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島からのエア・メール
喜多嶋隆
目 次
夜明けのミス・タッチ
星のドライヴ・イン・シアター
あの灯台がウインクしている
ホノルルの雪
ギムレットの夜明け
湘南ハート・ブレイク
コーヒーのお酒
夏よ、さようなら
トロピカル・カクテルが、胸に苦い
セヴン・ナップでほろ酔い
〈|国 境 の 南《サウス・オブ・ザ・ボーダー》〉を聴くたびに
アラ・モアナ・ビーチのたそがれは、煙が眼にしみる
人生にただ1度の、とスティービーが歌っている
君はもう、ダブル・フォルトをしないだろう
ダーティー・ハリーを捜して
ビートルズが不意打ち
想い出はAマイナー・セヴン
悲しきチャイナ・ガール
ホノルル・シティライツ
あとがき
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夜明けのミス・タッチ
音が聴こえた。
楽器の音だった。
歩いていた僕とKは、ふと足をとめた。
朝の4時過ぎ。
横浜・山下公園。
初夏とはいえ、まだ薄暗かった。
僕とKは、立ちどまる。音の聴こえてきた方を見た。
山下公園の海に面した岸壁のあたり。人影らしいものが見えた。そして、音が、風に乗って聴こえてきた。
楽器は、サックス。それも、アルト・サックスらしい。吹いている曲は〈イパネマの娘〉だった。アストラッド・ジルベルトの歌は入らない。けれど、スタン・ゲッツばりのフレイジングで、アルト・サックスがソロで吹いていた。
僕とKは、どちらともなく、音のする方に歩きはじめた。
雑誌の仕事だった。
僕はその雑誌に小説を連載していた。Kは、その担当編集者だった。
毎回30枚ほどの読み切り小説。そこに、イメージ写真をつける。
僕が小説家になる前にカメラマンをやっていたこともあり、その写真も自分自身で撮ることになった。
連載の3回目。小説の舞台が港だった。
夜明けのハーバー。少年と少女の静かな別れ。
そんな場面に合う写真を撮ろうと思って、Kと2人、山下公園にやってきたのだ。
横浜には、学生時代からいくつかの思い出があった。が、思い出は思い出。しょせん、過ぎた日だ。
先入観のない、洗いたてのシーツのような気分で横浜の港を撮りたい。
そんな思いで、やってきた。
僕とKは、ゆっくりと歩いていく。まだ薄暗い公園に、ほかの人影は見当らなかった。僕らのいく手にいる2人だけだった。2人とも岸壁の手すりにもたれかかるように立っていた。
1人が、首に吊《つ》ったアルト・サックスを吹いていた。
僕らは、近づいていく。
彼らに10メートルぐらいまで近づいたところで、アルトの音がやんだ。
吹いていた少年が、顔を上げた。こっちを見た。
あやしい者じゃないよ。そんな笑顔を見せてKが、
「やあ」
と言った。アルトを吹いていた方の少年が、うなずき返した。かすかに、白い歯を見せて微笑《わら》った。
少年の髪は、金髪だった……。瞳が青い。
「じゃまをするつもりはなかったんだけど……。練習中かい?」
僕は英語で言った。少年は、
「まあね」
と答えた。表情が少し照れている。
少年は、17か18歳。映画〈スタンド・バイ・ミー〉に出ていたリバー・フェニックスに少し似ていた。チェックのボタンダウン・シャツ。綿のパンツ。アヴィアの白いスニーカーをはいていた。
眼がなれてきたのか、空が明るくなってきたのか。もう1人の姿も、はっきりと見えてきた。
少年だと思っていたけれど、少女だった。
背は、少年の肩ぐらい。東洋人の少女だった。
年齢《とし》は、やはり17歳前後。
中国か、どこか東南アジアの少女らしかった。白いシャツ。まだ細い腰や足を、スリム・ジーンズが包んでいた。遠目には、少年の体型だった。
けれど、肩までかかったストレートな髪は、しなやかだった。絹ごし豆腐のような肌をしていた。
「絵になってるじゃないか」
小声でKが言った。
「まあね」
僕は答える。
「彼らを入れて撮ってみないか」
とK。僕は、かすかにうなずいた。
アルト・サックスを吹いている白人の少年。それをとなりで聴いている東洋人の少女。確かに、いい写真になるかもしれない。
「ダメでもともとなんだから、頼んでみようじゃないか」
Kが言った。言い出したらきかない男だ。しようがない。僕は、少年の方にごく簡単に事情を話した。
「せっかくデート中のところをじゃまして悪いんだけど、ほんの5分で終わるから」
と言った。
「君たちの横顔だけ、軽く10カットぐらい撮って終わるから」
と、簡潔な英語で言った。
「…………」
少年は、しばらく沈黙。やがて、
「僕は、まあいいんだけど……彼女がどうだか……」
と言った。少女を見た。少女も、英語がわかるらしい。僕に向かって、
「あの……」
と、少し口ごもる。そして。
「写真に撮ってくれるのは嬉《うれ》しいんだけど……それが雑誌に出るのは困るの」
と言った。澄んだ黒い瞳が僕を見た。
「ごめんなさい」
と言った。今度は僕が少し沈黙。
「……2人で逢《あ》っているところを誰かに見つかると困る?」
と、少女にきいた。少女は、2、3秒して、小さくうなずいた。
「私の両親に見られると……」
と、口ごもりながら、言った。
けげんな顔をしている僕とKに、少年が、
「彼女、ヴェトナム人なんだ」
と言った。
「ヴェトナム……」
僕は、思わず、つぶやいた。さらに何か説明しようとする少年をさえぎるように、少女は話しはじめた。しっかりとした話し方だった。淡々と、話しはじめた。
「父親の兄も……それから私のずっと上の姉も……故郷のヴェトナムで米軍の爆撃にあって死んだわ」
「…………」
「両親は、幼なかった長男、つまり私の兄を連れて、難民として日本にたどりついたの」
「…………」
「たまたま父親がコックだったのと、つてがあったので、この街のエスニック料理店に住み込みで雇ってもらえたの」
僕は、うなずいた。ヴェトナム料理は、かなり日本人の味覚に合う。それをホノルルあたりの店で、経験していた。
「そして、私が生まれて……」
と少女。僕は言った。
「じゃ、君は横浜っ子ってことになるわけだ」
少女は、うなずく。笑顔を見せて、
「私の故郷は、この街よ」
と言った。きっぱりと言った。
「……でも……やはり、両親はアメリカ人を憎んでいるわ」
と少女。となりの少年を見て、
「おまけに、彼の父親は職業軍人だし……こんなところを見られたら……」
少女は軽いため息……。
わきからKが、
「そう言ったって、ヴェトナムに爆弾を落としたのは父親の世代で、彼には何も」
と言いかける。その言葉を少年がさえぎった。
「いや。あの戦争をしたアメリカは、やはりまちがっていた」
と言った。
「僕だってアメリカ人である以上、自分に関係ないとは言えないよ」
と少年。アルト・サックスを見おろして、
「でも、たとえチャーリー・パーカーでもビル・エバンスでもミス・トーンを出すように、誰にも失敗はあると思う」
と言った。
「大事なことは、同じ失敗を2度とくり返さないことじゃないかな」
微笑《ほほえ》みながら少年は言った。その表情が、さっきより男っぽく見える。
少年は、アルト・サックスのリードにそっと触れながら、
「それに……ヴェトナム戦争は悪夢だったけど、1つだけ、僕に贈り物をくれた」
と言った。
「1つだけ?」
「ああ……彼女と僕を、この横浜で出会わせてくれたこと」
と少年。少し照れながら言った。
照れかくしなんだろう。アルト・サックスのリードに唇をつける。〈イパネマの娘〉を、また吹きはじめた。
吹きはじめてすぐ、簡単なフレーズをミスった。
少年は苦笑い。リードから唇をはなす。
「2度と同じところじゃ失敗しないから」
と僕らに軽くウインク。
また、吹きはじめた。少女は、すぐとなりで、少年の肩に頭をもたせかける。彼の吹くフレイズにじっと耳をすましている。
僕とKは、彼らに軽く手を振る。岸壁に沿って、ゆっくりと歩きはじめた。2人とも無言だった。
その昔、ボブ・ディランが唄《うた》った〈時代は変わる〉という言葉を、僕は思い浮かべていた。
過去はけして消えない。けれど確実に遠ざかっていく。そんなことを、ふと思った。
1度だけふり向く。
岸壁の手すり。寄りそうようにそこにいる2人。頭上に漂っている海鳥。
ひんやりと乾いた風が、僕のアロハのソデを揺らして過ぎる。水面に、アルト・サックスのクールな音が流れつづけている。
港の空が、明けていこうとしていた。
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星のドライヴ・イン・シアター
「よお」
とカメラマンのF。
「晩メシの前に、アラ・モアナ・ショッピングセンターにいかないか」
と僕に言った。
「L・Aギアの最新型を見つけたやつがいるんだ」
Fは言った。もちろんL・Aギアは、日本でもメジャーになっているスニーカーのブランドだ。
「そいつを捜しにいこうってわけ」
とF。
「たぶんまだ日本には入ってないタイプがあるらしいぜ」
もう、しばらく前のことだ。
僕はまたハワイにきていた。コマーシャルのロケ。ある企業の夏キャンペーンのためのロケだった。
当然のように、スタッフ数は多い。ムーヴィー、つまりコマーシャル関係のスタッフが12人。スチール、つまりポスターや雑誌広告のためのスタッフが5人。それに、モデルが3人。かなりな大部隊だ。が、2週間のロケは無事に終わろうとしていた。
きょうの午前中で、すべてのカットを撮り終えた。あしたの午前にホノルルを発つ|N ・ W《ノース・ウエスト》で帰るだけ。
そんな夕方。泊っているホテルのプールサイドだ。
「なあ、どうする?」
とFは僕に言った。
「L・Aギアの最新型を買ったら、晩メシはタイ料理だ」
「タイ料理?」
「ああ、カピオラニに新しく開店した|タイ料理《キユイジーヌ》の店が人気だって、雑誌で見てさ」
とF。
「晩メシ食って気が向いたら、ハードロック・カフェをのぞいてもいいし」
「ハードロック・カフェか……」
僕は、つぶやいた。あのハードロック・カフェも、このホノルルにできたばかりだった。
「いこうぜ」
とF。彼のまわりには、4、5人のスタッフ。ホテルから出かけるしたくをして待っている。
「…………」
僕は、数秒、考えた。
思いとどまらせるものがある。この2週間、CFディレクターとして、スタッフたちと走り回った。他人と一緒に行動することに疲れていたことは確かだ。
もう1つ、何かうまく説明できないものがある。ただ〈気分の問題〉としか言いようのないものだ。
「ちょっと疲れてるから、パスするよ」
僕は言った。
Fは気軽にうなずく。他人のことにはあまり深く立ち入らない。それがロケをうまく進めていくためのABCなのだ。
「じゃ」
とFたち。ホテルから出ていく。
僕は、プールサイドのチェアーに横になる。空を見上げた。
夕方。と言っても、まだ空は青い。ヤシの葉が、視界の端で揺れている。ジャンボ・ジェットが1機、ゆっくりと右から左へ動いていく。
僕はただぼんやりとそれをながめていた。
「あら、1人なの?」
明るい声がきこえたのは、そのときだった。
僕はそっちを見た。プールサイドを、カレンが歩いてくる。
彼女は、現地コーディネーターの手伝いをしていた。早い話、ロケ隊の世話係だ。
本業はU・H、つまりハワイ大学の学生だということだった。ホノルル育ち。となりの家が日本人だったという。白人とハワイアンのハーフなのに、日本語はかなり上手だった。
「Fさんたち、いまアラ・モアナに買い物にいったわよ」
とカレン。僕は〈知ってるよ〉と微笑《ほほえ》みながらうなずいた。カレンは、僕のとなりに坐《すわ》る。
「最後の夜だから、のんびりとしたいの?」
僕はまた、うなずいた。彼女はしばらく考えて、
「わかったわ。じゃ、私がいいところへ連れていってあげる」
と言った。
「いいところ?」
「ドライヴ・イン・シアターよ」
とカレン。ホノルル周辺に、ドライヴ・イン・シアターは確かにある。おまけに、カレンは美人で、音楽の趣味も僕と共通していた。
「それも悪くないか」
僕はつぶやく。立ち上がる。
「さあ、早く」
とカレン。僕はアロハ、ショートパンツのままホテルを出た。
ホテルの駐車場から、カレンは自分のクルマを出してきた。僕はそれに乗る。
カレンはセレクター・レバーをDレンジに。ゆっくりと、たそがれのカラカウア|通り《アベニユー》に走り出した。
「ドライヴ・イン・シアターって、どこにあるやつ?」
僕は、きいた。
「まあ、着いてのお楽しみよ」
とカレン。ゆったりとクルマを走らせながら言った。
「え? ここが……」
僕は、思わず言った。
「そういうこと」
とカレン。クルマのエンジンを切った。
カレンがクルマを駐《と》めたのは、オアフ島の東海岸。カイルア湾《ベイ》だ。
コンクリートの小さな桟橋に、カレンはクルマを駐《と》めた。眼の前は、海、水平線、そして空だ。ホノルルから、のんびりと走った。空にはもう、星が輝いていた。
空はきれいなグラデーション。ささやくような波の音。そして星たち。
そうか……。僕は胸の中でつぶやいた。
「ハワイで一番ぜいたくなドライヴ・イン・シアターよ」
とカレン。僕は、うなずく。カレンと座席に坐ったまま、買ってきたポップコーンをかじる。
そうだったのだ……。Fに買い物に誘われたとき、僕の中でNOと言った〈気分の問題〉とは、これだったらしい。
結局のところ、僕らは〈流行〉とか〈先端〉とか、そんなものに支配され過ぎているのかもしれない。新しいブランドのスニーカー。タイ料理。ハードロック・カフェ。そんなものに眼を血走らせ過ぎているように思えた。もっと肩の力を抜いていきたい。ふと考えた。広告の仕事から、少し離れてみたい。もう少し、小説を書く時間をふやしてみたい。そうも思った。
僕とカレンの眼の前。空の色が濃くなっていく。巨大なスクリーンに、星たちの数が多くなっていく。
カー・ラジオがS《サリナ》・ジョーンズのバラードを静かに流していた。
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あの灯台がウインクしている
「あら」
背中で明るい声がした。
並んでいる玉ネギを見ていた僕はふり向いた。
美由紀が、斜め後ろに立っていた。
六本木のスーパー、明治屋。野菜を並べてある棚の前だ。
「よお……ひさしぶり」
僕は、微笑《ほほえ》みながら言った。美由紀とは、4年ほど会っていなかった。
しゃれた年賀状が、ウィットのきいた1行をそえて送られてくる。そんな時間があっただけだ。
4年ぶりに女の子と再会するのに、玉ネギ売り場の前がふさわしいのかどうか、よくわからない。
けれど、必然性はあった。
彼女は、クッキング・スタイリストなのだ。
僕がCFディレクターをやっていた頃、彼女はまだ駆け出しのクッキング・スタイリストだった。
キャリアがない分、仕事への熱気があった。
そして、生まれ育ちからくる素質があった。
美由紀の家は、日本橋で3代つづいている老舗《しにせ》の料亭なのだ。
材料を見る目。料理を見る目。器やグラスを見る目。すべてに、本物を見て育った人間の持つ力があった。
オムレツを1個つくらせて器に置かせても、彼女のものは美しく、品の良さが感じられた。
僕らは、よく一緒に仕事をした。
この六本木周辺の撮影スタジオでも、しょっちゅう徹夜をしたものだった。
仕事の回数を重ねるたびに、彼女は、たくましくなっていった。
プロらしくなっていったというのが正確かもしれない。
CFのクッキング・スタイリストは、スチール写真のそれより大変なのだ。
スチールならストロボを使って一瞬で撮れる。けれどCFの場合、強いライトを当てっぱなしにすることになる。
サラダなどはあっという間にしおれてしまい、カクテルの氷はすぐに溶けてしまう。
けれど、美由紀はがんばりつづけた。僕がCFの世界から足を洗う頃には、若手でもトップ・クラスに位置づけられるようになっていた。
「まだ、仕事、やってるんだ……」
僕は、確認するように、彼女にきいた。きくまでもないことだったのかもしれない。六本木の明治屋でカゴいっぱいに食料品をつめた姿を見れば……。
彼女は、ゆっくりとうなずいた。
「6時からスタジオ撮影なの」
と言った。僕も、うなずく。彼女のスタイルをながめた。4年前と変わっていなかった。広告業界の人間というより大学生のような服装も、キリッと後ろに束ねた髪も。
僕がそれを言うと、
「お互いさま」
いたずらっ子のように微笑《わら》いながら、彼女が言い返した。
「あなたの小説、みんな読んでるわ」
と彼女。僕は、なんとなくうなずく。キャッシャーに向かって歩き出した。
明治屋から出る。遅い午後の通りに、冬の風が吹いていた。淡い陽《ひ》ざし。足もとを転がっていく枯葉。僕らは、並んで歩きはじめた。
ふいに彼女が、
「ねえ、あれ、見つかった?」
と、きいた。
「あれ?」
「ほら、よく言ってたじゃない、星のドライヴ・イン・シアター」
「ああ、あれか……」
僕はつぶやいた。
星のドライヴ・イン・シアター。それは、ハワイの地元娘《ロコ・ガール》に教わったものだ。
月のない夜、海岸にクルマを走らせる。それも、できる限り、街からはなれた海岸に。そして、クルマを駐《と》める。
フロント・グラスの向こうには、一面の星たち。
それをながめながら、ただ、カー・ラジオからの曲を聴いている。
そんな過ごし方が、ハワイの人たちは好きだ。
星のドライヴ・イン・シアターと呼んだのは、同じロケ隊の仲間だった。
そんなドライヴ・イン・シアターを日本でも見つけることができたら……。よく、そう思っていた。
「で、見つかったの?」
と彼女。しばらく歩いて、
「ああ……つい最近ね」
僕は答えた。
「本当!?  本当に本当?」
「ああ」
僕は、足もとの枯葉をふみながら、
「いってみたいかい?」
と、きいた。
「もちろん。あまり遠くなければ」
「遠くないさ。湘南《しようなん》だから」
僕は言った。路上駐車した自分のクルマまでやってきた。立ち止まる。
「ぜひ連れていって」
と彼女。僕は、うなずく。
「いつなら時間ある?」
「さっそく、あした。クリスマス・イヴで仕事はオフだから」
「クリスマス・イヴに、いいのかい?」
彼女は、はっきりとうなずく。
「じゃ、約束よ」
と彼女。明治屋の袋をかかえてスタジオの方向に歩いていった。
翌日。僕と彼女は湘南にいた。
たそがれの逗子《ずし》から葉山へ。僕のクルマでゆっくりとクルージングしていた。
6時少し過ぎ。
僕はクルマを海岸道路から細い一方通行の道へ入れた。そして、駐めた。誰にも教えていないドライヴ・イン・シアターだ。
僕がサイド・ブレーキを引くのと、彼女が、
「わあ……」
とつぶやくのが同時だった。
フロント・グラスの向こうは、夜の海だった。
暗い海と空。その中に、灯が1つまたたいていた。
灯台だった。海の中に立っている小型の灯台。去年亡くなったある俳優《スター》にちなんでつくられた灯台だった。
小さい、けれどはっきりとした光が正確なテンポで点滅していた。約3秒に1回だ。
僕は、カー・ステレオにテープを入れる。
スタートの信号音でテープを一時停止。灯台の灯を見る。灯台の点滅に合わせてテープを回しはじめた。
クルマの中に、スロー・バラードが流れはじめた。
「わあ……」
彼女が、また、つぶやいた。
曲のテンポが、ピタリ、灯台の点滅と合っているのだ。それは、経験してはじめてわかる感覚だ。ちょっとした映画の何百倍もすばらしい。
好きなバラードの中から、ピタリ合う曲を見つけるのが、少し大変だったけれど……。
「スターにちなんでつくられた灯台だから、スターライトね……」
彼女が、微笑《ほほえ》みながらつぶやいた。じっと、灯台を見つめている。
暗い海でまたたく灯台は、天国にいった俳優のウインクのように見えた。僕ら2人に向けた〈うまくやれよ〉というウインク……。
僕は、彼女が用意してくれたダージリン・ティーをポットから紙コップに注いだ。
紙コップから、湯気と香りが立ちのぼる。クルマの中は、美しいバラードに満たされている。
僕らのクリスマス・イヴがはじまろうとしていた。
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ホノルルの雪
なんにします? 眼の前に立ったバーテンダーが、そんな表情を見せた。
カウンターのこちら側の僕は、ちょっと重い気分をかかえ込んでいた。かけづらい電話をかけなければならない。ワイルド・ターキーのオン・ザ・ロックでもオーダーしたい心境だった。
しかし、言いづらいことを話すのに、酒の力を借りるのは、酒に対して失礼だ。僕は、バーテンダーを見た。
「ウオッカ・ベースのソルティ・ドッグを」
と注文した。カウンターのスツールを立つ。店の電話機に歩きはじめた。
ホノルル。夕方の5時過ぎ。
僕は、ケワロ湾に面したレストラン・バーにいた。ワイキキの雑踏からは、かなり離れている。ひとりゆっくりと飲める店だ。
CMの海外ロケだった。清涼飲料の新発売キャンペーンCFを撮りに、僕らはハワイにきていた。もう、10日目だった。
僕は、店の電話の前で立ち止まった。きれいな貝殻の形をしたシェルに、電話機はおさまっていた。腕のダイバーズ・ウォッチを見る。朝寝坊の彼女は、ちょうど起きた頃だろう。コレクト・コールで、東京を呼んだ。
10秒後、彼女が出た。
「起きてた?」
僕はきいた。
「うん……ちょっと前に……」
彼女が言った。
「もしかして、帰ってくるの、遅れるんじゃない?」
と彼女。女のカンは鋭い。どんな名バーテンダーの使うアイス・ピックよりも。
「天気が不安定で、まるでカメラが回らないんだ。あと4日はかかる」
明後日は、彼女の誕生日だった。予定どおり帰国できれば、盛大に2人だけのパーティーをやることになっていた。
「いいわ。そんな気がしてたから……」
