[#表紙(表紙.jpg)]
湘南レッド・シューズ
喜多嶋隆
目 次
1 豚のようなハワード
2 ミッドウェイは、はるか遠く
3 紫陽花は、シルキー・レインに濡れて
4 お別れに、レッド・シューズ
5 もう、ハーバーには帰れない
6 たそがれに回し蹴り
7 やっちまいな
8 見失なった飛行コース
9 SALEM《セーラム》 1本分の決意
10 ワカメは、夕陽に散った
11 一色海岸の対決
12 〈BAD〉を口ずさんで
13 ムーンライト・ビーチ
14 ダイコンのような君たち
15 ジン・トニックでももらおうか
16 そのジャジャ馬に用がある
17 そして、第1球を投げた
あとがき
[#改ページ]
1 豚のようなハワード
ピンチだった。
2《ツー》アウトだけど、満塁。
そして、バッターは4番。
強打者のハワードだ。
あたしは、ピッチャーズ・マウンドの上で深呼吸。アンダー・シャツの袖《そで》で、顔の汗をぬぐった。
バッターのハワードを見た。
確かに、高校生ばなれした体格だった。
身長は190センチぐらい。体重も250ポンド、100キロ近くあるみたいだ。
デブと呼んでもいいだろう。
ハワードが握ると、バットもつまようじみたいに見える。
電信柱みたいなぶっとい腕で、ハワードはバットを素振りする。
そのたびに、ブンッ、ブンッと空を切る音が、あたしの立っているピッチャーズ・マウンドまできこえてくる。
脅しをかけてるだけだ。気にするな。あたしは、自分にそう言いきかせた。
それでも、相手チーム〈厚木イーグルス〉のベンチは大騒ぎだ。
「かっとばせ! ハワード!」
「女の球なんてコナゴナに砕いちまえ!」
と口々に叫ぶ。
「ピッチャーがえしで股《また》にぶち込んでやれ!」
そんなガラの悪い野次も飛んでくる。
あたしは敵のベンチをチラリと見る。その野次を飛ばした背番号15のチビを、一瞬、にらみつけた。
チビは、黙り込む。
あたしは、野球帽を、かぶりなおすために、いったんとった。
ショートカットの髪が揺れる。眉《まゆ》にとどく長さの前髪が、3月の風に揺れた。
横須賀のアメリカ海軍|基地《ベース》。
その中にあるグラウンド。
あたしたち〈横須賀ジェッツ〉と、宿敵〈厚木イーグルス〉の試合が、クライマックスに近づいていた。
両方とも、高校生の野球チームだ。
アメリカ軍人の息子や娘のチームだ。
といっても、女の子はあたし1人しかいない。そして、日本人も、あたし1人だった。
でも、女の子だからといって、相手が手かげんしてくれるわけじゃない。どちらかというと、逆だ。
女の子のピッチャーなんかに、三振させられてたまるか。そんな鼻息で、ほとんどの男の子が立ち向かってくる。
でも、負けなかった。
あたしは、まだ10年生。日本式にいうと高校1年だ。けど横須賀ジェッツのエースの座は、実力で守っている。
この試合も、投手戦になっていた。
あたしは、もちろん先発で出た。この回まで、無得点で押さえている。
敵の厚木イーグルスのピッチャーは、サウスポーのビリーだ。彼も、腕力のあるいいピッチャーだった。
速球をメインにした配球で、あたしたち横須賀ジェッツを無得点に押さえてきた。
あたしは、変化球メインで敵のバットを空振りさせてきた。
いまは9回表。スコア・ボードには、両チームとも|0《ゼロ》だけが並んでいる。
延長戦はない。
当然、この9回がクライマックスということになる。
この回も、あたしのピッチングはけして悪くなかった。
問題は、内野の守備だった。エラーが多いのだ。|2《ツー》アウトをとってから、エラーが連続して走者を満塁にしてしまったのだ。
そして敵の打順は4番。
長打者のハワードが、のしっのしっと打席に入るところだった。
「だいじょうぶか? エミィ」
とキャッチャーのジョー。マウンドのあたしに駆け寄ってきた。
「あたしは、だいじょうぶ。だいじょうぶじゃないのは内野の連中よ」
あたしは言った。
「まあな……」
とジョー。内野を見回して、
「みんな緊張してるんだろう」
と、つぶやいた。
確かに。うちのチームはみんな緊張しているのがわかる。
それも、しかたがないのかもしれない。
1塁側と3塁側には、ベンチみたいな板ばりのスタンドがある。
スタンドには、かなりな数の観客がいた。選手の親たち。ハイスクールの同級生たち。それに、ヒマな兵隊たちもいる。
みんな、ビールやコークを手に試合を見ている。
相手が、ライバル・チームの厚木イーグルスだからだろう。いつもの試合より、観客の数が多い。
選手たちが緊張するのも、しかたないのかもしれない。
「それにしても、ゴロで打ちとるのは危いわね」
あたしは、キャッチャーのジョーに言った。
「またエラーされたらヤバいもの」
「そうだな……」
とジョー。渋い表情でうなずいた。
4番打者を打ってとれないってのは、確かにつらい。しかも、満塁だ。フォア・ボールでもデッド・ボールでも点が入ってしまうのだ。
「だいじょうぶ」
あたしは、ジョーに言った。
〈安心して〉
そんな感じで微笑《わら》いかける。
「三振にとるわよ」
「おいおい、ムリするなよ」
とジョー。
「ホームランでも打たれたら、ヤバいぜ」
とジョー。
確かに、そうだ。満塁ホームランで4点。9回裏でとり返すには難しい点差になってしまう。
「まあ、そのときはそのときよ」
あたしは言った。
「あんまり心配するとハゲるわよ」
とジョーの肩を叩《たた》いた。
「わかったわかった」
とジョー。ホーム・プレートの方に戻っていく。
あたしは、また深呼吸……。眼を細めた。
3月末にしては、やたらに暖かい日だった。陽ざしが強い。初夏みたいだった。
スタンドじゃ、半袖《はんそで》で観戦してる兵隊もいる。太い腕にある人魚のイレズミが、気持ち良さそうに陽ざしを浴びている。
いまは、午後の4時近く。
斜めからの陽ざしが、グラウンドにさしている。
選手や観客たちの金髪が、陽ざしに光る。ポールの星条旗が、ゆったりと風に揺れている。
あたしは一瞬、生まれ育ったカリフォルニアやハワイを思い起こしていた。
〈ダメだよ、エミィ。野球に集中しなくちゃ〉
と自分に言いきかせる。カリフォルニアの空やハワイの海風を、頭の中から追い出す。バッターのハワードを見た。
ハワードは、右手でバットをわしづかみ。大股《おおまた》で、バッター・ボックスに歩いていく。
バッター・ボックスに立つ。スモウ|取り《フアイター》みたいにぶっといお腹を、左手で叩《たた》く。
芝居がかった動作。
右手に握ったバットを、マウンドのあたしに向けた。
「覚悟を決めるんだな、|ひよっ子《チツク》」
と言った。
「覚悟を決めるのはあんたよ、|豚さん《ピツグ》」
あたしは言い返した。
ハワードの顔が、まっ赤になった。ちぢれた金髪。その下の、ぶりっと丸い顔が、トマトみたいに赤くなった。
実際、豚によく似てる細い眼が、あたしをにらみつけた。ハワードは、バットを両手でグイッと握る。
「ちっくしょう……。早く投げろ! 場外に叩き出してやる」
と言った。
どうやら、頭に血がのぼったらしい。もう、勝負はあったようなものだ。
あたしは、キャッチャーのサインを見る。
カーブ……。あたしは、首を横に振った。
ハワードのやつは、どうせベースにかぶるようにかまえるだろう。
いままでの3打席、いつもそうだった。
外角に逃げていくカーブは、打たれやすい。
初球は、思いっきり内角を攻める。のけぞらせる方が効果的だろう。
キャッチャーが、またサインを出す。
速球のサイン。内角にミットをかまえた。
いいだろう。あたしは、首をタテに振った。ボールを握る。セット・ポジションに入る。
打者のハワードはバットをかまえる。
予想どおり。ホーム・ベースに巨《おお》きな体をかぶせるように、バットをかまえた。
あたしは、3塁ランナーを眼で牽制《けんせい》する。3塁ランナーのリードが、1メートルぐらい小さくなる。
あたしは、打者のハワードに向きなおる。そして、キャッチャー・ミットを左の肩ごしに見た。
力をため込む。
左足を、ゆっくり振り上げる。
第1球を、投げた。
直球!
ハワードの胸もとに飛んでいく。ベースにかぶさるようにかまえている、そのヒジとアゴめがけてボールは飛んでいく。
ハワードは、ドキッとした顔。そんなに内角にくるとは思ってなかったんだろう。
ハワードは、のけぞる。
ボールをよける。
同時に、ボールはキャッチャー・ミットに吸い込まれる。
バム! いい音。
ハワードは、尻《しり》もちをついていた。
キャッチャーは、かまえたミットを1センチも動かしていない。
「ストライクッ!」
審判《アンパイア》の声が、グラウンドに響いた。
内角ギリギリ。ボール半個分、ストライク・ゾーンをかすめていた。ハワードは尻もちをついたまま、
「えェ!?」
と眼を丸くする。あたしは、当然という顔。
横須賀ジェッツの応援席から、
「どうした、ハワード!」
「場外に叩《たた》き出すんじゃないのか!?」
と野次が飛ぶ。選手のクラス・メイトたちだ。
ハワードのぼってりした体が、ヨロヨロと起き上がる。やつは、尻についた土を手で払う。
横須賀ジェッツの応援席に向かって中指をつき出す。
「くそったれ!」
と悪態をついた。
また、バッター・ボックスに入る。頬《ほお》がムッとふくれている。小さくて細い豚眼で、あたしをにらみつけた。
「つぎは容赦《ようしや》しない。本土《メイン・ランド》までかっ飛ばしてやる!」
と、吠えた。
「勝手にすれば」
あたしは、微笑《わら》いながら言った。また、キャッチャーのサインを見る。
2球目のサインも直球。ジョーは、ミットを内角にかまえる。
あたしは、うなずいた。
1球目、内角でのけぞらせたら、2球目は外角でストライクをとる。それが、投球のセオリーだ。
バッターのハワードも、当然、そう予想しているらしい。
1球目と同じ。ホーム・ベースにかぶさるようにかまえている。外角打ちのかまえだ。その逆をつくのは、いい手だろう。
あたしは、セット・ポジションに入る。
2球目! 投げた。
1球目と、まったく同じコース。内角ギリギリだ。
ベースにかぶさってたハワードは、のけぞる。また、尻もちをつく。
バム!
ボールは、キャッチャー・ミットに飛び込んだ。
「ストライクッ!」
アンパイアの叫び声。ハワードは、尻もちをついたまま。口を半開き。アンパイアの方を見た。
横須賀ジェッツの応援席から、笑い声。そして野次。
「本土《メイン・ランド》までかっ飛ばすんじゃなかったのか!? ハワード!」
「ボールのかわりに、お前がメイン・ランドに帰った方がいいんじゃないのか!?」
ハワードは、起き上がる。お尻についた土を払う。
応援席からの野次は無視。あたしを、豚眼でにらみつけた。
顔が、茹《ゆ》でたみたいに真っ赤だ。茹で豚だ。
もう、ムダ口も叩かない。グッとバットを握りしめた。
カウントは|2《ツー》ストライク、ノーボール。
普通なら、1球ぐらい遊ぶところだろう。けど、それも、逆をつくことにする。3球三振をとってやる。
あたしは、キャッチャーのサインを見た。
スロー・カーブ……。ジョーは、ミットを外角にかまえた。
あたしは、うなずいた。
あたしのスロー・カーブは、とにかく、よく曲がる。
勝負球だ。
インコースの速球を2つくらった後じゃ、眼がついていかないだろう。タイミングも、ずれるにちがいない。
あたしは、セット・ポジションに入る。
ハワードは、かまえる。
予想どおり。いままでみたいにベースにかぶさってかまえたりしない。ベースから少しはなれて、バットをかまえた。
キャッチャーのジョーは、体ごと外角に移動する。
あたしのカーブを、とりそこねることは多い。あまりによく曲がるんで、ミットのふちに当ててパス・ボールしたりする。
けど、いまは満塁。パス・ボールは、まずい。
ジョーは、外角で体ごとかまえる。ミットで捕球しそこなっても、体で止めるかまえだ。
あたしは、力をため込む。左足を振り上げる。
そして、投げた。
まん中。ウエストの高さ。打ちごろのコース。だけど、ジェット・コースターみたいに、鋭く左下に切れて曲がる。
ボールの曲がりはじめ。ハワードは、バットを振った。
スロー・カーブに、まずタイミングが合っていない。
それでも、バットの勢いだけはすごい。
ブンッと空気を切る音。あたしにまで、きこえた。
水平に振られたバット。その下を、首をすくめてくぐるように、ボールは曲がってすりぬけた。
みごとな空振り!
ボールは、ジョーのミットに吸い込まれていた。
空振りしたハワードの体は、勢いあまってコマみたいに回る。ホーム・ベースの上に、ドスッと尻《しり》もちをついた。同時に、
「ストラック・アウト!」
アンパイアの叫び声。
横須賀ジェッツの応援席から、どっと笑い声が上がる。そして、口笛。ハワードへの野次。
「ちっくしょう!」
とハワード。ぶっとい声で吠《ほ》えた。立ち上がる。バットでホーム・ベースを思いきり叩いた。
木のバットがバキッと折れる。先が飛んでいく。
あたしはもう、自分のベンチへ歩き出していた。
9回裏。横須賀ジェッツの攻撃。
打順は3番。ピッチャーのあたしからだ。
「3番、エミ・桂木」
のアナウンスがスピーカーから響く。
アナウンサーをやっているのは、青少年係の女軍曹だ。あたしの名前を、ちゃんとエミと発音してくれた。けど、応援席からは、
「がんばって! エミィ!」
「かっ飛ばせ! エミィ!」
クラス・メイトたちの歓声がきこえる。
あたしの名前は、正確にはエミだ。でも、アメリカ人のクラス・メイトやチーム・メイトたちは、みんなエミィと呼ぶ。
あたしは、気にしない。小さい頃から、アメリカ人の中で育った。エミィと呼ばれることに、もう慣れてしまっていた。
あたしは、バットを握る。
素振りを3、4回。
バッター・ボックスに入る。
あたしはピッチャーだけど、バッティングも得意だった。
ホームランは、さすがに少ない。けど、2塁打3塁打なら、よく打つ。打順は、普通、3番から5番だった。
あたしがバッター・ボックスに入ると、横須賀ジェッツの応援席からまた、
「打て打て! エミィ!」
の歓声。
あたしは、白い歯を見せる。チラリと、スタンドを見た。
クラス・メイトの男の子、女の子たちが、にぎやかに応援している。
きょう、パパの姿はない……。演習で航海に出ているのだ。
あたしは、ヘルメットをグイッとかぶりなおす。バットを握る。ピッチャーのビリーを見た。
ビリーは、金髪をのばしている。ウェーヴした金髪が、耳の後ろで揺れている。
大リーガーみたいに、チューインガムを噛《か》みながら、キャッチャーのサインを読む。首をタテに振る。
ゆっくりと、投球動作に入った。
あたしも、バットをグッと握りなおす。
体は、リラックス。ボールに神経を集中させる……。
1球目。
きた!
直球だった。
外角低目! ボール1個分、外だ。あたしは見送った。
「ボール!」
とアンパイアの叫び声。
あたしは、おやっと思った。
コースはともかく、ボールのスピードが落ちている。のびがない。9回まで投げた疲れが出てきたのかもしれない。
ビリーは、速球で勝負してくるタイプのピッチャーだ。球のスピードが落ちると、苦しい。
打てるかもしれない。あたしは、思った。
これまでの3打席、スピードに押されて凡打だった。けど、このスピードなら打てそうだ。
あたしは、バットを握りなおす。かまえた。
ビリーの2球目。
内角高目! ボールは、あたしの肩先をかすめる。
「ボール!」
とアンパイア。
これで、カウントはノー・ストライク、|2《ツー》ボール。ビリーは、苦しくなってきた。
あたしは、足もかなり速い。塁に出したくはないだろう。
そろそろ、ストライクをとりにくる頃だ。狙《ねら》いどきだった。
あたしは、バットをグイと握る。深呼吸。アゴを引く。かまえた。
3球目!
きた!
直球だ。
まん中よりやや外角。ベルトの高さ。
あたしは、バットを振り抜いた。
ジャスト・ミート! きれいにボールに体重がのったのがわかる。
ボールは三遊間! 鋭いゴロ。
ショートが飛びつく。
けど、ボールはグラヴの先端に触っただけ。レフトの前に転がっていく。あたしはもう、全速で駆けていた。
いままでのビリーの球なら、スピードに負けて、さえないセカンド・ゴロになっていたコースだろう。
やっぱり、球速が落ちている。だから、左に引っぱれた。
レフトがボールをつかんだとき、あたしはもう1塁ベースを踏んでいた。横須賀ジェッツのベンチと応援席から、歓声が上がった。
1塁手は、三振したハワードだった。
あたしが塁に立つと、露骨に嫌《いや》な顔をした。さっきの3球三振が、よほど頭にきたらしい。
あたしのそばに突っ立つと、
「まぐれ当たりが……」
と、きこえよがしに言った。
「まぐれでも、当たるだけマシってものよ」
あたしは言った。ハワードは、あたしをにらみつけた。
近くで見ると意外にズルそうな豚眼が、あたしをにらみつけた。けど、あたしは知らん顔。1塁ベースから少しリードをとる。
4番打者のエドが、バッター・ボックスに入っていた。
ピッチャーのビリーは、セット・ポジションに入る。
ビリーはサウスポーだ。セット・ポジションでかまえれば、1塁ランナーは正面に見える。
あたしが2メートルぐらいリードしてるのをビリーは見た。牽制球《けんせいきゆう》を投げてきた。
アウトにするつもりの牽制じゃない。リードを小さくさせるためのものだ。あたしは、す早くベースに戻る。
ボールをうけとったハワードは、ファースト・ミットであたしのヒップを叩《たた》いた。かなり強かった。
あたしは、とっくにベースを踏んでいる。
ムッとする。
「痛いじゃない」
ハワードに言った。
「タッチさ」
とハワード。
何がタッチだ。あたしがベースを踏んでるのは知ってて、わざとやったくせに……。
ヒップがジーンとする。
ハワードは知らん顔。ボールをピッチャーのビリーに返した。
ビリーは、また、投球動作に入る。あたしは、1メートルぐらいリードする。
第1球。
投げた。
打ちごろの高さ! エドはバットを振る。あたしはもう、スタートを切っていた。
視界のすみ。エドが空振りするのが見えた。
パシッ!
キャッチャー・ミットにボールが吸い込まれた音。
まずい! あたしは、体をひるがえす。
Uターン! 1塁ベースに駆ける。
キャッチャーが、1塁に送球するのが見えた。
あたしは、頭から滑り込んだ。両手でベースにタッチ。間にあった!
つぎの瞬間。
ガツンッ。頭にショック!
ボールをキャッチしたハワードのファースト・ミットだ。あたしの頭を、すごい勢いで叩《たた》いた。あたしは、顔を地面にぶつけてしまった。
「何するのよォ……」
あたしは顔を上げる。ハワードに言った。
「タッチさ」
とハワード。また、そ知らぬ顔で言った。
何がタッチだ。あたしの手は、とっくにベースに届いてるのに……。また、わざとやったんだ……。
あたしの顔には、土がべったりとついている。スリむき傷もできているみたいだった。ぶつけた鼻の奥がジーンとしている。
〈ひどい!……〉
あたしは、胸の中で叫んでいた。半分、涙声だ。けど、泣いたりしない。唇をかんで、こらえる。
ハワードの、ずるそうな豚眼が、ニタニタとあたしを見おろしていた。
畜生《サノバビツチ》!
このままじゃすまさないんだから……。
あたしは、ゆっくりと起き上がる。1塁ベースに立つ。顔についた土を、アンダー・シャツの袖《そで》でふいた。
4番バッターへの2球目。
ピッチャーのビリーは、投球動作に入ろうとした。セット・ポジション。あたしを見た。
あたしは、1塁から大きくリードをとった。約3メートル……。
ビリーは、ひと呼吸おく。そして、す早い牽制球《けんせいきゆう》を投げてきた。
あたしは、1塁に駆け戻る!
きわどい。クロス・プレーになるタイミングだった。
あたしは、足から滑り込んだ! 右足を宙に浮かせて、滑り込んだ。
1塁ベースの前。仁王立ちになってるハワード。その股間《こかん》。あたしの足が突っ込んでいく!
パシッ。
ハワードのミットにボールが飛び込む。
同時に、やつの股に、あたしの靴が突っ込んだ。スパイク・シューズの、スパイクを打ってない土ふまずの部分が、ハワードの急所を突き上げた。
手ごたえ!
「ウグッ」
ハワードのうめき声。
やつの動きが、一瞬、止まる。2秒……3秒……4秒……。やつのミットから、ポロリとボールが落ちた。
ハワードは、口をパクパクさせる。
「な……何しやがる!!……」
と、ほざいた。
「ただの滑り込みよ」
あたしは、起き上がりながら言った。
ハワードは、ファースト・ミットを投げ捨てる。両手で急所を押さえる。ピョンピョンと、跳《と》び弾《は》ねる。ハワードが、跳び弾ねるたびに、だぶついたお尻《しり》の肉が、タプンタプンと揺れた。
横須賀ジェッツのベンチから、笑い声。野次。
「どうした!? ハワード!!」
「あそこがかゆいのか!?」
「ノミにやられたのか!?」
「タイガーバーム貸してやるぞ!」
しばらくして、ハワードは跳び弾ねるのをやめた。ハアハアと息をつく。あたしをにらみつけた。
豚眼が凶暴に光った。
「ぶっ殺してやる」
1歩、せまってきた。
[#改ページ]
2 ミッドウェイは、はるか遠く
「くたばれ!」
とハワード。右パンチを飛ばしてきた!
ブウンッ! 巨《おお》きな拳《こぶし》が振り回される!
くらっちゃ、たまらない。あたしは沈み込む。頭の上。パンチが走り過ぎる。
あたしは体を起こす。ハワードに、舌を出す。
「養豚場に帰るのね」
と言った。
「うるせえ!」
とハワード。
左パンチ! 思いっきり、振り回してきた。
あたしは、上半身をそらす。かわす。
パンチをかわされて、ハワードはよろける。あたしは、す早くその後ろに回った。やつの尻に回し蹴《げ》り!
決まった!
重い手ごたえ。ハワードは、前にのめる。グラウンドに転がる。
そのときだった。
敵の2塁手が駆け寄ってきた! あたしにつかみかかってくる。
あたしは、そのスネを蹴った! 敵は、ひるむ。
けど、誰《だれ》かがあたしを後ろから、はがいじめにした。前からも誰かがつかみかかってくる。
「やめてよ!」
あたしは、足をバタつかせる。つかみかかってきたやつを蹴った。
横須賀ジェッツのベンチから、選手がバラバラと飛び出してくる。
叫び声!
「横須賀のサバ野郎!」
「うるせえ! 厚木のドン百姓!」
グラウンドは、大乱闘になった。
あたしは、誰かを突き飛ばした! 蹴った! 投げ飛ばした!
誰かに殴られた! 突き倒された! 蹴られた!
土ボコリ! 叫び声! 悲鳴! ホイッスル!
