった。彼女が疲れているようだったら、夕食にでも誘って元気づけてやろうと思っていた。
会場に入って行く。
あい変わらず、お客はいなかった。彼女は、ひとり、受付に座って文庫本を読んでいた。
「やあ」
僕は声をかけた。彼女は、顔を上げた。その表情に、疲れの色が見えた。僕が何か言葉をかけようとした時だった。彼女が、
「あっ」
と言った。
1人の客が、会場に入って来た。
男だった。30歳ぐらいだろうか。紺のダブルブレストのブレザーを着て、グレーのスラックスをはいていた。趣味のいいストライプのネクタイをしめていた。
ひと目で、高級品だとわかる身なりだった。ヴィトンの小型バッグを、小わきにかかえていた。
「社長……」
と彼女が言った。相手の男は、
「よお」
と言って、彼女に笑顔を見せた。よく通るバリトンだった。
「鎌倉のお客のところまで来たついでに、寄ってみたんだ」
と男は言った。彼女は、うなずいた。そして、男を僕に紹介した。
「わたしがバイトしてる会社の社長の江崎さん」
彼女は言った。男は、ヴィトンのバッグから名刺入れを出す。そこから、名刺を1枚、とり出した。
「どうも」
と言って僕に渡した。名刺には、
〈店舗内外装デザイン EK企画 代表取締役社長 江崎|邦男《くにお》〉
と印刷されていた。
社長というにはあまりに若いのが意外だった。
けれど、同時に、胸の中でうなずいていた。その江崎という男が、いかにもやり手という雰囲気をみなぎらせていたからだ。
金のかかった身なり。すきのない身のこなし。強気な表情。どれをとっても、いかにも青年実業家というイメージそのものだった。
江崎は、むらなく陽灼けしていた。それは、僕ら地元の人間の灼け方とは、少しちがう。金のかかったスポーツ・クラブで陽灼けしたような感じだった。
「なんだ、ガラガラじゃないか」
と江崎は言った。声は、よく通るバリトンだった。
「それじゃ、ひと回り見てみるか」
江崎はそう言うと、会場を回りはじめた。彼女がついて回る。時どき、何か説明している。
江崎は、冗談をまじえながら、作品を見て回っている。その物腰は、自信にあふれていた。まだ若いのに人を使って会社を経営しているような人間とは、こういうものなんだろうと、僕は思った。
□
「じゃあ、まあ、ご祝儀ということで、1つ、買うか」
と江崎。彼女に言った。上着の胸ポケットに手を入れ、皮の札入れを取り出した。1万円札を何枚か、引き抜いた。
□
結局、江崎は、〈作品K〉を買った。高さ20センチぐらいの小さな作品だった。彫刻とも、彫金の作品とも言える、そんな小品だった。値段は、3万2千円だった。彼女は、赤い〈売約済〉の札を、その作品の前に貼《は》った。個展がはじまって、はじめて貼られる〈売約済〉の札だった。彼女が札を貼り終わると、
「もう、今日は終わりだろう。飯でも食いに行こう」
と江崎が彼女に言った。彼女が、うなずいた。
□
30分後。僕がピックアップ・トラックで走っていると、江崎と彼女の姿が見えた。フランス・レストラン〈ラ・セーヌ〉の前だった。レストランのわきに駐めたメルセデス300Eから、2人がおりたところだった。メタリック・シルバーの車から、江崎と彼女はおりる。〈ラ・セーヌ〉に入って行った。僕は、スピードを落とさず、走り過ぎた。
そのまま、啓介のガソリン・スタンドに寄った。オイルが減っていたので、店員に1リットルほど入れてもらっていた。
「よお、達也」
と声がした。啓介が、アイスキャンディーをしゃぶりながら歩いて来た。
「ついさっき、彼女が、男の運転するピカピカのベンツに乗っかって、ガソリン入れに寄ったぜ」
と言った。
「ああ、知ってる」
僕は言った。その相手が、彼女とどういう関係なのか、啓介に話した。きき終わった啓介は、
「ふうん……社長ねえ……」
と言った。意味ありげに、ニヤニヤしている。
「何、ニヤニヤしてるんだよ」
「いや……」
と啓介。それでも、あい変わらずニヤついている。アイスキャンディーをなめながら、
「ああいう青年実業家風のやつってのは、けっこう女にもてるからなあ……。達也としても、気になるだろう?」
と言った。
「別に、気にならないけどな」
僕は言った。それは、本心だった。
自分が彼女を夕食に誘ってもいいと思っていたから、ちょっと拍子抜けしたのは本当だった。
けれど、あの江崎という社長に対して、反発とか嫉妬心《しつとしん》は、ひとかけらも感じなかった。僕は、メルセデスもヴィトンのバッグも欲しいとは思わない。この真夏に、紺のブレザーを着込みたいとも思わない。女の子をフランス・レストランに連れて行こうとも思わない。
社長業ということに関しても、そうだ。僕の父親は、まがりなりにも人を使う仕事をしている。人を使うことの苦労を近くで見て育ったから、僕自身は、人を使う仕事なんか、まっぴらだと思う。たぶん、そういう立場にはつかないだろう。
ようするに、人それぞれの好みの問題なのだと思う。僕は、とにかく、自由でいたい。海に出て、思いきり、ルアー・フィッシングをしたい。1年中が夏だったら、もっといい。僕の望むことは、それだけだ。
ニヤニヤ笑いしている啓介に、
「じゃあな」
と言うと、僕はトラックを出した。
□
数日後。彼女の個展が終わった。
最終日。僕らは、作品をトラックに載せて、彼女の別荘に戻って来た。洋間のすみに、作品を置いて、ほっとひと息ついた。もう、夜の10時過ぎだった。
結局、個展に、まともなお客は、ほんの少ししか来なかった。作品を買ってくれたのは、あの社長だけだった。〈売約済〉の札は、1枚しか使わなかった。
「いやあ、まいったわ」
と彼女。冷蔵庫を開け、缶ビールを2つ出して来る。1缶を僕に渡した。僕は、缶ビールのトップをプシュッと開けた。作品を運ぶのに汗をかいた。ノドが乾いていた。
「それじゃ、大失敗だった個展に、乾杯!」
彼女は、カラッとした表情で言った。ちょっと無理してつくった笑顔に見えた。けど、とにかく、僕らは乾杯し、ビールをノドに流し込んだ。
彼女の肩が、小刻みに震えていることに気づいたのは、その5分後だった。
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7 涙は5月の雨のように
□
ソファーに腰かけている彼女。その肩が、小刻みに震えていた。斜めむこうを向いているので、表情は見えない。
「どうした」
僕は言った。彼女のとなりに腰をかけた。彼女の肩に、片手を置いた。彼女の震えが伝わって来る……。どうやら、彼女は泣いているらしかった。
肩の震えが、少しずつ大きくなる。やがて、彼女は向きなおる。僕の肩に、顔をうずめた。そして、泣きはじめた。
僕は、泣いている彼女を、そのままにしておいた。片手で彼女の肩を抱いたまま、そっとしておいた。
何か、なぐさめの言葉をかけようとも思った。けれど、へたになぐさめの言葉をかければ、かえって彼女を傷つけてしまうだろう。黙って泣かせておくのが一番よさそうだった。
10分か15分、彼女は、ずっと泣いていた。
静かな泣き方だった。若葉をしっとりと濡らす5月の雨のような涙だった。
静かに、それでも絶え間なく、彼女は泣いていた。