彼女は、明るい声で言った。そして、
「知ってる? 東京はきのうから雪なのよ。何もかもまっ白できれい」
そうか。今は真冬なのだ。
「この雪景色を一緒に見られないのが、ちょっと残念だけど、撮影がんばって」
泣けるほど嬉《うれ》しいセリフが、受話器からきこえた。約5分の電話を終える。僕はカウンターに戻った。
店は白人客でかなり混んでいる。僕のソルティ・ドッグはまだできていないらしい。僕はバーテンダーに、
「さっきのオーダー、スノースタイルで」
と言った。バーテンダーがうなずく。やがて、僕の前にソルティ・ドッグが置かれた。グラスのふちの塩は、一瞬、東京の彼女が見ている本物の雪を想い起こさせた。グラスの雪に、ホノルルの夕陽が照り返していた。
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ギムレットの夜明け
夕方の6時きっかり。
Kの運転するセダンは、僕の泊まっているホテルの玄関に滑り込んできた。学生時代から、時間には正確な男だった。
「よお」
とK。ドアを開けた僕に白い歯を見せた。僕はセダンに乗り込む。Kは、まだ明るいロスの街へクルマを出した。
僕とKは大学時代の同級生だった。
卒業後、僕は広告業界に入り、Kは自動車メーカーに入った。
僕は、CFディレクターとして毎月のように海外ロケに飛び回るようになった。
Kは、1年前から、勤めている自動車メーカーのロス支社に派遣されていた。
1年半と期限の切られたアメリカ勤務なので、家族は日本に置いてきていた。
僕がCFのロケでロスにくるたびに、ひと晩は必ず飲むようになっていた。いまも、そうだ。
Kの運転するセダンは、ラ・シェネガ|BLVD《ブルヴアード》に入っていく。行きつけの店の、駐車場に潜り込んだ。
メキシコ料理のつまみがおいしくて、バーテンダーの腕もいい。そんなバーだ。
僕らは、カウンターに並んで座る。
「なんか、嬉《うれ》しそうだな」
僕はKにきいた。Kは、小さくうなずく。
「娘が中学にうかってね」
と言った。その話は、電話で聞いていた。日本に置いてきた長女が、名門の私立中学を受験したということだった。
「ついさっき、知らせがきたんだ」
Kは言った。
「そりゃ、祝杯をあげなきゃな」
僕は言った。いつも通り、ギムレットを注文する。この店に、一番似合うカクテルだ。
手ぎわよく、2杯のギムレットが僕らの前に置かれた。僕らは、グラスを合わせる。飲みはじめた。
その夜は、飲みつづけた。たぶん20杯近いギムレットが、僕とK、それぞれのノドもとを過ぎていっただろう。
いつしか、話は学生時代に戻る。一緒にやった悪戯《わるさ》の話。つき合ってた女の子の話。カンニングの話。僕らは、21歳に戻っていた。
気づくと、午前4時になっていた。最後の祝杯をあげようとKが言った。そう言いながら、
「ところできょうはなんの祝杯だっけ」
とK。僕らは、笑いころげた。
「ダメなパパだね」
僕は言った。飲むのなら自尊心を忘れないようにと言ったのはあのフィリップ・マーロウだった。男は、たとえ自尊心を忘れないで飲んでいても、いろいろなことを忘れてしまうものらしい。
店を出た僕らの頬《ほお》に、夜明けの風が涼しい。明けていくロスの空に、パーム・ツリーのシルエットが揺れていた。
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湘南ハート・ブレイク
湘南の夏が、終わろうとしていた。
僕は葉山にいた。仕事場兼セカンド・ハウスのマンション。そのベランダで、前に広がる海をながめていた。
午後4時。海はもう、グレープフルーツ色に光っている。風にも、もう真夏の暑さは感じられない。
近くに住む仲間たちが、一杯飲みにやってきた。男が3人。そして、男たちの1人、Jの、妹が一緒だった。
Jの妹は、確か、まだ大学2年。|20歳《はたち》ぐらいのはずだった。
横浜の大学にいっている。けれど、雰囲気は典型的な湘南ガールだった。飾りけがない。
そして、潮の香りがする。
化粧品は淡い色の口紅だけ。ミルク・チョコレート色に灼《や》けた肌。ショートパンツから伸びた脚は長く、スリムだった。ざっくりした綿のサマー・セーターを着ていた。
「珍しいな。たまにはオトナとつき合ってみる気になったのか?」
ときく僕に、Jが、
「こいつ、失恋したんだってさ。で、生まれてはじめて酒を飲みたいっていうから、連れてきたんだ」
と言った。妹は無言。ベランダから海をながめている。両親は彼女に厳しく、いままでビールの一杯も飲んだことがないという。もっとも、この海を前に育てば、つまらないファッションも化粧も酒も、必要なかったのかもしれない。
「つまり、酒の初体験っていうわけか」
僕は、きいた。
「そういうこと。何か、お前がよくつくる思いつきカクテルを飲ませてやってくれよ」
とJ。僕は、苦笑い。確かに、よく、その場の思いつきで自己流のカクテルをつくっては飲んでいる。しかし、生まれてはじめて飲む酒となると……。
僕は、2、3分考えた。リビング・ダイニングに入る。ストレート・グラスに氷、カンパリ、オレンジジュース。そしてたっぷりとレモンを絞り落とした。カンパリ・オレンジのアレンジだ。それをベランダの彼女に渡す。彼女は、グラスにそっと口をつけた。
「ちょっと苦い……」
「ハート・ブレイクの味だからね」
僕は言った。彼女も、白い歯を見せて微笑《わら》った。ベランダを吹き渡る風が、彼女のサラリとした髪をなでて過ぎた。
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コーヒーのお酒
けさ、試写会の招待状が1通届いた。
〈アイドルを探せ'63〉。昔の映画のリバイバル上映らしい。
〈アイドルを探せ〉というのは、その昔、シルヴィ・バルタンが唄った大ヒット曲だ。ヒット曲に合わせて映画をつくったのか、映画の主題歌が大ヒットしたのか、僕はまだ子供だったから覚えていない。
ただ、覚えているのはシルヴィ・バルタンのことだ。彼女の唄うフランス語が、子供心にもセクシーにきこえたのだ。
フランス語自体、もともとセクシーにきこえる言葉だと思う。さらに、シルヴィ・バルタン本人も、いかにもパリっ子を思わせる粋《いき》な女らしさを持っていたのだと思う。
そんなことを考えながら、試写会の招待状を見ていたら、ふとひとつの光景を思い出していた。
もう何年か前の夏、僕らのチームはCFの撮影でパリにいた。
8月だというのにパリは涼しかった。朝夕はウールのセーターが欲しかった。
アロハ・シャツ、ショートパンツの東京から飛んでいった僕らは、急いでセーターやブルゾンを買いにプランタンに飛び込んだ。
地元のコーディネーターも、この涼しさは特別だと言った。
気温は低かったけれど天気は良く、撮影は順調に進んでいった。3週間の予定のロケだったけれど、最後の数日はフリー・タイムになりそうだった。
そんなスケジュールの先が見えてきた2週間目の終わり。その日の撮影を終えた僕らは、夕食のために1軒のレストランに入った。リュクサンブール公園に近い、ごく平凡なレストランだった。
僕ら日本人スタッフが席についてすぐ、カップルの客が入ってきた。ふたりとも、フランス人だった。
たまたま店はすいていた。客は、僕らとそのふたりだけだった。僕らの注意は、自然と彼と彼女のほうにいってしまう。
彼のほうは40代半ばだろう。髪に白いものがまじりはじめていた。痩《や》せた体に上質なスーツを身につけていた。
彼女のほうは、|20歳《はたち》そこそこ。金髪を、肩のところで切り揃えてある。一番年長のプロデューサーが僕の耳もとで、
「彼女、シルヴィ・バルタンに似てないか?」
と言った。僕も、思わずうなずいた。
もちろん、本人でないことはわかる。けれど、雰囲気が似ているのだ。彼女の周囲に漂っている空気が、シルヴィ・バルタンを思わせるのだ。
服装はごくシンプルだった。青いカシミアのVネックセーター。オフ・ホワイトのスカート。細い金のブレスレットだけが、アクセサリーだった。
学生なのか仕事をしているのか、外見からほとんど判断できない。
「しかし……」
とプロデューサーのG。
「気になるのは、あのふたりの関係だなァ」
と、つぶやいた。
「親子じゃないの?」
とカメラマンのE。
それから、僕らの話題は、そのふたりのことになった。どうせ日本語などわからないだろう。そんな気安さで、それぞれが勝手なことを言いはじめた。
僕らの推測は、結局のところふたつに分けられた。
その1。あのふたりは親子である。
その2。恋人同士である。
じつに楽しそうに食事をしている彼らの関係は、確かに、そのどちらかに感じられた。
やがて、彼らは食事を終える。ギャルソンがテーブルにやってくる。食後のコーヒーでも、とふたりにきく。
彼のほうはエスプレッソ。そして、彼女のほうはごく自然な表情で、
「カルーアを」
と注文した。カルーアは、コーヒーからつくる果実酒だ。カクテルのカルーア・ミルクとして、最近の日本でもよく飲まれている。
彼女の前に、カルーアのオン・ザ・ロックが置かれた。コーヒーのかわりに、コーヒーのお酒……。
「粋《いき》だね」
プロデューサーのGが微笑《わら》いながら言った。
コーヒー色のグラスを持つ彼女の手で、金のブレスレットが光った。
やがて、彼らふたりより先に、僕らのほうがレストランを出た。
僕はグラスを口に運んでいる彼女の横顔を思い起こした。たぶん、あのふたりは恋人関係なのではないか……。カルーアの色と味を思い起こしながらそう思った。
「たそがれないんだなァ」
ふとだれかが言った。もう9時近い。けれど、リュクサンブール公園の木立ちの上、美しい水色をしたパリの空が広がっていた。
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夏よ、さようなら
「あら」
カウンターにかけている僕の斜め後ろで声がした。僕は、ふり向く。
バーバラが立っていた。
青く明るい瞳が、こっちに微笑《わら》いかけていた。僕も、
「やあ」
と声を返す。バーバラの青い瞳に微笑い返した。同時に、ふと、その瞳の青さをどこかで見たと思った。
すぐに、わかった。それは、花の色だった。先週、ロケ先の草原で見た、ルピナスという花の青さだった。
アラスカの短い夏が、終わろうとしていた。
僕らは、コマーシャルのロケにきていた。冬物のアウトドア・ウエアのコマーシャルだった。
10月からオン・エアされるコマーシャルのために、夏のアラスカにきていた。
夏といっても、そこはアラスカだ。アンカレッジからクルマで半日走れば、雪の斜面もある。1日走れば氷河もある。
そんな雪景色の中で、10日間の撮影をしてきた。移動は、いつも草原の中を走った。
夏の草原は美しかった。雪山をバックに、緑がどこまでも広がっていた。白い小さな綿のようなポプラの種が、粉雪のように降りそそいでいた。
そんな草原に、ルピナスの花は咲いていた。道路のすみにクルマをとめて休んでいる僕らの足もとに、その小さな花は咲いていた。ルピナスという名前は、ガイド兼ドライバーのトムに教わった。
「ひとりなの?」
バーバラが言った。僕は、ジン・トニックのグラスを手にうなずいた。
「ロケ隊の、ほかの人たちは?」
「たぶん、アラスカ最後の夜だから、ポルノ映画でも観《み》にいったんじゃないかな?」
と僕。バーバラの青い瞳が、また、陽気に微笑った。
僕が飲んでいたのは、泊まっているホテルのバーだった。アンカレッジでも最高クラスのホテル。その最上階のバーだった。
そして、バーバラは、このホテルのマネージャーだった。
つい2週間前。僕らが日本からアンカレッジに着いた日に、彼女と会った。
年齢は、20代の終わりごろだろう。肩までの金髪は、ゆるくウエーブさせている。片方の耳にはダイヤのピアス。夏の終わりらしく、肌はきれいに陽灼《ひや》けしていた。アラスカという土地にあまり似合わない、都会的な雰囲気を持っていた。
「でも、アラスカ生まれなのよ」
とバーバラ。僕らに部屋の手配をしてくれながら言った。
アンカレッジで高校まで。ニューヨークの大学を卒業。ボストンでホテルに勤めはじめる。ロスのホテルをへて、2年前からアンカレッジに戻ってきた。そんなキャリアを話してくれながら、彼女はテキパキと僕らの世話をしてくれた。
部屋の手配。撮影に出かける間、ホテルに置いていく荷物のこと。バーバラは、じつに手ぎわよく片づけていった。仕事が好きでしようがないように見えた。
「かけていい?」
とバーバラ。僕のとなりのスツールを指さした。
「もちろん」
と僕。彼女は、となりに座る。
「今日の仕事は終わり?」
僕は、きいた。彼女は、うなずいた。
いまは午後6時過ぎ。アラスカの夏は白夜に近い。かなり明るい陽《ひ》ざしが、広い窓からバーに差し込んでいた。窓からは、山なみと森が見渡せた。
バーテンダーが、やってきた。彼女は、
「スコッチ・アンド・ソーダ」
とオーダーした。グラスは、すぐに彼女の前に置かれた。彼女の細く長い指が、ウイスキーのグラスをとる。僕らは、
「ロケの成功に」
とグラスを合わせた。彼女は、ゆったりとウイスキーを飲みはじめた。
「いつも、ウイスキー?」
「まあね……特に夏の終わりはね」
とバーバラ。僕は、小さくうなずいた。
確かに。ウイスキーは、初秋に似合う。そう思った。
「夏の終わりって、嫌《いや》にならない?」
何げなくきいた僕に、
「そうでもないわよ」
とバーバラ。
「終わりがくるから夏はいいのよ」
と、つぶやくように言った。
「終わりが?……」
「そう。終わりがくるから夏は夏らしいのよ。そして、またつぎの夏が楽しみになるのよ」
とバーバラ。
「……まるで、恋と同じね」
と言った。その瞳が、ウイットにあふれて、いたずらっ子のように微笑った。
僕は、ゆっくりとうなずいた。
同時に、ふと思った。
ウイスキー・グラスがさまになるためにまず必要なものがあるとすれば、当然だけれど、大人っぽさなのだ。そして、それは、やたら高いヒールやシャネル・ドレスではなく、こんなウイットのある会話からはじまるのではないだろうか、と。
僕とバーバラは、10年来の親友のように楽しく飲みはじめた。バーバラのグラスに、この夏最後の陽ざしが揺れていた。
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トロピカル・カクテルが、胸に苦い
「危い!」
「ケイコ!」
女の子たちの叫び声が、バーに響いた。カウンターにいた僕はふり向いた。
日本人の女の子が4人、バーから出ていくところだった。
その中のひとりが、ふらついて倒れかかった。仲間の3人が、その娘《こ》の体をつかまえる。
けれど、ふらついた娘《こ》の体が、すぐそばのテーブルに軽くぶつかる。テーブルから、客の飲みかけのグラスが落ちる。床で割れる。
割れたグラスの破片が、たそがれの陽ざしに光った。
サイパン。午後5時半。
僕は、スタイリストの浩美《ひろみ》と、カメラマンのMと、3人でホテルのプールサイド・バーにいた。カウンターで、たそがれの一杯を飲んでいた。
CFの撮影だった。
モデルは白人の男と女。ふたりとも、アメリカからの出稼ぎモデルだ。
サイパンに着いて6日目。ほとんど重要なカットを撮り終えた。かなり、僕らも気軽になっていた。〈お疲れさま〉の一杯を飲んでいるところだった。
ふらついた女の子は、仲間にささえられてプールサイド・バーを出ていく。従業員が、割れたグラスを片づけていた。
「口当たりがいいから、飲み過ぎたのねェ」
と浩美。同情した口調で言った。僕も、微笑《わら》いながらうなずいた。
4人の子たちは、日本からのパック・ツアーらしい。さっきから、近くのテーブル席でトロピカル・カクテルを飲んでいた。
にぎやかに話しながら、ひとりにつき2、3杯は飲んでいたようだった。
〈マイタイ〉〈チチ〉そして〈サイパン・サンセット〉などというホテルのオリジナル・カクテルが、彼女たちのテーブルに並んでいた。
いかにもトロピカル・カクテルらしく、花や果物を飾った、にぎやかでかわいいグラス。甘い口当たり。
けれど、ほとんどのトロピカル・カクテルのベースになっているのは、ホワイト・ラムやウオッカ。アルコール度の強い酒だ。
かなり酒に強い人間でも、そう何杯も飲めないだろう。
しかも、空腹のたそがれどきに飲んだら、思いもよらず回ってしまう。その甘い口当たりにつられて失敗している観光客の人を、何回か見たことがある。
浩美は、20代の中頃。スタイリストとしては、まだ駆け出しといってもいいだろう。
けれど、大学の4年間、ロスのUCLAに留学していた。当然、英語はパーフェクトに話せる。
外人モデルを使う撮影の多い僕らのチームには、欠かせない戦力になっていた。
今回のロケでも、外人モデルふたりは日本語がまるで話せない。
けれど、モデルの身の回りのことや苦情は、浩美がテキパキとこなしてくれていた。
浩美は、留学していたせいか、どこかカリフォルニア・ガールの雰囲気を持っていた。ポニー・テールに結んだ青いバンダナ。ほどよく色の落ちたTシャツ、ショートパンツ。陽に灼《や》けた素足にNIKE《ナイキ》のテニス・シューズ。フランスパン色の長い脚で、元気よく撮影現場を走り回っていた。
酔った観光客の娘《こ》が出ていったバーの入口をながめて、
「甘いものにはご用心か……」
とつぶやく僕に、カメラマンのMが、
「まるでジョージのやつだな」
と苦笑いしながら言った。
ジョージは、今回の男性モデルだ。
アメリカ国籍だけれど、イタリーあたりの血が濃く入っているようだった。
もちろん、絵にかいたような、ラテン系のハンサムだった。プレーボーイらしい雰囲気を体中に漂わせていた。
そのジョージが、どういうわけか、浩美をしきりに口説いているのだ。
毎日、撮影が終わると、浩美に優しく甘い言葉でささやきかけて、夕食に誘っていた。
浩美は、ジョージの誘いを、にこやかに、けれどきっぱりと断っていた。
「1度ぐらい、晩メシにつき合ってみるのも面白いじゃないか」
僕は、微笑《わら》いながら浩美に言った。浩美は苦笑しながら、ゆっくりと首を横に振る。
「甘い言葉の後には、苦い結果が待っているから……」
と、つぶやいた。何かを思い出すように、ふと、夕陽の水平線を見つめた。
「甘さの後に、苦い結果か……まるで、トロピカル・カクテルの飲み過ぎだな」
僕は、つぶやいた。浩美の横顔を見た。
過ぎた日のどこかで、彼女にもそんな恋があったのかもしれないと、ふと思った。
涼しさをました海風が、プールの水面を渡っていく。
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セヴン・ナップでほろ酔い
「どうした。元気ないじゃないか」
僕は、カーリーに言った。並んで歩いていた彼女は、僕を見た。
「そう?」
と言った。その髪が、クヒオ通りを渡る風に揺れた。
ホノルル。午後3時。
僕とカーリーは、陽《ひ》ざしの明るいクヒオ通りを、のんびりと歩いていた。
カーリーは、いま|U・H(ハワイ大学)の3年生。
アルバイトで、僕らロケ隊の手伝いをやっていた。コーディネーター助手ということになるのだろう。
白人ではない。
ハワイアンの血が半分以上。白人の血と、どこか東洋の血も入っているようだった。ハワイには多い混血の娘《こ》だった。
ハワイアンの血が濃いから、肌はうっすらとココア色をしている。
けれど、髪は麦わら色がかったブロンドだ。ストレート・ヘアーで、まん中から分けている。
20歳を過ぎているのに、表情にも体つきにも、どこか少女の雰囲気を残していた。
服装も、あまり大人っぽいものは着ない。
いまも、そうだ。ブカッと大きなTシャツ。自転車レーサー風のピチッとしたショートパンツ。それに、L・Aギアのスニーカーだ。
典型的なハワイのロコ・ガール・スタイルだろう。
僕らのロケは、昨日で順調に終わった。CF3本分を撮り終わった。今日と明日の2日間は|休み《オフ》。僕らは、明後日の飛行機で帰国する。
2週間のロケ中、よく働いてくれたカーリーに、何か買ってやれよ。そう言って、プロデューサーが僕に100ドル札を渡した。
僕は、カーリーをさそって、クヒオ通りの小さなブティックをぶらぶらとのぞいていた。そんな午後だった。
「元気がない?」
とカーリー。
「ああ。そう見えるけど」
僕は、ゆっくりと歩きながら答えた。
「……そうか、見破られたか……」
とカーリー。
「何かあったわけか」
「まあね……」
「アルバイトばかりやってて、大学を落第しそうだとか?」
「まさか。こう見えても勉強はできるのよ」
とカーリー。しばらく歩いて、
「ハート・ブレイクよ」
カラッと言った。ハート・ブレイク……失恋……。
「ふうん、そうか」
僕も、つとめて明るく言った。
「ま、そういうときは、めげててもしようがないよ」
と言った。
「そうね」
とカーリー。白い歯を見せた。僕らは、ちょうどABCストアーの前にきていた。
「ノドも乾いたし、ビールでも飲みながら歩こうか」
僕は言った。カーリーもうなずく。僕らはABCストアーに入る。カリカリに冷えたバドワイザーを1缶買った。店を出る。
「あれ、持ってるかい?」
僕は、カーリーにきいた。彼女は、
「もちろんよ」
と言った。肩にかけていたディ・パックから、1枚のビニール・シートを出した。
ビニール・シートは、ちょうど、ビールの缶にひと巻きできるサイズになっていた。表面にはセヴン・ナップの文字がプリントされている。
知らない日本人旅行者が多いのだけれど、ハワイでは砂浜や道路でアルコールを飲むことが禁止されている。砂浜でビールを飲んでいてライフ・ガードに注意されている観光客を、ときどき見る。
これは、そのためのビニール・シートなのだ。いちおうセヴン・ナップの皮をかぶっていれば、中が缶ビールでも警官も見て見ぬふりをするのだ。