アナウンサーの女軍曹が、ヒステリックに何か叫んでいる。
乱闘を止めようとしたアンパイアの中尉が、選手の誰かに投げ飛ばされた。
スタンドからも、観客たちが飛び出してくる。乱闘に加わる。
観客の持ってたポップコーンが宙に舞う。
コークの缶が空を飛ぶ。
こぼれたコークが、陽ざしに光った。
1時間後。自分の家のバス・ルーム。
「あーあ……」
あたしは、鏡をながめて、思わずつぶやいた。自分の顔に、そっとさわった。
ひどいものだった。
顔は、泥だらけだ。オデコに1か所、頬《ほお》に2か所、青アザができている。ユニフォームにかくれた体にも、きっと、あちこちアザができてるだろう。
とりあえず、洗面所で顔を洗う。ついた泥を、さっと落とす。
シャワーを浴びるために、ユニフォームを脱いだ。
脱ぎ捨てたユニフォームは、もちろん泥だらけ。ヒザの1か所は、破れていた。
あたしは、下着のショーツ1枚で、鏡の前に立った。自分の姿を、点検する。
あたしの髪は、ショートカットだ。けど、前髪だけは、パラリと眉《まゆ》にかかる長さだ。
顔は、まずまずだろう。
少女っぽい。正確に言うと、かなり少年っぽいのかもしれない。けど、15歳のいままで、よくラヴ・レターをもらった。デートにも、よく誘われた。
ということは、まずまずなんだろう。
キリッと直線的な眉は、パパからもらった。大きめの瞳《ひとみ》は、会ったことのないママからもらったらしい。
小さい頃から、よく笑う子だった。そのせいか、笑うと目尻《めじり》に小さな笑いじわが寄る。
この年齢《とし》で笑いじわなんて、嫌だけど、しょうがない。
幸い、ニキビはまるでない。顔も体も、軽くオイルをひいたみたいにスベスベしている。
体は、全体にほっそりしている。手足も、なかなか、長い。
右腕が少しがっしりしているのは、子供の頃からやっている野球《ベース・ボール》のせいだ。これは、しかたがない。
あたしは、自分の体中、点検する。ヒップとモモに、青アザができている。特にヒップのアザは大きい。
あたしは、ショーツをずらして見た。
ハイレッグぎみの競泳用水着。その灼《や》けあとが、かすかにヒップに残っている。
むいた茹で玉子みたいにスベスベした白い肌と、薄い小麦色に灼けた肌。そのさかい目に、大きな青アザができている。
やれやれだ……。あたしは、軽くため息。
ただ1枚身につけていたショーツを脱ぐ。丸める。野球の投球フォーム。
「えい」
ショーツを投げた。ショーツは、籘《とう》のランドリー・ボックスに飛び込んだ。
あたしは、バス・ルームに入る。シャワーを浴びはじめた。
「フーッ」
軽いため息。
あたしは、タオルで髪をふきながら、バス・ルームを出ていく。キッチンにいく、冷蔵庫を開けた。〈|G・E《ゼネラル・エレクトリック》〉社の大型冷蔵庫だ。
飲み物の缶が、ぎっしりとつまっていた。
ダイエット・ペプシにするか、ビールにするか。ちょっと迷った。
けど、きょうはムシャクシャすることばかりだった。試合も、乱闘で中止になってしまった。ええい、かまうものか。
あたしは、COORS《クアーズ》の缶をとる。それを開けながら、キッチンを出ていく。
あたしの家は、横須賀|基地《ベース》の中にあった。ハウジング・エリア、つまり住宅区域と呼ばれるところに建っていた。
3年前。
パパの転属で、あたしたちはハワイから日本にやってきた。
ハワイでは、パパの所属は真珠湾《パール・ハーバー》の海軍基地だった。
家は、パール・ハーバーに近いパール・シティにあった。
ペパーミント・グリーンのペンキを塗った木造の家だった。庭に、プルメリアと〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉があった。ポーチに佇《たたず》んでいると、オアフ島の空にかかる虹《にじ》がよく見えた。
横須賀に転属になっても、パパは基地の外に住みたかったらしい。
それは、あたしのためだ。あたしが日本語を忘れないように。日本の生活の習慣をしっかりと身につけるように。
そのために、パパは基地の外で、普通の家に住もうと思ったようだ。
けど、そのプランは、もののみごとに三振してしまった。
原因は、円とドルの力関係だ。
円高ドル安は、もう深刻な問題になっていた。まして、パパたちアメリカ軍人の給料はドルで支給される。
基地の中じゃ、まずまずの暮らしができても、一歩基地を出たら、ひどい貧乏人になってしまうのだ。
基地の外に住む兵隊には、〈|Housing《ハウジング》 |Allowance《アロウアンス》〉と呼ばれる補助金が出る。それでも、外で家を借りるのは大変だった。
カリフォルニア、ハワイと暮らしてきたあたしたちから見ると、日本の家賃は信じられないほど高い。ケタちがいだ。
ハワイなら、プールつき|3《スリー》ベッド・ルームの家が借りられそうな家賃でも、日本で借りられるのはプールなし庭なし|1《ワン》ベッド・ルームのうさぎ小屋だ。
しょうがなく、パパは基地の外に住むのをあきらめた。
でも、あたしは基地の中に住むことがそれほど嫌じゃなかった。
それなりに楽しむことにした。
基地の中には、いろんな人種の人間がいた。
白人。黒人。日本人。メキシコ系。たとえ同じアメリカ人でも、東部出身と西海岸出身じゃまるで違う。テキサスやニューメキシコ出身は、もっと違う。
つき合ってみると、それなりに面白かった。
そう。どんなことでも、いい方に考えれば毎日が明るくなる。
あたしは、生まれつき、そんな風に考える性格だった。悲しいときや淋《さび》しいときほど、笑って過ごそうとしてきた。
とにかく、基地の中には、映画館もスーパーも、なんでもある。ヒットチャート上昇中のCDなんかも、外より早く安く買える。
考えてみれば、ごきげんな場所だ。
あたしは、毎日、6段ギアの自転車に乗って、広い基地の中を走り回っていた。外には、たまにしか出なかった。
この家にしたって、パパはあまり気に入らないらしいけど、あたしはそうでもない。
もちろん、小さな家だ。
白いペンキを塗られた木造の平屋。でも、小さな芝生の庭がついている。アメリカ兵のための家だから、靴をはいたまま入るようになっている。
家の中にいるときは、スリッパやゴムゾウリをはいている。
いまも、あたしは、夏用のゴムゾウリでペタペタと歩いていた。
COORS《クアーズ》 の缶を開けながら、あたしはリビング・ルームにいく。
板張りのリビング。ビニール・レザーのソファー・セットが置いてあった。
窓にはペパーミント色のカーテンが、かけてある。カーテンのすき間から、夕方の陽ざしがさし込んでいた。
あたしは、SONYのラジカセをスイッチ、ON。
ラジカセは、いつもAMの810KHZにチューニングしてある。
FEN。つまり、|Far East 《フアー・イースト・》Network《ネットワーク》。日本語になおせば、極東ネットワークということになるんだろうか。
早い話、在日米軍のためのラジオ局だ。
一日中、音楽を流している。
その合い間に、役に立つ情報も入る。
〈横田|基地《ベース》のハミル大尉より、クルマを売りたし、86年モデルのホンダ・アコード、6千500ドル〉
だの、
〈横須賀|基地《ベース》のミッチャム軍曹より、ギター売りたし、フェンダーのテレキャスター、程度は極上〉
だの、いろんな情報を流している。
あたしは、ラジカセのボリュームを上げた。
早口のDJ。そしてB《ビリー》・ポールの唄《うた》う〈|Me And Mrs.Jones(ミー・アンド・ ミセス・ジョーンズ)〉が流れはじめた。
あたしは、オフ・ホワイトのソファーに坐る。COORSを、缶から直接、ぐいと飲んだ。
「ハーッ」
と息をつく。
あたしは、スカートもジーンズもはいていなかった。下着のショーツ。その上に、ブカッと大きなTシャツをかぶっているだけだ。
パパが見たら、怒るだろう。そんなかっこうで、うろうろするなんて……。
でも、パパはいない。
いま、演習で航海に出ている。あたしも、くわしいことは知らないけれど、フィリピン軍との合同演習らしい。
約4週間の予定だった。
空母ミッドウェイに乗って、東シナ海にいるらしい。
あたしは、缶のCOORSを飲みながら、リビングの壁を見た。
壁には、飾り棚があった。いろんな物が飾ってある。
カリフォルニアにいた頃、パパとメキシコのティファナまで遊びにいった。あたしは小さかったんで、あまり覚えていないけど、その時にパパが買ったメキシコ人形。ソンブレロをかぶってギターを持っている。
そのとなりには、小さなトロフィー。ハワイにいた頃、あたしが野球のジュニア・リーグで優勝した。その時のトロフィーだ。
そのとなりに、写真立てがある。
2枚の写真が、写真立てに入っていた。
右の写真には、あたしとパパが写っていた。ハワイで写したスナップだった。
家の前だ。陽ざしが明るい。12歳頃のあたしとパパが立って微笑《わら》っていた。
あたしは、OAHUとプリントされたTシャツを着ている。ショートパンツからのびている脚が細い。まぶしそうに眼を細めて微笑っている。
パパは渋いブルーのアロハ・シャツを着ていた。あたしの肩に手を置いていた。
2人の後ろ、ペパーミント・グリーンの家が写っている。〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉が写っている。淡い黄色とピンクの花が、写真のすみで揺れていた。
左の写真には、パパだけが写っている。
軍服を着た上半身が写っている。どこかの基地で撮った写真だった。
パパの後ろに写っているのは、ジェット戦闘機。たぶん、F─15イーグルだろう。
あたしのパパは、米軍のパイロットだった。
名前は、桂木浩二。
カリフォルニア生まれの日系二世だ。
あたしが生まれたのは、南カリフォルニアのサン・ディエゴだった。
L《ロ》・A《ス》というより、メキシコの国境に近い。アメリカ軍太平洋艦隊の基地がある。
あたしが物心ついたとき、ママはもういなかった。
最初からいなかったから、それほど不思議には思わなかった。
1度だけ、5歳のときに、パパにきいたことがある。
〈ママは、どこにいるの?〉
一瞬、困ったような表情になったパパの顔を、あたしはいまもよく覚えている。
パパは、何も言わなかった。無言で、野球のグラヴにオイルを塗っていた。サラリと乾いた夏の夕方だった。
ママのことは、まわりから自然に耳に入ってきた。
どうやら、死んだんじゃなくて、家を出ていったらしい。あたしがまだ2歳の頃だったという。
家にはママの写真は1枚もなかった。それは、パパの気持ちを象徴しているように思えた。あたしはもう、ママのことをきこうとはしなかった。
1缶目のCOORSを飲み干す。
キッチンにいく。2缶目をとり出す。
少しいい気分になってきた。あたしは口笛でM《マイケル》・ジャクソンの曲を吹きながらリビングに歩いていく。
足が、何かに触った。野球のボールだった。
それを、ひろい上げる。家で、パパとのキャッチ・ボールに使っているボールだった。あたしは、少しくたびれたボールをながめた。
窓から入る夕陽が、ボールをグレープフルーツみたいに染めていた。
パパは、もともと、野球の選手になりたかったらしい。
ハイ・スクールまでは、かなりいいプレーヤーだったという。
ハイ・スクールを卒業するときには、本気で迷ったらしい。
でも、その頃、ヴェトナム戦争が泥沼になりはじめていた。いずれ、徴兵されそうだった。
どうせ戦争にいくなら、パイロットになろう。パパは、どうやらそう思ったらしかった。
軍に入り、パイロットの訓練をうけた。あたしが生まれる頃には、もう一人前のパイロットになっていた。
けど、パパには、それとひきかえに失《な》くしたものもあった。とりあえず、野球選手への夢だ。
その手の夢は、普通、子供に託《たく》されるものだろう。
けれど、あたしは一人っ子だった。パパは、しかたなく、女の子のあたしに野球を教え込もうとした。
確か、6歳だった。
カリフォルニアから、ハワイに移った年だった。
家の小さな裏庭。
あたしはパパにボールの握り方を教わった。
子供用の小さなボールだった。それでも、6歳の手にはあまった。
野球が本当に面白くなったのは、10歳頃。
リトル・リーグの試合に出るようになってからだ。
なんといっても、コーチが家にいるのだ。あたしの選手としての力は、ぐんぐんとついていった。
10歳の夏には、カーブの投げ方を完全にマスターした。リトル・リーグの試合で、5連続三振をとった。
その日、パパは喜んで、七面鳥《ターキー》の丸焼きを買ってきた。嬉《うれ》しかったけど、2人っきりの家なんで、それから4日間はターキーばかりを食べるはめになってしまった。
横須賀に移ってきてからも、パパはよくコーチをしてくれる。
空母に乗って航海に出ていないときは、必ずあたしの試合を見にくる。どうやら、それが生きがいらしい。
あたしは、おもちゃにしてた野球のボールを、ソファーに放る。
2缶目のCOORSを飲み干す。
夕食をつくることにした。
キッチンにいく。スパゲティのためのお湯をわかしはじめた。デルモンテのトマト缶を開ける。ソースをつくりはじめた。
30分後。
あたしはダイニングのテーブルで、ひとり、スパゲティを食べていた。
ひとりの食事も、気楽でいいものだ。あたしは、そう思い込むようにしてきた。
パパは海軍のパイロットだ。空母の艦載機に乗っている。任務につくと、何週間も帰ってこないことが多い。
ひとりで生活することも、気の持ちようでそれなりに楽しめるんだ。あたしは、そう自分に言いきかせてきた。
確かに、下着とTシャツだけで夕食なんて、ひとりじゃなきゃできないだろう。
あたしは、3缶目のクアーズを飲みながらスパゲティを食べた。
食べ終わる。お皿を|自動食器洗い機《デイツシユ・ウオツシヤー》に入れると、もう眠くなりはじめていた。
9回まで完投。そして、乱闘。COORSを3缶。
眠くなって当然だろう。あたしは、Tシャツのままベッドに倒れ込んだ。カウント|8《エイト》で、眠りに落ちていった。
夢の中で、特大のホームランを打った。
「よお、エミィ」
後ろで声がした。
ふり向く。クラス・メイトのホッパーが立っていた。
翌日。放課後。
あたしが通っている基地の中の学校、Nile.C.Kinnick ハイ・スクール。
教室を出たところだ。
「きいたぜ、エミィ」
と、ワルのホッパー。ニタニタと微笑《わら》いながら、
「きのうの試合で、相手の急所を握ったんだってなァ」
と言った。
やれやれ……。あたしは、軽いため息。
実際は、相手の急所を蹴《け》り上げたのに、いつの間にか、そういう話になってしまったらしい。
「なあ、エミィ。おれのムスコも握ってくれよ」
とホッパー。ジーンズにつつまれた太い腰を、ヒワイに突き出した。あたしは完全にムカついていた。
「いいわよ、ホッパー」
と言った。
「あんたの玉を、握りつぶしてあげるわ」
あたしは、トレーナーの腕をまくった。そのとき、
「やめなさいよ、エミィ」
と背中で声がした。仲のいいクラス・メイトのスーザンだ。
「そんなことしたら、また変な噂《うわさ》を立てられるだけでしょう」
とスーザン。あたしのエリ首をつかむ。ぐいぐいと引っぱっていく。
「もうすぐね……」
スーザンが言った。並んで歩きながら、あたしはうなずいた。
それ以上言わなくても、わかる。もうすぐ、パパたちが帰ってくるのだ。そして、スーザンのパパも。
あたしのパパは、第7艦隊の主力、空母ミッドウェイに乗っている。スーザンのパパは、第7艦隊の旗艦、ブルーリッジの甲板長をやっている。
いつも、航海はいっしょだ。
「パパから手紙きた?」
スーザンがきいた。あたしは、うなずく。
「2週間前に、マニラから」
と言った。
パパからの手紙は、いつも通り、簡単なものだった。フィリピン軍と合同で演習をやっている。東シナ海は暑い。
それだけだった。
出かける前の話じゃ、FA18戦闘・攻撃機を使って新しい作戦のテストをするってことだった。
けど、手紙じゃ、そのことには触れていない。
最後にひとこと。
〈試合がんばれ。腕の振りを、意識して大きく〉
とだけ書いてあった。読んで、思わず苦笑してしまった。
「ママったら、パパが帰ってくるんで、またチキンを丸ごと1羽買ってきちゃったのよ」
とスーザン。
「チキンは艦《ふね》の上でもよく出るんだから、サーモンのパイでも焼けばって言うんだけど、ママはどうしてもチキンを丸焼きにしたいらしくて……」
とスーザンは、微笑《わら》った。
わかる。
アメリカ人にとって、〈丸ごと〉ってのはやはり特別な意味を持つらしい。
さすがに牛は丸ごとオーヴンに入らないから、どうしてもチキンやターキーの出番になるのだ。
「そうだ。あたしも、何か用意しなくちゃ……」
あたしは、つぶやいた。スーパー・マーケットの方に歩きはじめる。
「つき合うわ」
とスーザン。
雲が低い。頭上を、ジェット戦闘機が3機、三角編隊《トライ・フオーメーシヨン》で飛んでいく。あたしとスーザンは、一瞬、空を見上げた。
雨雲が、近づいていた。
家のチャイムが鳴った。
こんな時間に、誰《だれ》だろう……。
あたしは、ピスタチオ・ナッツの入った小さなボウルを持ったまま玄関に歩いていった。
ジーンズの上に、エプロンをかけ、パパのためのパテをつくっていた。
もうすぐ帰ってくるパパのために、好物の田舎風パテをつくりはじめたところだった。
あたしは、玄関のドアを開けた。
ジェイスン少尉が立っていた。
ハリー・ジェイスン。軍人の家族の面倒を見る勤めの将校だ。
パパの野球仲間でもある。
「どうしたの、ハリー」
あたしは、彼のファースト・ネームで呼んだ。
同時に、変だな、と感じていた。
いまは午後6時過ぎ。もう、あたりは薄暗い。
普通なら、ハリーはもう勤務外だ。うちに遊びにくるにしても、ポロシャツか何かを着ているはずなのに、なぜか、きちんと軍服を着込んでいる。
その表情が、硬い。
あたしの心臓の鼓動が、早くなっていた。
ハリーは、しばらく無言。突っ立って、あたしの胸のあたりを見ていた。
いつもなら、明るい声で、
〈やあ、エミィ〉
と言うのに……。
やがて、ハリーは視線を上げた。あたしの眼を見た。
「……エミィ……悪い知らせなんだ……」
あたしの手から、ボウルが落ちた。ピスタチオが、玄関に飛び散った。
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3 紫陽花は、シルキー・レインに濡れて
目まい……。
あたしは、ふらついた。
ハリーが、あたしの体をささえてくれる。
そのまま、ソファーに坐《すわ》らせてくれた。ソファーに坐ると、目まいはかなりおさまった。
「一杯飲ましてくれるかい?」
とハリー。
「本当はいけないんだが……」
と言いながら、もう、キッチンのカウンターにあったJ《ジヤツク》・ダニエルをとっていた。
グラスに、ウイスキーを3センチほど注ぐ。
ふた息で飲み干した。
「あたしにも……何かくれる?」
「ウイスキー? それともビールか何か?」
「ウイスキー」
「飲めるのかい?」
「少しなら」
ハリーは、うなずく。グラスに氷を入れた。J《ジヤツク》・ダニエルを注ぐ。あたしに渡した。自分にも、2杯目のウイスキーを注いだ。
J・ダニエルに、口をつける。
熱さが、ノドを過ぎる。お腹に、ポッと火がついた。味は、ほとんど感じなかった。
あたしも、軍人の娘だ。
こういう状況には、何回も出会ってきた。でも、自分のところに番が回ってくるなんて……。
いざとなると、ほとんど、まともに頭が働かないのに気づいた。
とにかく、あの冷静なハリーが、ウイスキーを飲まなきゃ話せないようなことなのだ……。
あたしは、覚悟を決めた。
体を硬くする。
「戦闘? 事故?」
と、目の前に坐ったハリーにきいた。
「事故だ……」
「死んだの?……」
ハリーが、小さく、だけどはっきりとうなずいた。
ウイスキーのせいもあるだろう。
自分とまわりの間に、透明な膜ができたみたいだった。
すべてが、非現実的だった。
目の前で、ハリーが話していた。
〈ついさっき、連絡が入った〉
〈事故が起きたのは、フィリピン・ルソン島の西、300海里《シー・マイル》の洋上〉
〈フィリピン海軍との合同演習中に、パパのFA18戦闘・攻撃機は、フィリピン海軍のジェット戦闘機と空中で接触した〉
〈低空だったので脱出する間もなく、飛行機ごと海に突っ込んだ〉
〈近くにいたフリゲート艦からジェット・ヘリが救助に向かったけれど、飛行機はもうバラバラになって海に沈んだところだった〉
ハリーは、つとめて淡々と、事務的に話していた。
「飛行機ごと、沈んじゃったの?……」
「ああ……そうらしい……。現場近くの海面で、垂直尾翼の一部が見つかったけど……それだけだっていう話だ……」
「…………」
「事故が発生したのが午前11時で、ついさっきまで7時間の捜索がつづいたけど、パパは見つからなくて……死亡と判断されたって連絡だった……」
ハリーは、苦しそうに言った。
J・ダニエルを、また、ぐいっとひと口飲んだ。
1時間後。
知らせをきいた友人のスーザンがやってきた。彼女のママも一緒だった。
あたしの顔を見ると、スーザンは、わっと泣き出した。
彼女も、よくうちに遊びにきた。パパとはけっこう仲が良かったのだ。
スーザンは、あたしに抱きつくと、思いきり泣いた。
あたしの方は、まだ、ボーッとしていた。
完全な放心状態だ。
逆に、泣いているスーザンの背中をさすってあげた。
「じゃあ、今夜はとりあえずこれで」
とハリー。
「何かまた連絡が入ったら知らせるよ」
と言った。
ハリーは、あたしを、グイと抱きしめた。言葉につまっているみたいだった。
あたしの体をはなす。
「じゃあ」
とスーザンたちにも言うと、出ていった。
「食べないと、体に毒よ」
スーザンのママが言った。
テーブルのお皿では、ママがつくってくれたビーフ・シチューが湯気を立てていた。
けど、さすがに、スプーンを持つ気にはなれなかった。
「ありがとう……」
とだけ言った。ママに、がんばってつくった笑顔を見せた。
シチューの表面に、薄い皮ができていく。
あたしは、イスを立った。窓ぎわにいった。窓を開けた。
雨が降りはじめていた。
細かい糸のような雨。シルキー・レインだ。
窓の外には、紫陽花《あじさい》が植えてあった。紫陽花の若葉が、雨に濡《ぬ》れていた。濡れた芝生の匂《にお》いが、鼻先をかすめて過ぎた。
あたしのかわりに、空が泣いているんだ。そう思った。
スーザンが、気をきかしてラジカセをつけた。FENからD《ダイアナ》・ロスの〈If We Hold On Together〉が流れはじめた。
あたしは、シルキー・レインに濡れる紫陽花をじっと見つめていた。
気づくと、明け方だった。
ラジカセが、低く鳴っている。朝の5時から6時のDJはH《ハリー》・ニューマン。カントリー・ソング専門のプログラムだ。
いまもW《ウイリー》・ネルソンの唄《うた》う〈Always On My Mind〉が静かに流れている。
カーテンの外は、薄明るくなってきていた。
リビングのソファーには、スーザンが眠っている。徹夜で、あたしにつき合ってくれていたのだ。
スーザンがかけているブランケットが、ずり落ちそうになっていた。
あたしは、立ち上がる。スーザンのブランケットを、ちゃんとかけなおしてあげる。
あたし自身は、これっぽっちも眠くなかった。
ゆっくりと、カウンターを回り込んでキッチンにいく。調理台の上に、ボウルがあった。ボウルには、挽《ひ》き肉が入っていた。
パテをつくるために二度挽きした肉だ。もう必要はない。
あたしは、挽き肉を流しのディスポーザーに落とした。水を流しながら、ディスポーザーのスイッチを、ON。
ディスポーザーのガラガラいう音にも、スーザンは目を覚まさない。軽く寝返りをうっただけだ。
それも、無理はないだろう。ついさっき、午前4時頃まで起きていて、あたしをなぐさめてくれていたんだから。
あたしは、パテの材料を全部、ディスポーザーに落とした。黙々と捨てていく。
頭は、ぼんやりしている。
けど、眠気は、やってこない。
あたしは、野球のグラヴとボールを手にとった。
よく、このぐらいの時間に、パパとキャッチ・ボールをした。学校にいく前の軽い練習だった。
パパが航海に出ているときは、壁を相手にしてボールを投げている。
こんなときでも、毎日の習慣は変えない方がいい。とにかく、ボーッとしているよりは何か、体を動かすことだ。
あたしは、家の玄関を開けた。
もう、雨は上がっていた。もやった感じの夜明けだった。
紫陽花《あじさい》の葉に、ビーズ玉みたいな雨粒がついている。庭の芝生《しばふ》も、しっとりと濡《ぬ》れている。
スニーカーで、濡れた芝生をふみしめる。あたりは、ひんやりと湿った草と土の匂《にお》いがしていた。
ゆっくりと歩いて学校にいく。
グラウンドの端。フェンスに囲まれた屋外のバスケット・コートがある。
その一番奥は、体育館のコンクリートべいだ。いつも、あたしが投球練習に使うところだ。
地上50センチから1メートルぐらいのところ。あたしがいつもボールを投げつけるところだけ、コンクリートの色が変わっている。
あたしは、その正面に立った。
誰《だれ》もいないフェンスのまわり。朝もやがたちこめていた。どこかで、鳥の鳴き声がしている。
ゆっくりしたモーション。あたしは、ボールを投げはじめた。
ポーン。壁に当たる。インコース、低目だ。
ボールは、ゴロではね返ってくる。グラヴでキャッチ。
あたしは、ハリーの電話を思い出していた。
きのうの夜、10時過ぎ。
ハリー・ジェイスンから家に電話があった。ハリーは、まだ指令部の無線室にいるみたいな様子だった。
事故のくわしい状況がわかったという。
教えてくれた。
あたしは、壁にボールを投げつけながら、電話の内容を思い返していた。
ポーン。ボールが、壁に当たる。
〈|09《ゼロ・ナイン》―|00《ゼロ・ゼロ》からはじまった演習の出来事だった〉
ポーン。
〈事故が起きたのは|11《イレヴン》―|05《ゼロ・フアイブ》だった〉
ポーン。
〈敵味方に分れての戦闘訓練をやっていたところだった〉
ポーン。
〈仮想敵機のフィリピン機との空中戦の最中、フィリピン機がコースをあやまって、10時の方向からパパのFA18に突っ込んできた〉
ポーン。
〈フィリピン機は、パパの機の垂直尾翼あたりに衝突した。海上100メートルぐらいの低空だった。パパのFA18は、キリモミ状態で4、5秒後に海に突っ込んだ。フィリピン機も空中爆発を起こした〉
ポーン。
〈フィリピン機のパイロットも死亡したけれど、遺体は海上で見つかった。パパのFA18は、もぎとられた垂直尾翼だけを海面に残して、バラバラになって沈んでいったらしい〉
ポーン。
〈墜落した海域がほぼ正確にわかっていたから、7時間の捜索で見つからなかったということは、100%生存の可能性がない。飛行機のコックピットの部分と一緒に、海に沈んだと思われる〉
最後に、ハリーはこう言った。
〈愛機と運命を共にしたんだ。君のパパらしい最後だな……〉
その言葉には、あまり力が入っていなかった。
ハリーも、いやという程、知っているのだ。そんな、なぐさめの言葉が、なんの力も持たないことを。
空母の上で死のうと、娼婦《しようふ》の腹の上で死のうと、帰ってこないことに変わりないのだから……。
あたしは、ボールに神経を集中する。
壁に向かって投げつづけた。
その日、学校にはいかなかった。
とても教室のイスに坐《すわ》っていられる気分じゃなかった。
それ以上に、みんなの同情の眼が嫌だった。
これまで、兵隊の子供が多い学校ばかり、いってきた。
ときどき、誰《だれ》かのパパが死ぬことに出会った。
そんなとき、学校のみんなが、その子供に向ける同情の言葉や態度が、あたしは嫌いだった。
同情されて、誰かの胸で泣いて、気がまぎれる子もいるだろう。
けど、あたしは、そういうタイプじゃなかった。
意地っぱりなんだろう。
誰かに同情されると、二重に心が傷つく。気持ちが重くなるのだ。
これは、生まれつきの性格だから、しょうがない。
あたしは、学校にいくかわりに、第4|桟橋《ピア》にいった。
海に突き出したコンクリートの桟橋だ。
あまり大きくない巡洋艦や駆逐艦なんかがつく桟橋だった。
普通でも、あまり使われていない桟橋だ。まして、いまみたいに艦隊が航海に出ていると、あたりには誰もいない。
何か、悩みごとや考えごとがあると、あたしはよくここへくる。
何時間でも、坐って、海をながめていた。
いまも、そうだ。
あたしは、コンクリートの桟橋に腰をおろす。スニーカーをはいた足を、ブラブラさせる。
足もとの海には、小魚が群れをつくって泳いでいた。
ウォーター・タクシーと呼ばれる小舟の笛《ホーン》が、短く海面に響いた。
曇り空。ときどき、カモメが頭上をゆっくりとよぎっていく。海を渡ってくる涼しい風。あたしは、コットン・カーディガンの前を合わせた。
「エミィ……」
後ろで声がした。
きき覚えのある声だった。あたしは、ゆっくりとふり向く。
ジェイが立っていた。となりに、ケイコさんもいた。
「ジェイ……」
あたしは、つぶやいた。
ジェイの広いおでこや髪が、かすかな夕陽に黄色っぽく染まっている。
もう、夕方なんだ……。
あたしは、ゆっくりと立ち上がった。
「家にいったらいないんで、たぶんここだと思ってきてみたんだ」
ジェイは言った。
あたしの体を、そっと抱きしめた。
ジェイは、パパの親友だった。
本名は、ジェイル・J・ジェファーソン。
ファースト・ネームが、ジェイル。おまけに、ミドル・ネームも入れると頭文字が、J・J・Jになる。
で、軍の仲間からは〈ジェイ〉と呼ばれていた。
年齢《とし》は、パパとほとんど同じ。40代の前半だ。
パパは日本人だから、黒々とした髪を横分けにしていた。
けど、ジェイの髪は、もうかなり薄い。
広いおでこの上の方に、少なくなった茶色の髪がへばりついている。
白人だからしかたないのかもしれないけど、体も少し中年太りしている。
歌手のP《フイル》・コリンズに、よく似ていた。
ただし、ジェイは歌はヘタだ。そのかわり、料理が上手だった。
ジェイは、もともと、海軍のコックだった。空母のコック長をやっていたこともあった。
あたしのパパとは、その頃からの親友だ。
2人とも、野球が好きだった。
海軍の中のチームじゃ、パパがピッチャーで、ジェイがキャッチャーだった。
航海中も、よく空母の甲板でキャッチ・ボールをやっていたらしい。
3年前、あたしとパパが日本にきてすぐ、ジェイは結婚した。
相手は、日本人のケイコ。基地の外の人だった。
ケイコさんは、30代の後半だろう。
ストレートなロングヘアーを、まん中分けにしている。
スレンダーな体に、いつもジーンズをはいている。
実際の年齢《とし》より、かなり若く見える。20代の終わり頃といっても通るだろう。
葉山生まれ、葉山育ち。
湘南ガールが、そのまま大人になったっていう雰囲気だ。一年中、陽に灼《や》けている。
音大でピアノを勉強して、ニューヨークにいった。プロのジャズ・プレーヤーになる夢を持っていたんだろう。
けど、2年後、日本に帰ってきた。
もともと親が持っていた土地に、ピアノ・バーをつくって、自分で経営しはじめた。
葉山・一色海岸に近い芝崎という所だ。海沿いの細い道路に面して、ケイコさんの店〈サブマリーン〉はあった。
鉄筋コンクリートのがっちりした外観。木と真鍮の船具をいっぱい使った、船室《キヤビン》みたいに落ちついた内装。
窓の外には、すぐ海が見える。店の中にいると、本当に船に乗っているような気分になる。いい店だった。
いつか、あたしはケイコさんにきいたことがある。
〈どうしてプロのジャズ・プレーヤーにならなかったの?〉
と。
普通なら、ききづらい質問だったろう。
けど、あたしは、確か12か13歳で、いまよりかなり子供だった。
おまけに、サバサバした性格のケイコさんを、本当のお姉さんみたいに思っていたんだろう。
それは、夏の終わりの夕方だった。
ほかに誰《だれ》もいない彼女の店で、パイナップル色の夕陽だけが、窓からさし込《こ》んでいた。
あたしにそうきかれて、ケイコさんは、軽く苦笑い。
グラスに、ジンとジンジャエールを注ぎながら、
〈第1に、プロとしてやっていけるだけの力量がなかったのね〉
と言った。
ジン&ジンジャーをひと口飲む。
〈第2に、楽しいことは職業にしない方がいいって気づいたの〉
と言った。微笑《わら》いながら、
〈ほら……|売 春 婦《ストリート・ガール》になっちゃったら、セックスなんて楽しみじゃなくなると思うの〉
と言った。
〈お楽しみは、あくまでお楽しみ。わかるでしょう?〉
と、つけ加えた。
あたしに、小さくウインクした。ハイネケン・ビアーを出してくれた。
ケイコさんは、アップライト型のピアノでさらりと〈Misty《ミステイー》〉を弾きはじめた。細く、しなやかな指先が、鍵盤《けんばん》の上でゆっくりと踊る。
あたしは、生まれてはじめてビールというものを飲んだ。
いまのケイコさんの話といい、ビールといい、なんか大人扱いされたようで嬉《うれ》しかった。
ケイコさんを、ますます好きになっていた。
ジェイとケイコさんの出会いは4年前だという。
あたしたちより少し早くハワイから横須賀に転属になっていたジェイは、基地のレストランのコック長になっていた。艦《ふね》に乗らない陸の仕事だ。
休日になると、ジェイは湘南のあちこちの店に出かけるようになり、ケイコさんのピアノ・バー〈サブマリーン〉にもいった。