やがて、雨が小降りになるように、涙の勢いは弱くなった。雨がやみ、雲の間から晴れ間が出るように、彼女の泣き声はやんでいった。
グズッ、グズッとすすり上げながら、彼女は口を開いた。
「ごめんなさい」
と言った。僕は、彼女の肩を抱いたまま、
「いいんだ。泣きたいだけ泣けよ」
と言った。彼女は、うなずく。もう、涙は止まっている。それでも、僕の肩に、頭をもたれかけたままでいた。しばらくして、彼女は、ぽつりと言った。
「やっぱり、ダメだったのね……」
と言った。
「ダメだったって?……」
僕は、訊《き》きなおした。
「……ああいう、抽象的な彫刻……やっぱり、受け入れてもらえなかったのね……」
と彼女。
「ああ……そういうことか……」
僕は、つぶやいた。
「確かに……ああいう彫刻に価値を見出して、それを買おうって客は、少ないんだろうなあ……。彫刻の良し悪しに関係なく、ああいうものを誰かに買わせるってのは、難しそうだよな……」
僕は言った。
「そうね……。きっと、そうなのね……」
うなずきながら、彼女は言った。そして、しばらく、無言でいた。何か考えているようだった。やがて、ぽつりと言った。
「ああいう抽象的なものが受け入れてもらえないことは、はっきりとわかったけど……」
「けど?」
「だからといって、これから何をつくったらいいのか……わたしには、まるでわからないわ……」
と彼女は言った。
「まるで、わからないわ……」
と、つぶやくようにくり返した。
「まあ……個展が終わったばっかりなんだし……しばらくは、のんびりしたらいいんじゃないか」
僕は言った。
「何もかも忘れて、のんびりしろよ」
「……そうねえ……」
彼女は、うなずいた。
「そうだ。船で海へ出ないか?」
僕は言った。
「海へ?」
「そう。船で、海の上を走るんだ。きっと、いい気分転換になるぜ」
「そうね……。きっと、気が晴れるかもしれないわね……」
と彼女。
「ああ……。気分が爽快になることは、確かだ。さっそく、明日でも、天気が良かったら行こう」
僕は言った。彼女は、僕の肩に頭をのせたまま、うなずいた。
□
翌日は、快晴だった。
約束どおり、彼女を海に連れていくことにした。朝の9時に、彼女を迎えに行った。彼女は、ショートパンツ、Tシャツ姿で出て来た。
ほんの少し、眼のまわりが腫《は》れぼったい。けれど、彼女は快活な表情をしていた。
「お昼のオニギリ、つくっておいたわ」
と明るい声で言った。僕らは、飲み物と食料をクーラー・ボックスにつめ、入江に行った。
荷物を船に積み込みはじめる。もう、陽射しは、肌に熱かった。
ショートパンツが濡れる深さまで水に入らないと、船には乗れない。彼女のパンツが濡れそうな深さまで来ると、僕は彼女を抱き上げた。抱き上げて、船に乗せた。彼女は、クスクスと笑っている。花の匂いのオーデコロンが、かすかに香った。
荷物と彼女を船に積み込むと、僕は船のエンジンをかけた。20馬力の船外機《エンジン》は、調子のいい回転音を響かせはじめた。
舫《もや》い綱を解く。ギアを前進に入れる。船《ボート》は、ゆっくりと動きはじめた。防波堤をかわして、入江を出た。僕は、エンジンのスロットルを開いた。
ボートのスピードが上がっていく。海面を滑るように突っ走りはじめた。彼女は、髪を風になびかせて、
「気持いい」
と言った。向かい風に眼を細め、水平線を見つめている。
□
1時間ほど走り回ると、ただ走るのにはあきてしまう。
ルアー・フィッシングをやってみることにした。僕は、ボートを、いつものブイに近づけて行った。
ルアー・フィッシングの道具を出し、彼女に釣り竿《ロツド》を渡した。
彼女に、リールの使い方、|釣り竿《ロツド》の振り方を教える。彼女は、熱心に、道具の使い方を聞いている。
僕は、|釣り糸《ライン》の先に、7センチのルアーをつけた。ブルー系のミノー・プラグだ。それを、彼女に投げさせる。
「あのブイの近くまで投げて、ルアーを引いてくるんだ」
僕が言い、彼女がロッドを振った。
1投目は、失敗。ルアーはあまり飛ばず、4、5メートル先でポチャリと水に落ちた。
2投目。今度は、うまくいった。ルアーは、ブイの2メートルほど左に飛んでいく。水に落ちた。
彼女は、リールを巻きはじめた。1回、2回、3回、4回、5回、6回、7回……その時だった。
|釣り糸《ライン》がピンと張った。|釣り竿《ロツド》の先が、ぐいと曲がった。
「なんか、引っかかった!」
彼女が叫んだ。
「引っかかったんじゃない! 魚が、かかったんだ!」
僕は叫んだ。彼女の握っている|釣り竿《ロツド》。その先が、ブルブルと震えている。マヒマヒがかかったらしい。
「どうすればいいの!? 」
と彼女。ロッドを握って叫んだ。ロッドの曲がり方からして、それほどの大物じゃなさそうだった。彼女でもやり合える大きさの魚だろう。
「竿を立てて」
僕は、落ち着いた声で言った。彼女は、ブルブルと震えているロッドを立てようとする。なんとか立った。
「ゆっくりでいいから、リールを巻いて」
僕は言った。彼女は真剣な表情で、リールを巻きはじめた。1回、2回、3回、4回……。
やがて、魚がボートの近くまで引き寄せられてきた。やはり、マヒマヒだった。
海面近く。マヒマヒがジグザグに泳ぐ。腹の金色が、水中で輝く。金色の輝きが、水中で左右に走る。
彼女は、必死な表情でリールを巻いている。マヒマヒが、どんどん、ボートに近寄って来た。
すぐ船べりまで、魚が近寄って来た。僕はもう玉網《ネツト》を握っていた。
マヒマヒが、手の届くところまで近づいた。その瞬間、僕はネットを水中に入れ、マヒマヒをすくい上げた。
□
「びっくりしたわ……」
と彼女。ハアハアと肩で息をつきながら言った。
僕らの足もとには、いま釣り上げたばかりのマヒマヒがいた。バタバタと、はねていた。60センチぐらいのマヒマヒだった。食べごろのサイズだろう。
「記念すべき1匹目だから、こいつは持って帰って食べよう」
僕は言った。彼女は、うなずいた。
彼女の顔は、汗びっしょりだった。
僕らは、クーラー・ボックスから缶のCOORS《クアーズ》をとり出す。1匹目のマヒマヒに、乾杯した。
陽射しで熱くなった体に、冷たいビールが浸《し》み込んでいくみたいだった。僕らは、1缶目のCOORSを、あっという間に飲み干した。
2缶目を開ける。彼女も、やっと、ひと息ついたようだった。
□
「ルアーって、きれいなものね……」
缶ビールを片手に、彼女がつぶやいた。
僕らのそばには、道具《タツクル》ケースがあった。ケースの中には、ルアーがいっぱい並んでいた。ミノー・タイプのもの。メタル・ジグ。ホッパー・タイプのもの。スプーン・タイプのもの。いろいろなルアーが並んでいた。
「これなんか、わたしにもつくれそうね……」
彼女は言った。1個のルアーを手に取った。それは、メタル・ジグと呼ばれるタイプのものだった。金属でできたルアーだった。
「彫刻家につくってもらったルアーなんて、いいかもしれないなァ……」
僕がつぶやいた、その時だった。
すぐ近くの海面。金色の帯が、水中で光った。
「ん!? 」
僕は、思わず身をのり出した。水中をのぞき込んだ。
3、4秒後。水中で、金色がきらめいた!