カーリーはバドワイザーの缶に、セヴン・ナップのビニール・シートを巻く。シートは、ペタリとくっついてとまる。
「セヴン・ナップでほろ酔いってのも、悪くない」
僕は言った。
歩きながら、飲みはじめた。ひと口飲んで僕に渡す。僕がひと口。また、彼女に返す……。
そんなふうにして、歩きはじめた。やがて、通り雨が降りはじめた。天気雨だ。雨粒が陽ざしにキラキラと光る。アゴを上げビールを飲むカーリーの顔が、雨に濡《ぬ》れる。涙がこぼれているのかもしれないけれど、それはわからない……。
美しいホノルルの午後。ヤシの葉先に雨粒が光る。僕らは、濡れるのもかまわず歩きつづけた。
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〈|国 境 の 南《サウス・オブ・ザ・ボーダー》〉を聴くたびに
もう、10年ほど前のことになる。僕は、|L・A《ロス・アンゼルス》にいた。テレビ・コマーシャルの撮影だった。
ロスでの撮影は、予定どおり終わった。けれど、僕には、つぎの撮影が待っていた。つぎの撮影地は、アラスカだった。スタッフたちは入れ替るのだけれど、ディレクターの僕は、かけもちだった。
一度日本に帰って出なおしてくるのは大変なので、僕は1人でロスからアラスカにいくことにした。しかし、スケジュールが4日あまった。
ロスの街は、その3週間のロケで嫌というほど回った。気分を変えに、メキシコに遊びにいくことにした。ロスにいる男友達を誘い、彼の古ぼけたムスタングでロスの街を出発した。
南カリフォルニアの海沿いを走る道路H1で、のんびりとメキシコに向かった。子供の頃に観たテレビ・ドラマの〈ルート66〉などをふと思い出していた。
H1を南下していく。サン・ディエゴを過ぎる。カー・ラジオにスペイン語が多くなってくる。ロスから、のんびり走っても5時間ぐらいで国境に着いた。国境といっても東名高速の料金ゲートみたいなものだ。おまけに、メキシコに向かって出国するのはフリー・パスだ。
僕らは、ティファナに入っていく。裕福なアメリカ人観光客と、貧しいメキシコ人の物売りと、土ボコリの街だ。ケバケバしい色のネオンさえ、土ボコリにかすんでいる。
それはそれで面白いのだけれど、僕らはもう少し南下していった。町というより村という感じの場所にある小さなホテルに荷物を置いた。
そのホテルのすぐ近くに、ささやかなバーがあった。ガランとして貧しげなバーだった。けれど、僕と友人は、たそがれの一杯を飲みたくて、そこのカウンターについた。
カウンターの中では、実直そうな若いメキシカンが働いていた。青年というより少年だった。僕らはジン・トニックを注文した。少年はうなずく。手ぎわよく仕事をはじめた。そして、手を動かしながら、〈|あっち《アメリカ》側〉からきたのか、と英語できいた。
そうだと僕らは答えた。いつ帰るのかと少年。あさってあたり帰るつもりだと僕らは言った。少年は、僕らの前にグラスを置く。そして、何ドル出したら、僕をクルマのトランクに入れて国境をこえてくれるかときいた。
少年は、アメリカに密入国したいのだった。その頃から、密入国するメキシカンは山ほどいた。僕らは、それほど驚きもしなかった。そして僕は、難しいよと答えた。自分の着ているアロハとジーンズを指さして。こんなスタイルじゃ、国境の検問でたぶんトランクを開けさせられるよ、賭けてもいいと言った。
少年は苦笑い。そうかもしれない、確かに、分の悪い賭けだね、とつぶやいた。僕はうなずく。ジン・トニックに口をつけた。その日最後の陽が氷に照り返していた。グラスに浮いているスライスしたライムの香り。感度の悪いラジオが、L《リンダ》・ロンシュタットのバラードを流していた。
予想通りだった。アメリカに再入国するとき、国境の検問は厳しいのだ。係員は、僕らの風体を見る。あちこちの出入国スタンプが押された僕のパスポートをペラペラとめくる。鋭い眼つきで僕を見た。そして、クルマからおりてトランクを開けろと言った。僕はトランクを開けた。係員は、小さなボストンバッグの中まで、たんねんに調べた。
いまも、〈国境の南〉を聴くたびに思い出す。あの少年は、まだあの小さなバーで、ライムをスライスしているのだろうか。
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アラ・モアナ・ビーチのたそがれは、煙が眼にしみる
ハワイ。たそがれの5時。
アラ・モアナ・ビーチから吹く海風が、芝生《しばふ》の1本1本を揺らせて過ぎる。
サラッと涼しい風は、タルカム・パウダーのように僕らの肌をなでていく。昼間の暑さに汗ばんだ肌が、ゆっくりと乾いていく。
そんな夕方。
僕らは、アラ・モアナ・ビーチのとなり、マジック・アイランドにいた。
アイランドといっても、島ではない。海にはり出した小さな半島のようなものだ。
そのマジック・アイランドのほとんどは、芝生の海岸公園《ビーチ・パーク》になっている。
広い芝生のあちこちに、樹がはえている。樹の間には、ベンチとテーブルが置いてある。
ホノルルの若い連中にとっては、ピクニックやバーベキューの場所であり、デートの場所でもあった。
その夕方、僕らはハワイ・ロケの打ち上げパーティーをはじめようとしていた。
打ち上げといっても、ここはハワイだ。どこかのレストランでやるより、ビーチ・パークでバーベキューをやろうということに話が決まったのだ。
僕ら15人のスタッフは、のんびりとビール片手にバーベキューの準備をはじめたところだった。
CFのロケだった。
広告主《クライアント》は化粧品メーカー。商品は、新発売される夏用ファンデーションだ。
陽に灼《や》かない夏が主流になっている夏用化粧品だけれど、このファンデーションはその逆をつくものだ。
ほどよく陽に灼いても、肌にダメージをあたえない。そんな狙いで発売される商品だった。
ディレクターの僕が考えたコンセプトは、〈太陽の下の18歳〉。いくら太陽と遊んでも、このファンデーションをつけていれば18歳の肌でいられる。そんなコンセプトだ。
ロスで選んだモデルは白人。UCLAの2年生。まっ白い歯を見せてよく笑うカリフォルニア・ガールだ。
CFはA、B、Cの3タイプ。それぞれ15秒と30秒をつくる。ポスターや雑誌広告のためのスチール撮影もある。
おまけに、天候が猫の眼のように変わった。カメラを回せない日も多かった。
スケジュールは予定を軽くオーバーして約1カ月。
長いロケが、やっと終わったところだった。
「ヒバチかよ。笑っちゃうなァ」
プロデューサーのNが言った。
スタッフが、バーベキュー用のグリルを芝生に持ち出してきたところだ。
スーパーでスタッフが買ってきたグリル。その箱には〈HIBACHI〉と印刷されていた。
ハワイでは、現地語化してしまった日本語が多い。OKAZU《オカズ》、BENT《ベントウ》など、いっぱいある。このHIBACHIも、そんな中の1つらしい。
とにかく、若いスタッフはヒバチ・ブランドのグリルを芝生にセットする。バーベキュー用の炭をグリルに入れていく。
炭といっても、練って型にはめてつくったものだ。ハマグリぐらいの大きさと形をしている。
スタッフは、それを20個ほどグリルに入れる。着火用のオイルをふりかける。火をつけた。
僕とスタイリストのK子は、缶のサッポロビアーを飲みながら、それをながめていた。
K子は、25歳ぐらいだろうか。
大学生のとき、デリバリーのピザ屋でバイトをしていた。しょっちゅう配達にいくスタイリストの事務所に、その明るさと体力をかわれて助手として入った。スタイリスト助手を4年やって去年独立したという、どちらかというと変わり種だ。
そのせいか、いまもあまりカタカナ職業らしさがない。大学のスポーツ・クラブにでも似合いそうな折り目の正しさと明るさを持っていた。
そのキャラクターが気に入られて、彼女は1年の約半分を海外ロケに飛び回っていた。
「彼氏とは、うまくいってるのか」
缶ビールを飲みながら、僕はK子にきいた。
彼女には恋人がいた。確かカタギの職業。商社マンか何かだったはずだ。
「それが……あまりうまくいってなくて」
とK子。ぽつりと言った。
「うまくいってない?……」
「そうなんです。このところ、あんまり逢《あ》ってなくて……」
K子は言った。
「原因は? どっちかの浮気?」
「そうじゃなくて……」
「じゃ、すれ違いか」
僕は言った。彼女は、小さくうなずいた。
「これだけロケが多いと、どうしても逢う回数が少なくなるでしょう?」
「ああ……」
「やっぱり、男と女って、あまり離れてるとさめてきちゃうものなんですね……」
今度は僕がうなずいた。K子はつづける。
「いくらロケ先から手紙を書いたり、ミッドナイト・コールをしたりしてても、長く顔を合わせてないと、逢ったときにどうしてもぎこちなくなっちゃって……」
「わかるよ」
と言った。僕にも、自慢はできないが離婚経験がある。
何か元気づける言葉を彼女にかけようか。そう思ったときだった。
「あーあ、消えちゃったよ」
という声が芝生に響いた。バーベキュー・グリルの炭に着火させるのを失敗したらしい。
「ほら、早くつけなおせよ。みんな腹へってるんだぞ」
ビール片手のスタッフたちから声が飛ぶ。バーベキュー係の若い助手が、急いで着火用オイルを炭にふりかける。また、火をつけた。
炎が勢いよく上がる。煙が、芝生の上を流れていく。
風向きが変わったのか、煙は一瞬、僕とK子の方に流れてきた。
K子は、眼を細める。そして、
「男と女も、ああやって火をつけなおせればいいのに……」
と、つぶやくように言った。
長いまつ毛を、しばたたいた。眼尻《めじり》を、指でそっとぬぐった。
ただ煙が眼にしみただけなのか……僕にはわからない。結局、誰もみな他の人間にとってかわることはできないのだ。
テーブルに置いたラジカセから、J・Dサウザーの唄う〈|You're 《ユー・アー・》|Only 《オンリー・》|Lonely《ロンリー》〉
が流れていた。そうさ、君はちょっと淋《さび》しいだけなんだ。J・Dサウザーの優しい歌声が、芝生の上を漂っていく。
僕は眼を細める。4缶目のビールに口をつけた。ビールはノドに冷たく、胸にあたたかかった。
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人生にただ1度の、とスティービーが歌っている
湘南《しようなん》に、夏が近づいていた。
古着のアロハを着て海岸道路に出ると、カリッとした陽ざしが腕を叩《たた》く。陽ざしの強さが、春先とはまるでちがうのがわかる。
ベランダからながめる海の上にも、夏の気配はあらわれている。
まず、海の色が変わる。油絵の青だった海の色が、透明度をまして、水彩画の青になっていく。
海のかなたに望む江の島のシルエットが、はっきりしなくなっていた。
陽ざしが強さをましてきたので、海面から水蒸気が立ちのぼる。立ちのぼった水蒸気で、海の上の視界がきかなくなる。冬の間はくっきりと見えていた江の島が、かすんでくるのだ。
ディフィの水彩画にも似た海の青さに、各大学のヨットが散っている。
そんな季節の昼下がり。
僕は、友人たちとベランダでビールを飲んでいた。
僕のセカンド・ハウス兼仕事場は、葉山にある。
海に面したマンションの3階だ。
すぐとなりには、小さな漁港がある。そこは釣り船の基地にもなっている。
マンションのベランダから見ていると、いろいろな船が前を通って港に出入りしている。
朝一番で出ていくのは、網を上げにいく漁師の船だ。
7時頃になると、25人乗りの釣り船がつぎつぎと出航していく。
いまは、午後2時過ぎ。
もうしばらくすると、最初の釣り船が帰ってくるのが見えるかもしれない。
やがて、Jが舵《かじ》をとる釣り船も帰ってくるだろう。
僕は、海をながめながら、友人たちとにぎやかにビールを飲んでいた。
「磯《いそ》でアサリがとれるなんて知らなかったわ」
と言ったのは、編集者をやっている友人のガールフレンドだ。
ウェッジウッドの大皿には、ワイン蒸しにしたアサリが山ほど盛ってあった。
それは、きのう、近くの磯でとっておいたものだった。
引き潮のとき、ヨット用のゴム長をはいて磯にいく。磯の中にある砂地をさぐると、アサリはとれるのだ。
陽ざしは明るく、話は弾んだ。
アサリの殻と、ビールの空き缶が、どんどん山になっていった。
「もうしばらくしたら、魚が届くかもしれない」
と僕は言った。
「届くって、どこから」
誰かが、きいた。
「海からさ」
僕は、Jが出ていった沖合をながめて言った。
「仲のいい船頭がいるんだけど、きょうは常連の釣り客を乗せてるから、自分も竿《さお》を出してると思う」
僕は言った。友人たちに、Jのことを、ぽつりぽつりと話しはじめた。
Jは、釣り船の船長だった。年齢《とし》は、僕より少し若い。
もともと地元の人間ではない。学校を出てかなりの間、遠洋航海の船員をやっていた。
その後しばらく陸の仕事をやっていたけれど、やはり海が忘れられなくて、また船に乗ることになったという。
がっしりとした体は、いつも褐色に灼《や》けている。どちらかというと無口だった。
そのJに、結婚相手を紹介されたときは、僕も少し驚いた。
相手は、名門女子大を出たばかりという雰囲気の娘《こ》だった。彼女は、実際にお嬢さん育ちだった。鎌倉の由緒ある料亭の長女だった。何不自由なく育ってきたようだ。
年頃なので、縁談も山ほど持ち込まれていたらしい。
東大を出て一流商社に勤めている男もいれば、名門ホテルの次男坊もいた。
彼女が料亭を継ぐかどうかは、本人に任されていたという。
そんな時に、彼女はJと出会ったのだ。
彼女は学生時代からヨット部に所属して、湘南の海を走り回っていた。その日もディンギーで沖に出ていた。ちょっとした操艇ミスでJの釣り船とぶつかりそうになり、かわしたはずみで暗礁に乗り上げてしまった。葉山沖での出来事だった。
彼女はJの船に救助された。
それがきっかけで、Jと彼女はつき合うようになり、やがて恋人になった。
彼女は両親にJを紹介しようとしたけれど、親は首を横に振りつづけた。
とうとう決心した彼女は、家を出てJのもとに走った。
2人は結婚し、葉山に部屋を借りて暮らしはじめた。もともと海の上が好きだった彼女は、Jの船に乗って手伝いをするようになった。きょうも、たぶん船に乗っているはずだ。
「そういうわけさ」
僕は、ビールを飲みながら言った。
「まるで駆け落ちだな……」
編集者の友人が言った。
「そんな……何もかも捨てちゃうなんて……」
彼のガールフレンドが、つぶやいた。
「しょうがない。あの2人の場合は、事故みたいな恋だったんだから……」
僕は、微笑《わら》いながら言った。
そう。確かに、事故のような恋だったのだろう。予測不可能。気づくと、ぶつかっていた。そんな出会いだったのだろう。
「そんな事故なら、遭ってみたいものだね」
誰かが言った。ベランダに、笑い声が響く。僕らはまた、手を動かしはじめた。
ヘミングウェイが『海流の中の島々』で描いた男たちのように、盛大に食べ、飲んだ。また、アサリの殻とビールの空き缶がうずたかく積まれていく。
気づくと、缶ビールの影が長くなっていた。僕は海を見た。ちょうど、Jの船が帰ってくるところだった。グレープフルーツ色の海面。低く力強いディーゼルのエンジン音を響かせて船は入港してくる。ベランダの前を走り過ぎていく。
舵《かじ》を握っているJ。灼《や》けた顔の中で白い歯を見せた。甲板で彼女が大きく手を振っている。僕も手を振り返した。
部屋のオーディオから、S《ステイービー》・ワンダーの〈|For Once 《フオー・ワンス・》|In My Life 《イン・マイ・ライフ》〉が流れている。人生にただ1度の……とスティービーが歌っている。海風がベランダを渡っていく。
夏が、はじまろうとしていた。
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君はもう、ダブル・フォルトをしないだろう
テニス・コートに、乾いた音が響いていた。もちろん、ボールを打つ音だ。
乾いた音は、南カリフォルニアの風に運ばれていく。
6月末。日本は梅雨の時期だ。
けれど、カリフォルニアの空気は、軽く、乾いていた。ボールを打つ自分の影が、テニス・コートに濃い。
僕は、小説の取材と遊びをかねて、ロスにきていた。
ちょうど3日前のことだ。メルローズの街角を歩いていた僕は、ふいに名前を呼ばれた。ふり向く。顔見知りの日本人が、白い歯を見せていた。
彼は、CFのプロデューサーだった。
僕が小説家になる前、広告業界で仕事をしていた頃、何回か組んだことがある。
僕らは、何年かぶりの握手をした。立ち話をはじめた。
彼は、CFのロケできているという。クルマのコマーシャルだという。ハリウッド・スターを使うらしい。ところが、スターが映画の撮影に入っていて、その撮影が|休み《オフ》の日にだけ、CF撮りにやってくるらしい。
「おかげで、4日に1日ぐらいしかカメラが回せなくて、ヒマでヒマで」
と彼は苦笑した。
彼のロケ隊は、サンタモニカのホテルに滞在しているといった。僕は、ウエスト・ウッドのコンドミニアムに滞在していた。
「こっちも、けっこうヒマだよ」
僕は言った。
「なら、うちのホテルにこない? みんな遊びでテニスばっかりしてるよ。一緒にやろう」
と彼。僕は、うなずいた。彼と一緒にロケにいくと、よく遊び半分でテニスをやったものだった。
3日後の午後。
僕は、彼らの泊まっているホテルを訪ねた。彼の言葉どおり、スタッフはみんな庭のテニス・コートにいた。みんなもう、ひと汗かいたらしい。コート・サイドのテーブルで、ビールを飲んでいた。ビールは、山ほどあった。
「たっぷり仕入れてきたんだ」
とプロデューサー。空き缶を振ってみせた。空き缶は、もうかなり山積みになっていた。
「みんな、テニスはヘタだし、ビール飲んじゃってるし……相手がいないかな……」
とプロデューサー。あたりを見回すと、
「あっそうそう、1人、相手がいるよ」
と言った。
「撮影コーディネーターの娘《こ》なんだけど、テニスが上手でさあ、もうすぐくるよ」
30分後。1人の日系娘が、コートにやってきた。
ひと目で、こっち育ちの日系人とわかる娘《こ》だった。娘という年頃ではないかもしれない。20代の真ん中辺だろう。
髪は、後ろに束ねている。青いTシャツ。白いショートパンツ。赤いラインの入ったテニス・シューズをはいていた。よく陽に灼《や》けていた。片方の耳にだけ金のピアスをしていた。
「サンディだ」
とプロデューサーが紹介してくれた。
「彼の相手をしてやってくれないか」
「いいわよ」
とサンディ。上手な日本語で言った。
僕らは、ラリーをはじめた。
サンディは、上手だった。ウイークエンド・プレーヤーの僕よりは、数段上だ。打ちはじめてすぐにわかった。
けれど、ラリーにあきた僕らは、遊びでゲームをやることにした。
コート・サイドでは、みんながビールを飲みながらのんびりとながめている。
僕らは、シングルスをはじめた。
サービス。ラリー。ボレー。どれをとっても、彼女はアマチュアとしては一流だった。トップ・スピンのかかった重い球。鋭いボレー。正確なパッシング。当然のように、ワンサイド・ゲームになった。
けれど、まわりの連中はすでに彼女の腕を知っているらしく、驚いた顔をしない。
ときたま、サンディのファイン・プレーが出ると、拍手がコート・サイドに響いた。
僕も、いちおう、がんばってはみた。けれど、|1《ワン》ゲームもとれないまま、試合は過ぎていく。
勝負はともかく、コートを走りながら1つだけ気づいたことがある。彼女は、全くダブル・フォルトをしないのだ。セカンド・サービスは、慎重すぎるほど慎重に、スピンをかけた山なりの球を送ってくる。
これほど腕のちがう相手なのに……。
6―06―1で、ゲームは終わった。2セット目の1ゲームは、彼女のサービスか、僕の幸運だろう。
僕らは、タオルで汗をふきながら、コート・サイドのテーブルに座った。
周囲から、ビールの缶が手渡される。ほてった手のひらに、缶の冷たさが痛いほどだ。
僕とサンディは、缶ビールをゴチッとぶつけて乾杯。ノドに、流し込む。
「しかし、うまいね、テニス」
「ハイスクールのとき、選手だったの」
とサンディ。僕は、うなずいた。
「それにしても、やたらセカンド・サービスが慎重だったけど、何か理由《わけ》でも?」
サンディは、しばらく無言。微笑《わら》いながら、
「以前は、サンタモニカの火の玉娘と言われるほど、セカンドもガンガン打ってたんだけど……最近、セカンドは慎重に慎重にって、ことさら意識してるの」
と言った。
「何かきっかけがあって?」
「たぶん、去年、離婚してからね」
とサンディ。カラッと笑いながら言った。
「……そうか……1回目はガンガン、2回目は慎重に、か……」
「だって、同じ失敗を2度くり返すのって、悲しいでしょう?」
とサンディ。ビールの缶を口に運んだ。僕も、微笑いながらうなずく。
サンディは、南カリフォルニアの陽ざしに眼を細めてビールを飲む。横顔が、ほんの少しホロ苦く見えた。
彼女の人生のセカンド・サービスはうまくいくだろうか……。僕は、ぼんやりとそんなことを思った。サンタモニカ・ビーチの方から吹く風が、ビールの空き缶をかすかに揺らせて過ぎた。
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ダーティー・ハリーを捜して
「うーむ……」
とプロデューサーの吉川。右手に持ったポラロイド写真をながめて、
「いいプロポーションだ」
と、つぶやいた。ポラには、水着姿のモデルが写っている。
「うーむ……この長い脚……」
と吉川。ギョロリと大きな目玉を、手に持ったポラに近づける。僕は微笑《わら》いながら、