店のオーナーと客だった2人は、すぐに恋愛関係になったらしい。ルックスはさえないけど、心の温かいジェイに、ケイコさんもひかれたんだろう。
2人は、結婚の決意をする。
ケイコさんの店はうまくいってたんで、ジェイは軍をやめることにした。
退役すると、〈サブマリーン〉を手伝いはじめた。
ジェイたちの結婚パーティーは、あたしもよく覚えている。
〈お前のつくるまずいメシを食わないですむかと思うと、せいせいするぜ〉
と、あたしのパパが言うと、
〈もう空母の甲板であんたのヘナチョコ球をうけなくていいと思うと、嬉しくて嬉しくて〉
とジェイが言い返した。そして、2人ともすごく酔っぱらった。
早い話、仲がいいのだ。
軍をやめても、ジェイはしょっちゅう基地にやってくる。
大人たちの野球チーム〈横須賀シャークス〉のキャッチャーは、ジェイ以外に考えられないからだ。
あたしとパパも、休日にはよく葉山のサブマリーンにいった。海水浴場が近いんで、2階に泊めてもらったりもした。
サブマリーンは、以前にもまして、はやっていた。
ジェイが手伝うようになって、メニューにシーフードをいっぱいのせたのだ。
サブマリーンのすぐとなりは、真名瀬《しんなせ》という小さな漁港だ。
そこの漁師や釣り船の船頭から分けてもらった魚を、ジェイは上手に料理した。客に、大うけしている。
ケイコさんの弾くピアノと、ジェイの料理で、サブマリーンは繁盛していた。
いま、あたしを抱きしめているジェイのお腹も、また少しせり出してきたみたいだ。
「エミィ……」
たそがれの桟橋。あたしを抱きしめているジェイが、つぶやいた。
それ以外、言葉が出ない。ジェイは、やがて、あたしの体をはなした。眼に、涙があふれていた。
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4 お別れに、レッド・シューズ
ジェイはまた、
「エミィ……」
と声をつまらせた。
その眼にあふれた涙が、ポロリとこぼれた。ぽっちゃりとした頬《ほお》をつたった。
やがてジェイは、肩をふるわせて、泣きはじめた。あたりかまわず、声を上げて泣きはじめた。一見、あたしよりショックをうけてるみたいだった。
ケイコさんが、あたしのわきにきた。片手であたしの肩を抱いた。
あたしは、ケイコさんの肩に、頭をのせた。
彼女の方が、ジェイよりは落ちついていた。
パパとのつき合いの深さは、もちろん違うだろう。
けど、こういうときには、とりあえず女の方が落ちついていられるのかもしれない。
ケイコさんは、しっかりとあたしの肩を抱く。
「ちゃんと食べてる? エミ」
と、きいた。
彼女は日本人だから、あたしのことをエミと呼ぶのだ。
あたしは、かすかに首を横に振った。
きのう、知らせをきいたとき、まだ晩ご飯は食べていなかった。
それから、きょうの夕方まで、何も食べていない。食べる気にもならない。
「そりゃ良くないわ」
ケイコさんは言った。
「とにかく、何か食べなきゃ」
と、あたしの肩を軽くゆすった。
「ジェイ、エミの家にいって夕食をつくりましょう」
とケイコさん。
泣きじゃくってたジェイは、顔を上げる。
「あ……ああ……」
と、つぶやいた。
「そうだ……夕食だ……。つくらなくちゃ……」
寝起きみたいなぼんやりした声で、ジェイは言った。
あたしの家の前。ジェイとケイコさんのステーション・ワゴンが駐《と》まっていた。
ジェイは、ワゴンの荷台から、魚の入ってるクーラー・ボックスを出した。みんなで、家に入っていく。
キッチンに立つと、ジェイもさすがにしゃっきりとした。手ぎわよく、魚をさばきはじめる。
ケイコさんは、あたしをソファーに坐《すわ》らせる。冷蔵庫からジンジャエールを出す。ジン&ジンジャーを2杯つくった。1杯を、あたしに渡した。
ジェイは、ズッパをつくっていた。
ズッパは、イタリー風のブイヤベース。サブマリーン名物料理の1つだ。
ジェイは、軍隊でイタリーに航海したときにこれを覚えたという。
まず、魚の頭やアラをパセリやなんかと一緒に煮てスープをつくる。
そのスープにいためた玉ネギ、ニンニク、そして大量の缶づめトマトを入れる。
そこへ、いろんな種類の魚、エビ、貝類を入れて煮込む。
魚やエビの味がトマトとまざっていいスープになる。サフランの入っていないブイヤベースというところだろう。
サフランが入ってない分、くせがないからいくらでも食べられる。
ダイニング・キッチンに、いい匂《にお》いが漂いはじめた。
テーブルのお皿に、ズッパが盛られた。
「さあ、できたよ、エミィ」
とジェイ。エプロンをはずした。
あたしは、テーブルについた。けど、なかなかスプーンとフォークに手がのびない。もじもじとジン&ジンジャーを飲んでいた。
「ねえ、エミ」
とケイコさん。
あたしを、正面から見た。
「こんなときに、きつい言い方だと思うかもしれないけど、きいてくれる?」
「…………」
「あなたのパパは、もう帰ってこない。それは、どうしようもないことよ」
「…………」
「兄弟のいないあなたは、ひとりになっちゃったのよ」
あたしは、うなずいた。
パパの両親はとっくに死んでいる。パパの兄も、ヴェトナムで戦死していた。
「もちろん、私たちができる限りのことはするけど、あなたはあなたなりに、ひとりで生きていく覚悟をしなきゃならないの。つらいことだけど、わかる?」
あたしは、はっきりとうなずいて、
「これでも、軍人の娘よ。物心ついたときから、そういう覚悟は、少しずつしてきたわ」
と言った。
今度は、ケイコさんがうなずいた。
「それなら、わかると思うけど、一番大切なのはあなたの体よ。あなたが病気でもしたら、天国のパパも悲しむと思うの」
「……そうね……」
「OK。わかったら、少しは食べなさい。顔が蒼白《あおじろ》いわよ、エミ」
微笑《ほほえ》みながら、ケイコさんは言った。あたしの頬をそっと叩いた。
あたしは、うなずいた。
そのとおりなのだ。
戦死した軍人の家族が、すぐ後に病気で倒れるっていう話は、よくある。けして、いいことじゃない。
あたしは、スプーンをとった。ズッパをひと口、すすった。
ジェイが、ホッとした顔をした。
艦隊が、帰ってきた。
留守家族はみんな、岸壁まで出迎えにいく。
あたしは、もちろんいかなかった。自分の部屋でベッドに横になっていた。天井をながめていた。
カーテンの外じゃ、雨が降っていた。枕《まくら》もとのCDラジカセからは、E《エルトン》・ジョンの〈Candle In The Wind〉が低く流れていた。E《エルトン》・ジョンのバラードは、雨音によく似合う。
玄関のチャイムが鳴った。
あたしは、CDを止める。ベッドからおりる。リビングを横切って、玄関にいく。開けた。
ハリーが立っていた。
軍服の肩が、雨に濡《ぬ》れていた。
「やあ、エミィ……元気かい?……」
と、きいた。
「だいじょうぶよ……」
あたしは、どうにか笑顔をつくることに成功した。
ハリーは、
「あの、これ……」
と言いながら、スーツケースを玄関に置いた。
それは、パパのスーツケースだった。
普通の水兵はキャンバス地のバッグを肩にかついで艦に乗る。けど、パパは将校なんで、いつもスーツケースを持っていく。
ハリバートンの中型のやつだ。
あたしは、無言でうなずく。スーツケースをうけとった。
「何か、私にできることがあったら、いつでも言ってくれ」
とハリー。
「ありがとう……。いまのところ、だいじょうぶよ」
あたしは言った。それ以上、笑顔をつくるのが難しくなったので、ハリーに手を振ってドアを閉めた。
パパの部屋にスーツケースを運び込んだ。あたしは小声で、
「お帰りなさい……」
とスーツケースにつぶやきかけた。
そっと、スーツケースを開いた。
中は、きちんと整理されていた。空母というのは、ちょっとした街みたいなものだ。なんでも揃《そろ》っている。パパの衣類も、みんな、ちゃんとクリーニングされていた。
あたしは、いつものくせで、パパの衣類をスーツケースから出す。クローゼットにしまいはじめた。
ふと、気づく。
衣類の間に、何か入っていた。
茶色い紙に包まれている。10センチ四方ぐらいの物だった。
紙を開いてみる。
出てきたのは、アクセサリーなんかを入れるための小さなケースらしかった。きれいな貝殻|細工《ざいく》でできていた。
どうやら、あたしへのお土産《みやげ》らしい。
この貝殻細工からすると、フィリピンのマニラあたりで買ってきたんだろう。
あたしは、そっと蓋《ふた》を開いた。
音が、流れはじめた。その小物入れは、オルゴールにもなっていたらしい。
耳をすます。
ポロンポリンいうオルゴールの音を、あたしはじっと聴いた。
曲は、〈|The Long And Winding Road《ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード》 〉だった……。
パパは、あたしがビートルズ・ソングを好きなのを知っていた。
それで……これを……。
あたしは、オルゴールの〈ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード〉にじっと耳をすましていた。
心の中で、何かが切れるのがわかった。
ここ数日、無理に無理をかさねて張りつめていた緊張の糸が、切れた。
オルゴールの音色で、糸がプツンと切れてしまった。
気づくと、涙が瞳《ひとみ》にあふれていた。
パパが死んだ、その知らせをきいてから、はじめての涙だった。
いったんあふれ出すと、涙は止まらない。
後から後から流れ出す。
あたしは、思いっきり泣きはじめていた。
床に、ぺたりと坐《すわ》り込んだまま。
パパのベッドにおでこを押し当てて、思いっきり泣いた。
拳《こぶし》で、ベッドを叩《たた》く。肩が、勝手に震える。どしゃ降りのスコールか何かのように、あたしは激しく泣きつづけた。
5日後。
パパのお葬式が、基地の中でおこなわれた。
ハリーが用意してくれた黒いワンピースを、あたしは着ていた。いつもジーンズかショートパンツなんで、変な気分だった。
パパの遺体は、ない。
当然、棺《ひつぎ》もない。
パパの写真が入った額を、あたしはかかえて立っていた。
額の中で、軍服のパパは優しく微笑《ほほえ》んでいた。
額にかけられた黒いリボンが、海からの風に揺れていた。
パパは、第7艦隊きってのパイロットだった。同時に、横須賀シャークスのピッチャーとしても活躍していた。
お葬式には、たくさんの人たちが参列していた。
もちろん、ジェイとケイコさんも葉山からかけつけてきた。
ジェイの黒い礼服は、ボタンが弾《はじ》け飛びそうなほどパチンパチンだった。式の間、あたしは涙をこぼさないよう、ジェイの突き出たお腹ばかりを見ていた。
よく晴れていた。
空に向かって立つポールに、半旗になった星条旗がひるがえっていた。
その上の青空。ジェット戦闘機が飛んでいく。
たぶん、パパのパイロット仲間たちなんだろう。戦闘機は、十字架の形に編隊を組んで西へ飛んでいく……。
あたしは、眼を細めた。
青空に描かれた銀色の十字架を、いつまでも見上げていた。
4月に入った。
あたしが基地を出ていく日が、近づいていた。
軍の規定で、遺族は30日以内に基地を出なければならない。
ジェイとケイコさんが、あたしを引き受けてくれることになっていた。
あたしも、家族同然のジェイたちのところなら、気持ちが落ちつく。
軍からの給付金や生命保険のお金で、経済的な心配はなかった。それより、欲しいのは一緒に朝食のサニーサイド・アップを食べる相手だった。
基地を出れば、当然、日本の学校にいくことになる。
その手続きや何かは、ハリーはもちろんジェイとケイコさんも手伝ってくれた。
手続きは、かなり、めんどうだった。
まず、パパが米軍にいたという軍籍証明書。あたしがハイ・スクールにいたという在学証明書。そして身元保証人。これは、もちろんジェイとケイコさんだ。
そんな書類を日本の法務省に提出して、やっとあたしは基地の外に住めることになった。
さらに、文部省で日本の学校への入学審査をうけた。
そのあげく、編入をうけ入れてくれる私立高校をさがす。
やっと入る学校が決まった頃には、もうクタクタだった。けど、その忙しさのおかげで、少しは気がまぎれたのも事実だった。
基地のハイ・スクールでは、去年の9月にあたしは高1になった。もう、高1の半分を過ごしている。
けど、日本の学校に転校する以上、また高1をはじめからやりなおすことになる。
日本の新学期は、もうはじまっている。
どうせ転校するなら早い方がいいとジェイたちが言った。
あたしも、基地の中にいるのが、つらくなっていた。
どこへいっても、どこを見ても、パパのことを思い出してしまう。
それに、周囲の同情の眼《め》だ。いくら好意だとわかっていても、やっぱり気は重い。
もちろん、基地の中には、離れたくない仲間もたくさんいる。けど、どっちかといえば、周囲の同情の方が重くのしかかってくる。
基地内の家にいられるリミット30日より前に、あたしは出ていくことにした。
「よいしょっ」
とジェイ。最後のダンボール箱を、ステーション・ワゴンの荷台に積み込んだ。
「さあ、これでよし」
と言った。荷台のドアをバタンと閉めた。
あたしの家の前。
遅い午後。
引っ越しの用意が終わった。
あたしは、手伝ってくれたスーザンに、
「ありがとう。……じゃ、いくわ……」
と言った。
スーザンは、うるんだ眼であたしを見た。
「エミィ……元気で……」
あたしたちは、抱き合った。スーザンの肩が、小刻みに揺れている。涙が、あたしの肩に落ちた。
「……しょっちゅう遊びにくるわよ……葉山からならすぐだし……」
あたしは言った。
涙をこらえて、スーザンに微笑《わら》ってみせた。スーザンは、鼻をすすりながらうなずいた。あたしの体をはなした。
「じゃ、体を大切に、エミィ」
とハリー。
あたしの体を、1度だけ強く抱きしめた。
「事務的なことは、また追って連絡するよ」
と言った。
あたしは、うなずく。
ステーション・ワゴンの助手席に乗り込んだ。
走り出す前の一瞬。あたしは、家を見た。眼を細めて、3年間暮らしてきた家を見つめた。
斜めの陽ざしが、家にさしていた。
ドアのノブが、郵便うけが、長い影を引いている。
紫陽花《あじさい》の若葉は、鮮かなグリーンだ。
あたしは、紫陽花の花が好きだった。青から紫色に変わっていく頃が、特に好きだ。それを窓からながめていると、日本の梅雨もそう悪くないと思えてくる。
けど、この紫陽花の花を窓からながめることは、もうないんだ……。
あたしは思った。
胸がしめつけられそうになる。
ジェイに、
「いって」
と言った。ジェイは、ゆっくりとクルマを出す。
あたしは、スーザンとハリーに手を振った。スーザンは、2、3歩追いかけてこようとして足を止めた。ただせわしなく手を振った。
2人の姿が、ゆっくりと小さくなっていく……。
クルマは、基地のゲートのところにきた。
そのときだった。
「あれ?……」
あたしは、思わずつぶやいた。ジェイが、ブレーキをふんだ。
ゲートの近くに、男の子たちが10人ぐらいいた。
あたしのチーム・メイト、横須賀ジェッツの連中だった。
みんなジーンズやトレーナー姿だ。学校の帰りなんだろう。チューインガムをクチャクチャかみながら、ゲートの前にたむろしていた。
その前で、ジェイがクルマを駐《と》めた。
あたしは、おりた。
キャッチャーのジョーが、
「これ……」
とだけ言った。あたしに、何かさし出した。
紙箱だった。包装なんかされていない、ただの紙箱だった。
あたしは、うけとる。蓋《ふた》をとってみた。
新品のスパイク・シューズが入っていた。野球のスパイク・シューズだ。
色はレッド。ハイビスカスの花みたいな赤のシューズだ。
それは、あたしがいつも履いているシューズと同じ色だった。
あたしが履いてたスパイク・シューズは、もう、かなりくたびれていた。あちこち、傷だらけだった。
「それ……みんなから……」
とジョー。ぶっきらぼうに言った。
あたしは、新品のレッド・シューズを胸に抱きしめた。
「ありがとう……」
と、つぶやいた。
みんなを見回した。
みんな黙っている。金髪や茶色の髪が、斜光を照り返していた。
照れかくしか、わざとソッポを向く男の子もいる。
うつ向いて、自分のスニーカーをじっと見つめてる子もいる。
最後にジョーが、
「元気で、エミィ……」
と言った。あたしは、小さくうなずいた。クルマに戻る。
ジェイが、クルマを出した。
検問所《ゲート》の建て物が、横須賀ジェッツのみんなが、ミラーの中で小さくなっていく。
あたしは、レッド・シューズの入った箱を、まだ胸に抱いていた。
1度だけ、グスッとしゃくり上げた。ステアリングを握ってるジェイが、チラリとあたしを見た。
「花粉症よ」
あたしは言った。2度とバックミラーを見なかった。
横須賀の街が遠ざかる。カー・ラジオが、W《ウイリー》・ネルソンの〈|On The Road Again《オン・ザ・ロード・アゲイン》〉を流していた。
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5 もう、ハーバーには帰れない
「どう? 片づいた?」
後ろで声がした。あたしは、しゃがんだままふり向いた。
部屋の入口に、ケイコさんが立っていた。
サブマリーンの2階。あたしのために用意されていた部屋だ。
よく、夏になると遊びにきた。パパの勤務があるときは、あたし1人で泊まったりもした部屋だ。
6畳ぐらいの洋間。壁ぎわにはシングル・ベッド。小型のクローゼット。あたしのために、新しい勉強机が用意されていた。
貝殻模様がプリントされたカーテンも、新しくつけ替えられたらしい。風に揺れるカーテンの向こうには、葉山の海が夕陽を照り返していた。
「なかなか片づかないわ……」
あたしは、ケイコさんに言った。軽いため息。
ダンボール箱に入った引っ越し荷物は、まだ半分も片づいていない。
「まあ、のんびりやるのね」
ケイコさんは、微笑《わら》いながら言った。
「それより、これ」
と、紙箱を部屋の中に運び込んだ。
「エミの新しい学校の制服よ」
言いながら、箱を開けた。中には、紺のセーラー服一式が入っていた。あたしは、手にとってみた。
基地の中の学校は、もちろん制服なんてない。暖かくなると、Tシャツにゴムゾウリで学校に通ったりしてた。
けど、日本の女子高生のセーラー服は、よく街で見かけた。
「着てみたら」
とケイコさん。あたしは、うなずいた。
セーラー服を着てみた。
〈うーむ……〉
スカートというものを、めったにはいたことがなかった。いつもジーンズだった。
いかにも女の子らしくなった気もする。同時に、これで毎日学校にいくのかと思うと、下半身がスースーして落ちつかないような気もする。
それに、問題はケンカだ。
ジャジャ馬のあたしとしては、このスカート姿でケンカするのかと思うと、ちょっと不安だった。
それでも、このセーラー服を用意してくれたジェイとケイコさんに悪いんで、見せにいくことにした。
1階におりていく。
2人は、サブマリーンで開店の準備をしていた。
あたしのセーラー服姿を見る。
「あら、けっこう似合うじゃない」
ケイコさんが言った。
ジェイも、グラスを磨いてた手をとめる。眼を細める。
「そうしてみると、エミィもやっぱり女の子なんだなァ……」
と言った。
2人して、あたしのセーラー服姿をながめた。
あたしは、照れくさいんで、
「ちょっと、外の風を吸ってくるわ」
と2人に言う。店のドアを開けて表に出た。
眼の前に、海があった。
風は、軽く、透明だった。
同じ海のそばでも、横須賀は東京湾に面している。おまけに海軍基地だ。風の中に重油や何かの匂《にお》いがまざって、重かった。
それに比べると、ここはやはり湘南だ。
風はサラリとした、気持ちのいい海風だ。
あたしは、セーラー服のまま、前の防波堤に跳び上がった。
夕方の海が、広がっていた。海は、パイナップル色に染まっている。
1日の釣りを終えた大型の釣り船が帰っていく。勝蔵丸。ゆうしげ丸。勇太郎丸。そんな船名を描いた船たちが、エンジン音を響かせてすぐそばの港に帰っていく。
1日の練習を終えた大学の小型ヨットたちも、つぎつぎに帰っていく。
あたしは、眼《め》を細めて港に帰っていく船たちを見ていた。
ジェイとケイコさんは、とても優しくしてくれる。思いやりもある。
けど、あたしにとっての本当の家はやはりもう無いのだ。
1日の航海を終えて帰っていく港《ハーバー》は、あたしにはもう無いのだ。
もう、ハーバーには帰れない。
唇をきつく結ぶ。水平線をながめた。
ひとり防波堤に立つあたしに、風が吹いていく。
夕方の西風。
ひんやりと乾いた風が、セーラー服のスカートを、リボンを、フワリと揺らして過ぎていく。
「ほら! エミ! 起きて!」
とケイコさんの声。ドアの外できこえた。
「初日から遅刻しちゃうわよ!」
とケイコさん。
「ふァ……ふァあい!」
あたしは答える。ベッドから、おりる。
とたん、視界がフラリと揺れた。思わず、よろける。
二日酔いなのだ。
きのうの夜は、あたしの歓迎会ということでさんざん飲んだ。
ジェイはもちろん、ケイコさんもお酒はかなり強い。とちゅうから、近くの釣り船の船長もやってきた。ヒゲづらの通称クマさんという船長だ。
クマさんが昼間釣ったイナダの刺身を持ってやってきたんで、宴会はさらに盛り上がってしまった。
みんな、あたしを元気づけようとしてくれているのは、よくわかった。
それにしても、よく飲んだ。
4人で、ビールが24缶。ジンが2本。バーボンが3本。きれいにカラになっていた。
あたしは、フラつく足もとで、セーラー服に着替えた。カバンを持つ。ふみはずさないように用心して、1階への階段をおりていく。
1階のサブマリーン。
コーヒーのいい匂《にお》いが、店に漂っていた。
ケイコさんが、くわえ煙草《たばこ》でコーヒーを入れていた。
カウンターには、スクランブル・エッグも出ていた。
「ほら、朝ごはんよ、エミ」
「とても食べられないわ……」
あたしは、ため息まじりに言った。カウンターのスツールに坐《すわ》る。眼《め》の前のスクランブル・エッグをながめた。
「しょうがないわねェ」
とケイコさん。
「じゃ、コーヒーだけでも飲んでいきなさい」
と、あたしの前にコーヒー・マグを置いた。
「ありがとう」
あたしは、熱いコーヒーに口をつけて、
「ジェイは?」
「まだ死んでるわよ」
ケイコさんは、微笑《わら》いながら言った。2階を指さした。
「お弁当、これしか用意できなくてごめんなさいね」
とケイコさん。透明なプラスチック・パックに入ったシャケ弁当をさし出した。
それは、近くで買ってきたものだ。サブマリーンのすぐそばには、クマさんたちの釣り船屋がいくつかある。釣り船は、朝6時とか7時から出ていく。
その釣り客たちのためのお弁当を、釣り船屋の売店で売っているのだ。このシャケ弁当も、そこで売っているお弁当の1つだった。
「これで充分よ」
あたしは、ケイコさんに言った。
「菓子パンなんかに比べたら立派すぎるぐらいよ」
あたしは微笑いながら言った。シャケ弁当を持つ。出ていこうとした。
「あ、エミ……」
ケイコさんが、声をかけた。
「何?……」
ふり向く。
「とちゅう入学なんで、あまり程度の高い学校に入れてあげられなくて……」
「いいわよ、そんなの」
「でも……中にはガラの悪い生徒もいるかもしれないけど、あんまりケンカしちゃダメよ」
ケイコさんは言った。
あたしが、ケンカっ早いのを知っているから、心配なんだろう。
あたしは、ずっと兵隊の子供たちの中で育ってきた。
しかも、海軍だ。海軍の兵隊たちは、気が荒いのが多い。当然、その子供たちもガラが悪くなる。
おまけに、あたしは少数派の日系人だ。よく、からかわれたり、ケンカを売られたりした。
けど、そういう時、1度でもビビったら負けだ。あいつは弱虫だ。そんな噂《うわさ》があっという間に広まってしまう。
1度弱虫のレッテルを貼《は》られたら、何回でも、からかわれたり、いじめられたりすることになる。
だから、とにかく、からかわれたりしたら、やり返さなきゃならない。たとえ負けてもいいから、精一杯やり合わなきゃならない。
たとえ袋叩《ふくろだた》きにあっても、あいつはかなり手強《ごわ》いと思わせておかないと、後々、なめられっぱなしになるのだ。
そんなわけで、あたしは、しょっちゅうケンカしてきた。
よく、傷だらけで帰ってきた。
そんなとき、パパは黙ってマーキュロを塗ってくれた。
パパも、日系人のアメリカ兵という、ちょっと変わった立場だ。自分の腕力で、自分の名誉を守らなきゃならなかったこともあったんだろう。
あたしのケガには、たいした小言も言わず手当てをしてくれた。
あれは、あたしが11歳の時。
ハワイだ。
海兵隊員の息子とケンカになった。相手は白人。ハワイの言葉で言うハオレだ。きっかけは、たいしたことじゃなかったと思う。
相手が、あたしのことを〈バナナ〉と呼んだのだ。
バナナってのは、ハワイにいる日系人を馬鹿《ばか》にする呼び方なのだ。
バナナは、皮が黄色くて中身が白い。
ハワイにいる日系人も、黄色人種の肌をしているけど、頭の中は白人になってしまっている。
そんな、たとえだ。
バナナと呼ばれたあたしは、相手に言い返してやった。
〈あたしがバナナなら、あんたがぶら下げてるムスコはモンキー・バナナね〉
相手も怒った。
ケンカになった。
相手は、飛び出しナイフを振り回してきた。横に払ったナイフの刃先が、あたしの額《ひたい》を浅く切った。
痛みは感じなかった。
パパに習っていたカラテで逆襲。
敵のナイフを、手刀で叩《たた》き落とす。
よろけた敵の後頭部に、回し蹴《げ》り!
入った!
敵の後頭部に入った。
敵はもんどりうって道路に転がった。
ノックアウト。
起き上がれない。
あたしは、敵の飛び出しナイフをひろい上げる。相手のジーンズを、ウエストからビリッと切り裂いてやった。
息をふき返した敵は、切り裂かれたジーンズを両手で押さえて、ヨタヨタと逃げ帰っていった。
そのまま家に帰ったあたしを見て、さすがのパパも驚いた。
血だらけだった。
額から流れた血が、顔と、Tシャツを染めていた。
〈勝ったわ〉
というあたしをクルマに押し込んで、パパは医者に走らせた。
傷は、たいしたことなかった。
3針ぬっただけだ。
クルマで帰るとき、パパは、
〈女の子なんだから、顔だけはちゃんと守れ〉
と言った。ダッシュボードに足を投げ出して、あたしはうなずいた。
翌日。
ヘア・バンドみたいな包帯を額に巻いて学校にいった。もう、誰《だれ》も、あたしをからかったりはしなかった。
そのかわり、あたしの額には傷が残った。
髪のはえぎわのちょっと下。2センチぐらいの傷が、かすかにある。
ショート・カットにしているのに、前髪だけ眉《まゆ》までのばしているのは、そのためでもある。
「こっちの女子高生も、近頃じゃ、かなり悪いみたいだから、気をつけて……」
とケイコさん。
「わかったわ。心配しないで」
あたしは、ケイコさんに微笑《わら》いかける。通学カバンを持つ。
店を出る。小走り!
とたん、頭がクラッとした。
お酒だ。きのう、最後に飲んだジン&ジンジャーが、まだ残っている。あたしは、右手でコメカミをゴンと叩《たた》いた。
走るのは、あきらめる。バス停に向かって、ノロノロと歩きはじめた。
「5分の遅刻だね」
と、その教師。あたしをジロッとながめて言った。
私立・逗葉《ずよう》女子高校。
朝の職員室。
あたしの前にいるのは、佐藤っていう教師。あたしの担任教師だという。
名前どおり、平凡すぎるぐらい平凡な中年男だった。七三に分けた髪。メタル・フレームの眼鏡《めがね》。一見して安物とわかるスーツ。
学校の帰り、どこかの道ですれちがっても、たぶん気がつかないだろう。それぐらい、平凡な男だった。
「まあ、登校初日だから道順もわからなかったんだろう。しかたない」
と担任の佐藤。
「じゃ、教室にいこうか」
と立ち上がった。
桂木エミ。
黒板に、あたしの名前が書かれた。
「きょうから、このクラスに編入することになった桂木だ」
担任の佐藤が言った。
「みんなとは1か月近く遅れて新学期の勉強をはじめるわけだが、仲良くやるように。桂木はこれまで米軍横須賀基地にいたから、英語は得意らしい。そうだな?」
と佐藤。あたしにきいた。
「まあまあかしら。でも、ニポン語、かなり不自由デス」
あたしは、ふざけて言ってやった。
教室に笑い声が広がる。
佐藤は、ムッとした顔。
「わ……わかったから、席につきなさい」
と言った。
どうやら、この教師は、外見同様、サラリーマン根性というか役人根性。早い話、ことなかれ主義らしい。
あたしは、空いていた窓ぎわの席に坐《すわ》った。教室を見回した。
基地の中の学校に比べると、不思議な風景だった。女子校だから当然だけど、女の子ばかりだ。
そして、同じセーラー服の若い子たちがズラッと並んでるってのは、やっぱりおかしなものだ。
おまけに、みんな、きちんと坐っている。
基地の学校じゃ、みんな、だれたスタイルでイスに坐っていた。後ろの方じゃ、机に足をのせてる男の子もいた。男の子の半分ぐらいが、チューイン・ガムをかみながら授業をうけていた。
それに比べ、なんと、ここの生徒たちのおぎょうぎのいいこと。
でも、どうやらそれは、あたしの早トチリだったらしい。
それが昼休みにわかった。
「ケンカよ!」
生徒の声が、教室で響いた。
あたしは、お昼を食べる手を止めた。
ケイコさんが用意してくれたシャケ弁当は、食べ終わった。
それじゃ足《た》りなさそうだったんで、学校の売店でカレー・パンを買っておいた。それを食べようとしたところだ。
「どこ!?」
「体育館の裏!」
と生徒たちの声。
「ほら、となりのクラスの蒲田っていうデカいのがいたでしょう!?」
「ああ、1年生の番長グループをつくりはじめてた、あれね」
「そうそう、あの蒲田の1年組が、2、3年の番長グループとやり合ってるらしいの!」
「そりゃ面白い!」
と同じクラスの女の子たち。
バタバタと教室を出ていく。
あたしも、見物しにいくことにした。食べようとしていたカレー・パンを手に持つ。教室を出ていく。
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6 たそがれに回し蹴り
校庭の東端。
大きな体育館が建っている。その裏側は、ちょっとした広さがある。
ケンカは、どうやらそこでくり広げられているらしい。生徒たちが、ドタバタとそっちに駆けていく。
あたしも、そっちに歩いていく。
見物の生徒たちで、人垣ができていた。
あたしは、カレー・パンをかじりながら、後ろからのぞいた。
ケンカは、もう、おおかた片がついていた。
地面には、10人ぐらいの女生徒がのびていた。
セーラー服を泥だらけにしているのもいた。鼻血を出して地面にへたり込んでるのもいた。
胸につけたバッジからすると、やられたのはみんな2、3年生らしい。
立っているのは、6、7人だった。
1人だけ、やたら体の巨《おお》きい女がいた。
1年生のバッジをつけている。どうやら、こいつがさっき話に出てた蒲田らしい。1年生の番長グループをつくった女なんだろう。
確かに。
体は、がっしりと巨きい。髪は男の子みたいに短かい。何か、格闘技をやってそうな体つきだった。
その後ろに、1年生が6人いた。蒲田のグループの子たちなんだろう。
向かい合って1人だけ、3年生がいた。
どうやら、蒲田にやっつけられた2、3年の番長グループの生き残りらしい。
「さて、いよいよ、番長のあんただけになったね」
と蒲田。ドスのきいた声で言った。
言われた相手は、いかにもツッパリ風の女だった。
チリチリとパーマさせた髪を、黄色に染めている。眉《まゆ》は剃《そ》って、細く描《か》いている。口紅もつけていた。
こいつが、いままでの番長なんだろう。
それなりに、凄味《すごみ》はある。けど、蒲田の体格の方が、圧倒的にごつくてすごい。迫力がある。
「さあ、どうする」
と蒲田。チリチリ頭の番長にせまる。
「ここでゴメンナサイをして番長の座をあたしにゆずれば、ケガをしないで帰れるけど?」
と言った。
また1歩、ジリッとチリチリ頭にせまった。
あたしは、カレー・パンをかじりながら、それをながめていた。
「うるさい!」
とチリチリ頭。蒲田をにらみつける。
「お前みたいな1年坊に番長《バン》の座を渡してたまるか!」
と叫んだ。
声だけは大きかった。けど、大きいだけであまり力が込もっていないのが、あたしにはわかった。
手下の10人ぐらいが、すでにやられている。そのせいで、もう、気持ちが逃げ腰になっているんだろう。
「そのデカい面《つら》を、切り刻んでやる……」
とチリチリ頭。
スカートのポケットに手を突っ込む。何かつかみ出した。
カッター・ナイフだった。
その刃を、チチチッと出す。ナイフみたいにかまえた。
向かい合った蒲田も、落ちついて身がまえる。
チリチリ頭は、カッターをかまえて、蒲田をにらみつけた。
けど、ムダだろう。
あたしは、カレー・パンをかじりながら思った。
あの蒲田のかまえは、本格的に格闘技をやっている人間のものだ。
相手のカッター・ナイフを見ても、まるでビビッていない。
それでも、チリチリ頭はやる気らしい。番長としては、ここでシッポを巻いて逃げるわけにはいかないんだろう。
ジリッと1歩。
蒲田にせまる。
「くらえ!」
カッターを突き出した!