「あいつだ!」
僕は叫んでいた。
まちがいない。いまボートのそばを泳いでいるのは、ゴールデン・ボスだ! あの大きさ。あの、悠々とした泳ぎ方。まちがいない。
「今年も、やって来たんだな」
僕は、声に出していた。同時に、もう、|釣り竿《ロツド》を握っていた。
「釣り上げてやる」
と言った。|釣り糸《ライン》の先に、新しいルアーを結びつけた。大物のゴールデン・ボスを釣り上げるためのルアーだ。
まず、9センチのミノーを結びつけた。赤と白のシンキング・ミノーだ。
それを、さっきボスがいたあたりに投げた。引いて来る。当たりは、ない。
もう1度、投げる。引いて来る。やはり、当たりは、ない。
〈がんばりんしゃい〉
と、空の上で徳さんが応援している声が、きこえた。
僕は、赤白のミノーを5回投げて、あきらめた。ルアーを変えることにした。
全体に銀色のミノーに変えた。腹の方が銀色で、背が青みがかったルアーだ。それを、|釣り糸《ライン》の先端に結びつける。
投げた。ルアーが、30メートルぐらい先の海面に落ちた。
引いて来る。リールを巻いて、ルアーを引いて来る。
20メートル……10メートル……7メートル……。水中を泳いで来るルアーが見えた。
その後ろに、金色の光!
ボスだった! やつが、ルアーを追って来る!
〈喰《く》いつけ!〉
僕は、胸の中で叫んでいた。叫びながら、リールを巻く。
ルアーが、近づいて来る。そのすぐ後ろに、ボスの姿!
けど、ボスは、ルアーに喰いつかなかった。プイッとルアーにそっぽを向く。体をひるがえした。
金色が、水中できらめいた。ボスは、体をひるがえして水中へ消えた。
ルアーだけが、むなしく、ボートのへりまで泳いで来る。
僕は、ルアーを水から抜き上げた。
「もうちょいだったのにな……」
と、手の中のルアーをながめて、つぶやいた。
すぐに、別のルアーに取り替える。ボスのいる方向に、投げた。
□
結果は、同じだった。
新しいルアーを投げると、ボスは、それを追いかけて来る。けれど、喰いつきはしないのだ。
2回目は、もう、追いかけても来なくなる。
僕は、さまざまなルアーを投げてみた。
メタル・ジグ。フローティング・ミノー。シンキング・ミノー。ホッパー。バイブレーション。
どれを投げても、ボスは、喰いついて来なかった。ただ追いかけて来るだけだった。
「もうちょっとなのに、おしいわね」
と彼女も、となりで言った。彼女も、身をのり出して、ルアーを追いかけてくるボスの姿を見ている。
「ダメだなあ……」
やがて、僕は、声に出していた。
「ボスのやつ、どのルアーでも、ニセ物だって見破っちゃうんだ」
僕は言った。
「見破っちゃう?」
と彼女。
「ああ……。ルアーが、つくりものであって、本物の魚じゃないって、見破っちゃうんだと思う。だから、追いかけてきても、喰いつかないんだ」
僕は言った。
「そのぐらい勘《かん》がいいから、あいつは、あそこまで大きくなったんだと思う。いままで、釣り鉤《ばり》にかからずに成長してきたのは、頭と勘が良かったからなんだよ、きっと」
と僕。
「たぶん、そうなのね……」
彼女も、つぶやいた。
僕は、眼を細めて、海面を見つめていた。やつは、ボスは、すぐ近くにいる。けれど、僕はもう、新しいルアーを持っていなかった。持っているルアーは、みな、投げてしまっていた。
「ちっくしょう……」
と、僕は海面を見つめて、つぶやいた。真夏の陽射しが、まぶしく、海面に反射していた。
□
「ねえ……」
と彼女。
「わたしに、ルアーをつくらせてくれない?」
と言った。
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8 夏を駆け抜けて
□
「ルアーを、君が?……」
僕は、思わず訊《き》き返していた。
夜の8時。彼女の別荘。
僕らは、マヒマヒのフライをつくり、ビールを飲みはじめたところだった。
「さっきは冗談半分に、〈わたしにもつくれそう〉なんて言ったけど、なんか……本当につくってみたくなったの」
彼女は言った。
「……金属でならわたしにもつくれるわ……。どうかしら?」
と言った。
「そりゃまあ……」
僕は、ちょっと口ごもった。
「あっ、どうせたいしたものをつくれないと思ってるんでしょう」
「そんなことないよ」
「じゃ、わたしにつくらせてみてよ。あのボスを釣り上げるためのルアーを」
彼女は言った。ビールを、ぐいと飲んだ。
「そりゃいいけど……。なぜ急に、そんな気になったんだい」
僕は訊いた。彼女は、しばらく考えている。やがて、口を開いた。
「さっきのあなたを見てたら、そんな気になったの」
「さっきの?」
「そう……。さっき、ボスを釣ろうとしている時のあなたを見てたら……」
「あの時は、夢中だったからなァ……」
僕は、つぶやいた。彼女は、うなずいた。
「そう……。あなたは、まるで10歳の少年みたいに夢中で魚を追っていたわ。何もかも忘れて、夢中で……」
と彼女は言った。
「……わたし、釣りなんて自分にはまるで関係ないと思ってた。……でも、さっき、少年みたいに眼を輝かして竿を振っているあなたの姿は、まぶしかった」
と彼女。
「そう……。ちょっと、まぶしかったわ……」
「…………」
「だから、わたしも、ちょっと参加してみたくなったの。あなたと一緒に、夢中になってみたくなったの……。どう? ダメかしら?」
彼女は言った。僕は、しばらく無言でいた。彼女が言ったことを、考えていた。
個展が失敗して落ち込んでいる彼女。
その彼女にとって、ルアーをつくることが、少しでも気分転換になれば……それはいいことにちがいない。
「……わかったよ」
僕は言った。
「じゃ、ルアーをつくってもらおうか。彫刻家にルアーをつくってもらうのなんて、めったにできることじゃないしな」
と言った。
「それもそうだし、世界にただ1個しかないルアーってことになるわ」
彼女は言った。ニコリとした。
僕と彼女の夢が、はしりはじめた。僕と彼女の、ただ1度の夏が、はじまろうとしていた。
□
「ところで、なんの魚をモデルにしてルアーをつくったらいいの?」