「吉さん、目玉が転げ落ちるよ」
と言った。スタッフたちの笑い声が、オーディション・ルームに響いた。
東京。麻布。
CFプロダクション〈バザール〉。その2階にある会議室兼オーディション・ルーム。3日間にわたるモデル・オーディションが終わったところだった。
今回の広告主《クライアント》は食品会社。商品は、新発売されるヨーグルト飲料〈シャイン〉。コマーシャルのターゲットは、当然、10代の女の子中心だ。
ヨーグルト関係のコマーシャルだと、すぐにブルガリア風の野原あたりが出てくる。が、それじゃありふれているので、僕は逆をついてみることにした。
CFのコンテは、こうだ。
〈太陽がまぶしい海辺〉
〈砂浜でナワ跳びをしている水着姿の女の子〉
〈のびのびとした抜群のスタイル〉
〈明るい笑顔〉
〈サンバ風のBGM〉
〈ナレーション『あのボディは、もしかして飲んでいる……』〉
〈商品のディスプレイ・カット〉
〈ナレーション『ヨーグルト飲料≪シャイン≫、エブリボディに新発売』〉
〈モデルの笑顔、アップ〉
そんなところだ。
新発売CFだから、どうしても短い15秒のスポットが多くなる。コンテは、このぐらいシンプルでちょうどいい。
早い話、これを飲むと魅力的なスタイルの女の子になれるというメッセージだ。
当然、モデルのプロポーションが一番の決め手になる。
言葉《コピー》より雄弁に〈魅力的なボディ〉を見せつけなくてはならない。
そして、真夏の陽ざしのような|明るい笑顔《ビツグ・スマイル》。
プロポーションと笑顔が、モデル選びの基準だった。
3日間で、158人をオーディションした。外人モデル。日本人モデル。ハーフ。クオーター。とにかく、水着に着がえた女の子がつぎつぎとオーディション・ルームに入ってくる。
彼女は、最後にやってきた。オーディション番号《ナンバー》158だ。
3日間のオーディションで、僕らはさすがに疲れはじめていた。緊張がゆるむ。ザワザワと雑談しながらオーディションしていた。
けれど、彼女が入ってくると、オーディション・ルームのザワザワがピタリとやんだ。
プロデューサーの吉川。ディレクターの僕。カメラマンの市村。助手の敏太郎。制作進行係の沢田。全員の視線が、水着姿の彼女に向けられた。
彼女は、思わず体を硬くする。3秒後、進行係の沢田が気づいて、
「あ、リラックスして、こっちへ」
と彼女を部屋のまん中に連れてくる。
「じゃ、まず正面からね」
とカメラマンの市村。彼女にポラロイド・カメラを向ける。
僕とプロデューサーの吉川は無言。カメラを向けられている彼女をじっと見た。
まず、脚。抜群に長い。まっすぐだ。スラリとしているが、ほどよく肉もついている。
もう少女ではない。が、女と呼ぶにはまだ早い。そんな年頃のプロポーションだった。
表情も明るい。麦わら色の髪。瞳《ひとみ》は薄いブラウン。
完全な白人ではなさそうだった。
僕は、進行係の沢田がくれた資料を見る。
〈カレン・横山。18歳。日本生まれ。日米のハーフ。身長166センチ。B《バスト》・87センチ。W《ウエスト》・60センチ。H《ヒツプ》・86センチ。仕事歴なし……〉
「まるで新人か……」
僕はつぶやいた。
「スカウトされてまだ2週間だそうです」
と沢田。僕は、うなずいた。新製品のコマーシャルだ。モデルも新人なら言うことはない。
「どうだい、ディレクターさん」
とプロデューサーの吉川。カレン・横山のポラを、僕の前にポンと放った。
「このプロポーションなら、文句はあるまい」
と言った。まるで自分がスカウトしてきたような口調に、僕は苦笑い。
「文句は、ないよ。この娘《こ》でいこう」
と言った。確かに、158人の中で、プロポーションも笑顔も群を抜いていた。もう少し遅ければ、どこかのキャンペーン・ガールに起用されていたかもしれない。
僕は、進行係の沢田に指示をする。
「モデル・プロダクションに連絡して、彼女のスケジュールを押さえろ」
ロケは、10日後から。ロケ地はハワイと決まっていた。
「彼女は、ロケの先発隊と一緒に連れていく。ロケの本番までの4、5日で、少し陽灼《ひや》けしといて欲しいからな」
沢田が、うなずきながらメモする。
ロケハンのために、メイン・スタッフは先にハワイ入りをする。4、5日遅れて、残りのスタッフがやってくる手はずになっていた。
「あと、キャンペーン期間中は、競合《バツテイング》する飲み物関係の広告に出ないこと」
と、プロデューサーの吉川。沢田がメモしていく。
翌日の午後。
「ちょっと問題が起きたんですけど」
と沢田。僕と吉川のところにやってくる。
「どうした」
「カレンのスケジュールなんですけど、9日後の出発だと、まだハイスクールが冬休みに入ってないんだそうです」
と沢田。
「学校か……」
と吉川。太い腕を組むと、
「そんなもの、休ませちゃえよ」
と言った。僕も、
「どうせ、これから売れっ子モデルになれるんだから、学校なんかいいじゃないか」
と言う。
「とにかく、明日の夕方、彼女が打合わせにくるから、当人と話してくれってモデル・クラブの方は言ってます」
と沢田。
翌日の4時。カレンは会社にやってきた。アメリカン・スクールだから、制服は着ていない。ラフなジーンズ・スタイルだ。
「学校なんか休めるんだろう?」
と吉川。
「このキャンペーンに出れば、あっという間にスターになれるぜ」
とカレンにせまる。
「勉強なんか、ハワイで僕らが教えてやるよ」
と僕も言う。そのとき、
「あの……ロケ……ハワイにいくの?」
とカレン。ほんの少し英語っぽい発音の日本語できいた。
「なんだ、きいてなかったのか。いいかげんなモデル・プロダクションだなあ」
と僕。
「ロケは、ハワイのオアフ島で、約10日間だ」
とカレンに言う。うつ向いていたカレンが、顔を上げた。その表情が、電灯のスイッチを入れたように明るくなっている。
「ハワイ……」
と、つぶやいた。しばらく無言。何か考えている。やがて、
「ハワイ・ロケなら……学校を休む」
と言った。僕と吉川は、顔を見合わせる。
「そりゃ正解だ」
と僕。
「ハワイは気持ちいいし、ステーキはうまいし」
と言いかけた吉川に、
「……そうじゃなくて……ハワイにいくんなら、1つ、お願いがあるんだけど……」
とカレン。
「パパ!? ……」
僕と吉川は、同時にきき返していた。
「パパを捜す?……」
と、カレンにきいた。カレンは、小さくうなずいた。
会社の向かいのカフェバー。カレンの前にはジンジャエール。僕と吉川は、もうビールだ。
「その……わけを、もっとくわしく聞かせてくれるかな……」
僕は、カレンに言った。彼女は、ジンジャエールのグラスを見つめたまま、うなずいた。
「……あの……私のパパは、兵隊だったの」
「兵隊……」
「そう。海兵隊《マリーン》で、横須賀《よこすか》をベースにしていたの」
「なるほど。で、ママは?」
「ママは、日本人なんだけど、横須賀ベースのPXで働いていたの」
とカレン。僕は、うなずく。
「で、その2人が惚《ほ》れ合って、結婚して、君が生まれた」
カレンが、うなずく。ジンジャエールをひとくち。
「最初はうまくいってたらしいんだけど……私が5歳になる頃、2人の間はダメになりかけていたのね……」
「やはり、アメリカ人と日本人だから?」
カレンは、首を横に振る。
「その理由は、ママが話してくれないからわからない。でも……そんな大きな問題がなくても、男と女ってダメになるでしょう?」
とカレン。僕は、軽く苦笑い。うなずく。ビールのグラスを口に運んだ。
「とにかく、私が6歳になる少し前、2人は離婚したの」
「…………」
「パパは日本を離れて、ママも横須賀を出ていったわ」
「…………」
「それから4、5年は、パパから私の養育費が送られてきてたけど、ママが再婚して、それも終わり……」
「……新しいパパは、日本人?」
カレンは、うなずく。
「とても優しくていい人よ……」
しばらくの沈黙。
「で、君が捜したいパパってのは、当然、古い方のパパなんだな?」
と吉川。〈古い方のパパ〉に、カレンは苦笑い。うなずく。
「そうか……。そのパパがハワイにいるってわけか……」
「たぶんね」
「やっぱり、米軍に?」
カレンは、首を横に振る。
「ママが再婚する前、お金と一緒にきてた手紙じゃ、ホノルルの警察に勤めているって」
「海兵隊から警察か……」
僕は、つぶやいた。ときどきあるコースだ。
「子供だったから、あまり良くは覚えてないけど、パパは背が高くて、いつも大きな拳銃《けんじゆう》を身につけていたわ……」
「拳銃?」
カレンはうなずく。
「記憶だと、拳銃の腕が良かったらしいわ。よくSPの仕事もやっていたし……」
SP……。ショア・パトロール。早い話、米軍の中の警察だ。
「パパの名前は?」
「ハリー・スチュワート」
「ハリーか……」
僕は、つぶやいた。ビールをひと口。
「背が高くて、拳銃の腕が良くて、まるでダーティー・ハリーだな……」
カレンが、微笑《わら》いながらうなずいた。
「ダーティー・ハリーの映画を観《み》るたびに思ってたわ。パパはきっと、あんな風に警官《ポリス》をやっているんだって……」
とカレン。
「で、そのハワイのダーティー・ハリーに会いたいと?」
「……ひと目、見るだけでもいいの」
「顔は? 覚えてる?」
カレンは、首を横に振った。少し悲しそうな表情。
「写真も、ママがみんな処分しちゃったし」
「そうか……」
「あ、でも、1つだけ、覚えてることがあるわ」
「っていうと?」
「パパの右眼の眼尻《めじり》に、大きなホクロがあったわ」
「ホクロか……」
「そう……私から見て左側だったから、まちがいない。子供だったあたしが、それを指でつまもうとして、いつもパパが笑ってたわ……」
とカレン。ふと、遠くを見る眼。
「ベースの中の小さな家だったけど、芝生《しばふ》がきれいだった……庭に小さなブランコがあって、私がのると、いつもパパが後ろから押してくれて……」
ひとりごとのように、カレンはつぶやく。
窓から入るきょう最後の陽ざしが、ビールのグラスを金色に光らせている。店のスピーカーから、B《ボズ》・スキャッグスのバラードが流れている。
「約束しちゃって、大丈夫なのか?」
と吉川。僕にきいた。
カレンが帰っていった後の店。僕らのグラスは、ビールからジン・トニックに変わっていた。
「約束って、カレンを父親に会わせるってことか?」
「ああ」
「ホノルル市警にいてフル・ネームがわかってるんだから、簡単に捜し出せると思う」
僕は言った。ホノルル市警には、知り合いの警官もいる。
海岸や公園でのロケでは、安全のため、よく警官にきてもらう。本職の警官が、ポリス・カーを運転して、アルバイトにきてくれるのだ。
「ハワイで父親に会わせるってのが、カレンに学校を休ませる条件だし、それに……」
そこで僕は言葉を切った。後は、吉川にもわかるだろう。言葉にしても意味のないことだ。僕らは無言でジン・トニックを飲みつづけた。
9日後。
僕ら先発隊は、ホノルルに飛んだ。ディレクターの僕。プロデューサーの吉川。製作進行の沢田。それにカレンだ。
現地コーディネーターのケンが運転するクルマで、空港から直接ホテルへ。チェック・インする。
ホテルのベランダから、カレンはホノルルの街を見渡す。
たち並ぶ高層ホテルの間で、ヤシの樹が揺れている。その葉が、透明な陽《ひ》ざしに光っている。THE・BUSと大きく描かれた路線バスが、ゆっくりと眼の下を走っていく。
「この街のどこかで、パパはポリスをやっているのね……」
カレンが、つぶやいた。その眼が、輝いている。
「君のパパ捜しは、とりあえず僕らにまかせろ。後発部隊がくるまでに、このベランダできれいに陽灼《ひや》けしといてくれ」
僕は言った。カレンは、白い歯を見せてうなずく。水着に着がえにバス・ルームに。
僕は部屋を出る。現地コーディネーターのケンと一緒に、ホノルルの街へ出ていく。
待ち合わせたクヒオ|通り《アベニユー》の店に、もうボブはきていた。店の前に駐《と》まっているポリス・カーでわかった。
ボブは現職の警官だ。白人。まだ20代の終わり頃。よくバイトでロケ現場の警備にきてくれる。気のいい男だ。
僕とケンは店のドアを押す。ボブは、ポッチギー・ソーセージの入った巨大なオムレツを片づけていた。
「やあ、ひさしぶり」
とボブ。大きな手で僕と握手。僕らは坐《すわ》ると、すぐに用件に入った。カレンの父親の件だ。話をきき終わると、
「それだけわかってりゃ、明日までに調べられると思う」
とボブ。
「よろしく頼む」
ニコリとうなずくと、ボブは店を出ていった。僕とケンは、撮影の打合せをはじめた。
「死んだ!? ……」
僕は、思わずきき返した。
翌日。午後。カピオラニ|通り《ブルヴアード》の〈タコ・ベル〉で、ボブと会ったところだった。
「ああ、そうなんだ」
とボブ。メモをとり出すと、
「ハリー・スチュワート。海兵隊を除隊後、12年前にホノルル| 市 警《ポリス・デパートメント》 に入る。日本での経歴もピタリと合ってる。100%、まちがいない。生きてれば、今年で43歳になる」
ボブは言った。
「いったい、なんで死んだ……仕事でか?」
「いや、プライベートだ。道路を渡ろうとして、ドライバーが大麻《パカロロ》をやってたトラックに轢《ひ》かれた」
「トラック……」
「ああ。バナナを運んでたトラックで、即死だった。10年前の9月だ」
とボブ。
「残念だな」
と言った。タコスをバリッとほおばった。
「どうする」
と吉川。俺にきいた。
ボブが出ていってから10分。僕らは黙りこくっていた。
「どうするんだよ」
吉川が、また言った。僕は答えるかわりに、アイス・ティーを飲み干した。立ち上がる。紙コップをゴミ箱に放り込む。
〈タコ・ベル〉を出る。吉川とケンも、後からついて出てくる。
遅い午後のカピオラニ|通り《ブルヴアード》。スケート・ボードの少年が、金髪をなびかせて走り過ぎていく。
1ブロック歩いたところで、僕は立ち止まる。吉川とケンにふり向く。
「代役を立てる」
と言った。
「代役だって?」
と吉川。ギョロ目をさらに丸くする。
「ああ……。そうだ」
僕は言った。
「父親にひと目でも会うっていうカレンの夢を、いまさらこわすわけにはいかない」
ケンが、うなずく。
「ホノルル市警でカッコ良く仕事をしてると思ってたのが、じつはバナナのトラックに轢《ひ》かれて死んでたなんてきいたら」
「ショックだろうなァ……」
吉川も、つぶやいた。
「そうなったら、カレンの表情からあの光が消えて、決していい絵も撮れないだろう」
僕は言った。
「とにかく、あの娘《こ》の夢は、絶対にこわしたくない……」
吉川とケンも、うなずく。
「嘘《うそ》も方便と言うが、こいつはまあ、タチのいい方便だろうなァ」
と吉川。おれを見て、
「で、具体的には?」
と、きいた。
「幸い、カレンは父親の顔を覚えてないってことだから、背が高い40代の白人男を代役に起用する」
「……そりゃいいが、右眼の下のホクロってのを忘れちゃいけないぜ、ディレクターさん」
と吉川。
「あ、そうだったなァ……」
僕は、つぶやいた。歩道のまん中で考え込《こ》む……。
しばらくして、ケンが、
「あ……そうだ」
と、つぶやいた。
「いたよ! 適役が!」
「誰だ!? 」
「ほら! トム、トム・大根さ」
「あいつか!」
僕も吉川も、同時に叫んでいた。
「彼、確か、右の眼尻《めじり》にホクロがあったと思う」
とケン。
「よし。さっそく見にいこう!」
僕らはケンのクルマに小走り。
トム・大根。本名は確かトム・ライアン。
だが、僕らの間じゃトム・大根で通っている。
白人。40代の中頃だろう。いちおう、ホノルルのタレント事務所に所属している。若い頃は、ニューヨークの演劇学校に通っていたという。
だが、そこの授業が悪かったのか本人の問題か、とにかく大根役者なのだ。
以前、1度だけコマーシャルに使ったことがある。が、NGを連発して、フィルムを2千フィートもムダにしてくれた。
ひとことで言って、何をやっても演技が大げさなのだ。やり過ぎで、カメラマンさえ吹き出させてしまう。
その2千フィート事件以来、1度もコマーシャルに使ったことはない。けれど、ハワイで男性役のオーディションをやると、必ずニコニコとやってくる。
本人の中じゃ、スターへの夢はまだまだ健在なのだろう。
もちろん俳優で食えるわけはない。本人に言わせれば撮影のない日、つまり365日のほとんど、ロイヤル・ハワイアン・ホテルでウェイターをやっている。
僕らは、ロイヤル・ハワイアン・ホテルに飛び込む。1階の海側。名前は忘れたが、よくいくレストランに入っていく。
トム・大根は、いた。僕らの顔を見ると、白い歯を見せた。確かに。右の眼尻にはっきりとしたホクロがある。
「仕事は何時まで、トム?」
とケン。
「あと30分かな」
と、トム。
「わかった。待ってる。本業の話だ」
ケンが言った。〈本業〉のひとことに、トムの顔がパッと明るくなる。
30分後。僕らは海に面したバー〈ショア・バード〉にいた。トムに、事情をすべて話した。
「ダーティー・ハリーか……」
トム。
「そう。なんとなく、それらしくやってくれりゃいいんだ。もちろん、いいギャラを払う」
と僕。
「で、その娘《こ》とは、どこで顔合わせを?」
「ロケ現場の警備にきたことにして、さりげなくね」
僕は言った。もし父親と会うことになっても、自分が娘だとは言わないで欲しい。カレンからそう頼まれている。
「そうか……ダーティー・ハリーか……大役だなァ」
とトム。腕組み。もう、すでにやる気になっている。
「え!!  見つかったの!?  パパが」
とカレン。
「ああ。ホノルル市警の刑事をやってる。バリバリの現役だ」
と僕。
「で……パパとは、どこで?……」
「ちょうど、撮影の日には警備が必要だから、彼と、もう1人、若い警官にきてもらうことにした」
「撮影日に……」
「そう。現場の見張り役をやってくれる。さりげなくていい会い方だろう?」
僕は言った。
3日後。ロケの後発部隊が着いた。カメラマンの市村をはじめ、撮影部が3人。照明部が2人。あとは、ヘア&メイクとスタイリストが1人ずつだ。
カレンのボディも、きれいなミルク・チョコレート色に灼《や》けていた。いよいよ、翌日から撮影がはじまることになった。
「おっ、ダーティー・ハリーの登場だ」
僕は、微笑《わら》いながら言った。
午前10時。ホノルルの東。カハラにある海岸公園《ビーチ・パーク》。
僕と吉川の前に、ポリス・カーが駐《と》まった。トム・大根と本物の警官のボブがおりてきた。ボブにも事情は話してある。トムのことを〈ハリー刑事〉と呼ぶようにちゃんと頼んでもある。
「決まってるじゃないか。トム」
僕は言った。トムは、ネクタイをしめて、ちょっとヨレた麻のジャケットを着込んでいる。
「トムじゃなくて、ハリーだろう」
とトム。微笑《わら》いながら言った。僕のそばにくると小声で、
「この3日間、ちゃんと役づくりにはげんできたからね」
と言った。上着の前を、
「ほら」
と、めくって見せた。わきの下。ホルスターに拳銃がぶち込んである。どうやら、映画でダーティー・ハリーが使っていたS《スミス》 & W《ウエツスン》 の44マグナムらしい。
「本物かい?」
「いや。友達に借りたモデルガンさ」
とトム。ニッと笑って見せた。
「ところで、その娘《こ》は?」
「もうそろそろくると思うけど」
僕が言ったとき、ケンの運転するヴァンがビーチ・パークの駐車場に入ってきた。僕らのそばで駐まった。スタッフが、ザワザワとおりてくる。
カレンは最後におりてきた。吉川がスタッフ全員に、
「きょうから撮影現場の警備をしてもらう、ハリー刑事とボブさんだ」
と紹介する。
カレンは、さすがに緊張した表情。ハリー刑事ことトムの方をチラリと見た。
撮影準備がはじまった。
ビーチ・パークは、コンクリートの駐車場が芝生《しばふ》につづいている。芝生のすぐ先は砂浜だ。海には、ウインド・サーファーが4、5人出ている。
ケンが芝生に折りたたみ式のチェアーをセットする。そこにカレンが坐《すわ》る。カレンの髪を、ヘア&メイクの晴美がセットしはじめる。
照明部が、反射《レフ》板をヴァンから出す。カメラ助手たちも、カメラやレンズの入ったジュラルミンのケースをヴァンからおろす。
僕とカメラマンの市村は、芝生に立って砂浜を見渡す。頭上の太陽を見上げる。カメラを組み立てるのは、撮影場所を決めてからだ。
ヤジ馬が何人か集まりはじめた。遠巻きにして僕らを見ている。僕と市村は、陽回《ひまわ》りを計算しながら、カメラ・アングルの相談をする。砂浜と芝生の両方で、ナワ跳びするカレンを撮る予定だ。現像してみて、いい方をオン・エアーする。
「芝生のカットは、午後から撮った方がいいかなァ……」
僕がつぶやいたときだった。
背中で、叫び声!
「泥棒!」
叫んだのは、スタイリストの圭子だった。
全員、ふりむく。
駐車場に置いてあったジュラルミンのケースの1つ、カメラの入ったやつ!
泥棒は、それをつかんで走っていく!
若いハワイアンだった!
Tシャツ。ショートパンツ。スニーカー。
ジュラルミンのケースをつかんで突っ走る。駐《と》めてあった青いピックアップ・トラックのドアを開ける。ケースを突っ込む。
自分もピックアップに乗り込む。エンジンは、あらかじめかけてあったらしい。
僕らは、そっちに駆けていく。
けど、ハワイアンのピックアップは、タイヤを鳴らしてスタート!
警官のボブの姿は見えない。
ピックアップは駐車場で大きくUターン! 道路の方に突っ走る!
逃げられる!
そのときだった。
走る人影!
猛スピードのピックアップの前に駆けていく!
トムだった。
わきの下から、モデルガンの44マグナムを引き抜きながら走る!
ピックアップの進路をふさぐ!
44マグナムを、両手でホールト。走ってくるピックアップに向けた!
急ブレーキ! タイヤの悲鳴!