蒲田は、ヒョイとよける。
右手で、相手の手首をつかんだ。
蒲田のがっしりと太い指が、相手の手首をつかんだ。
相手は、押すことも引くこともできない。蒲田に手首を握られたままだ。
蒲田は、手に力を込めていく。
相手のチリチリ頭の顔が、苦しそうにゆがむ。カッターを握った手が、ブルブルと震えはじめた。
「やめときゃよかったものを」
蒲田が言った。
さらに、手に力を込めたらしい。
相手の指が開いた。カッター・ナイフが、ポロリと落ちた。
「武器もなくなったよ。この辺でギブアップするかい?」
と蒲田。
相手は、顔をゆがめながらも、
「うるさい!」
と叫んだ。
「そうかい、そうかい。痛い目にあいたいのか」
と蒲田。相手の右手をグイと引く。
同時に、自分はスッと体重を下げた。
柔道だ。
あたしは、瞬間的に思った。
蒲田の動きは、巨きな体格のわりにす早かった。
チリチリ頭の体は、蒲田の体の上で1回転。
背中から、地面に叩《たた》きつけられた。
土ボコリが上がった。
たぶん、背負い投げの一種だろう。
相手は、背中を地面に打ちつけて、
「うっ……」
と、うめいた。
「だから、やめとけって言ったのに」
と蒲田。相手が落としたカッターをひろい上げる。
チリチリ頭は、仰向けから、うつぶせになる。這《は》って逃げようとした。
「ちょい待ち」
と蒲田。
チリチリ頭の背中を、片足でふんづけた。動けないようにする。
「のびてる手下を置いて、自分だけ逃げようってのは、ムシがいいんじゃないのか? 番長さん」
と蒲田。
カッター・ナイフを右手に持って、
「いまここで素っ裸にしてあそこの毛を剃ってやってもいいんだけど、さあ、どうする……」
と言った。
「それが嫌なら、番長をあたしにゆずるって、ここで宣言するんだね」
と、ふんづけた相手に言った。相手は、顔をゆがめて、
「…………」
しばらく無言。
「そうかい……。じゃ、むいちまいな」
と蒲田。手下に命令した。
手下たちが、バラバラと駆け寄ってくる。そのとき、
「わ……わかった!」
と、ふんづけられた番長。苦しそうな声で、
「ゆずる! 番長は、ゆずる!」
と叫んだ。
「よおし……」
と蒲田。元番長を太い足でふんづけたまま、
「いまから、この学校をしめるのは、あたしとそのグループだよ。いいね!」
と、まわりに言った。
見物の生徒たちが、ビビッて1歩後ずさり。
ビュッ。
ビュッ。
空気を切る音が、たそがれの中で響きつづけていた。
サブマリーンのすぐ裏。
釣り船宿の駐車場がある。かなり広い。
あたしは、そこで、カラテの練習をやっていた。
Tシャツ、ショートパンツで、回し蹴《げ》りの練習をくり返していた。
あたしのパパのパパつまりおじいちゃんは、もともとカラテの達人だったらしい。
アメリカに移住したあとも、現地の日系人たちに教えていたらしい。
カラテの技は、そのおじいちゃんからパパに引き継がれた。そして、あたしにも……。
野球ほど熱心じゃなかったけど、パパはあたしにカラテを教えてくれた。白人の子たちにいじめられないためだ。
12歳で日本にきた頃には、あたしのカラテはかなり上達していた。大人を相手のケンカにも、まず負けなかった。
今度入った学校にも、ツッパリは、やはりいた。
いつ、連中とやり合うハメになるかわからない。特に、あの蒲田っていう柔道女は、なかなか手ごわい。
あたしは、カラテの基本技を練習しなおすことにした。
直突き!
前蹴り!
回し蹴り!
くり返し、突きと蹴りをくり返す。
たそがれの駐車場。あたしの影だけが長くのびている。
乾いたアスファルトに、飛び散った汗がシミになる。
ひと休み。そう思ったとき、
「おう、やってるな」
という声がした。
ふり向く。船長のクマさんが立っていた。
片手に、魚の入ったビニール袋をぶら下げていた。
「どうだ、また少しは腕が上がったか」
とクマさん。
彼は、船長になる前、キック・ボクシングの選手をやっていたことがあるのだ。
20代で日本を飛び出して、船に乗った。いった先のタイやフィリピンで、漁師をやっていた。
その頃、体格の良さに目をつけられて、キック・ボクシングの世界に入ったという。3、4年は、選手としてやっていたという。
日本に帰国して、釣り船の船長をやるようになってからも、がっしりした筋肉はそのままだ。
〈葉山のクマ〉といえば、ハンパなチンピラは裸足で逃げていく。
でも、普通、あたしたちといるときのクマさんは、優しい。もう30代の後半だろう。けど、ヒゲ面《づら》の中の眼は、いつも少年っぽく光っている。
以前から、あたしがこのサブマリーンに泊まりにくると、よく釣り船に乗せてくれた。カラテの相手もしてくれた。
「ひさびさに、やるか。かかってこいよ」
とクマさん。
魚の入ったビニール袋を下に置く。微笑《わら》いながら身がまえた。
「よーし、いくわよ」
あたしは、足をふんばる。
「ハッ!」
と回し蹴り!
クマさんの側頭部めがけて飛ばした。
クマさんは、外腕でうける。
ビシ!
いい音が、駐車場に響いた。
あたしの足首は、かなり痛かった。けど、クマさんの腕は、まるで平気みたいだった。
「どうだった?」
「悪くない。しばらく相手しないうちに、だいぶパワーがついたな」
とクマさん。ヒゲの間から、白い歯を見せた。
あたしは、タオルで汗をふきながら。クマさんは魚の入ったビニール袋を持って。サブマリーンの裏口から入っていく。
夕方の店。
まだ、客は1人もいない。
ケイコさんが、壁ぎわのピアノに向かっていた。〈|引き潮《エブ・タイド》〉を弾いていた。サラリとしたピアノの音が、黄色い夕陽の中に流れていた。
クマさんは、カウンターの中のジェイに、
「いいアジが釣れたんで」
と言いながらビニール袋を渡した。ジェイは、それを見る。
「けっこういいサイズのアジじゃないか。さっそく刺身にしよう」
と包丁を使いはじめる。
ケイコさんも、ピアノから立つ。CDに切りかえると、カウンターの中に入った。汗をかいてるあたしに、
「はい」
と、缶のCOORS《クアーズ》 を出してくれる。
あたしは、プシュッと開ける。冷たいビールをノドに流し込む。思わず、フーッと息をついた。
すぐに、アジの刺身がカウンターに出てきた。
みんな、飲みはじめる。
ケイコさんは、いつも通りジン&ジンジャー。ジェイは、白ワインのオン・ザ・ロック。
1日の仕事を終えたクマさんは、船乗りらしくラム酒をたっぷり入れたダイキリだ。
きのう、あんなにガンガン飲んだのに、みんな平気でグイグイと飲みはじめた。
にぎやかな笑い声が店に響く。特に、クマさんの話が面白い。
釣り船の上で立ち小便をしていて、海に落ちそうになった客の話。
倒れたままどうしようもなくなったウインド・サーファーを、ひろい上げて助けてあげた話。
クマさんは、船乗り独特の大声でしゃべる。ジェイもケイコさんも、よく笑う。
あたしを元気づけるためが半分。
それは、よくわかった。けど、みんなの好意を無駄にしちゃ悪い。あたしも、COORS《クアーズ》 をおかわりする。にぎやかに飲む。
夜ふけ。
自分の部屋に上がる。ビッグなTシャツを着てベッドに入る。
枕《まくら》もと。小さな額に入ったパパの写真に、
「おやすみ」
を言う。フトンにもぐり込んだ。
その夜。
パパと一緒にクマさんの釣り船に乗ったときの夢を見た。
確か、夏だった。白ギスがいっぱい釣れた。あたしの手の中で、スマートな白ギスがピチピチ弾《は》ねた。ピンクがかった真珠《パール》色が、息をのむほどキレイだった。
どんなデザイナーでも、あんなキレイな色は出せないだろう。
その夜は、ジェイが白ギスを天プラにした。パパは上機嫌で、J《ジヤツク》・ダニエルを何杯もおかわりした。
幸せな夏だった。
けど、二度と帰らない夏なのだ……。
ふと、目を覚ますと、明け方だった。
カーテンの外が、薄明るかった。
気づくと、目尻《めじり》が濡《ぬ》れていた……。目尻からこぼれた涙が、枕《まくら》を濡らしていた。
あたしは、そっと眼を閉じた。
部屋のラジカセが、つけっぱなしだった。FENにチューニングしてある。
朝の5時から6時は、カントリー&ウエスタンのプログラムだ。いまは、E《エミルー》・ハリスの〈Drifting Too Far(ドゥリフティング・トゥー・ファー)〉を流していた。
あなたは、岸からはるか遠く押し流されて……。
E《エミルー》・ハリスが、唄《うた》っている。
冷やしたミネラル・ウォーターみたいに澄んだ歌声が、切なく唄っている。
あたしは、枕に顔を押しつけた。静かに、肩を震わせて泣きつづけた……。
1週間後。水曜日。
体育の授業だった。
バレー・ボールをやっていた。試合のまねごとのようなことをやっていた。
6人ずつに分れて、いちおうゲームをやっていた。
あたしに、サーヴの順番が回ってきた。
バレーのサーヴは、野球のボールを投げるフォームに少し似ている。
あたしは、狙《ねら》いをさだめる。思いっきり、ボールを叩《たた》いた。
ボールは、かなりな勢いで飛んでいく。
けど、コースが低い!
向こうをむいてる味方。その1人の後頭部。
バムッ。
いい音をたててボールは当たった。
「ゴメン!」
あたしは、大声で言った。
笑い声が、一瞬、わき上がる。けど、それも、スッとおさまった。
こっちにふり向いたのは、相原っていう娘《こ》。蒲田の番長グループの1人だった。
相原は、ブスッとした顔。あたしをにらみつけた。
まあ、ぶつけたものはしょうがない。あたしは、2発目のサーヴを全力で打った。今度は、みごとなエース!
「あんた、ちょっと」
声をかけられた。あたしはふり向く。
あの相原が立っていた。
体育の授業が終わったところだった。
「あれ、なんのつもり?」
と相原。
「たまたまぶつかっちゃったのよ。ゴメンって言ったじゃない」
「それじゃすまないね。あたしをコケにしてくれたんだからね」
と相原。
「コケ?」
あたしは、きき返した。知らない日本語だった。
「コケって、何?」
「……とにかく、ひとをバカにしてくれたってことだよ」
「そんなことないわ……」
「あるんだよ、それが」
と相原。あたしをにらむ。
「とにかく、このままじゃ落とし前がつかないんだ。放課後、体育館の裏にこいよ。わかったか?」
しょうがないだろう。
「わかったわ……」
放課後。体育館の裏にいく。
相原。それに、2人、いた。
同じ番長グループの連中らしかった。
「ビビらずに、よくきたな」
相原が言った。
「なんで、あんたなんかにビビらなきゃならないの?」
あたしは言ってやった。3人を見渡した。3人とも、いちおう悪そうな面《つら》がまえをしていた。
「ちっ、いっちょ前の口ききやがって……」
と相原。
「だいたい、お前、ナマイキなんだよ」
「米軍基地育ちだかなんだか知らないけどよォ」
「英語がしゃべれるからって、何もエラくないんだからね」
連中は、口々にわめく。
相原が、ニタニタと微笑《わら》った。
「だいたい、お前のオヤジ、ジェット機を操縦してて海に落ちたっていうじゃないか。ドジな話だぜ」
と言った。
「…………」
あたしは、相原を見つめた。心の中が、シーンとした。決めた。勝負してやる。
ひんやりとした風が、胸の中を吹き抜ける……。
1対3だろうと、怖くなんかない。失《な》くすものなんて、何もない。やってやる……。あたしは、大きく息を吐いた。
すぐ近くに、体育用具の倉庫があった。
そこなら、ほかの誰《だれ》にも見られないだろう。
あたしは、
「ちょっと、そこの中までつき合ってくれる?」
と言った。
「ほう……3人を相手にやろうってのか……。いい度胸じゃないか」
と相原。ニヤリと微笑った。
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7 やっちまいな
体育用具の倉庫。
中は薄明るい。広さは、かなりあった。
いろんな体育用具が置いてある。跳び箱。ハードル。カゴに入ったバレー・ボール。新体操の道具。エトセトラ……。
「さて」
あたしは、連中と向かい合った。
やつらも、あたしをとり囲む。
ここであやまりでもすれば、ケンカにならずにすむのかもしれない。
けど、その気はなかった。
3対1だろうと、かまうものか。やっちまいな。
心の中で、もう1人の自分がそう言ってる。
胸の中を、冷たい風が吹き抜けていく。
あたしは、静かな眼で、相原を見つめた。
「……よくも、あたしの頭にバレー・ボールをぶつけてくれたな……」
と相原。
あたしをにらみつけて言った。
「だから、ごめんなさいって言ったでしょう。……でも、しょうがないじゃない」
と、あたし。
「あんたの頭が大きかったんだもの」
と言ってやった。
「!?」
相原は、一瞬、絶句。
「な……なんだとォ……」
顔が、茹《ゆ》でダコみたいに赤くなった。
実際、相原は、体の割りに頭が大きいのだ。体もかなり大きい。けど、それにもまして頭が大きいのだ。
「言いやがって……タダじゃすまさない……」
と相原。
「タダじゃすまさないっていうと、何かくれるの?」
あたしは言った。
そのときだった。
「ほら、やるよ!」
という声。ほかの手下の声だった。
それと同時!
眼の前が、まっ白になった!
2、3秒後に気づいた。それは、石灰だ。グラウンドに白いラインを引くための、石灰だった。
その石灰をひとつかみ。
やつらの1人が、あたしの顔に投げつけたのだ。
石灰は、眼に入った。何も見えない。
同時に、ゴホゴホとむせた。体を前に折る。
「ほら、立てよ」
という声。
誰《だれ》かが、あたしの前髪をつかんだ。体を引き起こされた。
同時に、両腕をつかまれた。手下の2人が、両側からつかんだんだろう。
たぶん、正面には相原が立っている。
そんな、けはい。
「ほらよ!」
ビシ!
左頬《ひだりほお》を平手でひっぱたかれた。
パシ!
右頬も、ひっぱたかれた。
「ツッパリやがって!」
と相原の声。
バシ!
また左頬をひっぱたかれた。
「思い知ったか!」
ピシ!
右頬に平手打ち!
けど、それほど、きいてはいない。
あの親玉の蒲田に比べると、こいつらはそれほどすごい体格をしてるわけじゃない。
確かに。ケンカなれしてる。
だけど、腕力は、それほどなさそうだ。
「ほら、なんとか言えよ!」
と相原。
ビシ!
あたしの頬を、また、ひっぱたいた。
ひっぱたかれるたびに、顔の石灰が落ちていく。
ぼんやりと、眼が見えてくる。
前に立ってる相原の顔が、わかるようになった。
そろそろ、お返しをしてもいい頃だろう。
「もう、気はすんだ?」
あたしは、相原に言った。
「……な、なんだとォ?」
「気はすんだかって、きいてるのよ」
あたしは、落ち着いた声で言ってやった。
「…………」
「そっちの気がすんだんなら、こっちの気もすむようにさせてもらうわよ」
と言った。
「なんだとォ!? このヤロー!」
と相原。
あたしに、つかみかかってこようとした。
あたしの両腕はつかまれてるけど、足は自由だ。
あたしは、右足の裏で、相原のお腹を押すように蹴《け》った!
相原は、ま後ろに吹っ飛んだ。
跳び箱に背中からぶつかる! 跳び箱が、ガラガラとくずれた。
あっけにとられてる手下。
左側のやつ。
そのわき腹にヒジ打ち!
入った!
「ウッ」
うめく。
あたしの左腕は自由になった。
つぎの瞬間。
右側のやつの足。その甲を思いきりふんづけてやった。
「ギャッ」
と、わめく。
右腕も自由になった。
まず、手下から片づけることにする。
わき腹を押さえてうずくまりかけた左側のやつ。
その首筋に手刀!
叩《たた》きおろす!
手ごたえ!
やつは、前に倒れる。床にのびた。
右!
足を踏みつけられた右側のやつだ!
何か、ふり回してきた!
こん棒だ!
新体操に使うこん棒で殴りかかってきた!
頬《ほお》に軽いショック!
あたしは、1歩、よろける。
やつは、また殴りかかってきた!
2発もくらうものか。あたしは、沈み込む!
頭の上。こん棒が、ブンッと走り過ぎる。
あたしは片ヒザついたまま。
突き!
敵のみぞおちに! 入れた。
「グッ」
うめき声。動きが止まる。
こん棒が、カランと落ちた。
あたしは立つ。敵のヒップに、回し蹴《げ》り!
敵は、前にのめる!
スカートがまくれる。下着のショーツまる出しで床にはいつくばった。
「やりやがって……」
と相原。
あたしの正面に立った。
「ズラかるんなら、いまのうちよ」
あたしは言った。
「うるせえ!」
と相原。右手をスカートのポケットに突っ込む。
何か、つかみ出した。
カッター・ナイフだった。
どうやら、カッターが、日本のツッパリ女の得意技らしい。
チチチッ。
カッターの刃が出てくる。相原は、ナイフみたいにかまえる。
1歩、つめてくる……。
あたしも、自然体でかまえる。深呼吸……。
「くらえ!」
また! カッターを横に払ってきた!
あたしは、左腕でうける!
敵の手首を叩《たた》こうとした。けど、ちょっと目測が狂った。やっぱり、眼に入った石灰のせいだろう。
左手首。ピリッとした痛みが走った。
たいしたことはない。
相原は、カッターをかまえなおす。
「その、かわいい顔を、千切りにしてやる」
と、すごむ。
かかってきた!
カッターの刃が、突き出される。
あたしは、右足を飛ばした!
上段前蹴り!
相原の手首を蹴り上げた!
カッターが、手から吹っ飛ぶ。クルクル回りながらどこかへ飛んでいった。
「その、かわいくない顔を、少しふくらましてあげるわ」
あたしは言った。
「うるさい!」
と相原。やけっぱちで殴りかかってきた!
あたしは、軽くかわす。
敵の顔面に右の裏拳! 入れた!
握った手の甲で叩《たた》くのを裏拳という。
けっこう、きく。
相原は、
「ヒッ」
と、わめく。1歩後退。
左の裏拳! 頬に入れた!
「ウッ」
と2歩後退。
右の裏拳! 入れる!
「!!」
3歩後退。
相原は、倉庫の壁に背中をぶつけた。
その頬に、左の裏拳!
やつの両手が、ダラリと下がる。
右! 頬に入れる!
みるみる、顔が腫《は》れていく。
「や……やめてくれ……」
ツッパリらしくない声で言った。
その足もと。水たまりらしいものができている。どうやら、立ったままちびったらしい。
あたしは、かまえた左の裏拳を止めた。体の力を抜く。
相原も、壁に背中をつけたまま、ズルズルとくずれ落ちた。自分がもらした上にへたり込む。顔は、15ラウンド闘ったボクサーみたいに腫れていた。
あたしは、少しふらつきながら体育用具の倉庫を出る。
校庭すみの、洗面所にいく。
とりあえず、ジャブジャブと顔の石灰を洗い落とした。
鏡を見る。
こっちも、かなりひどいものだ。両頬が、少し腫れている。これは相原にひっぱたかれたせいだ。
左の頬骨。青黒くなっている。これは、新体操のこん棒で殴られたせいだ。
相原のカッターで切られた左手首。血が流れていた。
手首の外側でよかった。まちがって内側を切られたら、ちょっと大ごとだった。
それでも、洗面所に、血は流れつづけている。
あたしは、スカートのポケットから青いバンダナを出した。ちょっと苦労して、傷口を縛った。
「やったな……」
とジェイ。かすかに微笑《わら》いながら言った。
カウンターの中。グラスを磨きながら、店に入ってきたあたしの顔をチラリと見たのだ。
腫《は》れた頬《ほお》。そして青黒いアザ。しらを切ってもムダだろう。
「しょうがなかったのよ……」
あたしは言った。軽いため息。通学カバンを、ドサッとカウンターに置いた。カウンターの向こう側に回る。
「ちょっとゴメンね」
とジェイに言う。流しを使わせてもらう。
手首に巻いたバンダナを、ほどいた。
たっぷり血のしみ込んだバンダナは、ボタッとステンレスの流しに落ちた。また、傷口から血が流れはじめた。
「こりゃ、ちょっとしたものだ」
とジェイ。
さすがに、元兵隊だ。血を見ても、失神したりはしない。
落ちついて、救急箱を出す。
テキパキと、傷口に消毒液と止血剤を塗る。ガーゼと包帯を巻いてくれる。包帯をピシッと止めた。
「ありがとう」
あたしは言った。ジェイは、血だらけのバンダナをゴミ箱に放り込む。あたしは、カウンターのスツールに腰かけた。
遅い午後のサブマリーン。
まだ、誰《だれ》もいない。
たそがれの陽ざしだけがお客だ。
天井から下がったスピーカーから、FENが低く流れている。K《ケニー》・ロジャースが、切ない男心を唄《うた》っていた。
「何か飲むかい?」
ジェイがきいた。あたしは、うなずく。
「少し元気の出るやつを」
と言った。
ジェイは、うなずく。あたしの前に、COORS《クアーズ》 の缶とグラスが置かれた。そして小皿。中には、プランターズのカシュー・ナッツが入っていた。あたしの好物だ。
「どうした、エミィ」
とジェイ。
レモンをスライスしながら、きいた。
「どうしたって? 何?」
あたしは言った。2缶目のCOORSを、グラスに注いだ。
「何か、自分自身で納得できないことがあるんじゃないのか?」
ジェイが、きいた。その広い額に、窓からの夕陽が照り返している。
「納得できないこと?」
「ああ……」
とジェイ。レモンをスライスし終わる。包丁を洗いはじめた。
「エミィは、いつも、自分なりの行動ポリシーを持っていただろう?」
「行動ポリシー?」
「そう……。つまり、世の中で言う良し悪しに関係ない、自分なりのモラルさ。モラルと言うと大げさかな。ま、ポリシーっていうところかなァ」
「そんなもの、持ってないわよ」
ジェイは、ニッと微笑《わら》う。
「いや。自分ではっきり意識してないだけで、心の奥の方に、そういうものがあると思う」
「…………」
「で、その自分なりのポリシーで納得できないことをやったときは、すぐにわかるんだ」
「どうして? 顔つき?」
「いや」
ジェイは、白い歯を見せる。
「普通なら、そのプランターズのカシュー・ナッツ10個をつまんで、ちょうどクアーズを1缶開けるんだ。普通ならね」
「…………」
「ところが、何か、納得できないときは、ナッツ8個や7個でビール1缶を飲み干す。つまり、飲むピッチが早くなるんだな」
「…………」
「いま、エミィは、6個のナッツでクアーズを飲み干した」
「…………」
あたしは、目の前の小皿とグラスを見つめた。
ジェイの言うとおりなのだ。確かに。
ちょっと早いピッチで、あたしはCOORSを飲み干した。
「探偵になれるわよ、ジェイ」
あたしは、微笑《わら》いながら言った。
「ダメだね。軍にいた頃から、銃の扱いと格闘技は苦手だったんだ」
ジェイは言った。
「殴り過ぎた?」
ジェイがきき返した。アジをさばく手を止めた。
あたしは、うなずく。2缶目のCOORSに口をつける。
さっき、体育倉庫でやったケンカのことだ。
ポツリポツリと、ジェイに話しはじめる。
あたしみたいに特殊な転校生は、どっちみち、ああいうツッパリに目をつけられることになっただろう。
結果、やり合うハメになる。
それはいいのだ。
けど、さっき、やっつけた相原。あれは、ちょっと、殴り過ぎたような気がする。
あんなに、裏拳をくわせる必要はなかった。少なくとも、ちびるまで殴る必要はなかっただろう。
「普通なら、もう少し手加減してたと思うわ」
あたしは言った。プランターズの豆を、口に放り込む。
「後味が、あまり良くないのよ」
とジェイに言った。COORSを飲む。FENが、D《デイオンヌ》・ワーウィックの曲を流しはじめた。
「なるほどね……」
とジェイ。つぶやいた。
目の前のまな板をながめて、
「多少、気持ちが荒れたとしても、しかたないんじゃないのかな?……」
ジェイは、優しく言ってくれた。
あたしも、うなずいた。
わかっているのだ。やはり、気持ちが荒れている。
やらなくてもすむケンカをやった。相手を殴り過ぎた。やはり、気持ちがザラついているらしい。
あたしは、軽くため息……。
「どうしたらいいのかなァ……」
と、つぶやいた。
ジェイは、しばらく無言。アジのウロコをとっていた。
やがて、
「1つだけ、悪くない手がある」
と言った。
[#改ページ]
8 見失なった飛行コース
「1つだけ? 悪くない手?」
あたしは、ジェイにきき返した。COORSを飲む手を、止めた。
「そういうこと」
とジェイ。
「少なくとも、このままでいるよりは、いい手がある」
と言った。さばいたアジを、冷蔵庫に入れる。
「それって、何? もったいつけないで教えてよ」
あたしは言った。ジェイは、あたしを正面から見る。
「簡単なことさ。自分が一番好きなことに熱中するのさ」
ジェイは言った。
「……一番好きなこと?……」
「そういうこと」
「……ってことは、野球?……」
あたしは、きいた。
「ほかにあるかい?」
とジェイ。ニッと白い歯を見せた。
ジェイは、後ろの酒棚からスミノフのウォッカをとる。グラスに氷を入れる。ウォッカを注ぐ。そして、ライム・ジュース。軽くステアーした。
ウォッカ・ライムを、ジェイはひと口……。かみしめるように飲んだ。ふと、遠くを見る……。
「いままでのお前さんは、空母に艦載されたジェット戦闘機みたいなものだったんじゃないかな? つまり、パパという空母の上から飛び立ち戻ってくるジェット戦闘機ってわけだ」
「…………」
ジェイは、また、ウォッカ・ライムをひと口……。
「ところが、事故で空母はいなくなった……。空母を失《な》くしたエミィというジェット戦闘機は、いま、一瞬、飛行コースを見失なって、どうしたらいいかわからなくなっている……。そんなところなんじゃないかな……」
ジェイは言った。
「…………」
あたしは、胸の中でうなずいた。
そうなのかもしれない。
ジェイは、2杯目のウォッカ・ライムをつくる。口に運ぶ。
「お前さんが、飛行コースを見失なって、一瞬、とまどっている気持ちはよくわかる」
「…………」
「だがね……お前さんのパパは、死ぬ前から、はっきりとした飛行目標を、お前さんに見せていたと思うんだ」
「……飛行目標?……」
「そう……」
「それが、野球をやること?」
ジェイは、ゆっくりと、うなずいた。
「野球ってやつにとことん打ち込みたかった。そんな自分の夢を、パパはお前さんに託していたんだと思うよ」
「…………」
そうかもしれない。
「もちろん、エミィの人生はエミィの人生だ。自由にやっていい。……けど……」
とジェイは言葉を切った。
「パパという空母が失《な》くなったいま、そのパパの夢に向かって、エミィというジェット戦闘機が飛んでいくとしたら……私は友人として嬉《うれ》しいね……」
とジェイ。
あたしは、COORSをひと口飲んだ。
ふと思い描く。
空母を失くしたジェット戦闘機。
青空を切り裂き、夜間飛行の星空にもただひとり。
夢に向かって、ひたすら飛びつづけるジェット戦闘機。
それが、自分だとしたら……。
できるだろうか……。
「とりあえず、やってみる時間はある」
とジェイ。ひとの気持ちを読みとったように言った。
ウォッカ・ライムのグラスをじっとながめた。
「私にはもう、何かに思いきり打ち込める若さってやつがない……」
と、ホロ苦く微笑《わら》った。グラスから、あたしに視線を移す。
「だが、エミィ……お前さんには、その時間がある……」
と言った。
FENの曲が変わった。W《ホイツトニー》・ヒューストンが流れはじめていた。
「……いつか、エミィのパパが言ってたよ……」
とジェイ。
「なんて?」
「もしエミィが男の子だったら、日本の学校に入れて甲子園にいかせられるのにって……」
「コーシエン……」
あたしは、つぶやいた。
きいたことはある。
野球をやってる高校生や親たちが熱狂していることも、なんとなく知っていた。
あたしは、COORSを飲み干す。
「わかったわ」
とジェイに言った。
「また、野球をやるわ」
と言った。
「そうか……」
とジェイ。ホッとした表情。あたしは、ビールの入ってたグラスを、トンとカウンターに置いた。そして、
「パパの望みどおり、そのコーシエンってやつに出場してみせるわ」
と言った。
ジェイは、一瞬、ポカンとした表情。
「おいおい、エミィ……」
「いいの。決めたんだから」
「……わかったよ……」
とジェイは、苦笑い。
カウンターの奥に置いてあったボールをつかむ。
「ほら」
と、あたしに投げた。あたしは、それを片手でキャッチ。
「これからまだ開店準備があるからつき合えないが……」
とジェイ。
「いいわ。ひとりで軽く投げてみる」
あたしはもう、カウンターのスツールをおりた。
あたしは、ボールを握って立っていた。
夕方の陽ざしに、自分の影が長くのびていた。
サブマリーンの裏の駐車場。
ひとけは、ない。
あたしは、ジーンズ、スニーカー。左手には自分のグラヴをはめていた。
はるか頭上。
ジェット機が1機、よぎっていく。米軍のものかどうかは、わからない。
空に1本、飛行機雲がのびていく。あたしは、眼を細めてそれを見つめていた。さっきの、ジェイの言葉が胸をよぎる。
夢……。
ある誰《だれ》かがはたせなかった夢に向かって、ひたすら飛びつづけるジェット戦闘機……。そんな生き方……。
できるだろうか。
それは、わからない。
けれど、やってみること、トライしてみることはできる……。
あたしは、深呼吸。
ボールを握りなおした。壁を見つめた。
駐車場の端。釣り船屋の倉庫がある。船具や釣り道具を入れておくコンクリートの小さな倉庫だ。
その壁。あたしは、ストライク・ゾーンをイメージする。
ゆっくりと、投球フォームに入る。
ひさびさに投げる。ごく軽く、五分の力で投げた。
ポーンッ。
ボールは、壁にバウンドする。転がって戻ってきた。
グラヴでキャッチ。また、ゆっくりと投げる。
投げているうちに、これまで投げてきたシーンが、胸の中をプレイバックする。
サンディエゴ。南カリフォルニアの風。スタンドから漂うポップコーンの匂《にお》い。少年チームのユニフォームの青。ちょっと手にあまったボールの感触……。
ハワイ。プルメリアの匂いのする甘い風。|通り雨《シヤワー》の走り過ぎた後の芝生《しばふ》。鮮かなグリーン。打者を三振にとったとき、ボールがミットにおさまる乾いた音。陽気な歓声……。
そんなシーンを思い起こしながら、壁に向かってボールを投げる。
また、走りはじめた。
そんな気がした。
ジェイに言わせれば、彼方の夢に向かって離陸したっていうことになるんだろうか……。
調子は、悪くなかった。
少しずつ、ボールのスピードを上げていく。さすがに、まだ変化球は投げない。けど、かなり早いストレートは投げてみる。
学校でのケンカの影響は、あまりないみたいだった。
そろそろ終わりにしようか……。
そう思った。
早目のストレートを投げた。ボールのリバウンドが、小石に当たって曲がった。あたしは、グラヴでとりそこねた。
ボールは、転がっていく。駐車場から、通路に転がっていってしまった。
あれはジェイのボールだ。あたしは、追いかけて道路に飛び出した。
その瞬間!