彼女が訊いた。
「そりゃ、いつもマヒマヒが食べてる小魚をモデルにするのが一番いいだろうなあ……」
「じゃ、マヒマヒがいつも食べてるのは?」
「おおむね、鰯《いわし》だな。釣ったマヒマヒの腹を裂くと、イワシが出てくることが多いからなあ」
「イワシって……スーパーなんかでも売ってる真《ま》イワシ?」
「いや、あんな大きな真イワシじゃない。もっと小型の片口イワシ、つまりアンチョビーっていうやつが多いな」
「片口イワシか……それは、どこで手に入るの?」
「自分で釣って来るしかないな。さっそく、明日でも、釣りに行こう」
僕は言った。
□
翌日。夕方。
入江の南側にある突堤に僕らはいた。コンクリートの突堤。その先端に立ち、イワシを釣ろうとしていた。
仕かけは、〈サビキ〉と呼ばれるものだ。ワカサギ釣りなどにも使う。小さな金色の鉤《はり》が沢山ついている仕かけだ。
柔らかい釣り竿の先に、そのサビキ仕かけを結ぶ。鉤を、海中に入れた。水中の鉤が、夕陽をうけてキラキラと輝いている。
やがて、イワシの群れが回って来た。釣り竿が、ピクピクと動く。イワシが、鉤についたのだ。
イワシは、金色の鉤をエサか何かと思って喰《く》いついてくるらしい。だから、エサなしで、いくらでも釣れるのだ。
僕は、竿を上げた。10本の鉤に、3、4匹の片口イワシがついていた。銀色のイワシは、陽射しをうけて、ナイフの刃のように光っていた。
僕は、イワシを鉤からはずし、ポリバケツに入れた。その1匹を手にとった彼女が、
「きれい……」
と、つぶやいた。
□
「気づかなかったわ……」
と彼女。イワシをじっとながめて、つぶやいた。
「イワシが、こんなにきれいだったなんて……いままで気づかなかったわ……」
と言った。
夜7時。彼女の別荘。僕らは、釣ってきたイワシを前にしていた。彼女は、1匹のイワシを、小皿にのせ、それをスケッチしていた。
イワシの姿をもとにしてルアーつくるために、細かくスケッチしていた。
「いままで、この葉山にしょっちゅう来ていたのに……。すぐそばで釣れるイワシが、こんなに美しい造形だったなんて……まるで気づかなかった……」
彼女は、スケッチする手を止めて、そうつぶやいた。
「とんだ、灯台もと暗しね……」
□
それから、僕らの真夏がはじまった。
月曜から水曜まで、彼女は東京にいて、店舗デザインの会社でバイトをする。木曜になると、彼女は葉山にやって来た。そして、1匹の魚をつくりはじめた。
セミの鳴き声をシャワーのように浴びて、彼女は、ルアーをつくりはじめた。僕は、それを近くで見ていた。
ルアーをつくる作業は、僕が想像していたより、はるかに大変な仕事だった。
まず、彼女は、地金になる銀をプレスして、1枚の銀板をつくった。
地金になる銀は、スターリング・シルバーと呼ばれるものだった。彼女によると、それは、銀の食器などに使われるものだった。
スターリング・シルバーは、〈925〉とも呼ばれている。つまり、92・5%が銀で、残りの7・5%が銅だという。
100%の純銀だと、弱すぎて、曲がったり削れたりしてしまう。そのため、92・5%のスターリング・シルバーがよく使われるのだという。
スターリング・シルバーでルアーをつくれば、丈夫さという意味ではOKだろうと彼女は言った。
それに、スターリング・シルバーの光り方だと、水中でイワシのように見えるだろうとも、彼女は言った。
僕と彼女は、そんな相談をしながら、1個のルアーをつくっていった。
銀の板に、イワシの形を描く。その形に、糸ノコで板を切り抜く。
糸ノコで切られた原形を、いろいろなヤスリで削っていく……。
そんな細かい作業を、彼女は、黙々とやっていた。それは、彫刻というより彫金と呼ぶ方が似合っているのだろう。けれど、彼女は楽しそうに作業をやっていた。
作業に疲れると、僕と彼女は、海に行った。
一色の海水浴場に行った。熱い砂の上に寝転がって、日光浴をした。海の家でカレーを食べた。波間に浮かんでは、頭上の夏雲を見つめた。
僕らは、まるで10代の少年と少女だった。泳いだ。走った。笑った。陽射しはいつも熱く、僕らの影は、濃く、短かった。
□
それは、8月後半に入った日のことだった。
その年はじめての台風が、関東地方をかすめようとしていた。湘南でも、荒れもようの天気だった。
強い風が吹き、パラパラとした雨が、横なぐりに叩きつけていた。
夜の10時過ぎだった。自宅にいた僕に、電話がかかってきた。彼女からだった。
「いま、うちに来られない?」
彼女が言った。その声が、緊張していた。
「どうしたんだ」
「なんか、変な物音がするの」
「物音? どこで」
「2階」
「わかった……。すぐに行く」
僕は言って、電話を切った。トラックのキーを机の上から取った。
すぐに、彼女の別荘に行った。別荘は停電していた。
彼女は、1階のいつもの部屋にいた。ローソクの灯をつけていた。
「物音は?」
僕は訊いた。
「まだ、してるわ」
彼女は言った。その表情が、硬い。
「お化けかしら……」
と彼女。
「まさか」
僕は、笑いながら言った。トラックから持ってきた懐中電灯を手に、階段の下まで行った。
2階へつづく階段を照らしてみた。お化けらしいものの姿は、見えなかった。けれど、確かに、何か、カタカタという音がしていた。
彼女は、僕のすぐわきにいた。僕の片腕を握りしめていた。
「なんでもないよ。風で、網戸かなんかが、ガタガタいってるだけだろう」
僕は言った。なんといっても、古い別荘だ。これだけ風が強ければ、どこかがガタガタといわなければ不思議なぐらいだった。
「お化けなんかじゃないよ」
僕は、微笑いながら彼女に言った。けれど、彼女は、あい変わらず、蒼《あお》い顔をしている。
□
結局、その夜、僕は彼女の別荘に泊まることになった。
家は停電していたし、2階では、あい変わらずガタガタという音がしていた。おまけに、古めかしい別荘だ。気持ちのいい夜ではないだろう。
僕らは、1階の部屋のソファーで、ひと晩をすごすことになった。
テーブルでは、ローソクが燃えている。僕らはソファーに座り、カルーアのオン・ザ・ロックを飲んでいた。