トムの2メートル手前。ピックアップは、つんのめって止まった。
ハワイアンは、運転席の窓から顔を突き出す。
「轢《ひ》き殺すぞ! この野郎!」
と叫んだ。トムはビクとも動かない。クールな表情。44マグナムをかまえたまま、
「やってみろよ」
と言った。唇の端を少し曲げて、
「お前のクルマがあと1フィート動いたら、その頭をブチ抜いてやる」
と低く落ちついた声で言った。まるで、クリント・イーストウッドのダーティー・ハリーだった。44マグナムの銃口を、ピタリとハワイアンの顔に向けている。
「どうした。こいよ」
と、トム。クールに言い放った。
3秒……4秒……5秒……。
やがて、
「クソ!」
とハワイアン。手のひらで、クルマのステアリングを叩《たた》いた。
駆けてくる足音。公衆トイレの方から、制服のボブが走ってくる。
ピックアップのドアを開ける。ハワイアンを引っぱり出す。本職の警官らしく、手ぎわよく犯人の両手を後ろに回す。手錠をかける。ポリス・カーの後部シートに押し込む。
「そいつを、とりあえずブタ箱に放り込んできてくれ。置き引きの現行犯だ」
と、トム。ボブは運転席のドアを開けながら、
「了解、ハリー刑事」
と言った。
ポリス・カーは、ライトを点滅させながらビーチ・パークを出ていく。
吉川が、ホッと大きく息を吐いた。トムは、クールな表情のままだ。44マグナムをわきの下に戻しながら、
「さあ、みんな、仕事をつづけて」
と言った。その顔を、カレンがまぶしそうに見ていた。
1時間後。撮影の準備ができた。
カレンは、ピンクのビキニ。髪は、きれいなポニー・テール。ビキニのピンクに合う、同系色の口紅をつけている。まっ白いスニーカーをはいて、砂浜に立つ。背景の青い海。ピンクのビキニ。鮮かなコントラストだった。
照明部の2人が、反射《レフ》板で光をフォローする。カメラも、三脚にセットされている。盗まれないですんだ、アリフレックスだ。
「じゃ、こいつで、元気よく跳ぶんだ」
僕は言った。ナワ跳び用の白いロープを、カレンに渡した。うなずいて、うけとる。カレンの表情が晴れている。うまくいきそうだと僕は思った。
「じゃ、テストなし。ぶっつけ本番でいこう!」
僕は、スタッフに叫んだ。ストップ・ウォッチを握る。
「じゃ、本番! テイク|1《ワン》、いきます!」
と制作進行の叫び声。市村が、アリフレックスのファインダーに眼をつける。助手が絞りを確認する。
「本番! 用意!」
僕は叫んだ。アリフレックスが、ジャーッと軽快に回りはじめる。
「スタート!」
カレンの長い脚が、砂浜を蹴《け》った。
「なんにする?」
僕はトムにきいた。
「じゃ、バーボン・ソーダをもらおうかな」
とトム。僕はうなずく。バーテンダーに、バーボン・ソーダをオーダーする。
5日間の撮影は、無事に終わった。スタッフ全員の打ち上げが、はじまったところだった。
泊まっているホテルのプールサイド・バーだ。通常、プールサイド・バーは夕方の6時で終わる。そこを9時まで延長させて、貸し切りパーティをはじめたところだった。青さを残した空。シルエットで揺れるヤシの葉。ひょうたん形のプールには、エメラルド・グリーンの灯が入っている。バーのスピーカーからは、G《ジヨージ》・マイケルのバラードが流れている。
カレンは、こっちで買ったかわいいデザインのドレス。若いカメラ助手とスロー・ダンスを踊っている。そのカレンをながめて、
「本当にかわいい娘《こ》だ……」
とトムがつぶやいた。
「スターになるだろうね」
僕は言った。トムも、うなずく。
やがて、曲が終わった。カレンが、こっちに歩いてくる。トムに向かって微笑《ほほえ》むと、
「つぎに私の好きな曲をかけてもらうから、踊ってもらえる? ハリーさん」
と言った。トムは、小さくうなずいた。
「ああ……いいとも」
カレンは、カセット・テープを持ってバーのオーディオ・セットに歩いていく。
「明日のスターと、スターのなりそこないが踊る、か……」
トムが、苦笑まじりにつぶやいた。
「そんなことはないさ」
僕は微笑《わら》いながら言った。
「あの、泥棒に銃を向けたときの迫力なんか……」
「ダーティー・ハリー顔負けかい?」
「ああ。オスカーものだね」
と僕。トムは、また苦笑い。
オーディオから、曲が流れはじめた。D《デビー》・ギブソンの〈|Lost In Your Eyes《ロスト・イン・ユア・アイズ》〉だった。
「さあ、ハリー」
カレンがやってきた。ハリー刑事ことトムの手をとる。
2人は、プールサイドでスロー・ダンスを踊りはじめた。背の高いトムの肩に、カレンは顔をうずめるようにした。その眼には涙があふれているのかもしれないが、いまは見えない。その片手が、しっかりとトムの肩をつかんでいる。
そろそろ白いものがまざりはじめたトムの髪。だが、その背筋は、若々しく伸びていた。少くとも今夜は……。
空には、きょう最初の星。エメラルド・グリーンに光るプールの水面。カレンとトムのシルエットが、ゆっくりと揺れつづけていた。
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ビートルズが不意打ち
しまった。圭子がそう思ったときは、もう遅かった。カー・ラジオから、ビートルズの〈|The Long《ザ・ロング・》 |And Winding《アンド・ワインデイング・》 |Road《ロード》〉が流れはじめていた。圭子は、運転していたカルマンギアのステアリングを思わず握りしめた。
それは、圭子と貴行の思い出の曲だった。思い出の曲。そんな甘く柔らかな言葉は似合わないかもしれない。それほど心に痛い曲だった。この5カ月間、絶対に耳に入らないように注意に注意を重ねていたのに。油断していた。いや、アラ・モアナ|通り《ブルヴアード》の工事にぶつかったのが不運だった。
午後2時過ぎだった。圭子は住んでいるコンドミニアムの部屋を出た。地下駐車場からクルマで走り出した。ペパーミント・グリーンのカルマンギア。|屋根なし《コンパーチブル》だ。スーパー・マーケットにクルマを向けた。
アラ・モアナ|通り《ブルヴアード》に出て、渋滞に巻き込まれた。ホノルルの道路が、こんな時間に混んでいるのは珍しい。たぶん工事だろう。ラジオで情報を流しているかもしれない。あれ以来つけないことにしていたカー・ラジオを、圭子はつけた。FMの96MHZ。KRTRという局だ。
きょうもホノルルの空は青い。DJの声をききながら圭子は空を見上げた。そのときだった。ビートルズが流れはじめた。
貴行は、ハワイ生まれの日系三世だった。U・H(ハワイ大学)の2年生だった。知り合ったのは、友人のパーティーだった。ワイキキの端にあるコンドミニアム。そのラナイでバーベキューをやった。U・Hに留学してまだ2カ月の圭子も誘われて行った。コットンのワンピースを着て行った。
友人に紹介されたのが貴行だった。お互いバーベキュー・ソースがちょっとべたつく手で握手をした。貴行は、エリのかなりのびたTシャツを着ていた。ゴムゾウリだった。チキンをかじる歯が白く丈夫そうだった。すぐに意気投合した。貴行にとって少し不自由な日本語を圭子が教えることになった。逆に、留学したての圭子に、貴行が英語を教えてくれることになった。
ボロボロに錆《さ》びたワーゲンのアクセルをゴムゾウリでふみつけては、貴行は圭子の部屋にやってきた。部屋に入るとすぐに、キッチンの冷蔵庫を開けた。ミルクの1ガロン・ボトルからガブ飲みした。そして、明るく微笑《わら》った。
はじめてのキスは、たそがれのサンデイ・ビーチだった。貴行の唇は、ランチで食べたハンバーガーのケチャップの味がした。はじめて寝たのは、圭子の部屋だった。アメラグをやっている貴行の胸板は厚かった。終わると、枕もとのラジオがビートルズを流しているのに気づいた。〈|The Long 《ザ・ロング・》|And Winding《アンド・ワインデイング・》|Road《ロード》〉。おれ、この曲、好きなんだ。貴行がつぶやいた。なんか、おれたちのテーマ曲だな。圭子も、うなずいた。それ以来、何10回となくその曲をきいた。クルマで。ビーチで。ベッドで。
突然の知らせがあったのは、夜中の2時だった。ルート72で対向車のトラックと正面衝突して、お気の毒ですが。電話の声が、ひどく遠く感じられた。8月のハワイなのに、寒気が体中を走った。
貴行の墓は、カイルア湾《ベイ》を見渡す丘の上につくられた。質素な十字架。置かれたプルメリアの白が、海からの風に揺れていた。圭子は泣かなかった。ただ放心状態だったのかもしれない。同時に、泣いてしまうことで、貴行の死をどうしようもない事実として認めるのが嫌だった。放心状態でいたかったのだ。たぶん。
後ろから軽いクラクション。気づくと、クルマの列がゆっくりと流れはじめていた。圭子はウインカーを右に出す。クルマの列からはなれる。アラ・モアナ公園のすみに、カルマンギアを駐《と》めた。
ビートルズが、あい変わらず唄《うた》っていた。もう、スイッチを切ろうとは思わなかった。ヘッドレストに頭をもたれかける。空を見上げた。ホノルル名物の天気雨《シヤワー》が降りはじめていた。
クルマの幌《ほろ》もおろさず、圭子は空とヤシの樹を見上げた。ホテルの建物に、ヤシの葉先に、雨粒はキラキラと光りながら落ちてくる。ホノルルが一番美しい。こんなシャワーの中を、よく貴行と歩いた。雨を口でうけて笑った。圭子の中で何かが切れた。気づくと、涙が流れていた。5カ月分の涙が、後から後からあふれた。天気雨が、それを洗い流していく。圭子は静かに泣きつづけた。ただひとり〈|長くて曲がりくねった道《ロング・アンド・ワインデイング・ロード》〉を走り去っていった貴行に向かって、そっと、はじめての〈さようなら〉を言った。
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想い出はAマイナー・セヴン
午後7時。東京・赤坂。
TVSテレビの5スタ。
「はい! 以上でランスルー終わります!」
フロア・マネージャーの声が響いた。カメラに向かって並んでいた出演者たちが、ガヤガヤと散る。ランスルーとは、テレビ番組の最終リハーサル。このときはもう、出演者全員、本番と同じ衣装とメイクでリハーサルをやるのだ。
「では、1時間後が本番です。よろしく!」
とフロア・マネージャー。出演者たちは、ゾロゾロと5スタを出る。それぞれの控え室に戻っていく。
音楽番組だった。8時から9時までの生放送だ。
そして、あたしたちのバンド〈インコンプリート〉にとっては、はじめてのテレビ出演だった。
あたしたちは、テレビ局の曲がりくねった廊下を歩いていく。〈インコンプリート様〉と紙の貼《は》られた控え室にガヤガヤと入っていく。
本番まで1時間。
ドラムスの明子とベースの良美は、トイレに。リード・ギターの英理は、1弦と2弦のチューニングをやりなおしている。みんな、いつもより、少し神経質になっているのがわかる。
無理もないだろう。
あたしたちは、バンドを組んで3年。あちこちのライヴ・ハウスや小さなコンサートには、数えきれないほど出てきた。
でも、メジャーなテレビの音楽番組に出るのは、これがはじめてなのだから……。
あたしは、自分のギター、Fender《フエンダー》 のストラトをわきに置いた。ジージャンのポケットから、Salem《セーラム》 を出す。1本くわえた。
マネージャーの木村さんが、壁にもたれたまま、
「未菜《みな》子」
と、あたしに声をかけた。
木村さんは、ヴォーカルのあたしが煙草を吸うのを嫌っていた。マネージャーとしては、当然かもしれない。
けど、あたしの声はもともとしゃがれている。煙草にしたって、17の時からずっと吸っている。いまさら、どうってことはない。
「1本だけ、ね……」
あたしは、木村さんに言った。
「ほら、緊張をほぐすために」
と微笑《わら》いかけた。木村さんも苦笑。
「ほんとに1本だけだぞ、未菜子」
「はーい」
あたしは答えた。ポケットから、ジッポのオイル・ライターを出す。火をつける。煙を吐きながら、ふと、手の中のジッポをながめた。
それは、あの葉介が、あたしの誕生日にプレゼントしてくれた銀のジッポだった……。
〈これ……〉
とだけ、照れたように言った、あの日の葉介の表情を、あたしは想い出していた。指に Salem をはさんだまま、ぼんやりと、あの頃を想い出していた。
英理が、2弦を軽くチョーキングしながら、
「この番組って、全国ネットよねえ?」
と木村さんにきいた。
「もちろん」
と木村さん。スケジュール・ノートをめくりながら言った。
「じゃ、曲の前のしゃべりの時、〈カッちゃん、見てる!? 〉なんてカメラにVサイン出しちゃおうかな」
と英理。
「バーカ。お前ら、もういっちょ前のプロなんだからな」
「ジョークよ、ジョーク。笑って笑って」
と英理が木村さんに言った。
全国ネットか……。あたしは、胸の中でつぶやいていた。ということは、当然、あたしたちが生まれ育った街にもオン・エアされる。葉介も、おそらく、テレビで観ているだろう……。煙のゆくえをながめながら、あたしは思った。
あたしが葉介と出会ったのは、1年半前。正確に言うと、1年と5カ月前だ。
あたしたちの街の、貸しスタジオだった。
「そんなこと言われたって、困るわよ!」
英理の声が、貸しスタジオの受付に響いた。確か、水曜日。夜の8時だった。
この日の8時から11時まで、あたしたちは貸しスタジオを予約してあったのだ。
「どうしたの?」
あたしは、わきから英理にきいた。
「ああ、未菜子。スタジオの予約がダブッちゃってるんだって」
「ダブッちゃってる?……」
「本当に申し訳ない。こっちのミスで……」
と貸しスタジオのオジサン。ハンカチで顔の汗をふいた。
「でも、あたしたち、10日も前に予約入れてるのよ」
と英理。そのときだった。
「オレたちは2週間も前に予約してるんだぜ」
と男の子の声。
あたしたちは、ふり向いた。男の子が、5人いた。ギター・ケースを肩にかけてる子もいる。どうやら、彼らとあたしたちの予約がダブッてしまったらしい。
「そんなの関係ないでしょ!! 」
と英理は彼らに言った。
「まあまあ、そうケンカごしにならず」
とスタジオのオジサン。
「ほかに空いてるスタジオないのかよ」
と男の子の1人。
「それが、完全につまっちゃってて……」
とスタジオのオジサン。この街でも、バンド・ブームなのだ。
「じゃ、どうするんだよ、いったい」
と男の子の1人。きつい声を出した。そのとき、
「ないものはないんだから、しょうがないだろう」
という声がした。男の子たちの1人で、スッと背の高い子だった。いま思えば、それが葉介だったのだ。
「解決策は2つ。ジャンケンで決めるか、3時間を半分ずつ使うかだな」
と葉介。あたしたちは、顔を見合わせる。やがて、うちのドラムスの明子が、
「せっかくきて、1発も音を出さずに帰るってのは淋しいよ。半分ずつ使うしかないんじゃない?」
と言った。全員、なんとなく、うなずいた。
「あれ?……あんたたち……」
あたしは、思わずつぶやいていた。
夜の11時。あたしたちの練習が終わって、スタジオから出てきたときだ。廊下のベンチに、あの男の子たちが座っていたのだ。
「どうしたの?」
「いや……。オレらが先にスタジオ使わせてもらったんでさ」
「その礼といっちゃなんだけど、コーヒーぐらいおごろうか、なんて話したわけ」
と男の子たち。
「コーヒーだけ?」
「ハンバーガーぐらいつけなさいよ」
あたしたちは、笑いながら言った。
結局、あたしたちは近くのファミリー・レストランにいった。ワリカンで、夜食を食べたりビールを飲んだりした。
男の子たちも、あたしたちと同じぐらいの年齢《とし》。|20歳《はたち》をちょっと過ぎたあたりってところだった。お互いに、自己紹介をした。
あたしたち女の子バンドの名前は〈インコンプリート〉。英語で書けば〈Incomplete〉。
ベースの良美が、マドンナの〈ライク・ア・ヴァージン〉の歌詞から見つけてきた言葉だ。不完全とか、そんな意味らしい。
全員、高校時代に補導歴のあるあたしたちには、お似合いのバンド名だろう。
あたしたちがやっているのは、ストレートなロックだ。バラードも少しやる。
曲は、ヴォーカル&ギターのあたしと、リード・ギターの英理がつくっていた。
彼らのバンド名は〈クラウディ・スカイ・アフター・ザ・レイン〉だという。
雨上がりの曇り空。そんな意味だろう。
「くらーい」
「覚えづらーい」
と、あたしたち。
「そんなこと、さんざん言われてるから、オレら全然傷つかないもんね。ほっといて」
と男の子の1人。スパゲティを食べながら言った。彼らがやっているのは、ブルースっぽいロックだという。曲は、リード・ギターの葉介と、ヴォーカル&キーボードの修っていう子がつくっているっていう話だった。
やってる曲のタイプは少しちがっても、話はもり上がった。たとえアマチュアとはいえ、音楽をやってる者同士だ。閉店の午前2時まで、あたしたちはワイワイと音楽の話に熱中していた。
それから、葉介たちのバンドとあたしたちは、よく一緒になった。
まず、使う貸しスタジオが一緒だった。みんな昼間は大学にいったりバイトをしたりしてるから、練習は夜が多い。
夜の10時や11時。
お互いに練習を終えたあたしたちは、何か飲んだり食べたりしにいった。
そんな帰り道。あたしと葉介は、方向が同じだった。あたしは、自宅。葉介は1人で部屋を借りていた。けど、方向は同じだった。あたしの家の前まで葉介が送ってくれる、そんなことが多くなった。
初夏の帰り道。ゆっくりと歩きながら、あたしたちはポツリ、ポツリと話をした。
葉介の家は、旅館をやっていた。その旅館の名前は、あたしもきいたことがある。いわゆる老舗《しにせ》っていうやつだ。
「じゃ、本当はお坊っちゃんなんじゃない」
と、からかうあたしに、
「よせよ」
葉介は照れた。
「でも、葉介、長男なんでしょ? 後は継がなくていいの?」
「よかないさ。あとは妹がいるだけだしな」
「じゃ、親は音楽に反対?」
「もちろん。だから、バイトして、1人暮らしして、音楽やってるわけだ」
「ふうん、大変なんだ……」
「そう。未菜子みたいに親の出してくれるゴハンを食べてる身分じゃないわけ」
「そんな言い方、やめてよ」
あたしは、微笑《ほほえ》みながら口をとがらせた。
「これでも、家の中の立場、楽じゃないんだから」
あたしの父親は、かたいサラリーマンだ。
「当然、あたしにも、かたいOLになって欲しかったわけ」
「それがロック・バンドじゃ、勘当《かんどう》ものか」
「まあ、これで髪を染めたりしたら、窓から放り出されるわね」
あたしたちの笑い声が、夜道に響いた。
葉介とあたしのつき合いは、そんな風にして、静かに、おだやかにはじまった。ストーンズの〈|Time Is 《タイム・イズ・》|On My《オン・マイ・》 |Side《サイド》〉のイントロのギターみたいに、ゆったりと、あたしたちの恋のイントロも流れはじめた。
お互いのライヴも、聴きにいった。
ライヴといっても、無名のアマチュアだ。小さなライヴ・ハウスに、友達ばかり集めての演奏だった。
葉介のギターは、想像していたより、はるかに上手だった。それでも、1度だけミスをしたのが、あたしにもわかった。葉介は、あたしに向かってかすかに苦笑してみせた。
葉介たちが聴きにきた日。あたしも少しあがっていた。2度、コードをまちがえて、1度、声がひっくり返った。
はじめてキスをしたのは、練習からの帰り道だった。
あたしの家の前だった。門柱の陰だった。背の高い葉介は、少し体をかがめて、あたしはちょっとカカトをあげて、そっとキスをした。葉介の唇は、ペパーミント・ガムの香りがした。
「じゃ……」
と葉介は手を振って帰っていく。少し火照《ほて》ったあたしの頬《ほお》を、初夏の風がサラリとなで過ぎた。
はじめて葉介と寝たのは、彼の部屋だった。
〈ハイツ〉という名前がついているけど、マンションとアパートの中間みたいな部屋だった。
それでも、部屋はきれいに片づけられていた。
あたしたちは、白ワインをオン・ザ・ロックで飲み、買ってきたサンドイッチを食べ、ごく自然に彼のベッドに入った。
彼は、ギターほどには、そっちの方は上手じゃないみたいだった。けど、あたしも経験が浅いんで、あまりよくわからなかった。
それでも、彼の腕の中にいるのは、幸福な気分だった。
窓の外では、梅雨の最後の雨が降っていた。ときどき、稲妻が光った。彼の横顔や裸の胸が、稲妻の光に照らし出された。雷の嫌いなあたしは、雷鳴のたびに、彼の胸にしがみついた。
その夏は、最高にハッピーだった。
海に泳ぎにもいった。自転車の2人乗りで、陽ざしの中を走り抜けた。そして、よく、彼の部屋でお互いの曲づくりをやった。テーブルに向かい合って、あたしは自分の詞を書く。彼は、セミ・アコースティック・ギターでコードを弾きながら、自分の曲をつくった。
「ほら、中学生だった頃、よく友達の家で夏休みの宿題やったりしただろう?あれみたいだな」
葉介は笑いながら言った。
実際、ときどきは、お互いの詞や曲にアドバイスし合ったりもした。いい夏だった……。
2人のつき合いがギクシャクしだしたのは、10月に入ってからだ。
原因の1つは、あたしたち〈インコンプリート〉が、少しずつ売れはじめたことだ。
ライヴ・ハウスにも客が入るようになった。ライヴから声のかかる数も、ふえてきた。
それに比べ、葉介たちのバンドは、あい変わらず売れなかった。
同じミュージシャンの卵だけに、そんなことが、少しずつ2人の関係をギクシャクさせていった。
お互いに若かった。青かったのだ……。
決定的だったのは、あたしたちに東京のプロダクションから声がかかったことだ。
その夜。葉介の部屋。
あたしは、詞を書いていた。英理がつくったメロディーに詞を後づけしていた。タイトルは、〈エンドレス・サマーなんて信じない〉。こんな詞になっていた。
好きだと言ったのはあなたで
愛してると言ったのは私
KISS ON THE BEACH
真夏だったのね
そんな夏 いつまでもつづくと
エンドレス・サマーだと思ってた
でも
秋風が恋を吹き消したいま
わかるの
エンドレス・サマーなんて信じない
ここからサビに入る。はじめのコードは、Aマイナー・セヴン。
あの夏をもう1度
とり戻したい
でもそれは無理なこと
LONG LONG
GOOD-BYE
TO YOU……
そこまで書いたときだった。のぞき込んだ葉介が、
「そのサビ頭のAマイナー・セヴンのところ、〈夏〉よりも〈日々〉とかにした方がいいんじゃないか?」
と言った。
あたしにも、わかっていた。|1《ワン》コーラス目に、夏とかサマーとかの言葉が出すぎている。ここは〈あの夏〉より〈あの日々〉の方がいい。
でも……でも……その瞬間のあたしは、素直に葉介の言葉をきけなかった。いま思えば、つまらない意地をはったのだ。口論になった。そして、
「ほっといて!」
あたしは言った。書きかけの譜面《スコア》をつかんで、葉介の部屋を飛び出した。
それから、気まずい電話が4、5回。最後に会ったのは、夕方のコーヒー・ショップだった。