視界の右端。
走ってくるクルマが見えた!
はねられる!
一瞬、思った。
けど、あたしもスポーツ・ガールのはしくれだ。
反射的に跳んでいた。
ブレーキ音!
同時に、あたしの体は宙に跳んでいた。飛び込み前転っていうところだろう。
道路に転がった。
クルマも、フル・ブレーキで止まったところだ。
クルマのドアが開く音。
「だいじょうぶか!?」
という声。
あたしは、道路に倒れたまま顔を上げた。
クルマは、ごつい4WD。三菱《みつびし》のパジェロらしかった。
若い男が、運転席から飛びおりてくる。駆け寄ってくる。
あたしは、ゆっくりと体を起こした。
クルマとは、どこも接触していないみたいだった。
ただ、道路に転がったとき、腰やヒジを軽く打った。
「だいじょうぶか!?」
若い男は、また言った。あたしを、のぞき込む。
「たいしたこと、ないみたい」
あたしは言った。ノロノロと体を起こす。
学校でのケンカと、いまの前転のせいで、体のあちこちは痛い。
でも、それは、クルマにはねられたものじゃなさそうだ。
「あっ、その顔……」
と若い男。
あたしの顔をのぞき込んで言った。
あたしの頬《ほお》。青黒いアザを見たのだ。
「あっ……これは、いまぶつけたわけじゃなくて……」
あたしは、モゴモゴと言った。
女同士でケンカして、こん棒で殴られたとは、さすがに言いづらい。
「とにかく、病院にいこう」
と、その若い男。
「だいじょうぶよ。どこも、はねられてないみたいだし」
あたしは、ゆっくりと立ち上がった。
「それに、道路に飛び出したのはあたしだし……」
「しかし……あとになって、どこか痛みだしたとか訴えられても困る。ちゃんと病院で看《み》てもらわないとな」
「あとからインネンつけるなんて……あたしがそんな風に見える?」
あたしはムッとして言った。
「誰《だれ》も、インネンつけるとは言ってないが、人間、外見じゃわからないからな」
と、その男。皮肉っぽい調子で言った。
「とにかく、病院にいこう」
「嫌だと言ったら」
「腕ずくでも連れていく」
と、その男。あたしの左ヒジをつかんだ。
「痛っ……。ケガ人に何するのよ!」
あたしは言った。
「ほら、ケガ人だって自分で言ったじゃないか。ケガ人は医者に看てもらうもんだ」
「……わかったわよ……」
ふくれっ面《つら》で、あたしは言った。
いまつかまれた左ヒジは、ツッパリとのケンカでぶつけた所だ。けど、まあ、しょうがないだろう。
「いくわよ……」
あたしは言った。パジェロの助手席に乗り込んだ。
「こちら真田《さなだ》、予定変更、予定変更」
と、その男。
走りながら、無線みたいなもので話している。
「ちょっとした事故にあって、いま病院に向かっています。詳細はのちほど。現場には、ほかの者をやってください。とりあえず以上」
男は、無線を切った。
「まさか……警察?」
助手席で、あたしはきいた。男は、ステアリングを握って苦笑い。
「オマワリに見えるかい?」
と、きいた。
「見えないけど……」
あたしは言った。男を、あらためて見た。
20代の前半。まだ22とか23ぐらいだろう。背が高い。筋肉質だ。半袖《はんそで》ポロシャツの袖が、パチンとはっている。何か、スポーツをやっている雰囲気だった。
クールで、ちょっと勝ち気そうな顔つきは、オリンピックの水泳で金メダルをとった鈴木大地っていう選手に似ていた。
「じゃ、放送局?」
あたしは、きいた。彼は首を横に振る。
「新聞社さ」
と言った。
「これでも、新米の新聞記者なんだ。秋谷で民家に泥棒が入ったっていうんで現場にいくところだったんだ」
「その仕事は、いいの?」
彼は、うなずく。
「どうせコソ泥だろう。ほかの誰《だれ》かがいくさ」
と言った。
走るパジェロの窓から、潮風が入ってくる。救急病院が近づいてきた。
「まあ、心配ないね」
と小太りの医者。
「軽い打撲傷が数か所あるが、3、4日で治るさ」
と言った。
あたしは、Tシャツを着た。
病室に、新聞記者の彼が入ってきた。医者は彼に、
「心配ない。後遺症も出ないだろう」
と言った。
「いちおう、診断書は書いておくがね」
「よろしく」
あたしは、その医者に、
「あしたから、野球やっても、だいじょうぶ?」
と、きいた。
「まあ……あまりやり過ぎなきゃだいじょうぶだと思うが、ソフト・ボールじゃなくて野球をやるのかい?」
と医者。
「そうよ」
あたしは、胸をはった。
「いつか、コーシエンに出るの」
と言った。
「こ……甲子園?……」
と医者。驚いた表情。
「だって……君は女の子じゃ……」
「そうよ。いまさっき、ブラジャーしてるのを見たじゃない」
あたしは言った。
「じゃあね」
と立ち上がった。
病院の玄関を出る。
駐《と》めてあるパジェロに歩いていった。
「いちおう自己紹介しておくよ」
と新聞記者の男。名刺をさし出した。あたしは、それをうけとる。誰でも知ってる大新聞社の名刺だった。
〈B新聞 横須賀支局  記者 真田《さなだ》健二郎〉
その下に、支局の住所と電話番号が書いてある。
「記者って、社会部とか政治部とかに分れてるんじゃないの?」
「まあね」
と真田健二郎は苦笑い。
「しかし、うちみたいな小さな支局だと、全員がなんでもこなさなきゃならないんだ。コソ泥の取材から、海開きのニュースまでね」
ちょっと自嘲的《じちようてき》に微笑《わら》った。
あたしは、うなずく。名刺をもらったいきがかり上、
「あたしの名前は」
と言いかけた。そのとき、
「知ってるよ」
と真田健二郎。
「桂木エミ、だろう」
と言った。
[#改ページ]
9 SALEM《セーラム》 1本分の決意
「ど……どうして、あたしの名前を知ってるのよ!?」
あたしは、きいた。
真田健二郎は、またちょっと皮肉っぽく微笑った。
「名前以外にも、知ってることはあるぜ」
と言った。
「…………」
あたしは、健二郎をにらみつけた。
「そんな怖い顔するな。せっかくの美少女がだいなしだぜ」
と健二郎。
「話は、家に送りながらするよ」
とパジェロのドアを開けた。あたしは、無言で乗り込む。
健二郎は、ゆっくりとクルマを出した。たそがれの湘南が、窓の外を流れ過ぎていく。彼も、カー・ラジオはFENに合わせていた。
「……つい去年の秋のことだ。オレは、高校生の野球の試合を取材しにいった」
「…………」
「米軍のチームと、横須賀の市立高校の学校のチームとの親善試合だった」
「あ……」
あたしは、もう、思い出していた。確かに、そんな試合をやったことがあった。よく晴れた秋の日。相手の学校のグラウンドでやった。
「米軍の横須賀ジェッツのピッチャーは、日系人の女の子だった」
と健二郎。
「なるほど……そういうわけだったのね……」
あたしは、つぶやいた。
あのときの試合を思い出す。
相手は、どっちかというと進学校で、野球部もあまり強くはなかった。大差で勝ったと思う。
「確か、12対3で勝ったわ」
「ああ、そうだった」
と健二郎。ステアリングを切りながら言った。
「三振は……確か、7つとったわ……」
と言うあたしに、
「いや、違う」
と健二郎。
「奪三振は11だ。フォア・ボールは2。くらったヒットは3本」
と言った。
「…………」
あたしは、数秒、無言。アゼンとして口を開けていた。
「……どうして、そんなデータを覚えてるの……」
と、思わず健二郎の横顔を見た。
健二郎は、あい変わらずクールな表情。
「君がマウンドに立ってウォーム・アップしているときに、おやっと思ったんだ」
「…………」
「ただ女の子だからってわけじゃない。フォーム。球速。変化球。どれをとっても、ちょっとしたものだったからね」
「…………」
「これでも、本社勤務になったら、運動部を希望するつもりだったんでね」
と健二郎。
「ところが、入社早々、横須賀に飛ばされたわけだが」
と苦笑い。
「とにかく、オレは君のピッチングにちょっと驚いたんだ。最初、米軍と日本の学校の親善試合だから、小さな記事にでもできればと思って取材にいったんだけどね……」
「…………」
クルマは、葉山の町に入った。
「その後、君のことを本格的に記事にしたくて、米軍に申し込んだんだが、基地の中の取材は基本的に許可されないということで、断わられた」
「……そうだったの……」
「まさか、こんな所で会うとはね」
と健二郎。かすかに微笑《わら》った。
「ところで、ちょっとスーパーに寄っていいかい?」
「いいわよ」
あたしは言った。急いで帰る理由は特にない。
健二郎は、パジェロをスーパー〈ヨコサン〉の駐車場に滑り込ませた。葉山の町中にある。アメリカ風のスーパーだ。
ネギを1束。健二郎は、カートのついたカゴに放り込んだ。
「1人暮らししてるの?」
あたしは、きいた。
「ああ……」
レタスを1個。
「どこで?」
牛肉をワン・パック。
「森戸橋の近くさ。狭い部屋を借りてる」
玉子をワン・パック。
「君は? あの辺に住んでるのか?」
「そうよ。……じつは、パパが事故で死んで」
「知ってるよ……」
食パンを1袋。
「演習中の事故だろう? 日本の新聞には出さなかったが、オレたちのところには情報として入るんだ」
「そう……」
ケチャップを1瓶。
健二郎は、同情するようなセリフは吐かなかった。あたしは、少しホッとした。
買い物のビニール袋を、パジェロに積み込む。クルマを出す。
「さっきのお医者さんなんだけど……」
「ん?」
「あたしがコーシエンに出るって言ったら、変な顔してたけど、あれって、どうしてなのかしら」
「さあね……」
と健二郎。あい変わらずクールな表情。かすかに微笑《ほほえ》んだ。パジェロを、あたしの家、サブマリーンの方に向けた。
カー・ラジオはFEN。ペットショップ・ボーイズが〈Always On My Mind(オールウェイズ・オン・マイ・マインド) 〉を、ウイリーとはまるで違うアップ・テンポでやっていた。
「ここよ」
あたしは、健二郎に言った。クルマは、サブマリーンの前で止まった。
「じゃあ」
あたしは、パジェロからおりた。健二郎の顔とクルマのサイドミラーが、夕陽に染まっている。
「何か、きょうの後遺症でも出たら連絡しろ」
と健二郎。さっきくれた名刺の裏に、自宅の電話番号を走り書きした。やはり、すぐ近くの番号だった。
「さっき転んだんで頭が悪くなったら、なおしてくれる?」
微笑いながら、あたしはきいた。健二郎も微笑いながら、
「まあ、宿題の手伝いぐらいはしてやるよ」
と言った。そのとき、クルマの無線が、カリカリと鳴った。健二郎は無線のマイクをとる。
「134号線の辻堂で交通事故だ。いってみてくれ」
と無線が言った。
「了解」
と健二郎。
「それじゃ」
と、あたしに手を振った。クルマを出した。かなりなスピードで角を曲がって、見えなくなった。
その真夜中。
サブマリーンの手伝いを終えたあたしは、自分の部屋に上がった。
ベッドのサイド・テーブル。額に入ってるパパの写真に向かって、
〈あたしは、また、野球をやるわ。そして……コーシエンに出てみせる……。見てて……〉
と、つぶやきかけた。
窓を開ける。夜の海風を、胸に吸い込む。
夜の海に、月明かりが照り返していた。ラジカセのFENが、S《ステイービー》・ワンダーの〈太陽の当たる場所〉を流していた。
〈長く、ひたすらつづく細流《せせらぎ》のように、僕は自分の夢に向かって走りつづける……〉
スティービーが、そう唄っていた。
流れ星は見えなかったけれど、飛行機の認識灯が1つ、点滅しながら東の方へゆっくりと動いていた。あたしは、それをじっと見つめていた。
翌日。昼休み。
さっそく、屋上に呼び出された。屋上には、あの巨きな蒲田はじめ、番長グループが揃っていた。
ただし、きのうあたしがやっつけた相原はいなかった。たぶん、いま頃は、家のベッドでうなっているだろう。
あたしにしても、頬の青アザには、大きなバンドエイドを貼っている。
「桂木といったな」
と番長の蒲田。あたしを、ジロリとながめた。
あたしも、にらみ返してやる。
「あんたは、確か、カバタだっけ」
と言ってやった。
「カ……カバタ?」
と蒲田。口をパクパクさせた。
「お……お前、蒲田って字も読めないのか?」
と、すごんだ。
「ごめんね。なんせ、米軍基地育ちで、まだ日本語が不自由なもんで」
あたしは言った。
「でも、あんた、カマタなんて名前より、カバタの方がピッタリくるわよ」
と言ってやった。
蒲田の顔が、怒りで赤くなった。
「こ……こいつ……」
と、あたしを見おろす。あたしより、頭ひとつは大きい。
「言いたいほうだい言いやがって……」
「やりたいほうだいも、やらせてもらうわよ」
あたしは言った。
このカバタとは、どっちみちやり合うことになるだろう。のっけからナメられたら不利だ。とにかく、大切なのは一歩も引かないことだ。
「…………」
カバタは、しばらく無言。あたしをにらみつけた。やがて、
「それだけの口をきくだけあって、いちおう、ケンカの腕は立つらしいな」
と言った。
あたしにやられた手下から、話はきいてるんだろう。
「お前にやられた3人は、3人とも中坊のときに番《バン》を張ってた連中だ。それを全員やっつけるとは、いちおう誉《ほ》めておこう」
とカバタ。
「そりゃ嬉しいけど、日本の学校のツッパリって、たいしたことないのね」
あたしは言った。カバタは、スゴミをきかせてニタリとした。
「たいしたことあるかどうか、あたしが教えてやろうじゃないか」
と言った。1歩、せまってくる。
「ちょい待ち」
あたしは言った。
「きのう、あんたの手下とやり合って、こっちも体がヨレてんのよ。そんな状態のときに勝っても、あんただって満足できないでしょう」
とカバタに言った。
体がヨレてるのは本当だ。それに、このカバタは、さすがに手強《ごわ》い相手だ。こっちのトレーニングも必要だろう。
「そりゃ、まあな……」
とカバタ。
あたしの顔に貼ったバンドエイドを見て、
「ケガ人をやっつけたところで、面白くもなんともないからな」
と言った。
「さすが番長。筋の通った話ができるじゃない」
あたしは言った。
「じゃ……1週間後に勝負ってのは、どう? もちろん、1対1。お互いに素手で」
「……いいだろう。楽しみにしてるぜ」
とカバタ。うなずいた。
「ねえ、ジェイ」
あたしは、ジンジャエールを飲みながらきいた。
「ほら、野球が得意だった淳って子いたでしょう」
「ああ……一色海岸近くの、八百屋のせがれか……」
とジェイ。カウンターの中でお皿を洗いながら言った。
淳ってのは、確か、あたしより1歳上の男の子だ。スラリとした野球少年だった。
あたしがこのサブマリーンに泊まりにきてたとき、野菜や果物を買いにいって仲良くなった。よく海岸で一緒に野球の練習をやったものだ。
「彼、確か、高校の野球部に入ったのよねェ」
「ああ……そうだ……」
「で、いま、どうしてるの? 活躍してる?」
「……うん……」
とジェイ。珍しく口ごもる。
「ねえ、どうしたのよ。何かあったの? 彼がケガでもしたとか?……」
ジェイは、お皿を洗いながら、
「それなら、まだましなんだが……」
と、つぶやいた。
「え!? 引っ越した!?」
あたしは、思わずきき返した。
「そうなんだ。淳の一家は、引っ越したんだ」
とジェイ。
「で……でも、どうして? 彼、湘南が好きだし、家の商売もうまくいってたじゃない」
淳の家の八百屋は、近所でも評判が良かった。はやっていた。なのに……。
ジェイは、洗う手を止めた。軽いため息。やれやれという感じで話しはじめた。
「……あれは、去年の夏だった……。淳のいってる地元の私立校が、甲子園の神奈川県予選で勝ち抜いて、甲子園へのキップを手に入れたんだ。淳も、1年生だったが、あの通りの強打者なんでレギュラー選手だった」
「よかったじゃない……」
「それが……よくなかったんだ……」
とジェイ。
「あと10日位で甲子園にいくっていう日だった……。淳のやつが、警察につかまっちまったんだ……」
「警察に!?」
「ああ……中学時代の仲間と喫茶店にいて、その連中が煙草を吸ってたんだ」
「で、淳は?」
「本人は吸ってないと言いはったらしいが、とにかく、そこにいた4人全員、補導されて、同罪さ」
「そんな……」
「で、野球部員の不祥事ってことで、淳の学校は甲子園大会への出場を辞退したんだ」
「ひどい……」
あたしは、思わず絶句した。
たった1人の部員が、そんなちょっとしたトラブルのまきぞえになったからって、全員が大会を辞退するなんて……。
「とにかく、淳のせいで、甲子園はパーになったんだ」
「で? どうなったの?」
「そりゃ、甲子園の出場が決まったときから狂喜してた地元は大変さ」
「淳は、冷たい眼で見られた?」
「……そんなものじゃない。もう、町を歩けないってのが正確なところかな……」
「…………」
「彼の家族もいたたまれなくなって……店にも客がよりつかなくなって……結局、夜逃げみたいにして、淳の一家は引っ越していったよ。去年の秋のはじめだった」
「……知らなかった……」
あたしは、つぶやいた。
「でも……どうして、そんなことで、コーシエンにいくのを辞退しなけりゃならないの? ジェイ」
ジェイは、しばらく無言。
「基地育ちのエミィにはわからないだろうが、日本の高校野球ってのは、そういう風になってるらしいんだ」
と言った。
「大人や教師から頭をなでられるようないい子じゃなきゃ、コーシエンにいっちゃいけないってこと?」
「……まあ、それに近いんだろうなァ……」
ジェイはつぶやいた。
「だって、野球は野球で、ただ、スポーツの一種なのに……」
あたしは、つぶやく。
「しかし……日本人にとっての高校野球ってのは、どうもそうじゃないらしいな……」
とジェイ。苦笑いした。
あたしは、自転車を走らせた。
サブマリーンからひとっ走り。一色海岸だ。
遅い午後の海岸通り。自転車を止めた。おりた。淳の家の前だった。
〈八百政〉の看板は、そのままだった。
けど、店は閉まっている。木の雨戸みたいなものが、打ちつけっぱなしになっている。クギの錆びが、板にまでしみている。
黄色い斜光が、店を染めていた。
あたしは眼を細めた。店がはやっていた頃を思い出していた。
店先に並んだトマトの赤。キュウリの緑。地元の三浦スイカの縞模様。トウモロコシの黄色……。
それを元気よく売りさばいてた、おじさんとおばさん。ときどき手伝っていた淳と小学生の妹……。
それも、いまは、ない。何もない。ただ夕陽が閉ざされた戸板に照り返しているだけだ。
たかが、煙草を吸ったとか吸わないとか、それだけのことで……。
あたしは、スタジアム・ジャンパーのポケットから、SALEM《セーラム》をとり出した。
煙草は、めったに吸わない。よほど、何かあったときだ。
たとえば、いまのように……。
あたしは、SALEMをくわえる。火をつける。
ガランとした店をながめて、SALEMを吸った。
なぜ、いい子じゃなきゃ甲子園にいっちゃいけないんだ。1人が何か起こしたら、全員が辞退しなけりゃいけないんだ……。
あたしは、SALEMを吸いながら、いまはどこにいるかわからない淳に、話しかけていた。
〈見てて、あんたのうらみをはらしてやるわ〉
〈いい子じゃなかろうと、なんだろうと、コーシエンにいってみせる〉
〈絶対に……〉
SALEMを、吸い終えた。
あたしは、それをピッと指で弾いた。スニーカーでふみつぶす。とめた自転車に向かって歩きはじめた。
[#改ページ]
10 ワカメは、夕陽に散った
「え!? 野球部だって!?」
と校長の渡辺。眼鏡の奥で、眼を丸くした。
放課後。
あたしは、担任の佐藤に校長室に連れていかれたところだった。
あたしは、まず、佐藤に言った。
「野球部をつくりたい」
と。
佐藤は、馬鹿みたいに口を開けてあたしを見た。
「そ……そんなこと言われても……」
と佐藤。うろたえる。小役人みたいな顔が、あせりまくっている。
「まあ、そんな話は私の一存じゃどうにもならないから」
と、校長室に連れてこられたのだ。
校長の渡辺には、はじめて会う。
一見して、うさんくさいオジサンだった。
50歳ぐらいだろうか。
とにかく、全体にアブラぎっている。
丸っこい頭は、ほとんどハゲ上がっている。残り少ない毛を、ポマードでべったりと頭にはりつけている。
ぼってりとした顔に、ダンゴ鼻。品のない厚ぼったい唇。メタル・フレームの眼鏡をかけている。
ワイロをがっぽりとっている田舎の政治家。そんな感じだった。
見た瞬間から、あたしは気にくわなかった。
その渡辺に、とにかく、担任の佐藤が、事情を説明する。
「野球部を?……わが女子高校にかね……」
と校長の渡辺。
「その……ソフト・ボールじゃなくて、野球かね……」
と言った。
「そういうこと。ちゃんとした野球部です」
あたしは言った。
「しかし……女子校に野球部なんて……きいたことがないし……」
と渡辺。
「はじめてなら、話題になっていいんじゃないのかなァ……」
あたしは言った。
「うーむ。しかし女のくせに野球なんか……」
と渡辺。腕組み。不愉快な表情。
「まあ、とにかくだ……私も考えてみるし、職員会議にもかけてみるから、その結果を待つように」
渡辺は言った。全く心のこもっていない言い方だった。
しょうがない。あたしは、校長室を出ていく。胸の中では、
〈誰がそんな結果なんか待ってやるものか〉
と、つぶやいていた。
いま出てきた校長室のドアに、アカンベーをした。
「何が、女のくせに野球なんか……だ」
あたしは、つぶやく。
ハッと回し蹴り! 空気をブンッとかき回した。
その日の夕方。サブマリーンの裏の駐車場だ。
番長の蒲田《カバタ》との対決にそなえて、カラテの練習中だった。
ハッと正拳の中段突き! そのときだった。
「おう、やってるな」
という声。ふり向かなくてもわかる。その太い声は船長のクマさんだ。
「そうか……番長と対決……しかも、相手は柔道か……」
とクマさん。持ってたロープの束を下に置くと、
「じゃ、まず、あのワカメに回し蹴りをくわせてみろ」
と言った。
広い駐車場の端っこ。洗濯物を干す物干しザオが何本も張ってある。その物干しザオには、ワカメがズラッと干してあった。
この春、葉山でとれたばかりのワカメだ。それを乾燥させて売る。漁師や釣り船屋のちょっとした稼ぎになるのだ。
「あれを……蹴るの?……」
あたしは、きいた。クマさんは、うなずく。
「相手が柔道の使い手だってことは、つかまれたらヤバいってことだ。当然、距離をおいて蹴り技で勝負するのがいい。まあ、やってみな」
「でも……あのワカメ、蹴っちゃっていいの?」
「いいさ。一番手前のは、オレのところのやつだしな」
とクマさん。あたしは、うなずく。ワカメの前にいく。
深呼吸……。気合いを入れる……。
「ハッ!」
回し蹴り! ワカメを蹴った。
けど、ダメだ。濡れてたれ下がってるワカメは、足首にベタリとへばりついてしまった。クマさんも、笑っている。
「ちょっとトロいんだな。見てな」
とクマさん。はいてた長グツを脱ぐ。ワカメの前に立った。
「シュッ!」
と息の音。クマさんの右足が、鋭く飛んだ。
まるで刀で切るように、たれ下がってたワカメがスパッと切れた。
クマさんは、息ひとつ乱れていない。
あたしに向きなおると、
「エミは運動をやってるから脚力はあるんだ。さらに回転のスピードをつければ、いまみたいな回し蹴りができるようになる」
と言った。
「まあ、せいぜい練習することだ」
とクマさん。ヒゲの中で、優しく微笑った。
あたしは、
「ありがとう」
と言った。ワカメの前に立つ。回し蹴りの練習をはじめた。くり返し、くり返し。
3日後。どうやら、濡れたワカメを、回し蹴りで切れるようになった。
ピシッ。
ちぎれたワカメが、宙に舞った。飛び散った水滴が、夕陽に光った。
ついさっき、クマさんが近くでとってきたワカメだ。つやつやと濡れて、もちろん弾力がある。
これをちぎれるようになったってことは、あたしの回し蹴りも、かなり鋭くなってきたってことだろう。
あたしは、つぎのワカメの前に立つ。また回し蹴りをくり出そうとかまえた。
そのときだった。
クルマのドアがバタンと閉まる音。
あたしは、ふり向いた。いつの間にか、駐車場に青いパジェロが駐まっていた。B新聞社の真田健二郎がおりてきたところだった。
「よお」
と健二郎。白い歯を見せた。歩いてくる。
「何してるんだい」
と、きいた。
「何してるように見える?」
「女の子が吊るしたワカメを蹴ってるように見えるけど」
と健二郎。皮肉っぽく言った。
「まあ、そんなところね」
「しかし……なぜ、ワカメを蹴り飛ばしてるんだ? そうやると、味が良くなるのか?」
「そういうこと」
あたしは言った。また回し蹴りを1発! ワカメがちぎれた。
「嘘だろう?」
「嘘よ。当たり前じゃない」
あたしは、微笑いながらふり向いた。
「じゃ、いったい……」
「ケンカの練習よ」
「ケンカ? ワカメとケンカするのか?」
「まさか……」
「じゃ、コンブか? ヒジキか?」
「あのねえ……」
あたしは、両手を腰に当てて、吹き出していた。
「女番長とやり合うのか……。そりゃ、大変だな」
と健二郎。
「しかも、相手は柔道の上級者よ」
「柔道?」
「そう……。あれは、ちょっとやそっとの腕じゃないわね」
あたしは言った。上級生の元番長を投げ飛ばした、あのカバタのフォームを思い起こしていた。
「逗葉女子高で、柔道か……。あそこの柔道部は、あまり強くないはずだけどなあ……」
健二郎は、つぶやいた。
「柔道部なんか入ってないわよ。番長だもの」
「名前は、なんていうんだ?」
「蒲田よ。確か……蒲田理恵だったと思うわ」
「蒲田理恵か……。きき覚えがあるなァ……」
と健二郎。
「いま、1年生だな?」
「そうよ」
健二郎は、うなずく。クルマに歩いていった。
運転席に坐る。無線で、何か話している。社の支局と話しているんだろう。内容までは、きこえてこない。
「わかったよ。やっぱりだ……」
と健二郎。無線を切って、クルマからおりてきたところだ。
「やっぱりって、何が?」
「その、蒲田理恵のことさ」
「あのカバタが、どうかしたの?」
「カバタ、か……」
と健二郎。苦笑い。
「あの蒲田理恵ってのは、すごい柔道選手なんだ。いや、選手だったと言うべきかもしれないな」
と言った。
「すごい選手だったっていうと?」
「オレの頭にも、ちょっと名前が引っかかってたんだが……あの子は、中学の頃は超一流だったんだ」
「超一流?」
「そう。いま横須賀支局の資料室で調べさせたんだが、蒲田理恵は全国大会の中学女子の部で圧倒的な優勝をしてる。去年の秋、つまり中3のときだな」
「圧倒的?」
「そう。決勝戦の相手は青森でナンバー|1《ワン》の中学生だったんだが、蒲田は、試合開始後たった7秒で、大外刈りの1本勝ちしてる」
「7秒……」
あたしは、つぶやいた。
柔道の試合のことは、くわしくない。けど、開始後7秒で1本勝ちってのは、やっぱりすごいんだろう。
「とにかく、中学女子じゃ、無敵だったらしい」
と健二郎。
「体格もすごくいいから、そのまま高校生の大会に出ても優勝候補になるぐらいだと言われてたらしいんだな」
「でも、それが、どうしていま、柔道をやめちゃってるのかしら……」
「さあ、ねえ……」
と健二郎。
「将来は全日本チャンピオンになれる素質と言われてたらしいけど、それがいまや女番長とはね……」
と、つぶやいた。
「理由は、わからんなあ……」
あたしは、うなずいた。
「でも、とにかく、そのカバタとやり合わなきゃならないのよ」
と言った。
「どうして、また……」
「ちょっとしたいきがかりでね」
あたしは、肩をすくめた。
健二郎は、ちょっと苦笑い。
「1つだけ、蒲田に勝てる手がある」
と言った。
「……どうするの?」
「野球のバットで殴りつける」
笑いながら、健二郎は言った。
「ダメよ。お互い素手で勝負することになってるんだから」
「そうか……。じゃ、アドバイスできることはただ1つだな」
「何?」
「病院のベッドを予約しておくこと」
あたしは、健二郎にアカンベーをした。健二郎は、クールな表情のまま、
「とりあえず、へし折られるなら左腕にしとけ」
と言った。
「君が投げるあの速球を見られなくなるのは、つまらないからな」
健二郎は、駐めたパジェロに向かって歩きはじめた。
「きょうだぜ」
カバタが言った。
昼休み。廊下ですれちがったときだ。やつは、3、4人の手下を連れて、のしのしと廊下を歩いていた。
「覚悟はできてるんだろうな」
とカバタ。
「もちろん。相手になるわ」
やつの眼をしっかりと見て、あたしは言った。
「よし、いい度胸だ。じゃ、時間と場所はお前に決めさせてやろう」
「じゃ……夕方の5時に、一色海岸で」
「わかった……。ビビッて逃げたりするんじゃないぞ」
とカバタ。
自分の影が、砂浜に長い。
風が、少しひんやりしてきた。
5時10分前。あたしは、一色海岸の砂浜に立っていた。見渡す限り、あたりには誰もいない。
砂浜でやることにしたのには理由《わけ》がある。
下が砂地だと、格闘技はだいたいやりづらい。まあ、ほかのスポーツも似たようなものだと思うけど……。
けど、なんせ、相手が柔道だ。投げられたら、地面に叩きつけられる。そのとき、下が砂地なら、ちょっとはダメージが少ないだろう。
そう思って、砂浜でやることにしたのだ。
あたしは、ショートパンツ姿。足を、思いきり上げられるようにだ。
上半身は、半袖のシャツ。シャツのボタンは全部はずして、スソをしばってある。その中には、ビキニのブラをつけている。
きた!