外では、風が鳴っていた。雨粒が、パラパラと窓ガラスに叩きつけていた。僕らは、古いソファーに座り、カルーアのオン・ザ・ロックを飲んでいた。電池が入っているらしいラジカセからは、E《エルトン》・ジョンの懐しいバラードが流れていた。
「ローソクの灯って……なんだか、気持ちを落ち着けてくれるわね……」
彼女が、ぽつりと言った。僕は、うなずいた。
僕らは、とりとめのない話を、ぽつりぽつりとかわしていた。ふと、
「わたし、ね……このルアーをつくりはじめて本当によかったなって思ってるの……」
と彼女が言った。
「よかった?……」
「そう……」
彼女は、つぶやいた。しばらく無言でいた。やがて、ぽつっ、ぽつっと話しはじめた。
「……わたし……抽象的な彫刻ばかりつくってきたでしょう……。でも……そんな自分に、どこか満足してなかった……。これが本当に自分のつくりたいものなのかどうか、自信がなかった」
「…………」
「でも……いま、ルアーをつくりはじめてわかったの……。すごくリアルな魚の形をつくりはじめてわかったの。これは、とても、自分にとって楽しい作業だってことが、わかったの」
「…………」
「いままで抽象的な形の彫刻をつくっていた時は、こんな気分にならなかったわ」
「…………」
「結局、自分が本当につくりたかったのは、魚や、貝や、そんなものをリアルに形づくった作品だった……。そのことに、やっと気づいたの」
「…………」
「でも……ちょっと、遅すぎたのかもしれないけど……」
「遅すぎた?」
僕は訊きなおした。
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9 そして、初秋
□
「遅すぎたって、どうして……」
僕は、つぶやいた。彼女は、じっと、ローソクの灯を見つめていた。
「いま、バイトでいってる店舗デザインの会社あるでしょう?」
「ああ……」
「あそこの社長から、正社員になれって言われてるの」
彼女は言った。
「ああ、そうだったなあ……。正社員になるってことは……」
「……正社員になるってことは、1週間ずっと、そこで仕事をすることになるし……そうなると、ここに来て彫刻や彫金をやる時間なんて、なくなると思うの……」
彼女は言った。
「もう、決めたの?」
僕は訊いた。彼女は、首を横に振った。
「まだ、決めてはいないわ……。迷ってるの……」
と、つぶやいた。しばらく、じっと、ローソクの炎を見つめていた。やがて、ぽつりと言った。
「どうなるにしても、このルアーだけは、きちんとつくり上げるわ」
と言った。僕は、なんと言っていいか、わからなかった。カルーアのグラスを、そっと口に運んだ。外では、あい変わらず、風が吹いていた。雨が窓ガラスを叩いていた。
□
翌日。台風は、関東地方をかすめて去った。青空が広がった。
また、夏の太陽が顔を見せた。けれど、それはもう、真夏のものではなかった。
あい変わらず、空は青かった。陽射しは、まぶしかった。けれど、それは、3日前とは、微妙にちがっていた。
吹いてくる風の中に、ほんのかすかだけれど、ひんやりと湿った秋の匂いがする。かすかだけれど、夏の終わりの香りがするのだった。
彼女のルアーづくりは、仕上げにかかっていた。
魚の形は、完璧にでき上がっていた。彼女は、小さなノミのような道具を使い、魚にウロコのような模様を彫っていた。
そんな日の午後だった。僕のところに、意外な客があった。
□
午後の4時頃だった。
ボートから上がった僕は、家にいた。使い終わった釣り道具を水洗いしていた。そこへ、店員の女の子がやって来た。
「あの……達也さんにお客さんです」
と言った。
「客?」
僕は、首をひねりながら言った。タオルで手を拭《ふ》きながら、店に出て行った。
店先にいたのは、あの江崎だった。彼女が仕事をしている店舗デザイン会社〈EK企画〉の社長だった。
江崎はきょうも、ネイビーのブレザーを着て、渋い色のネクタイをしめていた。
「やあ、私のことを、覚えているかな?」
と江崎。僕は、うなずきながら、
「もちろん」
と言った。
「ちょっと時間あるかな?」
と江崎。僕は、うなずいた。
□
10分後。僕と江崎は、海岸通りにあるコーヒー・ショップで向かい合っていた。夜は、スパゲティ屋になるコーヒー・ショップだった。
僕はアイス・ティー、江崎はアメリカン・コーヒーを前にしていた。
「時間を無駄に使いたくないんで、単刀直入に話そう。彼女、木下由紀子のことで、相談があるんだ」
と江崎。
「君もきいているかもしれないが、彼女に、うちの正社員になるように、私はすすめているんだ」
と言った。僕は、うなずいてみせた。
「彼女も、ほとんどその気になっている。ちょっとしたこだわりをのぞいて、なんの問題もないんだ」
江崎は言った。
「こだわり?」
僕は訊いた。今度は、江崎がうなずいた。
「彼女はまだ、彫刻や彫金の仕事をやることにこだわっているんだ」
と言った。
「だって……それが彼女の夢だから……」
僕は言った。
「まあ、そういうことだな……。だから、いまも、君のために、何かつくっているね。その……釣りに使うなんていったっけ……」
「ルアー」
「そうだ。そのルアーをつくることで、自分の夢をつなぎとめておこうとしているらしい。それが、私にもわかる」
江崎は言った。コーヒーに口をつけた。
□
「はっきり言おう。そのルアーづくりを最後に、彫刻や彫金から手を洗うように、私は彼女にすすめているんだ」
と江崎。
「そのことに、君も協力してもらえないだろうか」
と僕に言った。
「……彼女が、彫刻や彫金をやめるように、僕にも協力しろと?」
「ああ、そういうことだ。君からも、彼女にそう助言してほしい」
「けど……なぜ……」
僕は、訊きなおした。
「なぜって、彼女のためだからだ」
江崎は言った。
「彼女は、店舗の内装デザインをやらせれば、なかなかいい仕事をやるんだ。私がもっと仕込めば、有能な店舗デザイナーになれると思う。そのためには、彫刻や彫金なんて、早くやめるべきだ」
と江崎。一気にまくしたてた。