冷めたコーヒーを間に、お互いに黙っていた。店を出て左右に分れた。黄色い枯れ葉が夕陽の中で散っていた。
1カ月後。あたしたちは東京に出ていった。プロとして、本格的に活動しはじめた。
東京にきてすぐだった。葉介のバンド仲間だった修から電話があった。
「葉介が、バンド、やめちゃったんだよ」
「……どうして……」
「やっぱ……未菜子とのことがショックだったみたいだし……オレたちのバンド自体、かなりいきづまってたからなァ……」
「で……葉介は、ほかのバンドに?」
「いや、家の旅館を継ぐみたいなこと言ってたけど……」
「そう……」
それ以上、言葉が出なかった。
8カ月後。あたしたちのファースト・アルバムがリリースされた。
シングル・カットしたアップテンポの1枚目は、あまり売れなかった。
けど、シングル・カットした2枚目が、予想外に売れはじめた。あの〈エンドレス・サマーなんて信じない〉だ。
あっという間に、チャートを上昇した。あたしたちは、インタビューに追われるようになった。東京に出てきて約1年がたっていた。
その頃、また、修から電話があった。
「すごいヒットじゃないか。こっちじゃ、みんな大騒ぎだぜ」
そんな話の後、あたしは、ポツリと、
「あの……葉介は、元気かなァ……」
と、きいた。しばらくの沈黙……。
「後継《あとつ》ぎもサマになってきたみたいでさ……近いうちに結婚するって噂《うわさ》だよ」
と修。
「結婚……」
あたしは、受話器を握りしめた。
「ああ……。いずれ未菜子の耳にも入ると思うんで言っちゃうけどさ、本当みたい」
「そう……」
電話機のプッシュボタンの9を、あたしは意味なくぼんやりと見つめていた。
「未菜子! 本番だよ!」
英理が、あたしの肩を叩《たた》いた。あたしは、ハッとわれに返る。ギターをつかむ。立ち上がった。
カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。
明子が、スティックを鳴らして合図《カウント》を出す。演奏がはじまった。あたしは、ギターを弾きながら、せいいっぱい唄《うた》いはじめた。
4台のテレビ・カメラが、あたしたちを狙《ねら》っている。あたしは、|1《ワン》コーラス目を唄いながら、葉介に語りかけていた。
〈あのときはゴメン……あたしが、ほんのちょっと素直になればよかったのに……あなたの方が正しかったのに……〉
曲はサビに入る。コードはAマイナー・セヴン。
〈あの夏をもう1度〉のところ、あたしは〈あの日々をもう1度〉と唄っていた。けどメンバーは演奏に夢中で気づかない。
いいのだ。テレビを観ている葉介が、もし気づいてくれれば、それでいい……。
〈あなたの言った通りにしてみたわ……遅すぎるけど……〉
あたしは、また、葉介に語りかけていた。
ギターのフレットひとつ、半音をミスしたぐらいのことでダメになってしまったあたしと葉介……。
若過ぎたのだ、お互いに。
涙がにじむ。
テレビ・カメラも、フロア・マネージャーの姿もにじむ。
あたしは、唄いつづけた。
やがて2度目のサビがきた。
あの日々をもう1度
とり戻したい
でもそれは無理なこと
LONG LONG
GOOD-BYE
TO YOU……
涙声になるのを必死でこらえて、あたしは力いっぱい唄いつづけた。
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悲しきチャイナ・ガール
くるな……。
と思ったら、やっぱり、きた。
ジェフの片手が、あたしの肩に回された。タンクトップから出ているあたしの細い肩。ジェフのがっしりとした手が、優しく置かれた。
あたしは、反射的に体を硬くした。
ホノルル。土曜夜《サタデイ・ナイト》の10時。
街中の灯を見渡せるタンタラスの丘。
駐《と》めたジェフのHONDAに、あたしは乗っていた。
エンジンは切ってある。ライトも消してある。ただ1つ、ついているカー・ラジオはFM局のKRTRにチューニングしてある。スロー・バラードをよくやる局だ。いまも、D《デビー》・ギブソンの〈|No More《ノー・モア・》 |Rhyme《ライム》〉を静かに流していた。窓の外。ホノルルの夜景がまたたいていた。
ムードとしては、申し分ない。
当然のように、ジェフの片手があたしの肩に回される。
最初は、そっと。やがて、しっかりと。あたしの肩を、ゆっくりと抱き寄せようとした。けど、あたしは、体の力を抜かなかった。そのまま。体を硬くして、助手席《サイド・シート》に坐《すわ》っていた。
「どうした、リー」
とジェフがきいた。
あたしの名前は、麗《リー》琴《チイン》。フルネームで言うと、星《シン・》 麗《リー》琴《チイン》。
ホノルルで生まれ育ったチャイナ・ガールだ。
16歳。ハイスクールの11年生。日本式に言えば、高校2年生ということになる。
あたしのいるハイスクールじゃ、東洋人は少数派だ。みんな、リーチィンなんて発音しづらいんで、略してリーと呼んでいる。
ジェフは、また、
「どうした、リー」
と小声できいた。あたしは、何も答えず。うつ向いていた。やがて、肩にかかったジェフの手から力が抜ける。手が、はなれる。
「ま、1回目のデートじゃ、しょうがないか」
とジェフ。軽い調子で言った。
確かに、1回目のデートだった。
お互いに、かなり前から意識はしていた。
放課後。ジェフが走り高跳びの練習をしているのを、あたしはよくながめていた。
そのせいかどうか、学校の廊下ですれちがうと、ジェフはあたしにチラッと白い歯を見せた。
電話がきたのは4日前だった。
〈もし、土曜日の夜、ほかの約束がなかったら、ビリヤードにいかないか?〉
電話の向こうで、ジェフの声が、少し緊張していた。女の子と遊びなれてる感じではなかった。
〈ええ。今度の夜は、特に約束はないけど〉
ジャスミン・ティーのカップを片手に、あたしは電話の向こうのジェフに答えた。
〈でも、あたし、ビリヤードなんか、1度しかやったことないけど……〉
〈いいさ、教えてやるよ〉
受話器から響くジェフの声は、頼もしかった。
そして今夜。あたしたちは、カピオラニ|通り《ブルヴアード》の〈ビリヤード・ガーデン〉にいった。
走り高跳びほどじゃないけど、ジェフはビリヤードが上手だった。そこの常連とやっても、めったに負けなかった。あたしは、あまりジェフのじゃまをせず、|7《セブン》ナップ片手にながめていた。
真剣に玉を突いてるジェフの横顔は、なかなか素敵だった。
やがて、ビリヤードにあきると、あたしたちは、このタンタラスの丘にやってきた。観光名所でもあり、夜はもちろんデート・ゾーンだ。
「ま、しょうがない」
とジェフ。また、
「はじめてのデートだしな」
と言った。クルマのエンジンをかける。ゆっくりと、クルマを回す。HONDAは、丘の道を下りはじめた。ホノルルの灯が、窓の外をゆっくりと動いていく。
あたしは、胸の中でつぶやいていた。
ごめん、ジェフ。
キスできなかったのは、1回目のデートだからじゃないの。
特別な事情《わけ》があって……。
あたしの家は、中華レストランだ。
ワイキキのはずれ。クヒオ|通り《アベニユー》の西寄りにある。
うちの苗字《みようじ》が〈星〉。そしてパパはアメリカ合衆国の市民権を持つチャイニーズだ。
あたしが物心ついたとき、店の名前はもう〈星条飯店〉だった。
店の窓ガラスには〈|Chinese 《チヤイニーズ・》|Restaurant 《レストラン・》|Stars 《スターズ・》|And Stripes《アンド・ストライブス》〉と描かれている。
さすがに星条旗は立てていない。
小さいわりには清潔で明るい店だった。
昔は、店名のせいか、アメリカ兵やアメリカ本土からの観光客が多くきたという。
けど、どんどん、日本人の客が多くなってきた。
本格的な中華レストランは、だいたい、ダウンタウンにある。観光客には危険だとされている場所だ。
おかげで、ワイキキのホテル街から歩いてこれる〈星条飯店〉には、どんどん日本人観光客がくるようになった。あたしが、まだ5、6歳の頃だ。
そこで、まちがいその1が起こった。
日本人観光客たちが、メニューに餃子《ギヨーザ》がないと不満を言いはじめた。
パパは、最初、首をひねったという。もともと、中国じゃ、餃子ってのは全くの家庭料理。レストランのメニューにのるようなものじゃないらしい。
そして、つぎに、まちがいその2が起こった。
あたしのママは、10代の終わりまで日本に住んでいたチャイニーズだった。
日本人の餃子好きを、よく知っていた。
そして、日本式の餃子のつくり方も……。
中国の餃子は、皮の中にニンニクは入れない。おまけに、ほとんどが水餃子だ。
ママは、ニンニクをたっぷり入れてつくる日本式焼き餃子の存在を、パパに教えた。
そして、〈星条飯店〉式の餃子が完成した。
ニンニク。ニラ。豚肉。キャベツ。そして、それだけは本場中国のやり方をとり入れて煎《い》り卵を入れる。
そして、まちがいその3。
この焼き餃子が、あっという間にうちの人気メニューになってしまったのだ。
観光ガイドにも〈ハワイで餃子が恋しくなったらこの店!〉などと、紹介されるようになってしまった。
忙しくなったのは、ママだ。
チャイニーズのパパは、どうにも、日本式のニンニク餃子がうまくつくれない。パパがつくると、どこか違った味になってしまうのだ。
餃子づくりは、ママの仕事になった。10歳ぐらいになっていたあたしも、毎日、手伝った。すぐに、ママと同じ味の餃子がつくれるようになった。餃子の遺伝子ってのがあるのかもしれない。
学校から帰るなり、ママと2人で、餃子の皮をこねて、中の具をつくった。
ママの体調が悪い日は、あたしが1人で餃子をつくった。
その頃から、ママは頭痛で仕事を休むことが多くなっていた。
そして、3年前。
ハロウィンの2日前。
ママは急死してしまった。
何回きいても覚えられない病名だった。とにかく、脳の中の病気だったらしい。
あっけなかった。
お葬式の日、ホノルルの空は眼に痛いほどの快晴だった。涙は、海からの風がすぐに乾かしていった。
それに、パパとあたしには、ゆっくりと泣いている余裕なんかなかった。
店は、休むわけにはいかない。あたしは、学校から帰ってくるなり、ママにかわって何百個という餃子をつくらなければならなかった。
パパとあたしと、コック見習いの羅《ロー》は、汗だくで働いた。忙しく働くことで、感傷的にならないですんだ。
もちろん、ママのことは、しょっちゅう思い出す。
働きづめだったママ。
店がもっと繁盛したら、郊外のカハラあたりに、庭つきの家が欲しい。小さな庭でもいいから、プルメリアの木を植えたいね。パパイヤの木もいいね。あれなら狭い庭でも植えられるしね。
そんなことを話しながら、厨房《キツチン》で餃子の皮を練っていたママ……。
思い出せば、胸の中をひんやりとした風が吹き抜ける。枕《まくら》が濡《ぬ》れていた朝もあった。けれど、とにかく、あたしは毎日、たくましく餃子をつくりつづけていた。
そして、店を開ける前に、味見をしてみなければならない。最低でも4、5個は焼いたものを食べてみないと、でき具合がわからない。
そこなのだ!
問題は!
たとえ、きょうみたいなデートの日でも、夕方、餃子を食べる。しかも、ニンニクとニラがたっぷりと入ったやつだ。
これじゃ、キスなんかできるわけない。
なんで、中華レストランの娘になんか生まれちゃったんだろう……。近づいてくる〈星条飯店〉の灯《あか》りを見ながら、あたしは思った。
やがて、ジェフのHONDAは店の前に駐《と》まる。ジェフが、ドアを開けてくれる。あたしは、おりる。
「今夜は楽しかったよ」
とジェフ。形どおりのセリフ。
「もしよかったら、また近々、デートできるかな?」
「……もちろん」
あたしは答えた。ペパーミント・ガムを噛《か》んだまま。
「じゃ、ね」
とジェフに手を振る。もう〈CLOSED〉のプレートがかかっている店に入っていく。
厨房《キツチン》。パパと羅が、後片づけをやっていた。あたしの姿を見ると、
「やあ、お帰り」
パパが言った。
〈ただいま〉あたしは胸の中で答える。冷蔵庫を開ける。冷やしたジャスミン・ティーを出す。コップに注ぐ。後ろ手に冷蔵庫のドアを閉めながら、
「ねえ……もうそろそろ、餃子のつくり方を覚えたら?」
とパパに言った。パパはお皿を洗いながら、
「つくってはみるんだけど、どうしても、ママやお前がつくるようにはできなくてなァ」
と言った。黙々とお皿を洗っている。そう言われると、しかたない。あたしは、パパの後ろ姿を見ながら、コップを口に運んだ。
「ねえねえ、どうだった?」
とクラスメートの由美。並んで歩きながらきいた。
「どうだったって、何が?」
「デートに決まってるじゃない。ジェフとの」
由美が言った。放課後だった。あたしと親友の由美は、校庭を歩いていた。由美は日系人だ。東洋人が少ない高校だから、どうしても親友は東洋人ということになってしまう。
「どうってことないわよ」
あたしは言った。
「ふうん。で、どこまでいったの?」
と由美。
「どこって、タンタラスの丘よ」
「そんなこときいてないわよ。ほら、あっちの方、どこまでいったの?」
「まずまずね……」
あたしは、力のない声で答えた。その横顔をのぞき込んで、
「そうか……。ジェフは、あんまり手が早くなかったわけだ」
「まあね……」
あたしは、ペパーミント・ガムを噛《か》みながら、ボソッと言った。
「あっ……噂《うわさ》をすれば彼よ」
と由美。校庭を指さした。遅い午後の陽《ひ》ざし。鮮かなグリーンに光る芝生。そのグラウンドで、陸上部が練習をやっていた。高跳びのセッティングもされている。いま、ちょうどジェフが跳ぶところだった。
バーの高さは、どのぐらいだろう……。180ぐらいか、190か……。
ジェフは、バーをにらむ。力をため込む。ゆっくりと助走開始。2歩、3歩、4歩……助走のスピードが上がる。
そして、ジャンプ! 189センチのスラリとした長身がしなる。長めの金髪が揺れる。背面跳び! 5センチは余裕を残して、ジェフはバーをクリアー。四角いラバーの上に落ちる。
「やっぱり、ジェフって素敵……」
となりで、由美がつぶやいた。
立ち上がったジェフが、あたしに気づいた。手を振る。こっちに駆けてくる。
「やあ」
と白い歯を見せた。確かに、トム・クルーズばりのハンサムではある。ジェフは、となりにいる由美にも笑顔を見せる。あたしに向きなおると、
「あの、今度の土曜なんだけど、なんか予定ある?」
と、きいた。
「別に、ないけど……」
「そうか。良かった。カイルアにある友達の家でパーティーがあるんだけど、一緒にいってくれるだろう?」
「パーティーに、エスコートしてくれるの?……」
「もちろん。でも、そんなフォーマル・パーティーじゃないから、そのぐらいのかっこうでいいよ」
とジェフ。あたしの服装をながめて言った。きょうは珍しく、ジーンズやショートパンツじゃない。ベネットンで買ったノースリーブのワンピースを着ていた。
「じゃ、土曜」
とジェフ。あたしの返事もきかずに、グラウンドの方に駆《か》けていった。
「嫌よ」
あたしはパパに言った。
「餃子なんか食べないわ」
きっぱりと言った。
土曜の4時〈星条飯店〉のキッチン。パパが、自分でつくった餃子の味見をして欲しいと言う。
「嫌よ。6時には、ジェフが迎えにきて、パーティーにいくんだから」
あたしは言った。
「おとといから言ってあったでしょう、パパ」
「……だから、自分でつくってみたんだが、これだけは、いまひとつ、味に自信が持てなくてなァ」
と、コック・スタイルのパパ。オールバックにしたゴマ塩頭をかいた。
「……しょうがないわねェ……」
あたしは、ため息。
「じゃ、ひと口だけよ」
あたしは言った。パパが焼き上げた餃子を、1個、おはしでつまむ。ひと口、かじる。
「…………」
ちがう……。皮の練り方や焼き方はいい。けれど、かんじんの中身の味が、どこかちがう……。やれやれ……。
「しょうがないなァ……」
あたしは、つぶやきながら大きなため息。ワンピースの上にエプロンをかける。ニンニクを刻みはじめた。結局、ジェフが迎えにくるまでの2時間で、7個の餃子を食べるはめになってしまった。
カイルアでのパーティーは、にぎやかで楽しかった。けど、問題は帰り道だった。
ジェフは、クルマをサンデイ・ビーチの駐車スペースに駐《と》めた。また、肩を抱いてきた。
男の子としては、当然だと思う。けど、あたしは、1回目と同じ。ジェフの誘いに応えられなかった。
エンジンをかけながら、
「硬いんだな……」
ジェフが言った。その声も、硬かった。1回目のときとは、明らかにちがう。皮肉っぽいニュアンスがあった。ジェフは、ちょっと乱暴にサイド・ブレーキをはずす。海岸の駐車スペースからクルマを出した。
「ねえ、それってパパがわざとやってるんじゃないの?」
と由美。腕にサンターン・オイルを塗りながら言った。
翌日の日曜日。午後。あたしと由美は、アラ・モアナ海岸《ビーチ》で、日光浴をしていた。あたしは、餃子とキスの問題を、由美に打ちあけたところだった。
「ねえ、本当にわざとじゃましてるんじゃないの?」
と由美。
「うちなんかも大変よ。ボーイフレンドから電話がきても、あたしがバスを使ってたりすると、パパったらそのまま切って、知らん顔してるんだから」
「本当?」
「そうよ。年頃になった娘の父親なんて、そんなものだって」
「そうかァ……」
あたしは、つぶやく。脚にサンターン・オイルを塗る。
パパがわざと……。ほんの少しだけど、そんなことも考えたことがないわけじゃない。そりゃ、娘が心配なのは、わかる。でも、そこまでして……。
「よーし」
あたしは言った。とにかく。
「今度という今度は、絶対に餃子なんかとオサラバだ」
「そうよ。そうしないと、一生、餃子の皮をこねてることになるわよ」
由美が言った。
「ねえ、ちょっと背中に塗ってくれる?」
ジェフの3度目の誘いは、ドライブ・イン・シアターだった。
「土曜日、あたしは、いないものと思って」
あたしは、パパにきっぱりと言った。
「え!!  ギックリ腰!? 」
あたしは、思わず羅にきき返した。デートのある土曜日。午後2時だ。
「そうなんです」
と羅。
「さっき、|小エビ《シユリンプ》のいっぱい入った箱を、冷蔵庫に入れようとして持ち上げたとたん……」
「で?」
「ご主人は、|2階《うえ》で寝てます。今日も餃子は、お嬢さんにつくってもらうようにと……」
あたしは、唇をかんだ。餃子の皮を練って、麺棒《めんぼう》でのばす。それは、〈腰で皮をのばす〉と言われる。それほど、腰を中心に使ってやる仕事なのだ。
「ギックリ腰……」
あたしは、つぶやく。羅にふり向いて、
「本当でしょうね」
と言った。視線がきつかったんだろう。羅は、とまどった表情。
「ご本人じゃないからわかりませんが……たぶん本当だと……」
と羅。口ごもる。
「まったくもう!」
あたしは2階をニラみ上げる。麺棒をつかんだ。
「いけませんよ、お嬢さん! お父さんを殴ったりしちゃ」
と羅。
「殴ったりしないわよ!」
あたしは言った。小麦粉を練りはじめる。
「ひとのデートの日に、わざわざギックリ腰になんかならなくてもいいじゃない!」
怒りを込めて、麺棒で餃子の皮をのばす。そのけんまくに、羅があっけにとられて見ている。
3度目のデート。
ドライブ・イン・シアターの帰り道、ジェフがクルマを駐めたのは、カピオラニ公園の暗い道路だった。
デートに出かける前、リステリンで嫌というほど口をすすいだ。デートの間じゅう、ガムを噛んでいた。
でも、やはり、ダメだった。
キスしたとたん、餃子の臭《にお》いたっぷりのゲップでも出てしまったら……。そう思うと、やはりダメだった。
ジェフは、抱き寄せるのをあきらめて、あたしの肩から手をはなす。
「あのさ……」
とジェフ。軽くため息まじりに、
「おれ……あんまり好かれてないのかなァ……」
と言った。あたしは、あわてて、
「そ、そんなんじゃなくて……」
と言いかける。
「じゃ、なんなんだい」
「…………」
答えられなかった。
ジェフは、 クルマをゆっくりと出す。カー・ラジオが皮肉にも〈|I Miss You《アイ・ミス・ユー》〉を流しはじめた。あたしの家に着くまで、お互いにひとことも口をきかなかった。別れぎわの、
「おやすみなさい」
の声は、われながら引きつっていた。
夜中の店。
あたしは、ひとり、テーブルにヒジをついていた。冷蔵庫から出したビールを飲んでいた。中国製の青島《チンタオ》ビールだ。
なんでチャイニーズなんかに生まれたんだろう。ふと思った。
いつもは、自分がチャイニーズであることに一種の誇りを持ってたはずなのに……。
思わず、涙がテーブルにこぼれそうだった。あたしは、顔を上げる。グラスのビールを一気に飲み干した。
「ねえ、あれ見てよ」
由美が言った。1時間目の授業が終わったばかりの廊下だ。
ジェフに、同級生のリサがべったりとくっついていた。リサは白人。派手な顔立ち。金髪。グラマー。とても同じ16歳には見えない。
リサは、何かジェフに話しかけている。親しげに、腕をつかんで話しかけている。ジェフも、まんざらじゃない顔。2人は、何か約束でもしてる雰囲気。
やがて、2時間目のベルが鳴った。リサは、指でジェフに投げキス。自分の教室に小走り。
「ねえ、やめようよ、由美」
あたしは言った。けど、
「ほっといたら負けよ。こういうことはハッキリしなくちゃ」
と由美。あたしの腕をグイグイと引っぱっていく。さすが、パールハーバー・アタックをやった日本人だ。勇ましい。
あたしと由美は、学校の食堂《カフエテリア》に入っていく。セルフ・サービスでいろんなものをとってくる方式のカフェテリアだ。
お昼だから、混み合っていた。けど、
「あそこよ!」
と由美。テーブルについているリサを見つけた。人をかき分ける。そっちに突進していく。
リサは、白人の女の子たちとワイワイお昼を食べていた。その前に、由美は立った。
「ちょっと、あんた」
とリサに言う。
「何よ」
とリサ。
「泥棒猫みたいなマネ、やめなさいよ」
「泥棒猫!? 」
「そうよ」
と由美。あたしをふり向いて、
「ジェフは、このリーとつき合ってるの知ってるでしょう。横からちょっかい出すの、やめなさいよ」
と言った。リサも仲間も、立ち上がる。リサは、ニタニタしている。あたしをながめて、
「そんなに大事な彼氏なら、金庫にでも入れておけば」
と言った。
「いいこと。ここは自由の国なんですからね」
とリサ。あたしの鼻先に指をつきつける。またニタニタして、
「だいたい、あんたみたいなガキッぽい娘《こ》に、ジェフはもったいないわよ」
と言い放った。
「ガ……ガキ……」
思わず絶句する。
「そうよ。ズバリでしょう」
とリサ。あたしがはいてる水玉のフレアー・スカートを指さすと、
「その下には、オシメでもはいてるんじゃないの」
と言った。
「オ……オシメ……」
あたしは、口をパクパクさせた。リサの仲間たちから笑い声が上がる。体の中で、何かがプツンと切れた。
「そんなものはいてるかどうか、見せてあげるわよ」
あたしは言った。
回し蹴《げ》り!