砂浜の向こうから、6、7人の人影。近づいてくる。
全員、セーラー服だった。先頭にいる、ひときわ大きいのはカバタだった。
やつらは、スゴミをきかせて、わざとゆっくり歩いてくる。やがて、あたしと向かい合った。
「きたな」
「きたわよ」
あたしは言った。カバタの顔を正面から見た。
〈ほう……腹がすわってるじゃないか〉
そんな表情で、カバタがあたしを見た。
「さっそくやりましょう」
あたしは言った。ちょっとでもビビッていないことを相手に感じさせることは、ケンカじゃ大切だ。
「よし、みんな下がれ」
とカバタ。
手下たちは、後ろに下がる。
あたしは、半袖シャツをパッと脱ぎ捨てた。
これも、柔道相手の作戦だ。
柔道の主な投げ技は、相手のどこかをつかんで投げる。柔道着なら、ソデかエリもとあたりだろう。
つかまれるところが少ない程、技はかけにくいだろう。
上半身がビキニのブラだけってのは、やりにくいにちがいない。そう思って、このスタイルでやり合うことにしたのだ。
それが、わかったんだろう。
カバタは、ニッと微笑った。そして、
「じゃ、いくぜ!」
と身がまえた。
距離2メートル。
あたしとカバタは向かい合った。あたしは自然体でかまえる。カバタも同じ。自然体でかまえた。
敵も、あたしの力量はいちおう手下からきいているんだろう。
むやみには、しかけてこない。
お互い、にらみ合ったまま。
ピクリとも動かない。
手下たちも、息を殺して、あたしとカバタを見守っている。
1分……2分……3分……。
やがて、風が吹いた。
カバタのセーラー服のスソが、かすかに揺れた。
それが合図だったように、カバタはしかけてきた。
3歩。
きた。
つかみかかってきた!
その右手。あたしは、外へパシッと弾《はじ》いた。
間髪を入れずに、左の裏拳。
カバタの横っ面《つら》に!
入った!
ビシッ! いい音がした。
普通なら、体がぐらつくだろう。
けど、カバタの体は揺れもしない。
顔だけが、ちょっとふらついた。
表情も、ほとんど変わらない。
裏拳の入った頬のあたりを、ちょっと手でなでた。
そして、ニヤリと微笑った。
「ちょっと、かゆいな」
と言った。
「じゃ、ちゃんとはじめるか」
とカバタ。ニヤリとしたまま、あたしに言った。
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11 一色海岸の対決
バシッ!
右の裏拳! カバタの横っ面に。
入った!
カバタの顔が、少し揺れた。それだけだ。
ガッ!
左の正拳! 突き!
カバタの額に入った!
けど、やつの顔は、少しのけぞっただけ。足もとは、ビクともしない。
まるで、太い樹を殴ってるみたいだった。
健二郎が言ったように、バットを持ってこなかったことを、あたしは後悔しはじめていた。
やつは、また1歩、つめてきた。
その顔面。
右の正拳! 叩き込もうとした。
けど、カバタが少し左によけた。
あたしの正拳は、カバタの耳をかすった。その手を、つかまれた。
カバタは、あたしの右腕をつかんだ。
しまった!
思ったときは、もう遅かった。
あたしの体は、宙に浮いていた。
1本背負い!
背中から、砂浜に叩きつけられていた!
一瞬、息がつまる。けど、やはり、砂浜でよかった。
ひどいダメージはうけていない。
あたしは、体を起こしかけた。
気づくと、もう左腕をつかまれていた。
また1本背負い!
あたしは、砂浜に叩きつけられた。
頭を振る。ヨロヨロと立ち上がる。
「まだはじまったばかりだぜ」
とカバタ。
立ち上がったあたしのわきの下に手を入れる。
なんだかわからないけど、投げられた!
1回転!
体が砂浜に落ちた! 息がつまる。
「ほら、まだまだ」
とカバタ。
あたしの腕をつかむ。引き起こした。あたしは、のろのろと起き上がる。
カバタは、あたしのブラをつかんだ。ビキニのブラ。その肩ヒモを、グイとつかんだ。
思いっきり投げようとした。
瞬間!
ビッという音!
カバタの馬鹿力に、あたしのブラは、ぶっちぎれた!
やつの投げは、すっぽ抜ける。
カバタは、あたしのブラをつかんで、よろけた!
はじめてやつが見せたスキだった。
いましかない!
あたしは、回し蹴りを飛ばした!
もちろん、上半身は裸だ。けど、まわりにいるのは全員女だ。
だいいち、そんなことにかまってる場合じゃない。
力いっぱいの回し蹴り!
体勢のくずれたカバタの頭に!
入った!
手ごたえ!
カバタの体が、ふらつく。片ヒザをついた。
ゆっくりと立ち上がった。
その顔面に、回し蹴り! もう1発!
口のあたりに入った!
カバタは、後ろにのけぞった。
よろける。
けど、そこは番長の意地。尻もちをついたりはしなかった。
きわどくもちこたえる。
あたしをにらみつけた。
「けっこう、やるじゃないか」
と言った。
ペッと、砂浜にツバを吐いた。ツバには血が混ざっていた。
いまの回し蹴りで、口の中が切れたんだろう。
そのときだった。
「マッポがきます!」
と誰かが叫んだ。指さした。
全員、そっちの方を見た。はるか向こう。御用邸の方向から、制服の警官が2人、歩いてくる。
ごく普通の巡回っていう感じだった。それでも、
「全員、散れ!」
とカバタが叫んだ。手下たちは、ゾロゾロと松林の方に歩きはじめる。
あたしは、ハッとわれに返った。
上は裸だ。
濡れた砂地には、引きちぎれたビキニのブラが落ちている。
あたしは、両手でバストをかくした。警官たちの姿は、近づいてくる。
そのとき、
「ほらよ」
という声。カバタだった。あたしが脱ぎ捨てた半袖のシャツをひろい上げていた。あたしに投げた。
あたしが最後のボタンをかけ終わった頃、警官がそこまで近づいていた。
警官たちは、不審そうな眼で、あたしとカバタを見た。
「何してんだ?」
ちょっとナマリのある言葉使いで、1人がきいた。
「何って、見てわからない?」
あたしは言ってやった。
「ロマンチックなオトメが2人、沈んでいく夕陽を見てるんじゃない」
となりで、カバタの肩がふるえた。思わず吹き出しそうになってるのがわかる。
警官たちは、変な顔をしながらも、
「暗くならないうちに帰れよ」
と言った。
「吸うか?」
とカバタ。煙草の箱を、さし出した。
「ショート・ホープか……」
あたしは、それを見てつぶやいた。
「オッサンの煙草じゃない」
と言った。
「悪かったね。じゃ、やめときな」
「待て待て、吸う吸う」
あたしは言った。箱からショート・ホープを1本出す。くわえる。
カバタが、100円ライターで火をつけてくれた。カバタは、自分がくわえた煙草にも火をつける。
フーッと、煙を吐き出す。
あたしとカバタは、一色の砂浜に坐っていた。
並んで坐って、暮れていく海をながめていた。
別に、ロマンチックな気分にひたりたかったわけじゃない。ただ、さっきのケンカで体力を消耗して、しばらく坐っていたかったのだ。
「とりあえず、今回は引き分けだな」
とカバタ。あたしは、うなずいた。
「それにしても、お前の蹴り、けっこうきいたぜ」
カバタは言った。首筋のあたりをなでた。
「あんたの投げもね」
あたしは言った。砂浜に打ちつけた背中をさすった。
「1つ、きいてもいいかな?」
あたしは言った。
「何さ」
「あんた、中学生の頃、えらく強い柔道の選手だったって話だけど、なんでやめちゃったの?」
あたしは、きいた。
カバタは、しばらく無言。薄暗くなっていく海をながめていた。
やがて、
「つまんなくなったのさ」
と言った。
「つまんなくなった?」
カバタは、うなずく。
「あのままやっていけば、もしかしたら、全日本で優勝できるかもしれないって言われたし、オリンピックに出るのも夢じゃないとも言われたよ……」
「……それが、なぜ?……」
「だって、考えてもみろ。いくら全日本チャンピオンだって、オリンピックの金《ゴールド》メダリストだって、結局のところ〈女子の〉っていうひとことがつくんだよな」
「…………」
カバタは、2本目の煙草に火をつけた。
「……あたしは、ガキの頃から男に生まれたかったと思ってたよ」
「男に?……」
「ああ。男になりたいっていうよりか、女だからあれはやっちゃいけないとか言われるのが、すごくシャクだったんだなァ」
「……わかる……」
あたしは、つぶやいた。
「で、柔道をはじめたんだけど、あの世界も封建的でさ、男は男、女は女なんだよなァ」
とカバタ。
「試合で男もやっつけるなんてこと、できないわけだ」
「それで、つまらなくなったわけ?……」
「まあね……。いくら強くなっても、結局、〈女子チャンピオン〉だもんなァ……」
「そうかァ……」
あたしは、またつぶやいた。くわえ煙草で水平線を見つめた。もう海はブルーに暮れはじめている。
江の島の灯台が、チカッ、チカッと点滅しはじめていた。あたしは、それをじっと見つめていた。
ふと、頭の中で、何かがチカッとひらめいた。
「野球!?」
とカバタ。くわえ煙草のまま、あたしにきき返した。
煙草を指にはさむと、
「野球をやるって言ったのか?」
と、きいた。
「そう。野球をやらないかって言ったのよ」
「野球って……ソフト・ボールじゃなくてか?」
「ソフト・ボール?……誰が、あんな女の子用のもの、やるもんですか。野球よ。ちゃんと硬式のボールを使ったやつよ」
あたしは言った。
この15年、ずっと野球をやりつづけてきたことを話した。男の子のチームでやってきたこともだ。
「野球で、男とやり合うってのは、どう?」
とカバタに言った。
「野球で男とやり合うか……」
カバタは、つぶやいた。
「しかし、最近じゃ、女だけのチームもかなりできてるって話じゃないか」
あたしは、うなずいた。
「でも、あたしがめざしてるのは、そんな女のチーム相手の試合じゃないわ」
「じゃ?」
「コーシエンよ」
「甲子園!?」
カバタの唇から、思わず煙草がポロリと落ちた。
「こ……甲子園って、お前、どういうもんか知ってるのか?」
とカバタ。
「知ってるわよ。高校の野球大会でしょう?」
あたしは、口をとがらせた。
「そりゃそうだが……甲子園に女が出たなんて、きいたことないぞ……」
「いままではね」
「いままでは?」
「そう」
あたしは、白い歯を見せると、
「その、コーシエンに出る最初の女子チームに、あたしたちがなるのよ」
と言った。
「しかし、甲子園に出るまでには、山ほど地区予選があるんだぞ、予選が」
とカバタ。
「勝てばいいんでしょう?」
あたしは、カラッと言った。
「そりゃそうだが、それ以外にも、女子は出られないとかなんとか、うるさい問題だってあるだろうし」
「当たって砕けろよ」
あたしは言った。
「もちろん、砕ける気なんてさらさらないけど」
と、つけ加えた。
「だいいち、甲子園大会ってのは、学校の名前で出るんだぞ」
カバタが言った。
「ってことは?」
「つまり、その学校の野球部じゃなきゃダメだってことだ。うちに、野球部なんてないじゃないかよ」
「だから、あの校長に言ったわよ。野球部をつくりたいって」
「あの校長の豚ハゲか……」
とカバタ。
「で?」
「もちろん、嫌な顔してたわよ。女のくせに野球なんてって言って……」
「それで?」
「いちおう検討しとくなんて言ってたけど、あの調子じゃ、まずダメね」
あたしは言った。
「でも、正面玄関からいって断わられたからって、あたしはあきらめないわ」
「…………」
「裏口をこじ開ける手もあるし、窓ガラスを叩き割って入る手もあるでしょう」
と言った。カバタに白い歯を見せた。
海はもう、ほとんど暗くなっていた。空に星が出はじめていた。江の島の灯台は、あい変わらずチカッ、チカッとまたたいている。
あたしは、空を見上げた。ひんやりとした海風を吸い込む。
胸の中で、つぶやいていた。
〈パパ、必ず、コーシエンに出てみせるから、見ててね……〉
「おい、エミ」
呼びとめられた。ふり向く。カバタが立っていた。
3日後の昼休み。
校庭だ。
「何?」
あたしは、きいた。
「何って、いつからはじめるんだよ」
とカバタ。
「はじめるって、何を?」
「練習に決まってるじゃないか」
「練習?」
「そうさ。野球の練習だよ」
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12 〈BAD〉を口ずさんで
「野球の? 練習?……」
あたしは、また、きき返してしまった。
「そうさ、野球部をつくって甲子園にいくんだろう」
とカバタ。
「野球部って……」
「とりあえず、いまは、これだけしかいないけどな」
とカバタ。自分の後ろにいる番長グループを、親指でさして見せた。
6人、いた。もちろん、番長のカバタの命令で野球をやることになったにちがいない。
けど、さすがに、それぞれ中学時代は番長を張ってただけのことはある。全員、ドスのきいた顔をしている。
中には、この前、体育倉庫であたしにさんざん殴られた相原もいた。ずいぶん変わっていた人相も、元に戻っている。
相原は、あたしの顔を見ると、ちょっと照れくさそうな顔をした。
「けど……」
あたしは、カバタに向きなおる。
「どうして、野球をやる気になったの?」
と、きいた。
「まあ、この前言ったみたいに、男を相手に勝負したいってこともあったけど、それより、お前のムチャクチャさが気に入ったんだね」
「ムチャクチャ?」
「ああ。女子校の野球部が甲子園に出るなんて、そんなムチャなこと、よく考えるよなァ」
とカバタ。あたしに、ニッと笑いかけると、
「でもな、そのムチャクチャってやつを、ちょいとやってみたくなってな」
と言った。
あたりを見回す。
「この学校の番《バン》にはもうなったことだし、なんかもっと、派手で面白いことをやりたいってことだよ」
カバタは言った。
「わかった……」
あたしは、うなずいた。
「で、練習はいつからやるんだ」
とカバタ。
「気が変わらないうちに、さっそくはじめましょう」
体育用具の倉庫にいく。みんなで、中を、ゴソゴソと捜してみる。
グラヴがいくつか出てきた。
昔、ソフト・ボール部でもあったんだろう。カビのはえたようなグラヴが10個近く、すみのダンボール箱から出てきた。
「とりあえず、これで間に合いそうね」
あたしは言った。みんなでグラヴのホコリをはたいた。キャッチャー・ミットや、キャッチャー・マスクも出てきた。
「はい、これは、あんた」
あたしは、それを、カバタに渡した。
「あたしは、キャッチャーか?」
とカバタ。
「そういうこと。その体格と、柔道できたえた肩の強さは、もう、キャッチャー以外にないわよ」
あたしは言った。
「わかったよ」
とカバタ。キャッチャー・ミットを手にとると、
「ホームに突っ込んでくるランナーは、みんな肩車で投げ飛ばしてやる」
と言った。
「どうしたエミィ」
とジェイ。カウンターの中できいた。
午後3時半。サブマリーンだ。
あたしは、野球スタイルで部屋からおりてきたところだった。
野球スタイルといっても、ハワイで着ていたジュニア・チームのスタイルだ。
上は、もちろん半袖。ハワイは暑いから、下も、おそろいのショート・パンツなのだ。ヒザには、スケボーの選手なんかもつけてるプロテクター。
ユニフォームの背中には、〈EMMY《エミイ》〉の文字。そして、背番号の17。あたしのラッキー・ナンバーなのだ。
まあ、きょうの練習なら、こんなものでいいだろう。
「いよいよ、野球のグラウンドにカムバックするのよ」
あたしは言った。かかえていた紙箱を開けた。
中には、レッド・シューズが入っていた。横須賀ジェッツのみんなが、お別れにくれた、まっ赤なスパイク・シューズだ。
あたしは、それを、手にとる。ジェッツのみんなに、胸の中で、
〈ありがとう〉
を言った。同時に、
〈がんばるからね〉
とも言った。
スパイク・シューズにヒモを通しながら、ジェイにポツリ、ポツリと話しはじめた。
「番長グループがねェ……」
とジェイ。今夜のメニューにのせるムール貝の殻を開けながら、つぶやいた。
しばらく黙って貝の殻を開けていた。やがて、
「そいつもまた、正解かもしれないなァ……」
と、つぶやいた。
あたしは、スパイク・シューズにヒモを通す手を止めた。ジェイを見た。
「いまの日本じゃ、野球は国民的スポーツなんていわれて、なんかエラそうだし、高校野球にしても、そうだ」
「…………」
「故郷の栄誉をになって甲子園に出場するとかなんとか、たかが高校生の野球に大人たちまで騒ぎすぎるよ」
「…………」
あたしは、甲子園寸前でトラブルを起こして、一家ごと引っ越していった淳のことをふと思った。
「私たちアメリカ人が子供の頃、野球ってのは、どっちかといえば悪ガキがやるものだったなァ……」
ジェイは、つぶやいた。
わかる。
あたしも、カリフォルニアとハワイで育ってきたから、よくわかる。
野球が好きな子ってのは、だいたい、悪ガキが多かった。
「それが、日本じゃ、努力と根性で野球一筋の高校球児だもんなあ……。なんか、ちょっとまちがってるような気がするな……」
とジェイ。
今度は、魚をさばきはじめた。
あたしも、横須賀基地の中で日本の新聞やテレビを見てて思った。
甲子園や、その予選に出てくる選手はなぜみんな坊主頭なんだろう。みんなお行儀がやたらよくて、バッター・ボックスに入るときに、帽子をとって一礼する。
あれで、バットのかわりに小銃でも持ったら、そのまま太平洋戦争のときの日本兵じゃないか。
アメリカで育ってしまったあたしには、まるで理解できない。
「よし!」
とジェイ。ふいにきっぱりとした声を出した。さばいてた魚の頭を、ストンと落とした。包丁をあたしの方に向けると、
「がんばってこい」
と言った。
「道徳教育みたいになっちゃってる高校野球の世界に、ドボンと石を投げ込んでこい、エミィ」
と言った。
「がんばってくるわ」
あたしは、ジェイに微笑いかけた。スピーカーのFENがM《マイケル》・ジャクソンの〈BAD〉を流している。
あたしは、〈BAD〉を口ずさみながら、立ち上がった。
自分のグラヴ。バット。ボールを3、4個、袋に入れて持つ。ジェイに手を振って、店を出ていく。
たそがれ。一色海岸。
みんな、揃っていた。
さすがに、いつものゾロっとしたセーラー服じゃない。スリム・ジーンズにアロハ・シャツなんていうスタイルが多い。
砂浜にしゃがみ込んで煙草を吸ってるのもいる。
いちおう、全員、古ぼけたグラヴを持っている。
近づいていくあたしの姿を見て、
「おっ、かっこいいじゃん」
とカバタが言った。
「なんか、スケボーみたいでさ」
と、あたしの全身をながめる。ショートパンツにヒザのプロテクターが、よほど気に入ったらしい。
「その赤いスニーカーも決まってるじゃん」
と誰かが言った。
「これは、スニーカーじゃなくてスパイク・シューズ」
あたしは、苦笑しながら言う。
「うちら全員、このユニフォームで揃えましょうよ」
と手下の1人。番長のカバタに言った。
カバタも太い腕を組んで、
「悪くないな。これなら、ちょいといい男も引っかかるかもしんない」
と言った。
「さあ、それはともかく、軽く練習しよう」
あたしは言った。袋から、硬球をとり出した。
パシッ。
パシッ。
砂浜に、キャッチ・ボールする音が響いていた。
カバタと手下の6人が、キャッチ・ボールをやっていた。基本的なフォームは、あたしが教えた。
さすが、みんなツッパリだけのことはある。ボールの投げ方が、ナヨナヨと女の子っぽくはない。
うまいヘタはある。けど、全員、勇ましくボールを投げていた。
ときどき、勢いあまったボールが、とんでもない方向に飛んでいく。
練習をはじめて1週間目。
みんな、かなりちゃんと投球、補球できるようになってきた。
とくに、やはりカバタがすごい。もともと、柔道で相手を投げるのとボールを投げるのは使う筋肉が似ているのかもしれない。
かなり速い球を投げられるようになっていた。
キャッチャーとしては最適だろう。
あたしは、カバタを相手に、ピッチングの練習をはじめた。
カバタにキャッチャー・ミットをはめさせる。最初は立たせて、キャッチ・ボール。
はじめは、ゆるめの球を、カバタの胸のあたりに投げる。カバタは、補球も上手だった。がっちりと受ける。
「あんた、柔道やめちゃって正解かもね」
キャッチ・ボールをしながら、あたしは言った。
翌日。
カバタをしゃがませて、あたしは投球練習をはじめた。
カバタは、さすが柔道できたえてある。下半身も、がっしりと安定していた。ミットさばきも、サマになってきた。
あたしは、少しずつ、ボールのスピードを上げていく。
もちろん、直球オンリーだ。カーブやシュートなんかは投げない。
直球なら、かなり速い球も投げた。カバタのキャッチャー・ミットで、パシッと乾いた音がした。
そのときだった。
エンジン音。
あたしは、ふり向く。
砂浜を、4WDのクルマがゆっくりと走ってくる。青いパジェロだった。
パジェロは、あたしの近くで止まった。窓から、
「よお」
と健二郎が白い歯を見せた。あい変わらず、半袖のポロシャツを着ている。
「何しにきたの?」
あたしは、きいた。
「砂浜に打ち上げられたヒジキの取材?」
「まさか」
健二郎は苦笑い。
「史上はじめて、女子校にできる野球部の取材さ」
「地獄耳ね」
「これでも、記者のはしくれなんでね」
「でも、野球部ができるかどうかなんて、まだわからないわよ」
「いいさ。予備取材ってところかな。どっちみち、このところヒマだし」
と健二郎。
「じゃ、せいぜい見物してて」
あたしは言った。また、投球練習をはじめた。
「ボールを離すタイミングを、もう少し遅くした方がいいんじゃないかな?」
と健二郎。
クルマの運転席から言った。
あたしは、投球練習を止める。ふり返る。
「あのねえ」
と健二郎に言った。
「見物しててとは言ったけど、口をはさんでとは言わなかったわよ」
「悪かったよ」
と健二郎。微笑いながら、
「でも、ちょっと気になったもんだからさ」
と言った。
「絶対に、その方がボールにコントロールがつくと思って……」
あたしは、あらためて健二郎を見た。
「ずいぶん自信があるのね」
「そう言われても困るけど、ちょっとは野球をやったことがあるんでさ」
「そう……。口先だけじゃないってわけね」
「まあ……」
「わかったわ」
あたしは、両手を腰に当てて、
「じゃ、ひとつ、あたしの球を打ってみてくれる?」
と言った。
「みごとにかっ飛ばしてくれたら、あんたのアドバイスも頭に入れてみるから」
健二郎は、しばらく苦笑い。やがて、
「……しょうがないなァ……」
と、つぶやいた。
できる。
健二郎が、バットをかまえた瞬間、そう感じた。
安定したフォーム。緊張している部分。逆にリラックスしている部分。そして、鋭い目くばり。
かなりな強打者のそれだった。
「どこで野球やってたの?」
「大学の野球部で、ちょっとね」
健二郎は言った。大学の野球部か……。どうりで、かまえが鋭いはずだ……。あたしは、健二郎の向こうにいるキャッチャーのカバタに、
「ちょっと、どいてて!」
と言った。
この健二郎相手じゃ、思いきり速球を投げなきゃならない。いくらなんでも、いまのカバタじゃうけられないだろう。
カバタはうなずく。
キャッチャーのポジションから離れた。
健二郎は、キャッチャーなしで、バットをかまえた。あたしが使ってる金属バットだ。
「いくわよ」
あたしは言った。
「いいぜ」
と健二郎。
あたしは、深呼吸。自分の足もとを見た。
横須賀ジェッツのみんながくれたレッド・シューズ。その赤に、白い砂がついている。
変化球はやめよう。
直球で勝負することにした。
あたしは、グラヴの中でボールを握る。
左足を高く振り上げる。シューズの先から、砂が宙に舞った。パッと夕陽に光る。
そして、あたしは投げた。
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13 ムーンライト・ビーチ
しまった! 失投だ!
投げた瞬間、そう思った。
もう少し外角にはずすつもりだった。けど、ど真ん中にいってしまった。
しかもウエストの高さ。
打ちごろだ。
健二郎は、左足に体重を移しながらふみ込む!
バットが鋭く振られた!
あたしは、思わず、一瞬、眼を閉じそうになった。カキーンという快音。一直線に飛んでいくライナー。そんな光景が頭のすみをかすめる。
けど、きこえたのはにぶい音。ガシッというにぶい音だった。
ボールは、バットの芯に当たらなかった。
芯のだいぶ上でボールをとらえた。
ボールは、打ち上がる。フライになった。青空に高く上がっていく。そう大きくない。内野フライだ。
あたしは、4、5メートル下がる。片手でフライをキャッチした。
健二郎は、ちょっとくやしそうな表情。握ったバットの先で、砂浜を軽く叩いた。
歩いてくる。バットを、あたしに渡す。
「やっぱり、ひさしぶりだと、ダメだな」
と言った。
「残念でした」
「ああ……。それにしても、なかなかスピードのある球だったぜ。みごとに打ちとられた」
と健二郎。
苦笑い。あたしたちに手を振る。駐めたパジェロに歩き出した。
「ああ、君か……」
と健二郎。電話の向こうで言った。
その日の夜。7時頃。
健二郎は、自分の部屋にいた。
「どうした。デートのお誘いかい?」
「じつは、そうなのよ」
あたしは、受話器を握って言った。
「これから、出てこられる?」
「……もちろん。どこへいこうか? ラ・マーレか? それとも魚寅《うおとら》にでもいって刺身でも食うか?」
「それもいいけど、とりあえず、さっきの一色海岸にきてくれる?」
「……ああ、いいよ……」
「じゃ、10分後に」
「了解」
10分後。一色の海岸。
あたしと健二郎は、向かい合っていた。
今夜は満月だ。雲はほとんどない。昼間みたいな月明かりが、砂浜を照らしていた。まだ、夏のシーズンには早い。デートしてる人影も、砂浜には見えない。
「よお」
と健二郎。
「こんなムードのいい場所へ呼び出してくれるとは嬉しいね」
健二郎の白い歯が、月明かりに光った。
「楽しいデートになりそうだな」
「そうよ。さあ、用意して」
あたしは言った。バットをさし出した。
「な、なんなんだ、これは……」
と健二郎。バットを見て、さすがに驚いた表情になった。
「え!? ちゃんと勝負をしろ!?」
健二郎は、きき返した。
「そういうこと」
グラヴを左手にはめながら、あたしは言った。
「ちゃんとした勝負ってことは?」
「つまり、さっきは、あたしの球をわざと打ちそこねてフライにしたでしょう」
「わざと?」
「そうよ。あなたは、大学の野球部員だったわけでしょ?」
「まあな」
「いくら速いっていったって、あたしみたいな高校生の球で、あんなど真ん中の直球を、ピッチャー・フライにするのはおかしいわよ」
いくら打ちそこなっても、外野フライぐらいにはなるだろう。まわりの連中は、まるで気づかなかった。けど、あたしはすぐに感じた。
「あたしに恥をかかせないために、わざと打ちそこなったんでしょう? ちがう?」
あたしは、健二郎を正面から見た。3秒……4秒……。
やがて、健二郎は苦笑い。頭をかいた。
「まいったな…‥」
「やっぱり、わざと打ちそこなったのね?……」
「半分はね」
「半分?」
「ああ……。外野フライぐらいにはしようと思って少し芯をはずしたが、思ったより球速があったんでピッチャー・フライになっちまったんだ」
あたしは、うなずいた。
「あたしの顔を立ててくれたのは、すごく嬉しいけど、このままじゃ気分がおさまらないわ。ちゃんと本気で、勝負してくれる?」
「でも……なんのために……」
「手かげんされたままじゃ、気分がおさまらないからよ」
「……意地かい?」
あたしは、また、小さくうなずいた。
「女の子にだって、意地はあるわ」
「とくに、君にはたっぷりあるみたいだな」
と健二郎。苦笑い。
「どうしても、やりたいのか?」
「そうよ。どうしても」
健二郎は、軽くため息。バットを握りなおすと、
「しょうがないな……。じゃ、やるか」
と言った。
「ただし、1つだけ、きいて欲しい条件があるんだけどな」
「条件?」
あたしは、ききなおした。
「ああ。もし君の球をかっ飛ばすことができたら、1つだけオレの望みをきいてくれないか?」
「賭けね?」
「まあ、そういうこと」
「で、その望みって、何?」
「君のヴァージン」
「ヴァ……」
あたしは、思わず絶句してしまった。確かに、あたしはまだヴァージンだ。別に、無理やり守ってるわけじゃないけど、そこまでいくほど好きな相手が現れなかっただけだ。
「冗談だよ、冗談」
と健二郎。ニコニコと白い歯を見せた。
「しかし、そこまであわてるってことは、まだヴァージンだな」
「ほっといてよ」
あたしは、両手を腰に当てて言った。
「で? 本当に賭けたいものっていうのは?」
「簡単さ。もしオレが勝ったら、君と君たちのチームを取材させてほしいんだ」
「取材?」
「そう。新聞記者のはしくれとしてね」
「でも……あたしたちみたいな、まだチームにもなっていない女の子の野球チームなんか取材しても……」
「いや。そこがいいんだ」
と健二郎。月明かりに輝く遠い水平線をながめる。
「女の子が野球チームをつくって、甲子園をめざす……ムチャクチャな話だと思う。思うんだけど、どうも、なんか胸さわぎがするんだ」
「胸さわぎ?」
「そう……。元、大学の野球選手としても、新米の記者としても、なんか、えらく気になるんだな」
「それで取材を?」
「そういうこと。別に、君らの練習のじゃまはしないし、そのタイミングがくるまで記事にもしない」
「じゃ、ただ見物してるだけ?」
「当分はね」
「まあ……それならどうってことはないけど……」
「よし。じゃ、さっそく勝負しよう」
と健二郎。バットを握りなおす。その眼が、水泳選手の鈴木大地に似て、強気な光をたたえていた。
「じゃ、いくわよ」
あたしは、ボールを握って言った。あたしと健二郎は、ピッチャーとバッターとして砂浜に向かい合っていた。
健二郎の足もと。ホーム・ベースの大きさに切ったダンボールが置いてある。その後ろ。キャッチャーのかわりは、ボート小屋の壁だ。
「いつでもいいぜ」
と健二郎。バットをかまえる。そのフォームにスキがない。
「じゃ、泣いても笑っても1打席の勝負よ」
あたしは言った。健二郎がうなずく。雲がさらに切れて、月の光がまた一段と明るくなった。
あたしは、深呼吸。そしてワインドアップ。1球目を投げた。
1球目は直球。内角高目。バッターの胸もとだ。
普通なら、体をのけぞらせるところかもしれない。けど、健二郎の体は、ピクリとも動かなかった。眼が、ピタリとボールを見きわめている。
バットを握った左ヒジすれすれ。速球が走り過ぎる。だけど、〈厚木イーグルス〉の坊やたちみたいにのけぞったりしない。バットの先も、ピクリとも動かない。
ボールは、後ろのボート小屋にぶつかる。コロコロと弾ね返ってきた。健二郎は、それをひろい上げる。
「1球目は、内角のボールだな」
きれいなフォームでボールを投げ返してきた。あたしは、うなずきながらうけとる。
2球目。
今度は、外角で誘ってみる。
あたしは、グラヴの中で、ボールをカーブの握り方にした。
そして、ワインドアップ。投げた!