「しかし……彫刻や彫金の仕事をするのが、彼女の本当の夢だとしたら?」
僕は言った。
「夢は夢にすぎないよ。そろそろ、夢を追いかけるなんてことはやめて、現実を見るべきだ。もう、彼女も、そういう年齢《とし》なんだ」
と江崎。
「しかし……夢をあきらめて店舗デザインの仕事を選んだとして、彼女は何を得ることになるんですか?」
僕は訊いた。
「少なくとも、その仕事で食うことができる」
ひどくあっさりと、江崎は言った。
「……食うことが、それほど大切なんでしょうか」
僕は言った。
「当然、大切だ」
と江崎。
「そりゃ、世の中には、食うことより価値のあることがあると言う人間もいるだろう。けど、そのセリフは、食えるようになってから言えることなんだ」
「…………」
「食える食えないより大事なものがあるかどうか……。それは、一人前の人間になってはじめてうんぬん出来ることなんだよ」
「…………」
「たとえば、君は、まだ学生で、親からの援助をうけてるね」
江崎は言った。僕は、無言でうなずいた。江崎は、歯を見せて微笑った。
「そういう立場の人間が、うんぬんすることじゃないと、私はおもうんだが、ちがうかな?」
と言った。
僕には、返す言葉がなかった。確かに、僕はまだ、スネっかじりの学生だ。えらそうなことをうんぬんする立場じゃないんだろう……。僕は、無言で、陽射しがまぶしい窓の外の風景を見つめていた。
□
結局、僕は江崎に約束をした。彼女が、彫刻や彫金をやめ、内装デザイナーとして正社員になろうとしたら、決してそれに反対をしない。そのことだけを、僕は江崎に約束した。
確かに、彼女の人生は彼女のものだ。その人生の選択に、僕は口をはさめる立場ではない。だから、江崎とその約束をすることに、ためらいはなかった。
□
「ルアー、できたわ」
彼女がそう言ったのは、5日後だった。
遅い午後の陽射しが、彼女の別荘を照らしていた。松林ごしの、淡い陽射しが、部屋の中にまで入ってきていた。
彼女の手の中に、そのルアーはあった。
渋い銀色に光っていた。それは、まるで、本物の魚みたいに見えた。美しかった。
「このリングをつけるのに苦労して……時間をくっちゃった」
と彼女は言った。
ルアーには、前後に、リングがついていなければならない。前のリングは、釣り糸を結びつけるために、後ろのリングは、釣り鉤《ばり》をつけるために、必要だった。
「このリングに、かなり大きな力がかかるでしょう。だから、このリングをロウづけするのに、けっこう苦労したわ」
と彼女。
それ以上、専門的なことは口にしなかったけれど、苦労したことは素人の僕にも感じられた。
「でも……とにかく、これは、世界でただ1個のルアーよ」
彼女は言った。
「ありがとう」
僕は、微笑みながら言った。彼女から、そのルアーを受け取った。その銀の魚は、手の中でずしりと重かった。
「じゃあ、さっそく明日、これでボスのやつを釣りに行こう」
と僕は言った。
□
翌日。午前10時過ぎ。
ボートに乗った僕らは、沖のブイにいた。ボートのギアを中立《ニユートラル》にして、船を止めていた。
ボートは、ゆっくりとした潮にのって、ブイの近くを漂っている。僕は、あたりの海面を見回した。
小型のマヒマヒは、群れをなして泳いでいた。けれど、あのボスの姿は見えなかった。
「もう、南の海に帰っちゃったのかな……」
僕は、つぶやいた。その直後だった。
「あっ!」
と彼女が叫んだ。近くの海面を指さしていた。
僕も、そっちを見た。金色の長い帯が、水の中で光るのが見えた。ボスだ。
僕は、す早く、|釣り竿《ロツド》を取り出した。
|釣り糸《ライン》の先には、彼女がつくってくれたルアーが結びつけてある。僕は、軽く深呼吸。ロッドをかまえた。
そして、ルアーを投げた。銀色のルアーは、陽射しを反射しながら飛んでいく。いまさっき、ボスの姿が見えた、そのあたりに落ちた。
息をつめ、リールを巻いて来る……。
けど、1投目は、当たりなし。僕は、ルアーを水から抜き上げた。
2投目。さっきより遠くまで投げた。ルアーが水に落ちる。僕は、リールを早く巻きはじめた。
7、8回リールを巻いた時だった。
水中のルアーを巨大な手がひったくったような感触! ガツンと、リールが巻けなくなった。
「かかった!」
思わず、僕は叫んでいた。同時に、ロッドを立てようとしていた。
|釣り竿《ロツド》は、丸く曲がって、ブルブルと震えている。僕は、力の限り、ロッドを立て、リールを巻こうとした。
〈がんばりんしゃい! 達也さん!〉
と、徳さんの声が、どこかからきこえる。
〈男ですばい! がんばりんしゃい!〉
と徳さんが応援している。
僕は、リールを巻きはじめた。ボスは、左右に走りはじめていた。僕は、グイグイとリールを巻いていく。
つぎの瞬間、海面が割れた! 水が爆発したようだった! ボスが、空中にジャンプしたのだ。
ボスは体をひねりながら、宙に飛び出した。水しぶきが、陽射しに光る。金色の魚体も、陽射しをうけて輝いている。
その姿があまりにみごとなので、僕は一瞬、見とれていた。
けれど、水に落ちたボスは、また、走りはじめた。前後左右に突っ走る。僕は、必死でロッドを握りしめ、リールを巻いた。巻いていく……。
〈がんばりんしゃい!〉
と徳さんの声がきこえる。
□
30分後。勝負は、ついた。
僕は、ボスを釣り上げた。ボートの上に、引っぱり上げた。
しばらく、放心したように、ボートに横たわったその魚体を見ていた。ボスは、バタバタと暴れていた。口にかかっているルアーが船底に当たって、ガチャガチャと音をたてていた。
やがて、僕は、プライヤーを握った。ボスの口から、ルアーをはずした。血は、ほとんど流れなかった。
「逃がすの?」
と彼女が訊いた。僕は、うなずいた。
「僕らは勝負に勝ったんだ。それで充分さ。このみごとな魚を殺す必要はない」
僕は言った。ボスを、船べりから水の中に入れた。ボスは、ゆっくりと体を動かす。船のまわりをひと回りした。
ボスは、海面から僕らを見たようだった。そして、体をひるがえす。泳ぎ去って行った。僕は、フーッと大きく息を吐いた。ボスが泳ぎ去って行った方を、いつまでも見ていた。