羅に教わったカンフーの技だ。
フレアー・スカートを大きくひるがえして、蹴りを飛ばす!
リサの頬《ほお》に当たった!
リサは横に吹っ飛ぶ!
テーブルの上に転がる! 誰《だれ》か食べていたハッシュド・ビーフに、顔を突っ込んだ! 茶色いドロドロが、リサの顔一面にへばりつく。
「それ、新しいメイク?」
言ってやった。
とたん! 後ろからエリ首を引っぱられた。
ふり向いた。
その顔面に、何か、ぶつけられた!
グシャッと顔に!
どうやらレモン・パイらしかった。両手の指で、眼のあたりをぬぐう。
リサの仲間の娘《こ》だ。あたしを見て、ゲラゲラと笑っている。そのエリ首を、あたしは左手でつかんだ。
右手で、そばにあったスパゲティ・ボロネーゼの皿を持つ。相手の頭にぶっかけてやった!
ミートソースが、髪や顔にドロドロと流れる。
後はもうメチャクチャだった。
ハンバーガーが飛んだ。タコスが飛んだ。クラブハウス・サンドイッチが飛んだ。コーヒー・ゼリーが飛んだ。
「やめろ!」
と叫びながら入ってきた教師の顔に、流れ弾ならぬフィッシュ・バーガーが命中した。
|通り雨《シヤワー》が、クヒオ|通り《アベニユー》を濡《ぬ》らしていた。天気雨だ。雨粒が、キラキラと陽ざしに光っている。
路上駐車しているペパーミント・グリーンのカルマンギアが。
ヤシの葉が。
原色のビキニを並べているショーウインドウが。
みんな天気雨に濡れていく。
こんな明るくて、でもちょっとセンチメンタルなホノルルが、あたしは好きだ。
観光客たちは、ホテルやレストランの入口で雨やどりしている。けど、あたしは雨の中を歩いていた。
ちょうどいいシャワーだった。髪についたクリームがスパゲティのソースが、洗い流されていく。何か、さっぱりした気分だった。ジェフのことは、きっぱりとあきらめよう。縁がなかったのだ。
そう思うと、気が楽になった。
さすがに、ヨレヨレの濡れネズミなんで、裏から家に入る。
濡れた服を脱ぎ捨てる。本物のシャワーを浴びる。新しいTシャツとショートパンツを身につける。
びしょ濡れで歩きつづけたんで、さすがに体の芯《しん》が冷えている。
熱いジャスミン・ティーを、大きなカップ一杯つくる。それを持って、店のキッチンをのぞいた。
パパの後ろ姿が、見えた。
斜め後ろ向き。調理台に向かっている。あたしは、それを、そっと見ていた。
パパは、おはしで何か口に運んでいた。どうやら、焼いた餃子らしい。それを、ひと口、かじる。噛《か》みしめる……。
やがて、パパは、キッチンのすみに置いてある、額に入ったママの写真を見る。ママに向かって肩をすくめる。苦笑い。
「うまくいかんなァ……」
と、つぶやいた。ママの写真に、また苦笑いを投げかける。
「私がこれをうまくつくれないせいで、あの子には迷惑のかけっぱなしだよ……」
ポツリと、つぶやいた。
ジャスミン・ティーは唇を、パパのつぶやきはあたしの胸を、熱くさせた。
ああ……やっぱり、パパはわざと恋のじゃまをしていたわけじゃないんだ……。それなりに、日本式の餃子をマスターしようと、努力してたんだ……。
あたしはパパの背中に、
「迷惑なんかじゃないわよ」
と声をかけた。パパが、ふり向いた。
「帰ってたのか……」
「さっきね」
あたしは、ティー・カップを持ったままキッチンに入っていく。
「気にしないで、まだ当分は、あたしが餃子をつくるから」
あたしは言った。そのときだった。羅がキッチンに顔を出した。
「あの……お客さんなんですけど……」
「お客?」
とパパ。
「ええ……餃子の注文で……」
「餃子?……」
あたしは、つぶやいた。店の方に首を突き出した。
ジェフが、ひとり、テーブル席にいた。
「由美から、みんなきき出したんだ」
とジェフ。
「君は毎日、餃子を食べなくちゃならなくて……それで、キスをさせてくれないってこと……」
「あの、おしゃべり……」
「そう言うなよ。おかげで事情がわかったんだから」
とジェフ。
「で、毎日、餃子の皮と格闘している、あわれな娘を見物にきたわけ?」
「それもあるけど、いま注文したとおり、食べにきたのさ」
「食べに?」
「ああ……。おれも餃子を食っちまえば、臭うのはお互いさまだろう?」
とジェフ。ニコッと白い歯を見せた。
「…………」
あたしは、無言、言葉が、行方不明だ。うまく見つからない。
「とにかく、この店の自慢の餃子を2人前、いや3人前だ」
とジェフ。
「…………」
やがて、あたしは苦笑い。小さく、うなずいた。
「でも、ちょっと時間がかかるわよ」
「いいさ。君が仕事をしているところを見物してるよ」
あたしは、また苦笑。キッチンに入っていく。ジェフも、のそのそとキッチンに入ってくる。あたしは、Tシャツの上にエプロンをかけた。パパが羅に、
「ほら、店の前の掃除と、窓ガラス拭《ふ》きだ」
とさしずする。羅は、うなずいてキッチンを出ていく。
「さて……豚肉が足りなくなりそうだから、オアフ市場《マーケツト》までちょっといってくるよ」
とパパ。あたしに言った。ジェフにチラッと笑顔を見せる。キッチンの裏口から出ていく。
やがて、うちの古いピックアップ・トラックのエンジンがセキ込みながらかかる音。
ピックアップのエンジン音は、遠ざかっていく。キッチンには、2人だけになった。
「パパったら、もっと近くに肉屋があるのに、わざわざ、気をきかせたつもりで遠いダウンタウンの市場までいったりして……」
あたしは、つぶやいた。
「その好意には甘えるのが親孝行ってものだぜ」
とジェフ。後ろから、エプロンをかけたあたしの体を優しく抱きしめた。
開けてあるキッチンの窓。ホノルルの空が見える。雨上がりの空。ホテルの建物に、たそがれの陽ざしが当たっている。ヤシの葉が、ゆったりと風に揺れている。キッチンのラジオが、M《マイケル》・ジャクソンのラヴ・バラードを流している。
あたしは、そっとふり向いた。眼の前に、ジェフのアゴがあった。
眼を閉じる。ジェフが、長身を少し曲げる。あたしは、ちょっとカカトを浮かす。
ささやかなファースト・キス……。3秒……4秒……5秒……。
唇をはなす。
ジェフは、あたしのウエストに腕を回したまま、
「ジャスミン・ティーの匂《にお》いがする」
と、つぶやいた。
「チャイナ・ガールだもの」
ほんの少し胸を張って、あたしは言った。
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ホノルル・シティライツ
あたしは、大きく息を吸い込んだ。せいいっぱいの声で、
「ニュース・ペイパー!」
と叫んだ。
「ニュース・ペイパー! ニュース・ペイパー! スター・ブリテイン!」
と、つづけざまに叫ぶ。
つながってるクルマの列にそって歩きはじめた。
ホノルル。
アラ・モアナBLVD《ブルヴアード》。
夕方の4時半。
あたしは、道路で新聞を売りはじめたところだった。
ウイークデイのこの時間、アラ・モアナBLVDは、ちょっとした通勤ラッシュになる。ダウンタウンのオフィス街から、ホノルル郊外へ帰るクルマでかなり混《こ》む。
ホノルルの中でも、ここは気分のいい道路の1つだろう。
アラ・モアナ海岸《ビーチ》から吹く風が通りを渡り、頭上にはヤシの葉が揺れている。
海に沈む夕陽《ゆうひ》が、通りをパイナップル色に染めている。歩いている観光客の顔も、ジョギングしている人の顔も、ステアリングを握るドライバーの顔も、パイナップル色に染まっている。
時間がバラードで流れている。そんな大通りを、クルマはゆっくりと流れていく。
そして、信号ストップ。
あたしたちの、稼ぎ時だ。
このあたりの新聞売りは、男の子が3人、そして女の子はあたし1人。
夕刊を、どっさりと左腕にかかえる。
「ニュース・ペイパー!」
と声をはり上げる。信号ストップで止まっているクルマの列にそって歩いていく。
タンクトップ。ショートパンツ。素足にL・Aギアのスニーカー。腰にウエスト・バッグをつけている。これは、日本人の観光客からしっけいしたアイデアだ。中には、おつり用の|25セント玉《クオーター》や|10セント玉《ダイム》が入っている。
客は、かなり多かった。
ハワイじゃ、たそがれのこの時間、窓を開け風を通しながら走っている人が多い。そんなクルマのドライバーから声がかかる。ただ手で合図する人もいる。
気づくと、あたしは小走り。そのクルマに駆け寄る。夕刊を1部渡す。50セントをうけ取る。
そのくり返し。
信号が青に変わる。クルマがゆっくりと動き出す。
何かに、大通りをいくクルマの列を〈リバー〉と呼ぶと書いてあったけど、上手な言い方だとあたしも思う。ゆっくりと流れる川みたいに、クルマは動きはじめる。つぎの信号ストップまで、あたしたち新聞売りは歩道で待つのだ。
あたしは、腕の時計をチラリと見た。
そろそろ、あの人がくる時間だった……。
「君!」
という声。若い男の声だ。
あたしは、新聞をかかえたままふり向いた。
通りにポリス・カーがとまっていた。ホノルル市警のポリス・カーだった。警官が1人、おりてきたところだった。おりてきた警官は、まだ若い。|20歳《はたち》ちょい過ぎってところだろう。紺の制服も、ま新しい。新米にちがいない。
新米警官は、
「ちょっと、君」
と言いながら、あたしの方にやってきた。
「何よ」
左腕に新聞をかかえたまま、あたしは言った。
「ちょっとききたいことがあるんだ」
と警官。
「後にしてよ。いま、商売の最中なんだから」
「すぐにすむ」
「後にしてよ」
「そうはいかないんだ」
と警官。ムッとした顔。あたしの正面に立った。やれやれ、しょうがない……。
「何よ」
「ちょっと、IDカードを見せてくれないか?」
なんのために……。あたしは、突っぱねようかと思った。けど、考えなおす。もめていたら時間のムダだ。早いとこ追っ払うに限る。
あたしは、ショートパンツのポケットから身分証明書を出した。警官に渡す。
「ええと、名前はヒロ・ナカハラ……ルーズベルト高校《ハイ》の12年生か……」
と警官。12年生ってのは、日本で言えば高3にあたる。
「この、名前のヒロってのは、ハワイ島のヒロからとったのかい?」
「そうよ」
あたしは、ブスッと言った。
パパは、確か、ヒロの出身だった。のんびりしたヒロの町がすごく好きだったらしい。自分の娘に、そんな名前をつけるぐらいだから……。それにしても、
「関係ないでしょ、そんなこと」
あたしは、口をとがらせた。
「それより、なんの用なの?」
警官は、あたしの身分証明書を持ったまま、
「ここで新聞を売りはじめて、どのぐらいになるんだ」
と、きいた。
「もう3年よ」
〈あんたが、警察学校で拳銃の掃除のやり方を教わってる頃から、ここで新聞を売ってたのよ〉
と言ってやろうかと思った。もう少しで口に出すところだった。
「3年か……」
と警官。
「ちょっと、そのウエスト・バッグの中を見せてくれないか」
と言った。
「どうして! 捜査令状でも持ってるの!? 」
と、にらみつけるあたしに、
「なんなら、強制的に調べてもいいんだ。君がやってる道路での商売は、厳密に言えば違法なんだからね」
と警官。あたしは言葉につまった。確かに、そうなのだ。
「わかったわよ」
あたしは言った。ウエスト・バッグのチャックを開けた。警官は、バッグの中をのぞく。小銭をかき回してみる。
「わかった。いいよ」
「いったいなんなの?」
「このところ、新聞を売りながら同時に大麻《パカロロ》を売る連中がいるんだ。警察に苦情も入ってる。それで、ちょっと調べて回ってるわけさ」
と警官。そういう噂《うわさ》は、あたしもきいたことがある。でも、
「おかどちがいね。残念でした」
警官の手から、IDカードを引ったくる。
「気がすんだら、さっさといってよ。あんな所にポリス・カー駐《と》めといたら商売のじゃまよ」
早口で言った。
「わかったわかった」
と警官。ちょっと苦笑い。ポリス・カーに歩いていく。
やれやれ……。あたしは深呼吸。アラ・モアナBLVD《ブルヴアード》を見渡した。
クルマの流れは、あい変わらず、ゆったりとしている。信号が、黄色から赤に変わった。クルマが、つぎつぎに止まる。
一番端の車線。1台のホンダが徐行してきた。オフ・ホワイトのアコードだ。
あの人だった。
いつもより、10分ぐらい遅い。仕事場から出てくるのが遅れたのか、ダウンタウンあたりの渋滞に巻き込まれたのか……。
アコードは、信号ストップ。あたしのすぐ近くで止まった。あたしは、そっちに歩いていく。
開けっぱなしの窓。日系人の男の人が、1人で乗っている。
もう、40代の後半だろうか。白髪《しらが》のまざった髪を、きれいに分けている。渋いアロハ柄のボタンダウン・シャツを着ている。ノーネクタイだ。
「やあ」
と彼。陽《ひ》に灼《や》けた顔の中で、目尻《めじり》に笑いジワができる。
彼の名前は知らない。ホンダ・アコードに乗っているから、あたしは、心の中で〈ミスター・ホンダ〉と呼んでいた。
Mr.ホンダは、クルマの窓から|25セント玉《クオーター》を2個さし出した。
いつも通りだ。けっして、1ドル札を出したりしない。いつも、おつりなし。あたしの手間をはぶいてくれているようにも思える。
「どうも」
あたしは、50セントをうけとる。夕刊をMr.ホンダに渡した。
「きょうのビッグ・ニュースは?」
とMr.ホンダ。いつものようにきいた。
この2年半、毎日、〈きょうのビッグ・ニュースは?〉ときくのだ。
「そうねえ……あい変わらず、東西ドイツの統合が話題みたい。それと、円とドルの相場のことも」
あたしは答える。あらかじめ、夕刊をめくっておいた。見出《ヘツドライン》と、大きな記事は読んでおいたのだ。
「そうか……東西ドイツか……」
とMr.ホンダ。
「大きな歴史の流れなんだろうなァ……」
と、つぶやく。
「ありがとう。それじゃ」
と、あたしに手を振った。あたしも、
「どういたしまして」
と、白い歯を見せる。信号が変わった。Mr.ホンダのアコードは、ゆっくりと出ていく。流れるように、ホノルルのたそがれに走り出していく。
彼のことは、何も知らない。
3年前、あたしがここで新聞売りのバイトをするようになって半年目ぐらい。ふと気づくと、Mr.ホンダは、毎日、あたしから夕刊を買うお客になっていた。
ほかの男の子が彼のクルマにいっても、Mr.ホンダは新聞を買わない。あたしからだけ買うのだ。
そして、〈きょうのビッグ・ニュースは?〉ときくようになった。最初の頃、あたしは何も答えられなかった。それが恥ずかしくて、いつからか、新聞のヘッドラインを読むようになっていた。
彼に、きょうのビッグ・ニュースを教えるようになって、もう2年半が経《た》つ。
Mr.ホンダは、だいたい、決まった時刻にダウンタウンの方向からやってくる。どこかのオフィスに勤めているらしい。
それ以上は、何も知らない。
知らないけれど、気になることがある……。ずっと気になっていることが……。
あたしは、遠ざかっていくMr.ホンダのクルマをじっと見つめていた。
キイッ。キイッ。
自転車の車輪のあたりから、きしむ音がきこえる。どこか、オイルぎれか、錆《さ》びつきはじめているらしい。近いうちに調べなきゃ。ペダルをふみながら、あたしは思った。
たそがれの道路。あたしと自転車の影が長い。
ホノルルの北寄り。マノア。
U・H、つまりハワイ大学のキャンパスの近く。カハラみたいに高級住宅地じゃないけど、静かな住宅地だ。
そのマノアに、あたしの家はあった。
ペパーミント・グリーンの平屋。ささやかな家だ。
家の前庭に、自転車を乗り入れる。ポーチの前で自転車をとめた。
ポーチのわき。ブーゲンヴィリアの花が、きょう1日の陽《ひ》を浴びて、少しぐったりとしている。
あたしは、錠を開けて家に入っていく。
まだママは帰っていない時間だった。あたしは、リビングを抜ける。右側のママの部屋にそっと入った。
部屋の一番奥。籐《とう》の引き出しがあった。5段の引き出しは、ママのブラウスやなんかが入っている。
その一番上を、あたしは静かに引き出した。
ママのTシャツ類がぎっしりと入っている。その下から、あたしは木の額《がく》をとり出した。
四角い、小さめの額だった。ガラスの中に写真が入っている。だいぶ古い写真だろう。かなり色のあせたカラー・プリントだった。
この家の前だった。まだ若いママが、ダンナさんと並んで写っている。
白いドレスのママ。
そして、白いタキシード姿のパパ……。その優しい笑顔は、あのMr.ホンダによく似ていた……。
ママとパパが離婚したのは、あたしが2歳のときだという。もちろん、覚えていない。物心ついたときは、ママと2人暮らしだった。
どうして離婚したの? そうきくあたしに、ただ性格が合わなかっただけよ、とママは言った。その話には、触れたくなさそうだった。
パパの写真も何もかも、この家にはなかった。
けど、つい半年前。
あたしのTシャツが1枚、行方不明になった。ママの方にまぎれていないか捜そうと、この引き出しを開けて手を突っ込んだ。そして、この額を見つけたのだ。
最初は、ただ、その写真をながめていた。
はじめて見たパパの顔だから、ちょっと不思議だった。
優しそうな若い日系人だった。細かい所を見れば、あたしに似ていなくもない。
そして、何回か見ているうちに、気づいた。あのMr.ホンダに似ているのだ。どこか、面影が似ているのだ。
もちろん、写真のパパは若い。肌もピンとはって、髪もまっ黒だ。
Mr.ホンダは、白髪《しらが》っぽいし、肌にもシワがある。
でも、それは年齢のせいだ。顔の輪郭。優しい眼もと。実によく似ている……。
それに気づいたときは、さすがにショックだった。いろいろ思いめぐらしてしまった。Mr.ホンダが、離婚したあたしのパパだったら……。
そう言えば……。Mr.ホンダが、あたしから新聞を買いはじめた頃、1度だけ、
「君の名前は?」
と、きいたことがある。あたしは、何気なく、
「ヒロ・ナカハラよ。パパが|ハワイ島《ビツグ・アイランド》のヒロ出身なんで、そんな名前をつけたらしいの」
と言った。
けど、思えば、その時、Mr.ホンダの表情に何かが走ったような気がする。はっきりと断言はできないけど、いま思えば、そんな気がする……。
万が一、あたしの想像が当たっていたとすると、その時、Mr.ホンダは、あたしが自分の娘だと気づいたことになる。
とすると、彼がいつもあたしから新聞を買う理由もわかる。
けど、それはやはり仮定でしかないのだ。
本人に直接きくことも考えた。けれど、いまのところ決心がついていない……。
あたしは、軽くため息。額を、そっと引き出しの奥に戻した。
家を出る。自転車にまたがる。あたしは、近所の公園に向かって、ゆっくりと走りはじめた。
ドサッ。
あたしは、売れ残りの新聞を芝生《しばふ》の上に置いた。
近所の公園。もう夕方だから、誰もいない。少し涼しくなった風に、ヤシの葉がカラカラと揺れている。きょう最後の陽《ひ》ざしが、真横から射《さ》している。芝生の1本1本が、陽ざしに光っている。
あたしは、芝生の上に腰をおろした。
売れ残った新聞から、1部をとる。読みはじめた。
あたしは、新聞の売り残しが多い。
もともと不器用なのかもしれない。ほかの男の子みたいに、押し売りっぽくできないせいかもしれない。とにかく、毎日、かなり売れ残る。
あたしたち新聞売りは、販売店から新聞を買いとってくる。だから、売れ残っても返すわけにはいかない。その分、稼ぎが減るだけだ。
けど、売れ残るものは、しかたない。
いつ頃からだろう。あたしは、売れ残った新聞を読むくせがついていた。
あのMr.ホンダが、きょうのビッグ・ニュースは、ときいてくる。
それに答えるために、売りはじめる前にヘッドラインだけには目を通す。そうしているうち、記事の中身にも、自然に興味がわいてきたみたいだ。
新聞を読むのがいいことか悪いことか、あたしはよくわからない。
けど、政治や歴史や経済の成績が、この2年でかなり良くなった。
それは、悪いことじゃないだろう。
いま、世界のあちこちで、いろいろドラマティックなことが起きている。そんな出来事を、面白《おもしろ》いと思うようになってきた。
これも、悪いことじゃないだろう。
なんせ、クラスの女の子たちときたら、まず新聞なんて読まない。
話題といったら、決まりきっている。男の子。デート。ディスコ。服。お化粧。そんなことばかりだ。
この前、中国の天安門《てんあんもん》事件があったときだって、クラスの女の子のほとんど知らなかった。ひどいものだ。
あたしだって、このバイトで、Mr.ホンダと出会わなければ、やっぱり、そんな女の子の1人だったんだろう。
ハイスクールを出たら、どこかワイキキのお土産《みやげ》屋の店員にでもなって、ほどほどの相手と結婚するんだろう。
それはそれでいい。
でも、いまは、もう少しちがう将来もあるような気がしてきた。
それが、いったい何なのか、はっきりとはわからないのだけど……。
あたしは、夕刊をすみずみまで読み終える。
芝生に仰向《あおむ》けになる。両手を頭の後ろで組んで、空をながめた。
夕陽が、ヤシの葉先に光っている。その向こうに、ピンクがかった雲が浮いていた。あたしは、それをじっとながめていた。
自分の明日は。来年は。10年後は。そして、夢は……。そんなことを、ぼんやりと思い描いていた。
家に戻る。もう、あたりは薄暗い。
リビングの電気がついている。ママが、帰っているらしい。
ママの名前はケイコ・ナカハラ。日系二世だ。カピオラニBLVD《ブルヴアード》のオカズ屋で働いている。キンピラゴボウや魚のフライを売る仕事だ。帰りは、だいたい今頃になる。
あたしは、家のドアを開けた。リビングに入っていく。まず目に飛び込んできたのは、脱ぎ捨てられたママの靴だった。
くたびれて、カカトの外側が減っているローヒールが、脱ぎ捨てられていた。
片方がリビングの入口に、もう片方が、そこから1メートルぐらい先に転がっていた。その先には、ブラウスが落ちていた。その先には、スカート……ストッキング……。
どうやら、ママは、また酔っぱらっているらしい。
あたしは、ママの部屋のドアを、そっと開けた。
スリップ姿のママが、ベッドで寝ていた。うつぶせで眠っている。部屋が少しお酒臭い。
子供の頃、ママがお酒を飲むのがすごく嫌だった。面と向かってどなったこともある。
けど、ハイスクールに入った頃から、そうでもなくなった。ママの気持ちも、少しはわかるようになった。
結婚の失敗。そして、いまは、単調で変わりばえのしない仕事……。飲みたくなるのも、しかたないのかもしれない。
あたしは、ママのベッドにそっと近づいていく。
ママは、口を少し開いて寝込んでいた。その髪にも、白いものがまじりはじめていた。
あたしは、床に落ちているタオルケットをとった。ママの体にかけてあげる。
電気を消し、そっと部屋を出た。
「すごいじゃない、ヒロ」
とクラスメイトのジャニス。あたしのテスト・ペイパーをのぞき込んで言った。
水曜日。午後。クラスが終わったところだ。
先週、政治のテストがあった。そのテスト・ペイパーが返ってきた。それを手に、あたしたちはガヤガヤと教室を出ていくところだった。
98点。
あたしの成績だ。
「信じられないわ」
とジャニス。あたしたちは、校舎から陽《ひ》ざしの中へ出ていく。
「ねえ、ヒロ。大学にいこうと思わないの?」
ジャニスがきいた。
「大学ねえ……」
あたしは、つぶやいた。
「だって、お金がないわよ」
と言った。ママがキンピラゴボウを売ってもらうお給料は、ささやかだ。その上、半分近くはお酒に消えていく。あたしが新聞売りのバイトで稼ぐお金も、せいぜい小遣いだ。とても大学なんて……。
「でも、奨学金があるじゃない」
とジャニス。
「カハナ財団の奨学金があるじゃない」
と言った。カハナ財団は、大学にいきたいけどお金がない人に、奨学金とお小遣いまでくれるのだ。
「けど、あれはテストがひどく難しいのよ」
あたしは言った。
「でも、ヒロの成績ならうかるわよ」
とジャニス。
「まさか」
あたしは苦笑。
「そろそろバイトにいかなくちゃ」
とジャニスに手を振った。
「おい、ちょっと」
後ろで、ガラの悪い声がした。あたしはふり向く。
男の子が2人、突っ立っていた。
夕方。アラ・モアナBLVD。あたしは、きょうの新聞売りを終えたところだった。売れ残りの新聞を、自転車のカゴに入れた。帰ろうとしたときだった。男の子たちが声をかけてきた。
「何よ」
あたしは、自転車にまたがって言った。
男の子たちの顔は知ってる。ときどき、この通りで新聞売りをしている子たちだ。やはり高校生だろう。2人ともハワイアンだった。
「ちょっと相談なんだが」
と男の子の1人。
「新聞売りなんてケチなことより、もっといい稼ぎがあるんだけど、やらないか?」
と言った。体格のいいやつだ。太い腕に、サメの刺青《いれずみ》をしていた。
「いい稼ぎって何よ」
「わかってるだろう。大麻《パカロロ》さ」
「パカロロ?」
「そう、やることは簡単」
と、もう1人の野球帽をかぶったやつ。
「新聞を売りながら、ちょっと客に声をかければいいんだ。客がのってきたら、あとはオレたちがやる」
と野球帽。あたしは、そのずるそうな眼を、正面から見た。そして、
「嫌よ」
と言った。
「嫌?……」
と野球帽。
「そうよ。誰があんたたちの手下になんかなるもんですか。わかったら、さっさと帰ってママのオッパイでもしゃぶったら?」
あたしは言った。
「なんだと!? 」
と刺青をした方のデカいやつ。
「このジャップ!」
と言いながら、あたしの太ももを蹴《け》った。特大のステーキみたいなゴムゾウリで、蹴られた。
あたしは、自転車にまたがって、片足を地面についていた。それを真横から蹴られて、自転車ごと転んだ。
思わず悲鳴を上げた。片足が、自転車の下敷きになっていた。
もがく。
そこへ、
「ふみつぶしてやる!」
と刺青のやつ。特大ゴムゾウリが、顔に迫ってくる!