外角。カーブ。
ストライク・ゾーンの外角ギリギリから外へ逃げていくボールだ。米軍少年チームの坊やたちなら、必ずバットを振るだろう。けど、せいぜい1塁側のファウルか、1塁ゴロだ。
健二郎のバットも、ピクリと動いた。でも、振らなかった。冷静に、コースを見切った。
健二郎は、ボート小屋に弾《は》ね返ってきたボールを、投げ返してきた。
「球半個分、ボールだな。しかし、いい誘い球だった。大学の選手でも振るかもしれない」
あたしは、うなずいた。けど、あまり嬉しくはなかった。ノーストライク・|2《ツー》ボール。カウントが悪くなってきた。
そろそろ、ストライクをとりにいかなきゃならない。あたしは、シュートの握りにした。深呼吸。
3球目。
投げた!
しまった。投げた瞬間に思った。
シュートのかかりが悪かった! すっぽ抜けた。
低目。だけど、ベースのまん中に入ってしまった。ヒザより少し上の高さ。
健二郎の左足が1歩ふみ込まれる。バットが鋭く振られた。
カキーン!
鋭い音が、砂浜に響いた。バットの芯がボールを叩いた音だ。
あたしの頭上。
一直線。
ボールは、飛んでいく。
あたしは、サッとふり向いた。頭上を飛び過ぎたボールは、夜空に刺さるように飛んでいく。
海の上に出た満月。それにぶつかるんじゃないか。そんな勢いで、ライナー性のボールは飛んでいく。
はるか、海の上。
ボールは、魚をとる海鳥みたいに水面に落ちた。小さく、白いしぶき……。
野球のグラウンドなら、バック・スクリーン直撃のホームランだろう。
あたしは、まだ、ボールが落ちたあたりの海をぼんやりと見ていた。
足音。
健二郎が、近づいてくる。ニコリと微笑う。
「失投だったな」
「……でも、いままで、あんな当たり、打たれたことなかったわ……」
「高校生の野球なら、当然さ。気にするな」
と健二郎。白い歯を見せると、
「これでも、東京六大学じゃ3割を打ってたんだからな」
と言った。
「約束どおり、取材は、よろしく」
健二郎は、まだぼんやりしてるあたしの肩を、ポンと叩いた。
その夜。11時。
あたしは、自分のベッドに寝っ転がっていた。ボウルに入ったサクランボを、口に放り込んでいた。
ベッド・サイドには、パパの写真がある。
〈打たれちゃったわ〉
あたしは、写真立てのパパに向かってつぶやいた。
あたしだって、東京の六大学野球がすごくレベルが高いのは知ってる。そこから出た選手たちがたくさんプロ野球で活躍していることも……。
その六大学で3割を打ってたっていうんだから、健二郎のパワーが半端じゃないんだろう。
それでも……それでも……やっぱり、あんな鋭く打たれたのはくやしい。
〈シュートが、すっぽ抜けちゃって……〉
あたしは、パパに言った。写真立てのパパは、あい変わらず優しく微笑んでいた。そういえば、パパはよくこう言っていた。
〈練習のとき、たまには長打も1発打たれてみるのもいい。そういう気分を味わっておけば、試合でもし1発くらっても、動揺しなくてすむからね〉
そうなのかもしれない。
きっと、そうなんだ……。
あたしは、そう思い込むことにした。サクランボを、ポンと口に放り込む。ちょっと、ほろ酸っぱい味がした。
ラジカセが、D《デビー》・ギブソンのバラードを流していた。
「だいぶ、サマになってきたなァ」
とカバタ。太い腕を組んで言った。
夕方の砂浜。あたしたちは、練習をしていた。番長グループの腕も、かなり上がってきた。
かなり速い送球ができる子もいた。フライは、みんな捕球できるようになっていた。
あたしたちは、ひと休み。砂浜に坐った。
といっても、そこは普通の野球部と、わけがちがう。すぐに缶ビールと煙草が登場することになる。
「ちゃんとした野球チームには、あと1人、必要なのか」
とカバタ。煙草を吹かしながら言った。あたしは、缶のBUD《バドワイザー》を飲みながらうなずいた。
「欲しいのは、とにかく足の速い選手ね」
「まあ、さがしてみよう」
とカバタ。ショート・ホープの煙を、プーッと吐いた。
「コラア!」
鋭い声が、駐車場に響いた。
「待てェ!」
太い声! オッサンの声だった。
夕方の6時。
CDやミュージック・テープを売ってる店〈サウンド・マーケット〉。あたしたちは、略して〈SM〉って呼んでいる店だ。
あたしは、J《ジヤネツト》・ジャクソンのCDが欲しくて、カバタと2人で店に入っていこうとしたところだった。
その店から、女の子が1人、走り出してきた。
スタジアム・ジャンパーにスリム・ジーンズ。髪をポニー・テールにした女の子だった。ちょっとリスみたいなかわいらしい顔に見覚えがあった。
そうか。
同じクラスの娘《こ》だった。
名前は、確か、飛沢《とびざわ》。みんなからは〈トビー〉って呼ばれていた。
飛沢《トビー》は、全速で走ってくる。
追いかけてくるオッサンは、40歳ぐらい。ゴリラみたいにごつい。サウンド・マーケット、つまりSMのマーク入りジャンパーを着ていた。
「待て!」
とSMのゴリラおじさん。駆けてくる。飛沢《トビー》も、全速で走る。駐車場に駐めてあるクルマの間をぬって走ってくる。
誰が見ても、わかる光景だった。
飛沢《トビー》は、CDかテープを万引きしたんだろう。それで、SMのゴリラが追いかけてきたにちがいない。
トビーは、あたしたちの前を全速で走り過ぎた。
SMのゴリラも、バタバタと追いかけてくる。
SMゴリラがあたしの前を走り過ぎようとしたとき、あたしは右足を出した。
その足を、チョンと引っかけた。
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14 ダイコンのような君たち
SMゴリラは、つんのめる。
みごとに、ずっ転んだ。
飛沢《トビー》の方は、す早く駆けていく。どんどん姿が小さくなる。見えなくなる前に、チラリと、こっちをふり向いた。
SMゴリラは、のろのろと立ち上がる。
「お……お前! 何するんだ!?」
と、あたしに叫んだ。ごつくて毛深い。暑苦しい男だった。
「それは、こっちのセリフよ。あなたみたいな大人が、あんな若い女の子を追いかけて」
あたしは言った。
「つかまえて、イタズラでもするつもりだったんじゃないの?」
と言ってやった。
「何言うんだ! あの娘は万引きしたんだぞ! だから追いかけていたんだ!」
SMゴリラは、あたしにくってかかる。
「万引き?」
あたしは、となりのカバタを見て、
「万引きって、何?」
と、きいた。カバタも、吹き出すのをこらえた表情で、
「さあ……。そんなもの、見たことも食べたこともないねェ」
と言った。
SMゴリラは、あたしをにらみつける。
「とぼけやがって……。お前も、あいつとグルか?」
と言った。
「そうなんだろう!?」
と言いながら、あたしのセーラー服のエリもとをつかんだ。ねじ上げようとした。
「何するのよ! か弱い女の子に!」
あたしは言った。同時に、SMゴリラのスネを蹴っていた。
「ウッ」
とSMゴリラ。あたしのエリもとから手をはなした。
「ひとの胸を触ろうとしたわね! エッチ!」
あたしは、自分のエリもとを押さえて言った。
「ウブな女子高生のバストを触ろうなんて、許せないね……」
とカバタ。ずいっと前へ出る。SMゴリラのエリもとを、逆につかんだ。ねじ上げる。SMゴリラの顔が、引きつる。
巨体のカバタにねじ上げられて、SMゴリラの体は、持ち上がる。やっとつま先立ちになって、
「や、やめろ!」
と、わめいた。
「誰がか弱い女の子だ!」
とカバタ。ゲラゲラと笑いながら、あたしの肩を叩いた。
「あんただって、ウブな女子高生なんてセリフを吐いたのよ」
あたしも、笑いながら言った。カバタの太いわき腹を軽く叩いた。
たそがれ。防波堤。
あたしたちは、買ってきたホットドッグをかじっていた。
「ところで、なぜあの飛沢《トビー》を助けたんだい」
カバタが、きいた。
「あの足よ」
「足?」
「そう。見たでしょう? あの足の早さ」
「ああ……そう言えば……」
カバタも、うなずいた。あたしは、思い起こす。あのトビーの足の早さ。駐車してるクルマをすり抜けて走っていったフットワークの鋭さ。
「あいつ、どこかのクラブに入ってるかなァ」
あたしは、カバタにきいた。
「確か、帰宅部じゃないか?」
「よし。あいつを、うちのチームに入れよう」
あたしは言った。ホットドッグを、ガブリとかじった。
「よお、万引き娘」
とカバタ。飛沢《トビー》のポニー・テールを、後ろからつかんだ。
翌日。学校。昼休みの教室だ。
「あ……あなたたち……」
とトビー。カバタとあたしを見てつぶやいた。きのう、あたしたちがSMゴリラをやっつけたのは見てたはずだ。
「きのうは、どうも……」
とトビー。ちょっとビビッた表情。お弁当を食べかけていた手を止めた。そのお弁当を見て、カバタが、
「しかし、お前、しけた弁当食ってやがるなァ」
と思わず言った。
確かに。しけたお弁当だった。どこかの弁当屋か駅の売店で買ってきたんだろう。
消しゴムより小さい玉子焼き。しなびたようなウインナー。風に飛んでいきそうな薄さのシャケの切り身。
「その弁当といい、きのうの万引きといい、お前んち、ビンボーなのか?」
カバタがきいた。
「べ……別に、それほどでもないけど……」
「オヤジは何をやってるんだ」
「何って……建設会社を……」
「建設会社?」
トビーは、うなずく。
「……飛沢建設っていう会社を……」
と言った。
「飛沢建設って、あちこちにマンション建ててるあれか!?」
とカバタ。トビーは、またうなずく。
「お前のオヤジ、あの飛沢建設の社長なのか!?」
「社長は、パパの兄で、私のパパはいちおう副社長を……」
とトビー。カバタは、さすがに驚いた顔。
「……そんな金持ちの娘が、なんでこんなしけた弁当食ってるんだよ」
「その……ママが、朝はいつもバイオリンの練習で忙しくて……」
とトビー。
「お前の母さん、バイオリンのプロなのか?」
「プロなんかじゃないんだけど、最近、鎌倉市のクラシック・サークルに入ってはじめて……」
「つまり、カルチャー・オバサンってわけか」
カバタは言い捨てた。
「それにしても、金持ち娘が、なんで万引きなんかやったんだ」
とカバタ。トビーは、しばらく無言。やがて、
「……私、ロックンロールが好きなんだけど……」
と、つぶやいた。
あたしは、うなずいた。あのときのトビーのスタイルを思い浮かべていた。ポニー・テール。ジーンズ。スタジアム・ジャンパー。
まさに、ロックンロール・スタイルだった。
「でも……私がそういうCDやテープを買おうとすると、ママは1円もくれなくて……」
「そうか。クラシックだけが音楽だと思ってるわけね」
あたしは言った。トビーは、うなずくと、
「で……しかたなくあんなことしちゃって……」
と、つぶやいた。
「それにしても、きのうは助けてくれてありがとう」
「そんなお礼はいいわよ。それより、1つ、きいてもらいたい話があるんだけど」
あたしは言った。
「私を、野球チームに!?」
とトビー。驚いた表情。
「そういうこと。あんたの足の早さが、あたしたちの野球チームに欲しいのよ」
あたしは言った。
「でも……私に野球なんて……」
「できるさ。うちのチームだって、エミ以外、みんな野球のトーシローなんだから」
とカバタ。
「でも……」
と、トビーは口ごもる。カバタは、腕組み。トビーを見おろす。
「もし嫌だっていうんなら、こっちにも考えがあるよ」
と、スゴんだ声で言った。
「考えって……あの万引きのことを、お店に言うの?……」
「ノーノー」
カバタは、首を横に振った。
「じゃ、親に言うの?……」
「ノーノー」
「じゃ……学校に言うの?……」
「ノーノー」
「じゃ……じゃ……警察に?……」
「ノー。あんたが行くのは、警察《サツ》じゃなくて病院ってことになるね」
「病院?……」
「そう。手足の2、3本も骨折してね」
とカバタ。ニッと微笑った。トビーの机から、鉛筆を1本とった。マッチ棒を折るみたいに軽く、3本の指で鉛筆をボキッと折った。
トビーの顔色が、さすがに変わった。
結局、トビーはあたしたちの野球チームに入ることになった。
「いくわよ」
あたしは、ボールを握って言った。バッター・ボックスで飛沢《トビー》がうなずいた。
それから10日後。あたしたち野球チームの練習だ。
さすがにもう、砂浜じゃ、練習が難しくなっていた。ちゃんとした地面のグラウンドがないとムリになっていた。
しょうがないんで、近くの公園でやることにした。葉山の海が見える、どうってことのない公園だ。
とても、ちゃんとしたグラウンド並みの広さなんかは無い。でも、とりあえず、内野ぐらいの広さはある。
あたしたちは、そこで放課後の練習をしていた。
「じゃ、ど真ん中、いくからね」
あたしは、バッター・ボックスのトビーに言った。
ショートパンツ、スニーカー姿のトビーがうなずく。
あたしは、ワインドアップ。投げた。
そう早くない直球。ストライク・コースの真ん中だ。
トビーは、バントのかまえ。あたしが教えたとおり。うまく、コンと当てた。ボールは、3塁線に転がる。
3塁手が、前にダッシュ! いまのところ一番守備のうまい娘《こ》だ。
トビーは、もう、1塁に突っ走っている!
3塁手は、ゴロをとる。1塁に投げた。
1塁手のミットにボールがおさまったとき、トビーはもう楽々と1塁ベースを走り抜けていた。
やっぱり、抜群に足が早い。
「つぎは、盗塁の練習よ」
あたしは、1塁ベースに立っているトビーに言った。トビーがうなずく。2、3歩、リードをとる。
バッターは、いちおう立っている。あたしは、セット・ポジションをとる。1塁のトビーをチラリと見る。投げた。
外角高目。はずした球だ。
キャッチャーのカバタが捕球。トビーはもう、2塁に向かってスタートを切っている。
カバタは、いいフォームで2塁に送球! 早い球が、あたしの顔のわきを走り過ぎる。あたしは、2塁にふり向いた。
2塁手のグラヴにボールが飛び込む! けど、もう、トビーが2塁ベースに滑り込んでいた。
楽々、セーフだ。
トビーは、2塁ベースの上に立った。けど、その左足、ヒザのあたりに、スリむき傷ができている。血がにじんでいる。
「ちょっとしみるかもしれないけど、ガマンして」
あたしは言った。消毒液のビンを開けた。
まだ開店前のサブマリーン。
あたしは、足をスリむいたトビーをつれてきた。手当てをするためだ。
ほかのメンバーも、みんないた。ジェイが出してくれた缶ビールを飲んでいる。
ジェイは、カウンターの中に戻って何か魚をさばきはじめた。ケイコさんも、手伝って野菜を切っている。
「あんた、1番バッター決定ね」
あたしは言った。チームのみんなも、うなずく。あたしは、トビーのヒザに、消毒液を塗りはじめた。
「あれ? そんなにしみた?」
あたしは、思わずトビーを見上げてきいた。消毒液を塗られているトビー。その眼に、涙がにじんでいた。
「そんなにしみるんなら……」
「そ……そうじゃなくて……」
とトビー。指で、眼尻の涙をぬぐった。
「薬がしみたんじゃなくて……なんか嬉しくて……」
トビーは、小声でつぶやいた。
「嬉しくて?……」
トビーは、うなずいた。
「他人《ひと》に薬を塗ってもらったのが嬉しかったの?」
「……それもあるけど……」
とトビー。グスンと涙をしゃくり上げる。
「私……うちじゃ落ちこぼれで……」
「落ちこぼれ?」
あたしは、きき返した。トビーはうなずきながら、
「パパもママも、横浜のフェリスにいってる姉貴の方ばかり大事にして……」
「フェリス? フェリスがどうした。そりゃ名門校だけど、なんぼのもんじゃい」
とカバタ。ムッとした顔で言った。
「でも……姉貴はフェリスでもテニス部の部長をやってて、成績だって学年でいつも3番以内に入ってて……」
とトビー。
「そうか。ところが、妹のお前さんは、湘南の三流校にしか入れなくて、成績もパッとしなくてってわけか」
とカバタ。ズバズバと言った。トビーは、うなずく。
「私のことなんか、誰も気にかけてくれなくて……楽しみといったら、アメリカのロックンロールやチェッカーズの曲を聴くのだけが楽しみなのに……」
「ところが、あんたのママはそんな曲を聴いちゃいけませんよ。モーツァルトを聴きなさいって言うわけね」
あたしは言った。トビーはうなずきながら、
「あんなのは、ただの雑音だって言うの」
と言った。また涙が頬にこぼれる。
「ほら」
あたしはカウンターから、ペーパー・ナプキンをとった。トビーに渡してやる。トビーは、それで涙をぬぐった。
「自分の居場所が、家でも学校でも見つからなくて……淋しくて……。でも、この野球チームに入ったら……ちゃんと自分の居場所があって……みんなが私を必要だと思ってくれてて……」
「それが、嬉しかったのか」
とカバタ。トビーは、涙をぬぐいながら、うなずいた。
あたしは、トビーの肩を叩いて、
「安心するのね。あんたは1番バッターで、守備のときはショートだからね」
と言った。
「ショート?」
「そう。一番、すばしっこく動ける選手がやるポジションよ」
「でも……私にできるかしら……」
「できないっていうんなら、手足の2、3本もへし折ってやろうかね」
とカバタ。笑いながら言った。
「だいたい、落ちこぼれっていうことなら、うちのチーム全員、そうだものな」
カバタは言った。
みんな、ニヤニヤしながら、缶ビールを飲んだり、煙草を吸ったりしてる。
「それもそうね」
あたしは言った。全員、中学の時は番長だったか補導歴がある、そんな女の子ばかりなんだから。
そのときだった。
「はい、ビールのおつまみだよ」
とジェイ。カウンターに皿を置いた。
何か、野菜をおひたしにしたようなものだった。あたしは、それにおハシをつけてみる。ちょっとホロ苦い。けど、
「おいしい……」
と、つぶやいた。ほかの連中も、おハシをのばす。
「こりゃ、うまい」
「ビールがぐんぐんいけちゃうよ」
などと、口々に言う。1皿は、あっという間になくなった。ジェイは、2皿目を出してくれた。
「ねえ、ジェイ。これ、なんなの?」
あたしは、おハシを動かしながらふり向いてきいた。
「なんだと思う?」
とジェイ。ニヤニヤしている。
「なんだろう……」
あたしは、おひたしのひとつまみを食べる。
ホウレンソウなんかじゃない。コマツ菜でもない。春菊でもない。なんだろう……。
「じらさないで教えてよ」
あたしはジェイに言った。ジェイはグラスを洗いながら、
「ダイコンの葉っぱさ」
と言った。
「ダイコン?」
「葉っぱ?……」
みんな、ポカンとしてつぶやいた。ジェイは手を動かしながら、
「葉っぱのついたダイコンなんて、あまり見たことないだろう?」
あたしは、うなずいた。
「店に並べる前に切っちまうからね。そうなりゃ野菜クズだ」
「…………」
「そんな野菜クズには誰も用がないわけだが、ときには用がある人間もいるわけさ。私みたいにね」
とジェイ。ニコリと微笑って、
「そうやってうまく味つけをすりゃ、上等のおひたしになる。まんざら、捨てたものじゃない」
と言った。
ジェイは、カバタを見る。
「お前さんたちも、高校生全体から見りゃ野菜クズみたいなものかもしれないが、ことと次第によっちゃ、まんざら捨てたものじゃないのかもしれない」
と言った。
ジェイは、トビーを見る。
「ほとんどの人が自分に用がなくても、いつか、誰か、自分を必要としてくれる人間があらわれるかもしれないってことかな」
と言った。
トビーは、小さくうなずいた。
しばらく、全員、無言……。
やがてカバタが苦笑しながら、
「わたしら、ダイコンの葉っぱか……じゃ、せいぜいとも喰いしよう」
と言った。おひたしを口に放り込む。缶ビールをグイと飲んだ。
店のオーディオから、L《リンダ》・ロンシュタットの唄う〈Desperado《デスペラード》〉がゆったりと流れていた。
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15 ジン・トニックでももらおうか
カキーン!
乾いた音が、公園に響いた。
あたしがボールを打った音だ。ボールは、ゴロで転がっていく。ショートの右。セカンド・ベース寄りだ。
ショートの飛沢《トビー》は、2歩右へ。
ボールをキャッチ!
グラヴの中で握りなおす。1塁へ送球!
ファースト・ミットに、ボールはパシッとおさまる。
「いいじゃない」
あたしは言った。
トビーが内野の守備練習をはじめて1週間。そのわりには、上達が早い。自分で気づかなかっただけで、もともと運動神経のいい娘《こ》だったんだろう。
「じゃ、つぎは逆コースいくわよ」
ノックをしてるあたしは言った。
右手でボールを宙に浮かす。バットで打った。
三遊間のゴロ!
遊撃手《シヨート》のトビーからすると、逆ハンドでボールをつかむことになる。
トビーは、三塁手の方に3歩走る! 逆ハンド。グラヴで捕球していた。
足をふんばる。体勢をたてなおす。1塁に送球! 1塁手は、ショートバウンドぎみのボールをうまくキャッチ!
よほど足の早いランナーじゃなければ、アウトにできるタイミングだった。
「イェイ!」
チームの連中から声が上がる。トビーは、ちょっと照れながら白い歯を見せた。
そのときだった。
クルマのブレーキ音。あたしはふり向く。青いパジェロ。ドアを開けて、健二郎がおりてきた。
「よお、やってるな」
と健二郎。あたしのところに歩いてきた。
あい変わらず、ポロシャツ姿だ。
「いまゴロをさばいたショートなんて、なかなかのものじゃないか」
「見てたの?」
「ちょうど着いたところでね」
と健二郎。あたりを見回して、
「それにしても、狭いところで練習してるなァ。これじゃ、外野の守備はまるで練習できないじゃないか」
と言った。
「だって……まだ、野球部として認めてくれないから、学校のグラウンドを使わせてもらえないのよ」
あたしは言った。
あのハゲ豚校長には、野球部をつくる要求は出してある。けど、あれ以来、なんのおとさたもない。
「あそこの校長は、確か、渡辺道男だったよなァ」
と健二郎。
「さすがに新聞記者ね。よく知ってるじゃない」
「まあ、有名な校長だからな」
「有名? どうして有名なの?」
「なんていうか……早い話、校長の肩書きを持った商売人なんだな」
「商売人?……」
「そういうこと。学校経営を単なる商売の1つとしてしか考えてないし、学校の名前を使っていろいろうまいことをやってるっていう噂もあるな」
「うまいこと? それって、どういうこと?」
「つまり、学校法人ってのは、税金の上でも、すごく有利なんだ。それを、自分のほかの事業にも利用するとかね」
「っていうと?」
「つまり、渡辺道男は、あの逗葉学園以外にもいくつかの会社を持ってるわけだ。その会社のために買った土地やなんかを、逗葉学園のものとして届ければ、税金の面ですごく得をするわけだ。たとえば土地ころがしなんかにも、すごく有利だ」
「なーるほどね。でも、本当にそんなことやってるの?」
「はっきりとした証拠はないが、やってるという噂は立ってる」
と健二郎。
「いずれ、うちの新聞社でもそのあたりの真相を突っつくことになるかもしれないな」
そのとき、クルマの無線がザッ、カリカリッと鳴った。健二郎は無線のマイクをとる。
「はい、真田」
「七里ケ浜で交通事故が発生したらしい。いってみてくれ」
と無線が言った。
「了解」
と健二郎。
「じゃ、練習、がんばれよ」
と、あたしたちに手を振る。パジェロに乗り込む。スタートさせた。
「あれ、あんたの彼氏かい?」
とカバタ。
「この前も言ったじゃない。ただの新聞記者で、あたしたちのチームのことを取材するつもりなんだって」
あたしは言った。
「そんなことより、練習つづけよう」
と言った。そのとき、
「あの人……どっかで見たことあるなァ……」
と、トビーがつぶやいた。遠ざかっていくパジェロをじっと見ている。
「あーっ」
とトビー。動かしていたフォークを止めた。宙を見る。止めたフォークから、スパゲティが滑ってお皿に落ちた。
練習が終わった後。
サブマリーン。
あたしたちは、ジェイがつくってくれたシーフード・スパゲティを食べているところだった。
「どうしたの、トビー」
あたしは思わずきいた。
「ブラでもはずれたか」
とカバタ。
「ちがうって!……思い出したのよ、さっきの彼のこと……」
「彼って……新聞記者の真田健二郎のこと?」
あたしは、トビーにきいた。
「そう……。私、知ってる……彼のこと……」
「知ってるっていうと?」
「彼、うちの近所の人なの」
「近所って……あんたの家、鎌倉でしょう?」
「そう。うちは鎌倉の雪ケ谷なんだけど、真田さんの家も、同じ雪ケ谷で、50メートルぐらいしか離れてないの」
とトビー。
「じゃ、彼は実家が鎌倉で、葉山で1人暮らししてるわけか……」
あたしは、つぶやいた。トビーも、うなずく。そして、
「やっぱり、プロ野球の選手にならなかったのね……」
と、つぶやいた。
「ああ……そういえば、彼、大学時代、野球の選手だったって言ってたけど、プロになれるほどの選手だったわけ?」
ときくあたしに、
「そりゃもう、大変なものだったらしいわ」
とトビー。
「近所でもよく話題になってた。だって、東大生で、すごい選手だったんだから」
「と……東大生!?」
思わず声に出したのは、カバタだった。
「トーダイって……あの東大か?」
「そう。もちろん、あの東大よ」
とトビー。東大は、いくらあたしでも知ってる。そういえば、東大も六大学野球の中に入ってたんだ……。
「彼、東大の選手だったの?」
ときくあたしに、
「そう……。なんでも、エースで4番打者だったらしいわ」
とトビー。
「六大学でもすごく活躍して、近所の人たちも、みんな彼がプロ野球に入るものと思ってたらしいけど……卒業近くから、急に噂をきかなくなって……」
とトビー。思い出しながら、
「よく、朝早く近くをランニングしたりしてたけど、その姿も見かけなくなって……」
と、つぶやいた。
そのとき、
「きいたことがあるな、その男のことは」
とジェイが言った。
「知ってるの? ジェイ」
「いや、直接知ってるわけじゃないが、雑誌で見たことがあるような気がする。なんせ私も野球好きなんで、野球雑誌はずっととっててね」
とジェイ。店の奥に入っていった。
すぐに、雑誌の束をかかえて戻ってきた。日本の野球雑誌らしい。ジェイは、それをめくっていく。
「確か、せいぜい1、2年前の記事だと思うが……」
と雑誌をめくっていく。やがて、
「あった。これだ」
と言った。雑誌を開いて読みはじめた。あたしも、カウンターの中に回っていく。ジェイのわきからそのページをのぞく。
まず眼に飛び込んできたのは、写真だった。
モノクロ写真。バッター・ボックスで、バットをかまえている健二郎の写真だった。試合中の写真だろう。
あの、鈴木大地に似た強気な眼で、ピッチャーの方をにらんでいる。そんな写真だ。
そして、記事のタイトル。
〈東大野球部を引っぱる男・真田健二郎!〉
記事を読んでみる。
それほど突っ込んだ内容じゃない。
〈弱体だった東大野球部のイメージを変えてきた真田健二郎(4年生)〉
〈ピッチャーとしてはエース。バッターとしてもこれまでの通算打率3割4分8厘。ホームラン5本〉
〈最後のシーズンとなるこの秋のリーグ戦にも、プロのスカウトたちの眼が光る〉
〈来春は、東大出のプロ野球選手としてマウンドに立つ彼の姿が見られるだろうか〉
だいたい、そんな内容の記事だった。
「すごい選手だったのね……」
あたしは、つぶやいた。
「ああ……。大学の選手の中じゃ、かなり注目されてたことは事実だな」
とジェイ。
「でも……そこまでの選手が、なぜ、いま新聞記者をやってるのかしら……」
「さあねえ……」
ジェイも、そのページをながめたまま首をひねった。
「本人を呼び出してきいてみるのが一番なんじゃないか?」
呼び出すまでもなかった。
翌日の夜。10時過ぎ。
健二郎が、サブマリーンにやってきた。
店は、すいていた。あたしは、カウンターの中でグラスを洗っていた。
「よお」
と健二郎。カウンターのスツールに坐った。
「こんな時間に珍しいわね。取材?」
「そう。美少女ピッチャーがグラスを洗ってる姿をね」
と健二郎、ニコリと白い歯を見せた。そして、
「ビールでももらおうか」
あたしは、BUD《バドワイザー》を健二郎の前に置いた。健二郎は、缶のBUDをグラスに注ぐ。一気に飲み干した。あたしは、それを見ていた。
唇についた泡をぬぐうと、
「何見てるんだい」
健二郎は言った。
「元東大野球部のエースが、ビールの一気飲みをした姿をね」
あたしは答えた。
ちょうど、若いカップルの客が店を出ていった。お客はいなくなった。
あたしは、さっきの野球雑誌をチラリと健二郎に見せる。
「知らなくて悪かったけど、かなりすごい選手だったのね」
と言った。
健二郎は苦笑い。
「過ぎたことさ」
ポツリと言った。
いつの間にか、ケイコさんが壁ぎわのアップライト型ピアノに坐っている。静かに〈As Time Goes By(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)〉を弾きはじめた。
「同じ野球をやる人間としてききたいんだけど、どうしてプロにならなかったの?」
あたしは、思いきってきいてみた。
健二郎の眉が、ピクリと動いた。そして、
「タダじゃ話さない」
と言った。あたしは微笑うと、
「わかったわ。じゃ、今夜は飲みほうだい」
と言った。
今度は、健二郎が苦笑い。しばらく苦笑いしたままでいた。やがて、
「まあ、いいか。もったいぶってかくしとく程のことじゃないし……」
と言った。
「そうこなくちゃ。何飲む?」
「じゃあ、ジン・トニックでももらおうか」
「ジンは?」
「ゴードン」
「了解」
あたしは、ふり向く。酒棚からゴードンのジンをつかんだ。
「それほど難しい理由があったわけじゃないんだ」
と健二郎。2杯目のジン・トニックを飲みながら、ポツリと言った。
「大学4年の秋のリーグ戦が終わる頃には、いろんなスカウトの連中がきたよ」
「でも、日本のプロ野球はドラフト制なんでしょ?」
「ああ……。それでも、やっぱり、事前のアプローチはいろいろあるわけさ」
と健二郎。あたしは、うなずいた。自分でも、ジン・トニックをつくりはじめた。
「で?」
「プロになるかどうか、ずいぶん迷ったよ。まわりでもいろいろ言うしね」
「たとえば?」
「プロでやってみるべきだ。そういう意見と、東大まで出て、わざわざ不安定なプロ野球選手になるなんて……そういう意見とね……」
「そうか……」
あたしは、つぶやく。ジン・トニックをひと口飲んだ。
「東大出といえばエリートですもんね……」
「まあ、そう言うなって」
健二郎は、照れ笑い。
「まあ、早い話、野球の世界で夢を追うか、かたい道を選ぶか……その選択をせまられたわけだ」
ジン・トニックをひと口。
「いろいろ考えたよ……。プロになっても、どこまでやれるか……正直言って自信がなかった……でも、賭けてみたい気もあった……」
ケイコさんの弾く〈As Time Goes By〉が、低く流れつづけている。
「……そして、結局、安全な方の道を選んだわけさ」
と健二郎。2杯目のジン・トニックを飲み干した。
少し波が出てきた。
打ち寄せる音で、それがわかる。
あたしと健二郎は、小さな港に突き出したコンクリートの桟橋を歩いていた。
月は出ていない。少し沖に立っている裕次郎灯台が、チカッ、チカッと点滅している。
「ききにくいこときいちゃって、ゴメンね」
あたしは言った。
「いいさ。みんな本当のことなんだから」
と健二郎。サラリと言った。その辺は、さすがに大人っぽい。
でも、やっぱり、いままで会ったときとは少しちがう。いつもの強気な表情とは、ちょっとちがう。
どことなく、淋しさのかけらみたいなものが、言葉や表情に感じられる。
あたしたちは、ブラブラと桟橋を歩いていた。
「逆に、1つだけきいていいかい?」
と健二郎。ふいに、言った。
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16 そのジャジャ馬に用がある
「いいわよ。答えられることなら」
あたしは言った。
「本気で甲子園にいくつもりなのか?」
あたしは立ち止まった。
「当たり前じゃない。そのためにチームをつくってがんばってるんじゃない」
「しかし……女子高のチームが甲子園に出るなんてことがどれだけムチャで大変なことか、わかってるのかい?」
「わかってるわ……。でも、とにかく、なんだって、やってみなくちゃわからないでしょう?」
あたしは言った。
「それに、死んだパパによく言われたわ。大切なのは夢を実現させることより、実現させようとがんばりつづけることだって……」
夜空を見上げて、あたしは言った。
健二郎は、しばらく無言。何か、考え込んでいるような横顔。やがて、
「やってみなくちゃわからない、か……」
と、つぶやいた。微笑みながら、自分に言いきかせるように、
「そうなんだよな……」
と、つぶやく。うなずいた。
あたしに横顔を見せて、
「そうなんだよな……」
と、何回も何回も、うなずいた。
「でも……」
あたしは、口を開いた。
「あたしは、ただ無鉄砲なだけで……」
「いや」
と健二郎。
「その無鉄砲さが、いまのオレにはまぶしいんだ……。自分が、すでに失《な》くしちまったものだけにね」
「…………」
「オレはもう、そんな無鉄砲な年頃には戻れない。……けど、そんな君を取材することぐらいはできる……」
健二郎は、つぶやいた。そして微笑った。
あたしは、何を言っていいのかわからなかった。ただ、波だけがコンクリートの桟橋に打ち寄せていた。沖の灯台が、ゆっくりと点滅していた。
その夜は、なかなか寝つかれなかった。
健二郎がふと見せた淋しそうな横顔が、頭の中のスクリーンから消えない。
あたしは、そっと店におりる。冷蔵庫から缶のBUDを出す。ベッドで1缶飲み干す。やっと、眠れた。
「ダメ?」
あたしは、きき返した。
「ああ、ダメだね」
と校長の渡辺道男。腕組みして言った。
昼休み。校長室。
呼び出されたあたしは、校長の渡辺と向かい合っていた。
呼び出された理由は、もちろん野球部のことだ。
「職員会議にかけるまでもなく、野球部なんて認めるわけにはいかん!」
と渡辺。机にふんぞり返って言った。
「でも……なぜ……。女性の野球チームだってできてるのに……」
と抗議するあたしに、
「ダメだ!」
のひとこと。
「女のくせに野球なんて……許すわけにはいかん!」
と渡辺。
「いかんといったらいかん!」
「でも……」
と言いかけたあたしの腕を、担任の佐藤が引っぱる。
「桂木! 校長がああおっしゃられてるんだ。反抗するんじゃない!」
校長に抗議しようとするあたしは、佐藤に校長室の外へ引っぱられていく。
「ちっくしょう!」
あたしは言った。
飲み干した缶ビールの缶を、ポンと宙に浮かす。ノックみたいに棒っきれで打った。
コーン! 軽い音。
空き缶は、波打ちぎわに飛んでいく。浅瀬に落ちた。
夕方の一色海岸だ。
学校が終わっても、あたしはチームの練習にいかなかった。いっても、みんなに合わせる顔がない。
一色海岸の砂浜。買ってきた缶ビールをグイグイと飲んでいた。
2缶目も、あっという間にあいた。
また、棒っきれでコーンと飛ばす。たそがれの空。アルミ缶は、キラキラと光りながら飛んでいく。
「かーのじょ!」
軽薄な声がした。
あたしは、ふり向く。若い男が4人いた。4人とも、チンピラ風だった。
もう日没近く。あたしは帰ろうとして海岸を歩いているところだった。
「どこいくの、彼女」
とチンピラの1人。
「どこだっていいでしょう」
あたしは言った。なんせ、缶ビールを5缶は飲んだ。怖いものなんかない。
「つっぱるじゃんかよ、彼女」
とチンピラの2人目。
「どうせヒマなんだろう。俺らと遊ばないか?」
「遊ぶって、鬼ごっこでもするわけ?」
「もっと楽しいことさ」
とチンピラの3人目。ヒヒヒと笑った。
チンピラの1と2は、あたしをながめて、
「けっこうマブいじゃんか」
「いただきましょう」
とヒソヒソ声で相談してる。
「とにかく、つき合えよ。がっかりはさせないから」
とチンピラの4。あたしの腕を、グイとつかんだ。
「何するのよ!」
あたしは、相手の腕をふりほどく。
同時にヒジ打ち! 敵のわき腹に! 入った!