□
「それじゃ」
「勝利に、乾杯」
僕と彼女は言った。ビールのグラスをカチリと合わせて乾杯した。
夕方の5時半。彼女の別荘。
グレープフルーツ色の夕陽が、ビールのグラスに揺れていた。あい変わらず、セミの声がシャワーのようにふりそそいでいた。
けれど、そのセミは、もう、真夏のアブラゼミではない。ジージーという、アブラゼミの鳴き声ではない。
カナカナと鳴くヒグラシ。そしてツクツクボウシ。そんな、ちょっと涼しげなセミの鳴き声に変わっていた。
アブラゼミの鳴き声が、ツクツクボウシに変わると、もう、夏も終わりだ。
僕らのいる洋間にも、もう、真夏の暑さはない。
ついこの前まで、庭を渡って部屋に入って来る風は、陽射しの熱さを含んでいた。けれど、いま、風の中には、ひんやりとした土の香りが感じられた。秋が、もうそこまで来ているのだ。
「あのボス……いま頃、どうしているかしら」
彼女が訊いた。
「もしかしたら、もう、南の海に帰ろうとしているかもしれない」
「マヒマヒは、南の海に帰るの?」
「ああ……。夏の間だけ、この相模湾にやって来るんだ。ここで夏を過ごして、また、帰って行くんだ」
僕は言った。彼女は、ゆっくりとうなずいた。
「ここで夏を過ごして、帰って行く……まるで、わたしみたい……」
ぽつりと、そう言った。
「帰って行くっていうと……あの、デザイン会社の正社員になるって話……うけたの?」
僕は訊いた。彼女は、小さく、けれど、はっきりとうなずいた。そして、
「9月1日から、勤めることになってるの」
と言った。
9月1日といえば、あと1週間もない。
「そうか……」
僕は、うなずいた。なんと言っていいか、わからなかった。
「当分……ここには来られなくなるわね……」
彼女が、少し淋しそうに、つぶやいた。その手のグラスに、松林ごしの陽射しが揺れている。庭では、ヒグラシがカナカナと鳴いている。部屋のオーディオから、B《ボズ》・スキャッグスのバラードが低く流れている。僕らの夏が、終わろうとしていた。
□
9月1日。木曜日。晴れ。気温22度。
僕は、昼近くに起きた。前の夜は、啓介と深酒をしたのだ。かなり遅くまで、ウイスキーを飲んだ。
まだ、少し、頭のすみが重い。酔いが残っている。
僕は、洗面所に行った。水を出し、顔を洗いはじめた。その瞬間、〈ああ、秋が来たんだ〉と思った。水が、冷たく感じられたのだ。
真夏の間はぬるく感じられた水道の水が、顔に冷たく感じられたのだ。
秋なんだ……。僕は、胸の中で、もう1度、つぶやいていた。
顔を洗いジーンズをはく。外に出た。ボートを出して、海をひと回りしようと思った。海をひとっ走りすれば、二日酔いがさめるかもしれない。
ピックアップ・トラックに乗り、海岸道路を走りはじめた。
夏の間、あれだけ海水浴客が出ていた海岸道路にも、人影は少ない。ガランとしていた。透明な陽射しだけが、ガランとした海岸道路にさしていた。
きょうは、木曜日。いままでなら、3日ぶりに彼女が葉山にやって来る日だった。けれど、いま頃、彼女は東京の会社で仕事をしているのだろう。
そう考えると、胸がしめつけられるような気がした。
けど、唇をかんで、ステアリングを握った。空の上から、徳さんの声がきこえたような気がした。
〈男ですばい。孤独に耐えるのも大事なことですばい〉
と徳さんが言っていた。僕は、うなずいた。
〈ああ、わかってるよ。彼女はいなくなってしまったけど、オレには海があるしね〉
と徳さんに答えていた。
海岸道路の右側に、入江が開けた。僕は、トラックのブレーキを踏んだ。駐めた。
トラックをおりる。広がっている秋の海を、一瞬、ながめた。波はなく、海は静かだった。海岸道路から、砂浜におりて行こうとした。
その時、不思議なものが目に入ってきた。
□
それは、波打ちぎわから4、5メートル手前にあった。
砂の彫刻のようなものだった。
魚を形どった、平べったい砂の彫刻だった。
彫刻は、バランスのとれた、きれいな魚の形をしていた。胸ビレやウロコまで、細かくつくられていた。
そして、そのそばに、彼女が立っていた。
彼女は、はじめて会った時と同じサブリナ・パンツをはいていた。
あの時は半袖のTシャツだったけれど、いまは、長袖のトレーナーを着ていた。
僕と彼女は、向かい合った。
「どうして……」
と、僕は思わずつぶやいていた。
「……もう1度だけ、夢を追いかけてみたくなったの……」
と彼女は言った。
「……魚や貝殻や……そんな、葉山の海がくれるものを素材《モチーフ》にして……作品をつくってみたくなったの……」
と言った。
「そんなことを決心するきっかけをつくってくれたのは……あの、イワシの形のルアーだったわ……。あれをつくっているうちに……こんな決心をするための力が、自分の中に湧《わ》いてきたのね、きっと……」
そう彼女は言った。
僕は、うなずいた。足もとにある、砂の彫刻を見た。
「これが、その作品第1号?」
と彼女に訊いた。
「もしかしたら、そうね……。作品A……砂にかいたラヴ・レター」
そう、彼女は言った。
「砂にかいたラヴ・レターか……。それで……副題《サブ・タイトル》は?」
僕は訊いた。彼女は、10秒ほど無言でいた。そして、微笑みながら言った。
「サブ・タイトルは、ちょっと長いのよ」
「…………」
「わたしは、少年のような眼をしたあなたを、好きなのかもしれない」
と彼女は静かな声で言った。僕らは無言で、見つめ合っていた。僕らの頭上、3、4羽のカモメが、初秋の風を翼にうけて漂っていた。
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エピローグ
□
あれから、10年が過ぎた……。
僕は、銀色のルアーを手に、そのことを思っていた。
いま、僕の前にはワープロがあった。ワープロには、打ちかけの原稿が入っていた。
先月、僕はアラスカに取材に行った。サーモン釣りの取材だった。自分でも|釣り竿《ロツド》を振り、サーモンを釣った。