そのときだった。
「ヤバい!」
と野球帽のやつ。
「ポリスだ!」
と叫んだ。刺青のやつも、そっちを見る。
「ズラかれ!」
と刺青。やつらは、バタバタと駆け出していく。あたしは、首を回して見た。ポリス・カーがとまったところだった。ドアが開く。駆けおりてきたのは、この前の新米警官だった。
「とりあえず、お礼を言うわ、ええと……」
「ボブだ」
と新米警官。
「じゃ、ありがとう、ボブ。あたしは」
「知ってるよ。ヒロ・ナカハラ。ルーズベルト高校《ハイ》の12年生」
ボブは言った。記憶力はいい方らしい。
あたしたちは、キング|通り《ストリート》のタコ・ベルにいた。店の人は、ボブの制服姿を見ると、タコスを1個おまけしてくれた。
あたしは、ヒザを曲げて顔に近づける。ヒザは、ちょっとスリむけて、血がにじんでいた。あたしは、傷口をなめる。
「やつら、なんだって君を蹴り倒したんだ」
とボブ。チキンのタコスをかじりながらきいた。よく見れば、あいきょうのある顔をしている。
「ただのナワバリ争いよ」
あたしは言った。
パカロロのことは、心の引き出しにしまい込んだ。あの2人だって、結局は貧しい高校生なんだ。すき好んでパカロロ売りをやってるわけじゃないだろう。
「本当かい?」
とボブ。
「本当よ」
あたしは言った。アイス・ティーをストローで飲む。
話題を変えたかった。
ちょうど、好きな曲が店に流れはじめた。
〈|Honolulu 《ホノルル・》|Citylights《シテイライツ》〉
ハワイだけでヒットした曲だろう。男2人のデュオだ。ホノルルの街の灯を歌ったバラードだった。
実際、ホノルルの街明りはきれいだ。高層ホテルの明り。すぐ北側の丘にまたたく街灯や家の明り。クルマの明り。沖に浮いてる船の明り。そして、星たち……。
そんなホノルルの美しさを、ゆったりとしたテンポで歌っている曲だった。
「この曲、好き……」
あたしは、つぶやいた。ストローで、アイス・ティーの氷をゆっくりとかき回した。
「ああ、僕も好きだ」
ボブが言った。タコスをかじる手をとめる。曲を聴いている。
「ソースが、ついてるわよ」
あたしは、テーブルの紙ナプキンをとる。ボブの唇の端についてるチリ・ソースをふいてあげる。ボブは、ちょっと照れ笑い。頬《ほお》が赤くなった。
「きょうのビッグ・ニュースは?」
Mr.ホンダがきいた。
「ヒューストン・サミットね」
あたしは答えた。答えながら、夕刊を1部、手渡した。
「そうか、サミットがはじまるんだっけなァ」
とMr.ホンダ。
「アメリカと日本の輸出入問題が最大の焦点だって書いてあるわ」
あたしは言った。
「なるほど」
とMr.ホンダ。|25セント玉《クオーター》を2枚、あたしに渡す。
「ありがとう。じゃ……」
と微笑《ほほえ》んだ。
信号が変わった。Mr.ホンダのアコードは、ゆっくりと動き出す。わたしは、アコードの後ろ姿をながめる。ナンバー・プレートに、目をこらした。
〈ALOHA STATE〉の文字。そして、その下にあるナンバーを読みとる。記憶する。
アコードが見えなくなって、あたしはメモ紙とボールペンをとり出した。ナンバーを書きとめた。
「クルマの持ち主を調べる?」
とボブ。ピッツァを口に運ぶ手が、ピタリと止まった。カラカウアAVE《アベニユー》のドミノス・ピッツァ。あたしとボブは、テーブル席で向かい合っていた。
「警官だったら、簡単に調べられるでしょう? クルマのナンバーから持ち主の名前ぐらい」
あたしは言った。ナンバーを書いたメモを、テーブルに置いた。
「そりゃそうだけど……いったい、なぜ……」
とボブ。
あたしは、ダイエット・コークをひと口。ノドを湿らす。ポツリ、ポツリと、話しはじめた。かくしだてしても、しょうがない。本当のことを話す。ボブは、真剣な表情できいている。やがて、話し終わった。
「そういうわけで、知りたいの。その人が本当にパパなのかどうか……」
あたしは言った。目の前にあるピッツァ。その上にのってるペパロニを、フォークでいじくり回しながら、
「どうしても知りたいの……」
と、つぶやいた。しばらくして、
「わかった……」
ボブが言った。
「そういう事情なら、協力してもいいだろう」
と言った。
「本当に? やってくれるの?」
「ああ」
ボブは、テーブルの上のメモをとった。
「どのぐらいでわかる?」
「たぶん、明日にはわかると思う」
その夜は眠れなかった。
「わかったよ」
とボブ。
わたしと並んで坐《すわ》った。
翌日。日没の頃。アラ・モアナ海岸《ビーチ》。砂浜の端に、木のテーブルとベンチがある。あたしは、そのベンチに坐っていた。売れ残りの新聞は、テーブルに置いてある。
「ほら、これだ」
とボブ。1枚の紙を、あたしにさし出した。鉛筆の走り書き。
トシヒコ・キスギ
1944年生まれ
そう書いてあった。住所はカネオヘ……。あたしは、その紙を、じっと見つめた。白い紙は、夕陽《ゆうひ》の色に染まっている。
やっぱり、そうだった……。
家の近所の人に、いつかきいたことがある。あたしのパパの苗字《みようじ》は、キスギ。珍しい名前だから、よく覚えていた。正確な年齢は、知らない。けど、だいたい合っている。
やはり、そうだったんだ……。あたしは、走り書きの文字を、じっと見つめていた。
「どうだった。君のパパだったかい?」
とボブ。あたしは、ハッとわれに返る。とっさに首を横に振っていた。
「ちがったみたい……」
と言った。なぜだか、わからない。けど、とっさにそう言ってしまった。
「そうか……ちがったのか……」
とボブ。
「残念だな……」
あたしは、小さくうなずいた。
「でも、とにかく、ありがとう……」
沖に、サンセット・クルーズの船が出ている。夕陽の海に、船はシルエットになって見える。あたしは、海岸公園《ビーチ・パーク》を、ひとり、ゆっくりと歩いていた。
考えていた。
どうしよう……。名のるべきかどうか……。迷っていた。迷いながら、ぼんやりと芝生《しばふ》の上を歩いていた。
いくら歩いても、結論は出そうにもなかった。
ふと、立ち止まる。ビーチ・パークのすみっこ。|赤しょうが《レツド・ジンジヤー》の花が咲いていた。あたしは、その1本を手にとった。赤い花びらを、1つずつ摘《つ》んでいく。
名のる……名のらない……名のる……名のらない……名のる……名のらない……名のる……名のらない……名のる。
翌日の夕方。
あたしは、アラ・モアナBLVDに立っていた。いつものように、新聞の束を持っていた。
腕時計をチラリと見た。そろそろ、Mr.ホンダがくる頃だった。われながら、緊張しているのがわかる。ノドがカラカラだ。
Mr.ホンダに、なんて言おう……。
突然、〈あの……パパ……〉って言うのは、いくらなんでもまずいだろう。
じゃ、なんて言えばいいんだろう……。頭の中で、いろんな言葉が、めまぐるしく浮かんでは消える。
ふいに、
「おい! 新聞!」
という声。すぐそばにとまったシボレーから、白人男が手を振っている。あたしは、ハッとわれに返った。
「はい!」
新聞を1部さし出した。
オフ・ホワイトのアコードが見えた。
あたしは、ドキッとした。
いつもより、30分ぐらい遅い。Mr.ホンダのアコードは、ゆっくりと近づいてくる。信号ストップ。あたしのそばで止まった。
あたしは、新聞の束から1部とる。クルマの運転席をのぞき込んだ。そして、口に出しかけた言葉を、呑《の》み込んでしまった。
Mr.ホンダのとなり、女の人が乗っていた。中年の日系人だ。眼鏡をかけた知的な顔立ちだった。そして、リア・シートには子供が2人、乗っていた。男の子が2人。1人は13歳か14歳ぐらい。もう1人は10歳ぐらいだろう。
どう見ても、Mr.ホンダの家族だった。
あたしの頭の中は、一瞬、空白になる。言葉を見失った。後から考えてみれば、驚くことじゃなかったのかもしれない。離婚したパパが、再婚してたとしても、それは自然なことだ。
けど、そのときは、頭がパニックになっていた。あたしは、口をパクパクさせた。Mr.ホンダが微笑みながら、
「きょうのビッグ・ニュースは?」
と、きいた。あたしは、必死で頭を冷静にしようとした。やっとのことで、
「あの……ヒューストン・サミットが、はじまったわ」
と言った。新聞を1部、Mr.ホンダに手渡した。
「そうか……。ありがとう」
とMr.ホンダ。50セントを、あたしに渡した。あたしは、うけ取る。
やがて、クルマは動き出した。助手席の女の人も、あたしに優しく微笑みかけた。あたしは、少しひきつった笑顔を返す。アコードは、ゆっくりと遠ざかっていった。
翌週。土曜日の夕方。
「元気ないな、ヒロ」
とボブが言った。ジップ麺《めん》をズズッとすすった。
あたしたちは、カピオラニBLVDのジッピーズにいた。地元の人間に人気がある気楽な店だ。この店のハワイ風ラーメン、ジップ麺は特に人気がある。あたしの前にも、ジップ麺がある。けど、あたしはまだ手をつけていなかった。
「どうした」
とボブ。
「そのおじさんがパパじゃないってわかったんで、がっかりしてるのか?」
と、きいた。あたしは、首を横に振った。
「そうじゃないわ」
と言った。
「そんなら、食べろよ」
あたしは、うなずく。おハシを持つ。ジップ麺を食べはじめた。きょう、ボブは非番らしい。ポロシャツ姿だった。
「来週の土曜も非番なんだ。昼間からビーチでもいかないか?」
とボブ。
「来週の土曜はダメよ。試験があるの」
「試験? なんの……」
「奨学金をもらうため」
「奨学金? 大学にいくのか?」
あたしは、ジップ麺の丼《どんぶり》を持ってうなずいた。丼のスープをすする。
「へえ……。まさか、大学にいくとは思わなかった……」
ボブは言った。
「そういうタイプじゃないとは、自分でも思ってるわ」
「…………」
「でも……奨学金のテストは、うけてみるわ。ちゃんとした娘《こ》になりたいから……」
「ちゃんとした娘?」
「そう……。誰が見ても、ちゃんとした娘になりたいの」
あたしは言った。〈誰が見ても〉というより〈ある人が見て〉の方が本心に近いんだけど、それをボブに言ってもしかたない。
「そうか……。奨学金のテストか……」
とボブ。
「残念だけど、また今度さそって」
あたしは、ジッピーズの紙ナプキンに、自分の電話番号を書いた。ボブに渡した。
アラ・モアナBLVD《ブルヴアード》に、たそがれが近づいていた。
いつものように、あたしは新聞の束をかかえて通りに立っていた。
きょうは、いつもよりクルマが混んでいる。信号ストップじゃなくても、ノロノロ運転だ。クルマの赤いテール・ランプが、ずうっとつながっていた。たそがれにつながっているテール・ランプは、赤いネックレスか何かみたいだった。
やがて、Mr.ホンダのアコードが見えてきた。
ゆっくりと近づいてくる……。クルマが渋滞している。アコードは、あたしの近くでとまった。あたしは、アコードに歩いていく。
「やあ」
とMr.ホンダ。運転席から顔をのぞかせた。
「きょうのビッグ・ニュースは?」
と、きいた。
「あたし……奨学金の試験にうかったの……。それが、ニュース……」
「奨学金?」
「そう……。カハナ財団の」
「カハナ……。本当かい。そりゃすごい……」
とMr.ホンダ。眼を見開いた。あたしを見つめた。
「だから……新聞売りのバイトをするのも、きょうが最後なの……」
あたしは言った。
Mr.ホンダは、あたしをじっと見た。
「……そうか……」
と、つぶやいた。
「おめでとう……」
と、クルマの窓から右手をさし出した。
あたしも、そっと右手をさし出す。
握手……。Mr.ホンダの手は、温かく、乾いていた。
「大学、がんばって……」
とMr.ホンダ。あたしは、うなずく。
「長い間、新聞買ってくれて、ありがとう……」
と言った。
ほかにも、言いたいことは山ほどあった。けど、それだけ言うのが、せいいっぱいだった。
涙がにじみそうだった。
唇をきつく結んでこらえた。
そのとき、クラクションが短く鳴った。渋滞してるクルマの列が、ゆっくりと流れはじめていた。クラクションを鳴らしたのは、後ろのクルマだった。
「……じゃ……」
とMr.ホンダ。
あたしは、新聞の束から、1部をMr.ホンダに手渡した。
「これ……最後に、サービス……」
とだけ言った。
「……ありがとう……」
Mr.ホンダは言った。一瞬、あたしをじっと見つめた……。そして、ゆっくりとクルマを出した。
あたしは、遠ざかっていくアコードに、ゆっくりと手を振っていた。
クルマの列の中、アコードは、小さくなって、見えなくなった。
あたしのそばを、クルマの列はゆっくりと流れていく。オープンカーのカー・ラジオから、あの〈|Honolulu 《ホノルル・》|Citylights《シテイライツ》〉が流れていた。
バラードが、たそがれの通りに流れていく。
ちょうど、ホノルルの街に明りがつきはじめる頃だった。ホテルの部屋に、丘にひろがる町並みに、アラ・モアナBLVDの街灯に、ポツン、ポツンと灯がついていく。
空は、夕焼けの色だった。ヤシの葉が、海から吹く風に揺れている。
あたしは、深呼吸。
自分に言いきかせる。
ほら、しんみりしてないで! 陽気がとりえのホノルル・ガールじゃないか。
泣いても笑っても、最後の新聞売りなんだから、元気出して。
あたしは、また大きく息を吸った。
アラ・モアナを渡る風は、海と、プルメリアの花と、少しだけ排気ガスの匂《にお》いがした。
あたしは、新聞の束を、持ちなおした。歩きはじめる。思いっきり、声を出す。
「ニュース・ペイパー! ニュース・ペイパー!」
[#改ページ]
あとがき
あのJ《ジヨン》・レノンが射殺されて、10年がたつという。
レノンが殺されたのは、確か12月だった。当時、CFディレクターをしていた僕は、その日もロケでサイパンにいた。南洋の夜、ビートルズの曲がつづけざまにラジオから流れていたのを思い出す。
そして10年。
東京のFM局からも、レノンの曲が流れている。10年目の特集ということらしい。ビートルズの曲が、つぎつぎと初秋の空に流れている。レノンがソロになってからの曲から、初期の頃の曲まで、あの独特なフレーズが、時をこえて僕らの心にしみてくる。
その曲たちはすべて美しいのだけど、ごくごく個人的な好みでいえば、僕はビートルズ初期の頃の曲が好きだ。〈And I Love Her〉〈Please Please Me〉〈Baby, It's You〉そして、〈P. S. I Love You〉あたりの曲たちだ。
後期の曲に比べれば、それらは軽快であり、短い。しかし、軽快で短いからといって、聴く者の胸を打たないかというと、そうは思えない。〈And I Love Her〉を聴きながら涙ぐんでいた同級生の女の子を、僕はいまも覚えている。曲によっては、3分にも満たない。けれど、2時間の交響曲よりも、聴く者の心を動かすことができる。J・レノンが教えてくれたこの事実は、僕らを勇気づけてくれる。
小説にしても、同じだと思う。
重いこと、長いことに価値を見いだしがちな日本人だけれど、僕は、軽いタッチで書かれた短編小説が好きだ。重く書こうと思えばいくらでも重く書けるモチーフを、あえてサラリと短く書く。そうして、読む人を、一瞬でもジーンとさせることができたら、どんなにいいだろう。ショート・ストーリーを書くとき、いつも、そう考えている。そして、これからも、そんな風に書いていくだろう。
僕は、いつの日か、J・レノンに追いつけるだろうか……。
いつものように、この短編集のために、一緒に走ってくれた角川書店編集部の矢口卓氏、初出誌でお世話になった方々、イラストレーターの渡辺伸綱氏には、ここでお礼を言いたいと思います。
そして、この本を手にしてくれたすべての読者の方へ、THANK YOU! また会いましょう。
[#地付き]P・S・I LOVE YOU  喜 多 嶋 隆
角川文庫『島からのエア・メール』平成2年11月10日初版発行