チンピラの4は、
「ウッ……」
と体を丸める。
「こいつ……やりやがって……」
とチンピラの1、2、3。身がまえる。
「ほら!」
1人目が殴りかかってきた。
あたしは右へ! かわす!
けど、やっぱり、ビールがきいている。足もとがふらついた。よろける。
敵のパンチが、肩に当たった。あたしは、砂浜に転んだ。転んだひょうしに、セーラー服のスカートが大きくまくれたのがわかった。
「ほう……」
チンピラたちの眼が、いやらしく光った。
「砂浜でセーラー服を強姦ってのも、悪くないな」
と1人が言った。
あたしは、立ち上がろうとした。けど、動作がのろい。肩を蹴られた。砂の上に転がった。また、スカートのスソがめくれた。
チンピラの1人が、あたしの両手を押さえた。もう1人が、足を押さえる。
「やめてよ!」
叫んだ。けど、ムダだ。
スカートが、腰のあたりまでまくられたのがわかる。
「それじゃ、中身を拝見しようか」
という声。ショーツに手がかかったのがわかった。引っぱりおろされそうになる。
「やめて!」
思わず涙声で叫んだ。
「いくらでもわめきな、気分が出るぜ」
と、ショーツに手をかけたチンピラ。
「いくら泣き叫んでも、こんな所に誰も助けになんかくるものか」
と言った。そのときだった。
「そうでもないぜ」
と太い声がした。
ヌッと巨きな人影。
クマさんだった。
ふり向いたチンピラたちは、
「ク……クマ……」
と、間の抜けた声を出した。もう、すでに逃げ腰になっている。クマさんは低く太い声で、やつらに言った。
「2本足で歩けるうちに消えてなくなるか、両手両足ではいずって帰るか……どっちにする」
チンピラたちは、もう、後ずさりしはじめていた。クマさんのキック・ボクシングの腕を知ってるんだろう。
「ズラかれ!」
誰か1人が叫んだ。もう全員、走りはじめていた。
「でも……どうして、あんな所に現れたの?」
あたしは、クマさんの背中できいた。クマさんにおんぶされてサブマリーンに帰るところだった。
「船の上から見えたのさ」
「船から?」
「ああ。港に帰ろうとして走ってたら、砂浜でビールをくらってる女子高生が双眼鏡で見えたってわけだ」
「そうか……それで心配して、港からこっちにきてくれたわけね」
「まあ、そんなところだ」
クマさんの低い声が、背中から直接響いてくる。
翌日。
目が覚めると、もうお昼過ぎだった。
とても学校なんかいく気にならない。あたしは、ノロノロと着がえる。ジーンズ・スタイルで店におりていく。
「よお、二日酔いか、ジャジャ馬娘が」
という声。クマさんが、カウンターに坐っている。ジェイのつくった大盛り鉄火丼を食べていた。
カウンターの中のジェイも、ニヤニヤしている。
「きのうは、どうも、サンキューでした」
あたしは、クマさんに言った。頭を下げる。
クマさんは、微笑いながらうなずく。鉄火丼を、豪快にかき込んだ。そして、
「どうだ。船で出ないか、エミ」
と言った。
「船で?」
「ああ。気分がムシャクシャしたときは、海に出るに限るぜ」
とクマさん。
あたしは、3、4秒考える。
「それもそうね。いこうか」
と言った。クマさんは、うなずく。立ち上がった。
「でも、釣り船の仕事はいいの?」
「きょうは、ちょうど客がいないんだ。オレも気分転換に午後はブラブラと海に出ようと思ってたところさ」
とクマさん。ヒゲの間から、白い歯をのぞかせた。
「あーっ、やっぱり、海はいいわ!」
あたしは、大きな声で言った。潮風を思いっきり吸い込んだ。空を仰ぐ。陽ざしが、頬にキスをする。
クマさんの船は、葉山の沖に出ていた。
エンジンは、微速前進。船はのんびりと海面を漂っていく。
頭の上には、カモメやトビが漂っている。沖から望む葉山は、丘のグリーンが鮮かだ。ときどき、飛び魚が水面から飛び上がる。鳥みたいに海面ぎりぎりを飛んでいく。飛び魚のヒレから散る水しぶきが、午後の陽ざしにキラキラと光る。
オープンにしてある無線に、ときどき交信が入る。
釣り船同士の交信だ。
〈そちら、何をやってますか?〉
〈いまはアジとサバ〉
〈調子は?〉
〈潮が悪いのか、魚の食いはいまひとつだねェ〉
そんな交信が、雑音まじりにきこえる。
「ん?」
とクマさん。竿先を見た。
遊び半分に糸をたらしてある置き竿。その先が、プルプルと動いている。魚が食いついたらしい。
クマさんは、竿をつかむ。リールを巻きはじめた。
やがて、大型の白ギスが、海面に姿をあらわした。クマさんは、白ギスから針をはずす。
「今夜の刺し身だな」
と言ってイケスに放り込んだ。
そのときだった。ザッと無線が鳴った。
「クマさん、クマさん、きこえたら応答願います」
という声。もしかしたら!? あたしは思わずふり向いた。
クマさんが無線のマイクをとる。
「こちらクマですが」
ザッという雑音。
「こちらはB新聞社の真田《さなだ》という者ですが、きこえますか?」
ザッ。
「きこえますが、夕刊に載せるほどの釣果はまだ上がってません。どうぞ」
ザッ。
「魚じゃなくて、ジャジャ馬娘を1人、乗せていませんか? どうぞ」
ザッ。
「それなら1名乗せてますが」
とクマさん。白い歯を見せた。マイクを握ったまま陸《おか》の方を見る。
「あれだな」
とあたしに指さして見せた。海沿いの小高い道路。走っている青いクルマが見えた。
あたしは、船の双眼鏡をとった。眼に当てる。焦点を送る。
海岸通りを走っている青いパジェロ。片手運転で無線のマイクを握ってる健二郎が見えた。
クマさんも、船の舵を切る。道路と並行して船を走らせる。
「ジャジャ馬娘に用ですか? どうぞ」
とクマさん。片手で舵、片手で無線のマイクを握って言った。
「よかったら出してください。どうぞ」
ザッ。
クマさんは、あたしをふり返った。あたしはうなずく。マイクを握った。
「ジャジャ馬で悪かったわね。どうぞ」
ザッ。
「なんせ新聞記者なんで、正確な表現を心がけてるものでね」
ザッ。
「で、なんか用? こっちは白ギス釣りで忙しいのよ」
ザッ。
「用がなきゃ、わざわざ無線で呼び出したりするか。白ギス釣りよりは、ちょっと面白いことがあるんだが」
ザッ。
「面白いことって?」
ザッ。
「豚をやっつけにいくってのはどうかな?」
ザッ。
「豚?」
ザッ。
「そう。おたくの豚ハゲ校長さ」
そのときだった。
「何ごちゃごちゃ言ってるんだよ」
とクマさん。無線のマイクをとる。
「こちらクマ。とにかく、ただちに帰港します。どうぞ」
ザッ。
「了解」
クマさんは舵をグッと切った。アクセル・レバーを一杯に引く。ドドドと重いエンジン音が響く。全速前進《フル・スロツトル》船は、力強く波をけたてはじめた。
「いったいどういうことなのよ」
あたしは、パジェロの助手席で言った。
「まあ、黙ってついてこい」
と健二郎。ステアリングを握って言った。いつものクールな表情だった。
クマさんの船が港に着いたら、健二郎のパジェロが待っていたのだ。
「どこいくのよ」
「だから、豚ハゲの校長をやっつけにいくって言っただろう」
と健二郎。
クルマは、確かに学校に向かっていた。
キッ。
クルマは、校門わきの守衛室の前で止まった。まだ授業中なんだろう。校内は静かだった。
健二郎は、守衛に向かって、
「こちらはB新聞社横須賀支局の者ですが、至急、校長にインタビューしたい」
と言った。守衛が、
「と……とにかく、いま校長に連絡してみます」
と言った。あわてて電話をとる。
すぐに、
「どうぞ」
と手で合図した。
「校長室の場所は」
「わかってるわよ」
あたしは助手席で言った。守衛のおじさんに手を振る。
「突然失礼します。私、B新聞社の真田と申します」
と健二郎。名刺を出した。
「あっ、これはどうも」
と校長の渡辺。やたらていねいに、自分も名刺をさし出した。
そのとたん。
健二郎の後から校長室に入っていったあたしに気づいた。
「き……君は!?……」
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17 そして、第1球を投げた
「君は……!?」
と校長の渡辺。ジーンズ姿のあたしを指さした。
健二郎は、あたしの肩を叩くと、
「この桂木エミさんたちが海岸で野球の練習をしてるのを偶然に見つけて話をきいたんですが、なんでも、おたくの学校で野球部をつくる計画があるとか」
と言った。
「!?……」
渡辺は、言葉につまる。
「その話をきいて、これは話題性のあるニュースだと思って、私たちB新聞も取材をはじめたところなんですよ」
と健二郎。
すました顔で言った。
「で、私たちが独自に取材しはじめたところによると、こちらの学校ではもう、野球部のためのグラウンド用地を用意されているようですねェ。これはあくまで推測ですが」
と健二郎。
「野球部のためのグラウンド!?……」
と渡辺。
「ええ。この学校から近い一色の高台に、一万一〇〇〇平方メートルの空き地をお持ちですよねェ。ちょうど野球場ぐらいの広さの空き地を」
「あっ……ああ……あれね?……」
と渡辺。ちょっとあせった声。
「あれは確かに逗葉学園の土地ということで登記されていますね」
と健二郎。鋭い眼つきで渡辺を見た。
「あ……ああ……。もちろん、あれは学校のための用地です」
と渡辺。さらにあせった声。
にぶいあたしも、さすがにピンときた。その土地ってのは、きっと、渡辺が自分の持ってるほかの会社のための土地だったにちがいない。
もしかしたら、値上がりを狙った土地ころがしのための空き地かもしれない。
それを、脱税のために、学園の土地として役所に登記していたんだろう。
渡辺のハゲ頭に、汗が吹き出してきたのがわかる。
「女子高に野球部ができるってのは、それだけで面白いし、専用グラウンドまであるとすれば、これはニュースになると思って、私たちB新聞も取材を開始したわけです」
と健二郎。
「しかし、PR上手な逗葉学園さんのことだから、野球部やグラウンドがちゃんと形になってから発表するつもりだったんじゃないかと、私たちは思ったわけですが、ちがいますか?」
「い……いや、まったくそのとおりなんです……」
と渡辺。ハンカチでおでこの汗をふいた。
「いや、さすがにB新聞。鋭い読みですなあ、ハハハ」
渡辺は、半分ひきつった笑い声を立てた。
「まったく、そのとおり。野球部とグラウンドがちゃんとできたらマスコミに発表するつもりだったんですよ」
健二郎は、うなずいて、
「それにしても、女子高なのに野球部をつくるとは渡辺校長もやり手ですね。これはいいPRになりますよ」
と言った。
「で、グラウンドと野球部は、いつ頃できる予定なんですか?」
健二郎は渡辺にきいた。渡辺は、ハンカチで顔の汗をぬぐいながら、
「グラウンドの整備の方は、明日にでも業者に発注するつもりだったんですが、その、野球部の方は……」
と渡辺。あたしを見ると、
「どうなってたっけ、桂木君」
と苦しまぎれにきいた。
「ええと……選手はいちおう揃ってるから、あと、ユニフォームと用具が揃えばいつでも形になりますね」
あたしも、すました顔で言ってやった。
「そ……そうか……。じゃ、さっそくユニフォームや用具の注文をしたまえ」
と渡辺。オタオタした声であたしに言った。
「よし、これで取材にきたかいがあった」
と健二郎。ウインド・ブレーカーのポケットから、小型のカセット・テレコを出した。そのスイッチをパチンとOFFに。
渡辺が、また、ビビッた顔をした。健二郎はそのカセット・テレコを手に、
「じゃ、しかるべきタイミングがきたら、記事にさせてもらってよろしいですね?」
と渡辺を見た。
「も……もちろん。大々的にやってください、ハハハ」
と渡辺。汗をふきふき言った。
バタッ。
校長室のドアを閉めたとたん、あたしと健二郎は顔を見合わせた。ニコッと白い歯を見せ合う。
ヒジとヒジをぶつけた。
「逆転満塁ホームランね」
「場外ホームランだな」
あたしたちは、廊下を歩きはじめた。
「それにしても、本当にありがとう」
あたしは言った。
「いいさ。だいいち、あの渡辺にしても、この方が良かったんだ」
「っていうと?」
「あの高台にある空き地は、土地ころがしをしていずれマンション業者にでも売るつもりだったらしいが、ヘタをすりゃ、うちはじめマスコミにシッポをつかまれて大騒ぎになりかねないところだ」
と健二郎。ニヤリとした。
「野球のグラウンドにしとくのが、やつにとっても身のためさ」
授業が終わったらしい。生徒たちが、ゾロゾロと出てくる。
カバタがいた。頭ひとつ、ほかの生徒より大きい。カバタは、あたしを見つけると、
「お、エミ! なんか、校長の豚ハゲとケンカしたんだって?」
ときいた。あたしは、
「誰が、あんな物わかりのいい校長先生とケンカなんかするもんですか」
と言った。健二郎に、ベッと舌を出して笑って見せた。カバタに向きなおる。
「さっ、練習よ」
3週間後。
よく晴れた土曜日。午後2時。
葉山の高台にあるグラウンド。
あたしたちの、はじめての練習試合がはじまろうとしていた。
「おっ、かっこいいじゃんか」
とカバタ。ダンボール箱からユニフォームをとり出して言った。
グラウンドのすみ。
急ごしらえのプレハブがある。用具室兼ロッカー・ルームだ。
そこへ、やっとあたしたちのユニフォームが届いたところだった。
1人1人の体に合わせた完全オーダーだから、時間がかかったのだ。
つくってくれたのは、横須賀にあるお店。米軍基地のスポーツ・チームのユニフォームを専門に仕立ててる店だ。
そのせいか、やたらデザインがアメリカっぽい。
地は明るいブルー。文字はファイアー・レッドだ。アメリカのドジャースみたいな書体で、軽快に描かれている。
背中には〈逗葉〉が英文で〈Zuyou〉と描かれている。あたしは、ピッチャーだから背番号1だ。
そして、ユニフォームの袖のところ。
学校名とは別に、あたしたちのまたの名〈湘南レッド・シューズ〉が、まっ赤な英文で小さく入っている。
帽子は、ユニフォームと同じブルー。
ソックスは、まっ白。
スパイク・シューズは、全員、あたしと同じ赤。文字通り、レッド・シューズだ。
とても、日本の高校野球のユニフォームのイメージじゃない。まるで、アメリカの大リーガー風だ。
みんな、嬉しそうに、ワイワイとそれを着込む。スパイクをはくと、ロッカー・ルームから出ていく。
あたしは、自分のスパイク・シューズをとり出した。横須賀ジェッツのみんなが、別れぎわにくれた、レッドのスパイク・シューズだ。
ロッカー・ルームには、もう誰もいない。
あたしは、そのレッド・シューズをじっと見る。これをくれたみんなに、
〈ありがとう〉
と胸の中でつぶやいた。ゆっくりと、シューズをはく。ヒモを結んでいく。
終わった。立ち上がった。
そのとき、ドアが開いた。
健二郎が、
「よお」
と入ってきた。
「男の人は立入り禁止よ」
「取材さ」
と健二郎。クールに微笑った。あたしと向かい合う。
「気分は?」
「少し緊張してる」
あたしは言った。
「じゃ、東大野球部式のリラックス法を教えるよ」
「どういうの?」
「まず、眼を閉じて、背筋をのばす」
あたしは、そのとおりにした。
ふと気づくと、唇に、感触。
そっとキスされていた……。3秒……4秒……5秒……。唇がはなれる。あたしは、止めていた息を吐く。
「ずるい……このキス泥棒……」
「でも、緊張がとれただろう?」
と健二郎。
確かに、そうだ。何か、肩に入ってた力が抜けた気がする。
「東大の野球部じゃ、みんな男同士でキスしてたわけ?」
あたしは、笑いながら言った。健二郎も無言で笑う。完全に、リラックスしてきた。あたしは、自分のグラヴをとる。
「じゃ、いってくるわ」
とロッカー・ルームを出た。
相手チームは、鎌倉にある男子校の野球部だ。
練習試合のセッティングは、健二郎がやってくれた。彼の後輩が、そこでコーチをやっているらしい。
いかにも高校の野球部らしいチームだった。全員、坊主頭。ユニフォームは白無地だ。グラウンドで軽く練習している。
急ごしらえにしては、まずまずのグラウンドになっていた。
新聞社の取材がくるっていうんで、校長の渡辺はもちろんきている。
ほかの教師たちも数人。生徒は50人ぐらい応援にきてる。応援っていうより、見物と言った方が正確だろう。
ジェイ、ケイコさん、そしてクマさんの姿も見えた。あたしは、歩きながら、彼らに手を振った。
カバタを相手に、軽く肩ならしをはじめた。
「それでは、試合を開始します!」
という声。審判をやる相手校のコーチの声がグラウンドに響いた。
あたしたちは、ホーム・プレートの前で向かい合った。
相手チームは、みんなちょっと、とまどったような表情。
相手が女の子だっていうんで、面白半分にやってきたんだろう。でも、毛先を黄色く染めてる娘《こ》はいるし、ガムをかんでる娘《こ》はいるし……。で、かなりとまどっているみたいだ。
「じゃ、鎌倉台商業高校と逗葉女子高校の練習試合をはじめます」
と審判。
相手チームの男の子たちは、全員、帽子をとって一礼。
でも、あたしたちは、そんなマナーは知らない。相手に笑いかけて、
「よろしくね!」
と言ったりする。相手は、また、驚いた表情。
うちのグラウンドでやるから、あたしたちは後攻。守備だ。まず、ピッチャーズ・マウンドのところで円陣を組む。肩を組んで、あたしが声を出す。
「野球は格闘技だ!」
「イェイ!」
と全員。
「やられたら、やり返せ!」
「イェイ!」
「相手をやっつけて、うまいビールを飲もう!」
「イェイ!」
みんな、守備位置に散っていく。
あたしは、もちろん、ピッチャーズ・マウンドに立った。ロージンバッグをとる。手にパウダーをつける。
チラリと、3塁側にいる健二郎を見た。健二郎も、あたしに小さく眼でうなずいた。
その眼が、何か言っているように思えた。
〈自分がやれなかった、その分まで、思いっきり無鉄砲にやれ……〉
そう言ってるように思えた。
あたしは、小さくうなずき返した。
敵の1番バッターが、軽く素振りをしている。ゆっくりと、バッター・ボックスに入ろうとしている。
そのときだった。
かすかな爆音……。
あたしは、空を見上げた。濃いブルーの空。ジェット機の編隊が飛んでいくのが見えた。
ジェット戦闘機は、V字型に編隊を組んで、ゆっくりと青空を飛んでいく。
あの編隊は、横須賀の空母から飛んできたものだろう。
そして、VはVICTORY(勝利)のV……。
たぶん、ジェイが試合の場所と時間を教えたにちがいない。
銀色のVは、あたしの真上を、ゆっくりと動いていく。
あたしは、眼を細めて、それを見上げていた。サンキュー、横須賀のみんな。
そして、その先の天国にいるパパに、胸の中でつぶやきかけていた。
〈見てて、パパ。あなたの娘が甲子園のマウンドに立つ、これがその第1歩よ……〉
そう、つぶやきかけていた。
涙がにじみそうだった。危なかった。けど、唇をかんでこらえた。
グラヴの中で、ボールを握りしめた。バッター・ボックスを見た。
1番バッターは、バッター・ボックスに入っていた。
1球目は、もちろん直球だ。あたしは、ボールをしっかりと握りなおしながら、ジェイを見た。
ジェイは、ニヤリと白い歯を見せた。胸の前で、小さくVマークをつくって見せた。
あたしは、ジェイが言った言葉を思い起こしていた。
確かに、あたしたちはいい子じゃない。ダイコンの葉っぱかもしれない。野菜クズかもしれない。
でも、とにかく、思いきり投げてやる。打ってやる。走ってやる……。
あたしは、グラウンドを見回した。飛沢《トビー》はじめ、みんなの眼がキラキラしている。
そして、カバタが真剣な表情でキャッチャー・ミットをかまえていた。
あたしは、深呼吸……。
海の方から吹いてきた風が、ユニフォームの袖を揺らした。〈(ショーナン・レッド・シューズ)〉の文字も小さく揺れた。
あたしは、もう1度、潮風を思いきり吸い込んだ。
グラヴの中でボールをしっかりと握った。
ワインドアップ。大きく、左足を振り上げた。レッド・シューズの先から散った砂が、午後の陽ざしに光った。
そして、あたしは、第1球を投げた。
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あとがき
雑誌のインタビューなどで、必ずといっていいほどきかれることがある。〈喜多嶋さんの小説はとても映像的なのですが、何か特別な手法でもあるのですか〉ということだ。
特別な手法などと言えるものはない。ただ、小説が映像的だとすれば、理由は簡単。
僕の場合、頭の中のスクリーンに映画を写して、それを文章で描写している。だから、どの場面も、自分の中ではすでに映像になっているし、音楽も流れている。
小説の文中には書かなくても、好きな場面には、必ず好きな曲が流れている。
つまらない苦労話など書くより、そんな自分流のシーンと曲の組み合せを書いた方が楽しそうなので、やってみることにしよう。
〈86から87ページあたり〉
米軍パイロットの父を失なったエミィが、横須賀基地の中にある家から引っ越していく場面。ゆっくりと家から遠ざかっていくエミィの乗ったステーション・ワゴン。ここは映像としては、斜め上からのロング・ショット。流れる曲は、E《エミルー》・ハリスの〈静かなる河〉。これは、J《ジヤツク》・ダニエルのCMソングとしても使われていたので、きき覚えのある人も多いかもしれない。
〈94ページあたり〉
はじめてセーラー服を着たエミィが、たそがれの防波堤に立って海をながめるシーン。標準レンズで、フレームいっぱいにエミィの後ろ姿。海風に揺れるスカート。流れる曲はオールディーズで、ザ・クレスツの唄《うた》う〈Sixteen Candles(シクスティーン・キャンドルス)〉。
〈180ページあたり〉
引っ越してしまった旧友の淳の家を訪ねるエミィ。閉ざされた店の前にじっと佇《たたず》む……。ひとけのない夕方の道路。長くのびるエミィの影だけを30秒ほど映す。流れる曲は、クライマックスの唄う〈I Miss You(アイ・ミス・ユー)〉。
〈298ページあたり〉
エミィを乗せて沖に出ていたクマさんの船に、健二郎からの無線が入る。そして、船はエンジン全開で港に向かうシーン。ヘリからの空撮。海岸道路を走る健二郎のパジェロ。海を走るクマさんの船。 低空での並行移動撮影。 流れる曲は、C《チヤツク》・ベリーで〈Johnny B.Goode(ジョニー・ビー・グッド)〉。
〈ラスト・シーン近く〉
グラウンドに出ていこうとするエミィと健二郎のキス・シーン。淡い色調の画面。ピクッと震えるエミィのまつ毛のアップ。流れる曲は、M《マイケル》・ジャクソンのラヴ・バラード〈I Just Can't Stop Loving You(アイ・ジャスト・キャント・ストップ・ラヴィン・ユー)〉。
〈そしてエンド・タイトル〉
第1球を投げたエミィの姿。ストップ・モーション。音声だけでアンパイアの〈ストライク!〉の叫び声。数秒の空白。そして、ゆっくりと上がってくるキャストとスタッフのクレジット文字。流れる曲はD《デビー》・ギブソンの〈Lost In Your Eyes(ロスト・イン・ユア・アイズ)〉。
まあ、このあたりが僕が勝手にイメージしたシーンと曲の組み合せの一部です。読者のあなたにも気に入ってもらえたら嬉しいと思う。自分なりに、もっといい選曲をした人がいたら、編集部気付 喜多嶋隆あてでお便りを下さい。
それでは、また会えるときまで、少しだけGOOD BYE!
[#地付き]喜 多 嶋 隆
角川文庫『湘南レッド・シューズ』平成2年7月10日初版発行