そのときのことを、僕はいま、ノンフィクションの紀行文に書いていた。でき上がった原稿は、ルアー・フィッシングの雑誌に載ることになっていた。それが、いまの僕の仕事だ。
僕は、銀色のルアーをワープロのわきに置いて立ち上がった。
そろそろ、朝だ。
そして、相模湾にマヒマヒがやって来るシーズンだった。
ボートを出してみよう。僕は、そう思った。仕事部屋を出た。
釣りのしたくをしていると、息子が起きて来た。8歳になる息子だ。
「釣りに行くの?」
と眼をこすりながら、息子は言った。僕は、うなずいた。
「一緒に行っていい?」
と息子。僕はうなずき、
「早くしたくをしてこい」
と言った。やがて、息子は着がえてきた。自分の背たけにふさわしい|釣り竿《ロツド》を持っていた。去年、買い与えたものだった。
僕と息子は、ダイニング・キッチンで、簡単なサンドイッチをつくって、デイ・パックにつめた。
「ママに伝言しておかなくていいの?」
と息子。
「そうだな。伝言しておかなけりゃ」
僕は、ワイフの仕事部屋に入った。彼女は、きのうも夜遅くまで仕事をしたらしかった。
仕事机の上に、つくりかけのペンダント・ヘッドがのっていた。銀のペンダント・ヘッドは、貝殻の形をしていた。
仕事机の上には、メモ・パッドがあった。メモ・パッドには、仕事の予定が細かい字で書き込まれていた。
魚や貝をモチーフにした彼女の作品は、5年ほど前から、いくつかの貴金属店に並べられていた。
ペンダント・ヘッド。指輪。ピアス。ブローチ。そのあたりが、作品の中心だ。
多い月には、10個ほどの作品が売れている。制作が間に合わないこともあった。
僕は、メモ・パッドから1枚、破る。そこに、〈洋介と一緒に釣りに行く。夕方までには帰る〉とメモをした。仕事机のまん中に置いた。
彼女はまだ眠っているはずなので、寝室に声をかけず、家を出た。
息子と、庭に駐めてあるステーション・ワゴンに歩いて行く。夏の夜明け。引きしまった空気が、気持ちいい。
僕らは、ステーション・ワゴンに乗り、エンジンをかけた。ゆっくりと、家を出て行く。カー・ラジオのFMが、軽快なカントリー&ウエスタンを流していた。取材先のアメリカでも、何回か聴いた曲だった。
思いどおりに生きるのさ
心配なんかしない
ただ1度の人生だから
失敗なんか恐れずに
思いどおりに生きるのさ
そんな内容の歌を、若い男性のカントリー・シンガーが、8ビートにのせて軽快に歌っていた。
その曲が終わらないうちに、クルマは海岸道路に出ていた。僕は、いつもの場所でワゴンを駐めた。
眼の前の海は、凪いでいる。絶好のフィッシング日和《びより》のようだった。静かな海に、〈マヒマヒU世号〉が舫《もや》われていた。
僕は、誰もいない入江を見渡した。
古ぼけたトラックは引退し、ステーション・ワゴンに変わった。ボートも、二代目になった。僕は父になり、彼女は母になった。
けれど、眼の前の海は、何ひとつ変わっていなかった。静かに、大きく、頼もしく、そこにあった……。
僕は、冷えたミネラル・ウォーターのような朝の潮風を、胸いっぱいに吸い込んだ。|釣り竿《ロツド》を片手に、自分の船に向かって歩きはじめた。
風が、Tシャツのスソをふわりと揺らせて過ぎた。
[#改ページ]
あとがき
小説を書いているときのBGMはなんですか、と訊《き》かれることがよくあります。
僕の場合は、ラジオから流れる音楽です。低いボリュームでつけっぱなしにしたラジオからの曲を、聞き流しながらペンを動かしています。
そうやって仕事をしている時に、なぜか耳に入って来る1曲というのがあります。
つぎつぎに流れて来る曲の中で、なぜか、その曲だけが気になってしまうという状態なのです。たぶん、その小説を書いている時の気分が、その曲と、ぴったりとシンクロしているということなのでしょう。
その曲は、よく流れるスタンダード・ナンバーのこともあるし、その時のヒット曲のこともあります。
今回、湘南を舞台にしたこのラヴ・ストーリー集を書いている時にも、そんな曲たちがありました。
特に秘密にしておくほどのこともないので、その曲たちの事を、ここに書いてみたいと思います。小説の生まれたバック・グラウンドが、少しは感じとってもらえればと思います。
「彼女のウエット・スーツ」の場合は、M《マイケル》・ボルトンが唄う〈男が女を愛する時〉。
ちょっとセクシーな場面があるこの小説には、M《マイケル》・ボルトンの熱っぽいヴォーカルがよく合っていました。それにしても、M《マイケル》・ボルトンは、昔の曲をカヴァーするのが上手《うま》 いなあ……。
「七里ヶ浜ヤドカリ食堂」の場合は、ビーチ・ボーイズの〈サーファー・ガール〉。
この、のんびりしたスタンダード・ナンバーが、主人公の湘南ガールのキャラクターにぴたりだったのでしょう。本物の湘南ガールって、テレビドラマに出て来るのとはちがって、やたらにのんびりした娘《こ》が多い。そんなわけで……。
「砂にかいたラヴ・レター」の場合は、今井美樹の〈ブルー・バード〉。
これは、小説を書いている時にヒットしていて、しょっちゅうラジオから流れていました。それと同時に、この曲の持っているポジティヴなメッセージ、〈前向きに生きようよ〉、〈夢を追いかけようよ〉というのが、小説のテーマと共通していたので、すんなりと気持ちに入って来たのでしょう。それにしても、いい曲だよね。
そんなわけで、ラヴ・ストーリー集が、1冊でき上がりました。素敵なイラストを描《か》いてくれた佐々木悟郎さん、ありがとう。いつもながら仕事の遅い作者とダブルスでがんばってくれた、角川書店編集部の大塚菜生さん、お疲れさま。
そして、この本を手にしてくれたすべての読者の方へ、THANK YOU! また会える時まで、少しだけグッドバイです。
クリスマスの葉山にて
[#地付き]喜 多 嶋 隆
〈初出誌〉
彼女のウエット・スーツ 「小説NON」93年7月号
七里ヶ浜ヤドカリ食堂 「週刊小説」93年6月11日号
砂にかいたラヴ・レター 書き下ろし
砂《すな》にかいたラヴ・レター
角川文庫『砂にかいたラヴ・レター』平成6年1月25日初版発行